何でも書こう


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何でも書こう

1: 名無しさんAA:15/02/21 12:29
雑談しましょ

1201: 名無しさんAA:18/08/16 11:17
スターリンは戦局が有利に進んでいたことから「時には彼ら(日本)を厳しく取り扱わ
なければ」と拒絶はしなかったものの、即答を避けた。既に第一次攻撃でノモンハンで
は日本軍戦車隊は終局をむかえて兵員かいなく増兵もないまま戦っていた。ノモンハン
で戦闘が続くなか、1939年8月23日 スターリンはドイツと独ソ不可侵条約を締結した。
日独防共協定の締結後、日独の軍事同盟を積極的に推進してきた陸軍はこの報に大きな
衝撃を受けた。宇垣一成はその時の陸軍の様子を「驚天狼狽し憤慨し怨恨するなど、と
りどりの形相であった」と記述している。25日には平沼騏一郎内閣が日独同盟の締結交
渉中止を閣議決定し、28日に平沼が「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じ」と声明
し、総辞職するに至った。これは日本の国防の混乱だった。つまり国際社会の均衡が、
ソ連との不可侵の和平を作っている事を軽視していた大本営や現地司令官や参謀辻政信
の不始末であった。勿論欧州応戦か日本侵略かを天秤にかけて、大量機甲師団をモノン
ハンに差し向けて居た事の徴候すら見抜けなかった駐留武官や視察兵の怠慢も又あった
参謀本部は、戦局を関東軍を通して報告を受けていたので、実情を十分に把握できてい
なかったが、参謀本部第2部第5課(露西亜課)は独自のルートでノモンハンの戦況を
掴み、同課の甲谷悦男少佐から「ノモンハンは総崩れ」という報告がなされ、 8月29日
ごろになって戦局はかなり厳しいということをようやく把握した。そのため、 8月30日
には方針を転換した『大陸命第343号』を起案して、趣旨説明に参謀次長の中島らが
関東軍に出向いて事の真相が明らかになった。参謀本部の意図は中島が持参した『大陸
命第343号』の一項に書かれてあった通り「北方の平静を維持するにあり、之が為の
「ノモンハン」方面に於いては勉めて作戦を拡大することなく速やかに之が終結を策す
」とノモンハン事件の早期収束であった。この頃にノモンハンでの戦いを仕切っていた
関東軍参謀の辻は、今までの経験により「戦法も改めねばならぬ、戦車と重砲と飛行機
において我に数倍する敵に、従来のような原則的戦法では到底勝つ見込みはない」と考
え、その新しい戦術として、前代未聞の3個師団もの大兵力による集中的な夜襲攻撃を
考案していた。ただしこの作戦は苦肉の策とも言えるもので、発案者の辻ですら「名案
ではなく、これ以外に勝ち目はない。」としていた。作戦課長の寺田から辻考案の3個
師団夜襲作戦を説明されるとその夜は祝宴が開かれたが、これを知った参謀本部作戦課
長の稲田はすぐに次の手を打ち、「情勢に鑑み大本営は自今「ノモンハン」方面国境事
件の自主的終結を企画す。」「関東軍司令官は「ノモンハン」方面に於ける攻勢作戦を
中止すべし。」とより具体的で断定的となる『大陸命349号』を出し前命からわずか
4日しか経っておらずこの急変は、なぜかと激怒し詰め寄った。前回に懲りた中島は、
「大命です」の一点張りで突き通した。

1202: 名無しさんAA:18/08/16 11:18
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  248 >   

 この参謀本部の頑なな態度に植田ら関東軍司令部もついに観念し、9月6日に植田の
署名では最後となる関東軍命令『関作命第178号』が発せられ、ノモンハン方面での
攻勢作戦は一切中止され、実質的にノモンハン事件は終わった。植田は「戦場に残され
た遺体の収容をするための出撃だけはぜひ許可して欲しい」と懇願したが、中島は「そ
れさえも、お許しにならないのが大命の趣旨です」と突っぱねた。関東軍は「戦場整理
」の名目で攻勢発動をする目論見であったが、中島はそれを見抜き拒み続けたのである
。しかし、第6軍に発令されて関東軍より増援された各部隊の総計は、この時点では、
関東軍より多くの増援を得ていた。第6軍司令荻洲として高揚していた。この時に荻洲
の指揮下に、第23師団の残存の他に、第2、第4、第7師団と第1、第8師団の一部に重
砲と全満州からかき集めた速射砲230門があり、総兵力は65,000名にもなっていたの
だ。ノモンハン戦に関する記述で、よく日本軍の参戦兵力として記述されるのが、この
時点での兵力である。さらに9月3日には、参謀本部が第5、第14師団などの増援が決定
したという報告も受けていた為、その増援を加えると10万以上の規模に達する部隊と
なっていた。荻洲の気持ちはさらに高まり「速に敵に鉄槌的一撃を加え、国境鼠賊掃滅
の蠢動を一挙に封殺し、皇軍の慰武を宣揚し以って大元帥(天皇)陛下の信綺に応え」
と部隊に檄を飛ばしている。そんな司令官の高揚が全軍に伝播し、『関作命第178号
』が第6軍の参謀に到着した際は、参謀長の藤本は一読するとポケットにねじ込んで、
「当分のうちはこの電報は絶対に他に漏らしてはならぬ」と部下参謀に厳命している。
第6軍の、島貫参謀は計画で、『関作命第178号』の発令前に第115旅団に997高地
への夜襲を計画していた。6日に一旦中止していたが、『関作命第178号』発令後に
、島貫が直接片山旅団の歩兵第16連隊(連隊長宮崎繁三郎大佐)に当初計画通り97
7高地への夜襲を命じた。夜襲時に防衛していたのは、狙撃兵603連隊モンゴル兵の300
名前後であったが、激戦の末、8日朝に977高地を占領した。同日の日中になってソ
連軍は、第6戦車旅団の戦車50輌を含む宮崎連隊を圧倒する戦力で逆襲してきた。数回
ソ連軍の攻撃を撃退し、激戦を繰り広げた後に、宮崎連隊は10日に977高地を撤退
したが、宮崎は引き揚げる前に、今後の停戦協定に備えて証拠を残そうと、部隊の石工
出身の兵士に命じ、十数個の石に部隊名と日付を刻み付けて、占領地の地中に埋め込ん
だが、これが後の国境画定交渉で日本側の主張が通る大きな要因となり、宮崎連隊は『
ノモンハン唯一の勝利部隊』と称賛された。


1203: 名無しさんAA:18/08/16 11:18
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  249 >   

また11日に、独立守備歩兵第16大隊と独立守備隊15大隊黒崎中隊の日本軍四百名
が吹雪の中、1031高地(ハルハ山マナ山)に進攻し、1031高地を防衛していたモンゴル
軍騎兵第8師団22連隊六百名を白兵戦で潰走させ占領した。モンゴル軍が退却した後
には、遺棄死体22体、砲4門、数十頭の軍馬が残されていた。これがノモンハン戦の
最後の戦いであった。日本軍の快勝劇であり、責任を問われモンゴル軍騎兵第8師団2
2連隊のバダルチ連隊長は処刑されている。その後、モンゴル軍の要請を受けたジュー
コフが奪還を準備していたがこの日本進撃の報をうけ、9月15日に停戦合意に至り、
1031高地は最後まで日本軍が確保した。この事はソ連でも同じ様に指導部と現場の
戦略戦法とに乖離があった事を示すものだった。と言うのも、もともとソ連軍はモンゴ
ル軍の要請を受けてこの戦車や兵員投入を決めていて、決して領土奪還ではなかった。
もっと言えばウラジオストックへの交通路や大陸鉄道のスムーズな運行などの利権であ
り、モンゴルの騎馬隊などと敵対しない為に建前上は応援部隊だったのだ。この点にお
いて関東軍は理解していなかったと言える。日本人は、定住民族としての土地の領地に
こだわるが、このモンゴル人民にはそうした概念は土地の利権でしかなく言わば海の中
の漁業権みたいなもので、自由に放牧民を交通させて味方に入れて居ればこの戦争その
ものが無かった事だった。そこの一部の定住民族との党首なり長なりとの会談で合意が
あったとしても一部にしか過ぎなかった。その意味ではこの戦争は無意味な戦争だった
。支配して言葉もつながらない者らがその支配地を巡回しても、例えば不審者を見つけ
兵舎や営舎まで引っ込んで会話しようとしても、それは大陸の人間から言えば連れ去り
拉致監禁と見られていたのである。基本的に言葉か通じない者は誰であろうと敵だった
。特に銃など武装した新手の集団でやって来た部族にしか見えなかったのである。ここ
でもし粘りづよく丹念に多くの多部族を味方にしても部族間の古来よりの敵対心などは
消える事は無かったのだ。つまりこの事を辻は理解していなかったのである。要請で停
戦となり、この1031高地占領のおかげで、停戦後の領土交渉の際にソ連軍に占領された
ハイラースティーン(ホルステン)川周辺の係争地とほぼ同じ面積 (500 km2) の広大
な土地を日本は確保することができたのである。又第一次モノンハン事件と第二次モノ
ンハン事件は全く異質の戦いであった。第一次では厚い装甲版をもつソ連戦車は試験的
車両で全体に10〜5台もなく重層車両として使っていない。従って軽装甲しか持たない


1204: 名無しさんAA:18/08/16 11:19
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  250 >   

 当初はソ連の装輪装甲車は脆弱であった。しかもタイプによっては操縦手の膝上や後
上部にガソリンタンクがあるという構造的欠陥もあり、7.7mm重機関銃の徹甲弾の集中
射撃や、九二式車載十三粍機関砲の13.2mm弾でも撃破可能であった。しかし、第二次で
は2割以上の重装車両を置いて戦った為に、更にこの厚い鋼板車両には外から留め具を
付け今までに車両を置いて逃げて来る兵員を減らす処置がとられていた。更に直ぐに壊
れた車両や軽車両を持って帰り、鋼板を繋ぎ込むと言う修理班を連れてやって来ていた
。その為欠点であるガソリンエンジンの車両の排気カバーを取り付けであったり、日本
のジーゼルエンジンを組み込んだりした車両があったりしていた。、主砲については、
ソ連軍戦車装甲を貫通していたし、装甲厚にしても、ノモンハンの戦場で最も厚い装甲
をもっていたのは、日本軍の4輌の九七式中戦車(最大装甲厚25 mm)が勝っていたが
しかし新車両はそうした欠点をカバーしていた。ジューコフの率いる第一軍集団は上部
機関として極東のソ連・モンゴル軍を統括した前線集団司令官グリゴリー・シュテルン
の下にいた。司令官はノモンハンの勝利を「ソ連の8個師団に対し、日本は不完全な2
個師団に過ぎなかった。言うなれば4対1であった。戦車・大砲においても我々は優越
していた。ただ、損失数においても優越していた。死傷者数は膨大であり、ベッドは不
足していた。我々が世界に吹聴した勝利は、あまりに犠牲の大きい勝利であり世界に勝
利を喧伝するほどのものではなかった。ノモンハン事件は間近に迫っていた軍事的災難
の序章で、我々に戦争の準備ができていなかったことは確実であった。」と話、後年考
えた通り停戦後には、参謀本部に戦闘経験を調査し、作戦の誤りや、軍の戦争準備の遅
れ等の問題点を洗いなおすよう指示をしている。「一般にノモンハン事件は日本軍惨敗
だった。と言われるが、ペレストロイカ以後に旧ソ連側から出た新資料によれば、実態
は引き分けに近かった。」としている、しかし「損害の面では、確かに日本軍のほうが
少なかったし、領土に関していえば広さは変わらなかった。しかし、一番中心的な地域
では、ソ連側の言い分通りに国境線が決まったが、停戦間際に日本軍はその南側にほぼ
同じ広さを確保してしまう。それがいまだに中国とモンゴルの国境問題の種になってい
る」と指摘している。半藤一利は「勝ち負けをいえば、これは国境紛争で、停戦のとき
、向こうの言い分通りに国境を直してますから、負けですね。しかし、戦闘そのものは
互角だった」と述べ「最新鋭の装備であったソ連軍に対して日本軍は全くの白兵攻撃で
あったわけで、「日本軍が勝ったとまではいえない」が兵器の無い中でのその奮闘ぶり
は相当なものであったと言える。

1205: 名無しさんAA:18/08/16 11:21
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  251 >   
 また、ソ連側では、戦略的に二正面作戦を避けるために独ソ不可侵条約によって後顧
の憂いを断つなど、この事件を単なる国境紛争ではなく本格的な戦争として国家的な計
画性を持って対応していた。だがこれに対して、日本側は政府が全く関与していなかっ
たばかりか、日本軍の中央もソ連軍が大規模な攻勢に出る意図を持っていることを見抜
けず自重するように指導していた為に、関東軍という出先軍の、辻政信と服部卓四郎な
ど一部の参謀の独断専行による対応に終始した作戦しかなかった。福井雄三の著書では
「10倍近い敵に大被害を与えて足止めをした実戦部隊は大健闘、むしろ戦術的勝利と
も言えるが、後方の決断力欠如による援軍派遣の遅れと停戦交渉の失敗のため戦略的に
は敗北した。」と結論付けている。事実日本がもっと精力的に境界策定してソ連側との
膝付き合った談判と了承を得ていたなら、この戦争は起きなかった。それどころかモン
ゴルの先住民に一部でなく全体から受け入れられた可能性すらある。そうなればモンゴ
ルがソ連に泣きつき増兵要請はしなかっただろう。基本的に満州国樹立も遅かったし、
こうした和平交渉も遅かったからだ。更に言えば先のシベリア出兵時にちゃんとチタ共
和国をちゃんと支援すれば良かったのである。ところがアメリカ艦隊の横浜入り事件な
どに追われて国際社会に忖度しそれを行わなかったのである。モンゴルでは日本軍の戦
死者は5万と伝えられている。元ソ連参謀本部長、故ヴァシリイ・ノヴォブラネツ大佐
の手記では、『ノモンハンで勝ったのは、兵力と武器類の面で優位に立っていたからで
あり、戦闘能力で勝利したのではない』と書いている。ノモンハン戦で最も多く投入さ
れたBT-5戦車は、車体後部にむき出しで大型の円筒形マフラーが設置してあり、これは
寒い地域仕様で、夏場の戦いでは車体が灼熱化と火災延焼の原因となっていた。ノモン
ハン開戦直前にはBT-5とT-26とT-37しか配備されていなかったが、第二次ノモンハン事
件のソ連総攻撃時には、そのマフラーを機関室内配置し、車体が灼熱状態になり難い新
型のBT-5やBT-7が投入されている。この新型は鉄板を厚くし、砲弾を強く仕上げたもの
だった。その為連射が可能でその時の日ソの砲弾消費量の比率は1対10以上になって
いた。砲の性能は「威力性能はソ連火砲に些かも劣らず。とくに十五榴と90野砲は威力
を十分発揮した。」とソ連軍火砲との性能差は感じていない。それは第二次には、既に
戦車の機動部隊は消滅し九六式十五糎榴弾砲や九〇式野砲の野砲しか残って居なかった
からだった。もともと日本軍の八九式中戦車の装甲板17mmは、ソ連軍の戦車砲で簡単に
破壊されたが、八九式中戦車の短砲身57mm砲はソ連戦車の装甲を破壊できなかったし、
戦車運用も兵員補強で一緒に行動する為の物で、間違えても戦車同士の対面決戦は避け
る事を教示していた。

1206: 名無しさんAA:18/08/16 11:23
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  252 >   

 戦車の戦闘性能はソ連軍のそれに比べ劣っていた。敵のジューコフは「戦車は射程が
短いが高射砲は我が方をしのぐ長距離の重砲」と射程の面ではむしろ日本軍重砲の方が
上回っていたと評価している。ソ連軍は化学戦車と称した火炎放射器をT-26に搭載した
戦車をノモンハン戦初期の5月から投入していた。火炎放射器は陣地攻撃に絶大な威力
を発揮、特に日本軍歩兵は火炎放射されると、恐怖と呼吸困難により陣地を維持するこ
とができず次々と放棄していった。しかしソ連軍は、火炎瓶攻撃によってやられていた
為、直ぐに出て機銃掃射で戦うのが得策だった。ノモンハンで日本軍が火炎瓶を使用す
るきっかけは諸説あるが、1939年に岡野一等兵がトラックで移動中にソ連軍戦車に攻撃
され、ガソリン缶を敵の方に投げ捨てたところ、戦車がガソリン缶が踏みつけると同時
に発火し戦車が炎に包まれた。或いは負傷兵を収容していた時戦車が来て、アルコール
瓶を投げつけたら戦車に勝った。などと言われる。これでソ連戦車がガソリンで炎上す
ると知った日本軍は、手軽に手に入るサイダー瓶をかき集め大量の火炎瓶を作成した。
火炎瓶で戦車を攻撃する肉薄攻撃班は、火炎瓶2〜3本と手榴弾数発を持った2名を1
組とし、それぞれ個人壕に籠り、戦車が接近すると火炎瓶の導火線に点火して戦車に向
かって投げつける。すると戦車はたちまち炎に包まれると30mぐらい走って止まり、
炎上する。炎上した戦車から飛び出した戦車兵は日本軍に射殺されていった。一番効果
のあった7月2日・3日までのハルハ河東岸での戦いでの第26連隊の報告では、わず
か1時間で10輌の戦車を火炎瓶で撃破した。としている。しかしこの奮戦が第二世界
大戦でも竹槍で勝つと信じられる元になった。火炎瓶攻撃といった古式の戦いは神のご
とく崇められ日本の精神論者に強く受け入れられたのだ。これが第二次世界大戦の日本
の敗戦を決めた玉砕精神論である。一方ソ連軍は各戦車中隊ごとに戦車の修理を監督す
る技術担当士官を配置していた。技術士官には修理対象の損傷戦車を牽引するトラクタ
ーと、技術士官自身が搭乗するための戦車があてがわれたが、その戦車やトラクターが
日本軍速射砲の餌食となることも多かった。日本軍は撃破や擱座させた戦車をソ連軍が
回収・修理できないように火炎瓶などで全焼させた。一方のソ連軍も全焼し修復の目途
の立たない戦車は穴を掘って埋めていた。埋めた理由というのは、日本軍は撃破された
戦車に狙撃兵を忍ばせ、回収するために近づいてきた技術士官やソ連将校を狙撃したり
、時には速射砲や機関砲を備え付けた即席陣地とし、防御の拠点にすることも多く日本
軍に再利用させないためであった。

1207: 名無しさんAA:18/08/16 11:26
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  253 >   

 総合的に日本軍の戦車砲・対戦車砲は、ソ連軍の戦車砲・対戦車砲の長砲身45mm砲と
比べて、砲初速、徹甲弾の強度や貫通力が劣っていた。日本側は希少金属の制約により
弾頭の金質も又悪かったからだ。少年戦車兵学校の校長となった玉田美郎は、ノモンハ
ンの戦いでは戦車第4連隊長を指揮していたが、部下の砲手が「隊長殿、私の撃つ砲弾
は、たしかに命中するのですが、敵戦車は跳ね返します。」と嘆くのを聞いて、この戦
闘の行く末を心中ひそかに心配していたと言う。こうした事は航空戦でも起こっていた
。航空戦の主力となったのは日本軍は九七式戦闘機、ソ連軍はI-153とI16であったが
。当初はソ連空軍に比べて日本軍の操縦者は練度が圧倒的に上回っており、戦闘機の性
能でも、複葉機のI-153に対しては圧倒的な優勢、ほぼ互角であった。また、投入した
航空機の数も、当初はほぼ互角であった。そのため、第一次ノモンハン事件の空中戦は
、日本軍の圧倒的な勝利となった。日本陸軍航空隊(陸軍航空部隊)の操縦者達の活躍
は目覚しく、20機以上撃墜のエース・パイロットが23名おり、なかでもトップ・エ
ースの篠原弘道は3ヶ月で58機撃墜を記録した。ある時、関東軍は日本側の主張する
国境線よりモンゴル側にあるソ連軍のタムスク飛行場(モンゴル語ではタムサグ・ボラ
ク)の爆撃計画を立てた。計画を事前に知った大本営中央は国境を越えた軍事行動で、
事態の拡大を招来することに危惧して、自発的な計画の中止を打電、6月25日に大本
営作戦参謀の有末次中佐を派遣し計画の翻意を図った。しかし空爆計画の実行を強く願
った関東軍は、有末中佐の到着以前の計画実行を決定し、6月27日タムスク飛行場を
重爆24機、軽爆6、戦闘機77の合計107機で実施して、未帰還機4機という少ない被害に
より戦術的には大戦果を上げた。しかし、こうした事は毛沢東の意図する事であった。
実はソ連では国内に2つの迷いがあった。一つは対ドイツ戦略である。米英はもともと
対日よりドイツとソ連の戦闘を望んで画策していた。母国欧州を心配するユダヤ人が多
くいたからだ。実はこの年の東欧の穀物は更に不作にあったのだ。これに対して輸入し
ていた仏国や英国は米国から輸入していたが、ドイツやソ連はその恩恵は受けられなか
った為ドイツでは、生存圏構想を持ち上げソ連の食糧生産領土を狙っていたのは自明の
理だった。対して共産党ソ連は、不満ある農民や貧民を次々に収容所に送り過酷な強制
労働に送り国民の300万人が連行されて行ったとされた。それでも不満が収まらずい
たので、これらの農民を徴兵で国境部隊に参加させようとしていた。つまり送った所で
紛争が起こるのは明らかだったのだ。


1208: 名無しさんAA:18/08/16 11:28
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  246 >   
 第二の問題はその食料問題だった。中国の毛沢東は満州などを中国の物にしてくれた
ら、肥沃な満州からの収穫を送る事を約束した。工業力も農業力もない中国はソ連の耳
元に食糧供給の夢をささやくしかなかったのである。それが嘘っぱちな事は解っていた
スターリンだったが国内不満は取り除く必要があった。更に嘘でもこれを利用して英米
の中に食い込む必要があった。つまり、日本との紛争に英国や米国が仲裁に入って食料
供給をしてくれれば援助でなく購入でも良かった。つまり勝てば境界線協定には賠償金
を絡めて引く事が出来るからだ。ところが第一次は敗け第二次も振るわずいたのである
。第二次ノモンハン事件に入ると、ソ連軍は日本軍をはるかに上回る数の航空機を積極
的に動員してきた、操縦者の練度で優る日本軍航空部隊を数で圧倒させるとともに、ス
ペイン内戦に共和国義勇兵として、ドイツ空軍と戦っていたベテラン・パイロット参加
を招聘し派遣し訓練した。旋回性能の優れた日本軍の九七式戦闘機に対し、操縦手背面
に装甲板を装備したI-16によるロッテ戦法や一撃離脱戦法で対抗し、これにより日本軍
は開戦時の損耗率10:1から3:1とかなりに損耗したが、空での優勢は停戦まで続いた。
第一次と第二次を併せたソ連側損失は、日本側の発表では 1,252機だった。(戦闘機隊
によるものは97式戦闘機が1048機、95式戦闘機が48機)。しかしソ連側が主張していた
損害は145機、後のソ連崩壊直前に訂正された数字でも被撃墜207機+事故損失42機だが
大戦後には日本側の発表に近いとされる。一方、日本機の損害は記録によると大中破も
合わせて 157機(未帰還及び全損は64機、内九七戦は51機で戦死は53名)だった。日本
側の最終的な損耗率は60%で、最後には補給が追い付かず九七戦の部隊が枯渇し旧式な
複葉機の九五式戦闘機が投入されるに至るほどだったからもっと大きかったかも知れな
いが如何に小規模の空軍だったかが判明した。これらの戦訓から陸軍は航空機の地上戦
での有効性と損耗の激しさを知り、一定以上の数を揃える必要性を痛感した。関東軍の
中には、辻発案の夜襲による総反撃が参謀本部の横槍で中止されたため、負けてはいな
いという強い空気もあったが、陸軍中枢では陸相の畑が「大失態」として更迭された。
中島の後任の沢田茂参謀本部次長が「陸軍始まって以来の大敗戦、国軍未曽有の不祥事
」として更迭された。作戦課長の稲田は「莫大な死傷、敗戦の汚点」などと敗戦意識が
強く、その責任を追及する方針となった。又、特に関東軍司令官の植田については、目
覚ましいタムスク空爆を指揮したが、独断で越境した罪で、昭和天皇は何らかの処分を
求めた。それは昭和天皇の指名による阿部内閣の畑陸相も「明らかに越権行為にて一の
大権干犯と見ざるを得ず。当然関東軍司令官の責任なり」と昭和天皇の意向を汲んで、
植田を激しく非難したからだった。

1209: 名無しさんAA:18/08/16 11:37
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  255 >   

 しかし植田自身も充分承知であって自ら「全責任は軍司令官たる植田に存す」と考え
ていたため、まずは9月7日付で植田を司令官から辞任し、ほぼ同時に関東軍の作戦参謀
も解任された。 又、日本軍は、戦後の捕虜交換で204名(うち満州軍44名)が生還して
いるが、ソ連軍の記録によれば捕虜は 566名であり、捕虜交換で生還しなかった者もい
てその人達の消息は不明である。この頃は、日本ではまだ「生キテ虜囚ノ辱シメヲ受ケ
ズ」の「戦陣訓」のなどの示達前であり、捕虜になることに対しては、国際法上も国民
意識も悪い事でなくむしろ皇民として親からもらった命を粗末にしなかった。無駄死に
しないで天皇に働けると称賛すらされた。しかし、226事件以降には天皇も国民に対
して考え方を変えて、特に田中義一の就任の際の、三百万円の政治資金を持参金とした
陸軍機密費横領問題や在郷軍人会を票集めに利用したとする疑惑などの真相不明ではあ
ったが、在郷軍人会の育ての親である憲政会(後に立憲民政党)が軍縮政策が在郷軍人
の投票行動に影響し対立する田中の政友会票がのびて総裁就任になった事から多くの声
が天皇批判に傾き厳しくなっていた。又、高橋前総裁時代に出されていた陸海軍大臣の
文官化論が就任直後の田中による「鶴の一声」で否定され、党の政策が軍備強化・対外
強硬路線へと転換しながらも、5.15や2.26事件が起こっていたからである。こ
の天皇に忖度する様に、というより軍部の反対が無かった為合意したかのように、陸軍
刑法などでの法的裏付けも明文化された規則もなかった。ノモンハン事件の捕虜に関し
ては1939年9月30日付の陸満密845号においては陸相命で「捕虜すべて犯罪者と見なして
捜査して、有罪と認めたる者を之を起訴すべし」という厳しい方針が示された。これで
、一部将校については軍法会議にもかけられず自決勧告がなされた。乗機を撃墜されて
捕虜となった飛行第1戦隊長の原田文男少佐はモスクワに連行されて、「日ソは協力し
て南方に進出すべきだ、ソ連はインド・イランへ向かい、日本は英国を駆逐する。」な
どとソ連側に意見書を提出させられたりし、捕虜交換で日本に帰ると、同じく捕虜とな
って帰国した飛行第11戦隊の大徳直行中尉と共に自決勧告を受けたのであった。この時
若い大徳は「撃墜されて人事不省で捕虜になったのだから恥じる必要はない。再起して
もう一度戦いたい。」と抵抗し願ったが、原田が説き伏せて2名とも自決している。こ
の時から日本の上層部の曖昧模糊の決断と結果責任回避に部下を自決させるという卑怯
な作戦本部が生き延びる事になる「支那形態」が出来た。それが敗戦まで続いたのである。

1210: 名無しさんAA:18/08/16 13:28
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  256 >   

この7月と8月の戦闘だけで、日本軍の死傷者数は、4万4,768名(戦死者1万8,868名、
負傷者2万5,900名)に達したとしている。後に出たシーシキン大佐の本では、日満軍の
損失の総計は5万2,000〜5万5,000、そのうち、死者だけで2万5,000人と記述している。
大体の所だが5万5千人の死傷者で、その内の二万五千人の半分が戦死者と見て最低線
であろう。だが実は当時の大本営は必至にこれを隠したのである。他方ソ連はどうだっ
たか、ソ連軍中央国家文書館の文書によれば、 戦死者18,300人、戦傷者3,500人、捕虜
566人(88名は捕虜交換)、遺体引渡し6,281体であった。としたソ連軍も又、過少報告
を望んだのだった。中央国家文書館所蔵のソ連軍資料では「日本陸軍当局は戦死傷者数
が1万8,000人であることを認めたが、日本陸軍当局(正確には第6軍軍医部)発表より
過大な戦果報告を行っている。基本的にソ連発表は「ソ連の損害九二八四名、日本軍の
損害五万二千〜五万五千」という情報をベースにしたものである。今解って来た事は、
ソ連の損害はもっと大きく二万五五六五名で、日本の損害一万七四〇五名を大きく上回
っているとされる。日本軍が苦戦をしたことは事実であるが、それは当時の戦力では約
10倍にもおよぶ敵と戦った事にある。さらにソ連は遅れた機械化部隊だったが、トラ
クターなどで引き揚げして改良し改善して使った。戦車本体は、走行射撃はできない物
で、寒い寒冷地水準であり、夏場の戦車戦では全く室内が暑く問題にならなかった。又
日本軍の速射砲・高射砲のえじきになり、約八〇〇台が破壊されている。又先に述べた
様に第二次では圧倒的な兵站と兵器の量があったが、第一次で戦車から降りての銃撃で
そのまま逃げて来るので外からの簡単な掛け錠を作った。つまり蓋止めである。こうな
ると外に出れなくなって、無茶苦茶な戦いになりより熾烈な戦いと為ってより死者が出
た。戦車や飛行機も督戦部隊として2種に分けて砲弾に弱い戦車だったが1〜2台に、
全く日本の砲弾に当たっても潰れない戦車がいたと話される。真偽は不明だが2016年時
点で最新のソ連軍・モンゴル軍の人的被害調査ではソ連軍の損害は、日本軍とは比較に
ならないほど大きかったことがわかってきた。戦闘の勝ち負けという意味では、戦争目
的を実現できなかった日本の敗北であることに違いはなかったが、ただ、この戦闘では
大きな教訓を得たのかが、その後の両国の命運を分けることになった。つまり、日本軍
は、言われているほど惨敗したわけではなく、苦しみながらも相当健闘したことが伺え
、それも手製の火炎瓶や手榴弾での白兵戦だった。ソ連軍は、この戦闘で日本軍のとっ
た様々な戦術を取り入れ、兵器にも改良を施して、1941年に始まるドイツとの戦争に応
用したつまり2万5千人の死者にモンゴル人は入れられない上に過少報告だったのだ。

1211: 名無しさんAA:18/08/16 13:40
 ヒトラーはフランス侵攻を成功させると、軍に対してソ連への攻撃を命令した。1940
年、ドイツ軍は西方でフランスを瓦解させたが、ドーバー海峡の制空権である航空戦の
バトル・オブ・ブリテンには敗北し、イギリスを屈服させることはできないでいた。ド
イツ軍首脳部はイギリスを背面にしたままのソ連を攻撃する二正面作戦に懸念を表明し
たが、ヒトラーは側近の助言をしりぞけ、「土台の腐った納屋は入り口を一蹴りするだ
けで倒壊する。」と豪語し、ソ連侵攻のバルバロッサ作戦を開始した。北欧の鉱物資源
に依存しているドイツにとって運搬路であるバルト海は生命線であり、レニングラード
を電撃的に占領しソ連バルト艦隊を無力化する必要があった。また農産物と鉱物資源の
宝庫であるウクライナは「東方生存圏」構想実現のためには欠かせない地域だったし、
経済的理由からも、ヒトラーはレニングラードとウクライナの奪取にこだわり、ヒトラ
ーの意向を重視した陸軍総司令部は、レニングラードとウクライナを第1目標に位置付
けた。ドイツ陸軍はポーランド侵攻の「白作戦」、フランス侵攻の「黄作戦」イギリス
「赤作戦」など、攻勢作戦名に色名を付ける伝統があった、発展形のバルバロッサ作戦
は頓挫した影響から、ソ連侵攻作戦は「青作戦」と純粋な色名に戻された。しかし、こ
のバルバロッサ作戦(ソ連侵攻作戦)は第一次世界大戦前のシュリーフェン・プランの
書き写しであった。その為ブラウ作戦(青の作戦)に収拾しても尚、各目標の優先度は
曖昧なままで兵士は前線に捨て置かれた。従って最初から、中央軍集団は白ロシア赤軍
殲滅後は、モスクワに進撃すべきなのか、それともウクライナやレニングラードに向か
うべきなのかが、現場も本部も作戦案では明らかにされなかった。これは日本軍との戦
いによってソ連は各段に戦法を変えていた事にあった。ヨシフ・スターリンは、1930年
代後半に党や軍における反対派の大粛清を強行しており、経験豊富で有能な陸軍指導部
を含む何百万もの人々を処刑していた。その為、軍は弱体化し、指揮官不足さえ引き起
こしていた。ドイツ軍がフランスを電撃戦で破った後も、赤軍はドイツ軍の進軍速度を
侮っていたし独ソの不可侵の可能性は破られない。と見ていた。しかし赤軍は、ドイツ
軍を要塞線で阻止している間に主力が後方に集結し、やがて前進して反撃する展開を想
定して出来ていたスターリン・ラインの要塞の国境線は意味の無い物であった。開戦か
ら半年で、ドイツ軍はオランダ、ベルギー、ルクセンブルクのベネルクス三国に侵攻を
開始(黄色作戦)フランス・ドイツ国境地帯においてもマジノ要塞を超えて既にフラン
スに進駐を果たしていたからだ。マジノ線はかつてのソンムの戦いなどで塹壕戦などで
多くの負傷者をしたので横に掘られた塹壕を縦に地中深く要塞化した建物を掘って点々
と作った兵舎兼武器庫兼要塞としたものだったが、過度に期待されて増員がおざなりに
なっていた為に易々と超えられていた。

1212: 名無しさんAA:18/08/16 13:42
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  258 >   

 このフランスの構築された要塞では、簡単にフランス・ドイツ国境地帯のマジノ要塞
がドイツ軍が落として行った。ドイツ軍はオランダ、ベルギー、ルクセンブルクのベネ
ルクス三国に侵攻を開始(黄色作戦)。ベルギー北部で防御戦を展開するという戦前か
らの計画(ディール計画(英語版))に従ってフランス・イギリス連合軍は軍の主力を
ベルギー方面に進出させ、ドイツ軍はベネルクス三国と、マジノ要塞の中間に位置で、
対峙させた。しかしフランス軍の防御が手薄となっていたアルデンヌの森から戦車部隊
を投入させて(赤色作戦)を行い。このことによってフランス軍の防衛線は崩壊、ベル
ギー方面に進出したフランス・イギリス連合軍もドイツ軍に包囲され、5月末、これら
の部隊の多くが、イギリス本土への撤退にかろうじて成功した(ダイナモ作戦)しかし
バルバロッサではそうは行かなかった。1939年までの国境線において構築された要塞で
あったが、スターリン・ラインは、同年にソ連がポーランドの東半分を併合すると廃棄
されて居た。ドイツの第3SS装甲師団 トーテンコップ(だいさんSSそうこうしだん)は
、ナチス政権下における最新鋭の武装親衛隊でこの最新兵器を若い新人兵士に任せて、
38個師団の上部に据えた。トーテンコップはドイツ語でで骸骨(がいこつ)、髑髏(ど
くろ)であり髑髏部隊と呼ばれた。しかし、戦術も戦法も持たない未熟兵士だった。フ
ランス侵攻ではA軍集団に編入されるが、アラスでマチルダII歩兵戦車等を擁する英軍
装甲部隊の反撃を受けて敗走し、結局フランス戦期間で同師団は士官三百人以上損害を
被った。バルバロッサ作戦〜デミャンスク包囲戦では、レニングラード方面を担当する
北方軍集団に編入されリトアニアとラトビアで戦闘を行い、4月にバルバロッサ作戦で
7月までにスターリンラインを突破、7月31日から8月25日にかけて激しい戦闘を行いな
がらデミャンスクを経てレニングラードに達した。しかしその後、ソ連軍は最初の冬期
反攻によりデミャンスクで包囲され、激しい戦闘により戦闘団規模になるほど消耗し、
、1942年春に友軍戦線に合流し、再編成のためフランスへ向かった。フランスで再編成
して装甲擲弾兵師団となり、1943年2月の第三次ハリコフ攻防戦で増援として投入され
、第1SS装甲師団、第2SS装甲師団とともにハリコフを奪還した。この戦闘期間中、師団
長テオドール・アイケが航空機で麾下部隊の捜索中に乗機を撃墜されて戦死した。


1213: 名無しさんAA:18/08/16 13:44
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  259 >   

1941年バルバロッサ作戦でレニングラード方面を担当する北方軍集団に編入された髑髏
隊がリトアニアとラトビアで戦闘を行い行軍し、7月までにスターリンラインを突破し
たものの、その後8月末までに激しい戦闘を行いながらデミャンスクを経て、レニング
ラードに達した時は霜の起つ時期に入っていた。その後駐留したが、ソ連軍最初の冬期
反攻によりデミャンスクで包囲された。スターリンは前線部隊に撤退や捕虜を犯罪者と
して収容所送りにする。と声明を出し伝達したからだ。補給のないまま対戦するドイツ
部隊にもヒットラーから撤退も降参も部隊には処刑の対象となると通達が来た。こうし
て、全く下がれない部隊は、激しい戦闘により戦闘団規模になるほど消耗したが、1942
年の春になって友軍戦線に合流し、再編成のためフランスへ向かった。既に部隊は3割
にも満たない人数だった。1935年以来ソ連最大の最大の仮想敵国はドイツだった。日本
はあまり眼中になかったのだ。つまりノモンハン事件はモンゴルや中国の要請によって
小手調べに機械や兵員を入れた物だった。だがしかし、大損害を経てソ連は航空も戦車
も人民や作戦にもてこ入れをした。それが先の住民の撤退を犯罪者とする。と言う声明
だった。更に戦車はドイツ設計の戦車を盗んだソ連戦車BT戦車から、独自に米国から
農業用トラクターの名目で予備部品とともに2両が送られ開発され誕生したT戦車シリ
ーズが出来上がっていた。当時の戦車としては最先端といってもよい設計が施されてい
た。知っての様にT34はT32の改良型だったが、T32には、さらにルーツともい
うべき戦車が存在した。それがクリスティー戦車であった。その名はアメリカ人ジョン
・W・クリスティーが開発したM1928、およびM1940戦車である。。輸入した
2輌の「M1940」あるいは「M1930」を使って1931年から試験を開始し、その結果を
もとに各部を強化するなどして、最初の量産型BT2を開発していた。M1928から採用
されていた「クリスティー式懸架装置」は、大直径転輪と、ストロークの大きいコイル
スプリングによるサスペンションの組み合わせで、これに航空機用の大馬力エンジンを
用いることで高速走行を実現していた。装甲自体は薄かったが、代わりに車体前面には
傾斜し、避弾経始を取り入れていた。BTシリーズの最終型であったBT7は。1935年
から生産開始され、1940年までに各型合計4600輌〜5328輌、うちディーゼルエンジンを
搭載したBT-7Mは、すぐ後に同じエンジンを搭載したT-34の生産が始まったために、706
〜788輌と少ない。だがこのタイプは鋼板もほどほどに改良しモノンハンに投入されて
いる。

1214: 名無しさんAA:18/08/16 13:46
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  260 >   

T-34(Т-34 テー・トリーッツァチ・チトゥーリィ)は、第二次世界大戦から冷戦時代
にかけてソビエト連邦を中心に使用された中戦車である。1939年の時点で、ソ連赤軍で
最も数が多かった戦車は、T-26軽戦車と、BTシリーズの快速戦車であった。T-26は動き
の遅い歩兵重戦車で、戦場の歩兵と同じペースで進軍するように設計されていた。一方
、BT戦車は巡航戦車で、敵の歩兵と戦うのではなく敵の戦車と戦うために、非常に快速
の軽戦車として設計されていた。少数のT-35などの多砲塔戦車も存在したが、いずれも
装甲は薄く、小銃・機関銃の射撃に対しては耐弾性はあったものの、対戦車ライフルや
高射砲や対戦車砲の攻撃には耐えられなかった。傾斜装甲を取り入れたA32があった
が、しかし、冬戦争でもBTシリーズの装甲の脆弱性が問題となり、A-32の装甲を45 mm
にするとともに、より幅広の履帯が採用された。また備砲を76.2mm 砲 L-11に強化する
など、ディーゼルエンジンを搭載した重装戦車となった改良試作車A−34を完成させ
る。しかしソ連国内は既に戦闘に入っていて完成待たずに、1939月T34としての
正式採用正式生産をした。T-34の名前は、戦車生産を率いることとなったグリゴリー・
オルジョニキーゼが、新型戦車に関するアイデアをまとめ始めた1934年の年号にちなん
でコーシュキンが既に命名したものを使ったものだ。そのごT34Mの改良計画があっ
たが大量生産ラインの変更を苦慮し廃棄された。しかし1942年には、長砲身の優れた、
貫徹力を持つ 75 mm砲を装備したドイツ軍戦車が戦場に登場し、既に放棄されていたこ
の計画の元にT-34を発展させたT-43戦車の開発を計画した。T‐43が出来た。T−3
4はこのT‐43の中間戦車とは言えモノンハン事件同様にドイツ軍には脅威であった
。T-34は1945年末までに、5万7,000輌以上のT−34が作られた。このうち 3万4780輌
は、1940年から1944年に掛けて製造された初期型のT-34で、残りの2万2,559輌は、1944
年から1945年に掛けて作られた改良されたT-34-85である。Т-43は、第二次世界大戦中
にソビエト連邦で試作された中戦車である。T-34中戦車およびKV-1重戦車を共に更新す
ることを想定して開発されて、従来の戦車よりも装甲を重視した設計であったが、その
後ナチス・ドイツの戦車技術に対抗するには強力な火力こそが必要と判断され、より重
武装のT-34-85 中戦車が採用されたため、開発は中止された。ドイツ側では事前に得て
いたソ連邦の戦車開発に関する情報から、T-34-85中戦車を当初はこの「T-43戦車」と
して識別していた。

1215: 名無しさんAA:18/08/16 14:03
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  261 >   

このT-34の性能は見事という他なく、傾斜装甲は三号戦車の砲撃をほぼ無力化したし、
搭載された76.2ミリ砲は、逆に三号戦車の装甲を 正面から楽に貫通可能だった。しか
も整備性と生産性に優れていて、故障もしにくいという非の打ち所がない優秀な戦車で
あり砲だった。一クラス上位の四号戦車相手となると楽勝とは行かないまでも、それで
も性能的には優位を保っていた。そんな恐るべき性能でありながら、生産性も高くて、
ソ連の基礎工業力の高さを差し引いても、次々と恐ろしい台数が生産され続けた。初期
型だけで約3万5千輛が生産され、最も工業力的に厳しい独ソ戦の初期ですら、甚大な
損害を上回る数の戦車が、前線へと送り出されていきます。この生産性の高さによって
、最終的にはドイツ装甲部隊を数で押し切ることに成功した。どれだけ5号戦車パンタ
ーや、6号戦車ティーゲルが強力であっても、10倍の数で囲まれればどうにもならな
いというのが歴史の証明した結果だった。高い性能とバランスの良さ、生産性の高さと
言うスペック面で全て高いレベルを実現したT-34でしたが、その実では兵員の居住性に
はかなりのしわ寄せがきていて、残念な点もいくつか存在した。T-34戦車の欠点のその
代表格が「居住性」と「操作性」であった。まず、T-34の装甲は圧延鋼材を溶接したも
のが基本だったが、この溶接には所々いい加減なところがあったせいで、次々と雨漏り
に見舞われる車両が結構有った。又走行中の河川横断でも、浅い水中に入った際に浸水
してエンストした。理由ははドイツの先制攻撃によって、大規模な工場疎開をする羽目
になったり、天然ゴム輸入が不足でゴムパッキンなどを十分に使えない時期が有ったり
などの国情的理由が大きかったが、戦闘時に戦車の中で水の汲みだしや雨漏り受けをし
なくてはいけないというのは、湿地帯の多かった地域での戦争では致命傷で、更に個体
差で、湖面を乗り切る戦車と浸水する戦車が出て居た事はかなりのトラブルだった。ま
た、搭乗員だけならまだ耐えようも有りますが、水漏れと雨漏りは、電気系統のトラブ
ルや、弾薬のトラブルなどを誘発した。「雨漏りが原因で砲撃できません」という報告
も多かったらしい。また、この装甲は非常に優秀なものではあったのだが、実地の生産
レベルでの問題も抱えていた。敵弾を貫通させず、弾くことに重きを置いた為T−34
の装甲は、圧延鋼材に硬化処理を施したものが使われたからだ。最大で 495HBにも達す
る非常に高い硬度に仕上げられた装甲は、確かに敵弾をよく弾いたのですが、同時に「
硬すぎて割れる」という問題を発生させ、内部の乗務員の多くを内部装備で殺した。


1216: 名無しさんAA:18/08/16 14:03
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  262 >   

例えば徹甲弾でなく榴弾などを食らった場合、装甲は貫通されずに中に爆風を通さない
が、受けた衝撃そのものが消えずに車体や装甲板内部を伝わり、内側の表面を剥離させ
内部破裂をさせた。この剥離片は、ものすごい勢いではじけ飛びますので、装甲近くに
顔を置いている運転手などはひどい目に遭い一度で3人共に深部に破片が食い込んで、
負傷者の病院は手当てできずにいた。本来は、ここまで靭性の低い装甲になる予定では
無かったそうなのですが、対独戦初期は鋼鉄に添加しての、柔らかく仕上げ靭性を高め
るニッケルが不足したなどの事情が加わって、「内側で炸裂するほどの装甲板」が出来
上がってしまったという。また、基礎的な設計段階でも問題が存在した。当時最新の設
計思想である、傾斜装甲を取り入れたのだが、その為車体装甲となっているのだが、同
じ投影面積で装甲板を斜めにした場合には、中の容積が減るのを避ける事ができません
。結果、T−34の内部は非常に狭苦しいものとなり、居住性は悪化し2人でも窮屈だ
った。その為長距離を戦車で、行軍するときの辛さは特筆モノでした。ガタガタ揺れて
景色も見えず、雨漏りするエコノミー席に丸2日詰められて耐えると言ったら想像でき
るでしょうか。広々設計のアメリカ人に「どうやって兵士を詰めてたんだ」と言わしめ
るほどでした。初期のT-34には覗き窓(砲塔の上のたんこぶみたいな部分です)が無か
ったため、車長は戦車用潜望鏡か、直接顔を出して対象を目視する必要があり、この潜
望鏡のガラス品質がかなり悪く、気泡が入って曇っていたりと実用に辛いものだった。
しょうがなく直接顔を出すと、狙撃される事が多かったという。そもそも砲塔のハッチ
は非常に重く、負傷すると開けられないほどだった。又ギアも整備性と生産性に重点を
置いて「乾式クラッチ・ブレーキ式操向装置」を採用したが、操作レバー、やたらと重
く固くて操作性が最悪だった。基本的に力のあるロシア人でさえ、片腕では操作できず
足まで使って押していた。長距離行軍などは、あまり仕事のない通信手が手伝ってやる
のが普通だったそうで、操縦だけで体重が2〜3kg減るという話だ。バックさせるときは
更に固かったようで、ハンマーで殴って切り替えていた。貨車で欧州戦線と中国戦線に
行ったり来たりしてるが、この時もギヤが変えれず案内の駅員を何人か殺している。と
言う。このスペックの割に使いにくさから大きな損害を重ね「できれば乗りたくない」
と万人が口をそろえてT‐34を嫌がったが、その優秀さは歴史が証明していた。次々
と改良され、どんどんと戦果をあげていったのである。


1217: 名無しさんAA:18/08/16 14:04
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  263 >   

 こうしてスターリングラードは攻められた。しかし元来ドイツ軍にとってブラウ作戦
の副次的目標の一つに過ぎなかった。戦略上の要衝の地ではあったが、時のソビエト連
邦のスターリンの名を冠した都市でもあったことから寄り道となり熾烈な攻防戦となり
、史上最大の市街戦に発展し、日露戦争の奉天会戦や第一次世界大戦のヴェルダンの戦
いを上回る動員兵力、犠牲者、ならびに経済損失をもたらす野戦に拡大したのである。
しかし、が此処にドイツ自慢の戦車が全く通用しないソ連軍の優秀な新型戦車「T-34」
が登場しドイツは敗戦に向かう事になる。緒戦は優位に進んで、市街地の9割を占領し
たものの、最終的にソ連軍側の反攻で、ドイツ第6軍を主軸とする本体は包囲され、降
伏するに至った。これは独ソ戦の趨勢を決し、第二次世界大戦の全局面における決定的
な転換点だった。米国の軍史家イヴァン、はこの戦を「ミッドウェイ海戦、エル・アラ
メインの戦い、第三次ソロモン海戦」と同じく第二次世界大戦の大転換点であるとはっ
きり位置づけた。この勝利こそ、10倍もの機甲師団を持ちながら、日本がモノンハン
事件で白兵戦でも互角だった事で見直しをした戦車がもたらした勝利だった。この時ま
でソ連には、新しい国境沿いの要塞は構築半ばで、スターリンラインは途切れ途切れの
点の存在だったた。ベルギー要塞と同じ要塞線の構築完了までソ連側の防備は脆弱であ
ったが、国境付近を越えて来るとも思えない中にドイツが進軍していた。ソ連には配備
する兵力は粛清によりいなかった。また、精鋭部隊はウクライナに置かれ、工業生産の
中心は、ドイツ国境に近い欧州領ロシアやウクライナに集中していた。当時のソ連は、
主要軍備の保有量と工業生産力においては、大きくドイツを上回っていた。工業生産高
において資本主義国が世界大恐慌で苦しんでいた中で急速に発展していて、米国に次い
で世界2位とも言われていた。重工業、特に軍需産業に重点が置かれて、戦車も航空機
も最新鋭のものはドイツの兵器に匹敵した。一時ドイツの設計の委託生産という形が多
かった為それを凌駕する性能を誇った機器を隠れて作る為、スターリンは後方に大きな
組み立て工場地帯を置いて順次増設していた。ドイツ軍侵入に備えた防衛計画の研究と
作成が1938年に始まった時にそれらの作戦始動している。ソ連の欧州部は、プリピャチ
沼沢地によって南北に分断されている中、参謀本部は北の白ロシアに重点を置くのか、
南のウクライナに重点を置くのか防備の選択を迫られていた。


1218: 名無しさんAA:18/08/16 14:06
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  264 >   

 対してソ連のスターリンは南北どちらの要請にも、均衡に戦力配置し、ハリコフ機関
車工場をウラルへ疎開させて組み立てさせる賢明な判断をした。1941年夏にウラル戦車
工場を新たに作ったが有名な第183工場である。勿論183の旧工場にもそのままド
イツ仕様戦車を作らせてはいた。しかしこうしてT-34の1941年型は1940年型と当初同時
並行で生産が行われて、砲以外の部分はほとんど同じであったが、各段に鉄板の厚さと
強度が違っていた。又生産途中で改良が加えられてそれらの強い戦車はウラルから供給
された。こうしてドイツ軍の前に立ちはだかった「T-34」は善戦する。対して日本軍は
白兵戦で機械や兵器もなく血と汗と智慧を振り絞って運に任せて勝った事は、陸軍を疲
弊させた。大本営はその機械の改良や供給を怠って精神論に終始した。又海軍に負けた
情報を渡すことなく、空挺部隊や全てに特攻精神論を広めて国民総動員令を作り悲惨な
戦争に変えた。何処の国でも国民の戦場は陸軍に尽きる。護る舞台は陸地であり、空軍
や海軍は他国を脅しても国民の期待には陸軍しか応える事が出来ないからだ。その陸軍
にある存在感は戦車であろう。戦車の盾を持ち高速で攻撃する概念は紀元前からあった
。馬が引く2輪車は、チャリオットと呼ばれてエジプトやローマの軍隊が使用した。し
かし2〜3人が乗れる2輪車を、2頭の馬で引かせる小型のこの攻撃用馬車も紀元前9世紀
頃の、ウクライナ高原で発生した新しい「騎馬兵」でに負けたのである。それままでの
「乗馬」は裸の馬にそのまま乗り、剣をふりあげれず乗るだけで精一杯だったらしい。
ところが、ラクダのキャラバンから出現したろう補助具は発展し、画期的な「鐙(あぶ
み)」と「鞍(くら)」を装備して戦う騎馬兵を創った。鐙(あぶみ)は、馬に乗る踏
み台となり、移動時に身体を支えた。また、鞍(くら)は、人間の尻と馬の背の間にあ
って、乗馬を安定させ座席となった。この2つの発明は、安定した移動と攻撃を可能に
して、台車を駆動したチャリオットに比べて、荷車がく簡単で効率的で高速の小回りが
効き、兵員にメンテナンスを強いる事なく大部隊を作り得た。こうして早々に駆逐し、
軽い弓や鉄剣の時代に入ったのである。その後投石機などは形を変え、火薬が作られて
砲弾が発明され鉄の大量生産が可能になって、近代の戦車が登場する。近代の戦車以前
に駆動する燃料機関がエンジンとして車両が出来た。それらはトラクターやトラックに
付けられ画期的なものとなった。兵員輸送に使われ出したがすぐさま高射砲が載せられ
た。飛行機が作られたからだ。

1219: 名無しさんAA:18/08/16 14:07
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  265 > 

 第一次大戦時はソンムの戦いやヴェルダンの戦い・マルヌの戦いなどは、何れも白兵
戦を考慮しての塹壕戦である。オセロのような領土拡張戦であり、大量の人員に穴を掘
り前線で向き合った戦い方であった。日本では海洋の軍艦の撃沈闘争であったが欧州大
陸では今だ農奴捕虜や捕虜交換の為の賠償金交渉で国の運営を行っていたのだ。だが、
領土拡張の為の戦争コストは、電撃戦でも行わない限り、終戦下の戦勝した利益を上回
る事は無かった。そこに登場したのが飛行機や飛行船、戦車や化学兵器などのあらゆる
新兵器投入だったのである。膠着状態の続くフランスVSドイツ戦は基本的に過去の城
の城主の領主の境界争いからは抜け出していなかった。和平交渉も片方が負けを認める
までは手出しは出来ないでいたのである。そこに登場したのが、鉄に覆われた動く倉庫
のマークTと言う代物だった。どでかいキャタピラの重量級の戦車はの砲弾もこうるさ
い音も度肝を抜かれるものだった。モノクロ映像も残っているが、ノソノソと動く姿は
いかにも重く頑丈に作られた初代戦車の威風をもった物だった。一応キャタピラ駆動の
さすがは農業トラクターの人の歩く速さの3割程で進み、鉄条網や野戦の鉄砲などをは
じき、ゆっくりとではあるが前線を進めていった。高さ1mの障害物なら何とか乗り越
え、この不細工な機動ユニットは、膠着状態にあった西部戦線に投入され威力を発揮す
ると思いきや、湿地帯にはまるで動かず、市街地でもちょっとした凹凸でも前の見えな
い運転で横転を繰り返した。しかしこのイギリス製の戦車に対して人かにドイツ軍は改
良した高速で機動性の高い戦車を開発した。「タイガー戦車」である。戦車に興味がな
い人でも、名前ぐらいは聞いたことがあるだろう。タイガー戦車は、第二次世界大戦で
活躍したドイツ陸軍の重戦車である。分厚い装甲、長大な戦車砲、いかついキャタピラ
。こんな戦車の象徴を最も体現しているのがタイガー戦車だった。戦場は機動力・防御
力・打撃力の三拍子そろった新兵器を必要としていたのである。1914年夏に始まった第
一次世界大戦も、半年もすると、西部戦線はすっかり膠着し、塹壕の病人が負担になり
冬の寒さをしのいでもその後の雨季には人々は動けなかった。お互いに溝やトンネルを
掘って隠れて撃ち合う塹壕戦の形態が意味のない戦いだった。というのが第一次大戦の
教訓だった。こうして秘かに第二次世界大戦に向けて戦車は幾つかの種類が設計された
。ドイツの「電撃戦」は、このタイガー戦車を秘密兵器として緒戦で目覚ましい戦果を
上げた。しかし、宿敵イギリスには通用しない。ヨーロッパ大陸とイギリスには、ドー
バー海峡が横たわっていたからだ。


1220: 名無しさんAA:18/08/16 14:09
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  266 > 

 無敵ドイツ機動部隊も海を疾走することはできない。そこで、ドイツ軍は飛行機によ
る爆撃でイギリスの戦意をくじく事を計画した。連日、空軍の大編隊を送りこんだのだ
のだが、だがしかし、ドイツ空軍は無惨な敗北を喫する事になった。最新鋭のレーダー
と連携したイギリス航空部隊がドイツ軍機を大量に撃墜したのである。これは思いもよ
らぬドイツの挫折で敗退だった。この敗北は、ドイツのV2ロケット開発を加速させた
。こうしてイギリスを威嚇するも占領は叶わないと見たドイツは、頭の切り替えが速い
ヒトラーを先頭に、いち早くイギリスをあきらめ、矛先をソ連に向けた。ソ連軍などは
、兵器が劣悪で、兵士の士気も低く、士官も無能、とヒトラーは高をくくっていたのだ
。ソ連など、ドアを一蹴りすれば、すぐに降伏すると信じて東方行進を再開したのだっ
た。しかしここに立ちふさがったのが強力なT−34であった。バルバロッサ作戦は、
フランス侵攻作戦と同じように、ドイツの快進撃ではじった。ヒトラーはモスクワは冬
までには陥落するだろうと鷹をくくりご機嫌だった。ところが、1941年7月3日初夏の、
迫りくるドイツ第18装甲師団に対して、ソ連機動部隊は見たことのない戦車を投入し
てやって来た。T−34との遭遇にドイツ軍はV号戦車で応戦したが、主砲の50ミリ砲
が命中しても、はね返された。逆に反撃され、悉くV号戦車は火だるまになった。そこ
で、ドイツ軍は最強のW号戦車を投入する、75ミリ砲を持つ本格的後方車両であった。
しかしこの戦車前線に立たせ砲撃したが、結果は同じだった。「ありえない…」ドイツ
軍にパニックが広がった。それでもW号戦車の機動性をいかし、敵戦車に肉薄、キャタ
ピラに命中させ、やっと停止させる。この謎のソ連戦車こそ、第二次世界大戦中、最高
傑作といわれる「T34戦車」だった。ドイツ軍の対戦車砲や戦車砲では、T34を貫通でき
ない、この事件は後に「T-34ショック」とよばれたのである。この時多くのドイツ兵は
投降する。T-34の最大の特徴は、歴史上初の傾斜装甲にある。つまり、戦車のボディー
が傾斜しているので、直進してくる砲弾を反射しやすい。一方、T-34のライバル「タイ
ガー戦車」は、砲塔は円筒形なので、砲弾と直角に衝突する可能性が高かった。その分
、分厚い装甲が必要だった。又、T-34のエンジンは日本の戦車を研究し、飛行船のV1
2ディーゼルエンジンが転用される事になっていて燃費が良かった。しかもディーゼル
エンジンにしては構造がシンプルなので、メンテナンスも容易だったのである。T-34戦
車は農村出身者でもすぐに操縦できるよう設計されていた。これがソ連式の標準化だっ
た。

1221: 名無しさんAA:18/08/16 14:11
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  267 > 

 余談だが、アメリカは日本参戦を確認すると、堂々とアメリカ政府は戦争特需を動い
た。オートメーションによる戦車の量産化である。ここで作られたのがM4シャーマン
戦車だった。1944年6月6日、第二次世界大戦末期、連合国軍はフランスのノルマンディ
ーに上陸し意気揚々と大量に上陸させた。ヨーロッパをドイツから解放するためである
。この史上最大の作戦で、連合国軍の主力戦車として、アメリカの新型戦車「M4シャー
マン」の大量投入をはかった。M4シャーマン戦車は、GM、フォード、クライスラー
など名だたるアメリカの自動車工場で量産された。主砲は75ミリ砲で、攻撃力は十分。
動力は、空冷9気筒の航空機用エンジンを搭載し、時速40kmと機動力も高い。又、操
作も簡単で、自動車なみに容易に運転することができた。さらに、構造がシンプルなの
で、故障が少なく、メンテナンスも容易だったアメリカの技術の集積で上陸まで無敵か
互角として投入した。この連合国軍自慢のM4シャーマン戦車を迎え撃ったのが、ドイ
ツのタイガー戦車だった。タイガー戦車とシャーマン戦車ではスペックでは劣るものの
機動力に於いて勝るものがあった。しかし、タイガー戦車とM4シャーマン戦車の実戦
では苦難の連続だった。ノルマンディー上陸作戦の緒戦でノルマンディーに上陸した4
百両のM4シャーマン戦車をいれたが、次々とタイガー戦車に破壊され、反撃のひまさ
え与えられなかった。また、ある戦場では、25両のM4シャーマン戦車が、待ち伏せした
タイガー戦車に遭遇、わずか30分で12両が撃破された。又あるときは、タイガー戦車が
発射した砲弾がM4シャーマンに命中したが、勢い余って、反対側の装甲版まで突き抜け
てしてしまった。砲弾が貫通したため、シャーマンの乗員たちは命びろいしたという話
さえ実話だった。砲弾が入って出て、鋼板4枚、つまり戦車2台分の装甲を貫通したこ
とになる。恐ろしい打撃力だった。タイガー戦車の88ミリ砲は、1.4q かなたのM4シャ
ーマン戦車を撃ち抜くことができた。ところが、M4シャーマン戦車の75mm砲は50mの
至近距離でも、タイガー戦車を貫通できなかった。やがて、ドイツ兵は面白がって、M4
シャーマン戦車をストーブと呼んだ。砲弾が命中すると、たちまち炎上したからである
。まるで勝負にならなかった。タイガー戦車の最大装甲は厚さ100 mmで、M4シャーマン
戦車が75mm。攻撃力は。タイガー戦車の主砲は88ミリ砲で、M4シャーマン戦車は75ミリ
砲で、機動力のみがタイガー戦車が時速38km、M4シャーマン戦車は時速40kmで、M4シャ
ーマン戦車に後れをとり。また、砲塔の回転がタイガー戦車は手動で3分、エンジンを
使っても2分もかかったが、シャーマン戦車はそれよりも速く回転させることができた。

1222: 名無しさんAA:18/08/16 14:12
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  268 > 
 しかし、M4シャーマン戦車は、量産化の粋を決していた。自分たちの優位点である
数に気づいで作戦を変えた。M4シャーマン戦車は4両1組となり、1両のタイガー戦車
に挑んだのである。それでも、タイガー戦車を1両しとめると、M4シャーマン戦車は3
両から5両が炎上した。つまり、タイガー戦車はスペックだけでなく、実戦でも虎(タ
イガー)だったのである。量産ではM4シャーマン戦車がタイガー戦車を圧倒していた
。タイガー戦車の構造が、複雑で、同じ手間で、他の戦車なら3台つくれた。しかも、
タイガー戦車は他の戦車との共通部品が少なく、量産効果も期待できなかったが一方の
、M4シャーマン戦車は、部品は標準化され、シンプル構造で、量産が世界一容易だっ
た。しかも、デトロイトの自動車工場のコンベア生産ラインで生産された。その差は歴
然だった。生産台数ではタイガー戦車の生産台数は1300両、一方、M4シャーマン戦車
では5万台。桁違いである。これは飛行機生産にも言えた。日本が、援蒋ルート(えん
しょうるーと)潰しに躍起になっていた大東亜戦争時に、主にアメリカ、イギリス、ソ
連の中華民国を軍事援助するための輸送路には大量の兵器が供えられた。仏印ルート(
ベトナム)は一年かかりで潰したものの、英米が金を出してフランスの物資を買い、雲
南省へ輸送させている仕組みは変わらなかった。日本は、仏印に監視団を送り、昭和1
5年(1940年)8月30日「松岡−アンリ協定」を結び、9月23日に日本軍の仏
印進駐を開始し送らせない砦としていた。一方的に軍を進めたということはなかったが
その間に有名なビルマルートの開発が行われていた。これで仏印ルートを遮断したが、
フランス商人は援蒋物資でボロ儲けしており、日本軍が海南島に上陸すると大慌てとな
り国際批判を繰り返した。GHQ焚書図書開封ではその量がとてつもない量だった事が
記録されている。「港の倉庫の援蒋物資をみて私の貧しい筆はともあれ、おそらくこの
量感は実際に見たものでなければ、納得できまいと思われるほど凄いものだ。現に私な
どもあの倉庫に一杯ですよと指さされていながら、実際にその倉庫に入ってみるまで、
その物量感がピンとこなかった。ところが入ってみて、あっと声をあげんばかりに圧倒
されてしまったのである。海防監視委員事務所の後藤少佐の部屋に援蒋物資の見本が並
んでいる。薬品、電話機、鉱石、顕微鏡、ラジオ、防毒マスク、ワイヤ、電池、水枕、
飛行帽、電信機、測量計などなど数えきれない。これはまだほんの一部でボイラーや鉄
道のレールは並べきれませんからね、と後藤少佐は説明する。そればかりではない。こ
の海防附近にはまだどのくらい隠匿されているかわからない。例えば海防上流60キロ
地点に百五十メートル平方の平地を掘り、周囲に土民窟を設けて援蒋物資を隠していた
のが発見されたという事実もあるのだ。」

1223: 名無しさんAA:18/08/16 14:14
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  269 > 
 日本軍は、国際社会を通じて、フランスに蒋介石軍に送るのはやめろ、と再三に渡り
申し入れをしている。しかしフランス人は言う事をきかない。「売りものですから」と
のらりくらり逃げた。というのも既に第一次大戦以降はアメリカ政府の言いなりだった
からだ。フランス革命は反革命を標榜する対仏大同盟との一連の戦争を起こした。当初
はフランス革命に対する外国の干渉戦争であり、シベリア出兵と同様に旧債務を確認す
る意味をもっていた。そもそも普仏戦争は市民革命政権に戦々恐々とした旧態のままの
帝政の国王の脅威からの攻撃だった。こうして反革命連合として対仏大同盟ができてい
たのである。1794年前後を境に形勢は逆転し、フランスによる侵略戦争に変貌し、ナポ
レオンはイタリアでの作戦を成功させて、これまで最前線でフランス軍と対峙してきた
数々の小王国を降伏させ、オーストリア軍の拠点マントヴァすら包囲しエジプト遠征す
ら行う程の国力だった。それが第一次大戦でドナウ川の穀倉地帯やチェコなどのスラブ
からの食料供給が途絶えたのである。そこに貿易をして輸入していたのが米国産の小麦
やジャガイモやトウモロコシだったのだ。この引き換えに輸出したのがドイツの工業品
の横流しだった。敗戦したドイツ工業はフランスの銀行管理下であったのだ。だがこの
頃はドイツが侵攻を果たし、本来、フランスはドイツに敗北してドイツ配下になってお
り、ヴィシー政権も日本に味方しても良かったのだが、米国からの食糧輸入が禁輸とな
ればフランスは崩壊した。商売根性の強い米国はフランス人に引き下がるなと脅迫をし
ていた。この国連決議違反に日本の同盟特派員が日本本国へ「援蒋物資が流れている」
と電報を打つとフランス側からは「悪意ある電報を打電しては困る」と抗議される始末
。仏印縦走記では日本の総領事、日本軍、外務省の役人は「そろいにそろってへっぴり
腰外交、弱気外交」と述べています。このあたりは昔も今も国際事情は変わらない。そ
うして、アメリカは「松岡−アンリ協定」を敵視し、すでに実施されていた屑鉄の輸出
許可制を一歩進め、日本とイギリスのビルマルート停止の協定にも「通商の自由を侵害
」などと非難しました。「見誤ったニッポン」はこの後、どんどん追い詰められていっ
たのである。この頃総力を挙げてアメリカ国民を味方にし背徳政府としてルーズベルト
を糾弾すれば良かったのであるが、ソ連のみを注意し中国を注視していて、米英を見て
いなかった為そうした地勢的意味からしか見て居なくドイツに近寄っていた。此の時の
仏領インドシナの総督ドクーはヴィシー側が任命した人物で、「日本軍とは不戦」の打
電の総督命令電報は届いていたが、個々のフランス軍部隊に迄は伝えて居ない。南方の
英国軍との折り合いもあったからだ。つまり、ヴィシー政権を支持しない部隊として、
南方軍が存在し日本軍に抵抗すると言う局面が在ったと言う事実である。

1224: 名無しさんAA:18/08/16 14:15
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  270 > 

 日本軍の進駐開始が9月23日。西原・マルタン協定締結が前日の22日。松岡・ア
ンリ協定の締結は前月の8月末と言う時系列から見てもハッキリして居る事から、真珠
湾の時の様な問題は無く、又真珠湾に固執する理由も無かった。それでも陸軍は海軍に
米国への抑えを言う。油の供給に危機感のあった大本営は陸軍の判断に後押しした。困
った海軍発言に山本五十六も又困っていた。他方日本軍の側も、参謀本部から出向して
来た富永恭二が西原・マルタン協定を無視する様な拙速な進駐を進めたと言う側面が有
り、富永は此の責任を問われ懲戒処分を受ける。富永恭二は日本の陸軍軍人史上最低最
悪の軍人だった。最終階級は陸軍中将まで行ったが、この熊本出の長崎人は卑怯者の鏡
であろう。1927年には参謀本部員に転属し、1928年、歩兵少佐に昇進。同年12月には、
駐ソ連大使館付武官補佐官となり、その後ジュネーブ海軍軍縮会議全権の随員なども務
める。1932年(昭和7年)、歩兵中佐に進級し参謀本部員(第2課)に就任。その後、
参謀本部付仰付(欧州駐在)、近衛歩兵第2連隊付、参謀本部員庶務課を経て、1936年
(昭和11年)歩兵大佐に昇進し参謀本部第2課長となった。1937年1月関東軍司令部
付に転じ、関東軍参謀、近衛歩兵第2連隊長を歴任した。1939年(昭和14年)陸軍少将
に進級して参謀本部第4部長に着任。同年秋には参謀本部第1部長に就任したが1940年
9月の北部仏印進駐に際して現地に出張し、参謀総長の命令と偽って、軍司令官の間で
合意した西原・マルタン協定に違反し強引に軍を進めて数百人の死傷者を出したために
停職処分となった。この処分に富永は参謀飾緒を引きちぎって怒りを露わにし、その後
仏印提督からフランスの勲章を授与して貰えるよう日本の総領事に掛け合ったが一顧だ
にされなかった。不思議な事になぜこうした事が出来るのか。東部軍司令部付、公主嶺
陸軍戦車学校長を経て1941年(昭和16年9に陸軍省人事局長として中央に復帰して、「
東條英機の腰巾着」というあだ名を持つに至った。フィリピンに赴任した冨永はフィリ
ピン決戦において陸軍初の航空特別攻撃隊、万朶隊の出撃命令を出すこととなる。特攻
隊出撃前訓示で「諸君はすでに神である。君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本
官も特攻する」と言う一方で、機体の故障等で帰還した特攻隊員は容赦なく罵倒して、
62回にわたって約四百機の特攻を命令しパイロット達を全員戦死させた。一番手にパ
イロット教官の富嶽隊を出撃させ、以後続々と特攻隊を出撃させた。生存者証言では、
特攻前は一升瓶をぶら下げて現れては訓示を垂れるしか能のない司令官だったという。

1225: 名無しさんAA:18/08/16 22:05
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  271 > 

 彼はレイテ島が陥落すると、第14方面軍司令官の山下奉文大将はマニラを放棄して
ルソン島山中に後退と決めたが、富永は「すでに多くの特攻機を送り出している。マニ
ラを離れるわけには行かない。」と強く主張しマニラ放棄を拒否し、軍の規則を破る。
更に、いざ本戦では敵前逃亡した上、突然の撤退に際しては指揮下の部隊に連絡をせず
、機密書類を放置し無断で台湾に後退した為全く日本軍は混乱した。この間にも心身の
消耗を理由に南方軍に対して司令官の辞任を2度も申請していた。が、決戦最中に司令
官を交代することはできないとして拒否された。ところが翌1945年(昭和20年)1月6日
に、冨永は突然、マニラからの後退を決定・実行した。撤退に際しては指揮下の部隊に
連絡をせず、機密書類を放置した。さらに戦況の悪化を理由に第4航空軍も台湾に撤退
して戦力の再建を図ることを検討し始めた。だが1月16日冨永は視察のためとして、
上級司令部に無断で台湾に後退した。マニラから徒歩で引き上げてきた司令部要員の大
半をエチアゲの南5,6キロにあるサンチャゴ集結地に足止めした上、その間に自動車で
先に到着した司令官・参謀・軍医その他高級将校たちは残り少ない飛行機を駆って、フ
ィリピンのエチアゲ飛行場から台湾の台北へと続々と逃亡させた。事後承諾を求めに行
った参謀に対し山下奉文大将は語気鋭く「部下を置き去りにして逃げるような奴に何が
できるか! 」と面と向かって罵倒され、褒められると思っていたのか腰を抜かした。置
き去りにされた約1万の第4航空軍の残存将兵は山下が率いる尚武集団に動員され伍長
の小隊長、准尉の中隊長といった奇妙な編成で満足な小銃も与えられずバレテ峠で全滅
した。エチャーゲ南飛行場を発した際の冨永自身の乗機は、第三十二戦隊に属する九九
式襲撃機であった。しかし富永は最初には当時の複座以上の陸軍機で最も高速と言われ
た一〇〇式司令部偵察機を脱出用の乗機として選んでいた。滑走路をオーバーランし、
破損してしまい、上述の九九式襲撃機で脱出した。それには証言もある。直前までを、
マニラ死守を呼号していた軍司令官が単独逃亡した事実に、南方軍である第14方面軍
は憤激した。しかし今更第4航空軍司令部を比島に戻しても意義が少ないため、これを
追認した形になり、2月13日に大本営は第4航空軍司令部の解体を発令するに及んだ。
これは日本軍には決定的な痛い結果であり、マッカーサーのフィリピン進出と5万人の
兵士の犬死と3万人の居留民の命を奪った。

1226: 名無しさんAA:18/08/16 22:09
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  272 > 

航空特別攻撃隊の出撃命令と自身の敵前逃亡疑惑など陸軍史上最悪の軍人だと批判され
この間、冨永は胃潰瘍になり治療に専念した。しかし、第4航空軍はその後台湾からの
航空作戦を効率的に行えなかったばかりか、冨永自身も軍司令官として指揮をとること
もなく、富永の行状は逃亡先の台湾でも知れ渡り、第10方面軍に申告を行った際、同軍
司令官の安藤利吉から「申告は受け付けられない」と拒否されている。また昼間から軍
の乗用車に芸者を乗せて走っており、一兵卒でさえ富永に敬礼しなかった。本来であれ
ば軍法会議が行われるべきところ、暫く何の処分も下されなかったが、陸軍中央で問題
になり、 2月23日待命、5月5日予備役編入の処置がとられた。しかし、「死ぬのが怖く
て逃げてきた人間を予備役にして戦争から解放するのはおかしいのではないか」という
声があり、7月に召集し、第139師団の師団長として満州の敦化に赴かせた。この部隊は
関東軍の主力が南方に転出した後の穴埋め用根こそぎ動員部隊の一つである。8月のソ
連参戦、終戦の後、富永はシベリアのハバロフスク収容所に抑留された。大惨敗のミッ
ドウェー海戦から帰ってきた兵員を待っていたのは、病棟監禁だった。瀧本さんらは言
う「なんでやと。罪人あつかいやないか。俺ら、そんな悪いことした覚えはないわ。そ
う思とりますやん。こんなばかな話はないと腹がたちました。」理由は新聞報道で知っ
た。「我が方の損害」として空母1隻喪失、同1隻大破という大本営発表が書かれてい
たからだ。「仰天ですわ。大本営はこんな大嘘をついておるのかと。こっちはそこに行
っとった訳やから。この目で見とったわけやから。虎の子の4隻をたった1日で失った
ことを知っておる訳ですから。」この事実を漏らされないようにと監禁されたに違いな
かった。その後送りこまれたトラック諸島では、戦友や部下が次々と餓死した。「痩せ
て痩せてほんま痩せて、本当に骨と皮になって、ほんで死んでいくんですよ。もう人間
の姿ではありません。」「1日が終わると、『ああ、きょうも生き延びた。死なないで
いた』と思う。我々はいったい何の為、誰のために戦争をしているのか。もう戦争など
まっぴらごめんだ」「この頃の戦闘行為とは、ただただ生きることだけでした。」「で
仲間が餓死すると、近くの山に埋めに行く。穴を掘る体力など無く。地面をかきむしっ
て遺体を入れ、穴からはみでているところは土を乗せて薄く均らして終わり。何と申し
訳ない事をしたのかと思う。思うけれど、その時はそれどころじゃないんですわ。遺体
の処理をしながら、あ、俺はいつやろかと、そんなことを考えながらやっとる訳です。
明日は自分の番や。だから堪忍してくれと心の中で手を合わせて、ほいで帰ってきた」

1227: 名無しさんAA:18/08/16 23:00
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  273 > 

 南方に行くまで、それまで上官から繰りかえし聞かされたのは「貴様ら、よく聞け。
いったん戦地に行ったら階級の上下は関係なしに一緒に死ぬんやぞ」という事だった。
全くの嘘だった。戦後73年となる今も瀧本さんが声に怒気と殺気を込めて語るのは、
やはりトラック諸島でのできごとだ。木の葉を海水で煮て食らうしかない日々を重ねて
いた時。餓死していく下っぱ兵たちを尻目に、非常用の備蓄食糧に手を出して食べてい
る上官達がいた。どうにも我慢ならなくて瀧本さんは分隊長に食糧の開放を願い出た。
「一発で断られました」「われわれ下っぱが草を食って命をつないでいるときに、士官
どもは銀飯を食べとるんですよ。銀飯ですよ、銀飯。こっちは草くうとるん最中にです
。」みずからにも餓死が迫りくる中、瀧本さんはこう考えるしかなかった。「こんなね
、南のね、ちっぽけな島の上でね、骨と皮になってね、のたれ死んでやね、ヤシの木の
肥やしになるだけなんて、家族と涙の別れし御国の為にと出て来たのに、こんな死に方
はもう納得できない。どうすることもできないが我慢ならなかった。」「ここで死ぬ事
がなんで国の為か。こんなばかな話があるか。こんな死に方があるか。何が国の為じゃ
。なんぼ戦争じゃいうても、こんな死にかたに得心できるか。敵と戦こうて死ぬ事なら
わかる。こんな犬死やのたれ死に、このどこが国のためか。」と語る。こうした陸軍へ
の不満や憤懣やるかたない不祥事は多い。南方戦線では、例えばインパール作戦などを
今の日本の報道や歴史家は徹底して酷評する。そこに海軍の姿は見えない。しかし果た
してそれは真実か。補給や兵站が切られて撤退し本隊合流に決定したが、そこには末路
のない世界がなかったその為撤退路は死人の山となり、白骨街道と呼ばれた。後に懲罰
会議が開かれるが、此処でも何一つ解明がなされなかた。1944年という戦局が厳しく、
もはや防衛領域縮小を図ろうとしていた時期に、何故か政府はインドに向けて出撃した
。英国軍は15万人の兵力、日本側は日本軍9万人、これに現地インド国民軍4万5千
人を加えるとほぼ同等の14万5千人になる。しかし日本政府は、インド国民軍を温存
し撤退した。イギリ軍は、30万人もの兵がいたこの歴史的規模の陸戦に、勝利を誇る
と言うことをしない。英国インド人が戦勝記念式典を企画し、英国軍に上程したが止め
たとも伝えられる。戦後東京裁判の判事に、まだ独立を果たしておらずイギリス植民地
のままのインドから、現地人、つまりインド人のラダビノード・パール判事をイギリス
は選んだ。パール判事が日本無罪の判決付帯書を書くことについて、イギリスは止める
ことが出来る立場ではあった。現にオートラリア判事は交代した。しかし敢えてそのま
まにした。何故そのままにしておいたのか。この謎は第二次世界大戦の本質にある。

1228: 名無しさんAA:18/08/16 23:01
 アーサー・パーシバル将軍は、本当は降参する話し合いに出かけた訳ではなかった。
この自軍の撤退に関して食料問題でこの地の戦闘は不可能で、今後の帰国の安全の確約
を取るためだったとされる。しかし、山下奉文は国際や国情に音痴だった。満州建国の
頃永山元彦陸軍少将(騎兵第2旅団長佐賀県の出身)の部下の、宇都宮太郎・真崎甚三
郎・荒木貞夫へと長州閥外軍につながった、いわゆる「佐賀の左肩党」の系譜に属した
皇道派の為に、軍部の干され組だった為、今の国際の流れなど知る位置にいない将軍で
あった。二・二六事件の後不審がられて南洋に送られたものだった。犬飼内閣時に宇垣
軍縮が実施されて、非皇道派の中堅幕僚層は、後の永田鉄山や東條英機を中心に出来る
、長州派の満鉄利権は宝満資金を得ての統制派としてグループにいい様に餌になった。
、これに対して陸軍中枢部の宇垣は永田鉄山を陸軍省動員課長に据え、薩摩閥につなが
るうるさい旧陸軍正統派を、土佐薩摩を中心に、地上兵力から4個師団約9万人を削減
したのだ。これら左遷された者を皇道派とした。こうした宇垣らの軍閥の縮小をして、
逆に長州閥権力が固まった。上層部を占めた有力財閥の子孫や宮家・重臣・官僚閥に一
般の兵士が不満を持ち反乱を起こした。これが二・二六事件だった。シベリア出兵後に
起こった共産党思想の赤化が溢れて、四民平等から共産の共同平民共生思想。これに対
して国粋会を始め最終戦争の世界戦争に勝つには、「君側の奸」を討ち、「国体を明徴
」にし、「天皇親政」を実現すべしという思想が明確に打ち建てられたのだ。これを受
けて海外諜報員の探索が厳しくなり、日本の特高警察の活動は共産国の秘密警察に近く
なっていったのである。二・二六事件において山下宅の電話は事件前から逓信省と陸軍
省軍務局(事件後は戒厳司令部)によって傍受・盗聴を受けていた。決起部隊が、山下
の説得で自決を覚悟した。がこのときの山下は陸軍大臣と侍従武官長を通じて、彼らの
自決に立ち会う侍従武官の差遣を昭和天皇に願い出ていた。これが昭和天皇の不興を買
い主流派の長州閥からの左遷を買うことになったとされる。山下なりの温情や武士道が
災いしたのである。こうして2・26事件収拾の大きな立役者でありながらも、山下は
天皇や元老の評価は極めて低く左遷され、陸軍省や参謀本部・大本営のエリートポスト
につくことはなかった。山下自身は参謀本部部員、陸軍省軍務局課員を務めて、スイス
・ドイツ・オーストリアにも駐在し国際舞台を知らないわけではなかったが、情報は限
られていて、会談の仕方や捕虜の取り扱いなどは全く欧米流に習う事はなかったのだ。
パーシバル将軍は、欧州戦線やアフリカ戦線と数多くの海外経験者で西洋式会談は東洋
も同じに行っていた。従って「イエスかノーか」と降伏を迫ったという逸話は一躍有名
になったが、これは統制派の作り話で、実際にはより落ち着いた紳士的な文言・口調の
会話だった中で問うたというのである。

1229: 名無しさんAA:18/08/16 23:02
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  275 > 

 統制派は、二・二六事件の後は、陸相として皇道派の追放(粛軍)を主導し、「親の
七光」と称された寺内 寿一(てらうち ひさいち)を猫の鈴のごとく付けた。「追放さ
れた連中が陸相になれないように」との口実で軍部大臣現役武官制を復活させ、軍部の
影響力を増大させて軍政拡大を図り、「腹切り問答」後に議会解散を要求し、二日間の
議会停会の後、広田内閣を総辞職に追い込んだ。しかし大恩ある宇垣の内閣には流産さ
せた。南方軍総司令官在任時は、無謀なインパール作戦を進め、現地司令官の反対を押
し切ってルソン島からレイテ島への作戦転換を指示した。結果多大の犠牲者を出すに至
った。同時期に寺内はサイゴンの旧フランス総督官邸から一歩も移動しなかったばかり
か、愛人の赤坂芸者を軍属にして軍用機で日本からサイゴンに乗せて、現地で豪遊して
いた。第18代内閣総理大臣を歴任した元帥陸軍大将寺内正毅の長男で天皇に覚えが良
かった為にこうした悪行となった。山下がインパールからフィリピン戦線に送られるが
第14方面軍はダグラス・マッカーサーらの指揮するアメリカ軍に対して、台湾沖航空
戦の誤った戦果報告に基づいて立案された「レイテ決戦」を大本営から強いられる。彼
の部下には優秀な兵士が多数いて善戦していたが、本来予定していたルソン島での決戦
を行う事はできなかった。飛来する敵航空機がまったく減らない上、捕獲したアメリカ
軍パイロットの尋問からも、誤報は裏付けられたが、南方軍総司令官として寺内寿一元
帥陸軍大将は命令を変えなかった。こうしてもともと、このレイテ決戦に反対していた
山下はじり貧になって追い込まれた。部下には、敵の意図や行動を正確に予測すること
から「マッカーサーの参謀」というあだ名の名参謀堀栄三陸軍中佐がおり、山下希望の
武藤章陸軍中将が着任していた。しかしレイテ決戦に多くの兵力が投入されて、制海権
と制空権を敵に握られて輸送船の大半が撃沈された。ルソン島の戦いでは兵力差で圧倒
され、最終的には山岳地帯へ退いての持久戦に追い込まれている。民間人が多く残る首
都マニラでは、無防備作戦で行くつもりだったが、大本営は許さなかった。実質第14
方面軍部隊の大半をバギオ方面の山中へ撤退させているが、マニラ死守に固執する海軍
や大本営の猛烈な反対を受け、無防備都市宣言は頓挫。マニラ海軍防衛隊を中心にマニ
ラの戦いが行われ民間人約10万人が死亡している。もともと明治の時代の「名誉の捕
虜」と国際感覚の思考が、昭和軍人では戦陣訓は「生きて虜囚の辱めを受けず」の言葉
に変わった。これが大きな昭和軍人や天皇の大きな間違いだったのである。「マニラ戦
で民間人を殺傷した件や華僑の虐殺」は事実無根であったがしかし彼は潔く「知らぬ事
であったが、責任が無いとは言わない。」と絞首台に乗った。

1230: 名無しさんAA:18/08/16 23:20
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  276 > 

「待てしばし 勲のこして ゆきし友 あとなしたひて 我もゆきなむ。」これが山下
の辞世の句と言われている。(待ってくれ、今しばらく、武勲をたてて、先に逝った友
たちよ。君らの後を、私も直ぐに行くつもりである。)と言うのが意味とされる。児島
氏は、著書『指揮官』の中で山下中将のそうした性格を証明するエピソードを紹介して
いる。ドイツの精神医学者『体格と性格理論』を山下中将と敵将A・E・パーシバル中将
の体格に、その勝敗の行方を「心理学」の観点から分析している。山下中将は身長174c
〜180cm、体重100sの巨漢で太鼓腹を誇る肥満体であった。この肥満型の性格として、
「社交的、善良、親切、暖かみがある、活発、激しやすい」を人は感じる。また「疲れ
を知らぬ活動力、ぬかりなさ、果敢さ」、「理解力も敏速で多くのことを同時に把握し
、よく刺激に順応する」という。つまり、山下将軍は、大いびきをかいて居眠りをする
「明るさ」と、下をいたわる「暖かみ」、その上細心な「ぬかりなさ」、銃弾にも身を
さらす「果敢さ」という気質・特性がこの「シンガポール攻略作戦」の勝利を導いた。
と言う。一方、敵将パーシバル将軍はどうであったか。ザ・タイムス誌によると「(パ
ーシバル)中将はやせて背が高い。そしてウサギのように二本の前歯が突き出ている。
容姿的には、「社交的には魅力的な紳士だが、いざ付き合うと可能性を見出す前に困難
に注目する。」といった消極的な人物である。「野心も、特色も、信念もない。性格は
強くなく、指揮者としては部下にも一般市民にも人気がない。」と分析している。上記
のクレッチマー教授は、細長型、つまりやせ型の人物に最も多く見られるのが分裂的性
格だといい、その気質の特徴として「静か、まじめ、臆病、敏感、神経質、その他」を
あげるが、特に行動面では「貴族的な繊細さ、時に激しく興奮するが決断がなかなかつ
かない優柔不断。」「自分を悩まし傷つける環境を嫌がる」傾向とする。パーシバル将
軍は、山下軍の輸送船団の接近の報告を受けながらも、自分の希望的観測の(日本軍は
ここへはやって来ない)を信じて動かなかった。事態が急迫しているにも関わらず、い
つもどおり朝9時に司令部に出勤し、5時に宿舎に帰る。という平時と同じ夕食と食後
のブランデーを楽しみ、窓から吹き込む夜風を首筋に受けながらの読書のひと時を過ご
してベッドに入るなど、自身の生活のペースとテンポをかえなかった。と紹介されてい
る。


1231: 名無しさんAA:18/08/16 23:21
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  277 > 

 山下将軍は、信望厚く、名声も頭脳もあった。昭和の日本軍の逸材と言われていたが
、その為に面倒見が良く二・二六事件以降干された。その軍人としての人生は輝かしい
ものではなかった。反乱将校に同情して天皇陛下の不興を買っていた事もあるが、統制
派の東條英機やアヘン商売の宮家方から疎まれていた。といった話がある。事実、本省
から前線に左遷されて前線の敗戦を強いられた。その後も山下は戦犯として処刑される
わけであるが、それも軍人として不名誉な囚人服を着せられての絞首刑であった。本来
、軍人は軍服着用で銃殺刑に処せられるのが本懐であるが、マッカサーにも嫌われてい
たのは、吉田茂などの長州財閥や海軍の米軍コンタクトがあった為とも噂される。私の
父は、その山下将軍率いる 工部隊だった。言わば兵舎を作る部隊だ。このルソン島の
戦線では随分の仲間が無駄死にしたらしい。結局は物量に負けたとささやいていた。実
は食料も水も弾薬も無い中で戦っていたと話をしている。ジャングルの中で集団行動は
かなり厳しく、水を求めて行軍したらしい。食料は煮炊きすればなんとかしのげたとも
言えるが 問題は病気だったと言う。薬品の無い中ではジャングルに潜むのはかなりの
戦死者を覚悟しなければならなかったと言う。作戦会議でも制空権の無い中で、街中の
爆弾や機銃掃射の飛行機にやられるか、ジャングルに潜んで食を得るかでもめたが、背
に腹は代えられず潜む結果になった。父の場合マラリアにかかって行軍から置いていか
れた。その後病気のまま捕虜になり、米兵の病院で治癒している。ただ驚いた事には、
多くの黒人兵がいて白人兵にこき使われていた事だった。と話していた。服はやぶれて
靴も履かず、一応は兵士の中にあった。その黒人が父の看護をして病室で治っている。
椰子の繊維で草履を織って送り、その後ナイフで木を削り、下駄を作ってやったと言う
。その後黒人兵は大いに喜んでガムをくれ、ジープに乗せてくれて、他の囚人に比べて
かなりのいい身分だったと言う。山下将軍には、多くの知恵多き人がついていたのだが
、それでも北朝鮮の野口が作った日産コンチェルンにはあまり通じていなかったらしく
、政界から疎まれていた。野口 遵(のぐち したがう、したごう)は、日本の実業家と
して日本窒素肥料(現・チッソ)を中核とする日窒コンツェルンを一代で築いた。「電
気化学工業の父」や「朝鮮半島の事業王」などと称された。チッソの他にも、旭化成、
積水化学工業、積水ハウス、信越化学工業の実質的な創業者でもある。彼の生まれは、
金沢の貧しい士族の家に生まれとされ山下とは顔を合わせたはずであった。

1232: 名無しさんAA:18/08/17 01:08 ID:mog
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  278 > 
 この山下将軍の率いた部隊は、信棒の元に、兵士は献身的に働いて勝っていった。昭
和16年(1941年)12月8日夜間、「ヒノデハヤマガタ」の暗号で開戦した。日本軍
はコタバル上陸作戦を開始し、陽動作戦で主力部隊は北約50キロの地点に上陸した。
コタバルでは壮絶な上陸作戦となりました。ここにはトーチカと呼ばれるコンクリート
で固められた陣地が100m間隔で配置されており、兵士達はトーチカの間を走って抜
けて向こう側にいかなければなりませんでした。ぐずぐずしていると部隊は全滅になり
ます。ところがトーチカとトーチカの間には鉄条網が三重に張り巡らされており、しか
もそこには地雷が埋められていると思われました。この戦闘に参加した兵士が書き記し
たものがその3ヶ月後昭和17年2月に出版されています。星港攻略記である。永らく
「GHQ焚書図書」とされ世にでなかった。しかし近年開封されてこうして記録がでた
――― やがて挺身隊が帰ってきた。そして、「トーチカを二つ制圧しなければどうし
ても通ることは出来ません。」と云うのであった。そこでトーチカの攻撃は繰り返され
た。しかし誰も隊長の下に帰ってこない。(戦死したということ)時間は刻々と経って
いく。この時四名の兵士が、「私達をトーチカ攻撃にやってください。」と申し出た。
こうしていつまでもとどまっていたならば全滅してしまうであろう。しかしこの場合、
何が何でもやってみなくてはならない。いや、やりとおさなければならない。けれども
誰が言っても成功しないこのトーチカをこの四人の兵はどう攻撃するつもりなのか。‐
隊長は暗然とせざるを得なかった。四人の兵は、二人づつ左右に別れてトーチカに向か
って突進していく。急にトーチカの砲口は火を吐き出した。瞬時に四人は地に伏した。
小さい丘阜を利用して僅かに銃丸を逃れている。発射音が止むと、すかさず飛び出す。
どうやらトーチカの正面に近づいたらしい。と、どうしたことだろう、二つとも砲口の
火が止んでしまったのだ。この時だとばかり部隊は弾幕の間隙を縫って、脱兎の如くに
飛鳥の如く後方の林に突入して言った。トーチカの裏へ出られたのだ。椰子(やし)の
密林は兵たちを覆っている。部隊は遂に突入できた。が、あの四名の兵はどうしたであ
ろう。隊長は部下の身を案じて伺ってみた。おお、何という忠烈!彼等は肉弾を以って
、あの頑強なトーチカを制圧したのだ。トーチカの銃眼に我と我が頭を突っ込んで、肉
弾の壁を作って、肉弾の線をはめてしまったのだ。この一瞬に、部隊は弾幕の間隙を通
り抜けて、無事に椰子林に突入することが出来たのだ。何という壮烈さよ!」と綴る。
命令なのか本当に立候補したのかは別にして、こうした非業の死が繰り返されていた。
よく考えて見ましょう。これは戦争です。その中で全滅になろうであろう極限の場面で
ある。美談でも何でもない。仕方なかったのである。

1233: 名無しさんAA:18/08/17 01:09
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  279 > 

1944年2月、日本陸軍は、無茶苦茶なウ号作戦(インパール作戦)開始直前に、英
軍は雲南省からビルマに侵攻し、さらにウィンゲート少将率いるチンディッツ特殊部隊
に、ビルマ北部の交通・通信網を破壊することを命じた。既に日本軍のインパール作戦
を暗号解読によって察知していた英軍には、インパールと離れた日本軍の後方支援に対
して、果敢な防衛攻撃を展開した。この空軍の爆撃は先鋭隊の食料や武器弾薬の兵站を
切って孤立させたのだ。1944年2月英軍第14軍司令官スリム中将と米陸軍義勇航空隊
ジョージ・ストレイトメイヤー将軍はウィンゲート准将と第1航空軍フィリップ・コー
チャン大佐に、インドに向かい,ビルマ北部ミートキーナの日本軍の交通通信網を破壊
すること、雲南省怒江(サルウィン川)を渡河しビルマ北部に侵攻することを命じた。
雲南省は、チベット高原を発する三つの川、金沙江(長江上流部)、瀾滄江(メコン川
上流部)、怒江(サルウィン川上流部)が流れている三角洲地帯だった。その三江併流
(さんこうへいりゅう)の地域は,現在,迪慶(ディーチン)蔵族(チョンツー)自治州
、怒江リス族自治州を含み、ナシ族、イ族など多数の少数民族が多数居住していた。こ
うした少数民族の地は、古来より勇猛果敢な戦士が古来から残って居る地域で、本来、
彼らを味方にするべく時間をかけて戦うのがより効率的な戦い方だったのである。それ
は日本側も、英国側も中国側も同じ認識だった。三江併流地域は、中華人民共和国雲南
省の北部で現在、デチェン蔵族自治州、怒江リス族自治州がある。この地域はインド大
陸が移動してユーラシア大陸に衝突した場所で、ヒマラヤから続く褶曲山脈が南北に走
っている。この褶曲山脈の間の渓谷に、西から怒江(サルウィン川上流部),瀾滄江(
メコン川上流部),金沙江(長江上流部)が流れている。標高は4000-6000mで、峡谷も
1000mから2000mの深さがある。渓谷と山脈に隔離された三江併流地域には、現在であっ
ても独自の言語を持つ10以上の少数民族が暮らしている。当時には、西側のビルマ(
現在のミャンマー)との間の交通路は限られた山道しかなく、隔絶した地域だった。し
かも、このビルマと中国を結ぶ陸路として、インド方面から中国に、アメリカ、イギリ
スの援助物資が、この蒋介石援助ルート(援蒋ルート)を通って流入には現地人にも、
潤わせていた面もあったのだ。そこに、日本軍は、三江併流地域を占領し、インド・ビ
ルマから中国を隔離し、中国に援助物資が流入するのを阻止しようとした作戦を立てた
。この兵站が切られた構図が日本の大きな失策で敗因となった。


1234: 名無しさんAA:18/08/17 01:20
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  280 >

 雲南省怒江方面で戦闘が本格化したのは,1944年、5月のインパール作戦の失敗が明
らかになってからである。米英中の連合軍が、ビルマ北部,雲南省怒江方面から攻撃を
開始した1944年5月11日からだった。ミイトキーナには飛行場があって、重慶に伸び
るレド公路がイラワジ川を渡河し雲南省に入る地点で、そこが中国の騰越の地である。
騰越(とうえつ)からイラワジ川の東に,怒江(サルウィン川),その更に東が瀾滄江
(メコン川上流部)である。その東が,雲南省の州都昆明(クンミン)である。つまり
北ビルマ・雲南省の日中両軍は、この三江併流地域で戦線を接していたのだが、未だに
戦火はなかったのである。英軍を主力とする連合軍がミートキーナを占領した1944年8
月3日。雲南省怒江方面の要衝である拉孟(らもう)は9月8日に、騰越(とうえつ)
は9月14日に連合軍は陥落させた。つまり,インパール作戦の帰趨が決するまでは、
ビルマ北部・雲南省怒江方面の帝国日本軍は、戦闘の中で持ちこたえていたのである。
渓谷と山脈に隔離された三江併流地域には、現在でも、独自の言語を持つ10以上の少数
民族が暮らしているが、当時、西側のビルマ(現在のミャンマー)との間の交通路は限
られた山道しかなく、隔絶した地域だった。しかし、ビルマと中国を結ぶ陸路として、
インド方面から中国に、アメリカ、イギリスの援助物資が、この蒋介石援助ルート(援
蒋ルート)を通って流入していた為に、そこで、帝国日本軍は、三江併流地域を占領し
、インド・ビルマから中国を隔離し、中国に援助物資が流入するのを阻止しようとした
のである。雲南省怒江方面で戦闘が本格化したのは、1944年5月に、インパール作戦の
失敗が明らかになってからである。英軍を主力とする連合軍がミートキーナを占領した
のは,1944年8月3日で、雲南省怒江方面の要衝である拉孟には9月8日、騰越は9月
14日になってやっと連合軍が陥落させたのである。つまり、インパール作戦の帰趨が
決するまではビルマ北部の、雲南省怒江方面の日本軍は、持ちこたえていた事になる。
1944年2〜3月、日本軍がインパール作戦を開始する直前には、ビルマ北部・雲南省怒
江方面では、チンディッツなど連合軍による日本軍への反攻が開始されようとしていた
。日本軍はこの後方撹乱を「陽動」「威力偵察」と考えた。深刻な大反攻とは全く認識
してはいなかった。しかしこれは、連合軍による本格的なビルマ奪回作戦の一環であり
、制海権を奪還して飛行機が飛ばないインパール作戦へ別方向からの妨害行為であった
。もし山下部隊の中にこれを見切る将校がいれば事は変わったろうが山下のみでしか感
じてなかった。

1235: 名無しさんAA:18/08/17 01:29
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  281 >

 既に伝令の日本に向けた大本営との交信は全て暗号解読は出来ていた。つまり日本の
行う作戦は読まれていたのである。1944年2月9日,ファーグソン将軍の率いた第16
旅団はレドを出発,残りの部隊は,輸送機で空輸された飛行場の周囲に陣地を構築して
日本軍を待ち構えていた。ウィンゲート将軍のチンディッツの特殊部隊は,1943年2月
8日に「ロングクロス」作戦を行い1944年2〜3月には、新たな「木曜日」作戦を出動
させた。これは,チンディッツ特殊部隊と英連邦の将兵など2万名に参加した大掛かり
なものだった。ウィンゲート准将にとって、1944年2月は第二次チンディッツ作戦であ
り二回目のビルマ侵攻で日本軍への復讐だった。「木曜日」作戦では,輸送機とグライ
ダーを利用して大規模な空挺作戦を展開し進軍を挟みうちして全滅させるものだった。
しかし3月24日ウィンゲート少将が飛行機事故で死亡すると,チンディッツ指揮官に
ランタイン少将が就任して更に大掛かりな作戦に変わった。1944年初頭チンディッツの
第三インド歩兵師団第二軍の隷下には、第三西アフリカ旅団、第十四英歩兵旅団、第十
六英歩兵旅団、第二十三英歩兵旅団,第77インド歩兵旅団、第百十一英歩兵旅団モリ
ス支隊(モリス中佐)にも、砲兵隊、第百六十野戦連隊、第六十九軽対空連隊などが、
付随した。ただし予備軍も含んでいるので,全部隊がビルマに侵攻したわけではない。
このチンディッツ侵攻部隊の特徴は,@空輸部隊とA負傷者の後送更にB補給物資の空
輸C空輸に密接な航空支援D制空権の確保を目的に、目的に添った部隊を作られていた
事にある。ウィンゲート准将は,敵地での精力的な後方撹乱は90日が限度と想定して
いた。これには大きな理由があった。イギリス本国ではドイツの制空権には全く歯が立
たなかった上に、V2ロケットによる攻撃で今や自国の空の空軍は意味のないものだっ
たのだ。当初ダグラス社に発注していた飛行機はキャンセルし、中国に送られたが、そ
の後のアメリカからの納入もUボートや自国の飛行場を避けてインドに送られたのだ。
こうして3月には英軍チャンディッツ特殊部隊のビルマ北部侵入の強化が図られた。こ
の情報は日本軍にも送られた。こうしてビルマの基地作りの最中を、日本陸軍はウ号作
戦(インパール作戦)を開始した。4月に第三十一師団「烈」はコヒマの一角を確保し
持久戦態勢に入った。しかし,現地の第三十一師団佐藤中将は,糧食・弾薬の補給が全
く得られなかった。1944年6月1日雨季が迫る中、病人が続出した。佐藤高徳は第十五
軍の猛者を率き連れたままコヒマ死守命令を無視して独断で退却を開始するに及んだが
、それは弾薬や食糧などの物資供給の差であり、それはそのまま経済力や物量の差だっ
た。

1236: 名無しさんAA:18/08/17 01:34
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  282 >

  日本軍はインパール作戦の一環として、インパール作戦と同時にその北に位置する
コヒマにも進撃し制圧していた。しかし佐藤高徳陸軍中将率いる第31師団はコヒマを
制圧しているにも関わらず約束の物資補給はなかった。マラリア患者を率いて、薬品も
食料も砲弾も絶たれて届かず、愚将中の愚将第15軍司令官牟田口廉也に殺されも同然
の状態に陥っていた。当時佐藤高徳陸軍中将率いる第31師団は陸軍少将であった宮崎
は、第31師団の歩兵団長としてコヒマ戦線を指揮していた。険峻な山岳地帯を自ら大
きな荷物を背負ながら先頭に立って部下を率いた。コヒマを奪還し常駐したが、食糧が
尽きる事を危惧した。宮崎繁三郎陸軍中将は1892年(明治25年)1月4日に産まれの気
骨の明治軍人だった。岐阜県厚見郡北島村(現在は岐阜市)に産まれノモンハン事件、
インパール作戦など、日本軍が劣勢に立たされた戦場で常に戦功を挙げたことで知られ
る、帝国陸軍屈指の野戦指揮官としては、かなりの兵将だった。最終階級は陸軍中将だ
が、佐藤中将に撤退して前線から中継本部に合流するしか手がない事にしんがりを務め
る事を伝えた。本隊を先行撤退させ7月9日,撤退を続ける第三十一師団長・佐藤幸徳
中将には、第十五軍牟田口廉也中将からビルマ方面軍司令部付き命令書が届き。速やか
にラングーンに「赴任」せよとの解任電報が届く。その後第三十一師団は宮崎少将が師
団代理として指揮を継承して撤退を続行した。牟田口廉也中将が愚将だったはコヒマを
攻略した後、ただちに第31師団をアッサム鉄道が通る 大英帝国軍の物資集積地である
ディマプールへ急行させるように考えていた事を明示していなかった事だ。ディマプー
ルを占領すれば、大日本帝国陸軍は武器・弾薬・食糧、戦いに必要な物資が手に入る。
アラカン山脈を越えていく第31師団と第15師団は、軽装備を余儀(よぎ)なくされた
が、コヒマとインパール攻略後は、自動車道が開通し、補給が受けられる。牟田口廉也
は作戦期間を勝手に3週間から1か月とし、不足分は「敵に糧(りょう)をよる」とし
たのである。敵の虚(きょ)をつく迅速(じんそく)な進撃がこの作戦の要(かなめ)
である事で秘密理に下のだろうが、兵站線が乏しい中で最初からディマプール占拠を掲
げていれば良かったのである。事実インパールを主力部隊で攻めさせコヒマを落させた
のは精鋭部隊だった。ディマプールはコヒマから直ぐの所だった。もしインパール部隊
をなくしてディマプールを占拠した後の時期に、インパールを落せば簡単だったのだ。
しかし、自分のいるマンダレーの本部の守る為に精鋭のみをコヒマに送っていたのであ
る。そしてこの佐藤の猛者部隊もディマプールを目的に変えて進軍すればよかったのだ
。これが佐藤の甘さや幼稚さだったし、それを指令できなかった日本の幼稚さだった。

1237: 名無しさんAA:18/08/17 01:53
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  283 >
 そもそも第三十三師団とともに国境を越えたインド国民軍は、祖国にインドの国旗を
掲(かか)げることができていた。他の師団よりも1週間早く作戦を開始した第三十三
師団は、3月13日、インパールの南のトンザンで、混乱した英印第17師団を包囲し
ていたのである。しかし、前線から「玉砕覚悟で戦う」という主旨の電報を「玉砕寸前
」と誤解した師団長の柳田元三中将(やなぎだげんぞう)は包囲を解き、敵をインパー
ル方面に逃がしてしまったのである。その上に柳田元三中将は、敵への追撃を10日間
も躊躇(ちゅうちょ)し、インパール手前に防御陣地を構築する時間を与えてしまって
いた。これは日本軍通信技術の幼稚さが産んだ手違いと海軍の支援のない体制での、お
粗末な結果だった。もし2隻の空母で空軍が併用出来ていたら起こる事のない戦い方な
のだったのである。そもそも戦争では要所を獲ろうが本部の作戦通りであろうが、物資
や兵隊や近代兵器の絶対量の不足の中では、より確実な戦略がなければ勝つ事は無理で
ある。特に空輸や輸送路を絶たれる事に於いては、そこまで伸びた敵の進軍がある事を
意味していた。砦を落す事や占領地を拡大する事も大事だったが、より以上に、確実に
維持し守られて兵力を温存する事がより大事な事であった。牟田口廉也にはそれがない
愚将作戦しかできなかったと言われる。一方3月15日から進撃した第15師団の本体
は果敢に攻め、3月28日にはコヒマ〜インパール間の道を遮断する事には成功してい
た。しかし、第33師団の動きが遅く一手でインパールが反撃される破目になった。同
じく3月15日に、コヒマを目指し進撃を開始した第31師団は、宮崎繁三郎(みやざ
きしげさぶろう)少将の率いる歩兵第58連隊が、3月21日にウクルルを占領し、敗
走する敵を追ってサンジャックに突進した。しかし、サンジャックは第15師団の担当
地区であり、このときの宮崎繁三郎少将の 1週間のロスが、後で大きく響くことにな
った。その10日後の4月5日に第31師団はついにコヒマを占領した。牟田口廉也中
将はコヒマの第31師団に、ただちにディマプールを攻略するように命じた。コヒマと
ディマプールは、徒歩で2日の近さであり、大英帝国軍の補給基地はすぐそこである。
しかし、ビルマ方面軍の司令官川邉正三(かわべしょうぞう)中将が、ディマプールへ
の突進命令を取り消してしまった。ビルマ方面軍の作戦案には、アッサム州ディマプー
ルまでの進出は含まれていなかったのである。こうして大英帝国軍は体制を整(ととの
)えて、空からも補給を受け、迅速(じんそく)さを欠いた日本軍は、やがて、不利に
なっていったのだ。これらの状況は全て日本軍の通信機器の不備と妨害電波さえ持った
英国軍の技術の高さであった。つまりモノンハンの時の様には、人海戦術や精神論では
どうにもならない事情や事象であった。

1238: 名無しさんAA:18/08/19 01:23 ID:iPk
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  284 >

 インパール作戦の失敗は、良くも悪くもこの佐藤高徳がビルマに来た事にある。佐藤
は「いいとこのお坊ちゃん」だった。山形県に生まれた佐藤は、鶴岡中学校(現山形県
立鶴岡南高等学校)から仙台陸軍幼年学校を経て、陸軍士官学校卒業した。さらに1921
年(大正10年)に陸軍大学校を卒業。陸軍参謀本部勤務や部隊勤務などを経た。鶴岡神
宮いわゆる鶴岡八幡は、近くの豪商の寄付で建てられた通常の藩主の寄贈と違っていた
。それが可能だったのが米の醸造、則ち酒造会社の運営だった。戦国時代画期的な経済
の一部として江戸時代に繁栄を謳歌した。本宮鎌倉の鶴岡八幡は康平6年(1063)の源
頼義が奥州を平定して鎌倉に帰り、源氏の氏神として出陣に際して、ご加護を祈願した
京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜辺にお祀りしたのが始まりとされている。その後、源氏
再興の旗上げをした源頼朝公は、治承4年(1180)鎌倉に入るや直ちに御神意を伺って
由比ヶ浜辺の八幡宮を現在の地にお遷しし、 建久2年(1191)には鎌倉幕府の宗社にふ
さわしく上下両宮の現在の姿に整え、鎌倉の町づくりの中心とした。つまり鶴岡八幡は
征服王朝の大和朝廷の足跡の記録だった。中央集権の体制ができると、この地の租税の
対象となり米を船で都に運ばれる。しかし鎌倉時代からこの地を都にする地方豪族によ
って鎌倉や江戸以上に京都の風情となった。寒さがそうさせたと言える。海産物が宝庫
のこの地は例え重税でも米は取れない事は大前提で、余米の出荷は隠れて市場に送った
。しかし豊作では安くなり不作ではどうしようも無かった。その為納豆や酒などが発展
した経済を持ち江戸期には大いに栄えたのである。佐藤は1930年(昭和5年)から2年間
を陸軍参謀本部の戦史課で過ごす。この戦史課勤務時代に、小磯國昭や東條英機などの
統制派に属する人物と多く交際して行き、橋本欣五郎とともに桜会の規約作成にも関与
した。この時の交際が、階級の上下などにこだわらない佐藤の性格形成にも関係した。
いわゆるフランクなお調子者であった。と言われ、桜会集会の経費も彼がもった。他が
うらやむ金満家だったのだ。しかし佐藤にすれば蔵元や船持ち漁師など、持ってる者が
持たざる者を救う事は、郷土の民是だったのである。しかし、桜会の活動を巡っては、
同じく参謀本部の総務課長だった牟田口廉也(皇道派)と激しい喧嘩となったことがあ
り、このいさかいが後のインパール作戦での抗命事件の一因となった。皇道派による二
・二六事件の際には、統制派の佐藤は第6師団参謀として断固鎮圧を主張した。張鼓峰
事件では歩兵第75連隊長として参戦して、部隊の損害が5割に達した。停戦まで陣地を
守りぬき、その大胆不敵な戦闘指揮ぶりに、剛将として名を轟かせた。


1239: 名無しさんAA:18/08/19 01:24
 インパール作戦は当初より第15軍司令部内部でも無謀さが指摘されていた。佐藤も
作戦前から第15軍の会議にて補給の困難を主張していた。佐藤は、第15軍司令部には
作戦中の補給量の確約を求めるほどの危惧があった。佐藤は、部下の師団の将校を集め
て、「諸君の大半はアラカン山中で餓死するだろう」と訓示していたほどだ。しかし、
牟田口廉也中将も又佐藤以上に危惧があった。日々英軍が迫って来ている兆候が見て取
れ、今や食糧自給で村を維持する段階を過ぎていた。ここ3ヶ月の間に、隠れた飛行場
がコヒマに建設されようとしていたのが確認され、これで英国の拠点創りが7ヶ所目と
言うインド人の報告であった。このままではやられる街造りの速さが日本軍に比べ十倍
も百倍も違っている。と感じていたのである。佐藤幸徳中将(第31師団長)は土門周平
によるとインパール作戦時に、上司の牟田口中将とだけでなく、第33歩兵団長である
宮崎繁三郎少将とも折り合いが良くなかった。それどころか部下の31師団の兵員から
も全く好かれていなかった。嫌われる程ではなかったが、誰も相手しようとはしなかっ
たのでれある。宮崎には、この佐藤がおべんちゃらをいい、食糧が十分でない前線部隊
にまで慰安所を設けようとしたことや、宴席で率先して猥談をしたこと、公然とインパ
ール作戦の失敗を予言していたこと、他がテント暮らしの兵士を尻目に佐藤用の数寄屋
造の豪華な師団長宿舎を造らせていたことなどを不快に感じていたのである。これは、
宮崎に限った事ではなく、この部隊の中で浮いていている事を佐藤はひしひしと感じて
いた。1944年(昭和19年)のインパール作戦前に、第31師団(通称号:烈)の師団長と
して参加したが。この時、上司の第15軍司令官には、前述のように参謀本部時代に因縁
のある牟田口廉也中将が就いていたのは当然参謀本部の仕組んだ事だった。烈の部隊名
はもともと佐藤がなる前から猛者揃いであった為に付けられた名である。九州人や東北
の田舎の者が多く学よりも力を持って制圧する事に長けていた。佐藤は述懐において、
「俺は東條首相に受けが悪くてね、張鼓峰事件の時も連隊長として派遣され、今度も又
一番悪いところへやらされたよ」と言っていたと言う。そもこの男は戦争を見る視点が
一般の日本人の様な視点を持ってなかった。だがこの佐藤が軍団で嫌われているが、軍
団も又東京の参謀本部から嫌われていた。余りにも戦果が華々しかったし、所帯が大き
く兵站の食糧さえ供給に苦慮していたからだ。その軍部も日本の皇室国会には煙たい物
で、常に責任の無い見通しのつかない嘘の方向や報告に終始していて居たからだ。その
国会や皇室も国際社会では疎んじられた。というのも真面目に植民地政策を批判して、
アジア共栄圏を求めていて、欧米列強の搾取する領土拡張政策とかち合って居たからだ
。小さなぽっと出の島国が全く真面目に正義ぶった巨大帝国である事が気にくわなかっ
たのである。

1240: 名無しさんAA:18/08/19 05:45
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  286 >

 本来は佐藤の役割は、師団の状況把握に努め、数寄屋の家よりは牟田口の政策に助言
をし、成功させる情報を得る事だった。ここで、牟田口は英国軍が日本軍の領域を調べ
コヒマ領域を英国が拠点を置く前に叩く事を主眼とした。時間的制約があった。それに
対して佐藤はここまでのタイ方向からの進軍に兵は疲れていて、拠点を置きじっくりこ
れから戦う覚悟で 集落さえも作って生活し原住民を味方にする事が大事と考えていた
節がある。しかし、この31師団どころか第15軍司令あるいはビルマ方面軍そのもの
が既に孤立する淵にいて食糧や弾薬の供給が滞っていたし、そうした時間はなかった。
というのも、日本国政府そのものが時間がなかった。ミリ油田やチェンバレン油田から
の石油の本国輸送に 民間も軍船も強制接収し輸送していながら、それらは次々と撃沈
されていたのだ。民間船団は既に無防備での航海は出来ない中で、日本の船の半分は叩
かれ、叩かれた分英国タンカーなどを捕獲改造してしのいでいた。勿論この米英の攻撃
は条約違反であった国際法にも違反していた。しかしドイツのUボート攻撃に対抗する
ように、民間船への無差別攻撃は既に始まっていた。モノハン事件の反省からソ連部隊
が圧倒的戦車を作った事。ハワイ攻撃から米国内に一般国民のオートメーション工場で
軍需発注兵器が大手を振って作れる様になった事。この二つは大きな事件だった。こう
してインパール作戦は悲惨な末路を迎えた。第31師団の第十五軍高級参謀の木下秀明
大佐は、退却して来た31師団参謀長加藤国治大佐と面会した時、回想録で次のように
記している。「その晩、佐藤師団長罷免の軍命があったので、朝これを加藤参謀長に告
げたところ、加藤大佐は、今は上官ではないから事の真相を話そう。といって、師団長
の態度及び処置について一切を詳しく私に打ち明けて、統帥上、軍紀上、軍律上の痛憤
止まる所を知らないと、真に憤慨した。」と書く。事実@31師団主力の独断撤退により
インパール作戦の失敗は確定した。A佐藤幸徳中将は指揮下の宮崎支隊(第31師団歩兵
団長=宮崎繁三郎少将)を前線のコヒマに残したまま、宮崎少将にほぼ無通告で転進し
、B31師団主力は、コヒマ攻略中の宮崎支隊に対する協力に消極的だった。C31師団の
転進と宮崎支隊のコヒマ前線の壊滅によって、コヒマの南のインパール周辺での戦闘中
の15師団主力の無防備な側面がイギリス軍の攻撃にさらされ数多くの戦死者となった
。これは31師団の転進が15師団の壊滅の原因となった。この命令違反して撤退した
という事実に対して、牟田口廉也中将の補給計画と作戦指揮に問題があったのだ。と主
張したが、どのような正当な理由があろうと命令違反であることは事実で、撤退後に言
う事ではない。と言い放った。

1241: 名無しさんAA:18/08/19 05:46
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  287 >

「インパール作戦」に関わりのある陸軍軍人(昭和19年時点)を見ればそこに経験の差
がかなりある事がわかる。
・ 寺内 寿一 65歳 陸士11 陸大21 山 口 南方軍司令官
・ 杉山  元 66歳 陸士12 陸大22 福 岡 参謀本部総長
・ 東條 英機 66歳 陸士17 陸大27 東 京 総理大臣
・ 河辺 正三 58歳 陸士19 陸大27 富 山 ビルマ方面軍司令官 陸大・優等
・ 飯田祥二郎 56歳 陸士20 陸大27 山 口 第15軍司令官
・ 牟田口廉也 56歳 陸士22 陸大29 佐 賀 第15軍司令官 昭和18年03月より
・ 佐藤 幸徳 51歳 陸士25 陸大33 山 形 第15軍第31師団長
・ 田中 新一 49歳 陸士25 陸大35 北海道 第33軍第18師団長
・ 山内 正文 53歳 陸士25 陸大36 滋 賀 第15軍第15師団長
・ 柳田 元三 51歳 陸士26 陸大34 長 野 第15軍第33師団長 陸大・優等
・ 中 永太郎 51歳 陸士26 陸大36 北海道 ビルマ方面軍参謀長
・ 田副  登 51歳 陸士26 陸大36 熊 本 第5飛行師団長
・ 綾部 橘樹 50歳 陸士27 陸大36 大 分 南方軍参謀副長 陸大・首席
・ 稲田 正純 48歳 陸士29 陸大37 鳥 取 南方軍参謀副長 陸大・優等
・ 片倉  衷 46歳 陸士31 陸大40 宮 城 ビルマ方面軍作戦課長
・ 真田穣一郎 47歳 陸士31 陸大39 北海道 参謀本部第一部長
・ 小畑 信良 47歳 陸士30 陸大36 大 阪 第15軍参謀長
軍人の名の次は、昭和19年時点の年齢、陸士、陸大、出身地、当時の所属順だが、牟田
口以下は全員が若い陸大の30期以上の者達であり牟田口が29期で丁度中間世代であ
る。56歳で以下佐藤以下は51歳となっている。ここに苦悩がある。戦況は苦しくて
補給が途絶した状況で、上長の第15軍(司令官=牟田口廉也中将)の命令に反しての
独断撤退をした師団長だったが、彼と同じ想いが15軍にあって、糧を繋いで生きて戦
う意味に於いて、既に御国の為とか天皇万歳などと言うのは飾りだったのである。その
上に、牟田口の危機感である、東京の参謀本部すら命令の出せない勝つ為の秘策を打つ
事の意義が、彼らには理解が出来ないでいたのである。これが第二次世界大戦の大きな
日本の敗戦の理由である。ある程度文化的に教育を受けた者に欧米の奴隷制度が見えず
アメリカからの風の便りや朝鮮半島や中国大陸の暮らしぶりが聞こえる中で日本人には
上層部や外交や大本営のような危機感は既に無くなっていていたのだ。政治家すらも。

1242: 名無しさんAA:18/08/19 05:47
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  288   >

しかし、牟田口の命令を聞かない者、つまり河辺正三ビルマ方面軍を襲っていた不穏な
空気で我の仕事をしなかったのは何も佐藤のみの話ではなかった。第33師団の師団長
だった柳田元三は、古くから合理主義者で、旧友からも穿った見方で嫌われ者だった。
陸軍大学在学当時から合理主義的発想を好むタイプとして知られていて、空虚な精神論
を侮蔑していた。戦争の勝負は兵力であり機械の多さである持論は曲げなかった。又、
第15師団長の山内正文は、山本五十六と同じに昭和初年代にアメリカの陸大に留学を
命じられ、そこを最優秀の成績で卒業している。優秀さだった。昭和10年代のアメリ
カでの駐在武官をつとめていて、アメリカ軍の事情にも精通していた彼は、アメリカの
技術力も経済力も巨大な軍事力も総じて知っていた。その為山内も又機械力工業力の無
い貧相な兵力に、精神論を持ってきて打ち勝つと言う演説をぶちかます牟田口のような
タイプを軽侮していたのである。その上で第30師団長の佐藤幸徳が言う、インパール
作戦そのものに不信感をもった言葉や、自分の師団に兵站の保証を求める姿に牟田口は
疫壁していたのである。補給も十分でない状態で兵士を戦線に送りだすことはできない
と、主張していたが、牟田口に言わせれば何処の戦場でも現場調達が当然で甘ったれる
な。と言う事であって言葉が無かった。こうして、どうすればインパール作戦が成功す
るか。と言うテーブルにつかないままに、上意下達のままトップダウン式で自分達で考
えて行動せよ方式で、まかり通してビルマ戦線の前線にでたのである。牟田口には三人
の師団長がよほど煙たかったのだろう。各月に各師団に作戦計画を示達するときに、三
人の師団長を第十五軍司令部に呼ばずに参謀長や作戦参謀だけを呼んで命令を下してい
た。三人は打ち合わせをしていた訳ではなかったが、こうした事がともに牟田口に対し
て反感を強くした理由にもなっていた。が、もともとこのビルマの奥地の前線が苦しい
中にあって、苦しいから何もしない。と言う主張は通るはずもなかったのだ。牟田口に
は、この日米決戦に勝つと言う強い意志の無い、言わば大学進学後の中央司令官候補の
点数稼ぎに、そこいらの社会奉仕や現場研修の様な軽い意志で戦場に来ていた彼らが、
数千数万の兵士の命を預かっている事が不思議な事だった。これが作戦開始後に抗命、
罷免、更迭といった事態を生むことになった。この三人の師団長と牟田口の対立の構図
は、昭和陸軍の根本的な問題を露出していた。それは精神論と合理主義的分析の対立と
いう側面と、高級指揮官がひとたび理知や知性を失ったらどうなるかを示すケースとも
いえたし、これまでの将位にある者へ特権を与えた老害でもあった。


1243: 名無しさんAA:18/08/19 05:48
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  289   >
 牟田口を擁護する気にはならないものの、昭和18年の後半で、戦争への懐疑は徐々
に醸成されていた。大正デモクラシーで起こった生命尊重や唯物主義や先進技術の多用
で育った三人の師団長が、仮に15軍のビルマ侵攻の司令官であっても「作戦遂行」に
はならなかっただろう、中途半端な人権尊重はもっと酷い結果を産んだであろう。この
ビルマ軍・南方軍は、既に英米の包囲網の中心にいたからだ。もともとこの英軍の包囲
網が無ければ、援蒋ルート叩きもビルマ交戦もする理由は無かったのである。ここに、
「一発逆転」「急所をつく」「楔を放つ」の発想は、何も牟田口の動機だけでは無かっ
た。「失敗の本質」に出てくる言葉の「不測の事態」のこれは、この中国戦線でも太平
洋戦争のみならず日露戦争以降の日本の外交も何もかもが、この「不慮の事態」だった
。こうした事を全く考慮に入れなかった大日本帝国は致命的ミスばかりだった。が、そ
もそもそうした予測さえ不可能だったのかもしれない。明治以降暗中模索で日本は国際
社会に船出していたのだから成功したうちかもしれない。そも日清戦争で朝鮮半島を手
に入れ乍らも更に戻して日露戦争になった事も、「不測の事態」だし、その後に朝鮮半
島に日韓併合で莫大な建国資金を投入せざるを得なくなった事も「不慮の事態」だった
。ノモンハンに於いて広大な領土を持つソ連が遊牧民族の通行に際した小さな境界争い
に大量の最新兵器を持って日本軍に押し寄せ来ることも全く「想定外」の出来事だった
し、いつの間にか蒋介石政権と毛沢東の共産思想が合致して盧溝橋事件をおこして国内
にわざわざ紛争を起こす事も、考えられない現象だった。そして今そうした中国支援に
ビルマの山越しに支援物資を送り、日本のあらゆる輸入を止めて戦争に持ち込む欧米列
強の姿も全く理解の外にあった。よく、帰還を果たした一兵の証言が悲惨だった。一体
何の為に戦ったのか。戦争は絶対行う物ではない。と言う。戦争はあってはならない。
と訴える。しかし、この訴えそもそもが間違いである。戦争があるから戦争しない為に
人は学び日本人は、国は賢くならねばならない。と訴えるべきなのだ。圧倒的なアメリ
カの巨大な「物力」は太平洋戦線の緒戦から解っていた。当初は非力だったイギリス軍
に勝利したコタバル上陸やシンガポール陥落は、実は戦果では無い事を大本営は知って
いた。終始念頭にあったのは石油供給のみだったと言える。当初昭和17年の「マレー
半島攻略」があまりに簡単に成し遂げられた事で陸軍は有頂天だった。情報将校の新庄
健吉は日米開戦前に、「数字はウソをつかないが“ウソが数字”を作る」と開戦を警告
し、敗戦懸念を主張した。統計的予想で既に日本は戦争し衰退する事が公然と判明して
いたのである。昭和16年春「若手官僚の模擬内閣」が示した通りに推移し連合国が、物
理的に勝れば、時間の問題であったのである。

1244: 名無しさんAA:18/08/19 05:49
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  290   >

 戦争の理由には色々の理由があったし原因もあったのだろう。又負けた原因も同じ様
に沢山あったのだろう。それまで日本の兵士達は事大主義(じだいしゅぎ)が大手を振
って、世流に付き従う事で良いとされていた。が、大正デモクラシーはその風潮によっ
てだ強い勢力に付き従うという言ったものが壊れた時代だった。又明治気風が、一言で
いえば寡黙である事を人間性の美徳とした文化を持っていた事も禍いとなっていた。こ
こに妙な軍国主義が入って来たのである。この軍国主義はこれまで明治政府が持ってい
た五行則の敬老子尊を無くしてしまったのである。万世一系の言葉の下で天皇には逆ら
わない風土が出来た。それまで政府やお役人まで尊敬し敬う物とはされたが、現人神(
あらひとがみ)であり祀り上げた人で生活には何ら関係がなかったのだ。それが急に、
全員に国税が敷かれ、総動員令によって徴役が敷かれたのである。小作人や農奴のよう
な関係ない人の苦役や徴兵工が施工された。こうして志望しないで赤紙による兵役につ
いてしまうと、部下になれば上官の命令は絶対だったのだ。上官の命令は天皇の命令で
あり。上官の考えに疑問があっても、逆らう言葉は閉ざされてしまったのである。例え
一兵卒でなく上級将校でも上官の命令は絶対服従になった。これまでの志願兵は志願し
兵となり、兵を降りれば退役軍人であり自由であった。つまり逆に罰則として予備役(
よびえき)があり、一般社会で生活している軍隊在籍者の、軍隊就役が無くなった人を
示していた。しかし有事の際や訓練の時のみ軍隊に戻る事で在郷軍人とも呼ばれ程で、
ほとんどすべての陸海空の軍隊に存在し、自由な一般人になり生活が出来た。だが戦争
となれば予備役は存在しない。予備役で構成される在郷軍人会はそのまま予備役の兵で
編成された軍隊である予備軍として、この時には前線に投入されたからだ。日露戦争時
の乃木将軍の物語などでは、かなりラフに上司部下は話をしている。つまり明治の頃の
方が封建体制を取らず自由行動が多かったし全体会議も多かったと言える。しかし時代
を越えて、この頃は緻密な作戦と周到な準備を具申すれば「弱腰」とされ、頭ごなしに
口を封じられたという。一言で終り話が連絡と命令であり尊厳や相手に対した尊重は消
えていた。日本軍の特徴は、「言葉を奪った」事でありそこに敗戦があった。日本軍が
同胞に犯した罪悪の最も大きなものが序列であり徹底した封殺だった。これがあらゆる
諸悪の根元であった。何かの失敗があって「違います、それは私ではありません」とい
う事実を口にした瞬間、「言いわけするな」の言葉とともに、その三倍、四倍のリンチ
が加えられる。黙って一回撲られた方が楽だったと言う程の馬鹿な体制に変わっていた

1245: 名無しさんAA:18/08/19 16:31

一下級将校の見た帝国陸軍の山本の指摘は正鵠を射ていた。上官の命令は「天皇の命令
」であり絶対だった。上官の考えに疑問があっても逆らう言葉は閉ざされていたのであ
る。一兵卒でなく上級将校でも上官の命令は絶対だった。「緻密な作戦と周到な準備」
を具申すれば「弱腰」とされ口を封じられた。だが山下や牟田口などはそうした智慧を
求めていた。実は集団とは常にこの矛盾の事に悩んでいた。つまり集団としての実行力
である。作戦の企画力に於ける力は個々の能力である上に情報の集約にある。そしてそ
の審査力こそはこの合議にあったが、それが集団の力のはずだった。それを封印して戦
ったのに勝つ筈はなかった。その上さらに行動力や実行力となれば、その指導力と言う
事になるが理解のない反感の兵士にあろう筈もなかった。この問題を持ったまま牟田口
は悩んでいた。どうやって勝つか食糧を確保するか。と、実はチェンバレンの油田探索
には200人部隊が3班出て居た。これらは共に象を連れてジャングルを進んだ。途中
には毒が流された川やマラリアや苦難は多かったが、殆どは全滅した。象は最終的には
食糧になった。そうして目的地に向かった8000人から辿り着いたのは6人だった。
こうした教訓からジンギスカン作戦が出来た。昭和19年1月に「インパール作戦」が
正式に発令された頃、第15軍下の3個師団は急ぎその準備を進めた。いちばん険しい
北側のルートを進むことになっていた第31師団は、補給のための自動車道路の開設と
、物資の集積に懸命だったと言われる。つまり高射砲や軽戦車を入れる準備をしていた
のだ。更に、五千頭もの牛の訓練に追われていた。牟田口司令官は、現地の農民から、
軍票で一万頭以上の牛や羊を調達せよという命令を出して集めていた。それらの動物に
物資を運搬させ、目的地に着いたのちは食糧にしようという計画で「ジンギスカン作戦
」と自画自賛した。だが、この牛の群が、逆にイギリス軍に作戦を察知される要因にも
なったと言う。しかし動きがあったとしても日本軍が何をしようとしているかは察知は
出来なかった。この牛の移動は実は大きな誤算が生じた。家畜の牛は映像で見ても痩せ
ているのが解るが、この牛はチンドウィン川という大河を渡れなかった。大半は流され
て水死し、それを捌いて直ぐに食糧となり、兵士の持つ食糧は重荷になったのだ。さら
にジャングルや急峻な杣道では兵士は、この牛の食べる食糧を調達できず毒草によって
次々と倒れていった。またこの多数の家畜の移動がイギリス軍の格好の標的にもなった
。爆撃に晒された家畜は荷物を持ったまま逃げ惑ったため、多くの補給物資が散逸した
のは想像できたことである。こうして牟田口が自画自賛した「ジンギスカン作戦」は、
すぐ頓挫し半分も行かぬうちに脱落・破綻した。しかし原因は兵員達の若さの無知にあ
った。

1246: 名無しさんAA:18/08/19 16:36
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  292   >

 しかしこうした物資の不足から補給・増援が約束されないまま、昭和19年3月8日、
第15軍3個師団を主力とする日本軍は(8〜10万人とされる)予定通りインパール攻
略作戦を開始した。日本軍は3方向よりインパールを目指すことになった。だが作戦は
本来の行軍のゆっくり進む事が許されなかった。毒草の見分けも飼料係に連絡が行き届
けば問題のない物だったがそうした連絡網と整えて居なかった。又本来知らない土地は
案内が必要で地域の種族を仲間にしながら行軍すれは良かったのであるが、それもしな
かった。そうした余裕が日本陸軍にはなかったのである。さらに急峻な地形では重砲な
どの運搬を困難にした。映像ではトラックを解体して、兵員が分散して担いでの行軍す
る驚いた行為をしている。これでは戦う前に移動そのものに兵士の体力が消耗する。負
けて当然と言っても過言でない。こうして各師団とも前線に展開した頃には戦闘力を既
に消耗していたのだ。1000キロになんなんとする山河を一人の兵隊が40〜50キロの荷物
を背負って越えて行くのは今では信じられない行為だろう。陸軍大学の教育では「歩兵
・砲兵」を主力とする指揮官の育成が主流で重用され、情報・兵站の地味な部門は軽視
されていた。これは昭和史の様々な事に共通する。「三週間の行軍」はまるでそれを隠
すかのようでもあった。「当時の兵隊の定食は、一食2合、一日6合だった。その3週
間分というと、だいたい重さ18キロぐらい。それに調味料や副食もありました。それか
ら小銃弾240発、手榴弾6発、着替え、鉄帽、穴を掘るための円匙(シャベル)、天
幕、雑嚢(布製カバン)、雨外套、防毒面、水筒など全部で40キロ程度だ。とくに軽
機関銃のような弾をたくさん発射する火器を持った者は、弾丸をよけい持たなければな
らず、一人50キロぐらい背負って歩いていた。それで、休憩になると、兵隊は全部、
上を向いて引っくり返るが、その後自分一人では起き上がれなくなってしまう。前で手
を引っ張ってもらい行軍していた。これで2000メートルからの山を、いくつも登ったり
降りたりして戦争しに行ったのである。」「では、作戦が頓挫したときは、食糧はどう
するのか。軍では、ジャングルに生えている野草を食べる研究を、大真面目で行なって
いた。牟田口司令官は、兵士たちに次のように訓示した。「日本人はもともと草食動物
なのである。これだけ青い山を周囲に抱えながら、食料に困るなどというのは、ありえ
ないことだ。」と訓示した。しかし知識のない雑草は食えない。現に牛は毒草で死んで
しまったのである。上司の牟田口中将は佐藤幸徳中将とは不仲で作戦そのものにも反対
の立場だった。作戦指揮は終始消極的だった、という評価をし、牟田口中将の作戦構想
も指揮能力にもたしかに問題があったが、佐藤幸徳中将にも大きな問題があったのだ。

1247: 名無しさんAA:18/08/19 16:37
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  293   >  

 昭和史の専門家ならとっくに承知の話だが、こうして序列と年代違いは大きな壁だっ
た。いわゆるジェネ―ションギャップである。世代壁は米英帝国でも日本でも中国でも
起こっている。実は日本が国を開国した時にうまく国際社会に乗り出せたのは、その壁
が低かったからであった。明治時代の大きな要素は江戸時代が残って居た事にある。こ
の江戸時代に起こった文化は命を大切にした文化だった。例えば税が高くて米屋が襲撃
になる。と言う事件は多発した。百姓一揆も同じに多発した。しかしそこで起こった事
は、例えば米倉は打ち壊されて盗まれても、その庄屋や米屋は殺される事はなかった。
桜田門の変が起こる前安政の大獄事件が起こるが、捕まったのは300人にも及んだが
それでも死罪や罪人として処遇になったのは1人である。他は一週間若しくは一ケ月位
の投獄であってその他に百叩きなどの刑など行ってはいない。食事付の謹慎なのだ。そ
うした風習は藩主や家老の処罰も同じで蟄居閉門が恐ろしい処罰であったのだ。これは
その後日本の「恥の文化」として研究されたが、勇ましく交戦に及ぶが鉄砲から刀文化
に戻った唯一の国と言う側面がそこに見て取れる。世代間格差に於いても多くの長老は
若い者に道を開く事を念頭に置いていた。赤ちゃんに未来を託す為に最大の事をして生
きる事が日本人の文化だったのだ。徳川慶喜が大政奉還し江戸城を無血開城したのは、
その意識の下で育っていたからだ。後輩に道を譲る。老人は敬われるのみで良い。それ
が日本文化だったのである。だが西郷隆盛は異国文化を肌身を持って知っていた。多分
鹿児島から島流しの折に琉球王朝や中国人などの悲惨さ卑怯さを知っていたのだろう。
世界大戦において、「第一次世界大戦」が1918年・大正7年に終了しているがその後に
兵士になった者とそれ以前の者の差は大きかった。「陸軍大学」卒業の「30期生」は、
もののみごとに牟田口廉也と佐藤幸徳を分けている。つまり単純に考察すれば佐藤幸徳
以後は「近代戦争」を学び、熟知しなくても、その感覚を知り育った若者だったと言え
る。ヨーロッパでは「20世紀の戦争」と言えば、「第一次世界大戦」で第二次世界大戦
ではない。つまり近代戦争は唯一第二次世界大戦で、モノンハン事件の初期と後期は、
ものの見事に変わっていたのである。第二次世界大戦では、ドイツでもフランスでも、
数百万人の単位で若者が大動員されて戦死している。佐藤幸徳から小畑信良まで、イン
パール作戦が下達される頃、部下に居たのは大人として陸軍軍人として分別があった者
と思う。その為情報が乏しくても一般人よりは遥かに、近代戦争の残酷さを判っていた
筈である。それ以前の軍人は逆に「日露戦争」の薄氷の勝利、すなわち「白兵・突撃」
の精神世界から脱却できなかった。この盲人無知の世界が戦争の時代だった。

1248: 名無しさんAA:18/08/19 16:39
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  294   >

 インパール作戦の「惨状」は細部にわたって記述するのも憚れるほど悲惨だったろう
。ただその頃の常識は、中国大陸を含めた文化や風習があった。昭和40年代に著わさ
れた「日本の歴史」のなかで「太平洋戦争」に指摘されて様に、日本はある意味戦争の
近代化に遅れを取った事がこの悲惨さを産んだのである。戦後20数年しか経ていない
時点で書かれた一般人からの視点があり、牟田口廉也が昭和41年まで生きていた事を考
えば1970年代まで戦前の匂いがあったと言えよう。既に当時に、陸軍の一部では、
例えば第五飛行師団長・田副登中将は“戦闘機”の重要性を説いていた。イギリス空挺
部隊の降下は、極めて合理的で強力だった。牟田口には「空中補給」を理解できなかっ
たの訳ではなかった。理解していなかったのはこのミャンマーの地理的要因だった。こ
こにそびえる千〜3千m級の山々が、渓谷、ジャングル、雪山に思いが及ばなかった。
日本の富士山の山頂付近やアルプス山脈などに木が生えず雑草さえも繁らない(ほこら
ない)草木の植生や雨季の大雨の川の状態などがイギリス人の様には知見が伴わず戦い
に挑んでいたのである。インパール作戦とは、更に個人的考察すれば既に負けていた日
本の空威張りの戦争の「成れの果て」だった。物理・科学・社会・地理に思いが至らな
い古い軍人の知識の無い「精神論・運命論」に終始した結果である。6万人の死者は、
哀れだと形容するしかないが中国を治められなかった結果と欧米を納得させ得なかった
結果であった。牟田口は戦線の実情を知ってか知らずか、最前線の佐藤の補給の連絡を
無視、戦闘の督促の電報しか出さなかった。物資が欠乏した各師団は、補給が来るのを
信用したのは当然だろう。だが事実上実情からも補給は出来ないに等しいものであった
。戦争行為は3週間と決めてあった。ここにもボタンの掛け違えがあった。3週間は敵
の食糧基地を奪うまでの期間のメドだった筈が、コヒマが戦略基地で食料庫が無かった
のである。ここで師団長達は食料の現地調達原則を既に忘れていたのである。牟田口も
敢えてそうした指導や言葉は使わなかった上に標高差で食料が無くなっている事をそう
そう気にしてなかった。しかし現地では4月に入ると、食糧は尽きて、輸送部隊の所に
さえ来なくなっていた。輸送に使っていた馬の馬糧が尽き、馬はガリガリに痩せ衰えて
いたのだ。山砲の弾薬の搬送も人間が行なうようになり、大砲の重い弾を一人2発を背
負って、山道を前線まで歩いていたのだ。そんなやり方では、前線での激しい戦闘に、
弾薬が間に合うはずはなかった。そのうち傷病兵が続出し、それらの兵士を担架で後方
の野戦病院へ運ぶ作業に追われるようになった。この山道での担送はつらい仕事だった
。やがて担ぎ手の兵隊も疲弊し、バタバタと病いに倒れていった。

1249: 名無しさんAA:18/08/19 16:39
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  295   >

 インパール作戦(インパールさくせん)は日本側の正式作戦名ではウ号作戦(ウごう
さくせん)と言う。1944年(昭和19年)3月に日本陸軍により開始され7月初旬まで継続
され、援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指し
たビルマ攻略作戦の中の大枠であった。作戦に参加した殆どの日本兵が死亡した。補給
線を軽視した杜撰(ずさん)な作戦に、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫し、無謀な
作戦の代名詞として呼ばれこの敗北から日本が敗けて行った為史上最悪の作戦などとも
呼ばれた。この作戦の司令部は、「メイミョウ」にあった、戦地インパールとは300
キロ以上も離れていた。それも高い山の山間部である。素朴な個人の感想として、東京
にいてアルプスの山村の長野や岐阜での戦争を指令しているようなものだったと言える
。戦争の一つの作戦に勝利しようとするなら、司令官はその最前線に立つべきではない
のか、などと思う。真珠湾攻撃でも南雲に任せて山本五十六は大阪の石油メジャーとの
話し合いをしていた。ここでも牟田口は、日本で云えば避暑地・軽井沢のようなメイミ
ョウでひたすら叱咤激励、神頼みするだけだった。これはこの頃の日本人の陥った特性
なのかも知れない。もし慎重に情報を探り的確に敵の食糧源まで辿りついていたらこう
はなって居なかったろう。単にこの戦争の勝敗を決めたのは補給力の差でしかなく、他
に理由は無かった。弾も食糧も尽きた日本軍将兵の状況は、いよいよ限界に近づいてい
た。第31師団の佐藤幸徳師団長は、5月25日、第15軍の司令部に電報を打った。
「師団は今や糧絶え山砲及び歩兵重火器弾薬も悉く消耗するに至れるを以て、遅くも6
月1日迄には「コヒマ」を撤退し補給を受け得る地点迄移動せんとす。」軍司令部では
、驚いて対策を協議したが、とにかく佐藤師団長の翻意を促すことにして、返電した。
「貴師団が補給の困難を理由に『コヒマ』を放棄せんとするは諒解に苦しむところなり
。尚10日間現態勢を確保されたし。然らば軍は『インパール』を攻略し軍主力を以て
貴兵団に増援し、今日迄の貴師団の戦功に酬いる所存なり。断じて行えば鬼神も避く」
とこの時もディマプールまで進撃せよとの命令を行っていない。又佐藤幸徳もディマプ
ールはインド師団の役割として気にもかけて居ない。牟田口も又何ら知らなかった様だ
。ここに奇妙さがある。第31師団が一時的に占領に成功した要所・コヒマを巡る戦闘
に参加した。日本軍の侵攻が続き、コヒマやインパールの北方に位置する拠点・ディマ
プールを奪われることを英軍は強く警戒していた。英軍のコヒマ奪還に向けてジャング
ルの中では死闘が繰り広げられた。。

1250: 名無しさんAA:18/08/19 16:40
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  296   >
日本軍はインド人で構成される「インド国民軍」と共闘しており、英軍は、作戦での
敗退によって、インドの独立運動が勢いづくことを恐れてもいた。コヒマに入ってから
は、両軍の兵力差が如実に表れた。英軍が5000発ほどの砲弾を撃っても、日本軍の
反撃はわずか1、2発にとどまる日もあった。英軍は食料や弾薬を飛行機からのパラシ
ュートで補給していたが、日本軍には補給がなかった。それを見た英国兵士は「日本に
勝てる」と確信していった。実は日本がこの時戦ったのは英軍ではあったが英兵ではな
かったとされる。最強戦士とされるグルカの民だった。グルカの民はネパールからの傭
兵でヒマラヤの鬼神ベンガルの虎と称される。事実今でも世界中を守っているのは金で
雇われた彼らが米英の入口に門番として常駐しているからである。その起源は古くイス
ラム教がインドにはいり得なかったのは彼らと戦ったからだとされる。19世紀になって
、ネパールとイギリス東インド会社軍との2度にわたる戦争(英・ネパール戦争)では
2度とも英国は勝てなかった。停戦条約が締結されると、英国はこのネパール山岳民族
特有の尚武の気性と白兵戦能力や、宗教的な制約が小さい点で彼らを起用した。一般的
に、ネパールのグルカ族出身者で構成される山岳戦・白兵戦に非常にたけた戦闘集団と
されるがグルカランドとされる部分の民族で、実際にはグルカ族なる民族は存在せず、
マガール族、グルン族、ライ族、リンブー族などの複数のネパール山岳の複数の民族か
ら構成されている。その戦闘能力の高さから、今でも世界最強の戦闘民族として認知さ
れている。よく登山家かシェルパなる道具や荷物運びを雇うが、彼らこそこのグルカの
民で常に道なき道の山岳を登り降りを小さい頃からやっていて、足腰は強く山の事情に
も詳しく食糧や水などを調達し他国の民と会話が出来る器用な民だった。彼らはインド
独立も関係なく生きて居た。既に一世紀以上も英国は付き合いがあり、如何に精神論を
ぶっても日本が適う相手では無かったのである。つまり英国は物資補給のみで既にこの
地を押さえていた。と言うのが正確な状況だったのである。インド開放を名目に大日本
帝国陸軍はインドへと侵攻し、後に「無理、無茶、無謀」の史上最悪の作戦のインパー
ル作戦が開始されたが、作戦そのものは妥当であったのだろが、元より勝算はゼロに等
しいものだった。制空権も制海権も無く補給線も無いそうした作戦の為に日本軍10万
とインド国民軍4万5千が投入された。第二次世界大戦の日本自体と同じに要は計画性
皆無の戦争だったのだ。それでも兵士となった帝国軍と国民軍は果て無きジャングルを
切り開き、山を越え川を渡りインパールへと肉薄した。ここで初めて世界にグルカ兵の
戦果が、後に彼らの名を知らしめる事となった。日本も米英もいや英国すらも一部しか
このグルカ兵の真実を知らなかったのである。

1251: 名無しさんAA:18/08/19 16:40
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  297   >

 東インド会社が民兵として送り込んだグルカ兵は、殊作戦部隊として投入された。こ
の時正規兵とはならなかったグルカ兵はゲリラ作戦を展開して、主力であるイギリス軍
及びインド軍をサポートする役目を担った。最前線のジャングルに展開したグルカ兵は
破壊工作を次々と実行した。奇襲や陽動を繰り返し、確実に日本軍を追い詰めていった
。主力であるイギリス軍が苦戦する中、唯一戦果を挙げ続けるグルカ兵の名前は日本軍
に恐れられた。実際、グルカ兵の担当区であったビルマ西部における日本軍の戦死者の
大部分は、グルカ兵と戦って戦死したものであった。かれらがいなかったら、コヒマに
砦を敷き、食糧調達を考えながら物量に勝る英軍に仕掛けや落とし穴などを工作しての
長期戦をしたかもしれない。しかしこのグルカ兵は日本軍にそうした余裕を持たせず、
連日連夜の奇襲や襲撃が続いたとされる。終戦になって後でイギリス特殊部隊SASの
前身となるコマンド部隊などを展開していくが、この時中心になったのがグルカ兵であ
り、その後SAS等の特殊部隊設立には大きな影響を与えた。今やSASと共に世界最
強と認知され、各国の平和防衛の傭兵部隊の中心を担ってきている。こうして日本軍を
恐怖のドン底に叩き落として、インド延伸を止めた兵士達、それがグルカ兵達だった。
セポイの乱で、ネパールは14,000人のグルカ兵を派遣し、イギリス軍が行った鎮圧戦で
大戦力となり、後に発足した英印軍では、シク教徒・ムスリム系インド人・パシュトゥ
ーン人などとともに重要な地位を占めている。その後も第二次世界大戦においては日本
軍と交戦した他、イギリス連邦占領軍として日本の占領任務や朝鮮戦争にも従事した。
 歴史上はイギリスの商店民兵でありやイギリス連邦の傭兵であった。植民地経営にと
派遣され、今でもイギリス陸軍にはグルカ兵からなるグルカ旅団がある。2005年現在、
イギリス軍に従軍しているグルカ兵は約 3,600人と言われ非常に勇猛なことで知られ、
フォークランド紛争など、イギリスが関わる戦争や紛争地域への派兵での先遣隊として
派遣される。フォークランド紛争時には、グルカの兵が攻めてきたと聞いて逃げ出すの
が普通のアルゼンチン部隊であったという。イギリス本国や植民地(1997年以前の香港
)、ブルネイなどのイギリス連邦諸国に駐屯しているほか、マレーシア軍、インド陸軍
(ゴルカ連隊)、アメリカ海軍、シンガポール警察にも多数雇用されている。この様に
現在もイギリスの信頼は非常に深く、2004年にブレア首相によって、イギリス軍で勤務
したグルカ兵は、完全なイギリスの市民権を付与されるようになった。

1252: 名無しさんAA:18/08/19 16:45
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  298   >

 もともとシッキム王国の一部だったが、18世紀初頭、カリンボンはブータンに占領さ
れ、1780年にダージリンの周辺はネパールから来たグルカ族の土地になった。インドの
独立後、グルカ族はネパール語の公用語化を求めるなどして、西ベンガル州政府と対立
した。1980年代には西ベンガル州からのグルカランド自治州としての分離を要求した。
1986年にグルカ国民解放戦線(GNLF)による暴動が起きたが、暴動の後1988年に大幅な
自治が認められて、ダージリン・グルカ・ヒル議会が確立された。現在は落ち着いてい
るが、グルカランドの自治権の拡大を求めるグルカの武装勢力も存在する。アフガンで
駐留していた英国軍にグルカ兵が門番をしていた。度重なる自爆テロでそこは引き払っ
て一人しかいなかった検問所に十数人のタリバン兵が襲ってきた。イギリス軍の中でも
勇猛無双で知られるグルカ兵たった1人が、この十数名のタリバン兵を相手に戦った。
ライフル弾やロケットが飛び交う中、たった1人で「ぶっ殺す!」と叫びながら機関銃
の三脚を投げつけて暴れまわった。と、にわかには信じられない鬼神っぷりだった。結
局この戦闘で機関銃の弾250発、小銃弾180発を射撃、各種手榴弾12個とランチャーから
の榴弾5発、クレイモア地雷1個を起爆させ、増援が来るまで検問所を守りきったのであ
る。まさに「ランボー」の世界でアフガンのグルカ兵がたった1人で、十数人のタリバ
ン兵との大銃撃戦を制したのである。こうした兵士の中でも元グルカ兵(ネパール人)
の一人が証言している。「我々は世界最強の傭兵だ。第二次大戦で英軍の傭兵の時、マ
レー軍を3時間で撃破した。インド軍は1日で降参させた。だが、日本の正規軍との戦
いは過酷で一週間不眠不休で戦わされ、我々も半数以上が戦死した。これだけの死闘は
初めてで、勇敢な敵軍を尊敬したのはこの時だけだった。銃弾も砲弾も守る場所も我々
は勝っていた。見えない敵に連射した。たまに撃って来る影に砲弾を浴びせた。だが、
撃っても撃っても解らない。兵士が崖から落ちてこない。玉砕した日本軍の所に行って
さらに驚いた。木に体を縛り付けて身を乗り出して我々を撃っていたのである。日本軍
は貧弱な武器なうえ食料も、わずかな米しかなく、日本軍の死体はみんなやせ細ってい
た。戦友が死んだ時には泣かなかったが、敵である死んだ日本人を見て皆泣いた。」と
これが語り継がれたグルカ兵の中の日本兵に話だった。イギリス軍の中でも勇猛無双で
知られるグルカ兵が、十数名のタリバン兵を相手にした大銃撃戦を制し叙勲の栄に浴し
た。そんなグルカ兵の涙するものが、日本兵の進駐だったのである。

1253: 名無しさんAA:18/08/19 16:49
「戦後インドで傭兵としてパキスタン軍と対峙してた時、遠くから歌が聞こえてきた。
知らない言葉の歌だったが、味方じゃないことは確かなので銃をそちらに向けたとき、
上官に殴り飛ばされた。何がなんだかわからなかったが不思議なことに、パキスタン側
でも銃声がやんでいた。歌声の主は数人の年寄りで、我々に気づかないのか旗を持って
一列で歩いてきていた。我々側もパキスタン側もその数人のお年寄りが通り過ぎて見え
なくなるまで一発の銃弾も発射しなかった。結局その日から2日間は、全く話し合いの
ない停戦期間となっていた。戦闘は再開されなかった。停戦命令も出ていないのにどう
して戦闘がやんだのかわからずに、上官に聞きに言った。その年寄りたちが歌っていた
のは日本の軍歌で持っていた旗は日の丸だということを聞いた。その話を聞いてその夜
は泣いた。ものすごく泣いた。その年寄り達は、第二次世界大戦で死んだ戦友を弔いに
来ていたのだと知ったからだ。こんな危険地帯に、第二次世界大戦から何年もたってい
るのに、戦友を弔うためにこんなところまで来てくれる人たちがいることに涙が出た。
あとで知ったが、パキスタン側もそれが日本人でかつてインド(パキスタン)独立のた
めにイギリス軍と戦った人たちだと知って敬意を表して戦闘を中断したそうだ。停戦の
訳は歌が聞こえてきたからだったのだ。この半年後、傭兵を辞めて日本に留学した。た
くさん勉強して日本語の読み書きも覚えた。何年もたって日本のお酒が飲めるようにな
って、サクラを見ながら飲んでいたとき、サクラの花びらがコップに入った。それを見
て急に涙が出てきた。あの年寄りたちのことを思いだした。日本人が本当にうらやまし
い。」とある兵士は書いている。インパール作戦では、佐藤中将は、コヒマ攻略に近く
のナガランド郡に滞在した。コヒマの北に位置する。日本軍は必要な補給の10分の1
にも満たない食糧しか持たず、現地調達を余儀なくされていたことはよく知られている
。そのため、村人の記憶も、食糧にまつわるエピソードが中心である。チャカサンとい
う村には、日本軍が1944年4〜7月の2ヵ月半も滞在していた。村人は自ら食べるのも事
欠く状態だったが、出来る限りの食料を日本兵に提供した。そのお返しに、日本軍は軍
票を村人たちに支払った。時には、飢えた兵士が、村人から食料を無理矢理奪ったこと
もあったが、村人は彼らを咎めなかったという。長老ナギ氏は言う。「村人達は、同じ
人間として空腹で苦しむ日本兵たちを哀れに思い、また、日本軍こそが自分たちを英国
の手から解放してくれるはずと信じていたから、食料を提供しました。お礼にと、日本
人は村人に戦うことを教えました。実際、彼らが自らの国のために身を犠牲にしてまで
戦う姿に、ナガの人々は少なからず影響を受けた。」又村人は、日本軍とインド国民軍
との違いも正確に理解していた。また、日本軍の部隊には日本人だけではなく、戦争捕
虜、女性兵士、ビルマ、中国、シンガポール人が連行されていたことも把握していた。

1254: 名無しさんAA:18/08/19 16:50
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  300   >

ナギ氏は、ジャカム村のアンガミ族と日本軍の交流を示すこんな証言を紹介してくれた
。「ある日、村のリーダーだった当時80歳の老人が、佐藤中将に面会にやってきました
。老人が、『日本人とナガランドの人々は先祖を同じくする兄弟である。兄弟を助ける
ため、我々が持っている食料を提供し、できる限りの支援をするように。』と話すと、
それを聞いた佐藤中将は大変感銘を受け、『ナガランドのリーダーが大変素晴らしい事
を言ってくれた。我々日本人は、ナガの人々に決して危害を与えてはならない』とその
場で電話を取り、皆の前で部下たちに命令したそうです」日本兵とのやり取りの多くは
、インド国民軍の通訳か、ナガランドの人々で英軍に雇われていた人を介して英語でお
こなわれたという。佐藤中将は、ナガランドの人々からの支援を受けるため、兵士達に
「絶対に地元の女性に触れてはいけないと命令を下した」という証言もある。ナガラン
ド独立運動のリーダーで、英雄として住民から高い尊敬を集めていたピゾが、ビルマで
インド国民軍に行動をともにしていた際、日本軍へそのように進言したという。「ピゾ
の忠告を受けた佐藤中将は、『女性に手を触れた兵士は、裁く前にただちに銃殺刑とす
る』という厳しいルールを敷きました。しかしながら、インド国民軍はモラルに欠け、
地元の女性を乱暴することがあった。その結果、インド国民軍と一緒にいた日本兵まで
村人の反感を買ってしまった」それでもナギ氏の証言では、ほとんどの村で、日本人に
ついて好意的な意見を聞いたと言う。しかしある日、日本兵と非常に仲がよかった兄弟
に、連合軍側のスパイの嫌疑がかかった。彼らは、村人たち全員の前で日本兵によって
斬首された。その村では、当然ながら、今日でも住民の間に反日感情が残っている。ナ
ギ氏は当時の複雑な状況を、次のように説明する。「2ヵ月経って、村の食料も尽きて
しまうと、多くの村人たちは連合軍側を支援しはじめました。実際、連合軍側は多くの
村人をスパイとして雇い、なかには、兄弟で異なる軍を支援したケースもあったそうで
す。連合軍側がこういった村人に日本人を殺害するよう、金を渡すケースもありました
。」佐藤中将は再三の食糧補給を連絡した、補給が滞った状況で仲間が危険に及び、村
人からも批判し始めていた。これ以上の滞在は不可能で作戦継続も不可と判断し、5月
末には独断で撤退を決意している。村人の証言によると、ナガ丘陵から撤退する前の晩
、日本軍は一晩中大声をあげて叫んでいたという。つまり夜を徹して師団の話し合いが
行われたのだろう。そして6月初めに31師団はもと来た道を撤退していった。


1255: 名無しさんAA:18/08/20 12:29
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  301   >

 民族独立を信じ、日本人を支援してきたナガの人々にとって、この事は非常にショッ
クな事だったと同時に英軍からの卑劣な仕打ちの元にもなった。「日本兵が去った後、
住民達はさらに過酷な目にあいました。日本軍のせいで食べ物は尽きてしまったうえ、
日本軍を匿っていたとの名目で連合軍側から空爆や戦車砲撃を容赦なく浴びせられ、村
が焼かれたからです。村人は住む場所を失い、コヒマの市街地や村々は焦土と化しまし
た。」撤退した日本軍も英国に追われてひどい状況だった。連合軍の銃弾に倒れた者も
いれば、飢えて病に倒れた者もいた。軍服が腐って悪臭を放ち、遺体からはウジが湧い
ていた。雨の中で、住民は、英国人と日本人双方の膨大な数の遺体を運ぶ任務を担わさ
れた。それは過酷で、悲惨な体験だった。特に日本人を匿ったとする部落は容赦なく、
食糧は無くなった。6月は雨期の真っただ中であった。多くの者はチンドウィン川を渡
れなかった。進軍時もこの川で牛が流された川だ。この撤退では更に増水していた。だ
がなぜ、ナガランドの人々は日本軍の撤退に大きな衝撃を受けた。インパール作戦がな
ければ、ナガの独立運動はなかった。英国はナガランドを1880年から支配していた。つ
まり、日本軍が攻める遥か昔から英国領として支配していた。日本軍がでてこなければ
、そもそもこのような戦争は起こらなかった。それゆえ、地元の人々は、第2次世界大
戦を 「日本の戦争(Japan War)」と呼んでいる。実際、ナガランドの村のリーダーに
は、今でも日本軍が来るのを、いまかいまかと待ちわびる人もいたほどだ。なぜなら噂
では、日本人が英国人を追い出してくれると聞いたからである。「日本人は我々と同じ
人種で見た目がよく似ている。もし日本人に食料が潤沢にあり、住民を苦難に追い込ま
なければ、ナガランドの人々はもろ手を挙げて日本人に協力して一緒に戦ったでしょう
。しかし、日本兵は、誰もが自分の最後を悟っているような様子でした。それでも、あ
きらめず自らを犠牲にして渾身の戦いを続ける彼らを見て、ナガランドの人々は日本軍
が必ず自分たちを幸せにしてくれると確信していたのです。」ナギ氏によれば、日本軍
が来るまでのナガランドは、ビルマからの難民がアッサム方面へと抜ける通過点でしか
なかった。ところが、日本兵が忽然と現れ、連合軍が応酬し、人々は否応なく飛行機、
戦車、銃や爆弾などの最新鋭の武器を目のあたりにし、攻撃の方法を学ぶことになった
。戦争をきっかけに、双方の軍によって病院や学校が建設され、日本人は、「ナガラン
ドが独立したら、学校では日本語、英語、そして現地の言葉で子供たちは学ぶことにな
るだろう」と地元の人たちに話していたという。こうして通過点が村になり消えたので
ある。

1256: 名無しさんAA:18/08/20 12:30
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  302   >
ナガランドの人々は日本軍に大いに刺激を受け、啓発されました。なかには、『第2次
大戦がなければ、ナガランドの人々は、日本人のように勇敢になることも、英国人のよ
うに教育を受けることもなかっただろう』と話す老人もいます」とナギ氏は言う。日本
兵が種を持ち込んだといわれる「セリ」はいまでも現地で食されている。」ナガランド
には、「日本が来て、ナガは立ち上がった(Japan came Naga stood up)」という言葉
がある。ナガランドでは独立をかけた紛争が、インド北東部の他州や周辺国に先駆けて
始まった。彼らの戦いは、「アジア最長の独立運動」と呼ばれている。だが、日本軍の
存在がなければ、戦後のナガランドの独立武装闘争はなかっただろうという意見は多い
。「大戦のおかげで、誰も知らなかったナガランドの存在を世界に知らしめることもで
きました。住民にとっては過酷な時代でしたが、ある意味、それは我々の黄金時代でも
あったのです」75年の禁忌がいま明かされる。第2次大戦コヒマの戦いについて日本
兵の飢えた気の毒な様子や、当時大量に避難してきたベンガル地方(現バングラデシュ
)の難民がたくさん餓死した。その描写に「涙した」と話した人も多いという。また、
英国からお金を受け取り、村に滞在していた日本兵の殺害にナガの人々が少なからず関
与した事実が、世間に明らかになることが恥ずかしいから、取材や出版をやめてほしい
とも懇願された。しかしナギ氏は、たとえ自らにとって恥ずべきものであっても、それ
が事実である以上、史実として記録して厳粛に受け止めなければならないと強く考えて
いる。それが、歴史であると。「戦争の記憶は子に孫に言い伝えられてきました。が、
これまで、誰一人として記録して本にした人はいませんでした。私たちにとって非常に
重要な歴史の転換点であるこの時代を、どうして誰かがもっと早く記録しなかったのか
と悔やまれます。」とナギ氏は言う。証言を長年記録できなかった大きな理由のひとつ
は、当時、誰が日本側につき、誰が連合軍側についたかを公にすることは長年、村人の
間でもタブーだった。ただ、75年近くの月日を経てようやくいま、明かしてもいいと
いう機運になってきた。「私の著書が出てから亡くなった老人もいます。この本が、も
しかしたら生存者の声を拾った最初で最後の記録になるかもしれません。」最後に、と
ナギ氏は付け加えた。「戦いに日本は負けて退散し、英国は勝利しました。コヒマは焦
土と化し、ナガランドは戦後、独立運動をきっかけに、長い紛争に巻き込まれていきま
した。一方、大国の英国と日本はいち早く復興し、繁栄を謳歌しましたが、ここには、
二度と同じように戻っては来ませんでした。それはまるで、象と虎が畑を荒らしまくっ
て、そのまま悠然と森に戻っていったかのようです。残念な事に日本人は今や、コヒマ
で何が起こったかもすっかり記憶の彼方に追いやり、忘れてしまったのです。」

1257: 名無しさんAA:18/08/20 12:31
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  303   >

 2010年9月のこと。ビシュヌ・シュレスタ元グルカ旅団伍長は、故郷・ネパールに向
かう列車で40人の武装強盗に襲われてしまった。命あっての物種、と他の乗客の略奪
を行なう彼らをじっと見ながらシュレスタ伍長は沈黙を保っていた。自分の財布を奪わ
れた時さえ、感情を表に出さないでいたシュレスタ伍長。しかし、盗賊達が、18歳の
少女を捕まえ強姦しようとしたその瞬間、ついに彼の怒りは爆発した。盗賊のたった1
つのミスを犯した。グルカ兵からククリナイフを取り上げなかったことである。シュレ
スタ元伍長は、巨大なククリナイフを一気に抜き放った。少女を手にかけようとしてい
た男を後ろから羽交い締めにすると、そのまま彼を盾にしながら横に立っていた盗賊を
切り倒す。そして、ひるむその他の盗賊の前で彼は盾にしていた男の喉を切り裂き、さ
らなる獲物を求めて哀れな盗賊に飛びかかっていったのだ。結局、3人の死者と8人の
重傷者を出した盗賊は撤退していった。こうして助かりながらも黙って見ていることし
かできなかった少女の両親は彼に謝礼を申し出たものの「敵と戦うは兵士のつとめ。賊
を倒すは自分の人間としてのつとめ」と、受け取ろうとしなかったそうである。2004年
には、イギリスのブレア首相によって、イギリス軍で勤務したグルカ兵は、完全なイギ
リスの市民権を付与されるようになった。一方で冷戦の終結により、イギリス軍の部隊
縮小計画で若いまま退役したグルカ兵が、シエラレオネ内戦などの紛争では傭兵として
参加していることが問題になった。 グルカ兵は山岳民族特有の小柄な体格(150cm前後
)の持ち主が多い。性格は勇猛かつ敏捷であることを求められる。体力差については、
イギリス本土の白人兵士との徒競走において、平地では大柄な白人兵が優位であったが
、傾斜地でのそれでは白人兵はグルカ兵に全く歯が立たなかった。NHK特集番組では
、訓練教官が射撃姿勢に移るまで 0.5秒で終わると証言している。登山家の行くヒマラ
ヤでの山岳ガイドを行うシェルパ族には、元グルカ兵という経歴の者がしばしば見られ
る。グルカ兵は「ククリ」「グルカナイフ」などと呼称される、刀身が内側に湾曲した
独特な形状の刃物を携帯しており、イギリス陸軍グルカ・ライフル連隊では部隊章にも
使用されている。ネパールではカースト制が緩やかなため、食事などに関するタブーが
少ないことも近代的な兵士に向いているという。

1258: 名無しさんAA:18/08/20 12:31
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  304   >

元グルカ兵のPMCコントラクター(アフガニスタン、ナンガルハール州)グルカ兵へ
の登用は非常に狭き門で、小学生程度の子供の頃から格闘技や英語等の基礎教育を受け
させるための専門学校もネパール国内に存在する。また、グルカ兵は、徴兵制でも志願
制でもなく、スカウト制である。イギリス軍のスカウト部隊が山村を巡回する方式で、
そのまま退役した多くのグルカ兵は、雇用契約によりネパールへ帰国させられる。が、
軍の年金だけでは生活できずビジネスを始めたり、民間軍事会社の契約社員として現役
復帰を果たして、紛争地域に向かう者もいる。現代ではグルカ・セキュリティー・ガー
ズ(GSG)を初めとしてグルカ・セキュリティー・グループと呼ばれる大規模な民間
軍事顧問会社が形成され、世界中にグルカ兵を派遣しており、実質上の傭兵派遣業とな
っている。これらの会社の経営者達は、主にイギリス軍やローデシア軍などに所属して
いた白人将校でかなり中央とのパイプがある。民間軍事会社では月給千ドル以上の高給
で働くことが前提条件となる。国民一人当たりのGDPが1,200ドルしかないネパールでは
、かなりの高給職である。彼らは英語の軍事の教育を受けている為グルカ兵は、指揮命
令において英語で意思疎通ができ、軍の規律を遵守する。その為世界的にも重用されて
いる。ネパールの山岳民族からスカウトされ、訓練されたグルカ兵は、昔から剽悍きわ
まりない戦士として恐れられてきた。「ククリナイフ」と呼ばれる伝統的なナイフを使
った白兵戦能力は特にすさまじいものがある。ククリナイフはグルカの伝統的な山刀だ
。連合軍にとっても彼らを公に使う事はためらっている。今でもこのビルマのコヒマの
争奪戦は勝っていても大声で戦闘勝利と謳っていない。連合軍側にとっても、インパー
ル及びコヒマでの戦いは、その後の戦局に決定的な影響を与えたことから、「東のレニ
ングラード」だったと称する人もいるほどの、決定打であったにも関わらず歴史に出し
たがらない。それには3つの事がある。一つは今だ国境線を確定せずに軍を引い揚げて
来たからだ。実は日本軍が引き揚げて敗戦処理となったが、イギリスは連合国側として
大きな負債を負った。これまで勝った占領地の経営は、その土地の産業なり産品で経営
出来た。しかし既にインドもビルマも中国も何もない状態だった。それどころか、中国
は毛沢東と蒋介石の戦いに介入はしなかったし、インドではガンジーの独立開放同盟が
国民を沸かせていた。ビルマではアンウンサン将軍が国民戦線を張り、タイやベトナム
からの難民を率いた忌まわしき残虐者ポルポト派の影響と戦っていたのである。

1259: 名無しさんAA:18/08/20 14:58
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  305   >

 実はカンボジア王国はこの東南アジアの中心で、カンボジアの王室は今は遺跡となっ
て藪の中であった事で解る様に、ほぼ大乗仏教の庇護者としてアンコールワット遺跡が
残るほど権勢を誇っていた。だが中国の明の頃4回ほど大戦争を起こして、内乱が起き
その後鄭和の大遠征において消滅してしまったのである。こうして中国から攻められ、
敗退するも、恐らく東南アジア最大の王権であっただろう。シハヌークの家系はそうし
た王家の末裔の血筋だった。ポルポトの家系はその従者の中で会計と呼ばれる家系だっ
た。カンボジア中心のプレイ・ヴェン州で中国系クメール人とクメール人の間に生まれ
れて、フランス式の教育を受け、シハヌーク王朝の公務員として起用されていた。1946
年に王に縁故だった知人の勧めで州知事になって、カンボジア警察の初代長官に就任し
その後は軍の役職に就き、1960年に国防相に就任。その後1966年から1年間首相に就任
し、1969年に再任されている。だが所詮商売の上手い華人だった。国王が1970年に癌治
療でモスクワと北京へ訪れている間に、従兄弟の副首相と共にノロドム・シハヌークを
追い落とした。こうして国家元首の政権をクーデターで倒し国会にシハヌークの退位を
決議させて、当時副首相だったシハヌークの従兄弟であるシリク・マタク親王にそその
かされて、クメール・ルージュもそれに参加した。こうしてカンボジア王国の国防相の
ロン・ノル将軍が注目を浴びる。クーデター後、アメリカは反シアヌークを訴えるビラ
を巻きロン・ノルを支持した。国王裏切ったノロドム・シハヌークには当然府に落ちな
い体制が出来た。カンボジア内戦の始まりである。親共産主義を行ったシアヌーク体制
下でカンボジア領内に北ベトナムの多くの後方基地を設けていた。また食料の買い付け
も北ベトナムは行っていた。当然ソ連の後押しを受けカンボジア東部に侵攻した。この
侵攻はクメール・ルージュのヌオン・チアからの明確な要求によって行われた。この時
ポルポトはクメール・ルージュを率いて王家の親衛隊に着いていた。ロン・ノルは米国
の傀儡政権を担ってクメール共和国の初代大統領を歴任し最終階級は元帥となったが、
クーデター後には、猛然と北ベトナム軍はカンボジア東部を制圧し瞬く間に蹂躙された
。しかし、カンボジア軍を破った後、プノンペンの25Kmに迫った北ベトナム軍は、
獲得した地域を地元の武装勢力へと引き渡して本国に帰っていった。その後、クメール
・ルージュは北ベトナム軍からは独立して活動し、カンボジア南部および南西部におい
て「解放区」を打ち立て、ベトナム侵攻後、激しい反ベトナムキャンペーンを行い、在
カンボジアのベトナム系住民を迫害しだした。こうしてプラソト、ネアクルン、タケオ
などで収容所に隔離させられたベトナム系住民の集団虐殺が起きた。

1260: 名無しさんAA:18/08/20 15:41
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  306   >

 この虐殺に影響で在カンボジアのベトナム系住民50万人のうち、1970年からわずか
1年の間で、20万人がベトナムに大量帰還した。極左武装勢力クメール・ルージュは
もともと反シハヌーク闘争を開始し出来たものだったが、米国の傀儡政権とみて北ベト
ナム軍の侵入を許した。その為対ベトナムでシアヌークの護衛になったがそうして取っ
た政権は非情なものだった。北ベトナムの侵攻に呼応して、アメリカ軍と南ベトナム軍
が共産勢力を追撃してカンボジアに侵攻してきてその双方と戦ったからだ。アメリカ軍
の撤退は早期に行われたものの、共産勢力は駆逐されず、こうした状況から反政府勢力
クメール・ルージュの勢力は伸張して、政府軍との間でカンボジア内戦が始まっていた
。1970年、アメリカに支持されたロン・ノルのクーデターで王政が廃位された直後から
、アメリカ軍と南ベトナム軍がホーチミンルートの南ベトナム解放民族戦線を追撃する
ためカンボジア領内に侵攻してきた。さらにこれまで局地的であった米軍のベトナム空
爆は人口密集地域を含むカンボジア全域にまで拡大され、空爆開始からわずか一年半の
間に二百万人が国内難民化したのである。とくに東部は人口が集中する都市部などは、
重点的に爆撃を受けた。日本が戦争が終わった後にこの地域には帝都空爆の事態が起こ
っていたのである。この事態を受けてシハヌークは亡命先の北京でカンプチア民族統一
戦線を結成し反撃にでたのである。ロン・ノル将軍は、アメリカへ支援を求めざるを得
なかった。1970年11月18日にニクソン大統領は、カンボジア政府への援助金1億5,500万
ドル(8,500万ドルは軍事援助)を連邦議会に求めた。ロン・ノル政権は シハヌークの
中立政策で展開していた北ベトナム軍とベトコン追放の名目でニクソン政権を頼り、金
とCIAの支援を受け取った。しかし、クメール・ルージュの攻勢を止めることはでき
なかった。1971年国会により元帥に指名、1972年国家元首に就任。同年3月大統領就任
。正式にロン・ノル政権になって以降、北ベトナム・クメールルージュとアメリカ・南
ベトナムに支援された政府軍の内戦は止まらず本格化し、カンボジア全域に拡大され、
数十万人の農民が犠牲となり、さらに難民が百万人以上都市へ流入して、食糧輸出国で
あったカンボジアは食糧輸入国に転落したのだ。共産勢力が1975年4月に迫り、ロン・
ノルはカンボジアを出国し、インドネシア経由でハワイへ逃れた。その後1979年にカリ
フォルニア州フラートンに移り住み、1985年に死去した。

1261: 名無しさんAA:18/08/20 15:42
 1970年のロン・ノル将軍によるクーデターの背景には、カンボジア軍のチャム人将校
レ・コセムのよき理解者としての、シハヌーク国王を説得して被抑圧民族闘争統一戦線
(FULRO) の中心人物を支援していた事にある。レ・コセムは山岳エデ族のイーバム・
エニュオルが創設し南ベトナム領メコンデルタのクメール族や中部沿海のチャム族、中
部高原の山岳民族エデ族などと共同で、シハヌークを打倒し自治・独立闘争をしようと
ロン・ノムを希望としていた。米国は、日本がビルマの少数民族を無視した様にタイや
ラオスやカンボジアの山岳民族を無視して挫折した。こうしてニクソンが対中政策の見
直しを宣言したのが1969年、ニクソンの干渉による 「FULRO」の南ベトナム軍への投降
・解散も1969年であり、ロン・ノルによるクーデターは、アメリカのアジア勢力圏の再
分割(インドシナ半島の中国への譲渡)のプロセスの中で行われた。境界争いの調整に
あって起こった。軍事支援は米中和解後はただちに中止され、ロン・ノル及びカンボジ
アの自由民主主義者たちは見捨てられ、亡命したロン・ノルらを除いて、親中派だった
カンボジア共産党(クメール・ルージュ)は、例のごとく中国式に徹底的に虐殺した。
ロン・ノルに任命されたシリク・マタク元首相や弟ロン・ボレト首相も 1975年4月17日
のプノンペン陥落直後に殺害された。この影響は山岳移動民族によって、タイやビルマ
に及んでいた。ビルマでは早くから日本は諜報活動を行い、当時のイギリスの目を盗み
日本陸軍は、戦争状態となった場合のビルマ侵攻作戦を想定して、このタキン党などを
支援して、日本軍に協力的な現地人組織の育成を図ろうとし、その為にビルマ独立支援
を担当する特務機関として「南機関」を創設していた。アウンサンらは、南機関の支援
を受けて、日本軍占領下の海南島で軍事訓練を開始したが、南機関としては、訓練を施
したゲリラ要員をビルマに帰国させてから、ビルマ公路の遮断工作をさせる計画であっ
た。この人数が30人だった事から、30人タキン党を結成してと言う予定に反して、
直ぐに太平洋戦争が勃発し、日本とイギリスが戦争状態に陥った。南機関の本拠地を直
ぐにタイに移しビルマのみの制圧では無くなってしまう。その為にこのBIA(ビルマ
独立義勇軍)が直ぐに出来上がってしまう。本来軍事訓練を開始した南機関としては、
訓練を施したゲリラ要員をビルマに帰国させて政治的に、ビルマ公路の遮断工作をさせ
る計画であった。しかし既に戦争になった事で、南機関は現地商社員や日本人義勇兵な
ど74人も参加した大所帯でマレーシア・シンガポール・タイ・ラオスまで範疇となった
。独自の階級制を敷き、軍司令官には南機関長の鈴木敬司大佐がビルマ名でボーモージ
ョー大将を名乗って就任し、アウンサン(階級は大佐)らは参謀とされた。日本からの
支給された小火器で武装し、専用の軍服なども支給された。

1262: 名無しさんAA:18/08/20 15:44
 もともとが、少数民族の精鋭部隊の集まりだったのだ。大東亜戦争終盤の昭和19年
に(1944年)8月に、日本軍に対応したビルマで抗日組織の秘密組織。反ファシス
ト人民自由連盟が結成されている。この頃、日本はインパール作戦で大失敗して日本の
旗色が悪くなってきた頃だった。ビルマの独立はどうなるかわからない。焦っていたの
は他の部族も一緒だった。ビルマ国防軍司令官のアウンサンは治安維持よりは英国諜報
部との接触を強めた。日本が負けた場合は英に貸しを作っておく密約が取れた後では、
 昭和20年(1945年)3月27日、日本軍はビルマ国軍から攻撃を受け始める。
仲間だった30人部隊も分裂をした。このとき、アウンサン将軍は各部隊長に対し、元
南機関員、指導部・顧問部で直接訓練・教育を受けた日本軍将校下士官の救命を指示し
、戦争終結後に戦争捕虜として日本へ送還するよう通達している。南機関員でビルマ国
軍に残っていた高橋中尉はアウンサン将軍の計らいで身柄を保護され、戦後のインドよ
り捕虜交換船で帰国しています。このとき、日本への義理をたてたビルマ独立30志士
のひとりミンオンは自害した。終戦の後1947年にイギリスの首相のクレメント・ア
トリー氏に交渉の末に、1年以内のビルマの独立を約束させる事に成功した。この年の
4月の総選挙で202議席中の196議席を取るという快挙をとげて軍事政権の新政府
を作った。しかしそれは国民には詐欺たものに映った。1945年に日本は敗戦の玉音
放送はしていたが、各地に日本兵は残っていたし、事実上は日本軍が作ったインド独立
義勇軍はガンジーの下でうごめき、同じ様にビルマ独立戦線もベトナム独立戦線も新た
なソ連の承認や支援を経て、まだまだという英米中の承認を待つ中にあったからだ。つ
まり英国もインドやビルマを手放そうとしてなかったしフランスもベトナムを植民地の
ままにして置きたかったのである。それどころか植民地経営を前提にして、フランスは
利権をアメリカに譲った。例のごとく食糧援助の支払いからだった。イギリスはインド
さえ保てれば良かった。グルカ兵の強靭さは解っていたし、中国との境界策定にも面倒
があったからだ。しかし、国内的には日本軍が居なくてイギリス軍が駐留する事は、昔
に戻っただけであり許されない事だった。ビルマ軍と日本軍の戦いは半年で終わったが
実は日本軍はビルマ軍やインド軍を温存し独立を願っていた。つまり戦わせては居なか
った。1947年7月19日に内閣を作るが、弟やその他の大臣4名、合計6名が会議
中に射殺された。この射殺は、アウン・サン将軍のライバルであった平和発展党のウ・
ソーが首謀者としてウ・ソー氏は処刑されたが、当時から少数派であって、後にクーデ
ターを起こした社会主義計画党のネ・ウイン(客家華人)が全てを計画したのではない
かとの囁かれている。こうして。中国の影響が強い政権が出来上がったのである。

1263: 名無しさんAA:18/08/20 15:50
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  308   >

 こうしてビルマ独立義勇軍は1941年発会、翌年からの開始(昭和17年)となり、
ビルマ侵攻作戦に参加した。任務の重点は、戦闘よりも民衆工作に置かれ、ビルマ独立
義勇軍は、占領地各地で志願兵を募ってより多くの軍事訓練を施しつつ前進するつもり
だった。しかし、正規国軍でなく又一部では敗走中のイギリス軍と交戦するなど命令系
統に支障がでた。3月には首都ラングーンで4500人による観兵式を行い、4月には日本
人将兵が指揮系統から外れた、軍事顧問としての立場に退いたのだ。ビルマ攻略戦終結
時には、ビルマ独立義勇軍の総兵力は約2万7千人に激増していた。6月に小さな独立
自治の政府組織を起こさせ、俘虜や捕虜を集めて、クリーク地帯での作戦用に、英国兵
の兵力30人の小規模な海軍が、ビルマ独立義勇軍の下に設置されたが、元イギリス海軍
兵が主体で彼らは学ばなった。現在のミャンマー海軍の起源となった。しかしながら、
彼らは国家意識は欠如した民族で勇猛ではあったが、食糧生産意識も、集団共済意識も
こうした海外学習意識も他よりは少なかった。つまりタイやラオス或いはビルマからの
食糧に支えられた山岳民族のままだったのである。これには日本軍も参ったようだ。彼
らは不真面目ではなかった。真面目な民族だった。しかし、彼らは彼らの自立した世界
があって、集団を好まなかった。他民族とは争う事は無いにしても連携も無かった。全
く諜報活動すら使われない自立者達の群れだったのである。中国の様に他を圧倒し迷惑
をかける事はなかったが、かと言って日本や中国の様なコミュニュティ―や集団を大事
にし公衆道徳で他人に気を遣う事は無くサバサバしての個人能力主義で、敵国英国人か
ら習う姿勢もなかった。その為俘虜は直ぐに引いた。日本軍は、石油と上質のゴムが手
に入る日本の植民地化を考え傀儡政権を設立していた。バー・モー貧民党主をビルマの
行政長官としながらも、日本軍がいつでもビルマを植民地化できるように計画していた
しかし、アウンサン将軍はビルマからイギリス軍を追い出した後もビルマに残り日本兵
と戦う事に変えた。1943年から1945年に防衛大臣になっていたアウンサン将軍は、日本
の第2次世界大戦で連合軍に勝つと、近衛首相の言葉とは裏腹に、インパール作戦で敗
戦やずさんな作戦に計画と失敗を目の当たりにし、日本の敗北が濃厚と感じ、日本軍が
駐留したまま連合軍との交渉を行っていた。「もし日本が負けた場合には、イギリスは
、日本軍のビルマへの侵略からビルマを解放したと言い出してイギリスからのビルマ独
立が不可能になる。」と考えた。そこで、その前に連合軍側の司令官であったルイス・
マウントバッテン卿と取引をし、1946年にイギリスの支配下で1945年5月に首相となる
道を歩いた。

1264: 名無しさんAA:18/08/20 15:51
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  310   >

 しかしこのビルマは日本やベトナムの様に可哀そうな土地ではある。お隣の巨大王朝
の中国やインドがあるからだ。客家華人(はっかかじん)とは、結局呼んで字のごとく
華僑のよそ者という意味だ。中国人は決して周りの地元の民と溶け込む事はしなかった
。円形土楼や福建土楼などと呼ばれる巨大な中庭式の木造重層式の家の中で過ごす。一
見してイスラム邸宅と同じに外敵を遮断する為だとわかる。客家の人々は、周辺に住む
他の集団とは異なり、山間部に好んで居住することが多く、独特の言語・文化を持って
いる。言語には古代の漢族語を今に伝えているともいわれ、他に独自の客家語を持って
いる集団すらある。そうした性格から歴史的に他の集団と軋轢を起こすことが多かった
。しかしながら、少数派であるがゆえに劣勢で、政治工作や策略に長け、中央政権や王
朝と良好な関係を保とうと画策する傾向がある。このような背景から、客家には漢人と
しての華人の誇り意識が非常に強い。移民の通例だが土地の所有が困難であったために
流通や商業に従事することが多く、子弟の教育にも熱心なことで知られている。商業に
は教育の高さからも、教職に就くことが多く これらの特色で「中国ユダヤ人」などと
呼ばれることもある。客家を含む華僑はユダヤ人・アルメニア人・印僑と共に「四大移
民集団」の一つとされている。客家の多い地域では、中国共産党が非常に強い影響力を
持ち、客家には共産党勢に加わった者が多い。毛沢東が重点的に攻めて隠れたからだ。
しかしそれまでは、伝統的な中国人の階級意識においては卑しめられることの多かった
ので軍人となる者や、反乱や革命に参加する者も近代以前からかなり多く、太平天国の
指導者である洪秀全や、中国国民党の孫文、中国共産党のケ小平やシンガポールのリー
・クアンユー(李光耀)などがいる。台湾総統の李登輝、蔡英文や映画監督の侯孝賢も
出自は台湾に移住した客家であり、タイの首相を務めたタクシン・チナワット・インラ
ック・シナワトラ兄妹も出自はタイに移住した客家である。ビルマのクーデターを起こ
し、社会主義政権を打ち立てたネ・ウインも漏れずに客家であり、こうした客家集団は
どこの国でも国内紛争の大原因であった。経済力があり、これまでの因習を守らず、権
力を取って自由に横柄に謳歌するのだから問題を起こすのは当然だった。ビルマで起こ
った1947年7月19日の事件は、弟やその他の大臣4名、合計6名が会議中に射殺
された痛ましい事件だ。この射殺が、アウン・サン将軍を亡き後新政権の革命クーデタ
ーを起こした客家華人を率いたネ・ウインと目されるは当然であったが、全てが闇の中
で封印されてしまった。しかしノン・メルにしろこの東南アジアの悲惨さは全て華僑の
客家の流れの独裁者集団であった事は調べる程に出て来て恐ろしい程ユダヤ的だ。

1265: 名無しさんAA:18/08/20 15:52
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  311   >

。1942(昭和17)年3月1日、現インドネシア・ジャワ島のスラバヤ沖海戦では
、英重巡洋艦エクゼターと駆逐艦エンカウンターが旧日本海軍の艦隊に撃沈されている
。両艦の乗組員らは海に投げ出され24時間漂流。力が尽きる寸前の翌2日、雷に発見
された。「幸い海は温かかった。遠くに見えた船影が日本艦とわかった時は機銃掃射を
覚悟した」と、エンカウンターの士官だったフォール氏は語る。第二次世界大戦中、イ
ンドネシア沖海戦で艦隊が撃沈されて、漂流していた英兵422人を、この雷は救助し
た。旧日本軍の駆逐艦「雷(いかずち)」のを動かしていたのは工藤俊作艦長だった。
当時駆逐艦「雷」の砲術長は「雷」は艦隊に合流せよとの命令を受けスラバヤ沖を西進
中であった。姉妹艦の「電(いなずま)」も救助活動を行っており、この旗艦の司令官
も工藤艦長の決断を承認していたという。作家の恵隆之介氏は「工藤艦長が海軍兵学校
で薫陶を受けたのが鈴木貫太郎校長(海軍大将)だったからだ」と指摘する。大戦末期
に首相を務めた鈴木首相は45年4月、フランクリン・ルーズベルト米大統領の死去に
『深い哀悼の意を米国民に送る』との談話を発表し打電している。米国に亡命中のドイ
ツ人作家、トーマス・マンが「東洋の騎士道を見よ」と称賛している。3月2日午前7
時頃遥か洋上に点々とする多数の漂流物を発見、すぐに昨日の海戦で敗れた英国海軍将
とわかった。艦は直ちにエンジンを停止し収容作業が始まった。「雷」の乗員数は24
0人で救助した総数は、404人を数え、甲板はごった返した。怪我人や体の弱った者
も多く、2時間かけて艦上へ引き上げるのは大変な作業であった。「雷」は昨年11月
9日以来、4ヶ月上陸したことがなく、狭い艦内での生鮮食料にも事欠き、乗員には神
経質になるものもいて心がすさんでいた。私が心配したことは敵国兵に捕虜虐待をしな
いだろうかという不安であった。特に、年長の粗暴な水兵数人に注目していたが、彼ら
は優しく人が変わったように英兵の傷の手当をしていた。私はこの光景を見て心を打た
れ、目頭が熱くなり、感動のあまり甲板に立ちつくしたことが今もありありと記憶に甦
ってくる。英将兵は「雷」が近付いた時は、機関銃で皆殺しされるのではないかと思っ
ていた。それがこんなに優しく手当てされるとは思っていなかった。それはまさに、チ
ルバリー(騎士道)というべきもので、正に私は敗れた弱者に対する憐れみと寛容を見
たし、また受けたのであった。多くの西欧の人達には、第二次大戦中、日本人は野蛮で
非人情、あたかも「アッチラ族」か「ジンギスカン」のように印象づけられていた節が
ある。確かにそんな人達もいたであろう。しかし幸いなことに私の体験はこれと全く違
うものであった。と書いている。

1266: 名無しさんAA:18/08/20 15:53
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  312   >

 実は昔から、それは江戸以前から、日本人は「強さは日々の努力、勝つは時の運」と
してきた。つまり努力して人間を高めないと人を助ける程の強さを持てない努力せよ。
といい、一方で負けても弱くて負ける訳ではない。と言った思想があった。つまり戦陣
訓である「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ」などと言う
思想など後で作られたもので、それどころかあこうろうしの赤穂浪士の討ち入りででも
白虎隊の自決事件でも、その時の武士の生き様なり背景なりを語り部として人へ伝える
者をわざわざ於いている程に捕まった虜囚というものは誉れの資格があった。事実1914
年に第1次世界大戦が勃発し、日英同盟を結んでいた日本では、中国・青島を拠点に、
極東に進出する清・ドイツに宣戦布告し、日独戦争が起こった、地の利から圧倒的な兵
力の日本軍にドイツ兵が相次いで降伏する形で、3ヶ月もしないうちに終結した。この
時日本は、英国が引き取らなった為に、四千六百人以上のドイツ兵捕虜を受け入れるこ
とになった。当時の英国思想の、捕虜となって辱めを受けるくらいなら「自決」するの
が望ましいと考える風潮が出て来てドイツ兵も日本を望んだのだ。日本もこれほど大勢
の捕虜を受け入れることになるとは想定していない戦争だった。そこでまずは日本各地
の公民館や寺などを仮の収容所とした。捕虜としての正当な扱いを求めるドイツ兵から
の不満は増し、国際的地位を駈け上る事に必死だった日本の中で、先進国並みの収容所
をと1917年に新設されたのが「板東俘虜収容所」だった。板東俘虜収容所の所長には、
当時44歳の松江豊寿が任命された。陸軍の戊辰戦争に敗れた会津藩士の子として、降伏
した者の屈辱と悲しみを目の当たりにして育っていた苦労人でもあった。「薩長人ら官
軍にせめて一片の武士の情けがあれば」。そうつぶやく周囲の大人たちの苦悩の表情は
、幼い松江の心に深く刻み込まれていた。「武士の情け、これを根幹として俘虜を取り
扱いたい。」と、ドイツ兵捕虜を収容所に迎える前日、松江は部下にそう伝え、捕虜を
犯罪者のように扱うことを固く禁じ、捕虜という存在の理不尽と悲しみを、真に理解す
る松江の収容所運営を始めた。それまで欧州の収容所を経験していたドイツ兵は警戒心
を持って板東俘虜収容所にやって来た。松江は「諸子は祖国を遠く離れた孤立無援の青
島において、絶望的な状況の中にありながら、祖国愛に燃え最後まで勇戦敢闘した勇士
であった。しかし、刀折れ矢尽き果てて日本軍に降ったのである。だが、諸子の愛国の
精神と勇気とは敵の軍門に降ってもいささかも損壊されることはない。依然、愛国の勇
士である。それゆえをもって、私は諸子の立場に同情を禁じ得ないのである。願はくば
自らの名誉を汚すことなく、此処に居てほしい・・・。」と話している。

1267: 名無しさんAA:18/08/21 11:02 ID:YHg
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  313   >

 大戦中、タイとミャンマーを結ぶ泰緬鉄道の建設に駆り出された英兵ら連合国軍捕虜
5万5000人のうち1万人余までが死亡、英国内で元戦争捕虜らを中心に、戦後40
年たった当時は反日感情が強かったからだ。彼らの一部では今も、同じ思いを引きずっ
ている。戦後、外交官になり退職していた氏は「戦争はとうに終わった。日英間には真
の和解が必要だ」と願い、「雷で工藤艦長が艦橋で『戦いが終われば敵も味方もない。
全員救助せよ』と命じ、『救助活動中』の国際信号旗が掲げられ、乗組員は縄ばしごや
竹竿で英兵を次々と救助し「目の前で沈んでいく英兵もいた。われわれは220人。甲
板は倍近い英兵でいっぱいになった」「工藤艦長は集められた英士官たちに、『貴官ら
はよく戦われた。本日は日本海軍のゲストである』と述べ、十分な食料をふるまった。
」などとこの救助劇を寄稿して新聞に載せた。フォール氏が87年に米海軍機関誌に「
騎士道」と題して寄稿するまでして語られるまで、知られることはなく、こうした美談
に戦友らは旧日本軍を称えた氏をいぶかった。天皇、皇后両陛下が訪英された98年に
も英紙タイムズに同様の寄稿をしている。終戦まで3年半近くは旧日本軍の捕虜にもな
った。氏はその時の記憶を問われて、「その話はするつもりはない」と口ごもり、さら
に促すと、「金歯」と呼ばれる旧日本軍の軍曹が「2〜3人の捕虜を殴らないと熟睡で
きない」として捕虜を虐待していた事実を打ち明けた後、涙をぬぐった。しかし工藤氏
は79年に77歳で他界するまで、救助劇のことは家族にも語っていない。雷の元航海
長、谷川清澄氏(92)は「口が重く、温厚な人だった。きざな言い方をすれば武士道
だが、当たり前のことをしただけだから、決断した艦長も口外しなかった」と話した。
勝又氏によると、姉妹艦の「電(いなずま)」も救助活動を行っており、旗艦の司令官
も工藤艦長の決断を承認していたという。戦場にかける橋の題材にもなった様に泰緬鉄
道は熾烈を極め捕虜達は酷使されていた。しかしこの鉄道の建設は、早くの英領ビルマ
時代からイギリスが検討していた。しかし、地形が急峻で複雑であり建設を断念した。
と言う曰く付きのものだった。戦時中の1942年旧日本軍は既に船は標的となり、この鉄
道を頼りにしかできなくなっていた。海上輸送の危険を避け、ビルマ戦線の物資輸送の
ためのルートを確保するために建設を開始していた。背景として当時のビルマとタイの
間にマラッカ海峡経由の海上輸送路以外に補給に適したルートがなく、その海上輸送路
もミッドウェー海戦などで日本側が劣勢になり、海上輸送路とは別に陸上輸送路が求め
られていたからだ。

1268: 名無しさんAA:18/08/21 11:03
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  314   >

 1942年の6月にその建設は開始された。実は1944年6月の雨季が迫る中、病人が続出
した。佐藤は第十五軍の猛者を率き連れたままコヒマ死守命令を無視して撤退している
。終戦まで3年半近くは旧日本軍の捕虜で過ごしたとされるこの英兵達は過酷な時期で
あったと想像がつく。ビルマ側からは1942年6月28日にタンビュザヤより建設を開始され
、タイ側は1942年7月5日に南本線のノーンプラードゥック駅から始められた。建設作業
員には、日本軍1万2000人、連合国の捕虜6万2000人が携わった。そのうち英国人6904人
、豪州人2802人、和蘭人2782人、米国人133人の合計1万2621人が死亡している。他にも
、募集や強制連行による労務者(ロウムシャ)と呼ばれた労働者のタイ人数万(正確な
人数は不明)ミャンマー人18万人(うち4万人が死亡)マレーシア人(華人・印僑人含)
8万人(うち4万2000人が死亡)インドネシア人(華僑含む)4万5000人が使役された。
とされている。建設現場の環境は劣悪であり、いわゆるタコ部屋労働であった。特に工
事の後半の1943年には翌年のインパール作戦に向けての準備に加えて、敵潜水艦によっ
て海上輸送が困難になった。その為雨季にもかかわらずさらなる迅速さが要求されて、
食料不足からくる栄養失調とコレラやマラリアにかかって死者数が莫大な数に上った。
戦後に問題となった。犠牲者数は日本側とタイ・ミャンマー側の調査で食い違いが出る
。しかし殆ど総数の約半分が死んだ言われ、それは確かなようだ。特に、巨大な一枚岩
を掘り下げるなどしたヘルファイアー・パスと呼ばれる箇所や、断崖絶壁に沿わせるよ
うに木橋を建設したアルヒル桟道橋など未開発の地帯では、工作機械不足と突貫工事に
よる人海戦術のため、事故死が多かったという。また現場の作業を監督した鉄道隊には
国際法を理解したものが少なく、しばしば私的制裁が横行し建設続行された。こうした
労働者の多大な犠牲のもと、当初5年は掛かると言われた建設が1943年10月に完成した
という。しかし、完成後も連合軍の爆撃機により何回も空爆が行われ、橋は破壊されて
は復旧されることを繰り返していたと言う。それにも関わらず、連合軍は鉄道の輸送を
完全に止めさせることができなかった。これは「枕木一本、死者一人。」と言われる一
因となった補修工事を行っていたからだった。捕虜収容所は橋から近かった為に、連合
軍の爆撃は補修や保守が行われて居た時も行われ、外れた爆弾が多々落ちてきて、多数
の死者が出ていた。しかし結局は当初の予定では一日の輸送量3,000tの予定であったが
工期短縮のため1,000tになり、貧弱な線路は雨期の豪雨や空襲によりそれさえ達成でき
なくなった。突貫工事による欠陥により脱線事故が多発し、沿線のあちこちに機関車や
貨車の残骸が放置されていた。

1269: 名無しさんAA:18/08/21 11:04
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  315   >

当時のヘルファイアー・パスと呼ばれた切り通し崖は、破砕は夜を徹して行われた突貫
工事であった。建設現場で夜を徹して明りに灯されたかがり火が地獄の送り火に見立て
たものの呼称だった。完成後、1943年11月6日の大東亜会議共同宣言に続き、1944年3月
に開始されたインド国民軍と日本軍協同のインパール作戦に重要な役割を担った。がこ
の鉄道はそう多くは使われてはいない。戦後、捕虜虐待の責任と、軍作戦のための鉄道
建設に捕虜を使用したという戦争法規違反により、日本軍の泰緬鉄道および泰俘虜収容
所の関係者多数が起訴され注目された。イギリス軍オーストラリア軍のBC級戦犯裁判
が起こったのである。裁判の中で検察側は、俘虜収容所関係者に対しては「食糧・医薬
品が不足していたこと」や「病弱者も作業に就かせたこと」を責め、鉄道部隊に関して
は「作業が苛酷であったこと」を追及したが、それぞれの責任の限界を明白にすること
はできなかった。弁護側は、俘虜を使用しての工事の決定・計画は大本営が決めたこと
で現地部隊は決定に関与していないこと、鉄道建設使役者の健康に対して適切な注意と
保護ができなかったのは、雨季が例年より早く到来して交通が途絶し、コレラが突発的
に発生したためで、医薬品や食糧の欠乏も故意に行ったわけではないこと、また全体的
に不足していたのであって、捕虜に対して差別的な扱いをしたわけではないことを主張
した。又、俘虜の総数や死亡者数の事実関係については、日本側が使用総数を5万人、
死亡者数を10,672人と申告し、英軍側は米国俘虜の証言として英・米・蘭の俘虜総数6
万4千人、1944年10月までの死者は1万7千人であり、本裁判の対象外となっていた、
マレー俘虜収容所の指揮下にあったF隊とH隊の俘虜総数9,950人、死亡者数3,938人を
除くと俘虜総数は約5万4千人、1944年10月までの死亡者数は約13,400人であるとして
おり、両者の主張に大きな差はなかった。最も奥地での建設にあたったF隊では、過酷
な労働で約7千人の連合軍の捕虜のうち3千人余が死亡し、英国シンガポール裁判では
収容所と鉄道隊から7人が起訴され4人に死刑が宣告された。しかし、被告人が捕虜の
死を引き起こしたことも残虐行為に加わったことも十分に立証されず、高い死亡率の原
因は被告人たちの責任範囲外の要因によるとして再調査確認がされ、結果2人が終身刑
、2人が禁錮15年に減刑された。有罪となった被告人は、鉄道関係ではなく、泰俘虜
収容所の関係者が多く追及はもっぱら泰俘虜収容所関係者に向けられ、初代収容所長の
中村鎮雄大佐、二代目所長の佐々木誠少将とも、死刑を宣告された。泰緬鉄道建設裁判
では、「下級者に重く、司令官に軽い」傾向に、英国本国でも問題視された

1270: 名無しさんAA:18/08/21 11:05
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  316   >

 日米開戦当初は、華々しく日本軍は東南アジアや南太平洋で連戦連勝し、多数の連合
国軍兵士を捕虜にした。占領地域や日本国内に収容所を設置し、捕虜に過酷な労働を課
した。道内でも函館や室蘭など計9カ所の収容所で、1500人以上(終戦時)が港湾
荷役や炭鉱労働などに従事させられた。日常的に暴力が横行し、食事も不十分だった。
戦時中の捕虜収容所について。シャーウィン裕子は『それでもぼくは生き抜いた−日本
軍の捕虜になったイギリス兵の物語』(2009年12月、梨の木舎発行)を書いている。「
知らない」ということは恐ろしいことだ。英国やオランダにおいて対日感情が悪いのは
、捕虜問題が原因であることは当然ながら知ってはいたが、例えば英国の場合、6万人
近くもの旧日本軍による捕虜がいて、そのほとんどが、ジュネーヴ条約に違反した過酷
な取り扱いを受けていた。と言う現実にはまだまだ人は知らずに過ごしている。この本
にある、その数の大きさ、また苛酷な実態に改めて驚くだろう。著者は1960年から
30年間アメリカに暮らし、現在は英国在住で、その生活のなかから「捕虜」と出会っ
ている。アメリカで 「Remember Pearl Harbor」などと言われてはいるが、一方で日本
の主要都市への無差別爆撃、原爆の投下などがあるために、戦争に関する怨恨はお互い
様的なところがある。しかし、英国には地理的にも遠くドイツへの憎しみもあり、アメ
リカが日本を占領したような「接触」もなく、また、捕虜の人数も莫大なものだった。
そのために、日本への恨みが長くのこった。それでもこの本で取り上げられた元捕虜の
5人の人々の恨みは、おそらくはある意味で例外的なひとびとなのかもしれない。又、
終戦時にはその憎しみが日本兵捕虜に向けられ、日本兵を残虐に『人間以下に』扱った
イギリス軍があった。それがビルマ戦線日本兵捕虜のの「アーロンの収容所」である。
ラングーンのアーロン収容所は降伏した日本兵は武装解除後に、収容所に入れられた。
敗戦により捕虜となった日本兵は、その扱いは国際法やジュネーブ条約による戦争捕虜
の待遇にはせず、「降伏日本軍人」という枠を設けて、国際法に抵触しないとされる程
度の特別の取り扱いが行われた。アーロン収容所はラングーンの塵埃糞尿集積所と道一
つ挟んだ場所に設けられ、そこで発生するすさまじい悪臭と蝿が襲ってくる場所であり
、コカイン収容所は家畜放牧場に接し、集中的な放尿所のそばであり、「他にも空地は
無限なほど多かったのに、どうしてこういう場所を収容所として選んだのか」と書かれ
ている。


1271: 名無しさんAA:18/08/21 11:07
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  317   >

 彼らにとって捕虜は人間では無かった。捕虜は英軍の部屋に入るのに、ノックをする
必要さえ無かった。これは日本軍捕虜が信頼されていた訳では毛頭なく、ただ人間扱い
されていなかっただけに過ぎない。以下は、本書でよく引用される部分である。その日
、私は部屋に入り掃除をしようとして驚いた。一人の女が全裸で鏡の前に立って髪をす
いていたからである。ドアの音にうしろを振り向いたが、日本兵であることを知ると、
そのまま何事もなかったようにまた髪をくしけずりはじめた。部屋には二、三の女がい
たが、寝台に横になりながら『ライフ』か何かを読んでいる。なんの変化もおこらない
。私はそのまま部屋を掃除し、床をふいた。裸の女は髪をすき終わると下着をつけ、そ
のまま寝台に横になってタバコを吸いはじめた。その他にも、日本人捕虜の衛兵を全く
気にすることなく、男女の交わりを遠慮なく見せる英軍下士官の例も挙げられている。
英国の或いは他の西欧諸国の植民地経営が、それなりに実効的であったのは、原住民を
全く人間扱いしなかったという点に負うところが大きいと考えられている。敗戦後には
著者の会田は武装解除され約2年間の捕虜生活を送る。その舞台が題名にもなっている
ラングーンのアーロン収容所である。前書きにはこうある。「すくなくとも私は、英軍
をさらには英国というものに対する燃えるような激しい反感と憎悪を抱いて帰ってきた
のである。」「私たちだけが知られざる英軍の、イギリス人の正体を垣間見た気がして
ならなかったからである。いや、たしかに、見届けたはずだ。それは恐ろしい怪物であ
った。この怪物が、ほとんどの全アジア人を、何百年にわたって支配してきた。そして
、そのことが全アジア人のすべての不幸の根源になってきたのだ。私たちは、それを知
りながら、なおそれとおなじ道を歩もうとした。この戦いに敗れたことは、やはり一つ
の天譴というべきであろう。しかし、英国はまた勝った。英国もその一員であるヨーロ
ッパは、その後継者とともに世界の支配をやめてはいない。私たちは自分の非を知った
のだが、しかし相手を本当に理解したであろうか。」と。日本が、ビルマに軍政を敷い
て日本統治を進めた時、ただちに独立は認めなかった。ただし、バー・モウを首班とす
る自治政府の整備を進めている。それと同時に、日本軍は、ビルマ独立義勇軍の縮小再
編を進める方針を決めた。これは、肥大化したビルマ独立義勇軍を規律のとれた国軍と
して整備する意図と、アウンサンらがビルマ人の支持を集めて日本の占領統治の妨げと
なることへの危惧から、決まった方針だった。しかし実はこの頃帝国陸軍でも海軍でも
日本国籍の中で他民族だった兵士の特に朝鮮人達からの虐めが著しく、それは残虐さを
極めた。英国の植民地政策が経済障害を起こしたが日本は人種弊害を起こしていた。

1272: 名無しさんAA:18/08/21 11:08
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  318 >

 南方戦線での上陸するアメリカ兵にとっては、実は恐怖以外何ものでも無かった。と
言うのも戦況が終わりに連れ、泥仕合の如き様相だったからだ。死んだふりをしておい
て手榴弾を投げつける日本兵。白旗の下に機関銃乱射する連合軍兵、負傷したふりをし
てアメリカ軍の衛生兵に救いを求め、近づいた相手をナイフで刺し殺す卑劣。水の採取
に薬品を混入する米兵のやり口。それぞれに奇襲攻撃や過剰攻撃が日々行われていた。
おかげで海兵隊員たちは日本兵を激しく憎み、捕虜にとる気にもなれなかった。戦後に
書かれた公刊戦史の歩兵の回想録も、こうした憎悪にはめったに触れていない。しかし
あの戦いのさなか、海兵隊員たちは間違いなく、心の底から、激しく日本兵を憎んでい
た。こうした憎悪を否定したり軽視したりするなら、私が太平洋の戦場で生死を共にし
た海兵隊員たちの固い団結心や熱烈な愛国心を否定するのと同じぐらい、真っ赤な嘘を
ついていることになるだろう。ある時見つけた海兵隊は木に吊られそのまま食肉とされ
ていた。人は食べる物を探しだすと、人肉まで食して生きながらえた。上陸部隊は巧み
に配備された防御網を越え、海岸線から島の中心部を走る尾根筋の地下深くに陣を構え
た師団司令部にまで、網の目のように一分の隙もなく張り巡らされていたし、落とし穴
も、落石も背後のナイフも数々の罠を越えて行く事になる。1台や2台の戦車や火炎放
射器は直ぐに使えなくなる。万歳攻撃の為だ。島そのものを一つの前線に見立てた日本
軍の強さは、水も漏らさぬ完璧な「縦深防御」の態勢を築いていたのである。そして、
最後の守りが落ちるまで、守備隊は徹底抗戦を続けてくる。思わぬ深夜の襲撃には、食
糧を奪わずに殺しに来る。とても本隊から外れては動けなかった。峻険な地形に助けら
れて、日本軍の戦術は目覚しい成果をあげた。ライフル兵のつかない戦車は、日本軍の
地雷を抱いた決死攻撃に破壊されるのが必定だった。太平洋戦線で、戦車がライフル兵
を伴わずに行動を試みたのは、私の知るかぎり、沖縄戦における陸軍戦車隊が唯一の例
だった。つまり大量上陸しないかぎり無駄だったのである。例え小さな島でも上陸部隊
は大隊を付けねばならなかった。予想どおり、戦車の大半は日本軍に破壊された。日本
軍の夜襲は悪夢だった。その後島を去るまで夜ごとに襲われたあの身の毛もよだつ恐怖
を味わっていた。日本軍は夜襲の戦法に長けていたが、ペリリュー島ではその戦法に一
段と磨きがかかっていた。ペリリュー島の日本軍の攻撃は見事なまでに無駄がなく、ど
の兵器を使うときも、決してむやみに撃ってくることはない。日本軍は常に、我々には
最大限の損害を与えられるタイミングを狙いすまして撃ち、チャンスが去るとただちに
砲撃を停止する。

1273: 名無しさんAA:18/08/21 11:08
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  319 >

 近くにさらに二発ばかりの迫撃砲弾が炸裂した。われわれの運も尽きてしまいそうだ
った。日本軍の砲手の腕前はいつもなかなかのものなのだ。ファイブ・シスターズの陣
地に篭る日本軍兵士がわれわれから片時も目を離さずにいるのがわかっていた。しかし
狙撃兵の銃弾や迫撃砲弾が飛んでくるのは、こちらに最大限の損害を与えられると見極
めたときだけだった。日本軍の射撃に関する規律は見事というほかなかった。もし彼ら
が発砲したと言う時は、ほぼ例外なく誰かに当たり死人が出る時だった。相変わらず、
尾根筋を攻撃しつづけている第一連隊に同情の念を禁じ得なかった。第一連隊の死傷者
は、すでに膨大な数にのぼっていた。それでも小山の尾根を制覇出来ない。「噂による
と、第一連隊は地獄を見ているらしいぞ」とスナフが言った。「かわいそうに、同情す
るよ」と仲間の一人が応じた「ああ、おれもだ。だがなんとかしてあの尾根を占領して
もらいたいもんだ。おれたちまであそこに行かされたんじゃ、たまらんからな」と、さ
らに別の者が言う。「あの尾根からの敵の砲撃は地獄そのものだったな。双眼鏡を使っ
たって相手の砲の位置は見えやしないんだから」と誰かが付け加えた。「なあ、スレッ
ジハンマー。第一連隊のやつに聞いたんだが、彼らは銃剣を構えて あのいまいましい
尾根に正面攻撃をかけているが、どこから撃たれているのかもわからず、肝心のニップ
の姿すら見えないらしい。どうみたって馬鹿馬鹿しいじゃないか。あんなこと続けてて
も何にもならん。みすみす虐殺されてるようなもんだ」「そうだな。どっかの見栄っ張
りの士官がもう一つメダルでも欲しいんだろうよ。おれたち歩兵はそのために戦場で倒
れるんだ。士官は勲章もらって、国へ帰って、大いに英雄扱いされる。英雄だなんて、
馬鹿馬鹿しいにもほどがある。部下の兵士を殺されておいて、どこが英雄なんだ」と別
の古参兵が恨みごとを言った。哀れな海兵隊員はすっかりおかしくなっていた。戦闘の
ストレスでついに気がふれてしまったのだ。まわりの者がその兵を鎮めようとしていた
が、男は激しくのたうちまわって、言うことを聞かない。悲惨なまでに神経をいたぶら
れてきたこの戦友は、忍耐の限界を超えてしまったのだ。日本兵が飛び込んだタコ壷で
は、見張り番の海兵隊員に油断はなかったが、続く取っ組み合いのなかで両方とも武器
を取り落としてしまった。万事休した海兵隊員は人差し指で敵の眼窩を抉って殺したの
だという。われわれにとって戦争の実態とは、かくも残酷でおぞましいものだった。
その日本兵の口元には大きな金歯が光っていた。


1274: 名無しさんAA:18/08/21 12:41
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  320 >

川邉正三(かわべしょうぞう)中将は更に牟田口の上将で親知の中にある。彼と牟田口
廉也とは盧溝橋事件当時も部下と上司の関係で、インパール作戦に際しては「かねてよ
り牟田口が熱意を持って推進してきた作戦なのでぜひやらせてやりたい。」と作戦を認
可したと言う。全く戦争を私物化した大馬鹿だったと言える。まるでゲームのごとくに
日本を敗戦に導いた張本人であろう。最終階級は陸軍大将で富山県出身。ビルマ方面軍
司令官、航空総軍司令官、第1総軍司令官を歴任した。この航空総軍司令官こそが陸軍
航空隊でありながら特攻作戦などを考えた最も忌まわしき軍司令官だったのだ。人を自
爆の武器にしての戦争をすると言うのは普通の軍人には思いつかない発想である。つま
り彼は大前提である生きる為の戦いを棄てた発想者だった。全く戦争は人が死んで行く
もので戦果や戦略などどうでもいいと言う、全くの無知の軍人だった。インパール作戦
を指揮したのも、彼には国の為とか領地確保など、彼にはその戦略的意味はなかった。
第15軍司令官の牟田口廉也陸軍中将はこの上官を補佐して力尽きたようなものだった
のだ。敗色濃厚となった1944年(昭和19年)6月に牟田口を訪ねて戦況を確認した際
、両者とも作戦の中止を内心考えていたと言うほどいい加減だった。インド独立運動の
指導者の一人であるスバス・チャンドラ・ボースのことを極めて高く評価していたにも
関わらず支援するインドの為に戦うと言う姿勢がない。河辺はラングーンでボースと始
めて会見した際、歓迎の宴席で示されたボースのインド独立にかける意志と、その後の
態度を見てボースに惚れ込み、「りっぱな男だ。日本人にもあれほどの男はおらん」と
述べたという。只、彼の戦況把握も出来ない愚将中の愚将であり続けた事は大問題だっ
た。大本営>南方軍(総軍)>ビルマ方面隊>第15軍>各師団(15師団31師団3
3師団)という組織構造でビルマ方面隊を預かりながら、1943年12月「15軍」司令部
にて最終検討し「補給を無視した机上の計算」で「3週間以内にインパールを落とす」
と結論付けた。15軍司令牟田口廉也中将は「英軍は弱い、補給無くても勝てる、天長
節(天皇誕生日)までには占領する。」と強気な発言に、ビルマ方面軍参謀長「中永太
郎」は補給困難を訴えた。この時よく話補給問題を解決すれば良かったのだ。上級司令
部南方軍総参謀副長の「綾部橘樹」がこれを決定したが、参謀総長「杉山元」元帥は、
「寺田さんのたっての希望だから是非やらせてあげてくれ」と反対を抑えて最終的に承
認をした。牟田口の攻撃は理にかなった電撃戦ではあったが、闇雲に補給も無しでは、
人は戦えなかったのである。

1275: 名無しさんAA:18/08/21 12:42
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  321 >

 このマレー上陸作戦からインパール作戦に移行する頃、日本軍は直ぐに戦争を終らせ
たかったのは間違いない。しかし後の陸軍大臣になった阿南や川邉などと、牟田口更に
この佐藤との意識の乖離は考えられないほど大きかった。戦争認識その物が違っていて
阿南や川邉は戦争するのが運命であり戦場で死ぬのも天命で、今まで死んで行った先人
の後を追いかけて当然で、武運と行くのは生きて残る事では無く、戦争に勝つ事だった
。したがって、捕虜や俘虜になろうともそれは武士と同じく兵士として戦った証で栄誉
であった。が佐藤などの世代は違っていた。欧米の植民地政策や奴隷制度など関係なか
った。必死に生きる事が大事であり、戦いは勝ってこそ意味ある物だった。捕虜も奴隷
も敗戦国の労働者であり、植民地政策や奴隷制度が人類の不幸の遺産などと言う視野は
何処にもなかった。従って食料の無い中では敵は只の無駄飯で戦場なら死んで当然とい
うのが戦陣訓の教えだった。天皇は尊ぶなどと言う物でなく雲の上の仰ぎ見る物で全く
生活や行動には関係ない物だった。阿南は1945年(昭和20年)に鈴木貫太郎内閣の陸軍
大臣に就任して、太平洋戦争(大東亜戦争)末期に降伏への賛否を巡り混乱する政府に
おいてしつこく戦争継続を主張した。しかし、聖断によるポツダム宣言受諾が決定され
、8月15日の終戦に割腹自決をした。日本の内閣制度発足後現職閣僚が自殺したのは
これが初めてであった。阿南が産まれたのは明治20年で日本が先進諸国に仲間入りし
格差社会消費文化が産まれた頃だった。これまでの金の要らない生活が経済中心に動き
田舎と都会或いは政府の言う事と町の風習とにかい離があった。阿南の部下であり、そ
の自刃にも立ち会った井田正孝陸軍中佐によれば、阿南が求めていたのはただ国体護持
のみであり、その目的のためあらゆる可能性を残しておくべく、抗戦派・終戦派のいず
れにも解釈できる態度だったが、陸軍の砦としてもてはやされた結果であろう。米内を
相当嫌っていたが、同じ和平派だった鈴木や東郷に対しては、阿南は前述のように自決
前に礼儀正しく和やかな別れを告げに訪れている。河辺も明治19年に産まれている。
インパール作戦の遂行が滞り、日本軍の敗色が濃厚となった昭和19年、河辺は牟田口
を訪問し戦況を確認し合ったとされる。2人とも既に同作戦の失敗を認めた上で、その
中止の是非を検討した。しかしこの2人が面会した時、牟田口は、河辺の口から、河辺
は牟田口から同作戦の中止命令を出させ、作戦失敗の責任を相手に被らせようという、
したたかな狙いがあった。所謂保身だった。だが川辺自体は恐らく牟田口に騙されたの
であろう。

1276: 名無しさんAA:18/08/21 12:43
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  322 >

 インパール作戦の推移について、この二人に状況把握は困難だったろう。連合軍側は
第14軍第4軍団(英印軍3個師団基幹)を中心に、約15万人がこの地域に配備され
ており、オード・ウィンゲート准将のこの地のコマンド旅団が、ビルマ地域の日本軍の
脆弱な補給線への破壊活動の分析を行い攻撃していた。また、暗号解析などにより的確
に状況把握と敵軍位置を把握し 1944年2月頃までに日本軍が三方向より侵攻するという
攻撃計画は、全ての全容を把握していたのである。つまり隠れての牛の行軍だったから
見つかったのでなく、最初から狙われていたのだ。そこで第14軍司令官スリム中将な
ど連合軍司令部では既に、重火器装備をそろえた上で、空輸作戦による補給体制を確立
する一方、本国に増兵や海軍航空隊の要請まで行っていた。英印軍部隊をインパールま
で後退させつつ防御戦闘を行うことで、後方兵站部隊の脆弱な日本軍を疲弊させ、その
進出限界点(攻撃の限界点)であるインパール平原で一気に反攻に移る作戦を固めて、
待ち構えて、一方で終戦過ぎてもグルカ兵の傭兵を募集し、獲得し続けていた。もっと
も、ウィンゲート旅団参謀長だったデリク・タラク少将は、上記のインパールまでの後
退が第14軍の作戦通りだったとする多数説には懐疑的である。タラクによれば、1944
年2月末時点でも確固たる作戦計画が無かったのが実情だったという。つまり強靭な現
地人グルカ兵を次々とハンティング契約しては、パラシュート降下のみ訓練し飛行機で
周辺部隊に物資と共に送り込んで居たのである。当然日本はそれを知らずに進軍した。
この作戦の困難さを、吉川正治は次のように説明している。「この作戦が如何に無謀な
ものか、場所を内地に置き換えて見ると良く理解できる。インパールを岐阜と仮定した
場合、コヒマは金沢に該当する。日本の第31師団は軽井沢付近から、浅間山(2542m)
、長野、鹿島槍岳(長野の西40km、2890m)、高山を経て金沢へ、第15師団は甲府付近
から日本アルプスの一番高いところ(槍ケ岳3180m・駒ヶ岳2966m)を通って岐阜へ向か
うことになる。第33師団は小田原付近から前進する距離に相当する。兵は30kg - 60kg
の重装備で日本アルプスを越え、途中山頂で戦闘を交えながら岐阜に向かうものと思え
ば凡その想像は付く。後方の兵站基地はインドウ(イラワジ河上流)、ウントウ、イェ
ウ(ウントウの南130km)は宇都宮に、作戦を指導する軍司令部の所在地メイミョウは
仙台に相当する。」と言っている。

1277: 名無しさんAA:18/08/21 12:44
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  323 >

 つまり東京から川や山を越え、富山や新潟に戦闘しながら行く様なものだった。移動
手段がもっぱら徒歩だった日本軍にとっては、戦場に赴くまでが既に苦闘そのものであ
り、牛馬がこの峻厳な山地を越えられないことは明白だった。ましてや雨季になれば、
豪雨が泥水となって斜面を洗う山地は進む事も退く事もできなくなり、河川は増水して
通行を遮断することになる。そして20〜50sを担いで行進したのだ。河辺と牟田口
が思案している間、結局、同作戦の中止決定は遅れ、損害は拡大。戦闘で華々しく散る
事なく、第15軍の大体はつまるところ牟田口からの食料の補給を止められ、ガダルカ
ナル戦と同じに無残に餓死しや病死や溺れ死んで行き、勇猛果敢でこれからの将兵達が
路傍の露となった。作戦に加わった日本軍将兵約9万人のうち、戦死者・戦病死者3万
人超えて、後送の戦病者約2万人となった。この痛みに河辺は、戦後、特攻平和観音奉
賛会という団体の発起人となり慰霊碑を経てた。つまり、自分の葬儀に至るまで自己の
弁護に明け暮れた牟田口は死より罪を恐れたが、それと比べ既に罪人の生死観を持って
戦場にいた河辺は生まれた時から価値観が違っていたのである。彼には弟に河辺虎四郎
と言う名将がいた。陸軍大将河辺正三の弟として同じ陸軍で陸軍航空総監部総務部長や
総監部次長にまでなっている。1943年(昭和18年)中国に居たが東京に呼ばれ敗戦にな
った際、連合国と会談するため全権としてマニラに赴いている。ドイツ武官から第7飛
行団長になった。日本の航空隊は海軍の空母の前に出来ていた。だが飛行機で編成され
た実戦部隊としては、第一次世界大戦(日独戦争)の時1914年(大正3年)青島の戦い
に初めて実戦投入された臨時航空隊(青島派遣航空隊)が日本陸海軍初の実戦飛行部隊
となったと言う。1915年(大正4年)12月10日には臨時でない常設の飛行部隊として、
日本の航空発祥の地である所沢陸軍飛行場にて航空大隊が編成され、1917年(大正6年
)には計6個大隊を保有していた。1919年(大正8年)に官衙たる陸軍航空部が設立、
1925年(大正14年)に陸軍航空本部に昇格し、同時に航空兵科が独立した。第2飛行
隊は新京を本拠地とし1935年(昭和10年)に作られた関東軍飛行集団が、1937年(昭和
12年)第2飛行集団とそれぞれ改称された。そして、1942年(昭和17年)に第2飛行師
団と改称し、満州での防空を担当した。しかし特攻攻撃で機数が不足し第7飛行師団下
に入った。


1278: 名無しさんAA:18/08/21 15:11
佐藤師団長は「このままでは無駄に死者が増える。」と作戦続行の命令を無視して独断
でコヒマ撤退を決意した。病兵1500名の後送を指示して、6月1日主力を補給集積
地のウクルルまで撤退させた。このときビルマ方面軍にむけて激しい司令部批判の電報
を送った。内容は「でたらめな命令を与え師団が躊躇すると軍規を盾に責めるとは、部
下に不可能な事を強要する暴虐だ。」と書いている、しかし撤退したウクルルにも弾薬
、食糧が全く無く、独断で更に後方の「フミネ」まで後退した。佐藤師団長は死刑を覚
悟し軍法会議にて第15軍司令部の作戦指導を糾弾するつもりだった。命がけの命令違
反によって、より多くの兵士の命が奪われることとなった。牟田口司令は独断によって
作戦途中に3師団の師団長を解任するという前代未聞の処置を戦場で行う。佐藤中将は
死を決して軍法会議で作戦失敗の責任を明らかにしようと決意し、陸軍上層部は作戦失
敗の責任が軍中枢まで来る事を恐れて、「佐藤中将、心神喪失」の診断を下し不起訴と
し、組織の防衛を優先させた。当然でもある。コヒマは攻略は出来たが、食糧がなく、
新任の佐藤は逼迫した。早めにディマプールに進軍すれば良かったがコヒマに固執した
。その調査の無さは責任所在の曖昧さや狎れ合いの人間関係を示し、無知で無謀な作戦
を立案し断行した理由でもあった。70,000人の死傷者をだした作戦司令部の責任
は問われることはなく、かえって陸軍中枢の人達は作戦失敗は戦意の低い佐藤ら三人の
師団長が共謀し招いたものとして非難と責任を師団長に負わせた。対して佐藤幸徳中将
は弁明せずに、戦死者の家に出向き黙って焼香して帰っていったという。同年6月5日
インタギ―村にて15軍牟田口司令とビルマ方面軍川辺司令は、会議をしていた。その
時のそれぞれの思いが後に明らかになる。その時の川辺司令は「牟田口は何か言いだし
たくても言いだせない顔色だった。露骨には聞かなかった。」といい牟田口司令は「作
戦断念が喉まで出かかったが言えなかった。顔色で察してほしかった。」と尋問調書に
ある。牟田口は「4月末ごろ作戦失敗と思ったが、その時、川辺司令が早期撤退を渋り
従うしかなかった。」と話している。こうして陸軍が作戦中止の決断を欠く中、日本軍
は壊滅に追いやられたのである。同年7月1日になって、やっと東條参謀総長は中止を
天皇に奉上し、無謀で無知な作戦は終了した。その後も大本営参謀総長「杉山元」元帥
は小磯内閣陸軍大臣となり、南方軍総司令「寺内寿一」元帥は終戦まで留任した。佐藤
は軍規に照らし命令違反は大罪だった。が無知で無謀な命令に命がげで背き部下の命を
救った勇気ある行いは賞賛に値し、軍人である前に一人の人間として、立派な武勇者の
物語がそこにあったと書く。が、真実は決死の撤退よりは、決死の進軍すれば、楽々と
食料や武器弾薬が得られたを見誤ったのである、自らの調査偵察という仕事をしなかっ
た為に。

1279: 名無しさんAA:18/08/21 15:11
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  325 >

彼らの足を後退させたのは、本当はグルカ兵の強靭さだったのだろうと思う。援蒋ルー
トで兵器や物資を送ったのはグルカ兵にだった。一方食い物も無く砲弾も尽き、痩せ細
って道に迷う日本兵は、きっと戦いにはならない程で、今までの供給食糧にも、住民の
白い眼や反対の声が上がり始めて、このままいけばイギリスに味方する住民を処罰して
対住民戦になる。と踏んだのだろう。それが怖くなって佐藤幸徳中将が退却した理由で
あったろう。と想像する。ビルマ方面軍司令「川辺正三」中将は、何故か大将に昇進し
航空総軍司令官で特攻を指導し15軍司令「牟田口廉也」中将は予科士官学校校長にな
っている。佐藤幸徳中将は「大本営、総軍(南方軍)方面軍(ビルマ)、15軍という
馬鹿の4乗がインパールの悲劇を招来した」と痛烈な批判した言葉を残したが、それは
勘違いも甚だしいものだ。英国軍側ではスリム中将を司令官とする14軍は、兵力は3
倍にして、改めて250万トンの空輸補給可能な状態で戦車まで装備して態勢を整えて
いた。既に日本軍をインパール周辺に引き込み、補給ルートが伸びきった時点で一気に
叩く作戦を考案して退却し実行していたのである。5月16日現場は苦戦を強いられて
いるにも関わらず「東條英機」参謀総長(首相兼務)は、わざわざ天皇に「作戦に不安
無し、剛毅不屈、既定方針の貫徹に努力いたします」と上奏文を送っている。嘘も甚だ
しい上奏であった。これに似たのが満州事変後の東条の軍の習性である。16期の同期
生が南ドイツの保養地バーデン・バーデンで来たるべき戦争に、人事刷新と軍制改革を
断行して、陸軍における長州閥打倒、満蒙問題の早期解決、革新運動の断行を誓い合っ
たとされる。東條は板垣征四郎や石原莞爾らと共に会の中心人物となり、満州問題解決
方策大綱が完成している。これには、張作霖爆殺事件の3ヶ月前(3月1日)の木曜会で
、既に対露戦争を準備するべき旨を述べ「満蒙ニ完全ナル政治的勢力ヲ確立スル事」を
目標とし木曜会の結論を、米国参加に備えながら「満蒙ニ完全ナル政治的勢力ヲ確立ス
ル」と決定している。この方針が永田鉄山、岡村寧次などが揃った中で出され、その後
二葉会や一夕会などを含め二・二六事件を起こさせた。関東軍内部で関東憲兵隊司令官
・関東局警務部長の立場で検挙し、こうして支那事変(日中戦争)を勃発させて、東條
は察哈爾派遣兵団の兵団長として察哈爾作戦に参加しているのである。



1280: 名無しさんAA:18/08/21 15:12
 つまり、日本で起こった2、26事件もこのこの東条達が裏で糸を引いていたと言え
る。二二六事件は、皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが 1,483名の下士官兵を率い
て起こした日本のクーデター未遂事件である。とされこの事件の結果岡田内閣が総辞職
し、後継の廣田内閣が思想犯保護観察法を成立させた。この頃は格差社会が広がり、統
制経済による高度国防国家へ、と改造計画した陸軍中央幕僚と、上下一貫・左右一体を
合言葉に特権階級除去の天皇政治の実現を謳う革新派の隊付青年将校が対立していた。
はじめは懐柔策を講じていた幕僚らも、目障りな隊付青年将校に圧迫を加えるようにな
っていった。五・一五事件(1932年)で犬養毅総理殺害事件が起き、真崎甚三郎教育総
監の罷免事件は、永田鉄山が惨殺される1935年(昭和10年)相沢中佐事件になって現れ
た。三井財閥で血盟団事件(1932年)で団琢磨を暗殺され、1936年(昭和11年)に2月
にこの事件は起こった。この首謀者とされた磯部は「ロンドン軍縮条約以来、統帥権干
犯されること二度に及び、天皇機関説を信奉する学匪、官匪が、宮中府中にはびこって
天皇の御地位を危うくせんとしておりましたので、たまりかねて奸賊を討ったのです。
……」と答えている。言わば天皇機関説とは言わば日本と言う名の会社の経営者と言う
考え方である。あくまでも天皇は現人神で万世一系の頂点でなければならなかった軍の
考えとは対立していた。「大義を明にし、人心を正さば、皇道奚んぞ興起せざるを憂え
ん」これが維新の精神であります。と答えていて、既に真崎甚三郎でさえも、このまま
では血を見るし、物を言えば真崎が先導したと言われる。と悩んでいる位だ。石原には
この反乱軍の意向が来ていた。従って一方で賛意を示し、一方であぶり出し側に加担し
た。東条は第1次近衛内閣の時 陸軍大臣板垣征四郎の下で、陸軍次官、陸軍航空本部
長に就くが、天皇は非常に杞憂した。ところが本部長になると勝手に人事局課長・額田
坦に強引な赤松貞雄少佐の強引な引き抜きをし、軍人会館で「支那事変の解決が遅延す
るのは支那側に英米とソ連の支援があるからである。従って事変の根本解決のためには
、今より北方に対してはソ連を、南方に対しては英米との戦争を決意し準備しなければ
ならない。」と発言し、「東條次官二正面作戦の準備を強調」と新聞報道される程に、
戦争遂行主義を取っていた。その為板垣の下で退職を迫られるが「多田次長の転出なく
ば絶対に退職願は出しませぬ」とダダをこねて抵抗し、結局多田は転出となり、同時に
東條も新設された陸軍航空総監に補せられた。近衛は、支那派遣軍総司令部から「アメ
リカと妥協して事変の解決に真剣に取り組んで貰いたい」と見解を述べたが、東條の返
答は、「第一線の指揮官は、前方を向いていればよい。後方を向くべからず」と言う返
事で、全く、人馬皇軍を犯した物言いで終わっている。


1281: 名無しさんAA:18/08/21 15:13
 近衛内閣の後任首相については、対米協調派であり皇族軍人である東久邇宮稔彦王を
推す声が強く決まる筈だった。皇族の東久邇宮であれば和平派・開戦派両方をまとめな
がら対米交渉を再び軌道に乗せうるし、また陸軍出身であるため強硬派の陸軍幹部の受
けもよいということで、近衛や重臣達だけでなく東條も賛成の意向であった。ところが
内大臣・木戸幸一は、独断で東條を後継首班に推挙し、天皇の承認を取り付けてしまう
のである。この木戸の行動については今日なお様々な解釈があるが、此処に米国側の工
作もあった。木戸は、太平洋戦争前後の政治に関与した罪で、敗戦後にGHQによって
戦争犯罪容疑で逮捕され、東京裁判において終身刑となったが後に仮釈放された。宮中
政治に深く関与し、宮中グループの学習院時代から親独派として知られた人物で全くも
って危険人物だった。日米交渉の行き詰まりによって、広田弘毅は外務に従事していて
既に戦争しかない道の途上にある事を認識していた。1938年(昭和13年)1月22日の
広田は、帝国議会で「到底事変解決の見込ないことが明かとなったのであります。」と
述べ、「帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待」するとした。この
後に南京に日本の支援で「中華民国維新政府」が設立されたが、蒋介石率いる重慶国民
政府との交渉ルートは絶たれ和平は絶望的になっていた道を作った。こうした路線転換
を図った近衛は内閣改造を行い、広田は外相を辞任したが、後任はかつての広田内閣後
の首相候補となった宇垣一成であった。が、平和主義者だった宇垣は、参謀本部の石原
莞爾らから疎まれ、彼らが中心となって陸軍の反発は予想を超えて陸軍大臣を推挙しな
いと言う作戦を取った為、宇垣内閣は成立しなかった。この時から木戸幸一は対米開戦
の最強硬派であった陸軍を抑えるのは東條しかなく、天皇の意向を絶対視する人物と見
て政治工作に乗っていた、昭和天皇の意を汲んで戦争回避にもっとも有効な首班だとい
うふうに逆転的発想をした。といわれるが、それらはドイツの対ソ両面作戦での、日本
工作で成立する筈ない夢外交だった。つまり友人のドイツ人に木戸幸一はそそのかされ
て、「戦争しても勝てば問題ないではないか、その為には開戦派の東条なんかが相応し
い。」などとと進言されていたのである。ドイツの秘密兵器もどんどんと教えますよ。
とか言われて、なるほどと思ったのだろう。こうした、いい加減人事をさせたのが石原
莞爾である。彼は最終戦争論者で日本は生き残りを賭けて戦うべきだと言う異色の開戦
論者だったからだ。口だけ上手く尻拭いしないこうした策士が上位者になった時代で、
天皇は全く発言できなかった。この木戸幸一のドイツ式の保身によって全く日本は苦境
に陥ったのだ。この石原莞爾の同窓生がインパールを指揮した河辺正三を兄に持つ河辺
虎四郎なのである。つまりこいつらが策略に長けた一番の戦犯だったのだ。


1282: 名無しさんAA:18/08/21 15:16
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  328 >

 インパール作戦では、「牟田口廉也」司令官は苦戦している前線部隊に対し「天長節
までに成功せよ」と無謀な激文を送っていた。司令部からは「これから弾薬食料を送る
から進撃せよ」などの電文が来るだけで、全くいっこうに物資は来ない。佐藤師団長「
15軍の補給の約束はまったくのでたらめである」と激怒した。それに対し牟田口司令
は弱気と決めつけ「食うものが無くても勝て」と電文している。この頃、一部隊(10
0人)の一日分の食料が手のひら一杯の米しかなく「飢え」は「極限状態」に達してい
た。又それ以上に雨季も重なり「赤痢」「マラリア」にかかる兵士が大勢いて、栄養不
足による体調不良で、風土病が蔓延する兆しすらあった。これを見て佐藤師団長は補給
要請に全精力を注いでいたが、ついに物資不足から撤退を進言するに至った。しかし、
司令部は尚も作戦継続の命令を強いて、撤退提案を受け入れなかったのである。こうし
た皇軍の私物化は当時は既に詰問される事は無い程になっていた。1944年3月7日以来、
牟田口廉也第十五軍司令官は3個師団を使った「ウ号作戦」を発動し 3月15日二千百人
を率いた佐藤幸徳中将の第31師団の三つの突進隊は,チンドウィン河渡河を開始して
死闘の末順調にコヒマ陥落を果たしていた。しかし1944年5月20日の、第三十一師団
佐藤幸徳師団長は、ビルマ方面軍司令官宛に「作戦開始以来,すでに6旬(60日)を過
ぎこの間に、分隊からは一物の補給も無くいまや糧食・弾薬ことごとく尽き果て、遺憾
ながら予は、補給無くては部下を統率するをえず。」と電報を打っている。つまり2ヶ
月前3月末には戦って到着しているのである。第十五軍「林」は、ミートキーナで連合
軍による攻撃を受ける中に、西方の第三十一師団「烈」にコヒマ死守を命令した。しか
し補給は届けることはできなかった。1944年5月末に第十五軍「林」久野村参謀長は、
「烈」に対して、現態勢の確保を再び命じたが「烈」佐藤師団長は、「独断で処理する
ことを承知されたい」との電報を打った。こうして1944年6月1日佐藤中将は牟田口中将
のコヒマ死守命令に逆らって、生きる為に補給を受けられる地点まで撤退を開始する。
これが「抵命事件」である。佐藤中将は牟田口司令官に電報を打って、1944年6月1日に
コヒマを撤退し、補給を受けられる地点まで移動する。と第十五軍「林」に通告した。
それでも第十五軍はコヒマ死守を命じ、さらにインパール攻撃を指示してきたが、佐藤
中将はそのまま撤退を続けて、僅かの兵員だったが命を守ったのである。とされる。は
たして佐藤氏の判断は正しかったのか。悲しい事は日本にはそれが違反と言える食料が
なかったし、情報もモノ言える文化も無かった事だ。それが大量の兵士を殺した。

1283: 名無しさんAA:18/08/21 15:16
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  329 >

 太平洋戦争が始まったのは、正確には「真珠湾攻撃」からではなかった。それよりも
少し早く、陸軍の部隊が現在のマレーシア北部コタバルの海岸に上陸を開始していた。
コタバルの「パンダイ・サバッ海岸」に立った日本軍は、モンスーンが吹き荒れて波が
高い中だった。待ちかまえていたイギリス軍は、約9千の兵力で海岸一帯に25のトー
チカを築いて待ち構えていた。鉄条網が水際に張り巡らされ、地雷敷設されて重装備を
担ぎ荒波の中をようやく上陸した兵士達に、容赦なく機関銃弾が浴びせらる。「あたり
は真っ暗で、イギリス軍は上陸を知っていて目を凝らして、機関銃の連射が飛んできた
。弾がピューンという音なら遠くで、ブスッという音なら近くと分かる。鉄帽を片手に
砂浜に穴を掘って、直ぐに身を伏せた。背負っていた背のうには3発当たりました。」
こう語るのは、淡路山丸に乗って上陸した武田義雄さんである。激戦となった。320
名の死者をだし負傷者638名上陸用舟艇の沈没15隻という大きな犠牲を出し4時間
の激闘の末、海岸線を制圧した上陸部隊はコタバル飛行場に向かった。東洋のノルマン
ディ上陸作戦と言えるぐらいの死闘だった。この間にも、上陸船団の「淡路山丸」「綾
戸山丸」「佐倉丸」がイギリス軍機の攻撃をうけ被弾した。暗闇の中の空襲であった。
「敵機がライトで照らし、輸送船が襲われているのも分かりました」どうにか上陸した
佗美支隊は、翌9日午前2時に当面の目標だったコタバル飛行場を制圧した。「この日の
お昼頃に、飛行場についたような気がします。私達の到着が早すぎたのか、日本軍機に
敵と間違われて機銃掃射されたんですよ」武田義雄。この作戦は、いわゆる陽動作戦で
ある。陸軍第25軍(山下奉文中将)の主力を、タイ東南部のシンゴラとパタニに安全
に上陸させるために、イギリス軍航空機をコタバルに引きつけておく必要があったのだ
。そのための、コタバル上陸作戦であったが、幸運にも佗美支隊の作戦は成功した。こ
の時シンゴラ、パタニ、コタバルの三カ所が日本軍のマレー作戦の上陸地点である。シ
ンゴラとパタニはタイの領土にあり、コタバルは当時イギリスの植民地のマレー領であ
る。独立国として中立を表明していたタイ国に、日本は簡単に軍隊を入れるわけにはい
かない。「軍隊の一時的通過」であっても領土侵犯にかわりはなく、当時のピブン首相
の返答によってはタイとの間に武力衝突が起こる可能性もあった。12月8日12時頃に、
ようやく軍隊通過協定をタイ国は締結する。「私は現在70歳ですから、当時は10歳にも
満たない子供でした。パタニに上陸した日本軍の兵達が、当時私の住んでいた国境に近
いベトンの町を通ったのです」そう語るのは、地元の大学で教鞭をとるヘッドさんである。

1284: 名無しさんAA:18/08/21 15:17
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  330 >

 コタバルに向かうには、タイの首都バンコクからマレーシアとの国境の町スンガイ
コーロク行き(約1200キロ)の長距離列車に乗る事になる。列車の中で日本人の私に声
をかけてきたのが、ラタナジャラナさんである。「何せ私は小さな子供だったのですが
、彼らはピースフルでしたよ。それ以上のことは覚えていませんが、パタニでは戦闘が
あったんです」こうして日本軍は一部で小競り合いがあったものの、主力の第5師団と
第十八師団は平和裡に進駐が進み、サイゴンからは近衛師団がタイ領を通過しマレー半
島を南下していった。ちなみに、開戦の第一報を見てみると、次のようになっている。
「(大本営陸海軍部発表一二月八日午前一〇時)帝国陸海軍は本八日未明西太平洋上に
おいて米英と戦闘状態に入れり。」コタバル沖合で巨大な船体がズシーンと揺さぶられ
ると、船室内の兵も装具も玩具を放り散らかされたように、それぞれの場所から横へ投
げ出された。混乱した中で起き上がろうとすると、続けざまに二回、三回とまた大振動
が起こる。池原一等兵は這うようにして上甲板への通路を進み、便所入り口の把手につ
かまった時、ガガーンという大音響とともに床にたたきつけられた。「うーむ」とうな
っている目の前は真っ暗闇だった。電灯が消えてしまったのである。「全員上甲板へ上
がれ!」と怒鳴る声に、今しがた叩きつけられた腰の痛みも忘れ、暗い中で立ち上がる
と、兵士たちの奔流に巻き込まれ、運ばれて階段を上がっていた。甲板上は兵達でごっ
た返し、それをかき分けるように乗組員と船舶工兵たちはわめきながら船尾へと急いで
いる。船尾は黒煙に包まれ、それが風の煽りで左右に這う度に、その中から紅蓮(ぐれ
ん)の炎が舌をなめ回す。甲板上を見回す間もなく、魔鳥のような黒い機影は一機二機
三機と低空で飛来し、本船目指して突っ込むかと見る間に、旋回して急上昇していく。
と同時に舷側(げんそく)に近いところで巨大な水柱が立ち上り、船が激しいローリン
グを起こした。甲板に伏せている背に海水のスコールが降る。続いてきた飛行機の機銃
掃射は、身辺をかすめて船橋の鉄板に当たり、火花を発して不気味な響きを立てて弾き
飛ぶ。船からは広角砲や高射機関砲で応戦している。敵機の接近とともに、曳光弾を交
えて砲身が焼けよとばかりに撃ちまくる。すさまじい発射音や爆発音は、飛行機の爆音
や急上昇のうなりと交じり、鼓膜を叩き、脳天をかき回す。煙と海水の飛沫は容赦なく
甲板上を襲い、風の煽りで舞い立った船尾の炎は、そのたびに甲板上の修羅場を赤々と
照らす。

1285: 名無しさんAA:18/08/21 15:17
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  331 >

 池原一等兵は甲板の片隅で、いよいよ今日が最後の日かと縮み上がっていた。彼らが
乗っている船は淡路山丸という一万トン余の大型輸送船で、沖縄出身兵たちはアワリサ
ン丸(哀れしない丸)ということで、その船名の縁起をかつぎ、喜び勇んで乗り込んだ
ものだった。しかし今は、船名を沖縄方言になぞらえて言って見ても、どうにもならな
いことを思い知らされているのである。ここは英領マレー半島コタバルの沖合昭和十六
年一二月八日、午前一時を少し回ったばかりである。帝国陸軍軍人が、と思う心とは裏
腹に、池原一等兵の体はひとりでに震える。息を潜めてジーッとしていると歯の根が合
わない。三、四時間前の静けさが、こうも変わろうとは夢想だにしなかった。その三、
四時間前からのことが脈絡なく彼の頭の中に浮かんでは消えた。三、四時間前、それは
十二月七日午後十時か、十一時だったはずである。波のうねりは高かったが、敵前上陸
を前にしては船酔いどころの騒ぎではなかった。遥か遠く月明りの下、黒々と眠ってい
るのはマレー半島だ。電灯がチカチカ光っているところはサバク海岸か、あるいはコタ
バル飛行場かも知れない。ジョンブル(イギリス人)の奴ら、きっと飲み明かすつもり
かも知れないと思うと、一戦も交えたことのない相手への敵愾心がムラムラと湧き上が
って来るのを覚えた。いよいよ十二月八日午前一時少し前、第一次上陸部隊の舟艇移乗
が行われる頃となって風が強くなり、波はそのうねりを一層高めて来た。「出発準備完
了!」の報告を耳にすると、支隊長侘美少将は直ちに鈴木高級副官に命じ、発進を号令
せしめた。池原一等兵がその時対岸に目をやると、いつの間にか電灯の光は消え、黒々
とした陸地だけしかなかった。「これは敵さんに気づかれたかな」と不安の入り混じっ
た思いで見ている間にも、舟艇群は青標灯を檣頭(しょうとう)に掲げ、四縦陣となり
、発動機の音も勇ましく、荒海の中を一斉にサバク海岸に向かって行った。やがて二十
分もたったと思われる頃、黒々と見える対岸上空に照明弾が二発撃ち上げられた。と見
る間に、波打ち際あたりで火花が散り始め、引き続いて砲声が轟いてきた。明らかに敵
の砲火だ。上陸軍の武装は小型火器だけなのだ。対岸の戦闘を目にしていながら、船上
では手も足も出ず、やきもきするばかりであった。一時間以内に第一次上陸部隊を運ん
だ舟艇群は帰って来る。その時こそ第二次上陸部隊として敵地に上がるのだと思うと、
武者震いして、勇躍した血が胸を高鳴らせた。「それにしても遅い」「無電さえも届か
ない…」。不安な表情を見せ始めた兵たちの間を通り、池原一等兵が出番を控えて船室
にくつろいだその時、突然大揺れを食らい、投げ出され、先述の修羅場を現出したので
ある。

1286: 名無しさんAA:18/08/21 15:18
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  332 >

 「第六中隊、舟艇に移乗!」空襲に怯えてばかりもおれなかった。砲声と飛行機のう
なりが交錯する中で、大隊長中村中尉の鋭い声が甲板上に響きわたると、池原一等兵の
軍人精神は呼び覚まされた。千磨必死の訓練の成果は、こういう時にあらわれるのかも
知れない。いよいよ敵前上陸だ。第一陣を運んだ舟艇は帰ってきていたのだ。それにし
ても数が少ない。けれども今は舟の数を確かめたり、それを気にしている余裕はないの
である。縄梯子を降りていると艇長の声が波間から聞こえて来る。「上陸成功、ただし
敵の抵抗が激しく海岸に釘付け」と聞こえた。上陸時間のことも報告しているようであ
るが、時間なんて、このような際、どうでも良いことだ、と思った。後日、諸情報をも
とに、第一次上陸部隊の上陸作戦の状況を総合すると、次のようであったという。作戦
途中、敵弾を受けて多くの艇は大破、転覆あるいは沈んだものも多く、一時は波打ち際
で混乱状態を呈していたという。したがって兵の揚陸を果たした艇でも指揮艇の所在が
つかめず、すべて単独判断で帰ってきたのである。上陸部隊にしても、敵の激しい迎撃
で砂浜を一歩も進めず、その上無線機は海水に濡れて発信は不可能だったというのであ
る。さて、池原一等兵ら第二次上陸部隊の兵士たちは、第一次上陸部隊那須連隊長以下
の安否を気にしながらも移乗を終えた。敵機が繰り返し襲う中での行動であるので、そ
れこそ命懸けの行動なのだが、先発隊の運命が自分たちのそれにも繋がることを思えば
、敵機襲撃の恐怖の中にありながらも、対岸の様子も気にせずにはいられなかった。大
隊長中村中尉の艇を先頭に、五、六隻の艇はうねる波の間をついて対岸へ向かった。支
隊長侘美少将も陣頭指揮を取るべく、この一陣と行動をともにした。発進五、六分後、
思わず振り返ると、今しがた離れたばかりの淡路山丸は、甲板一面で大火災を起こし、
闇の海上を真っ赤に照らしている。池原一等兵は、その船から脱出した僥倖(ぎょうこ
う)を思うと同時に、乗組員及び船舶工兵たちを残して去って来たという後ろめたい気
持ちにも襲われた。僚船綾戸丸および佐倉丸は無事で、その巨体を暗い波間に浮かべて
いる。それらの船からの第二次上陸部隊は発進したであろうか、そのような思いが頭を
かすめる。艇は一四、五メートルの強風に悩まされ、高い波浪に弄ばれながらも上陸地
点目指して一路進んで行く。砂浜に達するやいなや、激しい銃撃が襲いかかってきた。
水際から直ちに匍匐(ほふく)前進に移り、砂上を虫けらみたいに進むと、やがて砂上
に散在する黒い影が目に入ってきた。第一次上陸部隊の兵たちである。

1287: 名無しさんAA:18/08/21 15:19
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  333 >

 前方の黒い椰子林の陰から狙い撃ちされ、全く釘付けの状態である。少しでも、体を
もたげると、たちまち機関銃弾が雨あられのように飛んでくる。時々頭上をかすめて、
砲弾がヒューンと飛んで来て水際や海中で炸裂する。では、先に上陸した第一次の上陸
部隊はどのような経路と経過をたどっていたであろうか。ここでは落合軍医の手記をも
とに、その後をたどってみよう。サバク海岸はコタバル飛行場に最も近く、予想した通
り敵は堅固な陣地を布いて待っていた。上陸地点五〇〇メートルに達すると、敵の砲門
はにわかに火を吐き、激しく撃ち込んで来た。その熾烈な砲火のため、上陸部隊は予定
より進路を右に変えざるを得なかった。その結果、数井大隊と松岡大隊は入り混じり、
一時は大混乱に陥った。数井大隊長の艇は海岸近くで転覆し、将兵も大波をかぶりなが
ら上陸したが、大隊長は間もなく負傷し、代理の中隊長も立て続けに受傷するという悲
惨な状態になった。松岡大隊では、一隻のダイハツ(舟艇)が迫撃砲弾を受けて転覆し
、一隻は大波のため海岸に打ち上げられた。そのような状態で、上陸はしたものの、水
際で撃ちまくられ、一時は相当な混乱状態で苦戦を強いられたのである。第一次上陸部
隊を率いた那須連隊長は、軍旗を奉じて上陸はしたものの、一次上陸部隊の様相を確認
するや、佐藤参謀に命じて数井大隊の指揮を取らせた。それでも汀線からあまり遠くな
い砂丘から先は全く進めず、膠着(こうちゃく)状態となった。この状況から脱しよう
と、砂丘の死角に入りながら入り江の向こうに渡ろうとした一隊は、潮流に流されて海
の中に押しやられた。こうして一次隊はその勢力を二分され、死傷者が続出して惨憺(
さんたん)たる状態になっていったのである。さて、池原一等兵らの第二次上陸部隊は
、支隊長侘美少将や中村大隊長の指揮の下、淡路山丸を離れたが、予備隊長国武中尉は
爆弾で戦死し、その他にも多くの死傷者を出した。上陸地点五〇〇メートルのところで
展開した舟艇群は、右が支隊長、左は中村大隊長の指揮で上陸を敢行した。上陸と同時
に、椰子林の中の闇は一斉に火花を吹き始めた。それは正面からだけでなく、斜め左前
方からも釣瓶撃ちされ、その上に砲弾も混じっていたのである。こうして同海岸は銃砲
弾の掃射地帯となり、左正面の中村大隊長(陸士三五期)は上陸と同時に戦死した。支
隊長の乗ったダイハツ艇の長が「達者」(上陸の暗号)と叫ぶと、護衛小隊長と支隊長
、和田次級副官は海に飛び込んだ。将兵も続けて飛び込んだのだが、海底に脚が届かず
、ブクブクと水中に沈み、ようやく岸にはい上がる有り様であった。


1288: 名無しさんAA:18/08/21 15:19
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  334 >

 こうして上陸部隊がそろったところで、各隊はそれぞれ正面で血路を開き、ついに椰
子林へ突入した。椰子林に入ると敵弾弾着の数は極端に少なくなった。敵軍の大勢は、
我が軍の前線突破と同時に算を乱して(無秩序に散らばって)退却していったのである
。池原一等兵(大正十年生)、十九歳で陸軍に現役志願し、昭和十四年久留米歩兵第四
八連隊へ入営、第六中隊第二小隊の擲弾分隊員であった。昭和十六年十一月までは南支
広東地方警備の任に当たっていたが、それまで激しい訓練が日夜続けられた。主として
上陸戦闘・ジャングル戦・舟艇移乗・折り畳み舟の運送と組み立て・水上浮遊等であっ
た。それは当然、悪化している米英との間で、万一のことが起こった場合のためのもの
であることは想像はついていた。そして遺言・遺髪・遺爪の整理があった頃からは、い
よいよの感を強くしたのである。十一月末になると、急に乗船命令が出て、乗船は海南
島三亜港に向かった。海南島では再び総合演習があり、十二月三日、支隊長から次の作
戦実施命令が出された。歩二三旅作命甲第二号 侘美支隊命令一二月三日一二〇〇於淡
路山丸  一、敵情別冊情報記録ノ如シ「軍主力ハ「シンゴラ」「ターベ」「パタニ」
方面ニ急襲上陸シ一挙「ペクタ」河左岸ノ線ニ進出ス第七戦隊・第三水雷戦隊ノ一部ハ
支隊ノ作戦ニ協力ス 二、支隊ハX日未明「コタバル」方面ニ急襲上陸シ「コタバル」
南側地区ニ進出シ以後ノ作戦ノ準備ヲセントス 三、諸隊ハ別冊上陸計画ニ基キ行動ス
ベシ 四、支隊ノ合言葉ヲ左ノ如く定ム「谷」「水」 五、予ハ淡路山丸ニ在リX日未
明上陸部隊ト共ニ上陸シ先ズ「サバク」三叉路付近ニ位置ス支隊長 侘美少将--である
 十二月四日は朝から日本晴れ、海は静かであった。午前六時三十分、護衛艦隊旗艦川
内及び一〇数隻の駆逐艦は、先頭・後尾・両側を航行して護衛に任じ、輸送船団はその
中を二列縦隊となって一隻又一隻と七〇〇メートル程の距離を隔てて進発した。両縦列
間隔は一〇〇〇メートル位で、併行して航行した。その威風堂々たる光景に、池原一等
兵たちは狂喜した。これだけの戦力で向かえば米英何するものぞ、と心は躍った。とこ
ろが十二月七日午前十時、支隊の淡路山丸・綾戸丸・佐倉丸の三隻は軍主力の艦艇と交
信をし、左に分進して別の方向へ向かった。遠ざかる大船団を目のあたりにして、池原
一等兵たちの驚きはやがて不安に変わった。一万トン級の巨船とはいえ、たった三隻、
それに護衛はちっぽけな水雷艇ではないか。実は先程の命令は、池原一等兵たち下級の
者には全く知らされてなかったのである。こうして、この支隊は太平洋戦争開戦劈頭(
へきとう)の第一陣を受け持つ上陸軍となったのである。これが真珠湾攻撃と共に起こ
った、コタバル上陸戦である。

1289: 名無しさんAA:18/08/21 15:26
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  335 >
 真珠湾第一撃の成功後、現地では第二撃を主張する山口多開少将はじめ、渕田美津雄
中佐らの意見具申は、南雲艦隊司令部によって斥けられた。が、連合艦隊司令部でも、
その是非で激論が続けられていた。その結果、最終的には幕僚のほとんど全員一致で、
第二撃の命令書をしたため、山本長官に意見をのべた。しかし山本は「いや待て、むろ
んそれをやれば満点だが、泥棒だって帰りはこわいんだ。ここは機動部隊指揮官にまか
せておこう」「やる者は言われなくったってやるさ、やらない者は遠くから尻を叩いた
ってやりはしない。南雲はやらないだろう。」と言って却下した。まるで他人事のよう
な、傍観的言辞であった。南雲も南雲なら山本も山本だと憤慨する。この将にしてこの
部下あり。「鳴かぬなら鳴かせて見せよう時鳥」ほどの統率力は南雲にも山本にはなか
ったのか。戦果をあげた以上、フリート・イン・ビーイングという帝国海軍の保全主義
が何よりも優先して急にこわくなったのか。ニミッツは「攻撃目標を、艦船に集中した
日本軍は、機械工場を無視し、修理施設には事実上手をつけなかった。日本軍は湾門の
近くにある燃料タンクに貯蔵されていた四百五十万バレルの重油を見逃した。長いこと
かかって蓄積した燃料の貯蔵は、米国の欧州に対する約束から考えた場合、ほとんどが
かけがえのないものであった。この燃料がなかったならば、艦隊は数カ月にわたって、
真珠湾から作戦を実行することは不可能であっただろう。」(「ニミッツの太平洋海戦
史」恒文社)と書いている。山本の戦術眼からは、重油タンクやドックは物の数ではな
かったらしい。ハワイは米国の太平洋における重要な戦略拠点であった。真珠湾攻撃の
際にハワイの基地機能を破壊しておけば太平洋戦争の様相は大きく変わったであろう。
山本五十六は軍事的合理性に基づいた部下の意見具申を斥けた。そして、それによって
当然獲得できる筈であった太平洋における戦略的優位を失ったのだった。その後空母を
恐れて帝国海軍はミッドウェー海戦を計画する。ミッドウェー島の攻略を決めた日本軍
は、二式大艇によるハワイ方面の敵情偵察を行うことにした。この作戦は第2次K作戦
と命名され、前回と同様にフレンチフリゲート礁で潜水艦からの給油を実施する計画だ
った。有馬中佐は、オアフ島西方900q海面に第三潜水戦隊6隻、第5潜水戦隊8隻
が6月2日までに南北線に哨戒網を張り監視するという作戦要領を作成した。しかしなが
ら、潜水艦は11隻しか用意できず、6月2日に到着できるのは1隻であり、残りは3日
以降の到着となる。連合艦隊は作戦を変更せず、そのまま黙認実行した。戦後になって
、連合艦隊参謀の黒島亀人は「海軍の常識からいえば、この場合の散開線構成は、西方
で散開隊形を概成したのち東進して、所定配備に潜水艦をつけるべきであった。ところ
が私の敵情判断の間違いから、あんな配備を計画してしまった。と南雲は語っている。

1290: 名無しさんAA:18/08/21 15:28

 そのうえ、連合艦隊の指導が至らず潜水艦の準備が遅れた。また、今次作戦は連合艦
隊の主兵力を使って行なう作戦であるから、潜水部隊は連合艦隊の全兵力を集中すべき
であった。」と語っている。とんだ間抜け作戦をである事を有馬中佐は証言している。
アメリカ軍は、第1次K作戦の後、飛行艇による同様の作戦が繰り返されることを警戒
し準備した。5月6日、日本海軍による無線交信の通信解析と暗号解読により、フレンチ
フリゲート礁が中継地として利用されたことを突き止め、フレンチフリゲート礁の利用
を阻止するため、艦艇を派遣して警備することにした。こうして5月30日、第2次k
作戦の遂行のため、給油担当の伊123はフレンチフリゲート礁に到着した。しかし、
アメリカ海軍の機雷敷設艦「プレブル」と水上機母艦「ソーントン」が先に展開して、
警備中で待ち構えていたのだった。伊123は米艦の存在に気付いて作戦を延期する。
翌31日、同じく給油担当の伊121がフレンチフリゲート礁に到着し、伊123とと
もに米艦の動向をうかがうが、この日も米艦の警戒が厳重であり、翌6月1日に作戦は
中止となった。6月1日、二十四航戦の司令部からミッドウェーの六百浬圏付近で敵の
潜水艦や飛行艇と会敵したことと、第2次K作戦の中止が連合艦隊司令部、南雲機動部
隊司令部に伝達された。このK作戦の失敗で日本は重要な知敵手段のひとつを失った。
失敗の報告を受けた連合艦隊は計画が崩れたことを知るが、何ら対策を取らなかった。
連合艦隊参謀らによれば、連合艦隊は米艦隊のハワイ出撃が遅れるだろうと考えていた
ので大した心配はしていなかったという。黒島は「わが機動部隊は無敵で、敵を圧倒で
きると信じていたので、このため特別な処置は考えなかった。」と回想している。南雲
機動部隊首脳部もK作戦の中止を大した問題とは考えなかったのである。レーダーも暗
号解析も米国に大きく遅れとっていたにも関わらず、帝国海軍は圧倒していると誤認し
作戦を立てていた。日本海軍が戦略構想の根幹と考えていた主力艦同士による艦隊決戦
時の補助兵力に過ぎなかった陸上攻撃機は、現下の太平洋戦争が、航空戦力のいかんで
勝敗が決する方向に推移した事の認識すら、根本から開発指針変更を余儀なくされた。
そして、同じ「陸攻」という機種名称を冠しながら、内容的には全く異なった長距離戦
略爆撃機に準じた構想に基づいて開発された四発大型機が「連山」であった。しかし、
アメリカ陸軍のB-17やB-24に匹敵する四発大型機は、当時の日本の航空技術力では手に
追いかねる代物で、太平洋戦争には到底間に合わず、試作段階で消える運命にあった。
 こうした戦時の戦闘能力補助の備品開発には日本は大きく劣っていた。こうして三百
万有余の国民を殺した不条理の戦争は、もっと早くやめるべきであった。痴呆と阿呆の
廟堂密室 を上にいただいた国民の不幸、不運が、改めて思いかえされるのである。

1291: 名無しさんAA:18/08/21 15:28
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  337 >

 山本五十六が作った真珠湾攻撃は多くの矛盾と失敗を孕んでいて何回も拒否された物
だった。真珠湾を攻撃するには、戦略レベルから戦術、そして技術面にいたるまで多く
の困難があり、連合艦隊内でも、また連合艦隊の上部にあたる軍令部でも多くの反対意
見があった。それでも当時指摘された主な点を解決することなく実行されていった。そ
もそもこのような計画は日本海軍の念頭になく、兵の訓練から装備にいたるまで、準備
ができていなかった。仮にハワイまで隠密行動で近づくことが成功しても、敵艦隊が湾
内にいなければ空振りとなってしまう。居ればいたでの発見される危険性と合わせてい
て、失敗するリスクが高い。又わざわざ遠出してハワイまでの長い道のりを、補給も含
めた大艦隊が移動することにデメリットは多くメリットはなかった。途中で敵に発見さ
れる可能性が高く、奇襲が失敗する可能性もかなり高くそれを中止する段取りも回避策
もなかったのだ。つまり作戦とは名ばかりのそれこそ玉砕戦法の最初であるような開戦
と言えた。これに実施する予定の南方地域の攻撃にも、空母3隻以上が必要と考えられ
ており、ハワイだけにその空母その他を向ける余裕が日本にはない。又地理的に真珠湾
は水深が浅く、航空機から魚雷を投下すると海底に突き刺さってしまい海戦とならない
。当時日本の一般的には航空機からは50m〜100mの高度から魚雷を投下し、魚雷は50m〜
60mほどいったん潜ってから浮き上がる為に命中率は極めて低い。真珠湾は水深が12m程
度とされ、当時の常識では航空機からの魚雷投下は無理である。航空機から爆弾や魚雷
を落とす際の命中率を上げないと、攻撃が中途半端に終わってしまい、反撃されて戦艦
喪失の可能性が高すぎる程高い。と言った物だった。更には真珠湾攻撃での日本空母は
「加賀」と「瑞鶴」などで、空母は艦上戦闘機、爆撃機、攻撃機などを30機〜90機ほど
搭載して攻撃地点まで移動するが、戦艦のような巨砲は積んでおらず、戦闘機に守られ
ていないと防御力が極端に弱いのである。不安要素に裏打ちされた根強い反対意見があ
ったが、何故か山本長官は陸軍の南方作戦が実施されている時に、アメリカ艦隊に東京
を攻撃される為の真珠湾攻撃を提言した。防空の守りが不可能となれば、南方の資源を
確保する意味すら失ってしまうと具申し、決してハワイ攻撃を取り下げませんでした。
ついには海軍は、山本長官はじめ、連合艦隊の全幕僚も職を辞すると軍令部に迫り、つ
いにハワイ奇襲攻撃を軍令部の作戦としてゴリ押しで認めさせた。この強弁は本来なら
戦争しない為のはったりではなかったかとも思える程だったとさえ言われる。

1292: 名無しさんAA:18/08/21 15:28
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  338 >

海軍大臣であった米内光政は広島・長崎に原爆が投下されてすぐの8月12日、つぎの
ように語ったと言う。「私は言葉は不適当と思うが原子爆弾やソ連の参戦は或る意味で
は天佑だ。国内情勢で戦を止めると云うことを出さなくても済む。私がかねてから時局
収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし、原子爆弾やソ連参戦でもない
。 一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。 従って今日その国内情勢を表面に出さ
なく収拾が出来ると云うのは寧ろ幸いである」と言ったと言う。対して阿南惟幾(陸相
)は太平洋戦争末期、梅津美治郎参謀総長とともにあくまで本土決戦を唱え、御前会議
では「これまでの対米敗戦は兵站に失敗したからであり、本土決戦とは違う」と主張し
た。阿南は太平洋戦争末期には、梅津美治郎参謀総長とともにあくまで本土決戦を唱え
、御前会議では「これまでの対米敗戦は兵站に失敗したからであり、本土決戦とは違う
」と主張した。これに対し、米内海相は「そんな責任の転嫁は止めよう」と言って終戦
を主張し譲らなかった。その後に、御前会議で阿南惟幾は、昭和天皇の終戦の意志が固
いことを知り、最終的には終戦に同意し、最終的に天皇の裁可の終戦となった。米内海
相に恥をかかされた形の阿南惟幾は、軍事クーデターをほのめかす部下の軽挙妄動を戒
めながら、8月14日夜、ポツダム宣言の最終的な受諾返電の直前に陸相官邸で切腹に
より自刃した。介錯を拒み翌15日朝絶命。「一死をもって大罪を謝し奉る」との遺書
は有名である。そして阿南惟幾はこの時に「米内を斬れ」と言い残して自害したのだ。
とも伝えられる。対米戦に限れば、もともと海軍が破れれば本土決戦しかなく、陸軍は
まさにその為に育てられてきたのであるから、 阿南陸相ならずとも陸軍首脳たるもの
「本土決戦は避けて降伏しよう」とは口が裂けても言えない立場ではあったのだ。阿南
は陸軍軍人として天皇の裁可を受けるまで、抗戦主張を取り下げる事は出来ない相談だ
ったのである。阿南惟幾の辞世「大君の深き恵みに浴みし身は、言ひ遺こすへき片言も
なし」が、天皇の終戦裁可を待ちに待っていた心境を表している。昭和12年8月15
日に、第一次近衛内閣は、近衛声明を出して、当時中国との接点の蒋介石との交渉を、
断絶することを宣言する事を行った。この時の4相の内、近衛、広田、杉山は東京裁判
による追及と断罪で非業の最期を遂げたとされる。ひとり米内のみ訴追を逃れた。近衛
、広田、杉山も「米内を斬れ」の思いだったろう。当時の海軍から見て、陸軍はアメリ
カ軍より憎い相手だった。終戦の日当日の阿南惟幾の自殺は、日本の内閣制度発足後、
現職閣僚の初めての自殺だったという。

1293: 名無しさんAA:18/08/21 15:29
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  339 >
『アメリカはいかにして日本を追い詰めたか』という大変面白い本の訳者渡辺惣樹さん
嘆いている言葉は興味深いものだ。「当時、戦争に反対する8割のアメリカ国民の声こ
そが日米衝突を回避する最大の武器であった。現代の政治状況からみても容易に想像で
きることだが、8割という数字は生活感覚からいえば、まず国民全員が反対していた。
ともいえるのである。私たち日本人は、その声を武器として活かせなかったこそを反省
すべきである。」と説いている。当時のアメリカ国民は、既に第一次世界大戦の結果に
幻滅し、いわゆる孤立主義的な感情が全体に行き渡り、欧州で第二次世界大戦が始まっ
ていても渡辺さんが指摘するように、モンロー主義を表向きは貫き、8割の米国国民の
人達はあえて戦争に介入することに反対していたのです。それなのになぜ、親米派の山
本五十六は、あえて強大なアメリカを敵とする真珠湾攻撃を発動したのか。と問うので
ある。山本五十六はアメリカを侮っていたわけではありません。真珠湾攻撃から3ヶ月
前の9月18日に 山本の母校である長岡中学校の同窓会が開かれて、その席で彼は「米国
人が贅沢だとか弱いとか思うてる人が沢山日本にあるようだが、これは大間違いだ。米
国人は正義感が強く偉大なる闘争心と冒険心が旺盛である。」と語り、「日本人は絶対
に米国と戦うべきではない」と結んでいる。---鳥居民『山本五十六の乾坤一擲』)----
このような正確なアメリカ認識を持っていてなぜ真珠湾攻撃なのでしょうか。さっぱり
わからなくなりそうだがそこに理由がある。実は山本のようなアメリカ認識が逆に彼の
心のトラウマとさせられていた。という。前掲書に阿川弘之氏の『山本五十六』に引用
されている部分があります。「例えば赤城の飛行隊長の淵田美津雄少佐、のちのハワイ
攻撃隊の総指揮官は、山本五十六が長官に就任して『山本五十六というのは妙にイギリ
ス、アメリカが好きで弱いらしいで、腰抜けと違うか。』と公言するような雰囲気があ
った。」山本は陰で、あいつはチキンではないのかと思われていたのです。というので
ある。つまり山本は陰で皆から臆病者といわれることを軍人として恐れていた。という
のである。鳥居民さんは次のように分析される。「もしも戦いになってしまったら、そ
のぎりぎり最後まで戦争を避けようとした臆病者、大きな恥辱を受け入れさせようとし
た卑怯者が、航空部隊、潜水艦部隊の指揮官達に向かって、あろうことか勝利の意思を
持てと説かねばならなくなるのです。だからこそ、あらかたの海軍幹部の反対を退け、
僅か一時間で西太平洋を制圧してみせるという一か八の大冒険をかれは行うことにした
。」と説明する。つまり山本五十六は決してチキンではないことを証明する為に真珠湾
攻撃を立案した。そこにはアメリカ人の8割が戦争に反対していることは入り込む余地
がない場所だった。

1294: 名無しさんAA:18/08/21 15:30
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  340 >

 しかし、このことは、決して山本五十六個人の問題ではなかった。日露戦争後の帝国
国防方針では、陸軍は仮想敵をソ連邦と定め、海軍はアメリカと定められていました。
このような軍部の2頭体制は、平時の場合は予算の分捕り合戦ぐらいで済む事だが、い
ざアメリカとの戦争が近づいてくると、ここに大変危険なものとなる。つまりそれは、
海軍が正直に「アメリカと戦ったら負ける。」公示し日頃から暗示をかけているのに、
それが告げる事ができなくなる。と言うジレンマにおちいるからだ。近衛文麿が総理の
時に、東条英機に対して中国からの撤兵を求めるのだが、彼は全く受け入れなかった。
この時も、陸軍は既に中国進出と蒋介石との決裂は日本としての既定方針であったので
、陸軍に撤退が敢えて言えなかった。これが日米交渉の中心問題が中国からの撤兵でし
たので彼の内閣はそこで行き詰まったのである。ここに木戸幸一が目したように陸軍の
意志として泥をかぶっても撤退を決めてくれる人間だったなら日本は違ったであろう。
そしてこうした宣戦布告をする開戦に導くのであれば、東久邇宮稔彦王の方を選んでで
もあと1〜2年間ドイツが負ける頃まで開戦せずにいたかもしれないのである。もし仮
に東条に中国からの撤兵を承諾させる可能性があったとすれば、海軍が「日米交渉が失
敗すればアメリカとの戦争になり、帝国海軍に勝ち目は無い。」と告げることでした。
これが海軍は戦争やむなしの御前会議があっても戦争は無いとしていた理由であろう。
御前会議で7月2日 情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱 を出し、9月6日帝国国策遂行要
領を決めても尚8月のアメリカ対日石油輸出全面禁止を受け、アメリカ・イギリスに対
する最低限の要求内容を定め、交渉期限を10月上旬に区切り、この時までに要求が受
け入れられない場合、アメリカ・オランダ・イギリスに対する開戦方針が定められたが
しかし、9月6日の御前会議において、昭和天皇は開戦に反対しこの決定を拒否、あく
まで外交により解決を図るよう命じている。その際、以下の明治天皇の御歌が引用され
て「 四方の海 みなはらからと思う世に など波風の立ち騒ぐらむ 」と風の吹くなか
でも陸地を探せと命じたのである。しかし、その後第3次近衛内閣は解体され同年11
月5日東條内閣になって同じ様に御前会議を行い帝国国策遂行要領を策定した。その後
条件として白紙還元の御諚が発せされたが、帝国国策遂行要領を覆すことは不忠にあた
るとの信念から引き続き外交交渉を行い、戦争の決意が盛り込まれた帝国国策遂行要領
が御前会議で決定された。のである。ここで海軍は流石に「アメリカと戦ったら負ける
」と言えず真珠湾攻撃を確約した形になった。

1295: 名無しさんAA:18/08/21 15:30
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  341 >

 もともと、そんなことを告白すれば、陸軍側では中国との負け戦を自分の責任を放棄
して「海軍がアメリカと戦えないから。中国から撤兵する。」と宣伝しまくるだろう。
いずれは海軍はアメリカを仮想敵のままで戦わないと言う事に、目をつけて予算の縮小
を求めることとなる。そうなることは海軍としては是が非でも避けなければならない。
つまり「アメリカとの戦いは怖くはない」と去勢を貼り続けなくてはならなかった。こ
れが、日本の内実だったと言える。『アメリカはいかにして日本を追い詰めたか』の著
者、渡辺さんは日本の陸軍は、南方戦線で「イギリスやオランダだけ」を攻撃してアメ
リカとの全面対決を避ける作戦も追及されている。にも関わらず、海軍の作戦には、一
切そのようなものがない。と指摘されている。これは帝国海軍が対米戦で弱気なところ
を見せたくないかの証左だ。と言っている。更に、海軍にとっての戦争はあくまで海の
上であり陸軍と共同しての国の戦争と言う認識が欠けていた。ともいう。陸軍青年将校
はドイツ視察を重んじていたし、海軍の青年将校はアメリカ視察を主にやっていた。こ
の違いはそのまま対ロ政策なり作戦の違いが出て居た。又日露戦争やシベリア出兵以来
からのしこりもあった。日露戦争では宣戦布告が無かったとしてロシアは賠償金支払い
を拒否したからだ。山本五十六も帝国海軍も自分達が決して臆病者、チキンでは無いこ
とを証明したかったのだが、と言って正面からでは負ける。かと言って陸軍の言う様な
米国を本気にさせずに宣戦布告して戦うなど言うのは土台無理な話だった。真珠湾攻撃
はその為の作戦だった。勝手な私見で良ければこの時山本五十六は降りた。その後海軍
は南雲中将を中心に動いていた。海軍兵学校では学術優等賞を授与される程の優等生で
、頭は極端に良い訳ではなかったが、堅気で、知力や体力も充分あり人柄が魅力的であ
った南雲に任せたのではないだろうか。南雲は海軍の正統である艦隊派に属して下から
の人望が厚かった。国際社会を重視した条約派に対して、軍縮条約反対派の論客として
知られ、山本五十六や井上成美と対立していた。つまり日本の中の御山の大将であり、
ある意味江戸時代からの日本人像の集約的人物ではなかったか。と思うのである。その
政治的な活動は外部にも知られ、1930年に開催されたロンドン軍縮会議の後南雲は山下
知彦らと同郷の先輩である左近司政三を含む条約派に対して、その保身に辞職を迫り、
後の大角人事に関係していた。彼自体直観的人物であり、日本が迷路に入った1931年(
昭和6年)の10月10日、軍令部第一斑第二課長に就任した。


1296: 名無しさんAA:18/08/21 16:13
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  342 >   

 伏見宮博恭王軍令部総長の赤坂園遊会では酒に酔い、外国武官や家族達の三百名の前
で池に放尿し、目撃した中瀬泝は仰天したという。天皇が現人神の時代に皇居での放尿
は誰も行わない。池に小便ではあるが、何とも思っていない所は放埓な豪快さだ。南雲
自体は全く戦争とか規制とかよりは 人の生活や国の有り様に目を向けていたのだろう
。たぶんに二心のない清廉潔白な人物だったに違いない。そこを山本五十六は嫌ってい
た。1932年(昭和7年)、五・一五事件を受け南雲が作成した『五・一五事件の解決策
』と題する文書に、被告の死刑または無期を避けることや、ロンドン条約に統帥権干犯
の疑義を生じさせた重要責任者に適当な処置をとることなどを求めた。ただしこの意見
書がどのようにされたかは不明だ。つまり、海軍の問題児であった可能性は高く。1933
年(昭和8年)の南雲は、日本のロンドン海軍軍縮条約からの脱退を求めて盛んに活動
した。連合艦隊の各艦長、航空隊司令らの署名までを集めて、加藤寛治の使嗾(しそう
:そそのかす事)までした。最終的にこの署名は海軍大臣・大角岑生に提出された。こ
の署名の写しは伏見宮博恭王に提出され、伏見宮は懸念を示した。これが先の放尿事件
であったのだろう。加藤及び当時の連合艦隊司令長官・末次信正に注意を与えている事
で終わったが海軍の異端児であろう南雲が、条約派の堀悌吉を予備役に追いやり、堀と
親睦が深かった山本五十六には宿敵になった。第二次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉に
参加中で、それを阻止出来ず、南雲を一生涯許さなかったという。南雲自体は、山本五
十六を卑怯者と見下していた。つまり山本五十六にとっては、天敵のような反りの合わ
ない存在だった。海軍報道部部員の海軍次官時代の山本に3年間接した松島慶三には、
当時の南雲にそのような実力があったか疑問であり、又山本もそこまで器量の狭い人物
ではなかった。と語っている。が苦労人の山本が表向き動かないで紳士的行動だったの
だのは当然だろう。軍令部の権限拡大を図った「軍令部令及び省部互渉規定改正」では
、海軍省軍務局第一課長井上成美と激しく対立し、酒気を帯びて井上に対し「貴様なん
か殺すのは何でも無いんだぞ。短刀で脇腹をざくっとやればそれっきりだ。」などと、
脅迫する発言していた。理由は「米沢海軍」の総帥・山下源太郎の遺志を継ぎ天皇直属
の軍令部の統帥権を確立し、強い海軍をつくろう。とする彼の南雲大佐の意思に対して
、井上成美は旧来の一艦隊一政府主義で、統帥権を軍令本部に委任する法案に捺印する
のを渋った。年下の井上が起草して上級者に廻さなければ改正案は陽の目を見ない。判
を押せということは、起草せよと迫るに等しかった。

1297: 名無しさんAA:18/08/21 16:13
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  343 >   

 堅物の押しの一手の、真面目な不良南雲忠一大佐は海軍兵学校36期、井上大佐の1
期先輩である。艦隊経験が長く実戦派であり、海軍の軍隊としての統率を求めていた。
それ程頭が器用でなかった。この話はそれは無理な話で、当時艦隊ごとに作戦があり、
その作戦に利用されて、囮艦などとなれば全員が犬死する。海軍の中で、時の判断では
自由行動して敵を叩く事は生き残る権限であり、作戦司令はその都度発令されていたの
だから この起草には他の思惑が隠れているとしか言いようが無かったのである。この
上奏は、現場を知らぬ本部から司令が飛んで来る事を意味しその事の懸念に心配があっ
たのだ。しかし井上は反論しなかった。南雲に言っても無駄だったからだ。南雲は一級
下で生意気に軍令部との折衝役を買って出ていて、海軍部内で叛乱ともいえる不埒な事
がまかり通ってしまうことは断じて許さない性格でもあった。南雲の艦隊は終始綺麗な
統率された練習艦隊で図版演習で負けてもあまり勝敗は気にしない気質で運命と思って
いた節がある。作戦通り動き作戦通りの成果があればそれ以上も以下も求めなかった。
昭和17年8月25日の第二次ソロモン海戦では、南雲支援部隊は米軍空母エンタープ
ライズを大破させたが、空母龍驤と駆逐艦睦月を失い、飛行機も損害を出した。この時
、ガダルカナルを中心とするアメリカ、オーストラリア軍の、容易ならぬ反攻態勢を窺
知することができた為に、10月26日の南太平洋海戦で、旗艦翔鶴が被弾損傷したが
、米軍の大型空母ホーネットと駆逐艦ポーターを撃沈、空母エンタープライズも大破、
その他戦艦1隻、巡洋艦1隻、駆逐艦1隻に損傷を与えて勝ち戦となった。南雲として
は悲願であったミッドウェイ海戦の敵討ちを果たす事ができたはずだったが。しかし、
それまでの勢いは消え、同僚を失った悲しみは深く大きく癒える事はなかったようだ。
その後南雲中将は、昭和17年11月11日に佐世保鎮守府司令長官、昭和18年6月
21日呉鎮守府司令長官10月20日第1艦隊司令長官を歴任したのだがあまりいい顔
ではなかった。昭和19年3月4日、南雲中将は中部太平洋方面艦隊司令長官兼第14
航空艦隊司令長官に転補された。この頃には生彩を欠いた南雲中将がいた。中部太平洋
方面艦隊は第四艦隊と第十四航空艦隊で編成されていたが、陸軍の小畑英良中将の率い
る、第三十一軍(四十三師団・二十九師団)が南雲司令長官の指揮下に編入された。



1298: 名無しさんAA:18/08/21 16:14
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  344 >   
 この時、総理大臣の東條英機は東京に出て来た南雲司令長官を官邸に呼んだ。既に、
南雲は山本の言った「一年間の戦争で後は外交部が何とかするだろう。」と言う言葉が
全くの虚偽雑言であった事に落胆して負ける事を知っていたようだ。「何とかサイパン
を死守してほしい。サイパンが陥ちると、私は総理を辞めなければいけなくなるのだ。
」と東条は言ったという。その時彼は言葉に詰まった。「この後に及んで保身の総理の
座か。」腸は煮えくりかえったであろう。と共に落胆した総理大臣がいた事が悲しかっ
たという。南雲は東條とは親しくなかった。同じ東北出身ではあるが、とくに付き合い
はなかった。東條は南雲より三歳年長であるが、進級の早い陸軍では、二年以上前に大
将に進級していた。後に南雲は帰り道の際に「いくら、東條さんに頼まれてもな。無理
なものは無理じゃよ。何しろ武器も兵員もない所へ行くんではな」と洩らしている。3
月9日、南雲司令長官は幕僚を伴い、サイパン島に進出視察した。サイパン島では日本
の不沈運命を背負う重大な戦局の基点となる前線基地があった。南雲は島を視察した後
で、参謀長の矢野英雄少将に「こんな装備で戦争ができると思うとるのかね。」と嘆か
わしげに言って顔を見た。矢野参謀長も又サイパンのあまりの無防備に驚いていたとこ
ろだった。サイパンの日本軍の兵力は海軍15000名、陸軍29000名合計440
00名もあった。しかし、もともと装備も無い中でよく頑張っている兵士であり、これ
に涙がでた。昭和19年6月15日、米軍は米海軍全艦隊支援のもとに大軍でサイパン
島に上陸し、総兵力16万人の圧倒的な兵力はたちまちの内に、同島の飛行場を占領す
る。海軍は小沢中将の率いる第一機動艦隊の全力を以って6月19日、20日に渡り、
サイパン島西方海域で戦った。が、大した戦果もなく、主力空母3隻を失って敗退した
。大本営はついに6月24日、サイパン島奪回を断念した。当然でもあった。サイパン
島では、南雲中将率いる陸軍部隊、海軍部隊は孤立無援となり、孤軍奮闘して、玉砕に
至った。南雲司令の最後について「悲劇の南雲中将」(徳間書店)では、次のように述
べている。7月6日早朝、第四十三師団長斉藤義次中将は、南雲長官に「長官、この時
をのがさず自決しますか」と訊いた。南雲長官は「そうですね、すぐ私も後を追っかけ
ます」と言ったと言う。7月6日夜地獄谷の陸軍洞穴で、斉藤中将と井桁少将が自決し
た。南雲中将は海軍の残存将兵を集めると「では、今から突撃する。全員俺に続け!」
と海軍中将の襟章をもぎ取った軍装のまま拳銃を構えるとジャングルを抜けて万歳突撃
が始った。突撃部隊は武器らしい武器ももたず、マタンシャからタナバダの方向に向か
った。撃っても撃っても押し寄せてくるので、米軍も一時はタナバグの南まで後退した
。しかし力尽き万歳突撃が終わったのは7月9日であるとされる。

1299: 名無しさんAA:18/08/21 16:14
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  345 >   

 南雲忠一は1944年のサイパン島攻防戦で自決した。南雲は愚将には違いない、しかし
愚将論は間違っている。@真珠湾攻撃で第2次攻撃を仕掛けなかった。 Aミッドウエ
ー海戦での敵空母部隊発見後の指示のまずさ B南太平洋海戦での消極性が挙げられる
。などを指摘する。しかし当初から、真珠湾攻撃は奇襲攻撃が前提であり、その後には
政府は米軍が体制を立て直す前に、終戦の受諾を果たす約束をしていた。一年後には外
務省や大本営即ち軍部事務局は終戦を行う約束であったのだ。つまり無理に攻撃しての
戦果を大きくする必要性がなかったのである。また、同じ様に第2波攻撃で既に加賀艦
爆隊などに大損害がでており続けていて、攻撃しての航空隊に損害が生じた上に以後の
作戦に支障が出る事は避け無ければならなかった。更に、空母搭載の航空弾薬自体が、
それほど残っていない状態だったのだ。6隻の空母での真珠湾の施設を無効化などでき
ない事も一因だった。燃料施設を破壊しなかった理由は簡単である。当初から破壊しな
い方針だったからだ。山本は燃料はアメリカ西海岸の要港やオーストラリアにも備蓄さ
れており米艦隊が1年間も行動不能になるなんてことは起こらない事を熟知していたの
である。又、燃料施設は当時に石油地下備蓄技術が導入され、施設はダミーだとも判断
していた。使ってはいても、見えてない貯蔵もあったのだ。つまり攻撃しなかったのは
南雲の判断ミスではなく、立案した連合艦隊司令部のミスで攻撃不許可だったのである
。約束を破らない南雲は、潔癖主義では無かったが芯からの軍人だったのだ。逆にこう
した時「作戦目的を達成したのにそれ以上の戦果を求める」事は逆に自軍を不利にする
原因にもなり軍人や司令官として戒める行為だった。不在だった米空母の所在が掴めて
いなかった以上リスクを冒して攻撃を続行するのは愚将のする行為で、山口2航戦司令
が攻撃続行を催促したのは単なる不安からだった。山本五十六が第二波の真珠湾攻撃作
戦を握りつぶした時は、既に米国の立て直しが出来る日数が立ってからだった。人命を
大事にして艦隊の棄損を重視する南雲がその戦いに反論するのは充分な事だった。それ
ほどにまともな戦略者だったのである。真珠湾攻撃に山本が出なかった理由もこの人望
の高い上に完璧な人物だったからこそ、失敗せよ成功せよ山本には任せるしかなかった
のが海軍の実情であった。自分が出て失敗し叛乱が起こる或いは成功して羨望を受ける
。この事が嫌だったし海軍の危機になる事が充分解っていたのだ。慎重で信頼ある南雲
なら、失敗しても自分の立場は揺らがない。成功したら海軍の地位は陸軍より遥かに優
位になる。ただそうした事だけで軍は動いていたのである。


1300: 名無しさんAA:18/08/21 16:15
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  346 >   

 南雲中将の最期はサイパンでの貧相な武装にあった。万歳攻撃の頃最期を遂げたもの
で、時刻は7月7日未明とされる。既にこのサイパン島に赴任し、視察を終えた時死を
覚悟していたと言える。軍規はあるものの、既に兵器の無い軍隊に兵士は居ないも同然
だった。いや兵器どころか食べるのがやっとの中にしみじみと「海ゆかば水行く屍(か
ばね)、波面(みなも)の藻屑の波枕」と思っていたに違いなかった。南雲中将の愚将
さは単に戦争認識の違いであった。つまり日本はぎりぎりの挑戦をしていて「皇国の興
亡の一戦」と言う認識が甘かったに他ならない。それは山本も同じだった。いや天皇さ
え同じだった。仕方なしに開国し仕方なしに大和民族の生存をかけて連合国と戦ってい
たが、勝つ事より、終始国が生き残る事に追われていた。だが大本営も教育もそうした
必死さがなく、新人兵士や仕官は逆上せ(のぼせ)野捌って(のさばって)いたのだ。
南雲中将はミッドウエーで敵空母発見の報を受けた時点で4空母の兵装転換は実はそれ
ほど進んでおらずに、赤城、加賀で9機ずつ終了した段階で、、蒼龍、飛龍では兵装転
換すらなされておらず 格納機は未装備状態で飛行甲板には艦載機はならんですらいな
い。ここで山口氏の具申を採用していたとしてもすぐさま出撃させれる訳ではないので
1時間近く待たねばならない。この間ミッドウエー攻撃隊は燃料切れで不時着水し全機
損失するし直掩に全戦闘機を出していたので護衛が付けられずにいた。この致命傷は、
史実以上に空母攻撃隊は大損害を受け、既に敵攻撃隊は出撃してるので味方空母も失い
戦果も大して変わらなかった。と言える。逆に南雲中将の慎重策だからこそ空母4隻は
失いましたが熟練搭乗員は殆ど生還し総数500名弱程のうち戦死者は110名ほどの
みで済んだ。こうして、続く戦いでも日本軍は戦えたのだ愚将策を採用してたら結果は
変わることなく、より多く日本軍は損害を被りガダルカナルの戦いはあっという間に、
アメリカが勝利していたでしょう彼の行動が「愚策」とは、専門的にみては、とても思
えない。つまり南雲の判断は妥当なもので、真珠湾で反復攻撃をすることは無謀に近い
危険な行為で、ミッドウェーで、すぐに攻撃隊を出すことは現実的に不可能な事だった
のだ。ミッドウェーの南雲艦隊はアメリカ空母が居ないという前提で作戦していますが
、この判断は連合艦隊司令部の出した結論であって、上級司令部によって作戦が決定さ
れ、その内容が暗号解読によってアメリカにバレバレでは、誰がなっても裁量権のない
前線の艦隊司令官では敗戦は同じだったか、より以上だった。実はこの井上晴美に迫っ
た同意こそ彼が愚直な愚将たるもので、大日本太平洋艦隊を滅亡に追い込んだ元だった
のである。行動を審査する大本営には良かったが自由の無い艦隊に生き残る術がなかっ


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