パワプロ小説


実況パワフルプロ野球関連 2ちゃんねる避難所 > パワプロ小説
全部1- 101- 201- 301- 最新50

パワプロ小説

1: 名無しさん@パワプラー:06/04/03 14:15 ID:9./go036
エロではない

101: 名無しさん@パワプラー:07/10/16 02:07 ID:9/jAsbW.
「あ、はるかちゃん、ちょっと」
 練習もひと段落した、少しの休憩時間。会員たちを木陰へ移動させた後で、樹は近くにいたはるかを捕まえた。
「は、はいなんでしょうか」
「えっと、ちょっとベンチまで来てくれる?」
 はるかを連れ立ってそそくさとベンチまで移動する。今日はグラウンドをメインで使っているので、ソフトボール部のベンチを借りているのだ。
 着くなり樹は自分のバッグをあさり、何やら小さな袋を数個取り出した。続けてベンチの隅に置いていた、レジャー用の飲料水サーバを引き出してくる。円柱型の小さなタンクに三つの脚で立つのが可愛らしい、全国の運動部御用達の代物だ。
「そういえば、まだ作り方を教えてなかったよね」
「は、はいなんでしょうか」
 果たして何が始まるのかと興味津々緊張至極といった様子のはるか。
 流石に見かねたように、樹は頬をかきながら声をかけた。
「いや、えっとね……そんなに緊張しなくていいから、簡単だからさ、ちょっと見ててよ」
「はい、見学させてもらいます!」
 どうにもかたさが抜けないはるか。性分というやつなのか、どうやら彼女にはかしこまって気楽さを求めても詮無いことのようである。
「じゃ、手製スポーツドリンクの作り方を教えておくから、これからは皆がランニングを始めたらはるかちゃんが作っておいてね」
「はい、分かりました!」
「えっと、まずは」
「ああ、ちょっと待って下さい!」
 慌てて体操服のポケットをごそごそとあさる。取り出されたのは、三色ボールペンとうさぎのメモ帳だった。はるからしく可愛らしい一品である。
「どうぞ!」
 気合充分。
「えっと、まずはこのスポーツドリンクの元、袋に入ってる粉末ね。これを、書いてある規定量の二倍の水で薄める。そしてそこに、このスプーンで二杯ぐらいの塩を入れて、よくかき混ぜて」
「ふんふん」
 逐一細かくメモを取るはるか。

102: 名無しさん@パワプラー:07/10/16 02:09 ID:9/jAsbW.
「あとは、このクエン酸って書いてる粉末を、ドリンクの粉末の半分くらい入れて、またかき混ぜる」
「ふんふん」
「以上、何か質問はあるかね七瀬はるか君」
「えっと、はい先生!」
 元気良く手を上げる生徒一名。
「水は、ミネラル水とか、買ってきた方が良いのでしょうか」
「いや、そこらへんの水道水でいいよ。っていうか、水道水の方がいい」
「? どうしてでしょう?」
「鉄分が多い、そして何よりコストと手間がかからないからね」
「でしたら、ウチの両親とお手伝いさんたちに頼めば……」
「うーん、申し出はありがたいんだけど、いろいろ甘えちゃいそうだからそういうのはナシ」
 はるかの家がどのようなところなのか、噂に聞く限り、あおいちゃんに聞く限りではよく知っている。門から玄関まで○○メートルだとか敷地に学校のグラウンドがすっぽり入ってしまうだとか、少なくとも樹のような一般市民その他大勢には想像もし難い世界だということだけは重々承知だ。確かにそんな御家様の力を借りればミネラルウォーターどころか、高級なスポーツドリンクでプール一個簡単に埋まりそうではあるが、ここは一つの部活というものを目指す一愛好会として、やれることは自分たちだけでやるのが筋というものだろう。
「それにしても、西条さんって凄いですね」
「……?」
 唐突に切り込まれるそんな言葉に、樹はきょとんとした。
「野球について色んなことを知っていて、ちゃんと自分で応用できてて、尊敬します」
「んー……いや、殆どが雑誌とかテレビとかで仕入れた知識だから、信用できるかどうかも怪しいもんだよ」
 テレビで言っていたことは専門書で裏づけを取ったりしていたが、それでも間違った知識を運用している可能性は否めない。ドリンク作りを皆に向けてやっているのは、例え間違っていたとしても身体に悪そうではないからだ。
「でも、やっぱりそういうことをしっかり実践できる人って凄いと思います」
「うーん、そうかな? ありがと」
 二条曰く謙遜こそ美学と重んじたいところだが云々といったところ。褒められて悪い気はしない。
「よし、じゃあそろそろ練習再開。はるかちゃんは、今言ったことを順にやって、ドリンクを作っておいて。あ、タンクを満タンにする必要はないよ。もう時間も下がってきてるし、何より人数が人数だからね。失敗するつもりで、そうだな……タンクの半分ぐらいで作ってみて」
「はい、分かりました」
 樹はさっさと、木陰でダラけきっている会員達を再起動させるべく、グラウンドへと戻る。数少ない野球経験者らのうち、二条だけが身体にストップをかけまいと柔軟体操をしており、矢部君らはぐてっと寝っ転がっているのがなんとも哀しかった。


      え? なんで暑さ真っ盛りの夏休み前にドリンク作りを教授しなかったのか?
      それは今日も世界が平和だからです。

103: 名無しさん@パワプラー:07/10/16 02:11 ID:9/jAsbW.
 声をかけて、皆を練習へと戻させる。先ほどまで打撃練習をしていたから、次はノックだ。可哀想だけど、矢部君にはまた、つらいノックバッターを頼むことにする。
 矢部君に死刑宣告をしてから、ちょっと歩いて別の木陰へと移動する。あの、あおいちゃんが休んでいる木陰だ。
「あおいちゃん、大丈夫?」
 そよ風に木の葉が少しざわつく中、木の向こう側にあおいの三つ編みを見た樹は、うるさくない程度に声をかける。名前を呼んでからしばらくしても、一向に反応がない。
「あおい、ちゃん?」
 回り込んでそっと覗き込んでみると、木陰の気持ち良さに根負けしてしまったのか、帽子の下でくーくーと静かな寝息を立てるあおいの寝顔があった。
「……無理もないか」
 二条が言っていたような心労や体力的な限界が、ここにきて、リラックスした瞬間にどっと出てしまったのだろう。今日ぐらいは大目に見てあげても罰は当たらないはずだ。これだけ涼しい木陰ならば、寝ていても脱水症状などの危険はない。太陽が西日に傾いたら、起こしにきてやればいいだろう。今起こしたら、気持ち良く寝ていただのなんだので、やかましくて仕方がないはずだ。きっと。
「あおいちゃんなら大丈夫だよ。頑張ろう」
 聞こえているはずもないだろう言葉をかけて、樹は踵を返し、練習へと戻る。
 あおいの頬に見えた涙の跡は、見なかったことにした。


             今回はこれぐらいしか投下できません。
             何故かって? それは今日も世界g

104: 名無しさん@パワプラー:08/03/31 02:02 ID:Rk
半年ぶりに続きを投下します。
ようやくと自由の身になったばかりなのでまだあんまり書き溜めてませんが、まだ憶えて下さっている方がいれば、ちょっとでも良いので楽しんで行って下さい。



 昼休みのいつもの屋上。まだ陽射しは強いが、それでも吹く涼しい風に、ゆっくりとながらも秋の訪れを感じずにはいられない。回し読みですっかりぼろぼろになった“野球ノート”を片手に開きつつ、遠くに見える山を眺めながら、樹はそんな感想を胸中で一人ごちた。周りで各々野球の話やゲームの話などに盛り上がっているのは、見慣れた愛好会員たちだ。
 その中に、あおいの姿はない。同じクラスのはるかの弁によれば、今日は体調不良で欠席らしかった。普段あおいがべたっと座っている地面が、主人の来訪を待ちぼうけて、秋の風に撫でられている。
 不謹慎なようだが、近々あおい抜きで召集をかけようかと思っていたところなので手間が省けて良かったと思う。こういう時に、定時にどこかに集まる習慣がついているのはありがたかった。
「みんな、ちょっといいかな」
 各々自由な昼休みを満喫している愛好会員らの視線を集めるようにして、樹は声を上げ、皆がこちらを振り向いたのを確認してから続ける。
「単刀直入に言うよ、あおいちゃんのことなんだけど」
 そこまで言っただけで、みんなの顔色が変わったのが分かった。はっと真剣な表情になる者、気まずそうに目線を落とす者、反応はそれぞれだが、およそ心の内は同じであろう。はるかの何時になく神妙な表情が、それを一番よく物語っていた。
「やっぱり、いくら野球経験者とは言っても、あおいちゃんは女の子だ。夏を越えてから疲れが出始めてる。練習メニューを皆とは別に組んだほうがいいと思うんだ」
 この提案にはやはり皆、一様に顔を曇らせた。うーんと唸る皆が考えていることは、大体想像がつく。
「勿論、そんなことしたらあおいちゃんが怒るのは目に見えてるから、名目上は投手陣の別メニューってことでね。二条にも影響は出るけど、我慢してくれ」
 傍に立つ二条は、無論だと言わんばかりに強く頷いた。すると他の会員達にも納得の声が上がり始める。これならこの昼休み中にも話はまとまるかな。と、樹がほっと息を吐きかけたその時だった。




105: 名無しさん@パワプラー:08/03/31 02:03 ID:Rk
「あのぅ……やっぱり、私は反対します」
 二条とは反対の方向から、控えめな声が上がる。へ? と不意を突かれた顔で樹が振り返ると、七瀬はるかが下を向きながら手を上げていた。
 実は、はるかには誰よりも先にこの件を話し、女の子に肉体的な無理をさせることの危険性について訴え、あおいの練習メニュー変更について同意を得ていたのだ。いたはずだったのだ。だからこそ、はるかからの突然の異議に樹は驚いてしまった。
「あおいは、そんなに弱くない、です。確かに今はちょっと疲れが溜まってて、それで、あんまり元気もないかも知れないけど……それでも! あおいなら、大丈夫だと思います!」
「……えっと、はるかちゃん」
 子供向けの野球漫画なんかでも、よくある。ボロボロになりながらも雨の中練習を続けたりする主人公の絵。そして根性とやる気と気合だけで逆境を乗り切り、友情でもってあらゆる困難を乗り越えるチーム。そういうのはいい話だと思うし、読んで清々しい気分になれるものだから、樹もそういう話は好きだ。実際、家の本棚にはそういう漫画本が何冊もある。
 でもやっぱり、現実はそうはいかない。確かに根性とやる気と気合は重要だ。でもそれだけで過酷な訓練を続けていても、決して上達はしない。水分と休憩は適度に、根性だけでは甲子園には行けない。現代高校野球の鉄則である。身体の疲労期にはしっかりと休憩を取らなければ、体調を崩すどころか、深刻な故障も起こしかねないのだ。
 今のあおいがまさにその時期である。女の身体は男とは違う。無理をして負担をかけてしまっては取り返しのつかなくなる体内機関だってある。確かに高校三年間の貴重な青春時代であるとは言え、ただそれだけのために、残りの一生に関わる傷を負う可能性を僅かでも持たせたくは無い。それが樹の考えだった。
「はるかちゃんの気持ちも分かるよ。あおいちゃんは強い、それは皆分かってる。でも無理をさせちゃダメなんだ」
「それは、あおいが女の子だからですよね?」
 じっと目を見つめ返される。少し涙の浮かんだ、親友の訴えを代弁する真剣な瞳だった。樹はその目をしっかりと見つめ返し、強く断言した。
「そう。特別扱いすることになるのは分かってる。でもこれは」
「またあおいの居場所が無くなります!」
「故障するよりマシだっ!!」
 言ってから、はっとする。つい、強く言い返してしまった。


106: 名無しさん@パワプラー:08/03/31 02:04 ID:Rk
樹がある種の不安を持って周囲を見ると、その不安を見事体現するかのごとく、はるかや愛好会員らは勿論のこと、屋上にいる普通の生徒――言うまでもなく女の子ばかりである――までもがシーンとなって樹を見ていた。
普段温厚な人間が怒声を発したときほど恐ろしい光景は無い。怒鳴りつけられたはるかはビクッと身を強張らせた後その場で俯いて、ごめんなさいと小さく呟いた。
流石にマズいと思った。このままでは親友のピンチに助太刀した少女を真正面から斬って捨てた悪役である。周りからの視線が非難に変わる前に何とかせねばと、樹は取り繕うように言葉をつなげた。
「い、いやー、だってほら、無理して故障なんかしたらそれこそ無理にでも長期間休まなきゃいけなくなるし、そうなる前に適度な休憩を取っといた方がいいかなー、なんて、いや俺ももう長いこと野球やってるからさそういう故障についても分かってるつもりだからというかなんというか」
「そう、ですよね……」
「だからその、分かってもらえたら……え?」
「西条さんは、野球を知ってますもんね……」
ポツリポツリと紡がれる言葉には、隠し様のない涙と嗚咽が滲んでいた。樹はいよいよ覚悟を決める。
「初心者の私が、口を挟むことじゃなかったですよね……。すいません、こんな不心得者で……」
「あ、あの、はるかちゃん……」
「本当に、本当にすいませんでしたっ!!」
はるかは下を向いたまま言い放ち、走り去る。屋上から階下へと続く階段のドアを開けたときに誰かにぶつかるが、謝りもせずそのまま階段を駆け下りていったようだった。ぶつかられた女の子は、何が起こったやらさっぱりといった表情で呆然と立ち尽くしている。
「あ、ちょ、待ってはるかちゃ」
言いかけたところで、袖を引っ張られる。振り返ると、矢部君が首を振りながら樹のつまんでいた。
「今行っても意味がないでやんすよ。お互いに、頭が冷えるのを待つでやんす」
諭されて、樹は大人しくそれに従う。
「珍しいでやんすね。樹君があそこまで目くじら立てるなんて」
「あー、うん、自分でも驚いた」
あははと笑いつつ皆の顔色を窺う。すると樹が予測していた非難の目はなく、意外にも一様にしてしんみりと消沈していた。屋上にいる別の女の子たちからは予測通りの痛い視線を感じるも、愛好会員たちは樹を非難するつもりはないようである。

107: 名無しさん@パワプラー:08/03/31 02:05 ID:Rk
「あれ? 皆、どうしたの……?」
 樹が不思議そうに声を漏らすと、矢部君が皆の心境を代弁した。
「何というか、オイラたちも樹君と同意見なもんでやんすから、オイラたち全員ではるかちゃんを泣かせたみたいで申し訳ないでやんす」
 そういうことらしい。二条も肯定という意味の沈黙を守っている。
 確かにはるかとあおい両名にとっては厳しい事かも知れないが、樹はその二人がどれほど反対しようと、この決定だけは貫き通してやろうと決心していたのだ。ちょっと納得のいかない形となってしまったが、はるかには明日、改めて話をしよう。
「……じゃ、ちょっとこじれちゃったとこもあるけど、とりあえずこの話はここでお終い。投手陣のメニュー変更は来週からにするから、とにかく皆、このことは内密にね」
 全員の了承をとって、その場をしめる。昼休み終了まであと十分ほどと迫ってはいるが、皆はまだここでのんびりしていくつもりらしかった。樹は一人、教室に戻ることにする。
 戻りながら一人歩くと、一層周りの女の子らからの視線が痛い。そりゃ学年一の癒し系とも呼べる秀才のお嬢様を泣かせたのだから、相応の報いというものだろう。階段へと続くドアを開け、逃げるように身体を滑り込ませて溜め息をつく。
 入ってすぐ横を見ると、はるかが俯いて立っていた。
 何も言わない。
 何も言えない。
 ただじっと立つ樹に、はるかは何も言わない。
 ただじっと俯いて立っているはるかに、樹は何も声をかけられない。
 結局樹は根負けして、さっさと階段を下りることにした。多分はるかは俯いたままなのだろうが、それでも樹は背中に刺さるような視線を感じた。
 その日の放課後の愛好会活動に、はるかはこなかった。
 そして樹は明日会ってどうやって話しかけようかと、放課後、家に帰ってからも延々と悩み続けたのだった。





108: 名無しさん@パワプラー:08/03/31 02:06 ID:Rk
 九月になり、ようやく夏の暑さや湿っぽさも威勢が衰え始めた頃。時折吹く涼しい風はその頻度を増し、日の沈む時間も一段と早くなる。
 あおいはランニングにダッシュにと精を出す会員たちを見つめながら、二条に向かってボールを投げた。投げ込みのようなキツいものではなく、身体をほぐす程度のキャッチボールである。
「ほいっ!」
 キャッチボールと言ってもそこまで優しいものではない。距離は三十メートルほどで、それなりの力を込めなければ届かない距離だ。
「そりゃっ!」
 とは言え、
「えいっ!」
 今まで本格的な投げ込みを中心にやってきた投手からしてみれば、
「よっ!」
 生易し過ぎた。
「ふぅ……」
 数球の後に、あおいはボールをグローブに納めてつかつかと二条に歩み寄った
「ねぇ二条君」
「なんだ?」
 腰に手を当て、あおいは遠くを走る西条ら愛好会員に目をやる。
「なんかさ、なまっちょろくない?」
「な、なにがだ?」
 いつもクールな二条らしからぬ帽子の位置など正しながらの返答に、何かを感じたあおいはじとーっと二条の目を覗きこんだ。
「な・ん・か・さ、最近ボクたちだけ練習が甘くないかな?」
 半目で睨まれた二条だったが、女人に目くらべで負けては二条家長男の恥だと自分に言い聞かせることでなんとか恐怖感を乗り越える。
「い、いや、そんなことはないと思うな。やはりピッチャーは肩をしっかりと作るべきだから、たまにはこういう遠投もやっておかなければ、いつも投げ込みばかりでは筋肉が硬くなってしまう」
「口調からびっくりするぐらい漢字が減ってるよ」
「か、勘違いだろう」
「ふーん」
 あおいが不思議に思ったことは、何も練習内容のことだけではない。ちらっとベンチの方を見やると、いつもはそこでグラウンドに水を撒いているはるかの姿が、今日は見えない。学校には確かに来ていたはずで、元気が無さそうだったのも確かである。別に休みなら休みでよかったのだが、あおいは何も聞いていない。あの几帳面なはるかが何の連絡も無しに休むなんてこと考えられなかった。
 止むを得ない事情かもしれないし、あまり首を突っ込むわけにもいかないが、今日は帰り道に家に寄ってみよう。
 とりあえず目の前の問題にそう結論付けてから、あおいは二条を促してキャッチボールに戻る。たまにはこれぐらいの軽い練習もいいかなと、無理にでも納得することにした。



109: 名無しさん@パワプラー:08/03/31 02:08 ID:Rk
「ふんと、いや二条君こってるねぇ」
「ああ、凝り性なものでな」
 無論、二条が何かについてマニアックという意味ではない。他の愛好会員たちが熱心に素振りをしている間、投手陣であるあおいと二条はいつも休憩に使っている木陰でストレッチをしていた。今は二条が股を割って身体を捻り、伸ばし、それをあおいが上から押しつぶす形でサポートしているところである。
 あおいが苦戦しているように、二条の身体のコリ具合は半端ではなかった。それもそのはず、二条は今日のこのストレッチを出来る限り長引かせるという大役を背負っている為、昨夜一晩、竹刀を片手に一本ずつ地面と平行に持って明け方まで耐え続けるという苦行に耐えたばかりなのである。よって上半身はカチコチだ。しかもそれに飽き足らず、今日の授業中は全て両足を前へ持ち上げていた状態だったらしく、ふくらはぎも張っているというのである。もはや参ったという他ない。
「いやーそれでもこれはこり過ぎだよ……。整体院でも行った方がいいんじゃない?」
「あまり医療機関の世話にはなりたくない。自力で完治するものはさせる」
「うんまぁ個人の好き嫌いはあるだろうけどさ」
 よいしょと背中を一押し。ズキっと筋が伸びるのを我慢する二条。昨日の夕方、はるかの家に寄ったのだが、本人は眠っていたらしく会うことはできなかった。が、玄関での家政婦さんの話では別に体調が悪いようではなかったという。そんなはるかは、今日は学校にすら来なかった。流石に何かあったのではないかと、少し心配しているところである。
 未だ硬さのとれない二条の身体のことも心配しつつも、あおいは黙々とバットを振り続ける皆の方へと目をやった。西条が指示しているのだろう。遅すぎず早すぎず、いち、に、さんでスイングするテンポの良い素振りだ。
「ボクたち、素振りしなくていいのかな」
「ああ、まずは自分を頼む。迷惑をかけてすまない」
「え? いや、あはは、まぁいいんだけどさ」
 笑いながら二条のストレッチを続行するも、違和感の晴れないあおい。そんな心境をおちょくるように、スズメが数羽、チチチッと鳴き声をあげて近くの木から羽ばたいていった。




110: 名無しさん@パワプラー:08/03/31 02:08 ID:Rk
「やっぱり何かおかしいよね絶対!」
 昼休み。バンッと机を叩いて憤るあおい。目の前にいるのは西条でも二条でも矢部でもその他愛好会員でもない、ただの女友達だった。勿論、はるかでもない。彼女は今日も休みである。
「どーしたの? あんまり怒るとシワになるよオデコのとこ」
「そんなの大した問題じゃないっての!」
 目を尖らせ、やろうと思えば顔で茶が沸かせるのではないかというぐらいに頬を上気させて憤慨する。
「はるかは来ないし愛好会の練習は妙な空気だし二条君の喋り方は狂うしどうなってんのさ!」
「えっえっ?! なになに?! 二条君がどうかしたの?!」
「論点はそこじゃないっ!」
 二条君というワードにやたらと反応してきた近所の女子に消しゴムを投げつけ黙らせる。そのままイライラオーラを放っていると、目の前の友達があははと苦笑いしながら言ってきた。
「荒れてるねぇ姐さん。……愛好会でなんかあったの?」
「なんかあったも何もさぁ……聞いてよ」
 あおいは、突然はるかが来なくなったことと、最近の練習が奇妙であることとを愚痴と不満を大量に織り交ぜつつ話した。二条の話は面倒なのでしなかった。
「あー、なるほどね……」
 納得したように頷く友達に、あおいは素早く食いついた。
「え、どゆこと?」
 思わず机から身を乗り出す。乗り出しすぎて、相手から両手で押し戻された。
「いや、愛好会の練習の方は分からないけどさ。その、七瀬さんの方はなんとなく」
「はるかがどうしたの?」
 先を急ぐあおいを宥めるようにして、友達はなるべく小声で、囁くように喋り始める。
「なんかさ、西条君と、何かあったらしいよ」
「え……?」
「うん、ほら、アンタこの前休んだじゃない? あの日、屋上で西条君が怒鳴ってさ、七瀬さん泣いてどっかいっちゃったんだ」
 初耳だった。
「え、それ、本当?」
「マジ。一応、あたしも現場に居たしね。噂好きな女子の間じゃいろいろ妄想憶測が飛び交ってるよーそりゃもうエラいぐらいに。休みがちになったのもそれからだしさ、愛好会の練習に顔も出さなくなったっていうなら、やっぱ原因はそれだろうね」
 あおいは愕然とした。もともと噂話は好きではない方だが、それにしてもこれは失態である。仮にも中学からの親友の身に起きた事件すら全く把握できていなかったとは、不注意だったと言う他ない。
 すぐさま時計を見やると、昼休みはあと二十分ほどある。今日は弁当も教室で食べて屋上には行かない予定だったが、変更だ。
 友達に礼を言うとあおいは椅子を蹴飛ばして教室を出、一目散に屋上へと駆け出した。途中すれ違いざまに何人もと肩をぶつけそうになったが、うまくかわした。幾つかの階段と踊り場を経て、屋上へと通じるドアを開く。

111: 名無しさん@パワプラー:08/03/31 02:09 ID:Rk
 いつもの時間、いつもの場所に、いつもの人物が居た。
「西条君!!」
 名前を叫び、振り向いた人物に駆け寄る。周囲の視線などは全く気にしていない。
「あおいちゃん?」
 相手は、突然現れたこちらに少し戸惑っているようだった。黙したままつかつかと歩み寄る。
「どうしたの突ぜ……」
 相手の言葉がそこで途切れたのは、あおいがキッと鋭い視線をぶつけたからだ。
「……はるかに、何て言ったの?」
「え?」
「はるかに何言ったのさっ?!」
 自分でも驚くぐらいの声量だった。誰も彼をも含めて、屋上中の空気が停止し、皆が息を止めてあおいに目線を集中させる。
 樹は何も言わなかった。
「ボク、今日はるかの家にいくから」
「……」
「それだけ」
 あおいはそれだけ言い放つと踵を返し、来た時とは違う少し穏やかな足取りでその場を去っていった。残された愛好会員らはただ呆然とし、樹は一人屋上の床をじっと見つめている。彼らが何を考え、何を戸惑っているのか、屋上にいる他の人間には何一つ分からない。
 一旦静まったその場が再び活気を取り戻すまでには、かなりの時間が必要だった。





112: 名無しさん@パワプラー:08/03/31 02:10 ID:Rk
 鉛筆を置き、背伸びをする。九月の落日は早い。まだ五時も過ぎたばかりだというのに、カーテンの向こう側は薄暗くなり始めている。もうちょっとすれば、秋の羽虫たちのコーラスが心地良く響いてくる頃だろう。今日の自習はこれくらいにしておこうと思い、傍らに置いてある紅茶を一飲みしてから、部屋の明かりを消す。そして仰向けにベッドに倒れこむと、まどろみに似た虚脱感というか、精神的な疲れが一気に全身を襲ってきた。
 両親や先生は自分の事を、器用でよくできた子だという。
 でもそれは間違いだ。もし器用ならば、あおいの置かれている状況に関して、もっと良い解決案を定時提示来たできたはずである。しかしそれもできないどころか、自分よりも野球の専門家である樹に対して反論もしてしまった。その上、会わす顔の無さにこうして家に閉じ篭ってしまっている。自分ほど不器用な人種もそうはいないと、はるかは重々感じていた。
 はるかがあおいのことを心配しているのと同じくらい、樹だってあおいの身体を気遣っている。それは分かっているつもりだった。
 多分、何食わぬ顔をして登校しても、樹や他の愛好会の面々は何もなかったかのように接してくれるだろうし、生活に全く不都合はないだろう。皆は大人だ。こんな何の権力も無いマネージャー風情の言ったことなんてさらりと流してくれているだろう。でも、自分がダメなのだ。
 ボーっと天井を見つめる。答えの見つかりっこない問いかけが、延々と頭の中を巡り続ける。こういうのを、哲学していると言うのだろうか。それともただ時間を浪費していると言うのだろうか。それもまた、意味の無い問いかけであった。
 思考が、徐々に眠気に侵され始める。疲れた時は、眠ればいい。
 目を閉じて、睡魔に身を委ねる。意識が遠のいていき、視界が瞼の裏側に吸い込まれていきそうになる。
 ドアがノックされた。
「はるか?」
 同時に聞こえた声は、母のものであった。はるかはドア越しに、か細い声で返事をする。
「ん、なんですか……」
「居間まで下りてきて、あおいちゃんが来てるわよ」
 胸がずきりと痛む。薄れかけていた意識が、一瞬で正常に戻り、それすら通り越して高ぶった。
 何故あおいが来たのか。はるかの悪い予想は、結構当たる。
 あおいに会って、問われたことに何と答える? 数年来の付き合いであるあおいには、適当な誤魔化しは通用しない。樹らのことをどう伝える? 悪いのは自分だ。あおいの感情の矛先は自分に向けさせなければ。
 時間をかけても怪しまれるだけだと思い、はるかは立ち上がった。ドアを開け、母に礼を言って一階の玄関へと向かう。
 はるかは昔から、隠し事が苦手な性格だった。そしてあおいははるかの下手な嘘を見抜くのが上手い。
 隠しても無駄なことだと思う。きっとあおいは、何かを察するに違いない。そしてあおいから問い詰められれば、自分はきっと何もかもを話してしまう。
 そこまで分かっていながらも、はるかは身を隠し、あおいを無視することを拒んだ。
 はるかは、出来る限りの力をこめてゆっくりと玄関の扉を開けた。
 日の沈みかけた夕暮れ時、そこには、悲しげな景色を背負ってあおいが立っていた。




113: 名無しさん@パワプラー:08/03/31 02:11 ID:Rk
 家の電話が鳴ったのは、午後十時を回ってしばらくしてから。風呂と夕食を済ませ、タオルを首にかけただけの姿で課題を進めていたときのことだった。
 電話口の向こう側で、はるかちゃんが泣きじゃくっていた。そして何度も何度も、ごめんなさいと謝り続けていた。
 ただごとではないと踏んだ樹が冷静に訳を訊くと、どうやらあおいちゃんに例の事を話してしまったらしく、結果、あおいちゃんが行方知れずだというのだ。娘が帰らないことを心配したあおいちゃんの両親が、はるかちゃんの家に連絡を入れたことで発覚したらしい。はるかちゃんの家を訪れた午後五時以降、自宅には戻っていないという。
 すぐさま樹が可能な限りの人数であおいちゃんの捜索に乗り出そうと、矢部君ら愛好会員に連絡入れたところ、在り難いことに全員が承諾してくれた。はるかちゃんも同行を願い出てくれたので、そちらは二条に迎えに行かせた。
 そして今、樹は自転車にまたがり、一人夜の町中を奔走している。この辺りには繁華街がないので物騒ではないが、それでもガラの悪い連中がいることは確かである。あおいが妙なことに巻き込まれていないことを願いながら、樹は懸命にペダルを漕いだ。
 夜中の十時ともなれば、光源はコンビニや外灯の光しかない。恋恋の目立つピンク色の制服とは言え、この暗さでは見失ってしまう可能性は充分にあった。
(……俺の所為だ……!)
 視覚に全身系を集中して走行しつつも、樹の胸中は自責の念で満ちていた。
(あおいちゃんには頑張って練習についてきてもらうべきだったのか……いや、故障は命取りだ。仕方がなかった。……でももうちょっと上手く隠せていれば……)
 もし。たら。れば。
(うるさいっ!)
 延々と回り続ける自身の無駄な思考を、ただ一言で掻き消した。今はただあおいの捜索に全力を挙げること、それが最優先である。後悔などしていても仕方がない。
 住宅街を突き抜け、川べりの広々とした場所に出る。ここから暫くまっすぐ行けば恋恋高校がある。この辺りをあおいちゃんは通学路として使っているらしく、何か手がかりがあればと思って来たのだ。しかしここまで来ると本格的に明かりという明かりがなくなり、頼りない自転車のライトだけが頼りとなる。道の途中、犬の散歩をしている人とすれ違ったが、何をそんなに必死になって自転車を走らせているのかと、不思議そうな顔をしていた。

114: 名無しさん@パワプラー:08/03/31 02:14 ID:Rk
 樹だって、自分でも不思議なのだ。確かに自分の責任が重大であるとはいえ、ここまであおいちゃんの為に必死になっているのか。会って間もない女の子の為にここまで自分が悩み、そして行動しているのか。
 樹は今まで、他人にここまで気を遣って野球をするということはなかった。いつも監督やコーチ、そして先輩などが先を行き、練習メニューや指導を与えてくれていた。初めからモノを与えられて、それを消化する立場だったのだ。だからよくよく考えてみれば、こうして仲間とともに一から全てを始めるということは、初めてだった。
 あおいちゃんは、その最初の仲間なのである。だから絶対に見捨てはしない。自分の持ちうる知識の限りを使って彼女を故障から守り野球を続けさせてみせる。
 そう思っていたのだ。
 舗装された土手の上を走り続けていくと、樹は視界の隅に違和感を覚えた。土手を下った少し遠いところに、この暗い中で川べりに動くものがある。犬か何かかと思いかけたが、それにしては動きが遅い。
 幾つかの憶測と疑問が沸いたが、それらは全て、ここが草野球用の河川敷グラウンドであるということを思い出した瞬間に氷解した。
 同時に樹は駐輪する時間も惜しんで自転車を放り出し、土手を全力で駆け下りた。
「あおいちゃんっ!!」
 大声を張り上げる。あたりに反響するものは何もないが、樹の声は夜の静寂を引き裂くには充分なほどに甲高く響いた。
 その声の矛先である女の子は、まるで聞こえていないようにグラウンドを黙々と走り続けている。樹は土手を駆け下りた速度を殺さずに、そのまま一息であおいの元へと駆け寄った。
 遅々として走るあおいを追い越し、正面から向き合い、その両肩をつかんで顔を覗き込む。
「あおいちゃん! どうしたんだよ家にも帰らずに!」
「あ……西条君……やぁ、こんばんは」
 力無く笑ってみせるあおいだったが、その視線は決して樹のものとは交わることなく、あやふやに下へと向けられていた。
「こんばんはじゃないよ!!」
 樹は、語気とともに両肩を掴む握力をも強めて訴えた。
「家に連絡もしないで、女の子なのに一人でこんなところで! 何かあったらどうするんだよ! もうちょっと自分を大事に」
「西条君も、やっぱりそういうんだ……」
「えっ」
「女の子だから、女の子だからって……ボクが女の子だからって!!」
 あおいちゃんは、泣きじゃくっていた。

115: 名無しさん@パワプラー:08/04/02 00:48 ID:yQ
 あおいの目から止め処なく零れ落ちる涙、真っ赤になった顔。気丈なあおいが今まで押し留めてきた感情が、プライドの堰を切って一気に溢れ出していた。それらは全て、樹が初めて見るあおいの素顔だった。
「どいてよ……!」
 泣いているという自覚がないのか、涙を拭おうともせず嗚咽混じりの声で言うと、あおいは樹を押し退けて再び走ろうとする。樹はそれを許さなかった。肩を掴む両手を、絶対に離さなかった。
「離して! ボクだって分かってるよ! やっぱり女の子で、皆とは体力が違うことぐらい! だから皆より走って、皆より鍛えなきゃダメなんだよ! 部活で走れない分、自分で、走らなきゃ……っ!」
 あおいの運動靴はすっかり泥まみれになり、制服は触らなくても分かるほど汗で濡れていた。恐らく下校から今まで、ずっと一人で走り続けていたのだろう。暗くなって寂しくなっても、身体が疲れ果てても、強い性根と自身を急き立てる怒りの念だけでずっと走り続けていたのだろう。ただ皆と同等でありたいという想いが、あおいにそれだけの力を与えていたのだろう。
 それはまさしく、あおいの野球人生そのものを象徴していた。
「……ごめんね、西条君……」
 樹に肩を掴まれて立ったまま、ぽつりと言う。先ほどまでの怒りは、いくらか落ち着いたようだった。
「屋上の上で怒鳴っちゃって……はるかから聞いたよ、全部、ボクの身体を思ってやってくれたことだったんだって」
 胸元の服をキツく握られるが、樹は何も言わなかった。あおいの俯いた顔からこぼれる雫が、上からでも見えた。
「ごめんね、こんな、こんな……馬鹿な女の子で、ごめんね……!」
 樹は確かに、女の子が野球を続けていく為に必要なことを、自分なりに考えて行ってきた。
「でも、でも、ボクは皆と野球がしたかったんだよ……! ボクは無理をしてもいいから、皆と同じ練習をして……してっ……、一緒になって、野球……!」
 だけどそれは、本当にあおいの為だったのか。ただ体力が男に劣るから、身体に支障を来たした場合に取り返しがつかないからと、女の子であることだけを前提に、自分の考えを押し付けてきたのではないのか。
 樹は、この子の泣き顔すら知らなかった。この子がどんな子であるかも知らなかった。
 それを知っているはるかの言葉も一蹴してしまった。
 俺は何も分かっちゃいない。
 何が愛好会のキャプテンだ。
「…………」
 ぼろぼろと涙を流すあおいを、黙って胸の中に見つめていた樹は、意を決した。
 一気にあおいを、自分から引き剥がす。

116: 名無しさん@パワプラー:08/04/02 00:49 ID:yQ
「……っ?!」
 驚くあおいを真正面から見た後で、樹は一人猛然とダッシュした。競争者もいないグラウンドを、一人で、全力で走って周り、再びあおいの前に戻ってくる。
 あおいは、事態を飲み込めずにきょとんとしている。
「……あおいちゃん……!」
 ぜぇはぁと息を継ぎつつ、樹は顔を伏せたまま、あおいの両肩をまた掴む。
「一緒に走ろう!」
「え?」
「もうちょい、俺が疲れてないと、やっぱ不公平かな……!」
 そういって再びダッシュ。戻ってきた頃に、あおいはいくらか笑顔を取り戻していた。
「西条君ってさ」
「……はぁ、ひぃ……なに?」
「馬鹿だよね、ほんと」
「そうだね、行くよ?」
「うん」
 そして走り出す。先ほどの樹のダッシュの半分以下のスピードで、ゆっくりと。走りながら、二人はいろんな話をした。
 自分の小さい頃の話だとか、小学校の給食の何が嫌いだったとか、最近のプロ野球についてだとか。他人が聞けばどうでもいいと切って捨てられそうな話を、飽きずにした。樹はちょっと、早川あおいという子を理解できた。かも知れない。
 自分が行った事は、女の子に対する練習のさせ方としては間違ったものではなかったと思う。でも、早川あおいに対するものとしては、間違っていた。
 樹は苦笑する。するとあおいに気付かれた。
「はぁ、はぁ、なにがおかしいのさ?」
「いや、女の子って難しいなと思ってさ」
「はぁはっ……そうだよ」
「……これからは、練習差別はなし」
「当たり前でしょ」
「その代わり厳しく行くからね」
「がってんだよ」

117: 名無しさん@パワプラー:08/04/02 00:50 ID:yQ
 しばらく走って、樹は思いつく。
「ところでこれ、ゴールはいつ?」
「ゴール決めたら、面白くないでしょ」
 小悪魔のような、悪戯っ気の訊いた笑みで返される。
「倒れるまでだよ」
「……がってんだ」
 その後しばらく走って、どちらともなく土の上に倒れこみ、秋の満天の星空の下で、大の字になり手を繋いで寝そべった。
「あおいちゃん、制服汚れるよ?」
「いーのいーの。今日ぐらい、どうにでもなれっての」
 あははと豪快に笑い飛ばしてから、あおいはふぅと息をつく。今までのように重くないその息は、すっと軽く宙に溶けていった。
「あおいちゃん」
「なに?」
「ごめんね」
「西条君が謝る必要ないって、ボクが力不足なのは事実だし……でも」
 夜空を見上げていたあおいの顔が、樹の方へと向けられる。流石に涙はすっかり乾いたようだった。
「今度からは、ちゃんとボクに言ってよね。またコソコソと怪しいことしたら、今度は復讐に行くから」
「肝に銘じておくよ」
 細目で睨みつけられ、洒落にならない悪寒を感じながら樹は苦笑いで返した。
「いやー、疲れたね」
「あおいちゃん、放課後からずっと走ってたの?」
「そうだよ」
「そりゃすごい」
「少しは見直した?」
「いや、かなり見直したよ」
「そりゃどーも」
 時間を確認できるものはなかったが、恐らく十二時前といったところだろう。およそ勘でしかないが。
 そういえば会員たちに連絡をするのを忘れていたし、あおいの家に連絡もしていない。しかもこんな深夜と言えば、高校生は立派に補導されてしまう時間帯である。何気にマズい状況であった。

118: 名無しさん@パワプラー:08/04/02 00:51 ID:yQ
 ま、いっか。条例だの校則だのという堅苦しいものを、樹はその一言で片付けた。
「高校球児にあるまじき飛行行為だよね」
「そうだね、でも、まぁいいんじゃない?」
 あおいも同意見のようだった。
「ねぇ西条君」
「ん?」
「最近さ、はるか、変わったと思わない?」
「はるかちゃんが?」
「そ」
 唐突な質問に困る樹。変わったと思わないか、と訊かれても、そもそも中学時代のはるかを知らないのであるから、何がどう変わったのか分かるはずもない。せいぜい野球の知識を覚えてくれたことや、スポーツドリンクの作り方をマスターしてくれたことぐらいしか頭には浮かばなかった。
「うーん、前より積極的に練習のサポートをしてくれるようになった、ぐらいかな……」
「うん、キミにいいところを見せようとしてね」
「マネージャーなのに?」
「……分かんないなら結構」
「意味深だなぁ」
「いや、かなーりダイレクトなつもりだったんだけど……」
 あおいはむくりと起き上がって、背中とお尻についた土を払う。だが汗の染み込んだ服についた土が、そう簡単に落ちるはずもなく、ピンクの制服は背中だけすっかり真っ黒だった。靴も汚れてはいるが、こちらは運動用のランニングシューズ。後でローファーに履き替えるのだろう。
「じゃ、まだボクにも望みアリだね」
「? 何が?」
「こっちの話だよ」
 樹も追うように立ち上がる。思ったよりも足は疲労していたようで、伸びる筋肉の感触がほのかに痛く気持ちよかった。
「西条君、聞こえる?」
「へ?」
「虫の声」

119: 名無しさん@パワプラー:08/04/02 00:51 ID:yQ
 言われて耳を澄ますと、コオロギだかキリギリスだかは分からないが、心地の良い音色が、そこいらじゅうの草むらから聞こえてきた。必死になっていて気付かなかったが、ちょっと意識を向けてみれば確かに、何故これに気付かなかったのだという程の羽虫たちのオーケストラが、河原を舞台に演奏されていた。
「……気付かなかった」
「うん、ボクも」
 虫たちの多重奏は、美しい音色となって、川とともにメロディを流していく。命を枯らす直前の求愛の音色。物悲しくはあるが、樹にはとても華やかな演奏会に思えた。
「西条君、耳を澄ませないとさ、聞こえないよ」
 言葉が区切られ
「綺麗な歌も、人の気持ちも」
 樹は小さく頷いた。




120: 名無しさん@パワプラー:08/04/02 00:53 ID:yQ

 その後、樹は風邪をひかないようにとあおいに上着をかけてやり、家まで送った。その時すでに十二時を回っており、あおいの両親は酷く怒っていたが、樹が一緒に謝って、事無きを得た。矢部君らは十二時を過ぎた時点で一旦集合してくれており、矢部君の携帯に連絡を入れて解散を告げた。あおいちゃんの無事を聞いて、またはるかちゃんは泣き出したらしい。
 自宅に帰って樹は、何にせよあおいちゃんが無事で良かったと溜め息をつき、勉強机の椅子に座り込んだ。夜中だというのにハードな運動をしたものだから、身体中が痛む。今頃あおいも、両親に説教されながらも身体が痛いと悲鳴をあげていることだろう。
 あおいちゃんは、この何倍も走り、そして疲れているはずだ。樹はちょっと、あおいちゃんを過小評価し過ぎていたなと自嘲した。
 机に向き直り、“野球ノート”のあおいちゃんに関するページを開く。そしてシャーペンを握り、練習メニューに付け足した。
 ランニング中心
 倒れるまで
 一度ニヤっと顔をほころばせてから、着替えを持ってシャワーを浴びに風呂場へと行く。身体は火照っている。冷水を浴びる気満々である。
 結局、あおいちゃんが男女の壁に悩まされているのもあったけど、今回越えなければいけなかったのは、自分の、考え方の壁とあおいちゃんとの壁だったのかなと、樹は少々大きめの今回の事態を振り返った。もし普通の練習に戻してあおいちゃんが故障しても、決して良くはないが、それでも彼女は後悔しないはずだ。手加減されて思い通りの結果がでないよりは、よっぽど満足するだろう。
 それでいいのだ。高校野球は、そうでなければならない。皆が後悔しないような野球をさせてやるのが、キャプテンの務めなのだ。
 そう自分で結論づいただけでも、今日はヨシ!
 樹は満足気に一人頷いて、風呂場へと入っていった。

 数秒後、冷水のあまりの冷たさに樹の悲鳴が家中に響き渡ったことは言うまでもない。



           次からは新学年編です。が、まだ一文字も書いていないのでまたちょっと先になると思います。
           のんびりと、待てる人だけ待ってて下さい。

121: 名無しさん@パワプラー:08/04/02 01:04 ID:yQ
あ、それから
>>58>>90の小説、読ませて頂きました。
読んで、言葉をよく知ってる人だなという印象を受けました。
台本小説のスタイルから抜け出せば、良い文章を書ける方だと思います。
そして主人公となるキャラの人数をもっと絞った方が良いのではないでしょうか。ときどき、誰の視点からモノを見ているのか分からなくなるシーンがありましたので。
登場人物は適数だと思います。視点を持っているキャラを減らしたほうがいいのでは、という意見でした。

今このコメントを見て頂けるかは分かりませんが、見て下さっているのなら、一緒に文才磨いてパワプロ小説を盛り立てられるように書きまくりましょう!

122: 名無しさん@パワプラー:08/05/19 00:01 ID:UU
期待あげ

123: sage:08/05/30 19:39 ID:FQ
>>120 待ってました! 続きも待ってますので頑張ってください!

124: 名無しさん@パワプラー:08/06/06 00:55 ID:zs
イイヨー
もっとやってくれ

125: 名無しさん@パワプラー:08/06/11 23:24 ID:.s
ところで高松ゆかりの胸は大きいのか、小さいのか、丁度良くD寄りのCぐらいなのか。
皆のイメージを聞かせて欲しい。

ちなみに俺はD〜Eだと信じて疑わない。
おっきいオッパイは人類に幸せをもたらすと信じている。

127: 名無しさん@パワプラー:08/07/12 11:05 ID:Zw
更新されてるかと思ったら違ったww

128: 職人:08/07/12 19:16 ID:Lg
『ピンチは誰だ!?』の巻き

小波「進君、これから公園に行くんだけど一緒に行くかい?」
進「はい、いいですよ」

小波「いや〜今日はいい天気だねぇ」
進「そうですねぇ。」
小波「ん?何だあれは?」

ブヒブヒブヒブヒブヒブヒブヒブヒ

進「豚の群れですね」
小波「どうしてこんな所に豚の群れが?何か嫌な予感がするなぁ」
猪狩「僕もそう思うね」
小波「わっ!猪狩!お前いつの間に・・・」
猪狩「今日は何か恐ろしい事が起こるような気がしてね。進と小波の後をつけて来たんだ」
小波「恐ろしい事ってまさかカレンさん・・・・?」
猪狩(コクッ)
小波「進君、公園から離れよう。ここは危ない」
進「えっ!?そんな、オーバーですよ」
猪狩「いいから、早く逃げるんだ!」
(タタタタタッ)
小波「あれ?カレンさんだ。」
猪狩「進、僕の後ろに隠れるんだ」
カレン「あら、小波様」
小波「カ・・・カレンさん、無事だったんだね」
カレン「え?どういう事ですか?」
小波「いや、さっき公園で豚の群れがいたからさ・・・」
カレン「で、どうして豚の群れと私が関係あるのですか?」
小波「え?あの・・・だって公園に豚の群れがいるなんて不自然だから・・」
カレン「だからどうして私と関係あるのか。それが知りたいのですわ」
小波「そのさ〜豚がさぁ・・・・」(まずい、カレンさん=豚ってなってる)
カレン「こ〜な〜み〜さ〜まぁ〜」
猪狩「その・・・あの・・・小波はカレンさんが心配だから来たんだよ。こいつカレンさんに気があるみたいで・・・」
カレン「まぁ。そうだったのですね。小波様」
小波(馬鹿!何言ってんだこいつ!)
猪狩「うわぁ〜小波が怒ったあぁ〜」
小波「猪狩、何言ってんだ?」
猪狩(早く走って僕を追いかけろよ)
小波(あっ)「からかうな猪狩、待てー」

カレン「まぁ小波様。ふ〜ん、公園に豚の群れ・・・」

小波「ふぅ〜っ、昨日は危機一髪だったなぁ。猪狩よくあんなアドリブ効いたこと出来たなぁ」
猪狩「命がけだったからな。まぁカレンさんが本当にお前に惚れてきたらドンマイだな」
小波「冗談じゃないぜ。でも進君が無事で何よりだよ」
猪狩「あぁ、そうだな。ん?何だあの白い山は」
小波「何!?豚の骨!?」




129: 名無しさん@パワプラー:08/09/05 23:27 ID:dE
パワプロ12 友沢とみずき





「なによ!私のやり方に文句あるわけ?」
「・・・別に?ただ、オレの練習の邪魔はするなと言っただけだ」
「・・・」

グラウンド内の真ん中で口論しているのは二人の男と女。
男の名前は友沢亮(ともざわ りょう)。帝王実業出身の天才バッターと言っていいだろう。
女の名前は橘みずき(たちばな みずき)。金持ちなお嬢様ピッチャー。変化球はかなりお手の者。
いつもだいたいこの時間帯になればこんな風景が見られる。
そこへ行って止めに入ってくるのは漣郎(さざなみ ろう)。

この二人を止められるのは、こいつぐらいだろう。

漣「また、もめてる・・。どうもあの2人似たもの同士でひねくれてるからなあ・・・」
みずき「自己中心でデリカシーのないとこも最低!」
友沢「フン、どっちがだよ」
漣「もう止めろよ二人とも」
2人「ふんっ!」
そう言った後友沢は部室に向かっていった。

早くこんな役を卒業したい・・・。
郎はそんな事を思っていたその時・・・

「こんにちは。ここは、ぱわふるあかでみーですか?」
漣「ん?ああ、そうだよ。ぼくら何しに来たんだ?」
「やった、ここだ。」
「っとね、おにいちゃんに、おべんとうをとどけにきたの。」
漣「お兄ちゃん・・・?」
郎は一瞬考え込んだが、すぐ言った。
漣「アカデミーお兄ちゃんなんていたんだ・・・」
みずき「あ!かわいい。いいな〜こんな可愛い妹がいて」
友沢「おい、そこにグラブなかったか?・・・って」
「あ、おにいちゃん」
2人「え!?」
友沢「お前たちここに来るときは連絡しろって言っただろ」
「おにいちゃんごめんね」
「でんわ、かからなくて・・・」
みずき「お兄ちゃんて、あんた!?」
友沢「で、何しに来たんだ?」

みずき「え、軽く質問をスルーですか・・・」

「おにいちゃんに、おねがいがあったんだよ。」
友沢「お願い?なんだ?」
そうゆうと、弟が持っていた紙を友沢に渡した。
みずき「授業参観のお知らせ・・・?」
横から覗くようにみずきは読んだ。

「ことしこそはおにいちゃんにきてほしいなあ」
みずき「どうゆう事なの?」
みずきがたずねた。
友沢「お前達には関係ない」
それを聞いたみずきはムッとした。
漣「友沢、俺何も言ってないんだが・・・」

友沢「そうか・・もう授業参観か・・・」
漣「だから、スルーはやめて・・・何かが傷つくので・・・」
「あのね、おかあさんびょうきでずっとにゅういんしてるから、じゅぎょうさんかんにだれもこないの」
「それで、ことしこそはおにいちゃんにきてもらうってふたりできめたんだよ」
みずき「へー、そうなんだ。大変だね。全く兄貴は超ムカツクのに、キミたちは素直でかわいいなあ〜。」
友沢「朋恵、翔太。わかった、兄ちゃんが必ずいくよ。」
そうゆうと、友沢は笑顔を見せた。
朋恵「わーい!おにいちゃんがくる〜!」
友沢「それじゃ帰るぞ。朋恵、翔太」
朋恵「じゃあね、みずきおねえちゃん」
みずき「はい、は〜い。まったね〜って、みずきお姉ちゃん?私自己紹介したっけ?」
友沢「じゃあ、先に上がるぞ」
(スタスタ・・・)
みずき「何か私、影が薄くなった感じみたいね・・・」







漣「・・・・・・・・・」←もっと影が薄くなってる人・・・。


130: 名無しさん@パワプラー:08/10/25 23:52 ID:5c
忘れられた頃にやってくる
>>120の続きになります。憶えてる人はどうぞ。


6.春到来


 四月。
 桜が咲き始め、野鳥のさえずりが聞こえ始め、春が到来した。
 皆独り身の愛好会員全員で無駄にはしゃいだクリスマスも、靴箱にチョコとラブレターが溢れて床にまで散乱し二条が青ざめていたバレンタインも終わり、短い春休みを挟んで、再び愛好会は学校に集結していた。
 そして今日はまさに、気持ちを新たに未来へ向かう日。新学年の新学期である。しかし学年が上がるということは、樹にとってさほど嬉しいことではない。
 高二に上がるということは勉強の(特に数学の)難度も上がるということであるし、何より受験という魔空間にまた一歩近付いたということだ。そんな語るだけ暗くなるような進級話はどうでもいい。樹が顔をほころばせて何よりも嬉しく思っているのはそう、後輩が、新入生が、男子生徒が新しく二○人も入学してきたということである。
 男子が二〇人も入ってくれば、当然誰かしら野球の経験者もいるだろう。いやいなかったとしてもこの愛好会に入ろうと思ってくれる人はいるはずである。そう考えるだけで、樹は朝からニヤニヤが止まらなかった。
 そして期待は見事に実り、一人でも入ってくれれば正式な部として発足可能なところ、なんと九人もの男子生徒が入会してくれたのである。
「まずは入会ありがとう! 俺は一応、キャプテンの西条樹。これからよろしく」
 そんなわけで、今こうしてグラウンドで新入会員の九人に向かって慣れない挨拶などしているところなのだ。

131: 名無しさん@パワプラー:08/10/25 23:53 ID:5c
 嬉しいことは、ベンチ前で整列している九人のうち、二人は野球経験者だということである。他の七人がぎこちなく姿勢を整えているのに対して、経験者二人は慣れた様子で手を後ろで組み足を少し広げ、野球少年らしい目上の人への話を聞き方をしていた。
 経験者というのはまず、このピッチャーである手塚隆文。
「こんちゃっす! よくお調子者と言われますが、野球に対する熱意は熱すぎるぐらいに持ってますんで、俺っちの力の限り頑張らせて頂きます!」
 球速は一二五キロと高校一年生投手の平均レベルだが、本人が売りにしているのはその制球力らしく、試しに樹が構えて投球させてみたところ、確かにストレートにしろ変化球にしろコントロールは二条以上のモノが望めそうであった。お調子者と自分で言うだけあっておちゃらけた感じのする立ち振る舞いであるが、樹はむしろこういう性格が好きだ。
 もう一人の経験者はこちら円谷一義。走力自慢の二塁手で、その俊足は先ほど目の前で、五○メートルを六.一秒で走ってもらって確認済みである。
「ども! この手塚とは中学の頃からの友達で、チームメイトです。走ることしか能がありませんが、高校ではバッティングも伸ばしていきたいので、ビシビシ鍛えて下さい! よろしくお願いします」
 円谷はお調子者ではなく、普通の野球好きの好青年といったところ。先程の手塚とは打って変わって生真面目そうな雰囲気である。
 しかし二人には共通していることがあった。それは入部、というか、入学動機である。
 何と二人とも、中学の頃からこの辺りを通学路にしているらしく、夏に河原や道をランニングして素振りに励んでいたあおいの姿を見て、その努力と姿勢に心打たれたというのである。丁度、二人して野球というものに対する倦怠感を覚えていた時期らしく、あおいは二人にとって野球を続けていこうと考えさせるきっかけになったらしい。

132: 名無しさん@パワプラー:08/10/25 23:54 ID:5c
 そんなわけで
「あなたがあの時の人ですか! お会いできて嬉しいです! 一生ついていきます!」
「あなたがいなかったら野球の楽しさを忘れるところだったッス! 俺らも一緒に甲子園を目指します! これからよろしくお願いしまっす!」
 なんて入学早々、教室に乗り込んでくるなりあおいの前で礼などするものだから、一時辺りは騒然としたものである(ちなみにどんな権力が動いたのかは知らないが、あおいと樹と矢部と二条その他愛好会員全員は、皆同じクラスになっていた)。
 そんなこんなで九人のメンバーが新たに加わり、恋恋高校野球愛好会は、ついに正式な部として、恋恋高校野球部として立ち上がったのである。
 樹が校長に活動予定書を提出し、判を貰って、顧問の先生をつけてもらった。
 その顧問の先生とは、恋恋高校養護教諭である加藤先生である。女性なのだが昔から野球は大好きらしく、好きなプロ野球チームは西武ライオンズだという。その理由は、優勝するとパル○がセールをやるからと思いっきり下心丸出しだったりするのだが。
「顧問は私、養護教諭の加藤理香よ。ま、怪我したらいつでも診てあげるから、心配せずに練習に打ち込んでね」
 直後に響くオオオオーッという歓声は多数の男子部員らのものである。加藤先生と言えば美人でスタイルもよく大人の色気に溢れる女性で、全校男子生徒の憧れの的なのだから当然だ。
 流石に養護教諭なだけはあって、スポーツ科学には造詣が深く、頼りになる人物が顧問になってくれたと樹は安心した。美人なのもまた嬉しい。
 とにかくこれで高野連にも登録できるようになり、甲子園へのキップをかけた地方予選に参加することもできる。それだけで、これまで一年間黙々と練習してきた甲斐があったというものである。あおいちゃんも、自分を慕って入学してくれた後輩がいると知ってから、俄然やる気を出しているようだった。
 そして始まる練習。樹はグラウンドを見渡した。
 全員が守備位置についたとき、ポツンと一つだけ空白があった外野。今は空白もなく、外野は外野、内野は内野でちゃんと守備練習が行えている。まだ高校の野球部としては人数も設備も全く足りていないが、それでも去年、一から始めたモノがこれだけの形になったのだ。自分が創設に携わったのかと思うと、それもまた感慨深かった。

133: 名無しさん@パワプラー:08/10/25 23:55 ID:5c
 パシィッっとミットに飛び込んでくる速球は、あおいちゃんのように荒々しい球でも、二条のように計算し尽された正確な球でもなく、まだ硬式ボールに慣れていない感のある、一球一球丁寧に投げようとするが故の自信のなさの乗った球だ。キャッチャーが先輩でキャプテンだということで、暴投するわけにはいくまいと緊張もしているのだろう。
 十数球を投げさせたところで、樹はボールを投げ返しつつ手塚に言う。
「あんまり綺麗な球ばっかり投げないでくれよ。俺の捕球練習も兼ねてるんだから」
「え? ああ、いやっはは……んじゃ、ちょっと力を入れてみます」
 そして振りかぶる手塚。樹は、ちょっと後悔した。どうやら先程の言葉を「遠慮するな」ではなく「手を抜くな」と叱られたものと勘違いしたらしい。今の手塚のフォームは、明らかに強張っている。これではまともな球が来ないだろう。
 思うが早いか投げるが早いか、ボールが手塚の指を離れた瞬間、手塚の口から漏れる「やべっ」という小さい声。ボールの角度は、明らかにワンバウンドコースだった。
 予想通りに手前でバウンドしたその球を、樹は身体全体で覆いこむようにしてしっかりと捕球した。目の前でのバウンドに対しても目を背けずに真正面から立ち向かえるのは、小学校の頃から受けていた近距離ノックの賜物である。
「んー、ナイスキャッチ!」
 隣で見ていたらしいあおいちゃんが、冷やかし半分で言ってくる。それと同時に手塚がすいませんと叫んで帽子を脱ぎ、走ってきた。
「すいません! 俺っち、緊張しちゃって……」
「ああいや、これぐらい余裕だよ。むしろ、緊張させちゃうようなこと言った俺の方が悪かったしね。でさ、気付いたんだけど手塚はもうちょっと……」
 そそくさと投球についての指導を始める樹を見つつ、あおいは傍にいた矢部に言う。
「西条君ってさ、先生向きだよね」
「同じくでやんす」
「ところで矢部君」
「?」
「キミは新人外野指導なのになんで投手の場所にいるかな」
「そ、それは……! う、麗しの美少女あおいちゃんの傍にいて、ちょっと癒されようと思っていただけでや」
「蹴るよー? 割と本気で」
「さてノック職人のオイラの腕前を見せ付けてくるでやんす!」
 眼鏡をキランと光らせて外野へと駆けていく矢部。その背中に向けてハァと軽く溜め息などついて、あおいは守備位置についている野手一同に目を向けた。

134: 名無しさん@パワプラー:08/10/25 23:56 ID:5c
 新たな右投げの投手、手塚を迎えた恋恋高校投手陣は、更なるレベルアップを果たしている。元々、左腕の二条に右腕のあおいと両腕のエースが揃っていた為、普通の高校と同じくらいの実力はあったのだが、ここで先発型投手の手塚が参入し、その層は更に厚くなった。二条やあおいの指示がある分、手塚の成長も早いだろう。
 あおいも、投手陣に関しては全く心配をしていない。
 問題はこの野手陣である。
 今年入学してきた野球経験者は円谷ただ一人。そして指導者としての立場に立てる二年生は、樹と矢部のみ(二条は投手陣として扱う)。他の二年メンバーも確かに一年間野球を続けてきたとは言え、まだ他人に教えることのできるレベルではない。指導者が少ない反面で、指導しなければならない人数が多いのがネックであった。
 しかも内野手の動きを熟知している樹には、捕手として投手陣の球を受けてもらわなければならないため、どうしても内野手の指導がおろそかになってしまう。一応、まだおぼつかない手つきでも二年のメンバーに指導を頼んではいるが、やはり厳しいようだった。彼らにはまだ確固とした自信がない。間違った知識を教えるのではないかという恐怖心が、二年メンバーから積極性を奪っていた。
 捕手を二条にやらせて、樹を指導に回せばいいじゃないかという意見もあるだろう。勿論それもやってみた。しかしそれだと、普段しゃがむことに慣れていない二条の足腰の消耗が激しく、また交代してあおいや手塚が座れば二条の速球をろくに捕れないという事態に陥ってしまう。その為、メニューとしては、投手陣がランニングや遠投をやっている間に樹が指導に回るというものが最適だ。
 今は円谷に内野、二条にバッティングの指導コーチをやってもらっているが、なかなか手が回らない様子。
「ちょっといい? あおいちゃん」
 背後から声がかかる。振り返るまでもなく、樹のものだと知れた。
「バッター役になってもらっていい? そこに立ってて」
「うん、いいよ」
 野手陣から目を離し、指示された通りに樹の前に立つ。なんだかんだで不安はあるが、これよりも酷い状況下で、去年はなんとかやっていけたのだ。多分今年もどうにかなるだろう。持ち前のポジティブシンキングでそう結論付けたあおいは、黙って投げられたカーブをしっかりと目で追い、軌道の先にあるミット、その主である樹を見つめる。
「ん? 何? 捕り方でもまずかった?」
「いーや、別に」
 悪戯っぽく笑って見せる。ようやく、野球部って感じだ。とにかく楽しければなんでもいい。
 これから始まる野球部の、部活としての新しい日々。不安はあっても、楽しさの圧倒的に勝る。
 期待に胸躍らせつつ、樹やあおいは以前と変わらぬ国語の授業中、新しい“野球ノート”の作成に励むのだった。

135: 名無しさん@パワプラー:08/10/25 23:56 ID:5c



「やれやれ、ですわ……」
 二年に上がったということで、学校内での肩書きも少しは上がり、乙女倉橋彩乃はついに生徒会役員を務めることとなっていた。会長から指名されたような正式なものではなく、完全な立候補制の、いわゆる庶務。つまりは雑用係である。普段は誰もやりたがらない役職なので、こうしてすんなりと立候補者が現れたことはありがたいと先生らから感謝された。
 なんのことはない。こんなこと、未来の生徒会長となるためならばお安い御用である。こうして先生は勿論、他生徒からの支持を常に向上させておくことが重要なのだ。
 とはいえ趣味にテニスを嗜む程度の身体に、ダンボールや書類をあちらこちらへ持っていくこの労働は辛いものがある。
 一時間ほど働き通しており、そろそろ一息入れたくなってきたところだ。
 ふぅという小さい溜め息と共に手近な椅子に座り込むと、彩乃はハンカチで額と首筋の汗を拭った。こういうとき、長い髪というのは邪魔で仕方がない。
 憧れの人の、好みの髪型さえ分かればすぐにそう整えるのに。思いながら再び溜め息をついて、彩乃は窓の外を見やった。
 樹とは、あれからろくに話もしていない。話す機会があっても、そこを自ら退いてしまう自分がいた。あちらにしてみれば、あれはただ数学の問題を教えてもらったというただそれだけのことなのだろうが、こちらにとっては一大事だった。あの日は結局ピアノの稽古に遅刻し、母との約束も破る形になってしまったのだが、それでもとても幸福感に満ちていた。翌日も、その翌日でさえ、脳裏には彼の顔が焼きついていた。
 だから怖くなったのだ。もし彼に想いを悟られ、拒絶され、距離をおかれてしまうことが。もしそんなことになるぐらいだったら、いっそこのまま友人としての位置を保っていたい。そう願うことが、自分に、彼を避けさせた。

136: 名無しさん@パワプラー:08/10/25 23:57 ID:5c
 本末転倒だと言われればそれまでだが、彩乃にはこれぐらいしかできなかった。もちろん、それではダメだという気持ちもある。しかし生まれて初めての一目惚れ。そして生まれて初めての恋。今まで一度も異性に慕情など抱いたことのなかった自分の気持ちに、一番戸惑っているのは他ならぬ彩乃自身なのだ。友達に相談しようにも、どう言っていいものかわからない。彩乃は、一人で苦悩する他なかった。
 五月とは言え、日は少しばかり高くなった。以前ならばもう夕闇が空を覆っていただろう時間であるが、まだ充分に、西の空は明るい。窓から差し込む夕焼けは、どこか物悲しい模様を床一面に描き出していた。オレンジ色の空間の中で、彩乃はしばし感傷的な気分に浸る。
 幼い頃は、影というもので遊ぶのが好きだった。遊ぶというより、刻一刻と変化し続けていく影というものを不思議に思い、それを眺めているのが好きだった。どうしてこうも自在に変化していくのだろう、どうして一時とそこに留めておくことができないのだろうと、飽きもせず影を見つめていたものだ。くだらない常識や知識が無かった分、見たもの全てにありのまま感動できていた。ひたすら素直だったのである。
 今の自分はどうだろう。好きな人が出来ても、様々な考えが先行して、素直さを押し殺している。バレンタインですら何のアクションも起こせず、あまつさえ会話すらしていない。こんなことで、いいのだろうか。
「倉橋さんいる?」
 生徒会の人間が、部屋の中に入ってくる。生徒会副会長を務める人物で、束ねられた長い髪に清潔感の際立つ、バレー部の主将も兼ねる背の高い女性だ。
「って、あら……? 寝てる?」
 女性が入ってすぐ窓際の椅子に目をやると、机に突っ伏した形で、探していた倉橋彩乃が寝ているのが見えた。すやすやと可愛らしい寝息を立てて寝ており、呼吸に上下する背中が子猫のように丸かった。
「疲れちゃったかなー、ちょっと仕事押し付けすぎたのかもね……えーっと」
 女性はロッカーを開け、中に入っている自分の膝掛けを取り出すと、それを彩乃の肩にそっとかけてやった。刺繍されている猫のマークが、彼女にはぴったりなように思えた。
「下校時間には起こしに来るからね」
 そう呟くと、女性は静かにドアを開けてその場を後にした。




137: 名無しさん@パワプラー:08/10/25 23:58 ID:5c



「いぇぇぇやぁぁっ!」
 覇気のこもった声と共に打ち出される回し蹴り。空気を切り裂くように横一閃されたそれは、煉瓦の一つや二つは軽く粉砕してくれそうな威力に満ちていた。まともに喰らったならば、余程の喧嘩自慢でもない限り悶絶してしまうだろう。
 しかしそれを放たれた相手は、一歩身を引いて軽がるとそれをかわし、更には一瞬の隙をついて距離を詰め、回し蹴りの軸足を蹴り崩し、易々と勝利を我が物としてみせた。
 しかしそれで事が済んだわけではない。
「次、お願いします」
 畳の上に膝をつくも、すぐに立ち上がり、次の手合いを申し込む。
 年端の行った厳めしい身体つきの男と、どこか中性的な優男の雰囲気のある青年が、互いを威嚇するように睨み合う。両者の肉体の重量差は、着ている道着によって尚際立っている。
 男の繰り出した牽制の蹴りをかわして、青年が距離を詰める、先程とは逆の光景だ。青年はもらったと言わんばかりに軸足を狙い、足払いを仕掛ける。
 しかし男は軸足を使い、跳んだ。対象を見失った青年の足が虚しく空振りし、その胸に、無理やりな飛び蹴りが叩き込まれる。男は、自身の空振りさせた足をそのまま飛び蹴りへと派生させたのだ。
 身体の中心にダメージを負い、そのうえ呼吸のリズムまで乱され、青年はもはや抗う術も無くうつ伏せに倒れこんだ。
 五月も終わりに差し掛かったある日曜日の朝のこと、全てはここ、武道家二条宗次の仕切る武道場での出来事だった。
「周囲に女学生の多い環境下で、少し鈍ったのではないか。神谷」
「い、いえ……、自分の、修練が、及ばなかった所為です」
 畳の上で荒く呼吸をする神谷を見下ろすようにして、その父、宗次は厳しい表情で言う。
「情けない。お前は、私たちの反対を押し切って恋恋高校に入学したのだ。しかしそれは、自身を武道家として磨き続けるという条件の下。それをないがしろにして、野球にうつつを抜かすとは笑止」
「はい、申し訳、ありません……」
「いつまでも膝をつくな。立て」
「はい!」
 未だ収まらない動悸を抑え付け、神谷はすっと立ち上がった。

138: 名無しさん@パワプラー:08/10/25 23:58 ID:5c
 他の門下生はいつも午後から来る予定なので、今は道場にはこの二人しかいない。日曜日の朝はこうして宗次に稽古をつけてもらうのが、神谷の日課であった。そしてここのところ武道に割く時間が激減した為、毎度のように父の厳しい檄がとんでいるのである。
「時間はまだある、こい」
「はい、お願いします!」
 再び挑む神谷だが、奮戦虚しく、やはり父の前では簡単にいなされてしまう。そもそもその身体つきを見ればどちらが勝るかは明らかだが、何よりも宗次の持つ迫力は神谷のものとはまるで違った。過去幾つもの大会や他流試合を制し、今なお己の研磨に余念のない宗次の手並みは、神谷をまるで掌の上で躍らせているかの如く鮮やかだった。
 神谷がまた畳に叩き伏せられる。
「リーチの優れた相手との戦いで、蹴りを多用する阿呆がどこにいる。重心を上げろ。懐に入ることだけを考えろ」
「はい!」
 すぐさま立ち上がり、言われた通りに拳を中心として立ち回る神谷だったが、やはり結果は同じだった。
「拳が素直過ぎる。軌道が読める。懐に入る前に蹴りを喰らうな。さっさと立て」
「……はい!」
 再度立ち向かう神谷。
「う〜わ、いくらなんでもキビシすぎるでしょあのオッサン」
「仮にも二条の親父さんなんだから、オッサンはやめたほうがいいと思うよあおいちゃん」
「あっちゃー、今のキック……はるかだったら死んでるねきっと」
「変なこと言わないでよあおい……」
「うーん、オイラ見えにくいでやんす」
 そんな神谷の稽古の様子を、扉の隙間から見る野次馬が四人。言うまでも無く、樹を初めとする恋恋高校野球部の面子だ。
 たまのオフを使って二条の家にお邪魔することになったのだが、午前中は無理だと言われながらも内緒でやってきてみればこの光景である。大和撫子と言わんばかりの日本の“奥様”に出迎えられ、気分を良くしていた樹たちだったが、その奥様に息子の稽古を見たらどうかと提案された矢先にに、まさかこんな二条の日常を見せ付けられるとは思わなかった。サプライズだかなんだかで午前中にやってきたことを、樹たちはちょっと後悔した。

139: 名無しさん@パワプラー:08/10/26 00:00 ID:xw
 常日頃から、自分の父上は厳しいだの云々と言っていた二条から聞かされていた樹たちだったが、その意味がようやく分かった。樹は、自分の持つ「父親」というイメージとは懸け離れた二条の父に、恐怖心しか持てない。
「どうした、もう終わりか軟弱者」
「い、いえ、まだ……お願いします」
 多分こんな父親だったら、俺は二日と持たないな……。
 そう思っていると、肩をちょちょいとつつかれる。振り向くと、あおいちゃんが手招きしていた。どうやらここを撤退して、家の奥へ行くことになったらしい。あおいの少し向こう側に、二条の母親とはるかが話をしているのが見える。
 素直に従ってそそくさとその場を離れる樹だったが、道場から響き渡る怒声と畳の音に、妙に後ろ髪をひかれる思いだった。




140: 名無しさん@パワプラー:08/10/26 00:00 ID:xw


「なんで二条ってさ、野球なんか始めたんだろ」
 通された奥の広い部屋で、最初に声を発したのは樹だった。深い畳の匂いとお香の香りの染み付いた、高そうな皿やらの調度品の並ぶ部屋である。おそらく貴賓来賓をもてなす為の部屋なのだろう。そこらの高校生風情には、随分と過ぎた場所だ。
「ん? そりゃまぁ、好きだから、じゃないの?」
 座布団を枕代わりに寝そべって、足をパタパタさせながら言うあおい。
「そりゃそうだけど、あそこまで叱られて武道の稽古までさせられてるのに、なんで野球優先の生活なのかなって思ってさ……だって、大人しく毎日武道の稽古していれば、あそこまで乱暴にされずにすむのに」
 うーんと黙り込む一同。
「あ、分かったでやんす! きっと二条君は好きな女の子がいて、その子を追いかけて恋恋に入学したでやんす! そんで男子がいる部活が愛好会しかなかったでやんすから仕方なく中学からの野球を続けたに違いないでやんす!」
「論外」
「ぎゃふんでやんす」
 あおいに一言で斬り捨てられ、いつも通りねじ伏せられる矢部。
「あの堅物二条君が女の子目当てに入学なんてするはずないでしょうがもっとマシな意見」
 そうは言われても、他に考え付く事もなし。野球が好きならばもっと強豪校に入学するだろうし、女の子目当てなんて二条の性格からは考えられない。樹もはるかも、頭がオーバーヒートしていた。
「うーん、二条さんってあまり自分の事を話さないから、全然分かりません」
 はるかがぼやくその一言こそが、まさしく皆の胸中を如実に顕していた。
 常に冷静沈着、泰然として寡黙。大人のような目線を持ち、女性に免疫のない二枚目男子。それが皆の持つ二条神谷という人間に対するイメージだった。もう一年の付き合いになろうかというのに、彼は一度として「自分語り」をしたことがなく、何故恋恋に入学してきたのか、何故野球を続けているのか、その理由は未だに謎なのである。投手としての力量は樹をも唸らせるほど、しかも打撃と守備のセンスは一級品、こんな選手を強豪校が放っておくわけがない。当然推薦や監督直々のオファーだってあっただろう。それらを蹴ってまで、ましてや親の猛反対を押し切ってまで恋恋に来る理由とは、一体なんなのだろうか。
「待たせたようだな、すまない」
 各々であれやこれやと思考を巡らせている最中、襖が開いて二条が入ってくる。
 作務衣姿だった。

141: 名無しさん@パワプラー:08/10/26 00:01 ID:xw
「冷茶を持ってきた。粗茶だが……なんだ?」
 皆の視線が、紺色の上着を羽織った二条に注目する。なんというか、高校生の、それも二枚目男子の着る物にしてはいささか似合わないもののように思えるが、これさえも二条が着れば立派に色気の香る着物になるのだなと感心したのだ。
「いやー、やっぱり顔が良いってのは得なんだね」
 しみじみと見入るあおい。二条は少し恥ずかしそうに咳払いした。二条神谷の照れた表情、写真に撮れば学校の女子に高く売れるだろう。とかそんな邪な考えが浮かんだのは樹だけの秘密である。
「二条家男子はこれが家での正装なんだ。普通の衣服など着ていると、父上の小言が飛んでくる」
 え、じゃあオイラたちってかなりマズいんじゃないでやんすか、と矢部が意見するも、流石に来客に物を言うほど乱暴ではないとのことだった。危ないところである。
「本日は皆、よく来訪してくれた。粗末な物しかないが、歓迎する」
 きちっと正座した二条が恭しく三つ指をついて礼をする。その態度に少々戸惑った一同であったが、恐らくこれも二条家の作法なのだろうと納得することにした。
「さて、それでは何をしようか。見ての通り、我が家には特に娯楽と呼べる品がない。……普段、人の家に集まった時は何をしているんだ?」
 二条の言葉。それを聞いて皆で黙り込む。そう言えばそうだ。とりあえず二条の家に行こうと思い立って来ただけで、何をしようかとまでは考えていなかった。というか、行けば何かあるだろうと思って来たのだ。樹の感覚では、友達の家に行けばテレビゲームやトランプ、もしくは外でキャッチボールなどがオーソドックスだが、そういうものが似つかわしくない環境であることは明らかである。
 そうだなぁ、せっかくだし
「せっかくだし、二条の家でしかやれないことをやろうよ」
 つい口を突いて出てきた言葉だが、特に内容は考えていない。それがまずかった。
「例えば?」
「例えば、拳法の体験入門、とか」
 被せられたあおいの言葉に、またつい口を突いて出てきた言葉が、これだった。
「おお、それは妙案だ」
 二条が反応してから、自らの失敗に気付く。これはもしかしなくても墓穴を掘ったかも知れない。

142: 名無しさん@パワプラー:08/10/26 00:02 ID:xw
「そうだな、日頃野球の練習だけでは培われない胆力、精神力を、武術を通じて学ぼうというわけだ。流石は西条。恋恋野球部を担う番頭なだけはある。その心意気に感服した」
 実直な二条らしく、素直に感動しているらしかった。ここで「あ、ごめんやっぱいまのなし」と言えるほどに、樹の神経は図太くない。
「善は急げという。父上に了承を頂戴してこよう。皆はここで待っていてくれ」
 拳を握り締め、颯爽と部屋を出て行く二条。が、その際に決して襖を後ろ手では閉めない辺り、流石は二条家の教育といえた。
 二条の足音が完全に遠ざかった後で
「なに言っちゃってんのさー!!」
「あいたっ?!」
 あおいの一級の飛び蹴りが樹を襲う。突然の攻撃に為す術もなく、樹は思いっきり吹っ飛んだ。調度品に傷をつけまいと上手く畳みの上で止まったのがせめてもの理性である。
「西条君キミはさっきの二条君の練習風景を忘れたわけ?! 死人がでるよマシで! キミや矢部君はいいとしてボクとはるかはどうすんのさ?! か弱い女の子二人にあんな特訓させるつもり?!」
「え? かよわグフっでやんす!!」
 矢部が横槍を挟もうとするが、挟みきる前に神速の蹴りが飛んだ。
「い、いやぁ思わず口から出ちゃったというか……」
「思わずじゃないでしょこっちは命がかかってるんだからあんなパンチやキックまともに受けてみなよ五体四肢どこが吹っ飛ぶのか分かったもんじゃないよ!」
「ぐ、ぐるじ……」
 あおいに胸倉を掴まれ、ぶんぶんと頭を揺らされながら糾弾される樹。その様子をにこにこと見守るはるかに、矢部は不思議そうに訊いた。
「あ、あれ? はるかちゃんは怖くないんでやんすか?」
 その矢部の遠慮した問いにも、やはりはるかはにこにこと答える。
「はい。今まで武道なんかに触れる機会はありませんでしたから、楽しみです」
 果たしてこの七瀬はるかという少女、肝が据わっているのか据わっていないのか。矢部が胸中で思いっきり首を捻ったころ、部屋の外から落ち着いた足音が聞こえだす。襖が開き、姿を見せたのは勿論二条だ。
「父上には快諾を頂いた。まずは昼食を振舞おう。その後男女で分かれて各々、父上と母上に学んでくれ」
 今にも樹を絞殺しそうなあおいを見事にスルーして、二条は皆に告げる。
 個人らの思いはそれぞれあるだろうが、そんなもの意にも介さず地獄への門は開かれたようだった。

 ちなみに昼食は炊き込みご飯のおにぎりだった。




143: 名無しさん@パワプラー:08/10/26 00:02 ID:xw


 さてさて、普段は野球しかしていない者たちが武術の達人の技を受ければどうなるか。無論軽傷では済まない。膝を折って転がるのが関の山だろう。
 しかし勿論、技の危険性を熟知した達人がそんな危険なことはするはずもなく、樹と矢部は二条の父に習って空手の型を練習していた。
「もっと腰は落としてもらって結構。そうそう。重心は下半身に、腰で拳を突き出すのが基本だ」
 二条の父、宗次は、息子である神谷に対するそれとは全く違った態度で樹らに接している。まぁこれも当然のことである。客人にまで手荒な真似をするようでは、道場の長など務まるはずもなかろう。
「なかなか、筋がよいな。ふむ、やはり平静から運動を嗜んでいる者は飲み込みが早い」
「オイラ、格好いいキックがやってみたいでやんす!」
「焦らず。蹴りはしっかりとした型で打たねばバランスを崩す故、素人には扱いづらい代物。もう少し基礎を積んでからだ」
 優しく指導する宗次に気を許し、これでもかと付け上がる矢部を横目に見つつ、樹は苦笑しながら正拳突きを繰り返した。腰の動作に全ての基本を置くというところには、野球と武術には通じるものがある。小学生の頃からバットを振り続けている樹にとは、この腰を使って拳を打ち出すというフォームは習うに易過ぎた。
 あおいちゃんたちは別館にて、二条の母である舞衣子により、薙刀の訓練を受けている。高校生には剣道がイメージであるが、この暑さでは荷が重いだろうということで軽装のものに決まったのだ。この時点から既に精神鍛錬にはなっていないような気もするが、いつの世も女性には甘いのが常である。
「うう、あおいちゃんたちの道着姿が拝めない上に、必殺技の練習もさせてもらえないなんてつまらないでやんす」
「武道に関わっている時ぐらい、煩悩を捨てようよ矢部君……」
 樹は苦笑いしつつ、視線を別の方向へとやった。武道場の奥の方、既に道場に来訪している宗次の弟子らと組み合う、二条の方である。
 野球のような遠くまで届かせる声出しとは違い、目の前の相手を威嚇し己の呼吸を整える為に発せられる短い声。奇声と言ってもいいかも知れない。それら幾つもの声が混じり合う中に、二条は立っている。
 乱取り、というものだろう多分。とりあえず目の前にいる相手を捕まえては互いに一礼し組み手を交わし、勝ち負けを気にする前に次の相手にまた礼をするという光景がそこら中で行われている。先程、父宗次にいなされていた姿が嘘のように、二条は次々と襲い掛かってくる父の弟子らをなぎ倒していた。相手の殆どが、成人した大人であるにも関わらずだ。
「まだ神谷君にゃ勝てないか……」
「よし、今日も胸を借りるよ」
 ちらほらと、そんな話が聞こえる。やはり二条は相当な人物なのだなと、樹は改めて実感した。きっとゆくゆくは宗次ほどの実力を身に付け、この道場を継ぐことになるのだろう。だからこそ、余計に二条が野球に傾倒する理由が分からない。
「隙アリでやんす!」
「あいてっ」
 突如として放たれた矢部の蹴りを喰らって、樹はお尻を押さえ込んだ。その様子を見てフッフッフ、と怪しげに笑う矢部。
「月光戦隊オーロランの秘密格闘術を習得したオイラはもう無敵でやんす! さぁて西条君、今日が年貢の納め時でやんすよ」
「な、何がなんだか分からないんだけど……」
「問答無用でやんすっ!」
「設定ぐらい問答させてよ!?」
「うむ、武道は楽しく学べ」
 微笑ましく見守る宗次だが、樹は何やら必殺技とやらを繰り出しながら迫る矢部から逃げることで必死だった。

144: 名無しさん@パワプラー:08/10/26 00:04 ID:xw
 そんなとき、道場の扉が音を立てず少しだけ開き、ひょこっとあおいが顔を覗かせる。
「やっほー、見に来たよ」
 良い汗をかいて一息、好奇心から男性陣の鍛えられっぷりを見物しにきたのだが、樹と矢部が妙なファイトを展開している以外に目新しいものはなかった。
「あり、予想外。虫の息かと思ってからかいにきたのに」
 こりゃ残念と呟くあおい。
「おや、恋恋の女学生の方かな」
 横から声をかけられたところで見やると、神谷の父、宗次が立っていた。先程神谷との組み手を見ていたときもさることながら、間近で見るとその体躯は山を思わせるように威圧感に満ちている。
「あ、あはは、そうです。どうも、いつも二条君には迷惑かけてばっかりで」
「いやいや、迷惑をかけているのは神谷の方であろう。あやつはまだ未熟ゆえ、心を乱すことがしばしばだ。至らぬところがあれば、是非とも指導してやってくれ」
「ははは、わ、わかりました」
 男子と話すのは昔から慣れている性分だが、目上の、しかもここまでの雰囲気を纏った男性と話すのには流石に気後れする。
 どんっ
 鈍い音が響いた。聴いた瞬間、あまりの不気味さに思わず屈んでしまうような類の音。人間の身体を本気で殴ったり蹴ったりした場合、このような音が鳴るに違いない。
「ああ!! こ、神谷君大丈夫かい?! ごめんよ!!」
 直後に発せられた大声は、道場の門下生らしい男性のものだった。顔を抑えて倒れこむ神谷のもとに、その男性を筆頭にして次々と皆が駆け寄る。
「うげっ、顔?! ちょ、二条君」
「そこに居てくれ」
 慌てて駆け寄ろうとするあおいを制して、宗次が歩き出す。丸太のような腕に前方を遮られて、無理に行くことはできなかった。
 神谷を取り囲む門下生の皆さんの騒ぎと対照的に、そのもとへと歩み寄る宗次の様子は落ち着き払っていた。
 すると突然、人だかりが割れる。その輪の中で立ち上がって姿勢を正し、宗次の方を真摯な目で見つめているのは、頬に赤い擦り傷をこさえた神谷であった。
 ただならぬ緊張感が漂い、静まり返った館内。そこにただ一つ響く、宗次の重量感ある足音。その存在感に、騒ぎの外であった樹と矢部も動きを止めて息を呑んだ。
 神谷の前で、それは立ち止まった。
「油断か、過信か」
「己が未熟ゆえです」
「行け」
「はい!」
 ただそれだけのやりとりの後で、二条は傷の手当をすることなく、道場から走って出て行った。
 あおいちゃんに矢部君を押し付けて、樹がそのあとに続いたのはほんの数秒あとのことだった。




145: 名無しさん@パワプラー:08/10/26 00:20 ID:xw


二条家の男は、強くなければならない。嫡男であるならば尚更だ。
物心が付いたころには、もう道着を着て道場に正座をしていた。武道家として名高い父から昼夜問わず手ほどきを受け、いくつもの大会を制した。強さゆえに、小学生の頃から中学生たちに混ざって練習をし、試合をした。それでも勝った。嬉しかった。その所為なのかも知れない、皆、次元が違うものとして近寄ってこなくなった。友達ができなかった。
自分の中に残る一番古い記憶は、広い父の背中だ。転んで泣いたところを諫められ、おぶさった時のあの安心感を、今でも忘れることができない。いつか自分もこんな父のような男になりたいと、切に願い、それが自分を磨く原動力となった。友人がいないことなど、そのうち気にならなくなった。
しかしどこの世にもお節介な人間とはいるもので、こんな自分の根暗な性格が我慢ならなかったらしい者が一人、物怖じすることなく歩み寄ってきた。小学校5年の時のことであった。
「おい二条、野球部入れよ」
部活などしていては武道に励めないと、何度となく断ったものの、その高飛車で高慢な少年は決して引くことなく、自分を野球部に誘い続けた。そのあまりのしつこさについに根負けして、仮入部という形でジャージ姿で練習に参加させてもらったのが小学校6年の春。そしてその一ヵ月後には両親に頼み込み、ユニホームを作ってもらうことになった。九人がそれぞれの役割を担って、控えの選手ですら一丸となり敵と戦う。野球の駆け引き、チームプレイの面白さに、すっかり魅了されてしまったのだ。
友人も増え、心なしか表情も少し明るくなったことに、母は安堵していた。内心、いじめでもされているのではないかと心配だったらしい。しかし父は逆だった。野球などにうつつを抜かしておっては武道がおそろかになると、良い顔をしなかった。だから武道に手を抜くわけにはいかない。勉学もまた然りだ。野球を続けるためには、父の期待にも応えなければならない。二条の家を継ぐ者として相応しい実力を維持し続けなければならない。
中学生となり、相変わらず野球を楽しみ続け、三年を迎えたとき、高校受験を考え始めた。自分を野球の世界に引きずり込んだ張本人は、その野球の実力を認められ推薦が決まった。かくいう自分にも推薦の話は入ってきていた。しかし決断できずにいた。高校ともなれば、その先の進路というものも徐々に見え始める時期である。果たしてこのまま野球を続けてよいものなのかどうか、もういい加減に、武道と勉学に専念してはどうなのか。迷えば迷うほどに、出口のない迷路の奥へと入り込んだ。
そんな中学三年の夏、この土手で、彼女と出会った。
二条はひりひりする頬を風に晒しながら、道場からのランニングを切りやめ、土手の道の上で立ち止まった。
すぐ左下を見下ろせば河川敷の野球場があり、前には車一台が通れる程度の幅の道が長く延びている。

146: 名無しさん@パワプラー:08/10/26 00:21 ID:xw
 そう、今から二年ほど前、ある夕方のことだ。
 部屋で一人悩むことをやめ、気分転換に散歩をしていたところ、この土手で、座り込んで休憩をしてい女の子を見つけた。制服姿の女の子だったならば素通りしただろう。しかし興味を引いたことは、その女の子が野球のユニホームを着ていたことだった。
 平素よりあまり女性とは接点がないため、女の子との話し方は分からない。だが不思議と、その女の子に対しては、驚くほど素直に言葉が出ていた。
「野球を、嗜んでおられるのですか」
「え? ああ、やっぱり不思議かな?」
 唐突に後ろから声をかけたというのに、女の子は驚きもせずに応答した。
「女性が野球とは、珍しい」
「んー、皆そう思うだろうけどさ」
 その後に、彼女が見せた笑顔は、恐らく一生忘れられない。
「楽しいからね」
 その瞬間、自分が今まで悩んできたことを一言で崩壊させられた。
 地域硬式リーグに所属する唯一の女の子が、恋恋高校を志望しているらしい。その噂を聞いたとき、恋恋高校を受験することを決めた。
「彼女がいなければ、自分は楽しさを忘却するところだった」
「いきなり言われてもなぁ……」
 どうやらこちらの気配に気付いて、二条は話しかけてきたらしい。が、そのあまりに掴みどころのない話題に、樹は困惑した。

147: 名無しさん@パワプラー:08/10/26 00:21 ID:xw
「何故にここまで」
「部員の世話を焼くのはキャプテンの務めだからね。それに、二条と話すいい機会だと思ったし」
 二条は何も言い返さずに視線を遠くに戻すと、ぽつりぽつりと話始めた。
「自分は野球を続けていくことに、疑問を覚えたことがある。救ってくれたのが、彼女だ」
「……あおいちゃん?」
「そうだ」
 気だるい午後の時間もそろそろ終わり、あと二時間もすれば陽がかげるだろう。暖かい陽気に包まれながら、二条と樹はその場にぺたりと座り込んだ。
「大した言葉ではなかったのだろう、だがそれは自分にとって衝撃的だった」
 樹は無粋に口は挟まず、二条の口から語られる彼の過去を聞いた。それはひたすら野球にだけ打ち込んできた樹には到底理解できそうもない、二条の家に生まれた者だけが持ちうる皮肉な悩みであった。
「入学した後、彼女は自分のことなど憶えてはいなかった。行きずりの人間の事など、忘れて当然だがな。……それでも自分は忘れられなかった。今も網膜には、彼女の笑顔が焼き付いている」
 両親の猛反対を押し切っての入学であったことは聞いていたが、この分だと、相当な苦労を強いられたに違いない。詳しい事情は語らないが、二条の瞳からは、その辛かった過去が読み取れた。
「彼女の役に立ちたい。あの迷いの中から自分を救ってくれた彼女に何か、恩返しがしたい。いつしか、そう思うようになった」
 二条はじっと、川の流れを見つめている。春の陽に照らされた水面がきらきらと光り、その傍らに息づく草花が心地良く揺れていた。
「それが、自分が恋恋に入学し、今尚野球を続ける所以だ」
 そう言って二条が何かを思い描くように目を閉じた後、樹は小さくくすりと笑った。
「ん? どうした?」
「いや、二条がようやく自分のことを話してくれたなぁって思ったからさ、それと」
 一呼吸置いて、樹も川の流れへと目をやった。
「やっぱりあおいちゃんは凄いなーって、思った」
 二条とほぼ同じ理由で恋恋に入学し、野球部に入った者がいる。円谷と手塚だ。あの二人も、野球に迷っていたとき、ひたすら練習に打ち込むあおいに姿に心打たれたと言っていた。早川あおいという人間の姿に人生を変えられた人間が、三人もいる。とても素敵で、凄いことだと思った。
「だから自分も、彼女に負けぬよう日々精進する。……つもりだったのだが、あれしきのことで集中力を欠くとは、自分もまだまだだな」
 そう言って頬をさする二条。あれしきのこと、とは、恐らく先程のあの顔面直撃を喰らったことを言っているのだろう。確かに、あれだけの実力を持った二条が、普段から相手にしている門下生の皆さんを相手に遅れをとるとは考えにくい。何か一瞬の集中力の途切れが、運悪く訪れたのだろう。
「そういえば、そうだよね。傍から見てても二条の強さはわかったのに、なんで顔に当たるんだろう?」
「いや、それがだな」
 二条は恥ずかしがるでもなく、慌てるでもなく、いたって平静な声の調子で、衝撃的なことを言ってのけた。

148: 名無しさん@パワプラー:08/10/26 00:29 ID:xw
「彼女がこちらを見ていると分かったとき、妙に気になってな。常に横目で彼女の存在を確認していたら、失態を犯すことになってしまった。……情けない」
 恐らく、二条は今まで恋愛というものを経験したことがないのだろう(樹も言える立場ではないが)。百人が聞いて百人ともが認めるような恋のサインを、唯の一寸の惜しげもなく口にしているということを、本人は自覚していないようだった。
 しかし、うん、二条もちゃんとした男子高校生だったんだなと、樹はむしろ安心した。
「西条」
「ん、なに?」
 すっと二条が立ち上がるところを、見上げる形で樹は返した。
「このことは他言無用だ。信頼できるお前だからこそ話した」
「隠すようなことじゃないよ」
「二条家の嫡男は、他人に相談をするほど、弱くあってはならん」
「強くなろうとしてる人間はさ……」
 樹も立ち上がり、視線を二条に合わせる。
「強いか弱いかで他人と自分を見るようになっちゃうよ。それじゃ楽しくない」
 しっかりと目を見て、言った。
「弱さを見せ合って、得られるものもあるんじゃない? 強さじゃなくて、もっと別のね」
「友情か」
「真顔で言われると結構恥ずかしいんだけどなぁ……」
 頭を掻き、苦笑い。内心、樹は嬉しかった。今までは捕手として球を受けてはアドバイスをし、部活の延長の話しかろくにしなかった二条との距離が、ようやく縮まった気がしたのだ。
「二条」
「なんだ」
「お互い頑張ろう。行こうね、甲子園」
「承知」
 やりとりの後で、走り出す。どこまで行くのかはしらないが、二条のランニングに、樹は付き合うことにした。
 投手と捕手、決して近付いてはならない十八メートルの距離。
 今日、樹はそれを、ようやく友達として踏み越えた。
 そんな気がした。



 自分で作ったキャラのストーリーを消化するのは難しいですね。
 二条神谷についてはかなり不完全燃焼を起こしているので、どこかで補完したいと思います。

 そしてここで謝罪があります。
 以前書いた章で登場したソフトボール部のキャプテン高松ゆかりなのですが、あれは高木幸子のことです。
 どこでどうなったのか、自分の中で彼女は高松ゆかりという名前として定着していました。どうしてでしょうね。
 そんなわけで、これ以降彼女が登場した場合、イメージがしやすいように高木幸子と訂正して書きます。ご容赦を。
 本当になんででしょうね。

 ちなみに高木幸子は、自分の中では胸が大きいもんだと勝手に設定しています。レスにそんな話題があったので。
 大きいおっぱいは世界平和に必要不可欠ですよ。

 それではまた続きをご覧下さい。↓

149: 名無しさん@パワプラー:08/10/26 00:31 ID:xw


7.短夏


一番セカンド円谷 二番センター矢部 三番レフト黒田 四番キャッチャー西条 五番ファースト二条 
六番サード藤木 七番ショート岩谷 八番ライト宮岡 九番ピッチャー早川
確認の為のオーダーが淡々と告げられた後で、加藤監督がパンっと両手を鳴らした。
「いよいよ本番よ、行ってらっしゃい!」
ハイッ! と威勢の良い声を皆が上げ、キャプテンである西条を取り巻き円陣を組む。
「全イニング、全力っ! いくぞおおおおおおお!」
おおおおおおお!!
勝つぞぉっ!
おっしゃあっ!
球場にサイレンが鳴り響き、主審がプレイボールを告げた。




150: 名無しさん@パワプラー:08/10/26 00:32 ID:xw

 時は六月初旬。
 全高校球児の目指す聖地、夏の甲子園。その地方予選。全国各地で戦いの火蓋は切って落とされ、四〇〇〇校を超える高校が、聖地への切符をかけて熾烈な生き残り合戦を繰り広げる。全国の野球ファンが最も盛り上がる二ヶ月間の始まりであった。
 そしてその灼熱の旋風は、今年から恋恋にも舞い込むことになる。
 私立恋恋高校。昨年度から男子生徒の受け入れを開始した元女子校で、裕福層の女生徒が多く、規律正しく大人しい校風である。スポーツに関しては女子ソフト、女子テニスの強豪校であり、過去幾つもの大会で好成績を残している。しかし高野連には今年になってようやく登録がされたばかりであり、野球部と言っても、数少ない男子生徒が集まってようやく形になった、とても部活とは言えない愛好会程度の存在である。
 という世間の風評を鵜呑みにした相手校は、ことごとくその考えを後悔することとなった。
  第一試合 私立ブロードバンドハイスクール戦 6−0 完封勝利
  第二試合 極悪高校戦 4−1 勝利
 そして第三試合
「頑張ってあおいー!」
 七瀬はるかの声援を背中に受け、あおいは渾身のストレートを放った。
 相手のバットがボールを弾き、痛烈なライナーとなって一塁線を襲う。
 それを二条が颯爽と捌いた。
 ゲームセットの声が響き、あおいが高々と拳を突き上げた。
  そよ風高校戦 5−4 勝利



151: 名無しさん@パワプラー:08/10/26 00:34 ID:xw


 あれよあれよという間に勝ち上がり、気付けばベスト8進出となっていた。
 自分達のあまりの躍進っぷりにチーム一同驚愕していたが、何といっても一番驚いたのは樹である。確かに野球部を旗揚げしたときは甲子園に行きたい、地区大会で少しでも勝ち抜きたいと願い、常々そう思って練習に取り組んできた。しかしまさかここまで早く成果が出るとは思いもしなかった。
 だがそれは、樹がただ自分のチームを過小評価していただけに過ぎない。もともと実力はあったチームなのだ。二条と早川という両腕のエースの存在、そして中継ぎの手塚、俊足打者円谷の加入、アベレージヒッターの矢部。そして四番の西条。控えめに言っても、チームの要は他のチームよりも勝っていた。
 そして来週はいよいよ、地区の強豪パワフル高校との試合である。自室のベッドの上で、樹は何度もそれを反芻した。夢にまで見た甲子園が目の前まで迫っているのである。これが興奮せずにいられるだろうか。
 野球の試合の八割は投手の調子で決まり、打撃と守備で二割が決まる。今までの試合は投手に依存した戦いだったが、相手がパワフル高校ともなればそうはいくまい。ひょっとすると二条と同レベルの投手だって出てくるかも知れない。他の野手の力も、平均値で見れば確実にあちらの方が上だ。
 しかし樹はまったく不安には思わなかった。野球の試合に潜む魔物は、そう簡単に勝ち負けを決めない。投手の調子も野手の実力も、時には圧倒的な点差でさえひっくり返してしまうものがある。それが勢いとムードだ。
 恋恋野球部の士気は絶頂である。誰もが、できると信じて疑っていない。もちろん樹もだ。
 明日からは、この勢いを止めないように、放課後の練習に特に気合を入れなければ。それにはまず健康第一。
 深呼吸をして、目を閉じる。刹那にあおいの顔が浮かんだ。
「皆で、行こうね……」
 甲子園に。



152: 名無しさん@パワプラー:08/10/26 00:44 ID:xw


「どうしてですかっ!!」
 バンッ! と机を叩く、もとい殴る音が部屋に響く。かつてこの部屋の中で、ここまでの大声を上げた人間がいただろうか。
 恋恋高校校長室。壁に歴代校長の写真が飾られ、幾つもの表彰状やトロフィーなどが鎮座する由緒ある部屋で、校長と理事長を相手に、加藤理香は憤慨していた。教師としてではなく、野球部の監督として。
「出場停止?! どうして?! どうしてあの子らが?! 設備も少ない中で練習して、ベスト8まで勝ち残ったあの子らが?! どうしてですか?!」
 恋恋高校の甲子園予選への、これ以降の出場を停止とする。それが、高野連の規定外である女性選手の早川あおいをメンバーとして使用した、恋恋高校野球部に対する、連盟側の処分だった。
「落ち着いて下さい、加藤先生。我々も抗議はしましたが、アチラの決定ではどうしようもないのです」
 申し訳無さそうに言う校長だが、それで理香の怒りが晴れるわけもなかった。今一度机を叩き、続ける。
「確かに、事前に規定を調べなかったこちらにも非はあります! でもおかしいですよ! どうして女の子だということだけで、差別されなくてはならないのですか! 間違っています!」
 その理香の憤りを諫めるように、理事長が横から口を挟んだ。
「お気持ちは分かります。誰だって、生徒の可能性と人権を侵害されて、いい気分なはずがない。……しかし社会で生きていくにはルールがあります。これが高野連のルールだというのなら、我々は従う他、ないのですよ……」
 だったらそのルールの根本から抗議すればいいじゃないですか! その言葉を、理香は飲み込んだ。これは不毛な言い争いである。目の前に不満をぶちまけたところで、現実は何も変わりはしない。理香は一度大きく息を吸い込むと、一歩下がって気持ちを落ち着けた。理香の言葉を浴びた校長と理事長が、唇を噛むようにして俯いている。教育者として、自分と考えは同じようだ。違うのは立場である。
「その……不幸中の幸いというか、規定外選手である早川あおいを使用しないのであれば、次回からの予選出場は認めるとも通達がきております。ですから、今回のトーナメントは、諦めて下さい」
 規定外選手。そうか、あの子はそういう扱いなのか。
「分かり、ました。……ですが……」
 いつも窓から見ていた、あの誰よりもひたむきに、一生懸命に努力する少女は、存在すら認めてもらえないのか。
「私には、あの子たちに伝える勇気がありません……」
 そう言い残して、理香は校長室を出た。電灯の明かりもろくについていない、薄暗い廊下にドアを閉める音が反響する。
 理香は鉛のように鈍く重い気持ちを胸に抱えながら、薄暗い廊下を歩いた。気の利かないことに、いつも校長室や職員室付近で騒いでは起こられている女生徒らが、今日は一人もいなかった。理香の足音だけが、カツンカツンと無機質に鳴る。
 歩き、歩き、歩くと、遠くから声が聞こえてくる。彼らが入学した去年の春から、恋恋のグラウンドに響き始めた新たな声。去年は保健室の椅子の上で、そして今年からは、ベンチに腰掛けて聞くことが多くなったこの声。
 誰かが声を出すと、その息が尽きる頃に誰かが続き、その声が消えかけるとまた誰かが続く。決して声を絶やすまいとするチームワークが、この声の奥底には流れている。それが最近になってようやく分かった。
 歩くほどに、その声は近付いてくる。この廊下がずっと続けばいい。永遠にあそこには到着しなければいい。そう思った。
 ふと気付いた理香は、慌ててトイレへと駆け込んだ。ポケットからハンカチを取り出して、目元を拭う。一番辛いのは彼ら生徒たちなのだ。せめて教師は毅然とあらねばならない。泣いては駄目だ。泣いては……。
 その後、とにかくその涙が枯れるまで、理香はトイレに篭もっていた。
 ようやくグラウンドに到着したのは、三十分以上経ってからだった。
 こちらの姿を確認すると、皆が眩し過ぎるほどの、素敵な笑顔で、挨拶と共に駆け寄ってくる。
 そこから先は、もう思い出したくもない。

 恋恋高校野球部の、あまりに短過ぎる夏が、終わりを告げたのだった。




 短夏は以上です。次回はまたかなり先になるとは思いますが、のんびりとお待ち下さい。
 そういえば今年の春と夏の甲子園にも、女性選手の姿がありましたね。
 ですが甲子園球場では練習にも参加させてはもらえない規定らしく、ユニフォーム姿でマネジメントに従事する姿は悲しいものがありました。
 普段も、規定上は練習試合ですら出場は禁止されているようです。現実にも高野連の制度が改正されることを祈るばかり。

153: 名無しさん@パワプラー:08/10/26 08:36 ID:vk
今回もとても良い話でした
続きを待ってます
頑張ってください

154: 名無しさん@パワプラー:08/11/15 02:36 ID:6w
気付かなかったwwwあげてよ分かんないからww

155: 名無しさん@パワプラー:08/12/06 00:15 ID:hc
そろそろくる?

156: 名無しさん@パワプラー:08/12/12 14:54 ID:H6
うぐあああああああああああああああ

157: 名無しさん@パワプラー:08/12/12 14:56 ID:H6
舐めて友沢 激しくイきたい



158: 名無しさん@パワプラー:08/12/27 00:00 ID:5c
8.早川あおい


 七月になり、世間はいよいよ本格的な夏を迎えようとしている。来るべき夏休みを心待ちにしているのは、小学生も高校生も変わらない。今年に流行るのはどんな水着なのだろう。朝のテレビに出てきていたファッションデザイナーの方の話を信じるならば、今年はおしとやかなパレオが“来る”らしい。理由は簡単で、夏に放送されるドラマのヒロインが、作中で着るからとのことだ。
 恋恋高校に甲子園予選への出場停止処分が言い渡されてから、二週間が経つ。予選での奮闘、そしてベスト8が白紙になってしまったのは残念だったが、それ以外は皆、いつも通りの生活をしていた。特に塞ぎこんで落ち込むということもなく、いつも通りに昼休みは屋上に集まってだらだらして、放課後はしっかりと部活に精を出す。まるであの出来事は全て夢だったのだと言わんばかりに、皆、普通に過ごしていた。
 それは、早川あおいも例外ではない。
 自分さえグラウンドの土を踏まなければ、次回からは予選への出場が認められるという。その言葉を聞いたとき、心に浮かんだ感情は、怒りでも悲しみでもなく、ただ安堵だった。自分さえ我慢すれば、皆はいままで通り高校野球として部活をやっていけるのである。不思議と悔しさも沸いてこなかった。恐らくこれまでの苦悩の中で、涙はすっかり枯れてしまったのだろう。あまりに落ち着いている自分の態度に、あおいも驚いた。
 というより、今までは自分の中での葛藤と戦ってきて、自分の不甲斐なさに憤っていたものの、連盟から直接拒絶されたということで諦めがついたのかも知れない。どう足掻いて性別の壁にしがみついたって、ルールから拒絶されている以上は仕方がない。
 授業中の窓際の席で、窓の外を流れていく雲を見つめながら、あおいは頬杖をついていた。英語の授業は好きなのだが、なんとなく、今は聞く気にならない。
 悔しさも悲しさも沸かず、あおいの中に残った感情は、空虚。頑張る目標が目の前からすっかり消え失せてしまった所為で、何をするにも身が入らなくなってしまった。考えるのは、ひたすら野球のことばかり。今もスポーツバッグの中には、使い込んだグローブが詰め込んである。放課後に練習があるのだから、当たり前だ。

159: 名無しさん@パワプラー:08/12/27 00:00 ID:5c
(試合に出れもしないくせにね……)
 気の利いた飛行機の一機も飛ばない空。おまけに入道雲の季節にはまだ早く、今にも消えそうな薄れた雲がいくつか浮かんでいるだけの、味気ない空であった。
 この空の下、どこかで、今もだ誰かが野球をやっているのだろうか。ぼーっと見ていると、今にもカキーンという小気味良い音が聞こえてきそうであった。
 教師が黒板に書いた文字を片っ端から消し始める。これ以上書くスペースがなくなった為だ。まだノートには何も写していないが、まぁいいだろう、後であの子に見せてもらえばいい。
 あおいは溜め息をひとつ吐くと、視線を窓の外からノートに移した。しかし書き始めたのは英文ではなく、ただ一言の日本語である。
 野球
 それは、あおいの胸中全てを象徴していた。

160: 名無しさん@パワプラー:08/12/27 00:01 ID:5c



「でも、私びっくりしちゃった」
「んー、何が?」
「あおいが、意外と落ち込んでないなって」
「いやまぁ、流石にここまでやられれば諦めもつくって」
 七瀬邸のはるか自室で、ベッドの上に仰向けに寝っ転がり、漫画など読みつつ家主よりもリラックスした格好であおいはクッキーを頬張っていた。一方のはるかはと言えば、机に向かって日記帳など開いている。小学生の頃から今だに続いている彼女の日課だ。
 本日は日曜日で、部活は休み。いつもなら朝からグラウンドに集まり練習しているところだが、皆は気にしていなくともやはり重いことがあったからという理由で、樹が設けたものだった。
「はるかって少女漫画好きだよねー。もっとこう読んでてわくわくするようなものないの?」
「あ、それなら、ベッドの下の引き出しにクッキングパパが入ってるよ」
「……わくわくするかなぁーそれ……」
 はるかの部屋は広く、また窓も大きいので風通しも良い。一人娘にこんな大部屋を与えて良いのかと、一般的な価値観を持った人間なら文句をつけてきそうなぐらいであるが、この屋敷の総面積と総部屋数を知れば何も言えなくなるだろう。今はすっかりと慣れてしまった(少々行き過ぎているが)あおいと言えど、中学の時、初めてここを訪れたときはあまりの次元の違いに肩身が狭かったものである。
「あおいは、これからどうするの? やっぱり、皆と一緒に練習するんでしょ?」
 日記帳にペンを走らせながら、はるかが訊いてくる。クッキーを咀嚼し、少し窓の外を見ながら考えた後で、あおいは返した。
「ううん、しない」
 その一言が意外だったらしく、はるかは手を止めてこちらを振り返ってきた。無言で「え?」という疑問を投げかけてくる。
「試合もないのに練習するのもなんかねー、未練がましいというか何というか。だったらいっそ、他の皆の役に立つように、マネージャーでもやってみようかと思ったわけ」
「え、あおいが?」
「うん、今までずっとはるか一人に押し付けてきたしね。……実はもう、西条君と加藤先生には伝えてあるんだ」
「えぇ?! 何で私には相談してくれなかったの?!」
 はるかはますます身を乗り出した。勿論この反応は、あおいの想定の範囲内である。
「はるかは絶対に『まだまだ頑張るべきだ』って背中押してくれるでしょ? そうなると、ボクはもっとずっと悩むことになってたと思うんだ……。だから、これはボクが一人で考えて出した結論」
 そう言われると、はるかは何も言えなくなる。確かにはるかは自分でも、その自覚はあった。あおいがマネージャーをやるなんて言い出したら真っ先に止めるだろう。でもまさかそれが余計にあおいを苦しめることになるだなんて思いもよらない。もしや今まで自分が言ってきたあおいへの励ましの言葉は、全て彼女を追い詰めるものだったのだろうか。
 そうやってマイナス思考に陥り始めるはるかのことも、やはりあおいはお見通しだった。
「もちろん、はるかの応援はとっても嬉かったよ。ただ、ボク自身が信念っていうか、絶対続けてやるんだって考えがなかったから、結果として迷い続けちゃっただけ。だからほら、もう、そんな暗い顔しないの!」
 言いながらのそっと起き上がり、やれやれといった顔ではるかを抱きしめる。というより、抱きついた。互いの肩に顔を埋めて体温と感触を伝え合うコミュニケーション、女の子同士の特権だ。

161: 名無しさん@パワプラー:08/12/27 00:02 ID:5c
「どうあっても、ボクがここまで頑張ってこれたのは、はるかのお蔭なんだからさ。感謝してるよ。ありがと、はるか」
「……うん」
 弱々しく呟くはるかが、なんだか可愛かった。しっかりと抱きしめていた身体を離し、あおいはベッドに腰掛けた後寝転ぶ。天上を見上げながら言う。
「ボクは野球をやることに、なんていうか、使命感みたいなものも感じてたんだ。支えてくれる人の為にやらなくちゃいけないって。今度は、支える側に回ってみようと思っただけだよ。ボクが野球を好きなことは変わらないから」
「うん……そうだね」
 声は小さいものの、それは心からの肯定だ。あおいには分かる。そして、得てしてこういった真面目な雰囲気なときほど七瀬あおいをからかいたくなるのが、悲しきかな早川あおいの性格であった。
「はるかもさ、マネージャーやってると楽しいでしょ?」
「うん、楽しいよ。私は身体が弱いけど、こうやって皆の役に立ってることが、凄く嬉しい」
「西条君もいるしね」
「え」
 そのたった一言で顔をかーっと真っ赤に上気させて言葉に詰まる七瀬はるか。放っておくと頭から湯気が出てきそうな程に染まる頬が、見ていて面白い。そしてその後の慌てっぷりもまた、なかなかなのだ。
「いや……! その、あのね! それは理由の、ほんの一部で、あのえっと、あの、だからえっと、うん、み、皆の役に立ってるって実感が第一で、だからその、西条さんはその、ほんの一部で」
「あ、やっぱりそうなんだ」
 実は薄々は感付いていたが、はるかが樹を慕っていると裏付けを取ったのはこれが初めてである。丁度良い機会だからとちょっとカマをかけてみたのだが、案の定、純粋なはるかはあっさりと転んでくれた。
 本人もそれに気が付いたらしい。しまった、という顔をした後で、今度は怒ってくる。
「も、もう! あおいー!」
「あはは! いいじゃんいいじゃん。別に誰にも言わないって!」
「だからって、恥ずかしいものは恥ずかしいの!」
「ごめん、ごめんってば! あはは! ごめんごめん!」
 じゃれるように取っ組み合い、ベッドの上を転がりまわる。それは友達というより、さながら仲の良い姉妹のようだった。
 ところで、あおいがマネージャーになろうと決心した理由は、選手としての道を諦めたということの他に、実はもう一つある。だがそれをはるかに言うという気にはなれなかった。親友であるにも関わらずというよりは、親友だからこそである。
 なにせそれは、はるかがマネージャーを楽しんで続けている、ほんの一部の理由と、全く同じなのだ。
 恥ずかしくて、言えるはずがなかった。




162: 名無しさん@パワプラー:08/12/27 00:02 ID:5c


 やってみると意外と大変。それがマネージャーの仕事である。何せ練習そのものに関する以外のことは、殆どしなくてはならないのだ。ベンチ周りの掃除からスポーツドリンクの用意、ボールの数を数えて確認したりバットを磨いたり白線を引いたり、そして野球ノートの書き込みを行ったり。実際目の当たりにして右往左往したあおいは、今までこんな激務をずっとはるかが一人でこなしていたのかと感心するばかりだった。
「言っちゃ悪いことだけど、あおいがマネージャーをやってくれるようになって、随分助かってるよ。本当にありがとう、あおい」
 練習開始までの準備とお世話を終えた二人がベンチで一休みしているところ、はるかの方が嬉しそうに話しかけてきた。慣れない活動に妙な疲れを覚えたあおいは、肩で息をしながら返答する。
「い、いやいいっていいって……それにしてもはるか、アンタ凄いね、キツくないの?」
「うん、もう慣れちゃったから」
 はるかは身体が弱いはずである。なのにどうして自分よりバテていないのだろう。ああそうか、あれは嘘なのか。と、そんなことを乱暴に思ってしまうあおい。
 マネージャーになって気付いたことは、この仕事が思いのほかきついということの他にも、まだ幾つかある。
 例えば樹がキャプテンながらに、いつの間にかボール拾いや草むしりをしていたり。例えば樹が昼休みにこっそりボール磨きやベンチ周りの掃除をしていたり。例えば樹が練習後、一人でグラウンドに戻ってきて整地をやり直していたり。そんなことが、裏方に回って、視野が広くなったおかげで分かってきた。全てが樹絡みなのは仕方がない。一度惚れてしまえば後はこんなもんである。
 あまりよろしくない話ではあるが、恋恋に入学して良かったと思うことは、大好きな野球をやれたということよりも、樹に会えたということのほうが大きい。多分彼がいなければ野球部はここまで成長しなかっただろうし、何より自分はもっと早くに挫けていた。
 よく、女の子ながらに野球を続けたことを凄いだの、強い子なんだねだのと褒められることがあるが、それは間違いだ。別にあおいが強かったわけではない。むしろ弱かった。何度も弱音を吐いて挫折しかけた。でもその度に持ちこたえてこれたのは、他でもない、支えてくれる人が傍にいたからだ。いつもあおいの投げる球を全身全霊で受け止めてくれて、それが真剣に投げた球ならばどんな悪球にも文句を言わずに喰らい付いてくれる。それが愚痴や弱音であっても同じ。そんな頼もしい人がいたからだ。
 パシッと爽快な音が響く。マウンド上から二条が投げたボールが、樹の構えるミットを射抜いた音だ。一球一球丁寧に捕球するその後姿を、あおいはボーッと眺めていた。
 分かっている。あの真摯な姿勢が、自分だけでなく、野球に打ち込む全ての人間に向けられたものだということぐらい。だからこそその姿勢には価値があるのだということぐらい。分かっている。つもりだ。それでもどこか、あおいは二条を羨ましく思っていた。
 樹と、ただ廊下ですれ違うだけの関係だったなら、すぐにでも告白できただろう。でもそれだとそもそも恋は生まれなかったわけで。そして恋が生まれた今、告白なんかしたら結果を問わず絶対にチームの雰囲気に影響が出る。自分一人の身勝手な行動の所為で、チームに迷惑をかけるわけにはいかない。
 野球における男女の性差という檻からは解放されても、早川あおいには、まだ葛藤が付きまとうのであった。



163: 名無しさん@パワプラー:08/12/27 00:05 ID:5c
クリスマス編が間に合わなかったので、季節はずれの合宿編を投稿します。
なんとなく暖かい9月や10月頃の空気を想像しながら読んで下さい。
あとここから先は恋愛絡みの話が多くなるので、あまり好みでない方はご注意を。


9.恐怖合宿

 一ヶ月以上が、何事もなかったかのように過ぎた。

 さて、健康な高校生諸君の夏と言えば、果たしてどのようなイベントがあるだろうか。
 夏祭り、花火大会結構。友人宅でのお泊り会もある。バイトや旅行に費やすのも悪くない。部屋にこもってゴロゴロ寝てさえいなければ大概有意義というものだ。
 そして、先輩後輩が、普段の堅苦しい関係を脱ぎ捨て、いっそう簡単に親睦を深めるにはどうするのが最適だろうか。携帯でメールアドレスを交換し、日がな一日メールのやりとりをするのも良いだろう。電話で喋るのも良い。だがそれは所詮、間に電波を介在させた関係である。それだけで親密になることはまずあり得ない。メールで百通やりとりをするぐらいなら、一度昼食を一緒に食べたり、街へ出かけて遊んだほうがお互いを深く知れ、仲は深まる。
 しかし何より、楽しく合宿なんかすれば申し分ない。
「とゆーわけで恋恋高校野球部、第一回夏のお泊り大会ー!!」
 あおいの音頭に続いたワーという歓声は、半分棒読みだった。二条が無表情なまま鳴らした一つのクラッカーが、パンという音を虚しくたてて散る。
 世間様は夏休み。あらゆる部活の大会などが激化し、家庭のパパたちは家族サービスに追われててんてこ舞いな季節である。蝉の声もうるさければ、どこでもお構い無しに現れる蚊の軍勢に辟易する季節。
 そんなレジャーシーズンのある日、午後八時を回ろうかという頃、恋恋高校のグラウンドには野球部の面々が円になっており、その中心には焚き火が赤々と燃え盛っている。近くにテントが張られているゆえキャンプファイヤーと称したいが、そう呼ぶにはいささか小さ過ぎた。諸事情あって夏の大会もお流れになってしまった恋恋高校野球部は、たまの気分転換にこうしてキャンプなどやろうという話になったのである。発案者は言うまでもなく、マネージャーに転向した今でもそのお祭り好きは変わらない早川あおいである。
 このように私服で皆が集うことは滅多にないことだろう。そんな普段とは違う環境が、また皆の新鮮味と親近感を高めるのに役立つのかも知れない。
 私服姿の珍しいあおいが、デニムと半袖のシャツの格好で叫ぶ。
「みんなー! 盛り上がってるかー?!」
 オーという歓声。これも半分は棒読み。
「みんなー! ドキドキしてるかー?!」
 オーという歓声。以下略。
 ちなみに歓声の内わけは、半分が初めての展開に興奮気味の一年生と無邪気な七瀬はるか、そしてもう半分は、またあおいちゃんの暴挙につき合わされるのか、そしてどうせ合宿なら海にでも行けよと既に疲れている二年生の諸君である。
「まぁ、犯罪してるわけでもないし、確かに親睦を深めるにはいいかも知れないけど。……うーん、大丈夫かなこれ」
「自分は問題無い。彼女が実行を唱えれば、協力は惜しまん」
 同意を求めて二条にボヤいた樹だったが、見事に対立されてしまった。惚れた弱みというやつか。二条の心の広さには、毎度毎度感心するばかりである。

164: 名無しさん@パワプラー:08/12/27 00:06 ID:5c
 しかしかく言う樹や他の部員らも、乗り気でないわけではない。むしろ一年生とより打ち解ける為にも合宿という案には賛成だったし、場所が学校のグラウンドということも、安全面から見て良いと思った。あおいちゃんもたまには良いことを考え付くものだと思ったものである。それが二日ほど前のことであった。
 今ここに来て樹らが気付いたことは、グラウンドの近くには、至極当然で当たり前の話だが、普段使っている校舎があるということである。それも夜の。薄気味悪い影を忍ばせた、時折吹く風で庭木を不気味に鳴らす校舎全体が、さぁ肝試しに使ってくれたまえと言わんばかりにずっしりと鎮座しているのだ。どうしてこんな簡単な事に気付かなかったのだろうかと、樹は本気で後悔した。
 面白いモノ好きなあおいちゃんが、ここで何もしでかさないわけがない。
「皆でお泊り会なんて小学校以来です。なんだかわくわくしますねー」
 二年生の殆どがこれからの展開にどう対処しようかと悩んでいる中で、一人はるかだけは幸せそうだった。(ちなみにはるかだけ何故かいつもの制服姿だったりする)
 しかしそんな絶望的状況下で、ちょっと救いになっていることがある。それは
「高木さーん、テントの張り方はこれでいいかしら」
「ばっちりです先輩! あ、でもちょっと隙間があるかな……。明け方はかなり冷えますから、隙間は内側から荷物で塞いどいて下さい」
 てきぱきと指示を出して、ソフトボール部のテントを組み立てているのは、語らずとも高木幸子その人であった。高校に入るまではガールスカウトに所属していたらしく、あっという間に三つのテントを完成させた手際は見事というほかにない。
 なんと野球部と同じくして、女子ソフトボール部も遅い新歓キャンプをやるらしいのだ。当初は練習以外に何も夏の予定は立てていなかったらしいのだが、昨日あおいが幸子にキャンプをすることを話したところ、本日突発的にやることに決まったという。それでも部員の半数ほどが集まったというのだから、もはやその瞬発力には敬服するほか無い。ともあれ、恐らくあおいちゃんよりも自制心に長けているだろうリーダー的な存在である幸子やその他女子ソフトボール部の面々がいることは、多少なりとも安心できた。
 しかしその女子の殆どが二条目当てで集まっていることもまた事実。
 そんなわけで女子ソフトボール部の皆さんの好奇の目線から逃げるように、いつもの泰然として動じずといった様はどこへやら、二条は常に矢部や樹の後ろに居るのだ。こちらの二条も普段は見られない私服姿。何の変哲も無いシャツにベストとジーンズだが、色男が着れば何でも似合うものである。
「二条君も大変でやんすね」
「そうだね、できれば代わってやりたいよ」
「心遣いに感謝。が、出来れば、もう少しばかり感情を込めて言ってくれ……」
 ほっとけば涙のひとしずくでも流しそうな二条をそっと棒読みでいたわってソフト部の方を見やると、こちらも女性用ジャケットに黒めのジーンズパンツがよく似合う、ソフト部リーダー高木幸子がこちらへと走ってきていた。
「おっす、んじゃ、今日は一緒にキャンプさせてもらうから、よろしく頼むね。西条」
「あ、こちらこそよろしく。高木さん」
 恭しく一礼する樹に、幸子は思わず笑ってしまう。実は今樹は、あの時はお互いに清々しかったとは言え、因縁の試合で自分が決勝打を打ってしまったことにちょっと気後れを感じていたりする。
「高木でいいって、同学年なんだから」
「いやー、どうも女の子と話す時はこんな調子でさ、勘弁してよ」
「だらしないなー、彼女とかいたことないの?」
「あいにく、縁がなくて」
 ハハハと笑って答えた瞬間だった。
 キュピン――!
「え、あれ?」
「ん? なに、アタシの顔、なんかついてる?」
「いや、今なんか目が光ったような……」
「目ぇ? ちょっと、光るってアタシお化けじゃないんだからさ」
「ああうん、そうだよねごめん。疲れてるのかな」
「しっかりしてよ、野球部キャップ。んじゃ、アタシは向こう戻るから」
「ああうん、わざわざどうも」
 また軽く一礼して、幸子を見送る。
 その足取りが妙に軽いことに、気付いた人間はいなかった。




165: 名無しさん@パワプラー:08/12/27 00:07 ID:5c


 夕飯は勿論、キャンプの定番であるカレー。樹とあおいが持参してきた大鍋で作ったもので、カレーというものはこうして一度にたくさん作った方が美味しいものである。そんななか、ご飯を炊くには設備が物足りないという意見の元、ご飯だけは近場に自宅がある者数名に持ってこさせた。本格的なんだかどうだか分からない、いい具合に中途半端なキャンプである。しかし楽しければそれで全て良しというのが、皆さん共通の声だ。
「いやーオレっち正直、夏の合宿が学校なんて正直どうかと思ってましたけど、やってみると楽しいですねー!」
「企画してくれた先輩方に感謝ッス!」
 一年生の面々は皆喜んでくれているようで、その点に関しては樹も満足だった。あとは、暴君早川あおいが、何もやりださないことを祈るだけである。
 が、そんな願いはかくも儚く、およそ三秒ほどでへし折られてしまった。
「はーい皆! ちょっとちゅーもーく!!」
 カレーを食べる手をとめ、スプーンを高く掲げてあおいが立ち上がった。何だ何だと一斉に視線を向ける女子ソフト部の皆さん及び野球部の一年生ら。残る野球部二年生諸君は「ついに来たか」と身構えている。矢部が一人「あ、あれは幻の第三四話の変身ポーズでやんす!」とかなんとか呟いていたがさっぱり分からないことなので無視した。
「それでは、今からキャンプ恒例の肝試し大会をやっちゃうよー! はるか、持ってきて!」
 あおいが呼びかけるや否や、テントの中からはるかが何やらごそごそと、両手に乗るくらいのダンボール箱を、二つ持って出てきた。上の部分には人が手を通せるほどの丸い穴があいている。一目でくじ引き箱だと分かった。
「じゃ、今からこれでペア分けするからね」
 突然の“ペア”という言葉に、ざわつき始める一同。そこを制したのは、あおいではなく幸子だった。
「あー、まぁ普通に肝試しとかしても面白くないでしょ? ここは、野球部とソフト部のお互いの親睦を深めるって事で、男女のペアになってもらうことにしたんだ」
 かと言って夜の校舎で男女のペアは如何だろう、という意見を、皆の視線から受け取る幸子。
「心配は要らないと思うけど、男子の野郎共はウチの女子に手は出さないように。悲鳴が聞こえたらダッシュで行って半殺しにするんでよろしくね」
 にこやかな笑顔とともに言ってくる幸子に、男子部員らは少なからず恐怖した。下心の有無を問わず、なんとなく、幸子の言葉には背筋がぞっとしたのだ。
 ひとまず皆が落ち着いて、反対意見も収まってきたところであおいが説明し始める。
「えっと、ルールは簡単。そこの非常口から入って、反対の校舎にある二年D組の教室に入り、ボクの席を座席表で確認した後、席から教科書もしくはノートを各組一冊ずつ持ち帰ること。なければロッカーを探してね。質問はあるかな?」
 すかさず手を挙げて質問する樹。
「はい、あのさ、ざっと見回しただけでも十七組ぐらいできそうなんだけど、そんなに教科書とかあるの?」
「多分大丈夫だよ。結構置いてるから」
「あのさ、それって単に置き勉を回収させたいだけなん……」
「はい他に質問はー?」
 見事にスルーされてしまう樹。割と今回の肝試しの核心をついた質問だったようだ。
 すっと挙がった手は、二条のもの。
「非常口は……開錠されているのか?」
 まさしくそれはここにいる皆の胸中を代弁していると言っていいだろう。大型連休中の、それもまだ女子高の名残の強い学校ともなれば、鍵のチェックは相当厳しい。当然、事務員の方や保安の方々が見回って、施錠の有無は再三確認されているはずである。無理にこじあけようものなら、警備会社からガードマンが飛んでくるだろう。
 そんな皆の心配をよそに、あおいがポケットから取り出したもの、それは――
 チャラッ
 明らかに意味ありげな鍵だった。樹が頭を抱えてあおいに語りかける。
「あおいちゃん」
「ん? なに」
「自首しよう」
「いや別に盗んだわけじゃないよ」
 盗んだわけでもなければ、どうして事務室に厳重に保管されていなければならない校舎の鍵が、こんな一生徒の手元にあるのだろうか。
「いやこの前の登校日にね、来てた先生に非常口から石鹸とかの運び込み手伝わされてさ、先生は用事があったみたいで、じゃあ運び込み終わったら鍵は事務室に返しといてって言われてたんだけどね」
「忘れてたんだ」
「うん、鍵掛けるだけ掛けといてそのままポケットに入れてたらさ。そんで一昨日、洗濯機の中で発見したんだよ」

166: 名無しさん@パワプラー:08/12/27 00:08 ID:5c
 えっへん! と言わんばかりに胸を張って威張ってみせるあおいに、樹はもはや何も言わなかった。多分、言っても自分の常識は通用しないと、そう悟った。
 かすかな希望を持って女子ソフト部のほうを見やると、部員の方々はもしや二条と一緒になれるかもと、幸子に至っては普通に楽しそうにしている。最初は幸子に自制心とあおいちゃんの諫め役を期待していた樹だったが、どうやらこれは完全に読みを誤った。どうやら、あおいが二人に増えただけのようである。
 もういいや、諦めよう。今を楽しもう。うんそうだ。それが最善に違いない。と、樹はもう考えることを放棄した。
 しかし、この夏の湿っぽい空気の中、時折吹く風が木々をゆらし、不気味な影を作る。そんな中で見上げる校舎……。幽霊なんてありえない、という常識を身につけているとはいえ、この雰囲気には恐怖せざるをえなかった。煌々と燃える大きな焚き火の明かりだけが、グラウンドの暗闇の中であやしく揺らめいている。
「というわけで、早速ペア分けするよ。箱ここに置くから、男子はそっち、女子はそっちね」
 流れ流れに列になり、一人ひとり、運命のクジを引いていく両部員たち。
(感覚を研ぎ澄ませオレっち! 早川先輩を引き当てるんだ!)
(早川先輩にいいところ見せるッス!)
(可愛い子ならオールOKでやんす)
(可能な限り、自分に興味を示さぬ方を……)
(……もうどうにでもなれ)
 男子一同がそれぞれの思惑を胸にクジを引いている最中、女子の方では、表向きは平和なものの、胸中では男子以上の願いと祈りが渦巻いていた。
(二条君カッコイイー!)
(二条君が来ますように、二条君が来ますように!)
(ああ、神様どうか二条君とペアになれますように!)
(もし二条君と一緒になれたら暗がりにもたれこんで●●●とか×××を……!)
 これはもう仕方のないことだろう。ペアともなれば抱きつき放題手を繋ぎ放題で、女子の皆さんからすれば二条が隣に来ればそれだけで大満足というものである。殆どの女子の頭の中は、目の前にいる二条神谷のことで一杯になっていた。
 しかし物事には例外というものが必ず存在するもので、数名だけは、二条のペアを願ってはいなかった。
(このために肝試しを提案したようなもんだし……大丈夫だよボク、落ち着いて狙え……!)
(正直言って、アタシは男に告白する勇気なんてない。だからこそ、ここで決めなきゃ、後がない……!)
(わ、私みたいな引っ込み思案が、手を繋いだりするなら、こういった機会しかないです……神様……!)
 三人連続して並んでいるものの、誰もお互いの考えのシンクロには気付いていない。
(ボクに……)
(アタシに……)
(私に……)
 燃え上がる闘志が、三人の目に宿る。
(西条君を!)
(西条を!)
(西条さんを!)
 そして気になる結果は……。

「なんでアタシがお前とペアなんだよ」
「か、神様の悪戯でやんすよ! 頼むからそんな怖い目で睨まないでほしいでやんす!」
 高木幸子&矢部明雄ペア

「よろしくお願いしますマネージャー先輩! なーに、オレっちがいたら百人力ですんで安心して下さい!」
「う、うん、よろしくね、えんたに君」
「せ、先輩、あの、オレっちは手塚でして、あいつはツブラヤっていうんですよ」
 七瀬はるか&手塚隆文ペア

「……自分では不服だったか?」
「いーや別に。いーよいーよどーせこんなもんでしょ」
「……陳謝する」
 早川あおい&二条神谷ペア

「あ、どうも円谷っていいます、よろしく」
「あ、はい、こちらこそよろしく」
 円谷一義&名も無き女子ソフト部員さん

 そして肝心の樹はというと、

167: 名無しさん@パワプラー:08/12/27 00:09 ID:5c
「……」
 ハズレ、とただ一言だけ書かれた紙をもって立っていた。
「あのー、あおいちゃん、これってどういうこと?」
「……あっちゃー、なるほど、よりによって西条君が引いちゃったんだ」
 男子部員と女子部員の数が釣り合わない為に作った苦肉の策だったのだが、思わぬところで策士が策にハマってしまったというわけだ。あおいは精一杯の後悔をするとともに、仕方なくハズレの意図を伝えた。
「えっと、ハズレを引いちゃった人は、頑張って一人で入ってもらうことになるんだよね……男子と女子の比率が合わなくてさ、ごめんね」
「え、そうなの? いやまぁ、それならそれでいいんだけど……」
「あ、ちょ、ちょっと待った!」
 怖いけど仕方がないと、樹が納得しかけたその時、唐突に幸子が静止をかけてきた。
「あ、あのさー、モノは提案なんだけど、アタシ実はかなり怖がりでさ、男がコイツだけじゃ頼りないから、出来ればこっちに付いてきて欲しいなぁとか思ったりするんだけど」
「聞き捨てならないでやんす! オイラのどこが頼りないと」
「いややっぱアンタも怖いでしょ、ね?」
 最後の「ね」の部分で、幸子の目つきがギラリと変わる。うるせぇからちょっと黙ってろ邪魔だカスという言葉がひしひしと、その鋭い眼光から伝わった。
「ここここ怖いでやんすオバケは怖いでやんすオイラじゃきっと頼りないでやんすできれば樹君についてきて欲しいでやんす」
 矢部は本気で怯えている為(ただしオバケに対してではない)、ヘタな演技をしてもらうよりもよかった。
「あ、そうなの? じゃあありがたく入れてもらおうかな……」
「ちちょ、ちょっとダメだよ!」
 ひとまず事態が収拾しかけていたところだというのに、今度はあおいが待ったをかけてきた。
「一応、ほらルールだからさ! 可哀想だけど、西条君には一人で行ってもらって……あ、でもどうしても幸子が矢部君じゃ不安だっていうなら、ほら、二条君貸し出すよ! 文武両道の鉄人なら安心だよね。代わりに、ボクが西条君と組むからさ」
「い、いや、それならあおいが二条と二人の方が、こう、安全性にバラつきが出ないんじゃないかな。うん、そのほうが絶対にいいよ」
「え、遠慮しなくっていいって、ボクはこう見えても怖いの平気な方だから、西条君ぐらいがいれば丁度いいんだ」
「ア、アタシもまぁ、二条が必要なくらい怖がりってわけじゃ」
 本人達はお互いの腹の内を知る由も無く、乙女の言い合いというか、小競り合いは暫く白熱する。他のペアの方々は、それぞれのコミュニケーションを図ることで精一杯で、この小さな熱戦にはあまり注意を傾けてはいないようだった。
 約一名を除いて。
「あ、あのー、私も怖がり、だからその」
「安心して下さいよマネージャー先輩! 先輩は、オレっちが命に代えてもガードしますから!」
「あうう……」
 参戦できない気弱さを憎く思いながら、はるかは二人の戦いを遠巻きに見ていた。
 結局十分ほどで結論は着き、やはり樹は一人で行くということで落ち着いたようだった。




168: 名無しさん@パワプラー:08/12/27 00:10 ID:5c
 五分おき程度に校舎の中へと入ってゆく、表情のぎこちないペアたちを見送りながら、樹は必死に頭の中でシュミレーションをしていた。今はもう二十一世紀である。オバケや超常現象が出たり起きたりということは全く持って考えられないが、それでも怖いものは怖いのだ。いくら普段から親しんでいる学校といえど、真夜中に、それも一人で入るともなれば怖さは激増である。いかに怖くなく、多少遠回りでもできれば明るいルートを通る為、樹は思考を巡らせていた。
 順番的に自分の二つ前である、高木幸子と矢部明雄ペアが校舎へと入ってゆく。ということはあと十分程度で自分の番が回ってくるということである。時間が近付くにつれ、緊張が高まってくるのが自分でも分かった。
(どうしよう……今更怖いとかなんとか言えるわけないしなぁ……)
 ちらりと周りを見渡すと、周囲のペアたちもやはり同じか、会話はすれど顔はどこか引きつり心なしか怯えているようだった。一人ヘラヘラしている手塚は別格だろう。オバケ屋敷とかに嬉々として入っていくタイプだ、きっと。そんな手塚が横にいるからか、はるかも意外に落ち着いているようだった。
(……やっぱ怖いって)
 吐いた溜め息すらも、あっという間に夜の闇に呑まれていった。



169: 名無しさん@パワプラー:08/12/27 00:10 ID:5c

 さて樹がそう気を落としている時に、矢部は校舎の中で焦っていた。
 なんと気を紛らわすために“鋼のカブトロス”を熱唱していた最中、相棒であるはずの高木幸子の姿が見えなくなってしまったのだ。確かにあまり性格の怖い人は勘弁でやんすとか思ってはいたものの、実際にいなくなられるととても困る。
「た、高木さーん……どこ行っちゃったでやんすかー?」
 小さく声を上げて探すものの、ただ暗い廊下に声が虚しく反響するだけで、返事はない。
「これってもしかして神隠しってヤツでやんすか……も、もう夜でやんすよ! 夕方じゃないでやんす! どっかの蝉が鳴く頃じゃないでやんすよ!?」
 消えてしまった相方、その謎は尽きない。もしこの世に本当に神隠しなるものが存在するのなら。矢部の頭の中で、どんどん不安と恐怖が膨れ上がっていく。
 人間とは、とかく「もしも」を考えたがる生き物である。まさかありえるはずがない、でも、もしも、もしかして……一旦考え始めると止まらなくなる負の思考が、徐々に冷静さを食い荒らしていった。
「あ、あわわ……どうすればいいでやんすか、どうすれば……」
 疑心暗鬼という言葉がある。今まさしくその言葉の通り、矢部には、向こうへと続く廊下の暗闇が、永遠に抜け出せぬ迷宮への入り口のように思えた。
 そんなとき、背後に気配を感じる。
「っ!!」
 振り返る間もなく、突然視界が真っ暗になった。
 そして直後に轟音が響いたかと思うと、矢部は意識を保つことが困難になり、そのまま意識を混濁させて気絶してしまった。
 倒れこんだ矢部を見下ろして、暗い影は一度ニヤりと笑う。そして矢部の身体を引きずり、近場の男子トイレに放り込むと、影はその場から走り去った。
 全ては一分にも満たない出来事。
 影が立ち去った後には、頭に金バケツを被せられ、ホウキで思いっきりぶん殴られた、矢部の哀れな死体が転がっていた。
「う、うーん、で、やん、す……」



170: 名無しさん@パワプラー:08/12/27 00:11 ID:5c

 矢部がそんな目に遭っている頃、樹は回ってきた順番に逆らうことも出来ず、胸に大量の不安を抱えて校舎の中へと入っていた。壁についている電気のスイッチをオンにしたい気持ちでいっぱいだったが、それはルール違反らしく、そんなことをした日にはあおいからお咎めを受けることになるので、ギリギリ残った理性でその衝動は抑え込んだ。
 しかし一歩また一歩と歩く度に足音が反響する暗闇というものは、かくも恐ろしいものなのか。ギリギリで残った理性を保つことすら難しい。
「か、駆け足で過ぎていくー季節と風のなかでー……♪」
 歌など歌って樹を紛らわせようとするも、一人だとどうも気は晴れないものである。
(はぁ……まぁ、皆が楽しければそれでいいんだけど、かと言って俺がこんな目に遭うのもなぁー)
 目標である二年D組までは、まだあと五分ぐらいかかる。普段のようにすいすい行ければ問題はないが、何分足元も暗く、なにより足が少し震えており駆け足もままならない。何分かかるかは予測しかねた。
 特にこれだ。階段。
 上に上がったところに何があるのか見えないという不安と、その先に見える踊り場の窓から覗く真っ暗な外が、よりいっそう恐怖感をかきたてる。これぞ肝試しの醍醐味であるが、野球で勝負に持ち込む度胸はあっても、こういった肝っ玉は小さいのが樹であった。
 つい抜き足差し足忍び足で上がってしまうのは、何故だろう。
(早く駆け抜けちゃえば……怖さもきっと減る……うん、そうだな)
 そう思うや否や、樹は一気に足に力を込め、階段のステップを駆け上がった。踏み出すことを躊躇われただけで、案外、一度走り出すと足は軽く動いた。タンタンタンと勢いよく上る。
(よし、大丈夫!)
 と、思いかけたその時だった。
 目の前に突然、一つの影が現れる。
「え?」
「え?」
 夜の階段に響く、間の抜けた二つの声。それが響き終わる前に、声はそのまま絶叫に変わる。
 衝突したのである。とても物理的な意味で。
 階段の上から駆け下りて来た物体と、階段を駆け上ってきた物体。衝突すればどうなるか。位置エネルギーだの質量及び重力だのと、物理の専門家であれば様々な単位と用語を駆使してどうなるかを説明をくれるだろが、要は一言でまとめるととても簡潔にすむ。
 つまりは転げ落ちるのだ。
「きゃああああああ?!」
「わぁぁあああああ?!」
 現れた人影と真正面から衝突した樹は、くんずほぐれつ階下まで転がった。途中で見えた両親の笑顔や幼い頃の遠足の風景などは、多分走馬灯というヤツだろう。
 ドタっという音と共に着地。思いっきり背中から落ちた所為か、全身がくまなく痛い。だがその分衝撃が分散して、局所的な痛手を負わなかったようである。
 そこまで分析し終えたところで、樹は疑問を覚える。やけに身体が重いのだ。ぎゅっと瞑っていた目を開けると、暗くぼやけた視界の中に、髪の毛のようなものが映る。
 というか髪の毛だった。
「あいててて……」
 小さい声したと同時に、その髪の毛がもそりと起き上がる。
 目が合った。高木幸子と。



171: 名無しさん@パワプラー:08/12/27 00:12 ID:5c

 目が合った。西条樹と。
「……あれ? 西条……?」
「た、高木、さん?」
 お互いに声に出したところで、気付く。顔が近い。恐らく距離十センチといったところ。身体に至っては、倒れこんでいるのだから勿論全身で密着している。外気の温度が低い所為と、お互いに軽装ということもあって体温が生暖かく混ざり合う。おまけに転がる者はワラをも掴むのが反射というもので、ほとんど抱き合っている状態だ。控えめに言っても破廉恥である。
 そんな状況に彼氏なんて作ったこともない幸子と、彼女なんていたこともない樹が耐えられるはずもなかった。
「きゃああああああ?!」
「わぁぁあああああ?!」
 再び絶叫して飛び退き、距離を取る。暗いので確認はできないが、恐らくお互いに顔は真っ赤を通り越して赤いだろう。
「あああああのごめんその俺が前方不注意だったばっかりにえっとあの本当にごめん!!」
「いいいいやあのアタシこそよく考えもしないで階段下りてたからごめん!!」
 そりゃ確かに、校舎に入るなり矢部を暗殺して「はぐれてしまった」という言い訳を用意して二階で西条を待っていたのは幸子の方で、待てど暮らせどやってこない西条を驚かしてやろうと出向いたのも幸子の方である。本来ならば向こうだけが驚くのが筋だろう。だが幾らなんでもこんな展開はあまりに予想外だった。
(やっちゃったよ西条の上に倒れこんじゃったよ思いっきり胸押し当ててたし迷惑なヤツだなんて思われたらどうしようああーくそアタシってば間が悪すぎるよ!)
 謝りついでに一気に後悔が襲い掛かってくる。嫌われたかもしれないという不安が怒涛の波となって頭の中を埋め尽くした。しかしこのまま黙っていても印象は悪くなるばかりだろう。そう判断した幸子は、決死の思いで言葉を繋いだ。
「あ、あのさぁ矢部、そう、矢部知らない? さっきまで一緒だったんだけどはぐれちゃってさ。うん、それで探しに来たんだけど――ッ!」
「あ、大丈夫?!」
 言い終える前に、幸子は右の足首に痛みを感じて膝をついた。すかさず手を貸してくれた西条には悪いものの、すっかり座り込んでしまう。時間が経つほどに痛みが増してくる。どうやら先程階段から転げ落ちた際に挫いたらしい。自分で触診してみたが、まだ腫れてはいなかった。
「ああ、うん。平気平気。ちょっとヒネっちゃったみたいでさ、大丈夫だよ。ハハ、まだ歩けるし」
 片足で立ち上がった後、幸子は両足で立って強がってみせた。実は割と痛い。体重をちょっとかけると関節が潰れてしまいそうになる。しかし、今でも負けん気だけは男勝りを自負できるぐらいだ。表向きを平気そうに取り繕うのは、幸子の特技である。
 しかしそんな表面は軽く見破られていたのか、もしくはただの過ぎたお節介なのか、西条がこれを放置してくれることはなかった。
「座って」
「え? ああ、だから大丈夫だって」
「いいから座って!」
 強い語気で西条が言う。こうも言われてしまっては流石に立ち続けているわけにいかず、幸子は大人しく従うことにした。


172: 名無しさん@パワプラー:08/12/27 00:13 ID:5c
「ちょっとごめん、触るけど許してね」
 西条が右足に触れる。ちょっとドキっとしたが、捻挫が痛いためあまり嬉しくはなかった。
「ここ押さえると痛い?」
「いや……そこは別に」
「ここは?」
「そこも別に……」
「曲げると?」
「あいててててて!」
 一通りのチェックを終えたのか、西条が手を離す。ちょっと残念だった。
「剥離骨折まではいってないみたいだ。関節包にちょっと無理がかかっただけかな。軽い捻挫でよかった」
 ふぅと息を吐いてひとまず安心した様子の西条。しかしそこでこちらが立ち上がろうとすると、これはしっかりと制してきた。
「ああ、立つのはちょっと待って。捻挫は捻挫なんだから、安静にしてないと」
 そう言うと西条はこちらへ背を向けて座り込む。
「はい、いいよ」
「はい……って、え?」
「背負うから、おぶさって」
 西条のいきなりの行動に、思わず幸子は目が点になってしまった。
 おぶさるということは、つまりおんぶされるということで、おんぶというのは一方の人間がもう一方の人間を背中に背負うということで、つまりこの状況では幸子が樹の背中に乗っかるということである。そんな当たり前のことを一つ一つ確認しなければならないほどに、幸子は頭の中が真っ白になっていた。
「怪我人は遠慮しないで、早く」
 その一言でハっと我に返って、それでも多少焦ってはいたが、幸子は樹の肩に手を乗せた。
「……お、重いから、気をつけて、な」
「伊達に鍛えてないから大丈夫だよ」
 徐々に体重を預けようと思っていたものの、ズキリという痛みが足首を襲い、幸子は一気に倒れこんでしまった。どさりと全体重を背中に受けても、樹の姿勢は揺らがない。
「……大丈夫、だった?」
「捕手はしゃがむのが仕事だからね。よっと」
 すっと立ち上がる樹。そして幸子の体重などまるで意にも介さない様子で、改めて階段を上り始めた。流石に軽快に駆け上がるわけにはいかない。のっしのっしと足場を確かめるようにして、暗がりの中を上っていく。
 幸子はなんだか申し訳ない気持ちになった。
「なぁ、西条」
「ん?」
「……悪い」
「気にしないでって。でも、なんで階段下りてきたの?」
 まさか、西条を待ち伏せする為に矢部を気絶させてやってきたなんて言えるはずもない。しかしここでまた嘘をつくことは、更に幸子に罪悪感を募らせた。
「いやその、矢部とはぐれちゃってさ……探してたんだ、あいつを」
「え、そうなの? まいったなぁ、矢部君も怖がりなのに……」
 溜め息をつく西条に、幸子はまた話しかけた。

173: 名無しさん@パワプラー:08/12/27 00:14 ID:5c
「……お前ってさ、モテるんじゃないの?」
 その質問に、西条は苦笑する。
「どうしたの突然に」
「いやだって、真面目……だしさ、その、怪我人にも優しいし……」
「それって、実はあんまりモテる要素じゃないんだよね」
 西条はハハハと笑う。
「俺は真面目っていうか、なんだかな、野球に対して素直でいたいだけだよ。だから女の子と付き合ってる余裕もなかったんだけどね」
 階段の踊り場を過ぎて、もう一つ階段が見える。一旦深呼吸してから、西条はまた上り始めた。背にした窓から覗ける外は、不気味にひっそりと夜の闇をたたえている。でも、最高の安心感を手にしている幸子には関係がない。
「怪我をしている人は、そう、ほっとけないよ……本当に、駄目になっちゃうかも知れないから」
 薄ら笑いを崩さなかった西条だったが、その言葉の中に隠れている憂いを、幸子は聞き逃さなかった。しかし今ここで訊いてよいものなのかどうか、その判断ができなかった。
 幸子がそうしてやたら色んなことを考えては悩み赤面していようとも、そんなことは知らず樹は黙々と階段を上り廊下を歩いた。他人に触れていること、そして誰かを助ける為に動いているということ、この二つが、樹に安心感と気丈さを与えているのだ。
 ちょっと違和感を覚えたことは、背負っている高木が変な格好でいることだ。楽にしておけばいいものを、わざわざ背筋を伸ばして体重を身体のほんの一部に預けている。
「あのー高木さん、無理にキツい体勢とらなくてもいいよ……?」
「あ、ああいや、アタシはその、別に、何でもないから、うん、気にしないで」
 幸子の胸は、結構大きい。具体的な数値化は憚られるが、少なくとも、体育や部活の着替えのたびにからかわれるぐらいはある。こんなもの運動には邪魔なだけだし、肩も凝るばかりで不要なのだが、勝手に成長するものは仕方がないのだ。
 自分自身コンプレックスを持っているこれを、樹に押し当てるような真似が出来るはずもない。先程、不意に倒れこんだ時でさえ焦ったというのに。
「あ、あのさ、本当に重くない? 無理だったら降ろしていいから」
「怪我人は余計なこと考えない」
 一言で説き伏せられる。
 階段を上り終えた樹は一旦ヨイショと幸子を背負い直すと、再び歩みを進め始める。コツコツと廊下を歩く音が一人分響く。さっきまでは怖かった暗闇が、今では少し、開けて見えた。樹の背に乗った幸子は、気恥ずかしくもあり、情けなくもあり、しかしなにより嬉しかった。
 一目惚れなんてものを信じるつもりは毛頭なかったが、あの日、渾身のストレートを打たれた瞬間に見えた彼の輝かしい表情が、忘れられない。自分に恋なんてものには無縁だと思っていたが、気が付けば授業中、見上げた虚空に彼の顔を描いている自分がいた。彼氏を作ったことを自慢している友人を小馬鹿にしていたが、いつの間にか朝起きたとき、そろそろ彼も起きただろうかと考える自分がいた。
 ソフトボール部と野球部の、同じグラウンドで行われる別々の練習。そっと背中を見つめていたことを、彼は知らない。他の野球部員が練習している隙にひっそりと草むしりをしたり、キャプテン自らボール拾いに駆け出す姿を、自分はちゃんと見ていた。
 憧れていた背中が、こんなにも近くにある。
 幸子はなんだか照れくさくなって、誰にも見られていないのにそっぽを向いてしまった。樹の背中を見るのが恥ずかしくなったのである。
「あの、高木さん」
「んえ、ええ?! な、なに?!」
 誰にも見られていないのに慌ててしまう。

174: 名無しさん@パワプラー:08/12/27 00:15 ID:5c
「ちょっとごめん、とても言いづらいんだけど」
「うん」
「休憩させて……」
「あ、わ、悪い!!」
 幸子の承諾を得たところで目の前の教室に入り、樹は片膝をついて丁寧に幸子を椅子に下ろすと、自分も近場の椅子に腰掛けた。本当は天上の電灯も点けたかったが、ルールはルールであるし、何より駆けつけられて変な疑いをかけられるのは御免だった。
「はぁ、俺もまだ鍛え方が足りないかな」
「ごめん、アタシ、重くて……」
「いや階段をのぼったのがキツかっただけだよ。人の体重ってこんなもんでしょ。男子より楽だったしね」
 練習には、二人一組を作って外野のライトからレフトまで、交互にお互いを背負いながら往復するというメニューがある。いつも高校生男子同士で背負い背負われしている樹からすれば、いくら普通に比べて筋肉がついているとは言え、幸子の体重は背負うに容易かった。
 光がろくにない教室。その机の上に置いた両腕を組み、顎を乗せる。昼寝にでもしゃれ込もうかという格好だ。一人で居たならば物陰の全てに怯えるところだが、今は隣に誰かが居る。しかし安心感はあるものの、どこか物寂しい。人の感情はその場の雰囲気に左右されるもので、樹は根拠もなく、なんとなく心細かった。
 その所為だと、思う。
「中学の時さ」
 気付けば、昔語りを始めていた。
「友達が故障したんだ。ピッチャーで、肘を壊した」
「え……?」
 幸子が口から漏らしたのは、何についての疑問符なのだろうか。樹が突然話し始めたことそのものについてか、またはその内容についてなのか。
「中学の、一年の時、才能のある奴でさ、新人戦は絶対に登板できるくらいのピッチャーだった。春の試合は絶対に他のチームを圧倒してやるんだって、俺と二人で意気込んで、冬の間、投げ込みをした。ずっとした。練習はマラソンばっかりだったから、練習が終わってから、ずっと」
 とても弱く、儚げな目。それが、今の樹に対する幸子の印象だった。いつもの気丈さが欠片も感じられないその目は、後悔とか悲しみを超えた、もっと空虚なものを映しているように思えた。
「『なんか今ピリっとした』って、笑ってたんだ。あの時は。……俺も、おいおい大丈夫かよなんて言って、真面目に考えなかった。それからも直球、カーブを投げた。その次の日、そいつは学校を休んだ。風邪でもひいたのかなと思ったんだ。でも違った。朝、肘に激痛があって整体院に行ったんだって、聞いた」
 まるで嘲笑するかのような語り口調。樹の目が見ているのは、過去だ。この虚ろな目を、幸子は知っている。
「目標持って努力した先が故障なんてふざけてる! って当時は思ったけどさ、違うんだ。努力の仕方がマズかっただけなんだ。監督たちがマラソンばっかりさせていたのは、俺たちをただシゴいてたわけじゃない。故障しやすい冬の時期は投げ込みや素振りを控えて、ランニングで身体作りをさせてたんだ。俺はそれに気付けなかった。一人のピッチャーの可能性を、完全に潰してしまったんだ」
 幸子は黙って聞いていた。生半可な気持ちで相槌を打つことは、とても失礼なことのように感じたからだ。他人が聞いてうんうんと頷けるような、軽い話ではない。それは、この目を見れば分かる。今の樹は、あの時の自分や、早川あおいと同じ目をしていた。
「結局そいつは陸上部に行っちゃってさ、俺が謝ったら、誰の責任でもないって言ってきたんだ。いっそ責めてくれたら楽だったのにね。そういう奴だったんだ。俺は自分で俺を責めたよ、どうしてもっと気をつけなかったんだって」
 時間の流れが遅い。暗い教室では、壁にかけられた時計の針も見えなかった。しかし今は時間などどうでもいいというのが、樹と、幸子の本音だ。
「だからさ、俺が他人の怪我に敏感なのは、優しいから、とか、親切だから、とかじゃなくて、自分が不安なだけだよ。もう自分の目の前で可能性を潰す人は、出したくない」
 以前、樹から熱中症について諭されたことがある幸子は、そのことや、この捻挫の処置についての合点がいった。怪我や身近な病気に関する知識が深かったのは、彼の過去に暗いものがあったからだろう。色々な怪我に接するたびに、調べ増えていった知識に違いない。
「だから、高木さんの捻挫だって放ってはおけなかった。お節介だったかも知れないけど、ごめん」
「……お節介じゃ、ないって。ありがとう。アタシ、ガサツだからさ、放っておかれたら、あのままどんどん歩いちゃってたよ、うん」
 咄嗟に頭を下げてお礼を言う。すると、樹は小さく苦笑いを返してきた。
「はは、そう言ってもらえるとありがたい。……いやさ、変な話してごめん、俺もたまには、誰かに寄りかかりたくなるんだ」
 ハァと溜め息をついて樹は俯いた。高校に入って、いや、このことを他人に話したのはこれが初めてかも知れない。他人に話すような話題ではないと胸中に封印し続けてきたものなのだが、どういうわけか話したくなったのだ。疲れているのか寂しかったのか、いずれにせよ場の雰囲気というものに流されて口を開くと碌な事は言わないものだなと実感した。

175: 名無しさん@パワプラー:08/12/27 00:15 ID:5c
 シーンとした静寂。
 うわやっちゃった、と思った。
 自分で作っておいてなんだが、樹はこういう雰囲気は好きではない。さっきまでの落ち着いた心境が嘘のように、今度は冷や汗などかきはじめる。しまったなちょっと喋り過ぎたなそりゃ事実は事実だけどやっぱ他人に言うことじゃなかったよねああ思慮の至らない俺ってば馬鹿だなホントっていうかこの話を他の人にされたらどうしようこりゃ恥ずかしいな、と一度思い始めると、不安が止まらなくなる。とりあえず取り繕おうとして樹は口を開いた。
「あ、あのさ、この話だけど、話半分に受け取ってもらえるととてもありがた」
「ア、アタシは!」
 直後に被せられる幸子の言葉。それだけならまだしも、突然立ち上がったりしたものだから余計に驚く。足首の痛みなど気にも留めずに、幸子は両足を踏ん張って立っていた。
「た……高木さん……?」
「アタシ、には、いつでも寄りかかってきていい。さ、支えてやるよ! いつでも! 不器用だけど、相談事とか、アタシはその、慣れてるからさ! うん!」
 緊張の極致で語るその頬が、リンゴのように真っ赤に上気していることに、樹は気付かなかった。暗い部屋ではいた仕方がない。
「た、高木さん、ちょっと足首はだいじょ」
「だからその、アタシと……」
 何が言いたいのか、それは嫌というほど自分で分かっている。だからこそ、一番の言葉を選ぶのに戸惑った。
「私はっ……!」
 すぅと息を吸い込み。
「私と……っ! 私と付き」
「ワッ!!」
「うわっ!」
「キャーっ!!」
 女、高木幸子の一世一代の告白劇は、突如上げられた早川あおいの奇声によって、儚くも未完のまま終わったのだった。



176: 名無しさん@パワプラー:08/12/27 00:16 ID:5c

「いやね、誰かが教室にいるなーと思ったら、なんていうかさ、やっぱ驚かしたくなるじゃない」
「一握りの人だけだと思うよそれ」
 二条と一緒に左右から幸子に肩を貸して歩きつつ、樹は溜め息と共に言った。
「すまないな、制止しようと思ったのだが、時既に遅かった」
 ちっとも申し訳なさそうになく、苦笑しつつ二条が返答してくる。ちなみにもう“お題”である早川あおいの机の中身はゲット済みであり、今は帰路についているところだった。そして樹が確認したところ、机とロッカーを見る限り、夏休みの課題を解くのにどうしても必要な参考書の類が残っていたので、やはり置き勉を回収させるためというのが、この肝試しの裏の主旨らしかった。言うとまた制裁が下りそうなので、口には出さなかったが。
「二条に責任は無いよ」
「あ、なんだよそれ、二人してボクを悪者みたいに」
「悪者だよ、おかげで寿命が縮まったしね」
「あーあー、情けない。こんな肝っ玉の小さい男子が四番打者だなんて」
「どんな打者でもビーンボールには驚くよそりゃ」
「同じく」
「あ、二条君まで。ボクとペアのくせに」
 そんな他愛ない話をする皆の中、幸子は黙って樹と二条の肩にもたれていた。しかしこうしてみるとやはり男性陣の力は凄まじい。二人も揃えば、幸子の体重などたちまち浮かしてしまうようで、もはや自分で足をつくのはちょっとバランスをとるためにだけという程度である。
 それはさておき、幸子は正直、どんな話題を話していいか分からなかった。そりゃ乙女心というものを考えれば、さっきまで告白しようと考えていた男子が今まさに自分の右側に密着しているのだから、言葉が口から出なくなるのは至極当然というところだろう。
 一人だと怖く、二人だと少し安心というこの暗い廊下も、四人で歩けばもはや怖いものなしで和気藹々としたものだった。しかしそれでも二人でいた方が良かったと幸子が思うのは、これもまた当然のこと。
「でもさ、なんで幸子と西条君があんなトコに居たの? 確か幸子は矢部君とペアだったはずだよね」
 どこか不機嫌そうなあおい。怪我をしていることは先刻告げたのだが、どうしてこうなったのかは伝えていなかった。が、本当の事を伝えるわけにもいかない。
 ところが、幸子が訳を話そうとすると、それよりも早く樹が話し始めた。
「矢部君とはぐれちゃったみたいでさ、探してる最中に俺と会って、そのとき階段から転げ落ちたんだ。捻挫してたから、俺があの教室まで運んだんだよ」
「ふーん」
 要求通りに訳を話したはずなのだが、お気に召さなかった様子。相変わらず不機嫌そうに口を尖らせているあおいを見た樹と幸子は顔を見合わせて、アイコンタクトで以って思案した。結果、幸子が素直に謝ることに決した。
「ごめんね、アタシがヘマした所為で迷惑かけちゃって。悪いのはアタシだから、西条は責めないでやって」
「う……いやまぁ、そういう意味じゃないんだけどさ……」
「如何なる時でも他人をいたわる事を忘れない、西条の姿勢は評価出来るものだと思うが」
「だからー、そういう意味じゃないんだって……」
 モジモジと言葉を濁すしぐさには、いつものハキハキしたあおいらしさがなかった。その理由は、恐らく本人しか知らない。
 どきどきわくわくが詰まった夏の合宿、肝試し。深まった仲もあり、あと一歩で実ったかもしれない恋もあり。短いようで長かった変なイベントはようやく収束を向かう。幸子はなんだか申し訳なくなって、感謝を述べた。
「西条」
「ん? なに?」
「ありがとな、いろいろ」
「こちらこそ。イレギュラーのおかげで楽しかったしね」
「あはは」
 その様子を見て、面白くないという顔の者が一人。
「……ボクも捻挫してみようかな……」
 ぽつりと呟いたその一言を、聞き取れた者はいなかった。



177: 名無しさん@パワプラー:08/12/27 00:19 ID:5c

「ところで高木さん」
「?」
「何か忘れてない?」
「え、何かあったっけ?」
「いや、思い出せないなら、その程度のことだろうからいいんだけど」

 その十数分後、肝試し最後の組が校舎に入った際、とてつもなく恐ろしい体験をしたという。
 その者達が言うにはなんでも、トイレ付近から謎のうめき声が聞こえたとのこと。その声は「〜〜はどこだ、〜〜はどこにいった」という意味の言葉を、しきりに叫び続けているのだとか。
 この話は噂好きの女生徒らの間で長きに渡り語り継がれ、後に成立する恋恋七不思議の一つ「どこださん」として恐怖の対象になるのだが、それはまた別の話。

「ここどこでやんすかー、高木さんはどこいったんでやんすかー、誰か助けてほしいでやんすー」
 気絶から目覚め、夜中のトイレで泣き続ける矢部の声は、ただ虚しく響いていくだけだった。




 用事が立て込み、書き始めたクリスマス編はとても中途半端な形を留めております。
 まだ少し予定は残っておりますが、急いで書き上げます。しかし年内には書きあがらない予感。
 気長にお待ち下さい。

178: 名無しさん@パワプラー:08/12/27 00:21 ID:5c
っていうかスレッド一気に減りましたね。何があったんでしょう。
誰か教えてえろいひと

179: 名無しさん@パワプラー:09/01/02 10:18 ID:vc
恋愛分多めでも全然良いです
クリスマス編も期待していす

180: 名無しさん@パワプラー:09/01/18 12:51 ID:kI

 街を歩くと、ビルの隙間を通り抜ける風がひやっと冷たく、またそこら中に光る電飾たちの明かりがうっとおしい。道端に置かれた太っちょのサンタクロースが、手にした看板でケーキの価格をしきりに主張している。ロマンチックなのかエコノミックなのか分からない。そんな季節が、今年もやってきた。
 生まれてから経たクリスマスが今年で十七回目。多いのか少ないのかは、今の自分にはまだ分からない。ただ綺麗なケーキに対する感動が年々薄れてきていること、それだけは確かだった。いちいち下らないことではしゃぐほど子どもではない。身長だって高くなったのだ。こうして大通りの雑踏を歩いていても、もう周りの大人と比べて遜色はない。
 今日はクリスマスだ。
 もともとはキリスト教の大切な祝日だったこの日も、お祭り好きな日本人の手にかかればこの通り、恋人たちの為の甘ったるい一日に早変わり。街は、手を繋ぎ歩いて、ウィンドウショッピングやお菓子の食べ歩きに勤しむカップルで溢れている。
 電飾で飾られた街路樹が青や赤に光る大通りを真っ直ぐに歩き、一路目指す場所がある。華やかな喧騒に包まれた大通りから、少し外れた路地に入ったところ。ひっそりとした雰囲気が高校生に人気の喫茶店だ。いわゆる穴場というやつで、値段もそれほど高くなく、学生の財布にも優しい。
 高校一年のときに発見して以来の常連で、今ではマスターであるオジサンとも仲良く話すほど。待ち合わせや暇潰しの談笑には、必ずと言っていいほど利用している。そしてそれは今日とて例外ではない。
 雪が降らないのがおかしいというほどに冷え込んだ空気の中を、逃げるようにして店内に滑り込む。ドアを閉めると鳴るカランカランというベルの音が、いらっしゃいませの代わりだ。
「こんちわ」
 カウンター越しに挨拶をすると、マスターは会釈で返してくれた。どうやら今はコーヒーを淹れている最中らしく、手が離せないらしい。複雑なフラスコを木組みで覆ったような装置をじっと、真剣な表情で睨みつけている。邪魔はしないほうがよさそうだ。
「おいシュウイチ、こっち!」
 奥の席から呼ばれたと同時、反射的にそちらへと駆け出す。奥の隅っこ、窓際の特等席。秀一を含めた三人組の、もはや指定席にまっている場所だ。

181: 名無しさん@パワプラー:09/01/18 12:52 ID:kI
「二十分遅刻。何やってんのよ暇なくせに」
「コーヒー冷めちまったぞ、ばか」
「ごめん。財布忘れてさ、取りに帰ってたんだよ」
 野郎二人で隣り合い、向かいには女の子が座る。シュウイチとコウジ、そしてミキ。この三人組が、小学校の頃から続く腐れ縁というやつだった。三人とも、同じ少年野球チームで活躍した者同士である。シュウイチがピッチャーでコウジがキャッチャー、そしてミキがセカンド。県大会にも出場したチームを支えた三人であったが、今現在野球を続けている者は、いない。
「これどう? これ! いまウチの学校で流行ってるドラマ。今度こっちでロケするんだって!」
「え、本当? 行くの? お前」
「まっさか平日だし。学校サボったら怒られるって。ウチ親厳しいから」
「いやそりゃどこの親だって怒るだろ」
 実は通っている高校は皆違う。男二人は近場にあるもののそれぞれ違う高校で、ミキは電車を少し乗った先にある私立の女子高だ。結構有名なお嬢様学校らしいのだが、コイツを見ている限り、中身はそうでもないらしい。流行り物の話題なんかも普通なものだった。
「でも流石女子高、カッコイイ俳優が出てるドラマに食いつくなぁ」
「男っ気ゼロだしね。皆飢えてんのよ多分」
「恋恋女子高だっけ? オジョーサマしかいないって聞いたけど」
「まぁ半分以上はね。一方で勿論、アタシみたいなガサツなのもいますよそりゃ」
「類友っつーの? そういうのはそういうので固まるんだろうな」
「よく分かってんじゃん。あ、アタシなんかケーキ食べたくなった」
「え? 先に言えよ。コーヒーとセットだと百円安くなったのに」
「ちょっとマスターに訊いてみる」
 素早く席を立ったミキが、マスターのところへ歩いていき、話をつける。十秒もしないうちに彼女は笑顔でブイサインをして帰ってきた。交渉成功というところだろう。ここまで親しみきった店で、交渉も何もないが。ミキが戻ってきてからケーキがくるまでは、ひたすらカロリーについての話。お前は腹が出ただのブタに一歩近付いただの、およそ若い男女とは思えないようなデリカシーに欠けた会話が続く。
 ここでは気分が全てだ。互いの腹の内を探り合ったり、変に気を遣って相手を立てたり、自分をへりくだらせたりはしない。行動を自重したりもしない。ただ正直に本音をぶつけあえる場所なのだ。違う高校、違った空気の中で生きていくと、どうしても心に負担が溜まっていく。ここはそんな鬱屈したものを晴らすことの出来る憩いの場である。
「んで、アンタらもう野球やんないの?」
「なんで突然?」
「暇じゃない? なんもないとさ」
「お前はどうなんだよ」
「残念、ウチにはソフト部しかありませーん」
「お前つくってみればいいじゃん。恋恋女子高野球部!」
「いやだよめんどくさい」
 ハハハと笑い合う。コウジはどうだか知らないが、シュウイチには野球をやらない理由があった。そしてそれだけは、誰にも言う気になれなかった。本音をぶつけ合うこの空間の中で、これだけは、語る気にならなかった。
 そう、シュウイチは大人だったから、隠していたのだ。大人は隠すのが上手い。大切な時間と調和を乱すのが嫌だったから、言わなくていいことは言わない。
 そんな憩いの場との矛盾。いつしかそれに支配されるようになった。居心地の悪さを感じ始めたのはいつ頃からだろうか。
 しかしそれも今だけだ。そのうちこの違和感も気にならなくなるだろう。ゆっくりと調和していけばいい。どうせ、明日も明後日も、何日、何年とあとだろうが、きっとこうして三人は集い続けるのだから。

182: 名無しさん@パワプラー:09/01/18 12:52 ID:kI



 会社からの帰り道は、いつも薄暗い。それは例えクリスマスイブの日であろうと変わることはない。市街の喧騒から、ここは完全に隔離されていた。電車から降りてきて駅前の繁華街を抜けると、あとは外灯と自動販売機だけが照らすだけの夜道が続く。ふとした寂しさから辺りを見回すが、自治体がしっかりと管理している区画なので、野犬や野良猫ともあまり出くわさない。水道やガスと同じく、どんな些細な生き物でさえも、ここでは人間というエゴの管理下に置かれているのだ。勿論その人間自身にも、大した自由はない。
 もう夜は遅く、テレビではろくな番組もやっていない。子どもはもうとっくに寝てしまっている時間だ。せっかく会社を抜け出して買ってきたクリスマスケーキは、どうやら今年も無駄になりそうである。
 エレベーターでマンションの上の階に上がり、自宅の鍵を開け、帰宅する。ただいまという声に対応してくれるのは、玄関先の明かりだけである。
 リビングのまできてネクタイを緩めながら、机の上にある妻の書置きに目をやる。子どもに学習塾からの勧誘があったそうだ。そろそろ小学校に上がる頃であるから、最近はこの手の勧誘が後を絶たない。妻の、先に寝てしまっている様子を見ると、こちらの裁量で決めろということなのだろう。
 マンションなんかに住んでいると、当然近所の子ども達の情報もよく耳に入ってくる。どこどこのお子さんは今年中学校に上がるだの、なになにさんのお兄ちゃんはどこの大学に受かっただの、周りはそんな話ばっかりだ。幼稚園の頃から塾に行っている子も少なくない。だが小さい子をそこまで塾に行かせ、勉強をさせて何になるというのだろう。
 書置きの横に置いてあった塾からの進学別コース説明書とやらを、くしゃくしゃに丸めてゴミ箱に捨てる。子どもは遊ぶのが仕事だ。こんなに早くから将来のことなど考えていては、得られるものも得られなくなる。
 食事は既に済ませているゆえ、あとは風呂に入って寝るだけだった。今日もよく疲れた一日だった。明日もまた、忙しい。大人は常に明日のことを考えておかねばならない。自分の時間を欲して夜更かしなどすれば、すべて苦しさとして自分に跳ね返ってくるのだ。
 ソファに腰を下ろし、見ないなら見ないでいいような、退屈なテレビ番組を観る。画面の中では、名前も知らない若手の芸人が身体を張って笑いをとっていた。
 赤く燃え盛る蝋燭ほど、燃え尽きるのは早い。この若者の生き方は、正しいのだろうか。
 才能のない人間が努力したところで、努力する天才には遠くおよばない。せいぜい、努力しない天才の域に辿り着けるかどうかというところだ。若い頃に、ただ目の前の熱中できることに集中して勉学をないがしろにし、結局大成することのなかった人間の末路とは如何なものなのだろう。何に努力したかでは評価されない。いかなる理由であろうと勉学のできない人間は淘汰される。それが現代だ。勉学にさえ励んでいれば間違いはない。出来不出来はあれど、多くは無難な道を選ぶことが出来る。いつまでも夢なんて大層なものを描き続け、それにしがみつくのは子どもの証拠だ。境界線をすぐに見切り、確実で安全な道を選ぶのが大人なのである。
 だからいつまでも野球にしがみついて生きることなんて正しくない。なれもしないプロ野球選手を夢見て、叶わず地を這う一生を送ることになるなんて、そんなことだけはごめんだった。
 全国に向けて裸に近い格好で芸をするこの若者は、果たして来年も、またこのテレビで観ることができるのだろうか。
 ふとそんなことを考えていると、途端にまどろみが襲ってくる。しかし抵抗することも無く、風呂に入ることも忘れ、ただその誘惑に身を委ねた。消えていく景色は一瞬、ふっという転落感の後に、意識は消えた。




183: 名無しさん@パワプラー:09/01/18 12:53 ID:kI


「おい!」
「うおっと」
 横からの声で、唐突に目が覚めた。頭を振って意識を整え、苦笑いを作る。
「お前さ、普通喋りながら寝るか?」
「いやわりーわりー。どうも寝不足みたいでさ」
「彼女もいないくせに?」
「ほっとけ」
 コウジは唇を尖らせて反論する。彼女なんてできたこともなければ、作ろうと思ったこともない。
「え、そうなんだ意外。アンタ顔だけはいいからモテると思ってた」
「だけってなんだよだけって」
「まんまの意味だし」
 言いながら、ミキがこれ見よがしにケーキのイチゴを見せ付けて食べる。見ているとなんだか自分も食べたくなるのが人間というものであるが、そうするとなんだか負けたような気がして、コウジは理性で食欲を押さえ込んだ。
「告られたことぐらいあるでしょ」
「ま、あるけど」
「ええ、本当かよ。いいなー」
「付き合えばいいじゃん」
 毎度のことだが、えらく無責任なことを言ってくれやがる奴らである。コウジははぁと、溜め息と同時に言葉を吐き出した。
「彼女なー、あんま欲しいと思わないもんな」
「なんで?」
「なんでって、いろいろあんだよ俺にも」
「……コウジってゲイだっけ?」
「んなわきゃあるか。女の子大好きだってーの。エロ本だってこれぐらい持ってるぞ」
 厚手の週刊誌が五冊ほど挟めるくらいの間隔を両手で作ってみせる。しかしこれは嘘である。本当はもっと多い。倍ぐらい。
「謎だね」
「ああ」
 ミキとシュウイチがお互いに頷きあう。そんな中でコウジはそ知らぬ顔でコーヒーを一飲みした。ブラックの苦い味が喉をこすりながらすべり落ちていく。

184: 名無しさん@パワプラー:09/01/18 12:54 ID:kI
 女の子は大好きだ。そりゃ思春期だから、エッチなことにだってとても興味があるし、女の子と遊ぶのは楽しくて、いつも学校の教室では喋ったりトランプで遊んだりしている。でも付き合うとなると、話は別だ。
 この子と付き合ったとして、別れたあとどうする? 後腐れが残って、ひょっとすればお互いに拭いきれない傷を負うのではないか。そんなことを、自分は真っ先に考えてしまう。例えば好きな女の子が出来たとして、その子と付き合う、別れて苦しい思いをするのは、とても損だ。ならば初めから誰とも好き合わず、傷つかない生き方を守ったほうが得に違いない。
「そういうミキはどうなんだよ。今、彼氏は」
「いたけど別れた」
「今度は何ヶ月もったんだ?」
「さん」
「結構頑張ったな」
「まぁねー。今回はちょっと体裁良かったから我慢した」
 ミキはコウジと違って、次々に付き合う相手を替えるタイプだ。恋愛をすることに抵抗は全くない様子が羨ましかった。
「そんなに格好良かったのか」
「いやお金もってたし」
「え、まさか」
「イエス、ビバ社会人!」
「うっわ、不潔」
 露骨に嫌な表情を見せるシュウイチに、ミキはちっちっちと舌を鳴らして語り始めた。
「あのねー、今時の女子高生って言ったらこんなん普通よフツー。援交じゃないだけマシよ」
「ん? 援交とどう違うんだ」
 コウジの疑問。
「援交はヤってお金もらうから売春。アタシは、ヤることはヤるし、恋人としてお付き合いもして、報酬じゃなくてお小遣いを貰うからセーフなの? 分かる?」
「まぁ、ちょっと納得」
 多分、こういう女が近くにいるから女性に対して抵抗がちょっと出てしまうんだろうなと、こっそりコウジは思った。
 でも言ってみれば金だけの付き合いの方が健全なのかも知れない。
 恋愛は、とかく多くのことを相手に求めたがる。理解や安心、そして信頼や繋がり。肉体的な意味でも精神的な意味でも、常に互いが互いの支えにならなければならない。それがコウジにはとても煩わしいことのように思えたのだ。なぜ、二十四時間という限られた自分の時間を、他人の為に使わなければならない? なぜ、自分で溜めた金で相手の為の物を買わなければならない? 嬉しく楽しく思うのはほんの刹那。別れてしまえばガラクタ同然なのに。あとから振り返ってみれば無駄なのに。
 外はクリスマスの喧騒で溢れている。街中が、手を繋ぎ嬉しそうに歩く恋人たちで一杯だ。この中のどれほどの人間が、来年もまた同じ相手と手を繋いでいるのだろうか。
 一人でいれば、傷つくこともない。こうして友と集えば、楽しさだって得られる。これでいいじゃないか。そうなのだ。だから来年もまた一人でいよう。そしてここに来よう。どうせ、明日も明後日も、何日、何年とあとだろうが、きっとこうして三人は集い続けるのだから。




185: 名無しさん@パワプラー:09/01/18 12:55 ID:kI



 夜、仕事机の上の資料との睨めっこを休憩し、椅子に深く座って伸びをする。クリスマスイブで予定がある人が多いらしい。上司も部下も、多くがすっかり帰ってしまっていた。今日の業務はとっくに終わっているし、毎年のことなので気にはしない。むしろ、こうして誰もいない空間で、ひっそりと明日の分の仕事などしているほうが事もはかどる。
 休憩がてら、机の中にしまっておいた写真を引っ張り出す。写真と言っても、ただの写真ではなく、とびきりのサイズの上に、映る人の顔にはやたらと化粧がめかしこまれその上パソコンで処理などされているとんでもなく偽りに満ちた写真である。写真が丁寧に挟まれている硬い冊子。表には「寿」の文字。見合い写真だった。
 三十路近くにもなった公務員の実家には、こういった写真が多く送られてくる。今回は、二人の女性からお誘いのようだ。二人とも着物をしっかりと着こなして、大和撫子を気取った優しい微笑で写真に写っている。すぐにでも破り捨てたかったが、実家から送ってきた手前と、この冊子は返却しなければならない為、そんな荒っぽい真似はできない。
 二人とも二十八歳と、自分より一つ年下だ。彼女らの人生に想いを馳せる。どのように育てられ、どのように生きようと努力し、そしてどのような恋愛をしてきたのか。輝かしい青春の時代に、彼氏と手を繋ぎ、キスをし、将来を誓って、そして何気ないことで別れたのだろう。そしてこんな写真を、性格も知らない相手に送りつけるに至った。恋愛をし、この上なく愛し合った上でなく、もう年齢が年齢だからと形式張った結婚をするために。
 なぜ女性はこんなにも切り替えが早いのだろうと、いつも思う。別れた相手のことをすぐに忘れて、次に好きになった相手に全てを捧げ、また同じことを繰り返す。そして行き着く場所は情熱や愛情ではなく、とりあえず相手が公務員なら生活は大丈夫だろうという身の安全。あの恋に生きた時代はどこに行ったのかと思わず問答したくなる。
 上司から話を聞かされている中で、よくお子さんの話は出てくる。ウチの子はよく出来る子で、この前はテストで学年何位になっただとか、野球部でキャプテンをやっているだとか、そんな話が本当に多い。しかし不思議と奥さん自慢をする上司はとても少ない。ウチの女房と僕は学生時代以来の付き合いでねぇ、などと語ってくれた上司は片手で数えるほどもいない。彼らの結婚の多くが見合いや職場婚、親戚からの紹介などであることは一目瞭然であった。
 夫婦として生活する中で、愛情は生まれるだろう。子をかすがいとすることで、結束も生まれるだろう。しかしそこに、本当に自分にはこの相手しかいない、自分はこの人でないと駄目なのだという思いと、そんな人が傍にいてくれるという充足感はあるのだろうか。
 社会人になって、多くの女性と出会い、そして関係を築きかけてきた。だがついに関係が続くには至らなかった。分からないのだ。この人が本当に自分という存在を心から愛してくれるのかどうかが。例えば自分が不祥事で職を失ったとして、それでも傍に居続けてくれるのかどうか。この人は自分の、身分と結婚したいのではないかと先に考えてしまうのである。息苦しい。それに比べて金だけの関係のなんと楽なことか。
 写真に目を落とすのをやめて、机の引き出しに戻す。これは正月中に返却してしまおう。
 公務員の仕事は多い。やらなくてはならないことは少ないが、やろうと思ってやれることはとにかく多い。残業代など微々たるものだが、少なくとも家に閉じ篭っているより、ましてや女性と付き合っているよりも、はるかに自分にとってプラスになる。何よりこれに没頭していれば、何も考えなくてすむ。
 無駄なことはしない。世間はクリスマスイブだが、自分には関係のないことだ。
 少し無精髭の目立つ顔を一度パンとはたいてから、改めて仕事を再開することにした。




186: 名無しさん@パワプラー:09/01/18 12:55 ID:kI


 セックスのときは、誰だって相手を世界で唯一の人間だと思う。思うし、思ってくれる。例えプリマドンナでなくても、相手にとって自分は世界一の存在になって、ベッドの上ではキラキラと輝く。それが嬉しかった。ちょっとでも格好良いなと思った人を、自分の中に入れさえすれば、その瞬間だけは、その人が完全に自分の物になる。その瞬間だけは、アイドルでもなくヒロインでもなく、自分を見てくれる。それが気持ち良かった。
 一度その快感を知ってしまえば後はもう単純なもので、タバコやアルコールの中毒者みたいに、ミキはセックスにのめり込んでいった。しかし肉体的な快感を求め続けるセックス依存症とは違い、ミキが求めたのは精神的な安らぎだった。シュウイチやコウジと喋っているときとは違う、もっと別の安らぎ。
「アタシさ、自分でも異常だと思うよ」
「ん? どこがだい」
「だって色んな男とヤリまくってさ、別に何とも思わないんだもん」
「何とも思わないんだったらいいんじゃないか。嫌だと思いつつ止められないなら異常だがね」
「嘘、絶対マスター、アタシのこと気持ち悪いガキだって思ってる」
「僕はそう簡単に、人を気持ち悪いとは思わないよ。ほら、サービスだ」
 夜の帳が空を覆い始める頃、シュウイチやコウジと表で解散した後、ミキは一人で戻ってきていた。いつもなら街を歩くカップルでも冷やかしに行くかと悪ノリして大騒ぎするところであるが、今日はなんとなく、そんな気にはなれなかった。ただただ自分の晴れない胸の内を吐露する場所を求めて、カウンターに座っていた。
 もう閉店時間で、他にお客もいない。しかしミキを含む三人組だけは、表のCLOSEDの看板を無視することが許されている。
 あったかいココアをちょっと飲んで、甘ったるい味を舌で転がす。ミキの為にマスターがいれるココアは、メニューに載っているものより砂糖が多目なのだ。

187: 名無しさん@パワプラー:09/01/18 12:56 ID:kI
「……アタシさ、小さい頃、アイドルになりたかったんだ」
 立ち上る湯気を見つめながら、続ける。
「テレビに映って皆の視線を浴びて、他の誰でもないアタシを、唯一のアタシを、皆が観てくれる。そんな存在になりたかった」
 マスターは何も言わず、丁寧な手つきでコップを磨いている。閑散とした店内に、ミキの声だけが小さく響いた。
「なれるわけないって気付いたのは中学に上がってからかな。自分の平凡な体型と顔を、テレビの女優達と比べて、そして周りの美人な女の子たちと比べて、それで、気付いた。でも諦めきれなかった。もしかしたらって、ずっと考えてた。そして高校生になってから、好きな人が出来て、告白して、付き合って、セックスしたら、思ったんだ。繋がってる間、相手は自分のことだけを見てくれるって。その間だけは特別な存在になれるんだって」
 笑い声がする。店のすぐ前を、楽しそうなカップルが通り過ぎていくのが横目に見えた。
「そっからはもう早かったなぁ。気が付いたら小遣い稼ぎにも使うようになっちゃったりで、セックスって魔法みたいなもんだと思って、これさえあればなんでもできるって思って、ずっと……そればっか」
 そこまで言い終えたところでカウンターに突っ伏す。両腕に顔を埋めるようにすると、少しだけ外の喧騒から遠ざかったように思えた。
「マスター……アタシら三人組、もうダメかも」
 何の偽りも建前もなく、ただ本音で馬鹿なことを言い合える聖域。それが自分達三人組のつくり続けてきたものであり、またかけがえのない場所であった。誰も自分を偽ることをしなくていいはずのこの場所で、近頃ミキは、徐々に偽り始めている。
 彼氏と別れたなんて嘘だ。肉体関係だけを重要視してくる相手に嫌気がさしてきてはいるものの、金と体裁を捨てきれず惰性的に関係は持ち続けているし、更に言えば、彼氏なんてあと二人はいる。他校の先輩でちょっと顔がよくて、付き合ってれば友達に自慢できるからだ。
 ここまでのヨゴレを、シュウイチやコウジに吐露することはできない。軽蔑されてこの三人の関係が崩れ去ってしまうことをミキは恐れた。
 聖域を守りたいがために嘘をつかなければならない矛盾は、ミキの心の中で次第に大きな呵責となっていった。
「嘘ついてるんだよアタシ……アイツらにも、マスターにも……本当、馬鹿だよね」
 暫くの沈黙の後、ガタン音を立てて、意を決したようにミキは立ち上がった。
「マスター、ごめんなさい」
 俯き加減で言葉を紡ぐ。
「アタシもう、多分、ここには来ない。……来れない」
 一歩一歩を惜しむようにとぼとぼと店のドアまで歩いて、一度だけ振り返り、言う。
「今までどうも、ありがとうございました」
 カランコロンという音が、彼女にその言葉をそっくりそのまま返す。数秒の後に静まり返った店内では、マスターがただ黙ってコップを拭き続ける音が、いつまでも小さく響く。
 そしてこのクリスマスの日を最後に、もう三人が揃うことはなかった。




188: 名無しさん@パワプラー:09/01/18 12:57 ID:kI


 クリスマスの夜。恋人達が大盛り上がりするのは前日のイブであり、今日はオマケみたいなものである。
 ラジオをつけると、最近流行っているらしい歌が聴こえてくる。ゆっくりとしたテンポの、語りかけるような調子が特徴的な、近頃のアーティストらしい歌だ。癒しブームだかなんだか知らないが、最近はこういった静かな曲が若い世代に受けているようである。この辺にあまり感性が働かないのは、自分が少し歳をとってしまったからだろう。
 あの頃は自分の行動の源が何なのか分からなかったけど、今になってはよく分かる。ただ、若かったのだ。あんなに誰かが傍にいないと不安で、いつも誰かに見てもらえていないと不安だった自分はいつの間にかどこかへ消えて、ただ毎日の生活がそこに存在していればいいだけの考えを持つようになっていた。これが、大人になるということなのだろうか。
 ラジオから流れてくる曲に耳を傾けながら、洗面台で化粧を落とす。OLだって楽じゃない。上司の機嫌を伺って、メイクはきっちりきめておかなければ相手先の評価にも繋がる。男尊女卑の会社員として、女が生きていくには苦労が絶えないのだ。
 こうやってメイクを落とした後は、冷凍してあったご飯をささっと作ったスープの中に落として煮て、簡単なリゾットを作る。いつものメニューだ。一人暮らしだが、コンビニ弁当に頼る気にはなれなかった。そして結婚する気もない。人付き合いに疲れたのだ。
 どう足掻いてもマドンナにはなれない、そしてそれは仕方のないこと。無理をして背伸びをする必要はない。なんとなくそのことに気付いたのは、恥ずかしながら二十歳を過ぎてからだった。少し遅すぎた。遅く、大人になりすぎた。
 小さい頃に考えていた二十代は、もっと輝かしいものだったように思う。キラキラした化粧をして、綺麗な服を着て、高級そうなバッグを片手に街を闊歩する。ただのOLという職業にさえ、そんな姿を想像していた。

189: 名無しさん@パワプラー:09/01/18 12:58 ID:kI
 服を脱ぎ、下着姿でリゾットを作り、缶ビールを机の上にスタンバイし、一人で晩酌をする。一度短く切ったもののまた伸ばそうとしている髪は、もう少しで肩を過ぎようとしている。ふっと見やったテレビの黒い画面に映った自分の顔が、どこか疲れているような表情でこちらを見つめ返していた。
 BGMが変わる。ラジオが次の曲に変わったのだ。ふざけたラジオネームからのリクエストだったが、これは好きな曲だったので、文句は言わない。確か去年の今頃に流行った曲なのだが、こんな歌を、自分以外にもまだ覚えている人間がいたことに少し嬉しさが沸いた。

 信じていたんだ ずっとこのままだと
 大人になんか なるはずがないと

 流れてくる曲に合わせて、つい一緒に口ずさんでしまう。どこまでも時を遡ってしまいそうな懐かしさが、こみ上げてくる。

 憧れていたんだ ずっと小さな頃から
 手を伸ばせばきっと 届くはずだと

「ほんと、いつの間にか大人になっちゃったよね。アタシたち……」
 紫藤美紀はビールを片手に、アパートの一間で、くすりと笑いながら呟いた。


190: 名無しさん@パワプラー:09/01/18 12:59 ID:kI
 出会って別れた あの頃の人々は
 今も僕を憶えているのかな

「珍しいね、ラジオなんて聴いて」
「うん……これ、好きな歌なんだ。ほら、去年の暮れに流行ったやつ」
「昨日、あなたケーキ買ってきてくれたでしょ。今日食べるよ。ほら、アツシ呼んできて」
「ああ、そうだな。……そうだよ、大人に、なっちまったんだな……俺たち」
 浅岡秀一は妻子と食卓を囲み、その二人の笑顔を見ながらポツリと呟いた。

 たとえ小さな 記憶の欠片だっていい
 見てきたものを 忘れたくない

「おっと、聞き逃すとこだった」
「あれ? 先輩こういう歌好きなんすか? もっとロックな人かと思ってました」
「バカヤロウ、俺はセンチメンタルなんだよ。静かな曲の方がいいに決まってる」
「もしかしてまた結婚逃したんすか? そろそろ三十路ですよー。いい加減、身固めたらどうっすか」
「うるせぇ、俺は一人がいーの」
「ああ! 前見て前! 安全運転で頼みますよ!」
「……結婚結婚てな、面倒だなぁ、大人ってやつはよ……」
 谷津田浩二は後輩を乗せた車の中で、窓に映る繁華街のネオンに向かってぼそっと呟いた。

 seven-teen 気が付けば大人になって
 悲しいときの涙を あの激情を忘れた
 seven-teen あの頃の人々よ
 僕は今ここで歌う


191: 名無しさん@パワプラー:09/01/18 13:00 ID:kI

「アタシたちが十七のときかぁ……」
「俺たちが十七」
「十七んときだよなぁ……」

 信じていたんだ あの頃はずっと
 背が高くなれば もうそれでいいと

 疑わなかったんだ あの頃はずっと
 君がいつまでも そこにいると

「あの頃はさ、大人になるなんて考えなかったんだよね」
「いつまでも三人で騒いでるもんだとばっかり思ってた」
「最初に来なくなったのは確か……」

 笑顔を交わした あの頃の皆は
 今もどこかで笑っているの

 語った夢を ほんの少しだっていい
 憶えているのなら 忘れないで

「確か最初にアタシが行かなくなったんだよね」
「美紀がすっぽかしたんだよな」
「美紀が来なくなって、次に、多分俺だ」

 seven-teen 風よどうか届けてくれよ
 弱い僕のこの声を 小さな僕の言葉を
 seven-teen この空の下 生きる君よ
 僕は今ここで歌う

「そっから先は知らないんだけど」
「んで浩二が来なくなって、俺も行かなくなったんだっけか」
「どうしてんだろーなアイツら」

「結局高校卒業して一回も会ってないし、どうしてんのかなぁ、二人とも」
「アイツら、散々俺のこと馬鹿にしてたけど、結婚できたのかよ」
「秀一に彼女ができてたりしてな」

「ねぇみんな」
「なぁ二人とも」
「おいお前ら」

 seven-teen 風よどうか届けてくれよ
 弱い僕のこの声を 小さな僕の言葉を
 seven-teen どこかで確かに生きる君よ
 聴いてくれなくていい 叫ばせておくれよ
 seven-teen 気が付けば大人になった
 輝きの中に生きた 情熱の時代に捧ぐ
 seven-teen 傷だらけのこの歌を
 伝えたい for your heart

「アタシは元気だよ」
「俺は元気だよ」
「俺は元気だぞ」

 I never forget my 17 age.



192: 名無しさん@パワプラー:09/01/18 13:03 ID:kI
クリスマス編 song for 17 でした。
パワプロという世界にも、きっと野球とは殆ど関係のないところで進行しているドラマがあるに違いない。
そんな妄想から生まれたお話です。
本筋の樹やあおいなどとは一切関係のない話ですが、ちょこっとでも読んでいただけたら幸いです。
青春を大切に

193: 名無しさん@パワプラー:09/02/05 00:18 ID:W2

「分かっていると思うけど、これは内緒だよ」
「皆の力を貸して欲しいでやんす」
「小生からも、皆の尽力を請う」
 三人の言葉に皆が頷いたのは言うまでもない。
 かくして、何かが動き始めた。




 10.VS雲龍高校


 甲子園予選秋季大会。翌年に行われる春の選抜甲子園へ向けての予選大会である。世間は夏ほどの熱気に浮かされはしないが、球児にとってはどちらも同じくらいの価値を持つ大会だ。いままさに恋恋高校野球部は、この初めての秋季大会に臨もうとしていた。そしてまたこれは、初めて早川あおい抜きで臨む試合でもある。頼れる投手を一人欠いての試合、チームにとってこれほどプレッシャーになることもない。手塚が良い例だった。何せ二条の後には自分しかいない、しかもあの早川あおいの代わりを果たさなければならないのだ。いつもは試合前にも調子良くおどけてみせていた手塚だが、今回ばかりはそんな余裕もないようで、気を紛らわすようにひたすらブルペンで投げ込みをしていた。
 こちらにまで緊張が伝わってくるような震えた球を受けながら、樹は思う。
(やっぱやめといた方が良かったかな……)
 実は今日の試合は、度胸をつけさせるという意味で手塚を先発に指名してあるのだ。この試合に限っては二条が投げようと手塚が投げようと結果は同じなのだから、一年の内に大舞台を踏ませてやろうというのが加藤監督と樹の共通の意見だった。もともと勝負に出るような度胸が足りない手塚であるから、これを機会に一皮剥けてほしいのだが。
(うん、やりすぎかもね……)
 バックスタンドに掲げられた校名のボードをちらっと見やりながら、樹は嘆息した。
 本日秋の甲子園予選、第一試合は、恋恋高校対あかつき大学附属高校
 いくら主要選手が充実している恋恋とは言え、あかつき大附属のようなトップクラスの高校に敵うはずもない。勝負を諦めるということは嫌いな樹であるが、こればっかりはもうどうしようもなかった。
 相手側のブルペンに目をやると、よく知らない選手が二人、投げ込みをしている。やはり恋恋高校程度の相手では、かの猪狩兄弟の投入はないようだった。悔しいが、実績がないのだから仕方が無い。
 いつか見返せるほどのチームにしてみせよう。そう胸に誓いながら、樹は手塚の投げ込みに付き合い続けた。

あかつき大学附属高校戦 11−0 完封負け

 これが、今年の恋恋高校最後の結果だった。

194: 名無しさん@パワプラー:09/02/05 00:19 ID:W2

 秋の大会も終わり、野球部はどこか気だるい雰囲気に包まれ始める。高校に入ってから野球を始めた人間たちが、まともな試合を含めた高校球児としての生活を送り、そして一年のうちで最後の公式戦が終わったのだ。気が抜けて然りだろう。これに関しては樹やあおい、二条や矢部、加藤監督といった皆も特に口出しはしなかった。休息は必要である。少しぐらい気が抜けたって構わない。
 そして世間では野球の熱気が冷め、ここからはサッカーの季節になる。プロ野球も優勝候補があらかた決まってきて、全体の試合としては盛り上がらない時期だ。
 まだ寒くはないものの、日が落ちるのは早い。夕日が辺りをオレンジに照らし出し、どことなく時間が止まってしまったような雰囲気の街を歩きながら、二条神谷は一人考え事をしていた。と言っても大したことではない。学校の帰りに好きな夕飯の材料を買ってきなさいと母から言われたものだから、メニューをどうしようかと一思案抱えているのだ。チームメイトが聞けば思わず笑い出しているだろう。
 しかし神谷はいたって真面目だった。母の手料理が大好きである自分にとって、メニューはとても重要な項目である。夕飯の楽しさは即ち今この瞬間の自分の決断にかかっているのだ。
 手近なスーパーに入り、生鮮野菜コーナーを物色する。流行りのドラマにでも出てきそうな綺麗な顔つきをした男子高校生が、ジャガイモやニンジンと睨めっこしながら真剣に何かを悩んでいるところなど、傍から見れば随分と違和感のある光景だろう。
 神谷の好物は肉より魚、魚より野菜である。特にジャガイモとニンジン、タマネギなどの甘みある野菜には目が無い。だったらカレーで決まりだとするのは考えの浅い小市民たる証である。神谷は決してカレーなどという安直なものには流れない。甘味ある野菜は、とにかく天麩羅に限る。というのが、神谷の持論だった。むしろこれは古風な父に育てられた所為であるのだが。
 かと言って天麩羅でよしとするのもまた安直なもの。煮付けにするもよし、しかし肉じゃがという手もある。いやいっそ別の野菜を買って帰るかと、右へ左へ野菜コーナーをうろうろ。
 そして暫くののち、神谷は一人うんと頷くと、ようやく決定した野菜を買い物カゴの中に入れた。ジャガイモとニンジンとタマネギとカボチャ、ピーマンである。あんまり変わっていなかった。
 よし、今日は母にこれで何かを作ってもらおう。あえて内容はリクエストしない。料理得意な母ならば、これだけの材料があれば何か作れるはずである。自分は料理というものに造詣は深くないが、とにかく母の作る料理が美味しいことだけは知っている。ならば迷う必要なし。
 そして神谷は勇み足でレジに並び、来るべき夕飯を楽しみにしながら、会計を済ませる。
「こちらジャガイモが一袋、ニンジンが三、タマネギが二、カボチャが一、ピーマンが三」
 会計のおばさんが一つ一つ、内容を読み上げながらレジに打ち込んでいく。
「カーレールーが一」

195: 名無しさん@パワプラー:09/02/05 00:19 ID:W2
 予想外の単語が出てきた。
 神谷はきょとんとして買い物カゴを見つめた。なんと、まさしくジョンカレー(激辛)のルーがそこに入っている。いつだ、いつ自分はこんなものを入れてしまったのだ。これでは帰り道、夕飯のメニューを想像しながら歩くという楽しみがなくなってしまうではないか。驚愕しながら一瞬硬直した神谷だったが、その硬直は、すぐにとけることとなった。
「ああ、入れといたぜ。なんかカレーっぽかったから」
 背後からの声。知っている声だ。嫌というほど知っている声だ。ゆっくり、振り向く。
「おす」
 そこには昔から知り合いである男が、以前と少しも変わらない嫌味な顔をして立っていた。きゅっとつり上がったキツネ目が、その性格の悪さを強調している。
「久しぶりじゃん、神谷。んで早速だけどちっと話がある」
「……」
 無言で肯定の意思を告げる神谷。
 ぶつかり合う視線がいっそ痛いほど、張り詰めた空気がその場を支配していた。ゴゴゴゴゴゴ、とかそういう効果音がよく似合う。
 ゆえに、レジのおばさんと次に並んでいるお客は、いつ「そこをどいてくれませんか」と切り出そうかと暫く考えていた。



196: 名無しさん@パワプラー:09/02/05 00:20 ID:W2

「ったく一回戦敗退っちゃー情けねぇなーお前、ちっと気が抜けてんじゃねーのか?」
「手を抜いているつもりはないが、結果が追いつかないものは反論のしようがないな」
「周りに女の子ばっかだからって、流石の神谷も腑抜けになっちまったもんだぜ、ったくよー」
「お前は相変わらずだな。せめて我が家に来た時は言葉を正せ」
「可愛い子、紹介してくれたら考えてやるよ」
「断る。自分は婦女子の方々とは縁が無い」
「お堅いねー全く」
 やれやれといったように、出されたお茶を一気飲みする男。男とは少し言い過ぎかも知れない。彼は紛うことなき高校生であり、ついでに言うと神谷と同い年なのだが、その身体つきは痩身中背で、表情や仕草はから大きな中学生と言ったほうが適切である。落ち着き払った神谷との対比は一目瞭然であった。
 彼の名は紅咲憂弥。神谷とは中学時代の野球部のチームメイト、そして何を隠そう二条神谷という人間を野球の世界へ引きずり込んだ張本人なのである。今も強豪校で野球を続けているのだが、地区リーグが違うほど離れている為、滅多に会うことはないし、また彼の噂を聞くこともなかった。
 それで久方ぶりに会ったということで、神谷は彼を家に招き、応接室で茶など振舞いながら話を聞いていた。普段なら食卓についている時間であるが、旧友の話ならば致し方があるまい。
「それで、話の本題は何だ。手間が過ぎるなら機会を改めてくれ」
 座り心地の良い来客用のふかふかの椅子、それに深く腰掛けて腕を組み、いっそ図々しさすら通り越した様子を見せつつ紅咲は口を開いた。
「ウチの高校は、予選リーグで恋恋と当たることはない」
 今更のような確認。そんなことは、神谷も知っている。
「というわけでだ、やるぞ。練習試合」
 あまりに唐突な提案だった。流石の神谷も一瞬呆然としてしまい、しばしの思案の後で言葉を返す。
「……我が校と雲龍がか?」
「グローブ納めに丁度いいだろ。ウチが相手してやるって言ってんだ。ありがたく受けとけよ」
 挑発的な狐目で口元をニヤけさせる紅咲は、神谷の返事を待って視線をぶつけ合わせた。
 公立雲龍高校――生徒総数約九〇〇人ほどの、公立にしては少々大きめの学校だ。勉学には運動が不可欠という考えの下、スポーツ系部活への入部は必須となっており、特に武道系の部活に関しては日本有数の成績を誇っている。また他の部活も強豪として有名で、野球部は甲子園の常連だ。
 その名門を相手に、恋恋高校が果たして立ち向かえるか否か。答えは勿論ノーである。しかし神谷はこの提案をとても良いものとして受け止めていた。
 先日あかつき大附属に大敗した原因は、言うまでもなくムードメーカーたる早川あおいを欠いたことだ。野球は技術よりも何よりも士気に左右される。普段あって当然だったものがなくなっただけで、チームは大きく動揺していた。だからといってこのままでは駄目である。
 チームのリハビリとして、あかつきと同等の力を持った雲龍高校との試合はとても有意義なものなのではないか。そう思い立ったと同時に、神谷は返事をした。
「……そうだな、その申し出、有り難く頂戴しよう。話は自分が通しておく。よろしく頼む」
「うむうむ、くるしゅーない」
 深々と頭を下げる神谷を見て、紅咲はケラケラ笑い殿様のように手をひらひらさせた。しかし突如立場は逆転する。
「んでだ、俺は腹が減った。……というわけで二条! 頼む、飯くれ。家までもたねーわ」
 今度は紅咲が頭を下げる。神谷はいつものことと笑い、彼を居間へと通した。こんな性格の紅咲であるが、実は神谷の父二条宗次にはとても気に入られている。曰く、このふてぶてしさは大物の器らしい。
 試合になれば敵同士であるが、そうでないときは仲が良いのが高校球児というもの。その日は久しぶりの再会に、夜遅くまで話は盛り上がった。
 翌日、寝坊しそうになり朝慌てて身支度をしたものの、よく考えれば日曜日だったことに気が付いて一人恥ずかしい思いをしたのは、神谷だけの秘密である。



197: 名無しさん@パワプラー:09/02/05 00:21 ID:W2

 二条があの雲龍高校との練習試合を取り付けてきてくれた。この話に素直に樹はよろこんだ。何せ名前がろくに売れていない弱小校は、練習試合の相手探しにも一苦労するというもの。いくら夏にベスト8進出を果たしたとは言え、主力投手は出場停止。その結果の一回戦敗退。こんな体たらくで、近場の高校に練習試合など申し込めるわけがない。だからこそ、強豪校との練習試合なんて願ったり叶ったりだ。聞けば、二条の元チームメイトが、雲龍野球部にいるのだという。持つべきものは友達なのだなと実感するばかりである。
 雲龍高校とは地区リーグが違う為、甲子園予選で当たることはない。しかしその強さはあかつき大附属と張り合えるほどにあるということは重々聞き及んでいた。そんな強豪校と練習試合ができるなんて、本当に二条には感謝してもし足りない。
 ただ一つ――、
「ほらー、皆気合入れて練習しなきゃー! そんなんじゃまた惨敗しちゃうぞー!」
「頑張ってくださーい!」
 その試合が、今週末の日曜という急な日程である事を除いて。
 勝手な応援旗なんか作ってパタパタと笑顔で振っているはるかを尻目に、矢部ははぁと溜め息をつく。
「頑張っていいところ見せたいのは山々でやんすけど……」
「流石に数日でどうこうなるもんでもないしね。負けて当然、気楽にいこう」
 その横に並んでランニングしながら、樹が反応した。
「大体、雲龍高校って言ったら全国でも有名な文武両道の学校でやんすよ。運動そこそこ勉強真っ暗なオイラたちが勝てる相手じゃないでやんす」
「だから勝つ必要はないんだ……って、矢部君、俺を巻き込まないでくれるかな。勉強真っ暗に」
「何言ってるでやんすか。西条君とオイラの仲でやんすよ。一蓮托生でやんす」
「俺、この前の中間考査は赤点無し」
「へへん、そんなのオイラもでやんす」
「全科目の平均点六十八点」
「ゲゲェッっでやんす?! 西条君いつの間にそんなハイソサエティに行っちゃったでやんすか……?!」
「こらぁーっ! そこぉっ! 喋りながら走るなぁっ!」
 後ろであおいの怒声が聞こえたところで、二人はくすりと笑い、真面目にランニングすることにした。
 しかし樹には、少し気になることがある。今ブルペンで二条に向かって投げ込みをしている、手塚のことだ。あかつき大附属に大量点を取られてからというもの、しばらく落ち込んでいたかと思えば、今はああやってがむしゃらに投げ込みをすることで投手としての力量アップに努めている。その姿勢はとても評価できるものだ。
(だけど、ちょっと頑張り過ぎかな……)
 毎日の度を過ぎた投げ込みは、言うまでもなく投手生命そのものを脅かす。一心不乱に速球を投げ続ける手塚が、樹にはとても危なっかしく思えた。
「手塚、暫時休憩を取るべきだと思うが」
「いえいえ、まだヨユーっすよ! 先輩、あと五〇球お願いしまっす!」
 元気に言う手塚を遠目に見つつ、樹はともかくランニングをこなすことに集中した。


198: 名無しさん@パワプラー:09/02/05 00:22 ID:W2
「手塚」
 カランッ! という小気味良い音が響く。音に少し遅れて、夕焼けのグラウンドに空き缶が一つ転がった。
「え? あ、西条先輩! どうも、お疲れ様ですっ!」
「的当て? 上手いんだね」
「へへへ、実はオレっち、これ大得意なんすよ」
 ニヤけ面で言いながら、手塚はさっき地面に転がった空き缶を、もとの板の上にセットし直す。これを十八メートルの距離からボールで狙うのが、的当てというわけだ。コントロールアップを図るための、昔からある代表的な練習法である。
「見てて下さいよー!」
 そう言って振りかぶり、いつもと同じ投球フォームで放たれる白球は、見事にまた空き缶を射抜いた。カランッという音が、再び夕焼け空の下に響く。
「うわ、こりゃ凄いや」
「へっへーん、どうですかオレっちのコントロール!」
 手塚のコントロールの良さは、直球にしろ変化球にしろ目を見張るものがある。特に直球においては、二条に匹敵するほどの制球力だ。試合でのストライク率は常に九割に近く、ボール球は滅多な事では出さない。それが、手塚の最大の欠点なのだ。
「まぁ見てて下さいよ先輩! 次の、雲龍相手には、この前みたいにパカパカ打たれやしませんって! バンバンストライク決めて、ばったばったと三振に打ち取ってやりますよ!」
「なぁ手塚」
「なんすか? あ、先輩もやってみます?」
 調子良さそうにほいほいと片手でお手玉して見せる手塚。
「なんで試合で、もっとボール球投げないんだ?」
 その手が、ピタリと止まった。
 呆気にとられたような手塚の視線と、それを真っ直ぐ見つめ返す樹の視線とがぶつかり合う。睨み合うように時間が止まる両者だが、その緊迫感をもろともせず先に手塚がケラケラと笑いだした。
「ギャハハハハ! 何言ってるんですか先輩。ピッチャーがボール球投げてどうするんすか。ストライク入れてなんぼ! バッター追い込まない限りは始まらないでしょー!」
 そう言って再び投げられるボールは、やはり見事に空き缶を打ち抜いた。自慢げにへへんと鼻を鳴らす手塚。
 その指先がかすかに震えているのを、樹は見逃さなかった。



199: 名無しさん@パワプラー:09/02/05 00:23 ID:W2

 手塚の球質は、はっきり言ってかなり軽い。二条は勿論、アンダースロー投手であるあおいちゃんよりも。それは体格や体重などの差ではなく、ただ一つ、投げ方の問題だ。とは言え、投球フォームは最速投法のオーバースローであるし姿勢も綺麗でありそこに問題はない。あるのはもっと別のところ。
「というわけで、手塚のことをちょっと探ろうかと思ってさ」
『それで俺ですか……なんか、えらく直球ッスね』
 夜、自宅から樹は電話をかけていた。相手は勿論、手塚とは中学の頃からのチームメイトである円谷だ。こういうときの為に連絡網を作成しておいて良かった。ベッドの上に寝っ転がりながら、話を続ける。
「こういうことは早い方がいいかなってね。それで、手塚がボール球を投げることを嫌がるようなことが過去にあったの?」
『うーん、というか、なんでそんな突飛な話になるのかが分かんないッスよ。たまたま、近頃ボール球が少ないってだけじゃないんッスか? それに、ボールが少ないのはピッチャーとして良いことだと思うッスけど』
「少な過ぎるんだ」
 きっぱりと答えた。
「ボールを要求しても、手塚は意地でもストライクを入れたがる。あれじゃ駆け引きにならない。狙い打ちしてくれと言っているようなものなんだ。投手は何も、ストライクで勝負する必要はない。場合によっては、ボール球だけで三振を取ることだって可能なのに」
『…………』
「今度の雲龍高校との試合で、少しでもアイツには成長してもらわなくちゃならない。ストライクとボールを自由自在に投げられるポッチャーとして」
『中二の頃なんスけど』
 樹はそこで言葉を止め、円谷の次を待った。
『俺たちのチーム、地区決勝で逆転負けしたッスよ。……原因は、あいつ、手塚のワイルドピッチで』
 呼吸すら止めて、その言葉に聞き入る。
『一球じゃなくて、イニングスに三つぐらいッス。知っての通り、あいつ一度落ち込むととことん沈むッスからね。そりゃ酷い落ち込みぶりだったッスよ。……それからッスかね、あいつが、コントロールにこだわるようになったのは』
 樹は何も聞き返さなかった。聞き返さずとも、きっと円谷は全てを話してくれる。
『毎日毎日投げ込んで、足腰が弱いと思えば走って……周りが心配するぐらい頑張って、そんで、手塚は滅多なことではボール球を出さない、ワイルドピッチになる要素は一つもない、理想の投手ってヤツになったんスよ』
 樹は無言でベッドからのそりと起き上がり、礼を告げる。
「……ありがとう円谷、ようやく手塚の本音が見えてきたよ。今度、ジュースおごるから、それで勘弁して」
『お役に立てたなら結構ッス。んじゃ』
 ガチャリと電話の切れる音。ちょっと荒療治が必要になるかも知れないが、仕方がない。受話器をそっと耳から外して、樹は立ち上がった。



200: 名無しさん@パワプラー:09/02/05 00:24 ID:W2

 試合当日の朝。部員らは、恋恋高校グラウンドで相手を待った。大人数での移動ゆえ、自前のバスを持っているアチラの野球部がビジターになってくれたのである。本来ならば練習試合すら取り持ってはもらえないような実力差がありながらも、こういった気遣いをしてくれるとはやはり強豪校は何かが違う。
 ついでにその場でスタメンを発表したのだが、その内容に一人、不満がある者がいた。
「えぇぇえっ?! またオレっちが先発ですかぁっ?!」
 それはやはり手塚。この前のあかつき大附属の試合といい、強豪校相手はどうも気が引けるらしい。
「先発どころか、怪我でもしない限りは続投。投げきってもらうからね」
 笑顔で言う樹。しかしそれは手塚にとって、死刑宣告のように聞こえたに違いない。そ、そんなぁ〜と消え入りそうな表情でうなだれている。後ろからそっと肩を叩かれてそちらを見やると、あおいが耳を貸せというポーズをしていた。それに応じる。
「なに?」
「手塚君、この前ぼっこぼこになったばっかりなのに、また自信失くすようなことさせて大丈夫なの?」
 もっともな疑問だった。しかし樹には考えがある。
「ここで一つ、壁を越えてもらわなきゃならないからね」
「……どゆこと?」
 とそこで二条から声がかかった。
「並ばせてくれ西条。バスが来た」
 言われて振り向くと、側面に達筆で雲龍高校とプリントされたバスが、正門から入り、今グラウンドの横の大きな道路へと乗りつけてきていた。慌てて樹は部員を並ばせ、礼の体勢を作る。
 バスから降りてくる面々は、まさに強豪校に相応しい威圧感を纏っていた。見たこともないような筋肉を両肩にのっけてずんずんと歩く巨漢もいれば、見るからに足の速そうな中肉中背の者までずらりと高校球児がそろっている。
 よろしくおねがいしまーっす!
 恋恋野球部一同で礼をすると、あちらも並んでグラウンドに入る際に、言葉を返してくれた。
 そんなありふれた光景の中、少し異質だったことは、雲龍の一団から一人、こちらへとずかずか歩いてきた者がいたことぐらいである。狐目がヘビのように吊りあがった、しかし控えめに言っても二枚目の顔つきの男が、樹へと歩み寄ってくる。
「あ、おいまた紅咲が勝手な事……」
「マネージャー呼んでこいマネージャー!」
 そんな会話が向こうから聞こえる。
 男が前に立ち、睨みつけてくる。身長は樹より少し低いくらいだが、この男の威圧感は尋常ではなかった。少しでも油断したら喉笛を食いちぎられるのではないかという野生的な危なさが、この目からは滲み出ている。若干腰が引け気味になりながら、樹はなんとか逃げ出さないでいた。
「テメェが西条か……ふぅん、へぇ……ふーん」
 下から覗き込むように四方八方から樹をジロジロと見てくる男。
「よし」
 やがて何を思ったかと思えば、バッグからなにやら冊子を複数取り出し押し付けてくる。
「ほら」
「え?」
「転入届けと試験要項」
 そしてこちらの肩に手を置き。
「お前、雲龍に入れ」
 直後、酷く鈍い音が響いた。例えて言うなら金属で人間の一部位を強く殴ったときに鳴るような音。もっと言うなら、野球のバットで頭を強く殴ったときに鳴るような音である。


続きを読む
掲示板に戻る 全部次100 最新50
名前: E-mail(省略可): ID非表示