地震の予言


@3ch掲示板 > 地震の予言
全部1- 101- 201- 301- 401- 501- 601- 701- 801- 901- 最新50

地震の予言

1: 名無しのゴンベイ:11/06/14 17:57 ID:Ns
いろいろな地震の予言教えて

801: 名無しさんAA:18/10/01 10:44
  NEW 悪魔の聖杯 0055   ヤンガードリアス期の謎  ‐‐‐56  

 この洞窟で発見された骨から検出された遺伝子によって、この骨の持ち主の少女はネ
アンデルタール人の母とデニソワ人の父を持つことが分かった。ネアンデルタール人と
デニソワ人は我々と同じヒト属だが、違う種に属している。ネアンデルタール人とデニ
ソワ人は、ユーラシア大陸で同じ時期に生きていた。ネアンデルタール人は西方で、デ
ニソワ人は東方で、共に4万年前ごろまで生きていた。その後、ネアンデルタール人が
東に移住していくことで、デニソワ人や、現生人類の祖先に出会った可能性がある。ス
バンテ・ペーボ所長は、「ネアンデルタール人とデニソワ人が出会う機会はそれほど多
くなかっただろう」と話した。「しかし一度出会えば、私たちがこれまで考えていた以
上に頻繁に交配していたはずだ。」と言う。数年前にデニソワ洞窟でロシアの考古学者
が見つけた骨のかけらから、この少女の物語は始まった。独ライプツィヒで遺伝子分析
を行った。トロント大学のベンス氏は、「このかけらは長い骨の一部で、この人物が少
なくとも13歳に達していたと推測できた」と説明する。研究者らは、この少女の母親
はそれまでデニソワ洞窟に住んでいたネアンデルタール人より、西欧地域に住んでいた
ネアンデルタール人に遺伝的に近いとしている。ネアンデルタール人は絶滅する数万年
前から、欧州東西とアジアの間で往来を繰り返したことになる。遺伝子分析ではさらに
、デニソワ人の父親に1人以上、ネアンデルタール人の祖先がいたことも明らかだ。し
かし、ミステリーは まだ深い――。放射性炭素年代測定では、デニソワ人の化石は、
およそ5万年以上前ということしか分からない。ホモ・サピエンスは、およそ50万年前
にネアンデルタール人とデニソワ人から枝分かれしたと考えられるが、ミトコンドリア
DNAの解析によれば、ネアンデルタール人とデニソワ人は近縁でないかもしれない。
デニソワ人の容貌や体格も文化的な思考レベルや行動様式も、言葉を知っていたかも、
すべて謎のベールに包まれている。「ホモ・サピエンスは、およそ10万年前に中国に
到達していた。今後、アジア各地からデニソワ人の化石が出てくる可能性が高い。中国
湖南省の石灰岩洞窟(鍾乳洞)で発見された 8万〜12万年前の47本の歯の化石はデニソ
ワ人の臼歯によく似ている。」ホモ・サピエンスは、ネアンデルタール人やデニソワ人
と交流しつつ、異種交配(性交渉)を繰り返し、適者生存に有利なDNAを獲得した。
ネアンデルタール人からは、ホメオスタシス(恒常性)や免疫力を、デニソワ人からは
、チベットのような低酸素の高地でも自活できるタフネスを受け継いだ。ではこのホモ
サピエンスはどこで生まれたのか。それが欠損DNAではないだろうか。ガンマ線バー
ストである。

802: 名無しさんAA:18/10/01 10:45
  NEW 悪魔の聖杯 0055   ヤンガードリアス期の謎  ‐‐‐58   

 初めて周期彗星の存在に気づいたのは、イギリスの天文学者、エドモンド・ハレーで
ある。ハレーは、1682年の彗星の軌道が、1531年および1607年の彗星とほとんど同じで
あることに気づき、これら3つの彗星は同一の天体であり76年ごとに回帰すると推測し
た。ハレーはより正確な予測のために、放物線軌道を仮定して計算し、次の回帰は1757
年だと予測した。しかしハレーは、その日を待たずに1742年に死去した。かくして予測
は的中した。1995年に打ち上げられた太陽探査機SOHOは、明るさや軌道の関係で地球か
ら観測できないようなサングレーザーを多数発見しており、その数は2007年の時点で、
1,200個以上に達する。つまり我々の知らない所で太陽は隕石を次々と飲み込んでいた
のである。さて、隕石は彗星となって一体どこからやってくるのでしょう。1950年に、
オランダの天文学者オールトは、多くの彗星の統計的研究から1つの仮説を発表しまし
た。それによると、太陽から 2万〜10万天文単位のところに彗星の巣がある。というも
ので、これをオールトの雲と呼んでいます。現在太陽系から63光年の空間に存在するグ
リーゼ710(GL710)という恒星が、およそ150万年後に太陽から約1光年の位置まで接近
するため、仮にオールトの雲が存在するならば、近接する空間のオールトの雲はかなり
の影響が生じると予想される。海王星より内側の惑星には直接的な影響こそ及ぼさない
ものの、過去においてはこうした恒星の接近によって軌道を乱された彗星が太陽系内部
に飛来し、その一部が地球に衝突して、大量絶滅を引き起こしたとする説がある。ショ
ルツ星系は今から約7万年前に、太陽から5万2000天文単位(0.25パーセク、0.82光年)
の距離を通過したと計算されている。仮にショルツ星系の影響でオールトの雲から彗星
が散乱されたとしても、太陽系の内側に達するには200万年を要するとされる。この オ
ールトの雲は別名太陽系の果てとか太陽系の壁とか言われている。このオールトの雲の
中に形成されている天体の距離は離れているようですが数百万個の天体が集まると言わ
れており、質量は地球の約100倍以上とかなり大きい。太陽系の海王星の軌道の外側
にこうした彗星の軌道があると考えられている。ガンマ線もしくは粒子が消滅するとき
に放出する電磁波とされる。波長は10-12〜10-14m、エネルギーで表示すると0.1〜100
MeV 程度である。γ線はα壊変またはβ壊変、あるいは核反応に付随して放出され、核
種に固有な一定のエネルギーをもっている。γ線は一般にX線よりも高エネルギーで透
過力が強いので、工業分野での非破壊検査等に利用されている。つまり通貨性が高い、
高エネルギー体なのである。それでも核種に当たった時はその核の消滅を意味する。


803: 名無しさんAA:18/10/01 10:46
  NEW 悪魔の聖杯 0055   ヤンガードリアス期の謎  ‐‐‐59   
 一万二千五十年周期のガンマ線バーストでの欠損DNAが人体にも影響している可能
性がある。が周期説からすれば、12050年前 25100年前 32150年前 
50200年前となり4万年前などでない。強いて言うなら32150年前と言う事に
なる。ところがこのガンマ線バーストが周期的に起こる理由が未だ不明である。宇宙の
ブラックホールには事象の境界面がある。つまりそこを過ぎれば時間も質量もエネルギ
ーも閉じ込められるその境である。ではその集められたエネルギーはどうなるか。実は
駒に軸芯が必要な様に中心には噴水の様に飛び出るエネルギーがあるとされる。それが
ガンマ線と言われている。実はブラックホールは銀河系に一つで数多くある銀河団だが
一宇宙に一つとされる。そしてこの放射ガンマ線によって膜を張っている場所が出て来
る。不思議な事かも知れないが時間や色や音は単なる波動に過ぎない。現実界はどこま
でも3次元もしくは2次元帯である。それが惑星起動や土星の環の正体である。つまり
回る回転球体は力がかかって初めて回るが回転すれば中心が必要なのであろう。この噴
出されたガンマ線がなぜその回る宇宙に直角なのかそして膜なのかは今だ解っていない
。ただ銀河宇宙が球の様な中であるならどこまでも飛んでいくガンマ線が反射し、中心
に向かって跳ね返って来ることは考えられる。又ガンマ線同士がぶつかって更にガンマ
線が出るが飛んで行く方向は当然弱い処でありそれにコリオリの力が直角の渦巻きとな
ったとも考えられない事ではない。とういのも我々地球の自転軸も太陽の引力によって
同じ方向に回っている。もしこの銀河宇宙がこのカプセル状で外からの力がかかってい
るなら内側の銀河宇宙の回転とは全く関係なく回っていることもあり得る話である。地
球内部の雲が他の動きをしていたとしても同じ様に。更に太陽系の外に広がるオールト
の雲だが、これはなかなか分かっていない。ただ一説では隕石が砂浜の様に広がる環で
ないだろうか。と言われている。とすれば月ぐらいの隕石がごろごろある事にもなる。
不定形のこれらの隕石の動きがこうしたガンマ線バーストの様なエネルギー照射で地球
に向かって飛んでくる事は充分考えられる。地球は、太陽の近くですが止まっていない
。太陽から1億5千万km離れた所を半径として、1年間かかって1周する速さで動い
て(公転して)いる。ハレー彗星は、遠日点が海王星軌道近くにある海王星族の約76
年周期の彗星である。しかしビエラ彗星、池谷・関彗星、シューメーカー・第9彗星、
シュワスマン第3彗星などは長期周期彗星であり周期200年以上で最大365年と、
見られる。これらは公転軌道(離芯率の大きい楕円)の焦点に太陽があります。楕円軌
道の中芯(焦点)ではあっても楕円の中心にはありません。ハレー彗星は、太陽の周り
を周回する軌道で、太陽に衝突しない。

804: 名無しさんAA:18/10/01 15:34
  NEW 悪魔の聖杯 0055   ヤンガードリアス期の謎  ‐‐‐60   

 このハレー彗星でもシューメーカー彗星でも周期的にやって来ているこうしたものは
、彗星より小惑星と言った方が正しいだろう。こうした地球近くにやって来る小惑星を
「地球近傍小惑星」とよび「アポロ群」と呼んだ。このグループの小惑星としては最初
に発見された (1862) アポロにちなんで名づけられた。これらは地球より大きな軌道長
半径を持つ地球横断小惑星で極めて危険な存在として認められた。地球に非常に近づく
ことがあるため、潜在的脅威ともいえる。軌道長半径が地球のそれに近いほど、軌道を
横断するのに必要な離心率は小さくなる。又、離心率が大きいものだと近日点が水星よ
り内側にあったり、遠日点が海王星の外側にあったりすることもある。このアポロ群の
中で最大の小惑星は (1866) シシュフォスであり、10km前後と推定されている。ただ
問題は、この小惑星よりは小惑星と共に引き連れてやって来る小さな彗星群である。遠
くオールトの海とされる小石や岩石などの宇宙のチリ状態の物を衝突や引力などで引き
連れてやって来るからだ。この小惑星の引き連れくる彗星群はやって来る一年前からも
頻繁にやって来てその後3年間も箒の帯の様に同じ様な周期をついていくとされる。ロ
シアの隕石と同じに小さくともエネルギーがあり地球を変える。「チェリャビンスク隕
石」は映像が出来て、初めて一般に視聴出来るもので、石の表面が大気との断熱圧縮で
高温となり蒸発し、それらが冷却凝固した細かい粒子が見えている隕石雲と考えられて
る雲まで解析された。大気中の水蒸気が微粒子に結露した雲の中で火球は、その後9時
20分26秒に上空15kmから50kmで爆発し、複数の破片に分裂して落下した。その
衝撃はすさまじく直線上には衝撃波によって、多くの家を破壊した。窓やスレートは砕
け、ブロックや木造は殆ど揺れて多く家屋が損傷した。分解直前の隕石の推定される大
きさは、発表した機関によって異なるが、直径は10m前後(数mから15m)と見ら
れている。ロシア科学アカデミーの解析によれば、隕石の質量は10トン、落下速度は
秒速15km以上で、隕石が分解したのは高度30kmから50kmではないかと見られてい
る。地球の歴史上はこうした事がかなり多く現れた事象と思われている。デニソワ人の
モデルではネアンデルタール人やホモサピエンスとの混血がロシアからエジプトより西
に住み、デニソワ人とホモサピエンスの混血が同じ様に円弧を描くようにアフガンから
ロシアに住んでいた。と推測される更にスンダランド人や港川人などが同じ様に弧を描
いた様にまるで虹のように分かれて住んでいたと思われている。


805: 名無しさんAA:18/10/07 22:23 ID:2Hw
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐01   

 沖縄知事選は翁長氏が8月に死去したことで、予定された11月から繰り上がった。
与党は辺野古移設推進のため早々と前宜野湾市長の佐喜真氏を擁立し、これに対して、
辺野古移設での手続きを強引に進める政府に 抵抗し続けた翁長氏の遺志を継ぐ「オー
ル沖縄」勢力は、沖縄3区選出衆院議員だった玉城氏に白羽の矢を立てた。立憲民主、
国民民主に共産、社民など安倍政権と対立する主要野党の事実上の統一候補として戦い
を挑んだ。こうして知事の死去に伴う沖縄県知事選は、幕が上がった。30日の投開票の
結果、翁長氏の後継で辺野古移設阻止を掲げた前衆院議員の玉城氏(58)が、移設を進め
る安倍政権の全面支援を受けた前宜野湾市長の佐喜真(さきま)淳氏(54)=自民、公明、
維新、希望推薦=ら3人を破り、初当選した。落選の報に触れ安倍氏は「仕方がない。
」と呟いたという。玉城氏の得票は、39万6632票で、佐喜真氏に8万票超の大差をつけ
た。1998年の稲嶺恵一氏による同知事選での最多得票記録(37万4833票)も上回る圧勝だ
った。当然であろう。反保守を掲げる過激な島民も居る中で、伏せる病に翁長は「玉城
氏」を数ある予備群の中から後継者指名をして逝ったのだから。更に選挙戦最終日には
大型台風直撃の影響もあって、投票率は63.24%と前回をわずかだが下回る投票である。
まあ、期日前投票は有権者数の約35%に当たる約40万7000人と前回の2倍以上に増大し
ている事から既に玉城氏のバックに大きな平和主張の後援会達が暗躍していたのも力と
なっている。しかし、果たして、安倍政権が進めてきた普天間飛行場の辺野古移設に、
多くの県民は改めて反対の意思が示された事になるのだろうか。又、政府の移設計画が
滞る事態は避けられそうもないが、それが沖縄の為であろうか。また政治的には、政府
与党は、総裁3選で新たに3年の任期を獲得したばかりの安倍首相の率いる内閣と共に
日本国民とやって行く事になるのが、不都合とはならないか。確かに総力を挙げた県政
奪還の戦いでの完敗が、自民党のイケイケ主義の出鼻をくじき、党・内閣人事・行政手
法などに影響はあるだろう。又今後の発言次第では、同党内に"反安倍ムード"が広がる
可能性もある。慎重に内閣はならざるを得ない。これは日本の国民にとってはいい事で
ある。しかし、遅すぎではないか。今回でも首を横に振れば良かったものが、トランプ
米大統領と既にニューヨークで会談し、新たな2国間の関税交渉であろう「日米、物品
貿易協定(TAG)」の協議に入ることで合意している。首相は記者会見で、米国から
要求されてきた自由貿易協定(FTA)ではないと否定したが、専門家の間では馬鹿な
言い訳であり、事実上のFTAであると笑っている。

806: 名無しさんAA:18/10/07 22:24
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐02     

 何故日本が笑われるか。それがこの普天間移転も遅々として進まない現状である。中
国の南沙の3つ基地はたったの4年で完成である。5年目では、多分軍用運行となる。
こうした基地建設が簡単に出来る中国は、この模様に沖縄占領など大した事ではない。
と笑うのである。更にもう一つは、安倍政権が失策続きでアメリカの毒牙にやられてし
まっている事である。FTAは二国間貿易協定と言う大幅な意味合いであり、他民族の
国にありがちな貿易協定全般を示す。TAGと言い換えてもFTAには間違いでなく、
全く語尾や見かけを替えたのみで飾りでしかない。こうした小手先ばかりの改訳ばかり
で国際政治の中で日本は全く威厳を無くしてしまったのだ。例えば核合意も日本国民は
別に非核の誓いに合意しなくとも構わない。だがそれならそれで非核化を求めるなら、
核を持って非核三原則など捨てた政府で堂々とやるべきで、一方で核の傘に守られた中
で一方で非核を叫び一方でアメリカにすり寄って核兵器廃絶の合意協議には乗らない。
ならば広島・長崎の式典では核の悲劇でなく、戦争や悪意の悲劇を読み上げるべきだ。
森友・加計問題でもそうだ。加計学園の事務長が、行政に嘘をついた会議をした。とい
う時点で名誉棄損で訴えるべきだ。そして即刻この獣医学部を売り払う算段をすべきだ
。森友はさんざん叩かれて、実務の者を自殺者に追い込む様な地獄の鬼の様な所業が、
首長に許される訳がない。一方でこうした私文書偽造で幼稚園閉鎖を行いながら、一方
で事務局長が自ら嘘を言ったと言う公言詐欺には手につけないとは全くおかしい政府な
のだ。こうした事を正すのが行政である。それは、今回の税率の値上げにも通じていて
、自分さえ都合のよい事ならいいとした、甘えた自民党構造である。海の向こうの米国
も今や最高判事問題が噴出しているが、ここでも三権分立の精神が抜けて居て、さんざ
ん金融街と馴れ合いをしていた民主党のクリントン財団のやりすぎで、ウォール街との
反発でトランプが勝った。この勝ったトランプが全く政治力を独裁力と誤解した物言い
は、プーチンや習近平をベタ褒めした事でも解る。いやそれどころか今や北朝鮮の金氏
すら褒めている。つい一年前までチビのロケットマンとさんざん挑発し続けていたのが
今や、ICBMが本土に届く距離に開発されたら、手を裏返しもみすりして核廃棄合意
である。更に馬鹿なのは朝鮮半島の核廃棄に応じることで合意している事だ。


807: 名無しさんAA:18/10/07 22:24
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐03    

 経済学のほとんどは犯罪学である。如何に人を騙しゆすり、いい気持にさせて利得を
得るかである。それはユダヤ金融が、王家の金庫番だった時代からの伝統であろう。そ
の現実は今の経済学が博打資本主義を形作って居る事にも現れている。例えば囚人のジ
レンマと言う設問がある。AとBの犯罪者に、一つの餌である特典を与えて脅迫や交渉
を得ようとする西洋学の独特の考えだ。よく人質に鉄砲を突きつけて銃をすてろ。とい
う映画のシーンである。しかしこの人質を取ると言う手法を西洋でも不正義とするらし
いが、日本人が忌み嫌う事と欧米人が嫌う事は意味が違うらしい。日本人は時代劇など
はそういう事が起こった様に描かれるが、それは極めて稀れだ。何故ならその人質も又
ちゃんと飯を食べさせ働かせ人情に於いて行う。と言うのが日本の伝統で丁稚奉公でも
、近年までは、盆正月の小遣い程度が習わしだったのである。つまり飯や命は大事にし
たのである。従って人質の非道などがあれば仲間すらその首謀者を切り捨てた程の事が
多々あった。逆に欧米では農奴があり奴隷制度があった。日本でも身売りはあったが、
本人が納得しない限り行えなかった。逃走するからだ。そこで小さい子を丁稚や住み込
みで送ったが欧米では、古くから労働者としての搾取であり、言葉の解らない事も放置
されて働かされた。これは明治の頃の本でもその伝統がある事が解る。又家はそうした
夜盗からの砦であり、例え糞尿でも窓からやるか窓から捨てた。それが習慣だった。つ
まり危なくて外は一人で歩けない状態だったのだ。日本でも徳川綱吉時代までは、少し
だが雲助なる行商や野盗がいて、家の無い不審者がうようよいた。勿論大半は仏僧など
の様に寄付や奉納などで賄われたり野犬や魚などで自食はしていた。ところがそうした
物騒な者を一掃したのが「生類憐みの令」と関所の整備だった。関所内の各藩はそこに
秩序と村人の移動制限をかけ、憐みの令では、不届きものを勝手に取り締まり一般には
平和な社会が訪れた。では西洋ではどうだったか。常に領土争いと、その労働者の賠償
交渉がその王の国の経営だった。つまり食べる人数にはそうした捕虜なり奴隷は数には
入らず生産する収穫する労働者として捕まえられたのである。結局諸侯や国王は自分の
支配する者への褒美があれば良く家の中の家政婦までの家の食糧が賄えられれば良かっ
たのである。しかし、それでも城を護る事は必要だった。そこでサラリーマンの兵士が
出来上がったのである。城に住み込みの兵士と領地を守る兵士を雇用したのだ。



808: 名無しさんAA:18/10/07 22:26
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐04    

 ところが、実は領地は常に乗っ取られて、たまには隣国を攻める事も必要だった。攻
撃するときは、そこで出来たの督戦兵体制である。これはいつもの守備兵に農奴兵や雇
用兵を前に戦わせて逃げる奴や戦わない奴を追い込むのである。そこには作戦や武器の
優劣はなかった。只、数の力と金銭のみが優劣を決めたのである。そこに登場したのが
ゴマすり投資金融だったのだ。最も屈強な兵士と最新の兵器を融通して更に諜報や麻薬
販売などで国を疲弊させて国を富ませた。しかしその内彼らが力をつけると連合体がで
きた。相撲協会の理事選みたいなもので、そうなると大国になったフランツ・フェルナ
ンドのハクスブルク家とロシア皇帝ニコライが最強の後ろ盾であった。そこにイギリス
王女がフランスに嫁入りするとイギリスフランスが大国になるかとドイツは恐れていた
。更にボスポラス海はオスマントルコの支配だった。つまり西洋社会は南下するには、
常にオスマンやクビライなどの大帝国との戦いが待ち構えていたのである。経済学にお
いてもイスラムがもっていた宗教は大きな意味をもつ。西洋の学問において建築学でも
歴史学も現代科学も大きく影響している。今年も多くのノーベル賞学者を輩出するであ
ろう。しかしこれらの学者は先駆者であるだけで、何もない所から生まれてはいない。
つまり基盤としての、文化や素養やこれまでの研究結果があっての事だ。ここに大事さ
がある。つまり最新技術は結果なのである。そしてそれこそが経済なのである。まず、
経済を金の動きと勘違いしている。だがそれは違う、価値の拡大なのである。そして、
それは国家価値ではない。個人の価値でもない。人類の価値なのである。その人類価値
の動きを金に換えた計算で起こったのが経済と言う事になる。例えば石油と言う資源で
も車やガソリン機関やそうしたものに精製出来なければ価値がない。そもそもがそれに
見向きもしなかったら掘削もなかったろう。しかし、それを拡大させようと画策したの
がユダヤ人だった。よく陰謀論を否定する人がいる。だが陰謀とはなにかと言えば、人
に隠れて、こそこそと作戦を練る試みでありその行動なのだ。今の安倍政権や相撲協会
の様な事をを言う。これを日本国憲法は許さない。としているのである。政治家の派閥
と同じに政党すらも認めていない。すなわち政治結社の禁止事項なのだ。議員平等の立
場の保全だったのだ。これを侵害しない条件で政党がある。だが政府そのものが政党助
成金を行い、違法行為をしている。こうした事を知り得た上で経済論を言えば、概念論
であり、株式のインサイダー取引を規制し、空売り空買いを止め、実勢を反映した資料
がなければそれは本当の経済論とはならないのである。


809: 名無しさんAA:18/10/07 22:39
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐04    
 いまの経済論や金融工学は、学問ではないし、ましては科学ではない。そもそも王政
時代には多くの特権があり許されない事が一般市民にあった。その一つに人権や財産を
持つことであり、土地の所有や一定以上の財産や金銀財宝は持ってはならない事だった
。王とは人や森を含めた土地の所有者であり、人権や所有権のそれは、貴族とされる諸
侯までのものだった。その王さえも支配したのがローマ帝国で、庇護を受けたバチカン
支配があった。これが長い間続いたのだ。バチカンもイスラム教徒の考えが入り危機感
が募り、十字軍の遠征やイスラム文化との衝突で多くの消費があって疲弊した。この戦
いに募金を募り1100年代から百年も続いた。この遠征には市民の中にも大きな負担
があったが、その分、国は安定化した。又その募金から出た造船技術は欧州経済を変化
させた。海運業の発展は大航海時代を作ったのである。こうした文明・文化の発展は、
経済状態に大きく影響する。更にこの国内経済は国の組織内である事からも帝国の歴史
や存亡と大きく左右された。そもそもが「経済」と言う概念は今でも正体のないもので
、一般的には物流の動きと共に動く金の動きと採られられている。巨大なエジプトから
食糧を得ていた地中海の国々は、輸出入を行いエジプトに頼っていた。エジプトは農業
王国ではあったが、砂漠が広がって、エジプトは縮小しだして小麦の供給が逼迫した。
小麦価格が上がり、輸入量が大幅に縮小に及ぶと、この大国に攻め入ろうとする都市国
家が現れた。それがマケドニア王国のアレクサンドロス3世だった、通称アレクサンダ
ー大王(アレクサンドロス大王)である。コリントス同盟(ヘラス同盟)の盟主で、エ
ジプトのファラオも兼ねた家系で、ヘーラクレースとアキレウスを祖に持つとされたが
、それだけにギリシアにおける最高の家系的栄誉の下に生まれた宿命から食糧確保は、
責任があった。ギリシアでは都市国家間の争いが絶えずあり、こともとその食糧調達に
は難があり、小麦と魚介類が主食であったのは贅沢になったからだ。山が近く平原の少
ない海の街では、魚介類のみの食生活だった。贅沢な小麦で作ったパンとの共食となっ
て、パンや麺が主食に変わったのだ。このペルシア文明に大きな影響を与えたゾロアス
ター教の開祖であるゾロアスターは、古くからバクトリア人だった。伝説ではあるが古
くアケメネス朝時代以上にバクトラがゾロアスター教の中心地の一つであったことは明
らかで、拝火教の聖地がゾロアスター教の聖地と変わったのはゾロアスターが生まれた
からだ。アレクサンドロスはそこに食料があると信じていた。古いペルシアの伝説では
、ゾロアスターはアレクサンドロスの侵入より紀元前 258年前の人だとされている。彼
は70歳で死んだといわれているので、もしこの伝説をとるならば、紀元前6世紀ごろの
人物である。この時代はちょうどアケメネス朝の初期にあたる。

810: 名無しさんAA:18/10/08 07:43
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐05    
 いまの経済論や金融工学は、学問ではないし、ましては科学ではない。そもそも王政
時代には多くの特権があり許されない事が一般市民にあった。その一つに人権や財産を
持つことであり、土地の所有や一定以上の財産や金銀財宝は持ってはならない事だった
。王とは人や森を含めた土地の所有者であり、人権や所有権のそれは、貴族とされる諸
侯までのものだった。その王さえも支配したのがローマ帝国で、庇護を受けたバチカン
支配があった。これが長い間続いたのだ。バチカンもイスラム教徒の考えが入り危機感
が募り、十字軍の遠征やイスラム文化との衝突で多くの消費があって疲弊した。この戦
いに募金を募り1100年代から百年も続いた。この遠征には市民の中にも大きな負担
があったが、その分、国は安定化した。又その募金から出た造船技術は欧州経済を変化
させた。海運業の発展は大航海時代を作ったのである。こうした文明・文化の発展は、
経済状態に大きく影響する。更にこの国内経済は国の組織内である事からも帝国の歴史
や存亡と大きく左右された。そもそもが「経済」と言う概念は今でも正体のないもので
、一般的には物流の動きと共に動く金の動きと採られられている。巨大なエジプトから
食糧を得ていた地中海の国々は、輸出入を行いエジプトに頼っていた。エジプトは農業
王国ではあったが、砂漠が広がって、エジプトは縮小しだして小麦の供給が逼迫した。
小麦価格が上がり、輸入量が大幅に縮小に及ぶと、この大国に攻め入ろうとする都市国
家が現れた。それがマケドニア王国のアレクサンドロス3世だった、通称アレクサンダ
ー大王(アレクサンドロス大王)である。コリントス同盟(ヘラス同盟)の盟主で、エ
ジプトのファラオも兼ねた家系で、ヘーラクレースとアキレウスを祖に持つとされたが
、それだけにギリシアにおける最高の家系的栄誉の下に生まれた宿命から食糧確保は、
責任があった。ギリシアでは都市国家間の争いが絶えずあり、こともとその食糧調達に
は難があり、小麦と魚介類が主食であったのは贅沢になったからだ。山が近く平原の少
ない海の街では、魚介類のみの食生活だった。贅沢な小麦で作ったパンとの共食となっ
て、パンや麺が主食に変わったのだ。このペルシア文明に大きな影響を与えたゾロアス
ター教の開祖であるゾロアスターは、古くからバクトリア人だった。伝説ではあるが古
くアケメネス朝時代以上にバクトラがゾロアスター教の中心地の一つであったことは明
らかで、拝火教の聖地がゾロアスター教の聖地と変わったのはゾロアスターが生まれた
からだ。アレクサンドロスはそこに食料があると信じていた。古いペルシアの伝説では
、ゾロアスターはアレクサンドロスの侵入より紀元前 258年前の人だとされている。彼
は70歳で死んだといわれているので、もしこの伝説をとるならば、紀元前6世紀ごろの
人物である。この時代はちょうどアケメネス朝の初期にあたる。

811: 名無しさんAA:18/10/08 07:43
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐06    

ペルシア人がバクトリアに進出したのは、紀元前6世紀より古いとされる。この地には
かなりの農作物や貴重な鉱物があった。ペルシアがこの東方の聖地の豊かな地方を完全
に支配下に置くようになったのは、流通路確保にでたアレクサンドロス大王の大遠征の
時代からだったと言われる。その頃馬賊の遊牧民が、ラクダの商人隊を襲っていたのだ
ろう。北方のスキタイ部族にまで伝わった青銅器生産が整い大きな威力になったのだ。
この障害でバクトリアの北方国境を脅かしたスキタイ系のマッサゲタイ人と戦って戦死
したキュロス2世の死後、数年にわたって混乱が続いたが、紀元前522年にダレイオ
ス1世(在位:前522年〜前486年)が帝位に就いた。ここにキュロス2世によって建設
されたアケメネス帝国はここに完成する。これがペルシア帝国の素となった。この時、
ダレイオス1世はその広大な領土を再編成し、全国を30の行政区画(サトラッピ)に分
け、それぞれにサトラップ(行政人)を置いた。ここにおいてバクトリアはアケメネス
朝第12番目のサトラッピ(州)となり、中央に対する納付年額は360タレントと定
められた。この金額はアッシリアの納付額1000タレントと比べるとそれほど多いも
のではないが、当時の開発程度から見ては、少ない額でもなかった。紀元前512年、
ダレイオス1世はバクトリアを根拠地として西北インドに遠征隊を送り、西インドと、
紅海をつなぐ航路を開拓した。その結果として、インダス河口からペルシア湾に達する
貿易路が開設された。また、西北インドにアラム文字がもたらされ、カローシュティー
文字の起源はバクトリア経由のペルシアとインドの交流によるものと考えられる。こう
して、今のシリアを中心とした、トルコやイラン・エジプト・イラクを含めた中央アジ
アの巨大他民族国家が出来上がった。この頃から流通に税金をかけて街づくりをする。
という経済体制が出来上がっている。そうして言語も開発された。、西北インドにアラ
ム文字がもたらされて、カローシュティー文字が出来たが、その起源はバクトリア経由
のペルシアとインドの交流によるものと考えられる。アケメネス朝でクセルクセス1世
(在位:前486年〜前465年)が即位すると、バクトリア総督に、その弟のマシステスが
任命されたが、マシステスは紀元前480年のギリシア遠征に、バクトリア軍を率いて
従軍した。この遠征隊の中にはバクトリアのペルシア人とサカ人の騎兵隊が含まれてい
たという。

812: 名無しさんAA:18/10/08 07:44
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐07    

 バクトリアのサカ人の末裔は金を産出し金の長靴と金のチョッキと金の尖り帽子をか
ぶっていた。砂漠の中での正式衣装であったらしく、防備の為か、役人としての威厳な
のかは不明だがかなり凝った姿だった。中国ではこの姿から月氏とも目される。ヘロド
トスはサカをサカイと表記し、紀元前480年に クセルクセス1世(在位:前486年〜
前456年)のギリシア遠征に参加した部隊として、「尖がり帽子のサカイ」 について言
及している。『歴史』には「サカイ、すなわちスキタイは、先が尖ってピンと立ったキ
ュルバシアという帽子を頭にかぶり、ズボンをはき、自国産の弓、短剣、さらにサガリ
スと呼ばれる双頭の戦斧を携えていた。彼らは“アミュルギオンのスキタイ”なのであ
るが、ペルシア人がスキタイ人すべてをサカイと呼ぶため、彼らもサカイと呼ばれてい
た。」と記している。又『漢書』西域伝では、烏孫国の条「本(もと)は塞の地なり、
大月氏は西の塞王を破って敗走させ、塞王は南の縣度(けんど)を越え、大月氏はその
地に住み着いた。後に烏孫の昆莫が大月氏を撃破すると、大月氏は西に移って大夏を臣
従させ、烏孫の昆莫はこれに住み着き、故に烏孫の民には塞種,大月氏種がいると云う
。」と記している。これが西方のモンゴロイドの祖である可能性も強い。この紀元前の
ペルシア帝国も前には、メディア帝国の領域確保であった。インド・ヨーロッパ語族の
インド・イラン語派に属する古典語メディア語を話したメディア人が、いつ頃にイラン
高原に定着したのかは明らかではない。しかし、ギリシア語へ入ったメディア語人名の
研究などから紀元前2千年紀末(前1200年のカタストロフ)から紀元前1千年紀の初頭
に、他のオリエントの集団のガーサー語や古代アヴェスター語やヴェーダ語の話者の集
団と接触を持っていたであろうというメディア人が定着した。と推定されている。この
言葉の発展こそ経済の発展であり、思想の開花であったのだろう。ヘロドトスによれば
、デイオケスという人物が現れてメディアを統合し、エクバタナ(ハグマタナ)に7重
の城壁を巡らせて都とし、諸制度と儀礼を定めてメディアを一つにまとめた。アッシリ
ア王サルゴン2世の時代にマーダ(メディア)王ダーイウックという人物が登場する。
彼がデイオケスでありヘロドトスの記録がある程度正しいと考える説が有力であるが、
ダーイウックはサルゴン2世との戦いに敗れてシリア地方に追放されており、その業績
はヘロドトスの記録とは一致しない。と言う


813: 名無しさんAA:18/10/08 07:45
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐07−1   

 この後に、紀元前714年、メディア王ダーイウックは新アッシリア帝国の圧力に対
抗するためにウラルトゥ王国のルサ1世と同盟を結んでサルゴン2世と戦った。しかし
敗れて捕虜となり、メディアはアッシリアの影響下から抜け出ることはなかった。ヘロ
ドトスの記述は、次のフラオルテスの時代に大幅に領土を拡大し、ペルシア人を服属さ
せた。同時代のアッシリア語史料によれば、ダーイウックの跡を継いだカシュタリティ
(古代イラン語:フラオルテス)王の治世に、後世のメディア王国に直接つながる王国
の土台が完成した。ディオドロスの記録によれば、メディア王国の創設者はキュアクサ
レス1世(フラオルテス)であったとされている。このヘロドトスの記録はかなりの程
度信用できるとされている。それでも他の国の書物とは合わないことも多々残っている
。取り合えず地中海エーゲ海などの都市国家連合と、シリアなどの砂漠の河川や湖畔の
オアシス国家群とは昔から犬猿の仲だったのだ。こうして欧州側からアレクサンドロス
3世の大遠征が始まったのだ。アレクサンドロスは大英雄とみなされていた。旧約聖書
やコーラン、ゾロアスター教、シャー・ナーメなど多様な民族の教典に登場する。現代
でもアレクサンドロスの名に因んだ名前をつける人は多い。1941年からギリシャで発行
されていた旧1000ドラクマ紙幣や 旧100ドラクマ硬貨、1926年からアルバニアで発行さ
れた旧1レク紙幣などの肖像にも使用されたりした。このアレクサンドロスの作った国
の特徴は、そこにあった。マケドニア国家を作ったのは、アレクサンドロス1世である
。彼はヘーラクレースを祖先とするマケドニアの建国伝説を語り、ヘラノディコスから
ギリシア人であると認められた。この時のマケドニアの、議会政治や庶民生活は明確に
後世に伝えられる程花開いた。古代のアレクサンドリアは世界の七不思議の一つに数え
られる巨大なファロス島の大灯台や、各地から詩人や学者たちが集まっての学術研究所
ムーセイオンや、文学・歴史・地理学・数学・天文学・医学など世界中のあらゆる分野
の書物を集めた、70万冊の蔵書を誇っていながら歴史の闇に忽然と消えたアレクサン
ドリア図書館があった。又ヘレニズム時代の商業(地中海貿易)と文化の中心地として
栄え、『幾何学原論』で知られる数学者のエウクレイデスや、地球の大きさを正確に測
ったアレクサンドリア図書館長エラトステネス、アルキメデス、ヘロン、クラウディオ
ス・プトレマイオスなどが活躍した場所でもあり時代でもあった。1世紀には世界最大
のディアスポラを擁し、哲学者フィロンらが活躍した。


814: 名無しさんAA:18/10/08 07:47
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐07−2   

 ディアスポラとは、撒き散らかされた種を意味する。つまり移動する移民共同体を指
す。元の国家や民族の居住地を離れて暮らす国民や民族の集団ないしコミュニティで、
またはそのように離散すること自体を指すようになった者達だ。難民とディアスポラの
違いは、前者が元の居住地に帰還する可能性を含んでいるのに対し、後者は離散先での
永住と定着を望んでいる点にある。歴史的な由来から、英単語としては、民族等を指定
せず大文字から単に Diaspora と書く場合は特にイスラエル・パレスチナの外で離散し
て暮らすユダヤ人集団のことを指し、小文字から diaspora と書く場合は他の国民や民
族を含めた一般の離散定住集団を意味する。とされる。他の民族としては、近年は「ア
メリカ=メキシコ国境におけるチカーノ(下層移民)の分裂、黒い大西洋、海外の華人
、そして欧米の大都市で居住・労働するインド亜大陸出身の知識人」といった多様な文
化的枠組みを記述する上でディアスポラという術語が用いられるようになってきている
。この土地が栄え、またキリスト教発祥から重要な拠点となり、古代神学の中心地のひ
とつとなった。ローマ・コンスタンティノポリス・アンティオキア・エルサレムと共に
総主教座が置かれ、五大総主教座の一角を占めた。今でもアレクサンドリア総主教庁は
ギリシャ正教とコプト正教会のものは現在も存続して他宗教のバチカンの位置にいる。
 ここで起こった文化はローマの基礎となった。これまで他の支配者は隷属と管理の為
の宗教や言葉を強要した。しかし、このアレクサンドロスのローマ帝国は、領主を認め
その境界と、納付年額を変える事はしなかった。同じ様に制服領地からの税を取り立て
た。更に行ったのは金貨や銀貨の鋳造であった。これまでも各自の通貨と両替や換金は
大きな知識が必要だった。それがかなりに簡素になった。日本の様な参勤交代はしなか
ったが、ローマには領主が決めた商人によって決められた年額の貢物が届けられた。そ
うして大きくギリシャ世界は潤った。ペルシア側では、争いの因をなした境界からやっ
て来る人々はフェニキア人と読んだ。、多くのフェニキア人は、いわゆる紅海の地域か
らこちらの地中海に渡って来た人達で、彼らはやって来て場所に定住するや、たちまち
遠洋航海にのりだして、エジプトやアッシリアの貨物を運んでは各地を回り財をなした
。特にアッシリアの滅亡後は新バビロニア、次いでアケメネス朝ペルシア帝国に服属す
るが、海上交易では繁栄を続けた。そうしてローマ時代が来ると市民は国の義務を唱え
人頭税を敷き、日本の明治の様に税金を払う者を市民とし、代理徴収するものを議員と
した。この考え方は西安までも伝わった。つまり貢物で領域とし、税で領主として方針
を決めたのである。

815: 名無しさんAA:18/10/08 08:15
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐08    
 アケメネス朝ペルシャは古くて、粘土板や書物や、伝説からしか解らず、あまり詳し
いものではない。それでも紀元前525年にキュロスの息子カンビュセス2世(カンブ
ジャ)はエジプト(エジプト第26王朝)を併合して古代オリエント世界を統一したもの
の、エチオピアへの侵略には失敗し、その後衰退の一途であったようだ。先のフェニキ
ア人は交易を通じてローマとも交易がありビザンチン帝国といわれる東ローマ帝国を作
った。これは当然ペルシャとローマの戦いの舞台でもあったようだ。ペルシャの王が、
代々治めていたが、コスロー1世が亡くなった後は、波乱続きで、ササン朝ペルシアは
衰退の一途をたどった。後を継いだのが、オールマズド4世で治世が上手く行かず、彼
は590年にクーデターに遭い、恐ろしいことに両眼を潰された後に処刑されてしまい
ました。その次のコスロー2世の時代にも反乱が起こり、東ローマとの国境付近まで逃
げて王位は剥奪された。この後、スティニアヌス朝のマウリキウスの援助を得て反乱を
鎮圧するも、マウリキウスが602年に殺されてしまいました。これにより、コスロー
2世は、仇討ちとしてビザンチン・サーサーン戦争を起こしています。こうして、ビザ
ンチン帝国との長年に亘る争いとなったが、東地中海、レヴァント地方、シリア、メソ
ポタミアなどでは、戦争の煽りを受けて、東西貿易を衰退させることになりました。そ
れは、戦火を恐れた商人たちの避難を及ぼした。彼らは、アラビア半島南部ヒジャーズ
航路を利用し、メッカやメディアに逃げ込んだ為、このイスラム教社会が逆に繁栄した
。7世紀には、イスラーム勢力がアラビア半島を支配するようになった。637年にカ
ーディシーヤの戦いでササン朝ペルシア軍を破ってイスラム教が台頭した。当時の王の
ヤズデギルド3世は各地を敗走しますが、651年にメルヴで従者に殺害され、ササン
朝ペルシアはとうとう滅亡しました。ここからイランはイスラーム化し、ササン朝ペル
シア時代のイラン文化とイスラーム文化が融合し、新たな文化が起こっていきます。今
までは、拝火教すなわちゾロアスター教も国教を離れ虐げられて縮小廃退に陥っていく
。この拝火教の廃退は、結局経済に縮小に陥る元になった。結局戦争時代に変化したの
は、キリスト教やイスラム教の一神教だったが原因だったのだ。しかしこの多神教最後
のビザンチン洋式はかなりの文化程度で石造りの粋をして築かれて、重々しい雰囲気に
取り入れらいるアーチは尖り西洋の基本のデザインとなっている。つまりロマネスクと
ゆう「ローマ人の」洋式の半円が円弧の抱き合わせに変わるのだが、それは欲望の進化
であろう。それに疲れてルネッサンスが起きて又古典様式が見直されバロックに至る。
バロックはゴシックの持つ四角の壁に付けた柱を窓を大きく採光のために、外に出した
円形の柱に変えた形を取ったのだった。言わば凝った作りに変わり室内を明るく広くした

816: 名無しさんAA:18/10/08 08:16
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐09    

「ビザンティン帝国」は。「ローマ帝国」と称しつつも、住民の多くがギリシア系とな
り、620年には公用語もラテン語からギリシア語に変わった。これらの特徴から、7
世紀以降の「東ローマ帝国」や「キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国」と呼称
された。では本国ローマはどうだったか。実はローマが東西に分かれたのはもっと後の
歴史だ。ローマが先のフェニキア地方を制してが、ローマの体制を模した事から西ロー
マができた。260年、ローマ帝国の将軍であったマルクス・カッシアニウス・ラティ
ニウス・ポストゥムスは自立してローマ皇帝号を僭称し、帝国属州のガリア(ガリア・
アクィタニア、ガリア・ベルギカなど)、ゲルマニア、ブリタンニア、ヒスパニア(タ
ッラコネンシス、およびさらに南の平穏なヒスパニア・バエティカ)などを支配地とし
て事実上の独立国家を造り上げた。この国は274年まで4代にわたって存続した。こ
の時代には、ローマ帝国の軍人皇帝時代と呼ばれる混乱の時期であり、歴代の皇帝は、
ローマ元老院の承認を受けた正式の皇帝として何人かは重複して存在した。まだまだ各
地で自立を果たした多数の僭称皇帝が入り乱れて抗争を繰り広げていたのである。その
点ではポストゥムスに始まる「ガリア帝国」もそうした僭称皇帝の政権のひとつに数え
られる。しかし「ガリア帝国」と「パルミラ王国」だけは十数年にわたって実効支配を
継続して事実上の独立国家としての体制を整えることに成功した。その点でこの両国は
他の僭称皇帝の政権と区別されている。こうしてローマ帝国の支配時代が始まる。この
共和政ローマ時代征服した西ローマからやってきた王に復讐され、復讐した王も倒れて
一部の国に王不在が起こる。この事件で紀元前27年よりローマ帝国は共和政から帝政
へと移行する。ただし初代皇帝アウグストゥスは共和政の守護者として振る舞った。こ
の段階をプリンキパトゥス(元首政治国家)という。ディオクレティアヌス帝が即位し
た。しかしすぐに285年以降は専制君主制(ドミナートゥス)へと変貌した。つまり
ガラリアの支配である313年にコンスタンティヌス1世が、首都をローマからコンス
タンティノポリス(コンスタンティノープル)へ遷した。ここで、テオドシウス1世は
、古くからの神々を廃し、392年にキリスト教を国教とした。395年、テオドシウ
ス1世の2人の息子による帝国の分担統治が始まる。この以後に東方正帝と西方正帝が
支配した領域を、現在ではそれぞれ東ローマ帝国と西ローマ帝国と呼び分けている。こ
うして、古い多神教を排しキリスト教で国家宗教とする、神聖ローマ帝国体制が出来た
。神聖ローマ帝国はローマ教皇に即位を認められたローマ皇帝を君主とした国家である


817: 名無しさんAA:18/10/08 08:18
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐10    
「神聖ローマ帝国」の名称は1254年からのもので、それまでは「ローマ帝国」「帝
国」と呼ばれていた。理念的には復興した古代ローマ帝国で、帝国とは西ヨーロッパの
キリスト教社会全体を覆う概念でもあり、教会と教皇の守護者であるローマ皇帝は最高
権威をローマ教皇と二分していた。しかし皇帝が実際に持つ権力は封建制の下で制限さ
れており、フランスやイタリアはやがて皇帝の統治下から離れていった。皇帝に臣従す
るドイツ諸侯や都市もまた領地支配における特権を拡大していき、300以上に分裂し
た教会領、公領、侯領、伯領、帝国自由都市、その他小貴族の領地は半ば独立した政体
となった。近世の神聖ローマ帝国は複数の民族から構成されるドイツ地域の国家連合に
近いものであった。 日本では通俗的に962年のオットー1世戴冠を神聖ローマ帝国の
始まりと見なし、高等学校における世界史教育もこの見方を継承している。しかしドイ
ツの歴史学界では西暦800年のカール大帝戴冠を神聖ローマ帝国の始まりとするのが
一般的である。こうして、バチカンが築いた承認状や委任状が権威を持ち続け 前近代
までその影響を持ち続けた。さてこれが長い間の一神教信仰者を増やし続け、他の神を
信じないとした信者を獲得し続けたのだが、その中に原理主義者と言う他の信者を許さ
ない信徒の集団まで作った。それが十字軍の遠征でイスラムと戦う口実だったのである
。この神聖ローマ帝国は不思議な嘘に満ちた世界だった。国民を閉じ込める嘘と経済的
に搾取する言い訳が共存していた。いわば妖怪を信じながらも比叡山を焼き討ちする様
な戦国時代みたいなものだった。教義では金儲けや利子や手数料は違法だったが、教会
や国主は盛んに別の名称で取り立てた。貢物あるいは寄付や慈善事業の類での金儲けは
日常茶飯事だった。ガリレオ・ガリレイが天動説を唱えて異端尋問が行われたが、実は
古くは天動説が主流であり、知識者はほとんどが地球が四角でこの大海の向こうは滝で
水は下に落ちているなどとは信じていなかった。かと言ってバイキングのような船乗り
の言うことは信じては行けなかった。このローマ帝国の拡大や進化によって一つの矛盾
が生じた。それは、ペルシャがローマとイスラムと戦い疲弊してる間に中国が大きくな
ったのだ。中国も戦国時代を経て国内が収まり、西洋の中央集権化を真似て巨大帝国と
なっていった。その平和で中央アジアは縮小され戦乱に明け暮れチンギス・ハーンの下
で大帝国の素を作っていた。後で築いたモンゴル帝国は、軍隊だけでなく先進的な国家
システムをもっていた。実はこのシステムこそが、世界の経済や金融に大きな影響を与
え、また後の「大航海時代」のきっかけともなっていく。当時のモンゴル帝国は間違い
なく世界最大の帝国であり、最強の軍事国家でもあったからだ。


818: 名無しさんAA:18/10/08 08:19
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐11    

事実として、アレキサンダー大王のマケドニア王国以上の領土を誇ったのです。しかし
彼らの経済政策の特徴は「いい加減な寛容と洗練された軍隊」にあったといえる。とい
える。自分達が元々もっていた文化や宗教を征服地に押し付けることはなかった。占領
地の文化や伝統を容認し支援すらした。むしろ有用な考え方は積極的に取り入れたのだ
。その政策が結果として、それぞれの地の優れた文化を集め、洗練することに成功しま
し、それがユーラシア大陸からヨーロッパの一部に至るまでの帝国全体に、多くの恩恵
をもたらすことになった。実は紙や磁石や火薬は、中国で作られたとされるが中国では
なく、チベット文化が伝わって、オアシス都市国家で秘法として使われていた可能性が
強く、また瓜やブドウや蜜柑類は、この痩せたこの土地からの発祥である可能性もある
。彼らの下で栄えたもっとも優れた経済システムは「投資」と「配当システム」といえ
る。まず、大帝国の下で諸国家の乱立がなくなり、「関税」が一括処理になったため、
遠隔地貿易の儲けが増えた。特にモンゴル帝国は宗教に寛容だったため、各地で頻繁に
起こっていた宗教対立に直接的に関ることが皆無になった。そのため様々な宗教を信奉
する商人達が、敵対する宗教者でもそのオアシス国家を通り抜け、さらに味方にする事
もできた。特に支配地の中近東では、当時「オルトク」というイスラム商人集団が大規
模なラクダ商隊での交易活動を行っていた。モンゴル帝国は征服した地の商人は帝国の
下で積極的に保護したので、彼らもモンゴル帝国の庇護下の下で活動するようになり、
さらにはモンゴルの王族達によって、帝国の流通通貨である「銀」を貸し与えた。つま
り今でいう「貢物」は「物の投資」であり、庇護と献上の関係にあった。皇帝すらそう
であったし、商人に信用貸付も行っていた。商人達は帝国が建設した施設を、優先して
使用することができ、交易で得た利益を王族達に還元するというシステムができていき
ました。さらには一元化されていた「関税」システムも商人達の自由な商業活動を促し
、結果としてその広い国土の間で活発な交易が行われることになりました。このように
モンゴル帝国の時代、ヨーロッパ、中近東、東南アジア、中国にまたがる広大な地域に
おいて、自由な交易が行われた。その結果、世界的な流通革命を起こる。つまり知遇を
得た地域同士は船でも交易したのである。ここでヨーロッパとアジアの交易が盛んにな
るきっかけとなり、モンゴル帝国以降に航海時代が生まれた。

819: 名無しさんAA:18/10/08 14:01
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐11    

事実として、アレキサンダー大王のマケドニア王国以上の領土を誇ったのです。しかし
彼らの経済政策の特徴は「いい加減な寛容と洗練された軍隊」にあったといえる。とい
える。自分達が元々もっていた文化や宗教を征服地に押し付けることはなかった。占領
地の文化や伝統を容認し支援すらした。むしろ有用な考え方は積極的に取り入れたのだ
。その政策が結果として、それぞれの地の優れた文化を集め、洗練することに成功しま
し、それがユーラシア大陸からヨーロッパの一部に至るまでの帝国全体に、多くの恩恵
をもたらすことになった。実は紙や磁石や火薬は、中国で作られたとされるが中国では
なく、チベット文化が伝わって、オアシス都市国家で秘法として使われていた可能性が
強く、また瓜やブドウや蜜柑類は、この痩せたこの土地からの発祥である可能性もある
。彼らの下で栄えたもっとも優れた経済システムは「投資」と「配当システム」といえ
る。まず、大帝国の下で諸国家の乱立がなくなり、「関税」が一括処理になったため、
遠隔地貿易の儲けが増えた。特にモンゴル帝国は宗教に寛容だったため、各地で頻繁に
起こっていた宗教対立に直接的に関ることが皆無になった。そのため様々な宗教を信奉
する商人達が、敵対する宗教者でもそのオアシス国家を通り抜け、さらに味方にする事
もできた。特に支配地の中近東では、当時「オルトク」というイスラム商人集団が大規
模なラクダ商隊での交易活動を行っていた。モンゴル帝国は征服した地の商人は帝国の
下で積極的に保護したので、彼らもモンゴル帝国の庇護下の下で活動するようになり、
さらにはモンゴルの王族達によって、帝国の流通通貨である「銀」を貸し与えた。つま
り今でいう「貢物」は「物の投資」であり、庇護と献上の関係にあった。皇帝すらそう
であったし、商人に信用貸付も行っていた。商人達は帝国が建設した施設を、優先して
使用することができ、交易で得た利益を王族達に還元するというシステムができていき
ました。さらには一元化されていた「関税」システムも商人達の自由な商業活動を促し
、結果としてその広い国土の間で活発な交易が行われることになりました。このように
モンゴル帝国の時代、ヨーロッパ、中近東、東南アジア、中国にまたがる広大な地域に
おいて、自由な交易が行われた。その結果、世界的な流通革命を起こる。つまり知遇を
得た地域同士は船でも交易したのである。ここでヨーロッパとアジアの交易が盛んにな
るきっかけとなり、モンゴル帝国以降に航海時代が生まれた。


820: 名無しさんAA:18/10/08 14:02
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐12    

 また、モンゴル民族は耕作地に入植したり、戦争によって農地を獲得したりして農業
を拡大しようという発想は特に無かった為領土の境界紛争は無かった。元々が遊牧民で
あり、移動しながら生きている人々でしたから当然といえば当然だが、そのため戦争に
よって占領した肥沃な土地に、モンゴルの人々が押し寄せてくるということはほとんど
なかったのだ。そして上記の統治システムが根幹にあるため、占領地の住民は税金さえ
払っていれば、以前とほぼ同じ生活ができたのである。そして、この時代のヨーロッパ
とは違い、宗教対立には帝国はほとんど介入せず、それぞれの宗教に寛容だったため、
各々の地域の商人たちは活発に活動することができた。キリスト教のマルコポーロでも
、イスラム教の指導者でも仏教の高僧でも関係なく取り込み、そばに置いた。世界レベ
ルでの知識は、そのおかげでお金の流れをモンゴル帝国が作り出すことができた。流通
革命はここに起こった。それはオスマン社会の拡大でもあった。オスマン社会とはオス
マン帝国範囲内に居住していた全ての人々を指す言葉で、オスマン社会は「ムスリム」
と言うイスラム教徒集団と非ムスリムと言う旅行者や住民や商人など双方から構成され
ていた。非ムスリム達はジズエと呼ばれる税を納めることを除けば、社会からの差別の
対象とはされていなかった。ムスリム社会の生活はシャリーアによって形作られており
、異なる国の宗教や習慣といった、オスマン帝国外の生活様式を守ることも可能であっ
た。社会の管理階級と被管理階級として、通時的な方法で2つの階級に分けることが出
来る。階級間の移動は禁止されていたわけではなかったが、制限は存在した。こうした
制度、つまり領土の支配や占有ではなく、利用と徴収は今の民主主義の基幹となった。
実はこうして広まった銀貨や金貨か一般に流通し、物々交換から抜け出した世界を王族
以外でも使い初めてやっと経済学となった。それまでは軍事による強制であり、国家間
の物流でありとても経済学といえるほど公式な統計も方程式もあろう筈もない状態だっ
た。イスラーム草創期には、イスラーム政権の王のは、非イスラム教徒も一緒に地域の
庇護をしなければならなかった。その庇護下にあるユダヤやキリスト教徒はズィンミー
と呼ばれ、このズィンミーから徴収される「庇護(ズィンマ)の賦課」はしばしば敬虔
な教徒を上回った。「ズィンマ」は貢納や租税一般を指したものであった。内容は地域
差がおおよそあったが、大体においては地租と人頭税を併せたものであった。



821: 名無しさんAA:18/10/08 14:02
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐13    

 イスラーム大征服時代から、伝統的にイスラーム法におけるハラージュで、土地に対
する課税のことであり、人頭税ジズヤに対して、土地や家畜に課する租税まで行い、非
ムスリムの生産活動には租税しないズィンマとは違って大きく払う事が義務なっていた
。ハラージュは、イスラーム教の預言者ムハンマド(ムハンマド・イブン=アブドゥッ
ラーフ=マホメット)が、アラビア半島に住むユダヤ教徒の農地の支配に、農民からの
収穫物の半分を貢納させたことに端を発する。といわれる。当時のアラビアでは、まだ
土地そのものに対する課税がなく、ムハンマドはユダヤ教徒とキリスト教徒からは「ジ
ズヤ」と称される人頭税と、アラブ人からはムスリム(イスラーム教徒)の宗教実践(
勧善五行)のひとつとして「喜捨」の意味も有する僅少なザカート布施を徴収したのみ
であった。ザカートは一種の義務的な救貧税で、家畜や農産物の現物徴収であった。こ
の時の異教者への差別は市民の常識になっていた。しかし632年のムハンマドの死後
、正統カリフ時代(632年〜661年)と呼ばれる時代となるが、戦乱から逃れて来た難民
が押し寄せ、イスラーム世界は急速に拡大し、広大な領域を支配するようになった。こ
の中で不平等は国内破壊につながる事でほぼ同じ税の金額に代わって行った。ところが
、この避難民の押し寄せて来た土地は、アラブの民の征服地で、元来アラブ人はイスラ
ム教ではなかった。征服途中に征服地で出会っている。政治的・軍事的に優位な地位に
あるアラブ人が、非アラブ人や非ムスリムを支配するために彼らから人頭税(ジズヤ)
・土地税(ハラージュ)を徴収する制度が新たに採用されたのは無神教徒のアラブ人だ
ったからだ。しかし互いに利用してそれぞれ拡大した。ウマル1世自身も、シリアやパ
レスティナ全土の住民に対しジズヤとハラージュの支払いを負う代わりに安全保障の権
利(アマーン)を確約する和平条約(スルフ)を結んだ上で徴収している。ここでは、
イスラームの教えを強制することなく、被征服民の宗教や慣習、言語などの尊重された
。アラブ征服時代にイスラーム政権に下った各地の先住民達は、全て「ズィンマの民」
=ズィンミーとして扱われ、「聖書」を奉じ、神の啓示と一神教を信仰するユダヤ教徒
やキリスト教徒達は「啓典の民」として偶像崇拝をおこなう他の宗教の信者と区別して
優遇された。又後のイラン高原や中央アジアへの征服が進むと、その地域にいたゾロア
スター教徒の住民たちも、同じく「啓典の民」として扱い、歴史家が伝えるところでは
、その後の北インド遠征でも、降伏した仏教勢力の人々に対しても、モスクの建設や、
ズィンミーとして租税を課す代わりにズィンミーとして従来の信仰や生活が保障された


822: 名無しさんAA:18/10/08 14:03
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐14    

 しかし被征服民でイスラーム政権を認め、イスラーム政権からの庇護(ズィンマ)を
受けた非ムスリムの人々の「ズィンマの民」ズィンミー達への差別の要求は年を追う毎
に高まって行った。しかしこうした声において王朝第8代カリフのウマル2世は、首都
ダマスカスのあるシリア近辺に住む改宗者は初期段階でムスリムとなったにもかかわず
アラブ人ムスリムとのあいだに税負担の不平等があることに大きな不満をつのらせてい
た。こうした不満をみてとり、また、ズィンミー(異教徒)のイスラームへの改宗を奨
励しようとして、ズィンミーとマワーリー(非アラブ人改宗者)の租税負担に差を設け
る必要をうったえ、マワーリーからのジズヤ(人頭税)徴収を停止しようとした。ホラ
ーサーン総督ジャラーに対して「メッカの方向をむいて礼拝する者には、すべてジズヤ
を免ぜよ」と命じたのは、そのあらわれである。その命令によって集団的な改宗が起こ
り、税収が打撃を受けたため、ジャラーは、税金のがれのための手段として改宗してい
るだけだから、その証しとして割礼を義務づけるべきだと申し出た。しかし、ウマル2
世は「神は割礼のためにムハンマドをつかわしたのではない」と応えたという。ここに
来て多くの帰化難民がイスラム教となった。しかし8世紀半ばのアッバース革命によっ
て、「神の前におけるムスリムの平等」が実現し、それまでの非アラブ人に対する税制
上の差別待遇が撤廃された。ムスリムであれば非アラブ人であってもジズヤ(人頭税)
は課されず、その一方で「アラブの特権」は排されて、アラブ人であっても土地を所有
していればハラージュ(土地税)が課されるようになったのである。こうして、ジズヤ
はもっぱら非ムスリムに対するものとなったが、16世紀以降イスラーム王朝としてイ
ンドを支配したムガル帝国第3代皇帝のアクバルは、インドにおいて多数派であるヒン
ドゥー教徒の宥和のため、1564年、ジズヤ(人頭税)の徴収を廃止した。ただし、第6
代アウラングゼーブは非ムスリムに対してのみジズヤ(人頭税)を復活している。非ム
スリムはジズヤを支払うことにより、制限つきではあるもののズィンミー(庇護民)と
して一定の生命・財産・宗教的自由の保証が得られた。ジズヤ(人頭税)は本来聖書を
奉ずるユダヤ教徒やキリスト教徒、いわゆる啓典の民に対するもので、それ以外の非ム
スリムには改宗を迫ることが原則だったが、イスラム世界の拡大によって実質的にはす
べての非ムスリムに対するものとなっていった。そしてその仕組みが中世のキリスト教
圏に伝播して非道な行為の手本となって行った。



823: 名無しさんAA:18/10/08 14:04
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐16   

 経済学の語源「economy」という英語の語源はギリシャ語「オイコノミア」である。
この言葉は、クセノフォン(BC.430〜354ごろ)が用いたことで知られる。 この言葉は 
「家」を意味する oikos と、「法律・法則」を意味する nomos を合成したもので
ある。つまり、自分の家産をいかに管理するか、というのがオイコノミアの原義であり
、 日本語では「家政」という言葉が最も近いように思われる。 ポリスは家の延長とし
て把握されていたのである。ところがこの「家」の概念は小屋に近い。何故なら男性も
女性もある年が行くと集団的営舎で今の学校教育的に働かされる集団生活に入れられた
。又、成人を過ぎると結婚するまで自国以外で自営しなければならなかった。つまり、
紀元前の国家観念は労働者でしか市民をみなしていなかったし、幼児〜少年までは管理
するが少年〜青年期は兵士養成に盗みや殺人や農耕を他国でさせていたのである。この
幼馴染の小集団こそが「家」であり「自給自足」を強いられた彼らは家庭をもっても、
この野営長の集会命令には出なくてはならなかった。つまり年に2回以上は外で生活を
強いられたのである。こうした集団活動にも当然貧富の格差があった。ソクラテスは、
政治階級の美徳を知恵といい、軍人階級で国防が仕事で勇気を美徳とする事を唱えて、
労働者階級も生産が仕事あり節約節制を美徳とすべしと諫めている。アリストテレスは
こうしたソクラテスやプラトンが唱えた理想の国家論を批判した。婦女子の共有も、財
産の共有も否定した。その頃婦女子は兵士になれない=市民ではない=奴隷と同じ存在
と認識されていた。これは都市国家ならでは国防の観点からだった。そうしたプラトン
批判は、「財産を共有して共同に使用する者の方こそ、財産を個々別々に所有している
者よりはるかによけい争うのを実際に見る。」という経験にもとづいたものであった。
また共有では共有財産への配慮が欠けてしまうことも論拠であった。商業活動に必要を
認めながらも、同時に批判的に見る点ではプラトンと同じだったが、アリストテレスが
容認した交換は、等価交換であったと見ることができる。貨幣は交換の手段としてのみ
容認され、利潤を得る手段としては否定されていた。物々交換は等価交換とされ、それ
が買える事も等価交換ではあったが、金で金を産む利潤や手数料と言う見えない物は、
不等価交換で税であり、否定される信仰でもあった。プラトンの共産主義社会において
アテネの戦争敗北が色濃く反映され、食糧不足による娼婦活動は社会的必要悪で商業の
活動も仕方ない活動とみなされていたのだ。


824: 名無しさんAA:18/10/08 14:04
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐17   

 最後のものは、マルクスの「資本の一般的定式」と一致する。つまり、アリストテレ
スは貨幣の資本への転化を防ごうとしたことになる。不等価交換が生み出す貧富の格差
の増大や、市民の没落の原因を クレマティスティケに求めたことになる。 ポリス維持
のために、利潤の追求は否定される。それは既存の社会構造を維持する方法であると同
時に、「良く生きること」という市民の道徳的あり方そのものを守る方法でもあった。
カールマルクスは前近代において登場し、貨幣資本を商品生産に投下し、生産物を販売
し、利潤を得ること目的とした、貨幣(M)→商品(C)→増殖された貨幣(ΔM)、
という一般的な価値の自己増殖の形式をいう。このマルクスの『資本論』に登場する公
式こそ経済学の一歩目の数式だった。これに労働力(W)を入れれば資源(N)と共に
W+ΔM=C=M(但しΔM=N)である。つまり増殖された貨幣こそ資本であり労働
力と共に商品となる。これを物が金を買える事を「W→G→W」金が金を産む事を「G
→W→G]と表した。当然後者は不等価交換として否定された。ドイツ語では「W」は
「Ware(ヴァーレ)」の頭文字で「商品」を意味し、「G」は「Geld(ゲルト)」の頭
文字で「貨幣・お金」を意味する。いわゆるゴールドである。これらは資本の一般的定
式(しほんのいっぱんてきけいしき)とされた。アリストテレスはこの貨幣の資本への
転化を防ごうとしたことになる。それは、不等価交換が生み出す貧富の格差の増大や、
市民の没落の原因を クレマティスティケに求めたことになる。 ポリス(都市国家)の
維持のために、利潤の追求は否定される。それは既存の社会構造を維持する方法である
と同時に、「良く生きること」という市民の道徳的あり方そのものを守る方法でもあっ
たからだ。「ある人は殖財が家政術の仕事と思われるようになる。そして貨幣からなる
財産を失わぬようにしなければならないとか、無限に殖やさなければならない、と絶え
ず思うようになる。そして、この気持ちの原因は善く生きることではなくて、ただ生き
ることに熱中するところにある。この欲望は無限であるから、それを満足させる手段を
もまた無限に欲することになる。」と書いている。なんとまあ紀元前の時代から、この
ユダヤ金融家の利殖財産を諫めていて、今の株式投資家を見透かした声をあげていた。
当然のことながら、キリスト教の守護者の教会も、利子をとる貨幣の貸し付けは、最も
否定されるべきものとする教えであった。 「憎んで最も当然なのは高利貸しである。
なぜならば、貨幣は交換のために作られたものであるが、利子は貨幣を一層多くするも
のだからである。したがって、これはクレマティスティケのうちで実は最も自然に反し
たものである。」

825: 名無しさんAA:18/10/08 14:05
 ところがこの教会も実利では、寄付や喜捨のみではやっては行けなかった。特にイス
ラム教のような、正教一体のムスリムモスクではなく、先のギリシャ流の集団生活の家
としての教会発展であり、征服王朝でなく共和制国家からの転用国家で、いがみ合う中
で他民族国家として存立していたからだ。古来の都市国家維持にアリストテレスは何種
類かの正義をあげて説いている。最上位に分配的正義である。分配的正義の目的は集団
国家的ポリスの維持の精神である。次に応報的正義である。分配的正義を実現する為に
応報的正義に基づいた交換が是認される。という関係を説いた。つまり分配的正義は、
国家維持に必要な物の分配として物々交換と同様の価値として認められた存在だった。
これらは、応報的正義に従い、互いに「応報的」となる交換の等価交換しか認められな
いと言う物だった。これは今まで商売でなくバザールであり奉仕活動や慈善活動で一切
の利益が生まれない思想であった。ここで、クレマティスティケは、応報的正義の等価
交換で国家維持やポリスの維持の為なら、利益があっても認められてしかるべし。と言
うものだった。アリストテレスとしては国家主観のポリスを維持する術であるという、
「オイコノミア」を肯定し、新たなクレマティスティケの追求は否定されるべき人間の
あり方であった。しかし、今日の経済学の主流は、各自の利益の最大化を追求する市場
を肯定する。 それゆえ論者の中には、経済学という名称を、 クレマティスティクスに
改めるべきだと主張する論説もある。聖書の中には、財産や金儲け、あるいは労働に関
する記述がいくつか登場する。それらは必ずしも整合性はない。しかし、市場内の営利
活動について否定的な見解が数多くある。その点は、アリストテレスなどの主張と類似
であった。別の角度から言えば、聖書もアリストテレス同様に商業のうちに、伝統的な
共同体の崩壊作用を危険視していたからだ。と言える。中世の宗教革命期にかけて、何
人かの聖職者たちが経済に関する議論を行っている。現実に広まった商品経済に対して
、聖書の教えに抵触した現実に対して、どのような理由で、どの程度まで容認すべきか
、聖職者たちの課題であった。しかし、大教会は、既にローマ帝国の許可を得て、信用
状や保証書或いは権利譲渡を利子をつけて発行していた。例えばそれぞれ通貨の価値が
違う国またいで貸付交易をやっていた。つまりドイツでのローマ通貨はローマの3〜5
割増しの価値を持った。逆にフランスやドイツの通貨の単位で貸出し、貴重なギリシャ
貨幣で同じ通貨単位として回収したりしていた。そうした事を巧みに利用し、高利貸し
で貸付と回収を別々にしたり、キリスト教でもユダヤ教でも信徒には無利子を強制して
はいたが、他教徒には高利を認めていた為ユダヤに貸付ユダヤ教徒が高利でキリスト教
徒に貸付したりしていた。今の銀行が不法な闇金融に貸付したような構図を、敢えて作
っていたのだ。

826: 名無しさんAA:18/10/08 14:06
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐19   

@神の財産「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである」
(詩篇 24-1) A貨幣・財産・貪欲「食事をするのは笑うため。ぶどう酒は人生を楽しま
せる。金銭はすべての必要に応じる。」(伝道者の書 10〜19) B「金銭を愛することが
、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出
て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」(テモテへの手紙 第一 6-10) C「
金持ちになりたがる人たちは、誘惑と罠(わな)と、また人を滅びと破滅に投げ入れる
、愚かで、有害な多くの欲に陥ります。」 (テモテへの手紙 第一 6-9) D「あなたが
たにもう一度、告げます。金持ちが神の国に入るよりも、ラクダが針の穴を通る方がも
っとやさしい。」(マタイの福音書 19-24) E「自分のために金銀を非常に多く増やし
てはならない」(申命記 17-17) F「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのもの
ですから。」(ルカ 6-20) G「弱いものを銀で買い、貧しいものを1足の靴で買い取り
、くず麦を売るために。 ....このために地は震えていないだろうか。」(アモス書 8-6
) H「金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。
イエスは彼らに言った。あなた方は人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、
あなたがたの心をご存知です。人間の間であがめられる者は、神の前で憎まれ、嫌われ
ます。」(ルカ 16-14) と 絶妙な批判である。金を必要なものと規定しながら、金銀は
個人では増やしてはならない。集団ではいい。としてるのである。既にこの聖書の編纂
時に商人からの喜捨や寄付に頼っていた事でこうした、金銭に悪と出来ない記述になっ
たのである。そもそも、利息の記述が「外国人から利息をとってもよいが、あなたと同
じ同胞からは利息を取ってはならない。それは、あなたが入って行って、所有しようと
している地で、あなたの神、主があなたの手のわざのすべてを祝福されるためである。
(申命記 23-20) と 記しているのだ。又「貧しい者が国のうちから絶えることはないで
あろうから、私はあなたに命じて言う。国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいる者と
貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない。」(申命記 15-11) と 都合よく
書いている。この時ローマ帝国はローマ法を定めた。ローマ帝国は紀元1世紀から3世
紀ごろにかけて繁栄したが、他民族国家として、世界最初の民法と言われるローマ法を
作った。 ローマ法は経済思想史上きわめて重要な役割を持っている。 私有財産の制度
は有史以前からあったが、財産に公式の地位を与え、所有者に明確な所有権を与えたの
は、ローマ法であったからである。しかし、ローマ法がそのまま近代法の起源になった
わけではない。

827: 名無しさんAA:18/10/08 14:06
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐19   

 パリサイ人とは、かつてエルサレムの聖地がユダヤ教の聖地でユダヤ教徒によっての
守られていた、紀元前70年の頃ユダヤ戦争で戦い、負けて難民となって存在した正統
派ユダヤ人とされた人達である。この時既に交易の上手い商人として視られていた。「
金の好きなパリサイ人。」とは編纂した者の常識だった事からであるが、アメリカン・
ジョークではないが、最初のキリスト教改宗者は、他ならぬユダヤ教徒であったナザレ
のキリストであったのだ。実はこの名の若者はかなりの数がいた。と思われる。日本語
でいうイエスは、ギリシャ語のイエスースをベースにしている。原語ではイエシュア又
はヨシュアとされ、イエスの場合、当時の社会では「イエシュア(ヨシュア) ベン ヨセ
フ」と呼ばれていた筈です。聖書では、養父ヨセフ/乙女マリアという関係からのその
ままの申し名だった。ヨセフを修飾語としては使っていない。又「ナザレのイエス」と
、ナザレという地名を修飾語として表現しています。キリストは、名前ではなく、救い
主(メシア)を表すギリシャ語クリストスからきている修飾語です。従って、イエスキリ
ストというだけで、「救い主イエス」という一つの信仰告白となっている言葉である。
調べられると解るだろうが、セム系の名前の仕組みには、原則苗字がありません。当時
のヘブライ人にも苗字は有りません。より限定する時に、父系の名前を添る。又現代ア
ラビア語も同様のようだ。つまり、ヨセフのヨセフのヨセフと父系の繋がりがイエスと
言う名で日本では天皇家の天皇みたいな呼び名なのである。大体において欧州文法は、
より簡単にしていい加減でその時の雰囲気や流行でそれぞれの意味が変わって幾つもの
意味が加わり日本語的な定型の繊細な意味合いを持たない。さて、こうしてゲルマン民
族の圧力によりローマ帝国は解体していくが、その解体しつつあった4世紀後半に、帝
国の一体化をはかる手段としてキリスト教が国教とされた居た為帝国は、じきに滅亡す
るが、その遺産としてのキリスト教はヨーロッパ全域に広まっていた。ローマ法の精神
は、反商業主義の色彩の濃いキリスト教の精神と矛盾する。しかし、ローマに代わって
登場したゲルマン社会も又、市場を発展させることなく、むしろ市場の展開という点で
は後退させた政策をとった。そのために、聖書に登場する反商業の精神は、とりたてて
問題とされる必然性はなかった。何故なら、最高利子率の規定という上限はあったもの
の、ローマ法では利子は正式に容認されていた。原則として年率12パーセントが上限
であったが、次第に引き下げられ帝国末期には6パーセントとなった。ところがその頃
十字軍の遠征での資金集めに贖宥状(免罪符)を盛んに売った。


828: 名無しさんAA:18/10/08 14:14
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐20   

 ロレンツォ以降のメディチ家は、ハプスブルク家とは対立しつつも基本的には何かと
世話に成って居り、メディチ家の方が債務者に近かった。実はハプスブルク家は一応は
改宗教徒でキリスト信徒であったがメディチ家つまりフッガー家の方はユダヤ教徒のま
ま営業し暴利をむさぼって良かったのである。従ってフッガー家の方は、名門で金満家
領主のハプスブルク家にも大金を貸し付けて居り、明らかに債権者だったと言って良い
かと思われます。ハプスブルク家を間に挟んで観た場合、債務者のメディチ家よりは、
債権者のフッガー家の方が、格段に賢く都合よく権力を行使出来て、より儲けて強かっ
た。先の教会との貸付交換でもフッガー家は大儲けしていたからだ。ハプスブルク家は
そうした行為は出来なかった。15世紀末から 16世紀初めにヤコプ2世 (フッガー
) のもとで最盛期を迎えた。ローマ教皇や国王,皇帝を財政的に援助するのと引替えに
、鉱山開発の特権や商業上の独占権を獲得したし、資産をますます大きくしていった。
スペイン王カルロス1世が神聖ローマ皇帝カルル5世として選出されるにあたっては、
選挙資金の過半をフッガー家が供給した。その結果に於いてフッガー家はスペインと、
ドイツを支配するハプスブルク家と密接な関係を結び、この有力君主の保護を受けて、
各地に支店を設け大規模な国際取引を営んだ。しかし,スペイン王室にあまりにも深く
関係したため、16世紀後半に同王室が財政的に破綻すると,それと運命をともにせざ
るをえなかった。実はこれが日本の開国につながって行く。15〜16世紀、ドイツの
アウグスブルクの豪商の一族でこうした事で、東方貿易や鉱山経営によって巨富をなし
た。教皇や皇帝・諸侯らに融資を行い、芸術の復興にも援助などして国際政治にも大き
な影響力を持った。ユグノー信徒達は職人集団だった。ディアスポラによってヨーロッ
パ各地に散ったユダヤ人のなかでも、最も多くのユダヤ人が向かったのが南フランスか
らイベリア半島南岸にかけての一帯であった。マラーノは、スペイン語で豚、もしくは
汚らしい人を示す侮蔑言葉だったが、かつては、スペイン・ポルトガルこそが海の覇者
であった為メキシコなどは早くからマラーノと言う混血児は居たようだ。そして農奴と
してアフリカから連れられてきていた。歴史的な用語としては、かつてスペインにおい
て、コンベルソ(改宗者)と呼ばれたキリスト教に改宗したユダヤ人を侮蔑的にマラー
ノと呼んだ。ハプスブルク家はその初代コンベルソ(敬虔な改宗者)と目されていた。
つまりキリスト教が伝播するまではれっきとしたユダヤ信者だったのである。


829: 名無しさんAA:18/10/08 14:18
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐21   

 ちょうど宗教改革の時代にハプスブルク家と深い繋がりを持ちながら、カトリック側
を金銭的に支えることもしていたフッガー家。もとは14世紀に近郊の村からアウクス
ブルクへとやってきた織布工のハンス・フッガーからはじまる。その孫のひとり、ヤー
コプ・フッガーの時に最盛期を迎えるのですが、フッガー会社はこのヤーコプや兄弟た
ちの時代に作られた。元は織布工で、織物販売で成長したフッガー家ですが、鉱山経営
と金融業で莫大な富を産み出す。そんなフッガー家の歴史を踏まえつつ、その商売がど
んなもんなのかとかを紹介したり、ヤーコプ・フッガーが作った有名な「フッゲライ(
貧者の町)」という下層市民のためのその福祉事業の共同住宅街が今でも残っている。
すこしお隣の国ウィーンには世界で最初の公営集合住宅「カール・マルクス・ホーフ」
がある。それは、オーストリアが第一次大戦で敗戦した時に、社会主義体制の下での労
働者のために住宅が供給される為に作られていた。ナチス・ドイツの影響を受けた保守
派の政府軍と労働者が争う頃は砦になったが、そうしたことでも有名な所だ。公営住宅
「カール・マルクス・ホーフ」よりもさらに4百年も昔に、既にドイツのアウグスブル
クには、豪商フッガー家の当主のヤコブ・フッガーが慈善事業として資金を提供した、
生活に窮する市民の為の福祉住宅「フッゲライ」を建設している。1521年のことです。
驚くことは、今もそこでは150人程の人々が生活をし、その家賃は当時のまま「年間
88セント(100-150円)」で生活の場所としている。この「フッゲライ」の村の中には
、教会に学校、病院、図書館、そしてお土産物屋まである。博物館も併設されている。
67軒に区分された長屋に140ものアパートがあり、1部屋の広さは60平方メート
ルである。日本の石炭採掘時代の鉱山住宅の走りかも知れない。日本人は馬鹿だから、
何でもかんでも壊したがるが、欧州人は緻密でドーバートンネルでさえ元に戻した景観
でないと工事をさせなかったし、その監視人の費用まで工事者負担だった。そういえば
ここも、三十年戦争中の1632年にスウェーデン軍がアウクスブルクに入った時、フッゲ
ライから住民が追い出されて、一時的に兵士の宿泊所になったそうです。名前も「アウ
グスブルク」ってずっと思ってましたが、「アウクスブルク」なんです。では、ここの
村の住民に入る為の条件はまず、カトリック教徒であること。そして、アウグスブルク
市民であることと、借金はないが生活が貧していること。と規定している。そして、こ
の「フッゲライ」には今から3百年もの昔に、モーツァルトの曾祖父「フランツ・モー
ツァルト」が10年近く住んでいました。

830: 名無しさんAA:18/10/08 14:30
 NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐22  

 モーツァルトの曾おじいちゃんは、ここで生活しながら大工頭をしていたそうだ。や
はり4百年も長きに渡って普通の木造住宅を残せる、その思想がすごい。その当時のま
まの厨房や居室、寝室は「フッゲライ」にある博物館で見学できる。世界の大富豪の一
人となったフッガー家は、その移住して来た時の苦労からか、お金の使い方全く違う。
決して自分の為だけに使わない。生きたお金の使い方を知っている。だからお金に裏切
られない。きっと、お金も人に感謝している。小さな欲にとらわれず、多くの人を喜ば
す為に使い、そうした人の元へお金は沢山の幸せを連れてやってくるのである。アウグ
スブルクのフッガー家は、その後次第に力を失ってしまいましたが、今も貴族として存
続はしている。しかし、このヴェネツィアの繁栄が許せない男がいた。マルチンルター
である。彼の宗教革命や異端尋問などで、カトリックとプロテスタントの30年戦争が
勃発した。ヤーコプはスペイン国王やローマ教皇の御用銀行でもあった。その為1517年
の贖宥状(免罪符)販売は、ブランデンブルク公がフッガー家への借金を返還するため
でもあったが、マルチン・ルターはこれに噛みついた。フッガー商会の販売が教会では
なかったからだ。教会でない所では神父はいない。故に懺悔の儀式や一部の免罪符とし
ての機能の説明やその後の贖宥状販売にはつながらない。それはこの商会の贖宥状販売
は、これを買えば何でも救われ天国に行けるとして販売した事で、大いに批判されたの
だ。その上に、1519年、カルロス1世に選挙資金を貸し付けた。カルロスはフランス王
を抑えて皇帝に選ばれた。ヤーコプは、カルロスの支配するナポリ王国の収入の一部や
、レコンキスタ完了後に国有化の進んだスペイン騎士修道会所領の地代収入から債権を
回収した。1511年にヤーコプは神聖ローマ帝国の貴族に列せられている。こうした金の
買収で救われるとしたカトリックが又噛みつかれた。ヴェネツィアやジェノヴァの繁栄
は、各地へと赴いた地元出身の商人によって支えられていた。ところがアントウェルペ
ンの場合は同市出身の商人が世界各地に勇躍していったわけではない。アントウェルペ
ンの経済母体は、ヴェネツィアやラグーザ(ドゥブロヴニク)、スペイン、ポルトガル
など各地からやって来た商人たちの手で支えられており、交易物の物流基地として荷役
の為の貧民や労働の住居地もあり賑わいがある港があった。言わば金融都市であり物流
拠点であり販売の分枝拠点だった。このことが都市内の多様性・コスモポリタン的性格
を形成して繁栄していたのだが、それを勘違いしたルターらであった。


831: 名無しさんAA:18/10/08 14:30
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐23   

 日本語ではアントワープとされるアントウェルペンは都市名はローマ属州時代のアウ
グスタ・ヴィンデリコルムに由来し、ベニスの様な入り江の都市だ。紀元前15年にロー
マ皇帝アウグストゥスによって築かれた城にその起源を持つ都市で、アウクスブルクは
ドイツで最も古い都市の一つに数えられる。また、15世紀から16世紀に、フッガー家や
ヴェルザー家によって金融都市として繁栄を極めたことから、「フッガーシュタット」
(フッガー都市)としばしば称される。今でもこの街はミュンヘン、ニュルンベルクに
次ぐドイツバイエルン州の第3の都市とされる。宗教的にも寛容で、ユダヤ教正統派の
大規模なコミュニティも形成されたほか、イベリア半島を追われた「マラーノ(改宗者
達)」の亡命先や、プロテスタントの拠点ともなり得たのである。そしてフッガー社ア
ントウェルペン支店支配人エルテルが債権回収に失敗した。カトリック側についたのが
裏目に出たのだ。当時流通や経済を担っていたのはプロテスタント派であり、繊維織物
のユグノー信者は特に国王と対立している立場だった。しかしルターの様な狂気の者に
貸付する気には誰もならなかったであろう。こうして信用商売に影を落とした為、アン
トンの長子マルクスの代にフッガー家の事業は三十年戦争が終わるとさっさと解散して
しまった。初代ハンス・フッガーが農村から織工としてアウクスブルクに出て以後、当
地を同家の本拠地とした。彼はヴェネツィアからの原料を輸入する商売を始めた。息子
ヤーコプが、香辛料などの貿易を行い、その息子のヤーコプ2世(1459〜1525年)が、
1485年銀の先買権を手に入れ莫大な利益を獲得する。彼の家系は「ユリの紋章」のフッ
ガー家と呼ばれ「薔薇貴族」とされた。1490年、銀山のあるティロルの領主がマクシミ
リアン1世となった。このを銀山の採掘をきっかけにヤーコプは神聖ローマ皇帝と結び
ついて財を成した。実はマルチン・ルターをきっかけに起こった30年戦争は、不思議
な戦争であった。この時起こった事はフランスもドイツもまさかの事であったであろう
。この話は童話の、ブレーメンの音楽隊に例えられる。グリム童話の物語では、かつて
働き者だったロバが年を取ってしまい、仕事が出来なくなってしまったので、飼い主か
ら虐待されるようになった。これはかなわんと脱走し、ブレーメンに行って音楽隊に入
ろうと考える。その旅の途中で同じような境遇のイヌ、ネコ、ニワトリに次々に出会い
、彼らはロバの提案に賛成し、ブレーメンへと足を進めた。人間に捨てられ、あるいは
食料にされようとした動物たちが、旅の途中途中の泥棒の家に立ちより一致協力して追
い出して自分たちの新生活を切り開いて安堵を得る話になっている。泥棒とは諸侯であ
った。

832: 名無しさんAA:18/10/08 14:37
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐24   

 三十年戦争当時には、三つの対立軸があった、それが複雑に絡み合っているといえる
。第一の対立軸は旧教徒と新教徒の対立である。 1555年のアウクスブルクの和議
でプロテスタントの信仰が認められた。しかしそれは「領主の信仰、その地に行われる
」のであって、領邦君主にとっての信仰の自由であって領民には信仰の自由はなかった
。こうして旧教を掲げる領邦は「同盟」を結成し、新教側は「連合」を結成した。新教
「連合」としてはブレーメンの新教徒の反乱を支援せざるを得なかった。又同時に第二
の対立軸もあった神聖ローマ皇帝の中央集権の弱体化である。その為領邦君主との対立
があった。ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝はドイツ王として君臨していたが、実際に
は現地ドイツでの支配力は弱く、領邦の独立性の方が強かった。フェルディナンド2世
は、新教弾圧を通じて皇帝権力強化を図った。各領邦の君主には、神聖ローマ皇帝の力
が強くなることを恐れ警戒した。領邦の中で一貫して皇帝を支持したのはバイエルンだ
けで、カトリック領邦でも多くは皇帝に与しなかった。第三の対立軸では現実的な国際
的な主権国家間の対立である。特にハプスブルク家とブルボン家は対立し、デンマーク
、スウェーデンが新教側に介入したがその意図は宗教的動機より、北ヨーロッパの覇権
を目指してであった。旧教宗主国フランスのブルボン家は本来なら新教勢力を支援する
はずはないと考えられるが、現実的な国際政治家リシュリューは「建前より本音」をと
って、ハプスブルク家を叩く好機ととらえ、直接出兵してスペイン軍と戦ったのだ。こ
れはヨーロッパの覇権を巡る対立である事の証左であった。以上の三つの基本的な対立
軸が、スペインとオランダがそれぞれ旧教徒と新教徒を支援するために軍隊を派遣し、
現地でも闘ったのは、宗教対立に独立戦争が絡んだ国際的な対立軸として加えることが
出来る。この時はまだドイツはプロイセンで、小さな公国の連合体であったのである。
ロバ、イヌ、ネコ、ニワトリ、はそれぞれゲルマン人やボヘミア人ロマ人ユダヤ人など
幾つかの市民権の無い人々がいた。当時の軍隊は国民軍はなく、新教側も旧教側も傭兵
に依存していた。戦いは決着がつかず長引いた。勝敗が決まり、戦争が終われば傭兵ら
は失業してしまうからだった。その為、食糧供給の略奪行為が横行した。その様子は、
グリュンメルスハウゼンの『阿呆物語』、絵画ではジャック=カロの『戦争の悲惨』な
どが、木に逆さ吊された数十人の死体や、娘を犯される領主などの姿で伝えている。ま
た、ドイツの文学者シラーは『三十年戦争史』を著している。


833: 名無しさんAA:18/10/08 14:41
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐25   

 三十年戦争では、ドイツの都市と農村を荒廃させ、それによってドイツの人口は、1
600万から約3分の1の600万まで減少したと言われる。そして死んで行ったのは
国主や貴族でなく市民や農奴や雇われた浮浪者達であった。その為そうこうする内拡大
して行く段階を過ごした。当初は旧教徒と新教徒との対立軸であった。第1段階の当初
は1618〜23年、神聖ローマ皇帝フェルディナンド2世によるカトリック強制に対
しブレーメン(ボヘミア、現在のチェコ)の新教徒がブレーメンの反乱を起こす。それ
以前から成立していた旧教諸侯の「同盟」(リガ)と、新教諸侯の「連合」(ルター派
とカルヴァン派が連合したのでユニオンという)との内戦となった。旧教徒側にはスペ
インがつき、新教徒側にはオランダがただちに支援した。スペインとオランダはオラン
ダ独立戦争を継続していたのである。この段階ではフランスは旧教徒を支援していたが
、それは間接的にとどまっていた。1623年、旧教徒側の勝利によって終わったかに見え
た。しかし第2段階として、1625〜29年に新教徒庇護のデンマーク王クリスチャ
ン4世が、イギリス・オランダの資金援助を受けて、ドイツに直接介入したのである。
しかし皇帝側は、ティリの指揮する旧教徒同盟軍やヴァレンシュタインの傭兵部隊など
の活躍により、クリスチャン4世軍を撃退した。フランスはこの段階で、新教徒のデン
マークに対する間接支援に転じて貸付を行った。なおこの時には、イギリスのチャール
ズ1世はスペインとの戦費を徴収しようとしたことに反発した議会が権利の請願(16
28年)を出している。こうして金が続かないまま第3段階にはいった。1630〜3
5年はスウェーデン王グスタフ=アドルフが、フランスの資金援助を得て、新教徒擁護
、神聖ローマ皇帝の北上阻止を名目にドイツに侵入した。31年リュッツェンの戦いで
スウェーデン軍は勝利したが、グスタフ=アドルフ自身は戦死した。皇帝側のヴァレン
シュタインは謀反の疑いをかけられ暗殺され、新旧両派の和約が成立した。第4段階 
では1635〜48年 フランスルイ13世の、宰相リシュリューがドイツ新教徒側の
劣勢を挽回するため、直接ドイツに進撃。スウェーデンも同調した。それに対し、旧教
側ではスペイン軍(フランドル軍)も直接介入した。しかし、1640年にスペインで
カタルーニャの反乱が起き、同年にポルトガルも独立して形勢がスペインに不利になっ
た。つまりスペイン国内でもそれぞれの独立戦争になったのである。これはフランスが
スペインとドイツに囲まれた土地だったからである。

834: 名無しさんAA:18/10/08 14:46
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐26   

 ポルトガルなど既に大航海時代に貿易に出て居た国は、カトリックと言う名の膨大な
利権搾取に反対していた。しかしそれだけに旨味のある利益は、バチカンも手放せなか
った。スペインは本来ならプロテスタント支援でも良かったが、ハプスブルク家の縁戚
として神聖ローマ皇帝からの権威でスペイン皇帝になっていたのだ。つまりプロテスタ
ント応援は市民を応援する事だったが、それは自分の権威の失墜でもあった。この矛盾
はフランスやドイツにもあった。しかし、イタリアのイスラム文化を受けての宗教改革
やルネサンスの怒号の洗礼を受けていたフランスでは逆に市民の支持がなければ諸侯も
皇帝もない国情があった上に、一方でフランスは利潤を否定したバチカンカトリックを
肯定しては金融業務の中心としての座が脅かされる事をも意味した。当然権威の承認は
バチカンから受けても、市民運動には逆らえない地位でもあった。1643年にはフラ
ンス北部ロクロワの戦いでフランス軍とスペイン軍が直接交戦した。戦況は一進一退で
決着がつかなかった為に、1644年から、講和交渉が始まり、1648年のウェスト
ファリア条約でようやく講和成立した。しかし、フランスとスペインはなおも戦争を継
続し、両国が講和するのはフランスのフロンドの乱が終わった後の1659年、ピレネ
ー条約の締結によってやっと終わったのである。ブレーメンの反乱に始まったこの戦争
のブレーメンというのはボヘミアである。現在のチェコだが、この戦乱で起こった露頭
に迷うさまよえる人達が次のクリミア戦争や第一次世界大戦の大きな原因ともなったの
である。このベーメンという国にフェルディナントが国王としてやってきた。この人は
、ハプスブルク家という名門の家系で宗教はカトリック教徒です。フェルディナントが
カトリック以外の新教徒にカトリックへの改宗を強制する。もちろん、新教徒の人々は
不満を抱き闘争しました。そして行動に移します。ブレーメン中心都市プラハで王宮に
侵入してフェルディナントの顧問官やら秘書やらを窓から放り投げてしまうんです。こ
れが1618年。その名も窓外投擲事件(そうがいとうてきじけん)が起こる。5人が窓か
ら投げられたんですが命に別状はありませんでした。ですが、この事件が後に三十年も
続く戦争の直接の原因となってしまいます。フェルディナント軍隊VSベーメン新教徒
。しかし、フェルディナントは同じハプスブルク家のスペインに支援を受けていて1619
年に神聖ローマ帝国(ドイツ)の皇帝となり、フェルディナント2世となります。その
後、1623年に新教徒を破り戦争はフェルディナント側の勝利となった。がここで危機感
を生じたのがデンマークだったのである。


835: 名無しさんAA:18/10/08 14:55
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐27   

 デンマークは新教徒たちの為に、様々な改革を実施し、領土拡張の思惑もあった。デ
ンマークの王はクリスチャン4世だった。このデンマークが新教徒を助けるという名目
で参戦した。これは国民に見せる姿として当然だった。自らも戦地に向かうほどの力の
入れたのは既にイギリスとの交易や東方貿易で財を成していた資産家を多く抱えてたか
らだ。これに対抗してフェルディナント2世は、プロの傭兵を雇った。雇ったのがヴァ
レンシュタインで、もう戦闘のプロ中のプロを雇う代理屋だった。ボヘミアのドイツ系
プロテスタントの小貴族の家に生まれながらも、カトリックに改宗してイタリアのパド
ヴァ大学に遊学した。しかし暴力事件に巻き込まれ退学、帰国後に傭兵となり、ハプス
ブルク家に仕えハンガリーでオスマン帝国と戦う一方で裕福な未亡人と結婚、この女性
から受け継いだ遺産を元手に金融業及び領地の殖産興業で資産を増やし、ボヘミアで傭
兵を募集して実力を蓄えていった。1618年にボヘミアのプロテスタントが反乱を起こし
、プファルツ選帝侯フリードリヒ5世をボヘミア王に選出すると、反乱政府の金庫を奪
って抵抗し、神聖ローマ皇帝フェルディナント2世に味方して反乱鎮圧に貢献、1620年
に反乱鎮圧に伴うプロテスタントの領土没収及び売買に加わり土地を買い漁り、ボヘミ
アでも有数の大貴族にのし上がったのだ。また、1620年から1623年にかけて軍資金不足
の皇帝に資金融資し私兵を提供した。同年に北ボヘミアのフリートラント侯に任じられ
、フェルディナント2世の側近カール・フォン・ハラハの娘エリーザベトと結婚しては
宮廷に足掛かりを築き、1625年に自前の軍勢徴募を申し出て許可され、皇帝軍総司令官
に任命された。こうして皇帝フェルディナント2世に仕えて、帝国大元帥・バルト海提
督やフリートラント公爵となって大臣を務め、後に皇帝の命令で暗殺された。この人の
おかげでフェルディナント公側はデンマークの参戦にも関わらず、皇帝側有利で戦局を
進められたのだ。ところが同じく脅威と見て居た国が他にもあった。新教徒側に味方に
ついたスウェーデンである。最盛期のスウェーデン王でグスタフ・アドルフが参戦した
。北方の獅子とかバルト海のライオンとか言われた人です。このスウェーデンの参戦で
新教側が巻き返しを図る。しかし、ここで再びヴァレンシュタインが現れプロの傭兵で
す。ともかく強かった。このヴァレンシュタインとの争いでグスタフは死んでしまいま
す。ちなみに最盛期に12万5000もの大軍勢を率いていたヴァレンシュタインはその頂点
にいた。急速な出世と軍税負担は諸侯の反感を買い罷免される。国が疲弊するに至って
、相当がんばったのだろうが、「コイツ、強いけど、国内でも強すぎて怖いな……。」
ってことで皇帝側によって殺されてしまった。

836: 名無しさんAA:18/10/08 15:07
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐28   

 この戦争で得したのは最後に参戦したフランスとスウェーデンだった。この戦争で大
きな領土を獲得することができたのだのがフランスとスウェーデンだったからだ。フラ
ンスはアルザス地方とロレーヌ地方を獲得した。スウェーデンは西ポンメルンとブレー
メン大司教領を獲得する。これによってスウェーデンはバルト海を制して全盛期を迎え
た。又スイス、オランダもこのどさくさで独立が承認された。オランダについては、既
にスペインとの独立戦争を勝ちとってはいた。しかし、これによって国際的にも正式に
独立を承認されて国の成立となった。また、スイスも形式上、神聖ローマ帝国の支配下
にありましたが、これを機に独立することができバチカンから離れて銀行運営が出来る
様になった。こうして領土割譲で神聖ローマ帝国はバラバラに萎んだ。この三十年戦争
によって、隣国はまとまる一方となったが、主戦場のドイツは疲弊し分散した。なぜか
神聖ローマ帝国の各領邦に対するほぼ完全な独立主権が認められたからだ。これはどう
いうことかというと、当時、神聖ローマ帝国とは言え、多くの諸侯や王がいて連合国の
状態の運営だった。彼らの主権を承認するということは、つまり、バラバラの状態を更
に、固定化する事だった。こうして、ドイツ国内では国土は荒廃、人口は激減。と大変
なことになってしまった。こうしてドイツ内でのカルヴァン派と言う神霊派の信仰が認
められる事にもなった。つまり金儲けが出来る様になったのである。一応は、この戦争
のきっかけが、カトリックVS新教徒の対立だったから新教側のカルヴァン派が認めら
れる事は当然と言えば当然だが。このように三十年戦争の結末として、神聖ローマ帝国
の権威は事実上消滅する。後に、ウェストファリア条約のことを「神聖ローマ帝国の死
亡証明書」などといったりしたのだ。こうして神聖ローマ帝国のハプスブルク家の勢力
は大幅に減退することになった。まぁ、もともとスイスもオランダもハプスブルク家の
領土だったわけですからね。それらが独立となって金庫番のスイス銀行も公国の帳簿方
から融資する民間銀行に変わっていった。さらにこれまでハプスブルク家が世襲してい
た神聖ローマ帝国の皇帝権も有名無実化したし、これまでヨーロッパの大きな力で重し
となったハプスブルク家が事実上姿を消して、この段階でヨーロッパの主権国家体制は
確立された様なものだった。これがヨーロッパにて広い力をもっていたハプスブルク家
がその後に力を削がれて、代わって各々の国が主権をもった国となっていき、後に皇太
子が暗殺され第一次大戦の機運を作るきっかけにもなった。


837: 名無しさんAA:18/10/08 15:20
 NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐29    

 教皇レオ10世がサン・ピエトロ大聖堂の建築のための全贖宥を公示し、贖宥状購入
者に全免償を与えることを布告したが、中世において公益工事の推進のために贖宥状が
販売されることはよく行われることであった。この贖宥状問題が宗教改革を引き起こす
ことになった原因なのだが、宗教改革がヨーロッパ全域の中で特に神聖ローマ帝国(ド
イツ)で起こったことには理由があった。ドイツで最も大々的に贖宥状の販売が行われ
たのが人口増加の為だった。この大々的な販売は、当時のマクデブルク大司教位とハル
バーシュタット司教位を持っていたアルブレヒトは、この大人数の信者の信頼で野望を
もった事に端を発していた。彼はブランデンブルク選帝侯のヨアヒム1世の弟であり、
兄の支援を受けて、選帝侯として政治的に重要なポストであるマインツの大司教位も得
ようと考えたのだ。しかし、司教位は本来1人の人間が1つしか持つことしか出来ない
。と言うのが原則だった。アルブレヒトはローマ教皇庁から複数司教位保持の特別許可
を得る為に、様々な多額の献金を行い、その献金をひねり出すために、フッガー家を利
用する秘策を考え出したのである。それは自領内でサン・ピエトロ大聖堂建設献金の為
という名目での贖宥状販売の独占権を獲得し、稼げるだけ稼ぐというものであった。日
本で観る時代劇の処の「フッガーよ、お主も悪よのう。〜〜ははは〜〜」てな事であっ
たのだ。こうして、1517年にアルブレヒトは贖宥状販売のための「指導要綱」を発布、
ヨハン・テッツェルというドミニコ会員などを贖宥状販売促進のための説教師に任命し
た。アルブレヒトにとって贖宥状が1枚でも多く売れれば、それだけ自分の収益が入り
、ローマの心証もよくなっていいこと尽くしのように思えた。そして、アルブレヒトの
思惑通り、贖宥状は盛んに売られ、人々はテッツェルら説教師の周りに群がった。上手
く行きそうだった。義化の問題に、悩み抜いた経験を持つ、聖アウグスチノ修道会員の
マルティン・ルターにとって、贖宥状によって罪の、果たすべき償いが軽減されるとい
うのは「人間が善行によって義となる。」という発想の帰結であると思えた。しかし、
そのときルターが何より問題であると考えたのは、贖宥状の販売で宣伝されていた処の
「贖宥状を買うことで、煉獄の霊魂の罪の償いが行える。」ということであったのだ。
本来は、罪の許しに必要な、神父の受付も無く、秘跡の授与や悔い改めもなしに贖宥状
の購入のみによって、この煉獄の霊魂の償いが軽減される、という考え方を、ルターは
贖宥行為の濫用であると唱えた。「贖宥状を購入すれば、コインが箱にチャリンと音を
立てて入ると霊魂が天国へ飛び上がる」という言葉は、この煉獄の霊魂の贖宥のことを
言って、大いに行動に出たのである。

838: 名無しさんAA:18/10/08 15:34
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐30    

しかし、こうした愛国者達の、独立心からの混がらかる事象は、西洋文明を受け入れた
国は数多く見受けられる。日本の開国時にも、こうした各藩の独立運動に似た薩英戦争
や下関戦争が起こっていた。つまり、ある程度に貧民層が掬い上げられて、勉学や文教
に入ると幼年教育の無かった人が、勘違いした不満が吹きあがる。これは現代でも同じ
だが、暴走族や成人式の馬鹿祝いや殺人事件は、自意識や自覚において自立していない
者が輩出した事による事件だ。軽犯罪や思わぬ事故或いは高速道路の嫌がらせなどは、
今度の官僚の不備で災害が起こったり関空橋衝突もまったく知識や意識の低さにある。
こうした人が教育されず成人になると、社会に一緒に仕事が出来るかと言えば2ランク
も3ランクも下がった社会生活が強いられる。この現状が移民達の群れであり、アフリ
カの芙蓉花革命などである。中国の香港や台湾での革命が戦争や紛争にならなかったの
は体制側の抑える力で阻止された訳ではない。反対側し抵抗する側に、今だ教育を受け
良識や人間性があるからで、逆にチベット・ウイグルでも軍人や体制側にそうした常識
が無いから起こるのが虐殺だった。アフリカの芙蓉花革命はそうした意味では、普通の
様に、体制側の方に良識や常識や知識があったのに対して、国民が狂気の集団であった
事で悲惨な戦争や紛争の現状が起こっている。日本でも日韓併合では併合後、まともに
学校建設や農業改革で生産増加や貧困生活の脱却が図られた。現実にGDPは西洋から
この合併で日本は沈むとされた。しかし日本人の熱意で40倍の高い伸びを見せ、見る
間に変わっていく姿に西洋からの訪問者は驚いたと言う。西洋で100年かかったとす
る文教施設の建設や学校制の導入、農業生産の増加に電気や電信の設備、燃料機関の搬
入、水道や下水道の敷設、付設の機関車のレールの延長。と共に行われて世界初のコン
クリートダムによる発電を目指して、日本以上に電力供給に完成までさせたのだ。それ
でも、朝鮮人達は、農地改革やコリアンカーストの廃止で行き場を失った両班のパルチ
ザンに扇動され、国内戦争や紛争させようと画策した。勿論そこにはロシアの南下政策
による資金や軍事援助があったのだが。日本が中国大陸に進出すると、この両班達の、
パルチザン達は中国の反体制派を組織した。勿論中国の民主化を叫んだ初代革命家は、
そうしたものに組しなかったが、結局は初代指導者の寿命が尽きて後には、この馬鹿者
をのさばらせて李承晩や毛沢東や金日成などを輩出し、戦後になっても独裁での粛清を
つづけ、経済崩壊の上の国家破壊や国民虐殺を繰り広げ、自分の権勢を維持し続けた。
つまり幼児幼年教育を広く漏れなく出来ない人類の罪が、こうした事を起こしているの
である。

839: 名無しさんAA:18/10/08 15:46
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐31    

 これが経済学の罠である。経済と言う概念は、今だ決まったものではない。ある者は
流通といい、ある者は金融という、ある者は国の規模や力と言い、ある者は金儲けのみ
の儲け数値と言う。消費文明社会は「毬を二つに切るようなもの」といい資本主義自由
経済は言わば博打経済学である。と断言する者もいる。この経済もAIと共に進化する
。経済は資本主義と言う理想郷社会と言う空想から生まれて出来た概念で、一般的には
中世以降の近代になってからの言葉である。トマス・アクィナスはスコラ学の学者であ
るが、スコラとはスクール(学校)のスラブ語である。スコラ学の究極の目的は、問題
に対する解答を導き出し矛盾を解決することにある。スコラ学の最大のテーマは信仰と
理性である。などと言われ、神学研究のみが知られているが、真の意味でのスコラ学は
神学にとどまらず、哲学から諸学問に及ぶ幅広いものであった。「真の宗教とは真の哲
学であり、その逆もまた真である。」ということがスコラ学の基本的命題だと言われる
。これは日本の修学僧門と同じで、いわゆる修道院学問で彼らは学僧とされた。スコラ
学は文学における二つの分野を発展させた。第一は「クエスティオネス」(質疑)と呼
ばれるものであり、第二のジャンルは「スンマ」(大全)とよばれるものである。つま
り現代の質疑応答である。適用されたスコラ学的方法論では、どんな質問もあり、どん
な回答もスンマの中にある。とされる。聖書や公会議文書集、教皇書簡などあらゆるも
ので、反対も賛成も表明し討論しなければならない。世紀を経て、海外交易などを始め
て、商業活動が盛んになった12世紀にシチリアにトマスは生まれた。卓越した記憶力
を持ち、彼の静かな語り口はその後パウロやアウグスティヌスと並び立つ人物として聖
人化された事でもわかる程卓越した能力者だった。多くの人々を納得させる論拠を示し
たと言う。トマスの最大の業績は、この西洋思想界で、キリスト思想とアリストテレス
哲学を統合した総合的な体系を構築したこととされる。神学と哲学の関係を整理して、
神中心主義と人間中心主義という相対立する概念を、ほとんど不釣り合いな物を統合さ
せたのだ。言わば神の意志による人間尊重主義で、これはトマスの思想とされその死後
もトマス主義として受け継がれ、近代の「自然法論」や「国際法理論」や「立憲君主制
」の考えなどに多大な影響を与えた。又19世紀末におきた新トマス主義に基づく復興
を経て現代にも受け継がれていて、プラトンのイデア論を徹底させ、万物は一者から流
出したものという流出説を起こし。時代に合わせた新しいプラトン主義「ネオプラトニ
ズム」をも作っている。

840: 名無しさんAA:18/10/08 15:57
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐32  

この「新プラトン主義」は18世紀のドイツで生まれた造語が19世紀に入ってから、
新たに定着した近代の用語で、シュライアーマッハー以降、文献学でプラトン自身の、
オリジナルの教説と別に、後世の追随者の思想と、区別して捉えられ確立した概念を持
った。言わば日本仏教の「人間の命は借り物」とする「天地無私・来又帰至」の精神だ
。この時から人は余裕ある資産と言う物を持った。あの世に金が持っていけないと悟り
例え息子でも財産は有効に人類に使わねばならない。と言う考え方が出来ててから投資
の理解が出来たのである。12世紀のヨーロッパ南部でイタリア商人による地中海交易
が成功し盛んな時期となり、13世紀になると北部でもハンザ同盟が成立している。こ
のように大規模な商業活動が行われたはじめた時期に トマス・アクィナスは活躍した
。 当時の主要な神学者はスコラ学派と呼ばれており、 アリストテレス哲学をベースに
して、キリスト教の教義を合理的かつ体系的に説明していた。それは、信仰と理性との
調和をはかる試みといえた。トマスには、親の許しもないままに、清貧ドミニコ修道会
に入会した為に、 家族は脱会させるために彼を城の中に幽閉した。 そして美女を部屋
に送り込み、色仕掛けで世俗社会に連れ戻そうとした。しかし、トマスは美女を部屋か
ら追い払い、ドミニコ会規則に従った生活を送ったという逸話が残っている程だ。この
後 彼の成果で、貿易か戦争かの選択の中で オスマンのイスラム的思考法は、かなり
に於いて取り入れられた。逆にこちらのキリスト思考も向こうに伝わったようだ。こう
して十字軍や渡航旅人が交わったことで、チューリップの花がもたらされたのだった。
しかし、その物珍しさは、球根が売買されるまでに至ってオランダ黄金時代の最中、ネ
ーデルラント連邦共和国において、当時オスマン帝国からもたらされたばかりであった
チューリップ球根の価格が異常に高騰した。そして突然に下降し、チューリップバブル
ははじけた。チューリップ・バブルのピーク時であった1637年3月には、特殊な1個で
も、熟練した職人の年収の10倍以上の価格で販売されるチューリップ球根が複数存在
したほど高くなった。1619年〜1622年にかけて、三十年戦争の戦費調達のために、ヨー
ロッパ全体で行われた貨幣の変造事件にも、バブル経済類似の熱狂が存在したと指摘す
る。チューリップ・バブルは人の希望と欲望が支えた。これが記録に残された最初の投
機バブル(またはバブル経済)である。とされる。「チューリップ・バブル」という語
は、今日では、資産価値がその内在価値を逸脱するような大規模なバブル経済を指して
しばしば比喩的に用いられる。チューリップ狂時代とも言われるこの時代から近代の魔
術のようなペテン師世界が繰り広げられる。

841: 名無しさんAA:18/10/08 17:00
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐33  

 この食べられもしない花の球根一個が、豪邸に住まわせる価値が出て、東方貿易投資
で日々の生活に財を成すようになって、俄然欧州国内に国力や経済や資本主義、重商貿
易、金融改革などの意識が芽生え研究されだした。18世紀後半以降、アダム・スミス
、トマス・ロバート・マルサス、デヴィッド・リカードなどの、イギリスの経済学者に
代表される理想社会は、従来の重商主義を批判し、労働価値説を提唱した。又重農主義
によるレッセフェール(自由放任)の概念を使用し、個人の利己的な経済活動が、自由
市場の「見えざる手」(需要と供給による価格決定メカニズム)によって、全体として
資源の最適配分となると表明した。権力の規制を払う為の方便だった。しかし、ジョン
・スチュアート・ミルは、真面目に功利主義に基づいて自由主義を重視はした。しかし
一方で、貧富の差や植民地の増大を懸念して、政府の再分配機能や、後の社会民主主義
などの改良主義に影響を与える。「満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い
。 同じく、満足な愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い。 そして、そ
の豚もしくは愚者の意見がこれと違えば、それはその者が自分の主張しか出来ないから
である。」と説いて意識の高さを問題にした。彼はロマン主義に一時近づいた先駆者で
あった。18世紀半ばイギリスより産業革命が発生し、デイヴィッド・ヒュームやアダ
ム・スミスらの経済理論家グループは、従来の重商主義に異議を唱え、市場経済では自
己利益のための投資が「見えざる手」により全体の効率と成長に導かれるとした古典派
経済学の定義として成立させていた。近代の株価暴落さえも理由づけされた。他方で手
工業生産の衰退や囲い込みなどにより、伝統的な共同体が崩壊し、都市労働者が増大し
て労働者階級(プロレタリアート)が形成され、劣悪な労働条件や低賃金が拡大してい
った。東インド会社の解散後は、ロンドン・ウエストミンスター選挙区選出の無所属下
院議員と短期間なった。当時のリベラリストの代表格として、この時期にアイルランド
の負担軽減を主張し、イギリス下院における最初の婦人参政権論者となって意見した。
人々は「望む行為が他者に危害を加えない限り」において、好きなだけ従事できるよう
に自由であるべきだという「危害原理」を主張した。この思想のはしばしばリバタリア
ンと呼ばれる。ミルの著わした『自由論』(1859年)では自由とは何かと問いかける。
ミルは、自由とは個人の発展に必要不可欠なものという前提から議論を進める。

842: 名無しさんAA:18/10/08 17:01
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐34  

 ミルによれば、私たちの精神的、道徳的な機能・能力は筋肉のようなもので、使わな
ければ衰えてしまう。しかし、もしも政府や世論などによって、いつも「これはできる
。あれはできない。」と言われていたら、人々は自らの心や 心の中に持っている判断
する力を行使できない。よって、本当に人間らしくあるためには、個人は彼、彼女自身
が自由に考え、話せる状態(=自由)が必要なのである。と説いている。この後、シャ
ルル・フーリエらは社会改革を提唱した(空想的社会主義)。この空想的社会主義の中
に資本主義社会が含まれていた。フーリエは産業革命の中で、「産業主義の批判」と「
理想的協同体の提案」、「自然的欲望の肯定」などを提唱し、「情念引力の諸法則はあ
らゆる点で、ニュートンとライプニッツによって解明された物質引力の諸法則に合致す
るのである。そして物質界と精神界とに通ずる運動体系の統一というものが存するのだ
。」と神の法則を説いた。1780年代からのフランス革命などで、市民革命(ブルジョワ
革命)で、私有の財産制が確立し、経済的自由主義が拡大した。一方で経済的平等を重
視する立場から社会主義が登場した。産業革命勃興期、国家・政府の庇護を受けた産業
者(資本家)が賃金労働者を強く搾取する事が存在した。この「国家の暴力」に対して。
「革命の暴力」もまた革命と称する破壊と暴力によって財を失った多数の貧民や浮浪者
、破壊さた街を生み出していた。本来の目的からは著しく悪循環を踏まえて、共同体思
想を提唱した。「その協同体は国家の支配を受けず、土地や生産手段は共有とした上で
、数百家族がひとつの協同体で共同生活をする。基本的に生活に必要なものは自給自足
とし、労働活動を集約することで労働時間を短縮する。」といった提案であった。1867
年、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスらの『資本論』では、「資本主義は
拡大して国家の役割は縮小し、資本主義の本質の資本家による労働者からの搾取から、
資本家達は富を蓄積し、労働者は貧困を蓄積する国家内ピラミッドの経済的頂点となり
、必然的に革命が発生する。」とした。こうして「資本主義社会の生産手段の私的所有
から、社会主義社会の必要となり、生産手段の社会的所有に移行する。」、とした理想
社会主義の途中経過であるとマルクス経済学は論じた。つまり、資本主義自由社会は、
あくまで理想社会主義へ移行する経過であるとしたのだ。それに同じく共感し、発表し
たのがスターリンの共産主義社会だ。いわゆる独裁の階級社会主義は、世界の社会主義
革命の一過程で 世界革命が達成するまでの仮の体制である。としたのだ。


843: 名無しさんAA:18/10/08 17:01
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐35  

 「資本主義」(capitalism)の用語は、1850年にフランスの社会主義者ルイ・ブランに
よって現代の意味で使用されていた。「私が資本主義と呼ぶものは、ある者が他者を締
め出す事による、資本の占有である。」と記した。また1861年にピエール・ジョゼフ・
プルードンは「資本主義の経済社会体制では、資本は労働する者には所属しない」と記
した。1867年より発行されたカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスによる著書
『資本論』での用語「資本家(資本制)システム」(英語:capitalistic system) 及び
「資本家(資本制)生産様式」(ドイツ語: kapitalistische Produktionsweise、英語:
capitalist mode of production)も、日本語訳では「資本主義」とされた場合が多い。
18世紀後半のアメリカ合衆国独立以降、ロックフェラー、モルガン、メロンの世界の
三大財閥は市場を独占し、日本の三井・三菱の台頭を許さないとして、アメリカに取り
入って戦争を指導した。しかし、アメリカの国民からは、自由競争を妨げているとして
独占禁止法(反トラスト法)が制定され、法廷闘争が行われた。米国の独占禁止法では
(反トラスト法)は,単一の法律ではなく,いくつかの法律の総称であり、単に(競争法
)とも呼ばれる。反トラスト法は、主に3つの法律及びこれらの修正法から構成されて
いる。 [1] シャーマン法(1890年制定) [2] クレイトン法(1914年制定) [3] 連邦
取引委員会法(1914年制定) シャーマン法は,カルテルなどの取引制限 及び 独占化
行為の禁止、その違反に対する差止め、刑事罰等を規定している。クレイトン法では、
シャーマン法違反の予防的規制を目的とし、競争を阻害する価格差別の禁止、不当な排
他的条件付取引の禁止 企業結合の規制 3倍額損害賠償制度等について定めている。
 連邦取引委員会法は、不公正な競争方法及び不公正又は欺瞞的な行為又は慣行を禁止
しているほか、連邦取引委員会の権限,手続等を規定している。なお、反トラスト3法
と違反行為類型の関係については、反トラスト局長は上院の承認を経て、大統領が任命
し、司法省における反トラスト法の執行業務の実質的な権限を有している。又反トラス
ト局は、シャーマン法又はクレイトン法違反の行為が存在すると認めるときは、自ら調
査し連邦地裁に起訴又は提訴(刑事又は民事)することができる。なお,反トラスト局は
違反事件の審査に際し、連邦捜査局(FΒI)及び地方検事局の職員を用いることができる


844: 名無しさんAA:18/10/08 17:02
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐36  

 連邦取引委員会(FTC)は、委員長を含む5人の委員により構成され,その下に競争
局、消費者保護局、経済局、総局長室、法律顧問室及び地方事務所等が置かれている。
又 各州の司法長官は、それぞれの州の反トラスト法を執行するだけでなく、反トラス
ト法違反により州民が被害を受けた場合にはクレイトン法第40条に基づき,州の名に
おいて被告に対し管轄権を有する連邦地裁に対し3倍額損害賠償の請求訴訟を提起する
ことができる。このほか,ほとんどの州が,独自の反トラスト州法を制定している。こ
の様に、アメリカ合衆国における独占禁止法は、反トラスト法と呼ばれ、1890年に制定
されたシャーマン法(Sherman Act)、1914年に制定されたクレイトン法(Clayton Act
)と連邦取引委員会法(FTC法)が中心規定で 連邦レベルの法律であるが、この他にも
各州ごとに州反トラスト法が制定されている事で成り立っている。基本的に経済学上に
独占を許すか許さないかは大きな違いがでる。そもそも理想社会主義の中の経済で独占
や独裁をどう規定しているかと言えば、全く規定はない。しいて言えば経済学よりは、
社会学の世界である。日本の明治維新は半封建的な資本主義との議論が、共産党内で、
に発生し講座派と労農派の論争が起こった。日本資本主義論争である。コミンテルンは
当時とっていた「社会民主主義=ファシズムとする」社会ファシズム論の立場をとり、
社民勢力との闘争を特別に強調した。また、日本における革命的決戦が切迫していると
いう情勢評価をおこなっていた。共産党の講座派は、明治維新後の大日本帝国を絶対主
義の社会国家と規定し、まずは民主主義革命が必要であると論じた。労農派は「明治維
新=ブルジョア革命」とみなし、維新後の日本を近代資本主義国家と規定し、社会主義
革命を主張した。つまり、明治維新後の、共産主義の理想社会に向かうに、民主主義革
命が必要か、社会主義革命が必要か、で 対立していたのである。しかし、不思議な事
に明治政府発足当時に、西郷隆盛が、既に使節団出発後、留守政府となった時「学制・
徴兵令・地租改正・太陽暦の採用・司法制度の整備・キリスト教弾圧の中止」などの大
改革を積極的に行って反対はなかったのである。後に人事を巡る問題が起こり、その上
西郷隆盛派の遣韓問題を巡って留守政府と岩倉使節団の対立が激化して明治六年政変に
至る事になったのだが、この先見性は西郷の知見の高さを物語っている。中でも「学制
」で学校教育の基礎を決め、神社仏閣等の「女人禁制の禁止」を定め「農民貧民の官学
採用」などは、今の自由主義に劣らぬ自由・平等・博愛に満ちた人権重視政策だった。

845: 名無しさんAA:18/10/08 17:08
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐37  

 資本主義(しほんしゅぎ、英: capitalism)または資本制は、生産手段の私的所有お
よび経済的な利潤追求行為を基礎とした経済体系である。資本主義を特徴づける中心的
概念には、私的所有(個人的所有)、資本蓄積、賃金労働、自発的交換、価格体系、競
争市場などがある。資本主義の市場経済では、投資の意思決定は金融市場や資本市場の
中で所有者によって判断され、生産物の価格や配分は主に市場での競争によって決定さ
れる。歴史的に、資本主義の初期は自由資本主義(リベラルキャピタリズム)であり、
私的所有によって特徴づけられる。現在では資本主義の形態は、経済学者・政治学者・
歴史学者などにより、レッセフェールまたは自由市場による資本主義、福祉資本主義、
国家資本主義などの多数の議論がある。これらの経済体制では、自由市場や自由競争と
、公権力(社会政策による政府規制などの経済的干渉主義)との間のバランスが異なる
。現在の資本主義経済の大多数は、自由市場と政府による干渉の要素を結合した混合経
済で、経済計画を持つ場合もある。この今の資本主義の弊害に対し、修正や反対をする
概念や立場には修正資本主義、反資本主義、社会主義、共産主義、国家社会主義(ナチ
ズム)、結束主義(ファシズム)、第三の道、第三の位置などがある。また自由競争を
更に推進する概念や立場には新自由主義、リバタリアニズムなどがある。ナチズムは、
ナチスが政権政党であった事から、そのスローガンがそのままナチズムとされるが日本
においては国家社会主義、民族社会主義等の訳語が当てられるが、実質は国家社会主義
ドイツ労働者党でありドイツ流の資本主義であったのである。又、同じ国家社会社会党
の中で、同じくイタリアに於いて国家ファシスト党が政権を取った。敵対する社会主義
共産主義陣営であるスターリンやコミンテルンは、ナチズムはイタリアのファシスト党
のイデオロギー「ファシズム」の一種であると定義し、「ファシズム」と呼んだ。しか
し語源的には「薪や薪木の結び紐」の意味で「スカートベルト」の語源の意味以外は何
も無かった。このファシズムにスペインのファランヘ党が賛同し党旗に、束にした矢が
2頭の牛にかけるくびきと結合されたデザインをつけた。そのためスペインのフランコ
政権などは敵対対象として、ドイツファシズム・イタリアファシズムに対する「反ファ
シズムの人民戦線」との組織名にした。このコミンテルン用法に加えて、社会主義国や
社会主義者の立場から、日独伊三国軍事同盟に参加した戦前の日本や、各国の軍事独裁
政権なども「ファシズム勢力(陣営)」と認識されるに至っている。つまりファシズム
さえも資本主義社会であるのだ。


846: 名無しさんAA:18/10/08 17:15
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐38

 経済学の中で困難なのは、一体何を求めているかが、微妙に漠然としか見えない事だ
。個人となれば、第一義的には自分自身の命であろうし、家庭や個別の集団となれば、
それは豊かさや繁栄だろうし、永続である。国家や国民となれば、それなりの威厳や国
の武力であろう。しかし経済学ともなれば、それはちょっと違う。そもそもそのくくり
となる集団は個人なのか国家なのか人類なのか地球という環境なのかがはっきりしない
。その上扱う数値が、食料なのか、金銭なのか、財宝なのか、便利な消費物品なのか、
公共的財産なのか、はたまた空気や水や天然資源なのかが全く判然とはしない。今後の
経済という言葉を発した時、それは豊かさを示すのか、物流を示すのか、税収を示すの
か、あるいは詐欺的数値であるGDPなどの数値なのか、産業なのが。全く不明のまま
だ。経済学が良く知れ渡ったのは戦後復興において、新古典派経済学者アルフレッド・
マーシャルがマーシャルプランを出して実行し、世界経済を支えてから、彼の主著であ
る「経済学原理」によって誕生・普及したとされる。日本語で「経済学」と言った場合
、金融経済学だけでなく政治経済学を指す場合もあるため、分類されているようだ。広
辞苑には、「経済現象を研究する学問」とあり、総じて経済活動が研究の対象となって
いる学問という事らしい。およそ経済学の最も古い定義は、アダム・スミスの『国富論
』によるものとされる。「国民の行為によって豊富な利益ないしは製品を供給し、収益
を、国ないしは社会にサービスとして提供し、結果として人々と統治者を豊かにする手
立てである。」と、説いている。フリードリヒ・エンゲルスは『反デューリング論』で
「経済学は、最も広い意味では、人間社会における物質的な生活資料の生産と交換とを
支配する諸法則についての科学である。経済学は、本質上一つの歴史的科学である。そ
れは、歴史的な素材、すなわち、たえず変化してゆく素材を取り扱う。」として哲学、
経済学、社会主義の全領域にわたってマルクス主義の世界観を初めて包括的に叙述した
書をだし、『共産党宣言』や『資本論』と並ぶ重要な古典的著作となった。しかし、こ
れは 過去においても、どう独占的支配をし、高利と搾取が貪れたか。又科学といって
も、如何に便利と言う高付加価値の提供を、欲望をそそらせて高く売るか。に他ならな
い。結局戦後のマーシャルプランの様に、アメリカがどんなに一番になっても疲弊した
他国に売りつけられずに、盛んに人道支援の形で物資補給とドル札のばらまきしか出来
なかったのが経済学だ。つまり、経済学は、格安の供給で産業空洞化し、金融の利ザヤ
で動くゴールドカラーの方便であって、国家は双子の赤字に頼った米国を説明しない。


847: 名無しさんAA:18/10/08 17:23
 NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐39   

 対して西洋の様な戦略的重商主義を選ばなかった日本は、進出も敵対もない平和理論
に傾倒していた。明治すら江戸時代の気分そのままに、性善説のまま国際社会に入った
。その為英国の助言通りに狭軌の鉄道を敷設し今になって新幹線を新たに引く結果をお
びたり、何ら関係ないシベリア出兵をせかされ、朝鮮半島やマーシャル諸島の委任を受
けたりして、日本は国家予算以上の出費を何年も行って来た。江戸時代そのままに本当
にかなりの苦労をものともせず大陸進出をした。今回ノーベル賞を得た本庶佑特別教授
の座右の銘が「有志竟成(ゆうしきょうせい)」との揮毫(きごう)しているが「強い
志を持てば目的は必ず達成できる」という意味で、まさしく闇雲に頑張る日本人像がそ
こにある。しかし彼の氏がノーベル賞に輝いて、話したことは「自分の目で確かめない
と信じない。」と言う事だった。経済学でも、その数値が信じられない人為操作で生ま
れていては、全く信じれないものだろう。アメリカの統計調査のみならず、株価操作か
ら経済操作まで、人為的だ。事実中国の経済操作や統計調査はそのかつての戦後時代の
踏襲に過ぎない。では今の株価や外貨の変動は何故あがるのか。それこそがこのユダヤ
の超巨大資本の動きである。元々たった一資本のLTCMの倒産で800兆円或いは、
リーマン閉鎖で9000兆円の世界資産が消えたとされる。これほど大きくはないにし
てもこの幻にも似たバブル景気が常に毎日起こっているのが株価上昇であろう。この株
の仕組みは、日本では、遠い昔の平安時代の貴族が仏教に寄与した事に始まる。其の頃
は線香は全て香木だったし、仏具の殆どは、仏像・金箔・数珠・高槻・三鈷・衣装まで
輸入品だった。お賽銭すら輸入された。当然そこには、皇族を含めたオークションが行
われて高値落札となるのである。欧州も同じで、貴重な香料や胡椒やカカオ豆や珍品に
は高値の取引が行われた。最終的には船にまで、船が沈む時の権利債権と帰って来た時
の権利債権を競争させ高値で売ったのだ。これがロイド保険になった。航行にはおよそ
船に応じて5〜3人の宣教師が乗り込むのが規則だった為だ。しかし殆ど大海から帰っ
て来るのは5割で帰って来た時には大きな財宝を積んできた。宣教師達も派閥があって
、バチカン認可に大金を預金させ船団が沈む事に掛けて、大儲けする仕組みを作ったの
である。大体において人の社会において「便利と言う不便さ」は「運動しない肉体」と
同じで、バチカンの認可を受けて大航海する船団は海賊船であり、悲惨な非情さも有し
たのである。ここでは神の許しを貰った大虐刹人になったのだ。これが一神教の正体だ
ったし、今の経済学の素である。笑うぐらいオークション心理学の世界であると言える。

848: 名無しさんAA:18/10/08 20:35
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐40   

 経済合理性から言えば、地球に人間がいない事が、一番の合理性を持つ。ここに何故
人間が、この自然の中に必要だったのかの問いが表れる。そしてその問いが地球自然と
の共生に落ち着くのは当然だった。ところがこうした問いには、全く興味のない人達が
大手を振って金儲けをした。これがユダヤ教だった。司祭は他宗教の信徒には高利子の
貸付ていい事を盾にして利用し合い、ここで教会と共に懐を温めたのである。こうした
権力との繋がりは商売は現代まで続いている。味を占めた強欲がここまで来たのである
。一方で国は経済と軍亊力は切っても切れない要素だ。十字軍遠征から果たした貿易に
おいて国を豊かにと言う重商主義は欧州の指標ともなった。ある意味 古代からの征服
主義が形を整えた事でもあったろう。宗教と経済そして国家権力が一体となったのは、
イスラム教だったが、逆にイスラム教も又キリスト教の影響からだった。こうした事を
ドイツ派遣や留学から学んだ日本でも、同じ様に政教一体化政策に及んで戦争した。天
孫一系とした日本国民を鼓舞して、教育勅語の国家観を、憲法以外に備えて国家神道を
唱えだしたのだ。元々は神道に宗教観はない。何故ならこれは習慣や作法であって、強
制はされなったからだ。歴史上仏教にその宗教としての観念は奪われていたからだ。そ
こで政府は急遽神仏一体化政策を敷いている。仏教で宗教的教示を誇示し神道を教えた
、日本の概念論では、神そのものが各所に無数いる多神教であり、八百の神で網羅して
お祈りし、御祓いし、お願いする。そこには問いかけも行動も何ら罰したり戒めとする
物はない。仏教の様な呪いもない。過去には呪いの疑似や儀式はあったが仏教が乗っ取
った形で死後の世界観を地獄があると布教した。日本仏教で地獄も天国も概念となった
。死んでも祀り上げて神とするこれが神道の基本だったのを代えたのだ。日本の神道は
拝火教の流れを色濃く残す。現生が悪の世界だから光照らせよ。踊り祀れよ。という事
だ。摂取不捨つまり自然も物事も一切の無駄や無用はない。何かしらの長所がある。と
言う話なのだ。そして現人神に祀り上げた天皇のと言う 絶対神の言葉が勅語として語
られる。「朕(ちん)惟(おも)フニ、我ガ皇祖皇宗、国ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠ニ
、徳ヲ樹(た)ツルコト深厚ナリ。」と。国を始めたのは天皇家の祖先、徳を積んでき
たのも代々の天皇家。その下で国民は「我が臣民」という言葉で、家臣か奴隷である。
国民は天皇の家来。「主権在民」「民主主義」とは真逆の天皇中心思想が語られてる。



849: 名無しさんAA:18/10/08 20:36
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐41   

しかし、今や現行憲法は主権在民であり憲法尊重擁護義務を負う。憲法99条に規定さ
れている。「天皇または摂政および国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、こ
の憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」とされる。教育勅語を尊重したり、擁護したりす
ることは、この義務に反する。ということになった。GHQも又そうした判断をした。
 即ち、教育勅語自体が反憲法的な為に、その部分はGHQによって黒塗りされたので
ある。三条実美と西郷隆盛は留守役として、その帝国憲法以前に民主主義的肝を次々と
施工した。明治政府でもかなり重要なポジションについた公家の一人が三条実美(さね
とみ)であった。家格はずっと上で、公家の中でもエリート中のエリートだった。三条
実美は海外にも見識があったのだろう。しかし彼は幕末〜明治維新の激しいうねりの中
で「七卿落ち」という憂き目にも遭って政界を去っている。安政3年(1856年)には、
19才で右近衛権少将となり、貴族としては王道のエリート街道を歩んでいる。しかし、
順風満帆な貴族生活も長くは続かず、嘉永6年(1853年)の黒船来航から始まる動乱の
波は、京都まで及んでいた。安政5年(1858年)日米修好通商条約の勅許を得るため、
老中・堀田正睦らが京都へ来た。徳川斉昭らの一橋派と通じて公卿は、堀田に対して工
作して立ち塞がった。呆れ果て失意の内に堀田は、成果なく江戸に戻ると、井伊直弼は
勅許を待たずに条約を締結した。又返す刀でうむを言わさず「安政の大獄」を敢行しし
て反対派の一橋派に厳しい弾圧を加えていった。その煽りを受け、実美の父・実万も、
辞官落飾処分を受けた。官職を奪われた上に出家させられたのだ。これで実美も、政争
の渦中へ自ら巻き込まれて行った。実美には、政治へ深く関わっていく素養や環境が整
っていた。若かりし頃から彼の周囲に、著名な思想家が繋がっていたのだ。家臣で尊皇
攘夷の志士の一人富田織部、国学者の谷森種松(谷森善臣)漢学者で尊皇攘夷の志士の
池内大学(陶所)などだ。この事から中国のアヘン戦争の経緯や今の中国王朝の国情な
ども知り得て居たのであろう。彼らからの教育と父の無念さを踏まえ、実美は筋金入り
の尊王攘夷派公家へとなっていった。そして欧米のシステムも又知り得た筈だ。文久2
年(1862年)実美は左近衛権中将、従三位、議奏加勢、権中納言、議奏などに出世した
。この時京都は、大混迷の極みだった。公武合体政策が実り、孝明天皇自身までもが、
その方向へと傾いていっていた。薩摩藩や会津藩は率先して後押しをした。反幕尊攘の
姿勢を取る長州藩は、この中で苦慮していた。長州藩内は先鋭化し、三条実美も又国内
混乱が他国の思うツボと知っていたので、長州藩に近い公家グループのリーダーとして
応援していた。やがて、主導権を握った長州藩と実美らは、積極的に動き始めた。

850: 名無しさんAA:18/10/08 20:36
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐42   

 公武合体派公家のリーダー・岩倉具視らを弾劾しようともくろみ、その意見書を関白
・近衛忠煕に提出した。さらに朝廷は幕府に対して、攘夷督促の勅使派遣の建言を行う
ことになった。公家の勅使となって実美は副使を姉小路公知とし、共に江戸へ向かった
。警護には、実美とは姻戚にあたる土佐藩主・山内容堂(豊信)があたった。11月、
実美らは江戸城にて勅書を交付すると、江戸城大広間の上段にあがり奏上した。勅使の
姿は幕府にとっては驚くべき異例のものと映った。この翌月、実美は新たに朝廷に設置
された「国事御用掛」の一員となって。翌文久3年(1863年)には、将軍・徳川家茂が
上洛する接待を務めた。孝明天皇と共に賀茂神社・石清水八幡宮で攘夷祈願を行った。
ここで御用掛を勤めて強く出た。一方、家茂は、朝廷の勢いに押されて5月には攘夷を
行うと約束し、江戸に戻る。孝明天皇からすれば、妹・和宮の夫であり、誠実な家茂の
人柄が気に入ったのであろう。長州藩や実美ら尊王攘夷派が「いよいよ攘夷だ。」と盛
り上がる中、肝心の孝明天皇は彼らに嫌悪感すら覚えていたのだ。この時ヒートアップ
した長州藩を何とかして欲しいと考えていた。家茂も孝明天皇と話す事に積極的であり
双方に異存はなかった。そこでここで長州追い出し作戦が実行されるが、その意を受け
、天皇の側近・久邇宮朝彦親王は薩摩藩、会津藩を選んだのである。「八月十八日の政
変」を起こし、京都から長州藩が追い出されることになった。それに伴い尊王攘夷派の
公家七名に対し、追放処分が下される。一般的には「七卿落ち」とも呼ばれている。そ
のメンバーには、三条実美を初め、三条西季知(さんじょうにし すえとも)東久世通
禧(ひがしくぜ みちとみ)壬生基修(みぶ もとおさ)四条隆謌(しじょう たかう
た)錦小路頼徳(にしきこうじ よりのり)沢宣嘉(さわ のぶよし)である。かれら
は、元々は藤原北家の名門貴族であり、鎌倉時代から続く家でした。実美らは、暴風雨
の中長州藩を目指した。七卿は官位を褫奪されてしまったため、名前を変えた。例えば
実美は実(まこと)、または梨木誠斎(ナシキ セイサイ) の変名を用いた。変名まで
難解な読みだ。当然長州が西にあった為、多くは西に向かったのだった。そして彼らは
「君側の奸(くんそくのかん、主君をたぶらかす奸臣の意味)」らを一掃して政務復帰
を果たす。とばかりに虎視眈々と再上洛のチャンスを狙いながら過ごしたようだ。平野
国臣が但馬・生野で挙兵する事が伝わると、直ぐに沢宣嘉が脱走して単身挙兵に参加し
た。が、この挙兵は失敗、沢宣嘉は逃亡します。さらには錦小路頼徳が潜伏中に病死し
、七卿は五卿に。この後、第一次長州征討では五卿の引き渡しが問題となっていった。

851: 名無しさんAA:18/10/08 20:37
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐43   

 長州藩で匿われていた彼らは、擁立されると困ると考えた長州藩は、筑前藩へ送り、
後に太宰府に移された。そして、五年にわたる苦難を乗り越え、慶応3年(1867年)、
実美らは京都政界に議定として復帰を果たしたのでした。この間に三条は柳川立花藩の
家老立花壱岐の守と逢って、支援を願い出ている。しかし、幕府からの圧力と新政府が
薩摩寄りの為、既に時節は過ぎている。として諭して佐賀藩を案内している。柳川にも
立花和泉守が討幕派を形成していたのである。明治新政府になって議定との職を得た三
条実美は、柳川城の明け渡しを執拗に迫ったと言う。議定とは、明治政府に設置された
官職の一つ(1869年太政官制の導入によって廃止)であり、「法律の制定」や「条約の
締結」、「三等官以上の人事」などを司りかなりの地位だった。「総裁・議定・参与」
からなる「三職」の一つで、総裁を首相とするならば大臣席である。かなり重要なポジ
ションと言う事になる。翌明治元年(1868年)は、実美にとって輝かしい年の始まりで
だった。正月9日、岩倉具視と並んで新政府副総裁に任じられたからだ。幕末の動乱の
最初期から、尊王攘夷派公家として活動していた「お疲れ様でした人事」という形と、
西洋訪問の準備だった。功績により5千石も得ている。実美の出世ルートは華やかで、
明治2年(1869年)右大臣、明治4年(1871年)太政大臣となります。ただし、実美は
岩倉具視と比較すると、政治力は不足していた。しかし西郷と共に縁の下の立役者でも
あった。宮家出身で裏工作が得意で天皇との間を取りもった。明治4年7月14日(1871年
8月29日)に断行された廃藩置県の後始末が済まないうちに、岩倉使節団の計画が持ち
上がり最終的に岩倉具視・大久保利通・木戸孝允ら明治政府を主導してきた首脳の殆ど
が加わる様な一大使節団となった。これには結んだ不平等条約の是正であった。使節団
の外遊中の留守を守るとともに廃藩置県の後始末を行うための組織として太政大臣三条
実美を筆頭に西郷隆盛・井上馨・大隈重信・板垣退助・江藤新平・大木喬任らによって
臨時政府が結成された。朝鮮に対して強硬な征韓論を唱えた板垣に、佐賀の神風連の乱
さえ取り締まれなかった大隈と江藤と大木は海外から帰化民が押し寄せて来てる事には
危機感があった。実は藩校の弘道館で学び、1850年(嘉永3年)副島種臣らと共に大木
は枝吉神陽の義祭同盟結成に参加している。後に江藤新平や大隈重信らも加わり藩論を
尊皇攘夷へと導くことを図るが果たせなかったが大隈と江藤と大木と副島は同じ仲間で
佐賀の気風を背負っていて慎重派に属した。万延元年(1860年)藩校弘道館から選ばれ
て江戸遊学の途に上って政変を見ている。この頃の佐賀藩の先見性はグラバーが長崎を
危険視してこの地で散歩した土地柄だった為か、全く異常に西洋化が進んでいた。

852: 名無しさんAA:18/10/08 20:37
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐44   

 この日本の中で最も小さな佐賀藩が、廃藩置県に於いても自我独立を貫いたのには、
それこそ九州の流通経済が、日本で横浜よりも優れていた点にある。横浜は輸出入の新
たな拠点ではあったが、これまで培った長崎の街には、まだまだ遠く及ばなかったから
である。その大半の集合点が佐賀の諸富と福岡の大川の筑後川であった。特に大川では
八女の筑後茶・浮羽の丸太・柳川の貝灰・大牟田の石炭・瀬高のレンガ・などが船に乗
せて長崎に運搬され全国に送られた。又佐賀からも、焼物・刃物・織物・鉄砲・ガラス
瓶・食糧の米や小麦や牛肉豚肉などが長崎に運ばれたが、直接が多かった。特に織物や
椿油や刃物や皮革製品や大八車などは久留米藩の輸出だったが、座卓の円形ちゃぶ台や
人力車は遠くインドまで送られ明治の輸出の最大第一のものとして新聞には書かれれて
いる。鍋島は反射炉を日本で最初に築き、黒船を幕府と競争し、より新しい軍艦を発注
している。その頃の佐賀藩は反射炉技術を薩摩に売る程に金が無かったというのにであ
る。薩摩も又、薩英戦争で賠償金に追われたままに幕府に代替わりさせたままだった。
経済の話は時々森永卓郎の様な馬鹿が日本に居て困る。かつて米国は双子の赤字にまみ
れていた。国の貿易収支で持った資産の赤字が そのまま国民所得の赤字となり2つ共
赤字だったのだ。対して日本は国民の貿易収支で積み上げた資産はまだ赤字ではない。
しかし民間の貯金額である。対して政府予算は今や債権団体である。遠の昔に1割5分
の利子分を過ぎた債権限度額を過ぎた。つまり縮小予算にすべき時に、安倍政権は馬鹿
みたいに景気を待ち切れず8%に税率を上げた。あと半年もあれば景気が上がる頃に、
景気を冷やし、税率の値上げで景気後退する。この時補助金漬けにして政府予算を債権
に頼んだ予算運用したのだ。こんなバカ政治家を担ぐのだから全くどうしようもない。
今度も同じだ日銀の利率は全く上がっていない。つまり景気は全くあがってない。なの
に1割にしようと言うのだから正気の沙汰ではない。と言う形は、実は今の日本が最初
ではない。アメリカが独立戦争に陥ったのは、実はイギリスがそうした事だったからだ
。イギリスも植民地経営に失敗して国家財政は破綻し、国民は大英帝国の威厳の中で暮
らたのである。だからこそ金融資本は大儲け出来た。その後独立戦争が終わると米国は
たちまち戦後恐慌の中にあった。つまり国家は財政赤字に汲々としていたが、国民達は
農産物をフランスやドイツに食糧を売ってで潤っていたのである。だがこのドイツから
イギリスに輸出を切り替えた。農作物の不作が起こったのだ。ドイツでは、インフレが
起こった。アメリカはそれまでの農産物の輸出量は大幅に減ってドイツの輸入は更に減
って行ったが、貿易額は鰻登りだった。ドイツのインフレからだ。

853: 名無しさんAA:18/10/08 20:38
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐45   

 ワーテルロー(ウォータールー)の戦いとは、1815年6月18日、フランスのナ
ポレオンが英国・オランダ・プロイセン連合軍に大敗し、百日天下に終止符を打たれた
。この有名な戦いで、ネイサン・ロスチャイルドは読みを誤り、破産するかと思われる
大失策に陥っていた。それまでのナポレオンの戦争と同じように、今回の戦争も長引く
だろうと予想して、読みに基づきネイサンとその兄弟は、戦時中に需要が急増するであ
ろう金を、大量に買い込んだのだ。まさか戦いがあっという間に終わるとは、露ほども
思ってなかった。連合軍側政府には、融資や軍需品の買い付けで、ネイサンは大きく儲
けるつもりだったのだ。だがしかし、けれども、戦いが早々と終われば狙いは外れる。
「彼ら兄弟は、いまや誰にとっても無用の高価な金貨の山の上にすわっているのも同然
だった。そのカネが必要とされる戦争は、終わってしまったのだ。平和が訪れていけば
、ナポレオンに応戦した軍隊は不要になるし、連合軍も解散する。したがって、兵士の
給料も、イギリスの盟友諸国に支給する予定だった金も支払われなくなる。又、戦時中
に高騰した金の価格が暴落することは、目にみえていたのである。」(ファーガソン書
)ネイサンは独自の密使を使い、情報をいち早く入手したのは事実であった。ナポレオ
ンが敗北した6月18日の深夜にブリュッセルで発行された新聞の遅番を、中継で運ば
せいち早く情報は経ていた。ネイサンが情報を得たとき、まず頭に浮かんだのは、当然
、すぐにこの重大ニュースを首相に知らせなければ、ということで、もはや夜も更けて
いたのだが、彼はダウニング街に急いだ。ところが現れた執事は、リヴァプール卿(=
ロバート・ジェンキンソン首相)はすでにお休みになっていて、お邪魔はできない。と
のこと。翌(20日の)朝になってロスチャイルドが伝言を届けても、卿は公式情報に反
するとして信じなかった。」この時既に次の行動に移っていた英国の国債暴落を止める
事だ。金を売って英国債を買い続けた。理由は2つ、金は盗まれ安かった。それに英国
はオランダ債の高騰について行く事は大事だった。多くのイギリス国債はブリュッセル
で発行していたからだ。ファーガソンによれば、1815年7月20日、ロンドンの「
クーリエ」紙夕刊は、ネイサンが多額のイギリス国債を購入したと報じた。ネイサンは
、イギリスのワーテルローにおける勝利と、それに伴う政府借入金の減少によって、イ
ギリス国債も又価格が高騰することに賭けたのだ。ネイサンはさらに国債を購入し、コ
ンソル公債(永久公債)が読んだとおりに値上がりすると、さらに買い続けた。

854: 名無しさんAA:18/10/08 20:39
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐46   

 ネイサンの兄弟たちはあきれていた。その国債を売り抜けて儲けるよう口説いたが、
ネイサンはさらに1年間、辛抱強く保有し続けた。そして1817年の末、債券市場が
40%あまり値上がりした時点で手放した。経済成長やインフレによる英ポンドの購買力
の変遷を考慮に入れると、彼が手にした利益は、現代の価値に換算して6億ポンドに相
当するという巨額だった。終戦が英国の財政と経済に及ぼす影響を分析し、その読みに
基づく長期の投資で利益を得たのである。もちろん読みが的中する保証はなく、外れれ
ば逆に大きな損失を被った可能性もある。周囲の意見に逆らって英国債を辛抱強く保有
し続けていたとき、ネイサンの胸中は決して穏やかでなかった。しかし少なくとも、オ
ランダ国債やドイツ国債に移って行くだろう資金を繋ぎ留める事はこの国には大事であ
りその誇りはあった。これが戦争の結果がロスチャイルド家にもたらした影響である。
ハーバード大学教授で経済史が専門のニーアル・ファーガソンは、ロスチャイルド家は
連合軍の勝利で「大儲けをするどころか、もう少しで破産するところだった」と指摘し
、「彼らの財産は、ワーテルローの戦いによってではなく、この戦いにもかかわらず築
かれたというほうが正しい。」と言った。その後その資金はアメリカに渡った。ロスチ
ャイルド家は資金運用をベアリング家の親戚であるブラウン家のブラウン・ブラザーズ
を通じてロンドンのビジネスに参入していたこのジョージ・ピーボディ証券に預けた。
キダー・ピーボディは、ピーボディ基金の設立者で器用な男だったが、ところが、彼に
は子どもがいなかったので、自分の後継者にジュニアス・モルガンを指名し、このこと
でモルガン商会がロスチャイルドのアメリカの代理人となった。ジュニアス・モルガン
の息子は、ジョン・ピアポント・モルガンで、JPモルガン投資銀行を設立した。アメ
リカ国内の鉄道を強引に買収し支配した。1901年に鉄鋼王カーネギーを買収しUSステ
ィール社を創業し運用した。その頃鉄は鉄道会社の買い付けか、軍艦の造船にか使われ
ていなかったからだ。また、1892年にジェネラル・エレクトリックGEの設立に投資し
て電気事業を再編した。その後1907年には全米の電話を独占するAT&Tを買収した。こう
してのし上がったのである。ロスチャイルドがアメリカで基盤を作るようになるきっか
けは、1837年フランクフルトのロスチャイルド商会の代理人オーガスト・ベルモントが
アメリカに派遣された為だった。ベルモント商会は、企業買収を繰り返し、金融機関を
支配するようになり、あの黒船ペリー提督のペリー家、モルガン家と結びついて、ボス
トン財閥を形成し、日本支配を試みている。


855: 名無しさんAA:18/10/08 20:57
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐47   
 このロスチャイルドに大きく待ったをかけたのがロックフェラーである。ロックフェ
ラー家はもともとユグノー資産の預かり金融家だった。つまり正当な金融資本家だった
。とは言え、遠くは先に述べた(29項)ようにフッガー家やハプスブルク家につながる
歴史上の諸侯金融家の流れの中にある。フッガー家は一応は公的貸付部門は閉鎖した。
しかしエステルは鉱山経営や海外拡大を止めた訳では無かった。カルヴァン派と言う、
神霊派が30年戦争で認められユグノーが信仰を行いながらも貯蓄や資産が出来る体制
になると、こうした修道僧の清貧修道会は、海外貿易や海外への派遣にかられ宗徒拡大
に及んだ。石炭や塩或いは金や宝石は全てこの鉱山技術の賜物だった。更にこの鉱山の
経営でノーベルの爆薬や蒸気機関の水揚げが考案され発明された。ユグノー達は清教徒
としてイギリスに渡り、又スイス銀行資本の元金はマン島買い上げで保全していた。こ
の鉱山系金融資本家は、金やダイヤは直接の元本となった。これがメロン財閥を形成し
ていた。又繊維や織物で機械化を求め、資源を海外に求めた事は自然の流れだった。こ
れが産業革命を起こし、燃料機関の発達と原料の供給において船が発達したのは当然だ
ったし石炭が家庭燃料から軍の必需品となった。そうした中でもロックフェラー家は、
ドイツ南部のプロテスタントの一派バプテスト(浸礼派)として起源を持った。アメリ
カ合衆国に最初に渡った最初の名門の一族でもあった。祖先はフランス系のユグノー出
身である事を誇りとしていた。本来の家名はロクフイユ(Roquefeuille)であった。「
フィーユ(feuille)」とはフランス語で「葉」を意味する。つまりロックと言う小石がある農地の住民意味だ。つまり、彼の祖先は丘を開いた葡萄園の領主だったのである。
しかし戦争でワイン工房が破壊されドイツへの移住と共にロッゲンフェルダー(Roggen
felder)となった。この後ロックフェラー家となった。こうなるとユダヤではない事に
なる。又 縁故のこのピクテ家のピクテ銀行の後継は 2013年1月、に無限責任のパート
ナーシップ制から有限責任の株式会社へと転換することが発表された。無限責任制とし
てのプライベートバンクの歴史に幕を閉じる事になったのだが、紀元前の時代からの、
奴隷の世襲制が今日まで生きていたのである。そして責任持って証書を保管していた。
ロッゲンフェルダー(Roggenfelder)として同じドイツにいた。ロッゲンとは小麦粉の
中でライ麦を指す言葉である。フェルダーとは、文字通り守る人だ。農業を守る人は、
精米する人や水車小屋の監理者の事となった。つまり農場の守り神の意味である。それ
がライムギ粉の販売者の意味を成した。彼らは、農奴と共にアメリカに移住し、ロック
フェラーと改称した。その間のドイツの中でフランクフルトにいた。そこに来たのは、
フェットミルヒの反乱からだ。フェットミルヒの反乱は貧富の格差から起きたものだっ
た。

856: 名無しさんAA:18/10/08 21:10
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐47    このロスチャイルドに大きく待ったをかけたのがロックフェラーである。ロックフェ
ラー家はもともとユグノー資産の預かり金融家だった。つまり正当な金融資本家だった
。とは言え、遠くは先に述べた(29項)ようにフッガー家やハプスブルク家につながる
歴史上の諸侯金融家の流れの中にある。フッガー家は一応は公的貸付部門は閉鎖した。
しかしエステルは鉱山経営や海外拡大を止めた訳では無かった。カルヴァン派と言う、
神霊派が30年戦争で認められユグノーが信仰を行いながらも貯蓄や資産が出来る体制
になると、こうした修道僧の清貧修道会は、海外貿易や海外への派遣にかられ宗徒拡大
に及んだ。石炭や塩或いは金や宝石は全てこの鉱山技術の賜物だった。更にこの鉱山の
経営でノーベルの爆薬や蒸気機関の水揚げが考案され発明された。ユグノー達は清教徒
としてイギリスに渡り、又スイス銀行資本の元金はマン島買い上げで保全していた。こ
の鉱山系金融資本家は、金やダイヤは直接の元本となった。これがメロン財閥を形成し
ていた。又繊維や織物で機械化を求め、資源を海外に求めた事は自然の流れだった。こ
れが産業革命を起こし、燃料機関の発達と原料の供給において船が発達したのは当然だ
ったし石炭が家庭燃料から軍の必需品となった。そうした中でもロックフェラー家は、
ドイツ南部のプロテスタントの一派バプテスト(浸礼派)として起源を持った。アメリ
カ合衆国に最初に渡った最初の名門の一族でもあった。祖先はフランス系のユグノー出
身である事を誇りとしていた。本来の家名はロクフイユ(Roquefeuille)であった。「
フィーユ(feuille)」とはフランス語で「葉」を意味する。つまりロックと言う小石
がある農地の住民意味だ。彼の祖先は丘を開いた葡萄園の領主だったのである。
しかし戦争でワイン工房が破壊されドイツへの移住と共にロッゲンフェルダー(Roggen
felder)となった。この後ロックフェラー家となった。こうなるとユダヤではない事に
なる。又 縁故のこのピクテ家のピクテ銀行の後継は 2013年1月、に無限責任のパート
ナーシップ制から有限責任の株式会社へと転換することが発表された。無限責任制とし
てのプライベートバンクの歴史に幕を閉じる事になったのだが、紀元前の時代からの、
奴隷の世襲制が今日まで生きていたのである。そして責任持って証書を保管していた。
ロッゲンフェルダー(Roggenfelder)として同じドイツにいた。ロッゲンとは小麦粉の
中でライ麦を指す言葉である。フェルダーとは、文字通り守る人だ。農業を守る人は、
精米する人や水車小屋の監理者の事となった。つまり農場の守り神の意味である。それ
がライムギ粉の販売者の意味を成した。彼らは、農奴と共にアメリカに移住し、ロック
フェラーと改称した。その間のドイツの中でフランクフルトにいた。そこに来たのは、
フェットミルヒの反乱からだ。フェットミルヒの反乱は貧富の格差から起きたものだっ
た。

857: 名無しさんAA:18/10/08 21:12
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐48   

 一方のロックフェラー家は、ドイツ南部のプロテスタントの一派バプテスト(浸礼派
)としての起源を持った一族で、アメリカ合衆国の名門である。先の様に祖先はフラン
ス系のユグノー出身であり、本来の家名はロクフイユであったが、ドイツへの移住と共
に、ロッゲンフェルダー(Roggenfelder)となり、アメリカに移住してからロックフェ
ラーと改称した。彼らは職工集団の金融部門である。もともと清貧教会の持つカルバン
派やユグノー達はユダヤ人ではない。古代からの共済システムの修道院奉仕者の群れで
ある。ユダヤに改宗してるのはそうした産業で培い築いた資産を政権から守り、そうし
た作業従事者の生活を守る為だった。ユグノー資本主義はそうした共済共栄社会の構築
に他ならない。ロックフェラー家は創設者ジョン・ロックフェラーの第三世代に当たる
孫のネルソン・ロックフェラー以来、米国では、多くの政治家を輩出しており、特に州
知事ポストではこれまで3つの州(ニューヨーク州、アーカンソー州、ウェストバージ
ニア州)で4人の州知事経験者を輩出している。また、デイヴィッド・ロックフェラー
の息子デイヴィッド・ロックフェラー・ジュニアはニクソン大統領によって過去に2回
に渡り財務長官への就任を求められたが、いずれも辞退している。このロックフェラー
財閥の創始者はスタンダード石油を興した「石油王」の異名をとるジョン・ロックフェ
ラー1世である。祖先を遡ると欧州でカトリックに対抗するプロテスタントの宗教改革
に揺れていた際に、ジャン・カルヴァンの片腕として布教活動を行い、ユダヤ金融商人
と結託してカトリック教会勢力を攻撃して、その資産を強奪していたようだ。とされる
。当時、この家系はフランス人風に「ロクフイユ」と名乗っており、いわゆる代表的な
「ユグノー」の高級幹部だったようだ。ロックフェラー家はユダヤ人ではないといえば
馬鹿げたことなどといわれるが、ユダヤ人でもあるが、ユダヤ教徒ではない。それは恐
らく改宗ユダヤであってカトリック教徒に貸付して、カトリック教会を含めて利子の取
り立てをしてた為であろう。そして慈善事業の寄付や喜捨とならない為に、ユダヤ教徒
改宗徒になったものと考えられる。石油で一世風靡したが、時の権力者に結びついたの
は当然だった。さらに先祖を遡るとイベリア半島で金融商業活動を営んでいたユダヤ人
だったようであり、フェリペ2世統治下のスペインでトルケマダの異端審問による迫害
を逃れてフランスに移住したと言われる。そもそもこの職人集団こそが、今の流行りの
騎士団や秘密の結社集団を作った素である事は間違いないようだ。ではなぜこうした、
秘密にもならない秘密結社が必要だったのか。それがバチカンとの確執であった。


858: 名無しさんAA:18/10/08 21:14
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐49   

 1209年7月に突如フランス南部の街ベジェは、バチカンから派遣された数万人の
兵に取り囲まれてしまった。やがて軍を率いるレスター伯シモン・ド・モンフォールの
号令で兵士たちはいっせいにベジェ市街へ突入した。後日に「アルビジョア十字軍」と
して知られる 1207年、南フランスで盛んだった異端アルビ派(南フランスの都市
アルビからカタリ派はアルビ派とも呼ばれた)を征伐するために、ローマ教皇インノケ
ンティウス3世が呼びかけた十字軍が出来た。アルビジョワ十字軍である。教皇庁は、
フランス王フィリップ2世と協議して、南フランスを自らの支配下におさめてフランス
全土を王権のもとにおきたいと願ったフランス王の思惑と、カタリ派(アルビ派)の拡
大に悩む教皇庁の思惑が一致して、フランス王の指導の素に、1209年、カタリ派とカタ
リ派を保護する諸侯を撃破するための十字軍が突然街に侵攻したのだ。これが「アルビ
ジョア十字軍」である。十字軍は南フランスで抵抗する領主たちを撃破し、一部でカタ
リ派信徒を殺害した。これは驚愕の出来事だった。異端とは言え、グノーシス主義のカ
タリ派は、キリスト教以前のバチカン以前のキリスト教として黙認されていたからであ
る。神秘主義とされるこの異端のキリスト教は精霊を祀る多神教ではあった。グノーシ
ス主義(精霊主義)の神話(ポイマンドレースとされる物語)では、デミウルゴス(偽
りの神)が水に映った「至高なる者」(ソピアーの像(智慧の神)またはアイオーンの
像(高級精霊)を、自己の映像と錯覚して人間を創造するということになっていた。こ
れらの物語の多くはマニ教と重なり、かつての古くからの拝火教(ゾロアスター教)の
流れであった。キリスト教カタリ派への大虐殺の歴史が、この街から始まった。ベジェ
の街の人々は、市民全員が広場に集められ次々と勝手に虐殺されていった。その様子は
酸鼻を極め、抵抗する者は手足を切り落とされ、目をえぐり取られた。犠牲者から流れ
出た血は、石畳の道を赤い濁流の河にした。抵抗しないカタリ派でない者さえも縄に繋
がれ、生きたまま火刑に処せられた。犠牲者から黒煙が立ち昇り数十キロ離れた村から
も見えた。1万人を超えるベジェの街の住民は、だれ一人たりとも生き残ることができ
なかった。神の御名において、女性も男性も老人も子供も、ベジェの街の住民は全員が
異端教徒として虐殺されたのである。悪名高き「アルビジョア十字軍」は、その後にも
幾度となく繰り返され、1229年の戦いでトゥールーズ城が陥落するまで、実に22年も
の長きにわたり、バチカンの司令で、容赦ない虐殺と弾圧が続けられた。それほどまで
カトリック教会が恐れた異端の教えが、今の近代科学や金融資本の多神教の考え方だった。

859: 名無しさんAA:18/10/08 21:24
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐50   

 近代において、我々は宗教や科学或いは教育や政治家が経済と離れているかの様に論
じられる。しかし、歴史上では音楽や文学さえも経済に関係し、気候や天文学すらも、
人々の生活に影響を及ぼし、経済の一因を担っている事が知られる。21世紀になって
、もうキリスト教やイスラム教は通用しない。そして1900年代、否それより前から
、人類は新しい宗教科学を追い求めているかのようである。その理由は簡単だ。人類は
哲学無しには集団として持ちえないからだ。ベトナム戦争当時ヒッピーブームが吹いた
。学生闘争も花開いた。バンドブームからフォークブームが起こった。しかしそれらは
全て社会風土が求めたものだった。宗教も音楽も車社会も 実は流されて行く人々の中
の嗜好は人間の本能によるものだった。「熱狂し我を忘れて叫びたい。」と体が叫び、
教養や素養が「いやいや頭を冷やして考えよ」と抑えて、その理論化出来ない粗暴な群
れが扇動し、流行に流れる構図は有史以前からの人の本質であり本能だった。フランス
でキリスト教のカタリ派(アルビジョワ派)が出来る前にはバルカンにボゴミル派があ
って影響を与えていた。とされる。ボゴミル派(ボゴミルは)は、10世頃から14世
紀末までブルガリアを中心にバルカン半島では、熱く広く信仰されたキリスト教の一派
である。善悪二元論と現世否定に特徴があって、正教会からは、彼らも異端とされた。
10世紀にブルガリア司祭のボゴミルにより開始されたとされる密教集団と言われてこ
の名称が他宗徒によってこう呼ばれた。本来の名前は他にあるのかも知れない。ブルガ
リアにおいては東ローマ帝国への抵抗運動と結びつき、一部の地域では正統派をしのぐ
勢いをもったが、帝国が衰えブルガリアがオスマン帝国領となり、イスラム教が入って
くると、ボゴミル派はイスラム改宗を強要され、廃れたといわれる。独自の創造神話で
は、かつて昔に、正大神(真の神)には息子が二人いた。サタナエルとミカエルという
名である。しかしながら、サタナエルは神に反逆してサタナ(悪魔、叛く者の意)とな
っていった。そしてこの地上の世界は、サタンがせっせと神に対抗するために作り上げ
た世界である。とされた。こうして人間の肉体は混沌の中からサタンが作り上げたとい
う。そして正大神(真の神)が魂を創った。そこでミカエルは地上に出て来て、イエス
・キリストとなり対抗した。これは人間が神を崇拝するようにするとの約束にもとづく
ものであったが、サタンはその約束を反故にし、人間が自分を神と崇拝するようにしむ
けた。これが、旧約聖書の神(ヤハウェ)である、とする。つまり聖書の創造神は悪魔
の神とする 性悪説の中の二元論を説いているのである。これは殆どグノーシス派とし
ては同じパターンである。

860: 名無しさんAA:18/10/08 21:26
 NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐51   

 西方グノーシス主義の教典文書等が、初期キリスト教によって、異端文書とされ、外
典ともされ、意図的な破壊・湮滅が図られたため、20世紀なかばの『ナグ・ハマディ写
本』発見に至るまで、古代の原典文書は、僅かな例外が伝存したのみだった。これまで
は、グノーシス主義はどのような宗教・思想・世界観であったのか不明となっていた。
しかし見つかった写本から、典型的なグノーシス的二元論は、天地創造からして全く違
っていた事がわかった。ブタヒル神話では、光の世界の下等神プタヒルが自らを創造主
であると錯覚し、闇の世界の助けにより地上と人間を創造したとされ、闇の世界の物質
から作られた。この為人間の肉体は闇に属しているが、それだけでは動かなかったため
、光の世界に起源を持つ魂がプタヒルにより封入された。これらの所業により、プタヒ
ルは、光の世界の最高神から追放を受けた。と言う。洗礼で全身洗礼を行うのは、天界
の水は地上では「活ける水」すなわち流水として流れている。流水による洗礼や信仰儀
礼の遵守を生きているうちから行うことによって、死後の光の世界に帰りやすくなる。
と信じられた。その意味で洗礼はキリスト教のように一回限りのものではなく、何度も
行うものである。としている。同じ様にマンダ教は、当初の教義では天界の水はヨルダ
ン川に注ぐとされていたらしいが、現代はユーフラテス川などをヨルダン川に見立てて
洗礼を行う。と言う。アブラハム、モーセ、イエス、ムハンマドを闇の世界から送られ
た者らを「偽の預言者」とみなし、人類最初の人間であるアダムとエヴァは同時に誕生
したとする。最高神の命を受けた、アベル、セト、エノス、洗礼者ヨハネが真実を伝え
ようとして下界に降り立った。またエジプトでモーセを迫害したファラオは正義の王と
して行動した。としている。イスラーム支配下に置かれた後は、啓典の民としての体裁
を整えるために、洗礼者ヨハネを教祖に位置付けている。マンダ教自身が、安全保障上
の理由でサービア教徒を自称したか、もしくはイスラーム側の誤解によって、いつしか
サービア教徒と見なされるにいたった。中世のビールーニーの著作のひとつでは、キリ
スト教マンダ教徒を、イスラム教サービア教徒と見なしている。いずれもが両宗教から
異端教徒とみなされている。このカタリ派の過激な教義は、中世になって初めて現れた
ものではなくその源流は古く、もっと遠い過去から受け継がれてきたものだった。その
過激な教義を生みだした思想の原点、それはグノーシス主義(智慧の思想)にまで遡る
。グノーシス主義は、遠い過去に失われた、今でも謎の秘教である。


861: 名無しさんAA:18/10/08 21:27
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐48  

 その発祥ははるか紀元前頃の古い時代で、その教えは、知識人を中心として瞬く間に
伝わり、地中海世界での神秘のヴェールに包まれたまま凌駕していた。しかし、まだ成
立間もないキリスト教をしのぐ勢いで信仰され、遠くメソポタミアやエジプトにまで広
まっていたが。しかし、キリスト教がローマ帝国の国教となって、やがて最大のライバ
ルである為宗教対立を避ける為に大胆にもグノーシス主義は敵対され、歴史の表舞台か
ら姿を消していったのである。だが教えはひそかに人々の間で語り継がれ、後にカタリ
派として再び花開いたのである。と言う。その異端の主張抹殺に、カトリック教会の歴
史の中で虐殺行為に及んだ。同胞のキリスト教徒をこれほど無慈悲に大量殺戮した例は
ほかにない。詳細はわかっていないものの、当時の弾圧は苛烈で、詳しい教義が記され
た書物はすべて焼かれ、現在残されている重要な文献はほとんどない。それでも、教会
がカタリ派を攻撃した文書は残されて大まかな教義を復元することが現代において出来
た。カタリ派の教義の一番の特色は、「この世界は偽りの神によって創造された悪の世
界である。」とする思想であった。もともと、人間は真の神によって創られた善なる存
在だったのに、偽りの神に捕らわれて、現在と言う肉体の牢獄に閉じ込められてしまっ
た。この偽りの世界から抜けだすためには、すべての欲望を捨て去り、物質世界と縁を
切らなければいけない。そして汚れた肉体を脱し、清浄なる魂だけの存在となった者だ
けが、真の神が創り上げた天国へと入ることが許される。と清貧修道会が出来た様だ。
グノーシス主義とカタリ派の思想はこうした教義だったと伝えられている。ロックフェ
ラーは、このプロテスタントの一派バプテスト(浸礼派)集団を率いた技能集団だった
なかで、そのままユグノー集団に変化しその金融部門を預かっていた。ユグノー集団が
金融や流通や貿易を重視せず、農業や生産活動や繊維機械や鉱山など、職人銃弾を重視
していたのは確かだろう。こうして、街ごと焼き払われ惨殺された歴史を持つ、プロテ
スタントの一派グノーシス主義(神霊主義)バプテスト(浸礼派)集団は、日本のキリ
シタン禁止令の様に、表向きは同じ信仰禁止令の中にいた。それはローマカトリックの
バチカンの教えと全く違っていたからだ。バプテスト(浸礼派)集団の掲げた者は、地
下活動に入り秘密主義を貫く必要だった。こうして公然の秘密結社としてイルミナティ
やフリーメイソン或いは黒薔薇騎士団などが生まれる素地が出来た。



862: 名無しさんAA:18/10/08 22:48 ID:1OU
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐49    

 神話「パンドーラの甕(かめ)」は、パン(全ての)ドーラ(贈り物)と訳された話
で日本ではヘシオドス神話「パンドラの箱」として有名な話である。「プロメーテウス
が天界から火を盗んで人類に与えた事に怒ったゼウスは、人類に災いをもたらすために
「女性」というものを作るようにヘーパイストスに命令した。ヘーパイストスは泥から
彼女の形をつくり、神々は彼女にあらゆる贈り物(=パンドーラー)を与えた。アテー
ナーからは機織や女のすべき仕事の能力を、アプロディーテからは男を苦悩させる魅力
を、ヘルメースからは犬のように恥知らずで狡猾な心を与えられた。そして、神々は、
最後に彼女に決して開けてはいけないと言い含めてピトス「甕」を持たせ、プロメーテ
ウスの弟であるエピメーテウスの元へ送り込んだのである。美しいパンドーラーを見た
エピメーテウスは、プロメーテウスの「ゼウスからの贈り物は決して受け取るな。」と
いう忠告にもかかわらず、彼女と結婚した。そして、ある日パンドーラーは好奇心に負
けて甕を開いてしまう。すると、そこから様々な災い(エリスやニュクスの子供たち、
疫病、悲嘆、欠乏、犯罪などなど)が飛び出した。しかし、「予兆」のみは縁の下に残
って出て行かず、パンドーラーはその甕を閉めてしまった。こうして世界には災厄が満
ち人々は苦しむことになった。ヘーシオドスは、「かくてゼウスの御心からは逃れがた
し」という難解な言葉をもってこの話を締めくくる。パンドーラーはその後、エピメー
テウスと、娘ピュラーと、ピュラーと結婚したデウカリオーンと共に大洪水を生き残り
、デウカリオーンとピュラーはギリシア人の祖といわれるヘレーンをもうけた。エリス
は、ギリシア神話では「不和と争いの女神」であり、ヘーシオドスによれば、夜の女神
ニュクスの娘で不和を好み、口争いや殺人などの種々の災いの母でもある。戦場では血
と埃にまみれた鎧を着て槍を持ち、火炎の息を吐くとされ。女神テティスとペーレウス
の結婚式に招かれなかった腹いせに、「最も美しい女神に」と記した黄金の林檎を宴の
場に投げ入れ、ヘーラー、アテーナー、アプロディーテー3女神の争いを惹起し、パリ
スによる裁定(パリスの審判)を仰ぐことになり、トロイア戦争の遠因を作った。通常
は翼をもった女性として描かれる。娘に「混沌と争い」の女神デュスノミアーがいる。
とされる。又ニュクスはギリシア神話に夜の女神でこのエリスの母である。カオスの娘
で、エレボス(幽冥)の妹であり、エレボスとの間にヘーメラー(昼)とアイテール(
上天の清明な大気)、カローン(地獄の渡し守)をもうけた。と神話は言う。

863: 名無しさんAA:18/10/08 23:01
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐50    

 公然の秘密結社の「イルミナティ」は、すべての既成政府の廃絶と世界政府の樹立。
を目指し、私有財産と遺産相続の撤廃させて、愛国心と民族意識の根絶し、家族制度や
結婚制度の撤廃と、子供の共同生活によるコミューン教育の実現を目指す。としている
。ここでの世界政府は勿論イルミナティ会員による統合政府で、すべての宗教の撤廃を
も掲げている。もともと「フリーメイソン」は、「契約の箱を探す仲間」が宗教団体で
あった「契約の箱を護る」宗教を乗っ取った事で出来た。彼らイルミナリティ会員は、
その組織を乗っ取り、その組織力を使い世界中の政府の要人、経済界の要人をすっかり
と取り囲んでしまった。イルミナリティをトップにその下部組織がフリーメイソンと考
えると分かりやすい。この宗教が、基本的に、人間には「支配する側と支配される側が
存在し、両者は交わることがない」というものであり、被支配者はゴイム(家畜)とし
て、支配者(ユダヤ教徒)に奉仕しなければならない、というものだった。つまり世界
を支配する自分たち特権階級は、我々、一般大衆の命を弄び、奴隷として使役する権利
があると宣言している。これは選民主義の相当なものだが、宣言しているのだから言い
訳は出来ない。独裁者集団と言う事に帰結しているのだから仕方ない。イルミナティが
どのような性質の秘密結社なのか、ここで一目瞭然で理解できる。スペイン発祥とされ
るこの「光の会」は実は大航海時代の資金寄付の為に作られた「黄金の光の会」と言う
のが正式なもので、イルミナティの元々の宗教である。乗っ取られて変わったが、その
下部組織として、英国でフリーメイソンが「石工組合」で政治的にフランスと闘うイギ
リスの集団であった事は良く知られる。対国王戦略の市民活動がメイソンリーの会員の
使命だった。彼らは古く江戸時代から日本にやって来て貸付の利子を取っていた。と言
われる。グラバーもその一人で彼が従えた秘書達は、日本の貸付や商売相手には僅かな
会員料を取っていた。それは彼らが企業であり日本人社員も働かせていたからだ。今で
もフリーメイソンには、入会条件が変わってる。18歳以上の男性でちゃんと仕事して
いて、それなりの収入があり身体障害者でない事が条件で、何かしらの宗教(至高の存
在=一神教)を信仰し、既存会員2名以上の推薦をもらう事で入会できる。しかし、主
な活動は表向きボランティアと規定している。つまり慈善活動の会で、日本ではロータ
リクラブが有名である。日本の善隣活動組織だったのである。このメイソンになると、
イルミナティになって組織の秘密思想や秘奥的な教義を知って「啓蒙」を受ける。ここ
で初めて組織のいう「啓蒙」というのは、悪魔ルシファーが本物の神、人類を叡智で照
らす光の主である。と言う事を理解させられるということ。と教義は唱えるのである。

864: 名無しさんAA:18/10/08 23:14
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐55   

 基本的にユグノーの幹部だったロックフェラーは、プロテスタントの一派グノーシス
主義(神霊主義)バプテスト(浸礼派)集団はフリーメイソンの支援にロスチャイルド
の手を借りる。1776年5月1日、マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドの財政支援のも
と、インゴシュタット大学法学部長のアダム・ヴァイ・スハウプト教授がイルミナティ
という秘密結社を創設した。イルミナティという言葉は、サタン(ルシファー)に由来
し、「光を掲げる者」という意味を持っている。イルミナティの真の目的は、知的能力
を実証された人々が世界を治める「世界単一政府」を生み出す事とされ、文学・教育・
美術・科学・財政・産業の分野でもっとも聡明な人々を含む2000人もの結社員を集めた
といわれる。このイルミナティの共同設立者として、戦闘的救世主ヤコブ・フランクが
名を連ねている。ユグノーが逃げたフランクフルトのユダヤ人は、当初、聖バルトロメ
ウスェ教会(現在のドーム)の南側とマイン川河岸の中間地点で、キリスト教徒との共
存生活をしていた。しかし、ドイツ皇帝フリードリッヒ3世の時代(1440〜1493)は、
バチカンの宗教的迫害や食糧生産など事情で、ユダヤ人の存在を快く思わなかったのだ
。教会側から強い要望を受け、寂れた場所にユダヤ人住居区を設置るように命じた。そ
うして、この痩せた土地に移転させられ1462年頃に移り住んだのがゲットーの始ま
りとされる。この時既に農奴であり、ボグロムなど迫害が始まっていた。フランクフル
ト・ゲットーのユダヤ人はゲットーを自ら「新エジプト」と呼んでいた。「旧約聖書」
時代(紀元前13世紀頃)に、モーセに率いられて、エジプトを脱出するまで、ユダヤ人
達がエジプトで捕囚になっていたことを、このフランクフルトのゲットーに当てはめた
物であった。その後に痩せた沼地の土地は開発され、貿易や金融で財を成したが、増税
に対するフェットミルヒの反乱(1614)が起こり、この際の金持ちユダヤ人を妬んだ一
般大衆の農夫達は、略奪や破壊や暴行に及んで行った。そして最大はゲットーの大火が
(1711年)が起こり、火事場泥棒による略奪が始まった。この後、常に略奪の心配ととも
に暮らさなければならなかったが、そこにナポレオンによるユダヤ人の解放が起こった
。ナポレオンは大いに救済した。この時、フランクフルト商人は、ナポレオンに献金を
して大陸封鎖における貿易の特権を得たので、大金持ちになっている。又1811年1月1日
付けで「あらゆる人民の法の前での平等と宗教的信仰の自由な実践」を謳ったナポレオ
ン法典が発布されるにまで至った。これは一般市民法として フランクフルト大公領に
導入した。これによりフランクフルト・ユダヤ人は市民権を認められた。

865: 名無しさんAA:18/10/08 23:28
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐56    

 しかし、その後にも紛争は起こり、ナポレオンの敗退で、また逆戻りした。しかしな
がらナポレオン登場後のヨーロッパ社会は権利意識に目覚め、為政者たちがこのような
逆行を続ける事はすでに不可能な社会になりつつあった。この後、数十年かけてフラン
クフルト・ユダヤ人は徐々に権利を取り戻していき、 1864年10月7日に市民権を回復し
た。しかしながら、一般的農夫や市民には偏見が根強く消えなかった。従来の伝統的な
ユダヤ人を憎悪する感情が、人種理論を根拠にした近代の「反セム主義」(アンティセ
ミティズム)として変貌し確立た。つまり中世期以来、ヨーロッパで育ったユダヤ人へ
の憎悪感は、主として宗教的な感情、或いは彼らの経済活動への嫉妬心から出たもので
あるが、ユダヤ人に対する危惧と嫉妬、憎しみなどを増大させられ、カトリック教会は
その指導をした。彼らの元祖セム族そのものを有害な劣等民族とみなす近代の人種理論
が新たに根強く広がっていた。ドイツのベルネ通りのシナゴーグ2軒は、1938年(昭和
13年)11月10日のユダヤ人一斉襲撃事件で焼き討ちされた後撤去された。さらに
1944年の世界大戦時の連合軍の爆撃は、この地域の家屋を全壊させた。歴史上13世紀中
に神聖ローマ帝国のユダヤ人は「王庫の従属民」たる法的地位を確立して、神聖ローマ
帝国の一般臣民とは区別された特別な存在だった。ユダヤ人は皇帝の保護を受ける代わ
りに、皇帝にユダヤ人税(ユーデンシュトイアー)の納税義務を負わされていたのだ。
ユダヤ人は皇帝収入の大きな部分を占める重要な「私有財産」だった。そして王庫の金
が尽きるとしばしば「ユダヤ人税徴税権」が担保・抵当に出されて、金が使われた。フ
ランクフルト・ユダヤ人への徴税権も 皇帝カール4世が1372年に勝手にフランクフル
ト市に売却しているほどだ。フランクフルト・ユダヤ人はゲットーが創設されるまでは
、市内の聖バルトロメウス大聖堂の南にあるマイン河畔にあるザクセンハウゼン地区の
傍に、固まって暮らしていた。フッガー家が貧困用に格安の住宅を提供していたからだ
が、このユダヤ人街は後に作られるゲットーと異なり、ユダヤ人たちが自ら形成して、
ここで暮らす義務もなく、非ユダヤ人の市民も又ユダヤ人街で一緒に暮らしていたのだ
。世界はロシアの素になったルーシ国と、モンゴルやトルコと共に、欧州勢は戦った。
その中でスラブの民が押し寄せてきた。食糧難から略奪も相次ぎ、1241年5月に、原因
はよく分かっていないが、ユダヤ人街がキリスト教徒の襲撃・虐殺を受けた。この結果
、フランクフルト・ユダヤ人は一度追放され壊滅している。


866: 名無しさんAA:18/10/08 23:36
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐57    

 ザクセン朝が出来てハインリヒ2世、遅くともザーリアー朝のハインリヒ3世などは
地域限定のドイツ王として振舞った。これによりローマカトリックと離れた事で、1255
年頃にユダヤ人が再びフランクフルトに集まってきて、大聖堂南のユダヤ人街を再建し
た。1288年にはユダヤ人団体(ゲマインデ)の名称が証書に現れるようになった。1311
年の市民台帳にはユダヤ人も記載されている。この事からユダヤ人には長期滞在と居住
の自由、生業が保障されて、市政への参加のみが認められなかったぐらいだ。しかし、
1348年〜1349年にヨーロッパは人口の三分の一が死亡する史上最大規模の黒死病に襲わ
れた。ユダヤ人の死亡率が比較的低かったことで「ユダヤ人が井戸に毒をまいた」とい
うデマがヨーロッパ中に広まり、神聖ローマ帝国(ドイツ)においてユダヤ人虐殺が吹
き荒れる様になった。フランクフルトも黒死病の伝染が始まると、鞭打苦行者の集団が
マイン川上流から現れ、フランクフルト市内のユダヤ人街を襲撃した。フランクフルト
市民が彼らを撃退したが、結局ユダヤ人街は放火され、虐殺され、フランクフルト・ユ
ダヤ人は再度壊滅する。1360年より再度ユダヤ人はフランクフルトへ移住することが認
められはしたが、しかし黒死病後のユダヤ人の立場は完全に悪化していた。ユダヤ人は
もはや市民台帳に記載されなく、別の台帳に記載され、様々な制限を課せられた。また
大聖堂南のユダヤ人街やユダヤ人団体はこの苦難でも再建されたが、フランクフルト・
ゲットーが創設された15世紀中頃の、ヨーロッパ・キリスト教社会にとって、危機的
な時代だった為ポグロムが横行した。神聖ローマ帝国は、地方諸権力が成長して弱体化
し、恒常的な財政危機に悩まされ、教皇権や教会が失墜し、ボヘミアではフス派が蜂起
した。東地中海ではイスラム教国オスマン帝国がコンスタンティノープルを陥落させ、
ヨーロッパ侵略の機会を狙っていたし、フランクフルトでも対イスラム十字軍結成の為
この資金援助の名目で免罪符が盛んに売られた。このような時期であったからフランク
フルトはじめドイツの諸都市で、黒死病の時以来の反ユダヤ主義の高まりが見られたの
だ。しかし、商取引の町であるフランクフルトにユダヤ人の経済力は不可欠であった。
結局市内にユダヤ人を押し込める隔離地区を作るゲットー建設が決定され、直ちにユダ
ヤ人団体に通達され建設工事が開始された。フランクフルトの旧市街地の壁と新市街地
の壁の間に挟まれて存在する割れ目のような区域にゲットーは新たに押し込められた。
ここには、まばらにしか家屋はなく、他の市民から切り離されていた。しかし市場には
比較的近かくゲットーの建物はシナゴーグが石造り建設され他はすべて木造住居が私費
で建てられた。

867: 名無しさんAA:18/10/08 23:48
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐58   

 資金はユダヤ人が出して苦労して建てられたが、ゲットーの中の建物もフランクフル
ト市の所有とされていた。、ユダヤ人はそこを借りた形となった。賃貸料は従来のユダ
ヤ人税に加算されて取られた。ゲットーの入口は3つに門があり、祝祭日と夜間には門
は閉ざされた。門はフランクフルト市民により管理されたが、ユダヤ人側の代表者にも
門の鍵を持つ事が許され、緊急時には助けを求めにいくことができた。しかしその後に
ナポレオン時代やナチス時代を迎えるが、日増しに偏見による迫害は甚大な被害に及ん
で行った。1996年に、ゲットー南端に位置する水晶の夜で、ナチスに放火されるまでは
シナゴーグが建っていた新ベルネ広場に、弔いの祭典があった。ゲットー跡から発掘さ
れた石を使って作られた「警告の記念碑」の序幕式とナチスの犠牲となった判明してい
る人達のみのフランクフルト・ユダヤ人1万1135人の名前と殺害場所を刻んだ鉛の刻印
の墓が5列に並んだ。旧ユダヤ人墓地が建設されたのだ。フランクフルト市長は「墓地
の壁に規則正しく配列され延々と続くユダヤ人犠牲者の名は、ナチスの組織的・計画的
・体系的なユダヤ人大量虐殺のシンボル的表現である。」と演説された。ドイツ・ユダ
ヤ人中央協議会議長イグナツは「ナチズムは今世紀におけるゲットーだった」と述べ、
フランクフルト・ゲットーの延長こそがナチズムである。との見解を示した。しかし、
このゲットーの裏には、ドイツ人や欧州人達の、臭い物には蓋をし、非難を他に魅せて
逃れたしたたかな民族主義的発想の計画の上に成り立っている。歴史上の冷酷な非情さ
がそこに見え隠れする。此処に在したユダヤ系財閥ロートシルト家は(ロスチャイルド
家)の祖である。マイアー・アムシェル・ロートシルトは、フランクフルト・ゲットー
で生まれている。マイアー・ロートシルトの生家「ヒンタープファン」はゲットーの通
りを右に折れて、狭い東側前列の家の間の路地を東に入った場所にあった。マイアー・
ロートシルトは、両替商としてスタートして、ドイツ諸侯最大の資産家となったが、政
治がらみのヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム9世(後にヘッセン選帝侯ヴィルヘル
ム1世、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の父親だ。)の宮廷御用商人となって、その資金
の運用で巨万の富を得た。その頃、諸侯の宮廷御用商人になるのは神聖ローマ帝国の、
ユダヤ人が上り得る最高の地位であった。それでも、フランクフルト・ユダヤ人のゲッ
トーからの出入りの決定権は、あくまで帝国自由都市の自治権を有するフランクフルト
市にあった。その為に幾ら諸侯から厚遇されたとしても、ゲットーから外出するには市
の事前許可が必要であり、他への移住も出来なかった。ロートシルト家もこの許可を得
るのに随分苦労し、方伯家に何度もフランクフルト市へテコ入れしてもらっている。

868: 名無しさんAA:18/10/08 23:54
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐59    

 1780年代にはマイアー・ロートシルトは(ゲットーに限らず)フランクフルトで一番
の金持ちになっていた。彼は旧邸「ヒンタープファン」を出るとフランクフルト・ゲッ
トーの建物の中では一番間口が広かった「グリューネス・シルト」の家に引っ越した。
しかし、それでも大した広さではなかったので、大半は在庫品・古銭・貨幣・証書や帳
簿などを保管する倉庫で埋め尽くされた。住居スペースは限られており、ロートシルト
家の10人の子供たちは一つの部屋で寝起きせねばならなかった。マイアーが職場にして
いた部屋は 僅か10〜12平方メートルしかなかった。この狭い部屋から諸侯への金の貸
し出しが行われていたのである。ロートシルト家の莫大な財産を保管しておくには、こ
の家の倉庫では狭すぎた。そのため毎日大量に出入りするお金の管理がなっておらず、
使用人による横領が頻繁に起こっていた。ナポレオン支配下の時代にはマイアー・ロー
トシルトは ゲットーからの自由を求めてダールベルク公との交渉に奔走した。ダール
ベルク公が市民権との引き換えにユダヤ人団体に要求した44万グルデンの支払いも、ロ
ートシルト銀行が大半を負担していた。1994年にはマイアー・ロートシルト生誕250
周年を祝ってイギリスのロスチャイルド卿はじめヨーロッパ各地のロスチャイルド家の
人々がフランクフルトにおいて一堂に会した。ロスチャイルド家の人々は、ゲットーの
遺跡が展示されているフランクフルト・ゲットー博物館、またそこに隣接する旧ユダヤ
人墓地に眠るマイアー・ロートシールトの墓を訪れて、親族一同で思いを新たにしてい
る。当時のキリスト教ではお金を貸して利息を得ることを禁じていた。やがて中世を迎
えて教会の力が弱まるにつれて、そういった道徳観もうすれていた頃になると、すでに
ユダヤ人たちは長年の営みを通じて金融のノウハウを確立しており、その商売で彼らに
太刀打ちするのはもはや困難でした。しかも、ユダヤ人は逆境を逆手にとってビジネス
を多角化していっていた。こうして各地のユダヤ人たちは連携し合い、貿易の決済も手
掛けるようになり、それが今日の為替業務につながっている。ユダヤ人は酷い差別を受
けたばかりか、理由なく財産を没収されることもしばしば起こった。中世の時代ユダヤ
人と判明しただけで、お金を奪い取られるようなことも度々横行していた。そういった
略奪に対する防衛策として、彼らは、無記名形式の証券(銀行券)を発行・流通させる銀
行業を考案し発展させ、欧州各地に展開させていきました。名前が書かれていないので
、誰の財産かがはっきりせず、没収を逃れられたわけだった。このスキームが非常に、
合理的で利便性は高かった。


869: 名無しさんAA:18/10/09 00:03
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐60    

 この無記名銀行券は、その後欧州の国々も銀行を設立して、銀行間で取り扱われ銀行
券を発行するようになる為の資本にもなった。それが現在の中央銀行や紙幣のルーツで
もあり中央銀行の業務ともなった。つまり、ユダヤ人はすでに中世の時代においては、
今日の金融業務のほとんどの礎を築いていたのである。そして世界を席巻したというこ
とになる。米国の歴史の中でも触れられるが、現代社会においてユダヤ人は金融分野の
中枢で活躍している理由はここにある。ドイツに移住して、ゴールド家と知遇になって
結婚し、マクシミリアン・ゴールドシュミット・ロスチャイルド(1843〜1940)と、名を
変えたのは、ウィルヘルム・ロスチャイルド (1828-1901)の娘であるミンナ・ロスチャ
イルドと結婚したからだ。彼女はゴールドシュミット・ファミリーであるゴールドシュ
ミット家(Goldschmidt family)の娘だったのである。金融業の著名な門閥であって、
もともとはフランクフルトのユダヤ系ドイツ人の家系のゴルトシュミットであった。か
つてのオランダ東インド会社のゴールドスミッド家と混同されやすく、同じユダヤ系で
あるが別の家系であるとされる。起源は14世紀にさかのぼり、ほとんどのメンバーは、
1614年のフェットミルヒの反乱の後にフランクフルトを離れた。そして、18世紀までこ
の地に戻ることはなかった。まあ当然だが。このゴールドシュミット・ファミリーは、
由緒ある銀行家であり、ローマ帝国時代からのユダヤ金融として中心にいた。マインツ
のおなじユダヤ系のビショフスハイム家と特に深く関係していたし、諸侯とも繋がりは
深かった。ビショフスハイム・ゴールドシュミット&ピクテ銀行は共同で管理されたが
、1863年にオランダ貯蓄信用銀行との最終的な合併につながっている。近年ではゴール
ドスミス・ファミリーとしてロスチャイルド・ファミリーとの関係も深まっている。こ
のビショフサイム家も同様で、ロスチャイルド家と姻戚関係であった。また、ビショフ
サイム家は、カモンド家とも姻戚関係である。カモンド家もユダヤ系で現在のトルコ・
イスタンブールを起源として、オスマン帝国において1863年に帝国銀行ができるまで、
御用銀行家であったのだ。更にピクテ銀行(ピクテぎんこう)は、至上最古の銀行家で
スイスにおける老舗で名門プライベートバンクとなった。この銀行は名門中の名門だ。
大手銀行が、単にビジネスの一環として行うプライベートバンキング業務と違って、ス
イスで築いき発展してきたと言う 古代からの純粋なプライベートバンクの大手である
。非上場の純粋プライベートバンクとしては今でも世界1位である。


870: 名無しさんAA:18/10/09 00:59
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐61    

 顧客の中にはABBの銀行グループを持っているぐらい大手である。国の中央銀行が
銀行の中の銀行なら、この銀行は、その銀行の中の銀行を動かし監理する銀行だった。
10世紀初頭から続くピクテ家を中心に設立されて、フランス革命以降は動乱が続く欧
州で、王侯貴族など超富裕層の資産運用・管理サービスにと特化していって、1820年頃
には、欧州諸国の債券に投資するなど、世界の富裕層に特化したニーズに対応した唯一
の最大銀行である。創立以来二百年余りに渡り、欧州を代表するプライベートバンクと
なっていた。なんと以前まで遡れば10世紀以前のイスラムの銀行なのだ。フランクフ
ルトに行けば、ユダヤ博物館がある。この建物がゲットーの中の御殿だが、1821年のユ
ダヤ人解放後に建てられた旧ロスチャイルド邸である。そこにはロスチャイルド家は、
エジプトの父・ニムロデ(ノア→ハム→クシュ→ニムロデ)の末裔と称している。しか
し、そもそもがキリストの誕生などは、エジプトの「処女・イシス(Isis)とホーラス(
Horus)の神話」から出ているので「俺はキリスト教徒より上だ」と主張している事にな
る。大体三千年もの前からの家系図が残っていること自体は、全くウソとしか思われな
いほどだ。ニムロデの子孫が、イスラエル人を捕因にしたネブカドネザルと言われる。
ネブカドネザル1世はイシン第1王朝の王である。エラムに奪われていたマルドゥク神
像を取り戻した王だ。ネブカドネザル2世は新バビロニアの王で最も有名であり、単に
ネブカドネザルといった場合この2世を指す場合が多い。すべて遥か紀元前2千年前の
時代の話である。彼らがフランスに来てワインを作って生活を得たのが、欧州ユダヤの
始まりともされる。世界的に名高いフランスのボルドー地区において、そして世界的に
も頂点に立つのが「5大シャトー(醸造所)」と呼ばれるワインなのだが、彼らの金融の
資本がこの中から生まれて居た。列挙すると、シャトー・ラフィット・ロートシルト、
シャトー・マルゴー、シャトー・ラトゥール、シャトー・オーブリオン、シャトー・ム
ートン・ロートシルトである。ドイツ語に詳しい人は、もう気づいたように5銘柄のう
ち2銘柄が「ロートシルト」と冠されている。これをドイツ語ではなく英語の読み方に
直すと「ロスチャイルド」となる。どちらも、ロスチャイルド家にゆかりがあるからだ
。細々とした商いの中にあって、ロスチャイルド家の一族は、何よりも団結を重視し、
「協調、誠実、勤勉」を家訓としてきた。後年に オーストリアのハプスブルク家から
授与されたロスチャイルド家の紋章にも、その言葉が記されている。フランスの荒れた
農地でワイン醸造で成功し、フランクフルトの本家は長男のアムシェルが受け継いだ。


871: 名無しさんAA:18/10/09 00:59

  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐62    

 ワインやシャンパンの歴史は古く、又奥深い物語がかなりある。イギリスが世界の覇
者となったのも、実はワイン輸入からだ。フランク王国の名はフランスと言う名の古語
である。中世まで、キリスト教国では、ブドウ栽培に携わるのは修道士とされており、
ワインは聖なるものとして、ミサに供されました。地理と歴史のなす偶然が、シャンパ
ーニュのワインに数奇な運命をもたらした。フランク国王クロヴィス1世改宗の際には
洗礼を授けたのは、現在のエペルネー近郊のブドウ畑に囲まれた地に住していた、ラン
ス教会の司教聖レミでした。フランスの初代国王は、496年 のクリスマスの夜に、シャ
ンパーニュの地で戴冠した為、これ以降シャンパーニュのワインも又聖なるものとされ
た。従って今や銀座の金の為にドンペリ祭りをしょぼくれたビルで行っているのは著し
いフランス国王に対する不敬行為である。ナポレオンは「シャンパンは勝利にふさわし
く、敗北の時にこそ必要だ。」と言うほどの部類のシャンパン好きだった。ナポレオン
の頃は、あっちこっちの国と戦争していた為、シャンパンの輸出は出来なかったのだ。
このため、シャンパン製造者はナポレオン軍のあとからついていって彼らの喉を潤す為
に輸送し送り届けた。日本で言えば軍属の供給行使と言った所か。そもフランスでは、
アルプスの湧き水が出て居たが、ワイン文化は小麦粉のバンの文化と共にエジプトから
食糧と一緒に食前酒として好まれた。古代は朝と夜の2食の文化で昼は御菓子タイムだ
ったが、労働しない貴族は夜の眠りの前に、食前酒はかなりに有用だったからだ。こう
してワインはシャンパンになりシャンパンはヨーロッパ中の王侯貴族の中に大流行した
。しかし革命後は王侯貴族が減ってしまった。そこで、シャンパーニュ地方では、ナポ
レオンの軍隊にシャンパンを売り込んで生活を得た。ナポレオンはヨーロッパ全土にば
く進中だったので、浮かれたフランス兵はこの術策にはまり、たらふくシャンパンを消
費し、彼らを通じて民衆の末端までシャンパンの需要が喚起された。その後、フランス
も産業革命と帝政で経済が興隆し、シャンパンは売れに売れた。シャンパンがナポレオ
ン戦争を契機に欧州に広まっていって、かくもお酒と戦争の話が綴られた歴史が出来た
。英国でのの水の少なさはこのフランスワインに頼っていた。時代の風土からは、職工
たちは赤ちゃんにさえミルク代わりにワインやシャンパンを飲ませて育てた記録がある
ほど、水より安価で安全であったのだ。これがロスチャイルド家を支え続けた。


872: 名無しさんAA:18/10/09 01:06
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐63    

 1152年、このボルドーの領主だったエリーナ女王が、イギリスのヘンリー2世と
結婚しました。これがフランスにとっては間違いのもとでして、ワインの本場はフラン
スのボルドーで造られたワインのほとんどがイギリスに運ばれてしまい、フランス人は
飲めなくなってしまった。それだけでもフランスにとってはかなり不満の募るところに
、色んな悪材料が揃いイギリスとフランスの仲はどんどん悪化していった。そして二人
の結婚から約200年が過ぎた14世紀半ばに、遂にイギリスが領土拡大を試みた。国
力を強めたイギリスは、ボルドーを足場に仲の悪いフランスを征服しようと試みたので
す。そこから、「英仏百年戦争」が、勃発する。周囲はイギリス有利と見ていましたが
、ジャンヌ・ダルクの登場と活躍もあって、フランスが勝利を収めた。1453年、ボ
ルドーはフランス領に戻り、ボルドーワインもフランス産に戻った。このボルドーワイ
ンの経済効果は大きく、その後の同国の国力の回復にも大きな役割を果たした。最近は
アイリッシュビールとホッピーなどが定番化していますが、元々はワインが好きな国民
でした。かつて無敵艦隊を持ち日が沈まない国はスペインだった。英西戦争はプロテス
タント信条を自らの生き残りのための核心であると考えるエリザベスが、フランス宗教
戦争(ユグノー戦争)やスペインに敵対するオランダ人の反乱(八十年戦争)のプロテ
スタント軍に援助を与えたりして覇権を拡大したからだ。一方、フェリペ2世はプロテ
スタントの拡大に激しく反対しており、フランスのカトリック同盟やアイルランドの第
二次デズモンドの乱 など(1579年から1583年まで続いたアイルランド・カトリックの
反乱)を支援していたりして中が悪かった。又ポルトガルはアイリッシュの地を引き、
フランスはスペイン国境沿いに親仏派を有していた。第二次世界大戦中は、ワインの産
地で消費国である農業大国フランスは、自国のワインをドイツ軍にとられまいと、あの
手この手でワインを隠したと言われる。同じくワインの産地かつ消費地であるお隣の、
ドイツはドイツで、フランスからワインを略奪するプロセスのシステム化を懸命に計っ
た。略奪方法までも「仕組み化」したというのが、いかにもドイツ人らしい方法だが。
こうしてワインは戦争と密接に関わりながら、ある時は敵味方関係なく 双方の交流を
うながす媒介役を果たした。またある時は戦略的な道具として使われ、またある時は、
双方の高級将校の私欲を満たすために用いられた。のが歴史だった。つまりワインの古
酒は美味いまずいでなく、その土地の歴史と共に飲むと言うステータスだった。

873: 名無しさんAA:18/10/09 01:15
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐64    

 一方で金融の覇者となり、次男のザーロモンはウィーン、3男のネイサンはロンドン
、4男のカールはナポリ、5男のジェームズはパリへと赴き、それぞれが現地で銀行業
を営んでいく。いずれも当時の欧州では代表する都市で、現在で言えばグローバル展開
をいち早く果たしていた。この時に金融王として大いに名を馳せるネイサンは、いち早
くこの海外進出を決断していた男だった。ロスチャイルド家は1790年代の終わりに、フ
ランクフルト周辺では綿製品の品薄状態が深刻化していたの観て。彼はイギリスのマン
チェスターへ赴任し、すでに産業革命が起きて、綿製品の大量生産が行われていた製品
に、大量買い付けし安く仕入れて、ドイツで販売した。彼は金融と産業を結びつけるこ
とによって、巨額の富を得たわけだ。そのまま続いて、1800年代に入ると早々にロンド
ンへと移り住み、N・M・ロスチャイルド&サンズを設立し、手広く金融ビジネスを営
み、アメリカへの足掛かりを作って行った。こうして兄弟が鉱山や鉄道や石油を、それ
ぞれ独占して行った。他の兄弟たちも特に、鉄道事業への投資には力を注いだ。ウィー
ンに移住した次男のザーロモンは皇帝から認可を受けて鉄道会社を創設し、長男のアム
シェルもドイツ国内の鉄道網の整備を進めた。また、5男のジェームズもフランス国内
や周辺国の鉄道事業に熱を入れた。「ワーテルローの戦い」では巧みな情報操作をし、
ネイサンがロンドンへ銀行の進出を果たした。フランス革命(1789年)後の混乱を鎮めて
1804年にフランス第一帝政の皇帝となったナポレオン・ボナパルトと言うフランスでは
歴史的なヒーローが登場した。ところが、まるでこの英雄を手玉にとる手法によって、
ネイサンは莫大な利益を上げたのである。その1つは、1806年にナポレオンが下したと
される「大陸封鎖令」である。フランスは支配下の国々にイギリスとの貿易を禁じて、
同国を経済的に封じ込めようとした。これには、ネイサンにとってビッグチャンスだっ
た。フランス支配下の国々がこの令に従った途端、綿製品はもちろん、コーヒーやタバ
コなどの嗜好品の値段が急騰したからだ。それらがもっぱらイギリスおよびその植民地
から輸入していたわけで、当然の現象だった。つくづく、ナポレオンには政治経済面の
才覚がなかった。ナポレオンとは対照的なネイサンは、かたやイギリス国内では、輸出
先を失ったことでそれらの品々の値段が急落していた為に、価格差に着目した彼は、ど
んドンイギリス国内で安く仕入れて密かに、フランス支配下の国々へ密輸した。そして
、彼からバトンを受け取った兄弟たちが売りさばき、まさに 笑いが止まらないような
利益を得たのだ。英国産の産地偽装の仏国出荷品は瞬く間に利益を上げてかの家を潤し
品薄のフランス同盟国も喜んだのである。

874: 名無しさんAA:18/10/09 01:20
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐65    

 密輸ですから明らかに違法行為で政府も解っていた。幾らかの賄賂で役人をごまかし
市中で売ったのだが、フランスでは服は生活必需品の一つである。当初は何年か辛抱が
出来ると思っていたのだろうが、コーヒーやタバコなどの嗜好品に至っては政府もこれ
を締め出し無くすわけにはいかなかった。こうして、品薄で入手に困っていた市中の人
々にも喜ばれたそうです。さらに、ネイサンは5男のジェームズと協力し合って、その
密輸ルートを通じてイギリスが反フランス陣営国へ提供した軍資金の輸送も手掛けた。
イギリス政府から託された軍資金は堂々とフランス国内を経由し、反フランス陣営へと
送られたのだ。これが無記名形式証券(銀行券)から、無記名為替業務に変わったもので
ナポレオンやフランス当局は事実を全く解らないものだった。又激怒しても証拠がない
。最後の最後まで、ナポレオンはネイサンに利用されるが、連合国に包囲されてついに
パリが陥落して、ナポレオンは失脚する。しかし1815年に流刑先のエルバ島から帰還し
て皇帝に返り咲いた。そして、その年の6月イギリス、オランダ、プロイセンの連合軍
と交戦し、戦いで大敗して更にセントヘレナ島に流され、不遇の死を遂げたのも周知の
通りです。この負け戦がいわゆる「ワーテルローの戦い」ですが、ネイサンは耳を疑う
程に早く「ナポレオン敗れる」の知らせが飛び込んでいる。しかし金を蓄えていたネイ
サンは、あえてイギリス国債を大量に売りに出した。本来なら、イギリス側が勝利した
わけですから、イギリス国債の価格は上がると読んで買いに回る。ネイサンが派手に売
ったことから、他の投資家たちも直ちに追随し、価格は暴落した。早耳の彼が慌てて売
ったと思った同業者は、イギリスが負けたに違いないと誤解したのだ。すかさずネイサ
ンは、安値になったイギリス国債を買い戻します。その上で、イギリス中に「ナポレオ
ン敗走。イギリス軍側勝利。」の報道が伝わって国債価格が急騰した時点でちゃっかり
利益確定売りを入れたのだ。これが世に言う「ネイサンの逆売り」です。これは後の世
に創作されたものだとの説もあるが、こうした逸話が残るほどの逸材だったのは間違い
なく、戦争が長引く事で備えて冷や汗を掻いたのは事実の様だ。アメリカでいち早く政
権に近づいたのロックフェラーだった。ロックフェラーは文化施設を寄贈し、学校や隣
組の自治体などで大地主との繋がりを持って油の商売をしていたからだ。米国で表向き
二大政党制の偽装民主主義体制を敷いて、共和党と民主党が交互に政権を取るようにと
ちゃっかり仕組まれている。それに則っていくと、民主党政権が二期続いたの後は共和
党という流れになる。しかし言わずもがな、その背景には「金融資本主義者」としての
ロスチャイルド勢、「力の原理主義者」としてのロックフェラー勢という構図がある。

875: 名無しさんAA:18/10/09 01:35
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐66    
 今では伝統的に民主党はロスチャイルド(金融・原子力利権)が握り、共和党はロッ
クフェラー(石油・戦争利権)が握り、時流の政権を動かしてきた。しかし、大規模な
戦争を起こせなくなった事や、石油資源が新興国に握られ、産油国やロシアなどが強い
ことにより、冷戦終了後にロックフェラーが滑落した。ロスチャイルドの優勢が明白に
なってきた。がしかしこれまでも、「分断と混沌」のイルミナティの戦略では、第一義
の、目的を達成するために、あらゆる政治的・社会的・経済的、その他の問題において
、互いにいがみう陣営に分断させる手法。=「分断統治」や、対立する陣営に武器を与
えて、互いに戦わせ、弱らせ、その国民政府と宗教的組織を徐々に自滅に向かわせる。
。=「両建て戦略」を行って来ている。又、あらゆる政府の高い役職に就いている人々
をも支配するために、金銭的及び性的な賄賂を利用した。=「禁断の誘惑魔法」も有効
であるとして、恐喝、経済的破綻の脅し、秘密の暴露、金銭的損害、殺害、の手法も、
次々に繰り出され操作され「統一世界政府」を狙うと目標を定めて、歴史を作ってきて
いる。強引に9.11を起こし、イラク戦争を持ち込み、隠れて戦争企画を進めて、追
い詰められたロックフェラーの焦りにロスチャイルドが乗っかった歴史はいくらでもあ
る。例えば、ロシアのポグロムで苦しむユダヤ人を身内に持ってたジェイコブ・シフは
、2億ドルの融資を通じて、日露戦争で日本を強力に資金援助したことで有名だが、こ
の日本勝利と帝政ロシア崩壊のきっかけを作った事は。以後の日本の借金国に仲間入り
させた事に他ならない。公債募集にも援助し、シフはドイツのユダヤ系銀行やリーマン
・ブラザーズなどにも呼びかけ実現させた。この時に、大きなユダヤ間の金融戦争が起
こっている事も歴史的事実だ。1870年代以降に、クーン・ローブ商会は、ベンチャーキ
ャピタルの長として、当時の鉄道事業に積極的に投資していた。この時新規にJPモル
ガン財閥と競争を繰り広げた。1877年のシカゴ・ノースウェスタン鉄道への資金調達を
皮切りに、1881年にはペンシルバニア鉄道、シカゴ・ミルウォーキー・セント・ポール
・アンド・パシフィック鉄道への資金調達を行った。シフは、1897年にはユニオン・パ
シフィック鉄道の事業再建の資金調達を支援した。1901年のモルガン財閥とのノーザン
・パシフィック鉄道の買収攻勢防戦劇は当時の大きな話題だったのだ。また、長期間に
わたって、ウェスティングハウス、ウェスタン・ユニオン、ポラロイドなど、アメリカ
合衆国の大企業と密接な関わりを持ち、長期の財政的な後ろ盾となった。またオースト
リア、フィンランド、メキシコ、ベネズエラなど一部の外国政府の財政アドバイザーも
務めた。パリ・リヨン・地中海鉄道の社債さえも引受けた。それが何故かを日本政府は
解る必要がある。

876: 名無しさんAA:18/10/09 01:36
 NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐67    

 日本の戦後復興を担ったのは、日本興業銀行,日本長期信用銀行,日本債券信用銀行
だった。日本興業銀行はその繋がりから政府や財閥など有力者を支援し、日本長期信用
銀行は公的自治体や田舎の有力者の債権を引き受けた。日本債券信用銀行は地方銀行や
各地の産業の後ろ盾となった。こうして資金融通と負担軽減に高度成長期までは、特定
産業に資金を導入するなど日本経済の成長に大きな役割を果たした。実は経済界で絶対
の定理がある。それが戦後恐慌(せんごきょうこう)である。これは戦争終結後に起こ
る恐慌で、反動恐慌(はんどうきょうこう)とも呼ばれる。この恐慌は必ず起こる法則
であった。日本の馬鹿大臣の竹中はこの原理すら知らなかったらしいが、彼がこの銀行
を潰した。1905年に日露戦争終結したが、この時日本は国家予算の5倍の額の外債を発
行してた。この借金が返済終了したのは昭和60年代である。英国立公文書館とベアリ
ングス文書館所蔵の電報や書簡によると、キャメロン氏は開戦前年1903年10月、
ランスダウン外相から要請を受け、名門のベアリングス銀行と協力して同盟国の日本へ
の融資の検討を開始した。04年1月、横浜支店長に「税収入の担保が得られ、適度な
額であれば外債を引き受けるべし」との電報を送り、同2月には、1千万ポンドを年利
6%、発行価格85ポンド(額面100ポンド)、期限10年という引き受け案を作成
して横浜支店を通じて日本政府と交渉した。戦争前に約4億5000万円の戦費を見積
もった日本政府は、約1億円(1000万ポンド)をロンドンで外債として集めること
を閣議決定、開戦直後の04年2月に日銀副総裁、高橋是清を米国に派遣した。しかし
、「日本敗北」の観測から日本公債が暴落する中で、キャメロン氏は同月、横浜支店に
「米国の協力を得られれば必ず実行できる」との電報を送り、HSBCに引受けを命じ
た。高橋が04年4月1日からロンドンで外債募集を始めると、キャメロン氏は高橋の
旧知のパース銀行(現ロイヤルバンク・オブ・スコットランド)らとシンジケートを組
んで5百万ポンドの公債発行に応じ、英国ユダヤのクーンローブ商会のジェイコブシフ
にも連絡を取ったのだった。高橋是清の書では債発行を引き受けようと好意を表してく
れるに至ったのは正金銀行の取引先であるパース銀行と(キャメロン氏の)香港上海銀
行だけだった。」と回顧している。5百万ポンドの公債は年利6パーセント、発行価格
93ポンド(額面100ポンド)、期限は7年、関税収入が担保というものだった。し
かしこの時ロックフェラーの猛攻にロスチャイルドは窮地だった。JPモルガン以下多
くのユダヤ金融はロシアのバクー油田をかけてロシアに群がっていたからだ。ここにそ
の理由がある。

877: 名無しさんAA:18/10/09 13:27
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐68   

 日本が戦った最初の戦争は日清戦争だが、この賠償交渉は英国の仲裁でしぶしぶ中国
側は認めた。その後日露戦争で多大な犠牲を強いたが、戦後賠償は、小村壽太郎が何回
も渡米しアメリカが仲裁にはいるものの、ロシア皇帝ニコライ2世が出した結論は変え
ず「賠償金は支払わない。樺太南部の割譲は認める。」でしかなかった。第一次世界大
戦でフランスは引かず 1,320億金マルクと総額が決まったのとは大きな違いだった。対
イギリスやロシアにフランスは怯えていたにも関わらずドイツに強く出ていた。第一イ
ンターナショナル、つまり国際労働者協会(こくさいろうどうしゃきょうかい:IWA
)は、ヨーロッパの労働者、社会主義者が1864年9月に創設した世界初の国際政治結社
があった。ロンドンのセント・マーティン・ホールで発足集会(1864年)を開き、ここ
に始まりを遂げ、ジュネーヴ大会(1866年)、ローザンヌ大会(1867年)、ブリュッセ
ル大会(1868年)、バーゼル大会(1869)、ハーグ大会(1872年)が開催された。この
IWAは、国際化に立って国家的枠組みを超えた社会主義運動に関する決議を採択して
各国政府に提言した。世界初の社会主義革命というべきパリ・コミューン革命を支援し
横断的な挑戦を試みている。IWA創立まで、ヨーロッパにおける資本家や、国王の武
力搾取する傲慢さと闘い、出来たものだ。世界的労働者階級闘争してきた永い長い苦闘
の歴史がある。中でも英国の労働運動・政治運動は労働者権利の主張がなされ、チャー
ティスト運動(人権宣言運動)としてマルクスの理論形成に大きな影響を及ぼしている
。国際労働運動の形をなすもので、チャーティストの「人類は兄弟」、「地球は共有財
産」、「人民人権憲章」、「労働者は労働の全成果を享受すべし」というスローガンは
現代も通じる。1850年、「共産党宣言(レッド・リパブリカン)」のチャーティスト・
インターナショナリズムはIWAの礎石になった。チャーティズムは19世紀英国で起
こった「税を払う市民の選挙法改正」と「社会の変革」を要求する運動で急進派知識人
と下層市民労働者達で組織された。1830〜1850年代まで30年間に英国で全国展開された
社会運動だった。しかしこれは、日本でも飢饉が起こり天保7年(1836年)までの餓死
者三十万人とされる頃だ。原因は天保4年(1833年)の大雨に洪水や冷害による大凶作
であった。この天保の大飢饉に日本が各地で百姓一揆が多発した。特に各地の米流通に
頼っていた大阪では、毎日150〜200人が死んでいる。この米不足によって、元の
奉行与力であった陽明学者大塩平八郎は、既に隠居していたにも関わらず、奉行所に対
して民衆の救援を提言し、仕方なく自らの蔵書5万冊を全て売却し六百数十両を得て、
救済に当たっている。

878: 名無しさんAA:18/10/09 13:27
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐69   

 徳川幕府側でも救済のため、江戸では市中21ヶ所に御救小屋(5800人収容)を設置し
たが、救済者は70万人を超えたと言う。米価急騰も引き起こし、各地で百姓一揆や打ち
こわしが頻発、天保7年6月に幕府直轄領である甲斐国一国規模の百姓一揆となった。
天保騒動や、天保8年大塩平八郎の乱の原因でもある。犠牲者を出さなかった藩でも、
色々な苦心がなされて無事に過ごしたぐらいだ。「凶荒心得書」を藩主に提出し、役人
の綱紀粛正と倹約、民衆の救済最優先を説き、給与改革や義倉の整備を実行して成果を
あげた渡辺崋山の田原藩、天明の大飢饉の教訓で、義倉の設置や整備をし「かてもの」
という救荒食の手引書を作成して配布し事前対策が取られた米沢藩などがあった。「か
てもの」は、穀物と混ぜたり、代用品として食用に用いることができる「草木果実」の
80種類の図鑑で、その調理法解説までされている本だ。食料の保存法や備蓄し味噌の
製造法、魚や肉の調理法についても記されている。飢饉の場合の餓死者は、栄養失調よ
りも、食料不足の状態で、毒草を食用した結果の中毒死の方が多かった。そこで安全に
食することが可能なものとその調理法の普及が大事だった。水戸藩でも、この時醤油蔵
の納豆が食べられたと言われる。日本の寛永・享保・天明に続く江戸四大飢饉の一つで
ある。この飢饉は3年間も続いた。この時の世界的気候変動は人類に更に追い打ちをか
けたのは、食糧価格の高騰によるインフレと時の政府の強硬策による死者の群れだった
。十分な食糧の購入が困難になり暴動や抵抗は起こった。英国のチャーティスト指導者
の多くは議会への請願運動をし、成人男子選挙権を軸に起草した『人民憲章』を三回に
わたって議会に「国民請願」を行っている。それは、成人男子選挙権・秘密投票・毎年
選ばれる議会の一年任期制・議員に対する財産資格の廃止・議員歳費支給・十年ごとの
国勢調査により調整される平等選挙区、などの6項目で、今の政治体制からは当然の事
柄だ。フランス革命の「国民公会」を模して、庶民院に代わる代表機関「人民議会」を
結集し、分派の多い労働者団体を束ねて起こしたものだった。又、機械の発達で職工が
旧来の職工の賃金を上回り職人貴族とされ、彼らも小さな資本家だった事も問題を産ん
でいたが、チャーティスト運動は広がりを見せ、労働組合の共闘は不確かなものであっ
たが続いた。しかし英国社会での選挙権は「特権」であり「人間」の社会承認であった
。現代の価値観とは隔たったものだが これは当時労働者も理解していた。投票で3度
の請願したが、議会の請願拒否は、政府側の蜂起の弾圧強化に繋がった。1848年の本格
的弾圧は、チャーティストの影響力を著しく削いで活動の分裂と、その後の英国経済の
好景気の時代に好転するに至って社会が安定し崩壊して行った。

879: 名無しさんAA:18/10/09 13:29
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐70   

 チャーティストの残党達は1860年代の国際危機に刺激され復活を望んでいた。1860年
代大英帝国の世界支配が完成し、一方で新興国の工業化、近代化が急速に進展し始めて
いた。この時代の動きはアメリカにおいて南北戦争、南欧でイタリア統一運動、東欧で
ポーランド1月蜂起に現れた。この事象に対する労働者の反応は、国際的な労働者組織
を創立する直接的契機となった。1861年アメリカの南部諸州が連邦からの脱退を宣言し
てアメリカ連合国を結成し、アメリカを二分する内乱・南北戦争(1861年)勃発した。
南軍が連邦の軍事拠点に攻撃を加えたのだ。リンカーン大統領は1862年「奴隷解放宣言
」を声明出すに至ったのである。この頃からリンカーン側は「奴隷制に対する戦い」を
大義として戦争を展開した。戦中、大英帝国は表向き中立を保っていたが、南北戦争に
介入寸前の状況に置かれており、南部連合も英仏の介入を期待して闘っていた。しかし
イギリスにも介入出来ない事情があった。インドにおける、アヘンの原料となるケシや
綿花などの栽培を強制し、一次商品を宗主国イギリスに輸出し、完成消費財を輸入する
という変質経済が破綻してきたのだ。これによって何度となくインドは飢饉に襲われて
いた。自給経済が無くなったインドは各地域で飢餓がおこった。イギリス政府はまとも
に救済はしなかった。1770年のベンガル飢饉で死者約1000万人。1800年〜1825年大飢饉
5回 死者約100万人。1826年〜1850年大飢饉2回 死者約40万人。1851年〜1875年 大飢
饉6回 死者約500万人。1876年〜1900年大飢饉18回 死者約1600万人。1943年 ベンガ
ル飢饉で 死者約300万人。イギリスによる過酷な植民地統治に頻発した飢饉の死者数は
推計では5000万人を越えたのである。戦争より苦しいこれらを生きたインド人は、大英
帝国経済も揺さぶりをかけた。それが独立の機運だった。最近でも飢饉は起こっている
。1932年から1933年にかけてウクライナ人が住んでいた各地域でおきた人工的な大飢饉
でホロドモールと言われる。これは、アルメニア人虐殺、ホロコースト、ポル・ポト派
による虐殺、ルワンダ虐殺等と並んで20世紀の最大の悲劇の一つとされる。ウクライナ
人達は強制移住に、家畜や農地が奪われた為だ。四百万人から1千四百万人が死亡した
。また六百万人以上の出生が抑制された。この大飢饉は、当時ソ連の最高指導者ヨシフ
・スターリンによる計画的な飢餓で、2006年にウクライナ議会は、「ウクライナ人に対
するジェノサイド」であると認定した。西側諸国においても同様のソビエト連邦による
犯罪行為であるとみなしている。ホロドモールの時代は、ソビエト連邦の戦後恐慌であ
ろう。実はこの中で今のロシア大統領プーチンは生まれてきている。母親にはこの経験
があり語り繋ぎ来ている。

880: 名無しさんAA:18/10/09 14:13
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐71   

 こうして第一次インターナショナルの英国の労働運動が消えると、その残党はフラン
スに渡り欧州社会で、より危険な社会主義革命を唱えた。第二インターナショナルは、
第一次世界大戦の際、加盟する社会民主主義政党が「域内平和」を掲げていたが、一方
でそれぞれ自国の独立自立の市民戦争を支持していた為に瓦解した。これに反対するの
が諸派のスイスで開いたツィンメルヴァルト国際会議である。第三インターナショナル
のコミンテルンの源流である。十月革命後1919年ロシア共産党(ボリシェヴィキ)の呼
びかけで、モスクワにおいて19の組織またはグループの代表が集まり、創立を決めた
た。当初は世界革命実現の為の組織とされたが、ソ連政府が資本主義諸国の政府と外交
関係を結び、コミンテルンは各国の革命運動家と共闘で繋がっていた。しかし、ウラジ
ーミル・レーニン死後には、スターリンが一国社会主義論を打ち出したことで役割が変
わり、各国の共産党誕生を外交政策で擁護するのが中心になっていった。1920年代中頃
の中華民国では、ブルジョア政党政権が共産党を弾圧しても黙認する、といった例も生
じて、中国では抗日運動の素の反体制運動に支援した。不思議な事が日本が大陸進出を
果たした時、労働支援運動は各国で盛り上がり、世界的連携を持って国際旅団まで作る
程の社会主義運動だったにも関わらず、日本は素晴らしいと褒めた讃えた人すらも、日
本の労働者を労働者とみなさなかったし、資本家も資本家とみなさなかった。一方で、
第二インターナショナルの系譜に属する社会民主主義政党に、厳しい姿勢を取ったのだ
。1928年夏のコミンテルン第6回大会では、このファシズムと社会民主主義のつながり
を強調する「社会ファシズム論」が登場し、1930年代前半よりドイツで台頭するドイツ
共産党は「社会ファシズム論」でドイツ社会民主党(SPD:中道左派・リベラル政党
)との対立に明け暮れた中で隙間を縫って「国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)」
は産まれ、この対立が権力掌握を許す一因となったといわれる。ドイツ民主党とドイツ
共産党は、ドイツ共産党に集約されるが自国主義で、本家ソ連共産党の賛同は得られな
かった。ここでナチ党は大きく飛躍した。1935年のコミンテルン第7回大会では反ファ
シズムの「国家社会主義体制対抗」を最優先課題として多様な勢力と協調しようとする
人民戦線「共産共闘主義戦術」を採択した。こうしてスペインやフランスで「人民戦線
政府」というものが誕生したが、スペインではフランコによる反乱からの内戦で壊滅し
た。国家間では独ソ不可侵条約の成立や第二次世界大戦初期のポーランド分割の結果、
人民戦線戦術は放棄された。つまり労働者争議の国際連携よりは、経済資本の国家主義
が優先されたのである。

881: 名無しさんAA:18/10/09 14:13
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐72   

 ロシア革命において自治政府を果たしたのがポリシェヴィキだけであった為、第二イ
ンターナショナル再建失敗した国の労働者はこのコミンテルンへの加盟を求めてきた。
ここに第3インターナショナルが出来上がりを見せ、「武闘革命」を党則にした。ソ連
共産党は、こうしてやって来る社会民主主義勢力に対しては、ボリシェヴィキは明確に
振り分ける措置として、コミンテルンの加入条件を厳格化することで対応した。それが
「武闘闘争の是認」だった。1920年のコミンテルン第二回大会で採択された21箇条の
加入条件には、自国の内乱へ向けての用意であり、現行体制内での「非合法的機構の設
置」(第3条)、党内における「軍事的規律に近い鉄の規律」(第12条)、社会民主
主義的綱領の改定(第15条)、党名の共産党への変更(第17条)、コミンテルンに
反対する党員の除名(第21条)などが盛り込まれた。つまり自国内で、紛争し戦争を
起こしてもソ連共産党の為に闘争すれば、契約を認めて資金援助しよう。と言う民間支
部間の協定だった。この加入条件では必然的にヨーロッパの諸党の過激な対抗と穏健を
求めた労働者層の分裂をもたらした。当然ドイツでは、1920年10月に独立社会民主党が
分裂し、その左派とドイツ共産党が合同して同年12月に統一ドイツ共産党を結成された
。フランスでは1920年12月に社会党の大会でコミンテルン加盟と共産党への改称が決定
され、反対派が新たに穏健な社会党をつくった。すでにコミンテルンに加盟済みだった
イタリア社会党も1921年に分裂して、イタリア共産党が設立された。共産党の理想の為
に過激な武闘闘争せよ。と言う合意は、当初の「労働者の権利の尊重」の為の組織提唱
から離れ国家に疲弊をもたらし、国家間の戦争を起こした。この「政治急進主義」勢力
に対しては、第二回大会前にレーニンが『共産主義における「左翼」小児病』を書いて
批判したが、止まる事も振り向くことも無かった。反動的な議会や労働組合であっても
、その中で共産主義に対する大衆的な支持を獲得するために運動すべきだと主張したが
、それは却って自党の権利につながって排他的となり、地道な運動とはならなかった。
ここにナチスが噛みついたのである。独ソ戦の勃発に伴い、ソ連がイギリスと共に連合
国を形成したことによって名実ともに存在意義を失い、1943年に解散した。しかしこの
連合こそが今の国際連合の妙な仕組みである。この時既にイギリスのユダヤ資本は政治
家を動かし、投資破棄の損をしない為の工夫でソ連支援を運動していたのである。この
運動がチャーチルの動きであり、ヒットラーの賠償破棄とユダヤ人弾圧だった。

882: 名無しさんAA:18/10/09 14:14
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐73    

 これが経済学の本質であった。この後本当に経済学があるのなら、人類は第一次大戦
の戦後恐慌におののくべきであった。しかし、イギリス・アメリカ共にそれを受け入れ
て、無理にこの戦争を終わらせていた。賠償金調達のためにマルクの為替レートは急激
に低下し、ドイツは賠償金支払いの延期を求めがフランスは、支払いを確保するためと
してルール地方を占領した。しかし工業品製造の出来ないドイツには不況が走り逆効果
であった。ルール工業地帯を失い、さらにストライキ支援のために紙幣の大増刷を行っ
た。瞬く間にドイツ経済は破綻し、ハイパーインフレーションに陥った。1ポンド=20パ
ピエルマルクだった為替レートは、1ポンド=500億パピエルマルクまでマルク安が進ん
だのである。まさしくハイパーインフレである。このため連合国も従来の賠償金取り立
ては継続不可能であるとみるようになった。またオーストリアも経済破綻し、同国への
賠償請求は事実上棚上げされた。1924年、新マルク(レンテンマルク・ライヒスマルク
)の導入で通貨が安定すると共に、賠償金の支払いプロセスにアメリカを参加させた。
協議の結果、ドイツに賠償支払いのための債権発行を認め、1年に25億金マルクの支払
いを行うドーズ案が採択され、ドイツ経済は安定期を迎えた。なぜアメリカが入ったの
か。1922年よりジェノヴァで開催されていたジェノア会議がラロッパ条約が成立した。
この会議ではソビエト・ロシアの代表も招かれたが、帝政ロシア時代の対外債務(シベ
リア鉄道の建設など)の返還をめぐってフランス代表と意見が衝突したが、この会議を
通じたソビエト・ロシアへの国際的な承認も得られることはなかった。この会談の際、
共にヴェルサイユ体制から除外されていたドイツとソビエト・ロシアの代表の秘密交渉
が行われ、ソ連外務人民委員ゲオルギー・チチェーリンとその交渉相手であったドイツ
外務大臣ヴァルター・ラーテナウによってラパロ条約が調印された。1918年3月3日、ロ
シアと中央同盟国との講和条約となるブレスト=リトフスク条約は、ボリシェヴィキ政
府と、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、ブルガリア王国、オスマン帝国と
の間で調印された。条約によってロシアは第一次世界大戦から正式に離脱し、さらに、
フィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ポーランド、ウクライナ及び、
トルコとの国境付近のアルダハン、カルス、バトゥミに対するすべての権利を放棄した
。トルコとの国境地域を除くそれらの地域の大部分は、事実上ドイツ帝国に割譲された
。ドイツ軍の影響下に入った地域では、次々と独立国家が誕生した。1922年のラパッロ
条約では、ソ連・ドイツ双方が、協議されたすべての地域に対する権利と賠償を相互に
放棄することが合意された。

883: 名無しさんAA:18/10/09 14:20
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐74    

 しかし6月 ロシアはウクライナに対し休戦協定を結ばざるを得なくなった。なお、
ウクライナでは4月中央ラーダ政府がヘーチマンの政変によって倒され、かわってパウ
ロー・スコロパードシクィイを首班とするウクライナ国が成立していた。6月にはロシ
アとウクライナ国は休戦条約を締結し、第一次ウクライナ・ソヴィエト戦争は終結した
。加えて、ブレスト=リトフスク条約の調印の後、8月27日にベルリンで調印された追
加条約によって、ロシアに多額の賠償金の支払いが課せられた。それでも、ソビエト・
ロシアの支配下にあるか、あるいは強い影響力を持つ国々、ウクライナ共和国、白ロシ
ア共和国、ザカフカース連邦共和国を構成するグルジア共和国、アゼルバイジャン共和
国、アルメニア共和国及び極東共和国の各ソビエト共和国に、対するドイツの関係を認
めるため、ラパッロ条約を拡大する補足条約が11月にベルリンで調印された。これは
ソビエト領内でのドイツ軍の軍事訓練を認める秘密の付属条項が7月にも調印された。
これらは、ヴェルサイユ条約の条項に違反することであったし、西側に対して反ヴェル
サイユ連合を形成することを意図していた。西側には両国政府の国際的な立場を強化す
るものとして不安なことと受取られた。しかしこの条約は第一次世界大戦とロシア革命
から続いていた両国の外交的孤立を終らせ、西側がソ連に賠償金支払いを命じる事は、
不可能だった。ロマノフ財宝が消え銀行が機能しなかったからだ。結局ロシアはこの国
内土地をドイツに賠償した土地と改訳させて、イギリスは、支払い猶予程度は認めても
良いとしたが、フランス&ベルギーがその賠償は強硬に行使を求めた。その理由は戦後
の経済秩序で理解できる。つまりフランス経済を保たせたアメリカからの食糧ドイツか
らの製品イギリスへの借金が全てドイツの賠償金で支払われていたのである。これが、
欧米型の奴隷取り立てであった。日本でも再三こうした事が使われた。つまり薩摩藩と
英国が戦争したが、徳川幕府が支払いをした。それは長州藩も同じだった。つまり徳川
幕府は薩摩が払ってそれを補佐するにせよ、長州藩を征伐して代理人となろうが、英国
が吹っ掛けた賠償請求には、日本が強くなるしか対応出来なかったのである。これが今
の経済学の実体である。我々は例えばシカゴやニューヨーク株価或いは東京株価をみて
まるで現代の経済指標かの様に扱い報道する。しかしこの株式を全てを買っても余りあ
る資本家の、単なる在庫計算上の価値に過ぎないのであって、それを何千人にも現状の
会計を扱うアナリストが勝手に売買して上下させているに過ぎないものなのである。

884: 名無しさんAA:18/10/09 23:44 ID:XMs
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐75    

 日露戦争では、結果として日本は勝利したが、シフは一部の人間から「ユダヤの世界
支配論」を地で行く存在と見なされている。ロシア革命に 2,000万ドルの資金を提供し
てロシア革命を支援したが、しかし、経営者一族がシフの縁戚となっていた為ファース
ト・ナショナル銀行ニューヨークは、ロックフェラーのチェース・マンハッタン、J・P
・モルガン・アンド・カンパニーと協調して、ソビエトに対する融資を継続していた。
こうした姿をつぶさに見て居た日本は、国内にも資金調達機関をわざわざ作った。資金
調達銀行の三行である。幸いに日本銀行券の発行権利を日本政府は持っていた。こうし
て国内の資金調達手段として、債券(金融債)発行に依存し、設備資金、長期運転資金
の調達を行なう事が出来た。国、地方公共団体、取引先以外の一般預金の受け入れは認
められていなかった特殊銀行が、民間機関として、江戸時代の徳川幕府の役割を持った
のだ。日本興業銀行,日本長期信用銀行,日本債券信用銀行の三行は、そのまま戦後の
復興を支え高度成長期には大きな役割を果たした。だが、馬鹿げた議員の馬鹿げた政府
によって、特殊銀行の枠を外され赤字や不良債権の巣とされ、日本長期信用銀行と日本
債券信用銀行は経営破綻を経て、普通銀行に転換後日本興業銀行は都市銀行と合併し、
業態としては姿を消した。この長期信用銀行や短期の債権信用銀行の閉鎖は、冷戦が終
わり、中央アジア投資で金のない米国の、日本財布論の行使に使われた。ゼロサム社会
や日本の社会主義的繁栄をつぶさに分析検討したアメリカが仕組んだ罠にかかったのだ
。実は山井証券始め、もし金融ビックバンを叫んだ中曽根や橋本首相などが、変な改造
をしなかったら「LTCM」の金融保険や資産保険に頼らなくとも、この債権の買い取
り銀行が金融保証し、不良資産もなく国鉄解体すらもなくて良かった。つまり、市場の
流通通貨量のパイの供給や拡大をして 今の日銀と同じに機能不全でや国鉄のガソリン
税による締め付けなどの現実がなければそのまま経営出来たのだ。我々が良く知るべき
はこの腐れた国政の行く末である。方向が正しくとも後世の我々が資産を捨てては、そ
れは大変な悪行である。それが政府によって、ユダヤの銀行や金融資本家の為の給与に
つぎ込まれている。と言う現実である。例えば車社会になるのが必然だとしても、今だ
排気ガス問題を解決しないままだ。原子力の核廃棄問題も同じだ。中国の発展が観光阻
害の筈の強制拘留の独裁政治でも、日本は平然と日中友好を謳う、世界中に悪を降り注
ぐのも同じだ。

885: 名無しさんAA:18/10/09 23:44
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐76    

 大恐慌時代には「ウォール街の靴磨きの少年が株の話をしているのを聞いて、ヤバい
と思った」と語ったのは投資家は多い。実体経済のない好景気はすでに始まっていたの
に、何も知らない国民を道連れにしている。平和時の株価の異常な上昇の恩恵を受ける
社会発展だ。まさに不毛のバブルで、不要な理由や意味のない株価上昇と 勝手な株価
下落が国際経済の実体なのである。ここに現実にある経済学は アメリカの中のごく一
部の資産家が、担ぎだした政府を動かして、「なにがなんでも取り立てる。戦争しても
覇権しても行使する。人殺しも核も貿易閉鎖もなんでもありだ。世界秩序なんぞは国際
機関が決めたたわごとだ。」と言う姿勢であり、条約や一般人保護や戦争裁判などは 
単なる人道家へのガス抜きに過ぎない形で行われている現実の世界である。この21世
紀すらこれが行われている。と言う現実とその博打経済の姿の辛さである。つまり数式
も方程式も定理もない。勝手な覇権争いは、国と国の争いではないと言う姿だ。個人の
ごく限られた人の一部の人達の起こしている行為なのだが、第一次大戦から80年かけ
てドイツが支払いした事も、日本が日露戦争の債権償還に60年掛けた事も、実はアメ
リカの中央銀行の問題であったはずだ。フランスの大戦前のスラブでのクリミア戦争の
賠償やナポレオン戦争での借金なども深く関係している。つまりは先に言った様に、ド
イツに賄ってもらった様な状態で欧州経営がなされていたからだ。実はロシアもドイツ
に結構な借金があったのだが、第一次世界大戦時にドイツ皇帝のヴィルヘルム2世の公
的に退位して終わったので、そこに付け込んで正式にロシアは相互に御破算にするとい
うラロッパ条約を結んだ。これで影響を回避して戦後世界を築いた。しかし、それは、
ユダヤ金融の高利貸しには全く言い訳にならないものだった。現実的にロシア皇帝に貸
し付けたのは、ベルギーの銀行を通じてユダヤ金融資本が貸付していた事だったからだ
。そこに各共和国を率いた白ロシア軍には、更に血塗られた革命軍の赤い共産党革命が
襲った理由なのである。又 血眼になって、ロシアのピィヨトル大帝からのロマノフ王
朝の財宝を探す為に、日本にシベリア出兵を持ちかけたのも日本人は割にしらない。米
国が引き揚げたのは、その派兵の軍事経費の問題も馬鹿な日本政府は出来なかった。そ
うした意図は全く知らずにどんどんと進軍しチェコ人救出の手柄はあったものの、国家
財政は火の車になったのだ。本来の欧米式のやり方なら、ウラジオストックで留めて、
日露戦争の賠償補償と叫べば良かったのだ。

886: 名無しさんAA:18/10/09 23:45
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐78    

 そこは世界戦争を知らない馬鹿正直の田舎者だったのである。実はソ連の立ち上げ時
期には、シベリアに極東共和国が出来て、共和国側も日本からの防衛や保護を求めてい
ていた。日本側にはその後ろ盾になるチャンスは充分にあったのだ。しかし、中国側に
いた特派員やアメリカ国内の反日派はイエロージャーナルを通じて盛んにその在留兵を
批判したのである。既にこの時から第二次世界大戦の作戦が米国内に起こっていたので
あったのだ。これが歴史の中の経済である。第一次世界大戦後やって来たのが戦後恐慌
と言われるものだった。日本は先に日露戦争が起こっていて2度目の恐慌がやって来た
のである。世界的には第一次世界大戦の恐慌が次の第二次世界大戦を引き起こした。で
は第二次世界大戦後には何故恐慌は起きなかったのか。実は起こっているのである。そ
れが何処に起こったか。実は一人勝ちしたアメリカに起こったのだ。アメリカ国内と言
うよりはアメリカ陣営に起こった。そこで使ったのは公共事業としての無償援助である
。イギリス・フランス・ドイツ・日本は共に物資もなく建物は壊れ、産業も残らない程
の悲惨な結果の中にあった。アメリカはいざ国内産業の、飛行機や自動車或いは小麦や
牛肉を売ろうとしたが、どこの国も買える余裕などはなかった。そこで取り合えず復興
支援の名目で、フランスとイギリスにトラクターと小麦を送ったのだ。これらの農産物
の支援や機械供与は、価格競争で不況にならない為の国内事情で行ったものだったが、
この処置は以外にも、仏英から非常な喜びとして伝えられ、その方策はドイツ日本にも
支援物資が運ばれる事が検討された。アメリカ合衆国が推進した復興援助は、国務長官
ジョージ・マーシャルの名を冠して「マーシャル・プラン」と呼ぶが、この正式名称は
欧州復興計画(おうしゅうふっこうけいかく)と呼ぶ。元々は、アメリカの権力行使に
モーゲンソー・プランを提唱していて、ドイツの軍需産業を徹底破壊して同国を農業国
化するという、懲罰的なドイツ政策を志向していたが、この案は国務省や陸軍省、さら
には英国の猛反対を受けて消えた。そこでこのマーシャルプランが出て来た。しかし、
ソ連側はこれを拒否させた。東ドイツやチェコはソ連の外圧によって拒否となった。又
アジアにも行う事が検討された。しかし中華民国は毛沢東と蒋介石は戦っていたのだ。
アメリカは中国の工業および農業改革の復興を援助する計画をしていたが、蒋介石がマ
ーシャル将軍の調停した国共停戦協定を無視して中国共産党への軍事攻勢を行い、共産
党が応戦していた。この混乱に巻きまれたくないとして身を引いて武器供与のみとなっ
た。

887: 名無しさんAA:18/10/09 23:45
 NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐80    

 日本の戦後復興は、唯一こうした足をとられない自立経済や独立国の地位にあった。
と言っても過言ではない。この意識が今花開いたノーベル賞だったり日本人の国際大会
の優勝だったりしている。こうした国際金融団を否定したものでは無かったが、これま
で大陸の長とした中国の崩壊のショックと、日本での江戸幕府への開国要請の外圧は、
それほどまで大きかったのである。こうした外国資本受け入れにきわめて慎重で拒否し
ていた自立経済や独立建国とこそ正義と信じて、満州国も外国資本を入れなかった様に
。戦後もその独立独歩の精神が息づいていた。もちろん、この為に外圧で戦争に陥った
のでしょう。しかしこの国は、戦後も闘いながら、この外資拒絶の方針や精神を止めな
かった。60年代の半ばになると、経済成長を果たして、日本に投資したくなった米国
が、執拗に資本の自由化を強力な外圧を建てて要求してきた。さすがに日本は堪らず、
少しずつ自由化していきましたが、あの頃の社会を覆った不安は、正にこんなに外国の
お金が入ってきて、これからいったいどうなるのだろう、と言う不安だった。それが今
の債権国経済である。グローバリゼーションの現代、どの国でも外国の投資を呼びこむ
ことが課題とされている感がある。しかしそれは正解ではない。よこしまな外圧の挑発
である。中国経済で建設されたドバイのスラリンカ経済やクメール王国の末裔ビルマ人
のミャンマー経済の軍国主義がグルガ兵の末裔の暴行から、ミャンマーの少数派イスラ
ム教徒ロヒンギャが逃れようと隣国バングラデシュに多数逃れている問題でも独立建国
が愛国とは違う事が解るだろう。日本は自力で焼け跡から立ち直り、経済成長を遂げた
のだ、「日本の戦後復興は寛大なアメリカの施政のおかげ」と信じているのは愚鈍であ
る。アメリカ人だけではなくそう信じる日本の人はけっこういます。当然に米国人も又
、国際社会の規約や条約を違反しても知らん顔して非道を行う鬼の様な国だったかから
だ。その証左が無差別空襲だし、原爆投下である。それでも米国民の何人が、道義的な
非人間性の国民性を改めるべきと考えているだろうか。そう日本の人にもアメリカの人
にも声を大にして言いたいところです。戦後の復興は朝鮮戦争という犠牲の上という、
まやかしの反論もある。だとしても、いいかげんに抜け出しなくていけない。その上で
経済上の、安保条約をふくめたこれからの日本をどうするかを議論すべきかが大事だろ
う。ところで、このララというNGO(Licensed Agencies for Relief in Asia アジア
救援組織)と言う公認団体は、日系人の組織でした。アメリカの海外支援NGOは一方
的に、ヨーロッパだけを支援の対象にしていたからだ。

888: 名無しさんAA:18/10/09 23:45
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐81    

 実はララ物資の支援の前にケアと言われたNGO団体があった。元々は1945年に、や
はり戦災に見舞われたヨーロッパの困窮者に食糧や衣料などの援助物資を発送するため
に、アメリカの22の団体が協力して設立されたNGOである。この団体は日本に対す
る支援は1948年(昭和23年)から始まり、1955年(昭和30年)までの8年間、学童、青
少年を対象に食糧、衣料、医薬品、学用品、寝具類などを無償配布した。8年間にわた
って日本への援助した。援助総額は 約290万ドル(当時)とされる。この中に戦後支援
全く足りないと感じた収容所から出て来た男がいた。アメリカ国内で反日感情の根強い
中で、サンフランシスコ在住の日系アメリカ人の「浅野七之助」である。浅野七之助は
日本のジャーナリストで盛岡市出身であった。アメリカで新聞記者として活動し、第二
次世界大戦後にアメリカから日本に対しておこなわれた難民救済事業である「ララ物資
の父」と言われている。郷里の大臣原敬の書生となり、中央大学で学んだ後、1917年に
東京毎夕新聞記者特派員として渡米していた。1917年(大正6年)に渡米した後は、農場
での労働やホテルのボーイの経験を通して、アメリカの底辺社会や日系人の実情を知り
って後にには新聞記者となって日系人の権利獲得のため論陣を張っていた。戦後の母国
の惨状を知った浅野は、それでヤギのお乳が赤ちゃんのミルクやタンパク源として貴重
で、ヤギを日本に送る運動をおこした宣教師ニコルソン氏の活動に出会った。そこで、
手伝って、在米日系人らに呼びかけて駈けずり回り食料品や衣類,薬品を集めて、日本
戦災難民救済運動を開始した。これがのちに正式にNPOのLARAへと発展し、ララ
物資として昭和21年に日本に送られ,多くの人々がその恩恵を受けたのだった。浅野は
その後も国際的なジャーナリストとして,また日米の窓口的な存在としての相互理解と
両国親善に努めた。1924年から朝日新聞米国西部沿岸通信員を務め、1946年にサンフラ
ンシスコの代表的邦字紙「日米時事」を発刊し社長となり、在米日本人会、日系人の権
利擁護、拡張のための民権擁護協会、帰化権獲得同盟などに参加している。彼によって
生まれた日本向けの支援は、アメリカ国内の日系宗教団体、労組、社会事業団体等13
団体に広がり、より組織化されていった。アメリカのみならずカナダやブラジル、アル
ゼンチンなど多数の国にまたがり、多くの民間人、民間団体からの資金や物資の提供で
あった為、その救援総額は不明であるが、推定で当時の金額で4〜5百億円とされてい
る。これは1946年(昭和21年)11月から1952年(昭和27年)までに行われた。ララ物資
の贈呈式が12月24日行われ、日本はこの日を、学校給食記念日としている。


889: 名無しさんAA:18/10/09 23:46
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐82    

 実は韓国の悲劇も日本の悲劇も、米国軍に課されたトルーマン宣言にあった。トルー
マンは、イギリスが対ギリシャ・トルコ援助打ち切りを通告したことに触れ、ギリシャ
及びトルコの現状について語った。この教書の中でトルーマンは、世界のほぼ全ての国
々が否応なく2つの生活様式、即ち「自由主義」と「全体主義」の選択を迫られている
という二元論的な外交理念を提示し、「武装した少数者や外部からの圧力による征服の
試みに抵抗している自由な諸国民を支持することこそ合衆国の政策でなければならない
と信じる」と語った。つまり自由主義経済の国以外の国を元宗主国であっても支援する
道義と責任はない。としたのだ。欧州の第二次世界大戦が先行して終わった中の声明だ
った。これを受け日本の占領政策に、この事が色濃く反映されたものが指令になった。
1945年(昭和20年)に米国務省から発表された「降伏後二於ケル米国ノ初期ノ対日方針
」には、占領軍の必要とする物資および役務の調達に関しては、そのため日本国民に「
飢餓、広範囲の疾病及び甚だしき肉体的苦痛を生じない範囲」において、日本政府が提
供するものとしている。日本政府の占領軍向け支出は、1946年(昭和21年)度一般会計
予算の3分の1を超えて出費していた。この費用は、占領軍の命令で「終戦処理費」あ
るいは単に「その他の費用」と呼ばされていた。「終戦処理費」は約50億ドル(当時)
に達した。連合国は占領目的の巨額な財政支出(例:終戦処理費として約50億ドル)と
労働力を日本政府に負担させる一方で、日本の食糧支援要求に「日本の経済的困窮は日
本の責任である。」と切り捨て、「日本国民の努力でまかなうこと」と返事した。1945
年(昭和20年)「降伏後二於ケル米国ノ初期ノ対日方針」には、「日本国民の経済上の
困難と苦悩は日本の自らの行為の結果であり、連合国は復旧の負担を負わない。日本国
民が軍事的目的を捨てて平和的生活様式に向かって努力する暁にのみ、国民が再建努力
すべきであり、連合国はそれを妨害はしない。」との旨を明記してある。それはその時
の返事に沿ったものだった。1945年(昭和20年)11月の「日本占領及び管理のための、
連合国最高司令官に対する降伏後における初期の基本指令」にも、占領軍最高司令官は
「日本にいずれの特定の生活水準を維持し又は維持させるなんらの義務をも負わない」
と明確に記されている。1945年(昭和20年)12月の指令では「日本人に対して許される
生活水準は、軍事的なものの除去と占領軍への協力の徹底にかかっている。」と記載さ
れて、その必要物資の配給は行わないと言明した。


890: 名無しさんAA:18/10/09 23:46
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐84    

 こうして工業機械すら盗られてしまった北朝鮮は、ソ連からは代わりに戦車の提供を
受けていた。対して韓国側は李承晩が余りにもいい加減な独裁者だったので米国では、
信用がなかった。そこには、朝鮮人特有の性格や日本の属国だったと言う歴史も禍いし
ていたとも思われる。が独立戦線の多くが殺され北朝鮮側に付いた過去からも、全く信
用ならない人間だった事は想像できる。又親日家を次々と粛清して行った事で日本から
も信用はなかった。朝鮮戦争では、たった3日で朝鮮の殆どが北朝鮮のものになって行
く中で、いち早くソウルを抜けて釜山に逃げ延び、日本の山口への亡命を打診していた
。かつてこの小さな半島が、アメリカを凌ぐほどの工業生産と日本すら食わせるほどの
農業生産国を空襲もないままに、自国民でありながら2人の指導者はかくも貧困の国に
変えたのである。同じ設備で同じ敷地に同じ様な暮らしの中で、かくも日本人は勤勉で
あったのか。と思う程のちがいであった。こうして3年目にして起こった、戦争恐慌は
いち早く朝鮮半島に起こった事で、アメリカは慌てていた。未だ東京裁判の結果も見な
いままGHQは急遽日本に治安の為の警察予備隊を創設し、更に救援物資の放出を図り
日本の国内安定を求める事になった。経済事情も変わった。これまでは弾丸や弾薬を、
集めては銃剣と共に廃棄し、軍艦も船も片っ端から魚雷や水中地雷で沈めていたのが、
産業育成で地金からの弾薬製造を指導する事になった。勿論本国からの送付が主に使わ
れたが、それでは間に合わず又生産の供給が追い付けない物が多々起こったのである。
しかし、それでも日本の産業の供給量はアメリカから送られる兵器に比べて微々たる物
で一割もなかった。まず規格が違っていた上に検品者が少なかった為だ。よく朝鮮戦争
で日本が復興を果たしたかのように思われるが、それは真実ではない。戦後恐慌が日本
を救ったのだ。米国で売りつける相手がいなく、本当は朝鮮半島に販売供給するつもり
の食糧や物品が余りにも素行が悪く信用がならない為、その供給が日本人に向かったの
である。その為に、余ったA戦車すらも硫黄島や沖縄からは朝鮮に送っていなかった。
対して日本には沖縄や横田を始め進駐軍は次々と軍用基地を決めて、防衛していった。
これがソ連侵攻を止めていたのである。何せ当時唯一の原爆を持っていた国だったから
だ。これが小さな島国が守られた理由でもあった。朝鮮では日本軍は3つの巨大ダムを
作った日満国境の鴨緑江の水豊(スプン)ダム、中国・吉林省吉林市の松花江の豊満(
フォンマン)ダム北漢江にある華川(ファチョン)ダムだ。又台湾にも烏山頭ダムを作
っている。こうしたダムが生み出した電力の経済効果は非常に高かった。

891: 名無しさんAA:18/10/09 23:47
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐85    

 日本語で「鼻高々」と言うのは立派な事をした。或いは勝った。と言う意味だろう。
言わば「得意相」「自慢気」の形用をさすものだが、これは江戸後期や明治に生まれた
言葉である。基本的には海外の黒船の船員ロシア船も含めて鉤鼻で鼻が高かった事を、
こう形容したのである。言わばペリーを初めとするユダヤ人をこう称したのである。童
話になったピノキオは正式には「Pinocchio : ピノッキョ」でキツツキの意味だ。実は
、ピノッキオのオリジナルのストーリーは、政治的風刺を、特に法制度の仕組みに対す
る風刺を含んでいる。物語の内容は次の様な物だ。「ある日、大工のチリエージャ(サ
クランボの意。丸くて赤むらさき色の鼻より。英語版ではチェリー)親方は、意志を持
って話をする丸太を見つける。そしてそこにジェッペット(ゼペット)じいさんという
とても貧しいおじいさんが住んでいました。「よーし、人形を作って一儲けするか。」
と言う事で、ジェペットじいさんは、金儲けのために丸太を木の人形にし、ピノッキオ
と名付ける。まず、顔からつくり、そして、目を作ったその時、いきなり両目が動きま
した。この目を見て、ジェペットじいさんは「このくされ目玉。」と、言いました。次
にピノキオは手を作ってもらいました。すると、今度はピノキオがジェペット爺さんの
かつらを取ってしまいました。かつらを取られたジェペット爺さんは、落ち込んで泣い
てしまいました。ピノキオは完成すると、一目散に家から逃げ出し、ジェペット爺さん
はピノキオを家に連れ帰ろうとしますが、ピノキオが必死で抵抗するので、それを見た
警察官はジェペット爺さんがピノキオを虐待していると思い、ジェペット爺さんは逮捕
され牢屋に入れられてしまいます。ピノキオは、一人家に帰りますが、コオロギさんか
ら「ピノキオ君、親の言うことを聞かないと、ろくなことにならないよ。」と、忠告を
受けるのですが、ピノキオは「うるさい!」と、コオロギさんを叩き潰して殺してしま
います。そんなある日、金貨を預かって家に届けるピノキオがきつねと猫に出会います
。「その金貨を何倍にも増やす方法があるんだけどいっしょに行かないかい。」と、誘
われピノキオはまんまとだまされてついて行きます。そして・・・ピノキオは、大きな
樫の木の枝に、つるされてしまい死んでしまったとさ。というのが原作である。「ロゼ
ッタ・ストーン」とは、ヒエログリフ解読の鍵となった石碑のことで、発見したのは、
フランス軍だがロゼッタとは後で薔薇の花を意味もあるが、元来放射状の物を示してい
て、ゼペット爺さんは才神と言う事になる。つまり意味としては原因と言う事になる。



892: 名無しさんAA:18/10/09 23:47
又大工の親方の松の木を譲ったチリエージャさんはサクランボの意味で、サクランボ
は二つで同じ赤い実である。チェリーボーイとは、俗語で幼年を意味する。具体的には
「チェリー(cherry)」は「処女」「処女膜」の意味だ。これは、処女を失った時に出
る血を、サクランボの色に見立てたと考えられているが、日本語での「朱に交われば赤
くなる」の意味で、流行に溺れる者とされる。アメリカの俗語では「童貞」や「初心者
」の隠語だ。また「(品物が)真新しいこと」の意味で用いられる。つまり幼帝(ドイ
ツ)によって見いださたれたユダヤ人がパリの地によって命が吹き込まれた。と言う意
味になる。つまり放射状に整備された都市が原因としている話なのだ。これは他ならぬ
宗教革命によって市民権を得た事の風刺物語と言う事になる。イタリア読みではピノッ
キオは、貧しい老人ジェッペットが松の木切れから作り上げた操り人形であるが、原作
はイタリアの風刺作家コローディ Carlo Collodi(1826〜1890)の代表作で、「ピノキオ
の冒険」(1883)の主人公がピノキオだ。コオロギは昆虫だが。この鳴き声を楽しむ習慣
は日本にもあるが、ギリシャ時代では、これを神の声に擬して神託を得たと言う風習が
ある。日本語でいう「虫の声」である。恐らく出エジプト記に出て来る不作の神託に、
砂漠バッタが食いつくのに使われた時の名残りなのであろう。アリとキリギリスの話も
、恐らくキリギリスとは預言者とされる巫女なりメシアの批判的言い方であり、蟻とは
農奴や農民で、キリギリスとは税を取るバチカンからの命令する者を指した言い回しで
あったのだろう。ここで「コオロギなどの忠告」とはバチカンからの忠告を指している
。一時人形芝居の親方に焼かれそうになった事は、宗教革命に転じたルターなどの聖職
者や領主を意味する。つまり操り人形はいつまでも操り人形であり逃げ出すしかない事
を言っている。又狐と猫にそそのかされるが、日本でも「狐につまされる」「飛んだ女
狐」なんて表現するがこれも英国から来たもので、日本のキツネは神様の使いで、化か
すのはタヌキと言うのが神話時代からの相場だ。実は犬を飼う民族は狐を馬鹿にしない
。食糧や毛皮として価値を知るからだ。しかしフランスやドイツではギリシャの系統で
「人をだます」か「かつぐ(trick) 」と言う意味になる。では猫とは何か。原作では
「盲目山猫(めくらやまねこ)」「跛行の狐(びっこのきつね」が騙しに出て来る。盲目
のキリスト信者の人を指し、山猫は短気者や非合法者を言う。西洋では猫そのものが、
陰口女、意地悪女、狂装男、を指す。又狐は高貴な俗民の総称で不埒な一般庶民の位の
高い者の事である。他人を食いものにする人、詐欺(さぎ)師、名人、達人を意味してい
る。つまり目が字が読めて見えても、非行人間なら首を吊る事になる。と言う話である
。先の30年戦争の絵画ではジャック=カロの『戦争の悲惨』で人が木に吊りさげられ
られるが、これはキリストの戒めの意味で、逆さは死んでも天国に行けないとする物だ

893: 名無しさんAA:18/10/09 23:48
  NEW 悪魔の聖杯 0057   さまよえる経済学    ‐‐‐87    

 ここで編作は、鯨と助けてくれるマグロの話がある。所謂英名ツナなのだが、日本で
缶詰がシーチキンとして出したたからシーチキンとして今や有名である。と多くは説明
される。イタリア語では「トンノ」フランス語で「トン」英語で「トゥーナ」ドイツ語
で「トゥーンフィッシュ」ではあるが、地方でも良く食べられていたようだ。トゥーナ
とは何故かマケドニア人を示すと言われる。ちなみにピノッキオ(Pinocchio)の、ピノ(
Pino)は松である。なおイタリアではジュゼッペ(Giuseppe)の愛称でもある。 と書かれ
ている。ジュゼッぺのまつ林は古くから樹液取りに使われていて 松明(たいまつ)な
どの原料で、更に他の魚油などと混ぜてインクや油絵の原料となる。テレビン油はこう
したマツ属の樹木から分泌される天然樹脂で香料つまり日本の椿油の様な使われ方もや
っていたようだ。テレビン油はマツヤニを水蒸気蒸留して約20%ぐらいのテレビン油が
得られるとされる。蒸留残渣(ざんさ)はロジンやガムロジンとされこれが灯りのもとに
使われたりする。主産地は北アメリカであるが、近年は中国産が急増、そのほか、フラ
ンス、ギリシア、ロシア、スペイン、ポルトガル、インドにも産し、世界の年産額は、
松脂100万〜150万トン、テレビン油20万トンに達したこともあり、精油のなかで最大の
生産量を示している。と言われる。この魚油がクジラの油は有名だが、マグロからもよ
く取れた。とれた油は主に食用か灯明用の油だったらしいが残りは石鹸などを作ったと
言われる。印刷や書類にはこの油は不可欠のものでインクや朱肉として重要だったとい
われる。つまりマグロは書類や本或いは新聞を示し、光明を照らすものとされ知を求め
るに照らし出すものとして書かれていると考えられる。大海に筏で脱出したが海は開国
であり開かれた魔の海に浮いている事を示す。日本語版の小学館の作中の中に、「びっ
このキツネ」「めくらのネコ」という箇所に、「五体満足で利口な主人公を『期待され
る子供像』として描いている反面、他の障害を持つキャラクターを社会の落伍者として
描いていると指摘され問題になったが、それを問題と名古屋在住の四方八洲男の勝手な
差別私観である。童話の中にある大きな意味を吐き違いしている馬鹿者だ。跛行や盲目
は確かに障害の事だが、これは国の擬人化であり、「びっこのキツネ」は流行遅れの、
権力の従者「めくらのネコ」は部分しか言わない女の告げ口、金に盲目の民衆と言った
意味合いである。さてさてキツツキの人形男は大海に出て助かったのか、木に吊るされ
死んだのか。どちらがいいですかみなさん。狐と猫はロックフェラーかロスチャイルド
か。かつらは人の能力、コオロギはイスラムかキリストかはたまたユダヤか?

894: 名無しさんAA:18/10/15 11:03
  NEW 悪魔の聖杯 0057   アルカイムのオーパーツ    ‐‐- -01    
 地球温暖化に関する枠組み条約を発効させたIPCCは、世界中の専門家の科学的知見を
集約している機関で、1988年に世界気象機関(W M O)と国連環境計画(U N E P)によ
って設立された。1990年に発表された第1次評価報告書から数えて、今回が5回目の発表
になる。その報告書は、国際的にもっとも認められた温暖化の科学の報告書で、気候変
動枠組条約などの国際交渉の基礎となるものだった。IPCCの特徴は、報告書の「政策決
定者向けの要約」を作成する際に、100ヶ国以上の 政府が集まって全会一致で承認して
いく手順を経ることです。巨大な会議場で、大きなスクリーンに映し出された要約の一
文ずつを、それぞれの議長が読み上げながら、各国政府の承認を得ていく作業を行なう
。「政策決定者向けの要約」は、多くの科学者のコンセンサスがとれている内容の中で
も特に重要な知見が採択されるものなので、各国政府は それぞれ強調したいところを
要求したり、訂正を求めたりして、要約の完成作業に参加していく形をとる。各国政府
は、自身が一文ずつ承認する過程に参加してつくられた、この「政策決定者向けの要約
」を基に、国連会議の場で、温暖化防止のための国際交渉を行なってゆくので、したが
って、こうした会議では、参加各国から「温暖化の原因」や「影響」などを否定するよ
うな、そもそもの異論が上がることはない。国の政治や経済に大きく関わる、温暖化交
渉の元となる科学の報告書ならではの過程を経ている。といえる。世界が承認した事実
として、このIPCCは「人間活動が引き起こした気候変動について知見を広め、対策に向
けた基盤を築いた。」として、2007年にノーベル賞を受賞した。IPCCの報告書は国連の
気候変動に関する国際会議で大きな影響を持ち、今までに COPと呼ぶ気候変動枠組条約
締約国会合のほとんど全ての合意の中で、IPCCなどによる最新の科学の知見を取り入れ
ることが言及されている。「産業革命前に比べて2度未満の上昇に抑える」ことが決ま
ったのも、このIPCCの報告書に基づいた結果でした。また、今後の国際交渉の予定も、
この報告書の発表時期を明確に意識して立てられています。2013年から2014年にかけて
発表される第5次評価報告書を受けて、2015年に、2020年以降の新しい法的な枠組みを
合意することになっているのもそのためです。ちなみにIPCCの評価報告書は科学をとり
まとめた報告書ですから、IPCCが何かのロードマップや特定の政策・対策を推奨する事
はない。あくまでも科学的な知見を提供することが仕事です。その予測を受けて温暖化
対策を決めていくのは政治の仕事だとしている。

895: 名無しさんAA:18/10/15 11:04
  NEW 悪魔の聖杯 0057   アルカイムのオーパーツ    ‐‐- -02  

 2020年以降の枠組みつくりの交渉はこれからが本番です。その交渉へ向けて、世界の
科学者の多くが同意した科学の知見を提供するIPCCの報告書は、重要な仕事を背負って
発表されていきます。2014年4月7日より、ドイツのベルリンで第3作業部会の会議が開
かれ、「温暖化の政策」をめぐる報告書と、制作者向けの要約が発表されます。今後の
国際交渉の内容にも深く関与するものとして、WWF もその議論の行方を追っています。
そして、最後に「統合報告書」が、2014年9月に デンマークのコペンハーゲンで発表さ
れる予定だった。ちなみにIPCC第5次評価報告書では、このまま地球温暖化が進む
と、今世紀末には地球の平均気温が最大で約4.8℃上昇すると予測している。そうなっ
たら地球はどうなるのか。温暖化パネル No.05 ではこうした数値が 第4次評価報告書
で出てきている。 (1)海水の熱膨張や南極やグリーンランドの氷河が融けて、今世紀
末には海面が最大82p上昇する。今や丘が見え隠れしだした南極や北極の氷が融けて
氷河が海面の上昇させるという影響がでる。 (2)現在絶滅の危機にさらされている生
物は、ますます追い詰められ、さらに絶滅に近づきます。植生の変化や熱帯性伝染病の
拡大が続くと言う。この変化は今の野菜耕作や稲作などの生産すら減らすと思われる。
(3)マラリアなど熱帯性の感染症の発生範囲が広がります。今でも隠れた存在の細菌
やウイルスが見つかっている。日本では少ないものの、微生物の世界は72時間は一生
とされる。早い物は24時間で一代が終わる。更に彼ら雌雄別体ではない。同性体でも
ない。分化生物である。つまりは身を削って分裂繁殖する。今まで人が名を付けた物で
すら2〜5%であろう。と目されていたが、それはとんでもない間違いだったことが、
最近では解っている。2015年ノーベル生理学・医学賞受賞を取った大村智(おおむらさ
とし)氏は天然物化学分野の研究に従事して、アベルメクチンを発見した。それを基に
イベルメクチンの開発に取り組んだ事で賞をもらった。イベルメクチンは抗寄生虫薬と
して活用され、寄生虫感染症の治療法確立に貢献した。だが今や、アベルメクチン以外
にも、生涯にわたり170を超える新たな化学物質を発見している、何故か。それは、
微生物の生産する有用な天然有機化合物の探索研究を45年以上おいかけ、これまでに
480種を超える新規化合物を発見し、それらにより感染症などの予防・撲滅、創薬、
生命現象の解明に貢献しているが、環境が変化すると微生物が変化するからだ。

896: 名無しさんAA:18/10/15 11:04
  NEW 悪魔の聖杯 0057   アルカイムのオーパーツ    ‐‐- -04  

 ところがIPCC環境専門家会議10月特別報告では、とんでもない予想結果が出た
国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)は8日、韓国の仁川で開いた会合で、早
ければ2030年に1.5度の気温上昇が起きるとする特別報告書を発表した。会合に出席し
た科学者は、世界的な気温上昇による危険性が最も広範囲に及んでおり、これが最後の
呼びかけだと話している。気温上昇を摂氏1.5度に抑えることを目標とする印象的な報
告書は、世界は同目標への軌道から完全に外れており、むしろ3度上昇に向かっている
と主張している。産業革命前の水準から1.5度の気温上昇に留めるという望ましい目標
を維持するためには、「迅速で広範囲に及ぶ前例のない変化が、社会のあらゆる側面で
」必要になると報告書は指摘した。報告書は、変化には多大な費用がかかるだろうが、
可能性はまだ残っているとした。3年間の調査と、科学者と政府当局者が韓国で1週間
にわたって開いた協議を経て、IPCCは地球の気温が1.5度上昇した場合の影響に関する
特別報告書を発表した。重要部分を33ページにまとめた政策立案者向けの概要には、
研究で示された結果に忠実であろうとする気象学研究者と、経済や生活水準をより心配
する政治家の代表の間で展開された難しい議論の証が示されている。妥協は避けられな
かったものの、いくつかの重要なメッセージは大きく、明確に示された。ICPPの、
共同議長を務めるジム・スキー教授は、「第1に、気温上昇を摂氏1.5度に抑えること
だ。上昇上限を2度にした場合と比べ、多くの利点が期待できる。かなり重要な点で、
気候変動の影響を大きく減らす。」と述べた。「第2に、もし気温上昇を1.5度に抑え
ようとするなら、前例のない性質の変化が求められる。ということだ。電力システム、
土地管理の方法、交通機関による移動の方法、それぞれに変化が要求される」「科学者
は大文字でこう書きたいかもしれない。『いま行動しろ、ばかども』と。ただ科学者が
それを言うには、事実と数字を一緒に述べる必要がある。」と総会にオブザーバーとし
て出席した環境団体グリーンピースのカイシャ・コソネン氏は話した。「そして科学者
はそれらを持っている。」と、研究者はこれらの事実と数字を使い、人類が引き起こし
た危険な熱を帯びた世界の絵を描いた。


897: 名無しさんAA:18/10/15 11:05
  NEW 悪魔の聖杯 0057   アルカイムのオーパーツ    ‐‐- -05  

 かつて人類は、今世紀中の気温上昇を2度以下に抑えられれば、我々が経験すること
になる変化は対処可能だと考えていた。しかし、もはやそうではなくなった。今回発表
された新しい調査によると、気温が1.5度上昇すれば、人類が地球で暮らせなくなる大
きな危険が生じる。この気温1.5度という「ガードレール」は、2030年までの12年で
超過してしまう可能性がある。上昇を1.5度以下に抑えられる可能性もあるが、それに
は、政府や個人による迅速で大規模な変化が求められる上、世界の国内総生産(GDP
、生産された商品とサービスの総額)のうち約2.5%もの巨額を毎年20年間投資する
必要がある。その上でさらに、機会、木々、植物に空気中から炭素を取り込んでもらい
、地中深くに埋める必要がある。永遠にだ。報告書では、4つの世界的なシステムに、
急速かつ大きな変化を 起こさなければならないとしている。エネルギー、土地利用、
都市、産業の4つだ。しかし、個人が変わることなしに世界は目標を達成できないとも
報告書は付け加えており、下記の内容を呼び掛けている――。肉、牛乳、チーズ、バタ
ーの購入を控え、地元で採れた旬のものを購入し、これらを無駄にしない。電気自動車
を運転する。ただし、短い距離は徒歩で行くか自転車を利用する。飛行機の代わりに、
電車やバスを使う。出張の代わりにビデオ会議を活用する。洗濯物を乾かす際には、回
転式衣類乾燥機でなく物干しを使う。住宅を断熱処理する。消費財すべてに低炭素を求
める。ライフスタイルの変更は、大きな違いを作る可能性があると、IPCCのもう1人の
共同議長デボラ・ロバーツ博士は 語った。「これは個人に対する、非常に力を与える
メッセージだ」と博士は述べた。「これは遠く離れた科学に関する話ではなく、私たち
が生活し、仕事をする場所に関する話だ。そしてこれは、大きな変化に 私たちがどう
貢献できるかを教えてくれている。というのも、私たち全員が関わらなければいけない
ことだからだ。」とも語った。「自分は土地利用をコントロールする力など持っていな
いというかもしれない。しかし自分が食べるものを決める力は持っている。それが土地
利用を決定するのだ。」「都市での移動手段も選べる。もし公共交通機関を使えないの
であれば、公共交通機関という選択肢を与えてくれる政治家に投票すべきだ」2018年の
夏は、どこででも記録的な猛暑が続いている。


898: 名無しさんAA:18/10/15 11:50
  NEW 悪魔の聖杯 0057   アルカイムのオーパーツ    ‐‐- -06  

 今年5月から7月にかけて、観測史に残る気温を記録した都市を地図で示した。「観
測史上、同日の同地点で 最も高い気温を記録した場所」がオレンジ、「観測史上、同
月の同地点で 最も高い気温を記録した」場所が赤、「観測史上、同地点の最高気温を
記録した」場所が茶色の点で示されている。この地図では主要都市や主要部分が殆ど色
がついている。従って既にもう地球温度が異常に高まっているとして警告を出している
。もし地球をこのまま使い続けたい。地上に住みたいと思うなら1.5への取り組みは、
例え過酷であっても今すぐやらなければならない。としている。1.5度に向けた5つの
取り組みとして、 
 1. 2030年までに、全世界での二酸化炭素(CO2)の総排出量は、2010年の水準から
   45%削減する必要がある
 2. 2050年までに、世界の総電力の最大85%を再生可能エネルギーで供給できると
   推計されている
 3. 石炭使用量はゼロ地殻までに削減が期待されている
 4. 発電燃料の調達に必要となる土地面積は、最大で700万平方キロになる計算。
   これはオーストラリアの面積よりやや小さい規模
 5. 2050年までに世界の温暖化ガス総排出量を正味ゼロに
では経費はどのくらいかかるか。それは安くはない。気温上昇を摂氏1.5度に抑えるに
は、2016〜2035年の間に「電力システムに必要な年間平均投資額は約3兆ドル程度(約
三百兆円)」と報告書は推計している。専門家は、この数字を文脈の中でとらえる必要
があると考えている。IPCCでかつて英国の交渉担当を務め、現在世界自然保護基金
(WWF)に所属するスティーブン・コーネリウス博士は「経費と利点を天秤にかけな
ければいけない。」と指摘する。博士は、排出削減は短期的には金銭コストになるが、
CO3の除去を今世紀の後半まで残して進める場合にかかる金額 よりは安く済むとし
ている。又進めなかった場合による環境自然が受ける損害からは40分の1程度ではる
かに安い。としている。「報告書では、気温上昇を1.5度に抑える方が、目標を2度に
するよりは、経済成長が大きいため利点が多数あるとも述べている。さらに、気温上昇
を1.5度に抑えられれば、壊滅的な影響によるリスクは2度の気温上昇よりも低くなる
。」とリスク管理として、必ず1.5度におさめる事を条件に行えばいいと進める。

899: 名無しさんAA:18/10/15 11:50
  NEW 悪魔の聖杯 0057   アルカイムのオーパーツ    ‐‐- -07  

 国連環境計画(UNEP)が2001年2月に発表した報告では、2050年に二酸化炭素の
濃度が2倍になると、繰り返される異常気象や海面上昇による土地の喪失、漁業や農業
への悪影響、水不足などで年間3000億ドル(約35兆円)以上の損害が発生すると予測し
ています。ICPP第3次評価報告書でも、壊滅的な異常気象による世界規模での経済
的損失は、1950年代の年間39億ドルから1990年代の 年間399億ドルへとすでに10.3倍も
増大していると指摘しています。つまり4年間の内に年間損失額が一桁増えて4兆から
40兆円に変わったと言うつまり後5年もすれば400兆の損失となる可能性は大いに
あるのである。こうした損害を補償する保険も、今後保険料が高騰していくでしょう。
こうした大規模で急激な変化の可能性は今後も増えて来ると言う。地球温暖化によって
、それは北大西洋の海洋の大規模な循環が変わり、グリーンランドや南極の氷床が崩壊
し、シベリアなどの永久凍土や沿岸の堆積物から大量の温室効果ガスが放出されるなど
が未だ計算には入っていないからだ、予測できない急激な変化を引き起こす可能性さえ
あります。今や年間3000億ドル(約35兆円)以上の損害が既に出来ている。今回の世界の
地球温暖化問題の専門家らが韓国に集まり、10月に出したこの「将来予測に関する新
しい特別報告書」をまとめでは、かなり厳しい提言である。現状のままでは、2040年頃
に世界の平均気温が産業革命前より1.5度上昇し、異常気象のリスクが高まる。などと
予想した。温暖化ガス削減の強化を世界に求める内容だった。こうした報告書は、ほぼ
6年ごとにまとめられ、国際交渉や各国の政策に大きな影響を与えてきた。この10月の
国連気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の会議は、国連環境計画(UNEP)
が2001年2月に発表した報告の先をいく。2050年に二酸化炭素の濃度が2倍になると、
繰り返される異常気象や海面上昇による土地の喪失、漁業や農業への悪影響、水不足な
どで年間3000億ドル(約35兆円)損害が確実に発生すると予測している。IPCC第3
次評価報告書でも、壊滅的な異常気象による世界規模での経済的損失は、計算上のもの
だが、1950年代の年間39億USドルから1990年代の 年間399億USドルへとすでに10.3倍
も増大していると指摘しています。その為こうした損害を補償する保険も、今後保険料
が高騰していくでしょう。地球温暖化で、今後北大西洋の海洋の大規模な循環が変わり
、グリーンランドや南極の氷床が崩壊し、シベリアなどの永久凍土や沿岸の堆積物から
大量の温室効果ガスが放出された事が現実に発見されるなど、予測できない急激な変化
を引き起こす可能性が確実に多くなってきた。

900: 名無しさんAA:18/10/15 11:51
  NEW 悪魔の聖杯 0057   アルカイムのオーパーツ    ‐‐- -08  

 日本やアメリカ、カナダ、ヨーロッパ、ロシアなどの先進国では、気温の上昇幅が小
さければ悪影響だけでなく、冬季の暖房費用の軽減など好影響もある可能性もあると予
見するが、それは遥かに小さな利益である。また悪影響に対処するだけの技術力も資金
力もあります。しかし、少しの気温の上昇で多くの途上国が正味の経済的損失を被り、
温暖化が進行すればするほど損害も大きくなります。にもかかわらず、途上国にはその
悪影響に備えるだけの力はありません。その結果、地球温暖化の利益を受ける人がいて
も、地球全体では被害を被る人の方が遥かに多くなり世界は混沌とする。恐らく気がつ
いたときには手遅れになるだろう。地球温暖化による気温や水温の上昇、降水量の変化
などによって、自然の生態系は深刻な影響を受け、その中でも人間社会が最も躇著な物
となるだろう。この目に見える変化は、気候が変化した後、数年、数十年、数百年と遅
れて起こる為に手が付けられない。ですから、今大きな変化がないからといって、地球
温暖化の影響は大したことがないと思っていると、取り返しのつかない変化が生じてい
ことになる。例えば海面上昇の影響で、2080年代までに海面水位がたったの40cmしか上
昇しなかった場合であっても、海面上昇がない場合に比べて、毎年高潮により浸水を受
ける人口が世界全体で7500万〜2億人も増加する。しかし人の目や観測には一日0.01 mm
一年でも3cm程度の量だ。これに誰が気付くというのだろうか。もし気付いたとしても
日々の波の高さ、月による潮の満ち引き或いは台風時などの災害の高潮の方がはるかに
高く押し寄せる。これでは住民に説明しても、或いは政府に負担を強いても反対者意見
がより多く集まり、既存のままこれまでの変化のない生活や平穏な生活を望むのがオチ
であろう。つまり言い出しっぺの悪役と言う事になりかねない。またいち早く解る熱帯
、亜熱帯の島嶼国は、標高の低い土地が多いのに加えて経済的に貧しい人々が多く、も
っとも深刻な影響を受けやすいと考えられているが、それでも対策資金はない。海面の
上昇によって、沿岸侵食の拡大、土地や財産の損失、人々の移住、高潮のリスクの増大
、沿岸の自然生態系の減衰、淡水資源への塩水(海水)の浸入が起こり、これらの変化
に対処するための高いコストが生じても、より抜本的対策が建てられない苦境にある。
また観光は多くの島にとって収入及び外貨獲得の重要な源ですが、異常気象の増加など
や海面水位の上昇から より多くの深刻な観光資源の損失に見舞われる。



続きを読む
掲示板に戻る 全部次100 最新50
名前: E-mail(省略可): ID非表示