何でも書こう


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何でも書こう

1: 名無しさんAA:15/02/21 12:29
雑談しましょ

1401: 名無しさんAA:18/09/05 11:31
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 81 
 バルークは第二次大戦中原爆の製造に尽力した。「米国のディズレイリ(英国のユダ
ヤ人首相)」と呼ばれて、アメリカのユダヤ人では最大の権力者だった。バルークは、
第一次大戦中に、1917年アメリカの参戦後間もなく軍需工業院総裁になり、全産業
無制限的統括権を振るう。軍需工場の全て掌握し、バルークはA・A・ハウスマン銀行
の共同経営者になり、1900年、同銀行と手を切って、ウォール街の株式取引所の、
有力な地位についた。一方では、自己資金で株式売買や株式市場の不正操縦により暴利
を稼いでいた。ウィルソン時代には、真の大統領はこのバルークではないかといわれた
程だ。バルークは第一次大戦の煽動に続いて、なんとかアメリカを 対独戦へ引きずり
込もうと狂奔した。彼の場合、単にドイツのユダヤ人救出だけでなく、戦争による膨大
な金権支配力を得ようとしていた。「死の商人」とは、彼のためにつくられた言葉かも
知れない。第一次大戦後、上院の一委員会が大戦の前史的事態について調査し、バルー
クを喚問した際、彼は上院議員J・ハリスの質問に答えて次の如く公言してはばからな
かった。「最後の決定権は自分にあったので、つまり陸軍と海軍とが 所要の軍需品を
供給されるか否かは自分次第だった。鉄道が果たして莫大な輸送に耐えうるか 否か、
連合国が所要の機関車を米国で手に入れることができるか、それともロシアかフランス
で製造させる以外に手がないか否か、それらはすべて自分次第で決まるのだ。」と同時
にまた、「大戦中、自分以上の権限をもった奴がいたかどうか聞くのは愚である」とも
言った。彼1938年、南米からの帰途、ドイツはアメリカ侵略を目論んでいる、ドイ
ツ軍のアメリカ侵略は近い。として対独戦参加の伏線をしいていた。レックス・ジー・
ダグウェルはコロンビア大学教授であり、マルクス主義経済学者として知られ、ソ連と
も近い人物であった。第1次大戦後、国際金融の中心は、ロンドンのシティからニュー
ヨークのウォール街に移った。近代世界システムの中心都市となったニューヨークは、
1920年には人口800万人を超える世界最大の都市となった。ウォール街では、全
盛期のアムステルダムやロンドンの金融街がそうだったように、ユダヤ人が多く活躍す
るようになった。こうして1913年から21年にわたるウィルソン大統領の政権のも
とで、アメリカの社会に大きな変化が起こった。それまでのWASP支配の体制の中に
、多くのユダヤ人が参入したのである。ロスチャイルド家とそれに連携するユダヤ人金
融資本家らによって中央銀行(連邦準備制度)が設立され、アメリカが第1次世界大戦
に参戦したことでユダヤ系軍需産業が発展し、大戦後はユダヤ人の入会を認める外交問
題評議会が開設されるなどして、第二次世界大戦ではユダヤ人が米国の政治・経済に深
く参入するようになっていた。

1402: 名無しさんAA:18/09/05 11:33
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 82 

 レーモンド・モーリーはコロンビア大学教授であり、ブレーントラストの表面的首魁
である。モーリーはニューヨーク州知事フランクリン・ルーズベルトを支持し、1933年
の大統領選挙において、ルーズベルトの顧問団「ブレーントラスト」を組織するため、
コロンビア大学の教授陣を集めた。モーリーをはじめとする顧問団は、ルーズベルトの
ニューディール政策について立案と遂行のための助言を行った。そしてルーズベルトが
大統領に当選すると、モーリーは国務次官補に任命されたのだった。モーリーはルーズ
ベルト大統領を支援し、ニューディール政策の策定に当たった。だが、1933年9月突如
として政府権限拡大に向かい、モーリーは連邦政府に反対し、国務次官補を辞任した。
こうしてモーリーは民主党から共和党へ移り、週刊誌ニューズウィークのコラムニスト
となった。モーリーは保守派の人物としてよく知られるようになり、ニューディール政
策と自由主義を批判しだした。モーリーは、共和党において、ウェンデル・L・ウィル
キー、バリー・ゴールドウォーター、そしてリチャード・ニクソンを支持した。しかし
ルーズベルトが当選した1933年のこの年は不思議な年だった。世界が変わった年と
言っても良いだろう。1月30日に晴れてヒトラーが独首相に就任しナチス政権獲得し
た。しかしこれによって大勢のドイツユダヤ人が前にも増してアメリカ大陸に押し寄せ
た。1884年の移住民が始めたリトルトーキョウも日露戦争以降 1925年 中華料理店
「Chop Suey (チャプスイ)」が開店。チャップリン等の映画スターが数多く常連になっ
て繁盛したが、)1934年日系アメリカ人の若者達が「二世ウィーク祭り」を興して
(世界最大の日系人の祭り)を提唱、開催。翌年、「エンブンマーケット」がオープン
すると、中国人韓国人と日本人を判別できない為に大きな軋轢と共に、排斥運動が起こ
ったのである。この運動と呼応するように、1906年のサンフランシスコ大地震も記憶の
残る中で、日本では、2月23日 - 日本軍、熱河省に侵攻 3月3日‐三陸地方大地震(M
8.1、死者3021名、不明43名、負傷968名 )、3月4日 - フランクリン・ルーズベルトが
第32代米大統領に就任。ニューディール政策始動。3月10日‐米国ロングビーチ(カリフ
ォルニア州)地震 5月31日‐日本が中国国民党との間で塘沽協定を結ぶ(満州事変の終
結)。と日本の話題で賑わい、その上リトル東京の繁盛で政府に羨望があった。1945年
からギフトショップ「文化堂」がこの住所で営業して、送ったのは米国兵士達だったと
言う。10月14日‐ドイツが国際連盟を脱退する事は予測されたが、ナチスの台頭でドイ
ツ人さえ排斥されるに及んで、10月17日‐アインシュタインも米国に亡命したのだ。


1403: 名無しさんAA:18/09/05 11:33
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 83 

 1885年日本人漁民チャールズ・カメこと茂田浜之助は、ロサンゼルスのダウン・
タウン地区1番街340番地に日本食店カメ・レストランを開店した、以降25世帯の
日系人が居住し、日系児童の為の学校も出来、これがリトルトーキョー発祥の基礎とな
った。そこで1888年YMCA(ヤング・マン・クリスチャン・アソシエション:キ
リスト教青年会)が出来た。1906年サンフランシスコで大地震があり、北カリフォルニ
アに住んでいた日系人数千人がリトルトーキョーに移住。初の寿司屋、初の日系人経営
の映画館 「The International」がオープン。アズサ通りにあるキリスト教会で現在の
ペンテコステ派の土台となる集会が持たれるようになり、全米の注目を集める。この頃
の急激な日本人増加からロスでの排日ムードが高まった。とされる。が母国日本でも、
ゾルゲ事件以降特別警察は非常に苦しい立場にあった。2月20日‐作家小林多喜二が
治安維持法違反容疑で逮捕された。その後東京・築地署に留置され特別高等警察の拷問
により虐殺される。1933年9月ソ連籍のドイツ人リヒアルト・ゾルゲが、フランク
フルター・ツァイトゥング紙記者の肩書で来日。近衛内閣のブレーンだった尾崎秀実ら
の協力を得て、日独両国の機密情報をソ連に流したスパイ事件。ゾルゲと尾崎は死刑と
なった。摘発の端緒は伊藤氏の密告とされ、伊藤氏は53年に共産党から除名処分を受け
た。ゾルゲ事件は結構厄介な事件だった。ゾルゲは10月初旬、アメリカ共産党員との
受け渡ししていた、画家の宮城与徳がロスアンゼルスから横浜に着いた事で始まった。
12月下旬、ヴーケリッチの仲立ちでゾルゲと宮城与徳が会談し、連絡体制を構築した
。1934年になって2月11日、天津から大阪に戻った川合貞吉が、尾崎秀実と連絡
を取り、至急組織の連絡体制の構築を要請。2月に、ゾルゲと尾崎秀実が奈良の若草山
で再会。本拠を日本に移したゾルゲと再会し、親密な関係に入った。その物語には次の
ように記されている。「 ゾルゲ諜報団は、各国から送り込まれたコミンテルン・メン
バーに加え、国際共産主義運動の実現に燃える日本人活動家たちによって構成された。
中でもゾルゲが絶大の信頼を寄せた人物、当時朝日新聞記者であった尾崎秀実(ほつみ
)は、近衛文麿首相の側近として日本政府の中枢まで潜り込み、決死の覚悟で、次々と
国家機密をゾルゲに通報していった。その中には日独防共協定、第2次上海事変、ノモ
ンハン事件、そして、最高国家機密である御前会議の内容までが含まれていた。ゾルゲ
は、こうした情報に独自の分析を加えたものを、無線やソビエト大使館員を通じて、モ
スクワのスターリンへ送り続け、やがて、日本の対ソ参戦回避と南方進出の提唱を謀る
べく世界情勢を大きく塗り替えていく。」 と。

1404: 名無しさんAA:18/09/05 11:33
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 84 

 ここには2つの重要な事がある。一つはロシアが国際コミンテルン、則ち国際旅団の
中心会議を持っていて情報の中枢だった事だ。2つ目は日本にやって来たスパイ達は、
およそ日系人で、ドイツ共産党やアメリカ共産党の中に居て帰国した。と言う事だった
。この頃あの無抵抗主義を唱えたマハトマ・ガンジーさえも、イギリス軍に投獄されて
いる時代だった。日本画壇で大正ロマン派の筆頭とされた竹久夢二も1931年(昭和6年
)父が死んで47歳で渡米しその後不況の米国を渡り歩き欧州を回っている。3年後に
帰って来た時は共産党のスパイとなっていたと言われる。闘うコックのジャック白井も
彼は15歳の時に北海道函館の孤児院を飛び出し、年齢を偽って、カムチャツカ航路の
貨物船に雇って貰い船員となり、1929年にアメリカ合衆国に密入国している、其の後も
、ニューヨーク市でパン職人や料理人として働いたが、アメリカ共産党系の、日本人の
労働者団体である「日本人労働者クラブ」に属し、労働運動に身を投じている。1936年
7月、理不尽なスペイン内戦が始まると、彼はアメリカ共産党の義勇兵に志願し、スペ
インへ旅立ち、そして第15国際旅団第17大隊「エイブラハム・リンカーン大隊」に配
属された。しかし、余りにも料理が美味いので、大隊長は彼を前線には出さなかった。
しかし、彼は料理よりは義侠心でスペイン人民の為に立ち上がった人々を救いたい事が
胸の内にあってわざわざやって来たと言う意志である。チェと共にボリビアで闘った、
革命のサムライと言われるフレディ・メイムラ(前村)も1941年にボリビアのトリニダ
ドで生まれた移民の子であったが、1962年にキューバ革命によって提示された、補助金
付きで医療を学ぶ為にメイムラはキューバへ渡ったのに、ゲリラに身を投じた。この時
も理不尽な大国の植民地政策に、ラテン・アメリカの革命的大衆闘争が心打ったからで
あった。たまたまこの日本人移民の息子のボリビアのサムライは、キューバでチェと出
会い、ニャンカウアス・ゲリラに参加し、身を投じたのであったのだ。日本を舞台とし
た大規模なゾルゲ事件と言う国際スパイ事件は、1941年 10月 15日,国際スパイ容疑で
元満鉄嘱託尾崎秀実がさらに、同18日、ドイツ人R・ゾルゲらが警視庁に逮捕された
。しかし新聞記事の解禁は 42年5月であった。ゾルゲはコミンテルン本部の指令で
33年9月に来日し上海で旧知の尾崎らと接することで軍・政府上層部から二・二六事
件、三国同盟、関東軍特別大演習など対ソ情報を入手通諜していた。44年3月15日
東京地方裁判所は非公開でゾルゲや尾崎に死刑を判決し、11月2日に2人は処刑され
て幕を閉じた。

1405: 名無しさんAA:18/09/05 11:34
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 85 

 レーニンによりマルクス理論は、尖鋭な革命思想に仕上げ、 共産主義(communism)
のイデオロギーとし指導した。資本主義を批判し、生産手段の社会的所有をめざす社会
主義のイデオロギーを、マルクスが体系だった社会主義思想として樹立したわけだが。
マルクスは、資本主義社会における搾取と疎外の克服を説き、労働者階級のイデオロギ
ーとして黎明期にあった貧民知的階層の精神的支柱となり人々に受け入れられてしまっ
た。ざくっと言えば、革命にあたっては暴力の行使も辞さず、革命が成功した後には、
後戻りしないよう、前衛政党である共産党が独裁をしいて、共産主義の建設を進めると
いう思想を、国の支配のない活動として流行させたのである。つまり、後に売国朝日と
された朝日ジャーナルや尾崎秀実・日本共産党は、日本を共産化するために、共産主義
革命の具体的実践者として、日本を太平洋戦争に陥れる事に盲進した。自国民の命なん
ぞ虫けら以下にしか考えない共産主義革命の実践は、毛沢東の大躍進政策によっても、
盛んに称賛されている。この時の状態に近衛内閣は辞職した。昭和20(1945)年2月14
日、近衛文麿は天皇に以下のごとく奏上した。「翻って国内を見るに、共産革命達成の
あらゆる条件具備せられゆく観有之候、すなはち 生活の窮乏、労働者発言度の増大、
英米に対する敵愾心の昂揚、その反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、之に便乗
する新官僚の運動、及びこれを背後より操りつゝある左翼分子の暗躍に御座候。」 と
「今をを取り巻く一部官僚および民間有志は (これを右翼といふも可、左翼といふも
可なり、いわゆる右翼は国体の衣を着けた共産主義者なり。)意識的に共産革命まで引
きずらんとする意図を包蔵しており、無知単純なる軍人これに踊らされたりと見て大過
なしと存候。」と。これはドイツもロシア本国との関係で孤立化を深めていた。その頃
仏国との商売で米国の借金を返していた英国や米国は、盛んにロシアとドイツの戦争を
望んだ工作を繰り返していたのだ。その一環としてスペイン国内戦争があった。米国内
に移民としてやって来た白系ユダヤ人達が作ったのは、ユダヤ人用の機関紙だったが、
新聞社として大きく成長すると、大手新聞社の競争でイエロージャーナリズムと呼ばれ
る捏造記事が盛んに増販し、一大勢力となった。そうして起こったのが戦争を煽る記事
だった。そこに起こったのが米西戦争だ。、1898年にアメリカ合衆国とスペインとの領
土の取り合いはキューバまで巻き込んでいた。確かに革命理論は成功したであろう。が
しかし、ゲバラもカストロもメイムラでさえ、そこで戦った理由は郷土愛であり決して
共産主義では無かった。国際旅団の人員と戦う武器が欲しかっただけだったのだ。


1406: 名無しさんAA:18/09/05 11:40
 1900年は米国の賠償金によってスペインは疲弊していた。北米大陸の植民地はお
ろかメキシコやキューバすら手放す事で 植民地の利益も海運の利益も底をついていた
。この困窮においてドイツの対フランス対策として、仏英国米連合軍にスペイン国内は
諜報工作に満ちた国になっていた。既に左派が選挙で勝利し、王制から共和制へと移行
(スペイン革命)しスペイン第二共和政が成立したが、その後1933年の総選挙で右派が
勝利して政権を奪回し左派と右派の対立が続いた。左右両勢力とも内部の統一が図れな
かった膠着状態が続いた。その上に自治州単位の独立戦争の意味合いがあった。経済状
態のいいフランス側につきたい境界を接する自治州。1935年にコミンテルン第7回大会
で人民戦線戦術が採択された左派勢力。この結束が深まり1936年の総選挙で、政府に反
対する立場から棄権を呼びかける無政府主義者は自主投票に転換した。王政復古派共和
制派さらに自治独立派、人民戦線派も議会制民主主義を志向する穏健派と、社会主義・
無政府主義革命を志向する強硬派が存在して、ますます混乱していた。この構図は第二
次大戦の前哨戦とされる紛争になった。第一次大戦後で発展した戦闘機や戦車あるいは
化学兵器や無線など、各国のあらゆる改良兵器の試験場と化したのである。それほど、
各国が独自に支援する色々な部隊が存在した。ドイツは空軍部隊を秘かに送り、英国は
戦車をフランスを通じて送った。ソ連も同じ様に国際旅団を送っていた。それぞれが、
それぞれの任意の義勇軍だった。ソ連はその時最新鋭のAK銃を送っていた。最終的に
マヌエル・アサーニャ率いる左派の人民戦線政府(共和国派)と、フランシスコ・フラ
ンコを中心とした右派の反乱軍(ナショナリスト派)とが争った。反ファシズム陣営で
ある人民戦線をソビエト連邦が支援し、欧米市民知識人らも数多く義勇軍として参戦、
フランコをファシズム陣営のドイツ・イタリアが支持・直接参戦するなどした。戦場を
マスコミ報道が出現し、空前のレベルで人々の注目を集めた。この時小説家のアーネス
ト・ヘミングウェイ、ジョージ・オーウェル、写真家ロバート・キャパらが関わった。
そのため、この戦争は激しい感情的対立と政治的分裂を引き起こし、双方の側の犯した
虐殺行為が知れわたり有名になった。フランコは、ファシズム政権を樹立していたドイ
ツとイタリア王国から支援を受けて内戦に勝利した。その後人民戦線派の残党に対して
激しい弾圧を加え、軍事法廷は人民戦線派の約5万人に死刑判決を出し、半数は処刑さ
れた。特に自治権を求めた人民戦線側のバスクとカタルーニャに対しては、バスク語、
カタルーニャ語の公的な場での使用を禁じるなど、その自治の要求を圧殺した為亡命者
も多かった。だがこの後遺症はつづき、ヒットラーの要請にも応えるものの第二次大戦
に参戦せず議会も王政も残り、国内は空爆など免れている。

1407: 名無しさんAA:18/09/05 11:41
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 86 

 このスペイン内戦は世界を変えた。帰還した兵士や改良を残した兵器が進化し、戦術
や戦略が変わったのだ。ソ連はモノンハン事件と双方で戦ったのだが、日本はスペイン
内戦に関わる事は無かった。しかしその影響で急速に国内諜報員(スパイ)は増えたの
である。又ドイツでも、スペインがカトリックの国であった事から、教会襲撃が始まっ
た。これまでの政権ととナチズムのキリスト教観は大きく違っていて、カトリックとは
相違して、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)員が教会を攻撃する事件もしばしば
発生した。これをうけてドイツのカトリック教会は信徒にナチ党へ参加することを禁止
する通達を行った。1933年ナチ党は権力掌握したが、バチカンがナチ党政府にどういう
対応を行うかが注目されミュンヘンのミヒャエル大司教は教皇ピウス11世の言葉とし
て「貴殿(アドルフ・ヒトラー)はボルシェヴィズム(共産主義)と手を切った。最初
の指導者である。」とヒトラーを賞賛した報道がドイツで行われた。ナチ党政府が正式
に「政府声明」を行い、これをうけてカトリック教徒のナチ党参加禁止令が解除された
。ナチ党政府はこれを「カトリック教会がナチス・ドイツを承認した」と喧伝し一方で
ナチ党員による教会攻撃は激化した。6月にドイツの司教団が具体的なライヒスコンコ
ルダート制定(政教契約)を訴え、攻撃から教会を守ろうとした。バイエルン・コンコ
ルダートの締結交渉の最中にドイツ外務省はドイツ側からの8点の要求をまとめ、ミュ
ンヘンに送付した。1921年1月6日にはこの8点の要求を骨子とした基本草案「デルブリ
ュク草案」が外務省によってまとめられた。ドイツ国首相ヨーゼフ・ヴィルトはバチカ
ン側の要求をまとめることを要請し、11月15日には「バチカン暫定案」が提出された。
当初パチェッリ枢機卿国務長官とピウス11世は「ミット・ブレネンダー・ゾルゲ」(
この題名の「とてつもない懸念とともに」、などと訳されている。)の文書を発出して
回勅された。それには「ナチズムおよびナチス・ドイツ体制が、人種・民族・国家を、
神格化している」と批判したものだった。一方でバチカン側は、カトリック政党である
中央党を支援しており、ドイツ国内において対立関係だがしかし、共産主義者やユダヤ
民族を敵視する反共の観点では両者は共通していた。バチカンとドイツの間で政教条約
(ライヒスコンコルダート)が締結されて、ナチス政府がカトリック教会及び信徒への
保護を行うことと、ドイツ国内のカトリックの聖職者と信徒がナチス政府への忠誠を誓
うことが合意された。しかしナチス政府によるカトリック教会への弾圧・迫害はやまず
、ライヒスコンコルダートが無視される事態がしばしば発生し教会破壊は続いていた。

1408: 名無しさんAA:18/09/05 11:41
 日本国内でも、1937年(昭和12年)の4月ごろから尾崎は「昭和研究会」に入り、「
支那問題研究部会」の中心メンバーとして活躍していた。この「昭和研究会」は軍部と
も密接な関係を持って、近衛新体制生みの親となり、大政翼賛会創設を推進して、一国
一党の軍部官僚独裁体制をつくり上げた中心機関である。尾崎は「中央公論」14年1月
号に「『東亜共同体』の理念とその成立の客観的基礎」を発表した。これに呼応して、
陸軍省報道部長・佐藤賢了大佐も、「日本評論」12月号に「東亜共同体の結成」を発表
する。尾崎は、中国に親日政権を作り、それをくさびとして、あくまで日本と蒋介石を
戦わせようとしたのである。中国共産党は蒋介石を抱き込み、尾崎グループは親日政権
を作らせて、日本と国民党政権をあくまで戦わせ、共倒れにさせて、日中両国で共産革
命を実現しようという計画であった。1940年(昭和15年)6月近衛は本格的に、新体制
運動に乗り出す。しかし、国内の麻生久の社会大衆党、赤松克麿の日本革新党、中野正
剛の東方会などの革新勢力を結集し、 前衛政党的な新政党を結成しようとし、ゾルゲ
のマルクスレーニン研究所に所属したコミンテルン(国際共産党)活動やドイツや米国
英国、仏国、イタリア、中国、朝鮮のどれもが、この尾崎の活動と、似たり寄ったりの
意見や意識の中にあって、日本の軍部を初めとする大部分が疑心暗鬼の中に国賊行為に
振れていった。そもそも中国国民党軍が、共産党軍との闘争を捨てて今まで支援してい
た日本軍と戦うなどと言う事を想定していない上に、本土上陸の玉砕作戦のつもりだっ
たのだろうが、米英やソ連の支援をもらうために、わざわざ出来ている代表政府が支援
して駐留を申し出たまま 国土や国民を犠牲にして戦う事など考えられない清野作戦で
あった。ゾルゲの仕事は、1930年〜33年”社会学雑誌”特派員として上海で諜報活動を
行い、そのとき尾崎秀實(ほつみ)を知り、1933(昭8年)一旦モスクワに帰り、日本
派遣を命ぜられて、ナチス党員に化けて「フランクフルターツアイトゥング」紙の特派
員として来日している。日本での諜報活動網を確立すべく慎重にメンバーを選定して、
メンバーの一人である尾崎秀實が後に近衛内閣のブレーンになっていた。尾崎秀實は、
朝日新聞社の特派員として上海に駐在中に多くの左翼人士と交わり、マルクス主義信奉
者になった。尾崎はアメリカ人左翼ジャーナリスト、アグネス・スメドレーを通じて、
ゾルゲと知り合った。尾崎は国内世論を誘導するだけでなく、和平の動きそのものをも
妨害した。蒋介石以下の国民党首脳部と親しい間柄にあった茅野長知は、上海派遣軍司
令官で、全くデタラメ男の松井石根大将の依頼により、昭和12年10月ごろから日中和平
に乗り出した。松井は孫文の大アジア主義に強く共鳴し、辛亥革命を支援し、インパー
ル作戦ではその行動を止めなかった。優しすぎる戦略のない軍人だったのだ。

1409: 名無しさんAA:18/09/05 11:42
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 88 

 在学中、松井が感銘を受けた思想があった。それは川上操六が唱えた「日本軍の存在
理由は東洋の平和確保にあり。」という見識であった。川上は、日本が将来、ロシアと
の戦争を回避することは困難だと断じ、その防備としてアジア全体の秩序を構築し直す
必要性を訴えていた。そのための軸となるのは、日本と中国(支那)の良好な提携であ
る。こうした川上の思想に接して強い共鳴を覚えた松井は、中国への興味を改めて深め
ていった。陸軍士官学校(9期次席)卒業後、明治34年陸軍大学校に入学した。明治37
年、陸大在学中に日露戦争に従軍した。この時期の松井の同郷の先輩にもあたる荒尾精
とも親交があり、荒尾の思想の根底にも同じ日中の強い提携を思っていた。欧米列強の
侵略に対し、アジア諸国が連携しあって対抗していこうというのがその主張の要であっ
たろう。明治生まれの松井は、特に日中やその他アジアの連携強化により、欧米の横暴
な植民地支配からの開放を模索していた事が分かる。大東亜戦争をアジア開放と、大ア
ジア同盟の構想を考えて居たのは、この頃の日本人の殆どだったに違いない。日露戦争
がそれだけの死と考えをもたらしていた。松井石根大将を含めて、上層部の実力者達が
アジアの開放と同盟強化を真面目に考えて居たのは確かだろう。そんな人達が、韓国や
中国の言う様な「過酷な植民地支配」などするだろうか。また、大東亜会議の様な物を
ワザワザ開催するだろうか。いくら政治宣伝の為とは言え、植民地支配して奴隷同然に
現地民を扱って居たのなら、ワザワザこんな事をやったり、大東亜共栄圏など構想した
りはしない。現代でみれば過酷かもしれないが、当時の仏印のベトナムや英国の香港や
インド、米国のフィリピンと欧米の植民地はもっと酷い有様で牛馬のごとく売り買いさ
れて鞭打ちで殺されていた現実があった。明治40年(1907年)フランスから帰国した
松井は、次の勤務先として清国へ派遣された。これは松井が自ら志願してのことであっ
た。陸軍参謀本部宇都宮太郎は三菱財閥の岩崎久弥に10万円の資金を供出させて、これ
を松井に任せ、孫文を支援するための元金に使わせた。その後も、中国国民党の袁世凱
打倒に協力した。松井は日本に留学した蒋介石とも親交があり、昭和2年(1927年)9月
、蒋が政治的に困難な際に訪日を働きかけ、田中義一首相との会談を取り持って事態を
打開させた。盧溝橋事件以降に昭和13年4月には、即時停戦、日本の撤兵声明発表な
どの合意に至った。近衛首相も板垣陸相も承認して、この線で和平実現に努力すること
に同意して、茅野は国民党政府と接触し、5人の中国代表を東京に派遣することとなっ
た。


1410: 名無しさんAA:18/09/05 11:43
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 89 
しかし、茅野が再び帰国して、交渉の結果を報告すると、板垣陸相の態度は急変し「支
那側には全然戦意はない。このまま押せば漢口陥落と同時に国民政府は無条件で手を挙
げる。日本側から停戦声明を出したり撤兵を約束する必要はなくなった」という話にな
っていた。茅野が「それはとんでもない話だ。国民政府は長期抗戦の用意ができている
。そんな情報はどこから来たのか」と問いつめると、板垣陸相は、同盟通信の上海支局
長をしていた松本重治が連れてきた国民政府の外交部司長・高宋武から直接聞いたとい
う。松本重治は尾崎の年来の友人であり、共に「朝飯会」のメンバーとして近衛首相の
ブレーンともなった人物である。高宋武は、日本側に「国民政府はもうすぐ無条件降伏
する」と伝え、蒋介石には「中国があくまで抗戦を継続すれば、日本側は無条件で停戦
、撤兵する」という偽りの電報を打っていた。この謀略によって、茅野の和平工作は、
水泡に帰してその後、高宋武、松本重治、尾崎らによる汪兆銘政権樹立の動きとなって
いく。国民党副総裁であった汪兆銘は、蒋介石にコミンテルンの謀略に乗った抗日戦争
を止めさせるよう願っていた。尾崎らは、その汪兆銘を担ぎ出して親日政権を作らせ、
それを以て日本と国民政府の戦いを続けさせようという巧みな謀略を仕組んだのである
。近衛首相は、事変が始まった後、早期停戦を目指してドイツを仲介国とする交渉を行
ってきたが、昭和13年1月には新たな親日政権の成立を期待して、「今後国民党政府
を相手にせず」という第一次近衛声明を発表していた。同年11月、近衛は日本・満洲
・支那3国の連帯を目指した「東亜新秩序」建設に関する第二次声明を発表。これは、
尾崎らの「東亜共同体」構想そのものである。まさに「見えない力にあやつられてゐた
ような気がする」という近衛の述懐通り、近衛内閣は尾崎の描いた筋書きに完全に乗せ
られていたのである。尾崎は、当時の近衛の嘱託という立場を利用して政策決定に影響
を加えた。このゾルゲ・グループのもたらした情報はソビエトが対独戦を戦う上では、
不可欠であった。つまり中国戦で日本軍を足止めしておきたかったのだ。この功績でゾ
ルゲには1964年「ソビエト連邦英雄」の称号が贈られた。まもっともこの方法は、日本
が日露大戦時にドイツロシア戦と政権転覆を仕組んだ輩に資金提供した事と同じだった
ゾルゲや尾崎秀実や日本共産党の戦前の反日活動が、反戦平和活動だったなどと言う笑
止千万なことをいう輩がいるようだが、彼らはソ連の野望のための下働きにすぎなかっ
たのである。尾崎は、「東亜に終局的な平和を齎(もたら)すべき『東亜における新秩
序』の人柱となることは、この人々の望むところであるに違ひないのである。」とのべ
ている。つまり大陸の赤化社会が共産革命後に成立するソ連・日本・中国による「赤い
東亜共同体」であった。

1411: 名無しさんAA:18/09/05 11:45
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 90 

 この尾崎と同じに、世界新秩序を標榜したのがルーズベルトであった。1933年5
月2日、下院議員ハミルトン・フィッシュはルーズベルトのブレーントラスト群の中の
レーモンド・モーレー、ダグウェル、モルデカイ・エゼキル、ウィリアム・ブリットの
相互連絡について発表している。ダグウェルは、社会主義者スチュアート・チェーズと
共産主義者ロバート・ダンと協力して『第2回の10年計画下のソ連』を出版したこと
があり、これら3人の学者は密接な関係を保っていたのである。レーモンド・モーレー
は既に1919年にクリーヴランド財団の理事長となっていてコロンビア大学教授をしてい
た。他のルーズベルト政権のブレーンのモルデカイ・エゼキルは、アメリカの農業計画
はユダヤの利益の為に。と言うユダヤ計画の代表者で弟子にラジデンスキーがいた。レ
ックス・ジーダックウェルも同じコロンビア大学教授で、マルクス主義経済学者だった
同じ教壇にガイ・ダグウェルがいた。彼もユダヤ人で、社会党機関誌「新共和」の寄稿
者となっていた、社会主義者スチュアート・チェースと共産主義者ロバート・ダンと共
著で『第2回十年計画下のソ連』を出版、アメリカのユダヤ革命・アメリカのソ連化を
企図していたのであった。モルデカイの名はバビロンから流刑後、エルサレムに帰還し
た人で、エゼキエルは、旧約聖書に登場する紀元前6世紀頃のバビロン捕囚時代におけ
るユダヤ人の預言者の名である。彼らは共産主義化の方向へ進めることに全力をあげて
おり、米国民もロシア人も、両者間に性格の相違点は見出せず、したがって米国でも、
ロシア同様の革命が可能であるという意見をもっていた。これすなわちユダヤ革命の事
であり、共産主義云々というのは所詮建前論であり、カモフラージュにすぎない。次の
問題人物はレーモンド・モーレーである。コロンビア大学に講座をもっており、常にル
ーズベルトの腰巾着であった。1933年5月8日号の『TIME』の表紙を飾ったが
ユダヤ人学者だった。農務長官顧問モルデカイ・エゼキルは、ダグウェルの影武者とし
て農業問題についてはユダヤの計画の代表者であり、米国の農業計画はユダヤの利益の
ために進められていた。戦後日本で農地改革をしたラデジンスキーはポーランド系ユダ
ヤ人であり、彼の弟子で、当時農務省にいたのであった。国務長官補佐となったウィリ
アム・ブリットについては別に述べるが、彼もまたレーモンド・モーレーの親友であり
共産主義者リンカン・ステフェンズの親友でもあり、長らくソ連にありレーニン、チチ
ェリン、リトヴィノフと交渉していた。こうしてルーズベルト政権のブレーンはユダヤ
人が占めていた。スチーブン・ワイズはユダヤ教のラビだったが、アメリカ・シオニス
ト機関の総務として世界新秩序=新共和理論=ニュー・ディールの合言葉の下にいた。

1412: 名無しさんAA:18/09/05 11:54
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 91 

 初代駐ソ大使を務めたウィリアム・ブリットもユダヤ人だ。ブリットは1933年初
代駐ソ大使になっているが、彼の腰巾着が共産党員のリンカン・ステフェンズである。
彼は1917年のロシア革命の時代にはトロツキーと共にロシアに渡り革命のため画策
したのであるが、莫大な資金はアメリカ政府から出ていた。アメリカが「ソ連の助産婦
」ともいわれるゆえんである。これらルーズベルトを囲繞するユダヤ人達がアメリカに
忠誠を誓っていたかというと、大いなる疑問であろう。第二次大戦勃発後、ルーズベル
トは在米日系人を隔離収容所へ入れた。このことに対しては最近、カーター大統領が、
正式に謝罪した。ルーズベルトはこれら日系人に対してアメリカヘの忠誠を強引に誓わ
せようとした。それに対して日系人は、市民権を与えることが先決であると反論した。
全く当然の論理である。一方、ルーズベルト・グループのユダヤ人達は、途中移民でも
皆市民権を獲得しながら、兵役にはつこうとしなかった。このホワイト・ハウス内のニ
ューディール派の特徴をざっと説明しよう。この一派は、特に外交政策においてアメリ
カの国益と直接なんの関係もない欧州戦介入のため伝統的な孤立主義、中立主義を侵犯
し強引に対独戦にアメリカを引きずり込むという「非米活動」を行った。さらに国内に
おいては、200万ドルという当時としては天文学的数字の赤字をつくってしまったの
である。これはルーズベルトの前任の32人の大統領がつくった赤字と同額であるから
、驚くほかはない。このケタ外れの赤字をつくる原因となったのは、階級闘争の激化を
もたらすところの労働組合に対して団体交渉権を与えたことである。資本主義国におい
て大統領が率先して内部闘争を激化させる政策をとることは信じ難いことである。しか
しこれは白昼夢ではない。このことはただこれ自体でも驚くべきことであるが、そんな
ことぐらいで驚いてもいられない。外でもなく、戦後の日本にそっくり持ち込まれてい
るからだ。ばらまき行政の始まりで、米国労働組合に汚職まがいの金をつぎ込んだのだ
しかも国の基本法たる憲法にまで書き込んでいる。ここで2つのことがいえる。1つは
、資本主義国といっても反資本主義的政策を行うことは簡単であった事だ。いま1つは
、したがってアメリカという国も、本国の本来的利害を離れた政策を進めるということ
である。後者の方は単一民族国家である日本では想像もつかないことだ。戦後アングロ
サクソンのアメリカとしての怒りを爆発させたマッカーシズムであるが、この怒りはル
ーズベルトの国内政策における共産主義化傾向で、何よりも対独戦介入を強引におしす
すめた結果でありの原因であった。


1413: 名無しさんAA:18/09/05 12:42
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 92 

アメリカには、伝統的な孤立な中立 モンロー主義というものがあった。ルーズベルト
にとっては、これが最大の強敵であったのであった。そのため、自らが行う政治的工作
とは別に、ユダヤ系で占めるジャーナリズムを 総動員した。その先頭に立ったのが、
なんと今日の日本で平和のチャンピオンの如くたてまつられている『ニューヨーク・タ
イムズ』紙だったのだ。1940年9月27日付の『ニューヨーク・タイムズ』では、
ワシントン支局長の言として、「米国が日本に対してとり得る唯一の道は、経済封鎖で
ある。」と公言し、人道上肯ぜられない近代工業国家へ資源を絶つ行為を米国政府に、
要求している。12月1日の紙上では「米国政府がいよいよ積極的に日本の東亜新秩序
建設に圧力を加えていくだろう。さらにソ連の対支援助も米国の今次の行動により大い
に鼓舞されるであろう。」と、ソ連の捲き込みも狙っていた。また、9月26日の社説
では「支那の抗日戦継続は 太平洋における列強としての米国の利益に、一致する。従
ってこの政策遂行の第一歩は、対支借款増加であり、今回の2500万ドル新借款発表
は米国政府の動向を示すものとして注目される」と公言している。東亜(極東地域)の
禍乱を望む発言であり、「太平洋における列強としての米国」ということは、極東の局
地戦であるはずの支那事変を、世界大戦の規模にまで拡大せんとするものである。9月
3日付では、「米国は日本と事を構える意志もなければ、事実 その理由ももたない。
しかし、米国としては純然たる利己的理由からいっても、日本を現在のまま支那事変に
没頭せしめ、さらに援蒋政策を拡大し、重慶をして引続き抗日運動を継続せしめる方が
米国の利益となる。」として、支那事変の解決を誠心誠意希求する日本をあざ笑ってい
る。マルコポーロ・ブリッヂ(盧溝橋)事件との関係でないのだろうか。1938年6
月17日付のフランスの新聞『ル・タン』は、『ニューヨーク・タイムズ』紙の社説か
ら次の如きものを引用している。「アメリカが、いくら地理的に隔離していようとも、
欧州の戦乱から生ずる結果に対して孤立、無影響であることはできない。どんな中立法
もアメリカ市民がその諸国民(欧州のこと)に好意をよせることに、制肘を加えること
はできない。欧州で戦前戦後の如く紛争が続いている今日では、アメリカの好意と支持
とは、そして結局、又一層の有力な手段とは、アメリカ市民のそれと同様の生活様式を
守っている国々によせられるのが当然である。」これは廻りくどい表現だが、つまると
ころ、欧州のユダヤ人を助けろ、といっているのである。『ル・タン』紙は上の一部を
引用した後、次の如くつけ加えている。

1414: 名無しさんAA:18/09/05 12:43
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 93 

『ニューヨーク・タイムズ』紙の社説は、更に尚、現在の世界情勢に関するアメリカ市
民の感情を次のように表現している。「アメリカ市民は、今やもう戦争を招来するよう
などんな時局に対しても 中立的態度をとり続けることはできない。将来において世界
列国の政治的均衡を 破るに至るような恐れのある局面に対しても 我々は到底傍観者
たる立場を守りうるものではない。我々は、ヨーロッパから、かけはなれているにもか
かわらず、ヨーロッパ国民(その実、ユダヤ人=著者注)と共同歩調をとらざるをえな
いのである。これに対して国務長官ハルも賛同的な意見を、もらして『自分は新聞に 
かような言説が表われるのを目にして アメリカが海外の事態に対して だんだん関心
を深めていることの表徴である。と、見なしたいので、自分もこの点についてはすでに
ナショナル・プレスクラブで言明しておいた』と述べたそうである。」『ニューヨーク
・タイムズ』紙のこの社説は各国に大きなショックを与え、国際ユダヤ勢力が、必ずや
ドイツに対して戦争を挑発するであろうという確信をもたせるに至ったのである。顧み
ると、ユダヤ人リバン・ブランが『ル・タン』紙上で、頭から アングロサクソンのア
メリカを馬鹿にしてかかり、あらゆる手段に訴えても、彼らアングロサクソンの世論を
ユダヤの戦争政策の方向へ転換させることが必要である。と書いたのは1936年11
月27日のことであるが、1938年6月17日の前述の『ル・タン』紙には以上の如
く、ブランを通じて与えられた「ユダヤの大号令」が実行され、実を結んだことが報道
されている。すなわち、ユダヤ人達は以来1年半の間に、アングロサクソンに対して「
諸君達もヨーロッパの情勢に無関心ではいられないのであるぞ」という信念を吹き込む
ことに成功したのである。アメリカが徐々に 欧州の政局へ容喙しだしたのは、ユダヤ
勢力の一大勝利であった。ギリシアのフランス語ユダヤ新聞『ランデパンダン』の、1
938年6月16日号は、肉太活字の見出しで、「アメリカの中立はもはや放棄されて
いる。」と書き、その下で凱歌もどきの得意たる一文を書いていた。ライフ誌の編集長
、ユダヤ人のヘンリー・ルースは「アメリカの世紀」という論説で次のようにいってい
る。「我々はもう戦争に参加しているのである。我々はアメリカの領土を守るために、
参加するのではない。我々がこの戦争に加わるのはアメリカを防衛するためといい張る
ことはできないはずである。それ故、我々の直面している問題は生存上の必要に関する
ものではなく、ほとんどもっぱら自由選択と打算の問題である。」

1415: 名無しさんAA:18/09/06 04:16 ID:IEM
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 94 

 東条英機は1920年(大正9年)8月10日に陸軍歩兵少佐に昇任し、1921年(大正10年)
7月にはドイツに駐在した。この時 同年10月27日に南ドイツの保養地バーデン=バーデ
ンで永田・小畑・岡村が結んだバーデン=バーデンの密約に参加した。だがこの時岡村
は既に共産党員だった。これ以前から永田や小畑らとは勉強会を通して親密になってい
たという。岡村寧次(おかむらやすじ)は、1914年(大正3年)から参謀本部で勤務し
、同6年には北京駐在員として中国勤務を経験している。この頃に北京に暗躍していた
共産党員はかなりの者達が多かったからだ。この斡旋で1921年(大正10年)6月から、
半年間欧米に出張し、つぶさにユダヤの実態や共産党の洗脳を受けていた。1921年(大
正10年)の欧米出張の際には10月にスイス公使館付武官永田鉄山・ロシア公使館付武官
の小畑敏四郎とドイツのバーデン・バーデンで合いこの密約を結んだと言われる。とこ
ろが1921年には、日本にとってもう一つ大事な事件があった。天皇の訪門である。
3月3日‐日本の皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)がヨーロッパ歴訪に出発し、実は裏で
大掛かりに護衛なり親衛隊がついて回った。皇太子裕仁親王の欧州訪問自体は短期間で
であり、何事もなかったので問題はなかったが、ポグロムからの離脱や世界政府の陰謀
論者、シオニスト達すべてが極東の島国日本というのを目にした瞬間であり、この時か
らアメリカもロシアも欧州各国も日本を利用しよう企んだ事は間違いない。特にドイツ
は、例にもれずいち早く中独合作で、中国への物売りに熱心になり銀行まで中国に作っ
て極東軍需に力をいれる。3月4日 - ウオレン・G・ハーディングが第29代米大統領に
就任したが最初の現職上院議員であり、実力派大統領として期待が高かった。しかし、
在職中に死去した6人目の大統領となった。彼は初めて論壇から出た議員で有能な演説
家で名をはせた。ハーディングの保守主義、そして『敵を作らないでください』という
選挙戦略は、名実共にアメリカ人の心中を表現し、彼を1920年の共和党全国大会におけ
る妥協選択の候補となった。「正常」への復帰を約束し「アメリカが一番」というキャ
ンペーンをはり、外国の影響から独立した工業化と強い経済を促進した。しかし、ハー
ディングは、これでセオドア・ルーズベルト大統領以来の議会を支配していた進歩主義
から、離脱した事になった。

1416: 名無しさんAA:18/09/06 04:17
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 95 

 外交政策では、ハーディングは国際連盟への加入を拒み、ドイツおよびオーストリア
と単独講和条約と結び、第一次世界大戦を正式に終了させた。彼は又ワシントン会議を
開催し、世界の海軍力削減を促進し、国際法廷へのアメリカ合衆国の参加を主張した。
内政面では、ハーディングは合衆国における最初の児童福祉プログラムに署名したし、
坑夫や鉄道従事者のストライキに対応した。アメリカ合衆国の失業率はハーディングの
おかげで任期中に半減した。だがしかし、汚職の蔓延る政界の中に、彼を支えた友人に
は「オハイオ・ギャング」と呼ばれた集団がいたし、彼らは進歩主義を標榜していた旧
来のルーズベルト派のユダヤ人達のニューディーラと対抗した。ハーディング自身は不
正行為を行うような人間ではなかったが、能力的にも、決断力に乏しい性格からしても
大統領の器ではなかった。にもかかわらず大統領に選ばれ、最も腐敗した政権という汚
名を歴史に残したことは、ハーディングにとっても、アメリカにとっても悲劇だった。
一連の不正事件のなかでももっとも悪名高い「ティーポット・ドーム事件」では、内務
長官アルバート・フォールがワイオミング州ティーポット・ドームとカリフォルニア州
エルク・ヒルズにある海軍の油田を、内務省に移管することをハーディングに認めさせ
て、その後、油田を民間の石油業者に貸与して莫大な贈賄を受けた。海軍長官も連座し
た。ハーディングが、自分の死後に明るみに出た一連の不祥事をどこまで知っていたか
は定かではない。しかし石油利権については、この頃ユダヤがアメリカ国内に安売りを
仕掛けてバクー油田の油を売り出し、安くなったアメリカ原油を欧州に持って行き巨大
な利益をむさぼっている。ここにロシア共産党が新経済政策(ネップ)の動きが連動し
ていた。ソヴィエト=ロシアからソ連に移行する時期の1921年に、それまでの戦時
共産主義に代わってレーニンの指導で採用された計画経済は、部分的に市場経済を容認
した経済政策を取った。略称として、NEP、ネップと言われる。革命によりバクーの
権益はソビエト預かりとなったが、その後全く高価な原油は売る事が出来なかった。輸
送にも精製にも技術がなかったからだ。この政策転換によってソヴィエト政権は経済の
復興に成功し、その市場経済容認への転換はソヴィエト政権の国際社会での承認へと向
かい、復興の手筈は整った筈だった。しかしネップは、1928年まで継承されるが、
レーニンの死後、権力を握ったスターリンのもとで29年に否定され、ソ連は社会主義
経済建設に向かったのである。

1417: 名無しさんAA:18/09/06 04:37
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   414    > 

イングランド銀行特許状の応募者にはさらにウィリアム・ベンティンクがいた。初代ポ
ートランド伯爵の彼は、もともとオレンジ公ウィリアム家の近習だった。1670年のウィ
リアム最初のイングランド訪問に随行していた。1677年のメアリーとウィリアムの結婚
にいたる難しい交渉を担当して、さらに1688年のウィリアムのイングランド侵攻にさい
しては細部の詰めを行なった。ベンティンクはポートランド伯爵という爵位を授与され
ウィリアムのもっとも信任の厚い外交政策代理人となった。1984年の今日、第九代ポー
トランド伯爵キャヴェンディッシュ・ベンティンクは、英国バイエル社およびドイツの
原子力化学中央共同体の会長である。外交官としても卓越した経歴の持ち主で、1922年
に外務省に入り、パリ会議、ハーグ会議、ロカルノ会議で英国代表をつとめた。1939〜
45年には参謀本部統合情報局議長をつとめ、1945〜47年という重大な時期にポーランド
大使に赴任した。この時期にポーランドは英国の内々の支持によってソ連の勢力下に入
ったのである。このほかのイングランド銀行の特許状への応募者のなかに、チャッツワ
ース邸を建てたデヴォンシア公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュがいる。ウィリア
ム三世へのイングランド王位就任の招請状にも著名した人物である。1702年のアン女王
戴冠式では執事長を果たした。第11代公爵はリズデイル男爵の娘デボラ・フリーマン
はミットフォードと結婚した。その義兄になる現在のリズデイル男爵はチェース・マン
ハッタン銀行の副頭取である。リーズ公爵のサー・トーマス・オズボーンも特許状応募
者である。ウィリアム招請状にも署名している。大蔵卿をつとめ、ウィリアムとメアリ
ーの結婚に尽力した。彼は英国でも最高とされる遺産を残すことになった。ほかにも、
ペンブルック伯爵トーマス・ハーバート、カーナーヴォン伯爵(同時にポーイス伯爵、
ブラッドフォード伯爵)、エドワード・ラッセル卿(1697年オルフォード伯爵を授爵)
、ウィリアム・パターソン、サー・テオドール・ジャンセン、ヒュー・チェンバレン博
士、ジョン・アスギル、ニコラス・バーボン博士、ジョン・ホランド(スコットランド
銀行創立者)、マイケル・ゴドフリー(初代イングランド銀行副総裁)、サー・ジョン
・フーブロンと一族20人、ソロモン・デ・メディナ、サー・ウィリアム・スコーエン
、サー・ギルバート・ヒースコート(ロンドン市長、新東インド会社設立)、サー・チ
ャールズ・モンタギュー(初代ハリファクス伯爵、現伯爵はハンブローズ銀行役員)、
ノルマンディー侯爵ジョン・シェフィールド(バッキンガム伯爵の爵位も保持)、アラ
ンデル伯爵トーマス・ハワード、チャールズ・チャプリン、ジョン・ロック。などなど
層々たるメンバーがこのイングランド銀行の株主として特許状応募者に名を連ねている

1418: 名無しさんAA:18/09/06 04:38
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   415    > 

 日本で日本の中央銀行が日銀券を発行するは「日本銀行」である。しかしこの道筋に
も大きな困難があった。日本銀行の設立は明治である。この時代の日本の中央銀行は日
銀券を発行する「日本銀行」であろうとした。しかし、この時代の支配者は英国であり
、明治維新そのものが英国による「演出」であった。戦後になって米国が日本を支配す
るようになると、戦後直後の日銀総裁が就任に占領軍の承認を得ていたことからも見え
るが、日本銀行は米国の意思を強く反映する機関でしか存立し得なかった。しかしこれ
は何処の国もそうだった。支配者が英国から米国に代わったように見えるが本当は同じ
「勢力」が世界に通貨を発行させていた。ロンドンからニューヨークに活動拠点を移し
た「国際金融ユダヤグループ」が日本を含む「先進国」の経済をコントロールしていた
からである。この「国際金融家」の経済的権力掌握が明確に確立されたのがイングラン
ド銀行の設立にあった。米国の連邦準備制度(FRB)を「私有」し、さらには各国の
中央銀行を「管理」するスイス・バーゼルの国際決済銀行(BIS)を「私有」する事
でその地位を掴んだ。イングランド銀行を「私有」した同じ「国際金融家グループ」で
あると理解できるだろうと考える。同時に、世界銀行もIMFも「国際機関」の名を呈
した「私有機関」である。それは「五輪」も「万博」も「FIFA」あらゆる国際機関
が、そういう名を冠した私物と判断できるはずである。これは先行の頂上君臨であった
。通貨に関しては、まず、イングランド銀行設立の時代の統治者に注目することが重要
だろう。イングランド銀行に独占的な発券権利=通貨発行権を与えたのは、当時の統治
者(国王)とそれ以後の統治者(国王)ということになる。女王エリザベス1世(テュ
ーダー家)が亡くなるとスコットランドからジェームズ6世がやってきてジェームズ1
世として君臨した。スコットランドの王朝はスチュアート朝だったことから、この16
03年がイングランドでのスチュアート朝の始まりである。ジェームズの子であるチャ
ールズが1625年に国王になると、不満の蓄積が爆発し革命(清教徒)が起こり処刑
されてしまう。その後、王政復古によりチャールズの息子であるチャールズ2世が16
60年に亡命先(フランス)から帰国し国王となり、1685年に亡くなると、チャー
ルズ2世の弟であるヨークがジェームズ2世として王位を継いだ。ジェームズは前国王
と同じように親仏派だったと言われている。

1419: 名無しさんAA:18/09/06 04:39
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   416    > 

 このスチュアート朝時代に巨万の富を稼ぎ合って対抗していたのが、イギリス東イン
ド会社とオランダ東インド会社であった。アジア地域の貿易支配で争っていたように、
経済的に全盛期にあったオランダと戦争が行なわれていたのである。世界貿易において
イギリスがオランダを圧倒するようになったのは、この時代のオランダの統治者達が、
現在も存続しているドイツ起源のオラニエ家(オレンジ公)を担いだからである。ジェ
ームズ2世のときに起こったのが1688年の「名誉革命」でジェームズ2世はフラン
スに亡命(追放)した。このときオランダからやってきたのがオランダ総督オレンジ公
ウィリアム(オランダ名でウィレム)である。(ウィリアムの妻はジェームズ2世の、
長女メアリー)で姪にあたる。そしてこのウィリアム(3世)が1689年に統治者と
して国王となり、ケンジントン宮殿で死去する1702年まで君臨した。これによって
英蘭戦争を繰り返していたオランダとは「同盟関係」(正確にはメアリーとの結婚から
とも言える)の様になったが、ウィリアムの「敵」であるルイ14世が君臨するフラン
スとの戦いに引き込まれていく。この戦費が借金となりが増大した。フランスとイギリ
スは「スペイン継承戦争」や植民地アメリカ大陸での植民地争奪戦などを起こし「ブル
ボン王朝と名誉革命政権との戦争」と言えるほどしつこく戦った。この戦費の調達先が
イングランド銀行だった。設立は1694年であるからこのときの国王はウィリアム3
世(メアリーとの共同王位)であり、イングランド銀行に発券業務=通貨発行権を与え
た(特許)のはウィリアム3世である。ウィリアムはオランダとイングランドとスコッ
トランドこれら3国の君主になっていたが、イングランド銀行を設立したのは、初代の
大蔵卿チャールズ・モンタギュー(ハリファックス伯爵)とスコットランド人のウィリ
アム・パターソンであった。チャールズ・モンタギューはニュートンの弟子であった。
ニュートンが造幣局長官に就任したのはモンタギューの任命による。また、1695年
にはスコットランド銀行(発券銀行)も創業している。サー・ジョン・フーブロンは、
イングランド銀行創始者で。1632年に7人兄弟として生まれる。フーブロンと他の兄弟
4人もイングランド銀行設立メンバーとなり、1694年にフーブロンが初代総裁となる。
在職期限の1697年まで勤務したが、亡くなるまで管理者として勤続しました。

1420: 名無しさんAA:18/09/06 04:41
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   417    > 

 この時代もうひとつの注目しておくべき事件がある。ウィリアム3世が亡くなって、
メアリー女王の妹アンが女王になったが、この時に1707年にスコットランドと闘争
から進んだ関係が「連合」から一段と強い「合同」にしたのである。これがグレート・
ブリテン王国の成立である。つまり単なる英国から大英帝国そして英国連邦に変化した
。と言った処である。イギリスはスコットランドからジェームズ6世がやってきて、ジ
ェームズ「1世」を名乗って以来スチュアート王朝になったわけだが、これは大きな事
で「同君連合」であり国家としては別々であったスコットランドがイングランドと一緒
のものになった。かつてはスコットランドはフランスと友好関係にあって当然、「外国
人」のウィリアムが国王になることをすんなり認めなかった。この「併合」により以後
のスコットランド(スチュアート朝)はイギリスの歴史に合流したことになる。注目す
るのは次である。アン女王が1714年に亡くなると、ドイツのハノーヴァー家から、
ゲオルクがジョージ「1世」として国王になった。このとき王朝がスチュアートから、
ハノーヴァーにかわったのである。ここから英国はハノーヴァー朝になった。21世紀
の現在もこのハノーヴァー朝(現ウィンザー家)が続いている事になる。ハノーヴァー
朝はザクセン=コーブルク=ゴータという家名を持ち、オランダから独立したベルギー
では、初代ベルギー国王のレオポルド1世がザクセン=コーブルク=ゴータ家であり、
これは現在も続くベルギー王国の起源になっている。上にも書いたように、オランダの
統治者オラニエ家(オレンジ公)もドイツに起源を持つ。甥と姪が縁組しては本家から
養子を取って暖簾を継いだ形とでも言えようか。以上のことから見えてくるのは、この
時代にドイツの元ベルギーの家系に、英国は乗っ取られたということになる。英国に「
寄生」した主体は「国際金融家」としての力も連れて来た。莫大な戦費を必要としてい
た英国に、イングランド銀行は国家の債券を担保に「銀行券」を発行して独自通貨「ポ
ンド」を流通させた。こうして紙幣が発行されたのである。スイスの流れのフラン金貨
が、ここで一掃されるのである。こうして英国の「金本位制」が本格的に確立された。
これは「大事件」であった。商業銀行が金貨を預かり紙幣を渡すシステムになったこと
で何が起こるか。紙幣が流通し通貨として浸透してしまえば、金利目当てに金貨を預け
る人が急増することはあっても、紙幣から金貨に交換する人は殆どいなくなる。「紙幣
システム」が浸透し、それが安定すると、金貨を引き出す必要がなくなるのである。が
それでも、それには金貨の保管と、ポンド発行国の絶対的信用は不可欠だった。


1421: 名無しさんAA:18/09/06 04:50
 この時一緒にできたのがその混乱を納める公開結社だった。(フリーメイソン)とは
厳密には会員の事を指しており、団体名としては英国では「フリーメイソンリー」仏国
では「フランマソヌリ」伊太利「マッソネリア」独逸「フライマウレライ」露西亜「マ
ソンストヴォ」日本「マッソン結社」と呼ばれた。フリーメイソンそのものを友愛会員
とし「友愛結社」ともよんだ。これが紙幣の守り神であった。日本もグランド・ロッジ
が存在し「フリーメイスン」と表記して、友愛結社は金融支配の組合で活動した。管轄
上、独立したグランドロッジが協会として、もしくは一部が(東方社、オリエント、大
東社系)の組合の形で組織された。又、それぞれが下部組織の下位のロッジから成る自
身の管区を管轄を持っている。これらの多様なグランドロッジは、それぞれが認め合い
、あるいは拒否し、境界を形成する会議を持つ。つまり隠れた調整会議の形態を持って
進められた。勿論最高調整員や仲介人は英国国王にあったが、殆どは、その下の大物議
員などで調整出来た。また、フリーメイソンリーの主要な支部には、関連した付属団体
が存在するが、それらはそれぞれが独立した組織であるが殆どが同じ様に組合形態や協
会形態の倶楽部の団体の形を取っている。フリーメイソンリーは秘密結社または、半分
秘密の団体と表現する場合があるが、いかなる団体であれ団体内部の秘密というものが
あり、そうした視点においてフリーメイソンリーは広く知られた公開結社であった。と
フリーメイソンリー側は思っている。しかし会員は全てが勧誘であり、協会存在を公言
する事を咎め、ある時は秘密の暗殺団ともなった。口伝で秘技を伝えた実務的メイソン
の時代はこうして400年間続いた。西洋史に深い関わりをもつ家柄の帝国郵便を担っ
たトゥルン・ウント・タクシス家出身の皇帝特別主席代理は全員がフリーメイソンであ
った。英国グランドロッジ(GLE、グランドロッジ・オブ・イングランド)は1717年6月
24日に設立されて、この日に、イングランド・スコットランド・アイルランド・北アイ
ルランドの4つの既存のロンドンのロッジが合同で晩餐をしている。こうして統括機関
は素早く拡張され、殆どの英国のロッジが結合した。これは選ばれし人達の勝手な賢人
会議であった。しかしここでの意見は猛威を振るい、英国議会は不良商人の巣窟となっ
た。何故ならこの時から、天変地異で瀕死に陥ろうと言う英国預金が業務を行なう銀行
に莫大な量の金貨が「吸い上げられた」のだから。もっと言えば政府に「盗まれた」つ
まり詐欺されたのである。この他国から輸入して流通していた金貨はイングランド銀行
を中心とする金融家が金庫に「吸収」して、国際市場の色々な買収には、各国が個人の
金貨での取引に競り勝ったのである。今世紀の中国と同じである。この国家単位で確保
した金は、マン島に集められ英国は驚異の金融国家として流通紙幣だけで産業革命を果
たしたのである。

1422: 名無しさんAA:18/09/06 05:10
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   419    > 

 その後大いに英国は海外に出た。そしてイングランド銀行は民間銀行であり、イング
ランド銀行を「私有」していたのは預金業務を行なっている商業銀行の金融家達だった
のである。日本は、通貨発行権を金融家に握られることは、なんとしても阻止しなけれ
ばならないと小栗上野介は思った。なぜなら、通貨発行権を国家が握っていれば国家が
通貨(紙幣)を使うことで通貨を供給でき、景気に対して雇用するとか、物を買うとか
給付がとかが出来るが、通貨発行権を金融家が握ると、この紙幣の流通は貸し付けから
始まることになる。からである。これが、藩札藩権のあった日本では解っていたのだ。
こうして英国は通貨供給が利息付きの「借金」から始まるという「経済システム」にな
る。これを日本は危険視して用心深く銀行を創った。しかし英国では逆に権利を売って
王室を守った形を取った。こうして英国王室御用達のイングランド銀行は金融家グルー
プが握ったのである。この結果、金融家は、近代的中央銀行制度を確立しそれを掌握し
たことで「経済システム」そのものを支配する様になったのである。国家=政府への貸
し付けを通じ、政策に影響を与えることで「国民の命運」まで掌握した。我々が生きる
現在の世界は、この「経済システム」の中にいる。この金融家グループが米国は上陸し
て強く防御した「公的な顔」を持った連邦準備制度(FRB)を創設している。FRB
も又イングランド銀行と同じように「公的な顔」をした民間銀行なのだが、名称の連邦
準備制度は民間が所有している。従って「連邦」ではなく株式でもない。又、準備金の
必要がない紙幣を「創造」して発行するので「準備」でもない。中央銀行が出来た理由
は、各銀行のピラミッドの頂点にあり構図的に、イルミナティやフリーメイソン或いは
かつての選民思想を持ったユダヤの民族上位思想の中世の教会思想の延長上の考え方で
バチカンに対抗するその形態を作ったのであった。邦準備制度理事会(FRB)も重要
な存在だが、FRBの中枢は、ニューヨーク連邦準備銀行なのでここを支配する事こそ
が国家の最重要だった。ニューヨーク連銀の初代総裁はベンジャミン・ストロングであ
り、ストロングを総裁に推薦したのは他ならぬモルガンとクーン・ローブ商会である。
あの「ジキル島の会議」にはストロングも又参加しており、クーン・ローブ商会の共同
経営者であるポール・ウォーバーグと、J・P・モルガンの、ネルソン・オールドリッ
チ(ネルソン・ロックフェラーの祖父)が、「ジキル島の会議」の中心にいたのである


1423: 名無しさんAA:18/09/06 05:23
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   420    > 

 1910年11月アメリカのニュージャージー州ジキル島で秘密会議がもたれました
。この時出来た「ジキル島会議」で、この連邦準備制度はポール・ウォーバーグの素案
に沿って創設された。ベンジャミン・ストロングはモルガンのバンカ−ズ・トラストの
頭取を務めていた。そして任命され、ニューヨーク連銀の総裁となったベンジャミン・
ストロングは、イングランド銀行の総裁モンタギュー・ノーマンと強固なつながりを持
ち、英米の中央銀行は連動したのである。ノーマンはヒャルマール・シャハトの親友で
あった。この時代の中央銀行支配者は、ベンジャミン・ストロングとモンタギュー・ノ
ーマン、そしてなんとドイツ帝国銀行(ライヒスバンク)総裁のヒャルマール・シャハ
トであり、この3人は1927年7月に何やら重要な会議を開いていた。このモンタギ
ュー・ノーマンの祖父は2人(父方と母方)とも、イングランド銀行の総裁を務めた。
この時ブッシュ家につながる「ブラウン・ブラザーズ」を支配していたのはモンタギュ
ー・ノーマンその人であった。ノーマンは1944年までイングランド銀行総裁を務め
たが、1944年と言えば「ブレトン・ウッズ会議」である。ノーマンのお友達である
BISの理事だったシャハトは、この時ニュルンベルグ裁判(国際軍事裁判)で無罪に
なっているのだ。こうした各国のといっても民間の、中央銀行制度は各国の政治体制と
経済を支配下におさめ、世界的な金融管理制度を創設した。もちろん日本も管理されて
いた。こうした管理制度の頂点に位置付けられたのがスイス・バーゼルにある国際決済
銀行(BIS)であり、日本銀行が日本政府が過半数の株を所有しているもののBIS
には従うしかない位置にしかない。かつて、日本が民主党政権に変わったが、この立場
や仕組みを理解しなかった首相がいた。鳩山と野田である。鳩山政権は自ら国際会議の
日本ロッジの経営者でありながらその地位を捨てて活動していた。そして民主党の個々
の人間を米国に渡米する事を止めなかった。又野田政権は、あろうことか国際会議や、
このバーゼル機関への承諾もなく日本の通貨の円安に向かわせて政府発表をした。これ
ではいくら円札を刷ろうとも、円安にはならない。基軸通貨はドルでありドルを支えて
いるのはポンドと金だったし、それをもった英国と米国が中東の石油・ロシアの技術・
南米の木材・世界の農産品などを操っていた。中国の元すらも監視下にあったのだから



1424: 名無しさんAA:18/09/06 05:36
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   421    > 
 今でも秘密裏に そして公然と「ジキル島会議」は行われている。11月下旬、米連
邦準備理事会(FRB)の議長交代が決まった後、米南部ジョージア州にあるジキル島
を訪れている。小さなリゾート地の海辺に建つホテルには、やや堅苦しい趣きのままに
部屋の扉に「連邦準備 (Federal Reserve)」と名付けられた小部屋がある。ホテルの
話によると、この部屋は今では時折、食事や会議に使うだけだという。にもかかわらず
、大仰な名前が付くのは、およそ1世紀前の1910年に、大物銀行家らがFRBを設立す
るに及ぶ極秘会議を開いた場所だったからだ。当時の会議に参加したのは6人。米議会
で金融改革を主導したオルドリッチ議員の他にも、モルガン家やロックフェラー財閥も
経済界金融界政界から専門家が集った。ニューヨークからジキル島に向かう列車には、
特別の6人の専用車が用意されて、移動の祭には偽名を使う手の込みようだった。10
日間の会議では、現FRBの骨格となるアイデアが出そろい合意を得た。中央集権を嫌
う国内事情から「中央銀行という名前は使わない」。さらに「独立した15の地域支部
をワシントンで刷札管轄する。」「金融危機時に最後の貸し手として機能するため、単
一通貨を創造して管理する手順を決める」ことなどが、この二大財閥と大物議員と海外
の国際銀行家との合意で決まった。この頃は、連邦制を重んじた米国政府は1世紀前の
当時に、既にドル札の発行権を奪われて中央銀行を持たなかった。その為南北戦争から
の借金の返済は終わらず、「ほぼ15年おきに金融パニックが起きる状態」だった。(
リッチモンド連銀)。利子付き発行債権に、返済額が生産におぼつかなかったからだ。
中央銀行設立には大きな資金力と強力な人材、機転の利く金融資本家が欠かせない。し
かし、国民感情は金融危機を度々起こす民間銀行に、極めて冷たい目を向けて居たのだ
。オルドリッチ氏らはFRB設立法案を成立させるため、同会議を極秘扱いにして民間
銀行が介在していることを隠す必要があった。民間銀行の介在を隠さなければ集中砲火
の非難は予想された。更に新しい共通通貨でなければ、この金融パニックは収められな
かった。FRB設立は1913年だったがジキル島会議の存在はその後20年間も秘せ
られていた。FRB設立は静かに息を潜めて発動していたのだ。しかし大手金融資本が
関与していたことが表沙汰になり、農場経営者ら金融資本家と対立する思想勢力からは
「ジキル島の陰謀」などと強い批判が持ち上がる。その為FRBは金融機関の救済に奔
走した。これが株暴落の原因となった。ある資産家が株を引いたのだ。火が付いた恐慌
の発生を食い止められず、国民全体の信頼も失った。「FRBは米国民ではなく銀行資
本家のためにある」という不信感は、極秘会議発覚と未曽有の大恐慌が重なり、拭いが
たいものになった。

1425: 闇サイトただし一派の報告:18/10/06 20:10 ID:pTo
2018年の10月にて栗山鷹志くんは脳内盗聴器が5年目になりました…

1426: 自由の国?アメリカ?:18/10/06 20:13 ID:pTo

  カ ー モ ン        ベ イ ビ ー             ア メ リ カ
          ♪                              ♪
  cm  ハ,,ハ     cm  ハ,,ハ     cm  ハ,,ハ     cm  ハ,,ハ       .彡⌒ミ      彡⌒ミ
.   l .|ミ n゚ω゚).    l .|ミ n゚ω゚).    l .|ミ n゚ω゚).     l .|ミ n゚ω゚)      ( ゚ω゚ )     ( ゚ω゚ )
    二∋        二∋        二∋        二∋         /⌒         〈 、 \
     )   |       )   |        )   |        )   |     / ./、   ヽ      ヽ \ト、ヽ
    キ .   l.         キ.   |        キ.   |        キ.   l     し'  〉  _l__   ミ ( \_) `┘
      \ \       .\ \         .\ \         .\ \       (____ ヽ    \ \    ♪
 ♪    〉\ \__,

1427: たこ虹にラブ一途♪♪:18/10/11 01:39 ID:QeM
『たこ虹の堀くるみ女子高校生カワイユス♪♪』
https://twitter.com/taco_staff/status/1048585668836749313

1428: 名無しさんAA:18/10/15 09:23
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   422    > 

 しかし、これを可能にしたのは、マン島会議であった。平成23年6月22日財務省
は小さく6月21日(火)【日本時間6月22日(水)】、ロンドンにおいて、日本国政府
とマン島政府との間で「租税に関する情報の交換のための日本国政府とマン島政府との
間の協定」の署名が行われました。と発表した。本協定は、租税に関する国際標準に基
づく税務当局間の実効的な情報交換の実施を可能とするものであり、一連の国際会議等
で重要性が確認されている国際的な脱税及び租税回避行為の防止に資することとなりま
す。と説明している。スノーデンの情報漏えい事件以降、英国と米国は目の敵にして、
この情報公開を塞いでいる。パナマ文書で見る様に、一般人の資産よりは、各国政財界
の大物の公有財産を私有財産に変える手法として、租税回避地の運用が行われている。
実はこの姿は、1800年代から同じ姿である。マン島会議の前にはバーゼル会議があ
っていた。かつて1431年頃は、スイスのバーゼルで開会されたキリスト教の公会議であ
ったとされる。この公会議主義者と教皇支持派の争いの場となって以降に、1897年には
シオニスト会議(しおにすとかいぎ)が開かれ、ユダヤ人代表会議でイスラエル移殖の
討議が行われた。スイスのバーゼルで、テオドール・ヘルツルのイニシアティヴの下に
、シオニズムという語を作ったナータン・ビルンバウムの協力を得て開かれた。目標を
、「パレスチナにユダヤ人のための、国際法によって守られたふるさとを作る」と纏め
られた。パレスチナへの組織的なユダヤ人入植については、オスマン帝国スルタンアブ
デュルハミト2世の許可を得る必要があったが出来る筈はなかった。機構は、粘り強い
小規模移住によるホームランドを形成して、1901年の第五回シオニスト会議でのユダヤ
民族基金創設、ナサニエル・ロスチャイルド(初代マイヤー・アムシェルの三男の三男
)からの資金援助による1903年のアングロ‐パレスチナ銀行創設をし、イスラエル建国
の公金提供をするという戦略を追求した。ユダヤ民族基金は、こうして購入していった
土地をイスラエル建国後の基本法で、非ユダヤ人に売ったり、貸したりできぬようにし
ていく事を決めた。日本での中国民の北海道購入みたいなものだった。遡ること1910年
日本では、幸徳事件(こうとくじけん)が起こっていた。大逆事件の一つであり、明治
天皇の暗殺を計画したとして、全国の社会主義者や無政府主義者を逮捕・起訴して死刑
や禁固刑判決を下した事件であった。明治天皇暗殺計画に関与し、幸徳秋水、宮下太吉
、管野スガ、新村忠雄、古河力作の5名が、実行計画に関与したとされる。宮下は長野
県東筑摩郡中川手村明科(現・安曇野市)の明科製材所で爆裂弾を製造、同村大足で爆
破実験をおこなった。1910年(明治43年)に千駄ヶ谷の平民社で実行計画が練られた。

1429: 名無しさんAA:18/10/15 09:24
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   423    > 

 同時期には米国でマッキンリー大統領暗殺事件、ポルトガル王国でカルルシュ1世暗
殺事件などの無政府主義者、社会主義者、共和主義者によるテロリズムが多発しており
、この事件は国内に衝撃を与えた。政府はこの事件の発覚を受け、跋扈していた社会主
義者、無政府主義者を調査摘発し、根絶を図ったが、この過程で政府による捏造もあっ
たとされている。教科書では、第一次世界大戦の発端は、セルビア青年によるオースト
リア皇太子暗殺となっていますが、オーストリアVSセルビアの戦争はユダヤが煽った
ものとされる。ヨーロッパの戦争に、アメリカからや日本参戦を促し、1914年に勃発し
た第一次世界大戦の前年1913年にアメリカの中央銀行FRB(連邦準備制度)が早急に
、設立された。戦争当事者の各国へ、巨額の戦争資金融資をFRBから送る必要があっ
たからだ。このFRBシステムはドイツやロシアの貸出に対応する為に法制化しようと
、国際金融機関、軍需産業、重工業、輸送機、などを支配する人々が集まり、1910年11
月アメリカのニュージャージー州ジキル島で秘密会議がもたれた。そして、1913年に、
「1913年の連邦準備法」の名の下で、その法案は可決化され、欧州各国に巨額の資金融
資が行えるようになり、翌年の1914年に第一次世界大戦は勃発する事になった。戦争を
行うには、巨額の資金が必要となるのは目に見えていたのだ。その資金を貸し付ける事
のできる巨大な資本を持つ銀行が必要となり、戦争と銀行はセットだった。日露戦争で
は、その戦費はシフを含めて75%を日本はロスチャイルド系金融機関から借りており
、ロシアも又6〜9割を調達した。シベリア鉄道で資金が枯渇していたからだ。勝利し
たのはロスチャイルドが融資してくれたおかげである事を、日本は認識した。そもそも
日清戦争に勝った日本は、講和条約により台湾、澎湖諸島、遼東半島の割譲を受けるこ
ととなったが、ドイツ、ロシア、フランスの三国干渉によって、遼東半島を返還してい
た。この日清戦争すら、ロシアの南下作戦に対応した英国の戦争だったのだから、この
後の、ドイツ、ロシアはそれぞれ膠州湾、旅順・大連を占領した事は許されない事だっ
た。日本は南下の勢いを強めるロシアに強い脅威を感じるようになるが、より以上に脅
威を感じたのは米英であった筈だ。また、ロシアに対する反感も強く、世論も急進化し
、戦争準備に入るが、日本は強大なロシアに対して、国力、軍事力などの差が大きく、
戦争に勝つことは困難であると思われた為日露戦争をそそのかされた。


1430: 名無しさんAA:18/10/15 09:28
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   424    > 

 この時活躍した戦艦三笠は、ロスチャイルドが所有するイギリスの兵器会社ヴィッカ
ース製で作られていた。こうして日露戦争と、バルカン戦争の用意が、1910年に行
われ1914年にはFRBが賠償金受け入れ態勢として完成した。そもそも日本の開国
はこのバルカン地方の戦争、則ちクリミア戦争から始まっていると言う気の長い話であ
る。1853〜56年、いわゆる東方問題は長年の問題であった。「東方問題」以前は
、バルカン半島ではオスマン帝国の統治が行われ「パクス・オトマニカ」(オスマンの
平和)の安定のもとにあっただろうとされる。オスマン帝国によるバルカン制圧当初で
は、イスラームの支配を嫌う住民が流出し、十字軍の遠征など人口減少に襲われたが、
16世紀になるとその統治は安定化していた。この東欧に領土を拡大するオスマン帝国
に対し、オーストリアをはじめヨーロッパ諸国は脅威を感じていた。特にキリスト教の
バチカンは、しかし19世紀に顕著となったオスマン帝国領内での紛争に関連して、ヨ
ーロッパ諸国間の国際問題化した。一般的にサンクトペテルブルクから資本を注入され
債務国となったロシア帝国は、オスマン債務管理局の利権にくいこめずロシア南下政策
を完封された。この時オスマンの衰退に応じて、ギリシャや東欧諸国は民族問題として
独立を求め、欧州諸国はオートリアのとりわけハクスブル家などはそれを支援した。そ
こに中国やスラブ民との戦いでロシアは食い込めなかったのである。この時東欧諸国で
は王家は互いに手を結び神聖同盟を作っていたが、ロシアを欠いた同盟は第一次世界大
戦で粉砕されたが、英仏を入れてこの東方問題は一応の決着をみた形になった。ヨーロ
ッパ社会での体制は、ブルボン王家とハプスブルク公爵家の間の大きな利害対立をイタ
リアで調整することによって勢力均衡は成り立っていた。16世紀末以来の ロシア=
トルコ戦争は、フランス(ナポレオン3世)とイギリスがオスマン帝国(=トルコ)を
支援し、実質はロシア軍対フランス・イギリス連合軍の戦争だった。この戦争はクリミ
ア半島を戦場とし、ヨーロッパでナポレオン戦争後、たったの約40年間だけだが、こ
れまで続いた戦争のない平和な時期を簡単に終わらせ、1848年に終わりを告げてい
たウィーン体制の国際秩序が完全に破壊され崩壊した。唯一、ロシア側に近かったのが
バイキング問題でポルトガル・スペインであり窓口を持ったオランダであった。しかし
、これもイギリスが台頭しアメリカが独立するに及んで世界が変わったのだった。世界
がこうして変わる時、中国は植民地になり、次の標的が日本だった。


1431: 名無しさんAA:18/10/15 09:43
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   425    > 

 ロシアはクリミア戦争の敗北でバルカン、黒海方面での南下政策を一時棚上げせざる
を得ず、ロシア軍の 陸海軍の装備や戦術が、今やイギリス・フランスに大きく立ち後
れている事が露呈させた。一般に「ヨーロッパの憲兵」と思われていた地位は瓦解した
。一方フランスは、勝利の結果、ナポレオン没落以来の低い地位からヨーロッパの強国
の覇者として一角にその地位を取り戻した。このクリミア戦争で遅れを取ったのはロシ
ア帝国だけでは無かった。独立を果たしていないアメリカも同じだった。そこで西欧列
強諸国は東南アジアや南アメリカに権益拡大に走るのである。こうした列強諸国の動き
はアフリカ・南米・極東などは共にいい迷惑な話ではあった。1914年6月28日の
サライェヴォ事件で、オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝フランツ=ヨーゼフ1世と
その政府は、大セルビア主義の民族団体とそれを支援したセルビア政府の領土で皇太子
殺害の補償問題が生じていた。ドイツ帝国のヴィルヘルム2世とその政府から白紙委任
を取り付けた上で、権益に最後通牒を発した。フランツ・ヨーゼフ1世は「君主は神に
よって国家の統治権を委ねられた。」とする王権神授説を固く信じて疑わない人物であ
り、自由主義、国民主義の動きを抑圧し、「新絶対主義」(ネオアプゾルティスムス)
と称する絶対主義的統治者で、新皇帝にとって憲法とは、その内容いかんにかかわらず
、神から与えられた「信念が命ずるままに統治する。」という統治者の義務に背くもの
。と考えていた。統治者=神の意思で憲法=愚衆の声だったのだ。そのためフランツ・
ヨーゼフ1世には法治国家としての契約主義の、自由主義、国民主義の動きを抑圧しよ
うとした。とは言え財政難の中では、多額の財政資金の援助をユダヤから受けて居た。
ヨーゼフの弟マクシミリアンはメキシコ皇帝になっている。スペイン・ハプスブルク家
からの伝統を信奉し、マクシミリアンの養育は 「アーヤ(aja)」と呼ばれるガヴァネ
スによって6歳まで英才教育がなされた。その後の彼の教育はチューターに委ねられた
。マクシミリアンの一日のほとんどが勉強に費やされた幼年時代だった。7歳のときに
は週に33時間だった学習時間は17歳のときには週に55時間まで伸びた。この家庭
教師達の学科は多様であり、歴史、地理、法律、理科から語学、軍事にフェンシングに
外交まで及んだ。また母語のドイツ語に加えて、彼はハンガリー語、スラヴ語、英語、
フランス語、イタリア語、スペイン語を学んでいる。彼が終生賢者として扱われた事か
ら、こうした詰め込みで、一般人も最低でも週40時間の学習が人を作るとされた。


1432: 名無しさんAA:18/10/15 09:58
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   426    > 

 ある意味、宗教では、殆ど自らの自殺する者は悪者で罪人である。としている。そし
て天国には行けない者の烙印が押される。社会建設が出来ないからだ。これによって、
正義の者が生きる事は、艱難辛苦の生活であっても、修行する事は大事で、命を離れさ
せない用意を説く。つまりイスラム教徒の自爆テロなどは、もっての外と言う事だが、
日本の骨格であった国家神道も又同じであって、本来自らの命を絶つことを違反者であ
り教義としては罪人であり辱めの者が自分の命を絶つとしている。良くキリシタン武将
が切腹や打ち首が許されていないとして行われなかったとしている。しかし、本来の日
本の武将たちの持つ生死感も又同じであったのだ。つまり、国家神道の基礎となった、
天皇の軍国主義も、実特攻隊などは 宗教上の教義ではもっとも認めていなことだった
筈だったのだ。昨年の、天皇陛下御即位20周年をお祝いする国民祭典での出来事で内外
の著名人が大勢集まる中、最初に祝辞を述べられたのは駐日ポーランド全権特命大使の
ヤドヴィガ・マリア・ロドヴィッチで流暢な日本語で祝辞を述べている。その中には、
「ポーランドと日本皇室の歴史の始まりは、1925年に朝香宮鳩彦(あさかのみややすひ
と)殿下が、その5年後の1930年には高松宮宣仁(たかまつのみやのぶひと)殿下と喜
久子妃殿下が訪問されたことに遡ります。その際に、ポーランドへのご訪問を迎え入れ
たのが、ポーランド共和国建国の父である当時の国家元帥、ユゼフ・ピウスツキでした
。この両国の交流の歴史は非常に古くから始まりますが、盛んになってきたのはおよそ
百年前からであったと言えましょう。ポーランドは、自国の再生を夢見ながら、日本人
の内に潜む個人主義とは相反(あいはん)した様な、全力を国家の為に傾ける気高い日
本人の精神に感嘆せずにはいられませんでした。…………最後に、古(いにしえ)より
続くある美しい歌について一言申し上げたいと思います。小石が寄り集まって、やがて
巨大な巌(いわお)となり、その長い時の流れの中で巨大な岩に苔(こけ)むすように
、揺ぎなさの神髄を、そして自然に潜在する悠久を私たちに語りかけてくる国歌の「君
が代」で始まるこの歌の、「言葉と調べ」は私たちポーランド人に深い感銘を与え続け
ています。この歌と、田植や稲刈りをなさる天皇陛下、そしてご養蚕をなさる皇后陛下
のお姿は私の記憶に深く刻まれ、そのお姿を思い出しては、純粋で美しい生活の営みや
自然との関わりによる「国民と君主の結びつき」がいかに重要なものであるのか、日々
思考を紡(つむ)いでいる次第でございます。平成の世が千代に、そして八千代に続き
ますよう、お祈りいたしております。」と 挨拶している。これは日本人でも感じない
感想ではないだろうか。

1433: 名無しさんAA:18/10/15 10:48
 1909年の陸軍士官学校21期生の中に樋口季一郎がいた。淡路の廻船問屋の奥浜家の中
で、手代の子だったらしく実家の阿萬家に戻されたが直ぐに樋口家に養子に出された。
その頃は旧来の北周船が政府系の日本郵船と三井商船が積荷の格安競争を繰り広げ殆ど
が凋落の問屋となっていた。樋口季一郎は、陸軍士官学校に行くと共に一方で東京外語
学校でロシア語を徹底的に学んだ。こうして陸軍士官学校を卒業し、陸軍大学校(30期
)を経て、ロシア語が堪能であることで卒業後すぐ1919年にウラジオストクに赴任した
。折しもシベリア出兵の終わる頃だった。明石機関の下で特務員になり満州、ロシア方
面部署を転々と勤務す、1925年公使館駐在武官(少佐)としてポーランドに赴任した。だ
が不幸にも、歩兵第41連隊連隊長時代に起きた相沢事件は、直前まで部下だった者が起
こした不祥事であったため 進退伺いを出して軍人から離れ予備役となる覚悟だった。
しかし、上官の小磯国昭に慰留され、ハルビンに赴任する事になった。小磯国昭は朝鮮
軍司令官を歴任した政治家的にも軍人としても有能な予備役軍人だった。平沼内閣や米
内内閣で拓務大臣、朝鮮総督を務め、大東亜戦争中にサイパン失陥を受け辞職した東條
英機の後継として1944年に内閣総理大臣にも就任している。1944年(昭和19年)に内閣
総理大臣に就任し小磯内閣で、悪化の一途をたどる戦局の挽回を果たそうと画策したが
、軍部の反体制活動で中華民国との単独和平交渉も頓挫し、小磯は1945年(昭和20年)
辞任し鈴木貫太郎に後を譲った。戦後にはGHQによりA級戦犯容疑で起訴され、東京
裁判で終身刑の判決を受けたが服役中に死去している。小磯は太平洋戦争開戦後の1942
年(昭和17年)に朝鮮総督に就任した時、今までの前任者の「内鮮一体」をスローガン
の南次郎総督が行った皇民化政策を、よりいっそうの過激な政策を押し進めたという。
小磯はこの時、朝鮮人官吏の登用を認め、朝鮮人企業の規制を無くし企業推進をした。
朝鮮人達の自らの政治関与の実現などを掲げて、各支配の県令も朝鮮人を認めた画期的
手腕を発揮した。しかし1943年(昭和18年)8月1日国家総動員令に対して、総督府統治
下の朝鮮にも徴兵制度を施行した馬鹿な軍部があった。朝鮮独立について小磯は「今更
、朝鮮の独立を夢みるのは九州や、北海道が独立を企図すると同じで、馬鹿げた意味の
ないこと。」と否定的だったが李斯朝鮮を追われた両班は勢いづいて中国から指令をだ
しレジスタンス運動を過激にしていた。樋口季一郎がユダヤを助けたと称賛されるが、
実は日本人全員がほぼ同じ様に、こうした扇動や虐殺や迫害を忌み嫌っていたのだ。た
だ役目上、此処に名が出て来た軍人が活躍したのであって、日本人全員が中国人の様な
殲滅作戦などは、思いもしない国民だった事は言える。特に同胞を殺しても平然とした
清野作戦など あろうはずはないと思っていた。ところが、中国では常套手段であり、
通常の作戦だったのである。この違いはなんともしがたいものだった。

1434: 名無しさんAA:18/10/15 10:51
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   428    > 

 実は日本は1915から明石機関での1917年のロシア革命までも日本とは繋がり
が既にあった。依然としてロシアに蹂躙されスラブのユダヤの殲滅作戦が取られていた
中に、イエジ・ストシャウコフスキ少年はいた。1925年に朝香宮鳩彦(あさかのみやや
すひと)殿下が、ポーランド訪問したのは、1914年(大正3年)に陸軍大学校(26期)
を卒業し歩兵第61連隊中隊長となって。1922年(大正11年)にフランスに留学していた
からだ。翌年、義兄の北白川宮成久王の運転する自動車が交通事故を起こし、この事故
で成久王は薨去し同乗していた鳩彦王は重傷を負った。怪我の療養のためフランス滞在
が長引いたことで、フランス文化により長く触れることになって療養看護のため渡仏し
た宮妃ととも1925年(大正14年)のパリ万国博覧会(アール・デコ博)を観覧して、同
様式に対して強い関心と理解を示していた程のころだった。実はポーランドはボレスワ
フ1世時代、オットー3世と会談し神聖ローマ帝国の貴族の称号と冠を授け、ポーラン
ドにグニェズノ大司教座に加え、四つの司教座を置くことに合意した。つまりかつては
フランスの一部からドイツ・ベルギー・ノルーウェー・東欧の殆どスイス・オーストリ
アまでイタリアの一部と言う広大な土地を持っていた。キエフ公国と東ローマ帝国が対
立すると東ローマ皇帝バシレイオス2世と同盟を結び、キエフ公国を撃退し一部を征服
し、西に進んでラウジッツを征服し、神聖ローマ帝国領のマイセンを侵略して手に入れ
た。こうして巧妙に立ち回って、征服に抵抗した住民は捕え、奴隷としてイスラム世界
に売り飛ばした。この為、大変恐れられた国王で帝国を打ち立てた名残りを持っていた
。こうしてチェコを征服し、支配下に置き、自らボヘミア公となった。こうして神聖ロ
ーマ皇帝カール4世の時、ボヘミアの王冠を新しく作ってヴェンツェル王冠とし、自ら
をヴァーツラフの後継者と人々に印象付けようとした。そしてマジャル人やクロアチア
人の居留地に侵攻し国王となりポーランド東南部にも勢力を拡大した。従って、1403年
ヴィイプリ創設時の憲章邦訳は次のとおり書いている。「我エーリック、神の恩恵によ
りスウェーデン王、デンマーク王、ノルウェイ王ヴェンデイ及びゴート王、ア・ポンメ
ル連合王は、ウプサラ憲章に述べられた街の諸特権を、街の住人たち、ヴィイプリ交易
地に居住する街の人々に許諾することを、現在当地にいるすべての人々に、更には私達
を継承する人々に公式文書で告知する。…‥‥執行吏、軍人、他のすべての人々は、我
らの恩恵を享受を望み、報復を避けると望む者に対し、何人であれ、それを妨げてはな
らない。上述のとおり、我はこの憲章に証印し封緘する。神聖1403年聖処女マリア天昇
につづく日曜にヴィイプリ城にて祭祀を行う。」と公布しているのである。

1435: 名無しさんAA:18/10/15 10:51
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   429    > 

 ところがボレスワフ2世(ポーランド王)は、ピャスト家出身の君主の中でも有能な人
物と評されていながら、冷酷な王だった。「大胆王・冷酷王」とも呼ばれて、カジミェ
シュ1世とキエフ大公女マリアの息子で、ヴワディスワフ1世ヘルマンの兄であった。
治世の間は国中に教会を建て、1075年にはグニェズノ司教座を再設置するなど威光があ
って、ベネディクト会派修道院を、ヴロツワフ、ルブリン、モギルノに建てる程だった
。ポーランド初の硬貨鋳造をしたりした。1079年、敵対していたクラクフ司教スタニス
ワフを、ミサを挙げているところを捕らえ殺害した。これが発端となって国を追われ、
妻子を連れてハンガリー王国へ亡命するに至った。1082年頃に死んだと伝えられて、埋
葬場所は現在も不明である。その後に、祭祈を司る軍制民主警察隊のクニャージ部族長
が立ち、キング系の称号を冠する称号を名乗った。、クロアチア王(925年 - )、ポー
ランド王(1025年 - )、ボヘミア王(1198年 - )、セルビア王(1217年 - )、 ルー
シ王(1254年 - )などが 百花繚乱で各地に王が並び立っていた。ポーランド立憲王国
でロカルノ条約は、その後の紛争を終結する為に、1925年10月5日 よりスイスのロカル
ノで,イギリス,フランス,ベルギー,ドイツ,イタリア,ポーランド,チェコスロバ
キア各代表が参加してヨーロッパの安全保障に関する国際会議が開催された。つまりこ
のポーランド王の退却死亡は、スラブの混乱の元となったのである。10月最終議定書の
ほか,イギリス,フランス,ベルギー,ドイツ,イタリア5ヵ国のラインラントの現状
維持に関する相互保障条約を締結した。これがロカルノ条約あるいはライン条約と言わ
れる物最初の議定書だった。ドイツとフランス,ベルギー,ポーランド,チェコスロバ
キアの各国との四つの仲裁裁判条約が仮調印され,12月ロンドンで正式に調印された。
基本的にはヴェルサイユ条約を踏襲したものだが、その中にフランス・ベルギーの国境
現状維持と、ラインラント非武装の確認(ラインラント条約)などが含まれ、国際紛争
を軍事によらず仲裁裁判で解決することも含んで人々は平和を希求していた。ロカルノ
条約の締結によりドイツは1926年に国際連盟に加盟。独仏の関係の緩和により、ヨーロ
ッパ全土もこうしてしばらくの間、相対的安定期を迎えることになる。第一次大戦まで
のスラブ諸侯の紛争の、国境維持して、この各国の均衡化したままでここで止める為に
設けられた議定書が効力を発揮したのである。これにより彼は金貨すら発行するほど国
を豊かにする。つもりだった。現に一時的に訪れた平和がこの地を豊かにしていた。こ
の時日本は落ちぶれたカール4世の孫などと白川伯爵が会い、暗殺に似た自動車事故が
起こっているのである。

1436: 名無しさんAA:18/10/15 10:52
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   430    > 

 日露戦争中に、スウェーデン駐在武官の明石元二郎大佐は「明石機関」を設置させら
れ、ロシア国内の反体制派への支援等の活動を行った。この活動は、陸軍における最初
の本格的な特殊任務として、陸軍中野学校の授業でも題材とされた。この種の活動を行
う組織が「特務機関」と称されたのは、シベリア出兵に際して、純粋な作戦行動以外に
生じた種々の複雑困難な問題に対応する必要からであった。1919年には、現地における
情報収集・謀略工作を担当する機関を改めて設置したのは、全くこれまで人種間格差と
いう国際問題さながらの地獄を知らなかったからだ。「特務機関」の名称の発案者は、
当時の、オムスク機関長高柳保太郎陸軍少将で、ロシア語の「ウォエンナヤ・ミシシャ
」の意訳とされる。このとき設置された特務機関の任務は、統帥の範囲外の軍事外交と
情報収集とされた。初期の特務機関はシベリア派遣軍の指揮下で活動し、機関員辞令は
シベリア派遣軍司令部附として発令された。いわゆるシベリア内の現地調査の域を出て
はいなかった。その業務は軍参謀長の監督を受けた。はじめ、ウラジオストク、ハバロ
フスク等各地に設置されたが、戦局の推移にともない改廃・移動が度々なされて、なか
なか一般には把握できなかった。そして猶太問題も同じだった。シベリア撤退が国連の
強制的指導で決められたが、対共産党活動を観察の為に、そのままハルピン特務機関を
中心に、残置諜報者を置いて、ソ連各地で情報収集にあたっていたとされる。1940年に
そのハルピン特務機関は関東軍情報部に格上げされた。それ以外の各特務機関は情報部
支部へと改編された。それら11支部あった情報部支部は1945年8月には特別警備隊に
改編され、日露大戦が終戦を迎えていた、明治期後半から、陸軍は中国各地の軍閥とさ
れた地方政権や北洋艦隊の軍閥に、軍事顧問(団)を派遣していたが、それら軍事顧問
と配下の機関員ら含んで活動した為組織全体を「特務機関」として活動させた。例えば
袁世凱政権・張作霖政権等にも、形骸化した軍事顧問が派遣されて招聘された形を取っ
て入っていた。東南アジア各地においても中国内における軍事顧問と同様の軍事顧問と
いう形での「特務機関」が存在し、それらは反英(英・蘭)反米運動を煽動し、各種の
工作活動を行った。それら「特務機関」に関与した日本人の中には、敗戦においても尚
現地に残り、被植民地民族の独立運動に際し、有形無形の支援を行った例も一部におい
てはあったようだ。例えばインドネシア独立戦争におけるPETA(郷土防衛義勇軍)に対
するそれである。それらを残置諜者と呼んだが、中国の公開処刑や粛清は30万人にも
及び親日家や知日家はことごとく殺されて行った。そうして中国は平和や繁栄を捨てた
国家になったのである。

1437: 名無しさんAA:18/10/15 11:01
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   431    > 

 ハルビン特務機を置いたのは米英の指導であった。ドイツの皇帝が明石機関を各国の
多くに知らしめた為だ。この日本の特務機関を調べる為にシベリア出兵を促したとされ
る。つまり米国は既に日露戦争後は急速に日本対抗を見せていたのだ。ハルビン特務機
関は1917年のシベリア出兵時に、関東都督府陸軍部附として黒沢準少将が駐在したのが
始まりとされるが、実はちがっていて、米国のロシア皇帝の財宝探しに端を発する。と
言うのもロシア皇帝ロマノフの財宝は黄金80トンとされ、その他に翡翠の王冠やダイ
ヤモンドの指輪などがあったと言う。イルクーツク、ウラジオストク、アレクセーエフ
カ、満州里、チチハル等に駐在していた情報将校グループらを統轄したこの機関は一時
、浦塩派遣軍隷下に移り、連合軍下でこのロマノフの財宝探索の為に動き始めた。しか
し見つからず母国に帰った。のち再び関東軍司令部隷下に復帰し、1940年関東軍情報部
に改編された。機関長は情報部長となり、その他の在満機関を支部に改編し統轄した。
ハルビン特務機関は1917年のシベリア出兵時に、関東都督府陸軍部附として黒沢準少将
が駐在したのが始まりとなったが、イルクーツク、ウラジオストク、アレクセーエフカ
、満州里、チチハル等に駐在していた情報将校グループらを統轄した。機関は一時的に
、浦塩派遣軍隷下に移ったが、のち再び関東軍司令部隷下に復帰し、1940年関東軍情報
部に改編された。と言う。機関長は情報部長となり、その他の在満機関を支部に改編し
統轄した。こうして関東軍情報部(ハルビン)に中央本部を置き、間島支部(元・延吉
支部)琿春出張所(こんしゅん)は、高句麗時代には柵城府が置かれ、東方支配の拠点
となって今の北朝鮮に近い最も日本的な支部だった。中朝国境境界線を挟んだ両岸の村
で中心的存在だった。黒河支部や熱河支部は満州国が出来て中国との国境になったが、
地元は本来馬賊の草原だった。通化支部は中国通化事件の起こった所だ。戦後に多くの
居留民が残り「関東軍の軍人が中華民国政府と組んで八路を追い出す」というデマが飛
び交った1945年12月23日、「中国共産党万歳。日本天皇制打倒。民族解放戦線統一」な
どのスローガンのもとで、日本人民解放連盟と日僑管理委員会の主催で通化日本人居留
民大会が通化劇場で開かれた。大会には劉東元司令を始めとする中国共産党幹部、日本
人民解放連盟役員らが貴賓として出席し、日本人居留民3000人が出席した。大会に先立
って、日本人居留民たちは、「髭の参謀」として愛され、その後消息不明とされていた
藤田実彦大佐が大会に参加すると伝え聞いており、大会の日を待ちかねていた。つまり
かつては中国も共産党も仲が良かったので、ソ連共産党工作が始まった。この為に富豪
の猶太人の息子が最初に殺されたのである。扇動に乗ったのが毛沢東だった。

1438: 名無しさんAA:18/10/15 14:14
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   432    > 

 敗戦後の占領下の日本人はソビエト軍による強姦・暴行・略奪事件などにも脅かされ
ていたが、この段階まで日本軍憲兵隊はシベリアに連行されずに治安活動を行っていた
。ソビエト軍蛮行を傍観していたわけではなく、原憲兵准尉などはソビエト兵が女性を
襲っているとの通報を受け、現場に駆け付けるなどしていた。白昼の路上でソビエト兵
が日本女性を裸にし強姦していた為、女性を救おうと制止し、ソビエト兵が行為を止め
ないため、やむなく軍刀で処断した。原准尉は直後に別のソビエト兵に直ぐに射殺され
たほど躾や道徳のない共産部隊だった。これ以降は日本刀も没収の対象となった。更に
ソビエト兵による日本女性への強姦は路傍、屋内をとわず頻発した。女性は外出を避け
、丸坊主に頭を刈る娘たちが多く男装した。日本人居留民会がソビエト軍司令部に苦衷
を訴えていたが、逆にソ連兵は、日本人女性を慰安婦として司令部に供出するよう命令
して来た。思い余った居留民会は料亭で働く日本人女性たちに犠牲となるよう頼み込み
、やっと慰安婦として供出した。ソビエト軍司令部は女性たちが司令部に出頭すると、
朝鮮人兵が素人娘でなければ認めないなど要求し、同行していた居留民会救済所長の、
宮川梅一はこれを拒否し、後日ソビエト軍司令部も折れて朝鮮人を納得させ供出に至っ
た。日本人はソビエト軍進駐時にラジオを全て没収され、外部の情勢を知ることは不可
能となっていた。中国共産党軍は日本軍の脱走兵狩りを行い 600人を検挙し後吉林へ連
行し蛮行の限りを尽くした。こうして集めた後は、ソビエト軍の撤退後、通化の支配を
委譲を中国共産党軍に置いた。しかしこれまでの楊万字通化省長、超通化市長、菅原達
郎通化省次長、川内亮通化県副県長、川瀬警務庁長、林通化市副市長などの通化省行政
の幹部を連行し、拷問や人民裁判の後、中国人幹部を全員処刑した。また、中国共産党
軍は「清算運動」と称して民族を問わず通化市民から金品を掠奪した。9月になれば、
更にひどくなり、中国共産党軍が中華民国政府軍を攻撃し、通化から駆逐した後に10月
23日、正規の中国共産党軍の一個師団が新たに通化に進駐させて奪略の限りをつくした
。11月、中国共産党軍劉東元司令が着任すると、司令部の置かれた竜泉ホテルでは「竜
泉ホテル」の看板が「東北民主連軍東辺道地区司令部」の看板に掛け替えられ、屋上に
は赤旗が掲げられた。11月2日に、中国共産党軍は17,000名を超える日本人に対しては、
収容能力 5,000名以下の旧関東軍司令部への移動命令を出した。中国共産党軍は、遼東
日本人民解放連盟通化支部(日解連)を設立し、日本人に対して中共軍の命令下達や、
中国共産党で活動していた野坂参三の著作などを使用した共産主義教育を行った。この
時の日本軍の死体が今の多くの南京虐殺の写真として掲示されている。それは服で解る

1439: 名無しさんAA:18/10/15 14:15
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   433    > 

その中の日本人居留民たちが嘆願を続けると、中共軍は先に命じていた移動を見合わせ
る条件として、集めて射殺した。これが南京虐殺として流用された。日本人民解放連盟
は、中共軍の指令に従い、日本人男子15歳以上60歳迄の強制徴用と使役、日本人居留民
に対し財産を全て供出し再配分すること、日本人民解放連盟に中国共産党側工作員を採
用することを命じて、ソ連収容所送りの人間を選別した。その後も宮中を襲うと、午前
8時になると、16歳以上の日本人男性は事件との関係を問わず全員拘束され、連行さ
れた。また、事件に関与したとみなされた女性も連行された。八路軍は連行する際に、
日本人を一人一人首を針金でつなぎ合わせて連行した。寝間着、素足に下駄履の者や病
人までも零下二十度になる戸外を数珠繋ぎで行進させられた。通化市から15kmも離れ
た郊外の二道江から連行された人々には途中で力尽きて落伍するものもいてその場で、
簡単に射殺された。この映像に八路軍の連行時の加来繁・田代・森が射殺された写真が
何故だか 南京虐殺として映っている。加来は行進中に倒れると引きずり出されて右股
、胸を撃たれて銃殺。田代の遺骸は事件後に殺害された場所で雪に埋もれた状態で発見
されるが衣服は剥ぎ取られた状態であった。と言う。この頃までにも満州里出張所の下
に、チャムス支部、興安支部、東安支部、ハイラル支部が置かれ、三河出張所の下に豊
原支部、奉天支部、大連出張所、牡丹江支部、綏芬河出張所、チチハル支部、対英用の
インド独立工作における特務機関、などが起かれたが、いずれも上海からの蒋介石夫人
の米英との合作行動や活動を阻止することはおろか、その行動さえも気付くことが出来
なかった。対米開戦前において、日本の陸軍部は同時に対英開戦が回避不可能であるこ
とを想定し、当時イギリスの植民地であった英領インドの対英独立工作を画策し始めた
。その端緒は、タイ王国公使館附武官田村浩大佐の下に 設置された特務機関であった
。1941年(昭和16年)9月に発足したこの機関は、参謀本部の藤原岩市少佐以下10名程
から構成され、機関長藤原(Fujiwara)の頭文字と自由(Free)を意味する英語をかけ
てF機関と命名された。しかしそれは遅すぎた。この頃F機関の人員はすべて陸軍中野
学校出身の青年将校であり、発足当時は数名だったものの12月には10名を越えていた。
発足当時にF機関に与えられた任務は、インド独立連盟やマレー・中国人などによる反
英団体との交渉・支援を中心としたマレー方面の工作活動に関して、田村大佐を補佐す
ることであったが、開戦直前より南方軍の指揮下となり、インド独立連盟と協力し工作
活動に当たり、インド国民軍の編制にも当たっていた。


1440: 名無しさんAA:18/10/15 14:16
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   434    > 

 機関長藤原少佐は「私達はインド兵を捕虜として扱わない。友情をもって扱い、イン
ドの独立の為に協力したい。」とインド兵に宣言した。当初はインド駐在イギリス軍の
内部分裂を目的としていた為に、インド人を対象とした工作を行っていたが、マレー作
戦終了から目的が変わり大東亜新秩序の建設、即ちインドでの反英運動を煽り、ひいて
はインドを独立させることでイギリスのアジア・太平洋戦線からの離脱を狙った。その
宣言通り、インド人を多用する事は無く、それは、ビルマやタイ人でも同じであった。
同機関は、その後岩畔豪雄陸軍大佐を機関長とする岩畔機関に発展改組され、250人
規模の組織となり、マレー作戦等で投降したインド兵を教育しインド国民軍に組み入れ
た。その後も同国民軍の指導、宣伝などを行ない、市民の協力を得て機関は6班で構成
され、総務班・情報班・特務班・軍事班・宣伝班・政治班などを作るまでに至っていた
。終戦前夜には、機関はやがて500名を超える大組織となり光機関と改称された。光
機関は1943年(昭和18年)、ナチス・ドイツに亡命していたインド独立運動の大物スバ
イのチャンドラ・ボースを迎え、ボースと親交の深い山本敏大佐が機関長となっていた
。光機関の命名はインドの言語(ヒンディー語)で“ピカリ”という言葉と、「光は東
方より来る」という現地の伝説から“光”とされたと言う。支援していたインド国民軍
は自由インド仮政府軍に発展、一部はビルマの作戦に従事した。またインパール作戦の
途中、大本営の遊撃戦重視への作戦方針変更に伴い、機関は南方軍遊撃隊司令部と改称
し同時に、前述の各班の外参謀部・副官部・マライ支部・タイ支部・サイゴン出張所を
設けて連絡を取った。途中機関長が磯田三郎中将に交代するも、この機関自体は終戦ま
で軍事顧問団として活動していた。結局インパール作戦は失敗し当時の日本陸軍とイン
ド国民軍は連合国軍に降伏した形になった。しかし敗戦後にタイ・カンボジア・ベトナ
ム・アレーシア・インドネシア・シンガポールは、米軍の思い通りにはならず、戦後に
独立を果たした。またフィリピンやシンガポールやインドやセイロン島やビルマも同じ
様に王室が信頼したのは、日本軍を離れたこの義勇軍たちであったのだ。考えてみれば
最初から、朝鮮半島や中国大陸なんぞは、せがんできても相手にせねば良かったのだ。
素直に、インドネシアやマレーシアやフィリピンに義勇軍を送っていれば良かったのだ
。明治時代布引丸で独立軍支援に行くとき、日本の軍艦で送れば良かったのである。し
かし、歴史はそうはならなかった。戦後に出来た009などの漫画はそうした光機関の
事の想像たくましく、戦争の現実に悩んだ 戦中世代の意識だったのだろう。


1441: 名無しさんAA:18/10/15 14:20
 布引丸事件は、1899年7月,フィリピン革命を支援するため武器,弾薬および日本人
志士を日本からフィリピンへ送ろうとして失敗した事件である。フィリピン革命政府は
1898年6月以来,M.ポンセ,F.リチャウコらの代表を日本に送って、武器・弾薬の調達
と政府支援を求める工作を行った。ポンセは日本亡命中の孫文を介して宮崎滔天,犬養
毅らアジア解放に関心を抱く日本人グループらの協力で陸軍参謀本部から使い古された
村田銃の武器および弾薬を払い下げてもらうことに成功し、武器・弾薬は99年夏布引丸
に積載されて長崎港を出航した。しかし上海沖で台風に遭い沈没し待望する革命軍の手
には届かなかった。日本陸軍は又、武器払下げと交換に,日本軍人を革命軍に招聘する
よう要請し,原禎中佐以下5人の軍籍を離脱した〈軍人〉と民間人平山周などが、別途
フィリピンへ渡った。もともと平山周などは無理やりタイの割譲をさせた事で大アジア
主義を説いていた。タイは1893年夏の、フランス海軍のチャオプラヤー川の運河河口か
らの、上流進入を強行した2隻の仏国軍艦が、オランダ対フランスの代理戦争を起こし
ていた。君主であったラーマ5世(チュラーロンコーン)は。これは国家存続を揺る事
だと賠償金をインドシナ問題において、フランスと対立関係にあったイギリスに借りよ
うと試みた。しかし英国は受け付けず、結局メコン川東岸全域の今のカンボジア部を、
フランスへ割譲する事になったのである。この頃、蒸気船は、蒸気機関を用いて、スク
リューを廻すことより推進する船に代わり、一般に蒸気船は石炭を燃料とする古典的な
船でも、きれいな水の蒸気タービンを持って高出力となっていた。蒸気機関を持つ帆を
張った船は蒸気船と帆船とは別に、蒸気機関を備えた帆船(汽帆船)としてが多く造ら
れていた。イギリスの、フランシス・ペティ・スミスが1836年にスクリュープロペラの
特許を取り「フランシス・P・スミス」号を造った。2ピッチの長いスクリュープロペ
ラでの実験を始めた。偶然水中でプロペラが破損した後で船速が上がり、この後、1ピ
ッチのものに変更して5.5ノットまで速度を上げられた。その後、徐々にスクリュー式
プロペラを備えた船が造られるが、まだ帆船が主体であり、蒸気船でも水車の様な外車
によって推進されるものが主体であった。1850年の船舶総トン数では帆船9に対しても
蒸気船1の比率であった。この後1845年、イギリス海軍はスクリュープロペラと外輪の
性能比較実験をし、スクリューのラトラー号と外輪軍艦アレクト号を条件を変えて競走
させ、いずれもラトラーが勝ち、最後に綱引きを行なわせた結果も、ラトラーが勝った
スクリューが有効であると結論付けられた。以後イギリスとフランスは軍艦競争が始ま
り結果アジアにやってきていたのである。この両国が1853年のクリミア戦争に参戦する
要因となり、クリミア戦争が砲弾や船を砲撃艦を進歩させていた。こうした軍艦競争を
する欧州社会が、銀行と共にわざわざ極東にやって来たのである。

1442: 名無しさんAA:18/10/15 14:21
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   436    > 

平山 周(ひらやま しゅう)は、明治3年生まれで、筑前国夜須郡(現在の福岡県筑前
町)出身だった。東洋英和学校卒業後、宮崎滔天(桃中軒牛右衛門)の同志としてアジ
アの反植民地民族運動を支援した。先のタイのパークナム事件(1893年)に端を発する
「シャム開拓移民計画」が起こると滔天とともにこれに参加、その後孫文を支持、明治
30年(1897年)に孫文が日本に逃れた際には、平山の家庭教師の名目で入国させたと言
われている。1898年、清国(中国)での戊戌政変に際しては梁啓超に同行して彼の日本
亡命を助け、翌1899年にはフィリピン独立革命を支援するために現地に渡航した。1900
年に孫文派の革命党が武装蜂起した恵州起義では滔天とともにこれを支援。明治39年に
(1906年)、宮崎滔天、和田三郎(板垣退助の秘書)、萱野長知らと革命評論社を設立
。『革命評論』を創刊して、孫文の辛亥革命の支援を加速させた。明治44年(1911年)
に『支那革命及び秘密結社』を公表するなど、一貫して中国の革命運動を支援し、ブレ
なかった。その後昭和6年(1931年)には南京国民政府から陸海空軍総司令部顧問に迎
えられている。しかしアジア主義は、当初は欧米列強の脅威の排除を主眼として唱えら
れ、開国すれば、アジアとの連帯を目指した主張となった。明治中期までの日本では、
脱アジア論に代わり、興亜会に代表される「興亜論」(こうあろん)の名称となった。
当初の大久保利通と李鴻章の約束に始まる日本と支那(中国)・朝鮮との対等提携指向
を目指すものであったが、大陸の無知を経て起こった日清戦争で、アジア主義は主戦論
と非戦論に分裂し、政府や国内も清への対外硬が主流となり、日清戦争以後のアジア主
義は、国際情勢の変化と共に主張内容が変化した。日清戦争以後のアジア主義の定義は
、元来のアジアとの平和協調路線(興亜論)とは完全に正反対のもので、東アジアや、
遠くインドまで含めた経済圏の独立と繁栄にいち早く変わった。そこでは、日露戦争以
降のアジア主義の定義が、ロシア帝国に勝利して得た東アジアにおける日本の優位を前
提にした、アジアの独立革命を要請なり支援し共済する思想に発展し、やがて日中戦争
を通じ、日本を盟主とした「東亜新秩序」のアジア・モンロー主義あるいは大アジア主
義などに変わった。こうして日中戦争初期に昭和研究会による「東亜協同体論」として
の政策化した、大東和共栄圏構想、と言う形に落ち着き、この構想は元々の大英帝国の
持ち込んだロシア南下政策の対抗策として機能するものが、石油社会となり欧米列強へ
の対抗策にがらりと国策を変化させたのである。そして今やこの不幸な対ロシア主観は
、共産主義などと言ういわれのない独裁政治を起こし、国際政治上の極東社会の在り方
を暗くさせている。

1443: 名無しさんAA:18/10/19 07:07 ID:iPk
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   437    > 

 明治期の軍人は優しく、こうしたシベリア出兵後も、連合軍米国が勝手にさっさと母
国に帰った後も、日本軍はポーランド人を守ったり、チェコ人をシベリア鉄道軽油で、
サハリンやウラジオストックから、船でパナマ運河経由でドイツやノルーウェイまで送
ったりしていた。そんな中にイエジ・ストシャウコフスキ少年はいた。実はユダヤ人の
移住作戦がソ連では行われ、その実はこれまでロシア皇帝下でオスマン・トルコ軍と戦
ってくれたチェコ人などのスラブ民族を穀倉地帯から追い出し極寒のシベリア開発に当
たらせ、ルーシー国として基盤を作ると言う新しいソ連の方針で、バクー油田の権利と
共に、食糧難の中で強い現住民の兵や政府の壊滅作戦だった。此処に中央アジアやウラ
ジオストックに流れて来る難民や孤児が大勢出来たのである。そんな中、窮余の一策と
して日本政府に援助を要請することにし、救済委員会会長のアンナ・ビエルキエヴィッ
チ女史は1920年6月に来日し、外務省を訪れてシベリア孤児の惨状を訴え援助を懇請し
た。これを受けた外務省の埴原正直外務次官は日本赤十字社に相談し、そのわずか16
日後には、シベリア孤児救済が決定される程だった。1925年に朝香宮鳩彦(あさかのみ
ややすひと)殿下が、ポーランド訪問した時にもその5年後の1930年には高松宮宣仁(
たかまつのみやのぶひと)殿下と喜久子妃殿下が訪問された時も、その活躍は喜ばれた
。こうして孤児の一人、イエジが十七歳の青年となった一九二八年、日本との交流を深
める為に、シベリア孤児たちの組織「極東青年会」を組織し、自ら会長となりました。
極東青年会は順調に拡大発展し、国内の九都市に支部が設けられ、一九三〇年代後半の
最盛期には会員数六百四十余名を数えたといいます。極東青年会結成直後にイエジ会長
が、日本公使館を表敬訪問した時に思いがけない人に会った。イエジ少年がシベリアの
荒野で救い出され、ウラジオストクから敦賀港に送り出された時の、在ウラジオストク
日本領事として大変世話になった渡辺理恵氏でした。その渡辺氏が、ちょうどその時に
ポーランド駐在代理公使となっていたのです。これが契機となり、日本公使館と、極東
青年会との親密な交流が始まって、極東青年会の催しものには努めて大使以下全館員が
出席して応援し、また資金援助もした堅い絆となった。しかしその後も一九三九年九月
一日午前四時四十五分ナチス・ドイツがポーランドに侵攻しました。第二次世界大戦の
勃発である。この瞬間に、同時にドイツと密約を交わしていたソ連軍も又ポーランドに
侵攻したのである。



1444: 名無しさんAA:18/10/19 07:08
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   438   > 

 イエジ青年は直ぐに、極東青年会の本部を孤児院として開放して、戦禍で親を失った
戦災孤児たちを庇護しました。そして極東青年会幹部を緊急招集し、その後勇士を募っ
てレジスタンス運動参加を決定しました。この時のイエジ会長の名から、この部会の名
はイエジキ部隊と愛称されました。祖国の危機にやがて孤児たちも参加し、一万数千名
を数える、とても大きな組織に膨れあがりました。こうしてワルシャワでの地下レジス
タンス運動が激しくなるにつれ、ナチス当局の監視も厳しくなり、ある時に、とうとう
孤児院に三名のドイツ兵が押し入り、強制捜査を始める事になりました。一人の子供が
隙を見て逃げ出し日本大使館に知らせに行き、この時急報を受けて駆けつけた日本大使
館の書記官は、現場に駆け付けこう言い放ちました。「この施設は日本大使館の保護下
にある。子供たちに謝罪して下さい。」そして孤児院院長を兼ねていたイエジ部隊長と
孤児たちに向かって、「君たち、このドイツ人たちに日本の歌を聞かせてやってくれな
いか」と頼みました。イエジたちが日本語で「君が代」や「愛国行進曲」などを大合唱
すると、ドイツ兵たちは呆気にとられて、歌を聞いた後「大変失礼しました」といって
礼儀正しく、直ちに引き上げました。以降、ドイツ兵は二度と孤児院には姿を見せなか
ったといいます。当時、日本とドイツは三国同盟下にあり、ナチスといえども日本大使
館には一目も二目も置かざるを得ない状態にあったからだ。日本大使館はこの三国同盟
を最大限に活用して、救援を求めて来たイエジキ部隊を、快く庇護したのでありました
。この下地になっていたのが日露戦争時の松山の俘虜収容所の待遇であった。日露戦争
時代の、松山の捕虜収容所に収容されていたロシア軍捕虜の中で、約3割はポーランド
人でした。来日したユゼフ・ピウスツキが川上俊彦(としつね)・駐ヴラジヴォストク
貿易事務官(後に在ポーランド初代公使)と後に外相となる広田弘毅(当時東京帝国大
学生)を伴って同収容所を訪れ、ロシア人とともに収容されていたポーランド人捕虜を
比較的良い環境に分離し、ロシア人と離して生活させました。一九二七年、広田弘毅が
オランダ公使として任地へ赴任する途中ワルシャワに立ち寄ると、ピウスツキは喜んで
駅で出迎えました。その後もポーランド側は戦後東京裁判において、ロメル元駐日ポー
ランド大使が口上書を法廷に送り、広田の功績を挙げて無実を主張してくれる程だった


1445: 名無しさんAA:18/10/19 07:08
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   439   > 

 そうした日本人の優しいDNAはかつてポーランド駐在武官を務めた樋口季一郎中将
(1888〜1970年)にもつながっている。樋口がユダヤ人にここまで協力したの
は、若い頃ポーランドに駐在武官として赴任していた時に、ユダヤ人たちと親交を結び
、また彼らに助けられ、さらに37年に独に短期駐在して、ナチスの反ユダヤ主義の様
をまざまざと見て居たし、強い疑念を抱いていたから、といわれている。シベリア出兵
後もユダヤの極北開拓の為の強制移住は行われ続けられた。9月初め、露ハバロフスク
に近いユダヤ自治州ビロビジャンのユダヤ教会を訪問したが、スターリン時代にユダヤ
移住地に指定された自治州は、実際は辺鄙(へんぴ)な「幽閉地」で、移住したユダヤ
人も殆(ほとん)ど逃げ、今では人口の2%以下である。樋口季一郎中将(1888〜
1970年)のオトポール事件は、彼の名はユダヤ民族に貢献した人を記したエルサレ
ムの「ゴールデンブック」にも載っている。しかし、わが国でも、樋口を知っている人
は以外に少ない。露でも日本でも政治により戦前の歴史に蓋がされて、国民にリアルな
現実認識がない。当時、日本はナチスドイツと防共協定を結んでおり、ナチスに追われ
たユダヤ人を満州に受け入れることは、日本の外務省、陸軍省、満州の関東軍にも反対
論が強かった。しかし緊急の人道問題だと理解した樋口は馘(くび)を覚悟で松岡洋右
満鉄総裁に談判し、2日後にはユダヤ難民を乗せた特別列車をハルビンに到着させた。
 その後は、案の定 独のリッベントロップ外相から外務省にこの件に関して強い抗議
が来た。樋口の独断行為を問題にした関東軍の東条英機参謀長は、新京の軍司令部に、
樋口を呼び出した。しかし強い決意の樋口は、軍の「五族協和」「八紘一宇」の理念を
逆手にとり、日露戦争時のユダヤ人の対日支援に対する明治天皇の感謝の言葉なども引
き、ナチスのユダヤ人弾圧に追随するのはナンセンスだと、人道的対応の正しさを強く
主張した。この樋口の捨て身の強い信念と人物を見込んだ東条は、彼の行動を不問に付
すことに決めた。樋口は関東軍や東条の独断専行には批判的だったが、後に樋口は「東
条は頑固者だが、筋さえ通せば話は分かる」とも述べている。樋口が陸軍幼年学校、陸
軍士官学校、陸大卒の超エリートだった事もあった。戦前の陸大は東京帝大より難関と
された頃の卒業生だ。1938年のユダヤ難民事件のころ彼は諜報分野に長(た)けた
陸軍少将で、事実上、日本の植民地だった満州のハルビン特務機関長の身分であった。
同機関は対ソ諜報の総元締で、樋口は日本陸軍きってのロシア通だったのである。


1446: 名無しさんAA:18/10/19 07:08
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   440    > 

 オトポール事件は、この極北開拓に強制移住させられた住民や、アメリカ避難を行い
たいスラブからの避難民が歩いて満州国境を渡ってきて、オトポールにひしめいた事件
である。38年3月10日、彼は満州のユダヤ組織代表、カウフマンから緊急依頼を受
けた。ソ満国境のオトポールにたどり着いた多数のユダヤ人が、満州への国境通過許可
がもらえず、酷寒の中で餓死者、凍死者も出る事態になっており、すぐにでも彼らを、
ハルビンに通してほしいとの必死の依頼だった。樋口はユダヤ人にここまで協力したの
は、若い頃ポーランドに駐在武官として赴任して、ユダヤ人たちと親交を結び、また彼
らと知り合いになっていたからだ。さらに37年に独に短期駐在して、ナチスの反ユダ
ヤ主義に強い疑念を抱いていた。戦後には、ソ連極東軍は米占領下の札幌にいた樋口を
戦犯としてソ連に引き渡すよう要求していた。その理由は、樋口がハルビン特務機関長
だっただけでなく、敗戦時には札幌の北部司令官であり、樺太や千島列島最北の占守(
しゅむしゅ)島でのソ連軍との戦闘(占守島でソ連軍は苦戦した)の総司令官だったか
らだ。しかし、GHQ総司令部マッカーサー将軍は樋口の引き渡しを完全に拒否した。
後で判明したことだが、ニューヨークに総本部を置く世界ユダヤ協会が、大恩人の樋口
を守るために米国防総省を動かしたからであった。私たちは、同じように日独関係の政
局に抗して数千人のユダヤ人を救い、映画にもなった外交官の杉原は知っていても軍人
の樋口についてはあまり知らない。それは「将軍=軍国主義=反人道主義」「諜報機関
=悪」といった戦後パターン化した認識があるからではないか。ビロビジャンのユダヤ
教会も、遠いリトアニアの杉原は知っていても隣の満州の樋口は知らない。ロシアでも
「軍国主義の戦犯」は歴史から抹消されたからだ。実は日本の映画の先駆けとなった、
甘粕正彦のもつ甘粕機関も影て多くのユダヤ人を密航させてやったとされている。最初
の大陸映画スターの李香蘭=山口淑子女史は、度々あったが便宜上に諜報活動に携わっ
ていたともいう。李香蘭の実父山口文雄の父は佐賀県出身となっているが柳川藩の人だ
った。かつて佐賀に神風連の変があった。明治九年(一八七六)に新開大神宮宮司の太
田黒伴雄を首領とする神風連の志士が挙兵し、熊本鎮台を襲撃した事件だ。彼らは神道
を重んじ尊皇を信条として自ら敬神党と名乗っていましたが、一般に神風連と呼ばれて
いた。神風連についてまず肥後勤皇党の歴史があるが、それに柳川城炎上まで起こって
いる。肥前石井氏は佐賀でも有力な経済武士だった。



1447: 名無しさんAA:18/10/19 07:09
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   441    > 

 肥前石井氏(ひぜんいしいし)は、別名佐賀石井家(さがいしいけ)と言う程に明治
時代の日本を背負っていた。というのも、佐賀が産んだアームストロング砲や軍艦など
の代理店的位置にいたからだ。鍋島藩は十代藩主・直正(閑叟)以降、藩政改革や西洋
技術の摂取につとめ、特に大がかりなリストラを行い、役人を5分の1に削減し、農民
の保護育成、陶器・茶・石炭などの産業育成・交易に力を注ぎ藩財政は潤った。などと
書かれるが、実は全く違う。もともと藩主は龍造寺氏であり、縁戚となった後に鍋島氏
が城主となった。石高は35万7千石あったが、竜造寺氏に仕えた言わば旗本が支藩と
して蓮池藩、小城藩、鹿島藩を持って、鍋島藩の赤字財政をやりくりしていたのである
。その筆頭として石井氏がいた。しかし閑叟公の夫人は、薩摩から嫁入りし、頭を飛び
越えて鍋島氏は薩摩に鉄の製法である反射炉技術を教えた。それは藩の商人ならず貸付
していた支藩の借金を棒引きして、代わりに薩摩から金を借りたからに他ならない。又
明治維新を推進したのが薩長土肥とされるが、とんでもない間違いだ。薩摩も長州も、
海外には疎かった。対して佐賀藩自身も、35万7千石の大封でありながらその実情は
、3支藩(蓮池、小城、鹿島)・鍋島4庶流家(白石、川久保、村田、久保田)と龍造
寺4分家(多久、武雄、諫早、須古)の各自治領があった為に、藩主の実質知行高は6
万石にも満たなかった。これが長崎のグラバー邸の小森氏が北茂安町と佐賀市の間を、
筑後茶集荷場とした理由であった。中国でアヘン戦争が起こる前から、筑後茶は有名な
甘い緑茶として最高品種とされていた。つまり筑後や肥後や有馬の農産品を出す為に、
わざわざ違う藩の肥前にその元を置いたのだ。九州諸藩はどこでも科学技術の研究機関
を創設していた。フェートン号事件以来、肥後細川藩・柳川立花藩・久留米有馬藩・秋
月黒田藩・長崎半領大村藩などは、過料さえ取られてひしひしと海外の技術を目にして
いた。特に重罰だった鍋島藩は、鉄鋼、加工技術、大砲、蒸気機関、電信、ガラスなど
の研究・開発・生産をいち早く行い、幕末期における最も近代化された藩の一つとなっ
た。その為藩財政は火の車どころでは無かったのだ。グラバーの借金はその土地にも化
けていた。長崎警備をし福岡藩と共にいち早く牛痘ワクチンを輸入したり、嫡子直大に
種痘を施すことで普及に努め、当時は不治の病であった天然痘根絶を成し遂げる先駆け
にもなっていた。ちなみに秋月藩の藩医である緒方春朔は、ジェンナーの牛痘法成功に
さかのぼること6年前に秋月の大庄屋・天野甚左衛門の子供たちに人痘種痘法を施して
成功させていた。


1448: 名無しさんAA:18/10/19 10:34
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   442    > 
 鍋島氏が藩主であったことから鍋島藩(なべしまはん)と呼ばれた佐賀は、1874年(
明治7年)2月に江藤新平・島義勇らをリーダーとして佐賀の乱を起こした。明治政府
に対する士族反乱の一つである。佐賀の役や佐賀戦争ともいわれるこの乱は、不平士族
による初の大規模反乱であった。電信の情報力と汽船の輸送力・速度を活用した政府の
素早い対応もあり、激戦の末に鎮圧された。征韓論は前参議の江藤新平の持論で彼を擁
する中島鼎蔵など征韓党は征韓論争で下野して政府を去っていた。又前侍従・秋田県権
令島義勇、副島義高らを擁する憂国党は逆に強い義国派で願わくば保守鎖国の旧幕藩体
制を望んだ。いずれも食い扶持を無くした混成軍で、旧佐賀藩士を中心とした反乱であ
り、以後続発する士族による乱の嚆矢となった。元々乱を率いた江藤と島は、不平士族
をなだめるために佐賀へ向かった。政府の強硬な対応もあり決起することとなった。し
かし、半島への進出の際には先鋒を務めると主張した征韓党と、封建制への復帰を主張
する反動的な憂国党はもともと国家観や文明観の異なる党派であり、主義主張で共闘す
べき理由を共有してはいなかったのである。明治五年(1872年)突然に柳川城は、
火災で櫓一基、土蔵、厩、城門三棟を残し、五重天守など多くが焼失した。実は明治の
新政府は九州に政府を建てたいと思っていた。北海道の五稜郭と同じに支部を置きたか
った。その為柳川城の明け渡しを熊本城と共に探っていた。新政府の開始時期説につい
ては諸説ある。狭義では明治改元に当たる明治元年旧9月8日(1868年10月23日)となる
。がしかし、一般的にはその前年にあたる慶応3年(1867年)の大政奉還、王政復古の
大号令以降を指すことが多い。まだまだだった維新体制が整う前の政治状況も庶民生活
も、なんら変わらなかったのだ。ただ俸禄については幕末の騒乱中にあった。終了時期
についても、廃藩置県の断行(明治4年、1871年)、西南戦争の終結(明治10年、1877
年)、内閣制度の発足(明治18年、1885年)、立憲体制の確立(明治22年、1889年)ま
でとするなど諸説あるのはそれぞれ理由がある。だが新政府が一番問題であったのは、
徳川幕府の経済的封じ込めと、新政府の経済自立の問題だった。それが柳川にあった。
柳川藩は独自に、ペンテコステ基督教会の繋がりで英国やドイツなどとの繋がりを持っ
ていて多くの海外支援を得て早くから藩経営の三池炭鉱開発を行っていた。日本三大暴
れ川のひとつと言われ、筑紫次(二)郎(つくしじろう)の別名で呼ばれる筑後川に、
1601年(慶長6年) - 津村三郎左衛門は、中州の島取りの抗争に水天宮の「御幣流し」
を利用してその領界が決まり同士7人とともに開拓開始した。それが古賀(後の渡辺)
、今村、中村、長尾、永島、堤、武下、吉川各氏の祖先とされる。佐賀藩領大詫間は、
藩主鍋島氏の親戚大川石井家の始祖鍋島茂賢(深堀茂賢/石井茂賢)の知行地となった

1449: 名無しさんAA:18/10/19 10:35
 その後も武家救済は遅々と進まず、とうとう西郷隆盛を担ぎ出した西南戦争に行きつ
いた。1877年(明治10年)に熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において起こった士族
による武力反乱で、明治に起こった士族反乱の中でも最大規模のもので、国内で最後の
内戦であった。そしてその理由は、細川熊本藩に多くがあった。実学党の内紛である。
 時習館の多くの人々と実学党の生徒の争いは、学校党の庇護者であった細川藩の筆頭
家老松井章之と、次席家老でもあった長岡是容との間の権力闘争に発展した。弘化4年
(1847年)に松井が長岡を失脚に追い込んで学校党が勝利を収めたが、時代は第三勢力
と呼ぶべき勤皇党が勢力が拡大していく中にあった。この細川藩の藩内対立は膠着状態
に陥った。反主流派となった実学党と勤皇党は協力して主流派である学校党と対立した
が、安政2年(1855年)になって、安政の大獄事件で、横井小楠が積極的な開国論を唱
えるようになった事で、勤皇党の影響で これまで尊王攘夷論に接近しつつあった長岡
是容が反発して、両者は絶交状態に陥った。こうして実学派も分裂し、家老として藩士
の信頼が厚かった長岡の坪井派(藩士派)と郷士や豪農の支持を受けた横井の沼山津派
(豪農派)に再分裂した。やがて、安政6年(1859年)になって長岡が急逝し、横井も
福井藩の招きに応じて去っていくと急速に力を失った。ところが、明治維新の際になっ
て、佐幕派である学校党と尊王派である勤皇党の対立によって熊本藩は旗幟を鮮明にす
ることが出来ず、両者とも力を失い、その間隙を縫って実学党の人々が台頭した。明治
3年(1870年)の細川護久の藩知事就任を機に実学党両派は政権を獲得した。実学党は
進歩的な藩政改革を推進し、廃藩置県後も白川県(後の熊本県)の要職を占め続けたが
、余りにも進歩的な改革に危機感を強めた明治政府は、明治6年(1873年)には権令、
安岡良亮に命じて実学党を県政から排除する事に取り掛かった。その後も実学党出身者
は民間などで活躍し、一部は「民権党」に流れて学校党(のちに「熊本国権党」に発展
)と対立しつつ明治期熊本政界の一大潮流を形成する一方、元田永孚のように明治天皇
の侍読として重用される者もいた。この実学党の多くが柳川藩からの多くの志士が学ん
だ。熊本洋学校は1871年(明治4年)に肥後実学党の献策によってアメリカ軍人リロイ・
ジェーンズが招聘され、官費の学校として開校される。ジェーンズは月給四百円が与え
られ、妻子と共に来日した。熊本県は洋学校のために敷地、校舎、寄宿舎、教師館を用
意した。授業は英語、数学、地理、歴史、物理、化学、天文、地質、生物を行い、すべ
て英語で行った。明治7年、日本で初めて男女共学を行い、横井玉子・徳富初子(蘇峰
・蘆花の姉)・横井みや子(小楠の娘)などが入学した。生徒の自主性を重んじる教育
方針のもとに多彩な人材を輩出するが、熊本バンド結成に対する旧守派の反発が一因と
なって、ジェーンズの任期終了とともに閉鎖となった

1450: 名無しさんAA:18/10/19 11:35
アメリカ軍人リロイ・ジェーンズは、結婚後の1871年夏、アメリカ・オランダ改革派教
会宣教師のグイド・フルベッキの斡旋で来日して、陸軍士官学校とイギリスのラグビー
校を目指して熊本洋学校設立に参加し、全教科を一人で教えることとなった。最初の頃
キリスト教については言及しなかったが、三年目に、毎週土曜日に自宅で聖書研究会を
始めた。この参加者の中からキリストを信じるものが起きた。1876年に洋学校の「奉教
趣意書」を朗読して、小崎弘道、海老名弾正、金森通倫、宮川経輝、横井時雄、浮田和
民、不破唯次郎ら35人が署名した。この出来事が問題になりジェーンズは解任され、
洋学校は閉鎖された。閉鎖後、生徒は同志社に転校して、これが熊本バンドと呼ばれる
キリスト教の源流の一つになる。熊本洋学校が1876年10月に閉鎖された後、大阪英語学
校(旧制三高の前身)で英語を教える。ジェーンズは同志社に招聘される予定であった
が、1878年にアメリカに帰国した時に婦人から離婚訴訟を起こされる。ジェーンズは、
かつての教え子横井時雄の斡旋で再来日する。お雇い外国人として1883年から1899年ま
で京都第三高等学校と鹿児島高等中学校造士館で英語を教える。1885年に妻ハリエット
は実弟ドリマス・スカッダーと共に再来日して新潟に行く。ジェーンズは1899年に帰国
し、米国では不遇な晩年を送りサンノゼで死去した。宣教師のグイド・フルベッキは、
上海に観光に来てた。長崎に立ち寄り上陸して直ぐに気にった。フルベッキは長崎の第
一印象を「ヨーロッパでもアメリカでも、このような美しい光景を見たことはない」と
記している。長崎では聖公会のジョン・リギンズとチャニング・ウィリアムズに迎えら
れ、崇徳寺広徳庵に同居した。その後妻マリアを上海より呼び寄せた。1860年長女を授
かったが生後2週間で死去した。長崎では、開国後も依然としてキリシタン禁制の高札
が掲げられており、宣教師として活動することができなかった。しばらくは私塾で英語
などを教え生計を立てていた。1862年に自宅でバイブルクラスを開いた。1861年〜62年
に佐賀藩の大隈重信と副島種臣がフルベッキの元を訪れ、英語の講義を受けた。1863年
(文久3年)の生麦事件をきっかけとした薩英戦争の時は上海に避難して、1864年には
又長崎に戻って、大隈重信と副島種臣を英語の個人授業をしている。大隈はフルベッキ
の授業によってキリスト教に興味を抱いたと述懐している。長崎奉行は幕府が長崎につ
くった長崎英語伝習所(在籍した当時は洋学所→済美館→広運館→伝習所)の英語講師
招聘して経営していた。フルベッキも教師として幕府に雇用されていた。幕府の英学所
「済美館」と共に、佐賀藩が設置した致遠館や立花伝習館などでも教鞭を取っており、
彼に師事して集まった学生達の姿はフルベッキ群像写真(上野彦馬撮影)として継承さ
れ、現在も長崎歴史文化博物館で展示公開されている。高椋写真館は上野彦馬と同時期
に写真館を経営した。

1451: 名無しさんAA:18/10/19 11:35
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   445   > 

 この頃 明治天皇は国家の姿を洋風化して行く事に難色を示していたが、岩倉具視(
いわくらともみ)、大久保利通(おおくぼとしみち)らによる「王政復古の大号令」に
より、天皇を中心とした新政府を作って行くのに、天皇の洋装を重ねて願い出ていたか
らであった。1869年に「版籍奉還」、1871年に「廃藩置県」が行われ、近代国家として
の日本が確立していく中で仕方なく了承した。鹿鳴館時代となり、食事や衣服も洋風が
取り入れられ、髪型も変わり、文明開化を楽しませて華族として不満を和らげようとし
た。日本で初めての鉄道が出来て1889年に、「大日本帝国憲法」を発布した。この洋風
化に、ビクトリア時代の芸術的建築を造った巨人の中にあって、建築の異才ウィリアム
・バージェスに習ったジョサイア・コンドルに新政府の建築を頼んだ。バージェスの作
風は、その作品は19世紀の工業化と新古典主義建築様式の双方から逃れ、ユートピア
的中世ヨーロッパの建築と社会の価値を再構築することを追求しものとされ、これまで
のゴシック復古調の伝統に立ち、ラファエル前派のものを写し、アーツ・アンド・クラ
フツ運動の先駆けとなった。また彼自身は、ジャポニスム支持者としても知られている
。ジョサイア・コンドルはイギリスのロンドン出身の建築家だった。1875年バージェス
の事務所を辞して、ワルター・ロンスデールのもとで、その頃まだ新しいガラスの技術
を見たいとステンドグラスを学んでいた。1876年「カントリーハウスの設計」で一流建
築家への登竜門であるソーン賞を受賞して後、日本政府(工部省)と5年間契約でお雇
い外国人として来日した。こうして、新政府関連の建物の設計を手がけた。また工部大
学校(現・東京大学工学部)の教授として辰野金吾ら、創成期の日本人建築家を育成し
、明治以後の日本建築界の基礎を築いた。のちに民間で建築設計事務所を開設し、財界
関係者らの邸宅を数多く設計した。日本女性を妻とし、河鍋暁斎に師事して日本画を学
び、日本舞踊、華道、落語といった日本文化にも大いに親しみ、趣味に生きた人でもあ
った。ファン・ドールンは小学校を卒業後、ユトレヒト工業学校(現在の日本の工業高
校に相当)に6年間通い続いて1855年に18歳でデルフトの王立土木工学高等専門学校
(現・デルフト工科大学)の聴講生となって公務員である技官として働いていた。成績
は優秀で1860年に「技師」の免状を送られ、オランダ国から技術官僚として採用された
。その後、水政省の命令でオランダ領東インドのジャワ島に派遣され、技術助手として
鉄道建設などに携わった。彼は1837年2月9日にオランダ東部のヘルダーラント州ブルメ
ンで生まれた。とされる。改革長老教会の牧師である父のピーテル・W・ファン・ドー
ルンと、母のコルネリア・J・H・ファン・ドールンの5人兄弟の次男だった。

1452: 名無しさんAA:18/10/19 11:36
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   447   > 

 1872年に大久保に乞われて、ファン・ドールンは来日し、お雇い外国人として契約を
結んだ。明治政府から求められていたのは全国各地の港湾・河川の整備であった。まず
同年5月に、利根川と江戸川の改修のため利根川全域を調査した。この際、日本初の科
学的な水位観測を行ない、両河川の分流点にやはり日本初の量水標を5月4日に設置して
いる。7月には淀川、その後は信濃川、木曽川も視察している。さらに政府から求めら
れた大阪港の築造のため、ヨハニス・デ・レーケ、ジョージ・アーノルド・エッセルら
の技師をオランダから招聘し、翌1873年に彼らが来日するとリーダーとしての役割を担
った。同年3月には木津川支流を調査するなど精力的に業務をこなし、1874年には内務
卿・大久保利通によって月給を500円から600円に増額されている。これは当時の閣僚と
同程度の金額である。契約期間の延長を前提とし、翌1875年にはオランダに一時帰国し
た。ファン・ドールンは1年後に再び来日し、大久保の立案した1878年の土木7大プロ
ジェクトの実現のため、安積疏水や野蒜築港の事業計画を立案した。安積疏水の事業に
おいては、奈良原繁や内務省官僚の南一郎平の優れた働きもあり、他国の大規模な灌漑
事業との比較から詳細な計画が練られ、大きな成果を収めた。なお、他の開削案には、
他にもあって4つがあったが、現地での調査から沼上峠開削案が最適であると報告して
いる。一方、野蒜築港については明治天皇の東北巡幸の際に各県の県令から要望があっ
たため、1876年にはファン・ドールンが現地に派遣されている。その後1878年に工事が
始まったが、完成の1882年より前の1880年2月にファン・ドールンは契約を終えて帰国
した。しかし、1885年に台風で壊滅的な被害を受けて野蒜築港は廃止され、後に廣井勇
はファン・ドールンの設計を厳しく批判している。このため、自ら設計した野蒜築港の
工事中に帰国したのは、設計の不備に気付き完成の確信が持てなかったためではないか
と批判したとも云われている。一方、当時は古市公威らヨーロッパで土木工学を学んだ
人々が続々と帰国しており、財政上の理由もあって多くのお雇い外国人が契約を更新さ
れなくなった時期でもあったため、特別な事情はないという見方もある。事実帰国の頃
は日本人技術者が台頭し、かれはそれの相談役程度だった。帰国後、1880年にファン・
ドールンは日本政府から勲四等旭日小綬章を贈られている。1883年にオランダ植民地省
の委嘱でカリブ海のオランダ領キュラソー島に赴き、主任技師として埠頭工事や乾ドッ
ク建造などを行なった。その後、ハーグで「オランダ鉄筋コンクリート会社」を設立し
、筆頭取締役に就いている。また、共著で治水工学の本も執筆した。生涯結婚せずに、
1906年2月24日にアムステルダムの自宅で逝去した。

1453: 名無しさんAA:18/10/22 11:50
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   447   > 

 1872年に大久保に乞われて、ファン・ドールンは来日し、お雇い外国人として契約を
結んだ。明治政府から求められていたのは全国各地の港湾・河川の整備であった。まず
同年5月に、利根川と江戸川の改修のため利根川全域を調査した。この際、日本初の科
学的な水位観測を行ない、両河川の分流点にやはり日本初の量水標を5月4日に設置して
いる。7月には淀川、その後は信濃川、木曽川も視察している。さらに政府から求めら
れた大阪港の築造のため、ヨハニス・デ・レーケ、ジョージ・アーノルド・エッセルら
の技師をオランダから招聘し、翌1873年に彼らが来日するとリーダーとしての役割を担
った。同年3月には木津川支流を調査するなど精力的に業務をこなし、1874年には内務
卿・大久保利通によって月給を500円から600円に増額されている。これは当時の閣僚と
同程度の金額である。契約期間の延長を前提とし、翌1875年にはオランダに一時帰国し
た。ファン・ドールンは1年後に再び来日し、大久保の立案した1878年の土木7大プロ
ジェクトの実現のため、安積疏水や野蒜築港の事業計画を立案した。安積疏水の事業に
おいては、奈良原繁や内務省官僚の南一郎平の優れた働きもあり、他国の大規模な灌漑
事業との比較から詳細な計画が練られ、大きな成果を収めた。なお、他の開削案には、
他にもあって4つがあったが、現地での調査から沼上峠開削案が最適であると報告して
いる。一方、野蒜築港については明治天皇の東北巡幸の際に各県の県令から要望があっ
たため、1876年にはファン・ドールンが現地に派遣されている。その後1878年に工事が
始まったが、完成の1882年より前の1880年2月にファン・ドールンは契約を終えて帰国
した。しかし、1885年に台風で壊滅的な被害を受けて野蒜築港は廃止され、後に廣井勇
はファン・ドールンの設計を厳しく批判している。このため、自ら設計した野蒜築港の
工事中に帰国したのは、設計の不備に気付き完成の確信が持てなかったためではないか
と批判したとも云われている。一方、当時は古市公威らヨーロッパで土木工学を学んだ
人々が続々と帰国しており、財政上の理由もあって多くのお雇い外国人が契約を更新さ
れなくなった時期でもあったため、特別な事情はないという見方もある。事実帰国の頃
は日本人技術者が台頭し、かれはそれの相談役程度だった。帰国後、1880年にファン・
ドールンは日本政府から勲四等旭日小綬章を贈られている。1883年にオランダ植民地省
の委嘱でカリブ海のオランダ領キュラソー島に赴き、主任技師として埠頭工事や乾ドッ
ク建造などを行なった。その後、ハーグで「オランダ鉄筋コンクリート会社」を設立し
、筆頭取締役に就いている。また、共著で治水工学の本も執筆した。生涯結婚せずに、
1906年2月24日にアムステルダムの自宅で逝去した。

1454: 名無しさんAA:18/10/22 11:56
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   448   > 

 1862年にロンドン万国博覧会(1862年)での展示した事から 日本美術が広まって、ウ
ィリアム・バージェスの東洋への興味からの理解されて、ジサイヤコンドルの来日にな
ったのだが、ここに始まった建築や土木の西洋力学的思考は日本に多大な影響を及ぼし
た。鹿鳴館(ろくめいかん)は、国賓や外国の外交官を接待するため、外国との社交場
として明治政府によって建てられた社交場である。鹿鳴館を中心にした外交政策を「鹿
鳴館外交」、欧化主義が広まった明治10年代後半を「鹿鳴館時代」と呼ぶ。当時の極端
に走った欧化政策を象徴する存在でもあった。しかし馬鹿な日本政府は、建物は後には
華族会館となり、1940年(昭和15年)に取り壊されたのである。全く 歴史を残せない
哀れな日本人であった。計画を推進したのは外務卿(内閣制度以降は外務大臣)井上馨
であった。当時の日本外交の課題は不平等条約改正交渉、特に外国人に対する治外法権
の撤廃が急務で最も大事とするところであったが、日本に住む外国人の多くは、つい数
年前まで行われていた磔刑や打ち首を実際に目撃していて強固な反論姿勢を持っていた
。外国政府は自国民が前近代的で残酷な刑罰に処せられることを危惧していて治外法権
撤廃に強硬に反対していた。そのため井上は欧風化政策を広く推進し、欧米風の社交施
設を建設して外国使節を接待し、日本が文明国であることをひろく諸外国に示す必要が
あると考えたのである。国内外に同じ人種である。同じ道徳を有している。と宣伝する
或いは自制させる事は最も大事な事になっていたのである。、1880年(明治13年)に着
手し。途中規模変更(拡大)があり3年がかりで1883年(明治16年)7月に落成した。
設計はこの為に来日した、お雇い外国人のジョサイア・コンドルで、施工は土木用達組
が担当した。この組織は大倉喜八郎と堀川利尚との共同出資で設立したもので現大成建
設の源流を成すものだった。筑後川に、明治17年査察し河川改修に尽力したヨハニス
・デ・レーケは、河川改修の要請を受けた。しかし主眼は舟運強化であり、筑後川河口
から早津江川間の6q導流堤を建設し河口の堆砂を防除して水運の便を図った。実は、
江戸以前は浮羽は椿油の一大原産地であった。明治以降に喜多商会が全国に筏で送って
いたらしいが幼少時に養子になった喜多氏は久留米に出て喜多村商会を建て筑後川に、
最初の遊覧船を浮かべたが 船底が当たって失敗に及んだ。浮羽の椿油の豪商もこれに
は痛かったらしい。当時軍艦を作っていた佐賀の蒸気船奉行に田中義衛門の東京芝浦製
作所の株式取得に失敗し、城島の酒蔵組合の期待を一挙になくしたようだ。ここで三潴
の大運河計画が持ち上がる事になる。

1455: 名無しさんAA:18/10/22 12:19
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   449   > 
 日本多くの藩では、木版印刷による出版物が江戸時代の文化を支えていたといっても
過言ではない。実は、江戸幕府が始まる前に、金属活字の技術は日本に入ってきていた
が、幕府のキリシタン禁止令により、金属活字印刷は使われなくなった。金属も高くつ
いたからだ。その後、ずっと木版印刷が主流になっていった。再び、金属活字の技術が
日本に入ってきたのは、幕末の頃です。ヨーロッパの金属活字印刷技術が消えてから、
実に250年もの年月がたったときのことでした。それによって、日本の近代印刷技術
は発展していき、明治時代の文明開化にも、多大な影響を与えた。江戸時代に盛んであ
った木版印刷の時代から、再度、幕末に金属活字が輸入され、活版印刷が発達した歴史
をもつ。しかし摺師彫師木肌師半紙屋絵師など多くの職業を支えていた職業が一変した
。木版による多色刷りは、江戸時代のカラー印刷の凄さがあった。浮世絵の印刷は、絵
を描く絵師、版を彫る職人、版に着色をして絵を刷る3人の職人更に木板を納めた木肌
師、半紙屋の共同作品で、印刷技術の高さがなければ成立しない芸術であった。浮世絵
は、木版印刷の非常に古典的な技術であったのにも関わらず、その完成度は非常に高く
、現在でも日本の浮世絵は世界的に評価されている。浮世絵絵師、喜多川歌麿、写楽、
葛飾北斎、安藤広重などの天才によって、次々に傑作が生みだされ、江戸の芸術界は全
盛期をむかえたが徳川氏は代々こうした瓦版や、娯楽版画、更には見世物小屋など遊興
を禁じ、取締まりをした。こうして江戸時代の文化を支え、浮世絵といった芸術を発達
させた木版印刷だが、ところが、開国と共に長い間姿を見せなくなった金属活字の印刷
技術が襲う。幕末、再び、日本に上陸した。オランダから来港した活版印刷は1857年に
長崎・出島に印刷所を設置し、持参した印刷用資機材で蘭書製作が行われ、これに興味
をもったのが、オランダ語の通訳の本木昌造が日本語の印刷物を作りたいと考えた。本
木昌造は、その活版機を買ったのが立花藩の小野氏に購入させ研究を重ねて、片仮名邦
文の鉛活字をつくり好評を博した。実際に和蘭書や蘭和を印刷し刊行しており、技術は
確かなもので本木昌造はさらに活字づくりに没頭し、明朝体の号数活字をつくり成功し
た。家老立花壱岐の守は、この印刷機を、堤印刷に預けて高椋銀行発行の藩札を刷り合
わせて史歴書や物語本を京都や奈良の神社から発注を受けて発行している。又小野文書
という日本最古の活版印刷がペンテコステ教会が取り仕切った事実もある。西郷隆盛も
明治新政府もこの藩札の精巧さには大きな注目していた。インクがにじまず綺麗で細い
線を使い特製の水に強い矢部川和紙であった。この和紙はあとで仏壇の金箔や八女提灯
や七夕人形にまで使用され博多人形まで影響を及ぼしていた。しかし柳城中学校の図書
館に預けられたそれら全て遺失している。全く福岡県には文化醸成の意思が無くて困る。

1456: 名無しさんAA:18/10/22 12:30
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   450   > 
 ジョン・リギンズは宣教師として、米国聖公会から派遣されたプロテスタントの洗礼
に上海に派遣されていた。日本では最初のプロテスタント宣教師とされていて、上海で
のキリスタン排除がはじまる中でマラニアに感染した。チャニング・ウィリアムズと共
に中国で宣教を行っていたが、マラリア療養のために来日し。1859年、長崎に上陸した
、その後日本では英語教師として活動を行った。プロテスタントには、エキュメニカル
派(リベラル派)と福音派(聖書信仰派)が、それぞれ別に集団となった。福音派側は
日本宣教百年記念聖書信仰運動大会を開催。百五十周年にあたる2009年にエキュメニカ
ル派、福音派、聖霊派の三派が共同で日本プロテスタント宣教百五十周年記念大会を開
催した。ペンシルベニア大学はベンジャミン・フランクリンが創設者の一人で、創立時
の校名は「フィラデルフィア・アカデミー」だった。イギリス植民地の大学としてハー
バード大学、ウィリアム・アンド・メアリー大学、セントジョンズ大学、イェール大学
に次いで1740年に設立され、アメリカ独立に先行する長い歴史を持っている。独立宣言
の9人の署名者と合衆国憲法の11人の署名者が大学創立と関連している土地柄である
。そもリベラル、リベラリズムなどは、キリスト教のプロテスタントの神学的立場の一
つでその発生以来、プロテスタント教会の主流エキュメニカル派の多くが採用する立場
の事だ。「自由主義」の解釈は社会学・政治学用語からの借用だが、神学分野で「歴史
的・組織的な教理体系から自由に、個人の理知的判断に従って再解釈する。」という、
決して聖書を歴史書とせず寓話や説話である。と言う改訳だ。日本の福音派も、「聖書
は神の霊感によって書かれ、誤り無い神のことばであるという、聖書の十全霊感(聖書
信仰)を信じるすべての教会」であるとして。この聖書信仰は「福音派全体の恵みの絆
」と呼ばれる。組織としては、日本プロテスタント聖書信仰同盟などは、日本福音同盟
、世界福音同盟が代表的であるが、そこに属さない福音派の教会も存在する。正教会の
総主教やカトリック教会の教皇といった指導者は存在せず、聖書を信仰する多くの新宗
教の緩やかな連帯である。聖霊派(せいれいは)は、キリスト教の教派のうち、三位一
体の位格のひとつである聖霊の働きを強調する教派ないし集団の総称ないし俗称とされ
。主にプロテスタントのホーリネス教会から1900年頃に、ペンテコステ運動として始ま
って、結果的に分岐した教派であるペンテコステ派が最初の教派として挙げられる。実
は、このペンテコステ派は今の柳川伝習館高校の元になった組織であったのある。それ
は江戸時代まで遡って、鯛生金山発見前まで遡らなくてはならない。何故なら八女金山
がこの頃は活発で、その為黒田家から切り離し天領とした日田が既に掘りつくされ後だ
ったからだ。この金鉱の発見こそ米英の開国要請理由だった。

1457: 名無しさんAA:18/10/22 12:37
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   451   > 
 アメリカが独立戦争を得てリンカーン大統領となる頃、最初にアメリカ移民、つまり
日本からの帰化人となっているのは、安政年間である。つまり今だ開国しない時期だっ
た。最初の帰化人ジョセフ・ヒコはペンテコステ派の洗礼を受けている。播磨国加古郡
(現兵庫県加古郡播磨町)生まれのジョセフ・ヒコ(本名:浜田彦蔵 幼名:彦太郎)
は、幼い頃に父を無くし、嘉永4年(1851年)の13歳の時に母を亡した。その直後に
縁戚を頼り、北周船の義父の船に乗って海に出て途中で、知人の船・栄力丸に乗り換え
て江戸に向かって航海中、その船が11月22日に紀伊半島の大王岬沖で難破難破した。時
季外れの台風と地震である。2ヶ月太平洋を漂流した後、1852年1月12日に 南鳥島付近
でアメリカの商船・オークランド号に発見され救助された。13歳の時の、この遭難と
漂流アメリカ商船に救われてサンフランシスコへ到着し、その後香港に着き帰国を待っ
た。東インド艦隊の長官・ペリーの船に同乗し日本へ帰還を正式に望みますが、ペリー
はなかなか来ず、又モリソン号事件の日本人漂着民力松と知り合い、アメリカ政府の方
針が自分たちを送り届ける名目で、日本に開国を求めようとしていることを知って断念
した。他のの栄力丸船員の多くは、同じモリソン号事件関係者と一緒に、上海定住して
いた日本人・音吉などに匿われて、後に清国船で密航した上で長崎経由の帰国に成功し
ていた。こうしてただひとり仙太郎はペリー艦隊に同行し、10月に他の遭難者亀蔵・
次作と共にアメリカに戻った。優秀だった彼は、サンフランシスコで税務長の知遇を得
て、日本人で初めて3人の大統領と正式に謁見し、1858年(安政5年)日本からの帰化
第一号としてアメリカの市民権を得ています。その後、21歳でアメリカ領事館通訳と
して帰国しますが、外交の場で活躍し再び渡米、リンカーン大統領と会見する機会を得
て、彼と握手した唯一の日本人となりました。帰国後は実業家に転じ、岸田吟香(ぎん
こう)の協力の下、外国人居留地の英字新聞を抜粋・訳出した日本初の新聞を発行し、
日本の「新聞の父」の名をゆるぎないものにした。月2回毎回百部24号まで発行された
。同紙は、庶民にも情報を開示するなど、事実を正しく伝えようとする彼の情熱に満ち
あふれていました。また、彼には自著が2冊ありますが、『漂流記』(1863年)は江戸
時代に 木版刷りされた唯一の漂流記、英文自伝の『The Narrative of a Japanese』は
日本人初の英語による自伝だった。日本人に戻るという彼の願いはかなえられず、いま
も外国人「ジョセフ・ヒコ」として、青山霊園外国人墓地に眠っている。しかしこの男
の他にも多くの奴隷や難破船があり、彼らがアメリカに何百人と送られた史実がある。
秀吉が宣教師に言ったことはただ一つ「日本人を開放せよ。さもなくば成敗に行く。」
であった。宣教師達が奴隷船寄港として隠れていたのが韓国の釜山だったのである。

1458: 名無しさんAA:18/10/22 13:26
 文明開化によって、日本人の衣服や履物にも洋風化の波が押し寄せた。佐倉藩側用人
の三男に生まれた西村勝三(かつぞう)は、支藩の佐野藩に仕えますが脱藩し、実業家
を志した。当初は、富山藩の専売特許だった鉄砲弾薬の販売を海外の横浜商社から買い
付けで一時的巨利を得たが、国内は平和になって、藩財政も弾薬どころでなくなった。
その後外国米の輸入、米相場、雑貨販売、洋服裁縫店、陶器販売など多数の事業に手を
かけたが、いずれも思わしくなく、失敗に終わっていた。転機は維新後に軍隊を近代化
するうえで靴の国産化が急務となった事だった。西村はすぐさま軍靴製造で商機をとら
え明治3年東京・築地に安い払い下げ用地に日本初の製靴工場をつくった。現在この日
3月15日は「靴の記念日」で靴業界で讃えられている。この時西村勝三は洋靴を普及
させ、靴業の祖といわれその名を残した。その後も、その成功が他の事業の資金となっ
て、それ以上の大きな功績を残して文明開化を背負った。ガラスとレンガである。文明
の象徴ともいうべき白煉瓦や硝子の製造を興したのだ。1875年(明治8年)に品川白煉
瓦(現品川リフラクトリーズ)を設立し、耐火レンガや赤レンガを製造、有名な「東京
駅の赤レンガ」の全量を納入している。さらに、ドイツの技術を取り入れた洋式硝子工
場を創設し、1888年(明治21)にはビール瓶の大量生産に成功するほか、ガス、メリヤ
スなど数多くの事業を興した。西村が「明治の工業の父」と称される由縁だ。しかし九
州は小規模ながら江戸期からグラバーの影響で博多ちゃんぽんの板ガラスや瀬高の赤レ
ンガはそれより少し古く、それは佐賀の反射炉の材料として八女にその土を求めて作っ
ている。筑後茶輸出で財を成していたグラバーは佐賀の有田陶磁器に力を入れた鍋島氏
に、ドイツ人を引き合わせし八女茶木の苗株を佐賀の山に植え、嬉野茶園を開き川内焼
きの分業式製法にすると同時にレンガ製法も教えた。(株)佐賀鉄工所も工場には、明治
の早くから佐賀市神園に反射炉が作られて失敗したところで技術者を入れている。その
ラインの中にはドイツ人から習った製法の技術指導した2つのラインがあったと言う。
実は戦後の工場の中で佐賀の工場だけは空襲に合わなかった。有明海の干潟が長く空爆
位置を間違えたからだ。大川には明治31(1897)年に九州セメント株式会社が設立さ
れ、小保浜口に工場があった。セメント成形に燃料が必要で杵島と三池の石炭が近かっ
たからだ。セメント工場の高い煙突は大川の名物とされた。工場は若津港に隣接して、
運輸の便に恵まれていた。この時石灰岩は熊本県八代から運び、粘土は筑後川沿岸から
採取し、燃料の石炭は大牟田から運び込んだ。と言われている。これに商売の根を張っ
たのが柳川藩だった。柳川藩は銭の紋とされたが、これは佐賀藩に貸し付けていた事に
よる。つまり銭の門だった訳だ。だが明治では柳川の殿さま(とんさん)の破れべコ。
つまり倒産の破産赤紙、破れかぶれ、と揶揄された。

1459: 名無しさんAA:18/10/22 13:52
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   453   > 

 その後は鉄道を通じて資源を持ち込む事が流行り、苅田町が開発され大川はすたれて
いく。鉄道貨車は国鉄の肝入りで、標準化されて番号が振られた。本形式は、セメント
専用の40t 積タンク車として1968年(昭和43年)6月から1974年(昭和49年)3月に
かけて173両(コタキ11500 - コタキ11599、コタキ111500 - コタキ111548、コタキ101
550 − コタキ11573)が日本車輌製造、日立製作所、川崎重工業、富士車輌の4社にて
、製作された。記号番号表記は特殊標記符号「コ」(全長 12 m 以下)を前置し「コタ
キ」と標記する。落成時の所有者は、富士セメント、豊国セメント、住友セメント、宇
部興産、小野田セメント、電気化学工業、日本セメント、日鉄セメント、敦賀セメント
の9社であった。1970年(昭和45年)10月13日に富士セメントが、日鉄セメントへ社名
変更された。1973年(昭和48年)に豊国セメント所有全車6両が三菱鉱業セメントへ名
義変更された。社名は1990年(平成2年に三菱マテリアルへ変更した)こうして日本の
近代化に伴い業務が拡大し、日本セメント株式会社と合併し日本セメント株式会社大川
工場と名称を改めました。販路は、東京および九州・沖縄・朝鮮半島・台湾などに拡大
していきました。日本の近代化を支えてきたセメント工業でしたが、関東大震災の後の
不景気で日本セメント株式会社大川工場は閉鎖された。佐賀セメント(明治30年頃)
も操業したが、豊国セメントに改称する。早津江車両もあったが姿を消した。人々の生
活習慣を大きく変えたという点では、煙草も文明開化を象徴するものの一つだった。刻
みたばこを煙管(キセル)で吸っていた日本人の間に、西洋人の吸うシガレット(紙巻
たばこ)が瞬く間に広がりをみせた。やがて国産化が始まり、鹿児島などのシラス台地
すら育つ煙草は重宝な作物だった。その中で1884年(明治17)に発売された「天狗煙草
」は、覚えやすいネーミングと口付の吸いやすさ、舶来品の半値という価格で庶民の支
持を受け爆発的に売れた。販売したのは、岩谷松平(いわやまつへい・1849〜1920)だ
った。薩摩藩の商家の次男に生まれた岩谷は、西南戦争後上京し、銀座(松屋周辺)に
呉服反物を扱う薩摩屋(後の岩谷商会)を開店します。派手な新聞広告で大きく売上げ
を伸ばすと、郷里薩摩の物産の一手販売元となり、薩摩絣、泡盛、鰹節のほか、故郷国
分の葉たばこなどを扱い、商社として急成長を遂げた。明治30年代、外国たばこ会社の
資本を背景に京都の村井吉兵衛がアメリカ葉を使った「ヒーロー」を発売する。これに
対し岩谷は、「愛国天狗」「輸入退治天狗」などを発売した。両者は煙草が専売制にな
る1904年(明治37)まで「明治たばこ宣伝合戦」の激しい対決を繰り広げ、煙草産業の
大立者として共に「明治のたばこ王」と呼ばれた。

1460: 名無しさんAA:18/10/22 14:00
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   454   > 

 実は岩谷が「父」としてその名を後世に残すのは、卓抜した広告センスだった。村井
との壮絶な宣伝合戦で、「勿驚(おどろくなかれ)税金三百万円」「国益の親玉・東洋
煙草大王」と大書した看板のほか、引札、新聞広告などを駆使し、彼以降の宣伝広告の
あり方、さらには印刷技術の発展にも大きな影響を与えた。この事で彼は「近代日本の
PRの父」と呼ばれた。岩谷は、赤マントに赤い足袋で赤い馬車を乗り回し、「大安売
りの大隊長」と名乗って大声で宣伝して回り、人々の度肝を抜いた。銀座本店も屋根か
ら柱・壁までを真っ赤に塗り、店頭にはいくつもの大天狗面を掲げていました。日清戦
争の勝利を祝う宮中の宴に招かれた時も全身真っ赤な装いで参内したため、明治天皇が
「あれは何者か」と周囲に尋ねたそうです。これを聞いた岩谷は大喜びして、以後広告
には「商一位大薫位功爵国益大妙人、岩谷松平」と記載しました。その紙巻たばこに欠
かせないのがマッチだ。明治初年、初めてマッチが輸入されると、たばこと同じに、全
国に流行し国産化を志す人物が現れます。「わが国マッチ業の父」と称される清水誠(
1846〜1899)です。金沢藩出身の清水は、1870年(明治3)に渡仏してパリ工芸大学で
造船学を専攻します。1874年(明治7)、パリ滞在中の宮内少輔吉井友実(ともざね)
から、貿易不均衡を解消するにはマッチの国産が必要と聞いて、二年後に帰国すると新
燧(しんすい)社を設立、わが国初のマッチ製造工場(現東京都墨田区江東橋)で国産
マッチの製造を開始します。製法を広めたこともあり、数年後には輸入マッチを、ほぼ
駆逐し、国産マッチは主力輸出産業となり、日本はスウェーデン、アメリカと並ぶ世界
3大マッチ生産国となりました。しかし国産マッチの製造では、もう一人、「父」と呼
ばれた人物がいます。「安全マッチ」を製造し、中国にも進出するなどの成功を収めた
、長州藩三田尻(現山口県防府市)出身の柏木幸助(1856〜1923)です。代々薬商を営
む家に生まれた柏木は、少年時から化学に興味を持ち、清水とほぼ同時期に化学を応用
したマッチ製造で事業を成功させました。しかし、工場が全焼したためマッチづくりを
断念したところ、生家にあった寒暖計にヒントを得て医療用の体温計の製造を志します
。独学と実験を積み重ねた末、ついに1883年(明治16)、水銀体温計の実用化に成功、
「柏木体温計」を完成させました。外国製に比べて安く、手に入りやすいことから、柏
木体温計は全国に普及します。第一次世界大戦後は国内市場を独占し、また諸外国に輸
出もされ、1959年(昭和34)まで生産が続けられました。しかしマッチに革命を起こし
たのは大川酒見マッチであった。10本の内3本しかつかないと日露戦争で乃木将軍か
ら開発を委託されたていたからだ。

1461: 名無しさんAA:18/10/22 14:08
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   455   > 

 柏木は、郷里の人々から尊敬され、「水銀体温計の父」と称されている。この時代の
化学者や発明家には珍しく柏木は東京や海外に出ることなく、終生三田尻にあって研究
に没頭したことで、かれは大きく郷里で愛され続けていた。蓮池藩の家老職を世襲した
石井家も幕末の時代、佐賀藩の西南雄藩の一角を占め、明治維新に主導的な役割を担っ
た。戊辰戦争では、官軍海軍副参謀となった石井富之助、海軍陽春丸艦長石井忠亮が軍
功を挙げ、明治天皇よりその功を賞される栄誉を得ている。また、蓮池藩第8代藩主の
鍋島直与の三男石井忠躬は、蓮池藩兵を率いて出羽国に出陣し、武功を挙げている。明
治政府では、石井忠亮が初代逓信省電信局長をつとめ、電話事業の創設に尽力し、後に
元老院議官、和歌山県知事をつとめた他、石井忠恭は大審院判事、貴族院議員に、石井
常英は横浜地方裁判所長、台湾総督府覆審法院長官をつとめた。軍人も多く輩出し、石
井義太郎(海軍少将)、石井虎雄(陸軍少将)の2名の提督・将軍を輩出。また、民間
では、石井亮一が日本初の知的障害者福祉・教育施設滝乃川学園を創立するなどの活躍
をみせている。福岡県がまだ合併する前は三潴県令が大川に置かれて、石井氏が初代の
権令官になっている。大川町の人口は11,000人三潴郡一の市街人口で佐賀市・久
留米市は2万〜3万の人口の半分はいた事になる。大川町は明治22年4月1日に向島
村、榎津町、小保町、酒見村が合併して出来ました。明治時代から昭和時代の初期にか
けての若津は警察署、郵便局、造船所、銀行、商社、商店、旅館などが軒を並べる繁華
な河口の港町だった。大川橋のたもとに二階建ての明治洋風建築の建物は今でも残る旧
三潴銀行本店である。三潴銀行は、明治27(1894)年に大川市の酒造会社「清力
(せいりき)」の事務所の横に設立された鐘ケ江銀行がはじまりだった。明治29(1
896)年、鐘ケ江銀行は若津へ移転し、三潴銀行と改称しました。明治42(190
9)年には、二階建て洋風建築の本店を現在地に建築しました。棟梁には「大川市清力
美術館(福岡県指定文化財)」を建てた中古賀の名工・筬島傅太郎(おさじま・でんた
ろう)の名が刻まれていると言われている。その後、三潴銀行は、福岡銀行の前身であ
る十七銀行に合併された。鐘ケ江銀行の顧客の多くは城島の酒屋で富安一門だった。古
くから瀬高船積みで鷹尾神社を庇護していた田尻家の家臣で後の蒲池家の家老の一門で
ある。唐津や伊万里で焼酎など西洋式や薩摩式の酒の開発に田尻酒造が関わりを持ち、
これが火縄銃の導火線に使われたと言われる。鍋島公もその開発に熱心で家を焼いたと
される。この流れが大川のマッチにあったのである。


1462: 名無しさんAA:18/10/22 14:30
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   456   > 
 浜田仙太郎 (仙八=サム・パッチ、 倉蔵、 倉次郎) の乗船栄力丸が漂流状態とな
ったのは、 嘉永3年10月29日 (1850年12月2日)でした。53日目に米国商船に救助
され、翌嘉永4年2月2日 (1851年3月4日) に、サンフランシスコに入港している
。船頭から見習い水夫の炊 (かしき) までの一行17人を出身地別にまとめてみると
次のようである。 播州住人(兵庫県加古郡播磨町)万蔵(船頭)安太郎、次作、甚八
、浅右衛門、清太郎、喜代蔵、彦太郎(炊・彦蔵) 摂津住人(神戸市) 幾松、長助
(梶取)備中(岡山県倉敷市)徳兵衛 芸予諸島(広島・愛媛県の島嶼部)仙八(炊・
仙太郎:倉蔵尾道市瀬戸田町)、亀蔵 (亀五郎:尾道市因島椋浦)、民蔵 (帰国後は
大吉、愛媛県上島町岩城)紀州(和歌山県下津町塩津)岩吉(ダン・伝吉・岩蔵)讃州
(香川県木田郡庵治町)京助 伯州(鳥取県羽合町長瀬)利七(与太郎)である。シス
コに到着した一行は温かく迎えられ、日本への関心を深め初めていた同地の市民によっ
て、歓迎の舞踏会に招待されたりしている(『アメリカ彦蔵自伝』 平凡社)また 滞米
中の一行の写真が、ニューヨークの新聞 (ILLUSTRATED NEWS 1853年1月22日付) に
掲載されていることも判明した (平成8年7月4日、 朝日新聞夕刊)嘉永4年2月2
日(西暦1851年3月4日)米国商船オークランド号シスコ入港2月(西暦3月)税関の
ポーク号に移り、翌年まで同乗、嘉永5年2月(1852年3月)米艦セント・メリー号に
移り極東に向かう。閏2月14日(西暦4月3日)ハワイ着、病臥中の船頭万蔵死去、同
地に葬る。4月2日(西暦5月20日)セント・メリー号香港着、数日後米艦サスケハナ
号(のちペリー艦隊旗艦)に移乗。母国に向かった一行は、こうして香港に碇泊中に、
同地に住み着いていた肥前島原出身の力松が一行を訪ねてきた。力松は天保6年(1835
年)に難破してルソン島に漂着した肥後川尻の、庄蔵船の乗員であった。その後マニラ
からマカオに送られ、1837年の米国商船モリソン号による日本への送還の試みが、幕府
の砲撃により失敗した7人の日本人漂流船員の一人でした。日本への帰国が挫折すると
、香港に住み着き、アメリカ人女性と家庭を持ち2人の子供もいたらしい。彼は深刻な
自分の体験を語って、一行に艦隊を離れるように勧誘したが、この時点では誰も応じな
かった。しかし、遠く本国を離れた艦内での一行の待遇は急速に悪化していった。そこ
で、清太郎・浅右衛門・亀蔵・京助・徳兵衛・民蔵・岩吉・利七・安太郎の9人は、中
国人の手引きで脱走し、清国政府に母国送還を願い出ようとした。だが、脱出直後に追
いはぎに遭った一団は間もなく帰艦している。その後に、彦太郎 (同時16歳)・亀蔵
(28歳)・次作 (30歳) の3人は、退役して帰米する水兵の、トーマス・ロイに誘わ
れて、香港から再度アメリカに向かった。

1463: 名無しさんAA:18/10/22 14:31
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   457   > 

再度、合衆国に現われた3人は、それぞれ独自に行動する。彦太郎は世話人に恵まれて
合衆国の市民権を取得、開国後の日本に現われ、アメリカ彦蔵の名で注目された。亀蔵
は米国の商船に水夫として乗組んでいる内に、幕府は鎖国から開国に転換して日米修好
条約の批准の運びとなって帰る事が出来た。その使節一行が米艦ナイアガラ号で香港に
入港した際に、たまたま乗船が同港に入港した亀蔵は名乗り出て帰国している。漂流後
、10年目であった。名乗り出た際の状況を、遣米使節団の一員、野々村忠実は、「形
状総テ西洋服ヲ着シ---常語モ叉用イルコト能ハズ---頻リニ帰国ヲ乞ヒ、涙ヲ流シ--」
と日記に記している(『遣米使節史料集成』第一巻)。もう一人の次作も、安政6年に
箱(函)館にたどりついている。嘉永6年2月11日 (1853年3月20日) サスケハナ号
は、残留組を乗せて香港から上海に向かった。上海では、また、その風聞を耳にした別
の日本人(漂流船員)が訪ねてきた。力松等と一緒にモリソン号に乗船しながら、祖国
帰還が挫折した尾張出身の音吉であった。音吉は、尾張国知多郡美浜町小野浦の宝順丸
で、天保3年(1832年)冬に遭難、翌年末に北米に漂着、インディアン集落での生活中
に救出され、英国軍艦でロンドンに送られた3人組の一人でした。ロンドンからマカオ
に送られ、米国商船モリソン号による日本送還が失敗すると、習熟した英語を駆使して
英国系の商社に勤務、重要なポストに就いていた。 この音吉の説得の結果、 同年3月
1日(西暦4月8日)栄力丸一行の残留組は、一人仙太郎だけを残して、その他の者、
全員が、サスケハナ号から退艦した。この後、3月27日 (西暦5月4日) にミシシッ
ピー号で上海に到着した新任の司令官ペリーは、報告を受けると激怒して、音吉宅から
一行を連れ帰るように指示した。しかし、一行は音吉のはからいで雲隠れしてしまい、
ペリー艦隊が出航したのちになって、音吉の邸に帰って来ている。その後に、下艦した
栄力丸の一行は清国の商船で長崎に送還され、長崎奉行所で取調を受け、それぞれの藩
に引き渡された。多くの藩では緊迫した海外情勢掌握のため、帰還した漂流民を士分に
取り立てるなどして活用している。一方、紀州(和歌山県下津町塩津)の岩吉は、待機
中に一人脱走して英国船に乗組み、やがて日本に帰国してイギリス領事館の通訳となっ
た。しかし 安政7年(1860年1月29日)イギリス公使 オールコック付きの通訳の小林
伝吉は洋装しており、かなり有名であった。しかし、江戸のイギリス公使館の門前に立
っているところを攘夷派の浪士により英国公使館の前で、2人の侍に背後から刺されて
殺害された。上海で一行を下艦させた音吉は、一行に強烈な印象を与えていた。

1464: 名無しさんAA:18/10/22 14:33
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   458   > 

伊予の岩城島(愛媛県上島町)に帰還した民蔵は、上海での世話になった音吉について
、次のように語ったことが、隣島の大三島(愛媛県今治市)の此蔵の日記に書き残され
ている。「厚く世話にあい成り候、其の人(音吉)曰く、この国(清国)もイギリスに
打ち負け、今はイギリスに随い候、遠からず内に、日本も又イギリスの為に大乱あるべ
しと申せし由、岩城人より--話し候由」(藤井此蔵一生記、『日本庶民生活史料集成』
2、三一書房)としている。音吉は、何故か その後も帰国せず、国際舞台で活躍し、
シンガポールでその生涯を終えた。『The Career of Otokichi』 シンガポール 日本人
会、Leong Foke Meng、 雷少玲訳、2005年)。出身地の愛知県知多郡美浜町の「音吉顕
彰会」の努力もあって、平成17年にシンガポールから遺骨は「故郷に帰りで永遠の眠り
」 についている (中日新聞、 県内総合、 同年2月19日)
 米国側の公式記録である『ペリー提督日本遠征記』(大羽綾子訳、法政大学出版局)
には、次のような記述が見られる。「アダムス大佐は浦賀奉行に一通の手紙を渡した。
それは艦隊所属の 一日本人がその友人に宛てたもので、水夫仲間では、サム・パッチ
(三八)というあだ名で呼ばれ--乗組みの一人として正規にやとわれ、艦隊と共に第一
回の日本訪問をし、今度は二回目という訳だった。」と。浦賀奉行に託された手紙が、
その後どのように処理されたのかは、記録は残っていない。しかし幕府当局は、直ちに
現地に指示して事情を掌握したのではなかろうか。仙太郎の郷里、芸州生口島の福田(
広島県尾道市瀬戸田町)の興福寺の過去帳には、嘉永5年と6年の余白に次のような覚
え書きが見られる。「今年、 天神社開帳---十二月五日大風。当所ノ熊蔵子倉次郎、死
候由申、法名付候処、其後アメリカノ舟へ乗来、叉アメリカへ帰ル。実ニ不死、アメリ
カ人ト成也--」と。幕府の当局が仙太郎の存在を確認したのは、嘉永7(安政1)年、
ペリー艦隊が再来した時期であった。仙太郎は同年2月8日(西暦3月3日)には、幕
府役人の香山栄左衛門等に面接を受けている。その姿を先の公式の『遠征記』は次のよ
うに記述している。「サム・パッチは日本の役人の前に連れて来られたが、かれはこの
大官連を一目見ると、全く恐怖に打たれた様子でひれ伏した ---アダムス大佐が頭を上
げるように命じると、目も当てられぬ程恐れて、全身をわなわなさせながらうずくまっ
た。」と書かれている。

1465: 名無しさんAA:18/10/22 14:37
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   459   > 

 幕府側の『幕末外交文書』には、帰国を勧めたが、仙太郎は応じなかった、とある。
ペリー側は本人の自由意思にまかせた。と記述されている。その後のサム・パッチは、
故国を目前にしながら、必死に帰国を拒否した仙太郎こと、サム・パッチになり米国に
住んだ。かたくなに帰国を拒んだサム・パッチは、二度にわたり来日したペリー艦隊に
乗組員だった。しかし一人の日本人として幕府を恐れていた様だ。米国では、一人の海
兵隊員が接近してきて、キリスト教宣教師を勧めてきた。東洋への布教を夢見ていたジ
ョナサン・ゴーブルである。彼は除隊して、ニューヨークに近い実家に帰り、ハミルト
ンの神学校に入学していた。東洋伝道熱に燃える学生組織「東洋協会」に所属して、こ
の時、勧誘されていたサムも共に入学し、同じ寄宿舎で生活した。が、なぜか中途で退
学している。言葉や感覚の違う学校生活は苦痛であったのであろう。しかし、1858年3
月には、ハミルトンのバプテスト教会で、日本人として最初のバプテストとなった。
(『主のあしあと』、高松、第五号1979年10月1日、宮地慶信氏)その後にバプテスト
教会の宣教師となったゴーブル夫妻は、万延元年(1860年)に、横浜に上陸したが、サ
ム・パッチも同伴している。来日後、一家は横浜市の神奈川区森川本町の成仏寺の境内
の小さな家に住んで過ごした。ゴーブル夫妻は、貧しい生活にたえながら、明治4年に
最初の日本語訳『摩太福音書』を刊行している。この『摩太福音書』の翻訳については
、仙太郎が大きく寄与したという見解と、否定的な見解がある。この訳文を詳細に読み
直してみると、平易に訳出された日本語には、明らかに広島県の東部地方の備後方言ら
しい言葉遣いがうかがえる。随所に出てくる二人称の「おまい」や断定の「--じゃ」あ
るいは打消しの「--なんだ」等であるが備後なまりの方言である。直接、翻訳は手伝っ
てはいないかも知れないが、ゴーブル夫妻が習得した日本語が、基本的には備後方言で
この『摩太福音書』には、サム(仙太郎)の生命力が脈々と生き続けている。やがて、
仙太郎はゴーブルのもとを離れ、成仏寺に寄宿していた S・R・ブラウンや J・H・バラ
ー夫妻等に近づいている。その後、深い関係を持つことになったのは、来日して間もな
い E・W・クラーク であった。クラーク邸(静岡城内)と仙八(右の平屋の前)クラー
クは、今は敗者となった徳川氏が、静岡(府中)に開設した新しい学問所に招かれた若
い独身の教師であった。最初は郊外の蓮永寺に住み、間もなく静岡城内に新築された二
階建ての洋館に移った。

1466: 名無しさんAA:18/10/22 14:50
サム・パッチすなわち浜田仙太郎は、日本に上陸した時穏やかな心境ではなかったろう
。その時のサムは、料理役として勤務していた。隣の平屋に漸く(ようやく)迎えた妻
と共に暮らしたが、彼はこの時が一番平和だったのかもしれない。明治6年、クラーク
は開成学校 (東大の前身)に移り、料理人のサムも東京人となった。しかし、間もなく
して明治7年に病死している。朝野新聞では(同年10月15日)に、「米国人某のもとに
て、三見某と云へる者死せり---」 とある。この「三見」は三八君ことサム・パッチの
事の様だ。その葬儀の模様をクラークは次のように記している「--妻や他の夫人達が人
力車で続き---最後に中村とわたしが---しんがりをつとめた」(「日本滞在記」クラー
ク、飯田宏訳、講談社)。一緒に葬儀に加わっていた中村は、幕臣出身の優れた英学者
で「西国立志編」の訳者としても著名な中村正直(敬宇)であった。静岡学問所以来の
同僚で、キリスト教の洗礼も受けていた。明治34年に創設された弓削海員学校(商船高
専の前身)の校長として着任した小林善四郎の実父も幕臣で、中村家とは姻戚関係にあ
った由であった。(善四郎長女、小林愛子氏談)葬儀の列が向かったのは、中村家の菩
提寺、日蓮宗の本伝寺(東京都文京区)であった。この中村家の墓地に「三八君墓」が
、そして後、そのかたわらに中村家によって次のような銘文を刻んだ石碑が建てられて
いる。 石碑には、「三八君安芸の生まれ、本名仙太郎、米名サム・パッチ、幕末ジョ
セフ・ヒコ等と難波(ママ) 漂流し、米船に救われ---帰米後日本人最初のバプテスト
派洗礼者となり、再びゴーブル牧師と共に来日し、聖書摩太福音書(全文ひらがな)の
翻訳に協力した。その後、クラーク教師に仕え、晩年は敬宇先生 (中村正直) の馭者
として生涯を終わる。明治七年十月八日死、行年四十一歳」と、こうして郷里の誇りと
して語り継がれる帰国した日本人もいたが、そのまま異邦の地の中で生活した日本人も
いた。この栄力丸の遭難と漂流は、船で引き上げられる前に無人島に漂着している事も
知られている。大川の三潴銀行跡地は、昭和時代は戦前は北島氏によって南方汽船の発
着場だった。戦後は真崎氏によって屋久島や八重島運行する船便があった。バプテスト
派は17世紀初頭に、イギリスに起こった聖霊主義にある。清教徒内部から興った妖精
を信じたプロテスタントの一教派である。その起源にはカルバン主義に立つものやアル
ミニウス主義に立つものとの2派があるとされる。「ミラノ勅令」によってキリスト教
はローマ帝国の公認宗教となったが、その後もローマ教皇派とバチカン教皇派が争い、
異端派排除の異端尋問や異端裁判を行い、その為に処刑する魔女まで産み出していた。
大川のこの南方汽船は今の尖閣諸島を江戸時代から持っていた領主であった。その為に
ここの近くの難破船救助が江戸期になってやっている。マッチのリンや硝石もここから
運ばれたと記載される。

1467: 名無しさんAA:18/10/22 14:56
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   461   > 

 そもそも、西洋の論理破綻は、この魔女裁判でもある。魔女はキリスト教を信じてい
ないので異端とはならない。異教の者なのだが、それでキリスタンとして裁判している
多神教から一神教へ全土掌握の宗教としての地位や名声や権力に於いて、贖宥状を売る
などの行為を行った。贖宥状(しょくゆうじょう)は言わば免罪符で罪の償いを軽減す
る証明書として金銭に応じて販売するのが教会が役目だった。金で贖宥状が買えるのだ
から、イギリス王女やフランス王などいくらでも免除だろう。ルターの宗教革命は聖書
のみに基準をおいて考え、人間の救いは、すべて神の恵みのみによるものであり、人間
から考えるならば、信仰のみによるのであり、贖宥状を買うなどの行為によるのではな
い。と論じた「聖書のみ」「恵みのみ」「信仰のみ」の主張である。こうして多くの、
戦後のキリスト教は日本プロテスタント聖書信仰同盟の信仰などで広まった。日本福音
同盟、世界福音同盟が代表的であるが、そこに属さない福音派の教会の中に聖霊派(せ
いれいは)は、キリスト教の教派のうち、三位一体の位格のひとつである聖霊の働きを
強調する教派ないし集団の総称ないし俗称としてペンテコステ運動として始まっている
。ニュージーランド、アメリカなどの各地で連合体を組織し、現在では長老派、組合派
と並ぶプロテスタント三大教派の一つとなってバプテスト派が存在した。アメリカでは
、南部バプテストとアメリカン・バプテストの二大連合体があって,アメリカ最大の教
派をなした。ヨーロッパで1834年にオンケンによってドイツにバプテスト教会が創設さ
れ、北ヨーロッパ、オランダ、とりわけロシアに広まっていき、正式なパブテスト教会
が作られた。日本バプテスト連盟はキリスト教の正統なプロテスタントのバプテスト派
として、福岡市の「西南学院大学・高等学校・中学校、小学校」、久山町の「重症心身
障害児施設・久山療育園」、北九州市の「西南女学院大学・短期大学・高等学校・中学
校」、京都の「バプテスト病院」「バプテスト看護学校」等の事業体を運営している。
現在、連盟の教会は北は旭川、南は沖縄まで、330の教会があると広報する。この派
の特徴は、(1) 信仰個条をもたず聖書のみを信仰の規準とし,(2) 洗礼は浸礼,すなわ
ち全身を水に浸すものとし,幼児洗礼を認めず,(3) 自覚的信仰告白者のみを教会員と
し,(4) 教職を認めず万人祭司主義に立ち,(5) 各個教会の自主独立を認め,(6) 国家
と教会の分離を主張していることなどである。

1468: 名無しさんAA:18/10/22 14:59
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   462   > 

 日本は1889年に発布された「大日本帝国憲法」では日本が立憲君主制国家たることを
宣言しているが、それでもこの中で信教の自由は限定的なものだった。さらに天皇に対
する忠誠を説く「教育勅語」(1890年)によって明治に、日本における天皇の位置づけ
が明確に示された。国家の核としての天皇と国家神道の位置づけが明確にされたことで
、キリスト教に対する風当たりは、相当強くなった。このような風潮を象徴する出来事
が内村鑑三の不敬事件(1891年)が起こった事だ。政府は大逆事件(1911年)で幸徳秋水
を処刑したが、キリスト教に批判的な立場から、彼の遺作である『基督抹殺論』の刊行
を認めた。その裏には、明治になってから、長崎で隠れキリスタンがいてしばらくは、
差別されたままにあったからだ。バチカン報告によって国際社会で批判されてやっと、
明治政府が信仰の自由を認め、隠れキリスタンを認めたのである。実は西洋のルネッサ
ンスは、単に古代ヘレニズムへの回帰運動と教えられる。だが付随して起こったもので
真の意味は、宗教改革の意識改革にある。教会におけるヘブライズムへの回帰運動で起
こった各国のルター派の、改革派の国教会・領邦教会に対して、ここで、バプテストや
メノナイトさらにメソジストが生まれて、ルネッサンスから啓蒙主義を経て、近代合理
主義が生まれ、唯物主義が生まれ、マルクス・共産主義まで宗教に引き込んだのだ。主
にプロテスタントペンテコステ派が最初の教派として挙げられる。1897年(明治30年)
、当時、日本メソジスト教会の伝道者であった中田重治は、米国においてムーデー聖書
学院在学中に聖潔(きよめ)の体験をした。その後、日本帰国後巡回伝道に携わった。
1901年、来日したC・E・カウマン夫妻と提携して東京神田神保町に中央福音伝道館を開
き、あわせて聖書学校を始めたのが、ホーリネス教会の起源であるとする。新生・聖化
・神癒・再臨からなる信仰の四重の福音を掲げて大きく成長し、さらにホーリネス・リ
バイバル(信仰復興運動)によって1932年(昭和7年)には教会数439、信徒数19,523名
、教役者数428名という巨大組織となり、日本における新教の五大教派の1つになった。
しかし、教義において代表の特殊改訳が問題となり聖書学院の学長派と五教授派の分離
が成立し、日本ホーリネス教会は「日本聖教会」と「きよめ教会」とに分離し、日本ホ
ーリネス教会は消滅した。(ホーリネス分裂事件)。1941年に(昭和16年)、日本は、
アジア・太平洋戦争に突入したが、日本のプロテスタントキリスト教諸派は、政府の圧
力により自主的に合同して日本基督教団を組織した。日本聖教会はその第六部、きよめ
教会は第九部としてこれに加わった。1942年、再臨信仰を理由に官憲の弾圧が下され、
ホーリネス系諸教会は解散させられた。

1469: 名無しさんAA:18/10/22 15:01
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   463   > 

 メソジスト教会内部から、信仰復興のための「ホーリネス運動」が起こされた結果、
生まれたキリスト教プロテスタントの教派の一つである。ホーリネス教団及びその教会
をいう。メソジストと同様、神学的にはアルミニウス主義の立場をとるとしている。異
言派(ペンテコステ派)とは一線を引いているが、近年の対話では様々な修正が試みら
れてきた。現在では暗黙の内に異言を「神からの賜物の一つ」として受け止め、あくま
でも個人的な密室の祈りにおいてのみ認められ、公の場では控える。としている。日本
では、1891年にイギリスのバークレー・バックストン、1901年にアメリカのチャールズ
・E・カウマン夫妻とアーネスト・A・キルボルンによって伝えられた。バックストンに
よって日本伝道隊としてアジア侵略の為に打ち立てられた教義は、1917年に「東洋宣教
会ホーリネス教会」が設立されるまでに至った。しかしまもなく「日本ホーリネス教会
」と改称、東洋宣教会は、アジア宣教のための別組織として改組された。組織は監督制
をとりその権威は大きかった。こうして元の集団である異言派(ペンテコステ派)は大
きくホーリネス教会にとって代わられた。1900年頃に結果的に分岐した教派であるが、
このペンテコステ派は今の柳川伝習館高校の元になった組織であり、実学派を名乗った
この時期、自由主義神学、高等批評が導入され、日本の教会に混乱を与えることになる
。1885年にドイツ普及福音教会のウィルフリード・スピンナーが来日し、聖書は人間の
宗教的な記録であると主張した。またこの派からオットー・シュミーデルも来日する。
この立場は、新神学と呼ばれたが、彼ら自身は「最も進歩せる学術的キリスト神学」と
称した。これは日本組合基督教会に強い影響を与えた。1887年にはアメリカからユニテ
リアンの宣教師が来日し、三位一体でのキリストの神性を否定した。熊本バンドの小崎
弘道はこのリベラルな新神学を受け入れ、1889年に同志社大学で開催されたキリスト教
青年会の夏期学校では、「聖書のインスピレーション」と題して講演をしているた。ま
た、1891年に金森通倫もモーセ五書は、ユダヤ人の伝説や神話の寄せ集めであると主張
し、ここに歴史書や経典や教科書的見方を否定し 寓話の寄せ集めである見方が決定さ
れるに至った。1892年には日本基督教会で「日本の花嫁事件」が起こり、田村直臣牧師
が免職になった。1893年に東京帝国大学の井上哲次郎教授は、『教育と宗教の衝突』を
発表して内村鑑三を非難し、キリスト教と日本は相容れないとした。しかし1901年5月
に20世紀大挙伝道の働きの中で、リバイバルが起こり、1907年にはプロテスタント人口
が日本で約6万人ともなった。彼らは社会不安の中でキリスト教を救世教としたのであ
る。

1470: 名無しさんAA:18/10/22 15:11
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   464   > 

 しかし、1900年代黒人差別は止まる事はなかった。1901年9月から、リベラル神
学を巡って、日本では、植村・海老名論争が起こる。1902年に福音同盟会は総会を開き
、イエス・キリストの神性を確認し、海老名を追放したが、植村も十全霊感を否定した
。1903年には、それまで各教派別に編纂されていた讃美歌集を一つにまとめた共通『讃
美歌』が作成された。1904年の日露戦争では、海老名弾正、植村正久、井深梶之助、本
多庸一が主戦論を唱え、内村鑑三、柏木義円、白石喜之介が非戦論を唱えた。トルスト
イの影響を受けた、キリスト教社会主義者の安部磯雄、木下尚江、西川光次郎、石川三
四郎、片山潜らも無抵抗主義の非戦論だった。しかし、それは、植民地主義で自由を奪
われて行く有色人種の救済にならない事との矛盾に満ちていた。この頃ウィリアム・ブ
ース神父がやって来た。1907年には救世軍の創立者ウィリアム・ブースが来日した。2
万人を超える群集がブース大将を歓迎し、彼は西園寺公望、大隈重信、明治天皇に面会
した。1912年に救世軍病院が開設される。エディンバラ宣教会議が開かれた時の1909年
10月には、日本におけるプロテスタント宣教開始50年を祝って、宣教開始50年記念会が
開催された時だった。1910年エディンバラ宣教会議の決議により、東京女子大学が設立
。1910年の朝鮮併合後に朝鮮総督府は、日本基督教会の指導者植村正久に朝鮮宣教を持
ちかけた。植村は朝鮮併合には賛成していたものの、朝鮮宣教は断ったため朝鮮総督府
は、日本組合基督教会の指導者海老名弾正に朝鮮宣教を命じた。日本組合基督教会は、
同年10月の第26回定期総会で全会一致をもって「朝鮮人伝道」を決議し、渡瀬常吉を代
表派遣として送った。しかしこの救済が間違いだった。日本組合基督教会は朝鮮総督府
より莫大な資金援助を受けて朝鮮植民地伝道を繰り広げたが、朝鮮人や支那人の勝手な
脚色した信仰に翻弄されるのである。日本国内では、明治の終わりから大正期にかけて
、明治時代後半にみられた国粋主義への傾きが一時的に退潮した。1912年の神仏混合に
よる三教会同は、ようやくキリスト教の地位が宗教界で同等なものとみなされたかのよ
うな印象を与えたが、その一方で昭和に入ってキリスト教が国家の統制下に組み込まれ
ていくことへの伏線となった。この時期、日本基督教会の信徒であった賀川豊彦は労働
組合運動など活発に社会運動を行ったが、彼の設立した消費組合は後の生活協同組合へ
とつながった。バプテスト教会は内村鑑三の描いたホーリネス教会は、此処に来て信者
への勧誘は出来なくなった。

1471: 名無しさんAA:18/10/22 17:30
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   465   > 

 本木 昌造(もとき しょうぞう)、文政7年6月9日(1824年7月5日)に生まれた 江戸
幕府の通詞、教育者であり、日本における活版印刷の先駆者として知られる。諱は永久
、幼名作之助または元吉。異表記に昌三、笑三(或は号とも(曲田(1894)))、咲三
としてしられる。なお本には、木本昌造ともあるがは誤記であるとされる。長崎の通詞
の家系へ養子に入って、幕府の通詞をする傍ら、西洋への興味から操船、造船、製鉄、
活字製造などに関わった事で、明治維新後の廃藩置県により職を失くした武士への授産
施設として私塾を開いた。そこの一事業であった活字製造は、のちに独立して「新街活
版所」となり、門下生らによって築地活版製造所などへと繋がった。私塾の関係者に築
地活版の創設者であり石川島造船所の創設者でもある平野富二、横浜毎日新聞の創設者
である陽其二がいる。 文政7年(1824年)、長崎に生まれる。生家は本木家の親戚であ
る北島家、や生家の馬田家あるとされる。11歳(天保5年(1834年)) 本木昌左衛門
のもとへ養子に出され、本木家は平戸のポルトガル通詞に始まるオランダ通詞の家系で
、本木の二代前の正栄は、英和や仏和の辞典を作っていた。本木家へ行った後はオラン
ダ語を学び、オランダ舶来の書物によく接して西洋の技術に強い関心を寄せた。父の職
を襲った(かさねついだ)のち、嘉永6年(1853年)にロシアの使節エフィム・プチャ
ーチンが長崎へ来航し、翌安政元年(1854年)に下田に向かった件では、下田での条約
交渉の通詞を担当した。11月に彼らの乗艦が嵐により破損すると、ロシア側との交渉を
取り持ち、無事に建造せしめるなど、通訳以外の仕事へも強い関心を保っていた。同元
年投獄される。嫌疑は蘭通弁書の印行の咎(とが)、英和辞書を印行しようとした咎、
他人の罪の身代わりの咎など定まらない。出獄して謹慎となった本木は、パンチ父型の
製造(鉛活版のその母型の鋳型)などに取り組むが、技術の未熟や材料の不足もあって
成功しなかった。万延元年(1860年)11月、飽浦の長崎製鉄所の御用係に任命され、イ
ギリスより蒸気船を買い入れ、自ら船長となり文久元年(1861年)や元治元年(1864年
)などに江戸などへ航海をした。後年の弟子平野富二は、機関士として同船することも
あった。寸暇を見ては活版印刷を考え、また、長崎版の印行に関係した(関与のほどは
不明)。

1472: 名無しさんAA:18/10/22 17:35
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   466   > 

 本木は長崎町版と呼ばれる、安政6年(1859年)の『和英商賈対話集』、翌万延元年
(1860年)の『蕃語小引』を、名義を藉りて印行している。前者は欧文が鋳造活字、さ
らに和文を整版で併せたもので、後者は和文欧文ともに鋳造されたものであった。それ
以前、嘉永4年(1851年)に流し込み活字を作り、「蘭和通辯の事を記せし一書」を、
印刷したと伝えられる。これは、『蘭和通辯(弁)』を印刷したものともされ、あるい
は訛伝で長崎町版の一書を指すとも云われる。1869年、長崎製鉄所付属の活版伝習所を
設立し、同年グイド・フルベッキの斡旋で美華書館のウィリアム・ギャンブル(Gamble
・William )から活版印刷のために活字鋳造及び組版の講習を受けた。このとき、美華
書館から5種程度の活字も持ち込まれた。川田久長 『活版印刷史―日本活版印刷史の研
究』(1949年)ではこの伝習は1869年6月 のこととするが、小宮山博史「明朝体、日本へ
の伝播と改刻」(『本と活字の歴史事典』、2000年)では11月より翌3月までとする。
1870年、同所を辞し、吉村家宅地(ただし吉村家屋敷を長州藩の者がたびたび使用した
ため萩屋敷ともいったという)、若しくは長州藩屋敷に武士への授産施設や普通教育の
施設として新街新塾を設立する(ただし、陽其二が設立したものを引き受けたとの異説
がある)。この塾の経営で、負債が溜まり、解消の一助に新街活版製造所を設立した。
1869年 - 長崎製鉄所に本木昌造によって 「活版伝習所」が作られたのが起源で、その
後本木は長崎製鉄所を離れ新街私塾に移るが、長崎製鉄所に残った組が工部省に引き継
がれ「勧工寮」と称した。1871年 -大蔵省「紙幣司」が創設。その後、「勧工寮」を合
併し「紙幣寮」と改称。1872年 -初代紙幣頭(現在の理事長に当たる)に渋沢栄一が就任
。同年、「太政官正院印書局」が創設。1875年 -「太政官正院印書局」が「大蔵省紙幣
寮」に合併される。なお、当時政府の印刷工場が紙幣を印刷し、国立銀行に発行機能を
持たせるとする構想から、紙幣寮から印刷局の初期にかけては銀行の監督業務も職掌と
していた。1877年 -大蔵省「紙幣局」に改称。1878年 -大蔵省「印刷局」に改称(この
時に銀行業務を分離)。初代局長に得能良介。1898年 -内閣の「官報局」と統合され、
内閣所管の「印刷局」となる。1923年 -関東大震災で大手町の紙幣印刷工場や王子の抄
紙部が被災して全面的に造幣局として大阪に移った。柳川伝習館はその伝習所を作る前
の立花氏の作った公式印刷教示所だった。破れべコ伝説では雨で敗れる様な紙幣では、
使い物にならない。と言う風刺があって薩摩の西郷隆盛は布製の紙幣を刷ったとされる


1473: 名無しさんAA:18/10/22 17:53
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   467   > 

 その後独立行政法人国立印刷局(こくりついんさつきょく)は、紙幣・切手・旅券・
郵便貯金通帳・証券類・政府刊行物等の印刷を主に行う独立行政法人として発足した。
東京都港区に本局をおく他、全国に6工場(東京、王子、小田原、静岡、彦根、岡山)
を運営している。行政執行法人(旧:特定独立行政法人)であるため、職員の身分は国
家公務員である。明治新政府は 1868年5月16日(慶応4年4月24日)に旧金座および銀座
を接収し、 6月11日(慶応4年閏4月21日)に貨幣司を設けて二分判および一分銀などの
鋳造を引き継がせている。1869年3月17日(明治2年2月5日)に貨幣司が廃止されて太政
官に造幣局が設置され、8月15日(明治2年7月8日)に造幣局は造幣寮へ改称されて大蔵
省所属となる。1868年(慶応4年)にわざわざ 参与会計事務官三岡八郎、外国事務局判
事 五代才助らが、中国に行って同年に廃止された イギリス帝国・香港造幣局の造幣機
械を6万両で購入する契約を結び、11月1日(明治元年9月17日)に、英国建築技師トー
マス・ウォートルスが御雇外国人として雇用され局舎設計および機器購入などを担当し
ている。この時もっと精巧な新しい機械が香港に置かれたが、それが長崎から大川を渡
り柳川に置かれた。これが柳川城炎上の元となった。つまり三条実美に西郷などから知
られ城の明け渡しが迫られたのである。1870年3月3日(明治3年2月2日)に 旧香港造幣
局長キンドルが造幣寮首長に任命されていよいよ紙幣発行発行準備が整うといよいよそ
の交渉は熾烈に立花藩に襲ってきた。大阪本局は1871年1月17日(明治3年11月27日)に
銀貨製造を開始し、4月4日(明治4年2月15日)に大蔵省造幣寮として創業式を挙行して
いる。 6月27日(明治4年5月10日)に新貨条例および造幣規則布告がされて近代的貨幣
制度が開始される。 1875年(明治8年)1月31日限りで キンドルらお雇い外国人10人を
解雇して寮務全般が改革され、試験分析局のディロンおよび冶金室のウィリアム・ゴー
ランドに造幣頭の顧問役を兼任させている。 1877年(明治10年)1月11日に造幣局へ改
称される。1871年の創設時以来、工場内および近隣周辺に貨幣鋳造時の余剰発生ガスで
ガス灯を灯しており、当初は日本初のガス灯による街灯で見物人が多数訪れている。そ
の後も1964年の東京オリンピックや札幌オリンピック・長野オリンピックの金・銀・銅
の各メダル、名古屋城の金鯱なども製作され、大阪造幣局とも俗称される。こうした経
過から、造幣局では紙幣は製造しない。紙幣を印刷するのは国立印刷局である。

1474: 名無しさんAA:18/10/22 18:50
 2013年に NHK大河ドラマ「八重の桜」には嘘ばかりで腹がたった。小崎弘道や海老名
弾正(喜三郎)らの登場で同志社的、日本キリスト教史的には重要な回がありますが、
私は同志社にもキリスト教にも興味ない人はそれでいいだろうが。海老名弾正は乞われ
て前橋で前橋教会を創立したがそれも相当苦労している。ドラマでは、「いやなら出て
けよゴルァ」なウザキャラだが、全く変えている。現実にはそういう対応もあっただろ
うが中身が違う。明治9年(1876年)、新婚初日。プリーズ・コール・ミー・ジョーっ
てことで、「八重さん」「ジョー」で呼び合うことに。これとニイジマジョーのレディ
ーファーストな行動が物議を醸したことは、有名な話だろうが、レディーファーストっ
てのは女性を盾にして自分の身を守るために始まった風習ではない。又廃刀令発布。浩
の什仲間、竹村が起こるはずはない。完全に何かやらかす感じで山川家を退去。これが
与七郎と幸之進の今生の別れとなっている。この頃の日本は食い扶持が減る事は荷が軽
くなる話としか考えていない。それほど食がなかった。同志社英学校は生徒数も当初の
8人から30人に急増したが、習熟度の差が大きくデイヴィス困惑。この状態で、熊本
洋学校(設立:細川護久)の生徒受け入れ問題発生。覚馬は反対しますが、ポール金森
の懇願で熊本バンド受け入れ決定。まぁ、ニイジマジョーらしい展開に仕上げているが
実は逆のはずだ。9月、熊本バンド転入。ここで早速一悶着。さらに、早速猪一郎(徳
富蘇峰)に鵺(ぬえ)呼ばわりされる八重があったが。鵺と言う筈はない。鶏なら解る
が、確かに和服に西洋風のハットとハイヒールってのは現代では珍妙奇天烈だが、パン
ツなど下着を履かない時代にハイヒールをする筈はない。鵺とは神の鳥怪鳥で簡単に言
えるのは昭和の時代からだ。そんな猪一郎が、割と簡単に八重と接近。食事の時のちょ
っとした様子だけで猪一郎の風邪を見抜いた八重(さすが八重さんぱねぇ)、風邪薬を
与えます。ノベライズだと、猪一郎が食事をほとんど残しており、顔色も悪かったから
気付いたのですが、ドラマの不自然さだ。新聞記者志望を打ち明ける猪一郎。割と簡単
に心を開いた。蘇峰が八重と和解したのは、ニイジマジョーの臨終の席で蘇峰が過去の
非礼を詫びた時点だったということは、それまでは蘇峰がいろいろと非礼な言動をして
いた。そんな設定である。全くいい加減にしろ、、この頃は餓死者もでる頃だったのだ
ドラマだと、猪一郎は今回で八重シンパとなったが全く明治の気風がない仕上がりだ。
ブイブイいわす熊本バンドによってギクシャクする同志社英学校。同志社やめるジョー
しょんぼり。熊本バンドの増長はとどまることを知らず、改革要求を突きつける始末。
隣人を愛さない、しょーもないクリスチャンという扱い。西南戦争では浩の熊本城入城
も、谷干城や児玉源太郎らの籠城戦あってこそ映えるエピソードだろうが史実は変えら
れる。最低の大河ドラマ「八重の桜」であった。ドラマだからって全く思考しろよ。

1475: 名無しさんAA:18/10/24 23:21
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   468   > 

 柳川川下りコースの一角に「海老名弾正先生顕彰碑」がある。海老名喜三郎(のちの
弾正だんじょう)は、幕末の安政3年(1856)に海老名休也の長男として、柳川城
下外小路(十時邸の北方)で生まれる。15歳で熊本洋学校に入学し、ジェーンズの感
化をうけてキリスト教徒となっている。その集団が後に「熊本バンド」と呼ばれるよう
になる。のちに卒業生や元在校生約40人が同校教員のジェーンズの紹介で、大挙して
京都同志社に転校。明治12年に同校の第一回卒業生15名は全員熊本バンドのメンバ
−であった。海老名は卒業後、新島の故郷、群馬県安中で伝道活動に従事し、安中教会
を創立する。明治15年(1882)に横井小楠(よこいしょうなん)の長女みや子と結
婚する。明治17年に前橋教会、明治19年に東京本郷教会を創立する。その後、熊本
に戻り、熊本英学校、熊本女学校を創立する。明治23年に日本伝道会社長、晩年の大
正9年には母校の同志社大学第8代総長になる。就任の辞で4つの基本原則を提示した
。@人格教育、Aデモクラシーノ高調、B国際主義、C男女共学昭和12年に80歳で
亡くなった。文久3年に、海老名喜三郎(のちの弾正だんじょう)が国学党の中にいた
。幕末の安政3年(1856)に海老名休也の長男として十時氏などと共に同志社大学
設立にも多大な力を発揮している。熊本洋学校に入学しているが、天保14年(1843年)
に長岡・横井らが藩校時習館のあり方に飽き足らず自らの手で行った勉強会で実学党を
結成し、大塚退野の学風を慕い、李滉(李氏朝鮮の儒学者)を範として治国安民・利用
厚生・実践躬行を学問の本旨とした活動を通じて、内面を高めて真実を見出すことを目
標にした。この時、時習館は「実学」追求の集団であると批判的な意味で実学党と呼ん
だが、横井らは却って「内実(真実)の学問」の意味だと解釈して自らの呼称として、
熊本に学問の場を建設した。この海老名弾正の書翰要約が中には、「火事は午後9時頃
知りました。(弾正宅は外小路西北隅)城の北側より出火(出火点は殿守の附御櫓近く
)堀側南・西・北は人の山・・・上階は全く火焔に包まれ、終に猛火の真中に傾きつつ
倒れ落ちた。そのせつな一同泣き叫びました」とある。また森を焦がした炎上は、武家
屋敷の柱に縦罅たてひびを走らせた(外小路十時邸)、遠く中山の白壁を紅に染めた(
立花茂久氏母堂の話による)藩民はこの時、うち日枯れ「既に一時代が終わった」こと
を体感したことであろう。武家屋敷では家を解体して、家中を離れ、離れた場所に移築
して住む武家もいた。明治12年の測量地図では、武家屋敷が無くなり田んぼの表記が
多い。柳川藩の記録も焼失し、新県庁に書類の引渡しを好まずに放火したとも言われる
程だった。

1476: 名無しさんAA:18/10/24 23:37
こうして明治6年(1873)の町村制の実施によって、16あった小路名と本城址
・三の丸東西北郭かくが、町名に改正され、城址などは本城町となった。しかし、次の
年は大きな台風にやられてしまう。城の石垣は明治7年(1874)の大風により海岸
堤防が決壊けっかいした為、新開の地に運ばれ、その補強に転用てんようされ失う。ま
もなく明治8年(1875)12月に城址は陸軍省(のちの大蔵省)から競売で民間に
払い下げられ、柳河の、木下庄吉氏の私有地となり、城濠には蓮はすが植えられ、蓮根
畑となり、二の丸は畑に、本丸址は牧場となり避病院が建てられ牛が2、3匹うろつき
、荒涼たる廃墟となり萱が欝蒼と茂り、狐や梟ふくろうの鳴き声が聞こえ、荒城の悲哀
ひあいを物語るものがあったというしかし この柳川の市民は、立花氏を敬ったが、他
から沢山の商人がやって来て柳川を駄目にした。この地におこった江戸期の物産会所は
、柳川軌道をいち早く鉄道を走らせた事で盛況だった。柳河軌道が敷設されていた所は
、現在の国道443号線である。明治18年(1885)に新設開通した道路で、明治
42年の柳河軌道敷設により矢部川には木造の瀬高橋が架設された。その以前に橋はな
く、小舟か馬でで渡った。明治38年、日露戦争後、矢部川を渡る渡し舟の不便さから
、洪水で流される覚悟で川面すれすれに簡単な有料の「ガタガタ橋」を使っていた。い
わゆる板橋である。橋ぎわから河岸に下って使用してた物を柳河軌道線路と一般通行と
の共用木橋となり「ガタガタ橋」と言われた。開通4年の短い間で廃止され鉄道橋が作
られた。この鉄道によって、柳川や大川や瀬高に商店街の出現した。矢部川駅周辺には
旅館は旭屋旅館・さかき屋旅館)、料亭(日新亭料亭)、馬車駅ができ、まだ田んぼや
畑の下庄の柳河軌道沿いに、商店の次男などの新規開店や従来の店を移転するところが
増え栄町ー恵比須町ー矢部川の新沿道に新しい商店が出きた。大正5年 柳河軌道社長
元衆議院議員 立花親信(紀伊 柳河藩後断隊長)が逝去した時の当時の記録が残されてい
る。この時 衆議院議員は富安保太郎(山門郡三橋村)、吉原正隆(大川町)、永江純一 2
代目瀬高町長立沢久雄辞任であった。実は富安保太郎(やすじろう)は私の祖先である
。伝え聞くと、話は古く江戸以前に遡る。田中吉政が入城するまで、柳川は遠く八女の
祈祷院から下の水は立花氏の管理する所だった。それまで蒲池家にその水守として各地
に城を持ち縁戚を持っていた。柳川蒲池家と大和田尻家も富安家も同じ祖を持つとされ
、南北朝時代目野家と縁戚になった。目野家は紀伊からの豪族を多く連れて来て磯見宮
裏「柳宮」を管理した。それが今の二ツ河小学校である。この小学校は柳枝の編物特産
で、この枝の細工をして竹細工や樽などを全国に送っていた。南北朝の楠正成公の生誕
地と言う伝説すら持つ。大塔の宮が居住してたとされ、木之元村と称した。紀伊の人の
村がなまった言葉でもある。

1477: 名無しさんAA:18/10/24 23:38
 もっと言えば、南北朝時代の、この大塔の宮家、つまり護良親王(もりよししんのう
/ もりながしんのう)は、延慶元年(1308年)は、鎌倉時代後期から建武の新政期の人
物で後醍醐天皇の皇子、母は源師親の娘親子。妃は北畠親房の娘。または藤原保藤の娘
である南方(みなみのかた)。興良親王の父。大塔宮(だいとうのみや)と呼ばれた。
天台宗座主である。この頃の天台座主は貴族社会では、最高権力者の称号であったが、
彼らを迎えたのが菊池水軍の一員であった富安家だった。この南北朝時代は元弘元年(
1331年)、後醍醐天皇が2度目の鎌倉幕府討幕運動である元弘の乱を起こすと、還俗し
て参戦するし、その時は伊豆近くにまで進軍して幕府を討伐した。後醍醐天皇により新
たに開始された建武の新政で、護良親王は征夷大将軍、兵部卿に任じられて上洛して、
尊氏は鎮守府将軍となったが。建武政権においても尊氏らは離反して新たな室町時代を
築いてしまったのである。こうして追われてこの地に都を築こうとした。実はこの上の
地は瀬高とされほとんどが瀬高清水山の御神領の土地だったのだ。つまり柳川は実は、
清水山の門前町であったのである。洪武帝として即位した朱元璋は、日本にも倭寇禁圧
を要求した。しかし、日本でも南北朝の動乱などで倭寇まで手が回らず、倭寇に対応で
きない状況が続いた。足利義満の時代になって南北朝の合一が果たされ、街づくりにそ
の対応が待たれた。そこで、義満は1401年、遣明船が派遣されるがその時祖阿(そあ)と
いうお坊さんと、肥富(こいずみ)という、博多の商人の二人を派遣し、手紙を託して、
外交を始める準備をしたのだが、実はちょっとちがう。この時朝廷は、純友の乱を起こ
した藤原遠経の孫で大宰少弐・藤原良範の三男の藤原純友には、追討のために追捕使長
官・小野好古、次官・源経基、主典・藤原慶幸、大蔵春実による兵を差し向け、天慶4
年(941年)5月に博多湾に追い詰め、純友の船団は追捕使の軍により壊滅させられた。
と聞いていた。のである。「吾妻鏡」には、「伊予国宇和郡のこと、…公業先祖代々の
知行、就中(なかんづく)遠江掾遠保、勅定を賜り、当国の賊徒純友を討ち取りてより
以来、当郡に居住し、子孫に相伝せしむること年久し。」とある。これによると遠保を
遠江掾とする伝えがあったことも分かる。こうして橘氏は遠祖以来天皇から海賊退治に
専念していた。壱岐対馬の壱岐氏は大川に在した式氏が連絡係であり、対馬は宗氏の家
老柳川氏が連絡していた。対馬は度々倭寇に襲われた。しかし対馬で軍を養えるほどの
食糧はなかったし、当時の大宰府の役目からも福岡に土着兵を置く事は当然だった。実
は豊原の鷹尾神社は久留米の玉垂れ宮と共に都に送る米の一大集積出荷地だったのだ。
これを護り、奪うのが、九州騒乱であり、そこに海賊の領地争いまであったのだ。蒲池
氏家老として富安家は存在し、その調整こそは九州では英彦山座主のいる高良山であり
その御座主は玉垂れ宮に居たのである。そして全国を納めたのが天台座主だったのだ。

1478: 名無しさんAA:18/10/24 23:39
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   472   >

 その後時代を得て竜造寺は龍氏、足利は阿志賀氏、海賊は川野氏や河野氏や梅津氏、
など地名や変化した名で名乗った。立花氏は、純友の子・重太丸は伊予へ逃れたが、同
天慶4年6月に伊予警固使橘遠保により討たれたと聞いていたが、博多の守りとして残り
立花氏を名乗って住み着いている。純友は平安時代中期の藤原北家、右大弁藤原遠経の
孫で貴族であった。伊予掾を取り仕切っていて海賊になっていた。伊予橘はその追討で
子孫が楠正成だった。この時、純友が藤原の血統であることを名乗ってはいない。これ
には有力な異説がある。それによると純友は、大山積神(オオヤマツミ)を祖先とする
伊予の豪族越智氏の一族で今治の高橋郷の高橋友久の子であったが、良範が伊予の国司
として赴任したおりに養子になり、藤原姓を名乗ったというものである。つまり高橋氏
の長として子供の嫁を藤原氏から娶ったのである。この高橋氏が住み着いたのが蒲池で
あった。蒲池はその字のごとく加茂の繁る湿地であって人が住んでいなかったのだ。が
弥永氏の竹細工技術を得た一族は垂水の職人となった。又後世、有馬氏・大村氏らは、
藤原純友の子孫と称した。筑後国の蒲池氏もまた藤原純友の後裔とする伝承があるが、
繋がりがあるのは橘公頼とされる方であろう。すなわち壱岐対馬の宗氏の家老柳川氏が
連絡していたのは橘公頼に連絡していたと思われる。橘公頼(たちばな の きみより)
は、平安時代前期から中期にかけての公卿で歌人であり、それほどの武功をたててはい
ない。参議であった橘広相の子として貴族の中で九州下向には反対しなかった。ところ
が三男の橘敏通(たちばなとしみち)を、官位は従五位式部大輔に授け、筑後国蒲池の
領主として高橋家を婚儀を終えた頃に倭寇にあった。かなり古い昔柳川は瀬高清水寺の
門前町として栄え、遣唐使も遣隋使もここ大和鷹尾神社に参って海外渡航の安全祈願を
清水山に祈願して甘木唐船から出るのが習わしだった中で、襲撃はかなり続いた。川野
氏も、高橋氏も応戦したが、矢留すなわち矢が止まったものの大火に焼かれてしまった
のである。瀬高では既に天慶2年 (939年)文章得業生。承平天慶の乱に際しては、矢
が壁になった戦いがあったのだ。天慶4年(941年)大宰府に攻め寄せてきた 藤原純友
の弟・純乗を、父・公頼と柳川郊外の蒲池城で迎え撃ち、純乗を撃退する。鷹尾神社は
、平安時代の貞観11(869)年に、清和天皇の命によって祭られたと社伝には伝え
られる。応神天皇・仲哀天皇・神功皇后を「祭神とするこの」神社は、もともと鷹尾郷
の郷社と考えられ、平安末期には、筑後一の宮として、京都の別宮としての地位があっ
たのだ。

1479: 名無しさんAA:18/10/24 23:53
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   473   >

 かつて磐井のの乱が板付で起こった。とされる。磐井は挙兵し、火の国(肥前国・肥
後国)と豊の国(豊前国・豊後国)を制圧するとともに、倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路
を封鎖して朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み、近江毛野軍の進軍をはばんで交戦し
た。とされ、このとき磐井は近江毛野に「お前とは同じ釜の飯を食った仲だ。お前など
の指示には従わない。」と言ったとされている。ヤマト王権では平定軍の派遣について
協議し、継体天皇が大伴金村・物部麁鹿火・巨勢男人らに将軍の人選を諮問したところ
、物部麁鹿火が推挙され同年8月、麁鹿火が将軍に任命され 528年11月11日、磐井軍と
麁鹿火率いるヤマト王権軍が、筑紫三井郡(現福岡県小郡市・三井郡付近)にて交戦し
、激しい戦闘の結果、磐井軍は敗北した。日本書紀によると、このとき磐井は物部麁鹿
火に斬られたとされているが、『筑後国風土記』逸文には、磐井が豊前の上膳県へ逃亡
し、その山中で死んだ。とされる。ただしヤマト王権軍はその跡を見失ったと記されて
いる。同年12月、磐井の子、筑紫葛子は連座から逃れるため、糟屋(現福岡県糟屋郡付
近)の屯倉をヤマト王権へ献上し、死罪を免ぜられた書かれている。だが筑紫の国風土
記は違う伝承があったとも言われる。既に九州王権は設立し大和王権は実はその下部組
織であった。その為、大和王権が朝鮮と話し合い佐賀の方から攻めて来たのだ。『古事
記』では筑紫君石井(いわい)が天皇の命に従わないので、天皇は物部荒甲(物部麁鹿
火)と大伴金村を派遣して石井を殺害させた、と簡潔に記している。『国造本紀』には
磐井と新羅の関係を示唆する記述がある。実はこの時岩井こそ肥前石井家のルーツであ
るとされる。つまり、物部荒甲は荒井氏のルーツで神崎あたりで戦ったのだ。負けてこ
の筑後まで攻め込んで来たのを久留米でやっと止めた。と言う話である。信憑性も史実
としての証拠資料もないが、唯一言えるのは吉野ケ里遺跡が、恐らくは石井家のルーツ
か、荒井氏のルーツではないか、と言う事だ。もし事実が磐井の墓が石井家のルーツな
ら荒井家のルーツとなる。実は富安家がかつては、肥富(こいつみ)つまり肥の国の、
水運夫であった事は確かだ。それは紀元前後はいつの時代かは不明だ。肥の国が肥後や
肥前と思われがちだが、実は柳川を除いた今の筑後市周辺から神崎付近を肥えた国とし
て肥と表していたと思われる。この三橋も、例えば野田と言う姓も多いが、野田と言う
のは紀伊人の田と言う意味だとされる。つまり奈良からの従者であったのだ。英彦山も
実はその意味で肥の後山の意味だったとされている。これが安曇の磯良丸伝説とつなが
っている。神功皇后が三韓征伐の為に武内宿禰と共に兵を集めにやって来たと言う伝説
である。

1480: 名無しさんAA:18/10/24 23:54
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   474   >
磐井の乱が古代に重要視され注目されるようになったのは、磐井の乱について、ヤマト
王権による朝鮮出兵が再三に渡り、九州地方に負担が重なり、その不満が具現化したも
のと位置づけた学説によってだった。これに対し、『日本書紀』に記す磐井の乱は潤色
されたものであり、実際は『古事記』に記す程度の小事件だったとする主張が出された
。ただしそれらの主張は、磐井の乱が持つ意義を否定するものではなかった。研究が続
けられた結果、磐井の乱を古代史の重要事件と位置づける見方が通説となった。継体期
前後に国家形成が進展し、ヤマト王権が各地域の政治勢力を併合していく過程の中で、
磐井の乱が発生したとする研究が相次いで発表された。従前、磐井の乱は地方豪族によ
る中央政権への反乱だと考えられていたが、古代国家の形成という点に着目し、乱当時
に統一的な中央政権が存在していた訳ではなく、磐井が独自の地域国家を確立しようと
したところ、国土統一を企図するヤマト王権との衝突、すなわち磐井の乱が起こったと
した意見が大勢である。この磐井の乱後の529年3月、ヤマト王権(倭国)は再び近江毛
野を任那の安羅へ派遣し、新羅との領土交渉を行わせている。以上のほか、『筑後国風
土記』逸文には交戦の様子とともに磐井の墓に関する記事が残されている。なお『古事
記』では袁本杼命(継体天皇)の没年を丁未4月9日(527年5月26日)としている。しか
し筑後史の口伝では、朝鮮征伐に神功皇后は安曇の磯良丸を訪ねてやって来た時にカサ
サギである八咫烏がこの浜に降り立ち清水山に行った事でここに降り立った。それが、
清水の雉車の伝説である。清水の麓は大きな古墳群があったが、九州電力や高速道路建
設或いは導水管設置などによって福岡県の勝手な事業によって壊されてしまった。と、
ここいらの郷土学者は憤慨する。加えて江戸以前の建築様式をしてまともな風浪宮社殿
を簡単に壊して建て替えた。まるで福岡県の行政はデタラメである。近年調査でも吉野
ケ里遺跡の数百年の以上の古さの遺物が、続々と瀬高の遺跡で出たが、そうした縄文中
期の土器が、連絡もせず重機によって壊されている事が通報されている。こうしてこの
清水の集落に置いて磯石宮(いそみやぐう)に出かけ、そして出会ったとされるのが、
今の二つ河小学校でかつて龍王宮居や島田宮と呼ばれたこの場所だった。この時水路の
右を磯鳥、左を白鳥と名付けたとされている。この龍王は海童丸とされる大和両開地区
の昭代からこの磯宮までを仕切っていて昭代に降りる日子族の運搬を受けもっていたと
言われ彼らにによって柳川の風浪宮まで送って行ったと言う。実は安曇の磯裸丸伝説は
富(つみ)氏の元となった。「あずみ」とは入れ墨の事で「あづみ」とは「安富」とも
書いたのだった。その後つみは背負う者や犯した事を罪として呼んだが実は従者の事で
資格をもつものの事を言った。

1481: 名無しさんAA:18/10/24 23:56
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   473   >

 古くは、瀬高〜柳川間の道は大将軍通りと呼ばれた。大将軍とは、かつては、素戔嗚
尊/須佐之男命(スサノオノミコト)の通り道だったとされる。だが太閤秀吉が九州平定
に駆け付けた事から秀吉の通ってきた道とされた。肥富(こいつみ)氏が安富氏とされ
たのは諸富氏など分家が出来たからだ。そのすべてが入れ墨をし安富族だったかは不明
だが、佐賀の方で同じ安富氏が出来ると、菊池一族の日脚紋を持つ東の方は富安と名乗
った。平安時代は、五山派禅僧が有している仏教天文学的な世界観や『神皇正統記』の
引用に基づく「神国」観念の部分が出て来て、明国皇帝に対する上表文の形式について
、「(将軍は)日本国王を自称してはならない」「(明国皇帝の臣下であることを示す
)臣の字はやむを得なければ日本天皇の臣であるように書くべきである」「元号は日本
の年号(元号)を用いるべきであるがやむを得なければ干支を用いるべきである」など
と、文章博士の統制が出て来た。日本国王として冊封及び同国の暦を受けた足利義満の
姿勢を批判している。このため、戦前から戦後の一時期にかけて、同書の国体観が注目
された時期があった。だが、瑞渓周鳳の国体観は長年彼と親交のあった明経道の清原業
忠の影響が大きく彼独自の観念とは言えないこと、瑞渓周鳳自身は足利義満以後に確立
された外交そのものを否定する立場ではなかったことが明らかになっている。文章博士
や、五山派禅僧などは公式令を忠実に解釈すれば、朝廷の外交文書起草が職務であった
。大内氏の勘合貿易を担ったのは,奥堂氏,神屋氏,河上氏,小田氏といった博多商人
であった。神屋寿禎は大陸から先進的な銀の精錬技術を輸入し,石見銀山の開発に利用
したといわれている。この室町時代の博多商人の中に肥富がいた。《善隣国宝記》によ
ると、応永の初年に肥富が明から帰って足利義満に明と通交することの利益を説いて、
これにより義満は1401年(応永8)の遣明船を計画したという。肥富は同朋衆(どうぼう
しゆう)の祖阿(そあ)とともに遣明使節にあげられて日明間を往来した。この同朋衆
は陰陽道に信仰し、古来より将軍や天皇の近くで雑務や芸能にあたった人々を指した。
一遍上人の起した時衆教団に、芸能に優れた者が集まったものが起源とされるが呼び名
だけであろう。阿弥衆、御坊主衆とも呼ばれ時宗の流れだけではなかった。1866年(慶
応2年)に廃止された。同朋は猿楽や庭園作りなどの芸能を司り、また唐物奉行として
、唐物、唐絵の目利き、表装、出納などを行った。

1482: 名無しさんAA:18/10/25 00:16
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   476   >

 鎌倉時代末期から合戦に同行する陣僧の中に時衆(宗)の僧が多かったことから、武
家との結び付きが強まり、平時においても芸能を活かして武士の慰めとするようになっ
ていき、同時に側近、取次ぎ人としての役目も果たすようになった。また時衆による踊
り念仏は民俗的な歌舞に結びつきやすく、一遍や遊行上人二世真教、三世智得らが歌人
であったことに加え、時衆における遊行は室町幕府から関所自由通過を許され、正規で
なく時衆に加わる手続きも簡単だったため、芸能を生活の手段とする人々が時衆集団に
加わるようになる。連歌師の頓阿、周阿は、時衆僧ではないが四条道場(金蓮寺)の、
万葉集を研究した由阿は藤沢道場(清浄光寺)の阿弥だった。阿弥衆には、能面師の増
阿、立花の立阿、文阿がいて、南北朝時代に四条道場や六条道場(歓喜光寺)などで、
立花(いけばな)が行われていた。時衆の寺の阿弥衆は遊行によって地方に連歌や立花
などの芸能を広めていった。地方においても、筑前の時衆寺院金台寺の職人達が芦屋釜
の制作に携わった。義政の代には、能阿弥による唐物の東山御物の制定などを行った。
能阿弥、芸阿弥、相阿弥の三代は、書院座敷飾りの様式を創案し、絵画では「国工」「
国手」とも呼ばれ、連歌では宗匠と呼ばれるほどだった。竜安寺や大仙院の石庭は相阿
弥の作と伝えられ、東山文化の形成に大きな影響を与えたと考えられる。じつはこの時
の芦屋釜は革命的もので、今まで武将や貴族にまで隠されていた鉄の作り方が一般の中
で公表され、鉄や瀬戸物が一般に浸透して行った時期だったのである。これによって、
これまで高価な物しか売買出来ていない中で、一般した生活必需品が仏具以外に売買す
るようになったのである。京都の待賢門院を本家、徳大寺大納言家を領家とする瀬高下
庄の鎮守となっていた。待賢門院(たいけんもんいん)は平安後期の鳥羽天皇の皇后で
ある。女院は幼時より白河上皇に愛育され,上皇の猶子として鳥羽天皇の後宮に入った
が、関白藤原忠実の嫡子忠通との婚約を破棄しての入内であったらしく、忠実はこれを
不快とし後その女泰子(高陽院(かやいん))の入内問題に尾を引いた。徳大寺家(とく
だいじけ)も藤原氏北家閑院流(ほっけかんいんりゅう)の系統を引く三条家より分立し
た家。家格は清華家(せいがけ)で藤原7家の一つ。平安時代末の権大納言三条公実(き
んざね)の子徳大寺実能(さねよし)に始まり、家号は京都衣笠に建立した徳大寺にちな
む。白河・鳥羽・後白河の各天皇の生母となった。こうした人の荘園が数多く瀬高の庄
を覆っていたのである。これを水運で都にせっせと運んでいたのが肥富だったらしい。
山門鷹尾神社や久末神社にそういう記録がその発着場所でかつては記録があったらしい。鍵倉とされ、管理されたものだった。


1483: 名無しさんAA:18/10/25 00:24
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   477   >

 天正9年(1581)、柳川城主の蒲池鎮漣は策謀の中、肥前(佐賀)の鹿子に途中
肥前の龍造寺隆信軍に殺され、下蒲地家は滅び、龍造寺家晴が佐嘉から柳河城に居城し
たが、それに伴い迎家の先祖は佐嘉から柳河に移り住んだと言い伝えられている。いつ
頃から商人として活躍したかは不詳であるが、過去帳による家系図では元禄年間頃には
1代目(仮定)迎半左衛門(〜享保元年・1716)が商売をやっていたと推測される
。2代目半左衛門(〜1720)3代目半左衛門(〜1747)4代目半左衛門(17
51〜178?)と続き、同名を名乗っているところから藩から任命された御用商人で
あったと、推測される。いずれも本光寺に葬られている。5代目は迎治右衛門(〜寛政
2年・1790)で西方寺に葬られている。6代目迎松衛門(1760〜1822)か
ら西町(西魚屋町)の日蓮宗・台照院の信徒に変更している。7代目迎定治郎(正信)
は安政2年(1855)に迎半左衛門と迎定次郎の2氏の名で台照院の本堂前に大きな
一字一石塔の供養塔を建てている。(一説には天正15年(1587)に肥後国人一揆
の首謀者である隈部親永一党を放し討ちを行い見事全員を討ち取った時の城内・黒門橋
の供養塔を台照院に移設したという。)半左衛門とは先祖から藩から賜った名である。
また本堂内の右座には迎正信が目の病が完治した御礼に寄進した三十番神の仏像30体
がある。当時かなり繁盛した豪商で、嘉永5年(1852)の柳川藩の「永代扶持拝領
者名」の記録では藩に米700石を寄進した新船津町の森繁和吉の10人扶持に次ぎ、
米600石と金100両を寄進して9人扶持を賜っている。(扶持とは藩からの俸禄・
給料)8代目迎治三郎(1856〜1916)で幕末から明治の混乱の中活躍している
。迎家には西方寺、本光寺、台照院と長い年月に渡り先祖を葬った菩提寺がある。迎定
次郎の屋敷は富安長右衛門の店の道を隔てた西隣(現・亀屋、佐賀銀行柳川支店)の場
所に古舗であり、向え側には隠居屋敷があった。迎家は古文書などから、立花藩の御用
商人として両替商・薬・材木の商を営んでいたとされている。元治元年(1864)に
田町御蔵から今摺米三百俵を11月25日限り引取で買入れた米切手で、その内の18
0俵を藤市、儀右衛門、今村治左衛門、木下庄右衛門の4氏に分売し、残り12俵を売
り払ったと見られる裏書きの銀会所発行の米切手がある。明治5年(1872)の旧柳
河町の酒造家の免許税(5分税)によると、迎半次郎は一番高額の37円6銭3厘を納
めており豪商ぶりが解る。店舗の東側の並びには酒蔵が並んでいたという。維新後には
佐賀出身の大隈 重信と交友があり、筆不精の重信の直筆の手紙が残されている。曾孫
の定次郎は柳川商工会儀所専務であった。佐賀県には今も迎姓が多い。

1484: 名無しさんAA:18/10/25 00:25
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   476   >

 富安家は蒲地鎮連(旧柳川城主・天正9年5月27日没)の子孫で蒲地家の一族であ
る。瀬高町2丁目(現・京町)に店を構えて両替商を営む豪商で、天保5年(1834
)大坂蔵役所が発行した手書きの「三分(163×50 2 2479)・弐分」の銀札がある。両
替所は細工町の田中惣右衛門と瀬高町(現・京町)の富安長左衛門である。旧・北原病
院(京町通り信号)の角に 広い屋敷と向かい側に蔵があった。(右の地図は城下町図
瀬高町・細工町・出来町付近 柳立4224よる)文化4年の銭札の裏書人となっている。天
保4年(1833)、藩は天草の豪商の石本平兵衛から急場凌しのぎに干拓地を保証(
担保)として3500両を借用せねばならない程、財政が悪化していた。天保5年(1
834)大坂蔵役所が発行した手書きの「三分(163×50 2 2479)・弐分」の銀札があ
る。両替所は細工町の田中惣右衛門と瀬高町(現・京町)の富安長左衛門である。とこ
ろが、これは大坂の鴻池庄兵衛(鴻庄)から借用した金の為に発行されたもので、鴻庄
で引換える際は大坂蔵屋敷で改める事との但し書きがある。(為替の形式)天保時代に
は完全に米札が主流にとなった。米札には弐斗札は銀10匁、壱升札は銀5匁、弐升札
は銀1匁として使用される。しかし、藩外から物を輸入する場合、幕府発行の通貨でな
いと通用しないので、両替商などで両替をする必要があったが、現在と同じく為替相場
が毎日変動するのと似た状態がみられ正銀との間には大きな差があった。天保3年(1
832)柳川札役所から、「銀拾匁・五匁・壱匁・五分」の銀札を発行。保証品として
米のほか生蝋きろうを提供し大坂で改印して為替手形の様式を取り、領内の不信用を大
坂引請の形式で補充し、大坂に対しては領内の重要産物である米と生蝋の販売を広めよ
うという信用持続の策に出たのである。しかしこの札を産物方一手の支配に委ゆだねた
ために弊害が続出した為に、十時摂津惟恵や吉弘儀左衛門、戸次親道が産物方の運用に
対して苦言を書いた古文書が残されている。また各藩は藩札の信用を落とす偽造に手を
焼いた。柳川藩はサンスクリット文字を札に刷り込み、文字知識がないと偽造できない
ようにしていた。サンスクリットは古代インド・アーリア語に属する言語で、古代イン
ド語で日本の古文は様々な分野の文献はサンスクリット語で書かれていた。仏教やジャ
イナ教でもサンスクリット語と俗語が併用されていた。日本では、近代以前から梵語(
ぼんご)としても知られて、今日でも墓の卒塔婆に見ることが出来ます。なお弁財天の
背後の図柄に「ヤナカハ」の隠れ文字が一字ずつ配されている。また裏面上段は太上神
仙霊符十二文字の一字で「複」を図案化してある。現在、柳川商工会から発売されてい
る「プレミアム柳川藩札」はこの天保3年の藩札を模してある。

1485: 名無しさんAA:18/10/25 00:26
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   477   >

 嘉永3年(1850)藩は、産物方一手の支配に委ゆだねていた、札役所を廃止して
銀会所を設立され、藩札が一本に統一されて藩民は非常に利便になった。しかし藩札発
行の役所は、特定御用商人に対して、胴金の上納を命じていた為。命を受けた商人は同
役所に金貨の納付を行い、ほぼ1カ月後に1両=68匁で計算した藩札(銀札)の交付
を強制で受けた。藩札交付の折には1カ月当たり1%の利息が付加された。しかし又、
この兌換紙幣である銀札は、その所有者が幕府発行の硬貨と引換えをすぐに要求した場
合でも、銀会所はこれに応じなければならない。その為の準備金の胴金は必要であった
。現実には藩から許可を受けて、藩外から物品購入の場合のみに許可された紙幣だった
ようだ。他藩との取引には、原則として「両・分・朱」の幕府発行の通貨を使用する事
になっていた。しかし維新前には肥前札・久留米札・三池札・肥後札などが罷り通って
いる。嘉永5年(1852)に瀬高・下庄の石橋文蔵・阿部善兵衛・星隈慶次郎・久冨
徳蔵・牛島竹次郎は5人合わせて1000両の金を藩に調達している。安政4年(18
57)柳川藩銀会所札発行の「五匁・三匁・一匁・五分・三分・壱分」の銀札発行した
。ここでは胴金納付が停止している。裏書人に諸藤弥平次などが、見つかっている。立
花壱岐による安政の改革が柳川で行われた。藩は江戸藩邸の保持に月に千両を要する上
に、参勤交代費用数千両と金貨は幾らでも必要としていた。最後の藩主である12代立
花鑑寛(あきとも)は安政3年(1854)より、家老の立花壱岐を登用し安政の改革を
断行した。鑑寛は財政再建と軍備増強を主軸とした藩政改革を行ない産業奨励の為に、
物産会所を設置、さらに藩札を大量に発行して御用商人に渡し、この藩札で産物を買い
付けさせた上で長崎に送って販売し、金貨を稼ぎ藩(銀会所)にその金貨を上納させる
制度をとった。写真は明治元年長崎にて撮影。すでに総髪そうはつである。万延元年(
1860)、財政改革の為に柳川銀会所から前期と後期の2度に渡り発行された「二十
匁・拾匁・五匁・三匁・一匁・五分・三分・壱分」の銀札は、家老の立花壱岐(いき)
は準備金(胴金)の備えなく発行した。銀会所から指定商人に銀札が交付され、その商
人は3カ月以内に月1%の利息を付けて金貨を納付しなければならなかった。また藩は
私札を発行する権限を有力商人にも与えた。請け負った商人はそれらの札で傘下の集荷
人に渡して特産品の白蝋・お茶・和紙・カラシ(菜種)などを集荷し、長崎の松尾屋伊
助の仲介で薩摩藩が、それらの商品を大量に購入してくれた特需の為に金貨が獲得され
有力商人の手に入り銀会所に納付された。


1486: 名無しさんAA:18/10/25 03:56
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   478   >

 この時柳川では壱岐の守の産業改革で、畦豆やしめ縄、立花ハゼ、樟脳製剤を行い、
産業の交流化を図った。つまり藩内で足りないとされた、豆の生産と木蝋や樟脳の原料
としての流通を多くさせたのだ。この頃薩摩藩は特産品である砂糖を、長崎・大坂にて
換金し、その金でおもに、土佐藩からは、茶・樟脳・生糸を宇和島からは干藻かんそう
を柳川からは茶・白蝋はくろうを購入し、長崎に集荷、上海で売り、軍艦を購入してい
る。兌換(だかん)紙幣である紙幣は、いつでも金貨と交換できる筈だが現実には一部
を除き交換できなかった。とすれば物を媒体として、紙が金貨に化け、藩の財政に寄与
した事になる。これがインフレとなり、以前の嘉永・安政の時代でも藩士の家計は常時
赤字で、古文書の記録では藩士、町野安馬(350石)の場合、嘉永6年は2804匁
赤字、嘉永7年は970匁赤字、安政2年では1133匁の赤字であった。この赤字は
御用商人から当座貸しとなる。しかし立花壱岐の藩改革で物価高騰し米の値段が先行し
て高騰し石高で報酬をもらう藩士にとって追い風となり、安政3年(1856)で1俵
20匁が慶応2年(1866)では150匁となり10年で7,5倍に急騰。前記の町
野安馬の記録では慶応元年は1265匁の黒字、慶応2年では1265匁の黒字化とな
っている。他の物価より米の値段が先行した影響で藩士の家計はプラスとなり、借金も
価値の下がった貨幣で返済出来た。貸し付けた業者は大損をしている。しかし藩士にと
って、明治維新後の廃藩による失業が迫っていた。高椋たかもく新太郎は文化14年に
(1817)〜明治14年(1881)蜑ヘ町瀬高町(京町)に20歳で父の許可をうけ、豪家から3
0両を借り受け、八百屋町に魚問屋を開き、商才に優れ藩内で評判となった。当時の「
魚百五十目也預かり」の魚問屋の私札を発行している。その才能を買われ、天保7年(
1836)、天草の幕府御用達の松坂屋の石本平兵衛が藩主に会う時に 高椋たかもく
新太郎は随伴して藩主に見出され、大いに経済財政の手腕を発揮し、石本平兵衛失脚後
は新太郎が藩命を受けて日田、天草、長崎などに往来して、柳川藩の藩財政の建て直し
を委ねられるようになった。各地の豪商を訪ねて金策に努め、家老の立花壱岐の命を受
け、新太郎は大阪の鴻ノ池(こうのいけ)や加島屋(かじまや)の大富豪から1万両と
いう大金を借りようと、料亭で彼らを接待した。その際に、相撲界入りに当たって世話
になった義理を果たすべく一肌脱ぎ、巨額融資の白星に貢献したのが、伝説の柳川藩お
抱えの第10代横綱・雲龍だった。

1487: 名無しさんAA:18/10/25 04:34
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   479   >

 当時大関だった雲龍は弟子と共に料亭に乗り込み、時間になると、庭のふすまを開き
雲龍らを招き入れ、揃そろい踏みをさせ、余興の神道相撲を披露させた。鴻ノ池や加賀
屋は、度胆を抜かれて大変喜んで大金を融資したという伝説が残っている。この新太郎
の奇策と、ふるさとを想う雲龍の勇気が柳河藩の窮地(きゅうち)を救ったと言われて
おり、その功績により新太郎は年行司格として帯刀が許され商族から士族に列せられて
12人扶持を頂いた。明治になり三瀦県庁為替方。醤油の醸造業を営み、また第九十六
国立銀行設立、(通称高椋銀行)の初代頭取となる。明治14年(1881)9月12日に
亡くなり西方寺に墓を建て葬られている。郷土史家の解説によると、「明治4年(18
71)7月14日、廃藩置県(はいはんちけん)によって柳川藩は柳河県となったが、
通貨は藩札を用いていた。明治政府は藩札を何銭何厘となして通用させた。のちに藩札
の表面に何銭何厘表記に加えて大蔵省印の朱印を捺して通用させる事にし、柳川藩札に
も新貨加印した。ところが、相場の都合によって少々下落して引き換えたので一般民衆
においては不満を募らせ、明治5年5月8日役所に 町内の群衆が集まり請願を行い、
9日にも強請におよんだ。新政府は容易ならない雰囲気となり夕方5時過ぎに、役人は
願いを聞き入れざるを得なかった。群衆は一応退散したが、中にはとうとう暴徒化して
町屋「蔦屋つたや」に押し入り、少し店方の品物を荒らした。日没後には近浦(ちかう
ら)方へ押し入り家屋を破壊し、6尺桶17〜18本を輪切りなどを行った。続いて、
細工町の酒屋の橋本儀助(はしもとぎすけ)宅に行き、少々乱暴を働いたが、近浦方に
比べれば損害は軽少であった。それから、高椋(たかもく)新太郎宅に乱入し、家屋、
器械はいうに及ばず衣類などまで、ことごとく強襲し破却した。酢・醤油の本瓶40〜
50本を打ち破り、遂には金庫も押し破り、公私のお金多額を取っていった。暴動の中
には「武松甚吉宅へも押しかけろ」との声もあったが、幸いなことに、襲撃は免れた。
(中老・吉田孫一郎日記参照)明治5年の新酒の製造高は275石程度であるから、そ
のすべてが暴徒の手によって流失したと言っていい。現在の額にすれば、5000万円
〜1億円の相当が酢や醤油が土にしみ込み機械や棚が傷んだことになり、被害の大きさ
が推測できる。これが「新太郎さん騒動」としてこの藩の一番の事件となった。ちなみ
にこの時は、昭代や蒲池は三潴県として大川に三潴県令として石井氏を置いている。又
山の井など筑後の一部を八女県令を置き更に瀬高などに山門県令を置いた。困ったのが
沖の端川の河北の方に巨大な土地を持っていた橋本氏である。この4つに分かれた部分
を集めて河北村を作り磯鳥にその村役場を置き初代村長代理に橋本氏がなった。

1488: 名無しさんAA:18/10/25 04:36
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   480   >

 田中惣右衛門は細工町から新町に曲る角の屋敷で、俗に「角の惣よむ」さんと言われ
た名門である。江戸時代文政の頃発刊された柳河藩士、西原一甫によって書かれた「柳
川明証図会(名所図絵)}に細工町の田中家の全容が描かれている。広い敷地に豪壮な
建物は当時の豪商の家として参考になる。田中家は両替商を営んだ豪商である。文化4
年(1807)発行の藩札の裏書人にもなった田中重右衛門は惣右衛門の先代である。
天保5年正月柳河役所から発行された為替手形の引替所として大坂鴻池庄兵衛殿・柳河
両替所細工町田中惣右衛門・瀬高町冨安長左衛門の名がある。裏面に「此の手形鴻庄に
て引換の節は大坂蔵屋舗において一応、改め請可巾候」とある。文化2年8月の「永代
売渡し宅地」(吉田家文 C3-1)に北大野島開地の売主として名があり、干拓事業ある
いは、土地収集もしていたと見られる。また瀬高町(京町)冨安長左衛門も両替商だっ
たことが判明する。ところが明治と言う時代は柳川にとっては冷たい時代だった。柳川
の殿様は優しい人だったようで、他の藩の殿様の様に借金の踏み倒しをしなかった。例
えば薩摩藩は薩英戦争を起こしたが、薩摩藩の借金は重症で、その額 500万両だった。
今でいう1兆2500億円ほどです。これは、江戸への参勤交代に加えて、重豪(しげひで
)が教育へお金をつぎ込み、どんどん増えていった結果でした。さらに泣きっ面に蜂と
ばかりに、桜島も噴火した。絵にかいたような借金地獄だった。しかし「薩摩に暗君な
し。」という言葉通りびっくりするような変わり者ぞろいで、将軍家とは一線を画すレ
ベルの藩主が、実権を握り続けてきた。島津家は、この島津斉彬が描かれる事は多い。
しかし彼を幼いころから高く評価し、ドイツ人医師のシーボルトにも合わせたのが、第
8代藩主であり曾祖父の島津重豪(しげひで)だった。悩んだ重豪はダメもとで、茶坊
主である調所笑左衛門を大抜擢。下した命令は、「借用証文を取りかえせ、そして50
万両を備蓄金として蓄えよ」という無茶ぶりでした。笑左衛門はまず、薩摩藩の得意の
密輸分野を拡大した。中国からの輸入品目を増やし、砂糖の生産に目をつけていた孫兵
衛と出会い、彼が薩摩の砂糖が有望と触れこんで、新たな融資団を集めまた。こうして
基盤が整い、前代未聞の財政改革が始まりました。まず藩とは別に、新たな会社「島津
家」を設立した。専売とした砂糖を、物流の合理化、高品質化を図り、より高く売れる
ように工夫し、大阪を通さず江戸に送った。砂糖以外にも工夫を重ね、大阪市場では、
薩摩藩の品物は極上品として高く取引されるようになったのです。

1489: 名無しさんAA:18/10/25 04:38
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   481   >

 大阪市場では薩摩藩の品物は極上品として高く取引されるようになったのです。肝心
の借金は、「250年かけて返済する、ただし利子はナシ」と宣言。少しずつ返済し続
けると言うとんでもない宣言をした。このとんでもない好条件で商売を続け、薩摩藩は
破綻は回避。その結果、返済しつつ100万両以上の備蓄金までできたのです。これは
、薩摩の石高にあった。公称77万石とは、籾殻での石高ですので、77万石分の米の
収穫があるわけではないのです。しかも、薩摩というところ、現在は大部分が鹿児島県
になりますが、その土壌はシラス台地で、土地は痩せていた上にしょっちゅう桜島が噴
火していた。また、薩摩藩というのは、日本の中でも非常に特殊な風土で、700年間
も長きに渡って島津氏の支配地を通すわけだがこれは日本でも共生精神の強く極貧生活
で生きてきたからだった。他のところは、入れ替わり立ち代り領主が入れ替わります。
ところが島津氏だけは、鎌倉時代から幕末までずっと薩摩の地を支配します。したがっ
て、薩摩の人々と島津氏との関係というのは、他国での関係とはちょっと違うところが
あった日本の片隅であった事も大きかった。佐賀鍋島藩も同じだった。「肥前の妖怪」
、鍋島閑叟が先代から藩を受け継いで、江戸に報告しから佐賀に帰る支度を終え、藩邸
を出発して品川で昼食をとった後17歳の時に、江戸から佐賀に帰る為藩邸を出発して
品川で昼食をとった後、なぜか、行列が進まなくなりました。なぜ行列が進まないのか
と家臣をしかりつけると、味噌や醤油などの日用品の購入代金を払っていなかったため
、商人たちが座り込みをして抗議し、動けないことを白状したほどだった。ところが、
この佐賀藩は鎖国内鎖国の藩だった。と言うのも、本来鍋島家は領主ではなかった。戦
国時代の猛将は、龍造寺氏だった。秀吉にも家康も筆頭家老として対応している。しか
し目まぐるしく動いた情勢の上、江戸では家臣のいない幼君として育てられ、化け猫騒
動の頃に、病身で登城できずに藩主替わりを申したててちゃっかり鍋島家の藩主となっ
ていった。その為、佐賀藩は肥前の中に佐嘉、神埼、小城、杵島、藤津、三根の全部と
養父、松浦、高来、彼杵の一部を合せて35万7千石を領有した外様の大藩でありなが
らも藩の中の各藩が自立した藩だった。つまり藩主と言うよりは代表藩主のような存在
であったままだった。慶長16年のときは全知行地に対して実施されたが、元和元年の
ときは多久、諫早、須古、武雄の龍造寺四家に対してだけ行われた。龍造寺四家は龍造
寺一門が鍋島家に臣従して改姓し親類同格とされていた。勝茂は四家から上地した分で
小城(7万3千石)、蓮池(5万2千石)、鹿島(2万石)の 三支藩を設立した。この四家三支藩
には逆らえなかったのである。

1490: 名無しさんAA:18/10/25 04:47
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   482   >

 諫早騒動は、佐賀藩五代藩主宗茂が元文3年(1738年)に眼疾によって隠居し、六代藩
主に嫡男宗茂が就いた時起こった。宗茂が襲封して10年ほどたった寛延元年(1748年)に
三支藩のひとつ蓮池藩主の直恒が諫早家の茂行と結んで老中酒井忠恭に働きかけて、宗
教を隠居させて弟主膳を佐賀藩主にしよう陰謀を企む。ことは宗教の知るところとなり
、幕府にも報告され酒井忠恭は老中を罷免された。宗教も直恒を出仕停止処分とし諫早
の茂行は隠居謹慎、諫早領のうち1万石を没収した。直恒と茂行が結んだのは、直恒の
妹が茂行に嫁していたためであり、その背景には小城、鹿島、蓮池の鍋島三家や諫早家
など龍造寺四家が、本藩の統制下にある不満があったとされる。諫早家では、この処分
に対して重臣が協議したが恭順派と反対派に分かれて結論が出なかった。そのうちに騒
ぎは領民の間に広まってしまう。これは諫早領の年貢が本藩よりも優遇されていたため
で、農民にすれば本藩領に組み入れられるということは、年貢の増加を意味する。諫早
家では1万石の上地に代えて、物成4千石を納入する妥協案を示したが、本藩はこれを
認めず、ついに上地の村を具体的に指定してきた。指定された村々の農民はこれに対し
て長崎奉行に訴えようとするが、これは農民側が説得に折れて中止された。なお農民と
行動を共にする下級武士が80人ほどいたが、これは下級武士が農業を営んでいたからで
あった。次いで農民側は日田代官所へ訴状を提出した。日田代官所は訴状を突き返した
が、同時に訴状の写しを本藩に送り取締り強化を求めた。藩では諫早家の当主だった行
孝を出頭させて、代官所への訴人の逮捕を命じた。これを聞いた諫早領の農民は立ち上
がり一揆が起こった、諫早家の大手口に押しかけて騒動となった。この場は諫早家の重
臣の必死の説得で農民は解散したが、10日ほどすると再び一揆となり、農民は多良に集
結した。このときは白石鍋島家の隠居徹竜が間に入り、日田への訴人は逮捕せず、諫早
領の上地は3年間のみという条件で纏めようと動いたが、農民側は条件を飲まなかった
。農民側は大坂町奉行所に上訴し、これを知った本藩では一揆の鎮圧を決定さざるを得
ず実力行使に出た。一揆の首謀者と目された若杉春后は捕縛されて佐賀に送られ、ほか
に数名の農民も逮捕された。若杉春后を失った農民側はたちまち結束が乱れて、農民側
は敗れて上地が実行され、諫早行孝は蟄居、諫早家家老の諫早五郎太夫は切腹、三村惣
左衛門は獄門、農民側では若杉春后ほか3名が磔となった。ほかに農民8名が死刑とな
り13人が追放処分となっている。これを幕府の命で指導したのが唐津藩と長崎奉行だ
った。

1491: 名無しさんAA:18/10/25 04:59
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   483   >

 このように諫早家の領地没収に端を発した農民一揆は、農民側の敗北に終わった。宗
教の治世は文治主義が基本であったが、そのなかでこの諫早騒動は大事件として特記さ
れる。宗教は宝暦10年(1760年)11月に養子重茂に家督を譲り隠居した。しかしその農民
はくすぶり続けた不満は脱藩農民として柳川近郊にやって来た。それは佐賀もたびたび
天災に見舞われていたからだ。天明元年(1781年)には藩校弘道館を創設した。直茂を神
格化することによって藩主の権威の確立を図り、藩校を創設して人材の育成を行う政治
を行うためであった。既に佐賀藩は財政難に喘いでおり、病虫害や大雨などによる不作
や江戸屋敷の焼失による再建費負担などが重さんで、さらに財政状態を悪化させた。農
村は荒廃し、また江戸から持ち込まれた退廃の気風が藩士を蝕み始めていた。状況を憂
いた治茂は自身の厳格な性格もあって、改革に取り組む決意をした。治茂が意識したの
は有明海を隔てて隣り合う肥後熊本藩の細川重賢の宝暦の改革であった。重賢は宝暦5
年(1755年)から追放刑を懲役刑に改めた。追放すれば追放地で悪事を働くだけであると
いう視点から、懲役にし労賃を支給し、勤勉に務めれば放免して正業に就けた方が罪人
も更生し、ひいては藩の利益にもなると考えたのだ。治茂もならって天明3年(1783年)
に徒罪方(ずざいかた)を設けて追放刑を懲役刑に改めた。懲役の内容は川浚えや土砂の
運搬、窯業地の有田での陶土の運搬などであった。しかし、この政策に逃亡者も多く、
文化2年(1805年)から天保9年(1838年)までの間に365人の徒罪人のうち85人が逃亡
した。天明3年にはこのほか長尾矢治馬の献策で殖産振興を目的とした六府方も設けて
いる。六府方の中心は干拓事業で、これは搦方と呼ばれた。六角川河口の白石地区や有
田川河口の伊万里地区で干拓を実施し、前者は新搦、後者は八谷搦と言われ、この事業
の代表的なものである。これより前の安永8年(1779年)に治茂は財政の復興の為に米筈
と称する藩札を発行した。佐賀藩では享保20年(1735年)、宝暦13年(1763年)に続く3度
目の発行である。この米筈の胴銀(兌換準備金)を得るために領民に対し人頭税を徴収
し、その年額は銀一千貫目であった。米筈は領内によく通用したようであるが、その後
の財政逼迫により次代(九代)斉直のころには暴落し、十代直正の代に通用が停止された
。寛政年間には度々天災に見舞われて、寛政4年(1792年)には雲仙普賢岳が噴火して領
内にも多くの被害が出た。農村の荒廃は著しく、地方行政機構の改革が急務となった。
この時やって来たのが古賀氏と言われ、佐賀では空閑氏とされた。つまり空き地にいる
人と言う意味である。それらの人は古くから居た人と同じに土木などの徴用され扱われ
た。

1492: 名無しさんAA:18/10/25 05:09
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   484   >

 天明元年(1781年)から郷村の行政は大庄屋が司どっていたが、農村振興の成果が挙が
らないばかりか、荒廃をもたらすこととなったために、寛政10年から12年(1798〜1800
年)にかけて順次大庄屋を廃止して7人の代官を在住させた。もっともこの代官の設置
は蔵入地のみで三支藩の支配地や藩境地帯には大庄屋が残された。しかしそんな中で「
鍋島不幸」と呼ばれるものは続くのである。朝鮮征伐出兵、天草出兵、岡本事件、アン
ボイナ事件(アンポンタン事件)フェートン号事件などだ。これらは九州の、とりわけ
長崎に商家を置いた者の被害は莫大だった。とりわけ文化5年(1808年)には英国の軍艦
フェートン号が長崎に不法入港した事件は、警備の番の佐賀藩は財政難のために充分な
警備ができず、英軍艦の跳梁を許す結果となった。このフェートン号事件によって斉直
は逼塞処分となった。またこの事件後には長崎砲台などの増築が行われ、これは後に、
佐賀藩始め近郊の諸藩軍事支出を大きくし藩政赤字に繋がっていく。この軍事費の増加
は財政を悪化させ、加えて斉直は華美な生活を好んだために、財政は破綻寸前であった
。文化14年(1817年)には参勤交代の費用も捻出できずに、斉直は病気と称して参勤を引
き延ばしていた程だ。斉直は人員整理などによって節約をさせたが追いつくはずもなく
、支藩の切り売りをグラバーなど帰化商人や借用を柳川商人などに打診している。又、
支藩鹿島藩主の直彜が隠居しようとしたのを狙って鹿島藩を廃藩として本藩に吸収しよ
うともした。支藩への財政援助の負担減を企図したが、さすがに三支藩が一致団結して
反対した為に頓挫し、逆に支藩からの資金援助を得ていた。斉直は幕府に願い鹿島藩の
公務負担を5年間停止してもらったほか、強制的な献金や米筈の発行で財政難を凌ぐが
、所詮急場凌ぎにすぎなかった。文政6年(1823年)には相続米渡りという、藩士の知行
や切米を藩が一括して管理し、藩士には最低生活費のみを支給する制度まで実施してい
る。だが文政11年(1828年)には台風が襲い、領内に大規模な被害をもたらし、幕府から
2万両と米1万5千石の借入れを行った。斉直は天保元年(1830年)に直正に家督を譲り
隠居した。このとき直正17歳。直正は文久元年(1861年)に隠居して閑叟と号し、隠居
名の方が有名である。直正が初入部のために江戸から佐賀に向けて出発し品川宿に入っ
た途端、藩に貸付金のある商人たちが借金の返済を迫って押しかけたために行列が停止
するという屈辱的な状況であった。直正はここで藩政の改革を強く決意するが、隠居し
た父斉直とその側近勢力が隠然とした力を持っており、当初は倹約令の発布がせいぜい
であった。又鹿島藩は、古来より久留米藩に入った江上氏族や古賀氏などの飛び地とな
っていて鍋島藩の税収はほぼ無きに等しかった。

1493: 名無しさんAA:18/10/25 05:13
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   485   >

 直正が本格的に改革の乗り出すのは、反射炉で鉄砲造りを企画してからだった。火縄
銃だったこの頃この導火線は高値で売れた。これを聞き薩摩の蒸留技術の焼酎での試験
を行っていた。とされる。ところが、天保6年(1835年)の佐賀城二ノ丸が大火で全焼し
てしまう。本丸に御殿を新築する佐賀城再建計画を斉直の反対を押し切って実行し、そ
れを機に藩政の実権は直正に移った。直正はまず人員の整理を実施し、藩役人の五分の
一を削減した。24万両余りもあった江戸の藩債を8割を切り捨てて、残りの2割も5
0年賦返済にするという、実質踏み倒しも行った。およそ400億円程の藩札を100
億の借金と代えて50年の少額年賦にしのだ。その半分の200億ぐらいの支藩の借り
受けも借財なしと強行した。更にそのまま神崎の成富茂安の地行境を召し取りそのまま
グラバーに担保地として借金した。こうして資金を得て農村の支配機構を整備して禁令
を徹底させたほか小作料の免除などによって農村の振興を図り、藩校弘道館を拡充して
人材育成にも努めた。殖産政策では陶器、白蝋、小麦、茶などのほかに石炭の採掘に力
を入れている。石炭は英国軍艦用に輸出されて外貨を稼いでいる。また佐賀藩は長崎警
備を分担しており、直正はその強化を掲げ、洋式の軍事技術を積極的に導入した。嘉永
3年(1850年)に大銃製造方を設けて鉄製砲の製造に必要な反射炉の建設に着手する。嘉
永5年(1852年)には鉄製36ポンド砲四門の製造に成功、文久3年(1863年)にはアームス
トロング砲の鋳造に成功している。安政5年(1858年)には鉄砲の自藩での製造にも成功
している。これにより万延元年(1860年)には総鉄砲が命じられて弓や槍などは全て廃止
されて警備に銃隊としている。また安政元年(1854年)11月に鍋島十左衛門を蒸気船製造
心遣に任じ、翌安政2年に幕府が長崎に海軍伝習所を設けると47名のも伝習生を派して
いる。嘉永6年(1853年)のペリーの来航時、直正は攘夷論者であり、品川台場建設に技
術を提供し幕閣の信頼を得ている。これは直正が将軍家斉の女盛姫と結婚し、盛姫逝去
後は徳川一門の御三卿田安斉匡の女筆姫を継室に迎えたことと関係があった。一方では
貿易の重要性に早くから着目しており、英国には軍艦用に石炭を輸出して利益を上げて
、英国との外交が注目されると開国論を主張する。また公武合体論者でもあり、幕府、
朝廷とも距離を置きつつ、強大な軍事力を背景にしながら、それを行使せず、また政治
的な動きも見せなかった。そのために肥前の妖怪と言われて警戒され、小御所会議など
中央での発言力は持てず、これが薩摩や長州に比べて佐賀が維新であったが、それが、
柳川城炎上にもつながっていた。

1494: 名無しさんAA:18/10/25 06:39
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   486   >

 大村藩の記録類によれば、藤原鎌足の子孫である純友の孫の直純を初代として大村し
います。藤原純友は瀬戸内海の海賊を率いて朝廷に背いたため941年朝廷により滅ぼ
されました。988年に純友の罪が朝廷より許され、孫の直純(その時伊予ー愛媛県に
いた)は、肥前の国(佐賀・長崎)の藤津、彼杵、高木の三群を賜ったという説がある
。994年直純は家臣を連れ、現在の寺島に(大村公園を海沿いに諫早よりに行くと、
小さな島が海に突き出すようにある)上陸したとされています。もう一つの説は鹿島市
古枝大村方一帯を本拠地とした大村直が南北朝期の度重なる敗北により彼杵群大村に移
住し定住したという説。更に 少年使節団に出てくる原マルチノの先祖が藤津郡金剛勝
院の荘官より中央から下向した。という説。朝廷に背いた子孫を許すということも不自
然なので、藤原一門説でなければ、平一門説になる。鎌倉時代は、京都東福寺の荘園で
あったとされています。鎌倉時代の武士団は、小村一帯に 大村氏、武松氏、今富氏、
秋月氏、日宇氏などがありました。大村氏武松は今も地名として駅が残る。柳川の逆さ
柳の物語では、大村氏は、林氏と婚儀の前に花園家の若武将が、上司宮川氏の嫌がらせ
で殺されて、仇討ちに女手で清水に祈願して旅に出る。そこで大阪の陣で活躍した蜂須
賀の知行地となった淡路島で果し試合が出来た。この時剣豪の宮川氏に対して、林氏に
助太刀として応援したのが大村氏だったとされる。髑髏を持ち帰り首実検をしてもらお
うと帰ってきたものの立花氏の時代に代わっていた。柳小路に居を与え、あっぱれとし
たが、この時大村氏は筋を通した者として木村氏の姓を賜ったとされる。更に林氏は、
清水の山門の麓で茶屋や悩み相談などで尼として過ごしたと言われる。この大村氏の家
臣として、西彼杵半島から、武松家や相浦家などが柳川に来たとされる。彼杵半島には
時津氏、長与氏、馬場氏、福田氏がいたとされ、ほとんど今の地名になっている。本来
乃木将軍の乃木氏の領だったが随分昔に竹崎氏や西郷氏諫早氏などに天皇が土地を与え
て地元から少数になっていたようだ。奈良時代には条里制がしかれた地域で、多くのお
寺ができた。この時代に六〇〇巻もの大写経が行われた。それを富松神社に奉納をして
神前で読経、経文の奉納をした。当時の神仏習合の時代にあってはなんら不思議ではな
かったそうです。大村では伝統的に、お葬式が終ってお坊さんが帰ると、火葬に家族が
行っている間に神主さんが自宅をお祓いにくる。神の世界に入った事とした。この慣習
は、大村だけのようだと言われるが実は隠れキリスタンの家では意味も無く慣習化して
いる。


1495: 名無しさんAA:18/10/25 06:50
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   487   >
 武松家は天保年間に、初め頃に分家し城下の外町(ほかまち)に店を構えて綿・紙・
茶・菜種・白蝋・米を手広く扱う豪商だったようだ。幕末に柳川藩の御用商人を勤めた
。武松甚吉は藩札発行をおこなう札座役所(札役所)・銀会所への胴金上納を専売で行
い、藩士給米手形の預託を受けた。明治4年(1871)に新政府は、これまでの酒造
株(鑑札)制度を廃止した事で、太政官布達「清酒濁酒醤油鑑札収与並収税方法規則」
を発布し、営業税を納めれば、自由に酒造業を営むことができるようになる。武松甚吉
も地主酒造家として起業した。子供の虎太郎、さらに孫の茂久太郎に引継がれている。
虎太郎は明治8年(1875)暮以降に業務開始された郵便為替制度で柳川郵便局の為
替掛屋を制度が終わる時の明治17年(1884)まで勤めていた。島田家の祖の島田
六兵衛は、宗茂公が領していた陸奥棚倉(福島県)の魚商であった。宗茂公が柳川城に
再入城される時に、柳川に来ないかとの仰せがあり、直ちに仕度をして、島田駅(宿)
にて宗茂公に追いつき、お供して柳川に来た。よって島田の姓をもらって代々明治維新
まで魚問屋魚問屋の元締めで、「魚問屋役」を仰せ付かった。その為他の魚屋販売業者
は柳川に来れば、まず島田氏の魚市場店に置き、藩内で直接売ることはできなかった。
勝手に売った場合は、魚類は没収され、柳川にて販売することを禁じられた。文化11
年の(1814)発行の米札一升がある。女優の新珠三千代の母の里である。現在の当
主は筑紫野に引越しされている。と言う。その後明治になって藩預かりの資格は次々と
売られた。明治新政府は酒類と塩に国策の専売をした。そこで塩販売の近藤氏に魚市場
の権利を譲りその資金で酒類の問屋業を行った。博多の豪商だった伊藤小左衛門は黒田
藩の御用商人として藩を支えていたとされる。長崎の出店などで非常に豪壮で、長崎の
邸宅の天井にギヤマン(ガラス)をはり金魚を泳がせていた。小左衛門は、寛文2年(
1662)から、寛文6年(1666)の間に7回の密貿易(朝鮮への武器の輸出)を
行っていた事により寛文7年(1667)に捕われた。その時柳川の豪商の江口吉右衛
門も、朝鮮に武具を密貿易したことが連座し発覚した。柳川藩は足軽の伊本九右衛門、
宮島茂を長崎に遣わし江口を捕えて死刑に処している。この事件で捕らえられた人数は
270名余りにのぼり西国一帯を股にかけた大密貿易団だったという。この時捕まえた
のは長崎奉行所だった。つまり家康は長谷川なる密偵に新たに代官以上の職権を秘かに
与えていたのである。これは隠れキリスタン狩りを強く申し出た天草領主の意見からだ
った。江口氏は久留米有馬氏と繋がりが深く、津村氏の御幣流しの領界決めにも尽力し
佐賀側の立ち合いにも関与した。どうも蓮池藩の中老と縁戚で小柳氏などとのつながる
らしい。

1496: 名無しさんAA:18/10/25 06:57
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   488   >

 この事件で捕らえられた人数は270名余りにのぼった西国一帯の大密貿易団だった
が、この多くは柳川藩の者も多かった。伊藤小左衛門は豪商三傑と言われる島井宗室(
しまいそうしつ)、神屋宗湛(かみやそうたん)、大賀宗伯(おおがそうはく)の中に
は入っていないが、博多3傑の中で悲劇の豪商とされた。長崎代官にもなっている末次
平蔵(すえつぐへいぞう)は博多の中で抜きんでた豪商であった。秀吉の頃から、船舶
の大型化に伴い遠浅の旧来型の良港博多津は、次第に水深の深い新型の良港長崎にその
地位を譲ろうとしていた。博多商人達も長崎へ店を移したり、支店を開設するものが多
くなり、彼らは「ニュー博多」ともいうべき長崎の町の形成に尽くした。その中心的な
人物がここに居を構えていた博多商人末次家の末次興善(こうぜん)で、その功績から
、興善町の町名が現在も長崎の中心街に残る。また鎖国期において世界へ唯一の窓口と
なった「出島」の造成(1634〜36)に出資した「出島商人」にも末次宗徳や大賀九郎左
衛門など博多商人の名がある。末次興善(すえつぐこうぜん)は豪商で元々は博多の商人
だった。博多に出る前は生所は解っていない。しかし富田氏の分流で北面武士であった
藤原季清が佐藤を名乗って、藤原秀郷の7世孫で徳大寺家に仕えた子孫だろうと推測さ
れる。久寿元年(1154年)に監使としてその子季喜と季次を伴って肥前国に下向したの
が始まりである。この兄弟はそのまま肥前国に土着して、弟の季次は肥前国佐嘉郡小津
郷の一部(現在の佐賀市本庄町末次)に領地を得て地頭職となり、以降末次氏を名乗る
ようになった。兄の季喜は龍造寺氏の祖となった。ただし子供がなく母方の親類であっ
た高木氏より養子を迎えている。つまり季喜の血筋が龍造寺氏となったわけではない。
肥前末次氏の多くは、平安時代後期から戦国時代に至るまで龍造寺氏の家臣として仕え
ている。元々彼の祖先は瀬高清水に徳大寺領の守り役だったが、蒲池氏の時代に龍造寺
に兵をつけて家臣鍋島が横取りした水ヶ江城を3回も攻めさせている。この時の将の一
人だったのだろう。元亀二(1571)年長崎に移住し、その時に私財を投じて町を開いて、
現在の長崎市興善町の由来となった。部下に村山等安(村山東安)がおり、等安によって
貿易で巨利を得たという。3代目末次平蔵が伊藤小左衛門と、だいたい同時期に活躍し
ている、末次がまず1番の博多商人、小左衛門がその次くらいと考えていいようだ。伊
藤小左衛門が朝鮮への武器密輸で磔(はりつけ)に処せられた後、末次氏も本流は、御
禁制の外国商への金融で処罰されて没落してしまう。こうして縁戚を辿れば平安末期に
清水山から唐船までの船便を運航していたのが末次氏の地出のように見える。


1497: 名無しさんAA:18/10/25 07:10
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   489   >

 秀吉による朝鮮出兵(文禄の役)の頃から、家康による豊臣方平定(大坂の陣)の後
の時期に当たっては、従来からこの時期までのキリシタンに関する重要問題は、ポルト
ガル貿易とイエズス会の拠点であった平戸から長崎に集約されていったと考えるられる
。またこの時期に、ポルトガル船とイエズス会に加えて、フィリピン経由のスペイン船
と托鉢修道会(ドミニコ会・フランシスコ会)が長崎に進出してきて諸問題がさらに複
雑化している。そのスペイン系勢力進出の後ろ盾となったのが初代長崎奉行の村山等安
であった。等安が1594年に長崎代官に任ぜられてから、1618年に失脚するまで
の25年間は、キリシタン教会と長崎とが一体になって発展を遂げて、又衰退を辿って
行った時期であった。それはまた、90年にわたる日本のキリシタン時代のうち、最も
華やかで深刻な多くの問題が露わになった時期でもあった様だ。その舞台の上で、等安
は商人、武士、宣教師、背教者といった日本人だけでない人と、それも一筋縄ではいか
ない強(したたか)な人々と交錯交流する。しかも、等安自身も代官職を梃子に危ない
「顔役」として神輿に乗せられ、実力を蓄え、イエズス会すら敵に回してついには幕府
にとってさえ 邪魔な存在となってしまった様だ。言わば時代と幕府に踊らされた人の
一人でもあった。洗礼名アントニオにあてて安東を名のっていたが、秀吉の言を入れて
等安や東庵と改めた。既に朱印船貿易で巨利を得たが、元和2(1616)年の台湾遠征の息
子の渡航上陸失敗をきっかけに、キリシタン信仰への非難し、等安の里親であった興善
の子末次平蔵との抗争が次第に大きくなり訴訟にまで発展し、等安にとって末次氏は里
親同然のだったが幕府に告発されて処刑されるに至った。徳川家康の鎖国にとって障害
になるのは、生糸と綿糸が入るかどうかであった。もともと文禄元年(1592年)豊臣氏
による朝鮮征伐の文禄の役の際に、名護屋に在陣していた豊臣秀吉に謁見し、長崎での
地子銀25貫を納めさせる代わりに、御免地(地子御免除の特別地域)以外の直轄地を預
かる長崎代官になりたいと願い、許可された事で長崎代官となっていた。彼を支えてい
たのは末次船と言われるルソンやベトナム、中国などとの交易する大船団だった。慶長
9年(1604年)の正月にイエズス会のジョアン・ロドリゲス神父とともに。伏見で徳川
家康に謁見し、引き続き長崎の代官となることを追認された。その後、呂宋壺の他に、
生糸・印子・金・鉛・水銀などの貿易を行い、薩摩藩や佐賀藩に融資するほどの金を蓄
えた。また、元和2年(1616年)には台湾(高砂国)征討のため、次男・村山秋安を司
令官とする13隻の船団を台湾に派遣したが、これは暴風のため失敗に終わった。しか
しこれがきっかけとなりイエズス会に大きな不満が出来た事が大きく影響した。

1498: 名無しさんAA:18/10/25 07:22
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   490   >

 秀吉による朝鮮出兵(文禄の役)の頃から、家康による豊臣方平定(大坂の陣)の後
の時期に当たっては、従来からこの時期までのキリシタンに関する重要問題は、ポルト
ガル貿易とイエズス会の拠点であった平戸から長崎に集約されていったと考えるられる
。またこの時期に、ポルトガル船とイエズス会に加えて、フィリピン経由のスペイン船
と托鉢修道会(ドミニコ会・フランシスコ会)が長崎に進出してきて諸問題がさらに複
雑化している。そのスペイン系勢力進出の後ろ盾となったのが初代長崎奉行の村山等安
であった。等安が1594年に長崎代官に任ぜられてから、1618年に失脚するまで
の25年間は、キリシタン教会と長崎とが一体になって発展を遂げて、又衰退を辿って
行った時期であった。それはまた、90年にわたる日本のキリシタン時代のうち、最も
華やかで深刻な多くの問題が露わになった時期でもあった様だ。その舞台の上で、等安
は商人、武士、宣教師、背教者といった日本人だけでない人と、それも一筋縄ではいか
ない強(したたか)な人々と交錯交流する。しかも、等安自身も代官職を梃子に危ない
「顔役」として神輿に乗せられ、実力を蓄え、イエズス会すら敵に回してついには幕府
にとってさえ 邪魔な存在となってしまった様だ。言わば時代と幕府に踊らされた人の
一人でもあった。洗礼名アントニオにあてて安東を名のっていたが、秀吉の言を入れて
等安や東庵と改めた。既に朱印船貿易で巨利を得たが、元和2(1616)年の台湾遠征の息
子の渡航上陸失敗をきっかけに、キリシタン信仰への非難し、等安の里親であった興善
の子末次平蔵との抗争が次第に大きくなり訴訟にまで発展し、等安にとって末次氏は里
親同然のだったが幕府に告発されて処刑されるに至った。徳川家康の鎖国にとって障害
になるのは、生糸と綿糸が入るかどうかであった。もともと文禄元年(1592年)豊臣氏
による朝鮮征伐の文禄の役の際に、名護屋に在陣していた豊臣秀吉に謁見し、長崎での
地子銀25貫を納めさせる代わりに、御免地(地子御免除の特別地域)以外の直轄地を預
かる長崎代官になりたいと願い、許可された事で長崎代官となっていた。彼を支えてい
たのは末次船と言われるルソンやベトナム、中国などとの交易する大船団だった。慶長
9年(1604年)の正月にイエズス会のジョアン・ロドリゲス神父とともに。伏見で徳川
家康に謁見し、引き続き長崎の代官となることを追認された。その後、呂宋壺の他に、
生糸・印子・金・鉛・水銀などの貿易を行い、薩摩藩や佐賀藩に融資するほどの金を蓄
えた。また、元和2年(1616年)には台湾(高砂国)征討のため、次男・村山秋安を司
令官とする13隻の船団を台湾に派遣したが、これは暴風のため失敗に終わった。しか
しこれがきっかけとなりイエズス会に大きな不満が出来た事が大きく影響した。

1499: 名無しさんAA:18/10/25 07:32
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   491   >

 この頃等安は長崎の外町に影響力を持つスペイン系の托鉢修道会に近付いた一方で、
末次平蔵たちは旧来のポルトガル系のイエズス会が占める内町を勢力の基盤とし、両者
の対立は内町対外町、イエズス会対托鉢修道会、ポルトガル対スペインの権力争いに発
展した。等安は数多くの妾を持ち、そのため妻子と不和に陥り、また奉行だった事で多
くの人々を殺害した。その際は江戸幕府長崎奉行・長谷川藤広のとりなしで、かろうじ
て息子らと和解したという。しかし、現実は長谷川藤広の罠であろう。何故なら等安は
キリスタンで殺人や自殺は禁じている。加えて長谷川は幕府にキリスタンのあぶり出し
を自ら申し出て、迫害や処刑をする事でこの地位に付いたからだ。これは筑後でさんざ
ん蓑に火を付けて焼き殺し、或いは槍で串刺しし水車に縛って逆さ水責め刑にして年貢
を取り立て、それが出来ない時は子供や女達を奴隷に売った松倉勝家の下の三潴での、
実行部隊の長だったからだ。岡本事件が発覚して、ほどなく松倉勝家が島原藩のある肥
前島原半島の領主となった事で松倉の執り成しで長崎奉行になったのだった。同じ様に
同僚の寺沢堅高は唐津藩の領主となっていた。飛地肥後天草諸島の領民が、百姓の酷使
や過重な年貢負担に窮し、これに藩によるキリシタン(カトリック信徒)の迫害、更に
飢饉の被害まで加わり、両藩に対して天草の乱が起こったほどだ。ここでの「百姓」と
は百姓身分のことであり、貧窮零細農民だけではなく隷属民を擁した農業、漁業、手工
業、商業など諸産業の大規模経営者をも指している。これが信仰を深め同時に過激で悲
惨な取りたてを起こした。加えて松倉は従来以上の年貢を徳川氏に約束していた。こう
した中で、したたかな長谷川の策略で等安は、長崎の指導者層である頭人のグループや
新興商人らと衝突することとなった。元和4年(1618年)の末次平蔵の訴えにより、キ
リシタンを擁護したことと、徳川氏が敵対していた大坂の豊臣氏と通じたという嫌疑で
、元和5年(1619年)10月26日に江戸で斬首、一族も長崎で処刑された。彼の死後長崎
の代官業務は末次平蔵政直が継いだ。海外貿易には2つの手法に分かれた。1つは物品
取り引き、もう1つは船を預かる貿易商人に対する融資である。これは抛銀(なげがね
)と言わ、博多三傑の島井家などが有名で、小左衛門も抛銀をやっていました。抛銀は
投銀とも書き、1種の成功報酬に対する投資である。これは直接投資の末次船よりリス
クは少なかった。この間接投資でも利率は最高13割にもなっていたという。しかし、
これらも末次船のような交易船が動かなければ、何も生まれないものだった。危険承知
の投資で、豪胆な連中でないとできなかった交易だった。


1500: 名無しさんAA:18/10/25 07:37
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   492   >

 ジョアン・ロドリゲスはバリニャーノの通訳として秀吉に謁し、秀吉はこのロドリゲ
スを厚遇し、彼に対し頻りにポルトガル船の来日を要請した。そしてロドリゲスは、こ
の秀吉の意向に応えるかのように、ポルトガル船船長を伴い肥前名護屋に秀吉を訪ねた
。秀吉にとっては、貿易と布教の不可分を今一度見せつけられた様なもので、貿易仲介
者としてのイエズス会を意識しない訳にはいかなかった。村山当安が長崎外町代官に任
ぜられたのも、やはりこの同じ年の出来事なのである。イエズス会士フランシスコ・ヴ
イエイラは言う。「長崎市に等安アントーニオと称するキリシタンがおりました。貧し
い生まれではありましたが、秀れた能力とキリシタンらしい行ないをもっていましたの
で、イエズス会はこの者を庇護しました。彼はその援助によってこの市の主要なキリシ
タンたる代官の一人になるに至りました。」と。つまりイエズス会は、熱心なキリスト
教信徒を長崎代官にすることによって、貿易のことや長崎町政のこと、更には長崎貿易
をめぐる様々な政治・経済関係にまで有利な地位を獲得しようとしたのである。その証
拠に、秀吉没し政権が徳川家康に移るや、イエズス会パードレ、ジョアン・ロドリゲス
は、この等安を伴い年頭の挨拶として家康を訪ねた。それは、秀吉以来の長崎代官の職
を当安に対し引き続き安堵してもらうためであった。イエズス会は「長崎代官」村山等
安を必要としたのである。時に一六〇三年(慶長入)、等安四十一歳の時のことであっ
た。イエズス会は、等安を長崎代官にすることによって、貿易のことや長崎町政のこと
、更には長崎貿易をめぐる様々な政治・経済関係にまで有利な地位を獲得していた。し
かし、元和2年(1616年)には台湾(高砂国)征討のため、次男・村山秋安を司令官と
する13隻の船団を台湾への派遣で莫大な投資と次の流通が消えたのである。イエズス
会自体にもこの原因で活動資金が無くなったのだ。この頃イエズス会は、布教資金捻出
のため、生糸を中心とした長崎−マカオ間貿易に深く関わり、ついには本末転倒し利潤
を追求するのが急務となっていた。キリスト教布教団体としての枠を大きく踏みはずす
ように見えるが教えでは教団が太る事と信徒の修行とは分けて説いている。イエズス会
は、この貿易に関係する日本人の商業活動を、キリスト教といぅ枠ではイエズス会への
貢献は神への貢献であるとして、信徒の個人の利益は大きく制限したのである。これが
等安には二枚舌の言い訳に見えたのである。




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