何でも書こう


@3ch掲示板 > 何でも書こう
全部1- 101- 201- 301- 401- 501- 601- 701- 801- 901- 1001- 1101- 1201- 1301- 1401- 1501- 1601- 1701- 最新50

何でも書こう

1: 名無しさんAA:15/02/21 12:29
雑談しましょ

1101: 名無しさんAA:18/07/30 18:14
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  147 > 

それを 石原などは満州占領による抵抗運動と知って居乍らももみ消した。軍部も同じ
に国際批判の中でも、紛争が勃発した当初は北支事変と称して政府を詐欺たのだ。1937
年第1次近衛内閣の閣議決定で支那事変を正式の呼称とした。1941年12月に上海抗戦で
負けて、敗走し重慶に逃げ込んで、共産党員に護られて蒋介石の重慶政府が出来ると、
すぐさま日本に宣戦布告し、事変が戦争にエスカレートしたが、これは当然だった。が
、石原などは 尚も懐柔策を進言し米国の中国支援を見えなくさせていた。これを受け
、東條内閣は10日の閣議で大東亜戦争の一部に含めることを決定までしたのである。
この日本の占領地域内には既に中華民国臨時政府(北京)や中華民国維新政府(南京)
中華ソヴィエト共和国臨時政府(延安)中華独立政府(安徽)台湾自治政府(台湾)な
どの勝手な自治政府が誕生していた現状がある。もともと、日本は、当時の中国国内の
北部をシベリア出兵に際して進出し、多くの諜報員を配置して暮らさせていた。又歴史
上も中国北部に日本は近しかったし信頼し頼っていた。その為に日本留学していた北京
の段祺瑞(だんきずい)に対しての支援をしていたし政権樹立後国際社会の批判や横やり
が無ければこれがうまく行くはずだった。しかし上海は日本支援を南部に入れたかった
。その為アメリカを動かした。その為日本の明治政府は、国際的にも広東(カントン)軍
政府を中心とする南方勢力を承認してしまい、その為段祺瑞の北京政府と広東政府は対
立までしていたのである。1912年から1928年まで北京に存在した段祺瑞政権の中華民国
政府は、正統な北洋軍閥政府の流れの本流であった。中華民国政府(北京政府)の国務
総理に段祺瑞なった頃、親日政策を採用し、日本の経済的な支援を受ける方針を示して
いた。6月6日、袁世凱(えんせいがい)が憤死(ふんし)するが天津で洋式の新建陸
軍を編成し、中国皇帝を追い落とし辛亥革命後の中華民国初代大総統に就任していた。
この時の袁世凱在任1913〜1915の政治は、かつての帝制を模擬したものであって、治政
の進化でも洋風化もなかった。直ぐに反袁運動が起こり大統領と言う皇帝の地位のまま
治政が行われ、中国統一出来ず怒りの内に死んで行った。この憤死の後は急速6月7日
、副大総統であった黎元洪(れいげんこう)が大総統になった。ところがこの黎元洪は
武装した反乱軍鎮圧の為に袁世凱に拾われた一介の海軍機関士に過ぎなかった。船の操
作を教えた軍事顧問に教わって英語が使えたと言う、非常な努力家で人望が厚かった。

1102: 名無しさんAA:18/07/30 18:14
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  148 > 

それでも彼は、それ以上もそれ以下もない機関士のみの人だった。武昌以来、革命軍を
指揮して来たと言う自負はあったが、帰国して中国革命を成し遂げた孫文やそれに仕え
た段祺瑞の様な、才能や知見のある政治家ではなかった。皇帝治政時代、これまで革命
派を弾圧してきた黎元洪は、暫定的な司令官に任命され、渋々軍政府湖北都督に就任し
た黎元洪だったが、清朝の軍機大臣(総理大臣)である袁世凱との対座し停戦交渉を行
い、いつのまにか革命の中心人物となって躍り出ていた。しかし、革命派内部は、武昌
派と上海派に分かれていてそれをまとめる程の器量はもっていなかった。そこにアメリ
カから帰国した中国革命同盟会の孫文が推され、人望から一本化されて、1912年に南京
で中華民国臨時大総統に就任した。この時黎元洪を妥協案として副大総統に就任させる
事にして新中国政府が出来た。ところが黎元洪としては面白くなく、袁世凱を担ぎあげ
て「第二革命」を起こし袁世凱の軍事力の前に孫文を排除したのである。広すぎる中国
の地方の思い思いの勝手な強権は、これ以来ずっーと吹き荒れるのである。器量の狭い
黎元洪から始まる中国の国難の始まりだった。こうしてやむを得ず孫文は日本に亡命し
た。袁世凱の死は、本来なら北洋軍の側近の段祺瑞・馮国璋・徐世昌らが大総統を継い
で「袁世凱の後継者」声を発するべきだった。が、帝政復活宣言以来反乱まで起こした
梁啓超ら南方の護国系が納得せず、北洋軍閥内にも、多くの派閥があり一応は国内平穏
には黎元洪が、無難な人事であったのである。この時まで指導者は中国統一、国内和平
を望んで、身を引いた知見を持っている指導者の姿や思想があったようだ。しかし「中
華民国の後継者」をアピールできた黎元洪は袁同様に大総統府の長であるとして、国務
院の段祺瑞を排除して、政事堂国務卿が握る実務権限を自分のものにしたのだ。こうし
て段祺瑞が下野した途端に、北洋軍閥系の督軍が続々と中華民国からの独立を宣言した
のである。如何に北洋軍閥で孫文と段祺瑞が信頼され期待されていたかが解る。ここで
中国指導者は派閥のない非参戦派の張勲に督軍団との仲裁を依頼して国内を武力鎮圧し
、張勲は此処に立憲君主制を目指す康有為を呼び寄せた。しかしこの康有為は皇帝君主
を回顧夢見ている軍人であり、清朝宣統帝を復位させてしまうのである。迷走を続ける
ままの中国国家にまともな人間は居なかったのだ。ここでアメリカが蒋介石を担ぎ出す
用意をするが、その前に黎元洪はドイツ資金での工作を続けている。袁世凱の息子と、
黎元洪の娘と結婚していて国際関係も国内事情も良かったからだ。


1103: 名無しさんAA:18/07/30 18:16
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  148 > 
それでも彼は、それ以上もそれ以下もない機関士のみの人だった。武昌以来、革命軍を
指揮して来たと言う自負はあったが、帰国して中国革命を成し遂げた孫文やそれに仕え
た段祺瑞の様な、才能や知見のある政治家ではなかった。皇帝治政時代、これまで革命
派を弾圧してきた黎元洪は、暫定的な司令官に任命され、渋々軍政府湖北都督に就任し
た黎元洪だったが、清朝の軍機大臣(総理大臣)である袁世凱との対座し停戦交渉を行
い、いつのまにか革命の中心人物となって躍り出ていた。しかし、革命派内部は、武昌
派と上海派に分かれていてそれをまとめる程の器量はもっていなかった。そこにアメリ
カから帰国した中国革命同盟会の孫文が推され、人望から一本化されて、1912年に南京
で中華民国臨時大総統に就任した。この時黎元洪を妥協案として副大総統に就任させる
事にして新中国政府が出来た。ところが黎元洪としては面白くなく、袁世凱を担ぎあげ
て「第二革命」を起こし袁世凱の軍事力の前に孫文を排除したのである。広すぎる中国
の地方の思い思いの勝手な強権は、これ以来ずっーと吹き荒れるのである。器量の狭い
黎元洪から始まる中国の国難の始まりだった。こうしてやむを得ず孫文は日本に亡命し
た。袁世凱の死は、本来なら北洋軍の側近の段祺瑞・馮国璋・徐世昌らが大総統を継い
で「袁世凱の後継者」声を発するべきだった。が、帝政復活宣言以来反乱まで起こした
梁啓超ら南方の護国系が納得せず、北洋軍閥内にも、多くの派閥があり一応は国内平穏
には黎元洪が、無難な人事であったのである。この時まで指導者は中国統一、国内和平
を望んで、身を引いた知見を持っている指導者の姿や思想があったようだ。しかし「中
華民国の後継者」をアピールできた黎元洪は袁同様に大総統府の長であるとして、国務
院の段祺瑞を排除して、政事堂国務卿が握る実務権限を自分のものにしたのだ。こうし
て段祺瑞が下野した途端に、北洋軍閥系の督軍が続々と中華民国からの独立を宣言した
のである。如何に北洋軍閥で孫文と段祺瑞が信頼され期待されていたかが解る。ここで
中国指導者は派閥のない非参戦派の張勲に督軍団との仲裁を依頼して国内を武力鎮圧し
、張勲は此処に立憲君主制を目指す康有為を呼び寄せた。しかしこの康有為は皇帝君主
を回顧夢見ている軍人であり、清朝宣統帝を復位させてしまうのである。迷走を続ける
ままの中国国家にまともな人間は居なかったのだ。ここでアメリカが蒋介石を担ぎ出す
用意をするが、その前に黎元洪はドイツ資金での工作を続けている。袁世凱の息子と、
黎元洪の娘と結婚していて国際関係も国内事情も良かったからだ。


1104: 名無しさんAA:18/07/30 19:11
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  149 > 
 黎元洪は日本公使館に避難し、7月3日に段祺瑞と馮国璋に張勲の軍の制圧を依頼する
。しかし相手にされず7月5日に段祺瑞を再度国務総理に任命し、7日に馮国璋を大総
統代理に任命した。表舞台に舞い戻った段祺瑞の北洋軍閥は、あっけなく張勲の軍を打
ち破り、7月12日には北京を制圧、段祺瑞は7月14日に悠々と北京入京を果た。こ
れを見た黎元洪はその日のうちに日本公使館を出て大総統を辞職し、政治の一線から退
いた。大総統を辞職した黎元洪は天津に移り、彼は悠々自適に隠居しながら、民間事業
への投資を行って財を成していた。しかし直隷派の馮国璋は病死し、さらに直隷派は保
定派と洛陽派に分かれた。又1920年直皖戦争によって安徽派の段祺瑞は失脚し、1922年
の奉直戦争で奉天派が敗北する。こうして戦いの上に政権は直隷派が担うことになった
。しかし、直隷派が政権を担うとなれば、それ維持するには支持層が少なかった。そこ
で直隷派は再び「誰もが反対しない大総統」として黎元洪を擁立したのである。黎元洪
が目指したのは「平和的な統一による中央集権国家への移行」であったが既に中国国内
でのしこりは大きく、就任直後から「黎元洪の大総統就任は直隷派の手によるものであ
り、民主政治と言う割には大総統選任のプロセスが中華民国約法に則っていない。」と
いう議論が沸いていた。これに対して黎元洪側は「前回大総統職を離れたのは辞任では
なく(張勲による)外的圧力で職を離れただけである。従って今回大総統に『復帰』し
たので、その任期は1年3ヶ月残っている。」と反駁したものの、説得力に欠け黎元洪
の求心力は低下して力はなかった。又旧知の孫文の取り込みを当てにした「平和的な統
一」は、孫文の逮捕状を取り下げたものの、当の孫文が黎元洪の前回の失脚の後に北京
政府と袂を分かち「広州国民政府」を樹立しており「広州政府が中国唯一の政府であり
、黎元洪は新しく来た偽総統に過ぎない。もし列強が彼を承認するのであれば、それは
中国に対する内政干渉だ。」と内外に対して宣言が発表されて、統一の夢は瓦解してい
た。迷走を続け、翌1923年に半ば直隷派に放逐される形で辞職したが、大総統の職を追
われても自ら公式に「辞職した」とは認めず、天津・上海で大総統復帰のための工作を
行った。黎元洪は直隷派に包囲された自宅にこもったり、北京にいられなくなって天津
に脱出する際も大総統の印璽を持ち出して天津に仮政府を設置しようとするなど、ギリ
ギリまで抵抗を試みたが、結局印璽は天津に脱出する途上で直隷派に奪われてしまった
。黎元洪は天津のイギリス租界に逃げ延びた。(1924年)に第二次奉直戦争が勃発して
直隷派政権が瓦解したが、黎元洪はもう政界に進出する気はなくなっていた。結局中国
は世界大戦が終わっても尚 こうした政争闘争を繰り返して独裁に終始していたのだっ
た。

1105: 名無しさんAA:18/07/30 19:11
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  150 >
 この中国での府院の争いの頃は、日本は大きなかじ取りの中にいた。国連の中で、第
四次日露協約が締結されたのである。内容は、「日露間で特殊権益擁護を相互に承認す
る。」というものである。シベリア出兵以来赤字続きの日本において、秘密協約での、
「中国が第三国の政事敵掌握に陥るのを防ぐために相互軍事援助を行うこと」を規定し
た協定を結んだのである。日本国内で対華21か条への批判で大隈内閣が総辞職するに
至ってしまい第18次内閣に寺内正毅内閣が成立した。10月に、黎元洪が大総統とな
った時段祺瑞国務総理はその代表として日本からの援助をこぎつけた。この時、時の中
国政府内が対立し、馮国璋(直隷系軍閥の巨頭)を中華民国政府の副総統に選出してい
る事も日本は解らなかった。1917(大正6)年1月20日、日本興業銀行・朝鮮銀
行・台湾銀行は、段祺瑞内閣に対し、交通銀行への借款500万円を供与するという契
約を締結し、西原借款の最初を起債させたのである。これを2月13日、イギリス外相
は、駐英大使砂田捨巳に対し、次のような回答をし、英国覚書を作っている。その内容
は、次の通りです。(1)イギリスは、講和会議での日本の利権を約束する。(2)山
東省のドイツ権益ならびに赤道以北のドイツ領諸島に関する日本の要求を支持する。そ
の後は3月1日、フランスもイギリスの提案を支持すると回答しました。更に3月5日
、ロシアもイギリスの提案を支持すると回答しましていた。つまり、5月7日、段祺瑞
政府が、対独参戦案を衆議院に提出し、国民党系の5派は反対で結束したのだが、これ
を利用して、黎元洪大総統は、段祺瑞を罷免せずにいたなら、それで中国は何もない、
大国として自治政府は収まったのである。この「府院の争い」は終わりのない国内紛争
になっていく起点であった。5月29日、これに不満の段祺瑞は、安徽・河南・奉天・
山西・陝西・浙江・福建各省の軍閥に働きかけ、独立を宣言しました。窮地に追い込ま
れた黎元洪は、安徽督軍の張勲に援軍を要請しました。辮髪を切らない程の極端な保守
派である張勲は、その条件として、国会解散を要求して軍閥政府が連立する国家に変化
したのである。日本はこの貸付をしてる以上、奉天政府を後押しせずにはいられない様
な立場になった。ここに張作霖の勢力圏ができたのである。この借款は、第一次世界大
戦に日本に流入した外資を中国に投資して、段祺瑞などの中国統一を援助すると同時に
、経済利権の確保をねらったものだった。原資には、大蔵省預金部資金と政府保証興業
債券収入をあて、日本興業銀行(現、みずほ銀行)、朝鮮銀行、台湾銀行の3銀行を通
じて供与された。しかし投資の大半は、南北争乱中の政権の政費に費消され、段祺瑞派
の失墜や黎元洪大統領の辞任で回収不能となった。日本では担保不確実な焦付(こげつ
き)債権として、また中国では高利(八分内外)の国恥借款として非難を浴びた。

1106: 名無しさんAA:18/07/30 19:15
 しかしこの貸付に、担保が無い事はなかった。黎元洪大総統が印璽をもって天津に脱
出する途上で直隷派に奪われてしまったのだが、この印璽によって支払われこの印璽の
保証によって作られた会社が数多くあったからだ。黎元洪は日本公使館に避難し、7月3
日にそこで段祺瑞と馮国璋に張勲の軍の制圧を依頼したのは、その経済的支柱が日本に
あったからだ。大総統を辞職した黎元洪は天津に移る。ここで彼は悠々自適に隠居しな
がら、民間事業への投資を行って財を成しているは、この資金が有用だったからである
。彼は数々の投資を膨らませ学校すらも建設していた。1926年、焦付債権は公債に肩代
りされて日本国民の負担となった。一方中国では国民政府が成立し、段祺瑞政権は負債
には責任がないと債権の棚上げを主張し続けて、西原借款は全額回収されず、蒋介石政
権は逃げたが、一方でその資金を回収していた。その金が夫人を通して米国工作に使っ
ていたのである。蒋介石国民政府は台湾に移る際には、総統としての指示で、中央銀行
、中国銀行などを初めとする関係銀行が所蔵する国庫の金、銀、米ドルなどの財貨と外
貨を秘密裏に台湾に搬入した。この時、黄金390万オンス、米ドル7千万ドル、白銀
7千万ドル相当、合計時価5億ドルにのぼったという。また北京が共産党軍に占領され
る前に、故宮博物館(旧清朝の紫禁城)にあった移動可能なほとんどの文化財を台湾に
運び込んでいた。これらは現在、台北の故宮博物館に展示され、台湾の重要な観光資源
になっている。実はここがみそである。中国中央銀行は、実は上海と香港にある銀行を
資金としては作られてはいなかった。その前身は中国独自の華北銀行であった。その管
理を「府院の争い」での国務院が管轄したのだ。これが大統領に乗っ取られたのである
。汪兆銘政権は 1940年3月30日に成立したが、その統治下に日本は中国占領地域で日本
軍の軍票や華北の中華民国臨時政府(後の華北政務委員会)による中国聯合準備銀行(
聯銀)・蒙古聯合自治政府下の蒙疆銀行(蒙銀)・華中の中華民国維新政府による華興
商業銀行(華興)が物資調達の手段としてそれぞれの紙幣を発行した。一般的には中華
民国(重慶政権)側の法幣が広く流通していたが、その裏書がこの金だった。汪政権に
よって1940年12月19日に中央儲備銀行法が公布・施行され21日に資本金1億元で創立
し、日本銀行との相互の預合いによって兌換準備を行う為に「中央儲備銀行」を蒋介石
政権が1937年に将来設立する予定として準備した。中華民国の中央銀行の名称であり、
中華民国の正統政権を謳う目的もあったと言う。中国共産党は各解放区に一つの銀行を
設立し金融財政政策を行おうと躍起になった。全国統一にともない,1948年12月,華北
銀行を中心に中国人民銀行を設立した。中華人民共和国成立以後は国民政府の銀行と民
間都市銀行を国有化し,人民銀行の配下に収めた。こうして今の5千億円くらいが中国
にかすめ取られた形だった。

1107: 名無しさんAA:18/07/30 19:19
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  152 > 

 西原借款は、寺内正毅(まさたけ)内閣下の1917〜1918年(大正6〜7)に、中国の北京
政府に供与された借款のうちで、国際的には対中国国際借款団が形成されて、借款をし
たものもあった。当時は英・仏・露・日の四ヶ国の代表団の規制があった。しかし日本
の日露戦争後の負担は大きく、その外での貸付利益を求めて借款を起債した。経済借款
の名目でまとめたこの借款は正規の外交ルートによらず、寺内首相の私設秘書だった西
原亀三(かめぞう)が、首相および勝田主計(しょうだかずえ)蔵相の意向を受けて交渉に
あたって契約をまとめた。この事でこの名がある。通常次の8件と総額1億四千五百万
円の事をいうとされる。第一次交通銀行借款 500万円、第二次交通銀行借款2000万円、
有線電信借款2000万円、吉会(きっかい)(吉林〜会寧間)の鉄道借款前貸し1000万円、
黒吉林鉱(こくきつりんこう)黒竜江(こくりゅうこう)・吉林両省の森林・鉱産物)借款
3000万円、満蒙(まんもう)四鉄道(長春〜南(とうなん)間、吉林〜開原(かいげん)間、
南〜熱河(ねっか)間、熱線〜地点から海港まで)借款前貸し2000万円、山東二鉄道(済
南(さいなん)〜順徳(じゅんとく)間、高密(こうみつ)〜徐州(じょしゅう)間)借款前貸
し2000万円、参戦借款2000万円。別に兵器代借款3200万円を含める説もある。こうして
南満州鉄道の権益の殆どはこの時の借款で出来た物だ。この列車で上げた利益は、他に
そのまま華南銀行 朝鮮銀行などに行きわたっていた。その中にドイツ東亜銀行や横浜
正金銀行が日本勧業銀行と共にあった。その後満州中央銀行が1932年に日本からの出資
による3千万円の資本を基に新京に設立され、同年正式開業した。新京の本店の他に、
140の支店が満洲・中国・日本に展開していた。銀行設立を認可した1932年の通貨法
に従い、満洲国は通貨単位として「(満州)圓」を採用した。圓は、中国の通貨の伝統に
基づいて、24グラムの純銀を含んだ通貨だ。中華民国の通貨と同じく銀本位制でスター
トした。発行した紙幣に対しては、その額面の最低3割相当の準備金を保有している必
要があったのだ。しかし、1935年11月に日本円を基準とする管理通貨制度に移行して、
満洲中央銀行の紙幣自体は不換紙幣となり、交換義務を負わなくなった。つまり紙幣は
信用貨幣となり、満洲国の信用が紙幣の信用となっていった。。開業と同時に、張作霖
管理下にあった東三省官銀号・吉林永衡官銀銭号・辺業銀行・黒竜江官銀号の4行を合
併した。これにより満州中央銀行の資本金は8千万円以上に膨れ上がった。が、こうし
た事の推移を知っている日本人が今やどれだけいようか。日本は中国に騙され韓国に吸
い取られ米国に叩かれた世界で有数の悲惨な国家だったのだ。

1108: 名無しさんAA:18/07/30 19:30
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  153 > 

 段祺瑞や殷汝耕は清朝を倒した辛亥革命(1911年)に参加し、1925年反張作霖クーデ
タに加わった烈士の一人であったが、ものの見事に失敗して、一時日本に亡命した。し
かし日本軍と中国軍との間に始まった柳条湖事件からの満州事変の軍事的衝突停戦協定
に動いて塘沽停戦協定締結するに大きな動きをしている。義和団の乱の際に結ばれた、
北京議定書においてのロシアを意識した要求をしては、山海関には北寧鉄路南側の兵営
に歩兵百人と工兵の小部隊を駐留させて砲台を4基設けるとともに秦皇島には守備隊約
50人を駐屯させて日本人に治安を任せてくれた。しかし中国軍は、すぐ傍の南門付近
に常駐していて、突如射撃を加えて兒玉利雄中尉が戦死し、他に数名の負傷者を出す事
件が起こった。やむなく自衛に応戦し日本の空軍が出るまでに至ったのが、最初の蒋介
石の攻撃だった。陸軍省は、これは当時、張学良が盛んに熱河省並びに山海関付近にお
いて反満抗日の行動に出つつある情況とみて注視していた。日本軍爆破隊は山海関沖に
ある駆逐艦からの艦砲射撃、綏中から飛来した航空機の爆撃の援護を得て山海関南門を
爆破すると、戦車隊と守備隊の一部が突撃して中国軍を撃退し、日章旗を揚げるに至っ
た。両軍の歩兵は同等だったが日本軍は駆逐艦「芙蓉」と「刈萱」からの艦砲射撃に加
え19門の野砲、7機の航空機で中国軍の軽・小火器の陸軍と対峙した。英国デイリー
・メール紙は事件は張学良によるもので彼は国際連盟が日本に対して実力を行使するこ
とを期待したのではないかと論じた。事実こうした行動の中国側は盛んにアピールして
、日本の非道を装った。世界は日本軍による山海関占拠の合法性を認めなかったが、ロ
ンドン・タイムズは「1901年に調印された北京議定書に基いて占拠している日本軍に対
して中国軍が攻撃的態度を取ったことは中国軍の責任であり、日本側が侵略されたとし
て防御するのは当然の権利。」と説明している。これによりシベリア出兵にあっては、
参謀本部附を命ぜられてハルピン特務機関長、オムスク特務機関長をして現地支援して
いた武藤信義を派遣した。武藤はかなりの戦略家だったが、同時に弱さもあった。湯玉
麟は、かつては張学良の部下で腰の財布とされた金庫番だった。しかし満州国の建国宣
言に署名し、熱河省長に就任して、その為に、傀儡政府とは言え、冀東(きとう)防共自
治政府の成立に尽力した。このために中国政権には後ろ指刺されたが、かれは時の住民
を充分に保護していた。それが批判され共産党政権に後は処刑された。


1109: 名無しさんAA:18/07/31 02:55
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  154 > 

 関東軍の武藤司令官は「長城を隔てる河北省は中華民国の領土である。」として長城
を越えて行動しないように、兵士達に自制を強要した。これに乗じて、中国は熱河に対
して7千の兵力を進めた。外国人記者団から「中国軍の長城線における挑戦態度が継続
される場合に日本軍の行動はどのようになるか。」との質問に対し、私見として「日本
軍は忍べる限度までは忍ぶが中国軍が増長して反省がなければ一大鉄槌を下す場合を、
否定する事はできない。」と答え「満州国に忠誠を誓う者は居住を許され、家族・部下
・財産が安全に保障された多くの例がある。」と答え、熱河作戦、渫東作戦、関内作戦
に応じた。中国軍のこの作戦は、雑軍だけが前線にあり、本体の中国軍は最初から勝ち
目のないと知って日本軍との戦いを望むことはなかったが、雑軍は日本軍・満州軍にで
きるだけ打撃を被るように裏で仕向けられていた。従って中央政府の中国軍は敗退した
雑軍を後方で待ちうけ、その武力解散、武装解除を行っているふりをして賊軍を兵士に
組み入れたのである。これは蒋介石の常套手段であり、逐次東北軍と雑軍を第一線に立
たせて反共の者を日本軍に当たらせ、その壊滅を策す一方、自力による武装解除を行い
中国北部を完全に中央軍の掌中に収めようとする意図によるものであった。これにより
段祺瑞や殷汝耕の兵は減らし、塘沽停戦協定の成立と共に軍事活動停止され何とか平和
が保たれていた。民衆運動は香河県城を占拠し、「中国国民党打倒」「官吏の罷免」「
孫文の建国大綱に基づく地方自治と農民救済を要求する宣言」などを発表し、自治化運
動は河北省全域に波及する情勢となった。宣言では自治を原則とし、土地の公有反対、
共産勢力に対する警戒、農村救済、減税、福祉増進を挙げている。同日、河北省各県代
表連席会は緊急会議を開催し、重税に反対する運動を支援する方針を決議した。当時の
日本には、この運動の根本原因が国民政府による搾取があると報道されていたが、一般
兵では解らなかった。10月27日には、話し合いで、保安隊により香河県城が接収され、
その地域で解決したが、自治を求めて次々と蜂起が続いていた。河北省首席の商震など
は国民政府の意向を受け、事態の収拾に当たったが、自治運動が塘沽停戦協定で決めら
れた非武装地帯内で発生したことから、武力鎮圧をおこなうことはできなかったのだ。
こうして、1935年日本政府に急接近した傀儡(かいらい)政権の冀東(きとう)防共自治政
府が成立した。自治政権冀東防共自治委員会を通州に樹立し、自治宣言を中外に発表し
て地域内民衆の自治を開始し国民党旗を撤去して国民党との分離が表明された。委員会
は、共産党員を怒らせた。

1110: 名無しさんAA:18/07/31 02:55
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  155 > 

委員長の殷汝耕は完全な共産党員の排除をした。他、委員として池宗墨、王厦材、張慶
余、張硯田、李海天、趙雷、李允声、殷体新が名を連ね、塘沽停戦協定での軍事行動が
禁止された地域をその統轄範囲として自治活動を行った。組織としては秘書長を池宗墨
としてその下に秘書処、保安処、外交処、民政庁、財政庁、建設庁、教育庁、税務管理
局、北寧鉄路新楡段監理処を設け、他に委員長直属の唐山弁事処と各保安総隊を持った
。こうして徐々に徘徊していた悪者は中国側に出て行った。しかしある時点でこれが変
わった。毛沢東の紅軍遠征からである。日本政府が北京政府の蒋介石を重んじて自治政
権だった冀東防共自治政府を認めなかった事で、中華民国は3つの条件を出した。金融
破綻で銀の海外流出のために政府系銀行の準備銀が急激に減少した事で銀の決済を止め
て、中国が発行する中央、中国、交通三銀行券を完全なる法定通貨とする様公布したの
だ。更に銀弗、銀塊を隠匿又は不法に所有流通するときは、緊急治罪法を以って処断す
るとしたのだ。その上各自が発行する銀行券は増やさない限り許すとしたのだ。これに
よって自主流通の通貨ルートが絶たれたのである。つまり金銀で保証された黒竜江省の
付近で行われていたロシア〜中国間の物流流通が無くなったのだ。そもそも中国政府ど
ころか日本軍の発行した紙幣すら信用がなく朝鮮銀行の持つ銀現物の裏打ちで流通して
いたぐらいだったのである。それが無くなる事は中国商人にとっては死活問題で物々交
換の時代に戻る事を意味していた。つまり冀東防共自治政府が後押ししていた殷汝耕の
商社の両替が無くなったのだ。それも急激に何の前触れもなく。1937年(民国26年)に
、かねてから国民革命軍第29軍軍長宋哲元と秘密裏に連絡を取り合っていた冀東保安
隊第1総隊長張慶余、第2総隊長張硯田が蜂起し、罠にかかり殷汝耕は捕縛されてしま
った通州事件である。張慶余は、捕らえた殷を宋に引き渡そうと北平に護送した。とこ
ろが、宋はすでに北平を離れており、日本軍と遭遇した護送部隊は蹴散らされてしまっ
ていた。こうして殷汝耕は頭山満の斡旋で辛うじて助命になり汪兆銘政権に参加したが
、時既に遅く日本の敗戦時で給与や権限が小さく辞して北平に戻った。だが日本の傀儡
政府であった汪兆銘政権は、共産党政府では漢奸とされ殷汝耕は逮捕され南京に囚人と
なった。既に取り巻き防衛を行っていた志士達、すなわち大陸浪人と呼ばれた日本人た
ちは討ち死か世代交代をした中だったのだ。


1111: 名無しさんAA:18/07/31 02:56
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  156 > 

宋哲元中心の防共自治委員会が北部に結成された場合はどうするかとの質問には「合流
する」と即答している。冀察政務委員会が成立すると直ちに冀東政権へ使者を送り殷に
新政権への合流を求めたが、宋の新政権が依然として南京政府からは離れなかった。こ
うして蒋介石や毛沢東の死の恐怖政治を行い、反共産主義者18万6,000人以上を
虐殺して、210万人以上の住民を追放した政権との決別をはかる政権が出来上がった
。共産主義政権の多くは、「人民の名」において反対派を大粛清し、反共産主義者や民
族主義者や宗教関係者を大虐殺した。人民の敵とされた者から没収した資産は、特権を
利用した共産党幹部が大半を横領し、ごくわずか金が「絶対平等」の原則として兵士ら
に均等に配られたていたまま山にこもる長征を開始していた。共産党幹部による横領は
、日常茶飯事的に行われて、貧しい兵士は、凶暴化して、共産主義の大義を振り回して
地元民から金品や食糧を暴力的に奪った。匪賊・兵匪・官匪の中で、貧しい共匪がもっ
とも恐れられた。無力な人民は、生きる為に、容赦なく奪いさる赤匪に逆らうことなく
従うしかなかった。共産党政権はまるで戦う事は行わなかった、各地で発生している数
百万人の被災民を救済する事はなう、国民党支配地を混乱させ暴動を誘発させる為の敵
陣営へと疲弊し追いやったゲリラ活動は続いた。中国の戦術は、食い詰めた貧しい人民
を暴徒化して敵軍にけしかける事を、常套手段としていて、天災は人災に、戦災へと、
発展させてした。そこには、「情において忍びない」という日本の軍隊のやさしさが、
逆に弱く負担ばかりが存在しては、中国軍に殺されていった。こうして人民からの支持
を得けられず敗走(長征)した経験を生かして、人民の支持でなく恐怖を得る為の闘争
方針へと変更していた。日本軍n平津治安維持委員会を設置し占領統治を開始したのは
遅すぎた結果だった。湯爾和を首脳とする中華民国臨時政府を宣言し、1935年に成立し
ていた冀東防共自治政府もこの臨時政府に合流した。日本政府は1938年「国民政府を相
手とせず」声明を発表して臨時政府に期待をかけた時は、既に蒋介石夫人と米国大統領
とは握手し日本の敗戦後の話し合いをした後の事だった。1938年に北支那開発株式会社
を成立させ、日本は北京で政治、軍事、文化、経済体制をほぼ確立し、独自の通貨とし
て中国聯合準備銀行券(聯銀券)を発行し、華北自治軍という軍事組織を保有していた
。1940年3月に南京で汪兆銘が南京国民政府を樹立すると、臨時政府が吸収合併されて
、」その後は華北政務委員会へと改編され、臨時政府の統治機構を継承して終戦まで続
いたが、その力は日本軍が育てるまでいかない程兵力を持たなかった。


1112: 名無しさんAA:18/07/31 12:56
 湯玉麟は、かつては張学良の部下だったが、満州国の建国宣言に署名し、熱河省長に
就任していた。国民政府の対日問題専門家として活躍。一時日本に亡命した後,国民政
府の対日問題専門家として活躍。しかし日本政府に急接近し、1935年日本軍の傀儡(か
いらい)政権の冀東(きとう)防共自治政府を、成立させたために、のちに処刑された。
パリで、国際連盟理事会が開催された時、ジュネーブの連盟本部では、多くの常任理事
国の大国の意向に不満を持っていた。その国々には、軍事行動を起こした日本の現状を
理解していた国は、いなかったのである。中国及び満州に何ら権益を持たない小国が多
数派であり、軍事・経済の弱い小国は、米英が帝国主義的政策に呼応して、自国の利益
の為に武力で領土拡大をするのではないかという懸念で日本を見ていた。の「支那のよ
うな特別な状態の下にある国に起こった事柄は、かかる特別状態のない欧州各国に間に
は先例となるものではないか云ふ懸念がある。」と連盟調査団史に伊藤述史は書いてい
る。良くも悪くもアジア事項は、記者の色眼鏡を通した記事などで政府も動いていた。
フランス世論では、第一次世界大戦時での日本赤十字社・軍医部によるパリ日本病院の
活躍に感謝して、日本に好意的であった。代表団とは別に、交渉団の一員としてパリに
参集した親日的なイギリスのジョン・サイモン外相やアメリカのチャールズ・ドーズ駐
英大使らは、日本に有利な解決案を話し合ったりした。松平恒雄駐英大使は、サイモン
外相やドール大使らに、満州の特殊性、日本の歴史的経緯、領土拡大の意志がない事な
どを説明した。ドーズ大使は、親日的フーバー大統領の意向に従い、日本に受け入れら
れる妥協策を成立させるべく裏工作を行ったりしている。満洲中央銀行は新京に設立さ
れ、正式開業した時、主要な機能は国家資金の保管・管理、及び金融市場のコントロー
ルとされた。しかし北京政府は満洲国内の金融システムを統一することで、これら機能
によって満洲国の通貨価値の安定を図っていくにつれてHSBC(香港上海銀行)に力
がかかり、その日本の決算企業は失っていった。上海銀行はトーマス・サザーランドに
よって、アヘン戦争後にアヘン取引の為の大英帝国の植民地政策で、特別に香港で創設
された非法人の決済銀行だった。1865年と言う古い時代から営業を開始し、1866年にな
って香港政庁命令第二号により認可され、法人と変わった。主に在華外国企業(サッス
ーン商会、ジャーディン・マセソン商会、デント商会などのアヘン貿易商社のクラブ)
の御用達であり、インドなどの他の大英帝国の植民地との間におけるアヘン貿易の利益
のイギリス本国送金を業務とし、貿易金融を扱い、通貨の発行権利も行っていた。その
行名が示す通り、香港に本店を置き、イギリスの共同租界が置かれた上海支店でも同時
に営業を開始した。正式には発足して香港会社法による1865年で資本金は250万ドル
で銀行となったが、後の蒋介石政府はこれを使って、英国の後押しを得た。

1113: 名無しさんAA:18/07/31 12:57
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  158 > 

 香港上海銀行は、ドイツ系商社とも第一次世界大戦直前まで親密な関係を続けていた
。アヘン取引、奴隷貿易、外貨送金、何でも決済を行っていた。それだけ広がりを持っ
た下請け企業がいたのである。今や有名な死の商人達の軍産複合体への融資も蒋介石が
広めた。日本を詐欺て国力を高めようとしたからだ。しかし日本政府も日本陸軍もそれ
を止められなかった。1914年取締役12人のうち4人はカルロヴィッツ商会(禮和洋行
)などドイツ系出身が軍事顧問と共に指導していたからだ。取締役の業務関知は内規で
規制されたが、広範な業務裁量が頭取以下職員に与えられていて、複雑怪奇な会計がこ
こでは行われていたのだ。第一次大戦後、ヴェルサイユ条約で、ドイツは国際金融の中
から主役を降板したかに見えたが、国際金融の連邦準備制度に対して隠然たる影響力を
保持していた。ドイツ系アメリカ人としてユダヤ金融の力が充分にあったからだ。既に
米国紙幣の発行権利を得ていたし、米国大企業はほとんどがユダヤ協会員だったのであ
る。1922-24年頃は 関東大震災が起こって日本が債務国となって、米国の投信熱が高ま
り出す直前にこの米国金融が引き受け手となった。この間に香港上海銀行は、インド・
上海・ウラジオストク、日本および南洋興発の関係するオランダ領東インドから資金を
吸い上げ拡大し、ほとんどのアジアの利益は集中的にロンドンへ送られていった。一方
で、香港上海銀行は、主要店舗がロンドン送金の2倍程度も証券を購入して世界の半分
を所有していた。世界恐慌が及んだ日本では、香港上海銀行はナショナル・シティ(現
シティバンク)と並びドル買い事件の槍玉にあがった。1941年、香港上海銀行を通じて
上海とシンガポールの資金がロンドンへ送られた事実からだ。主要店は香港政府の負債
証券と英国債を購入した。対して満州地域で満洲中央銀行を設立した日本では、農業・
工業・商業企業へ融資業務の一般の銀行業務も行って安定化するとに努めるしかなかっ
た。この地域からの国際業務をしていた朝鮮銀行を撤退させていたからだ。日本の代理
人的な立場として軍票権限を持たせ、ドル決済のない資金運用を可能にしていたのだ。
ここにアヘン貿易の上海商人との確執が産まれた。日本軍の華中における支払いが、軍
用手票を銀行が発行する儲備券としたが、それらはある意味需要はなかった。既に1866
年以後、横浜、1867年カルカッタ、1869年神戸とボンベイ、1870年サイゴン、1873年ア
モイ、1875年マニラ、1877年シンガポール、1881年天津で、香港上海銀行は南洋の大半
で権限を持ち、各支店を開設し大不況を迎えても、極東を舞台に勅許銀行らしくフラン
ス系金融機関と競争して支店を開業して信用を得ていた。

1114: 名無しさんAA:18/07/31 13:08
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  159 > 

 それは例えば、南洋のイロイロへ支店を出した時の1883年を例としても、インドシナ
銀行に膨大なピアストル貨を供給したし、1884年バタビア、1892年コロンボにも支店を
設けた時も、惜しげもなく各地域のプランテーションをファイナンスしている。そして
先述のとおり1890年代後半に門戸開放をめぐりアメリカへ接近していったのである。蒋
介石に貸付して、ユダヤ資本との取引決済するのは、国際シェアを持つ戦略上の面では
当然の帰結であった。戦前の日本の石油買い付けに軍票で買われても決済できなかった
が、蒋介石の口約束の負債には各国の銀行保証がついていると言う異常さである。英国
海軍と狂気の男ルーズベルト大統領の戦略がそれを後押ししていた。国際会議は軍備の
平等権を要求する敗戦国ドイツと、それを危惧して安全保障の優先を主張するフランス
との対立によって紛糾し、国連国際会議は行き詰まっていた。ようやく12月11日に
至って、ドイツの軍備平等権を、「原則として認める。」英米仏伊四国宣言が出され、
ドイツはこれを受諾した。これにより事実上は、ドイツは連合国の兵器規制の重しが取
れ、連合国側からのヴェルサイユ体制の崩壊の端緒となった。日本にとっても全く意味
の重い会議だった。だがその知らせは全く日本の新聞は重要視していない。というのも
この国際会議には日本は海軍出席となっていたからだ。昭和7年2月2日開会したこの
軍縮会議が特定の争点がない一般軍縮会議に海軍では意味がなかった。それでも、満州
事変に対し報告書を 取り急ぎまとめたリットン調査団の発表は、大きく日本を棄損し
たし、ナチがドイツの政権を掌握するなど、国家レベルでの緊張状態が国際社会を覆っ
ていた中の重しの取っ払いだった。会議期間中にドイツが国連脱退を表明、それに対し
非加盟国アメリカのルーズベルト新大統領が継続を要求するもドイツは結局国連脱退を
決定し、国連の紛争解決能力に疑問符がついた形で紛糾のまま会議は終了した。


1115: 名無しさんAA:18/07/31 13:08
この時
会議の長期化は日本の深刻な問題を露呈した。長期に及んだため、永野全権は途中で帰
国を命じられ、主席随員の長谷川中将が全権に昇進して会議が続行される異様ぶりだっ
た。それでも未だ日本では危機意識がなく、海軍は艦隊派と条約派に別れた血みどろの
闘争があり、中道の永野全権から若干条約派寄りの長谷川全権への交代劇を簡単に行っ
ていたし、陸軍と海軍のしこりも解消されていなかった。満州事変・熱河侵出などの陸
軍問題は、議題にまったく関わりのない海軍を置いた日本政府の気楽さを露呈していた
のである。明治30年に発足したに設立された日本勧業銀行は、養蚕、紡織、食品など
農業と密接した軽工業を主な融資対象としており、日露戦争を契機に急成長した製鉄、
造船、電力などの重工業は除外されていた。国内資本の不足を露呈し、産業界では外資
導入の必要性が出来た為だ。しかし企業単独で外資を調達するのは困難であり、政府の
保証のある下外債を発行し、国内重工業への融資を行う、いわば「工業の中央銀行」の
必要との判断で日本興業銀行は産まれその後長期信用銀行に移行した。


1116: 名無しさんAA:18/07/31 13:08
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  160 > 

 実は日本は国連から脱退して、4ヶ国の安保条約も破棄しても、永世中立国を宣言し
て軍備を増強して国防できると踏んでいた向きがある。松岡全権大使は国連脱退を宣言
したのでなく席を去っただけであった。これに対してアメリカのイエロージャーナリズ
ムは盛んに脱退したと報じたし、日本の新聞もそれを報じて国民喝采の宣言をしたのだ
。松岡洋右(まつおかようすけ)は日本の外交官として決定的な無知だった上に、政治
家の資質に欠けた人材だった。アメリカへの留学経験があり、満州国では満鉄総裁とし
て弐キ参スケの一人に数えられたが、彼が意思表示した行為は満鉄時代も政治家時代も
平和の崇高な意志をもった行為は何処にもない。言わば言われた指令に忠実に行ったぐ
らいの事だ。多くの軍人政治家の中で、一番の苦労人でありながら一番のするべきでは
無かった働きの人だった。日本の国際連盟脱退は大きな背信行為だったが、日独伊の三
国同盟も又同じ様にやってはいけない行為だった。更にドイツに行く前にソ連と不可侵
条約を結んだが、信頼の無い国同士で生まれる条約などなんの突っ張りにもならない事
を知らない馬鹿だった。多くの軍人や政治家が死ぬ気で日本を守る中では、彼はあまり
にも中途半端な知識で固まっていた。無知の上に更に権力のある責任の座についていた
。、日本自由メソヂスト教会の指導者となる河辺貞吉から大きな影響を受け、洗礼を受
けてオレゴン大学法学部を卒業していたながら帰国して外交官及領事官試験を受け合格
し外交官となった。つまり米国帰化の在米日系人の弁護士や神父とならなかったのであ
る。外務省で、領事官補として上海、その後関東都督府などに赴任しパリ講和会議の通
訳や報道員として随員している。満州記事には「砲火剣光の下に外交はない、東亜の大
局を繋ぐ力もない。休ぬるかな。」と自らの対中外交方針が破綻したことに落胆してい
る。だがここがおかしいのであって武力や威圧や優位や外圧と言う物は、欧米流外交の
やって来た事で、当時も今も武力や兵力の無い所にこそが外交力は無かったのである。
 そもそも松岡洋右や大島浩などは全く外交など向いていない人種だった。人脈もなく
情報も取れず、努力家で明るく開放的でありながらも、非常に人を信じやすく、癇癪持
ちであった為だ。人から騙されやすい人間を信じる日本人的配慮こそがおかしく外交と
言うシリアスに国の行き先を決める重要な位置に彼らを置いた事に問題があった。また
そうした人生から、一度決めたらなかなか信念を変えずこれらのことから政治や術策に
は不得手であり、自身らも「政治や外交は好きではない」と語っていた程だったのだ。


1117: 名無しさんAA:18/07/31 13:09
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  161 > 

 ドイツの国連脱退は、アメリカの英国寄りの政策提言からだった。 ドイツ共和国は
1926年に国際連盟にやっと加盟を認められた。ドイツ共和国政府の下で国際協調を
進める約束をしたからだ。しかし英国の野放図な植民地経営破綻とアメリカの沸騰した
金融興行熱は恐慌を起こすに十分な借金をばらまいていた。よく金融工学では恐慌を、
株式破綻の様に言われる。だが本来の理由はユダヤの東欧からアメリカ大陸に移った事
で起こった事だった。つまりスラブ平野の食料不足が穀物を高価にし、アメリカの大型
機器による大生産はその不足を補っていたからだ。しかし何処でも誰でもいつまでも、
他国に食料を頼る事はない。第一次世界大戦後食糧需要が高まり、価格も上昇したが、
世界的な穀物増産で、小麦などで穀物メジャーが育ち、他の国にもアメリカ資本が投下
され、アルゼンチン・カナダ・オーストラリアなどで作付け面積が増加・機械化が進ん
だ。結果生産増大はその傾向が続き、フランス・ドイツなどの食卓を飾っていた。しか
しヨーロッパ諸国の農産物の自給化推進で、輸入農産物に関税を敷き、小麦以外の砂糖
、綿花、ゴム、コーヒーなども生産量が著しく増え供給過多による農産物価格の下落が
始まった。こうして1924年頃から米国などの農産物輸出国の国際収支を悪化させ続
け1930年になっていた。この時中央銀行が紙幣発行をユダヤ資本に委ねていた。つ
まり日本の様に国ではなく営利によって発行していたのである。ここにジレンマがあっ
た。つまりドイツフランスなど復興を果たした国に供給量の低下は米ドル紙幣の不要を
意味したからだ。だが米国ドルの発行こそ米国の利益だった。発行してドル価値低下を
取るか回収して紙幣不要を取るか。に迫られたのである。アメリカ国内的には需要を欲
していたが、国家予算はその支払うべく資源のゴールドラッシュも終わっていた。最初
に手をつけた世界恐慌はドイツへの紙幣供給だった。ドイツはナチ党の勢力が増大し、
1933年にヒトラー内閣が成立した。ヒトラー内閣は国会議事堂放火事件などを通じ
て共産党や社会民主党などの反対勢力を抑え、全権委任法を成立させた。そのヒトラー
が最初に行った強硬な外交政策が国際連盟脱退であった。当然である海外からの、高価
な兵器を買って国内供給する事は不可能だったからだ。これまで飛行機や戦車・潜水艦
など大量の鉄で作る高度な兵器は規制され連合国からの買い入れしかできない事は、ド
イツ国内の不況対策や雇用対策には屈辱的だった。イギリスなどの未開地の植民地政策
には効果があっても、ドイツに課される物ではなかったのだ。


1118: 名無しさんAA:18/07/31 13:10
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  163 > 
ドイツに精通、陶酔していた大島やキリスト教に帰依を図った松岡などはドイツ在住の
ユダヤ人演奏家を庇護・援助し続けて、アメリカ人とも人脈のあった近衛文麿の弟で、
指揮者であった近衛秀麿のグループとの確執が生じ、近衞のドイツ本国内での演奏活動
は政府によって大きく制限される結果となった。大島のヒットラー狂いと言われる程だ
った。又松岡と同じに吉田茂とはかなりの悪い仲でドイツの偽情報をそのまま本国日本
に送る程だった。だがその事が日本の命運を握っていた。戦後に「財界総理」と呼ばれ
た元経団連会長石坂 泰三(いしざか たいぞう)は敗戦後、吉田茂から大蔵大臣就任を
打診された。しかしある理由で拒否している。三井銀行(現・三井住友銀行)頭取だっ
た佐藤喜一郎と東京芝浦電気(現・東芝)社長の津守豊治の依頼で、1948年(昭和23年
)東京芝浦電気取締役、翌年社長となった。佐藤喜一郎は三井グループの実質的総帥で
フィクサーで鳴らした人斬り五郎、三井の首領(ドン)とされる小山五郎が表に現れて
社長になるまでは戦後の経済界は彼以上の地位はなかった。戦後になって東芝は、労働
争議のため労使が激突し倒産の危機にあり大労働運動の中で、あえて火中の栗を拾った
形となった石坂であったが、真正面から組合と交渉し、六千人首切りをして人員整理し
東芝再建に成功した。旧日本興業銀行の中山素平・旧日本長期信用銀行の杉浦敏介らに
続いて小山五郎が死んだが、この継承は戦後金融界の鬼籍であった。中山素平は、戦前
の一橋大学を卒業し日本興行銀行に入社している。終戦直後、興銀は、特殊銀行として
GHQ(連合国軍総司令部)の指令により廃止の危機にあったが、中山は調査部長・復
興金融部長として、GHQと興銀の存廃をかけて交渉している。結果、ついに存続を認
めさせることに成功し、この経験から、ねばり強い交渉力と強い意志に基づく経営理念
を身につけその後の興銀の理事となり日本開発銀行や経済同友会をして活躍している。
1950年(昭和25年)に、川崎製鉄が千葉に銑鋼一貫工場を建設する計画書を通商産業省
に提出した時に、 1950年度に250万トン程度の粗鋼生産しかない業界の中で、一挙に50
万トンの生産力をもつ一貫工場を、資本金5億円の川崎製鉄が163億円かけて建設す
るという計画書を作った。日本銀行の一万田尚登総裁は金融引き締め政策に逆行したこ
の巨額投資に憤り怒った。「製鉄所にペンペン草をはやしてやる」とまで言い放ち、大
反対の立場を取ったが。中山は、原料の船からの荷下ろしから製銑・製鋼・圧延、製品
の船積みまでの全工程が合理的にレイアウトされていて、全工程に最新の設備の導入が
予定されていることなど、優れた計画であることを認め、この反対を押し切り、融資を
決め、製鉄所実現に尽力した。此処にアメリカの新日鉄潰しや日本銀行潰しに日本政府
が何ら対抗しなかった姿が戦前戦後共に浮き彫りになったのである。

1119: 名無しさんAA:18/07/31 13:33
 大島はナチ党とのあいだに強い個人的関係を築き、1938年(昭和13年)駐ドイツ日本
大使に就任してから日独同盟の締結を推進した。大島の外交思想は、同時期の駐イギリ
ス特命全権大使の、親英派であった吉田茂とは対極であった。大島らはドイツでの敗戦
直前、在留邦人や大使館職員らをベルリンに残したままに、ドイツ南部の温泉地へと逃
避した。それはソ連軍によってシベリア行くよりはアメリカ軍の捕虜となるほうがまし
との判断からである。この時のことに当時の部下で外交官補だった、後の外務省アメリ
カ局長・吉野文六は、自身が大島から「決死隊」としてベルリンに残留するよう命じら
れている。その後「酒とつまみ」を持ってくるよう命ぜられ、アメリカ軍機の機銃掃射
を受けながらもドイツ人運転手と共にそれらをベルリンから温泉地まで届けたことなど
を回想している記録がある。大使在任中の諜報活動では、在オーストリア英国大使館の
下働きの夫婦をスパイに仕立て、情報はウィーンの中央公園のベートーヴェンやモーツ
ァルトの銅像の前で受取る、などといったこともしていて、ドイツの動向はかなり知っ
ていた筈だった。それでもナチスに信奉していた信者だった。1940年(昭和15年)に
調印された日独伊三国軍事同盟を強力に支持した。終戦後にはA級戦犯として終身刑に
処せられ、1955年(昭和30年)まで服役した。戦後には、昭和天皇は決して松岡と大島
を許さなかった。従って松岡の大島の靖国の英霊忠魂の移籍には大反対の言葉を発し、
その後一切靖国参拝には行かれていない。日独伊三国同盟の締結や日ソ中立条約の締結
などに、松岡は奔走した。第二次世界大戦前夜の日本外交の重要な局面に、代表的な外
交官ないしは外務大臣として関与していた。外交官同士のジョセフ・グルーとの親交が
あり、岸信介、佐藤栄作とは血縁のない甥にあたると言う。外交官ジョセフ・グルーは
、日米開戦時の駐日アメリカ合衆国大使だ。日米開戦回避に努めた人でもあり開戦時の
(1941年12月)後に日本国内に抑留され、日本の外交官との交換により帰国(1942年)
した。帰国後は国務次官となり、占領政策立案・終戦交渉に尽力した。終戦と同時に国
務次官を辞任し、私人として講演活動などを通じ、日米両国の親善に尽している。後に
吉田茂は、「グルーは本当の意味の知日家で、『真の日本の友』であった。」と高い信
用と評価をしている。しかし他方、グルーの日本理解には限界があった。彼は政治的に
きわめて保守的であって中央のユダヤ金融家に対して力は及ばなかった。というのもの
だ。グルーの日本着任の前年に満州事変が起こり1932年〜1933年にかけて、本国で共和
党から民主党に政権が代わった時期だった。グルーは共和党支持で通常ならば更迭され
るところであり、慣例に従って辞表を提出したが、年金資格が得られる翌年まで上級外
交官職に留まりたいという希望を併せて伝えた結果、グルーは駐日大使に留まることと
なった駐日大使だった。つまり民主党からも共和党からも重要視されてはいない人

1120: 名無しさんAA:18/07/31 13:52
 1937年7月7、 盧溝橋事件が起こり、日中戦争が勃発した。グルーは当初は、事件は
日本による「謀略工作」の結果だとする説に対しては懐疑的だった。しかし次第に事件
の発端は日本側に責任があるという見方に変わったという。しかし彼は、アメリカから
の政策主要目標は、厳正中立を維持し、極東の混乱した事態の外に立つことでなければ
ならないと考えていて、この段階でも、対日圧迫策は無駄であり不公平で、その上危険
で破壊的であると見ていた。1937年10月、ルーズベルト大統領は、世界に無法状態を生
み出す国家は隔離されるべきである「隔離演説」と呼ばれることになる演説を行った。
交渉を通じての紛争解決を望んでいたグルーは落胆した。ルーズベルトの演説に戦争狂
のアメリカナイズされいる優越主義が滾々と込められていて戦争遂行論に満ちていたか
らだった。又日本では、その後も中国大陸で次々と米国は中国を支援して中国人にわざ
わざ問題を起こさせている事実が次々と発覚して、常にクルーは間に立つことなった。
1937年11月7日、日本軍が上海に上陸し、12月1日、南京を占領するに至っても、グルー
は日米友好は可能という信念はゆらぎはなかった。しかし、アメリカやドイツによる調
停によって和平を実現することには、悲観的になっていく兆しを彼は見逃すことはなか
った。1938年、日本軍は重慶を爆撃したとされた。近衛文麿首相は帝国議会で、日本は
「支那の領土並びに主権および支那における列国の正当なる権益を尊重する方針にはい
ささかも変わるところはない。」と演説した。この時のグルーの本国への報告は、この
演説を真に受けたもののように思われた。すなわち日本軍の行動は単なる軍事的逸脱で
はなく、経済圏確保が目的である。と説明したのである。しかし米国内の対日プロパガ
ンダは凄まじくこれに相対した。国務省の極東専門家は、グルーが日本寄り過ぎるとい
う批判的なコメントを出し、日本は逸脱した武力行使と発言するに至っている。これは
既に作られたイエロージャーナルだった。今でも911が予め決定され企画され用意さ
れた映像などが使われた事が解っている。米国がそんな国だとはグルーは思ってはいな
かった。1939年夏休暇で本国に帰ったが。「経済、財政、商業、感情のどの点から見て
も合衆国は、日本が米国と同様に付き合うならば、世界中のどの国よりも、日本の良き
友人である得る。どの点から見ても日米戦争は、まさに愚の骨頂である。」と日記に記
している。しかし本国においてのアメリカの世論は、日本に対して厳しくなっているこ
とを知って。帰任後、日米協会において「馬の口から一直線に」(最も確かな筋がき)
と題する演説を行った(1939年10月19日)「おそらく米国ほど宗主権も尊重の原則を、
時々発動させた国家はない。」と強調した。それは明らかに、日本は中国の宗主権を侵
し、機会均等の原則を踏みにじっていると、批判したもので、移民でありながらも、米
国への愛国心での色眼鏡しか見えてない証左であった。

1121: 名無しさんAA:18/07/31 14:02
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  166 > 

 かつて米内光政が海軍大臣の頃、中国・華南でハンセン氏病に罹った兵が、戦いでは
なく、病気で軍を離れたことに対する苦悩を手記にして人事局長だった清水光美に送っ
た事があった。この話は人事局長を経てその手記が米内大臣まで届いた。これをみて、
「これを送って慰めてやってくれ」と漢詩を書いた書と絵画を送ったという話がある。
その頃下士官・兵の家族の福利厚生、特に病気になった時の対策は、資金面の都合で滞
っており、これは歴代海軍相の共通の悩みの一つだった。その頃に福利といえは、日露
戦争を契機として田中義一などが興した帝国在郷軍人会(ていこくざいごうぐんじんか
い)に委ねられていたのみだった。陸軍省の指導下にこれらの団体を全国的に統合して
、1910年11月に任意団体の帝国在郷軍人会が創設され、初代総裁に陸軍大将伏見宮貞愛
親王,会長に寺内正毅陸軍大臣をあて,本部理事を陸軍の高級将校が構成し,各地方の
連隊区司令部に支部を設け、町村に分会を設置したものだった。機関誌《戦友》を発行
して士気を煽り、創立当時約100万人だったが14年からは海軍軍人も加えて、30
年代には約300万人の在郷軍人を擁していた巨大な組織となった。だが既にこの組織
は政府と一体化した様になり、救済の任意の民間団体では無くなっていた。この米内は
大蔵大臣の結城豊太郎に相談してすぐに許諾をもらい、要港の大規模病院の建設を行う
事を決めた。がしかし、支出については大蔵省に渋られたため、民間からの寄付で補お
うと海軍相官邸に財界の有力者を呼び集め寄付を呼びかける事にした。ところが行って
みると予定額をはるかに超える寄付金が集まって建設は急速に着工出来た。これにより
歴代海軍大臣の懸案であった医療問題が解決していた。米内内閣は、就任直後から、1
月21日、千葉県房総半島沖合いの公海上で、イギリス軍巡洋艦が貨客船「浅間丸」を
勝手に臨検すると言う事件に見舞われた。英兵が乗客のドイツ人男性21名を戦時捕虜
として連行する浅間丸事件が発生したのだ。世論はイギリスを非難する中で、国際社会
の中でもイギリス国の強行と無辜のドイツ人船客の解放をめぐって米内は難しい交渉を
行うことになった。これこそは米国の行った英国扇動であり、吉田茂と大島浩の考えの
違いを象徴する物だった。既に1939年9月3日に英仏が第二次世界大戦においてドイツに
宣戦を布告していて、9月4日の海の向こうではイギリス客船アセニア号がドイツ潜水
艦に無警告で撃沈され128名が犠牲になるなどの事件は起こっていて、英兵には憎き
ドイツ国民が敵国としてあったのだ。


1122: 名無しさんAA:18/07/31 14:13
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  167 > 
 開戦当初より大西洋上では英独海軍の熾烈な戦闘が繰り広げられ、強力な海軍力を持
つイギリスはドイツ商船隊を全世界の公海上で制圧して行動不能にして、自沈や中立国
での係船の航海不能に至らせ、代わりにドイツはエグニマ暗号通信とUボートで盛んに
攻撃していたのである。松岡全権大使を送った日本の帝国海軍も陸軍事務局も国連から
脱退して軍備を増強して国防で中立となれる構想などは、この時既に破綻していたのを
知るべきだったのだ。この時の浅間丸の所属する日本や、出港地のアメリカ合衆国では
1941年12月までは、第二次世界大戦には全く参加しておらず、太平洋上ではドイツ海軍
による戦闘は公式には一つも発生はしてはいないのである。太平洋を挟んだ両国間では
商船会社による定期運航が戦争当事国に関係する物資や人員の輸送の制約をもうけなが
らも比較的に平穏に行われており、日本などのアジアとヨーロッパ間を行き来する人々
の、特にユダヤ人の避難などのルートの1つとしても使用されているほど安全だった。
しかし、かつてドイツの友好国中国は軍事顧問を置き、日本は南洋のドイツ駐留基地を
委譲されていた。イギリス海軍側の「浅間丸」に対する公海上における臨検とドイツ人
乗客に対する措置は、戦時国際法の上では、全く適切なものであった。これに対して、
外務省は1909年のロンドン宣言47条「中立国船上から拉致できる者は、既に軍籍にある
交戦国人に限る。」を原則としており、ロバート・クレイギー駐日イギリス特命全権大
使に対して、外務省に招致して正式に抗議した形は取ったものの、日本のマスコミ各社
の新聞と国民は「帝国の面目に泥を塗った」などと一斉にイギリス海軍を非難していた
。国際法に無知なマスコミは、「友邦のドイツ人を無抵抗で引き渡した」として船長の
渡部喜貞に対しても激烈な批判を行った。『写真週報』では「浅間丸ドイツ船客拉致事
件」というタイトルをつけ、『報知新聞』は「国民の感情を無視するな」と主張した。
だが「浅間丸」の船長が21人のドイツ人引渡しを拒み、それが「浅間丸」の敵対行動と
 しかし、イギリス軍艦より、敵船とみなされた場合には、船体は拿捕の対象となり、
乗客全員も一時的とはいえども、全員勾留される危険をはらんでいたのである。日本海
軍首脳は、イギリス海軍のこの行動に関して自軍も同様の行動をとりうるとして、特に
問題行動とは考えず、船長の判断も妥当との認識ではあったが、日本人感情は沸き立っ
たし日本国籍の朝鮮人や支那人は過激な手紙が送られるにまで至っていた。その為日本
郵船は世論に考慮して 1月24日には船長を交代させていた。宇垣一成は、1月26日の
日記には、日本は類似の事件を沿岸封鎖中のイギリスの植民地の香港や、フランスの植
民地のハイフォンの沖で起こしていることを指摘して、沸騰する日本の世論について恥
の上塗りをしないような注意が必要だと書き残している。

1123: 名無しさんAA:18/07/31 14:17
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  161 > 

日本も中国に調達される武器などで臨検は行っていたのだ。この事件は、英独開戦後、
イギリス海軍省と日本各商船会社の間では戦時禁制となる人や物の輸送中止の紳士協定
が結ばれていたが、日本郵船の「浅間丸」は日本大使館の強い要請によって、ニュージ
ャージー州メイ岬沖での イギリス海軍駆逐艦の追跡から拿捕を免れて自沈したドイツ
客船コロンブスの船員など51名を乗客に加えて輸送中の事だった。1939年12月にサン
フランシスコよりホノルルを経由して 横浜港に向けて出行し、翌1940年1月21日、千葉
県房総半島沖の公海上(東経140度31分、北緯34度34分)で イギリス中国艦隊所属の軽
巡洋艦「リヴァプール」より空砲で停船を命じられ臨検を強制されたものだった。まあ
客船打電なら直ぐに知れ渡る事は当然だった。臨検は士官3名と武装水兵9名により行
われ船長は当初、イギリス領海で「榛名丸」にドイツ人船客を乗せて通行できた1938年
9月の先例をあげて拒否した。が イギリス軍の戦時国際法による強硬な乗客の身元調査
の要求により、ドイツ人乗客51名のみが1等サロンに集合させられ、イギリス軍が所
持する名簿と照会の上「国際公法上の権利」として21名の連行を船長に通告し、戦時
禁制人と看做された少年も含む男性乗客とヘルマン・グロース船長などを「戦時捕虜」
の名目で浅間丸船上より身柄を拘束し連行したものだった。こうして問題は政府外交の
手腕に視点は移った。戦時禁制人(軍属や徴兵可能な人間)をどこまで認めるかが焦点
で、この点を米内内閣の有田八郎外務大臣は、クレーギー大使を通じてイギリス政府に
対して交渉を行い、イギリス政府もハリファックス外相を通じて行き過ぎがあったこと
を認めるに至った。2月5日の公式発表では、@日本政府は、イギリス軍艦の行為は、
遺憾とするイギリス政府の表明を了承する。Aイギリス政府は、比較的に兵役勤務が難
しい9名の解放に応じるが、12名の引渡し権利は放棄しない。B日英両政府は、この
種の事件の再発防止に努める。日本政府は、交戦国軍人(疑いある者含む)の乗船引受
けを禁止する。と言うものであった。列強の一角をなし、かつアジア太平洋地域で大き
な軍事力を持つ日本と、無用な衝突が起こることを憂慮したイギリスは、日本との間の
交渉の決着を受けて、同年2月29日に9人を横浜のドイツ領事館前で解放した。しかし、
この事件は当時関係が懸念された日本とイギリスの国際問題に発展した。のみならず、
国内では米内内閣を米英に対する「弱腰」の表れとみなし、独ソ不可侵条約の締結によ
り締結にこぎつけなかった日独同盟から、新たに日独伊三国同盟締結への材料の一つと
して使用された。

1124: 名無しさんAA:18/07/31 14:19
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  169 > 
 この事件は米内光政内閣には大きな痛手となった。僅かでも方針転向で米英との話合
いにこぎつけようとした方針が却下されたに等しかったからだ。さらに一方で国内的に
、陸軍と米内の関係は最初からうまく行かず、倒閣の動きは就任当日から始まっていた
。といわれる。旧盛岡藩士米内受政(よないながまさ) の長男として盛岡に生まれ 盛岡
中学を経て海軍兵学校へ進み、卒業後海軍少尉に任官、日露戦争では海軍中尉として従
軍した。後に ロシアやポーランドなど ヨーロッパに駐在し、その地の実情を直に見聞
した。1937(昭和12)年には林内閣のもと海軍大臣に就任し、陸軍の主張する三国同盟に
反対した。この反戦主義の姿勢は終戦まで変わらなかった。天皇の信頼も厚くあった。
1940(昭和15)年には岩手県出身者としては3人目となる内閣総理大臣に就任、しかし、
陸軍の反対に遭い半年後に退任した。太平洋戦争末期には、小磯内閣のもとで4期目の
海軍大臣として入閣、終戦のために尽力する。終戦後も海軍大臣に留任し、海軍省廃省
の責任者として日本海軍の最期を見届けた。海軍の要職を歴任ののち、昭和15年(1940
)首相。日独伊三国同盟を望む陸軍と対立して総辞職。その後、海相として戦争終結と
海軍の解体に当たった。村文男著『米内光政と山本五十六は愚将だった』(テーミス社
)では手厳しい嘘が淡々と描かれている。日中開戦の責任については「蒋介石と和解す
べし」とした石原莞爾の進言を無視し、第2次上海事変の後、「事後、国民政府を対(
相)手とせず」といって日中戦争にはまっていった当時の近衛首相に大きな責任がある
。彼以外では米内光政と山本五十六が特A級の戦犯である。と書いている。しかしそれ
は情報の違いで、既に中独合作から中共合作と移行して英米までも中国支援を打ち出し
て増長した蒋介石政権は毛沢東が首を縦に振らない限りゲリラ戦法に明け暮れたであろ
う。その意味では吉田茂や大島浩の情報のいい加減さに問題があった。事後、国民政府
を対(相)手とせずとした近衛声明の最大の推進者であり、トラウトマン工作をつぶし
た張本人である。との批判は正当だろうが、既に遅かったのも歴史的事実だ。そもそも
がこの盧溝橋事件工作が中国側の工作だったのだ。駐中国ドイツ大使トラウトマンが、
「この戦争は蒋政権を弱体化し、中共とソ連を利するのみ」とドイツ外相の判断に基づ
き仲介の労を取った。が、事実はその後の上海工作では着実に溝を掘り土嚢を付き銃器
を新しくして対戦防護基地を各所に指導して作らせて指導し、その後も続々と軍事顧問
団をいれて3年間も抗日を訓示している。つまりこの上もなく悪質な偽りであったのだ
。それは長くロシアに駐在武官して情報を持っていたのだろう。その第1次調停で日本
側は、「北支と上海の非武装」を掲げ、蒋介石はそれに「北支の宗主権、領土保全権、
行政権を変更しないこと」を追加し、日本側条件を受諾する意思のあることを表明した

1125: 名無しさんAA:18/07/31 14:33 ID:Ubs
しかし、並行して首都南京に迫っていた日本軍は、独自に進撃命令を出した。短期間で
南京を攻略してしまう。首都を制圧して優位に立ち、蒋介石との和解の条件をつり上げ
、先の条件に加えて満州国承認、北支に日満支3国の新しい機関を設置し、内蒙古に防
共自治政府を樹立させ。中支に非武装地帯を設置する等々、主権を損なう内容とした。
 全く事実誤認である。この時日本が攻めなければ恐らく日本消滅計画が発動していた
であろう。そのつり上げられた条件に蒋側が、「範囲が広すぎるので、その性質と内容
を具体的に確定してほしい。」と返してきたことを捉えて、米内と杉山元・陸相、広田
弘毅・外相は「もはや交渉は無用、蒋政権を否定し、新しい政権をつくる」とした考え
は正解で遅すぎたのである。香港上海銀行は既にアメリカのユダヤ金融との席を設けて
今後の金融について話していた。日本の戦争拡大路線に追い込んでいたのだ。米内など
、和解交渉の継続を主張した参謀本部次長の多田駿(はやお)中将に対して、「参謀本
部が辞めるか、内閣が辞めるか、どちらかだ」と圧力をかけてまで戦争拡大路線を主張
したのは、当然中国駐留兵士の安全だったのだ。米内光政が日中戦争を拡大し停戦の機
会を失わしめた張本人の一人ではあるのだが、中国においての追加派兵の泥沼が無けれ
ば三国同盟があったとしても対米戦争を避けられた可能性は無い。和平で戦争に至らな
いというのはたわけた言い分である。陸軍は日独伊三国同盟の締結を要求して止まず、
米内が「我国はドイツ人のために火中の栗を拾うべきではない。」として、再三これを
拒否したのは当然だったが、国際音痴の陸軍は大臣畑俊六を辞任させて後継陸相を出さ
ず、米内内閣を総辞職に追い込んだ。当時には軍部大臣の現役武官制があり、陸軍又は
海軍が大臣を引き上げると内閣が倒れて政局を陸軍のものとするべく支離滅裂に動いて
いた。つまり軍は天皇の直属の擁護兵として議会にいたのだ。米内はその経過を公表し
て、総辞職の原因が陸軍の横槍にあったことを明らかにした。しかし米内は畑の疲れ切
った表情をみて「畑が自殺でもするのではないか。」と心配してこれを受け入れた。陸
軍自体が、中国の共産党分子を叩けず又石原莞爾や板垣征四郎らとともに柳条湖事件を
起して、国際批判や中国の人民からの反感を買って指導困難な帰り道のない状態に陥っ
ていながらも、石原などを処罰出来ないでいたのである。昭和天皇も石原莞爾にしては
「あいつはわからん。」と言わしめ「米内内閣だけは続けさせたかった。あの内閣がも
う少し続けば戦争になることはなかったかもしれない。」と、石渡荘太郎に語っている
。米内は総理大臣を辞任した直後に、何故か日光を訪れ「見るもよし 聞くもまたよし
世の中は 言わぬが花と 猿はいうなり」という短歌と、「寝たふりを しても動くや
猫の耳」という句を詠んでいる。つまり猿は日本人であり猫は米国であった。

1126: 名無しさんAA:18/07/31 14:56
 先の句は意味深な事で、国際社会の裏事情は、見ても聞いても戦争に走るしかない。
と思っていたのだろう中国の奪い合いの中にしかない。と事を知っていたのだ。更には
どんなに関係ないふりをしても ネズミの日本の動きはアメリカの猫の耳に届いている
。と言う言葉なのだろう。1940年10月、「一六会」の親睦会で米内が内閣総理大臣を辞
した後、陸軍を除く秘書官達で米内の親睦会が作られた。陸軍の秘書官も「あなたたち
は(米内内閣の瓦解とは)関係ないのだから」と誘われたのだが、「我々は米内さんに
迷惑をかけた存在なので参加する資格などありません」と丁重に断りを入れている。米
内内閣が発足した日も辞表を奉呈した日も16日だったことから「一六会」と名付けられ
、戦後も長く行われ年号が平成に変わっても存続した。会員には宇佐美毅、福地誠夫な
どがいた。つまり小さな日本の満州国樹立よりは、国際社会での権益の確立こそ大きい
と踏んで動いていたのだろう。満州国樹立よりは、満州鉄道の経営の方が大事だったの
だ。米内光政と山本五十六は愚将だったというのは結果論である。現に米内光政の頃の
トラウトマン工作で日本は中国大陸が順次撤退する事までほのめかした。この事で上海
攻撃には勝てると信じていた蒋介石にあんまり早く負けてその後の事が考えられなかっ
た。と後の懐柔録に書いてあった。つまり中国の日本兵は全て叩けるものと思っていた
。というのである。更に米内光政はソ連や上海も風情を良く知っていて中華中心主義の
貪欲さも又良く知っていたのである。村文男は更に言う。山本五十六海軍大将は、その
最期から悲劇の名将といわれる。たしかに悲劇にはちがいないが、名将と呼ぶにはあま
りにも疑問が多いと批判する。むしろ愚将とするのが穏当な評価であろう。それも並の
愚将ではない。その判断の誤り、失敗の重大性から天下の愚将という名に砿じない軍人
であった。例えばミッドウェー海戦で、山本は、空母八(三百七十二機)、戦艦十一、
重巡十七、軽巡十一、駆逐艦七十四、総計三百五十三隻、世界最強の連合艦隊を率いて
出撃した。ニミッツは、ハワイで指揮してこれを遊撃した。空母三 (二百二十一機)
、戦艦ゼロ、重巡七、軽巡一、駆逐艦二十一、総計五十七隻の太平洋艦隊である。つま
り353対57である。普通の陣形で勝つのが当然という圧倒的な勢力差である。ニミ
ッツは「あれほど航空優位を主張していた山本が、自分の指揮する艦隊を最も妥当な形
に編成し運用できなかったとは信じられないくらいだ。」酷評した。(「ニミッツの太
平洋戦史」恒文社)。この海戦に敗れた山本を愚将と呼ばずして、何と言っていいのだ
ろうか。とさえ言っている。彼を讃え、粉飾して名将に仕立てる幇間的作家評論家達は
これまで数知れず、今ものさばっている。旧軍人の中でも彼を正当に評価する者は少な
く、彼をたたえる事によって、国運を傾けた拙劣な戦争指導を糊塗することが多いので
ある。と言う。が現実的にはこれは飛躍した無知なる妄想だ。

1127: 名無しさんAA:18/07/31 14:56
 実際のミッドウェー海戦は、圧倒的戦力・戦略的優位と海軍機の高性能と搭乗員の高
熟練度という戦術的優位がありながらも、戦闘指揮の失敗で敗北した戦いであった。連
合艦隊は山口多聞少将の索敵徹底に関する意見具申を入れなかった。山本五十六は大和
の情報分析能力により敵機動部隊の動向を知りながら無線封鎖を理由に南雲部隊にそれ
を伝えなかった。大戦力を擁しながら空母部隊に十分な護衛をつけなかった。そのため
に空母部隊による敵艦隊の発見が遅れ、敵部隊の攻撃により空母四隻を失ってしまった
。「運命の五分」は言い訳に過ぎない。海軍がミッドウェー海戦における戦果を偽った
ことも罪が重い。それこそが早期停戦への道を閉ざし、あたら国民の犠牲を増やす結果
を招いた。もし山口多聞少将が連合艦隊司令長官であったならばあのような戦いには、
ならなかった。と村は書いている。真珠湾第一撃の成功後、現地では第二撃を主張する
山口多開少将はじめ、渕田美津雄中佐らの意見具申は、南雲艦隊司令部によって斥けら
れたが、連合艦隊司令部でもその是非で、激論が続けられた。その結果、最終的に幕僚
のほとんど全員一致で、第二撃の命令書をしたため、山本長官に意見をのべた。しかし
山本は「いや待て、むろんそれをやれば満点だが、泥棒だって帰りはこわいんだ。ここ
は機動部隊指揮官にまかせておこう。」「やる者は言われなくったってやるさ、やらな
い者は遠くから尻を叩いたってやりはしない。南雲はやらないだろう」と言って却下し
た。まるで他人事のような、傍観的な言辞である。」とも書いている。又ニミッツは、
「攻撃目標を艦船に集中した日本軍は、機械工場を無視して、修理施設には事実上手を
つけなかった。日本軍は湾門の近くにある燃料タンクに貯蔵されていた四百五十万バレ
ルの重油を見逃した。長いことかかって蓄積した燃料の貯蔵は、米国の欧州に対する約
束から考えた場合、ほとんどかけがえのないものであった。この燃料がなかったならば
、艦隊は数カ月にわたって、真珠湾から作戦することは不可能であっただろう」と懐述
している。実際真珠湾攻撃に精製タンクには全く見向きもしていない。これは一体どう
いう事か。実は、御前会議や大本営の正道論にある。つまり国体を司る天皇を含んだ席
上の「御前会議」の実態にあると言える。近年の研究では日本が226事件を起こした
理由は原子爆弾の成功と石原莞爾の進言で陸軍の中に増長があって起こったとされる事
が解っている。御前会議は広義に、官制上天皇親臨が定められていた枢密院会議、王政
復古直後の小御所会議や、天皇臨席の大本営会議なども御前会議といえる。しかし狭義
には、戦争の開始と終了に関して開かれた、天皇・元老・閣僚・軍部首脳の合同会議を
指す。この時の天皇の姿勢も軍もあくまで正しい事の処置であり、いささかでも悪意の
ある放言行為は許されなかった。つまり建前上だけでも正しくなければ、軍人ではなか
ったし、発言資格がなかったのである。米国性善説が生きて居たのである。

1128: 名無しさんAA:18/07/31 14:57
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  173 > 

 K作戦(けーさくせん)とは、第二次世界大戦中に日本海軍が実施した二式飛行艇(
二式大艇)を使用したアメリカのハワイ準州に対する航空作戦だった。第一次は真珠湾
に対する空襲を企図した。この作戦は二式大艇の初の実戦となった。第二次はミッドウ
ェー作戦のため、ハワイにいると思われる敵機動部隊に対する偵察を企図した。秘かに
日本海軍は、マーシャル諸島からハワイオアフ島の真珠湾を直接空襲し、真珠湾在泊の
アメリカ太平洋艦隊に脅威を与えて出撃を強要し、艦隊決戦に持ち込むことを計画して
いた。又太平洋戦争開戦時、完成間近の川西航空機の一三試大型飛行艇 (高度4,000m
・速力160ノットで航続距離距離3,862浬、800kg魚雷2本または爆弾2発、または250kg
爆弾8発搭載可能)ならば、途中一回の補給でマーシャル諸島から真珠湾空襲が可能で
あった。又、真珠湾攻撃後の1941年12月17日に潜水艦伊7から発進した偵察機のハワイ
偵察を行い、翌1942年1月5日にも伊19より搭載機による偵察を行った。これによりアメ
リカ軍が灯火管制もせずに急ピッチで真珠湾攻撃の損害の復旧をしていることを知った
。これを受けて大本営海軍部(軍令部)は、真珠湾の復旧活動を妨害すると同時に、当
時各地で負け続けであった上に、本土さえ攻撃されている米軍の士気に更なる損害を加
えるため、一三試大型飛行艇(二式大艇)による空襲計画が立ちあがる。こうして1月
17日、連合艦隊参謀長宇垣纏少将は、第六艦隊(司令長官清水光美中将、旗艦香取)と
第四艦隊(司令長官井上成美中将、旗艦鹿島)に、一三試大艇による作戦研究および計
画立案を行うよう伝えた。この計画がK−作戦とされる。作戦は予定通り遂行されたが
、上空の視界の悪さや急遽の灯火管制のためもあり、爆弾は真珠湾内のアメリカ海軍基
地のドックや燃料タンク、停泊中の船舶などの目標を外れて周辺の道路などに落下した
。道路は損傷を受けたものの、灯火管制が敷かれていたために周辺を走る車もいなかっ
たことから、アメリカ側の被害は軽微で死者や負傷者もいなかった。しかし作戦決行に
わざわざ、第一回・第二回と出撃し、オアフ島西北西約480海浬のフレンチフリゲー
ト環礁に潜水艦2隻(状況により予備1隻追加)を配備して二式飛行艇に燃料補給を実
施し、誘導の潜水艦をハワイ方面に配備することにし。二式飛行艇の飛行経路はマーシ
ャル諸島ウオッゼ島を出発し、途中フレンチフリゲート礁で潜水艦から燃料補給を受け
、真珠湾攻撃を敢行という計画を遂行しているのである。本作戦は「K作戦」と命名さ
れ極秘任務として補給任務についたのだ。更に潜水艦3隻(伊15、伊19、伊26)はまで
も水偵格納筒を改造して、航空燃料補給装置を装備した。そして失敗しているのである

1129: 名無しさんAA:18/07/31 15:31
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  174 > 

 川西航空機(現新明和工業)は九七式飛行艇、二式飛行艇、戦後のPS-1、US-1などの
大型飛行艇の輸送飛行機メーカーとして有名となった。これは日本海軍が意識的に川西
を大型飛行艇メーカーとして育成した結果であった。九七式飛行艇は川西が製作した2
番目の大型飛行艇で、前作は1929年(昭和4年)に海軍の指示でイギリスの名門飛行艇
会社ショート・ブラザーズ社に設計を依頼し、1931年(昭和6年)に初飛行した複葉3発
の九〇式二号飛行艇であった。背景にワシントン海軍軍縮条約とロンドン海軍軍縮条約
により世界各国は、海軍休日に突入、日本海軍は航空兵力の拡大によって軍艦の劣勢を
補おうとした事がある。第一次世界大戦終了後には、日本が統治委任された南洋諸島は
軍事施設を置くことが禁止されて、日本海軍は飛行艇を活用する事で、来襲する米艦隊
に対抗する事を意図した。しかし、この頃に画期的な技術が日本で生まれて居た。指向
性高性能アンテナの八木アンテナである。実は良く知られていないが、世界初の映像通
信、つまりブラウン管による電波受像実験成功は日本であった。また世界最優秀の受信
アンテナである八木アンテナも日本で開発された。つまりレーダーに必要な基本的技術
力を日本はいち早く持っていた。しかし、自ら電波を出して探索するのは夜間にわざわ
ざ提灯を灯して敵に発見させる様なもの「役に立たない。」と本当に軍部に一蹴されて
しまった。これを本国に持って帰って研究したのが米国だった。又英国も又日本と同じ
にドイツから持ち帰ってきた無線とその探知技術でエニグモと同じに暗号受信やレーダ
ー開発に資金を注いでいた。こうして米英で実用化されたのが基地用対空レーダーだっ
た。場所が最初から特定されている地上基地に一次大戦で活躍した航空機の来襲をいち
早く発見し迎撃機を上げるメリットを海外の軍部は理解したが、日本は理解出来なかっ
たのである。あれほど飛行機について或いは空母攻撃の先見性を持つ山本五十六の海軍
元帥だったが、この画期的なレーダー開発に先鞭をつけた八木アンテナの研究には全く
見向きもしなかったのである。ここでは、山本を愚将と呼んでも良いだろう。日本海軍
は九七式飛行艇の成功により、後続機の一三試大型飛行艇の開発を川西に発注した。特
徴は親子式二重フラップで、着水速度が130km/h以下で安定性のある離着水性能でし
た。 九七式大艇に代わる日本における大型飛行艇の決定版で、太平洋戦争の全期間に
わたり長距離偵察哨戒及び爆撃に素晴らしい活躍をした。なかでも昭和17年3月の真珠
湾爆撃は有名であり、またこの時電探による敵艦隊の発見などに、飛行艇としての最大
級の性能を発揮していた。

1130: 名無しさんAA:18/07/31 15:32
日本の電探には1930年頃から第二次世界大戦の開戦時点まででの予算であった。日本の
レーダー技術に関わる要素技術は既に相応のレベルにまで達していた。特にマグネトロ
ン、八木・宇田アンテナ、電波高度計の3要素については、日本が先鞭を付けていた技
術領域であったが、日本海軍では1936年(昭和11年)にレーダー研究の提案がなされた
が、当時は大艦巨砲主義が幅を利かせて提案は却下され、その後の研究開発費は全く出
なかった。1939年(昭和14年)に「暗中測距」の名称で研究に着手し、翌年秋の大観艦
式の際に艦船からの波長10cmの反射波が捉えられ、レーダー開発の可能性がもたらされ
たにも関わらずである。しかし1941年(昭和16年)6月にイギリス政府が本土防空戦で
威力を発揮したことが公式に発表されると、急遽日本海軍でも開発に本腰を入れること
となったが、しかし、すでに企画から7年遅れと開きが露呈し、更に希少金属が得られ
ず人材もいなくなっていて開発は難航したのだった。その後波長10m以下のメートル波
と波長10cmのマイクロ波(センチ波)の2本立てで進められたが、技術者も兵員となり
離散していた。1941年に、ドイツのウルツブルグ・レーダーが戦果に結びついている。
という報を受けて、44名もの調査団を派遣し、当時の日本のマグネトロンは波長10cm
で500Wの連続出力という性能であったが、それを上回る性能に衝撃を受けて、アドルフ
・ヒトラーとの交渉を経て設計図を持ち帰り、やっと本格製作を始めたぐらいに戻った
状態だった。知っての通り1897年、ドイツの発明家ブラウンによってブラウン管が発明
され、1925年にはイギリスのベアードがニポー円盤による機械方式のテレビ実験に成功
したが、その頃、日本の電気工学者の高柳健次郎氏らは、当時画期的だった電子式装置
によるテレビの開発に取り組んでおり、1926年(昭和元年)12月25日、世界で初めての
ブラウン管による「イ」の字の電送・受像に成功している。昭和元年から昭和16年ま
で、その電波の世界は細々と研究が続けられたぐらいで軍部の後押しは無かったのだ。
これ以降は海軍の理解が進み実戦配備が急がれ、潜水艦や駆逐艦などを含めて殆どの艦
艇に装備はされたが、既に世界の趨勢は決まった後であった。つまり満州事変以前では
最新鋭だったが、その後真珠湾攻撃頃はゼロ戦と同じ様に活躍しても旧式の遺物にさえ
ならなかった程技術は遅れたのである。実は同じ事は他でも起こっていた。第二次大戦
の実戦にジェット機を投入したドイツに対してイギリスにもプロペラ機優先の勢力があ
り、彼らは「確かにプロペラ機は先が見えてる。でも、加速、耐久性、信頼性、整備性
、生産性、費用、今のところ全てジェット機が劣っている。プロペラ機に比べてトップ
スピードが多少勝るだけ。戦力として欲しいのは今であり今のレシプロエンジンを熟成
させるほうが話が早い。戦争に間に合わなければ高性能も役に立たない。」とされた。

1131: 名無しさんAA:18/07/31 19:03
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  176 > 

 この話は、如何にイギリス人と中国人とよく似た思考かを物語る話である。中国人民
の悲痛な「清野作戦」という民家も畑も焼野原にして虐殺を繰り返す戦法は、言わば南
米で行われたスペインの虐待と同じだった。つまりスペイン人には原住民の生活など眼
中になく非道が行われたが、中国人の中国国内の戦争も同じに国民や住民の生活などは
眼中になかった。つまり今が良ければいいのであり自分が良ければそれで良かったのだ
。対してドイツや日本は原爆すらも作って居ながら使用しない。わざわざ必死になって
ジェットエンジンやロケットエンジン或いは大口径の砲台砲身を作ってまで威嚇してい
た。意味のない長大主義者とも言える。かつてドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はオースト
リア=ハンガリー帝国のフェルディナント大公に人が気持ち悪くなるぐらいおべっかを
使いゴマすりを行った。それでもドイツ国民は卑下しなかった。ある意味大正天皇が公
式にも少し知恵遅れとされても担いでいた国民性と全く同じであった。中国では起こり
得ない現象だろう。日本では航空基地の建設に力を発揮したブルドーザーなど建設機械
も又戦前から小松あたりで開発していた。しかし鉄の入荷と不況で人件費が下がってる
から機械より人手のほうが安上がりで「失業者対策で人手を使いたい」ということで発
達していない。ところが米国ではキャタピラ社などは傑作を作っていた。こうして操作
仕組みが何通りも出来て 戦後の建設機械は操作統一とはなれなかった為事故が多発し
たが、それは戦後の事だった。他にも日本で多くの発明発見があっても進展しない物は
多いし、逆に何故日本では発展するのかと言われる事象も多い。オートメイションや分
業化態勢或いはトヨタなどの系列化も日本独自に発展した。当初仕事の無いドイツに産
まれたが、ソ連に伝わりソ連侵攻のドイツに対して、ソ連は奥地に新たな工場を作って
対抗した。それが分業と規格化したオートメイションだった。短期間に集めて組み立て
る為の方策だった。これはアメリカのフォード社などにも取り入れられた。T号戦車は
ドイツが第一次世界大戦後、初めて量産した戦車である。訓練および生産技術の習得の
ための軽量・簡易な軽戦車として開発された。本来、訓練と戦車生産技術の習得を目的
としたものだったが、その目的のためでさえ小型軽量に過ぎ、時をおかずU号戦車の開
発が行われることとなった。日本でも戦車の必要性から陸軍大臣は、昭和元年(1925年)
に軍事視察と戦車購入のため欧米に緒方購買団を派遣した。しかしイギリスのヴィッカ
ーズ社、フランスとも交渉するも購入交渉は失敗した。アメリカのクリスティーとも接
触したが、戦車実績に乏しかったため購入を見送った。と言われる

1132: 名無しさんAA:18/07/31 19:04
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  177 > 

 結果的に大日本帝国は自国産の戦車開発に踏み切ることになった。そして量産化にこ
ぎつけたのが国民的作家司馬氏に「戦車・この憂鬱な乗り物」というエッセイでボロク
ソにけなされた評判の悪いチハ車・97式中戦車であった。攻撃力は大根を敵に投げる
程度。炭団が飛んでいくように砲弾が目で追えたと言う世界最弱の戦車だった。だが、
西暦1927年昭和2年の 試製1号戦車は極めて優れていた。陸軍にとって全く前例が無
く、また時間との戦いの中作られた本車は非常に優秀だった。ただ問題があったのは陸
軍の要求では12トンだったが、設計段階で16トンを予定し、車体重量が各部の補強
などのため結果的に18トンになってしまっていた。その為、最高速度が20km/h(陸軍
の要求は25km/h)になってしまったことであった。当時、ソ連を仮想敵国とし、広大な
中国での戦車の運用を考えていた陸軍にとって、これは大問題と考えられた。しかし本
当の問題はもっと大事な燃料消費だった。その後八九式中戦車が作られ1929年10月には
東京〜青森間660kmの長距離運行試験に成功し、八九式軽戦車として仮制式化(仮制
定)がされた。初期試作車は、予定通り重量が 9.8 tにおさまったため軽戦車に分類さ
れたが、部隊の運用経験から度々改修が施され又もや11.8 tに増えてしまうのである。
試製1号戦車は1927年(昭和2年)に開発され、唯一の欠点は重量が当初予定していた
値より2t重い18tとなり、最高速度が20km/hに低下したことだった。この初めての国産
戦車である試製1号戦車を改良し更なる試製車が作られた。しかし敵に対し優位に立つ
ために重戦車も必要と考えた陸軍が、1928年(昭和3年)に開発を決定した91式戦車
も1車両で92式に変わった。「重装甲車」と名付けられた92式は、編成上騎兵装甲
自動車隊用として発足した制定の際に歩兵科管轄の戦車呼称にしないよう注文を受けた
。騎兵部隊の戦車らしく、本車は何よりもスピードを第一に開発された。最高速度は3
年前に正式化された八九式中戦車の最高速度25km/hを大きく上回る40km/hを出した
。軽量化のため、リベット接合から異例の溶接構造を採用した。最大装甲厚は6mmを採
用し、重量は3.0tとなっていた。熱河作戦で、日本初の自動車化歩兵部隊として投入さ
れ中国砲兵第101団第1営を、実に140kmにわたって追撃し、日本側の負傷2名(百武
大尉と兵1名)と引き換えに敵に対し戦死者五百名、負傷千名の日本側の記録を残した
。世界では第二次世界大戦まで戦車は重戦車、中戦車、軽戦車、豆戦車、駆逐戦車など
多様を生産し。戦後、戦車に求められるあらゆる任務をこなせるように走攻守をバラン
ス良く備えた主力戦車が登場し統合が進んでいった。

1133: 名無しさんAA:18/07/31 19:04
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  178 > 

 ロシアの強力な陸軍と渡り合うためには日本陸軍も戦車を必要としており、1920年代
半ばから純国産戦車を開発し始め、1929年に八九式中戦車の生産(三菱重工)を開始し
ました。なお、中戦車という区分はこの八九式中戦車からの採用で、それまでは10トン
未満の軽戦車と20トン以下の重戦車の区分しかありませんでした。また八九式という型
式は西暦1929年が神武歴2589年に当たるためです。この日本軍の純国産量産中戦車は数
両が満州事変に投入され、戦車や対戦車兵器を持たない蒋介石軍に対しては威力を発揮
し軍内部では無駄に高く評された。高評価ではあったものの八九式は対歩兵戦のとって
着けた形ばかりが戦車であって、ソ連の戦車戦にはかなわないとされ、新たに九七式中
戦車(チハ車)を対ソビエト戦の緊張が高まる中で戦車戦を想定した戦車が求められた
。そうして開発を急がれたが、やはり歩兵支援で相変わらず歩兵直協目的の戦車となっ
た。歩兵支援が目的ならば敵の歩兵支援に戦車がある、つまり本来なら対戦車戦を想定
しての開発になるはずがそれが出来なかった。大陸に船で運ぶ為に重量や容積制限が見
込まれたからだ。最初の八九式中戦車はダイムラー社製の水冷式ガソリンエンジン(飛
行機用)を戦車用に改造したもので排気量は9500tで6気筒120馬力だった。しかし1930
年代後半には三菱重工製の排気量14300t、6気筒120馬力の空冷式ディーゼルエンジン
に換装された。一方、1937年に登場した九七式中戦車(チハ車)は最初から三菱重工が
製造した排気量21720t、12気筒170馬力と八九式中戦車よりはパワーのある空冷式ディ
ーゼルエンジンを搭載していた。当時、他国の戦車がガソリンエンジンを搭載する中で
、ディーゼルエンジン、しかも空冷式というのは画期的であった。空冷式ディーゼルエ
ンジンの開発理由は満蒙(満州モンゴル地域)の草原では水を調達することが難しいと
いう想定と、当時のガソリンエンジン搭載の戦車が事故や意図的な火炎攻撃で炎上しや
すかったことを考慮していたからだ。八九式中戦車の車体重量は11.9トンで全備重量が
12.7トンであったのに対し、この九七式中戦車(チハ車)の車体重量は14.3トンで全体
をリベット止めだった。全備重量は15トンで約2トンも重くなっていた。速度は八九式
中戦車が最大速度25キロだったのに対して九七式中戦車は最大速度38キロとされ、
満州での試験運転時には平坦路面を40キロで走行したとされる。フィリピンでは45度
を超える傾斜の海岸から上陸出来ず、登坂に成功していた鹵獲品のアメリカM3軽戦車
の助けを受け(重量13トン、262馬力)にけん引されて上陸するということさえあった。
如何に軽く仕上げ弱い力だったかが伺い知れる。


1134: 名無しさんAA:18/07/31 19:05
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  179 > 
航空も九七式飛行艇の後続機の一三試大型飛行艇は、当時の世界的レベルにあった英の
ショート”サンラーダンド”及び米のコンソリデーテッドPB2Yよりも遥かに優れた性能
をもって、戦後米国において徹底的な調査を受け、その後、世界の優終機として長い間
博物館に展示されていた。本機を輸送機に改造したものを「晴嵐」と称し、乗客62名
を収容できた。こうして川西製作所は名を轟かせ戦後に強い査察が入った。生産機数百
三十一機で二式飛行艇、通称二式大艇の名で親しまれ、大戦の全期間を通して活躍した
。しかし、中期以降では先のレーダの発達などにより行動範囲もせばめられ、また身を
隠すのが困難な大型機というハンディキャップもあり多くが簡単に失われていった。そ
の為戦時使用の疑問が生じた。しかし、二式大艇の残した幾多の記録は戦後も永く破ら
れることは無く、レシプロ式大型飛行艇では事実上世界で最後の最優秀飛行艇として、
その名を残した。海軍が、このような大型飛行艇を発展させた背景には、軍縮条約によ
る洋上兵力の劣勢にある。侵攻してくるであろう米主力艦隊を、本土より出来るだけ遠
方で補足し、これを攻撃し洋上兵力の劣勢を補おうというもので、大型陸上攻撃機など
の整備が、昭和6年ごろからその計画が進められていた。戦前には中部太平洋上に、委
任統治地の島々が散在するが、これらは国際法上軍事目的の使用は禁じられており、し
たがって飛行場の構築は出来ず、陸上攻撃機は使えないことになっていた。そこで浮上
してきたのが、洋上より自由に離発着できる攻撃型大型飛行艇であった。昭和13年に、
海軍は九七試飛行艇に代わる4発高性能飛行艇の試作を川西に対し一三試大型飛行艇と
して指示し、その要求性能は、最大速240kt(440km/h)以上、航続距離4,500nm(3,800km)
という過酷なもので、飛行艇としては前代未聞だった。更に爆弾2トン又は魚雷2本を
搭載可能が加えられていた。あとで本機に施された強力な防弾設備などを考えると、同
じころ中島に出された一三試大型陸上攻撃機「深山」の要求性能が同一なことから、従
来型の飛行艇でなく攻撃型飛行艇の実用化を意図していたことがうかがえる。川西は同
年8月、菊原静男技師を主務者とし技術陣の総力をあげ、この難題に向かい設計を開始
した。大航続性能と高速性能という矛盾点を調和させる基礎研究の結果、当時の飛行艇
としては画期的な高翼面加重を採り、従来のパラソル式の主翼を廃し、片持式肩翼の近
代的な形式を採用して有害抵抗を減少させ、また空中性能を向上させるため、艇体を当
時の標準よりも小さくした。このことは、飛行性能を向上させるが反面、水上での性能
に多くの難点を生ずる恐れがあったが、その対策として川西が独自に研究を進めていた
親子フラップ(ファウラー・フラップとスプリット・フラップを組合わせたもの)を採
用し、離着水性能の向上をはかった。

1135: 名無しさんAA:18/07/31 19:06
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  180 > 

 その他にも、主翼桁材に超々ジュラルミンの使用、開発中のわが国最大出力「火星」
発動機の採用、攻撃防御装備の面では、当時世界で試みられていた斬新な手法を取り入
れた。強力な兵装に加えて防御面では、ゴムを用いた完全防弾タンクに加え、乗員保護
の装甲板、自動消火装置などを装備していたが、特に耐弾防御能力では、従来の日本機
には見られない徹底したものであった。このことは、当然のように重量増加をまねき、
計画時28トンであったのが完成時では、32.5トンになり、水上特性に悪影響を与える結
果を招いた。試作第一号機は15年12月末に完成した。試験飛行の結果、全備状態におけ
る離着水滑走時の際、機首からの飛沫が激しく、滑水時艇体に障害をおこす恐れが指摘
されたが、この対策として艇底面につぎ足しをして艇体を 0.5m増し、さらにその前に
、独特の波抑えの細い段、いわゆるかつお節をとりつけるなどの改修を行い解決した。
一般性能、特に速度と上昇力は九七式飛行艇よりも隔段の向上を示したため艇体などの
改造を行った後、二式飛行艇11型(H8K1)として昭和17年2月、制式に採用された。実用
化された本機において、水上滑走時の縦安定性の悪さが問題とされ、また戦後米軍での
テストでも指摘されているが、これは未熟な操縦士によるもので、熟練操縦士の指導で
解決されている。また操縦性の問題もあったが、4発の大型機に、単発の水上機なみの
運動性能を強いて、雷撃を可能にしようとしたことによるもので、しょせん無理な相談
であった。しかし、外国の同機種と比べたとき、本機の操縦性は格段と優れたものであ
って、二式飛行艇は、日本における最大で最後の大型飛行艇でとなったが、米国でも高
評価されて研究対象となった。本機の完成によって、飛行艇に関する技術と用兵思想は
絶頂に達し、海軍では遠洋哨戒の任務のみならず、長距離進攻しての爆撃や雷撃という
戦闘行動の遂行にも大いに期待をかけていた。しかし、海戦様式の変化と兵器の発達は
、飛行艇がこのような攻撃用とには全く向かないものとし、大戦半ばにして第一線を退
いて、後方の連絡や輸送、又対潜哨戒など、飛行艇本来の任務に戻った。開発中の一三
試大艇の性能は、当時の海軍に攻撃任務が可能だという観念をいだかせても当然なほど
に、素晴らしかったのである。結果的には、海軍の予期した戦果を挙げることなく終わ
ったが、開戦間もなくの昭和17年、ハワイ夜間爆撃に初陣したのをはじめ、大戦初期
には哨戒機としてのみでなく、遠距離雷、爆撃機としてもかなり使用され、太平洋戦争
における海軍の全作戦地域に活躍した。第二次大戦中における大型飛行艇の最高水準を
行く傑作として世界が注目していた。

1136: 名無しさんAA:18/07/31 19:07
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  181 > 

 このレーダーの運用に陸軍がつかなかった事も日本の敗因であろう。艦船ならば敵に
発見される危険性やデメリットも多いが、位置が既に特定されている地上基地において
メリットは多かったはずだ。積極的にレーダーを否定する理由はちょっとない。しかし
防備を考え出したのは国連脱退からであって、日本の大陸占領軍隊は、もともと治安や
自治を守る軍隊だった。シベリア出兵以来兵站を考えても、他の国の様な、大きな攻撃
機材を空輸して設置し進軍し侵攻する様な事にはなっていない。見張り員の能力を高め
や第一次大戦での航空機の活躍はあったが、それは本国の航空隊の整備の話であって、
現地ではもっぱら、医療や治水や教育と言ったインフラ整備の要因で、西洋映画の様な
例えばノルマンディ上陸作戦の様な、要害の地の突破に物語があるような事はない。例
えば日本はインパール作戦前にイギリス軍のシンガポ−ル陥落を得ているが、それは単
に蒋介石の援助を止める為であってそれ以下でもそれ以上でも無かった。つまりドイツ
撃退とかフランス開放とか明快な民族的意図は皆無だったのである。この戦う意志の無
い戦いはある意味悲劇であった。マレーの虎とされた山下は、第二次世界大戦の1942年
2月7日から2月15日にかけて、イギリスの海峡植民地のシンガポールで 大日本帝国陸軍
と連合国軍の間で行われた戦闘は、当時難攻不落と謳われたシンガポール要塞を、2倍
を超える兵力差を覆して、日本軍がたった10日足らずで攻略したのである。結果、イ
ギリスが率いる軍としては歴史上最大規模の将兵が降参した。当時のイギリス首相で、
戦争責任者となったチャーチルは自書で「英国軍の歴史上最悪の惨事であり、最大の降
伏」と評している。よく太平洋戦争(大東亜戦争)に、「真珠湾攻撃により太平洋戦争
が始まった」という一部の記事に記述がのるが、それは甘んじて歴史の嘘であり衝撃的
文句を並べたい文章の彩(あや)である。マレー作戦こそは太平洋戦争における最初の
作戦で、世界史的には、本攻撃によって第二次世界大戦はヨーロッパやアフリカのみな
らずアジア太平洋を含む地球規模の戦争へと拡大したのだ。此処を間違えるとこの戦争
の意義を大きく失う。つまり南京城を落しても尚中国攪乱戦術を毛沢東も蒋介石も止め
ずに、アメリカもイギリスもソ連もドイツも、より多くの戦争物資と兵士要員を送って
拡大化させていたのだ。これに困って宣戦布告に陥ったのである。その原因は石原莞爾
の西洋社会の無知に起因し、世界最終戦争と目した国柱会などの無謀さであり、決して
米内光政と山本五十六が愚将だったせいでは無かったと言う事実である。もっと言えば
天皇の権威を軍部は利用したが、天皇の権威は軍部が強くなる程に小さくなり内部矛盾
が生じていたのである。

1137: 名無しさんAA:18/07/31 19:19
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  182 > 
 1941年12月8日にマレー半島北端に奇襲上陸した日本軍は、イギリス軍と戦闘を交え
ながらたった55日間で1,100キロを進撃し、1942年1月31日に半島南端のジョホール・
バル市に突入した。これは世界の戦史上まれに見る快進撃であった。作戦は大本営の思
う期待を上回る大成功を収め、日本軍の南方作戦は順調なスタートを切った。これが、
ある意味日本の災難でもあった。開戦前における日本軍の戦略目標は、石油や天然ガス
、ゴムなどの豊富な天然資源を持つオランダ領東インド(現インドネシア)の資源地帯
の占領であった。しかし手前に立ちはだかるイギリスの植民地であるマレー半島および
シンガポールを攻略する必要があって言わば前哨戦の類で勝つのは当然だったが日数は
かかると目されていた。当時のシンガポールは、最新鋭戦艦のプリンス・オブ・ウェー
ルズとレパルスを中心にアジア太平洋地域とインド洋一帯を、イギリス東洋艦隊の根拠
地として機能していた。このイギリスの東南アジアにおける植民地支配の中心拠点では
、かなりの武装した都市だった。ヨーロッパやアフリカ戦線においてイギリスの抵抗に
手を焼くドイツにとっても、イギリスの資源補給線であるインド洋を抑える意味からも
日本軍による攻略を、ドイツは切望するところだった。この為に陸軍も日独伊の三国同
盟を求めていた。つまり世界の国の動向すらも陸軍の大陸運営に於いて同盟を望んだの
である。ある意味イギリスも米国も望んだ三国同盟であったが、日本は決して軍事同盟
を結んだつもりは毛頭なかった。しかしながら米国は既に10年も前からこの資源遮断
作戦を練り、長年イギリスの植民地支配下に置かれていたシンガポールに上陸し、日英
同盟の破棄が起こる事を英国に伝えていた。その為同盟破棄以降は、イギリス軍によっ
て防御設備の強化が進められて、「東洋のジブラルタル」とも称されるほど難攻不落の
地と見られていた。海に面した南側には戦艦の主砲並みの15インチ砲が(38センチ)
を各所に並べ、それ以下の重砲群やとトーチカ群が構築されて、鉄壁の守りを見せてい
たし、その他河川などは巧妙に毒薬を流していた。さらにジャングルの影には多くの戦
闘機や爆撃機群が配備され、難攻不落の要塞と言われていたのは当然のほど東洋一の守
りをしていた。北側のジョホール海峡側および同じく植民地であるマレー半島における
イギリス軍の防備は手薄ではあったが、広大なマレー半島そのものが天然の防壁となる
ものと考えられていて、簡単には落ちない計算された城塞都市であった。ところが、日
本は、欧州戦線の戦車の重戦車化し火砲の強力化などの進化に比べ、日本陸軍の銃火砲
や戦車或いは飛行機など中国建設の異常で、全く進化が遅かった。全く無かったと言っ
てもいいぐらい古かったが、それでも大本営は、精一杯南方作戦の中でマレーを最重要
視して精鋭部隊や機械化部隊をこれに当てた。

1138: 名無しさんAA:18/07/31 19:20
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  183 > 

第5師団(広島)は建軍以来精鋭師団であり、1941年初頭に馬匹編成から自動車編成に
改編された虎の子の機械化師団である。又近衛師団(東京)は宮城警護を任務としてお
り日露戦争以来一部の部隊を除き実戦経験がなかったが数少ない機械化師団の1つであ
り本作戦にいれた。第18師団(久留米)は馬匹編成で機動力は劣っていたが、精鋭師
団の一つで橋梁を破壊の遅滞に対する橋梁修理のための独立工兵連隊を持っていた為、
これを増強させた。つまり日本一流の軍隊を投入したのだった。大本営はマレー上陸と
アメリカの属領であるハワイに対する真珠湾攻撃との関係に考慮を要した。陸軍はマレ
ー上陸が長途の海上移動の危険を伴うことから奇襲を絶対条件とし、海軍も真珠湾での
奇襲に期待をかけていた。しかし、一方が先行すれば他方の奇襲が成り立たなくなる。
マレーとハワイとでは18時間の時差があるため、双方を両立させるのがマレーの深夜、
ハワイの早朝、という作戦開始のタイミングであった。このコタバル上陸作戦自体は、
駐米日本大使館の失態による遅延により結果的に開戦後の宣戦布告となってしまった。
対米宣戦布告予定時間より前に開始されており、開戦前に宣戦布告を行う予定であった
対米開戦とは異なり、日本軍が宣戦布告無しで対英開戦することは予定通りであった。
この時の日本軍の開戦日の暗号は「ヒノデハヤマガタ(ヒノデハヤマガタトス)」であ
る。「日の出は山形とす」は陸軍の切望だったののだろう。飛行機による戦略は日本は
そんなに認識が高くはなかった。貴重な油の浪費と考えていたのである。航空機による
偵察を積極的に評価し実用潜水艦にまで偵察機を積んだ日本海軍の形態は、山本五十六
や米内光政などの強い要請からであり、他者は、レーダーの有効性を頭ごなしに否定し
た日本海軍が一般的体質であり一致してはいなかった。もっと言えば陸軍などは国際化
よりは中国大陸の建設か制圧か和平撤退か実権行使かで全くその場その場で変わってい
たのである。しかしこの時マレー沖海戦はまともな海戦で思わぬ大勝を得た。イギリス
海軍の最新艦であったプリンス・オブ・ウェールズとレパルスは、セレター軍港に到着
したばかりで、両戦艦に直掩機をつける余裕がなかったため、両戦艦は10日に、マレ
ー半島東方沖で九六式陸上攻撃機と一式陸上攻撃機による雷撃と爆撃を受け、撃沈され
たのだった。これによりイギリスの東洋艦隊主力が壊滅してしまった。イギリス海軍は
航空機による戦艦に対する攻撃能力を甘く見ただけでなく、これによりマレー半島東岸
の制海権が日本軍の手に帰したのみならず、後のインド洋におけるイギリス海軍の敗北
の序章となってしまう結果を産んだ。英国インド本部の怠慢だった。

1139: 名無しさんAA:18/07/31 19:31
 初期のレーダーは発電機や電波発信機などは大型で艦船向きではなかった。又太平洋
の島々に航空機を配置して来寇する米艦隊に斬減作戦をする戦略にもレーダーは合致し
たが採用していない。軍部は敵航空隊が手ぐすね引いて島々の基地に飛来しても高射砲
による攻撃のみしか考えなった。世界初の急降下爆撃機を開発した米国が主力艦隊のに
随伴する空母から航空隊を出撃させ島々の基地を無力化しに来るのは、戦争中盤からで
あったからだ。つまり先に航空攻撃されない様にレーダーで見張る意味合いは有効であ
ってもどの国もレーダーを否定し使わなかったのだ。その流れに添って日本も予算を付
けて開発などしなかったのだ。そうした事で軽装備の日本軍はこのマレー作戦で快進撃
をした。英国は重装備のレーダーを積んで来ると思っていた。マレー沖海戦では、日本
の諜報部は空母インドミタブルが飛行機を送って帰還する中11月13日にジャマイカ島の
近海で座礁事故を起こし、合流できなかった事を知っていた。その情報はレーダーによ
るものと思い込んでいたからだ。航空機に関しては、イギリス軍参謀本部は「日本軍機
とパイロットの能力はイタリア空軍と同程度」と見ていた。従って戦力は「イギリス軍
の6割」と想定し、マレー防衛計画に336機の配備を、議会決定していたが、実際に
は半数程度しか配備されていなかった。これはチャーチルがソ連に大量の航空機を供給
し、ソ連経由で中国に送っていていたからである。かわりに小型空母ハーミーズの合流
決定を命じて海軍の火砲を頼った。しかしこのハーミーズはダーバンで修理中だった。
フィリップス提督は自軍の戦力に不安を感じ、リヴェンジ級戦艦リヴェンジ、ロイヤル
・サブリン、クイーン・エリザベス級戦艦ウォースパイトを12月20日頃までに派遣する
よう希望して速報の電報を打っている。日本軍は、こうしたイギリス東洋艦隊の実情を
水上偵察機と潜水艦で把握して、対策をとっていた。12月7日、シンガポールの北東
約三百kmにあたるアナンバス諸島とマレー半島東岸のチオマン島の間に、特設敷設艦辰
宮丸が機雷を敷設した。さらに第四潜水戦隊・第五潜水戦隊の潜水艦複数隻(伊53、伊
54、伊55、伊56、伊57、伊58、伊62、伊64、伊66、伊65)の10隻が三線の散開線を構
成して哨戒していた。潜水戦隊の軽巡洋艦(鬼怒、由良)は輸送船団護衛部隊と共に、
行動して潜水母艦はカムラン湾に待機させていたのだ。 連合艦隊参謀長宇垣纏少将は、
「ウェールズをやっつけたら、次にジョージ5世でも6世でも良い。」と陣中日誌に記録
している。実際に日本軍は松永貞市少将の第二十二航空戦隊(美幌航空隊 元山航空隊
:九六式陸上攻撃機27、元山航空隊 サイゴン基地:九六陸攻27)を南方に進出待機さ
せ、新たに鹿屋航空隊の一式陸上攻撃機54機を配備してイギリス東洋艦隊を待ちうけ
ていた。此処でも本来のイギリス空母艦隊は現れなかった。ハワイ奇襲の南雲中将と違
って全くの正攻法の体制だったのだが。

1140: 名無しさんAA:18/07/31 20:51
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  185 > 

 シンガポールのイギリス軍はタイ経由の日本軍侵攻を警戒しており、対日開戦直後に
タイ領南部へと侵略を行い、タイ警察の抵抗を排除して防衛線を築いていた。しかし、
進撃してきた佐伯挺進隊により、短時間で突破されてしまった。これはイギリス軍が、
タイとイギリス領マレーの国境近くのジットラには、ジットラ・ライン(ジットラ陣地
)と呼ばれる強硬な防御陣地を構築していた。狭隘な地形を利用しており、英印軍第6
、第15旅団からなる兵力 6,000、装甲車90両が展開し、その強固さから「小マジノ
線」とも称され、イギリス軍はこの要塞で日本軍を3ヶ月は足止めできると豪語してい
た。だが、本来ジットラは湿地帯であり構築段階での工事は難航、工事を請け負ってい
たタイ政府も匙を投げかけていた土地だった。そこに目をつけた日本軍は、「マレーの
ハリマオ」として現地で名をはせていた盗賊・谷豊と彼を引き入れた諜報員・神本利男
をジットラ・ラインに潜入させ調査させていた。まず谷が仲間とともに陣地の測量を行
い、神本がそのデータをタイ王国公使館附武官の田村浩大佐を通じ本国へと送った。第
5師団はこのデータを基にして、半年にわたって演習を重ねた。続いて一党は二人一組
に分かれて労働者の中に紛れ込み、資材の投棄や建設機器の破壊などの実力行使に入っ
た。この結果、ジットラ・ラインの工事は大幅に遅れた。こうして進化の遅れた戦車は
12月10日、佐伯挺進隊は九七式軽装甲車を先頭にタイ・イギリス領マレー国境をやすや
すと通過した。さらに11日にアースンの国境陣地を突破したため、九七式中戦車10両
・九五式軽戦車2両を装備する戦車第1連隊第3中隊等が佐伯中佐の指揮下に入り特別
挺進隊を編成、ジットラ・ライン突破に当たった。12日未明予期せず砲撃を受け、特別
挺進隊は東側の敵陣地に戦車で夜襲をかけ一角を占領、夜が明けるとその場所こそが、
ジットラ・ラインであった。12日昼間は猛烈な砲撃を受けるが午後には歩兵部隊も到着
。その夜の夜襲を決意し準備を進めていたところ、午後5時に英印軍はジットラ・ライ
ンから全面退却した。ジットラ・ラインをわずか1日で、しかもたったの581名の、
佐伯挺進隊が突破するとは大本営ですら驚愕した勝利であった。佐伯挺進隊の戦死者は
27名、戦傷83。英印軍の捕虜は1,000名以上。この勝利によって山下中将は 作戦の
スケジュールを繰り上げて空前の速さで侵攻した。実はこの湿地帯にイギリスやドイツ
の重い戦車を想定しての作戦は、木造と薄い鉄板小さな車体の日本軍には全くヤシの木
の柵も沼地の走行も意味をなさずやって来ていたので、英兵はどうする事も出来なかっ
た。つまりサイズ違いで軽く仕上がった戦車は湿地を走り木々の間を小回りの利く戦車
に負けたのである。

1141: 名無しさんAA:18/07/31 20:52
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  186 > 

 12月6日本軍輸送船団はオーストラリア空軍偵察機に発見され、同機は戦艦1隻を
含む大部隊が南方に向かっていることを報告されていた。しかしイギリス軍は日本軍船
団がタイ国へ上陸するのか、マレー半島へと上陸するのか、判断できなかった。 12月7
日午前9時50分、宣戦布告前にも拘らず、日本軍零式水上偵察機と陸軍戦闘機隊がPBY
カタリナ飛行艇を撃墜した。午前10時30分、小沢中将の艦隊はG点に到達して、日本軍
輸送船団は予定に従って分散した。行く先は、プラチャップ方面に輸送船1隻、バンド
ン方面に香椎と輸送船3隻、ナコン方面に占守と輸送船3隻、シンゴラとパタニ方面に
第二十駆逐隊(朝霧、夕霧、天霧)・第十二駆逐隊(叢雲、東雲、白雲)・掃海艇3隻
・輸送船17隻(第二十五軍先遣兵団)、コタバル方面に軽巡洋艦川内(第三水雷戦隊
旗艦)、第十九駆逐隊(綾波、磯波、浦波、敷波)・掃海艇3隻、輸送船3隻である。
12月8日午前1時30分、日本軍はコタバル上陸を開始、イギリス軍も応戦し真珠湾攻撃よ
り2時間前に交戦がはじまった。イギリス軍機は輸送船淡路山丸を航行不能とし、綾戸
山丸、佐倉丸大破という戦果をあげ、護衛部隊司令官橋本信太郎第三水雷戦隊司令官に
一時退避を決断させた。しかし各方面の日本陸軍上陸作戦は成功していた。第一航空部
隊の松永少将はイギリス東洋艦隊が出現しない可能性が高まったため、配下部隊にシン
ガポールの四箇所の飛行場爆撃を命じた。元山航空隊は悪天候のため引き返したものの
、美幌航空隊32機が12月8日午前5時38分からシンガポールを爆撃、損害なくツドモー
基地に帰投した。イギリス軍側は日本軍の兵器は時代遅れで、さらに日本人には身体的
欠陥により夜間飛行はできないと錯覚していた。その為に日本軍の空襲に全く対応でき
なかった。この時、山田隊の偵察機がシンガポールを偵察し、『1120、湾内に戦艦2(
プリンス・オブ・ウェールズとレパルス)、巡洋艦4、駆逐艦4』を報告した。この他
にシンガポールには軽巡洋艦や駆逐艦が存在した。しかし修理中や低速などの理由でZ
部隊には加わらなかった。この時、アメリカの太平洋艦隊の真珠湾での損害は明らかに
なっていて増援は望めなかった。トーマス・フィリップス提督はシンガポールの極東軍
総司令部で航空掩護を求めたが結論は出ず、提督はプリンス・オブ・ウェールズに戻る
と作戦計画を練った。東洋艦隊司令部は、日本軍輸送船団を撃滅し日本軍の機先を制し
、日本軍が態勢を立て直す間に英軍は増援を待つという方針を立てた。しかしイギリス
空軍司令部はコタバル飛行場から既に撤退し、フィリップス提督に哨戒と艦隊上空警戒
を約束できなかった。抜錨して間も無く、イギリス空軍司令官は『遺憾なるも、戦闘機
による護衛不可能』と連絡が入った。

1142: 名無しさんAA:18/07/31 20:53
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  187 > 

 しかし、それでもイギリス東洋艦隊は夜にシンガポールに出撃に出した。事前に、イ
ギリス東洋艦隊の存在があまりにも宣伝され、また極東イギリス連邦国民に「危機にな
れば東洋艦隊が出撃する。」と長年約束していたため、面子の関係から出撃しないわけ
にはいかなかったのである。マレー半島とアナンバス諸島の間に日本軍が機雷を敷設し
ていたためZ部隊はマレー半島沿いに北上出来ず、同諸島東方を迂回して日本軍輸送船
団に向けて進撃した。英国東洋艦隊には楽観的な気運が漂っていて、レパルス乗艦中の
CBS記者は士官が日本艦隊出現に「彼らは日本人だ、心配することなんか何もない」
と呑気に笑っていた」と記録して「(日本軍の)艦船は飛行機よりマシだが、日本人は
近眼で射撃できない」「日中戦争に5年もかけてまだ勝てない」等の情勢を楽観視して
いた。イギリス軍は前述のように日本軍航空機の性能および日本人の能力を過小評価し
ていた。空襲による危険は小さく主力艦が致命的な被害を受けることもないだろう。と
判断していた。そのときまでにこうした作戦行動中に空襲で沈められた戦艦はいなかっ
たからだ。もっとも、かつてプリンス・オブ・ウェールズと交戦したビスマルク級戦艦
1番艦ビスマルクが、雷撃機フェアリーソードフィッシュの魚雷攻撃によって、舵とス
クリューを破壊され、間接的に撃沈に追い込まれた事例は存在はしたがそれでも飛行機
で沈められた例は稀であった。まクレタ島の戦いでクイーン・エリザベス級戦艦2番艦
「ウォースパイト」がドイツ空軍の空襲により大破した事もあるにはあったのだが。一
方、日本海軍の戦力として、この方面には高雄型重巡洋艦2番艦愛宕を旗艦とする南方
部隊本隊(指揮官近藤信竹中将/第二艦隊司令長官、参謀長白石萬隆少将)がいたのだ
。南方部隊本隊の戦力は第四戦隊(愛宕)第三戦隊第2小隊(金剛)、第4駆逐隊(嵐
、野分)、(萩風、舞風)、第6駆逐隊(響、暁)、第8駆逐隊(大潮、朝潮)(満潮
、荒潮)という、蒼々たる過去の老齢艦長の大佐級の編成だった。特に愛宕麾下の金剛
型戦艦2隻(金剛、榛名)は近代化改装を受けてはいたが、両艦とも艦齢30年にもな
る老艦であり、また元来巡洋戦艦だったため、兵装・装甲の厚さも最新鋭戦艦プリンス
・オブ・ウェールズよりかなり劣っていた。このため、プリンス・オブ・ウェールズに
砲撃戦を挑むことは無謀な艦と言えた。また戦闘が始まったときは日本の戦艦部隊は北
に離れており、海戦には間に合わず、戦艦同士の砲戦は起こらなかった。しかし調査で
は、両軍艦隊は一時プリンス・オブ・ウェールズの主砲射程圏まで接近していたことが
明らかになっている。

1143: 名無しさんAA:18/08/01 00:49
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  188 > 

この時、フィリップス提督は駆逐艦テネドスが燃料不足気味だったため、艦隊から分離
単艦でシンガポールに引き返させた。その際、テネドス艦長に対し無線封止を解除し、
アナンバス諸島東方に連合国軍巡洋艦・駆逐艦を集結させるよう求めた。その後もZ部
隊はシンゴラ沖の日本軍上陸船団を目指したが、前方5マイルに青い閃光を確認する。
これは武田機が投下した吊光投弾であり、シンガポールのパリサー参謀長から受信した
「本日午後の航空偵察によれば、コタバル付近の海面に戦艦1、最上型巡洋艦1、駆逐艦
11及び輸送船多数集結中なり」との報告を検討した結果、針路をシンゴラから、南東の
コタバルに変更した。小沢艦隊の距離は接近しており、豊田穣は「プリンス・オブ・ウ
ェールズのレーダー(25マイル)が鳥海を捉えなかったのは不思議だ」と指摘している
。実はフィリップス提督は「わが目標はシンゴラ沖にして、日本軍上陸部隊支援部隊中
主力艦は金剛ただ一隻なるものの如し。他に愛宕級3、加古級1、神通級2 の各型巡洋艦
と駆逐艦多数あり。」と的確に取られている。当時のイギリス船はポンポン砲と言う、
極めて威力はあるが発射がのろく玉が詰まるもので飛行機を相手に戦っていた。つまり
不良在庫を抱えたヴィッカース40mm機関砲弾の在庫処分対策として開発された8連射の
銃砲は極めて信頼性に乏しかったのだ。対して巨砲である主砲は老齢艦の日本の旗艦に
は有効だった。つまり主艦同士であれば勝算はあるが空母や飛行機には弱かったのだ。
こうして双方共に主艦探しにレーダー対飛行機で探索合戦を続けていたのである。この
時作戦中止とシンガポール基地に戻り戦力再編を行うことを伝達して帰還しようとした
頃だった。日本にとってマレー沖海戦は、太平洋戦争(大東亜戦争・第二次世界大戦)
初期、真珠湾攻撃に続いてマレー半島沖で決行された航空作戦であった。シンガポール
防衛のため出撃したイギリス海軍東洋艦隊に、大日本帝国海軍の航空機群が突如として
襲いかかりこのマレー沖海戦によって、それまでの世界の常識であった大艦巨砲主義が
終わりを告げた瞬間だった。当時は大艦巨砲主義、いわゆる大きな艦ほど強いとされる
思想が中心であって、作戦行動中の戦艦が航空機によって沈められることはほぼない。
と考えられていた。さらにイギリス軍は、日本軍航空機を過小評価しておりゼロ戦など
小さい機関銃攻撃機と思われていた。しかし、イギリス空軍司令部は今やコタバル飛行
場から撤退したこともあり、この時イギリス海軍東洋艦隊には上空支援は一切ない状態
で無防備状態だった。

1144: 名無しさんAA:18/08/01 00:52
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  189 > 

 一方、大日本帝国海軍は、新鋭戦艦を主力とするイギリス東洋艦隊の動きを察知して
いた。しかしこの方面を担当していた艦隊は、主力となる戦艦『金剛』『榛名』が老朽
艦であったことから、艦隊戦は避ける方針で対応が進められた。探索に 12月9日、潜水
艦『伊65』『伊58』がイギリス艦隊を発見し、10日早朝にかけて追跡するも、途中で見
失ってしまう。12月10日 6時25分、索敵と攻撃を兼ね、松永貞市少将が指揮する海軍第
二十二航空戦隊(計85機)がサイゴン、ツドゥム基地から出撃した。11時45分、先導す
る索敵機がイギリス艦隊を発見し、マレー沖海戦が開始された。航空機のみで、あえて
行動中の戦艦を沈めることを狙いとした、常識を打ち破る海戦であった。12月10日12時
45分、対空砲火をかいくぐった「九六式陸上攻撃機」が次々に爆弾を投下し、巡洋戦艦
『レパルス』が被弾した。命中した1発の爆弾は居住区を貫通し下甲板で爆発。『レパ
ルス』の艦内が激しい炎に包まれる。イギリス東洋艦隊司令官トーマス・フィリップス
大将は、日本軍航空機が雷撃できるとさえ思っておらず、空軍に掩護を求める気配もな
い。この時、シンガポールではイギリス空軍の戦闘機がただただ待機し続けていた。と
いう。つまり空軍も自分いる飛行場を守る事で制空権を得て居なく又この船の位置すら
把握出来て居なかったのだ。13時14分、そんなトーマス・フィリップス大将が座乗する
『プリンス・オブ・ウェールズ』に2本の魚雷が命中。隔壁が破壊された『プリンス・
オブ・ウェールズ』はいきなり傾斜し始めた。一方、『レパルス』は、初弾以降は、巧
みな操艦で日本海軍第二十二航空戦隊の攻撃を全て避け切っていた。しかし防戦一方で
あるこの状況を鑑みた『レパルス』のテナント艦長は、独断で無線封止を破り空軍に掩
護を要請した。13時37分、さらに「一式陸上攻撃機」26機がイギリス艦隊上空に到達、
猛攻を開始する。回避し切れなくなった『レパルス』は魚雷を立て続けに受け、14時03
分、ついに沈没。同様に被弾し続けた『プリンス・オブ・ウェールズ』は遂に14時50分
に転覆、艦尾から沈んでいった。この際、トーマス・フィリップス大将は戦死、テナン
ト艦長は駆逐艦『ヴァンパイア』に救助された。マレー沖海戦終了後、日本国内では、
その戦果を発表するニュースと同時に、「英国東洋艦隊潰滅」という軍歌も流された。
真珠湾攻撃に続いて常識を打ち破った戦術に世界が驚愕し、また、このマレー沖海戦に
よって、イギリスに支配され植民地化されていた東南アジア各国では独立の機運が高ま
ることとなった。よくまあポンコツ船でこの海戦に勝ったものだと思うが、それが山下
将軍の運の良さであろう。努力の下に道が開く。と言うものだろうか

1145: 名無しさんAA:18/08/01 00:54
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  190 > 

 マレー半島では、降伏交渉を行う山下中将とパーシヴァル中将が戦っていた。 マレ
ー半島のイギリス軍は軽く抵抗して時間を稼ぎながら、大小250本の河川にかかる橋梁
を逐次爆破し後退した。日本軍は、当時のマスコミが「銀輪部隊」と名づけた自転車部
隊を有効活用し、進撃を続けた。日本軍の歩兵は自転車に乗って完全装備で1日数十キ
ロから100キロ近くを進撃し、浅い川であれば自転車を担いで渡河した。戦前から、
この地域には日本製の自転車が輸出されていたため部品の現地調達も容易であった。こ
の進撃は驚嘆するスピードであった。ドイツのフランスへの進撃でも40km/日である
また快進撃としたチェコでも60km/日である。戦車と歩兵の速さはそのくらいなのだ
。戦わず進軍しても80q/日日本軍のこの110q/日と言うのは如何にスムーズに
事が運んだかが解る。1941年、日本帝国は米英蘭に宣戦布告。日本陸軍中将・山下奉文
率いる第18軍は開戦とともに英領マレーのコタバルに上陸した。日本軍は破竹の勢いで
進撃、上陸からわずか55日間で、95回の戦闘を行い250本の橋梁を修復しつつ、
1100qを進撃してマレー半島を制圧した。そして三か月はもつと言われた東洋最大
の要塞・シンガポールは 2月15日、わずか一週間で陥落、ここに大英帝国のマレー支配
は終焉を迎え、植民地帝国としての英国は崩壊への道を進んだ。日本軍の兵力は戦闘員
約4万。それに対してイギリス・豪連合軍は約8万8千人。英軍は倍以上の兵力を持ち
ながらも日本軍に敗れ、最強を誇った要塞を落とされたのだ。英軍の司令官はアーサー
・パーシバル中将、砂漠の弧豹とされたドイツのロンメル将軍に互角に渡り合い、チャ
ーチルの失敗を背負ったダイナモ撤退作戦を上手く成功させた悲運の将軍とされれた人
だ。彼はこの作戦中に判断ミスを繰り返したこともあり非難を浴びた。そして痩せこけ
たパーシバルが、豪快な風貌の山下将軍に降伏する写真は世界の注目を浴び、日本人は
快哉を叫んだが、白人社会の衝撃は想像を絶する程だった。これにより連合軍の義勇兵
が集まったとさえ言われる。「彼は広い軍事知識、優れた判断力、傑出した能力を持ち
、とても周到な男である。しかし印象的な風貌(存在感)はない。一目見て彼の真の値打
ちを正当に評価した人は居なく、評価しそこねる人は多い」と評された。かなり才能を
期待されて軍人だった。しかし中将に昇進し、栄光ある司令官となってシンガポールに
赴任し待っていたのは、雑多な傭兵団だった。フランスは昔から傭兵の軍隊であった。
雑多な食い扶持つなぎのインド兵やマレー兵、つまり職を求めて入隊した植民地の現地
民族からなる兵士の混成部隊。しかも、西洋の植民地からの解放を謳っているような者
が食繋ぎに入隊していた。

1146: 名無しさんAA:18/08/05 17:06
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  191 > 

更にアーサー・パーシバル中将を悩ましたのは、本国から遠く離れてこの地で勤務する
ある意味左遷された人の、正直喜んでいないイギリス兵士の下で傭兵は働いていた事だ
った。最後の船団で客船「エンプレス・オブ・エイジア」が撃沈されて搭載物資を全損
していた中、新しく着任し気の合わない戦闘経験のない若造司令官ばかりで意見が対立
する中に、食料供給が滞った段階で、本部と各所の砦とは全く反問の中にいた。それは
戦闘経験のない若造司令官のありがちな、高飛車で高慢な躾の無い意見であった。全く
優秀とは言えない装備や旧式飛行機に、空軍司令官は「日本軍にはこの飛行機で間に合
う」などと豪語し、各所の砦の兵士は食糧の保管すら一様な指揮が出来てなかった。対
する日本は、勇猛果敢にとどまることを知らずに前進を繰り返し、自軍は敗走を繰り返
していたのである。先のドイツの軍事顧問団の督戦隊戦法にしろ、この英国や仏国の、
国際部隊や傭兵部隊にしろ、白人優位主義の思想の下に運営されていた。牛をつないで
歩く少年は向かい合って何気なくフランス兵を見て目を合わせただけで百叩きのむち打
ち刑を喰らっていた。その少年のベトナム人が後に老人となって話してる。そうした事
は、ほんの少し前まであった。ベトナムで召使いをしていた少女は突然の兵士に拉致さ
れて犯され主人夫婦は殺された。そうした残虐行為を働いたのは韓国兵士だった。米兵
がベトナムから離れたのは1975年サイゴン陥落からだ。ベトナム戦争の最末期、4
月30日に北ベトナムによって南ベトナムの首都サイゴン(現在のホーチミン市)が接
収された出来事である。これによって、共産主義陣営による南北ベトナム統一が決定的
となったがこの西洋優位思想は、アジア各国に取り入れられていた一般的常識ですらあ
った。日本のみがそれを切り裂いたのである。ちなみに「陥落」は主にアメリカ側で使
われる表現であって、ベトナム共産党はこれを「サイゴン解放」と呼んだ。ホーチミン
の開放作戦は、決して彼が共産党員であるからではない。1975年に米兵は南ベトナムか
ら撤退が決まったが南ベトナム国民はレジスタンスの中でもあったからだ。常に負けな
いベトナム人は、米国が見捨てて支援を断わり、北ベトナムの勝利となった。この時の
ルートも又日本軍を悩ました援蒋ルートであった。北の軍隊はサイゴンに到着したが、
統一会堂に到着すると、北は南の大統領チャン・バン・フォンに対して辞任を要求した
時誰もこの国会を死守する者は居なかった。フォンは北側の要求に応じて大統領を辞任
して、ズオン・バン・ミンに引き継いだ。これによってミンはベトナム共和国の最後の
大統領となったのである。


1147: 名無しさんAA:18/08/05 17:10
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  193 > 

 このポーおじさんの苦しみは、仏領インドシナとされた土地を占領した旧帝国陸軍の
苦しみと全く同じだった。第二次世界大戦で仏領インドシナの傀儡国家バオ・ダイ帝と
の協定は日本軍がこの土地を占領する事ではなく通過し使用する事を認めた協定だった
。その為日本軍は全くベトナム人とは戦わなかった。その事が第一の援蒋ルート叩きに
功を奏していた。ここで発見された連合国の秘密の武器支援は全く国連での決議違反が
多くあった。しかし日本人はアピールする事は下手な上に、多くの海外特派員のこの記
事や情報は全く本国では取り上げられなかった。およそ5回ほど摘発され白人が逮捕さ
れたが、いずれも現地人若しくは欧州系中国人として処理され全く軍人とはされなかっ
たのである。特にそれらの身分が赤十字の社員だったり蒋介石の友人となったので余計
に日本陸軍はそれを公に公表する事をアピールする事をやめていたのである。日本軍と
すれば今だに切れる事の無い連合国からの蒋介石への支援を潰す事が目的だったのであ
る。1938年10月に武漢や三鎮が日本軍の手に落ち、蒋介石の国民政府は長江上流
の重慶に退いた。重慶に対して日本軍は激しい空爆を加えたが、11月から重慶の国民
政府に対するアメリカ・イギリスなどの支援が強化され、その抵抗は今だ続いていた。
この蒋介石の重慶政府支援のルートを当時日本では、援蒋ルートと言って探しては叩い
た。このルートは7つほどあったが、全体としては3つ程に集約された。ベトナムの船
からの道とインドからのビルマ空輸と、黒竜江省からの砂漠の道だ。アメリカ・イギリ
ス・フランスによる仏印ルートとされるハノイ・ルートは、後にホーチミンルートとさ
れ、その支線にラオスルートやカンボジアルートがあった。米国の空爆やポルポト進軍
はそれらの獣道を攻撃したり使ったりしていた。コヒマの白骨街道は、ビルマ雲南ルー
トとされインパール作戦の日本軍の最重要玉砕拠点とした所だ。さらにソ連による共産
ルートは赤色ルートとして毛沢東専用のルートではあったが、独自に新疆方面などから
中国に支援物資を送った物は蒋介石まで届けられていた。欧州でのドイツ戦に専念する
ために、日本軍を中国に釘付けして日本の北進を止める為に中国南方で戦わせたという
。 日本軍は日中戦争が膠着する中、これらの援蒋ルートの遮断を大きな課題だった。

1148: 名無しさんAA:18/08/05 17:10
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  194 > 

 ノモンハン事件というのは、日本陸軍の中で最も隠された戦争である。今から75年前
の1939年5月から9月にかけて、日本と、ソ連、モンゴルの連合軍との間で戦われた戦争
で、多くの文献でも取り上げられてはいる。第一次大戦後に日本は満州を大きく領土化
したが、境界は、縛られる事無く動く放牧民と支配しようとするソ連や日本でしばしば
食い違っていた。この中で日本が実質的に支配していた満洲国とモンゴルとの国境紛争
がソ連の国家回復に伴い、遂に日本とソ連との間の戦争に発展したものと理解できよう
。「事件」という言葉とは大きく異なり、この戦闘は、局地戦でありながら、数多くの
将兵と当時の最新兵器が投入された事実上の、最初の第二次世界大戦前の国家間戦争で
あった。日本軍は、近代的な装備と物量を誇ったソ連軍を前にほぼ壊滅し、日本陸軍に
とっては、思い出したくもない呪縛となって、以後の作戦計画を大きく変えるきっかけ
となる。シベリア出兵から撤退した後も満州は常に危機の中にあった。従って日本陸軍
の多くは北進論者であり、ソ連軍の実力を軽く見ていた。しかし以後「日本の生命線は
南方にあり」と言わんばかりの陸軍と変わった。それほどまでの大敗北だったのである
。大雑把に、ノモンハン事件は、第一次(1939年5月〜6月)と第二次(同 7月〜9月)の二
期に分かれた戦いだった。第一次事件の勝敗は五分五分で第二次事件はボロ負け、特に
、第二次事件では、投入された第23師団(指揮官:小松原道太郎陸軍中将)の7割以上
、補強するため駆けつけた精鋭第7師団から増強部隊の第26連隊(指揮官:須見新一
郎陸軍大佐)の9割が死傷するという凄惨な結末を迎えて終っている。 これら一連の戦
闘での日本軍将兵の死傷者は、少なくみても1万8千名、多い見積もりでは2万3千名
にのぼる。失った戦車は30両、航空機180機と言う日本軍創設以来の大損害を被った と
され、戦闘目的であった満洲とモンゴルとの間の国境線画定すら実現できないという、
得るもののほとんどない戦闘だったというのが定説である。、かなり最近まで、ノモン
ハンにおけるソ連軍は、統制の行き届いた軍隊と、高い技術を用いた最新兵器のため、
戦闘による損害は軽微だったと言われてきました。それは凍り付かない銃器AK47と
重量戦車のカノン砲の威力にあった。当初ソ連はドイツの試作車BT−2を作り改良車
BTー3として量産化しドイツの受注生産品を輸出していた。しかし、それの上を行く
BT−5を自国の主力戦車として登場させている。ドイツはソ連にBT−2を発注して
輸入しながらも自国ではT−28中戦車を作っていたのだ。機動性に勝るドイツ軍のこ
の戦車に翻弄され、緒戦においてそのほとんどの車両が失われてしまったのである。


1149: 名無しさんAA:18/08/05 17:11
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  195 > 

 快速戦車BT−5は改良されBT−7が作られ1930年代におけるソ連の主力戦車
として多くの戦場に姿を表している。ノモンハン事件では日本軍戦車に痛打を与え、そ
の機動力を生かして活躍した。しかしソ連の戦車の開発は目覚ましく重戦車KV4を試
作し、発展させたT−34名物戦車を第二次世界大戦の終わりには作り投入している。
この衝突に対して日本・満洲側が冠しているノモンハンは、モンゴル語では「ノムンハ
ン」といい、「法の王」を意味する。日本や満洲国は「ノモンハン事件」としているが
、ソ連は「ハルハ河の戦闘」と呼び、モンゴル人民共和国及び中国は「ハルハ河戦役」
と称している。ソ連・モンゴル側が冠している「ハルハ河」とは、戦場の中央部を流れ
る河川の名称で、これが一種の境界であった。中ソ紛争で中国が敗れた後はソ連はハバ
ロスクを初め勝手に自分の領地とした。所謂戦勝領地である。日本が満州の権益を持っ
た時ソ連は満州国を承認しなかったが、満州国内の権益を整理して撤退する方針を採っ
た。ソ連とは北清鉄路の南満州鉄道への売却交渉が始まったが難航していた。その間に
ソ連はモンゴルと事実上の軍事同盟を結びソ蒙相互援助議定書を交わして、ソ連軍が、
モンゴル領に常駐するようになったのだ。モンゴル人民革命軍はソ連の援助で整備され
、モンゴル人民革命軍はソ連の援助で整備され、1933年(昭和8年)には騎兵師団4個
と独立機甲連隊1個、1939年初頭には騎兵師団8個と装甲車旅団1個を有するに至った
。こうして日ソ両国の勢力圏が大陸で直接に接することになり、満州事変以後、日本と
ソ連は満州で対峙するようになり、初期には衝突の回数も少なく規模も小さかったが、
次第に大規模化し、張鼓峰事件を経てノモンハン事件で頂点に達した。モンゴル側は、
何故か外蒙古と内蒙古の境界を作った。ハルハ河東方約20キロの低い稜線上の線を国
境として主張し満洲国はハルハ河を境界線として主張した。満洲国、日本側の主張する
国境であるハルハ河からモンゴル・ソ連側主張の国境線までは、草原と砂漠であった。
土地利用は遊牧のみであり、国境管理はほぼ不可能で、付近の遊牧民は自由に国境を越
えていた場所だったが、恐らくその河川の水の占用権を持っていたかったからであろう
と思われる。満州里会議として国境線策定の話し合いは断続的に行ったが埒がなかった
1935年になるとソ連軍の極東兵力増加が進み、ソ連の高圧的態度は一層増した。ソ
連と接した満州東部国境ではしばしば銃撃戦となっていたが、遂に大きな紛争となった


1150: 名無しさんAA:18/08/05 17:12
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  196 > 

 係争地では満州国軍とモンゴル軍がパトロールしており、たまに遭遇し交戦すること
があった。5月11日、12日の交戦は特に大規模なものであったが、モンゴル軍、満州国
軍がともに「敵が侵入してきたので損害を与えて撃退した」と述べているため、真相は
不明である。ソ連側には単純な国境紛争で無い政略的意図があったとも言われる。しか
し張鼓峰事件では、直前のゲンリフ・リュシコフ亡命事件があった為、ソ連側としては
威信を示す必要が生じていた。ノモンハン事件に関しては、日本に局地戦で一撃を加え
て対ソ連積極策を抑える狙いを有していたとの見方があるが、既にソ連側には、日本国
内での報道やリヒャルト・ゾルゲ、尾崎秀実らによる諜報活動などで日本の不拡大方針
が知られていて、全面戦争を恐れることなく大兵力の投入に踏み切れたと考えられる。
というのが正直な話で、モンゴル軍の為に常に満州国をいつか取ろうと狙っていたのが
大事件となった真相であろう。その為に、国境での衝突を受けてのソ連軍の動きは、日
本軍より機敏に行動を開始している。第57特別軍団長フェクレンコが、第11戦車旅団か
ら機関銃狙撃兵大隊(狙撃兵中隊3とT-37戦車8)砲兵第2中隊(自走砲4)装甲車中隊(
BA-6及びFAI装甲車21 )に進出命令を出し、直ぐ様、指揮官には狙撃兵大隊の大隊長で
あるブイコフ上級中尉が任命された。さらに、5月19日にはブイコフ支隊はM-30 122
mm榴弾砲や化学戦車(火炎放射器搭載の戦車)の増援を受け、ハルハ河に向かって来た
。5月23日にはモンゴル軍の第6騎兵団も加わり、総兵力は2,300名(内モンゴル軍1,25
7名)T-37が13輌、装甲車としては強力な砲を装備するBA-6 16輌を含む装甲車39輌、自
走砲4門を含む砲14門、対戦車砲8門、KHT-26化学戦車5輌と戦力的に充実して対陣した
のだった。指揮はウランバートルから来着した第57特別軍団参謀部作戦課長のイヴェン
コフ大佐が執ることとなった。ソ連軍はさらに後詰としてウランバートルからタムスク
に車載狙撃兵第149連隊と、砲兵一個大隊を移動させていた。つまり第一陣第二陣と用意
万端整えていたのである。対して日本軍は追い払ったはずのモンゴル軍がまた係争地に
舞い戻ってきたのを知り、5月21日に、歩兵第64連隊第3大隊と連隊砲中隊の山砲3門、
速射砲中隊の3門をあわせて1058人、前回に引き続いて出動する東捜索隊220人(九二式
重装甲車1輌を持つ)、輜重部隊340など総勢1,701名の日本軍と満州国軍騎兵464人の混
成部隊を出撃させたが、この部隊は山県支隊と呼ばれ連絡はしたが、勝手な単体攻撃だ
った。

1151: 名無しさんAA:18/08/05 17:43
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  197 > 

 ノモンハン事件では、この日の日本軍は、支隊主力東捜索隊など6隊に分かれて前進
したが、無線機の欠陥で互いに連絡が取りにくかった上に、目標物が乏しく地点評定が
できなくなっていた。結構な緩やかでも高い山があったからだ。幅30kmに近い広正面
で各部隊がバラバラに戦うことになってしまった。その中で前進しすぎた東捜索隊が敵
中で孤立することとなった上に、支隊主力との戦闘で後退したソ連・モンゴル軍部隊と
、ハルハ河西岸に集結しつつあった149自動車化狙撃兵連隊と砲兵1個大隊の増援部
隊から挟撃されるという最悪な状況に陥りつつあった。一方、ソ連軍も全く同じ状況で
、部隊や車両に無線機が十分行き渡っていなかった、有線電話や連絡将校による通信に
頼っていたが「交戦が始まった後指揮所と各部隊を結ぶ有線連絡は途絶し、統制は失わ
れ、各部隊は放任され、分隊単位で現場の状況を想像しながら独自に戦った。」とソ連
側が記録している。基本的には大本営は、日ソ間の紛争については不拡大の方針であっ
た。しかし、小松原はまったく意に介すこともなく5月22日の日記には「山県支隊は
出動の直前なり。今さら其の出動を中止すること統率上出来難し。防衛司令官の遣り方
異議ありとて軍が制肘すべきにあらず。」と書くなど開き直っている。これはモンゴル
からの挑発的攻撃が日増しに増えていたからだった。それでも小松原は関東軍の指示に
一旦は躊躇し、3日間部隊を待機させたが、5月25日には部隊に出撃命令を下した。
この出撃は、関東軍の指示を無視した形とはなるが、辻はこの小松原の行動に対しての
「師団長の善良な人柄は、関東軍のこのような電報に対してもなんら悪感情は抱かれな
かったのである。」と逆に小松原を気遣うような表現で理解を示している。逆にこの時
今だソ連の動静や武器を把握していなったその為に、拙い戦闘をした咎で更迭したソ連
軍に対し、日本軍は、敵の戦力を過少評価し敵の撃滅に失敗した小松原も、また小松原
や辻から「東捜索隊を見殺しにした」と散々非難された山県も留任させ、小松原には賞
詞まで送っているなど、人事面では非情なソ連に対し、日本の関東軍の温情ぶりが際立
つ結果となって第一次モノンハン事件は終わった。 1939年8月23日、スターリンはドイ
ツと独ソ不可侵条約を締結し、日独防共協定の締結後だった。日独の軍事同盟を積極的
に推進してきた陸軍はこの報に大きな衝撃を受けており、宇垣一成はその時の陸軍の様
子を「驚天狼狽し憤慨し怨恨するなど、とりどりの形相」と記述している。


1152: 名無しさんAA:18/08/05 17:43
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  198 > 

 かつての大日本帝国の陸軍刑法に擅権の罪というのがあった。第35条に「司令官外
国ニ対シ故ナク戦闘ヲ開始シタルトキハ死刑ニ処ス」があり、第37条は「司令官権外
ノ事ニ於テ已ムコトヲ得サル理由ナクシテ擅ニ軍隊ヲ推進シタルトキハ死刑又ハ無期若
ハ七年以上ノ禁錮ニ処ス」である。そして第38条には「命令ヲ待タス故ナク戦闘ヲ為
シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ七年以上ノ禁錮ニ処ス」としていた。しかし、陸軍中央の
制止を振り切って出先の関東軍が中国への戦争を仕掛けた石原莞爾や板垣征四郎の満州
占領によって、これは有名無実のものとなっていた。これが大きな問題だった。193
9年に、辻政信は大本営陸軍参謀本部から関東軍の高級参謀に転属した。着任し辻政信
は、早速「満ソ国境紛争処理要綱」なるものを作成した。一ヶ月後の4月になって植田
謙吉関東軍司令官は、辻政信の進言に盲従し、関東軍麾下の軍司令官や師団長に、この
この「満ソ国境紛争処理要綱」を示達した。この示達された直後の5月4日に小さな国
境侵犯が起こった。それがこの要綱によって、10日、11日、12日、次々とエスカ
レートしていったのが。ノモンハン戦争の最大の原因だった。この辻政信が作成した「
満ソ国境紛争処理要綱」には国境画定交渉の「満州里会議」を大胆に無視した徹底征伐
をしたためていたのだ。こうした、大本営陸軍参謀本部の方針に100%違反する要綱
を示達した辻政信の進言に盲従し植田謙吉関東軍司令官の方針無視と国際情勢判断は、
陸軍刑法第2章第35条及び第38条の擅権(せんけん)の罪に該当し、この示達はそ
の証拠物であったが、第一次モノンハン事件での彼らへの処罰はなかった。ノモンハン
事件では、太平洋での海軍の戦争と同じに、日ソ両軍ともに偵察活動が不十分で、お互
いに誤った情報による作戦ミスを犯している。ソ連軍は総攻撃の際も同じ轍を踏んでお
り、攻撃に際しての偵察活動もお粗末であった。軍司令部は全く情報を持たなかったし
、各部隊は日本軍に攻撃を悟られないよう偵察活動は禁止されていたので、ソ連軍も又
司令部から前線部隊までまともな情報を持たずに総攻撃を開始したことになったようだ
。率先して事を起こした小松原は山県の指揮に不満を抱き「前進せず、又捜索隊を応援
せず。遂に見殺せしむるに至り。--任務を達成せんとするの気魄なし。」と散々な評価
を書き、山県が帰投するや呼びつけて作戦の細部について問い詰めている。が、ソ連軍
戦力の過少評価により、十分な砲兵等の支援兵力を出さなかった自分の失策についての
反省はなかったのである。

1153: 名無しさんAA:18/08/05 17:44
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  199 > 
 終わった後の戦場を視察した辻は、報告において「外蒙騎兵がこんなに戦車を持って
いようとは誰も思ってはいなかった」、「戦場に遺棄された外蒙兵の死体には食糧も煙
草もないが、手りゅう弾と小銃の弾丸は豊富に持たされていた。」と気がついたことを
記述し、この戦いの反省として「第23師団の左右の団結が薄弱であることと、対戦車
戦闘の未熟さであろう。」としていたが、そもそもの十分な速射砲などの対戦車兵器を
準備もせず仕掛けて行った自分らの反省はなく、第2次ノモンハン事件以降も同じよう
な光景が繰り広げられることとなった。石原莞爾や板垣征四郎の起こした満州地占領は
満州国建国を起こし、建国以降、ノモンハン戦争以前の1932年〜1938年の7年
間、満ソ国境においては国境侵犯事件が多発していた。7年間で759件の多きに達す
るが、その実はモンゴルを抑えたソ連側の殲滅計画の余波であるといえる。満州国軍と
モンゴル人民共和国軍の衝突に端を発したものだったが、両国の後ろ盾となった大日本
帝国陸軍とソビエト労農赤軍が戦闘を展開し、一連の日ソ国境紛争のなかでも最大規模
の軍事衝突となったのだがその少し前に日本がシベリア出兵した時は、中核である日本
軍はバイカル湖西岸までにいたるシベリア鉄道沿線を中心とするロシア極東地域を占領
している。この時日本が支持した白軍は、赤軍ならびにパルチザンの攻勢により瓦解し
、アメリカの圧力により日本政府はシベリアからの撤退した経緯があった。新しいソビ
エト政権は国内行政や経済混乱のため戦争の脅威を避けるべく、直接対決を避ける為の
辺境地帯に対する自治または独立の承認を行いボリシェヴィキ政権の政策を承認した地
域の緩衝政権の樹立を次々と認めていた。ウラジオストクの陥落後、日本は北サハリン
を除く地域から撤退したが、この時の恨みがこの地域にはあった。かつての敵も味方も
裏切られたのである。かつてチタ共和国と呼ばれた極東共和国の住民は日本人を信じな
かった。又この他に中国清の滅亡によって蒙古連合自治政府も日本政府は支援していた
時があった。1938年11月28日、第1次近衛内閣時代、対中国中央機関としての興亜院の
設置を閣議決定し、張家口に興亜院蒙疆連絡部が設置された。後に第68代・69代総理大
臣となった大平正芳が、蒙疆連絡部経済課主任(同年10月、経済課長)として着任して
、1940年10月まで日本の大陸経営の一端を担ってきた。大平の重要な職務のひとつは、
興亜院が主導する阿片政策の遂行であった。結局、蒙疆地区は、アジアの阿片供給源と
して位置づけられていた。日本軍は軍内部に3個旅団からなる「蒙古鎮圧部隊」が作ら
れはこれを察哈爾守備隊として4個師団八千人体制に再編制した。終戦時には、内蒙古
政府は2個歩兵師団と4個騎兵師団、3個中国人独立旅団と1個警備連隊を保有してい
た。

1154: 名無しさんAA:18/08/05 17:51
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  200 > 

 ここに大きな問題があった。実はここに出て来る陸軍参謀・辻政信は全く無知の人間
だったからだ。陸軍が統制派と皇道派で争っていたが、実は全く違う次元で、宗門派と
開国派の戦いに苦慮していた。宗門派は当然仏教なり国家神道なりの通常の日本人だが
開国派はキリスト教に改宗したり洋学に心頭した共産党だったりした者だった。この中
に長州派閥の多くは開国派主義でキリスト教や共生共済主義を上げていた。更に多くの
仏教宗徒の多くは皇道派であり、問題だったのは彼らが明らかに真面目であった事だ。
これらにに対して別格の宮家派がいた。つまり皇道派と言うかねてからの旧陸軍派も、
統制派と言う国際協調主義のドイツ信奉者も居た中で、天皇を担いで止まないご学友の
現存皇道派とも言える者らが居た事だ。この中には徳川慶喜公の縁戚など数々の有力な
名家の伯爵筋の会合だった。その仲間として辻政信がいたのである。昭和7年の五・一
五事件では、磯部浅一・片岡太郎らが逮捕され、佐藤、武藤候補生らも軍法会議にかけ
られることになった。辻が情報密通に利用した陸士生徒5名が退学処分を、青年将校ら
には不起訴、停職処分。辻には重禁錮30日の処分、その後、水戸の歩兵第2連隊付。
となった。村中らのクーデター計画は後の憲兵隊による調査では。村中と磯部は事件が
軍務局長・永田鉄山と辻らによるでっちあげであると主張した。その後辻、片倉、塚本
を誣告罪で告訴し、2人は事件の経緯を書いた「粛軍に関する意見書」を配布し免官処
分を受けた。この陸軍士官学校事件、真崎甚三郎大将の教育総監罷免、相沢事件を経て
統制派と皇道派の対立は頂点に達し二・二六事件の発生につながることになる。この流
れは一体何処から流れてきたのか。実は天皇同胞秩父宮雍仁親王などの威光である。彼
の進路を決めたのは陸軍大学であった卒業席次は3位で首席は天野正一、次席島村矩康
であり、恩賜の軍刀を拝受している。陸大での同期の秩父宮雍仁親王は天皇の次席とし
て大きな力を持っていた。モノンハンでの辻は満州占領軍、つまり関東軍司令部一参謀
に過ぎなかった。肩書の上では中堅の少佐である。が、彼の強気一辺倒の議論は関東軍
を引きずり回し、国境紛争を一気に拡大させた。事件の最中に関東軍司令部に急行した
モスクワ駐在武官の大佐・土居明夫は「ソ連は国境に相当の兵力を輸送している。戦車
はものすごい数がどんどん東に向かっている」とソ連兵力の充実ぶりを会議で指摘し、
、辻に別室に呼ばれ、「あんたがあんな恐怖症のような報告を東京でしたら、若い将校
が『刺し殺す』と言っとる。我々は、ソ連の戦車をぶんどって戦勝祝賀の観兵式をやる
計画でおる。そんな時にあんな報告をやられたら困る。」と脅された程だった。まさに
半藤一利さんが「絶対悪」と評する人物だった。

1155: 名無しさんAA:18/08/05 17:56
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  201 > 

 ここに、天皇や宮家の裏の顔があった。大正6年に、阿片法が改正された。星製薬会
社以外の製薬会社が原材阿片の輸入とモルヒネの製造に加わった事で徳川家が握ってい
たアヘンの専売は三井に移って行った。大正13年に憲政会系の伊沢多喜男が台湾総督
に就任したことで、星製薬に台湾専売局の相談が出た。台湾からのアヘン一掃の為に大
量に買い付けていた、横浜の保税倉庫に保管していた原料阿片に対して、台湾専売局と
の相談の上に、税関から即時処分を命じられ為、やむなくロシアの商社に販売すること
にしたのだ。しかし、その売却行為が台湾阿片令に反するとして起訴されたのである。
憲政会系の官僚、警察、裁判官といった国家権力を総動員し、星製薬には相当な圧力が
加えられた。当時は、武田薬品、田辺製薬、星製薬が御三家と呼ばれ、新興会社の進出
が困難な状況にあったが、背後には星製薬の躍進を妨害したい同業他社と三井の画策が
あった。というのも満州利権が生じて、戦時中に里見機関がそのアヘン販売に手を出し
始めたのである。中国大陸で北支那方面軍第一軍で司令官を務め、満州の利権を終戦時
まで支配した人物に澄田來四郎がその裏にいた。児玉機関の元締め児玉や岸などがそう
であったように大陸において悪事の限りを尽くしたのに助命されたのは、おそらく澄田
一族がアメリカに忠誠を誓ったことと、満州利権による財宝のためと推測されている。
かつて中国は、アヘン戦争でイギリスのジャーディン・マセソン商会やサッスーン商会
は、アヘン販売の利権を独占的に手中におさめることによって、巨万の富を得ていた。
これに貧困の宮家や徳川家など多くの名家の伯爵が乗り込んでいたのである。今日でも
來四郎の息子、澄田登日銀総裁は就任後にアメリカ大手のモルガン・ギャランティー・
トラストとバンカーズ・トラスト、チェース・マンハッタン銀行、シティーバンク、メ
リル・リンチなどが日本の金融市場に上陸する為の旗振り役を務めていた。1985年、「
日米経済摩擦」、「電電公社と国鉄の民営化」、「アメリカ金融界の日本上陸」と、こ
れらが澄田一家が如何にアメリカ資本の毒牙の中に居たか解るであろう。星一(はじめ
)は、台湾経営について後藤新平や新渡戸稲造に誘われ乞われて星製薬を日本で作り、
台湾に工場を建てて財を成していた。しかし、星は財閥ではなかった。三井や三菱など
の政商でもなかった。第一次世界大戦後に急成長した鈴木商店とよく似ていて、庶民や
地元財界の支援で成り立っていた時代の財界人だった。政府と太いつながりをもたない
と企業は大きくなれなかった時代で特に満州の陸軍は酷い利権屋だった。だから、敵と
見られれば徹底的に悪くなり、一気にだめになる。財閥が結託してつぶしにかかるのだ
から逃げ道がない。その罠に星はかかってしまったのである。

1156: 名無しさんAA:18/08/05 18:03
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  202 > 
 こうして、東京青山にあった星一の自宅は家宅捜索を受け、金融機関は、星製薬と星
一個人への融資を凍結し、金融資産を押さえた。融資が受けられない事は、すなわち、
事業が継続できなくなることを意味する。食品冷凍技術を事業化するため新しく立ち上
げようとしていた低温工業株式会社という画期的な計画も、あえなく頓挫した。福島県
で星の本家を継ぐ星照光によれば、郷里の家や土地は、遠い親族のものを含めてすべて
抵当に入れられていた。その後1925年(大正14年)に森鴎外の孫で文化人類学者で解剖
学の草分け的存在の東大教授、小金井良精と森鴎外の妹、喜久子の娘・精と婚約・結婚
したが二人とも晩婚だった。製薬事業が、陸軍が接収し三井を通じて三共製薬になった
。アヘンから風邪薬ヒロポンの誕生した瞬間である。星の作った蒸留施設ではキニーネ
やモルヒネの成分が抽出されて軍の医療品として配布され出した。こうして人生最大の
ピンチのときに、星一は結婚し星新一は産まれた。星一はニューヨーク時代に、新渡戸
稲造の紹介で津田梅子の妹と婚約、破棄されているが、このとき仕事優先として断った
一方、精は―ここで著者はアメリカ在住の新一の妹、鳩子に取材しその記憶を辿って、
伯父の森鴎外の日記に陸軍大将に嫁がせるべく精子(せいこ:当時は女性の名前に子を
つける習慣があった)同伴の記述があったという。その日記は精子の兄、小金井良一海
軍軍医の家にしばらく保管していた記録から、その精子は陸軍大将には結婚相手がいた
為に、結婚に失敗してこの実家にもどってきていた。結婚相手の候補に、東急のドン、
五島慶太の名前も上がっていたらしいが森鴎外と同様、医学界の大御所、陸軍軍医総監
だった石黒忠悳が精子に星一の人物を保障し結婚している。1926年(大正15年)5月台湾
高等法院第二審で無罪判決を受けながらも同月入籍し 9月6日長男、新一誕生。二年後
弟、協一、三年後妹、鳩子が誕生している。1932年(昭和7年) 4月 高利貸の芝商事か
ら提出された破産申請が受理され、星製薬は破産し星一は税金滞納によって二ヶ月間の
市ヶ谷刑務所に収監された。事業の失敗でなかなか大変な経験をしている。ノンフィク
ションの威力である。このとき星新一は6歳、京北附属幼稚園に通っている。1939年の
ノモンハン事件は、このアヘンがモンゴル民族まで押し寄せてきた事にあった。「第一
次世界大戦でドイツからモルヒネの供給が途絶えた」時に台湾でモルヒネの大量生産に
星は成功した。 第一次世界大戦は1914〜1918 年ですが、大戦が終わるまでの数年間に
、モルヒネ製造は星製薬の独占状態となった。第一次世界大戦直後から1915年頃にモル
ヒネの 大量生産に成功して、朝鮮では1914 年にアヘンが禁止され、モルヒネがとって
代わった。欧米のモルヒネが売り出されたがその後安価で品質の良い星の蒸留法による
モルヒネが、三共製薬によって市場を席巻したのである。

1157: 名無しさんAA:18/08/05 18:04
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  203 > 

 南満州鉄道は中国領を走るロシア資本の朝鮮の鉄道だった。日露戦争の結果、日本が
ロシアから譲渡された。もう少し背景を述べれば、もともと極東ロシアは外満州の土地
で外満州と呼ばれていた。後に満州と呼ばれた内満州と合わせた地域を満州となり中国
領で遊牧民や騎馬民族のものだった。しかし19世紀中頃になって、ロシアの侵略によ
り外満州がロシアの領地にするべくウラジオストックが開発されて行くその間もロシア
の占領として時は過ぎた。だがアヘン戦争や日清戦争の結果中国の弱体ぶりが露呈され
、その結果、中国はヨーロッパ各国から 色々むしりとられた。1. ロシアは旅順と大連
2. ドイツは膠州湾 (青島) 3. フランスは広州湾 4. 英国は九竜半島 (香港) を手に
入れた。更に、ロシアは4国干渉で日本を避けて、内満州を事実上の自国領とするため
に、鉄道を建設したのだった。この後日露戦争の結果、日本はこのロシアの権利を譲り
受けた。中国領における外国の鉄道という非常に奇妙な事実は、ロシアの中国侵略から
生じたものだった。しかし、東清鉄道(とうしんてつどう)と言われるロシア帝国が作
った満洲北部の鉄道路線の一部でしかなかった。満洲里からハルビンを経て綏芬河へと
続く本線と、ハルビンから大連を経て旅順へと続く支線があり、中東鉄道、東支鉄道、
北満鉄路あるいは北満鉄道と呼ばれてロシア側でも呼称は数度変更された。しかし1932
年に満洲国が成立しても、ソ連は満洲国を承認せず、東清鉄道は事実上の満洲国とソ連
の合弁事業となっていた。1933年には満洲国交通部がその名称を北満鉄路に変更して、
日本はソ連との衝突を避けるため鉄道の売却を提案したまま推移した。両者の間で長ら
く価格で折り合いが付かなかったが、1935年3月になってようやくソ連は満州国と北満
鉄道讓渡協定を結んで北満鉄路全線の利権を満洲国に売却し、満洲から撤退した。こう
して旧・東清鉄道は満洲国有鉄道となり、経営は満鉄に委託された。また、軌間も1937
年まではロシア建設時の広軌(1,520mm)であったが、満鉄に合わせて標準軌(1,435mm
)に改軌された。つまりここでも国際社会は金銭の売買で領土や権益が動いていたので
ある。ここに天皇家つまり日本政府の大本営から離れて関東軍がアヘン商売に陥った理
由があった。「アヘン」というと、一般的には「アヘン戦争」の「英国」を思い浮かべ
る人が多い。しかし「アヘン帝国」と呼ばれる国があるとすれば、これは戦前の日本で
ある。と言う人は多い。先進国はすべて、中国への「アヘン」輸出に手を染めて儲けた
。実はこのモノンハン事件はこのアヘンの運び屋たるモンゴル人の規制に元があった。

1158: 名無しさんAA:18/08/05 18:12
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  204 > 

 こうした欧米社会の紳士的なそぶりと裏での悪態がある表裏の暗黒社会は国際社会の
中で広がっていた。「アヘン戦争」によって「アヘン」が中国になだれ込み酷い事にな
った。だがそれもずっとひどいまま日本は受け継いで、引き起こされた。にも関わらず
日本ではほとんど隠され兵士も国民にも隠されていて語られていない。中心にある諸悪
の根源は、「アヘンの専売制」だった。最初はこれはヨーロッパの植民地政策として行
われいたが日本がネットワークそのままにかすめ取っていた。中国国内には例えば香港
などでアヘンの専売制が古来からあった。恐らく英国が真っ先にしたことと思われるが
、日本進軍後におけるアヘンの専売制も基本的には、英国のそのまま引き継いだ事にあ
った。 しかし規模では日本は、他を圧倒的に凌駕した。 日本は最終的には「満州帝国
」との領地紛争の中間点で大麻を生産し、関東軍の占領下における麻薬のアヘン・モル
ヒネ・ヘロインの流通を独占した。しかもアヘンの消費量を増やすために、アヘン中毒
患者を大量に作った。中国侵略はむしろアヘンを売りさばくための戦争であったと考え
たほうがよいくらいの大陸戦争だった。この時期、日本のアヘンの生産量はほぼ世界の
アヘン生産量に匹敵した。(1937 年には全世界の90%とされた) 1917 年に星製薬以外に
モルヒネの製造に加わったのは、現在の大日本製薬・三共・武田薬品工業で、この時既
に星一の抽出法は利用され悪い奴から外されている。理由はかの製薬会社の株式利益は
国に5割皇族に3割納められていたからだ。ところが星製薬の株の全ては今の松下電器
の様な協賛販売店が特約店として持っていたのである。大阪府三島郡福井村二反長音蔵
(にたんおさおとぞう)は、台湾で必要な阿片の殆どを輸入に頼っている貿易赤字を改
善するため、内務省の後藤新平の支持で、ケシ栽培に取り組んだ。モルヒネ純度の高い
ケシの品種改良に成功して、大阪府・和歌山県・京都府・岡山県・福岡県の医薬品原料
の商品作物として、農村の収益を高めた。とされる。遼東半島・山東半島・満州そして
上海租界地では、日本陸海軍の特務部が、治外法権の特権を利用して阿片の密売を公然
と進めた。医薬品や中毒是正の目的とは無関係となり、中国人相手の阿片・麻薬販売の
利益を得ることと、中国民衆の阿片中毒による弱体化が主目的となったのである。この
とき陸海軍の手先として活躍したのが笹川良一、児玉誉士夫たちだ。戦後右派の黒幕と
なった人達で、日本を動かしていく曲者たちは阿片で莫大な財産を手中にした。自民党
はそうした阿片の金で動いていた麻薬党として大きくなったのである。まあ日本の借金
も同じ様にこの金で国費が賄われていた点もある。

1159: 名無しさんAA:18/08/05 18:14
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  205 >   

 日清戦争、日露戦争いずれの場合にも、英国から戦争のために艦船を購入していた。
その前にも明治政府は、下関攻撃や薩英戦争あるいは馬関戦争と、数々の賠償金も又の
しかかっていた。日本が明治政府になって借りた金は僅かな鉄砲の代金だ。それに貸付
したのは阿片貿易で儲けていたサッスーン家である。「1820 年においてさえ、世界の
GDPの 1/3 が中国で生産されていた」 と言われたユダヤ金融だった。中国がとても
豊かな国であったため、世界中から狙われた理由だとされる。最後に日本に食い物にさ
れたというのは、日本の自虐史観である。当時の国の財政は金銀によって基軸通貨とし
て日本は銅を買うぐらい金銀の産出があった。中国は銀でまかない、日本は金で賄って
いて、日本の開国の頃は、最終的賠償金決済を保有する金貨銀貨で支払いをしていたの
である。つまりジャーディン・マセソン商会やサッスーン商会、或いは長崎のグラバー
商会などの時代はそうした幕府や皇帝が保管ないし貯めていた財宝で、その支払いを行
ったのである。ところが新興勢力である中国政府や明治政府や天皇にはその財力基盤は
どこにもなかった。中国の清が北洋艦隊を作った時ドイツやイギリスから最新鋭艦船を
買ったが、この金は清が持っていた銀の棍棒だった。アヘン戦争やアロー戦争は、18
40年であった。イギリスの勝利で終わり42年に南京条約が締結されてその賠償金が
支払われたのは、銀の延べ棒だった。当時アヘンの輸入量は約 4,500箱(一箱約60kg)
から1830年には2万箱、阿片戦争前夜には約4万箱に達した。とされる。このため1830年
代末にはアヘンの代価として清朝国家歳入の8割の銀が国外に流出し、国内の銀流通量
を著しく減少させて銀貨の高騰をもたらした。当時の清は銀本位制であり、銀貨と銅銭
が併用され、その交換比率は相場と連動していた。乾隆時代には銀1両は銅銭700〜800
文とされていたが、1830年には1,200文となり30年代末には最大で2,000文に達していた
。地丁銀の税額は各省から銀何両という形で指定されるが、農民が支払うの銅銭だった
、納税の際には銅銭を銀に換算し支払うので、銀貨が倍に高騰することは納税額が倍に
増えることを意味してた。この戦争よりも前、1880年の李鴻章の提案により1881年に、
ドイツのフルカン造船所に発注・起工され、清国海軍に就役した。清仏戦争による中立
期間を経て1885年10月に最新鋭戦艦が天津に到着した。定遠や鎮遠である。ザクセン級
装甲艦でイギリス海軍の「インフレキシブル」を少し小型化したものだが、イギリスの
旗艦とはないものの新鋭装甲艦で最高の戦力を持つ物と考えられ、正に東洋一であった
。この支払いが銀塊のキャッシュだったのだ。これが欧米に火をつけた。イギリスも又
貿易による銀流出が続いていた。240tのアヘンはその代価の銀の流出止めだった。

1160: 名無しさんAA:18/08/07 12:50
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  207 >   

 明治天皇は、開国以来の懸案であったイギリスやアメリカなどの各国との不平等条約
の改正を完了させたが、それは明治44年(1911年)であった。名実共に日本は列強の
一員となったが、次の年の1912年(明治45年)7月30日午前0時43分に崩御した。公式に
刊行された号外でも「聖上陛下、本日午前零時四十三分崩御あらせらる。」とあった。
天皇は明治45年 7月11日の東京大学卒業式に出席したが、気分は悪く、侍医では対応で
きず、20日青山胤通と三浦謹之助が診察し、尿毒症と診断され入院静養となった。崩御
には、皇后、皇太子、同妃、各内親王が病床を囲み、侍医らが手当てする中で永遠の眠
りについた。9月13日午後8時、東京・青山の大日本帝国陸軍練兵場(現在の神宮外苑)
において大喪の礼が執り行われ、崩御からこの日までの約1ヶ月半の間、宮中では様々
な儀式が執り行われた。各国のとりわけ「有色人種」の間では、「明治大帝は亜細亜全
州の覚醒を促し給いたる救世主」と賞賛した。明治17年(1884年)以降は、間近に控え
た議会創設に備えて、立憲制に対応する諸制度を創設した。内閣制度、市町村制、府県
制、郡制の制定など、官僚制支配体系の整備と並行して、莫大な皇室財産の設定を行っ
た。明治22年(1889年)2月11日になって、ようやく大日本帝国憲法を公布するに
至った。この憲法によって、日本史上初めて天皇の権限(天皇大権)を明記して、立憲
君主制国家確立の基礎を作った。翌明治23年(1890年)10月30日には教育勅語(教育
ニ関スル勅語)を発し、近代天皇制国家を支える臣民(国民)道徳の涵養に努めた事は
今の義務教育につながるものだった。こうした事で日本は救われたのだろう。帝国議会
開設当初は、超然主義を唱える藩閥政府と衆議院に依拠する政党勢力が鋭く対立衝突し
たが、天皇はしばしば詔勅を発し、調停者的機能を発揮し日本を進めている。今のタイ
のフミポン国王みたいなことであったろう。慶応4年1月15日(1868年2月8日)に元服し
て以来、儀式を経て即位の礼を執り行い即位を内外に宣下し、征夷大将軍であった徳川
慶喜が、慶応3年10月14日大政奉還を奏上し、翌15日(11月10日)に明治天皇は奏上を
勅許した。討幕派の大義名分が消滅し削がれた筈だが、そのまま王政復古の大号令を発
し、新政府樹立を宣言した。新政府軍は西郷隆盛を筆頭に、更に徳川家及びその近習の
大藩を追い詰め疎外する事に成功して、薩長土肥の政府となったが、その形態は決して
明治天皇の意図するものではなかったのである。しかしそれを許した大藩の多くこそが
日本人的日本人で日本を作った人達であった。もし中国の様に次から次に西郷打倒とし
て兵を挙げて自分が最高などといった行動があったら今の日本は無かったろう。つまり
賢かったのだ

1161: 名無しさんAA:18/08/07 12:57
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  208 >   

 明治天皇は、家庭と政局は常に表裏一体であったのだろう。大正天皇は1879年に(明
治12年)8月31日に産まれている。明治天皇の第三皇子として東京の現在の赤坂御
用地敷地内の赤坂迎賓館)で誕生している。明宮嘉仁(はるのみや・よしひと)と命名
された。生来健康に恵まれず、生まれてから年が明けるまで重度な病気を患ったが、他
の側室出生の親王・内親王ら4人も、第三皇子である明宮(嘉仁親王)の出生以前に相
次いで薨去していて如何に生きる事に壁があった時代だったか解る。このような状態で
、明治天皇と皇后美子との間には皇子女がおらず嘉仁親王が皇太子となった。誕生の翌
年から皇室の風習により、中山忠能の屋敷に里子に出され、この間父親の明治天皇は、
養育にほとんど口出しをせず、干渉はしなかったと言う。1889年(明治22年)、旧皇室
典範の制定により嘉仁親王は皇太子となり、立太子礼を挙行した。しかし、学習院での
学習は一向に進まず、乗馬などに進歩があった一方で、抽象的な思考を要する理数系の
教科を苦手としたと言われる。明治天皇は伊藤博文の奏上を受けて、これまで東宮職の
役人に任せきりであった皇太子嘉仁親王の養育を、教育から健康まで総合的に施すため
、新たに東宮輔導の職を設け、有栖川宮威仁親王をこれに任命した。これ以降、有栖川
宮威仁親王を兄のごとく慕い、のちに威仁親王が継嗣のないまま危篤に陥った時には、
自身の第三皇子・宣仁親王に高松宮の称号を授与することで、有栖川宮の祭祀を継承さ
せている。1900年(明治33年)に嘉仁親王は九条節子(さだこ)と結婚したが。この時
は世界の激動の時代であった。妻の節子は15歳であったがこの早い結婚については、
「病弱の皇太子に早めの結婚を」との意図があったが、両親から離されて寂しい幼少時
代を過ごし、結婚は非常に嬉しい出来事だった。結婚後は父の明治天皇とは対照的に、
側室を置かず一夫一妻を貫き、子煩悩で家庭的な一面を見せたという。彼の養育係とな
った有栖川宮威仁親王はよほど宮家内の信頼の於ける人だったのだろう。ロシア帝国の
ニコライ(後の2世)皇太子来日の際、外国留学の経験を買われ明治天皇の名代として
接待役を命じられたが、このニコライ皇太子訪日の日程中、滋賀県大津市において大津
事件が発生している。外国の王皇族に不祥事を働いた日本外交史始まって以来の大事件
だったが、国同士のいがみ合いにならななかった。威仁親王の要請で明治天皇自らが、
ニコライを見舞うなど、日本側の誠実な対応で事なきを得て、その時のロシアとの関係
悪化は回避されて、日本は今だ軍事すら整わない中の安泰にそのまま居られた。


1162: 名無しさんAA:18/08/07 13:00
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  209 >
   
 明治末以来、藩閥勢力の代表で陸軍に近い桂太郎(長州藩出身)と立憲政友会の西園
寺公望(公家出身)が「情意投合」のもと、交互に政権を担う慣例が続いていた。これ
は日本の国難に立ち向かう大事な時代だった。桂園時代と呼ばれたが世界中は恐慌を前
に混乱していて先の様な日本の中国進出に白い眼が持たれていた。明治天皇崩御(死去
)直後の1912年(大正元年)12月、第2次西園寺内閣は日露戦争後の財政難から、政府
は大きな渦の中にあり、緊縮財政の方針を採ったままだった。陸海軍は、帝国国防方針
に従っての予算を請求し、当面は陸軍が2個師団増、海軍が戦艦1隻、巡洋艦3隻を要
求していた。1912年(大正元年)11月30日の閣議で、陸軍大臣の上原勇作は増師を要求
したが閣議の結果、増師計画は見送られた。この不採用に際して、上原勇作は帷幄上奏
権を利用して、単独で即位直後の大正天皇に直接辞表を提出したのである。この事は大
きな軍の増長を招いた。上原勇作は陸軍の老獪な重鎮だった。山縣有朋、桂太郎ら長州
閥の元老凋落の後に陸軍に君臨して、強力な軍閥の上原閥を築き上げたとされる。上原
閥に属する者に荒木貞夫、真崎甚三郎、柳川平助、小畑敏四郎らがいたが、陸軍大臣、
教育総監、参謀総長の「陸軍三長官」を歴任して元帥府に列したのは、帝国陸軍史上で
は、その後の杉山元と2名のみであった。1900年(明治33年)に、山縣有朋は軍部大臣
現役武官制を成立させていたため、陸軍は後任を送らず、西園寺内閣は総辞職に追いこ
まれる事態に陥ったが、これは如何に陸軍が国際音痴であり、軍内を掌握できない状態
だったかが解るものだった。いわゆるこの時の上原勇作は只の老人ボケした馬鹿だった
のである。かつて海軍の東郷平八郎が老害あって一理もなしと言われた様に時代を生き
た偉人の特に軍人の組織老害だった。だがこの頑なさが明治の日本を護っていた。実は
、アヘン貿易は日本でもやっていたことであった。日本では鎌倉時代の中国が鄭和の船
団を出した辺りから「アヘンというものが薬になるらしい」ということは伝わっていて
た。室町時代に南蛮貿易によって種が入ってきて、栽培もされた。量産はされなかった
が細々と富山の薬売りに売られていた。中毒患者を出すまでには至らなかったが、中国
のアヘン戦争があるまで、医師が医療目的で使う分には制限されず、日本国内のコレラ
患者に対し、アヘンを処方するということがあった。特に微量で催眠効果があったらし
く、徳川慶喜が朝廷との折衝で神経をすり減らし、睡眠障害らしき状態になっていた時
には、アヘンを使って睡眠を取らせたと伝えられている。


1163: 名無しさんAA:18/08/07 13:00
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  210 >   

 こうして、江戸時代でも山梨・和歌山・大阪あたりでケシの栽培は行われていた。基
本的に藩の秘密だったので生産量が少なかったことで、きちんと医療用や薬として使わ
れていた。実は紀元前三千年以上も前から存在し、エジプトで鎮痛剤に使っていた記録
がある。人が怪我して一番の難題は死ぬことより痛さだったのだ。アヘンが採れるケシ
の栽培は、紀元前3400年頃からされていたことで中東系のサッスーン家がその方法
を伝統的に知っていて流通していたと思われる。少なくとも紀元前1500年のエジプ
トにおいてでアヘンが製造されていた記録も存在する。当時から鎮痛剤として使われて
いた。はじめは民間療法として広まったのかも知れない。現在はケシ→アヘン→モルヒ
ネ→ヘロインの順で精製して医薬品になる精製工程は変わらない。このエジプト人の先
見性はその後の西洋社会を凌駕する。かつて小麦もビールも欧州貿易の大きな輸出品で
あった。しかしやがて、ケシの栽培も小麦栽培もアヘン精製もワイン醸造も地中海沿岸
地域にも広がっていく。ギリシア神話では、豊穣の女神デメテルがアヘンを発見したと
され、やはり医学的に利用されました。西ローマ帝国が滅びたあたりで、地中海世界で
はアヘン利用は一旦は途絶えた。5世紀頃になると、イスラム世界から、インド・中国
・アフリカ中部にも広まっていき、イスラムの商人は、アヘンを薬とみなして売ってい
た。行く先々で「これを飲めば痛みが収まる」といった効能があったのだろう。ところ
が9〜10世紀頃から欧州でも中国でも変わった使い方になった。長い間用いていたか
らか、宗教がらみの煙の吸引と言う使い方で、集団催眠術の小道具として使われだした
のである。中国とアヘンというと例の戦争ですが、しかし領土や人口的には清王朝末期
までは流通がそれほど多くなかったようで、医療用として適切に使われていたようです
。むしろ、それ以降この煙の吸引が宣教師を通じて伝わった事で増えたようだ。日本で
中国ほど庶民へと広がらなかったのは徳川幕府時代に禁教令をしていたからだった様だ
。鎖国によって輸入量が多くなかったことや、煙を吸うのではなく飲用していたからだ
。中南米からタバコが伝わって煙管(キセル)まで伝わった。アヘンなどは精製の度合
いによってかなり毒性が変わったようだ。更にアヘンに限らず摂取方法によって効き目
が変わるという。中国のアヘン戦争以来敏感に情報集めを行い西洋習慣を見習った。し
かし開国してからは事情が異なってくる。



1164: 名無しさんAA:18/08/07 16:10
 開国してすぐに中国の定遠や鎮遠は長崎佐世保にやって来た。つまり大型艦船の修理
するドックが無かったのだ。だがその時の中国水兵達は長崎の街を賊のごとく荒らし回
ったのである。こうした中国人達の蛮行は代々続いていた。外国人居留地での西洋人が
アヘンを密輸したり、清から来た中国人が持ち込んだりして、日本人のアヘン中毒死が
増えてしまったのである。その為明治新政府は、被害が全国へ及ぶ前に強い禁制政策に
乗り出したのだ。明治元年(1868年)閏4月19日に、このとき既に「アヘンは命
を縮める為に所持を不法とする。」と明記されている。この明治元年は、4月5日(慶応
4年3月13日) - 神仏分離令布告 4月6日(慶応4年3月14日) - 五箇条の御誓文 4月7
日(慶応4年3月15日) - 五榜の掲示 4月18日(慶応4年3月26日) - 日本初の観艦式
(天保山沖)と行事を行っているが、同時に5月になると3日(慶応4年4月11日)には
戊辰戦争: 江戸開城 が起こっているのである。こうして明治政府は、年を経るごとに
使用・売買・生産について規制が進んでいって、最終的には国内にいる外国人にも適用
され、何とか拡大を防ぐことができた。1871(明治3)年8月、政府は阿片煙草の
取締りと同時に、医薬用阿片の取扱規則を定め、全国にすべての薬店で所持している阿
片の品位・量目の付け届けの報告と、医師に売り渡した際には、薬店と医師双方に品位
と量目を届け出るよう命じている。これを受けて、国内で一斉に調査が行われた形にな
った。そのため、現在の鳥羽市や名張市からこの時に提出された度会県管内の届出書が
80点あまり残っている。当時のイギリスは、茶、陶磁器、絹を大量に清から輸入してい
た。一方、イギリスから清へ輸出されるものは時計や望遠鏡のような富裕層向けの物品
があったものの、大量に輸出可能な製品が存在しなかったうえ、他の植民地からの輸入
もありイギリスの大幅な輸入超過であったという。イギリスは産業革命による資本蓄積
やアメリカ独立戦争の戦費確保のため、銀の国外流出を抑制する政策をとった。その為
イギリスは植民地のインドで栽培した安価なアヘンを広げ、清に密輸出する事での超過
分を相殺を企画し、三角貿易を整えることとなった。清では、日本と同じ様に既に1796
年(嘉慶元年)にアヘンの輸入を禁止した。その禁止令は19世紀に入ってからも何度
となく発せられたが、アヘンの密輸入は止まらなかった、国内産アヘンの取り締まりも
効果がなかった。国土が広すぎた上に、清国内には国家認識や郷土愛などを育てる教育
も民族把握もなかった。こうしてアヘン吸引の悪弊が広まっていき、健康を害する者は
多く、風紀も退廃していった。また、アヘンの代金を銀で決済し、アヘンの輸入量増加
によりこれまでの貿易収支が逆転、清国内の銀保有量が激減し後述のとおり銀の高騰を
招いた。こうして中国商人が中国を壊していったし、日本や朝鮮を食い物にした。

1165: 名無しさんAA:18/08/07 16:33
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  212 >   

 では、どこに 中国と日本の違いがあったのか。それがこのノモンハン事件である。
第一次ノモンハン事件で小松原が手もとの戦力を出し惜しみし、東捜索隊を壊滅に追い
やった戦訓が活かされず、更に辻の強行で頑なな意見が通ってしまったのだ。この辻に
よる関東軍の作戦計画は21日に参謀本部に伝えられ、陸軍省も交えて大論争となって
はいた。陸軍省の軍事課長岩畔豪雄大佐や西浦進中佐らは「事態が拡大した際の、その
収拾のための確固たる成算も実力もないのに、たいして意味もない紛争に大兵力を投じ
、貴重な犠牲を生ぜしめる如きの用兵には同意しがたい。」と強硬に反対していたのが
大勢だった。しかし結局は板垣征四郎陸軍大臣の「一個師団ぐらい、いちいち、やかま
しく言わないで、現地に任せたらいいではないか。」の鶴の一声で関東軍の作戦計画は
認められた。このモノンハン事件は歴史上極めて大きな分岐点である。何故ならこれま
での戦争は捕虜や食糧など理由があったが、日露戦争でロシアが賠償金不払いによって
、機械も兵器も近代化し人民や領土の制圧権の取引に変わっていた。更に中国も民族の
自立や北洋軍閥の作った新政府のアヘンの奪い合いに代わっていたのである。アヘンの
中毒を重く見た明治政府は、被害が全国へ及ぶ前に禁制に乗り出し、その一例が明治元
年に「アヘンは命を縮めるから禁止」と明記し、年を経る事の改正で使用・売買・生産
の規制を進ませ、国内の外国人にも適用し拡大を防ぐ処置をとったかに見えた。しかし
日本政府は違った見方をしていた。「アヘンは麻薬としては最低だが、大麻と同じに有
用であるのではないか。」とつまり日本人は一方で国内では研究を開始したのである。
明治政府はアヘンの医療用途に目をつけ、独占販売で儲けることにした。西洋のやり方
を真似たのである。販売は許可を得た薬局のみで、購入目的は医療用途に限った。さら
に購入者と栽培農家も登録制とした。この管理法は日清戦争後の、台湾を統治にも行わ
れた。台湾でも清と同様にアヘン常習者が多くなっていた為、急に禁止すると離脱症状
に陥る者が多発するであること、そこにつけこむ密売人が現れ西洋資本がある事など、
問題が発生する事などを考慮した、後藤新平のプロジェクトチームは丹念に調査し、こ
こで導きだした方策で中毒を減らした。既に中毒になっているものには制限付きで販売
を認め、さらに台湾内でのケシ栽培を禁止しお茶に変えさせ、少しずつアヘンの常用者
を減らしていった。満州でも同じような政策が採られた。しかし、ここで大きな天災が
起こった。東京大震災である。この頃は中国軍も生産・流通も減少させて、効果出始め
た頃で、前年の生産がやっと減ったぐらいだった。


1166: 名無しさんAA:18/08/07 16:34
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  213 >   

 1923(大正12年)9月1日11時58分32秒頃に発生した大地震が襲った。通勤が
終った帝都にやって来たこの振動は未曾有の災害をおこしていた。南関東および隣接地
で大きな被害をもたらし関東大震災とよばれた。2004年(平成16年)頃までは、死者・
行方不明者は約14万人と推定された。この数字は、震災から2年後にまとめられた「震
災予防調査会報告」に基づいた数値である。しかし、近年になり武村雅之らの調べによ
って、14万人の数字には重複して数えられているデータがかなり多い可能性が指摘さ
れ、その説が学界にも定着したため修正され、数字を丸めて「死者・行方不明 10万5千
余」としている。しかし、先の2年後の調査にたずさわった人の話では、軍部や政府は
意識的に過小にしていたと言われ、この地震被害を大きく報道したくなかったようで、
その人の話では16万人は超えていたかも知れないとさえ言っている。つまり浮浪者で
田舎からの身元の分からない死体処理が人数には数えられずにいたらしいのだ。存在す
ら掴めない人の死は数字には表れていないのである。幾つかの列車事故や自動車事故は
あったが、地震の揺れによる建物倒壊などの圧死よりは、強風を伴った大火災による死
傷者が多くを占めたからだ。又、津波の発生による被害は太平洋沿岸の相模湾沿岸部と
房総半島沿岸部で発生し、高さ10m以上の津波が記録されている。山崩れや崖崩れ、
又それに伴う土石流による家屋の流失・埋没の被害は神奈川県の山間部から西部下流域
にかけて発生した。特に神奈川県足柄下郡片浦村(現、小田原市の一部)の根府川駅で
はその時ちょうど通りかかっていた列車が駅舎・ホームもろとも土石流により海中に転
落し、百人以上の死者を出し、さらにその後に発生した別の土石流で村の大半が埋没、
数百名の犠牲者を出した。被害の中心は震源断層のある神奈川県内で、振動による建物
の倒壊のほか、液状化による地盤沈下、崖崩れ、沿岸部では津波による被害が発生した
。東京朝日新聞、読売新聞、国民新聞など新聞各社の社屋も焼失した。唯一残った東京
日々新聞の9月2日付の見出しには「東京全市火の海に化す」、「日本橋、京橋、下谷
、浅草、本所、深川、神田殆んど全滅死傷十数万」、「電信、電話、電車、瓦斯、山手
線全部途絶」といった凄惨なものが見られた。同3日付では「横浜市は全滅 死傷数万」
、「避難民餓死に迫る」、4日付では「江東方面死体累々」、「火ぜめの深川 生存者は
餓死」、「横浜灰となる あゝ東京」…などという見出しが続いた。190〜200万 人が被
災者となった。10万5千人余が死亡あるいは行方不明になったと推定される。犠牲者は、
東京府と神奈川県がほとんどを占めている。

1167: 名無しさんAA:18/08/07 16:40
建物被害においては全壊が10万9千余棟、全焼が21万1千余棟であるとされた。が
東京の火災被害が中心に報じられているが、津波被害も出て居て、静岡県熱海市6m。
千葉県相浜(館山市)9.3m。洲崎 8m、神奈川県三浦 6m。などが記録されていて、鎌倉
市由比ケ浜で300人余が行方不明。関東大震災では、建物の倒壊と火災による被害が
甚大で、津波と地震動の被害を分離することが困難なため、津波に関する報告は断片的
で、津波の全体像が明確になっていない。津波の高さは、鎌倉由比ヶ浜では局地的に9m
に達し、逗子、鎌倉、藤沢の沿岸では5mから7mの高さの津波が到達している。つまり、
帝都のみでなく、そこかしこででも被害があって居るようなのである。東日本大震災以
前の日本において、史上最大級の被害をもたらし、府県をまたいだ広範囲に渡る災害で
未曽有の犠牲者・被災者が発生し、帝都を直撃して国難に及ぶことから、国(大日本帝
国)も対応に追われた。しかし、内閣総理大臣の加藤友三郎が震災発生8日前の8月24日
に急死していたために、外務大臣の内田康哉が内閣総理大臣を臨時兼任しての職務執行
内閣を続けたのである。発災翌日の9月2日に、山本権兵衛が新たに新総理に就任して
(大命降下は8月28日)、9月27日に帝都復興院(総裁:内務大臣の後藤新平が兼務)
を設置し復興事業に取り組んだ。金融の停滞で震災手形が発生し、緊急勅令によるモラ
トリアム(支払猶予)を与えた。復興には相当額の外債が注入されたが、その半分は、
火力発電の導入期にあった電力事業に費やされた。モルガン商会は1931年(昭和6年)
までに占めて10億円を超える震災善後処理公債を引き受けたが、その額は当時の日本
の年度別の国家予算の6割を超えるものだった。引受にはロスチャイルドも参加した。
金策には森賢吾が極秘で奔走した。日英同盟の頃から政府は資金繰りに苦慮していたが
、特にこの復興事業は国債・社債両面での対外債務を急増させた。また震災不況から、
昭和金融恐慌(1927年(昭和2年)3月〜)、1930年(昭和5年)行われた金解禁は、そ
の後の世界恐慌(昭和恐慌)に至る厳しい経済環境下で悪影響が大きかった為、翌年に
は金輸出再禁止になった。なおこの震災により東京市から郊外に移り住む者も多く、「
天災によるドーナツ化現象」が発生した。40年近く後の高度経済成長期に三大都市圏の
中心となる大阪府や愛知県等に移住する者も多くみられ、特に大阪市は東京市を超え、
世界第6位の人口を擁する都市に躍進した。朝鮮半島でも伸びて、1919年にアヘン
取り締まりを始めて許可制にした。既にモルヒネが開発され、カルカッタのアヘン売り
場では、日本はインドのアヘンの重要な大口購入者の一つになったインドで売られたア
ヘンは日本の許可の下に神戸に船で送られ、神戸で青島 (チンタオ) 向けの船に積み替
えられた。この貿易に朝鮮も加わり多くの儲けを出した。日本の代表的な企業のいくつ
もが参入し、大阪と朝鮮が近くなった。この輸入は綿花と同時に行なわれた。

1168: 名無しさんAA:18/08/07 16:41
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  215 >   

 中国では清朝時代、朝貢外交が終ると1港のみの広州を開港して粤海関と言う税関の
本所を置いた。康煕 24年(1685) から始まった海禁を解いて外国貿易を許し、粤 (え
つ:広州) 憫 (びん。樟州) 、浙 (寧波) 、江 (上海) などの海関(かいかん)を設け
て、監督をおいて内外の関税を徴収した。アヘン戦争後も海外に広州1港から5港への
開放がされ、他の海関での公行制の廃止や関税協定などの新条約が結ばれたが、伝統的
に海関事務は満人官吏にまかされて旧態依然のもので運用された。しかしキリスタンの
布教が始まり太平天国の乱に際して、咸豊4年(1854)に上海で外国人に海関を管理させ
る外国人税務司制度がとられて、同8年には、天津条約の通商協定で全海関に適用され
て翌年には海外からの洋関の新設となる。これにより海関は新旧に区別され,旧関では
内地関税のみに縮小され,新関である洋関が外国人管理のもとに解放前まで続いた税関
となった。日本も又、この中国における海関のシステムをそのまま真似て運用した。日
本人弁務官が事務所を持って港での日本から輸入を管理し、貿易のセンターが設立され
てアヘンやその派生製品がまったく堂々と密輸された。日本が年間に持ち込むモルヒネ
は満州国建設からは国際条約によって禁止されたが20トン程度持ち込まれたと言われ
る。この量は一つの中国を中毒にするに足るものであったようだ。アヘン戦争とアロー
戦争を総称してアヘン戦争と呼んだが、下関条約以降には日本政府の許可さえあれば、
日本人は容易に中国に麻薬を持ち込むことができたのである。つまりヨーロッパの国々
と対等の立場で中国と接する事になったのだ。しかし中国の新政府の頃は、欧米各国に
交渉を繰り返し中国の麻薬から手を引かせる事に成功していた。従ってモノンハン事件
の頃は、桁違いに大量のモルヒネを中国に持ち込んでいたのが日本だった。報道では、
「日本政府の証明書があれば、青島に上陸する物資は税関の検閲を受ける必要がなかっ
た。このようにして、アヘンの非合法な輸入のみならず、武器の不正な輸入の道を開い
ている。アヘン中毒を撲滅しようとした中国だが、その結果台湾業者によってモルヒネ
が流通することとなった。北中国とりわけ満州におけるモルヒネ中毒はすでに広範囲に
なっている。中国政府はこの災いに警戒態勢を取っているが、抑圧する試みは麻薬業者
の行動によって妨害されている。つまり各国の海関は各国の領事館特権を持っていたの
で密輸入し放題だったのだ。


1169: 名無しさんAA:18/08/07 17:18
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  216 >   

 麻薬業者は中国政府、日本政府の規制をかいくぐって、中国国内をモルヒネ漬けにし
ていた。営口では、二千人ものモルヒネ中毒が1915の一年間に死亡した。モルヒネはま
だ東洋では、生産されていない。又モルヒネの摂取に必要な皮下注射器の製造をする事
すら出来ない。大量に生産されているのは、英国、ドイツ、オーストリアであった。こ
の取引にはエジンバラの2つの企業とロンドンの企業が従事しており、貿易においての
日本の業者が輸入実行していた。商業取引所の報告書によれば、英国から東洋へのモル
ヒネの輸出はこの数年の間に極端に増やしていた。サッスーン家の盛り返しであった。
しかし、日本の軍部はこの1915年に、それを知らず市場操作の為にアヘンの材料で
ある大麻草を大量買い付けした。高値売りに攻勢をかけたが、モルヒネに代わってしま
い売れずに大量に在庫品として倉庫に眠ってしまう。陸軍が頭を抱えてしまった。この
年ちょうど星一は長年の研究成果としてモルヒネの精製に成功した。軍部の要請に応え
この余剰アヘンを買い戻した年だ。実は台湾での中毒患者の撲滅はこの医療用モルヒネ
の開発で、徐々にアヘンから市民を遠ざける事が出来た。しかし前述の様にこの台湾で
英国から買い付けて販売していた麻薬業者は大陸に移って商売し、モルヒネに代わって
いったのである。張作霖は、中華民国初期の軍閥政治家で、北洋軍閥の流れを汲む奉天
派の総帥となった。張作霖はこの仕組みを知っていた。と言うよりも彼は朝鮮半島での
この組織販売の元締めとなった一人だった。満州統治者であり張学良・張学銘・張学思
の父だったが、彼はその利権を手放そうとはしなかった。自出では獣医の継父から乗馬
を習ったが気が合わず、家を飛び出したとも言われている。その後吉林省に渡り、馬賊
に身を投じ1895年、営口市高坎鎮一帯で生活。当時の東三省は警察力が弱く、非合法組
織の麻薬密売人として頭角を現した。張はその中でたちまち頭目となり、朝鮮人参や、
アヘンの密売で巨利を得ていたと考えられている。彼の仲間には後に満州国の国務総理
を務めた張景恵などがいた。息子の張学良は昭和天皇にそっくりだったらしく、学生時
代には驚くほど似ていた。その為か学校から出され1919年に、父の義弟である張作相の
抜擢で奉天派に迎い入れられた1928年に、張作霖爆殺事件により父張作霖が死亡す
ると、すぐさま関東軍の仕業と表明し、蒋介石は率いる北伐軍で北京に駐留した。奉天
軍閥との間に緊張が走っていたが、易幟(青天白日旗を掲げ、国民政府への服属を表明
)することで満州への軍事・政治への不干渉を認めさせ、独立状態を保つことに成功し
た。


1170: 名無しさんAA:18/08/07 17:18
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  217 >   
 満州の奉天軍閥は、父・作霖と共に大日本帝国に協力的であったが、この奉天軍閥の
金庫番は湯玉麟であった。湯玉麟は切っての抗日派で汪兆銘の親日派とは仲が悪かった
。汪兆銘は辛亥革命の孫文に傾倒していて、来日を機に中国同盟会を結成して機関紙の
『民報』の編集スタッフを務める程だった。徹底抗戦を叫んでいた湯玉麟は馬賊の独立
を願う志士で張作霖と対立していた。その後馬賊の金庫番は湯玉麟から汪兆銘に変わっ
た。湯玉麟が馬賊で張作霖の仲間になったのは、若い頃誘ってくれた海沙子に従ってい
たが、海沙子が張作霖と決闘して死亡したからだ。しかし湯玉麟(とうぎょくりん)は
、清末期の特に北京政府奉天派の張作霖の中では、人望ある中華民国の軍人であった。
国民政府時代もその子・張学良に属し、北京政府時代の1926年(民国15年)から満州国
建国前後まで、純然とした熱河省の統治者であった。張作霖爆殺事件によって、27歳
の張学良は父の満州における全権力及び巨額の財産を承継したが、この時の後見人でも
あった。父が殺された日が張学良の誕生日であったため、それ以降彼は生涯にわたって
誕生日を一ヶ月繰り上げて祝ったという張学良だったが、満州事変が勃発した時には、
北平にいて、日本軍侵攻の報告に対して、日本軍への不抵抗を指示した。応戦すれば日
本軍の挑発に乗ることになる。と判断したことや平和解決を望んだということ、日本が
国際的な非難を浴びる事は好ましくない結果をもたらすだろう。と考えたと後に述べて
いる。その為、満州で左派勢力に煽られた抗日運動が活発化して、関東軍や在満邦人の
強い反発をかっていたが、関東軍が満州への武力侵攻を決め、軍を続々と集結させてい
る時でも、いつもの軍事演習だと思い、何の対策も取らなかった。日本と積極的に戦わ
ず退いた事は、従来からの国民政府の方針通りでもあった。この頃蒋介石は下野してい
たし蒋介石の意向も同じだった。国共内戦のため対日戦に兵を割く余裕が無かった上に
、日本が満州の全面戦争に踏み切るとは予期していなかった。この頃の、つまり1931年
(昭和6年) 9月18日に中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、ロシアの共産党集団
が、白ロシア軍の残党狩りが終わり対日戦線に移って、盛んに活動している頃だった。
実は張作霖が奉天軍閥で頭角を現す頃は、充分に満州地域にはアヘンは出回っていた。
と言うのは、馬賊とされるモンゴルでも栽培は古来より行われ西のルートからも入って
来ていたのだ。即ち大陸横断鉄道の開通は、アヘンの流通ルートでもあった。当時では
来客があれば、まずはアヘンが出された。コーヒーや紅茶のような感覚の水タバコだっ
た。いわばステータスシンボルのように扱われたように、このときのお金持ちの条件と
して三つの条件が挙げられていた。それは「よい馬に乗り」「新しい車を持ち」「良質
のアヘンを吸うこと」であったのだ。アヘンを吸うことに今の様な麻薬感覚は無かった

1171: 名無しさんAA:18/08/07 22:27 ID:2Hw
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  218 >   

 馬賊にとっては、アヘンは運営資金を換金して得るために、現金と同程度の価値を持
った非常に重要な物資だった。今の南米の大麻と同じだ。又、現在でもモルヒネは医療
で使われているように、馬賊はアヘンを時に医療用に使っていた。その例として、足を
弾丸によって折られた者の足に包帯を巻いて、その上に幅3センチ、長さ15センチ程
の板切れを3枚、骨の折れている部分にあてがって、その上にまた包帯を施し、小指の
頭ほどに丸めたアヘンを飲ませ、さらにアヘンを吸わせたところ、うめき声も出さなく
なり、翌日の軍の引き上げに彼は遅れをとらず山をのぼって移動した。という話がある
。日本軍でさえ必要としていたのである。戦場では衛生兵が負傷兵にモルヒネを与える
ことで、痛みから引き起こされる体力消耗を防ぐ処置が行なわれている。この実例は、
それと同じ効果のことで、麻酔の医薬としてアヘンが馬賊の間で利用されていたことが
知る好例であろう。その他にも、使用例としてアヘンは褒章として賞与され、戦場に向
かう兵士の士気を高揚させるためや、休憩の時にも与えられ消費されたと言われる。ア
ヘンを兵士に積極的に与えたのは、東北軍閥出身の張宋昌の部隊である。「双槍部隊」
と呼ばれていた。そう呼ばれるには少し笑える理由がある。例えば十字軍が「右手に槍
、左手に聖書」と敬虔な戦士の姿が表現されるが、「張宋昌・双槍部隊」は「右手に槍
、左手にはアヘンキセル」を持っている姿を指して両手に槍という中国流の風刺を利か
せた呼び方だった。この双槍部隊はアヘン中毒の症状が比較的軽い内は、アヘンの効果
で忘我状態になるために、正気では考えられないほど果敢に攻撃を仕掛けた。つまり、
「常勝部隊」と呼ばれる程だったのだ。しかしアヘンの毒は確実に兵士の体を蝕むし、
最終的には戦うどころではなくなって「烏合の衆」となるまでに落ちぶれたという笑う
に笑えないエピソードが残っている。先に言う様に中国軍は、督戦隊の特攻隊システム
を持って日本軍と戦っていた。この報奨にもアヘンは多用されていた。つまり後ろから
自国の兵士を狙う理由は、命令通りに動かし、廃人となって襲い掛からない様にも必要
な戦法だったのである。こうした事で日本の商社が熱河領域に栽培にかかる前に既に、
中国国内ではケシ栽培は西の砂漠地帯で起こっていたのである。アヘンのもたらす経済
効果はすさまじく、ひとつの寒村にすぎなかった村を大きな町へと変貌させる力がある
。奉天省の安図県を例にすると、はじめは数十戸にすぎない部落であったのが、アヘン
の取引がはじまるとまたたく間に四百戸まで成長した。アヘンの収穫期には、買い付け
に来る商人だけでなく、それを目当てに劇団が吉林や奉天方面から来るだけでなく、遊
女も多数集まってきて、まさにお祭り騒ぎ様に町は賑わいを呈した様子を見せたという。

1172: 名無しさんAA:18/08/07 22:29
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  219 >   
 東北陸軍講武堂(とうほくりくぐんこうぶどう)は、清朝末期から北京政府期にかけ
ての、奉天に存在した陸軍軍官学校であった。時期によって名を変えた為に、盛京講武
堂 (奉天講武堂)・東三省講武堂・東三省陸軍講武堂・東北陸軍講武堂とそれぞれの名が
あるが、一貫して中国の近代軍隊の充実のための学校として存在した。日本でいう陸軍
士官学校に相当する役割を担って、日本はこれに習って士官学校を作ったかの様に古い
。最盛期には雲南陸軍講武堂・保定陸軍軍官学校・黄埔軍官学校と並んで「四大軍官学
校」とも称された。1931年の満州事変によって奉天が日本軍の占領下に置かれると共に
消滅したが、熱河都統になった湯玉麟はここを出た生粋の中国軍人だった。故郷が馬賊
出身だった為に思い入れがあった様だ。先に述べたように熱河では軍費等の経費を捻出
するため、1921年に熱河都統の姜桂題がケシ栽培を解禁したが、その買い付けは日本の
商社だった。ケシの栽培の解禁とは、その土地の支配者がケシ栽培を公認する代わりに
税金をかけることを意味し、熱河の都統はこの方針を代々継承してきた。とりわけ1926
年に熱河都統に就任した湯玉麟政権はケシ栽培の拡大政策を推進した。湯政権になって
から熱河の栽培面積は増加し、熱河では満州や平津の市場にアヘンを出荷し、中国でも
屈指の生産地に成長した。そのため「満州国成立」は、熱河はアヘン目当てに、関東軍
などからマークされることになった。湯玉麟の経歴では、彼は土黙特旗出身のモンゴル
人であった為、漢民族に牧草地を奪われて「馬賊」になっている。。1931年(民国20年
)、張学良の指揮下で、モンゴル族のガーダー・メイリンによる武装蜂起を鎮圧した。
東部内モンゴルで武装蜂起したことで知られるモンゴル族(モンゴル人)で。ムルトゥ
ド氏の孟青山がそのガーダー(末っ子)メイリン(防衛隊長)であった事による。この
任命は中国王朝だったのだが今でも民謡に残る。「南方飛来的小鴻雁呀、不落長江不呀
不起飛」(南方から飛んできたガンは、揚子江に下りないと又飛び起きることはできな
い、「要説起義的口凜達梅林、為了蒙古人的土地。」(武装蜂起したガーダー・メイリ
ンは、モンゴル人の土地を守るためであった。)と言う物だ。張作霖の初期からの志士
である二百五十人の配下のうちの一人に加わった。しかし、彼の出身の土黙特旗(トゥ
ムドき)とは今の内モンゴルに当たる民族で、騎馬民族のモンゴル族の侵略を押さえる
為に清王朝は幾つかの工夫をした。それが八旗制で、この東と西を恣意的に戦わせてい
た。そうした中清王朝の元であるヌルハチは満州女真族の出でその強さを知って八旗を
当初、ヌルハチが支配する後金(清の前身)に属するすべての軍民が所属する軍事組織
とした。女真族以外にも他のモンゴル人や漢人で後金に服属した軍人も八旗に編入され
ヌルハチの後継者ホンタイジの時代には、清に服属して八旗に編入された軍隊となった

1173: 名無しさんAA:18/08/07 22:30
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  220 >   

 こうして新たに蒙古八旗及び漢軍八旗とを編成したが、満洲人の八旗と区別して満洲
八旗と呼ばれて遠征させた。八旗の旗人たちは、日本の開拓の県人会の様に平時は開拓
農民で農耕・狩猟に従事し要地の警備や兵役にあたらせた。こうして要地の警備に特定
の場所に集団で移住させ八旗を駐防八旗として置いていた。清王朝ができ入関して万里
の長城以南の全中国を支配すると移動移住を転々とさせた。数多くの旗人が新たに首都
となった北京へと移住させられ、北京内城が旗人(北京八旗)の街になると、歴代の王
朝は互いに大きくなる集団達を危機感を持ち互いに戦わせ領地を確保した。ガーダー・
メイリンとははこの司令官だった。この理不尽な歴史的指令に公然と立ち上がったのだ
こうして 清朝時代に支配階層である満洲人が所属した社会組織・軍事組織を子飼いの
集団として動かしていたのが止まった。特に大陸横断鉄道の建設前にはロシアとの戦争
に明け暮れ、この制度の八旗制を拡大して大いに戦わせていたが敗戦の連続だった。こ
うして八旗は旗と呼ばれる集団社会の軍事集団は、すべて満洲人で8個の旗のいずれか
に配属されていった。後には他民族で編成されたがいずれもモンゴルの地の支配に於い
て中国行政が行われていた。八旗に所属する満洲人・モンゴル人・漢人は旗人(きじん
)と総称され、清の支配階層を構成しだした。しかし、新政府には北洋軍閥に組み入れ
られ清王朝が倒れた時いずれかの軍閥か独立の志士かに分かれた。シベリア出兵時に、
日本が朝鮮半島に気を取られている中で、ロシアはちゃかりと中国と清露密約とされる
秘密の軍事同盟を結んた。ロシア側は外務大臣アレクセイ・ロバノフ=ロストフスキー
、と財務大臣セルゲイ・ヴィッテは、清側は欽差大臣李鴻章この条約を結び、日本がも
しロシアか清のいずれかへ侵攻した場合には、互いの防衛のため参戦するという相互防
御同盟の結成だ。しかし同時に、清はロシアの満州における権益を大幅に認めさせると
いう不平等な条約ともなった。その為日本の日清戦争の勝利の頃は、まさにアヘン戦争
及び、アグイン条約に伴う露国及び西欧諸国による植民地化と清王朝の乱れ等生じて、
中国の内部事情が大きく揺らいだ時代になった。日清戦争もそうしたもので、日露戦争
の勝利でも、赤化に伴う帝政ロシアの混乱に乗じての勝利であり、決して連合政府率い
る日本の力が優れていた訳で無かったがそれだけ勝者として戦後交渉も困難であった。

1174: 名無しさんAA:18/08/07 22:33
アヘンは例えば陝西省を取り上げると、1920年代には既に軍閥はケシ栽培から収益を上
げると同時にアヘン税を取り立てている。アヘンの被害は黒色恐怖と呼ばれたが、中国
国内に農業生産力の衰退と農民破産をもたらしていたが軍閥には関係なかった。陝西省
では清末期アヘンと綿花が基幹作物であったがこれが北京政府の輸入によって価格破壊
を起こした。満州と違って中央政府の力がおよびやすく禁煙は比較的よく進んでいたが
。だが辛亥革命を境に、軍閥の指揮のもとでケシ栽培はより収益の高い綿花の栽培へと
代わって行くかに見えが北京政府の1922年に綿花の輸出を禁じたことから綿の価格は暴
落しは財政が維持できなくなった。陝西省でもこの有様である。中央政府が如何に無能
であったかが解る事例だ。政敵にも清野作戦を執拗に行ったのである。


1175: 名無しさんAA:18/08/08 02:23
こうして各軍閥は財政を維持するために禁止されているはずのケシの栽培を再び解禁し
た。比較的アヘンが収束いた陝西省でさえそうであった。中央政府の力が及びにくい辺
境の様子は推して知るべしである。蒋介石も毛沢東も人民などどうでも良かったのだ。
「ケシ栽培の拡大の第一の原因は、軍閥の悪辣な強制栽培にあり」と指摘されている。
、先の八旗の代表格として自治委員になった湯玉麟が作った湯政権も強制栽培を行った
。熱河ではケシの栽培面積に応じて税金がかけられており、栽培面積の拡大はそのまま
政権の税収の増大であった。湯が着任する前の1925年までは、「禁煙罰款」と称してい
てケシを栽培する土地1畝につき6元徴収していた。いわゆる生産地の土地税である。
湯政権になるとそれを1畝3元の禁地印花税を加えて、1畝9元と増税した。つまり、
ケシの生産税を付け加えたのである。しかしこれだけでは、この政策はただの増税にす
ぎない事になる。アヘンは豆、麦、綿などの作物に比較して容積あたりの利益が大きく
てしかも腐敗せず、銀と同じ価値で扱われている。とりわけ鉄道など大量輸送手段を持
たない軍閥に、持ち運びが容易でしかも大きな利益のもたらした。しかし実際にケシを
栽培するのは農民であった。ケシの栽培が大きな利益をもたらす事はは間違いないが、
栽培面積に比例してかかる税金として高く、痩せた土地で労働力の不足の中ではケシ栽
培の増加はしない。熱河の農民は、決して生活をケシ栽培のみで生計をたてていたわけ
ではなかった。むしろ、自らを養う食料も作って生活をしていた中でケシを余分の場所
や開墾した荒地の作物として作っていた。熱河の痩せた土地事情で同じ作物を同じ方法
で栽培しても、豊かな土地のそれに及ばない。つまり小麦や大根でも他に売り捌く程の
物が出来なかった。そこに熱河で栽培面積で税金がかかってくるが、日本の検地した税
とは違って土地税は一切土地状態は考慮に入れない。土地が痩せていようが肥えていよ
うが税金は同じだ。どこで何を栽培しても同じなので、農民は決して安くはない税金の
為にケシの栽培を行う土地を肥えた土地に変えた。参考に、白菜や大根、タバコなどの
通常の作物栽培の利益は、10元程度だった。1畝あたり7〜9元という禁煙罰款の税
が如何に高いがわかるだろう。この時、農民にとってメリットになる大きな政策がとら
れず、アヘンの収穫に失敗し、ケシの栽培が不作であった場合を考えると、この増税は
農民にとってリスクのみが増えた結果になり、控えようとは思っても好んで栽培しよう
と思わなくなるのは当然だろう。つまり各個は今までとは変えて痩せた土地で食卓の作
物を生産し、肥えた土地でアヘンを栽培した以上のリスクを取らなかったのである。こ
うして伸び悩んだ売り上げだった為、更に湯玉麟は奨励金をかけた。この日中戦争時に
おける関東軍(日本軍)の中国熱河省は金によって揺れ動き、かなりのリスキーな土地と
なって行った。

1176: 名無しさんAA:18/08/08 02:24
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  222 >   

 河北省への侵攻作戦である熱河作戦や日韓併合にはそうした内部事情の調査はなかっ
た。熱河省は地理的には内モンゴルの一部である。しかし政治的には奉天軍閥の支配下
にあり東三省(奉天,吉林,黒竜江)に連なって民族がいた。これが問題の素となった。
 1932年3月満州国を樹立した関東軍は熱河省もその領域であると宣言した。しか
し、省主席の湯玉麟は全くあいまいな態度をとった。それには理由が3つあった。地元
の民の抗日意識に触れたくなかった事、そして他の八旗部族を敵にしたくなった事、更
に国家経営のアヘン奨励が自分が行い売り捌いている事。この三つがあったのだ。関東
軍は北満作戦を一段落させると、33年の1月に山海関で日中両軍の衝突が発生したが
、これを機に2月熱河制圧に着手し,第6第8師団,混成第14・第33旅団その他の
兵力を動員して熱河省へ侵攻,3月4日承徳を占領したうえ、10日前後で万里の長城
の線に達した。この時の戦略は阿片ばらまき作戦であった。馬賊であっても国民党軍で
あっても、戦闘の仕方は督戦隊を置いて農奴や雇用兵を先頭に鉄砲持って立たせるやり
方だったのだ。この戦闘の兵士に先にアヘンをばらまき与えて戦闘をさせずに戦車など
を進軍させた。しかし、最後の頃は賢くなって拾ったアヘンは直ぐには使わなくなって
いたと言う。1939年5月−9月のノモンハン事件は、そうしたアヘン権益確保に走
った湯玉麟以外の部族がソ連に力を求めた戦争だった。ソ連軍との小さな国境紛争から
始まった中で、関東軍(満州駐留の日本軍)の高級参謀に着任した辻政信が、個人的な
戦功をねらって次々と画策し、大本営陸軍参謀本部を無視して独断専行を重ね、日本・
ソ連の双方に多大な犠牲を出した本格的戦争に発展させた事件であった。熱河産のアヘ
ンが中国では最も上質で天津に集められ、天津・北京での消費と満州国での消費に回っ
ていた。満州国は長春(新京)などの新都市建設に膨大な国費を必要としていましたが
、日本政府には財政余力は少なく、しかもフランスからの借款も反対意見で制限してし
まい、アヘンの収益のみが満州国の主要財源でした。湯玉麟は対抗部族と抗争したり、
張作霖の娘を背負って奮戦するなど張作霖の信頼厚く、1926年から熱河の統治を任され
た金庫番として第一人者だった。しかしながら、自らもアヘン吸飲と賭博と売春に明け
暮れて圧政をしいたと言われる。彼を弁護するわけではないが、いかにも馬賊出身らし
い放埓な性格であった。彼は関東軍が熱河作戦を展開して熱河が「満州国」に組み込ま
れる1933年まで、熱河に君臨していた。当時日本は最大収穫で、年間40トンの日本の
アヘン流通を行ったが清の時代でさえ240トンのアヘンの摘発である。如何に当時の
中国の麻薬漬けの国を日本の軍部が改たに正常国家に変えようとしたかが解る。

1177: 名無しさんAA:18/08/15 15:12
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  223 >   

 1875年(光緒元年)、内モンゴルのジョソト盟(卓索図盟)トゥムド左翼旗(土黙特
左翼旗、現在の遼寧省阜新市)に生まれた。漢族の占領で10歳頃に彰武県大冷営子へ
移住する。1904年からの日露戦争では日本側の募った義勇部隊「満州義軍」に参加した
が、日露戦争が終わって満州義軍が解散すると、彰武県へ戻り巡警局長を務めていた。
このトゥムド左旗(さき)は、地名はモンゴル語で卍を意味する。所轄地域の大部分が
すべて大青山にあり、農牧を主とする放牧民の村だった。内モンゴル中部に位置して、
フフホトより西に当たる。面積は2733平方`、人口は35万人(2006年統計)。管轄行政
地域は察素斉鎮、畢克斉鎮、善岱鎮、台閣牧鎮、白廟鎮、沙璽沁郷、北什軸郷、塔布賽
郷、只幾梁郷がある。政府所在地の察素斉鎮はフフホトから47`も離れている。トゥム
ド左旗は北側が山岳地帯、南側が平原地帯、平年気温は6.3℃、平年降雨量は400ミリ。
歴史的には、優れた緑草地帯で、遼、金、元の時代は豊州と呼ばれていた。16世紀に
はアルタン・ハーンがトゥムド部落を率いて、この地方に入り込み、「トゥムド川」と
呼ばれるようになった。17世紀には清の時代ではトゥムド地方を左翼、右翼旗に分け
、18世紀ではトゥムド地方を「旗庁の並存で、蒙古人と漢人を別々管理」という統治方
法で支配した。民族人口はモンゴル人の比率は一割に過ぎず、漢民族人の比例は九割を
占る。こうしてトゥムド地方は長い間、漢民族の文化に交わった結果、モンゴル文化は
ほぼ消えた。モンゴルの名前を名づけられたモンゴル人もモンゴル語が分からず、山西
省の方言に近いトゥムドの地方方言を話す様になったがこれこそ中国式のやり方だった
。中国の判官には宦官制度を用いていた。実は宦官はオリエント時代の東欧文化から来
ているとされ、イスラム文化では、この欧州の去勢文化に対抗して作られたとされる。
この男色家傾向は強く、コーランに記載されている教義上の去勢禁止規定を回避す為に
他の教徒を襲い、幼年期に男色相手に選んで切り落としてしまっていた。こうして奴隷
の始まりがこの男根の切断だったとされる。その頃は医療技術が及ばず陰茎を切断する
と死亡率が高く、半分は何等かの病気になって死んでいった。一方で刑罰として去勢の
刑(宮刑・腐刑)がなされたり、神に仕える神官としてキリスト教の清貧の行として、
自ら欲望を絶った去勢した者を崇めた。女郎宿や淫売が日常で梅毒などの感染もあった
からだ。その流行は凄まじく東欧を襲った。紀元後になってその種類が分かれた。異民
族の捕虜や去勢された後の献上奴隷が皇帝や後宮に仕えるようになり、宦官が始まったた。

1178: 名無しさんAA:18/08/15 15:16
 宦官の頃は陰茎の去勢と陰嚢の去勢、或いは全去勢や自ら去勢したものや去勢された
者はそれぞれに意味が違い呼び名も違っていた。皇帝や寵妃等の側近として重用される
と、権勢を誇る者も出て来て、自主的に去勢しての宦官を志願す者が、王の宮廟に仕え
るようになり宦官と呼ぶようになった。当初、宦官は去勢された者(閹人)とは限らな
かったが、しかし後漢以降、宦官が閹人専用の官職になった。両者が区別されずに別名
の、黄門・太監・帳内、三保・三宝、火者・官者・宦者、閹人・資人・寺人・舎人・浄
人・仙人など呼ばれた頃には、既に違う理由がなく科挙の登用試験には去勢は前提条件
である事に変わっていた。宗教では睾丸摘出のみで去勢された者が仙人や寺人とされ、
宦官試験では多くは無くなった股下の目視検査と、布で包んだ自分の一物とを見せて試
験場の検査官入場出来た。科挙の試験に人気があると、多くの者が試験に挑み登用され
ると他人の物でも入城した者もいる。その頃には去勢の術も定着化し高い金で施術が行
われた。それでも去勢した後の傷口から細菌が入って三割が死ぬことから命がけであっ
たともいわれている。中国諸王朝において、官僚は特権階級であり、貴族ではない庶民
階級の者が、文武問わず正規の官僚として高位へ登る道は、競争の激しい科挙の進士採
用試験以外には事実上なかった。そうして自宮者は後を絶たなかったという。自宮宦官
に多くの優秀な宦官を作った。五代十国のひとつ南漢国は、特に宦官を重用したことで
知られ科挙の成績優秀者は、まず性器切断してから登用したほどであった。最後の皇帝
劉eの時代には、総人口100万人に対し宦官が2万人もおり、この国の男性25人に1人は
完全去勢していたことになる。統一王朝でも、宦官は普通は多くても数千人ほどいて、
おもに後宮に配置された。しかし、明代には爆発的に増え、約10万人に膨れ上がった。
「皇明実録」によると、1612年(明の天啓元年)に政府が、宦官の補欠3000人を募集し
たところ、応募者が2万人に達したため、急遽募集人数を4500人に増やしたという記録
が残されている。大多数の宦官は下級宦官まま一生を終えた、日々において、上級宦官
の不満のはけ口でいじめられることは日常茶飯事であった。下級宦官は高齢になっても
激務が多く、使い物にならないと解雇された。多くはその後乞食としての生活を強いら
れ餓死することになった。この境遇に陥らないため出世するしかなく宦官はひたすら、
上級宦官に対して、媚びへつらい、機嫌を伺うことに力を尽くした。と言われる。なお
切り取られた性器は「宝」とされ大切に保管され、本人の死亡後一緒に棺に納められた
。死後、性器と一緒に埋葬されなければロバに生まれ変わるといい、昇進に際しては、
宦官の証明するための「検宝」と称される作業があった。「宝」を失くした場合、他の
宦官のを盗むに至った事例もあった。

1179: 名無しさんAA:18/08/15 19:42
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  225 >

 清代末期には、低級官吏である七品官の畢五家と小刀劉の2家が、政府公認の手術小
屋「小廠(チャンツ)」を営業していた。そこには「刀子匠(タオツチャン=切り師)
が、去勢手術を請け負っていた。ここでの手術の方法については、イギリス人の研究家
ステントの発表した記録が残されている。それによると、裸にした自宮志願者をオンド
ルの上に座らせ、刀子匠の弟子に身体を押さえつけさせてから、刀子匠が、やや反り返
った形状の刃物で、根元を緊縛して勃起させた男性器を、麻酔もなしで下から一気に切
り落とした。という。その後酒で洗い術後は出血を熱した灰で止め、尿道に金属の栓を
して尿道が塞がるのを防いだが、傷口は縫合されることもなく紙で包まれるだけだった
。多くは失神して、3日後に尿道の栓を抜くまでは水を飲むことも禁止され、傷が癒え
て起き上がるまでには2ヶ月を要したと報告している。なお、中国は全去勢だが以外に
おいては、部分去勢で睾丸の摘出や陰嚢の切除或いは男根去勢だけで宦官として登用し
た例も多い。、中国の自宮(自己去勢)は残された記録で見る限り、男性器全てを切り
落とす完全去勢の方法で行われていたようである。「刀子匠」(タオツチャン)と呼ばれる政府
公認の専門家には、一人銀六両(約三万円)を支払えばすっかり治療するまで責任を持
って手術してくれたが、自宮の際には手術代の代わりに性器を質に入れるものもいたと
いう程 その頃の物価では高い手術費で、手術代すら払えなかった者もいたのである。
宦官によって国政が乱れることは多くあった。が、歴代中国王朝は廃止しなかった。中
国皇帝は、絶対的な存在の飾りで、半面実務は彼らが負っていた。自分の地位が簒奪さ
れる事を常に恐れ、皇帝は外戚は勿論のこと、親・兄弟や皇太子・皇子の自分の家族や
、有能な家臣でさえも信用ができない民族だった。宦官でない普通の人間には、権力を
託せば更に、帝位を簒奪される危険が高かった。孤独な皇帝は、権力を維持する存在と
して、去勢し子孫を残す事がなく、権力世襲のない宦官は必要不可欠な存在であった。
後漢の末期の群雄の曹操ですらも、宦官の弊害は、宦官制度そのものに問題があるので
はなく、皇帝が宦官に依存しすぎるから引き起こる、と発言しているのである。宮廷内
における、一般社会と違った、特別な制度や行事、習慣、用語、禁忌、礼儀作法、規則
などを維持していく専門職は必要不可欠、宦官に依存し、宦官制度の維持につながった
。宦官の特長は去勢の影響で男性ホルモンが分泌されず女性的な体型であり、髭が生え
ていない。


1180: 名無しさんAA:18/08/15 21:13
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  225 >

 清代末期には、低級官吏である七品官の畢五家と小刀劉の2家が、政府公認の手術小
屋「小廠(チャンツ)」を営業していた。そこには「刀子匠(タオツチャン=切り師)
が、去勢手術を請け負っていた。ここでの手術の方法については、イギリス人の研究家
ステントの発表した記録が残されている。それによると、裸にした自宮志願者をオンド
ルの上に座らせ、刀子匠の弟子に身体を押さえつけさせてから、刀子匠が、やや反り返
った形状の刃物で、根元を緊縛して勃起させた男性器を、麻酔もなしで下から一気に切
り落とした。という。その後酒で洗い術後は出血を熱した灰で止め、尿道に金属の栓を
して尿道が塞がるのを防いだが、傷口は縫合されることもなく紙で包まれるだけだった
。多くは失神して、3日後に尿道の栓を抜くまでは水を飲むことも禁止され、傷が癒え
て起き上がるまでには2ヶ月を要したと報告している。なお、中国は全去勢だが以外に
おいては、部分去勢で睾丸の摘出や陰嚢の切除或いは男根去勢だけで宦官として登用し
た例も多い。、中国の自宮(自己去勢)は残された記録で見る限り、男性器全てを切り
落とす完全去勢の方法で行われていたようである。「刀子匠」(タオツチャン)と呼ばれる政府
公認の専門家には、一人銀六両(約三万円)を支払えばすっかり治療するまで責任を持
って手術してくれたが、自宮の際には手術代の代わりに性器を質に入れるものもいたと
いう程 その頃の物価では高い手術費で、手術代すら払えなかった者もいたのである。
宦官によって国政が乱れることは多くあった。が、歴代中国王朝は廃止しなかった。中
国皇帝は、絶対的な存在の飾りで、半面実務は彼らが負っていた。自分の地位が簒奪さ
れる事を常に恐れ、皇帝は外戚は勿論のこと、親・兄弟や皇太子・皇子の自分の家族や
、有能な家臣でさえも信用ができない民族だった。宦官でない普通の人間には、権力を
託せば更に、帝位を簒奪される危険が高かった。孤独な皇帝は、権力を維持する存在と
して、去勢し子孫を残す事がなく、権力世襲のない宦官は必要不可欠な存在であった。
後漢の末期の群雄の曹操ですらも、宦官の弊害は、宦官制度そのものに問題があるので
はなく、皇帝が宦官に依存しすぎるから引き起こる、と発言しているのである。宮廷内
における、一般社会と違った、特別な制度や行事、習慣、用語、禁忌、礼儀作法、規則
などを維持していく専門職は必要不可欠、宦官に依存し、宦官制度の維持につながった
。宦官の特長は去勢の影響で男性ホルモンが分泌されず女性的な体型であり、髭が生え
ていない。


1181: 名無しさんAA:18/08/15 21:58
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  226 >

清代の宮廷事務や皇帝の身辺の世話は皇帝直属の八旗(上三旗)の旗人の中で、家政を担
当するボーイ(包衣)が管轄する内務府の宦官が、その管轄下に置かれ后妃の世話も行
っていた。最後の皇帝の愛新覚羅溥儀は共産党政権で入牢したが、自分で食べる事や、
便所で尻を拭く事も出来なかった為弟の溥傑が着いて回って教えて改めて生活が出来る
様になったという。それだけ宦官は皇帝に何もさせなかったのである。しかし、時代と
共に宦官が国政に口を出す余地はほとんど無い時代になると、去勢されても性欲の為、
宦官と女官との不義がたびたび起こり、大量の張型が押収されるという事件がたびたび
起こって来る。宦官の性行為では多量の張型を自分自身に使用していたと言われ、直腸
から前立腺を刺激することで射精に近い快感を得る方法が知られていたようだ。1911年
の辛亥革命によって、中国は清王朝が滅亡する、最後の皇帝である先の宣統帝溥儀は、
1912年の退位後も清室優待条件により紫禁城に居住し続けた。太監(宦官)もこの条件
によって新規採用者の募集を停止したのみでその後、1923年に溥儀は、家庭教師であっ
たイギリス人ジョンストンなどの影響を受け、宦官の腐敗への不満から、宦官の多くを
追放しようと試みはした。しかし、自らの排便処理すら宦官の手で行って居た中では、
不可能だった。宦官を百人程度にまで減らし絞った時溥儀の食事の準備すらできなくな
るなど、逆に宮廷の運営が滞ってしまい、結局1ヶ月足らずで、宦官の追放を撤回する
ことを余儀なくされたのである。その翌年1924年の馮玉祥のクーデターで宣統帝ととも
に宦官も紫禁城から追放され、その歴史の幕を閉じることとなったが、このとき追放さ
れたのは、宦官二千人と女官二百人だったと伝えられる。その後に皇帝溥儀に仕えたの
は実弟の愛新覚羅溥傑だった。日清戦争の戦後に袁世凱の下で、天津の新軍訓練に従事
した曹棍(そうこん)は、袁が直隷総督に昇進すると右翼歩兵第11営管帯(第一軍)
長官となっていて、黎元洪と国務総理段祺瑞との政争(府院の争い)が勃発すると曹は
両者と一定の関係を保持しつつ中立を維持していた。この為辛亥革命で、袁世凱が清国
政府を建国し、袁世凱は第2代内閣総理大臣の地位を要求と共に、醇親王の摂政王の退
位と溥儀の退位を要求し、その後1912年2月溥儀は宣統帝から退位することとなった。


1182: 名無しさんAA:18/08/15 21:59
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  227 >
こうして臣下に裏切られた形で退位したが、日本の様に大事にはされなかった。まあも
っとも、平和時の施政そのものが、日本の場合徳川幕府が実権を握って天皇を飾り物と
していたが、中国の場合は皇帝の中の宦官の差配でそのまま実権があったと言う違いが
あったが、が、しかし、中国人民を想えば、次に来た袁世凱でも曹棍でも、天皇の差配
を切って飾り物であっても存在させていても良かったろうにと思う。さらに、1924年に
馮玉祥と孫岳が起こした第二次奉直戦争に北京政変で、直隷派の曹棍が監禁され馮玉祥
と孫岳が北京を支配し、又その政変後に、帝号を廃し清室優待条件の一方清算を通達し
、紫禁城に軍隊を送った時には、溥儀やその側近らは紫禁城から強制的に退去させた。
この事を受け溥儀らは北京の日本公使館に避難し、その後溥傑も日本政府の庇護を受け
る事になった。溥傑はこの後、1929年(昭和4年)3月に婉容皇后の実弟の潤麒と共に、
来日を果たし、日本語等の学習後に、学習院高等科に留学した。しかし、その後も中国
国内の政変劇は続き、ドイツや英国を背景にした蒋介石政権が北京政府となった。馮玉
祥と孫岳の政権を、欧州や米国が認めなかったからだ。もっとも彼も又大の西洋嫌いで
あった。孫岳は秀才であり、又家系も悪くなった。だが侠客の徒党の頭目となり人望も
あったが帝を拝する者では無かった。従って、帝に近づいていた欧米列強を嫌っていた
のだ。明の兵部尚書孫承宗の後裔で孫岳は幼くして秀才となったが、祖先が清に殺され
た為、反清感情が強く、科挙を受験しようとせずに無頼の道に走ったのである。秀才(
しゅうさい)とは、通常の家柄ではない。秀でた才能を持っている人物や、他人よりも
才能が秀でているとされる村落の長として仕えた者の家系だった。もともと秀才とは、
漢の時代に科挙には5教科の試験がありそのすべてに点数を取らねばならなかった。そ
の為難関だった事からそこを通った者を「秀才」として讃えた事から来ている。しかし
一年で一人もいない程の難関でも人気があった科挙の試験は、推挙や推薦がなければそ
の面接すら出来なかった。唐の時代にこの大挙して押し寄せる試験生に規制が敷かれて
、この推薦で試験受けた者が失格の場合は死刑とされた。すると見る間に科挙には人が
集まらなくなった。初唐の科挙では、明経・進士・明法などの科目の中で、科挙の筆頭
科目に位置づけられていた。その試験科目としては、方略策を5道課し、その文理の精
粗によって判定されて起用された。その後又戻したが、科挙試験の前の前段階試験が行
われてふるい分けされた。こうして科挙の前段階で及第した者が『秀才』と呼ばれて、
『秀才』になった者は、学習に励んで学識を積み、その博い知識で問題を解決できる能
力を持つ人物を指して使用される教育がなされた。このため、社会的地位は相応に高い
所が与えられ、一種の尊称として『秀才』と呼ばれるようになった。

1183: 名無しさんAA:18/08/15 23:53 ID:1E.
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  228 >

 明・清時代になると国ではなく、府・州・県学にもこの制度が取り入れられ在学生を
持ちその者も秀才と呼ばれるようになった。こうして訓練生や特待生の資格を持つ家と
なり、1904年(光緒30年)、保定武備学堂砲兵科に入学する。1906年(光緒32年)、陸
軍行営軍官学堂(後の陸軍大学)第2期速成科で学んだ。後に、孫岳は中国同盟会に加
入している馮玉祥が国民軍を成立させると、孫岳は副司令兼第3軍軍長に任命されて、
孫文の北京訪問を後押しした。直隷派の残軍を華北から駆逐し、保定に駐屯し秩序安定
と軍備拡充を進めて、国民党政府の樹立に貢献した。1925年豫陝甘剿匪総司令に任命さ
れて、陝西督弁に着任任命すると、国民軍は奉天派の李景林軍と戦い、これを撃破する
と、孫岳は直隷督弁兼省長に任命された。しかし1926年は、「赤化」の傾向が強くあっ
た。毛沢東の起こしたテロ事件は多く市民には、その取り締まりを願う大きな声があっ
た。共産党や赤化の批判に耐えかねた馮玉祥が下野し代理として、孫岳は奉軍に対する
前敵総指揮を務めた。しかし、国民軍は共産党攻勢の展開に心労を抱え病床に臥した。
この科挙に行かなかった秀才達は、朝鮮にも多くいた。朝鮮も中国に倣って、自国の官
僚機構には宦官制度を導入していた。朝鮮最古の歴史書「三国史記」の「新羅本紀」に
は、新羅の第42代「興徳王」(ホンドクワン:こうとくおう)の王妃の章和夫人は、
即位後2ヶ月で死去したが、後妃を迎えず、後宮の侍女も近づけず、宦官に身の回りの
世話をさせたと書いている。9世紀に宦官制度があったからだ。高麗王朝や朝鮮王朝に
も宦官「内侍」(ネシ)制度が存在した。医療技術が及ばず陰茎を切断しての死亡率は高
く7割を超えたために、後は朝鮮では睾丸摘出のみで宦官とされたようだ。この事から
彼らは中国の宦官より位が下とされ半眼とされ帳内であった。彼らまた貢物として、自
国の官僚として使用しただけではなく、自国民を宦官にして歴代の中国王朝に貢進して
いた。、火者・官者・宦者、閹人の始まりだ。元の順帝時代には、後宮に権勢を振るっ
た朴不花は、高麗から貢進された宦官で名を残しあ、また明の永樂元年1403年には
、「明の皇帝の聖旨を奉じ、容姿閑雅、性質利発な火者(宦官の別称)35名を選抜して
貢進した」という記録が、朝鮮側の記録に残されている。東アジア(日本以外)の宦官は
それぞれ別名を持ち、黄門・太監・帳内、三保・三宝、火者・官者・宦者、閹人・資人
・寺人・舎人・浄人・仙人などといい、その他にも甚だ多い。しかし高麗でも毅宗の頃
寵愛する宦官の専横を許したのが毅宗の廃位と武臣政権成立の一因となった。朝鮮王朝
の内侍府も1894年の甲午改革で宦官制度は廃止された。

1184: 名無しさんAA:18/08/15 23:54
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  229 >   

現在の韓国・ソウル市鍾路区にある孝子洞(ヒョジャドン)や「火者洞」(ファジャド
ン)と呼ばれ、かつて退職した宦官が住んでいた。もともと宦官が去勢を施された官吏
である事で去勢技術が家畜に施すものとして生まれたため、宦官は牧畜文化を持つ国に
のみ存在するという説がある。だが現実には家畜の無い世界にも宦官制度がある。これ
は中国王朝など巨大王朝から侵略征服されて出来た文化である。というのが根拠となる
。英仏によって、中国華僑の活躍した東南アジアは、阿片の拡散は弊害を産んでいた。
実に欧米の商社販売から、日本軍部に代わった販売網は、日本は大東亜阿片圏と言うべ
き阿片の毒牙をむきだしに及んだ。三井・三菱の阿片船がアジアを往来した。三井物産
は上海へ、1938年4月に約3万トン、1939年1月に約7万トンもの阿片を運び
込み、南京維新政府の財政を助けた。一方で三菱商事は三井の 3.5倍もの量を193
9年2月に満州の大連へ運び込んで満州の建国を助けている。南満州進出で、21カ条
要求し、満州事変と中国への日本の侵略は拡大して、さらに日中戦争へと突入した日本
は、中国の占領地に満州帝国を始めとする傀儡政権を次々とデッチあげていくが、この
傀儡政権には致命的な欠点があった。これらの傀儡政権や親日の軍閥は、日本軍の擁護
の下に、阿片を政府・地域の許可・専売制として、阿片・麻薬の利潤を日本軍と分け合
ったが販売競争をして管理ができていなかったのである。傀儡政権の満州・内蒙古では
堂々とケシが大量栽培されていたし、輸入したアヘンもこれまで以上の数十倍の量だっ
た。価格において利益が出ない中ではケシの麻薬患者が増えるのみで、健全な市民がい
なくなれば、それだけ叛乱する要素は残ったままで兵士達に蔓延したのである。正に、
平和の特使たるアヘンとなっていった。中華民国では、この熱河の利益に更に新たな処
置を起こした。1935年(民国24年、昭和10年)12月18日に国民政府は冀察政務委員会を
設置し宋哲元を委員長に任命した機関を作った。こうして河北省、チャハル(察哈爾)
省を統治させた。スローガンに「河北省の自治と防共」、「国民政府からの分離」を目
指しすとして、先行した殷汝耕の作った冀東防共自治政府は、この冀察政務委員会と、
満州国に挟まった傀儡地方政権となるややこしい事態が生じた。1938年1月30日に、
北京の日本軍北支派遣軍特務部において、日本軍特務部長喜多誠一少将が立会人として
列席の上、冀東政府代表池宗墨長官と中華民国臨時政府代表王克敏行政委員長が会見し
、2月1日より冀東政府が中華民国臨時政府に合流することで両者の意見が一致させる
事にした。合流に関する協定の調印が行われ、こうして冀東政府は解消した。

1185: 名無しさんAA:18/08/15 23:54
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  230 >   

 南満州鉄道の設立は、日露戦争(1904年〜1905年)に勝ったから、と言うよりはロシ
アがソ連の革命政権にかわったからである。つまりシベリア出兵(1918年〜1922年)ま
での間に、ハリマン交渉があり小村寿太郎が帰国して、その合意を破ったと知るのは、
ハリマンが帰国の船の中で、ポーツマス条約が結ばれた1905年からだ。ハリマンは
グレートノーザンの社長であり、いわゆるアメリカの鉄道王であった。当時に大陸にこ
のアメリカのユダヤ資本家が足場がなかったは、アメリカ政府と共に苦慮していた時で
あった。日露戦争は停戦状態で、ロシアは、日本がロシア皇帝ニコライ2世は対国宣戦
布告をしないまま旅順港のロシア旅順艦隊を襲撃した。と強く非難した。1907年の万国
平和会議では開戦に関する条約創設の討議が行われた。またハーグ陸戦条約の改訂が行
われ日本は双方に署名し、1911年の第2次桂内閣期に批准した。国内議会を通過し日本
における効力発生は1912年だった。実はこの法律が日米開戦に対する足枷になっていた
。南満州鉄道は1906年(明治39年)に設立され、1945年(昭和20年)にポツダム宣言の
受諾に伴って閉鎖されるまで、この通称満鉄は大日本帝国の特殊会社として存在した。
南満州において鉄道運輸業のみならず、同時にその敷設所有地近郊の鉄道施設・付属地
として租界があった。ロシア帝国では、モスクワからのシベリア鉄道の一部として清国
を縦断する、東清鉄道が計画され敷設され、1896年にロシアは露清密約を結び、鉄道の
建設に必要な土地の管理権まで獲得していたのである。これが、いわゆる後の日本の、
「鉄道附属地」でロシアはこの条約を拡大解釈し、土地の単なる所有権だけでなくて、
清朝の行政権が及ばない排他的行政権、つまり領事自治権を認めさせていた。つまり、
線路や駅など本来の鉄道用地のみならず、鉄道から数百メートルも離れた用地をも鉄道
附属地として、鉱山開発や都市開発などを治外法権のある海外用地として運用していた
のである。1906年に日本の国策会社南満州鉄道が設立されると、この鉄道附属地制度も
同じにスライドさせて日本も又国際社会のしきたり通り継承した。しかし、日露戦争以
降は東清鉄道の付属地1917年にロシア革命が勃発し、革命政府が中国内の権益の放棄を
宣言せねばならなかった。そのため中国は1921年に附属地の行政権を回収して「東省特
別行政区」を設置し軍の治政下に置いた。南満州鉄道の附属地満州国の成立後1937年に
行政権が移譲され、満鉄には、ロシア帝国から引き継いだ鉄道付属地での使用権と同様
に、用地独占的行政権を与えられた。

1186: 名無しさんAA:18/08/15 23:55
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  231 >   
 当初、後藤新平は、「満鉄十年計画」を策定させ、ロンドンでの社債の発行によって
2億円を調達して、これらを原資として経営を始めた。このうちの1億円は政府の現物
(鉄道施設とその付属物)買付出資として、中国政府や日本政府に購入資金として渡り
、残りの一億円が事業資金となった。満鉄の初代総裁・後藤新平は大風呂敷男とされて
いたが、「午前八時の男でやろう」というスローガンを掲げ、台湾総督府時代の腹心で
40歳そこそこの中村是公を副総裁に抜擢し、中村とともに30代〜40代の優秀な人
材を理事はじめ要職にスカウトして、調査部を発足させ企画させて動かした。その内の
1人が三井物産元門司支店長の犬塚信太郎は32歳であった。満鉄は、ロシア帝国から
引き継いだ鉄道付属地での独占的行政権を与えられて、地方部で大規模な、他に類のな
い近代的都市計画(大連、奉天、長春のちの新京など。)を進めた。上下水道はもとよ
り、電力、ガスの供給、さらには港湾、学校、病院、図書館などのインフラストラクチ
ャーの整備を進め、満洲経営の中心となった。又発電を水力発電に頼るまでに火力によ
る発電設備まで整えて挑んだ。その為満鉄は鉄道経営に加えて炭鉱開発(撫順炭鉱など
)、製鉄業(鞍山製鉄所)、積み出し港湾事業、電力供給、農林牧畜、ホテル(ヤマト
ホテル)、航空会社などの多様な事業を行なうまでに至った。後藤の発案で設けられた
満鉄調査部は当時の日本が生み出した世界最高のシンクタンクの一つであった。満鉄は
当初から、単なる鉄道会社にとどまらず、日露戦争中に児玉源太郎が後藤新平の影響を
受けて献策した欧米の巨大メジャーのユダヤ金融の組織的拡大を求めていた。小村寿太
郎が帰国してそのアメリカ資本の巨大さを説いていて、日本の国際社会での植民地化や
奴隷化阻止を求めていたからだ。児玉機関の児玉源太郎は企画書の「満州経営梗概」に
「戦後満洲経営唯一ノ要訣ハ、陽ニ鉄道経営ノ仮面ヲ装イ、陰ニ百般ノ施設ヲ実行スル
ニアリ。」とあるように、それを具現するための組織であった。ただ後藤の心配は陸軍
の横槍での会社乗っ取りだった。そこで陸軍の動きを探る児玉機関があった。しかし、
陸軍は満鉄経営より領地拡大に走った。そして満州国が建国され満洲全土が日本の勢力
下に入ると、鉄道付属地は必要なくなり、1937年(昭和12年)に満洲国に返還された。
これに伴って、地方部の行なっていた付属地行政(土木・衛生・教育)は満洲国政府に
移管され、満鉄地方部は廃止された。大量の満鉄職員(その多くは教員)が満鉄から、
満州国へ移籍した。2億円の資本金は1906年(明治39年)の半官半民の特殊会社は1920
年(大正9年) - 4億4千万円(第1次増資)1933年(昭和8年) - 8億円(第2次増資)
1940年(昭和15年) - 14億円(第3次増資)などを行い、巨大な組織になった。そして
軍部は馬鹿な事にモノンハン事件を起こすのである。

1187: 名無しさんAA:18/08/16 00:16
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  232 >   

 日本は不思議な国である。というのもこのモノンハン事件はかなりの死傷者を出した
が、一応は日本は勝ったのであるし、ロシアの損害も大きかった。辻政信の画策と独断
専行で始まったモノンハン事件だが、この頃の銃器類は日露戦争よりは少しは発展はし
ていたが、日本の考え方や戦い方は江戸の開国時代と同じだった。世界各国は日進月歩
で進歩していたが、日本軍の兵器は進歩する余裕はなかった。たまたまその時代が船に
ガソリンの燃料機関が充実しディーゼルエンジンが開発された時期で、飛行機や電磁気
やモーターや電球が発展する時期だった。日本の開国が、もっと前かもっと後では植民
地化されて大日本帝国となってはいなかったであろう。中国に仏英が目をつけたのは、
単に日本が小さな島国がイスパニアやポルトガルと既に交易していて、中国の方が楽だ
と思ったからに過ぎない。更にもっと後に、電気や燃料機関や飛行機が標準化された後
での開国なら、それこそ官営八幡製鉄所などおぼつかないぐらい叩かれていたであろう
。そうした明治の開国時代は全く日本は頑張った。ソ連が今だ極東の地を占領せずに、
アメリカがよちよち歩きで、フランスやイギリスが植民地を増やしてイスラムのトルコ
帝国と睨み合っていた不思議な時代だった。その為日本は頑張後は、軍が巨大組織にな
って統制取れずに、その兵器開発や国体維持には綻びや甘えが出て来ていた。つまり国
は平和を希求して疲れてきていたのだ。現場主義から遠のいた所の指導者が勝手な司令
をジャンジャン吐いて、これまでの苦しかった日本の昔を忘れ、如何に生きて来たかを
忘れ、薄氷の上の国家を見失った頃だった。従って旧態のまま19世紀以前の様な軍隊
を持って気焔を吐き、戦国時代の軍隊と変わらない精神思想で、日本的視野で日露戦争
後は、第一次大戦後第二次世界大戦と進んだ。旧日本陸軍の最高指導者たちと高級参謀
たちが戦争は外交の一端であると考えていても、その外交は軍部によってかき消されて
いた。また戦争の正義や国内の仕組みは、必死に取り組まなければならなかったが中国
経営に於いて長期的な視野はなく、日本の借款返済に追われた国家予算だった。それは
他の国も同じ事だったが、アジア主義や平和融合主義を持っていた概念を、欧米に溶け
込ませる事は出来なかった。日露戦争時の白兵突撃によるおびただし戦死者を出さない
為の工夫や戦略は、軍備・兵器を近代化することとは等しかったはずだが、その欧米の
崇高な命や国や思想の本懐はこの頃に指導部は理解出来ていなかった。その上に天皇の
持つ崇高な平和への祈りも又無知で愚かで理解していなかった。このモノンハン事件の
顛末とその処分に関しては旧日本帝国陸軍の最高指導者・高級参謀たちの無能・無策・
無責任を嘆かずにはいられないものだった。

1188: 名無しさんAA:18/08/16 00:18
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  233 >   
 モノンハン事件はそうした意味では、大きな節目の事件だった。つまりこの戦争での
戦いから、全く世界は変わってしまった戦いに入った。と言って良いだろう。その変化
を起こしたのが、中国の蒋介石と農業経営出来なかった朝鮮の両班達であった。英国領
インドでは、中国市場へアヘンを輸出することを停止することについに余儀なく同意し
たが、インドが綿花輸出に変えた事で綿花の暴落と中国の綿花栽培の縮小を招き結局は
ケシ栽培を増産させてしまっていた。つまり中国国内はより多くのアヘンが増えたので
ある。同時に既に東南アジアの他の地域の植民地の「(アヘンの)専売」には規制が無く
インド以外のアヘンまで中国に向かった。アヘン戦争でイギリスのジャーディン・マセ
ソン商会やサッスーン商会は、アヘンの販売の利権を独占的に手中におさめることによ
って、巨万の富を得たのだが、その特権を日本陸軍はそのまま継承した。満州における
アヘン漸禁主義と専売制度は、満州帝国経営の基礎的資金となったばかりか、特務機関
や憲兵隊の豊富な謀略資金ともなったのである。1932年には組織化されたアヘンの専売
があり、三井商事は、さもこれが国内における麻薬の多量の消費を抑える目的のため、
と説明してアヘンを栽培していた。事実当初は台湾の様にモルヒネに加工される事での
アヘン患者の縮小を図った。しかし、それは大陸では無理な話だった。結果安価な麻薬
の氾濫となって更に大きく作られ販売された。固定された栽培地が熱河省と吉林省など
の北西に設定され1934〜1935 年の間の栽培面積は 480 平方キロメートル、1 平方キロ
メートルあたり 1.1 トンを生産していたと米国の密偵は観測していた。 また、多くの
非合法の栽培もあって、非常によく儲かるためこの危険な麻薬を効果的に抑制すること
に障害となった。こうしてアヘンの利益からモルヒネの販売利権まで持っていかれた米
国のユダヤ資本は巻き返しを図る為に調査と行動を起こした。中国の意向を聞いて1909
年、上海で国際会議が行われた。本来なら米国や英国で行われる国際会議が上海で行わ
れた理由は、勿論本国の同業他社に醜い姿を見せない為だった。こうしたロビー活動は
成功し、1912年のハーグにおける万国阿片条約が決まった。だがこの条約は結局は国が
専売として管理し、必要以上は生産流通に乗せず密貿易と認定し、所持する事を犯罪と
する声明であった。更に密偵は、満州の架空の商社を見つけ出しニキサンスケを突き止
めた。東条英機・星野直樹の「二キ」と、 鮎川義介(ヨシスケ)・岸信介(ノブスケ)・
松岡洋右(ヨウスケ)の「三スケ」である。条約会議で決まった専売で、1 年当り2000〜
3000万円の利益を生み、満州国の産業発展に資金供給をした。更に軍隊は兵士や自国民
よるアヘンと麻薬の使用を禁止し、日本の市民権を剥奪されたが、劣等種族の士気をく
じくために使用することには欧米同様に許可を与えていた。

1189: 名無しさんAA:18/08/16 00:19
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  234 >   

 岸信介(きしのぶすけ)は佐藤家の第5子次男として生まれた。多布施の作り酒屋と
いうから比較的裕福な家庭であったろう。後に佐藤家は佐藤栄作が産まれているが、信
介の方は比較的体が弱く、又学力も思わしくなかった為か10才の元服がすぎると岸家
へ養子に出された。後に東京に上京して第一高等学校に入学して東京帝国大の法学部ま
で行って無事卒業している。あの三島由紀夫の親父などと親友であり、随分と国粋主義
的物があったようだ。マルクス主義などの本を読み漁っているから現代経済学に通じた
考え方を持っていたようだ。満州国総務庁次長をしていたが、終戦前に東条英機内閣の
商工大臣(第24代)になり、以降には衆議院議員9期務めて、自由民主党幹事長までも
なっているが、吉田茂の土下座外交とは反りが合わずに離れている。昭和の妖怪と言わ
れる程に財力を持っていた。何処からともなく政治資金を調達する岸は、満州から去る
際には「政治資金は濾過機を通ったきれいなものを受け取らなければいけない。問題が
起こった時は、その濾過機が事件となるのであって、受け取った政治家はきれいな水を
飲んでいるのだから関わり合いにはならない。政治資金で汚職問題を起こすのは濾過が
不十分だからだ。」という言葉を残している。これは長州閥がふんだんに資金を手に入
れ満州利権を長州閥で固めようと岸を総務庁長官に呼んだ他でもない理由であったのだ
。彼を動かし重用したのが、久原房之助であった。久原房之助は近代会社の草分け的な
存在でやけっぱち財界人で知られていた。彼の投資はものすごく儲けては会社を作り、
作って不況時になり無一文より悪い借金生活をし、軍需が起きれば更に会社を作った。
いわゆる目利きの良いどんぶり勘定の経営者だった。当初は他を真似た日立銅山を藩の
財政立て直しに入札で手にして近代化した機械設備を取り入れ明治初頭に久原鉱業所の
成功を見て久原財閥の総帥として「鉱山王」の異名を取った。その後事業拡大に転じて
日立製作所、日産自動車、日立造船、日本鉱業創立の基盤を作った。第一次世界大戦後
の恐慌を機に政界へ進出。「政界の黒幕・フィクサー」と呼ばれ、右翼に資金を提供し
て二・二六事件に深く関与したと言われる。戦後はA級戦犯容疑者となり、公職追放と
なったが日中・日ソ国交回復会議議長などを務めている。逓信大臣、内閣参議、大政翼
賛会総務、立憲政友会(久原派)総裁などを歴任している。ニキサンスケの星野直樹な
どは満州国のアヘン専売局の儲けを抵当にして、日本の複数の銀行から多額のローンを
取り決めたりして事業を興している。当局者によれば、満州国の分も含めて中国全体の
麻薬の収入は日本軍によって年間3億円だったと推測されこれらが満州国に使われ消え
ていった。

1190: 名無しさんAA:18/08/16 10:12
 不思議なのはこの長州閥の流れがいずれも戦後においてクリスチャンであった事だ。
米国では、先祖がアイルランド移民出身のジョン・F・ケネディが歴代アメリカ大統領
となった時は、多数派プロテスタントではないとして、アメリカの歴史上初めてでかつ
唯一の少数派カトリック教徒だ。と騒がれアメリカ人にとっては大問題であるとされた
。この事実は無関係な日本人でも全員が知っている様にアメリカ中の話題でもあった。
しかし、対照的に、靖国神社は騒がれても、我が国の最高責任者の首相が何教を信じて
いるかは、あまり誰も話題にしない。アメリカとは大違いで日本国の国民は一切無関心
で国家神道の信者だと思っているか思われている。なる程日本には天皇と言う元首は別
にいるにはいるが、アメリカの大統領と同じぐらいの日本での権限を持つ首相である。
 実は日本の首相は意外にもクリスチャンが多く、判明しているだけでも信教の自由が
侵害されていた敗戦以前の日本の首相は30人の中で、近々の敗戦前だけでも原敬首相
がキリスト教徒であり、戦後に信教の自由が日本国憲法に明記された敗戦後の首相32
人中で、吉田茂、片山哲、鳩山一郎、大平正芳、細川護熙、麻生太郎、鳩山由紀夫と、
キリスト教徒の首相が7人もいる。ほぼ4人に1人が西欧系キリスト教信者だったので
ある。この事実をもっと欧米やアジア・アフリカ・中南米などキリスト教国に宣伝した
ら、日本を見る目が変わってくるであろうが、一神教の他国と多神教の中で仏教も神道
もキリスト教も信じてその祭礼に列席する姿はちょっとやそっとでは理解出来ない姿で
はなかろうか。外務省などまったく無関心ではあるが価値観の違いの共産党国が、東方
正教のロシアだったり、仏教や儒教を弾圧した朝鮮半島や中華人民共和国だったりだと
G7でロシアを追放した理由が解る。日本を除けば全員がカトリックかプロテスタント
の西欧系のキリスト教諸国で、共通の認識や価値観を謳った会だと言う事もあながち嘘
では無い様だ。日本の場合、キリスト教信者の首相とは言え、厳格な意味では欧米世界
の『一神教』では無い。何しろキリスト教信者の筈の麻生太郎首相が靖国神社に参拝し
て、中国韓国と大騒動を起こしている。大平正芳も熱心なキリスト教徒だったが、嫌々
靖国参拝を行い、わざわざ中国の批判を焚きつけている。うがった見方をすれば彼らは
日本人であったのかどうか。あの国家神道を軍国主義で盛り上げて、辛辣な体罰教育で
特攻爆撃隊をつくり、陸海空共に自殺テロの様な軍人精神を叩き込んでまでいながらも
彼らはのうのうと戦後の日本に生き残り君臨し続けたのである。善し悪しは兎も角も、
今更ながらに驚嘆する考え方や生き様があったのだろうと思えてくる。近年では鳩山が
意味不明に沖縄米軍撤退を言ったが代替案は無いに等しいもので盛り上げた。今でも、
クリミア奪還をロシアが正しいなどと馬鹿を言う。住民疎外の勝手な意見の野郎だが一
体どこからそんな考えが出て来るのか、日本の不安定要素の一つである。

1191: 名無しさんAA:18/08/16 10:22
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  236 >   
 治外法権の中で歴史的に最も有名なものは恐らく、いわゆる不平等条約の下での19
世紀の時の中国と日本におけるヨーロッパ国籍者に関連するものであろう。勿論南米や
アフリカも比べ物にならない位極悪非道の白人優位主義がまかり通っていたであろう。
しかし、事文献や歴史的絶対的な事実が克明に記録され論議される程の国際社会に出て
いながらも、しつこく又強制的に公然と国際政治でそれらが行われていたのは欧州地域
と中東地域とアジア地域しかない。その中でも中東や欧州には歴史的な対立軸があった
が、アフリカや南米やアジアは、何ら因果の元となるそうした物はもたない無辜の人々
の地域であった。ただ単に歴史上の旅行者たる進んだ技術を持つ欧米人が立ち寄ったに
過ぎず、治外法権が持ち込まれる程の悪さがあった訳では無い。特に日本が第二次世界
大戦で受けた仕打ちは、単に欧米人よりは先に行くかもしれない。と思う恐怖心からの
白人達からの威嚇と恫喝との戦いであった。時代背景として「白人の植民地支配」をさ
れるのか、対抗して「白人以上の独立帝国」を築くかでしか、国の判断が進まなかった
のは事実であったろう。こうしてアジアの盟主たる中国が、第一次アヘン戦争の結果、
南京条約で中国に治外法権が押し付けられ、アロー戦争で賠償金が課されてしまった事
で影響下にあったベトナムや朝鮮やモンゴルやチベット或いは日本は、それぞれの自立
した文明や防衛の道を手さぐりで探す事になったのだった。とりわけこの時の中国の悪
態は、上海に2つの治外法権の領域である「国際居留地」と「フランス居留地」があっ
た事だが、これを治める力が無く、外国人の活動の中心地となった事で、日本にまで不
平等条約が持ち込まれ大きな迷惑を被った。しかし、この治外法権は公的には第二次大
戦後にようやく終了したが、日本も文明国の列強に仲間入りした時に、ちゃっかり同列
に座って各都市の租界地を利用した事で大きな国際的反発を受けた。中国国内からは、
同じアジア人を白人崇拝の中に入れないとする反発があり、海外列強からは、白人優位
主義の法的基盤の類に合致しない。と言う人種偏見で叩かれた。しかし、この列強の席
につかなかったとすれば、今のアジアはなく、中国大陸はアフリカや南米の様に小さく
分断された統治形態で、おそらく中東の様に戦争が絶え間なかっただろう。この国際的
アヘン貿易に日本が本気で取り組まなかったら、世界は既にユダヤ支配の下でインドの
社会の様な混沌とした不衛生の中で生きる人類が蠢き、世界カースト制みたいなものが
出来て今の文化なんてものは全くできなかったであろう。かくして日本はこの内外の、
治外法権反対勢力との戦いに巻き込まれる。日本の意志が伝わらず日本でも利用にかこ
つけた軍政の軍国主義が触手を伸ばした。敗戦後は現に世界一とされるアメリカ国内に
でもそれは生き残り、今でも銃砲事件麻薬の麻薬犯罪は後を絶たないのだった。

1192: 名無しさんAA:18/08/16 10:34
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  237 >   

しかし現代においてもこの軍隊式の有無を言わさぬ上意下達の教育システムは、何故か
どこかしこに生き残っている。人は強制的命令がすきなのだろうか。面白いのはコンピ
ューターシステムの世界では真逆の事が起こっている事だ。人工知能の世界では、しば
しばその埋め込まれるべき高速搬入の知識でも、コンピューター同士で勝手な話し合い
をして正確さを要求し、誤動作を誘導したりする。今流行りの仮想コインやら、サイバ
ーテロやウイルスで行われる多くのプログラムは、その振れ幅で確実性を試す為に共に
組み入れられるミスシュートのトラブル防止システムの悪用である。電脳世界では計算
は完全に行われ例え人工知能で映像記憶の仕組みを取り入れても、AI学習でもミスは
許されない程に複数計算されて一回でも同じ答えが出なければ答を出さない。コンピュ
ーターの計算は、その為基本的にOSのプログラムのその上の機械的処置として複数計
算を同時進行してもその答えが一緒である。この確認は常に行われる。その性格そのま
まに実は進化した。従って車の自動運転でも或いは認識の自動記憶も勝手にネットワー
クで確認するようだ。つまり逆に電脳世界では個性を出すことが能力となるが、それが
出来ないでいる。当然である車の保護プログラムもエンジン能力と操作やタイヤ回転な
ど幅はあっても規定して管理するのがシステムというものだ。決して軽自動車にトラッ
クエンジンを付けるなんてことは、不可能だから機械は発想も行わない。しかしそれが
誤動作の元となる。今や正確さのそれを壊す事が進化となったのである。人間は逆に、
システム化を学習する規律として行う。それにより進化とした。モノハン事件ではその
分枝点であった。その頃にアメリカ社会に起こった異変があった。ニューヨークを始め
、チャイナタウンが林立して抗争を初めて、アメリカ国内にアヘンが蔓延していたので
ある。まるでゴミ溜めの様な一角が強力になって、行政の息詰まりが始まっていた。彼
らは阿片を持ち込みタバコの様に習慣として吸った。当初そんなに大した事は無かった
。米国政府は、今の禁煙の様にチャイナタウン撲滅の為に対麻薬撲滅キャンペーンを張
った。実はコカインやアヘンは精製さえされなければ、決して危険な物にはならなかっ
たし常習性のみが問題だっただけだった。しかし精製されキニーネが出来モルヒネが広
がるとそれは違っていた。又司法当局もチャイナの奴隷の一掃には、この麻薬取締法は
欠かせないものとなっていた。しかし、同じアジアの日本人はそうした麻薬の法律には
かからなかった。それが戦時中の米国に唯一現れた日本人収容所の理由である。中国人
や朝鮮人は簡単に捕まえられたが、日本人には効果が無かった為、新たに排斥法を作っ
たのである。

1193: 名無しさんAA:18/08/16 10:45
 ある意味半藤一利さんが「絶対悪」と酷評する元陸軍参謀・辻政信のような人物が出
てきて戦争に導いた歴史の流れは、逃れようのない運命ではあったろう。「辻さんは強
いですよ。徹底的に言うから。ちょっとでも消極的なことを誰か言うと、どやし上げる
から辻さんの前では、みんなまともにものを言わない。軍司令官だって師団長だって、
みんな黙ってます。すると軍の方針が辻さんの言う通りにだんだんなっていくんですよ
。」と言った。この集団化し強権化ピラミッドを作る群衆の心境は、今でも変わらない
人の中にある葛藤かもしれない。集団化した社会では、規律が無ければ収拾がつかない
。ところが規律を作れば個人の多様化した思考は保てない。ある意味会議や民主主義は
この多様化で他人の知恵をも借りてでも未来の幸福社会を創ろうと言うシステムでもあ
る。第一次モノンハン事件があった頃までは、日本は米国以上の民主国家だった。何故
なら軍法会議でも作戦会議でも或いは戦地の前線すら一兵卒すら意見できる集団だった
からだ。だがその後大戦前夜頃は軍が総動員令をかける頃は、上司は絶対的権力者に、
変わっていた。モノンハン事件の途中に損害が遥かに大きかったソ連軍には続々と援軍
が到着していた。対して、第23師団に満州全域の各部隊から抽出した4千名の補充兵
が到着するのはまだ先のことで、関東軍は第23師団が現状でこれ以上の攻勢を維持す
るのは困難であると考え、総攻撃2日目に第23師団に対し陣地を構築して防衛体制に
入れと命令した。この命令を主導したのも辻であったが、辻は満州の自然を熟知してお
り、「満州近辺の冬は零下51度にもなる。9月には降雪が始まる。そんな状況で攻勢
作戦をとれば冬越えの準備が疎かとなり、兵士は戦ではなく寒さに凍え死ぬことになる
。」と意見具申し、この作戦の大転換を決めてしまった。既に銃弾が尽きた関東軍には
新たな軍団編成が必要と判断し第6軍を送った。しかし6軍の幕僚らはノモンハン戦に
は当初から関係している人物はおらず、又参謀すらも関東軍参謀20数名の横滑りした
参謀すらなかった。参謀長の藤本鉄熊少将は朝鮮の航空団団長から転じてきた航空畑の
人物だったのだ。これまで主導してきた辻は「破れそうな茅屋を、雨漏りのままで譲る
。」という事を書いている。中間司令部ができたことにより「軍の自主性を尊重しよう
」という建前で、戦局が悪化するノモンハン戦から離れて、東部国境に出向している。
「関東軍は大局的な視点に立った事件の収拾に注力するため。」との意向だったが、し
かし、軍編成にあたって、関東軍司令官植田などから第7師団を追加するという提案も
辻ら作戦課参謀が「関東軍唯一の戦略予備である第7師団を極東ソ連軍が全面的に不穏
な動きを見せている今、軽々しく動かすべきではない。」と言う意見や「築城と冬営設
備の輸送を続けているため、これ以上の輸送量が増大する方策は不可」という反対意見
を主張したため見送りとなっていた中の交代だった。

1194: 名無しさんAA:18/08/16 10:46
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  239 >   
 第一次モノンハン攻撃事件以降に、この戦地の戦略を重要視したソ連軍は、7月末よ
り、大反転攻勢に向けて入念な準備を開始した。まずは、五万五千トンにも及ぶ膨大な
軍需物資をピストン輸送した。ここでシュルテンは見事な手腕を発揮した。膨大な物資
の輸送を円滑に行う為の偽装策まで練った。またザバイカル方面軍から7月末に第57
狙撃兵師団に第6戦車旅団、8月には第152狙撃兵連隊第1連隊と第212空挺旅団
などが次々と増援部隊として移動を開始した。モスクワでは最終的にジューコフが要請
してきた以上の3個狙撃兵師団、2個戦車旅団、3個装甲車旅団を増援として送り込ん
だのだ。増援の兵員数だけでも総勢三万名以上となったが、このあまりにも多い物資と
兵員の輸送量に対して、一部の狙撃兵部隊は、徒歩でノモンハンまで行軍させられた。
7月末からのソ連軍の増強は、実質増援を全くしなかった日本軍と好対照の戦力増強で
あったのである。ソ連軍は総攻撃作戦準備として3週間に渡って、その意図を気づかれ
ないに様々な欺瞞工作を行っていた。陣地構築中の日本軍に対し砲撃と小規模部隊によ
る攻撃を繰り返したし増援以外の兵を集めたりデマを流したりした。特に8月1日〜8
日にかけ行われた第149狙撃兵連隊と第5狙撃兵機関銃旅団による攻撃では、欺瞞の
攻撃とは思えないほどの強力な攻撃であり、準備砲撃では「生きとし生けるもの全てが
掃滅」されるほど激しいものであった。その為いずれの攻勢もソ連軍が大損害を被り、
撃退されている。日本軍はこの攻撃により、大規模な偵察攻撃に慣れてしまい、大部隊
の移動に警戒が薄れ、総攻撃部隊の移動を見過ごした上に、両翼の兵力を中央に集約す
る動きを見せ、ソ連軍は「攻撃は失敗ながら、日本軍司令部の判断を狂わせた。」と、
対照的高評価している。小松原はこのソ連の欺瞞工作を見抜けずにいた、日記にも「噂
されし8月攻勢の企画も見えず。戦場概して平穏なり」、「戦線平穏」との記述が散見
され、第23師団司令部の情報記録もソ連軍総攻撃前の記述にも「特に変化なし、平穏
なり」、「コマツ台上羊群の放牧せるを散見せり。」という緊張感のないものである。
ソ連軍の作戦は、中央を歩兵攻撃し、正面の日本軍を集めて、両翼から装甲部隊で敵を
全面包囲しようとするものであった。具体的には、魚の獲り網の様な作戦で捕虜収穫の
目的のようなものだった。だがシェフニコフ大佐が指揮する左翼の北方軍が、フイ高地
の捜索隊を攻撃して南東に進撃し、ポタポフ大佐が指揮する右翼の南方軍は日本の第71
連隊を攻撃してハイラースティーン(ホルステン)に向けて北進し、南方軍と北方軍と
で日本軍を包囲するが、共に充分な人員と戦車や銃弾が供給されていた。両軍が包囲を
完了するまで、ペトロフ准将が指揮する中央軍も又それだけでも威力のある兵力がつけ
られた。

1195: 名無しさんAA:18/08/16 10:53
 総攻撃に投入されたソ連軍の兵力の合計は なんと兵員5万2千名、更に戦車438輌
、装甲車385輌、76 mm以上の重砲・野砲292門、高射砲87門、対戦車砲130門と圧倒的な
もので、兵員数でだけで5倍、火砲4倍以上、戦車に至っては日本軍は全く持ってなく
その戦力差は歴然であった。日本軍は一部前線部隊を除けば、完全に不意打ちを食らっ
た形となった。第23師団はソ連軍の意図を読み取ることが出来ず、3方面の攻撃につ
いてもどこが攻勢の重点が見極めることさえできなかった。さらに今までも、何度も繰
り返してきたように敵戦力を過小評価し、攻撃開始日の夕刻に小松原は反転攻勢の準備
を下命している。しかし、これは小松原の独断ではなく、ソ連軍の総攻撃があった場合
には、ソ連軍の重点攻勢地点を逆に日本軍が側面迂回して、後方を遮断し一挙に殲滅さ
せるという、従来からの関東軍以下第6軍、第23師団の共通の方針であった。関東軍
の作戦参謀らも「我の最も好機は、敵が攻勢に転じたるものにして、この機会において
敵を補足し得るものと信じたり。」考えていた。しかし、ソ連軍の総攻撃を「我の最も
好機に敵が攻勢に転じたる」と思った理由が第23師団正面の陣地は逐次強化されてい
て、相当の兵員や銃器強度を有していると期待された、現地興安軍も代わって指揮官が
日本人である満州軍石蘭部隊が陣地防衛に参加し、第7師団の森田旅団の歩兵2個大隊
砲兵1個大隊が戦場付近に警備として常駐、速やかに戦闘に参加できる態勢がある事を
前提としていた。しかし現実は、陣地築造はソ連軍の妨害で工事進行度はいまだ3分の
1も未達成、満州石蘭部隊は、ソ連軍攻撃を受けるや直ぐに日本人指揮官を殺害して、
ソ連軍に参加し、森田旅団程度の戦力の追加では焼け石に水の大戦力の攻勢であった。
この関東軍の情勢分析などは実情とは、全く大きく乖離していたのである。ノモンハン
事件では、日ソ両軍ともに偵察活動が不十分で、お互いに誤った情報による作戦ミスを
犯している。ソ連軍も総攻撃の際も同じ轍を踏んでおり、攻撃に際しての偵察活動もお
粗末であった事は日本軍にとっては幸運だった。ノモンハンから離れていた辻だったが
不慣れな第6軍参謀らはこの時「関東軍本作戦の主任参謀たる辻少佐出向を望んだ。」
といわれる。8月23日に関東軍司令官植田の命令で再度ノモンハンの前線に派遣され
ることとなった。北方軍の 兵員約6,000名、戦車200輌、装甲車123輌に対し、向い立つ
井置捜索隊には800名の兵と 少数の火砲しかなかったが、北方軍は大苦戦を強いられた
。陣地攻略に絶大な威力を発揮する化学戦車を先頭に、ソ連兵は「ウラー」と喚声を上
げながら突撃し塹壕に大量の手榴弾を投擲してきた。塹壕を巧みに活用した日本兵によ
って、陣地内の塹壕に化学戦車が擱座すると、日本兵が得意の白兵戦に持ち込んで、ソ
連兵を銃剣突撃で圧倒し大損害を与えて撃退するといった一進一退の攻防が終日に渡っ
て繰り広げられた。

1196: 名無しさんAA:18/08/16 11:06
こうして日本軍はソ連軍のフイ高地防御防衛は成功していた。北方軍スターク少佐戦死
を含む大損害で、フイ高地を訪ねてジューコフは、これ以上の作戦の遅れは容認できな
いと予備兵力全てをフイ高地攻略に投入することにした。それを知ってシュテルンが駆
けつけ「無理をせず一息入れて、2〜3日かけて準備し再度攻撃せよ」と勧告した。が
、ジューコフは「戦争に犠牲はつきもの、特に頑強な日本軍相手であれば当然のこと、
3日も延期すれば、途方もない作戦遅延と損害を出す、貴方の勧告を受け入れたら損害
は10倍にもなる。貴方の勧告が命令なら書面にしてほしい、もっともそんな命令書は
モスクワが拒否するはず。」と突っぱねた。この後にジューコフは国防相のヴォロシー
ロフに手を回しシュテルンに何らかの助言で勧告を取り下げている。結局ジューコフが
正しくあったが、シュテルンは、戦後に「予備部隊については、これは理解できない作
戦だった。」と報告書に記述している。フイ高地攻略に手間取った軍司令シェフニコフ
大佐を更迭し、新たにアレクセンコ大佐を司令官に任命し、予備部隊の212空挺旅団899
名と第9装甲車旅団1,809名を追加投入して、猛攻撃を加えてた。既に戦力差は10倍以上
となっていたが、それでも井置捜索隊は弾薬尽きるまで戦い続けた。その頑強な抵抗は
戦後の報告書に書かれている。24日に八百名の兵員は、既に内戦死182名、負傷183名で
、半分兵員が死傷していた。食糧・弾薬も尽きて指揮官の井置は拳銃で自決しようとし
たが、部下に制止され、24日の16時に日本軍としては殆ど前例がない独断での撤退命
令を出した。残存兵269名は勇猛にソ連軍の重包囲を掻い潜り、オポネー山まで撤退
した。散々ソ連軍を足止めし大損害を与え、「ジューコフが指揮官なら勲章を授けてい
ただろう優秀な指揮官」の働きした井置だったが、本隊に来ると独断撤退を小松原や辻
から責められて、ノモンハン戦停戦後9月16日に自決する。小松原は第8軍をソ連軍
の猛攻撃の中で反転攻勢の準備を進める指令を出した。増援の第7師団森田旅団が敵主
力を引き付けている間に、第23師団主力がソ連軍の側面に回り込むという作戦を主張
した。が、安全策で大きく迂回しハルハ河まで追撃するとした第6軍案があり、対立し
決まらなかった。丸1日作戦が決まらず砲兵団の畑少将も加わって激論し、結局上部組
織の第6軍の案が採用されて敗戦に向かう。やっと各部隊に伝達された時は既に応戦し
て3日目で動けなかった。作戦では諸連隊の中央をあわせて右翼(北)を進んで、森田
少将率いる南の歩兵隊が左翼(北)を進撃し、ソ連軍主力で南方から日本軍を包囲しよ
うとしている南方軍を逆包囲する作戦で攻撃開始は翌24日と決められ、攻撃計画が決定
した後23日午後に関東軍司令部から派遣された辻だった。道中ソ連軍戦闘機や砲撃によ
り命からがらがら前線司令部に辿り着いた時、司令官の荻洲はウィスキーを飲んで、辻
に「君一杯どうかね、明日の前祝に」と語りかけるなど余裕綽々であった。

1197: 名無しさんAA:18/08/16 11:08
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  242 >   

翌日には、攻撃参加予定部隊はすでにソ連軍の猛攻で防戦一方で、攻撃開始し前進どこ
ろの事ではなかった。既に動ける部隊は歩兵連隊の合計5個大隊となり、予定の9個大
隊の半分に満たなかった。更に支援の砲兵の展開も間に合わないと知らされ攻撃開始の
直前に、フイ高地から全滅したことが知らされた。辻は「何たる幸先の悪さ」と考えた
が、悪いのは幸先ではなく、第6軍や第23師団の戦況や敵状を探索せず、兵力を無視
して立てた無謀な作戦計画そのものであった。前線の指揮官や下士官は、この攻撃が全
く無茶な事は十分に認識した者は多くいた。第72連隊の平塚少尉が小倉第2大隊長へ
「このままやったら全滅ですよ」と話しかけ、小倉は「おれもそう思う」と返事をして
いるのが常識として無駄な戦いと知っていた事を物語る。攻撃は9時開始と司令され、
戦車を含む重武装の第57狙撃師団第80連隊が守る780高地(ヤレ高地)に向かって
白昼堂々と4〜6kmも突進するという近代戦では考えられない戦術すらない古風な作戦
で始まった。突撃を開始し、ソ連軍の圧倒的な火力で日本兵はバタバタと倒されていっ
た。小林少将、酒井連隊長、小倉大隊長などの指揮官・部隊指揮官も負傷し、8月24
日のわずか1日で、第72連隊の損害は戦死324名、負傷377名にも上った。正に玉砕死
闘で死傷率50%である。連隊が壊滅状態に陥ったのは当然だった。一方攻撃を受けた
ソ連軍の損害は、公式戦史では死傷285名、戦車4両撃破と、日本軍の損害の3分の1と
発表されている。しかしこの公式戦史は、実際に被った損害の約3分の1の記述であっ
た事が、後にグラスノスチによるソ連軍公文書解析で判明しており、実際は日本軍と同
じぐらいの損害を被っていた。攻撃に同行していた辻はこの状況に、独断で『師団命令
』を出して攻撃を中止させた。実は辻にはそんな権限はなく越権行為であったのだが、
小松原からはその判断を感謝され不問にされている。事実小松原は無能の戦武将だった
。同時に攻撃していた左翼の森田兵団は、全く同に、有り余る重火器展開で撃退された
。しかし小松原は攻撃を諦めず翌25日も攻撃を続行し続け、今度は歩兵第28連隊も
にも5割以上が死んで行った。『ノモンハンでもっとも拙劣な作戦』と酷評された反転
攻勢はこうして大失敗に終わった。この攻勢の失敗は、単に日本軍が大損害を受けたに
留まらず、戦力を抜かれて無駄に消耗した日本軍の防衛線を崩壊させるきっかけを作る
。シュルテンは後にこの日本軍の攻撃を「大喜びでおびき寄せたかった場所」に日本軍
が自らはまりこんできたと評した。つまりソ連の飛んで火に入る夏の虫状態であり、ソ
連の側の待ち構えた蟻地獄であった。

1198: 名無しさんAA:18/08/16 11:09
 この圧倒的な火力兵力のソ連軍と、747や757といった高地を巡って激しい争奪戦を繰
り広げたが、747高地の歩兵第71連隊第3大隊主力が防戦してかなりの被害を及ぼした。
化学戦車を先頭として、守る日本軍兵士には『黒山のような』と形容したほどのソ連軍
は歩兵の大群が何度も攻撃してきたのである。しかし化学戦車はハルハ河西岸で日本軍
歩兵に苦戦させられた経験により安易には日本軍陣地に近づかず、50m離れた場所で
一旦停止しては、火炎放射攻撃してきた。実は日本兵は化学戦車に対して肉薄すると、
火炎瓶や、手榴弾を何個も縛り付けた結束手榴弾を投げつけて機甲師団泣かせの戦術で
応戦してた。戦車が止まれば、土塁の日本兵と、マシンガンを持って戦車の影に潜んで
応戦するソ連軍歩兵とは、高地の至る所での白兵戦をなった。白兵戦展開は2時間戦い
続けようやく撃退している。しかし、尽きる事のないソ連の弾薬に比べ、日本軍は弾薬
・食糧も底をついた。こうして、ソ連軍は次から次と新戦力が攻め込んできて、7月2
2日には各拠点が包囲されてしまっていった。夜には一旦拠点を放棄し、翌23日に第71
連隊は三角山とヒョウタン砂丘に集結したが、第3大隊は殆ど壊滅していたのである。
そこに第6軍司令部より、攻勢移転のため連隊全兵力を攻撃開始位置に移動せよとの命
令が入った。南岸から転進するとノロ高地を守っている南端の長谷部支隊が孤立するこ
とになるため、師団司令部に意見具申したが回答はなかった、やむなく森田連隊長は独
断で第1大隊だけを転進させ主力(第2大隊と残存兵)はそのまま現地に残らせた。が、
しかしただでさえ少なかった兵力が、南端を守るため第1大隊の転出する事は、各部隊
の境界地域が手薄となって、各拠点が孤立して戦うことを意味した。そうしてやっとソ
連の思う様な中央終結で、7月22日にノロ高地北翼に戦車18輌で攻め込んできた。第1
師団から派遣されていた岡崎速射砲中隊は迎撃し、速射砲と火炎瓶などを駆使して13
輌を撃破して撃退した。中には戦車に飛び乗ってツルハシで砲塔のハッチをこじ開け車
内に結束手榴弾を投げ込み撃破した日本兵もいた程勇猛だった。ソ連軍は日本軍の抵抗
が激しいと知ると、確保した『蒙古山』と呼称されたノロ高地至近の砂丘に重砲や野砲
を設置して、至近距離からの直接照準でノロ高地の日本軍守備隊に集中砲撃を行った。
ここでも化学戦車が活躍し、掩体や地下壕から現れた日本兵を焼き尽くした形となった
。長谷部支隊の指揮下にあってノロ高地前面陣地を死守していた梶川大隊は、砲撃が終
わった後に肉薄してきたソ連軍歩兵と、大隊長自ら銃を撃ち手榴弾を投擲するとこまで
追い詰められながら何度もソ連軍を撃退し続けたが、弾薬と水が尽きかけている状況で
は持ち堪えられないと支隊長の長谷部に暗に玉砕を申し出たが、拒否され「なるべく長
く陣地を確保せよ」との命令が届いた。


1199: 名無しさんAA:18/08/16 11:09
 この命令を知った梶川大隊の将兵は、最後の突撃による玉砕を梶川に進言するが、梶
川は「死ぬときはこの陣地で死のう」と部下を諭した。この梶川大隊の勇戦敢闘は後に
アメリカ陸軍戦史部のエドワード・ドレー博士は、「その勇気と頑強さはノモンハン戦
では随一」と特筆表記している。こうして26日にノロ高地の戦況が最後の段階に達する
と、その東方で同様に苦闘していた歩兵第71連隊主力の命運も尽き、連隊長の森田が、
ソ連軍の重機関銃の銃撃を受け戦死した。8月8日に連隊長に着任しわずか18日での出来
事であった。第71連隊は第2大隊遠井大隊長が代行したが、第23師団からの命令で撤退
したため、27日にはハイラースティーン(ホルステン)川南岸からは日本軍が駆逐され
、残る日本軍の拠点は第23師団主力が守るバルシャガル高地(ソ連名レミーゾフ高地)
のみとなってしまった。これまで最前線で戦い抜いた山県大佐率いる歩兵第64連隊と第
7師団歩兵第26連隊の1個大隊で守っていた。またその後方では、7月25日からの砲撃戦
でソ連軍に巨弾を浴びせた砲兵団主力が支援する形で配置されていた。対するソ連軍は
高地全周を7個連隊2師団で囲い、他の部隊は国境線まで進出し、日本軍の増援の進出
を牽制した。27日にはバルシャガル高地の歩兵第64連隊も風前の灯火となっていたが
、このまま第23師団が全滅してしまっては、国際的に日本の大きな不名誉になると考
えた小松原は手持ちの残存兵をかき集めてバルシャガル高地を救援することとした。合
計の兵力は歩兵第71・72連隊の生存者を含め 1,440名であったが、数万の兵力でバルシ
ャガル高地を包囲するソ連軍の包囲を突破し高地まで達するのは極めて困難と思われた
。第6軍は救援を止める勧告した。しかし小松原は勧告を無視し自ら救援隊の指揮をと
ることとし28日に出撃した。一方第64連隊の山県は師団よりの知らせで救援部隊が、
到着すると認識していたが、第6軍の勧告などで出撃が遅れ28日には到着しなかった。
事情を知らない山県は小松原救援隊は敵の妨害によりもうバルシャガル高地には到着で
きないと判断し、唯一砲兵隊で指揮官が健在だった野砲第13連隊の伊勢高秀大佐と協議
し、主力に合流するため29日高地の脱出を命じた。山県の命令で隷下の部隊は同時では
なく時間差を置いて後退しており、小松原直率の救援隊がバルシャガル高地に到着した
ときには既に山県と伊勢率いる主力は撤退済みであった。脱出した第64連隊主力はソ連
軍に捕捉され、進退窮まった山県と伊勢は、ソ連軍の重囲下で軍旗を奉焼した後自決し
た。ソ連軍は撤退したバルシャガル高地に進攻させ、日本軍残存兵が籠る陣地を一つ一
つ虱潰し(しらみつぶし)に殲滅していった。しかし激しく抵抗され戦功をあげていた
旅団司令官ビクターアレクシェビチアミネフが戦死している。こうした日本軍の激しい
抵抗を制して、ソ連軍が完全にバルシャガル高地を占領したのは5日も後だった。

1200: 名無しさんAA:18/08/16 11:12
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  246 >   

 苦労して高地まで辿りついたが、山県らと入れ替わりでバルシャガル高地の左翼陣地
に到達した小松原救援隊であった。しかし、そのまま引き返すことなく陣地を構築し防
衛態勢をとった。辻はその状況を知ると30日に第6軍司令部にかけつけ、そこで司令官
の荻洲が辻に「辻君、僕は小松原が死んでくれることを希望しているんだが、どうかね
君は」と話しかけられたため、辻は憤然として荻洲に「軍の統帥とは師団長を見殺しに
することですか」とどなり、その後に第6軍の参謀らに「誰か若い参謀が決死隊を連れ
て師団長を救出して来い。」と命じた。が、これまでの第6軍幕僚と小松原の感情的な
しこりもあって、誰も反応しなかったため、辻は「よしっ、君たちが行かないのなら、
俺が行く。」と立ち上がるとようやく高級参謀の浜田大佐が自分が行くと名乗り出た。
しかし、敵の重囲下に小規模部隊を派遣しても損害が増えるばかりという結論に達して
、救援隊の救援は出されず、30日に小松原に第6軍より撤退が命じられた小松原救援隊
は大損害を被りながらも31日に敵中突破に成功している。小松原救援隊は大損害を被り
ながらも31日に敵中突破に成功している。しかしながら第23師団の損耗率ははげしく
既に78%にも達し文字通り全滅していた。8月だけの死傷数は八千五百名に達してい
た。一方力押ししたソ連軍の損害も又大きくロシア国防省戦史研究所ワルターノフ大佐
の報告では死傷者数11,205名と日本軍を上回っている。しかし前述の通りワルターノフ
大佐の報告はその後のロシア人研究家たちの調査により過少と判明しており、実際はも
っと大きな損害を被っていたと推定されている。大本営はソ連軍総攻撃前の7月末には
、既に日本政府として停戦を模索していた。東郷特命全権大使は停戦交渉を指示してい
た中で、土居明夫駐在武官は「戦勝の裏付けがなければ見込みは薄い。」との進言し、
その通りに交渉には進まなかった。ソ連も外交交渉による事件解決の希望を持ってはい
た。ソ連軍大攻勢開始直後のに、東郷が樺太問題についての協議にソロモン・ロゾフス
キー外務人民委員代理が会見したが、「日ソ国交の正常化はソ連も希望している。」と
の話で、そのためには国境諸問題(ノモンハンを示唆)を解決する必要があると東郷は
力説し、ロゾフスキーは「日本側から具体的な申し出が有ればソ連は検討する」と回答
している。しかしこれは遅すぎた。ソ連軍の大攻勢で、戦勝どころか第23師団が壊滅
状態に陥っていた状況下で、独ソ不可侵条約の締結は日本の立場を更に弱いものだった
。独ソ不可侵条約が締結された8月23日に、リッベントロップは大島との約束通りに
、スターリンに日ソの仲介を申し出た。この時関東軍も大本営も被害を隠す事に奔走し
全く反省がなかった。天皇も怒っていたがどうしようもなく軍部が強かった。


続きを読む
掲示板に戻る 全部次100 最新50
名前: E-mail(省略可): ID非表示