何でも書こう


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何でも書こう

1: 名無しさんAA:15/02/21 12:29
雑談しましょ

2: 名無しさんAA:15/02/21 12:29
飯塚しね飯塚しね飯塚しね

3: 名無しさんAA:15/02/21 12:30
飯塚しね飯塚しね飯塚しね飯塚しね

4: 名無しさんAA:15/02/26 21:44
ここ何日か糸井さんが何か書いているけど何だろう?
確かにジブリの「風立ちぬ」(2015.02.20放送)を見ながら3行くらい熱い書き込みをしたけど
こう毎日何か言っているのはネットストーカの側が俺に成りすまして
糸井さんとメールのやりとりをしてるんだろうな。(2015.02.26現在)
そのうち糸井さんが「犬ころ」という言葉を使い始めるのも困るし、
ジブリも怒り出して馬鹿げたことを言い出すとそれこそネットストーカの側の思う壺なわけだ。
糸井さんなんかはソーシャル・エンジニアリングくらいは理解してそうなんだけどな。
どうもこのネットストーカ(法人?)はすべてのコンテンツの底を下げたがってるから
なんらかのコンテンツに関わっている人たちだと思うんだけどね。

5: 名無しさんAA:15/02/26 21:45
そういえば富野監督もネットの影響で簡単におかしくなった気配がある。
ZZあたりまでは見ていて、学習型コンピュータとかスペースコロニーとかの概念は出てきたけど
サイバー戦争という概念は出て来なかったと記憶しているけどどうだったんだろう?
というか、サイバー戦争とかいう大仰なものじゃなくて単なるなりすまし、だましに過ぎないんだけどな。

6: 名無しさんAA:15/03/01 09:04 ID:bFY
酔い奴彼(よいどれ)の舟歌04


 報道2001は全くの嘘つき番組になり下がったのだろう。今回空き家問題を取り扱
っている。原田大二郎は自宅を取り壊して金がかかったとある。全くの馬鹿者だ。日本
人はいつからこんなに物の価値を知らない人ばかりになったのか。人が住める風雨に耐
えて社会的暮らしが出来る家がある。これだけでおよそ一億〜5千万の価値がある。こ
の価値や有難さを今や技術の進歩で新築が2千万程度で出来がるので価値を見失いがち
だが本来の世代交代できる国であればそれなりの価値ができるのだ。これを無料開放す
れば関係ないのである。商売気をだして利益をむさぼる不動産売買や、全く機能しない
無知無能な公務員の税金支出権者に任せるから地域が崩壊してしまうのである。近くの
住民で地域に住み親とは距離を置いた生活を要望していてもなかなか想う場所が見当た
らないのが現状なのだ。この東京の馬鹿げた思想が田舎を混乱させているし発展を阻害
させている。更にゴミが片付けられないなどというのに定句のように 物が無い時代に
育って高度成長期に働いて来た年寄りだから仕方が無いなどと言う馬鹿げた話をしてい
る。そうじゃないのだ 本当に価値ある物を捨てて捨てて生きて来たから大事な物がな
く何でも利用しようというゲスのような考えと 片付ける事こそが人間生活の基本だと
言う基本認識が無い いい加減な考えや思い上がりがそこにあるからゴミの山になるの
だ。確かに年を取れば身体が壊れ動かず 口ばっかりのボケ老人が多い だがたいてい
のそうした老人達の周りにいるのは 自分こそが偉いのだと言わんばかりのこの原田氏
に似た奉仕や社会への感謝の無い自分が頑張ったからと勘違いしてる者しかいない。本
来社会へ帰すべき物を力を持っていながら帰そうとはしていない。だからこそこうした
植村君殺害のような事件が起こるのだ。それは議員の群れを見てわかる話であろう。税
の投資にはともかくそこいら利権だらけの投資に必要の無いところばかりであるのだ。
開発が進み既に開発や再開発など必要ない所に工事は集中して あの御嶽山に避難所や
シェルターが無いように必要な所には何も無いままなのだ。本当の価値あるものが必要
なのだが それらが今や次々に破壊され捨てられている今では 次世代には更に混迷の
時代が来る。欲垂れ社会には 平和装いは来ても本当の真の平和は来ない



7: 名無しさんAA:15/03/01 18:32
酔い奴彼(よいどれ)の舟歌05

 実は日本人が馬鹿げていると言うのは こうした2〜3億の価値がるとする物も日本
では全くの無価値で処理され 浮世絵が焼き物の包み紙に利用されたように 古くなっ
た家は次々と朽ち果て壊れる運命のようだ。今日本での一番必要なのはゆとりであるの
は、充分研究実証されている話だが。これは教育のゆとりでなく社会のゆとりだ。これ
は財政的にも時間的にも或いは労働力的にも人的知識にももっとゆとりが必要なのだ。
そうした社会こそが 弱者である子供や老人或いは婦女子や病人の生きる居場所がある
。この事の大事さを知るべきであろう。今回の上村君の死亡事件もニュースは彼を救う
べき時が無かったかを問う。だがそれは間違いである。問題なのは殺した方の18歳の
少年である。高校が今やこうした蛮行生徒を排除すると言う教育放棄で成り立っている
事に大きな問題であるのだ。こうした事は少年世界だけでなく大人の社会も大きくある
。いわゆるパワハラの極致であり虐げられる者のスライド転写と呼ばれる精神世界がそ
こにある。いわゆる公務員の高慢な態度や行動はそのまま教職員の態度でありこうした
中で経済成功者の馬鹿げた体質はそのまま経営者体質を作り今のブラック企業の体質で
あり従業員を床に跪かせたゆする者らの言いがかりを許している体質を作っているのだ
。極めて日常的な崇高な精神世界の崩壊であり かつてサラリーマンの自殺が多くあっ
た現代的様相がそのまま残されていると言える。この事は安倍首相以下国会議員すべて
の今の体質がこの国の形や体質を具現化し現わしているのだ。日本はこんなにつまらな
い国になりさがったのである。これを食い止めなければならないのだが 誰も立ち上が
っていない。それどころか寄付金をそのまま支援金にする議員がいるくらいさびしい政
治や政治家体質なのだ。アメリカでは今オバマ大統領において貧困区の教育を変えて、
底辺の底上げを図り経済立て直しし株価を上昇をさせている。家なき子や浮浪者すらも
無料教育を施すと言うプロミスアカデミーの出現である。人は群れになりやすい。更に
その悪い群れに引き込む力こそ悪者の力である。ここに好い事は真似ないが悪い事は直
ぐに広がると言う人間の愚かさの性格や癖が見て取れる。人は教育しない限り蛮行を行
う。野蛮と言うのはそういう意味で 人の本来の持つ姿なのだ。それを未来ある集団や
協調ある社会性に変える事こそ教育の真の目的である。どんなに学習したとて全ての世
界の知識には及ばないのだから。人の行動抑制の技術こそが教育なのだ


8: 名無しさんAA:15/03/02 03:58
酔い奴彼(よいどれ)の舟歌06

 沖縄県と国が対立している アンカー設置のサンゴ礁破砕問題ではニュースは批判を
繰り返す。だがなぜこんな些細な事が国会の長官質問になるのかが不思議である。もっ
と中国問題やウクライナやアフリカイスラムなど国際的に大きなそして日本に影響を及
ぼし兼ねない問題が多々あるのだがそれらはあまり報道されない。更にはもともとは、
この普天間移設の為の辺野古沖は沖縄翁羽知事自身が進めて来た事業なのである。知事
になる為かその支持母体が中韓人種の為かなった途端に反対を叫び自然破壊を謳いだし
変節の限りを尽くす醜い姿をさらけ出している。そもそも国が行う工事については沖縄
県が誘致なり提言なり申請なりして来たからこそ事業を行っているのであり 仮にその
立ち入り禁止区域のデフェンスを行うべきは危険を判断し反対者を制約させ安全な工事
の遂行を図るべきは地元沖縄県の義務と責任なのである。がこれを国に委託して反対し
その上に中止させようというのは 愚にもつかない蛮行である。憲法違反もはなはだし
い話だ。が国の方も又このアンカー用のコンクリート塊の置き方はあまり感心された事
ではない。サンゴ礁の少ない地域であったとしても砂地に置く事は可能な話であるし、
そもそもがこうした場所に置く工事なのだ。もっと慎重な行動や工事でなければ信用や
安心がない話である。だがニュース報道も間違えているのはサンゴ礁はサンゴの生活場
であってサンゴそのものではないと言う事である。例え壊れたとしてもサンゴ中は近く
で生活できれば又そこに繁殖する。サンゴ礁は昆布のような植物ではない。海の微生物
を食べて自らの住み家をサンゴ礁にしていくワームの一種である動物であると言う事だ
。つまりはサンゴ礁が綺麗だとするのは我々人間のみであり サンゴ礁その物は人間で
言う町の中の いらかの波の風景と同じなのであって そこが住める環境かどうかとい
うのはこうしたコンクリート塊などでは決まらない。少なくとも海水温度海流変化海水
の成分それに害虫となるもの達の繁殖などであって 今のところでは環境省が言うもの
には当らない。問題は空港建設時の影響のシュミレーション状態なのである。


9: 名無しさんAA:15/03/02 04:02
 酔い奴彼(よいどれ)の舟歌03

 官邸ニュースでは 淡々と平成25年4月14日、安倍総理は硫黄島・父島を訪問し
ました。硫黄島に到着した安倍総理は、まず、自衛隊員を激励しました。次に、天山の
硫黄島戦没者の碑で行われた、硫黄島戦没者追悼式に参列しました。続いて、小笠原兵
団司令部壕を視察した後、遺骨の収容現場を視察しました。とある又一般の新聞でも、
安倍総理が硫黄島訪問 日本兵の遺骨収集を視察(04/14 18:20) 安倍総理大臣は、第二
次世界大戦で激戦地となった硫黄島を訪れ、戦死した日本兵の遺骨収集作業の現場など
を視察しました。総理就任後、初めて硫黄島を訪れた安倍総理はまず、戦没者追悼式に
出席し、「悲痛の思いが胸に迫るのを禁じ得ない」と追悼の言葉を述べました。その後
、多くの遺骨が残る現場やレーダーで遺骨を探す作業などを視察し、遺族の代表らから
説明を受けました。とありその後の「いまだに約半数の方々のご遺骨はまだ眠ったまま
であります。なんとかですね、遺骨帰還事業を着実に進めていきたい」とあり 今回の
安倍総理の視察には公明党の山口代表のほか、硫黄島の戦いを率いた栗林陸軍大将の孫
にあたる新藤総務大臣も同行し、激戦の舞台となったすり鉢山なども訪れました。と報
道されて そう特別なニュースとしては取り扱われてはいない。更に英名ペリリュー島
和名硫黄島が最後の激戦地として映画になり硫黄島からの手紙としての流行がてらの政
治行動に見られてしまいがちだが実は大きく違っている。沖縄本島からも本土からも、
グワムからも南鳥島からもそれぞれ1,200 kmから1,300 km程度のほぼ等距離に位置する
という日本からの太平洋の中心位置にある。かつて英霊が激しく闘い捕らわれる恥より
は死を選ぶと言うバンザイクリフがある地であり今だ多くの遺骨は帰路についていない
。この太平洋戦争はいまでは第二世界大戦と呼ばれるのだが もう少し我々日本人は、
そうした英霊が守ったこの国を大切にすべきと考える。今回又集団暴行事件が幼い者を
虐めたイスラム国よりも残虐な形で事件になったが この体質はかつて大正時代までは
全く無かった事だと言う。強い者には決して相手しなく中学生をターゲットにした高校
生の虐めという馬鹿げた形を許容していたのは 結局はその地区の住民の馬鹿な無関与
体質であろう。

10: 名無しさんAA:15/03/02 05:21
酔い奴彼(よいどれ)の舟歌07


 紀元前6世紀に産まれたとするゾロアスター教は拝火教としてアッシリア世界を創り
あげたと言う。この拝火教の精神世界は現代を予言し色濃く今を反映している。日本に
やってきたしめ縄の行事である 相撲や門松はもちろん 鳥葬文化の人の魂が空を行く
とする考えや輪廻の思想はそのまま結界思想や鳥居の文化を日本において築きあげた。
紀元前3世紀のアッシリアのこの人類の宝のの様な50年間も発掘しては研究している
とする遺跡は 博物館に侵入してきたイスラム人によって破壊の限りをつくされたのだ
。これは痛ましい映像である。なるほどムハンマドは偶像崇拝を嫌い破壊を命令した。
だがアラーの掟ではその偶像禁止を解かせた。何故なら彼がまだ未熟な指導者だったか
らだ。この拝火教は一番古い宗教で多神教の中にあったと言える。今では邪神教とされ
る破壊神ヒンズー教やバビロンの階層社会を色濃く残すバラモン教やマニ教的二元論か
らの一神教を創りだしたユダヤ教。更にそれから産みだされたキリスト教や回教という
この日々の挨拶して神に祈れば良いとするイスラム教が出て来た。だがそうした宗教の
非情さを、一新して人よ情けを持ってゆっくり進め明日を持てとしたのが仏教である。
だが日本の古式神道は古来の山岳宗教を極め五行六柱七信をそのまま業じていて天皇を
して産子として 全てを網羅して代表として祈ると言う最新鋭思想に変化していたので
ある。この温故知新的眼からうろこの棚ボタ式輪廻思想はそのまま近代世界を受け入れ
る素地を持っていた。日本でも宗教戦争が無かった訳ではない。朱子学やら道教と共に
仏教が伝来されたとされる聖徳太子の頃は それこそ過去への回帰現象で偶像崇拝の禁
止を唱え多くの木製仏像が燃やされた。夢殿から出た聖徳太子はこの事で 銅で出来た
金属製の大きな奈良の仏像を造ったとも言われている。又戦前には軍国主義に利用され
吉田神道をして奉安殿を北向きに設けるなどの施策まで行われた。今や国旗国歌までも
反対するという 訳のわからない運動家がいるが戦争反対の反戦には国家としての柱で
あるこの平和宗教の排除思想を無くした確固たる論理哲学の完成こそが求められる。


11: 名無しさんAA:15/03/05 17:35
あげ

12: 名無しさんAA:15/03/05 20:37 ID:MCU
酔い奴彼(よいどれ)の舟歌07

 上村君殺害事件は色んな矛盾をはらんで社会を驚愕させている。だがこの事件の本質
は全くこの少年達の問題ではない。まずこうした一人の少年死んだ町では17倍の法則
からすれば17件の同じ事件があると予想され 死に際すれすれの同世代の人間がいる
事と科学的根拠から言われている。更に言えばこうした意味不明の殺人事件を起こす人
がその又17倍居る事になるつまりこのグループは弱い者に強く当ると言う特異な性質
を持っていた事は他と違えども似たり寄ったりの群れが17グループぐらいあると予想
されるのである。私の知る限りそうした境目や一線の見境いのない躾の無い子供がいる
事は町自体が議会や議員或いは町の有力者達はまともではないと言える。よくあるのが
こうした事件のある町では所謂犯罪者が更生したかのようにしたたかに脇前なく権力者
になっていてPTAに限らず行政や裁判或いは警官や教育になりふり構わず勝手な振る
舞いが横行し都市計画やら予算編成などがいい加減な中人々が苦労しながら仕事し税を
払い一般社会の中の経済格差が多い事が殆どである。即ち今後又少年法改正などと声が
上がるだろうが実質的には本来の今までの法律さえ遵守しない大人達が大勢いてその対
処すらなされていない事に問題があるはずだ。事実多くのTV局では何故他の大人達が
救ってやれなかったのか或いはもっと各種相談所なり警察なり親なり先生なりに相談し
声を挙げてくれれば。などと言う意見が聞こえるがそれは間違いである。そうした意見
や苦情が聞ける町の体質であればこうした事件は起こらない。何処の市町村でも少年の
問題はある。だがその対処は全く厳しくすれば更生しないし甘くすればつけ上がり犯罪
の蔓延しかねないのである。ここに人間の教育が学力や学習能力よりは人間としての社
会順応と協調よりは協力姿勢や共和や共生の生活を教えられるかが遠因としてあるのだ
。つまり本質的には議員の知名度や人気度ではない本人を知ってちゃんと選挙をし蟻の
入り込む隙間が無い程正義に徹して 道義の中に生活しているかの問題なのだろう。そ
れがなく 法律や習慣や民衆の勢いや流行や経済につられての生活であればイスラム国
のテロ問題と殆ど同じと言えるのである。


13: 名無しさんAA:15/03/05 20:38
さげ


14: 名無しさんAA:15/03/14 06:52 ID:DYM
酔い奴彼(よいどれ)の舟歌08

 周りの環境を気遣ってこそ豊かな人生を追来る事が出来る。と ブドウ畑の経営者の
カールは語る。NHKEtvの地球ドラマチックの珍鳥八ヶ頭の場面だ。これほどの記
録画像をよくも撮ったものだと感心するが それ以上に自然を大事にする欧州人の頑固
さは日本人が見習うべき物だろう。実は日本が狂った経済に経ち至りこうも景気が持ち
直さない理由はここにある。経済至上主義のごとくに法改正を行った結果が人々を不幸
にして生活をままならないものにしている。更にその事で弱者にしわ寄せをしていても
知らんふりしている事なのだ。今回ドイツのメルケル首相が来日した。多分ロシアとの
協議でのガス代の不払いで起こったウクライナの紛争に対して日本も平和と安定に協力
して金を出せと言う事だろう。まあウクライナの中のルハーンシュクやドネツクをロシ
アが買いその金を日本が北方4島を買う事で代用し平和が訪れるというのなら別だが。
このメルケル女史の来日と共に記者会見で「福島事故があっても日本は何故原発を進め
ようとしているのか。」と質問された。だがこれに安倍氏は明快に「低廉で安定した、
クリーンエネルギーを提供する責任がある。」と答えている。だがTBSの報道などは
これに疑問を示して コメンティター吉永女史は「今や日本人は誰も低廉な安価などと
は思っていないしCO2排出はなくともクリーンで安定的とは思っていない。」などと

15: 名無しさんAA:15/03/14 06:53
思っていないしCO2排出はなくともクリーンで安定的とは思っていない。」などと
答えている。更に沖縄問題では民主党山川氏をして「少なくとも政治は話合いで妥協を
見つける事だから長官が県知事に会わない事がおかしい。」などと嘘と馬鹿を言いぱな
しである。」更に小泉氏の首相退任と同時に「原子力政策が安くて安全で安定している
というのは嘘だ。」と訴えている映像をつけての話である。確かに安全とは言えないと
も言える面はある。だが少なくとも私のみならず安倍氏などは 絶対安全の品物などが
この世に存在しないし 今の科学にまだ未熟ではあっても日本人が愚民ではない限り、
この原子炉のエネルギーは安価で安定した電力を供給してきた実績をもっているのであ
る。更に沖縄の問題は口頭にしろ政府と自治の約束の話であって 計画し約束した本人
が建設しかかって反対しては 契約も話し合いもない品格どころか人格のない話であっ
て 我々は中国人のごとくにその場しのぎで右に話左に行く様な事は違法な行為 卑人
の行為と日本人は知っているのである。明確にドイツ人記者に返答すれば 身を挺して
国を守る姿勢のまま日本は天皇以下国民も敗戦したのであって ドイツの様に全てを、
ナチスやヒットラーのせいにして 国民は関係無かったとはしていない。つまり この
原子力政策を行う事は 巨大で困難で危険な現代科学を扱う事の出来る賢民だからであ
る。

16: 名無しさんAA:15/03/15 08:43 ID:I7.
酔い奴彼(よいどれ)の舟歌08

 しかしまた 何故自分の責任を問わないこうした人達がこうして声を上げれるのかは
はなはだ疑問である。基本的にこの小泉氏や鳩山氏などは国賊以外なにものでもない。
こうした首相として失格の見識ない人々を選んだ党は責任もって裁判すべきである。こ
の原発反対において正に愚民宰相であろうこの人達の任期中こそが福島原発が廃炉すべ
き年だったし 東京電力を審査して炉の停止をさせ廃炉手続きをして発電機の地上置き
の危険性を指摘して原子力委員会が審査し正す唯一の時期だったのだ。どこのなにに於
いても物が古くなり危険性は出て来るそこにメンテナンスなり修理や時代に合わない等
の審査や分析が出て来る。この時期に自ら掲げた私念や私怨の郵政改革やら普天間反対
に眼を捕らわれては この国内事情に目を伏せて口をつぐんだ結果である。この首相達
は自らを悔い改めること無しに 混乱を高める意見ばかりを言うのは犯罪人のやる事で
ある。更に翁長知事に対して面会しない政府に対して 多くの報道が会うべき、或いは
沖縄県民の心と離れるのはまずい結果を産むなどと発言している。がこれは多くの誤り
で沖縄県民が翁長知事の奴隷ではないし 沖縄がこの移設問題に対して米国に大使館級
の事務所開設を行うとした行為は国策妨害罪に当る。つまり国民の給仕とする公務員法
違反である。政府は堂々と沖縄の知事権はく奪と沖縄開発庁長官の代行専任を決めるべ
きだ。小泉氏の自らが責任で起こしたこの放射能事故は一体何ゆえにこの怖さをその昔
は知らなかったと言えるのだろうか。全く当事者や犯罪者がこうした講演をしていいの
か。いつからこんな無責任宰相を日本の議員達や政党は選ぶ様になったのか。政党は自
らの責任でこの3人を裁判にかけるべきである。更に今回有識者会議があって著名人が
村山談話の植民地支配と侵略戦争としている点を肯定している。かの原子力委員会の様
に無知そのものをさらけ出しては 報道も鵜呑みで放映している。本来の歴史事実から
は本当にこの談話はおかしな話である。日本軍は奴隷を持ち人種差別を行う支配地を持
った試しは一度も無いしその為の戦争は起こしていない。つまりは植民地を持った事は
一度足りともないのであるし 侵略という国際法上の犯罪や奪略を犯す事の行為はやっ
てはいない。第一次世界大戦後のパリ条約やベルサユ会議議事録からも全く間違った視
点で現代において日本国家や日本国民を犠牲牛にしようという意図の下の意見だ。更に
問題なのは日本人自身のよく言われる自虐史観である。著名な学者でこれだから馬鹿し
かいないのかと世界から疑われているのは明白であろう。報道ももっと真摯にやれ。
BPOは何している。原発事故同様 無能のままでは済まされない。


17: 名無しさんAA:15/03/15 13:33
 酔い奴彼(よいどれ)の舟歌10

 自称ネットタレント”しんやちょ”なる者が逮捕された。無免許運転をユーチュウブ
で生中継していた為だが その後警察に諭されたのか釈放後の心境に「面白いを追求し
それが勝ってしまいつい善悪の判断を失っていた事があり迷惑をかけました。」と殊勝
な声を寄せてはいた。がこの声は今の経営者群やTV局に言いたい。今やアニメキャラ
クターは花盛りだがその漫画に闘いや死者や死霊の全く出ないのはない。あのアンパン
マンですら闘いがテーマである。その教育的配慮をしたアニメはともかくそれ以外の絵
にスポンサーがいると言うのは恥知らずな事で 特に今の時代に又人気があるとしての
ドラゴンボールやらワンピースなどと言うのは監督権のあった戦後世代の怠慢でしかな
い。その団塊の世代の経営者達のTV局は一方で東京空襲やらの声に「絶対戦争をして
はならない。」「辺野古移転反対」「脱原発」などを掲げているのである。この行為は
昼は地球環境を叫び排気ガス問題を論じながら夜は爆音を轟かして暴走する不良と同じ
である。その昔は「親を大事に」「親が言う事は絶対正義」とした道徳はもう無いに等
しい程国民そのものが良識への見識が少ない。よく年寄りは「老いた者の気持ちは老い
た者しか解らない。」と言う。かつて年金制度や恩給制度に猛反対した年寄りがいた。
「我々は国の為に働き生きたのであって 我々の為に国が働くとはどういう事だ。」と
嘆いたのである。それはJFケネディの言葉の鏡の様な精神であったし それが健常な
考え方であったのであろう。だが今や 国民の権限と責任である税金すら納める事に、
逃れようとする精神がある。これが日本社会しいては国際社会の平和を蝕んでいる事が
何故解らないのだろうか。だがそうした日本でこの苦難の時に安倍首相が組閣したのだ
。しかし彼は多分に間違いを犯している。かつてナチスのヒットラーも一次大戦前まで
は至って良好な好青年であったと言われている。だがその大戦の悲惨さ故にドイツ帝国
の再建を目論みその声が支持されたと言われている。勿論日本人はかつての軍事大国化
は願ってはいない。しかしこうも国際社会とりわけ韓国や中国或いはロシアの強硬姿勢
があがれば 保身の防衛上大国化を目指さずにはいかない。特に中国に対しては米国が
ロシアに呼びかけた様に日本に向けた3千発のミサイルの撤去と2百発の核弾頭の撤去
を呼びかけ公式に発表しなければ 戦後の談話は意味を成さない。





18: 名無しさんAA:15/03/15 18:58
それはJFケネディの言葉の鏡の様な精神であったし それが健常な
考え方であったのであろう。だが今や 国民の権限と責任である税金すら納める事に、
逃れようとする精神がある。これが日本社会しいては国際社会の平和を蝕んでいる事が
何故解らないのだろうか。だがそうした日本でこの苦難の時に安倍首相が組閣したのだ
。しかし彼は多分に間違いを犯している。かつてナチスのヒットラーも一次大戦前まで
は至って良好な好青年であったと言われている。だがその大戦の悲惨さ故にドイツ帝国
の再建を目論みその声が支持されたと言われている。勿論日本人はかつての軍事大国化
は願ってはいない。しかしこうも国際社会とりわけ韓国や中国或いはロシアの強硬姿勢
があがれば 保身の防衛でも大国化を目指さずには いかないだろう。特に中国に対し
ては米国がロシアに呼びかけた様に日本に向けた3千発のミサイルの撤去と2百発の核
弾頭の撤去を呼びかけて公式に弾頭の削減を発表しなければ中国は卑民中の非民であろ
うしそうした民族や国に戦後の談話は意味を成さない。と考えられる。この事を中国や
韓国はよく知るべきだし 暗に批判している親中派や沖縄の反対派もこうした事実に目
をそむけての意見は希望の卓上論でしかない。世の中の現実はそこにあるしそこにしか
人は生きていないのである。どんなにサイバー空間が広がろうとも。


19: 名無しさんAA:15/03/18 05:53 ID:4Uo
話は変わるが 赤とんぼ研究の著名人の福井大学大学院准教授・前園泰徳容疑者(42
)は本当に教え子で東邦大学大学院生・菅原みわさん(25)の首を絞めて殺害したの
だろうか。その後の警察の調べで、前園容疑者は「知人の女性が事故を起こし自宅から
徒歩で助けに行った」と話したものの、雪が積もっていたにも関わらずサンダルを履い
ていたなど不自然な点が多かったことが事件の発覚につながったという。更に自宅の家
宅捜索が行われ、午後2時半前に終了、自宅からはパソコンや段ボール箱、プラスチッ
クケースなどが運び出された。とされるが 助手的役割に家族ぐるみの付き合いならば
別に殺して徳を得る部分は何も無い。私にはそれより気にかかるのは 公けの教育的な
放送に私的なこの助手の話を入れこんだTVのアナウンサーの横槍だ。何も話さない助
手に准教授にわざわざ「奥さんですか」と聞き「いいえ」というのに「更にあまりにも
一緒に居るから」といい「結婚していらっしゃるのですか」とまで聞く 普通に映像の
収録にはあり得ないやり取りがこのTV局内にある これは一体何なのか このTV局
員こそ真犯人ではないのだろうか。と一人推測するのである。


20: 名無しさんAA:15/03/18 06:53
酔い奴彼(よいどれ)の舟歌11

 不思議な事に ロシアのプーチンはクリミア半島の奪還に核兵器も辞さなかった。と
ニュースに出ていた。1000年以上もの間人の土地を踏んでいてやっと平和に地元に
帰す時期に 不謹慎にも争いを起こす事を望んだのである。このボケ老人は半民主的な
強制的な武力背景の選挙を民主的物と勘違いし 国はトップレスのみこそ国の形と思っ
て育ったのだろう。こうした馬鹿者を産まないことが 今後の人類の課題である。あの
忌まわしいナチスのヒットラーすらもボトムアップを知っていたのだが。会わせて中国
は今や妙な動きに徹している。現行の工場や産業の進歩が西側から盗んだ技術で繁栄を
見た。その為に今回中国主導のアジアインフラ投資銀行を設立しようと呼びかけて回る
。これが米国主導のアジア開発銀行と競合する事は間違いない。大変危険な兆候である
。この危険なものにイギリスどころかフランスやドイツも賛意を寄せたと言う。今まで
このアジア地域にも紛争や対立の芽はあったが日本やアメリカはブレトンウッズ体制か
ら以降平和を築く事に徹してきた。各地にあった駐留米軍基地を減らしソ連との核廃絶
の合意を模索しながら経済的にも日米安保の下でアジア地域を太陽系に土星のごとくに
守ってきたその中で中国への投資が行われ発展した。だが今や中国への日本からの投資
は2割以上減り米国からは3割減っている。急激な物価圧力による賃金上昇とその民族
性の悪さから魅力が無く最高期からは恐らく7割程の低下であろう。インフラなどの基
本資産投資の需要は無くなったとはいえ国内的には労働力が溢れながら仕事が無い状況
でかつての先進国の失業状態のおよそ3倍位の状態のまま格差社会が広がった様なもの
だ。そこで海外投資とその労働者輸出を模索しているのだろう。だが知っての通り今や
ギリシア国内で左派政権が出来て 経済破綻に開き直りの姿勢でEUを混乱させている
更にEUからの支援の引き出しに不発とみるや今度はEU離脱とロシアへの結びつきを
模索する状態だ。これが成功すれは多分人類史上大きな不況になる。EUの信用は失墜
をきたしEUそのものが経済破綻する。そしてその投資は一気に共産圏に舞台が移る。
それを容認したのが 今回の中国主導の投資銀行参加である。これは全く人類の未来へ
の建設の大きな障害となる。かつてソ連とドイツが兵器開発に投資しフランスに加工物
資を送らなかった様に今の国際的物流のシステムが破綻させて投資の金融数字のみが踊
る世界を築くだろう。さてさてG’この事が世界大戦の前兆となるのは必須なのだが。。

21: 名無しさんAA:15/03/19 06:58 ID:0Jo
んあーー
なんだ大阪 日本の恥部か・・・
大阪府警は 無能な警官ばかりなのか 不倫で殺人 自治会で殺し合い・・・
なんとも 馬鹿げた話ばかりか 橋下氏もこうした住民ばかりに呆れるばかりか


22: 名無しさんAA:15/03/22 08:23 ID:Aps
 酔い奴彼(よいどれ)の舟歌12

 こうした旧共産国の馬鹿さは トルーマンやルーズベルトの犯した罪でもある。その
為に今でもかつての歴史の地を旅するごとくに事件が起こっている。かつて王家の支配
での闘いの地は今はロシアがEU加盟に傾くウクライナに内紛を持ち込んだ右派に動揺
し左派勢力の後ろ盾となりクリミア半島を軍隊をして奪還した。この罪は今の鳩山氏の
クリミヤの訪問で更に輪を賭けて一層事態を悪くし タタール人殺害を進展させている
。かつて欧州から追いやられたタタール人がこの地に住んだとされるのは 遊牧の徒や
技術の伝承者とされたボヘミヤンが亡国民になった頃と言われる。そして十字軍編成を
してはキリストの聖地としてイスラムの聖地でもあるエルサレムを奪還しようと武力を
もってオスマン帝国に戦いを挑んだ頃とされている。このオスマン帝国が衰退し王家が
軍隊を持った頃からアラビアのローレンスの舞台となるぐらい砂漠の地は戦争や殺戮が
絶えない。今やシリアの混乱やバクダットの崩壊でイスラム国を名乗る過激派の土俵と
なっているが 今回アラブの春の先駆けとなったチュニスで事件が起きた。この地には
古くからそれこそ紀元前のギリシャのミケーネ文化の時代から黒人と白人の相対する中
に居た。従って考え方はキリストでもイスラムでも無い洋風文化の神髄である人間賛歌
の中にあったと言える。西側社会の中心とするフランス建国の思想の自由・平等・博愛
の精神はそのままこの地にも根付いたかとも思われた。よって世界は今回のアラブの春
と呼んだ事も今後に民主主義が根付きチュニージアでその先駆けとなる優等生となり、
他の国がそれを見習う事を望みとしていたのである。第二次世界大戦初期でもこの地の
領土を巡ってドイツがイタリア征服を果たし地中海の制圧に向けてここは砂漠のキツネ
と称されたノンメル将軍がドイツ本国に帰還するまで闘った地で 日本がハワイ急襲す
るまではアメリカは参戦出来ずフランス軍は心もとない兵器で交戦してはいたがその力
たるや弱いものだったが アメリカイギリス参戦と共に物量質共に上がり連合国で初の
勝ち戦を行った。実はこの共同戦線から連合国軍と言う進化を取り学習した事で欧州戦
線でのドイツ軍打破が出来たと学者は多い。チュニージアはその記念的土地とも言われ
る。


23: 名無しさんAA:15/03/22 10:56
 酔い奴彼(よいどれ)の舟歌13

 今や人類は倫理の狭間にいるだろうと思われる。つまり人の生活であれ経済であれ、
或いは経済であれ交通であれ便利の中に人の倫理が埋没してしまった事の復活の兆しが
今や見直されつつある。この中にイスラムの教えがあるのだろう。つまり人類は火を使
いだした時から疑問を探求しそれなりの進化を文明開化と共に進み 今や地球を苦しめ
るまでに大きくなったと言える。そうした中でどんなものでも便利な物は「使うべきか
使わざるべきか」のより良い判断の岐路に立たされると言う事が拠り鮮烈に大きな意味
を持つようになったのだろう。今回のロシアのプーチンの核でも地下鉄サリン事件でも
或いは日本での放火でも少年の殺傷事件でもこれらすべてが倫理の問題である。そして
人間の本能の持つ楽しいだろうがしない。出来るだろうがやらない。という固い強いそ
して深い人類愛への信念が問われるものだ。これは少年のゲーム社会或いは大人が創る
情報化社会の倫理感の欠如した情報システムがもたらす最も危険性の高い社会構造だ。
チュニスで起こった事件も或いは今の日本の原発事故も結局は人や政治が判断した選択
である「しなければならない事をしない。」「出来る事でもしてはならない。」と言う
二つの選択基準の判断の間違いが今を起こしている。その意味でも核は当然廃絶に向か
うべき時にきた。水素社会の出現の期待が出て来たからだ。更にイスラムやキリストの
嗜好化も又同じであろう。今や宗教よりは情緒教育の時代に入ったからだ。更に情報の
規制化と統率も又困難な時に入った。経済も又成熟期に入った今や資本家が投資して来
た利益の為の株価のつり上げも統計学の発達で 勝手な各国の金融家や投機筋の基準か
ら科学的地球の基準に代わりつつある。どんなに基軸通貨としての強いドルでも或いは
思惑の強い元であっても地球市場の法則には強制的に従うしかない状況になりつつある
この法則からも今回来日したオバマ婦人ミシェル女史が始めた「レッツ、ガールズ、
レッスン(思春期の少女教育)」は最も効果的人類救出の方法である。即ち多くの社会
が男性社会として進化してきたが 本来的子孫繁栄では男性に限らず競争心を煽れば、
事は行き詰る。それよりは子育て出来る優しさを女性に家庭の素晴らしさとして発現し
てこそが平和の礎となるのだ。かつてノルマンディ上陸に際して多くの母親は「忘れて
ならないのは出征し貴方が敵として殺し合う相手にも貴方が最愛なる母親という家族が
ある事です。」と綴ったというのである。これこそが平和の祈り真の知恵であろう。




24: 名無しさんAA:15/03/22 11:30
 酔い奴彼(よいどれ)の舟歌14

 国立競技場が解体される。馬鹿げた話である。何故東京都民はこんな馬鹿げた施策を
掲げ進める舛添都知事を産んだのだろうか。池袋が第二副都心として掲げられ再開発の
進展を見ながら渋谷が消滅都市として進む。1965年に渋谷駅西口に出来た「東急プラザ
渋谷」は、渋谷駅周辺の再開発によって3月22日(日)に閉館する。たったの49年の歴史
に幕を下ろすのだ。馬鹿らしいくらい不見識な行為である。1965年「渋谷東急ビル」と
いう名称で開業。事務所、店舗、飲食街を取り入れた複合ビルは当時は珍しかった為か
他の小さな商店を次々に閉店に追い込む中、一時は売上が日本最高の地位を得た事もあ
ったと言う。国立競技場建設も全く人の集団としての規模を考えるべきだ。より大きく
より人を集めれば良いなどと言うのは愚策である。より便利でより斬新なアイデアとい
うのは確かに珍重されるなものだが そうした中で地下鉄サリン事件が起こった。この
事件は誰も止められなかったのは 結局は今回の上村君殺害事件と同じく国民の無関心
から来ている。誰もが今日の少年の事件の狂暴性と異変は気付いているが大人社会の中
では生活の為の経済活動が大事でこの教育の変化に何ら手立てを持たないし犯罪を止め
る術も持たない。其れは今の警察が無能な事と殆ど同じで自分が出来ない事に警察のみ
批判は出来ない。同じ様に東京の地下鉄サリン事件も同様にこの松本が率いたオウムと
いう教団の不気味さは解っていたはずだし 少なくとも弁護士一家が殺害されるに至る
までこの教団はTVに出ていたのである。この事件から20年となった20日、オウム
真理教の後継団体「アレフ」の荒木浩広報部長は東京メトロ霞ケ関駅に献花に訪れ、今
も松本死刑囚の教義を受け継いでいるのは「ワラにもすがる思い」からだと話したとい
う。一体日本人はこの事件から何を学び何を得たのか。政治に共生や救済が持ち込まれ
たか。教育にこの現代病と言える芸術感覚の無さ情緒感覚の無さが解消されたたか。あ
るは生活や経済に時間的ゆとりや体力や学力の偏重を無くしたか 全くより悪くはなっ
ていても良くはなっていない。流行りやカッコよさばかりが目立って進化をしている。



25: 名無しさんAA:15/03/23 05:53
 酔い奴彼(よいどれ)の舟歌15

 そもそも東京は人口集中率という 国の最低保持人口の田舎と東京の一人当たりの今
の占有敷地からして世界の中でずば抜けて高い つまり人口適正配置からは抜きんでて
いる。確かにニューヨークや香港やロンドンパリも高いがそれでも東京に首都がある事
の必要性は全く無い。無いにも関わらず首都移転をしないのは議員の怠慢の為にある。
大体東京都民は甘えている。確かに地方交付税は今や貰ってはいないだろう。だが国の
税金の社会還元或いは 核となる本社企業或いは今流行りのオレオレ詐欺やら何かしら
胡散臭い資金の多くの所在地は関東の東京に起点がある。オウムの様な新興宗教も又、
この東京という地方からの発信である。全く自分達が最新鋭の先端文化の中に居ると言
う自覚が無さ過ぎる。TV局にしても「振り向けば東京放送」などと言われる位の駄作
ばかりを制作しすぎる。東京と言う田舎或いは地方局としてやってきた事が功を奏した
のみで本来ならキー局の本店として本来大きく文化に寄与すべきだが全く規制のみを強
くして全くいい加減な芸人の私的電波ジャックで収まっている所は全く嘆かわしいこと
でこの高給取りの加減ははなはだしくいい加減過ぎるのである。官僚もまたしかりだ。
今の東京の良さと悪さを知っているのか勉強不足で 全くかつての田中議員が魑魅魍魎
と批判しているように 全くすっきりしない制度を次々と打ち出しては 収拾がつかな
いくらいの 不明瞭な法体系である中 よくもまあ首相は我が国は法治国家であるなど
言わしめるのか。まあ中国やロシアなどよりは好いのだろうが今だ人は平和の環境であ
りながら安住の地を安らかに生きてはいないのが現状である。そもそも先行投資の有利
をもってしても湾岸道路冠状8号線をやり変えるに国の予算を強いるという情けない程
の経済状況と言うのは一体何なんだ。更に尖閣問題でも何故尖閣用に寄付を募った石原
氏はその代表として 寄付金用途をはっきりさせないのか。全く北朝鮮問題と同様に、
尻切れトンボで何んとも気味が悪い話である。昨年の訪朝団は一体何を持って今年の春
頃には北は帰還者を発表するだろうと憶測したか。今回は北朝鮮側も組織が違うなどと
した渡航船の交流解が今となっては虚しいものになった。この東京都が或いは東急が何
も考えないで商売として贅沢する姿勢は 日本の馬鹿げた姿勢の一つで全くもっとよく
反省すべきものであろう。


26: 名無しさんAA:15/03/26 08:34 ID:Vlk
 酔い奴彼(よいどれ)の舟歌16

 このところ下部かが不思議な動きをしている。米国では原油安が収束し、住宅需要は
高水準に回復し、ゆっくりした物価高が来て やっと順調な正常値に戻った。が 今に
なって株価は下がり始める。もちろん今までが高すぎる株価で織り込み済みとの見方も
あるがどうも違う要因が高い。又対して中国の上海株価が上昇している。が これも又
不思議な話で 中国内の景気指数は中国政府が発表するほどに良くはない。更に民主化
は当分先送りされた形で今だ汚職の根は枯れていないらしい。それ以前に日本までやっ
てくる大気汚染化学物質は減るどころか倍増して増えて来ている。それに拍車をかける
ようにヨーロッパの企業は中国企業に身売りして止まない。だが人間性のかけらすらな
い政治体制の中国に未来はないと考えた方が自然だろう。かつて有望な競輪選手が3台
もの自転車が壊れて大会退場を余儀なくした場面があったが こうした事は中国社会の
何でもアリの世界ではいつもの事だが 世界にこうした不良品が蔓延して行く事は人類
にはかなり耐えがたき社会にすり替わる事であろう。日本の教育も又同じ様に不良のま
ま蔓延しているのだろう。ピケティの経済学では資本家が儲けてその残りが労働者に達
して世の中が豊かになる。と言うのは妄想に過ぎない。と蔑視している。現代消費社会
の中の資本家の伸び率は労働者の労働所得を超える事はない。従って戦争か革命で社会
システムをこわさない限り不変で、現状では資産家と労働者の貧富の格差は永遠に広が
り続ける。としている事は今のイスラム国問題と一緒でシリアの内戦になった理由でも
ある。つまりは既に資本主義時代は終焉を起こしているのである。そうした中でも今回
教育施設であろう桐蔭学園の裏金問題は陰湿極まりない中にある。これは本来なら文部
省の役員10位は首切り更に大臣は更迭されるべき出来事のはずである。第三者委員会
で解明できたというのは既に文部科学省のような無能の部署の税金は使うなと言う事だ
。この私学助成金までつけたシステムにあって法人税の大きな減免措置までしている中
で汚職なのだ。更にこの事はこの桐蔭学園のみならず多くの私学財団ないし私立学校で
はあってる事だ。入学時に本屋が売る教科書が本屋の領収書で無かったり勝手な学生服
を特約店方式でキックバックしたり試験ペーパーに教員自らが創るべき物を外部委託で
学生から徴収したりと数多くの不正がまかり通っている。桐蔭学園の創始者も教師も、
帰ってこなくなる位の僧侶や刑務所暮らししても 世間は許してはならない位の大罪で
ある。即ちこの消費する資本主義の社会を改善するどころか 終焉を早めたのだから。


27: 名無しさんAA:15/03/26 10:53
 酔い奴彼(よいどれ)の舟歌16


 中国政府が9月3日に行う「抗日戦争勝利70年」の記念式典に安倍首相を招待した
ことが24日、わかった。日本政府は回答を留保しているが、軍事パレードが行われる
ことなどを考慮し、首相は出席しない方向だ。とニュースは伝えている。更には中国が
軍事パレードを実施するのは「戦勝国」の立場をアピールする狙いがあるとみられ、「
日本政府は中国に、国防費の不透明さを改善するよう求めており、首相の出席はあり得
ない」としている。との意見も添えられている。だが世界の歴史を知っている多くの人
は、と言うより全人類はと言ったが正しいかもしれないが 中国のこの傲慢な態度には
腹が立って仕方ないであろう。ミサイルを西側に向けて立て更に軍事費世界一で国連で
は韓国と共にやりたり放題の放言である。国連事務総長が韓国人だからなのであろう。
正確な歴史を知る者にとっては中国の欺瞞満開のままの今の状況は国家犯罪でしかない
。KGの言葉を借りればその事が良く解る。

28: 名無しさんAA:15/03/26 10:54
「米国人の1人として、PRC(中華人民共和国)に戦勝国を自称されると腹が立つ。
米英仏ソ4カ国は、日本やドイツと戦い、多大な犠牲を払って戦勝国になった。ところ
が、中国大陸の国民党軍は非武装の日本人居留民は殺しても、日本軍からは逃げ回った
。同胞の中国人を殺し、日本軍の仕業にしたものも多いという。共産党軍(八路軍)は
散発的なゲリラ戦だけだ。まともに日本軍と戦うことなく中華民国は政治的理由で戦勝
国扱いされた。その後、PRCはロビー活動の巧みさで中華民国を国連から追い出し、
常任理事国の地位を得た。中国4000年の謀略史は侮れない。ところで、ゲリラ組織
だった共産党軍が大戦後に軍隊らしく整備され、国共内戦に勝てた理由が意外と知られ
ていない。中国大陸の日本軍(関東軍)は敗戦で武装解除され、ソ連に全装備を接収さ
れた。ソ連はこの装備を共産党軍に与えたのだ。残留日本人のうち、軍人や医師、看護
婦らが強制連行され、軍事戦略や飛行機の操縦技術、医療などを教えた。これによって
共産党軍は航空隊や砲兵隊、医療班を持つ近代的軍隊になり、国民党軍に勝った。PR
Cは建国時から日本人の世話になり、後に日本のODAと民間投資を得て発展した。と
ころが、今は最大の恩人である日本をプロパガンダで貶め、自然を破壊し、軍事的に脅
かしている。私が、日本人の歴史認識に不満があると言った理由が、ご理解いただけた
だろうか。」と言っている。中華民国の政府軍である国民党軍は先の主席であった周恩
来は国民党軍の実質的大将であったが共産軍の罠にかかって終戦を終えた。この時本来
の中国代表の国民党総督の蒋介石総統は台湾に臨時政府を置いた。アジアにソ連軍を入
れる事を承諾した米国の間違いに翻弄されたのだ。米国がこの間違いに気付いたのは 
日本敗戦から1年は過ぎていてその事が朝鮮戦争を起こしたと言われる。

29: 名無しさんAA:15/03/26 10:54

 こうした間違えさせる行為は 中華人や朝鮮人は非常にうまい。巧みな行為である。
とても真面目な日本人には真似できない。子供用のミルクにメラミンを入れて容量を増
やす。段ボールの中華饅頭をつくる。自分達の慰安婦を日本軍相手だと言い張る。今で
は鉛入りペンキで塗った玩具が売れ 朝鮮人経営の和食店が毒素魚を料理して儲かって
いると言う話だ。どうしてこうも考えが貧困なのだろうか。先の加工食品の話でも同じ
で倫理感が全く無い。こうした国や国民や盛んである程世界は混乱し戦争は増えるのは
歴史上良くある事だ。今のアフガン戦争が終わらない事もイラクやシリアの内戦でも、
今回のボコハラムやイエメンでの混乱も 紛争があれば其処にはほんの数人の中華人や
朝鮮人が大儲けして笑っている姿がある。彼らにはそれがどういう意味と今後の展開を
起こすかがあまり気にならないらしい。今の中国主導部も又同じである。先の不動産の
都市開発は闇雲に出来上がり 今では造ったその場で壊されるビルもある。2回の震災
でも補強した小学校が手抜きと同じような工事で壊れた例もある。ダムを造り水を調整
する。すると今まで以上に水飢饉に襲われている。権力者の横暴がそこに存在するから
で 何の為のダムだったのか何の為に水の調整だったのかと批判される。北京が潤えば
他の農地は干からびて その上に災害まで発生している。出稼ぎが増えれば北京では溢
れた失業者が底を支え 田舎では残された家族が進出企業の公害で不毛の地に変わり、
病気で病院に大行列である。その上で原因不明の難病で死者が多数出ている。まるで、
中世の欧州と同じである。これでは流行り病が蔓延するのは間違いない。スモッグが日
本来るのも当然だが 一体中国政府はこの地球の人類の希望をどう考えているだろうの
か。


30: 名無しさんAA:15/03/27 01:20
 酔い奴彼(よいどれ)の舟歌18

 どうも又世界は間違えた方向に結論を導き出したようだ。世界特に論理思考の狂った
欧米流の結論である。「フランスの山中に、乗客乗員計150人を乗せたドイツの格安
航空会社ジャーマンウィングスの旅客機が墜落した事故について仏検察当局は26日、
副操縦士が「意図的に機体を破壊しようとしたとみられる」と発表した。副操縦士は、
機長を操縦室から閉め出したうえで、機体を急降下させて墜落させた模様だ。と発表さ
れた件だ。操縦士の1人が閉め出されていた可能性は25日から米欧メディアで相次い
で報じられていた。このため、仏当局は26日、急きょ公表に踏み切ったものとみられ
る。」と報じられたものだ。確かに不思議な墜落ではあるが3つの問題がここにある。
一つはこの航路を飛んだパイロット達の情報では 自動操縦に切り替えてこうした降下
をした事がこの航空機には何回かあると言う事実と証言だ。二つ目はこの飛行機の自動
操縦がかねてから欠陥だらけであると言う点である。最先端の技術とプログラムを持っ
ているとは言えそれはほとんど 普通の航行プログラムの上に於いての話である。人間
の間違いに危険を知らせる物なら解るがこの機械はそうなっていない。全て機器の検知
を持ってその方向と操作を自動にしている。従ってこの航空機会社の高度計なり気圧計
なりに異常が発してもそのまま機械的間違った航行を行うのである。この解除が非常に
難解で若いこの飛行士にその余裕があったとは思えない。秒速で進む飛行機にパニック
だった可能性は熟練の飛行士すらある。三っつ目はこの席を外した熟練パイロット入室
が出来なかった点だ。通常パイロットは席を発つのに乗務員を入れる位の余裕の時立て
る事にしている。つまりこの若いパイロット一人と言うのは 格安料金での航行とはい
えあり得ない話である。どう考えても例えば彼が何かのショックや急死しても誰も操縦
桿を操れない事になり 更にテロ対策で自動ロックの部屋になっているのである。降下
して異常ランプや警報音が鳴っている中での作業に必死になっていた。と言うのが真相
であろう。これを早々と若いパイロットのせいだとするのは ドイツ流或いは欧米流の
他人のせいにする性分からであろう。もし問題があるとするならまずはプログラム的も
のや整備の話であるはずで この飛行機の車輪格納が壊れて発着に遅れが生じていた。
と言う証言は 特に気にかかる。彼がテロリストであればそれを証明するかのように他
から声明があるはずだがそれがない。とすればかの青年が自殺志願者とは到底思えない


31: 名無しさんAA:15/03/27 04:13
 更に言えばこの航空会社のしたたかな事は明白である。日本でも同型機を8機予約し
オーダーキャンセルに何んと購入価格と同じ違約金の要求に 格安航空会社は身売りに
転じている。更にこの会見は世界的注目を浴びながら解析した録音記録を音声公表には
至っていない。全くおかしな話で今の時代に音声のコピーなどすぐにでもできるものだ
が其れを公表もせずに 発表し警察の家宅捜査まで至ろうとしている。先の2回も事故
に合ったインドネシアの航空事故も今だ未解明のままだ。これだけの同型機の事故が続
くとしたら もしかしたら外部要因での、勝手なコントロール操作すら考えられる話で
ある。アメリカの全会話の盗聴といい ビックコントロールのデーター処理は今やこの
異常にコンピューターが発達した中では不可能ではない。恐ろしい世の中だから人々は
より慎重な検証と発言が求められる。勝手な声明や速報或いは早どり記事は憶測に過ぎ
ない。911の様に我々がコントロールされる中にあるとしたら より賢明な判断が必
要だ。



32: 名無しさんAA:15/03/29 02:56 ID:JJM
 酔い奴彼(よいどれ)の舟歌19

 近ごろ異様な空気が世界に蔓延している様に思える。日本でも精神科に通う若者が、
殺人事件を起こしたり 仕事に追われた者の飲酒ひき逃げが起きたりと日々起こる事件
が意外にも大きな波紋を起こしている。人は病気や怪我をする事は常にある。だが多く
のシステムがその為の生活保証はあっても その為の対処のシステムを取ってはいない
。それは資本主義が基本的には金儲けを主眼としているからだ。その点共産主義は生産
には技術を持って対処し共生を主眼としていた筈だった。だがソ連崩壊や中国の新共産
主義を見る限りもっとも過酷な最先端とも言うべき人肉すら売り買いする資本主義の中
に没頭していると言える。この何でもアリの新共産主義は911テロ以降イスラム社会
でも同じ様にイスラム教義よりは個々の欲望に基づく狭義偏重で行動しているようだ。
NHKでプロフェッショナルを見ていた友人はしだれ桜の手入れを見ていて「かれらは
プロじゃない。」とつぶやいた。「なぜ」と聞けば「枯れそうな樹木を助けているだけ
で自助を救っていない。創生を手助けしていない。」と言うのである。確かに昔であれ
ば植木屋というのは こうした下手な手入れである 樹木の負荷を無くすなんてしなく
墨石灰を幹の間に埋め込周りの土を耕しては新しい根の負担を軽くした。不思議とその
影響か知らないが死んだような木が生き返った事を度々見た事がある。その幼小時代と
は随分違うがそれでも木々の進化は人ほどでは無いはずだ。だがプロというはそこまで
到達した人達の話であって食べていける金を稼げる人がプロでは無いだろう。そして、
仕事は人を学ばせる。学ぶ事が無ければそれは仕事では無い。只の労働であって仕事で
はない。そしてそれは母親業というものや生きている中の様々な生活の中身そのものが
そうなのだろうと思う。子供から教えられる事のない親は親としての仕事をしていない
といえる。子供の可愛さや子供の大事さ或いはその忙しさを力の糧となる事に仕事とし
ての価値がある。もしそれらに学ぶ事が無かったら多分に子供も殺す様な重労働となる
のであろう。従って今の働く為の保育施設何たらカンタラは全く間違っていると言える
。つまり子育てに経済負担を多く強いることこそおかしいものであると言える。日本で
は もっと経済負担のないコミュニティアニメーションと言う快適な負担の無い共同体
思想が必要だろう。




33: 名無しさんAA:15/03/29 18:16
 酔い奴彼(よいどれ)の舟歌20

 参惨だった去年の消費税増税からやっと持ち直した形で株が上がってきている。だが
基本的には今や円安は行き過ぎ 米国ともども株価に関してはバブルの気配が強い。今
のテロ事件や社会的メンタルストレスはかなり高く 交通機関の事故のみならず事件も
又同じ様な危険性がある。ドイツのルフトハンザ航空の格安版としてジャーマンウイン
グスの飛行機がフランス南東部アルプスに墜落した。このエアバスA320機墜落は、
かなり多くそれだけ売れていたのであろう。だがこの事にはかなり疑問符がつく。大体
航空会社が分社化して格安路線を作ったという意味が今一解らない。ライバル企業達と
のシェア争いでしかない。確かに格安で運行すればシャアは奪えるであろう。がこれの
考え方は中国式や軍事国家の考え方である。同じ会社でその路線を安くする方法もあっ
たはずだ。だが其れをしなく別の格安会社を掲げたのは法が規制する労働環境なり賃金
なり或いは安全規制なりから踏み外す位置で運営するという事に他ならない。即ち法に
触れないまでも常識や人道上或いは独自の幾つかの安全工夫から外れて運行を行うとい
う事に他ならない。この事は、今回のような何の落ち度のない人々が死ぬと言う悲しい
事故が年一回程度あっても構わないという姿勢に他ならない。事実この事故に際しては
かなりに乗務員ないし操縦士の規制を緩くし更にはその対応すらボイスレコーダーの修
復が出来たとしてもその解析結果のみで音声はメディア上に出てない。更にこの操縦士
の資格や通院歴すらも追っていない上に 首相総出で対応といち早い家宅捜査である。
ちょっと不思議な上に メディア特にアメリカのマードック系報道の早走りの速報であ
るこれは911同様に 大きな力の何かを目をそらさせる為の陰謀としか思えないのだ
。大変危険な報道とこの衝撃的内容である。こうした事は一例に過ぎない。近ごろ欧州
社会はどうも我儘にも人類危機に無頓着で市場や世間に折れた政治で混乱させたがって
いる。全くもって不可解な事に旧共産圏との付き合い方も度を越した中にいる。情報は
情報で進化や友好は友好で良いがやるべき規制は規制するべき問題である。この問題と
大塚家具の内紛などは全く同質のものだ。即ち理路整然と世間を味方につけた新世代や
現代人の在り方と言葉は少なくてあまり整理はされてないもののその技能や経営手腕や
或いは感覚的手法の確かさは真似できない力を持つ。が如可んせん人は老い老齢の体力
には敵う事は出来ない。ここに悪魔の囁きがある。

34: 名無しさんAA:15/03/29 18:16
株の上昇と同じで現代の便利さの中
の収益やら安定には利益が無いのである。他も同様となれば必ず低価格の者が出ては、
その市場や世間を困らせるのだ。其処に株価の変動やシェア争いの発端がある。本来は
必要無い争いなのだが 自然発生的にそれは行われる。その意味では年功序列は平和の
使者たる 素晴らしいものだったし それによって全体の均衡と地域の成長が促進され
たのである。が今や成果主義と言う訳のわからないものが導入された。今回の飛行機の
事故に見る様に成果とは何かと言えば安全に運ぶ事であり 安価でより利益のある運行
ではない。そこに違いがある。即ち社会の持つ使命を捨てたこの行動は 全く不安定な
人格を作りだし結局は死人には何も問えないはずだし 死人のせいに押し付ける事も又
可能にしてしまう。これらは一体何処に起因があるかと言えば公共事業の贅沢さの中に
ある。公務員の給与の高さやその能力の低さ或いは 頻雑に複雑な会計処理や人事指令
の系統や書類の審査や検査の基準だ。これは原子力事故でも行われ 東京電力の権力の
下に法律が廃炉から改修作業による延長運転が決められた事は 誰もが知っている筈だ
。こうした根拠の無い法律の力を議員達があまりにも多く作り上げてしまっているのだ
。そして過去の正確な記録を残す体制は今だ残っていない。戦争の悲惨さはその記録が
散逸もしくは紛失している事のはずだが日本では全く同じに この平和時にも残されて
いないのだ。さらに今回の安倍氏はやりすぎであり 政府内の増収予定は全く逸脱して
傲慢である。高級官僚の傲慢さがそこに出ている。今や庶民の足の軽自動車の それも
貧民の愛する中古車まで税金を上げるのである。これでは政治ではない。そもそも政治
とは政る治めるという集団を統合する処置でその為の法を制定し其処に議員の行動指針
なり発言指針として自由と平等と自身の身体財産権を決めて事を進め国体を維持すると
決めているのである。


35: 名無しさんAA:15/03/29 18:46
しかしまた こうした詐欺的行為が如何に多い事か。憲法にして鬼々怪々なものだが、
今や電話ゲームから民間に変わったNTTまでもが今や詐欺師みたいな事をやっている
のは嘆かわしいものだ。事実各社に新しい電話リースの電話はNTTの情報漏えいが大
元で在る事は明らかだ。更に私事では最近たったの3ヶ月の滞納で電話番号が無くなっ
てしまった。確かに振り込みしなかったのは悪いが これだけオレオレ詐欺など情報の
機器がある中で 個人の持つ電話番号の大切さは 他の電話会社との移り変えすらも、
サービスとして認識している筈だが その対策も何もなっていない。これが使っている
電話で在ったのなら直ぐにでも解ったのだが 年末から年度末にかけて忙しいのは世の
常で在る筈で 幾ら手紙送った連絡したとは言っても会社側の言い訳にすぎず 滞納で
直ぐに出ていけと家具を処分する言うアパートはないはずだ。次の月に全額払えばその
ままと言うのが通常の常識でこれが半年や一年というなら話は解る。とびとびで払って
いて累計3ッ月の滞納と言うのは 各家庭の事情も考えてはかなりの苦痛である。更に
過去には銀行振り込みを利用していた経緯からは 柳川高校ともども金だけは取る生徒
は入室させないという何んともおかしな経営状態でこのNTTも同じで回線は不通のま
まで 金はきっちり解約金まで請求すると言う違法性だ。全くいつからこうした自分達
の都合のいい約款がまかり通るようにしたのか 政府はもっと考えるべきだ。かつての
大手の保険会社と同様にちょっとした不都合や使用者の無知にあてこんで保険金を払わ
なった様に 利益のみでとても公益を守るべき会社或いは法人とは言えないものは多い
。又その為に定めただろう電波法や各省庁は全くそうしたものの違法性を認識していな
い。労働法でもおなじで 今回いろんな言い訳をして新法を進めているが まずは今の
形態での取り締まりすらしていない状態だ。更に今を変える混乱と新法で起こる大きな
障壁を全く考えていない 馬鹿法案ばかりが可決している。これでは安倍氏の人気も又
小泉氏同様に 日本を悪くする為に首相の席に座ったようなものだ。まずはコンセンサ
ス以前にディテールを見せるべきで それのシュミレーションを公示すべきだ。民主党
のような 何も知恵も実力もなく出来ないのに任せてくれでは困るのだ。



36: 名無しさんAA:15/03/31 21:43 ID:hDU
  酔い奴彼(よいどれ)の舟歌21

 今だ世界はこの醜悪な韓国や北朝鮮や中国のやり方に 目覚めていないらしい。英国
が中国のアジアインフラ投資銀行を創設するという呼びかけにいち早く賛同したおかげ
で今や欧州の先進国が次々と加盟を申し出ている。

37: 名無しさんAA:15/03/31 21:44
が中国のアジアインフラ投資銀行を創設するという呼びかけにいち早く賛同したおかげ
で今や欧州の先進国が次々と加盟を申し出ている。全くどうしてそうも戦争に近づける
のか。大体英国は 江戸時代以前からアジア進出に対して常にアジアを危険の淵に陥れ
ようと動いている。東インド会社も奴隷貿易を扇動し 清との海戦もアジアでの第一次
大戦のきっかけを作った。香港返還でも間違えて中国の覇権の元になったし その後の
中国元の取り扱いは生体の人体模型を進める事になった。つまりは国家犯罪という中国
の悪態をどうしてそそのかすのだろうか。アジアを見るに好いニュースが今回韓国での
駐韓米大使の殺傷事件だ。知っての通り マーク・リッパート駐韓米国大使が、ソウル
市内で開催された朝食会に出席中、刃物で襲われて顔や腕などを負傷したのだが、この
韓国人テロリストは、その場で取り押さえられたが 驚くほど稚拙で幼稚な行動原理に
基づく行動だ。 韓国マスコミは「親北朝鮮主義者による凶行」として宣伝し片付けよ
うとしやっきになっているが、犯行の動機や組織的背景以上にその韓国民の常習態化し
た姿勢を、論じるべきだと考える。実行犯とされる政治団体の代表の、金基宗容疑者は
既に前科6犯の凶悪犯である。2010年には駐韓日本大使にコンクリート片を投げつ
けた容疑で逮捕され、懲役2年、執行猶予3年の有罪判決を受けている。彼は既にテロ
の前科者で、顔も名前も有名な「活動家」だったのだ。ところが、前の事件後でも韓国
のマスコミは反日の幟を立てて論評し、彼を「英雄」のように扱ったのだ。キム容疑者
は、先の日本大使を襲ったおかげで反日活動家として国家的英雄になった。本を出版し
ても有名になり、支援者も増えたのだ。その空気は全く意味不明な親朝派であった伊藤
博文を襲い 韓国の国家危機の窮地に追い込んだ筈のテロリスト安重根を記念した空気
にある。「次は米大使を襲えばもっと英雄になれる!」とでも考えたのだろう。「第2
の安重根(アン・ジュングン)」として後世に名前を残せる可能性すらあるとの確信か
らだ。韓国世論に存在する「目的が正しければ暴力やウソも容認する」という風潮の中
では、彼が妄想を膨らませこうした行動を取ったとしてもおかしくない。米国人は正確
にあきれると同時に、「韓国はまだ一人前ではない」と、在韓米軍の必要性を再認識し
た。米国世論は同時にアジアの混乱した特定アジアの体質を深く学んだはずだがどうも
この欧州世論は そういう事より以上に 欲深く商売上の中国市場の方が垂涎の的らし
い。それは今のルーマニアの2分し紛争する国民の意識を持たせた原因と全く同じで、
論理の果ての現実である。こうした欺瞞のヨーロッパはもっと世界の安全を考えて行動
すべきなのである。



38: 名無しさんAA:15/04/01 04:07
 こうした 韓国のみならず 特定アジアの世論に存在する「目的が正しければ暴力や
ウソも容認する」という風潮は 人を狂わしたとしても不思議ではない。今のISIS
のイスラム国建国の思想や吹き荒れたアラブの春と呼ばれ世界秩序を破壊した考え方と
全く同じだ。このキムが拘束されてパトカーに乗る直前に「戦争反対」と叫んだらしい
。自らをペテン師にふさわしい言葉とも取れるが 戦争反対や平和を叫ぶ人間に限って
暴力的であるという奇妙な法則は、厳格なイスラム教国を作るというあの自らをカリフ
だ宣言したバクダディや自由の使徒となるとしたブッシュ大統領らも全く同じだ。この
単純な自己矛盾になぜ気が付かないのか不思議でならないのは 通常の良識人であるが
この良識ある者が 暴力に迫害に或いは愛国心に追われて彼らを指導者と仰ぐのだから
全くどうかしている。このどうかしている時や人が通常の国は1・2割に留まるのだが
およそ8割の上8割の日常に介在しているのがこの3つの国だ。国内事情を鑑みても、
例えば朴久恵大統領も 母親は銃弾に撃たれ父親は政治的野心家に倒れた。本人も遊説
中のなかで顔を切りつけられているはずだ。それでも今回の様に警備は手薄の上凶悪な
狂った行為を褒めるような法律や行事を推し進めているのである。これはナチスと同じ
と言える。中国も同様で 今回の経済的投資を言えば 国内で作ったばかりの建物の崩
壊が一体どれほどあるのか 或いは高速鉄道網も敷いては居てもその危険性の高さは、
他の国の鉄道どころではない。それでも韓国同様に大々的に成功宣伝して営業活動する
のである。クアラルンプールにあるペトロナスツインタワーは観光名所として有名で、
タワー1を日本のハザマが、韓国のサムスン物産建設部門がタワー2を建設したという
事で有名だが、それにまつわる噂はサムスンが丸々物真似で作り技量の無い為色々な、
クレームが付き入居者は少なく傾きだして ハザマの建物によりかかっていると言う話
である。だがそうした技量が未熟な事は批判すべきものではない。問題はその技量のな
い上にあるように見せかける技術の高さで国家ぐるみのペテンと言える。今回の中国も
自らが先進国と肩を並べようと言うなら まずは日本からのODA援助は打ち切り更に
国連支出金を今の10倍は払うべきである。更に国連の常任理事国として母国に正義を
持ち帰り広めるべきであるし、ソ連にもその正義を持ちかけて世界を豊かなものにすべ
き時に来ている。今の様な資源の無駄遣いを 人は見過ごしても地球自身自然現象が許
さないのだ。中国の衰退に引きずられて 人類が破綻や破滅に向かう事は避けたいもの
だ。

39: 名無しさんAA:15/04/02 03:09 ID:Z0I
 酔い奴彼(よいどれ)の舟歌22

 セクシャルマイノリティが 渋谷区で容認して証明書を発行すると言う。しかしこれ
は全く異常な事だ。世界的にこの倒覚性を正当化している風潮があるが これは自然の
摂理として間違った答えでありバイセクシュアルなりセクシュアルハラスメントなりが
世界の平和を痛めている事は周知の事実である。この差別主義者と同性愛者は異常愛の
変態でしかない。又これは病気ではなく単なる自律神経の失調であり身体に不調や病気
的治療は必要であっても 決して病気などではなく只の自分を規制すべき意識が希薄で
あるだけだ。オウム真理教の重要な信者達が今裁判されて死刑や無期懲役の判決が下さ
れているがこれこそが端的な バイセクの位置にある。そもそもが人は寄り添って生活
するように出来ていてその為に社会がある。認可保育園や認証保育園など待機児童無し
を掲げる理由もそこにある。がそこに東京都はいかがわしい卑劣なポイント制などとい
う違法行為を持ち込んで来た。行政上の混乱を思えば職員の能力負担減で楽なシステム
であろう。しかし平等の権利からして異常な極めて違法な逸脱した行為であるのは明ら
かなことだ。今回の同性愛者に様々なサービスの不認可に一定の歯止めとなる様に公認
カード発行するというのだがだがその思想自体がおかしく 男と女で子供が産まれ育つ
原理は今も昔もこれからも変わらない。もし同性愛者が子供が欲しいとなれば人身売買
の市場が育ち今でも全国に行くえ不明者が急増している中でより以上の低年齢者の危険
が増えると言う事になる。こうした犯罪に加担する条例を作る事自体が議員犯罪と言え
る。この犯罪をそそのかす法令に進んで賛成するという社民党など議員資格のない悪魔
の党と言えよう。差別の無い社会や平等な暮らし或いは平和な暮らしを望むのならその
異常な社会は違法行為として常識を覆してはならない。こうした認識違いの者は否定も
肯定もしてはならない。肯定するから差別が広がり否定するからハラスメントの源とな
る優位性の中の暴力発言が出来るのである。全く東京という都会人の世界は何を考えて
いるのか 母親の愛情と子供の教育という育児は人の社会の豊かさに大きく関与してい
る 託児所問題は只の親の働く都合の問題でこうした事の整備が今の冷たい社会性を産
んでいる事は 過去からの記録から事実となっている。もっと隣人を信じれる人間を育
て もっと隣人を愛せる社会にする工夫が必要だろう。その意味でも狂っている条例は
現行法で叩き取り除かねばならない。そして現行の会社組織内の犯罪強要の姿勢をもっ
と問わねばならない。

40: 名無しさんAA:15/04/03 08:47 ID:rW.
 そうした隣人愛人類愛を倒覚した狂った知見で許容を見せるのは大きく間違いである
。かつて911テロ以降に米国長官は「イラクは米軍によって自由になった。人を殺せ
自爆する自由まで手に入れた。」と笑った。全く合点の行かない米国の表情の一面であ
る。日本人は欧米社会を先進国と呼んでいる。確かに先進国に違いは無いが 思想的面
或いは文化的側面においてあらゆる面で先に進んでいる訳ではない。又先に進んでいた
としても其れが好い物とは限らない。更に言えばイスラム教も又同じでこの同性愛患者
達は恐らくは狂信者と同じ位置に居る事は良く理解すべきだ。翁長知事が「少しでも、
沖縄の民意と言う物を理解してもらいたい。」「日本の防衛は日本全体で考えて貰いた
い。」と言ったが この言葉こそ民意を反映していないし 今までの日本全体から結果
として最前線基地として沖縄の嘉手納基地がある事を理解していない馬鹿げた発言だ。
 沖縄の危険削減と沖縄の地理的防衛拠点と言う事を両立させる為に作る飛行場建設に
反対する事の根拠を全く示さず。意志や会話で戦争は起こらないとするのは虚言愚行の
極致でそこいらの神社で寒いからと家の下で木床に於いて焚火し放火魔となっている、
朝鮮人や中国人と同じだ。その意識が朝鮮や中国の石作りの床で育った環境のみの感覚
で行動している考えない聞き入れない馬鹿なのだ。そうした馬鹿を知事に仰ぎ反対する
のは イスラム国万歳を叫び受け入れては人身売買を復活させ奴隷制を敷きサッカーす
る少年すら撃ち殺す厳格なイスラムにアメリカ軍に助けを求めた住民と全く同じだ。又
今の多くの自爆テロで死んでいった人々も 実はフセイン打倒を叫んで米軍にイラク侵
攻を提言するイラク民を恨み呪い死んでいったと言えるが その変節の民の意見と全く
同一の風見鶏の馬鹿意見である。こうした民こそが反対のみ叫び建設的意見が無い為未
来志向がない考える事を止めた民で 軍国主義ともなればいち早く残虐的に暴行を押し
進めるのである。それが言わずもがな 特定アジアの国々の民の思想と同じなのは今の
言動でも解り得る。ちょっと前まで或いは日本のODA支援以前の国の姿がどうあった
かも解らず抗日戦線の悪意あるTVを放映し続けミサイルを常に待機させ 自国の劣悪
製品を顧みず日本品ボイコットないし官営デモで暴動を起こして全く反省しないままに
今度は世界銀行設立に向かうと言うのである。この笑い話が笑い話にならないのは欧州
が簡単にこうした話に乗っては戦争を挑発させる行為に出るからでブラックジョークが
そのままブラックストーリーに向かうのだ。



41: 名無しさんAA:15/04/03 21:16
  酔い奴彼(よいどれ)の舟歌22

 私が中学校の頃 国語の本にはコンティキ号漂流記と言う物があったが それは掘江
青年の太平洋横断に触発されての事だったのだろう。その頃はまだ沖縄は日本に帰属し
たばかりで 日本国内では赤軍派事件や三井物産ビル爆破事件など かなり精力的時代
でアメリカにもヒッピーブームやイギリスでのビートルズやローリングストーンなどが
世界中で売れてベトナム戦争と共に新しい秩序を模索する時期だったのだろう。そうし
た事も知らずに只なんとなく聞いていたこの漂流記を検索するとかなり大胆な実験で、
この一身を賭けた航行は かつての飛行機で大西洋横断を果たしたリンドバーグ並みの
度胸があったようだ。記述によると1947年、ヘイエルダールとそのチームは、南米のバ
ルサ材およびその他の地元の材料を用い、インカ時代の船を模したコンティキ号を建造
し、ペルーからイースター島への航海に挑戦した。巨石文化がインカ帝国から海を渡っ
てイースター島に伝えられ、同島に残るモアイ像が作られたことを実証しようとしたの
である。コンティキの名はインカ帝国の太陽神ビラコチャの別名。いかだはインカ帝国
を征服した当時のスペイン人たちが描いた図面を元に設計されたという。コンティキ号
は1947年4月28日に5人の仲間と1羽のオウムと共に出航し 曳航船によってフンボルト
海流を越えた後は漂流しながらイースター島を目指した。出港から102日後の1947年8月
7日にツアモツ諸島のラロイア環礁で座礁したが その後彼らの航海を描いた 長編ドキ
ュメンタリー映画『Kon-Tiki』は、1951年のアカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞
を受賞していると言う。だがこのチチカカ湖製のバルサ材を使った筏は成功した。その
理由が急いだあまりによく乾かさず使った為と言うのである。だがこの人の偉いのは、
ノルウェーの人類学者、海洋生物学者、探検家。として筏(いかだ)船のコンティキ号
でペルーのカヤオ港から南太平洋のツアモツ島まで4,300マイル(8千km弱)の航海を行
ったことだけではない。その後南米文化とエジプト文化に類似点が多いとしてパピルス
船を建造して70年に、古代エジプトの復元船した「ラー2世号」による大西洋横断を
実験し又成功したのだ。実はこの頃大きな論議があってエジプトミイラからニコチンと
コカインの成分が検出されたとの発表がなされ 共にアメリカ若しくは南米原産とされ
るものであったから相互に交易するルートがあったのではないかと推測された論文があ
ったことからである。堀江氏と共にフロンティア精神に満ちた人生の人達だったのだろ


42: 名無しさんAA:15/04/03 22:57
実は こうした冒険物語を思いだした訳には ちょっとした理由がある。と言うより
今ちょっとした異変が日本人の心境に起こって居る様に思えるからだ。今回年間一千万
所得とは言え時間労働から無制限長時間労働に政府が許可を出した。これに法案が通れ
ばいよいよもって日本人の労働制限法が骨抜きになり海外の大きな会社の子会社化国民
奴隷化が進む事になるのは必須である。この恐ろしくおぞましい現実社会に今や眼を覚
ましつつあると言える。江戸期以来日本人は豊かな国・孤高の平和国家・国際社会の中
に共存した仏教神道の共生共産社会を目指してしたのであろう。戦前からモンゴロイド
の特徴としての情緒や情理に厚かった集団生態があったのであろう。黒船以来自立する
国を基いとしてやってきた。狩猟民族とされるアングロサクソン系に対して農業漁業の
農耕民族とする大和系の日本国民の多くはその攻撃性よりは村の守りを主眼とし、有名
な「甲陽軍鑑」の「人は城、人は石垣、人は堀 情けは味方、仇は敵なり」と言うのは
誰もが持っていた世界感であったろう。不思議にも世界の今の状態はその究極を示して
いる。確かにアルカイダやオサマビンラディンの起こした911の衝撃は米国民には 
大きなものであったろう。がその後のアフガニスタンやイラクの多くの死んでいった民
は只の市民で 彼らを応援していた訳でも世界平和を憎しとして生きていた訳でもない
。言わばイスラエルの起こした占領地紛争に中東戦争がキリスト教対イスラム教の構図
で言えば西洋各国にとっては敵対する宗教の民なのかもしれない。がこれに今まで日本
は敗戦を尻目に積極的な関わり合いには少し間を置き出来れば絶った形で今に至って来
たように思える。それが今の日本の若者が震災以降にどうやら考え方が変わって来たと
も取れる。いろんな国の色んな考え方を丁寧には無くとも ありのままに受け入れては
かつての日本の姿と合わせて比較検討し自らに先に進んで行こうと言う戦後世代の気風
が現れて来た様に見えるからだ。事実スポーツ界ではそうしたトライワールド的な選手
が姿が見えだした。今の団塊の世代に他を蹴落とし競争の上で駆け上がった経営者の質
と違って ずっと良識的なそして地場の自分の中を固めた質実剛健的な自己主義派が育
ちずっと賢く幸せに生きると言う「散る桜残る桜も散る桜」「住めば都」などを地で行
く人生観が ある種人を感動させて自らも力をつけているような そうした風が吹き始
めたようだ。そうした中で今度の労働時間の問題はその気負いをなえさせ 全くふがい
ない様な無様な法案をよくぞ残せるものだと怒りたくなる。今後の国際化に壁にはなっ
ても決して好い結果を産まないのは 全く解りきった話しだ ガラパゴスの遺物であろ
う。


43: 名無しさんAA:15/04/05 11:03 ID:MCU
  酔い奴彼(よいどれ)の舟歌22

 統一地方選があっていると言う。だがこの全国道府県の選挙は全く振るわない。自民
党ショックが続いているからだ。民主党で手痛い羽目に陥った日本国民は決して民主党
は信じないであろう。と言うより民主党が社民党よりの発言をするたびに国民は離れて
行くに違いない。更にその民主党の党首であった小沢や鳩山が今でも人気を呼び戻そう
と外交なり外遊なりちょぼちょぼとTVニュースになっている。即ち55年体制と言わ
れた対立軸を例え間違っていたとしても人心を誘いもう一度創ろうと言う夢である。が
人々は今やどんないい話であろうとも是々非々で物事を観る目を養ったようだ。従って
自民党政権とは言え誰も今の政権を応援してはいない。批判もしない代わりに賛成も反
対もない無風状態のままで議員個々の人間性なり性格なり行動なりを見ていると言った
方が正しいと見える。今日にも翁長知事と菅官房長官が会談をする。だがこれは馬鹿げ
た事を言う不良と補導や指導する警官が会う様なもので全く実りのないものであろう。
そもそも 翁長知事はこの日の会談は全く間違っていて 戦後60年の節目で沖縄戦を
戦った英霊に鎮魂を捧げるべき日を 今日の政治闘争の果ての会談で人気取りの日に設
定した事は 沖縄県民ならずとも敗戦の英霊を祖先にもつ日本国民が許せない話である
。沖縄返還に向けて密約があったなどと言う馬鹿げたTV局に説明しても無駄かもしれ
ないが 米国憲法は米国民の為の憲法と米国軍人の為の法律が並行してある。従って、
議会が決めた国民意志と同様に大統領令の下に動く米国軍がいるのである。裁判はもと
より行動規範も武器携行や特許解放の実情も違っていてだからこそ一般人と軍人との区
別をする考え方を持っているのである。つまり逆に言えば日本のポツダム宣言受諾も、
沖縄返還も大統領や議会との調印だけでは日本に帰っては来なかったと言える。つまり
CHQ若しくはペンタゴンの支配者である軍事の長官との契約は不可欠だったのである
。これをメディアが見せられないから密約と言えば 軍事は全てが密約となるのだ。こ
の考え方には私は異論がある。公けの文書さえも政府系の高官では極秘文書がある中で
軍事に秘密がある事は当然でこうして年月と共に公開されるものが密約とは言えないで
あろう。国民を詐欺ているならともかく今の翁長知事のような変節はしていなく、昔も
今でも 日米安保は生きている中にあるのである。



44: 名無しさんAA:15/04/05 11:53
地球神教 狭義  01

 我々は今 大きな疑問の中にある。E=mC2 と言うアインシュタインの相対性原理
とシュレーディンガー方程式が問う量子力学との関係が何故だか11次元の超弦理論で
統一されるかという話である。シュレーディンガーの猫はかなりの意味で人をまやかす
。箱の中に二匹の猫を入れる。そして放射能と放射能に感知する青酸ガスの放出器を置
く。すると箱の中を開けて覗いた時の状態は確率でしか表わせず 猫の生死は確率的に
のみ決定する。と言う話だが、シュレーディンガー方程式は、この原子の位置を一定の
範囲に広がった確率分布(波動関数)として与えるが、観測されると、ある位置にある
ことが確定しても その実験で見える物は一匹の猫で二匹の猫は見えない。この実験で
猫の生死を決定するアルファ粒子も同様である。こうした量子力学の量子論は確率分布
の法則をつきつめてその状態を表している。その後この実験において、ある時間内にラ
ジウムがアルファ粒子を出すかどうかは基礎方程式(シュレーディンガー方程式の解)
によって確率のみが計算でき、量子力学における確率解釈によれば、現象を観測するま
では原子核がひとつ以上崩壊した状態と原子核が全く崩壊していない状態の重ね合わせ
状態で存在する。「シュレーディンガーの猫」は粒子のようなミクロの系の重ね合わせ
が、猫のようなマクロの系の重ね合わせを導きうることを指摘した。 なお、現在では
シュレーディンガーの猫のように(猫ではないが)、巨視的に量子力学的現象が観測さ
れたと報告されることがある。観測した瞬間に未来Aか未来Bかに決まるとする・・・
コペンハーゲン解釈 と観測した瞬間に未来Aと未来Bに分かれる・・エヴェレット解釈
とがあったが今やエヴェレット解釈の方は多世界解釈 即ちパラレルワールドの存在が
矛盾がないとされて進んでいる。「猫が生きてるか死んでるかわからなかっかとしても
本当は生きてるか死んでるかは決まっている」と思われてたけどそれだと矛盾すること
がわかったから、「生きてるか死んでるかわからない時は本当は生きてるか死んでると
かでなくてそれらが重なり合ってる世界が存在する」ということにしたって話。になる
こうした思考実験は 昔の古典物理学であったなら箱を開けなくても猫は生きてるか死
んでるかのどっちかに決まってる。としていたが 新しい量子力学では 実験の性質上
どうしても猫の生死の確率は半々になる。としたこの両者とも正しい物理学の理論で猫
の状態が違うのはおかしいっていう矛盾が 今や現実に起こりつつある。



45: 名無しさんAA:15/04/13 01:07
 こうした戦後60年に 天皇陛下が軍事を持たないパラオ共和国ペリリュー島へ慰霊
の訪問を行った。この事は我々日本人としては非常に大きい意義と深い思いを抱く。今
回のパラオ諸島は第一次世界大戦での戦後処理での条約で中国の7都市や朝鮮半島と同
じに日本の統治権が認められた統治領である。大東和共栄圏構想の下に 日本流の学校
教育と道徳の習慣更に仕事としてのインフラ整備を進めたのは 朝鮮でも台湾でも或い
は中国大陸でもビルマでもフィリピンでもベトナムでも同じだ。ただこの国との違いは
他の何処より過酷な戦場の一つで沖縄・硫黄島と並ぶ激戦の孤立した前線基地だった事
である。ドイツ帝国が一次大戦後に敗戦して国際連盟による日本の委任統治領となった
のは、1919年でその後1922年には南洋庁をコロール島に設置し内南洋の行政の
中心となっていた。そうした中に日本は馬鹿な事に日独伊同盟を組みABCDを敵にし
戦ったのである。最近戦艦武蔵の海中探索が成功し映像が出回って昭和天皇の本などが
発刊されるに至り もともと勝つ見込みの無い戦争に自主独立の国の存亡を掛けた自衛
権の為に ソ連や英国などの仲介を頼みに戦争に入った様な有様が次々にあり、国民の
多くもこれも仕方なしとして世論を創った様である。時の情勢で禁句ではあったろうが
日本の国家規模が弱小国家である事実と米国の革新的な技術発展や社会の物量などの差
は歴然だった事は米国を知る海軍将校は殆ど知っていたであろう。そうした中でもこの
パラオはミッドウェー海戦で負けて恐らく死に物狂いの悲惨な攻防戦の中にあったろう
。この中でパラオ住民を「大日本帝国軍人の誇り」として土着民を兵とせず一人として
戦わせずとこの島からの離島をさせ 終わりなき持久戦にはいったと言われる。



46: 名無しさんAA:15/04/13 01:09
この後で 死のペリリュー戦と言われるこの戦いは一週間もあれば終わるであろうと
米軍は鷹をくくった程の大きな兵員兵器や船に大きく差があった。米軍は日本軍の兵力
の約4倍の人員を上陸させ・航空機200倍・戦車10倍・重火砲100倍以上の数で
あった。戦闘が終局に達していた11月24日、生き残った日本将兵はわずか60人足
らずでついに日本軍総司令部陣地の桜散るの電報がうたれたとされる。実に日米の戦い
は73日間にも亘る死闘が繰り返されたが結果 日本軍の戦死者 10,695名 捕虜 202名
 アメリカ軍の戦死者 1,794名 戦傷者 8,010名 と言われこの他に精神に異常をきたし
帰国後に精神疾患とされた者が数千名いたと言われて不眠症や離婚や色んな人生弊害者
が出た。そして皮肉にもこの結果がアメリカの日本上陸や敗戦の作戦を変えさせ 沖縄
での新型火炎放射器を使わせ原子爆弾を使わせた原因だろうともされる。こうした中で
一般人民である土着民は陣地構築までは徴用されていたが、日本軍が戦闘前に強制退避
させた方針で死者・負傷者ともに0名とされ、帰島した島民は日本人の遺体には見向き
もせず、自国兵の遺体だけを整理していたアメリカ人を見ては憤慨し 自発的に穴を掘
り住民はこぞって日本兵の遺体を葬り墓を作ったという。その後も日本の人達がいつ来
てもよいようにと、その後も墓地の清掃に心掛けているという。戦後統治がアメリカに
移ってからも 歴史の捏造としてこの島での日本軍が現地に虐殺があった様な記述を教
科書に載せて教えていたが 住民や長老者がそういう事は無かったと指摘されて 今は
そうした記述は取り除かれたと言う。この国の国旗は 青い空の黄色の太陽が模されて
いる。日本の日章旗に近いものでこれは独立を勝ち取った時に 反日教育と動物園政策
と揶揄された米国よりも 親日家であった住民達の意見で決まったと言われている。


47: 名無しさんAA:15/04/13 01:10
 この占領政策として行った日本軍の行為は 殆ど同じ行為だったに違いない。が何故
かこの日本と言う国の運の悪さであろう。今の韓国 北朝鮮 中国のこの三カ国をして
は全く感謝されていない。比国や越国或いは台湾や南洋諸島などではこうしたインフラ
の整備で学校教育で助かった事を覚えていた老人達が沢山いて感謝されたが 韓国を始
め中国などでは 米国やソ連の反日政策の宣伝効果が絶大で歴史を変え過去の功績の遺
物は認めないと言う事を一貫して行って来た。この為これらの国の殆どの良識ある長老
達すなわち国づくりに欠かせない高名な学者や教育者など有識者層は刑により殺害され
た。その為つじつまの合わない歴史をでっちあげては記念的ものの破壊に没頭している
有様で さながらISISのメソポタミア文化研究所の破壊と同じ事をしているのであ
る。今回アメリカでキューバとの和解が説かれ 米国の対共政策としてのテロ支援国家
としての政策を解く事にしているが 核配備によって起こされた国交断絶はケネディ大
統領時代からの遺物でそのまま残っていたのである。又このキューバと米国との関係は
日本と中国との地理的関係と似ている。ドイツで東西のベルリンの壁が解かれたが朝鮮
での38度線の南北の壁は今だ消える様子が無いように 日本と中国も日本が軍事大国
では無い以上開かれる余地は無いように見える。大陸中国は数と力を最も重視していて
文化や教養や国内インフラは国力よりは国民の不満のはけ口としての効用を重んじてい
る。この事は高速鉄道の処理や新聞などのメディア規制で端的に表れている。あれだけ
官製デモないし日本製品ボイコットあるいは対日抗日戦線の息吹きは日本の新聞TVを
賑わしたが一旦毛沢東批判或いは今の中共政策或いは公害状況などと言う具体的大事な
所となれば全く口封じを辞さない。高速鉄道事故も事故その物の悲惨さや人命の尊さが
削がれたと言う悲しみよりは 開通で祝う中の忌むべき事故としての扱いで一刻も早く
記憶から消そうと言う処理しかしていない。



48: 名無しさんAA:15/04/13 01:11
 こうした政策を顧みないまま中国は大国化してきた為に 韓国同様に資金需要を満た
す生産が無い。昨今中国国内の不動産バブルの崩壊で信じられない位の負債を政府銀行
が保証した。国内では今も紙幣の半数は偽札とされる中 国も又流通の把握無しに増刷
をし回収紙幣を決めないままで世界戦略を果たしている。基軸通貨ドルとの交換である
。金兌換紙幣としての試練の無い信用の無いこの紙幣が 今や世界の中で後進国流通か
ら一挙に海外資産買い上げに走っている。これにイギリスはお手上げ状態のようだ。事
実今まで海外の後進国になりふり構わず紛争国であれ軍事国家であれお金をばら撒いて
資源供給を果たして自国に鉱物や資源或いは食料を調達してきた。その見返りとしての
インフラ整備は全く現地調達せずに自国の労働者をして回収してきたのである。この事
で全く投資されながら発展しないで内乱に起こる国が頻発した。中でも作った橋や建物
が次々と壊れる模造品紛い品の工事だった事で批判を受けたり輸出するものが毒素品だ
ったり中国用のスパイ的電子機器だったり原料が全くの贋物だったりした詐欺的行為は
全く信用を逸したものだがそれでも自国を発展させた。国内にインフレとバブル崩壊を
持ち格差社会拡大を続け海外に買収に次ぐ買収を重ねて生き延びようとしている様は見
苦しいどころか狂気である。今やISISの資金源であり英国のマネーロンダリングの
中で余る回収紙幣を国内処分すべきだがそれを行うべき貿易はそれほど高くない。そこ
で国際銀行設立を投げかけたのである。欧米にとっては中国大陸は最も遠い所で 何ら
危険性のないものと考えられる。だが中国流の国内事件が多発している事を見逃しては
いけない。近頃も宝石強盗が入ったのだが これは物流に長けて持ちされる力があるか
ら起こった物で買い入れする処が無ければ起こらない物だった。宝石商相手の貸金庫で
360憶ドル日本円で3〜4兆円と言われその実情は解っていない。ポンドの元換金枠
の拡大が禍となったのだろう。



49: 名無しさんAA:15/04/13 18:31 ID:AWM
 こうした政策を顧みないまま中国は大国化してきた為に 韓国同様に資金需要を満た
す生産が無い。昨今中国国内の不動産バブルの崩壊で信じられない位の負債を政府銀行
が保証した。国内では今も紙幣の半数は偽札とされる中 国も又流通の把握無しに増刷
をし回収紙幣を決めないままで世界戦略を果たしている。基軸通貨ドルとの交換である
。金兌換紙幣としての試練の無い信用の無いこの紙幣が 今や世界の中で後進国流通か
ら一挙に海外資産買い上げに走っている。これにイギリスはお手上げ状態のようだ。事
実今まで海外の後進国になりふり構わず紛争国であれ軍事国家であれお金をばら撒いて
資源供給を果たして自国に鉱物や資源或いは食料を調達してきた。その見返りとしての
インフラ整備は全く現地調達せずに自国の労働者をして回収してきたのである。この事
で全く投資されながら発展しないで内乱に起こる国が頻発した。中でも作った橋や建物
が次々と壊れる模造品紛い品の工事だった事で批判を受けたり輸出するものが毒素品だ
ったり中国用のスパイ的電子機器だったり原料が全くの贋物だったりした詐欺的行為は
全く信用を逸したものだがそれでも自国を発展させた。国内にインフレとバブル崩壊を
持ち格差社会拡大を続け海外に買収に次ぐ買収を重ねて生き延びようとしている様は見
苦しいどころか狂気である。今やISISの資金源であり英国のマネーロンダリングの
中で余る回収紙幣を国内処分すべきだがそれを行うべき貿易はそれほど高くない。そこ
で国際銀行設立を投げかけたのである。欧米にとっては中国大陸は最も遠い所で 何ら
危険性のないものと考えられる。だが中国流の国内事件が多発している事を見逃しては
いけない。近頃も宝石強盗が入ったのだが これは物流に長けて持ち出される力がある
から起こった事件で買い入れする処が無ければ起こらない事件だったと言える。宝石商
相手の貸金庫で360憶ドル日本円で3〜4兆円と言われその実情は解っていない。英
国ポンドの元との換金枠の拡大が禍となったのだろうが こうした中でも中国発の投資
国際金融に参加を表明している。馬鹿げた話である 世界秩序をどう考えているのだろ
うか。もしイタリアやギリシャがロシアよりとなりかつての様な軍事大国としてアフリ
カ系イスラム教徒が支配したら ヨーロッパ社会は第三次世界大戦の様相となるであろ
う。とこの事と同じ様に欧州社会が遠い所だからと軽はずみに共産圏の発動する構想に
資金供給する事はかなりにアジアを同じ様な混乱を起こさせる事なのである。


50: 名無しさんAA:15/04/17 06:51 ID:0tM
 老境の至り27

 日本マクドナルドは 経営不振らしい責任を取って社長給与を20%カット店舗の
25%を閉鎖するという。これは全く合点がいかない。マクドナルドの不審は中国工場
のずさんな衛生管理体制を見抜けなかった事が主な原因で その後の処置が更に疑惑を
高め その後のビニール破片が次々と点検もせずに揚げられ売られていた事だった。こ
れらの事は知らずに食べた人や 健康を害したが要因が見つからず入院した人がいるか
も知れないと言う推測も出来る。つまり事後処理もまともな追跡調査や数々の消費者の
問い合わせもJTフーズや味の素の毒入り餃子同様にいい加減だったという 加工食品
全体の地位を奈落の底に陥れた事だ。これらを考えれば 3年間社長給与無給で社会奉
仕活動若しくは辞任して 管理出来る現場叩き上げの3階級特進ぐらいの人事異動して
新旧一新の30人位の幹部退任が普通である。つまり責任の無い上司は日本社会と言わ
ず人の社会にいらないのだ。これが筋である。裁判では又も原子力問題を見抜けない様
な馬鹿な判例を作った。かの判事はこの危険性や放射能被害が自らの私生活内に関わら
なければいい。と言う身勝手な論理で判決した事がありありと見える。これは公務違反
の典型的例で馬鹿げた判決と言える。強いてい言えば沖縄知事が 勝手な自分の支持者
を沖縄を代表している。全沖縄の心だ。などとふざけた言動をして反対すれば支持率が
上がるという本末転倒の政治で 例え島民が反対しても沖縄の為の方策や判断を知事と
して指導者或いはリーダーとして行う。と言う至って常識的良心的行動とは正反対なの
である。こうした指導者や判事や経営者達が多すぎる。当たり前に考えてこうした人が
全く公務放棄の上の自身の保身と公衆人気や地位や権力の欲望に負けた発言や行動ばか
りで 日本国内は事件や事故が絶えない。そのまま放置すれば韓国や北朝鮮の体制と似
た事になる。報道も沖縄の翁長知事など写し過ぎである。今度のアシアナ航空事故も又
根拠の無い自信や知識のない誘導管制路を機長が判断したと言わざるを得ない。韓国人
特有の先のセウォル号沈没事故の船長と全く同じである。よくぞ死人が出なかったもの
だと感心する。日本のダンバーストが小さいから良かったものの今回の事故は全くふざ
けた事故だ。先の有識者の「今だ従軍慰安婦などの問題を処理出来ていない。」という
間抜けた発言する有識者と同じで 全く過去の研鑽をつまず正確な過去を知らない事の
現実的対応策の正しさの無さが この事故の正体である。うそつきはこうなるの実態で
あろうか。乗客が可哀想である。



51: 名無しさんAA:15/05/07 05:53
いざ酔い いざ並み いざ晒場 32

 不思議な事が世界中を駆け回る。日本が明治からの近代産業を支えた史歴跡を「歴史
的近代化遺産」として世界遺産の登録を願い出た。これに対し韓国は「日本が申請した
23施設中7施設は、5万7900人の韓国人が強制労働をさせられた場所で、多くの韓国人が
命を落とした」と強調。「登録は世界遺産条約の精神に反する」と訴えている。がそれ
はおかしな話で 日本の強制徴用は日本人に向けて行ったもので日韓併合によって日本
人としての徴兵工なのだ。更にこの中には北朝鮮の人が7割のはずだ。逆に朝鮮半島で
の社会資本整備にはもっと沢山の日本からの移住者が犠牲になっている。その北朝鮮で
は今だ拉致被害者を解放していない。もっと言えば韓国人の被害者は日本人以上の筈だ
が統一気分を害するのかそうした問題提起をしない。人権を叫び人権を踏みにじる最低
の国民性がここに見て取れる。だが今や経済失速が中国と共に兆著に表れだしている。
その中国の資本低下を補おうと中国指導の世界銀行を作る動きが活発化している。欧州
各国が賛成したからだ。馬鹿な事に欧州特に英国は王室の世継ぎに祝杯を上げるほどの
好い行政判断を行っていない。特にどういうわけか遠い中国で影響が無いとでも思って
いるのか中国の大国化に後押ししている。その為旧ソ連の復活を願う力がロシアには高
くなっている。この危険な愛国主義は欧州が中国を応援するからこそ出て来たものだ。
少なくとも香港銀行が中国紙幣を取り扱わない或いは中国返還を台湾に行うなどしてい
たなら恐らく世界は平和であったろう。可哀想なのは台湾である。馬鹿な事にさっきま
で土地を盗まれ戦っていた相手に国民党は外交を展開しようとしている。学生のヒマワ
リ運動や香港の雨傘デモをどう思っているのだろうか。議員の怠慢の極致であろう。こ
こまで追いつめたのは欧州のいい加減な外交の結果ではあるがそのいい加減さが欧州を
今苦難に押し込んでいる。今や移民は年間20万人は超えドイツ発表では今や欧州社会
に5千万人いる更に出生率が高くあるイスラム教徒は50万人ずつ増える。その上には
アフリカからの難民が同数やって来るとして20年もすれば1億5千万人のイスラム教
の蔓延る国々となる。当然彼らは正規の労働賃金では働いていない。およそ半分程度の
賃金労働で彼らは生活している。これで地元の労働者の雇用を奪いを浮浪者にさせてい
る現実がいつまでも持つ筈はない。その結果が観光者激減のイタリアやスペインなのだ
今後 モハメットの風刺画ぐらいで殺人事件が起きるのが更にスカーフ一つで殺人とな
る事は必死で いつ暴動化社会に進み かつてのドイツの様な愛国主義狂信者が出ても
おかしくない。

52: 名無しさんAA:15/05/07 18:40 ID:9HQ
いざ酔い いざ並み いざ晒場 33

 こうした欧州の混乱からか まともで裕福な欧州人は次々と移住し始めている。更に
米国は欧州が落下する事で経済浮上してきている。だが現実的には金融緩和で景気下支
えを保った状態だ。この事は大きな問題をさらけ出している。もし利上げすれば景気が
下がる。下がれば貧困者は増える。すると暴動や取り締まりに明け暮れ経済活動は伸び
る事は不可能である。つまり今や構造的不況で簿価等価が上昇しているのみなのだ。こ
の事は中国社会に著しく出て来ている。例え偽札と同じぐらい価値無い紙幣だがそれで
もこれによって中国国内は流通している。が今や労働力も経済も更に生産力も高すぎる
ぐらい物が動いていない。例えば車は生産過剰で2割安は既に生産原価を切っているが
それでも安売り合戦なのだ。だが売れれば売れるだけスモッグ社会に陥るだけで身動き
取れない。不動産も同じで安価な劣化品質の環境にわざわざ移り住む人はいないし強制
立ち退き者の負担はそのまま農地や生産活動放棄になったままで国の高価買い入れ輸入
は止められない。そうした事で中国人も又良識者は海外移住に励む。従って周辺隣国の
地価は上がりっぱなしだ。ニュージランドやオーストラリアは異常に値上がってしまっ
たままで 地元は高値に悩み不動産会社は今後の急降下が恐ろしいとまで言われる始末
。考えればあのドバイでさえ今や不動産価値は下げ止まりでアメリカや日本が金融緩和
を止めれば中国同様に不動産バブルははじけてしまう。現実的には世界のGDPを上回
る株価資本と言うのはあり得ない話である。それが如何に現行の生活資質の低下を招い
ているかは現実社会が教えている。仮に銀行でも人でも金の貸し借りにおいて一円の品
の質なら一円以下で貸すのが商売である。株式資本であれ銀行の融資であれ1億のビル
の価値に2憶貸すと言うのは不思議な話である。今や世界のGDPを追い抜いたと言う
話しはその生産単価+余剰資金を上乗せして貸していると言う事になる。何故なら株の
総単価のみでGDPを追い越したのである。他に融資金その他国家が発行する紙幣や国
債や或いは貸している金はその数倍はあるのだから。これを見れは上海はもとより欧州
日本或いは米国株価がディーラーのギャンブルで実質景気の推定とは関係無しにバブル
の中に今だ漂っている事を示している


53: 名無しさんAA:15/05/15 20:28 ID:6Ic
いざ酔い いざ並み いざ晒場 35

 馬鹿げた事に ロシアはECとの寄り付きを避けて中国と又仲良しになろうとしてい
る。資源の浪費国中国は今やインフラ投資に土地投機バブルが破綻した中で 大食漢の
中にある。ロシア自体は消費が欲しいであろうが時代は許さないであろう。日本に北方
四島を返して平和理にEU加盟の大国となれば 恐らくEU全てを飲みこむくらいの大
経済国になったろうにその道を捨てたようだ。よこしまなウクライナの愛国主義によっ
て翻弄させられたのだろう。朝鮮人と同じだ。恐らく韓国も竹島を日本に無償償還する
位の心根がなければ 北朝鮮と共に国民は経済難民になる事は必然であろう。かつても
日本に原爆が落ちて敗戦が決まった時 朝鮮人や中国人達はヨーロッパ社会のドイツの
収容所のような悲惨な場所は無かったので 同族同民族として仲良くあろうとすれば、
そのチャンスは多々あったのである。38度線で東側管理の国と西側管理の国と二つが
出来たとしても 平和理の統一を模索するのであれば別に朝鮮戦争も起こり得なかった
のである。今でも国を挙げて抗日戦線に洗脳されては茶番劇の様な声明や決議を送って
いるがそれがどんなに馬鹿な事かは今後直ぐに解るであろう。今や地球は活動期に入り
中国の公害はずっと果てしなく続き 砂漠化は深刻になるのだから。歴史に「たらねば
」の話は御法度であろうがそれでも 金日成も 李承晩も 双方には民族統一半島一国
の夢は大きな物であったろうし 双方の朝鮮人も強く其れを願っていたに違いなかった
はずだ。だが双方共によこしまな悪魔の様な下らない人間で 武力統一相手への侵略と
征服しか考えない馬鹿でしかなかったのだ。そしてそれは多くの民主化しても尚、北を
今だ説き伏せ切れない韓国という 情けないぐらい馬鹿な朝鮮人気性が表れている。こ
れは世界の7不思議の一つであろう。今のウクライナ紛争と同じに 仰いだ指導者達が
悪すぎたのは 国民の国民性が悪すぎるからだ。米国が頭の悪く優柔不断な 軍事産業
に言いなりの馬鹿なブッシュJrを大統領に据えたように 悲劇はやがて国民にやって
くる。より良い指導者を選ばない限りに 今や米国は飛行場通過すら簡単ではなく、マ
ラソン大会すら爆薬が仕掛けられ テロテロと叫ばれ叫ばれる程に兵の命が危うくなり
出費は重み 国際関係は悪化の一途なのだ。どう転んでもイランとサウジが手を結ぶは
ずもなく 良くも悪くもイスラエルは黙っていないだろう。それは米国が起こした罪な
のだ。


54: 名無しさんAA:15/05/16 09:32
いざ酔い いざ並み いざ晒場 36

 大阪都構想が 今や正念場のようだ。これはなかなかの苦難の道を歩いて来たものだ
。元橋下知事の人気でようやくここまで来たかと言うのが素直な感想だ。この2重行政
の無駄に赤字垂れ流しの行政のままに 横山ノック以下の府知事らは何らメスを入れず
に登り坂経済の税金徴収でやって来た。が府民の負担は東京都と同じ負担でも同じ恩恵
を受けていた裏に府債が山積みで 本来なら国や政府がイエローカードを出して国会内
でその処分を考え高率納税に処するべきだろうが 日本は今だに地方交付税や補助金で
しかその操作を行わないし陳情を基にした馴れ合いで 国会が調査や検査による分析や
長期視点に立った経済改革は昭和の時代で今だ一回も見た事がない。そんな中で自らに
分析した改革を掲げた都市はこの大阪しかいないだろう。従って人は大いにこの自力の
称賛に国民全体が動いた。これが民主党政権の成立の原動力だったろう。その為に民主
党も自民党も公明党も皆が賛成したのだ。が困ったのは大阪市議会である。自らの立ち
位置が無くなったのだ。大阪府とは対立し協調し或いは反目し従順してこれまでやって
来たに違いない。何よりも府議会という大きな票田の議員と市議会という小さい票でも
確固たる信念や自由発言でその正しい行政をやってきた誇りと更に大きく選挙活動をし
自分の生活基盤が失われ小さい意見が通らない事が不気味にも迫っているのだろ。が、
彼らも実は一時は賛成していた話なのだ。更にそうした二重行政は今や話し合いでやっ
ていける筈と言うのは詭弁である。何よりも統一意識の下にない為こうした合併の選挙
をやるぐらいのズレがあるものが 更に今までそうした話し合いが断絶していた者達が
今になって話し合いで解消されるなどと言うのは 地域の反目性格からも不自然な話だ
。ただ今の広域行政がいいかと言えば悪いに決まっている。行政職員の能力が落ちてい
る中で意識すら今の書類過多に追われて市民や国民の為になっていないのだが、がここ
大阪だけそうした 豊富な赤字垂れ流しの債権行政が認められるはずはない。今の中国
と同じだ 意識改革の為にもそうした未来社会建設は行うしかないのが人の都市の国の
さだめなのだ。



55: 名無しさんAA:15/05/18 09:43
いざ酔い いざ並み いざ晒場 37

 かつて ルーズベルトは「私は3回も大統領選に出馬などしない。」と明言していた
。だが1939年の出馬に至っては「私は若者をヨーロッパ戦線に送りだす事などしな
い。」として大統領選に大勝した。そして米国民の実に9割は進撃を繰り返し、孤立し
ても尚領地を広げ覇権を進めるドイツやナチスヒットラーは無関心を装っていた。当時
の米国はやっと本土が一つなり第一次世界大戦でのヨーロッパ戦線にオールとラリア同
様に派遣しては多くの若者を犠牲にしていたからである。「我々は欧州戦線に干渉すべ
きでははない。」そうした見方が大方を占めていた。だが既に軍部の指導者は欧州から
の情報は刻々と伝えられていて 多くの政治家達もどうやってその世論を覆し米国が国
として入っていけるかを模索していた。というのもその頃のアメリカ国民は約3〜4割
はドイツ民同じ様に英国民そして東欧民2割残り2割が原住民やアジア民と言う中にあ
った為だ。つまりこの第二次世界大戦前半のフランス占領イギリス攻撃まではアメリカ
首脳部は例えアメリカから英国に送る食料や資材がUボートの餌食になっても国民世論
が「立ち入るな」と言う中にあったのだが それは欧州よりはアジアを見ている訳では
なく 国民が英国やフランスと言う所謂連合国側の支援市民とドイツイタリアといった
所謂枢軸国とした国の支援市民が大勢いた事だった。中でもドイツ6割英国4割と言わ
れた中にあって 第一次大戦の批判からも どうしてもその欧州戦争に参戦出来ない中
に立たされるというジレンマの中にいた。よくアメリカが日本を参戦に導いたと言われ
そうした事実はないと言われる。だが現実的には1932年国民党政府に対して清王朝
最後の皇帝愛新覚羅溥儀を執政とする新国家の独立は地元では大いに歓迎された。首都
を新京にしたこの満州国が日本の傀儡国家であったあろうが、そこの5族共和の精神と
その後リットン調査団の調査はハリマンの満鉄共同経営を蹴った事から、最初から結論
があったらしく 日本について執拗な原因究明はしなかったという。この報告を受けた
。国際連盟にも多くのハリマンの友人がいたしユダヤ系ドイツ人もロシア人もいた。


56: 名無しさんAA:15/05/18 09:44
1932年、フーバー大統領と共和党は満州国を承認する法案を議会に提出する準備を
進めていたし。与党共和党は、ソ連を国家と承認せず、逆に満州国を国家として承認す
るする方針だったと言われる。しかし残念ながら左派で親ソ派とされるルーズベルトに
大統領選で敗れた。一説ではコミテルンとイルミナティ或いは金融資本のユダヤのシオ
ニスト達に誇大な広告を起こされため民主党が台頭した。と言われるそして民主党のル
ーズベルトはそうした共和党との話し合いを反故にし反対を押し切りソ連を国家と承認
した。これは民主党そのものが一枚岩ではなく民主党内の反対派すらも軍部のプロパカ
ンダに利用されたのである。日米開戦に先立つ前の時期には、共和党は日本よりもソ連
を警戒しシナの共産化を怖れていた。スターリン率いる社会党は当時ドイツと戦ってい
たロシア国内でドイツから資金を得て党員を増やして国家転覆をし、その非情さに逃げ
て来たロシアや東欧や北欧民も又当時アメリカに沢山いたからだ。日米開戦には否定的
な主張をしていた。共和党のフーバー元大統領は「ソ連を助けて参戦することは、共産
主義を世界に捲き広げることになる」と主張し、真珠湾攻撃に至るまでは共和党議員の
ほぼ全員と民主党の一部は対日戦争に強く反対しており、「対日圧力を中止せよ」とし
ての運動をし民主党のルーズベルト大統領を批判していたのだ。が移民や難民は市民権
を持たず大統領時代にフーバーは、満州事変に対して「日本に経済制裁を加えよ」とい
う強い民主党の声が経済界のシオニストの大合唱の為に消されたのだ。ヘンリー・L・
スチムソン国務長官もルーズベルト政権の主張を一蹴している。また1932年10月
の閣議においてフーバーは、ソ連によるシナ赤化工作を警戒して「アメリカは日本と久
しく深い友好関係にあったし、日本の立場をも友好的に見なければならない」という覚
書を提出し、満州事変は日本の正当な治安維持措置であり日本は共産主義の防波堤だと
力説している。


57: 名無しさんAA:15/05/18 09:44

 それでも当時の国際連盟は 満州国を認めなかった。満州からの撤退を要求された日
本は国連を脱退し、国際的にますます孤立することになるのだが これらの計画は練り
に練られた物で米国の新聞記者、ウォルター・リップマンは、こうした事に「日本は激
しい挑発に直面しながら、通常の国際的基準からすればきわめて忍耐強かった」と記述
している。満州を固めれば、共産主義の侵略に対する真の防壁となるとして出来た国だ
ったが、実際に共産党と戦っていた国民党は足を引っ張り、国内の国民党と共産党を近
づけたどころかソ連軍と米軍を近づけた。こうしたこの辺の大国にすり寄る八方美人外
交こそ韓国や中国の今の状況を知るべき国民性なのだ。今や戦後70年経っても 全く
変わらないのである。もっともこの時国連で否認されたとはいえ、ドイツ、イタリア、
スペインをはじめ、23ヶ国は満州国を承認している。そして1934年3月の、溥儀
が念願の満州国皇帝に即位するのだが この皇帝も又正当な中国の最後の皇帝だったの
である。この意味ではアメリカのよこしまな欧州戦争への干渉の為に 日本の参戦をど
うにかさせようと画策した時日本があまりにも凛々しくアメリカを信じた事が間違いで
あったのだ。その後の朝鮮人やロシア人或いは中国人の反体制派との接触はかなりに頻
繁に行われ 時の飛行機や船舶或いは戦車や潜水艦の多くの技術を盗もうと画策され、
各国に企業へのスパイ事件や軍部への贈収賄事件は多発している。今でこそ従軍慰安婦
などと称されるが 昔はそうした国の貧困から抜け出す為に国は売春婦すらも国家要員
となっていた時代である。国が若いエリート達の身辺管理をも大きな重大事と考えてい
たとしても不思議ではないだろう。特に米国に身を置いた経財界は日本の異常な速さの
発展に大きな危惧し 自分達より上を行くとの危険視が働いていたのは間違いない事実
でフーバーのみならずルーズベルト本人すら 日本がスケープゴードになった事は認め
ている。


58: 名無しさんAA:15/05/18 10:21
 この戦後70年に於いて「日本は反省しなさい。」の大合唱ではあるが 何も日本が
反省すべき物はない。良くNHKなどがこの第二次世界大戦が避けられなかったか、あ
るいは日本が戦争に突入する事は回避出来なかったか。などと特集を組むことがある。
だが湾岸戦争のニュースキャスターが言う様に「戦争はアメリカの公共事業。」という
体質や常識を覆さないかぎりに それは不可能と言えるだろう。まるで将棋の積み手の
様に網り巡らされた戦争への介入策には成すすべも無かったと言うのが現実でありその
事ではドイツも同じで アメリカが行ったソ連とのプロパカンダからナチスの台頭を許
した結果はどうしようもない事態だったのだ。日本がドイツとの枢軸国としての協定を
結ぶ可能性が無かったはずだが イギリス経済を見ればドイツに産業を任せた奴隷国家
作りに勤しみイギリスの産業空洞化はGDPにおいても失業率においても最低だった。
つまり時の技術はドイツに於いてしかなかったのだ。従って一度欧州体制の反乱として
兵器生産すればその結果連戦連勝であった事は当然の結果だろう。そこにユダヤ資本の
回避が起こりドイツ国内の恐慌が襲ったのだ。当然時の感覚としての戦争による資源確
保しか出来なかった。と言うのが歴史の流れと言える。この現実は今のイスラム社会で
イランとサウジが仲良くする事は無くロシアと日本も仲良くしてもらうと困るだろう。
当然イスラエルと中東も同じだろう。こうした事を考えれば北方四島や尖閣諸島は日本
が近隣国と仲良くしてもらえば困るとした米国戦略の罠の中にあって 米国の下の発展
や外交しか無いのが実情だろうし現実にそうした中での発展しか今までも今からも無い
と国民は認識すべきであろう。その意味では既に米国内の赤軍は成功を収めているのだ
ろうが ロシアの民主化はそこが合点の行かない米国の2枚舌の外交だろう。一方では
平和や貧困を救うべきプロパカンダが横行し民主化自由主義を進め、一方では先端技術
の歯止めや戦争を仕掛ける外交を行う。こうしたアメリカ国内は矛盾を今や取り払う時
に来ている。





59: 名無しさんAA:15/05/18 12:12
 この戦後70年を考えるに当って 一体今後世界はどう変わって行くかを考えるに、
丁度いい移行期であろう。特に東南アジアにおいては 戦後70年なんてものではない
。中東では今だ紛争や殺し合いは起き 東南アジアではかろうじて各国が中国の凶行に
我慢している状態で平和が保たれている。というのもアフガンでは今だ戦争中だし、ベ
トナム戦争も終結しても ラオスカンボジアでは今だ地雷被害を受けている状態だから
だ。今又難民船でビルマから逃げて来る人がいる。この事は今だに戦争の悲惨さを知る
人がこの平和を大事にして守っているからだろう。今後は恐らく日本語理解のある人し
か生き残れない。更に世界中で徴兵制が起きる可能性が強く極端にではないにしろ、こ
のイスラム闘争は過激思想家の兵士培養施設になる可能性が高い。世界人口の爆発的な
増加は一方で食料危機と資源枯渇を早めるだろう。基本的に世界人口が増えすぎる事に
平和的な減少を促す策はない。が先進国各国は今や自国民の減少と移民流入と学力低下
に陥っている。今だ優等生を保っているがそこにある貧民との格差は広がるばかりで、
ブーメラン現象とされる貧民が富民経済を襲う現象は広がり続けている。かつて第2次
世界大戦時の領土や国土の管理意識や資源乱獲の意識が変化している中で 今だ過去の
意識で領地拡大を示唆する中国は 人々の幸福を理解せず先進化と現代消費にのみ未来
を見ている様だ。そうした間違えた観念はアフリカの革命を見せたがロシアにはいい迷
惑で 東欧に戻ってきた愛国兵士群は全く国を治めない。つまり生産意識の無い国家群
を作った。EUのアフリカ移民はアフリカが希望の国にならない限り止まらない。東欧
ウクライナもロシア排除を止めない限り貧困した国として生きるべきで国際社会は救済
すべきではない。イスラミックステートもアラブを始めとする各国が武器供与や資金の
提供をすべきではない。その意味ではイランの核開発など例え発電でも言語道断であろ
う。国の治安と国民の素養があって 資源の有効利用ができ幸福がもたらされる。情報
規制情報操作や国家権力や大阪の様な分別の無い自由意見が著しい国に未来はない。




60: 名無しさんAA:15/05/18 15:07
 今後の国の政策は領地や領土の拡張よりは 如何に人が幸せな暮らしが出来るかに重
きが置かれる。実際には何回もそうした思索は試みられたであろう。しかしこれまでに
国際協調や国際平和なくして自国のみの幸せが存在しない。と言う事が実証された。と
言う事であろう。近頃よく出くわすのは頭脳に惑わされる筋肉或いは組織と言う事では
ないだろうか。人間のあるべき姿として 健康で動き回る元気な身体であろう。だが今
や大人・子供限らずすべき生活が金や遊びで追われてしまい、切れる子供や愛情さえも
押し殺し悲観に心中する親子或いは憎しみに犯罪に走る自爆すると言った事件が絶えな
い。それは国内的にも国際的にもかなり多く、その多くの主因は群れたがる個であり、
その為に発達した情報機器を利用しては乗っ取られる心身があらぬ方向に就実しようと
している形だ。其処は宗教でも意志でもない動かない動けない心身がある。それは国家
機能としても現れている。端的には中国がある。歴史認識が間違っている事は多くの国
民は知っているし共産党そのものが北朝鮮同様間違っている国政を敷いているのは理解
しているのだが、いざ現実となれば賄賂を渡してでも自分の保身を図り格差社会の中で
は勝ち残ると言う意識の中に人民は行動している。これは首脳部や指導部も又全く同じ
で 悪いと知りつつ嘘を言い国政の中の民の声があっても、頭脳としての抑制を強いる
のは 結局は筋肉や組織に当る人民或いは直観力としての正規の正しい意見が通らない
と言う個人の身体の不具合と同じだ。今やこの現象は中間反抗期というそうだが、国で
言う拡張路線を縮められない大国主義軍国主義なのだろう。中国自身自ら5分割ぐらい
出来れば打破されるのだろうが。そうした意識を正す事は右脳の発展にあるいまのまま
左脳に沿ったのみの言語視野の働きでは 神の云う鼠の集団自殺の性格のままの発展に
なりかねないのである。


61: 名無しさんAA:15/05/19 22:27
いざ酔い いざ並み いざ晒場 38

 今だTV界はダウンタウンの起用を除外していない浜ちゃん番組とでも称すべきこの
世界は全く異質で自分達が面白い物は他人も面白いと自我自賛している。殺人者が殺人
事件に際して被害者も自分の為ある。被害者も喜んで殺されてもらえる。と言う論理と
全く同じ手法で その画像の中身発言の主旨も全く不気味で不快感満載の映像が放映さ
れているのだが 全くBPOもプロデューサーも関係なく思っているらしい。奇妙なこ
の犯罪奨励番組は一体なんのつもりなのだ。パワハラからセクハラまであって言葉の乱
雑さもTVには遠の昔に消すべきものばかりである。こんなものが視聴率とったとして
一体何の価値があろう。社会悪そのものではないか。こうした社会正義をなし崩しにし
て視聴者や国民や好くある筈はない。TV首脳部もいい加減に嘘つき画像や嘘つき笑い
を止めて放映しろと強く言いたい。彼らがいっぱしの社会通念があるようなコメンティ
タ―やMCとしての起用してる理由は一体何なんだ。金か横暴か脅迫か堕落か。こうし
た全く自堕落な放送を続ける限り人はTV離れになるのは必然である。漫画やアニメを
実写化しただけのお笑いと人の苦痛を喜んだ映像が 魅力なのだというのなら殺人事件
や凶悪犯の犯人に そのまま登場させた国外の映像の方がすっきりしたものであろう。
全く 事実でも虚構でもない ましては真実も笑いもない恐怖もない ただただ自分達
の優位性と悪意の元の虐げる様が映像の魅力だとした企画が なぜこうもとおるのか。
馬鹿げたメディア社会の 最も忌みする部分が全く面白くも無い会話と映像で埋まって
いるのだ。見たくなければ見なければいいといった代物ではない。一緒にあほになって
あほを扇動しましょうという教義のある番組で 一般受信者良心ある視聴者の害そのも
ので それは国民の実害であり社会の癌なのだ。松本氏の大日本人ワールドと同じもの
で 唯一人が最も接したくない秩序礼節のない空虚の中の犯罪の優位さの笑いしかない
。言わば 常識のない異常者の行動の奇異なる目新しさのみなのだ



62: 名無しさんAA:15/05/22 17:16
京都市南区
都タクシー株式会社上鳥羽営業所、
吉田益■係長(2013年12月当時)、
ドライバーが自前で用意した、
つり銭ケースと現金抜いただろ、
処理どうした?
会社のザルにあけたか、
お前のタバコ銭として着服したのか?

63: 吉田元係長、本日も反省の色ナシ:15/05/22 17:19
京都市南区
都タクシー株式会社上鳥羽営業所、
吉□益■係長
(2013年12月当時。2014年2月まで在職。
伏見区深草西浦町7丁目居住。)、
ドライバーが自前で用意した、
つり銭ケースと現金抜いただろ、
処理どうした?
会社のザルにあけたか、
お前のタバコ銭として着服したのか?

64: 吉■元係長、本日も反省の色ナシ:15/05/22 17:24
吉■って、ダメな男。
資産総額4000000000円のHさん(京都市長候補・元漫才師S田S助さを )と、
お前よく似ている。
親せきか?

65: 名無しさんAA:15/06/03 18:21
 マネーマネーものまねー 10


 例えば10人の住民のいる町があるとする。その中で5人が貧しかったとする。その
町を良くしようと活動しても 1人だけではどうにもならないから親分級の米国さんの
後ろ盾で日本さんはお隣の中国さんや韓国さんを少し支援してきたが もともと性悪で
その性格は治らなかった。そんな中で急にみんなの市場の中で手形を切って大量買いを
しだしたのだ。市場は混乱したが欧州さんは今や商売がうまくいかなかった子供もいて
大変なのでこの中国さんの成り金ぶりには眼を閉じても仲良くしたいと思っている。又
親分肌の米国さんもこの中国さんの偽手形疑惑にも眼をつぶっている。なんせ近頃勢い
の良い羽振りの家に変わってきたからだ。だが今大きな変化が訪れている。南沙諸島と
西沙諸島の問題だ。2011年12月12日小青島南側の海で仁川海洋警察のイ・チョ
ンホ警査は、EEZでの違法操業する中国漁船2隻を発見し取り締まりした際操業して
いた犯人に殺された。だが当時韓国は離於島での領海争いが大きくなる事を嫌い中国へ
の抗議をしなかった味をしめた中国はその後も尖閣や小笠原沖に次々に船団を繰り出し
違法操業を援護する為海洋警備船と共に公海上を凌駕した。そうした中に起きたのが、
南沙諸島事件である。フィリピン漁民の岩礁を守る人の輪に対艦機銃掃射で12人もの
殺人と20人もの負傷者を出し(現実には人体がばらばらで海に散った為人員不詳)そ
の後もベトナム船を3隻沈没させた事件(政府確認が遅かった為に正確な船籍不詳だが
救助されたベトナム人の話から)以降に海域を自国領ととして海洋油田掘削や今の浅瀬
開発の上の飛行場建設である。既に滑走路は完成目前とされ 2〜3年後はこの公海上
の軍事基地は完成しては各国の物流の脅威になる事は必然である。中国のその凶行から
近隣各国が今のアジアインフラ銀行の様に中国の軍事の傘の下の参加を強要させる事は
必至でこれを食い止める事はアメリカの経済防衛上は確実に必要な事の筈だ。というの
もここでの航海する物流が中国側に流れる影響は 今でさえ経済基盤が犯されている中
にこの負担がかかれば恐らく米国経済の2割の純益は飛んでしまうであろう。日本豪州
東南アジアが供給している米国の資金はまず途絶えるし その分中国の進出を押さえら
ない事で第二のイスラム教徒の国内不安と言える中華思想の不安が米国内に蔓延る筈だ
。その為に今やドルは大きく世界流通資本から回収を続ける事で原油は大きく安値であ
る。


66: 名無しさんAA:15/06/03 18:21
 更に悪い事に 北朝鮮の核弾頭搭載のミサイルを米国本土に向かって撃つ事を 今や
中国政府や中国軍部は後押しするようになって来ている。エリック・クラプトン・ファ
ンとして知られる次男・正哲が率いる影の部隊「烽火組(ポンファ組)」のトップに20
13年に金正哲は就任したとされていたが彼らには行動する為の資金源は無いとされて
いた。だが叔父である張成沢党行政部長が仕切っていた海外向け貿易利権争いでは国家
予算よりは金一族の予算を追加する事に決めて、金正恩第一書記は、張成沢党行政部長
を残忍な方法で処刑したとされる。これには中国も驚愕した様だが「たとえ血を分けた
兄弟でも、ためらうことなく懲罰の銃口を向けることができる剛直な人物こそが、真の
革命家真の共産党と言えるのだ。」と言う暗黙の了解を得て 経済交流を再開させた。
こうした北内部の抗争が決着ついた為か今回英国でのコンサートでTV映像が流れた。
これを受け韓国に米国は本腰を入れ始めた。これまでも有事の際には米国の迎撃・探知
手段を韓国において展開するとの約束はあったが機密漏えいや八方美人的韓国外交に手
を焼いて手段においては韓国配備が検討されていた高性能迎撃システムや高高度防衛ミ
サイル(THAAD)などのミサイル防衛(MD)システムには売価や保守点検技術などで出
しぶって話合いが先に進まなかったが 北のミサイルの70%の確実な迎撃破壊を確約
出来れば確実に配置する方向で落ち着いた様だ。この事で韓国は朴大統領は夏までには
二者択一の決断が迫られる。即ち日米韓の合同包囲網もしくは自由主義西側陣営に留ま
るかどうかである。もし西側に留まるのであれば 確実に日本は米軍基地の拡充を補完
する事で対北政策用の日本の援助が求められ 韓国は借金してでも7割破壊のミサイル
防衛を構築する事が求められるし もし外れるとすれば日本は米軍との二者での対抗が
求められる。更にこの広がる中国の脅威には台湾比国越国馬国の標準的海洋条約に於い
て米国豪州との軍事協定と合同演習が求められる。いずれにしろ日本はその中核として
の発言と協調が求められ 今回の日本の自衛隊の軍隊化は避けられない充実装備が基本
になる。この事は大きな問題なのだが 国会議論では野党の呆れるくらいの平和ボケと
与党の議会発言のだらしなさは 全く厳しさや悲惨さ或いは切迫詰まった感が無いのは
問題である。

67: 名無しさんAA:15/06/03 18:22
 歴史的共産国的に言えば 国内での習政権の中国は良くやってはいよう。だが中国の
今の軍事力規制は甘すぎるし 国内世論の無さ軍国主義絶対主義さは 西側の今の一般
的許容を大きく逸脱している。中でも国内のメディア規制と軍事予算の突出さは異常で
更に人権特許権裁判権には反吐が出るほど前近代のままだ。そんな中で中国が仕掛けた
サイバー攻撃はこの世界の中で最も醜い国家主義の中にある。中国が造ったとされる基
盤を取り入れたルーターは瞬く間に世界のコンピューターの中にマジックドアを作り、
ドラえもんの「何処でもドア」よろしくIDやパスワードを盗み魔法の呪文で自国の中
に軍事を初めとする技術の主要情報を取り込む。こうした偽札技術と並ぶコピー化技術
は見事に世界の混乱に拍車をかけている。かつて第一次世界大戦時に起こったA作戦と
される世界の人口の減少作戦が今だ息づいているようだ。アルカディア地方はギリシャ
にある小さな田舎の地方の呼び名であるが 紀元前370年頃ミケーネ文化と言われる
人間賛歌を重んじた国だったがスパルタ戦争によって大きな奴隷市場が形成された。そ
の後もオスマン帝国の支配やらギリシャ独立戦争などを経たが欧州社会の中では理想郷
とされた。だが正確には理想郷建設の為には選民して人口を強制的に減らす事は正義だ
と言う思想なのだ。実はナチスがユダヤ人迫害した理由がそこにある。人類学的には、
ユダヤ人種などと言う種族的特徴や文化特徴などない。結論から言えばユダヤ教徒は居
てもユダヤ人は居ないのである。ところが奇妙にも現実社会にはかつての旧約聖書時代
には我々の土地だったとしてイスラエルがあるしアメリカ社会の8割の経済資産はこの
ユダヤ人とされるシオニストの持ち物となっている。この事を理解出来る日本人は少な
い。実は紀元前時代の一般的宗教が旧約聖書のみを信じたユダヤ教だった。だがこの本
と言うか物語はその後色々な改訳がされ旧約聖書を作った。その旧約聖書を時の政権で
選んだ末に決めたのがキリスト教だったのだ。つまりローマ帝国からお墨付きをもらっ
た宗教が出来た事でキリスト教が派生した。その後その教えに対抗してイスラム教が出
来た。更にそのイスラムも又シーア派とスンニ派が出来たしキリスト教もプロテスタン
トとカトリックとに分派される。その基本は自分達こそが正しく他の人種は滅びるが良
いという選民思想でありそれの基本が旧約聖書しか信じないとするユダヤ教なのだ。




68: 名無しさんAA:15/06/03 18:22
 ところが第二次世界大戦の勃発期には そうした宗教戦争が経済の為の王国戦争から
悲惨な領土戦争に陥ったのである。この時産まれたのが最新兵器や大型鉄鋼機械での、
非情な殺し合いである。事実王国戦争であったかつての宗教戦争では 遠征して殺し合
いはあったものの傘下の国白旗の民ともなればその時戦は終わったのである。ローマ帝
国時代オスマントルコ或いは王国乱立のハンガリーのハクスブルク家に於いても、基本
は領土領地と共に経済戦争であり、人殺しや大量虐殺を本分とする事は無かった。がし
かし日本の第二次世界大戦参戦において日本に大和民族の存続をして戦った理由は時の
シオニスト達のQ作戦に対抗したドイツ帝国がひっさげたラインハルト作戦(ユダヤ問
題最終決着或いはユダヤ根絶作戦)による絶滅収容所の設置である。白人優位主義論が
逆巻く中で優性人種説が当然のごとく常識化し、黒人土人を家畜化しアジア人奴隷化す
るとしていた第一次大戦時は その結果が日本に於いて植民地化が食い止められたのが
日露戦争の代償であった。江戸時代かつての大津事件でロシア皇帝が日本において息子
が切りつけられても反論しなかった理由がそこにある。ロシア正教も又旧約聖書を元に
した第5の宗教でありユダヤ・カトリック・プロテスタント・イスラムと並ぶ洗礼のあ
る宗教なのだ。この味方と敵を分けた一神教群は共に権威闘争の中に明け暮れていたの
だ。前にも言った様にユダヤ人などと言う人種は居ないがユダヤ教徒はいるのだ。この
中でもシナイ山でモーセのカナンの誓いとする十戒では、この人間世界は12部族しか
いないと規定している。その選民思想では唯一神ヤフェを祀らない部族はその十戒を犯
す者で人間では無いとしていて死んでも良いとする考え方はとても危険なものである。
今日世界を騒がすISも先のナチス党の規則も実はそうした中にある。ISIS最高指導者
のアブー・バクル・アル=バグダーディーは イスラエルの特殊部隊モサドの訓練兵で
あった。湾岸戦争後イスラエルはイラク叩きに奔走した。その一つでイラク戦争に於い
てこの青年将校はイスラム神学校を卒業しイラクへの入出国を拒否されている。そうし
た中で米軍収容所に身柄を拘束され今に至っている。言うならば究極のQ作戦が進行し
たのだろうとも言える。こうした欧米と中東の血肉を巡る争いに日本は加担すべきでは
ない。先のビンラディンも米軍のトマホーク攻撃を受けていたのである。日本人では考
えられない勢力争いの世界がそこにある。これらは正義を連呼し嘘を刷りこむ表の歴史
には絶対表れない話である。



69: 名無しさんAA:15/06/03 18:24
今や ドル資本経済学からは思いもよらない現象が起きている。原爆開発以降の経済は
世界のシェア争いよりは いかにして地球を守って行くかに絞られた。元々世界の石油
は21世紀中に枯渇する。とか或いは 隕石や新しい病原菌や伝染病で人類は滅びる。
とか ノストラダムスの予言書みたいな話が欧米文化の中には蔓延している。そして、
何故だかそうした予言に添う様な形の事件は多発していく。だがそもそも論で言えば、
では何故こうも身勝手な人類が滅びたらいけないのか。がそこには無い。現代文明を支
えているであろう消費社会はかなりの地球環境の負担である。そこでこの負担を考えて
行動しよう。と科学アカデミーや環境保護団体は言いだしたに過ぎない。かつて黒船来
航で江戸の鎖国を解いた日本はそれまでに培われて来たそうした環境と共に生きる文明
や環境文化を整えてからの西洋文明への参加で在った為容易には消費生活とは馴染んで
はいない。しかしその優れた省資源勤勉労働のお国柄は大きく日本を支えた考え方であ
ったし今も本当の意味での自由・平等・博愛に満ちた儒教的考え方が仏教や神道に蔓延
して人を魅力にして止まない。「勿体ない主義」の物を大切にする事「綺麗文化」の真
髄である効率を求め無駄をはぶきゴミをも見逃さない改善の姿勢。「可愛い味付け行動
」での和式とよばれる生活態度や食文化或いは映像に映えるファッションやら常識や人
情や話芸そうしたものすべてが 現代日本の誇りであり世界の人を幸せにする力を今や
持っていると信じれる程の情報発達社会になった。近頃電気店に行く機会があったが、
三洋が潰れシャープが苦境に陥り日本は国内事情に合わせた開発で国内メーカー同士の
競争して国際競争に敗れたなどと馬鹿な論争が流行るが現実には全く違っている。今や
我々日本人にすら魅力の無い製品を並べて大型家電店が陳列してる姿が見えてまったく
滑稽でこれではシャープやソニーも潰れようと思える。全く消費者を無視した製品ばか
りお目当てのこう言った商品というのが全く見つからない。これでは誰も見向きはしな
いだろう。当然である。私ですらこんな物よりは・・とそう思うのだから他の一般的な
主婦なりサラリーマン社会には受け入れられないだろう。もっと我々が日本を支えてい
るのだ。と言う気概のある開発や商品を作るべきと考えるのだ。今やそうした多民族排
除では立ちいかないし欧米流の消費社会では地球が持たない事がはっきり解って来たか
らだ。


70: 名無しさんAA:15/06/04 08:09
 日本がこうもお粗末になったのは戦時世代の作った社会を正確に世代交代していない
点にある。それは政治の世界でも或いは経営者の視点も或いはヤクザの世界労働者の世
界でも同じだ。今国会の論陣をみても全く情けないくらいに安倍首相は総理としての任
を果たしていないし野党も又日本と言う国の存在意義を間違えている。更に経営者も又
経営とは名前だけで全く消費者や国民或いは豊かさというものを間違えている。ヤクザ
もかつての任侠道があったような事件はあまりない。今や機関銃やら手投げ弾が住宅街
で出て黙ったままの暴力事件が横行している。昔なら過激派ならずともその長たる者の
発言はかなりの正論があった。労働事情も又総労働者対総経財界との考え方の対立も現
実にあったしその論陣もあった。だが今や経営者は労働者を見ていない。それどころか
消費者さえも見ていない。日本国の国民としての視点すらない。その為労働者を奴隷の
ごとく使ってすら何も思っていない。その風潮がそのまま政治の軽さである。今回起き
た社会保険機構のデーター漏洩などは大きな事で 塩崎労働大臣は辞任すべき事であろ
うしマイナンバー管理に関して幾重にも厳重な管理するとして答弁していた現内閣は、
そのまま3年ぐらいの無給の奉仕者となるべき事件で お詫びやこれからは・・などと
いう簡単な処分では済まない話である。そもそも今回の自衛隊論議でも全くしめつけと
しかいいようない程の改定であり 基本である日本をどう守っていくかが全く見えない
。現に今までテポドンが打ち上げられて太平洋沖に落ちた時 なぜ日本国の自衛隊はあ
の北朝鮮のそうした発射台への空爆を行わなかったのだろうか。例え衛星ロケットとの
言い訳があったとしても 連絡も無く事故でも無い限りは宣戦布告と同じものである。
或いは ロシアの軍事偵察機が越前の沖合い通過し中国の軍船が宮の浦沖を通過する事
は 例え戦争になっても阻止すべき事因であろう。厳重に抗議ではなく則戦即破が国際
社会の原則のはずである。これを行わないで集団的自衛権でも個人的自衛権もないだろ
う。


71: 名無しさんAA:15/06/04 20:21 ID:Wu6
 お隣の中国では又も欲深き改造船が横風でひっくり返る事故が起こっている。アフリ
カではフランス軍にきつーい従軍慰安婦的娼婦渡航禁止が出ていたのだが 今や国連軍
が避難民施設での子供に対し、食料を与える見返りに性行為を強要した疑いがありとし
て兵士14人を捜査しているとしてニュースになっている。この中央アフリカの国連の
平和維持活動(PKO)部隊が派遣されて、国連には性暴力に関する報告が上がってい
た。にもかかわらず、適切に対処しなかった。こうした国連が問題を把握していたにも
かかわらず対応を怠った可能性について 潘基文事務総長は外部チームによる独立した
調査を行うと発表しやっと重い腰を上げた形だ。しかしその総本山韓国人は全く進化を
しない。日本に流れ着く「韓国ゴミ」はおよそ18万m3 である。対馬のみでも5万m3
とされる。この韓国で言われの無い罪を問われた裁判があった。仁川アジア大会で高級
カメラを盗んだとして窃盗罪で有罪判決を言い渡された競泳の冨田尚弥選手(26)が
罰金100万ウォンを納付(約11万円)を受けた裁判だ。帰国後に無実を訴え、正式
裁判を申し立て今年5月28日の判決公判を行ったものだ。仁川地裁はこれまでの求刑
通り罰金100万ウォンの有罪判決を言い渡している。その帰国後名古屋市内で会見し
、「これ以上やっても意味はない」と控訴しないことを発表したとされる。だがメディ
アのこの無責任体制には腹が立つ。TBS系列ではこの仁川アジア大会を実況中継した
はずだし 確実にこの冨田尚弥選手(26)が無実である事の映像を撮って居ながらも
知らんふりしている。これは許せない。録画が無いにしてもそれは探すべきだし、映像
やメディアの世界の使命は 時代の証人である事だろう。であるなら時代の証言者とし
ての行為に目をつむる事は許されない話だ。その意味でもアメリカの911テロ事件は
メディアがメディアの地位を捨てた事件であろう。今回NTTの核拡散防止会議で原爆
の悲惨さ訴えた話に韓国が反対した事は 大きく報道し運動し戦犯朝鮮を明らかにすべ
き運動を起こすべきであろう。世の中を腐らせてはいけない。



72: 名無しさんAA:15/06/21 17:23
私の番組評 201

 久しぶりに日曜のTVを見たが なんと異様なTV番組ばかりか。貧乏芸能人の今と
いう家屋改造は 殆ど詐欺師の状態だ。アスファルト上のコケに対ししては舗装をはが
し 屋上雨漏りには水を撒いて内側の部屋の改造を進めると言った具合だ。まあこんな
工事をしてる事自体が不愉快だがこの改造が又いい加減だ。風呂場はユニットバスに代
え床のタイル張替えですむ工事が全面リホームである。更には贅沢な工事にはなっても
殆ど専門の世界から言えば いい加減にしろと言いたくなる。勿論どんな工事をしよう
とも 発注者責任がついてそうした判断をし金を出した本人についているは当然だが、
もっと救える方法や技法があっても一般的建築常識からはずれたものに唖然としてしま
う。しかしこうしたこのTV業界の3つの悪だくみには驚かされる。その一つが全くの


73: 名無しさんAA:15/06/21 17:23
もっと救える方法や技法があっても一般的建築常識からはずれたものに唖然としてしま
う。しかしこうしたこのTV業界の3つの悪だくみには驚かされる。その一つが全くの
文化無視の放送である。勿論番組がピンからキリのものだが 視聴率さえ良ければいい
と言うのは暴論のはずだしその映像にはマナーがあるべきで視聴者にへの説明責任があ
るはずだがそれをイメージ映像や細工映像で誤魔化してしまう。笑い番組では偽の笑い
声が入り情報番組では知っている事より深く掘れ下げれていないにも関わらず番宣では
深く掘り下げるかのようなCMだ。CMと言えば「ライザイップ」と言うCMが「結果
にコミットする。」と結んだ映像だがこれなど詐欺商法そのものである。成分もなけれ
ば危険性も示唆していない。それどころか今や少子化が女性の細い腰と言う身体能力に
ある様に発表されて 今やファッションモデルの疎食症から死人が出てると言う危険性
が国際社会で提示されていても日本ではこの有様なのだ。KBCはそうした会社と共に
健康維持のスポーツとしてのゴルフトーナメントのスポンサーにまでしている。こうし
た非常識さ一体何処から来るのか。二つ目はこうした映像記録を記録として活用してい
ない事にある。韓国での水泳大会では水泳選手が今やカメラ盗難の加害者と判定されて
いる。だが少なくとも日本の水泳報道では他の犯人がかの選手の袋に入れる映像を映し
彼が無実の罪に負わされた被害者である事を公共電波で放映しているはずだがその記録
を全く出していない。放送局はそうした自社報道の映像記録に保持能力が無いのであれ
ば公共電波を使う資格はない。それはスカパーにも言える。自身の放送に権利を主張す
るのであればそれなりの管理能力や記録保持能力も当然問われて然るべきである。多角
チャンネルで数多く放送しぱなっしでは済まされない。三つ目はそうしたものの視聴者
サービスである。お笑いタレントが重宝され贅沢な作り方でMC能力のない者までもが
食レポートやら地域レポートをしているがあまりにも上から目線の勝手行動で歴史文化
を知らないままの散歩である。みやま市や大牟田をロバートと華丸大吉と行っているが
まずは全く横暴な見れないTV構成に憤る。鼻につく歌など全く聴きたくも無い。異常
そのものだ。局内の倫理規制や再収録予算などは一体機能しているのだろうか。





74: 名無しさんAA:15/06/24 00:07 ID:3to
 黎明人(TVタックルを見て)

 こんな大変なものを作り上げた人達が こんな無様な馬鹿どもだった事は驚きだ。と
いうよりも こうしたコンピューターと言うよりネットを進化させた仙人的者らが実は
一般常識の無い程の所謂劣等ボンクラ国民だったとは驚きだ。まずは ひろゆきという
2ch立ちあげ職人は 海外サーバーを使ったネットに日本の国内法が何ら犯罪縮小に
寄与しない。とのたまう。がそれは大きな間違いである。国内法が整備されないからこ
そ海外サーバーにアクセスできるのであって 国内法がちゃんと違法行為者に犯罪とし
て盛り込まれるまでになれば 一般者の投稿による犯罪や所謂闇サイトと呼ばれる物の
店も出す事は不可能になる。すなわち仕様規定において国内法が整備されれば違法の為
の抜け穴は無くならなくてもずっと小さくなる。これまでもこれからも人間社会という
ものはそうやって歴史は勧善懲悪を進めて現在に至って来たのだ。更にホリエモンが強
く言う情報の自由度があってのネット社会などというのは笑止千万な話である。悪い事
が起これば直ぐに法令の網を掛け、警察などの取り締まり側はネットや情報機器に疎く
何も解っていない。とのたまうがしかし、何も勉強していないはホリエモンの方である
。殆ど法律も行政も警察と言う治安維持の為の組織も 一から十まで事細かに規定を書
いてはいない。だからこそ裁判所があり今の日本の安保防衛問題にも議論があるのだ。
そうしてその大きな「人の人としての生活の在り方」を指導する「罪と罰の行動規定」
が法律であり その規律を求めた法を国が規定するのが憲法であり地方が決めたものが
条例であり 国の指針を細則にしたものが施行令なのだが いずれもがその境界やら、
文面の解釈やらが時と共に大きく変わるものもある。例えば「義務教育」というものも
これらがかつては「国民の義務」として児童就労をして出席率や登校率の低さにそう呼
ばれたが今はその主旨である国民の権利として自治が行うべき物として認知されている
が、これだけ事件が増えてきた事で逆に「国民の経済差別の温床」とまで見られる行為
が多発している。今我々が持つ憲法が天皇を象徴としている。天皇の国事行為はいまや
平和への祈祷行事であり その御声かけである。実は日本における最も憲法的な法律は
各個の 日本国民としての節度ある行為であり日々の生活としての共生なのである。特
にホリエモンがその境目足る法の崖縁でアウトとされ 国家権力に反感があるのは解る
がだが その事での学習能力のなさや教養のなさが今だあるのは情けない。犯罪世界と
はどういう物か 或いはヨルダンとシリアに何故違いがあるのか 良く考えるべきだ。


75: 名無しさんAA:15/06/28 18:24

、 マネーマネーものまねー 12  (双曲割引)

 人が見えるものとはかなりに限定的である。遠くを見てもなかなか見えて来ないもの
が多い。それは曇った日であれば当然遠い山の陰影すら見えない。だがよく晴れた日で
あっても 山の色は見えても木々一つ一つが明快に見えるものではない。それが人の眼
で実感として傍で見た経験があれば全体を見ていてもデティールをも見た感覚になる。
こうした事で人は2次元の漫画でも3次元内の時間すら漂う漫画を読み解く事が出来る
。この遠くよりも近くで肌身で感じた事を重視する。こうした人間行動学或いは行動経
済学は年金の支払いにも利用されている。すなわち年金受給者に初年からの支給と五年
後から或いは10年後からの支給と金額を分けていて当然平均寿命の引き上げに対応し
て自給総額を下げる効果を狙っている。だがそれでも人は特に年金機構の信用度の無さ
から安くても早く貰う傾向がある。来年に例え物価上昇で一割高くあっても今の現実的
その価値のみが計算され印象に残りそれが反映されるのだ。今や中国人に人気の日本で
の買い物ツアーが目白押しだが 中国国内では悲鳴を上げる程異常経済に突入している
。各地で起きる豪雨被害干ばつ被害は年間およそ5千万人を超える。中でも老齢での田
舎暮らしで子供を置いて若夫婦を出稼ぎに都市部に出した田舎では死亡者数が特定でき
ていない様子だ。地方の共産党員もこのところの地価の目減りはやはり混乱を及ぼし、
李国強首相は盛んに広報活動や新政策を力を入れるが全く株価暴落は止まらない。中国
人の持つこのその日暮らしの欲望つまり双曲割引の強さが裏目に出た形であろう。今や
食料自給においてもなかなかのもので40年前の肉が市中に出回り高級レストランでの
食用とされたと言う。又年一回催される犬食祭りでは2000万匹の犬がこの祭りで食
用にされたと言うが その多くは各地から盗まれたペットの犬達だったという。何しろ
国土が大きく人が雑多な中で何が行われているのかが解らないまま 更に管理基準が無
い社会である ギリシャの債務返済は僅か2000憶円位であろうが中国での返済履行
が不履行になるのは20兆円を超えるとされる。偽札さえも銀行券となっている国内で
は既にバブル崩壊が起きていると言われ 旅行者が使う中国のデビットカード銀聯での
発行枚数はなんと13億以上とされる09年ですら240憶円で今では10倍以上の使
われ方をしていると思われ ギリシャの財政破綻は国際社会では風邪引きぐらいで交通
事故のような重症は実は韓国経済と中国崩壊にあると殆どの経済アナリストは戦々恐々
としている

76: 名無しさんAA:15/07/11 22:56 ID:z2Q
 マネーマネーものまねー 13

 なるほど現代では使い捨ての割りばしの様に 新しい家を作る事は流行りの考え方で
はあろう。しかしこんな詐欺的行為がまかり通っていいのだろうか。今になって報道や
マスコミは国立競技場の新築問題を提起してる。しかしこの報道はおかしいとしか言え
ない。もともとこの新国立競技場は公共事業のはずで 単価にしろ外観にしろ建設内容
については公示する義務がある。だが誰がどう関わりどんな形で実現させるかは今もっ
て解り得ない。こうした事を考えるに下村文部科学大臣も舛添東京都知事もその地位を
どう思っているのか。全くの無責任発言をするのであれば 早々に辞任すべきであり、
こうしたイベントの遂行すらできない人を人選した安倍首相森嘉朗とも国会議員を止め
よ。これが素直な国民の声だ。まず国立競技場解体に際して東京都は認可権限がある。
つまり建設主体のJSCに問い正し明らかな試算を検討しその解体工事に対する業務の
差し止めの権限を持つ。例えその事業所帯を統括するのが国であっても土地を管轄営繕
への管理権限があるのは区であり都でありその代表なのだ。壊したあとに色々言う筋合
いも無くその前段に例え1円でも100円でも協賛し共同事業を行う資格を持っている
のならその内容の照査する事は義務のはずである。こんな可笑しな金額にあるのは、都
知事としての権限と職務を行っていないからである。更に可笑しいのはJSCは誰に何
を求めているのか。監督官庁の文科省はそのJSCが新国立競技場建設すると解っての
解体工事発注であろう。ならば事業主体としての予算と建設の妥当性ぐらいは当然の事
で解っていなければ発注すべきでない。今更キールアーチがデザインとして不備であっ
たとか安藤氏が何故こんなにかかるのか解らないというの全くの場違いな発言で下村氏
が専門家として発現して欲しいなどと言うのは言語道断な発言である。「隅田川に架か
る永代橋ですら全長約185メートル、その倍以上の長さ400mなのである。それが
巨大構造物であることは押して知るべし。」なのだ。これによって重量強度から推定の
アーチの太さは、断面は縦約8メートル、横約10メートルで、地下鉄のトンネルが入
ほどと想定され。アーチの重さは3万トンほどと考えられこのキールアーチはカットし
て繋ぐにかなりの難度があって専門家の話では通常なら5年ほどかかるとしている。


77: 名無しさんAA:15/07/11 22:56

 マネーマネーものまねー 13−2

 しかし大きな問題はそうした工期の問題でも強度の問題でも規模の問題でもない。全
く異質の工事の進め方と作り方にある。何ら確定されないままに工事を進めている現状
だ。コンパクトオリンピックと銘打ってコスト削減にヨットの競技場すら作れない中に
金を湯水のように使ったメイン会場を作る為に解体し 解体した後に東京都と話を進め
建設費を1300億円も見込んで、デザイン公募を国際的に求め。世界的な建築家ザハ
氏の提案を採用したというものだが。しかし、このデザインの奇抜さや床面積の広さが
広いことなどからデザイン通りに建設すると最大で3000億円に達することが判明し
たと言う。JSCは14年5月に当初案の規模を縮小し、費用を1625億円に圧縮し
た努力はあるもののそもそも奇抜な今流の日本アピールの世界に類を見ない建築をこの
競技場を壊して作ると言う発想からして許せない話である。まず老朽化や耐震性能など
を理由に壊した事がそもそもナンセンスな話で過去において木造100年コンクリート
200年の耐久性能を備えていない筈はない。更にこれはビルでは無い競技場なのだ。
倒壊の恐れがあったとしてもそうそう補修工事が出来ない事は無い。更に各市町村の公
共施設の新耐震判断で耐震補強をやっているはずなのである。問題は機能性や他の公演
などの多機能な作りにしたい理由だが 他の会場も多い中にあってそうそう収容人員の
多い便利な施設は運営出来るとは限らない。警備の面収益の面或いはそうした経済収支
の面で運営には大きな困難がある。つまりそのまま屋根をかぶせれば 其れ相応の観客
動員が見込まれ史上最大オリンピックも出来る物だったと言える。即ちデザインだけな
らキールアーチをそのまま外に作れば済む話でありその分小規模になったとしても上に
観覧席を設けてそのままキールアーチを支えればいい話だった筈だ。そこらへんの検討
すらしていないままに ギリシャの返せない負債額のような金額を追加予算とは全く出
鱈目である。もともとこのザハ氏はカーブの女王アンビルドの工費屋なのだ。馬鹿げた
話でありコンペその物は問題はなく 問題はその材料を金属やコンクリートとしないな
らば充分できるものなのだ。そもそも国際コンペしで日本のスポーツの聖地の日本の心
を表わそうとしない事が可笑しな事なのである。



78: 名無しさんAA:15/07/13 00:33 ID:iMM
 マネーマネーものまねー 13−3

 だがこうした事の中で ギリシャ危機と中国崩壊がにわかに現実味帯びて来た。事実
上はデフォルト状態にあるギリシャは我儘に返済金捻出のプランが描けない。こうした
現状を招いたドイツは馬鹿な事に救済策を作らない。自国経済しか頭にないと言う無情
無慈悲ぶりである。フランスは押し寄せて来るこうした危機におたおたしても英国相手
の相談は出来ない。ドラクロア通貨の復活になりEU離脱になるかもしれないが、そう
した事は既に織り込み済みの様に見えるが だが多分このギリシャが本当に経済破綻で
ドイツからなどの輸入も無くなればEUの信用失墜と共にドイツ経済もまた経ちいかな
くなるはずであろう。言わば「情けは人の為ならず。」の国家版である。だがそうした
事象を人質にした交渉も又日本人には異様な光景で卑怯としか見えないギリシャ人だが
国際的にはそれが常識なのだろうか。実は今回の韓国の世界遺産のいちゃもんつけも又
慰安婦問題と共に可笑しい論理がまかり通る。一方狂喜乱舞した中国経済は今や見せか
けのメッキ自由主義民主主義の破綻が迫っている。土地投機によるゴーストタウン建設
はなりを潜めたものの作られ放置される街は今や異様な綺麗な軍艦島状態のままである
。更に銀行は軒並み人民銀行の融資を受けて返せない程悪い。もともとギリシャは先進
国が陥りやすい税負担の減少と海外元本による貸付による国内運営と言う言わば観光国
経済の極端事例で国内産業育成を行えばほぼ立ち直れる。つまりユーロ離脱して儲ける

79: 名無しさんAA:15/07/13 00:34
。だがそうした
事象を人質にした交渉も又日本人には異様な光景で卑怯としか見えないギリシャ人だが
国際的にはそれが常識なのだろうか。実は今回の韓国の世界遺産のいちゃもんつけも又
慰安婦問題と共に可笑しい論理がまかり通る。一方狂喜乱舞した中国経済は今や見せか
けのメッキ自由主義民主主義の破綻が迫っている。土地投機によるゴーストタウン建設
はなりを潜めたものの作られ放置される街は今や異様な綺麗な軍艦島状態のままである
。更に銀行は軒並み人民銀行の融資を受けて返せない程悪い。もともとギリシャは先進
国が陥りやすい税負担の減少と海外元本による貸付による国内運営と言う言わば観光国
経済の極端事例で国内産業育成を行えばほぼ立ち直れる。つまりユーロ離脱して儲ける
国に変われる可能性はある。だが上海ショックは根が深い。それは共産国らしからぬ国
内社会の問題が潜んでいるからだ。本来共産主義社会主義の経済は 基本は年金などの
福祉政策の充実があって自由意見の下に国家運営すると言う物だ。本来の民主主義自由
経済のアメリカ型社会なら弱肉強食論での会社組織と言うのは強くなければ社会退場も
あり得るので実は言論封鎖も多い。だからこそ自由意見を尊重する意志が大事となる。
だが中国はこうした自由主義の全体主義意向の仕組みの方のみを取って 言論の自由や
往来の自由或いは小さな政府主義を捨てる事無くドンドンと共産党強化策を建て富国強
兵策による中華中心主義を進めて来たのである。あのノーベル賞問題に見る様に異質な
政策を異質と思わないこうした国家政策が行き詰るのは19世紀欧州で実習済みの話で
問題はこのパンクする中国経済を世界経済はどう対処するかでこの救済スキームはギリ
シャどころの話ではなく 大きな問題だ。馬鹿な事に2年前に既に上海暴落はあったの
に個人投資家をかき集め 自社株買いを進め更に史上稀にみる国家による株価操作を行
い見た目は株式会社でもかつての国有会社と同じにしてしまったのである。つまり批判
を受け付けない 技術革新 業務改善 などを捨てた形に又戻ったのである。


80: 名無しさんAA:15/07/14 04:00 ID:IpA
 マネーマネーものまねー 13−4

 こうした本来自由主義こそ強者論理で行う管理主義が 今や共産主義社会主義経済で
救済の無い本末転倒経済を行う中国だが 今や人権団体は言うに及ばず弁護士ジャーナ
リストとやりたい放題の政府批判者の囲い込み監禁に出ている。この事は今後中国流の
国内の改善や革新は全く捨てる行為である。およそ人類の進化は国家や団体或いは集団
が大きくなった事で成るものではない。殆どが個人のとある人の発想や発明が実を結び
その後使いやすさ便利さ或いは危険の排除など各自に努力した後に今に至っている。こ
の事こそ進化の現状なのだ。どんな集団でもどんな指導者でもそこに必要な人材がない
事には国は進歩しない。その人材こそが殆どが必要とされる体制の中に居なくて反対派
と目される所に存在している。実は毛沢東の中国建設さえ周恩来と言う極めて戦前の富
裕層からの教育された将軍の参加から出来上がったものだ。こうして人材を自ら無くし
信用を無くして改善や改革技術や文化の蓄積を捨てた国に一体未来があるのだろうか。
全く無い。だからこそ恨みや憎しみ妬みなどで醸成された競争意識での国威発揚に向か
うのだ。この危険性に一体誰が止めて諭す事が出来るか。隣国で強固な兵を持つ国しか
指導出来ないのだ。その責任をおそらく日本や米国は永遠に持って国を治めるしかない
。自由の伝道師たる米国と技術と経済の使者たる日本の役割は法の支配と正義の遂行で
ある。「拡大する中国の野望を武力で持って止める事は出来ない。」と宮崎駿は言った
。歳要った大の大人が何を考え違いしているのだろうか。日本がこれまで海外で戦った
歴史は古代日本でも秀吉時代でも世界大戦でも日本防衛に他ならない。情報が途絶えて
或いは物流が途絶えてエネルギーが途絶えて戦になったのだ。つまり常に時代の波に乗
り遅れて巻き込まれて存立に掛る大事な要素が途絶えて慌ててその対処として戦争して
いるのである。この事を無くす為の自衛隊であり今度の安保法案である。日本人がこう
した反対運動が起こった時ほど戦争に近づいてしまう危うさを この論者は理解してい
ないらしい。日米安保が如何にキューバ危機を救ったか或いはベトナム戦争時の韓国兵
を終わらせたか この事を是非知って欲しいものだ。ポルポトの虐殺と共に。



81: 名無しさんAA:15/07/26 17:49
いざ酔い いざ並み いざ晒場 39

新安保条約を提携した時書かれた頃だが、神経質な A 型は声だかに反対し、ええ加
減な O 型は時代錯誤な対米主義を叫ぶ。しつこい B 型は自衛隊さえいらないと
いい。どうでもいい AB型は米国空母の入港すら反対した。という週刊誌の記事があ
ったが 今回の新安保法制の議会の論調もあの頃の新安保法制と全く同じ論調であり、
国民には奇異にみえる。そもそも反対派や民主党では 日本が独立し戦争はしないとし
ても世界の事情や各国との外交に対応する普通の国になる事に反対なのだろうか。社会
党だった時代に代表は 平和は外交によって築く物だと言いながら 兵器や核 或いは
軍事力の高さの無い国としてのみじめな展開を批判していたのが印象的だった。かつて
後藤田官房長官は中曽根氏に海外派兵は「それは出来ない 憲法がさせない。」「蟻の
一穴だ。よほどの日本人の統一見解がない限り 米国の言いなりに戦争させられる。」
と釘を刺した意見を言ったと言う。こうして中曽根はPKOに近い自衛隊派遣を辞退し
たと言う。だが今日PKOに対して公明党を始め野党社会党すらも賛成した中で 国際
活動として東チモールの分離後の選挙実施や停戦監視或いは難民への物資補給震災時の
救助など数々の実績を作り上げて来ている。そうした中の安保関連法案採決であったの
だが 今や日本はそうした海外に行くべき時期にあるのは確かでその為のそうした隊員
の身の安全を考えねばならない責任は国民全員にある。だが東京初め新安保法案反対の
デモが続いている。その理由は只一つ日本には既に余力がない。自民党の拡大予算によ
って産まれた予算補てんで橋下内閣は消費税体系が産まれた。この消費税到来でデフレ
が始まり 日本銀行券の市中への流通は減り国際的相対量が円高を招き輸出減を招く。
予算のばら撒きは増え続け 嫌気をさした国民は民主党に頼ったが あろうことか民主
党は逆に舵を切った。つまりコンクリートから人へなどと言っては更に予算を増やした
し大型工事の中止で生産性の縮小を招いたのだ。本来のゲームや通信機器の規制を敷き
米国追従を止めるべきをプリペイドカードや新株発行や貸しはがしなど銀行を通さない
資金調達によって 企業活動は大きく代わり生産性は更に低く機械化合理化になった。
ここに言う生産性は 利益率の高さと共に派生するべき労働力を補完するべき生活物品
である。

82: 名無しさんAA:15/07/27 00:02 ID:utU
いざ酔い いざ並み いざ晒場 40

 田園調布の飛行場で軽飛行機が落ちた。大変な迷惑な話である。だがどうもおかしい
。この飛行機は北海道でも着陸失敗している。というより凍りついた滑走路対策で止ま
れないと見て再離陸したが失速して落ちて止まったらしい。機体の損傷からみて その
条件に耐えられない機体だったのではないか。と考えられる。つまり機体その物がまず
設計段階での妥協があった欠陥飛行機では無かったのか。と言う疑惑である。今回も又
運輸航空安全委員会がチェックしているが 前回事故時はパイロットの操作ミスにして
罪をなすりつけたとしか考えられない。何故なら再離陸を試みて一度浮上しているから
だ。ゼロ戦のような極端な上空行きで失速して尻もちついたのならパイロットミスと言
えるだろうがそうでもなく再着陸してプロペラをついている。運輸安全委員会もいい加
減な判断して処罰したものだ。と思う。事実今回は目撃証言から明らかにエンジン不調
と失速だ。35度程度の気温を考えれば通常より高温であり 台風の影響で気圧の波が
高く 日差しにを受けた機体や室内空調と考えればかなりエンジン負担は高い中にある
。更に燃料満タンの上乗客が多数である。つまり機体の異常よりは機体そのものが異常
な欠陥品でなかったのかと言う結論がでる。機体が震えていたエンジン音が異常だった
との目撃証言はそれを裏付けている。だが日本のこの交通運輸安全委員会は科学的解析
する力をあまり持たないし又警察や裁判所も又アメリカのこうした航空機会社に文句を
言って賠償金を取る力を持たない。したがって今回も又パイロットミスの失速とされる
可能性がかなり高い。これは自虐的歴史観以上に 自国国民の保護の出来ない権威の無
い国家機関と言える。これこそが今回新安保の大きな障壁と考えるべきだろう。



83: 名無しさんAA:15/07/30 22:10 ID:NlA
いざ酔い いざ並み いざ晒場 40-2

 事故を起こした軽飛行機はマリブ・ミラージュと言う航空機なのだが この日本の空
は一体何処に安全があると言えるだろうか。そもそも日本の経済活動は米国に次ぐもの
に近いのだが それがTPPの大きな目的であり狙い目でもある経済理由である事は、
今や悩ましいものだ。僅か27万Km2 とされる日本の国土の25倍もの広大な国土と
人口3億人が出生率が低いとは言え移民に次ぐ移民を受け入れて恐らく4憶に近いだろ
う。つまり違法移民については今や不明の段階にあるのだ。こうした巨大な国について
は我々のような管理は行き届かないのが現実だ。中国ソ連共に全く同じに自国民の動き
に非常に気にした政権運営となっている。そうした小さな国土の一つ島国と捉えがちな
日本はかなりの人権強硬論が通るらしい。今回野党は安全保障関連法案を審議する参院
で「法的安定性は関係ない」と発言した礒崎陽輔首相補佐官を、来月3日午後からの一
般質疑に参考人として招致することを決めた。とニュースは伝えている。だがこれは可
笑しい話で人の言葉尻を捕まえ騒動するのもマスメディアはいい加減にしろと言いたい
。問題視されている事項は(26日、大分市で講演し、「法的安定性は関係ない。わが
国を守るために必要な措置かどうかを気にしないといけない」と発言した。)と言う物
だ。実際の話「法的安定性」は自衛隊や警察公安或いは海上保安庁などが出来た時点に
既にその安定性は破られているし 近頃出来た秘密保護法はそうした軍事裁判規定の無
い事に対処した物であるはずだ。更に 東京高裁の斉藤隆裁判長は今回 米軍と自衛隊
が共同使用する厚木基地の騒音被害に、周辺住民らの「騒音被害は相当深刻」として自
国の自衛隊機の夜間早朝(午後10時〜翌午前6時)の飛行差し止めを命じた。が仮に今
の日本の裁判所に米軍機すらも止める裁判で損害補償を行えるならまだしも 自衛隊の
違憲か合憲かの入り口さえ言わないまま 民間の様に軍用地の違法を唱えるのはおかし
な事だ。勿論誰しも戦争など望んでいないし徴兵制などに猛反対であろう。が世界中の
何処かで機関銃は撃たれ死人が出てる中で日本は平和の恩恵の中に生きているのである
。日本という国の経営が磯崎氏の云う様に「法的安定性」は自らが律して行く事で保た
れその議論をする環境にない それ以上に現実的に今までと全く違った中国の脅威や横
暴な発言や行為と言った物が戦前戦後と無かった事が出来た状態に「本当に我が国を今
からもどう今まで通りの平和環境を守って行くか。」と言う事の本当の議論が必要だろ
う。


84: 名無しさんAA:15/07/31 00:38
いざ酔い いざ並み いざ晒場 40-3

85: 名無しさんAA:15/07/31 00:39
 しかし何故野党はこの磯崎氏を参考人招致としたのか。参考人として何を聞き何を罪
と言うのだろうか。首相補佐官としての役が発した国を守りたいと説いた演説が戦争時
の人々を高揚させる事に危惧をしたのだろうか。かつて敗戦時日本ではドイツを習って
重い思いの中で東京裁判は行われた。それは世界の警察官としてのアメリカ型の自由主
義の旗の下で あのブッシュの演説と同じく無法者にもう戦争はさせないとした意識の
下に行われた。その為連合国側の陣営の各国から代表を出したし日本にも弁護人をつけ
た。だが始まって直ぐににつまずき茶番劇と世界から揶揄された。それは基本的に日本
の行った戦争は負ける前に停戦したい意識からか時の法律を遵守した形だったからだ。
一方勝った方の連合国側は大きく理不尽な行為が多く東京空襲や原爆投下と言った一般
人を殺さないとしていた国際法は無視していた無差別殺人をしていたし それ以前開戦
と共に日本へと向かった民間船はドイツのUボート以上に飛行機からの魚雷の的になり
沈められたのである。そして大きくは 次第に日本は自衛の為の戦争だった事が明らか
になってしまいA級戦犯も結局はB級C級の罪によって死刑にさせられたのである。こ
のA級とされる戦争を起こした罪B級とされた国際法違反C級とされる人道を犯した罪
の中でA級とされる平和を犯した罪やC級の人道を犯した罪は実は事後法とされ戦後に
作られたと言う事で国際的大々的裁判であったにも関わらず アメリカの正義の戦いに
勝利したとする広報の為の劇と批判された事で次に行われるべき他の将校裁判が中止に
なり以後はソ連からの共産主義攻勢にアメリカ本部は朝鮮半島の奪回作戦に主力が変わ
ったのである。この時の自由主義の理想郷建設の為に出来た法律が今の日本国憲法なの
だが よくよく読めば戦力維持の放棄以外は明治憲法の方がより先見性に満ちていて、
その為に政界的物以外は民法他色々な物に帝国憲法を準用しているのである。国威発揚
を抑止した今の憲法と国民の誇りを高揚させた万世一系とする憲法とどう考えるかは、
各個に違いがあろうが 社会主義として統率するか自由主義として傍若無人を許すかは
バランスの問題であろう。と考えれば国民の平和意識 繁栄可能な経済活動を何処に置
くかをより深く考えねばなるまい。つまりは特定アジアとされる3国をどう処理するか
を明快にしない限り 日本は軍事活動を高める結果になる。何故ならば国民国土が10
倍の国中国とかつては日本人になった羨望人韓国と日本人の多くが足止めされた北朝鮮
と言ったこれらの国の行く末が幸せになる為の努力は今まで相当に行っているにも関わ
らず今があるのだ。これは 日本人からすれば全く苦しい問題なのだ。この事に答えを
求めないで 磯崎氏を証人喚問みたいな参考人招致とは視野が狭すぎる議会である。


86: 名無しさんAA:15/08/14 16:04
デザイン デザインってTV局は馬鹿か
明朝体 ゴシック体もデザインじゃないか
同じ「あ」を書けば 盗用とするのか 
理屈がばかげている



87: 名無しさんAA:15/08/31 13:25
  いざ酔い いざ並み いざ晒場  41


 橋下氏の心情が解る様な事態の急変である。若手自民党議員の武藤貴也議員にスポッ
トが当てられたのは「戦争に行きたくないのは利己的」との言葉がラインで流れた事に
よる。その後「国会議員枠未公開株」問題についての釈明会見―未成年男性の買春疑惑
と新たなスキャンダルが出て来る。だがふと感じるに この永田町の異様な記事の伝播
の速さである。未成年男性相手の“ゲイ買春”疑惑が浮上した事は違法にもならないが
道徳的定義からも常人の議員資格と見る常識からもはずれた行為である。未公開株問題
も何故か購入していない以上は法的には問題の無い話だが日本人的に許せない話である
。こうした解せない報道が多いのだが その報道が今やゲイやレズのバイセクシュアル
のLGBTはまるで悪くないので人としての人権を。などと訴えた報道を一方でしてい
る。性については産まれたて鳥が最初に手なずける者を親に勘違いするように倒覚錯覚
の感覚で性歓喜を味あうと出来るとされる。人がどんなに我慢しても糞を垂れる事が止
められない事と同じだ。こうした人間の本能と連動する行為に戦争があるが 日本では
この戦争を反対する為に安保法案も又反対していると言う構図を無理して造っていると
いうくだらなさである。こうした中にまともな維新の党の松野議員や柿沢議員の動きが
この絶対反対とする民主党とすり寄ろうとしている。これには橋下氏ならずとも有識者
には絶対許せないというのは当然だろう。孤立無援であってもこの安保法案には護国の
意識としての結果を発言しそれなりの歯止めを自民党から取り出すのが使命のはずが、
絶対反対 辞任廃案などを掲げた嘘の平和運動に身を固めた 入り口論で論戦のない程
の幼稚な国会にしてしまっている民主党にすり寄ったのだから支持者としては当然怒り
しかない。公明党の様に平和の党などと言いながら秘密裏に自民党と手を組んで表での
論戦を構えない構図の悪党と同じになっては 国民にはかなわない。ちゃんとした海外
からの威嚇を平らげ 日本としての自立と自覚と 軍隊としての自衛隊の歯止めを行う
この仕組み作りに論をして進めるべきである。大体何故太陽の党と手を組んだかそれは
右翼の自民党でも左翼の社会党でもないましては極左の公明や共産党ではない中道和論
の日本の党としての護国主義からである。決してアメリカ主義の護憲の党ではない。「
護国」国を護ると言う政党に成るためなのだ。


88: 名無しさんAA:15/09/01 22:11 ID:6/U
  酔い奴彼(よいどれ)の舟歌33


大阪府高槻市の物流会社の駐車場で13日夜、平田奈津美さん(13)=同府寝屋川市
立中木田中の1年生が遺体で見つかった。学校では吹奏楽部に所属し、トロンボーンを
担っていた。人は友人らに「京都に行く」と漏らしていたが、京都方面に向かう電車に
乗る姿が駅の防犯カメラで確認できなかった。更に、大阪府警は19日、一緒にいた男
子生徒の星野凌斗(りょうと)さんについて顔写真と名前を公表し、公開捜査に乗り出
した。とある。その後次々と公務員のいい加減さが出て来ている。一体何故彼ら少年少
女は死ななければならなかったのか。一つはこうした異常者と不遇者の違いを間違えて
いる点である。こうした陰惨で悲惨な事件が何故起こるのか。こうした子供が深夜散歩
に全く誰も違法な悪い事とは思っていないらしい。いつから日本人は不道徳に寛容にな
ったのだろうか。その割に今回のエンブレムの盗用問題では佐野氏は叩きのめされすぎ
ている。こうしたデザインの世界で金銭に関係ない所での使用は多少似てていてもそれ
はそのデザインが優れているからに他ならない。例えば家の間取りを機能性のみ取って
行くとアパートメントハウスや戸建ての分譲住宅は殆ど似たり寄ったりであろう。それ
らに日本人はいちいち文句を言うのだろうか。例えば自転車の各メーカーがスポ−クと
ゴムタイヤで出来ているからと闘争したら正露丸の様に特許登録のした方が勝ちの世界
になってしまう。それは違うだろう。このマスコミの異常さは一体何なのだ。説明用の
パース代わりの説明文はコピペではいけない決まりなどない。ホンダのカブ号とヤマハ

89: 名無しさんAA:15/09/01 22:12
一体何故彼ら少年少
女は死ななければならなかったのか。一つはこうした異常者と不遇者の違いを間違えて
いる点である。こうした陰惨で悲惨な事件が何故起こるのか。こうした子供が深夜散歩
に全く誰も違法な悪い事とは思っていないらしい。いつから日本人は不道徳に寛容にな
ったのだろうか。その割に今回のエンブレムの盗用問題では佐野氏は叩きのめされすぎ
ている。こうしたデザインの世界で金銭に関係ない所での使用は多少似てていてもそれ
はそのデザインが優れているからに他ならない。例えば家の間取りを機能性のみ取って
行くとアパートメントハウスや戸建ての分譲住宅は殆ど似たり寄ったりであろう。それ
らに日本人はいちいち文句を言うのだろうか。例えば自転車の各メーカーがスポ−クと
ゴムタイヤで出来ているからと闘争したら正露丸の様に特許登録のした方が勝ちの世界
になってしまう。それは違うだろう。このマスコミの異常さは一体何なのだ。説明用の
パース代わりの説明文はコピペではいけない決まりなどない。ホンダのカブ号とヤマハ
メイトを似てるから同じだからと文句言う人がいたか。いないだろう。五輪の組織委員
会もおかしいだろう審査委員会は組織委員会の下請けでは無い。組織委員会の内部にあ
るものだ。勘違いしているのではないか。全く責任がないような一任したような言い方
をして。更に決定したエンブレムを撤回する権限などないはずだ。既に発表しIOCの
持ち物としてのデザインである。文句言われたり騒動があったりしたから直ぐに白紙撤
回とは可笑しな事だ。そもそもこのカラスの様な烏合の衆のようなマスメディアの取り
上げ方は尋常じゃない。酷似していたとしても少しでも違っていればそれはそれでデザ
インでありイメージであり全く問題はない。それが例えパクリでも間違える事を狙った
ものである商売ならともかく そんなに酷似していたデザインであっても何ら問題は無
い。それがデザインというものだ。それらは選考委員の考える事で使う事になんの問題
があるのだ。全く馬鹿げている。更に佐野氏の出した写真も佐野氏の許可を取ってのT
V報道なのか。それこそ映像のパクリであろう。



90: 名無しさんAA:15/09/02 18:29
  酔い奴彼(よいどれ)の舟歌34‐2

 新潟では佐野氏の美術展が中止され多摩美術大学 群馬の太田市などが酷似したデザ
インとして問題視している報道がある。だがこれは日本の国民性から見て全くおかしい
話ばかりだ。知った風にTV局は専門家を呼んでは、ああだこうだと今だに魔女狩りの
話で全くTV局の品の無さどころか貧知の限りを言っている。彼は犯罪を犯した訳では
ないし 仮にデザインが似かよっていたとしても同等の一つの狂いもなく使っているな
らともかく仮に転用したものがあったとしても とやかく言われる筋合いはない。もし
そんなに似る事ができないなら 看板の世界は成り立たないし新しいミュージックも又
あり得ない事になる。更に有名な家が仮に作り方が同じと提訴するなら建て売り住宅さ
えも成り立たない。何処までを可とするかは見る視聴者や国民の問題では無い。それを
使う側の問題なのだ。全く白紙撤回する方が可笑しいのであって何を元に偉そうに撤回
が遅かったなどと言うのか。撤回させた国民が可笑しいのである。家具の世界も或いは
色々な商品の世界でも特許や商標登録がある。だがそれらはあらゆる面で間違えない様
に或いは物真似されない様に取りそろえたものであって 鍋が同じ大きさ同じ蓋であっ
たからと言って何ら問われる事は無い。それはメーカーが違っても銅やアルミを間違え
ないからだしその使用した違いは誰もが解るものだからだ。彼のした行為が悪いと言わ
んばかりの報道や処置は全く間違えている。ヤフーやグーグルでも殆ど同じ機能で同じ
タイトが出て来るのを誰が違法というのか誰が悪いというのか。新聞形態も同じとして
文句を言うか。言わないだろう 記事が違えば内容が違うし名前が違うからだ。馬鹿げ
た事にちょっと似てるから盗用といっても では車も今や同じ様なスタイルではないか
みんなヘッドライト位置もウインカー位置も同じだろう かえってそれらが違う事は人
を不快にさせ危険にさせる。それが世の中の仕組みである。誰かが早く付けた名前でも
同じとなる事は多々あるし それが盗用されても間違われないと自身持った処置ならそ
れはそれでいいはずだ。中国の様に間違われる事を前提に登録する話ではない。文句を
言われれば何でも折れる。強い者に弱く 弱い者に非人道 こうした日本の官僚体質を
止めるべきだ。倫理委員はTV局をもっと取り締まれおかしいだろうこの所の報道は。



91: 名無しさんAA:15/09/04 21:39 ID:83g
 馬鹿の八景 03

 今や時間軸が円形になったようだ。と五郎が怪獣解説について言った。時間軸が縦の
頃では物語には原因があって経過があって結果がある。としてやってきた。がさんざん
ストーリも何もかも出て来た後の今では新しい物は過去にしかない。と言う。つまりは
過去の蓄積されたビックデーターの中に知らなかった物或いは気付かなかった物或いは
忘れ去られた物にしか新しい物はない。と解説し、過去の縦の時間軸なら予兆や経緯の
中の矛盾を映していただろうが今や人はそれを求めない。と言う。そうした今の円の中
の時間では突然やって来る難問と結果にどう対処するかが最も楽しみであり興味である
とし出されつくされた物語の中の一情景が命などだろう。と言う感慨深い言葉である。
事実今や世界は繋がってしまっていて 人が興味を引くか引かないかでしか世の中は動
いていない。原因や経過や結果などどうでも良いらしい。それはオリンピックの種々の
問題でも白紙撤回された理由は競技場が本当に高い買い物だった為でもデザインが盗ま
れた物であった為でもない。只々人々が騒ぐから国民が騒いだから。と言う理由なのだ
。責任者や代表としての記者会見も三者三様にそれぞれに責任があるのだろうと他人事
の様な会見で君が責任者ではないのか。無かったら会見するな。とは言わないらしい。
世界では中国への疑心暗鬼から株価が暴落しアメリカの利上げの思い込みで更に乱高下
させる。難民は仕事があるか解らないし生活出来るか解らないのに夢の国ドイツに向け
ての難民が殺到している。いずれも真の原因ではない。原因は只々勝手な思い込み推測
であって それが確定とならないのは中国の軍人社会のような見えない社会だからだ。
その見えない明日に飛びこもうとするのが 日本の国民背番号制の一歩である番号制で
ある。この番号が敷かれ今後は一段とビックデーターとカード処理が行われ、不正や情
報漏れや個人情報の悪用がより緻密に行われ大きな社会問題を起こしそうだ。難民達も
果敢に解らない明日に向かって動いている。不思議である。何が起こっても可笑しくな
いと言えばそうなのだが、東側の軍事パレードに西側の主要な韓国人二人がたった。異
常である。戦争を止め軍事を拒否を宣言して出来た国連の事務総長と西側の最前線にて
戦うべき相手となるべき韓国大統領である。そして奇妙な事に東側の強力な兄弟国の中
のやんちゃな三男の国は巨大になったロシアの隣に欠席して姿を見せなかった。その中
であっても、二男のこの国はどうだと言わんばかりの最新兵器を見せつけ人殺し道具で
しかない兵器と兵隊を相手に 我が国は今後も拡大しない。と嘘つき、こよなく平和を
愛するなどと、のたまう。何んと不合理で不都合で不協和で不思議な光景であろうか。
これが現代社会や現代科学のなす技なのか。

92: 名無しさんAA:15/09/05 23:44 ID:4TA
 馬鹿の八景 04

 何なんだこの低脳野郎が。と言いたいくらい東京舛添知事はいい加減だ。思慮が無い
。昨日は紙袋も名刺も使え。と命令し、今日はJOCから裁判に悪影響する事は止めな
さいと言われたとして前言撤回。などとは長(おさ)にはあるまじき行為である。この
変節極まりない韓国人のような先を見ない熟しない考え方が何んとも日本誘致の五輪の
ケチを付けまくってしまった。まるで日本のオリンピックで東京五輪ではない様な態度
は東京都知事失格としても当然であろうが 市議会も誰も何も言わないのだろう。馬鹿
の様に予算さえ少なく出来ればと思っているのだろう。あの文部大臣と同じに税金の使
い方を知らないのだろう。大体名刺も紙袋もポスターも選考委員が決めて 著作権も又
問題無いが白紙撤回して新たなシンボルマークを決めると言うのならそれまで貼ってい
てもいい筈である。何ら問題が無いのだからJOCにそれこそ反対すべきである。全く
誰も責任取らない。何ら意味の無い強要するという馬鹿の極致である。そんな東京の中
に春日部から渡嘉敷ラムなる女子バスケ選手が出ている。アメリカのWNBAに所属し
牛乳飲んで良く寝て育った子供と言う。ハヤブサジャパンと命名された女史バスケだが
私に言わせればひまわりジャパンと言えるくらいまばゆい人々だ。沢選手のような渡米
してのアスリート魂は195の身長ならではダンクシュートを幾つも決めている。すご
いとしか言いようが無い。一つの身体能力と努力が産んだものであろう。先の世界陸上
でも数々の戦いの名場面はあっただろうがウサイン・ボルトはジャスティン・ガトリン
の追いかけを凌ぎ勝った。こうした力量と言うのはどの世界も同じ様で 又相撲の世界
の角界で不祥事が起きたが 叩いてしまったとされる熊ケ谷親方は前にも不穏な八百長
発言で横綱白鵬が所属する宮城野部屋の親方を務めていたが部屋預かりの親方に降格し
ていた。前に時津風部屋であった力士暴行死事件では、当時の親方が暴行に加わったと
して日本相撲協会から解雇されたが いずれも優勝した関取の力士出身ではない。この
事は大事で何処の会社も身内に甘い。だがそれが会社滅亡のたそがれに近い。部屋問題
も金銭や身内で成り立った物にはこうした不祥事は公然とある。それが今の社会を悪魔
の闊歩源となっている。2世議員や2世経営者が悪いとは言わないが 世間ずれを認識
しての間違った発言は訂正すればいいわけではない。


93: 名無しさんAA:15/09/10 23:04 ID:ixI
  酔い奴彼(よいどれ)の舟歌36

 なるほど ひどい大雨だ。50年に一度とされる雨の量だそうだ。鬼怒川の氾濫は、
恐らく落ち着いたら 幾人かの死亡者を発表する事になるであろう。だがよくよく聞い
ていればちょっとおかしい。まず雨量の問題だが 短期の時間雨量で30mmを越えた
ので 土砂崩れや家屋の浸水はいかし方ない状態の雨だったろう。だが日積24時間の
雨量である600mmにはいずれの地方も達していない。つまり明治に決められたであ
ろう築堤の標準強度に達してはいないまま土堤は水嵩が越えているのである。これは恐
らく川底に溜まる土砂の量が 明治以降から考えて随分高くなった事が理由であろう。
つまりは その間日本人はいつの間にか川を管理しなくなっていて氾濫危険水量を氾濫
危険水位にしてしまったのだろう。この愚かさは今の国土交通省の愚かさである。今も
尚こうした堤防決壊の悲劇で多くの避難民や死人が出る事はどうも政治家の無責任さで
あろう。昭和の初めの頃までは山も林野庁が管理し大木に仕上げて来たが 今や学校の
裏山さえも古木であろうが全く選別伐採していない為の土砂崩れが多発している。更に
もっと悪いのは 太陽光発電施設のいい加減さである。海であっても川であっても例え
古い記録で所有地とされていても河川堤防の裏側は河川管理者の制限がかかる。これは
里道や公有水面を大正年間に国の物とした事に端を発している。つまり所有者幾ら居て
も勝手は出来ない事で 公共の福祉を人々の生活を守ろうとしたのである。だがそうし
た歴史や権力の推移も知らない役人が勝手に削る事を許してしまったのだろう。なんと
もいい加減なお役所仕事の一端がこの災害の中にある。更に孤立する避難所とは一体何
の為に避難所建設をしたのかと言う話である。鬼怒川ダム群と言われるこのダムの放水
も恐らく気まぐれな操作をやらかしたのであろう。建設時に言っていた50年100年
の災害に耐える為にも ダムによる調整が必要だと言う説明会は一体なんだったのか。
ここいらは水力発電や用水確保や相当な資金を入れたダムの宝庫だが 気象庁のシュミ
レーションすらも活かせない位の品質の人間達では どんないい施設でも豚に真珠かも
知れない。


94: 名無しさんAA:15/09/13 09:34 ID:PRM
  酔い奴彼(よいどれ)の舟歌37

 野党の方針であろうが これほど国や国会を愚弄していいものだろうか。まるで今の
シリア難民と同じではないか。かつてアメリカが急襲したイラクは自爆テロで 今でも
大変な様子なのだが この隣の国のシリアの国民はそのイラクからの難民を受け入れた
。と言うよりは陸続きの大地で アサド大統領は国境警備を強化しようが溢れる人々を
選りわけ様がなかったのだろう。かくして二年後には政府不満を救いあげる様に反政府
軍がアラブの春を受けて公然と武力闘争を仕掛けてきたのである。このカダフィ大佐す
らも殺して行く武力革命に西側諸国は歓喜した声を発した。歴史も文化も地勢も不勉強
な欧州人ならではの楽観からか資本主義自由社会が広がるとでも見たのか暗黒のアラブ
をなぜか敢て春としたのだ。今日本で原発再稼働反対・沖縄の空港建設反対・安保法案
反対を高々と叫ぶのは全くおかしな話である。ある人は戦争法案などとトンチンカンな
事を言い、街路インタービューでは永世中立国のスイスの様にになると好いなどと全く
可笑しな事を言う。スイスでは全く国民は全員徴兵制を引いている。従って全国民が今
や銃砲を持ち更に射撃の訓練を受けている国である。更に何処から攻めてこられても、
土地を守る為のシェルターが義務づけられ銃火器は成人所帯三個平均で家にある事で知
られている。今や一番危険性の高い日本で一番自国保護しない法律が日本で一番弱い国
なのだ。今日本が平和なのは海に囲まれ他国が見えてない事による。実際に中国や韓国
或いは北朝鮮との陸続きで海という難所が無ければ 恐らくはシリアと同じ内戦状態で
あろう。馬鹿げた事にこの「普通に戦争の出来る国」を捨てていたこの国の平和ボケは
今のこの国が「丸腰の平和」と言う怠慢で怠情な時代に流されたまま特定アジア国家に
そしてアメリカに嫌悪感のままの議論が尽くされないままの国会議論である。いやはや
能天気な話である。沖縄県知事が宮古島や石垣島や与論島などを全く護る気が無いのと
同じなのだ。全く心配の無い他人事の卓上論で新空港建設反対をしているのである。今
のシリア難民の受け入れを反対するチェコやハンガリーはこうしたイスラム原理主義の
信者予備群がシリアの自分の土地をわざわざ内乱にしてはこうして他国の富に食いつぶ
しに来ている事を我が身を持って知っているからだ。報道界は全く現地取材もせずに、
極左だの極右だの言っては人道主義を求める世論を築きたがるが 全く現実離れの極め
て希有な日本視的卓上討論はやめるべきである。特にNHKやTBSは無知の恥を知れ


95: 名無しさんAA:15/09/13 10:27
  酔い奴彼(よいどれ)の舟歌38

 
 野党が悪すぎる。従って自民党内に反対の声が聞こえない。政治家の気概など見れる
事がない。政治家が多様な意見を持って議論が先に進む。だが沖縄会談を見る様に一向
に未来を良くしようなどと思っていないらしい。嘉手納基地の危険性は20年も前から
言われやっと米軍を岩国や他に移転させ縮小させては残りも新空港に移転させては危険
を回避させようとしている涙ぐましい努力も「県内基地全廃」を掲げ空港建設徹底反対
を言い放つ前には 会談でない怪談である。本当に沖縄戦の悲惨さを知る者の言葉は、
「戦争反対」と共に「安全な暮らし」であって「日本人としての気概」からの言葉であ
りそれがあったからこそ 米国領から日本復帰に移ったのである。この先人の意志を全
く気に止める事無く 韓国人の声援と中国人の支援を元に沖縄新聞は反対の世論作りを
しては シロアリの様に日本の富を食いつぶす。この沖縄の姿に多くの与論島や小島の
漁民はえきへきしている。大型中国船到来で環境は汚染され生活すらままならないのだ
が それでも県知事は沖縄を守ろうなどとは思ってなく 漁民の生活などはさらさら頭
の中には無いようだ。ただただかつて自分が推進した新空港建設の反対を貫いて国家の
予算をより多く勝ち取る。ぐらいの姿勢である。この姿と野党の言う「戦争法案」だと
か「核は運搬出来ますか」と言う声と全く同じである。この法案で出来る事と今出来る
事は全く同じで同じ枠内にいる。PKOにしろ兵站の物資補給にしろアメリカとの戦い
にしろ何が出来て何が出来ないかは同じなのだ。只一つ違うのは違憲としない事憲法の
枠の中に入れた事なのだ。憲法学者が口を揃えて違憲としたのは当然である。違憲だか
ら出来ない。だから敢て出来る形の普通の国に変えたのである。普通の国は憲法では国
を守っていない。憲法を守る精神で守っているのだ。国民合意や議員思慮の中で守られ
ているのである。日本もそろそろ他国の温情と犠牲の上での防衛より本質的な国会議員
の資質で政府の行動で守られる時に来ているのだ。ロシアやアメリカが核を持つから核
を使うなどと無いように 日本も軍備があるから戦争すると言う考え方を変えるべきだ
そこに人や国民の意識の高さが大事になる。そういう時代に時代錯誤な野党や沖縄知事
はなんとも異様で選挙民の馬鹿さがにじみ出ている。



96: 名無しさんAA:15/09/13 23:36
 馬鹿の八景 05

 今度の水害は常総市の怠慢そのものだろう。九州地区での雨台風災害と比べて同じ位
である。だがその災害状況は九州と違い凄まじく住民達には悲しく気の毒に思う。がこ
の災害は馬鹿な市長や議員を選んだ事による災害だ。筑後市でも家を建ててはいけない
場所に新幹線の駅を建て今度は球団がやって来ると言う。全く常軌を逸した土地開発で
ある。たぶんこの鬼怒川のこの地も全く同じでこの地は耕作地で開発させたものが宅地
に転用させたのだろう。行政の怠慢に他ならない。江戸時代にはそうした水害があって
も死人の出ない街作りも今では 全く無謀な都市計画の上にこの街が出来上がってしま
った事を物語っている。更に酷いのは堤防の養生林が全く無い状態である事だ。国土交
通省のいい加減さである。本来ならこれだけ激流の河川で名前すらも暴れ川の異名であ
る鬼怒川とされる中で 竹林も桜樹も無いと言うのは越水決壊は想定していない事にな
る。それは可笑しな話であって 勝手な河川管理基準や予算の無さで切ってしまってい
たのだろう。大体明治の昔から河川の決壊は裏手がもぎ取られる事は解っている事だ。
そして第三に市長が全く避難勧告をしていない事だ。それは逆に近くの住民に推移する
水位を報告する役をつけていない事による。市長も何処まで危険性を承知していたかは
不明だが 明らかに殺したのは市長や管理者そして住民同士の意志疎通である。災害は
あったとしても死人や車ごと流された人が居るのは 人々の自然現象に対する傲慢な態
度が今回のような未曾有の被害を起こしたと言えよう。更に大事な事はこの市役所内に
置いている災害対策やハザードマップがいい加減である事だ。今後もこうした市町村は
確実に多くなるであろう。家すらも今や土壁の家がなく 基礎ごと浮いていて本来であ
る近代簡素住宅の極みを今回も見せつけている。。木杭撃ちこみして頭芯よるコンクリ
ートの巻き工法であるならこの濁流でも流されず 家が浮く事も無かったであろうがそ
うした事の無い豪奢な家で 今や重量強度のみの近代力学の新工法が日本には全く向い
ていない建築基準法で事河川堤の傍では全く不備である事がここに証明されている。
又日本人はこの避難警報を出せなかった事を肝に銘じるべきだ。今安倍首相が安保法案
を出している事は 当然この出せなかった事の責任と同じで出して国民を指導している
話で政治家であるゆえんである。野党のように全く無責任な言動と批判では 平和が保
てないどころか 国民の命すら守れないのである。

97: 名無しさんAA:15/09/17 21:47 ID:9M.

いざ酔い いざ並み いざ晒場 41

 中東やアフリカ難民がヨーロッパに押し寄せて来ている。アメリカでは大統領選に向
かって憶微もなくブッシュはイラク戦争は間違いなかった。今のオバマ政権が弱い為に
ISISが出来たと言う馬鹿な共和党討論会が在っている。シリアではアサド大統領が
反政府軍の人達も停戦してISISを殲滅させようと呼びかけている。不思議な事だ。
そもそもイラクとビンラディンは敵対者である。アフガンでの戦争は911の仕返しと
言ってもイラク戦争はブッシュの私怨であろう。911事件すらブッシュサークルの中
での行動だった事が明らかにされ更にビンラディンそのものがブッシュの親友だった事
が明らかにされていてるのに全くトランプ氏ぐらいしかまともな論戦を張る人間がいな
いと言うお粗末な国の大統領選だこれでは世界は混乱する。今どきこのシリアの戦争難
民が押し寄せる理由はISISがレバノンやアレッポを制圧し首都ダマスカスやら接近
している為だろう。更に今の石油の値段はISISにもアサドにも手痛い価格であろう
そこで政府軍は多分に国民を養えないしISISは難民の国外逃亡に荒稼ぎをしている
ものと推測される。大体なぜ米国はアサド政権を支えようとしなかったのか。疑問符が
残る。戦争が起こり民衆と共に過激派がシリア国内に乱入して来た事は確かで 更に突
然と起こったアラブ革命は一体何だったのかが気にかかる。これこそメディア王マード
ックやブッシュ率いる武器商人の暗躍では無かったのか。今やIT流行りでこの難民達
もスマホ片手に歩いて来ている。こうも多人数では過激派やISISのテロリスト達が
中に紛れ込んでいても不明であろう。この危険性は日本にやって来た赤スズメバチとい
う繁殖力や攻撃性の高い外来種の危険性と全く同じだ。これではドイツが甘い汁で誘っ
たと批判されても仕方ないだろう。どう考えてもイスラム教を捨ててまでやって来たと
は言えないだろう。IMFが言う様にアメリカの金利はクリスマス商戦以降でなければ
ショックは大きいつまり2月頃と推測出来る。であれば恐らく日本円の高騰と株の下落
で日本は税金を上げる事など不可能である。日本発の大不況は出来ないつまり逆に5%
に食料品を引き下げて先に景気回復とデフレ脱却を確実にすべきであると言える。



98: 名無しさんAA:15/09/18 19:23
 馬鹿の八景 06

 国会前がデモで覆い尽されて デモの大きさが解る。だが70年安保に比べて若者は
恐らく冷やかに見てる事が2CHで解る。すなわち物資補給に武器弾薬がつき空中補給
が可能になったぐらいの法案で後はPKOに兵員の武器携行と身の保全が違法ではない
とされるぐらだが 失礼な事に野党はこぞって戦争法案と断罪して決めつけている。一
方維新の会は我々議員に票を入れた市民が国会周辺のほんの1%位の大騒ぎする人々と
勘違いした物言いだ。民主党は協議の上の書き換えか全面抗戦かで決まっていない中で
抗戦の方で一方的に押し切られたと解説者は言う。付帯決議として「全て国会の承認を
得る事」とした次世代の党あたりが全くまともで 日本人の多くは戦争法案反対ではな
く 全てに文官統制としてシビリアンコントロールが効いた法案かどうかが大きな関心
事であったはずだ。かつて鳩山内閣が出来た理由は 民主党も自民党と同じの自由主義
を標榜した米国と共に日本が歩いて来た道を同じ様に共有出来るものと信じて、今の国
債垂れ流し予算を切り詰めてもらえるものとして投票されたものだったのだ。野田内閣
で政権交代して多くの国と言う物国会というもの与党というものを学んだだろうと期待
する山場のはずが何んとも神聖な国会議事堂で迷走する議論と徹底した廃案要請の議会
更に混乱に拍車をかける運営に全く失望してしまう。今だ時代錯誤の70年安保時代の
亡霊のような思想にすがった野党の論拠には自衛隊の位置決めが全くなされていない。
実質軍隊という姿が憲法違反と言うなら 今の災害救助は別に自衛隊にさせるなと言う
べきであろうし 平和憲法と叫ぶなら一切の軍備を捨てろと叫ぶべきだ。戦争反対は誰
もが思い苦心していて戦争賛成と言う国民性が日本にあるとは思わない。もし山本氏の
ような牛歩戦術や犬の遠吠えのような長時間演説或いは今の様な維新の党のような考え
では そもそもの日本の歴史や海外対応をして代表的特権である政府や国会論戦を任せ
られるはずはない。国が二分しもいい国会が混乱してもいい自民党の暴挙をPRする為
にも挑発しよう。などというのは 全く子供の理論で 小学生すらも賛成しない姿だ。



99: 名無しさんAA:15/09/18 23:45 ID:4GI
激しい攻防とは言え 安保議論は国防審議であるはずだが それが憲法論議にすり替え
た野党の罪は大きい。野党の馬鹿騒ぎのその責任を次の選挙は国民は問うべきだ。

100: 名無しさんAA:15/09/20 10:12 ID:/O6
 老境の至り39 

 戦争法案などと野党が叫んだ法案は可決された。安倍首相は全く勘違いしている。さ
しもの女に強い鴻池委員長も疲れただろうが この法案はもっと議論は尽くすべきだっ
たと言える。だが当初の党首対談時でもこうした安保の大きな論議は無かった。ここに
問題がある。そもそも議会運営委員会と言うのは全く無能としか言いようが無い。こん
な争乱のような議会をやるなら もっと突き詰めた党首討論を何回でも開くべきだった
と言える。その方が与党野党共に国民に理解が深まったはずだが それが野党が烏合の
衆の戯れなのか全く統一見解が無かった事で国民には理解出来ない形になった。この法
案の希望するところの自衛隊のジレンマやリスクの軽減がなされたかと言えばそれが全
くなされていない。未だに自衛隊は軍隊では無く救援隊の位置付けであろうし野党の中
には違法軍隊としての位置にあるようだ。これまで安全保障条約によりかかり米国艦船
と核の傘に守られていたものが 友好国から同盟国に代わって貰いたいとの条件なのだ
ろう庇護する米兵を助けろとの流れは竹下政権時代から次々に増えている。思いやり予
算とする米軍費用負担 偏狭な思想のイスラエルへの援助や例のホルムズ海峡の海雷撤
去インド洋沖の給油など数々の国際要請に対応してきた。更に東チモールのPKO以来
かなりの危ない地域への恒久的派遣要請が来ているのだろう。今でも南スーダンに派遣
して活動しているし北朝鮮情勢も怪しい雲行きであるし中国の急伸する軍事費は世界の
脅威になっている。しかし野党特に民主党はこうした世界の変化に無頓着のようだ。現
に沖縄の辺野古移設問題もこうした世界情勢に全く対応しない言動で今の混乱がある。
これではかつての御前会議の軍部と同じである。今回の国会混乱も全く同質で選挙後や
或いは安倍氏訪米演説の後でも何故傾向と対策を打ち出さなかったのか不満である。そ
の対抗する法案が無いが為に全く国防論には至らない。暴力否定もいいが凶悪犯人には
全く無防備では警官役は務まらない。北朝鮮ミサイルが日本を超える事や護衛する米船
を守れないでは 友好国と言えども米国が憂慮する所だろう。が日本は平和を希求して
紛争国すらにも和平に前進するよう手伝う事は仕方ない事ではある 殊の外難しい事だが



101: 名無しさんAA:15/09/27 11:28
私の番組評176

 日曜のいい時間にワイドなショーと言うのがある。なんでいい時間帯の折角の企画の
良い番組に 松本人志とか東なんかの非常識人間をが登場させているのかまったくTV
局の馬鹿さにあきれる。他のTV局も 旅行や町歩き或いは食べ物といった 人の原始
的欲情の部分しか番組にしなくて 知的ものや世情の経済物にはうとく 全く今のTV
局の放送構成は 一般市民からはずれて行くばかりである。丁度漫画界が全くの戦闘の
ゲーム構成で行くように 人類を馬鹿ばかりの人の群れにして行くようだ。まったく、
過去においてブルジョワジーと言われた時代の 市民がパン暴動をしているのに王様が
贅沢の限りを尽くしていると言う 人の醜悪心や嫌悪心を拡散拡大を目指した様な風潮
は全く それこそ戦争の素を作っている事であろう。間違った考え方や間違った言葉を
すんなりと発言するを肯定しては 自由意見と言うのは全くフザケタ話である。明石家
さんまの番組でブラックマヨネーズが殺人示唆し 陰部の切断を指導した。結果その人
はその意見の通りの事件を起こした。近頃の話で有名な弁護士をなぐり 失神させた上
での陰部切断 廃棄事件である。これについて全く放送の倫理委員会は発表をしていな
いし ニュースもTV業界でなく他の業界の話のごとく何も無い状態で 国立競技場の
話を主にしている。国立競技場のコメンティターも全く無責任極まる言葉を発言しては
市民の共感をさせる。おかしな話である。そもフクシマ原発事故の時 一般論である話
で 原子炉は2重3重にも安全で放射能が振る事は無いとのコメントを発した責任は、
TV局は取ったのか 更にその後のどういった報道でそうした誤報道や煽り立て発言を
止める工夫をするようにしたのか。更に勝手に中国報道で中華人民共和国と勝手に自国
の都合の悪い報道はしないとの約束は日本国民の自由からかけ離れた犯罪的制約のはず
でそれらを実行しているとしたら 日本国憲法の違反であるはずだが全く取り締まって
いない。こうした事を契約した新聞社やTV局は 日本国憲法違反業者として発表すべ
きと指導すべき法務省や自治省も全くだんまりを決め込んでいる。これが犯罪ではなく
て一体何を犯罪というのだろうか。中国では年間50万人が無実の罪で隠れて死刑執行
されていると噂されるのに。子供さえ20万人が行方知れず40万人が人の売り買いを
されている。こうした現実をよそにゲームにふけり先導するTV局とは一体何なのだ。


102: 名無しさんAA:15/10/01 18:33


 老境の至り 40 


 マイナンバーカードは全く馬鹿げたカードだ。今までカードナンバーは秘匿する。更
に個人情報の面から 本人以外住所や氏名は解らなくする。と言う政府答弁だったが、
全く免許証の様に 簡単にカードナンバーが表書きされ しかもその中に住所氏名を書
きいれられ更には写真までつけると言う。正に本末転倒のカードの様だ。つまり不正利
用や偽造カードを作りなさい。と言わんばかりの 全くそこらの免許証やパスポートと
変わらない作り方で 全く地域行政や自治体が扱う様なカードにはなっていない。本来
オンラインで扱うなら 暗証番号で開く筈のカード番号と本人名称や住所は カードの
落し物だけで駄々漏れである。全く馬鹿官僚丸出しのカードで繊細なそして律義な日本
人が使うカードにはとてもなっていない。馬鹿げた話でありこれは今度の安保法案やら
五輪エンブレムや国立競技場の撤回以上に国民は撤回して反対すべきものである。まず
裏におけるICカードチップに埋め込まれた情報を読み取れれば済む話であってこれを
2つ埋め込んで片方を誰もがかき出し読み込み出来るものとして作れば 別にこうした
カードの外に名称や住所は要らないのである。更にもう一つのICで本局のメインコン
ピューターにつながればそれでいい筈である。全く日本の技術力を馬鹿にして尚いい加
減で発行しようと言うのは 全く国民を馬鹿にしている。更にこうしたカードの不正の
対処の法律は全く成立していない。今でも個人情報保護で本人にすら知らせない秘密主
義の多い中で 正当に本人に障害にならないカード運用を定めるべきで更にこうした悪
意ある使い方に対してどういった補償がありその不正利用を止める為にどういう仕組み
をやっていくのか全く分からないままである。これはおかしな話である。近頃同じ様な
コンビニカードを作った途端に 融資や買い物案内が知らない所から来ている事を思え
ばとても市役所や県で対応できるかは 不安のままである。全く対応用の部署も作らず
地方の税務課も県や国の税務署と連携せず受け付けもせずいるのは 行政の個々の中で
も不埒な中で こんなカードが出たら全く特権の乱用しかならないのは目に見えている
私はカード発行には賛成だが これでは駄目だ。こんな出鱈目カードを出すというのは
高石氏は全く馬鹿ではないのか。もっと考えろ。国民よ怒れ。


103: 名無しさんAA:15/10/16 00:58 ID:iLM
酔い奴彼(よいどれ)の舟歌39

 現代はゲバタリアン時代だと言う。大橋巨泉のゲバゲバではないがこのゲバと言う 
言葉は、ゲバルトの略称であるらしい。つまり力とか暴力とか粗暴な振舞いと言う意味
らしい。確かに今や学校で先生達が教えているのは、今や権利や自己主張やアピールや
順位を教えて何ら恥じず、更にゲームではアイテムやら武器やら技などが主流で点数を
稼ぐ方式だ。つまり昔言っていた「人は人を利用する様になったら人ではない。」との
言葉は死語になったようだ。昔なら幼児も大人も「自分で出来る事は自分でする。その
上で頼むべき時は神でも仏様にも頼む。」と言った思想が今や「何もかも利用できる物
や者は利用する。更に用無しになれば廃棄し捨てれば良い。」と言った風潮である。そ
してそれを最大限行う為にには 一にも二にもゲバルトつまり攻撃する力なのだ。とい
う まるで戦争しようと言う姿勢であり兵士の養成所の心得のようにある。これは西洋
流の狩猟民族的本能からの姿勢なのだろう。このゲバタリアンと言うのは非常に怖い話
である。つまりは日本での軍国主義、米国の兵器主義、独国ユダヤ排除主義或いは中国
の独裁主義の大元となった原素思想であるからだ。日本でこれまで必要としなかっただ
ろう安保法案を創ったのはそれらの台頭の表れであろうし戦争法案と叫び戦争反対を叫
び続ける姿も又同じであろう。更にそれを利用してツイッターになり済ましのデマ記事
が出る。というのもゲバタリアンの成せる技と言える。正に企業経営者達そのものが今
やVW社ならずともオリンパスや東芝の不祥事三菱や年金機構などのもみ消しなど起こ
る今回広がった東洋ゴムや三井住友不動産の話は深刻な構造問題である。まず日本有数
の旭化成や日立の名前が挙がっている。だが果てしてこれは杭工事者の問題なのだろう
か。杭工事に関して言えば殆どが設計図指示による長さや工法指定のものである。つま
りはこの三井住友不動産と三井住友建設の問題であるといえる。今や打撃工法は行わな
いし杭頭処理もPC使用から切断破壊はなく増設補強と変わってる。この事から全く今
行われているニュースは間違った報道である。更に言えば過去も現在も土木建築は造る
前の品物であり不動産情報で建てる前の説明会やパンフはあくまで予想の範囲である。
消費者もその土地の事情である谷があったり山であったりした土地の建物を買った理由
もあるし 常時地盤は隆起の上下運動や微振動と共に人の生活上の環境劣化も起こして
いる。更にその工事に千人以上が関わったとしてその改ざんは千分の1の極悪人なのだ
今や百人に1人はゲバタリアンはいるだろう。つまりそのやった人より管理体制や社会
情勢なのだ。それは先の冷蔵庫に寝た投稿写真で倒産するような消費ゲバ市民ゲバ時代に入ったようだ。

104: 名無しさんAA:15/10/16 19:36


  酔い奴彼(よいどれ)の舟歌40

 この頃可笑しな話が多すぎる。NTTファイナンスから料金のお支払として最終通告
などと称したはがきが来た。支払おうとコンビニに行くと支払いには請求書が必要です
などと言う。成程好く言えばこれは只の通告書なのだ。だが悪く言えば詐欺としか言え
ない。正規の振り込み書をつけないと言うのは あの忌まわしい年金機構の詐欺商法が
蔓延していると言う形だ。年金機構も自らは金を領収しといて領収書は手帳記載ですの
で発行しませんなどと言っては受け取っていた。私の1年分はその年金事務所の飲み会
で使われこれの調査以来は結局ははその本人が受付すると言う可笑しな構造だから県の
相談窓口に言えば今度はその年金事務所から直接威嚇の電話が入る始末福岡県も大牟田
保険事務所もグルで悪びれない。つまりは形や体裁さえ整えればどうでもいいのである
。これは今回のこの最終通告として支払いを命じていながら請求書を添付しないNTT
のやり方で全く国民生活の同意にはなって無い違法行為なのだが各銀行がこうした事を
簡単に行うのだ。そもそも我々はファイナンス会社などとは契約していない。更には、
憲法には同等の権利を持って契約を結ぶとある。例え銀行の貸金やら融資或いはカード
ローンの契約が支払いが遅れた時にはファイナンスやヤクザまがいの高金利会社への移
転があると記載したとしても殆ど無効の筈である。何故なら本人の知らぬ間に個人情報
が転移させられていると言うのは住民票の売り買いと全く同じで被害者を奴隷扱いして
いる事だからだ。更に払う気があっても人々は日中は働きある意味会社に時間売りをし
そうそう出歩かれる立場にはない。この事を踏まえても自らの会社の効率優先でコール
センターを通し夜間窓口もなく本格的問い合わせもしないと言うのはヤクザより始末が
悪い悪行である。支払いに言って請求のみで金も受け取らず領収書も発行せず土地取り
上げをした過去の地上げ屋のしぐさそのものである。これらはNTTに特捜班や警察や
検察が捜査しないからこうなるのである。今回の増税の話もそうだ。まるで税金は政府
の物だと言わんばかりに麻生氏は軽減税率に公明党にちゃんと始末つけてやってくれ。
などと言う。これは全く不愉快どころか税は国民のものであり国民の為に使う事で納税
義務の発生がある。それは還付とか福祉の話ではない。そもそも議員はその国民意見の
集約としての義務を果たせていない。税は国民のものであり支払った後も国民のもので


105: 名無しさんAA:15/10/16 19:36
センターを通し夜間窓口もなく本格的問い合わせもしないと言うのはヤクザより始末が
悪い悪行である。支払いに言って請求のみで金も受け取らず領収書も発行せず土地取り
上げをした過去の地上げ屋のしぐさそのものである。これらはNTTに特捜班や警察や
検察が捜査しないからこうなるのである。今回の増税の話もそうだ。まるで税金は政府
の物だと言わんばかりに麻生氏は軽減税率に公明党にちゃんと始末つけてやってくれ。
などと言う。これは全く不愉快どころか税は国民のものであり国民の為に使う事で納税
義務の発生がある。それは還付とか福祉の話ではない。そもそも議員はその国民意見の
集約としての義務を果たせていない。税は国民のものであり支払った後も国民のもので
在る筈だ。何も財務省や議員の物では無い。信任を受けてその使い方のみを負託してい
るのであって徴収の平等性を議論すべきでその意味では何も増税をしないで増収になれ
ばいいはずで本末転倒のマイナンバーや増税しての軽減税率などはもっての外で違法性
が強い。まず口に入れる物すべてを5%にすれば済む話で雑貨と食品を分ければそれだ
けで充分である。よく税率を下げれば税収が下がると言われるが全く正しくない。流通
に於いて 安価な商品がでていきなり高価な商品を凌いだ売り上げになった事は多々あ
るのだ。つまり税収と税率はそのままの相対グラフや歳入予想する財務省には解らない
のが筋のはずだ。




106: 名無しさんAA:15/10/17 01:48 ID:9M.
酔い奴彼(よいどれ)の舟歌 40

 現代社会のシステムは全く政治家や経営者に違法認識が少なすぎる。今度のTPPの
甘利大臣も国内での違法行為となるものを排除しようとしているが 自ら出席して決め
決めるまで苦労したからと言って 勝手に数人の政治家で違法が行われる事には 全く
合点がいかない。企業も同じだ。今回三井住友不動産と三井住友建設の発表は違法その
ものだ。成程旭化成に不正があったとして懲罰徴収金は欲しいだろう。だがこの決定に
は勝手なパワハラでしかない。およそ300憶から500憶はかかるだろうとする建替
え案を一個人の不動産会社の社長と言う立場で即断即応で言うのはとても社会適合人間
すなわち日本の遵法精神を持った人間だとは言い難い。先の格安航空会社の飛行機キャ
ンセルで会社を身売りし倒産させる社長と同じく 社長業とりわけ経営者の資格や行為
を逸脱している。もしニュースや解説通りその言葉を信じるならば責任転嫁もはなはだ
しく 東京思想のあまりにも身勝手な消費者や住民を誑かした甘い言葉である。極論で
言えば昔も今もこうした家や土地の購入は自己責任の筈である。それは何故か。不動の
資産とされるからだ。土地の特に山や川にどうあがいても 気象災害やら交通距離は全
く変わる事がない。交通事情や利便性或いは不作に対した適応研究はあろうがそもそも
の山地は山地であり谷は谷であり海の崖地は海の崖地なのだ。山を良く知る山好きな人
が浜辺に住んで高潮でやられたと不動産会社に補償を求めるだろうか。それと同じであ
る。たった3cmの差が出たから資料が改竄されていたからと大騒ぎしている不動産や
TV解説者の方がどうかしている。もともと支持層やら固い岩盤などと称される地層は
地層として石になっている訳ではない。軽石やら火山弾層或いは砂質層で在って 全く
動かない地層はこの世に存在しない。問題は摩擦耐力が少なかった層だったと言う基本
的建築学を逸脱した所だったろうと思われるだけである。要は設計思想がどこまでつき
つめた設計をしていたかに尽きる。軟弱地盤の羽田空港すらあの何百トンの地耐力が掛
るとされる滑走路を運用しているのだ。関空などは今も沈んでいる。要は利便性効率性
経済性のみでの無理な建物を無理な所に無理な金額で造ったと言う事でしかない。この
金の亡者のような東京思想は全く間違っている。国立競技場の進め方も解体ありきのや
り方もやりすぎだが金額が高いと先の発表を白紙にするのもやり過ぎだ。この戦後世代
のゲバタリアン達のやってる事言っている事は迫力や実行力はあるが全く現状に即して
いない。もっと慎め謹め国民や消費者は泣いて嘆いている。あまりにも翻弄されている
大戦時代の軍部より悪いではないか。

107: 名無しさんAA:15/10/19 19:45 ID:CH6
どうも三井住友不動産や三井住友建設は勘違いしている。法規上は全く旭化成建材に
落ち度はない。如何にデーター改竄が出てセメント量が違っていたとしても管理するの
は三井住友建設であり 30mmの沈下がいけないとする監理基準の行使は三井住友不
動産の勝手な数値なのだ。通常は設計事務所が入り設計事務所の指導の下工事は行われ
る。それは施工主となる消費者でも発注主となる施工者側ではない。例えば図面や仕様
書といったものが出される理由はそれが造られるべき正確な予想図としての指示書だか
らだ。日本では見積もり仕様書や内訳数量表の類をわざわざ設計契約書ではないと規定
して天下り法人が法規外に持ってきて指導している。だが世界中でそんな法外な違法措
置をあらかじめ言っている所は日本でしか無い。つまり全くの非合法な規定を国土交通
省ないし建設省が指導していたと言う事だ。これは中曽根内閣の指導のもとに行われた
。実はそうした図面通りの工作物や建物を造る為にそれ以前は責任者常駐を規定してい
た。すなわちどんな小さな孫請けであろうと責任を持つ者が管理監督をすべきと規定し
発注者である三井住友不動産からは造る為の作業期間全てに於いて派遣が昔なら必要だ
ったのだ。更に三井住友建設はおろか下請けではいる日立ハイテクや旭建材もすべての
業者は立会いが金額いかんに関わらず必要だったのだ。それがいつの間にか経済的理由
や日本の工事発注に絡み海外企業の国内受注に合わせてそのままその法律は廃棄された
。この時一緒に廃棄されたのが警察主導の話し合いの金額調整の会合である。いわゆる
縄張りと言われる談合体質だ。今や高速道路のみに緊急対応としての区間管理規定をし
業者決めを行っているが そもそも民間でも公共工事でも殆どが瑕疵担保メンテナンス
条項を規定し補償と補修や工事工作物件には業者特定が成されていた。それを中曽根政
権は全く無くした自由競争の安価入札こそ妥当と決めその法律を整備したのである。そ
こで出来たのが欠陥住宅の安売り競争である。かつての昔の通常であればこうした類の
沈下は許されないであろう。だが今はこの沈下量が規定内か規定外かで確実に違う。そ
して建築基準法違反や建設業法違反を視野に県の行政指導を考えている様だが筋違いで
ある。この建築物を認可した民間代行の認可事務所の指導であれば解るが三井住友建設
以外には何ら問えないのだ。三井住友が最初から高さや支持力の検査を怠り更に 今の
掘削工法で支持基盤が足りないなどとは不明でありかつての打撃工法のような支持力が
足りないと言えば継足して問題無かったなどというのは愚行な意見で全くそうした金額
の変更や沈下量許容値や設計変更の窓口などが契約書に記入があったとは思えない。更
に支持層立会いや杭搬入立会などがあれば当然知り得る立場にあり自らが変更を指導す
る立場であって くい打ち業者は設計通りの杭の打設や設置が行われているなら問題は
ないのである。

108: 名無しさんAA:15/10/22 09:32
  酔い奴彼(よいどれ)の舟歌 41

 今回の三井住友不動産事件に関係して2つの面白い事項がある。一つは佐賀大事件で
ある。どういうわけか佐賀大学は詳細な設計図面を描いて入札しておきながら確認申請
を自らしない。つまり設計と建設を分けない発注の仕方をする。所謂帳簿上の経費隠し
を堂々と行っている形だ。本来基本設計を営繕課が行いそれに基ずいて設計事務所が発
注し設計料を払って監理設計を行う物だがそういう手間や予算を一切省いている。この
形態は土木工事に多い。本来どんな小さな土木工事であっても一級建築士の構造計算が
必要であったが一級施工技士の資格が出来た頃からその構造計算は少しおざなりになっ
た。がその資格士がちゃんとした図面を書けばまだいい方で 全く地質も工法も工事の
内容把握さえおぼつかない中年の係長や課長クラスが実務を取り仕切り新任に管理させ
ている例は非常に多い。市町村クラスで都市計画から法規まではなかなか厄介だろうと
は思うがそれが出来ないなら工事発注はしてはいけない。ましては豊前の九州縦断道路
のような土地収用する事はほとんど違法措置といえる。この福岡体質が如実に出ている
物件が久留米の花畑欠陥マンションと言われる「新生マンション花畑西」。1996年竣工
、鉄骨鉄筋コンクリート造(SRC造)92戸 の物件で、そのうち58戸の住民らが欠陥マン
ションだとして提訴している事件だ。花畑駅前の区画整理や駅新装に伴い出て来た土地
の再利用としてがめつく急いだ企画運営をして出来た物なのだろうと思われるが、この
工事の施工業者がスーパーゼネコンの鹿島だから大きな問題がある。所謂地方ゼネコン
とされる地域企業はその工事一つ一つに命運がかかっているので失敗は許されないが、
こうした大手はかなり強い政治力や有力者権力を有して仕事をしてる。つまり経費があ

109: 名無しさんAA:15/10/22 09:32
うと思われるが、この
工事の施工業者がスーパーゼネコンの鹿島だから大きな問題がある。所謂地方ゼネコン
とされる地域企業はその工事一つ一つに命運がかかっているので失敗は許されないが、
こうした大手はかなり強い政治力や有力者権力を有して仕事をしてる。つまり経費があ
る種圧迫しての工事が多い。原告の主張によると構造計算の際に地盤の耐震強度が建築
基準法の基準の35%しかないこと、柱と梁の配置が不適切で鉄骨柱と梁が結合されてい
ないこと、コンクリートのかぶり厚不足と中性化の進行など、設計・施工上の欠陥を挙
げて、鹿島や木村建築研究所らが建物の基本的安全性を欠くことのないようにすべき安
全配慮義務を怠ったとして損害賠償を求めている。更にマンションの耐震強度が不足し
震度6強の地震で倒壊の恐れがあるとして、近くの住民まで不安にしている。対する被
告側の鹿島建設や設計・監理者の(株)木村建築研究所や設計者の(株)ユーアンドエ
ー設計事務所は、施工業者は「設計の問題で関係ない」、監理者は「署名押印は偽造で
、監理していない」「意匠図面を作成しただけ」と述べ、欠陥の責任を負う当事者では
ないという姿勢だ。この設計の意匠設計と構造設計の分離作成こそ大きな問題で 例え
単一業者でも多々ある光景だ。日本の産業技術と世界の消費経済の戦いの中に3k労働
があってその中の一つの事例と見れば国立競技場の白紙こそ許せない話になる。こうし
た偽装と言うよりは持場の経済重視で融通のない分業化の影響はかなり頻発していて 
東京青山では三菱地所レジデンスが竣工目前だった超高級分譲マンションを、基礎だけ
残して取り壊し建て直す事件が起こっている。こうした背景をを政府や議員は悪びれな
い。



110: 名無しさんAA:15/10/22 13:56
  いざ酔い いざ並み いざ晒場 46

 韓国はいよいよ支離滅裂の時代に入ったらしい。朴政権は中国の軍事パレードに国連
事務総長と共に出席し 対日批判の慰安婦像という恥ずかしい自画像を撤去する気を見
せない。そうした中で朝鮮新聞が書いた記事に上乗せした産経新聞に有罪の判決を出し
ながら自国の新聞には全く裁判すらする気はないと言う。韓国民族は今だ法治国家なら
ずの無法の国家の位置から上を目指す気は無いらしい。それが今後の国際情勢に大きな
災いのような暗い影を起こしている。中国やロシアのような表立っての共産国として敵
対国の中に居るのなら解からないではないが 韓国は表向きは西側諸国の一員としての
振舞いをしている。更に対北朝鮮の南北戦争は終わっていない状態で米国に負んぶに抱
っこ状態で米韓同盟を行っている。にも関わらず経済も安保にも中国寄りを示している
。これにも増して異様なのが英国の対応である。あれだけ危険な原子力発電所を中国の
入った企業に発注し 今後の中国発行国債の取り扱いを増やすと言う不貞さだ。西側諸
国のリーダーとしての地位もここまで落ちれば世も末であろう。AIIBの資金繰りの
苦肉の策で拠出金請求と共にそれに対した無償援助の勝手な値段と考えればマレーシア
と同じやり方と考えれば理解出来よう。だがそれが地球の経済崩壊今の通貨体制の切り
崩しに動く事は火を見るより明らかで今後イギリスが中国製品しか買い入れない経済に
縮小する事を意味している。それを知っての事か今後の元の貿易幅即ち元の融通交換を
拡大し円やドル以上にする様に思っている。だが裏打ちの無い只の紙切れで中国の信用
取引を加速するというのは全く持って倫理に反する。先のフランスの原発事業の買い入
れやドイツの食物市場の買収アメリカの旅客機300機4,5兆円の爆買いなどなど、
何処の国も寛容な通貨措置である。そもそもこうした勝手に発行される勝手な通貨で、
爆買い出来るなら地球資源は遠の昔に無くなり信用など必要なく小貧国でも大金持ちに
直ぐになれる。中国は輸出入が切れる事無く通貨が使用できるとしたニューノーマル、
新常態の経済学としているがそれはあり得ない。一般では信用出来る帳簿が赤字ならば
それなりの対処した商売になるまずは国の自由を規制し出鱈目の数字を公表し人権どこ
ろか国内自由交通の権利すらない国が勝手な小切手を切って商売するというのはあり得
無い話で今度の英国外交で上海株が紙くずであり香港株すら意味の無いものである事が
知れ渡ったようだ。こうした中国の台頭で恐らく地球資源が根こそぎ無くなるどろう。
つまり イギリスは正に今回戦争の為の道義に劣る倫理なき外交に踏み切った事になる。


111: 名無しさんAA:15/10/23 18:23
 馬鹿の八景 06

 今回迂回献金問題で歯科医師会が会長逮捕という事で謝罪した。しかしこれは許され
無い話だ。なるほど会長指導で事は起こったのであろう。だがこれは欺瞞である。これ
までも幾つかの汚職や違法な選挙支援を行いながら今回の不祥事である。警察や検察は
この組織を10年間程の解体と違法行為の懲罰で3憶円程の徴収をすべきなのだ。こう
した大人の社会で当然の良識者の集まりとしていたものが全くのヤクザまがいの違法な
支援組織となり下がっている。当選議員が悪質有力者で在る可能性も高く次々と出るこ
うした平等公平な選挙を経済格差による強制一物選挙とする悪質な芽は早いうちに摘む
事は大きな重要な事である。鹿児島での冤罪DNA事件が発生している。鹿児島県警や
鹿児島検察は腐れているとしか言いようが無い。
今度のマンション沈下の問題で 旭化成は魔女狩りにあっている。あろうことか茨城県
などは旭化成に公表して欲しいなどと言っている。これは公共自治体の怠慢の他何もの
でもない。その上に石井大臣は大臣として発表を指示した。これは大きな違法行為であ
る。未だ犯罪者も実質被害者も無い中に個人事業や事業主をつるしあげての自由を拘束
し強制指導をいれたのだ。今ときどきに教育の中で 平和とかちょっとした意見や放送
大学などの試験問題などで 自主規制と称して団体が個人を規制する事が多々ある。こ
の事自体は大きな犯罪であるにも関わらずマスメディアは全く攻撃しない。政権に左右
されたり大衆烏合主義に流されたこうした事は批判し叩くべきである。特に今回の石井
大臣は完全にこの発表で真意のない物に規制すると言う犯罪を犯したのだ。弾劾裁判を
し徹底的に公民権はく奪をすべきである。こんな大臣資格のない大臣を選んだ事は安倍
氏の政権は退陣すべきである。まず企業にも個人としての税がかかり基本的人権に似た
権利はあるのである。公務員こそがそうした認可の空印を発行した罪が問われるはずだ



112: 名無しさんAA:15/10/29 23:34 ID:lUw
(国会・政治批判)

 老境の至り 42

 全く 国土交通省は一体何の法律的権限で今度の旭建材に指示をしているのだろうか
。建物の管理や販売主体は当然三井住友プレゼンシャル不動産のはずだ。顧客への責任
や建物の保守或いは安全性については当然彼らが負う責任である。もし仮に違法建築物
であったとしても 旭建材や日立には何ら落ち度が無い限りに責任は無い。それどころ
か今言われているデーター偽造やデーター改竄や記録改ざんなどとTVが言っているが
それは全く間違いである。基本的にこの資料データーはあくまで現場補足の確認資料で
縮小コピーや再現データーが違法と言う判断はない。問題はそこの受注建設会社の管理
や設計事務所の監理更に発注主体の知識や認識の程度である。北海道も流用データーが

113: 名無しさんAA:15/10/29 23:35
であったとしても 旭建材や日立には何ら落ち度が無い限りに責任は無い。それどころ
か今言われているデーター偽造やデーター改竄や記録改ざんなどとTVが言っているが
それは全く間違いである。基本的にこの資料データーはあくまで現場補足の確認資料で
縮小コピーや再現データーが違法と言う判断はない。問題はそこの受注建設会社の管理
や設計事務所の監理更に発注主体の知識や認識の程度である。北海道も流用データーが
見つかったとか横浜でも出たと盛んに声明を発表しているのだが問題はその監理をして
いた発注者の管理監督責任である。土質が変われば当然工法も長さも変わる。又その時
の状況で最低最悪の条件でのくい打ちとなる事もある。更に大型重機による施工には各
所に危険がつきものだ。タワークレーンなりキャタピラークレーンが倒壊して3軒もの
家が壊れたニュースや通行人や車が壊れた事もある。つまりその時の指示において作業
員は作業を行っているのだ。更に機器の不具合やら人の不注意でデーター管理がなされ
ていない時もあり得る。つまりデーター流用についてはなんら法的責任はないのが実情
の筈だ。もっと言えば建物の支持についてはその物件の強度計算者に頼っている以上は
土質確認やデーター管理はその発注者側にある。仮に確認も要らない程の土地での重量
物であれば構造計算上は認可される。問題は静的重量に対して動的荷重である2,5倍
更に世界の安全基準とする2倍が係数となる。つまり本来土地には建物となるに変化す
る荷重の5倍が必要な耐性となるが日本の法律では2,5倍のみを安全基準としている
それは経済的理由からだがそれ以上に今日的入札基準では競争安価方式で安く仕上げな
さいとなっているし より良く設計しても過重設計の批判が絶えず、そうした 例えば
ドイツの100年構造と言われる様な設計や監理で厳しく検査する事は工期も金も不足
で地方議会や会計検査院からは違法とさえ言われる。本来こうした瑕疵責任は販売者や
建設企画者が負うべきものであり作る前の設計審査にその監理を問うものである。世界
中で日本程請負者や作業者にそうしたパワハラや同等の権利を逸した契約を有効とする
国はない。ましては日本の木造住宅ではかつては杭その物を打たない家すらあった中で
発注者の強硬な経済優先の理論が通っていた中で技術者や作業員は命を削って建ててい
た経過がある。それが更に安価競争方式の横並びの上天下り工法の促進では欠陥のない
ものがある筈が無い。国立競技場の入札後の取り消し見て解るはずだ。違法役人だらけ
と言える。放射能数値もこうした力学数値も法を変えても自然は変わらないのだ。


114: 名無しさんAA:15/10/30 15:38
 マネーマネーものまねー 20

 インドは中国の不景気に今だと言わんばかりに国際的進出を狙う。今回インドで行わ
れたアフリカとの国際会議にそうした論調が聞かれる。だが当の中国は今や元を片手に
政府自ら爆買いを行っている。アメリカのボーイングを300機買い付けたかと思えば
ボーイング社の中国工場建設を後押ししている。そうした経済優位を片手に南シナ海の
強引な島作りは着々と軌道に乗って5島共に今年中には軍事施設として機能するに至る
はずだと豪語する。事実滑走路港湾施設レーダー施設は既に仕上げの段階にある島も多
い。この近隣各国が黙っているのは実は輸出入に占める中国の割合がかなり高い事にあ
る。更に言えばこの軍事施設で影響があるのは一部の漁民だけで本当に影響があるのは
韓国・日本・豪州の3カ国のみで後は米国の艦隊通過の自由が損なわれる位だ。つまり
は環海洋国では決して看過できないもののアメリカや日本或いはオーストラリアの動向
によるだけの話で収まっているのだ。この占領に5人以上が艦隊の重機関銃の機銃操射
を受けたフィリピンさえも今だ中国からの謝罪や補償の話は来ない。そうした人権無視
の中で今度は欧州訪問しては原子力発電施設投資や各種の事業拡大投資を話をつけ帰っ
て行った。馬鹿なキャメロン首相は大喜びだがその尖兵であったブレア首相は今や尋問
の嵐である。ブッシュJrの勝手な私怨で始まったビンラディン狩りが911やイラク
戦争に発展した事にイギリス諜報部が何ら機能しなかった事の不満と派兵の結果の死者
の多さからだ。更に香港を現中国政府に返還したミスは香港市民の怒りの頂点でもある
。結果的に幾つもの政治ミスをイギリスは反省し検証しようとしているが日本でそうい
う姿勢はない。最も隣のフランスでも同じ様に中国のエアバス買い入れにもろ手を挙げ
て喜んでいる様子だ。300機と言う同数と言う事もさりながらそもそも原子炉自体も
中国の売り込みは実はフランスの原発の模造品なのだ。今だ格納容器を作れない技術の
低さで周辺機器や建物を作ろうと言うのだから驚きだ。高速鉄道事故は自国だが原発の
事故が起きればヨーロッパ中が影響を避けられない。更に鉄道で味をしめたのかエアー
バス納入も自国の組み立てを目論んでいると言われる。既に外貨準備高も輸出農業産品
の売り上げ位に底ついていると言われる中で帳簿上はまだまだとしている所は気がかり
である。今年の3〜4%の実質GDP伸びも発表では6.9とされる。来年は0〜ー2
%が限度と噂される中でも一向に強気である。それだけ国内の軍部の動向は強いのだろ
う。仮に南沙の海がこのままであれば 中国は覇者として世界を牛耳る事で他国は今の
ウイグル以上の悲惨な憂き目にあうであろう。それはインドも同じだこの国の人口の多
さは他国にとっては地獄と同じだ。

115: 名無しさんAA:15/10/30 15:39
 インドは中国の不景気に今だと言わんばかりに国際的進出を狙う。今回インドで行わ
れたアフリカとの国際会議にそうした論調が聞かれる。だが当の中国は今や元を片手に
政府自ら爆買いを行っている。アメリカのボーイングを300機買い付けたかと思えば
ボーイング社の中国工場建設を後押ししている。そうした経済優位を片手に南シナ海の
強引な島作りは着々と軌道に乗って5島共に今年中には軍事施設として機能するに至る
はずだと豪語する。事実滑走路港湾施設レーダー施設は既に仕上げの段階にある島も多
い。この近隣各国が黙っているのは実は輸出入に占める中国の割合がかなり高い事にあ
る。更に言えばこの軍事施設で影響があるのは一部の漁民だけで本当に影響があるのは
韓国・日本・豪州の3カ国のみで後は米国の艦隊通過の自由が損なわれる位だ。つまり
は環海洋国では決して看過できないもののアメリカや日本或いはオーストラリアの動向
によるだけの話で収まっているのだ。この占領に5人以上が艦隊の重機関銃の機銃操射
を受けたフィリピンさえも今だ中国からの謝罪や補償の話は来ない。そうした人権無視
の中で今度は欧州訪問しては原子力発電施設投資や各種の事業拡大投資を話をつけ帰っ
て行った。馬鹿なキャメロン首相は大喜びだがその尖兵であったブレア首相は今や尋問
の嵐である。ブッシュJrの勝手な私怨で始まったビンラディン狩りが911やイラク
戦争に発展した事にイギリス諜報部が何ら機能しなかった事の不満と派兵の結果の死者
の多さからだ。更に香港を現中国政府に返還したミスは香港市民の怒りの頂点でもある
。結果的に幾つもの政治ミスをイギリスは反省し検証しようとしているが日本でそうい
う姿勢はない。最も隣のフランスでも同じ様に中国のエアバス買い入れにもろ手を挙げ
て喜んでいる様子だ。300機と言う同数と言う事もさりながらそもそも原子炉自体も
中国の売り込みは実はフランスの原発の模造品なのだ。今だ格納容器を作れない技術の
低さで周辺機器や建物を作ろうと言うのだから驚きだ。高速鉄道事故は自国だが原発の
事故が起きればヨーロッパ中が影響を避けられない。更に鉄道で味をしめたのかエアー
バス納入も自国の組み立てを目論んでいると言われる。既に外貨準備高も輸出農業産品
の売り上げ位に底ついていると言われる中で帳簿上はまだまだとしている所は気がかり
である。今年の3〜4%の実質GDP伸びも発表では6.9とされる。来年は0〜ー2
%が限度と噂される中でも一向に強気である。それだけ国内の軍部の動向は強いのだろ
う。仮に南沙の海がこのままであれば 中国は覇者として世界を牛耳る事で他国は今の
ウイグル以上の悲惨な憂き目にあうであろう。それはインドも同じだこの国の人口の多
さは他国にとっては地獄と同じだ。大きい市場が目の前にあるなどと言う経営者は馬鹿
の骨頂である。無防備の漁民に乱射して喜ぶ国民の前に何の説く声が聞こえようか。

116: 自称 六代目山口組若頭代行れす:15/10/30 20:12 ID:2sE
 山健組の馬鹿やくざの織田(五代目バカ姉のバター犬)よ何時までもチンケな喧嘩せんと本当の喧嘩してみろよ、俺が相手してやるから名古屋に来い。来週の金曜(11月6日)の午後8時に錦3丁目の日建錦ビルの向かいにある三井リパーク・錦第17に来いよ、遊んでやるぞ。一人で来るのが怖いなら井上のパパや5代目のバカ姉も一緒でもいいぞ。本当の喧嘩教えてやるぞ。
 こんなチンケな全面戦争見たことねえぞ。

 関会長さん、竹内会長さん、イイ顔になりましたね、会える時を楽しみしています。
 あと、可愛い姉さんたちも会える時を楽しみにしってぞ、、、、、、アリやで。

 本ヤクザのみんな、『男を研け!』。。。以上れす。

117: 名無しさんAA:15/10/31 10:08 ID:7Y2
 いざ酔い いざ並み いざ晒場 49

 韓国ではロッキードマーチン社が 迎撃ロケット砲すなわち地上配備型迎撃システム
「高高度防衛ミサイル(THAAD)」などについて今も協議しているものと認識して
いる。とインタービューに答えた。ところが韓国国会で馬鹿議員のやり玉となりその結
果マーチン社は前言撤回しTV局は売りたい為の茶番劇だったと批判した。がこれは又
韓国特有の見栄っ張りである。米国の核心技術移転拒否で窮地に立たされていた韓国の
国産戦闘機「KFX」開発事業についても、朴槿恵は期限内に成功するよう進める方針で
防衛事業庁長は米国政府が移転承認を拒否した四つの主要システム技術は10年で国内
開発出来るとし670憶ウォンを認可した。だが新車の開発でも1千憶ウォンかかる時
代に今更こんな金でと疑問視されている。もともとKAMD構築に17兆ウォン必要と
されKFXには40兆ウォン必要で今まで20兆ウォンを使っている。さらに探知装備
のレーダー衛星とグローバルホーク、イージス駆逐艦まで含む場合、60兆ウォンを超
えるのは確かのようだ。今年の国防部の年間総予算が36兆ウォン程度だからの1.7
倍である。こうした無駄金を使いながら潜水艦は動かない駆逐艦は砲台に問題アリなど
指摘されている。だが韓国は、実は中国経済の変調が明確で経済関係を強めていだけに
経済悪化が深刻化して今や秒読み段階に入っている。これは米国の利上げ方針がいつ発
動されるかにかかっている。韓国からの資本逃避が今や加速し、対ドルでウォンが暴落
する寸前の可能性が強まっている。そこで今年2月に日本に「通貨スワップ必要なし」
と強硬なにべにもしない態度から一転して寄りついている。アベノミクスに伴う円安で
韓国の輸出競争力が今後加速低下すると見られ、今や悪材料が顕在化して外貨準備高は
9月末時点で3681億ドルで世界7位規模になったとされるが、実際には米国が利上
げを送られている恩恵の下にある。そうした韓国経済界の思いを反映してか、10月の
国際通貨基金(IMF)と世界銀行の年次総会では「多国間通貨スワップなどのセーフ
ティーネットで金融危機を予防する必要がある」と発表し今や蹴っていた日韓首脳会談
を呼びかけている。日本はこうした我儘で馬鹿な韓国をまともに相手は出来ないとは知
っていながらも極東和平は日米韓の結束が永遠の排他主義国中国の戦争要望を解くもの
としてじっと耐えて笑顔を見せている。


118: 名無しさんAA:15/10/31 10:14
もし日本が韓国の首脳会談を受けるのなら 竹島問題の解決である国際紛争裁判所への
共同提訴を条件にすべきだし 通貨スワップ再開には竹島返還が条件であるとしなけれ
ばならない。でなければロシアの偵察機は後を絶たない。米中国紛争には竹島占領こそ
がロシアの狙うところで在り ロシアにとって朝鮮半島占領は簡単な事だからだ。もっ
と韓国には強くなって貰わねば 日本は困るのである。


119: 名無しさんAA:15/11/02 16:11 ID:dfE
 老境の至り 43

 日中韓の三者の首脳会談が行われた。しかしこれは馬鹿げているとしか言いようが無
い。大体竹島自体がマッカサ―・ラインを全く逸脱して1952年勝手に李承晩ライン
を宣言したもので、マッカーサー の退任にこれに代わるものとして韓国 初代大統領李
承晩は韓国政府の名の下に一方的に宣言した。これに対して日米両国は「国際法上の慣
例を無視した措置」として強く抗議した。しかし、当時の日本はサンフランシスコ平和
条約を署名はしていたものの その発効の3ヶ月前で日本の主権は無い中にあり 政府
としての主権の回復が国際的にはしておらず、その虚をわざとついて宣言したものだっ
た。また当時の米国には日本の一部としての朝鮮半島と言う見方がなく属国人という立
場をも理解していなかった。つまり白人世界にある植民地で奴隷である韓国人を解放し
た正義の使者の戦勝国という考えを強要したのである。従ってまだ日本の海上自衛隊の
前身組織である海上警備隊・警備隊も存在していなかった。こうした勝手な軍事境界線
を作った事で、これに違反したとされた漁船の主として日本国籍、ほか中華人民共和国
或いは中華民国船は 韓国側によって臨検、拿捕、接収、銃撃を受けるなどした。この
時の銃撃により乗組員が殺害される事件も第一大邦丸事件など起こっている。こうした
事で日韓基本条約締結を叫ぶ声が強く、戦後補償の廃棄やこの日本人抑留者は累計3929
人の帰還とその補償の廃棄と共に日韓漁業協定の成立させた。これにより死傷者数44
人は顧みらねぬ中になったが6畳の板の間に30人が一日一食も満たない中で桶一杯の
水で過ごしたと言う拉致された抑留者達が帰って来る事になった。実はこうした事の混
乱こそが北朝鮮の日本人拉致につながったと言われている。つまり補給線の分断作戦で
アメリカは勝ったように見えるがその実は北朝鮮人と韓国人を見分ける事は不可能だっ
た。その為に日本人以外の船舶は横行して蛮行を行っていたのである。更に従軍慰安婦
問題もこの韓国は大きく捏造しており 連行そのものは韓国人が行い慰安婦宿の設営は
やっても運営は別の現地民が行っていたのが通常である。更に日韓基本条約締結時に、
戦後補償の放棄した事で無償借款や融資を行った訳で その意味でも国内問題をわざわ
ざ国際問題化しようとしている。つまりは竹島は世界の誰もが知る様に日本の領土だし
慰安婦問題は 戦争の一悲劇でしか無いものを国内問題をあえて大きく国際問題化して
いる姑息な国と何故日本は付き合わなければならないのか。それは大きな疑問だ汚い者
とは離れる これは日本の未来選択の基本だ



120: 名無しさんAA:15/11/02 17:48
 いざ酔い いざ並み いざ晒場 50

 中国人民銀行(中央銀行)は2日、人民元取引の目安となる対ドル基準値を大幅に
引き上げ、前週末比0.54%高の1ドル=6.3154元に設定した。ロイター通信によると1
日の切り上げ幅としては、中国が人民元の改革に着手した2005年以来最大 前週末10月
30日の終値は同6.3175元だった。同日、元は大幅に上昇しており、人民銀が介入した
とみられている。人民銀は8月に切り下げを断行したが、11月にも判断される、国際
通貨基金(IMF)の「特別引き出し権(SDR)」算定基準通貨入りを意識し、市場実勢を
反映した人民元政策をアピールする意図があるもようだ。 と伝えている。だが人民元
は5元まで引き下げなければ不安定のままであろう。トルコでは1日に行われた国会(
定数550)の出直し総選挙は、レジェプ・タイップ・エルドアン(Recep Tayyip Erdogan)大統領の与党・公正発展党(AKP)が過半数を回復し、単独政権の座を再び獲得する
見込みとなった。と伝えている。クルド人勢力の票が1万票もその反対派に流れたとい
う。こんな事があり得るだろうか。全くの不正選挙であろう。事実クルド人の和平デモ
でさえ爆破事件が起こった事は現政権与党に力が無い事を示し 東京での混乱はそうし
たオスマン系トルコ人の強硬な人が広がっている事を示す物だろう。大体日本に来てま
でそうそう乱闘事件を起こす必要は無いはずだがまず民主主義ではないと言う証左であ
ろう。更にエジプト東部シナイ半島では31日、ロシアの航空会社「コガルイムアビア
」のチャーター旅客機(乗員・乗客224人)が墜落したことについて、エジプトの
イスマイル首相は31日、墜落現場を視察後にカイロで記者会見し、音声記録などを収
めたブラックボックスを回収したことを明らかにした。たぶんこれで原因が暴かれるだ
ろうと思うが この残骸状態からは全く荷物に爆発物が入っていたと考えられるような
残骸だ。もし機体異常ならこの広大な陸地には着陸可能の様に見える。というのが普通
の見方である。更にロシア政府のテロでは無いと発表したのは早すぎる。つまりロシア
は今外貨の出国にはかなり神経質のようだ。更にウクライナでの死亡兵士やシリア空爆
を隠したい要因がある。中国流共産圏特有の考え方で言えば政府工作もあり得ると言う



121: 名無しさんAA:15/11/05 18:46
 馬鹿の八景 10

 本当に行政の怠慢に憤る事は私だけだろうか。夫婦別称問題とか渋谷の馬鹿なパート
ナーシップ条例など市議会や区議会議員は一体何故こんな阿保な行為に力を入れ本当の
仕事をしないのか。呆れかえる。今回の鉄道自殺した少年については50人以上の生徒
が認知していた上に噂までなっていた中に親しき人間には「もう駄目だ」ともまで打ち
明けているのに担任教師も校長も何ら虐めは無かったとの報告である。更にそれを監理
監督する教育委員会はあくまで知らんふりである。未来ある児童を預かって居ながら、
お粗末な教師しか育てていない現状なら 何故教育委員会など組織する必要があるのか
更にそんなに無情無慈悲な生徒を作りだすシステムしか持たないなら機能として著しい
人害である。こういう悪を放置する議会とは必要無いであろう。大体京都における住居
に旅館不足で客を泊めると言う事のある事自体が政府の怠慢である。中国国内には今だ
中国人用の日本の旅行会社は無い。つまり中国側に規制が掛り日本の規律ある旅行会社
はそこに存在しない中 中国人達は勝手な日本政府のピザや旅券発行にOKを入れて、
更にその旅行客枠を大幅に増やしたのである。つまりインフラや危険ながけ崩れを整備
しないまま ただただ住宅地を整備したようなものだ。こうした事は今後遺恨を残す事
故を引き起こす事は明らかである。こうした事の政府の指導力不足は全く昔のままであ
る。事実東北大震災でも原発事故でもそうした足元の固めの甘さの事が今や震災死亡者
の多さの原因でもある。全くたった5cm程度の高層ビルの傾きを大々的ニュースにし
ているかと思えば根源的な教育システムの崩壊やこうした経済的重税方針の考え方には
全くニュースにしていない。重税して補助金で補う制度は明らかに作業手間を広げては
効率を阻害しては格差社会を広げ貧民を多く排出して社会混乱を巻き起こしている事が
何故解らないのだろうか。大体派遣社員が自由な時間で都合のよい働き方が出来るとす
るのは幻想でしかない。今の会社での労働環境に自由な時間で都合のよい環境が無い事
の方が労働基準法違反である。誰でも怪我し病気になれば治療する権利はある。更には
会社自体も個人の家庭環境に合った条件を言って契約する義務が会社にはある。それが
同等の権利と同等の立場の契約である。妊婦になった親が入院した子供が・・と言う事
の理由は従業員にあってそれによる差別で首にする解雇するパワハラが起きるというの
は全く会社や社会でなく囚人の世界である。つまり法的に平等の権限最低の生活は約束
されると謳う以上 今日の派遣労働者法やパートタイムの法案は労働基準局の怠慢が蔓
延して来て違法労働が横行した結果でしかない。なんと哀れな美味し国日本の状況か


122: 名無しさんAA:15/11/11 04:24 ID:P26
 老境の至り 45

 やっぱり自民党では日本はだめなのか。安倍首相は早々と退任して解散総選挙すべき
との声が挙がるのは時間の問題なのかも知れない。閣僚が悪過ぎて政策は見えず態度が
悪い。まず国会開催は法にかなった事で開催しない事が違法である事は議員として知る
べき法律だ。これをうっとしいからやめて一笑に飛ばすというのは全く誤解もはなはだ
しい。今回決まった安保法案の現実的対応や今後の米国との対応の中身は国民が一番知
って置かねばならない事だし又知らせておかねばならない事のはずだ。更に国民に時間
をかけて理解してもらう努力をすると言う事には嘘偽りがあってはならない。又TPP
が大筋合意したが今だその協議内容の一文の一行すら伝わって来ない。他の国々の政府
が既にそのTPP戦略を練っているはずの中日本だけは今だ固い口を割らない事件の犯
人のごとくに何ら公式発表がない。こんな馬鹿な政府であってはならない。国民の怒り
はそこにある。8%増税時も全く好不況を抜きにして更に税収を抜きにして更に国民の
声や現状の分析を抜きにして上げてしまった。とどうだバカみたいなインフレに相対的
国民所得が下がっただけで一部市民の特に公務員の給与生活が楽になっただけで格差の
社会の悪習はそのまま事件ばかりを起こしているではないか。東芝やシャープなど業績
悪化はそうした公務員にならんだ給与体系であり私企業ならばこんな地方自治体運営で
は倒産である。全くなにをもって税の取り立て権限があるのか。人を国民を幸せに出来
ないなら早々と辞任解散総選挙すべきであろう。こんどのBPOに対する総務省の対応
にしても政府は不遜な行為をしたと謝るべきである。監督権の立場は国家を揺るがしか
ねない殺人教唆や傷害教唆の報道ならともかくニュース報道のそれに設定や詰めが甘く
ニュースにそぐわなかったと言うだけである。しかも放送法の倫理規定で言えばNHK
個別の任意意見聴取は別の経営諮問会議がある中での話だ。首相は「何らおかしな事は
ない。」とかばっているがこうした公けの中で個人をかばう姿こそ政治ではない。全く
私的日本国運営では 先の小泉政権の馬鹿げた戦争参加と同じ話でである。小泉氏も今
盛んに原子力発電を反対しているが イラクやアフガンの国家崩壊の中の今日的状況に
何ら後悔の念や謝罪の言葉はない。これは腐れた政治家の見本とも言える。



123: 名無しさんAA:15/11/12 02:27
  酔い奴彼(よいどれ)の舟歌 44

 建設業界は軒並み大きな今世紀初の黒字の純利益を出している。これは可笑しな事だ
。建設大手4社と不動産大手5社の平成27年9月中間連結決算が10日出そろい、全
社が東京五輪に向けた投資が拡大する中、建設4社はいずれも営業利益が過去最高とな
り、28年3月期業績予想も全社が上方修正した。不動産大手5社も、オフィスビル市
況の改善から3社が営業最高益を更新した。とされる。つまり企業家は今や高い東京の
地価に満足している。という話である。更に言えば東京オリンピックならずとも近況の
外国人観光客はウナギ登りの盛況ぶりで 中国人爆買いを始め他国からの移住も多い。
そんな背景があるのだろう。更に中国人の水源買いは今も続いていて 今だ政府は何も
規制を敷いてはいない。そしてあろうことか上海市の商業施設管理会社、上海豫園旅游
商城は11日、北海道のスキーリゾート、星野リゾートトマム(占冠村)を買収すると
発表した。トマムの株式100%を星野リゾートなどから183億円で取得するとして
。激増する中国人訪日客を取り込み、収益増を図るつもりだという。北海道トマムは、
総合大型リゾート地でスキー場とホテル、ゴルフ場を持つパウダースノーで有名な所で
、今や海外観光客にも定評があるところだ。一時期オーストラリア人がニセコが豪州村
になったと噂だったが日本のニュースはそんなことは気にしないらしい。東京ではハラ
ームと言うイスラム教仕様の食品に台東区が資金援助や補助を行うと言う。ちょっとま
てと言いたい。日本人の血税の税金が数多くの破産と同じ市町村債券を自治体が発行し
その金で韓国語やら中国語のパンフレットを出しの東京都内では補助するというのだ。
 大体中国国内では偽札は今でも横行している。銀行から新札が偽札が出て来る事も又
良くある事らしい。各小売店では今でも偽造チェックのブラックライトやその偽造チェ
ックが欠かせない。だが中国政府自体が一向にそうした偽造不可能な紙幣に変更する気
はないしそもそも偽物大国でどんな優れた印刷でも直ぐに物真似されると言う危険から
偽造団との戦いをやる気は無い。それでも銀嶺のカードは数々発行されインターネット
は有効なのである。全く不思議な経済システムがそのまま中国国内で運用されその大量
の裏書のない紙幣という手形で大きな金額でさえ世界中で爆買いなのだ。


124: 名無しさんAA:15/11/12 02:55
 だが 今や日本の技術者や技能者の中に若者は少ない。というより今でも建設業界は
3Kを放置してきたままで 自らが危険汚いきついのままをやってきては 三井住友の
様なトップダウンの軍隊方式のままで経済合理主義の最大利益追求と工期至上主義のま
まで物を造る。国立競技場の話を持ち出すまでも無く 複雑な曲線でもやりやすい直線
で平米単価は変わらず 作る前からの価格提示と競争入札のままなのだ。更に陰湿なの
は同じ三井住友であればあるほど他社に抜きんでて安価追求をされる事だ。耐えられな
い下請けの多くは労働力単価を上げずそのまま社員としない或いは保険にかけない更に
外国人雇用を図るなど経費削減を徹底して安く仕上げる事を旨としている。つまり人間
の生産ロボット化である。全く人としての暮らしを考えずのままだが、それでも日本は
過去から現代までずっーとそうしてきたのである。但し昔は職人は造作造営の神だった
のが今や誰でも出来るとされるままの下層労働帯なのだ。それでも更に過酷な外国人な
どの徴用は絶えない。国はそうしたものを補助するし自国民にはそうした厳しい教育を
残念ながら全くしていない。危険汚いきついの中身を教えないし教師自体甘い。今後の
中国を見ると経済学者の多くは今や中国経済は、鉄鋼・金属・石油・化学工業など全て
に 生産過剰であり、不動産バブルの崩壊や地方政府債務の増大で大変だろうと見てい
る。だが日本はこの様子に政治家は無頓着にも韓国や中国との首脳会談をしてすり寄る
この先深刻な状況に陥るだろうと見ている中で何ら日本の浮上策を見いだせないままに
海外の安価な労働力に生産拠点を移しては日本に輸入するのだ。悪態にも程がある。日
本は本来そうした国じゃない。建設業界も市役所や都や安藤氏のようなデザイナー世界
の様な安易な世界ではない。競争入札などと言う馬鹿げた安価競争で技術は伸びない。
中国方式はその最たるものだが その中身がマンホール爆発・鬼城出現・新築倒壊建物
取り壊し・港湾施設大爆発などなのだ。そんな国に日本がなろうとする現実が建設業に
ある。これまで中国のGDPを支えていた輸出、消費、投資のその全てが完全に頭打ち
なのは計画性ある進歩がなかったからだが まるで不動産のいいなりに作る建設業の様
だ。中国も今後は中央政府頼みの経済なのだが インフラ整備、不動産建設、製造業支
援などの投資は、いずれも将来への借金として既に行い今や需要もない状態に陥ったの
だ。つまり価格インフレの中でのデフレ化と言う八方塞がりの中国経済がこれからは進
んで行くのでかなりのレベルまで下降していくだろうとしている。事実既に日本企業の
決算は中国に関連しているかどうかでかなり利益率を変えている。

125: 名無しさんAA:15/11/15 08:13 ID:bPI
  酔い奴彼(よいどれ)の舟歌 46

 MRJの初飛行が成功した。これからが本格的売り込みと言った所だろ。色々なデー
ターを取りそれなりのテストをし試験飛行となるが 日本と同時期中国でも国産中距離
ジェット旅客機「C919」なる機体が完成して2日に中国商用飛機公司の上海工場で
政府や業界関係者にお披露目されたという。国内の航空機産業を発展させ、欧州航空機
大手エアバスと米航空宇宙機器大手ボーイングの寡占状態にある市場でシェア切り崩し
を目指すらしい。更にこのMRJに対抗したモデルARJ21「翔鳳」を生産予定して
いて来月初旬には中国商用飛機有限責任公司(中国商飛)から成都航空公司に納入され
るという。「C919」は158人乗りでボーイング737、エアバスA320とほぼ同じだが
つい最近双方に300機ずつ納入の為の発注をして爆買いしたのはポ−ズだったのだろ
うか。なんとも不思議な隣国である。MRJは「三菱リージョナルジェット」の頭文字
を取っての名前らしいがその実多くの日本の航空産業が応援しているとされる。愛知県
営名古屋空港で初飛行をしたが国産の旅客機が製造されたのはYSII以来であるとい
う。1962年のプロペラ機の同機はその約10年後に生産を終了して幕引きしたが多くの
後進国はなぜもっと生産しない。と怒りにも似た声は高かった。だがこの時年間360
憶円の赤字だったらしいので一日1憶円の赤字ではさすがに生産できないであろう。そ
の赤字の最大の問題は売り込みに失敗したことだと言われる。この“日の丸旅客機”は
試作機を含めて百八十二機製造して順調に売り上げは伸ばしていた。がその取り立てが
出来ないまま分割支払いやリース料の滞納更に裁判に忙殺されるなどの憂き目にあった
所で気がつけば累積債務が314憶円という数字になっていたと言う話だ。過酷だった
理由が同業他社との販売競争であったと言われる。が一貫して言われるのが数多くの部
品供給を海外に頼って納入コストの高い計器類を使いコスト意識の低さがあった。と指
摘される。だが問題は政府支援が足切りを行った事だ。東京オリンピックの聖火を輸送
して華々しくあったが航空機は1000機売ってからが利益がでると言われる。それだ
け息の長い職種なのだ。事実YS11は今も尚現役なのは多くそれだけの商品価値があ
るものだと実証されて始めて高く売れるのである。


126: 名無しさんAA:15/11/15 08:13
 MRJは、日本の航空業界にとって新たな時代の幕開けとなる。更に産業界の復興契
機となるであろう。と新聞各社は述べる。確かに部品点数は自動車の10倍300万点
と言われ、それなりの独自仕様は他の国に真似されない技術や専用形状があって国内は
潤うはずだ。政府の下手な第三の矢よりも大きな景気浮揚に貢献するものであろう。が
しかしである。三洋電機の店じまいやシャープの不振をみれば 日本人特有の流行り病
の持病がある国民性で流行にそそのかされて全くYS−11の教訓を生かしてない。今
の時流であるせっかちでそっけない事は昔より更に進んで更に悪くしていると思われる
。かつて日米開戦時には戦艦大和よりは空母と零式戦闘機更に潜水艦について、欧米で
は相当の恐怖と脅威があったと言われる。それはドイツが繰り広げたと言われる近代戦
での最新兵器がその空を飛ぶ飛行機と海に沈む潜水艦更に遠くまで飛ばすロケットだっ
たからだ。通称ゼロ戦と呼ばれたこの戦闘機は当時あれだけ完成された機は他の国には
見当たらないとまで言わしめた程の飛行機だったのだ。その戦闘機の三菱がYS−11
を作った時もその完成度の高さに他は一斉に値下げ競争をした。今又「帰って来た三菱
」と言わしめるほど海外ではその評価は高い。只その昔と違う事が幾つかある。一つは
今やその競争すべき航空業界では大きなシェアを持つ巨象のカナダのボンバルディアも
今や結構な経営不振に仰いでいる。更に運行する旅客数は近年伸びて来たがその多くは
共産国即ちロシアや中国更にイスラム教国群だったのが中東の戦争やテロの影響を受け
更に今後に中国景気の減速で陰りが見えて来ている事だ。とは言えその事は今回発表さ
れたMRJには影響はあんまりない。そもそも飛行機には耐用年数があり更に近距離輸
送に対しての需要は大きくあるからだ。更にこのジェット機の今の優位性を確保してい
る事にある。かつてのYS11ではコスト意識が無かった製品と言われDC10との競
合でもそうそう優位性は無かった。だが今同じタイプの飛行機に対しての安さや燃費率
環境性能と言ったものはかなり高い。問題は今後のメンテに対するアフターであろう。
だがその点でも今ホンダが出した自家用飛行機と共に日本の物流と共同歩調取れれば、
大きく部品供給も楽になるであろうと思われる。



127: 名無しさんAA:15/11/17 19:50 ID:/uI
 いざ酔い いざ並み いざ晒場 51

 またもフランスでテロ事件が起きた様だ。130人程の人が死んでしまったと言う。
TVでは解説者がもっともらしい事を言うが 恐らくこれテロは失敗の結果であろう。
翌日はこの死んだ人に花をたむけて弔いする中に中国風に爆竹を鳴らした不届き者がい
たらしい。一斉に走り逃げ惑う人々がTVに映っている。このテロはオランド大統領が
サッカースタジアムで観戦中に行われた。13日金曜日フランス―ドイツ戦を的を絞っ
たものであったのだろう。チケットを持った自爆犯人が入り口の警備員ともみ合い自爆
をしてしまった事が解っている。この日フランスの財務大臣も観戦中であったとしてい
る。犯人像が特定される中だが この3班に分かれての犯人はスタジアム内での自爆だ
ったなら一桁違う死人が出ていたろう。仮に成功していれば要人の怪我に集まったSP
なり軍人なりが集まった所で更に自爆し警備の手薄になった所で銃の乱射があったかも
しれない。だがそれが出来なかった時にはそこに待機していた喫茶店やコンサートホー
ルを第二の計画として立てていたと考えられる。これは1月のシャルリ・エブドー新聞
社襲撃事件とほとんど同じ意図があるようだ。自由の国フランスでは自由とは戦い抜い
ていくものだと言う発想のもと市民には徹底した政教分離主義が置かれている。従って
日本と同じく学校内や政府内に一部の宗教色のある物は例えキリスト教であっても持ち
こむ事は出来ないらしい。この事は米国の自由と少しと言うより大きくかけ離れている
本当の自由主義を実行している。そうした中では敬虔なイスラム教徒は公共施設でアラ
ーを祈り恭順を示す事は全く出来ないし アメリカ流の進化論の世界とキリストの言葉
ありきの世界で神が人を作ったと言う創生界が戦う事は全く無い。科学は学問であり、
学問は学問で不偏的世界であり、宗教は各自の独自の世界としているのだ。そうした意
味において経済難民や移民としてやってきたイスラム教徒は多くはその世俗主義の中で
生活する事になる。これがキリストでもイスラムでも原理主義者と呼ばれる頑なな排他
主義者には同じイスラム教徒の中での裏切り者として憎むべき相手として映るらしい。
つまりはムハンマドの風刺画やアラーの誹謗中傷を自由とする世界で許さないとする人
々が憤る状態なのだ。その中でフランスの国境するベルギーにはそうした人が銃器を持
ちスラムを作って生活していると言う。貧困で教育と就労が無い人々がイスラムの組合
的共済の中で生活しているのだ。そして困った事にそこにISからの誘いが来ている。
そうした事が真相のようだ。


128: 名無しさんAA:16/01/13 06:59 ID:iMM
 老境の至り 46

 民主党と言うのは 本当に馬鹿ぞろいなのか。アベノミクスの物価2%増が無い事で
アベノミクスの失敗を大論戦やっていながら 一方で公務員給与の引き上げを法案提出
とは。支離滅裂開いた口が塞がらない。公務員は年長補正給で 当然長年勤めていれば
年功序列で給与も役職も高くなる。一般的な会社と違って少々の汚職や怠慢経営は誰も
がやって居ながら目をつむり内部告白など少なく事実上の現業仕事は全く無い管理職業
なのである。このこの仕事しないサービス業が高すぎて日本の景気がデフレになり結局
一般企業の経費が高く着いた形で推移して来て日本が立ちいかない形になったのだ。又
食料品の消費税据え置きに 高額所得者優遇と試算している。確かにそうだがでは一律
負担にすれば高額所得者は損するのか。全く違うもっとお得に生きる事になるのだ。そ
もそもの税負担の規律を間違えたのは 法人負担額の無さなのだ。アメリカからやって
来た企業優遇策は全く間違えている事は先のリーマンショックで明らかな事だ。適正な
税適正な開示公正な議論こうした物の無い世界に明日は無い。こうした事の障害や障壁
となるのが独裁政治なのである。今も尚一党独裁の中国独裁国家の多い中東民主化しな
がら独裁的支配を行うロシアや韓国独裁をはばからない北朝鮮 こうした国の話は今年
の日本の動向に大きく作用する。今やアメリカでさえ国際協調なくば地獄絵になる事は
確かな世界なのだ。そうした中で何を呑気な論戦をやっているのだ。馬鹿もこれだけの
馬鹿なら議員など辞めて国会など閉じよと言いたい位だ。まず中国の公害は消える事は
無い。これは日本の公害出さない為の石油精製援助を勝手に中国側に変更させた日本の
監理監督官僚の間違いだ。これをまず是正するべきだ。更にこの事で上海株はまだまだ
下がるし自動車販売が急速に下がる何故なら今富裕者層は奇数偶数の二台保有をして来
たからだがそれが今年で終わるだろう。サウジの変化である。今やサウジは聞く耳を持
たない国に変化した様だ。イランとの話し合いは全くする気はなく国内異教徒排斥には
大きく傾いた形となっている様だ。これは今の難民問題と同じく大きな問題でOPEC
会議上すらあまり話し合いにならないのにはどうやらきな臭い匂いが大きく このまま
の原油30ドルのままなら産油国の株価投資金は同時に引き揚げに向かう事になる。こ
の対策を各国は取らなければいけない。勿論日本も同様なのである。


129: 名無しさんAA:16/02/24 19:22
幸運を呼びます。
0155251284まで電話下さい。

130: 名無しさんAA:16/03/04 19:02 ID:Wu6
 老境の至り 50

 今やアメリカの代表の為の予備選はなかなか可笑しな情景なのだが。大方の予想は、
共和党はルビオ候補となるだろう。との読みだったが暴言王とされるトランプ氏が共和
党選任では今やスーパーチューズディを制した。エスタブリュッシュメント打破という
聞きなれない言葉がでたが 結局は優位な人にはもっとアメリカを守り偉大なアメリカ
にするといい、劣位な人には改革と革命をワシントンやウォール街に左右されずに行う
。などと夢の様な事をいい、私は勝者でこんなに金持ちになった者だ私なら出来る。と
豪語して止まない。この間マスコミを言い様に翻弄させた為か米国中の新聞は「だれが
あいつの鼻をへし折るのか。暴言を聞きたくないから早くやれ。」との論調だったが、
今や過激な発言に対応してきた報道も慎重に現状を報告するに変化した。嘘つきサンダ
ースと同じに貧困層のみならず色んな事で仕事を増やしもっと金持ちにさせるという夢
を既存の権威者の既得権益を壊して行うなどと言っては膨らませている。日本人として
は戦々恐々の所だ。彼はなりふり構わず人気取りに徹していて「メキシコ境界には壁を
建てる。」といい、橋を架けるべきを壁を作るとは信者じゃない。と批判する法王に 
「法王という権威者が個人攻撃してはいけない。」とやんわり批判をかわし「日本を攻
撃されたらアメリカが助けアメリカが攻撃されても日本は助けに来ないなどと言うのは
不平等だ。」「中国や日本の輸入は規制して雇用を増やす。」などと言っては止まない
。新保守主義とされるネオコンの動きが振るわないのかブッシュを押しその後ルビオ氏
を押しそしてクルーズ氏を押そうとしている。一番妥当と思われたルビオは振るわなか
った為だが面白い事に白人優位主義者であるKKKがこのトランプの気風の良さに酔っ
て支持を表明している。本来なら一番支持の無いクルーズは早々に引っ込むべきだろう
がしかし2州を踏破し1州しか取れなかったルビオは劣勢のままで推移してしまいそう
だ。もしクルーズが引いたとすれば6割の国民がルビオを推すだろうに4割弱のトラン
プに3割の人気でも敗者には違わない。全体の1〜2割の得票でもクルーズに取っては
喜びの2州制覇である。これが民主主義の姿と言えば何んとも情けないとも言える。が
これが世界を変える覇権国米国の大統領というから何んとも不条理であるとも言える。


131: 名無しさんAA:16/03/09 19:14
【 路心要憂 】87

 今回西電力高浜原発3、4号機(福井県高浜町)の運転差し止めを求めての滋賀県の
住民が申し立てた仮処分について、大津地裁(山本善彦裁判長)は9日、取り合えあず
差し止めを命じる決定をした。仮処分は即時効力があるため、関電は不服申し立てなど
の手続きなどで決定を覆さない限り、この2基を法的に運転できない状態となった。又
今や営業運転中の3号機も即時、停止の手続きに入る必要がある。とニュースは伝えた
。ここは一つ地震大国の日本としては高浜原発を解体し高浜水素発電所にしたらどうだ
ろうか。今や太陽光発電は勢いである。が他の国々はその不安定性がゆえに高単価発電
となり今だ自然エナジーとしての役割を担うまでに成功してはいない。そこで日本では
安定性確保の為に一方でベース電源を確保する道として原子力を残している。がその危
険さは今だ多い中にあり福井の痛手は今だ終経ていない。が一方でそのベース電源を担
う安定化処理方法として水素化社会を推進しようとしている。この事は大きく太陽光の
補佐をし蓄電の負担を下げ二酸化炭素の低減に寄与する物として大きく推進すべきもの
であろう。であるならば電力会社は率先してその進化を図るべきであろう。今や燃料電
池と言う直接発電の仕組みすら車に取りつけられる技術を日本は持っている。ならば、
今の原子力発電所の敷地を広げ水素による発電所に変化させてそのまま送電線で送る事
も可能であろう。更に水素化の為の海水からの取り出しも 貯蔵せずにそのまま出来る
事を考えればより小さく燃料を保てると言える。この事で廃炉への転換も進む事はこの
後の稼働で出るだろう廃棄物を無くす作用もある。この事は結構大変な変更となるかも
知れないがそれでも未来社会への危険性の回避と今後の道のりへの建設投資と電力会社
の安定経営には欠かせない必須要件でこれは政府挙げて推進すべきであろう。更に言え
ば国際社会が激しく流動する中では こうした自前のエネルギー資源開発は国の為にも
なると考える。一考したらどうだろうか 政府も関電も 勿論多額の融資も必要だろう
が。東北の処分場建設より良いではないか。海中からの水素取りだしであれば市町村も
安心だろう。


132: 名無しさんAA:16/03/21 06:24
 追憶の彼方から24

 ヘルマンゲーリングは言った「人を意のままに操り動かすのは簡単な事だ。外に戦争
が起こっているとすれば 誰もが危険性に団結する。それは我が国だけでなく他の国に
も有効な手段である。とヒットラーに提言した。そしてワイマール憲法は平和と秩序を
守るために独裁の権限を得る事を正当化したのである。そのヒットラーも決してクーデ
ターや強権発動での政権党の党首になった訳ではない。一次大戦後に貧しい国民に恐慌
や貧困に対して「強いドイツを作る。今の弱腰の政府なんかおさらばだ」「ドイツ国民
は選ばれ民だ。この国民なら誰でも仕事がある。豊かな暮らしを約束する。」と力強く
演説し今の政権が弱腰だかはが貧しいのだ。と政権批判を言って人を煽ったのである。
 今アメリカ大統領予備選では共和党トランプ旋風が巻き起こっている。このトランプ
に「実に頭の良い実行力のある人だ。」とメディアや既存体制に悩むロシアのプーチン
には痛快に見えた様に称賛した。中国の新聞では「ムッソリーニとヒットラーを足して
割った様な人物が好評を得て支持されている。これは自由民主主義が欠陥である事をさ
らけ出している。」と我が国の共産主義や独裁主義が勝っていると言わんばかりの中国
である。が言い得て妙である。自らを律し自らを守る拳銃を持ち体制すら打倒できる個
を大事にしようと言うのが自由民主主義の基本精神である。イラク侵攻ではイラク国民
に食糧や金で操りフセインの銅像を倒す映像を演出した。チキンフォークチェイニーは
「史上最強の副大統領」と呼ばれ、その腹心の部下とされたラムズフェルド国防長官は
軍産複合体の体現者だったが 彼がその倒される銅像を見て、「これでイラク人も人を
殺す自由も得た。」とにやけたのである。 罪もない人々が何千人も死んだ911事件
がアメリカにとってプラスになるという考え方に基づいての行動がこのネオコンにはあ
った。実はこの911事件は1956年のよこしまなイスラエルの主張がある。そもそ
もイスラエル建国はイギリスやフランスの中東のバクダット人やアラブ人への根回しと
して共存共栄を掲げて入植を許したのである。今の中東人の様にユダヤ人達は疲弊した
国々の国民から虐げられていた。特にドイツに集められ家財道具や財産のない収容所待
ちや収容所送りされていた人々には行く所は無かったとも言える。ユダヤ協会の起って
の希望によりエルサレムの地に降り立ったユダヤは直ぐに優しいパレスチナ人を良い事
に排斥に向かい、第一次中東戦争で占領地を広げた。この事に兵器を持たなかったパレ
スチナ人は難民化しイスラエルは敵が無い事にスエズ運河の占領まで起こした。

133: 名無しさんAA:16/03/21 06:24
スエズ
動乱である。これこそが今日の中東人との因縁の憎しみを作り軋轢の元を作ったのだ。
それまで戦後復興に共存共栄してきた多くのイスラム人とユダヤ人に見えない鎖を敷い
たのだ。つまりユダヤ人は米英の後ろ盾を得て アラブの地でアラブ人排斥と領地拡大
が出来る事に大きな野心を起こしたのである。そしてアメリカに投資し企業を作った。

134: 名無しさんAA:16/03/21 23:06 ID:E0Y
 つまりイスラエルは英国を説き伏せアメリカを手懐ける事で世界を牛耳る事が出来て
思う様に出来る事を学んだのである。又それを信じその様に行動したのだ。パレスチナ
人が拳銃すら持たない中に戦車や戦闘機を送りこんで皆殺しにし特殊警察は拉致監禁を
日常やる事でイスラエルは建国当時のユダヤ人とパレスチナ人の共同国からユダヤ人の
為のユダヤ国家に変わって行った。そしてそれを苦々しく思っていたのは中東の国々で
あった。イランを始め各国でジハード戦士と言うボランティアの聖戦参加義勇軍が出来
た。これが今のテロ組織のもとになったのは言うまでもない。こうした混乱は英国も又
御他聞に洩れずイランに革命と称したハーレビ国王の排除をして独裁国家解体を迫って
市民を煽ったが却ってホメイニ導師と言うスンニ派の宗教者の地位を高めて自国の石油
安定供給を無にした。この時日本の不足する石油を買い付けし運んだのが出光その人で
あった。米国ではエジプトの仲介でサウジの国王に取り繕いキッシンジャはその後ドル
建てでの石油決済という共通通貨を承認させ エジプトもその富の分配に参加しようと
いち早くイスラエルとの握手をしたのだが その行為がイスラム教徒には裏切りに見え
はサダト大統領の暗殺とクーデターと言う代償でしか戻ってこなかった。その後イスラ
ムのムスラム同胞団が一時台頭しようとなったが いち早く軍部がそれを制した。この
国民的英雄としての軍の行為は今回のアラブの春でも同様な事が起こっている。この時
出来たのが白人支配を取り払うべく独立するアフリカ諸国でありその闘争心から出たの
がPLOのアラファト議長やカダフィ大佐でありフセイン大統領なのである。第二次世
界大戦が終わって間もない頃であり88年ぶりと言われるキューバも革命戦士チェ・ゲ
バラが今だ闘争中でカストロがもがきベトナムでは勝手に家を焼いては銃口を向ける米
国の海兵隊に住民は悩んでいたのである。討掃すべきポルポトは既に1960にはこの
ベトナムを経ってカンボジア共産党を組織したと言われている。日本が東京五輪大阪万
博と騒いでいる中で中東や東南アジアでは知ってか知らずか欧米は植民地との数々の戦
闘で現代の悩むるべき素を作っていたのである。

135: 名無しさんAA:16/03/23 03:26 ID:W9U
 追憶の彼方から25

 第一次大戦後ドイツが復興の最中 今だ失業中の多い中でヒットラーが叫ぶ現政権へ
の批判と「私達は未来に仕事を与える。」と言う言葉はそれ程魅力的では無かったはず
だが「こんな弱腰政治では 更に失業が増える。」と言う言葉はのろしの様にやっとの
仕事にありついた普通の人を恐怖に陥れた。その頃実は国内復興の目途がつき技術革新
も出来、需要も多くあって安定期に入る頃だったはずだとされる。それでもこの言葉で
大きくなったナチスは政権に近づきそして政権を手に入れた。恐怖政治の始まりである
。彼が手を付けたは今の中国と同じ「誇り高き栄光ある母国の復興。」である。この事
で最初に手掛けたのは「強い国ドイツ」の「自衛の為の再軍備」である。ドイツ国民に
も世界各国にもそれは「平和維持に貢献する為」と高らかに謳い上げた。そして各国も
多少の軍備は仕方ないとの合意もあった。ヒットラーにすれば軍事産業の復興は産業の
育成と失業者対策更にドイツ国民の強国宣伝と防衛と幾つもの政治的利益があるものと
して一石二鳥も三鳥も四鳥もあって手掛ける政策だった。だがいざ手掛けてみれば海外
に売りもしない自国の為の生産は無駄使いそのもので生活にもインフラ整備にも為らな
い無用の長物だったのである。特に戦争もしない軍隊の養成と雇用は隣国も又復興に邁
進して戦争などあり得ない時期であり特にそれだけで国家予算を食いつぶした事で数多
くの隠れた批判があった。この政策失敗はナチスの権力を高めたがヒットラー自身の自
信を無くし腹心達の責任の無い意見を簡単に通す役割を果たした。疲弊する国の立て直
しをしなければならない。懐疑的国民の目を欺かなければならない。不満の口を塞がね
ばならない。とそこで出て来たのが更なる防衛予算の拡大化での浮浪者や失業者或いは
若者の仕事作りだったし、懐疑的目を国外に向けさせるのに中立地帯への進出だった。
更に批判の声には例のごとく秘密警察の創設での国家権力の集中を図った。そして演説
や政策は戦争が無ければ戦争を作ればいい。と言う政策に変わり拡大化する領土での多
民族国家は「国民の団結」を叫んで「ユダヤ迫害」と言う共通意思を作った。この体質
は何処の国もありがちな「官費の多大な支出」教育における「団結精神の高揚」生活に
及ぶ「経済迫害の容認視」更に効率主義合理主義による「抑制なき権力行使」と言う事
の象徴でもある。中国が破綻した事は全く同じで日本の行き詰まりも米国の911もト
ランプ演説の声援も全くこの中にある。

136: 名無しさんAA:16/03/23 04:12
 この指導者達の間違いによる国家犯罪と言う物は全く国内向けに国外に大きく被害を
及ぼして止まない。又この「鼠の集団自殺行動」と同じ行為は実は生物の本質である。
木々の種子は天候に左右されるがそれでもあまり遠くまでは飛ばない。が彼らの生存圏
はかなり狭いはずだがそれでも植物は世界中に散らばり地球を覆う。今いる親の環境と
同じ所が他にあると信じて次々に新たな土地を探すからだ。この「新規開拓」の上での
「生存本能」は持って産まれた生物の生物足る所以とも言える。ただ人間の場合は手足
或る中で自らの進化も数多く遂げた事が今日に至った最大の特徴だ。国にして言えば、
国の中での改革や開拓が国を強くしたと言っても過言ではない。事実欧州社会がいち早
く国際社会を設けて大航海時代を迎えた理由も国内の産業革命であるし、日本がいち早
く国際社会に肩を並べた事も明治維新のつらさはあっても江戸時代の国内の革新があっ
てこその欧米文化を受け入れた柔軟さがあったからだ。猿の集団化比較論でも多くの猿
の幸せは指導者の間違いよりはボスを補佐すべき第二第三の実力者に野心が無い事であ
るしボスが第二に野心を起こさせない温情さが一番の安定拡大を示し外敵にも強い結果
が産まれている。その意味ではかつてのイギリスは死んだ様に不安定である。それが今
のEUのテロを呼んでいるとも言える。EU自体は結束が高く果敢に難民対策をやって
いていづれ収束するとも言えるがトルコの独裁がどう転ぶかがカギのようだ。日本では
「散る桜残る桜も散る桜」と言う言葉がある。人に恨まれて死ぬよりは惜しまれて死ぬ
事の方が本望である。とする考え方だ。良く自爆テロと特攻隊と一緒にされ混合される
がそれは全く違う。最後は国家意思で家族を残して特攻隊に至ったが 彼らは実は全く
死ぬ事に依存は無かったが 家族との再会は惜しんだのである。自爆テロで国家転覆は
しない。更に日本ではそうした個人の斬り込み隊の考えに神の思し召しなどない。死ん
だ者の弔いは死後は全く同一の平等と思っているのである。つまり人殺しを進める神が
今や日本にはいないのである。死は仏の世界と言うのが日本の一般観念である。



137: 名無しさんAA:16/03/29 00:12 ID:Fhw
 御馬鹿の八景 13

 2年間も拘束されていた女子中学生が保護された。無事親元に帰された訳で難波朋在
無事で善かったと他人ながらも安堵するが、それでも尚この犯人の男には大きな憤りを
感じる。そこにはとても違和感があり 日本の事件と思われない思考が存在している。
日本は仏教儒教と共に進化して他国にない進化社会を遂げた欧米から言えば異文化進化
島国で日本的に言わば未開の秘境の地の高度文明社会とも言うべき土地柄である。その
文化の基根を為しているのは「人は人としての一生をして大成と言える。」「人を信じ
て価値がある。」「人を操る悪い因果の芽を摘む修行が人生や。」などと 性善説の中
の社会を守る事を人生の主因としてきた民族だったのである。今や銃剣類には銃刀法と
言う規制を敷き素直にそれを守りルール以上に既成のマナーや公衆道徳を高め「御蔭様
」と言う何んとも対象相手の解らない言葉でも一般に使う様な有難さの上の自由。道徳
心の上の欲望を以って最上とする視点と姿勢と蹲踞をもっている存在だ。その国でこの
異様な拉致事件更に監禁事件そして身代金すら欲しない身勝手な行動の意志がそこにあ
る。北朝鮮放送では無いが「無慈悲な非道な」かつてない事件が頻繁に起きているので
ある。これは軽犯罪の異常な程の頻発する高さや放置行政犯罪率の多さや働ける自殺者
率の高さなどで解る。海外の困難な難民や流入移民などのいる国と違い法治国家群の中
にあるとされる国が今や自国民の教育の乱れで荒れ放題なのである。時同じくして福岡
ではエイブルと言う不動産会社で斧で切りつけて来る事件が起こっている。これは福岡
県の行政放置が起こしている。つまりこの不動産会社は数多くの未成年女子の行方不明
者を輩出しこの不動産会社の勝手な「個人情報保護」の権利でヤクザの監禁マンション
に引っ越しさせられている。事実この事で起きた事件は「警官の潜入事件」「室内賭博
事件」「バス突入者事件」「手榴弾投げ込み事件」「黒服保護事件」「ぜんりん裁判」
と多岐に渡って ヤクザと警察の知恵の攻防が続いている。更に近年では海外旅客向け
に不法ガイドやお土産ふっかけ詐欺でより健全化みせかけ商法で利益をあげていて福岡
阿修羅県と呼ばれるに至っているとインターネットは教えている。一体 これの何処が
法治国家と言うのかと言う疑問視する県民をよそに 工藤会の住宅地武器倉庫事件など
権利拡大の悪に法律は加担して 駐在所すら減らして居ながら県会議員は治安予算削減
に平気な顔なのだ。これではヤクザ議員を見抜けない国民が悪いとしか言いようが無い


138: 名無しさんAA:16/03/31 02:13 ID:oSs
 いざ酔い いざ並み いざ晒場 63

 不思議なことだが これだけ地球環境が激変してる中であっても未来はまだまだ加速
度的に変化するだろうというのが大方の見方である。それでも世界は今だ混沌としてい
る。日本語的に言えば「盗人経済の共産社会」と「律義な山賊経済イスラム社会」更に
「いい加減な博徒経済の欧米社会」「砂漠のアフリカ経済」「海洋の南方経済」と全く
動揺しない「山岳や森林の社会」と6峰のままだ。大局的にみれば言われる様に 今や
激変社会と言うよりは 激変地球難民状態に陥ってしまったようだ。ところがその中心
が「やり過ぎ中国」が原因で全てが回っている状態のようなのだ。これはやっぱり米国
の大失敗であろう。中国国内でブラック企業が暗躍して時の政権と言うよりは地方政府
に喰い込んで賄賂や特権を持ち栄華を誇っていた。習政権に変わり、一時期鎮静化した
もののどうも復権しているようだ。今までチャイナリスクとされていた不動産地価など
が今や活況を呈してバブル以上の値上げや底上げをしている。これは中央政府の銀行へ
の肩入れでゴーストタウンや流通経済活性での不良資産の消化を図れと言う指令である
。闇金として有名な理財商品を扱っていた銀行の投資部門が 此処に来て潰さない方針
だと大々的に政府からの借入で一般に広く貸し付けを行う様になったのだ。つまりこれ
まで市民からの預金運用だったものが本体銀行を通した運用でより貧しい人民に高利で
貸す形になったのだ。そこでこれまで不安のまま持ち越して来た富裕層や不動産会社は
一気に中国物を捨て米国の建物や株にに投資しだした。これで米国も又欧州の影響の少
ないままに需要があって住宅供給や株が安定した株価や景気下支えしている。だがこの
リスク自体は高くなった事をちゃんと分析しているFRBはイエレン議長の楽観視しな
い姿勢で利上げ発表の観測が無くなった。ところが中国は相当に怪しいのかどこかに仕
事を作り賃金として還流させて中国元の流通をさせねばと必死の様だ。矢継ぎ早に海外
製品の調達をしADBに対したAIIBでの高速鉄道をインドネシアを始めタイやイン
ド・フィリッピンなどに盛んに打診している。更にメコン流域開発の下流のダム着工は
10本はタイやカンボジアだが上流の中国雲南省のダム開発は本流で7〜8の計画を決
めていて功果橋 (Gongguoqiao)小湾 (Xiaowan)漫湾 (Manwan) 大朝山 (Dachaoshan) 糯
扎渡 (Nuozhadu) 景洪 (Jinghong)孟松 (Mengsong)などの電力ダムの内2つは既に完成
し稼働し2つは建設中だ。つまり北京同様都市は作っても 水も電気も不足のままだと
言う訳である。これにより豊かだったカンボジアやタイやベトナムでの土地の水不足が
起こりつつあり 既に一部では干ばつ被害が深刻な状況になっている地区さえでている


139: 名無しさんAA:16/04/01 00:01
 いざ酔い いざ並み いざ晒場 64

 こうした中中国人の野放図なやり方に迷惑なのがインドを始めとするこれからの世界
の経済を占めるだろう第三世界である。アフリカ諸国も南米諸国も或いは東南アジア諸
国も苦々しい思いながらも今の戦後処理に権益を確保した国連の安全保障理事国となっ
ている巨大国家の一角を占める中国に草々気軽な反対意見は言えない中、今では米国の
ドル還流政策に戦々恐々の中にある。大体資源のあるロシアや金資産を保有する国或い
は技術やまともな法律を持つ国として国際金融資本に組み入れられて そうした信用が
ある国ならその紙幣価値や通貨価値があると思うのだが ただただ狂気のままに札束を
持ち国土や人口を持ち強権的に核武装やマジックIC回路で他国を圧倒しや二流三流の
物真似製品や毒物食品を輸出しては儲けている国の自国民すら自らの国の製品に誇りの
無い人民の国に何故信用すべき紙幣価値があるのか全く不明だが国際ルールの中で英国
が先走りして中国経済を進めるのだから仕方が無い。とは言え英国のその場しのぎ政策
がイスラエルを産み中東を混乱させ南アフリカの差別を進めインドの発展を阻害し日本
すらも中国との日清戦争に陥った歴史は忘れてはならない。そうした中でも金満中国人
の爆買いブームは続く。更に中国企業の爆買いで鉄鉱石などは新規投資の掘削拡大の為
の設備投資は結局は中国資本に会社ごと買い叩かれた形で終わっている。こうして振り
回された国は多く、日本のシャープも数千件の一例でしかない。イギリスではタタ製鉄
が今や閉鎖の憂き目にあって かつてのイギリスの製鉄産業が消えるのではないか。労
働者解雇に国内不況が生じるのではないか。と不安がっている。それでも現内閣では、
中国からの安い粗悪な輸入鉄鋼に関税化する気配はない。それは老朽化した原子力発電
所の代わりである新規発電所建設に中国からの資本との契約を済ましていて厄介にも、
イギリスの発電量の大きな部分をおんぶにだっこの投資依存の中にあるからだ。実はこ
の仕掛け人はフランスの原子力産業の会社に中国国営企業を資本参加させてしまった事
でそうなってしまったのだが それも逆にフランス企業が中国の電力自給ひっ迫での、
原子力発電所の数十箇所の設置計画するという大型計画から始まっている。かつて世界
の米相場が似た様に 大量買い付けし高くなった所で大量売りしタダ以上の利益を持っ
て米を買い付けして輸入し ODAやNPOは値上がりの為に食糧支援が出来なくなる
異変が生じたのであるが 今回も又値上がりした鉱物資源に供給側は大量仕入れに一斉
に新体制を敷き設備を新しくしたものの今や値下がりにブラジルの石油掘削や豪州の石
炭や鉄鉱石採掘は幾つかあった採掘場の一つを閉めるなど影響が出ている。


140: 名無しさんAA:16/04/01 07:00 ID:goI
 いざ酔い いざ並み いざ晒場 65

 これだけ黒田総裁が失敗しているにも関わらず 今回日銀審議委員会の人選には黒田
氏よりの考え方を取り入れた。確かに金融政策には精通だろうが 経済政策という政府
との対決姿勢と政治政策の先導役を捨てているし 日銀政策という日本独特の日本人の
思考の考慮に欠けてている事は確かだ、アメリカ流の考え方なら 何も日本はこんなに
デフレ政策にこだわる必要も無いし トランプ流に「何言ってるんだ。日本は独自に核
を持ち 経済でも世界の協調など必要ない 中国の粗悪品排除に向かうのだ。」と会見
を開けるだろうが日本はそうは出来ない。そもそもドル紙幣は世界の基軸通貨としては
最高位に君臨し 日本円はそれを凌駕しようと言う姿勢などないしその為の国際的知名
度や武力行使力など全く持ってない。がドルに至ってはマネーロンダリング契約で裏の
ブラックマネーの預金口座が凍結されるに至ってはドル紙幣そのものの輸出入があるよ
うに流動化しているのだ。この情報化社会カード時代に現金のトラックや飛行機輸送を
しているのだ。中南米移民はトラックや乗用車に縫い付けて輸入し中東移民はトランク
に入れて輸出しているのだ。この金額が半端ない数字で既に数十兆ドルが流れ出ている
。そうした中日本円は良くて東南アジアで正当な円が旅行者で流れ出たぐらいで 今や
中国元の方が幅を利かしている。これだけブラックマーケットからも信用を持つドル札
と逆に全く信用の無い元札が中国の正規銀行から偽札さえもそのまま両替される中での
お隣の国がサイバーセキュリテイすらも簡単にマジックICチップでくぐり抜け国内の
動向指数すら信用されない数字を持って ギンレンカードで爆買いしては中国商品をも
日本で買いまくる旅行客に 観光立国を目指せなどと阿保な提言すら吐くエコノミスト
や御馬鹿政治家がいる国とは 根本的に違っている。基本的に米国は人種の坩堝であり
それだけ変な考え方もあってしかるべき中で 疑心暗鬼の中の銃社会で弱みがあったり
怒りの中では銃撃戦すらある麻薬蔓延社会なのだ。では日本はと言えば今だ村社会の中
で自治体すら何故だか 地域社会の自治会におんぶにだっこの絆社会の経済政策を認め
て違法性の高い運用を自治会は行っては取り締まられない中にある。今塩や年金などが
勝手に上げる選択をしているが 実際これはかなりの違法である。その設立自体に国民
に上げない事を前提に民営化しているからだ。更に350円ドルレートで言えばまずは
上げる理由は全く無い。これでは政治や行政が無能と言われても仕方ないだろう。
 

141: 名無しさんAA:16/04/03 11:21 ID:75A
 御馬鹿の八景 14

 この2年間の拉致監禁事件はかなりのショックがある。日本の法整備が整ってない事
の証の一つであろう。この思春期の大事な2年間は多分にこの子の人生の大きな部位を
占める事になるであろう。良くも悪くも子供は家庭環境で育ちが変わると言われる。そ
の中にはもちろん遺伝的性格差はあろうが現実的には「集団との繋がり」と言う魔の力
で人は育っている。いわゆる「御蔭様」の力である。非常に困った時見ず知らずの人達
の助けでそれを乗り越える事は数多くある。それが日本社会を成している。それが裁判
社会の海外との違いだろう。更にシリアの自爆テロの親やクルドのヤジディ教徒の話は
逆に見ず知らずの兵士に家族を殺され、顔すら見えない飛行機に空爆で家が破壊されて
「私達は何も悪い事はしていない。なのに親兄弟は目の前で殺された。」と恨みを込め
て嘆いた。欧米社会でもアフリカ社会でも銃を持てる中では「疑わしくは殺せ」が鉄則
らしく「危険からは逃げろ」「近づくな」が平和な家庭の合言葉らしい。それでも学校
での乱射事件近親相姦事件怪教団事件と日本の何十倍もの拉致監禁や脅迫誘拐事件は起
こっている。こうした中で新潟の監禁事件でも素直に言えば「無期懲役」を最高刑にす
べきである。そもそもこうした悪い奴に更生のチャンスは与えても、更生したその割合
は10%も満たないはずだ。それだけ麻薬と同じに性格や考え方を変える環境やチャン
スは無い。更生したと言われる人もよくよく意見を聞いた時は全く強硬な姿勢は変わら
ず他人を思いやるなどない。行動にはそれなりの常識的判断があって行うが生活にその
きっかけがないだけでかつての殺人犯や逃亡犯が隠れている様なもので抵抗があれば殺
して解決の考えしかない馬鹿のままなのである。頭を下げて解決する経験値が皆無であ
り疑心暗鬼のままなのだ。そうした事よりこの犯人が未成年者拉致でもたった7年であ
る。全く馬鹿げた法令である。更に法務大臣が死刑囚を死刑にしないのも問題である。
勿論中には無実の罪の死刑囚もいるかも知れない。だが多くの囚人の場合警察の状況証
拠は整い今再審で冤罪と言われる人も 多くは弁護士が作った勝手な論法操作に過ぎな
い。弁護士の知名度アップの為にされたものも少なくない。だがそれ以上に裁判官の現
場認知度や常識や鑑識科学の勉強不足と警察自体の歪な弱腰構造に問題がある。今度も
高齢の殺人犯が福岡では検挙されながら証拠不十分で公判が持たないと起訴されなかっ
たのだ。又常駐交番が少なくなったおかげで大きな軽犯罪の犯罪者で刑務所は溢れて不
足気味なのである。

142: 名無しさんAA:16/04/05 19:16 ID:ubA
 老境の至り 53

 舛添知事はさっさと東京知事職を返上して役から退くべきだ。全く東京オリンピック
は東京都で行う事であって国が行う物では無い。更にオリンピック誘致は都がしている
に関わらず その先の後継者としての知事行動に至っては真ったく責任感が無い。贅沢
の限りを尽くして遊びまわり 外遊で何を掴んで学習になったのか全く発表していない
しそれどころか一流のホテルでないと泊れないなどと言うナンセンスな話をしている。

143: 名無しさんAA:16/04/05 19:16
 舛添知事はさっさと東京知事職を返上して役から退くべきだ。全く東京オリンピック
は東京都で行う事であって国が行う物では無い。更にオリンピック誘致は都がしている
に関わらず その先の後継者としての知事行動に至っては真ったく責任感が無い。贅沢
の限りを尽くして遊びまわり 外遊で何を掴んで学習になったのか全く発表していない
しそれどころか一流のホテルでないと泊れないなどと言うナンセンスな話をしている。
全くこの馬鹿公務員にして馬鹿都民としか言いようが無い。北九州では消防職員が窃盗
と言う犯罪を市長が見逃している。北九州も管理出来ない市長など即刻首をさらけ出す
覚悟が必要であろう。東京都の中野区では勝手に桜の木を切っている。告知すればいい
勝手に切れる。と言うのは思い上がりもはなはだしい。JRが勝手に植えてはPRまで
していながら、その管理の一部を区がするという身勝手さもいい加減にしろと言いたい
。大体行政そのものがいい加減である。税金徴収やゴミ収集にして あの遊具施設一つ
すら管理していない。公園建設でも勝手に計画をし税金を使い建設しては更に、地元で
の管理の負担をお願いしたい。などと馬鹿を言う。管理できないなら最初から造るな。
あの老人ホームの殺人事件と同じである。「我々は通常通りの管理し普通の会社程度の
管理はやっていたので会社は関係ない。事件を起こした犯人が悪いのであって運営会社
は全く責任はない。」と言う論理だ。これは全く間違っている。およそ会社というなら
普通の人間を入社させ社員教育をしそれを見定める役職をして会社組織と言うものだ。
それが全くなって無いから事件が起こり殺人者が三件もの殺人事件を起こしたのであっ
て全くこの管理や監理監督が無かったらこうした施設は造るべきではない。それは東京
電力の福島原発事故でも同じである。これは千年に一度の大地震や大津波で我々に責任
や非が無いと言うのはあまりにもお粗末な論理である。そうした事でも言えば、あれだ
け絶対安全などと国と共に我々の意見を聞かず造り営業し無責任もはなはだしい事とし
て世間は決して許す事は出来ない事になるのだ。この殺人鬼のいる老人ホームも決して
個人と契約し個人の家に住み着いた訳ではない。あくまでも老人ホームの宣伝や広告の
内容に準じて妥当と思い入所したのである。その中に殺人鬼を許す姿勢と三件も事故を
多発させてやっと見つけるほどのお粗末な会社だったのである。これは会社解体廃業の
責任はあるはずだ。同じ様にオリンピックが例え国の競技場であれ都はその責任は半分
はある。管理や運用或いは建設は国がしているからと言う言い訳など言い訳にならない
都知事にはその全責任を背負う義務がある。このいい加減な思考では全くその責任感が
見れない。そうした義務を負う事に不承知なら即刻辞めて然るべきである。

144: 名無しさんAA:16/05/04 07:11 ID:Wu6
 ディノン・ディノン 01

 カリブの王国は かなり平和に、かつ豊かに暮らしていた。ヨーロッパ人の到達以前
カリブ海は南アメリカのギアナから海を渡って周辺の島々で生活していたアラワク族系
のタイノ人が居住していた。キューバ、中央アメリカ、コロンビア、ベネズエラ、ドミ
ニカ共和国、エクアドル、ペルーなどのラテンアメリカ諸国で広い人気を持つサルサは
ニューヨークに移住したプエルト・リコ人テゴ・カルデロンが、キューバ音楽の伝統を
受け継いで1970年代後半にニューヨークで完成させた音楽である。一時日本にも流行っ
たニューヨーカーの持ち込んだレゲー音楽も実はそれまでのブルースやジャズの音楽か
らキューバ音楽の持つ独特なアフリカ系リズムとインディオリズムを合わせた賑やかな
中央ラテンのリズムを取り入れて出来て来た。今のヒップホップが囚人音楽であり退化
した音楽に比べこのレゲエ音楽は究極のリズムメロディである奴隷音楽である。ナポレ
オン・ボナパルトによって退位させられたスペイン・ボルボン朝のフェルナンド7世が
フランス帝国を去る時この混乱はスペイン独立戦争を勃発させた。1808年の事だ。
それまでの大航海時代の先駆けとして島は発見されたが、16世紀から18世紀頃まで
イギリスやオランダの海賊の攻撃を何度も受けた。だがフランシス・ドレークが撃退さ
れたのをはじめとして、海賊の襲撃はことごとく失敗に終わった。この失敗は日本同様
台風が襲う島だったからだ。江戸時代のスペイン人の上陸以来プエルトリコは一貫して
スペインの植民地だった。プエルト・リコ(豊かな港の意)サン・フアン、(聖ヨハネ
)のキリスト教の聖人であるヨハネに由来する名前を持つ市街はそのスペイン文化を色
濃く持ち、この美しい島は ボリンケンと呼ばれていた。ボリンケン(Borinquen)とは
勇敢なる君主の国意味し、スペイン語のプエルト・リコの「豊かな港、美しい港」とい
う語源は、一説にはクリストバル・コロン(クリストファー・コロンブス)が入港した
時に!Que Puerto Rico!(なんて美しい港なんだ!)と叫んだ事でプエルト・リコと言
われる様になったとされる。


145: 名無しさんAA:16/05/04 07:11
 ディノン・ディノン 02

 こうした中央アメリカはかなりの悩みを抱えている。人々の生活は持ち前の南の島の
明るさから 砂漠の民よりは呑気に暮らしているが 現実には将来への発展が見込めな
い程経済が混乱している。スペイン人が持ち込んだとするコカインは麻薬としては代表
される作物で欧米人が煙草やコカインなどを胡椒やお茶と同じ様にこぞって欲したから
そうした産業が発展してアメリカの銃社会から銃が漏れ暗黒世界の経済基盤まで出現し
たのである。我々の知るコーラは実はコカインペーストの水が飲料水メーカとなったも
ので 世界の中ではビ−ルや葡萄酒の様には古くは無いがソーダー水に次ぐ古い飲み物
だろう。今回キューバと米国は歴史的和解が出来たが このキューバ革命は何回もあっ
たとされる。最初のキューバ革命は成功しなかったもののスペイン独立戦争に単を発し
たが、この時プエルト・リコも又例に漏れず小さな独立戦争が起こった。その後何回も
起きる闘争の歴史は今日まで何百年かの時間を費やしている。がこの中で特筆すべきは
風光明媚な土地であっても 地震や台風が多く誰も終生住み着いて征服者としての地位
を築こうなどとしなかった事だ。それどころか米国の独立戦争や各国の世界の話し合い
では言い様にあしらわれキューバの砂糖農園の様な象徴的生産品もなく成功した輸出品
の無い「お荷物経済の島」として自治はさせないが特に取り締まってインフラも整備し
ない。と言う至って緩やかな植民地政策の島として存在した。従って島の住人はおおら
かに白人と黒人或いは地元の土人との結婚を早くから認めていた。スペイン系をはじめ
とする白人からアフリカ系の黒人、タイノ系インディヘナ、そして最近増えた中国人ま
で、ありとあらゆる肌の色が共存して今はその混血は進んでいる。プエルトリコ住民は
、アメリカ合衆国のパスポートを所持し、アメリカドルを使い、米国市民としての意識
も高く英語も又公用語になっているが 歴史や文化や地理的に近くに南米スペイン語圏
である為スペイン語が主流となっている。ここは米国であって米国ではない。それが今
の自治領であるプエルトリコ政府の立場になっている。



146: 名無しさんAA:16/05/04 07:12
 ディノン・ディノン 03

 プエルトリコ自治連邦区(プエルトリコじちれんぽうく、Commonwealth of Puerto
Rico)、通称プエルトリコは、カリブ海の北東に位置する。アメリカ合衆国の自治的・
未編入領域であり、コモンウェルスという 政治的地位にある。プエルトリコ本島が大
きく存在しその他に ビエケス島、クレブラ島、ドミニカ共和国との間のモナ海峡に
あるモナ島などから構成される。ヴァージン海峡を隔てて東にヴァージン諸島が、モナ
海峡を隔てて西にドミニカ共和国が存在する。主都はサン・フアンで日差しが強く西洋
の避暑地としては最高な場所でマリンブルーの美しい浜辺が広がる国だが ここにはグ
アンタナモと同じく米国海兵隊などの基地が存在する。プエルトリコの中に更に見捨て
られた島として地元が言う島がある。サンゴ礁に囲まれたビエケス島だ。11年前まで
は実弾演習が行われ、島民は限られた地域で生活していた。島の7割が米海軍基地だっ
た中で 1999年米軍機の誤爆で市民が犠牲になり、反対運動が激化。米国は基地の
撤退を決断し、2004年までに閉鎖された。基地の後遺症も色濃く残り島の周囲の海
には不発弾が沈み、山には爆弾による穴がクレーターのように残っていて環境汚染など
も放置され、健康被害が懸念されたままだ。この様相から米軍基地を抱える悩みが、ま
るで沖縄ではないか沖縄からの視察団はいい「沖縄の基地を放置している日本は、まる
でプエルトリコじゃないか。」と現地人は言ったという。アメリカ独立戦争時から米国
にとっては近くの他人の国としてキューバと同じ様な扱いだったが キューバ革命はそ
こでのサトウキビ農園で国際的経済地位を果たした事で米国事業の利権が押し付けれら
れ傀儡政権に対して独立闘争がゲリラ戦で行われた。だがここでは産業育成が伴わずに
完全独立派とアメリカの州への昇格派さらにこのままでの自治権拡大派と常に3つの派
の三つ巴の主権争いが常に続いていると言われる。1917年に自治権の大幅拡大によ
って島民はほぼアメリカ国民としての市民権を得て所得税を免除されるという特権を得
たが、徴兵の対象となり第一次世界大戦では二万人のプエルトリコ人が徴兵され米軍兵
士として戦った。それでも合衆国大統領選挙への選挙権は無く アメリカの中の国外と
言う。奇妙な立場に留まっている。



147: 名無しさんAA:16/05/04 07:13
 ディノン・ディノン 04

 ディノン・ディノン(夢の中の幻想 又は魔法の中での魔法)という言葉は今のこの
プエルトリコを象徴している。勿論この国でも当然独立運動が激化した時もあった。こ
の反乱は国民党指導者ペドロの指揮のもと1950年には始まっている。島内の様々な
町で蜂起や反乱事件が続き、暴徒が虐殺、ハユヤでは「プエルトリコ自由共和国宣言」
がだされ、その後米国が軍隊を送り出し終了させると言う南米版プラハの春が起こって
いる。サンフアンでは国民党員がプエルトリコ知事の暗殺失敗など一連の事件は日本に
は遠い世界の様だが アメリカ流自由主義は暗殺や扇動さえも背定する銃社会ありきの
考え方なのである。スペイン文化を色濃く背負ったこの国民はイスラムやキリストの目
には目をの愛国心がありトルーマン米国大統領暗殺を企てたものの未遂に終わる。その
後もプエルトリコ国民党による大きな事件は続発し4名の国民党員がアメリカ合衆国の
下院を攻撃し、プエルトリコの植民地的状況に対して声明をだし世界的な注目を集めた
。連邦政府はその後内政自治権を大きく付与したし ムニョス知事は合衆国資本を誘致
しての工業化やインフラが進められたが、それでも満足な雇用は全く確保できなかった
。却ってアメリカとの繋がりがスムーズになり、多くの農村人口がニューヨークなどの
アメリカ合衆国の大都市に移住したと言うストロー効果が進展した。18世紀末の人口
は4万5千人一時期スペインの植民地政策から難民に溢れ33万人に増えたが今や本土
に住むプエルトリコ人が400万人を超え、島の人口を抜いたとされる。自給自足的な
経済に恵まれ、スペインによる植民地支配も産業が無く相対的に緩やかなものだったが
、大国アメリカの隣国として米国自治領となりプエルトリコが半自立を掲げた事で財政
破綻(はたん)に苦しむ事になる。今や8月に債務が返せなくなり「米国版ギリシャ」
と揶揄される状況だ。だが州でもなく独立国でもない「中宙」な立場はEUのギリシャ
と違いアメリカ国内に事態の悪化を危惧する声はない。小さな島の実情が財政破綻した
デトロイト市を上回るものの、連邦破産法による債務再編は認められていない。高利回
りや税制優遇を理由に「プエルトリコ債」を大量発行し買い付けた米投資ファンドなど
の損失の危惧が指摘されてはいるものの一人当り年間6千ドルで日本円で80万円ほど
の所得の島民で 2分3が貧困所帯7割の家庭が食料券(フードスタンプ)を受給する
生活保護世帯では税収はおぼつかず、頼みの米企業も06年にその優遇税制が廃止され
た今では撤退に継ぐ撤退で成長を見込んで借金を重ねた結果の負債だけが残った有様だ


148: 名無しさんAA:16/05/04 07:13
ディノン・ディノン 05

 近隣国パナマも同じ様に産業がないのだが パナマ運河の通航運賃と言う収入を持ち
今の タックスヘブン(租税回避地)としての地位を築き上げ それなりの顧客を掴ん
で発展している。対してプエルトリコはかつては交易海路の中心として最も栄える場所
だろうと目されていたものの キューバ危機によって却って近寄り難き所になった。さ
らに東西冷戦時のキューバ危機時代は共産圏と自由主義の競り合いが続いたが核の脅威
と共に潜水艦などの海洋の中での脅威もナチスのUボート作戦の恐怖も知っている中で
の大西洋では共産圏は近寄りれば危険も又近づく恐れがあったのである。公用語を英語
としてはいるもののスペイン語が主流で南米とのの結びつきも多く習慣も近い為、南米
の暗黒組織が更に米国人を遠ざけた。又台風発生や地震の恐怖も全くそのままである。
解明されたとはいうものの自然の猛威は有名な魔の三角地帯としてバーミューダトライ
アングルとして名を馳せ 近くでは常に人々には恐れられる部分がある。特に地震が多
くそれに伴う怪電波による電磁波障害と海流隆起更に海底形状の高波はかなりに遭難の
危険があるのだから。カリフォルニアに地震が多いことは西部開拓時代から知られてい
た。カリフォルニアにはサンアンドレアス断層と呼ばれる断層がある事が解っていて、
これは200年に1度ぐらいの大型地震が起きているとしている。が実はメキシコから
カリフォルニア更に南米に向かっての地震地帯は北米プレートと太平洋プレートの継ぎ
目と言う北米地溝帯の中に入ると思われ かねてからマヤやアステカ文化のメキシコの
発展をも阻害して来ていたと考えられている。地震があれば当然ながら津波も起こる。
 が奇妙な事にこのメキシコの太平洋沖には小さなメキシコ沖プレートがある。又この
プエルトリコにはプエルトリコ海溝が北側に東西に伸びる海溝として存在する。大西洋
で最も深いとされ 大西洋中には この海溝とサウスサンドウィッチ海溝しか存在しな
いとされる。カリブ海では2010年に死者が30万人と言われる「ハイチ地震」が起
きている。基本的にはカリブ海側での地震活動は比較的少ないとされるがプエルトリコ
周囲で奇妙な群発地震が発生してはカルフォルニア地震やロサンゼルス地震を起こして
いてアメリカ地質調査所等が心配していて 放置される地域の一つの要因ともなってい
る。



149: 名無しさんAA:16/05/04 09:04
 ディノン・ディノン 06

 青い海とヤシの木。リゾート地の景観の中に首都サンフアンの広場がある。そこの傍
にプエルトリコ自治領の議事堂は立つ。目の前「ノーモア・タックス」の横断幕が掲げ
られた写真がインターネットに配信される。「もう税金はもういやだ」と言う訳だ。こ
青いカリブ海の中に浮かぶ米自治領プエルトリコの島が、財政破綻(はたん)に苦しん
でいるのである。8月に債務が返せなくなり、「米国版ギリシャ」と危ぶまれる状況だ
。マクドナルド・コーラ・ウォルマートなどなど島内には米国の名だたる企業の看板が
掲げられ地元の小売業は殆ど衰退した。一等地にも関わらず営業していないガソリンス
タンドやシャッターが閉まったビルがあり経済に喘ぐ姿が見て取れる。プエルトリコで
は一時期には企業への米連邦から税が免除されていたため、多くの米企業が製造拠点を
作り地元の競争企業の排除につながった。だが06年にはその優遇制度は廃止された。
「投資を呼び込む道具」としての軽減税を失い「経済的途上国」が「世界一の経済大国
」の慣習に従い規制や法律が殆ど一緒になった瞬間だ。保護が無くTPP同様の競争に
勝てるはずがないのは解っていた。と地元民は話す。高利回りや税制優遇を理由に過去
に「プエルトリコ債」を米投資ファンドなど大量売り付けした結果に 今や損失が広が
って金融不安につながる恐れが出ている。9月には一部の債務削減で投資家と合意した
と言うものの、経済低迷から財政危機に陥ってしまった今では事実上の約720億ドル
(約8・6兆円)に上る公的債務を返せないのは明白だった。8月3日には借金の一部
しか返済できず、事実上のデフォルト(債務不履行)の宣言となっている。債務額は、
同様に財政破綻したデトロイト市を上回り。デトロイトのような連邦破産法による債務
再編は認められてはいない自治領の立場は 日本の日米安保反対として米軍駐留や自衛
隊さえ反対として飛行場建設に反対する沖縄と重なる矛盾の論理の中にある。日本本土
と同じ地位を望み同じ権利を主張しながらも同じ経済をして同じ認識や責任を示さない
のである。そしてそれは 勝手な何でも反対の日本政府批判につながっているのだ。


150: 名無しさんAA:16/05/04 09:51
 ディノン・ディノン 07

 実はこうした 放任植民地主義に悩まされる場所はここや沖縄だけではない。香港島
や台湾も英国の勝手な間違った中国共産党への返還で悩ましい経済の中にある。台湾も
又かつては中国大陸への日本の橋渡し役としてかなりの役割と地位を受けたが 中国の
持つ共産党特質である盗物経済は 今や台湾全体を飲みこもうとしている。地震や台風
の被害が出ても 台湾に協力した米国以下の協調しかなく中国本土からの支援の提供は
全くない。にもかかわらず 地政学的に台湾島は中国の海洋進出の鼻先にあることから
港湾施設の使用や飛行機の乗り付け更に言語仕様は日本語標準から広く運用される広東
語に変化し 更に兵員などの武力の巨大さから共産党の持つ強権政治を受け入れるしか
方法が無いようになってしまい ウナギの稚魚や赤サンゴなどの密魚や更には尖閣威嚇
の立ち寄り港になってしまっているのである。これを受けて台湾企業は大陸企業に負け
て廃業しだしているだけでなく 漁業や海外展開してきた華僑からの支援も又無くなっ
て来ているのである。香港の苦悩も又同じ所にある。かつては自由に発言し主張し更に
自由に海外移住しては通貨や関税に先進国の国際事情に合っていたのだが 今やそれが
ない。形ばかりの書類検査が今や厳密な共産党による派閥審査と変化しているのである
。もしトランプ氏が言う様に或いはEUがやっている様に国境線に塀を成すと言う考え
は 実はそこの国民には全く何ら為にならない事は考えなくてはいけない。他国からの
越境人や異邦人を受け入れる事は 考え方を変えれば新しい文化や生産価値が産まれる
と言う事であり 中国や日本の様な少子高齢化による人口減少国の衰退は産業衰退をも
視野に入れなければならない事を意味する。実はプエルトリコ自治領での最も大きな問
題は愛国者は米国を敵対しては独立を唱え 生活を憂う者はアメリカに移住してはこの
国の進展に寄与しない思想や思考の国民の姿なのである。努力し独立でも州都入りも否
定して進展や産業発展を勤しみ努力する。といった姿勢がなく 共産主義のごとく7割
の食料受給家庭が今や当たり前のような姿になってしまった事なのである。今や沖縄が
そうした進駐軍費の経済に頼っていながら更に国の地方交付税を受けインフラ整備の中
での観光経済に潤っていても こうした政府の取り組みの価値を全く認めようとして居
なく 韓国や中国からの移民の意見にうつつを抜かしているのである。



151: 名無しさんAA:16/05/04 23:52
ディノン・ディノン 08

 ちょっと閑話休題して 今年プレミアリーグで“信じ難いおとぎ話”と表現されてき
たレスターの大躍進で イギリスのサッカースポーツ界は沸いている。これまで資金力
のない万年下位のこのクラブは 有力なスター選手もここ出身でいたがスターになる前
に引き抜かれては 他の有力クラブに勝ちを譲って来た。サッカーはチーム対抗なので
パスや戦略が必要なのだが 選手が引き抜かれる度にその後のスタイル変化が選手の負
担になって負けていたのである。そして日本代表FW岡崎慎司が所属して今年になって、
クラブ創設132年目で初めてプレミアリーグ制覇を成し遂げ、奇跡の初優勝をつかみ
取った。とされる。今後ヨーロッパリーグ、チャンピオンズリーグと進むがレスターは
人件費の総額がプレミアリーグ20チーム中18位で、資金力が豊富なビッグクラブからの
主力選手を引き抜かれる噂が今も絶えないのである。こうした資金力のない弱小チーム
な為このチームを率いるレスター・ラニエリ監督は 全く新しい試みを行っている。い
わゆるラニエリスタイルと言う物だ。ミスの多さも、パス本数も、ボール支配率も一切
無視と言う哲学で、とにかくタテに速くボールを運んでジェイミー・ヴァーディを走ら
せるスタイルである。“ポゼッション無視”という流行への逆張りは、選手の個性を伸
ばせはいい 個人技ありきという指揮官の哲学によって生まれたものだ。元々チーム技
のスポーツとは言え個人技の優れない者達の集まりには勝ち目はないし チーム内での
ポジション争いも熾烈になるだけで エースストライカーが上手になった所で引き抜か
れた時にはチーム戦力はがた落ちとなる。更に個人契約の為にパスワークすらままなら
い程の競争もある。だったら苦手なパスワークなんて練習しないでいいし 本人技量の
向上のみで選手を育てようというのである。日本では絆や協調或いは和の心などの集団
論理が主力となり なかなか個人の悩みの解放につながらない。岡崎選手もこのチーム
に来るまでは「チームの為には」「チームが勝つには」と考えていたがここに来て「自
分が勝つ為には」「自分が点を取るには」まずは自分に変わって悩みが吹っ切れたとい
うのである。そしてその技量の向上と技量の発揮が チームの優勝に大いに貢献したと
言われる。明治に「個にして起つ この衆にして国が建つ」と言われたが福沢諭吉のい
う「自立自尊」の「独立独歩」論である。その意味は「心身の独立を全うし、自らその
身を尊重して、人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云ふ。」とある


152: 名無しさんAA:16/05/05 02:03
 ディノン・ディノン 09

 実はこの「自立自尊独立独歩」論はアスリートならずとも国家論や人生論或いは社会
の仕組みや国際社会の経済論に全てに通じる所がある。にも関わらず日本では何故だが
会社の社長や監督や行政は結構に自由を阻害しては独立を阻みチームやら絆やら集団や
らの勝手なルールを作っては規制する。日本でつくづく思うのは 政治でも経済界でも
各種現場でも実際を知らない社長なり監督なりが大手を振って嘘の指導をやっては自分
の都合に走った悦に往った事で文句を言い若者を育てない事だ。それは今回の議員達の
18歳選挙にしても自分の給与の高さを認識していない。そも総理大臣が国会で野次を
だす行為は総辞職ものである。或いは野放しの国債発行にしても未来への負債を簡単に
造り過ぎる。黒田氏の異次元緩和でも 派遣労働法にしても 年金年齢引き上げにして
も何ら科学的根拠も全く道義や責任あるいは正義がない。これは大人の道楽論酔狂の一
端としか言えず老人の趣向論である。結果何が起こっているかは今の動かない現実が物
語っている。東シナ海には日本のガス田があり 国際協調論で中国進出は数々の日本の
危険度を高め、TV局は食べる歩く映像ばかりと言う全くショーにならない番組ばかり
家電業界の人真似の甘えた構造は、全く変な進化方向で日本社会の足を引っ張っていて
かつての栄光ある日本の国際通用する製品販売に至っていない。土建業界や医業業界は
オリンピック会場でも解るような異質の会場や異質な環境を政府予算に提案する始末で
ある。もっと根源的人間的なまともな形というものがあろうに 日本人は「がんばれニ
ッポン」「絆」「チームジャパン」など標語で空気を醸しだし、集団化や統併合しての
巨大化し強権化したが良い様な気配を示して 自らの安心感の中にいようとしている。
リスクがありチャンスがあり利益があって当然の社会を見えなくさせて 議員よろしく
金を動かしている事がよっぽど仕事している事と勘違いしている。実はそこに落とし穴
がある。プエルトリコ自治領での住民が利潤活益としてアメリカ企業を呼んだ時日本の
感覚と同じく自国の慣習や優先基準をアメリカの価値観に変えた。当然競争原理の中の
商売に変わったのだ。そして無情にもアメリカでの税制優遇が消えて勝手に来て勝手に
出て行ったのである。日本の大型スーパーやコンビニが出て来てシャッター通りを作る
商店街と同じく廃業した小売店や個人企業の街になり利益が無くなってそのまま移転す
る事で 町でも田舎でも買い物難民が出た。でその後通信販売がそのスーパーを襲う。
住民である人は 不便になったり騙されたり至らぬ通信機器を買ったりと貧乏になるの
である。この便利という不便という不都合な論理は今や大手を振って世界に蔓延している

153: 名無しさんAA:16/05/05 16:15
  まだまだ 日本 01


 世界情勢は今や飽和期に来ているのかも知れない。日本国内でも不足はあるにしろ充
分といかないまでも 人々の生活には支障が無い位である。がこのままでは人類は座し
て経済の失速を待つばかりとなる。これでは世界は持たない。その前兆現象が今のIS
の台頭を許した米国のアフガン侵攻やイラク攻撃なのだろう。そしてシリア崩壊が今も
尚進行している。これを止める事が欧米社会特にキリスト教徒では不可能であるならば
出来るのは恐らく世界中回っても日本しかないのかも知れない。と思う。大和民族達よ
出番ですよ。と言う事なのだろう。では一体何が出来るのか。まずはトルコの内乱的な
強権的クルド人攻撃を食い止める事だろう。だが日本の言葉が繋がらない。多くのこの
地の人は日本語を知らないだろう。つまり少し大きな象徴的日本語学校を作るべきなの
だろう。となると神社しかない。日本の神式のトルコ神社を創るそして生け花展や茶道
相撲 柔道 剣道など様々な展示会と伝統行事を持って行って生徒を集めるべきである
。元旦から雛祭り鯉のぼりと言う節句行事さらには祝賀の田植えや収穫更に七五三など
行い中身を日本語語学学校を運営すべきで これで平和主義の指針と境地を流行らせる
事が大事なのである。そこで日本語のメリットは何かを創らなければならない。金を出
してまで教わる理由である。ここでリビアに農業王国の建設を進める。リビア市内は既
に欧州文化の浸透があって英語圏若しくはフランス語圏である。つまり少し離れた砂漠
の地に平和都市を築くしかないのである。だがそれは日本の技術や資金をもってすれば
問題は無いであろう。問題はボコハラムみたいな過激なイスラム教に洗脳された者らの
暴挙である。そこで日本風のお城を築く必要と米軍若しくは自衛隊などによる防御が必
要となる。砂漠である以上はまずはインフラである道路建設と象徴的お城の建設を手始
めとなる。次に飛行場と農園を創る事でまずは自給量の確保でこれも少量の水での野菜
栽培の技法は既に確立し海の水の淡水化も又成功しているのである。さらにリビアには
魚の養殖技術で輸出をさせていた経緯もある。石油掘削というも自国内えねるぎー確保
もここには備わっている。つまり平和理にここの過激派占拠を解けばトルコで日本語教
育を受けた避難民を受け入れる事が可能だし 偽造されない生体認識カードも発行でき
る技術が日本にはある。つまりテロ防止策も入場規制さえ取れれば お城や農園の運営
は可能は可能だし 攻撃が突然やって来てもお城に収用も可能なのが日本の城である。


154: 名無しさんAA:16/05/05 16:15
  まだまだ 日本 02

 ここでこうした事を 日本の金で行う事の意味を問いたい。今日本は円安にして輸出
増加を欲していてTPPでも世界経済の金融や流通の強化を狙っている。現実に中国経
済の破綻は避けられないのだがその中国の土地の大きさ人の多さには太刀打ちできない
。其処に軍事強化が入ってしまい 日本を始め自由主義国側の米国も欧州も抜き差しな
らない中に今の中東の波乱がある。米国のブッシュの起こした罪とはいえ欧米人にとっ
て常にテロの恐怖やテロの被害に遭っていては 経済も政治もない。其処にはキリスト
教イスラム教の思想の壁がある。つまりこうした過去の宗教が終焉を迎え世俗主義的に
国は人権教育や発展的文化をして宗教の自由を広めなければ またぞろ文化摩擦の世界
的戦争時代に陥らないとも限らないのである。我々が知る様に北朝鮮社会にどんなに訴
えようともどんなに圧力をかけようとも 聞く耳の無い指導者層の独裁には通用しない
のだ。中国社会が一見独裁主義を捨てたかのように見えるが 全く発展性の無い共産主
義を却って現代科学や先端技術をまとって強固にしては民衆に強権政治を振るい自治国
であるはずのチベットやウイグルを略奪し香港や台湾を恐喝し東アジアのベトナムやら
フィリピンやマレーシアやタイやカンボジアなど周辺国を威嚇して止む事がないのであ
ある。アメリカ技術のサイバーテロは日常茶判事に行われ 漁獲制限の無い根こそぎの
収穫は生物環境を破壊し更に自国内の企業製品は誰も信じていなく公害の出放題で贋物
や毒入り製品を出しても一向に修まらないのである。それでも部品供給する各国や狂騒
に喘ぐ韓国などは隣国との摩擦は避け ちゃんとした発言はしない。そしてその馬鹿げ
た浪費社会は今やアフリカまで中国はまき散らしているのだ。これだけ大々的にして強
権的ではどうしようもないのである。日本も又インバウンド効果に於いて政府は黙って
見ているのであり 品質の日本でありながら経済第一主義に追われた生活を強いられて
いるのだ。今後の少子高齢化対策も又もはやインフラも人的整備もする必要の無い所ま
で来ている。若者の貧困層が増えすぎて 政府予算が使う程に赤字確定の国債発行して
は 今後の日本国民に負担を強いると言う馬鹿げたサイクルに陥ったからだ。それは、
企業烏合の政策で国際競争力などありもしない狂言に浮かれ派遣労働者法で賃金抑制し
たからだが 大店法の規制解除と共に世界の悪法で これが今のデフレ進行の起動力で
ある事は衆知の事実なのだが それでも政治家は高給のまま放置しては補助金運用のみ
を討議するのである。



155: 名無しさんAA:16/05/05 16:16
  まだまだ 日本 03

 日本では日銀がまだまだ金融緩和を行うなどと発表したが いかんせん世界評価は今
同じアジアの中国との連動しか見ていない。現実的に企業達は中国進出と言う間違えた
行為に赤字を出し 更にその結果の日本の経済沈没に何ら罪を償っていない。それどこ
ろか竹中大臣は勝手な銀行の再編や肩入れ融資に勤しみ、結果労働者や若者教育や零細
企業の廃業に結びついたので 今の世界の見方が当らずとも遠からずで中国製品は溢れ
かえっているのである。ではそうした日本が将来を担う若者の賃金を削ってまでやった
経済損失は何処で消費されたか。それは欧米の消費が安い品質の良い日本製品を手に入
れて新たな加工が出来るにとどまったのである。これで欧州社会も米国社会も息を吹き
返し更に日本は苦境に陥ってしまったのだ。LSI技術をみてもこの生産技術は日本の
独自なものも多いが 汚い韓国は技術研究費を削り日本の研究者OBをしてその技術を
盗んで液晶などを揃え世界に売り出した。この事で世界は全エネルギーの2割の浪費が
そのままになり低価格の韓国製品が市場を制した。そして中国はこの韓国技術を真似て
又同じ粗悪品を造りだしたのである。有名な話にホンダの物真似にホンダは下請けにし
たと言う話がある。いずれも研究開発を抜いた安上がりの経営手腕で市場を制するとい
う 自由主義社会のルール違反のオンパレードなのである。ここで日本語拡大の意味が
出て来る。自油主義陣営は韓国や東南アジア諸国も仲間なのだが まず韓国などは自由
の意味を理解していない。ほぼ韓国での経済活動は経済に準じてはいない只の行き過ぎ
た自由行動に他ならないのである。もし自由社会資本主義社会と大手を振ってルールな
きアウトローの覇権主義に陥ったとしたら それは簡単に独裁社会になる。つまり北の
行う様な偽札を束にして企業を買い取り 生産性のない詐欺や泥棒行為で身の安全を図
ると言う至って簡単な北の独裁主義に似た物になるのである。実はこの韓国経済も同じ
様に殆どの株式投資が海外の投資家の下にあって所要の利益が求められていて、こうし
たルール無視経済を成り立たせている。その意味では北朝鮮料理店から脱北した集団の
計画経済の上納金不足で北から逃げて来た事にあまり変わりないのである。日本も電話
勧誘やら訪問販売やらチェーン展開のコンビニなどルール無視の経済活動も行われては
いる。だが基本の人間的社会活動 つまり社会奉仕としての経済活動の点に於いて違い
があるのだ。


156: 名無しさんAA:16/05/05 16:16
  まだまだ 日本 04

 こうして韓国の間違えた経済活動 金のみに価値を見る姿勢は全く間違えているのだ
が、これは韓国や中国などの特有のアジアの硬直思考性のせいでもある。つまり共産化
時代にも仏教や孔孟思想など徳をして国を造る思想を発達させながら それを軽く疎ん
じて生活して来ていた為 世代交代は戦後に一気に教育の無い毛沢東の共産思想を受け
入れた形になったのだ。つまり尊敬やら倫理やらがあいまいのまま生活して格差社会を
作ってきたから真の愛情ある子供を教育する地域を持たなかったのである。そしてそれ
は今は更にひどくなっている。中国では出稼ぎによる放置教育、韓国では競争原理のま
まの阿修羅のごとき受験社会で夜の11時までも塾通いというのである。そしてその学
習の対象は人間性に属した物が無い状態のまま過ぎているのだ。良く韓国社会は恨の文
化で人を恨み憎み生きていくとされる。この精神構造はなかなか日本人には理解しがた
い。と思っていたが今や日本にも広く浸透してきた様な儒教性否定の高圧態度の人種が
増えて来ている。尊厳とか守るとか平凡とか勤勉とか真面目とかが至って報われないと
言う何んとも言えない状況に変わってきているのである。これを止める文化は欧米文化
や東南アジアでの文化或いはイスラム教では出来ない。格差社会を容認しているからだ
。日本の仏教原理は慈愛の園であり多様性の保護にある。甘露の雨は何処にでもあまね
く降り注ぐ。と言う事で誰でも食べる事が必要で生活を営む事が主旨であり馬鹿であれ
犯罪者であれ正直者であれ身障者であれ 全く関係ない形で 草も木もその雨を受ける
と言う形であり 太陽の暑さの攻撃も温もりの恩恵も大木が受け持ち 木陰の中ではそ
こそこの危険も恩恵も同じに受けると言う事である。格差の無い社会を標榜していなく
平等社会でもない 仏教観或いは神道観の社会は ちょっと変わっているのである。





157: 名無しさんAA:16/05/05 17:02
と言う形であり 太陽の暑さの攻撃も温もりの恩恵も大木が受け持ち 木陰の中ではそ
こそこの危険も恩恵も同じに受けると言う事である。格差の無い社会を標榜していなく
平等社会でもない 仏教観或いは神道観の社会は ちょっと変わっているのである。
その意味では 逆に言えば 人類が今後も持続可能な豊かな社会を望むなら 格調の趣
きを求めても日本型の文化の中での 御蔭様の徳ある文明社会しかない。今のブーメラ
ン現象である避難民の群れや貧困層のテロなどの危険性は1930代から大々的社会科
学の学者たちは予想していた。そして60年代にはパナマ運河で使用されたり第二次世
界大戦で開発されたりしたという数々の薬品から、高度化社会や大きな公害や健康被害
の危惧も全て予見されていたのである。


158: 名無しさんAA:16/05/05 22:12
 まだまだ 日本 05

 こうした時代に日本がやるべき事は 5つある。一つは東京の首都機能移転である。
オリンピックブームで地価に値上がり傾向があるのは良い事で 国会議事堂・皇居・更
に最高裁判所・霞が関ビル この5つに議員宿舎や首相官邸・日銀が移動すれば 後は
おのずと 兜町が動いて行けばそれだけでいいのである。更にリニア地下鉄を動かせば
すむ 今の秩父辺りから長野や岐阜あたりまではそう遠くではない。地震が来てもいい
様な大きな土地の改良をして最新鋭の都市機能を持たせればすむのである。つまり地震
が起こってからの復興復旧と起こる前の移転ではその金額や労力がかなり違うのである
。二つ目は日銀の緩和政策の撤回である。所詮日本の円は世界の基軸通貨の中では危険
性の最も少ないもので 避難通貨としての存在である。つまりはどんな円安を持ち込も
うとしても国際社会に叶わないし逆にどんな円高を呼ぼうとしてもブラック市場には敵
わない。つまり世界は一定の安全枠の中の円を求めているし又円もまたそれをはみ出る
事は出来ないだろう。と言う事だ。となると日本が中国に対抗するには円の流通しかな
い。このまま銀行に任せてもその流通量は増えない。で三つ目が年金年齢の引き下げで
ある。日本がかつて世界に君臨した経済大国になった訳は日本人の公徳心にある。この
公徳心は社会保障の充実から出来上がっている。とすればかつての様な50歳の年金に
してシニア世代に世界に奉仕してもらい買い付けしてもらった方がより円安での輸出に
つながる。そうでなくともシニア世代を若くさせ海外に慣れて貰う事や元気で働いて貰
い今の老人介護施設や保育施設の待ちを解消する事は大事な事だ。これが海外でも問題
とはならない。教育と医療の施設さえ完備すれば海外での日本人の活動はかなりの力に
なるであろう。更に4つ目が国際戦略である。日本国が世界の上位になる必要はない。
が最低限の尊厳ある国である必要がある。今や外交での地位向上以上に草の根活動での
日本の心を知ってもらう事の方が 影響が大きい。更に今の日本の教育の閉鎖的要因も
海外の留学生のみを優遇している事にある。それは日本人が日本に閉じこもって海外へ
の旅行すら見向きしなくなった事にある。つまり耳年増の頭デッカチの臆病者が増えた
と言えるのだ。これは日本国民のあるべき姿では無い。



159: 名無しさんAA:16/05/08 13:21 ID:FGE
いざ酔い いざ並み いざ晒場 68


 3日のインディアナ州の予備選では、ケーシック氏とクルーズ氏が異例の「反トラン
プ連合」を組んだが、トランプ氏の勢いは衰えず50%以上の得票率で圧勝した。これ
を受け米国ニュースは"大金持ち暴言王"のドナルド・トランプ氏が指名候補から大統領
候補に変わった。共和党分解かと思われたが 馬鹿げた事にクルーズが早々と撤退すれ
ば良かったのにケーシックと共に倒れた形だ。トランブ発言にフェアレス氏は「同盟国
に対する義務は不変であり、同盟国に対する敵対勢力があれば、あらゆる手段を使って
同盟国側に立つ」と述べた。日本が負担増に応じないなら、在日米軍撤退も辞さないと
いう主張については「おそらく理論上のシナリオだ」と説明。「彼が(同盟を)放棄す
るという意味では全くない」と語り、撤退論についてさらに、「(負担増への)交渉が
うまくいかなければそうなるかもしれない」と留保、本気で交渉するというトランプ氏
流の表現だと解説したのである。これは多くの米国民の欲望のままで、日本や韓国での
核武装を容認する趣旨の発言に関しても「極端なシナリオだが検討できるようにいつも
全ての選択肢を机上に示しておくというのを理解することが重要だ」と述べたのである
。これには中国は大喜びの様である。しょせん日本は核の悲劇を味わった国で韓国共に
核武装は出来ないと見ているし核どころかミサイル武装すら出来ない 自衛権のない国
の思想のままだ。というのが本音でこれで日本や韓国が弱くなるのが織り込み出来きて
アジア覇権の道が近づくからだ。9月のインタビュー時のトランプの発言では(もしも
中国などが日本を攻撃したらどうするかという質問に)アメリカが一歩引いても、日本
は自ら防衛できるだろう。日本は中国との戦争に勝ち続けた歴史がある。なぜアメリカ
は日本を守ってやっているのか?ご存知の通り、日米安保条約が阻害してる。なぜなら
、他国がアメリカを攻撃しても、日本はアメリカを助けなくてよい。なのに他国が日本
を攻撃したら、アメリカは日本を助けなければならない。ようになっているのだから。

160: 名無しさんAA:16/05/08 13:22
 企業20年説というのがある。どんな企業も20年経てば腐れて行くというのである
。成功体験での企業でも折角作り上げた機能は活かされずに 大きくなる為には変化が
必要と言う訳だが その変化は新業態として創っていくべきだというのだ。つまり通常
一代目が作った企業は二代目には継がせず新しい会社を始めさせよ。というのである。
事実そうした事で二代目は経営学を実践で学ぶ事になるし 初代のありがたさを知る。
なるほど 人も変われば環境も変わる社会も変われば町だって移動する。そこを掴み理
解する事などは業種とは関係なく行われるべき経営活動だろう。そして経営の一番大事
な基本は実質は社員への福祉である。他社より給与を上げて休みを増やし家族を守らせ
生活の安心や安全を守る事が企業使命であって 仕事内容は技術革新や新製品など色々
あるだろうが基本は危険性の排除と生活資金の配分であり雇用とはそうしたものである
。人の暮らしを守る事こそ人の生活する意味であり生きている証なのだ。では国はどう
なのか。国も又動くと考えていいのだろう。トランプ発言はアメリカも又良くなっては
またぞろ自由気ままな正義感ぶった覇権主義かモンロー主義を国民が欲して来た事の証
なのだろう。思うに人は世代境界が確実に出る。安定期と混乱期の繰り返しであろうが
その中のジェネレーションギャップである世代の壁は無くならない。ドイツの先進国の
豊かさ搾取の避難民避難もトランプの疫病的中南米人への壁対策も、多分本音の所でこ
うした人気になっているのだろう。だが銃社会の米国と銃どころか軍隊すら捨てた日本
では こうした発言は身を慎む事の無い野放図発言でしかない。これまでに何回も支援
をして来た北朝鮮はそれを象徴している。ミサイル・核開発とやりながらも 見た目に
は北朝鮮が良くなっている様にみえると言う。これは今先軍政治が消えかかってるから
だとされる。すなわち規制を緩め もはや取り締まりが出来ない程に人々が生活に厳し
く徹していて闇市や強制連行を止めたらしく貨幣経済に移行しているらしいのだ。そこ
で発展性が出て来たというのである。平和主義者はこうした支援で悪いを規制する姿と
、自由気ままに銃や兵器を持って自衛権を持つ姿と それらが対立する構図をどう見る
のだろうか。


161: 名無しさんAA:16/05/10 00:49 ID:ulc
 良くも悪くも 北朝鮮と米国は未来の対を成す物であろう。言わば双方共に鏡である
と思われる。もがき国民の疲弊を ものともしない独裁主義国家。対して個人に自由を
持たせ銃すらも持つ権利を基本的人権とする極めて危ない無法国家。国民は大統領を選
ぶ代わりに大統領が選んだ犯罪的戦争も又世論を焚きつけ進んで行う。シリア内戦を見
る限り パンギブン国連事務総長の失態である。ヨーロッパが避難民で溢れ こうした
予算を国家予算の半分以上を難民に削る事は当然予想されたはずだが 内戦勃発からも
6ヶ月以上も何もしないまま過ぎた。一つはアメリカ大統領がオバマに代わり平和主義
で派兵を好まなかった事一つはロシアの野望の下にアサド大統領の軍部部門の顧問とし
ての地位を捨てなかった事一つはシリア改革に対してアサドのシリアとイラクからの避
難者としての過激派国民のシリアが全く合致しない敵対者だった事である。この事では
国連は大失敗をしている。その頃パンギブンは韓国や中国或いは欧州で平和演説もしく
は軍事パレードの謁見などして次の韓国大統領としての布石を打っていて平和など関係
ない顔をしていたのである。こうした世界の噛み合わない状況 やるべきをやらない世
界の会議や国連の状況は先のトランプの強気発言や北朝鮮の独りよがり政策ロシア中国
の捨てない独裁やトルコの独裁への憧れに 強く滲み出ている。これらは戦中戦後派の
居なくなった事のゼネレーション・ギャップとしか言いようが無い。つまり世界人類は
かつて世界中を席巻した忌まわしい戦いの記録や戦中戦後の喰い物さえ滞る程の貧しさ
を感性や記憶を無くしてしまったようだ。勝手なナチスの強気発言と欧州各国の戦勝国
の欲望と米国の独立孤立主義とロシアの共産国謀議などの双方各自の思惑で 国際社会
は戦争に突入したのである。今でも米国民は原爆投下を正解と見ているしロシアは戦勝
国と自らを呼び中国はさも第二次世界大戦を行ったかの様な顔をしてる。これらの顔は
戦争を起こした事の悪さを後悔していない事で起こる物だ。この後悔が先の戦後の人々
には悲しみとして溢れていたのだ。これが今や無くなりつつある。だからこそトランプ
の様に「戦争などはやる時にはやる物だろう。」などと他人の死を厭わない考えが出来
るのである。つまり今の演説が人々を狂気に酔わせそれが戦争の種である事を全く認識
しない今の現代人は 世代格差の中で戦争容認派に代わっている事に平和主義の日本人
は愕然としない訳には行かないのだ。非暴力は非暴力の言葉の中にあるのである。



162: 名無しさんAA:16/05/22 11:33
 ディノン・ディノン 11

 こうした人の持つ日常の依存症は脳内錯覚が寄与している。これを克服するには、相
応の我慢を続けていく事になる。この我慢又その人のストレスを産みそのストレスから
の解放が更に脳のドーパミンを出させて間違った行為への報償となる。この悪循環がい
わゆる悪人の世界と言われるものだ。DVや日常の怒りや鬱積は時には殺人事件さえも
起こしてしまう。基本的にこの依存は産まれて来て母親や父親或いはその又親などから
の幼児が守られて居る事によって育児がなされていない事がある。つまり集団化本能を
して人は義務教育にうつるのだがそれが青年時代に抜けきれないで親友や友人に頼る事
の歩度合いが掴めていない事に問題があるのだ。日本人が絆や氏子や産子或いは組合や
族や党など数々の集団化の特性を優先している事は全く間違っていると言えよう。この
依存には対象がある。オタクやストーカーと同じに執念深い事つまり熱中して他が見え
ない状態と全く同じである。日本はそういう意味では韓国や中国に次ぐ依存症体質国と
も言える。独立独歩のすばらしさや、自律確立の自分の大事さが本来一番重要である事
はそれを褒めてあげる機運が無い事につきる。精神病患者や自律神経失調症など基本的
には身体の自覚が少なく奉仕に徹してしまう事が問題で平常心と言う適切な日常生活が
営まれて居ない事が問題なのである。これによって病院では直ぐに薬を処方してしまい
。注射や薬物療法にして病院を膨らます結果になる。だが本来は厳しい現実生活の見直
しこそが大事であり依存症の人が毎日我慢し 能力不足を補う事の出来ない社会システ
ムこそが大きな問題なのだ。その意味では社会保険庁の数々の詐欺行為は許されない物
であったはずだがそのまま一般会社に移行しており社会的には許されない政治決断であ
る。NTTでもJRでもそうした許されない政治を国会はこれまでやってきてやりくり
している。本来なら国債償還を行い常識的国家予算をして国会議員と言う役職が与えら
れるはずだが その使命を果たさず将来の子供への負担で経済を潤わせると言う日本の
歴史上前代未聞の悪態のまま国会を開き 税負担を高くしようと画策している。これは
議員職能の違反でしかない。議会運営は予算運営する公務員の監査のはずだがそれが行
われず党利党略に溺れた議員を手玉に取った行政がそのまま施行されている。これが一
番の問題で事故死や自殺者が増加する一因となっている。正に幻想の中の幻想生き地獄
の様態である。一般部分ではこんなに技術革新が行われて居るというのにである。

163: 名無しさんAA:16/05/22 17:04
 ディノン・ディノン 12

 そもそもヒトと言う物は偉大でも孤独でも無い。人間の能力と言う物は限界と言う物
があるのである。その限界は多少に関わらず自然界の掟から言えば微小の能力なのだ。
人は光合成をしないし空気も作れない。更には産む者も女性に限られ水を得食を得るに
自然界のものの命を預かるしかないのである。我々が間違えていけないのは 元々刺激
や痛み或いは味覚など感覚は無い事は簡単であり有る事には非常な訓練や歴史でわざわ
ざ生きる為に創って来たのである。麻薬や酒や薬などは使わなくとも幻想や快楽は受け
れる様に出来ているのである。その為間違えた学習をすれば間違えた人格構成と性質と
性格を持ちいつでも人類の破滅や地球の破滅を導き出される様にしている。宗教はその
為の足取りを歴史上に表わしているのである。人は常に何も感じないでいる事は躊躇い
さえなければ簡単に騙されるのである。視覚も聴覚も触覚も味覚も痛覚でさえも喜びや
不安を簡単に逆転させられるのである。これがナチスの「プロパガンダの天才」と言わ
れたヨーゼフ・ゲッベルスを宣伝大臣としてリーフェンシュタールが行った行事の結果
である。この結果を強いて又使ったのが米国ブッシュである。ツインビルが爆破されて
大勢が死んだがそれでも死者数は今だ不明でおよそ千七百人とされている。対して空爆
などでのイラク人の死者は15万人更に米兵は自爆テロなどでも死んで居なくとも母国
に帰ってからおよそ八千人程が自殺していると言われる。更に米軍死者数4500人で
内訳の軍人は3千5百人は多国籍の一般人をしても八百人も死んでいるのである。米国
軍人だけでも多く更にイラク人側まで含めれば「死者は約50万人と推定している。」と
発表され戦争関連死と更に今だ平穏状態に戻れない国情からすれば どうしようもない
ヒトの数が不幸に見舞われたのである。言わば千人の死が五万人の死に替わったのだ。
それが指導者が吐いた心躍らかせた欲望の声で民衆に行われた行為なのである。敗戦後
日本では多くの者が国を信じるな天皇を崇拝するな。敬うだけでそれで良い。と言った
つまり尊敬はしても拝んで崇める事は間違っているというのである。これが敗戦後の軍
人の声だったが 都市部空襲や原爆が新たな天皇の価値観を産んでいた。敗戦を決定し
敗戦後の混乱を止めた人としての品格である。つまりその地位に限らず地位を全うする
責任感に日本人は尊厳を見ていたのである。東京都知事問題ではこの品性の無さに落胆
している都民も多い。これが教育のすたれた証と世代間格差の問題の一現象であろう。



164: 名無しさんAA:16/05/25 19:40
希望と光の間 62

 核開発に於いて北朝鮮の動向が気にかかる中 日本の核の傘の下での米軍軍属の犯罪
に沖縄県民が怒っている。「どれだけ我らの命が軽んじられなければならないのか。」
と米軍基地撤退を叫ぶ。それに呼応してニュースキャスターは「そもそもの軍隊という
人殺し集団が居なくなる事が基本の問題でその解消無くして解決はない。」などと馬鹿
を言う。更に「軍関係者の綱紀粛正や再発防止」は果たして対策なのか。まで言うので
ある。「だがそれは少し違っている。」のである。まず国境問題は何処の国でも深刻な
問題でありイラクとシリアの国境線には軍隊が居なかった事が今のEUへの避難民問題
となっているのである。紛争地域であるアフガンとパキスタン或いはパキスタンとイン
ド更にはチベットやカンボジアやタイでも実情は深刻で軍隊で守られていない所は直ぐ
に紛争地となり国と国で無くともアメリカの国境線のごとくに密売人や暗黒街の住民と
なりゆくのが世の掟なのだ。かつての琉球王国の滅亡も島津氏の助けがあって難を逃れ
たと言う歴史的背景すら忘れ去られた言い分である。更に日本は資本主義自由国家であ
る。別に政府は住民達に中国民の様に「其処に居なさい」「県外居住不可」「身分が」
などとは何一つ強制的暮らしや居住は強いてはいない。至って勝手に九州の片田舎や本
州の賑やかな町に引っ越ししてもいいのである。勿論郷里としての沖縄を愛しての住み
よい暮らしを求めていけない事では無いが 他の街でもストーカーやら交通事故や労災
やら危険はあるのであって 昔の様な捜査も出来ない地位協定は回避され何もそうそう
反対ののろしを揚げるに程政府は悪い事はしていないのである。それはマスメディアは
勘違いしてはいけない。軍隊が駐留しているからこそ国境紛争や戦争になっていないの
であって 嫌でも結局「軍関係者の綱紀粛正や再発防止策の強化」しか言えないのであ
る。一方核について、政府はもんじゅの存続を堅持する方針を固めている。田中氏は「
安全についての基本的討議があってない。」とやんわり批判している。全く文部科学省
は日本を担うこの設備をもう少し考えるべきだ。まずナトリュームと言う猛毒剤を使う
システムはやめて食品にもなるグリコーゲンに改めるべきだろう。更に放射能漏れの最
大の問題である熱処理と水素ガスについての解決策を提示すべきであろう。





165: 名無しさんAA:16/05/25 23:29
 希望と光の間 63

 G7のサミット会議が志摩で行われる。それに伴いオバマ大統領が来日している。彼
は類まれなる国際派の大統領であろう。アメリカ国内ではイラクからの撤退が傷口を大
きくしたなどの戦争に弱気の姿勢が拡大させた。などの見方があるがそれは違っている
。現実にISILの背景にはアラブやイスラエルの影響があり シリアの親ロシア派の
動きはアラブの春に活発化していた事が立証され米国が引いていた事が中東の部分戦争
で収まっていた理由でありもし今以上にイラク駐留がありシリアに派兵であれば今以上
にイラン周辺やイエメン周辺更にエジプト周辺は爆撃の嵐であったろう。現にエジプト
の旅客機はロシアの航空機もフランスの航空機も落ちているのである。平和外交の賜物
である。この平和の使者であるオバマ氏に日本人の90%が米大統領に謝罪を求めない
し80%が今後の核兵器使用並びに戦争の回避策としてに悲惨さを知って欲しいとして
いるのである。そして70%が核の廃絶を願っているのだが、一方で米国民の60%が
核兵器投下を正当なものと認識して50%が米国が勝利し兵士の命を守る為には必要だ
ったと答えている。が第一次大戦前から軍人を除いた一般人殺害は国際法違反であった
し無差別殺人として位置されていた。つまり日本の民間石油輸送船の攻撃無差別都市空
爆更に原爆に地雷などは基本的には 約束された協定違反でありソ連の参戦も又国際法
の言う不可侵条約違反で時のヒットラーより悪い事を大国は行って来たのである。この
戦争と言う決して負けてはならない物更に当時は植民地支配などあって土人の奴隷制度
すら在る中での戦いでの悪行でしかない。つまり戦争そのものがこうした悪態を産む作
業なのである。今や恒久平和に行こうとする中では、こうした任期最後の年に世界最初
の被爆地である広島を訪問することは、「核なき世界」の理念を崇高に掲げ 自身の「
レガシー(政治的な遺産)」としての歴史に刻む行為としての売名行為であったとして
も 人類の澪となり礎となれば先達者とも言える。


166: 名無しさんAA:16/05/26 06:40
 いざ酔い いざ並み いざ晒場 70

 どうも世界経済が振るわない。EUは2割程度落ち込んだ。テファニイは日本以外の
消費が振るわないと嘆く。欧州消費も米国消費も日本でも高給生活者が老齢化したのが
若者に渡さず切りぬけよう狡猾に動いている為だ。ITクラウドも安全の限界を超えて
グーグルやマイクロソフト或いはアップルもこれ以上の進化に方針を決めかねている。
業績は悪く売り上げや利益率は良くなく一株利益をやっと持ち直しさせてるのが精一杯
のようだ。それでも金融界は強気で利上げ可能と叫ぶ。だが業績見通しはいずれの企業
も良くない。大量リストラはないもののカナダの大火事で石油が一時的に上がったもの
の35ドルまで下がると見ている。大方の見方はイランの輸出増となるマクロ的もので
見ている。更にこのイランの台頭は金保有のインドやアラブの利益を損なうとして金の
相場の値崩れを引き起こしそうだ。IT機器が売れなく金の使用量も減り中国仕様も又
赤色や金色好きから現実の好みと実質機能に代わり必要ないとなれば 全く振るわない
のは当然だ。更にこの伸び悩む先進国に諦める共産国の構図はドル円レートが120円
まで下落する様だ。マレーシア高速鉄道が頓挫する中でも中国は海洋進出を足掛かりに
世界覇権を目論むのだが今や公害や食害粗悪品製造で急ブレーキがかかる。実質的に今
中国を引っ張っているのは台湾人や香港人の自由な思考であり 事実今回の台湾総督府
の民進党総統には怒りさえ覚える中国首脳部だが実利ではこの台湾企業が去って行けば
中国企業は又も貧困に陥るし暴動になりかねない。実は中国国内は新しい技術を求めて
日本を頼っていた。だが国策ストで解る様に自由主義資本主義に移行しない国家権力の
まま自由主義圏内の技術や利潤を奪う事を仕掛け成功した。がその機械のメンテナンス
他商品の基本的共通認識が無い事で中国人さえも国内企業や国内製品を信じない中にあ
る。偽物贋物主義のほころびだ。真似ても本質に届かない限り成功しないのである。そ
こで日本人が教えて来た事は無になり水泡に帰した。朝鮮思想と同じである。朝鮮半島
から日本人が去った後韓国は北朝鮮と戦争したが同時に親日家をことごとく葬ったのだ
。出て来たのは韓国語を創り勝手なキリスト教を布教し似ても似つかぬ仏教と儒教をし
て恨みに終始した文化を築きあげたのだ。対して台湾には国民党として共産党と対峙し
た誇りがあった。それが今成功し台湾人や香港人に教えを乞う形の中国が出来この成功
が中国の衰退を食い止めている。


167: 名無しさんAA:16/05/29 07:49
  人一人

 オバマ大統領が来日し広島に献花をした。象徴的なのは日本に「折鶴」を四羽持って
来ていてプレゼントした事だ。ニュースペーパー即ち新聞紙で折った鶴みたいだが興味
深い話だ。北朝鮮はこうした行為に対して労度新聞では「被害者らに贖罪する歩みでは
ないことは明白である」「『核兵器なき世界』の建設なるものを再び力説し、世界最悪
の核犯罪者としての正体を隠そうする下心が潜んでいる」と非難し、広島訪問の中には
「日本を引き寄せ、自分たちのアジア支配戦略実現に利用しようとする打算も潜んでい
る」などと主張している。成程『核兵器なき世界』は理想論ではある。だがその高き尊
き理想を掲げてこそ現実世界が良くなるというものだ。更にオバマは核なき世界以上に
戦争なき世界を訴えている。ここが重要な事だ。彼は言う「アメリカという国の物語は
、簡単な言葉で始まります。すべての人類は平等である。そして、生まれもった権利が
ある。生命の自由、幸福を希求する権利です。しかし、それを現実のものとするのは決
してアメリカ国内であっても、アメリカ人であっても決して簡単ではありません。」と
北朝鮮も又苦労して核弾頭に固執しているがより以上にこうした「崇高な国家姿勢」が
大事な事は理解すべきであろう。つまり国家は指導者をして扇動される中にありそれは
北朝鮮でもアメリカでも日本でも同じである。憎悪や恨み節や羨望では未来は築けない
。この事をどの国の国民でも良く知るべきだと言う事になる。今トランプ旋風が米国を
賑わしている。だがトランプ支持者と不支持者がデモを起こして警官の規制を無視して
までも逮捕者が出る時点でトランプには大統領になる資格はない。オバマ氏は世界に名
だたる名君であろう。安倍氏以上に世界の平和の良き理解者である事がスピーチによっ
て解る。ブッシュやトランプの早物好きの喧嘩好きの曰く付き人格と大違いである。よ
くこうしたキチガイの部類を投票するものだなあ。と不思議に思うのだがそれだけ劣化
した社会情勢があるのだろう。ここが人類の悲しい所だ。家系や家柄が幾ら良くとも、
その個の社会環境が育成状況が悪い事に於いては世代交代で 社会情勢は一転するのだ
。それがナチスドイツでありイラクでありシリアであるのだ。意に反してその言動の中
に含蓄が無い事は国民世情も又配慮や含みの無い簡素な差別社会を形成し その頂点を
目指した欲望社会しか作れないのである。ヒットラーが自ら軍需産業育成で戦争を仕掛
け戦争を終わらせる事無く ユダヤ批判を更に宗教のごとく収容所を作った様に。この
ヒト或いは人類というものの在り方の 発展性を持つ智発信基地としてこの広島の地を
持っていこうと呼びかけた事は 興味に尽きない。


168: 名無しさんAA:16/05/29 15:19
 そもそも米国人と日本人の違いはあろうとは言え「オバマが広島に行っているのだが
原爆投下を謝らないなら問題ない。私には関係のない話だ。」と言い かつて「日本も
核武装させれば好いではないか。日本もかの大戦では戦った強い国だろう。貴重な米軍
駐留費の削減できるはずだ。」などと言っていた事とは随分違う。更にトランプ氏は「
戦争とは、する時はする物でしょう。」といい放ち「対立する候補の蹴落としに終始し
ているままだ。これまで1年間の候補選更にこれから一年間の大統領選は世界に魁とし
ての米国の指針演説の筈だが まったくそうした未来創造に欠けた 対立候補の足の引
っ張りに終始している。このメディアを翻弄し賑あわせ更に利用し勝利したトランプは
ある意味天才であろう。だがその才能が胡散臭い世情を更に燃やし票につなげるという
不道徳で恥知らずの行為に長けた事であるとするなら 米国民のトランプ支持は愚民で
あるとの旗振りでしかないし、そうした自律精神の無い行為を行う指導者をして規制の
無い軍拡や軍事の報復活動を米国が指導する事こそが、人類のかなり危険な行為なのだ
。大体一般人というくくりの無い異常者や未青年成人者或いは幼稚な犯罪者集団さえが
居る中での銃刀保持を認める事は、反対が多くてもあり得ない話で誰でもが人を殺せる
自由がある。との錯覚した社会を作っている。そのあり得ない社会を世界に広める米国
は自国を戒めるべき時にあるのだろう。銃社会に於いて身を守る自由があるというのは
自分を信じていない事にある。オバマ氏は「人類が悪事をおこなう能力を廃絶すること
はできないかもしれません。私たちは、自分自身を守るための道具を持たなければなら
ないからです。」といい核保有国は、「他国から攻撃を受けるから持たなければいけな
いという「恐怖の論理」から逃れる勇気を持つべきです。」とも言った。(狂気の凶器
)とも言える核と自由な人殺し出来る銃器の米国的思考の政策は全く同じである。日本
には「疑心暗鬼」と言う言葉がある。見ず知らずの人へも信頼醸成をした社会こそが大
事な事だと言う言葉だが 人を利用し信頼や人情の無い中での「ギブアンドテイク」と
言う道具や見返りとしての社会活動や人を使うと言うのであればそれはチンパンジー社
会である。猿とのDNA2%の違いは 人が人の悲しみや行動に絆や愛を持ち込んだ中
での集団活動とされている。これによって脳内活動が異常に長く活発化し寿命が長くな
り更には突然変異が人を作ったとされたのである。つまり協力や絆や共同体意識や恭明
や共感が人を作ったのである。現代科学は類人猿はその弱さから共同体社会を作り進化
し言葉を持って現代人となったとされる。それは弱さこそ進化であり豊さの証明である
といえる。

169: 名無しさんAA:16/05/29 21:07
 人一人 (オバマ編3)

 基本的に米国人と日本人に違いは無い。それは米国人であれ韓国人であれ或いは黒人
であれ誰でも違わない。違うのは風習であり言語なり習慣であり考え方のみなのだが、
その考え方の違いこそが人類の資産でもあり悩みでもある。この広島訪問に北朝鮮など
が国家戦略の下心と批判し、中国が日本の加害国隠しと揶揄し、韓国が在日被害者には
献花がなかったと羨望した。がこうした批判は全く違っている。第一にどんなに米国の
批判をしているとしても 北の作ろうとしてる核ミサイル或いは中国が現代発展の礎と
なった市場原理そのものは米国の文化が作った物でそれを教えて投資したのが日本であ
り批判する事はそのまま自国の馬鹿さを露呈しているのである。「過ちは決して繰り返
しません。」とする主語の無いこの言葉は人類の一員としての想いである。広島ドーム
は世界においては原爆の象徴であるだろうが日本人においては世界大戦の象徴でしかな
い。オバマが言う様に悲しい過去忌まわしい記録の一端であってかけがえの無い人々の
生活が奪われ命を失った事は原爆でなくとも空襲でも爆撃でも島での銃撃戦でも真夏の
行進であっても同じなのである。即ち戦争の痛みとしての人命の奪い合いや人権の軽さ
は人の無くすべき物なのである。が意に反して世界を見る視点を持たない極右や極左の
台頭に悩む世界に代わり世代交代で若者が世界大戦から何も学んでいない意見に替わっ
ている。経済も同じで多角化広域化高速化緻密化の現れは結局は人々の幸せよりは個人
のピラミッドの頂点としての所得をしての栄華を求めるように替わっていて所得格差は
今や難民を受け入れる余裕さえない状況を産んでいる。およそだが日本人の9割は国際
法違反のこの原爆に謝罪を求めていないし8割は世界の指導者が広島来訪を求めている
そして米国人の7割は核の必要性を求め6割が戦時下の投下を実験的な2都市の比較投
下であるにも関わらず、米国兵士の死者を無くす為や日本の降伏の為の正当な行為であ
る。としている。だが本質は全く違っていて原爆投下がなければ我が国はソ連の傘下で
米国と戦いもっと悲惨な目に遭い、この戦争が無かったら今の黒人奴隷の解放や植民地
政策の続行があったのは間違いないであろう。つまり過去は必要悪だったのだ。と気付
く事が大事で 未来に向けてこの悪を蔓延させない努力をオバマは誓ったのである。本
来人間は子孫を残す力を持つ。つまり5人だろうが6人だろうが人は人を養い食べさせ
る力をもつのである。と考えればEUの甘ったれた国境線引きや警備は只の傲慢な贅沢
な選択でしかないのである。とりわけトランプはその極右や北朝鮮の言い分の延長上に
あるのだ。


170: 名無しさんAA:16/06/23 01:47
( 幻想の中の想い )

 ディノン・ディノン 15

 ある科学者が言った。「宇宙には人間に理解される義務は無い。」と。そして ある
宗教者は言う「神は言っている。すべてには原因があり結果が生じる。」と・果たして
そうか 老人は言うだろう。「自然を認知したならば認知した貴方が自然を認知しただ
けだ。自然は昔からそこに存在する。知らなかったのは貴方だけだ。」と。よく人々の
声が聞こえる。「すべてに原因があるだからそれが解れば解決する。」そうだろうか。
「原因の奥にその又原因がある。神が第一原因と言うのは信仰心の確実なおごりである
。時は決して止まらない。止まるのは時と置かれた貴方が止まって見えるだけだ。神な
どこの世にいない存在しない。だからこそ人の心に神が必要なのだ。神がそこに居ない
からこそ神を信じれるのだ。」と無心論者は言った。確かにそうだ。神などいない。が
だからこそ偶然の持つ吉報が嬉しいしそこを大事にしたい。所詮地球も人間も私自身も
偶然が生んだ産物である。が、だからどうした。お粗末にも無にする寓挙を許せるのか
。許せるはずはない。許せるとしたらそれは自暴自棄の何ら生きる資格も自身も目的も
責任も捨てた話である。知る権利や探究心など無限の可能性は人にとって必要不可欠の
心理である。つまり我々は知る理解すると言ったもののそれは無理解から少し踏み込ん
だだけで本当は全てを知る事は出来ない事を知っていながら貪欲に奥まで掴みたいと思
っている。海岸の砂粒ほど多いその原因や原理あるいは要素を手の中に掴みとれるのは
その本人の手の大きさでしか出来ない。宗教などで崇拝して掴むものは更に小さい理解
である。科学で掴むものもある。が時としてそれは無謀な巨大な集団暗示と大量殺戮の
手段ともなるものを掴む。それはほんの数%の偶然が生んだ安定をそそのかし残る9割
9分の不安定を望むからだがそれでも探究心での進展は多い。どんなに進んでも食べて
寝る行為には違いは無い。つまりはその砂の大きさや色や形が違って掴んだ量が違いが
出ても、大方の生きる生活には変わらないのである。であるならば楽に貧乏のまま人に
尽くして喜びを得ると言う 憎しみや敵対を捨てた共生の生き方は当然であろう。が稀
にこの考えに辿りつかない馬鹿がいる。よく免許の切り替えで言われるのが「整備され
てない道路で事故起こす馬鹿がいるが 整備されたら死んでいくアホが更にいる。」と
爆走の馬鹿さを言う。人はそんなものかもしれない。

171: 名無しさんAA:16/06/23 02:20
(人間不信 殺人事件の深層)

 御馬鹿の八景 20

 この所 孫正義がTVに出ている。そしてホンハイと日本の銀行と橋渡したという。
およその殆どの日本人には迷惑な話である。大体この男のキチガイ沙汰な行動はおよそ
日本人や日本国には違法性公共性道徳性に欠ける。思慮がない人間卑劣な行動と取られ
ても仕方がない。あの東京都知事にしても同じだ。今までに全てではないしろ給料返上
や明細の提示を約束していながらその後の数日で辞めると宣言するに当たっては全てを
反故にした約束違反である。議会答弁とはそんな世間話や井戸端会議よりも軽いものか
。更にあの退場にはまったくまいる。少なくとも彼の2年期の間の食を得た職場ではな
いか返礼の精神の一つぐらいあってよい。都庁舎や都の旗に頭下げるのが当然であろう
。日本人視点や日本人観あるいは日本人の度量や器量をガラパゴスと批判する輩もいる
がそれはそれとして自虐批判する必要はないであろう。過去の時間に礼を尽くす事は、
そう悪い事ではない。立派な心がけのはずだ。それをないがしろにして止まない新興勢
力と言うものこそ潰すべき会社だと思う。が現代人は馬鹿の象徴だろう。そうした詐欺
軍団のまやかしに誤魔化され経済合理と思ってか 不合理な経済論理を当たり前と思っ
ている。未だに数十億の給料のカルロスゴーンを社長に頂き日産に融資する銀行を問い
詰めない。馬鹿げた話だ。株主は日産というロゴの持つ意味を知らないのだろう。こう
した どんどん海外に資本どころか貨幣価値そのものを流出させ 従業員給与を下げて
はデフレ斡旋をする会社を許す寛容さは 日本独自のものだろう。全く不思議な国であ
る。これがTVメディアの効能かもしれない。小沢氏が言う。「これ以上アベノミクス
のエンジンを噴かされたら国民生活はめちゃくちゃになります。」と馬鹿げた話である
。本当に大事な経済に喝を入れず 沖縄を問題化し中国に挺身低頭の外交して世界に笑
われ円安に出来なかった事を全く気にしていないかのようだ。勿論リーマンショックの
影響も又有ったのだろうがそれでも酷い政治をやった過去を国民は忘れていない。まあ
利用価値のない相手を相手としない付き合い方の日本版の様な非情の人間には 日本か
らの退場が向いている。


172: 名無しさんAA:16/07/14 03:15 ID:ne6
(中国 模様)

 幸福の死神 01


 中国の赤い舌とよばれる九段線の権益が無くなった。これで中国式悪行 共産党思考
というものが世界に知れ渡った形である。韓国の慰安婦像と同じく有名無実の小さな事
を大々的に誇張した形の権利を主張する。いみじくも大国であろう中国は激しい批判を
国際裁判所に投げかけた。これから中国の得意とする3戦が始まるだろう。嘘と誠を団
子にして上に甘〜い蜂蜜状の言葉をなげかけるのだ。世論戦、法律戦、心理戦で少なく
ともこの戦いが日本相手にすれば国内を静めるに何とかなる。と今や全面展開中である
。こうしたものは、事実の確認が重要である。だが国内放送向けにはNHKの報道すら
真っ黒で 習政権の要人の意見で埋まっているので 一般市民には何らその事実は伝わ
らないのである。これは河野談話と全くそっくりな話である。ここに高級な腕時計と言
う事象がある。そしてそれを身につけて普通に歩く人間がいる。と隣の紳士が話かける
「良い時計をはめてますね。」「いい時計でしょう。女房が記念に買ってくれたんです
。」「いやいやそれは私のです。」「なに言ってるんですか。これは私のです。」「い
やいやそれは私のです。」「失礼な。」「いや私は認めません。では貴方のその時計に
ついて二人で話しあいをしましょう。」「何言ってるんですか。」「この時計は貴方は
貴方のものと言っている。私は私のものと言ってる。意見が違うでしょう。だから話合
いをして解決しましょうと言っているのです。解決は嫌いですか。」てな具合である。
河野談話でも慰安婦の話を聞いてその真相を探ることもなく河野は勝手に日本軍の処理
として捏造された記事や捏造された書物で韓国政府の意向に添うように話し合いして、
朝日と共にその日本の嘘の過去のお先棒を担いだのである。中国という国は、どうして
こうも非人間的生活を人民に強いるのか。そしてどうしてこうも非人間である事を広げ
ようとするのか


173: 名無しさんAA:16/07/17 17:03
 世界の潮流    (未来への社会性や投資について)

 希望と光の間 72-4

 一体ロシア何をしようというのか。そして中国はこの領土拡大で何を望むのか。あの
ウクライナのクリミヤ半島を盗って以来どうしても腑に落ちない行為が続く。皇帝街道
のロシア権益の確保は解るがそれがシリア領までも延伸させる事は意味が無いはずだ。
既にイスラム社会はISILの恐怖の中にいる。これらの兵器が中国の死の商人達の介
在し更に敗走して残った米国兵器で行われている事は解っている。又マレーシアなどの
東南アジアがこの過激なイスラム原理主義教団の巣窟になろうとしている事が今は解っ
ている。ダッカの事件でもバングラデシュの大学群が今やそうした人達に乗っ取れた形
である。これを補助しているのが中国の偽物作る技術だ。住所やパスポートも 或いは
兵器としてのカラコニコフ銃は勿論米国銃も簡単に偽物を作る。だがそうした混乱を招
き紛争を起して一体どうすると言うのだ。トルコでは自作自演でエルドワン大統領が今
クルド人を殺すそして今もトルコを救ったトルコでのイスラム教の存在を世俗化した答
えをギュレン派が主流としてやって来た。クルドを止めて今度は同じイスラム教の世俗
化した政教分離を唱える平和主義者を敵として自分の独裁化を行おうとした。大統領が
大統領になるまでは共に行動したギュレニスト達だが今や文化大革命の様に邪魔になっ
たのだ。ギュレニストとは、イスラム教をベースにした市民運動の指導者フェトフッラ
ー・ギュレン師の教えに共鳴する人々のことではあるが、国家のイスラム化を薄める事
で世界の潮流に乗ろうとする考えがあり イスラム教を強めるエルドアンとはかつて同
志のような関係をエルドアンが独裁色を強めた事で対立が鮮明になり、袂を分けたのだ
エルドアンは常に陰で死者を作りイスラム過激派分子を活用し国民の支持を保ってきた
。今回も自分は休暇で国外にいて安全を保ちこの行為を今度の新首相にさせた疑いが強
い。というのもこの軍の革命には前兆があった。まず支持が急速に落ちてクルド急襲を
かなり活発にやって来た事ロシアとの親交が復活した事更に「ギュレニストは国家内に
国家をつくろうとしている」と批判している事だ。国家内国家とは自分を支持しない集
団は決して認めない。と言うことなのだ。一度は大統領選に敗れていながら直ぐにクル
ド平和党やその支持集団を100人近く殺しテロがやったと声明をだしてまだ半年なの
だ。

174: 名無しさんAA:16/07/19 01:44 ID:Jfc
  希望と光の間 72

 今年はビートルズが来日して50周年を迎えたと言う。この時英国がEC離脱で新首
相が生まれたというのは不思議な因縁だろう。考えれば仏国が「自由・平等・博愛」に
対して彼らが掲げたのは、「愛と平和」である。日本語で「愛こそ全て」が売れたのは
冗談の様なグループだったと言われるが、来日した時は押しも押されぬスターになって
いた。古典的作曲家から言えば全くキチガイの奏でるメロディと酷評されるものだった
し、現実的にサルやチンパンジーやゴリラに聞かせて狂ったと言う研究結果は白日の下
試された結果だった。がそれでも彼らの歌は当時の若者に受けたし莫大な稼ぎを産んだ
。それで熱烈なファンを虜にして彼らは来日した。1966年6月29日に訪日し公演
は次の日から3日まで日本武道館で行った。前座で尾藤イサオや内田裕也、ルージーン
ズ、ザ・ドリフターズなどが舞台に上がっているという。勿論我々は田舎の貧乏人であ
って彼らの来日は小学4年生の頃 映画鑑賞で見たぐらいでそう熱烈に面白いとは思わ
なかった。こののめり込む人達の輪が奇異にみえたのが印象である。がそれでも日本人
のファンが行儀よく立ちあがる事も規制されている中ではビートルズ本人はかなり戸惑
う様なファンの姿だったと言うのである。この頃のの日本はとんでもない社会だった。
米国で「ベトナムコミンテル」通称ベトコンと戦いその基地として日本の港が軍港とし
て使われた。その悲惨な空爆をする空母に「べトナム平和活動市民連合」通称べ平連が
噛みつき共産主義者と揶揄された者が赤軍派を名乗り過激になって行った。コンピュー
タ付ブルドーザと言われた田中角栄は経済的優位の下で最年少で当選し金権政治を行い
三井三菱などの商社ビルが爆破され浅間山荘事件やハイジャックまで起きた。北朝鮮が
3代目となり支援もなく孤立してもがいて名を揚げようとしてる中ダッカでの爆破が、
ダッカ事件まで思い出させる。この70〜80年代の異様な熱気は恐らく世界の潮流の
中での後進国の姿であろう。この中で先進国の最先端にいる欧州が今や何だか違って、
移り気で弱気だ。恐らく堅調なドイツの台頭と下で、指導的地位を捨てたのであろう。
だが我々はこの「自由・平等・博愛」を掲げた国民と「愛と平和」を掲げた国民と或い
は「自由な資本主義」を掲げた国民の違いの本質を明確に知らねばならない。


175: 名無しさんAA:16/07/19 01:45
  希望と光の間 72-2

 英国では チルコット委員長は イラク戦争の報告書を発表した。独立調査委員会が
8年もの間に取りまとめた報告書だ。時のブレア首相に対して 英国諜報部や国連委員
会の大量破壊兵器は持っていないしこの経済制裁の中では作れない。との忠告を聞かず
時の内閣は勝手に米国追従し、今の200万人もの避難民を出し、フセインを勝手に引
き吊り出しISISを作る元を作った。と分析し これは決して時の首相個人を糾弾す
るものではない。と締めくくった。これが離脱を決め「愛と平和」を掲げた国なのだ。
。勿論かの国が産んだ色んな歴史によって国民が到達したのスローガンなのだろう。対
して日本人は何に到達したのか。恐らく日本人は綿々と受け継がれた「技能者は神」と
言う「非凡」を求めた民で、それこ「魁」を刻んだ歴史を積んできた。日本での神は、
ありとあらゆる物に在るとされる。従って日本の天皇は「現人神」であり天皇の仕事は
「八百神の神々」に頭を垂れて礼を尽くす事が年中行事なのだ。そこで国民も又同じ様
に「八百神の神々」と仲良くなる事と自らが神に近づく事が求められる。相撲はその神
々に捧ぐ言葉であり、祭りはその神々への賛歌であり、力士は神そのもので祭りの主役
も又神々の行為なのだ。役というものが人柱から来て疫病神から役人まで日本語的「や
く」言う言葉の中に収まるのはその為だ。大工にしろ左官にしろその行為や職能も又、
同じ様に神とした。日本がこの職人の集まる綺麗好きの「技能立国」となったのは当然
の結果であろう。一分足りとも遅れない列車や店先の掃除から始まる仕事お茶で休息を
する習慣美味しさを求めて止まない調理それらは全てにそうした神としての振る舞いが
求められる性格だったのである。それは剣の道にも通じている。そして剣術が剣道と言
われ武術が武道とされるのは当然で、その行為にそこに生業(なりわい)と精進(しょ
うじん)とがあるかないかを問われるのだ。「自由・平等・博愛」を掲げたフランスは
平和の使徒としての「世界の警官」「自由主義の具現者」たる国アメリカに自由の女神
を送ったのは当然の結果であろう。これに対し「ゲルマンの夢」を掲げたドイツ「中華
の夢」を語ろうとする中国、更に「共産主義の夢」などはいずれもが既に歴史の中で、
その間違いが証明されている。それでも又そうした言葉や行動が頭をもたげている。


176: 名無しさんAA:16/07/19 01:46
 希望と光の間 72-3

この(「ゲルマンの夢」を掲げたドイツ「中華の夢」を語ろうとする中国、更に「共産
主義の夢」などはいずれもが既に歴史の中でその間違いが証明されている。その間違い
とは結局は人々を「誤解した未来」「共和の無い自己満足」「現実的ではない夢想」な
どで「非人間的行為」「人権の侵害を顧みない勢い」を望む事に在る。それにより軍事
拡張と軍国主義、疑心暗鬼の二枚舌外交、領土や資源などの奪い合いに参加する事を国
力と勘違いする様な事が一斉におきては世界大戦を引き起こした。それでも又そうした
言葉や行動が頭をもたげている。)と言う状態は又人類が混迷社会に突入する事を暗示
している。今回のイギリスのEU離脱は安保理の考えからは全く認められれない行動だ
ろう。中国が南沙諸島を勝手に自分の土地として使う事と同じ様に公徳心のない恥知ら
ずな行為に違いない。その恥知らずな事を叫んだジョンソン前市長を外務大臣に据える
メイ内閣が英国で始まる。これは英国にとっては秘策の手究極の一手であろうが、諸外
国から言えば最もふざけている行為でしかない。他国からはこの全く恥知らずを行った
人間を表に出そうと言う魂胆は国際社会への愚弄にしか見えないだろう。トルコのエル
ドワン大統領やロシアのプーチンの強気はそこにある。そこに新たにドイツの「怯まな
い自由。賢い統治。」を掲げた様な民族主義がある。かのドイツは決して経済を疎かに
しない。それは超現実主義の民族なのだ。だがどの国であれどの民族であれ一番に問題
とすべきは「次世代の教育」であり「次世代の未来」なのだそういう意味では一番問題
にすべきは「次世代の地球の未来」と言う視点となる。そうした中にイスラム世界中東
問題が横たわっている。腹立たしい事にはこのブレアと小泉が腰抜けだった為に国連や
バチカンの忠告も聞かずブッシュが勝手に戦争しては世界を混乱の渦の中に引き込んだ
事だ。可哀そうにもオバマはその懺悔の外交や政治しか出来ないでいる。更に可哀そう
なのは共産主義を捨てて共生共有世界を作り上げようとしていた多民族国家の国民であ
る。イスラム教徒は偏見の中にありその偏見は黒人差別を又激化させるだろうとの意見
はもはや現実の中にある。その混乱は近い国に及ぶだろうと言う予測は避難民とテロの
増加で現れ ベルギーやフランスはもはや手に負えない程の地下組織化したテロ予備群
がたむろしている。

177: 名無しさんAA:16/07/20 22:28 ID:1qU
 世界の潮流    (未来への社会性や投資について)

 希望と光の間 72-6

 こうした シリアの内戦 中国の文化大革命 或いはナチスヒットラー時代軍国主義
時代や今のアメリカやイラクや今回のトルコなどで一番恐ろしいのは「人が多い事」に
かこつけて教育がなされないままに 封建時代の考えが助長され更に指導者が人が減る
事に喜んで食い扶持が減って統治や政治がしやすくなると思っている事だ。かつてベト
ナム戦争時にも中国は米国に我々がゲリラ殲滅を請け負うとしてベトナムに入って行っ
たいきさつがある。これは国内の反動分子や一人っ子政策をやっても尚食料不足にある
現状の不満を海外に向けさせる方法だったと言える。従ってこれにより北ベトナムはも
っと北からの中国の進軍と南の米軍に挟まって結局は南に侵攻を進めざるを得なかった
。今回のトルコ国内の事件も三つ巴の様相で いままで培っていた世俗主義と言われる
イスラム教を少し捨てて多様性を重んじた行為で今まで国家安定を誇っていた国民の先
見性をこうした記憶や戒めや精神を捨てた事の問題が今大きく被さっている。イスラム
教の色濃くある中東の中で、その風習を制限して国を保持する事は大事な事だった。何
故なら境界線はあるといっても陸続きで他の者の出入りを止められない。過激なイスラ
ム教原理主義派がやってきてはその平和な世俗主義を阻止するする働きがあるからだ。
それでも今の様な国家でイスラム教を信じ国家予算でモスクを建てて、新聞社を閉めさ
せ、市内中で自由な被り物を認めるなら おそらく既にこの原理主義者の手玉に取られ
ていて今後の内戦は免れないであろう。今後エルドワンは国を壊し国民を裏切った者と
して歴史に名を留めるだろう。どうも世界中がこすからい共産主義にうずもれて行って
いるようだ。ロシアでは新聞記者が市内で車ごと爆破され死んだ。真実を言って投獄さ
れ有罪を受けて後の今だ。アメリカでは全く嘘をついた演説を共和党大会で堂々といい
クリントンを死罪などと叫んで党大会を終えている。全くたまげた空気とふざけた選挙
戦である。マイク・ペンス・インディアナ州知事(57)を正副大統領候補に選出しての
演説である。全く今の政権或いは現在までの政府と言う仕組みに敬意も何も無いのであ
る。全く良識あろうアメリカにしてこうなのである。イギリスでは嘘つき前市長が外交
を担う外務大臣になった。なんと世界中が嘘つき合戦しようと言うのだろうか。


178: 名無しさんAA:16/07/23 13:50 ID:4gY
 御馬鹿の八景 22

 アゴラでは「残念ながら今回の東京都知事選挙では鳥越氏が文春砲の犠牲となりまし
たが、自分自身の大義を守れる価値がある政策プログラムが発表されていない状態では
殴られ放題のままになるでしょう。蛇足ですが、政策論争が行われないもう一つの大き
な理由は、都議会議員各会派が何ら自分たちの政策を示さないからです。議員報酬と政
務活動費で年間2000万円以上を受け取りながら、都知事選挙に対して自分たちの包括的
な政策集を提示して推薦候補者を支援することは当たり前じゃないかと思います。働か
ない都議会議員に税金を支払う意味があると思えません。」と書かれている。本当に今
回の都知事選はニュースの在り方に疑問符がつく。そもそも日本の国会が政党政治とは
言え都庁や県や市などの地方自治に政党選挙の必要性は全くない。徒党を組んだやり方
は弊害あって一理なしであるはずだ。黒いものも白とするやり方が今問われている時期
にマスメディアはこぞって人気度の高い3者しかニュースにしない。成程ニュース時間
は限られていよう。が不平等にも程がある。大体逆に知名度の低い候補者が言う言葉や
行動所作を伝えてこそメディアの真価ではないか。このかつての戦前の翼賛会のように
他のメディアと同じに横並びに3氏の姿だけニュースを報道する事は大衆烏合そのもの
でなんら報道の理由がない。もしTvにニュースまで視聴率のみの制作方針を盗るので
あれば都知事選のニュースなど伝えなければいいのである。大衆が如何に情報を分析し
そこに政治の結集があるかは沖縄問題であれ 英国の離脱問題であれ その情報のなさ
が現実に表れている事が解るはずだ。本土での沖縄の「中国からの攻撃」に如何に神経
を砥ぎ今や東アジアの平和構築に何を持って防衛しようかという中でのこの危機感が、
沖縄には全く伝わっていない。のうのうと独立国希望などと言う能天気な沖縄タイムズ
の主張の環境に甘んじているではないか。更にイギリスではメリットデメリットが全く
解らず嘘の広告で離脱の決定が国民投票で行われた。今度も恐らく鳥越氏がキャスター
だった事でメディアは応援したのだろうが 彼の東京的性格を嫌う人は多い中多分落選
するだろうし この御三方以上に都知事に推薦できる人物評価に値する人はいるはずだ
。世界の東京の長を決める選挙がこんなお粗末な報道姿勢でいいのだろうか。


179: 名無しさんAA:16/07/28 23:09 ID:yCc
 御馬鹿の八景 23

 恐らくこの相模原の「津久井やまゆり園」の殺傷事件は多くの日本人の勘違いがある
。まずこの事件において外部からの侵入をどう押さえるかを考えているがそれは間違い
である。どんなに外部の侵入を抑えようとしても押さえ切れるものではない。問題は、
あの特別養老ホームでの投げ捨て殺傷事件と同じに人をどう見分けるかが大きな問題で
ある。老人ホームでは3件の死亡事故が起きるまで放置していたのである。みずからが
雇った介護士の異常を悟って居なかった事が大きな問題なのだ。今回も刺青などがある
か無いかは面接試験と共に健康診断をして上半身裸にすればすぐにでも判別できるもの
である。そして刺青が発覚した時点て即刻解雇すれば事足りたのである。人々に刺青を
見せなければ良いとか本人が優しく仕事ぶりが真面目とかいうのは言い訳である。経営
とはそういう甘いものではない。まず会社やこうした施設が経済合理性もさることなが
ら、これらが社会に存在しても良いと言う許可があってなされている形態であり業務な
のである。つまり「社会福祉に貢献している。」と言う大前提があっての活動なのだ。
これを逸脱しては何ら広域暴力団や問題のブラック企業と変わらなくその中身は無いに
等しいのである。つまりこの園そのものの失態である。更にこの男の動向調査に対して
神奈川県には責任がある。園からの精神異常に関しての病院への通院や入院の義務を課
せられた人間で更にこの男に麻薬である「大麻」の薬物反応が出ていたのである。これ
はこの調べをした病院の大きな社会規範違反であるし、警察を管轄する神奈川県の不手
際である。この連携の無さは一体何なんだ。ともすれば県と言う地方自治は議員予算案
或いは知事の高給などに問題が当てられがちであるが、議員は実はこうした現実問題を
解決する事が仕事のはずなのだ。何も解決せずで冷暖房の部屋に居ながら公務員報酬を
のうのうと受けている県職員は全面減額は当然である。県民の不安や国民の安全や平和
へ祈り次世代への希求や認識をそうしたものを全く逸脱している。在る処では議長など
の職権と賄賂によって職員の就職が決まり 又在る処では道路建設すら簡単に位置が変
えられたり地価や利権などによって議会が動いているのにである。まずはまともな暮ら
しの実現に向けて考えるべきなのだ。そのまともさはこうした人間を一人も作らないで
いる生活や完璧な考え方や判断の人間を作ることなのだ。いい加減な政治が彼を作った
。とそう言えるのだ。

180: 名無しさんAA:16/07/29 23:10
自分のエゴで人を殺しても、死刑にならないとは。さすが日本。

181: 名無しさんAA:16/07/31 15:02 ID:hDU
 御馬鹿の八景 23-2

 そもそもこの事件の本質は人の持つ間違えた視点にある。彼が言ってる様にナチスの
持つ異様な思想を異様な思想だと解っていない事は教育の退廃でしかない。生きている
全ての生物全ての動植物の例え雑草や害虫でさえ大事な地球上の生命体という視点が全
く欠けている。今でもブラジルを始め三千種程の新種が今だ見つかっている事は今だに
人類はその地球のその全てを把握しては居ない。そしてその解らない中に人間と言う自
分自身の位置や地位や構造も又解っていないのである。ゼネレーションギャップという
世代断絶が今まで諸悪のその原因や理由の探求と解決に寄与していた行為が今や情報化
の波の中消えていくようだ。そもこの自分に必要無い人間が無用の者と決定し殺人事件
になるのか。それはならない。つまり必要無いから無用であり無用だから殺人すらない
関わりなのだ。つまり彼はその認識がなかった上に必要無い為の殺人を必要以上に説い
ていたのである。この事は彼は殺された重度不倶者より「津久井やまゆり園」自体の中
の自分に憎悪感があったのだ。よく憲法論議で議員の3分の2国民投票の半分の決議が
高いなどと論議される。がこの殺人和製テロでも解るようにまず「弱い者苛め」の構図
があり更に「異常の認知」に対して友人でも病院でも全く本人を諭していない。精神病
患者のままであり続けて事件を起している。つまり誰も警察や上司でさえも教育してい
ない無力のままなのだ。こうした者を作らない事は人の能力が高くなければ出来ない。
この「人を選び言葉を選び人を見抜いた上の指導力」は誰でも持っている物で子供すら
持っている。がそれでもそれを行えず排出したと言うのはそれだけ社会が卑屈である事
に変貌したと言える。更に最大の間違いはKKKの様な人を殺しても良いなどと言う、
「選民思想選別主義」である自由主義も共産主義の一番の問題の「弱者救済」の理由を
立ちあがった主義なのだが 双方共に今や挫折を余議なくしているのだ。今や激化した
競争社会移行と共に その救済が持つ「多様性の人類財産」を理解していない事に原因
がある。殆どの能力に対して人同士はもちろん異種同士であっても中に1つ2つは高い
能力を持つのは当たり前だ。言葉が解らない犬が嗅覚が優れているように そうした事
の尊敬の念を持っていない。愛情の情念を持っていない。この事が問題なのだ。


182: 名無しさんAA:16/08/02 19:59 ID:Z0I
 小南の邪推  02

 大方の予想通り 東京都知事はグリーンレディを自分のカラーとした小池氏に決定し
た。当然である。野党の力も結集までは至らない程の力無さである。古賀氏から鳥越氏
に変わり迷走した時点で人気度が異常に低い老人に何故変えたのかは都民の疑問とする
処だったのだ。がそれでも宇都宮氏の辞退によって少しは期待したものの 都政を知ら
ない。都政を語らない。遊説しない。の3拍子でこれでは勝てるはずは無い。宇都宮氏
の方がよっぽど精力的人間的部分が見える。一方自民党が推す増田氏については、全く
増田氏にはいい迷惑な応援であったろうに それをあえて自民党の独裁政権のようなや
り方を踏襲し 自民党の意見を聞き都議連の意見を聞き更に区役所区議の意見を聞いて
出馬した。さもありなん。この都議連の異常な独裁システムと履き違えた都議連の地位
は殺人事件すら起している現状では これを放任していた自民党に問題がある。つまり
増田氏がどんなに利口な都知事にふさわしい人であっても都議連にとっては単なる神輿

183: 名無しさんAA:16/08/02 20:00
都政を知ら
ない。都政を語らない。遊説しない。の3拍子でこれでは勝てるはずは無い。宇都宮氏
の方がよっぽど精力的人間的部分が見える。一方自民党が推す増田氏については、全く
増田氏にはいい迷惑な応援であったろうに それをあえて自民党の独裁政権のようなや
り方を踏襲し 自民党の意見を聞き都議連の意見を聞き更に区役所区議の意見を聞いて
出馬した。さもありなん。この都議連の異常な独裁システムと履き違えた都議連の地位
は殺人事件すら起している現状では これを放任していた自民党に問題がある。つまり
増田氏がどんなに利口な都知事にふさわしい人であっても都議連にとっては単なる神輿
であり枡添氏と同じ独裁の象徴で同じ穴のムジナであり税金を贅沢にむさぼる仲間でし
かないのである。都知事の政策の査定を甘くする代わりに自分達の自民都議連という身
分も特権的保証してもらう事だったのだ。事実これまでのニュース報道は報道各社が全
く力なしで中国の独裁報道と同じに悪い事は髪の毛ほども批判しない中にあったのだ。
この悪態の構図は別に東京都に限った事ではない。今や議会を牛耳っているのは半数以
上が昔のヤクザやチンピラだった人達なのだ。この暴力団風の思考力の無い群れは議会
という制約がありながら事細かには法規定しない紳士的良識を求めた身分は自由に暴力
を振え威圧や脅迫の出来るステータスな権利までつく恐ろしく甘い地位なのである。こ
の事があの号泣議員やセクハラ議員の温床になっている事は誰の目にも明らかなのだ。
だがこの自民党都議連が負けたのだ。小池都知事は声明通りにまずは今の都議会の解散
総選挙であろう。問題はこのままいけばそのまま今の議員の既成特権者そのままに当選
するであろう。これでは改革にはならない。この業界の団体代表のような意味の無い者
の排除である。あくまでも議員でありロビイストではないのである。更に政治結社と同
じ憲法で決められた個人の自由まで束縛する違法文を堂々と出したのである。これは大
きな共同謀議の罪の国家犯罪である。まずこれを取り締まるべきである。自民党が数こ
そ全てであり数をこなせば党則を勝手に決めて戦争も辞さない規制を敷ける事を意味し
これは 政治結社に他ならない規制なのだ。自由主義に於いて基本的人権の侵害は大き
な罪である事をここで大きく知らしめねば 指導部なり議員や議長の言いなりでは済ま
されない。自民党の10人や20人ぐらいは当選すれば天下など考え違いの議員のはず
で逮捕拘留選挙権停止などを確実に行わなければ、警視庁や裁判所がただの飾りであり
面目も無い組織と思われたらテロさえも容認される社会になるだろう。


184: 名無しさんAA:16/08/03 20:25 ID:rW.
小南の邪推  03

 小池新都知事が初登庁した。あいさつ回りに明け暮れた様だが 何の事は無い自民党
議員は傲慢な態度で終わっている。まず前回殆どの議員が枡添氏の挨拶に出向いたのと
対照的に留守役しかいなかった。これはおかしな話である。勝手もここまでくれば礼儀
も常識も知らないらしい。都議は税金で給料としている。そして都民の信託を受けて、
通常の会社であれば社長に当たる指導者を配している。勿論都庁職員の様な規制は受け
ないものの出迎え挨拶するのが当然の常識である。こうした常識外れを都民が選ぶから
全く日本が崩れるのである。更に都議の議長は更にカメラマンの記念写真に貴方の言う
事を聞く理由はない。と断った。これもおかしい。他の時ならいざ知らず、初登庁の中
で先の都知事の引き継ぎなのだ。これでは議長の資格なしである。更に石原伸晃経済再
生担当相は、都知事選で推薦した元総務相の増田寛也氏が大敗した責任を取り、自民党
東京都連会長の座を辞任する意向を固めたというが これは自民党大敗の責任であって
東京都民や日本国においての こうしたナチス的政治結社の意向文の違法処置の謝罪や
責任ではない。加えていうなら彼にとってこうした憲法違反の言動や行動は3回目であ
る。その度に自分勝手な理由と言い訳をして逃れているが かれは議員としての常識や
憲法の持つ個人尊厳や自由の保障を存外に考え全く日本国国民としての資格も無い様な
愚帝の輩である。こんな人間を選挙で上げて議員にし内閣に入閣させると言う様な寓拠
を犯しては 日本は間違えてしまうのである。これは枡添氏を揚げて都知事とした事よ
り大きな犯罪である。まずは当選させない。その上に自民党に入れない。その上に入閣
などさせない事が大事である。安倍内閣もこんな馬鹿を入れて仲良し内閣などとされた
ら国民は納得しない事を知るべきである。都連幹事長を務める内田茂都議も又幹事長を
引責辞任する意向を固めたとあるが。内田氏が閉鎖的な都連の象徴として「都議会の中
のドン」であった事は間違いない事実であろう。この能力も手腕も人の好き勝手な方針
で都議会が動いていた事を都民は良く知るべきで 彼が能力で議会を動かしてもいいの
だがその内容とその過程はつまびらやかにしてもっと広報し都議の方針として行うべき
もので自分の好きな都知事には皆で挨拶して嫌いなら「あなた(報道陣)の要望に応え
る必要はないから」と拒否するぐらいいい加減な方針であれば、議会を私物化している
行為でもありそうとしか言われないのは当然であろう。都民がこんな馬鹿を応援し当選
させている事自体がおかしいのである。


185: 名無しさんAA:16/08/05 01:10
 御馬鹿の八景 23-3

 相模原の「津久井やまゆり園」事件から考察するに 今後の日本は暗すぎるぐらい暗
い。多分と思ったら既に又出版業界では雑誌すら売れない状況にあるらしい。学校改革
による変化点の子供の状況で問題があるからだ。そもそも自民党と日教組の問題が全く
意味がなく闘いそのまま経済不況に陥ったのだ。全く考え方が書物から読み取るだろう
色々なものが無くなって迫力や見た目のみ感じ方しかできなくなったのに起因がある。
オイルショック後日教組の混乱は子供の教育を放り投げてスト権ストなどと自己権益の
拡大に走った。その後は教育改革などと称して土日祝日の休みを増やした。更にゆとり
教育などと称した子供達の非行化を手助けした。その後も経済収縮と少子化で山村他の
統廃合を繰り返した。これらのいずれもが教育される子供を放りだした大人の勝手で行
ったものだ。そしてその分全国の子供が馬鹿になったのだ。この5回の教育変化は皮肉
にもそのまま国際化する日本をガラパゴス化戦前化した物に変え非効率の名の元に改革
し非効率を進めたのである。従って企業はブラック企業揃いに変わり 街に活気が無く
有力者はすべてが 馬鹿なヤクザや暴力団のような考え方の自民党員や野党に変わった
。これがオウム真理教を作った遠因なのである。これは書籍販売に如実に表れているし
人々の海外へ出ない若者を作っていて海外旅行者の年代変化や留学者数などに表れてい
る。おばさんが韓流ブームで騒いで馬鹿になっていた足元に「つまんない」とした子供
が犯罪の興味に明け暮れていたのである。これが日本人が今や母親業を捨てた光景であ
る事は自明の理である。こんな中でも人々は生活せねば生きられないのである。もしも
安倍政権がこの今の日本の現状を知りながら公共事業投資に明け暮れるならお笑い草だ
。今やるべき事は年金受給の低年齢化と事業者の公徳心の向上である。そもそも最低の
社会保障や賃金や給与や祝祭日の休業などは最低守るべき労働環境なのである。建物の
強度であれ経済設計などあり得ない言葉なのだ。今や強度が充分ある中の古いものを、
簡単に壊して安っぽい新耐震など称して壊してる事と同じなのだ。順守し守るべき生活
を守らず年金受給年齢さえ引き上げる行為は不況を増やす措置でしかない。よぼよぼで
動けないようになって支給しても第二の門戸は開かれず新しいイノベーションは生まれ
ないし 現実に少し若い時しか新しい会社を作って社会奉仕など思わないのである。


186: 名無しさんAA:16/08/13 11:11
 小南の邪推  04

 岸田文雄外相は韓国の尹炳世外相との電話会談後、かねてからの元慰安婦支援のため
の財団に10億円を拠出することが決まったと発表した。「拙速」も拙速大拙速である
。やっと渋々韓国と米国にTHAADの韓国への配備の合意が取り付けたばかりである
。この合意のご褒美とでもいうのだろうか。「日本政府による資金の支出が完了すれば
、日韓合意に基づく日本側の責務は果たしたことになる。」と述べ日本側は日韓両政府
が使途で合意しなければ事業は進められないとするがこれは大真面目に考えて外相の国
民合意との違反である。韓国の国会内での質疑に野党が、黄教安首相をしつこく攻撃し
ている中だ。「THAADの韓国への配備を日本はどう見ていますか。日本は歓迎して
いるのではないですか?」「日本の国益にTHAAD配備が決定的に寄与します。韓国
の国益は何ですか?」と。つまり北朝鮮のミサイルは韓国が撃ち落とさなくても日本に
やって来るだけで自国には利益がない防衛にならない。とでも言いたげで、あくまでも
日本が喜ぶ事は韓国にとっては悪だ。と言う中国流の恨みの反感論で全く理性も正義も
常識もない国である事が暴かれている。まだまだ3年や5年は大陸側を放っておくべき
だ。それが出来なければ安倍政権は解散すべきである。まともではない国と付き合う必
要性は全くない。やってもやらなくても日本批判を繰り返し自国の反省や統一をしない
国なのだから。今ややっと中国が「群衆団体」である共産党青年団の改革に乗り出した
時期である。今まで一般団体や一般企業と言われながら国家予算をして成長してきた。
その事が賄賂と黒幕を育て元紙幣を操ってきたのである。国内事情を海外に渡さない国
で今年も火力発電所が事故を起こし河川氾濫で何千人か死んだ模様だが全く解らない。
一年前の天津大爆発では 公式の死者は死者、行方不明者160人を超える爆発事故で
今や二百人を超えた数字は示されてはいない。が多くのビルは百世帯以上が入居する 
高層マンションで何棟も全滅している。このことから、数千名規模の大災害であること
は間違いない。インターネットは、まるで広島・長崎の原爆投下を思わせる悲惨な大量
遺体写真が、報道規制をかいくぐってアップされている。これらからも三千二百人位が
死んでいて百人は消防局員だったと言われている。国民も当局が発表している死者数を
信じる者は誰もいない。しかしひた隠しにし人権問題すらある中国当局は、この事件の
全貌を明らかにすることない。またそのシアン化化合物は3千トン以上でありこの地に
原子力発電所があって大量に化学兵器を造ってはシリアに送っていくつもりだったとも
言われている。事実は解らないが こうした事故によって中国経済は3%止まりという
話もきかれる。

187: 名無しさんAA:16/08/13 11:11
 小南の邪推  05

 この中国経済の実態が解らないままに 韓国経済は大きく中国依存に傾いていたのだ
。だがこの天津大爆発以降は 日本のトヨタの車が一瞬で破壊されているように韓国の
中国製品もかなり痛手を食っている。そこで今や中国は物資の販売よりは情報の販売に
切り替えたとされる。アメリカの報道によると、サイバーセキュリティ―技術研究所が
ワシントンで発表した「中国スパイ王朝」と題された報告では世界が混乱すれば自分の
身が安全になる。と言う方式の作戦を展開していると言う。今やサイバー攻撃に従事す
る61398、61486、78020などの各部隊は解放軍組織に取り入れられてい
ると詳しく説明している。中でも1398部隊の主な標的は知的財産権や産業秘密であ
り政治的なものでなく、金融データ、国防やエネルギーのハッカー情報を取り扱いして
いるのだという。中国政府傘下のサイバースパイ組織の一つとして「ディープ・パンダ
」を取り上げ、同組織がアメリカの医療保険会社アンセムのコンピューターシステムに
侵入し、数千万件もの患者カルテを窃取し臓器売買に利用したり、アメリカ連邦人事管
理局やアメリカン航空のコンピューターシステムに侵入し渡航する中国人留学生や学者
らの連合組織や商業団体、さらに暴力団まで把握しては航空機事故による暗殺の手助け
をしている疑いを示唆している。「企業メール詐欺」も横行していてアメリカ経済への
脅威となっていてFBIがらみで捜査し、2013年から2016年までにハッカーが
アメリカ企業から数十億ドルを盗み取っている事件で、そのうちの83%が中国や香港
の銀行に電子送金されたと発表している。結局は中国共産党は産業機密を窃取するのみ
ならず、アメリカを含む西側諸国の経済を停滞させ機能不全にしようとしている事が目
的であり日本における尖閣攻撃や南沙領有と同じに 国際社会が自国内のように紛争や
戦争で問題になる事が必要で 平和は嫌いで大敵とし 自国民の国内不満は海外でぶつ
けて来てもらい。問題行動が外にありさえすればいいのである。この共産党スタイルは
全く今のロシアのクリミヤ半島の対処と同じである。シリアの空爆でニュースの提供を
すればクリミヤを始めとするウクライナ問題は国際社会が避難しないし国内もまた世論
の批判をかわしては独裁が可能になるという トランプの国境発言みたいなものなのだ。


188: 名無しさんAA:16/08/30 06:57 ID:2gs
閑話休題(国際経済問題)
 いざ酔い いざ並み いざ晒場 84

 馬鹿もここまで来たかと日本国民は落胆している。黒田総裁はまだまだマイナス金利
ができる。と説いたのだ。こんな阿保な話はない。マイナス金利に制約があるがそこま
では達していない。とのたもうたのだ。馬鹿も馬鹿大馬鹿である。マイナス金利が何ぞ
やかが理解していないらしい。そも金利がないという事自体異常な経済状態というのを
理解しているのだろうか。事実米国は金利を戻そうと躍起になっている中で米経済を見
守っていて経済活動の沈み込み変化がないことから、恐らく来年の1月頃には金利を戻
し更にドル高となるであろう。イタリア債務やギリシャ危機より大きな債権発行する中
で日本は円高なのである。理由は日本国債は日本人が買っていると言われ銀行や企業や
信託会社などが買っているからとしている。つまり政府は借金しているが日本自体は借
金大国ではない。という見方からだ。だがそれには間違いもある。今や日本人も移住者
が数多く来ている。更にGPIFの購入である。今回の利益欠損が運用損失が5兆円台
で一億人にして一人当たり5万円である。これは大きな金額である。国の借金が675
万円が穴埋めするに株価上昇やインフレにならなければならない。というのは当然であ
る。がこの年金資金が株式購入まで手が出た時は既に遅く 中国景気は上昇龍のごとく
に発展して終わった頃だったのである。つまり一方で税金を高く取り人々が低価格帯で
の生活を進め 一方でインフレや高物価を進めると言う馬鹿さである。更にその税金は
結局は経営者群に或いは自治や書類に詳しい様な届けででの配布と言う正に無策の行為
が続く。震災に対しても復興支援として旅行者に格安割引券を配布している。一体この
行為でどれだけの人が来るのか。利用者そのものが贅沢な高給取りの人々ではないのか
。こう言う割引こそ煩雑な書類にして受付るべきなのだ。こうした高給与者優遇購入者
優遇は至る所に商用のビックデーター利用のカードや会員制などで活用されているが、
これが格差社会を大きくし多様化の幅を消しては日本のデフレを煽っているのである。
かつては会員にいいものを紹介はしても安いものを紹介することは無かったのだが今や
違法な特典ばかりで貧困層を苦しめて国の質を落としている。国家予算の半分を公債償
還に充てては国の政治や行政を行わずその金は金持ちの税制優遇策に終始しているのだ
その上に更に 行政の行き詰りを又別の優遇策で覆うという愚劣さで全く都市化が減ら
ない。


189: 名無しさんAA:16/09/03 22:27 ID:FGA
 小南の邪推  07

 近頃よく耳にするのが 世界経済の停滞である。この傾向は益々強い。これを以って
人類は次に飛躍するとする経済学者と衰退する前触れとする経済学者が今や双方に悩ん
でいる。地球の40億年の歴史或いは人類の2億年の歴史から見て、今の文明と言われ
るシステムは僅か2百年位で作られ更にその完成には至っていない。面白い事に今の文
明の持つシステムは人の持つ欲望を規制していない。人の持つ欲望が常に満足を持たず
権力や独占欲や探求欲更には金銭欲やそうした美食や宝飾或いは利便さなどで貯める事
にも終始して個人の我欲に競りたてては購買を駆り立てて行く。人の欲望が貪欲で果て
しなく文明さえも滅ぼしてしまう事が古今東西の文明崩壊や帝国滅亡史から見て取れる
。中でもローマ文明ローマ帝国の消滅は現代文明の持つ消費文化と国際化した経済から
似ているとされかなりに先例として教訓があるとされる。それはローマ人が繁栄を極め
たとする中間の頃既にローマの都市は水道橋の補修すらままならない中で破綻していた
経済だったのである。だからこそローマ帝国は市民の目をそらす為に色々な事をやった
。まずはキリスト教の庇護と強制更に選択である。更に海外派兵と侵略の強化である。
更に統制の為の議会運営に関する皇帝の独裁強化である。更にコロセウムや公衆浴場の
内容をより娯楽的刺激的なものにした。それらは全てに於いて汚職や賄賂や権力欲がつ
いて回り、インフラの再整備や老朽化した建物の補修などにあてがわれた事は少なかっ
たのだ。この文化の進化を止めた退廃はそのまま文明をも破壊していまい他国との戦い
を誘い更に負けては更に疲弊し消滅に至ったのである。それはローマのみならず過去に
於いての数々の文明がそうなっていったのだ。それを見つめていたのが木々である。過
去に何百年も生き永らえて年輪を刻んできた大木が その文明のある時期に切られては
捨てられるのだ。ある時は兵器の部品としてある時は船や家の材料としてある時は煉瓦
なのど加工技術の種としてある時は土地の有効利用や農地の拡大として。理由は色々と
あるが 敗退する文明には必ずと言っていいほど大木が切られ木々が枯れ消失している
事が解っている。


190: 名無しさんAA:16/09/08 03:40 ID:H4Y
(人間不信 殺人事件の深層)
 馬鹿の八景25-3

 このおかしな日本の事件が政府が起こした 行政の勝手な都市化の加速政策や消費化
の上の増税政策によってもたらされていることは間違いない。この高畑氏事件のみなら
ず今の日本のすさんだ状況は 日本人自身が時間に追われて給与取得のみに与えたかの
ような生存権政策にある。よくアマゾンの奥地やアフリカの原住民を不幸かのごとくに
未開地などというが 現実的に不幸なのは日本での生活に金がない人達の方である。老
人にしろ子供にしろ本当に大事な「生きる」という行為や「知恵」と言うものが、今や
寸断されている様に見える 現実的に今や体力のない人が日本の夏山でも遭難したとし
て1ヶ月位生き延びていけるだろうか。私自身二日も持たない気がする。だが昔の人達
ほど危険を知り必要な物を知る生活で簡単に遭難もしないし死ぬこともなかった。更に
その生活が至って優しく仲間の役割分担はスムーズで虐めなどない世界だった。更には
勇猛果敢で知性的で今のような行政詐欺の行為に目を光らせていたのだ。これは文化人
と呼ばれる先進国が如何に不毛で詰まらない策略的人間を作り出しているかを物語って
いる。人類は有史以来金貨や紙幣のある通貨制度を築く前から働いているし人生を楽し
んでいるのである。この社会を混乱させ更に国民を疲労困憊させる政策はヒットラーや
ナチスの国家犯罪と同じ畜生にも劣る行為のはずである。がそれが今日本に蔓延してい
る。特にIT業界医療業界或いは通信・TV業界は甚だしいものだ。医療業界で入院に
際して保証人や誓約書が日本国憲法の定める基本的人権と平等を害した措置で違法な事
は周知の通りであり国家弊害である。ゲームやITに於いての今のストリーミング詐欺
やインターネットの匿名性や中国や北朝鮮からなどのハッカー攻撃やサイバーテロに真
正面から対応していない。そもネットワークは情報の共有観念から出て来ているのに今
だ電脳機器を信頼し更にウイルス除去などを言っているのだ。馬鹿げている。更に放送
や通信ではプロパイダー契約外しを盛んに電話勧誘し挙句の果ては 個人情報を流して
は勝手な室内荒らしで機器回収を行うと言うNTT始めとする通信業界の手荒さである
。訪販業者やオレオレ詐欺を作った業界ならではで 全くモラルに劣る常識がまかり通
っている。NHKの強制受信料も同じである。本来国民放送として国民が可愛がり育て
る組織として運営してきたものが いつの間にか政府におもねき媚を売り受信料回収を
公募納入から強制徴収に変えたのだ。つまり既にNHKの名を成していないのである。



191: 名無しさんAA:16/09/08 04:22
 馬鹿の八景25-3

 この政府議員の勝手な法律違反の法律を作る作業は年々日増しに悪辣になっている。
元々法律の趣旨やその健全性ある国家像を求めている姿に 全く関知していない民間に
業績や採算性が良いからと国家事業としての運営失敗をそのまま押し付けた様な事が、
今や頻繁に行っては止まない。これは全く中曽根の悪たれが第三セクター方式などと、
訳の解らない国鉄民営化を進めた結果であって その後輪をかけてお馬鹿な勉強不足の
小泉内閣まで跡を継いで 国の造営林を売り払い郵政事業を骨抜きにして更に管理して
いない年金事業を民営にした。こうした馬鹿さは国会議員がちゃんと対応していない事
によるもので 管理指導力があれば充分対応出来循環デフレなど起こらなかったのだが
馬鹿さ極まるもので輸出促進のまま国内事業の統率を無くしてまで行い結果、欧米から
の批判で輸出規制の網までかけてしまったのである。この馬鹿さは今の総務庁に良くあ
らわれている。高市氏はもっともらしい事を発言しているが実情や現状経過を全く恣意
的に曲げている。元々通信に於いては先行標準モデルで日本でも軍事通信の暗号化は不
可欠のはずだったのだ。電話にしろ衛星放送にしろ傍受されたから違法だなどと言うの
は国際的にも通用しない言いがかりである。昔のハム無線であっても電波においては、
発信するに許可がいり聞くのにタダというのは当然で 更に災害情報では広く聞いても
らう仕組みすら必要なのが通例である。つまり盗聴ならぬ通信傍受は発信者からの作為
で暗号化するのである。そのサービスの一環として電話を暗号化し衛星放送にカード化
をしているのだ。その意味ではNHKのワンセグの受信料徴収には全く驚く。メーカー
機器のサービスでかつてソニーが赤外線モニター付きのビデオが顰蹙を買ったがそれが
そのまま違法であるはずはない。裁判までするNHKは問題行動である。それならかつ
て衛星打ち上げに米国を使い3回も失敗し7兆円規模の損失を誰が補填したか。NHK
の活動収益も国民の懐に還元されたか。各種のNHKの下請けを作り雑誌まで発行して
も利益回収に公民には販売をする。これでは国民放送とは言えないのである。この醜態
は マイナンバーカードを発行にもでている。サーバーのプログラムミスによるシステ
ム障害として国民への交付が滞る契約違反があったと言って瑕疵担保責任がでているが
そのこと自体がおかしい話である。電子化するにそれを把握する部署があって当然であ
りどういった方式でどういったクラウド化システムを構築するのか位は当然あるべきで
滞ることのない為を探るのは 当然総務庁の役員の仕事で下請け企業の責任ではない。



192: 名無しさんAA:16/09/11 10:50 ID:TeI
(人間不信 殺人事件の深層)
 馬鹿の八景25-4

 そもそも自民党は腐れた大臣ばかり選出している。当選回数や人気度も大事だろうが
本来はその職能に適した職的人を選ぶのが本筋であろう。総務や自治を知らない大臣や
日本を理解しない首相などと言うのは全く政治にならない。小泉氏を見て殆どが落胆と
嘲笑であろう。今になって原子力反対を出し更にこの経済活動になんら手を打たなかっ
た最悪の首相であるからだ。自らに正す姿勢はそれはそれで良い事には違いないが過去
の反省があって更なる方法論を見つけ出し現状認識と問題解決の答えをを解かねば大衆
への声明を出してはいけない。先の話で言えば放送や新聞などメディアと呼ばれるもの
は大衆を先導して自由や人権を守るべき活動をするものだ。そも独裁主義者や軍国主義
を作り出したものが大衆烏合主義の中にあるものでありその動きをけん制し、さらには
巨大な統合された国家権力が常に欲しがって止まないアイテムとしての位置にある。に
も関わらず日本のメディアは全く腐れた状況で 中国政府には中国政府の意向に沿った
報道を行う誓約をしたり 国民の募金として協賛としてのNHKと言う日本放送協会の
名を恥じたような徴収に義務化した法律を付け更にはワンセグTV機能までも料金対象
としたり或いは民間でも衛星放送を暗号化カードの運用したりである。まず番組の本質
が「広く平等に視聴される。」事が公衆公共の大前提であるし それを求めて事業許可
を配している。この日本の法体系の中に中国の意向があるから或いは米国ではやってい
るからと言った「これまで論法」の様な言い訳は通用しない。もしBSもスカパーも又
NHKも勝手な一般的暴力団の様な契約論での放送を行うのであれば総務省は 彼らの
事業許可や認可を取り消すべきだ。経済的理由で放送を行うというのは会社運営の理屈
であって視聴者や国民の理屈ではない。一般的なジュースや茶菓子代での運用が常識で
あり映画館の様な興行師として行いであれば他のやり方を行うべきなのだ。本当にいい
映像や歌や報道というのはどんな物でも無償提供であるべきで賞賛と金は後でついて回
るものとなるのである。実はこの事がユーチューブの違法性とビジネスモデルとしての
欠陥で凶暴性なのである。

193: 名無しさんAA:16/09/11 11:55
(人間不信 殺人事件の深層)
 馬鹿の八景25-5

 そも電波は広く共有するものであり それは地球のみならず宇宙も又同じなのだ。そ
の本質は有害物質と同じく 強い電磁波は放射能に等しいのである。従って電気製品や
電気事業も電話事業も放送事業も水と同じく無害のままの供給や管理の求められるのだ
。ハード面でそうである以上ソフト面でも同じように今の体制に烏合せず、広く一般的
普遍的正義を求めるものでなくてはならない。社会教育学で言う市民教育と自然環境の
維持である。人間の本質を探る事や興味をそそる探求心を満たすことも大事ではあろう
。が今の放送倫理の基本であるその制作意図とジャンル別放送の倫理規定の違いは全く
今は無い状態である。これでは話にならない。ドラマとドキュメンタリーは違う物だし
ニュースとバラエティでは又違うべきだ。更にクイズと教育番組でも違えば趣味番組と
スポーツでも違うべきなのだ。こうしたふるい分けを日本人はしないで簡単にワイドシ
ョー化してはいい加減な事で終わっている。まずはお笑い芸人枠を切った放送を行うべ
きであろう。全く話にならない常識の無い話が四六時中放送されて洗脳され、更にには
冒険活劇ならぬ人殺しの闘いに明け暮れたSFアニメばかりを子供に与えているのだ。
よく「嫌なら見るな。」と言う声があるがそれは大きな間違いである。殺人事件を不愉
快と思うなら報道を聞くなと言うのと同じに その言葉の理不尽さを知らない番組制作
者や出演者こそTV業界から追放すべきである。「良識の中の全て社会構造」を知る為
の電波であり 鼻からオウムの様な悪人や馬鹿を作る為の放送万軍であれば必要ない。
これは大分県警の盗撮やフィリピンの麻薬対策と似た論理であり そこに常識や謙虚さ
や人間性が無ければ 即そうした強硬手段のある社会に変化するのである。これを止め
る事はメディアの役目でもある。北朝鮮の核開発同様相手の過激な行動や思想を止めれ
なければ当然ながら防御も強固で過激になり先制攻撃防御と言う考え方も出て来る。こ
うした同じ土俵に立って馬鹿をやり戦争突入の歴史を食い止めるのが電波のある交流や
言葉や真の映像を得て育てる人間性などなのだ。これを育てずして人類の未来はない。
スカパーやBS或いはNHKはこうした趣旨を全く阻害したやり方であり経済主義の名
の下でこれまで間違えて来た軍国主義の歩みを教訓としていなく権力に烏合した行為は
甚だしい日本国憲法に違反した行為なのである。少なくとも衛星放送の衛星打ち上げは
かつての強制でなかったNHK受信料で打ち上げられ何回も失敗し巨額の損費の上に確
立されいるのである。自由に政府やNHKができるものではないはずだ。

194: 名無しさんAA:16/09/13 05:01
 ディノン・ディノン 22

 どうも今度の大統領選は黄菜臭い。トランプ陣営の全く手段を選ばない強硬選挙手腕
にソ連のスパイが飛びついた様に見える。元軍人で作る戦友会に於いて「銃規制法案が
出されたら終わりだ。その前に銃を持っている人は何とかなるかもしれない。」と暗に
クリントン候補の殺害をほのめかしたからだ。まずこの大統領選は異常である。共和党
の数多い知識者層の有力党員や議員はトランプを支持していない。がそれでも民主党の
クリントンを支持している訳では無い。と言うのもトランプの戦略にかき廻されて一向
に選挙の本質である国の行く末を暗示する未来像や指導像が全く見えず スキャンダル
探しに没頭し足の引っ張り合いで終始していたからだ。未来ある米国像がきらびやかな
言葉のみで語られ「強いアメリカ」とか「栄光のアメリカを取り戻す」などと抽象的で
実質的な外交方針とか国内政策とか崇高な使命感のある発言は皆無なのだ。もちろん、
トランプ陣営は「メキシコ国境に壁を造る」「イスラム教徒は入国制限する。」「中東
の戦争には駐留を増やす。」「アジアの問題には手を出さない。」など言っているだろ
う。ともいうだろう。だが本気で出来る案は何らなくこれまでの同盟を築いてきた過去
を一掃するような発言でEUや日本他アメリカを支援してきた諸外国は困惑するような
ものばかりである。これにより麻薬対策に強硬手段を用いたフィリピン大統領との会談
をオバマ大統領は断ったのだ。こうした関係を見抜いて中国ロシアの共同軍事演習は見
計らった様に 南シナ海で初の合同演習を行う。これはアセアンにとっては大きな禍い
になるであろう。かつてポルポト政権を作り或いはベトナム戦争やカンボジア難民を作
った悲惨な時代に巻き戻った事を示す。これは中国などの共産国の南シナ海の領有権を
主張しながら批判しないインドネシアやラオス或いはミャンマーなのが中国制裁どころ
か批判すらもせず赤い舌構想に乗った形になったからだ。これでここが戦乱の地になる
事が確定し中国は米国との戦争は確定した事になる。勿論表向きは全くそうした事には
ならないだろうが ベトナムはじめ東南アジア諸港は今度のインドネシア航空の謎の失
踪のような事件が多発し例のごとく中国当局は攪乱に乗じて行動するからだ。これによ
り豪州や日本韓国カナダ米国の経済はガタガタになる。これは当然であるこれらの先進
国の経済構造が繊細な相互作用によって成り立っているからだ。これを如何に米国が止
めるか。それが全く見えないのである。今度のクリントンの熱射病のよろめきに健康不
安が広がる中のこのインタービューのトランプ発言にはかなりの違和感がある。

195: 名無しさんAA:16/09/18 18:20 ID:VAc
( 戦争の 傷跡 )
 追憶の彼方から 31

 近頃のTV局はどうかしている。良い番組が次々と止めては 似たような番組が人気
番組として台頭していくがそれを止めない。衛星TVで多チャンネル化を果たしたが、
それでもコンテンツを持たず高い受信料をして経営しようとしている。もし金儲けとい
う商売に特化した存在を目指すのであれば映画館を郊外に作ったほうがもっと利口だ。
まず人気番組や視聴率と良い番組とは別物である。更にニュースや報道番組とドラマや
ギャグ的バラエティ番組とは違いがあるはずなのだ。大体ユーチューブと肩を並べての
人気を取りたいというのは間違いで 人はやはり身近なニュースで自分に近い問題をし
た話題や隠したがるものを掘り起こした目新しい物が好きなのである。更に言えばこの
秩序も良識や良心もない映像を偶然にも取れる勝手な輩の方が特派員で毎日記事ネタを
探す特定の人よりは優しく簡単にそうした偶然にも立ち会える。つまりは民衆の出会う
面白い出来事にはTV局は到底超えることは出来ないのである。それは面白さも数も量
も質も。それをバラエティやお笑いで追随するからにはそこには偶然以上の摂理がなく
ては人は魅力を感じないのである。それが教育なり学習なり倫理なり古典的格式なりだ
。つまりは見せたいものを作っては それを経済的理由で見せないなどと言うコンテン
ツはあり得ないのである。より高い教育的ものや質が高い物ほど逆に金を出しても見せ
る必要がありそれがあって初めて戦争や独裁政権や偏向思想や異様報道の回避が出来る
のである。戦時中の辻氏の回想には 大本営発表の嘘が淡々と語られている。「勝って
いるはずになのに、本土空襲が続くのか。そんな国民の疑問に答えもせず、大本営発表
は最後の最後までなされて敗戦間際でも戦争継続派の報道担当者は大本営発表風の文案
を作っていた。記者室で勝手にレクを始め文書を捏造し、マスメディアを使っては戦争
を終わらせない工作をやった。他の記者たちはさすがに、良心をして止めた。いつもの
見ているハンコと違うなど、細部に目をつけては上層部に確認をし、そこで戦争継続の
ための勝手な発表が判明する。ウソにウソを重ね、瑣末な文言一つで言い争い、そして
内部争いし自壊しては崩壊。これがかつての戦争時の政治とメディアが一体になった頃
の「大本営発表」の末路だったとされる。かつての中曽根政権で行い今の営利主義から
一歩進んだ利益第一主義の悪さと利潤追求の姿勢では かつての戦時中の間違いと全く
同じである事にもっと気づくべきなのだ。その意味で政府の公共を阻害した電波法違反
は明らかで 違法視聴や違法ダウンロードなど広告してる事はおかしな話である。


198: 名無しさんAA:16/12/05 14:06
管理じゃ指示待ち受身駅伝ロボット量産増殖させるだけ こそこそ卑劣なことやるだけ
大学 実業団は脱税幇助受けてわがままぜいたく豪遊三昧の私利私欲強欲まみれ
自惚れ勘違いを拡散伝染増殖量産してるだけ
マラソンなどの長距離は苦しい競技 競技? 長距離だけで競技? 長距離は種目だろうがボケ
なので、どうしても逃げたくなります。そこで大事になってくるのが指導者による管理です。
ただ大学生になると、なかなかすべてのことを指導者が管理することは難しくなります。
大学生の多くの選手は、これまでも多かれ少なかれ寮生活のようなことを経験して、
ある種の窮屈な青春時代を送ってきたわけです。大学生になったことで、少しは羽を伸ばしたい
これまで監督に押しつけられてきたことを自分の考えでやってみたいという年代に入ってきます。
高校で100%を管理していたとすれば、大学では60?70%ぐらいを管理し、
あとは自己管理というスタンスでやっています。 高校で100?間違ってるだろうがボケ
そこまで管理を徹底するのはマラソンや駅伝といった競技だからこそということなのでしょうか。
 今、日本の陸上長距離界が衰退しているのは、「管理」がうまく機能していないからではないでしょうか。
アホだろ 衰退の原因は管理以前の暴力暴言威圧抑圧恫喝隠蔽揉み消し体重制限貧血
鉄注射その他いくつも問題があるだろうが!
70年代後半から80年代にかけて日本の長距離界をリードした?大嘘 瀬古利彦
ロサンゼルス ソウル勝負してねえ戦ってねえ似非ヱスビー(DeNAランニングクラブ総監督)
が活躍した背景には、中村清監督への心酔がありました。この人の言うことを聞いていれば
世界一になれるという疑いようのない師弟関係がありました。中村監督は徹底的に瀬古さんを鍛えあげ
私生活から練習から全てを管理していました。で?だから?それがどうした大昔の昔話懐古
先ほども長距離は苦しい競技と申しましたが、上を目指せば目指すほどさらに苦しくなっていきます。
大嘘 金の亡者 金儲けのために靴服サングラス他ものもらいまくってものもらい脱税
そこから選手が逃げないようにするのが指導者の役割でもあるのですが、高校までは出来ていても、
大学・社会人はなかなか出来ていません。ごくまれに実業団に所属せず、市民ランナーとして
国際大会?代表になったって撃沈惨敗の出場する意味価値なし
川内優輝優勝できてねえ輝いてねえ不細工ひ弱早口川内のように、自分を徹底的に
律して自己管理ができてねえからパスポート忘れるアホもいますが、あくまでもレアケースです。
管理が不十分なので中途半端な選手が多くなっているのが実情です。
川内選手のようにはなれないというジレンマが学生にはあるんだと思います。
あんな不細工早口何を伝えようとしているかわからん聞き手のことを考えていない傲慢早口川内

199: 名無しさんAA:16/12/05 14:07
長距離界の低迷は、社会の変化も背景にあるのではないでしょうか?長距離界?
マラソン界?長距離、マラソンだけで界 と括るな このボケ
 瀬古が選手として活躍していた当時、宗兄弟とライバル関係にありました。中村清が
「宗兄弟はこういう練習をしている。おまえはもっとやるんだ」と言えば、例え、宗兄弟がそんな練習をしていなくとも
瀬古は必死に練習についていきました。今はトップ選手自らがツイッターなどのSNSで情報発信をする時代です。
どんな練習をしているかがすぐにわかるので、実際は指導者が言うような練習をしていなければ、現代だったら
「そんな練習はしてないよ」となってしまいます
またトップ選手が「今日はどこそこに遊びにいった」みたいな感じでSNSに発信すれば、大学生などは「
トップ選手もこんな風に遊んでいるんだな」とどんどん緩い雰囲気になっていきます。昔は指導者のいうことが全てでしたし、
全て?絶対?それはおかしいだろ それ以外の情報も乏しかった。指導者と選手との間には
「監督が得てきた情報は間違いない」という強固な信頼関係もありました。
ただ、社会の変化のせいだけにはできないと思っています。今、佐久長聖高時代の教え子でリオ五輪に出場した大迫傑選手が米国でゲーレン・ラップやモハメド・ファラーを育てたアルベルト・サラザール氏の下で練習しています。大迫選手は早稲田大学時代、練習のやり方で自分のわがままを通してもらっていた部分もあったように思いますが、今ひとつ乗り切れていませんでした。卒業後に拠点を米国に移し、本人はサラザール氏の指導は、ものすごくきつく、やらされている感じではあるが、やらなければ許されない環境と言っていました。でも、大迫選手は自分の競技人生すべてを任せるんだといって、サラザール氏の指導をすべて受け入れています。それが結果につながっているんだと思います。

200: 名無しさんAA:16/12/05 14:23
佐久長聖高時代の教え子でリオ五輪に出場した大迫傑選手が米国でゲーレン・ラップやモハメド・ファラーを育てたアルベルト・サラザール氏の下で練習しています。
大迫選手は早稲田大学時代、練習のやり方で自分のわがままを通してもらっていた部分もあったように思いますが、今ひとつ乗り切れていませんでした。
わがままぜいたく学生のくせにできちゃった妊娠させちゃった結婚を隠蔽揉み消し 不正極悪欠陥品詐欺企業アシックスや不正統一球不良品詐欺企業ミズノからシューズ作ってもらってたくせに不正極悪粗悪品詐欺ナイキジャパンに鞍替え ナイキジャパンに渡辺康幸の同期似非ヱスビーs&bマネージャー荒嶋啓太にUSAナイキ本家オレゴンとのコネ縁故つくってもらってお膳立てしてもらってオレゴンプロジェクト入れてもらって脱税幇助まで 子供の靴まで賄賂、脱税幇助 援助
卒業後に拠点を米国に移し、本人はサラザール氏の指導は、ものすごくきつく、やらされている感じではあるが、やらなければ許されない環境と言っていました。でも、大迫選手は自分の競技人生すべてを任せるんだといって、サラザール氏の指導をすべて受け入れています。それが結果につながっているんだと思います。
スパイク、シューズ、オレゴンプロジェクトのアイコンプリントされたウェアや練習、試合以外のジョーダンやエアマックス他 靴 服 時計、バッグ、その他あらゆる物もらいにもらいまくって脱税三昧 大雑魚大迫傑本人ではなく子供の靴までもらいまくり ものもらい生活 私利私欲強欲まみれ
結果?出てねえだろうが 大迫傑やナイキジャパン社員 渡辺康幸 両角速こいつら不正極悪

201: 名無しさんAA:16/12/05 14:32
指導者として、オリンピックや世界選手権等で、世界に通用する選手を育ててみたいという思いはあります。今は大勢の部員を抱えていますが、ある程度人数を絞って、それもマンツーマンに近い状況で、質と量の両面から世界へアプローチする指導をしてみたいと思っています。
 ただ、選手全員が世界を目指している訳ではありません。競技生活の集大成として箱根駅伝を目標においている選手も数多くおります。駅伝となれば10区間あれば3倍、4倍の部員を抱えていないといけないのでどうしても大所帯になりますが、そこをどうコーチと分業して、選手一人ひとりに対してきめ細かい指導をやっていくかだと思っています。ただ、多くの選手が私の指導を受けたいと東海大学に来てくれるので、それをすべてコーチに任せる訳にもいきません。そこをどうするかが今後の課題だと思います。
マンツーマンの指導で目指すは「長距離日本」の復活ですか。
 そうですね。やはり先ほどお話ししたような、指導者、監督と選手の関係をもう一度構築したいと思っています。選手がその指導者をきっちりと信じ、お互いに覚悟を持った師弟関係が構築されていなければ、とても世界とは戦えません。こうした形をもう一度作っていきたいですね。
グローバル化が進み、今は先を読む力、洞察力がすごく求められている時代だと思います。一方で、若者の中には今さえ楽しければいいという風潮も広がっているように思います。学生を見ていても新聞を読まず、テレビのニュースさえも見ない。グローバル化の時代に立ち向かうための基本的な部分が養われていない気がします。人間関係もものすごく少数で成り立っているようにも思います。洞察力を磨き、今やっていることの先に自分の将来がどうあるかを考えて、行動することが大事ではないでしょうか。

洞察力の無い 駅伝病 マラソン病 公害迷惑ランナー 公共交通の敵 不正極悪どもにできるわけねえし
指導者失格 権利も無い資格剥奪だろうが 

202: 名無しさんAA:16/12/05 17:44
泉えな
12月11日 日曜?Xperia Touch&TryEvent
イオンモール福岡
http :// pbs.twimg.com/media/Cy1bPqgVIAA1oyU.jpg
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203: 名無しさんAA:16/12/06 06:56
http :// bbs.2ch2.net/test/read.cgi/kisikenn/1424489354/197-

http :// pbs.twimg.com/media/CyZfuUoUkAAa7ow.jpg 

折山淑美 氏 も老害か? ダメだこりゃ 
Number編集長 @_numberboss
日本のマラソンの頂点に立ちたければ、日本記録保持者より、多くの距離を走る、質の高いマラソン練習をする……。そのためにも7人が日本記録をマークしたレースの練習メニューに目を通し、彼らの男子マラソン再建論に耳を傾けるべきだと私は思います。 
↑マラソンを 長距離を↑ 陸上競技を↑ ↑何も理解していない、
ケニア エチオピア エリトリア ウガンダその他アフリカ勢
USA や ヨーロッパ勢 オーストラリア ニュージーランド オセアニア勢
のこれまで、これから を把握してない 考えていない 無知 鈍感 アホ 間抜け↓         ↓             ↓  ↓
1980年創刊のスポーツ総合誌Numberの12代目編集長です。編集者生活25年目の46歳。誌面やウェブの情報、編集部の近況
総合スポーツ誌 Numberも欠陥不良粗悪 質が落ちた 悪質
日本のスポーツ 勘違い 自惚れ 衰退していくぞ

泉えな
12月11日 日曜?Xperia Touch&TryEvent
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204: 名無しさんAA:16/12/06 07:09
のだまハイ @nodama_high
福岡国際マラソンの川内優輝選手、本当に凄い!!! すごくねえし
優勝してねえ輝いてねえ
ケガの影響で好記録は望めないと思って録画しなかったのが悔やまれます...。 記録 記録 記録記録病 数字に囚われ過ぎ 数字だけぼーっとボケーっと眺めてろボケめ
あのスピリットに勝てるのは今の日本男子長距離界にはいないと思います。
スピリットねえしそもそも勝ってねえし勝負してねえ闘えてねえし
日本男子長距離界? 界界界界うるせーんだよ ったく 長距離だけで界 括るな
川内優輝気持ち悪い汚物早口不細工マラソン病重症患者
駅伝病も患ってやがるし 実業団連合の試合にも出てやがるし

こいつも 川内も 陸上競技から永久追放
http :// bbs.2ch2.net/test/read.cgi/kisikenn/1424489354/197-

http :// pbs.twimg.com/media/CyZfuUoUkAAa7ow.jpg 

折山淑美 氏 も老害か? ダメだこりゃ 
Number編集長 @_numberboss
日本のマラソンの頂点に立ちたければ、日本記録保持者より、多くの距離を走る、質の高いマラソン練習をする……。そのためにも7人が日本記録をマークしたレースの練習メニューに目を通し、彼らの男子マラソン再建論に耳を傾けるべきだと私は思います。 
↑マラソンを 長距離を↑ 陸上競技を↑ ↑何も理解していない、
ケニア エチオピア エリトリア ウガンダその他アフリカ勢
USA や ヨーロッパ勢 オーストラリア ニュージーランド オセアニア勢
のこれまで、これから を把握してない 考えていない 無知 鈍感 アホ 間抜け↓         ↓             ↓  ↓
1980年創刊のスポーツ総合誌Numberの12代目編集長です。編集者生活25年目の46歳。誌面やウェブの情報、編集部の近況
総合スポーツ誌 Numberも欠陥不良粗悪 質が落ちた 悪質
日本のスポーツ 勘違い 自惚れ 衰退していくぞ

泉えな
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205: 名無しさんAA:16/12/06 07:48
白kuma @kuma_kuma_sea 少なくとも男子マラソンは2時間5分台で走れないと、トップ争いは難しいよ。黙って消え失せろタイム病
白kuma @kuma_kuma_sea 男子マラソンとか女子マラソンとか、五輪の度に揉めてるわけじゃん。色々と事情はあって解説者も色々と御託を並べるけどさ、正直、そんな内情って応援してる一般サイドにはどうでもいい話でさ。
同じレースでよーいどんの方がこっちとしては簡潔明瞭でいいのよね。そこがなんか応援しきれない原因かも
すごくねえし 優勝してねえ輝いてねえ
記録 記録 記録記録病 数字に囚われ過ぎ 数字だけぼーっとボケーっと眺めてろボケめスピリットねえそもそも勝ってねえし勝負してねえ闘えてねえし
日本男子長距離界? 界界界界うるせーんだよ ったく 長距離だけで界 括るな
川内優輝気持ち悪い汚物早口不細工マラソン病重症患者
駅伝病も患ってやがるし 実業団連合の試合にも出てやがるし
かんちゃん@マラソン・マン @kanchan42195 現代 今の日本に一流いねえし
どこが一流だ ランナー?公害迷惑ランナーだろうがボケ
一流ランナーたちが走るレースというのは、テレビの画面を見ていても独特の「気」が伝わってくる。独特の気?臭気だろ醜態さらしてるだけじゃねえか
先日のクイーンズ駅伝もそうだった。クイーンもプリンセスもいねえブス不細工ばっか増殖量産福岡の先頭集団、それは「聖域」だ。聖域じゃねえし川内みたいなのがいれば汚いだけ
1987年福岡の映像は、このレースがただ事ではなかった事を伝えてくる。
がじゃっち@沖縄(赤点だらけのリスナー) @gajatti42195かんちゃん@マラソン・マンへの返信
「'87年フクオカ」で感じた中山竹通さんのオーラは男子マラソン史上に残るモノでしたからね
日本頑張れ!Nippon Gambare @j_rivoluzione
瀬古氏は川内の積極性たたえる「価値のある走り」 nikkansports(日刊スポーツ) 瀬古も随分レベルを落としたな。国賊癌害悪元凶瀬古利彦なんて元々悪質 不正極悪 自分が現役だった30年前に容易に出していた2時間8分代の記録さえ出せない今の日本男子マラソン界に苦言を呈すべきだろう。マラソンだけで界界界界括るな 苦言呈す人間いねえし 馴れ合う獣ばっか 記録記録うるせえ8分台と書けない誤字脱字アホ間抜けめおまえが教育受けなおせ

こいつらも 川内も 陸上競技から永久追放

泉えな
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206: 名無しさんAA:16/12/06 08:18
フラッシュモブのど真ん中でウンコをする会 @moigen51
日本の男子マラソンなんてもう世界じゃ絶対通用しないんだから、絶対絶対かーんたんに絶対絶対うるせーんだよ せめて見てるだけで面白くて、見たくねえしおもしろくねえし 見栄え、見栄え悪いし 栄えてねえし 見応えのある見応えねえし この盲目め 川内優輝早口不細工を世界選手権やオリンピックの代表に選んでやりましょうよ。選ばれる資格権利剥奪 選手失格 代表失格
結局、川内優輝^0^; 駅伝 は盛り上がるけど、盛り上がらねえし 世間知らずなやつらが騒いでるだけ
マラソン する選手が育たない^^;アッキー24 @nsymakiこいつの脳と目が死んでる
川内選手の雨中の激走!激走してねえしニッポン男子マラソンはまだ死んでないことを実戦で示してくれた。示してねえし おまえも ニッポンの長距離 マラソン重症患って 死亡してるし 似非指導者 偽解説者 ども 脂肪ばっかだし
uma @umanosuki
日本の男子マラソン界界界うるせえは彼に続く選手がいつ出てくるかですね
ぇ。不細工早口公害汚物に続く?続いてどうすんひ弱なアホ間抜けをこれ以上増殖量産させようとしてやがるおそろしさ しかし、体調に不安がありながらよく10分を切ってきましたねー!なにが10分切ればいい だ この記録病タイム病数字病重症患者どもめ  川内優輝の醜走を陸連が大絶賛、瀬古利彦リーダーの資格もない国賊瀬古ドジ彦「ありがとー!と言いたい」ありがたくねえし 瀬古・川内その他マラソン病駅伝病おまえら 公害 迷惑 ニッポンの敵 癌 害悪 元凶
素晴らしい戦いだった!素晴らしくねえし戦えてねえし

こいつらも 川内も 陸上競技から永久追放

泉えな
12月11日 日曜?Xperia Touch&TryEvent
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207: 名無しさんAA:16/12/06 08:48
調査役ピーちゃん @bepw_x
今日は、福岡国際マラソンをテレビで見ました。最後まで、川内の応援をしていました。応援する価値ねえし 応援したくもねえ 不細工早口ひ弱 粘り強い走りで、粘れてねえし あんなもん汚くねばねばしてるだけ 粘りとか 粘り強いなんて表現は誤用・不適切 粘り強いという言葉に対して無礼失礼
そんな言葉・表現に値しない 解説の瀬古さんも絶賛。さん付け 敬称さえ不要 瀬古は解説できてない 解説とは呼べない 解説にすらなってねえ 男子マラソンの日本選手活躍が久しぶりでしたが熱くなり興奮しました。 活躍してねえし 熱くなるようなものじゃねえし興奮しねえっつーの あんな欠陥不良粗悪不正極悪川内に熱くなる・興奮する世間知らず浮世離れした無知鈍感アホ間抜けの獣どもはニッポン陸上の敵 癌 害悪 元凶 公害
ぼたん @UnePivoine
今までも、男子10000mを「佐藤祐基でダメならしょうがない」と思ったし 思わないし おまえが重症なだけ 佐藤悠基だし名前の文字間違ってアホ丸出しダサ過ぎ 佐藤悠基改名幽忌オークリージャパン⇒ミラリジャパン ルクソティカ ミズノと癒着しものもらいまくって脱税三昧 ひ弱なくせに 利益供与 賄賂 女子でも「小林祐梨子でダメならしょうがない」って思った。思わない 不細工 早熟 豊田自動織機と大学の二重登録ブス それと同じようにマラソンも「川内優輝でダメならしょうがない」なんだ(もちろん本人が「ダメ」なわけじゃない 川内なんて元々ダメな放送禁止公害汚物
桜井のり @nori00829
箱根駅伝や実業団駅伝に関係のない、不細工早口ひ弱川内箱根走ってやがるし実業団連合の試合に出てる 実業団登録してるし 駅伝も走って駅伝病も患ってること知らなさ過ぎ 無知なにわか多過ぎ 川内君にしか頼れない、頼るほどの能力無し 頼りにしてねえ 頼りたくもねえ 所詮一過性 暫時 一時的 無知 にわか 鈍感 アホ 間抜け ばかり 男子マラソン。タイム的に見ても、本当にレベルが低い。男子マラソンに復活は難しい。
Mr.Childrenの音楽が1番好き。桜井和寿さんを最前列で拝めたら死んでもいい。2009年SMF初参戦、JUJU、サザン、小田和正さんライブ参戦歴あり。ライブ三昧、舞台観劇三昧な生活が夢です。ヒカリノアトリエツアー参戦予定。
こいつのレベルが低過ぎ 劣悪 タイム病記録病重症患者 桜井のり @nori00829おまえが悪質
こいつらも 川内も 陸上競技から永久追放

泉えな
12月11日 日曜?Xperia Touch&TryEvent
イオンモール福岡
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208: 名無しさんAA:16/12/06 09:13
チンチロリン @peroperopero01←おまえのような所詮無知でにわか一過性なニッポン陸上の敵 癌 害悪 元凶 公害がほざくなボケ↓
科学トレーニングとか決められたことしかやってないランナーが全員チンチロリン @peroperopero01同様同類のゴミカスになって男子マラソンは低迷。医科学そんなに活用できてねえし そんな中、昔ながらの練習と練習量でまたこのタイムを出した川内。昔ながら? おまえ 練習見学もしてねえ 長距離マラソン詳しく調べて何十年も見続けたわけでもねえ ただの無知にわか アホ間抜けが偉そうに語ってんじゃねえぞコラ 川内バカにしてた選手とかは全員土下座しろ。川内はパスポート忘却の前科犯のバカ丸出し愚かさ露呈不細工だし川内以外の 無能選手選手選手失格どもも 無能指導者や兼任無能陸連も悪質
チンチロリン @peroperopero01こいつは土下座の前に雷に打たれて事故って苦しんで呪われて逝去し地獄に堕ちろ
がじゃっち@沖縄(赤点だらけのリスナー) @gajatti42195
@GuntouQ(HAiQ / 配句) 何だかんだ言っても,現在の「日本男子マラソン界のエース」エースじゃねえしエースの資格もねえし界界括るなマラソン病重症患者がじゃっち@沖縄(赤点だらけのリスナー) @gajatti42195はやっぱり川内優輝選手ですね 違うし 今日の「福岡国際マラソン選手権大会」で改めて実感しましたねぇ…。改めて や 実感 という言葉を誤用するな おまえが重症なだけ 川内崇拝心酔狂信してんじゃねえぞこらボケ
tsuyoshi@12/18防府読売 @tsuyoshi_runひな。 2/19 泉州国際市民マラソンへの返信 でも男子マラソンで久しぶりに日本人が勝負してくれて本当に感動でした♪あんな粗悪な内容の川内に感動wしねえよ アホ 勝負してねえし
12月4日ひな。 2/19 泉州国際市民マラソン @hina_nosoratsuyoshi@12/18防府読売への返信 感動しましたね。
しゅんまっはー @Schunmacher 日本マラソン、今は女子もかなり低迷期だが…それにしても男子実業団の弱さは目に余るね…。実業団だけじゃねえし
 川内も実業団登録してやがるから実業団連合の試合出てやがるし
今季の日本最高は9分台を二度の公務員ランナーの川内、だからなんだタイム病 東京マラソンも健闘したのは大学生。アホ山青山学淫アニメヲタクいらね
箱根がマラソンを阻害しているなんてこんな体たらくでは言うにも言えまい。
こいつらも 川内も 陸上競技から永久追放 

泉えな
12月11日 日曜?Xperia Touch&TryEvent
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209: 名無しさんAA:16/12/06 18:17 ID:fCs
 今度は青山で事故だ 今度はどうもドライブレコーダーがあって事故の原因が判明す
るだろう。今度の追突事故は路線変更のタクシーを押し出した形でプリウスは側面前頭
部の破損なのだが 信号機の交差点であり路線変更時の後ろからのこのプリウスが映っ
ていない可能性は強い。だが押し出した車とタクシー自身の破損更に止まった信号柱の
部分はかなりの破損である。どう考えてもプリウスのブレーキ性能が通常の車より反応
が遅いと考えられるのだが 果たしてどうか。


210: 名無しさんAA:16/12/06 18:36
 魔法使い あららとおろろ03

 日本から又ノーベル賞受賞者が出た。こうも立て続けに出るとは思っていない国民も
多いだろう中で、80〜90年代に今後に礎となる研究に投資なされていた先人達の力
を現代人がまざまざと見せつけられる形になったようだ。その意味で橋本内閣以降この
国の姿を変えて嘆かわしいほど異様な世界に変え特に小泉内閣で決定的に変質した姿は
は今の政府がそうした次世代に夢を残す力を注いでいるかかなり疑問の中にいる。特に
TVゲームやITの発達の在り方は方向性を間違えているとしか言いようがないが政府
が一丸となって補正しようとはしていない。そうした間違えた変化は政治に限らない。
教育も行政も司法も経済も生活もである。そしてTVも又その変化への先駆者であった
のであろう。かつて民放は5時と言えば お笑いにアニメにと子供達を家に促した。そ
の後も6時代でのニュースは7時からのゴールデン番組前の合図みたいなものだった。
クイズ番組やスポーツ中継や歌謡ショーやバラエティが主ではあったがドラマに時代劇
にと8時9時と続いて国民の生活循環に馴染んでいて10時となれば大人の番組で殆ど
の家庭に消灯時間が来ていた。つまり 昔は誰でもが品行方正のまともな暮らししか出
来なかった。その中で熱意ある人々が 日々の努力を重ねて現代の日本を築いたのだ。
それは、マラソンでも科学者でも或いは作家やTV映像のプロでも誰でもがやりたい事
にのめりこんでいた時代だったのだ。今でもそうした気持ちは誰でも持っているのだろ
う。それはオタクと呼ばれる人々が趣味を超えて実生活をしている事でもそうだろう。
だが現代の人々が好きなその事での苦労や体力をいとわない。とまでいかないのが現状
で結婚すら 今の男性には思いとどまらせるほど余裕がないのである。


211: 名無しさんAA:16/12/06 18:50 ID:LK6
千古屋 @chicoyabee 川内優輝(3位)の頑張りで、久しぶりに男子マラソンで感動させて貰ったなぁ園田選手も川内に続きの4位に!
後の若手は情け無さのみ!と昔描いた川内優輝選手をトッピング
アホ間抜け千古屋 @chicoyabeeこいつに不細工早口川内の顔面汚物と早口をトッピング
陸上競技/中距離/長距離/マラソン/NIKE うぇい @tracker_114514
福岡は日本の男子マラソンにとって久々に明るい話題になった気がする
こいつアイコンはバウマントラッククラブのくせに背景プリフォンティーンクラシックでの オレゴンプロジェクト ニック・ウィリスにドーピング絡みで喧嘩売った素行不良不細工セントロウィッツ
うぇい @tracker_114514こいつの見るレベル思考レベル低っ悪質
るなっぽ @mikarin1018 川内優樹の激走のおかげで最初から最後まで楽しめた!激走してねえし優樹?誤字だろうが 名前間違うアホ 男子マラソンでは久しぶり!おまえ無知にわか一過性だろどうせ知らねえくせして ありがと〜川内さん! お疲れ様でした。るなっぽ @mikarin1018こいつも重症
小言の唄 @N_poruto 福岡国際マラソン、川内選手が3位。しかもトップがゴールする姿が見える程度の差でゴール。だからどうした負けは負け。上位2人を最後まで苦しめたわけじゃねえし 久しぶりに日本人男子がトップに大差をつけられずにゴールしたところを見た気がする。敗戦は敗戦。上位2人とがっぷり4つ、ガッツり競り合ったわけじゃねえし。実業団の選手はどうした?
川内も実業団登録して実業団連合 地域実業団連盟の試合に出てるし 駅伝も出てるし 宣伝目的の駅伝にしか力をいれない企業ばっかりじゃつまらない。
小言の唄 @N_porutoもつまらねえまりまり?/25味スタ @milmilm317
男子マラソン、感動の走りでした!安売りの粗悪欠陥不良な感動
Lay イチオシ秋山翔吾クン♪ @6_kakovyマラソン男子、川内さん、3位がんばったねー。がんばってねえし不細工な秋山ヲタ
湖木(みずき) @mizuki_tezuka@mizuki_tezukaへの返信
川内さん素晴らしすぎる走りでした…。すばらしくねえし男子マラソンで今までで一番、マラソン全てを通じてもシドニーのQちゃん以来の最高の感動でした。ぱちんこ依存馬鹿橋陸上普及怠慢指導者やってねえし解説できてねえ話下手糞アシックスと癒着 利益供与 賄賂 脱税 欠陥不良粗悪品詐欺助長 オークリージャパンからつくってもらったサングラスアスファルトに叩き付ける投げ方で投棄しやがったくそ婆高橋尚子に失礼 厳しいコンディションの中本当にお疲れ様でした。三位表彰台おめでとうございます めでたくねし おまえのお花畑の脳内がめでたく患ってて重症なんだろw
福山真魚という犯罪者製造のはげ花田勝彦の上武大学園田さんの圏外から4位という追い上げも大変胸を打たれました。打たれねえし おまえは事故って胸強打して貫通 涼園 @ryoencloverこのところ日本男子のマラソンがふるわなかったからちゃんと見ていなかったことが多かったけど、今日の川内選手の走りには感動した!しねえしおまえレベル低過ぎまさに魂の走り!魂なんて川内にねえし魂抜けた腑抜け川内と信者

212: 名無しさんAA:16/12/06 19:10
>>209>>210おまえら邪魔 消え失せろ
縦棒 @tatebougakonaiこいつアホ間抜け 目と脳腐敗してやがる
やっぱ男子マラソンのエースは川内だわ エースじゃねえし
阿仁 @minoix
川内ががんばると地味な男子マラソンもおもしろくなるなあ おもしろくねえし おまえが気違いなだけ
コダック(KODAK) @metalnight1995
久しぶりに熱い男子マラソンのレースを見たな 熱くねえし おまえが熱 発症して 発狂してるだけ おまえが本物のマラソンみたことがないだけ
なかがわしげとも @shigessu
うわーっ、川内、がんばれ!
男子マラソン、久々の盛り上がり。虚偽で盛ってるだけだろ 仕事に集中できねぇ。
12月4日遡上ボラ @tmkinsula
国内の男子マラソンレースで久しぶりに日本人が上位に残っているぞ! 川内や駅伝病 マラソン病 不正極悪なニッポンのマラソン病どものにせものレースしか見てないんだろうがボケ!
ぱりッシュ @queenpucchiaviこいつもアホ川内とともに地獄に堕ちろ
日本の男子マラソン界、公務員ランナー、しかも怪我持ちの川内に勝てる奴がいないという。もちろん、川内、頑張れ!

213: 名無しさんAA:16/12/06 19:13


泉えな
12月11日 日曜?Xperia Touch&TryEvent
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214: 名無しさんAA:16/12/08 05:40
悪魔の聖杯 1078

 更新、写真追加)インドネシア・スマトラ(Sumatra)島北端のアチェ(Aceh)州で
7日に発生した強い地震で、これまでに97人が死亡したことが分かった。ただ、倒壊し
た多数の建物のがれきの中から、さらに多くの遺体が収容されている。と言うニュース
が飛び込んできた。M6.5である。丁度10年前2004年のアチェ州大津波である
12月26日 スマトラ島沖地震が発生。M9,3。津波などにより14カ国以上で22
万人以上が死亡。邦人40名以上が死亡。としている。その後2011年2月22日に
ニュージーランド南島のクライストチャーチ付近にてM6,3の地震が発生した。この
地震により、日本の富山県の外国語学校留学生の関係者が多数死亡した。この悲しみも
癒えぬままに、日本の東北地方太平洋岸沖を震源とするM9,0規模の地震が発生する
この地震によって大津波が襲い「東日本大震災」と命名された。この地震で福島第一原
子力発電所が被害を受け、それによって大規模な原子力事故が発生したまままだ廃炉に
至っていない。


215: 名無しさんAA:16/12/09 02:09 ID:4CA
 魔法使い あららとおろろ04

 不思議な不思議な幼稚園児のような話し合いが東京で行われている。東京都議会であ
る。幼稚もはなはだしい事しきりである。まず「質問の事前の通告がない。」として住
民ないし都民の知りたい質疑が全くなされていない上にそれをさも小池都知事が言った
「事前協議のない真剣な話し合いを見せたい。」と言う希望に沿ったというのだ。馬鹿
でも議員の事前の質問事項の欄に「東京都政について」などとは書かないだろう。だが
この都議会での答弁資料集めの対策票には そう書いてあるのだ。「事前協議なしで」
とは言っても「事前通告なしで」とは全く言ってはいない。そうした議会軽視した議員
達が「議員復活予算廃止は議会軽視」と質疑しているのだ。全くこうした馬鹿議員の為
に普通の労働者の3倍の給金と5倍の事務費更に10倍の補償をつけて議会運営してい
るのである。全く税の無駄使いである。投資効果60兆ともされる東京オリンピックに
対して3兆円も出せない都庁の在り方こそ非難すべきだし 大体東京築地市場は今や崩
壊寸前の危険家屋である。大地震が予想される中都民にとって築地での地震倒壊での食
卓の危機と使いもしない地下域内のごく微量の毒素と一体どっちが危険性が高いか判断
できそうなものだ。更に言えばわざわざガス会社の跡地を買い上げたのはこの危険家屋
とされる築地を移転せねばならないと突き上げた都議会の経過があるはずだ。これを全
く無視して議会で質問しない都議連は如何に一般質問に対しても疑問も突き詰めもない
無能のまま党利党略のある派閥集団に属して安穏とあくび顔で椅子に座って給与泥棒と
化しているかがわかる事例ではないか。正にそれに市民は怒っていて遺産となる建物の
供給に1兆や2兆を超えた予算を付けたとしても異論はないはずなののである。ニュー
スは「大きな黒い頭のネズミがいっぱいいると分かった」と発言したことに関して、「
恥ずべき発言。誰のことか明確にお答えください」と追及。小池氏が「ご想像にお任せ
します」と笑顔でかわそうとすると、議場は再びやじに包まれた。激しいやじから小池
氏を救ったのは議会の傍聴者。一般傍聴席からの「自民党は有明(アリーナ)の利権が
欲しいんだろ!」の一言で、それまで騒がしかった自民都議団の一帯が静まった。正に
これが本当であれば土建業界は身をもって諫めるべきだ。良い建物ちゃんとした都市計
画の未来図の中での活動を示さないのなら そこにはかつてのバブル崩壊のような落と
し穴が待っている事を知るべきなのである。癒着で事が出来る時代は未来が無い事を。


216: 名無しさんAA:16/12/09 19:11
魔法使い あららとおろろ05

 一体どうしたという事だろうか。全く馬鹿げている。6日に衆院を通過した、カジノ
を合法化する統合型リゾート(IR)推進法案である。そもそも賭博場であるカジノが
合法化出来るほど日本人の人口は多くない。今でさえヤクザの資金源は多枝に渡り潤い
更に広域暴力の取り締まり法が出来て一般社会や公営や地方公共団体や議員とどこにで
も隠れヤクザが存在しているというのに 議員一般質問で時間をもてあそび般若心経を
唱えるほどとは情けない。ひっ迫している国民社会の平均教育水準の低下は今や待った
なし状態で低い中でのこうした討論なのである。そもそもいじめで青少年の自殺者が多
発し更に進学校ですら教育する教師のモラルや認識の低さが問題視されてる中議員の中
の道徳的教義は一体どこにあるのか。情けないにもほどがある。恐らく大阪維新の会の
大阪万博に向けてのリゾート特区の流れではあろうが そもそもこの観光立国としての
日本などとはあり得ない。勿論魅力ある平和な危険性の無い国ではあろうが 言葉も今
は日本語の解らない輩が仕事に勉学にとやって来ては TVの特別なコメンテーターと
なれば中国人や韓国人が大流行りで全く日本人としての意見や分析と大きく異なる診方
を堂々と恥も無く展開してる中に カジノ法案の可決である。まったくいい加減にしろ
。日本で生まれ日本で育ち日本を愛するもの達をさげすみ過ぎだろう。留学生や居留外
国人は保護して 北九州の様な一日一個の握り飯すら買えないようになった者を助けら
れない行政を作りながら 議員達は何を観て明日の日本を築こうというのか。もちろん
カジノが悪いなどとは私は言わない。だがこれが田舎の山の中の今まで人の来なかった
所の復興需要なら少しは理解しよう。今でも税収があり観光地としては不適格なホテル
すら整備出来ない都府のヤクザで盛り上がる地に何故作ろうとするのか。更にこうした
賭博場目当てにやって来る旅行客など全く不必要であり 金満家のクルーザーや豪華客
船でやって来る者は既に船にそうしたカジノ施設は取り揃えてあり日本の地に必要性は
全く無いのである。日本に旅行客が求めるのは真面目な気質が作り上げた伝統文化にあ
る社会や人間味とと風光明美な自然景観であり 広大なワイルドワイドの自然やアウト
ロースポットとされる無法者地帯などを見に来ている訳ではないのである。



217: 名無しさんAA:16/12/11 09:40 ID:kRs
追憶の彼方から 35−1

 安倍首相がハワイに慰霊の訪問をし 戦没者供養にアメリカ大統領と共に慰霊祭を執
り行った。日本のTV局は馬鹿な事に相も変らぬ自虐史観に基づいたコメントや解説し
かりである。一番酷いのはTBSのサンデーのコメティター達である。平和の希求をし
た憲法を持ちアジアに戦争謝罪を正式声明を出し更にアジア復興に賠償金以上の資金を
提供して今やシビリアンコントロール下の体制にあるに関わらず「やっともっと早く。
」「米国と日本の戦争はしない。と言う反省はあるが アジアにには伝々・・・」とコ
メントしている。全く可笑しな言葉ばかりだ。そもそも日本の国家元首足るの象徴天皇
であり既に訪問は果たしているのである。もっと酷いのはKBCのどこかの先生の解説
だ。今や真珠湾攻撃は数々の過去の書類やメモ或いは公文書によって時の大統領は既に
ヨーロッパ戦線への米国の介入待った無し状態であったがフランクリンルーズベルトは
モンロー主義を貫いていたし 一般国民も又よその国の領土争いとして戦争参加に反対
していた。だが米国内のシオニスト達は引き揚げたドル紙幣を持って次の投資に勤しん
でいた。つまりユダヤの金融資本はドイツにもフランスにもイギリスにも大きな金を貸
出していたのである。それは第一次大戦の復興予算の国債であるただ初戦の緒戦では損
をしないはずだったがフランスの占領まで行きイギリスが新たなロケット空爆されると
様相は一変し国内工作に至っている事が資料から見て取れる。時間軸で見れば石油と鉄
の輸出入禁止措置の時既に軍部には日本叩きの作戦資料が残ってるしイギリス空爆では
既にレーダーを駆使していて 日本海軍がカムチャッカ半島に集まって来たのは当然な
がら見破られている。つまりハワイ奇襲は奇襲でも何でもなかったのだ。更に言えば、
日本軍は宣戦布告にこだわっていたが 実はこの国際協定や国際法は無い。つまりは、
パールハーバー作戦は以降卑怯な作戦と大々的宣伝されたがこれはハリウッド作戦によ
る。1946年のマッカーサーとの東京会談では、フーヴァーはルーズベルト大統領を
指して、太平洋戦争は「対独戦に参戦する口実を欲しがっていた『狂気の男』の願望だ
った」と指摘しているのである。これらは既に既成の事実であり日本をわざと追い込ん
で参戦したのは数々の資料で証明されている。特に国内の日本人収容の理由は国民意志
の統一その為の方策で既に戦前に研究によって起こりその為にドイツ人はユダヤ系もい
る事から敵であっても収容されていない。


218: 名無しさんAA:16/12/11 16:02
 追憶の彼方から 35−2

 一般的には収容所と言うのは戦時平時に関わらず官憲取締りで行われて 国家を背に
行われ通常の人権や財産権更に自由権を奪われる。基本的に悪評高いナチスのアウシュ
ビッツも又収容所の中の一つであり最終収容所としての機能で人体焼却をやっていたと
される。が苛酷なのは何も旧ドイツ帝国のみではない。ソ連邦も又終戦時の住民狩りは
凄まじい程嘘をついてまで日本人を捕えて北方の線路敷設に使っている。満蒙開拓団は
聞こえはいいが日本政府の南米に送った移民船以上に過酷な原野を農地に変えて行った
。もちろんその中には現地住民の農地を奪って農地改革をして住み着いた例もあるが、
大部分はとても痩せた土地でありその日の食糧さえ難し有様を乗り越えて住み着いてい
たのである。良くフィリピンやマレーシアやベトナムなどで欧州人の捕虜の扱いにおい
て不満があるが彼らは軍人達で捕虜であり 他の国の収容所として一般人を敵国素性の
為に捕えて送った例は日本には無い。もちろん強盗や殺人など罪を犯した犯罪者は別だ
。その意味では欧米列強が如何に植民地主義とその根強い白人優位主義の思想であった
かが見て取れる。そうした事で米国も又その中にいた。自由の新天地との思想を掲げて
法治国家との声を上げていたものの事実は無法地帯の中での棲み分けをした社会と言う
のが実態だった。その中に黒人やインド人や中国人や朝鮮人より遅れて来た仏教徒であ
りながら神道を重んじる日本人が奇異な存在のままそのまま商業で努力して成功を治め
ていた。そこに財産没収と強制収容である。時の日本人の苦労が解るだろうか。近年に
なってアメリカ大統領は国家として謝罪をしたが60年もすぎての事だ。それは歴史に
はあまり出ていないが第二次世界大戦にはアメリカ軍の中の外人部隊として日本人の部
隊が幾つかあって収容所から出て行くために志願兵で戦っている。そしてその一部はヨ
ーロッパ戦線で活躍した。海兵隊にも航空部隊にもいたのだろうが陸軍の第442連隊
戦闘団は、第二次世界大戦中のアメリカ陸軍が有した連隊規模の部隊で、士官などを除
くほとんどの隊員が日系アメリカ人により構成されていたと言われる。ヨーロッパ戦線
おいて活躍し、その激闘ぶりはのべ死傷率314%死傷者数一万人と噂されアメリカ合衆国
史上もっとも多くの勲章を受けた部隊として知られてる。この事で戦後には収容所は解
体されて無一文の解放から持ち前の頑張りで今の在邦の地位を得ている。東京オリンピ
ックではそうした日系人が数多く応援してくれて成功したと言われている


219: 名無しさんAA:16/12/11 21:08
 追憶の彼方から 35−3

 米国でこの日系人収容所から解放されて街に戻る頃も 日本の北海道では戦闘が始ま
ったばかりだったのである。原爆投下されて敗戦宣言するまでソ連は満州を攻め立てて
武器を持たない民間人を相手に拉致監禁しては収容所に送り込んだ。既に北朝鮮から出
国する者も嘘をついてウラジオストクまで連れて行った。そして終戦宣言されると日本
国内で暴れた。北朝鮮系ロシア人は大阪や京都が中心にして食料品店や料理店を占拠し
た。そして北では北方領土を奇襲している。更にその後北朝鮮を中国共産党と共に占領
し北朝鮮樹立宣言をする。その後中国政府が建国宣言をしているのである。つまり米国
は馬鹿げた事に原子爆弾いわゆる原爆を落とたことを今だ正当化してこれによって戦争
が早く終わったなどと言っているが 日本の敗戦宣言も第二次世界大戦終結も歴史の流
れから言えば全く関係ない流れである。日本ではあくまでも真珠湾攻撃は太平洋戦争で
あり、欧米列強の植民地からの独立運動は大東亜戦争なのであって1945年2月にの
ヤルタ会談での密約は米国政府でも国の約束でなくルーズベルトの勝手な私人契約とし
ている。このドイツ降伏後、ソビエトは日本に参戦する、その代償として千島列島など
をソビエトに引き渡すという密約を結んだがそれは各国政府には承認されていない。と
いうのもその年の8月6日と9日に原爆投下そして15日には日本の降伏を現した玉音
放送をしているのだ。放送後に北海道を狙ってアリューシャン列島に展開しようとして
いた部隊をそのままウラジオストクから北方領土略奪に向かわせたのである。もともと
1942年アッツ島撤退時にはアリューシャン半島は米軍下にあった為ソ連参戦はこの
半島を求める為の参戦だったのだ。本来日ソは中立条約を結び外交関係を維持していた
がその密約通りソビエトは終戦間際の1945年8月に対日参戦を発表したのである。
これそのものが国際法違反で日本政府は受け取っていないのだ。その後戦争に負けた日
本は、戦後国際舞台への復帰を目的として、サンフランシスコ講和会議に出席した。1
951年(昭和26年)9月8日調印 1952年(昭和27年)4月28日発効 を
したが1948年9月の朝鮮民主主義人民共和国の樹立や、1949年に共産主義政党
独裁国家である中華人民共和国を樹立の宣言を待ってのことだった。つまり講和条約に
参加要請の国ソ連と台湾はそれぞれの国の思惑から出席しなかったのである。



220: 名無しさんAA:16/12/12 19:02
 追憶の彼方から 35−4

 この期間的経緯からも アメリカは全くこのアジアというものに 全く無知で侮蔑的
思考しか無かった事が覗える。1937年7月の盧溝橋事件は日本では事変としていた
がこれは一次大戦後の日本の中国大陸の占領を認めていた欧米との条約が一方的に破棄
されて欧米から中国支援の軍事物資が共産党軍に補給されて起こった事件なのである。
それでも日本本国の阿部信行内閣当時、ヨーロッパの戦争への不介入方針を掲げた為に
内閣総辞職に陥った。欧州の動向を覗っていた中1939年夏には、ルーズベルト大統
領声明が出ていてイギリス、フランス、ポーランドに対し、「ナチがポーランドに攻撃
する場合、英仏がポーランドを援助しないならば、戦争が拡大しても米国は英仏に援助
を与えない。しかし英仏が即時対独宣戦を行えば英仏は米国からの存分の援助を期待で
きる」と通告している。独国に強硬な態度をとるように英仏に既に要請しているのは、
米英が既にポーランド戦線に対する態度を決めて仏国に米国がモンロー主義を解いて人
や兵器輸出を行う準備をしていたのだ。日本陸軍は仏国本国がドイツの支配下に入った
時で空白地となった仏領インドシナ北部つまりベトナムに進駐を行ったのだ。植民地と
され虐げられたホーチミンなどの声が日本政府に嘆願として寄せられてもいたのだ。こ
の年に松岡洋右ら親独派は勢い、国連脱退後日独伊三国同盟を締結し、枢軸側に接近し
たのだが。これらの事は全て1932年の満州国樹立を認めなかった米国ユダヤ資本家
の先導する策略から来ている。天皇はしきりに反対していたが こうした石油資本が原
油不足に日本への供給ストップの口実を米国政府に求め動かした事で日本は立ち行きい
かなくなったのは間違い。ドイツでもその事で砂漠の戦争まで引き起こし 仏領の空白
で日本にまで波及したのである。ベトナムに日本軍が南下した時は日本はまだ宣戦布告
はしていないがベトナムに油田は無い。英国領のインドネシアからのシェル石油の供給
は既にチャーチルとルーズベルトに情報を渡し その内容と今後の展開を把握していた
とされる。諜報活動が盛んな中1937年上海爆撃があった。これは国民党軍の上海の

221: 名無しさんAA:16/12/12 19:03
は既にチャーチルとルーズベルトに情報を渡し その内容と今後の展開を把握していた
とされる。諜報活動が盛んな中1937年上海爆撃があった。これは国民党軍の上海の
国際租界(行政自治権や治外法権をもつ清国外国人居留地)を爆撃して 3千人以上の
民間人や外国人を死傷者を出した。国民党はすぐさま「日本軍による爆撃である」と宣
伝したが、『ロンドン・タイムズ』をはじめとする欧米メディアが写真や機行からすぐ
に中国軍のものと証明されこの事実を報道したため、各国は抗議し、やむなく中国政府
国民党は、「日本艦艇を狙った際の誤爆であった」と遺憾の意を表明している。だがそ
の結果は中国共産党の思惑通り 国民党政府と日本軍に避難は殺到し 国際連盟総会で
は日本軍による中国の都市空爆に対する非難決議を満場一致で採択されたのだ。つまり
日本締め出しに無知なる米英政府は利用されていたのである。こうした自作自演して時
流にのる。この事が敗戦で撤退する時も行われ 中国はかつてない虐殺限りをした。


222: 名無しさんAA:16/12/18 08:48
 魔法使い あららとおろろ 07

 大体安倍首相は馬鹿ではないのか。せっかくのプーチンの訪日である。北方四島なん
か朴っておいて シリアの難民問題対策でも話し合った方が良かったのではないかと思
う。ロシア自体は国民が軟化した思考で正しい歴史認識を持たない限り日本への返還な
どない。日本側も可笑しな政治的4島返還などでなく間宮海峡までの日本の領土である
事を正確に主張すべきであるにも拘わらず何故か奇妙な政治的な臆面に則している。全
くナンセンスである。EU域内で起こった国境確立問題は今後のナショナリズムに及ぼ
す影響を考えると大きな問題である。ならば 日本人が指導して仏教徒に変える方策と
彼らが生活出来る場所を提供する事で解決する。つまり広い領土を持つロシアに於いて
日本人が指導する街並みを作ればいいのであって 極寒の地であっても日本の技術と金
があればそれは農業生産は可能である。つまり半地下にしたビルを作り太陽光とガスの
ハイブリッド発電をして 室内野菜を育てれば良く 更に難民の為の受け入れ施設を周
りに配置しロシア国内の労働者として日本の法律を適用させ日本語学校として経営する
のだ。この事はロシアの希望であり日本の希望であり何よりもEU諸国の憂鬱を無くす
政策となり得るのである。こうした事を協議して もはや経済封鎖政策の中では 北方
四島の話などはしない方が良かったと言える。更にクリミヤ帰属問題でロシアがウクラ
イナに返還すべきと堂々と渡り合う事が大事な事だ。この意味では全く失敗の会談であ
る。今シリアで起こっている事はクリミヤ半島でのロシアが起こした反体制テロと全く
同じである。クリミア・タタール人とロシア人を衝突させるという卑劣な試みがあった
事でロシア人を守るとして介入した。クライナで起こったあらゆる出来事によって示さ
れ、オデッサでは数十人が焼き殺され、ドンバスでは砲撃によって女性や子供数千人が
殺害され、ウクライナ国家親衛隊の監獄では住民が拷問を受けた。こうした事はロシア
の常套手段であり問題を複雑化した様に見せては暗躍する。キエフのファシストに対す
る支持、ロシアスナイパー、オデッサとドンバス、「ボーイング」を用いた挑発行為と
見なした民間機爆撃、現キエフ政権の卑劣さを唄い、米国務省とEUがサポートしたと
挑発しては自国民に嘘を植え付ける。今反体制派を無くすとして罪の無い住民を無差別
爆撃して町を崩壊させている。恐らく今後は米国が対峙して止めない限り拡大する。が
拡大すればベトコン同様ロシアの暗躍する吹聴に洗脳されISILが再び勢い出すだろ
う。

223: 名無しさんAA:16/12/19 18:51 ID:CuA
 魔法使い あららとおろろ 08

 とうとう福岡の県警は全くの出鱈目さをさらけ出した。タクシー暴走事件の話である
。小さな極少量のプログラムのバグが起きてるはずだがそういう形跡すら見つけれない
お粗末な警察だ。今後にIT時代や自動運転技術や電気自動車が普及するだろうに、こ
うした小さなプログラムの解析すらできない無能の集まりだった。という事である。又
馬鹿な事にこの解析に外部のメーカーの技術者を呼んでいる。全く馬鹿げた話で彼らな
ら見つけ出してもすぐに消去や転嫁した書き込みが行われて正常と言うに違いないのだ
。彼らにこうした事故の解析や不具合が見つけられる筈もないし見つけても証拠隠滅す
るに違いないのである。なぜ個人の再生会社を呼びつけなかったのか或いは何故新たに
そういったIT化の流れの為の解析課を設けなかったのか。これは一重に県知事の怠慢
に他ならない。全く殺人事件や詐欺事件電磁気データー改ざんが多発し国外でもサイバ
ーテロが頻発しているのにハッカー対応すら出来ていない証である。この事故の重要さ
は計り知れない程の闇なのに全く本人の精神鑑定を行うなどというのだ。笑い話にもな
らないブラックユーモアである。まずバックのブレーキのテールランプの点灯がなかっ
た事はどう考えても機械不良の話で例えブレーキとアクセルを同時に踏み込みマットが
折り重なった状態でもそのランプは点くはずなのだ。という事はメインエンジンがエン
ジン点火の正常作動なしに勝手にかかった状態だったという事だ。これはプログラムミ
スにしか考えられないものだ。つまり今の家電と同じ様に電源のすべてのカットオフが
行われないまま異常作動している事に他ならない。つまり機械動作の基本である異常動
作のリミッタスイッチが全く無いと言う不完全なマイコンに頼ったような仕様のままで
あるのだろう。大体発電機能を持ちながらエンジン駆動のある物を完全にスイッチを切
る事は不可能に近く生半可な回路では異常が多い。通常では車体のアースに電気を逃が
す事で点火を抑えて止まるものだがこの車はハイブリッド仕様である。更に一般車体の
様なマイナス極が車体に流れている場合は更に電気自動車同様逆発電の可能性すらある
。又今のブレーキシューを隠していないホイールの見栄えだけのものはいたずらや接触
加工が加わった可能性すらある。こうした事から事故は起こるべくして起こったものと
言う認識で車体分析をすべきものなのだ。

224: 名無しさんAA:16/12/26 02:24 ID:xbk
 魔法使い あららとおろろ 09

 ロシアへの憎悪が渦巻く。恐らく今後シリア政変に全く関係の無い ロシアがやった
空爆は全く及ばなかったアレッポの市民を大量殺人に及んだ。この事で ロシア市民は
今後は多分多くのテロに悩まされる。およそ1割程度は死に至り その対策に疲弊する
。更に強硬な軍事政権下みたいに不自由な生活に押し入れられそうだ。勿論ロシアだけ
ではない。今後10年間で中国人の大半は公害によって死に絶える。それらが 起こす
疲弊経済は人々を苦しめるが だが人類全体にとっては戒めであり善い事となるだろう

 人生がある限り 人には 幸せはどこかにある。
 生命が 聖なる限り 人は幸せを追い求める事が出来る

 ただ 腐った奴は そのまま独り者で居よ
 憎まれし者よ 欲望多き者よ 不幸を知れ 悲しみを知れ 
 そして生きている事が 如何に間違いかを知れ

 ドバン ギゲス


225: 名無しさんAA:16/12/29 07:02 ID:T7g
 魔法使い あららとおろろ 10

 韓国で又慰安婦像を設置しようとして撤去された。韓国側は日韓合意は着実に履行さ
れている。と発表している。とTVは言う。コメンテーターは「粘り強く合意の意向を
見守り続けるしかない。」と言う。なんて言う嘘だ。なぜこんな合意出来ない事を合意
に至ったかを説明しないのだ。更に何故日本人として意見を言わないのか。嘘の慰安婦
と言う姿を世界にアピールし 更には今年中に撤去する約束ではないかと。こんな風に
いい加減な放送で人をないがいしろにした意見ばかり吹聴するからTVは見なくなる。
今度の電通の社長会見もそうだ。「来年一月の取り締まり役会で辞任します。」と言う
これは 辞任すれば済む話ではない。経営が何たるかの話であって 利益を上げる為だ
けに人を飼い殺ししてきた社内を 如何に健全にしてまともな社会を築くべく努力する
会社にするかの話である。そういう社長や経営者でなくては選出してはいけない。とい
う話である。健全経営は銀行の言う経営ではない。銀行が金の亡者として貸し剥がしま
でして経営を行ってきた事すら批判してない。そして借り出しの無い会社を健全と言う
本来のまともな「人を作る経営」こそが健全でありそれが 人の余裕と安らぎから生ま
れる人の幸せを望んだ行為であり会社法の趣旨である。つまりある程度の借財債権こそ
必要であり銀行をも育てることなのだ。それを社長を止めればいいと言うのは自分勝手
な行為なのだ。東芝にしても同じだ。更に赤字が続くと言う。大体今だ放射性廃棄物の
最終処分すら決まらず更にガラスなどの固形化技術も確定できないまま 原子力に特化
した経営方針を取ったのは一体どういう神経だったのか。社長なら間違えてもいいとい
う筈はない。社員何万人かの未来すら背負いながら 社内組織全てを把握していない。
実はトヨタも今は燃料電池車などでヒットしているがよく考えるべきだ。三菱なんぞも
何故かつての財閥を持ちながらゴーンなんぞの詐欺師同然の無税者に譲渡するんだ。仮
に負債があるなら若い三菱自動車の社員を抜擢すればいいのであって阿保である。


226: 名無しさんAA:16/12/29 19:28
 魔法使い あららとおろろ 11

 除夜の鐘がうるさいと言う馬鹿がいる。何にでもいちゃもんつければ事が通るなどと
でも思っているのだろうか。まずはこの除夜の鐘そのものは風物詩である。即ち毎日に
なる正午のサイレンよりも意味が深い物なのだ。寺側も寺側である。除夜の鐘がうるさ
いのならお寺が無いところに移れとでも言えばいいのであって お寺が新しい寺院なら
ともかく、昔からのお寺であれば それは夕日が沈むように自然な現象であり 子供が
起きるなどと言うのは 言う家の造りの方が悪いのである。冬を寒いと言って通るはず
はない。台風時にビル風で家が飛ぶようになっても警察も行政も相手せず裁判所すらも
その科学的根拠を示せなどうそぶくのに、である。そもこの日本に於いての除夜の金は
現代人の生まれる前からの風習なのだ。つまり法令以上に古く既にその価値観は根付い
た物であり今の人間が批判する根拠や理由は何ら無い。他人の土地が他人の物である様
に犯した罪も無ければ落ち度も無いのである。それを批判し更にうるさいなどと言うの
は筋違いで その一年に一回の鐘を文句を言う方も言う方だが 言われて変える寺も寺
だ。もし変えると言うなら仏教も寺も廃業すべきで 仏法どころか人の道に外れている
。この烏合の衆のばか騒ぎにたなびく人はさっさと死んだが良い。全く世の為にならな
い。東京都知事の権限の無い市場移転延期や沖縄県知事の国家防衛反対と全く同じで、
逸脱した権限行使である。これを止めない議会は全くどうかしている。これが今の日本
の悪くなって全く進まない進化の理由である。天皇陛下が世襲の中に居て自由が無いと
ぼやいても お隣北朝鮮ではこれから王様として独裁主義を進めようともがいている。
この違いの尊さが判らなければ日本人ではない。警察は勿論凶悪犯人を捕まえるのが仕
事ではあろう。だがそれは制度としてあるだけで その制度以上にその警察のある事や
警察官のいる大事さを知るべきなのだ。そして凶悪犯人を作らない凶悪犯人にならない
そうした行為こそが大事なのだ。良く経営者が節税とか国に金をやるよりはとか言い、
財産を隠したがる。隠すことは無いのだ 儲けていいのだそして税金も払う正々堂々さ
公明正大さこそが大事で およそ舛添知事の様な 小さく仕組みを馬鹿にし裏をかいた
様な事こそが正道に背き叩かれてしかるべきなのである。


227: 名無しさんAA:17/01/06 23:38
 日本近況
 小南の邪推  13

 やはりと言うか何と言おうか 当たり前に予想通りの事が次々に起こっている。今年
起こった様々な事は来年を更なる混乱社会に導くに違いない。それは今どこの国も独立
独歩の解決する手順を踏まずに いきなりの戦争が難民を増やした移民が欧州に押し寄
せた様に。良いじゃないかトランプ旋風 メキシコに壁を作り 関税をかければかけさ
せるが良い。困るのは米国である。仕事が無くなれば移民が増え 更に犯罪が増える。
文化衝突も増える。そしてアメリカの技術も発展しない。どうせ又軍事力に訴えるであ
ろう。又ロシアがトルコに空爆する形になり歯止めのイスラエルに原爆が飛ぶ。正しく
世界恐慌や第三次世界大戦の始まりだろう。トランプがこうした意見を言えば言うほど
馬鹿な大統領 世界最大の最悪大統領の名が人々に刻まれるはずだ。トヨタも反対する
なら今の雇用を捨てて工場閉鎖すると言えばいいのである。自由化する米国の使命が聞
いてあきれる。と言ってやればいいのであって ソニーの様に裁判すればいいのだ。そ
の燃費の悪いままの 使いにくい国産車をみんな使いなさいと。国の暴力で権力による
威嚇そのものではないか。そのまま関税かけても 壁を作っても困るのは米国民だけだ
。禁酒法によって密造酒で死者が増え事件が増え 暗黒街がのさばったようになるだけ
の話で そうなればなるで 各国が米国との交易を減らしマタゾロ双子の赤字で悩むだ
けであり 全方位外交の日本の活力はふえるはずだ。敗戦後にアメリカに敵視されても
ソ連や中国や南米や欧州中東にと出かけて商売した様に 怠けた現代日本人には いい
チャンスとなるはずだ。アメリカの影響力が減れば核爆弾でも作って軍事国家となれば
少子高齢化も軍需景気でなくなる 万々歳ではないか。例え又戦争に負けたとしても、
今よりはいい 足枷の無い日本に変わるかもしれない。気張れがんばれ正義に走れ。
決して 公明正大な正義は捨てるな。正義の望みなら神も拾う。トランプが悪言戯言を
言うほど日本の景気は良くなるし 各国は米国から離れていく。EUが英国を捨てる様
に。


228: 名無しさんAA:17/01/07 06:53
世界市民の会のメキシコ支部は これ以上のトランプの保護主義主張が高まれば 今後
には パナマの弁護士事務所の他の3社の文書を 自由報道記者クラブに送るだろう事
を 表明した。これには今からのトランプ政権を揺るがすほどの 大富豪達の課税回避
が極めて詳細に理解できるとしている。仮に送られて検証されて発表されるとしても、
短でも一年以上かかるだろうが それでも現実に送られ発表されれば政権どころ経済も
ズタズタになるかも知れない。それは朴政権のレイムダックどころの騒ぎではないだろ
う。今回のフロリダ空港の米国国家保護特務隊員を拘束する為の射撃事件以上の事件が
多発する可能性が高い。今後のエシュロン関連事件は かなり頻発に世界を変える。


229: 名無しさんAA:17/01/08 03:48 ID:qMA
 私の番組評178

 天才バカボンの実写版がでた。期待していた様な出来上がりでまずまずだろう。が、
である。先の「こちら亀有公園前派出所」の実写版と同じく配役ミスはかなり嫌味な事
に仕上がってる。全く本編を本物を逸脱したTV局の横柄な馬鹿さはここにある。大体
イメージキャラとしてクイズやニュースの司会をやっている上田晋也にこんなキャラが
許されるはずはない。やらせる方もおかしいがやる方もどうかしている。TV局が歴史
に残るような至極の映像や爆発的人気や視聴率を取りたいと思ってない証左でもある。
腹が立つほどシリアスなイメージで「植木等」のような能天気ドラマに仕上がっていな
い事は 視聴者を腹立てさせる。もっと赤塚不二夫先生を尊敬した作りをすべきだ。そ
れこそレレレのお掃除おじさんに配役するべきだ。


ヤマト運輸に商品受け取りに行った男は チェンソーを持って押し入っている。これは
殺人準備罪であり 更にそれを持ったのみでなくエンジンをかけて威嚇している。つま
り一歩間違えて興奮したなら殺しかねない状況だ。勿論本人は殺す気はないだろう。が
逃げる店員では意志の弱い威嚇者であれば当然殺されるだろう。更に第三者から見ても
当然殺しの現場と言うしかない。精神異常でなければこういう事はないと言えるからだ
。つまりこれこそ精神鑑定して異常がなければ 殺人未遂罪を適用する事例である。そ
れが日本の正当な裁判所の在り方である。

又プリウス系の自動車が 又暴走事故である。博多の暴走事故から後も又その間に全国
では4件ほど起きている。ただ今回の事故同様に 運転者ミスかICミスかは不明であ
り いずれも警察は運転手の過失と認定して運転手のみを取り調べ対象としている。
過電流の逆流 或いは打撃電流 などの勝手なプログラム書き換えと思われるが 全く
警察はその解明に無能らしい。

230: 名無しさんAA:17/01/08 19:39
魔法使い あららとおろろ 14

 ん。何かが可笑しい トランプ発言。まず今アメリカで起こっている事は何なのだろ
うか。空港で銃撃乱射した容疑者は紛れもなくアメリカ国民である。東部ニュージャー
ジー州生まれで2歳から米領プエルトリコで育った。と伝えられる。プエリトリコは、
キューバより南でキューバ独立の頃は同じ様に独立の機運が高い地域であったがそれを
アメリカが押さえた米国メキシコ州と同じに そこの土着民族の意向は無視された地区
として存在する。歴史的にはスペイン領でインカ攻略の拠点のあった所とされ 最初の
頃の南米のキリスト教会が建てられた場所と思われている。だがキューバやコロンビア
同様にこのカリブ海特有の黒人音楽と重なった陽気なレゲイ文化的慣習の中に存在する
。「頭の中で『(過激派組織)イスラム国(IS)』に参加せよ、という声が聞こえる
」と訴え、精神科の病院で心理検査を受けていたと報道されるが 全く可笑しく思える
。2007年から軍歴があり、10年から約1年間、イラクに派兵された。無許可欠勤
を繰り返して降格され、所属するアラスカ陸軍州兵から昨年、除隊されていたというが
あり得るだろうか。エリア51をご存知だろうか。UFO出現の聖地として名高い場所
である。秘密の空軍基地が立ち入り制限して厳しく 噂の宇宙人収容地として名高い。
別にこうした超常科学を信じる訳ではないが アラスカは日本海軍が退いた以降は米国
の秘密の軍事研究所として着々とその建設をしている。ロシアとの国境の最短距離であ
る場所であり更に人の生活が狭まる極寒の地で辺境地区なので東西冷戦時代の要所とし
て築き上げている。日本の沖縄や北方四島の位置と同じである。だが本当のオカルト科
学のファンに言わせるとNO1はアラスカ地域であると言う。UFOの目撃率も高く意
味不明の軍事基地も多く存在し HAARPと言う何の為か判らない高電圧放電装置も
ある。エジソンを上回る天才とされ、交流送電方法を考案したニコラ・テスラの時代の
まま研究し「無極モーター」まで登場しているのは解るが、それでもこの異様な設備が
全く解らない。更に日本の2つの「像の鼻」とされる無線傍受装置はこのアラスカにも
ある。あのスノーデンの解読していた電波の受信アンテナである。

231: 名無しさんAA:17/01/08 19:40
魔法使い あららとおろろ 14-2

 サンティアゴ容疑者の国防総省に残る記録によれば、東部ニュージャージー州生まれ
。2歳から米領プエルトリコで育ち2007年そのまま州兵として採用された。ブッシ
ュの号令一下州兵までも派兵する事になった。2010年から約1年間イラクに派兵さ
れていたという。その後所属するアラスカ陸軍州兵に行き無許可欠勤を繰り返して降格
され、昨年除隊されていたと言う。一年間のイラク派兵で彼が変わったと知人が言って
いるらしい。11年に帰国した後、米メディアは「中央情報局(CIA)に 動画を見るよ
う強制された。」とする容疑者の発言も報じており、11月にアラスカのFBIを訪れ
た時は、「過激派組織『イスラム国』に入れとCIAに迫られた」と話し、米メディア
は「中央情報局」に動画を見るよう強制された」とする容疑者の発言は考えさせられる
捜査関係者はテロ組織に刺激を受けたと関連付けるのは時期尚早との認識を示したらし
いが容疑者は過激派に関連する動画を視聴していた形跡があった。とも伝えられる。「
幻聴が聞こえる」などと語り精神疾患の治療を受けていて、「頭の中でイスラム国に参
加せよ、という声が聞こえる」とも訴えていた。精神科の病院で心理検査を受けていた
中で。新聞は「1カ月ほど前からおかしくなった。幻覚が見えると言っていた」という
親族の声を伝えている。これは想像するにFOX映画のシナリオではないかと錯覚する
。およそこのイラク派兵は理に適わぬものだったのだろう。州兵や沿岸警備隊は軍隊組
織ではあるものの海兵隊や海外派兵の陸軍とは全く違って米国に押し寄せて来る敵を守
る物で今だ一度も合衆国の本土への空襲などない。これを911事件は本土攻撃した事
件として政府は対応し 海外派兵の準備のない州兵を送り出した。彼は のんびりした
プエリトリコの州兵に赴任したのは多分一年位しかなかったろう。訓練兵1年赴任1年
派兵に向けた訓練予備兵1年そして派兵1年といった具合だろうか。帰って来てアラス
カ行き。帰って来て一息ついた処に精神疾患が現れ出したと言った具合だろうか。が、
奇妙な事ははっきりとCIAと名指しでイスラム国動画を見るように言っている事だ。
つまり軍内部には「イラクの為に」と志願したイスラム教徒もいて、アメリカの非道理
にイスラム国に加担し 動画を進めるCIA偽名の団体がいるのだろう。そしてその動
画はこの精神疾患の患者にはかなりの効き目があって 更に患いを大きくした。と分析
される。今や世の中は人が興奮するにかなり簡単らしい。それは極めて異常社会であり
慌てるものの間違いの様に 興奮は極めて思慮を無くさせる。つまり異常者を大量生産
出来るのだ。この実験がアラスカで精力的に実験されていると 予想されるのだ。


232: 名無しさんAA:17/01/08 19:40
魔法使い あららとおろろ 14-3

 この男は アラスカ州から中西部ミネソタ州を経由して フロリダ州フォートローダ
ーデールの空港に到着。預け入れ荷物を受け取り トイレで中にしまっていた拳銃と銃
弾を取り出し装填し、受付で無言で乱射を続けた。弾がなくなると、拳銃を投げ出して
床に両手両足を広げて伏せ、駆けつけた捜査員に逮捕されたという。使用された拳銃は
合法的に機内に持ち込まれたもので、米国での銃乱射事件防止はかなり難しくある事を
示す。これが政府の実験活動の一端では恐らく事件の解明はない。この事件には奇妙な
事が幾つか表れている。一つは自殺性が無いという事だ。通常のイスラム国の事件では
殆ど狂信者的に自爆テロの如く大量殺人と自分の命とを引き換えにしている。だがこの
男は銃の装填で乱射と言えども直ぐに床に伏せて身の安全を図っている。更に荷物がも
し、昨年の除隊後すら機内に持ち込まれたとすれば 飛行機の墜落事故に見せかけた方
が最も大量な殺人が出来る。と考えれば 極めて彼は正常な考えと闘っていたと言える
。という事は二つ目の人体実験の可能性はかなり高い。戦時中のドイツの医師は喜んで
ナチスの人体実験制度に参加したが 敗戦後のそうした科学者の類が移り住んだのがこ
の米国であり 非情な実験を進めていてもおかしくはない。人殺しの兵士が大真面目に
人権問題を叫んだら兵士訓練すら出来ないと言う誤解があるからだ。実は熱い人権問題
者こそが国を守るに強い意志を持つのが解っていないからだ。三つ目はアラスカ赴任の
不思議さである。既に2017年である。州兵がどういう仕事かは解らないが2012
年には赴任している。その後4年間は暮らしているのである。確かに精神疾患があった
り暑い所が出身地ではあって 寒い所に順応出来ないとは言え 仲間もいるし休暇も又
あったろうと考えば ちゃんと退役してプエリトロリコで第二の人生を考える事も出来
そうそう銃乱射する必要性は無いだろう。更にどうしても腑に落ちないのが空港の事件
だという事が四つ目だ。ここでの乱射しなくとも空港内でカバンを受け取った時点で既
に銃は手に入れたという事は 殊更ここで人殺しする事も無いだろうと言える。又この
先刑務所で飯の種としたいなら更に殺人に理由が無くなる。


233: 名無しさんAA:17/01/08 19:41
魔法使い あららとおろろ 14-4

 こうした中にコーツ氏がこうした13ある情報機関の長として採用された。ん。何か
が可笑しい ロシアに親しい石油資本の会長が一方に起用され ロシアが今回の選挙に
情報操作して干渉したと提言をまとめたコーツ氏を一方で起用したのである。この幅の
広いトランプ内閣の陣容はいささか解りずらい。いつでも変更の出来る内閣人事ではあ
るだろうがそれでもちょっと面白すぎる。ロシアのプーチンとの仲の良さは解るが、今
後についてはかなり意味不明である。反移民・反イスラム・白人至上主義の色が濃い人
事で反オバマ主義を的に人気を集めようとしているがおよそ40%は超えず オバマの
70%を大きく下回ったままだ。ここに米国民の良識が残っていると期待できるのだが
。それでも徐々にではあるが軌道修正で対中国を明らかにしてロシアとの親和路線であ
ル事が出て来ている。「南シナ海に巨大な軍事施設を建設することに関して、われわれ
に了解を求めたかといえば、そうは思わない」と珍しく安全保障的含意のある言動を取
ったことは、トランプ氏の側近や親台派が多い議会共和党の声に応えたし 「なぜ一つ
の中国を強要されねばならないのか。」と台湾独立の機運を忍ばせている。がそうした
期待もフォードのメキシコ新工場建設をめぐり、名指し批判をして米自動車大手フォー
ド・モーターが計画が撤回され、トヨタ自動車も標的となり頓挫する可能性がなるなど
、トランプリスクが現実味を帯びて冷や水を浴びせた「保護貿易主義」を貫く気配であ
る。が 現実的にトランプはメキシコ・キューバ・カナダを一つの国民とする理想郷の
建設には程遠い意見のようだが それはあり得ない話だ。日本が陥っている朝鮮半島の
流動化現象は逆に日本はその一つの経済圏として保とうにも韓国が日本化を拒み新たな
朝鮮語を作ってしまう程馬鹿なのだ。自らが日韓併合を望んだが 日本敗戦は全く一挙
に共産党の居残りが変えてしまった形であり メキシコ民の方が遥かにまともである。
つまり片方でも敵対視しては 経済すら立ちいかないのだ。それが北朝鮮の事情であろ
う。同民族と言いながら決して融合も共有も話し合いも無い状態なのだ。これは地域の
大きな損失なのである。だがそれでも人には誇りや自意識や守るべき物が存在する。そ
して国ともなればそれは大きい。オバマの政権がどんなに正しくとも批判する者がいる
様に 今のトランプの様に理解しがたい人がいるのも現実だ。今まで業界団体に意見は
あっても個人や企業にある事は無い。世界の警官を止め世界の暴力団になったと言われ
るゆえんである。

234: 名無しさんAA:17/01/08 20:51
人間は 
     宿命に耐え
          運命と戯れ
                使命に生きる



    フルタチ 訓



235: 名無しさんAA:17/01/10 02:55 ID:qw6
魔法使い あららとおろろ 15

 選挙の途中では ワシントンのピザ店が児童買春組織の拠点になっていると陰謀論に
関連する占拠し発砲した事件があった。「民主党の大統領候補ヒラリー・クリントンの
陣営幹部がこの児童買春に加わっている。」という紛れもない出鱈目話である。だがそ
の話が大統領選挙戦の直前にソーシャルメディアを通じて広がのだ。そして、選挙後の
師走の4日には信じた男が銃を持ってこのピザ店に乱入した。又「通常のニュース」で
もトランプ発言では「もしクリントンがいなかったら」「銃を持った人が守るだろう。
」と激しく銃規制反対を支持し 暗殺を示唆する演説すらしている。他にも「これまで
厳しくトランプを批判していたローマ法王が最後にはトランプ支持を表明した」とか、
「オノ・ヨーコとヒラリー・クリントンは1970年代に性的な関係があった。」「ク
リントンはイスラム国に武器を売却した。」「クリントンの電子メール問題を追ってい
た捜査官が殺された。」「ビル・クリントンの隠し子が“父”に会おうとしている」な
どのデマが選挙の間にソーシャルメディアで大きく広がったとされる。全く不確定で、
全くの嘘や誤解を意図的に招きやすい情報が瞬時に拡散してしまうのだろう。それには
手軽な匿名性と操作性があり 安易に流す事の責任の無さが現代人にあるのだろう。だ
が合理的に考えて経済学から言ってこのトランプ旋風を始めとするEUのブレグジット
にしろ全く悲劇に近い意見だ。冷戦時代培われた平和の礎は 世界大戦以降に広がった
平和とは言わないまでも静かな中で完成された慣習法である。国の発展でも (1)計画
(2)組織 (3)統制 の3機能の構成は至って大事な要素である。そしてこの中での(1)(2)
は変化はあっても国の基幹的部分でそう簡単に変えていい物ではない。そしてこの(3)に
至って選挙による代表者と政府要人を決めるのである。これは生産手法と全く同じであ
る。そしてその中で今のIT化の流れなどの近代化や国際情勢などでその計画を決める
と言うのが民主化時代の政権の在り方であり どこかのアフリカの小さな軍事国家なら
いざ知らず 巨大国家米国が時代の一指導者で180度の方針転換などあり得ない話で
国際法である「協調の精神違」に対して違反である。こうした自国主義に陥れば 地球
と言う惑星自体或いは全人類がゲーム理論の「共有地の悲劇」を産みかね無いのだ。現
実に中国のこれまでやって来た事やっている事はこの温暖化や資源枯渇を著しく速めて
いるのが現実である。

236: 名無しさんAA:17/01/14 02:24 ID:jqI
ラ・ファン   01

 なんてこった。正しく子供の学級委員長よりも悪いトランプの記者会見である。今ま
で支持者の為の候補者だったが これからは全国民の為の大統領になる。と宣言して、
正しく舌の根が乾かぬ内に CNNの記者に「お前の組織は最低だ」「黙れ」「フェイ
ク=FAKE(偽)ニュースだ。」と大統領選後初めてとなる11日の記者会見で、手
を挙げて質問をしようとする米テレビの記者をののしり、機会を与えなかったのである
。全く落胆である。かつて中国に毛沢東と言う卑怯者がいた。戦争中には山に籠り隠れ
人々の民家を襲っては食糧を奪っていた。日本が原爆が落とされ玉音放送し敗戦宣言を
した後に「日本軍はやがて負けるであろう。」と予言したかのように言い 政府の陸軍
大臣だった周恩来に協定を持ち掛け国軍を離れた隙に 寝返って共産党軍に入ったとの
情報操作をして 政府軍を窮地に陥れて2年後に建国宣言をした。元々あった国で建国
宣言したのだ。この馬鹿な独り相撲を可能にしたのは他ならぬ大国ソ連と米国の後ろ盾
であったのだ。この時の外国人記者に対する記者会見が全く同じに気に入らない質問に
は強硬な差別と対応しない姿勢だった。そしてそうした子供じみた指導者を仰いだ人々
もやがて粛清の嵐と文化大革命と言う殺人狂時代に人民裁判と称した まやかしの判決
で速攻の公開処刑の嵐に飲み込まれ あとは自分の子供さえ口にする飢饉の絶えない地
獄の様な修羅の国になったのである。この時も人々の7割は時の政府代表「蒋介石」を
信じていたし 毛沢東でもいいとする支持者は4割も満たなかった。だがこの狂犬的な
男はアジア最大の中国を勝手に手中にした そして知識層とされる人は理由なく殺され
排除された。そして今その知的人々の層が全くない歴史も経済も技術も人間性も無い事
で注目され援助され珍腐な大国に位置し世界を混乱に落とし入れのさばっている。この
記者会見から想像するに 米国はその第二の中国と化ける事を望んでいるようだ。そも
そも名指しの批判を避けて物事の摂理を説いた。のに対して名指しで批判と自慢と欺瞞
のオンパレードとは 誰が政治家で指導者なのか解らない程だ。この子供じみた主張は
全く大統領には そぐわない。

237: 名無しさんAA:17/01/15 11:44 ID:E.A
ラ・ファン   01

 オバマ時代に戻れるとしたら オバマの空気の缶詰はバカ売れするだろう。韓国の中
で慰安婦像が設置された。これはオバマ批判を繰り返したトランプの姿によって行われ
た。所謂人権派団体と称される 共産党工作員は北朝鮮や中国の支援を受けて「日米韓
」の枠組みがうまくいくことは全く望んでいない。それどころか米国には爆弾が落ちて
日本が経済的沈む事が狙われている。これを最大の攻撃としたら 今の北にさせた各種
の核実験やミサイル発射と 日本と近寄れない韓国大統領の姿は全く理に適った現象だ
。更にトランプに応援するようにサイバー攻撃して 更に今アメリカ社会が非常識派と
常識派とに真っ二つに割れた形も全く共産党本部であるコミテルン総意の流れだろう。
これに踊らされて興奮しているトランプは全く「思う壷」の馬鹿に見えて面白すぎる。
そもそも核兵器を開発したのは米国であり「良識派国家」としての自意識が強い国家を
望んだ。それにはドイツが作っていると言う疑心暗鬼からだ。対してソ連側は猛然と共
産党の広報活動と核開発の諜報活動をして曲がりなりにも半年後には原子力の研究活動
出来る体制を整え一年後には核実験し二年後には完成させた。1945年ニューメキシ
コ州で実験成功しそのまま日本落とされた。ソ連邦での研究は公けにはされていないが
確認されているのでは1948に完成し1949年のセミパラチンスクで実験してる。
その後もイギリスでは1952年太平洋で実験しフランスは1960年アルジェリアで
行っている。その後も中国で1964年に行われたとされインド・パキスタンが続く。
そして核分裂から水爆実験と言う核融合まで走るのである。実はこの核実験と共にこの
時諜報活動つまりスパイ合戦こそが本流として 冷戦の遺物で活躍していたのだ。紛れ
もなくこれこそが国の暗殺集団だったり拉致監禁の誤魔化し集団だったり書類隠蔽書替
のインチキ広報だったりしたのだ。そしてそれが 共産主義イデオロギーと言う理念に
基づくプロパカンダの広報活動だったりする。その完成系がトランプ大統領であり韓国
の慰安婦像である。事実第8代国際連合事務総長である潘基文には、韓国人で中立性の
かけらもない国連事務総長で有名だが 今でも日本に10億円を返すべきだと言っては
 はばからない。これではISと同じ破壊主義者とされても仕方ない。


238: 名無しさんAA:17/01/16 00:25
ラ・ファン   03

 こうして 米国の顔色を見ながら行われる行為は多い。韓国政府がいかんともしがた
い様なこの慰安婦像設置も 米国の黙認によって行われて来た。シリア空爆にしても同
じで トルコが支援する自由シリア軍そしてサウジが支援するヌスラ戦線更にロシアが
支援する国軍。独立を熱望するマルクス主義組織クルディスタン労働者党通称PKKと
穏健派トルコ労働者党更に米国が支援する闘うクルドのペシュメルガなどだが 混迷に
拍車を駈ける空爆が続いていたが 米国の強きの決断を見て 一瞬にして停戦合意に至
った。無能な潘基文が退任を決めた事も要因ではあるが今後の避難民とされるEUに流
れこむ紛争被災民が止まる事は トルコにもロシアにも有意な事の筈だ。こうして米国
が紛争に加担するかと思われて止め 弱者虐めに向かい容赦ない罵倒と気炎があがれば
少女像を設置して 経済が悪くなれば日本に撤去費用を窺うと言う全く「朝鮮人風」の
気質の我儘さはトランプ同様異質な地球外の嗜好であろう。この少女像同様に日本では
校庭の隅にあった奉安箱や二宮金治郎像が無くなると言う事件が波紋を呼んでいる。奉
安箱は国歌斉唱や国旗掲揚と言う事が戦時中の習わしだった事での反発から 国家神道
の復活だと反発した靖国神社反発と同じ理由だ。金治郎像は通称金次郎像とされ二宮尊
徳の思想家精神を具現化したものだ。よく仕事をしながら勉学に励んだ努力家。勤勉家
として言われる。が実は違っている。もし立身出世の像であれば三菱の創始者たる岩崎
弥太郎像でも建立したが良いだろう。二宮がやったのは思想家としての実践である。彼
は経世済民を目指して報徳思想を唱え、報徳仕法と呼ばれる農村復興政策を指導した事
だ。江戸時代の終わりに彼の生まれ育った酒匂川の坂口の堤が決壊し東栢山一帯が濁流
に押し流されて田畑は砂礫と化したし家も流失した。その後開墾に従事して田畑は数年
で復旧したが、借財を抱えて家計は貧した。その後開墾が節税と知り他にも手掛けた。
それらが成功し他の村の開墾指導まで要請されるに至ったのだ。村人の仕事ぶりを見て
回り陰では怠けていた男を厳しく叱った。その一方で毎日地道に続けてきた老人には、
慰労金として15両もの大金を与えたという逸話があり勧善懲悪が誰でも行うべき事とし
て指導した世の中こそ 人の世であると説いたのだ。


239: 名無しさんAA:17/01/25 02:53 ID:qHc
 希望と光の間 76-1

 ドナルド・トランプ氏が20日、第45代米国大統領に就任した。「2017年1月20日
は、国民が再びこの国家の統治者になった日として記憶に残るだろう」「自らの国境を
守ることを拒否する一方で、他国家の国境を守ってきた」「アメリカが団結すれば、ア
メリカはもう誰にも止められない」など つまらない過激な発言の ヒットラーの就任
時と全く同じ 嘘で固めた演説内容となった。「我々は権力を ワシントンD.C. か
らあなた方、アメリカ国民へと返すのだ。」とまるで革命並みの宣言だが その理由は
「我々の国家の首都にいる少数集団が政府の恩恵を受ける一方で、国民はその費用を負
担してきた。ワシントンは繁栄した。しかし国民はその富の分配にあずかることはなか
った。」と宣言している。これは嘘つきそのものだ。トランプタワーは何故建ったのか
。移民は何故押し寄せるのか。トランプそのものが何故金持ちで大富豪で大統領になれ
たのか。その答えではないか。馬鹿げた話である。更に「アメリカ人の手で、アメリカ
人の労働で我々の国を再建するのだ。我々は2つのシンプルなルールに従う。アメリカ
製のものを買い、アメリカ人を雇うことだ。我々は世界の国々との友好と親善を求める
。しかしこれは、すべての国家は自国の利益を優先させる権利を持つという理解があっ
てのことである。我々は我々の生き方を誰にも無理強いするつもりはない。それよりも
むしろ、皆の習うべき手本となるべく、我々の生き方の輝かしさを示そう。我々は従来
の同盟関係を強化し、新しいものを作る。」と言う。その新しいものが ボーダーレス
社会グローバル化した製品ではなかったのか。」そして アメリカが損していると言う
お金は全てが税の回避地を通ってアメリカ人の懐に入っている。国際NGOのオックス
ファムは15日、世界で最も富裕な8人が、最も貧困な36億人分と同じ資産を所有して
いるとの推計を発表した。オックスファムは今回の報告書について、これまで反論も出
ていた統計方法が改善されたとし、貧富の差は「恐れられていたよりもずっと大きかっ
た」とコメントした。恐らくアメリカのトランプまでの富豪を集めれば 世界の80億
のやっと食べている日本人すらも含めて全世界の資産となり得る金額だろう。


240: 名無しさんAA:17/01/25 02:53
 希望と光の間 76-2

 まずトランプが言うべきは 自らの演説の間違いである。全く科学的根拠も論拠ない
ただの戯言や狂言の類でツイッターなどを行ったことを恥るべきだ。つまり自らこそが
意見の異端者である事を認めるべきなのだ。「人々は1つの心、1つの故郷、そして1
つの輝かしい運命を共有するのだ。今我々は未来だけを見ている。」と演説してるが、
それが一体何なのかは全く実情が見えない。「アメリカ第一主義。」は解る。が だが
今までそれを捨てた事はあるか。全くない自由に気ままに同盟国やEU国に英国と一緒
に勝手をやっているではないか。アメリカ第一主義を捨てた事の無い国が何をいまさら
宣言するのだ。「我々はともに、アメリカを再び強くする。我々は、アメリカを再び豊
かにする。我々は、アメリカを再び誇り高くする。我々は、アメリカを再び安全にする
。そして、そう、我々はともに、アメリカを再び偉大にする。ありがとう。諸君にそし
てアメリカに神の祝福あれ。」と結んでいる。確かに世界中から憎まれている。ののし
り罵倒さえ聞かれる。それはブッシュJrが起こした勝手な「対テロ戦争」として自分
のブッシュ家の石油利権を基にした「オサマ・ビンラディン悪党説」でアフガンイラク
を戦争に持ち込んだことだ。その時が「アメリカ合衆国への完全なる忠誠」そしてその
「我々は、我々の国に対する忠誠を通した「愛国心」だった。、「愛国主義に心を開く
とき、偏見の入る余地はない。聖書は「神の民が団結してともに生きることは、どれほ
どすばらしく喜ばしいことか」と我々に説いている。我々は心を開いて話し合い、意見
の相違について正直に議論し、しかし常に団結を追い求めなければならない。アメリカ
が団結すれば、アメリカはもう誰にも止められない。」と全くの嘘をつく。この大間違
いは心して訂正すべきである。「愛国主義こそが嘘をつく。」と更に「相違について正
直に議論し、しかし常に団結を追い求めなければならない。」とするなら何故メキシコ
移民の排斥やイスラム移民を止める事を演説したのだ。全く出鱈目のままだ。

241: 名無しさんAA:17/01/25 02:54

 希望と光の間 76-3

 まず大きな間違いはその異端者であり 根拠が無い事で次はまるで保護貿易こそがが
夢の政策などと大変な誤解している事だ。我々人類はこの地球自体の持つ 無償の愛で
人々は生かされているのである。この優しさにつけいって 破壊の元凶を作ってはいけ
ない。人も又優しく生きなければならない。というのはそれが かつての第二次大戦を
産んだ事は歴史が物語っている。更に中国は完全な保護貿易の中にある。情報公開もな
く自由な言論もない。共産党は人の行く出入国まで国内法に関係なく断ち止めし拉致拘
留は日常である。アメリカ国民もこの中国の人民の様に勝手に拉致され殺されかねない
。よく人は性善説や性悪説を持ち出しては事の本質をはぐらかす。このトランプ演説で
もアメリカが正義で他の国が悪の様な見解を示して国民をあおるが その国民の問題は
国内の違法な現状なのである。「アメリカ人の手でこの国を再建する。アメリカは再び
勝利を手にし始める。かつてないほどの勝利を。我々は職を取り戻す。我々は国境を取
り戻す。我々は豊かさを取り戻す。そして我々は夢を取り戻す。我々はこの素晴らしい
国の至る所に新しい道を、高速道路を、橋を、空港を、トンネルを、鉄道を作るだろう
。我々は国民を生活保護から抜け出させ、仕事へと戻すだろう。」と言うが一体何に負
けて今に至ったのか。諸外国ではない国民自身の今トランプを応援しているいい加減さ
が今を創ったのだろう。自分たちが勝手に与えた州法の権限で銃があり麻薬がある。更
に国民が統治者に戻すと言うが もとより国民が統治者である。その国民の意志が今ま
で以上に届かず トランプ氏が頭のいい事で税逃れするように 大変な大富豪が国や税
から離れて 政府は財源がないままで強気をいい戦争して来たのだ。更に議員達がそう
した法案を頭のいい立ち回りし権限の行使をして今を創り行き詰りをしているのだ。こ
れに静かに立ち向かいやっと国としての機能が戻ったのがオバマ政権であった。それを
今又崩そうと言うのである。世界が又憎しみの連鎖をするのにそう時間はかからない。



242: 名無しさんAA:17/01/25 02:54
 希望と光の間 76-4

 世界の中で人は生きてるだけで「性悪説」の中にいる事を知るべきだ。性悪説性善説
には色々意見はあるだろう。しかし正悪の判断は主観論であり人の判断でしかない。逆
に言えば視点で悪と善が変わる。その人に良い事が他の者に悪い事になる。がそれでも
人は絶対正義と絶対悪を見極めねばならない。それが地球的視点である。生きる為に食
を得て住まいを持つそして文化的暮らしをしては ゴミを廃棄する。これらは生きるに
仕方ない現代人の愚かさではあるが それでもその「悪い事」や自然への「負担」を少
しでも減らす努力とその為の協調的生活はやるべき責任である。その協調的かつ共存共
栄の姿は取りも直さず その習慣や民族が性善説の中の行為をやる事に他ならない。こ
の行為の善さが人の自然との適性であり品格となるものだ。トランプ発言に見るように
詰めも将来性も更に儀礼も思慮もない 短慮のままで言い放しでその為の政策も将来の
見通しも無い声明や勝手な表明には世界が混乱して憎しみ恨みを掘り起こして止まない
。そも今や自動車業界は共通の画期的技術や標準パーツの組み合わせで出来上がってい
る。つまり裾野にある下請けの生産工場や納入業者は既に常に新しい開発品の供給を起
こして新車投入する中にある。そしてその基点としての在庫モジュールの中での組み立
てこそが 安価で品質の良い更に低公害自然配慮の完成品が出来上がるのである。つま
り既に国内に於いてゴールドカラーとして定着し IT先進国としての金融還元が米国
に在る中で損をしているそして生産労働者を雇うなどと言うのはナンセンスも良い所だ
。かつての世界的戦争は 今のこのトランプの言い分と全く同一である。遠回しな国の
利益を全く無い物と扱い 直接目に見えて人々の感情に訴え欲深き権力者の下でのみの
政治構造で 植民地主義の撤廃など視野にさらさらなかったのである。今回のTPPの
撤退やFTAの見直しは これまで戦争まで仕掛け自由貿易と公平な人権と同盟国博愛
を旗印に挙げていた国が 急に反体制主張をしたのだ。まさしく違約金罰金ものである
。これが人々の道義的責任や常識的理路に於いて反感と憎しみと怒りを背負うのは当然
である。


243: 名無しさんAA:17/01/25 03:33
  要するに テロを行うイスラム原理主義集団ISなどを産んだイスラム教など要ら
ない。地球上から消え失せろ。と人類は言うべきと言うように トランプ大統領を産ん
だ共和党など要らない アメリカから消え失せろ とアメリカ国民は言うべき と言う
訳だ。


244: 名無しさんAA:17/01/27 04:37 ID:sig
 希望と光の間 76-5

 かつて日韓併合によって日本帝国の一員を成してた国が 正に自国の過去も知らずに
慰安婦像を作り 今の日本大使館前に置いた。これまでも敗戦問題は幾たびも日本は行
いその度に韓国は国民感謝なく時の政権のみが謝意を表して民主化に使ていった。実は
戦後の朴政権前から日本の戦後補償の言葉に「何も問わない。」との約束を何回もして
いた。それはその戦争の悲惨さを知る者の思慮としてのことだ。そうした戦後の国家間
の約束は10以上にも登り その最たるものとして「戦後の問題はこれで全て決着した
」として行った1965年に締結された「日韓基本条約」は条文には「完全かつ最終的
に解決されたことを確認する」と明記している。そうした条約は国と国との取り決めで
ある。次世代の者が私は知らないから無効だ。と翻せるものではないはずだ。だがこの
韓国は違うらしい。近代国家を装い自由主義を標榜しながら何度となく違法行為を行い
国がそうだから国民も盗みや放火を何とも思わないらしい。今回の対馬の仏像盗難でも
犯人はおろか仏像さえも偽の14世紀盗難として日本に帰さないと法の番人の裁判所が
こうした国際条約を平気で破るのである。人間のやる事では無い。この非人道行為は、
トランプも同じだ。かつてノルマンディー上陸作戦は人の死の上に成功を果たしている
。ここで死んだ者の中には当然アメリカ軍もいるがメキシコ人やカナダ人も数多くいる
。それはイギリスを支援した或いはヨーロッパを助けたのは連合国軍であり米軍単体で
は無かったからだ。そして第一次大戦でも同じだった。移民としてやって来たイギリス
人やその他も黒人やインディオや南米人を多く雇い入れた人を 植民地として雇用して
国家を形成していたからだ。今や着々と戦争の準備や戦争の色合いを濃くさせる この
大統領はとんでもなくアメリカに不幸をもたらすようだ。メキシコの壁に費用を出せと
言うのも恫喝でしかない。更にどうやってメキシコから費用を払わせるのかと言う問い
には一切口にしない。更に今までのテロ行為や首切りやISILに米国人が全くいなか
った様な言い草である。全く間違いだ。トランプの様な幼稚な矛盾する大統領を創った
この国民の教育水準の低さこそが テロを起こし戦争を起こしているのである。

245: 名無しさんAA:17/01/29 13:05 ID:xeY
希望と光の間 76-6

 我々は人類の一員として 一体何を学び何を成し得て来たのか。この米国の恫喝外交
や韓国の告げ口外交更に英国の気まぐれ外交は 2つも起きた世界大戦の双方の戦前の
外交スタイルそのものではないか。これを許した自由資本主義社会とは一体何を目指す
と言うのか。全く選民思想を捨てないイスラエルや半端ではない中東の恨みや憎しみに
どう解決策を見出そうというのか。成程「恫喝する外交」や「戦争を仕掛ける用意」は
誰も止められないし そうした権利があると言えばあるだろう。だがそれは人が人を殺
す権利がある。と言う主張と同じようなものだ。果たしてそうした言い訳が通用するだ
ろうか。今や 殺人犯さえも死刑を避けようと言う人権重視時代に未開地の現代社会を
知らない無学の民族の様な考え方がまかり通ると言うのはいささか解せない。これはも
う民主主義の崩壊の兆しではなく崩壊そのものだろう。普通のそうした殺人犯のような
個人的人間関係なら付き合わないとか他の者が相手にしない事で彼自身が孤独に世を去
る結果を見届けるのみで済む事だが 今回のトランプは違う。大金持ちが鼻もちならな
い人生を過ごし嘘っぱちの宣伝文句でそれを支持した人に担がれた世界一の強権国家の
大統領になったのだ。これにはアメリカ国民が馬鹿にされながら一体どう動くかの問題
であろう。アメリカは合衆国である。メキシコも又合衆国なのだ。つまり欧州がEUと
言う広域国家群の中にあるようにアメリカはかつて国々が乱立してその境界が州境界と
して残る。合衆国そのものは民主主義に根差して一つの「統一通貨」と「無税で関所の
無い人や物の通過」更に「外交的権威」を一つにした国家群として次々に合併集合して
来た。ところがこのアメリカ大陸に古来より住んでいたのはインディオ達でありインカ
はスペイン人の馬と鉄砲に破壊されアメリカは軍隊と南北戦争によって蹴散らされてこ
のメキシコに逃げ延びて住んでいた。こうした事からニューメキシコ州はアメリカに入
ったが反感を持った原住民の多い土地はそのままスペイン語主流でメキシコ合衆国を創
ったのである。この事から心あるアメリカ人はメキシコに於いて同族であり同大陸民と
して自由往来を認めた。特にキューバ革命時は米国とキューバの闘いの場所ともなった

246: 名無しさんAA:17/01/29 13:06
希望と光の間 76-7

 歴史を紐解けば このトランプの我儘第一主義が如何に危険か人を不幸にするかが解
る。実はこの解決すべき方法は全くない。それは本人の自覚の問題だからだ。今まで、
何年もかかって作られ長時間に渡って話し合いをしやっと合意をした「温暖化防止策」
や「TPP」は全く勝手な科学的根拠の無い説明で廃棄された。日本が観測した氷漬け
の中の空中成分表では数万年間も200 ppmを超えた記録はない。それが産業革命以降
、急激に増える130から230位である。それから急激に大気中の二酸化炭素は増え
減る事はない状態が続く。今年5月10日にはアメリカの海洋大気庁が「ハワイのマウ
ナロアのデータで5月9日の平均値が400ppmを超えた」という発表をした。 これま
では400と言う部分は人類の引き戻れない危険水域とされ 地球丸の沈没を予想する
科学者さえいた。恐らく今後10年以内には南極の観測隊の氷の標本まで400PPM が
含まれる大気を泡とした氷が各国の観測隊で収集されるであろう。と言われている。こ
の気候変動に関する枠組み条約は確かに今だ科学的根拠まで至っていないものの二酸化
炭素量と地球温暖化の気温上昇量が一致し更にそうした事に関連する災害が増えている
状況下にある事で何とかしようと言う人類の地球環境への大きな取り組みである。これ
を簡単にチャラにしたのだ。オバマケアにいてもオバマケアで助かった人は数多くいて
更にそうした保険適用で国の活性化が期待できる中に育ったのだがこれも却下した形だ
。全くこうした本人のリサーチ能力や分析能力のない様な偏狭な判断力をボスとするの
は全く間違えた話である。かつて「馬鹿は命令が好き」とした軍国主義時代があった。
日本でも科学者は「軍の為」に研究し「国」の為に成果を出そうとした。これは他なら
ぬ一つの疑心暗鬼に陥った人間の心理である。それは北朝鮮が核実験をしミサイルを飛
ばしながらも国際社会が何も出来ない事と同じである。全くメキシコとその南とに国境
の壁を作る事が大事なはずだが メキシコに工場を建てるな移民はもっと過酷な壁を登
れと言うのである。あの密造酒時代の様に。その上一桁違う給金の仕事を無就労白人に
させるというのだろうか。


247: 名無しさんAA:17/01/31 03:11 ID:rQM
コーナー ウエィ ホビア



 2015年に発覚した東芝 <6502> の不正会計問題で、三菱UFJ信託銀行など複数の信託
銀行が、株価下落で損失を被ったとして、東芝に損害賠償を求める訴訟を起こすことが
30日、分かった。三菱UFJ信託の請求額は10億円程度。 とのニュースが躍る
 ばかも休み休み言えといいたい。東芝は株式は発行しても株券の売買においての指導
的役割は無い。基本的に株の売買の損失や利益は市場維持をする株式市場の話である。
表向きは投資家は会計を正しいものとしての売買ではあるが それだけの理由での売買
利益で営業してはいない。株そのものがそうした上下変動のリスクのある中で 損害の
保証など聞いてあきれる話である。各自の独自の分析やリサーチがあっての購入であり
その一部が公表される会計報告である。なんら東芝に投資の強要が無い以上 市場の中
の管理基準に添った制裁で充分のはずだ。ホリエモンの時も思った事だがこの事の中身
のちゃんとした認識が無ければ 日本は自由貿易を止めよ 証券会社は証券取引を止め
よ。もともと博打の切符の媒介なのだ。言いがかりもはなはだしい事だ 銀行は真面目
に中小企業や新規事業者の投資や投資先開拓など もっと働いてまっとうな金を稼げ


248: 名無しさんAA:17/01/31 19:39
 何故英国も米国も弾劾裁判が起こらないのか。不思議な話である。まずEU離脱を問
うた国民投票は 実は嘘で固めた離脱派の広告文句と離脱の為のメリットデメリットが
全く提示されないまま起こった投票である。これは戦争がどんなに悲惨かを話さないま
ま中立地帯に侵攻したナチス党と全く同じ手法なのだ。更に議会審議もないままに国家
のみならず世界を揺るがすこの大統領令を次々に発行し 反対派の意見も聞かない耳で
サインの手を動かすというのは 全く常識外れた憲法違反も良い所だろう。そもそも、
この国の成り立ちの大義名分は曲がりなりにも「人の持つ隣人愛」によって人々は了承
している。これを壊して国を二分してまで 人の持つ我儘が通るほど地球はタフでは無
い。グローバリズムを推してきた強大なこの2つがもたらした 人種や文化の多様性や
科学技術の進展は 凡そ来て欲しくない国にも消費文化と炭素動力社会はやって来て、
この先進国に搾取されて文化を犯して来たのである。この生活するリスクの高さは誰も
必要とはしていない中で こうしたシオン狂者で進められてきたのである。もしこのま
まこの二つの国が狂ったまま進むとすれば カナダで起こったイスラム人襲撃をそその
かしたような 自らの間違えた強要政策を正当化する人が増えてしまうのであろう。
そしてそういう社会や狂人たちから逃げて来て住んだのがこの米国の地だったはずだ。
そのシンボルとして自由に女神がある。
その自由の女神の台座には、次のような碑文が刻まれている。

Give me your tired,
your poor, Your huddled masses yearning to breathe free,
The wretched refuse of your teeming shore. Send these, the homeless,
tempest-tossed to me,
I lift my lamp beside the golden door!”

Emma Lazarus, 1883

「疲れ果てし者よ、貧しさに喘ぐ者よ 我に委ねよ。自由の空気を熱望する人達よ。
 身を寄せ合い人生に揉まれ、拒まれ続ける哀れな人々よ。
 帰る祖国も住む家なく、動乱に弄ばれし人々、嵐にもまれし者 我の下に送り給え。
 我はここで希望の灯を掲げて照らそう、自由の黄金の扉を開いて。」

  エマ・ラザラス

249: 名無しさんAA:17/02/03 22:57 ID:4Z6
 魔法使い あららとおろろ 18

 世界が戦争するのに理由は要らない。言い訳が通用しないからだ。人々が悲惨な中に
勝手に放り込まれただけでよい。野望は強欲を呼びそして混乱が起きる。それだけで良
い。「お前はクビだ。」トランプの決め台詞だが トランプこそ人間を辞めるべきだ。
トランプ氏は司法省トップのイエーツ司法長官代行を解任した。イエーツ氏は難民やイ
スラム圏7カ国の出身者らの一時入国禁止を命じた大統領令を支持しないよう同省に命
じたと伝えられている。又移民税関捜査局トップのラグズデール長官代行も解任した。
理由は明らかにしていない。だがこれは今流行りの「パワーハラスメント」という現代
カースト制の意識にある。即ち権力者の暴力そのものなのだ。かつて昔欧州社会の中で
プロテスタントとカトリックが戦った時がある。文化歴史学は人類の持つ無知の暴力を
ことごとく洗い出す。社会構造学とも言えるこの文化人類学の歴史の中には 殆どが、
この格調高い儀式を利用した権力者が敵を見出した時暗黒時代の幕開けとなる。そこに
は、宗教改革と言う意識変更が伴い 非情な別次元の生きる為生き抜くための知恵とし
て暴力称賛の言葉が鼓舞される。国外に於いての戦争や紛争は 凡そ大国の私利私欲に
依って引き起こされたと言って過言ではない。それは権力者が人間としての人情希薄に
追い込まれるからだ。それはかつての植民地の流れでも良く解る。ソ連やアメリカ或い
は中国の最近の動きはとてつもなく恐ろしいものだ。プーチンは勿論習近平そして今の
トランプとこの3人に共通して言える事は頭のいい割に強硬派で頑固な事だ。彼らが若
い間は良いだろうが今や海外まで及ぼしている 意に添わない者への排除主義は欧州の
中までもが影響を及ぼしている。そしてその政府に妄信した期待で盲信した仲間内内閣
でおよそ国家との体を成していない。がそれでもその期待とそうした中の地位 或いは
妄信して将来や地球全体を考えたくない人は今や世界中の半分を占める。その中での国
家主義愛国主義は相当に地球全体の嫌悪の中にある。そうした強権的頭脳派のずる賢さ
は結局人類の墓穴を掘る事になる。そうして出来たのが核兵器なり無人兵器なのだ。つ
まり自分が使うにはかなりの力だろうが 同時に人が使うにどうしても止めれられない
物であり 次世代に困った社会を作っては翻弄させてしまい世界を破滅に追い込むのだ
 


250: 名無しさんAA:17/02/05 22:35 ID:sR.
沖縄の暴行事件は 県知事がちゃんとした行政をしないからに他ならない。
行政管理の不十分さが こうした教育退廃を産み そこに輪をかけたPTA
が出て来ては 勝手な学校と言う公共物の無断使用を行い 大川の様な少年
の死や事件が起きる すべてが県や市の対応の悪さや行政の無責任さが人を
殺している。

251: 名無しさんAA:17/02/10 16:41 ID:0Hg
 ラ・ファン   11

 この世界的不平等社会と中国政策とは全く同じ罠の中にいる。違いと言えば、アジア
最大の共産国として清王朝を模った醜い漢民族が広い領土を支配している事だ。ロシア
でも欧州でもアメリカでも 自らが広めて来たこの自由化と、自らの権力の基盤である
国としての支配地の領土境界や支配部分の取り決めが 今トランプ発言で明確にする事
が必要となった。基本的に自由化を大胆に強権力で進めて来た国は歴史的に英国と米国
である事は誰もが認める所だろう。ロシアがクリミアを攻めて領土にした事は北方四島
国家運営の戦略上の必要な土地と考えたからだろうが それはトランプの移民排除と同
じ知恵の無い欺瞞であろう。実は人と人は喧嘩も出来るが仲良くもできる。この事の中
で持ち物としての権利の規定を決めたのが共産国家と自由国家で大きく違う。共産国家
群では多くは権力者の持ち物として振り分ける権限さえ持つのに比べ 自由国家群では
どんな権力者でも民衆の下にある。従ってトランプ発言でも東京の市場移転問題でも、
大きくTV報道は間違っている。つまり東京都知事は決して都政の代表者ではあっても
責任者ではない。この間違った契約執行や汚染物質除去には議会が責任を負う物なのだ
。更にトランプの合衆国出入りに対する規制そのものは国の方針だから問題はない事だ
。だがそれが議会決定を排して大統領令で行っている。このプロセスは第二次世界大戦
の日米開戦と全く同じだ。ブッシュ時代の様に国の執行の名の下で 戦争や人殺しも全
く自由である。としたのなら法の番人や裁判所などは全く必要ない。無秩序を煽り危険
の名の下でどんな事も可能という事は 非人道では済まない餓鬼畜生の地獄絵図の世界
の話である。これが悪魔の所業として宗教がこの公認する「法による行動制限」と「社
会の秩序」と言う生活技術を与えたのである。そしてそれが平和をもたらし人を安穏な
生活を与え技術を高めて行くのである。その上で経済学者のジョン・ウィリアムソンが

252: 名無しさんAA:17/02/10 16:42
。このプロセスは第二次世界大戦
の日米開戦と全く同じだ。ブッシュ時代の様に国の執行の名の下で 戦争や人殺しも全
く自由である。としたのなら法の番人や裁判所などは全く必要ない。無秩序を煽り危険
の名の下でどんな事も可能という事は 非人道では済まない餓鬼畜生の地獄絵図の世界
の話である。これが悪魔の所業として宗教がこの公認する「法による行動制限」と「社
会の秩序」と言う生活技術を与えたのである。そしてそれが平和をもたらし人を安穏な
生活を与え技術を高めて行くのである。その上で経済学者のジョン・ウィリアムソンが
だした経済コンセプトが 経済生活に於いてのワシントン・コンセンサスと言う先人の
持った先進国像の出現である。ブレトンウッズの通貨体制を捨てた時 欧米各国は 1.
財政赤字の是正 2.補助金カットなど財政支出の変更 3.税制改革 4.金利の自由化 
5.競争力ある為替レート 6.貿易の自由化 7.直接投資の受け入れ促進 8.国営企業の
民営化 9.規制緩和 10.所有権法の確立 11.金融自由化 12.短期資本移動の自由化 
を まるで内政干渉するように求めて来た。この事で国際社会は国連やIMF金融社会
は国を指導して来たし それが割に合わない国家改造であっても日本の様な小国家も又
認めて行ってきたのである。これが英国のEU離脱とトランプ発言で国際経済の列車は
大きく脱線し事故を起こした形になったのだ。


253: 名無しさんAA:17/02/10 23:51
ラ・ファン   10

 今やIOT時代は来ているようだ。伝自動時代である。全自動とは違うのは通信手段
に於いて 自動化してるからだ。物のインターネット時代とされるIOTは遠隔操作に
よる機械のコントロールや情報取得と自動化を行う。トランプ新政権は就任以来TPP
離脱を初め矢継ぎ早に大統領令を連発している。国境の恥の壁建設やパイプライン建設
オバマケアの廃止や中絶禁止などだが中でも海外の中東諸国の入国禁止令は流石に反対
が多く今や世界的事件としての報道である。そしてその度にツイッター上の囁きが語ら
ては物議をかもしている。このツイッター現象も又この電脳社会の現れだろう。だが一
つだけこのトランプが人類に警告した事は当たっている。それは この進化する社会の
責任の在り方や誰が責任を取るのかの行方である。図らずもオバマ政策の後を引き継が
ない形での大統領に座った形である。そしてグローバル化の社会には一石を投じた形を
創った事だ。勿論それは選挙公約であったが為ではあったろうし 彼が誤認識の為の物
であろう。だが彼がどんなにオバマの様に沈着冷静に正確な分析をして観ていたとして
も、恐らくこうした事が今後の世界が混沌とした世界を創るであろうことは間違いない
話である。例えば対メキシコ政策は国境の壁建設だが これは別に今更の話ではない。
ブッシュ時代に無かった中立国境に壁が出来たのは 麻薬戦争に明け暮れた為に起こっ
た事でそんなに目新しい政策ではない。更に安い労働賃金にメキシコに新工場が出来る
事はタックスヘブン同様に企業利益の追求なのだが この追求は止める事は出来ない。
利益拡充は低価格競争にも高品質競争にも新技術投入にも市場拡大にも不可欠な要素だ
からだ。又メキシコ側からすれば更に深刻だ。工場を新設し国民に仕事を与え就労させ
る事は大事な事だ。先進国の米国内以上に大きな課題であり その上にこの貧民達が山
を越えて町で出稼ぎに行くことが 勝手に決められた国境線によって不法移民とされて
稼ぎにいけなくなるのだ。中国の関所政策みたいなものだ。そしてトランプに対中政策
も又この迷路の中にいる。



254: 名無しさんAA:17/02/11 01:58
  喝!

 人を活かしてこそ人の道 人を育ててこそ人の一生
 何故に 人を助けぬ 何故に人を見殺しにする
 人を敵対し人を殺さねば生きれぬというそんな時代でもあるまいに
 魑魅魍魎でもあるまいに 飢饉飢餓でもあるまいに
 何故に兵士が必要か 何故に移民に敵対す
 哀れな祀ろわぬ人々よ 神を信じよ 神は君にいる
 神を恐れよ 神はお前自身にいる
 お前が神ではない
 お前の良心が神なのだ


255: 名無しさんAA:17/02/18 18:35 ID:C8g
 魔法使い あららとおろろ 19

 トランプ政権発足で混乱する国際社会の中で 北朝鮮長男の正男が殺害された。人は
神様では無い。従ってどうしても弱い所や悪い所があって 過去に間違いがあった歴史
を作る。それは人の人生でも国家でも同じだ。だから人はそれを補い合い支え合い色々
励まし合って生きて行くのが普通だ。が である。中にはそうした相互扶助を違反とし
犯罪とする国がある。中国社会の大国の中で培われた文化には強権役人の下では卑屈に
も生きる知恵として「溺れるサルには頭を叩け」と言う教えを受け継いでいる。今回、
金正男が殺されその犯人が北朝鮮の金政権の指令での暗殺であった事は確かだろう。5
年前から彼には帰国命令と共にそれに従わなかった違反が付きまとっていた。かつての
金日成でも金正日でも政権移行時には親族の暗殺は行われている。だがそれは政権争い
でありこれほど政治から離れていながら暗殺される事は無かった。つまり北朝鮮は末代
になるほど残酷になっている。という事になる。更に今や北朝鮮に人道支援行為すらも
少ない。そしてここに来て2つの事情が重なった。一つはミサイル開発が順調に行き、
中国指導部も喜んでいる事だ。つまり今や多段式移動型ミサイルが成功し この成果は
中国を除いた近隣諸国をかなり深刻な悩みの淵に追い込んだ。今回の実験成功には各国
は非常に驚いている。これまでの矢継ぎ早に放たれたミサイルは精度はおろか燃料供給
すら実戦には使えない代物だった。それがいつの間にか多段階発射の固体燃料式に切り
替わり 車両は悪路走行や水平維持も出来る無限軌道車つまりキャタピラーに変化し、
かなりの安定した超高度飛翔体に切り替わっていたからだ。これには中国の科学者達の
指導が良く効いていると思われる。この発見しにくく更に核弾頭まで詰めて精度の高い
ミサイルには先制攻撃しか手が出ないが現状であろう。これによって北朝鮮は更に各国
から悪者退治の標的化を強めた形である。2つ目はならず者国家と認定し更に解除した
馬鹿なブッシュから動けなかったオバマに代わり今回物言うトランプ政権に変わった事
だ。2つの中国を認めた事には減成りしたがそれでも北朝鮮からすれば戦争し現政府が
破壊された時新北朝鮮国の亡命政府として担ぎ出され収拾がつけばこうした身内には、
戦々恐々の中にある。更にこの空港での殺人事件は全く同じ様に似た顔の一般人が2人
づれの女に殺され 当時の女は全く同じに悪ふざけと称し男に操られたと証言し国外追
放を受けた。どこの国の空港だったかは忘れたが 多分に殺人請負女子である。


256: 名無しさんAA:17/02/19 00:54
 ラ・ファン   13

 この国際化の波の中で日本企業の本力が試されている。自衛隊しかり電気業界しかり
電器業界しかりである。三洋電機に続きシャープも身売りした。東芝も今苦境に立たさ
れている。日本政府が日本人を奴隷化している様にさえ見える数々の政策は全く不甲斐
ない限りだ。東芝も同じ原子力に取り組むのであれば 今の蒸気発電タービンなど捨て
て温度差による直接発電する低温型原子力発電を開発すべきで 米国の負債隠れを指摘
されながらもウエスチングハウス社を高く買ったのは全く馬鹿げた経営者を登場させた
ものだ。と批判されても仕方無いだろう。大体日本の経営者は総じて我欲が強く経営欲
が無さすぎだ。夢を負い世界の平和への技術の礎とならんとすれば もう少し気合い入
れて日本の為の事をすべきで利益やシェアや競合他社の追い抜きだけでは日本は良くな
らない。もし私が東芝の経営者なら旧態依然とした原子力の研究はしない。放射能廃棄
物対策の画期的な方策が無い限り放射能が無くなるまで発電させる道を開く方がよっぽ
どいいのだ。更に今の英和辞書位のコンピューターをメモリーで記憶させれば小さな物
が必要な現場には重宝されるはずだ。又金があれば西サハラからアルジェリアに向かい
トンネル事業を行う。これはそこに山脈があるからだだが 砂漠が水が無いというのは
である。砂漠そのものは昼夜の温度差で水滴が出来それが凍り付いて岩を割り風が石を
削るから砂漠になるのだ。だからこそその水の集まる所がオアシスとして点在するのだ
。今の日本の技術であれば完全機械化シールドのトンネルが掘れるしその上コンクリ―
ト製品を自動ロボットで完全円形の作中トンネルが造れるのである。これによってもし
レールでもつければ地下鉄すら出来るのだ。つまり鉱石を取り労働を提供し水を売る事
が出来その後に鉄道機関すら提供できるのである。もし日本語教育し仏教徒にすれば、
難民救済すらできるのである。こうした事でも発案しない限り日本は生き残れないのだ
。米国の後を追いウガンダなどで自衛隊派遣に危険を伴わせる事よりは新しい発想での
外交が必要だしそれらを企業が提供しなければならない。今や温度差による直接発電体
は出来上がっている。つまり海水温と太陽光などの循環水流との温度差だけでいいのだ
。すると高温でなくても良く大きな放射能もない。太陽光調整の鏡面による温度管理だ
けでほぼ永久的に発電する。問題はどこまで集合化して続けさせるかである。そうなれ
ば今の太陽光発電よりは安定供給となるのである。


257: 名無しさんAA:17/03/01 16:24 ID:NG6
 ラ・ファン   14

 恐らく今日本で住宅を新築するなどと言うのは全く馬鹿げた話であろう。今少子高齢
化で年間800万戸が空き家になっている。そして僅か100万戸が建てられているが
それでもその半数は公共施設や融資施設などである。もともと「家は百年土木は二百年
」と言う相場の世界で百年持たない家は家でなく維持を放置して二百年もせず都市開発
するのは日本ぐらいだろう。それだけ無駄な浪費を行って経済活動をしているという事
であろう。そしてこの間違った政治が起こした負債は今後の将来を担う子供が背負う。
何とも卑屈で痛ましい論理だが「物は過去から金は未来から信用は生き方から」の格言
通りの流れで自然の法則ある。科学者によるとやっと人は進化を止める段階まで来たの
ではないか。と言う。何の事だろうと思ったら、有史以来これまで社会は道具を見つけ
作り出し余裕を作る為にどんどんと発展したがどうだろうか。と問う。これまでどんな
資本論とどんな消費をみても 片づけに対する技術は進化して来なかった。それは経済
的利益が伴わない理由からだが 今後やっとその事が出来るだろうから安心だ。と言う
。原子力しかり石油動力機関しかり人工衛星しかり 全くリサイクルはおろか片づけや
回収すらできないでいる。かその消費のツケを片づける或いはりサイクルするとしたら
需要はたくさんあるはずだ。問題はこの作業に御利益はあっても利潤や経済的利益はな
い事だろう。だがそれは真実ではない。大局的に見て中国の現状はそうした処理のツケ
を公害や毒入食品或いはゴミの集積などが溢れている。無人化した廃墟化するビル群や
赤字の開発都市なども これらは未来の地獄絵図に他ならない。日本でも原子力発電の
炉心溶融はかなりの問題だ。これが普通の廃炉であれば当然の計画作業が出来るのだろ
う。日本はそうそう進んだ技術水準にはない。だが先端技術の王道のど真ん中にいる。
一方中国の様な公害や言論弾圧や非人道な労働刑務所による思想改造などが行われてい
ながら発達する奇妙な大国はその異様さだけでも大きな最先端にある。先進国に流入し
移民する中国人が今やアメリカにイギリスに大挙している。日本の様な法治国家になっ
て彼らが安心して帰国するだけで一躍先進国家の経済大国のトップになり得るのである

258: 名無しさんAA:17/03/01 16:26
 ラ・ファン   15

 逆に言えば 成熟し少子高齢化した日本が大きくなるには 植民地主義時代の英国の
様に海外で活躍する人材がどれだけいるかが鍵になる。かつて日本は逆に人が多くなり
移民政策を取ったが 実は逆に本来は人が少なくなるから移民政策をとる事が正しいよ
うだ。事実米国英国その他の先進国欧州は殆どが覇権国として海外永住者がいる事で、
戦後世界を牛耳ってきたようだ。つまり国の大きさは決して領土や先端技術でもなく、
人の多さである事を示している。戦後の日本でも帰還してくる兵やその後のベビーブー
ムでの人口の多さが日本を大きくしたし 今の欧州も脅威となっているのは中東人口の
多さであり 中国やロシアやアメリカの発展はその人の多さや多様さは国を活性化させ
ている。今や米国は好景気時代に入ったのだが それでもその理由は中南米の移住者の
多さが起因している。今の株高の多くはは中東での戦争からの脱却の希望からだが 今
のままのシナリオでは現株式高はあまりにも先行し高止まりの感がある。そろそろこの
シリア内戦も終局になろうが それでも再建される国家運営は更にテロの脅威がある事
を考えれば異常な高さであろう。トランブが盛んに昔の夢に戻ろうとした政策を打ち出
しているが 無理な話である。戦争は無くなってもキリスト教信者もイスラム教信者も
宗教を信じる限りは戦争は終わらない。それだけ人が弱いと言う理由からだ。

259: 名無しさんAA:17/03/01 16:27
多さが起因している。今の株高の多くはは中東での戦争からの脱却の希望からだが 今
のままのシナリオでは現株式高はあまりにも先行し高止まりの感がある。そろそろこの
シリア内戦も終局になろうが それでも再建される国家運営は更にテロの脅威がある事
を考えれば異常な高さであろう。トランブが盛んに昔の夢に戻ろうとした政策を打ち出
しているが 無理な話である。戦争は無くなってもキリスト教信者もイスラム教信者も
宗教を信じる限りは戦争は終わらない。それだけ人が弱いと言う理由からだ。人と機械
のAI知能の違いは3つあるとされる。一つは進化して来た過程で出来た経験が捨てら
れない。と言う生物としての宿命である。2つ目は少なからず感情に左右された人間性
の間違いや錯覚による突然の行為を必然的に犯す事だ。窮鼠牙を剥くと言うように弱い
からと言って戦わないわけでもなく人が良いからと言って殺人者にならない訳では無い
更に3つ目はどんなに精巧にしても同じアタッチメントが無いという事だ。どんな長生
きしても身体異常は起こる。死は訪れるのである。この三つは機械には出来ないと言う
より人間の弱さと愚かさだろう。機械ならすぐに進化が出来るし生命体では無い以上壊
れたら新しい部品に替えれる。もっとも今の進化の速さでは、そうした代替品すら無い
時があるが それでも加工品であり組み立てされたものだ。機械は知能も大きく変わり
新たな機能で数段早くなる事も可能だが人は違う。赤ちゃんは赤ちゃんだし原始時代か
ら弱くはなっても進化はしない。過去の原始人と今の現代人と比べてもどちらが知能が
高いかを比べても 不明と言うよりは認知機能や生存機能では何もなかった時でも生活
し自然と共に溶け込んで生活しているだけで凄い知能である。つまり種類が違うだけで
そう違わない。今現代社会は「闘争心」と言われる物をどう扱うかが問われる。憎しみ
恨みなどは日本でこそ邪心で「悪」とされるが、まだまだ西洋や中国ではそれこそが生
きる為の正義であり 人の「欲」こそ全てであると言う間違いがまかり通る中にある。
これが今の地球混乱の拍車をかけ元凶であるのは間違いがない事実であろう。


260: 名無しさんAA:17/03/02 03:30
 魔法使い あららとおろろ 23

 この至っては冷酷非情にある正恩の北朝鮮には四つほどの理由がある。一つは朝鮮人
特有のいい加減さである。かつて朝鮮人社会は穴倉に糞尿と共に暮らしていた。それは
寒さと風の為に 植物の無い中では冬場は仕方なく腐敗熱によって暖をえていたからだ
。国外からの人からは非難や揶揄が起こっただろうがモンゴルの遊牧民では家畜の糞が
立派な燃料だし日本でも江戸時代を始め昭和の時まで糞尿の植物肥料としての価値は金
を払って買っていた経緯がある。なにも可笑しな事でも恥じる文化でもない人の知恵で
ある。又中国人も同じに非情である。中国人とひとくくりに言っても米国人と同じほど
国籍のみの人種で民族的文化的統一性は無い。強いて言えば三国志時代の様な三っつの
地域に大まかな所分かれその外延部にウイグル系モンゴル系朝鮮系ベトナム系タイ・カ
ンボジア系ブータ・チベット系が暮らすと言う他民族国家をそうした優しかった民族に
ずかずかと共産党員が最新武器を持って指導部に居座った形の国家でありそうした理由
で歴史的にも人々は戦乱に明け暮れ今を生き今を守る事で生き抜いていて凡そ明日の事
や開発して未来になどと言う哲学は無い。今を取り無ければ盗むと言う生き方なのだ。
今やグローバル化しホンハイが日本を食い尽くそうと来ている。シャープがホンハイに
役員会の指導で売ったがこれは財政法から言って違法である。資産価値に中国の無限に
発行される偽札まがいの通貨をして資本と言うのであれば 日本は三重苦の経済を背負
う。まずこの価値の無い通貨に対して日本の中央銀行は同じ通貨価値を用意しなければ
ならないからだ。つまりトランプのジョーカーを引いたシャープを援護するしかないの
である。更に今度は今まで積みあがった努力や技術や労働力は資本のみならず乗っ取り
されたに等しい事でこれでこの社員は日産以上に奴隷化されそれを進める論理に飲まれ
他の周辺集団も又同じ奴隷化を堂々と叫ぶのだ。そして三っつめはこの企業の財政が全
く隔離されているのだ。日産を買ったルノーと同じに巨大な資本があるだけで後は銀行
ないし国家が後ろ盾で資金援助しているだけで利益や福祉や税制に寄与していない。つ
まりホリエモンが行っていた上場と企業買収とその経営規模のみで彼は逮捕されたのだ
。ならばホンハイもっと大きく大陸従業員を痛めつけ福祉や税制や証券上場企業として
の資格は持ってない。にも関わらずシャープ役員会はその購売を許可している。これは
違法そのものではないか。もっと日本の経済産業省のお役人も法律を知り物品販売業の
認可取り消しを含んで指導すべきだったのだ。


261: 名無しさんAA:17/03/03 10:20 ID:WWQ
 魔法使い あららとおろろ 24

 「試作車3両を解体 札幌市のJR苗穂工場」との記事が躍った。JR北海道が開発
を中止した新型特急用ディーゼル車「285系」の試作車3両の解体作業が、札幌市東区の
JR苗穂工場で行われている。解体後はスクラップとして業者に売却される予定だ。

要するに2006年に285系の開発に着手した高速走行車両の試作車を廃棄する。と
同時に今後の開発を止めるというのである。高速走行を可能にするため、車体を従来よ
り深く傾けられる装置を装着。燃費性能の向上に向け、ディーゼルエンジンとモーター
を組み合わせた駆動方式を採用するなど世界初の技術で、カーブでも直線と同様に最高
時速140キロで走行できることを狙った。とされる。
 ただ、JRは11年の石勝線の特急列車脱線炎上事故などを受け、速度よりも安全対策
を優先させる方針に転換、既に14年に開発を中止していた。検査車両としての活用も
検討したが、高額の改造費が壁となり断念。開発費約25億円が投じられた次世代新型
車両は、営業運転することなく解体の末路をたどった。と報道された。これは国民にと
って許されない行為のはずで あの大阪幼稚園問題なぞはさっさと閉園させて理事長の
首を挿げ替えればいい話で 国会議員なら 25億かけた新型車両のこうした事を議題
にすべきである。
 まず開発費25億円は安すぎるし これが今後の開発費の捻出されない事がネックと
されれば仕方ない。がそこで突然廃棄され解体されるというのは どうしても解せない
北海道の線路整備は至って順調ではない。常に労力不足と資金不足の中にいる。が安全
重視して廃棄とは今まで安全を重視していなかったのか。と言わざるを得ない。線路の
敷設や保全には今やオーストラリアやカナダなどはオール機械化したレール敷きを採用
し一日や二日で一区間のレール替えをやっていると聞く。日本にもそうした大型化した
敷設車両があってもいいはずで 北海道なら日立や東芝などの協力でまずは雪の中の線
路の保全や敷き替えや安全の車両が必要の筈だ。別にカーブを増やす必要はなく新幹線
並みの敷地確保を行えば充分この車両は必要の筈だ


262: 名無しさんAA:17/03/03 19:38
 ラ・ファン   16

 馬鹿げた話が横行している。まず安倍首相は辞めるべきだ。総理夫人の行為がどんな
に私的行為であっても公人としての素行が求められ 総理同様に政府からの給料が無い
物であっても公人である。つまりこの国の憲法では今だ家長制を維持し天皇を象徴とし
ている以上は公人としての扱いは当然でありファーストレディである事は事実なのだ。
これを公人と言わねば一体何をして公人というのだ。国から給料をもらえばそれは公人
でなく公務員なのだ。公人とは広く一般に知れ渡った地位にある人であり、スターすら
公人なのだ。更に大阪の議員が 籠池側に有利に働きかけをしそれが憲法違反に当たら
ないのは大きな間違いである。有利になる以上公平を欠き この公平を欠いた行動は違
法そのものであり、それは献金如何に関わらず国会地方問わず議員法に違反する行為だ
。更に言えば国会で大学に派遣された文部省役員が法に問われたが これなどはお粗末
で地方公務員共に天下り斡旋禁止法違反で地方公務員でも組合や協議会などに派遣され
ているが殆ど違法である。これを自治省は全く規制も摘発もしていない。つまり その
活動実態の把握や警察の躊躇ない捜査は全く行われていないのだ。これが虐めに繋がっ
ている事は明らかで全く仕事をしていないのである。築地市場の移転については石原氏
が言うのは当然の帰結である。ニュース報道に「合意の捏造」と言う言葉があるが本当
に日本はニュースを伝えずゴシップを伝えて 視聴者を馬鹿にしている。この移転問題
はかつて昔から存在し 右に左に揺れて今に至っている。だがその報道はしている筈な
のに至って正確にニュースとしている放送局はNHKを始め どこも無い嘆かわしい物
のである。飛鳥氏の麻薬で世界は全く変わらないが一大事件の如く取り扱われ 市場の
移転は東京の姿や食卓が変貌するはずなのに 全く都知事の主張のみがあてがわれたの
みの放送なのだ。全く議会や政府などどうでもよく 真実とその行き先が問題である事
の認識が足りない。それが今のTV局や新聞社のくだらなさなのだろう。視聴者はその
馬鹿げた一部の大衆受けの刺激的ものに固執する編集に呆れて 離れて行くのだ。現実
的ジャーナリズムは 反対や賛成などよりも より真実の姿に感銘する現実がある事。
なのだ。

263: 名無しさんAA:17/03/04 09:34
 ラ・ファン   17

 今後世界的縮小経済は避けらられない方向のようだ。ニュースオタクとしては全体的
なグローバーリズムの反動での世界的ナショナリズムが到来し どうも良くないようだ
。又先進各国は既に 家も食料も備品もあり余り電気に至っては原子力に頼れば後世に
廃棄物を残すと言う責任はあるものの車の排気ガス同様小さく使う分には安定が得られ
る。それは財政でも同じで今の日本の様な馬鹿な出費をしない限りは国家機能は残せる
。逆にそうした小さな財政基盤でも国は維持できるからこそ北朝鮮は滅びないのである
。中国政府は米韓の進める高高度防衛ミサイルシステムの配備に極端に反対している。
報道官曰く「隣国が嫌がる事や脅威或いは紛争になる事は、道徳的常識的にしてはいけ
ないものだ。」と言う中 一方では尖閣諸島を覆い尽くす漁船を派遣し 連絡通報のな
い自国艦隊を宮古島沖を通過させ 更には他国領の南沙諸島の島々を着々と軍用地の島
として整備続けているのである。そうした動きはトランプの保護貿易主義と同じに人類
にとっては大きな障壁となるであろう。経済が安定期になる中で人は動き回る理由が無
くなるの当然である。つまり人が生活する上で衣食住が充分にある中では 悲惨なのは
権力者の横暴による格差社会の構築とその動きに合わせた人の悲劇である。これにNO
を突き付けているのが今の現状だろう。日本における税制も同じで物流が動く事が良い
事では無いが それで寒村を維持して来た鉄道が今や車の発達で廃線となろうとしてい
る。個人の持つ維持管理には限度があるし経済的困難もある。にも関わらず集団での公
的な物を共有しての維持管理が社会を作っていても今や経済収益が無い状態で維持出来
ない為に村でのゼロサム社会が築けず新しい発展の為の研究開発や改良進展が出来ない
のだ。これが少子高齢化と共に会社倒産を増やしている。基本的に進化とは日々の生活
のゆとりである。だが集団はそのゆとりを取り上げる。日本の税制も同じに下がるべき
を国会はジャンジャンと理由も無く国債で湯水のごとく使う。この為の苦労は議員には
やって来ない。庶民のみにしか来ないのだ。国会みても解るように法的辻褄も今無いま
ま新法を成立させている。これでは海外からの偽札送金で日本の殆どの企業が買われ、
土地の持ち主は中国人のものとなるであろう。その点北朝鮮は開発者を中国から呼んで
自国のミサイルを飛ばし いつでもだれでも殺せると言う衝撃的暗殺者群を持って恐怖
政治で国を動かしている。全体主義か個々の自由主義か これは今後の人類の壁である


264: 名無しさんAA:17/03/08 03:41
桐崎栄二の自宅の住所&本名


〒924-0855 石川県白山市水島町7
高畠崚


皆、桐崎の家に素敵なプレゼントを送るんだ!!
ただし、嫌な気持ちになるような物は送るなよ。

267: 名無しさんAA:17/03/10 20:22 ID:SB6
会社辞めました。 

で スレッドもITもこの際離れるかも知れません あしからず

追記

 お金くれ〜〜 失業保健が3ヵ月先だと 辞める前に病院行きましかだと
 3ヶ月も無銭で どうやって食うていけるねん
 うるせ〜〜 体が具合がわるいんだ。〜〜〜〜虫刺され以来〜〜〜正男だって
 皮膚についただけで死んだんだろう。俺は毒虫に刺されたんじゃばかやろう。

 寄付金募る 090ー4513ー7404




268: 名無しさんAA:17/03/11 08:13
希望と光の間 77

 近頃どうもおかしい報道ばかりである。まず「瑞穂の國記念小學院」問題なのだが、
報道機関が自らの無知で捏造している部分がかなりある。それは官僚や議員が全く馬鹿
のような発言をしているからだ。安倍首相は「私は公人でありますが、妻は私人なんで
すよ。」と発言したがこれはとんでもない間違いだ。それは「瑞穂の國記念小學院」の
公用地と言う位置もある。この地が公有地であったのは池だったからで、勝手に国が売
れる場所ではない。本来国有地化していても 地域と保全の為にその池がある事から、
人々は管理所属を公有地として国に任せているに過ぎない。つまり今の官僚にこの保全
や管理に義務違反が生じて都市計画があまりにもむごい様相で宅地化しているにすぎず
ここが論点のはずだがそれが土地の売却についての安売り理由を盛んに報道している。
その経過説明がゴミ堆積の理由が判らないまま査定した事も理由であろう。埋めたゴミ
か漂着したゴミかで容量は違う。そこを一定の基準で支払いするなら仕方ない清算だっ
たはずだがその管理が金銭問題に終始している。又公有地=国有地とした考え方は全く
常識はずれである。それが公人=公務員としてる誤りでもある。既に裁判結果は一定以
上の影響を与える者は公人であるとの見解を示している。この事から芸能人というTV
に映り人に影響を与える者や私大で学生に教え教師をするものも公務員でなくとも公人
に推定されている。又普通の人でもある程度の高度な秘匿権のある公的仕事は労働時間
では私人でも公務とされるのだ。従って塚本幼稚園で講演し、籠池泰典理事長の教育方
針を称賛するなど、積極的に「広告塔」の役割を担っていた行為は 確実にファースト
レディとしての知名度での出演で公務であり影響を与える公人なのだ。更に長靴での退
任になった大臣はそんなに退任させるほど言葉だろうか。勿論被災地でのおんぶは批判
される事だが長靴を用意してなかった事は批判されるが だれか代わって履かせるとか
道板でも置いて通行されるとかの配慮が現場ではなかったのだろうか。その間待つ位の
余裕もない大事な大臣なら 尚更こんな言葉で首を切るぐらいの軽い椅子の必要のない
トップだったと言う事だろうか。どうも東京感覚は解らない。あの悪評高きコンビニも
同じだ。利便性の高い近くの商店を潰しておいて利潤が上がらないと次々と店舗を変え
る。便利なスーパーと利便性の高い各店に店員のいる商店街では一体人は価格だけで選
んでいいのか。馬鹿げた話である。



269: 名無しさんAA:17/03/11 08:14
 そもそも銀行は何故リスクの高い商店に貸し出さないのか。それは商店に提案と営業
指導して再建させるパートナーになっていないからである。そこで預ければ金利が出る
日本銀行と言う金庫にそのまましまっているのだ。これは銀行の姿ではない。この実態
をしれば黒田総裁も解っている筈だ。公共事業を行えば行うほど民業圧迫にして町の衰
退が大きくなる事を。それは農協の姿と同じである。何にでも手を出し高い価格で割り
付け今だに日本原産の種子銀行も備えず 各地の農協長肥しに精出しているのである。
それは市町村長と一緒になって議員給与が高くおかしいのだ。そうした人件費増で更に
役所内をパートなどの専業化していない人間に個人情報を閲覧させ公務をさせている事
から経費削減しているのは不法である。もっと言えば公務員は別職を認めていない。が
それでも勝手な下請けの公社にそれらの天下りさせている。全く文部科学省どころでは
ない。つまり今や行政も議員も高価な給与である。それを更に物価上昇と共に上げよう
と画策しているに過ぎない。このインフラ投資にしろ自治体の人的公共投資にしろ既に
おかしな場所に来ていて飽和のはずだが 今だ保育園が足らず介護施設が足りないと言
うのだ。これは格差社会の産んだ歪でしかない。つまり今や家電自動車建設土木も全て
国際化の波にさらされて内部保留金を貯めなければ いつハゲタカファンドに攻められ
るか解らない危機の中に居るのである。が本来なら国際化に合わせアフリカなり米国な
り東南アジアなりで大きく建設業界共々出て行き大きく受注して日本に金を落とさねば
おかしいのである。東芝が原子力で病んだように 殆どの企業が中国大陸で病んでしま
ったのはこの馬鹿な銀行のせいである。全く分析力の無いまま投資しないままで合併を
して小さくなったのだ。そうした地獄の釜の中にホオリ投げた形で銀行やら行政がある
。そして学校法人「森友学園」の籠池泰典理事長問題が出て来ている。森友学園の開校
に「異例のスピードで開校に向かっている。議員の関与がなかったか。」と言う解説に
おかしな事を可笑しいと言わない体質を見る。国が協議で単価をまける事はおかしいか
。こうした同時進行で学校建設に持っていく事が可笑しいか。否行政は常に有力者に対
しごねる住民のみ優しいではないか。一般市民を全く大事にしないではないか。だから
この審査を早くする事は良い事では無いか。遅い事こそ同時に出来ない事こそ可笑しい
のである。更に建設費の単価はマスタープラン単価と設計単価と実質契約単価では違う
事は当然ではないか。山の道を作る事と同じだ。急な斜面では安くなるだが危険作業だ
。計画は緩い遠回ししたう回路で少し高くつく。計画時は高い予定を敷いて資金繰りす
るのは当然だ。そして最も安い程良い斜面とするのが妥当のはずだ。



270: 名無しさんAA:17/03/11 09:06
 お隣り韓国では 同じように崔被告が 今の朴大統領を利用して権力と寄付金を取り
それが今やっと民主化的手法の賄賂に至って 汚職でまみれているようだ。もしここで
弾劾裁判が「有罪だが証拠不十分で棄却」を言い渡すのなら 大きな民主化の流れが起
きるだろうが 卑猥な彼らにはそうした愛国心や勇気はなかったのだろう。韓国経済を
引っ張って来たサムスンにはスマートホンの発火から国力を削ぐ様に大きく企業が弱っ
ている中で トップ2の位置の実質の経営指導者を逮捕に至った事は「弱り目に祟り目
」であろう。表向きちゃんとした寄付金が汚職の裏金の様に言われ 言い訳無用の弾圧
に等しく引っ張ると言うのは韓国人が馬鹿である事を認めたようなものだ。今だ戦時中
の中の位置にあって日本の外交官が帰国し金正男が暗殺され更にサード配備で中国から
締め付けられ北のミサイルの飛ぶ中で それでも彼らは北の工作員の資金での朴大統領
の失脚にデモを起こしているのである。全く彼らに韓国国民に自らの国の危機の自意識
はないのだろう。と言っても日本も又よく似た構図の籠池泰典理事長問題である。そも
そもこの事件に火をつけたのは崔順実(チェ・スンシル)の裏口入学である。その疑惑
に「金で入れないなら自分の親を恨め。」などとツイッターした事から始められた。そ
の後すぐ「コ・ヨンテ」なる助手が辞めて携帯電話を証拠として持って来たのである。
コ氏は14年末に崔氏が運営していたブティックを辞めた理由について「私が知らない
ところで不適切なことが行われていると考え、危険を感じた」と述べた。この報道に、
韓国のネットユーザーからは「崔順実が少しずつ終身刑に近づいている」「国民に真実
を語ってくれるのは彼しかいない」「コ・ヨンテの勇気に拍手」「彼の身が危険。徹底
的に真実を暴いて、崔順実が一生韓国の街を歩けないようにして」「次の裏切り者は誰
だ?映画よりもスリリングな展開」「崔順実が演説文を修正していたことはすでに朴大
統領が自白したけど?」などのコメントが寄せられていたのだ。韓国事情に詳しい記者
は「様々な疑惑が真実かどうかはどうでもいい。メディアを含む全国民が朴大統領を辞
任に追い込もうとしている。韓国特有の『恨(ハン)』の概念に基づく行動原理です」
と堂々と言っている。籠池泰典理事長も自分の所にやって来た園児に「犬を飼ってあり
犬臭い。だって臭かったもの。」とか 在日の入学に「思想が違うでしょ。」と言って
いる。臭ければ消臭剤を吹き付けて説明するとか朝鮮人でも一緒に と言うのが教育者
の発想だが。だが幼馴染で あらぬ北思想が連鎖し朱に交われば赤くなるで青年期には
過激派というのでは教育方針にもとる行為である事も確かだ。園児は商品だろうから


271: 名無しさんAA:17/03/22 06:30 ID:njI
 ラ・ファン   18
                         
 アメリカが揺れている。最も恥なのは首席戦略官上級顧問としてのスティーブン・バ
ノンの任命である。ロシア皇帝のラスプーチンよろしく表に出ない影の策略者としての
地位なのである。そうした中でトランプ大統領は、他の閣僚も国の方針も決まらず幾つ
もの大統領令を出し失策に次ぐ失策を演じている。これは、演じさせられていると言う
べきなのかも知れない。そもそも殺人さえ厭わない白人至上主義者団体のKKK幹部の
ジェフ・セッションズを司法長官に任命した事が間違いである。セッションズは大統領
選のトランプ陣営の主要メンバーだったが選挙戦中に駐米ロシア大使と2回にわたって
面会していたと、報じられた。1月10日、司法長官の指名承認公聴会で「ロシア側と
いかなる情報のやり取りもしていない。」と語気を強めてロシアとの接触を否定してい
る。しかしながら完全な偽証罪であり選挙法に違反している。この疑いがあるという指
摘も出ている中セッションズ氏は調査に対して、今後関与しないとして弁明しているが
日本の安倍夫人の名前が出ること以上に影響は強いはずだ。そもそもこの人の地位は司
法長官なのである。そも2016年7〜9月期とは首相指名選挙の一番大事な時期で、
この時クリントン陣営にロシアとのメール疑惑が持ち上がった時期でもある。更に言え
ばアメリカの選挙期間中ロシアはその前の年に巡洋艦からミサイルを発射し拠点を作り
シリアに向けて再配備するかどうかを決めた頃で トルコのエルドワンがロシア政府と
仲直りし一服休暇するホテルが爆破されクーデター未遂が起こった頃なのである。この
アメリカの世界に甘えた構造は全く世界の恥だ。だが司法長官の職務は大統領に司法的
助言であり今回の様な入国制限に「ダメですよ」と言う提言を行う事や連邦法と州法の
矛盾しない体系整備なので進んで職務がある訳ではないが、アメリカが国を超えて裁判
出来る能力がある以上司法長官が担当内容を踏み越えた役割を果たした場合は交代する
ことは当然なのだ。しかしバノン氏を外さない限りには このアメリカ政府は 内紛が
続く。最悪は同盟国の反発であろう。保護貿易や敵対主義がまかり通ればシリア内戦と
同じテロの応酬となる。それをマッカシズムの信奉者は狙っているのである。

272: 名無しさんAA:17/03/22 06:30
 ラ・ファン   19

「マッカシズムだって、笑っちまうよ。そんなの何十年も昔の話で今の世に。」なんて
私も思う。がしかし格差社会が広がれば 確実に共産化社会の熱望が始まり それと共
に上層部にリアリズムの嵐が吹き荒れ差別主義は蔓延し 誰も彼も魔女狩りの羊にされ
る。そしてその犠牲の羊にならない為の 嘘や攻撃が喜ばれマッカーシズムは起こる。
現実にマッカーシーによる告発から、共産主義者だとの批判を受けた者は、政府職員、
マスメディアの関係者、女優男優 博士や教師 異教徒など問わずなどが攻撃された。
しかし、これは有識者の反対声明が象徴するように、赤狩りというよりも、リベラル狩
りというべきものであったのだ。これは別に米国に限った事では無い。何処でも権力者
が事権力を高めるに広告を高めそれに乗りかかる民衆がいれば直ぐにでも起きる。今の
韓国の状況、イスラエルの融和派粛清、トルコのエルドワンのクルド排斥、北朝鮮の旧
体制破壊、インドのカースト制や中国のウイグルや香港統制など 抱え上げれば切がな
い程 確実にどこかにある。排斥を煽り虐げて視線を反らす為のマジックルールとして
日本の蜘蛛の糸方針を使うのである。地獄の釜に細い希望の糸を垂らして貧民達に更に
地獄の戦いを見て喜び 二人もぶら下がれば糸は切れると言う安全弁を張りながら高見
の見物を決め込んでいるのである。この中でスティーブン・バノンの任命はかなりの厄
介な不確定要素である。ゴールドマン・サックスに勤務し、退職後にニュースサイトの
嘘つき放送「ブライトバート・ニュース」を立ち上げている。ここでは「白人至上主義
」「反ユダヤ主義」「新ナチズム主義」といった過激な極右サイトとして名を馳せて、
共和党内の主流派を厳しく相対し批判していた極右派的人材だが「ティーパーティー」
のパイプ役で彼なしに大統領にはなれなかった恩人なのだ。声を上げて足を掬われない
位置で静かに釣り糸を垂れ網を張り 船長に魚を追うように指導しているのであるが、
それはバノン理論といわれる終末理論の中にあって、国際社会や外交問題、国内問題と
厭わず支離滅裂な理論で、支持している大衆からは魅力的で 盲目の支持者を掴んでは
離さないのである。


273: 名無しさんAA:17/03/22 06:31
 ラ・ファン   20

 このバノン理論の方針から出た多くの政策は矛盾をして 大富豪を喜ばせて止まない
。例えばテロ対策に出入国管理だが一般的には差別主義的と批判されるが 元々富豪と
言う格差社会の勝利者はこの「差別」が無ければ成り立たないのであるしその「差別」
こそが人に真似されないステータスシンボルであり 本人が格差社会の上層に居る理由
なのだ。この失敗にめげずに又もこの法案の大統領令を行っている。又輸出入には中国
などの貿易赤字を挙げて関税掛けると言うが それはトランプ名の特許獲得に過ぎない
もので イバンカブランドやトランプハットでさえ中国製品なのである。格安の製品が
無くなる事は本人さえ望んでいない。だがアメリカ第一主義は捨てられない。で台湾や
日本などに軍用機など軍事製品を数多く買ってもらうと 台湾に独立国だと思わせぶり
を発揮しても3日も経たない内に中国本土の一つの中国を尊重すると答えているのだ。
更に日本が米国に現地工場を建てた様に中国も又貿易摩擦回避の為の米国に資本投下を
していて その一部はクリントン候補の財団にも流れていたのである。更に韓国に配置
する早期レーダー迎撃システムに大きく反論している中国は 南沙諸島軍事開発と言う
カードまで持っている。バノン理論に拠れば既に「ユダヤ教・キリスト教の西洋諸国は
崩壊している。」として「内側から我々の目の前で崩壊している。その後の反動は大き
いもの」であり100年戦争時代に突入している。と言うのだ。それぞれ百年から八十
年位の一世代一期で4世代周期があり循環して世界が成り立っている。と言う説だ。最
初は創造期であり人々は平和をして物事を細分化して文化芸術を成す第一期だと言う。
だが次第に合理性に於いて食物や金や権力を求める現実主義の第二期である。そしてそ
れらが混合され熟成されて少しずつだが進歩しながら退化していく成熟期である。だが
人は馴れ汚職や権力に溺れ全体を顧みない退廃する終末期である。この終末期に今ある
。と言うのだ。この馬鹿げた周期論はどこの学者も信じていない。


274: 名無しさんAA:17/03/22 06:31
 ラ・ファン   21

 このスティーブン・バノンの様な寛容さのない絶対理論こそ欧米の一神教信者の最大
の禍いである。つまり彼らキリスト教を始め 終末があるから信じなさい。と言う日本
での平安期の布教活動の姿で 科学的進化論すら否定しキリスト復活を祈って止まない
のだ。こんな慈愛のない宗教が世界宗教の殆どなのである。このカルト教的教義に添い
予言があり 絵空事の嘘ニュースを発表し混乱させ そして一つでも当たるように企画
し暗殺や戦争を仕掛けては 自らを位の高い権威者や指導者にしようと画策するのだ。
殆どナチスの行為でありヒットラーやラスプーチンの手法である。そしてその駆動力が
この熱狂的信者 盲信する支持者なのである。そしてそれらを広げる布教的要因が貧困
層の拡大なのだ。表向き綺麗事で真面目顔で言い、裏でインチキを張った誇大妄想を吹
聴し、個人では実利を搾取する。と言う定番のストーリーである。だがそれが間違いな
のは人類の綿々とつながる歴史が物語っている。神との対話は絶対理論であり これは
全く拒否出来ない人間を創る。それは相手が透明な存在しない神を存在させるからだ。
それは人間崇拝を否定した別世界であり、人間性や人間生活を無視した軍隊と全く同一
で存在するからである。こうした事で西洋では神と戦争は同時出て同時に忘れ去られは
又出て来ると言う歴史が繰り返される。日本の外圧と戦争の関係と全く似ている。さて
さて 一体スティーブン・バノンはどんな夢想で何を画策するのかどうもむずがゆい。
バノン氏は先週、ドイツ大使と面会し、「EUは欠陥のあるシステムであり米国は欧州
諸国と二国間ベースでの関係構築を望む。」とする見解を伝えたという。これはトラン
プ米大統領の英国のEU離脱決定を支持する立場を示し、又EUに懐疑的な発言は、副
大統領が示した融和姿勢とは対照的なものとなる。ニューヨーク・タイムズの電話イン
タビューで、メディアは「野党だ」と述べ、敵対心をあらわにした「メディアはこの国
を理解していない。なぜトランプ氏が大統領になったのか、まだわかっていない」と強
くいい。報道官が「就任式の虚偽の説明をして信頼性を失った。」との指摘については
「それは名誉なことだ。メディアこそ信頼性はゼロだ」と切り返していて。本当の民主
主義がメディアからの自由な批判の上に正常さがある事を全く知らないそぶりである。



275: 名無しさんAA:17/03/22 07:12
 ラ・ファン   22

 米国はオバマ氏になって やっと米国が本当の国造りをして 幻覚経済から抜け出せ
るかと思われたが オバマケアを捨ててTPPを壊し 国家予算で核弾頭作りに勤しむ
と言う昔の様な「戦争が公共投資」の偽りの地獄経済に戻ってしまった。勿論兵器作り
でも雇用にはなる。だがそれは使われる事は無駄な消費であり「人類ロス」と言われる
最大の負の遺産でしかない。又作って保管庫に入れていても自然界の木々の様に育ちは
せず果実もなければ酸素を供給する事も大きくなって物の資源となる事もない。返って
負債を増やし保管料を積み上げその後の処分を悩ませる事は間違いない。それを楽しむ
のがバノン流なのだろう。だがしかし、これは人類にとって笑い事ではない。殺人狂は
一人で何人も殺すが、殺人狂を死刑にするに十倍〜百倍の無駄な労働コストと時間が必
要なのだ。バノン氏はこれまでも保守系ニュースサイトのブライトニュースでさんざん
嘘やでっち上げを報道し知らん顔して訂正もしなかった運営者として名を成している。
選挙戦期間中はトランプ氏を強く支持して同じ手法を駆使して違法をものともしなかっ
た。民主党候補のヒラリー・クリントン氏が人身売買をしていたといった偽ニュースを
広め聞いた反クリントンのトランプ支持者が殺人を犯しても全く自分に責任はない。と
言った具合である。このトランプ氏の側近が、今や世界を左右する米国の最高位の政府
上級顧問 米大統領首席戦略官なのだ。全く人類はサルに宇宙船を任せたヒューストン
の様な心境だろう。宇宙を行くに失敗は許されずかといって言葉も通じず酸素も知らず
と言った所か。今だ人類の未来も模索する中で米国も英国も 何を考えているのか。又
ロシアや中国などの本当に危険な国家体制に一体何が出来るのか。北朝鮮への対応は、
その試金石となるであろう。ロシアのクリミア半島の摂取を許した様な事では、世界の
平和は築けないし 明るい未来も無い つまりトランプの息子もバノン孫も守れない。
と言う結果が待つことになるのである。

276: 名無しさんAA:17/03/23 00:25
   ラ・ファン   23

 オランダで極右勢力が敗退はしないものの 中道右派の連合で政権維持されると言う
選挙結果で 欧州も一息ついた形だった。英国のブレクジット米国のアメリカンNo1
など不可思議な凶行論者のニュースが増えている中で 一縷の望みがスコットランドと
アイルランドがグレートブリテンから離脱と共に脱退するするであろうという事だった
。そも経済学的にこの二つの事象は世界的に成り立たない。論理経済学は既にこうした
負の外部性(外部不経済)が地球にもたらす影響を数値化して米国英国の不況を読んで
いる。現実世界では武力闘争や覇権争いや汚職などで若干は違うだろうが それはそれ
でリーマンショックより深刻で大きな不況を呼ぶ可能性が増えるだけではある。そも、
これはブッシュJrの起こした世界的不況の前菜である。経済学的には囚人のジレンマ
と全く同じロジックでロシアとアメリカが地球上にいる中で中国がいる。この各国が今
や個々の合理的に選択した結果のナッシュ均衡は、全く地球全体にとって望ましい結果
の最適化はしない、これは国家間の社会的ジレンマだろう。だが面白い事にこのゲーム
理論から出た社会現象にもう一つサマリア人のジレンマと言う物もある。心優しいこの
サマリア人の一人は、可哀想な避難民を一人は助けても大勢が寄って来ては自らが避難
する羽目に陥るのである。詰りは助けたくとも助けられないジレンマである。こうした
事象は物や金や権力を捨てる事で簡単に取り除ける。それが仏性の「隣人愛の検証」で
ある。本来の合理性が全体の俯瞰した合理性であるべく政府や世界は地球温暖化の罠を
乗り越えようと会議している。つまり各個々の自由な排気ガスも厭わない社会は公害を
産んだし 石油機関の持つ永遠の動力は温暖化の気象変動を起こしている。此処に自然
を慈しみ 木々や小鳥でさえ愛でて配慮したいとする日本の技術が社会進歩を引き起こ
して利益を産んでいるのである。これが「隣人愛の検証」でありサマリア人の知恵であ
る。これを簡単に拒否し否定するトランプ大統領が「自己愛性パーソナリティー障害」
と言われるのもうなずける話だ。略称NPDの診断基準は、「@自分を過大評価する。
A実績や才能を誇張する。B過度の称賛を求める。C対人関係で相手を不当に利用する
。D共感性に欠け、傲慢で横柄な態度をとる」などの症状があると言う。これでは米国
の大統領をして世界的不安があると言うのは当然だろう。


277: 名無しさんAA:17/03/23 09:22 ID:oxM
   ラ・ファン   24

 こうした状況を経済学では 負の外部性(外部不経済)と言うそうだ。個々には合理
主義経済主義でまかり通り良くあるように見えるが 個々の主張が他の個と競合し歯車
として噛み合わない経済である。例えば日本で集積回路が出来た創成期爆発的にどこの
電機メーカーも工場を作った。そして競争しシャア拡大に売り込んだ。だが その為に
量産体制が取れたと同時に価格競争に陥った。この時起こったのは技術開発と最新設備
への投資更に不良品の出ない歩掛りの向上だった。だが成熟期に入ったある時設備投資
を回収出来ない事に気付いた。そこで起こったのは提携や連携更に合併或いは合資での
新会社や新工場の建設だった。この時既に個々のメーカーはやりすぎな事はわかってい
たのだが外国勢の参戦で統合を行うしかなかったのである。これは白物家電ででも或い
はVTR騒動でも起こっている。だがこの理論をいち早く取り入れたのが米国である。
日本が経済摩擦で自動車産業が大盛況だった時 米国でも 今の中国の様に製鉄業界は
徐々に過当競争の上に生産過剰に陥り頂点に陥っていた。これ日本からの安く良質の鉄
の販路が拡大して製鉄所の廃業は余儀なくされていたのである。そこで米国企業は大胆
にも地方分業制を取り入れ始めた。シリコンバレーが代表的だがそこにある電子部品の
メッカとしての地位はメーカーの協力と同じ電子起業家の助け合いが村を成して起こっ
たもので米国の政策としての町ではない。日本は企業城下町としての他業種を発展した
が米国は逆に単一業種タウンとして栄えて集結している例が多い。ボーイング社の場所
或いは宇宙センター更にラスベガスなどだが、これらは米国社会全体の正の外部性(外
部経済)としての理由で競合しない為にメジャー企業が自然に出来上がったのである。
それが今世界的潮流を起こして物流世界を引き起こしているのだ。日本の地産地消のこ
だわりがあるように米国こそは大量生産方式で大量輸送大量分配でのハイウェイ輸送は
要経済であり原油による内燃機関の発達は欠かせなかったのだ。この歴史的事実からの
大量の移民流入の労働力は伝統的結果だった。がトランプ政権はそれを否定しているの
である。そして地球温暖化などと言うのは嘘だとこき下ろし 技術予算を半分カットし
てはアメリカの歴史からくる義務を捨てようと声をかける。これでは地球的不経済が、
戦争を引き起こしかねない。


278: 名無しさんAA:17/03/24 10:43 ID:uH.
 ラ・ファン   25

 この個々には合理性と富と幸福を見せても、全体で大局的には津々退廃し損をし貧し
くなる工程を行くと言う「負の外部性(外部不経済)」の経済原則は、普通の人には全
く目に入らない。だが貧困家庭や格差社会の底辺に居る人には非常に深刻な話でシリア
の内線の様に 全くどうしようもなくもがいて動き回るしかないのである。今アメリカ
はアメリカ人を救えるかと言う中にある。日本の黒田総裁の様に馬鹿なインフレーショ
ン理論で意味も無い2%物価上昇を目指しているからだ。GDPやGNPなどの調査が
もし本当の指標足るなら国家満足度も悪くはならない。だが今起こっているのは一方的
な格差社会の拡大を国際間の競争原理の下に行った指標であり全く経済合理性には程遠
い。それは今アメリカが景気の上向きになっているのに不法労働者に鎌掛けて一般労働
者や学生或いは一般市民を突き放しているからだ。まるでルアンダの悲劇の様に ある
一線を越えた所に線が引かれ過激化している現状が 今のテロ騒ぎである。テロを求め
ているのは決して他国からの移入民ではない。自国に入る教育出来ない保護できない人
なのである。AP通信はカルフォルニア州立大学の学生5万人近くが特定の住所を持た
ないホームレスで、さらに多くの学生が食べる物に困っていると伝えている。「ホーム
レス連合」の統計は全国250万人の子供の2割が家も無く餓えに瀕していると伝え、
大人も含めた全体では人口の八分の一がホームレスだと言う。つまり刑務所を含めると
子供と同じ二割は仕事が無く貧困にあえいでいる形だ。それに対して企業家が声明を出
し波紋を呼んでいる。

279: 名無しさんAA:17/03/24 10:43
「きちんと働き高収入を得ている人々は、教育を受け、熱心に働
きその地位を得た 市に快適に居住する権利がある。そうした人々が仕事の行き帰り事
にホームレスの苦しむ人の姿を目にしなくてはならないのは公正ではない。」と だが
殆どの人はこの非情で冷酷さに目を見張っている。「高収入のIT企業が家賃を釣り上げ
た結果、もともと市内で賃貸をしていた人々が家賃を払えなくなりホームレス化してい
る」という批判だ。更に詐欺の様な過当収入で、企業は「エアコン、WiFi完備で無料」
の環境を提供してフェアでは無い。と言う物だ。事実学生の多くは、問題の深刻度につ
いて大学の教職員に理解されていないと感じており、また利用できる援助制度について
知らない学生や学校も少なくなかった。ホームレスの学生の一人は、大学側に状況を説
明し、寮の使用許可を求めたが、他の学生に対してフェアではないとの理由で断られた
。別の学生は、食べ物に関する援助があれば、周囲からレッテルを貼られなくて済むと
回答し教職員側は、限定的な資源を背景に、援助プログラムの通知や奨励については、
消極的で知らせていないことを明らかにしている。更に深刻なのは地価高騰でホームレ
スシェルターを次々と閉鎖され 路上テント撤去をNYでは可決している事だ。



280: 名無しさんAA:17/03/24 14:21
 ラ・ファン   26

 このまるで インド社会のカースト制を見るような アメリカの無様な経済社会現象
は 全くどこの国でも起きている。日本は豊かな社会単一民族で教育水準がなどと言っ
ているが 日本の福祉水準は50ヶ国中45位 総合的幸せ水準では280ヶ国で18
0位他の報道の自由度や生活快適度或いは無駄のない食糧や税の負担や事件頻発度など
 色々な指数でどれを取っても下降気味で一位ではなく 更に世界の長者番付でも今や
アメリカや欧州に次いで中国の所得の方が大きいのである。そして極端この国を下げて
いるのは自殺や警察の科学性などの 悲観指数である。事実日本での自殺者 輸入検査
の甘さは世界一かも知れない。途上国はそれなりに物量が少なくどちらかと言えば輸出
での密輸が多く日本の様な麻薬や毒入り食品は少ないのだろうが それにしてもかつて
先人が愛して止まなかったこの国の姿が こんなに変容してはどうしようもない。と今
嘆いている良識の人は多かろう。英国のEU離脱問題も多くにこの開発のブーメラン現
象の「都市の貧困化問題」が数多くの要素となっている。まず既成宗教との軋轢である
。特に風習に於いてのキリスト教とイスラム教では大きな隔たりがある。それを埋める
「言語」問題もある。EU内でも多言語が発達して統一していない中で文字通り国家間
や民衆や民族の「壁」を破るのはこの言葉の習慣の「融和」と思考の「疎通」である。
更に深刻なのは過去からの「縁害」である。米国では黒人は白人から迫害を受けた。又
白人は黒人は奴隷だった。そうした過去の事実と自己認識に一定の可笑しな脳の動きが
出る。それは家系が歴史上英雄だった時の気持ちみたいな反応だ。更に今貧困の中黒人
犯罪が増えればその作用はかなり悪い結果を産む。それは欧州のイスラム難民にも言え
る。簡単に集団意識が悪くなるのだ。今のムスリムの自爆犯も又同じだろう。「宗教」
「言語」「縁害」と続くのは「環境」である。先のスカーフの問題や海岸の水着問題に
みるように異様なものは異様なのであり宗教習慣に基づいたものは双方に気が付かない
遺恨を残すのである。


281: 名無しさんAA:17/03/24 14:22
 ラ・ファン   27

 そして最後の問題が格差就業である「就業圧迫」である。今日的に見れば 誰もが働
かなくても自由意志での就業は可能な位置まで進化している。日本でもロボット化して
各種の大まかな所は 重機なり機械なりで出来る。新幹線運転手にバスの運転手に携帯
端末をやりながら行い就業違反で退職した者がいるほど簡単になった。が簡単だからこ
そ人は厳しく生きねばならなくなった。機械や時間に追われたのである。数年前「国際
間競争」に負けるなどと言っては労働者待遇を無くした。特に労働力奴隷化に拍車をか
け年功序列を止め正規社員を切って派遣労働の道を開いた。が多くの場合派遣労働者の
と正規労働者の就業は作業効率や資本投下や経済循環からも正規労働者で水準であり、
パートや予備労働者多用では資本投下の吸収性はない。詰りは安定性が図れない上に、
企業改善が起きない。更に収益利潤がはかれないのだ。そこで起きるのは製品単価上昇
と人の無差別排除である。それが国家資産の浪費と若者貧困層を創り出すのは当然だ。
起こるのは栄養のない食品とそれによる子供の脳作用の不具合である。そしてその後に
おそったのはバーチャル殺人である。非日常的な快楽を不法とはしていない為ゲームの
感覚での睡眠学習と錯乱した実社会活動が起こっているのだ。誰も隣を見ない情に流さ
れないが金の為の人殺しを厭わない。世の為人の為などと言う人間性確立の上昇志向な
ど起きない。世界に出て行くなどと言う馬鹿も言わないし車が欲しいなどと言う贅沢も
しない。TVも観なければデイトもしないのだ。ひたすら漫画やゲーマーとしての暮ら
しのまま生産性や芸術性の無い暮らしで年を経て壁に至るのである。こうした 政府の
無作為による次世代沈下事件は世界各国で起こっている。日本のゲーム産業も 米国の
グーグルなどのサイトアプリ産業も アマゾンなどの配送業態もはや悪業種として指定
して高い税率を設定するしかないぐらいの 暗黒産業なのである。究極のヤクザ業態と
言えるこのやり方を進めたのはTVやメディアや映画の業種であり それらがその思考
の下で民衆から飽きられ衰退してる事は「まともではない」証左で当然であろう。何故
なら言葉を知らない者に本は読めない。芸術を意味を知らぬ者に音楽は解らないからだ。

282: 名無しさんAA:17/03/24 17:53
 ラ・ファン   28

 元名大女子学生の起こした殺人や殺人未遂などの事件は 人の本質的陰部なのだろう
。仙台市内の私立高校に通っていた2012年、中学と高校の同級生に硫酸タリウムを
飲ませ、殺害しようとしたとされる。更に2014年には名古屋市昭和区の自宅アパー
トで知人の森外茂子を殺害し、6日後に帰省先の仙台市で青葉区の女性方に放火、住民
3人を殺害しようとしたとされる。 森さんは床に崩れ落ち6回殴ったが、まだ息があ
ったので、人間は意外に死なないんだ。とマフラーで思い切り首を絞めた。蘇生しない
よう、5回くらい繰り返した。と供述し 放火未遂事件を審理した法廷では裁判官に「
人が死ぬ過程を見たかった」「生物学的なヒトなら誰でもよかった」などと衝撃的な発
言を繰り返した。又、タリウム事件については「観察目的」と述べ、殺意を否定したと
され その被害者はいずれも仲の良い友人だったり 世話をしてくれるおばさんだった
。弁護士は「非常に重篤な精神障害が影響し、犯行時は善悪を判断する能力がなかった
。刑事責任は問えない」。弁護側は一貫して無罪を主張してきた。 元名大生の特徴と
して(1)他人の心情に共感できない(2)興味の対象が極めて狭い(3)衝動的に行
動する−の3点を挙げ、「ブレーキの利かない車」に例えている。 最大の争点だった
とされる責任能力の有無について、判決は検察側の主張を認め「一連の事件でおおむね
合理的な行動を取り、責任能力はあった。」と判断した。非常に重い精神障害を理由に
「責任能力はなかった」と無罪を求めた弁護側の反論を退けた。論告求刑公判では、検
察側は「更生の可能性は極めて乏しく、生涯にわたる償いが必要だ」として無期懲役を
求刑していてそれがそのまま判決された形だ。問題は今でも人殺しの衝動にかられる。
といい「遺族の心情が想像できず、償う方法が分からない。」そう語る正直さだ。
事件供述に「首とふくらはぎにナイフを刺し、4、5枚写真を撮った。実験記録用だ。
居場所がばれないよう、森さんの携帯電話の電源を切った。遺体の断面が見たくて近く
のホームセンターでのこぎりを買った。ついにやったと殺害直後、ツイッターに投稿し
た。少年法は偉い。少年法マンセー(万歳)とも書き入れた。妹に電話した。人を殺し
たんだよと 興奮冷めやらぬものがあった。という。殺された夫は初公判でやり場のな
い怒りをぶつけた。「妻を返してほしい。二度と、人を殺してみたいと思わなくなるま
で刑務所に入ってもらいたい。」と話している。こうした幼児教育出来ない仕組みは、
先進諸国の底辺で 異常社会の広がりを見せ異常な子供を創り出し止まない。

283: 名無しさんAA:17/03/26 13:03
 ラ・ファン   29

 既に人は働かないで生きていける資産を有している。がしかし人は働かなければ生き
て行けない。それは何故か。それは政府と言う仕組みがあるからだが その政府と言う
仕組みは一般的には国民に幸せをもたらすものとして機能するものとして存在させてい
た。その仕組みや存在の一端として税の徴収がある。がそうした経費のそれを一切許さ
ない通貨が存在し始めた。それが電子ポイントである。そう人々が持つ店のカードの様
なものだ。くじ的チャンスや会員優遇措置或いはビックデーターとして活用されて宣伝
効果や値引き対象として他との競争に優位に立つため次々と発行がなされてきた。が、
これらが発行させる前に奇妙な流通ゲームが発行された。あるアルゴリズムによって出
来た流通通貨である。ビットコインを筆頭にそれは出来た。簡単に言えば暗号化した電
子収納帳である。この記載には簡単な部分で取引出来るがそれらを改竄若しくは偽造し
ようとすればこの発行元の計算式までたどり着かなければならない。莫大な電気代と更
に膨大なスットクデータ保存が必要になる。その電子几帳には過去の履歴が保存されて
いるからだ。こう言う事でこの通貨は国境を持たず安全通貨として戦争時の持ち出し貨
幣の手形通貨とされた。現物のないこの数字のみの通貨は微分して割られる事で売買さ
れる。つまり通貨単位自身は広がるほど分割され小数点が増えている事になる。後は市
場の取引で値上がるのみなのだ。こうした通貨は純粋に通貨機能である「貯める」「買
える」「使える」と言う資産形成・等価価値基準・流通使用の三つは兼ね備えている。
だが国家の持つ経済調整や国家戦略による保護や更に未来投資の支援利子補給などの機
能は全くない。事務経費のない通貨と言える。これは税の持つ使命である公平にする為
の富の再配分を補佐しない事を意味している。厄介な事に今の課題と言われる現代の壁
世代障壁には 全く力のない流通貨幣となろうとしているのである。



284: 名無しさんAA:17/03/26 13:04
 ラ・ファン   30

 資産の根源は時の造った遺産である。これが負の遺産か正の遺産か地球の遺産か個人
の遺産かは別にして 人が生きる為に行う生産活動の全部が生産ではない。木々だった
り太陽光だったり自然の営みの中の水や空気であったりして それを利用しているに過
ぎない。日本ではかなり天然資源を隠した生活で魚さえ輸入である。が米国での多くは
自給自足に近い姿を作っている。その為の銃社会は不可欠なのだろう。だが今や産業の
自動化によってかつてない規模での人々の職が機械に奪われているという意見は多い。
実は日本では、同じ一億人国家の社会が少子高齢化で又一億人に減少する。かつて5%
も満たない60歳以上の老人社会が今後5割になる。この人口比対象は大きな社会現象
を引き起こしている。だがそれは日本だけではない事が このトランプ旋風で垣間見る
事ができるようだ。EU離脱でも これまでアイルランド抗争に明け暮れ経済復興には
一部の上層社会しか関与していなかったがサッチャー女史が出た頃やっと就業率向上が
計れたのである。これによって教育水準が上がったがそうした若者はEU離脱反対だっ
たのだ。つまり英国でも日本化現象で「過去の虜」の老人がぐずってしまい旧大英帝国
の栄光のかなわぬ夢を望んだのだ。トランプが多く票を取った地方都市でも多くの票田
となった社会はシルバー世代の錆びるビル寂びれる町の郷愁と過去の活気だった時の若
さへの哀愁がもたらしていて、全く明日につながった意見は見られていないのである。
こうした政情不安は各国に見られるらしく急進派や極右や極左の宣伝文句は北朝鮮と同
じく「愛国主義」に準じた「強い国 負けない国」であり鎖国主義保護主義国家主義の
羅列である。世界的にこの80〜60歳の世代はこの世界情勢から何を学んだのか何を
この60〜30代に学ばせたのか。全く世界大戦の何を悲惨で悲しいものとしていたの
か。この戦禍をして何を後世に残したのか少し立ち止まって考えるべきだろう。


285: 名無しさんAA:17/03/26 17:39 ID:2lQ
ラ・ファン   31

 よくTVや新聞では絆とか連帯とか夢は結ばれるとかが叫ばれる。特に震災が起こっ
てからはイベントのごとく皆んなこぞって叫ぶことが多くなった。全く人権侵害でもあ
る。ほとんどの場合夢や絆では喰っていけない。生産性があってこそ語られるものだ。
その意味でも最近のTV局は生産性に全く寄与しない。つまり視聴率の関係からか娯楽
性が高くて批判が少なく未来への方向性無い。食べる。笑う。虐める。この三つに徹し
ていて罰ゲームは辛子の食べ物と言った具合である。つまり今や情報としての価値であ
り教育や思想或いは力の泉としての生産性を今の新聞やTVには無いように見えている
単一の裏寂びれた笑いや刺激のみで事が行われて まるでそこらの幼児を離さないTV
ゲームなのだ。この生産性の無さは至って数値に出来ないがそこに感じられる浅はかさ
は何とも言いようがない。国際的には近代のテクノロジー革新は前代未聞のものである
という意見を裏付ける証拠はどこにもないとしている。だが資金は先進各国で老若男女
に関係なく「雇用なき景気回復」であり景気後退は仕方のない研究結果が出ている。近
年の全自動化になった技術革新がはその要因であるだろう。がこれを検証した結果には
全く数値に現れてはいない。と言うのも業績そのものは景気回復し国内総生産成長率は
近年の減少傾向であるものの相関関係も見つからないからだ。一方雇用増加率では更に
劇的な低下を見せている。こうした事は自動化しやすい単純作業のルーティンワークの
度合いが高い小売業や製造業などの弱小の産業分野などでは、景気の影響は大きく高く
強いて人員削減しなくても 危険汚いキツイ仕事には需要より供給が少ない上に労働単
価が低いのである。つまりは決して特定されない困った所から開発自動化されるのであ
る。更に面倒なのは意識が単純化されての自動化持ち込みなのだ。分業化による発展に
見るように小さな事が機械化される。人は列車と言う優れた乗り物を作っていながらも
普通に普通の一般車の自動運転化を進めている。この異常さをどう考えるのかが問題の
核心である。それはTVのアニメがあるに関わらずTVゲームが流行ってしまう事と同
じである。実は人は農作業や漁師はしたがっている若者は多い。昔の生活様式にゆとり
や安らぎ或いは憩いや癒しまでみるのだ。だがそれは用地や環境があっての生計である
。現代社会の仕組みはその経済本能から そうした事を許さない中にあるのである。
つまりは今や職人芸の様な 特異産業しか生き残れない中にあると言えるのだ。


286: 名無しさんAA:17/03/27 04:36
 ラ・ファン   31

 この特異な職人集団しか生き残れない社会は 昔から無かった訳ではない。というの
も今でも例えばアフリカや南米の原住民の暮らしでは 誰もが専門家集団である。呪術
師をがお祈りし戦士が矢を持って動物を狩り植物を見分けして食を得ているのだ。この
中で弓も下手植物も見分けられない人もいるし体が不自由な者もいる。だがそれはその
一人の優秀な狩人によって支えられ共生社会によって公平に獲物は分け与えられる。そ
こに事務所も書き込みも無い。経費のない再分配が原始的に行われているのである。日
本でも同じ様に家長制の中で集落はそのまま祭りを通して共同生活をしそこ独自の風習
に於いて食生活が支えられていた。そしてそれを広める為に公平さを残すために学習が
あり寺子屋があったのだ。こうした昔に戻る姿は 結局は不公平の介在であり、それは
経済格差がここに極まった為であり、その一つが今や限界集落問題の発生だろう。20
年もすればこの日本から900の自治体が消滅するのでは と騒がれる事も多い。が、
それは行政単位としての地域維持することが限界なのであって、そこに人が住み、人と
しての営みを維持することができないわけではない。更にそこに住む人が子育てをしな
かった訳でもない。若者が仕事を求めて都市部へ流出し、少子化が進み、学校が統廃合
し、地域医療が崩壊し、防災にも普段の交通にも深刻な影を落とし。職も無く、基幹産
業の担い手もなく、荒れた里が虚しく広がり始め最終的には 何らかの形で居なくなる
事になる。教育環境、仕事環境、引退環境と生きる為の従来のステージが過去の人生モ
デルとは全く異なり、、お金などの有形資産にのみ目をやり、見えない資産がある自然
の恵みが及ぼす人の「覚悟」が有効で重要な事を忘れた考え方に陥った日本がそこにあ
るようだ。浮かれた若者も多いが それは浮かれた日本の馬鹿騒ぎへの警告している様
に見える。若者に田舎に住めとは言わないまでも 住んでもいいくらいの魅力を伝えて
いないし投資しない日本は 今の原発事故後の巨大支出の様に 町の巨大利益がどこで
生み出されているかをよく考えるべきだろう。便利さは豊かさではない金持ちが幸福で
あってはならない。何故ならそこは都市型のクレージーな異常な生活の中にあり決して
セレンディピティな田舎の暮らしではない事を この築地市場移転問題は見せている。
知事の一声で一日3億の浪費をしながらオリンピック経費を出さないなどいい 一方で
一日数万もの金も投資せず 過疎地集落を切り捨てているのである。



287: 名無しさんAA:17/03/27 13:22
 ニトリは何を考えてるのか。 シャープビルを何故壊すのか。
馬鹿もほどほどにしろ。ちょっと出の成金会社の癖に 思い上がりもはなはだしい。
今の家具業界の様をみろ。自らの行いの悪さを示しているではないか。シャープの造
った技術や精神の方が よっぽどまともで素晴らしく社会貢献しているではないか。
馬鹿げたこの行為は止めよ。これだから 日本企業は大きくならない。かすれた他国
の奴隷の様な人の生産品しか扱えず人の健全を助長しない経営で成り立つわけがない。


288: 名無しさんAA:17/03/27 15:49
 ラ・ファン   33

 この報われない政府と言う仕組みの不都合は、今のシリアや中東の政治や中国ロシア
或いは北朝鮮に端的に現れてはいるが、日本でもその政府と言う仕組みが一般的国民に
全く幸せをもたらして居ない機能であるものとは 今の国会で現れ始めている。まずは
国会議員達の節操の無さである。現職首相夫人を私人と言ったり刑事裁判すらならない
事で首相が「辞める」の言葉だけで追求したり解散総選挙に出たり全く政争の具を集め
てのお祭りなのだが そうした事で日本は他に類を見ない赤字国債を出し続け、更には
教育機関は利潤稼ぎに没頭しては派遣社員を搬出すると言う 弱者虐めに徹している。
 この「子どもの貧困問題」での社会的損失は計り知れないし「赤字経済」の脱却は全
く国会審議の論点にない。そも塩川氏の「母屋は沢庵で飯食べているが 裏の小屋では
すき焼き食っている状態。」といい民営化改革したが、それで中小企業は復活したか、
赤字財政は回復したか。全く民主党政権で増えてしまいその後はうなぎ登りなのである
。これは国会議員達の怠慢である。日本の社会構造を見るに社会的弱者において「進学
率や中退率を改善するならば国民所得は一気に向上する」という本質が透けてみえる。
政府は4千億円近くかけて高校の授業料を無償化して、少なくとも制度の上では、例え
経済的に困窮していたとしても、高校に通うことはできる。と答弁している。では一体
その金はどう使われているか。全く人の形成に対してはムダ金であり、私学助成金など
は私学教員の体制保持にしか使われず教育にはいかされていない。教員免許保持者の5
割は人格形成に欠陥があり1割に問題がある。と海外から日本の教育者が指摘されてい
る。理由は簡単だ。授業の教師能力を超えた教師生活が待っている事と、生徒に対する
学歴差別が著しい社会構造と更に大学において中高年受験者は皆無のままで それだけ
向上心や習学心或いは探求心が社会体制にないからだ。例えば図書館や博物館でも日本
の文化保有率は海外の先進国に比べ1桁低い。国会や行政でも資料開示がないし保管率
も海外で百年単位だが日本は5年以下である。こうした係数は近年より下がっている。
その検査機関からは一斉に教育機関の資料的古文書が廃棄され全く新しい一般書を於い
て図書館にはなっていない只の集会所になり果てたと言う報告なのだ。これでは子供は
育たない。教員を含めて文化意識が低すぎるのだ。

289: 名無しさんAA:17/03/27 16:24
TV界のコメンティターは 何を馬鹿言っているんだ。

実際 国際社会のお笑いとは全くかけ離れているではないか。お笑いの専門家なんては
居ないのだ。事実TV界がひどすぎるのが解らないらしい。実際お笑いのグランプリ―
に乗っかっては放送しているが かつてのドリフや欽ちゃん或いは花王名人劇場の様な
確実な大きな大人のファンは居ないだろう。私なんか 大田光や松本人志なんぞ終わっ
ているし 彼らが出る番組よりはニュース番組の方が楽しい。たけしなんぞ所と同じに
世界の衝撃映像やニュースに乗っかかっているようだし さんまやタモリでやっと喋り
と見識で番組になっている様なものだ。リクルートのCMなぞ見るに堪えない映像だ。

290: 名無しさんAA:17/03/28 08:08 ID:keA
テルミクラブが99億円払えず負債額は151億円で破産宣告。
ちょっとおかしい ネットの暗号化が崩れて侵入されたか
店頭で誰かが不正をしたか。或いは円安でも価格を上げなかったか
燃料サーチャージャーが追い打ちをかけたか
確かに利益が無かったとは言え 老舗のはずだが
月一の棚卸しはしてなかったのか 赤字が出れば解ろう筈だが
いずれにしても 経営者が悪いのは当然なのだが
不思議な倒産である。なぜ旅行客削減をしなかったのだろうか
わざわざ新聞広告までして 赤字の旅行客を増やす事は
経営なのか。


291: 名無しさんAA:17/03/28 10:20
テルミクラブは やはり馬鹿銀行がつなぎ融資が無かった事で起こっているようだ
今から円高となり利益が出ようと言う物を 何で日本の銀行は先見性も無く自らの
仕事をしないのか。これでは経済の血液どころか血液ガンである。


292: 名無しさんAA:17/03/30 11:43 ID:gyk
希望と光の間 78

 「ツタヤ図書館」批判の投書、市幹部らが投稿者宅を訪問 という記事が載った。内容
は 市図書館の郷土史の展示スペースのあり方などについて市政を批判する内容で3月
4日付の佐賀新聞に掲載された。という事に投稿者が「市図書館・歴史資料館を学習す
る市民の会」代表を務めている同市の70代男性。だった事から訪問し正したという物
だった。理由は、内容の数カ所が市の見解と異なり「事実誤認」だと市こども教育部は
判断しての事だったと言う。3月6日に水町直久理事ら3人が男性宅を訪れた。男性は
「一部説明不足や数字の誤りはあったが、自分の主張に間違いはない」などと話したと
いう。翌7日には諸岡隆裕・こども教育部長が男性の家族の職場に行き、投稿内容につ
いて説明を行ったと言う。その上で市議は実名を挙げて議会質問をしたとある。全く、
この佐賀と言う県民性の姑息であけっぴろげさは本当に可笑しい程認識不足であろう。
まず民主主義が匿名性が高い中の意見の集約で成り立っている事。更にこの方向性には
判断する人間が必要である事。この意味でその判断力が今やない人がかなり多くいる事
で日本全体の問題ではある。籠池問題でも民進党以下ちょっとおかしいのは焦点がずれ
ているし、あのゴミだまり発見での値引きとなれば豊洲市場の瑕疵担保問題と同じく国
側が支払うべき物は多く その意味では忖度などでなく官僚の判断ミスだろう。更に首
相夫人が公人じゃないと言う所を責めるべきだろうし この粉飾決算に似た指導をして
いた弁護士を国会証人すべきであろう。こうした決断ミスは今度の雪山事故にもみえる
。安全な登山安全なラッセルと考えていた。と言う発言そのものが「登山家」としても
「教育者」としても失格の判断だろう。よくコメンティターが書類や危険防止のマニュ
アルがどうのこうの言っているが その事は全く的はずれでそうした 前は安全だった
とか。規定通りとか杓子定規な考えが今回の事故の要旨である。まず雪山である。登山
家である。教育者でもある。こうした事を考えればビーコンやスコップの所持は全員と
は言わないまでも先頭と最後ぐらいは持つべきだったはずだし もっと近くのより安全
な場所で行うべきだったはずだ。登山そのものがこうした予見や装備こそが訓練の一つ
であろうしそれが大人達すら出来ていない。原発再稼働を認可した裁判所と同じだ。再
稼働はすべきだろうが その為の設備や訓練或いは認識はまだまだ整っていない。のに
この裁判官は馬鹿と同じに責任を負えないはずの危険に許可だしたのだ。


293: 名無しさんAA:17/03/31 11:40
希望と光の間 79

 何故にこうも朝鮮半島は 国際法違反の巣になるのだろうか。北朝鮮がミサイルを撃
ち核爆弾を作る事も 国際法無視なのだろうが、今回の朴槿恵の逮捕も殆ど違反である
。支持率5%という圧倒的な反朴槿恵世論の中にあっても、朴前大統領は最後まで望み
は捨てていなかったようだと韓国紙の記者は言うのである。それはこの国が「法と正義
によりこの国は守られ 従って弾劾は棄却される。」と言う 韓国が国際的にまともで
あって 他の国に比べても引けを取らない安全で正しい豊かさを享受できる国だと勘違
いしていたのである。弾劾は、憲法裁判所の中で8人の裁判官のうち3人が反対すれば
「棄却」となり、賛成が6人となれば「認容」だった。8人の裁判官のうち2人は今回
の朴政権時に大統領が任命した人物だったし それは正義を知る者として任命した人物
と思っていたからだ。6人賛成、2人反対で弾劾が認容されるという見方は強かったも
のの そんなに簡単に正義が覆されるほどこの国は腐っていない。と信じたかったに違
いない。だがそれこそが朴政権が大統領になっても何もしなかった証左であった。あの
竹島に登った馬鹿大統領が放置した慰安婦事件に一定の話し合いをしたというものの、
結局は告げ口外交を進め更に国民を物貰い的乞食的品性のない姿を勧め盗んだ仏像問題
すらも是正できず セウォール号沈没に見る様な社会構造を全く直す事をしなかったし
 その核芯的犯罪者集団であるこの検察や裁判所をまともな物に替えきれなかったのだ
。それはマレーシアで起きた金氏の殺害事件とそっくりな自己中心的に人を動かし動く
と言う考え方である。金氏は猛毒のVXで殺害された。VXはマレーシアや日本などの
国際法上190以上の国が加盟する化学兵器禁止条約(CWC)で、使用が禁じられた
化学兵器なのである。だがこの北朝鮮は全く関係ないアウトロー(無法者)集団国家で
全く意に介してないのだ。この大統領裁判が証拠や事実認定も自白も無い中での弾劾の
様に。更に遺体は北朝鮮が化学兵器を海外で使用した重要な証拠だった。その為マレー
シア当局は証拠の確定に多くの時間を費やした。が北朝鮮とマレーシアの応酬では、な
んと外交官が人質になったのだ。韓国も無効な弾劾裁判のみならず何と大統領逮捕まで
陥ったのである。正しく大衆に寄り添った正義大義のない無法な人民裁判結果としての
在り方でとても法治国家ではありえない姿を露呈している。つまり国民は崔容疑者では
飽き足らないのだろう。ここの感情に良識はかけらも見えない。



294: 名無しさんAA:17/04/10 23:05
夢の中の夢

  ディノン・ディノン25

――国や政治の役割は二つある。一つは、国民を飢えさせないこと。それと
  もう一つは、これが最も大事な事です。絶対に戦争をしないこと させない事――

 これは、菅原文太さんが亡くなる約4週間前に沖縄で行った最後のスピーチの有名な
 一節だ。ところが今や 北朝鮮が頻繁にミサイル発射実験を行い、「射程距離を延ば
した」「一度に何発も同時発射した」「移動式発射装置が多用されている」「潜水艦か
らの発射技術が格段に向上した」「北朝鮮が在日米軍基地攻撃を明言した」「把握が難
しい移動式発射装置や潜水艦から、一度に数発発射されては、日米の迎撃体制でも対応
しきれない」という安倍氏の危機発言と報道が続いている。そして米国が潜在的に日本
に要求している、「自主防衛努力」(防衛費の抜本的増額)と、「自主防衛能力向上」
(米国製仕様武器の大量購入)、さらには「国際貢献姿勢」(海外派遣による米軍貢献
)は、米国の要求を待つまでもなく、安倍総理は望める政策そのものを進めている。
 もしトランプ政権が北朝鮮を攻撃すれば、北の金正恩委員長はすぐ対米報復に動きた
いだろう。が現状では米本土への攻撃能力は今は開発段階だ。つまりターゲットの最有
力候補は韓国であり日本だろう。そして在韓米軍と在日米軍とは最もな目標ということ
になる。これでは日米韓が協力して戦うしかない。ロシア、中国が北朝鮮を支援しなけ
れば、日米韓連合軍が北朝鮮に勝つことは確実だろう。そして、数万数千の犠牲者を出
ても、「戦勝」に持ち込まなければならない。そこに中国やロシアの介入があったとし
ても。である。かつての中国政府の様には 日本はこの列島を除いて生存できないのだ

――「昔から武器は凶器であるとか、戦争は不吉であると言われてきた。しかし、その
ような思想で武器を廃止し、戦争を放棄できるわけではない。今の世界において列強は
西洋諸国ばかりだが、今後の数十年先には東洋から大国が出現するという可能性もある
。私の考えでは、中国がこれに当たる。すでに武力が不可欠であるということを知り、
現在の日本の軍備の不十分さが分かったなら、一日も早くその改革に着手すべきである
。」―――― 福沢諭吉の国防論より

295: 名無しさんAA:17/04/11 11:22 ID:J/A
  ディノン・ディノン25-2

 「国家を守るためには、人を殺すための機械がなければならない。昔から武器は凶
器であるとか、戦争は不吉であると言われてきた。しかし、そのような思想で武器を
廃止し、戦争を放棄できるわけではない。この言葉は単に武力を軽々しく行使しては
ならない、という警告に過ぎない。」
 「国際法はその言葉だけを見れば公平である。それは道理によくかなったものだと
人々は言う。しかし、口先で唱えられているものが、実際に行われるわけではない。
今の世界の実情を評するなら、人々の言論は道理公平の世界であるが、実際には武力
侵略の舞台であると言える」明治時代の啓蒙思想家である福沢諭吉『兵論』
「国力の発展は草木の成長と同じようなものである。今では弱小とされる国家でも、
その国民が変わり、政治の方針を改めた時には、旧体制を脱却して強大な勢力になる。
これは、あたかも時が来れば草木が栄養を得て、わずかな地域に長く生い茂るような
ものである。(中略)今の世界において列強は西洋諸国ばかりだが、今後の数十年先
には東洋から大国が出現するという可能性もある。私の考えでは、中国がこれに当た
る」 米国の北朝鮮政策には 挑発ともとれる言葉もあるが基本的には核ミサイルの脅
威であろう。中国政府に核開発ミサイル発射の制止を呼びかけるも今や中国に力はない
 対する北朝鮮報道官は「トランプ米政権が『力による平和』を叫び、朝鮮半島に戦略
攻撃手段を次々と投入しているが、われわれは眉一つ動かさない」と強調。「われわれ
に手出しする者には『超強硬』に立ち向かい、強力な力で自らを守る」と訴えた。
 成程 如何に北朝鮮が人民を苦しめているとしても 国家主権の範囲の行動でもある
。その中のシリア攻撃は それはつまりは、自由主義を標榜する米国は米国の自由しか
許さない。という事になる。が 果たしてそれらの意見は双方共に戦争の兆候である。
この矛盾を正す事を 古賀茂明氏は言っている。トランプ氏の「一緒に戦おう」という
誘いを断ることなど、誰にもできない事実と日本に選択の自由はないという実情は今の
日本人を害しているのは当然で。今後――ああ あの時反対していればよかった。――
と言うのはあり得る話であろう。


296: 名無しさんAA:17/04/11 15:16
夢の中の夢

  ディノン・ディノン25-3

 少なくとも日本の経済力であれば、今の国防にどの程度の資源を配分するかを政府が
政策として軍備を整えることを議論する事は当然である。トマホークなどの「巡航ミサ
イル」の装備などの具体策まで掲げ、北朝鮮とのミサイル戦争に備えて 陸上配備型の
イージスシステムやTHAAD(終末段階高高度地域防衛)の導入にも触れているのは
この危険性にどう対処するかの話だが、それでもこの大きな事が国会での議論が全く行
われないまま、話がどんどん進んでいるのはかなり危険な事であろう。「厳しさを増す
国際情勢において、速やかに国力を増進し、特に軍備の増強を推進しなければなりませ
ん。」というのは日本のみならずロシアの飛び地を横にしたリトアニアなどの小国の意
見でもある。それは今の米国同様ロシアの大国主義によるウクライナ政変劇やクリミヤ
編入事件の為である。そしてこの大きな戦争悲劇の論理は今のロンドンから出て来てる
。嘘でも広告し離脱する。と言う声だ。残留派のジェレミー・コービン党首は批判され
、離脱派の市長であった今外相となったポリス・ジョンソンは国民に謝罪もしていない
。つまり民衆統治には嘘も許される。と言う立場なのだろう。そうしたこれは大国概論
であり、大国の自由さを求めた野蛮な声である。小国の夢で統合したにも関わらず英国
は離脱を表明した。英国自体が幾つかの小国の集まりである中でその利点を不義理にも
捨てる。という何とも言いようのない馬鹿理論を踏襲したのだ。人間の本性なのだろう
。今回のシリア空爆も 当然ながら本当のところは全く解らない。シリアはムアツリム
外相をモスクワに派遣し、ロシアのラブロフ外相は会談の後に、「シリアは化学兵器を
国際管理に委ねる」と発表し、シリアの化学兵器禁止条約加盟に要する文書を国連に提
出している。さらに、化学兵器禁止機関に「シリアの化学兵器をすべて搬出、処理し終
わった。」と発表している。つまり窮地に立つ「イスラム国」や「ヌスラ戦線」が一挙
挽回の策として神経ガスを放出し、シリア政府軍の行為として非道を訴え、米国を介入
させる戦術に出たと言う可能性はある。こうしたアルカイダの一派が支配地域の住民を
「人間の盾」として犠牲を出して来た事は多々ある。平和な集団でも逃げて来た兵士が
その集団を変えて大きな事をすることもある。


297: 名無しさんAA:17/04/12 11:38 ID:fQ2
夢の中の夢

  ディノン・ディノン25-4

 そも21世紀にもなって人類は戦争は何の為行うのか。個人の欲望で行う事しかあり
得ない。にも拘らず戦争と言う大規模で民衆や兵が集団化しなければならない中で個人
の欲望を満たそうとしていると言う何ともナンセンスな状況だがそれが大真面目な国家
問題だから厄介だ。かつて原爆被害者は「よく考えててください。使うに使えない原爆
を開発して 開発時すら放射能障害が出て危険でありながら 通常兵器の方がよっぽど
利口で戦術的な兵器なのに なぜ危険性も高く保存も効かない大量虐殺の無差別兵器に
固執するのだ。おかしいじゃないか。」日本の武士道特に剣道には打って反省打たれて
感謝と言う独特だが敵おも思う心がある。つまり己も敵も昇華し精進して人間性を高め
る気合いである。その意味では頭の良い者ならこうした全く残虐なものの使用は恥ずべ
きものとして国の威信には使わないし 強力であればあるほど敵もまた強力な物を開発
する。つまり人殺しの道具にそうした意味の無い開発競争はそれこそが人類の損失とい
う事を知っているのである。そこに欧州のチェスと日本の将棋の違いがある。この古賀
氏の危惧する危険性がそこにある。基本的に欧米型の戦争では明日は無い。貧困にあえ
ぎ生き残った人間はより子孫を人生の保証の如く子沢山の貧困に陥るし 無くなった文
化は中国ロシアのような共産化した強権社会で人を閉じ込めて社会を維持する。そこで
監視員や指導員のいる刑務所のような組合国家となるのである。これが独裁国家の始ま
りであろう。その意味では日本や台湾或いは東南アジアの戦後処理は人の戦いであって
欧州の殺戮の悲惨さ競争とは少し違っていたと言える。もう少し言えば、マレーシアも
シンガポールも台湾も北朝鮮も実はその独裁政権から移行している。北朝鮮だけが独裁

298: 名無しさんAA:17/04/12 11:39
監視員や指導員のいる刑務所のような組合国家となるのである。これが独裁国家の始ま
りであろう。その意味では日本や台湾或いは東南アジアの戦後処理は人の戦いであって
欧州の殺戮の悲惨さ競争とは少し違っていたと言える。もう少し言えば、マレーシアも
シンガポールも台湾も北朝鮮も実はその独裁政権から移行している。北朝鮮だけが独裁
で終戦になった訳ではない。ただ違ったのは隣に中国がいた事だ。 国連安保理は、北
朝鮮の核実験や弾道ミサイル発射を受け、北朝鮮への「ヒト・モノ・カネ」の流れを絶
つことを目指し、平成18(2006)年以降、6つの制裁決議を採択した。その度に
規制品リストを明記し、加盟国に検査・押収を義務づけた。だがこれは北への制裁とし
て有効なのか。かつての日本が戦争に引きづりこまれた経緯経過と全く同じとしたら、
人類はどうしようもなく 一歩も平和や和平に近づいてはいない事になる。日本のTV
局もあの拉致被害者が日本に到着した時何故北へインタービューなど企画しなかったの
か。あの戦時中のアサド政権すら西側TVに出ている。金氏や習氏との直接インタビュ
ーが日本は出来ていない。この事はTVや新聞社の衰退でしかない。対話と圧力の中で
対話の素地が日本のメディアはどう考えているのか そのコミットが全くないのはおか
しいすぎるのである。


299: 名無しさんAA:17/04/12 15:02
  ディノン・ディノン25-5

 個人には虚栄心がある。そして嫉妬心がある。国家にもそれは当てはまる。韓国が今
カンナムスタイルで慰安婦像を国際条約に違反してでも排除出来ないのは その虚栄心
のが殆どの国民の意志にあるからである。その上に嫉妬心があって 既に追いつけない
日本の姿に憎んでいるのである。その韓国の姿と北朝鮮の姿に何の変わりあろう。ここ
に自国を認めないスタイルがある。「怒り」には対象があるが「憎しみ」は対象のない
只の感情である。今日「道徳の社会性」が「個々の善人性」より上回ると言うおかしな
論評が出ている。押し付けられる社会性や道徳が個々の思う善の姿とかけ離れた偽善者
と言う理論が闊歩している。オバマが「アサド軍が化学兵器を使った」ことを理由に、
シリア攻撃を実行しようとしたが「攻撃の手」をすぐさま止めた。それは今のイラク戦
争の報告書に見るように「フセイン政権がウサマ・ビンラーディンと関係を築こうとし
た証拠も根拠も実在しない」し、「大量破壊兵器計画」についても、戦争開始時は存在
しなかった。こうした国家の嘘を知っていたからに他ならない。もっと言えばウサマ・
ビンラーディンすらも犯罪者ではなく、ブッシュ一家によって兄の石油会社を乗っ取ら
れ暗殺されたからであって 例え大統領ブッシュの公然とレッテルを貼ったにせよ大掛
かな仕掛けであったにせよ911も含めて嘘で起こった現実に過ぎない。今回のシリア
問題もこのいい加減な米国政府が操られた形の戦争によって起きた後のISILの拡大
であり、「アサド派」と「反アサド派」の戦いに乗じて勢力を伸ばした事が問題だった
。その後ロシアが介入しイランはアサドを支援し、米国、欧州、サウジアラビア、トル
コなどは、反アサド派を支援しているが、とばっちりを受ける欧州にテロは尽きない。
この虚栄心を満たすものとして中国には共産党がある。がこの血の結束を謳う北朝鮮は
それがまた繁栄の足枷となっている。中国もロシアも北もいずれもこの共産党が足枷で
発展が阻害されている事は気付いている。が当の権力者はその上に権力者の地位がある
事も否定できない事実なのである。


300: 名無しさんAA:17/04/12 16:57
夢の中の夢

  ディノン・ディノン25-6

――国や政治の役割は二つある。一つは、国民を飢えさせないこと。それと
  もう一つは、これが最も大事な事です。絶対に戦争をしないこと させない事――
 だが こうした約束を反故にした国に 一体他の国々は何ができるのだろうか。本来
なら社会国では憲法や社会が担い、自由主義国では 国家や会社がその役割を担う。が
今やその核心は揺れに揺れてしまい 社会保障制度すら個人の出資に依存しているのだ
。そも公共負担に人は税を出している。ところが 自治体は人がいなくなって過疎地化
して乗り合いバスを運行し 通常の経営形態にしない。それはおかしな話である。今回
の東京や沖縄もまず自治体経営をしていない。水道料金や電気料金は赤字になるからと
値上げする。なのに内部改革しないで国鉄解体よろしく民業圧迫を散々行い解体となる
。まさしく溝に捨てる金である。これを議員は論議しない。もし豊洲移転で利益を産ま
ないというなら市場を株式にして民業に売り払えば言い話である。何も危険な築地市場
を再生させる理由はない。沖縄も同じで地勢的条件で国の砦となるのは必須である沖縄
が、もし危険で住みたくないとするなら沖縄予算で他に移ってもらえば良いのだ。それ
を逆に中国人や韓国人の本土の人権団体などおかしな連中を数多く引き入れている。現
に沖縄の自治権の中で警察があるにも関わらず 勝手な地元人のふりをした検問所を作
った事件が起こっている。こうした事件と今度の北に対する空母のデモとは全く事象は
違うが人の心理現象は同じ所に見える。それは北朝鮮も世界も戦争を背定してはいても
進めるべきとは思っていない。沖縄も国も安全で安心の国家や土地を求めている。そし
てその原因は共に外にある。ロシアが北方四島に抜かりなくミサイル発射基地を置く様
に、双方とも何とか意志を貫きたいとして行動を起こしている。馬鹿だと思うのは、正
に米国打倒のミサイルだ。と公言し核実験して はばからない事である。つまり子供が
母親の目を引くために悪戯するような物である。だがここまで米国は無視し続けたのも
たしかだ。それは度重なる六ッ国協議の停滞と国連安保理の決議違反からでもある。も
ちろん中国でさえ国民を餓えさせているのに北朝鮮に強い意志があるかは疑問だが。


301: 名無しさんAA:17/04/14 05:04
米国万歳
 ラ・ファン   34

 日本では 国民の義務として 勤労の義務 納税の義務 教育の義務 を課している
。義務教育が盛んに言われるが 納税義務も大きな会社で節税とか減税とか言い脱税に
近い処理を行うがそうした基準を作る国会議員そのものが違法行為なのである。直接税
から消費税と言う間接税に代わったがこれそのものも国民の声でなったとは言い難く、
ほぼ違法行為なのである。更に対して国は国民に 自由平等の権利 平和の希求しての
国家国土の安全 健常健康な生活環境の提示での国民の安全 を確保するとしている。
それは「格差社会」「子どもの貧困問題」などの大きな社会問題が既に欧米社会に現れ
社会的損失をこうむっていたし 原爆と言う最終兵器の出現からだ。だからこそ「反ト
ラスト法」に準じて財閥解体を行ったのであり、日本での巨大連合社会を無くしたのだ
。が本国アメリカでの巨大資本は解体出来なかった。それどころか日本で四大財閥が消
えた事で多くの米国資本が既に政府に食い込んでいてより大きくなった。がこれは当然
で世界中で巨大資本として他にもメジソン系や東欧騎士団系ムスリム系コミンテルン系
が跋扈して当然ながら競争し対抗せざるを得なかったのだ。問題は戦争前このコミンテ
ルンは組合自治を掲げていて緩やかな共同体組織だったが 国家共産主義として変容し
世界革命を論じた事だった。これに対抗呼応してドイツでナチス党が産まれた事で米国
では資本では世界統一論が産まれた。この系統が戦後の自由社会でのパックスアメリカ
ーナ理論である。この自国覇権主義は、多くの地域に不幸をもたらし今でもその一端は
現れている。今米国ユナイッテッド航空でのダブルブッキングで人間が強制廃棄される
という事件が問題になっている。これこそが人権問題なのだ。しばしば警官が公権力で
黒人を殺したり暴行したりする事件が起こる。これと同じにアメリカでは権利と義務が
しばしば間違えて使われる。即ち権利とは乗客が乗って行ける権利だし義務とは乗客を
安全に目的地送る義務だ。その権利をより優遇された条件や金で解決するというのは、
この義務の放棄に他ならない。それを許しているのは弱い会社の条件に乗客が再契約を
認めるからであって航空会社や警察が強権を使用する条件を満たしてはいない。財閥も
又同じである。例え国家以上の経済力や軍事力があっても国家を凌駕していい理由には
ならない。即ちアメリカのロビイストの活動そのものが違憲なのだ。



302: 名無しさんAA:17/04/14 11:29
米国万歳
 ラ・ファン   34

 日本では 国民の義務として 勤労の義務 納税の義務 教育の義務 を課している
。義務教育が盛んに言われるが 納税義務も大きな会社で節税とか減税とか言い脱税に
近い処理を行うがそうした基準を作る国会議員そのものが違法行為なのである。直接税
から消費税と言う間接税に代わったがこれそのものも国民の声でなったとは言い難く、
ほぼ違法行為なのである。更に対して国は国民に 自由平等の権利 平和の希求しての
国家国土の安全 健常健康な生活環境の提示での国民の安全 を確保するとしている。
それは「格差社会」「子どもの貧困問題」などの大きな社会問題が既に欧米社会に現れ
社会的損失を被る中 原爆と言う最終兵器の出現で敗戦を迎えたのだが。終戦後「反ト
ラスト法」に準じて財閥解体を行ったのは平等社会の建設の目的からだ。それでも日本
での巨大連合社会を無くした事で本国のアメリカでの巨大資本はより不平等な社会を産
み続けながら 余りにも巨大資本で解体出来なかった。それどころか日本での大財閥が
消えた事で多くの米国資本が更に政府に食い込んで より大きくなった。がこれは当然
で世界中で巨大資本として他にもメジソン系や東欧騎士団系ムスリム系コミンテルン系
が跋扈して当然ながら競争し対抗せざるを得なかったのだ。問題は戦争前このコミンテ
ルンは組合自治を掲げていて緩やかな共同体組織だったが 国家共産主義として変容し
世界革命を論じた事だった。これに対抗呼応してドイツでナチス党が産まれた事で米国
では資本では世界統一論が産まれた。この系統が戦後の自由社会でのパックスアメリカ
ーナ理論である。この自国覇権主義は、多くの地域に不幸をもたらし今でもその一端は
現れている。今米国ユナイッテッド航空でのダブルブッキングで人間が強制廃棄される
という事件が問題になっている。これこそが人権問題なのだ。しばしば警官が公権力で
黒人を殺したり暴行したりする事件が起こる。これと同じにアメリカでは権利と義務が
しばしば間違えて使われる。即ち権利とは乗客が乗って行ける権利だし義務とは乗客を
安全に目的地送る義務だ。その権利をより優遇された条件や金で解決するというのは、
この義務の放棄に他ならない。それを許しているのは弱い会社の条件に乗客が再契約を
認めるからであって航空会社や警察が強権を使用する条件を満たしてはいない。財閥も
又同じである。例え国家以上の経済力や軍事力があっても国家を凌駕していい理由には
ならない。即ちアメリカのロビイストの活動そのものが違憲なのだ。


303: 名無しさんAA:17/04/20 00:14 ID:JIo
 佐賀の山口知事は 本当に馬鹿ではないのか。世界中で北のミサイルを心配している
中で パック3などの迎撃ミサイルも用意してない中で 原発視察に稼働容認なんて、
あり得る状態ではない。北は優に10発位はここ玄海原発を的にしてる噂なのに 全く
県議会も県知事も佐賀県の平和ボケも良い所である。馬鹿につける薬はない県民揃いだ

日本には あり得ない議員が多すぎる。国民の資質がない。学芸員を何と思っているの
か 観光なんぞで地域活性は出来ない。学芸員の文化保存や意義の発掘こそが鍵なのに
お友達内閣とは 全く信任に値しない大臣ばかりだ 安倍氏は日本を維持する為の有能
な人間に関係を持たないようで 内閣なんぞ創る資格がないようだ。全くあり得ない話
が多すぎる。法務大臣が総理大臣を助けるなら兎も角専任の法務大臣を無知な総理が擁
護するのだから 話にならない。防衛大臣もしかりだ。内閣をなんだと思っている舐め
んなあよ〜〜〜。国が潰れるぞ。




304: 名無しさんAA:17/04/20 06:06
それでも 安倍内閣しかない事実


305: 名無しさんAA:17/04/22 01:13
  米国万歳
    ラ・ファン   36

 英国のメイ首相は、下院を解散して予定される総選挙を前倒し実施する。と言う攻勢
に討ってでた。とニュースが出た。声明では「現政府を支持するか民意を問いより安定
した政権をつくる為。」と来たるべき離脱交渉に向けての安定した足場造りとされる。
 だが本当だろうか。なんかちょっと違って行き当たりばったりの逃げ足場に見える。
そもEU離脱反対派でありながら ブレクジット実行首相になったが彼女は国民の総意
を尊重するとしてその反対派の足向きを変えた。つまりEU離脱や残留に信念が無かっ
たのだ。更にこの投票が如何にも可笑しな嘘の羅列での投票であったのに 不審審査を
全く行わないと言う「当たらず触らず」の地位保守の議員であった。殺人事件すら起こ
った一大事件なのに不当があったらおかしいだろうとは言わなかったのだ。そんな弱気
のメイ首相が総選挙にでたのだ。そも外相もその一番の曲者ジョンソン氏に任せたのだ
。今回の選挙も スコットランド離脱アイルランド反対が解っていてEU側からは話合
いの席すら着けない内憂外患の首相だった事で 辞めてもいいと思ったとしか思えない
。メイ首相がブレグジット支持方針を年初に表明した時から 基本的にポンドは買えな
いという話になるのが自然である。離脱交渉が円滑に進むようにとの配慮が金融筋ある
かも知れないが20年かけて暴落の憂き目に合う事は避けられない。そんな中フランス
では時期大統領選挙でテロが発生している。「移民排斥」や「EUからの離脱」を呼び
かける極右のルペン候補を応援するようなテロの発生である。更に殺された警官が先の
銃撃事件の現場で功労のあった警官でISが犯行声明までだすと言う稀な事件だ。少し
おかしい近況はなんか裏があってついていけない。北朝鮮もやっとロシアが出て来た。
金正恩がTVに出るたび ロシアからの情報収集機が飛来して 日本ではスクランブル
発進が続く。トルコも独裁に近い。ロシアの諜報部や工作員がかなり動いているのかも
知れない。日本も天皇問題は名称などに固執して 譲位の国民の忖度の在り方には全く
議論しない。象徴天皇であるからには 国民の了承の投票があっていいはずだがそうし
た憲法発議はないらしい。ちょっと世界的にどうしたもんか 可笑しな人類になってい
る。

306: 名無しさんAA:17/04/23 12:13 ID:oxM
  米国万歳
    ラ・ファン   37

 こうして販売されると「裏切らない残虐性」は面白さの「信用」を得て、遊び場のな
い子供を虜にした。こうしてシリーズ化された「人気は権威」となり「好意」となった
。「周囲の動きに同調したくなる気持ち」は、子供世界にはより大きい。だが政府は、
こうした犯される子供の世界を守らなかったどころか ゆとり教育などとして無能化し
た国民を作り上げた。これが二つ目のデフレの基礎となった事は言うまでもない。これ
がアメリカの文化もヨーロッパの文化も途端に意識崩壊させたのは言うまでもない。今
政府は日本文化を自画自賛させているが馬鹿げた話だ。寿司が海外で変化してるように
海外からの文化も海外へ行く文化も間違った伝承を止める事の方が先の筈だ。それは、
日本人すらも間違えている事だ。アニメーション文化ゲーマー文化もまるで西洋東洋の
コラボした物で成り立っている様な事が全く気に喰わない。が、こうした相乗効果は、
かなりの進化形を取る。かつて東南アジアは外資規制の中に居た。兎角メジャーなどの
海外企業がのさばって国内企業が出来ないと言う国内産業保護の為の方策だったからだ
。だがこの地域でタイは隣のポルポトが政権を取ってしまった事から 国王がいたにも
関わらず第二次世界大戦以降軍事が民主化を阻んでいだ。そこで他の国以上に海外資本
の誘致の為に海外資本の工場誘致に優遇税制を敷いた。そこで他のマレーシア・インド
ネシアもこぞって真似をした。此処に一大「生産基地」が出来 産業が大きくなった。
この相互作用は先行していたフィリピンやベトナムを引き離した工場立地と経済成長を
起こした。それが金融投資まで読んで国や銀行の持つ外貨以上の投資を産み引き揚げを
産んだ。言わば海外銀行の貸し剥がしである。こうして起きた「アジア通貨危機」に、
日本はいち早く保証を入れ比較的早期に解決を果たし今に至っている。トランプが馬鹿
だと思うのはこの「北米自由市場」の相互作用の相乗効果を無くせば、恐らく米国内の
投資先さえもが又別に移り 又他の地域の拡大から国内が苦境にたたされる。という事
を理解していない事だ。自由経済を捨てるのであれば兎も角競争原理の中で一番でいた
いと言うのであれば 自分の近くも高い経済国家を造り 公衆道徳ある文化引き入れる
事は大きく大事な事なのだが。

307: 名無しさんAA:17/04/24 12:16 ID:uH.
  おひょろさん

 世の中には可笑しな人もいる。それはそれでいいのだが その人たちは食べれるのだ
ろうか。不思議にも人は自分より下の暮らしなど気付かない。私の家の近くも年行った
娘が一人暮らしだの老いた親との暮らしだのしている。或いは最近まで良かったハウス
が今や居ない状態だ。多くの人はそうした事をまるで当たり前の世界の様に思っている
。私の子は何故だかやさしい家系だったようで 幼稚園や小学校と誰もが相手しない 
少し障害のある者や薄弱な者と付き合うのが多かったようだ。ある時少し変な味の餃子
を食卓に出した。それまでは何とか保っていた私の家が崩壊したのはそれからである。
次の日は頭が痛いと学校を休んだ。対応の仕方もまずかったのだろうが 医者も行かな
いといい熱も無い 顔色もさして悪くはない。まさか店の食品が毒入りとは誰も思わな
いだろう。そこ2・3日はそれですんだがそこからはいきなり非行の連続である。警察
の厄介もそう少なくは無い。だがこの警察が又いい加減である。悪い奴を叱れないのだ
。「家の物を盗るまでは盗みにならないが 他人の物を盗ったら 泥棒だろう。」とで
も諭したのか それ以降は家は火の車なのだ。於いていた有用なものが次々と無くなる
。仕事の合間を縫って警察、裁判所、鑑別所などと立ち回る日々が次第に家を追い詰め
た。考えれば 私の時代は不幸の連続だったかも知れない。小学校入学時代に東京五輪
が始まったのだが この頃から日本は狂ってしまったとの思いが強い。農業従事者が今
高齢化してどうのこうの言うが かつても同じだった気がする。かつての戦後世代が、
比較的長生きして20歳位の平均年齢を高くし 更に機械化して人が集団就職をしても
都市の生活に疲れて帰ってきた時代だったから 数字的には年いった様に見えるのだろ
う。普通に考えて働き盛りの40を超えれば 婆あと爺いである。だが今の日本の政治
家はまるで国宝級の天然記念物的人間が 無い知恵でめっちゃやたらと法案審議しては
法律を作って老人ではないと言い張るのである。馬鹿な事に年金を引き揚げ 新生活の
プランなどほざいている安倍氏の時代の人間は めちゃくちゃいい加減な赤軍派時代で
そうした諸先輩にこなされて 精神病院送りの友人は多い。産めや増やせの戦後派は、
それ自体がブームで彼らがダッコちゃん人形買えばブーム フラフープで遊べばブーム
思想家気取れば割腹自殺すらあり 車に雑誌にパソコンにオタクとどんな趣味も流行の
発端となったのだ。

308: 名無しさんAA:17/04/24 16:19
  おひょろさん  02

 恐らく この凄まじい世代は今も老人世界に続いている。東芝やシャープの欠損事件
も 山一証券やダイエーやソゴウデパート消滅事件と 全く同じ 帝国陸軍の匂いが、
ぷんぷんするのである。恐らく戦後世代には こうしたスパルタ式で育った特攻崩れと
呼ばれた 引き揚げ兵士が教育する時代だったに違いない。そして清水ー熊谷戦争など
言われるように 食べる為の権利争いが多数存在し 兵士は国の命令で行って死ぬ目に
合いながらも帰ってきたのに 平和主義者は兵士や軍部がろくでもない戦いに連れて行
った為に日本の命運尽きたのだ。との意識で呪いながら働いたのだろう。幸いな事は、
その後の子供達は 銃剣の練習をすることなく自由主義の下で 腹は空かせていたもの
の 睡眠も遊びも学びも充分にあった事で 子供の笑顔が絶えまなかった事だったのだ
ろう。これは社会の明るさをもたらした。そして何よりも「水」と「緑の大地」がそこ
にあった事だ。ラジオからTVへ バイクから車へ 機関車から電車に 線路から道路
にと角栄時代が過ぎた頃 私が出会ったのは友人の死である。幼児時代のカネミ油症か
ら少年時代の水死事故 高校時代のバイク事故は絶え間なくあって 二十歳の頃の思想
事故はかなりのインパクトがあったに違いない。それは同世代がTVスターにならされ
ていた事だ。不思議に美空ひばりやそれなりの有名人と会った筈だが小さい頃だった為
か全く普通のおじさんおばさんでしかなかった。そうした事は多く又相手もどこの馬の
骨かわからぬ者に早々肩入れする事でもなかった筈だ。が何故だか高校の時は廃校とな
った中学校にタモリとあったし最初の会社の入社じゃ関口宏が東京に来いといい友達の
友達は陣内木工の息子がいたり中山正義がいたり 列車では隣にスティーブジョブスが
いて船に乗れば坂本九遺跡巡りに司馬先生がいたり叔父の友に山田耕作や吉田 正などの
シベリア抑留の友もいた。妻夫木君の親戚が妻夫木だったりと人気者の相手からは何とも
印象の無い只の一般人でありどうって事の無い事だろうが よくよく考えれば 立派に
TVの繋がりを持とうとすれば出来たかも知れない。が私の方も興味のない事だった。
売れる前頃に指原がローラースケートで声かけして来た事もあったが それでも何の事
はなかった。人とは何とも不思議な者である。


309: 名無しさんAA:17/04/24 16:57
 おひょろさん  03

 ところが最近頓に このTVの魔物が気にかかって仕方がなのである。これはかつて
の「元気の出るTV」やマチァキの「世界を救う」と言ったTVのせいかも知れない。
EU離脱や移民問題など 何で本質を見抜けないTVになったのだろか。マードックの
せいかも知れないが 日本のTVも腐れていると思う。フルタチさんでは、現在では、
フリーの神田愛花アナ(36)が、自身の失敗により3カ月間ニュースを読ませてもら
えなかった過去も明かしているが 彼女を勝手に間違いを勧めたのは今の社会情勢だろ
う。最近特に生番組が多いが 彼女に限らずどうもTV局は段取りしない。お笑い世界
がこんなに面白くないのは、洗練された話が無い事に尽きる。いとしこいしや、やすし
きよしの話やコント55号でも 勿論アドリブの妙技はある。だがその底辺には2時間
や3時間でも話せる漫談やコントの流れの一つであって そこには洗練されて訓練を重
ねた者のもつ独特の安心感があったのだ。歌手が唄う歌でもTVゲームが貯めたような
企画や試行錯誤の上の完成品の味わいがあったのは確かだ。これが今やいきなりリズム
や音程の妙技で話ことばに代えた歌ばかりだ。忌野 清志郎 が言った言葉の様に本物を
味わう事を忘れたようである。これをTV局は進めているとしか思えない。化粧をしな
い素顔は お客に裸を見せるようなものだとか 裸のTシャツが怒られたとかパワハラ
どころか あれだけ多様性や自由な議論を推奨している姿とは似合わない 倒錯した現
代文明論の押しつけである。もし放送局社員やNHKの方針が「お客様」への「着飾り
」が売りの放映としたら 一般人を相手にした「鶴瓶に乾杯」や「YOUは何しに日本
へ」などとは放送するな。と言いたい。人の自由であり例え社員であろうと強制した装
いのみが放送姿勢なら一般人にもそれ相応の権利があろう。そうなれば事件の報道さえ
風景は取れないはずになる。大体事件を起こしたとする確信犯の映像や車や氏名を伏せ
るのは 報道に値しない報道と認めている様な物で 社会正義から言えば辛坊治郎の様
に「人権弁護士が・・・」と言うのは下らない屁理屈でそういう人間はTV司会はして
はならないのだ。社会正義を守る事でこの世に存在する立場は それなりに行使して初
めて社会の中の企業なのだ。それを放送局保身で放映しない権利など何処にあろう。


310: 名無しさんAA:17/04/24 17:28
おひょろさん  04

 今日のNHKやBPOや消費者センターが こんなに腐れて保身で勝手な言い分をし
て権力を傘にして大手を振るのは 正に日本の癌細胞を増やす様な話である。シャープ
も三洋も東芝も そういう意味ではこのメディアの思想統制にやられたのだろう。日産
がかつて今のゴーン社長に乗っ取られたのは この奇譚なき議論が遂行できる世情形成
が出来なかった事にある。今でもちょっと有名であれば TV局新聞は横並びに一斉に
放映報道である。天皇の御言葉の映像より大きい。近年では浅田真央さん(26)引退
記者会見である。放映するなとは言わないが 彼女は自己に能力がありながらも続ける
努力をしていない。勿論華々しい記録はあろうが もっと努力しても罰は当たらない。
逆にTV界が彼女を甘やかしたのである。沖縄問題も同じだ。全く沖縄県民の気持ちも
大事ではあろうが 地政学的危険は変えれるものではない。新しい発想とか真に日本の
国の国民の為の解説をしているか。と言えばNOであろう。ヘイトスピーチと同じに、
報道に防衛や予算や潜入捜査もなしに簡単に特集と言いながら状況報道で終わっている
し 詳しいと思えばあの朝鮮人の様に全くのニセの平和主義をちらつかせた批判なのだ
。これらの報道に足りないのは 確かに悲しい過去や いつわざる怒りの現代が映って
いる。だが本当の未来を的確に予想して解説しているのだろうか。そこには核廃絶問題
と同じく それなりの運動を応援したアプローチはしていない。今になってやっと米国
で原爆展が開かれる許可を得た位である。かつての軍人の会の「原爆が戦争を終わらせ
た。」「原爆が米国兵士の死を少なくした。」と言う言葉を否定できるほどの理論を、
形成しただろうか。歴史的資料は日本の敗戦は決まっていた。だがこの原爆を落とさな
いかぎり軍部は「一億玉砕」「本土決戦」の叫びは止めれなかっただろう。と推論して
いる。果たして時の日本人は軍部に反乱出来る力を持っていたのかは 全く調査されて
いない。慰安婦にしろ靖国にしろ 日本のメディアはこの誤報に天罰は与えたか。全く
なされていない。それどころか今の若者に そうしたものの正確な意識を与えていない
。中国人もいい人だ朝鮮人もいい人だと言う 全く個のない留学生受け入れで議論はさ
せても、正確な歴史資料の提供はなされてない。まがい物を探しては日記だ資料だとい
った具合で政府すらも そうした公式の軍事資料館を持たないまま靖国に任せている。
これは 各政府や自治体の記者クラブ制と同じで日本メディア界の失態である。


311: 名無しさんAA:17/04/24 18:03
  おひょろさん  05

 こうしたメディア界の事なかれ主義は 結局は自らの首を締めている。読者なり視聴
者なりのメディア応援の姿勢を崩しては赤字体質にしているのだ。現に中国情勢の詳細
はかなり日本に影響を与えているはずだ。が秘密裏に作った協定によってそれらは調査
も記事にも報道にもなっていない。馬鹿の極みである。全く平和を守ると言う闘う姿勢
が無い事の証であろう。これでは日本国民が視聴するに値わないと判断するのも当然で
ある。何かと言えば 食べる観光 売る衣装の放映に徹していてNHKすらも番組宣伝
である。自ら魅力ある番組であると言う誇りを捨てた行為ばかりだ。これが馬鹿議員の
質疑にも漂う。議員達に「もっと体制批判して民主主義を極めよ。」とか「NHK報道
取材は予算が少ない。イベントよりは情勢ニュースに重きをのせよ。」とか「国の平和
を守る為の自意識を高め行政批判を多くせよ。」と言った意見は皆無に等しく、8Kの
映像の臨場感とか放送料金徴収とか全くの 審議になってない審議ばかりだ。現実には
PTA問題や給食費問題は 実は託児所問題などとは比較にならない大きな問題だ。親
の中で 貧困に近い都市の中での救われない若夫婦に就労の無い世界は存在しない。他
の国の 例えばアフリカや未開地の様に学校にも通わせないなどとは日本では通用しな
いはずだ。それでもかつてなら オシメも買わずに洗い ミルクも買わず母乳の子育て
生活を行う3世代住居は存在した。今の都市中にそうした貧困生活は不可能だろう。更
にかつての様な人情長屋的集落は 行政のご都合主義で解体され新しい都市区画事業と
して 莫大な金をつぎ込み行っている。老夫婦は追い出され若夫婦は住めない。ならば
当然のごとく日本の少子高齢化が起こるのは必然である。無就労とは言わないまでも、
コンビニ店員やそこだけ就労の者が 使い捨て企業でやっていける筈も無く そうした
中に外国人雇用だとかIT管理化だとか機械化だとか行っている。馬鹿げた企業群であ
る。原子炉事業の東芝には そうした事を進めながら 一向に国民の方向を向かず政府
提言しなかった天罰だ。と言う声がでてくるのも当然である。何処にも何処ででも矛盾
は存在するはずなのだ。それが問題がないようなフリをした大企業は よく考えるべき
である。国民ファーストは行政が言う物ではない企業が言う物だ。議員や市長は公務員
などが公僕に徹っしていないからこんな言葉がでるのである。


312: 名無しさんAA:17/04/25 20:41 ID:sFs
 食欲とは体を保つ為のものだ。そして食事とは味あう物だ。味とは舌で味うものだ。
その舌の中のには味覚素子が千個以上ありその味覚素子で味っている 超辛いものなど
を罰ゲームしているのは皮膚を火傷させて 寒さや温かさを解らせない事と近い。凍傷
と同じに身には危険が解らないままにさせる行為である。ある意味人体の虐めを許した
行為なのだ。これがお笑いのプロだからこれで喰っている生活しているから出来る事と
は言えない。TV局も少し考えよ。馬鹿食いの石井などTVに出すべきものではない。
裸芸のあきら100%が面白いから 笑いn大賞をとらせると言うのは 審査員も質が
落ちたものだ。全く話芸のない芸人に芸人の資格などない。視聴率が良ければTY殺人
を実際起こして映像化するのか。馬鹿である。せめて 昼の小学生が学校にいる時間帯
で放映すべきだ。BPOは何を審査しているのか。芸でもない芸 絵にもならない大食
い。科学的にも否定された文化にもならない言葉。公共の電波法違反の違法電波である。


313: 名無しさんAA:17/04/26 17:49
 仕事をしない 判断しない そうした小池都知事に 東京都議連は百条員会や弾劾
裁判をかけるべきだ。汚職した訳でも事件が起こった訳でもなく。苦渋の決断し苦労し
て移転執行に仕事をした役員を 百条委員会にかけ その栄華の上に安穏と乗っかかっ
て簡単に浪費と負債を続けるふしだらさは 今すぐにで裁判に値するはずだ。我々は、
苦労した偉人を裁き 現代の権力者のみを阿たような可笑しな韓国人ではない。時空を
超えても正しいものは正しく 悪い物は悪いとする国民である。直ぐに判断しないまで
も行き先も告げず 都民を人質にした都政と言うバスを走らせるは 例え権力者であり
知事職を得ていたとしても 小池知事は行政執行に対して犯罪人である。このままでは
東京五輪すら失敗となる。

314: 名無しさんAA:17/04/26 17:50
夢の中の夢

  ディノン・ディノン26

 まるで 市議会議員レベルの言葉である。いやいや市議会や県議会でも この発言は
ないであろう。まるで震災被害者が悪である。こうした強気なふてぶてしさは九州人の
特色であり、こうした言い切り門切型の発言は佐賀県人の特徴でもある。嫌味でも何で
もない素直な発言だ。東京では大きな問題視の発言だが全く間違ってもいない。東京で
の地震や津波であったなら確かに数十倍の被害であろう。この今村雅弘復興相が東日本
大震災の被害に関しての「まだ東北の方だったからよかった。」との発言は 復興大臣
としては恥ずべき思慮不足だが この思慮を高めるべくした生活や知恵や議員としての
資格や教養などがないまま勉強に至らないまま大臣をやっていたのではないか。元々に
今や国会議員の平均年齢は異常に高い。古今東西を問わず トランプさえ70過ぎなの
だがそれだけ若者に任せられな。期待できない。何かが読み取れるのだろう。佐賀県民
でも 被災地の出身者は「何を考えての発言か」「許せない」と怒りに震えているし、
国会議員や地元鹿島市の支援者らも「辞任はやむを得ない」と受け止めていると言う。
「皆さまのおかげで東日本大震災の復興も着々と進んでいる。」とあいさつし、「社会
資本などの毀損(きそん)もいろんな勘定の仕方があるが、25兆円という数字もある
。これがまだ東北で、あっちの方だったから良かったけど、これがもっと首都圏に近か
ったりすると莫大(ばくだい)な、甚大な被害があったと思っている。」「おかげさま
で、いろんな道路であるとか、住宅の高台移転など着々と進んでいる。本当に皆さんの
ご支援のおかげということで、改めて厚くお礼を申し上げる次第だ。」と言った事が問
題発言と取られている。こうした内容は「咀嚼していない知識」つまり官僚の基本レク
チャーそのものだろう。公の中の議員プレゼンスや演説にはならないとは思わない事を
知らなかったのだろう。「東北でも、あんなひどい25兆円も毀損するような災害だっ
た。ましてや、これがもっと首都圏に近い方だったら、もっと、とんでもない災害にな
っているだろうという意味で言った。」と釈明である。決して間違った意見ではない。


315: 名無しさんAA:17/04/26 17:51
  ディノン・ディノン26ー2

決して間違った意見ではないのだが それでも間違った見識なのだ。その理由が全く当
人は理解していなかったのだろう。その後に「1万8千(人)なにがしですね、一瞬に
して そういった方が命を落とされた。そして社会資本の毀損もあった。こういったこ
とが もう二度とないように防災、強靱(きょうじん)化対策をやらなければいけない
。」「大変な災害だということはもちろん承知している。撤回ということであれば、も
ちろんこれは(撤回)する。ご心配を掛けたことを改めておわび申し上げる。」と全く
意見されている主旨の間違いを理解しているとは思えないのだ。松本龍復興相が岩手県
知事に「知恵を出さないやつは助けない」と発言し、就任わずかで辞任した 務台俊介
復興政務官が「長靴を持たずに職員に背負われて水溜りを渡り」、その後に「長靴業界
はだいぶもうかったんじゃないか」と 人気取り発言して辞任に追い込まれた。これら
も同じに本人は普通の行為と思っているに違いない。この「見識」と「知識」と同意語
する発言は続く。この発言の大問題は 知識と見識の違い認識がないことである。知識
は誰でも見るデーターであり共有する事実である。だが見識はそれから読み解くもので
事の本質と実体なのである。これは人の目が2次平面を見ているが 意識に色々な過去
の経験から3次元のデーター場合によっては4次元の時間まで含めたデーターとして処
理している面でもわかる。そしてこの言葉は物事の本質を深く見通すすぐれた見識から
の 本人の総合判断力としての「知恵」を求めている事に他ならない。東京の人間が 
京都言葉の様に「忖度した態度と言動」を求めているのは異様でもある。だがそれ以上
に今更ながらの認識を改めて言わざるを得ない程の 馬鹿げた無知無教養の議員知識と
言うのは一体何なのだろう。と改めて政治家の普通でない常識や生活がそこに存在して
いるのかも知れない。


316: 名無しさんAA:17/04/26 17:51
  ディノン・ディノン26ー3

 そもそも 国会審議そのものが議員辞職しても止まない内閣要員でもある。野党が国
の内閣大臣の説明を求めているに 官僚トップが説明するというのが映しだされたが、
それが法務大臣である。全く御飾り大臣で済まないはずの大臣で 死刑執行権に調印し
同意する権限がある大臣なのだ。ニュースでは民進党の衆院議員が、「保安林区域内の
キノコなどを無許可で採ると組織的犯罪集団の資金を得るためだとして共謀罪の対象に
なるのか。」と問うたのに対して、金田勝年法相は「対象になり得る」と答えた。また
、山尾氏が、墳墓発掘死体損壊なども対象になるのか、と問うたのに対しても、法務官
僚は「対象犯罪になる」と答えた。さらに、同じ民進党の枝野幸男衆院議員が「著作権
法違反も『共謀罪』の対象になるとしている、ということは、ヤマハや カワイなどの
音楽教室が著作権料金を払わないと『共謀罪』の対象になるのか」と問うたのに対して
も、答えらしい答えはなく、枝野氏は怒って退席した。と言う話である。そもそも外国
でEU離脱に取材する特派員に現地人からは「日本は大丈夫か。」と問いかけられると
された事は多い。それは北朝鮮の独裁以上に「トルコのエルドワン。ロシアのプーチン
。そして日本の安倍首相。」が最も世界から心配され恐れられる独裁者。と考えられて
いるのである。今回の共謀罪の法案に安倍首相は、「今回の法案の対象は組織的犯罪集
団に限っていて、一般の人には関係ない」と繰り返し説明しているが、この説明には全
く説得力がない事を知っている。「事実関係の詳細は国連機関が調査中」に「国際秩序
の維持と、同盟国と世界の平和と安全に対するトランプ大統領の強いコミットメントを
日本は高く評価する」だってさ、「どうやって守るんだよ?」という子どもでも考えら
れそうな簡単な質問も出て来ない国防CMがある。おどろおどろしい音楽に乗せて米軍
の 巨大な原子力空母や、北朝鮮の軍事パレードなどがテレビで頻繁に映し出される。
ミサイルの種類の説明をやってたり。ほんで、安倍首相が出てきて、「いかなる事態で
も国民を守り抜く(キリッ!) みたいなCMよ。「ISISのテロに狙われる可能性が高く
なったのも、北朝鮮のミサイルが飛んで来る確率が高くなったのも、誰のせいじゃ? 
そういうことをきちんと論じる報道はほぼ皆無。危機を煽れば煽るほどCM効果で、政権
支持率は高くなる。馬鹿らしい。」と室井佑月は嘆いている。国民しかりである。



317: 名無しさんAA:17/04/26 19:58
 可笑しな発案と発言の東京都の市場問題プロジェクトチームの会合が開かれたらしい
。築地市場の改修私案を示した小島敏郎座長が報告書の素案を説明しましたが そんな
無手勝手な私案をこんな公けの場所で税金使って話し合う。如何に無様で情けない議会
か。小島座長らは総工費約740億円とする築地市場改修の私案を提示しました。この
案に対し、自民党は「コストばかりに目が向き、市場の役割が軽視されている」などと
指摘し、公明党も「根拠が分からない」として小島座長を参考人として招致することを
求めている。報告書が完成するまでは応じられないとする考えを示した。座長私案の説
明会は主要六団体のうち五団体が参加を拒否しており、また仲卸事業者も組合理事長は
欠席であった。この稚拙な案は、現地業者の分裂と混乱を招いており、築地を再整備す
るという観点から見てもかなりのマイナスであるはずだ。「これだけ移転問題が揺れた
今なら、業界は一丸となって再整備に邁進する!」という主張に対しては、かつての移
転・機能分散が築地本願寺で事業者の移転反対の総決起大会が行われ中でもスローガン
で結束を約した、にもかかわらずやはり頓挫した歴史的事実がある。「1つは豊洲市場
移転案。これを考えよう。もう1つが築地市場改修案、これを考えようと言う訳です。」
「どちらの案を 採用すべきということをこの報告書案で述べているわけではなくて、
いずれの案もいろんな課題があって、その案を採用する場合にはその課題があることを
認識し、それを受け入れた上で判断をしなければいけないということであります。」と
何とも馬鹿げたプロジェクトチームだ。本来プロジェクトチームと言うのは、何かの「
計画遂行」若しくは「実行阻止」に集められるのだが 此処では全く違った豊洲移転の
反対の為の議論なのだ。これだけ豊洲市場が出来上がりながらの話で これは、行政の
沖縄と同じに都民との税務契約違反である。豊洲市場が違反物件なら裁判所に告訴すべ
きでそれを出来ずに移転せず築地市場を使用しているのは二重使用料を払っているのだ
これは当然沖縄の 空港が移転出来ない為に嘉手納基地の危険と新空港建設の苦しみと
二重に沖縄県民に沖縄県が苦しめている事と同じで 国との法理で解釈される契約違反
なのだ。


318: 名無しさんAA:17/04/26 21:15 ID:2lQ
  米国万歳
    ラ・ファン   38

 グラン・ギニョールの時代の再来と言うのは 見世物小屋の荒唐無稽な大衆芝居を行
って人気を得た「グラン・ギニョール劇場」から出た言葉とされる。当初は人形劇芝居
だったらしいが 次第に過激さを増して人気を得た。その後小劇場で「血なまぐさい」
、あるいは「こけおどしめいた」芝居のことを、フランス語では"grand-guignolesque"
「グラン・ギニョール的な」という言い方をしている。そこでは浮浪者、街頭の孤児、
娼婦、殺人嗜好者など、ストック・キャラクターが多く登場し、妖怪譚、嫉妬殺人に、
嬰児殺し、バラバラ殺人、火あぶり、ギロチン切断された後の喋る頭部、知らない異国
人の恐怖、伝染病など ありとあらゆるホラーをテーマとする芝居が特殊効果までもが
行われ上演されていた事による。短編で複数行われた事で そこでは折り目正しい舞台
では決して起こり得ない事が起こった。それは「驚異的観客動員数」であり「常に観客
のうち何人が失神する現象」であり、その為の「奇抜な仕掛け」であった。がこの事で
大衆芸能には火がついて一般的地位を得た。が二度の世界大戦はよりグロテスクな現実
をみて民衆はその後マンネリ化したものとして埋没した。このフランスで起こった様な
事が今世界で起こっている。物珍しさの好奇心を焚き付けて 更に道徳心の無い商売が
ウォール街に活況をもたらす。不思議にも誰もが解説者であり批評家なのだ。それだけ
生産活動などしないで大金持ちになれるのである。携帯電話が発達しフェイクニュース
が駆け巡り更にロシアに亡命した元中央情報局(CIA)職員スノーデン容疑者が暴露
した機密は全世界くまなく盗聴できるXKEYSCOREなるプログラムを知らしめた
。更に資料に基づき、米ニュースサイト「ジ・インターセプト」が報じた国家機密は、
既に民間では利用され 中国では改造されて暗号化など無意味な 改変プログラムでの
金融残高などの改変で潤っている状況のようだ。サプライズからセレンリブティを引き
残ったギニョールの世界は世界の潮流かも知れない。最近頓に人々はこうした異端社会
を望んだ思考構造で 何とも怖いながれである。


319: 名無しさんAA:17/04/27 07:01
  おひょろさん  06

 本当に日本の下層市民はどうやって食っていけばいいのだろうか。私の持つ人生観と
言う物は日本人的発想であろう。すなわち「死んだ人間の幸福」と「生きてる人間の幸
福。」の比較である。基本的に死んだ者の方が楽で幸せと考えられる世界は当然今の世
界が苦難に満ちている事を示している。生きて行くのが人の修行で 大御所ではないが
「人生は重荷を背負って坂道を登るが如し。」と言うのは誰もが味合う人生感かも知れ
ない。最近とみに思うのは結局の所 社が欲しいのは「金を産む召使い。」ではなのだ
ろうか。これでは人は奴隷でしかない。だが人は所詮そんな所かも知れない。自分自身
一体何がしたいのか何が出来るのかが解らない。解らないままに生きているのだが 人
の為にはなりたい。と思っている。日本の中で生活の進化についていけないでいる自分
が居るのだけは感じる。人が自殺や自暴自棄を選ぶことが解る気がする。かつてはと言
うよりちょっと昔まで「人は人を育てる事を本分とす。」が、ほとんどの人の殆どの事
の始まりの合言葉だった気がする。今の様に自分本位なんて姿は見た事はなかった。そ
れがここ2〜30年で全く変わってしまったのだが、これも小泉氏他自民首脳部の勝手
な政治の力ではあろう。およそ小泉政権時代にやるべきをやらなかった事は多い。又、
郵政民営化などとやらなくてもいい改革を勝手に推し進めた事も日本を全く駄目にした
理由の一つであろう。塩川財務相が言うように 母屋の国家予算は赤字の国債発行が続
きながら 裏の使用人小屋では贅沢だからと今まで貯めていた使用人の金庫を壊し続け
る。と言う全く馬鹿をやるのだから仕方ない。大体経済だけで言っても或いは行政のや
り方或いは福祉的政策でいっても 母屋の議員は何一つ考えていない。その点事細かに
その福祉をやっていた資金を取り上げると言うのだから全く国家政策のない馬鹿さだ。
今も首相時代には原子炉問題があれほど叫ばれながら修理延長を進めて於いて 退任す
れば原子炉発電廃止などと全国行脚する始末は 一体誰が報われると言うのだ。今回の
津波事故の大きな要因は小泉時代に廃炉し解体の手順を確定しなかった事が大きいのに


320: 名無しさんAA:17/04/27 18:26

福岡県警は 阿保ではないのか。これだけドライブレコーダーが普及してる中で 固定
のセキュリティカメラのみ解析しているのではないか 広く一般から募集しタクシー他
の映像も収集すべきであろう。何故TV局を通じた 犯人逮捕の資金提供を告示しない
のか。これだけの道を走った強盗犯の顔すらいまだに出てこないのは異常だ


321: 名無しさんAA:17/04/28 15:50
  ディノン・ディノン28

 近頃の日本は妙におかしな事が多すぎる。まずこの二階堂氏の無能ぶりはなんだ。全
く前近代的なKYの政治家ではないか。経営者ではないにしろ 国際的流れや国民的な
意見や今の技術的革新が一体どこに行こうとしているのか知るべき立場の政治であろう
。まああの安倍氏は余りにもピリピリしすぎだが それでも官僚や閣僚はそうあるべき
であろう。と言う批判はその位にして 築地移転のプロジェクトもプロジェクトとと言
うにはあまりにもお粗末な論議である。大体新しい物を探るからプロジェクトであって
豊洲市場移転に決まった物をごねるからプロジェクトにすると言うのは、全く法外識外
もいいところである。違憲も甚だしい。そのまま豊洲市場移転の為のプロジェクトを造
り出来るだけスムーズに低コストの運用にというのなら解るが税金の無駄使いも いい
加減にしろ都知事。貧民から狙われるぞ。今でも東京一極主義で呆れた無駄が多いのに
。無駄と言えば東芝の分割案や身売り案も全く無駄な話である。そもそも何故これから
原子炉売り込みに特化すると言い出したのか。これは国会の証人喚問並みの事件なのに
なぜ国は助けないのか。大体一番稼ぎのある医療分野を身売りしろなどと言うのは銀行
団の馬鹿な赤字損失隠しであって 東芝の会社の事を考えたら全く国の損失に等しい行
為でそこいらのサラ金より悪い。銀行がまともにシンクタンクなりプロジェクトを持っ
ているなら東芝に韓国の海運を買わせるべきなのだ。言わば東芝は既に世界に売り込む
製品を有した会社だ。更に郵政事業の機械化や宅配の物流システムの大きなノウハウを
持っている。つまりは東芝物流を創ってまだやっていないコンテナの大型バーコード管
理や帆船式コンテナタンカーを走らせるとか 色んな事がやれるしそのコスト削減は、
そのまま利益につながるはずなのだ。こうしたプログラムを組まないで 融資して焦げ
付いたから身売りさせて貸し剥がしする。なんていうのは アメリカのウォール街や、
ハゲタカファンドより始末が悪い。こんな銀行が国際化に乗れるはずはない。今や馬鹿
の様に他国のカードとの決済や電子マネーと言っているがスノーデンルポではXノート
プログラムは既に暗号化解読プログラムが入っていて何ら安全ではない事を示している
どんな改良強化をしても 理論上流通の上ではバックドアシステムが出来るとされるの
だ。そして中国や名のある団体はそれらを駆使しているので 全く電子マネーに価値が
ないのである。


322: 名無しさんAA:17/04/28 17:55
ムン氏を応援する北朝鮮工作員 最後は財閥解体だ。


323: 名無しさんAA:17/04/28 21:44
 希望と光の間 83

 またも病院の不審死が相次いでいるようだ。今だに臓器移植で人を救うと言う発想だ
。ニュースでは 埼玉県内の病院に入院していた10歳未満の男の子が、脳死判定され
て臓器移植が行われることになった。と伝えてる。臓器移植が決まったのは埼玉の病院
で頭部外傷で入院していた男の子であるらしい。脳死と判定され、家族の承諾によって
臓器移植が決まり、臓器の摘出手術が行われ、肝臓や腎臓、心臓などは、10歳未満の
移植を待つ男女などに、それぞれ移植される予定らしい。こんな殺人ゲームが今だ国が
許可しているのだから驚きだ。男の子の家族は、「たくさんの方々に愛され、まぶしい
ほどきらきらしていた息子が、どこかで誰かの未来のために役立ち、ともに生きていけ
ることを、わたしたちは誇りに思います」とコメントしている。そんな麗言美語を言っ
ても金銭の無い臓器売買の事実は隠せない。事実もし本当に人の身体が有用なら手足や
指などの移植もあってしかりである。それらがなく臓器に特化したやり方は 忌まわし
き石井部隊の流れの緑十字の血液治療と同じである。確かに学問的ものなら有用を認め
る。だがこの外傷入院で他の身体が生きているという事は その外傷を直せば生き返る
という事なのだ。それを行おうとしないし そうした意志を捨てたのである。これは、
医学の敗退でしかない。そうしてこうした移植が多くある時必ず医療界の殺人が行われ
更に医療事故の隠ぺいが行われていると言う統計が一致する。そしてそれは病院という
密室での 医者とは限らない看護婦や出入り業者や患者による事件もあるのである。今
この病院の事件が非常に少ない。過去の統計からも今少ないはずはない。更に言えば、
今だ静脈注射つまり点滴の穴の事件は解明されていない。法曹業界行政検察や検察など
のこうも無能で監察医すら届かない中で 移植の許可などはあり得ない話である。日本
が犯罪天国にならないならいいのだが。


324: 名無しさんAA:17/04/30 17:29 ID:gyk
 希望と光の間 85

 どうも説明つかない事が起こっている。整理すればCPCPニュースである。ある種
今やフェイクニュースは乱立している。それはIT発達によってIT商売に徹した者が
一生懸命創っているからだが が しかしこの中に共産党や自由社会或いはCIAなど
のプロパカンダが含まれている。戦争には「孫子の謀略はつきもの」とは認めるところ
である。だが、この「謀略」の対象が誰なのかが解らない様な時代になり、敵国の権力
者と軍隊なのか自国の民衆なのか不明のままの情報の氾濫である。それはある男が今回
シリア空爆で死んだ事による。このモロッコの隠れたニュースはかなりやばいニュース
であろう。反体制派の中で化学兵器での空爆事件があったが果たしてどうだろうかと探
るニュースメディアは多いが現地となれば少ない。かつてイラクでハラブジャ大虐殺と
言うクルド人地区での化学物質による虐殺が起こった。この「ハラブジャ大虐殺」は、
フセイン政権打倒のためにアメリカ政権が提供した口実の一つである。との結論である
。このレポートが衝突前に公表されていたら、ポルトガルやスペインなどは、米英など
によるイラク侵攻支持を再考したかもしれないと語った。まず9・11事件直前には、
ロビンすら暗殺した イスラエルは ダーバンで開かれた「諸国家連合会議」の中で、
人種差別国家と非難を浴び、イスラエルとアメリカだけが退席するなどしていた。国際
社会の世論の中での孤立を深めていた中で日本は小泉氏がイスラエル援助を決めたのだ
。報告書には、「イランは、1988年のハラブジャ大虐殺でクルド人5000人が化学兵器で
殺戮された者の責任を有する。」と言っている。だがこれを計画実行したのがイスラエ
ルのモサド別部隊と言うのである。中東情勢に関する実情を知る者なら、このモサドや
CIAなどの犯行、謀略の可能性が高いことは、すぐに感じるはずだし、徹底的に調査
すべきと思う報道機関があって然るのは当然である。日本ではこうした事は「陰謀説」
として退けるが実は決定的証拠が挙がったのである。当時イラク訪問中のパウエル米国
務長官は、1988年にで住民約5000人が犠牲となったイラク北部のクルド人の町
・ハラブジャを訪れている。同行した記者団にその兵器の粉末を分析した者がいたとし
てもおかしくない。長官は、犠牲者の集団墓地で行われた式典で、「世界はもっと早く
(フセイン政権の残虐行為に対して)行動すべきだった。ここで88年に起きたことは
もう2度と起きない」と演説し、大量破壊兵器拡散阻止を大義に旧フセイン政権を打倒
したイラク戦争の正当性を強調したのだが、この分析の結果が イラン側に売りつけた
イスラエル製品の疑いが濃い事となった。

325: 名無しさんAA:17/04/30 17:29
この時パウエル米国務長官は国連での報告書には「クルド人に対するマスタードガス
と神経ガスの使用は、20世紀の最も恐ろしい虐殺の一つだ。5000人が死亡した」
と非難し、それは米政府の公式広報誌にも同様の記述で米国の公式見解だったのが解る
。日米メディアはこの事件を公式見解こそが明白な事実として報道しているが、疑わし
い点は多い。ハラブジャはイラク、イラン両軍の激しい戦闘の舞台になっていたし、米
中央情報局(CIA)分析官の90年の報告書では「イラクイラン両軍が化学兵器を使
ったがイラク製には殺傷能力は低かった。現実にクルド人を殺したのはイラン軍の爆撃
である可能性が高い。」と指摘し、死者はシアン(青酸)ガス中毒の兆候を多分に示し
ており、シアンガスを使っていたのがイラン軍だったという事から イラン側の兵器に
間違いないと分析している。で問題なのはここからだ。この時の特殊工作隊の分野が今
のISILを束ねて創った。と言うのである。従ってイスラム国建国の上自らを『カリ
フ』と名乗り「預言者ムハンマドの後継者」として全組織の司令官に就任したのは、こ
のイスラエルのモサドの指令による。としているのだ。更にこのクルドに温和な「クラ
イシュ族」を束ねて戦争をわざわざ起こさせて イスラエルから目を遠ざける事が目的
でこの目的において 米国のイスラエルロビーやネオコンの軍産産業も同意していた。
というのである。そして何故モロッコ新聞かと言えば 現代においても、ヨルダン王国
やモロッコ王国がクライシュ族の末裔を国王だからだ。としている。アブ・バクル・ア
ル・バグダディ容疑者がモサド出身である事は良く知られた事実で イスラエルはこの
自分の傍の平和な国ヨルダンを狙ってISILを造ったというのだ。湾岸戦争でのブッ
シュの親父が、この「大嘘」を付くことは強いられた事で、サダム・フセインからパレ
スチナ問題を持ち出された事によるプロパガンダ、デマゴギーを創りラムズフェルドも
、イラク「戦争」の苦境逃れにこのデマを再度駆使してイラク戦争の正当性を強調する
ために繰り出した「伝家の宝刀」が「大量破壊兵器拡散阻止」であり「フセイン政権打
倒しの正当性」の大義つくりだったのである。逆に言えばイーイ戦争が拡大する事中東
が混乱してイスラエルの人道問題の報道がなくなる事が目的だった。と結論されるのだ

326: 名無しさんAA:17/05/02 04:03 ID:zmw
 希望と光の間 85-3

 ところが話はここで終わらない。我々が知らない民族にロマ族と言う民族がいる。こ
れは言わばジプシーと呼ばれ放浪する民である。今でもブルガリアを始めフランスやら
ドイツイタリアと広くいてトルコにもロシアいもいる種族とされる。がこの人たちは、
宗教も言語も既に失っていて ロシアに行けばロシア正教イタリアに行けばカトリック
トルコに行けばイスラムフランスではプロテスタントとされ 言語も又その地方の片言
の言葉をしゃべって暮らしている。定住地を持たないとされるが現実的には持たせられ
なかったとされる。つまり貧困率が高く学校教育でも差別され教育が行き届かない為に
行政から捨てられロマとしてさげすまれた身分なのである。実はドイツヒットラーでさ
えその実態を知らず イスラエルを創ったユダヤ人虐殺ばかりが注目されているが、実
は虐殺された4〜8割は実にロマ人だったであろうと言われている。キリギリスタンは
キルギスと言う人種の坩堝の意味である。トルクメニスタンやウズベキスタンはウズベ
ク人やトルクメン人と言う人種と思いがちだが違っている。彼らは太古の昔にモンゴル
帝国やペルシャ帝国やローマ帝国オスマン帝国などに翻弄されて移り住んできた氏族で
あるとされる。このロマ族はこのペルシャ近郊でクルド人とある意味同じ感覚の中にい
た。チェチェン紛争はコーサカス地域と呼ばれる黒海とカスピ海の間のカフカス山脈の
麓の肥沃で豊かな所にある。がこの土地でもロマ人は虐められる労働者であったのだ。
先のクルドを分けたイイ戦争に「戦争が無ければ米軍も動けない。だから戦争を起こす
」と言う行動は実はこのチェチェン紛争の時の論理と同じと言うのである。「第一次チ
ェチェン戦争は、エリツィン大統領再選のために必要であった。」「そして第二次チェ
チェン戦争は1999年の大晦日にエリツィン大統領は辞任してプーチン代行に その
地位を譲り、大統領経験者の不逮捕特権を手にする為に筆用だった。」とD・B・Nは
証言したのである。そして「これらはロシア政治情勢を理解しなければならない。と言
っている。

327: 名無しさんAA:17/05/02 04:07
 希望と光の間 85-4

 日本ではあまり報じられないが シャミーリ・バサーエフ野戦司令官が死亡した時に
は、「テロの黒幕」としてロシア連邦保安庁から1000万ドルの懸賞金をかけられていた
。ロシアでエリツィン大統領の革命的民主化運動が起こった時 反体制派のエリツィン
側に居た。彼がそのままチェチェン独立の為に故郷に帰った事で身辺警護をプーチンが
代行したとされる。この頃エリツィン一行は秘密裏にオウム真理教と接触し ロシアの
国内での真理教布教を許している。この頃米国CIAはロシアの核のボタンの行方を巡
って暗躍したとされる。チェチェンでは彼が帰って功を奏して 民主的に選挙された温
厚なマスハドフ大統領が選出され 和平交渉を提起していた。だがそれは食糧基地とし
て軍事的共産主義の歯止めとして ロシア側にとって頭痛の種だった。更にロシア政府
には行動が制約され、国際機関や西側各国政府と市民団体からの圧力が常にあったとい
う。自らが民主主義を求めて着いた政権だったが この地域が民主主義になる事は少量
ではあるがバクー油田の権利と天然ガスの供給を捨てる事なる事が危惧されたし 逆に
西側ではその権利が必要とされて民主化をそそのかしていた。頭越しの交渉を西側と行
うには、民主化の主張と土地の権利を唱えるマスハドフ大統領を消すしかなかった。と
される。バサーエフは1991年にロシアからトルコに向かう旅客機をハイジャックした後
、1994年にアフガニスタンやパキスタンを歴訪、チェチェンに戻ってから武装闘争のた
めの精鋭部隊を編成したとされるが、これらは FSB(ロシア連邦保安庁)やGRU
(ロシア連邦軍参謀本部情報総局)の参謀によって操られているロシア正教会が権力の
指示だったと言われる。そしてその構図はそのまま911テロに受け継がれた。NY市
長ルディ・ジュリアーニは数々の民営化措置をしてNYを安全な所にした。その一環と
して緊急管理事務所の運営も民間に任命していた。ジェローム・ハウアーとの契約も又
その中に入っている。そして彼の母こそイスラエルロビーの主要なシオニスト組織の、
ハダサの代表だった。ジュール・クロールの運営するクロール社はデーターベース構築
にガーディアム社にだした。ガーディアムはIT分野で自動セキュリティ分野のモサド
の隠れ蓑会社として有名で下請けにシステム・プランニング社を使った。この会社は、
遠隔飛行機制御技術を専門としている会社であったのだ。だがブッシュ家が政権取った
後ニール・ブッシュは投資顧問会社としてこのシオニスト連合との接点を持ちネオコン
との繋がりを持った。


328: 名無しさんAA:17/05/02 04:08
 希望と光の間 85-5

ブッシュ政権時代になって、世界貿易センタービルは次々と所有者をラリー・シルバー
スタイン氏が持つに至った。世界貿易センター全域を32億ドルで99年間リースする
契約を締結し。35億ドルのテロ特約保険を掛けた。つまりテロ保険の方がビルよりも
高かったのだ。理由はそのビルには有害な防火上の石綿が吹き付けてあって ビルの中
の貸り主からの要望が石綿除去の要望があった為とされている。ラリー・シルヴァース
タインは 自分がそのタワーを購入した理由を「私はそれらを所有する抵抗し難い衝動
を感じた為。」と説明している。シルバースタインは毎朝、このビルのレストランの「
世界の窓」で外を眺望しながら朝食を摂るのが好きで日課になっていた。更にイスラエ
ルの日刊紙ハアレツによれば、元イスラエル大統領で戦争犯罪者のアリエル・シャロン
やイスラエル首相ベンジャミン・ネタニヤフらとは 日曜日ごとにネタニヤフから電話
を受けるだろうほどに、大の親友だったとされる。大のシオニスト制御メディアの中心
的存在ルパート・マードックも又その中にいた。がそれだけ愛着のあるこのビルに彼は
911の日には朝食には現れる事もなく、このビルで働いていた彼の娘も現れなかった
。これが如何に計画されたものかが知れよう。1993年に和平(オスロ合意)を成立
させてイスラエルのイツハク・ラビン首相とロビン首相がPLOのアラファト議長との
歴史的握手をした時ホワイトハウスではブッシュではなくビルクリントンに代わってい
た。実は1993年はシオニストの大事な年で世界貿易センタービルの地下駐車場での
爆弾が爆発した事件であった年なのだ。犯行はイスラム原理主義テロ組織アルカーイダ
とされ(ウサーマ・ビン・ラーディン)とイスラム集団(オマル・アブドッラフマーン
)が関与したとされている。その後のオスロ合意もPLOを支持して来たムスリム同胞
団とロビンを首相にしたシオニスト連合が ここで決定的に敵対する事になった。この
時密閉された水素を使っての0.6tonの混合爆弾が作られたとされ 計画では爆発に
よってタワー1がタワー2に倒れこんで崩壊させることも企図していたという。相当な
負担がかかったのだ。実際30mの穴が4階まで達して開き6人の死亡と1040人の
負傷者がでている。この時ビルは本体の補修工事もままならず管理運営の経済損失と又
防衛警備の批判も度を越えてあったのだ。此処に此の後に ブッシュ家は破綻の手前で
あったといえる事が見える。


329: 名無しさんAA:17/05/02 04:08
 希望と光の間 85-6

 チェチェン紛争でロシア軍は1995年3月に首都グロズヌイを制圧した。が 虐殺
問題などで国際批判を受け、1997年5月チェチェンとロシアは暫定平和条約に調印
し、5年間の独立問題の凍結でロシア軍はチェチェンから撤退した。にも関わらず19
99年8月,チェチェン武装勢力が隣国ダゲスタン共和国を攻撃し 再び泥沼の戦いに
のめり込んだのである。ここに先のシャミーリ・バサーエフ野戦司令官がいたのである
。チェチェンはイランとトルコが近く、軍事上の緩衝地帯である。資源面から見ると、
チェチェンで原油を産するし、カスピ海のバクー油田からのパイプラインが領内を抜け
ている。ロシア側にとってはチェチェンを自国のコントロール下に置いたままでいたい
のは当然であった。この時2001年9月11日以降、ブッシュ政権が「テロとの戦い
」を掲げ、世界を「テロに反対する国々」と、「テロを実行し、支援する国々」に二分
する表明をし、この時ロシア連邦保安局(FSB)の元長官、ウラジーミル・プーチン
が大統領に就任したのだ。そしてその後には、ゲリラ戦と親ロシア派の市街戦が繰り広
げられ、これに対抗するロシア軍の「掃討作戦」として空爆などが続き、泥沼化してし
まったのである。911の事件にはその前の地下駐車場事件が数多く絡んでいる。又こ
の駐車場事件は不思議な事に爆破計画に関与していたエジプト人のイマード・サーリム
という情報提供者がいたことをFBIは明らかにしている。そして裁判証言では早くて
も1992年2月6日には、この計画をFBIに知らせたと主張している。彼によって
、FBIは数百人いる容疑者の中から犯人を迅速に割り出すことができたとされている
。つまり地下駐車場爆破事件のその後にFBIは かなりの大きな概要も人脈も資金も
流れを掴んでいたはずだ。それでもこの911テロが発生したとは 全く考えにくい。
むしろ発生させた。テロ容認どころか支援したと考えるのが最も自然なのである。更に
このチェチェンの構図は今のクリミヤ半島やシリアの構図と全く同じロシアのやり方を
見せている。911事件の後、保険金など総額80億5千万ドル(約8千億円)もの大金
をオーナーは手にしたという。勿論ブッシュ家はその手数料を懐に納めたはずだろう。



330: 名無しさんAA:17/05/02 04:08
 希望と光の間 85-7

 E・スノーデンがロシアに持ち込んだ こうした資料は一笑に付された模様だったが
それは プーチンを誕生させた裏話がアメリカの支援だった事を裏付ける物だったから
だ。だが 世界の暗号化した通話記録が見事に盗聴できる「NSA」が開発した「XK
S」プログラム(XKeyScore)は目を見張る成果を持っていた。このXKeyscore(エック
スキースコア)は、世界中の外国人に関するインターネット上のデータを検索・分析す
るために米国国家安全保障局(NSA)が使用する元極秘コンピュータ・システムである。
と説明されるが ロシアでは更に進化して ハッキング以外にかなりの要件を満たす物
に変化した。SCSやSSOと言う情報収集機能とFORNSATと言う「外国衛星収
集」だったのだが これらに大型コンピューターでのデュプリケータ機能をして発信源
による位置情報と言語認識機能を持って 殆どのコンピューターを変えるプログラムを
有するのである。つまりもはや通信に於いて暗号化は全く用を成さない状態になったの
である。これまで電子コインなどの認識に過去帳が埋め込まれて 解析し偽造するには
同じ価格の電気料金と時間が必要とされて有用だったが これが最新鋭のプログラムで
代わる恐れがでてきたのだ。各国の通信保安局で集められるこの諜報データーベースは
今や処理のプログラムの開発段階に来ている。「WXKSC」はその発展形かも知れな
い。今どこの国が開発しているかは解らないまでも ミラープログラムと中国製「BD
IC」ブラック・ドア付き集積回路は容易にその情報を可能にしてくれるのである。そ
れは他人の指紋を付けた手袋が インターネット画像で出来るような物で 高価な高速
コンピューターでは容易に出来てしまうような物で 一般的政府やネットワークを既に
構築した銀行や企業では対応は不可能に近いのである。近頃に南アフリカ偽造カードが
日本のコンビニで引き落としされたが これらは序の口の事件と言える。中国北朝鮮の
目を見張る進化は こうした情報ルートの構築が出来上がった事で経済成長しロシアを
始めイスラエルやイランの脅威は アメリカがイラン原子炉プログラムに飛び込んだ事
で火をつけた形で 今や跡も無く見張られて複製化されているのだ。


331: 名無しさんAA:17/05/02 04:10
 だがどうしても解らない事がある。まずチェチェン武装勢力が隣国ダゲスタン共和国
を攻撃してロシアが又侵攻したと言うのは間違いだろう。それは民主化と言う声が絶え
間ない民衆にロシアの支配が効かない事に苛立った事が侵攻させたきっかけだろう。そ
れはあれだけ平和主義者の、チェチェン独立派の一部の部隊(シャミーリ・バサーエフ
ら)に対して米国は「テロ組織」というレッテルを貼ってロシアに歩調をあわせたのか
、という事である。テロリストに指定されたバサーエフは、もともとロシア側とつなが
りのある人物である。更にチェチェン和平交渉を訴えていたチェチェン共和国のアスラ
ン・マスハドフ大統領の支援をしていた筈だ。チェチェンの第一次紛争後アメリカにも
支援の手を訴えた筈なのである。更にイスラム原理主義テロ組織アルカーイダとイスラ
ム集団と対峙していた事を知っていた筈だ。いくらブッシュがいて悪を極めていたとは
言え、平和を求め石油資源を求めて更にアルカイダや原理主義者を叩くなら この時程
好機はなかった筈だ。確かに酒飲みエリチェンが核兵器のボタンを握っていた事は心配
の種ではあったろうが このチェチェンとの親交を創る事は可能だったはずだが、それ
をしないでロシアにおける侵攻を後押ししたのだ。不可解な事にミハイル・ゴルバチョ
フは既に1990年にロシアSFSR(ロシア連邦)の大統領となりこれを契機に政治
経済の抜本的改革を目指しペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を断行
し、外交では新思考外交に基づき東欧の民主化革命を支持し冷戦を終結させたが ソ連
の同時に発生したチェルノブイリ原発事故をして人は混乱し失脚の憂き目にあっていた
筈である。1991年ここにKGB革命が起こり、KGB議長のウラジーミル・クリュ
チコフ、ヤナーエフ副大統領、ヴァレンチン・パヴロフ首相らの「国家非常事態委員会
」なる者らの保守派が起こしたクーデターではクリミアに軟禁状態にされた筈だ。モス
クワ市の共産党第一書記や共産党政治局員候補から解任されていたエリチィンなど が
抵抗運動でこの革命は失敗に終わった。が この時の逮捕者が 全てにゴルバチョフの
側近達であったのだ。これにより権威は失墜し糾弾していたエリチィンは人民代議員と
して復活しSFSR(ロシア連邦)の大統領に就任するに至った。エリツィンはソ連共
産党の活動停止の大統領令に署名し、ゴルバチョフはソ連共産党書記長を辞任し資産凍
結の憂き目に合い、同時にエリツィンはソ連共産党中央委員会の自主解散を要求し、エ
ストニアとラトビアの独立を承認した。臨時両院合同会議でパブロフ首相の不信任案が
可決され政治的ライバルであったエリツィンがロシア連邦のソ連邦からの脱退を進めた
ことにより、ソ連は崩壊した。この時米国は傍観をしていたとは思えないのだ。

332: 名無しさんAA:17/05/02 04:10
2005年に回顧録の作成時ジョージ・H・W・ブッシュ元大統領が招待したが その時
ゴルバチョフが記者に語った言葉がある。
アメリカ人(達)は私たち(ロシア人)を適切な敬意をもって扱ってこなかった。ロシ
アは真剣なパートナーだ。私たちは素晴らしい歴史を持つ国家で、外交経験も豊富だ。
科学にも大いに貢献してきた教育国だ(った筈だ)。ソビエト連邦は西側にとって(こ
れまで)単なる敵ではなくパートナーだった。その(対立した冷戦)システムにはある
種のバランスがあった。アメリカ合衆国とヨーロッパは新しいヨーロッパのための憲章
であるパリ憲章(ヘルシンキ宣言)に署名し、新しい世界ができることを示そうとした
。(ではないか)しかし、その憲章は無視され、空白を利用して政治的利益が追求され
た。私たちが提案した新しい考えに反し、勢力圏(拡大)を(意図的に)獲得しようと
の必死の努力がアメリカによって再開された(事は非常に遺憾な事だ)。その最初の結
果がユーゴスラビア危機であり、ロシアに対する優位を得るため、NATOが駆り出さ
れ(紛争が起こっ)た。
 私たちはヨーロッパのための新しい安全保障を構築する準備ができていた(し発表し
た筈だ)。しかし、ソ連が崩壊してワルシャワ条約機構が終了した後(には)、NAT
Oは過去の約束をすべて忘れてしまった(様に行動を開始した)。それは軍事組織とい
うよりは政治組織になった。NATOは「人道的理由」でどんなことにも干渉する組織
になると決めた(為に法外な行動を起こした)のだ。私たちは現在までにユーゴスラビ
アだけでなくイラクでの干渉(の行動)も(確実に)目撃してきた。それは国連からの
何の委任も承認もない(不法で根拠のない)干渉だ(った)。
 (かつて)私が宣言したときに西側は大歓迎した(筈だが)、20年前の新しい考え
についてはこれくらいにしておこう。
**------「ヘルシンキ宣言」は、国家主権の尊重、武力不行使、国境の不可侵、領土
保全、紛争の平和的解決、内政不干渉、人権と諸自由の尊重などの原則、信頼醸成措置
の促進などの安全保障や技術協力などの推進を掲げ、冷戦時代の東西対話に大いに役割
を果たしたとされる。------**
西側の行為に対するゴルバチョフの苦々しいトーンは、冷戦直後の時代の希望に満ちた
観測とは著しく異なる。このベルリンの壁崩壊25周年に際しての訪米は、ソ連最後の
指導者は西側にとって今もヒーローであるからだろう。だがしかし、ミハイル・ゴルバ
チョフ本人にとっては、西側はもはや好ましい存在ではなく 失望した状態にあったと
言える。

333: 名無しさんAA:17/05/02 04:11
 希望と光の間 85-10

 こうした事から言える事は この米国内のシオニスト連合体は 表に裏にかなり重要
な位置にありかなり強力で 更に非情であった。という事だ。私は今更911を解明し
批判しようなどとは思わない。それは殆どの人も同じだろう。がしかし、これから後の
未来社会を一体どのように持って行こうとしているのかが 大きな関心事であろう。又
今やITの奴隷と成りゆく人類を救済し更に進化させるのも こうした権力者や金満家
であるのは孫う事ない事実であろう。だが911の時の様に 空港警備も都市の警備も
更にビルの所有も国の権力もこのシオニスト連合体が手に入れてこうしたテロが政府の
号令一下秘密裏に行われると言う問題は 逆にシオニスト連合体を又苦境に陥らせ世界
大戦を引き起こしかねない。と言う危惧がある。今の北朝鮮問題もロシアが欧米社会を
不審視している事も こうした事が既に知れ渡っているからに他ならない。日本が強固
に米国支持をして離れていないのは 平和と法秩序を愛する事による繁栄を期待しそれ
を金科玉条としているからであって 西側政権の潮流が今のトルコの様な事になれば、
それなりに不幸が訪れる事が解っているからである。ユダヤ教がキリスト原理主義を主
張しイスラム原理主義と戦う事で生き残りを図っている事は 当然の帰結かも知れない
。だがそれでは鬼畜の如きシオニスト軍団となり それでも神に祈り生きる資格は残る
かと言えば 神が許さない。それが今の原子炉事故であり地球の温暖化である。これ程
国際化し大型化し危険な社会になっても尚 かつての昔の様なアルカディア思想の選民
主義は全く通る余地はない。不可能なのだ。それが神の言葉であり神の意志である。で
は人類はどう生きるかどう治めるか。そこが今の宗教の世俗主義化である。本来の人間
の役割に戻って 人の心に宿る良心こそが生きる道である事を悟るべきだ。物や社会に
は進化があり流行がある。ここに来てシオニストが立ち上げただろう共産主義は独立し
て独裁主義と一体となった民主主義が台頭して来た。区分けや線引きのない思想や戦い
は進化の過程で起こる融合の本質だが それは同時に人間をごまかす危険な意識でもあ
る。ここで問題なのはこの誤魔化され間違えてしまう事が 今までとは格段に違い世界
を破滅させるだろうという事だ。AIにしろ経済にしろ金融にしろそれは世界の脅威で
あり人類の脅威で ユダヤがどうのこうのイスラムがどうのこうのでは無い 大きな時
代に入ったという事になろう。


334: 名無しさんAA:17/05/02 08:48
 追憶の彼方から 39


335: 名無しさんAA:17/05/02 08:50
 おれのを 盗ったな 盗作だこの野郎 もう書いてやらない。





336: 名無しさんAA:17/05/02 08:51
 希望と光の間 84

 ごめん ごめん いいじゃないか 少しぐらい


337: 名無しさんAA:17/05/02 10:48
  希望と光の間 85

 北朝鮮をめぐり東アジア情勢の緊張が続く中、政府は「安全保障関連法」に基づき、
海上自衛隊のヘリコプター搭載型の護衛艦「いずも」にアメリカ軍の補給艦防護の任務
を開始した。安保関連法に基づく初の米艦防護となる。NHKなどが伝えている。この
「米艦防護」とは、自衛隊法の「米艦等の武器等防護」規定に基づき、他国軍の艦船を
防護する任務だが。2016年に「安保関連法」が施行され、やっと実施可能となった
新しい任務である。他国から要請があった場合、防衛相の命令により他国の弾薬や艦船
、航空機を守る任務に従事する。これは主にはアメリカ軍を想定したもので「米艦防護
法」と呼ばれる程今の状況を想定した行動基準となる法だ。これまでには自衛隊が防護
できるものは、平時には自らの艦船や武器のみとされていた。この「米艦防護法」では
アメリカ軍の艦船を守る場合も、状況に応じて「合理的に必要と判断される限度で武器
を使用することができる」と定められている。この光景にイギリスのBBC放送は今回
の米艦防護措置について、「より小型の護衛艦を投入する選択肢もあったが、海自最大
の護衛艦(いずも)を投入した」と指摘し、「安倍首相稲田防衛相は、日本の平和憲法
を廃止しようしているナショナリストだが、平和憲法の廃止はほぼ不可能だ。そのため
安倍首相は、安保関連法を強引に成立させた」と説明している。又「安保関連法案は今
や事実上は平和憲法を無視しても、自衛隊活動によって自国や同盟国を守ることができ
る様になった。」とし、「安倍首相は、日本の再軍備に対する国民の反対が広がってい
ることを認識して眺めている状態だ。今回の北朝鮮の脅威が増大することは、彼にとっ
て有益な事件となる。」と分析している。困った事に北朝鮮と米国が話し合った様に、
周辺各国を困らせている。今回日本ではミサイル発射を受けて電車や列車を10分間の
停車措置を講じた。これを韓国は大げさすぎると酷評した。この混乱を受け次からは、
停車措置を見直すとしている。だがこれは可笑しな事だ。日本は韓国の様な感覚麻痺の
社会ではない。ちゃんと停止し安全を考えて再出発する国なのだ。たった10分の混乱
具合で 経済摩耗なぞしない。危険運行を続けて脱線衝突事故の方が損害が大きい事は
良く知っている。更に地震などと共にいい特殊な実地訓練でもある。そうした安全措置
は行われるべき事だ。セウォール号の様ないい加減な運行は日本では行わない事は大事
な事だ。


338: 名無しさんAA:17/05/02 21:56
 希望と光の間 85-11

 インティファーダは武器のない庶民が銃を持った兵士に 石を投げて戦った事による
。今だ壁もない時代だったが イスラエルはそもそもがアラブ人の国としてパレスチナ
建国を果たしていた。だが国際条約に基づいて国際連盟からはイギリスの占領統治が認
められた国としてみとめられた国だった。忌まわしきサイクス・ピコ条約と言うロシア
やフランスの認める所でその境界線は引かれていた。元々はユダヤ人なぞは一人も居な
かったこの土地にアメリカの支援を頼りに戦前ユダヤ機関をイギリス本土に置いたのは
あのロスチャイルド卿の進めに応じたものだった。戦後に英国外相バルフォアがユダヤ
人の民族郷土建設について支持を表明したもののこれにはかなりの反発はあった。が、
1922年この地がイギリス委任統治領パレスチナとして運営される事の再確認が出来
ると次々にユダヤ人を入植者として連れて来た。戦後のこの船は世界各国の貧困屈級し
ているユダヤ人にはこの地は憧れの地であり シオニスト達の自らの国イスラエル建国
は必然的流れでもあった。パレスチナという言葉はペリシテ人の土地いう言葉と考えら
れている。紀元前13世紀頃にペリシテ人によるペリシテ文明が栄えていた。しかしな
がら真面目なペリシテ民族は 幾多の帝国の勢力侵略を受け版図の書替で完全に滅亡し
たと言われる。此処にイスラエルはイギリスを丸め込んだシオニズム運動を経て194
8年5月14日に建国宣言をした。だがこれは完全な英国の二枚舌三枚舌の外交であり
当初からのイギリス-フランス-ドイツの大国間条約の帰結でしか無かった。旧来の平和
なパレスチナ人にはユダヤ人との平和共存社会を約束し シオニストには米国の世界大
戦への介入を願い 米国―ロシアにはドイツ打倒の会談を申し込んだ。それらは全てに
ユダヤ人の資産や技術に頼ったものだった。従ってイスラエル建国も又国際連合加盟も
英国は後押ししていたのである。


339: 名無しさんAA:17/05/02 21:57
 希望と光の間 85-12

 これまで パレスチナは長い間イスラーム国家の支配下に置かれていたが、この地に
居住するイスラム教徒とユダヤ教徒・キリスト教徒の三者(人種的には全てアラブ人)
は長い間共存関係を維持してきた。しかし19世紀末、ヨーロッパではパレスチナ帰還
運動(シオニズム)が起きて、ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国で離散生活をしていた
ユダヤ人によるパレスチナ入植がはじまった。当時のパレスチナを支配していたのは、
オスマン帝国であったが、ヨーロッパ諸国の相次ぐ機械化した軍事介入には、全く無力
であった。特に英国と仏国のこの地での対立にこうした入植を規制することはなかった
。1890年代フランスはかなりの思想分派がいてフランス革命と共に第三共和制議会
を作ってはいたものの君主制の復権を掲げる勢力が多数を占めていた。1875年仏国
の憲法は第三共和制にその基礎となる二院制(上院(元老院)と下院(代議院))の一
元主義型議院内閣制を制定した。任期7年の共和国大統領が名目的元首となり両院によ
る多数決で選出されることが定められた。だがこの民主主義化はかなりの困難を極めた
。ナポレオン時代の普仏戦争に敗れたフランスは、鉄鉱石や石炭の豊富な アルザス=
ロレーヌ地方を失い、莫大な賠償金を課せられたフランス経済は大きな困難に直面して
いたのである。1871年まで続いたフランスとプロイセン王国の間で行われた戦争で
ある。この時ドイツ諸邦もプロイセン側に立って参戦したため独仏戦争とも呼ぶのだが
この時の戦争はフランスが王国制を廃止した事に危機感を持った為の王侯の戦争とされ
る。国内経済の不振はロスチャイルドなどのユダヤ系の金融資本にとって 国民の零細
な貯蓄を投資に引き入れるチャンスであった。資金は有利な海外投資に向けられ、東ヨ
ーロッパなどへの投資(ロートシルト)を行った。が1882年には金融恐慌が発生し
、多くの投資銀行は破産に追いやられた。結果、貯蓄をなくした人々は金融界を牛耳る
ユダヤ人への憎悪を昂らせた。ユダヤ資本のみが王侯達の金庫番にして倒産を免れたか
らだ。この事件は今の米国に保証されなかった為に倒産したリーマンショックと殆どが
同じ構図と言える。




340: 名無しさんAA:17/05/02 21:57

 希望と光の間 85-13

 1879年レセップスはエッフェルらの協力を得てパナマ運河会社を設立し、パナマ
運河の建設に着手した。しかし工事は難工事であった。岩盤があり黄熱病が発生し人員
不足による放漫経営であった為だ。これにより工事は中断された。’88年には、政府
の許可を得て、新たに宝くじ付き債券を発行し資金を得て再開したが、翌年には破綻が
宣告された。この時多数の大臣が運河会社から賄賂を受けていたと新聞が報じて事件が
明るみになった。この賄賂に104人の議員が関わっていたが 前開発大臣が有罪判決
を受けただけで大多数が無罪となった。またレセップスとその息子およびエッフェルが
背任・詐欺の罪で訴えられ有罪判決を受けたが、上訴審では無罪となった。この時の財
務顧問として贈賄工作に直接関わったのがレーナックとエルツであった。レーナッツは
右派を、エルツは急進派を担当して賄賂に勤しんだが2人がいずれもドイツ系ユダヤ人
であった事で、新聞は反ユダヤ感情を煽り立て、国粋主義者・反ユダヤ主義者などは、
これを利用して大きくなった。又この大衆意識がドレフュス事件につながって行った。



341: 名無しさんAA:17/05/02 21:57

 希望と光の間 85-14

こうした背景の中ドレフュス事件が起こった。1894年にフランスで起きたスパイ事
件だが、当時フランス陸軍参謀本部勤務の大尉であったユダヤ人のアルフレド・ドレフ
ュスがスパイ容疑で逮捕されたが全くの濡れ衣だった。当初このユダヤ人砲兵大尉を、
逮捕したが状況証拠すらなかった。具体的な証拠どころか、ドレフュスが金銭問題を抱
えていた、又は急に金回りが良くなった。などといった状況証拠すら欠いていたため、
スパイ事件及びドレフュス逮捕の事実はすぐには公表されず 解放されるかと思われた
。だが この事実を反ユダヤ系の新聞「自由言論」がすっぱ抜きで大々的に報じて、国
内の反ユダヤ主義を煽り立てた。ユダヤ人は祖国を裏切る売国奴であり、その売国奴を
軍部が庇っていると論じて、軍部の優柔不断を糾弾したのである。慌てた軍上層部は、
証拠不十分のまま非公開の軍法会議においてドレフュスに「有罪」の判決を下し、南米
の仏領ギアナ沖のディアブル島(デヴィルズ島)に終身城塞禁錮とした。この頃の冤罪
事件の典型であった。一応の裁判が行われドレフュスが無罪である可能性が高まったが
、有罪の根拠とされた証拠の信頼性についての疑問が取り沙汰されると、軍部は、偽証
の証を国家の安危に関わる「軍事機密」情報が含まれているとして、ドレフュス有罪の
根拠とされる証拠類の開示の殆どを拒んだ。この事で有罪になったのだった。こうして
「人権擁護同盟」を結成して、正義と真理、自由と平等を唱え、軍国主義批判を展開し
た。一方これに危機感を覚えた反対派は「フランス祖国同盟」を結成して国家の尊厳、
軍部の威信を力説した。極右政党と極左政党の誕生だった。


342: 名無しさんAA:17/05/02 21:58
希望と光の間 85-15

 この1882年に起こった金融恐慌はユダヤ資本を増強させたばかりか、それまでの
国内生産を一気に止めた。上昇傾向でやっと持ち直すかとした景気が低迷し、工業生産
は一機にアメリカ・ドイツに抜かれて世界第4位に転落した。これはこれまで帝国主義
による植民地支配は拡大していたこの国が、負債を大きくし国内は対外投資が増大する
という悪循環を起こした。この対外投資を扱うユダヤ投資家の多くはドイツにあって、
フランスの国民感情はドイツに対する敵愾心が高まっていく傾向にあった。だが当時は
多党連立政権で明確な対策を打ち出す事は出来なく 又与党に対抗すべき社会主義政党
も離合集散を繰り返し全く政治停滞は続くばかりだった。一方王なき王国時代と言われ
ハクスブルク家の影響は強く王党派は決して王族貴族のみではなかった。だがここでも
ブルボン朝支持派とオルレアン朝支持派の間に対立があり国民主権を主張する共和派と
対立しながらも内部対立もしていた。実はこの背景に運河経営が動いていると言われる
。レセップスはエッフェルらの協力を得てパナマ運河会社を設立したが 彼の取り巻く
環境は決して良くなかった。1856年万国に開かれたスエズ運河建設を行う会社設立
について、エジプト総督のサイード・パシャから利権を得て工事を行った。この会社は
運河開通から99年間の事業権も獲得していたのだが、実はイギリスでもエジプトでも、
この運河計画はあった。だが産業革命で鉄道を得ていた事で運河建設よりは鉄道の方が
遥かに効率が良く採算が取れるとして却下していたのである。それは例によるユダヤ資
本の投資家の決定であった。


343: 名無しさんAA:17/05/02 21:58

 希望と光の間 85-16

1856年12月に委員会は満場一致で運河の全体像と詳細に関する報告書を纏め上げ
1858年12月スエズ運河会社が設立され、現在のポートサイド沿岸で建設が開始さ
れた。建設され始めると 英国はイギリス海軍の強大な海軍力を背景にかなりの妨害を
行った。それは資金から労働力更に技術・資材供給にまで及び 最終的に武装化ベドウ
ィンを送り込み、労働者の反乱を煽まで至った。更に建設における過酷な労働条件を批
判し国際世論まで動かした。当時エジプト国内からの部族は就役労働者と言う強制労働
が植民地として行われていた。総督は計画に支障を及ぼすコルヴェまでも停止した。こ
したイギリスの行動にレセップスは大いに怒り、数年前にイギリスが建設したエジプト
鉄道の際に政府が労働者に強いた労働とそれによって多くの死者が出たことを取り上げ
非難の手紙をイギリス政府に送りつけた。こうした事でスエズ運河会社の国際的評判は
全く芳しくなく、その株式買付けに買いい手がつかなかった。フランス国内の株式市場
では瞬く間に完売したが、イギリス、アメリカ合衆国、オーストリア、ロシアでは全く
売れなかった。だが1869年11月に開通すると、本運河によりアフリカ大陸を回ら
ずにヨーロッパとアジアを海運で連結することができる便利さは代えがたく8割を英国
の運輸が利用した結果となった。だがこの成功はフランスとイギリスによって支配され
るきっかけになった。1870年代のエジプトにおいて政治的に腐敗してしまい、同時
に財政破綻の状態に陥った。この国王イスマーイール・パシャの手によって生み出され
た巨額な負債は、返済不能の状態にまで追い込まれ、フランスとイギリスによってエジ
プトの財政が管理される状況になってしまった。



344: 名無しさんAA:17/05/02 21:58
 希望と光の間 85-17

 これには理由があった。大きくは英国のユダヤ資本の妨害である。先行して鉄道を開
通されている事が大きくが関係していた。この鉄道は後にスチーブンソンによって開通
し蒸気機関は英国の権威でもあったし 勿論投資によるものだったのだ。この二つの工
事はエジプトの公共投資みたいなものだった。景気の浮上は多くのトルコ人労働者を引
き入れた。新しい政権はディーヴの手によって、教育面でも優遇されていた。タウフィ
ークの内閣はこういったトルコ系の人々によって組閣されていた。元々こうした事業が
オスマン帝国支配からの独立を願った事で一致していたものだった。教育の充実で70年
代から1880年代のエジプトでは出版が盛んになり、新聞も発行されるようになった。識
字率も向上し、反王政の世論が醸成されるのに十分な社会的側面があったことも否定で
きない。更にフランスとイギリスに於いての収益は一致してもエジプトには落とさなか
った節がある。最初から投資には妨害が付きまとい高い利子が設定され 建設には政府
も参加した妨害で建設費が高くなった経緯があった。それらをエジプトが負担したとい
う事も考えられる。この国王イスマーイール・パシャはエジプトを近代化させる一方で
、多額の負債を抱えオスマン債務管理局の設置を許した。在位中に述べた言葉として、
「我が国はもはやアフリカではなく、ヨーロッパの一部である。我々が以前の方法を取
り止め、社会的状況に適している新しい制度を採り入れることは、すなわち自然なこと
である。」というものがある。制度・技術は国益に適うものであったが負債による破綻
は本意では無かったと言える。


345: 名無しさんAA:17/05/02 21:59
 希望と光の間 85-18

1882年6月11日の昼中、突然にエジプト国内のアレクサンドリアの通りで、暴力
事件が発生した。この暴動は、ギリシャ人、マルタ人、イタリア人のビジネスマン達を
襲撃し、約50人のヨーロッパ人と250人のエジプト人が殺害された。当時は この
暴動が発生した理由がよく分かっておらず、ヘディーヴ、ウラービーともに互いを非難
しあった。しかし、両方にその非難する根拠を持っていたわけではなかった。その年の
初めに、フランスとイギリスは、共同で、新国王ヘディーヴが政府の代表であることを
宣言した。この共同宣言は、軍人総帥ウラービーを首班とする政権を怒らせた。ウラー
ビー政権は、今まで、政権を支配してきたヨーロッパ人を追放すると同時に、多くのト
ルコ系の公務員を解雇していた。これは今日の軍事政権の歴史の始まりでもあった。コ
プト教徒の一団は、ウラービーを支持する層と紐帯関係を結んでいった。しかし、この
紐帯自体は、コプト教徒を十分に満足させるものではなかった。更に オスマン帝国の
スルタンに接触する試みが行われた。だがタウフィークのスルタンに軍隊の派遣要請に
、スルタンは、海外のキリスト教徒の干渉に対して奮闘しているムスリムに対して軍隊
を派遣するのをためらった。これによりギリス海軍は、エジプト軍の抵抗にあったもの
のアレクサンドリアの占領に成功した。イギリス政府は、エジプトへの介入を本格化し
、イギリス陸軍は、運河地帯に上陸した。運河地帯への進出はアレクサンドリア及びカ
イロの占領に先駆けて実施された。此処でイギリスの最大の関心事は、イギリスが今ま
でエジプトに供与してきた多くの借款をウラービーが破棄することとスエズ運河の支配
であった事は誰の目にも明らかだった。



346: 名無しさんAA:17/05/02 21:59
 希望と光の間 85-19

 この第一次世界大戦期には、ヨーロッパ列強による植民地支配やオスマン帝国の支配
に多くの民衆はある意味驚いた。産業革命以来そのままのイスラム教には勝ち目がなく
民族自立の運動にその兵器を無神教の共産主義を頼る事になる。民族自決運動のひとつ
である。この時期にイギリスに支援されたアラブ反乱が起き、1840年代に、シリア
で一つの汎アラブ主義とされるバアス党が結成された。理論的には共産社会主義の中に
アラブ独自の民族主義が混ぜ合わされたもので民主主義を踏襲するものである。バアス
党政権の場合、人民民主主義を憲法で掲げて、党内で「同志」と呼び合い、総書記が強
い「権限」を持つ。といったソ連型社会主義と共通するところが多い。だが宗教との関
わり合いは世俗主義であり、これがイスラーム主義との摩擦を生む原因となっている。
更に法治主義を唱えて民主選挙を実行する事を規定している。此処に少数民族としての
地位があった。この汎アラブ主義においてはイスラム教は「アラブ民族の誇る宗教文化
の一つ」とされるが政治へのイスラム教の介入は忌避された。この事はキリスト教徒、
ユダヤ教徒等の非イスラム教徒アラブ人が汎アラブ主義に参加している大きな理由だ。
従って 民族運動である汎アラブ主義と、宗教運動であるイスラーム主義、更にはイス
ラーム「原理主義」は時と場合によっては大きく対立する概念である。しかし、これは
、無神論を訴える共産主義(マルクス主義)と既存の民族主義の妥協の産物といえるも
のとされ、アラブ諸国において厳密なマルクス・レーニン主義体制を取った国は、過去
には旧南イエメン人民共和国の他はない。そしてこの共産主義が受け入れられなかった
事は歴史が示している。ところが一方でこのバアス党の民主主義に則したイスラム教の
国が西側諸国に利用され応援され国を築きながら次々と 西側から叩かれ紛争地になっ
ているのも又事実なのだ。1972年にはエジプト・リビア・シリアの三カ国で国民投票が
行われその成立が支持されイラク・イエメン・アフガンと広がったが 今や西側のテロ
指名国である。


347: 名無しさんAA:17/05/03 08:46 ID:6IE
 希望と光の間 85-20

 イギリス海軍がスペイン艦隊に勝って 植民地をして「英国に太陽は沈まない。」と
言わしめた頃大英帝国はこの植民地経営には どんなあくどい事もやったのはドレイク
船長即ち大海賊をして議会が海軍の総帥に任命してスペインに勝ったからである。これ
で英国は愚かな者で溢れ 清教徒は米国の新天地を求めた。その新天地投資で巻き起こ
った様々な事件は1882年に起こった金融恐慌で収束をしたかに見えた。ユダヤ資本
を増強させた中でこのシオニスト達も資本を持って米国に移り住んだ。当時アヘン麻薬
や奴隷貿易や鉄砲輸送は主要商品の中にあった。シャンパンが出来たのはこのイギリス
に送るワインが腐ってしまって出来たのだがこの損害賠償を求めてスペインの無敵艦隊
はイギリスに負けてしまったのは ある意味歴史だろう。だがそれ程イギリスには飲め
る水も少なかった。フランスも又同じ様に十字軍の遠征に疲れた国家予算は市民革命を
興し更にその為に周りの諸侯から攻められた中で敗戦に次ぐ敗戦だった。陸軍大臣とし
てジョルジュ・ブーランジェが登用されたのは、1886年だった。ブーランジェは時
勢が共和派に有利となっていると判断したら迎合するかたちで兵制の民主的改革や王族
の軍隊からの排除を行った。炭鉱争議に対して軍隊出動を求められた際には坑夫に同情
的な態度を装い、共和制護持の演説を展開し、共和主義者から「共和的将軍」としての
名を高めた。ドイツ国境でフランス警察官がスパイ容疑逮捕され国境緊張が高まった。
ブーランジェは対独強硬論を主張して排外的国民的感情を掌握し、「復讐将軍」として
今度は右翼からも人気を博した。この異常人気を背景にした武断政治化に恐れをなした
政府は、彼をクレルモン=フェランの軍団司令官に任命し、パリから遠ざようと試みた
がパリの民衆はこの処置に不満を抱きデモが繰り返されたと言う。その後も政府の権威
失墜などで、これに反比例するように、ブーランジェに対する人気は高くなり王党派へ
が接近した。王党派は王政復古をし、反共和主義勢力とよしみを結びナポレオンの再来
の様なカリスマ性に帝政復活を期待した。


348: 名無しさんAA:17/05/03 08:47
 希望と光の間 85-21

この時 ブーランジェは「議会解散、立憲議会、憲法改正」の三つのスローガンを掲げ
、セーヌ県で行われた選挙に出馬、共和各派統一戦線の候補者に八万票の大差で圧勝し
た際には5万の群集が集まり、一部は彼にクーデターの実行をそそのかした。この圧勝
は続き ブーランジェをエリゼ宮殿まで凱旋行進させ、示威行動とともに独裁権を奪取
する計画を練っていた。が肝心のブーランジェ本人が実行をためらったため計画は瓦解
し、大衆の支持は急速に失われた。これによりフランス共和制は危機を脱した。ここに
も この死の商人がうごめいていたのである。だがこの事は 第二次世界大戦を示唆し
、ユダヤ撲滅を叫ぶヒットラーを予見させるものだった。この 失敗に終わったものの
た第三共和制下の反議会主義的政治運動は 議会制民主主義を震撼させるものだった。
ブーランジェ事件と呼ばれるのだが 主役であるブーランジェ本人は そのままパリを
逃れブリュッセルへ行き、議会制民主主義のロンドンへ亡命して国を離れた。この行為
は支持者達を落胆させ、彼の逃亡後ブーランジェ派支持を失い低落し、議会選挙は敗れ
ブーランジェは欠席裁判で有罪を宣告された。ブーランジェはマルセユの恋人が忘れら
れず墓の前で自殺したと言う。第一次世界大戦は1914年6月、オーストリアハンガ
リー帝国のフランツ・フェルディナント大公夫妻の銃撃というサラエボ事件を契機に、
各国の軍部の総動員を発令した事で各国に戦争の連鎖が止まらなかった事だとされる。
だがこの頃の議会制民主主義が 餓えた金融資本の巨大な力に喘ぎ、反議会主義的政治
運動が広がり軒並み目覚めた民衆は 植民地主義政策反対の声や人種差別の奴隷制度の
反対運動の中にいた事だ。



349: 名無しさんAA:17/05/03 08:47
 希望と光の間 85-22

第一次世界大戦は 各国政府および君主は開戦を避けるため力を尽くしたが、戦争計画
の連鎖的発動を止めることができず、瞬く間に世界大戦へと発展したとされる。そして
結末は悪魔の申し子の如く 化学兵器 大型機械 銃火器 飛行機 電気通信 潜水艦
と人殺しの道具が軒並み備わった事で幕を閉じた。今まで食糧や領土拡張と賠償金など
の旧近代的戦争が 一気呵成に欲望の民衆を後にした国作りに入っていった事は その
後の第二次世界大戦の予兆に過ぎなかった。、1939年から1945年までの6年間
にドイツ、日本、イタリアの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス、ソ
ビエト連邦、アメリカ、中華民国などの連合国陣営との間で 資源獲得に戦われた全世
界的規模の巨大戦争は、ドイツの一次世界大戦の敗退から始まっていた。‘39年9月
の突然のドイツ軍によるポーランド侵攻と続くソ連軍による侵攻と、そして英仏からの
ドイツへの宣戦布告は いずれもヨーロッパを戦場とした事に異論のない民衆の声だっ
た。ヒットラーの「我が闘争」は獄中に夢物語として巨大な妄想の下に書かれたもので
そこにあるのは「民衆の居ない歴史のない領土」と「駒として兵器としての兵士」達の
拡張物語だったが 一夜にしてその夢に突き進んだ世界が現れたのである。石油資源や
鉄鉱石などの物資枯渇から日本は米英との開戦に挑んだ事で、戦火は文字通り全世界に
拡大し、人類史上最大の大戦争となった。ドイツは、ノルウェー、ベネルクス、フラン
スなどを次々と攻略し、ダンケルクの戦いで連合国をヨーロッパ大陸から追い出した他
、イギリス本土上陸作戦の前哨戦となる大空襲も行なった。ソ連は、侵略行為を非難さ
れ国際連盟から除名されながらも バルト三国及びフィンランドに領土的野心を示し、
フィンランドへ侵攻して冬戦争を起こし領土拡大を果たした。ドイツは、イタリア及び
日本と日独伊三国軍事同盟を結成し、ドイツ軍はソビエト連邦に侵攻した。日本は南下
作戦を繰り返しインドシナ半島に現地協力者政府を構築するなどして 急速にその勢力
を拡大し、アメリカ政府やオーストラリア政府が日本軍の自国本土上陸に対する対策を
検討するほどになった。だがドイツも日本も圧倒的物量と技術によって首都が破壊され
終戦となった。

350: 名無しさんAA:17/05/03 08:48
 希望と光の間 85-23

 この時のイタリアの戦場こそ英国を足止めする為のエジプトであった。北アフリカ戦
線は第二次世界大戦において イタリア軍によるエジプト侵攻から、チュニジアの戦い
で敗退し、枢軸国軍の壊滅・ヨーロッパ本土撤退までを指すと言われる。当時イタリア
政府は東アフリカ植民地の拡大を企図していた。だがドイツ政府からイギリス本土への
攻勢を控え北アフリカ駐留イギリス軍への攻撃を要請された。その為ムッソリーニは軍
の反対を押し切る格好で、イタリア領リビアからエジプトへの攻撃を命じた。連合国軍
はこれを好機にイタリアのシチリア島へ上陸し占領を進めた。ムッソリーニは首相を解
任され逮捕されたがはイギリス軍がイタリア本土に上陸し新政権と降伏と休戦を結んだ
が、直後にはドイツ軍はイタリア半島全土を占領した。ドイツ軍はその時幽閉されてい
たムッソリーニを救出し 傀儡政権の「イタリア社会共和国」を作らせ、イタリア国土
に増援部隊を送りつけて連合軍との交戦を続けた。連合国軍がイタリア上陸した時既に
連戦連敗の北アフリカ戦線で、西のアルジェリアに上陸したアメリカ軍と、東のリビア
から進撃するイギリス軍によって、主力のドイツ軍約10万、イタリア軍約15万は降伏し
ていて 残る一年間は東欧州をソ連軍の被害を待つのみであったのだが ドイツは仏国
領土を蹂躙して抵抗を続けたのだ。北アフリカの戦いは連合軍の勝利に終わる。194
3年ドイツの必死の攻防戦に米国が投入したのは人種差別の中の黒人戦線による足止め
だった。イタリア戦線や、その後のヨーロッパ戦線での戦いでは、アメリカ陸軍の中で
深刻な人種差別を跳ね除けて志願した兵は、日系アメリカ人部隊第442連隊戦闘団が
あった。アメリカ軍内における死傷率314%という大きな犠牲を出しながら、アメリカ陸
軍部隊の中では史上最多の勲章を受けるなど歴史に残る大きな活躍を残し 戦後の米国
の日本人の地位を高める気高い行為であったが ノルマンディー上陸などの華々しい影
に隠れて この苛酷な戦いはあまり知られていない。



351: 名無しさんAA:17/05/03 08:48

 希望と光の間 85-24

 こうして第二次世界大戦は終わったのだが すぐさま英国はシオニスト達との約束で
あった受け入れを開始し パレスチナ人地区への共存共栄を謳い入植者を船で送った。
数多くの反対があったが 英国も又ドイツのV2ロケットなどで 国内に移民受け入れ
が出来る素地はなかったし 米国のユダヤ資本を頼った復興には受け入れざるを得ない
位置にいた。時の首相としてチャーチルは大々的にパレスチナ国民の安全を保証し英国
の永遠の英国介入での平和を約束したが 2年も持たずにこの地の植民地経営は この
入植による破綻をもたらし その監理権を放棄した。こうして1948年5月、突如に
パレスチナを除くシオニストの国としてイスラエルの独立を宣言する。これにより通行
の要所を盗られたアラブ世界はパレスチナ内戦からすぐさま国家間の戦争と化した。翌
年にはイスラエル独立に反対する 周辺アラブ諸国連盟が出来て(エジプト、サウジア
ラビア、イラク、トランスヨルダン、シリア、レバノン)がパレスチナへ進軍し、第一
次中東戦争が起こった。パレスチナ人側に立ってイスラエルと戦闘するアラブ側の兵力
は約15万以上のアラブ連合軍はイスラエルを包囲する形で進軍した。イスラエル側の
兵力は3万弱だったが各国間の不信感から足並みが乱れ 連携も取れていなかった。緒
戦こそ勝っていたものの 米英の物資補給でイスラエルは優位に立った。1949年に
その優位のまま国連の停戦勧告を受け入れた。イスラエルは、この戦争で独立を公式な
ものにした。


352: 名無しさんAA:17/05/03 09:51
 希望と光の間 85-25

1956年には スーダンがイギリスから独立しモロッコやチュニジアなどがフランスか
ら独立した。アフリカ諸国に独立の機運があふれて各地に暴動が起こっていた。それは
前の年に、第二次世界大戦後に独立したインドのネルー首相、インドネシア大統領スカ
ルノ、中華人民共和国首相周恩来、エジプト大統領ナセルが中心となってバンドン会議
が開催されたからだった。’54年に印中首脳会談においてネルーと周恩来が平和五原
則を発表しコロンボ会議を行う事を決めた。コロンボ会議には、インドネシア首相イン
ド首相パキスタン首相セイロン首相ビルマ首相の5人が出席してアジア・アフリカ会議
の必要性を表明した。「コロンボ・グループ」と呼ばれる。この会議はアジア・アフリ
カ各国間の協力、相互利益、友好の推進 代表各国関係および社会・政治・文化問題の
検討 国家の主権、民族問題、反植民地主義など 時の政治話題に対抗すべきものだっ
た。特にアジア・アフリカの諸国民の地位向上と、世界平和の推進のたの貢献の検討は
大国をいらだたせるものだった。こうして第一回アジア・アフリカ会議通称バンドン会
議が開かれ平和十原則を取りまとめた。
1.基本的人権と国連憲章の趣旨と原則を尊重
2.全ての国の主権と領土保全を尊重
3.全ての人類の平等と大小全ての国の平等を承認する
4.他国の内政に干渉しない
5.国連憲章による単独または集団的な自国防衛権を尊重
6.集団的防衛を大国の特定の利益のために利用しない。また他国に圧力を加えない。
7.侵略または侵略の脅威・武力行使による、他国の領土保全や政治的独立を犯さない。
8.国際紛争は平和的手段によって解決
9.相互の利益と協力を促進する
10.正義と国際義務を尊重
これらはバンドン十原則(ダサ・シラ・バントン)とも呼ばれる。がこれによって大国
が植民地経営の危機として対抗したのは 当然だった。

353: 名無しさんAA:17/05/03 09:52
 希望と光の間 85-26

 このバンドン会議は皮肉な事に 表向き平和自由主義を唱えた米国の都合で第2回は
行えなかった。イスラエルロビーやユダヤ資本の金融凍結がほのめかされたからだ。こ
れはエジプトの苦境だった。エジプトでは、イギリス・アメリカによるアスワン・ハイ
・ダムの建設が中止になった。当時のエジプト大統領ナセルは、対抗手段としてスエズ
運河の国有化を発表した。スエズ運河運営会社の株主でもあり、石油を含む貿易ルート
としてスエズ運河を利用する イギリス・フランス両国はこれに反発した。そのため、
10月、イスラエルを支援してエジプトとの戦争を煽動し、自らは仲裁の名目でこの戦
争に介入した。表だってのなりふり構わぬ米国のユダヤ金融資本の動きであった。戦争
は10月29日、イスラエルによるシナイ半島侵攻により開始された。空挺部隊・戦車部隊
を活用した攻撃により、エジプト軍は総崩れとなり、シナイ半島の大半は、イスラエル
軍が占領することとなった。この第二次中東戦争はかなりの後遺症をのこした。アラブ
とユダヤの絶対的対立であり イスラエルの兵器優先主義による優位主義だ。核開発は
1949年に既にソ連が’52年にイギリスが、原爆実験に成功していたが、冷戦時代
になって、この行動によって アメリカ合衆国とソビエト連邦の間での核兵器の大量製
造、再配備が行われた。1956年以降は 1960年にフランス、1964年に中国、1974年
にインドが原子爆弾を開発・保有した。更に水素爆弾を開発し1953年にソビエト連邦、
1954年にアメリカ合衆国、1958年にイギリス、1967年に中国、1968年にフランスが水爆
保有に至った。こうして核兵器の量は地球上の全人類を滅ぼすのに必要な量を 遥かに
上回る量になっていった。

354: 名無しさんAA:17/05/03 09:52
 希望と光の間 85-27

 この邪な 兵器の物量主義は その後のイスラエルを悪魔の国に替えた。インティフ
ァーダは武器のない庶民が銃を持った兵士に 石を投げて戦った事に由来する。この子
供にイスラエル兵士は容赦なく 機関銃で殺しまくった。こうした日常に記者は西側に
報道して国際世論を高めたがったが 多くの報道機関はユダヤマーケットの中に組み込
まれ止められた。中でもマードックはその一番だった。またPLOもムスリム同胞団が
造った「イスラム原理主義組織ハマス」や「アルカイダジハード」や「ガザのファタハ
」など多くの分派の中の一つでしか無かった。不思議な事に アルカイダが、米国の中
央情報局によって設立され、同局と緊密な関係があるという背景は正解だったし、テリ
アビル騒動のころ80年代の第1次インティファーダ時代に、ヤーセル・アラファート議
長が指揮するパレスチナ解放機構は西側からの支援もあった。又このPLOの影響力を
排除した民衆レベルでの対イスラエル抵抗組織としてハマースは設立された。更にこの
対立関係を見たイスラエル政府は、ハマースに秘密裏に援助をおこなっていた過去も明
らかになっている。ハマースは教育、医療、福祉などの分野で一般民衆への地道な活動
を続けたため、パレスチナ人の間で支持が拡大していった。ナチスによるユダヤ人迫害
は 嘘ではないが多くのガス室送りが かつてのロマ人の定住を果たした姿であった事
は明らかだった。この誇大広告が上手いユダヤ人に世界は騙されたともいえる。それは
現実的に「ユダヤ人」などと言う人種が居ない事に尽きる。「ユダヤ教」を頑なに守る
教徒はいるが これらの人は単に教徒であって人種ではない。だが彼らも又選民思想の
中にあり ナチスの言うゲルマン民族を唱えなければ優秀な種族と言えない様にユダヤ
民族だと唱えなければ このイスラエルが自分の土地だと言えなかったのである。


355: 名無しさんAA:17/05/03 11:04
 希望と光の間 85-28

 恐らく今度の北朝鮮制裁は失敗に終わる。それはアメリカが本当に平和な社会を求め
ているか。平和な地球を愛しているかの姿が見えない点にある。ユダヤロビーや黒人差
別などは今も蔓延している。更に戦略的に 北朝鮮をどうしたいのかが不明な点だ。ま
ず叩いて勝っても北朝鮮の民族や韓国民がどの程度納得するだろうか。今でも韓国社会
は自立できずに 国家経営を日本に刷りより賠償金を求めている始末の悪さである。さ
らに中国社会での「唇無くば舌寒し」の感情である。共産党政権は自由主義を唱えても
自由主義の本質は今だ理解はない。では叩かなかったら それはそれで後で痛いしっぺ
返しは文明国家の常だ。ブーメラン現象として核開発やミサイル常備が無くなるとは考
えれられない。父親のブッシュ政権時代 イラクを攻めず湾岸に留めていたのは その
理由があったからだ。戦争の自覚とその後の展開を見越した判断である。今のイギリス
の突然のEU離脱は その世界を混乱させて大英帝国が存在していると言う自覚がない
。ユダヤ資本を取り入れ兵器を売りまくって中国資本を取り入れて国家運営し 住めな
くなってやってくる移民の為に責任逃れでEU脱退を選ぶと言うのは 全く虫が良すぎ
て世界から避難されて当然だろう。そもそもあれだけの嘘をついてまでEU脱退を国民
投票にかけてせがんだのか。ジョンソン市長は何ら解っていない馬鹿だ。にも関わらず
メアリー首相はそれを撤回もせず外相に任命して政府を運営しているのだ。こんな馬鹿
な話はない。過去も未来も現代さえも そこに正義や強い理由や道義的責任が全くない
。ただいたずらに 議員なり首相なりの資格の為の保身に徹していて 国家財政の破綻
を止めているにすぎない。これでは政治どころか家政婦でもない。集団に説明し納得を
得る意志の発信は どこにもなく国際社会の一員としての国家の威厳はないのである。
EU側もこうした勝手な英国にどう立ち向かうのかを思案しているようだ。


356: 名無しさんAA:17/05/03 11:16
希望と光の間 85-28

 恐らく今度の北朝鮮制裁は失敗に終わる。それはアメリカが本当に平和な社会を求め
ているか。平和な地球を愛しているかの姿が見えない点にある。ユダヤロビーや黒人差
別などは今も蔓延している。更に戦略的に 北朝鮮をどうしたいのかが不明な点だ。ま
ず叩いて勝っても北朝鮮の民族や韓国民がどの程度納得するだろうか。今でも韓国社会
は自立できずに 国家経営を日本に刷りより賠償金を求めている始末の悪さである。さ
らに中国社会での「唇無くば舌寒し」の感情である。共産党政権は自由主義を唱えても
自由主義の本質は今だ理解はない。では叩かなかったら それはそれで後で痛いしっぺ
返しは文明国家の常だ。ブーメラン現象として核開発やミサイル常備が無くなるとは考
えれられない。父親のブッシュ政権時代 イラクを攻めず湾岸に留めていたのは その
理由があったからだ。戦争の自覚とその後の展開を見越した判断である。今のイギリス
の突然のEU離脱は その世界を混乱させて大英帝国が存在していると言う自覚がない
。ユダヤ資本を取り入れ兵器を売りまくって中国資本を取り入れて国家運営し 住めな
くなってやってくる移民の為に責任逃れでEU脱退を選ぶと言うのは 全く虫が良すぎ
て世界から避難されて当然だろう。そもそもあれだけの嘘をついてまでEU脱退を国民
投票にかけてせがんだのは何故か。ジョンソン市長は何ら解っていない馬鹿だろう。に
も関わらずメアリー首相はそれを撤回もせず外相に任命して政府を運営しているのだ。
こんな馬鹿な話はない。過去も未来も現代さえも そこに正義や強い理由や道義的責任
が全くない。ただいたずらに 議員なり首相なりの資格の為の保身に徹していて 国家
財政の破綻を止めているにすぎない。これでは政治どころか家政婦でもない。集団に説
明し納得を得る意志の発信は どこにもなく国際社会の一員としての国家の威厳はない
のである。EU側もこうした勝手な英国にどう立ち向かうのかを思案しているようだ。
もちろん EUの権限において国家主権たる意志判断が行使できない。との矛盾はある
。が それが戦争の足枷で平和を構築する手立てあることも事実だ。イングランドは、
かつてのアイルランド闘争やスコットランドなどの集合体ですごして来た事実は、その
分そうした自治権限の剥奪でうまく収まっていたのである。この事実を 全く無視した
行為は驚きである。


357: 名無しさんAA:17/05/13 04:06
CAウイルスが DBウイルスに進化した用心したがいい
    シンガポール発だそうだ。


358: 名無しさんAA:17/05/13 10:39


 見上げたら空は青かった。それはそれは悲しい位青かった

 光はまぶしかった。涙に曇った向こうでは木の葉が揺れていた。

 裁判所よさようなら こんなにも正義が遠い所の物とは知らなかった

 拘置所よさようなら 何もしていないし何も解らないままに生きて来た

 人がこんなに恨むべき物とは知らず 

 社会がこんなに憎しべき者の集まりと知らず生きて来た

 一生懸命働いたし 報われない汗も 相当にかいた

 只その汗は心地よかった

 タダそこに吹くそよ風は心地良かった 

 そうさ俺は満足だったのだ



359: 名無しさんAA:17/05/13 17:09
 魔法使い あららとおろろ 34  ( 明日の行方 )

 極右ルペン氏が 潔く早々と マクロン氏に賛辞を送り選挙での敗退宣言をした。こ
の潔さは少し背筋が寒い気になった。日本に敗戦を知る者が今だ生きている様に この
フランスにも本物のナチスが銃を持ち街を歩いた日々を知る人が少ないとは言えいる筈
だろう。更に敗戦に家財道具を持って田舎まで歩き避難して第二次世界大戦を終わった
日々を思い出す方々はまだ多いはずだ。思えばイスラム過激派のテロや移民や失業とい
った日々の生活の苦難の中でよくまあ勝ったものだと言えるが、それでも不躾なロシア
の支持さえある国民戦線は 多分にこの中道派の意見を取り入れない可能性がたかい。
もともとフランスは国内世論の一致する事はあまりない。だがトルコでもそうだったが
いつの間にかエルドワンが今や独裁政権の頂点に君臨して国民を虐めている。これは、
寛容な世界の弱さであって仕方ないか事なのかも知れない。だがそれが又、背筋の寒い
原因でもある。もし貴方の傍に狂人がいたとして 人殺しを楽しむ友人がいたとしても
恐らく全く狂人なのか殺人魔なのかは判別出来ないであろう。これを知るのは本人の勘
でしかない。危険な者かどうかの判別は本人の教育環境によるのである。その環境の違
いが今のトルコとフランスの違いであって独裁者を産んだか中道を選んだかの違いでし
かない。よく欧州のイスラム教徒に仕事が無いとして浮浪者かテロ首謀者になっている
例が多かったり、意見が有ったりしている。当然である。彼らのイスラムに寛容が無い
から通常の人としての常識がそこには存在しないからだ。まず一日に何回もアラーの神
に祈るという事は普通の仕事に就けない事を意味する。更に偶像崇拝はポスターすらも
本来は偶像であろう。もっと言えば豚肉を食べないと言うのは単なる好き嫌いの範囲で
宗教上を言い訳をしているに過ぎない。こうした人間の正常な価値観の無さはマホメッ
ドを風刺した印刷さえ殺しに値する価値を共用する社会を産む。これほど神への冒涜は
ない。人がいての神が人を否定しているからだ。それを敢えて理解する社会が自由の中
にある。これが背筋の寒さの大きな要因なのだ。



360: 名無しさんAA:17/05/13 17:10
 魔法使い あららとおろろ 34-2  ( 明日の行方 )

 人は恐らく極右の意見も極左の意見も聞く欲望が備わっている。と思う。寛容の世界
と言うのは 人類に男女がいる事で仕方のないことではあるだろう。フランスはその中
で結構愛のある世界なのだろう。今国連で日本に慰安婦問題を意見している。だが全く
本末転倒の意見が相次いでいる。この二つの国を見るように「体制の強制」と言う国民
の集合体をよく見ていない。日本は軍人も又皇軍として出征兵士となっている。つまり
国連は今でも加害者であり日本を今でも被害者である事を認識してないどころか、戦勝
国の見方での検証をおろそかにした偏った意見を押し付けているのである。そうした体
制が潘基文国連事務総長が何もしない理由であろう。前国連事務総長のコフィ・アナン
氏はイラク侵攻について批判したが「アメリカは強い事務総長ではなく、よく指図を聞
き、自分たちの秘書になる弱い事務総長を望む」と発言し「潘基文は、アメリカと中国
、そしてロシアが事前同意した後、常任理事国を含む安全保障理事会で選ばれたのだ」
と言われる。事務総長の選考過程上「中国を含む常任理事国に迎合しなくてはならない
のだ」と指摘する。「日本を含む常任理事国以外の188カ国が立ち上がり、国連事務
総長を選ぶ手続きを改革する努力が必要だ。」とされる。この潘基文は、韓国人らしく
中立性のかけらもない。これは各国が指摘する。加盟問題は安保理の専決事項であるに
もかかわらず台湾の国連加盟申請を「中国は一つ」と申請を勝手に却下したり、国連分
担金の国際機関分担金を韓国が滞納しても公式な批判がなかったり 李下に冠を正さず
(君子たるものは 嫌疑(けんぎ)の間(かん)に處(お)らず。未然(みぜん)に防
ぎ、瓜田(かでん)に履(くつ)を納(い)れず、李下(りか)に冠(かんむり)を正
さず。)と言う聖人足り得る振る舞いに終始すべしという事から外れているのである。
この事が今のトランプ政権を覆う。又イギリスのEU離脱に問題となる部分である。正
しくある事は大事だが この声が民衆の声でありEU離脱を宣言した以上英国での商売
は成り立たない。恐らく今後多くの金融投資や情報機器や色々な物が攻撃の対象となる
。これがEUや世界の危惧するところだろう。人は寛容の中に居る。だが助けた相手が
狂人だったと解ってから 人はそのまま寛容さを保って手助けできるはずはない。政府
は米国であれ英国であれ或いはブランスであれトルコであれ 民衆程に賢くない賢くな
いからこそ北朝鮮や中国或いはトルコのような独裁国家が現れるのである。だが民衆の
魂はそんなものではない。世界は覚悟が必要になる。


361: 名無しさんAA:17/05/14 11:14 ID:LEM
 魔法使い あららとおろろ 34-3  ( 明日の行方 )

 フランスの人権の概念は日本の人権の概念と少し違っている。そのちょっとの差を今
フランス人は気付いたのかも知れない。だが英国や米国は、恐らく何にも気がつかない
ままの様だ。まずアメリカのトランプは特に自由社会や民主主義を全く殺してしまった
。つまり本来の民主主義は「反対派の集合体」が民主主義でありその為に指導者はこぞ
って意見のPRがありメディアがあるのであって 何も発言しない決定は独裁者と言わ
れても仕方がないであろう。つまり既に出版社を潰したトルコや新聞社を拒否したアメ
リカは民主主義を捨てたと言わざるを得ない。此処に国連や他の国の批判を無くした災
いが存在する結果を産む。そも中国と米国が国家として話し合う事は民主主義ではない
。なぜなら個性を判断し個を尊重するから民主主義であって 独裁や強制を認めた事は
既に逸脱しているからだ。元々民主主義は万能社会を意味する物でも崇高社会を意味す
る物でもない。そして資本主義自由経済社会も又善人社会を意味する物でもない。人類
が戦争を止める為に自由主義陣営があるかのような錯覚があるが そもそも自由主義が
あるのはポピュリズムから起こった改革の流れで君主制の廃止から起こったもので「民
主主義は形態であり道徳規範ではない。」と言われるように 個の意見が言える環境で
しかない。ホッブズの社会観念論では 自由主義とは、善人も悪人もない出来る限りの
自然状態の集団形成をした結果であり、人間の本質である「恐怖こそ欲望の根源」であ
り「欲望こそ集団の社会契約」である本質は何ら変わる事はない。としている。つまり
戦争が「国家と国家」の戦いである以上個人は物や兵士であり国民でなく国力の駒に過
ぎない。それは民衆が自由を放棄した為起こった姿だからだ。人が知るようにチェスで
あっても将棋であっても本来の戦いは 相手でなく本人の知恵である。つまり「戦争」
は「国内事情においての外交政策」としての形に過ぎない。結局は隣国干渉や外圧折衝
での姿でしかない。日本が江戸文化を創った時鎖国主義を選んだ。これは海外の知恵も
海外の力も海外のいい物も使えない。更に海外に何一つ頼る事も目を向けさせる事も出
来ない事を意味する。仮に不況でも災害でもトラブルは自国で整理せざるを得ないのだ
。だがそこに民主主義は無いのかと言えばそうでもない。将軍の上に天皇を頂点にした
社会ではあったが、浮浪者は刀を持てば素浪人と言う中に旅人であったし地震や飢餓が
襲えばいつでも村は無くなった。漁師や猟師はカマギやシテーとして他に行き来した。
又、普化宗徒になれば修行僧としてどこでも行けたし大名行列にひれ伏す事もなかった
、とされる。他に御伊勢参りなどは頻繁にあった。但しそれらは各自の責任の下であっ
た。

362: 名無しさんAA:17/05/14 11:14
 魔法使い あららとおろろ 34-4  ( 明日の行方 )

 かつて昔は「封建社会」と言う名の体制維持が図られて来た。世襲制の農奴や植民地
主義が行われ それらの管理する体制との戦いを「一般意志の遂行」「一般人の政治」
として行ったのが民主主義なのである。変化ばかり求めて止まない人間の欲望の本性に
「絶対自由主義」の観念を取り入れ、今までの「自然状態」から、秩序ある「社会状態
」と言う観念を持ち込み 人の性に代えて理性を持って「社会契約」を行う民主主義を
唱えたのだ。こうして「契約社会」「消費文化」の民主主義が出来上がった。それは、
株式市場にいう「市場原理は公平・平等で動く」と言う市場原理の善人性に根差した捉
え方を謳い人々の心を掴んだ。これこそが拡大消費主義の現代社会構造の基本となって
いる。だが果たしてこれに嘘はなかったのか。実はこれは近代国家として嘘しかつけな
かった理由がある。よく考えて欲しい。我々が近代国家とするには条件が二つある。一
つは集団形成をしているのである。今私たちは中央集権国家を前提として常識にしてい
る。これが出入国管理や教育統制或いは色々な管理システムの対外交渉の前提としてい
る。つまり北朝鮮に金主席が居なかったらカダフィの居ないリビアやフセインの居ない
イラクの様になるのである。これが完全自由主義の社会であり民衆の求めていた「絶対
自由主義」の社会の行き着く先になる。もし人が善人であれば兵器も人殺しもないであ
ろう。しかし現実は内紛に次ぐ内紛で、内乱や戦争と同じなのだ。これは個性の自由は
あっても個の尊重にはならない。そこでフランスはフランス型の教育による自由と言う
観念を世界にアピールしたのである。つまりモラルの啓発と常識の移植である。つまり
隣人社会や郷土愛を宗教や土地に依存しない人種混合型モラルに依存したののである。
もう一つはその維持にかかる税の徴収の権限である。そこには富の再配分と根源的欲性
の制限を契約として行う事を民衆が許可した形になった。これには君主など権力者への
死刑すら行いながらその撤廃を掲げながら「権力者の民衆への下僕の対価としての承認
」が含まれている。ここに「近代国家は何故必要か」を説明しているのである。



363: 名無しさんAA:17/05/14 11:15
  魔法使い あららとおろろ 34-5  ( 明日の行方 )

 この事で「近代国家」建設には大幅にこの「権力者」の権限に譲歩した形をとった。
これが第一次世界大戦や第二次世界大戦を引き起こした。とされる。かつての世襲制も
イギリスでは王室を残したし、フランスでは選挙での選出と言えども格差社会は直らず
「セーヌ河は左岸で頭を使い右岸でお金を使う」と言われる程の富の偏りのままだった
。ドイツではイタリアの覇権主義についていくしかなく産業革命で起こったイギリスの
工業製品に保護貿易の網を被せた。これは国家そのものが格差の中に生きていてドイツ
は全く海運に強くなかったからだった。イタリアベニスの商人達はハクスブルク家の後
盾がありハクスブルク家には西ローマ帝国やカトリックバチカンの後盾があったのであ
る。だがこの保護主義は国内産業を育て資源国ロシアとの関係を良くした。がロシア内
の貿易赤字は産業の基幹技術であるガラスや石油精製と鉄生産技術の取得に動き、フラ
ンスとイギリスとの同盟に動いたのだった。此処に生産過多による海外進出が突破口と
して現れたのである。これにより石炭領地の争い普仏戦争が起きその後も第一次世界大
戦・第二次世界大戦が起こったのである。此処で問題とされたのは「社会共産主義」と
「自由民主主義」の戦いではあっても 内容の人間尊重であった。最初は国民の裕福さ
を技術の差やら物量の多さを基準にしたが、それを間違いとしてアメリカに管理型社会
を取り入れ ソ連の計画経済に競争を取り入れた。ただソ連の中での貧しさはアメリカ
の監視社会の暗さよりは広く大きかった。此処で、カルチエ・ラタンで「自由と平等と
自治」を掲げた約1000万人とされるの労働者と学生がパリでゼネストを行った。その後
もベトナム戦争の反戦デモをきっかけに「不可能な遺産」とされる革命運動が続いた。
個の平等を認め「聞き問いかける権利」「説明する義務」を守る事を改めて約束し監理
強化をしたのである。だが この平和を求めた世代が今戦争の野心に燃えている。とい
える。プーチン大統領は別にしてもトランプも安倍も習氏も戦後世代の代表である。よ
く自由民主主義の退廃と言われるが そもそも自由民主主義というものは「人の度量」
を決めたシステムである。そこは自然状態でも管理状態でも善人や悪人は区別しない。
欲望の上に立つ格差社会そのものがこれこそが資本主義と言われた消費社会の根源なの
だが、日本社会はそれを拒絶した。松下幸之助は便利な物の大量生産を少量高利潤以上
の価値を説明した。本田宗一郎は「支配と圧力は同じか」という問いかけに、より以上
の技術の中に王様も家来もない。と答えた。つまり例え如何に壁が高くとも登る勇気は
人は常に必要である。と言って排気ガス規制を超えたのだ。これが未来なのである。

364: 名無しさんAA:17/05/14 19:37
  希望と光の間 88

 「サディステイックロイド」加虐性共存社会の人間の自虐愛 これが日本 である。
サー・チャールズ・スペンサー・チャップリンとジョセフ・フランク・キートンは世界
の喜劇王であろう。更にハロルド・ロイドを加えれば三大喜劇王とされている。日本の
お笑い芸人がいかほどこの人達をの事を知っているのかは不明だが彼らの時代は餓死の
ある世界であった。映画が出たばかりでその映像に人は魅了されたがコンテンツ不足は
エッフェル塔から落ちる人さえ 金儲けに記録映画に撮るという事からも解る。こうし
た喜劇が終わる頃、世界はもっと過激な映像の世界に接する事になる。2度の世界大戦
である。これは歴史のブラックユーモアの中にある。ひとの快楽がこの映像であったと
したら 人は何と情けない世界にいるのだろうか。日々進化する兵器を前に映像で記録
するしか無かったのである。誰も阻止して止める事は出来ず ズルズルと記録を撮る事
しか出来なかった国際社会は今も 米国の横暴と中国の我儘とロシアの脅威に、笑うか
の様に北朝鮮はミサイルを撃ちあげた。この発射は中国のシルクロード経済圏構想に関
した北京での国際会議を前にして行われている。韓国の融和政策を前にしての文政権が
発足しての 弱腰外交との推測から「韓国など歯牙にもかけない。」と言う意志表示で
ある。孤立無援の孤高の崇高な独立国で 韓国や日本の様な米国の属国たる国を築く事
などなく我が道「核兵器保有国」で行くとのアピールである。これをロシアはどう見て
いるのだろうか。この韓国政権は恐らく又これまでの様に市民の経済価値をドブに捨て
てでも今まで中国や北朝鮮に近づいた様に寄り添うだろう。その援助は金政権を強くし
核ミサイルの完成を早める。最終実験では宇宙空間での核爆発実験に、迎撃ミサイルを
使う事になる。これは来年でも起こり得る事であろう。放射能の雲や黒い雨が降っても
韓国は仕方ないであろう。日本やロシア中国もこれは止めるに値しない攻防が続く限り
この武装自立する北朝鮮をどうする事も出来ない。しかしその放射能は最終的には米国
の西海岸を通り欧州まで影響を及ぼす事は 日本の東日本大震災やフィリピンの火山な
どで確認済みの話だ。さてさて潘基文などと言う無能な国連事務総長を生み出したツケ
が今世紀最大に襲ってくる悪夢となるだろう。全く調和主義者の鞄持ちのブラックユー
モアはどこまで続くのか。難民たちが国連を笑っている。


365: 名無しさんAA:17/05/15 03:57
  魔法使い あららとおろろ 34-6  ( 明日の行方 )

 これは欧米から言えば「アメリカン・スピリッツ」の類で称賛される話であろう。そ
れはソニーの「ホームムービー裁判にも表れている。だがNTTは馬鹿げた事に この
著作権争いの中でのその崇高な意志を無駄にした。携帯電話の中にカメラを入れ込み、
金銭機能まで持たせた上に馬鹿な事に韓国企業と提携したのである。かつて 日本の中
で 国有企業として発展させたその理を売ってしまったのである。目先の利潤に目がく
らみ、全く未来を創る事を止めて現代に翻弄されたのだ。5月革命はシャルル・ド・ゴ
ール大統領は、軍隊を出動させて鎮圧に動いた。だが 同時に共に国民議会を解散し、
総選挙を行って民意を問い圧勝した。そしてこの「革命」が国民大多数の意見を反映し
たものではないことを証明して見せた。この事で国民生活は事態の解決を見たのだが、
この時のフランスの「五月革命」は「旧世代に反対する新世代の台頭」と言われ、西ド
イツや日本、イタリアなどの先進国の左翼学生達に影響を与え、平和運動の影での過激
な行為があったのが次第に消えていった。この事件の発端は1966年の大学の学生運動で
の大学内の民主化要求だった。だがこの時奇しくもベトナム戦争反対を唱える国民委員
会や、プラハの春事件に対する反社会主義派の「自由と平等と自治」の意志と同調して
いる社会風潮の中だった。ソ連との繋がる「スターリン主義」的なフランス共産党は、
すぐさま下部組織の労働総同盟(CGT)を通じて労働者のストライキを組織したが、
そこにはアナーキスト毛沢東主義者トロツキスト統一社会党と言うそれぞれの共産主義
者が民主化に賛同して議論を得たのである。が運動が拡大するにつけフランス治安部隊
との攻防も熱くなる。そしてゼネストからバリケードを構築しての、衝突や街頭占拠を
推し進めるに至って アナーキストやトロツキストたちを「挑発者」として激しく非難
し終息した。この時の世論の議論こそ今のフランスの冷静さであろう。「我々は個々を
尊重し、しかも共生の社会を創り 決して落ちこぼれを作っていない協調国家だと言う
自負である。欧州で初の人種の坩堝としての世界的国家である自信がそこにある。英国
と違った陸続きで肩を並べる国家特有の「気高き誇り」が見えるのだ


366: 名無しさんAA:17/05/15 04:07
  魔法使い あららとおろろ 34-7  ( 明日の行方 )

 こうした事は良く起こる間違いでもある。かつて我々が開国を迫られた時 欧米列強
は「野蛮な未開地に 文明の光を差し入れる。」と称した。黒人が奴隷船に乗り込んで
米国に来た時インディアンには「広大なこの新天地は黒人を使い共同経営できる。」と
持ち掛けて今の国を作った。二枚舌外交にに本国の英国や仏国では「新大陸は桃源郷だ
、夢が詰まっている。」と移民して来たのである。今欧州に押し寄せる難民や移民達も
又同じ様に「母国よりはましな暮らしが出来る」と思って来ている。「母国よりは安全
な暮らしになる。」と思って暮らし始める。だがそうした中文化摩擦の無い世界などな
い現実が子供に襲い 逆にその安心できる社会を子供らが危険にさせる。5月革命の中
フランス人が知ったのは恐らくその「奥深い人の生活の大事さ」であり「自由や安全を
守る。」事にちゃんとした努力や対価が必要という事である。此処に日本人とのズレが
あるのかもしれない。今中国が西側との接点の緩衝地帯として北朝鮮を見ている事は、
全くの間違いである。単にそれは文化摩擦を嫌っただけの話であり融和の意味ではEU
と同じに韓国や日本と重なっても単一地域としても成り立つ話である。それは米国に振
り回されるカナダやメキシコも同じ事だ。本当に麻薬の撲滅を掲げ殺人事件やテロ防止
を掲げるのであれば 逆に開放しメキシコにやって来る麻薬を止める事を支援する必要
に迫られるはずだ。日本には「遠くの身内より近くの他人」と言う諺がある。どんなに
か便利に交通が発達して潤いが増しても 近所の利便さ隣人の暖かさにはかなわない。
と言う事なのである。英国がどんなにEUと離れようとも地理的要因は何一つ変わる物
ではない。つまり逆にEUとの接点が少なくなることで多くの矛盾や段差や温度の違い
を噛みしめる結果が待っている事になる。それが今の日本での朝鮮半島問題だ。社会主
義であれ民主主義であれ本来変わらない「人の生活」に根差した思想である。只そこに
ある政治思想や国内事情或いは地理的要因が歴史を作っている。とすれはそれは差が無
い方が比較的簡単だ。それが李承晩の様に逃げ回り勝手に国境線を作り嘘を言う。この
結果が今も続く歴史の温度差であり偽証の国の現実なのだ。それが今の国際政治の人類
を悲劇にさせる理由である。歴史の亡霊が人を狂わせるのだ。国家は国家であり続ける
としても 社会契約である「国民を幸せにする。」と言う約定は各国共守るべき中にい
る。それは外国の事情でも国内の事情でもない。時の政治指導者の都合なのである。そ
れをかつてのフランス人は良く理解して 我慢して来たのである。例えEUで英国病の
紳士が大口をたたき、ドイツの貴族が虚勢をはっていても、小国の王室が怒鳴り散らし
ても そのフランスの賢さが 今のドイツのメルケル首相の風格にある。

367: 名無しさんAA:17/05/15 18:51 ID:1E.
  希望と光の間 89

 フランスはこうして人間革命に至ったのだが 米国では今に至っても悪びれていない
。もし米国が反省しているならば銃火器工場はかなりの痛手を負うであろう。というの
も米国は「自己防衛の武器を持つ権利も 自衛の為に相手を攻撃しても構わない。」と
言う「正当防衛論」から武器や攻撃心を手放す意志などない。銃や武器の携帯権利は麻
薬中毒の多い中にあっては当然必要なのだ。にも関わらず麻薬患者を減らす努力も銃の
規制する努力もない。無知に付け込んだ政府対応は横暴のまま市民を傷つける。それら
の思考はイスラエル人そのものである。そこにはエルドワンの狂気も北朝鮮の偏執狂の
批判できる程の品格はない。ロシアや中国と同じに大国である自覚や使命感がないまま
に年月を過ぎている。今回の北朝鮮のミサイル発射実験は北朝鮮の自信の裏付けでもあ
る。燃料は固体燃料に換えて撃ちあげ準備を早くし保管を楽にし、打ち上げに圧縮ガス
で発射した後、空中でエンジンに点火する「コールド・ローンチ」方式が採用されてい
る。そしてそれはロフト発射の高高度の角度制御されて日本海のロシア側に落ちた。今
までの倍の射程距離の高度2千K更8百K先に落ちて火星12号は成功したと発表され
る。この成功にも驚くがそれ以上に進歩の速さである。恐らくトランプ米大統領の任期
中のうちに核搭載の大陸間弾道ミサイル(ICBM)を開発する可能性が強くこの見通
しは甘くはない。更にこの北にロシアからの亡命科学者が参加しているものと思われ、
この境界線上に撃てた原因はロシアには事前通告はなされていたのだろう。又偵察衛星
からは前日にロケットが立った事が確認されたと言われ 威嚇発射でなく展示発射だと
の声が聴かれる。という事は今回の中国の一帯一路の会議にミサイル売り込みを果たし
たと考えられる。当然運搬の困難も考えられるがこの会議には、ロシアのプーチン大統
領を始めフィリピンのドゥテルテ大統領、ミャンマーのアウンサンスーチー国家顧問ら
29カ国の首脳が出席する。中国は自らが主導するシルクロード経済圏構想(一帯一路
)の参加国に、今後5年間で最大1500億ドル(約17兆円)を投資する方針会議に
は130カ国以上が参加している。首脳の空港到着を生中継する力の入りぶりと相まっ
て米国・ロシアなどとは何らかの話し合いは持たれているようだ。つまり日本は真面目
に反対するより北朝鮮と秘密裏に近寄ったがいいのかもしれない。ロシアの北方四島の
ミサイル配備とこの問題はリンクしの非難の声のないロシアは米国を飲み込んでいるか
もしれない。となると今や日本は北よりコミー長官の辞任の方が大きな問題なのかも知
れない。

368: 名無しさんAA:17/05/16 08:55
  希望と光の間 90

 今度のミサイル発射実験では 北朝鮮が孤立無援の「核兵器保有国」で行くと決めて
、孤高の崇高な独立国で韓国や日本の様な米国の属国たる事などは無いと言う決意表明
に見えるが 他に売り込みPRの実況アピールでもあるのだろう。日本人はこの兵器に
無駄な高い開発費と見ているようだが 製品が売れていれば例え何億かかろうともその
倍額で売っている事も有り得るのだ。こうしたぼろ儲けシステムを欧米文化として見て
いるのは近代社会のいつわざる黒い部分であろう。だがこの金融システムは既に壊れた
とも言える。まずエネルギー需要の低迷である。産油国のイスラム社会の銀行は軒並み
暗雲に飲み込まれた。加えてトランプはシリアにICBMを撃った。この事は 大きな
問題を引き起こしている。スノーデンを匿ったロシアのサイバーグループが立ち上がっ
た形になったのだ。元々ロシアは表に裏に必要以上にアメリカの中核サーバーへ侵入を
している。だがこのプログラムはどういう訳か北朝鮮の手に入ったらしい。XkeySCore
は元々諜報プログラムである。だが北朝鮮はこれによって中国の傍聴基盤「ブラック・
ドア」の解除暗号を見つけた。ブラックドアが開けらればバックドア即ち裏口は簡単に
通行許可を得る事が出来る。ここで飛躍的に技術盗作が起こる。こうした事件は2年も
前の話である。それが今や白頭山エンジンにつぎ込まれて完成を見る事が出来る。だが
同じに北朝鮮の動向を見ていたハッカー集団も同じにかなりの有用なプログラムを盗む
事に成功した。その中にはロシアの反体制集団クラッカーもいた。謎のハッキング集団
「シャドウ・ブローカーズ」がNSAから盗んだと思われるデータダンプを公開した。
このプログラムそのものは恐らく古いスノーデン時代の物でそうそう脅威になるほどの
ものじゃ無かったのだろう。ブローカーネットでは誰も購入しなかったとされる。だが
頭の良い中東人がいたのだろう。逆暗号化の自爆ウイルスに仕立ててその中でマルチプ
ログラムとして防衛の弱い銀行を乗っ取ってしまったようだ。つまり今でも苦境の中東
の銀行は下手に手出し出来ない中で仮想通貨を集める事が出来ると踏んだプログラムを
入れたのだ。この仮想通貨は主に中国か中東か裏社会でしか流通しない。いずれも国家
貨幣の持つ調整機能を無視できる国で 流通量でなく現物等価価値と預貯金と送金のみ
の中の使用である。今後の推移が1位となったスパコンの「神威太湖之光」のベンチマ
ークSunway TaihuLightの値は93ペタフロップスを記録した。と発表している。この
無駄な開発費の回収作戦かも知れない。何にしても北と中国も一緒にランサムが発生し
ている

369: 名無しさんAA:17/05/16 18:52 ID:Svw
 御覧砂漠 の果て 53

 今や「グローバル化」を流行語の様に使う。だが国際化は世界がひとつになる≠ニ
言う事ではない。一つの基準一つの標準社会ではない。多様化と複雑化する事は当然で
ある社会を容認し許容できる社会を決めて そこで平和に反映する事である。どうも、
今年のトランプやEU離脱やロシアや中国の台頭は、その意味ではつまずいているよう
だ。そも中国が一帯一路とした中華の夢に人類は乗せられてはならない。今ですら中国
そのものが矛盾の拡散と格差社会の拡大の中で秩序のない事で強制的人権蹂躙社会を作
り上げる全くの無法国家である中で そうした夢を持ってはいけない。スリランカの今
は荷揚げ港を作っただけで永遠に返せない負債を作った。カンボジアは森林伐採の上に
出来たアジア大会スタジアムは今や中華民の犯罪の巣窟なのだ。すさんだ社会の助長で
の権力追求は利害関係での国民の対立しかないのはリビアやシリアでも同じだ。このま
ま詐欺の外交を続けることは第三次世界大戦すら起こりかねない程人の気持ちや環境を
壊す。成程かつてのローマがアフリカから道を通した様に、中国から欧州まで寄港地な
り砂漠なりの道路を整備し高速交通網を築き上げる事は、中国にとっては大きくその国
のインフラ整備には沢山の中国のお札を刷る事は可能だろう。だがそれをやったとして
その財源になる自然からの供給量は今や地球にはない。それは今の漁獲高が中国漁船団
の活躍でおよそ10年で百分の1にまで資源が枯渇したように アフリカで象牙の為に
象が希少生物に入ったように 中国の市民には良い事だろう。だがそれは 国際化でも
グローバル化でも統一世界観でもない。只の永遠の自然の搾取で原住民の食糧の盗掘な
のである。中国の供与や投資などで民族問題が現れ内乱になった国はアフリカで23ヶ
国中東・アジアで31ヶ国これらの国で紛争にならなかった事が不思議なくらいなのだ
。これを国連は許している。これまでは石油などが高く又高い利潤での許容があったの
だがこれからは民族意識がIT化して寛容ではない。北朝鮮を指導出来ないのはそこに
ある。本来共産主義社会である。中国一国主義で出鱈目でなかったならわざわざ米国を
相手に粋がる事もなかったろう。それがソ連や中国自身で精一杯だった歴史が今の核開
発やミサイル防衛を起こしているのである。なぜ我が国だけ進化しないのか。と言う問
いのままに。グローバル化は多様化文化の醸成である。何も貧困化を迫るものであって
はならないのだ。日本はそうして他国と付き合ってきた。中国もロシアも知るべきだ。


370: 名無しさんAA:17/05/16 22:02

日本維新の会は良く考えろ 時期尚早だ 今までの日本の歴史を無駄にした中曽根以下
になってはならない。 アメリカに追随してもひれ伏す事は無い。日本の位置日本の足
場は固めるべきだ 今だ意味不明では国民は誰も見向きもしなくなる。そうした政治を
又繰り返すつもりなら 日本維新なんぞいらない。




371: 名無しさんAA:17/05/17 11:35
  希望と光の間 91-1

 今や「グローバル化」を流行語の様に使う。だが国際化は世界がひとつになる≠ニ
言う事ではない。一つの基準一つの標準社会ではない。多様化と複雑化する事は当然で
ある社会を容認し許容できる社会を決めて そこで平和に反映する事である。どうも、
今年のトランプやEU離脱やロシアや中国の台頭は、その意味ではつまずいているよう
だ。そも中国が一帯一路とした中華の夢に人類は乗せられてはならない。今ですら中国
そのものが矛盾の拡散と格差社会の拡大の中で秩序のない事で強制的人権蹂躙社会を作
り上げる全くの無法国家である中で そうした夢を持ってはいけない。スリランカの今
は荷揚げ港を作っただけで永遠に返せない負債を作った。カンボジアは森林伐採の上に
出来たアジア大会スタジアムは今や中華民の犯罪の巣窟なのだ。すさんだ社会の助長で
の権力追求は利害関係での国民の対立しかないのはリビアやシリアでも同じだ。このま
ま詐欺の外交を続けることは第三次世界大戦すら起こりかねない程人の気持ちや環境を
壊す。成程かつてのローマがアフリカから道を通した様に、中国から欧州まで寄港地な
り砂漠なりの道路を整備し高速交通網を築き上げる事は、中国にとっては大きくその国
のインフラ整備には沢山の中国のお札を刷る事は可能だろう。だがそれをやったとして
その財源になる自然からの供給量は今や地球にはない。それは今の漁獲高が中国漁船団
の活躍でおよそ10年で百分の1にまで資源が枯渇したように アフリカで象牙の為に
象が希少生物に入ったように 中国の市民には良い事だろう。だがそれは 国際化でも
グローバル化でも統一世界観でもない。只の永遠の自然の搾取で原住民の食糧の盗掘な
のである。中国の供与や投資などで民族問題が現れ内乱になった国はアフリカで23ヶ
国中東・アジアで31ヶ国これらの国で紛争にならなかった事が不思議なくらいなのだ
。これを国連は許している。これまでは石油などが高く又高い利潤での許容があったの
だがこれからは民族意識がIT化して寛容ではない。北朝鮮を指導出来ないのはそこに
ある。本来共産主義社会である。中国一国主義で出鱈目でなかったならわざわざ米国を
相手に粋がる事もなかったろう。それがソ連や中国自身で精一杯だった歴史が今の核開
発やミサイル防衛を起こしているのである。なぜ我が国だけ進化しないのか。と言う問
いのままに。グローバル化は多様化文化の醸成である。何も貧困化を迫るものであって
はならないのだ。日本はそうして他国と付き合ってきた。中国もロシアも知るべきだ。


372: 名無しさんAA:17/05/17 11:36
  希望と光の間 91-2 

 この「一帯一路構想」は「中華の夢」と全く同一の漢民族の欲望其の物なのである。
がそれに「AIIB」と言う 勝手な国際機関を載せている事が大いなる問題である。
アメリカは各国を集めて個別な軍事同盟や破滅的条約を壊そうと「戦勝国会議」をして
国際同盟機関「国際連盟」を創った。日本では国際連合と国際連盟と名を変えているが
実は二つは同じものだが、その戦勝国でありながらも会議はオ−プンであり各国が意見
は言える。だがこのAIIBに関してはかなり異常な形態である。日本の様な姿も無け
れば中国共産党と言う一党支配のままであり主席の意向一声でそれらが決まる。更には
実績もないだろうが日本の場合南米やアフリカなど有償借款でも債務免除は多々行いそ
の中での別枠の国際機関なのだ。元々中国人中華文化に金を貸し借りする文化はない。
「親しい中国人からお金を貸して欲しい。と頼まれることがある。金が必要である事は
正直に話してくれるのだが、返済計画は話してくれない。借用書を用意していることは
めったにない。稀に用意していても、「返せるようになったら返します」という旨が書
いてあるだけで、自分の住所も生年月日も書かれていないし、捺印もなく、単なる手紙
みたいなものである。」と聞く。それは友人が騙そうとしてる訳でも、馬鹿にしてる訳
でもなく 決算規範の文化がなく土地さえも共産党の持ち物である。と言う事にある。
難しい話のようだが、要するに、中国では、借りた金を返すということが、してもしな
くても好いことだということである。そしてそれは個人のみならず、金融機関が相手で
も事情は同じであるといい、国家さえも同じとされる。「中国で、銀行から資金を借り
る際に、返済のことを考えている企業は一社もない。」と中国人は胸をはる。銀行では
「当銀行は資金不足でお悩みのみなさんの需要に応じます。A銀行よりも有利な条件で
貸しますよ」とPRする。そして今や中国政府が同じ事を行うのだ。そして他の国も又
、信用力も審査能力もなく、看板のうえで閑古鳥が巣くう中国に、「それじゃ私たちの
お客さん相手に、協調して貸し出しましょう」と救いの手を差し伸べる国がある。日本
である。アジアインフラ投資銀行(AIIB)である、横浜で大々的に自己宣伝しては
中華経済圏構想「一帯一路」推進のためのAIIBの先兵とて肖捷財政相が日米などの
ADBメンバーに強く参加を求めそして二階堂氏が訪中した。だがこの財政相に借りた
金を返すつもりもその計画もない。それどころか今もADBの最大利用枠の国なのだ。


373: 名無しさんAA:17/05/17 11:36
 希望と光の間 91-3 

AIIBに、カネは欲しいが資金供出しない国ばかりが集まる。世界最大の貸し手であ
る日本と、国際金融市場の元締めである米国が参加していないために、信用格付け機関
がそっぽを向くので、市場で債券発行できていない中 中国は5兆ドルの対外債務と3
兆ドル外貨準備金だ。だが国内で7兆ドル不安とされるバブルと年間1兆ドルとされる
資金流出の国である。この一帯一路プロジェクト千五百件以上に約五十社の中国国有企
業が関与して その還元の無い資金を得て潤っているのだ。他の国が やって来るのも
無理もない日本の大木の樹液は甘い。そのAIIBに、カネは欲しいが資金供出しない
国のお客様が集まる世界最大の第一回会議に汗をかく中で水を指したのが北朝鮮である
。習近平は孤立する金正恩の北に 米国・ロシアなどの反対を押し切って招待状を送り
貸し手である中国の威厳と尊厳をして北との話し合いを行おうとした。と言われている
。一堂に会する会議直前4時間前に撃ちあげられたとする北朝鮮のミサイルは24時間
外に建てられていたと言う。米国は時に善人の紳士として振る舞い、時に悪魔の戦士と
して、そしてある時は素知らぬ振りをする隣人のように振る舞う。この時北朝鮮は中国
と同じ自由市場の入り口に立たされていたはずだ。だが資本主義自由社会を捨てる方に
向いた。この事は中国習近平主席にとっては衝撃的出来事だ。今でさえある意味北への
無償借款で経済サービスして 石油パイプラインを堂々と止めれるのだが温情で開けて
いるバルブを今度は西側からの脅迫で閉める涙の前に 閉められる国が真っ向から閉め
てもらっていいと言った様なものなのだ。言わば地球と言う貧乏長屋で井戸に近い住民
は美味しい料理の仕方を知っていて それをやっと教えてもらい一番端の住民に教室を
開いて教えようとしているのに、包丁持って「いや脅迫して聞き出すからいい。」と答
えた様なものだ。その教室開いた住民も向かいの教室への受講料は払う気はない。それ
は妄想「中華の夢」の中にいる共産党信者を抜けきらないのである。

374: 名無しさんAA:17/05/17 20:04 ID:mog
  希望と光の間 91-4 

 だがマスコミは一向にこの朝鮮半島情勢に危機感はない。それどころか国連も米国も
いや北朝鮮と韓国そのものに戦争中の中にある。と言う意識はない。これは可笑しな事
だ。朝鮮半島情勢に危機感は「第一次北朝鮮核危機」以降、最も緊張していなくてはな
らない筈だし、米韓合同演習に暗殺計画が入ってからミサイル技術や核開発の進展は目
を見張る。更にトランプ政権が誕生して以来ぬるま湯の中の共産党革命に終止符を打つ
べく強硬論の上の政策が取られた。これまでとられてきた対北朝鮮問題に対して 中国
からより強い指導力のもと突破口を開き、更なる事態の混迷を解こうとしている中でも
韓国国民はTHAADの費用不払いや撤去の論争が起こったり文政権が発足したりと、
とても悠長なのだ。北朝鮮側は自分の政権の後ろ盾だった叔父を殺し正当な政権から逃
げた長男を殺してまでも「政権維持」を見せつけこれまでの「米朝会談」への要望とし
て核とミサイルの開発が今や「核保有国」としての地位と保全であるし、核実験やミサ
イル開発は独立国の権利とし手放さず 威嚇と譲歩は経済封鎖解除や優遇措置や援助で
あると変わったようだ。かつてドイツのバルバロッサ作戦でグデーデン地方を白作戦と
してナチス・ドイツは次第に積極的な領土要求を行い、要求が満たされなければ戦争を
行うと脅迫し外交交渉した。その後外交交渉が頓挫するとポーランドに侵攻し、ヨーロ
ッパにおける第二次世界大戦が勃発させ失政を隠した。このナチスのやり方を踏襲して
ニュース報道している。実はこのAIIBと北朝鮮のミサイルは結構な緊密関係にある
。それは中国人民銀行(中央銀行)を通じての資金からだ。良く知られているように、
北朝鮮の車両もこの石油パイプラインも工業団地も中国国内などでの北朝鮮労働者の賃
金は朝鮮銀行が管理しているとしても中国人民銀行がその中にあるから出来る事だ。か
つて中国国内での人民元の偽札が横行していたのはその出先が中国人民銀行であったし
その先に朝鮮中央銀行との合弁銀行として華麗銀行がいたのである。つまりこの北朝鮮
の裏の技術や資本や核武装の手伝いするウランは 一体どの国が提供し扇動しているの
か。という事を明らかにするべきなのだ。

375: 名無しさんAA:17/05/17 20:05
 希望と光の間 91-5 

 目先の事に奪われて国家存亡の危機に陥れた鳩山内閣は 今でものうのうとその後釜
の新進党なる野党を結成している。本来ならインド洋上の給油作戦をそのまま続行して
いたなら ロシアのクリミア侵攻も中国の尖閣諸島問題も北朝鮮の核開発も無かっただ
ろう。実は中国は戦略上インド大陸に常に抗争を繰り替えている。それは邪悪な共産党
思想の否定がそこにあるからだ。ニュースにならないが今でもチベット僧の拘束と太極
拳の法輪功行者の労働刑務所送りは行われ 労働刑務所の生きた人間からの臓器提供と
その死体を人体模型にする手法は堂々と行われている。この事は経済発展で大きくなっ
た社会枠で見えなくなったし 地下に潜って共産党政権が匿ってしまって自由取材が出
来ないから報道にならないだけだが そのインドが進展してもらっては困るのがパキス
タンである。日本人は今の平和を在り難く思っているのか先人たちの苦労をどう見てい
るのか知らないが この野党のさえずりでパキスタンの勢力図が大きな変化を遂げてい
る。先のAIIBに先んじてこの中国人民銀行(中央銀行)の私的ファンドは外貨流出
に海外貸付をこのパキスタンに第一号投資を行った。国内の金利と同じ貸付の5%以上
である。又投資先第1号となったパキスタンの水力発電所は年内に着工して2020年
稼働だが、建設資機材や発電用タービンの輸出、労働力の提供などは、中国企業独占で
中国紙幣の還流が原則としている。従ってパキスタン重視は地政学的な理由でけでパキ
スタンと言う国家や国民は全く関係がない投資益と航路拡充のみの投資ファンドだった
のである。そして北朝鮮のこの核やミサイルの最高のお客だろうというのがパキスタン
なのだ。ロシアからの物資も物資そのものは陸路かも知れないが送金ルートは必ずこの
イスラム教の中で資金洗浄してやって来る。此処に共産党政権同志の国と国の争いの様
に見え国連の勧告に合わせているかにみえるが その実は翻弄され金を拠出させる為の
演技のような姿が見え隠れするのである。


376: 名無しさんAA:17/05/17 20:05
  希望と光の間 91-6 

 大体この「一帯一路構想」や「シルクロード基金」と言ったものはちょっと茶番であ
る。というのも この漢民族中華人はそうした苦労して隊列や行列を造った民族ではな
い。今でも「チャイナ・タウン」を作りコスモデティの中では窺うのみで一つの小さな
コロニーの中で仲間内生活をするのみで その国の共同生活に融け合ったものとしては
存在しない。日本でも横浜や長崎に中華街があるが それは華僑が集まった物としてし
か存在しないからだ。そしてそれは暗黒世界にあり陰に隠れ朝鮮人の在日達より性質が
悪い。日本人は島国育ちで大陸の様な自由度の無い中で建国し発展して来た。黒船来航
がある前までは殆ど朝鮮若しくは中国が持ち込む文化しか接触するのは不可能に近かっ
た。そうした交易で金持ちや高貴な者は その中にベルシャガラスや絹糸の織物や貴重
な絨毯や紙が存在し 瓦などの焼き物技法や仏教文化があったので日本人はシルクロー
ドと言う果てない一本道しか見えないはずだ。だが中国文明や他の中央アジアに於いて
シルクロードなどと言う概念はない。塩の道や行商や草原の遊牧民の社会が そうした
欧州に目的として行商した文化はない。只そこにあるのは右の街から左の街への物々交
換して利益を得る為の商売のネットワークは存在したであろう。この大構想のような、
航路や陸路をまるでアメリカのトラック野郎の様に綿々と行き来し出すのは恐らくこの
二千年になってからで 大航海時代以降でも魚を獲るか豪華客船を回すかしなければ、
こうした輸送経路を軍団のように直接に通うと言う行為は無い。日本のタンカーでさえ
中東までであろうし コンテナ船であればそれこそいろんな寄港地での収益と共に運搬
していたのだ。だがここに来て日本のアメリカとの直接航路で繁栄していたのを見て、
同じ様に欧州との取引で中国との直接運搬を行おうとしているのである。その例が韓国
の海運業である。だがそれでも中国の様に国を挙げて寄港地を大型船の自国の権益や権
勢を維持できる寄港地を作るほどには 資本投資は行ってはいない。つまり前例のない
この投資は投資先の近代化は育むものの貧困化紛争化 略奪され砂漠化する資源は避け
られないだろうと予測される。となれば この中国の資本投下は何を回収出来るのだろ
うか。

377: 名無しさんAA:17/05/19 02:58 ID:iPk
 小池知事は馬鹿なのか。汚染の専門家会議が決定事項を持たないのなら公示しての
毒性物質の説明会を開いても意味はない。問題はこの豊洲市場をどうするかであって
何も飲料水でも手洗い水でも使わない水が 有機溶剤に近い成分があっても構わない
事だ。口に入れる食品市場だから・・と言う意見は高尚な言葉だが 誰も肥料を食っ
て生きてはいない。特に草殺しや虫殺し病原菌殺しなど幾多の農薬を使った野菜を食
べている。こんなてれんぱれんな意見などどうでも良く 小池知事が考える為の資料
であって都民には開示請求にのみ応じる話である。問題は小池氏の方針であり今後の
予定なのだ。それを出席もせず破談になったなどと 知事職冒涜の上の公務員法違反
の犯罪者である。溜り水に毒性があるなら海水を常に流して排水すれば事足りる話だ
。放射能汚染水すらも微量なら流して自然界に帰しているではないか。最終的には、
仕方のない方法論のはずだ。コンクリート建物自体が有害と言えば有害なのだ。



378: 名無しさんAA:17/05/22 08:25
高須クリニックは何を早とちりしているのか。
 美容外科業界が当たり前というのなら この議員の言う正常化に尽力し
  一般人の印象を良くする社会運動するのが筋だろう。この怒りや損害賠償
   を起こしている事の方がおかしい 誇大広告もぼったくりもしないと胸をはるが
    悪徳美容外科と同じ職種である事は いがめない事実であろう。CMが陳腐だ
     というのは 誰もが認める事実だ。どこにも名誉を傷つけていない。院長の
      方が自らの高須クリニックの名を傷つけている。


379: 名無しさんAA:17/05/22 10:10
 米国万歳
    ラ・ファン   41

 馬鹿げた事に「Deep State」説、つまり「影の政府」が囁かれる。ここには「選挙で
選ばれた政府が司るのは表面的な国家でしかなく、その奥深くに軍部と諜報機関と司法
とマフィアが結託した闇のネットワークが存在している。」という話らしい。「国民の
支持を受けた首相や大統領も、軍部や諜報(ちょうほう)機関に逆らうと、クーデター
で政権を追われたり、暗殺されたりする。」という怖い都市伝説が流行している。だが
現実に 今や中国人のスパイ活動は成功裏に終わっている。実際米大統領トランプ政府
はなんとも判断不能状態になってしまった様だ。矢継ぎ早の「非常識法案」のサインが
飛び交い過激な「大統領令」の乱発や、医療保険制度改革代替は代替にならない酷い法
案で採決見送りになり、更に米軍はシリア攻撃をしアフガン爆弾投下して朝鮮駆けつけ
となってる。本国では中ロシアゲート問題が浮上し台湾重視政策は変更されたと。TP
Pやオバマのやった政策は悉く外され入り乱れて 世界の目を惹きつける稚拙な今の米
国政府の動きは、まだまだ議会運営までは至ってないスタッフ不備でさえも 米国とい
う国家は動いている。至って国民は心配でしようがない。と言うのが正直な所だろう。
中東では 20ヵ国以上のイスラム教国家を前にしてテロ廃絶を呼びかけてはいるが、
そもそもサウジアラビアやイスラエルこそが暗躍する暗殺集団を育てテロの産みの親で
あろう。その中心に米国大統領がいるという事を理解していないらしい。こうしたイラ
ン包囲網を築くことは 決して米国の為にならない。今集めて演説した相手こそが近々
の北朝鮮のような独裁国家ばかりで 原油資源の調達によって豊かであるだけの国で、
イランの様な法の秩序や女性の人権や宗教分離の大原則を破っている国ばかりではない
か。これまでの民主主義の長としての威厳は捨てて金満国の犬や乞食に成り下がった様
な演説は受け入れがたいものだ。同盟国を捨てるというなら別だが。今度の中東での兵
器の売り込みは消費経済の失効時代に全くナンセンスであり軍需ロビイストの勝利であ
ろうが それは同時に北の核ミサイルの成功につながるものだ。北朝鮮と同じ論理での
売り込みであれば 世界は暴走するのは間違いない。911首謀者はサウジの人間なの
だからだ。

380: 名無しさんAA:17/05/24 22:13
 米国万歳
    ラ・ファン   43

 2017-05-22--10--33、Manchester Arena*Ariana Grande tamaclub news ff
(日本時間23日午前6時33分)
 英国最大のイベント会場マンチェスター・アリーナで行われていた、米国の人気の歌
手であるアリアナ・グランデのコンサートの終わりに爆発があったとのM報告が入った
。当局警察では自爆テロがチケット売り場前で発生したとして 破裂遺体の収集で身元
を洗い出した。AFP発表では 英中部マンチェスターのコンサート会場で爆発が発生
して22人が死亡し50人以上がケガをしたと言う。事件で警察から自爆犯と特定され
たのはサルマン・アベディ容疑者(22)で仲間がいるものと思われる。とされる。メデ
ィアによると、地元の大学で経営を学んでいたが昨年中退していたが、数年前からの、
イスラム過激主義に傾倒して注意人物だったらしい治安機関にも知られていたという。
マンチェスター在住で、敬虔なイスラム教徒のリビア人家庭に生まれ育っていた。英紙
デーリー・テレグラフによると、一家は市南郊のファローフィールド地区に少なくとも
10年以上前から居住していた模様で 近年彼はリビア渡航者であったと伝えている。
 この事件には引っかかる事が多すぎる。一つはマンチェスターアリーナの音楽事業で
起こった事だ。歌手はアリアナ・グランデでマライア・キャリーを彷彿とさせる歌声を
特徴としている若い世代に人気の歌手だ。ちょっと前にイギリスのブレア首相を資金面
から支えてきたイスラエル系の富豪、マイケル・レビが「闇融資」事件に絡んで逮捕さ
れた。イスラエルのテルアビブ郊外に別荘を持っている大富豪なのだが 彼は英国の中
のエンターテイメントの世界で富を築いた人物として知られている。CBSレコードの
モーリス・オブステインを後ろ盾として70年代にレコード会社を設立し売却したが今
尚大富豪のはずだ。だが彼が有名になったのはエンターテイメント業界ではなく政治の
中でブレア―と仲良くなってPLO支援だった英国労働党を現イスラエル政府支援に切
り替えてその後リビアのカダフィ大佐の政権を潰すことに成功した事件にある。今正に
オバマ政権が作って来た平和の兆しをトランプや現英国が消しかかろうとしている事は
イスラム教徒にとっては許せない事に違いない。更にこのトランプ政権やブレア政権に
イギリスの対外情報機関SIS(通称、MI-6)やイスラエルロビーそしてネオコンGが
常にちらついている。となるとわざわざ此処にテロを誘発させた意図が見え隠れする。
この危険な兆候には 「Deep States(ディープ・ステート)」や「真実のベクテル」
の様な大きな陰謀論が渦巻くのは 全く仕方が無いことかも知れない。

381: 名無しさんAA:17/05/25 15:59
現代高等遊民説

 およそ 名のあるブラック企業に従事するよりは ニートかかったパラノイアの様に
生きる者の方が より社会的であろう。人が人を必要とするは 遥か彼方の古来よりの
生き方の基本である。母に子が必要な様に 子に母が寄り添うように 仕事とは人には
必要不可欠のものだが それでも過労死する程に会社組織に殉じて死していい物か。決
して良くは無い。戦争を反対するなら 平和をそこに求めるのなら自らが土を這い虫を
食べてでも 使用人の幸せを願うが筋である。決死の覚悟で職を選ぶ事が大事なのであ
る。それこそが学習であり教育なのだ。それが解って初めて人の道と言える。坊主の念
仏の様に決して生き返らせる事の出来ないくせに高尚な説教の垂れ事は通用する程現代
は甘くはない。だが本来日本がアベノミクスなどの色々な公的資金を無駄に使わないと
した国家予算なら 当然ながら日本人全員が誰でも40歳からの当然の支給金や幸せが
入って来るはずだった。馬鹿の中曽根が米国よりにおべっか使いをした時から 米国は
この日本のゼロサム社会と言う資金還流の循環型を切り崩して日本から米国に移してく
れる算段を行ったのだ。こうして日本は米国以上の産業空洞化が産まれた。日産自動車
がゴーン社長に乗っ取られる僅か15年前は 日産の製造工場にアメリカの自動車組合
の労組はその組み立て作業を見に来ていたのである。そして言った「あり得ない。」と
こんなオートメーションは人間のやる事では無いクレージーだ。と日産は誇らしげにも
「これでも 私達日産はトヨタの組み立てラインに負けています。」と切磋琢磨してい
る。と告げた。日本はアメリカの自動車会社の上を行っていると勘違いしている瞬間で
もあった。アメリカは負けてもいないし自動車産業が廃退してもいない。日産は潰れて
解雇も出来ず改革も出来ずそのままルノーに食べられて肉になりゴーン社長を頭に奴隷
の会社を譲った形になった。およそアメリカの合理性は今でも東京モーターショーには
日本向けの車のアピールはしない。少量しか売れない利益の無い様な市場開拓に無駄な
金をつぎ込まないのである。一方日本は今まで何回ともなくアメリカの3大メーカーを
買うチャンスはあった。がだが誰もやらなかった。ソニーの会長の様な挑むスピリット
挑戦者魂すら腐れた営業しかしていなく 会社としての福祉の増進の社会性を政府すら
忘れているからだ。産業空洞化ならぬ企業空洞化政治空洞化なのである。


382: 名無しさんAA:17/05/25 21:35 ID:sFs
何が政治的意図がないだと 統合幕僚長が記者会見で言った言葉だ。飲み屋で友人に
言った言葉ではない。 個人の公式見解だろう。個人の権利とか言論の自由だとか 
笑わせるじゃないか。官僚の課長さえ各省の記者会見を止めて於いて 自民党は
勝手な事を言うな。



383: 名無しさんAA:17/05/26 02:47
そも 公務員と言う税金で賄われた人の政治発言は憲法については
批判は違法であろう。特に自衛隊員と言う立場では 自らが隊員の
家族にも規制しているではないか 何をふざけている自治体の行政機関は逮捕すべき発言だろう。自民党幹部だろうが何故逮捕しない



384: 名無しさんAA:17/05/26 02:48
現代高等遊民説――――02

Japan bashing →Japan Passing →Japan Rushing →Japannothing →Japanmissing
この変化を簡単に的確に言える人はいるだろうか。実はこの言葉は海外メディアから見
た。日本の姿である。55年体制と言われる冷戦時代日本人は相当に働いた。ブレトン
ウッズ体制が崩れる前 日本は発展し過ぎ輸出超過としてアメリカ人は3度目の日本人
叩きにをやった。戦前の日本人移住者が成功を収めた時 その後日本が当たり前に人種
差別や植民地政策を批判した時第二次世界大戦に引き込まれた。殆どの日系移民は袋叩
きで敵国ドイツ人にすらも行われなかった家財没収と収容所送りを米国全土で行われた
。そして日本製品のボイコットならぬ 世界的日本潰しを「壊滅イエロージャップス作
戦」としてKKKを始め白人優位主義者団体からの指導で行われた形跡がある。が日本
では一向にそうした報道皆無だった。ダコタ・ハウスは、ニューヨーク市のマンハッタ
ン区アッパー・ウエスト・サイドにある高級集合住宅である。ここで1980年冬に、
ジョン・レノンは、マーク・チャップマンに暗殺された。ポーランドで独立自主管理労
働組合「連帯」が結成され大統領選挙でロナルド・レーガンが現職のジミー・カーター
を破り当選した。日本の自動車生産台数が世界第1位になり名実ともに「自動車大国」
と名乗りを揚げたのだ。ケンタッキーチキン創業者カーネル・サンダースが死んで日本
も米国も戦争を知らない世代の 新しい時代草創期に入って行くのを日本人は自覚しな
かったのだ。忙しくウサギ小屋の生活と単身赴任に家庭崩壊が進んでいったにも関わら
ず。こうして米国の日本干渉はジャパンバッシングは橋本内閣が国鉄解体や金融ビック
バンと言う崩壊プログラムが発動するまで中曽根の指導の下に続いた。だが一方で中国
への門戸解放を行っていた米国は中国の台頭にジャパンパッシングを決めた。第二次世
界大戦以来の中国大陸経営である。巨大な人口と土地に巨大市場の魅力があった。だが
その目論見に共産党政権は数々の鉄槌を浴びせた。スパイ容疑・人権無視・拘束自由・
共産党独裁法・共同管理法・財産規制法と何でもありの独裁政権であった。中でも2つ
のもの共産党独裁法と呼ばれる民主主義の形態や法律も有力な共産党員の下にある。と
言う勝手放免のやり方と財産規制法と言う中国国内では例え命さえも共産党の持ち物で
一度この地に来たからには金は勿論。資材や会社そのものも全て勝手に出来ないという
規制の網は 強硬すれば国外に出る事も出来ない出入国管理にかかるものだった。その
日本素通りと言うジャパンパッシングは 日本人には神風だったのかも知れない。

385: 名無しさんAA:17/05/29 23:07 ID:AHg
日本は 軍事衛星を10個ぐらい打ちあげるべきだ 今からはレールガンやレーザー
衛星などで ミサイル撃ち落としに今や兵器はミサイルの時代ではない。多目的衛星
として密かに静止衛星を打ち上げて もっと監視すべきでもある。イージスはもう古い

386: 名無しさんAA:17/06/01 08:42 ID:mb2
 森義郎は 何言っているのだ。もともと東京都負担だろう。

 小池知事とそれは取手市教育委員会の 虐め隠しは全く同じだ

 この決まった物を都知事なら何でも出来るともがいての一年は

 全くムダ金 無駄行政 無駄発言 は全く税金支出だ



387: 名無しさんAA:17/06/08 20:48 ID:1OU
 自立主義を貫け  01

 どうも近頃は 政府や安倍首相などは 西洋かぶれして間違った考えの中にいるよう
だ。今厚生労働省は煙草の伏流煙問題で禁煙化しようとしている。しかし健康問題を考
えるなら およそ8割はあると予想される過重労働の実体を変える事だろう。公共事業
であっても構いなしに 昼夜構わず更に日曜祭日休まず騒音を立てて工事してる様は、
全くおかしな現実で 東京の築地問題も全く頭から図面すらないままに工期や金額を、
どこやらの大学の先生かお偉いさんは提示している事は、根拠のない詐欺で違法行為で
あることをも知らないという全く常識以下の人間を なぜしゃしゃと専門家会議などと
言えるのだろうか。こういう事を取り締らないで煙草だなどとは頭がどうかしている。
 こうした事は色んな所に出ている。例えば我々日本人は中国や北朝鮮を 自由のない
独裁国家だ。と感じている。だが同じ様に日本ででも 例えば著作権問題をピアノ練習
などまで広げ TV放送や映画放映の映像権利を今や家庭ダビングまで持ち込んでいこ
うとしている。これは人の曲を口ぶさむ権利や面白い物語を見る権利或いは共感したり
共鳴し 感動や慣れ親しむ権利と言う個人的人権を奪う行為に他ならない。恐らく芸術
或いはアーチストなどは 逆にその感動や共感をしてもらえる為に努力しその商業価値
としての対価を貰って生きているのであって 筋書きが似ているから違法とも 合唱コ
ンクールの練習に著作権を払え などと言う気は全くないはずだ。今や安倍政権は今や
そうした個人的人権の範囲を次々にターゲットとした違法な価格設定をして 公共料金
の値上げをやって来てなおも行おうとしている。他の国々の平均にして 約3倍以上の
高い電気代や水或いは交通費を当然の様に思い更に値上げしようとしている。全く馬鹿
げている。今や農業にAI化しようとしている中では 株も為替も全く実体から離れて
いい中にある。つまり今や人はそんなに動き回らなくとも生産できる知恵や通信手段や
便利な生産を手に入れたのである。これは下手な投資は国の赤字を産む構造になったと
いう事だ。

388: 名無しさんAA:17/06/08 20:48
 こうした事は色んな所に出ている。例えば我々日本人は中国や北朝鮮を 自由のない
独裁国家だ。と感じている。だが同じ様に日本ででも 例えば著作権問題をピアノ練習
などまで広げ TV放送や映画放映の映像権利を今や家庭ダビングまで持ち込んでいこ
うとしている。これは人の曲を口ぶさむ権利や面白い物語を見る権利或いは共感したり
共鳴し 感動や慣れ親しむ権利と言う個人的人権を奪う行為に他ならない。恐らく芸術
或いはアーチストなどは 逆にその感動や共感をしてもらえる為に努力しその商業価値
としての対価を貰って生きているのであって 筋書きが似ているから違法とも 合唱コ
ンクールの練習に著作権を払え などと言う気は全くないはずだ。今や安倍政権は今や
そうした個人的人権の範囲を次々にターゲットとした違法な価格設定をして 公共料金
の値上げをやって来てなおも行おうとしている。他の国々の平均にして 約3倍以上の
高い電気代や水或いは交通費を当然の様に思い更に値上げしようとしている。全く馬鹿
げている。今や農業にAI化しようとしている中では 株も為替も全く実体から離れて
いい中にある。つまり今や人はそんなに動き回らなくとも生産できる知恵や通信手段や
便利な生産を手に入れたのである。これは下手な投資は国の赤字を産む構造になったと
いう事だ。これだけ進化した日本社会の中で負債しか広げず文化させ疎んじる様な馬鹿
な政治であれば 政権など無い方が良いのである。日本の政治事情を考えれば既に50
歳年金社会にした方が活性化するシュミレーション結果は出ているし、大企業や法人優
遇制度やトリプルダウン理論が妄想である事は証明すらされている。つまり政府が強制
して利益のダウンをする事が今や世界中のやるべき事になっているのだ。その意味では
北朝鮮より悪いとも言えるのだ。TV局も政府も今問題なのはそうした 利益再配分を
権利であろうとも経済であろうとも教育でも電波でも食糧でも強力に国民に分け与える
事が出来るかが大きな問題なのだ。その中に自然環境もある。人を育むとした雑木林帯
を人々の遺産だからと国や自治体に任せた結果が今やそうしたものの70%が損なわれ
その中の造成は今の大阪の幼稚園問題と同じような物が5割ある。町が勝手な切り売り
をしているのだ。このやり方は欧米流の大きな間違いの増幅なのである。これがTVに
出ないのは怠慢に他ならない。



389: 名無しさんAA:17/06/08 20:52
 自立主義を貫け  02

 TVに出ないなかにはカタール問題もある。アメリカの馬鹿大統領が中東情勢を変え
るべく サウジアラビアにすり寄り いい気になって 多額の兵器販売を行った上に、
アラブはイラン包囲網を敷くべきだとまで示唆した。これまでイランと融和政策を取り
平和裏に動いていた。これで一挙にイラクの戦争は更に厳しくなる。まるでシリア紛争
の解決を嫌っているとも言わんばかりの示唆だ。父親に反発したトランプには解らない
だろうが 事業や国には歴史がありそれを培ってきて時の流れに潰されない手を打って
細々とやっと今の地位を得ているのだ。それが不用意な一撃或いは不用意な言動で混乱
させている事は人道にも劣る行為であって 凡そ大統領にふさわしくない。そもそもが
テロとは何かISとは何かを理解せずに物を言っている事は危険極まりない。テロ行為
とは国家転覆をはかる行為であって そもそもその後援者は国家である。アイランドで
もテロ行為者はイギリスであり中東では欧米列強であり中央アジアではロシアなのであ
り中国国内で香港でもチベットでもウイグルでも共産党そのものなのだ。ここ中東に於
いても その後援者はサウジでありイスラエルに他ならない。だからこそイランの科学
者をアメリカに招いて核開発の勉強をさせたのであって 今でこそホメイニ革命によっ
てイスラム化に帰っていったが それでも西洋化の価値観は残っていてサウジアラビア
よりは民主化している。従って宗教上の価値を除いてガス田開発をイランとカタールは
行っている。このサウジは中東での存在は大きくその為他国は自国の民主化を制限する
羽目に陥っている中でカタールはフランスの支援を受けて自立する国だ。このカタール
を崩す事はイギリス支援のクエート侵攻したイラクに等しい行為をアメリカが行った事
を意味する。本来アメリカが支援するべきはイエメンの民主化であり今サウジからの攻
撃で国王すらも爆撃されたがイスラエルと手を握ったサウジがアラブ世界で異様にも、
このシリア攻撃に加担してる事位容易に想像すべきである。このトランプを批判しない
世界のTV局は今や人類史上最悪の怠慢に他ならない。



390: 名無しさんAA:17/06/09 20:38 ID:XMs
 自立主義を貫け  03

 日本だけではないが 今や指導者層に公徳心が不足している。何でも奸でも 法律に
違反しなければやっていいものと心得違いが多い。そもそも歩きもしゃべりもいまいち
のご老体の中曽根氏が国政に幅を効かし小泉氏なぞは自分の政権時代に安全だとして、
原子力発電所の延長運転を決めたのだ。今になって原発反対運動をやるのは構わないが
それ以上に今の津波でやられた福島周辺に行ってはどうすれば町が再開できるのか運動
するのが筋だ。ダバコの副流煙騒ぎも一部には海外では煙草は吸えませんよ。と言う馬
鹿みたいに先進国のあらゆる都市をも知らない者がいっぱしの文化人気取りで言うが、
そうした輩は殆どが仕事しないで イライラも無いペテンの口の上手い言わば 法律上
には問われない「オレオレ詐欺」的な社会活動で喰っている輩であって 本来の労働者
ではない。勿論そうした地位を批判する気はない。それぞれに努力があっての地位だろ
うしそれで儲けて何が悪いと言われればそれまでの事だからだ。がそれでもそうした者
だけでは成り立っていない社会や国と言う物の在り方からすれば 法律などで規制した
りNHKの徴収の様にたった十年前までは 生活保護では車やTVを嗜好品贅沢品とし
ていた物を急遽法律で徴収の義務づけとは 水道ガス料金の失態隠しに値上げしている
状態と全く同じだ。そもそも水も今やペットボトルで売っている時代に何故メーカーが
多いのか。本来ならこうした公共料金で供給している会社が安価で参入しているのが、
筋である。それだけ怠慢のままで高給取りで安穏としているのだ。それはNHK事業と
全く同じで 何故韓流ドラマなど流さねばならないのか。日本の国民から徴収し日本の
国民に見せる物がどうしてどこにその大義があるのか。文化交流や経済支援というのは
政治的すぎるもので放送業界ではやってはいけないものの筈だ。政治がそれだけ堕落し
ているのは二階堂氏などを見ればわかるが それでもかつての戦前にシーレーンを閉ざ
され戦後に苦労して日本の大義で戦った先人の苦労を知らなすぎる。勿論帝国陸軍など
の蛮行はあったろう。だがそれ以上に毛沢東社会が行ったテロ行為や国民党軍排斥運動
などや韓国や北朝鮮の起こした行為は 例えば従軍慰安婦問題でも日本軍が去った後で
の慰安婦徴兵がかなり多くあるはずで 全く日本軍のせいに転嫁している様を何故立証
しないのか。朝鮮戦争前後に在韓日本人が5万人から殺されたし10万規模がシベリア
抑留された歴史を何故知らないのか。戦後にさえ韓国でソ連送りがあった事実がなぜ知
らない。そういう感覚のある時代だからこそ日本人拉致があったのだ。

391: 名無しさんAA:17/06/10 20:25
 自立主義を貫け  04

 イギリスはメイ首相が保守党を安定した第一党にしようと総選挙を早めたが第一党の
座は守ったものの330から318と12議席も大幅い削った形である。日本であれば
300以下に推移する所であろう。大体EU離脱派や肯定派なんぞに政権を渡している
国民そのものがどうかしている。ブレア首相の時も EUを堅持するとして国民投票し
たのだが当の国民は今だに離脱がどういう事かどんな意味を持ち何をもたらすかを知ら
ないままだ。その行為は当然ながら前代未聞の時代を逆行する事でEU対英国の話し合
いすら目途が立たない状態のままだ。国民投票の多くはそんな中で離脱派が嘘の広告と
気勢を上げる選挙民はその賭け事で金をかけて倍率の高い離脱に掛け投票したのである
。これが英国民の本性であり 今でも過半数以上が離脱反対であり若者は6割を超えて
今の状態でいたいと思っている。経済界も同じでこのままの離脱への推移でいいなどと
は全く思っていない。全く風も声も聞こえないのが首相であった。が この声や風も感
じていない事が敗けた事より非常に心配な事柄だ。この無頓着な未来性の無い考え方が
今の労働党の支持に動いている事も気がかりだ。というのも この労働党も又この離脱
に対して八方美人・優柔不断とも言える公式で断固反対の立場は取らなかった政党だ。
 そもEUそのものに離脱の日程や規定が無い中の交渉なのだ。元々EUの通貨統合も
いい加減な集合体で もしこの統一世界を健全に行いたいとするなら自国発行通貨の量
つまり一割以内の発行や緩やかな規制緩和と強い絆規制の即ち強弱のはっきりした罰則
さえつけるべき政策審議をこの議会内でおこなうべきだろう。このEU内の馬鹿さは今
の米大統領の馬鹿さと同じだ。一般的に圧力が無かったなどとの論調だが3回も4回も
あって調べない事を「希望する」などと言う言葉は暗黒街の通訳からすれば絶対命令で
しかない。つまり言葉のあやでは確かに「希望する」と言う形ではあるが、その言葉を
調査する仕事の者に言うこと自体が威圧であり脅しである。それは今や日本で首相イン
タービューが行われなくなった事でも言える。第三者的官房長官が文部省が調べている
と言ってもその文部省の取材が出来ないとなれば 張本人の首相は官邸前で記者に発言
すべきで それを行えば 野党も国会審議なんぞでこんな 些細な事への贈収賄に似た
強権発動事件は首相退陣で終わりであろう。余りにも世界は公徳心が無さすぎる。国は
人は権力者が思う程小さい物でも狭い物でも無い。同じ国民に於いても価値観は多用だ



392: 名無しさんAA:17/06/11 01:43
 自立主義を貫け  05

 日本の女性トランプはまたも異様なことを言い出した。 小池百合子都知事の事だ。
 東京都は10日までに、2020年東京五輪・パラリンピックの選手村で使用したエアコン
やユニットバスなどの設備を、大会後に再利用するアイデアを募集すると発表した。選
手村は民間事業者が整備し、大会後に新築住宅として改修、分譲する予定。大会期間中
に使用した約3900戸分の給湯器やエアコン、ユニットバスなどの設備は取り外し、民間
事業者に引き渡すことになっている。都は設備を公共施設で再利用することを検討して
いたが、アイデアを広く受け付け、ほかの活用方法も模索する。募集期間は9月29日ま
で。小池百合子知事は9日の記者会見で「捨てるわけにはいかないどころか、もっと生
かせる。何とか知恵で解決していきたい」と話した。とニュースは伝えている。
 この記者たちもおかしいのである。かつて 東京五輪の誘致に際しては 既に今問題
の築地市場を解体して ホテルの様な選手村を作り それをそのままホテルに変えて、
業者に売るか東京都で運営して行くので ロスにならないどころかその後の運用益が、
発生して東京都の負担にならないと 発表し議会手続きに入って五輪誘致を行った経過
があるはずだ。 アメリカ大統領の様に アラブに告げ口外交してカタールを戦争にでも
しそうな 勝手とは少し小さい事だが それでも既定路線を否定して全く計画も無く、
世界に自分勝手をいい混乱させる様は、全く紳士ではない。都知事に至っては日本人で
はない。そうした党の方針やら前大統領の否定やらのこだわりは 自国どころか人類の
為にならない。ロシアゲートの問題でも こうした大統領特権の乱用での会食強要は、
既に民主主義の破綻である。その上友人だから調査中止を懇願するやらはあってはなら
ない事だ。それを真似るかの如く安倍氏が行っている事は 全く不法な民主主義崩壊の
醜い姿であり 何らかの形で是正すべきであろう。




393: 名無しさんAA:17/06/11 06:55
 自立主義を貫け  06

 もし今トランプが声明を揚げたような イラン包囲網が出来たとすれば カタールの
みならず中東は火の海になるであろう。それはサウジの狂犬的独裁が強く働きはしても
イエメンやイラク同様の破壊されたビルの都市群のみの生活でそれこそ文化などはない
。としたら 当然今のTSILの喜ぶ所となる。となれば 今度は大量のロケット弾で
は済まない。それはオマーンを抜けたアラビア海の封鎖を意味する。そうすれば当然に
空母打撃軍は北朝鮮封鎖は解いて此処に駆けつける事になる。そうすれな北朝鮮のいま
開発したミサイルは飛ぶように売れて 誰が飛ばしたか解らないミサイルに空母の幾つ
かやられる。更に困った事は米軍優位で進展する事は中東に政府がない事を意味する。
この事は各地のテロ行為が今の倍以上が起き先進国経済をも破壊する事を意味する。又
それは貧困化する若年不労層の拡大を意味する。すると今言われるホームアローン型の
帰郷人自爆テロは インターネット募集でかなり異常に多くなる。つまり最低10倍の
良くあらば百倍に近い事件数や死傷者が起きる。勿論それは国内に就職先が無い事もあ
るが 拡大化しかしない格差社会にある。今中国社会で起ころうとしている不満もそこ
にある。北朝鮮のような小さな国でも 管理出来ない脱北者がいるのだ。中国に反発し
ている貧民軍がいるとしても不思議ではない。中国政府は危険とみれば文化人だろうが
軍人だろうが過激に逮捕拘留している。今までも生きた人間の人体模型や臓器移植が行
われていたので問題になっていたが それはそれほど死体処理に困る事を行っていると
言う証に他ならない。二階堂氏などが簡単に中国首脳に近寄り そうした経済すり寄り
の姿勢を見せているが 毒入り餃子や段ボール饅頭で解るように 今が消えて終わって
いる訳じゃない。有害な鉛塗料は今も玩具製品に使われ 地溝油問題は一向に消えては
いない。更に毒入り食品の数も昔と同じ量の輸出が行われ日本に蔓延している。ただ今
はこの警察機構の強化が強く表沙汰にならないし輸入量も拡大し続け占める割合が少な
くなり 検査を通らない食品は返品する為毒の量やその税関パスをするやり方が巧妙に
なっただけの話だ。従って欧米の力は落ちて中国やロシアは武器販売での地位向上を果
たすのは確実だ。そうなれば今以上に世界が秩序を成して国際社会を形成出来ない状態
に陥るのである。

394: 名無しさんAA:17/06/11 10:43
 自立主義を貫け  07

 見せかけの「労働力不足」は続く。と言うのも 政府が馬鹿だからだ。かつての独国
の様に 国家予算で仕事を作り 高い労働力で作り過ぎた兵器の為に領土拡大しその為
に戦争してはその資金を略奪する。と言う、何とも悪循環の中国社会の様な仕組みでは
いけない。公共事業投資が見せかけの景気を維持するのは当然だが、その度に行われる
地方都市の自然破壊を基本にしたインフラ整備は結局は更に奥地の山の村を散村に追い
込み廃村や廃墟の森に変えては山里を無くさせるのである。今や機械化しAIが人以上
になった現代に労働力不足はない。安価提供を追い求めた企業家の作った環境がシェア
争いの上今の東芝の様なの駄作経営者を産んでしまっている。まずは足元を見れば解る
。時間が無いのは東京の五輪や市場移転の話のみの事である。世界的には日本はもっと
ゆっくりに高付加価値の就労が出来る中にある。ただ経営者や政治家が馬鹿だから、こ
れまで築き上げたものを活性化出来ずに 勝手に根元から壊している。全く馬鹿である
。いつから日本人はこんな馬鹿理論を持って政治や経済を動かしている事になったのか
。責めるべきは近年では小泉時代であろうし鳩山個人だろうし野田政権だろうし、今の
安倍政権だろう。全く日銀総裁が銀行に正式の日本経済の青写真やこれからの未来の姿
をレポートさせれば良い。全くなってない。この家電業界の失態や東京電力などの負債
はそこいらの自治体経済など吹き飛ばすぐらいなのだ。この馬鹿さが私には解らない。
基本現代人は給与なり現金収入で物を買う。通常生活のそれ以上を求めるなら個人でも
破産は余儀なくされる。その破産を食い止めるのが銀行に於け借金の受け入れと経済的
視野の指導である。物売りなら安価な製造方法なり人員整理した経費削減なり税金指導
なりだがその中で最も大事なのが顧客のニーズに合わせた高付加な魅力製品の提供での
利益増である。だが今日本政府が行っている事は逆に日本の安価な切り売りと大量不買
の売れ残りを更に製造して売り場を探すと言う公共投資である。これはトリプルダウン
理論で喜んだ利益過多者の更なる夢である。問題は国際市場にシェアを拡大させるかと
言う事と他の追随を許さぬ製品を作るかという事だ。そこには氷床を踏む慎重さが技術
を支えている。石橋を渡る様な賢さがあれば米国企業を買う事でもこんなに馬鹿な事は
起こらないだろう。更にこの東芝の失態にどこの議員も米政府に対して交渉していない
事が又自国利益をどう考えているのか。二階堂氏などは 韓国より米国に飛ぶべき立場
だ。


395: 名無しさんAA:17/06/11 11:44
 自立主義を貫け  07

 フランスではプロヴァンス地方でマクロン大統領が慰霊祭に駆けつけた。どこのTV
局も日本の放送局では放送していないようだ。実は フランスは今大変な時期にある。
戦後70年過ぎて次々と 第二次世界大戦の歴史的思想が消えて行っているのである。
フランスレジスタンスは世界に先駆けての「平和推進実行者」であった。それはその百
年前のナポレオン皇帝時代からの庶民の自由への闘いの歴史でもあった事は人類は注視
しなければならない。と言うのもそもそもこの今の様な格差社会を許すのであればその
前の封建社会を許す事であってフランス人には理解しがたい話の筈だからだ。そもそも
封建社会であった頂上の教皇・皇帝・国王・領主・家臣などが、今までの世襲制での中
の農奴制などの利権が消える事を懸念して行ったのがフランス革命の頃の戦争だ。主従
の契約に基づく分権的社会制度あったのだが、契約を前提とした現実的なものであり、
今の日本の会社制度と同じに「臣下の臣下は臣下でない」として契約者のみへの対応で
日本の様な「二君に交えず」「君、君たらずとも臣、臣たれ」といった東洋的生真面目
さはない為 日本の様な軍国主義的「天皇一家」的思想や中央集権制は持たなかったと
言われる。つまり今の日本の様な苛酷な金満主義で経済格差を生み大企業優先で金持ち
優遇策を唱えるなら自由革命を起こした意味が無いと言うのが人類世界共通の認識だ。
だがら、英国は人権無視の中の中国に近づくのだが、仏国は至って大らかなカタールの
様な国でも自由を求めるし アルジャジーラ放送などを作らせるのだ。欧州の精神支柱
であろう。だがこの国にかつて白鼠として賞金まで掛けられたレジスタンスのヒロイン
、ナンシー・ウェイクさんが亡くなり、 アンジェイ ワイダ監督など高齢の気骨者達が
次々と亡くなりフランスレジスタンスの伝統が無くなりつつ見える。本来ならEU離脱
の英国とは大声張り上げて喧嘩してもEU残留を叫び説き伏せるべき筈がその役割を担
っていない。プロバンヌのアルザスの片隅には観光客もまばらな田舎街にオラドゥール
と言う人の居ない小さな村がある。かつてドイツ軍により村ごと焼かれ、村民は ほぼ
全員197人が殺害されたという村だ。この「誰もいない村」はドゴール将軍の命令で
そのままの形で残され、廃墟と維持させて村中が博物館のようになっている。ここには
アルザス人々のドイツ軍として徴兵従軍させられ 更に近隣のフランス人を攻撃しなけ
ればならない悲しい現実の歴史が横たわり 決して漫画アニメが絵空事で簡単な映像を
許している軽さを 戒める現実の歴史が残っている。



396: 名無しさんAA:17/06/11 15:26
 自立主義を貫け  09

 このレジスタンス運動はかなりの規模で色々な系統があったとされる。権力者や占領
軍に対する抵抗運動を指す用語である。とされゲリラ活動やパルチザン活動と一緒にさ
れやすく、スイス連山の北か南かで用語の違いがあるように見えるが実は成り立ちが全
く違う。まずパルチザンは国民運動の一部であり 占領される前からのゲリラ活動であ
る。だがレジスタンスは占領に際して出来た抵抗運動である。いずれもドイツの進軍に
よって出来たものだが フランスはあくまでも戦って後攻められた国でありイタリアの
様に呼応して枢軸国に立った国ではない。その違いがこの運動や名前の違いでもある。
更にゲリラ活動との違いは 大々的に空爆をしたベトナムなどの近代化した国内戦争と
化した中の活動との違いだろう。このレジスタンス集団(レジスタンスしゅうだん)の
をマキザールと言う「森に逃げた人」を例えて言うそうだがその後は復讐する人に転じ
たらしい。このマキザールが相当いたらしく第二次世界大戦中にはフランスにはこうし
たレジスタンス組織は 50程度も存在しただろうと言われる。正規軍とは別に彼らは
ナチスドイツを相手にしてかなりの規模で戦っていた。その多くは地下道にアジトを築
き、中には一つの街の様に大規模なアジトを形成したレジスタンス組織もあったという
。自由フランス・フランス義勇軍・マキザールなどだが彼らは当然右派系左派系その他
色々違っていたのだろう。だが中にイギリス特別作戦部と繋がる者もいた。そうして、
チャーチルにノルマンディ上陸作戦決行させ同時にゲリラ活動をしてドイツ軍を停滞さ
せ苛立たせた。そこで忌まわしい村の焼き払い事件や全村民虐殺事件があったと言える
。又ノルマンディの浜は今のTV局資料の様に大量の兵士が壮絶な戦いで死んだし、又
フランス国内でもあの歴史空想だろうが「プライベート・ライアン」みたいな事が起こ
って居たのだろう。連合軍の進撃につれ、マキザール・とドイツ軍の戦闘も激化したし
、村ごと殺戮するなどの過激な報復やナンシー・ウェイクが率いる7000人のマキザール
はそれぞれに決意して戦っていた。又敗戦時多くのドイツ軍兵士はマキの捕虜になるよ
り連合軍の捕虜になることを望んだ。マキは捕虜を取らず処刑したとされていたからだ
。更にテロとは戦いの無い時代の戦いの無い国での活動であってロシアや中国トルコな
どがテロと呼ぶのはふさわしくない。アメリカの911さえもテロではない。


397: 名無しさんAA:17/06/11 22:17 ID:J/A
 自立主義を貫け  10

 このレジスタンス運動の中には、勝手の解らない地下都市の中に潜り、反撃の機会を
うかがっていたが、見張りが地上で殺され 地上に出る機会が訪れぬままに戦争は終結
したのも解らないままに、長い期間地下道に閉じ込められて生きる事になってしまった
者らもいて、後で大量の餓死者が発見されたと言う小野田少尉の地下道版の様な話もあ
る。食料や飲料水は有限な上に大人数で枯渇し、彼らは戦わずして飢えと乾きに苦しみ
、全員死亡してしまったとみられる と発表されている。こういう事はフランスのみな
らず日本の鍾乳洞のある地域でも沖縄戦でも孤島でも 兵隊によって殺される事が起こ
り有名だが 近代でも今度の中国の大水害で蟻族とされる 田舎から移り住んだ者らが
勝手に北京や上海などの旧地下道に住み着いて 死者が多数発見されると言う事件も起
こっている。又米国では核戦争に対処した地下住居はかなり有名で 韓国の地下非難は
今でも北からの攻撃を防備する為こうした施設は作られ使われている。日本語で言う所
の地下壕なのだ。又日本の終戦時の大本営本部も又そうした地下に置かれ規模は小さい
ものの 東京の焼夷弾による大空襲からも難を逃れて焼け残って玉音放送が出来た元に
なったとされている。こうした事を見るに地下と言うのは 公式にも非公式にも戦時中
には必要な設備であり手段であり生きのびる手法のようだ。つまり現代に取っても侮れ
ない存在となっている。だが残念な事には日本列島はそうした 地下都市空間にはあま
り適してはいない。それは地上が豊かなせいだが、その豊かさが雨量の確かさにある上
日本と言う小さな島国では沿岸地帯の都市の成長が著しく 更に博多の陥没事故に見る
ように土質としてなかなか適さない地質でもあるようだ。それは地震大国としての位置
に由来する。古代ローマにしてもフランスやイギリスのような地下都市に出来るには、
簡単そうだが出来ていない。揺れによって岩石が割れていながら海に近い平地には恐ら
く作り難い事が要因だろう。他の砂漠地帯などでは 地下からの古代文書などが見つか
りそれより古くからある生活構造物とも言えるからだ。




398: 名無しさんAA:17/06/12 10:14

 自立主義を貫け  11

 カタール問題で「カタールのタミム首長はイラン政府を支持する」という内容の記事
がフェィクニュースであったとして調査する。としたニュースが流れ出た。カタールの
通信社がロシアからのサイバー攻撃を受けた可能性があり、アメリカ捜査局がカタール
に職員を派遣している。との事だ。国際関係を勉強していないで外交問題に首を突っ込
み外交交渉の出来ないトランプ政権の弱みは、またもや大きな難題を国際社会に投げか
けた。EUに渡ってはNATOはもっと金を徴収しないと米国は関与しない。と言って
は反発を買い、その後の険悪化する状態にNATOを否定する物ではない。と釈明して
みたり、中国は一つではない。と同盟国を喜ばせたが、中国との会談には一つの中国の
伝統的解釈を理解すると又元に戻し 北朝鮮問題を片つけたら輸入規制しない。とまで
へりくだった対応だ。だがこうした事の繰り返しばかりで進展が無い。ロシアゲートの
問題も ロシアとの距離が縮まろうが広がろうがロシアを変える事は出来ないだろう。
ただ今回のサウジゲートの問題は深刻な問題で日本も大きな影響下にある。まずこの小
さなカタールと言う国は欧州のフランスと同じ役割を中東で行っている。即ちペルシャ
とアラブとアフリカとインディアを結び付けている接着材の役割だ。この先進諸国との
繋がりも又重要な位置にある。湾岸協力会議の加盟国で米国など西側の接点でもある。
 サウジでは独裁国家である為サルマン国王は国外にも大きな力があるがその中にカタ
ールはある。言わばイスラム教国の台湾や香港の様な状態である。サウジには54万人
規模が駐留し湾岸戦争を闘いその後も常時5千人を超える米兵が駐留しているとされる
が、カタールこそがアメリカの中東戦略の拠点ともいえる場所である。その為、首都の
ドーハ近郊の軍事基地には現在も1万人以上の米軍部隊が駐留し 軍用空港を維持して
いる。もし今の様な国交断絶が広がれば この駐留経費は極端に大きくなり維持出来な
い結果か或いはアメリカ自身で自国からの補給が必要となるであろう。これは大きな事
だ。更にカタール自身も又サウジからの駐留派兵要請が来れば否応なしに 米軍基地の
借用代金を上げてくる事になる。国家財政危機からの要請である。こうした事は選挙中
のアメリカ国内のトランプのいい加減さにある。

399: 名無しさんAA:17/06/12 10:15
 自立主義を貫け  12

サウジの思惑はこのイランへの挑発が込められている。サウジは今や米国内の六つのロ
ビイスト団体と契約し資金提供している。更に第三次中東戦争でのイスラエル封鎖時に
サウジ側が支援して以来モサドとの仲が悪くない。ペルシャ対アラブの間で大きく影響
していたエジプトやシリアは今や消え行く火を手で風よけする程度である。更にカター
ルとなればアラブの横暴は消えない。此処にトルコが仲介者となれば、独裁化するエル
ドアンでは更に事は混迷化する。米国は高い代償か中東からの引き揚げかを判断するま
で追いつめられる。これは米国でブッシュ以来のトランプが行った歴史上最大の米国の
汚点と言える。サウジにしてもカタールへの輸出を止める事は大きな財政負担になる。
カタール国民は何処からか食糧供給しなくてはならない中でイランがすり寄り共同経営
のガス田の利益をバーター取引して輸入に変える事は当然だろう。自国傘下のGCCに
おいてイランと比較的寛容だったカタール制裁を実施した事でし、親イランな姿勢をや
めさせようとしたが、カタールはむしろサウジの傘下から遠くなりイランの傘下に入っ
ていくであろう。それは宗教的ににも経済的にも当然の帰結である。そもそも、ISや
アルカイダの思想信条の生みの親はアラブであってペルシャではない。オサマ・ビンラ
ディンも故郷サウジに育った事で起こっている。シリア内戦においても、カタールの起
こした支援はサウジの要請からだ。一緒にISやアルカイダやヌスラ戦線にカネを出し
ていたのはサウジのほうである。このサウジこそ、古くからの テロ支援国家であり、
カタールのテロ支援を非難できる立場にない。こうした事を見ていると今度の新国王の
サルマン国王はとてつもない馬鹿な側近連中を抱えている様に見える。当初多くの外交
専門家は、彼が頭脳明晰な立派な人柄でイランとの敵対を緩和していくのでないかとの
予測だった。だがイエメン空爆は熾烈になり、国内自由化運動の首謀者として死刑執行
したり石油戦略ではOPEC会合が遅れたりと、石油価格の操作と財政政策でも失敗し
イエメン戦争も泥沼の戦闘のまま赤十字機構すら寄り付けないままだ。こうした米国を
ないがしろにしながらもトランプとの取引をしては 自分の分身国カタールを経済封鎖
するのは、国内にアルジャジーラ放送などの自由化が嫌いな黒幕がいて今だイスラムの
呪縛であるイランとのにらみ合いに終止符を打てないからだろう。



400: 名無しさんAA:17/06/12 11:11
  自立主義を貫け  13

 もしこのままカタール閉鎖が続いたり、イランとの摩擦が大きくなりペルシャ対アラ
ブの対立が大きくなったりすれば 今でさえ難民移民の群れに悲惨な現状があるのが、
更に大きくなる。と言うのもこれまでの石油利潤で雇用していた 多くの海外労働者が
多分欧米に向かうだろうからだ。仮にアフリカに向かえばそれはそれで第四のイスラム
過激派を作る事になる。こうした人の動きに そもトランプ政権には無頓着で 世界を
リードする米国を運営する能力と器量と知恵が無い。そうした能力が無い為に人が集ま
らないまま国内議会でもめているままだ。更に集まらないから今だ政府人事は高官は決
まらず次官級が居ない。そこへ共和党内の無礼者達の集団が幅を効かしている現状があ
る。ネオコンやらティーパーティ・コーカス(派閥)の加盟議員の事だが 彼らは簡単
に本音の無い無政府主義主張者であり、信念のない大衆烏合主義団体として存在してい
る。このトランプ政権が打ち出したオバマケア廃案や地球温暖化誤報説や移民の壁建設
などの政策変更には、こうした主義主張の芯の無い場当たり空想論で凝り固まっている
にも関わらず、一般受けするフェイクニュース演説で支持を集めていた選挙公約を実施
しようとしている。トランプ支持のその大半がこうしたイデオロギー無視の砂上の楼閣
での主張を支持しているからであるがそれは恐ろしく人類に危険な事だ。既に2013
年10月1日かつてローズガーデンにてオバマはこのティパーティ派閥批判を行ってい
る。私は気に掛けなかったがこの時の演説はかつての核兵器を作った暗黒の軍事産業に
暗に警告した演説に近く世界の民主主義の没落を招く事を示唆している。「最初に昨夜
の内に共和党議会が17年ぶりに、政府を閉鎖することを選択した。もっと具体的に言
うなら、一つの議会の一つの党派の一部の派閥が政府の主要部分を閉鎖した。」と辛辣
に述べているのだ。また、下院の共和党は我々がACA(通商オバマケア)を解体する
か又は融資を停止しないかぎりにおいて 政府の資金供給を拒否した。と述べて、この
党派の結束の為に「身代金を要求した」と批判したのである。又閉鎖の目的は、「赤字
や予算とは関係なく、手頃な価格の医療保険法であるACAの努力を阻止する為である
」と指摘したのだ。この共和党のティパーティ派閥がかつてのネオコンやイスラエルロ
ビーを持つシオニスト更に白人優位主義者や退役軍人会などとの結託して力を持った瞬
間であったのは その後の選挙で共和党指導部が掲げる穏健派候補が敗れている事から
も解る。米国民は嘘つきのこの団体を不満のはけ口にして票を拾いあげられたのだ。


401: 名無しさんAA:17/06/12 11:12
  自立主義を貫け  14

 元々このティパーティはイギリスの植民地からの独立運動として行われた起源がある
。その後この勝手な政治サークルに異様な集団化が見られ一時期ティバッカーとて資金
集めの強欲集金母体と皮肉られて 又地方の政治井戸端会議所に戻っていったのだが、
911頃から又復活しては、いいように勝手な政治論を振りかざし巨大な資金集め集団
化をしている。こうしたティーパーティ派の勢力拡大に対して、共和党指導部は穏健派
候補を支持し、対立姿勢を強めていたが、ネガティブキャンペーンが熾烈になり、更に
ITでフェィクニュースが身近かになった事で、演説で「私は 既存のクローニーキャ
ピタリズム(縁故資本主義)政策をやめさせるために戦う」として「既成資本との戦い
」の振り付けで大票田を勝ち取り、見せかけのパホーマンスで貧民層や中間層の票をさ
らったのである。それによりもともとは、こうした独立や減税などの小さな政府主張の
自由主義啓蒙団体として、単一政策を目標にした独自の「単政策の可否」を議論する場
としてティーパーティ派が産まれていたのだが。こうして労働者にニンジンを掲げた為
“ワンイシュー政治集団”の主張は消え今回の選挙では 複数の政策が軒を連ねた形だ
。大企業批判、移民政策批判から同性婚への反対オバマケアなど、多くの社会問題にま
で主張の幅を広げ、保守層の支持拡大を狙い多数の支持狙いで選挙を進め今回のトラン
プ政権を実現させた。これはかなり危険で 実は過去も又こうした米国民気性での起こ
った事が 日米開戦でありベトナム戦争である。先のイラク戦争も又同じだ。ネオコン
の筆頭であるウォルフォウィッツ国防副長官は「米軍がフセイン政権を倒せば、その後
は自然にイラク人の手で順調に新しい民主政権ができるはずだ。と予測していた。」と
回想インタービューで語っているが「この予測について、実際にはフセイン政権が倒れ
た後になって、自分が甘かったことに気づいた。」という記事を載せているが全く嘘で
あろう。それは多分「わざわざ間違いをした。」と言う事の詭弁であり実体は裏に進ん
で権力をもった会議の決定で物が言えなかった。と言うのが本音であり保身主義者だっ
ただけである。



402: 名無しさんAA:17/06/12 11:12
  自立主義を貫け  15

 何故ならサルマン王子の様に軍産複合体やネオコンリーダーと言っても金融資本家や
メジャー企業まで合わせた会議に決定権を持たない。911やこの戦争の為には わざ
わざ大掛かりな仕組みを用意し 自国のみならずCIAやイギリスのMI6イスラエル
のモサドなどのあらゆる諜報機関の要員すら集めて作戦を練っている。そしてその諜報
の膨大な生データの中から「イラクが大量破壊兵器を持っている」とか「アルカイダと
つながっている」というこじつけ主張を裏付ける行為を行っている。そして国際的批判
をかわすために国際的視察機関である「IAEA」まで動かし現地の痕跡を探させたの
だ。イラクに侵攻できる開戦理由を「作る」作業が行われたのである。こうして新たに
作られていた特殊計画室は、当然見つからなかったIAEAの査察証拠はもみ消し続け
、時間だけ進んでいく中で IAEAの第三次査察途中に関わらず 戦争を勝手に決定
しその作戦を行った。勝手に作った「イラクはアフリカから核兵器の原料となるウラン
を購入していた」「イラクの諜報部員が911実行犯とチェコで会っていた」「イラク
は化学兵器製造設備をトラックに乗せて常に移動させ、隠している」などという「開戦
事由」を発表してその正しさが無かったのである。そのほとんどは間違いだった事は明
らかだったがそれを直す器量はブッシュ政権には存在していなかった。それは開戦前か
らCIAが「その情報は信憑性が無い」と警告していたにも関わらずブッシュ政権は、
勝手に無視され、結局イラク侵攻が終わってやっと実現したと言われているのだ。この
本末転倒論は911テロも嘘なら開戦理由も出鱈目で その主張によって現実社会を戦
争に導き人類を困らせているのである。これらが何を意味しているのかは明白である。
これらの行動は、ネオコンがイラクを民主化する気などなく、単に米軍を動かして戦争
をしたかっただけで、イラクの政権を潰し混乱させることが目的だった。イラクの安定
など気にしないでも欲しいものがあった。イスラエルとの協調と石油天然ガスの利権と
兵器の実証データー更に国民の国内不満のはけ口なのである。実際この時イスラエルへ
の資金調達に日本は官僚の反対を押し切って小泉氏して同意させられているのだ。


403: 名無しさんAA:17/06/12 12:40
  自立主義を貫け  16

 さてさて 本題はこれからだ。こうした事で米国は信用ならないのだが、それでもこ
の西側の雄としての米国抜きで日本は立ち退かない。そしてそれは世界も同じ事なのだ
。が我々日本人はこの中東諸国の様な努力をしているのだろうか。平和に釜掛けて堕落
のまま過ごしていた。と言うしかない。イスラエルロビーは凡そ20団体が白人優位の
主張や軍事顧問の主張を繰り返し陰に日向に活動し、先に言ったようにサウジアラビア
でも公式に6ッ個の事務所を貸し切り活動している。韓国でさえ3団体があり、あの詐
欺師団体の慰安婦像問題では5団体が頭角を現し中国ですら各省の地方政府が8個位の
ロビー活動を持っている。日本のロビーは在留日本人会と戦時中の収容所問題をしての
活動してる2団体のみである上、これらは全く日本政府が公式に雇い入れたり資金提供
している団体ではないのだ。つまり今の首相官邸にある機密費は全くアメリカなどの外
交情報を持つ為には使われてはいない、有効性の確かめられないままに国の維持でなく
自民党維持に使われているとしか思えないのだ。かつてからのティーパーティーは、お
およそ社会的保守派(ポピュリスト右派)と財政保守派(リバタリアン)とに分けられ
ていて武闘派とされる愛国主義の戦争賛成派などそこには存在し得なかった。だが今は
メキシコの壁で見るように鎖国派モンロー主義派が台頭し911以降は膨れ上がった。
今や議会におけるティーパーティ派の議員の影響力は無視できない大きさになっている
。下院ティーパーティ・コーカス(派閥)の加盟議員は48名だが、同調議員も含める
と、その勢力は100名を超えると言われ下院共和党議員は234名の中でこの議員の
集団を無視しては議会運営はできない。更にに共和党支持者の60%がティーパーティ
派を支持しているとされ、共和党極右派に変わり民主党右派を潰す事に取り掛かってい
る。こうした支離滅裂の政策が起こる度に 有識者や良識派とされる人が辞任している
。中国に駐在していたデービッド・ランク米代理大使が辞職した。米電気自動車大手テ
スラおよび宇宙開発企業スペースXのイーロン・マスク最高経営責任者も抜けた。ディ
ズニーのボブ・アイガーCEOも6月1日、戦略政策フォーラムからの辞任を表明した



404: 名無しさんAA:17/06/12 18:26
  自立主義を貫け  16

 この世の中は長所短所があるのは コインの表裏と同じだ。日本のこの平和ボケした
発信力の無さは株価にも影響している。過去株の上昇率は0,5とおよそGDP成長率
と全く同じで正しい日本の単価と言える。だが他の国例えば米国は1,4ユーロ0,6
と全く逸脱した伸び率を示している。実はこの違いこそが欧米の不確かさであり間違い
でもある。だが米国のラストベルトの成長率は0.2程度で他の都市も特色のある都市
を除いては替り映えしない。つまりシリコンバレーやラスベガスやニューヨーク更には
フロリダなど観光収入他色んな所でも活況でも米国市場全体での活況に至っていない。
それでも1.4を叩いたのは金融市場の活況であろう。つまり安全の中での暮らしがあ
るのだろう。世界経済の成長率は、前年と同様に低調な伸びに終始した。IMF見通し
の楽観論でも、2016年の世界経済の実質GDP成長率は前年比+3.1%と、1年前
の予測(同 +3.6%)を大幅に下回り、期待外れの成長に留まる。これは原油低下の生活
による安定からの伸び率の違いがある。だがこの発表は中国経済の様におかしな予想と
結果である。原油を扱う多くの石油資本は多国籍企業ではあるがBP初め軒並み赤字の
中にいる。資産規模が大きいとは言えその販売規模も大きい。今後の悲観シナリオでは
、米国の成長率は2%下振れ、ほぼゼロ成長に止まる見込みとIMFは発表している。
ユーロ圏、日本、中国もそれぞれ0.3〜1%の成長下振れが予想される。と言う結果だ。
この間をとった中間シナリオでも、米国+2%、ユーロ圏+1%、中国+6%、日本+1%とし
た予測になる。つまりは既に世界経済はスローモードに入り昔の様なハイリターン危機
を犯そうと言う時代ではない。これは自然な事で大事な事でもある。だが今トランプは
忌まわしき影の政府が動いているとしか考えられない行動を取っている。即ちイランを
盾に又カタールでの戦争である。これでペルシャ湾を塞ぎ石油価格が吊り上がればいい
と画策している。金融界は株価が下がらなければいいし石油メジャや軍需産業関連者は
それによる恩恵を考えている。だが過去に於いて戦争前の高値から戦争時は石油は下が
る。エッソやモービルは大損失を受けている。更に仮に本当に起これば欧州日本のみな
らず海外輸入に依存する中国経済は混乱の上に株価は紙切れになるのは間違いない。


405: 名無しさんAA:17/06/12 20:07

  自立主義を貫け  17

 恐らく米国のシンクタンクの思惑はイランの分割であろう。今のシリア国内を鎮める
にはISの活動を止めると同時に シリアのアサドの鬱憤も置いたままにロシアと手を
握る必要があると踏んでいるはずだ。それは今のペシャワルガとの絡みである。クルド
は自国の領土を持たない。本来なら今のシリアとトルコの境界に過去の国があったが、
それはエルドワンが認めないだろう。となればイラクとイランの国境の中にしか出来な
い。今でもイラクとシリアの間にはクルド自治区は存在する。領域は主にイラク北東部
のアルビール県、ドホーク県、スレイマニヤ県、ハラブジャ県の4県にまたがり存在す
るが此処は同時にトルコとイラクとシリアとイランとの国境沿いなのだ。逆にいえば、
そうした国境沿いにしか生き残れない少数民族だったのだが、それは同時に此処が砂漠
の中では恵まれた湖が存在する山のある緑地帯でもある。更には今の攻防戦を行ってい
るモスルやイクビルはこの直ぐ近くで 大量の油田が見込まれる地帯でもあるのだ。こ
れが苦しみを加速させている。第一次世界大戦もさることながら有史以前の時代から、
この地は交通の要所として常に大国に蹂躙され 彼らは隠れて閉ざした宗教にその身の
安全に頼った。それはギリシャ正教にもキリストにもイスラムにもヒンズーにも仏教に
も頼らない独自の宗教として発展した。又ローマ進軍やモンゴル帝国やオスマン帝国時
代には常にトルコ人は、ここを征服し皆殺しや虐殺の歴史を持つ民族として 敵対する
侵略者の最前線にいた露払いの民族であった。日本は海を隔てていて元寇には朝鮮人が
打ちあげられ世界大戦前は直接の西洋人の進出であったが 四方に陸地のある中では、
水をもたらす山だけがそこに存在する砦となっていた。その水の争いが今や原油資源の
争いとなり地域の紛争が今や世界の縮図としての紛争となっている。それはクルド人に
とっては当惑する迷惑な話であり 第二次世界大戦前から引かれた勝手な国境も現地人
のクルドには何ら合意のない勝手な話であったのだ。



406: 名無しさんAA:17/06/20 18:06 ID:JIo
 自立主義を貫け  18   サダトの命運

 とうとう イランの革命防衛隊は18日、シリア北東部デリゾール県に向けて複数の
ミサイルを撃ち込んだ。首都テヘランで今月7日に起きたISのものとされるテロで、
17人が死亡した襲撃に対する報復としている。この襲撃ではシリア内での活動してい
るイスラム過激派組織「イスラム国(IS)」が犯行声明を出していたのだが、地元メデ
ィアによると、イランが国外でミサイル攻撃を実施したのは1980〜88年のイラン・イラ
ク戦争以来30年ぶりのミサイル攻撃だ。だがこれに乗じてロシアはシリア軍機を出し
報復の報復を隠れて行おうとしていた。CNNによるとイラン革命防衛隊(IRGC)
は18日、シリア東部デリゾール県に複数のミサイルを撃ち込んだと発表した。過激派
組織「イラク・シリア・イスラム国(ISIL)」の戦闘員を狙ったとしている。この
報復にには違和感がある。ミサイルがアレッポではない所だ。モスル近郊は 米国軍が
制圧していたと思っていたからだ。イスラム教シーア派の大国イランとスンニ派のサウ
ジは長年の対立関係にある。シリアではイランがアサド政権、サウジが反体制派を支援
しているとされる。これはトランプ政権が仕掛けたイラン包囲網への反発であろう。そ
してシリア空軍機が駆けつけた所を米軍機が叩いた。と考えられる。基本的にはイラン
は様子見の筈だったのが トランプの再交渉声明で新たに火種を作った事になる。更に
現場ではシリアとイランから挟まれたらどうしもなくシリア空軍機を叩いたのだろうが
これに反発しているのは シリアよりロシアなのだ。此処に裏が見て取れる。IRGC
は事件に報復すると表明し、サウジアラビアが犯行に加担したと非難した。イラン首都
テヘランでの。7日の国会議事堂と聖地ホメイニ廟襲撃のテロ事件に対する報復だとい
い、既に最高指導者アリ・ハメネイ師はウェブサイトに掲載した声明で、シリアとイラ
クで殺害された人を含む犠牲者の家族の名誉のため、イランは「敵に懲罰を与える」と
言明していた。同事件では少なくとも16人が死亡し、同国内のテロとしては初めての
ISILが犯行声明が出たものだが、これは恐らくISの拡大地域をイランの方向にと
向かったものと考えられる。

407: 名無しさんAA:17/06/20 18:07
 自立主義を貫け  18   サダトの命 02


ここで一つ整理しておく必要がある。シリアを支援するのは ロシアでその政権打倒と
したヌスラ戦線やヒズボラ残党組やムスリム同胞団などははサウジと周辺国更にイスラ
エルが応援している。これに自由シリア軍が乗っかかりISと対抗している形に見える
が 実際に真に対抗しているのは何処の国も排除したかったクルド防衛隊ペシュメルガ
で その信用において米国は支援している。更にこれにイラクの現地雇用の解放軍が全
く侵攻しないまま前進している。この中にスンニ派のバース党のフセインイラク兵など
アサド兵や残党組がかなりいると思われる。バース党はイスラムの中では一番世俗主義
を貫いた党でありこの中心であったフセインをわざわざ米国は排除した。此処にこの地
の苦悩がある。1988年7月18日、遂に8年間に及んだイランイラク戦争は終結し
た。イラクはこの勝利を大々的に報じたが イラクは苦悩に満ちていた。イラクはバー
ス党が指導していたが基本的に兵士はシーア派が多い地域だ。従ってイランのシーア派
との戦いは気が進まない兵士が大勢いた。それでもイラン側は自爆覚悟で突撃してくる
。ある時イラクの大軍隊に子供達が寄って来た。近づいて笑うといきなり手榴弾が投げ
られその部隊の30人程度が死んだ事がある。つまり既にイランは陥落寸前だったのだ
。だがこれに援助したのがイスラエルとサウジだった。サウジは中東でのイラクは目の
上の瘤だったしイスラエルは中東戦争でイスラエル孤立の時手を結んだ仲だったのだ。
このイラン兵にはこれではいかにソ連製、フランス製の最新兵器を持ってもイラクに勝
ち目はなかった。1984年、イラン軍の頑強な抵抗にサダムの我慢も限界を超えた。
毒ガスを遂に使ったのである。ソ連製、フランス製、ドイツ製のヘリから密閉容器を投
下したのである。国連の調査団によってタブンとVXガスが使用されたと報告された。そ
れでも、国際社会は驚愕したがイラクへの援助をやめることはなかった。事実上黙認し
たのだ。この狂信的なイラクとイラン革命警備隊の悪名は世界に知れ渡り西側諸国では
イランの宗教革命でのイスラム化の防波堤としてイラクにどんどん貸付ていたのだ。が
戦争が終わると サウジとクエートに対し膨大な借金があり破綻していたのだ。この時
イラン侵攻に抵抗続けたクルド人に対してイランイラク戦争停戦でイランイラクは手を
組みわずか2ヶ月で、クルディスタンの65箇所の村が化学兵器による攻撃にさらされ
た。戦争中はイランと組み、サダムを脅かした宿敵クルド人に決着をつけるつもりだっ
たらしい。正確には解らないが7千人が死に、難民は25万人にまで膨れ上がったのだ
。当然この虐殺に国際的非難が多く寄せられた。

408: 名無しさんAA:17/06/20 18:07
 自立主義を貫け  18   サダトの命運03

イランイラク戦争で膨れ上がった借金はイラクには苦痛だった。ましては かつてオス
マン帝国崩壊時に英国人が勝手にイラクとクウェートに国境線を引いて創ったしまった
国である。このことからイラク人にとってクウェートはイラクの一部であると言う強い
信念があった。更にクウェートはイラクとの国境沿いで油田を採掘していた。国境沿い
の油田はちょっと斜めに掘ればイラクの石油を採掘することになるので禁止になってい
た。しかし、クウェートはそれを無視して掘り続けた。しかもOPECで定めた採掘量
を公然と無視してかなりの量を違反して採掘し続けていた。この為、原油の価格が下が
り、イラクにとっては経済的に無視できない存在だった。イラクはクウェートにこうし
た境界沿いの盗掘の取りやめと、借金の帳消しを要求し、受け入れられない場合は戦争
になると警告したがクウェート側は完全に無視した。裏に英国がいた為である。サウジ
アラビアはこの頃のサダムの狂気と力に恐怖していた。沢山の避難民もやって来ていた
からだ。従って長くクウェートを説得し続けた。そしてクウェートもようやく要求をの
む覚悟を決めた頃は遅かった。サダムはそのころには開戦の決意を固めていた。既に渡
米しアメリカにも説得し終えていた。日本に行く前の時の米大統領ブッシュ(父)は忙し
く1989年2月24日には、昭和天皇の葬儀「大喪の礼」に出席したし。12月3日
には、地中海におけるマルタ会談では、ソビエト連邦のミハイル・ゴルバチョフ共産党
書記長と会談し、冷戦の終結を宣言したぐらいだ。この時米国の返事は「貴国の国境問
題に米国は全く関与しない」と事実上のゴーサインを出した。このアメリカの優柔不断
が戦争を誘発したと見るのは正しい見方であろう。アメリカはサダムがクウェート全土
を制圧するとは考えていなかったとも言える。サダムにとって、この戦争は国民の不満
を解消し、経済再生の近道になるはずの手であった。1990年8月2日、10万人の
イラク軍が330両の戦車を引き連れてクウェートに殺到したと言われる。1万6千し
かいないクウェート軍の圧倒的戦力差は充分だった。僅か8時間後は3分1が国外逃亡
し各県の首長はイラク軍の精鋭部隊共和国親衛隊の特殊部隊によって殺害された。


409: 名無しさんAA:17/06/20 18:08
 自立主義を貫け  18   サダトの命運04

 サダムは、このクウェート侵攻がほとんど国際批判を浴びるとは思っていなかった。
やりすぎないようにサウジアラビアに攻め込むのもやめた。しかし、国際非難はすさま
じく、各国がイラクとの通商を停止し、国交断絶まで緊張が高まった。これはサダムの
大誤算だった。アメリカは確かにゴーサインを出したではないか、これは一体どういう
ことだ。と思っただろう。特に自国の権利を持っていたイギリスはサッチャー政権をし
て「この侵略をヒトラーのズテーテン地方侵略に比して絶対融和策をとらない。」と断
言しめた。国連はすぐさまイラクに経済制裁、禁輸措置を発動したので、イラクはアメ
リカ軍に助力を求めた。だがブッシュは冷たかった。「野蛮な侵略を許す気はない」と
声明を発してイラクを厳しく断じた。大誤算侵攻だったが、このまま撤兵などできるは
ずもなかった。サイクス・ピコ条約以来の国民の悲願だった。そんなことをすれば国民
はますます不満を募らせるだろう。この戦争はクルドの建国に近い位の国民が要望であ
り支持したものだったからだ。西側諸国にとってこの行為を許せば、サウジアラビアを
含む中東の石油が完全にサダムの手に落ちる危険がある。と判断していた。全く妥協は
できなかったし、英国を中心とする中でソ連崩壊の中交渉の必要もなかった。又イラク
は強くなりすぎていた。当時のイラクは世界第5位の軍事力を保有し、世界で4番目に
大きな陸軍を保有している事になっていた。現実は古い戦車で砂漠仕様の物に改造され
た動きの鈍いものだったが他の国には脅威だった。更にサダムは自国民にも化学兵器を
使用した危険な男であると言う履歴があった。ここで叩いておかないと将来どうなるか
わからない不安が国際社会にあった。サダムは何とか融和策を引き出そうとしたが、ロ
シアが自国の事で手一杯の中 国連はアメリカの意志は解けなかった、「撤兵しない限
り経済封鎖を解く気はない。」それは固かった。


410: 名無しさんAA:17/06/20 18:08
 自立主義を貫け  18   サダトの命運05

 アメリカを中心の多国籍軍と言われる西側の攻撃は、1991年1月6日に開始され
た。「砂漠の嵐作戦。」である。史上類を見ない徹底的な空爆が浴びせられ始まった。
原子爆弾の数十倍とも言われる強大な爆撃も深夜に多数使われた。イラクは世界で6番
目に強大な空軍を保有していたとされる。防空システムも完璧だった、それでも米国に
は最新のステルス性の高い飛行機があったし、多国籍軍のF16などの圧倒的な空中操
作のある兵力の前では全く太刀打ちできなかった。6週間にわたり、空軍基地、生物化
学兵器施設、核開発施設などの戦略施設が空爆され破壊された。これらの爆撃は打撃力
が高く広く試験的兵力評価に繋がった。サダムは国民に最大の戦いが始まったと放送し
ていたし、地上戦に持ち込めれば必ず勝てると踏んでいた。又 多国籍軍は人命尊重の
軍隊であり、自国の何万人も死ぬような戦いに来る国々ではない。と考えていた。それ
が間違っていた。多国籍軍は地上戦を挑まず、地上能力を徹底的に削ぐ目的で空爆を繰
り返した。バグダッド市民にも徹底的に空爆が加えられた。地上軍が侵攻する頃には、
イラク軍7個師団は壊滅しており、戦車もほとんど失われていた。48時間以内にクウ
ェートは解放され、死傷者5万、捕虜15万の被害がでて戦争は惨敗に終わった。百時
間で勝敗は決したが、ブッシュは戦争中イラク国民に独裁政権を倒すべく立ち上がるべ
きだと盛んに演説していた。実際には何の援助もせず、クルド人は米国の援助があると
信じて蜂起したが、イラク軍に鎮圧され、多数が何百人も虐殺された。この戦争の目的
はクウェート解放であり、サダム打倒ではなかった事が後で解った。バグダッドまで攻
め込む大義がないとして兵を引いたのだ。それは米国の賢い判断だった。バグダッドま
で攻め込めばイラク軍の抵抗で大きな被害が出ることは間違いなかったからだ。サダム
後のイラク新政権の構想が全くできていなかったし、スンニ派の政権、シーア派政権、
クルド人政権いずれも国の形が見えない物だった。複雑に絡み合うイラク内政に巻き込
まれるのを回避したのである。この理由でサダムはとどめを刺されず生き延びた。


411: 名無しさんAA:17/06/20 18:09
 自立主義を貫け  18   サダトの命運06

 この戦争での効果はすぐさま軍需産業を潤した。精密爆弾が凄まじい効果を上げたし
、この戦争の形が我々に見せ付けたものは政府や軍事産業の力だった。43個師団あっ
たイラク軍での戦闘力はたった7個師団に減った。サダムの大敗北は国民の貧困までも
産んだ。廃棄核まで使われた地域では 異状死が蔓延していた。サダムは経済制裁を解
く条件として、大量破壊兵器の放棄、クウェートへの補償を約束させられた。国民に不
満は沸騰し敗戦後には、全国各地で反乱が巻き起こった。スンニ派、シーア派、クルド
人それぞれがサダムを倒すべく立ち上がった。これらは大統領の声明に呼応してアメリ
カの援助を期待しての反乱であったのだが、優柔不断なブッシュはこれらの反乱には、
不介入の立場を堅持し事実上見殺しにした。その為、サダム政権は西側諸国が想像した
よりもはるかに強固で、容易に倒れないことを見せ付ける必要に迫られた。政権維持に
必死だったのだ。もともと1958年の、エジプトのナセル大統領時代のアラブの民族
自立主義を掲げて、シリアやイエメンなどがアラブ連合共和国を樹立する事でサウジと
は犬猿だった。そんな中で共鳴したイラク国内のアラブ民族主義を掲げるバース党がこ
の連合に加わろうとクーデターを起こし、王制を転覆、政権を奪取して出来た国だった
。コミッサール(政治統制委員会)などの秘密警察、秘密保安部隊が暗躍し、サダムは、
これらの組織の、運用 構造、執行機関をスターリンの共産党を手本にしたのだろう。
サダムは強硬な反共主義者だったが、権力を握ってゆく過程をスターリンから学んでい
たのである。すなわち、階層社会、規律主義、秘密警察を多用した。1970年、革命
指導評議会が国権の最高機関であると、バース党による新憲法で規定され、それを掌握
しRCCの副議長をしていたサダムの国に変わっていた。こうして事実上のイラクは、
バース党の一党独裁が決定したのだった。



412: 名無しさんAA:17/06/20 18:09
 自立主義を貫け  18   サダトの命運07

 だがこの「一党独裁」が命取りになった。この巨大な権力機構も政府内部で様々に、
将軍や息子達の横暴が広く拡大していったのだ。南部のバスラの反乱に「共和国親衛隊
」が差し向けられたが、女、子供問わず多くが虐殺された。更にクルド人に化学兵器を
使用した。ケミカルアリーの異名を持つ、アリー・マジドはこう司令していた。「全員
焼き尽くしたと報告できるまで帰ってくるな、焼き尽くすまで帰ってくるんじゃない。
」と。こうして北部のクルディスタンでも反乱はあっという間に鎮圧された。ある事例
では空軍が白い粉をばら撒いただけでクルド人は大挙して敗走を始めた。化学兵器によ
る恐怖の刻印は絶大で、既にクルド人の戦意は失われていた。このようにサダム政権は
変容し簡単に倒れるような政権ではなかったのである。時代は息子のブッシュの時代に
変わっていった。ブッシュはこの大きくなった軍需産業のロビイスト達を政府の政策委
員に任命した。ラムズフェルドを初めとする軍需ネオコンは直ぐに911を企画した。
平和主義者を黙らせ米国の中東戦争介入を国際社会に認めさせる為だ。だがこの911
には4つのミスがあった。1つは見ても居ない飛行機の突入をまるで見たかのように、
ブッシュは発表した事だ。2つ目は全キリストと全イスラムとの戦いだ。と言った事だ
政府は慌てて訂正したがこの時イラク難民が米国に押し寄せていたのである。更に3つ
目は放送局が現場にいて何も起こっていない事を放送していた事だそして4つ目は現場
の路上にに飛行機の残骸が一つも無い事が明らかにされていた事だ。だがそれでもビン
ラディン容疑者を匿ったとしてアフガンのアルカイダを攻撃の的にして戦争を起こした
。この事はイスラム社会のどよめきでもあった。急速ロシアやサウジやパキスタンなど
周辺国は一応の支持をして敵対を避けた。中東の狂犬カダフィ大佐より凶暴なブッシュ
の息子だったのだ。

413: 名無しさんAA:17/06/20 18:09
 自立主義を貫け  18   サダトの命運08

 この時サダム政権は911事件に「哀悼の意」の電文を送っている。簡単に倒れるよ
うな政権ではない。と判断したアメリカはその頃既にイラク侵攻を企て 大量破壊兵器
を持っていると自信に満ちた会見を開き、さも正義の扉を開く使者の如く振る舞ってい
た。サダム政権はかつての日本の様に多数のチャンネルでこの経済封鎖解除を求めてい
たし、国連でも公式にもそれが米国の言いがかりである事を反論していた。だが その
証左は捕まって裁判させられた後でも アメリカは謝罪も証拠提出も今だ行っていない
。が代わりに米国の兵士も自爆攻撃などで多数の死者が出ていて精神障害での帰国も多
い。サダムが国連に反論する頃は既に査察団が多数入り込んできた。しかし、この時期
に行われた査察は諸説あって真実が明らかになっていない。一説ではイラクが組織的に
査察を妨害し、大量破壊兵器廃棄は全く進んでいないとする説がある。またある説では
1998年に査察団がイラクを去るまでには大量破壊兵器の98パーセントは廃棄させ
ていたと見る説もり、全く真実がわからない。だが前者が本当であれば、アメリカの戦
争にも大義があるしイラクはイスラエルに向けて何発もの発射をしていただろう。が、
それが無く核爆発も無いとなれば後者が本当で大義などない事になる。イラクは完全に
アメリカにはめられたことになる。考えれば自国の貿易センタービルを爆破する程であ
りシリアのアサドより米国は非情な国家であった事が今は解っている。ジョージ・ブッ
シュJrが大統領に就任して以来、イラク攻撃には否定的だった者は排除された。ビン
ラディンと関与している決定的な証拠が幾つあっても米国社会は民主党を担ぐ。国際的
非難は必至だったが、チェイニーやラムズフェルトといったタカ派に担ぎ上げられて、
戦争を決意した。2003年3月、米英軍はバグダッドへ向かって進軍を開始した。既
に長い間の経済制裁で弱りきっていたイラクでは、やっと治安が回復し、サダムが健在
になった頃だった。しかし、勇猛なイラク軍はボロボロだったし 再度の米国の空爆攻
撃では抵抗する気も無かった。逃げる戦車を戦車部隊は徹底的に攻撃した。白旗をあげ
てくる兵士を機関銃で撃った。こうして米国の侵略戦争は一ケ月で終了した。バグダッ
ドは抵抗もなく陥落した。制空権を奪われたイラク軍の精鋭、共和国親衛隊に既に米英
軍の爆撃に抵抗でき無い事は解っていたのだ。


414: 名無しさんAA:17/06/20 18:10
 2001年の911にテロにサダムが関与したと言う証拠は全くなく、テロリストに
大量破壊兵器を渡されるのを阻止すると言う大義名分は失っている。更にそのテロどこ
ろか飛行機のビル突入映像も又数々のデーターから作られた映像である事が判明してい
る。この巨大な虚像造りは、アメリカが単に戦争目的だった事で軍事産業が起こしたと
言う闇将軍が起こした事だった事が覗える。私は陰謀説は嫌いな人間だがここまで証拠
が揃えばまずは間違いない米国内での自国テロである事が解る。世の中には自暴自棄で
自爆テロする人やイスラム教にはまって自爆テロに及ぶ行為は既に多数いる事が眼の当
たりにしている。米国政府が或いは大統領が必要に迫られて この自国民虐待に及んだ
としても ビルのオーナーと共に破滅社会の創出に勤しんだとしても全く不思議ではな
い。この後共和国親衛隊の残党が依然いたるところに潜伏して奇襲を続けてISに加担
しても、また反米主義のアラブ人義勇兵が多数侵入して米英国でテロ行為で死者が多数
でても、これは現代世代が背負った大きな代償だろう。遂にサダムは捕まり裁判にかけ
られたが、全くまともな裁判では無かった事は国連の潘基文国連事務総長も解っている
はずだ。全く国際法違反を問いただす国際裁判にはなっていない。この事は国連のこれ
までにない恥辱であるのだが米国に逆らう声明一つも出さない事で潘基文は犯罪者と言
われるが、確かにそうだ。今やイラク戦争はISILの台頭で新たな局面を迎えた。そ
して何故かカダフィ大佐も直ぐ後に起こった芙蓉花(ジャスミン)革命によってリビア
内乱で死んだ。このアラブの春はかなり異常だった。カダフィ大佐独裁体制の敷かれて
いるリビアでも、カダフィの退陣を要求するデモが2月17日に発生し、2月20日に
は首都トリポリに拡大した。放送局や公的機関事務所が襲撃され占拠されて、軍はデモ
参加者に対して無差別攻撃を開始し多数の犠牲者が出た。政府側の他のアフリカからの
傭兵を雇用して反撃したが、反政府派も施政権が及ばなくなった東部や南部で武器を取
って各地を掌握するなど勢力を拡大して、首都での戦いが避けられない状態になった。
これをうけ何故か国連安保理は「民間人に対する暴力」としリビアに対し経済制裁と強
い非難決議を採択した。本来なら反政府側への武器供給を断つ決議が先であろうが潘基
文は見守るだけだった。更に、直ぐにNATOは空爆などの軍事支援を開始した。これ
で半年間に及ぶ事実上の内戦状態に突入し政府の防戦に成果なく、8月24日には欧州が
この反乱分子を応援し首都トリポリが陥落、42年間に及ぶカダフィ政権が崩壊した。
だが ここでも崩壊後の民族対立が激しくISILの巣の一つになって国内治安は出来
ないままに生活出来ない難民が多数欧州大陸に行っては フランスやイギリスの生活に
は馴染めず病んで自爆テロをしようとする人間が多発している。

415: 名無しさんAA:17/06/20 18:10
 自立主義を貫け  18   サダトの命運10

 このアラブの春はシリアにも影響を及ぼした。今やシリアではアサド政権側の政府軍
と反体制組織等による事実上の内戦状態に突入しており、死者数が数万人に及ぶなどの
泥沼の内線化している。更に先のカダフィ政権崩壊後の動きとして、イエメンなどでは
これまで続いてきた抗議運動の高まりにより、北イエメン時代から約33年間に渡って
政権を維持してきたサーレハが大統領権限を委譲し辞職するに至り サウジの攻撃で、
10万人以上の被災民が出ている。これらの混乱や内戦を起こしたのは米英などの体質
的思考である事は間違いないし 欧米の攻撃によって今まで独裁を引いていた軍事政権
の国がカリスマ指導者を無くして民衆を暴徒化させているのは事実だろう。ここで気を
付けないといけないのは 独裁者や軍事政権が果たして極悪か。と言う現実だ。悪は悪
であろう。だが欧米の後も考えない空爆によって指導者を無くした国は平和裏の西側の
思った国が出来たのだろうか。この国々が少なくとも幾つかの他民族国家であり強烈な
指導者で非情な政策で成り立っていたのは ある意味仕方のない事である。それを民衆
ごと一編に空爆で叩くという事は許されるのか。許される筈はない。それは、そうした
国の指導者を選んだ国民に責任がある。それが今の自爆テロ者の言い分であろう。その
意味では国連の潘基文は犯罪者を産む世界を創ったとしか言いようがない。何故なら、
国際連盟などの機関はこうした覇権主義を止める為に出来た機関であったのを全く不能
にした罪は大きい。この事でロシアはクリミアの占領を試みて成功した。これに対して
欧州は批判するが なぜNOTOはリビア空爆のその行為に責任を持たないのか不思議
である。軍が出る事は勝とうが負けようが国際事例であり潮流となる。この事を利用し
て起こしたロシアは実に巧妙で老獪に出ている。だがそうした国の画策には常に国民に
悲劇が起きる。今のシリアが住民空爆を起こしているのもそれが理由である。国民が、
平和裏に民主化を果たせば事なきを得た筈だが 今やトルコすら独裁化に拍車がかかる
状態だ。

416: 名無しさんAA:17/06/20 21:06
 自立主義を貫け  18   サダトの命運11

 現実的に他国を攻める米国と 押し寄せるイスラムとは同じぐらい脅威である。今回
のモスクに突っ込んだ英国人は全くテロではないだろう。だが夜の12時にダラダラと
、数十人が気勢をあげて帰る様は、酔っぱらい以外では 非常に気色が悪い話である。
グレンフェルタワーの火災事件も恐らくは これまで火に気をかけて火事を起こさない
注意が削がれた生活に入ったのだろう。このビルは貧民層の住む高層ビルだ。大体に、
土地の値段が高いので上に積み上げて貧民を住ませようとした事で高層ビルが出来た。
以来アメリカでもそうした事で水道や下水道や火災などに弱い高層住宅街としてそこに
出来たのである。このロンドンに見るよう、に成功した金持ちがその傍で格段の敷地に
豪邸持っている。貧民の召使いなど日常に奴隷が居た名残りの思想がそこにあるのだ。
ここに 最新の薄いアルミを貼った断熱材を外壁に取り入れ美観を良くした運動が起こ
った。大体に構造上煙突になると指摘されていた中での改装だったと言われている。が
問題は恐らく中華人の移民層であろう。南米や東南アジアで彼らには油で揚げる物の食
習慣が極めて煩雑にある。この為東南アジアでは食堂や台所は余りなく野外の夜店での
食事も多いのだ。だがこのロンドンでは外は高くつくはずだ。当然ここで料理し油の濃
い状態の排気もあったろう。これが耐火性能の低い外壁に伝わった事は容易に想像でき
る。こうした文化の違いに於いて出来る数々の苦難はある。だがそれを正しい方向に持
って行くのは指導者の在り方であろう。それを国民が支持してまともな国である。こう
した中で異様にも英国民はEU離脱に傾いた。そして馬鹿な事にメリー首相はその交渉
を急ごうとしている。これは歴史に無頓着すぎる。わざわざこの東南アジアを犠牲にし
てまで日本を戦争に引きずり込んで米国に参戦させて やっとドイツとの戦争を終わら
せたのに究極の共産主義打倒を果たさないままに NOTOには参加したままEU離脱
とは虫が良すぎる話である。本来ならEU内での大きな処理を考えるべきで 更にリビ
アでNOTOが犯した過ちによって、押し寄せて来る難民達の教育はカダフィ大佐の代
わりに行うべきだろう。

417: 名無しさんAA:17/06/20 22:00
 自立主義を貫け  18   サダトの命運12

 1983年代のケビン・カーターは、南アフリカ共和国のヨハネスブルグの白人居住
区で産まれたが、イギリスから移民してきた中流家庭の両親のもとに育った。まだまだ
アパルトヘイトの人種差別のある南アフリカ共和国において、その疑問から報道写真家
。となった。1994年、休暇で訪れたスーダンでハゲワシが餓死寸前の少女を狙って
いる『ハゲワシと少女』という写真を撮った。ニューヨーク・タイムズ紙がこの写真を
センセーショナルに取り上げ、世界中に配信された事で一気に注目され、契約のウィー
クリー・メイル社を辞めて念願のフリーランスとなり、ロイターの契約カメラマンにな
った。その後1994年にはアメリカでのピューリッツァー賞の授賞式に出席し、ニュ
ーヨークではファンに囲まれ、雑誌社からはインタビューが殺到し、有名な写真エージ
ェンシー「シグマ」とも契約できた。だがピューリッツァー賞を受賞した後には 写真
がスーダンの飢餓を訴えたものだった為、ニューヨーク・タイムズに掲載されると同紙
には絶賛と共に多くの批判が寄せられていた。心無い中傷もあったが「なぜ少女を助け
なかったのか」というものでや、やがて「報道か人命か」というメディアの姿勢を問う
論争にまで発展した。この受賞による賞賛と批判の両方が渦巻く中で、バンバン・クラ
ブ(アフリカの真実を描く会)の仲間であるオーステル・ブルークが取材中に殉職し、
マリノビッチが重傷を負ったことで激しく落ち込み、ドラッグの量が増えていった。取
材の飛行機に乗り遅れる、帰りの機中にフィルムを忘れるといった失態が続き、クライ
アントを失望させた。授賞式からわずか2か月後、車の中でガス自殺を遂げた。遺書に
は、鬱と金に悩んでいたこと、取材で見聞きした悲惨な光景に苦しんでいたことなどが
書かれていた。アパルトヘイト末期の南アフリカ。事態は単純な白人支配から黒人同士
の部族間紛争へと移行していっている中であった。ここで極めて意味深いのは米国社会
の言論のいい加減さである。映像でその場を伝える事はその地の苛酷さの表現でもあり
大事な事だ。ユネスコがクロペスカ賞を授与したあのフセイン大統領にさえ 米国はま
ともな裁判をしなかった。そんな国が報道写真や人道を批判する権利があるのだろうか。

418: 名無しさんAA:17/06/21 01:01
 自立主義を貫け  18   サダトの命運13

 この欧米社会が人道を批判する権利があるのだろうか。と言う問いは当然移民や難民
に逃げようとする英国にEU離脱の権利があるのだろうかと言う問いと同じだ。これま
で何故か英国は世界をかき回し続けてきた。がイスラエルが登場してからは中東戦争が
始まり陰に隠れて見えなくなったし、米ソ対立が深まってからは大国アメリカが勢い中
心となり出し注目を浴びせられる結果になった。がここで大きな問題が起きた。トラン
プの言う国内産業の衰退である。自由化経済は自由競争の社会であり経済である。自国
の産業でもその価値や価格が消費者に良くなければ市場から排除される仕組みは、今回
のリーマンショックでの自動車産業の政府支援への哀願でも解り得る。つまり米国は自
らが指導して広めて戦略としていた先端技術品の輸出と言う自由貿易の罠に競争に敗け
て敗北者の苦みを地方都市で受け入れざるを得なくなっていたのである。そこに出現し
たトランプ政権は地球温暖化すら認めない固さである。だがそれが如何に固くとも経済
矛盾の打破にはならない。自分たちが進めた画一化した観念や構造や経済支配は多様化
してよりよくあった世界を規格化した盗聴社会に替えた。だが此処に全く変化する事に
対応出来ない宗教が介在したら、それは中世の殺戮の時代に後戻りする事になる。その
意味ではイスラム教もキリスト教もユダヤ教も平和な世俗主義に進化しなければ世界の
破綻になる。もし聞く耳があれば提案はある。つまり今の難民や移民をモロッコの西サ
ハラに集めて広大な難民村を造る事を進言する。勿論言語と宗教については2年位教育
しての話だろう。だがもし仮にそこがユートピアになる街づくりが出来たら そのまま
欧州や米国からはテロの脅威は無くなるだろう。が逆に管理監督が失敗したら、巨大な
脅威となる。それは日本軍を引き揚げさせた北朝鮮社会の様に。だが今の様に各地にお
いて支援するよりは 農地を広げる可能性の高い所で就業と共に支援するのが 戦地に
近く武器さえ手に入れる事の出来る場所よりはいいだろう。その場所はリビアでも構わ
ないが部族闘争の中では支援は庶民に行き届かない。イラクやアフガン社会の今がそれ
を物語っている。

419: 名無しさんAA:17/06/21 10:54
 自立主義を貫け  19    フランスの行方

 今回改めて フランスと言う国がすごい国だと知った。首班指名選挙では、あの極右
の国民戦線は党首マリーヌ・ルペンは選挙前は最大政党と言うのが常套句だった。だが
いざ選挙が終わると余り知名度も人気度もないマクロンが首相となった。こんな心細い
票ではなかなか議会制民主主義も行かないだろうなと眺めていたのは私だけではないだ
ろう。だが此の後は議会解散と共に一挙に「共和国前進」なる党を創ったかと思えば、
500人もの立候補者を立て308議員を当選させた。このマクロン大統領が結成した
新党「共和国前進」はこうして瞬く間に最大議席を持つ党になった。フランスの議会下
院の選挙は、日本と違って得票数が過半数を超えないと首位2名による決選投票を更に
行うと言う 勝ち抜き公平型の選挙手法である。こうして先週の1回目の投票に続いて
、上位候補者による決選投票が行われた結果、マクロン大統領率いる「共和国前進」が
定数577議席のうち308議席を獲得し、選挙協力している中道政党と合わせ350
議席を獲得した。一方これまで政権を交互に担ってきた中道右派・共和党は113議席
、中道左派・社会党は29議席と大幅に議席を減らした。この選挙結果は一党独占状態
は起こさないと言う国民の意志が見え隠れする。というのも白票すら意見だ。という、
フランス独特の意志表示があるが この選挙に行った人数は過去最低の投票数だったと
言う中の票決でまるで「バランス感覚のある大衆意志」の様に見える。事実これに至る
首班指名選挙は一見奇妙な選挙結果を見せている。第1回目投票では、極右が約28%を
獲得してトップに立ち、共和党・中道派は約27%、政権与党の社会党は約23%の得票率に
とどまり世界に不安を見せた。しかし、第2回投票の結果は、保守派・共和党を中心と
する右派連合が13地域圏のうち7地域圏で過半数を制し、与党・社会党を中心とする
左派連合は5地域圏しかとれなかった他のコルシカ島などの地域政党がある所は最多票
を地域政党が獲得したもののフランス本土での過半数は制したのである。



420: 名無しさんAA:17/06/21 10:54
 自立主義を貫け  19    フランスの行方02


 こうして、先の大統領選挙で躍進した極右政党の国民戦線も8議席にとどまった事で
世界は安心したものの、マクロン大統領が立ち上げた新党「共和国前進」での過半数に
は及んでいない。中道政党と合わせて500超の選挙区に候補を擁立した半数の候補者
は政治経験のない一般市民である。新党と中道政党とで過半数を確保したことで、安定
した政権基盤を持ったものの、先の急進右派の極右を支持していた人達の垣根を解く方
法は財政基盤が先細りする現代では難しいかじ取りとなる。。又一方で又、決選投票の
投票率が過去最低の42%余だった事から、野党は政権が国民の信任を得たとは言えな
いとの批判もある。これらがフランス国民の平衡感覚の現れだろう。日本ならこの期に
乗じて一気呵成に直ぐにマクロンに乗って得票が伸びる所があるが、この国ではシビア
な視点がある。それは選挙制度でもこうして慎重に2回やり首位決戦をする慎重さは、
経済や財政事情があろうとも「自由は市民が戦い守る物だ。」と言う信念から日本の様
な妥協はしない。と言うあの抵抗戦線を張った特有のレジスタンス気性が見て取れる。
だがそれでも政権発足後のだらしなさはやはり不安だ。マクロン大統領の側近で、数週
間前に国土団結相に指名されたフェラン氏は20日に国土相を辞任し中道モデムのバイ
ルー党首・マクロンと合意の議席数反映されていないと憤慨しているがグラール国防相
も又就任後1か月で辞任した。中道の民主運動にモデム所属し、EUヨーロッパ議会の
アシスタントの雇用に対し党の資金を乱用したとして捜査されている。「共和国前進」
そのものは公認した候補者は24歳から72歳までの428人で半数以上が民間人とい
う綺麗な候補者なのだろうが共に歩こうとする中道モデム出身者やモデム内議員には、
このEU議会議員の立場での議員報酬や議員特権が党運営に資本投下されていたという
疑惑が広がりそうである。


421: 名無しさんAA:17/06/21 23:56 ID:YHg
 自立主義を貫け  19    フランスの行方03

 実は大統領選挙中に 中道野党モデムのバイルー党首は大統領選に出馬しない意向を
表明して マクロン前経済相に対して条件付きで連携を申し入れると発表し、マクロン
氏と会談している。バイルー党首は、不出馬とマクロン氏の支持を決めた理由として、
極右勢力の台頭という重大な危機の中で、これに対抗するしかるべき勢力がないという
危険な状況に陥っている、この重大な状況の中で例外的な決断を下す必要に迫られた。
と話している。更に共和党のフィヨン候補を倫理的な理由で問題があるとして架空雇用
問題で退けた事を示唆し、社会党のアモン候補については、左寄りの危険な傾斜が見ら
れるとして退けて、マクロン氏の支持を選んだと 支持の正当化を言った。数日前まで
、マクロン前経済相を「資本主義の走狗」と厳しい批判してきた中で、支持決定は意外
であったがスキャンダルのフィヨン候補には合流できない。自らの支持率は6%程度に
過ぎないと言う葛藤の末にそれならば退いて恩を売った方が得策であるという計算が働
いたのかもしれない。と当時の新聞は言っている。その上でマクロン氏を支持する為の
4つの条件を提示した。1つは政治のあり方を根本的に変えて、多数派の擁立を目指す
事 2つ目は政治の清浄化・倫理向上を目的とする立法措置に優先課題として取り組む
事。3つ目は 従業員・自営業者の労働への報酬水準が維持されるようにする、4つ目
は国会における政治勢力の多様性を推進する(比例代表制の導入)、の4点を要求した
。マクロン氏はこれを受けて、政治を刷新し、左右の対立に囚われない人々の結集を図
るのが自らの掲げた目標だった。として、バイルー党首の提案を受け入れる考えを明ら
かにして両者は会合して協議することになった。社会党はバイルー党首の変節を揶揄。
共和党の側では、右派から袂を分かって左派にすり寄るのは今やバイルー党首の常套手
段になった。と批判していた。こうして中道右派が勝ったのだがそれでも中道モデム側
はマクロンと合意の議席数反映されていないと憤慨している。前進が公認している42
8人の候補者のうちモデムの候補者は35人。マクロンは120人を約束していた。と
バイルーは主張し「議会でのモデムでの議席数に関し包括的合意が交わされていた。」
と連立の危うさを見せている。


422: 名無しさんAA:17/06/21 23:57
 自立主義を貫け  19    フランスの行方04

 とは言えフランスは芸術の文化の国だ。問題は今後のマクロンの政策次第で新人議員
が賛成するかどうかであろう。この中道のバイルー党首も又同じ様に刷新を図る中で、
中道民主の大物議員が数々の批判にさらされる中ではマクロン政権に寄り付かざるを得
ないであろう。だがマクロンの苦悩はこうした内政よりはEU内の統率であろう。今や
ロシアは経済圏の接点で欧州の揺さぶりは欠かせない。かつての第一次大戦がドイツと
ベルギーの境界上の石炭層や岩塩層、或いは鉄鉱石などの採掘の権利が、そのまま領土
争いの状態が戦争を起こした その後のドイツの賠償金の負担が第二次世界大戦を引き
起こしたと言う経験から 戦後はヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)を作ったのだ
。これはフランス、西ドイツ、イタリア、ベネルクス3国(ベルギー・オランダ・ルク
センブルク)の6ヵ国だったがその後、ヨーロッパ経済共同体(EEC)、ヨーロッパ
原子力共同体(EURATOM)の三者を統合しECとし のちに拡大EC共同体を経
て今のEU(ヨーロッパ連合)になってきた。だが このエネルギーの融通政策に少し
風穴が空いた。それは原子力事故によって原子力政策の見直しをドイツは行い既に今や
フランスに電気を借りている状態だ。更にロシアがG8に入って仲が良い時に 露独間
のガスパイプライン計画を進めて既にロシアからガスを輸入している状態だ。従って、
ロシアとの雪解けにはドイツはEU各国とロシアプーチン大統領の顔色を見た外交に変
わっていて 一部ではかつてのドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が本家ハクスブルク家に媚
を売っている形に似ていると揶揄される。だがドイツでは工業力が高くエネルギー防衛
に今や仏国の原子力に頼らず行こうと言う流れがある。この中でロシアの天然ガス輸入
に更に「ノルド・ストリーム2」のパイプライン拡充計画を構想しているのだ。これは
当然EUは求心力の崩壊や結束瓦解を招きかねず 何よりもロシアのエネルギー供給が
ロシアの影響力強化につながり政治力が起こる。現実に供給の中止が起こった事もあり
当然EUは反発している。


423: 名無しさんAA:17/06/21 23:57

 自立主義を貫け  19    フランスの行方05

 だがどうもこの優柔不断で八方美人の支離滅裂な欧州のわがまま理論は無理が多い。
そもそもEU経済圏は個々の経済圏では日本や米国に対してソ連などの広域経済圏とし
巨大な通貨と経済圏の運用が出来ないと縮小してしまう世界から取り残される。と言う
金融家の主張でドイツが音頭とったはずだ。特にコール首相は、東西ドイツ再統一の指
揮を執り、欧州単一通貨ユーロの誕生に尽力した。更に旧東ドイツの無名の科学者だっ
たアンゲラ・メルケル現首相に好機を与え今のドイツを形作っている。この中でEUは
ウクライナ危機でガス輸入量の約4割を頼るロシアに対し、供給停止を恐れて経済制裁
できないで躊躇するなどした経験をフランスの原発が救った。その上ロシアはガスの売
り先にウクライナを通らない黒海海底を通した「サウスストリーム」構想がイタリア主
導で持ち上がっていたが断念した経過がある。その計画は、黒海の底を通り、ブルガリ
ア沖に到達しセルビア、ハンガリー、オーストリア、ギリシア領内を経由するはずだっ
た。プロジェクトの主な目的は、南ヨーロッパ諸国がロシア産ガスを輸入する際の、火
薬庫のウクライナ経由でのガス供給に紛争しての国に依存しないようにする事にあった
。ウクライナ経由のガス供給では、これまで幾度となく問題が起きたからだ。当初この
計画は欧州の支持を得て進んでいたが、その後は、ウクライナ危機が始まってからは、
欧州委員会の立場が変わったため、動きが失速し、全くストップしてしまったのだ。こ
の14年末に中止を迫られた黒海経由の「サウス・ストリーム」は、伊エネルギー大手
などがガスプロムと計画し、パイプラインは双方の合意まで取り付けられていたがEU
の規則に抵触するとされて断念したのだ。この為ガスプロム側は「サウスストリームに
ついて言えば、欧州委員会の立場は、非建設的だった。実際、委員会は、このプロジェ
クト実現の手助けをしなかった。」この為昨年トルコに向かうコースに変更しトルコと
合意している。「これによって損をするのは、もちろんブルガリアだ。トランジット収
入だけで、ブルガリアは、年に4億ユーロもの金を得るはずだった。これは貧しい国に
とって、深刻な金額だ。ガスプロムも損失を被るが、サウスストリーム建設の際ガスプ
ロムが負った支出は、埋め合わされるだろう。なぜならトルコへのガス供給用に、同じ
ルートが利用できるからだ。」と話している。こうした事で、レンツィ伊首相は一方で
北方ルートの拡充をする今回の計画が進むことを疑問視し、「EUは一国のものではな
い。」とドイツへの不信感もあらわにしたのだ。

424: 名無しさんAA:17/06/21 23:58
 自立主義を貫け  19    フランスの行方06

「サウスストリームについて言えば、欧州委員会の立場は、非建設的だった。実際、
委員会は、このプロジェクト実現の手助けをしなかった。欧州がプロジェクトの実現を
欲しないのであれば、プロジェクトは実現されないだろう。我々は、ガスを流す方向を
別の地域に変えるだけだ。液化天然ガスプロジェクト加速化の助けも借りながら、それ
を行うだろう。我々は、世界の別の地域に向かって進んでゆく。」とガスプロムのミル
レル社長は話す。更にサウスストリームと同様の大型パイプラインをトルコ向けに敷設
する計画を発表した。将来的に、それはEU諸国にも延長される可能性はある。だがこ
の決定は、ロシアがこれまで投資した資金を失う事から、一見、思いがけないもののよ
うだ。が、――分析専門家のニコライ・ポドレフスキフ氏は、そうは見ていない――
 「出費の大部分は、新しい方向にガスを供給する事で埋め合わされるだろう。欧州は
、我々が欧州の条件でサウスストリームを建設するよう望んだ。しかし今や政治的決定
が下された結果、ガスはブルガリアを経由せず、トルコを経由する事になる。これには
、プラス面もマイナス面もある。―――と つまり、トルコを通るガスパイプラインは
、ロシアにとってそう重要な優先的なものとは、恐らくならないだろう。という事だ。
多くの専門家達は、プーチン大統領が述べてきた事、アジアへのガス供給プランの中で
彼がどのように行動して来たか、をよく考える必要があると考えている。その指摘は全
く正しい。なぜなら、これまでガスは需要が今後伸びるであろう地域に、経済が発展し
てゆく地域に向け送られてきた。その意味でアジア経済は、欧州とは違い、急激に発展
してゆく可能性は高い。サウスストリーム計画を放棄してもロシアは、いかなる経済的
リスクも被る事はないとの点で一致しての計画であるはずだ。もともとこのプロジェク
トは多くの点で、主なトランジット国であるウクライナが、紛争問題により、幾度とな
く苦汁を舐めてた結果 欧州諸国のリスクを最小限にするため、作られたものだったか
らだ。この模様に米国では、興味深いコメントがある。サウスストリーム計画を放棄し
たことで、クレムリンは南欧諸国へのロシア産ガス供給の政治問題化から逃れた。とい
うのだ。ロシア政府は様々な国々へ、自らの行動によって政治的圧力をかけているとい
った類のあらゆる言いがかりに、クレムリンは終止符を打った、というわけである。


425: 名無しさんAA:17/06/21 23:59
 自立主義を貫け  19    フランスの行方07

 こうしてEU各国とロシアの関係がエネルギーに於いて微妙な仲になる中、フランス
は東西ドイツの統一問題でも、イギリスのEU内の特別地位問題や離脱問題でも、或い
はイタリアやギリシャの債務問題でも積極的な推進はしないまでも大きな後ろ盾であり
話し相手であった。今でも英国が離脱してから特にドイツの盟友はフランスであろう。
そしてこのイタリアなどの南欧州とされる集団との意見がある事を知るのはフランスの
強みでありその経緯を知るマクロンが通った事は欧州の幸運である。「 私の見解では
(ガス供給の)多様化や依存低下につながらない」。EUのトゥスク大統領は18日の
EU首脳会議後、厳しい口調で語った。やり玉に挙げたのは、「ノルド・ストリーム2
」と呼ばれる独露間のパイプライン拡充計画だ。独露の間ではバルト海経由のノルド・
ストリームが2011年に稼働開始。拡充計画では19年までにガス管2本を新設し、
露産ガスの供給量を年550億立方メートルから倍増させる。露国営天然ガス企業ガス
プロムが9月、独エネルギー大手エーオンなどと共同事業会社の設立で合意している。
東欧やイタリアの要請で首脳会議はノルド・ストリーム2について議論。総括文書は新
たなエネルギー・インフラの建設はEU法やEUの戦略目的に「合致すべきだ」とも明
記した。メルケル独首相は計画を「経済的な事業」とし、企業間取引だとの見解を示す
にとどめる。だが、シンクタンク、欧州政策研究所のアニカ・ヘドバーグ上級研究員は
露側とのエネルギー取引には「常に政治的側面がある」とし、「ロシアはドイツをガス
輸出の拠点とし、EUへの影響力増大を図る」と分析した。つまりエネルギーをロシア
に頼る事は常にロシアの意向がかかる中央アジアの様にEU社会がなりかねないのであ
る。と言って既にドイツはこのロシアの産出するガスに舵を切った形だ。そしてイタリ
アも又この賛成から見て恐らくロシアガスの購入に走るだろう。これはフランスの原子
炉事業と完全に相対する。だがイタリアにとって危険な電力が原子炉かロシア産ガスな
のかは悩む所であろう。少なくとも今のウクライナ中継のガスより止まらないだろう。
さてさて英国は中国に喰われ 欧州はロシアに喰われ 日本は米国に喰われるのだろう


426: 名無しさんAA:17/06/22 12:04
自立主義を貫け  19    フランスの行方06

 2015年 1月7日1フランスでシャルリー・エブドの襲撃事件が発生した。数人の
銃を持った男がフランス・パリ11区にある風刺週刊誌を発行している「シャルリー・
エブド」本社事務所に、覆面をした複数の武装した犯人が襲った。事務所で編集会議中
に自動小銃を持った男らが乱入、同紙編集長と編集関係者、風刺画家、警官など約20
人が負傷し、警官2人や編集長、風刺漫画の担当者やコラム執筆者ら合わせて、12人
を殺害した事件が起こったのである。その時のテロ攻撃では、一人の警官はイスラム教
徒のモロッコ人でリビア育ちの2世だったが制止を聞かずその警官は殺されて逃げた。
犯人は保安隊が調べてシャルリー・エブドを襲った銃を持ったシェリフ・クアシ、サイ
ド・クアシ兄弟と、その仲間のアメディ・クリバリである事が判明したが、女性警察官
1人を殺害し、その後、食料品で4人の人質を殺害した為犯人を殺害して収束した。そ
の後、およびそれに続いた一連の事件に大きな波紋を投げかけ報道と表現の自由をめぐ
る議論が起こった。この事件はパリ周辺を3日間にわたって血に染め、17人が犠牲に
なったが、その後もテロは続いた。シャルリー・エブドの中心的な編集者の幾人かは、
この事件で死んだのだがこの殺害行為の後、「私はシャルリー (Je Suis Charlie)」
の合言葉が示され、それは表現の自由や出版の自由を支持する人々により共有された。
同誌の支持が高く その後も他の雑誌社の提供で発刊は続いた。これは支持を示すもの
として世界中に広がった。だがこの事件はイスラム教に劣る行為とみても良い物だった
。と言うのは「アッラーは99の名を持つ」と言われ「慈悲深い者」「安全の擁護者」
「純粋なる者」「崇高なる者」「親愛なる者」などの名称も又この「アッラー」の別名
としているのである。もともとこの雑誌は左派寄りの風刺新聞であり、イラストの皮肉
な風刺画を多用し、フランス国内外の政治を主に扱う機関として雑誌も発行していた。
同誌の風刺画家のシャルブによると、その編集方針は「様々な左右の見解、更に政治に
参加しない無関心な人の見解」などを反映すること、とのことである。正にトランプの
様な自由の中での ぎりぎりのポピュリズムへの挑戦や問題の投げかけをするものだっ
た。「シャルリー・エブド」という名の後半の「エブド」はフランス語の「エブドマデ
ール (=「週刊の」という意味の短縮形)「シャルリー」とは漫画の登場人物チャーリ
ー・ブラウンに因んだものであり、またシャルル・ド・ゴールのシャルルにも掛けたネ
ーミングであるとされる。


427: 名無しさんAA:17/06/22 12:04
自立主義を貫け  19    フランスの行方07

 この事件を言わずしてフランス気質は語れない。と言うのが私の素直な感覚だ。この
マクロンが新政党を率いて外交や経済に立ち向かうにも、こうした過激な極右を止める
極左を納得させる事が必要だろう。その為には週刊誌と言えどもメディアの役割は大事
である。この週刊誌は2011年、イスラム教の最も神聖な人物を粗野な風刺画で描い
たことにより、イスラム世界が憤慨し、その事務所が火炎瓶で攻撃されたことがある。
2006年から盛んにイスラム狂の馬鹿さを説いている。ムハンマドとされる男性に、
「ばかに愛されるのはつらい」と付記したイラストや、ターバンに爆弾がし込まれた、
イラスト、天国に向かって並ぶ自爆テロ犯をムハンマドが迎え「待て待て、もう処女は
いないぞ。」と呼びかけているイラストなど12点を配した「ムハンマドと原理主義者
」と題した特集が組まれたりしている。当時のシラク大統領は「行き過ぎた挑発だ」と
批判はしたもののそこはお国柄で許される物として国民は許している。現実にムスリム
団体は宗教的な侮辱だとして提訴したが、7年の1審では、風刺雑誌におけるよく練ら
れた挑発や誇張は、社会批判や政治批判の手段となるものであり、一定の制約は受ける
が表現の自由として守られる。としている。更に、ユーモアがなく、不快感や恐怖感、
ショックを与え、傷つけるものとも認められるが、特集全体の 方向性を踏まえれば、
過激派に限定され、ムスリム全体を不快にさせようとしたものではないとして、これを
無罪とした。当然な事だ。本は狂気であっても凶器にならない。こうして2007年に
直ぐに、爆弾を所持したムハンマドとされる人物を描き、パリの主要モスクから非難さ
れた。2011年には、「イスラム教の預言者ムハンマドを同紙の新しい編集長に指名
した。」という風刺画を掲載し、事務所に火炎瓶が投げ込まれ全焼する事件が起きた。
同年、ムハンマドを同性愛者として同社の男性社員と口づけしている風刺画を掲載し、
同紙ウェブサイトが攻撃されクラックされる事件が起きた。2013年には、「ムハン
マドの生涯」と題した漫画を出版した。2014年には、過激派組織イスラム国がムハ
ンマドの首を切る漫画を掲載した。

428: 名無しさんAA:17/06/22 12:05
 自立主義を貫け  19    フランスの行方08

 2015年3月発売号で、今も収束していない福島第一原発事故の風刺画を掲載した
。事故で煙を出す福島第一原発の前に大きな鳥の足跡を描き、防護服を着た作業員が、
その足跡を見て、「今年の最初のツバメだ」と話している。足跡は放射能被害により大
きくなったとの想定で、原発事故の被害を誇張する内容となっている。それは同時に、
最近の軽微な事故を起こしたフランス国内の原発2か所を皮肉としてを扱ったものだっ
たのだろう。2016年においては、「イタリア風地震」と題する記事において、血だ
らけで包帯を巻いた男性を「トマトソースのペンネ」、やけどを負った女性を「ペンネ
・グラタン」、がれきの間に挟まれた被災者たちの様子を「ラザニア」と8月に発生し
たイタリア中部地震の被災者をイタリア料理に見立てて揶揄する諷刺画を掲載して批判
を浴びた。イタリアのオルランド法相は「非常に不快」であるとコメントし、グラッソ
下院議長も「この諷刺画は最低」であると批判。ソーシャル・メディアの上でも批判が
殺到した。14年の事件の前の週の号には、「フランスではいまだに襲撃が全くない」
という見出しの下で、ジハーディスト戦士が、目線が左右バラバラになっているように
描かれ、ロシア製の自動小銃「AK47」を肩にかけて立ち「慌てるな!新年のあいさ
つだったら1月末まで間に合うぞ」と言っている風刺画を掲載した。右下隅に風刺画家
「CHARB シャルブ」の署名あってこれが事件に繋がったと思われている。その1年後、
同誌はある反イスラム映画に関する騒動の最中であっても、又預言者ムハンマドの風刺
画を発表している。その風刺画でムハンマドは裸で、品位を傷つけるような、ポルノの
ようなポーズで描かれていた。騒動が大きくなり、フランス政府は緊張を招いたとして
シャルリー・エブドを非難したのだが、一方で表現の自由は擁護した形で終わっている
。移民や難民が殺到する中で大型ゴムボートが問題を起こしアイラン君ガリプ君が兄弟
で溺死し片方が浜辺に打ちあげられ、この移民や避難民の悲惨さが世界中に報道された
更にその後も何万人とやって来る多さで 欧州の人達は恐怖に覚え治安の為の策を次々
と行った。補助金の停止やテロ予備軍の入国防止 入国管理の人員増加 国境沿いの壁
など それは多種多用であったが そんな中でもエブドーは風刺画をやめなかった。


429: 名無しさんAA:17/06/22 12:05
 自立主義を貫け  19    フランスの行方09

 この風刺画をやめなかった事で国内の購読者は批判的な意見を言った。「フランスの
風刺雑誌シャルリー・エブドが最新号で難民と移民の危機的問題について議論の種をま
いたと。」メディアは報道し、トルコのデイリー・サバ紙は、その絵が溺死した幼児を
嘲笑したものだと主張した。モロッコのワールドニュースも同調し、その出版を「表現
の自由を盾に取ること」として非難した。インドのオンライン・メディア「スクープ・
ウープ」は次のように書いた。「これは、私たちが認識し、今年初めに連帯したシャル
リー・エブドではない。 Je ne suis pas Charlie (私はシャルリーではない)」。と
伝えた。更に非白人の弁護士らでつくる「黒い法律家協会」の代表で前ロンドン警視庁
副長官のピーター・ハーバート弁護士は「シャルリー・エブドは生粋の人種差別主義者
で外国人恐怖症で、イデオロギー的に破綻した出版社であり、フランスのモラルの腐敗
を表している」とツイートした。「黒い法律家協会は、これをヘイトクライム(憎悪犯
罪)や迫害の誘因として国際刑事裁判所に上申することを検討しています。」とまで言
った。雑誌に掲載されてソーシャルメディアで広がった風刺画には、溺死したシリア人
の幼児が砂浜にうつ伏せで横たわり、その上に「すぐそこが目的地だった…」との文字
が描かれている。背景にあるマクドナルド風の広告看板の上にはメッセージが書かれて
いて、「1人分の値段で子供メニューが2人前」と記して、そのボートが格安の定員を
越したものであった事を皮肉っている。同誌同号に掲載された又別の風刺画には、「ヨ
ーロッパがキリスト教の国である証拠。」と題された海面に立つイエス・キリストらし
き人物が描かれて、恐らくアイラン君のものであろう幼児の両足が海面から出ている。
その風刺画には「キリスト教徒は水の上を歩ける…イスラム教徒の子供は沈む」と書い
ていて 貧困と戦争から逃げる難民の悲惨さがイスラム教の非道さに移し替えられてい
た。空爆を選んだのは、シリアのバッシャール・アル=アサド大統領かも知れないが、
今やソ連やトルコの影響下にある。又逃げて来る難民の多くはこの戦争には何にも悪い
事はしていない。だがそれはイスラム教徒によるイスラム教徒の残虐であり欧州は関係
がないかの様な非情さが その絵には見て取れる。まるでリビア攻撃がなかったかの様
な振る舞いと言える。

430: 名無しさんAA:17/06/22 21:19
 自立主義を貫け  19    フランスの行方010

 果たして人類はこの世の中に混在する過ちにどう答えるのだろうか。「自業自得」「
因果応報」「豊かな収穫を得たいならば良い種をまきなさい。」「まちがってはいけな
い、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる
。即ち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠の命
を刈り取るであろう。私達は、善を行う事に、うみ疲れてはならない。たゆまないでい
ると、時が来れば刈り取るようになる。」と聖書すらある 原因・結果をどう処理する
つもりだろうか。この「シャルリー・エブド」が行う風刺画はある意味挑発性は高いも
のの 人間の知り得る共通の言葉とも解約できる。つまりこの挑発があってこそ先進性
がある。今日本では将棋が流行になりつつある。だがこの将棋と風刺漫画は殆ど同じ部
類のある種の言葉と言える。欧州風であれば「チェスと風刺が同じ言葉」と言っている
のだが、今AIの発達で将棋は「最善手の積み重ね」が相手に勝つ為の工程である事が
解っている。そしてそのゲーム理論は恐らく歴史にも通じる事になるだろう。経済学に
ゲーム理論が活躍している事は周知の事実だが、国際情勢にこの将棋の認識認知の最大
の最良手理論が使われるのはそう遠くないであろう。今までもスノーデンやある首脳の
方策やらは部分的に認識される最善の方法を取っている。日本の憲法改正やトランプの
政策批判も又その国民の思う最善手の一角である。が問題はそれが各民衆では続かない
。それが今回の中東内乱の素になっている。つまり自由化とされるアラブの春自体には
単純には正しい事の筈だが、それが政権打倒となればそれは又別の話になる。フランス
は、その違いが判っている人達の国だったのである。つまり「シャルリー・エブド」の
風刺画はその意味では将棋の駒と同じフランス人の自由を守る為のアイテムだったのだ
。そして今や平等のアイテムに映像がある。そして博愛のアイテムが自由な論評の場所
であろう。その自由と博愛の中にこの風刺画があるとしたら それは大事な論点を人に
教えている。その意味では英国の様な「賭博」や賭け事によるの「経済論」の主張や「
地政」や「生存」などに特化した「覇権論」の啓蒙と よく似ている。


431: 名無しさんAA:17/06/22 21:20
 自立主義を貫け  19    フランスの行方011

 今フランスで危険な事は 国内のテロ行為ではない。本当の危険は今度法改正で独裁
化したトルコのエルドワンの動きや、馬鹿トランプの放言で中東社会が壊れ、イランの
包囲網などと言ってカタールのドーハなどが危険な孤立に追いやられている事だろう。
アメリカのトランプも最もテロを送り出していると推測されるサウジアラビアに行って
人権問題の「じ」の字の一言も無いと言うだらしなさである。石油輸入にサウジを頼る
日本も又今度の来日に何も言わなかった事で安倍政権も全く同じだが、情けない話だ。
サウジは国王アブドゥルアジーズが建国の父と言われるが俗にワッハーブ派と呼ばれる
教えを守る家として、サウード家は存在している。これでアラブのサウードと言う意味
のサウジアラビアと言う国の名になっている。初代国王の息子だけで、50人以上近く
いたというイスラム法の一夫多妻制で起こった。このアブドゥルアジーズの子孫である
事が王位継承権を持っている事になる。だが第2代国王サウードには50人以上の子供
がいてファイサル第3代国王は9人、ハーリド第4代国王も6人、ファハド第5代国王
に9人、アブダッラー第6代国王15人、そしてサルマーン現国王も12人の子沢山で
ある。先代で1500人は居るだろうとされ今や5千人と言われる王子の名の親族達な
のである。もともとイスラム教の開祖、マホメットの教えでは イスラムの女性は別に
隷属的な存在ではない。又今の習慣のベールを被るという規定もコーラン自体には全く
ありません。世界大戦以前オスマントルコ時代に定着させたと言われ、これを定着させ
たのがイスラム原理主義集団である。そのイスラム原理主義集団の最大派閥が、アラブ
の王様サウージ家の俗にワッハーブ派と呼ばれる習慣法なのだ。そして「シャルリー・
エブド」事件の頃この国には大きな事件が起こっていた。当時第2代国王サウード国王
の孫娘が幽閉されたのだ。実兄ハリード国王の頃である。このプリンセスは当時19歳
のお嬢さんでお祖父さんは当時随分可愛がって旅行に連れて行った事もあると言う。こ
のサハり王女など4人の王女たちが、暴君的な父親により餓死させられようとしていた
。彼女たちは父親に対し、サウジアラビアの国民に平等の権利と住みよい環境を与える
ように訴えたことで犯罪者として投獄されたのです。これまでも3万人以上が圧政と人
権侵害の訴えで政治犯として投獄されている。その中にニムル師もいたのだ。


432: 名無しさんAA:17/06/22 21:20
 自立主義を貫け  19    フランスの行方012

 だが馬鹿なトランプさんはこの中東情勢を勢力のみの誤った見方をしている。勿論、
当然スンニ派アラブ諸国の中で最大の実力国サウジに盾突く国はいない。それでもそれ
ぞれの国情に応じてサウジへの同調に微妙な温度差はある。というのが現実である。こ
の一方的なニムル師の処刑は批判されるべきだが トランプ政権はそれを行わなかった
。サウジアラビアとイランの国交断絶の直接的な発端は、この1月2日に起こったサウ
ジのシーア派指導者であるニムル師が処刑されたことにある。ニムル師はサウジ内でも
比較的シーア派系住民が多いとされる東部州アワミーヤの出身で、イランで宗教教育を
受けたとされ、1990年代にサウジに戻りシーア派指導者としてサウジ政府に批判的
な活動を行ったとされる。だがこの女性の人権保護と平等の権利更に宗教を問わない行
政執行を訴えていたのである。2011年の「アラブの春」においても 同様にサウジ
政府に批判的な活動を行ったとされ、サウジ国内のシーア派をデモに扇動したとして、
次の年ににサウジ当局によって逮捕された。既に2014年反逆罪、宗教扇動罪などで
死刑判決が下っていたが 死刑判決以降、欧州初め 国際機関や人権裁判所やイランと
国際人権団体は様々な形でサウジ政府に対してニムル師の処刑を行わないよう要請して
いた。だがいとも簡単にサウジ内務省は2016年にニムル師の死刑を執行したと発表
した。ニムル師と同じタイミングでに拘束したアルカイダ系のテロリスト46名の死刑
も執行されたと言うが これらがアルカイダのテロリストでは無い可能性は強い。まず
シーア派が大量に処刑されたと言うのが本当ならアルカイダ系テロリストはスンニ派の
系譜に属するため完全に誤りだ。つまり自国のアルカイダ系が逆にシーア派を合法的に
処刑した形である。ニムル師処刑の翌日、テヘランのサウジアラビア大使館、マシャド
の同総領事館前で抗議デモが行われ、暴徒化したイラン人が大使館・総領事館を破壊、
放火するに至った。大使館・総領事館襲撃という事態を受けて、サウジの外相は同日中
にイランとの国交断絶を通告した。これはサウジの予定行動の範囲であろう。だが外交
関係がない状態であれば、コミュニケーション・チャネルが確保されていないことによ
って事態のエスカレートのみならず、新たな相互不信が醸成されてしまう。今回サウジ
が一方的に国交を断絶したことは、コミュニケーション・チャネルを閉ざしたという点
で、非常に重要な外交資源を失ったと言える。これにトランプは拍車をかけたのだ。こ
れまでキリスト原理主義者ネオコンとイスラム原理主義アラブの王子が取り出さされた
が 今回も黒い渦が巻いている。「ブラック・コーズウェイ」である。

433: 名無しさんAA:17/06/23 15:02 ID:oxM
 自立主義を貫け  19    フランスの行方013

 多分今起こってる第七時代とされる「暗黙知の共有」は、第六時代「形式知の確定」
さえ今だ終わって無いと言うのにである。第五時代の「多様性の必然」は既に1970
年代に終わっている。今後AIと共にITの発展には凄まじいものがあるだろう。現に
今ラストベルトを始めとする浮浪者や失業者の票に於いて、トランプや極右政党の登場
があったのだろうが フランスの強みはこの意識や考え方についての個別性の尊重であ
る。だがかつて戦ってきた独裁主義は今だ消えていない上に 戦うべき独裁主義は中東
や中国などに確固たる基盤が整いつつある中にあるのだ。かつて人は機械など無い時代
からやって来た「農耕」や「狩猟」の活動は当然の人の生活行為であった。そうして、
そこで起こった人口の増減は当然自然の喪失であった。が壊滅的に自然環境が失われた
世界には 多くの古代文明が砂漠化の中での生活を強いられた事で解る。家に煉瓦作り
に食事に暖に日陰にと樹木は資源であったし この頃から蓄える事による貯蓄の観念が
出来た。その事は2つの社会現象を起こした。一つは飢餓など集団の苦悩する飢えから
の脱却である。これは動物の持つ様な獲物や果物などを探して行く放浪に近いさまよう
生活を自立した定住の暮らしに変えた。悲痛な獲物を探し回り腹を減らした社会が食糧
が欲しいままに摂れる社会に変わったのだ。と同時に此処に階層社会が産まれた。有力
者とも思える者が支配し様々な器用な者が崇められた。そして呪術師の登場である。既
に狩に於いても運命を祈祷する習慣は何処にでもあったが 集団が大きくなると指導力
が違う形で現れた。思想や宗教の誕生である。日本でも縄文時代までは単に食べるだけ
であったのだが弥生時代に於いて 稲作が出来ると同時にその集団が巨大化して闘争が
起こり更に部族間の争いが起きて来たのが解っている。第三の時代「囚人の出現」であ
る。この革命的要旨は人の欲望である。そして第四の時代の「道具の発展」によって、
人は奴隷の呪縛から逃れる方策を得たのだ。勿論それぞれの時代の出現に戦争は起きた
。が実はその防御を担ったのがフランスで実った「自由・平等・博愛」なのだ。

434: 名無しさんAA:17/06/23 15:03
 自立主義を貫け  19    フランスの行方014

 人は例えば自転車を乗る上で 幼児でも行える程の優しい事ではない。練習し幾つか
のコツを得て乗る事が出来る。だが一度出来たと言う体の経験は何時までも持続する。
この持続ででも体の中では幾つもの神経が相互に交信しバランスを取る行為をしている
。更に一度乗った者は知らない間にそうした記憶を持っているし知っている。これが「
暗黙の共有」という。実は戦後の世界はこの悲惨な世界大戦の実情を知った中で各国の
政治が行われた。つまり「暗黙知の共有」をした政治である。対してその相手の自転車
が進む事を理解し歩く事・自転車・バイク・自動車・飛行機など分類し正確に認識分類
を行う事が第六時代「形式知の確定」時代である。形式知は知識の分類の一つであり、
主に文章・図表・数式などによって説明・表現できる知識を指すとされる。これまでは
人類は事象の追求に勤しんできた。だがこれからは更に掘り下げた天然自然にある決ま
った方程式の解法を探す事になるであろう。それはヒットラー時代に進められた分業化
システムや科学技術の現実的仕様での実験的試行の延長ではあるが、アメリカが作った
原子力発電や今の量子力学や宇宙科学やロボット工学や金融学や経済学まで至る所に、
分類して秩序を整理して方程式を掲げる試行をしている。そしてそれが可能になったの
はAIの認識機能の進化である。かつて映写機がこの世に出現した時この地のエッヘル
塔からの飛び降り写真を取る事を目的に浮浪者を莫大な金で雇って飛び降りさせた。が
今やロシア発の映像では そうした危険行為に映像を発信し死んで行く若者が多発して
いる。又米国発では 身売りした少女の卑猥な映像を売り出している。日本では少しは
終息した感はあるが それでも若者が飲食店でのアルバイトテロと称されるインスタグ
ラムは『階級社会』の出現として大いに影響が注視される。フランスはこの「低所得層
」社会のある格差社会を何度も乗り越えて「自由・平等・博愛」の国家スローガンに、
たどり着いている。日本人は観光客としては多いがこうした思想の集結を余り研究して
日本に吠える方は少ない。唯一知っているのは赤塚不二夫の御フランス帰りのイヤミ女
史ぐらいだろう。(モデルは近所の田嶋少佐の孫田嶋陽子先生とも思われるが定かでない)

435: 名無しさんAA:17/06/24 11:47
自立主義を貫け  19    フランスの行方015

 今日本では 学園や獣医師大学でもめている、がこれは日本に限った事ではない。個
人の決定か国の決定かは何処でも問題が多い。アメリカのロシアゲートの問題でも、イ
ギリスのEU離脱でもイタリアのEU議員の使い込み問題でも公的部分の意志と言う物
の在り方や存在意義が全く混沌として見えない中にある。事実第三者として公平に見る
組織があるのはアメリカの司法議会のみと言える。例えば韓国での慰安婦問題での少女
像問題では全く間違ったポピュリズムを行使して止まず嘘の歴史を堂々と裁判までもが
背定して泥棒までも良しとしている。全く馬鹿げた話だ。この不埒なポピュリズムこそ
が今ソ連が使って来た共産主義で騒動と混乱に於いて扇動を切って愚民からの自拝を得
ると言う、何ともシオニズムの戦略に沿ったものだったのだが それが今の共和党の中
で息づいていて遣り切れない。日本人は一度決めた事は変えたがらない。そしてフラン
スは自由と正義に名に於いては何処でも何にでも変節は自由だ。これは内閣府と文部省
の闘いに似ている。だが英国や米国に於いては韓国や中国の様に思惑と変節で自己欺瞞
に満ちた世界を作っている。殆ど個人攻撃と思想対立の中に喘いだ社会に見える。今回
欧州連合(EU)は国連人権理事会で中国の人権を非難する声明を発表する予定だったが
、ギリシャの反対によって否決された。ロイター通信によると、EUは18日には必ず
国連人権理事会で言論の自由と死刑反対を訴え、中国で行われている非情な凶行につい
て「人権侵害に非難する」声明を発表する予定であった。それは北朝鮮からの米国学生
が植物人間で帰還した事と重なり問題になるはずだった。が、ギリシャの猛反対により
メンバー国28ヶ国の全ての賛成が得られなかったため否決された。英国のEU離脱の
み取り沙汰されるが、今回国連人権理事会でのEU声明が発表しないのは前代未聞の、
異例中の異例である。ギリシャ外務省関係者は、EUの中国非難は建設的な意義を持た
ないため反対したこと、EUと中国は国連の枠組みの外で単独で対話を進めるべきだと
述べたが 裏には中国に麻薬を売るマフィアの暗躍とギリシャ制圧がある。既にギリシ
ャ官僚は財政破綻によってマフィアの手先になってしまっているのである。それの証と
してギリシャに中国を指導する能力も資格も力もないどころか中国の「一帯一路」国際
会議に出席した際には、中国との協力を強く熱望した まるで太鼓持ちの様相だったの
である。つまり今や先進国EU世界の中で乞食の国の有様なのだ。この国民性が仏国の
隣にいるのである。ギリシャとドイツこの間を取り持つのはなかなか難しいのが現状だ
ろう。こうして先進国がポピュリズムの前の独裁国の軌道修正を打破できるのかが仏国
に問われている。

436: 名無しさんAA:17/06/24 16:14 ID:uH.
 自立主義を貫け  20    中東と中近東の争い。001

 アメリカ現代政治史においての「大統領弾劾プロセス」で有名なのはニクソン大統領
のウォーターゲート事件(72年)と、大統領選のクリントン候補の夫ビル・クリント
ン大統領のホワイトハウス・インターン事件(98年)である。この時の、ニクソン、
クリントン両大統領が置かれていた政治状況は上下院が拮抗していた時だった。今回の
トランプ大統領の議会とは大きく異なる。それは2人の元大統領は上下両院を野党に支
配されて居ながら大統領選で与党になっていたのだ。今回の場合は、曲りなりも上下両
院ともに与党・共和党が支配しているのである。ウォーターゲート事件では、民主党主
導の議会がニクソン大統領を辞任へと追い込み、またホワイトハウス・インターン事件
では、共和党主導の議会がクリントン大統領を上院での弾劾裁判へと追い込んでいくと
いったプロセスを踏んだ。この大統領弾劾プロセスの発議は下院司法委員会での決定で
行われるが、与党・共和党が上下両院において決定権持つ多数党の立場を維持している
中では、トランプ大統領にとっては安泰要因である。だが世論の動向は米国を2分して
いる。特に大統領弾劾プロセスによって非常に不安定な要因となっている。不思議なの
はトランプ大統領の支持率は、コミーFBI長官更迭後さらに下落しているが、共和党
系有権者の「トランプ支持」の回答は82%にで、トランプ大統領は依然として共和党
内で圧倒的支持を得たままなのだ。つまり盲目的信奉者の群れがトランプを慕い支持し
目を覚まさない中夢を見続けている事になる。だが国民全体に為れば大手世論調査会社
ギャラップ調べでは、トランプ大統領の支持率は38%であったのに対し、不支持率は
56%と、不支持が支持を18ポイントと大幅に上回っていた上に更に下がる傾向だ。
それでも対照的に、民主党系のトランプ支持」はわずか7%、無党派層では33%が更
に増えただけで共和党系有権者お強固な支持は変化していない。こうした事でトランプ
大統領が弾劾プロセスに容易にかけられる可能性は低いと言われている。

437: 名無しさんAA:17/06/24 16:14
自立主義を貫け  20    中東と中近東の争い。002

 だがこのトランプ支持者が離反するかも知れない動きが 中東にある。日本ではトラ
ンプ米政権が抱えるロシアゲート疑惑は対岸の火事視する向きが多いようだ。だが中東
との絡みで言えば 日本こそが大きな関心事になってもいい様な気がしている。エジプ
トでは「アラブの春」で軍事政権を倒した。だがそのあと出来たのは ムスリム同胞団
の政権が成立だった。それをクーデタで倒して又国軍支配の今のスィースィー政権が生
れたのはつい最近だ。アラブとエジプト両国とも、ムスリム同胞団を目の敵にするだけ
の政治的背景は持っている。中国の運動家は「どのような組織も、世界の普遍的価値観
に合致した原則を持っていることで尊敬されます。もし利益と引き換えに、悪さや暴力
を働く者を容認して、言うべきことを言わない状態が続けば、その組織は空虚なものと
なるでしょう。」と言っている。今後2017年のドーハは、恐らく1914年のサラ
エボのようになるのだろう。サラエボ事件は、この時オーストリア・ハンガリー帝国の
皇位継承者の視察に訪れていたセルビアで、国内に暗躍していただろう独立国民戦線の
セルビア人青年の一人に暗殺された事が、第一次大戦の引き金になった。とされる。今
、万一衝突が起きるとすれば、サウジアラビアとアラブ首長国連邦(UAE)を中心と
した中東諸国Vsイランという構図だろう。アメリカは、戦争を食い止めるために一刻
も早く手を打つべきだ。と言うのが国際軍事解説者の見方である。だがトランプ政権は
この厚顔無恥で無知なトランプの反オバマ政策を取っている為に またもや失態を演じ
た。これまで国際情勢を知り尽くした米政府関係者は、イランとの敵対関係とサウジを
天秤にかけると、中東に首を突っ込むのは割に合わないと内心思っていた。従って必要
に応じてイエメンの反体制派に攻撃をしたぐらいだった。それはカタールなどの米軍が
駐留している状況からも最も欧米の価値観に近い法治国家であるからだが、それでも、
中東の特にサウジの様な圧政国家には イスラムの裏切り者の国家として見えているの
だ。


438: 名無しさんAA:17/06/24 16:14
 自立主義を貫け  20    中東と中近東の争い。003

 わずか2週間あまり前にトランプは中東訪問を果たした。トランプ政権は既にハネム
ーン期間を過ぎて最初の本格的外交かと思われた。だがリヤドで開催された首脳級の会
合での集合写真を撮った時は、UAEアブダビのムハンマド皇太子はカタールのタミム
王子を押しのけてトランプの右隣に立ったのである。その後のG8のEUモンテネグロ
の代表を押しのけて映ったように。そしてカタールの国家元首タミム首長が「アラブ諸
国にはイランを敵視する根拠がない」と発言した、とするデマが流された。(カタール
政府の言い分を信じるなら、24日に国営カタール通信がハッカー攻撃を受け、偽ニュ
ースが流された。その中での映像だ。)というのだが。だがこれは無知で不用意な発言
をトランプ大統領が行った事に起因している。もともとカタールは小さな国ながら欧米
文化を積極的に取り入れた国で欧米を裏切らない国だった。イランとのつながりという
よりは同じスンニ派の居る国でPLOを支援して来た歴史からムスリム同胞団に対する
政策で、「ムスリム同胞団を支援するカタールこそがテロ支援国家だ。」との非難は間
違っていて米国での和平会議の後ラビン首相はイスラエルで暗殺されたのだ。が、アラ
ブ諸国の王族やメディアは 経済発展し西側諸国と同じに女性に車の免許を持たせ酒も
外国籍には飲ませると言った行為に、反感が吹き荒れていたのだ。サウジがカタールと
断交した翌日には、トランプ米大統領はこう言ってサウジアラビアの決断を支持した。
「この間私が中東に行って、カゲキなイデオロギーに資金援助する奴はお終いだ、と言
ったとき、そこにいた中東の指導者たちはカタールのことを指さしたもんさ!」と。つ
まり不用意にイラン包囲網を中東に吹いて回って 戦争を起こさせようとした行動がこ
こに解るのである。もともと今のサウジは岐路に立っている。これまで産油資源で潤い
にかまけていた経済が この処のシェールオイルの産出で値下がりを続けているのだ。
この低調な価格路線に サウジは輸入量を上げてくれとの日本にやって来たと考えても
よさそうだ。だが外交日程の裏でで商社訪問しても 恐らくどこも飛びつかなかったと
言うのが本音であろう。かつて小渕内閣時代の新幹線構想すら取り上げなかったのだか
ら。

439: 名無しさんAA:17/06/24 16:15

 自立主義を貫け  20    中東と中近東の争い。004

 こうして百人の訪問団が日本から去って トランプが中東に来て演説したのが「イス
ラム社会の宗派間、宗派内対立の火種を再燃させる」演説だったのだ。トランプ側の報
道では、大盛況のうちに終わったという。サウジアラブのみならず、南アジアや中央ア
ジア、東南アジアのイスラーム諸国からも沢山の国からの参加を得て、サウジアラビア
主導のイスラーム諸国サミットは、米国側も、千百億ドルの武器輸出契約をサウジと結
んで、商売繁盛に大成功だったと声明をだした。だが、一方のサウジ側からすれば今や
国民の為のインフラなり発電所やダムと言った文化事業でなく兵器を買わせられたのだ
「今後の財政には戦争しろ、我々が味方になる。」と暗黙に言った事になる。加えて、
結集したイスラーム諸国の首脳を前に、トランプ大統領は「テロに対して一致団結を」
と演説をぶち上げたのだ。こうした平和や和平に水を差すような行為はその後の出来事
が物語る。英マンチェスターでのコンサート会場での自爆事件に続いて、エジプトでは
コプト教徒への襲撃事件が起きた。更にこのイラン包囲網で起こる宗派対立である。こ
こに集まったのはイスラム教徒でなくイスラム教原理主義過激派を擁する国の集まりで
ある。トランプ大統領はこの過激な原理主義国の中で「対テロでの団結」を強調したの
だ。当然対象は穏健派の「イランやヒズボラやハマス」でありその擁護互助集団ムスリ
ム同胞団である事になる。この事は肝心の「イスラム国」を産んだ大本営の原理主義国
の対策を具体的に否定を打ち出しているのである。結局のところ、イランとその味方の
勢力を中東で封じ込めたいイスラム原理主義の国サウジアラビアの言いなりになっただ
けでなく、「これから戦争しなさい。」という扇動の掛け声になっただけであった。案
の定、イランや反サウジの西側文化を広報していた穏健派メディアでは、「イスラム国
」の最大の支援者であるサウジを糾弾していたが、「何が対テロ政策か」との非難が相
次ぎ今では言論封殺や自由主義者の一斉検挙や国交封鎖が相次いで 火に油を注いだ形
になった。慌ててティラーソンやマチス司令官などは火消しをしたが 一度ついた火は
収まる事は難しい。

440: 名無しさんAA:17/06/25 00:02
 自立主義を貫け  20    中東と中近東の争い。005

 こうしてイスラム教内の宗派間対立を 扇動したトランプなのだがこれは一体どうい
う事か。と言えば「死の商人」の暗躍であろう。恐らく既に日本にやって来たアラブの
御一行は既にアメリカと武器売買の商談は密約として成立していたものと思われる。と
言うのも今や日本はそうした中間点に居て スパイもどきのインテリジェンス・ストー
リの要になっているからだ。日本では、そう騒動にならなかったが 中東はイスラム国
問題以上に多々のニュースがある。アルジャジーラ放送や新唐人TVやNY新聞などは
随分と問題になっているものが日本はどうした事か1mmも報道しない事が多々ある。
元々これは「アラブの春」に起因する。そもそもカタールとサウディアラビアの間には
、深刻な外交対立がある。歴史的背景からサウジはサラフィー派、あるいは非政治的な
原理主義的宗教勢力である。対してカタールはイスラエル建国で国を追われたムスリム
を擁護して欧米化を果たしたスンニ派の国だ。、近年の対立の原因のひとつにアラブの
春でエジブトでイスラムのムルスィー政権が出来た。これを全面的に支援するカタール
に対して、イスラエルとも手を組んだサウジ王家は反ムルスィー・クーデタを全面的に
応援したのである。その対立は、今のリビアでも展開されている。シリア同様内戦状態
に陥りシリアのあとの「イスラーム国」の活動拠点となりつつあるリビアでは、イスラ
ム系の宗派対立があり多くの民衆がカタールと良好な関係を持っているシーア派なのに
対して、ハフタル将軍率いる東部勢力はエジプトやアラブ首長国連邦が支援して、権力
抗争を続け繰り広げているのである。日本ではトランプ大統領が弾劾された場合には、
ペンス副大統領が後継大統領になればそれでいい、とトランプ氏を見限る人も少なくな
い。しかし、ここにはロシアの「魔の手」は日本にも伸びている。トランプ大統領の娘
婿、クシュナー大統領上級顧問はニューヨークで秘密会談したとしてとり沙汰されてい
る。更にロシアの「大物スパイセルゲイ・ゴルコフ氏」は、実は会談直後にニューヨー
クから来日し、プーチン大統領の訪日に合流し密談していたことが分かっている。当然
中東問題の議題にそってのシリアの行方だろうと思われるのである。通常の銀行家とし
か思えない彼の履歴はロシア国営「対外経済活動銀行(VEB)総裁」で「大物スパイ
」とみる西側情報筋は多い。



441: 名無しさんAA:17/06/25 00:03
 自立主義を貫け  20    中東と中近東の争い。006

 こうした内情は、世界の歴史のターニングポイントを象徴する事件である。当面目が
離せない。と国際社会は見ているが日本のメディアだけは目をつぶっているのだから、
平和ボケと言われても仕方ない。こうしたトランプ発言で露骨なイラン=シーア派包囲
網成立にし宗派対立を煽るムードが生まれた。サミット最終日にはバーレーンで、同国
最大野党ウィファークの精神的指導者でシーア派宗教指導者のイーサ・カースィムへの
有罪判決が下され、それに反対するシーア派住民によるデモが激化、官憲と衝突した。
つまりサウジアラビアは過激なイスラム原理主義者しか国民にしない。と言う現れであ
る。これは米国が「世界の警官」を止めても黒い「死の商人」は辞めないと言う事にな
る構図であり、日本人にはこれは驚きであろう。それまで宗派対立を回避しようとして
きた努力すら、簡単に放棄された。イラク戦争以前にシーア派、スンニ派が共存してき
たイラクでは、戦後も、要所要所の宗教行事では、宗派間の調整が行われてきた。更に
アラブの春ではエジプトで少数派コプトをイスラムが守ったとして美談すらあったのだ
。今後サウジアラビアとアメリカが「イラン包囲網」で合意したことで、イラン又は、
シーア派に対する対立意識が露呈し、スンニ派共々原理主義集団のイスラム世界での、
宗派対立が激しくなるだろうことは、容易に予想がつくが、それだけではない。今回の
リヤドで開催された首脳級の会議が「イスラム諸国首脳会議」と銘打った中東会議なの
でマレーシアやインドネシア、西はセネガル、北はカザフスタンから南はマダガスカル
までのイスラム諸国が、こぞって首脳級を派遣した中で、すっぽり抜けている国がある
。それがイランを含むシーア派である。「イスラム諸国会議」の体面をとりつつも、シ
ーア派外しになっている。又わざわざシーア派イスラム政党が与党となるイラクは、ク
ルド出身の大統領を派遣して、体裁を整えているのである。案の定「イスラム国の最大
の支援者であるサウジを糾弾せずして、何が対テロ政策か」との非難が相次いだ。つま
り サウジがテロ支援してその武器が米国製で米国の最新鋭の中古兵器の売り場となっ
ていたのが 中東や中近東では今や常識になっていたのである。此処には米国「死の商
人」の思惑が見え見えなのである。

442: 名無しさんAA:17/06/25 00:04
 自立主義を貫け  20    中東と中近東の争い。007

 カタールにしてみれば、同じ湾岸協力会議(GCC)の加盟国でありながら、昔から
不仲だったサウジアラビアやUAEなどの策略や陰謀で、まんまと吊し上げられた格好
だ。サウジアラビアから見れば、同じイスラム教シーア派厳格主義のワッハーブ派を国
教とする君主制国家でありながら、女性が自由に車を運転し、外国人なら飲酒も許され
ると言うカタールは、中東地域の問題児で恥さらし国家だ。という事になる。これには
理由がある。それは20世紀初頭において、日本で御木本幸吉が養殖真珠の開発に成功
した事で、この地の真珠の価格は下落し海外への海産物輸出が無くなった。この時経済
は疲弊する一方だった。だが戦前に既に石油探査で油田は見つかっており戦後はいち早
く英国資本との協調で海外輸出を果たした。第二次中東戦争は56年にエジプトで英米
のアスワン・ハイ・ダムの建設中止が引き金だった。当時のエジプトのナセル大統領は
対抗手段としてスエズ運河の国有化を発表した。これに怒った英仏はイスラエルに支援
しシナイ半島に侵攻した。自らは仲裁の名目で介入した。エジプトはスエズを渡って応
戦しその時カタールは第一次中東戦争と同じにエジプトを支援した。国連の調停により
、英仏両国はエジプトによるスエズ運河国有化を受け入れた。こうしてエジプトは57
年にイギリスとフランスの銀行を国有化し、3月にスエズ運河の運行を再開し封鎖を解
いた。その後67年、ナーセル大統領は国連平和維持軍に対しスエズ運河を含むシナイ
半島からの撤収を求めた。68年に発表されたイギリスのスエズ以東撤退宣言に伴い、
イギリスの保護領トルーシャル・オマーン(現在の首長国連邦)は71年の独立を目指
しアラブ首長国連邦現在の形を結成した。当時は首長国が単独で独立国家となるのは難
しいとして、カタールやバーレーンもその一員として考えられていた。が既にカタール
とバーレーンは石油生産が好調で単独独立が可能な経済であって、他首長国との利権問
題もある事からカタールとバーレーンは近隣国のサウジアラビアやアラブ首長国連邦の
一部になることを断った。こうしてカタールは1971年9月3日に単独で独立した。
同年9月11日にアラブ連盟にも入り、21日に国際連合に加盟した。


443: 名無しさんAA:17/06/25 00:04
 自立主義を貫け  20    中東と中近東の争い。008

 だがこうした事はサウジアラビアにとっては少し苦い事だったろう。身内に内政干渉
する王子がいても不思議でないし 又サウジとのつながりからサウジは国王の名を取っ
ているが周辺国は首長としてる程政治的軍事的宗教的に君主であるのだ。次の年197
2年日本では田中角栄が入閣の頃だが、父であるアフマド首長の外遊中に、ハリーフ
ァが無血クーデターを起こして政権を奪取して6代目の首長の座に座った。こうして、
無血クーデターが成功したのである。この年は事件が多くあり日本でもかなりの事件が
ニュースとして残る。グアム島では元日本陸軍兵士横井庄一発見の報が入り、札幌五輪
が開催された。春を過ぎると連合赤軍によるあさま山荘事件。日本航空351便ハイジ
ャック事件。鹿児島県の桜島が噴火。兵隊あがりの柳家金語楼師匠が死去。秋には日中
国交正常化を記念して上野動物園にジャイアントパンダのランラン、カンカンが来園し
日本中を賑やかした。その間にも-大阪市南区では千日デパート火災(死者118人)が起
こり、田中角栄通産相が「日本列島改造論」発表していた。超音速機コンコルドが東京
国際空港に飛来。米国ではウォーターゲート事件が発覚していた。そうして佐藤栄作首
相が退陣表明すると、イスラエルのテルアビブ空港で日本赤軍乱射事件で24人死亡、
100人負傷と言う報が入った。更に翌年1973年の秋には第四次中東戦争が勃発し
第一次オイルショックが日本で起こった。その後もイラン革命やイラン・イラク戦争な
ど 日本のシーレーン防衛は色々な危機にあった。だが幸いにも日本では兵隊上がりの
死にぞこない。と自ら卑下した人達が強力な愛情を以って企業を育てていたのである。
自らの家屋を抵当に入れても物価上昇に合わせた給与の値上げをおこなったし、出光氏
の様な 国家の意志に反してでも 国民の為のエネルギーである原油の輸入を図ったの
である。アラビア石油の社長も又そこに奮闘していたのだ。韓国でも朴政権が出来て、
北朝鮮と38度線の協定が出来て漁が出来なかった事で 突然勝手に竹島を自国領とし
て宣言し、海賊同様に日本漁船を拿捕し拉致監禁し始めた李承晩が革命で追われて日本
との友好を模索していた。そういう時代に移っていった。


444: 名無しさんAA:17/06/25 00:05
 自立主義を貫け  20    中東と中近東の争い。009

 日本ではサッカー試合で「ドーハ―の悲劇」として有名なカタールだが、同じ湾岸協
力会議(GCC)の加盟国でありながら、昔から不仲だったサウジアラビアやUAEな
どから建国時から悲劇はあった。サウジアラビアから見れば、同じイスラム教シーア派
の国として見られたが実はこのイスラエルにユダヤ教が入ってから徐々にスンニ派は多
く生活するようになっていった。ムスリム同胞団としてエジプトに肩入れするのはそう
した事情もあった。しかし又、1995年に起こったロンドン・シティにおいての最古
のマーチャント・バンクとして創設された投資銀行ベアリングス銀行が破産する事件が
起こった。この銀行は王室御用達銀行でマーチャント準男爵が興したとされ、古くはア
メリカ独立運動時代に早い段階でアメリカの将来性に目をつけてアメリカ進出を行った
という先駆けて投資した銀行で、他に類を見ない信用があったとされる。事の発端は、
日本の阪神大震災である。この銀行のシンガポール支店は震災でデリバティブ取引失敗
し致命的打撃を受けた。当時シンガポール国際金融取引所や大阪証券取引所の日経22
5先物取引などを主に行っていた。が、1995年に開けて直ぐに、阪神・淡路大震災
が起きた。そして日経株価指数が急落し、損失を起こした。直ぐに、損失を秘密口座に
隠蔽すると同時に、先物オプションを買い支えるた為、更なる膨大なポジションを取っ
た、最終的に損失はベアリングス銀行の自己資本750億円を超過する約1380億円
に達して倒産したのである。銀行は破産して233年の歴史に幕を閉じたのだが、だが
カタールは1750年代からの取引銀行で特にお隣りのドバイ首長国連邦と同じに英国
との繋がりが強かったのである。こうして投資先を見誤ったとしてカタールの経済成長
が止まった。1995年に首長であるハマドは、父であるハリーファの外遊中に、無血
クーデターを起こして政権を奪取し7代目首長に座った。ハマドは、政権を奪取してか
らは、天然資源のみに頼った経済体制を危惧して、観光産業の育成などに着手している
。1972年のクーデターの再来だった。

445: 名無しさんAA:17/06/25 00:05
 自立主義を貫け  20    中東と中近東の争い。010

 1972年のクーデターは欧米の西側諸国との繋がりを重視していた中東で1988
年にソビエト連邦と中華人民共和国とそれぞれ外交関係を結んだ。それはOPEC(石
油輸出国機構)の初期からの会員国で、湾岸協力会議の原加盟国である責任から、石油
の値段や輸出入に於いての優位性を保つ為だと思われた。1990年の湾岸戦争では、
反イラクで親米の立場を取っている。今も尚、米軍の主要な中東基地を維持している事
からその方針は変わっていない。そして今度の1995年のクーデターでは 更に一層
の西側文化の取り入れを図ったと考えられる。かつては隣の首長国連邦のドバイに比べ
てハリーファの閉鎖的な政策の下で、宿泊施設すら殆どが無かった国とされていて、「
世界一退屈な都市」とまで言われていた。更に酒が飲めず女性の外出すらとがめられた
。が、米軍の影響下で次第にその民衆の鬱憤は高まっていったのだろう。革命を得て、
いち早く行ったのは 都市計画を行い海外からの労働者を受け入れ女性の運転まで受け
入れた生活文化だった。その影響で、首都ドーハにもさまざまな娯楽施設などが建設さ
れ、賑わいを見せている。また、衛星テレビ局アルジャジーラも、彼のポケットマネー
の1億5000万USドルで設立されたと言う。こうして普通の西側諸国に近い生活文化
が芽生え駐留米軍はこの地を中心に置いた。1996年から湾岸諸国の中で唯一イスラ
エルの通商代表部が置かれ全方位外交の成せる繁栄がもたらせられた。こうした外交を
標榜する中で、安全保障や経済面では 不可欠である対米関係は重視した政策を取って
いる。更に自国の安全保障上重要な隣国にはサウジは勿論イランに対してでも友好関係
を強化しつつ慎重な外交を展開している国たった。中東和平問題に関しても、当然イス
ラエル・パレスチナ間の意思疎通に大きく寄与しており、同問題の平和的解決を積極的
支持を表明している。こうして湾岸諸国の中では唯一イスラエル通商代表部が置かれて
いたが、08年末から09年初頭にかけてのイスラエルによるガザ侵攻を行った事を受
けて、2009年1月に閉鎖させると言う行使もしている。



446: 名無しさんAA:17/06/25 00:06
自立主義を貫け  20    中東と中近東の争い。011

 こうした平和への試みと全方位外交の成せる繁栄に 妬みがあるのはサウジアラビア
である。この海峡にあるガス田開発にも信望するサウジより今後にもめるだろうイラン
との合弁企業で共同出資して行っている。境界線でもめる日本より賢いやり方であろう
。こうした地域・国際問題の仲介努力や、各種国際会議のホストやスポーツ大会の開催
などを かなりの努力で積極的に推進し、カタールという国の存在を国際社会に存在感
を高め、FIFAのワールドカップなども2022年開催国に決定してまでいる国だが
、そうした存在感が出る程アラブとの距離が遠くなって行くのであった。このカタール
で起きた宮殿クーデターを目の当たりにしたサウジアラビアとUAEは、湾岸諸国の中
の独裁王制の国としては安泰を揺るがす危険な前例となっている。ハマドの失脚を画策
し当然その声は聞こえた。当時カタールに駐在していた外交筋によれば、この2国は数
百人の部族民に対してハマドと彼の2人の兄弟、および外相とエネルギー相を暗殺する
よう命じ、かつての父のハリファの復権を狙った。UAEでは、攻撃用ヘリコプターや
戦闘機を待機させるほどの力の入れようだったと言われている。だが作戦の数時間前に
部族の1人が寝返った為米軍などに知られ、暗殺は実行されなかった。こうした因縁を
思えば、今のカタールのタミム首長が両国に対して疑心暗鬼になるのも無理はないし、
その経過からして逆に今でもカタールの国を手中にしたいアラブが存在してるのも事実
であろう。このカタールは人口約2百万人その中でカタール国籍人は一割という小国な
のだが、なぜそれほど重要なのか。カタール在住の外国人にとっても、なかなか実態は
掴みにくいと言う。夜のドーハでライトアップされた高層ビル群は壮観だが、ビルの中
はガラガラ。それでも1人当たり国民所得は世界一高い。天然ガスの埋蔵量が世界3位
で潤っているからだ。輸出先はイギリスから日本まで幅広い。米軍では中東最大の空軍
基地でがある。このアルウデイド空軍基地は、アフガニスタン戦争やイラク戦争の時で
もここが戦闘機の出撃した拠点だ。今のISILの掃討作戦の出撃拠点にもなっている


447: 名無しさんAA:17/06/25 00:07
 自立主義を貫け  20    中東と中近東の争い。012

一方カタールから見れば、サウジアラビアの方こそ、古典的ワッハーブ派を更に悪くし
イスラムの評判を落とす元凶だろう。本来イスラムの教えに女性蔑視や他宗教排除はな
かった。十字軍の遠征やペルシャ帝国の占領などで変化して今になっている。更にこの
UAEは、エジプトのムバラク独裁体制を打倒する力となったイスラム原理主義として
ムスリム同胞団を禁止しているが、シーア派を嫌っただけの言い訳でスンニ派の中の古
典的ワッハーブ派の方が厳格な原理主義集団であるという事を理解していない。カター
ルがムスリム同胞団を支援したという理由で2014年にもサウジアラビアなど3ヵ国
は大使を召還し、外交関係に亀裂が入ったことがある。それが解っていながらのトラン
プの訪問と発言なのだ。全く悪魔バノンの操り人形の成せる技なのであろう。国際的迷
惑な話である。この努力するカタール国を2013年に譲り受け首長の座に座ったのは
弱冠37歳のタミム王子であった。彼は今も前首長である父の影響を受けながらも賢く
国を統治する。恐らくタミムが今一番最優先するのは、イランの機嫌を損ねない程度に
アメリカと上手く渡り合うことだったはずだ。カタールの急速な経済成長を支えている
天然ガスの殆どは、イランとシェアする沖合のガス田に眠っているものだからだ。カタ
ール経済がイランを上回る量の炭化水素資源を生産している手前、イランにもアラブに
もへたに刺激して国を壊したくはないはずだ。そしてそれは駐留米軍と共有する守るべ
き価値の筈だ。アメリカは、このデリケートな中東で一触即発の状況を静めるうえでも
重要な役割の中に居る。米政府関係者は、イランとの敵対関係と天秤にかけると、カタ
ールの状況に首を突っ込むのは割に合わない思っているかも知れない。だが、今になっ
てサウジアラビアとカタールの対立が長引いたり、カタールがイランと手を組まざるを
得ない状況に追い込まれたりすれば、誰の利益にもならない。シリアの平和も又ぶり返
しリビアやエジプトやチュニジアの内乱が今のシリア以上になる危険すらある。更には
パキスタン・アフガン・マレーシア・インドネシアも戦乱になる可能性が高くなるのだ



448: 名無しさんAA:17/06/25 00:50
アッラーはイスラムを許さない。って事か



449: 名無しさんAA:17/06/25 01:13
そうそしてキリストは英国を許さないし
ユダもシオンも又偉大な神は許さない




450: 名無しさんAA:17/06/26 03:42 ID:2lQ
自立主義を貫け  20    中東と中近東の争い。013

 アブドラ国王も生前は女性解放を願っていた。サウジアラビア第6代国王として20
15年1月23日に亡くなるまでは、皇太子時代を含めて20年間政務を担ったとされ
る。生れは1924年と伝えられるが初代国王イブン・サウード(アブドルアジズ)の子
が48人名の余り知られない一人でしかなかった。首都リヤドで生まれて、母は貧しい
ベドウィン系シャウマル部族の出身で低い身分だったとされる。幼少期のアブドラはそ
の遊牧民の伝統的慣習の中でのびのび育てられたと言う。既に王家の有力派閥抗争から
は幼く外れていたらしいが、サウジアラビアの国教であるワッハーブ派としてイスラム
法学ハンバリー派の系統の教えに忠実だった生活をしていた。その為に、1961年に
は聖地メッカの市長に指名されその職をこなした。辣腕は振るわないまでもきぢんとし
た性格で王を喜ばせた。その2年後には国家警備隊司令官に就任し、軍を掌握すること
になった。1995年、異母兄の第5代国王ファハドが病で倒れると、その信任は高く
徐々に実権を握り、2005年にファハドが亡くなると第6代国王に即位した。この頃
中東戦争やイランイラク戦争など周辺国はかなりの動乱時期だったが、政治姿勢は穏健
かつ開明で、聡明にもイスラム法のシャリアとの調整をうまく図りながら、国際社会の
要望に応えている。又海外から批判されてきた人権問題の改善や女性の地位向上にも取
り組みはしたがイスラムの壁は厚かったとも言える。司法制度改革を進めると共に男女
格差に取り組み男女共学の「アブドラ国王科学技術大学」を設立した。11年には女性
への参政権付与も発表された。しかし残念ながら、公言していた女性の自動車免許解禁
は果たせず、公開むち打ち刑なども継続されてままで推移している。ファハド王制の頃
国王が病巣の身とした時サウジアラビアでも国内のイスラム過激派が多くいたと言う。
2000年以降そうした過激派掃討を進めていた時期、2003年には米軍をプリンス
・スルタン空軍基地から追い出したことがある。それは米英軍による新たなイラク侵攻
作戦が開始された年だ。そして年末にはイラクのフセイン大統領が拘束された。

451: 名無しさんAA:17/06/26 03:43
自立主義を貫け  20    中東と中近東の争い。014

 恐らく新国王サルマン国王も先代のアブドラ国王の平和裏の中の改革意志を尊重して
いるのだろう。ハンマド・ビン・サルマン副皇太子兼国防相が実質的にサウディの若き
指導者であることは、誰しもわかっていた事だった。だが、従弟たるムハンマド・ビン
・ナーイフをわざわざ皇太子の地位から外してまで、今さらに次期国王の名乗りを挙げ
る必要性は、一体何だったのだろう。世界を駆け巡ったサウディアラビアの皇太子交代
のニュースは、私などは衝撃をもって興味深く聞いた。ともすれば原油産出で裕福な国
が為に世襲制独裁国家と言う事を忘れがちだが、このイスラム教の原油産出国は紛れも
無く思想の近代化に遅れを取った独裁国家で貧困に喘ぐ北朝鮮やアフリカ原住民と同じ
後進国なのである。だが米英のメジャーなどの提言に沿った国家戦略で武器輸出と原油
輸入の取引で潤っている国であって、ともすれば経済や食料など西側と離れたロシアの
様な自立世界の様に思われがちだが、実はニクソンショックでもその基軸通貨ドル経済
を支えていたのはこの原油決済がドル建て支払いだからである。当時キッシンジャーは
3年を費やしてその条件を詰めてブレトンウッズ体制から金本位体制に代わった世界を
更にのドル紙幣お基軸通貨制に変えたのである。これが世界初の代替金貨のない信用通
貨制だったのだ。これが基本で今の電子マネーが出来たとさえ言われる。こうして石油
が資本の原資になりエネルギーとしても経済の原資となった。そして米国紙幣は安泰を
サウジを始めとする産油国各国に委ねた。迷惑だったのはソ連である。これまでも南下
政策は常に頓挫していた。大航海時代はドイツと共にオランダ商会での株式会社をして
貿易に先んじたパトロンであったが伊国や英国に出し抜かれた。産業革命以降も又資源
を持ちオートメイションの分業化を開発しいざ製鉄が盛んになるかの時大戦を得て隔離
された存在となった。宇宙技術に於いても最初に衛星に挑みながら幕開けを米国に出し
抜かれた。電子化技術に於いても真空管の精度が高まり電磁波の利用で楽器までこさえ
ていた頃に日本では凡庸集積回路が普及していたのだ。かつて日本に超音速戦闘機での
亡命が図られたが その真空管回路の正確さに感じ入った人は多い。このロシアの南下
作戦はそうした自国油田が資源枯渇危機から始まった。幸いにもバクー油田の再開発で
深層油堀技術を米国から取り入れ中東侵攻が無くなったがその危険は今だにある。

452: 名無しさんAA:17/06/26 03:43
 自立主義を貫け  20    中東と中近東の争い。015

 実はその兆候のあったのが 東欧のヘルツェゴビナの紛争とアラブの春である。現在
のボスニア、ヘルツェゴビナには当初インドヨーロッパ語族のイリュリア人が住んでい
たとされ、紀元前にローマ帝国の支配下に入った、という。首都をサラエヴォに決めて
隣にクロアチア、セルビア、モンテネグロがある。かつてのユーゴスラビアである。知
っての通り今問題のウクライナよりも西側欧州に近く戦時中にドイツに蹂躙され戦後は
ソ連に強襲された場所だ。古くからユダヤとキリストの変遷過程のある土地にカトリッ
クとプロテスタントの争いがあった。更にはロシア正教やイスラム教の多くの分派が住
み着いたし常に帝国の出来た時の最初の遠征地となったのである。こうした中で戦後は
カリスマチトーのバランス政治で平和が保たれていたと言われる。「七つの国境、六つ
の共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」と表現さ
れたこの国は古代他民族社会を作っていた。だが民主主義に移行するにミロシビッチの
民族主義が台頭し愛国主義が高まりを得て紛争に至った。此処には解放を熱望する民衆
の西側への夢とソ連邦維持の為のロシアの意地が見え隠れしていた。この紛争に米国は
欧州主義の我儘をそのまま見ていた。余りにも多民族だったからである。こうして次第
にボシュニャク人、クロアチア人、セルビア人の停戦合意が出来て来ると連邦制で落ち
着く形になった。こうしてバルカンの火薬庫は火消しされた。そこにはロシアが まだ
経済力が無かった事が幸いしたとも言われる。その弱さの中でアフガン侵攻作戦を米国
は取った。つまりソ連地域の空港を利用したのだ。この見返りがバクー油田の再開発で
あった。レックス・ティラーソンは1975年に石油メジャーの旧 エクソン に技術者
として入社した。イエメンやロシアへの赴任を経験したのち、此の後に 上席副社長に
就任している。そうして2006年に最高経営責任者(CEO)に就任したのである。
米経済誌「フォーブス」によると、推定資産額は約2億4千万ドル日本円にして280
億円にものぼる保有するエクソンモービルの株式を持っている。つまり実際にはさらに
多くの資産を保有していることが想定される実業家なのである。エクソンモービルも又
他の原油会社と同じく湾岸戦争開戦時には原油の先物買いでは大損している

453: 名無しさんAA:17/06/26 03:44
 自立主義を貫け  20    中東と中近東の争い。016

 この後のアラブの春は皆さんが見ている通りである。アフリカで襲った民主化運動の
火は今のシリア内戦まで至っている。ここでのロシアの行動は奇妙で大胆である。最初
からシリアの軍事顧問団はいた。にもかからわれずシリア内戦に政府軍が負け続けて、
ロシアに正式に援軍を頼んでからしか海軍や空軍を派遣していない。対して米軍は何回
も反政府軍内での軍隊編成に失敗している。更にイラク軍内の指揮もただならぬものを
持ったまま制圧にかかっている。従って頼りの綱はクルドの独立戦線部隊にしかない。
当然クルドの安泰はイランの意向にかかっている。このイランを支援するカタールには
サウジが非難する道理は表向きは全くないのだ。米軍露軍共に戦う相手はテロ国家IS
の筈だからだ。だが裏ではサウジアラビア、UAE、イスラエル、トルコとそれぞれに
このシリアの反乱分子を支援している。その支援集会にトランプはイラン包囲網を説い
たのである。頑張れとばかりに。「死の商人」の行き着いた構図に乗って殺人兵器を売
り捌いて大声で喜んでいるのだ。これをサウジのサルマン国王は黙って苦々しく思って
いるに違いない。だが若く苦い経験のないサルマン王子にはそれが解ってはいないだろ
う。又解っていたとしても他の首長の前で国王すら話さない対話は米国相手に出来ない
のが道理であろう。特にトランプの裏にスティーブバノンがいるようにサルマン皇太子
にはムハンマド・アブダビ皇太子がいると言う。従弟たるムハンマド・ビン・ナーイフ
は皇太子から退いて政治の一線から退いたのは長年のサルマン国王の盟友としてであろ
う。彼は国内に戻って来たアルカイダ義勇兵に何回も襲われている。又先のアブドラの
時代に内務省担当したりしてサルマンと車の両輪の様に国に尽くして来た。それだけに
それだけに対テロに対する思いは強く国民の支持は遠かったらしい。又老齢になっては
その時の古傷も又ぶり返したのかも知れない。アブダビ皇太子はエジプトスィースィー
大統領を訪問しリビア、イラク、シリア情勢の進捗状況が取り上げられ、「過激派テロ
組織がさらなる領地を獲得、拡大することを阻止する必要があるという点で一致した。
」と発表し同様に、シャルムッシャイフで今月末に開催予定のアラブ・サミットの議題
として提出されたテロに立ち向かうためのアラブ合同軍の問題についても検討された。


454: 名無しさんAA:17/06/26 10:14
 自立主義を貫け  20    中東と中近東の争い。017

 エスタブリッシュメントとは日本語ではオピニオンリーダーと訳される。だが現実は
既成の成功者であり支配者層をさす。つまり社会秩序の維持者で、国家,政府機関,支
配階級,特権階級などだ。所謂貴族階級だ。ポリティカルコレクトネスも公明正大で公
平中立を指す言葉だが和訳であって正確には政治的妥当性を差し、差別用語やヘイトス
ピーチを避ける考え方や主義の事で、「メリークリスマス」も言ってはいけないとする
主張である。「ハッピーホリデーズ」と言い換え「黒人」を「アフリカンアメリカン」
と言うそうだが こうした言葉にまで文句を言う富裕層に対して堅苦しさを感じている
ラストベルトのデスペレートな中高年白人労働者「寂れた工業地帯の自暴自棄の低所得
労働者層」にしかトランプは受けない。と共和党のエスタブリッシュメント側(ディー
プステート側)の人間は見ていた。だがポール・ライアン下院議長やジョン・マケイン
上院議員など共和党主流派を攻撃する「オルタナティブ右翼」とされる「新反動主義」
の思考をスティーブバノンが持ち込み成功を果たした。それはそのまま大統領本選の対
民主党ヒラリー陣営との選挙戦まで及んだ。こうして予想を覆すトランプ旋風だったが
この「オルタナティブ右翼」は白人ナショナリズム、白人至上主義、反ユダヤ主義、反
フェミニズム、右翼ポピュリズム、排外主義、新反動主義運動。の複合的思考であり、
日本語的には「過激な代替え案者」でありかつての「主義・主張」でなく、あくまでも
単なる「破壊思考」なのである。この「オルタナ思考者」スティーバノンが一時的には
国家戦略室から抜けていたがいつの間にかトランプに又寄り添っている。更にこれまで
トランプが大統領に就任してから、民主党と共和党のディープステート側の本流主流の
議員達はこぞってトランプを弾劾する機会を待ちに待ち続けていた。が、いざこうして
ロシア・ゲート問題が生じると、主流派の軍産複合体とべったりのマッケイン議員など
はトランプの弾劾に反対している。ということはトランプは弾劾されずに済みますが、
マッケイン議員と軍産複合体の仲間に取り入られ、彼等の言いなりに戦争へ向かう行為
に同意した、ともとれる。グローバル資本主義の終焉とか、ポリティカルコレクトネス
の矛盾とか、都市と地方との対立とか、移民問題とか諸々の断面が見え隠れしていた、
政治の本質が浮かび上がり、新しい21世紀の本番が始まるかと思われたが、まだまだ
スキャンダラスな20世紀の世界の枠組みが続きそうだ。


455: 名無しさんAA:17/06/26 10:15
 自立主義を貫け  20    中東と中近東の争い。018

 それを遠くでじっと見て高笑いしている国家がある。中国だ。中国は既に国際矛盾の
貿易黒字を拡大させている。にも関わらず国内GDPは上がらない。人口超過の上に、
格差社会は消費社会では無く、無駄の多い独裁社会のままだからだ。この中国は、中東
や米国はともかく熱心に見ている。トランプは「イスラム過激派のテロを打倒し、米国
内に根を張らないようにする。」と発言し「イスラム圏7か国からの入国を禁止する」
大統領令にサインした。その7ヵ国は、イラン、イラク、リビア、ソマリア、スーダン
、シリア、イエメン、という治安の悪いイスラムの内戦のある国々ではある。しかし、
過激派を最も輩出しているサウジアラビアは対象となっていない。サウジとアメリカと
のビジネス上の関係があるからだ。このなかにトランプはどう関わりを持つのかは不明
だが少なくとも指定された国にトランプタワーはない。トランプ大統領は、就任前台湾
の蔡英文総統と電話会談を行い、中国の不興を買った。それだけでなく、更に「日本は
在日米軍の駐留経費を全額負担すべきだ」「日本や韓国から米軍を撤退させるべきだ。
」など、アメリカ第一で世界平和に対する軍事的貢献を拒否するかの発言を繰り返して
いた。この動きを、中国は高笑いしながら見続けていた。違法移民問題は大きく国民を
扇動し注目する上では大きな効果を発揮している。そして実際には、グリーンカードの
保有者などの合法的な永住権取得者については大統領令の対象外にしたり、行き過ぎと
見た大統領令の効力は、裁判所が一時差し止めたように現実的な線で落ち着きを図って
いる。こうした一連の動きにビジョンが見えずに各国の首脳の批判やTVや報道は注目
の上軒並み視聴率を上げた。これこそは「バノンワールド」の真骨頂で、無知な米国の
大統領を操り人形にした「既成破壊主義者」の顔であろう。対して先の中東のアラブ合
同軍の創設とシリアへの投入はアブダビ皇太子の考えとは思えない。更にはエジプトの
スィースィー大統領へまで訪問し説いた事は意外だ。そしてこれにカタール合同軍構想
には入っていなかった。この時から既にアラブの中での仲間外しは用意されていて、そ
の意味でカタールの国家元首タミム首長の「アラブ諸国にはイランを敵視する根拠がな
い」との発言を、待っていた感がある。一方のイランは、食料を輸入に頼るカタールに
対して、自国の3つの港の利用を許可すると発表したもようだ。サウジアラビアとUA
Eからみれば、やはりカタールは裏でイランと繋がっていた。という確信を強めるだろ
う。このビジョンのない「バノンワールド」の破壊主義者の見せる世界は人類に破滅さ
えもたらす危惧がある。現実世界は、映画やTVの様に「只々面白い。」で人々が済む
訳ではない。

456: 名無しさんAA:17/06/26 23:07
 自立主義を貫け  21    「バノンワールド」01

 少なくとも「ブライトニュース」は「ダーティ」な「フェイク・ニュースソース」で
あろう。日本では今将棋界が沸いている。一つはAI知能がやっと日本将棋界のエース
より勝つようになったからだ。最強のコンピュータ将棋ソフトを決める「第3回将棋電
王トーナメント戦」が先年11月に開かれたが 最後にプロ棋士と2番勝負を行うもの
がこの所人間プロ棋士と勝敗が互角だったのだ。完全に越したのだ。「第1期電王戦」
から出場して注目の的だったのは、電子プログラム「ポナンザ(Ponanza)」 が優勝し
た事だった。実はこの二つの事象は繋がっていないようで 実に深い「人間心理」の面
で一体化している。恐らくこの「バノンワールド」は「ブライトニュース」の延長上に
在ると言っても過言ではないであろう。「俺は国粋主義者でそれも経済国粋主義者だ。
グローバリストらのせいで、米国の労働階級が骨抜きにされ、代わりにアジア中流階級
を生み出した」「トランプは、6割の白人、4割の黒人とヒスパニック層から支持を得
た。我々は今後50年にわたって統治する。さあ、トランプムーブメントを始めよう。
共和党のエスタブリッシュメントも撃ち倒す、根こそぎぶち壊す。」「1兆ドルのイン
フラ事業を推進するのは、俺だ。」これが、米大統領選でトランプ陣営の選挙参謀を務
めた頃からの、変わらないトランプ新政権の主席戦略官・上級顧問となることが決定し
たスティーブン・バノンの演説だった。この放送禁止用語もふんだんに使った荒々しい
表現で、人々を沸かせて、ある種の毒をまき散らすこともいとわなず敗徒主義者に鼓舞
し平和主義者を困らせる厄介な扇動主義の言葉だった。トランプ政権が発足して以降、
連日連夜こうして民衆を躍らせる言葉や政策を吐く様は、文化大革命の毛沢東や開戦前
のヒットラー時代の宣伝工作に近い。恐らく21世紀になった2000年にはこの世界
の兆候はあったのだろう。過去の自然現象の中で淘汰の上に進化した人間の遺伝子思考
と凡そ特殊な例を持たない、人間の経験値を遥かに凌駕する過去事例数からの確率から
判断する電脳機械とでは そもそもの単純統一化モデルでしか成り立たない電脳計算に
勝つはずはない。人間の持つ直観や正しさの基準を持たない 計算展開なのだ。


457: 名無しさんAA:17/06/26 23:07
自立主義を貫け  21    「バノンワールド」02

 恐らくこうした動きは既に21世紀の始まりである2000年から兆候はあったのだ
ろう。かつて日本がカラーテレビに代わる頃「3S」と言う言葉が流行った。「3S」
というのは、「スリル、スピード、サスペンス」の略称であった。この時映像の分野で
言われた事は「リアルでなくていい、リアル感があればいいのだ。」と言われていた。
1960年代の話である。日本人の中にはエスカレーターに乗れない人は随分いたし、
その為にエレベーターガールも路線バスには車掌もいた時代だ。リアルでは刺激的すぎ
てリアル感が無ければ遠い国の夢物語過ぎると言う事だったのだろう。だが近年その幅
はなくほぼ現実と倒覚し錯覚する映像やストーリーがTVに走る。それは現実も幻想に
近づき又アニメやゲームや映画も又リアリティに近づいた為だ。「錯覚の時代」である
。911の映像はその始まりであろう。映画をニュースとして報道し人々の9割は今も
信じている。だが本当にビルは倒れ実際に死んだ人間は100%生き返らない。そして
それは今のシリア難民も同じである。貿易センタービルはまるで爆破解体の様にぴった
り他のビルに当たらない様に直下に崩壊した。かつてエンパイヤステートビルに飛行機
がぶつかったのだが その時このビルの設計者はインタビューに答えている。「このビ
ルは、例え複数の旅客機が突入しても耐えられると思います。と云うのも、このビルの
構造は、非常に強度の高い網戸の様な物なのです。もし旅客機が突っ込んでも、それは
網戸に鉛筆を突っ込むのと同じで、網戸全体には大きな影響を与えないの筈です。」と
その構造は、ビルの中央に芯となる47本の柱が並び、更に一番外側を、240本の柱と
、鋼鉄の格子で支えるという物。まるでチューブを建てた様なこの構造は、柔軟性に富
んでおり、ニューヨークの強風にも耐えうる物だったのである。テロの8ヶ月前のイン
タビューである。こうして「タワー崩壊で巨額の金が動いた。」と言われた。テロの僅
か6週間前、ツインタワーの賃金権が、長年管理してきた港湾公社から、不動産業王の
ラリー・シルバースタイン氏へと移譲されていた。その際、彼は、タワーに35億ドル
という巨額のテロ保険をかけていた為、事件の後にはブッシュ関係の保険会社から、総
額80億5千万ドルもの大金を手にしたと云えられる。当時現場に居た人の多くは爆発
音を聞いていた。「銃を撃つ様なバン!バン!バン!バン!という音がした。その後、3回
目の大爆発があった。」奇妙な事に、TVの彼等はまだ壊れていないビルを壊れたと報
道した。白い煙が上がる中、ワールド・トレード・センター・ビルは、3千人近い人の
命と共に、地上から消えた。

458: 名無しさんAA:17/06/26 23:08
自立主義を貫け  21    「バノンワールド」03

 私が勝手につけた「バノンワールド」は先に述べた「新反動主義者」の世界であり、
一時的にでも国家戦略室に入ったスティーバノンが代表するような者が創り出すだろう
予想世界で、日本語的な「過激な代替え案者」であり、今までのの「主義・主張」でも
なく、あくまでも単なる「オルタナ思考者」の「破壊思考」なのである。この最無節操
な「過激な代替え案者」はその秩序的収束や結果の幇助を見ない 最も危険な無責任論
の中にある。日本のTVゲーム世代の考え方にそっくりであり コンピューター思考の
典型的例である。日本のゲームでは碇石と呼ばれる人としての戦いの立ち向かい方が存
在する。だが彼らに既成概念は通用しない。彼らの斉唱した社会は世界の「既成主義者
集団」の特に支配層に強化を求める行為だった。現にシリアにイスラエルが参戦した。
裏でPLOやハマスに敵対するヒズボラを支援していたからだ。いよいよ、シリア内の
ISに力が無くなったとみて表に出て来た形だろう。加えてトルコのエルドアン大統領
はカタール虐めに声明をだした。「カタールとの関係修復の条件としてアラブ4カ国が
持ち出した一連の要求は同国の主権に対する違法な介入だ。」と述べ、カタール国内の
トルコ軍基地閉鎖要求を一蹴している。サウジアラビア、アラブ首長国連邦(UAE)
、エジプトおよびバーレーンがカタールとの断交を解く為に13項目の要求したが、正
しく筋違いな要求であった。@衛星テレビ局アルジャジーラの閉鎖Aイランとの関係縮
小Bトルコ軍基地の閉鎖C賠償金の支払いなどだからだ。カタールは勿論これらの要求
を不当としている。だがこれらはカタールにとっては日本にとっての勝手な中国のガス
田開発や尖閣諸島の主張より厳しい事だ。何故ならカタールは新自由主義の近づきによ
って独裁主義から出て、やっと他国との協調路線での貿易利益国をめざして自立経済の
道にたどり着いた矢先だったからだ。この国は自国食糧さえも輸入に頼りサウジとの橋
によってやっと他の国に肩を並べられるようになったのだ。ただ問題なのはここにも、
「過激な代替え案者」の主張になって列強の3国は強硬姿勢で挑んでいる事だ。



459: 名無しさんAA:17/06/26 23:08
自立主義を貫け  21    「バノンワールド」04

 多分こうした事象はAIの結果を求めない。結果を予想しない。あらゆるインプット
事例からの最大の統計結果と同じで、正義も悪もない更に混沌とした未来予想もない、
ただただ過去の延長上の最適自己防衛の話なのであろう。人間に取って参考になっても
新しい物にはならない。ただ株式投資での秒速運用と同じで 確定した計算による利益
を最大最少秒での取引で限定して行う事の積み重ねを行っているのだ。ただこれは人間
には出来ない話だ。かつての事後入力に則した判断は動物でも人間でも多くの事の原型
ではある。だが機械はその入力に体の規制がない。更に死の恐怖も無い義憤で怒る事も
ない。日本語で言う「正義」は正しさと人の持つ義憤がそこにある。人としての誇りを
言葉の中にある。従って1+1=2は正しくはあっても正義とはならないし言わない。
此処に結果を重んじない機械の始末の悪さがある。あくまでも生きる事は人間の一つの
姿であって生きる事が目的とはなり得ない。しかし機械的判断や動物的本能はその性質
の上に判断しようとする。理性と野蛮な本能との戦いだ。この戦いが今や粗雑に扱われ
て闘いの神聖さがすっぽり抜けた世界を過給経済が醸し出ている。だが本質的に地球上
はなんら不足も無くなんら過剰もない。その状態を変えているのは無能で低能ではなく
意味をしろうとしないトランプ外交の様な 値しない権力なのである。日本でも多くの
指導者がこのポピュリズムの持つ本能の群れに立ち向かい失敗している。遠く織田信長
は「天下布武」をモットーに戦乱を納めようとした。だがキリスト布教の許可によって
小さな島国僧侶は危機感から僧兵を雇い入れた。石山本願寺の変はそうした事で起こっ
た。安国成就を願う浄土真宗本願寺勢力(一向宗)と世界進出の夢さえある織田信長と
の戦いだったのだ。本願寺法主の顕如が石山本願寺に篭って戦った。更に近辺に火がつ
き百姓一揆が頻繁に起こった。そうして本願寺対信長は近畿にとっては全武将対全百姓
のスト的構造に陥った。これは民衆が信長を指導者として拒否したのだ。信長は朝廷に
その仲裁を求めやっと和睦が開け信長のものになった。これは独裁者の正しさと人間の
正義の戦いそのものである。第二次世界大戦もヒットラーとチャーチルにそう違いはな
い。時代の中の気風もあろうが知識も違わない中で行動基準も変わらない。だが一つだ
け違っていたのはチャーチルに英国紳士の気概と礼儀が残っていていて少しの愛があっ
た事だろう。酒飲みの豚と繁みの狼の違いである。

460: 名無しさんAA:17/06/27 02:40
 自立主義を貫け  21    「バノンワールド」05

 我々の世界のAIが人間を超えた存在になった事は確かだ。そして既に幾つもの社会
現象を形作っている。そしてそれは非常に高価で効果的な結果をもたらして来ている。
だが彼らは過去の事象とある一定のプログラムでの記憶を繰り返して認識からの抽出を
して解析しているに過ぎない。つまり寿司ロボットが最高に早く上手く寿司を提供した
としてもこのロボット開発した修練した職人を細かく探求し、真似た単一動作を行って
提供しているだけであり ロボットが食べて味や食感や風味を高めている訳ではない。
 今日本は最高時間最高経済生活を享受している。これは遠く先人の苦労によるものだ
。しかしそれを安倍首相始め多くの日本人が理解しているとは言いづらい。今回破綻に
見舞われるタカタのエアバック事件や東芝事件やシャープ倒産に見る限り結果を予想し
ない更にその後の建設を見通せないこの「バノンワルード」の笑い声の中に居る気がし
てならない。このタカタのエアバックにして言えばこの経営責任者の怠慢でどうしよう
もない親子企業だった事による分析の無さである。「このエアバックは交通事故の死者
を出さない為に開発されたもので負傷者を出さない事を目的としていない。」と裁判に
出て強い意志表示をしたのであれば事態の推移は変わっていたはずだ。だがそれをしな
かったし母親はそうした指導をしなかった。これは米国と日本の商習慣や文化や生活習
慣の違いであろう。この差を報道各社は「米国市場の覚悟」と言う表現を使っている。
だがそれは全く言い表せてはいない。又今回の破産に日本政府は何ら手を打とうと言う
安全保障上の国家戦略は皆無の様だ。安倍首相のつまらなさや無駄さはここにある。元
来国会議員は各選挙区の代表ではあっても国内問題で論議すべきではない。海外情勢に
精通した議論があって然るべきなのだ。それは各都道府県自治体も自県の背伸びと国家
予算の分捕り合戦に終始した政策が目白押しだが 現実的には自領地の向上よりは日本
の中の立ち位置の確定こそが大事であって 沖縄の排除の要求なんて論外の話なのだ。
此処に「バノンワールド」の世界が浸透している。つまり駐留米軍を排除した世界が、
全く予想できない程自衛力が無い世界が 理想郷としている自己矛盾の世界である


461: 名無しさんAA:17/06/27 02:40
 自立主義を貫け  21    「バノンワールド」06

 遠く第一次世界大戦前に起こった産業革命から今日まで 恐らくこの人工知能の電脳
社会を模索し続けてたのだろう。この機械と人間、知能と電脳の違いは完成形を知るか
どうかの違いだろう。人間は疲れも死も病気も知っている。従ってある形の完成形を美
として称賛し壊さない。だが機械には永遠に完成形はない。プログラム上に終了や投了
があるだけで人間の幼児が欲しがるように探求は飽くことがない。従って休まない能力
はその速さだけでなく息つかない持続力でも人間を凌駕する。交通事故がその主な例で
あろう。人同士でのぶつかりなら必ず立ち止まる。足だけが走ったままという事はまず
あり得ない。が車や列車なら止まりも難いがアクセルを離して居なければ車輪は回り続
ける。例え車が横転していても車輪は回る。当然であるそう作っているのである。先の
AI知能も同じだ。そう作ったのだ。自然は人間を産み育み人間にいとしさを作った様
には人間は機械を作っていない。自然の仕組みの一過程として人間を作った様には人間
は機械に欲望を取り入れてはいない。殆ど機械は人間の持つ道具の例えば、金槌や鋸切
或いは箒や包丁の様に便利と言う名に於いて出現した代物なのだ。もし人間の持つ生へ
の欲求の様な欲望を持たせた機械が出現したら、恐らく人間はエネルギーの消費の名の
下で駆逐され地球上に居なくなるだろう。更に生物はその自然の苛酷さから自然淘汰を
繰り返し進化と消滅の中にいるのだが、機械自体は進化も消滅もない。文化の中の登場
と退場を繰り返すだけで歯車にしか過ぎない分業化の最先端でしかないからだ。今や、
人型ロボットとして感覚を備え人と同じ顔や話をさせて人口知能をいれた実験を繰り返
されているが、人が最終的にロボット空間の生殖部分としての機能に社会的な生き残り
があるとすれば それは又大きな人の退化進展の流れであり問題だ。が今現れている様
な現象を見る限り 政治も経済も又生活も社会もそうしたAI知能の「暗黙知の共有」
に流されてしまっている様にも見える。それはTVゲームの持つ魅力だったり情報機器
のスマートホォンの流れであったりだが 電子計算機所謂電卓の出現で子供の環境が全
く異質で異様な世界に代わった事と同じのようだ。いつの間にか次第に人が無力にされ
ている様に見えるのは私ばかりではないようだ。


462: 名無しさんAA:17/06/27 02:41
 自立主義を貫け  21    「バノンワールド」07

 事実人は今や電話番号さえ覚えない世界に変わった。電卓は一般の人が高度な数学の
理論を知らないでも巨額の金額を扱えるようになった。バーコード処理や高度な通信は
クラウドシステムを作り上げた。更にカメラの成長やデジタル化や追尾システムは監視
社会の大きな要素大きなアイテム化した。恐らく今後のこの「バノンワールド」は強く
人を不安にし社会を不安定化させるであろう。そして白雉化させた一般人を都合よく導
く術をしるだろう。だがその導く先が全く見えないし見せない。それは未来の姿やその
行きつく先自体の想定はないからだ。夢は語るが夢の全体像や夢の世界の形が無いのだ
。事実日本では歴史上既に仕事をしない生活 自然を痛めない完成された社会を何回も
形作っていた。AIが止まらない進化の世界とすれば日本の歴史は常に完成を求めた閉
鎖された独立世界であった。縄文時代は最近の研究ではかなりの大所帯の部落がいて、
それまで稲作文化が入らないままに繁栄した中にいたのだ。弥生時代は農耕で飽食文化
が栄えたかと思いきや首長の出現で苛酷な労働と戦いで病死餓死の世界が現れる。壺の
内容物でも食糧は前時代の方が良い暮らしが見える。奈良時代は飛鳥を越えてやっと田
舎にまで仏教文化や言葉の統一化が図られ瓦のある木造建築が起こったが、それなりの
賑わいが都の中に出来て物流が盛んになったようだ。が人口が増えて京に移した途端に
勢力争いが始まり鴨川に乞食や病人が出現する。それは唐との交易が始まり舶来品が高
値で売買されるからだ。貧富の差が文武の中に出現し位が決まりだして序列の元に生活
基盤が強いられたのだ。こうした変化は日本の場合は常に天変地異に基づくもので決め
られた。地震・台風・旱魃・洪水と、外敵で殆どの歴史の変遷がある。だがそれでも常
に日本は完成形に落ち着こうと努力している。江戸時代も贅沢禁止令の下で文化発展を
した。明治の殖産復興も江戸幕府との戦いの痕は涙ぐましい努力を行って近代化してい
る。大正期の満州国樹立も何故に清国朝廷の愛新覚羅溥儀にこだわったのか不思議であ
る。これも日本の完成を求める人間的な閉合主義の現れであると言えよう。開発主義や
解放主義の欧米には見えない日本文化の原点である。



463: 名無しさんAA:17/06/27 09:55 ID:YYM
 自立主義を貫け  21    「バノンワールド」08

 「デモクラシークライシス」は今に始まった事ではない。かねてからの昔からの闘い
は表に裏にあった。だが今日での異様さは「破壊者が破壊を非難する」と言う自己矛盾
のしきたりだ。その意味ではトランプ旋風は昔の様なスッキリした社会に戻そうとした
動きにも取れる。だが、「自由」の為の「民主主義規範」は今や旗色は悪い。仏国では
「過去の先人の決めた英断の変更はない。」と農薬使用に古参の農業省大臣に若輩若手
の環境省と経済省の大臣が、更に例外は今後の経過に於いても決して行わない。との文
言を法令に付け加え強化した。日本でこうした動きは皆無である。直ぐに例外規定を設
けた抜け穴造りに勤しんだり、岩盤規制などと言って内閣作ったりで全く基本が無い。
そもそも「日本国憲法」が嫌いで改憲しようというのであれば政治家などとになっては
いけない。その意味では今までの田中角栄以降の中曽根からは全く総理大臣の体を成し
ていない。傍に毅然とした後藤田大臣の様な信頼ある人物がいなく 同じ仲良し政治家
のお友達内閣しかいないと言うのは呆れてしまう。民主党政権の失敗はそこにある。そ
の意味では菅内閣は他党でも外部でも信頼ある人物能力ある人物を頼った事は正解だろ
う。世界的には「好景気・好需要・好業績」にある。これに過敗けてイギリスはEUの
離脱に動いた。全くの馬鹿である。今後資本シフトが起これば人間は居なくなる。人が
居なくなれば当然仕事は無くなる。仕事が無くなれば犯罪が多発する。犯罪が多ければ
ISや移民はこぞって寄って来る。勿論国内需要は好景気であろう。安い労働力に変化
するから。だがその影響は5年後にやって来る。これが国としての動きだ。日本の中で
もデフレスパイラルが今だに抜けだせては居ないのはそうした理由である。中国科学院
は日本が三低時代に入った。と解説するが実は世界全体が今、バブルは起きない堅調な
そうい三低う時代になったのである。三低”は「低成長」「低インフレ」「雇用低迷」
を指しており、「日本は低下し、労働者賃金上昇は予想を下回る。これは消費や投資を
促す条件が不足する。」と言った。だが現実は違う。資源が不足しても、それを超えた
グローバル化した社会が出現し省資本技術は今や世界を駆け巡っているのである。賃金
の低下は逆に輸出による需要を大きくする。その意味では中国こそ高賃金に悩む国にな
る。


464: 名無しさんAA:17/06/27 10:35
 自立主義を貫け  21    「バノンワールド」09

 「バノンワールド」で起こる既存破壊の現象は極めて危険であり不合理に富むものだ
対して同じ様に日本の「かいぜん」は遅々として少しずつの改良を加えて出来上がる。
その違いこそが「デモクラシークライシス」の中身である。日米英伊加独仏のG7加盟
の7ヶ国に、インド、インドネシア、ブラジルを加えた世界10ヶ国のシンクタンクの
代表者を招いて行った「東京会議」は面白い声明を発表した。一つは貴重な人類の財産
である地球資源の有効活用に世界各国の相互依存を高めて平和を築こうと言う試みだ。
二つ目はその為には自由と民主主義という規範が持つ今日的な重要性を説かねばならな
い。と言う世界規模の啓蒙だ。そこには自由と民主主義の価値を共有しなければ世界の
秩序の封鎖や独裁政治で封殺されると言う危機感がある。そして三っつ目はこうした中
の規範を尊重し守る認識の上での行動の実効性である、主要国家が持つ国際的協調と国
内利益のバランスと現実的即効性の模索である。宣言文は「バノンワールド」に対抗す
べく貼られた様な文言がちりばめられている。「自由と民主主義と法治国家の確立支配
」「人類が実現した規範の再認識」「国連などの国際組織の積上げた国際秩序の維持と
更なる役割」「自由貿易体制の堅持と保護主義への対抗姿勢」「自国の構造調整や産業
の高度化に対応した、経済システムの強靭性の努力」更に「難民受入や援助と根本原因
の排除」「自由な国際経済システム維持の為の国際摩擦対応と国内利益の双方の国の幅
広い市民社会支持」である。そして世界の規範や民主主義を守るため、覚悟を固める。
とある。「デモクラシークライシス」は民主制への運動である民主化がデモクラシーで
あるとされる。民主主義・自由主義の代名詞である。更にクライシスは崩壊や破壊であ
る。つまりバノン氏が「既成破壊主義者」としての世界感からの政策であるならば、「
バノンワールド」=「デモクラシークライシス」と言うのは正しい認識と言える。この
自由主義や民主主義は今だ資本主義や共産主義とは相いれない中にある。従って共産化
独裁主義にすっぽりはまり軍国化する事が止められないし 資本主義の中での過重労働
を排除するまでに至っていない。更に大衆公益主義の名で暴力化する側面も又見逃せな
い。国民のしっかりした意志と次世代者への正統な教育をしなければ中国人民の様にな
るのである。

465: 名無しさんAA:17/06/27 10:35
自立主義を貫け  21    「バノンワールド」10

 フランスの宗教改革から民主主義革命は壮絶な歴史を作っている。中国では文化大革
命は民主主義の逆行を行って粛清に転じた。韓国も戦後世界は赤狩りと称した民主主義
者の弾圧と親日家の処刑が繰り広げられた。愛国主義だが韓国のみは異常な行為に転じ
ての全くの詐欺的行動が多発した。北の日本人妻募集や不況の日本でも、朝鮮総連は、
北朝鮮を「衣食住の心配がない地上の楽園」誇大宣伝して、日本「帰国事業」を進めた
。韓国内でも北朝鮮でも中国でもそれは辛辣に日本人は騙された生活を強いられた。そ
れは敗戦の貧困生活もさることながら、日本の大正デモクラシーの流れもあったからだ
。大正デモクラシーは、戦前に戦争の波に飲まれまいとする民衆の危機感が産んだもの
とも言える。それだけに軍国化する中にあり苦難の上に産み出された全国運動だった。
そこには、普通選挙制度を求める運動、言論・集会・結社の自由に関しての運動、海外
への派兵停止運動、男女平等、部落差別への解放運動、団結権、ストライキ権などの、
権利獲得運動、自由教育、大学自治権などの教育改革運動、国粋省庁支配の美術団体や
の言論団体などの独立運動、など自主的集団による運動が海外からの支援すら入り込み
文字通り血まみれになりながらの闘争であった。そうしてそれは結果として敗戦後に成
し得た社会だった。従って日本人には守るべき熱望がそこにあった。「竹林はるか遠く
‐日本人少女ヨーコの戦争体験記」が本になっている。<著者ヨーコ・カワシマ・ワト
キンズは、1933年(昭和8年)青森で生まれた。生後六ヶ月で南満州鉄道(満鉄)
に勤務する父に連れられ、家族で朝鮮北部の羅南(現在の北朝鮮・咸鏡北道清津市)に
移住した。朝鮮・咸鏡北道で11歳まで過ごすものの1945年(昭和20年)の日本
の敗戦が濃厚になる頃に、母親と姉とともに避難を開始した。京城を経由して日本へ逃
れるがそこには大きな壁があった。だが後に離れ離れになった兄とも再会を果たす>と
言う実話を書いた本である。アメリカでは韓国系が反発したが、こうした話は多い。韓
国から帰還民の為に凡そ100回程の客船が出たがそれらは韓国人だった為に戦勝国民
として振る舞う為に勝手にソ連兵になった。そして日本行きと日本語で案内しながら、
ロシアのハバロスクやウラジオストクに送り、全ての人が収容所送りとなり強制労働で
98%が死んで行ったと言う。脱走した者は撃ち殺されたり凍え死んだりして僅か1%
が帰国し1%が生き残ってソ連で生活したと言われている。推定50万人の死亡である
。70万人が抑留者として名を連ね中には朝鮮人の日本への移住者も多数いたという。

466: 名無しさんAA:17/06/27 15:02
自立主義を貫け  21    「バノンワールド」11

 帰国・帰還事業の際、北朝鮮を「地上の楽園」とはやし立てたのは、左翼思想にかぶ
れたマスコミと朝鮮総連だったとは言え 判断したのは本人だった。北朝鮮の日本人妻
と残留邦人の記録によると、日本人妻は1830人で「帰国事業」の総計で在日朝鮮人
ら約9万3千人が北朝鮮に渡った中で僅かともとれるが、1960年の調べで帰国でき
なかった残留邦人は1440人。既に大半が「戦時死亡宣告」され日本に戸籍が残った
のが35人殆どが一回北に止められたら 貧困生活のまま在留をしいられたのだ。既に
「日本側には現状のデータがなく、この人を帰せとは言えない」と調査不能と言われる
。又横田めぐみさんら拉致被害者の様に かなりの部分で見えないものがその時代には
あるのが正解だ。実はトランプ米大統領の「アメリカ・ファースト」はこの北朝鮮拉致
の頃の共産主義の宣伝文句と全く同じなのだ。ヒットラーが「我がドイツはゲルマン民
族で優位選民主義」を唱えて「総統万歳」と言った様に、中国では毛沢東は「中国人民
の偉大な中華主義」を唱えて孤立化を図った。その後習近平主席は「中華の夢」という
幻想大中華主義を唱えて窮地の中に喘ぐ。プーチンは、ロシアの国家方針は「愛国主義
」と言ってクリミヤ半島を占領して経済破綻の一歩手前にいる。今回パンアメリカン主
義をもじって「米国第一主義」を提唱して、待ったなしの孤立主義の沼地にはまった。
日本でも安倍首相は「美し(うまし)日本」などと言って一時期批判の矢面にたった。
大体言わなくとも普通の国は「自国第一主義」は根っこにある。それは郷愁でも恩義で
でも因縁でも普通の人間の場合その国を大事に思わない筈はない。それを敢えて言わね
ば伝えられないほど「国民が愚か者」か、指導者が「無知者」かと言うのは恥であろう
。そも「バノンワールド」は中国からの黒い献金を持つ「クリントンパワー」よりは、
遥かに良い。と米国民は思っていた。日本で自民党批判で民主党に政権取らせた様に。
従ってトランプは只座って今の米国の立ち位置を確認するだけで安定政権であった筈だ
。が愚かにも支援して来た民衆への公約として矢継ぎ早に大統領令にサインした結果は
見ての通りだ。そしてそれは国際社会の孤立を深めた。まるで中国やロシアの様に。そ
して遂に「米国第一主義」がスローガンと共に馬鹿げた誇大妄想として批判されだした
。この失敗は大きい。中東が又この逆行社会に応じたからだ。これはシリアに暗い影を
落とす。アサドは反政府勢力に負けていないし、行き詰ってもいない。ロシアとイラン
は、アサド政権のために敵を追い散らしてくれる。アサドはこの地の影響力の源だから
無茶苦茶しても支援してくれる。そう思っているし現実だ


467: 名無しさんAA:17/06/27 15:02
自立主義を貫け  21    「バノンワールド」12

 アナリストから見れば、シリア内戦が幕を開けた2011年の時点で、米国は失敗し
た。と言う。オバマと当時国務長官だったヒラリー・クリントンは、シリアで大規模な
反政府運動が起きている最中に、公にアサドの退陣を求めたのだ。このアメリカが味方
になると思わせぶりの発言は、イラクでサダム・フセインを引きずり下ろしたように、
米軍が軍事介入してくれると信じ、アサド打倒のために武器を取る者たちが表れるのは
目に見えていたはずだ。これは湾岸戦争のいきさつやイラク戦争の終息のつかない戦い
にまるで学んでいない言葉だ。と警告する。元々アメリカが反アサド勢力が望む本格介
入を実行に移すとは思えない事情がこの地にある事を解らなすぎる。というのだ。又、
シリア人を軍事訓練してもうまくいかないのは解っていた筈だともいう。イラクの治安
維持がどれだけ困難を極めたか。アフガンの後始末が今でもできていないしベトナムの
教訓さえ忘れてしまったかの様だ。と見られている。つまりここでは一応のアサド支援
と非難をして話をして民主化させる手を打つべきだった。としている。シリアの独裁者
アサド大統領の演説が一変して強気なのである。1年前には負けを認めていた弱弱しい
声明にロシアが表立って欧米に対抗していたのにだ。今月では全土を奪還すると宣言し
シリア議会に向けた演説で、アサドは反政府勢力との和平交渉は敵の罠だと一蹴し、国
の隅々まで支配権を取り戻すとまで誓ったのだ。これは驚きだ。だが前述のアナリスト
に言わせれば当然だと言う。ロシアもイランもアサドがシリアを盗れるとは思っていな
いが、アサドに負けさせるわけにもいかない。更にイスラエルもアラブも終戦が近いと
みたのか少しずつ参戦を表に出して来た。当初ロシアとイランは、アメリカが支援する
反政府勢力に投じるよりは、はるかに大量の軍事支援をアサドに行ったとされる。その
為、世俗派だったはずの反政府勢力も多くの戦闘員が米国支援から抜けてISILやア
ルカイダやヒズボラなどイスラム教スンニ派の最も過激思想に転向していったという。
その間「シリア民主軍(SDF)」を支援してきても3回以上もアメリカは裏切られ、
クルド人に頼った戦闘が強いられたのだ。そこで主体をクルドとして少数民族やアラブ
人なども寄せ集めた反政府勢力「シリア民主軍(SDF)」達を再編し曲がりなりにも
ジハーディスト(聖戦士)に徹底抗戦し進軍して来たのである。が、それでもアサドを
退陣させ、シリアでのイランの台頭を阻止するというアメリカの当初の計画については
、「もう勝算はなくなった」と言うのである

468: 名無しさんAA:17/06/28 02:43
自立主義を貫け  21    「バノンワールド」13

 マーク・トナー米国務省報道官はアサドのこうした最近の強気の演説については、「
独りよがりの妄想だ。シリアの統治者には不適任だろう。」と一蹴した答えを述べた。
確かにアサドは不適任かもしれない。だが彼が言っていることは本当に妄想だろうか。
今やアサドの打算や計画は ソ連の空爆やトランプのイラン包囲網発言などで成功しよ
うとしている。ロシアは今年初め、空爆によってアサド政権に有利な形での停戦を可能
にした。だがアサドは平気で停戦を無視し、包囲された町にロシアからの人道援助を届
ける依頼も無視してしまった。更に苛立ったアメリカはトマホークさえ使って脅した。
かつてイランが支援するイスラム武装組織ヒズボラが 最終的にアメリカを追い出した
のと同じシナリオが続くとみられる。本来SDFはシリア政府軍にも反政府軍にも戦い
の中では与しないイスラム世俗主義の強い中立軍だった。だがクルド人主体のSDF軍
がISILの支配地域が縮小の一途をたどり、崩れ去ろうと言う頃俄然進軍の意志をし
て都市部の攻撃を一手に引き受けクルドを市内に入れさせない事にした。中東人特有の
したたかさである。クルド人がアメリカと手を結んだのは重大な過ちだったと、彼は言
う。イラク侵攻後にイラクを見捨てたのと同様に、米軍はシリアからISILが一掃さ
れ次第、クルド人勢力への支援を打ち切るとみられるからだ。「アメリカには、アサド
軍からクルド人を守るつもりがない」と言われる。ましてはイラク北部クルド人自治区
の夢である、シリア北部でのクルドの国クルド人自治区を作るチャンスを与える気など
さらさらにないだろう。又ISILの戦いでは一応名目上はIS叩きの同志である。が
トルコの支援を受けた反政府武装組織もいる中では、国内にいる約千五百万人のクルド
人の独立を阻止したいトルコとの反目は出来ない。更にSDFを国家安全保障上の脅威
ともみなしている。そうした中にさらにもクルド人区の独立なんぞはあり得ないと見て
イランとトルコは手を結ぶ公算は強い。「クルド人を利用するアメリカは、政治的に愚
かなだけでなく、反道徳的だ。」と憤慨する。トランプ政権に移った以降は和平後の姿
がロシアだけでなく、トルコやイランやクルドにも見えなくなっているのだ。全てNY
タイムズの受け売りだが恐らくそうであろう。今後にクルドの自治国を打ち建てる約束
があってシリアが縮小したとしても、ロシア・トルコ・イラン・シリア・中東・イスラ
エルなど恐らく三つ巴四つ巴の論争で決まらないだろう。


469: 名無しさんAA:17/06/28 02:44
自立主義を貫け  21    「バノンワールド」14

 このアメリカにはトランプ政権が出来た事で更に大きな欧州との不協和音が聞こえて
来そうである。こうしたこの難民の移民政策での入国を止める政策は、連邦裁判所は、
部分的に許可した。つまり家族も仕事も移民カードも無い指定国の移民は取りあえずは
対テロ政策として止めてイイだろうというと言う判断を下したのだ。だが NATOの
費用分担の見直しやパリ協定離脱にはかなりのブーイングが国内外問わず批判され今や
形無しである。北朝鮮問題で中国に「何とかしろ」と言っていた物が「中国は欧州諸国
の普遍的価値観に合致した政策や国際協調で成り立つパリ協定に準じた政策を積極的行
う。」などと言われて日本人は唖然としている。又ドイツのメルケルも困惑を隠さない
。メルケル首相がワシントンを訪問してトランプ大統領と会談した際に3千億ドルの請
求書を渡したという。報道があり トランプの考えでは2012年からドイツがNAT
Oの国防費として拠出する資金2%分に利息を加えた評価額を示したと言われている。
帰国後英国が去ったNATOに「我々は自立の道を模索すべき時かも知れない。」との
表明もあった。つまり今や米軍に頼らない軍事力を示唆したのだ。こうしたドイツ随員
以上に憤慨したのは国防相のマティスである。欧州訪問を果たし2%拠出の要請をして
NATOの重要性は熟知している。と発表の上帰国したばかりで自らの面子丸潰れと感
じたのは国防長官であった事は間違いない。ドイツのメルケル首相の2015年3月の
訪日の際は、安倍首相にNATO加盟を提案したと新聞「ジャパン・ニューズ」が報道
している。またNATOの他に米国の関与のないEU防衛軍の創設すら考えていた中だ
。首相は、「われわれ欧州人の運命はわれわれの手中にある」と言明。さらに、テロと
難民という2つの問題を混同したトランプ氏の見解は間違いだと指摘し、EU経済を強
化しテロと戦っていけるよう尽力する意向を表明している。マティスはそれを充分理解
した上の訪問だったはずだ。既に英国が離反しEUのリーダーだと誰もが認めるドイツ
で かつての大戦時の様な米英ソに振り回されるままの欧州で、孤独なドイツをメルケ
ル首相は舵取りさせられる羽目になってしまったのだ。

470: 名無しさんAA:17/06/28 02:44
 自立主義を貫け  21    「バノンワールド」15

 とは言えトランプ台風は留まる事を知らない。今回のトランプの行為が、「単にNA
TO加盟国が規定の拠出資金をこれまで出していないということを具体的に知ら示す為
のものだとしても、そのような粗野なやり方は国家指導者として許されないことである
。ドイツの随員一行は、それはメルケル首相を威圧しようとした何物でもないと受け止
めたそうだだが。当然だろう。」と言われる。それにはベルリン(CNNMoney)
ドイツのジグマル・ガブリエル外相は18日までに、トランプ大統領率いる米国との協
力関係について楽観的な見方を示しながらも、「白状すれば多くの点でいらいらさせる
」との心境を明かした。と言われる。トランプ氏は英紙タイムズと独紙ビルトとの共同
インタビューで、NATOについて「テロに対応していないから時代遅れだ」と指摘。
メルケル独首相を非常に尊敬しているとする一方、2015年に移民受け入れを決めた
ことは「破滅的な過ち」だと批判しているのだ。だがメルケルは解っている。既に20
10年に「我々の多文化主義は完全に失敗した」。メルケル首相はこう発言し、評論家
などから批判を集めたた事があったのだ。首相2期目の発言だ。その後2004年にも
「我々は全て受け入れることは出来ない。全員を難民認定することはできない。既に、
多文化主義は見事に失敗している。」と発言しているのである。それでもドイツが難民
を受け入れてきているのは理由がある。それには人道的な理由と憲法上の理由がだ。ド
イツの憲法である基本法には、「政治的に迫害される者は庇護権を享有する」と明確に
明記されている。ドイツの憲法は、亡命権を人間の基本的権利の一つと規定しており、
これはナチス時代の反省からきている。ナチス時代を通じて他国に亡命させてもらった
恩があるからだ。そしてその上限は今だ明記はされていない。この憲法で掲げた正義と
国民世論と更に人道的見地の板挟みの中にいるのである。そしてそれをトランプは批判
を繰り返しているのだ。


471: 名無しさんAA:17/06/28 02:45
 自立主義を貫け  21    「バノンワールド」16

 とは言えNATO加盟国でも北欧は基準通りに2%に引き上げをしたりして一定の、
効果とは言わないまでも影響力を果たしている。国内でもトランプ氏が関税を指す言葉
として「プロテクション(protection)」という19世紀の古風な単語を蘇らせたこと
に戦略が見え隠れする。今では、この意味でのプロテクションという言葉は、「コンサ
ンプション(消費、消耗の意、かつては結核を指した)」など古い病名と同じくらいに
知られていない。通常、我々は関税については保護主義として扱われる。だが保護主義
は極端な思想家の、自由貿易に反対するイデオロギーと思われている。今やトランプ氏
は、この2つを混同することは間違っている。として管理貿易主義の主張をしている。
これまで過去の欧米政治家は、グローバル化は一部の人を置き去りにすると嘆いてきた
。だが、それは「ニューエコノミー」の生産性向上でインフレなき高成長が実現すると
いう経済進化論の幻想から来ている。この新しい経済はいつの間にか、その人員をも含
めて古い経済のすべての側面を段階的に廃止することを意味したのだ。と今やっと人類
は気づき始めたのだ。トランプは演説する「1つずつ工場が閉鎖され、我が国を去って
いった」「取り残された何百万という米国の労働者たちが顧みられることはなかった」
と。そして中国や日本を名指しし、貿易の不均衡是正を主張するトランプ氏の発言を受
けて聴衆は歓声をあげる。、日本政府関係者は危機感を示す。「経済成長と貿易赤字の
拡大は、グローバル社会のコインの裏表。にもかかわらず不当な貿易と批判し国名を挙
げて名指しするとは」とため息が絶えない。ニューエコノミーの理論家たちは、「敗者
」に補償を与えることは可能なはずだと説いて来た。日本で言うトリプルダウン理論で
ある。だが、補償や下層への利潤の流れは一度として実現しなかった。いざ金が入って
きた時、ニューエコノミーに公徳心や慈愛心や還流の心得は無かった。人々は置いてき
ぼりに干されたのだ。この経済システムの指導者達は内側での自己改革が信頼して任せ
られないなら、外側からの改革を命じろと訴える米国の政治家が出てくるのは必然だっ
た。これほど長い時間がかかったことが驚きなのかもしれない。


472: 名無しさんAA:17/06/28 02:45
 自立主義を貫け  21    「バノンワールド」17

 この敗者を作っては貧困の鍋底に落とし込む消費経済に覇者の居ない一定の共生社会
を築こうと経済圏のルール作りを行う事で話し合い TPPの発足の見込みとなったの
だが。「米国第一主義」を掲げられ廃棄され一方では、これまでの社会主義国は「一帯
一路」を掲げて自由貿易万歳を唱える現象が飛び出てきたのである。これにはEUを取
りまとめたコール氏もびっくりだろう。米国のケリー国務長官は、トランプ氏が他国の
政治を直接批判する発言を行うことは「不適切」との見解を示したもののトランプ政権
がドイツに要求する国内総生産(GDP)の2%相当の国防費支出を請求、貿易障壁や
温暖化対策の国際的枠組み「パリ協定」からの離脱宣言、イランとの核合意の廃棄への
言及などは 英国と一致して我流に染まり国際社会からの批判も気にしない政治に向か
っている。こうした事でメルケル首相とマクロン仏大統領は、極右勢力や、とりわけ、
トランプ米大統領に対する対立的な立場を確立しつつある。対照的にメイ首相は、大っ
ぴらにトランプ氏と親しく振る舞い、今回の選挙戦では、反EUの立場を取る独立党の
支持層を取り込もうとした。そして少なくともメイ氏は、欧州大陸の同盟国と他に類を
見ないほど敵対的な関係を築く方向に動く可能性を示唆している。ここで解った事は、
国々の貿易赤字も望まないが貿易黒字も望んではならない。という事だ。が対外主義に
過去の植民地貿易をした各国には中国の一人勝ちを批判する一手を持たないのである。
同盟国日本と違って中国に共生社会を説いてもそのルールは存在しない。軍事大国であ
る中で国連の常任理事国であり「経済成長と貿易収支の拡大は、中国の命綱」であるか
らだ。つまりまだまだ「中華の夢」を捨てる気はないのである。この「自立主義」は貿
易ルールの基本だろう。つまり自国内経済を国内産業と国内労働で維持出来た上での貿
易であり、通貨基準で黒字にも赤字にもならない国間交換で維持されるべきと言う話だ
ろう。その意味で日本の鎖国はその完成度の高さから経済成長した。だが労働者基準の
価格や外貨基準ではこの貿易収支の赤字も黒字も意味をなさない。



473: 名無しさんAA:17/06/28 02:46
 自立主義を貫け  21    「バノンワールド」18

 この米英のかつてのモンロー主義を提唱した我儘時代の様なEU苦難の中で、今だに
ウクライナ停戦は約束通りになっていない。ロシアはクリミア掌握して味をしめた行為
に及んでいるのだ。勿論英国はEUの対ロ制裁は堅持すべきだと言明し、メイ首相も「
(ウクライナ停戦合意の)ミンスク協定の完全履行を求めていると、態度を明示してき
た」と述べ、これが実現するまで制裁は続くと強調した。がドイツにとってはロシアの
行為は気が気でない隣国だ。弱弱しい北欧の弱小国を仲間として共産化の波を防がなけ
ればならないのだ。盟友フランスがいるとは言え頼みの綱の英国が欲出して簡単にEU
離脱を決めた事は、骨を負ったコール首相も残念でならない上に腹立たしい事だろう。
又 政治的に混乱し病んでいるイタリアはEUに大きな危機をもたらす存在だ。ギリシ
ャ経済とは異なり、イタリア経済の債務不履行(デフォルト)から救済するにはあまり
に大き過ぎる経済体である。ポーランド、ハンガリー、スロバキアといった中欧加盟国
の移民政策などのEU政策に対する自由移動の国境検査は撤廃であるシェンゲン協定す
ら守られる兆しはない。かつての世界大戦の教訓が全く生かされない場所まで追い込ま
れた形だ。この状態にフランスのオランド大統領も、あからさまな不快感を表明した。
「ここで言っておく、欧州は対米協力を常に積極的に追求していく構えだが、その道の
りは欧州独自の利益と価値観に基づいて決めていく」とくぎを刺し、EUの内政に「外
からの忠告は必要ない」と切り捨て英米の身勝手さに怒りが漂う。ともあれマクロンの
当選で少しは安心を得たが次には自身の選挙が待ち構えている。やっと拡大EUで共通
文化の取り込みフランスの持ち上げた普遍の価値観「自由平等や人権博愛」の精神に基
づいた文化圏が出来上がろうとする中で 馬鹿げた事に英国は全く間違えた国民投票を
していまったのである。人類の英霊がののしるべき行為の中に今でも離脱の道を探るの
である。早く間違いを認めればいいものを 今だメイ首相は撤回はしないのだ。これは
英国に外交をする資格が無い事を物語るの事なのである。



474: 名無しさんAA:17/06/28 03:18
自立主義を貫け  21    「バノンワールド」19

 もしこの歴史を知っている者や 経済や地政学を知る者で 賢明な人類の未来を言う
勇気のある者は このトランプ出現や英国の行為は 反吐の出るくらい汚い話であろう
。およそ多くの人の犠牲の上に成り立って来た戦後の仕組みが たった一国の一夜の、
それもヒットラーまがいの嘘の宣伝文句をまき散らしたロンドン市長以下の一部の声で
 ヨーロッパの経済縮図が一夜にして世界大戦前に戻ったのだから タイムマシンも又
びっくりの事柄でしかない。これで人類は世界破滅への寿命を 100年程縮めたのだ
ろう。全くおかしな事だ。帝政ロシアの栄光を夢にしたソ連と同じロシアが南下政策を
又強めていくだろうし そこにかしこにエネルギーや資源の無い小さな欧州各国はその
巨大な思惑に飲み込まれる危険を晒す。その為の防衛する経済も軍事力も技術力も、目
の前の我が道を行くとふんぞり返る小さな島国英国にとっては目障りの物となる。突然
の巨大軍事の前には それは防衛上も戦わざるを得ないはずだ。すると又敗けそうな国
に肩入れする事に国民世論は反対だろう。だが米国はそれを騙す為に何らかの戦争参入
を企てる。そうして悲劇は大きくなる。欧州のこうした争いに 巻き込まれたくはない
が巻き込まれない程には世界は広くない。色んな所で色んな事が同時に起こる。只英国
がEU離脱の解消の手を打たなかったばっかりに ただ米国が気炎吐く大統領を選んだ
ばっかりに 世界中は混乱の中で 戦争の渦に巻き込まれる。これは当然の事だ。世界
でのエネルギーの供給システムは 世界中のどこにもある訳ではない。発見し鉱脈を掘
って原油や天然ガスを出している所にあるのだから 仕方のない選択だ。そしてそれを
世界で最初に発見したのが欧州であり英国であり米国なのだ。こんな身の毛のよだつ様
な決まったストーリはない。歴史上も地政学的にも 決まった中で人類は我欲に敗けた
国民の 哀れな勝手な国民投票で 窮地におちいったのである。これで遠からず人類が
核戦争を起こすシナリオの基礎は築けたのだ。英国も北朝鮮も満足だろう。勿論米国も


475: 名無しさんAA:17/06/28 03:57
 自立主義を貫け  21    「バノンワールド」20

 だが今度の 第三次世界大戦は大きく過去の戦争と全く違う。第一はまず停戦合意や
終戦がない事だ。地球上で人類が居なくなるまで行われる。第二はシリア国内の様に突
然何処の国のか不明なミサイルが飛んでくる事だ。今やどこででもミサイル開発は可能
である。更に第三に2国間ではあり得ない事だ幾重にも主義主張の異なる政府間と反体
制との入り組んだ戦いであろうと言う面で止まる事はない。同じ国が戦う双方武器供給
をする事もあり得るのだ。更にAIのミニコンピューターの活躍でロボットも戦略も、
大きな人殺しの効率を持つ。この破滅への暴走を止める手立てはない。アサドのシリア
も単に自由化を求める民衆の声に強固に独裁防衛の対応しただけである。独裁の防衛が
なければカダフィのりビアの様になるだけだ。人々の要求は果てしないのだから。今や
エジプトの様な軍事で国内を守る警官とならないと米国は言うんだから仕方ない。世界
の面倒を経済負担を持たないと言うのだから世界はこの独裁化する世界を止められない
。米国民が言うように小さな国も自衛をする権利はある。拳銃を持つように兵器を持つ
権利はある。今まで権利を行使しなかったのは理性があったからだしトランプのような
原則論を持ちだしたら 北の核ミサイルも正当化される。これでは世界が持たない。ど
うしようもない。トランプを止められないのだ。地政学的競合社会の欲望者を止められ
るはずもない。まるで米国映画の世界である。人類滅亡がアニメの如く現実化している
破壊と殺戮が毎日の様にシリアを覆い尽くすが そうして砂漠化廃墟化する中からやっ
と逃げ延びた人々が 街を貧困に誘う。更に混乱させては 強権化させて中国のような
管理社会を打ち建てようとするが 国同士の闘いには管理なんぞない。国連が無能化さ
れたのだ。一人の朝鮮人を打ち建てた米国のおかげで。廃墟と殺戮と冒険が好きな米国
人のおかげで。麻生太郎は言った。「国連は誰が提唱した。」そして入らなかったのは
どこだ。アメリカだろう。そんな国さ 今だ若い歴史の無い国だ。と


476: 名無しさんAA:17/06/29 15:03
 自立主義を貫け  21    「黒焦げの先進諸国」01

 身代金ウイルス「ランサムウェア」がやって来た。日本で3月に問題になったものが
今回6月になってウクライナあたりから広がって来た。今年は厄介な年だ。スペインで
は大火災が2か所も出た。その上このウイルスだ。更に民泊先進国として又貸しの貸し
ホテルで住民さえ帰る事が出来なかった事がある。少し前に日本で大騒ぎしマイクロ・
ソフトの新しいこの空コードをブロックした薬を配布したが 今度は又他のブロックで
やってるらしい。トランプ政権はこの入り乱れた欧州の思惑に一刀両断に金を出せと、
NATOの存在そのままに米国のビジネスライクな物言いで接した。米国にも今や足元
に火が付きそうで苛立っている感がある。ロシアゲートと言われる政権前からのロシア
との接触は 恐らく今のシリア問題クリミヤ問題更にウクライナ問題を早期決着をして
バルカンの憂いを解いて極東問題に移行したかったのだろ。そうする事で国内のオバマ
政権との比較で高い支持率を擁する事が出来るはずだ。と言う事だろう。更にその2つ
の中東とバルカンが終わればトランプタワーの拡大にもつながると踏んでいたはずだ。
そして極東のリゾート沖縄と北方四島に建設出来れば日本人従業員に対しては社員教育
が少なくていいしクオリティは高い。又ロシアの領地で日本の労働となれば収益も高い
、とまあそんなところだろう。が そうしたアメリカの内情よりは南米が火がつこうと
してる。折角コロンビアで内乱の終焉に中部メタ州メセタスで、政府と同国最大ゲリラ
のコロンビア革命軍(FARC)の和平合意が出来て、ゲリラ側の武装解除の完了式典が行
われ、革命軍最高司令官が「戦争よさらば、武器よさらば、ようこそ平和」と述べて、
和平プロセスの進展を祝った。というのにだ。今や石油の低価格はどうしようもない。
そのお隣のチャベスがいたベネゼエラでは原油依存の経済で医療や教育に投じていたが
この安値安定の値動きで暴動が止まらない。チャベス大統領は文字通り今のトランプに
似た大衆主義(ポピュリズム)とその国の時代の波の申し子的存在だった。

478: 名無しさんAA:17/06/29 15:21
自立主義を貫け  21    「黒焦げの先進諸国」03

 チャベスの大統領になる前の大戦時代は、キューバのカストロ軍の副将軍ゴメスらが
、アメリカマフィアの麻薬栽培業者を追い出し、軍事政権を打ち建てた。コロンビアか
らの麻薬が実は国を越えて此処で集荷された事もあった。それだけここいらは広範囲の
危ない場所だった。それゆえゴメス将軍は、「アンデスの暴君」と呼ばれるほどの苛烈
な統治を行っていた。その後将軍が去った後も仲間の将校が政府を牛耳った。だが戦後
には共産主義と米国が戦っていた時代だった。そして何度も軍部のクーデターは起こっ
た。民主政権が起こっても汚職や腐敗が蔓延し経済基盤がなかった。だが油田探査は既
にそこに油田がある事が解っていたので軍事政権から民主政権移行期には米国資本を入
れて採掘し細々とだが生産を開始した。そしてやっと1974年に軍部とは違う、民主
行動党のカルロス・アンドレス・ペレス政権が成立した。だがこれまでの汚職や腐敗は
止まら無かった石油国有化法を制定してベネズエラ国営石油会社PDVAを設立するな
どした。石油経済に頼った放漫財政で貧民を潤したものの財政赤字で福祉が減ると暴動
が起きた。1979年に彼は大統領の座を退くものの放漫財政は暴動を繰り返し政権の
座を追われた。だが石油代金で教育と食糧と医療に使った成果は出始めていた。198
9年にはそうした知識層が出て来て再び政権に返り咲いた。それでも当時のオイルショ
ックが国内に混乱をおこした。石油収入に頼り切ったその財政には徐々に悪化の一途し
かなかったのだ。医療と食糧は殆ど海外に頼った経済だったが教育によって恐らく識字
率が1割も満たなかっただろう国が8割まで上がり新聞まで読めるようにはなっていた
。こうした大転換は米国資本家が作った企業が横取りされはしたが 何とか最貧国が立
ち直る契機にはなっていたのだが。このオイルショックでのハイパーインフレは他にな
い南米の特徴でもあったが、この暴動がチャベス大統領を産んだ。


479: 名無しさんAA:17/06/29 15:22
自立主義を貫け  21    「黒焦げの先進諸国」04

 こうして1989年に再び政権に返り咲いたが、財政再建のために新自由主義モデル
を模索したが、更なるインフレでの民衆の怒りは収まらずチャベスらはカラカス暴動を
起こした。ペレスは軍を投入し暴動の鎮圧に走ったが。七百人以上の死傷者を出したと
言われていて、この参加者を蹴散らして収めたが長く支持は得られなかった。この時の
投獄でのTVの表明がチャベスの武器になった。とされる。TVでの呼びかけが国民に
響くものである事を知って武闘闘争を止めて政治運動に切り替えて革命家となったのだ
った。だがこれこそが国民の大きな間違いだった。チャベスの起こした民衆への福祉は
言うなれば国民への人気取りの賄賂と同じだった。石油経済が順調でありながらも一般
への配給をし国家財政を更に悪化させていった。社会資本の充実に取り組んだペレスの
批判でのし上がったチャベスは幸運にも世界的に石油財政や景気循環が良かった時期だ
ったからだ。貧民層に豊かな暮らしに近づけはしたものの その財政基盤は食い尽くさ
れ新しい産業育成と国内需要の経済システムを作り上げる努力はなされなかった。社会
主義共産主義の意識から新自由主義への意識の脱却が図れなかったからだ。その昔から
人は法秩序の下の平等社会を願っていた。だが多様化社会では、公共心や公徳心は一部
でも守れない内部の人間や外圧で崩れ去る。欲望による崩壊である。マルクスは「資本
論」匂いて「資本主義はその矛盾ゆえにいずれ行き詰まり崩壊する。」と言っている。
人間の欲故に進化し、欲故にそのルールを守らないと言う事だ。そこで指導者層や秘密
警察などの規制し先導する教主を作る共産党が起こる。対して自由主義はそれを市場に
委ねた。資本の集まりと言う巨大売り場では単一資本の買い占めなどあり得ないとした
のだ。だが頭のいい資本家は博打資本主義を作り上げた。利子と言う利益と先物投資で
ある。利子は投資しない保有資産の目減りを意味し 先物投資は書類による契約社会を
意味した。即ち今だ実って無い果実に 収穫の値段をつけさせて金を借り受けるものだ
。それは収穫のあるなしに関わらず 一定の保険ともなった掛け金の考え方だった。


480: 名無しさんAA:17/06/29 19:21
自立主義を貫け  21    「黒焦げの先進諸国」05

 アダム・スミスは「国富論」で、経済は個人や企業の自由に任せることによって繁栄
すると主張し、政府の役割を治安維持や防衛などに限定する必要を説いた。こうして、
資本主義の中で自由主義を唱えて、国家さえも食い尽くす富豪や企業が出現した。そこ
で富の再配分として新自由主義が産まれた。政府は小さくして税を無くし、企業の利潤
に税金をかけて活動を制限しようと言う社会主義に近いケインズ理論が産まれた。政府
が完全雇用を目指して需要を管理するケインズ主義政策は、大恐慌や戦争時の需要を産
み国を救うものとして一般的となった。しかし共産主義が人々の批判や要求を止められ
ない事でスターリンや毛沢東の様な独裁者を産んだ様に、自由主義政府も管理の為には
巨大企業に合わせた仕組みが必要だった。だが物が言えず政府における財政赤字の深刻
な累積、官僚主義的な非能率などが大きな問題となった。当然企業への制約の為の巨大
政府や巨大費用の削減が求められ、イギリスのサッチャー政権、アメリカのレーガン政
権を皮切りに、日本の中曽根や小泉政権などが、減税、規制緩和、民営化を軸とする小
さな政府への改革が広まった。これは公共事業公共福祉政策の縮小を意味していた。当
然そこには 景気の落ち込みが政権に追い打ちをかけた。こうした事で政府は国債とい
う債権に頼る国家予算をはじく事での対応に蝕まれた。その分大企業は国際化した多国
籍企業として富を蓄え、更に住所を移しての隠し財産を持つまでに至った。だがその富
の再配分に於いて消費者と労働者は切り分け出来ない物だった。当然企業の倒産は国を
揺るがす一大事であり続け更なる格差を産んだ。本来日本は、ゼロサム社会を標榜する
極めて福祉循環型の社会を構築していた。それは江戸時代の鎖国令時代からの日本人の
持つ慣習や性格である。ある意味金儲けを悪とする風潮を今だに持っているのは確かだ
。だが双子の赤字に揺れる米国政府は無知にも内政干渉で日本からの利潤を搾取すると
言う非道を選んだ。又本来の国策の自国通貨維持の政策を民間のFRBにそのまま放置
しての国策を選んだのだ。実は仕事は失業者3割を保有しても福祉出来る余裕を持つ。
それは「働き蜂の八割の活動法則」である。どんな集団でも7割で3割まで支えていく
能力や宿命を持つ。と言う。これは自然界の法則でもある。


481: 名無しさんAA:17/06/29 19:22
自立主義を貫け  21    「黒焦げの先進諸国」06

 こうした事はある意味「北朝鮮型独裁」と全く同じである。他国に「自立のない自主
独立 権利のみの法治国家自治国家」で 内政干渉するな。という事になる。これらが
今許されるのか。と言う問題だ。「核兵器」を含む「大量破壊兵器開発」「大陸弾道弾
ミサイル」の取得。が防衛能力をして攻撃力の高さから「核抑止力」などと言っている
。だがかつての時代と違い、「危険だから行わない」「市民の自衛に兵力を持つ」とい
う世界は既に理想論化している。ISILやシリア内戦を見る限り人間の盾で防御して
、攻撃も又一般市民を爆撃している。かつてイラクの駐留に対しても上部の命令に於い
て、救急車に運ぶ無辜の人を航空機から殺しまくっている。アメリカの母国の内部でも
警官が「無辜の民」が武器を持っている居ないに関わらず 治安の元の職務質問時にお
いて殺す行為が起きて止まない。この抜け殻の様になった民主主義は「ブッシュ家」の
私恨や私怨を国政に於いて行った事を止めきれなかった事で起こっている。裁判も調査
も大きな国家の行う邪悪な行為に敗けてしまったのだ。その意味ではこのフランスの行
う2回に分けた決選投票制はそこに意味を持つ。米国も又大統領予備選を行ってはいる
がどう考えても苦肉の策での決選投票制である。どだい2党派に分けて居る事に問題は
山積みしている。EU離脱でも英国議会は党統一の意志表示は出来なかったし、今回の
米国の国民皆保険のオバマケアの改正法案も又一方で予算が膨大になると削減廃止を叫
び一方で冷たすぎてもっと人間的手厚い保護を望む声も今の民主党の作った保険の改正
を押して反対なのだ。「同床異夢」や「敵の敵は味方」の人の持つずる賢さは国際政治
でも起こっている。そしてそれを利用したのがトランプ政権である。何でも一緒で批判
し続け、少数意見を捨てて「一将功成りて万骨枯る」状態の中で成立したこの国が、い
つの間にか「大事の前の小事」を捨てた「大同小異」の国になっていたのだ。このトラ
ンプ発言が「曲学阿世」の言葉である事は誰の目でも明らかであろう。こうした事は、
何も米国だけではない。今度のカタール問題も中国問題も、問題の本質はそこにある。
弱くあるべきか 強く在るべきか。強いのが悪いのか弱いのが悪いのか。




482: 名無しさんAA:17/06/29 19:22
自立主義を貫け  21    「黒焦げの先進諸国」07

 今の北朝鮮でもチャベスのベネゼエラも 民衆へのアピールに目覚めた政権で本来の
「協調の為の知恵出す」と言う政治の作業や力は皆無と言える。米国の政治がアフリカ
の下僕社会の下等な部族政治と同じだという事に唖然とするが、大統領の行う私怨や私
恨の政治を止められず大掛かりな911事件やアフガン戦争イラク侵攻が今だ止まらな
いで人類の平和をかき乱している様はその証左で反論は出来ない物であろう。国際化イ
ノベーションはグローバル化の進展を加速させた。今やグローバル化は当たり前の流れ
と意識している。ポテンシャルと言われる成長産業の鍵が、自国に無い以上は海外での
戦略をより重視して取り組みのは企業にとっては当然のシナリオである。だが国という
集団は、国内という枠の中でしか動けない。教育と雇用の断絶もある。企業群が、これ
からの人材や知識にスキルを持たず大学教育などが的確、適切に提供できないのは国家
政庁の礎すら作れないのである。経済力で国際競争に敗れて衰退する事態さえ想定され
る中では企業に「お願いだから海外に移さないでおくれ。」と泣きついたのも当然だ。
此処にトップイマジネーションギャップが存在する。日本の東芝が経営者の想像力欠如
がもたらしたかなりの恐ろしい事故だと言われるが 日本のグローバルマインドとされ
る企業も、イマジネーションと言われる国際感覚に習熟度が高いとは思わないが世界の
オピニオンもアメリカのトランプ発言も又習熟しているとは思えない。そこに悪意ある
ポピュリズムがある。そも企業の生き残り策が生産では無く余剰資本や利潤追求姿勢に
あるというのも何だかいただけない。この石油生産や天然資源に頼った経済政策は人類
一般に全ての国に言える。逆にかつて日本の様な資源の無い島国が加工貿易立国や技術
立国或いは海洋立国を目指しても、悉く米国に阻止された。かと言って韓国の様に北が
起こしたスパイまでも大統領にしては こそこそと核開発や米軍撤退を画策されては、
世界も迷惑する。現に今までの開発の経緯の責任は中国よりも韓国にある事が 今の現
状の深刻な問題なのである。


483: 名無しさんAA:17/06/29 19:56
自立主義を貫け  21    「黒焦げの先進諸国」07

 今の北朝鮮でもチャベスのベネゼエラも 民衆へのアピールに目覚めた政権で本来の
「協調の為の知恵出す」と言う政治の作業や力は皆無と言える。米国の政治がアフリカ
の下僕社会の下等な部族政治と同じだという事に唖然とするが、大統領の行う私怨や私
恨の政治を止められず大掛かりな911事件やアフガン戦争イラク侵攻が今だ止まらな
いで人類の平和をかき乱している様はその証左で反論は出来ない物であろう。国際化イ
ノベーションはグローバル化の進展を加速させた。今やグローバル化は当たり前の流れ
と意識している。ポテンシャルと言われる成長産業の鍵が、自国に無い以上は海外での
戦略をより重視して取り組みのは企業にとっては当然のシナリオである。だが国という
集団は、国内という枠の中でしか動けない。教育と雇用の断絶もある。企業群が、これ
からの人材や知識にスキルを持たず大学教育などが的確、適切に提供できないのは国家
政庁の礎すら作れないのである。経済力で国際競争に敗れて衰退する事態さえ想定され
る中では企業に「お願いだから海外に移さないでおくれ。」と泣きついたのも当然だ。
此処にトップイマジネーションギャップが存在する。日本の東芝が経営者の想像力欠如
がもたらしたかなりの恐ろしい事故だと言われるが 日本のグローバルマインドとされ
る企業も、イマジネーションと言われる国際感覚に習熟度が高いとは思わないが世界の
オピニオンもアメリカのトランプ発言も又習熟しているとは思えない。そこに悪意ある
ポピュリズムがある。そも企業の生き残り策が生産では無く余剰資本や利潤追求姿勢に
あるというのも何だかいただけない。この石油生産や天然資源に頼った経済政策は人類
一般に全ての国に言える。逆にかつて日本の様な資源の無い島国が加工貿易立国や技術
立国或いは海洋立国を目指しても、悉く米国に阻止された。此処に企業と国の断絶があ
る。企業は、事業活動と収益の極大化のためにかなり前から、国境を超えて動いている
。しかし国は、国内という枠の中でしか動けない。教育と雇用の断絶もある。企業が、
これからの人材に求める知識やスキルを、大学教育などが的確、適切に提供できていな
いの上に 国際政治上はどうしても 国の軍事力を背景の発言に終始しているのである



484: 名無しさんAA:17/06/30 22:46
自立主義を貫け  21    「黒焦げの先進諸国」08

 恐らく欧米が一番気にしているのは人口増加問題だろう。1941年年末にフランク
リン・ルーズベルトは米国大統領として第二次世界大戦の「連盟国(Allies)」に対し
て「連合国(United Nations、UN)」と言う言葉使用し、この宣言で一般的に正式な語
として発言した。連合国共同宣言の4大国は第二次世界大戦の戦勝国で作られた。この
連合国共同宣言は、1942年正月にアルカディア会談において、亡命政府も含めた、
連合国26カ国により署名され第二次世界大戦の戦争目的を述べ、各国が持てる全ての
物的人的資源を枢軸国に対する戦争遂行に充てることを共同宣言した。ドイツ、日本、
イタリアとは、各国が単独で休戦または講和をしないことをこの時明らかにした。この
宣言が、その後の国際連合の基礎となり、1945年には署名国は47カ国となった。
思想の歴史学で言えば、この頃の宣言と植民地奴隷の実体と生活意識とには大きな乖離
があった。この宣言へのアプローチ暗号名が「アルカディア」であった事から、アルカ
ディア宣言と言われた。不思議なのは、日本では歴史でも揺らぐことの普遍的なものが
「正義」であるのに、現代人も米国も「普遍的な正義」があるだろうか。と問いかける
馬鹿な国が勝った事であった事だ。不思議な事はエゼキエル書の言うアルカディア思想
が何故この暗号名に使われたのかという事だ。アルカディア思想は別名ユートピア思想
とされる。イエズス会によって広められたギリシア神話であるとされる。この中に内包
するユークロニア主義は時間のない国の出現でもある。星新一の白い服の男ではないが
過度に戦争を危険視した社会は逆に危険極まりない社会であるという事だ。ユダヤのバ
ビロン幽囚は紀元前の4百年頃の話だ。ネブカドネザル2世を王とする新バビロニアと
、アッシリア帝国が領土争いをしていた。ユダ人は放牧の中ユダ王国を持っていたが、
歴史的にはアッシリアに先代時代に服従していた。だが時代はアッシリアからエジプト
の時代に入っていた。危機感のあったカルディア人はバビロニアを建てイスラエルを襲
い職人達を捕虜にして国の建設従事させようとした。だがかつてのイスラエル人がアッ
シリア人が襲った時の様には従順では無かった。そこにユダ国の王として傀儡ながらも
ダビデ王家の王子ゼデキヤをたてて貴族、戦士、手工業者達がいた。ネブカドネザルの
兵士達は、イスラエルを征服し、エルサレムを破壊し、潜在的な反乱の指導者とされた
指導者ユダ人は、バビロンにおくられた。一般の集団はエジプトに逃れたが、その際に
彼らは、抗議する預言者エレミヤを彼の意志にさからって無理やりエジプトに連れて行
った。こうしてパレスティナに残されたのは、最も貧しい農奴だけだった。

485: 名無しさんAA:17/06/30 22:46
自立主義を貫け  21    「黒焦げの先進諸国」09


 ユダヤ人は人種では無い。単に紀元前400年頃の初期の唯一神信仰を持った宗教団
体であり、多神教しか存在しない時代にあって、短期間のユダヤ人国家を唯一造った、
原理主義集団で、長い間政治的独立の喪失という運命をたどることになる人種だった。
。予言者ゼデキヤもこの前588年にはカルデア人に対する反乱を主導したのだが。こ
の時バビロンに幽因されるほどの抵抗を続けて、エジプト軍の助けを借りてついには、
バビロンは滅んで バビロンから解き放された。がこの戦いの中で 首都エルサレムは
徹底的に破壊しされ、更に残っていたイスラエル人もバビロンに連れていった。だが、
これまで半世紀以上の闘いはバビロンを疲れさせペルシャを大きくした。こうした事で
 エジプトに収監されていた予言者エレミヤを心の拠り所として呼んでユダ王国の再興
や復興を目論んだ。約半世紀におよぶバビロン奴隷の期間は、イスラエル人の精神的な
団結と強い信仰をまもる民族にそだてた予言者であったからだ。これは同時にエジプト
での農民の時代でもあった。この時の強い信仰からユダヤ民族が生まれた時期といわれ
る。 前539年には、ペルシャ帝国の創建者キュロス大王がバビロンを征服したのだ
。翌年キュロスは、ユダヤ人の解放を許可する勅令を布告した。奴隷解放である。捕囚
民のうち約4万有余が、このパレスティナ地に戻った。彼らは自分たちの財産すべてと
、バビロンに残留する人々が託した贈り物、そして伝承によればキュロス自身の贈り物
をも携えて、帰還した。故郷はカルデア人に破壊されたままの廃墟だった。帰還者達は
、これからの国家建設の膨大な仕事を思って、暗澹(あんたん)たる気持ちになっていた
。帰還民達に広まっていた意気消沈した疲弊感は、しかし、エレミヤの書が作られた様
に2人の宗教的指導者、預言者ハガイとゼカリヤを産んでいた事によって払拭され、再
びの活気を取り戻した生活を次第に出来るようになっていった。彼らは、かつてのエゼ
キエルがしたように、宗教的生活による救いを約束したとする布教活動に取り組んだの
である。ユダヤ人は、かろうじてユダ王の血筋ダビデ王家の血をひくゼルバベルをして
王座にし彼の指導のもとに、まずは神殿再建にとりくんだ。こうして、前516年に、
第2神殿が完成した。ユダヤ教の伝統では、この年がバビロン捕囚の真の終わりとされ
この時ユダヤ人ユダヤ教が出来たとされる。ところがこのユダヤ紀元こそが人類史上の
最悪だった。


486: 名無しさんAA:17/06/30 22:47
自立主義を貫け  21    「黒焦げの先進諸国」10

 こうして前516年に、イスラエルはユダ国として復興を果たしたが 周りの隣国は
エジプト・バビロニア・ペルシャといったそうそうたる大国であった。こうした中での
エゼキエルは、紀元前597年に更にイスラエルの民らと共にバビロンに捕囚されたが
、その後、捕囚された者たちに悔い改めと希望をもたらすために、この地に召命を受け
た。エゼキエルが召された頃は、ユダヤの王国はまだ完全に絶えておらずに、王と多く
の民が自分の土地に住んでいた頃だったと言う。しかし、多くのイスラエル人は預言者
の指導を拒否し、預言者に敬意を払うこともなく暮らし初めていた。すぐ数年のうちに
「神殿も城壁も破壊され、エルサレムの町は焼かれ、多くの民がバビロンに捕囚され、
残った者はエジプトに避難するなどして世界中に離散した。」「その結果は、約束の地
からイスラエル人は追われ、ユダヤの王国は滅亡したのは。このことは神がイスラエル
を守ることができなかったから起こったのではなく、イスラエルを救うことができたの
にもかかわらず、神が守らなかったからだ。」と言う「神自身がイスラエルの中の邪悪
に対し、その当然の結果がもたらされることを選んだ。」から起こったのだという内容
が記載されている。エゼキエル書には神の怒りと共に、悔い改めて神に立ち帰る者には
回復が与えられるという希望とが書かれている。こうして前597年〜前516年の間
を「バビロンの幽囚期」としてユダヤの涙の日々として悔い改めるきっかけの新たなる
意志を持つ日としている。この古代史を持つ旧約聖書を基準にイスラム教のラマダンが
あると言われる。この時のアルカディア人の宣言こそアルカディア宣言ではあるのだが
その後2千年の時が経ち 「理想郷建設」の宣言が「連合国結束」を呼びかけた宣言に
変化して行われた。エゼキエル書では 神の怒りと共に、悔い改めて神に立ち帰る者に
は回復が与えられると言う希望を示している。此処で何故古代の話をと普通に疑問が起
こるだろう。実はこの今の第二次世界大戦後の世界が このアルカディア宣言をもとに
築いてきた連合国社会である。と言う現実と もうこれ以上の地球破壊は許されないで
あろう。という事が奇しくもこのメソポタニア時代と全く同じだからだ。


487: 名無しさんAA:17/06/30 22:47
自立主義を貫け  21    「黒焦げの先進諸国」11

 実はメソポタミア文化はエジプト文明程にはあまり良く解ってはいない。メソポタミ
ア神話ではシュメール人、東方セム語アッカド人、アッシリア人、バビロニア人といた
事になっており紀元前四千年頃からではないかと推定されている。後に移住してきたの
がアラム人カルデア人であり この人達が定住すると総称してアルカディア人と呼んだ
と思われる。そしてバビロン王を置いてバビロニアを造り帝国を成したと思われる。つ
まり周りにはシュメール人アッカド人アッシリア人は居たとも推定される。ここの地が
油の取れる時代に入り紛争が絶えない事から古代遺跡の解析すらままならないというの
が人類学上の悩みだろう。多神教のメソポタミア神話は彼らの信仰した宗教であり、彼
らの共有し、発展させた神話体系である。これらを壊したのがこのユダヤの一神教の信
仰であった。この頃の自爆テロも又この時代の多神教破壊につながった行為に似ている
。そしてユダヤ教、マニ教、グノーシス主義との接触によりほとんどの宗教的伝統は失
われた。だがこの時のメソポタミア神話こそ旧約聖書の本流であった。その為メソポタ
ミアの宗教文化は後の宗教に多大な影響を与えている。その影響はカナン人、アラム人
、古代ギリシア人、フェニキア人の宗教に、さらにユダヤ教、キリスト教、マンダ教、
イスラム教などの一神教にも及んでいると言われている。紀元前2335年頃、サルゴンが
全メソポタミアを征服し、アッカド人とシュメール人を世界で最初の帝国に組み入れた
。帝国アッカド帝国はメソポタミアを統一し、アッカド人とシュメール人を一つの支配
として200年の統治があった。こうしてメソボタミア文明は確立したが、今だ謎は多
くメソポタミアの宇宙観について具体的な文献は現れていない。しかしさまざまな記述
の研究を通してメソポタミアの宇宙観を、少なくとも部分的には正確に復元している。
。紀元前千二百年頃に書かれた創造の叙事詩では神、マルドゥクが母なる神ティアマト
を殺し、その半身を使い地上を作り、残りの半分から楽園と冥界を創ったとされ、同期
に書かれた別の文献には、宇宙は回転楕円体で、神々と星の住まう三層の楽園とその下
の三層の地上からなると描写されている。



488: 名無しさんAA:17/06/30 22:48
自立主義を貫け  21    「黒焦げの先進諸国」12

 ここにこうした古代の事を書いたのは、ユダヤ人が二千年前に自分達の国家だった。
と横取りしているイスラエルはもっと昔の四千年前にパレスチナ人が住み着いていたと
言う事実があるという事だ。更に旧約聖書の一神教はユダヤ人がユダヤ人の為に作った
勝手な宗教だった事だ。事実から言えばシュメール人のアッカド文化はバビロニア時代
からは少しずつ解って来ている。中でも最近発見されたイシュタルの壺は紀元前二千年
紀前半の信仰を物語るものだ。いわゆる「イシュタルの甕 (Ishtar vase)」に描かれ
た女神イシュタルは、翼を持ち神聖な角の帽子をかぶるっている。多神教であるメソポ
タミアの世界は 交易もあり様々な神々の存在を許容したと言える。一方で単一神教と
しての各個の信者集団が 特定の神をより優れたものとして信仰した物があった。それ
は集団の祖だったり集団を支え指導した神とも言える物だ。国家としての多神教の中の
一人の神を集団や村落ごとに持っていたのである。こうした村落集団は大きい都市ある
いは都市国家ごとに形成されやすく、それぞれの都市の守護神となり信奉したという。
例えばエンキ神は都市エリドゥ、アッシュール神はアッシリアそのものの、エンリル神
はニップル、イシュタル神はアルビール、マルドゥク神はバビロンの守護神と考えられ
ている。そういう事でメソポタミアにどれだけの神が存在したのかは分かっていないが
、タルクヴィストの著書では今日知りうる限りでも、およそ二千四百の神々が存在した
としている。その中殆どはシュメールの名称を持っている。シュメール語で神々はディ
ンギルと呼ばれ、一方アッカド語ではイルと呼ばれていた。この2つのグループでは、
お互いの神に寛容であり思想の交流があったとされ、お互いにそれぞれの神を取り入れ
ている。このアッシリア文化圏は、アッカド帝国の支配地であり イラン、レバント、
アナトリア半島、カナン、アラビア半島の歴史でもある。そして今も又この地が砂漠で
世界の終わりや再生の鍵も持っている地域である。実は有史以来この地の動向は世界を
変えて来た。ゲルマン大移動・十字軍の遠征・胡椒探しの大航海・戦時の石油支配と、
それはそれは火薬や紙や塩や建築と数限りなく影響を与え続けて来た地である。ここが
今や戦乱の地なのだ。






489: 名無しさんAA:17/07/02 09:37
自立主義を貫け  21    「黒焦げの先進諸国」13

 もし新しい時代が既に来ているとしたら。シリコンバレーからの誘惑だろう。今や既
に第八の選民再生計画が持ち上がっているのかも知れない。日本が満州国を作ろうとし
たのは日本人の意志ではない。実は金を借りていたユダヤ金融家の提言によるものだっ
た。即ちユダヤ人の建国計画である。この膨大な金を運用していたユダヤ金融資本家も
実は国の無い事の落胆と建国の意志は高かった。従ってドイツにもフランスにもソ連に
も何処でも金を貸していた。そして米国にも貸付して居た為に自国の国の造幣権を米国
は持たなかった。その為に今のFRBがあるのだが 実は当然の如く各州はそれぞれの
国だった事も有り統一通貨は望ましい事だったのだ。ドイツではヒットラーが出て賠償
金や債券の支払いを無しにして借り逃げをし仏国の絵画などの宝飾品や高級品は根こそ
ぎ自国に持って帰ってたが 日本での敗戦時には逆に満州で100万ドル日本で200
万ドルの紙幣担保用の金塊が無くなったとされている。満州はソ連に本国のは米国に行
ったとされフィリピンの山下財宝と言われる物も現実には軍発行紙幣の裏付けであり、
約70万ドル相当だったと聞く。が結局は満州での米国参加やユダヤ国建設には至らな
かった。よくハリーが断られて云々と聞くが実はその前に既に海運が盛んになった頃で
満州国が海に面してない事で共同経営を断れている推移がある。今でも末法思想は強く
終末論義は盛んだがゾロアスターは紀元前1600年から予言者を占っている。千二百
年周期説に立てば2400年であり四百年を差し引いて行けば西暦二千年は既に新しい
年になる。つまり現代のAI人工知能は既に人の新しい時代の幕開けのようにもみえる
。「闇の権力組織」といえば、英国であろう。今回のEU離脱も「影の世界政府委員会
の謎の組織が反対したいわれている。「三百人委員会」、別名「オリンピアンズ」とい
うオリュンポス十二神をもじったこの考え方は、イルミナティがフランスを本部として
進化したのと同じように、選民主義と悪魔主義を真似た、超国家的組織を夢想したバロ
ンの言うオルタネイティヴショック暗黒社会の世界を突き進んでいる。



490: 名無しさんAA:17/07/02 09:37
自立主義を貫け  21    「黒焦げの先進諸国」14

 こうした事は昔からずっーとあった。「新選民計画」として末法思想と共に戦争した
。物見の塔であるエホバの証人は終末期こそ明示しないもののこの終末思想に基づいて
人のやるべき人道を説くクラブである。日本の末法思想は人の個人の死の後の輪廻転生
の世界を説き樹になる虫になる魚になる世界で、行き先を地獄の閻魔大王が振り分ける
が終末思想は、世界が終わりを遂げてその時過去の行いで神が振り分けるとしている。
この個人と世界の違いは、日本は信仰に走る為に生まれた物に対して欧州では信仰より
は信仰を越えた人民選考や世界制覇に使ったのである。先に述べたようにこのユダヤ教
からはみ出たメソポタミア神話の伝記は一部を抽出して聖書と言われる書物になった。
こうして唯一神となった神はヤフェと言われたりエホバと呼ばれたりしたが 全知全能
の神となるしかなかった。他の能力を宿す神を受け入れれば その神話である聖書が、
収拾つかない物語になる事をローマ帝国は知っていたからだ。此処に人がどうやって生
きて来たか。どういった暮らしをして来たかの違いがある。日本人の多くは権力の下で
は生きていない。殆どが自力で生きそこに共生社会を産んで生きて来た。極寒のロシア
でも同じだっただろう。だが砂漠の地は緑地や肥えた土地の防衛によって大きくなった
。水をもつオアシスでの生活と思われがちだが 此処には強い集団の防衛は欠かせない
要素だった。此処に一神教思想の要がある。バビロニアやアッシリアで多神教に染まり
ながらも 集落や都市国家の象徴の神が必要だった理由である。これが世界大戦中での
宗教と思想の闘いとして現代での分化した思考を定着させた。「一神教しか認めない」
が拡大貿易や人的交流は欠かせない帝国の文化要素である。そこで思想と宗教を別けた
。そうして封建社会は消滅を辿った。植民地拡大主義は他宗教の神や物品や文化の受け
入れざるを得なかったのだ。


491: 名無しさんAA:17/07/02 09:38
自立主義を貫け  21    「黒焦げの先進諸国」15

 アッシリアの持っていた多神教はバビロン神話はそのまま拝火教に使われゾロアスタ
ー教として一般的な宗教だった。この頃他に宗教と言う信仰の対象がなかった事も大き
く広げる形になった。インドに渡ったこのゾロアスター教はジャイナ教を作りヒンズー
教を作った。ゾロアスター教即ち拝火教では善悪二元論であるとされるが実は違ってい
て話や説話は二元論で進められるがツァラトゥストラの三徳論こそが肝心の部分である
。つまり霊的意識と現在の実体と更に未来の光(創造・混合・分離)の世界観から成る
。従って善と悪は闘うのだがこの闘いこそが善である。と言う考え方である。これを以
って平和の祈りや鳥葬の意味が又違っている。つまり我々は自然と共に生きる意志表示
が鳥葬であり、平和は常に戦う中の一時の祈りでしかないと言う尊さである。この中で
苦行・禁欲主義をもって「三つの宝」(1)正しい信仰、(2)正しい知識、(3)正しい行い、
で解脱を説く。歴史的にはヒンズー教の階層主義の方が先なのだが、出家者のための五
つの大禁戒マハーヴラタの実践して目的を果たすとした処は殆どゾロアスターである。
(1)無生きものを傷つけないこと(2)虚偽のことばを口にしないこと(3)他人のものを取ら
ないこと(4)性的行為をいっさい行わないこと(5)何ものも所有しないこと(無所有)は
過激に人を諫める。とは言え分派したマニ教やヒンズー教は西に分派したユダヤ教や、
キリスト教やイスラム教と殆ど似ている。マニ教は、ヘレニズム世界の神秘主義的哲学
グノーシス主義、パレスティナのユダヤ教およびキリスト教、初期教ゾロアスター教、
また、ローマ帝国で隆盛の太陽崇拝のミトラ教、伝統的イラン土着の信仰、さらに東方
の仏教・道教からの影響を受けた、摂取・融合している宗教とされる。それはマニ教の
母体が、古代ペルシアの宗教ゾロアスター教を教義の母体としているからだ。ユダヤ教
の預言者の系譜を継承し、ツァラトストラ、釈迦、イエスなどは、いずれも預言者であ
り後継と解釈し、マニ自身も自らを天使から啓示を受けた預言者と位置づけて、「預言
者の印璽」を権威としてる点にあるからだ。


492: 名無しさんAA:17/07/02 09:38
自立主義を貫け  21    「黒焦げの先進諸国」16

 こうした精神世界の偏移は、人類の進歩と共に活動しある時は皇帝の権威にある時は
人の拠り所として法治基準の源になった。そして今AI知能が発達して来ている中では
かなりの重要な部分を占める事になる。此処でヒンズー教を話す前に韓国に出来た階層
社会を話しておこう。従来から韓国はよく道家儒教の社会で家長制のある秩序社会と誤
解されている節がある。実は韓国に於いて統一教会などと言う新興宗教が華やかなのは
この家長制も儒教社会も存在していない証である。近年の大統領排斥主義もその中にあ
る。李氏朝鮮時代には一般的に両班・中人・常人・賎人の4つに大別され両班とは皇帝
朝鮮王を守る為の官僚に属する人だ。中人とその支配下として土着の領主などだ。そし
て常人とはその税収する農民達である。この一般的税金徴収の民が常人である。そして
この常人を農奴として使う事が出来使われる奴隷が賤人なのである。この他にも国民は
いた。それは僧侶とか貴賤者とされる娼婦や踊り子や放浪者や外交員なのだがそうした
体制は何もこの国だけとは限らない。多くの国がそういう体制を敷いていた。そして、
この奴隷と言う制度を作ったのがインドのカースト制度である。古く紀元前13世紀頃
には既に在ったらしく、その原因はインド内のマハーラージャ制度による。日本では、
マハラジャで言われるが、この「偉大なる王」という「マハーラージャ」という言葉は
ヒンディー語、マラーティー語、ラージャスターン語、マールヴィー語、テルグ語、オ
リヤー語、パンジャービー語、ベンガル語、グジャラート語など様々なインドの言語に
おいて、この言葉は語彙の一部になっている。イスラムのスルタンと同じである。所謂
部族長であり、皇帝とも訳される。だが皇帝となればイスラム国が求めたカリフ制であ
りあくまでも部族の長「王」と考えた方が妥当であろう。このヒンズー教こそは、宗教
の中で何の決まりも無い世界観に満ちたもので ヒンズーの中にユダヤ教も仏教もイス
ラム教もキリスト教もいる不思議な宗教観を持つものだ。加えて言うなら仏教が出来る
ころ屠殺論争が起きた。人は生き物を殺して良いかという事だ。これに仏教に敗けそう
になった事で牛を殺さないとして衆支持を得た。これまでをバラモン教としその後にあ
る教義をヒンズーとしている。


493: 名無しさんAA:17/07/02 09:38
自立主義を貫け  21    「黒焦げの先進諸国」18

 ブライトバートではポピュリズム愛国主義 国家強権 法化差別社会 移民排斥主義
などが続く。オルタネイティヴショックとは、代替案である反亜流ショックであろう。
思想体系の中でこれほど思想として堅さのないヒンズーが何者にも勝る形で体系を整え
て第3の宗教としているのである。ある意味この東に出て来たゾロアスター教の変化は
逆に東に出てきて、イスラムやキリストに変化した思想を変えているのかも知れない。
というのも日本仏教は神仏混合の影で国家神道を取り込んでしまったがその理由がこの
仏教がヒンズーからの解脱だったからだろうと言うのは容易に想像がつく。イスラム国
の過激な原理主義がイスラム教とかけ離れているとイスラム教徒がどう弁明しても排斥
し殺人や聖戦士と聖戦を許容した宗教にその正当性はない。そもキリスト教が人間は罪
の中にいる悔い改めなさい。との教えは大人の人間にそう子供に教えて自分がまともに
なる方策を示しているのだろうが 教えとしてはおかしいものだ。この矛盾が今のテロ
に繋がっている。日本で自爆テロが少ないのはこの考え方の違いである。だが国家が今
コミニュティ自治に頼ろうとしていると言う極めて危険な状態だ。と言うのは自治を行
う為に国家を形成したのにその役割を成さず ゴミやインフラや治安を地域の族長に委
ねた決定をしているのだ。これは政府が決定権も決断の責任を取らない諮問委員会に委
ねている事と同じである。議員や総理大臣は職業ではない。国家を委ねるに選ばれた者
である。言わば兵士と同じ最大のボランティア行動者なのだ。それが今やその任を放棄
した論戦を行っている。それは軍国主義全体主義に等しいもので 決していい事ではな
い。近年の現象はそうした分業化の中の 非人格化作業で社会を進めようとする動きだ
。人々がAIやロボットを産んだのは 人への手助けを欲したものだ。つまり「高度な
道具」の必要性である。この道具が高度でありながら役に立たない。そこで人はいつし
か人が道具に寄り添う事にしている。例えば溶鉱炉の火を止めずに人が三交代で仕事を
するように。



494: 名無しさんAA:17/07/02 09:39
自立主義を貫け  21    「黒焦げの先進諸国」19

 今「気付きの瞑想」が思想界の活動になっている。シリアの紛争が国内改革から紛争
に至った事には、反体制派の「自由の欲望」と共に現国王の倒壊での「解放の夢」が、
そこにあった。と分析されている。それはイラク侵攻でも フセイン打倒でもなぜかそ
こには全く筋道のない「夢」が民衆にあった事が証明されている。それは満たされない
心の欲望であり 全く不満や鬱積のはけ口でしかなく 全く自由への扉でも論理の帰終
でもなかったのだ。それは今のイギリスのEU離脱も同じで 離脱の工程も離脱後の姿
も見えない中で人は離脱に票を投じた。それは全く見えない「夢」に向かった行為だっ
た。つまり「夢の実現」に固執して現実を見失ってしまったのだ。「あらぬ夢」に悩ま
され毒の中に判断してしまったのだ。「中華の夢」も「アメリカ第一主義」も言葉に操
られた人々の「あらぬ夢」の苦悩である。人々が社会生活し文明が進化して その陰で
失業者が出るのは当然だ。この失業者を無くすのが未来として「夢」を描いている。が
実は違う。先進国で仕事がなくなる事は「人口増加」への解放である。中国もインドも
人の生まれる要因は老後の保証や生活の支えである為 幼年労働未成年労働が問題にな
っている。人身売買も同じで少女の売春と青年の兵士化が目的である。更に貧困の格差
社会と臓器売買は同一のものだ。即ちこのアメリカが人権問題環境問題に取り組んでい
ない理由は企業や裕福な者の傲慢な「欲」と「夢」がそれをさせている。これは中国も
又孫う事なきこの実現しても未来を作らない傲慢な夢の中にいる「中華の夢」を掲げた
習近平は「一帯一路」を掲げて「AIIB」を作った。先のこのイスラムは愚かイエス
キリスト及びユダヤ教の持つ旧約聖書の歴史的事実であろう流れを述べたが、この今の
問題がどう考えてもわざわざ過去の歴史を壊す為にイスラエルが仕掛けた罠に見えて、
仕方がない。この古代史に於いて歴史の持つ事実を証明する遺跡が次々と爆破と紛失し
更にこの現地での研究者の命まで奪われているからだ。


495: 名無しさんAA:17/07/02 11:08
自立主義を貫け  21    「黒焦げの先進諸国」20

 「気付きの瞑想」の重要性は苦しみを支える事にある。誰でも喜怒哀楽の中で生活を
している。その中には間違いも後悔もある。それが人生であるとすれば唯一出来る事は
後悔や間違いがかつての様な「進歩の為に学習の場」に帰る事が重要だという事だ。こ
れは国家経営でも言える事だ。第二次世界大戦は第一次世界大戦の「悔やみ」や「戦争
の悲惨さ」をドイツ人が学ばなかった事にある。中東の今も収まらない紛争は 米英が
認めて出現した「イスラエル国家建設」の間違いを認めていない事にある。そして米国
は「共産党経済の疲弊」を全く学んでいない。更に中国はかつての戦争の過程に「学ぶ
物」を見出せないでいる。このはき違えた政治や外交には、西側社会の基本理念の三大
原則の確認をするべきである。この主権在民・人権保護・平和主義の鉄則を持つ法治国
家主義を持っていない。つまりこの三つの一つすらない国家に 何故西側は同じ同盟国
の様に接するのであろうか。と言う疑問と疑念に全く答えていないことである。米国が
自らの国が輸入超過による産業空洞化を懸念している事は解っている。だが恐らくは、
それは話し合いの出来ない共産国家がそこにある事が理由であろう。ロシアが掲げた、
米国が覇権国家としての行動が我慢ならない。と言うのは国連加盟国の全国家の意見で
もあろう。その中で暴言を吐き虚勢をはり行動に不審があるのは 国民が正しい大統領
を求めていない姿にある。此処にも人の夢の姿がある。こうした挙動不審な行為は選挙
時から既にあったものの米国民は恥であるトランプ氏を持ち上げ大統領にした。いまや
米国はシリアやイラクの問題から遠ざかって対移民政策に移ろうとしている。だが国際
社会はこれを許してはならない。それはまだ「オサマ・ビン・ラディン」が本当に犯罪
者であったのか。「サダム・フセイン」が何の罪があったのか。が全く明らかになって
いない上に「ブッシュJr」が全く裁判されていないからだ。かつて国際法の下で東京
裁判は「戦争を犯した罪」を定めた。この規定に戦勝国だから逃れられるというのは、
最もな欺瞞に値する。この真実に寄与し、先に言った「戦争の過ち」の気付きや学習が
なければ全く又同じ悲劇が起きる。つまりブッシュ裁判が行えない限り悪禍は終わらな
いのだ。


496: 名無しさんAA:17/07/03 00:02
自立主義を貫け  21    「黒焦げの先進諸国」21

 こうして世界にとってはブッシュ政権は悪魔の使いの様な政権であったが、トランプ
政権は負けず劣らずの無責任政権である。なるほど揺れ動く気持ちはあろうが、中国か
らの経済を排除しない限り明るい未来は見えて来ない。更に今や影響力排除は難しいま
まにここ30年推移している。この間違えた経済協調は 10年後日本が中国に付いて
いく事まで発展するだろう。既に東南アジアにおいては米国と中国のどっちを選ぶかと
言えば米国は販売先のお客であり中国は下請けの協力業者若しくは同業者仲間となって
いる。お客は売れる場所があれば別に米国でなくともよいが仕入れ先は他にないだろう
。従って生きる為の選択は中国である。と判断するだろう。事実AIIB発足に英国を
始め西側16ヶ国の参加は極めて異様だが そうした馬鹿な判断を先進国でさえした。
と言う結果がある。もう米国は用無しの汚名があるのだ。この発足時に親米国である英
国が参加を表明した事で続々とAIIBへの参加を決めた。ドイツ、フランス、イタリ
ア、イスラエル、オーストラリア、韓国である。更にアルメニア、ベルギー、カナダ、
エチオピア、フィジー、香港、ハンガリー、アイルランド、ペルー、スーダン、東ティ
モール、ベネズエラが今回参入した。AIIBはアジア・インフラ・開発銀行と称して
いるが、インチキペテンの類である事が今回の幾つかの事業で証明された。もともと、
このAIIBのビジョンや理念がなく設立すべきガバナンスや融資審査やドナーとの協
調は危ぶまれていた。中国の議決権シェアを50%よりもはるかに高くかつ本部に常駐の
理事を置かず国際的監視団体の手も届かない国内を基盤にしている。従ってこの決定に
中国の共産党中央銀行である人民銀行の総裁と共産党中央の具体的には習近平主席の許
可若しくは意向で決定される。つまりは中国側は他の共産党指導部層の隠れ蓑としての
汚職が欲しいと勘繰られても仕方ない方式に替えたのである。中国内の開発には常に一
定の闘争が行われ中央指導部であっても地方の各種の繋がりまでは把握できなかった。
それゆえ江沢民派や胡錦濤の下、縦のラインで団結する共青団、「胡・温・習」主導と
される薄熙来事件では太子党と呼ばれた緩やかな繋がり、末端の県、郷で親族への就職
斡旋や裏口入学などが行われている現実など 不正や腐敗が横行している実態の中で、
中国の習近平国家主席が反腐敗対策を宣言する一方で、当の習主席や温家宝、李鵬らの
中国共産党や人民解放軍幹部が海外の租税回避地に蓄財している一端が、告発サイトの
「ウィキリークス」によって流出した。

497: 名無しさんAA:17/07/03 00:02
自立主義を貫け  21    「黒焦げの先進諸国」22

 我々は今一度立ち止まって「普遍のガバナンス」と言う人類の為の統治制度を見直す
必要がある。この主権在民・人権保護・平和主義の鉄則を持つ法治国家主義を持っての
政府以外は政府として容認してはならないと言う基本だ。この基本が1900年代には
なし崩し的に米国から変わっていった。中国元を認証しFRBは米国債の購入に値下が
りを恐れて、中国の参加を認めて売り出した。これが間違いであった事は論を待たない
。そもIMFや日本からの貸付金すらも返せず国際機関への拠出金も渋る国がAIIB
なる融資銀行を作った理由はその西側の不用心な投資が起こした事のである。今後に全
くの出鱈目決済と言わざるを得ない状況は続くだろう。過去8年間において、中国共産
党は国家レベルのハッカーシステムを拡大させて行った。人権は勿論法的倫理などの規
制はなく権限と独裁の下でずっと全世界の銀行システムに対して調査、測量を実施し、
感染させていった。ある時は遊びの様なプログラムであるときはIC基盤に入れてある
時は新しいOSの中に組み入れてそれを行った。考えられない盗用は彼らは得意とした
。更に二千年以降は進化しシステムのセキュリティホールを得てから、このセキュリテ
ィホールを利用した全世界の銀行システムに侵入に成功した。こうして彼らが必要とす
る資料を盗み取り政府交渉に利用するに至った。対して米国は衛星電波の盗聴システム
は完備され同盟国の会話すら盗聴された。日本の通信決済や位置情報システムは、その
発展に寄与した。香港の民主化が整わないのはこの利用が中国は抜きんでて規制出来て
いるからだ。米連邦準備理事会が保有するバングラデシュ銀行の口座が今年2月にハッ
キングされたり日本の一斉バンキングにより持ち逃げされたのが南アフリカのカードだ
ったり金取引の保険詐欺の舞台が日本だったりするのは、この中国の大きな政府指導下
の情報戦略の成功によって行われている。これに既に英国は負けたのである。そして今
ロシアを通じて又負けようとしている。従って南沙の海が中国の物になるのは時間の問
題であり この事で東欧州にロシアの威光がとどろく事になるし中東政策が失敗する。
この事は先進諸国には手痛い打撃なのだが歴史は戻らないし、米英の馬鹿さなのだから
仕方ない。


498: 名無しさんAA:17/07/03 00:03
自立主義を貫け  21    「黒焦げの先進諸国」23

 この普遍的価値の創造を広める事は 実は人類の人口削減になる事は随分前から解っ
ている。まず文化生活の為の主権在民・人権保護・平和主義の鉄則を持つ法治国家主義
は「自由・平和・平等」のフランス革命の芯である。そこには教育の必然と老後生活の
保証や病気治療や療養などが保証されれば人口が増えず先進諸国はより一層の教育を求
めて支出をし今までの文化生活を捨てたくない為子供が増えない事が解っている。既に
五十年も前からの追跡調査を行っている国際婦人問題研究所の発表がそれを物語ってい
る。これが今中国にも押し寄せていると言われている。大体英国の失敗とドイツの成功
の違いはこの中国の餌になったかどうかである。その分かれ目がフランスにある。それ
は原子力である。フランスのアルヴァはフランスに本社を置く世界最大の原子力産業の
複合企業で、傘下に複数の原子力産業企業を有する。フランス共和国政府の原子力政策
の転換によって誕生した持株会社である。が此処にも中国資本が投下されている。それ
は日本の新幹線同様に中国国内の原子力発電所設置の事業に中国公司の資本参加は不可
欠だったからだ。東芝はアメリカのウエスチングハウスとの事業展開で失敗したが三菱
との資本参加のフランスは今だ健在である。ではイギリスはと言えば浜松の再処理計画
の廃止で原子力政策の挫折に至ったのだが、そこに百%中国に委ねた新たな原発稼働を
開発している。これは英国の無茶苦茶な馬鹿げた事の一端である。英国は公共タクシー
組合があるがここにはイエローキャブに似た黒いタクシーが中国資本に取り込まれた。
この事で車は全て中国製の自動車の故障率は2倍以上壊れた部品交換率は3倍に上った
。こうして中国は資源を無駄にするのを進めている。AIIBの作った「一帯一路」の
構想そのものは全く中華人の夢物語であろうが、この裏にある覇権主義はかなりの自然
破壊がある。今までもアフリカ投資の失敗は原住民の食卓を奪った事が原因だが、今も
この投資事業でかなりの国を窮地に追い込んでいる。ベネゼエラもインフラ整備を3年
も前に発注してるが建設に至ってない。スリランカのハンバントタ港開発は特に悲惨だ


501: 名無しさんAA:17/07/03 13:01
 自立主義を貫け  21    「黒焦げの先進諸国」25

 この中国の高利貸しを止まない状態は、恐らく既に中国が債権状態つまり収支の行か
ない状態に陥ってる事を物語るのだろう。それは当然である。普通人は家と言う高い値
の付く投資は不用意に建設しない。そこには住むための必要性があるから自らの財産を
切り崩して行う。勿論イギリスの様にかつての遺産として持ち家のある者が生活以外に
投資として起こるものも何割かはある。しかしそれでも国家規模で言うなら当然資本財
としての税金と維持管理の費用が社会資本として運用される。それは投資といえども、
そこに生産性が街なり人なりに加わるからだ。今度も豊洲移転問題も冷凍機を動かして
居るから高額な事もあるがそれでも 土地の整備や建物の償却は只の建物で東京都が売
り出しても一銭の価値もない。築地の職人が移って初めてそこに価値やブランドが出来
るのである。それはソフトでもハードでもない。仕組みとしての実像であり考え易い様
に人が勝手に切り分けているにすぎない。ところがである。中国には人の住まない高層
のビル群が乱立しているのだ。人が生活して価値を産みだすものが人が居ないまま5年
は放置されている。それも数ヶ所ではない。何十と都市化した町があるのだ。この負債
が持ちこたえる筈はない。既に三年前から国営銀行として発足した農業銀行、建設銀行
工商銀行は理財商品による放漫経営で破綻は知られている。人民銀行と中国銀行は紙幣
発効の中央銀行である。残る郵政貯蓄銀行と民生銀行光大銀行は投資に失敗している。
となれば 海外投資と海外からの投資に頼ざるを得ないのだ。そこで積極的に他国に貸
付し又国内に投資を呼び込む為の隠れ蓑として海外開発を選んだとも考えられる。又今
中国高速鉄道は盛んに沿線の延長を誇りにしているがその回収率は至って少なく、日本
の北海道並みとされる。つまり保線費用が出ていないのが現状なのだ。これが続くとは
全く思えない。そもそも自然破壊して、人が出来る人工物には生産性はないのである。
現代の資本経済に於いて差額がでるだけで 資本が貯蓄出来るのは自然の手助けからし
かない。例えば南沙諸島はかつてはフランス軍やイギリスが発見し第一次世界大戦以降
は日本海軍も知っている島だ。だが誰もこの海の美しさや豊かさを壊す気にはなってい
ない。それはそこに行く漁民さえも同じで 領有したいとか開発するとか具申した者は
皆無だ。だが中国は違う。韓国との境界上の島も 日本が守って来た赤サンゴ場や北方
の日本海の漁礁筏も南のサンゴ礁内の漁も何もかも根こそぎ壊していくのである。


502: 名無しさんAA:17/07/03 13:01
 自立主義を貫け  21    「黒焦げの先進諸国」26

 国内の鬼城もそうして作られた。風情豊な、かつての街中を突き切ってわざわざ壊し
て街づくりしたのだ。このやり方は日本の馬鹿な街造りと同じだ 福岡県などはあり得
ない程不正な街づくりが続き緑地も旧家も無くなったが、中国はこうした事を真似たの
だろう。馬鹿な事だ。過去の中国不動産価格の上昇には地方政府による操作・助長が関
係している。なぜなら、高い住宅価格は高いGDPの数値に跳ね返り、政治実績の向上
に繋がり、その分評価が高くなるからである。即ち日本で言う不動産評価が高くなる事
がそのままそこに従事した官僚の評価となるのである。では今どうなっているのか。東
部地区は+7%、中部地区は-0.8%、西部地区は+2.6%であった。としている。この影響で、
全国の一般公共財政収入伸びはわずか+8.6%で、91年以来最低水準の伸び率となり、
初めて一けた台の伸びとなった。としている。これは可笑しな事だ。現在、多くの地方
で土地の入札が成立しなくなっています。建築済みの多くの住宅の在庫が売れなくなっ
てきています。不動産の減速はいま始まったばかりです。と公式見解している。網易房
地産頻道の統計によると、地方財政の土地譲渡収入への依存度について、最も高いのが
浙江省の66.27%、次いで天津の64.56%、福建省の57.13%となっている。依存度が最も低
いのは、河北省の22.13%、山西省の20.67%となっている。つまり土地建物売買の収入依
存度が6割以上ある中で、価格が下がって入札出来ない中で伸び率がある。としている
のだ。大体中国経済は海外投資依存度が4割不動産依存度4割後の2割が貿易であると
され内需の税収を殆ど持たない世界と言われていた。地方においての今年1,2月 の財政
収入はマイナス成長と言われ、黒竜江省は-26.2%、遼寧省は-13.5%、山西省は-24%、天
津は-8%となっている。このマイナスを足して往って何故+6〜8%のGDP伸びの公表
になるのか私には全くわからない。ただ中国は、中央アジアとの関係で、金融危機の中
2010にかけて、ロシアに代わって中央アジア地域最大の貿易パートナーとなること
に成功したそのペースは驚異的である。10億ドルの貿易が500億を越え今は800
億さえ超えているだろう。つまりウイグル人を押さえ交易相手の中国が直接取引しては
利益に結び付いたとも考えられる。この鬼城であるゴーストタウンも意外に東北部での
街が多く砂漠地帯は意外にも少ないし港湾部も少ないのである。つまり数字や管理はな
いが したたかな外交を以って経済を支えていると言える。つまり既に高利でこの油田
地帯に貸付していた。とも考えられる。


503: 名無しさんAA:17/07/03 13:02
 自立主義を貫け  21    「黒焦げの先進諸国」27

 今後 土地譲渡収入の減少は、財政収入の減少に加え、地方政府が担保する銀行融資
、償還期が迫る中 地方政府債務の返済等に、大きな問題になる可能性がある。と言う
よりなっている。今まで中国の経済発展は、政府の投資、特に地方政府の投資への依存
が非常に高かった。だが今や地方政府の収入が減少し、政府の投資、経済全体への影響
が非常に大きくなっている中、偽の決済は東芝どころではない状態のはずだ。現に今や
デパートマードックは中国のハードランディングは避けられないと 一挙に株を引き揚
げた。つい一年前までは、中国程投資家に優良な環境はない。私はこの上海で一生終え
るだろう。と言っていたのにである。では何が起こったのか。それは先に言った基本の
信頼に足りる情報の無い事の大きさの見間違いであろう。如何に「自由・人権・平等」
が必要かが「今の欧米人」に解っていない事が大きな原因である。基本的に何の根拠も
ない数字が出る中国に 「まさか。間違えた数字は出て来て嘘はあったにしろ出鱈目や
いい加減はないだろう。」と思うのが普通だ。一応の国家であり一応の実業会社である
からだ。だが高速鉄道よろしく 全く何もない「無」から彼らは今勉強して技術を創り
出しているのだ。これは非常な努力である。にも関わらず彼らには 他の国にあるよう
な「国家建設状態」がないのである。人々が努力している革命的状態を享受も共有もし
てはいないのだ。更にどんなに上海や北京でビルが建ってもこの土地の持ち主は国なの
だ。つまり強権的に立ち退きを要請されれば個人の価値も権利も無いのである。この中
にあって高価格維持しているのは空室でも売れない理由がある。投機しているのが政府
自身であるからだ。一方民間では豪州やカナダなどに投機して住宅購入をしている。現
地では持ち主不在の空き家同然で維持管理しない姿に弱り切っているのが実情だ。この
強欲で「国離れ志向」は中国人自身が自国を信頼していないし嫌っているのである。又
この勢いハードランを起こさない為にAIIB資金を募集したとも言える。景気指数は
この資金の投入と共に上向きに変化しカナダ等の追加加盟で又持ち直しした。だがこれ
も時間の問題である。見返りのない投資資金などあり得ないからだ。

504: 名無しさんAA:17/07/03 13:02
自立主義を貫け  21    「黒焦げの先進諸国」28

消息筋によると、中国解放軍電脳攻撃部は、何処でもドアブラックホールIC基盤を、
特定なネットワーク犯罪グループに販売するのではなく、一つ銀行のホールを 一つの
グループだけに販売しているという。また、彼は目標別の銀行リストを提供できる、と
示した。現在、同リストの目標銀行はどんどん増加されて、なかには侵入された銀行と
ネットワークで連結されている中国内銀行がある始末だ。米国、ラテンアメリカ、アジ
アなどの一連のセキュリティの希弱な銀行と金融システムは殆ど含まれているという。
米国大学教授は、「これらの犯罪グループは一旦システム情報を得ると思いがけない程
の悪事を働けます。口座の資金を移転して、資産を盗み取り、預金者の情報を公開して
、多くの個人のプライバシーはすべて露出され、しかも、中国共産党の提供する情報で
ハッカーが1つの銀行をハイジャックすると、そこから他の銀行仕様も判明します。又
他の預金者も恐れて、争って銀行の口座から現金を引き出す現象が現れる可能性があり
、露見するとこれらの銀行は潰れてしまうでしょう。」「中国共産党のハッカー行為は
一旦実証されると、全世界の金融が巨大は衝撃を受けるでしょう。」「英米国などでは
、銀行はみな貯蓄保険に参加して、1つか2つの銀行で争って銀行の口座から現金を引
き出す現象が現れても、幾つかの銀行が破産しても、連邦保険機構はまだ対応する方法
があります。しかし大型銀行に発生したり 複数同時に発生したら、西側諸国のすべて
の金融体系が崩れてしまいます。もし中国共産党のことだと証明されて、国家行為によ
る事件の場合はかなり危険だが、それが証明出来ない場合各国に執拗な脅迫が出来有利
な交渉が出来る。これは中共が西側諸国全体の金融体系に対して核兵器を用いたことに
等しい。」「この共産党解放軍産体が民間電機公司を通じてブラックドアを販売しよう
と決定した時でも、これらのブラックドアに対するログインする権利は失わず、言い換
えれば、彼らは依然として、合鍵を持って銀行のネットワークシステムに侵入できる。
彼らはブラックドアを販売すると同時に、自由進入する目的に達した。一つは金を設け
ること、もう一つはこれを看板として、更に高いレベルの侵入行動を覆い隠す事でが出
来た。これは国家規模の 覇権が成し遂げられた事を示している。



505: 名無しさんAA:17/07/03 13:03
自立主義を貫け  21    「黒焦げの先進諸国」29

 調査によると、このドアに使用されている暗号は複数の鍵があり、一部のコードには
中共ハッカーらが自ら開発したもので、一部は彼らがロシア大学から購入したコードだ
と言う。現在表面から調査している研究者に間違った結論を出させる可能性がある。只
こうした経済が数字上の羅列になっている状態で中国は実体経済にテコ入れしている。
カナダ、米国、メキシコは北米自由貿易協定(NAFTA)を構成している。これを利
用してカナダの首相を懐柔させた。アジアー太平洋ー北米においてトロント市を人民元
の基軸通貨に近づける努力を惜しまないという姿勢である。最初に、中国とカナダの両
政府間合意で人民元での決済の為替取引センターの創設した事だ。これでトロント市に
所在する中国工商銀行(ICBCの管理)のもとに、カナダドルと人民元の交換性合意
が交される。この合意は今後の対米ドルのレートとの関係を配慮する必要が無くなり、
カナダ企業にとってはこの先110年間に62億ドル(7,316億円)の節約が可能になる
というが 中国にとっても今後価値が下がらない為の保険になる。そしてカナダの土地
購入に刷り過ぎた価値の無い元紙幣が有効になる。更に中国人民銀行とカナダ中央銀行
の間で3年満期の契約で、上限300億カナダドル(2兆9,580億円)の枠内でのスワッ
プ取引が合意された。この合意によって、米ドルとの関係を絶つことになり、レートの
変動や投資へのリスクは縮小させることが出来るようにし、更に海外企業の保険になる
。又 中国は人民元域内証券投資(RQFII)規制を緩和し、カナダ企業の人民元での投資
枠を500億人民元(9,740億円)まで拡げ投資促進を果たせるのだ。これは中国からの
逃げて来た香港人を狙い撃ちしている。同様の適用はロンドン、フランクルト、パリ、
ルクセンブルグでも既に実施されていて これでカナダと中国のスイフト(SWIFT
)国家間金融決済取引も2013年と比較して2015年3月までに213%まで増加
しているという。つまり倍増した取引になっているのだ。これでは米国も経済面で骨抜
きとなる。移入した中国人が中国元でカナダ内で規制なしに商売できるのだ。そして上
海の株に投資できる。つまり中国政府はジャブジャブ刷った元で商売し儲けを又投資せ
よと言う事だ。これはイギリスの貴金属ドイツ豪州の食肉カナダの森林が中国支配にな
った事を示している。

506: 名無しさんAA:17/07/03 13:52
自立主義を貫け  21    「黒焦げの先進諸国」30

 日本政府は このスラリンカ政府に釘を刺し肩代わりすべきである。そもAIIBは
インフラ整備をADBは貧困対策に特化させようとしている。このまま対外債務40億
ドルを高利子のまま11億ドルで中国の軍港にする事を指を舐めて見ててはいけない。
平和を維持しようとするなら日本が同じ99年間の自衛隊基地としての借用しての基地
利用すべきだ。それはアフガン対策がまだ行う必要があり 日本が空母を持たないから
だ。どうせアフガンの終戦には50年ぐらいはかかる筈だし 和平維持の駐留軍は必要
となる。その後部救援本部はインド国内にはできそうにもないしパキスタンは前線でし
かない。となれば必要不可欠である。更に肩代わりして利子不要にしなければ減債には
ならず どれだけたっても中国に借金のある形だろう。更にこうして貧困を増やす行為
に中国が責任を取れないとあれば、これではADBは幾らあっても用を足さない。今後
の中国批判にも必要だ。よくAIIBとADBは争うべきでないなどと言う馬鹿がいる
。ADBは今までも中国に利用され放しである。AIIBはADBが対抗しようが、し
まいが中国政府の威光で動くのである。この中国が掲げた「中華の夢」である世界侵略
の構想は止まらないのだ。「九段線構想」での日本吸収「一帯一路構想」での東南アジ
ア支配更に「中国一国主義」による全勝作戦司令での陸上戦海上戦空中戦電子戦宇宙戦
経済戦での欧米駆逐作戦は「共産主義覇権国家論」でのロシアや北朝鮮を利用しても負
けてはならないと言う思惑だ。この自分勝手主義の行動はいまさらなくならい。これを
踏まえて日本は行動すべきで 日本が東南アジアに影響力が無くなれば 日本は一気に
窮した経済になる。幸いにも先人の苦労で 中東以下東南アジア各国は、今だ日本への
信頼を持っているが 南沙諸島問題では 米国日本に相当の落胆があり 何故中国拡大
主義に抗しないで援助しているのか と言う声は大きいとともに 自分達に中国との戦
いは避けたいとする意志は大きく あの漁民を機関銃で殺されたフィリピンでさえ敵対
を避け 韓国さえ海上警官が死んでも経済の為に寄り付いたのだ。少し考えたら解るだ
ろう未来だ。今全精力を注いでも政府や国会議員はスリランカを説き伏せる時期なのだ


507: 名無しさんAA:17/07/04 10:57 ID:cjA
自立主義を貫け  21    「黒焦げの先進諸国」31

 この中国が破綻と共に大きく変わるのを期待しているのは日本だけではない。先に述
べた様に子供に「英才教育」を求めて「一人っ子政策」時代以上の個々の自立を求めて
いる。教育資本の投下である。これにより「二人っ子政策」に変えようとも増えない。
神戸の新聞に嫌がる父親(72)へ、金の無心に行ったとして、兵庫県警伊丹署は迷惑
防止条例違反の疑いで、住所不定、無職の男(40)を逮捕したとした。父親が「我慢
の限界」と被害届を提出。同署の調べに父親は「食費や交通費名目でこれまでに2千万
円以上を渡していた」と説明している。伊丹市の父親に毎日押しかけ、2千円〜5千円
の金を要求するなどの「嫌がらせ行為」を繰り返した疑い。同署の調べに容疑を認めて
いるという。高校卒業後は定職に就かず、アルバイトを転々としながら、20歳のころ
実家を出て上京。30歳を前に、関西に戻ってきたものの、何度も実家に帰ってきては
「金がない」「仕事が決まった。これが最後」などと父親に懇願して食費や交通費を要
求していたという。 今年4月になって、父親が相談。署員が直接、男に注意した処、
「もう父親のところには行かない」と誓ったが、その後も再三実家を訪れ、金の無心を
続けたため、7月2日に父親が被害届を提出し逮捕された。男は所持金10円しか持っ
ていなかった。これが今の先進諸国の文明の正体である。人は我儘になり他人や他国の
事に厳しくなった。そしてその目は経済基準でしか見なくなったのだ。こんな姿が各国
で起こっている。今後、新しい金融システムと通貨システムが構築されると中国記事に
は書いている。これは世界の人々にとって何の解決にもならないどころか電子決済の穴
が見つかった事を意味している。この穴で中国共産党の権力者は、対米債権を利用した
米国の資産や不動産などの獲得に専念している。多くの高官が米国に家族を移住させ、
資金や資産を移しているのは米国が基軸通貨であり自国通貨が今後支えきれない負債が
出る事を承知しているからだ。中国は、実質的にFRB債権を2兆ドル持っている。が
これは過去形になりつつある。米政府は、もはやこれらの債務を返済する能力はない。
だが現在は債務整理をして少しずつ米国に移して償却している。国際資本は、IMFの
指揮下で帳簿上の数値を重くみる。従って為替レートを上げたり貿易関税を課しながら
米政府の債務の管理を行って来た。だが中国はその管理を否定し通貨の自由発行を捨て
ていない。この事は対アメリカのインフレ率を高め連動する日本や欧州をターゲットに
した国策をしている。つまり同じ品物がアメリカとアメリカ以外の国で違う事を示して
いる。日本は外貨準備があるが無い国は30%から50%のインフレが起こる、その上
中国への債務が更に覆うのである。

508: 名無しさんAA:17/07/04 10:58
自立主義を貫け  21    「黒焦げの先進諸国」32

 今中国が行っているのは 中国建て金券の発行である。米国はFRBの債権発行での
基軸通貨を治めたが中国はそうした債権は発行しない。中国元での支払いだ。何故これ
が有効なのか。それはアメリカ人の様に戦争での賠償金や物品支払いでの貿易権利では
ないからだ。中国の融資はあくまでも中国企業の開発であり中国人民労働者への給料で
ある。更に言えば対外債務をしてもそれはバーター取引の見せ金なのだ。日本の金塊が
かつてブレトンウッズ体制保持に二百億円分米国のFRBの金庫に収まった様に、中国
の銀行の金庫に相手の外為準備金が入る事で治まる事を目的にしている。2兆ドルにも
上る世界最大規模の米国債の保有はその分中国元が出て行った事を意味している。更に
既に普通では破綻したであろう人民銀行は何の規制もない。中国は、既にマンハッタン
のJPモルガンのビルもIBMの株式も買収して持っている。ましては中国はこの電算
機メーカーとなりJPモルガンと共に金融の裏は筒抜けで解ってしまっている。さらに
中国はFRBのメインオーナーの欧米の大手銀行や実物資産を買収しなくとも人事の裏
に社員を配置している。この事で欧米の正貨準備は中国によって使い果たされた。今後
も大型買収は中国を抜きには無いだろう。東芝やシャープは株主を操られ買収相手とし
ての茶々入れられた為に泥沼にはまったのである。もはや世界中のどこにも金の実物資
産は残っていない。新たな生産しているのに工業製品と中国などの装飾品に使われて、
不足するほどだ。欧米銀行の台帳から実物資産が消えて欧米が支配してきた負債ベース
の救済資金の貸し付けによる金融システムは 中国に乗っ取られた形だ。金融の中心が
アジアに移り 電子コインと金塊の実物取引が現実社会を引っ張るまでになっている。
 ここに福岡を中心とした電子決済の金塊ビジネスが発生する余地がある。ISを始め
中国や中東などは金融決済を現物でなく 電子マネーに代えた。それは持って避難する
事が出来ないからだ。出入国には携帯電話やコンピューター上のコインで充分なのだ。
そして逃げて来た欧州や日本や米国で新たな金融資本としては金が一番なのだ。銀行で
金の 預けいれだけで仲間に買ってもらえればいいのだ。となると保険が必要である。
シンガポールや香港は東南アジアの振興と共に金の現物が不足している。つまり買付け
も売りも需要は旺盛なのだ。此処で日本の関税と保険が代役を果たす。電子コイン送金
に対して取引の現物は日本円か金塊の信用が不可欠なのだ。当然黒い者が暗躍する。

509: 名無しさんAA:17/07/04 10:58
自立主義を貫け  21    「黒焦げの先進諸国」33

 整理して考えればすぐに人類の危機がどこにあるかがわかる。既に人類は働かないで
も食っていける能力を得て 食糧もエネルギーも持っている。だが経済形態を消費社会
に置いている為に 我々は自然からの搾取する量を持って利益とし その購入を支払い
とする社会や金融を得ている。此処に人や国の能力や技量の他に地理や歴史的要因での
格差社会の素が存在する。消費には当然金融があり買付けにも貸付にも或いは支払いに
も信用が必要である。表向きは外貨資本や現物担保を信用としていたがアメリカ合衆国
は勝手にこの東側の全く相いれない筈の経済に借用書切りに西側経済の中に中国人を入
れてしまった。勿論そこでソ連経済は狂ったし、何でもありのこの国が この借用書を
担保にした この国はこの信用の無い金をどんどん刷って流通させる事に成功し高利貸
で商売先を手に入れた。人権侵害や強制労働輸出禁止で殆ど新規機械を持ち出せず欧州
や米国などは工場や機械を手放すしかなかった。つまり易々とタダで設備と売先や仕事
を手に入れたのである。そしてその技術を手に今度はそこまでの道路を造るから金出せ
と言い出したのだ。だが驚くことにこれに英国は参加した。あれだけ騙されても香港を
返し資本投下をしたのだ。又他にも経理上は今だ救済資金を借りて自国の研究者や技術
者教育は相手の先進国の待遇に頼って西側の学校に通っているのだ。米国を始め異様な
に事に批判されないで先進諸国は受け入れている。自国の学生が貧困に悩んでいる中に
これは国家が行き過ぎた海外優遇策を行っている証に過ぎない。数多くある政策のうち
、こうした自らの欲で、日本では「優秀な頭脳を日本に移住させる」などシンガポール
の様な提言での政策だが現実には「大学内の劣化である 入学者の定員割れや試験成績
などの低学力化を止める方策」として海外からの留学者を入れているようだ。がしかし
この状態も学力偏差でなく定員で入れている為 大きくは幼稚化している。TPPも又
同じに手詰まりの輸出入規制は多国間合意で行こうと路線を変えたのだ。それは中国の
様な札束で顔を叩いた国になびく最貧国などが資源国であるからだ。こうした中の米国
とロシアと中国の寸劇に騙されてはいけない。彼らは今の権力や権利を手放す事はない
し、より強くその椅子にいる事を望むはずだからだ。ただそれが自然破壊の最大の要因
である事も忘れてはいけない。


510: 名無しさんAA:17/07/05 23:30
立主義を貫け  22    「やべえ。やっちまった中国」01


 今や借金漬けの 中国共産党地方政府です。地方政府は今まで理財商品からの預金で
無謀な投資をガンガン実施できました。一挙に起こった不動産バブルの恩恵です。土地
収用を元金無し保証無しで行って行き、それを入札にかければ、それだけで高級官僚は
村ごとがっぽり収入が入ってきました。仮に開発や投資が赤字でも、この収入で埋め合
わせれば万事OKでした。理財商品を売る銀行も地方政府も倒れる事はないからだ。更
に景気は上り坂でどこかで誰かが儲けた金は更に投資資金として投機する状態が続き、
時間さえおけばいづれ買ってくれる状態だった。銀行や地方政府の保証する投資なのだ
。がしかし、状況は変わりました。 今や不動産バブルが崩壊し、土地は売れません、
というか土地利用権を入札にかけても札が入らず、入札が成立しない事態が発生してい
ます。民間銀行は矢継ぎ早に店終舞を始め 中央政府のお墨付きの銀行すら赤字になっ
た。すると、どうなるか。あぶく銭が入らなくなります。中央政府が融資します。生き
残り策で政府資金を入れます。でもあぶく銭が入らなくなれば、さっさと手持ちを売ら
なければ、次の利益になる投資なんかできないのは当然です。自転車操業のタイヤが回
りません。一方、過去のツケは耳をそろえて払わないといけません。しかし、そんなお
金はどこにもありません。しかも、バブルの時に調子こいて高金利で借りてたから、も
うそりゃ大変。これは深刻な問題です。既存の債務の元本・利子が返済できなければ、
債務が発散してゲームオーバーですよ。だが国際社会は優しかった。この点はなぜか、
見過ごされ 巨大市場・軍事大国・常任理事国などと言う事で「まだ後進国だ。」と言
い張り、日本からのODAやIMFからの金をジャンジャン借りていいのである。その
中で「しかし、こんな状態では返さなあかん。そうだ各国から融資させよう。」と、民
間の詐欺会社が考えるような国際新銀行会社を作った。「アジアインフラ投資銀行」が
こうした赤字で帳簿のない無法国家では運営できないだろう事は百も承知の筈なのに。
なんでか英国を始め設立に手を貸し賛成し、自分で都合のいいプロジェクトをして都合
のいい財務を行おう事が出来る環境になった。・・おお・・めちゃくちゃいいじゃん…
。となっているのだ。 だがそれでもこれは投資された債務の拡大なのである。

511: 名無しさんAA:17/07/05 23:30
自立主義を貫け  22    「やべえ。やっちまった中国」02

 とは言え 今世界で急成長しているのは後進国だ。中でも産油資源に恵まれた国と、
イスラム諸国は除かねばならない。原油価格は低迷しイスラム教ISにより世界は混乱
して 利益が吹っ飛ぶ位リスクがあるからだ。とすると残る東南アジアでは、経済成長
・発展は著しい成長世界という事になる。これを黙って見ている中国ではない。この成
長を支えるために、巨額のインフラ投資の必要に仲間入りを考えたとしてもおかしくな
い。毎年少なくとも七千〜八千億ドル(ほぼ百兆円)に近いインフラ整備費用は、その
まま日本や中国を含むアジア地域は全体の経常収支の黒字計上をしている中にある。つ
まり十分な貯蓄を持っており、それをアジアのインフラ投資に振り向けていくことでの
利益還元ができる。と言う好循環は既に回っている現状がある。このいい加減なインチ
キバッタ銀行でも充分入り込みに相応しい循環が待っているのであり これを米国は見
逃したままだ。こうした見せかけのインフラ支援でも、二国間支援に比べて利子の取れ
2倍のレバレッジを効かせて行える。つまり融資と現物と更に利子と国内雇用と国内企
業利益と何倍も中国にはいいのだ。こうして中国は援助予算総額を増やさずに援助効果
を倍増させ、かつAIIBを対アジア外交強化の為のカードに用いることができるので
ある。常駐理事のない方式は、かつても欧州投資銀行(EIB)でとられており、意思
決定の迅速化で行われた例はある。しかしあくまでも共通認識の中での一つの案件内の
話であって、こうした政治対立のある恒久的な物にはない。公正なチェック・アンド・
バランスが取れないからだ。融資計画をあらかじめ承認・決定し、実際に行われた成果
がどうやって確認して公表し、投資者に報告できるかが不明なままで、経営陣が評価さ
れる仕組みさえないのだ。それでも欧州のみならず南米からアフリカ更にロシアまでも
この「一帯一路」の遠大な構想に飛びついてきているのである。これはもう本当に、国
とは言え 人の欲である。経済欲とも言える。


512: 名無しさんAA:17/07/05 23:31
自立主義を貫け  22    「やべえ。やっちまった中国」03

 二千年以降の世界経済、厳密言えば中国がWTOに加盟した2001年以降の世界経
済は一変した。それまでの世界経済とは分けて考えなくては世界経済は語れない。便宜
的に2000年以前を「プレ・グローバル経済」、2000年以降を「グローバル経済
」と、意識して経済を分析する学者もいるが それはグローバル化が変化したからだ。
 この通貨が織りなす経済と言う布も 今や中国の爆風にやられっぱなしである。基本
的には 世界の通貨は実物資産に裏付けられて初めて信用がある。各国の生産力、資本
力を基に常に再評価が行われるはずだが、今ではの中国にそうした生産力はない。つま
りかつては、自国内での原油生産も輸出する位あったが今やない。他の殆ども輸出する
ほどのものも輸入するはずの市場もない。つまりそうそう中国元は要らないという話で
あるこれを不換紙幣と言う見せかけの金の地位にある。不換紙幣や商品通貨価の値が下
がる。ということは10年〜15年後には不換紙幣が世界から消えることを意味する。
こうした、通貨の再評価は、国債準備通貨としての米ドルも同じ運命である。価値が下
がれば結果的に、地政学的に見て世界に経済の穴や軍事の穴が開いてしまう。実際、既
にその穴を、急速にロシア、中国、他の新興国が埋めている状態がある。アメリカは今
自国のドルを急速に還流させて吸収して価値を上げる為の利上げをしようとしているが
それはその分米国商品 ドル建ての商品が流通しない事を意味している。此処に元の通
用製品の流通が掟破りのまま拡大している現実がある。だが今や紛争により電子コイン
に統一されようとしている。これは一つの金融リセットが始まり、中央銀行が要らない
世界が出現している事を物語る。通常通貨は決済機能による等価価値機能と預貯金など
の積立てした預金通貨機能 更に流通の保証される信用機能がある。これらによって、
「金融仲介」「信用創造」「決済機能」の3大機能で銀行を興して経済の血となってい
る。これらの機能は電子決済で今や電子マネーでも行える位置に来ている。これにより
闇の世界は同時に二つの世界を行き来する中にある。信用の無い電子決済と実物決済で
ある。基本的に電子決済のもろさはセキュリティーホールの売買による。最新の量子コ
ンピューターが現物計算から百倍の性能に置いてセキュリティーチェックすれば その
もろさは一目瞭然である。だから頻繁に金資産など実物に代えて貯めて置くのである。
こうして新しい金融システムが世界をリードしようとしている。


513: 名無しさんAA:17/07/05 23:31
自立主義を貫け  22    「やべえ。やっちまった中国」04

 この構造は先進国よりは紛争国に多い。つまり持ち運びが簡単な電子マネーは暗号化
技術によって支えられ 銀行で決済して金交換に出来るのだ。これが頻繁に起こってい
るのが中東と南米と中国である。南米はかつてのハイパーインフレから自国通貨を全く
信用していない。中東はかつてのイスラム金融の中では利子は違法とされ、ハワラと言
う独自の相互決済の無料の送金システムがあってこれが電子マネーに似ていた。華僑の
送金も同じでこうした国や通貨を信じない人にとっては簡単に国境をまたぐ貨幣となり
便利で今でも広がっている。こうした事でロシアは今まで中国や北朝鮮の通貨を信じて
いなく国境沿いの流通通貨にしか見ていなかったが 最近の西側の経済封鎖に対しては
外貨よりは石油決済に使えると踏んで盛んに北朝鮮や中国との大型取引にも持ち出して
いる。つまり此処にはマネー統制が無く素直な等価交換しかないので マネーロンダリ
ングしなくてもそれ自身が資金浄化なのだ。かつて決済軍票が陸軍海軍占領地と入り乱
れて発行された時があった。それは1907年に締結されたハーグ陸戦条約での、条約
締結国は戦時下の占領地で徴発する行為が禁止され、又同条約第52条に「現品を供給
させる場合には、住民に対して即金を支払わなければならない、それが出来ない場合に
は領収書を発行して速やかに支払いを履行すること」とされ、略奪や盗行が無いように
現金もしくは軍票で代償を支払うこととされた事で起こった。更に日本銀行券の他朝鮮
銀行券満州国銀行券中国相互銀行券香港銀行券とそれぞれの国の 政府反政府側双方に
発行が行われたからだ。基本的に日本の西南戦争時に西郷券の様に資産手形と同じであ
り信用資産があればその限定的地域紙幣となるのである。そこで日本は紙幣流通を止め
た軍票独通を決めたり戦後には米国軍票を無制限の法定通貨としたり預金封鎖をしたり
して経済混乱を止めた。電子マネーはそうした時代に戻ったとも言える。こうした事は
、恐らく史上最も複雑な金融システムを起こすだろう。この新しい金融システムは古い
金融システムを土台にして構築され 更に破壊する可能性は高い。そして過去の記録型
の電子マネーは人ゲノム解析と共に融合するかも知れない。DNAこそが一番暗号化さ
れた唯一無二の固体識別までされた暗号方法とも言えるからだ。

514: 名無しさんAA:17/07/06 01:46
自立主義を貫け  22    「やべえ。やっちまった中国」05

 ところが世界経済はそんなに甘くない。グローバル化した経済は、全体での成長には
安い労働力に引きづられこうした中国などが原動力になっている一方で、この安い労働
力は、かつてのその国々を引っ張って来ただろう自分の国の、良質な労働力の雇用を不
安定化させ雇用を次々と奪っていったからです。それは購入する国であり消費をする先
進国などである。当然労働力は生産労働しない事には労働単価を持たない。給料のない
消費者は、国の補助や援助が無ければ買えない。更に労働環境がAI化する中では更に
厳しい取り合いとなる。となれば国内でも余剰労働者によって給与は上がらない様にな
る。これは先進国の中で需要が増加しているのにに、人々の実質的な所得が減少する為
購入しない。或いは先進国の値上がり以上に自国の労働者の給与が高くなる。と言う事
が起こる事を示す。所謂「日本化現象」である。本来は国家間の標準化現象なのだが、
最初に日本で起き「金融政策の失敗」と捉えられた事から こうしたインフレを起こせ
ない現象を日本化とされた。米国では利上げ措置が取られ物価上昇があるがその分人の
実質賃金は更に開く。つまり給与が下がりその上物価が上がるからだ。この差を米国は
移民が背負って働いている。日本でも一時期は実習生とした低賃金労働者を受け入れて
いたが法規上も人道上もアメリカの様には出来ない。更に中国では投資主導の経済成長
を進めるなかで、先進国の物真似での二等経済を発展させた為に、原油をはじめとした
エネルギー資源の需要が爆発的に増加し上に、資源は無駄にすると言う食べられない食
材・住めない住宅・動けない道路・安全のない交通機関・飲めない水・吸えない空気・
などなど人々の実質的な所得が過去よりも減少することとなった。勿論現実の経済は、
決して断絶することなく連続性を持って動いているので12億の人口の全部が、こうし
たニセ資本主義社会に組み込まれた事での貧困者にはなっていないだろう。とりわけ、
教育水準が高く、かつ共産党員として安い労働力を指導した特権者を資本主意義社会が
包摂することによって、莫大な利潤を産んだ事は確かだ。だが彼らが自国民を踏み台に
して海外に資産を求めて 国の基盤である自然を崩壊させ更に海外でもそうしようとい
う無責任な覇権国家の道を行く意味は非常に大きい災いといえるでしょう。世界経済は
全体の規模を拡大させた効果を、この国の平均の成長率を引き下げる事で苛酷さを増し
たからです。

515: 名無しさんAA:17/07/06 01:47
 自立主義を貫け  22    「やべえ。やっちまった中国」06

 つまり日本は安い中国製品を食卓に載せて細々としか食っていけない環境が出来上が
り、アメリカは植民地政策の様に、更に安い使用人の移入経済で 物価を上げた生活を
目指す形で世界は推移している。と言える。日本は世界に資産を持って赤字の国家予算
で良く我慢して国債発行して保っていると思う。が米国も利上げ利上げと過去の経済学
に応じたインフレターゲットは国民不在の話である。特に一般労働者が安い賃金で食糧
さえ買えればいいとする考え方は、普通の学生すらホームレスにし、粗雑で低品質の国
民生活を強入り、国体破壊をさせる。それはホームテロどころかその対処そのもので国
が無くなる事を意味している。これは大きな危険で日本では対処出来ないし資本主義の
目指す自由主義とはかけ離れた御馬鹿ブッシュの世界だ。更に省資源化構造やAIの電
子知能は 今後原油をはじめとしたエネルギー資源の需要の増加は見込めない。人々の
実質的な所得が広域進化で減少するのは確かだが、バブル崩壊的な世界的な金融危機の
後遺症から立ち直れない現実もある。その後の景気回復の過程で人々が生活の豊かさを
実感できないでいるのは、こうした雇用の問題が全く解決できず深刻化するのに加えて
、エネルギー資源の高騰によるインフレが無くなった事にある。世界中が公共投資を求
めた雇用の安定と所得を求めているのに その根源である自然からの享受すべき財産を
伐採や森林火災や海洋乱獲などで 中国を中心にその場限りの思想で捨て去っているの
だから仕方が無い。そもそも中国には「公共の公徳心」と言うものは存在しない。大事
と言う意味や大切と言う意味がないのだ。日本では大切や大事と言うのは「自分の実体
を超えたもの」と解される。つまり大切とは自分でなく自分より外の世界が持つ切なさ
をいい、大事と言うのは自分の人生でなく自分以外の人生や社会観を言う言葉だ。これ
らが西洋思想や中華にはない。自分中心の言葉しかないのは そこにそうした文化しか
持ち得ない世界だったと言う実体を示すものだが これでは世界は建設出来ない。



516: 名無しさんAA:17/07/06 01:47
 自立主義を貫け  22    「やべえ。やっちまった中国」07

 こうして 誇大広告中国の、「法螺話」に付き合う世界は非常に難しい事になる。特
に東南アジアの国々は馬鹿な事に「鉄は熱いうちに打て」と言う事を知らないらしい。
中国の方針変更を諭さなければ、恐らく世界は悲惨な動乱の歴史を血で染める事になる
。特にオバマ大統領がフィリピンのドテルテ大統領と会談しなかった事は大きな過ちだ
ろう。実はこの対話こそ大事な事は充分知るべきだ。何故オバマが会談しなかったのか
解らないが 相当に銃砲産業を憎んでいたのかも知れない。「通貨とは、流通貨幣の名
で、国家などによって価値を保証された、決済のための価値交換媒体。政府は租税算定
にあたってこの通貨基準を利用するこれを法定通貨といい、仮想通貨や地域通貨の対義
としている。モノやサービスとの交換に用いられる「お金」を、経済用語では貨幣、又
は通貨と呼ぶ。通貨は、現金通貨と預金通貨に大別され、前者は紙幣・硬貨(補助紙幣
)であり、後者は普通預金・当座預金などの決済口座である。」などと記されている。
かつてこの決済が出来ない金が人民元であった。それは偽札の横行で北朝鮮の偽ドルよ
りも遥かに幼稚な印刷からだが、それでも米国は決済を許したのだ。この間違いで今後
も地球資源は乱獲される。今北朝鮮の脅威が映しだされるが北朝鮮よりは中国の無駄な
資源乱獲こそが脅威なのだ。レッドデータブックで解るように一度無くなった資源は、
戻りそうで全く戻らない。更に資源の高騰によるインフレが人々の可処分所得を減少さ
せているという現実がある。カーソンのブーメラン理論は、先進国のあらゆる悪さは、
そのまま先進国に戻る。というものだが、レイチェル・カーソンは安価なDTT農薬を
批判し中止に追い込んだが、「カーソンがDDT禁止を主張しなければ何百万人ものマ
ラリア患者が死なずに済んだ。」とその有用性で批判がある。だが結果的にDTTは、
パナマ運河の建設とベトナム戦争の「禿山作戦」の枯れ葉剤散布に開発されたもので、
生態系破壊は行われ、そのDTTに耐性を持った優等品種の蚊の大発生によって裏切ら
れた形で歴史は進んでいる。


517: 名無しさんAA:17/07/06 01:49
 自立主義を貫け  22    「やべえ。やっちまった中国」 09

 中国不動産バブルの崩壊が近づいているという言葉を聞かない日はない。が現実は既
に起こった事で貧民層が大出現して臓器売買や北への兵器原料の売り付け開発が行われ
中国自体も海外進出やTOBなどでの企業買いや乗っ取りや資産食い尽くしの奨励策を
取ってはカモフラージュして平然を装っている。だが高速鉄道一つでも事故や売り込み
は凄まじく、天津市の港湾地区で起きた爆発事故一つでも、かなりの大きさだ。危険物
倉庫の現場近くに一時保管されていた外国自動車の、莫大な被害が及んでいた事は映像
でも分かる。中国国内の約4割以上の輸入車が天津港を通して出荷されていた。201
4年の天津港から出荷した輸入車の数は50万台を超え、車の本体価値が608億ドル
(約7.6兆円) に達したと報道されている。この爆発事故では、日系を含む外国自動車
1万台以上が破壊、平均本体価格35万元(約700万円)で計算すれば、推計40億元
(約 800億円)の直接の経済損失である。これに中国政府は全く保証をしていない上に
発表では僅か100人消防関係者のみの死者数しか発表していない。その後急速に埋め
てそこは公園化してしまい、原因究明や実体把握や事後整理は全くなされていない。こ
れでは保険も払えない。そして保険の元締めは英国だったのだ。ヒュンダイ・キアでは
車単価が約 30万元(約600万円)5千台で30億円フォルクスワーゲンで3千台程度で
25億円クライスラーは4千台50〜60億円ルノーは6千台の中に約千台が焼失して
発表では40億円富士重工業のスバルは百台程度が焼失。マツダ50台が焼失、BMW
が不明といった具合だ。恐らくしっかり計算すれば運行船等を含めて1兆円が車だけで
消えている。更に港湾設備や会社や荷揚げ人員他を計算すれば3兆円は越しているだろ
う。これが一瞬の内に無くしたのだ。そして先進国では人員の保証が必要だろうがこの
国ではないのでこのくらいに収まっている。この国家予算程の損失が GDPなどの帳
簿に計上はされない。本来直接損失で簿外損失さえあるのだが これが通るのだから、
人類には酷い社会システムが常駐している。まるで人類社会のがん細胞かウイルスの類
と言える。この問題を問題としない姿勢 既に問題化してるものを見えなくし、隠して
しまう性格や努力には脱帽だ。高速鉄道車両を埋めてしまい 批判があって掘り起こし
女児が生きていたまま埋められていたと言う話は有名だ。こうした国のやり方に 人道
主義を唱える英国が、これに誰よりも早く賛同した。と言うのは全く言葉を無くす。又
国際金融資本も、例えば、ジョージ・ソロスさえも見抜けなくて寄り添い2016年に
なって初めて、「ハードランディングは不可避!」と宣言し、中国を見捨てた。国際金
融資本に見放された中国経済はボロボロになっている筈だがそうしたそぶりは全く見せ

518: 名無しさんAA:17/07/06 01:49
自立主義を貫け  22    「やべえ。やっちまった中国」010

 こうしてAIIBの設立をやり、「一帯一路構想」を公表し表明した。あくまで強気
なのである。こうして過去を捨て 食糧も技術も資源も無い国に変化し只ひたすら西側
諸国の貿易型経済に邁進する中国に明日があるのだろうか。鬼城出現での土地譲渡収入
の減少は、地方財政収入減少に加え、地方政府が担保している銀行融資、償還が迫る中
での地方政府債務返済が出来てない事を意味している。既に影響を及ぼし大きな問題に
なっている筈だが、人民からの搾取でその場しのぎしている。こうした人民の不満は大
きくデモや控訴はあるがそれらは悉く暴力的規制で人民警察や共産党解放軍で押さえて
いる。そこに香港返還しているのだ、一国二制度などあろうはずはない。こうした中国
の経済発展が、「政府の投資」特に「地方政府の投資」への依存性が非常に高い中での
生活だ。かりに地方政府の収入が減少すれば、政府の投資、経済全体への影響が非常に
大きく税収を高くするのは見えている。現在中国の土地譲渡収入は高額化し、東京より
高い。更に財政収入の減少に抑える為の人頭税に近い高額税に今や人は地方に移住しか
かっている。此処に「一帯一路」の理由がある。つまり幸いにも中国国土は広い。最新
の技術で食糧供給基地を造る政策を始めたものの供給する資源と資金が無かったのだ。
こうして 日本を巻き込んだ食糧生産は始まって それはそれなりの結果を産んだ。が
それはインフラや農地拡大するに資金や資材が足らなかったのだ。これまでも、絶えず
中国共産党がネットワークを攻撃して情報は得ていたが、中共はどうしても認めようと
しなかった。が近年 米連邦準備理事会が保有するバングラデシュ銀行(中央銀行)の
口座が今年2月にハッキングされ、8100万米ドル盗まれた。この調査により、この
大金はフィリピンのリサール商業銀行の口座に送金され、関与した者の殆どが中国人だ
と認定された。中国政府が国際金融窃盗団の団長であった事が解ったのだ。そしてこの
「史上最大金額の銀行窃盗事件」と呼ばれる事件が、1つの例という訳ではなく世界中
での頻繁に起こっている事件の一つである事も判明した。イギリス国防会社のセキュリ
ティ研究員は、一群の犯罪者がすでに全世界の銀行システムに侵入し、一連の攻撃行動
を起こした事を発見し関連する調査を現在も進行中である事を明かしている。



519: 名無しさんAA:17/07/06 01:50
 自立主義を貫け  22    「やべえ。やっちまった中国」010

 こうして英米に近づき、しれっと海千山千で先進技術を盗み情報を得る中国を見つめ
る国がある。ロシアである。そして、アメリカ、欧州、中国、日本の動向を注意深く、
したたかに見続けている。現在の世界情勢は移り変わりが激しく その中にトランプが
称賛され、要注意人物として登場した。日本が日米関係を、強固に堅持ししながらロシ
アとの和解して 国益を保持する為に決して中国を挑発しない。と言う事を充分理解し
ている。だが中国人民は政府は別にしてしびれを切らして北朝鮮を挑発し韓国を揺らし
日本を攻めている。米国の仲介で中国は国際社会からの孤立を恐れて北のミサイル実験
や核開発から遠ざかる振りはしているが いつこの共産同盟が始まるか解らない。20
14年に、3代続く世襲交代に猛反対していたロシア側が 北朝鮮への積極的アプロー
チを急速に展開したのだ。ソチ五輪に金永南最高人民会議常任委員長を出席させ、プー
チン大統領と会見している。これが直接的な露朝関係の復活となった。従来から玄永哲
人民武力相を2度もモスクワを訪問させて、ロシアとの軍事緊密化を話合う事に至った
。 時期的には北朝鮮政治の中枢にあった張成沢の処刑(2013年3月)に激怒した中国が
北朝鮮への経済支援を縮小した直後だ。ロシアはこの機会に便乗した。中国とのバラン
スを窺い、西側への牽制という政治的意図は露骨だが、この機敏な対応は的を得ていた
。ロシアもクリミア併合で国際社会から非難を受けて孤立し、北朝鮮は賛成に回ってい
た中だった。こうして燃料調達に携わった元幹部のインタビュー記事では、北朝鮮が、
ロシアから年間20万〜30万トンもの石油製品を調達していることになった事が明ら
かとなった。張成沢粛清に立腹した中国の習近平がソウルを訪問する外交に舵を切り、
韓国の朴久恵大統領が軍事パレードに招待されて、平壌の金王朝は平常心を失いかけて
いたタイミングで、ロシアは平壌にぐんと近づいたのだ。米国政策をあざ笑うかのよう
に、再び北朝鮮が挑発行為に出て話し合いの目的から核保有国の地位に移行した政策に
変えた。北西部・東倉里の西海衛星発射場で、ICBMに利用可能と見られるロケット
・エンジンの燃焼実験が実施され、複数のエンジンを組み合わせた「多段式」ロケット
替え 更に潜水艦でのガス圧海中発射実験や、一歩ずつ開発し今やICBMまで辿りつ
いた。


520: 名無しさんAA:17/07/06 01:50
 自立主義を貫け  22    「やべえ。やっちまった中国」011

 かねてから、トランプ大統領の考える「レッドライン」は、米国本土を射程距離に捉
えることのできるICBMの開発だと言われてきた。こうして米国の設定した「タイム
リミット」を超えた時点で、米国は北朝鮮近海に派遣した軍を背景に、武力をもっての
開発凍結を北に迫る可能性しか残されてないのは間違いない事実だ。すぐそこにある客
観的危機が現実のものとなる。韓国は断固とした姿勢として迎撃ミサイルを何発か撃っ
たが、これは無駄使いの上の犬の遠吠えである。そもそも最初に打ちあげた時韓国国民
は日本は騒ぎすぎだ。などと言った。が韓国こそよくまあそんな言葉が言えるものだ。
と日本人の多くは思った筈だ。何故なら北朝鮮は今でも韓国に宣戦布告をしたままの、
交戦状態の維持で38度線上にあるのだ。この38度線の一時停戦も休戦協定も出席を
しなかったのは韓国民の方である。中国と北朝鮮更に米国連合国側の多国籍軍は席につ
いて38線を確定し協定に参加したのだ。この妙な位置関係は今でも同じだ。迎撃ミサ
イルTHAADの配置に中国は猛反対し 米国は韓国や東南アジアの為に置いている。
だが韓国自身は沖縄と同じに ごたごたとごねては全く先が見えない位にいい加減な言
葉をして濁している。それは経済問題でも同じだ。ある時は日本に泣きついてスワップ
を引き出しある時は中国につく。こうした西側なのか共産主義者なのか不明な態度は、
恐ろしく野蛮な企画を産む。今やこの北朝鮮問題は韓国の手を離れた所まで来た。米国
は北の大国・ロシアの動向を注視しているだろう。ここで米国はロシアの兵器ツァーリ
・ボンバ「爆弾の皇帝」の購入を図るべきだろう。勿論韓国が購入代金は払う。日本も
又幾らか背負う事にはなるだろう。一時的に3個ばかり、平城と共に軍事施設に落とし
て政権交代を図るしか手がない状態だろう。とロシアに言うべきだ。北朝鮮経済を支え
るロシアの影は明白だ。これまで、中国ルートを断絶することに腐心してきた米国は、
早急に対応を迫られることになりそうだが、こうしたロシアへの揺さぶりが大事なのだ
ろう。恐らく今まで黙って見ていたロシアは米国からの中国への要請にしれっと手を差
し伸べ又極東の平和だの非核化だの言って日米に究極の選択を迫るだろう。そう言いな
がら今までの6ヶ国協議も終わらぬ内にウラン供与したり科学者を転住させたり北方四
島にミサイル置いたり 終戦の日を変えたりして迫って来ているのだ。大体地震や事あ
る事に偵察機を日本上空に常に飛ばしている様は 昔の日露戦争前夜と同じ考えなのだ
。中国も朝鮮もそうした事に揺さぶられて 日米はいつまで耐えるのだ。竹島尖閣四島
と帰って来ないじゃないか。海外の馬鹿の国にもう少し威嚇し教育しなければ平和は来
ない。ウクライナと同じにしか見ていない様を変える事が大事だ。

521: 名無しさんAA:17/07/06 01:51
 自立主義を貫け  22    「やべえ。やっちまった中国」012

 その意味では 小泉氏が訪朝したように日本が進んで北朝鮮と会談する事は大事だ。
更に拉致問題を棚上げにする事なく 日朝経済交流で貿易と自衛隊の駐留基地を提案し
たらどうだろうか。韓国とは関係なく 日本と日朝併合をして日本国になる事を進めて
日本企業を置いたほうがいい。いまのままの貧民では北朝鮮人民が可愛そうである。飯
は食えずミサイルにつぎ込み 日本の技術を求めて命からがら暗躍し日本ではスパイで
ロシアでは労働者で共産主義を刷り込まれて、脱北者が韓国で根無し草の如く生きると
言うのは、どう考えても悲しい人生である。どうせ日本も少子高齢化で山間地では人が
不足しているのだ。イイじゃないか北朝鮮人が脱北して来ても。どんどん北の軍事活動
の息の根を止めれば 平和裏に移民を受け入れればそれなりの明るい未来があると言え
る。トランプが言う様に 将軍様は暇で割の合わない悪い事しか考えないのだ。事実、
今後彼の言うような 北朝鮮と米国の和解があったとしても中国の様な共産党独裁では
迷惑な話で 今でさえ中国のゴク潰しに人類は資源不足に陥ろうとしているのだ。この
上北朝鮮もとなれば 人口も食料も超過になるに違いない。共産党政権では平和を装っ
た政権運営は自分の地位の保身に過ぎない。と考えれば 世界制覇や誇大な妄想に酔う
話もその地位の性であろう。一握りの部下を与えた最高位の勲章で外に出れない宮殿を
国連が与えれば済む話では無いだろうか。それはシリアにも言えし かつてのイラクの
サダム・フセインもリビアのカダフィも別にそうも死ぬべき者ではなかった。そうなの
だ。我々は悪い事に固定概念がありすぎるのだろう。人々が欲しいのは平和で安定した
暮らしであり豊かな社会で重圧の無い行動なのだ。つまりは求めているのはこうした事
の国であり、社会主義も共産主義も自由主義も資本主義も無いのである。そこにISの
入り込む余地があったとしても 教育以前に食べる事生きる事に重きがあって他の事に
は身に降りかからラない火の粉はどうでも良い筈なのだ。そこに大げさに将軍様と叫ぶ
民衆の姿がある。恥も外聞もなく北朝鮮人民であり続ける意志を見せる必要があるので
ある。兵士も又同じだ。だとしたら将軍様でいてもらえたらいいではないか。

522: 名無しさんAA:17/07/08 18:50 ID:1OU
自立主義を貫け  22    「やべえ。やっちまった中国」014

 今回の北朝鮮のミサイル打ち上げに関しても 福岡の水害にしても日本国民の行動が
間違っていたのだろう。と思わざるを得ない面が多々とある。というのもそもそも中国
をこれほど大きくしたのは日本政府の甘ったれた考え方で、「中国を脅威としない。」
と大見栄を切った自民党の傲慢さがそのまま今の危機的状況を作っている。この時そう
も言い張るなら何で境界線決定をしガス田開発を軍事演習地域として止めさせなかった
のか。と言う事だそれだけ自民党は本当は法律にしない同意に守られていたものを壊し
て嘘っぱち社会にしてしまう事に慣れ切っていたのだ。今回の国会運営でもそれが言え
る。何ら逃げる事も無い大多数を両院で擁していながら 国民に納得をさせ得ない答弁
や説明にならない話で逃げていて 切り捨て日数で無駄時間を費やしている歯痒さをし
ている事が解らず全く「傲慢国会」をする結果となったのだ。基本的に国民は野党でも
与党でもいいのだ当たり前の連絡と明日のある不安のない暮らしが出来ればいいのだ。
だがどうだ。森林はなぎ倒され今だ道路が川になった風景は。一体国土強靭化計画は何
処に行ったんだ。更に輸出入を工業製品に特化した為中国の輸入にどれだけ検査がある
のかコンテナ千個に一個の検査である。全く狂っている行政だろう。大体米などに補助
は要らないのだ。この森林や山林の保全とそのインフラをもっと考えるべきで、減反な
どしないで全個買い取りして古米売り付けを北朝鮮にすべきだったのだ。援助でなく、
正統な物品貸付で売れば良かったのだ。そうする事で今の様な交流の無い意味のない様
な韓国との協調や 制裁と対話などとするより より進んで対話しこの不良少年みたい
な国の 尻の毛を掴むつもりで決死の外交をすべきだったのだ。こんなちんけな安倍氏
と言う敵の心を察知しない様な者を連れて北に渡った小泉氏の力量の無さが今の傲慢な
政治や進展のない尖閣問題のを造っているのだ。民主党と仲の良かった中での政策であ
ったならインド洋給油も続けていたろうし南沙諸島問題もなかったろうし あの馬鹿な
小沢の百人訪中団なんかもなかったろう。一体何を感じどう考えてこんなすっとぼけた
政治になるのか まともに会見出来る大臣を出すべきだろう。


523: 名無しさんAA:17/07/08 18:51
 自立主義を貫け  22    「やべえ。やっちまった中国」014

 こうして日本国内がいい加減な政治といい加減な国際対応をしている頃着々と中国は
手を打って来た。ロシアとの国境線確定をしてロシアとの確執を終わらせると、本格的
海洋進出で15本の天然ガス田掘削を認めて東シナ海でのレーダーサイトを作って、尖
閣付近の状況把握を容易にした。このガス田が採算性に乏しく正しく軍事施設として、
韓国の竹島駐留と同じである事は間違いない。今回の空母打撃群の集合にも中国側の、
人民解放軍は十二分に空母4隻を含む船団のその動向は既に充分解り得ていて、慌てて
寧停などの中国海軍を置く事をせずとも充分対応出来た。更に北朝鮮と仲が悪いと言え
ども南方の広い海域にミサイルを飛ばす事に対して 日本海内へのミサイル発射に変更
させた。更にロシアも中国も韓国を利用する北朝鮮を利用した国際戦略に変更した。こ
こに慰安婦像設置団体の共産国支援が完成させた。本来親日派であった李明博大統領も
凡そ8割の共産国支援のある議員達の前では抗日で国民受けするしかなかったし、司法
も既に北朝鮮工作員に牛耳られた形であった。更に習政権が出来上がると韓国利用は富
に多くなり朴政権を軍事パレードに招待する程北朝鮮以上に近づいた。こうした中での
トランプ政権の大統領選であった。ここで票の移動に米国有数のサイト侵入を試みての
有権者の意向や秘密サーバーの手腕を確かめた。米司法省(DOJ)は2017年3月
15日に、Yahoo!から大量のユーザー情報が流出した問題が起きたとして調査に乗り出
し、ロシア当局の関係者を含む男4人をコンピュータ不正侵入、企業秘密の窃盗、経済
スパイなどの疑いで、起訴する事を決めたと発表した。DOJによれば、これら4人が
5億人分以上の個人情報を掴み流出につながった。とされ2014年のサイバー攻撃に
大きく関わったとみている。起訴されたのは、ロシア連邦保安庁(FSB)の職員2名
のほか、ロシア国籍でロシア在住の1名と、カナダとカザフスタン国籍を持つ カナダ
在住の1名であった。このFSB職員はハッキングと情報収集を指示して、報酬を支払
ったという。

524: 名無しさんAA:17/07/08 18:51
 自立主義を貫け  22    「やべえ。やっちまった中国」015

 現実的には 米国のエスロンの情報網は更に進化していくはずだった。だがブッシュ
の起こした馬鹿な野望で米国のペンタゴンもNASAも或いは他14の諜報部関係は、
大打撃を受けた。それはその戦争の反感からの初の黒人大統領の出現である。個人的に
はオバマ大統領は優れた能力の大統領に相応しい者ではあったが、これだけ武力を傘に
ブッシュが散財し軍を強くすると 非人道で効率の無い戦争に駆り出された兵士たちは
、全くの戦争の意義を持たないままの帰還兵となり、退役軍人となっては自殺か事件を
起こすかしかなくなっていた。2013年の初めには、ペンタゴン公式サイトでの前年
軍人の軍内の自殺件数が戦死者の総数を遥かに超えて、1日の平均自殺者が約1名に上
るという驚く統計値が発表された。兵士が何らかの形で自殺する中に放り出された環境
にあるというのだ。だがもっと驚くのはその1ヵ月後には、合衆国退役軍人局から出さ
れた統計であった。退役軍人の自殺者数は1日平均22人、年間約8千人に達している
のであったのだ。やっと生きて生還し帰国したこの軍人達には地獄しか待ってなかった
のである。この悲惨な統計に、ペンタゴンは軍隊での自殺を「伝染病」と呼び、退役軍
人会の発表にメディアは「壊れたヒューマノイド」と称した。BBSドキュメンタリー
「隠れた敵:軍事に介入する精神医学」によると、すべての証拠は向精神薬の処方率の
急激な増加の事実が物語るとしている。調査を進めていく中で、精神科医がこうした、
兵士と退役軍人の心的外傷後ストレス障害(PTSD)に関して、必ず「精神障害」と
の意味する定義の枠を広げ 勝手な処方箋続けて営業していることが分かる。日本でも
こうした精神医学と神経医学とを別けて居なく過度に 物理的投薬に依存した治療に重
きなして必然的に向精神薬が処方され、結果が出ない事で、数種類に増やして精神病患
者や自殺者を増やしている。柳川の甲斐病院は西南戦争で木村緑平が作った、日本初の
精神病院なのだが、私の知る何人もの人間は逆に薬によって今や入居時より悪い。つま
り全く薬害しか起こさない医院であろう。この未知なる精神病は今も尚治療には程遠く
、精神医学においてのPTSDや人格障害、社会不安障害などの診断が行われると、必
ず少なくとも一種類の向精神薬が処方されていながら それらの効果は見られないのが
現状だ。


525: 名無しさんAA:17/07/08 18:51
 自立主義を貫け  22    「やべえ。やっちまった中国」016

 さらに調査を進めていくと、精神科医が特に兵士と退役軍人の心的外傷後ストレス障
害に関しては、この処方箋は「精神障害」では済まない社会的構造が浮かび上がってい
る。それは、2003年から始まった安易な処方である。向精神薬の処方率の急激な増
加と共に、増加する個人の攻撃性な性格と欲情的自殺願望などが躊躇なく現れ、自虐性
や加虐性が現れる事で知られている。この種の薬物の処方による副作用は広く及び、軍
内部の軍人では、家庭内暴力、児童虐待、性犯罪、自傷行為の増加傾向に反映されてい
て 行動が把握されない退役軍人では 殺人事件暴行事件麻薬などあらゆる増加と共に
推移してる事で、この薬の効果が認められていると言う。この劇的な向精神薬の処方率
の伸びは 米国内の麻薬補導数にも一致してるが 遅れて著名な銃撃事件の殆どがこの
精神科医の指導やカウンセリングを受けて処方されている事でも出ている。勿論統計学
から言えば逆の真理が導かれる。つまり犯罪率の低下やこうした重度の「精神障害」者
の改善が見られていると言う傾向えある。軽度の「精神障害」が重くなる事と、重度の
患者が良くなることの差は「医師の腕」の差によるのだがその他に環境の違いや原因の
違いがある。だがその他にこの戦争での兵士の多発する自傷行為は、戦争によるストレ
スと思われがちだが そうした主張は全く根拠の無い事実である。というのも兵士とい
う身分で派兵され症状があるのは確かだが、軍隊での自殺者の85%は戦闘に出た事も
見た事もなく、中でも52%は戦地に派遣すらされたことは無かったのだ。ゲゲゲの鬼
太郎で有名な水木しげるは或るインタビューで「そりゃ戦争は、軍隊のお偉いさんの闘
いで我々一等兵は駒だよ。戦地は生きる為の戦いだよ。喰物を確保する戦いで自分の中
の猜疑心と信頼との闘いだよ。」と言った。つまり友人との繋がりに一番大事な時に、
彼らは人間性を無くした軍隊とかマフィアとかギャングで教育されたという事である。
これはブッシュJrも同じだ。多分友達がこうした軍需産業の息子しか居なかったのだ
ろう。この思春期時代を壊したり完成させない社会は崩壊国家を産むと言える。


526: 名無しさんAA:17/07/08 18:52
 自立主義を貫け  22    「やべえ。やっちまった中国」017

 ホームアローンテロなどとtvの解説はしているが 本来は国を守りたい人とか、今
を大事にする人を大事に育てていく事が大事で 逆に自国を破壊したい願望を持つ人を
育てている可能性を証明している。兵士の役目がそこに自己矛盾があるのだろう。エド
ワードスノーデンは監視社会を考える会の冒頭あいさつで、こう述べている。「日本の
現状は視聴率のいいニュース番組のアンカーマンが降板させられている。」と指摘し、
「ジャーナリズムの役割は政府のいい点、悪い点を評価し、いつ権力の逸脱や乱用があ
ったか、国民に知らせることにあって、それがなければ民主主義の議論は成熟しない。
」と述べている。冒頭では「父も祖父も、政府や軍で働いていたので、国家に貢献する
のは当たり前と思って育ち、政府を疑うなど思いもよらなかった。」と幼少時時代を、
スノーデン氏は語った。その後アメリカの二大情報機関、CIAとNSAの職員となり
「市民のすべての通信を傍受し監視できるNSAの実態を知って、国民の総意で成り立
つはずの民主主義国のアメリカが国民をスパイするとはどういうことなのか。」と疑問
を持ったのがそもそもの始まりだという。「9.11以降、テロ対策やセキュリティの名目
で監視が強化され、“隠すことや悪いことをしていなければ、怖れる必要はないでしょ
う”と、政府は説明して、私たちにプライバシーを差し出せというが、結果、テロには
関係ないであろう弁護士やジャーナリスト、人権活動家、さらにドイツのメルケル首相
までが盗聴の対象になっている」と話す。「NSAは、大手IT企業のサーバーに直接
アクセスできるので、ネットで誰が何を検索したか、携帯で誰と話し、どこへ移動した
か、すべてのデータが蓄積され、無差別の監視が可能である。」と説明した。最後に、
スノーデン氏は、「結局、プライバシーとは、あなたが公開したくないことは公開しな
くていい権利、あなた自身である権利だと思う」と切り出し、「無制限の監視ではプラ
イバシーは社会のものになり、人権侵害の問題に行き着く。政府の方針に任せるのでな
く、市民が社会の主役となり、監視のリスクを議論すべきです」と力説した。この事は
今やロシア内での監視社会が更に強固になさせてしまった事を意味している。


527: 名無しさんAA:17/07/08 18:52
 自立主義を貫け  22    「やべえ。やっちまった中国」018

 このスノーデンのロシア亡命はロシアを劇的に変えた。このスノーデンの悪態は明ら
かに米国のこれまでの覇権国家の地球政府としての対応を困らせ、ロシアの嘘に乘った
亡命が行われた。当時中国は米国への執拗なハッキングする部隊を5つ開設させていて
電脳戦に勝てとプログラマーを教育しそして幼稚なプログラムで管理し国内の人民の更
なる規制逃れからの通信とイタチごっこをしていた時代だった。そんな中でスノーデン
事件が発生した。早速る中国が、「中国発のサイバー攻撃」を度々批判されてきた経緯
から 激しくNSAハッキングを受けたと批判し、相手を批判しながら同様の行為をす
る米国に「二重基準は無益だ」と表明するなどの動きを行い、プーチン大統領は自身の
見解としてロシアのテレビ局「RT」番組で「法の範囲内でされるならば、情報監視は
許容できる処置」だとした上で、「情報を監視する主体が国民の監督を受ける必要があ
り、また、その活動は全て合法的に行われる必要がある」と強調した。だがロシアの法
は米国と違って政権側に極めて有利に動いた法文である。中国が「中華人民共和国」と
自ら言う様に共産党社会は他のどの国より民主主義であると言う宣言をしている。まあ
北朝鮮も同じだが。特に英国GCHQ(通称アランの諜報部)がドイツを仲間外れにし
て共同戦線をはり、2009年にロンドンで開かれた20ヶ国首脳会合(通称G20)
などで、各国の電話盗聴や電子メール傍受をしていた事は冷戦時代の「シュタージュ」
の記憶がまだ生々しいドイツではナチス時代のゲシュタポの経緯から見ても 全く激し
い反対するものであった。この事で米国がメドヴェージェフ大統領の会話を盗聴しよう
としていたとも報じられ、英米に対して強気に出られる状況が ロシアにとって棚ぼた
式に生まれたのである。こうしてプーチンの孤高を保ったG8時代での姿勢が、ロシア
国民から高い評価を得た形になった。「ほらみろ米国もおんなじだ。」と言う訳だ。 
こうしてこのプログラムはロシアを経て中国から北朝鮮まで届きそして進化し今や開発
したペンタゴンすらも悩ます結果を産んでいるのである。そしてこれが日本のセキュリ
ティーの弱い日本企業を襲って 今やICやロケット部品まで日本が凌駕されたのだ。
こうしてシャープや東芝まで 企業乗っ取りが始まっていくのである。


528: 名無しさんAA:17/07/12 19:09 ID:fQ2
立主義を貫け  22    「やべえ。やっちまった中国」019

 この時中国ではまだ習政権になったばかりであった。オバマ米政権は、ウィキリーク
スとスノーデンの連帯に苦悩して、より一層の機密情報の流出の可能性に戦々恐々とし
ていた。プーチンは、少なくともロシアでは法廷による令状交付なしに、市民の電話を
盗聴することはないと語り「百%のプライバシー保護と百%の安全保障の両立は不可能
」だという旨のオバマ大統領の声明を批判し、それは可能だし、やるべきなのだと主張
した。「合法的に情報監視が行われるのであれば問題ないが、違法になされるのなら、
それは悪だ。」と述べたのである。しかしロシアほど諜報活動が活発で無法である国が
他にはない事は誰もが知っている。そしてしたたかにも北朝鮮に各種の技術を検証させ
ている。なぜこうした事を行う必要があったのか。一つは電子技術にしてもプログラム
でも核でもミサイル技術でも中国には最新鋭の技術は持っていない。確かに既にロケッ
トも核弾頭でも持っている。だがいざ使える小型の省エネ的効率のいいものは持たない
。その上中国での開発は難しいのである。一つは中国人が中国人を信じていないし金の
為なら秘密の暴露や韓国の様に偽物の再開発があるかもしれないと言う事がある。その
点北朝鮮でやる事は安全で批判されない。2つ目は政治的には反目でも軍事的には共同
戦線の仲である事だ。つまり下請け軍産企業は中国企業なのである。後は経費的ものだ
。バブル化した後も投機熱は依然と高く 中小都市はゴーストタウンも多いほど中国の
経済は悪い。殆どの問題が かつての経済危機発生前と似ていると警鐘を鳴らしている
現状だ。今後も軍の維持費は高く 研究開発費の金を中国政府は払えないだろうと危惧
しているのだ。かつて12%〜16と言う高いGDPの伸びが今や7%を切って恐らく
5%以下の伸びで止まっている。更に国内総生産の中身が大きな問題だ。内需拡大は殆
どが都市のインフラ投資で、その投資は殆どが国外の融資などによるものだったからだ
当然そこには軍事費の伸びが止まるのは予想できる。これは軍部にとっては大きな問題
でもる。軍がどんなに大きく強くなってもそれだけの維持費がかかる事は、それ以上の
予算がなければ 軍事に関わる人の懐は潤わないのだ。

529: 名無しさんAA:17/07/12 19:09
自立主義を貫け  22    「やべえ。やっちまった中国」020

 昔の栄華であった頃のはかない夢は 恐らくは人に寄り添う馬鹿さと 麻薬の様な幻
想である。だがそれでも中国は「中華の夢」を唱えた事で人々は我が子の人肉さえ食っ
た時の「文化大革命時代」を良き時代としてそして「抗日時代」を「日本帝国時代」と
し最悪の時代と盛んに喧伝した。が本当の歴史が全く違っていても 現代人はそうした
教育に刷り込まれて期待をして幸せになると思っている馬鹿さがある。現代人の夢は 
恐らく「安穏な世界」であろう。この安穏な世界は音のない無音世界である。日々人は
映像や音に溢れ 家猫が動くものにキョトンと見る様に次々と刺激を求めて行動する。
そこで起こる事は多かれ少なかれ歴史的事象である。それは別に大きな歴史的事象では
なく、あくまでも人が生きてきた記録としての歴史である。例え結果として、大きな歴
史を塗り替えた事であっても本人に取っての事であり誰もが逢う事象だったのである。
 ロシアの極東から北朝鮮への原油の輸出を増やすことは、ロシアにとってで影響力を
増化させ外貨獲得するにはうってつけのチャンスだ。推定によると、3万〜4万人の 
北朝鮮人が、現在ロシアで働いており、サンクトペテルブルクでのワールドカップスタ
ジアムなどの建設工事や、極東ロシアでの林業や農業に従事していると言われる。基本
的に今やロシアも中国も少子高齢化による労働人口が不足している。食物の生産性から
そうした建設需要も田舎では洪水や山火事で不足しているのが現状でそれを補っている
形だ。「共産国にとってのの安定した協力関係、一種の主要国協約が確立しているとい
うのに、ロシアにとっては2次的な重要性しかない地域で中国との関係を悪化させるの
はばかげていることだ。」とロシアは言う。即ち北朝鮮はそのままで共産国家の同志間
ではいい状態なのにわざわざ悪化させる理由はない。と言う訳だ。そしてその意見は、
北朝鮮の隣国では全ての国が同じなのだ。この認識においてロシア政府は、自らが今の
北朝鮮危機の「仲裁役」になれる。と考えて行動していると言える。今後悪化しても、
この共産国家領域を犯されない様にとの思惑だ。こうしたロシアの戦略は「中国に不利
益になるような事は絶対やらないはずで、モスクワで示された。ロシアのガスパイプラ
インなど増大する中国の対ロ投資は大声で喧伝する一方で、この主要な防備メッセージ
は米国に向けられて発信させている。結局金正恩が狙う、はるか離れた米国だが、今回
放ったミサイルで勢いづいたのは、間違いなくロシアだったのである。これを知ってい
るから金将軍は トランプや習政権の視線を横目に一目散にミサイル防衛と核抑止に、
ロシアのウランで行おうとしているのだ。


530: 名無しさんAA:17/07/12 19:10
自立主義を貫け  22    「やべえ。やっちまった中国」021

 今後も米中のさや当ては、既存の覇権国である米国と新たな覇権国を目指す中国の間
で必然的な摩擦であり、続くであろう。近頃言われているのは「トゥキュディデスの罠
」をキーワードにした米中関係であり それが戦場を朝鮮半島とした闘いとしたもので
、非常に感慨深い示唆に富む話だ。この北朝鮮の「地政学的重要性」を盾にしたこうし
た軍国化は ちょうど世界大戦の前の「攻撃は最大の防御」的な発想の下で敵を創り出
して自国の愛国心を高めて意志の統一を謀り 気に入らない意見を処罰する独裁政権の
強化でしかない。こうなれば国民がその国から逃れる事になる。中東では避難民であり
北朝鮮では脱北者中国では空帰民である。取りあえずの住居を他国に置いて国籍を取り
往復出来れば自国に戻って家族を又呼び寄せる行為や仲間と共に自国を良くしようと民
は動く。更に国家はそれを止める為の冊を造る。鴨緑江と豆満江の中国側では、すでに
2014年に全域で鉄条網が完成している。もう一つの国境河川・豆満江沿いも同様に
鉄条網が完成されていると言う。取材協力者に調査を依頼したところ、最近になって、
鉄条網に電流が流されるようになったとして、次のように伝えてきたと言う記事が出た
。「豆満江沿いも鉄条網に電気が流されるようになった。もう密輸も脱北も困難。高圧
で1メートルに接近しても感電すると噂されている。危険で国境警備隊が巡回する時は
電気を切っている。決して電気が余っているわけではなく、住民には電気を供給しない
のに鉄条網には電気を使っているのだ。」と。電力難に悩む北朝鮮内で、国境の鉄条網
に電力投入可能なのは、白岩郡の白頭山先軍青年発電所が完成し、そこで生産した電気
が投入され国境警備に最優先に電気が使われている。」と説明されている。こうした事
と同じ考え方や土俵にトランプ大統領がいる事がこの「トゥキュディデスの罠」の核心
部分である。。金正恩政権は、住民には不便な生活を強いながら、統制には余念がない
ように、トランプも又世界情勢には全く気にせず国内産業や選挙時の公約の確定に余念
がなく、オバマ政権で培ってきた 人類の英知の結晶で長年積み上げてきた合意であろ
う宣言を無碍に水に投じてしまったのだ。最後の一般教書演説で米国のバラク・オバマ
大統領は、「米国は世界の警察官ではない」と主張した初めての米国大統領として、将
来の課題の、「世界の警察官になることなく、いかにして米国を安全にし、世界をリー
ドする国にするか。」という問いかけた演説をしている。そこには外交力で 軍事力、
特に地上戦力の抑制的使用にこだわった、グローバル覇権を追求しない稀有な米国の実
に緻密な配慮したやり方を願うものだった。


531: 名無しさんAA:17/07/12 19:10
自立主義を貫け  22    「やべえ。やっちまった中国」022

 シンガポールの故リー・クアンユー初代首相が主張したように「中国が今までの世界
的な均衡(バランス)の変化に与えた影響は非常に大きく、世界は新たな均衡を見出さ
なければいけない。中国は新たな大物の役者ではなくて、世界の歴史上最大の役者なの
である」。その意味で、一般教書演説は注目された。オバマ大統領のこの演説での中国
への言及は大きくその意志を伝えたものだった。オバマ大統領は、日本については1度
も言及しなかったが、中国については3回も言及し、明らかに米国第一先駆者たれと説
き「すべての重要な国際問題において、世界各国の人々が解決を求めるのは 北京でも
モスクワでもなく我々だ」「(国際情勢には)過渡期にある中国経済から逆風が吹いて
いる。」「(貿易ルールについて)環太平洋連携協定(TPP)はアジアにおける米国
の指導力を増大させる。同地域のルールを作るのは中国ではなく(間違いなく)米国(で
あるべき)だ。」と言い、台頭する中国を強く意識した演説をしている。特に「ルール
を作るのは米国だ」という主張は、米国主導の秩序形成の宣言であり、その時出てきた
中国主導のアジアインフラ投資銀行(AIIB)や一帯一路構想にみられる中国による
米国主導の秩序への挑戦を強く意識し、国民も目を向けよと言う発言であったのだが。
だが馬鹿げた米国の経済学者は意味も無く反論した。「そもそもTPP合意国12か国
の大部分にとって中国は最大の貿易相手国である中で、中国に地域的な世界的なルール
作りに「口を挟むべきではない」と言っているようだが、このような考え方は、世界が
求める米国のリーダーシップではない。指導者が何処かを悪魔視することは、大統領自
らの自信の欠如を露呈していることだ。」などと辛辣な批判を浴びせた。だがどうだろ
う。東芝がココム違反に問われ、日米摩擦では全く問題ない日本の国策や行政に口を挟
み同盟国イラクに話し合いせず戦争を仕掛けたのは 米国国民そのものではないか。そ
の上ベトナム戦争では反共主義を唱え世界大戦では共同戦線を張ったと言う過去を持つ
国でよくまあ馬鹿げた反論をしたものだと言える。CSISのスコット・ケネディ研究
員で言う「新たな覇権国の台頭とそれに対する既存の覇権国の懸念が戦争を不可避にす
るだろう」という米中を巡るトゥキュディデスの罠の回避は一筋縄ではいかない話だ。
今まで米国が追求してきた「ライバル大国の出現を許さない。」とする覇権主義であれ
ば衝突する可能性は高い。


532: 名無しさんAA:17/07/12 19:11
自立主義を貫け  22    「やべえ。やっちまった中国」023

 中国に対しては関与政策を継続し、中国を米国と同様の価値観を持つ民主主義国家に
して、国際法などを遵守する国家に導く事で、そしてグローバル化する経済の相互依存
関係などによりトゥキュディデスの罠を回避する事が出来る。と考える人たちも存在す
る。更にリベラリズムの論理では、これまで16のこうした覇権国家の台頭に2つしか
戦争に至っていないケースがあるだけで他は皆衝突しリスクをそのまま背負ったとされ
ると言う。国家維持に必要な摩擦回避の為には@一方的な戦争、A軍事力の脅威を活用
した恐喝、B経済力や軍事力の均衡による平和維持、とC責任転嫁による一国主義、更
にD融合させた経済による宥和政策、E先端巨大国による追従政策しか理論的には考え
られないとされる。先に述べた経済の相互依存による回避はDに当たる平和的な解決策
と考えられている。@の一方的戦争は中英戦争やフォークランド戦争の様な余り大きな
ダメージの残らない戦争だろう。Aは、今のクリミア半島を占領した議会やイスラエル
建国だ。Bは満州国建国や日韓併合だろう。Cは今の中国のウイグルや香港に当たる。
チベットは恐らく@かAであり日本が行ったBとは全く違う。それはちゃんとした建国
として境界があり建国以前に虐殺があったかどうかである。朝鮮半島併合には話し合い
の場も国際社会への共同声明が出され相互に合意した点で今の中国の覇権主義や拡大主
義とは全く異なっている。更に大事な事は戦時中には学徒動員や赤紙があったが、今も
韓国でも或いは近年まで多くの国に徴兵制がなされていたのだ。そんな悲惨な時代には
別に韓国の慰安婦像を建てるまでも無く韓国がベトナムやフィリピンに出兵した時さえ
韓国の女郎屋や女衒は店を開いていたのである。話を戻せばこの歴史を正視しない民族
は何処の地域でも戦争にはなっている。それは「他の非を観て身を正す」事が出来ない
民族だからだ。今回のシリア内戦も民衆がイラクやリビアやアフリカを見れば本来なら
考え行動を控えるのが人間だ。この学習能力の無さが問題である。韓国も中国も、その
意味では情けない位に時代を繰り返している。これを良しとする気性が他の国からは、
全く理解できないのだ。そうして理解出来ない国が一様に民主主義を持つとは考えられ
ない事が大きな問題だ。つまり考えられないからその行程もプログラムもプロセスも、
他国では思いつかないのである。


533: 名無しさんAA:17/07/13 02:06
  自立主義を貫け  23    「何だ 勘だ 韓国。」001

 今度の新しい覇権争いの現場はやはり 北朝鮮になるのは確定の様に見える。日本人
にとっては南沙諸島の方が多数の東南アジア諸国も中国排除に前向きなり、中国にとっ
ても今開発の無人島建設やガス田建設を手放した所で 自由航行の権利は約束されるの
だから中国にとっても問題はない上に他の国にも影響が出ない。只フィリピンにとって
は既に6人が重機関銃で殺されている問題はそのままではあるが。それでも日本に取っ
ては朝鮮半島の動乱は例え勝っても良い事では無い。先に言った様に民主主義の価値観
を理解出来ない国としての集団にはあまり接触するべきものではない。今の中国の公害
特に排気ガス問題とセウォール号沈没問題は全く同じである。まず中国への プラント
輸出に日本の二の舞になっては大変だと時の後藤田氏などがわざわざ脱硫鉛装置をつけ
て二基の援助したものをそれを省いて共産党は勝手に威圧で3基つけさせたのである。
セウォール号も中古買い入れ時は日本で最も安全な船を勝手に改造し金の亡者として使
ったのだ。双方共に自分達の立場を利用した 或る意味国民に対した背任であり汚職だ
。高高度防衛ミサイル(THAAD)が配備された慶尚北道星州郡も 今やTHAAD
反対の活動家らが闊歩し「無法地帯」になっていると報道される。、THAAD運用に
必要な物資を運ばせないよう勝手な「検問所」を設置し、関係車両の通行を妨害してい
るが警察車両すら検問していると言う。配備地域に通じる2キロの小道に通行制限し、
韓国軍は物資をヘリで輸送する始末だ。一部の警察車両も検問の例外でないことから、
韓国メディアは「民間人が行う検問に警察が応じるというのは世界的にも非常に珍しい
」と自嘲を込めて報じているが、この「民間人が国家権力を行使する」と言う異常事態
の状況は3カ月も続いているという。なんとアホな国家だろうか。裁判所すらまともな
裁判せず治安維持の警察すら無法者を取り締らない。その上議員は勝手に財閥を裁判に
突き出し 海洋警察は泳げない者を集めて沈没する船の中で死んで行く人間を嘲笑して
救助活動すらまともにやらない。ここまで来れば地獄の国より秩序がない。こんな国民
には恥がない。自分達が先人こそが慰安婦を連れ去った事を捻じ曲げて伝え 自分達が
嘲笑される殆ど韓国軍が徴集して作った慰安婦に像まで築いてより笑われる事を望むと
言う馬鹿さである。こういう国が国際法などと言う認識があるとは到底思えない。

534: 名無しさんAA:17/07/13 14:55
  自立主義を貫け  23    「何だ 癇だ 韓国。」002

 ジョージア州には、起亜(キア)自動車の工場があり、韓国系住民が多く住んでいる
。勿論既に米国籍の韓国人だろうが。それでも今だ米国籍を持たない韓国人も多くいる
。そうした事で在米韓国系市民運動団体「市民参与センター」は同州最大の都市の、ア
トランタ市の「公民権・人権センター」に慰安婦設置を希望したという。だが同センタ
ーが許可しなかったため、ブルックヘブン市の公園に白羽の矢が立った。この「慰安婦
像問題」についてはこれ以上の発展はさせない。として「慰安婦問題」と共に日韓合意
を取り付け2年半の論議を得て「最終的かつ不可逆的な解決」を文言にし確認した事を
2015年に、日韓合意声明文書としてを発表している。これは既に国際法違反である
大使館前の像設置と共に「声明の主旨を守る為の合意書」とする国民行動規制への国際
法違反もはなはだしい事に当たる。こうした無法団体「市民参与センター」の資金にも
国際法を無視する韓国国民の姿がある。かつてK−POPや韓流ドラマを、国をあげて
PR活動し30億使い込んだとされる韓国系団体である。2011年、李明博政権の時
である。この国家のPR費の使い込みで「市民参与センター」関係を処罰しようとした
。が、逆に韓国法曹界から逆襲を喰らったとされる。親日家とされた李明博大統領は8
が突然竹島を訪問して「我が領土だ」と発言し、帰還しての取材にとうとう天皇に謝罪
をもとめる発言が飛び出した。8月14日、「天皇訪韓なら謝罪を」と要求し、「痛惜
の念という言葉だけをもって来る必要はない」と語ったのである。来るなと言っても、
2008年にわざわざ訪韓を招請したのは、李明博大統領自身だったのである。こんな
おかしな言動を取り始めたのだが、韓国経済界も法曹界も或いは市民団体も、全くその
背景探索をしなかったのである。その理由には そうしたいい加減さを求めるおかしな
凶暴粗野の市民感情がそこにある。李明博大統領は日本では「毒入り餃子事件」で不審
な火災が多発してる中に発足した。中国が北京オリンピックを餌に チベット弾圧や、
ウイグル虐殺を繰り返しながら経済発展いる最中だったのだ。食品偽装が相次いだが、
韓国は政財界復活で日本離れで中国に寄って行き、一斉に市民感情に反日ブームに火を
つけた中だった。日本では洞爺湖サミットを向かい入れたた後、直ぐにリーマンショッ
クが起こったのである。日本との通貨スワップでやっと切り抜けた韓国経済だったが、
反日ムードの中で大統領の功績とならず市民は功罪として見た。解説では、当時に退任
間際だった大統領はこうした支持率大幅低下と、歴代大統領の悲惨な末路に悩み、それ
がこうした精神病風の支離滅裂行動と関係しているといわれている。

535: 名無しさんAA:17/07/15 12:12
  自立主義を貫け  23    「何だ 癇だ 韓国。」003

 李明博大統領時代に韓国は節目があった。それは地方選挙で盧武鉉政権の経済無策へ
の批判やハンナラ党代表の朴槿恵への襲撃事件も重なって、与党のウリ党は惨敗を喫し
た事だ。この選挙の前に盧武鉉は北朝鮮との太陽政策を受け継ぐべく朴槿恵と会談した
。だが暗殺された親を持つ朴槿恵は非情な支持者に守られての出馬であり意見交換には
傾かなかった。そうした2分したネチズンの嵐が李明博政権を産んでいた事を、彼には
理解出来なかったのだろう。前任のソウル市長を捨てて立った李明博には日本や米国の
様な政策による選挙で挙がったものと思っていたに違いない。旧来の日本や米国に対し
てのお伺い外交跪き外交の姿勢を許さなかったのである。そこには中国が発展していく
中に於いて、韓国も又アジアショックやロシア恐慌を抜けて新たな高度成長時代に入り
実質水準で日本や中国を抜いて行こうと言う中にあったからだ。事実最先端のLD分野
や海運やスマホなどと家電製品などは、日本の技術を盗み韓国の部品で中国で組み立て
た格安商品で世界中でソニーやパナソニックやシャープを次々と駆逐している中にあっ
た。この経済利益によって、財閥機能は大きくなり韓国人は西側世界から抜け出た八方
外交に変わっていたのである。つまり北朝鮮が欧州や米国に寄り付こうとしたように、
韓国はロシアや中国にすり寄って行き、自動車電子機器など大きく輸出を伸ばしていた
のである。つまり李明博大統領に「ウォン・円のスワップ取引」などの「弱腰外交」を
するなと言う国民の声でロシアに労働者を入れ、中国に工場を建てるなどしてしたたか
に行く事を決断するより道が無かったのだ。こうした空威勢の韓国外交は今の大統領に
もついて回る。違法な竹島占拠であろうが、慰安婦像設置だろうが、今や日本の怒る姿
を見ながらの、かつての様なオドオドした萎縮外交を国民は許さなくなっていたのだ。
こうして動けなくなった政府はいつもの様に「勝手な韓国内の法判断」で裁かれる事に
移行する。中国が4千年の歴史と言えども先人の政府の技術を遺伝させない為積み重な
らない文化で「共産党文化」は世界で最も文化程度の低い国として認識されるが、この
韓国も又同じ中にあり 先人から受け継ぐべき知恵を継承する事はない。それどころか
韓国や中国は、歴史を変えてでも偏見と独断で外に出て付いて来ない者を死罪にすると
言う卑怯さで 今を持たせているのである。そうした悪い伝統は金大中事件でも解る。


536: 名無しさんAA:17/07/15 16:58
 自立主義を貫け  23    「何だ 癇だ 韓国。」004

 この韓国の「八方美人」外交が今や行き詰りを見せている。北のミサイル発射によっ
て米国が高高度防衛ミサイルであるサード(THAAD)の在韓米軍配備を押し付けた
からだ。韓国内には相当数の北朝鮮工作員がいる。更には、朝鮮戦争での分断時生き残
った北の抗日戦線の兵士はそのまま韓国に住み着いてしまった。つまり親中兵の子孫た
ちである。この二つの集団はそのままかつての中国属国主義を貫いている。つまり無難
に時を過ごす事を第一としているのだ。つまり国民は例え北からの攻撃があったとして
も反対姿勢なのだ。そして本当に戦争になったら(というより停戦協定も結んでいない
)それはそれで他国が守ってくれると思っているのだ。その上中国は防衛上のこのミサ
イル監視が中国のミサイルが完全に無能になる事を恐れて猛反対である。中国の3万発
か4万発のミサイルの1/3はロシアや朝鮮半島を向いていると言われている。又他の
ミサイルにしろ主要な基地がこのレーダーサイトの範囲内なのである。西側の盾として
の機能と隣国の巨大な顧客としての位置にもがく事になる。元々こうした危惧は20年
も前から尻軽外交とのそしりを諸外国から批判されていたのだが韓国は中国国内で経済
活動する事と米国からの軍事の庇護は又違うと批判を受け付けず突っ走ってきたのだ。
盧大統領は「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」という法律をつくった
ことでも知られる。これは、戦時下で日本の支援を受けていた韓国人や韓国企業の財産
を没収するというものだ。これによりあの粗暴な全斗煥や李承晩でさえ あまり手を付
けないでいようと保護した日本との連絡窓口を全て封鎖し没収したのだ。これは韓国民
が既に「独立社会主義国家」を目指す決意したものに見えた。これに日本の朝鮮銀行や
朝鮮総連は多く期待し投資した。そこに反動で右派の李明博政権が誕生する。李大統領
は、盧政権がつくり上げた流れに逆らうかたちで出来た政権だった為米国に「統制権の
返還を延期してほしい」と請願しながら「親日」の旗を挙げようと模索した。だが、こ
の時襲ったリーマンショックの国民の不満は高く「反日」の旗を振ったのである。米国
は既に朝鮮半島の危機は想定内の事で ミサイル開発も核開発も危惧して韓国に打診は
していたのだ。その為日本にグアムへの撤退作戦の費用を持たせ、世界の警官の地位を
外して 朝鮮半島有事の際の日本の後方支援の実用討議を始めていた。ここにロシアの
ウクライナ闘争が無ければロシア開発で米国は更なる東側との協調路線で朝鮮半島での
有事があっても見捨てる事を決めた戦略に移行しようとしていたのである。


537: 名無しさんAA:17/07/15 17:41
  自立主義を貫け  23    「何だ 癇だ 韓国。」005

 しかし歴史はそう簡単に都合よくは行かなかった。ソチオリンピックが終わる頃、大
きな事件が三つ起こった。一つはソ連国内のテロである。ロシア南部の武装勢力が来年
予定されているソチオリンピックについて「あらゆる方法を使って開催を阻止する」と
訴える映像をインターネット上で公開していたが、「多くのイスラム教徒の祖先が殺害
されたところで五輪が計画されている」と批判。北カフカスなどのイスラム教徒に対し
、「最大限の力」を使って五輪を粉砕するよう呼びかけた中オリンピックは成功裏に終
わったが。終わる刹那の29日に、ロシア南部の都市ヴォルゴグラードで、自爆テロと
みられる爆発が発生した。市の中心部にある鉄道駅での爆発で、少なくとも17人が死
亡し、約50人が負傷した。その後30日には駅から約2キロ離れたゼルジンスキー区
で、トローリーバスが爆発。これまでに15人の死亡が確認された。ヴォルゴグラード
での自爆テロも、その前の27日にもロシア南部の別の町で車に仕掛けられた爆弾によ
って3人が死亡していた。この自爆テロはシベリア西部の町チュメニ出身の 26歳の
女性が実行犯だったとロシア国内の複数のメディアが伝えており、他に2人の共犯者が
いたとメディアは報じている。これらは「ブラック・ウィドー」と呼ばれる喪服婦人の
未亡人テロとされチェチェンの怨恨とされたテロだった。実はこれまでもモスクワ近郊
のドモジェドボ国際空港(2011年)やモスクワの地下鉄(2010年)での自爆テロでも、
実行犯は女性で行われていた。勿論事件がある度にプーチン大統領は警備体制の強化と
事件の徹底的な捜査を指示をしていたにも関わらずこうした爆破事件が発生し、プーチ
ン政権は面子を完全に潰された格好となった。「紛争の絶えないコーカサス」とされた
ソチを含むこの地域はロシアの最重要拠点都市であった。「バルカンの火薬庫」とされ
たバルカン半島は正に戦場になってはいたが言うなればコーサカスはその後方戦線だっ
た。南のコーカサスではソ連邦のままにグルジア・アルメニア・アゼルバイジャンなど
独立を認めたが、北コーカサスに至ってはロシアの食糧庫であり武器庫であった為に、
その独立をロシアは決して認めませなかったし、逆にその押さえに画策して今のプーチ
ン政権が出来たとも言われる。所謂「偽の傀儡政権攻防事件」である。プーチンの前の
時代プーチンは秘密警察として独立を応援するふりをして仲間同士を戦わせ敢えて内紛
を治める形でロシアがロシアの傀儡政権を打倒して今に至っていて その功績から今の
地位に至ったとされているのだ。今のクリミア奪取と同じやり方だ。


538: 名無しさんAA:17/07/15 17:41
  自立主義を貫け  23    「何だ 癇だ 韓国。」006

 共産主義国家は常に秘密警察がある。そしてそこには二つの支援機構が存在する。そ
れは自治警察とされる「友愛共済会」の秘密警察だ。義勇軍的「国際旅団」の持つ秘密
警察で表向き出て来ることは無い。二つ目はコミテルンの持つKGBなどの正式な秘密
警察だ。これにも二つの流れがあり「政府軍」としての組織と「郷土の自警団」として
の組織と良く見れば3つの流れの中にソ連邦の秘密組織が群がっている。秘密組織は、
それぞれに「政治結社」であったり「共済団体」だったりしてその機能を向上させてい
る。ソ連邦内の共和国政府が紛争を起こせば必ずと言っていい程「自由・平等」を掲げ
る団体に稚拙な武器をいち早く送り信用させる。そして打倒して革命政府が出来上がれ
ばそれを倒す旧来政権の親ロシア派に格段の強い武器を与えて更に転覆させ安定を図る
。中国共産党も国民党もその手の上に乗せられた政権だった。それは第二次世界大戦前
からの伝統的支配方法だった。何故そうするのか。それはアメリカや欧州の干渉や立ち
入りを許さない為だった。だがチェチェン人も馬鹿では無かった。この双方のチェチェ
ン人を戦わせようとした目論見が、双方の話合いで消えてチェチェンは独立を宣言した
。が一年も待たずにロシアが介入し大統領派も革命派も皆殺しにされ 双方に相手方が
殺したとの声明をソ連の軍人が行って終わったのだ。実はウクライナの現革命政権も、
旧親ロ政権もこの中に居た。旧来通りのロシアからの支援での戦いだったのだ。だが、
この時ロシアにはそうした他国を支援する程の経済力がなかった。あったのはガス供給
の利権を維持して貸付のままにする事ぐらいだった。そこで親露政権にも革命政権にも
武器は貸出しせず軍人を送ったのだ。此処で革命の現政権は頼れないロシアを捨てEU
からの支援の下に戦った。その為ロシアからの派遣された軍人も又EUの為に政権が出
来た形になった。これがクリミヤの領有についての会談のもつれとなった。勢いロシア
はクリミヤ奪還に出た「ロシア人を守る為」として。事実上革命政権側はクリミアでの
ロシア人の無差別排除に動きかけて 強制移転を図ろうとしていたのだ。この事件が、
西側諸国の反発を受けて貿易制裁になったのは当然だが、韓国の「八方美人外交」が「
八方塞がり」の外交になる二つ目の事件だった。


539: 名無しさんAA:17/07/15 17:42
  自立主義を貫け  23    「何だ 癇だ 韓国。」007

 この「八方塞がり外交」は それは「終末高高度防衛(THAAD)ミサイルの導入
」で現実になった。これは、大陸間弾道ミサイルや中距離弾道ミサイルが北朝鮮や中国
から発射された場合の初期段階迎撃のミサイルだった。それが 完全迎撃はできなくて
も、その分析などができるレーダシステムが特徴である。更にそれが無くては米国日本
との連携迎撃が出来ない事になるものだった。当然中国ロシアは猛反発したし国内左派
も反発した。「統制権の返還」を主張し、現実的対応では「延期してほしい」とアメリ
カに請願していた盧泰愚、李明博だったが「韓国政府には戦時下で軍をコントロールす
るだけの能力がない。だから、返還は待ってほしい」という懇願は新しい朴大統領でも
同じだった。就任直後アメリカを訪問し、「統制権の返還をさらに延期してほしい」と
お願いしたのだ。それに対し、「統制権をそのまま置くなら アメリカは再びTAAD
ミサイル導入する。」として合意を得た形となった。いわば、独立国として中国側につ
くか、このままアメリカと日米韓の安全保障の中に留まるか、どちら側につくのか」と
迫ったわけである。それは米国側としても対共産国対策でTHAADを日本に置く道も
あったからだった。そして恐々として韓国は従来の「日米韓の安全保障」に留まる事を
決めた。それを受けアメリカは、それを承諾するかたちで「15年末までの延期」での
合意したとされる。国内に戻った朴久恵大統領は既にレイムダック状態だった。馬鹿な
国民の完全独立や南北統一の夢の声が熱かったからだ。この現実を見ない国民を前に、
説得は不可能と判断していた。ましては自分の両親は非道の輩に演壇で撃たれた不幸が
あったからだ。だがこの「戦略的曖昧性」のままを打ち出し綱渡りをする政府の責任は
大きい。アメリカが韓国にTHAAD導入を求めたのは、韓国のみならず東アジア全体
の安全保障につながるからである。しかし、アメリカの要求に対して、韓国はなかなか
最終的に合意していても 国民の反発は収まらなかった。それは当然でこれまでも、こ
れからもこの国の国民にとっては 他人はどうでもよく更に教養や知識は必要なく自分
だけの直感で生きている社会だからだ。現実的にこの国に指導者となるべく公明な人々
は全斗煥や李承晩時代の赤狩りと称した親日家処刑で5万人が殺されていなくなったの
だ。これにより頭のいい当たり前の人間が淘汰されてノーベル賞どころか普通の経済活
動すら出来ず財閥に頼っているのである。


540: 名無しさんAA:17/07/15 20:57
  自立主義を貫け  23    「何だ 癇だ 韓国。」008

 こうして韓国はロシアのテロ事件ウクライナ問題更に北の核開発やミサイル開発の3
つの事件で、アメリカは 西側につくか東側につくかを迫りTHAADでの合意を得た
。その事で中国の反発は予想以上であった。やっと増えてきた観光産業に中国客の足止
め規制を敷き、ロッテや現代自動車の不買や開業取り消しをし、LGやサムソンの工場
の閉鎖に近づく下請け規制を敷いた。これは勧告経済に大打撃だった筈だ。海運業も、
中国の配送が出来ず、元々の過当競争だった中で倒産し国内自動車産業も財閥も冷え込
んだ。その上日本にも米国にも中国にもロシアにも疑心暗鬼の罠があった。韓国は中国
が「中華の夢」計画で「一帯一路」構想や「AIIB」の企画にいち早く参加した国だ
。が恐らくは全く拠出金のみで何の恩恵もないだろう。それでも近隣国としての保険と
見ていた節がある。が今回の一件で日本が受けた官製デモが如何に理不尽な無謀で被害
の大きかったかった事かををつくづく感じた事だろう。だが韓国も今まで北に対しての
事を怠って来た経緯がある。日本や米国からの防衛構想をことごとく断って来たのだ。
日本の駆逐艦や護衛船の寄港さえ許可しなく更にあのセウォール号の事故の際でも日本
の海上自衛隊の救援を拒否したのである。この時日本が駆けつけていれば恐らく殆どが
遭難を免れていただろうとされる。政治と言うより国民の意識形成の不遜である。社会
主義者や共産革命の「他人は我が意志の踏み台となれ」の言い訳と同じである。中国党
とも言うべき輩が自分の国の同志すら助ける必要性を思わなかったと言う事の証明だっ
たのだ。先に言った様に日本や米国の進めてたレーダーサイトの建設はTHAADを進
めた話より古くパトリオットミサイル防衛時代からだ。つまり日本が今行っているこの
像の鼻計画後そのすぐ後だから凡そ25年程前から金大中時代から既に進めていた事に
なる。この計画が進められていたのなら、日本の最初のイージス型護衛艦の金剛と共に
北ミサイルの発射実験はおそらくことごとく失敗に終わったであろう。だが韓国内反日
の流行を抑えることなく竹島問題すら解決する意志の無い国民で政府は仏像盗賊すらも
英雄にする法務院をそのままにして この護衛艦の寄港すら反対に回り今に至ったのだ
。我が撒いた種、自業自得とは言え こうして韓国は自ら苛酷な国際漂流時代に船出し
ようとしている。さてさてこの馬鹿な隣国を 日本は助けるべきか捨て去るべきか。


541: 名無しさんAA:17/07/16 00:05 ID:Svw
  自立主義を貫け  23    「何だ 癇だ 韓国。」009

 あたかも劉暁波氏が手厚い治療を受けているような動画が流れている。これは中共が
仕組んだプロパガンダであると共に、中国内にいる劉暁波関係の人権派弁護士や関係者
らを今後取り締る為の隠れ蓑に海外に向けた映像である。これは真相を追う事をしなく
とも あの北朝鮮から返された青年と同じであって 中国内の監獄から出た時には既に
企画された病巣の姿であろう。本来なら日本が一番先に診療を申し出る事が筋であろう
。何故なら医療関係の設備にしろ悪用される臓器移植にしろ実は日本からの器具や技術
が日本の医師から伝えられているからだ。この悪態の多い中国を救う方法こそ劉暁波氏
を助ける事だった筈だからだ。獄中内でじわじわと病巣が悪化するのを待ち、言論封鎖
をして中国の民主化に影響を与えることができないまでにして獄外に出す手法は昔から
の古典的共産党の手法であり 更にその後も病院が原因で徐々に体が弱らせているのを
逆に称賛させ よくやっていると言わんばかりの声を本人に言わせるのは、60年代に
日本の漁船が拉致された後の船長の映像と全く同じ、極悪の国中国の伝統である。自由
を求める中国内外の民が民主を求めて一斉に立ち上がる可能性を抑えての、今の香港に
訪問する習近平政権にはかなりの冒険である。そんな時にには医者に殺してもらう必要
があったと考えてもいいだろう。そうした事で、劉暁波氏を瀋陽にある中国医科大学の
付属病院に獄外入院させた事は 今後の大きなこの劉暁波の起こした天安門事件の生存
者の一掃にかかったと考えるべきであろう。これが解っているから日本は立ち入れない
。現に地方政府からの要請で温泉の地質調査に入ったものさえ今だ17人は拉致監禁の
まま出国していない有様でシリアの様な戦地でない無い中の監禁なのだからISILの
やることより非道に満ちている。この共産党の大国に韓国はすり寄っていたのだ。まあ
日本の企業も銀行にそそのかされて随分な目で帰ってきているが殆どニュースでは全く
流れない。これは中国工作員が事故死に見せかけた事件が頻繁に起こっている事を示し
ている。既に歓楽街では中国人客に振る舞う日本人売春婦が多々起こっている。日本の
暗黒街が暗躍しているからだが それでも警察はヤクザが減っていると嘘の情報を流す
のである。

542: 名無しさんAA:17/07/16 15:13
  自立主義を貫け  23    「何だ 癇だ 韓国。」010

 実は日本のヤクザは減ったと言うのは実際の現象だが、日本にいる海外のヤクザが増
えたと言った方が正確かも知れない。福岡や佐賀で起こる黄金の金塊事件は韓国に本拠
を持つヤクザが中国のヤクザと絡んでつるんでいるのは確かだ。日本の警察は安易に、
捜査すれば見つかると思っているようだが事はそう簡単な話ではない。東南アジアを股
にかけた九竜城の工作員は各所の政府とも繋がりがあるようだ。ここで少し何故日本が
舞台になった金塊取引が何故行われるか。を少し考えてみたい。歴史的に早くから韓国
社会は金塊の価値の確かさを知っていた。日本以上に金の保管は確かである。特に今の
ウォンの価値が下落する傾向にあれば中国と共に金に頼った経済が出来るのも無理から
ぬ事だ。ではこの金の購入は何処で行うか。当然香港であろう。偽の中国札でも金を買
うルートがアフリカ経由であるとしたらそれは大きなビジネスである。だが売買に危険
はある。そして相手も信用できる貨幣が欲しい。双方が合意する所が安全な紙幣と安全
な法律のある日本と言う事になる。がこの金の輸出入に正規では税金がかかる。8%の
関税で少額なら兎も角1億ともなれば8百万円である。こうなると日本の組織が買い付
けして密輸して日本に持って来ては日本円で韓国人が買う。と言う構図が出来上がって
居た事になる。更にこれを助長したのは政府の税関職員の少なさである。世界的に見て
海運の中の疫病や毒物検査或いは税関職員は他の先進国の1割の定員しかない。これは
どう見ても不備のままで物量が増えたと言わざるを得ない。つまり行政府の議会の議員
は海外旅行などで国費を使い放題のまま 国内整備をここ2〜30年おざなりにして来
ていたのだ。これが今の犯罪を大きくした原因であろう。ではこの韓国に溜まるであろ
う金塊はどうしているのか。実はそのまま又日本の在日に還流しているのではないか。
と推測される。それは福岡で起きた不動産業者の買い付け現金事件を見れば 凡そ日本
で考えられない札束が銀行から降ろされたのである。これは馬鹿な欲垂れの大手銀行や
保険会社がこの金に釣られて動き回っていることが明らかになった。




543: 名無しさんAA:17/07/19 00:53
  自立主義を貫け  23    「何だ 癇だ 韓国。」011

 考えて見れば日本はいつの間にか金さえあれば何で出来る時代から 金を横暴に使う
時代に入ったようだ。それは国が進めた国際化の波によって中国から輸入された考え方
なのだろうが これは悲しいかな米国が興しただろう消費文明の側面で草木を愛でる眼
を変えてしまっている。今日本が観光客に人気なのはそうした自然を愛でる文化なのだ
が 日本人の方が全く無頓着に 土地改良や区画整理やインフラ事業など言っては全く
自然に似合わない 道路や家を頻繁に整備した。その結果がこの朝倉の洪水事件だろう
。全く自然に敬服しない姿勢の人間の社会行動が多くの自然災害を大被害にしている。
だがそうした被害でも命に関わる事にはドクターヘリを飛ばしフライトドクターを育て
10年20年と培ってたった一人の命を粗末にしないようリモートと言う映像共有まで
システム化した社会を作った。だがお隣の中国では逆に、留置所監視がありながら劉暁
波氏は病気に至り、危険思想などと言っては病院は治療どころか病状を悪化させ、死に
至らしめた。それらの姿は韓国でもセウォール号事故や地下鉄事故。公園事故やデパー
ト崩壊事故などを見れば、全く人の安全に配慮しない姿勢が見える。船を違法改造し、
運行に違法にバラスト水を捨て喫水線を上げ 過積載の荷物は固定しないままに出港し
、更にには救命ボートはワイヤーで止めて使えず、救急体制も避難訓練もないアルバイ
ター任せの運航で救難連絡も完備していなかったこの事故が 殺人運航であったのは、
間違いない事実であろう。更に救難に駆けつけた海洋警察や海軍の海難救助部隊が誰も
泳げなく近づかない中で民間船が幾人かの学生を助けたと言うずさんさだった。これは
日本にとっては衝撃的過ぎた。だが日本も笑っていられない。JR西日本の福知山線の
脱線事故では、先頭車は1階ピロティ部の駐車場へ突入。2両目はマンション外壁へ横
から激突しさらに脱線逸脱してきた34両目と挟まれて圧壊し、死者107名 負傷者
562名の大変な事故が起こっている。住民の機転で緊急押釦が押され接近中だった下
り線の特急「北近畿3号」が、僅か100mの手前で停止出来たのは不幸中の幸いだっ
たと言えよう。だがこの事故に関しても5つの営業違反がある。一つは工事して曲線で
ある曲率半径を小さくしたにも関わらず制限速度を変えていなかった点である。更に、
過密化する乗客に対して運転本数を増やす事で対応し時間遅れを厳しくし安全運行より
利益重視であった点だ更にこの運転手を奴隷の如く教習と称した罰則を設けていた点だ
。これらは確実に違法行為だが裁判ではその責任者をつまびらかにしては居ない。更に
問題なのはこうした安全軽視姿勢に一向に労働基準局は対処しなかった事だ。これでは
国民には理解出来ない政府としか言いようがない。韓国のいい加減主義と同じなのだ

544: 名無しさんAA:17/07/19 00:54
  自立主義を貫け  23    「何だ 癇だ 韓国。」012

 国内初の原発古里1号機の永久停止(廃炉)を勧告した。文氏は選挙公約で「脱原発
」を掲げていた。韓国では、19日未明に永久停止した古里1号機を除くと原発24基
が稼働しているほか、さらに6基が建設中、4基が建設に向けた準備中だ。文氏は準備
中の4基を白紙化する考えとみられる。2号機事故では 釜山にある60余りの市民の
社会団体が参加している「反核釜山市民対策委員会」と新政治民主連合、正義党、緑色
党は、釜山市庁の前で記者会見を行い、「古里原発2号機は、32年間稼動中の韓国で
3番目に古い原発だ。事故原因を明らかにして再発防止対策を立てよ」と要求していた
。「政府は釜山市民を危険に陥らせた新古里3・4号機などの新規原発推進計画を中断
し、寿命再延長を推進している古里原発1号機を直ちに閉鎖せよ」と付け加えた。釜山
・機張(キジャン)郡の古里(コリ)原子力発電所では、最近7カ月間に三回も火災または
煙が発生し、老朽原発に対する不安感が高まっていたのである。古里1号機については
朴槿恵政権時代の2015年6月、運営会社「韓国水力原子力」が政府の勧告を受けて
韓国で初めてとなる廃炉を決定していた。韓国の釜山から30キロ以内にある古理原発
1号機の2度目の稼働延長に対して、反対の運動が盛り上がって福島原発事故と同様な
規模の事故が起きれば300万人近くの避難が必要になる。市民運動だけでなく与党系
の市長も再延長に反対して、申請期限を控えて 超党派の反対運動となっていたのだ。
 更に、韓国水力原子力(韓水原)が、新古里(コリ)原子力発電所5、6号機の建設
を一時中断した。文在寅(ムン・ジェイン)大統領の大統領選公約である「脱原発」に
向けた最初の措置だが、十分な議論なく朝の時間帯にホテルで決定を出し、「ひったく
り理事会だ。」という批判が出ている。韓国水力原子力は14日慶尚北道慶州市北軍洞
(キョンサンプクト・キョンジュシ・プクグンドン)のスイートホテル慶州で理事会を
開き、在籍理事13人のうち12人が賛成し、新古里原発5、6号機の建設中断を決め
た為だ。今回の措置は、政府が公論化委員会を設置した時から適用される。中断期間は
3ヵ月としている。

545: 名無しさんAA:17/07/19 00:54
  自立主義を貫け  23    「何だ 癇だ 韓国。」013

 だがこの決定には裏がある。韓水原の今回の決定は、第1級のセキュリティを要する
軍事作戦に匹敵する緘口令を敷いた。韓水原は13日午後3時、慶州本社で理事会を開
き、原発建設中断案を可決しようとしたが、労働組合の反対で失敗していた。このため
、理事会を16キロ離れたホテルで開催し今回の決定を得たのである。だがこれによっ
て韓国が受注したUAEからの原発建設は完全に破綻してしまう。とくにUAEの原発
建設問題は契約で「UAE現地に作る(新古里3号機型)原発モデルが きちんと韓国で
新建設され、自国内で安全に運転されていることを実証し、2015年を期限として、
UAEに証明しなければならない。」として、違約の場合は原発輸出違約金を支払う事
になっているからだ。その金額が2兆円というのだから半端でない。かつて昔麻生政権
の頃からの中東の原発要望に、安倍政権は出来てすぐ原発売り込みに中東を渡り歩いた
。その際にUAEには既にフランスはその見積もりを出していたと言われる。日本では
原発は1基5千億円の巨大ビジネスと言われているが、恐らくフランスは1〜2割割高
だったと思われる。日本に決まる頃韓国の李明博政府が受注したと発表した。当初その
条件は秘密裏で動いていたが徐々に明らかになるにつれとんでもない条件の契約だった
。当初有力だった日本の提示金額では大きな差はなく最低価格として日本が有力だった
。ところが韓国が日本の半額以下、フランスの8割以下の提示だけではなく、その他に
桁違いの条件を提示してきたため韓国に決定したという。その条件が@原子炉186億
ドルのうち100億ドルの融資。A原子炉稼働事故保険60年保証。B故障時の修理回
復保証。C運転、燃料供給等の完全管理。D原発の韓国軍による駐留警備。というもの
だった。だがさすがにここまで好条件だとそれが嘘だろうと勘ぐられ、UAE側は疑問
を抱き「UAE現地に作る(新古里3号機型)原発モデルがきちんと韓国で建設されて、
安全に運転されていることをUAEに証明すること。2015年を期限とし、違約の時
は原発輸出違約金を支払うこと」という条件を付加したという。


546: 名無しさんAA:17/07/19 00:55
  自立主義を貫け  23    「何だ 癇だ 韓国。」014

こうして2009年、李明博大統領とアラブ首長国連邦のハリファ大統領が見守る中、
金双秀(キム・サンス)韓国電力公社社長とUAE原子力公社のムバラク会長が原子力
発電事業に関する契約書に署名した。MBC時事マガジンでは、韓国政府がUAEから
原子力発電所建設を受注しながら何と12兆ウォンに達する天文学的な資金をUAEに
貸すことにした裏面契約があったと言う事を暴露している。つまりタダで造る契約で、
その上違約金を払う契約だったのである。「原子力発電所、未公開契約条件」という題
で放送されたこのプログラムは、UAE原子力発電所受注と関連しての「私たち国民が
全く分からない未公開契約条件があった。」と明らかにし「現在原子力発電所工事進展
に支障が出ており昨年年末までに両国首脳が参加した中で、起工式が開かれなければな
らなかったが現在起工式は無期限延期になった状態になった。」と報道された。また、
米国ブルームバーグ通信が「国策銀行の韓国輸出入銀行がUAE原子力発電所プラント
に100億ドルを貸す計画だ」と報道した内容を公開「私たちのお金で約12兆ウォン
に達する輸出入銀行歴史上最も大きい規模の貸し出しがなされるだろう。」と明らかに
したのである。その後もイム・チョンヨン企画財政部1次官は2010年国会企画財政
委員会租税小委で「UAEと契約内容自体が私たちが半分ほどファイナンシングをする
ようになっている。」と明らかにし、韓国輸出入銀行が与党国会議員に提出した報告書
には「UAE原子力発電所に対する輸出入銀行金融支援規模が受注金額(186億ドル)
の約半額の90〜110億ドルを融資すると予想」と課題を報道した。時事マガジンでは そ
の間22兆ウォンを越える原子力発電所建設費用はUAEが自主的に負担して、韓国は
建設だけ引き受けると分かっていたが、契約が締結された後はほとんど1年を過ぎて、
ようやく建設費用の半分以上の約12兆ウォンを 韓国が貸さなければならないという
事実が明らかになったことは納得するには難しいと指摘した。


547: 名無しさんAA:17/07/19 00:55
  自立主義を貫け  23    「何だ 癇だ 韓国。」015

そうして韓国輸出入銀行
は8月21日、日本のみずほ銀行と契約を結び、借入期間は5年で5億ドル(約487億6
000万円)を借り入れたと明らかにし、金竜煥(キム・ヨンファン)頭取が同日 みずほ
銀行本店で佐藤康博頭取と会い、金融契約書に署名した。しかしこの韓国輸出入銀行は
実は欠損銀行であり時の政府が勝手に作った手持ち資金のない国策銀行で国際的な銀行
法の適用を受けるいわゆる銀行ではない。専門銀行と称してはいるがこれでは一般と変
わらない国が詐欺る為の銀行だったのである。この分野の素人でさえもプロジェクトが
破綻するなと確信したのは当然だろう。まず@保証年数については40年さえ無理な時
60年保証は東芝グループの受け入れはまず不可能である。A発表では建設費はUAE
全額負担ということであったが、それはありえないなら最貧国の韓国にそうした余剰金
があるとは思えないB燃料購入国の韓国が燃料の安定供給などできるわけがない。当然
実績のない韓国に出来る筈はない。と思っていたら、なんと、みな日本に出させるから
と公言しての驚くべき入札だったのである。当初から百億ドルの融資資金は日本からの
予定で、実績についても実際の建設は日本の原子炉建設企業の東芝・ウエスティングハ
ウス連合が当たるものとし、保証、管理、メンテナンスも彼らが行うという入札だった
らしいのだ。ところが勝手な受注が先行し、東芝グループとの建設条件の提示が後にな
ったため、あまりの長期保証条件に東芝グループが引いてしまった。韓国企業は手抜き
手抜きで利益が出ると考えていた。契約のここまでは順調だったが。ところがここから
破綻が始まる。日本企業が建設から手を引いたためロイズ保険も引き受けを中止して、
しまったのである。強固な造りの日本製品にはジャパンプレミアムでロイズは日本主体
の保険業務については本来世界一厳しい日本の査定作業については全く信用で格好だけ
であった。この業界のジャパンプレミアムは日本に関する保険は、ただもらえるだけで
心配が全くないという保険業界の安全神話であったが、このロイズが建設主体韓国企業
と聞いて保険の査定作業にも入らず完全に手を引いたのである。この時点で原発建設は
不可能となってしまったのだ。


548: 名無しさんAA:17/07/19 00:56
  自立主義を貫け  23    「何だ 癇だ 韓国。」016

だが形だけは進行していたらしく2014年5月21日
付けでアラブ首長国連邦(UAE)に訪問中の朴槿恵大統領は、20日のバラカ原子力
発電所1号機の原子炉据え付け式に出席し、同原発は韓国が海外で初めて受注に成功し
た原発だと、華々しくニュースを撮られているのである。「当時の李明博大統領のUA
E訪問に合わせ、韓国電力公社とUAE原子力公社(ENEC)が186億ドル(約1兆
8800億円)規模の契約を結んだ。契約内容には140万キロワット級の原発4基建設、
核燃料の供給、運営支援などが含まれている。12年7月、1号機のコンクリート打設
が始まって以降、今年3月末現在で原発4基の工事進捗率は30.4%に達した。1号機は今
年2月に外壁工事を完了した。17年5月に1号機が稼働を開始する予定で、その後は
毎年1基ずつ完成を見込む。2009年当時の韓電のコンソーシアムは、フランスのアレバ
である。」と書いている。そして去年「2号機の原子炉設置を成功裏に終えました」。
韓国電力は6月19日にUAE原発建設事業が順調に進んでいると発表した。同事業は
UAEアブダビ首長国に出力140万キロワットの原発4基を建設するという大型案件
。1号機は17年5月の完成を目指している。だが先述の様に、韓国電力には素直に喜
べない事情がある。3月26日に新古里原発3号機(蔚山市)の新規運営許可を審議し
た原子力安全委員会の結論が「次回再審議」だったが今や建設中断を決定しているから
だ。同原発は「APR1400型」と呼ぶ韓国の独自モデル。UAE原発と同じタイプ
だ。試験運転期間などを考えると、約束どおり9月に稼働するにはこの日が許可を受け
る最後のチャンスだったが 今だ基礎のままだ。同委の会議も結論は持ち越し。「次回
日程は決まっていない」と関係者はいい、韓電が期限を守るのは絶望的だ。遅れた場合
、工事代金の0.25%を違約金として毎月UAEに支払うことになる。月に2億5千
万〜5億ウォン(約2800万〜5500万円)程度になると韓国メディアは報じている。だが
本当の問題は金額ではない。自国でも信用性のないこの原発が建設されても動かせない
代物である事だ。新古里3号機は11年に完成して運転許可を申請したが、その後には
相次いで問題が発覚した。13年には 冷却装置を作動させるのに使う制御ケーブルの
品質試験成績書を民間検査会社が偽造していたことが発覚。新古里3号機にもこの部品
が使われていたため交換を余儀なくされた。14年末には窒素ガスが漏れ出し作業員3
人が死亡した。15年には原発部品のリコールもあった。更に他にも 表に出て居ない
配管などの品質に多々疑問が起きている。

549: 名無しさんAA:17/07/19 01:21
  自立主義を貫け  23    「何だ 癇だ 韓国。」017

このUAEの原発問題が 余りにも面白いので以前から追っていたとする2chコピペ
が出回った。@日本、フランス、韓国がUAEの原発建設に名乗りを上げる 入札価格
は日仏の各320億ドルに対し、韓国勢は200億ドルだった1兆円近い安値を提案したこと
に加え、60年間にわたって原発の運転を保証するという条件で韓国勢落札が決まった。
A原発を建設した実績も技術もない韓国がなぜか受注に成功したか、他にも破格の条件
が次々と明るみに出た百億ドルの無償融資やメンテや燃料補給の完全供給の保証だった
B韓国人歓喜、受注した日を「原子力の日」に制定する。韓国国民はこぞってお祝い。
CUAEの高官に韓国が極めて異例な60年保証をしたことをばらされ、日本から借金
D韓国政府は必死に否定するも世界中に知れ渡り 国内では自国原発の不都合が続発。
E他国の受注競争でも60年保証を何処の国からも求められて 韓国は原発受注辞退。
FUAE原発受注から1年経つも一向に受注の実績を作れず。一方日本は順調に受注に成功
G韓国側が譲歩し破格の条件でUAEの原発受注に成功していたことが他に暴露される
「原子力の日」があまりにバカバカしいのでコピペにありがちなデマかと思ったら本当
だった」「UAEの原発プロジェクト入札前後で韓国勢の様子が違う」と日本の原発関
係者は言う。トルコが黒海沿岸のシノプで建設を予定している原発プロジェクトは当初
、韓国企業連合が受注するべく交渉が進められていたが暗礁に乗り上げた。その後は、
トルコ政府は交渉相手を「オールジャパン」に切り替えた。さらに韓国勢はヨルダンで
予定されている原発プロジェクトへの参加も断念。「UAEを取った時の勢いがない」
更に 文政権は原発廃止に動いている。と関係者は言う「UAEプロジェクトの入札価格
は日仏の各320億ドルに対し、韓国勢は200億ドルだったと言われる。1兆円近い安値を
提案したことに加え、60年間にわたって原発の運転を保証するという条件が韓国勢落札
の決め手になった」と言われる。だが、ここにきて「破格の条件を提示し過ぎたとの思
いから、トルコやヨルダンでは慎重な姿勢を保つようにしているのではないか」と大手
プラントメーカー幹部は分析する。原発関係者が「特に破格」というのが60年間という
運転保証だ。原発の実用炉を世界で初めて完成させたのは1954年の旧ソ連と言われる。
もっとも現在、世界の主流である軽水炉型原発となるとやや時代が下り、加圧水型
(PWR)は1957年、沸騰水型(BWR)は1960年がそれぞれ運転開始の年。ちなみに日本は
1963年に茨城県東海村で発電したのが最初だ。それぞれに40年でも延長して廃炉状態
である。


550: 名無しさんAA:17/07/19 08:14
  自立主義を貫け  23    「何だ 癇だ 韓国。」018

 ところが これが東芝のウエスチングハウス買収問題に深くかかわっている。韓国の
輸出入銀行のこの実態がわからない事は 先に述べたが、韓国マスコミの説明では国策
銀行とはいっている。だが銀行法の適用を受けるいわゆる銀行ではヒットしない。専門
銀行とは称してはいるがこれでは一般と変わらない。IMFや外資の影響を受けない形
の 国際金融市場での債券発行などできない勝手な ”もぐり銀行”としか考えられな
い。そういう意味では、韓国輸出入銀行の借り入れは、韓国政府保証、韓国の借入であ
り、韓国政府が他国の民間金融機関から借入をするということがどのような事態である
のかは 最初から日本を餌食にした詐欺集団としての韓国政府である事を簡単に想像で
きる。韓国輸出入銀行の日本のみずほ銀行と契約を結び、5億ドルを借り入れた事も、
借入期間は5年間である。金竜煥(キム・ヨンファン)頭取が直接にみずほ銀行本店で
佐藤康博頭取と会い、金融契約書に署名しているし、公式にも非公式にも日本乗っ取り
完了と発言し、これらは韓国に金の心配はないみな日本に出させるからと説明して契約
していたのである。100億ドルの融資資金は日本からの予定だったのだ。それを勝手
にみずほ銀行が引き受けた形であり、実績についても、実際の建設は日本の原子炉建設
企業東芝・ウエスティングハウス連合があたるとし、保証、管理、メンテナンスも彼ら
が行うという入札だったらしいのだ。受注が先行し、東芝グループとの建設条件の提示
があとになった為、あまりの長期保証条件に東芝グループが引いてしまったようだが、
こすずるい韓国は どうやらウエスティングハウスやその保守点検の子会社を説得して
問題であったロイズ保険を通し、原子炉建設企業が東芝・ウエスティングハウス連合で
形の上は行っているようになっている形の契約履行なのだ。と言うのも一回もその訂正
した契約を変更した声明がないのだ。又唯一問題であった原子炉建設経験がないハンデ
を、「UAE現地に作る(新古里3号機型)原発モデルがきちんと韓国で建設され、安全
に運転されていることを2015年を期限でUAEに証明すること。違約の場合は原発
輸出違約金を支払うこと」という条件でクリアしているままなのだ。韓国独自開発の原
子炉APR1400を使った初の原発である新古里原発3、4号機は核心部分を東芝が
JVとして下請けとなり設置提供し、2年の歳月で2015年10月に既に完成して、
12月試運転し翌年2月には本格稼働している。ところがその品質に多くの疑義が出て
2015年の9月の新聞では、納品した斗山重工業は制御棒の振動試験で欠陥を確認し
、韓水原に条件を修正して再試験をすると報告した。その結果、部品の寿命は約2年半
(29.8ヶ月)で、設計寿命の40年に大幅に満たないことが分かったと伝えている。

551: 名無しさんAA:17/07/19 14:47 ID:iPk
  自立主義を貫け  23    「何だ 癇だ 韓国。」019

 ところがこのUAEに今や多くの疑惑がかかっている。カタール問題だ。そもそもが
このUAEに原子力発電所が必要な理由はなかった。自前の天然ガスも石油も取れて、
中東ではサウジアラビアより以上の進展のある国で 首都ドバイでは主要な空路は全て
ドバイ経由である。海の港も同じく整備され、更に人工島群「パーム・アイランド」な
どのリゾート開発や高級住宅街は完成し世界一の高さを誇る巨大ビル「バージュカリフ
ァ」は世界一高い高級ホテルとして運営されているからだ。更にリーマンショックがあ
って石油依存からの脱却とは言え福島の原発事故があった直ぐ後に こんな危険な物を
実績のない韓国に作らせると言うは無謀としか言えない。一体何をしようとしてたのか
それが 今のカタール対UAEの闘いであろう。現実問題としてサウジがイエメン攻撃
を行っているが サウジの国土からすれば叩く程の事はない。昨年12月に韓国の原発
運営会社「韓国水力原子力(韓水原)」のシステムを攻撃したハッカーと同一とみられ
る人物が、インターネット上に韓国の原発関連資料など25件のファイルを公開した。
韓国捜査当局がハッカーの特定を急いでいる。原発行政を管轄する産業通商資源省は、
機密性の高い資料ではないとの見方を示している。朴槿恵大統領が今月の中東歴訪中、
サウジアラビアでの導入検討で、同国側と合意した韓国製原発の蒸気発生器に関する、
データや、朴氏と潘基文国連事務総長の通話内容に関するファイルが、含まれていると
いう事件が起こっている。ドバイでは大型工事の結果、数々の豪華ホテルやショッピン
グモールが完成し、2009年9月に開通したドバイ初の鉄道であるドバイメトロは活況だ。
2010年にサービスを開始した百人乗りのフェリーなど適度にインフラも整い、宿泊料金
も安くなり、旅行者が来やすい様にとしている。又2020の万博を開催すること が
決定した中で サウジの目をそらす意味もあるのかも知れない。米大統領の中東への新
しいアプローチを後ろ盾に、カタールを孤立させるチャンスを逃さなかった。天然ガス
が豊富で外交政策では長年にわたり周辺国と相容れない立場をとってきたカタールに、
先月にはイランを敵対視する米国スタンスにカタール皇太子の疑問視発言はあった。問
題の発言は、サウジやUAEといったイスラム教スンニ(Sunni)派の首長国に対する
侮辱として受け止められたが、これらの国はトランプ氏のイスラム教シーア(Shiite)
派主流のイランに対する強硬路線を支持している。となればトランプビルとライバルに
なる事を恐れて 先に目くらましにカタールに仕掛けたと言うのも現実味がある。


552: 名無しさんAA:17/07/20 10:56
 ところがこれがサウジ日本大使館のある館員におこなわれたスパイのリクルート事件
関係がある。既にサウジとイスラエルには幾らかのパイプやスパイは存在してはいた。
表にこそ出ないが、かつての第三次中東戦争でイスラエルの窮地を救ったのはサウジの
対スンニ派作戦であった。つまりヒズボラやムスリム同胞団をスンニ派の民兵として、
敵視していたのはイスラエルだけでなくサウジアラビアも又シーア派として同じ視線で
あり敵の敵は味方としたのだ。その意味では某評論家は嘘ばかりついている。こうして
サウジとイスラエルは長年の隠れた友好関係でありながらも、互いに不審感の中にあっ
たはずだ。そこには勿論イスラエル諜報機関モサドが暗躍する。そして見事に日本大使
館員も罠にはまっている。8200部隊は地球上最高のサイバー部隊として知られる。
イスラエル内部には幾つかのサイバー部隊が存在する。首相府に国家サイバー局がある
ほか、モサドなど各情報機関もサイバー戦争部門を有する。8200部隊はイスラエル
国防軍のサイバー攻撃・防御の超精鋭部隊であり、その下請けグループは広範囲に米軍
の国防省に納入し プログラムの全体を創るプロ集団であり、日本のレーダーサイトや
各国の諜報プログラムや今のウエブサイトが賑やかなインターネットもこの部隊の開発
だろうとされる。日々進化する中でサウジの日本大使館のデスクがヨルダン・デスクの
そばで、どちらでも本当の重要な情報は皆無に等しいデスクとはみなされていた。事実
当時のサウジアラビアに持っていた情報源は一つしかなく、それはモサドから送られて
届く日本大使館内の人物の情報だけに頼っていた。この地域でのもたらされるその他の
情報は総て、新聞、雑誌その他のメディア、それに8200部隊がおこなう 徹底した通信
傍受に仰いでいたのである。だが情報は精査が必要だった。情報其の物は錯綜し発信元
をさぐり、真実か嘘か或いは裏があるかと確かめる事に 日本大使館は信用があった。
だが元CIA職員のロシア亡命で事が変わった、日本側が供与されていた今までの米国
家安全保障局(NSA)の極秘の情報監視システムを「日本側」でなく「ロシア側」から
も探られ、システムそのものが韓国や北朝鮮が手に入れたようなのだ。このシステムは
「XKEYSCORE (エックスキースコア)」と呼ばれるもので、メールや通話の内容の傍受は
勿論、SNSの利用履歴などの情報を大量に収集し、一度ターゲットにされれば、「私
生活の完壁な記録を作ることができる」(スノーデン氏)とされるものとされる。かつて
イランの原子炉攻撃にイスラエルの電子戦は使われて話題になったが、今はまだ進んで
るだろう。これが今度のカタール攻撃に使われたらしい。というのもこの映像は一ヵ月
早く問題が起きていて止められてまだトランプが中東訪問前に音声だけ「すごい放送が
ある。」と広告が出されていたのだ。かつての911の如くに。

553: 名無しさんAA:17/07/20 10:56
  自立主義を貫け  23    「何だ 癇だ 韓国。」021

 米CNNテレビは6日、サウジアラビアなどがカタールと断交した問題をめぐり、ロ
シアのハッカーが米国や同盟国の間に亀裂を生じさせるためカタールの国営通信に偽の
ニュースを流したと伝えた。米連邦捜査局(FBI)が捜査チームをカタールに派遣し
、同国の捜査に協力しているという。複数の米政府当局者の話としている。もともとは
アルジャジーラTVは、サウジアラビアの王室メディアが英BBCのアラビア語放送を
引き継ぐかたちでアラビア語のニュース・チャンネルをつくろうとしていた。だがその
放送の自由度が大きい方がカタールだった為、カタールが横から入りアルジャジーラを
設立した経緯がある。しかも、そのアルジャジーラが今では周辺国にとって都合の悪い
放送をすることで人気を得たため、サウジアラビアのみならず、同盟国のGCC全体の
湾岸協力会議諸国まで激怒させる結果となっていた。ちなみにアラビーヤTVはサウジ
がアルジャジーラに対抗するためにつくったニュース専門チャンネルとして存在してい
る。よくアルジャジーラを自由なメディアという人がいるが、もちろん中立ではない。
局員のなかには特定の政治的イデオロギーもつものが少なくないし、思想面はムスリム
同胞団に近く、何よりカタール現体制にとって都合の悪いことは一切言わない中にある
。かくて昔南部で首長家メンバーを含む多数のカタール人が何ものかに誘拐される事件
が起き、イラクでも日本でも大きく報じられた。だが、カタール人そのものは、誰もが
事件について知らなかったのである。それが突然、年の4月に全面解決する。カタール
人らを捕えていたイラクのシーア派民兵組織、ヒズボラ部隊が人質をイラク内務省に引
き渡したのである。この時カタルは莫大な身代金を払ったとされる。その金額はFT紙
によると、10億ドル(約1100億円を支払ったといわれている。ところが10億ドルの
うち7億ドルはイランおよびイラクのシーア派民兵組織に流れ残りの3億ドルは、ヌス
ラ戦線の母体シリア解放戦線に流れアルカイダ組織の一派とも言われる。「イスラム国
」の人質 湯川遥菜さんや後藤健二さん或るいはヌスラ戦線の安田純平など人質で金を
要求していた頃である。2015年安倍氏中東訪問はこの原子力売り込みも人質救出も
失敗しているのである。

554: 名無しさんAA:17/07/20 10:57
  自立主義を貫け  23    「何だ 癇だ 韓国。」022

 こうしたこの金で、シリア政府およびスンナ派武装勢力は、それぞれが包囲していた
シリア国内の都市の包囲を解除したともいわれている。当時の専門家たちは、カタール
は身代金の名目で大っぴらにテロ組織に資金提供を行ったと批判した。これが今に至っ
ている噂のシリア反体制派支援の資金提供問題とされる。そもそもがアルジャジーラ放
送が出所も解らない人質殺害のビデオすら流す行為はこうした協力関係が無ければ出来
ない。2014年のクリミア危機では、ウクライナ政府や北大西洋条約機構(NATO)の
ウェブサイトが大規模なサイバー攻撃を受けた。この時その攻撃で利益を得るロシアの
関与が疑われていた。こうした国家を標的にしたサイバー攻撃が初めて行われ確認され
たのは07年のバルト海のエストニアとされる。ロシアの影がちらつく中その排除に、
旧ソ連時代の兵士の銅像が移転された事になった。だがそのことに反発したロシアが、
サーバーに大量データを送る攻撃を仕掛け、ネットが数週間にわたりダウンさせられた
。この間ひ弱なエストニアでは銀行取引ができず、カードも使えず生活がマヒしたのだ
。こうしてエストニアの中にあるロシアの飛び地を巡る交渉を止めたのである。今や多
くの兵器はコンピューター管理されているから、こうした反撃を封じることが可能だ。
こうした事で西側ではロシアやウクライナなどを「ハッカー集団の故郷」と呼ぶそうだ
が、もともとウクライナ地区はロシアの先端技術の試験工場の立地地区で電装設計者も
コンピューター学者も多い所だった。ところがこの理工学系の教育水準が高く、コンピ
ュータープログラマーの国際コンテストでは上位者でも、ロシアの賃金水準は低くあり
、情報セキュリティー専門家の月収はその頃は日本円で15万円程度しかなかった。高
度なコンピューター知識を持つ人材をサイバー犯罪に向かわせ、ロシア国内だけで、サ
イバー犯罪に関わる裏ビジネスの規模は30億ドルを超える。ソ連崩壊で職を失った者
を再雇用をしプーチン大統領は旧ソ連情報機関である国家保安委員会(KGB)を始め
又そうした諜報部員やサイバー空間やハッカー集団を再構築してると考えられている。
イラン中部ナタンズのウラン濃縮施設を標的に、コンピューターウイルス「スタックス
ネット」を使って、核開発を遅らせたり、独立を求めるチェチェン共和国のドダエフ大
統領が使う衛星電話のGPS機能を利用し、電波を感知する誘導ミサイルで攻撃したと
される。米軍も数十年前から、サイバー戦を担当する統合部隊を作り、サイバー司令部
を始動した。「同盟国支援も視野にサイバー作戦の計画をたて、その遂行を任務とし、
「サイバー攻撃の機能」も備える。としてやっと今中国やロシアに対抗するようになっ
た。

555: 名無しさんAA:17/07/20 10:57
  自立主義を貫け  23    「何だ 癇だ 韓国。」023

 そしてこのやっと出来たサイバー統合部隊での下請け企業にスノーデン氏がいたのだ
。旧ソ連やロシアを上回る技術を衛星通信やその他積み上げてやっと構築したシステム
がここ最近簡単に乗っ取られた形だ。此処で日本にスパイ防止の「テロ防止法」と言う
予備罪を求めたのだ。つまり韓国からこのプログラムや技術が盗まれた可能性があるか
らだ。とは言っても韓国でも多くのスパイが日本で活動している。ロシアは元より中国
・北朝鮮・韓国・中東・イスラエルなどだ。何故韓国か。それは日本に非常に近く日本
の国内法が韓国では適用されないからだ。中国では共産党で掴まれば当然死刑もある。
が韓国ではよっぽど違法でなければ捕まらない。更に日本への出入国は限りなく便利だ
。そうした事を裏付けるように、北朝鮮を揶揄した米国の映画制作会社の社内ネットが
停止した。「平和の守護神」と名乗るハッカーが侵入し、大量のデータが消えたし社員
の個人情報も流出した。こうしたアメリカへの攻撃は恐らく北朝鮮の報復でありそうし
た力は、今やどの国でも持って来た。と見ていいだろう。つまり既に「サイバーウォー
」電子の世界大戦が起こっていると言える。電子マネーも今や崖っぷちの様になろうと
して、取引停止にして新規格に移行するとしている。量子コンピューターが百倍も早く
計算出来ればビットコインプログラムも壊れるからだ。これまでビットコインはネズミ
講方式で拡大する子孫にそのDNAを書き込む事で分枝して来た。結果その元を辿らな
い限り貨幣価値はない状態だった。つまり複製やいじくる事はそれだけで価値の無い物
に変化する代物だった。そして偽物が作られない理由は正しくその電気代にあったのだ
。まだ本物とは言えないもののそれでも百倍の速さなら申し分ない解析をし電子マネー
が危機に陥るのは間違いない。こんな中で、トランプの思想の「アメリカファースト」
(米国第一主義)や習近平の「中華の夢」という「中国先行主義」プーチンの、「ロシ
アンイデオロギーの、「国益先導主義」が出て来るのは当然だが、だがそれだからこそ
協調性の無い社会システムを進めその為の他国に対して足踏みして遅れをとる状態に陥
る罠にはまっている。だがこの構図こそは最初の韓国の「韓国発祥説」と全く同じ構図
で、自分さえ良ければ歴史も変えて構わない。と言う発想と同じだ。だがその為に起こ
った事は正確な歴史学者の検証を排除し暗殺し、更に その歴史の積み上がりの矛盾を
露呈し、人々にいぶかしい目で見られ嘲笑される国になって井の中の蛙状態で大統領が
犯罪者呼ばわりされる羽目に陥っているのである。つまり真実は歴史の窓に於いて消え
る事はないのである。


556: 名無しさんAA:17/07/30 21:45 ID:gyk
NHKのGEOJAPANは 折角の良い番組が 劇団一人や指原莉乃を出して
 で台無しだ。彼らの発言でも仕草でもなく 出したことが問題だ。もっと映像や
製作費を大事に使うべきだ。シンプルに学習教材の様に作り込むべきだ。そして、
映像展開が早すぎる とても国民TVのレベルではないそこいらのアニメやグラフ
ィックスイマジテンジャーのレベルだ。もっと丁寧に作れ 更に静止画が全くない
人を狂わす映像に特化するな。ドラマでないのだ。食べ物何ぞ紹介だけでよい。

557: 名無しさんAA:17/07/31 03:21

 また安倍政権はチョンボした。本来既に韓国が慰安婦問題の再考を言う文氏が政権に
なった事自体 今の外交姿勢は間違えていて核開発の問題と同じく岸田外務大臣は間違
えたと言って過言では無いだろう。その間違ている外務方針を追及が無いことをいい事
に そのまま防衛大臣をさせるなどと言うのは馬鹿げた間違いだ。自民党の中にそんな
に人材がいない政党なら止めるべきだし そんな派閥なら自民党にのさばるべきでない
。全く外交手腕も海外コネクションも海外支援部隊も米国議会のロビーストも不明なの
は日本だけだ 今後日本の北朝鮮対応が 戦争の後方支援か核持ち込みの威嚇か或いは
中国系銀行との経済遮断かわからないが いずれ西側と旧ソ連側の対立は不可避であろ
う中で とても兼任だとはよく言えたものだ。此処は国民に国際情勢を分からせる為に
も兼任はだめだ。しっかりした秘密保持と国力増強出来る配員ができなければならない
。石破氏もいれば 甘利氏もいるはずだ 小野寺氏も民間の森本氏もいるはずに あと
数日伸ばして彼らにさせるべきだ。失敗は許されない他国懸案に兼務とは非常識も甚だ
しい。野党も同じだ。蓮舫議員もよくまあ簡単に止めるものだ。TV広報や国会質疑に
出なくて党の統一に力を入れて意思統一を図る為の フィクサーに徹すれば良かったの
に あまりしゃしゃあと気前良い発言が多く 安倍氏以上の言い放しは全く信任を失う
少しは 本当の真実を探すために党首の意味を知るべきだ。党首は党を背負うものでは
ない。日本を背負うものだ。例え野党議員の選挙での代表であってもだ。その意味で、
今聞く耳を持たない安倍氏に批判があるのだ。国会議員は誰しもが国民の代表なのだ。



558: 名無しさんAA:17/08/12 14:49
  おひょろさん  10

 ニュースでは、先月東京・足立区の歯科クリニックで、歯科医師の女性が覆面姿の男
に襲われ、指を切るケガをした事件で、現場近くに住む53歳の男が逮捕された。
 警視庁によると、建造物侵入・傷害の疑いで逮捕された足立区に住む電気工・佐藤治
容疑者は、先月25日夜、足立区の歯科クリニックに侵入し、歯科医師の女性(58)
に「だまれ」などとナイフを持って脅した上、抵抗した女性の左指を切った傷害などの
疑いが持たれている。と報道した。だがこれは日本歯科医師会が悪いのは当然である。
近年 四国の獣医師大学が問題になっているが、本来はこの医師会の政治利用が大問題
である。歯科医師会については 歯形による犯罪調査や身元確認に大きく力を還元して
活動しているとは言え 歯科医師会の全く進歩の無い学術発表や金属機器による 歯を
痛め78%が幼児期からの歯科からの関わりによる虫歯との米国結果は無視されて30
年も経つ。更にドックペーストを使いながらドックベストセメント治療(歯を削らない
虫歯治療を行わないと言う馬鹿治療を肯定し推進している。本来なら歯の中の歯垢につ
いてはもっと研究論文がでてしかるべきだ。成程悪玉菌のみが口内に住み着いている。
と言う言い方は簡単に出来る。だが本当かどうかは別だ。歯が傷んだ理由が歯科医師に
ある事は45%は確実とされるのが現実なら この歯科医師会の中で本当に歯の治療が
出来る人間は1%もいるだろうか。数だけで正当化できると考えるは政治理由でしかな
い。科学の世界は真実のみで動くし 医学の世界はその上に人道上の問題でしか その
理由にならないはずだ。ところがである。ミルグラムの言うアイヒマン実験の如くに、
その根拠は大病院や著名人や大学の偉い先生の話でしかないもので その治療と言う名
の人体破壊を行う。現実にはアマゾンの先住民でさえ 歯並びを揃え 歯垢など言う事
は気にしないで80歳の老婆すら白い歯で笑っているのである。つまり歯科医院90%
は詐欺で成り立つ治療を 国民の税金で治療と称した消費者拡充をしているのだ。この
日本中の歯科医師の中で歯を削らないドッグセメント治療を進めれる医者資格を持つ者
が何人いようか。更にこの治療に中小企業が開発したドライアイス殺菌水を使っている
医院がどれだけあるだろうか。全く不可解な非科学的な政治医師会の詐欺要因の問題な
のであってそれらが壁になり 歯科治療は30年止まったままだ。更にその歯根からの
雑菌侵入では、各種死因の原因の25%つまり4分の1に決定的要因の疑いがあるとさ
れているのだ。


560: 名無しさんAA:17/08/13 12:23
 おひょろさん  15

「一人の殉難者が民族の魂を根底から変える力を持つ。」そう劉氏は信じその道に殉じ
た。その希望をもって進んできた。「今や中国社会は臨界点にある。毛沢東時代に戻っ
た気さえする。それでも希望は捨てない。」廖氏は決意を語った。「劉氏が願った社会
まで道のりは長いが理想を掲げ、努力を続けなければいけない。」と。劉氏と廖氏が初
めて出会ったのは1985年だった。詩人仲間だった劉氏の妻・霞さんの北京の自宅で
相間見えたという。「当時の劉氏は気鋭の学者で文芸評論家として大胆に発言し、尊大
に思えることもあった。」と思い返す。その4年後に、「国家の分岐点」が訪れ、それ
はそのまま人生の分岐点になった。89年6月に多数の犠牲者を出した天安門事件であ
る。劉氏と廖氏は共に事件に関連して投獄された。「事件後には、劉氏はずっと罪悪感
を背負って生きて居る様だった。(犠牲者のために生きねば)と意志を固くして民主化
に人生をささげ、求道者のように生きることを選んだのだ。」と言う。劉氏については
「運が悪い」と他人事の様に言う事は出来ないし 日本は他国の国情だと割り切っては
いけない。何故なら毛沢東中国は、これまで3億の民を守る為として年間1千万人をも
人を殺す事を目標として来た国だ。それは1600年代の共産党スローガンにさえ現れ
ていて、知識層の公開処刑を数多く行えと共産党幹部に訓示さえしている中にあって、
あの「人道的見地」とか「人の命は地球より尊い」とした人権尊重の戦前の戦中派すら
手を出さなかった国に 分析や国情も考えずに田中や中曽根の馬鹿首相は手を差し伸べ
何の条件を付けずに現状政府の共産党政権支援を行ったのである。そして人権派が集ま
り2008年に中華人民共和国で303名連名でインターネット上で発表した08憲章
提言をした運動には何ら手を貸さなかった。これが中国の諸悪を拡大させた。それには
中国の政治・社会体制について、中国共産党の一党独裁の終結、三権分立、民主化推進
、人権状況の改善などを求めた宣言文の形の提言書だったのに、である。日本の右翼も
左翼も日本が良くあろうとするなら動いていてしかるべきだが一向に支援しなかったの
だ。本来近代中国での政党政府は国民党の現台湾政府なのだが、大勢力共産党はテロに
よる暴力を遂行し追剥と同じく中国大陸の覇権国家となった。当初ではいずれの党でも
政府機構や軍隊を持ち「党」の中に「国家」という容器が入っている重箱型の権力構造
としていたが 台湾政府はいち早く自由主義を取り入れて今に至ったのであるが一方の
共産党はその強権の共産党構造を捨てる事はこれだけ発展しても出来ないでいるのだ。
この哀れさは 共産党中国人民全員の哀れさでもある。


561: 名無しさんAA:17/08/13 19:05
  おひょろさん  11

 12日午前5時20分ごろ、東京都港区高輪2のマンションの一室から、男の声で、
「人を刺した」と119番があった。警視庁高輪署員らが駆けつけたところ、女性が腹
から血を流して倒れており、搬送先の病院で死亡が確認された。同署は室内にいた男、
(52)を殺人未遂容疑で現行犯逮捕し、今後容疑を殺人に切り替えて調べる。刺した
ことを認めているという。此処に理由が3つほどある。一つは政府首脳部の能力不足で
ある。閣僚の勉強不足や議員の良識不足は 近況のスキャンダル続きでもわかるように
あまりにも逸脱してすごすぎる。これは今般の世情がそれだけ異常である事を示してい
る。それは当然二つ目の行政改革のあきれ果てた立ち止まりにある。行政手腕はひとえ
に行政マンの教養と常識にある。だが偏見に満ちた議員達の暴走を座して見逃し小泉の
郵政改革や民主党の馬鹿な年金改革を起こさせたのは それだけ常識外れの官官接待な
ど行っては業務見通しを真摯に対応していなかったからにほかならない。大体縦割りの
諸官庁権限などあってはならないのに今だ国家戦略会議は横断しての省庁合同職員を作
り得ていなく内閣に降り回され放しである。此処に山本大臣の様な馬鹿を糾弾する組織
さがなさすぎる。三つ目はこの大臣答弁書が何故諸官庁で作るのか。と言うそもそも論
がある。内閣がそうした専門大臣を指名しないなら指名しないで相手せず答弁書など書
かずに野党との討論させればいいのである。行政は与党の為の行政ではないあくまで国
の為の行政であり野党に対しても質問書を書いているなら別だが国の方針すら明確に言
えない内閣に人気が落ちてもいいではないか。情報はどんどん与野党に出して積極的な
省庁会見を止める事が違法である事の運動をすべきである。四っつ目が厚生労働省自体
が今だパワハラや男尊女卑などの差別解消した対応社会を築いていない事だ。この事は
今回の殺人事件に大きく関わっている。弟と呼ばれる人の精神疾患は兎も角あまりにも
行政書類は統一化や分業化に遅れた体制のまま頻雑化しすぎである。個人情報保護はあ
るだろうが かといって今の内閣の様な強襲する権力発言を国会が許している事は違法
そのものである。議員や大臣が公式に間違えたとか記憶も記録もない事に是正しない姿
は 即刻退場辞任であるのが正しい姿であり 腐りきったようないい訳は通用しない。
本来なら民主党が与党時代にそうした国会改革の法案を野党になってもいい姿にちゃん
と整えるべきだったが 地震や津波やリーマンショックや年金問題で手がつかなかった
のだろうが 世界はそうした日本では済まない。日本もあの米国の様にちゃんと調査用
の審査部会を毎年開き 疑義の部分では更に細かく議員の資質を問うべきなのである。


562: 名無しさんAA:17/08/13 23:24
  おひょろさん  13

 TVはいつからこんなに嘘を付きだしたのか。韓国の慰安婦像や徴兵工が史実を曲げ
た勝手な想像力で創造されたものであるのは明らかであるが 同じようにそれで苦しめ
られ韓国政府から反日抗日を強要され否定して暗殺された親日家が2万人はいるのだが
そうした話は全く上ってこない。それがTVの忖度である。と言われて殊更気付く事は
多々ある。かつて司会として名を馳せた前田武彦は司会業の一貫で選挙の司会も請け負
い万歳事件を起こした。土居まさるは軽快は語り口でフリートークで持ってこいの日曜
のTV出演していたが悪のりしゲテモノ好きゲスト出演者に「それじゃあゴキブリを食
べてみろ」って言ってゲストが本当に食べて降板した。他にも何の事はない発言でTV
から去った人は多い。にもかかわらず古今の芸能人でもない ただのお笑い芸人を追い
又この芸人の常識外れの行動を追跡してはニュースにしながら 全くいつまでもTVに
おいて置き映したままと言う 全くこのTV局の馬鹿さ加減は視聴者が面白いと思うと
でも思っているかのようだ。この至らぬところの忖度に 真面目な見たい聞きたい者を
TV業界から追い出し つまらない芸人のたいしいた事のない人間に思う様にのさばら
せては映し出す。これにはいささか下痢気味である。そも人は何故本能的にこの動くも
のに近づきたがるか。それは自分を未来に置きたいからである。「這えば立て 立てば
歩けの親心」と言う諺があるが 現実には本人も又それを望んで親の様に仲間と同じ様
に並んでいきたいのが本能である。その本能にわざわざ許可を下ろして行わせる意図は
人が人間だからだ。会いたくもない否合うべきでもない人間をTVに映し出す匪賊では
TV局は支持されない。フェイクニュースと嘘ニュースの違いさえ分からないメディア
にメディアの資格はない。笑いの取れない芸人に芸人の資格はないし 笑う様な番組が
バラエティと称したニュース解説などすべきではない。バラエティとは寸劇であり歌舞
伎の事だ。歌と踊りと軽快な司会である。人を卑屈な人間にさせる映像に明日は無い。
企画も構成もTVゲームと同じに自由であろう。更に視聴率があれば稼げるだろう。が
それでは殺人者教育をやる殺人狂と同じ 倫理の無い者の話で人間社会の一員の話では
ない。ましては そうした物は生きてる事自体でさえ犯罪者の類なのだ。そうした集団
社会を作るから安倍政権のような 犯罪忖度を成り立たせるのである。

563: 名無しさんAA:17/08/20 04:13 ID:JIo
 日本の現状11 「 こんな人達の国日本。」014

 何なんだこれは一体。岐阜県高山市の介護老人保健施設「それいゆ」で起こった事件
だ。5人もの死傷者が出ているのに警察への通報も遅いし 警察側の発表も少ない。こ
れはこの病院を法人と言う人格の異常でまず営業停止すべきであろうし施設長を逮捕す
べきである。「施設では今月7日に入所者の女性(93)が脳挫傷で、13日には別の
女性(87)が外傷性血気胸で死亡。7月31日には男性(80)が食べ物を喉に詰ま
らせ死亡していた。さらに今月15、16日には、90代の女性2人が肋骨(ろっこつ
)骨折や胸にあざが見つかるなどして入院した。施設は4階建てで、5人がいた2階で
勤務していた職員は男女18人。うち死傷した5人全員の介護に関わっていたのは30
代の男性職員1人で、この職員は17日に退職した。県警は18人全員から任意で事情
を聴いているという。施設は19日午後、女性1人の遺族に対し、死亡の経緯などを説
明。死傷した他4人の家族らにも個別に説明の機会を設けるとしている。」と伝えてい
る。更に 施設の折茂謙一理事長が19日午後、脳挫傷で亡くなった女性(93)の遺族と
施設で面会し、経緯を説明した。女性は何らかの原因で頭を強く打ったとみられるが、
目撃した人はいない。面会後、報道陣の取材に応じた折茂理事長によると、遺族には「
自分で転倒し、頭部を打撲して死亡した可能性が高い」との見方を説明した。何者かに
よる事件の可能性については、「警察で結果が出ていない」として明言しなかったとい
う。一方、女性の孫の男性も取材に応じ、「大切なことが分からなかった」と話した。
施設側は20日以降、別の死傷者の家族にも説明を行うという。この「死因がわからな
い・」と言う説明は説明で無い。少なくとも不幸の過失者であり殺人の共犯者である。
故意にしろ未必にしろ加害者側であり過失した責任は重い上 少なくとも同じ胸の打身
での死因とすれば、少なくともこの30代の職員を退職させる行為はおかしい。自宅待
機の上警察の調査であればわかるが 彼が殺人犯である事は確かだろう。だがこの介護
に防犯カメラなどの記憶装置が全くないのは 今の病院や介護施設の失態である。この
指導もせずに国民から高々と介護保険料なり後期高齢者保険料を取っているから不思議
である。これは国の責任であり県の失態である。又施設との話し合いでの退職など認め
られる筈はない。なぜ警察が早くこの現場に介入できなかったのかと言うのは 大きな
現代社会の閉鎖的問題である。


564: 名無しさんAA:17/08/27 11:47 ID:YYM
 日本の現状13 「 こんな人達の国日本。」016

 山本太郎議員は嫌いな議員の一人だが だが彼の真正直さが僕に嫌わせている理由で
あろう。が彼の行動と情報にはかなりの正確さがある。現在、人材派遣会社のパソナが
事業認定された2012年であるが 2003年は千三百五十六億円だった売上げが、
2017年には二千六百三十七億二千八百万円まで増えている。たった10年もならぬ
間に大きく経営を変えて、日銀の無能総裁だった福井俊彦や白川方明の先発隊として、
宮内義彦は竹中平蔵とつるんで、日本国民の奴隷化である労働規制の緩和、そして貧困
化させる郵政解体、切り売り、更に経済難民化させる農業を勝手参入をさせて、結局、
かつての大店法解体での商店街がシャッター通りを作った様に事を進め 浮上してくる
まともな経営者達を叩いたのだ。このオリックスが投資したヤクザ融資は多くパソナの
行った貧困ビジネスは今や名物の位置にまである。無知なる竹中平蔵などは産業競争力
会議で「労働移動型の解雇ルールへのシフトは大変重要。」などとまるで現代に勝手な
違法解雇ばかりがある中で全くないかのような発言だ。国際ルールから言えば日本独自
の単一労働団体や副職させない長時間拘留を可能とした工場の時間システムはナチスや
ソ連の収容所政策に他ならない物で非常に問題だと指摘されている。更にパワハラやセ
クハラに至っては男女共同参加の意識が少なく 化粧やファッションなどで飾り立てた
女性を雇用しナチュラルに能力を持って採用する方策を立てて居ない。とさえ批判され
ている。又新人採用にしては違法な行政ルールがまかり通り年齢制限や一括就労予約な
どが行われ労働市場の公平さが全くない。と日本の労働行政の違法性はかなり前からも
指摘されていた。その後改善どころか悪質になって、議員活動費を党が貰う様に、労働
者の就職活動の支援金は減らし企業の離職者の為の退職を勧める社員を養成する研修会
や退職面接のトーク内容をまとめたマニュアル作成などに国家予算をつけた。それが今
2億円弱から350億円弱に。つまり予算は約180倍も増やした状態だ。つまり安倍
政権はトランプ以上に自分の周り固めの政策しかしていない。そしてそれを教えたのが
竹中平蔵を率いて日本の産業界を潰しに潰しまくり解体した無能総理小泉首相の取り巻
きの人々だったのだ。これはもう既に政治ではない。自分の保身の砦の政策である。こ
の日本の明日や未来の骨すら見えないし、最初の年金不正問題すら今だ解決されていな
いのが現状だ。郵政解散は'05年である。今は'17年だ。地方行政も国土の身売りも
全く昔のまま12年間進歩がない。原子力行政に至っては小泉氏が廃炉延長を決めたと
言うに今になって反原発政策である。地震時の管代表などはかわいそうなくらい叩かれ
責任論の渦中にある。この間コンピューターはかなりの進化があっても行政は腐敗の

565: 名無しさんAA:17/08/29 17:44
 日本の現状14

 又北朝鮮がミサイルを打ち上げた。日本を越して太平洋にで爆発し3っつに分かれて
落下したと発表された。日本は大騒ぎしているが最もな結論であろう。そもそも北朝鮮
を叩くのを韓国が火の海になるから止めたなどと言うのは言い訳でしかない。韓国も北
も終戦宣言など全く行っていないし 今米軍が韓国に派遣しているのは国連軍のままで
派遣している形だ。中国がいくら自制せよと言っても中国こそが北の支援者であり中国
こそが北朝鮮を作りだし第二次世界大戦を終わらせず朝鮮戦争を仕掛けた張本人なのだ
。更に言えばもう北朝鮮は核とミサイルを手に入れない限り止めないし、それが確実に
アメリカの自分の思う場所に落とせる自信が無い限り開発は続けるだろう。つまり既に
もうアメリカは叩くしかなく戦う準備としてのロシア交渉しか道は残っていないのであ
る。これは顔を潰された中国と甘い日本と、唾を吐かれ歯牙にもかけられてない韓国の
責任だろう。自民党の中国に交流し経済発展させた責任は大きく日本に危機を持ち込ん
だ罪は問わなければならない。更に北朝鮮を支援し今だ油を送り全く手を打たない中国
にはもはや非核化や平和などと言う権利すらないのは確かだ。更に最もな擬態民族韓国
の甘ったるい言葉は北を有頂天に開発を促したのだろう。先に述べた様に南北朝鮮戦争
自体が双方の武力統一の欲望で起こっていたし 条約調印の席につかなかったのは韓国
であったのだ。本来なら追い詰められたとは言え 米国に助けられた国なら停戦協定を
反対なら反対で原爆投下すら願い統一を図るべきだったはずだが全く話し合いの席にす
らつかなかったのだ。北は監視の網を潜り抜け独力でミサイルを飛ばし核を開発した。
何処からこんな努力が出て来るのか不思議だが、それに比べ卑怯者の一団と化した韓国
は今でも仏像を盗み慰安婦像を作り徴用工裁判を行おうと画策している。愚かにも戦争
の当事者が戦争する気も無い癖に38度線上には兵隊を備えて 徴兵制度を維持してい
る。その上全く甘い太陽政策だの話し合いだの声明を発している。自らが対国への条約
や約束を守れない国民だからだろうが 矛盾の上の矛盾を重ねて国内を維持している。
今の財閥逮捕も同じで犯罪にならない犯罪で逮捕し、かといって財閥解体にも動かず、
全く論理矛盾の埒の明かない馬鹿国家のまま現代にあるのだから日本や台湾も大変だ。


566: 名無しさんAA:17/08/29 18:05
 日本は何故 「事前通告なしのミサイルは我が国への宣戦布告とみなす。」との明確
な声明を出さないのか。これをちゃんと出して 発射基地空爆も辞さない覚悟を声明と
して出せ。馬鹿げた ふにゃふにゃの韓国と同じように攻撃や威圧に 黙るべきもので
はない。国際社会での責任ある一員としてちゃんとした国外に向かって政府声明を出せ
。馬鹿にされるぞ安倍政権もっとしっかりしろ。出来ないなら解散せよ



567: 名無しさんAA:17/08/29 18:33
 福岡県は又ミスを犯している。北九州のパワハラ問題だ 今だ北九州市は精神改革が
出来ない都市の様だ。憲法の精神すら守れない自治体職員なら自治体廃止を県は求める
べきだし 国は県に対しても予算配分無しにすべきであろう。

568: 名無しさんAA:17/08/30 03:09
 日本の現状15

 グローバル化が加速する現在、国際社会では国境をまたいだ未成年の誘拐と人身売買
、レイプと強制売春が大問題になっており、欧米の先進国はそれに否応なく向き合って
いる。その中日本こそが明らかにこうした問題の当事国の一つであるにもかかわらず、
なぜか「われ関せず」で独自の性文化を楽しんでゲームソフトを開発しているのか―。
これが欧米からの懸念され疑問視され指摘される本質で 慰安婦問題を助長している。
 秋葉原に行けば女児のラブドールが当たり前のように売られ、女子高生の制服を着た
女の児たちが男性客と腕を組んで歩いている。多くの大人が目を覆いたくなるような、
際どいグロアニメのポスターも堂々と貼られている。TVの中では、ティーングループ
がアイドルが確信犯的にパンチラ寸前の振り付けで歌い踊る。AV出演強要問題にして
も「ほとんどの場合は本人の自由意志だ」と、多くの人がさほど問題意識を持つことな
く“見て見ぬふり”を通す始末。この“見て見ぬふり”という日本人やメディアの態度
が、欧米人にとって最も怪しく理解し難い不良行為なのだ。海外からの目には「日本で
は公の場で堂々と未成年の性が搾取されている。」としか映らない。そうでないなら、
きちんと論を立てて反論してみろと言う訳だ。更に国内に於いての取り締まりもゲーム
もアニメも週刊誌もグラビアも通常の雑誌やポルノ映画にしても手ぬるい感じであるし
、麻薬や拳銃更に違法な商法も 個々の取り締まりを既に捨てて大枠の暴力団取締り法
に甘えた取り締まりに変化し 昔の様な刑事が突き詰める正確で大きな捜査を出来ない
で多くの事件が見逃されている中にあるようだ。個人的には、日本のエロ文化はできる
限り防衛すべきだし、基本的にセクシャリティは奔放でいいとは思える。だが当然に、
そこに派生する犯罪を許してはならず、「文化」のために誰かが不本意な思いをしては
いけない。その意味ではさくら会を放任し福岡の裁判所や最高裁がこのビルの個人情報
を認めたという大罪は許しがたい国家犯罪である。少女アイドルやJKビジネスは、も
ともと犯罪からでた性搾取だ。そうではないというなら堂々と論を立てて主張すべきで
、うやむやにやり過ごそうとし続ければ、いつか“黒船”が来てすべてお取り壊しにな
ってしまうほど今の政府は国際に疎い話である。


569: 名無しさんAA:17/08/30 07:30
厚生労働省は何故煙草の規制を考えるのか 今だ除草剤散布や農薬の害虫駆除散布は
増大し続け更に近くの住民はそれらで死亡する例すら多々あるのに今だ調査すらしない
腐れた行政としか言いようがない。厚生労働の幹部職員なぞ生きて居ても屑だ。病院の
経営すら殺人事件は多発し あの静脈注射や点滴事件すら今だ解明していない上に、多
くの生体移植はその後の追跡調査や生存年数は把握していない。殺人事件や内部監査に
全くタッチしていない馬鹿げた行政が多い。


570: 名無しさんAA:17/08/31 18:45 ID:Ubs
奈良県天理市の並河健市長(38)が公務で東京に出張した際、宿泊先に派遣型風俗店
の女性従業員を呼んでいたと31日発売の週刊新潮が報じ、並河市長は同日、報道陣の
取材に対し、内容が事実であると認めた。並河市長は「道徳的に不適切なことであり、
市民や職員、家族の信頼を傷つけたと深く反省している」と謝罪した。
週刊新潮によると、並河市長は今年2月と6月の2回、東京出張中に女性をホテルに招
き、風俗サービスを受けたという。報道陣に対し、支払いは「プライベートなお金だっ
た」と話した。と言う
 なにがプライベートの金だ 市長の給与は税金だ。税金で出張し税金で遊んだ事に
変わりはない。出張そのものが公務だろう。そこに言い訳の出来る隙間はない。即刻
辞任しても犯罪は残る。警察は何故逮捕しない。公金横領公務員法違反拘留3年であ
ろう。

571: 名無しさんAA:17/09/02 03:31
 AIに聞く。  1

 近頃 やっと面白いTVが見れた NHKのスペシャルAIに聞いてみた。『 どう
すんのよ!?ニッポン』である。再放送で話題の「40代の一人暮らしが日本を滅ぼす」
と回答についての考察は放送していなかったが、これこそNHK得意の「ゆるキャラ」
ならぬ「ゆるい教育番組 教養スタジオ」ではないか。正しく創造逞しく解説の要らな
い図表が出る番組である。答えは各自にある。我々はデーター解析しかしない。という
放任番組だった。ネット上では「40代の一人暮らしが日本を滅ぼす」という表題に大き
な衝撃が走っているが これはNHKが悪い。「40代の一人暮らし」そういう社会は作
ってはいけない。などとすればいいのである。しかしこの現実かつスリル満点の警告は
面白い。TEDのオピニオン発言やCBSの殺人ドラマよりもずーと面白いものだった
。解説や司会はいまいちでマツコデラックス一人に話させたがよかったかも知れない。
が 本当の面白さは「AIと言う人工知能は説明も解析もしない。」と言う機械的部分
なのかも知れない。今や人間は自動運転をAIに判断させようとしているが もともと
機械は判断しない。データーに基づいて最良の道を提示させるだけだ。つまり事故を起
こさない工夫は行うが事故を起こさない訳ではない。事が如実に物語っている。更には
事故の結果はプログラムで変わるのみで 例えば人の解析はしない。と言う物である。
車に異常がある中で 100人の負傷者と1人の死者とどちらを選ぶかは開発者次第な
のだ。これは今までの飛行機事故で散々見せつけられている。どんな完璧な仕様でも、
事故は起きる。この時のパイロットの判断でそれが正しいか間違いかは人の生死を握る
。だがそこに書いてあるマニュアルはそれが正しいとして書かれた間違いも多い。今や
旅客機のオペレーションシステムも離発着の時は決してAIにゆだねない。ましては、
機械の検知機器の不良動作については特に異常運転するミスは多く、その原因が整備の
不具合だった例は多い。そしてその不具合を検知や予見するのは やはり人間なのだ。
このAIの持つビックデーター解析も同じで データーに誤りはない。だがその要因の
追跡には誤りがある。つまりそこが人の人たる所以なのだ。と言う事がこの番組に出て
いる。そこに番組の魅力がある。



572: 名無しさんAA:17/09/02 06:09
 AIに聞く。  2

 このNHKの番組にはそれぞれ意味深なキーワードを書いてある。だがこれはわざと
としか言いようのない「皮肉」を入れている。@ 健康になりたければ 病院を減らせ。
A 少子化を食い止めたければ結婚より車を買え。Bラブホテルが多いと女性は活躍する。
C 男の人生の鍵は女子中学生のぽっちゃり度D 40代の一人暮らしが日本を滅ぼす。
などだ。これらはキーワードではない。この言葉は間違っていて結果の事象に過ぎない
事が改めて解る物だ。@の山奥の空気の澄んだ元気の良い老人部落は多い。過疎化して
人の居ない所で自立した生活は 当然集客率も低く病院が成り立たない場所は多い。更
にこれは過去のデーターであって 今でも小さな病院や診療所は成り立たない細々した
所にあって 都会の様な危険極まりないストレスと罠と責任の多い所は若者すら病気が
多い。人が脳によって指令された体であり 体が使わなければ鍛えられない中にある事
は当然の結果として統計の仕上がりは病人の少ない所は病院の無い所であろうし、更に
病気になっても、その時街や都会に入院させられる事を考えれば統計ミスの最たる結果
でもある。逆説的説明から言えば 病院の少ない所は健康な人しか住めないので過疎化
集落が誕生するのである。Aは過去の時代の結果である。車を買う余裕が子供を産み育
てる余裕と同じであった時代がそこにあったのだ。60年代から90年代までは人々は
欲望の上にインフレ社会が存在していた。インフレは物質主義の中で 特に満ち足りて
旅行や食べ物などの 物から精神に移る時代の象徴として今まで歩いていた中で車社会
の特に仕事車以外のスポーツカー時代に入る頃にある。この時の象徴が人口増加と車社
会の丁度 経済成長度の安定している時代だったのである。この転換期には新しい富め
る者が産まれ、他にも芸術や大衆文化或いは旅行や骨とう品や音楽や絵などが買われる
と言う時期で新居の住宅や土地も不動産が動産化傾向を示し又バブル期を産んだりする
。そうした統計が出てきたのであろう。中国の今の公害状況も又この中にある事の象徴
である。おかげで日本は骨とう品衣料品電気機器の爆買い旅行でで好調な経済ではある


573: 名無しさんAA:17/09/02 06:09
 AIに聞く。  3

 日本には「逆も又真なり。」などと言う言葉があるが ビックデーターのこの統計資
料は「逆こそ真実なり。」の典型的ものであろう。Bのラブホテルが多いと女性は活躍
する。と言うものは特にそうである。女性的な話し方や女性的容姿更に同性愛が流行る
事は女性の職業が成功する事を示し 所謂堕落した経済を示している。そこは欺瞞社会
が存在し自堕落野放図文化が存在する。肥満疲弊の存在だ。人からの見栄えと金持ちの
ステータスが現れ化粧品宝飾品嗜好品が浮かれ経済を作りだす。一般的に贅沢にうつつ
をぬかした人を顧みない。この事は株式株価が会社業績よりは買手と売手の購買量によ
って上下し本来の公共事業としての投資では無い様になり、株主が起業に賛同して資本
を出資事が、利益の為の投資家を呼ぶ事に変わった事の様に守銭奴を産む変容した社会
にした事と同じである。人の欲望こそが社会を支えると言う欧米流文化の浸透と言える
。これによって出て来る事が家長制までは行かないまでも家を守って来た家長主義の流
れ停止である。なにがしかの経済なり権利者の代表としての家長が今や只の表記者とし
ての役割に変わってしまい個人の自由に置いて核家族さえも維持できない社会が存在し
犯罪の増加に変わると言う犯罪者の温床としての都市化現象である。元々このデーター
がどういう形を女性の活躍としているのかが解らないが しっかり子供を産み育てると
言う事も活躍の筈だがそうした物が数値には現れない行為だと言う事を肝に銘じてこの
AIデーターを見なければならない。暮らし良さに緑のデーターや騒音が無い様な物だ
。更に貴重なのは秘め事の欲望に関わる話が、核家族のそこにある事実を又示している
。当然ながら女性の一人住まいが多い事は 寝室や所帯が無く ホテルこそが憩いの場
を提供している真実とその分安いワンルームマンションで密集度も高くなる可能性も強
い。この事は若い物の寄り付きやすい街つくりにも繋がっているが が逆に他の都市か
ら見て偏屈な成長する街に見え 負荷の高い田舎町を更に田舎にしている現実もある。


574: 名無しさんAA:17/09/02 16:31
AIに聞く。  4

 ネットには( 統計学には「擬似相関」という用語がある。そもそも「相関」とは、
2つの事柄について「一方の値が大きい時、もう一方の値も大きい」(正の相関)事や
、「一方の値が大きい時、もう一方の値は小さい」(負の相関)ことを指す。これに対
し、擬似相関は「関係のない2つの事柄に、あたかも因果関係があるように見える相関
」の事だ。「アイスの消費量が増える事と熱中症患者が増える事」という関係を仮定し
てみよう。言うまでもないが、どちらの事柄も「気温の上昇」という原因で発生してい
る結果であり、「アイス」と「熱中症」の間に正の相関関係はあっても、因果関係はな
いと考えるのが妥当だ。 この時の「気温上昇」という真の事柄を「交絡因子」(こう
らくいんし)と呼び、交絡因子によってあたかも因果関係があるように見える事になる
これを擬似相関という。)と書き入れてある。正しくこのデーターそのものに相関関係
はない。間に一つの「真の事項」があるのである。C の 男の人生の鍵は女子中学生の
ぽっちゃり度と言うは正しくその典型的例である。「男の人生」とは大きく出た文句で
実は「男達の社会生活度」と考えた方が良い。つまり まともな仕事をして まともな
給与をもらい まともな家庭を築く。と言う基本的仕事人生が何の異常も無く出来るか
。と言う問いの答えが此処にある。先の女性の社会進出が社会を変容させ詐欺社会を産
む現代人を蝕むがん細胞の様な活動の相関図であったとすれば これは、真にまともな
社会の中では女子学生に肥満の影響を与えない社会である。と言う結果と言える。ここ
に「家庭生活」と言う人の人生の一つの大きな要素がある。元々思春期の青少年や少女
はこうした事に限らず周りの社会環境に影響を受けやすい。弱い物に向かう極悪社会は
親から子供を手放させる社会である事は動物環境生理学上解っている。弱い動物程狙わ
れる事を避ける為に放置する。魚や虫でも同じだ。更にある種勢いの良い時期は集団化
して守る。それは疑似交尾生活と疑似家庭生活を勉強する為と言われている。だが強く
なればその集団化はコミュニティによって支えられ 族長に生活を委ねられる。個人で
の食糧供給をせず集団で獲物狩りをするままになる。猿や虎など家族と言う集団である
。そこにはヌウーや鳥或いは魚の集団化の言わば力をつける旅の為ではない。ちょっと
違った意味の家族の子供を守る為の集団である。



575: 名無しさんAA:17/09/02 16:31
 AIに聞く。  5

 よく「獅子は千尋の谷底に子を落として子を育てる。」などど「獅子の子落とし。」
として語られる事がある。だが本当の自然界では全くそういう事はない。獅子とは百獣
の王ライオンのことだが、実際にはライオンが子を深い谷に落とすどころか危険だとい
うと子をわざわざより安全な所へと移動させる。「子猫の宿探し」と同じだ。子猫が乳
の匂いや目を開け歩く頃は母猫は匂いによる襲来を恐れ宿をより安全な所へ変える。こ
の環境がそう思われたのであろう。実際のライオンの母親は非常に子煩悩で、父親は見
た目によらず母親ほど強くなく 意気地がないからそれは出来ない。更に子供を守る意
味からも獲物の食糧に際しても 子供より少ない時が多い。母親の権力が強いからだ。
 可愛いわが子にあえて試練を与えて試す。という事の逸話が出来るのは、深い知恵や
道理を持つ人間の社会逸話なのである。つまり人の社会には危険が無い 人は人情があ
る世界で「旅は道連れ、世は情け。」の世界で 親子さえも会者定離の別を思っていた
と言う日本人観があるのである。「合縁奇縁」は人の情けに支えられる。「袖振り合う
も他生の縁」など諭した中で子供には生活させたいと言う人の願いの中にそれはある。
C の 男の人生の鍵は女子中学生のぽっちゃり度と言うは正しく、そのぽっちゃりこそ
は青春の苦悩の種類であろう。子供さえも働いて体を動かした中では肥える事は出来な
い。食事の量が制限する悩ましい中で 拒食症や過食症がある世界は この社会の中の
不合理な不完全さを物語っている姿で もし仮に平和で豊かな暮らしであれば肥える事
も痩せる事も無い 女子学生の健康体がそこに現れると言う証左なのであろう。こうし
た「女性の不健康体」は過去そして現在と未来の社会風情に大きな問題を孕んでいて、
社会的政治ミスが多い事は各国で証明はされている。かつて米国でも’60年代には、
そうそう異常な肥満体はなかった。だが’80年代から00年代までカロリー多過の、
肥満体は多くの問題を起こした。医療費の高騰やビジネスの生産性の低下更に政治的に
も双子の赤字と輸出入の不均衡で「米国人は自らに生産しないで他国の物を買い漁る」
と自己批判し、輸入規制 麻薬煙草規制 人種差別 不法入植者管理 とあらゆる物に
政策提言がなされた。今では日本食やカロリー制限が常識となり企業の肥満体の入社制
限や契約拒否すら起こり自己管理の成果と見なされている。更にグアムやパラオでの、
食生活変化による肥満体の多さをパイロット文化として 研究されるに至っている。


576: 名無しさんAA:17/09/02 16:32
 AIに聞く。  6

 先に述べた様にD40代の一人暮らしが日本を滅ぼす。などはキーワードではなく、
結果の事象に過ぎない。と述べた。このC事が改めて衝撃的な理由は 先進国の進めた
「文化・文明の先進国化が 人口増加を止める。」と言う理論が 従来はコンドームな
どの女性の性交渉と子供を産む行為が選択されるからだ。と解釈され、更に低文明社会
では子供を老化時の保険の様に産んで多産多死で貧困を産んでいる。とされる理論が、
実際は男女の未婚による 子供を育てる資産なり資金の容量が無い「少子化」であった
と言う事実である。Aの「少子化を食い止めるためには結婚よりもクルマを買え」など
の斬新な提言と同じく 人類の社会は近代化する程女性の選択によって左右され、男の
財産が女性の第一義の選択理由となっている事が このAIは如実に表している。これ
は「人生のティッシュ感覚」でと評されるものだ。女性にとって基本的に身の回りの物
は人であれ物であれ贅沢する物体で「生き物はペットに見え、品物はテッシュに見える
。」と言う物だ。「因果推論」から言えば消費社会の現実は、この女性達の狂った様な
贅沢をして社会を作って来た。と言う現実だ。人が婚姻するしきたりは各国共に色々と
風習や習わしや決まり事がある。だが此処に「食べる・子孫を残す」と言う入口をして
「祝う」と言う行為は同じで この「祝う行為」にして財産を投げ入れる事には消費の
基本系をどこの地域でも持っている。だが「40代の一人暮らし」はそれを捨てた出家
の暮らしであり「人生謳歌」の一形態として認めてきたものとして存在している。それ
は古典的には兵士であったり次男坊であったり修道僧であったりする。それらをどれだ
けの量を社会が許容できるかで 社会の豊かさが決まると言う 何とも情けない結果だ
。実際に「40代ひとり暮らし」が増えると、「自殺者数」「餓死者数」「空き家数」
「救急出動件数」などが増え、「合計特殊出生率」「老人クラブ会員数」などが減る…
…などの傾向は当然の帰結であろう。40才過ぎては20〜30才の体力も意欲もない
。財力が無い限り起業も出来ない。40代は既に生産性は終わっている年代なのである
。ただ今までの知見や技術或いは指導力が問われ 一般には持ち前の力が試される位置
にあるのだ。




577: 名無しさんAA:17/09/02 16:32
 AIに聞く。  7

 更に言えば 40代は家庭や地域に逃げ込まない限り生きる場所はない世代でもある
。個人の能力は別にして企業間競争の一番の戦力で 彼らの決定こそが国も社会も集団
のあらゆる物の運命が決定する。私は団塊の時代の次との狭間に産まれているが、その
すさまじさは言うに及ばなく感じて生きてきた。今の70〜の世代は正しく無茶苦茶な
人間の集まりであり その中で曲がりなりにも幅を効かした者ら覇権主義の上に贅沢を
横領した。現実的に安倍首相までの政権をみて戦前の教育で育った吉田茂や池田隼人の
世界観と今日中曽根以降の馬鹿げた国債発行による国会予算運用には 大きな違いがあ
る。次期を担う子に夢どころか子育てすら行っていない。只々経済のπを大きくするだ
けで 本当の豊かさや平和を求めていないし いわば失敗政治や失格人選ばかりである
。本当に日本における明日を考えるのであれば 与党の信頼足りる政策が他にあるだろ
うと言える。地方自治体の贅沢は一般人排除と企業優遇しか行わず自治体其の物の自立
を促していないし国も自立していない。こんな社会がまともと思うのは混乱の人生を生
き抜いてきてハチャメチャの視覚しかない世代の遺物である。「40代の一人暮らし」
が増えると、「自殺者数」「餓死者数」「空き家数」「救急出動件数」などが増えて、
「合計特殊出生率」「老人クラブ会員数」などが減るとの傾向は当然今までの現実であ
る。全人口の 1.9%、249万人にすぎないとされる「40代ひとり暮らし」は、他の者の
ここまで大きな存在になりうるというのは意外な結果と思う人間は馬鹿だろう。長谷川
栄治の映画評論の中では 現代視覚が技術に頼った映像にかつての名作のドキドキ感や
ワクワク感が失われた。と話している。これが現実だろう「映画観」の違いは映画表現
の違いを産み それが色褪せたものに見えてきたのだろう。これは現代人の危うさでも
ある。白川郷の家に例えば屋根の葺き替えに延べ200人以上の手間とかなりの資金が
必要となる。だからと言って解体し現代住宅にこの風貌と住みよさは期待できない事と
遺産としては生活出来ない「現実」がある。これと同じに生活の違いや技術の向上は、
人が知恵を絞る事を強制しながらも その知恵は仕方のない哀れな知恵でしかない。


578: 名無しさんAA:17/09/02 16:33

 AIに聞く。  8

 今や「今後AIによって7割が仕事が取られる。」と言うのが定番だが 実は我々は
既に能力を吸い取られてしまっている。電話番号でも殆ど機械が安易にも暗記する事で
ビジネス形態は大幅に変わった。それを大幅に利用したのが電話広告や電話詐欺である
。NTTはそれを推し進める様に国会議員から強制された形だ。コンピューター計算は
見積もりや設計にかなりの速さを産んだ。だがそれを推し進めたのはゲーム業界のフィ
ッシングビジネスである。そしてその応用が今のインターネット詐欺でありハッカーの
行う行政のサイバー支配の拒否化である。こうした中での金融のネットワークは電子化
と共有化を目指し人の管理を可能にしたメガバンクとクラウドサービスに特化しビック
データーの利用まで引き起こした。これが異常なのは確実だが異常とはさせない大きさ
を持つ事で社会性を持つに至ったのだ。こうしてあらゆる環境から人間の能力は阻害の
中に閉じ込められた。ここで政治は意味の無い物に変わる恐れすらある。元来人の集合
体は財産に於いての囲い込みと保守管理にある。が食事も服も贅沢も空想貨幣の中での
解決出来れば実社会の中での弊害が無い事になる。つまり仮想通貨の原点は希少価値で
あったのが今や株と同じに投資対象の需要と供給のバランス価格に変わって行っている
。これらの需要が国境を持たない魅力は責任の無いアルゴリズムの中にある事を考えれ
ばかなりのリスクなのだが国家管理のリスクの方が高いと言う証明でもある。老人との
共同生活をした者には解るが 体が動かない性癖に口うるさいと言う現象が起こる。親
が自らの体すらおぼつかないのに大人の子の将来の心配をすると言う事が多々あるのだ
。政治で言えば自らは失敗し国債の大量発行しながら未来に夢があるような話をすると
言う矛盾の政治家だ。親の所謂「負の遺産」が多々とある事は不幸な現実である。今の
放射能廃棄物と同じに どうしようもないがどうしても処理は免れないのだ。不幸な事
だが安倍首相以下が第二次世界大戦の遺産や亡霊を背負っているからと言って、今後の
子孫にも その他の負債まで背負わせる事は良い事ではないのは当然だ。
 

579: 名無しさんAA:17/09/02 16:35
 AIに聞く。  9

 面白いのは「家賃を下げれば、『40代ひとり暮らし』が激減する。」と言う示唆だ
。AI結果を見ると、40代一人暮らしの数(男性)に対して、一番強く連動している
のが「マンションやアパートの一坪当たり家賃だ。」と言う結果らしい。この数値が下
がれば、一人暮らしの数も減らすことができるのではないか。これがネブラの分析結果
を基にした仮説らしい。単身世帯にとっては一般的に、支出における家賃の割合が大き
い事で予想され、家賃の高い支出が他の自分のために使うお金が減らす結果だろうと、
分析されている事だ。これは今時の最低生活水準が固定化している可能性から推測され
る。結婚相手や消費支出などは 多くの上で生活パートナーを探す上での多大な出費に
なる。この要因が日本では給与の安さとその家賃の負担率が原因の1つだろうと分析さ
れたのだ。番組内での具体的な家賃がどの位下げればが減るかも試算しているという。
基本的に住宅供給は国の政策としているのが普通だ。ちなみに、フランスではひとり暮
らしを中心に全世帯の2割が家賃補助を受けている。と言われる。日本では古くからの
丁稚制度から戦後までは家長制度の下での住居か仕事場が与えた住居かしかなかった。
特に40代での今の借家の長屋暮らしであっても企業が福利厚生の一貫として供与して
来たので政府の議員宿舎の様な考え方が出来たのだ。だが中曽根改革からこっちは経済
合理主義の下追い出され 竹中平蔵の出した馬鹿なバランスシートの黒字化決算で企業
の保養所さえも売りに出され 日本人は奴隷化された。此処に年越し派遣村が出来る要
因が出来たのである。竹中馬鹿理論は欧米流の嘘で固まった情報から持ち込まれホーム
レス社会を築き金融カラーを産んだ理論から持ち込まれ日本の多くの不幸を確実にした
。その一つの現象が「家賃を下げれば、『40代ひとり暮らし』が激減する。」現象で
あったと言える。会社の持つ福祉予算はかつての集団就職列車の名残りではあったが、
それは貴重な政治が行わない労働者救済のシステムでもあったのだ。これが人口増加を
可能にした事は現実の話である。その時の40代は 特に独り暮らしは激減しただろう
し生活費に於ける住居費割合が低ければ婚姻生活を楽にさせたはずである。過去に於い
ての話だろうが。が行政は税収の為に家賃の大幅値上げでの町の発展を願う。不思議に
もこの矛盾をAIは解かない。



580: 名無しさんAA:17/09/02 16:35
 AIに聞く。  10

 興味深いのは「お子さんのいらっしゃる世帯であれば、子育て支援などを通じて接す
る機会があるが、ひとり暮らしだとそのような機会もない」と話す自治関係だ。また、
「豊かに暮らしているイメージがある。時間もお金も自由に使え、役所に来ることも少
ない」とも語った荒川区の住民はこの分析を受けて、行政サービスの拡充が必要かどう
か検討するという話だが これは相当に勘違いしている話だ。それは自治体が観光地化
する為に観光客が落とす費用以上のパンフレットや外字案内標識や広告の為の海外出張
している現状やふるさと納税の景品に倍以上の経費を使っている現実と同じだ。「40
代の一人暮らし」が増える現象は、そのまま数値に出ない労働者の貧困であり、それが
社会の悪態であり「自殺者数」「餓死者数」「空き家数」「救急出動件数」などが増え
て行く要因であって、「合計特殊出生率」「老人クラブ会員数」などが減る現象と同じ
社会にいるだけの話であって 40代の一人暮らしが増えた事で起こる現象ではない。
と言う事だ。例えば今ニセコに大きな不動産値上がりが起こっている。それはパウダー
スノーに起因した金持ち居住者が増えてきた事にある。がそれで笑顔になるのは行政で
あり地元の者ではない。とは言え今や行政が企業誘致してる中でこのニセコ開発での、
そのまま消滅しようとしていた幾つもの日本型コンドミニアムを『最高級コンドミニア
ム』として売り出し、スキーリゾートから通年型リゾートとして世界から観光客や富裕
層を呼び込みニセコ周辺に開発熱をもたらした オーストラリアの青年は、町にとって
かなりの貴重な成功者と言うべきものだろう。ニセコリゾートが40年前出来てかつて
20年以上前には、北海道で吹き荒れた国内資本によるリゾートブームとダブってから
すたれてしまう運命を又引き戻したのだから。又各所の爆買い観光にPRする中で一挙
にTVドラマで佐賀の祐徳稲荷が注目を浴びてタイからの観光ブームに乗っているとい
う。つまりは何もしなくても今を維持できる体力と知力があればどこでも 浮かばれる
ものである。と言う事で正確な分析と判断こそが政治の力であり資本である事を見せつ
ける事例だ間違っても福岡の様な沖ノ島から三社を世界遺産にする為に活動する愚など
あってはならない。そうした行政の愚策行為が今や日本の問題点だからだ。


581: 名無しさんAA:17/09/02 17:24
 AIに聞く。  11

 このAI(ネプラ)は、人口知能や分析と言うには、ほど遠い存在ではあるようだ。が
それでもこれは値打ちのあるAI提言にはなる。というのも過去の結果からの 関連の
なかった相対関係が要因因子は不明であったにしろ現象が起こっていた事は事実であり
、それは今の政府の無策への辛辣な物言わぬ現実と言う批判であるからだ。Tv内での
映像方法が悪質であるにも関わらずこの方法は斬新な切り口である。例えば 夕張市が
2007年に財政破綻し、171床を有していた総合病院は、19床の小さな診療所に
再編され、番組では、病床数が減ることによって、住民は病気で亡くなる人が多くなる
のではなく、逆に健康になったと紹介されていた。とネットは書き込んである。つまり
病院が減ったことで「危機意識が高まり」、自発的に体操をしている市民を紹介した上
で、「そのおかげか、10年前に比べ、癌や心臓病で亡くなる人の割合が大きく減って
いるという。」このナレーションとともに、以下のような字幕を流していた。肺炎死亡
率(男)32%↓ がん死亡率(男)5%↓ 心疾患死亡率(男)35%↓ 心疾患死亡率
(女)15%↓と言う 今までの映像マジックを施してある。こうして悪意の元に安易に
「病床数が減って夕張市民が健康になった。」ように見せたのである。これを見たら、
誰もが「病院が減ったから市民が健康になった」という因果関係を表しているのだ。と
の誤解してしまう。これは夕張市の病院閉鎖が健康に与えた影響に関しての正式な研究
は行われていない。が、病院がなくなったことで専門的な治療を受ける必要がある患者
や重症患者は(たとえば透析を受けなければならない患者や、抗がん剤治療を受けてい
るがん患者など)、恐らく札幌市など周辺の都市に引っ越した。と考える方が自然であ
る。と伝えている。これは正解だろう。だがこれは逆説的に言えば田舎は健康で無けれ
ば住めない土地と言う証であり同時に 町の病院が田舎の重症患者を支え受け入れる事
は当然であり自然な事だと言う結果がみえる。所謂行政の老老介護ならぬ経済負担疲れ
である。素直に言えば国家戦略会議は 大学設置や獣医師大学よりは こうした事の町
の活性化問題として 国際的視野を持つべきであろう。ニセコの土地高騰問題は ここ
夕張活性化にも明るい解決策がある事を示唆している。世界の中のマーケット戦略であ
る。このAIの持つデーターは 恐らく海外貿易との関連性に於いて重要だろうと思え
る。つまり逆に40代独身環境は 基本国際化対応の時代や都市の現象だったのでは、
ないだろうか。と言う疑問である。

582: 名無しさんAA:17/09/02 22:59 ID:zmw
 AIに聞く。  12

 多分このAIはビックデーターの相関図のみで目的の無い計算式の埋め込みであろう
。がそれこそが何も結果を出さない資料となり貴重である。この「40代独身生活者」
の問題も核心部分は恐らく他の部分との連動したような動きであろう。「自殺者数」や
「餓死者数」「空き家数」「救急出動件数」などは仕方のない現象でもある。と言うの
も人生期間の中で40代は生殖行動が盛んな時期であり他の生き物であれば 旬の食材
として捕獲される時期なのだからしかない。又個人にとっても20歳や30歳の判断は
間違えても一般的には大きくはないし大きな判断は嫁選び位である。だが40歳となれ
ば多少なりとも政治的行動や生活不満が溜まり更にそれからの解決策を模索する時期で
ある。大きな厄が心に覆う頃だ。対決も懐柔もそのままの通過も今までの視点とは違う
中にあるのは間違いない。40代独身を「豊かに暮らしているイメージがある。時間も
お金も自由に使え、役所に来ることも少ない。」と語っているのにはある種の嘲笑とも
とれる。まず日本社会の中で就労無い者が40代でいた時人は好奇の目でしか見ないし
そこに見るのは何かしらの異常さや欠陥性であろう。つまりは人生の欠陥と異常を 知
ぬ間に嗅ぎ取る行為を普通の人なら行っているはずなのである。そこには職がない。と
いうだけで一切の不合理が襲い掛かる。まずは経済的貧困である。収入のなさは致命的
な生活弱者となる。更に公共施設や最低生活保護からの差別である。ただでさえ恥ずか
しい中で市や行政は追い打ちをかけて除外しようとする。現実に北九州市役所では百円
の握り飯を一週間ごとに一個しか買えない暮らしで、申請書を一年や半年もわたされず
と言うよりわざと相談の中でも脅迫して取り上げ弁護士が行ってわたしてくれた。が、
そうした申請書式に書き込みはしても最後は放置され餓死して死んでる事件が起こった
。これは北九州市のみではない。多くの市役所で多くのパワハラは数多く私は見てきた
。人は一見優しく業務に真面目の様だが 日本人は建前が好きでその実態隠しは多い。
通常なら「自殺者数」は兎も角今時「餓死者数」「空き家数」なんてと思われるのが、
普通の者の心理だろう。「救急出動件数」においても本人が異常があって電話するとは
思えない。つまり周りのお節介が増える事が原因と考えれば 40代の個人はとっても
交友関係が広く行動的である事の証の様にも見えて来る。つまりここの現象に二律背反
の現象が起こっているのである。個人行動に引き回される行政と個人尊重で相手にされ
ずに大都市の中に埋もれて消えて行く個人とが見え隠れしている事になる。


583: 名無しさんAA:17/09/03 00:17
 AIに聞く。  13

 正にこの二律背反の意識と行動や現象こそは人間の持つ元来の人間性なのかも知れな
い。近頃何故か80年代の バブル期の例えばディスコのマハラジャやウーパールーパ
ーなどが流行っていると言う。時代の循環がここにあるようにも見えるが 気がかりな
事はその原因や内容である。今や天候不順は世界的温暖化がもたらしている事は明確だ
が サンマの水揚げすら少なくなって高価になり野菜が採れなくなって高価になり政府
や日銀目標のインフレ化が喜ばしい事と思っている事だ。これをどう見るかは全く愚問
であろう。実際人の欲望はバブルを欲している。が果たしてバブルが良い事かと言うの
であれば悪い事の一端だろう。それでも世界は経済競争の中にいる。良くも悪くも日本
は消費文明を受け入れて歴史を紡いで来た。そして敗戦も経験して来た国だ。経済活動
には「特殊形態」と言う物がある。ヨーロッパ戦線後のマーシャルプランでの人道援助
食糧の無償給付であったり戦後の日本のブレトンウッズ体制での敵国通貨保持であった
り日本の朝鮮に対する無償借款や沖縄での米軍駐留などの経済資本である。元来ならば
それは経済活動としての流通形態の筈だがこの軍の駐留は一方的な米国からの給付経済
だったのだ。これに照らせば「40代独身生活者」の増加は確かに可笑しな形である。
通常は駐留の上官として40代があり 戦争時であれば若い兵士が経験して生き残った
者が上官として駐留すると言う仕組みでピラミッド型の人口比をこの駐留基地に出来る
のが従来からの形態であろう。だが平和維持の常駐となればそうはいかない。が この
変化はそのまま人口比のみならず 訓練形態組織形態連絡形態判断種類などとあらゆる
物に作用する変化となる。がそれでもこれは公務員官僚もまさしく全く同じ様態を形作
っての作業をしているのである。多少は戦死に似た汚職や事故などがあったとしても、
基本的には高級役職はしぼんでいて辞職や退職を勧める事になる。自然界での弱肉強食
以上に成長延命の子孫継続の話と同じだ。つまり弱肉強食をよく弱い者が喰われ強い者
が生き残ると考え違いするが実はそれは考え違いである。弱いからこそ子沢山の戦略で
多くの子孫を残し繁栄しているのである。森の頂点の肉食獣や鷹や鯨は恐竜と同じくそ
の特殊性に於いて生き残れないのである。これが二律背反のそもそもの理由である。


584: 名無しさんAA:17/09/03 02:07
 AIに聞く。  14

 多分にこの40代の悲劇の深奥の真相こそ 現代社会の大きな損失と商売の基本とな
っているのだろう。本来は一番の苦労と行動の時期に 一番時間と自由がありすぎての
勉強しない社会貢献しない時の風を受ける事 そうして過ごす事に対する実質的無資産
化の要素だろう。常識形成の担い手が伝統や知恵を受け継がない。従って簡単に救急車
を呼ぶ位しか考えない人の集まりになったのだろう。更に逆に40代で独り暮らしと言
うのは それだけ我儘な人の多さである。国家でいえば北朝鮮的性格と言える。我慢し
独立を果たし一番のバランスの良い知恵を絞って戦略的に生きて居る独孤の孤立主義の
中にいると言う事になる。精神的にもっと弱いか経済的にもっと強いかあれば妻帯者の
いる世界に入り寄り添う世界に入るのだろうがそれがないのだろう。規律ある生活も、
放浪生活も出来ないタイプであろう。不思議にも<男性>は 仕事バリバリタイプ(38%
) 結婚したくてもできないタイプ(33%)現実逃避タイプ(18%)で<女性>では 充実
キャリア一人で楽しいタイプ(55%) 結婚はこりごりタイプ(22%) 日々に不満タイプ
(15%)と言う結果が出ている。通常ローン返済の完済5割は所得に対して25%である
事を考えれば 恐らく家賃は2割以下でなければならないだろう。更にこれは生活費の
固定支払い比率の問題である。年金や税金電話に電気料ガス代が余りにも高すぎる結果
がここに現れいるのだろう。更に「仕事を面白がるな。」と言うのはマツコデラックス
の言う「仕事にすがりつく世代」であり 政治政策が「仕事にすがりつかせる。」とい
うシステム形成に問題がある事を示唆している。これは当然先の下層貧民の保護である
生活保護プログラムが今だ日本になく 逆に貧困ビジネスの食い物にされて現実的救済
にはなっていない現状を示しているに過ぎない。これが先の年越し派遣村を作った原因
であり自己向上の障害となっていると言う40代の発言であろう。ここに現れる人物像
が結婚願望を残しながら既に結婚生活をあきらめている姿が見えている事だ。何らかの
形で生活や人間或いは将来に 絶望感と孤独感がありそれが埋められない事を悟った形
の生活者となり日々闘った生活に没頭してる姿なのだろう。つまり日本の浮上は女性の
働き方改革よりは会社から離れた生活の出来る男の仕事の余裕を如何に作るかと言う事
である。会社に依存した国家政策の間違いを指摘しているのである。


585: 名無しさんAA:17/09/12 10:21
  去華就実  02

 当時の戦争はこうした産業革命の始まったばかりの頃で 戦争に明け暮れた後の浮浪
者の群れの社会だった。ヒットラーも又同じに 今までの時代背景に農奴や一般庶民と
国権の狭間で 次の戦争に備える為に国を豊かにしたい強い国でありたいと願う国王と
大国のままの世襲制の独裁の中で贅沢を受け続ける国王とその狭間で色々生きる工夫を
していた。1799年にブリュメールのクーデターによってナポレオン・ボナパルトが
共和国の権力を握って第一の大統領となった。ナポレオンは前年からエジプト・シリア
戦役をたたかっていたオスマン帝国がヨーロッパシステムと言われる英国植民地政策に
組みこみかけた中戦った。その為次の年フランス銀行を創立し中央銀行を作り経済復興
に力を注いだ。こうしてナポレオンは戦争償却を金庫の準備金で政府紙幣を発行し、こ
の新通貨での国家債務を返済することで戦費を償還した。やがて皇帝に即位しての初代
帝政を開いたのだが、それでもナポレオン戦争と呼ばれる一連の戦争を通じナポレオン
の軍隊は英国からやって来るヨーロッパシステムを圧倒し、彼の一族が新たに作られた
国々の王位に即いた。この戦争で数百万人が犠牲となったのだが平和平等を謳い、フラ
ンス領ルイジアナをアメリカに売却して国を保持した。1804年に革命が終わり、ハ
イチ帝国が一応の独立を果した。この経済戦争が欲望の第一次世界大戦をもたらせた。
ハクスブルク家は中世から20世紀初頭まで中部ヨーロッパで強大な勢力を誇り、オース
トリア大公国(オーストリア公国)、スペイン王国、ナポリ王国、トスカーナ大公国、
ボヘミア王国、ハンガリー王国、オーストリア帝国(後にオーストリア=ハンガリー帝
国)などの大公・国王・皇帝の家系となっていた。また、後半は形骸化していたとはい
え、ほぼドイツ全域を統べる神聖ローマ帝国(ドイツ帝国)の皇帝位を中世以来保持し
、その解体後もオーストリアがドイツ連邦議長を独占したため、ビスマルクによる統一
ドイツ帝国から排除されるまで、形式的には全ドイツ人の君主であった。ヨーロッパ随
一の名門王家と言われている。帝政ロシアさえも一族であった。ツォルフェアアイン炭
鉱はドイツの炭鉱で 火を発する石は時のイギリスの産業革命と共に領地争いの的だっ
た。後にこの石炭層は、1834年に結成されたドイツ関税同盟(ツォルフェアアイン)に
ちなんで後に「ツォルフェアアイン」と名づけられたこれが後のEC同盟やEUになる
もとになった思想である。


586: 名無しさんAA:17/09/12 10:21
  去華就実  03

 「やあハンス。私だヒットラーだ。‥‥中略‥‥今になって、それがはっきり見える
ようになった。あとでみんなにも話すつもりだが、あのとき、きみに話した続きだから
、まず、きみに話そう。それは『激化』ということだ。“2つの極”はますます進む。
1989年以後、人間はごく少数の新しいタイプの支配者たちと、非常に多数の、新し
いタイプの被支配者とに、ますます分かれていく。一方は、全てを操り、従える者。他
方は、知らずしらずのうちに、全てを操られ、従わされる者たち。しかも進むのはそれ
だけじゃない。人間がそうなるにしたがって、地球にも宇宙にも大変動が起こるのだ。
1989年以後、人類には宇宙から、かつてないカタストロフ(大破局)が近づくのだ
。若い頃私は、『わが闘争』に、いずれ人間が大自然から復讐されると書いた。それが
1989年以後の状態だ。人間が思い上がって宇宙の自然を犯す為、宇宙が人類に復讐
の災厄を下すのだ。そしてそれが人類を、想像を絶する究極の状態に導いていく。私が
生まれてから150年後、21世紀に来る究極に。わたし自身もそれを霊感ではっきり
と見てさえ、信じられないような究極になる。しかもハンス、その前にもう一つの山が
ある。1999年か2000年に、真のハーケンクロイツの日が来る。その時ナチスは
蘇る。蘇って真のレツトバタリヨン(=英語ではラストバタリオン)を人類に送る。つ
まり、”最後の部隊”だ。それが世界を支配するのだ。わかるかハンス。私が死んだら
きみがこれを伝えろ。新しい真のナチスの世界に伝えろ。きみはわからないだろうが、
それはもう始まりかけているぞ。ではハンス、ごきげんよう……」と電話を切った。こ
のレツトバタリヨンは紅旗部隊八路軍でヒトラーの言う「ラストバタリオン(最終の部
隊)」に他ならなかった。つまり今の中国共産党である。私は若者たちを育てる。特別
な若者たちを選んでユンカー学校へ入れる。彼らは、そこで新しくつくり変えられる、
“支配する術”と“どんな敵にも勝つ術”、“死を克服する術”、また“人の心や未来
を読む術”を学ぶ。そうすれば、彼らと彼女たち全員ではないが、その中から新しい世
界を支配できる超人が現われてくる。そう……今世紀末にはその結果が見られるはずだ
。こうして北朝鮮は作られた。


587: 名無しさんAA:17/09/12 10:22
  去華就実  04

 ヒットラーは予言する。「天地創造は終わっていない、特に人間については、終わっ
ていない。人類は今、次の階段を昇り、新しい戸口に立っている。新しい種族が輪郭を
示しはじめている。それが超人の種族だ。彼らと彼女たちは出来上がりつつある。完全
に自然科学的な突然変異によってだ。そして大破局が起こる。近未来に起こる。しかし
救いのイエス・キリストなんか来ない。別の救世主が来る。そのとき人類を救うのは、
人類を超えるもの達だ。彼らと彼女たちが、新しい世界、新しい宗教を創る。」とノス
トラダムス『諸世紀』10巻72番のピークの詩でこう予言している。「1999年7
の月、恐怖の大王が降ってくる。」とノストラダムスは、これにつながるものとして、
今世紀末の大旱魃や大洪水、宇宙兵器による災害、中東大戦の詩がいくつも詠み謳った
。そして、「巨大な光の反対のもの、黒い暗黒の光がすべてを絶滅する。」と示唆した
。それは核兵器か何かによる物ではなく その後の人類滅亡をはっきり警告した恐ろし
い詩だった。しかし、その一方で、「大きなメシー(救世主)の法が”日の国”で保た
れる」ともノストラダムスは書き、”日の国”が人類の破滅を阻止する役割を担うらし
い暗示も行っている。しかも、彼はこれに重ねて『諸世紀』4巻の31番に、「欧米列
強が衰え斜陽になるとき、思いがけない場所に新しい脳を持つ人が現われる」という重
大予知も書き遺している。これは”日の国”がその中から一種の超人を生み出す予言と
みて間違いない。そこでヒトラーの予言をここに重ねると、今世紀末、日本とドイツに
、「新しい脳を持つ人」と「超人バタリオン」が現われて破滅に挑む、ということにな
ってくるのだが それは金氏なのかも知れない。「計り知れない馬鹿だからだ。」ヒッ
トラーの予言は“永遠の未成年者の実験場は東方だ”と言った。 超人類を生むことに
ついても、東方が実験場になるかもしれない。近未来、天変地異が襲うヨーロッパ各国
にも、大戦の舞台になる中東にも、米ソやインドにも同じことが起こるかもしれない。
と言った。エドワード・ブルワー=リットンの小説『来るべき種族』に触発され、その
技術的な探求を目的として結成された20世紀前半のドイツのオカルト結社、ヴリル協
会の話である。

588: 名無しさんAA:17/09/12 10:23
  去華就実  05

ロシアの新聞『ウネン』の報道によると、ロシア社会科学院の研究者達は、近いうちに
地球上に超能力を持つ新人種が現れると指摘している。この新人種の共通の特徴は知能
がとても高く感性が非常に鋭い。人体エネルギーを撮影した写真から見れば、精神力を
示す青色の発光が見られ それが彼らの体に非常に強く現れることから、このような人
々を「ブルー児童」と呼び称された。1994年から誕生した子供の5%のこの欠損体
「ブルー児童」に属する子供は放射能の影響体と科学者たちは指摘している。古代マヤ
暦法に記載されている資料によると、人類の末日が来る時には、知能が「ブルー児童」
のレベルに達している人だけが、災難を免れるという。 報道によると「ブルー児童」
は、内臓の機能がすでにある程度変化しているという。彼らの免疫系は普通の人よりも
数倍も強く、疾病に対する完備した免疫力を持っている。エイズのような病気は彼らに
は感染できない。彼らのDNAが現代人類と異なっているからだとされる。科学者達の
推測では、現在の地球上には、すでに「古い人類」に属さない千人ほどの人間が新しい
人種として誕生しており、この過程の進展はあまり早くないが、確実に進んでいる。と
ロシアの新聞は書いている。一例に ラトビアに一人の女の子が住んでいる。彼女はよ
く周りの人に自分が宇宙の中を自由に往来する様子を語る。しかも、彼女は同年齢層で
は分からないはずの宇宙に関する知識をたくさん知っている。彼女の父親は、はじめは
彼女の言うことを信じなかったが、自宅の古いトレーラーを修理する時、いつも彼女か
ら適切なヒントを得ていた。「私は彼女がどのようにして分かったかを知らないが、彼
女はいつも車のどこに問題があるかを正しく教えてくれる」と父親が語ってくれている
。ノストラダムスは、もともとユダヤ系の大予言者だ。エゼキエル、ダニエル、イエス
、ヨハネとつづいてきたユダヤ系予言者たちのアンカーとして、聖書から1500年後
に現われたのがノストラダムスだった。本来なら、最後の中東大戦でのユダヤ・イスラ
エルの勝利をうたい、そのあとにはユダヤの「神」がおさめる聖なる新世界ができる、
と書くのが妥当だが、ところがノストラダムスは「”日の国”の新しい脳が破滅を切り
抜ける。」と断定した。


589: 名無しさんAA:17/09/12 10:31
  去華就実  06

 又他の一例として「ロシアのボルゴグラード地区にボリスという男の子が住んでいる
。」例を挙げた。彼は1997年に生まれた。彼の母親は、彼を生む時、まったく痛みを感
じなかった。彼女は当時の様子を思い出して次のように語った。「生まれたばかりの赤
ん坊は注意力を集中して物事を見ることができないはずですが、ボリスは婦人科の医者
の目つきで私をずっと注視していた」。ボリス君は生まれてから一度も病気にかかった
ことがなく、8か月のときにすでに一句一句の言葉を丸ごと言えるようになった。しか
も、文法や発音などに誤りがなく、親からもらったおもちゃを簡単に正しく組み立てる
ことができた。と喜んでいた。こうしてボリス君は3歳になる前から、すでに両親も知
らない宇宙の知識を語りはじめた。しかも両親が天文学の書籍を調べたところ、彼の話
したことは間違っていないことを確認した。また、彼は古代の人類が3メートルほどの
高さがあると話したことがあり、未来の地球環境の変化についても話したことがある。
ボリス君は人々の犯した罪を語ることもできる。彼は時に街を歩いている人を呼び止め
て、麻薬をやめるように説得したり、ある人に自分の妻を騙さないように教えたりする
こともある。ボリス君の話によれば、地球上の人類は2009年と2013年に水に関係がある
大災難に見舞われる可能性があるという。ロシアの社会科学院の地球磁気と電波研究所
の科学者は、ボリス君の身体の周囲から特別な光の環を撮影することができた。と言う
研究者のロコフキン教授は、「彼は濃いブルーのエネルギーのスペクトルを持っている
。これは彼が明るい性格と高い知能指数を持っていることを意味している」と指摘した
。ロコフキン教授の話では、特殊な設備を借りれば、人類に潜在しているいくつかの超
能力を測定することができる。現在、世界各国の科学者はさまざまな面から研究を行っ
ており、こうした超能力の子供の秘密を解くことを試みていると言う。古代マヤの暦法
の記録では、地球の誕生から終わりまでを、五つの時期(太陽紀)に分けて、それぞれ
一回ずつ大災害が発生する。そのうち、洪水、強風、火雨、地震の大災害はすでに経験
し今では第5回目の大災害がやって来る、世界の末期であるとしている。だがこの災害
は毎日の様に発生し大災害は毎年起こる。そして巨大災害は何年かの周期でやって来る
。これに科学的説明をつけて予見したいが その科学が無ければ信仰からの予見や予測
になってしまうのは仕方がない。


590: 名無しさんAA:17/09/12 10:32
  去華就実  07

 だが既にこの内容は 今の科学で解明済みの話だ。まず予言書の問題は予言とされれ
ばされるほど、予言に忠実に生きようとすする人間が予言を実行すると言う人間がいる
。この事で予言めいた事を言えば予言になるのだ。階差社会は何処の時代でも格差を産
む。富む者はより富むし貧しき者はより貧しくなる。それは貧しき理由が優しさゆえに
起こる人の生きる障害になるからだが これは人は変わっても起きてる現象は変わらな
い。だからこそ人は進化した時代を作るのである。この事はヒットラーの人生を狂わせ
首相に押し上げた要因でもある。又マヤ暦は暗号化技術から123年の違いが解ってい
る。もしかしたらあのノストラダムスの予言も123年足して考えなければならないの
かも知れない。1999年とは西暦2122年の話である可能性がないこともないのだ
だが。更に青い人体発行体は既に遺伝子研究では解明され利用されていて発行体ネズミ
さえ飼育されている話で人体DNA欠損症は今のiPS細胞理論からは 簡単に説明される
。更にはスリーマイル事故やチェルノブイリ原発事故日本の福島原発事故など、数々の
原発事故やX線治療やガンマ線治療など考えれば 放射能によるDNA異常体が現れ始
めた事はどこででも起こる事だ。ただそれが超能力者集団と言うのは夢の物語である。
ある種の、例えば色素薄弱体としてアルビノ種は用心深く賢くなる習性は一般的にある
症状だ。又そうした環境には教育施設は少なく星を見せ物語を綴りのんびり生活する姿
は良くある話なのである。が問題は残る。この人体オーロラ説はこの海の発光体とは、
遠い陸地の話である。となるとある種のカビが繁殖してそれを食べた。と言う事になる
。ロシアでは土さえも食べる人はいるし日本でも昆虫食を止められなくなった人もいる
。この事は カビの人間操作説が急遽浮上するのである。人間操作説はかなり昔からあ
った。ネズミの集団自殺もネズミにある種の感染症により水に飛び込んだのだだろう。
と言う説は キリスト時代の昔からあったのだ。ある種の蜂や昆虫は芋虫などに内蔵に
幼虫を埋め込む。するとその芋虫は利用されていると知らずにかの幼虫が大きく自立す
るまで生きて程よい所で死んで食べられる。まるで同じ卵で偽物を孵化させる子育てを
捨てた鳥と同じだ。これがカビ類に起こっても不思議ではない。粘菌の移動がコンピュ
ター以上の効率化計算が出来る話と同じだ。


591: 名無しさんAA:17/09/13 11:19
おひょろさん  18

 人間には天性がある。だがそれは周りが環境を開かないとその天性は活かされない。
多分多くの人はその開いてくれた周りの人に余り感謝してないし その理由や存在自体
あまり理解していないのであろう。この所の人間の横暴さは多くの所に出ている。TV
での不倫や汚職まがいの指導や北の挑発やら 全く持って自分が生きて居る位置すらも
解っていない輩は多い。そうした者は次世代やその又次の世代の世界を作る或いは育て
る作業をしてない。ゲーム業界がそうだしAI業界がそうだ。かつての家電業界と同じ
く過当競争の中で製品を作りヒットさせれば良い便利になればよい、安い価格で売って
何が悪い。と言った始末の悪い人間しか作ってこなかった。馬鹿同然である。これが今
の日本の家電のお粗末さだ。AI業界も全く同じだ盗品市場の様な販売に明け暮れて、
ゲームも直観と面白さにカマ掛けた売り上げを信じて 驚異やドッキリのみを創造して
意味のない未来を築こうとしている。かつてのTV業界の視聴率競争と同じだ。CMで
多大な貢献をしていた広告販売業がそうした馬鹿で コンピューター業界もおなじだ。
一番悪質なのは通信業界だ。人は基本的に生活チャンネルの中に生きて居る。その中に
仕事があるし家庭があるし子供がいる。だがのべつ構わずひっきりなしにFAXやら、
電話勧誘やらオレオレ詐欺などを発生させている。垂れ流しのFAX広告は3日で紙が
無くなった事がある。電話勧誘では自分の勧誘広告文句は言っても関心の苦情は聞き入
れる耳はない それどころか一日中文句言って嫌がらせしたり その電話応対そのもの
が遠い県外であったりしている。全く生活妨害もいい所だ。こうした悪行を公益事業な
どと税金を安くしたり電波拡張をさせて一般通信を断ち切る行政をしている事がおかし
い。そもそも過去から受け継いだ電波帯を戻すべきだろう。NHKやNTTや電通など
を始め今流行のスマホ通信業者など10倍位の税金をかけるべきであろう。共通の生活
や時代と言う列車の中で中吊り広告位は許されるが固定電話にも通信サービスにでも、
全てに詐欺の様な生活の中の押し売りでの時間やら紙やら奪うこれらの業態になぜ規制
は敷かれないのか。そもNTT民営化はそうした詐欺師の棟梁の議員が考えた行政では
ないのか。あまりにも公共心のない行政が目白押しだ。警察はまず議員や公務員を犯罪
者として取り調べるべきではないのか。議会や安倍政権も国会だから詐欺ても良いなど
とは可笑しな話だ。

592: 名無しさんAA:17/09/14 05:59 ID:LEM
 民主党を離党する馬鹿は恐らく当選しない。
今でさえ民進党に力が無いのに 細野など下らない者にに何故巨大政党が出来るという
のか。細野氏が民主党時代起こした軌跡は誰もが知っている。今だ原子力は廃炉に至ら
ない中 口先ばかりの理論で仕事が出来ず政権を投げ捨てた人間を信用する馬鹿は落選
するが好かろう。

593: 名無しさんAA:17/09/18 14:38
 いい加減にしろ いたずらに国費を使い 自らの任期すら全うできない内閣が
解散や改造ばかりの 全く椅子に尻をつけない政治ばかりだ。国家百年の計どころか
一年後すら危うい人気なら 何故に政治家になる 何故に大臣になるのだ。おかしい
ではないか 自民党よ 去りゆくが良い。



594: 名無しさんAA:17/09/19 03:12
 日本の現状20  

 いい加減にしろ いたずらに国費を使い 自らの任期すら全うできない内閣が解散や
改造ばかりの 全く椅子に尻をつけない政治ばかりだ。国家百年の計どころか一年後す
ら危うい人気なら 何故に政治家になる 何故に大臣になるのだ。おかしいではないか
 自民党よ 去りゆくが良い。成程解散権は今の内閣の最高権力者にある。だが大儀も
なく信義のない解散権の乱用は 自民党には良いと思っているかも知れない。だが結果
的に政治の腐敗と政治家の権力乱用であり 国民離れし 与野党の政権交代が無く独裁
と同じになってしまう。この事が今の 加計学園問題や森友学園問題の本質である。つ
まり独裁の甘さである。官僚や職員まで 平等で公平な分担や公正な開示がなされず、
こうした特定の政治家にコネを置く業者のみの成長をして格差社会を広げるのである。
例えば拉致被害者問題も同じで この時小泉政権が安泰だったから立ち消えになったの
であるしPKOがなし崩し的に問題点を精査せずに拡大した。本来の競争社会で交互に
野党も政権交代してる中であれば もっと人気取りでも解放者の拡大に知恵を絞った筈
である。今も同じで こうした汚職まがいが野放しになり北朝鮮のミサイルに一に制裁
二に制裁として「対話と圧力」の今は圧力だ。としているが 対話の回路もあるのか。
ロシア交渉も対話だ対話だとしているが 圧力もかけているのか。一方的に偏った政策
で空回りしていないのか。これを国民は充分に見て行かなくてはならない。野党も又、
政権取れば国としての方針を転換できると考えるのは筋違いだ。革命政府のテロ集団で
はない。物から人へのスローガンは良いが 安保や外交姿勢或いはこれまでの政策まで
精査もなく変える権限などない。あくまでもこれまでの自民党政策以上の政策を求める
べきで 何も白紙撤回して予算作り一方的方針転換で行政をゆがめるなどとしてはいけ
ない。方針も政策も自民党と同じで良いではないか。その中で民進党が知恵がある幅が
ある進化がある前進する。そうした演説と方針で行くべきだ。影の内閣が影を潜めて、
野田氏の様に途中の議会で挑戦的言葉で切れて解散などしてはいけない。又議会運営に
自民党も野党として今の野党より行儀が悪く無礼があった事は現実だ。国会を侮辱する
な。日本には交代政権は必要なのだ。自民党を分裂させろ縁故議員など要らない。仕事
も出来ない内閣など必要ない。なぜ猪木議員以外も北に親しい人間を渡航させなかった
のか 馬鹿らしい党閥の壁なのか。

595: 名無しさんAA:17/09/19 03:48
    争乱を焚きつける19

 今や世界は動いている。なぜ今に解散総選挙なのか。勿論世界が動いているからと言
って国内政治を止めよ。などと言うつもりはない。だが此処に来てテロ問題東京五輪の
問題中東問題北朝鮮問題更に水害に地震と 難題は多発している。だが一向にニュース
報道では何も見えて来ない。見えるのは加計学園問題など国内問題の隠蔽と不倫や議員
不祥事議員の遺憾挨拶程度だ。もっとも政治姿勢が問われるときに日本のTVやメディ
アは政治に弱すぎる。今日本政府がやるべきは クルド人自治区の独立を支援すべき事
だしアフガン問題を解決すべき事だ。この地域が自由陣営の仲間入りしてイスラム教徒
の国家が原理主義集団から脱皮して世俗主義集団になり 国王独裁から法治国家の仲間
に変わる事である。イラクやシリアの混乱はさておいても この地域の安定は欠かせな
い要素である。確かにペルシャとアラブ双方に緊張はある。ある意味大事な事であろう
。だがこの緊張を逆なでしてはいけない。カタール政府は曲りなりもアルジャジーラ放
送に自由権を持たせ この地の現地事情を伝える唯一の世界的報道機関である。西側の
自由主義の旗や資本主義の旗を降ろす事は 世界を暗くする。ロシアの言う様に米国の
一極覇権主義には抵抗すべきかもしれない。だがロシア・中国は軍事や経済でそう劣る
ものではない。問題が多すぎるだけだ。この問題解決が今の自由民主主義であろう。今
すこし偏向しつつあるも 米国国内も闘っている。「自由・平等・博愛」の下の人権や
格差是正に。日本も同じでこうした動きを阻害して愛国主義者の丸丸ファーストなどと
言う恫喝独裁宣伝文句は使うべきではない。もっと学び学習すべきで 世界の中の日本
を良く知るべきだ。勿論これからも大国外交の狭間しか生き残れる道はないであろう。
だが今 日本人の経営者や政治家はまともでない。もっと情報をとりもっと自覚しての
国内の道を極めないと これでは日本は崖っぷちに立たされたままである。韓国産業と
同じく食われて自国の大和民族を奴隷化してまでも 働かせる様な考え方は捨てるべき
で行政の放漫な自治体経営を批判すべきで一緒になって踊るようでは中国の官製デモ時
のような悲痛な結果になる。観光も観光産業として生きるべきで観光立国など在り得な
い。


596: 名無しさんAA:17/09/19 12:09
   争乱を焚きつける20

 それにしても 今かなり国際情勢は流動的に動いている。トルコのエルドワンは、ド
イツやオランダでの演説に入国管理局は入国させなかった。あまりにも過激で独裁化し
た排外主義選民主義だからだ。この批判にエルドワンはナチスだ。と批判した。はた目
には囮のクーデター事件を起こして大勢の知識人を捕らえて死刑にしている。と報告を
果たしている欧州ジャーナリストも46人以上が拘束され留置されている。中には中に
は国外退去の判決で強制退去になった者も現在進行中で160人以上と言われる。この
報道締め出しを受けて国内状況が見えない。少なくともイラク・シリアの解放を受けて
クルドの自治政府の機運が高まっているのは確かなようだ。そこに国境沿いに空爆や演
習を仕掛けて威圧している。だがトランプの掛け声で起こったアラブ包囲網で報道規制
を求めたカタールはペルシャのイラン・トルコなどの救援で解除になろうとしている事
も事実だ。そのペルシャの大国トルコは、ロシアからの最新鋭の地対空ミサイル・シス
テムS400を購入する契約を締結した。これはトルコがロシア寄りに大きくカジを切
ったものとして注目されている。プーチン・ロシア大統領からすれば、NATOに楔を
打ち込んだことになり、中東でのロシアの存在感は一段と高まった。西側の軍事同盟の
「北大西洋条約機構」NATOの一員だったのだが、トランプ発言のかき混ぜた行為で
トルコが北朝鮮の様になるのは必須であろう。ロシアに無条件で手を引いた形だからだ
。加えてプーチンはロシアの軍事訓練に旧東側諸国を招待し大勢のメディアを集めて、
大々的にミサイルのデモストレーションをしてショーアップを重ねた。軍需産業の復活
を目指している。このロシア、イラン、トルコの三ヶ国はシリアの和平協議を幾度とな
くカザフスタンで開催して緊密化している。NATOや、米国の懸念はかなり強い。が
基本的にはどんなに軍需で復活しても経済疲弊でその研究者なり製造者がヘッドハンテ
ィングされる事で北朝鮮の様な事はすぐ起きる。それどころかトランプ発言はそれを今
助長している。トランプの中東訪問で今後イラン・トルコが北朝鮮の核を持つ可能性は
かなり強いそうなるとソ連は今は商売の客だろうがその内暴走を止められないのは確実
だろう。今でさえ民主化できず自由選挙を出来ずにいるのだから。成功すると思われた
G9の経済のお花見会がクリミア問題で完全に消えたのだから・


597: 名無しさんAA:17/09/19 14:44
 おひょろさん  19

 本当にいつも視点がずれてるTV局には驚かされるが この度坂上のバイキングの視
点は正にそうなんだ。と思う。と言うのは恒例の議員の海外視察である。もともと議員
のみが特殊な公務員構造で一般社会から 政治や行政を正し 立案運営する一般からの
組織として自治体が国民から負託されたものとして 選挙での運営を任されているが、
この議員が今や本末転倒に個人PRや選挙活動に専念して全く調査追求立案をしない。
挙句の果ては議員は歳費消火と言わんばかりに社員旅行の様な海外観光を視察と偽って
のべつくまなしに税金を使っている。真面目な話あれだけ政務活動費なるものを使い放
題で使いながらも全く国は取り締まる気配もないまま 国債地方債を出し続けている。
一体いくらいるのだと言わんばかり次々に税金や社会保障費や震災用の電源補助金など
公共料金をどんどん高めていながらである。先に地方自治の交付金を切る話も立ち消え
で極めて重い課題を先延ばしにして加計学園問題がある。これが氷山の一角である事は
間違いない。まず政府は今の消費者庁を切り離し 全権民間運営団体として国費の%を
決めた調査集団にするべきだ。今でも会計検査院や税務調査はあるが報告がずぼらで、
全く国民の信任がない。そこで3つの製品・団体・販売手法の適正化を毎月摘発させる
。摘発の無い時には内容や苦情集計を出させるべきだ。その上で議員のこうした海外の
視察を申請書で認可すべきで 視察というには この自治体のこの問題の解決や追及の
為に行くとか 今のこの調査やこの活動を応援する為に視察したいと言う具体例とその
後の報告書を彼らに精査させるべきなのである。そしてそれはTV局は全国展開しての
審査を行うべきである。大体事情聴取を受けた豊田真由子議員(42)などの記者会見
は記者会見になっていない。記者の意識が低すぎる。この問題は4つある事だ。

598: 名無しさんAA:17/09/19 14:44
1つは
二面性である。「表と裏があるんだよ〜」と叫んでいるが この議員の横暴な顔と全く
窺い知れない国会答弁や記者会見する顔である。こうした表裏のかなり違う言わば黒色
企業のやり方がまかり通ってまかり通っている現実である。これは全く許されない話で
加計問題の本質だ。2つ目は議員資質である。本人が本人でも驚くと言うこの過激さは
全く「議員」をやってはいけない中にある。これを知りながら敢えて自民党にいたのだ
3つ目はそうした自民党と言う体質と看板だ。選定や調査も出来ない有力者によって、
公募で抽出されその選挙費用は馬鹿でかいのだ。この選挙の在り方が正に議員の職業を
奪っている。本来なら思慮深く内容深く更に知見の多い筈が全く頭の高い知性のない肩
書やろうか何処かのTVに出てるカス芸人の様な者かしかいない。トランプと同じに、
フェイクニュースの行動で投票さえも不正のあるやり方だ。議会も見えず論点も見えず
人気取りに議会解散を簡単にやるような人間をはたして首相などという席に座ららせて
いいのかと言う問題だ。安倍政権は全く信任されていないだが他の政権はもっと未知数
であり国民が瀬戸際で このパワハラが溢れた政策の中にいて怖いのである。野党が政
権になった時小沢が馬鹿な冒頭解散さえ行う議会無視の男と知っていながら鳩山に期待
したのである。そして4つ目が正にこの運転手の様に うまく世を渡れない人や老人を
果たして介護施設や金だけに頼っていいのかと言う事だ。先の消費者問題センターも、
この運用そのものが大きな消費者問題だ。体制の傘の下の活動などとは在り得ない話が
堂々と起こっている。こうした元が甘っちょろい細野氏で全く屑議員になぜ人が来るの
かなぜ体制挑む二大政党になり得るのか 法螺吹きもいい加減にしてもらいたい。



599: 名無しさんAA:17/09/19 15:04
1つは
二面性である。「表と裏があるんだよ〜」と叫んでいるが この議員の横暴な顔と全く
窺い知れない国会答弁や記者会見する顔である。こうした表裏のかなり違う言わば黒色
企業のやり方がまかり通ってまかり通っている現実である。これは全く許されない話で
加計問題の本質だ。2つ目は議員資質である。本人が本人でも驚くと言うこの過激さは
全く「議員」をやってはいけない中にある。これを知りながら敢えて自民党にいたのだ
3つ目はそうした自民党と言う体質と看板だ。選定や調査も出来ない有力者によって、
公募で抽出されその選挙費用は馬鹿でかいのだ。この選挙の在り方が正に議員の職業を
奪っている。本来なら思慮深く内容深く更に知見の多い筈が全く頭の高い知性のない肩
書やろうか何処かのTVに出てるカス芸人の様な者かしかいない。トランプと同じに、
フェイクニュースの行動で投票さえも不正のあるやり方だ。議会も見えず論点も見えず
人気取りに議会解散を簡単にやるような人間をはたして首相などという席に座ららせて
いいのかと言う問題だ。安倍政権は全く信任されていないだが他の政権はもっと未知数
であり国民が瀬戸際で このパワハラが溢れた政策の中にいて怖いのである。野党が政
権になった時小沢が馬鹿な冒頭解散さえ行う議会無視の男と知っていながら鳩山に期待
したのである。そして4つ目が正にこの運転手の様に うまく世を渡れない人や老人を
果たして介護施設や金だけに頼っていいのかと言う事だ。もっと優しい人を活かす社会
低消費低活動の高能率の社会を目指していいのではないか。文化創造の方が遥かに価値
が高いのではないか。市町村始め地方自治は憲法違反ばかりではないか。そも自治活動
の公式文書館すらなく記録が無いなどと言うのはおかしい事だ。と言う疑問には 何ら
議員達は活動していない。つまり公務員は甘えすぎなのだ先の消費者問題センターも、
この運用そのものが大きな消費者問題だ。体制の傘の下の活動などとは在り得ない話が
堂々と起こっている。こうした元が甘っちょろい細野氏で全く屑議員になぜ人が来るの
かなぜ体制挑む二大政党になり得るのか 法螺吹きもいい加減にしてもらいたい。





600: 名無しさんAA:17/09/23 09:02 ID:oxM
 おひょろさん  20

 日本人は 恐らく馬鹿なのであろう。今だ第二次世界大戦後の暗闇は消えていない。
だが日本に於いて 次々とその遺景が消えて居る。また今度日本銀行福岡支店を解体す
ると言う  いい加減にしろと言いたい。これまで日銀経営の為に大日本天皇陛下の為
に或いは大手企業資本主義起業者の為に何万人と何千万人とも知れない人間が死んだん
だ。起業も支店も天皇や政府は勿論 もっと大事にすべきだ。そう要った時代の器や、
その英霊の骸の衣である祀りに至ったものはもっと大事にすべきで、大体国鉄解体など
行った中曽根を暗殺するぐらいの気概を見せるべきだ。もっと他に土地を求めて管理す
べき建物はそのまま残すべきもので 世の中にはその時に引かれた国境に悩む国さえも
今だ解決していないし その時のソ連と米国の二大勢力はそのまま核保有国である。国
としては非常に軽すぎる行動や言動は これでは国際社会では通らない。トランプに至
っては、正に最悪最低大統領ジョージブッシュJrと肩を並べるものだ。日本のTV局
も、何故これほど大事な局面を編集せずに報道しないのか。またぞろ大戦前の軍国主義
の様に 切り貼りして勝手な解釈を付け加え 緊張さも危険さも馬鹿さもストップさせ
て 気楽な軍事評論家や軍事アナリストのコメントを求めている。それは違うだろう。
報道ではないだろう。と言う番組つくりのままだ。どうでも言いような安倍氏の声明を
目いっぱい放映していて 方や一番大事な トランプの国連演説全容や北朝鮮TV内の
初めての 本人発言を全編を放映しない。大体日本の総選挙なんて 全く違法のままだ
。政党も議員も「国民の平等の権利」を規定している。勿論全くの平等など存在しえな
いだろう。だが憲法の精神である できるだけ同じ中同じ権利同じ環境を提供していこ
うと言う意志や 同じ土俵での選挙をしようとする意志が ここに全く見当たらない。
それどころか 今が人気だ今がチャンスだと言わんばかりの醜堕悪臭の中にいる。議席
はハエの卵ではない。更に安倍支持率が上がったなどと言うのは 安倍氏の人気ではな
い 北の恐怖からの現政権や政府への支持であって 単に国論が分裂して欲しくないと
言う気持ちである。更に無頓着にこれに対して細野は馬鹿げた新党に及んでいる。国民
を愚弄する自民党更に上行く野党行動 これでは国民はやってられない。TV局も世界
情勢のこの一番大事な曲がり角を全体全編を見せないというのはBPOの馬鹿さでもあ
ろう。嘘の解説など要らないのだ。国民一人一人がそれを理解すべきなのだ。

601: 名無しさんAA:17/09/25 00:33 ID:sFs
 今度の総選挙は「勝手解散阻止」が争点だ。如何に大衆の票を持っての議員であった
り政党であったり 或いは首相であろうが大臣であろうが 政権を私物化して勝手放題
好き放題では困る 更に議論も尽くさず灰色の疑惑さえ解かぬでは 田中内閣の政策の
方がまだましだ。彼の利権は外国に向けられ地域に向けられたものだったからだ。今回
の疑惑や汚職は 只の烏合による政府予算の食いつぶしである。官庁の領域争いに内閣
が乗って利権を吸い上げたにすぎない。内閣にいたからと言って勝手な法案と勝手な組
織で証拠の文書も過去の経過も捨て去るのは 大日本帝国時代よりも悪い。本来なら、
議員と言う公費を使う以上 全ての事が何処かに文書として20年以上は保管されなけ
れば 日本の研究者は育たない。つまり改良も改善も出来ないままになる。




602: 名無しさんAA:17/09/25 18:17

又安倍首相は妙な事を言っていい訳している。 国民との約束どころか野田首相時の約
束さえはたさぬままに 税収はうなぎのぼりで震災特別税すら返していながら、企業で
は反対すると臆面もなく今まで決まった税収も返還し国民には全く重税でも構わぬ姿、
こんなにも日本人は醜いやつだったか 長州人の頑固な無能さといい加減さばかりだ。
そも なぜ内閣改造したのか なぜ選挙の公的資金すら無駄使いと思わないのか。




603: 名無しさんAA:17/09/26 15:53 ID:2lQ
 な〜〜にが戦いだ 国難だ 国難は 自民党の贅沢な行動だ 無駄な学校予算だ。

604: 名無しさんAA:17/09/27 03:03

 意味も無く解散の気焔吐いた首相を 何故TVに出せるのか
 顔も見たくもない顔をニュースに出すな。党首としてだすなら
 それこそ 他の党首と一緒の時間を作れ 不平等じゃないか。
 権力基盤のある党首なのだ 他の野党の党首には2倍位時間をやって平等だろう
 すでに 冒涜解散で国会をしないと言っているんだ。独裁者じゃあるまいし
 TVにだすな。記者発表もしているじゃないかBPOは違反として取り締まれ
 ふざけた通信行政は一体何故平等を貫かない 首相を処罰するべきだろう。




605: 名無しさんAA:17/09/27 03:05
 意味も無く解散の気焔吐いた首相を 何故TVに出せるのか
 顔も見たくもない顔をニュースに出すな。党首としてだすなら
 それこそ 他の党首と一緒の時間を作れ 不平等じゃないか。
 権力基盤のある党首なのだ 他の野党の党首には2倍位時間をやって平等だろう
 すでに 冒涜解散で国会をしないと言っているんだ。独裁者じゃあるまいし
 TVにだすな。記者発表もしているじゃないかBPOは違反として取り締まれ
 ふざけた通信行政は一体何故平等を貫かない 首相を処罰するべきだろう。
 選挙違反も はなはだしい。


606: 名無しさんAA:17/09/27 17:06 ID:YYM
 な〜〜にがリセットだ希望足りないだ 仕事しない小池が都知事と言う欲を出した
  から希望がないのだ。これに寄り付く馬鹿垂れに議員の資格はあるのか。

 釘も打てず鋸も使えない者が 大工になれるわけないだろう。視野もなく鳥瞰すらも
 出来ない人間に批判があるからと政治家が務まる訳はない。現に今や東京はズタズタ
 でとても人間の住む街ではない姿に変わっているではないか。東京五輪に過労死など
 馬鹿げた話で 築地市場は今や選手村にもならないではないか。今回の選挙は社会党
 が伸ばす番だ。何故なら北朝鮮対応をどうするのか。であるいつまでも米国のポチで
 在り続けるのか。社会主義を取り入れ話し合いと対抗核をちゃんと設置するのか。で
 ある。日米同盟からは外れられない。だが独立国としてロシアも中国も北朝鮮も核の
 ミサイルが日本列島を狙って設置してある現状に いつまでも持たない訳に行かない
 だろう。その上で話し合いを北朝鮮に持ち込むべきだ。米国の番犬であり続けるのは
 不可能だろう。


607: 名無しさんAA:17/09/27 21:49
    日本の現状21

 成程金が足りないから 増税する 人気が落ちるから 解散する。これはもう政治で
はない。フリーメイソンの成れの果ての考え方だ。金が欲しいから略奪する。国内では
問題だから海外で行う。見えない所なら人種差別も殺人も構わない。こうした白人社会
の野放しな野蛮さが銃規制しない所でも解っているはずだ。それを日本の政治に取り込
むつもりなら、日本も米国と同じに公式文書の永年管理や宗教法人の国家認定制度で、
政教分離を厳密化するべきだ。今何が起きているのか政府は解っていないらしい。新た
な大航海時代を迎えているのだ。大航海時代西欧列強の黒船は結局は海賊船と同じだっ
た。食べるものや水を求めて立ち寄、人の優しさに付け込んで、隠し持った大砲を威嚇
に使い金銀財宝を持ち帰った。世界中で一番醜い事をしてそれが罪にならない様に法を
曲げて植民地化した。貿易商人からアヘンなどの闇の商人に鞍替えしたのである。今は
インターネットなどのITの本番であるAI大航海の時代に入ったのだ。つまり正しく
仮想通貨や仮想現実が人を排除しようと動いている。此処にGDPギャップのあるイン
フレにならないで 給与も増えない好景気がある。企業収益は日本の歴史上は最大なの
だ。だが規模が大きく外国に門戸を開き 株式や商売に常に東芝やシャープの様な危険
がでて来た。即ちかつて町工場の持って来た或いは商店街が襲われた大型店舗や大企業
の波にさらわれた様に 日本企業が今や海外の巨大財閥にさらわれて日産の様な馬鹿を
やろうとしたのだ。この盗人企業に裏木戸を開けて案内したのが馬鹿大臣達なのだ。こ
うして日本人を奴隷化させない為に 過去江戸時代から海外と戦ってきて「未来社会」
を描いてきたのだ。もっと基本に帰るべきだ。まず地方分権を拡大し地方交付税交付金
を減らすべき時に来ている。つまり地方公務員はもっと汗を流し議員の遊興費を減らせ
と言う事だ。更に国家機関からの 資料保存室や苦情受付を別個の形態として確立させ
て 自治の今の憲法違反を取り締まるべきだ。ただ今の社会保険庁の様な失敗では全く
話にならない。高市 早苗の様に 全く糞にもならないカード発行では話にならない。
カード情報に顔や指紋まで認識させ 更に貧困ビジネスは行わせない無償の公的住まい
を与えて 母子家庭や保護家庭を切れ 補助や援助は行い 贅沢と言う検査を失くし、
高級と言えるもののみを取り締まればいいのだ。大体こんなに税収が増えて償還出来な
い国債とは一体なんなんだ。

608: 名無しさんAA:17/09/27 22:13
 大体企業は馬鹿だ 株式が上がる事がいい事と思っている。現実は資金調達の為の
借金証書ではないか。ただその返済が確実な為 みんなが欲しがる中で株価上昇がある
に過ぎない。本来東芝や日立或いはシャープは海外に出た時点で回収していくべきだっ
たのだ。本社が株を回収して 子会社が返済する そうした形ならこんな影響は出ない


609: 名無しさんAA:17/09/28 00:29
 おひょろさん  21

2014年10月24日 - 雑事雑談 No Comments [なぜ人を殺してはいけないのか] が
「透明人間になったら何をしたいか」。小学6年生にこんな質問をすると、7人の児童
から驚くべき答えが返ってきた。「人を殺す」「強盗する」。2年前、岐阜県の公立小
学校の卒業文集にそのまま掲載され、保護者に配布されて大騒ぎになったことがある。
2014年10月23日の産経抄の記事の一部だ。
いよいよアメリカ占領軍の日本弱体化政策が現実化したという暗澹たる思いだ。人間は
教育を受けなければ正義も悪事も解らないものなのだ。戦後70年経って日本人は野獣化
したのだ。子供に権利ばかりを主張させ、義務をないがしろにする憲法を礼賛すること
が、世界に希有だった崇高な道徳心を持つ日本人を変貌させてしまったのだ。
アメリカ軍は日本軍兵士の自己犠牲精神を心底恐れた。そのため日本を占領するとすぐ
に日本人の自己犠牲精神を破壊することにした。人のためではなく自分のために生きる
事が良いことだと教えた。自己主張することが美徳だと教えた。そのため私利私欲に走
る輩ばかりになったわけだ。
それでも日本人の大半は今でも自己犠牲精神は残っている。震災の時に略奪しなかった
し、食料の店主は採算度外視で食料を放出した。こんなことは日本でしか起きない。だ
が、神戸や大阪で起きた子供を殺す子供の犯罪や、死刑になりたいと言って人殺しをす
る輩が出現した。日本教には人を殺すなという教えはないが、戦前には「親を敬い子供
を慈しめ」という道徳があった。それを教えなくなったために殺すことが悪いことだと
解らなくなったのだ。
世界宗教はユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、同じ民族、同じ教徒同士は盗むな、
犯すな、殺すなと教える。その代わり他民族、異教徒は奪え、犯せ、殺せと教えるのだ
。嘘ではない。聖書にもコーランにもそう書いてある。ユダヤ教徒の実質上の経典タル
ムードにもそう書いてある。だからユダヤ教徒もキリスト教徒も平気で他民族を奴隷に
できたし、他民族を虐殺したのだ。
ユダヤ教徒は虐殺される側のイメージが強いが、2000年以上も国を持たなかったからし
たくてもできなくなっただけだ。紀元前のユダヤ王国全盛時には他民族を絶滅に追い込
むことが使命のように暴れまわった。他の神を認めない一神教徒は恐ろしいのだ。
「なぜ人を殺してはいけないのか」の答えは、それを許せば人類は自滅するしかないか
らに決まっている。ーーーーネットからーーー


610: 名無しさんAA:17/09/28 00:30
 日本人は「憎悪」を悪とした。つまり人を殺すことより「殺す行為を思う事」を悪と
した。つまり盗み騙り殺し全てを悪である。としたのだ。従ってそう思わせる行為も又
同罪としたのだ。そしてそれを教える。これがしつけでありこれが親の愛である。とし
た。そこには学力でも体力でも生きる事でもない。そこに日本文化は「世間様に迷惑を
掛けない生き方」をとことんまで追求した社会の文化を持った。剣を持っても成敗した
。権力にも法師たる者を例外にした。賊には厳罰をし不埒者には国境に竹鋸で首を引か
せた。藩内に入るこそ泥を威嚇する為だ。こうして江戸時代かなりの治安が築けた。そ
れは又逆に藩主にさえも秩序を求めた。色々な藩にそれ相応の役割を求め それぞれに
経費が要った。だがそれでも江戸は世界一の人口だったし各藩でもそうそう苦労した中
の経済ではなかった。「えた」「ひみん」とはどうしようもない犯罪者の言わば罪人の
事であり家系にそういう人がいた証でしかなかった。今では差別用語だろうが 人は怒
って暴力や殺人するよりそうした言葉でやり合うものだ。それがないから言葉の冷たさ
や言葉の思いやりが解らないまま 非道を行う。更に自殺も増える。言っていいはずの
ない言葉が使われる事は多々ある。だが差別用語として封殺しても同じ意味合いの言葉
を人は使う。それが怒りだ。この怒りを抑える事と人を怒らせない事。更に怒りのない
環境と怒った時の収めかた。の4つを江戸期の文化は作って来た。そして どうしても
これに馴染めない輩は決闘なり果たし合いなりを公認としたのである。これが逆に今の
仏教と神道に及ぼした。「摂取不捨」や「日々是日」「知足者富」などは人の不満をそ
のままにせず安定した老後を暮らす工夫であった。勿論権力者には都合の良い言葉でも
ある。よりその地位を脅かす者が減る為だ。だがこの仕組みはこの権力者にも強いる事
でもあったのだ。お家取り潰しもあった中でこの思想時間をゆっくりさせる効果がある
。今や自然破壊も進む中で必要な思想だろう。更にこれが明治維新を支え今の日本を支
えていると 日本人は知るべきである。これが愛であり殺しても死んでもいけない理由
である。友人は楽しい方がいいだろう。生きて行くなら人付き合いは近い方がいいだろ
う。今の様な殺人犯や盗賊めいた徒党の世界より 個々の正義の戦いが強いられている
のである。これが文化であり人を殺す中に文化はない。人を陥れる中に未来はない。

611: 名無しさんAA:17/09/28 14:08
 おひょろさん  22

 今度の希望の党への合流はいい事ではあろう。だがあんまりすっきりしない。党利・
党略にうずまっているからだ。自民党が馬鹿の様に党利党略の政治にならない政治を進
めるからだ。枝野氏なんかはどうするつもりだろう。この裏に連合や小沢氏の影が見え
るのは当然だが そもそも北朝鮮問題に何故日本は討議や分析がないのか。これがまず
の異様さだ。もちろん韓国の様な西側陣営としての恥ずかしいような論陣はしたくはな
い。そもそも北朝鮮の水爆実験は成功しているし、小型化はしてはいないものの日本に
ノドンやテポドンには載せれるし、射程内には入っている。つまり今回のICBMの前
に成功しようが失敗しようが日本には既にデッドラインは超えた位置にあるのだ。これ
を叩くか叩かないかが日本の選択であって、今までも平和主義の中で北の核開発には、
目を閉じた訳では無いだろうか次々と発射されるミサイルに米国が止めない限り歯止め
はできなかった。いま北米大陸に着弾するに至って初めて米国が動いた形だろう。一方
この北朝鮮戦略はかなり頭がいい話かも知れない。元々ソ連中国韓国に挟まれて身動き
取れずに最貧国の地位に甘んじて来た。北朝鮮の願いは「日本の残置諜者論」を抜きに
してもかつての満州国樹立時の成功を今一度取り戻す事だろう。良くあらば北京より北
側の領地と韓国全土の掌握であろう。かつて日本が戦ったのが米国である以上 米国の
傀儡政権とされた韓国と敵対せざるを得なかったし、事実上李承晩政権は醜悪な政権で
赤狩りと称しては親米派親日派知識人を次々と殺して行った。それは暗殺公開処刑暴動
色んな形で行われた。突然起こった南北戦争も又その意味では同志同族を助ける声に答
える為当然だったと言える。この頃の日本でもマルクスレーニン主義に傾いた共生社会
を羨望した思想である社会主義者が大勢いたとしても不思議でもない。なぜなら戦時中
の「鬼畜米英」と言う言葉は 今の醜悪な資本主義の格差社会を知り、海外留学を経て
知見や経験を元に分析結果からの言葉だったのだ。又西洋社会も人身売買・麻薬や銃器
の自由流通更に奴隷制度と植民地があった時代でそういう人種差別社会を産んでいた事
の現実があったのだ。決して「五属共和」や「大東亜共栄圏」は後でつけた構想ではな
くそもそもの日本の国際化に極東だけでも自由往来や平和社会を建設したいと思ってい
た事の形でしかない。そして今でもその姿は同じで東南アジアの発展と極東の地位向上
は日本の経済活動の現実的姿ではないか。


612: 名無しさんAA:17/09/28 16:56
 選挙の為だけに 国会論戦を避け議会解散する党に 子供達の未来を日本の未来を
 託す訳にいかない。


613: 名無しさんAA:17/09/29 08:03

 共産党も新たな船出して共和党としたらどうだ かつての殺人犯が作ったままの政党
 ではより伸びる素地がない。既にマルクスレーニン主義を捨てて違憲合法論を取った
 中にいて 日本の平和憲法支持者と名乗るなら旧社会党と一緒に第三局の平和の党と
 して踏んばるべきであろう。


614: 名無しさんAA:17/09/29 15:48
   日本の現状22

 日本人が馬鹿だと思うのは、今度の北朝鮮のミサイル発射や核実験問題では安倍氏は
騒ぎ過ぎた事だ。今や米中会議で日本・韓国は完全に蚊帳の外に置かれた状態にある。
それは対話と圧力と言いながら「今は圧力の時」などと時間や時期で区別したからだ。
ここが馬鹿で世界各国は同時に二つの窓口。つまり公式な対決窓口と人道的支援窓口を
二つ持っている事が戦争に至らないと言う事は明らかだ。ただ同じ政府の同じ指導者が
一方で対立を鼓舞し一方で支援を表明するなどと言うふざけた韓国の様な体制はない。
やはり今までの支援の窓口に第三者機関を通じた秘密理の支援となる。此処がアジアの
最もな苦労がある。西洋社会では例えば極悪産業が利益の一部を奉仕に寄付すると言う
のが宗教的規則で認知されている。だがこっち極東では悪道と正義が表裏一体と言う事
は許されない行為なのだ。こうした事の裏では中米が秘密の会合が既に何回も行われた
とされる。緊迫度を増す北朝鮮情勢で、中国の本音の探り合いだろうが。ここである種
の合意がなされたようだ。かつての朝鮮戦争では、毛沢東が賛同し人民志願軍が参戦、
長男を含め18万の死者を出した。こうして中朝関係を「血盟関係」と形容してきた。
しかしそれは、冷戦時代の前世紀までの話にすぎないとされる。高度成長期を過ぎた中
北朝鮮情勢について「腫れ物に触る」ように慎重だった発言もいまやメディアや研究者
も金体制批判を全く厭わず公言しだした。両国の相互訪問が5年以上も途絶えてた中で
、中国は国連安保理の決議を認め、北朝鮮への厳しい制裁に同調せざるを得ない中にあ
る。更に金正男暗殺事件を契機に、習近平指導部は方針を転換して、4月の米中首脳会
談以降明確に方針を変えて、朝鮮中央通信が中国を名指し批判を始めるまでに至ってい
る。事ある重大イベントごとに北朝鮮の起こした実験は首脳部を呆れさせる程泥を塗っ
た。こうした方針転換した中国の対北姿勢の「有事シナリオ」の合意は4項目にある。
@有事に関しては中国も米韓協議に加わる。A戦後の北の核の管理は中国で行う事を認
める。B朝鮮統一は認めるが同時に中国軍駐留を認めるCこれまでの米軍駐留をはずす
。と言うかつての戦前の進歩しない朝貢時代の冊封国の前近代的内容だ。全く民主主義
や精神改革の中国の現実の姿である。自国の今の言論封殺する独裁主義がいいと思って
いる姿がありありとみえる。これでは千悪を潰すに万悪に頼る事に等しい。

615: 名無しさんAA:17/09/29 17:32

 つまり もし米国が行動を起こすなら 中国人民軍は同時に核や北朝鮮侵入を果たす
と言う布告であろう。今のシリア攻撃と同じに爆撃を米軍に任すから陸上は中国解放軍
に任せなさい。と言っているに等しい。そして韓国まで含めた共産主義国家建設を目論
んでいる。と解して良いだろう。その上こうした会談に日本の安倍首相は恐らく蚊帳の
外でいいように対ロ対策と国連への対北朝鮮制裁のアピールに利用されているとしか言
えない。となると一方の北朝鮮はやはり中国進出や満州国域の占領が目的ではないか。
と思える。その為にはロシアないし米国の後ろ盾は必要だが 韓国占領はロシアでも後
ろ盾は可能だが中国侵略となればどうしても米国の後ろ盾となってもらいたい。と言う
腹かもれない。だが韓国にしてみれは そんな戦争や紛争が起きるのなら、平和裏に金
王朝を建てて宮殿でも作って 贅沢な蟄居謹慎してもらった方が 全くいいのかも知れ
ない。姑息な手段であっても話し合いの糸口を掴みたい。と考えるのかも知れない。が
中国が相手なら例え朝鮮統一が出来ても旧満州領を与えない限り 核兵器は手放さない
。何故なら 元々がこの地は中華の地ではないからだ。鮮卑族の遊牧民との共同使用の
土地であり その為そこに白頭山伝説がある。山の向こうからやって来た勇士と言う話
である。と言う事になれば 北朝鮮の暴走はどこまでも止まらない。今の中国と同じだ
。これに食べれないロシアが絡む。食糧供給の為の南下政策だ。日本は一体どうするか
今議論するべき時に 呑気に政争と選挙にうつつを抜かす。日本国民も平和ボケして、
中国の観光客を呼び朝鮮の下請けを使うかつての「例え砂漠でも盗泉の水は飲まず。」
とした 日本人の気概は一体どこにいったのか、敗戦の「忍び難きを耐え世界に又打っ
てでる。」とした「鬼畜米英」の下心を見抜いた知恵は何処にいったのか。共防国際コ
ミンテンの心意気は無くなったのか。日本政府よ下らない安倍なんぞ選出せずしっかり
せよ。野党よ馬鹿小沢の手に乗るな。目の細い野郎を信じるな。

 



616: 名無しさんAA:17/09/30 13:06
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 190 ロヒンギャ問題は深刻な問題だ。本来バングラデシュにもビルマにもイスラム教徒は
全くいなかった。それはフィリピンやマレーシアでもいなかった。だがガレー船交易が
盛んになる10世紀頃に船の着く所に数人のそうしたイスラムの布教が始まった。世界
大戦時のアフガンなどでは盛んに傭兵がインドに出て行った。インドの東インド会社が
盛んに集めたからだ。インドのカースト制はある意味貧民層は幾らでも受け入れたのだ
。世界大戦以前から日本が南方の進出が成功すると、欧米は植民地解体の危機が自らが
治めていたインドでの傭兵を守備兵として雇った。その頃のインドネシアでもマレーシ
アでもここミャンマーでも仏教によって原住民は生活していた。だがイスラム教徒はそ
の生活を捨てなかったし言語体系も違っていたのだ。マレー戦線が拡大し日本が初戦に
勝ったのは同じ仏教徒だったからとも言える。だが陸に海に空に中国の蒋介石援助ルー
トを様々に構築し、そこにイスラム傭兵を契約で投入したのだ。彼らはひるむことない
強い兵士だった。クメールルージュと言われるビルマの血旗隊である。彼らの参戦で、
今まで案内して食糧す支援すらしていた原住民は殺され 砦の維持すら出来なかった。
そこに起こった悲惨さは日本軍を夜盗化させるまで至った。広大な土地に取り残された
日本軍は、当初は南方でも南洋でもフィリピンでもビルマでもベトナムでも戦争よりは
インフラの整備を重きにしていた。原住民に学校を開き日本語を教え 道路を作り兵隊
を送り出し 鉄道を作り物流を整備しようとした。これは満州の成功からの知恵だった
。だがそうした事を恐れた英国は最前線にこの不毛の傭兵を送りこんだ。物資は空輸し
てでも次々と援蒋ルートを作り中国に送り続けた。今の中国の海洋政策として九段線が
ある。「大陸の舌構想」だが、これは日本軍が当初フランスとの戦いを避ける為の香港
での中国を自分の領地としての計画で、イギリスの香港領事館から引き継いだものだっ
たものだ。その後には米英の積極参入によって日本軍は南方政策に変わり更に戦後の共
産軍政策が加わった。だがイスラムはそうした事に関係なく方々に殺戮と領地確保をし
ていった。ポルポト軍などはその生き残りでもあった。近年でも東チモールでも集落が
突然の奇襲を受けて多くの民家が全員いなくなった事件がある。イスラムの不当上陸だ
すぐさまチモールのPKOが組織された。ここに人の馬鹿さがある。つまり共産主義も
自由主義もちゃんとした道徳教育がなければ社会は成り立たないのだ。核廃絶と同じく
合意しこの合意を守る事で平和と人口減少が起こるのであり食糧危機も防げる。中国の
様な教育も道徳も無い巨大国家では乱獲乱開発を起こし、米国の様な宗教的利益主義で
は格差やら資本争いが醜悪な社会を産み、或いは食べれないロシアの様に自国防衛の為
の攻撃論が闊歩すれば世の中は全く良くならない。ここに教育があるのだ。小国主義が
人を豊かにする。問題は大国を制する力が無い事だけだ。

617: 名無しさんAA:17/09/30 13:50
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 191

 アジア大陸で、日本が手掛けて最大のものは、ロシア南下の対抗としての満州の建設
であった。つまり満州国建国はその一歩に過ぎなかった。その先の求めていた 日本の
安泰と周辺諸国との共生であった。これは日本人の本質だろう。五族共和の夢を求めて
いたのだ。世界はこれを、満州国という傀儡国家につくり変え軍政の拡大と見た。又、
満州国に連接してた朝鮮半島の経営に 海岸地帯から黄河の上流500kmにわたる東部
中国のベルト地帯を作りあげた事は このユダヤ金融の指図する企業群や国家群の脅威
に映った。日本は「日華事変の解決」と呼んだが、結果的に、中国民の権益の奪取や日
本圏拡大に見え戦争に繋がった。この戦争が、蒋介石国民党よりも、もっと恐ろしい、
ロシアが根回しした 西洋列強が待っている太平洋戦争へ、日本を導くことになった。
 アメリカは、関心を高め、日本を眺めていたが、共産党の策謀は米国国民を欺くまで
巨大だった、日本の中国大陸における軍事行動にたいして、怒りをこめて非難するまで
になっていったのだ。日本の戦争を終えさせるとの言い訳についに1940年アメリカ
政府はこれまで使っていなかった外交的手段、日本と中国との戦争を終わらせるために
、いわゆる経済制裁を加えることを決定した。この決定は、世界各国が喜んだ。アメリ
カが同盟諸国としてヨーロッパ戦争に参加するものとの期待が現実になって支持した。
それは既に去年からドイツがドイツ・ポーランド不可侵条約破棄を宣言しチェコスロバ
キアのボヘミア占領、ハンガリー王国がカルパト・ウクライナを攻撃し北欧侵攻も果た
しドイツ軍がパリに無血入城していたからだ。日本も米国も、第二次世界大戦への不介
入を昨年に表明していた矢先の事件だった。モノンハン事件でソ連は窮地のままの結果
だった。だがこのソ連の南下に対して1936年に、日本はドイツと日独防共協定を結
んでいた。「共に共産主義拡大を阻止しよう」目の前の仮想敵国の、スターリン率いる
ソ連に恐怖があったのだ。よく連合国対枢軸国と言われ日独伊三国同盟などと言われる
がこの時米国方針が無ければ日独伊三国条約はなかった筈だ。なぜならこの条約は軍事
同盟でなく資源の流通条約だからだ。だが七月、ルーズベルトは側近に国際共産主義者
H・D・ホワイトが居た。こうしてアメリカは日米通商航海条約廃棄通告をしてきた。
のである。つまり世界の対ソ体制がナチス侵攻で米国の内側から崩れ去ったのだ。防共
を国際社会から任せられたと思っていた日本にとっては驚きだったのだ。その意味では
全く時の西洋列強の指導者は自国の利益しか眼中になく 未来の事などなかった。

618: 名無しさんAA:17/09/30 13:51
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 192

 大東亜共栄圏構想は「東亜新秩序圏」や「東亜安定圏」と同一であるとした、日本・
満州・中国に加え、マレーシア(フランス領インドシナ)、インドネシア(オランダ領
東インド)をも含めた範囲であると決定していた。と言うのも、チェンバレン製油所の
石油輸入が日本に止められたのだ。太平洋戦争(大東亜戦争)開戦を控えた1941年
11月6日には第25軍司令官山下はアメリカ領ハワイへの真珠湾攻撃に先立つこと約
1時間前にE作戦(マレー作戦)を行った。マレー作戦は日本軍による一連の南方作戦
の最重要項目で第一発目となった。まともとハワイへの真珠湾攻撃は防備戦であり本来
はこの東南アジアからの石油輸送が目的だった。つまり太平洋戦争はこのマレー作戦を
行う為に開始されたのだ。シンガポールの戦いもインパール作戦の初戦として同時期に
行われ帝国陸軍第25軍がマレー半島に上陸した時、英インド軍第3軍団豪第27旅団
英本国軍大隊がこれに立ち向かった。が海上の物資補給船が既に撃沈されており孤立し
ていた。又イギリス軍は日本の様な無計画では無かった。新着のイギリス軍第18師団
と約7万人の戦闘部隊を抱えてその補給が無い事に悲観的であった。北部マレー半島で
の日本軍は数量的にはわずかに優勢にすぎなかったが、制空権・戦車・歩兵戦術・戦闘
経験において優越してはいたものの2倍を超える兵力差を覆して、当時難攻不落と謳わ
れたシンガポール要塞を日本が10日足らずで攻略した。英国としては歴史上最大規模
の将兵が降参し、。チャーチルは「英国軍の歴史上最悪の惨事であり、最大の降伏」と
評した。だがパーシヴァル中将の判断は英国として当然の事だった。敗けた要因には、
一つは戦車が通れないとされた湿地を日本軍の軽い小型戦車が通り抜けた事二つ目には
突然の攻撃に自軍の防衛で他への応援を駆け付けなかった事三っつ目が肝心の通行する
橋を防備に爆破していた事で本部は完全に孤立しその上新人部隊を上陸させたばかりだ
った。これがパーシバルを会談に持ち込んだ要因だった。裕福な混合戦隊での食糧不足
の反乱を恐れたのだ。その上山下奉文はそうした国際的な捕虜の扱いや会談には似合わ
ない人間だったのである。これがシンガポールやコタバルの悲劇であった。こうして東
南アジアが解放され この地の奴隷的国家群の形成が無くなり旧来からの日本への物流
が出来ると思っていた。支配的植民地経営から自立する日本との共存共栄の外交である
が本来「大東亜共栄圏構想」や「東亜新秩序圏」や「東亜安定圏」と言う論議は、全く
異質で違うものだった。東亜安定圏は北方の日本海周辺の権益であり新秩序は共防政策
であったからだ。「大東亜共栄圏構想」が如何に無謀で捕虜を苦しめたかは想像に難く
ない。それはそれまで無かった戦いに身を投じたからだ。

619: 名無しさんAA:17/10/01 18:29 ID:mb2
 自民党は馬鹿じゃないか。政策論議や協調体制を取る前にと 勝手解散した罪を言わ
ず、今だ奢って希望の党に移る事を批判している。そも選挙の為に自分都合に党を解散
というが選挙の為にに自分都合で国の議会を解散したと言う事とどっちが罪があるのか
。党はいつでも解散する権利は党員にはある。ところが国会には議員や首相であっても
法に則って行う責任がある。更にその法には道徳と正義を行う議員として行う規定があ
る。なし崩し的にそうした議員の不徳を拡大させ扇動し自らが 違法行為を率先して行
うというのは犯罪に近い。証拠がなければ何でも言っていい何でもやっていい事にはな
らない。特に今回の小池知事は人の人生を弄ぶような言動ばかりだ。政策はあろうが、
人は同じで無い事はとうに解ったことだ。今更引き受けないなどと言うのは言語道断で
あり、そも前原も何を考えているのか。今回は民進党でも勝てる機運があったのに。だ
いたい中道左派中道右派を馬鹿にじている。今や国民には保守でも核心でもないのだ。
規律と規範の法の下の平等を求めている。保守が二大勢力で第二の自民党になったから
民主党が批判されていたのを解っていない。日米安保支持は変わらないもののその中身
は違うはずだ。


620: 名無しさんAA:17/10/02 11:19
   日本の現状23

 安倍首相の外交を見れば 今や北朝鮮と米国にべったりの様な気がする。俯瞰外交を
目指す。などと言っていたが 何故英国のEU離脱に全力を注いで止めに入らなかった
のかを危惧する。凡そ日本は弱小国だ。この日本がこうも経済大国になったのは3つの
運があったと言える。一つは早々とイギリスとの商売(兵器購入など)が出来た事。一
つは日本人が真面目(正しく人付き合いが出来る文化人)であった事。そして、一つは
江戸開港の時期が良かった事(第一次大戦で勝った事)と言える。つまり逆に言えば、
日本の悪かったのはアピールないし海外からの偏見が強かった事で第二次世界大戦やら
軍事大国になったのである。軍備に関すれば今でも日本国内では日本の鎖国時代の意識
があるのか海外に向けての軍備をやりたくない平和主義が蔓延している。それは遠く、
大海人皇子の時代からこの方遠く大海に船出する意志はなかったと言える。もしも日本
が国内に常に戦乱があったなら欧州の地中海以上の大型船の開発に勤しんでいたかも知
れない。だがそれを捨てて居て戦乱期の仕上げに朝鮮半島に昇ろうとした時も家康は止
めた。そうした事と対してイギリスは早くに船を持った。それは欧州大陸に大型船建造
があったからであろうがそのイギリスが王族外交や東洋交易の関係でフランスを助けず
第二次大戦が起こったし第一次でも参戦が遅かった。こうしてフランスが非力になった
時闇が起こるイギリスとフランスと協力しても、時として人の群れは太刀打ち出来ない
事がある。ところがそれが世界に蔓延する事が大きな争乱の素になる。今のスペインの
様にそれぞれがそれぞれの過剰な権利を主張しだす。この事が大きな問題だ。そして、
この問題は巡り巡って日本に黒雲をたなびかせる。もし早めにドイツと終息していたら
或いはイギリスの金庫番が今の様なユダヤ系でなかったら もっと違う世界の中にいた
であろう。勿論それが幸せなのか不幸なのかは解らない。ただ現実としてやっとEUの
経済共同体そして北アメリカの経済共同体更にアジアの経済圏が出来る頃になって、今
やっと平和が見える頃に、平和じゃ金にならないとばかりに 魑魅魍魎が流行る時期に
こうした愕然とする投票者さえ思わない結果は 見ての通り世界を波乱を巻き起こすに
及んだ。これを止めるのは、日本の歴史的結果からの使命ではないのか。もっと平和の
貢献を 今だからやるべき事を内政干渉でも力を注ぐべきではないのか。

621: 名無しさんAA:17/10/02 17:39
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 199

 こうして「満州国樹立宣言」に至るのだが この時の欧米のマスコミにも共産党員は
数多く配置されて日本非難を繰り返した。更に日本軍の中にも又 誇張とデマと威嚇を
吹聴する者もいた。更にこの奉天軍の「日本軍がやった。」と言う張作霖の言葉も信じ
られる筈はない。好く石原莞爾の陰謀説が語られるがこの時の田中内閣であった事から
ほぼ石原の計画は田中に伝わっていたとも考えられる。更にロシアの諜報員若しくはド
イツ人がいたと考えられる。何故なら爆薬が仕掛けられていると知っていたのなら、ま
ずは張作霖がそこにいる筈はないからだ。ソ連コミンテルン陰謀説の大きな証拠は東清
鉄道の建設と共に3回の、暗殺未遂が起きている事だ。鉄道建設前には関東軍からピス
トルで、その後は自宅の出入りの門に前に2回とも地雷であったとされる。犯人が見つ
からず事は大きくならない事になったが、張作霖自身は日本軍が仕掛けたと言っている
。がその後日本軍が撤去している事から日本製の地雷ではあってもそんな高くつくやり
方を日本軍がするとは思えない。ただそうした事を掴んでいた事はあり得る。更にそこ
で見つかった理由はお抱えの日本人の運転手が盛り上がった土を見て判明した。と言う
のだからまず違うだろう。このロシア情報を元に関東軍はこの地の制圧が出来たのだろ
う。リットン調査団でも恐らく断定出来なかっただろう。ただ欧米は日本軍の仕業にし
たかった。欧米共にロシア人はこうした巧妙な事件を仕掛けるのは得意の民族であるよ
うだ。近年では飛行機事故やオリンピックの薬物事件ではその証拠が現れても違うとの
政府見解を発表する。昭和天皇が言う通りである。欧米は冷たいだがロシア人はもっと
寒い国だ。ノモンハン事件はその後の1939年(昭和14年)に起きる。当時建国し
た満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した紛争の事とされる。が
これは少し違って見える。大日本帝国とソビエト連邦の間で断続的に発生した日ソ国境
紛争で、満州国軍とモンゴル人民共和国軍の衝突に端を発し、両国の後ろ盾となってい
た大日本帝国陸軍とソビエト労農赤軍が戦闘を展開し、一連の日ソ国境紛争のなかでも
最大規模の軍事衝突となった。と言う事件だが 既にソ連は貧困の中で粛清を繰り返し
労農赤軍を組織していた事が原因である。当時日本の租借地関東州、ソ連は1924年

622: 名無しさんAA:17/10/02 17:39
労農赤軍を組織していた事が原因である。当時日本の租借地関東州、ソ連は1924年
に成立させたモンゴル人民共和国の勢力圏内の事件だ。日本軍とソ連軍が兵力を派遣し
大規模な戦闘に発展した。結果は、日本軍側が航空戦では数に劣りながらも常に優勢で
あったが「地上戦闘は戦車火砲の力の差が甚だしく敗戦に近い結果に終わり、モンゴル
共和国とソ連の主張する国境線はほぼ維持された。この時ポーランド侵攻直前のモスク
ワ主導部は「日ソ両軍の現在地を停戦ラインとし、国境線の画定は後日設立の国境確定
委員で交渉する。」とのクレムリンの決定で事件の停戦の合意が、9月15日深夜にて
成立した。ソ連の南下作戦は事実上稼働しドイツの侵攻作戦で止められたのである。




623: 名無しさんAA:17/10/02 22:18 ID:zmw
 そもそも論で今更安保改定は出来ないし 核ミサイルはテポドン時代日本列島は覆わ
れ、中国も持っている。今更敵地攻撃しても戦争にしかならないだろう。とすれば、今
日本は頑なに平和憲法維持で行くのが最も良い案であり 米国で中国も北朝鮮も処理さ
れても仕方ないだろう。元々どんな改正しても後方支援しかできないのだから。だとす
れは 今の枝野氏の立憲民主党が立ち上がった事は 最も大事で好い事で正解だろう。


624: 名無しさんAA:17/10/03 10:24

 醜悪な安倍こざかしい小池騙される前原 憤る保守 正しく今の日本の経済状態である 醜悪な先進諸国こざかしい後進国騙される日本・・・・・
 それでも「健全な保守」「寛容な保守」を守る事こそ日本の使命だろう。



625: 名無しさんAA:17/10/03 11:32
   日本の現状23

 授業中に常勤講師の男性(23)を蹴ったなどとして、傷害容疑で逮捕された福岡市
東区の私立高校1年の男子生徒(16)について、福岡地検は2日、釈放した。「勾留
は必要ないと判断した」としており、任意で捜査を続ける。男子生徒は9月28日の授
業中、教室で講師の背中を蹴るなどしてけがを負わせたとして、翌29日に福岡県警に
逮捕された。暴行の様子を写した動画がツイッターに投稿され拡散した。------
 このニュースで日本は甘えている。暴力学校とのイメージやレッテルが貼られたとの
父兄会やPTA会が激しく学校を突き上げるが、学校も又当校は決してそんないつもこ
うした暴力的授業ではありません。この高校教師が新米だったからこうなっただけ。と
譲らない。最後にはとうとうこうした授業をさせたり暴力を放任し続けた生徒も同罪だ
と悲痛な叫びもあった。警察は高校生だからと逮捕はしたが起訴も拘留しない方針だが
、この腐れた警察の対応がこの世を悪くしている。成年の反抗には罵倒したり取っ組み
合いしての死亡事故や偽証による検察との対抗までしても少年に優しいと言う姿なのだ
ろう。だがそれは可笑しな思考である。少年だからこそ留置拘留させて深い反省と社会
奉仕の大事さを学ばせるべきである。それを放任し、更に学校も事象が起こった後であ
りながら今だ退学処置が出来ずに学校の授業費を受け取っている居るのは学校ではない
。ただの悪徳詐欺師の経営である。これをなぜ日教組なり教育庁なり教育委員会なりが
放任しているかが全く分からない。例え20人でも10人でも先生たちが付きっ切りで
教育しても 恐らく彼らは目を盗み授業にはまるで阿片窟の様なうつろの授業が何年も
続くだけであろう。彼らは学校に遊びに来ているだけで勉学とか就学とか修身とかには
全く気にしていない。自分の生きてる世界の自分の面白い時間の一つとして学校に来て
いるだけで、向上心や勉学心やましては教えを乞う姿勢などどこにもない筈なのだ。と
いうのも今の義務教育は「親の学校教育に行かせる義務」としてある事でそのまま学校
も世の中の選別の為の学習しか行っていない。この事がおかしいのだ。学習習熟度から
言えば こうした教師を殴るなどと言うのは全く小学生以下の筈を卒業させている。こ
の不平等にも程がある。競争社会に入る為の準備なら尚そうした人間は小学校や中学校
で救済しより長く学校に来てもらうべきであろう。この発表した教師も問題だ。社会と
言うのは共有財産の平等預かりで生を得て居る。もしこうした事を見逃がした笑う生徒
達を作っているのは北朝鮮の核開発への援助と基本は同じである。その礼儀や秩序なく
社会は形成出来ない。

627: 名無しさんAA:17/10/03 14:10
   日本の現状24

 今度の解散は全く法に逸脱した行為だ。恐らく山本農相あたりでの国家戦略会議当た
りの書いたシナリオだろう。国会論戦が終わった当たりからキナ臭く民主党は党首辞任
が相次いでいた。誰かがオリンピック負債か何かでこの小池氏を焚き付けたのだろう。
自民党から踊らされた希望の党は民主党解体に走って 党首になった前原代表を騙した
のだろう。その前哨に内情探りの細野が又いい加減な先導し船頭役の希望の党の若狭勝
議員を動かし新保守を気取るつもりだったはずが、腹臓の小池百合子が釘を刺した形で
あろう。まあこんな秋雨前線の農家の刈り入れ時期に解散した事だけでも安倍氏の欺瞞
と側近の大きな陰謀が見え隠れしてはいるが。そもこの小池氏の契約書なる物は、全く
逸脱している。 憲法で保障した「基本的人権」の侵害や「言論の自由」の侵害、更に
「契約法」の平等の契約をかなり逸脱した 契約がまかり通っている。希望の党の契約
である。もしこれが 金の動きまで契約した物なら 絶対的な違法行為である。警視庁
は確実にこの東京都知事を逮捕しなければならない。自らに出馬はしなくても代表と公
言しているのだからこれは犯罪である。そうした事が無知と言う事は既に東京都知事の
資質が無い事を示している。又このやり方は過去のフリーメイソンの疑惑隠しの暗殺と
全く同じやり方だ。誰もが得する様に見える提案していながら 全く見えない様な陰謀
を張りその実自分に近づけて得する。このやり方は中心が不明で誰が主役か脇役か不明
で策略が見え見えである。そもこれで安全保障論議で頑なな護憲派は少数となる事は、
自民党内の護憲派良識派を抑え込む事につながる。これは日本にとっての危機である事
は違いない。更にこの選挙戦の実戦部隊はこうした立ち上がったばかりの希望の党では
能力はないだろう。この裏切りこそ自民党タカ派の欲する事だ。つまり安定政権をプロ
パガンダして国民に自民党支持を持ち掛けて更に汚職の根を張ろうと言う訳である。か
つての小沢氏より始末が悪い。我々日本人はこの自民党こそ叩くべきだが 外国人参政
権などは今度の苦肉の策の立憲民主党は全く反対しているかどうかがわからない。ここ
が又味噌でもある。


628: 名無しさんAA:17/10/03 17:26
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 215-----------

 この怖い程の甘粕正彦も最初、憲兵ではなく普通の軍人を志していた。憲兵に転向し
て「憲兵」という分野が軍の中でもあまり人気が無いらしく、本人も腐っていたが、そ
んなときに励ましたのが先輩でありのちに首相にもなる東条英機だったと言う。以後も
一貫して甘粕は東条英機と公私共に交流を続けており、東条は彼のフランス留学や満州
赴任をサポートしていた。軍内部は戦果をどれだけ挙げたかの「成果主義」のように思
われるが、この頃派閥が幅を利かしていた。甘粕の背景には「東条閥」の力が色濃くあ
って満州では一ヒコ二キ三スケで揺れ動くと謳われ揶揄されていた。つまり甘粕正彦の
一人・東条英機・星野直樹の二人鮎川義介・岸信介・松岡洋右の3人である。この6人
はいずれも当時の満州人や満州国を握っていた権力者を示している。甘粕正彦は憲兵で
甘粕機関は阿片ビジネスの長と見られ三井財閥の社員であり、どうしても逃げ出せなか
った籠の鳥状態と言える。一方東条英機は関東軍参謀長であり、まだまだ出世を狙う、
陸軍切っての切り札的存在だった。星野直樹は国務院総務長官であり鮎川義介は日産コ
ンツェルンの総帥で満州重工業開発鰹苑繿麹ルとして経済界のトップであった。更に岸
信介は満州国国務院実業部総務司長に就任して渡満し企画のトップであった。松岡洋右
は知っての通り日本敗戦の引き金となった国際連盟脱退に動いた張本人で昭和天皇にし
て靖国神社に祀られるとき「松岡ごときが英霊か」と以降靖国参社を拒否した人物だ。
アメリカへの留学経験があり、満州国では満鉄総裁として弐キ参スケの一人に数えられ
た一人だが、里見機関の里見甫の他、椎名悦三郎、大平正芳、伊東正義、十河信二らの
知己を得て、軍・財・官界に跨る広範な人脈を築いた山口県出身の同郷人であった為の
政治家だった。日本の国際連盟脱退、日独伊三国同盟の締結、日ソ中立条約の締結など
第二次世界大戦前夜の日本外交の重要な局面に、代表的な外交官ないしは外務大臣とし
て関与した欧州通ではあったが その実日本の財閥の意志を変えるに至らなかった。敗
戦後、極東国際軍事裁判の公判中に病死したとされるが怪しいものだ。彼らを「満州三
角同盟」と呼んでいたが、こうした中の甘粕正彦は実際は終戦前は活動しない諜報員の
トップで帰国する在留邦人をその部下は助ける事に終始している。その後満州映画協会
を設立した甘粕は、多くのプロパガンダ映画をつくった一方、出演者や映画スタッフと
も気軽にコミュニケーションを図っていたといわれる。スパイであり、幾多の殺人にも
かかわる一方、子どものように無邪気に芸術と文化の振興を指揮する面をみせるなど、
ふり幅の多すぎる謎の多い人で 甘粕という人物をよくしる 当時の配下に森繁久彌や
李香蘭こと山口淑子がいた。

629: 名無しさんAA:17/10/03 17:27
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 215-----------

森繁久彌は 甘粕について「満州という新しい国に、我々若い者と一緒に情熱を傾け、
一緒に夢を見てくれた。ビルを建てようの、金を儲けようのというケチな夢じゃない。
一つの国を立派に育て上げようという、大きな夢に酔った人だった」と証言している。
武藤富男は、「甘粕は私利私欲を思わず、その上生命に対する執着もなかった。彼らと
つきあった人は、甘粕の様な生き方が出来たら…‥と羨望の気持ちさえ持った。また、
そこに魅せられた人が多かった」と述べている。李香蘭こと山口淑子が、「満映を辞め
たい」と申し出た際には「気持ちは分かる」と言って契約書を破棄したが、彼女の証言
によれば「ふっきれた感じの魅力のある人だった。無口で厳格で周囲から恐れられてい
たが、本当はよく気のつく優しい人だった。ユーモアを解しいたずらっ子の一面もある
が、その度が過ぎると思うことも度々だった。酒に酔うと寄せ鍋に吸殻の入った灰皿を
入れたり、周囲がドキリとするような事をいきなりやった」とのこと。権力を笠に着る
人間には硬骨漢的な性格を見せ、内地から来た映画会社の上層部を接待した席で彼らが
「お前のところの女優を抱かせろ」と強要した際に、「女優は酌婦ではありません」と
毅然とした対応をしたという。これら周囲の人間の好意的な証言がある一方で、ヒステ
リックで神経質、官僚的という性格が一般には知られていた。日本軍は、当時幽閉生活
をおくっていた清朝の第12代皇帝宣統帝の愛新覚羅溥儀の擁立を画策。溥儀もこれに応
え、中国東北部に「満州帝国」が建設され、建国にあたって自らを満洲民族と漢民族、
蒙古民族からなる「満洲人、満人」による民族自決の原則に基づく国民国家であるとし
、建国理念として日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による五族協和と王道楽土を
掲げていた。満洲国は建国以降、日本、特に関東軍の強い影響下にあって「大日本帝国
と不可分的関係を有する独立国家」と位置付けられ国際連盟加盟国の多くが満洲地域は
法的には中華民国の主権下にあるべきと反対し、1933年(昭和8年)の日本が国際
連盟から脱退する原因となったと言われた。だがドイツやイタリア、タイ王国など多く
の日本の同盟国や友好国、そしてスペインなどの枢軸寄りの中立国も満洲国を承認し、
国境紛争をしばしば引き起こしていたソビエト連邦をも領土不可侵を約束して公館を設
置するに至り、独立国として安定した状態に置かれた。アメリカやイギリス、フランス
など国交を結んでいなかった国も国営企業や大企業の支店を構えるなど、人的交流や交
易をおこなうまでになっていた。この為の治安維持や監視が甘粕の立場であった。


630: 名無しさんAA:17/10/04 19:17 ID:cjA
   争乱を焚きつける21

スペイン人は阿保ではなかろうか。自らの地域が何なのか知らなすぎる。沖縄の馬鹿知
事と同じ様にスペイン・カタルーニャ自治州では、自治州知事が独立を問う住民投票を
強行選挙を行った。これを巡り、中央政府と州政府の間の対立が激化する中、国王の、
フェリペ6世は3日夜、国民向けテレビ演説を行い、州政府が住民投票を強行したこと
を「無責任な行為」と非難した。当然の事だ。バスク地方は常にソ連共産党の餌食であ
る。沖縄が中国馬鹿人民や朝鮮阿保労働者と同じ様に扇動されて、戦争も引き起こしか
ねない状況だ。大体平和が起きるとこうした軍需産業衰退に危機感を露わにした諜報者
が死の商人と共に人々を焚き付ける事件が頻発する。ピカソの絵はその悲劇を物語ると
して有名なのだが 全くスペイン人は無知らしい。ピカソの絵画「ゲルニカ」が描かれ
た1937年頃のスペインは、左派(社会主義)と右派(保守勢力)の対立が激化していた
時代だった。左派はソ連が支持し、右派はドイツが支援する形で激化した。こうして、
スペイン内戦は、ピカソ「ゲルニカ」が誕生する大きな歴史的背景となったが、ピカソ
は衆人にたがわず左派だった。当時スペイン北部バスク地方は孤立しており、ゲルニカ
には共和国軍の部隊は存在していなかったが、ゲルニカは通信施設などの軍事目標があ
り、また前線へ通じる交通の要でもあった。1936年、保守派の中心人物の一人カル
ボ・ソテロが暗殺されると、スペイン国内の保守派は結束を強めカナリア諸島へ島流し
にされていたフランシスコ・フランコ将軍がクーデターを起すと、軍部や地主、カトリ
ック勢力などの保守派が次々とこれに呼応し、社会主義政府に対して大規模な反乱を起
こしスペイン内戦が勃発した。社会主義政府はソ連が支持、フランコを中心とした右派
の反乱軍をドイツ・イタリア・ポルトガルが支援し、イギリス中立の立場をとった。当
初フランスの社会主義政権はスペイン政府側を空軍で支援したが、政権崩壊により中立
に移行したドイツ・イタリアから航空部隊・戦車部隊の十分な支援を受けたフランコ軍
は、スペイン北部を次々と制圧し、1937年春には大西洋に面するバスク地方を分断・孤
立させた。こうしてゲルニカ空爆が行われた。ドイツが義勇軍として送り込んだ航空部
隊コンドル軍団による爆撃型ユンカースJu52(ユー52)やハインケルHe111の編隊が、
バスク地方の一都市ゲルニカは 一面の火の海と崩壊の惨状を見る事になった。


631: 名無しさんAA:17/10/04 23:58

 枝野君 コンセプトが悪いよ それじゃ票は取れない。
 立憲民主党はリベラル保守を目指し 護憲現状維持を目指すべきだ。
 自衛隊論議を行うべきではない。改憲も論議もしない。
 憲法違反論議はこの北朝鮮問題のある中では行なわない。
 とすべきだ。一般人の中心たれ もっと国民の正義を信じよ。 



632: 名無しさんAA:17/10/05 11:47
 カタルーニャ州プチデモン氏は 逮捕抑留し この州を自治州から政府直轄州にする
指示をEU委員会は出すべきである。これは国際協調としての使命である筈だ。この今
の不用意な独立を止める事こそEUの大事である。その意味で英国のEU離脱はかなり
の違約金を戦争の賠償金以上積むべき問題だ。アメリカFTA見直しも大国の傘の下で
の協議にはかなりの問題がある。今でさえ韓国は問題があるのに更に問題が深い。


633: 名無しさんAA:17/10/05 16:56
   日本の現状25

 何故日本人は 米国やロシアに固執するのだろうか。欧州も米国も或いはロシアも、
決して日本ほど安全ではない。治安も文化もこれ以上の取り込みは不可能であろう。で
は技術はと言えば それは今の経済界での進出がそれを行っている。となれば議員視察
団は なぜこうした観光旅行の様な事を行う必要があるのだろうか。もし今行くべき所
ならアフリカ・インド・中南米だろう。特に今3年たってインフラの整わず高等教育と
無償医療の国が暴動の中に瀕しているのである。識字率も高く安定した石油価格で国を
維持して来た国が 産業育成を行わなかった為今や食糧供給さえままならぬ中にある。
こうした未来に西側の一員となるべき資格を持った国を 皮肉にも米国は資源搾取のみ
で助けるそぶりさえ見せていない。この夏でも誰か日本人の議員が行くのかと思えば、
行く姿がない上に あのアントニオ猪木議員の北朝鮮訪朝すら 馬鹿長官は批判した。
なぜなのだ。こうした日本がかつて移民を置いた国すらも助けない 助ける力さえ削ぐ
その思考には全く理由が解らない。米国や欧州ならいいと言うのでは議員が行く必要性
は全く無い。今回ラスベガスで銃の乱射事件が起こったが 恐らく米国内の政府筋の中
の陰謀だろう。911事件と同じ予行練習と考えてよいだろう。23丁も銃を持って、
密かにこうしたコンサートイベントを狙う理由が見つからない。一人の警備員が見つけ
警察に通報したと言うが 全く可笑しな話で何故早くも見つかったのか。通常隣で事件
が起これば隣を気にするのが普通だろう。更に自宅にも十数丁の銃を持ち 裕福な金持
ちが持つ邸宅を4つも5つも持つ富豪だった。親父が同じ様に何らかの事件を起こした
人間だったらしいが 一緒に住むフィリピン妻を帰国させているからかなり計画的だ。
会計士の仕事をやり 金持ちで 何不自由なくすごす50代の男が乱射する理由が見つ
かると思えない。理由があるとすればトランプ政権への怒りだけだろう。会計士であれ
ば顧客がいて顧客との関わりは恐らく経済的商売である。つまりクライアントがいる。
と言う状態だ。この客を利用して乱射事件を起こすとなれば 銃器拡大に拍車をかける
銃器売りの人達だろう。なぜなら彼らはこうした事件が起これば 人の不安心理から売
り上げが増えるからだ。更にこうした事件は銃規制支持者と思われがちだ。だが この
トランプ政権ではまず銃規制が行われない。と踏んだ行動ともとれる。これがメイソン
活動と言う物だ。小池百合子と同じだ。決して自分で手を染めない 更に失敗も成功も
自分の為にしか働かない。全く異常な弄ぶ心理である

634: 名無しさんAA:17/10/06 12:31 ID:IEM
   日本の現状26

なぜ日本人は立憲民主党を選ばなければならいのか。何故今の自民党ではダメなのか。
 それらの違いは かつても今も 日本が世界には出て行けない事を示唆している。か
つて日本が国連の常任委員会の主要5ヶ国から7ヶ国に拡大に打診された事があった。
ドイツと日本を含めた国連運営が期待されたのだ。だがその要望を入口で小泉氏が切っ
て吐き捨てた。「軍隊が無い日本が出来る筈はない。軍隊を新たに作る気か。」という
趣旨だった。その男がその後 イラク派兵に自ら進んで米国追従の道をつき進んだ。又
原子力発電所の 老化問題で経年劣化で建設思想も違う物は予定通り廃棄すべしと声に
今の安全委員会の如く、補修による安全性は保たれ運転延長は何ら安全に影響なしと答
えた。それが首相を引き議員退任となって今や「原発廃止論」をかざす馬鹿老人である
。全くもって日本を動かすに足りない知識と知恵をもって 壊しまくった結果がこの今
の日本の姿である。シャッター通りは再編されない。人口減少は避けられない。国民の
所得は数字上は同じだが 現実は10分の1に下がっている。何故なら今サラリーマン
が会社が首を切って 帰る故郷や食っていける道があるか。残念ながら全くない。会社
の中にオンブにダッコ状態なのだ。では昔ならどうか。一般に集団就職を果たした者は
7割に過ぎない。残り3割は家業を継いだのである。更に都会での給与や課長などの椅
子に座っていても 田舎の正業は継げたのだ。それだけ職業に裕福だったのである。今
はそれはない。逆に干された人の悲惨さはサラリーマンの自殺者数や年越し派遣村でも
示されていた。社会党が継いだ時は 今の安倍氏と同じく国家予算を何の成果もない所
へ湯水の如く使い続けた後だった。事実竹下政権時代は 日本の債権は返せる位置にあ
った。ところが中曽根がしゃしゃり出ていつでも返せると言った。更に宮沢内閣時代も
同じ様に国富の時を迎える様今は赤字国債を出して景気浮揚を図るべきと推し進めた。
馬鹿にも程がある。安倍氏の増税時も同じだったあと6ヶ月すぎれば元に戻ろうと言う
時に増税したし バランスシートを抱えて放出する時わざわざ国債発行しての金余りを
引き起こした。こうしてわざわざ経営者は経営資源や技術や機械を中国に捨てに行った
のである。こうした馬鹿をやったのは小泉劇場の様なTV始めとするメディアの悪さで
ある。現状認識が極めて低い。今でも海外情報や動きは皆無に等しい位独自視点はない
小池劇場も全く同じだ 不倫問題かこうしたヨロズネタしか行わない。全くの悪態だ。

635: 名無しさんAA:17/10/26 18:46 ID:2lQ
 この頃私のコンピューターは 不思議な事が起こる。ロシア関係のそれもロシアに
都合の悪い資料が 次々と消えて行く。ロシアのヴァシーリー・ブリュヘルの手記など
てきめんに無くなった。 ロシアは既に大きなプログラムを持っているらしい。つまり
なにものも検索し 何物でも消去できる術だ。今のロシアで暴動やデモが見えないくて
少ないのは こうした巨大な力であろう。極寒の地で名声や栄華を誇るには こうした
隠れて汚い事をやるしか出来ないのだろうか。ロシアにはもっと明るい未来を作る手立
てを気付いて欲しい物だ。

史実を語っていた木枯らしさんのブログも無くなってしまった。どうも中国人管理者が
やっているらしい。勝手に消すなよ〜〜〜


636: 名無しさんAA:17/10/28 02:19 ID:keA
雨上がり決死隊なんぞMCさせるな TVが腐る
よしもと芸人には 品位というものがなさすぎる
TVにだすな 文化が落ちる


637: 名無しさんAA:17/10/28 08:52
 日本の岐路 14

 この所検査不正が大々的にTVは報道している。しかしこの報道は国土交通省と共に
デタラメ報道と言わざるを得ない。何故なら工業製品についても食品についても検査と
いう物は品質検査はその製造所がやっていれば 完成検査は抽出検査であるからだ。そ
れが戦後からずっーとやって来た事で 法的にロットの抽出の度合いは規定はあっても
全車検査全品検査と言うのは只の配慮に過ぎない。空港税関であってもそれは同じであ
り流れ作業の中で 品質検査と言うパスポートチェックやら書類チェックは全て行うが
本当のチェックである 持ち込み品の内容物の詳細なチェックや輸入品の安全基準など
の食品毒物検査やコンテナ内検査などはその中の僅かに過ぎない。それはどの国でも、
どこの部分でも例え建物であれ原子力発電所であれ同じである。要は自主的検査である
品質管理なのか、最終的販売の為の許可検査である公的完成検査なのかの違いなのだ。
勿論それぞれに規定はあろう。品質管理ではそのロットと言う一群の中で大体半日での
作業量が最大ロットとして、後は品種が変わる事に或いは人員が変わるとか変化がある
とそこのリーダーが判断する事に行う。又完成検査や試験検査は一般的に能力検査であ
りそれは車種ごとや半年ごと或いはラインごとと言うのが法で定めた規定だ。農家が生
産する人々の米でさえ1俵ごとの品質検査は全く行わない。今の大型の1ton袋でさ
えも全品検査では行わない。各農家から出た物でさえ集落ごとか日にちごとでしかない
。勿論品種ごとではあるが。今や大型生産大量流通とはなって来ているが、それはその
ロット内の量が多くなっただけでロットが多くなった訳ではない。従って日本タバコが
輸入品で私の子が毒入りギョーザを食べさせられたが電話で連絡した時、製品を送って
下さい。と言うのはクレーム処理としては違法なのだ。それは完成検査をすり抜けた物
の不良品であり、直ちに回収すべき処置が製造者の責任として課されているからだ。よ
く不法投棄以外に自己管理地などに野積みの廃棄物の回収義務があるのは、その廃棄物
も製品として認められていて行政が先の品質検査を指導できるからに過ぎない。今の、
問題にあるのはこの最終の実物検査・完成検査であり建築での竣工検査である。基本的
にそれは安全検査ではない。製品としての可否判断の検査であり それは一般社会に出
せるかどうかを問う物で 安全検査はそうした車種の走行試験であったり重量や衝突実
験であったりの検査でありデーターなのだ。従ってそれと同じに作っているかの検査で
ある以上それは社内規定でのロット数の割合で報告した1%か0,1%かのチェックで
しかない。これを怠ったのか規定外の検査官が検査したのかは不明だが、全品検査なら
、それは資格のある検査官がやる仕事ではないし不正記載が無い以上は常識内である。

638: 名無しさんAA:17/10/28 08:53
市役所内の職員資格のないパートやアルバイターの者が データー検索する方が違法だ


639: 名無しさんAA:17/10/28 13:09
 民進党の前原誠司代表は3時間半に及んだ27日の両院議員総会後、希望の党への合
流について「この道しかなかった」と繰り返したとニュースは流れた。又玄葉光一郎氏
の名簿にもリベラル切りについてはそういう認識は無かったと表明している。だが今だ
に「これで希望、立憲民主党、民進というブリッジの役割をする中で、再来年の参院選
挙のプラットホームがしっかりできるのではないかと思う。」と話しているこの馬鹿さ
は一体なんなんだ。「参院民進はどういう存在として有権者に立ち位置を表明するのか
」の質問にも「納税者、消費者、勤労者、そして生活者の立場に立って政治を行うとい
うのが民進党の綱領だ。この考え方は希望に行かれた方も、立憲に行かれた方も変わり
ない。さらなるポイントを申し上げれば、今の自民党の「自己責任型社会」ではなくて
、みんながみんなで支える社会をつくるということにおいては、共通認識を持っている
と思う。」と「共生型社会」を訴えている。ところが不思議にも「例えば、小池新党が
出てきた、離党者が相次ぐ、そして、民進党に対する期待感が急速にしぼんでいく。こ
れが、私が代表になってからの約半月の現実だった。それを踏まえて、さらなる低下を
食い止める手段が他にない以上は、新たな活路を求めることしか選択肢がなかった。特
に民進代表選のときは、外交・安全保障の考え方が根本的に違う、あるいは内政の消費
税で根本的に考え方が違う。そういった野党と政権選択の選挙で完全に協力をすること
は国民に対して取るべき道ではないと申し上げた。」と言っているこれは違うだろう。
TVメディアの報道の嘘や認識不足や不勉強もあるが、今の自民党は個人権利自由主義
でリベラルとは言わない。つまり自己責任で完結する社会は「リバタリアニズム」と言
いそうした小政府主義は全く別物だ。ある程度の権威と個人の公衆道徳規制を持っての
多様性を認めた多元主義でこそリベラルなのである。古典的社会契約論をもとに個人の
最低限の権利(生命・財産・自由)が保証されれば国家は規制の元に管理される。とい
う考え方で、古典的自由主義「リベラリズム」である。対して今の自民党のやっている
自己責任において何でも許される為に、法に違反しない海外からの国内運用やメジャー
の野放図な進出や観光誘致や外国人参政権などを認める事は「リバタリアニズム」であ
り「地域の多様性文化」を認めて居ない。日本の例えば日米安保や対米協調も自民党で
は「属米路線」であり、民進党の「親米路線」社会党の「対米路線」共産党の「抗米」
とは一線が違う。つまり自立した国家であれば当然の防衛戦力や兵力などは共産党的な
「抗米路線」になる程法律も予算も必要になる。この説明が不足なのだ。


640: 名無しさんAA:17/10/28 13:10
 憲法論議にしてみれば、日本には外交力がなく今でも、北朝鮮に核ミサイルを止めさ
せる独自の外交ルートや力を持っている訳では無いままに、対話と圧力と犬の遠吠えの
様に言っているだけなのである。北の脱北者を支援する訳でもなく、朝鮮総連や朝鮮銀
行を弾力的に日本のものとして運用した訳でもない。本来ならこの朝鮮総連を日本政府
の持ち物にして独自の運用をさせない法律をして 拉致被害者の救出に充てるべきなの
だが解体させて売却させてしまったのだ。こうした頭の固い政治感は自民党ならではの
行為である。がこうした馬鹿をしながらも一端個人の資金となれば小沢氏や安倍氏と、
みるもおびただしい醜悪なお友達で利権取りをし 票や政権取りには政教分離違反団体
公明党の支援まで受ける始末ではないか。日本では慣習的に自民系を保守として共産系
を革新と呼ぶがそれは間違っている自民党のこうした新しい考え方や憲法違反までした
解約こそ革新であり、伝統的な日本の社会自由主義の共済共和の特に「和を以て貴しと
なす」と言う考え方は日本的伝統的考え方であり保守である。実はこの説明が舌足らず
と言うより全く広告なされていない。従来の平和主義や核廃絶と言うなら共産党で良い
し自民党と同じ党規と主張であれば自民党で出馬すればいいのである。核ミサイルさえ
辞さない覚悟で国土や国民を守り、健全な憲法運用を考えるなら弱い日本外交の中では
従来道理の違憲合法論首相責任論で自衛隊運用すべきで そもそも防衛省などと作るべ
きでは無かったのだ。良く海外に出て軍隊と認められない可愛そうな軍隊論がでるが、
それを軍隊では無く治安維持起動部隊であると海外に認めてもらう事も大事な平和運動
である。更に言えば原子力発電の廃棄と核廃絶を党の約束としてよくマニフェストには
記載されるが出来ない事は言う物ではない。核研究は未だ決定的な放射能無力化の措置
は出来上がっていない。従って発電所の廃棄はいいが解体の要領さえ今だ確定してはい
ない。その上福島原発の解体すら今だ計画は出来て居ない。もし原発中止を言うなら、
燃料電池の水素発電所に今の原子力発電所を切り替え改造すべきである。そんな発想や
研究も無しに只々廃止しますでは かつての非道を行った馬鹿中曽根と同じだ。

641: 名無しさんAA:17/10/28 18:16
 そもそも今や世界は変わろうとしている。真に国を思うなら地方公共団体や組合など
巨大産業の再編成の時期に来ている。というののも今やAI産業が台頭して来ていて、
金の価値はない状態である。かつての3公社5現業を民間に廃棄した状態だが本来なら
代わりの政府の特許産業なり収益集団なりが育成されていてやって来るべきだったのだ
が 馬鹿な事に議員達は自分の給与や権益には執着していながら全く国の経営はやって
来なかった。その為各市町村団体も全く自治経営をやらずに国の助成金や交付金をいつ
までも貰ってのうのうと田舎の高給取りに徹している。それを監査する議会を運営して
いながらこんな可笑しな話はない。それは赤字自治なら赤字自治として持ち寄りの無給
ででも行うべき活動なのだ。今回変わろうとするAIは産業も工学も医学も殆どの分野
に影響する。この事は大学の無償化をしない限り解決しない。よく少子高齢化での補償
として子供の無料化やベーシックインカムが論議される。だがこれは日本の戦後で食糧
配給計画共に出来た社会保障制度であった。戦後に大きな暴動もなくゼネストぐらいで
大きく発展した社会を創った。そして作ってきた戦後の日本資産の半分は米国に貢いだ
し戦前は中国や朝鮮半島に置いて来た。それでも歯を食いしばって国民は耐えて大きな
経済発展をして来た。ところがどうだ公務員や議員達はのんべんだらりとまともな議論
も無いままに、全く国民の為の黒字化した経営努力もせずに国鉄も塩もタバコも電話や
電波や郵政を切り売りして、国家予算としてしまったではないか。今では最初の基本的
インフラ投資もせずのうのうと乗っかった民間企業は詐欺的営業に終始して止まない。
かつて農協団体を立ち上げる為に幾多の苦労と軍部の強制撤収と更に無給労力や投資の
為の強制募金に我々弱小農民は大農民についていったのである。そうした歴史も今や、
大木も切り倒し、護岸すら簡単にコンクリートに不要な工事をし歴史教育さえない学校
を建設して大きな顔で我々は国会議員だ、政府だとのたまふ。こんな笑い話やブラック
ジョークもないだろう。殆どの企業が今後のAIで従業員を雇えない中にあるのに、販
売のサ−ビス網はネット社会を推進する様にカードポイント制を導入して維持をしよう
と高価なロスをして止まない。これが政治かと疑問が今の東京都知事の姿勢であり安倍
政権の姿である。これは政治ではない何故なら国家経営をしてはいない自らの利益配分
のみの運用ではないか。これでは将来の子供が金の奴隷になるのは確実だ。子孫繁栄の
願いすらない。昔に戻った政策で良かったのである。ゆっくりした進歩で確実に歩けば
それで良かったのである。小沢流の中身の無い政変などと 勝手な攪乱で国体は弱くな
り米国のいいなりではないか。そもそも威嚇して止まない中国と交易している日本人が
いる事が犯罪であり 政治ではないおかしい政治の原点である。


642: 名無しさんAA:17/10/29 10:12 ID:AHg
 全く今の世の醜悪さは江戸時代や世界大戦の時でさえ 政治は社会の私怨にも答えて
祀りを行っていた。それは江戸末期の尊王攘夷運動でも満州国建設であっても人は苦役
に兵役に答えても、死んでも今の様ななし崩し的な万民を奴隷化する対応などは無かっ
た。ところが今や民衆は意志も示さず、中流と言われる者以上の奢り昂ぶりは尋常では
ない。能力はなく勉学にも励まず 木々は切り倒され虫や鳥は居なくなり科学技術には
人を詐欺したゲームや人を騙すに長けた商法が蔓延し政治すら隠し技を用いて外交には
成果あらず。こんな馬鹿げた世界や話はない。社会は人の躾や教育があって初めて保て
るものだ。それがこの学園長達は一体何様だ。この内閣は国をどうするのだ。野党も何
を模索しているのだ。全く常軌を逸している。「食い潰す政府の常態」などと言う事を
放置した政権などは、かつて歴史上一度もなかった。それが今起こっている。そも2%
の物価上昇などと言う阿保をいい、トリプルダウン理論などとふざけた理屈をつけては
御友達や知人を優遇するなどと言うのは汚職そのものである。大体近来の「ものつくり
大国」を揺るがす不正経理や不正検査などの続出は こうした経済一流政治は三流と言
われた政治が四流以下になったからだ。つまり四流とされる北京やアフリカ原住民の行
う政治より悪く民意を反映させていない。と言われる社会生活をしていると言うことだ
。もちろん社会基盤であるインフラやああしたデモや暴動の社会を歓迎するものではな
い。ところがその思想や生き方が間違っていたとしても、日本の様な卑屈に頭越しに、
個人の正義が無くなってしまう状況は皆無である。今度の完成検査問題でもTV局は、
政府の言うままに 不正検査としている。だがこれは不正は政府規定であり経営者が、
問題なのだ。税務調査よろしく 今まで日本人の善意によった法律が 規定を厳しくし
なければ その法の網目をくぐっている姿を全く事細かに細則で補足すればいいという
のは全く違っている。その大意である例えば民宿問題でも 法を変えて外国人の宿泊を
旅館業法の外に置こうととしたり 全く特異な外国語の標識を創ったりパンフレットを
公費で作ると言う違法行為を見逃して奨励している点にある。新しいから海外からとい
うものが権威のある事ではない。日本の中の秩序だった法観念や道徳意識こそが尊重さ
れるべきで 郵政民営化や大店法改正とか叫んで野蛮な徒党の盗賊よろしく暴れまくっ
たこの日本のさまの経済も社会生活も崩壊させて どこが日本の優秀さで国際社会に出
て行ける姿があると言うか。全く間違った政治をいつまで続けるのか先祖の遺産ももう
少しで尽きるのは間違いない事実だ。


643: 名無しさんAA:17/10/29 13:43
「民進党の前原代表が、敗軍の将として窮地に立たされている。」として、前原氏の目
算が狂った理由として「衆院選前の合流を焦り、希望の小池代表の真意を見誤った」(
党関係者)との指摘がある。前原氏も「賭けのようなものだった。みんなで合流したい
と思ったが、約束を守れなかった」と語り、調整が不十分なままの見切り発車だったと
述懐している。小池氏が掲げた「排除の論理」は、「数人程度の拒否で済む」(前原氏
周辺)と踏んでいた前原氏の予想を大きく上回る厳しいものになった。と記事がのる。
が、これは著しく真実に違反しているのでないか。もともと若狭氏が政治塾を立ち上げ
た時は、若狭自身が国会と都議会の立ち位置は違うので連携はとっても小池氏とは距離
を置くとの表明をしていた筈だ。それを突然「希望の党」と命名しますと横槍を入れた
事に全く無反応のままあれよあれよと言う間に 都知事の仕事を放り投げて 衆院選に
熱中して言った小池知事が勝手に仕切った事が 地方公務員法に違反した活動であった
事が問題なのだ。そもそもアメリカから来たこの形ばかりの議会運営の平等の権利など
ないにも等しいのに、日本でもどこでも公務員は、二職を禁じ等しく国民を扱う事を規
定し、更に政府組織や権力者と言う席には 公人しか座ってはならない規定を持ってい
る。つまり政治結社と言う特定の思想での独断や独裁を許さないと言う法体系である。
でありながらも議員内閣制を取り一定の票数を取る議員の代表を首相にすると言う規定
の中にある。これは英国が作りだした議員制の代表員議会が当時はドイツのヒットラー
の様な独裁者と呼ばれる者の台頭を予測している訳でもなく又市民や国民の声をどう吸
い上げるかに苦悩した結果代表による討論の場で多数決が平等だろうという単なる合意
社会の形成を目指したものに過ぎなかったからだ。こうして独占禁止法や反トラスト法
など集団謀議に制約を慌てて掛けて共産化阻止に向かった。そして現代ではこのテロ防
止法と同じく「力合わせて未来を作る」事の応援策と「協力して破滅活動しよう」とい
う集団の制限や破壊や阻止をする政策とが混在し収拾に武力や兵器によるものとなった
。つまり西洋式形態の矛盾が此処に来て大きくなっている。つまり「自由・平等・博愛
」が削がれたのだ。自由は 先に言う様に自民党のしている「野放図の暴力的支配の自
由」を許し、平等は「グローバルな少民族の独立国家」の愛国主義を沸騰させ、博愛は
「殺人犯と言う極悪非道すらも社会交流の機会」を広げさせる意見が蔓延したのである
。これにいち早く危機感を感じ自然との経済共生を提唱しているのが今の日本のうねり
なのだ。「健全な保守」と「寛容なリベラル」を目指すべきで、「健全なリベラル」と
寛容な保守」ではない。つまり国民の3分の1を取り込むに自民党票を崩さず第2自民
ができるはずもない。誤算でも何でもない戦略もない無謀な只の自殺行為だったのだ


644: 名無しさんAA:17/10/29 17:52
 もともと日本は社会主義でしか生き残れない。と言うより世界は社会主義でしか存在
しえない。決して共産主義にも自由放任主義でも 人類は生き残れない。ユダヤ教に則
った「資本の暴力による支配」など許される話ではないし 今や温暖化や国際化巨大な
連鎖経済と自然環境の破壊などを見ると 既に核以上の下手したら破壊力がある中にあ
る。例えば科学の世界では、世界の緑の現象は1%以上であるこれは再生能力を既に過
ぎた中にある。又その中のDNA変換作物やミツバチさえも居なくなる程の持続薬物は
除草剤などに多用されて今や希少種以外にも多様な生態系破壊は限りなく大きく人類さ
えも含めた生物絶滅していく中にある。更に経済活動ではAI知能は格安の知恵を提供
し手数料制限を失くし手数料で生活する人間の営みはもはや奴隷である。千分一秒単位
での株価操作は 現状から離れた利益を産み既にパンクしている。無価値の人民元や通
信の中の仮想通貨は文字通り価値はあっても物を産みださない。かつて大型ダイヤを指
輪にはめた婦人がパンをよこせ人民に食べ物を与えよ。とデモしたような世界に変わっ
たのである。それは他ならぬ「ユダヤ資本」の維持であった。元々資本価値は減る事は
あっても増える事はない。それを増やす工夫として戦争や自然破壊をもたらした。結果
としては資産価値は下がっても相対価値は上がる。だがそうした減化も限界になった。
既に核弾頭でも生物DNAでもAI知能でも宇宙物理学でも神の資産領域を遥かに超え
た。日本には「水清くして魚住まず」と言う言葉がある。つまり日本人は普段から綺麗
にした生活で害虫や鳥や害獣を減らして生活して来た。そこには薬や肥料などと言う物
は無い。手間と知識と知恵の積み重ねである。だがそれは日本に限った事ではない。

645: 名無しさんAA:17/10/29 17:54


既に核弾頭でも生物DNAでもAI知能でも宇宙物理学でも神の資産領域を遥かに超え
た。日本には「水清くして魚住まず」と言う言葉がある。つまり日本人は普段から綺麗
にした生活で害虫や鳥や害獣を減らして生活して来た。そこには薬や肥料などと言う物
は無い。手間と知識と知恵の積み重ねである。だがそれは日本に限った事ではない。そ
れはアマゾンでもサハラでもどんな所でも知恵と知識の積み重ねで生活して来ていた。
そこに馬鹿な銀行資本家の囁いた声が響いたのである。かつてハプスブルク帝国崩壊が
世界大戦を産んだがそのその後ヴィルヘルム大公は「どんな復興も「ユダヤ人とフリー
メーソンのおかげ」でなされるもので、王朝そのものが「ユダヤ人の行う事業」になっ
てしまった。」悔やんだ。宮廷ユダヤ人が帝国の財政を支えてその上に世襲制で権威を
持っていて「サラエヴォ事件」では、黒手組のセルビア革命戦士会がユダヤの横流し献
金を受けたドラグーティンの指導の下セルビア正教会で指令した暗殺だった事が近年で
明らかになっている。メンバーフランツ・フェルディナント大公は妻ゾフィーとともに
ボスニアに来た時、その後の会計の受け継ぎをユダヤ金融は説明できなかったのだ。こ
うしてオーストリアを支配し続けた、ハプスブルク=ロートリンゲン家の君主の称号の
皇帝の地位は消えたのである。此処には生産の無い金融家が「パンと平和」を求める民
衆を日本流には「食い物の恨み」を如何に利用していたかが解る。日本の政治も今その
形態に近づいている事を危惧するのは 我々だけではない。いつまでも給食費を何故か
無料にしない割に 違法な私学助成を高額に貢いでいる。それに群がって大学は増える
と言うおかしな傾向の中に今回の汚職事件がある。基礎教育の崩壊は決して良くない。

646: 名無しさんAA:17/10/29 18:43
 日本の岐路 15

 今度の台風災害は 日本人の馬鹿さに依る物だ。鳩山や野田政権が手を持たなかった
事をいい事に 災害対策はおざなりにされ 安倍麻生などの権力基盤強化つまり自民党
の 地方有力者の票田固めの政策しかしてこなかった為に起こった事だ。福岡の豪雨も
横浜の高波も 和歌山など紀伊半島の災害や四国の河川氾濫も 想定された災害である
。もともと中曽根以下 森林などの自然調査もおざなりで 全く馬鹿げた事だ。宮崎の
冠水でも 「滅多にないが良くある事」がひどくなっただけの話である。日本人の甘さ
である。これまで暴風の役割や高波を止めて来た樹木をおざなりにして 最後は売却し
そして自民党の懐に貯めて来たツケが 今からどんどん日本に押し寄せる。中国の台頭
すらそうである。有名な「中国を脅威としない」としないなどと言う赤信号無視の暴走
行為の自民党に「そうした常識感覚の無さ」の不良少年に嬉々としてついていった日本
人の馬鹿さが悪いのである。この「歴史に学ばない。一から壊して新たな生活がよい」
とするどうしようもなく安易な世代や過去を尊重しない 土地改革や新住宅政策が引き
おこした「中華風味災害」なのだ。誰でも簡単で安易で手っ取り早く経費がない方が良
い。と思っている節がある。そこにたどり着いた理由や歴史はない。全く意味不明の、
国鉄改革と同じだ 民営化して黒字になるなら国鉄のままで努力も無し国鉄総裁であっ
た者は何をして社長や経営者の椅子に座っていたのだ。山一証券の社長と同じだ。政府
の援助すら貰えない者がどうして最古の最大の証券会社の地位が残るのだ。そういう、
社長や経営者を何故選んだのだ。今や2世議員世襲議員が花盛りである。だが彼らに何
が解ると言うのか。最低首相であった小泉氏ぐらいが限界であろう。議員時代は正当な
答弁すらせず今になって原子力は反対だ。日本はもっと世界にアピールすべきだ。国連
は正義ではない。など正反対の言動で小池百合子の中身のない勝負師と同じで下駄を頭
に載せて歩いた方が良い。日本が生きる道は「質実剛健」の日本社会でしか在り得ない
。今更北朝鮮云々と言う安倍氏が北朝鮮と話し合い出来る筈はない。朝鮮総連の解体も
解体の仕方を誤ったし拉致被害者の一時帰国で来た蓮池氏らの北への複朝も止めている
事自体は正解だがその方便を使いに出していない。全く尻切れトンボの阿保蛙である。
今度の選挙で 全くそうした日本人ばかりが強くなった事に 驚き呆れるばかりで子孫
を日本の未来をメディアを始めどう考えているのだろう。



647: 名無しさんAA:17/10/31 11:54

 馬鹿か自民党は。異論者の意見を聞く耳が無ければ国会を開く必要もない。「平等」
と言う国民の権利と知る権利が犯されて こんなに犯罪者集団化している自民党を検察
は何故取り締まりをしないのだ。馬鹿な自民党議員は田舎の国民の声を問う場所がいる
。などとうそを言う。それなら国会議員総会や自民党幹事会や政策検討会などすべての
事を透明化して 記者なり経過映像なりを自由取材に 国会で規定すべきである。全く
なし崩し的に かつての東条内閣よりも強権な強引手法で 議会運営しても日本国民や
馬鹿経営者が反対しないからと言って 違法行為をしていいはずはない。今の新車検査
の様に うやむやの法律で 時の情勢で勝手に不正検査や違法などと言うのは秘密警察
のかつての日本の特別警察が、外国人スパイや政府関係者の調査のみとしながらも取締
まりの上に暗殺したのと全く同じで、大政翼賛会以上のものだ。自民党は党内議論を尽
くし透明化すれば 与党として聞く事のある方がおかしいのである。こんなに平和が削
がれて自由や平和が 無くなろうとしているのにまだ日本国民は怒らないのだろうか



648: 名無しさんAA:17/11/02 20:38
 あなたは一体何によって行動しますか。 心ですか知恵ですか知識ですか。実はどれ
も間違っているのです。「心」とは共感であり本能の中の快楽的誤解である。では知識
ですか。「知識」とは今まで行ってきた体の経験である。新しい事を始めるのに一体今
までの知識がどの程度必要なのだろうか。体や生活の予想には適していても、今後の自
分を伸ばすのには、少々少ない経験値である。では知識ですか。「知識」とは情報であ
り人々や仲間或いは書や本から与えられるもの。しかし今日のTVゲームやツイッター
では偏向した間違った情報が多く 今回の自殺事件でも選挙でもそれは米国であっても
フェイクニュースと言う嘘は多々あるし、他が見たものや感じたものが一緒とは限らな
い。更に書物なら兎も角こうした顔の見えない電話やメールでは常に貴方を陥れる隙を
狙っている。まともな電話勧誘からアンケート調査やオレオレ詐欺まで貴方を狙っての
事だ。詐欺事件を取り締まらない事も異常だが電話契約もOKする行政も異常なのだ。
だがそれは現実の都市社会でも多く現実に人にあったとしてもそうした感覚違いの詐欺
的要素はかなりある。それは国会の異常と同じで人に礼儀や遵法精神を求めても持たな
い者も多々いるし、それを見抜けない馬鹿も多く存在する。それが小泉政権や安倍政権
を作りだしているのをみても証明できる。では何を以って動けばいいのか。それが正義
である。そして正義とは奥が深く容易ににはたどり着けない。だが一ヵ月も考えれば、
絶対たどり着くはずだ。その正義を求める為に「心と知恵と知識」が必要なのだ。そし
て我々が生きる意味がこの正義にある。正義の為に生きて正義を貫き正義を教える伝道
師たる責任がある。その為に貴方を産み貴方を育て貴方の躾をして貴方を応援し励まし
貴方の為の社会を築いている。言葉も常識も節度も文化も知恵も体さえも貴方の物では
ない。そうして授かったものなのだ。それは次世代に送る為に。更の未来を為に伝道師
の役割として。これを間違えてはいけない。


649: 名無しさんAA:17/11/04 11:47
 空き家問題がこの頃勝手な方向に行った議論をしている。つまり市町村が所有者を探
して見つからないから町が壊しても良いが その請求は所有者に負担させて良い法律が
ある。と言う話だ。がこれは市町村の怠慢でしかない。街に至る電柱一本まで管理者が
市町村だからだ。近頃まで間抜けな議員の斡旋によって市町村職員が倒産が無く保証さ
れた就職口として入課して来たている。新人職員に法律や立場や仕事を教えるのは自治
体の責任でありそれを監査するのも議員の筈だ。だが税金は取り放題して管理はしない
その上事業怠慢の計画で 神社仏閣は消え藪や雑木林は開発され 個人の墓所すら移転
した登記に騙すように勝手に変わる。こうした事が柳川では横行している。測量しなが
らその護岸位置や道路は勝手な縮小や拡張を行っているのだ。裁判所も勝手な判例を次
々と造り放任してして町との諍いには遠ざかる行為をしている。今の議員が総じて怠慢
し自らの利益に固執して活動しているからだ。元々固定資産税も住民税も市町村自治の
大きな役務である。なのにそれらに対した きちっとした対応も法令も更に職員の行動
もまったくいい加減のまま30年間放置して 国会は新たなこうした解体を認めた法律
を作って混乱を助長させる。そもそも土地も家屋も財産である。これを勝手に処分して
良い筈はない。更に自治体の本分は税を取る事でなくこの国民生活のスムーズな行使で
ある。例え個人の持ち物であっても 御神木であったり公共としての木や建物である事
は多い。これを全くまとめても居ないし資料すら開示していない。勝手に県や国の金を
使い勝手に水門や土地改良や道路を創る。そこには社会性や環境評価や学問上の計算さ
れた効率や街の進化性は全く無い。それどころが町長や国会議員やそれに連なる市町村
議会の勝手な汚職がヤクザと共にちりばめられているにもかかわらず警察にはその調査
能力や逮捕能力は全く無力に等しい程その経費削減や県の予算措置がのしかかっている
。県や市町村のこうした自治管理に基ずく経費的処置は今や戦後時代の予算からすれば
占める割合が4割を切ったのだ。つまり人口は増やし複雑化する中に 馬鹿な事業費に
回す為に 大きく予算を切って例えば駐在所や派出所を減らし 更に拘置所や留置所と
行った裁判を待つまでの公舎を次々に失くして 議員給与に変えた方策にしたのだ。こ
れでは悪者はのさばるばかりであるのは当然で悲観した若者が自殺に及び首吊り士なる
妙なやからがでても当然である。しかし只の殺人興奮者がカッコつけるな。TV局もよ
く考えよ。近頃NHKまで極道をして言う「きわめみち」の名を冠した番組を創る言葉
の大事さを忘れてしまった国民に明日は無い。


650: 名無しさんAA:17/11/04 12:59
 日本の岐路 15

 プチデモン氏は馬鹿の極致であろう。カタリューニャ州民は気やすくトルコの様だ。
と言うが トルコを知らなすぎる。プチデモンは投票する市民の意を汲んだだけだ。と
いい、仲間8人の40人の禁固刑やスペインの法律が間違っている。と言っている。全
く自分の間違いを正さない沖縄県知事のようだ。これらの人の馬鹿さは歴史の汚点であ
る戦争を正しく理解していない点にある。まるで韓国の民と同じに人を批判し独立が正
しい道かの様に言う。そこには一点の正しさもない。歴史上そこの独立こそが戦争の種
であれば当然摘み取るのは国の責務である。今北朝鮮が核ミサイル開発において国際摩
擦がある事と全く同じである。平和や経済発展を願うなら進むべき道ではない。一方に
トルコは全くクルドの地を与えていない。トルコ国内に自治州もないし 平和裏に憲法
を制定してはいないどころか 今やエルドワンに独裁を許した大統領となり首相の国内
を担う役割を取り上げての政権運営をしてる。全く国民からホテル爆破のクーデターす
ら行われる程の悪態大統領なのである。そもそも難民問題でも幾らの人間が惨殺処刑に
あってるかわからない程の国だ。この国にドイツやEUが資金提供をしたのは全く人道
上の難民支援に他ならない。ところがそれを監視していたジャーナリストすら拘置し監
禁しているのだ。何処に同じといえるのか。このスペインの白雉化した住民の声と同じ
に日本で沖縄の空港建設を反対している。自らが沖縄タイムズなど独裁色の強い論説に
真正面から相対せずに、全く不平等なこの報道姿勢を正さず取り込まれてしまった県の
議会に何の正義があろうか。人道上も大義上も又道義上も今の沖縄県議会は日本国民の
義務を放置し犯罪を犯していると言える。国防が世界中で第一義の国の保全である事は
地球上も歴史上にも何処においても同じだ。それが個人の命を守る事と国家が国土を守
る事が同一であるからに他ならない。永世中立国を宣言したスイスでさえ 徴兵令を敷
き国民の30%が銃を保持し 幼児の時から銃の扱いの教育を受けている現実は、今や
日本で苗字帯刀を許すべき時期に差し掛かっている。もし安倍政権が憲法をいじくるの
であれば その前にかつて武士が持っていた個人の権利を最大限にして銃の所持か刀の
所持を許すべきであろう。そうしなければ一方的に国と言う曖昧な集団のみが 大きく
なって安倍氏の様な個人のみの汚職で周りだけを大きくする事は許されない。


651: 名無しさんAA:17/11/04 18:16

 文氏は何を勝手な事を言っているんだ。日本が他国を裏切った事は一度もない。これ
までの歴史を見ても 韓国人の嘘ばかりである。成程米軍のプロパガンダに汚染はされ
続けて来ただろう。だが国内の反対を押しのけて日韓併合し、反対の頭目だった伊藤氏
を暗殺したのは他ならぬ韓国人の幼稚な国際感覚からである。世界大戦にしても米国と
の交渉に於いて米国の都合で引きずり込んで欧州戦線に参加したのは周知の歴史的事実
である。これによって 植民地政策が破綻し有色人種の自由化が大いに促進された事も
歴史の中にまざまざとある事を黙秘し嘘を付き否定する事は許されない独立国への冒涜
である。文氏は物事をわきまえよ。



652: 名無しさんAA:17/11/08 22:55
 日本の岐路 17

 今安倍総理がすべきことは 日立を保証人にしても 東芝を救うことであろう。更に
実利に豊富な人物を派遣して東芝を立て直し ウエスチィングハウスを救う事にある。
大体国家規模の大事に 何を悠長に加計・森友学園を整理できないのだ。自民党の今ま
での力はこれぐらいの事も処理できないのか。加計問題はそのまま設置許可を出さずに
京都大学に移せばいいし、森友学園は国が買い取りアフリカや最貧国の留学生の受け入
れ施設に変更すればいい事である。経済損失を避けて国家運営する事は当然の事だが。
それが出来ないとなれば情けない限りだ。ウエスチィングハウスの問題は原発に君臨す
る王者の破産の問題だ。これはアメリカだけでは済まない話である。問題は安い単価で
の受注である。これは海外には通用できても アメリカや日本などの先進国では通用は
しない。つまり米国の安い電気料金を日本並みに高くするしかない。これは売電会社を
アメリカにもう一つ作るのが良い。


653: 名無しさんAA:17/11/12 19:27 ID:fQ2
 日本の岐路 18

 近頃気になる事がある。中国習政権が全中の共産党大会で見せた笑顔である。今の彼
の顔に今までの苦悩の表情はなかった。これが意味する物が何なのかは解らない。今年
の全人代で既に解っていた事だが「中国共産党大会19期中央委員会」で習体制は、羽
蠅も虎も叩く。としてた汚職撲滅の中国最高人民検察院(最高検)は25日、今年1〜
6月に立件した贈収賄などの汚職事件は1万9081件に上り前年同期比9・6%増だ
ったと明らかにした。立件した人数も2万5240人で同5・4%増としており、汚職
取り締まりの強化が進んでいることを示していた。その頂点として三顧の礼で招いて、
習の右腕として反腐敗を取り仕切ってきた王岐山の名前は、68歳で定年という不文律
から、一旦は引き下がった格好だった。人事は習近平国家主席、李克強首相の留任以外
はすべて新顔となり常務委員は、栗戦書党中央弁公庁主任、汪洋副首相、王滬寧党中央
政策研究室主任、趙楽際党中央組織部長、韓正上海市党委書記となっている。このうち
栗戦書と趙楽際は、習の股肱(ここう)の臣だ。もともと3月に経済指針、前年実績の
6.7%や、前年の目標である6.5?7.0%を下回っていて、今年は高成長を追わないと宣言し
ていた。この事から「共産党大会直前『習近平一強体制』の『閣僚名簿』を予測はされ
ていた。10月25日に開催された中国共産党第19期中央委員会第1回全体会議(1中全会)
で明らかになった政治局常務委員の顔触れは、側近登用人事で党中枢を習近平派で独占
しポスト習近平は習近平自身――の2点だったが、この人事を基に、中国共産党の習氏
は今期だけでなく来期まで10年の盤石な体制を整えている。一方で北朝鮮は金正恩の
体制以来これまで顔に泥を塗る行為が続いたが此処にきて祝電を打って、同志として祝
っている。今回アジア訪問をしたトランプを最高接待とされる趣きで圧倒し、トランプ
との会談を観光旅行をするセールスマンに変えた。日本のゴルフ外交の介もなく韓国は
我儘な姿勢を貫いたが、習はにべもなく日本のやり方を学んで、人権問題、公害問題、
自治区問題、軍縮問題、海益問題、境界問題、権利保護問題、製品問題、ITハッカー
やIT検疫問題、のどれ一つもトランプは言及しなかった。これまで既に決まっていた
アメリカの購入品の確認を覚書として契約もせずに済ませたのである。つまり日本の盆
踊りを見に来て一緒に踊った只の人にしてしまった様相で裏にある「中華中心主義」の
「世界政府構想」に利用されてそのまま出国したのである。既に習氏の独裁共産党政権
には、国内に敵がいなくなった事を見せつけた形だった。

654: 名無しさんAA:17/11/12 22:15
 日本の岐路 19

 この事は中国社会がこれ以上悪くはならない事を示し、これ以上良くもならない事も
示している。既に「穏中求進(安定の中で長期的な改革の前進を求める)」といった経済
運営と、全体的な低成長基調とバランスシフトを貫く事に決めている。これは供給側の
改革を推し進めることを以て“主線(大きなアウトライン)”とする事で、外交に於いて
海外食産業の買い占めであった。日本では製品買い占めで直ぐに問題化されたが、中国
は提携をしその後乗っ取りし、企業買収やM&Aする事で済ますとするしたたかさだ。
第3に総需要を拡大させる事に海外シフトを果たし、その有効性を引き上げ、国内には
創造性を発揮した新産業を育てる事で、従来型の中国工場からの脱却と、経済成長の新
エンジンとして整備し始めた。この経済構造の最適化計画を推し進め海外の需要不足を
楯に取り自国権益を強めている。そこに活躍するのはブラックホールやオープンドアと
言われるIT機器の隠し扉の存在だ。ビックデーター化されるスマホを国民に預けて、
特定の言語をチェックする検疫プログラムで個人特定を果たし思想までチェックする事
に成功した。更に機器に埋め込まれた「どこでもドア」は各国の企業の機密情報を自由
に回覧し取り込む事にも成功した。こうして技術発展をおこした中国にもはや敵はいな
い。それはアメリカであってもロシアであっても、敵になり得ない。中国を頂点に米国
とロシアが二番手に行きその下にEUと東南アジアがいてその下にカナダ・豪州・日本
・英国がいる構図である。南米・インド・アフリカ諸国・中東諸国はその又下で手を出
さない。これが「一帯一路」の新シルクロード構想である。何故ロシアやアメリカには
手が出せないのか。それは中央アジア問題を持つロシアがいるからだ。ロシアも又昔の
帝国ロシアか旧ソ連時代の栄光を願っているからだ。どんなに理想論を言ってもアメリ
カがシェール燃料を掘りだせてもアメリカが中東を手放す事は出来ない。又ロシアが、
中央アジアが手放すはずもない。だがアメリカでは過激なイスラム教徒の思想は受け入
れられないし、ロシアでは食糧供給に於いて現状維持しか出来ない。この現状維持すら
も欧州に売っている天然資源で持ちこたえている。つまり欧州はロシアにロシアは中国
に首根っこを掴まされていて 中国が中央アジアに進出した途端に世界平和が吹き飛ぶ
のである。だから中国も穏便に海洋航路での交易国と流通するルートになる。インドと
以外では東南アジアは比較的詐欺ても、中国に対等に張り合うのは日本ぐらいなのだ。


655: 名無しさんAA:17/11/12 22:15
 日本の岐路 20

 当然日本や韓国やインドは適当にあしらい、米国やロシアを調整すれば事足りるのだ
。欧州に起こった移民の群れは、中国にチャンスを与えて居る。更に一方では南米から
麻薬の輸送は、中国がかつてアヘン戦争で敗けた恨みを躊躇なく米国にするチャンスを
与え続けている。厄介なのはパナマ文書などの租税回避地の存在である。無ければ隠し
財産や中国送金は出来ない。だが逆に汚職官僚達の抜け穴ともなり、更にこうした文書
の公開リスクもある。更に北朝鮮問題だ。この緩衝地帯はこのまま発達しない方がいい
。最貧国の緩衝地帯は歴代中国皇帝のお家芸でもあるのだ。ところがこの「世界王朝」
の計画には黒い闇と霧がかかる。それは国としても人間としても努力がない事だ。ソ連
は努力はしたが「ペレストロイカ」はあまりにも大きな国だった為に失敗した。いまの
中国は「イミテーション国家」である。歴代中国は 何一つ開発や改善はしていない。
策略や戦略に長けてはいる。しかしそれだけの国家であり、文化芸術も共鳴思想も技術
革新もない。今中国国内では古い町並みは次々に壊され、貧民窟として見られ歴史を捨
てようとしている。だが整理されて作られるビルは 鬼城であり人のいない街と高層ビ
ル群だ。更に出来る都市型社会は守銭奴の集まったかつてブルジョア主義として糾弾さ
れた人の群れであり、全く国家として常軌を逸した社会を存立させている。ここは日本
の作って来た全くおぞましい公害社会が出来上がっている。なぜこんな人のいない都会
が出来るのか。それは中国共産党がいるからだ。今日本で白石容疑者の9人もの少女達
の命を奪った事件が注目を浴びて居る。つまりこの女性たちは、白石容疑者の弱音に、
寄り添って助けようとしたのだ。この人に世話した気の良い少女達が次々に狙われ意味
も無く殺された。これは韓国症状と言われる凶状である。目が細い朝鮮人特有の顔だち
である。こうした事が日本では数多くある。日韓併合後の障害である。これが中国の国
内でも起こっている。共産党員であっても 祖先が糞族である可能性が高いからだ。こ
の為中国国内も いつまでも独裁体制から抜け出せないのである。


656: 名無しさんAA:17/11/19 17:35
 近頃全く そこまで言って委員会が面白くない。辛坊治郎が司会になってからだ。あ
のはげちゃびんの方がよっぽどまともな司会者であったろうに。今回NHKの過労死と
神戸製鋼の品質管理がテーマとしてなっていたが、全く問題外の放言ばかりだ。どうし
てこうも現場を知らないのだ。特に徳光和夫など出すような問題ではない。こう言った
空白労働者が問題なのだ。全くリストラした経営効率がこうした事件を起こしたと言う
のが結果であるのは確実な現実だ。かつては人が多く意識も戦時や戦後を知る者も多く
文化的価値観を持って生きて居た為 その許容値はかなり高いものだった。その為に、
どんぶり勘定も博打的労働意識も経営意識も多く、今の様な切り詰めた経営など無かっ
た。それをこんな馬鹿げた社会に変えたのが安倍政権を取り巻く今の主流派である。言
われて居る様に無能上司が多いがそれは無能経営者が多いからだ。例えば200時間の
労働時間に競馬に行っていた。だがそれを大きな懐で見つめる上司がいたが それだけ
経営の熱き心共済の恩智も多かったのだ。だが今日これが許されるか。恐らくそれは、
許されない。それどころか許す心さえ同僚にすらないのだ。それが今の戦後教育なのだ
。実は加計学園問題でもあんなに立派な学園を9割の私学助成金や賛助金や優遇資金で
運営すると言うのは可笑しな事で自治体が欲しいなら県立の大学でトタン小屋ででも、
やっている中に参加するのなら誰も文句はないが、何もしないで交付金と言う金くれ申
請を何十年も続けていたと言う行為が 積年の努力と言うのは可笑しな事だ。実はこの
縮図が会社の今回の品質管理も同じで ここまで政府が出て来て厳しい管理をして生産
された中でも違法などと言うのは 人事課の権限強化での人員削減策の結果でしかない
。つまり政治がまともに機能しない事をいい事に 官僚のいいようにメディアまで支配
されているのだ。この国民奴隷化政策が中曽根以降ちっとも直らない。戦後に出来た、
通産省は政府方針として全労組と全資本と政府の討議に於いて規格は決めるが検査は、
その責任に於いて世に出す事と確約を4回もやった。その為に水俣病も四日市喘息にも
カネミ油症でも 政府はその全責任を逃れた。今回の検査指導も決して違法ではない。
公認の検査官が居なかっただけで検査は行っているし JIS規格の強度内には収まっ
ているはずで その正確なデーターにはなってない事が問題なのだ。

657: 名無しさんAA:17/11/19 22:24
 やっとTVの中に当然である正しい論評が出てきた。このお互い真剣勝負を行うべき
場所前に だらだらと先輩ぶったモンゴルの縦社会を作った飲み会をヤクザの如くに、
行う事を放置し、モンゴル力士会と言う2次会3次会まで行い 密室上の暴力事件を起
こしたと言う特殊性の悪行に、今まで全く触れずに只の個人的な事件として今までは、
ビール瓶で殴ったの殴らないの、或いは診断書がどうのこうの、と言う事件の本質から
離れた報道ばかりであったのが、事の重大な本質に少しだけ触れ始めた報道をしている
。およそ一週間もの間、このメディア達の呆れた論評は異常のままであったのだ。この
全く政治や勢力などと言う事を除外しした平和ボケした様な日本の批評家たちは一体ど
こに目を付けているのか戦後の教育が如何に官僚ともども馬鹿さで騒いでいるかが解る
。今度のトランプの訪日でも同じである。一番問題なのはこの北朝鮮の持つ核をどうす
るのか。日本に対抗核を持ち込むのかどうかであって、今更イージスアショアの設置な
どと言うのは論外の話なのだ。拉致関係者が言う様に 拉致問題解決を叫びながら何一
つ長年にわたってやって来ないで嘘をそのままにした安倍政権がある自民党を何故国民
はそのまま支持し続けるのか。或いはこの全く的外れの論壇をメディアが築くのかが、
私には不可解でならない。話し合いの場さえ与えず、対話と圧力と言い今は圧力などと
言うが、気が狂い核弾頭を日本に落とされた悲劇はそんなに軽い物か。戦争はそんなに
漫画や遊びだったのか。違うだろう。悲惨な大量の民間人の死を迎え戦争はそれこそ、
今の政府の様に強気の答弁をして大本営発表を盛んに盛り立て、勝つ見込みすらない中
鬼畜米英の掛け声に一般市民を洗脳に次ぐ洗脳をした。共産党員が国家警察に逮捕され
たとしても今の様に酷い有様ではない。ただ獄中に一時収監されただけである。そうし
た牢獄よりも一般社会の方が餓死したり虐められたり都市爆撃を受けたたり悲惨だった
のである。これは政府のやり方の間違いだ。今もなぜ効果の無い高価な兵器を買い沖縄
問題すら解決できず、山林を買いあさる在日の中国人や韓国人の海外会社に勝手に売ら
れるのを放置するのか。何故に尖閣に近寄る船を一艘も沈めず一掃しないのか竹島占拠
をそのまま何故許すのか。馬鹿げている。さっさと核兵器を持ち込み出て行けと言えば
済む話なのだ。その討論をしないまま 又うやむやに人民の血税で無駄な戦力を持とう
としている。

658: 名無しさんAA:17/11/20 06:09
 メディアは可笑しな報道をするな。協会は株式会社ではない。執行部と溝などと言う
のは間違いだろう。NHKと同じく彼らは教会は国技館での公式巡業の相撲界は独占の
協会であって溝で無く 執行部の悪態に釘が正解であろう。言葉が違い過ぎる。密室で
の会議や呼び出しての報告義務は伊勢ケ浜親方にはあっても貴乃花親方にはない。更に
「相撲協会に報告」して相撲協会から鳥取県警に被害届を提出するのが正解であり、そ
れが出来なかった事を断るべきであろう。相撲協会には一切今までそうした提示はして
いない。更に今や過去の人となった朝青龍のツイッターに憤慨すべきであろう。当事者
でもない人間が物を言うべきでないし、こうしたモンゴル人力士会を一時的にも背負っ
て来たOBならまずは謝るのが筋であろう。朝青龍の、ツイッターで、「ビールびんあ
りえない話し!!」とした上で、貴ノ岩が横綱に対して不遜な態度をとったことが殴打
された原因だと報じられていることを受け、「お前らの時代終わったと口誰が出した!
?」「冗談ですむか!?」と、貴ノ岩にも非があったとする立場を示し「日馬富士だけ
悪とう書くマスコミに気食わない!!」と報道を批判することなど本末転倒で言語道断
であろう。相撲道はそんな薄っぺらなものではない。新聞も「貴乃花親方は相撲協会理
事であり、巡業部長として巡業中に起きた事件には責任がある。自分が評論家を務める
スポニチがあれだけ報じているのに、取材には一切、応じない。将来、相撲協会を背負
って立ってもらわないといけない立場なのに、おかしすぎる。」と言う論調はどこまで
間違えた考え方をしているのか、恥を知れといいたい。理事長はあくまで八角氏である
。巡業部長が一から十まで管理せよというのなら このモンゴル力士会の解散させる権
利も貴乃花親方が持っているのか。持っていないじゃないか。便所までついていくよう
な管理は親方しかできない。更にスポーツ評論家の玉木正之氏が「貴乃花親方に『相撲
協会に報告するとウヤムヤにされる』と助言した人が周囲にいたとも聞きますが、これ
だけの大事件を相撲協会がウヤムヤにできるはずもなく、不自然です。」なんて言う嘘
は書くな。岩手でも北海道でも事件はもみ消されているではないか。彼らが、横綱級の
力士だから問題で新人力士なら殴られていいのか。それは違うだろう。誰でもが人権は
あるし、誰でもが骨折したらら病院に行く権利はあるだろう。元々日馬富士は横綱には
してはならない人格だったと言う事ではないのか。此処を勝ち星があればどんな人間で
もというのは全く神事の相撲道ではないし、他のスポーツより劣る。野球ですら法を犯
せば排除される。全く玉木正之氏は間違った事を発言するな。今まで事件がどれだけ隠
されたか。どれだけ後々になって相撲協会が渋々認めたかよく知ってるだろう。


659: 名無しさんAA:17/11/20 12:17
 そもそも 部屋の違う弟子は部下でも無ければ手下でもない。横綱だと言って携帯の
操作さえ出来ない程の 軍隊の長官命令の様に神妙に聞かせる席でもなければ聞かせる
権限などどこにもない。これを可能にさせたのがこの六角理事長が行った間違った誓約
書なのである。倶楽部や協会や政治の党さえもこうした事に誤りがある。どんな契約で
あっても個人を束縛しない。何故なら自由の権限と平等の権利で結ぶ物で 上下の関係
を強いる物では違法であるからだ。企業内の社員も社長の小間使いではないしましては
部長や課長の兵隊ではない。八角親方(元横綱北勝海)を始め多くの間違いは この問
題や軽くあしらい人間的資格を全く無視する行為や言動を常識の如く持っている馬鹿が
如何に多い事か。メディアはそこに何故気付かないのか。電話勧誘も、こうした警察の
忖度したような捜査も 全くはっきりしない相撲協会の対応も違法なのだ。国民生活は
健全な社会生活を営む為のものと 憲法はちゃんとはっきりと規制しているのだ。それ
がどうだ。ないがしろにされて 国会も社会も経済団体から至る所で まるで地獄の釜
のような社会現象を、鬼や悪魔の事件を起こしているではないか。そしてそれが小さい
事としてン全く問題視も事件にもしていない。まったくおかしいのだ。数多くの国民の
権利が犯され 巨大資本がTVは有料化タバコは高額化させて 情けを持つ弱い者を、
目標にしたかのような社会をつくっていく。私は60になるが子供の頃の友人の半数は
病気や自殺や精神疾患で死んでいる。みんな本当にいいやつばかりでそれらが背負った
運命も又 本当に社会や人の為と言うような物ばかり 非情でずる賢い憎まれ者しか、
今や生き残っていない。それでいいのか。横断報道を歩く者に突進する信号無視の車の
ような社会をつくりそれを益々応援し強固にするこんな社会でいいのか。次世代は更に
多くの問題ばかりの世の中にしているではないか。モンゴル人力士会はその日本社会の
縮小事件である事を良く知るべきだ。横綱が神の如く祝杯をされたからと言ってそれが
権力であってはならない。当然である。一個の輝かしい記録を打ち立てた人間で神でも
王者でも独裁者でもない。TVがちやほやするから勘違いししている。特NHKなどは
全くおかしな事を解説や報道をしている。戎めるべきだ。

660: 名無しさんAA:17/11/23 04:31
 日本の岐路 39

 朝鮮中央通信によると、北朝鮮の朝鮮アジア太平洋平和委員会は22日、報道官声明
を出し、トランプ米大統領によるテロ支援国家再指定決定を「暴挙」と非難、「高い代
価を払うことになる」と警告した。北朝鮮外務省報道官も「重大な挑発」と批判し、「
米国の敵対行為が続く限り、われわれの抑止力は一層強化される」と威嚇した。いずれ
も具体的な対応措置には触れていないが、北朝鮮が2カ月以上にわたり自制してきた弾
道ミサイル発射実験など挑発行為を再開する可能性もある。朝鮮アジア太平洋平和委員
会の声明は「わが国は、すべての形態のテロ行為や、いかなる支援にも反対する立場を
明確に表明している」と強調。「再指定は、何の根拠も妥当性もない」と決めつけた。
 その上で、「トランプ(大統領)が宣戦布告同様の特大型の挑発を仕掛けてきた以上
、傍観しているわが軍隊と人民ではない」として、再指定の即時撤回を要求。「米国の
行動によって、今後の対応措置が決定される」と述べた。 と伝えた。だがどうも韓国
日本を外して米国は動く決心をしたようだ。トランプ大統領が、アジア歴訪を終え帰国
した。日本の安倍首相と韓国の文在寅大統領には「米国は北朝鮮への圧力を最大限まで
高めていく」と強調し、安倍首相も文大統領も完全に一致したかの様に見える。だが、
その後中国訪問では、習近平国家主席は「北朝鮮に対する圧力を強化する」とは言わず
、「国連安保理の決議を守る」と言う立場から一歩も引かなかった。トランプ大統領も
又反対しなかったし、南支那海問題にも人権問題も問う事はなかった。中国に期待した
からだ。早速17日には党中央対外連絡部トップで習主席の側近中の側近の宋濤部長を
派遣した。これまで祝電も打たなかった北朝鮮の今回党大会に送った返礼だったのだろ
う。ところが今行われている経済制裁に、これまで穏健派と見られたNO2が見えない
。北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長のNO3である崔竜海党副委員の命令で、年齢的に
合わないのか、黄炳瑞・朝鮮人民軍総政治局長が何らかの罪で処罰されたと見られてい
る。と時同じく報道されていた。これは中国にも近づかない事の証でもある。日本の国

661: 名無しさんAA:17/11/23 04:32
。北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長のNO3である崔竜海党副委員の命令で、年齢的に
合わないのか、黄炳瑞・朝鮮人民軍総政治局長が何らかの罪で処罰されたと見られてい
る。と時同じく報道されていた。これは中国にも近づかない事の証でもある。日本の国
民の9割近くが不安を感じ、テレビや新聞でも連日騒いでいる核兵器および弾道ミサイ
ル開発問題ではあるが、ここ暫くは嵐の前の静けさなのである。宋濤部長は何らかの話
はしたろうが金正恩とは会う事も出来ずに帰国した。そしてトランプ氏とプーチン氏が
約1時間にわたる電話会談を行い、シリア情勢のほか、ウクライナ、イラン、北朝鮮、
アフガニスタンなどについて意見を交換したことを明らかにしている。その後は脱走兵
が板門店で保護されている。これらの一連の流れは金氏が核を手放さない事とロシアや
中国の仲介が効果がなく、恐らく2月頃に北が耐えられられない事になる事を示してい
る。元々米の情報通ではドナルド・トランプ米大統領の大げさな先制攻撃のレトリック
だ。との見方も多く国内の不満を北に目を向けさせ、武器を売るに丁度いいと思ってい
た節もある。更にプーチンも国内で農業改革に今や力を入れ恐らく安いトラクター購入
で北朝鮮とは通じているのであろう。つまりエネルギーと工業製品の バーター取引の
成立である。写真では海上積み替えがあっているとしているが。取りあえず 米国には
北朝鮮との戦争に勝っても何も得る事はない。との反対派を説き伏せる事はやってない
。つまり今見逃している隠れ貿易が民間需要だとしても北がこの冬でどう動くかは未知
である。餓死者が氾濫するか、兵士が反乱起こすか、密貿易で難なく過ごすか。怒って
又核ミサイル開発に動くのか。兎も角こうした接触の試みに、韓国も日本も入っていな
い事は確かなようだ。


662: 名無しさんAA:17/11/23 15:16 ID:oxM
 池坊女史は本当におかしい。TV局もBPO違反発言ばかりではないか。相撲界で、
次は自分達の時代、白鳳の時代は終わった。と言ったからと白鳳や日馬富士が怒ってい
い理由にはならない。更に出て来て話せと言うのは八角親方の方であり、この評議委員
会の方であろう。更に普段からも闘志を燃やすはずの3力士の白鳳や日馬富士や鶴竜が
そろい踏みで只の郷土力士の親睦会に参加する事が異常であり此処に批判があって然る
べきだろうし、現実にそこで事件は起こっているのだ。全く馬鹿女史をいつまでtv局
はこうした国賊と言う人間達を批判しないのだ。更に日本の相撲界に裏があるのか、モ
ンゴル国内の貴の岩を貶めようとする策略に日本相撲界にはいませんなどと馬鹿をいう
。これは日本の相撲界に貴の花部屋を貶めようと言う勢力内に自分がいる事を示してい
る。更に病院いけない理由はこうした間違える評議会委員の姿にある。それとどこまで
医学会を信じるのか。医者が正しい様にtv局は報道するが医者のせいで死んだ患者は
は多く診断が不適切だった事は新しい知見がでれば多いもので歴史は物語っている。そ
れに全く間違えているのは良く上司と部下に取り換えた話にするが、そうではないし、
会社でもない。お互いがファイターでありアスリートでありレスラーなのだ。白鳳関も
地に落ちた。あの弓取りでも興奮の中いつまでも立っている。事実関係は貴乃花にある
筈はない。更に頭の意味には精神も入っている。更に相撲協会を伊勢ケ浜親方が入って
いないような話で被害届を取り下げてくれと言うのはもみ消しの工作でしかない。池坊
はしきりに相撲協会がやってはいない。もみ消しなど出来ないなどと言うが 発覚して
おおやけになったのは 当然 貴乃花が拒否したからであって、こんな単細胞嘘つき女
史や片方の意見ばかりキャストで世論操作しているのは 大きな問題である。警察第一
というのなら なぜTVはしきりにメディアに登場させたがっているのか。グッティは
よく考えろ。ちゃんとした批判と正しい意見を述べよ。そうしなければ世間が間違う



663: 名無しさんAA:17/11/23 19:18

兼ねてからロシアのウラジーミル・プーチン大統領は、北朝鮮の核問題への対応が、外
交的に解決できなければ地球規模の「大惨事」となると警鐘を鳴らした。また対北朝鮮
の制裁を強化しても「無駄」との見解を示した。プーチン大統領は中国福建省のアモイ
で行われた新興5か国 (BRICS)首脳会議後の記者会見でも「どのようなものであれ、
この状況下で制裁という手段に訴えても無駄だし効果もない」と述べた。北朝鮮は9月
3日、「水爆実験」を実施。これを受けて4日に開催された国連安全保障理事会で米国
は「可能な限り最も強い措置」を講じるよう各国に訴えた。プーチン大統領も記者会見
で、ロシアはこうした北朝鮮の動きを「挑発」と認識し「非難する」と語っていた。そ
の一方で、北朝鮮に対して状況の切迫さを拡大させるような手段をとれば「地球規模の
大惨事につながりかねず、膨大な数の犠牲者が出るだろう」と懸念を示し、話し合いに
よる事態解決を呼び掛けていた。ドナルド・トランプ米大統領の訪中に対して、北朝鮮
の脅威が対処されなければ「武士の国」である日本が自ら事に当たる可能性もあると警
告していた。大統領就任後初となるアジア歴訪では、北朝鮮による核・ミサイル開発を
めぐって高まっている緊張が、中心議題になるとみられている。トランプ大統領はFox
Newsのインタビューでは、「日本は武士の国だ。私は中国にも、それ以外に聞いている
皆にも言っておく。北朝鮮とこのような事態が続くのを放置していると、日本との間で
大問題を抱えることになる」と語っていた。その一方で、中国の習近平国家主席は、北
朝鮮問題で「相当素晴らしい」働きを続けており、「中国はわれわれを助けてくれてい
る」と持ち上げてもいた。一般的には中国はトランプ氏から、北朝鮮の金正恩朝鮮労働
党委員長を制御できていないと批判を受けていたが、その後、国連が科した厳しい対北
制裁を履行し、習氏とトランプ氏の関係は改善していると広報していた。トランプ氏と
プーチン氏の電話会談は、北朝鮮問題についても協議し、外交手段を通した解決を模索
することの重要性を確認した。と伝えているが、中国との話し合いの報告とすれば、今
やこの三ヶ国の話し合いに日本は入っていない事になる。プーチン大統領にとっては、
サウジアラビアのサルマン国王のほか、イスラエルのネタニヤフ首相やエジプトのシシ
大統領らの中東首脳と相次いで電話会談を行い、シリアのアサド大統領との会談内容な
どについても伝えている。つまり今でも北朝鮮問題は中東問題とセットである事が伺え
るのである。


664: 名無しさんAA:17/11/24 20:55
 尖閣諸島をめぐる中国の意図、行動、そして日本側との対立による危機についての記
述の骨子は以下のとおりである。@中国政府は、尖閣諸島の主権や施政権を有するとい
う日本側の主張を、中国領土の違法な占拠の結果だとみなしている。その「占拠」を崩
すために、人民解放軍と中国海警の艦艇などによる尖閣周辺の日本の領海、接続水域へ
の侵入を繰り返し、中国側の権利の確立を記録して、その結果を誇示している。A中国
側による尖閣水域侵入は2013年頃に最も頻繁に行われたが、2017年夏以降もかなり高い
頻度で続いており、現在は毎月平均3回となっている。日本側も対抗手段をとっており
、尖閣は日中間の偶発的な軍事衝突が最も発生しやすい最大の発火点となっている。B
中国側は、尖閣を中心とする東シナ海の空域で、空軍の各種戦闘機、迎撃機、爆撃機な
どによる爆撃訓練や監視飛行を続けており、日本側のスクランブル飛行を頻繁に引き起
こしている。特に宮古海峡上空での中国軍機による爆撃演習は、日本の航空自衛隊だけ
でなく米空軍による真剣な監視も招き、緊張を高めることになる。C以上のように、日
中二国間関係においては尖閣諸島をめぐる対立が両国の緊張を高める最大の要因となり
、実際に軍事衝突の危険性をも生み出しつつある。中国の大規模な軍事拡張と侵略的な
言動は日本側の反発をさらに高め、日中間の緊迫を強めている。さらに尖閣での日中の
軍事衝突は、日米安保条約による米軍の介入も招く可能性があり、米中戦争の発火点と
もみなされるようになった。米中経済安保調査会の2017年度報告書は以上のような日中
関係の緊迫した状況を伝え、「中国側は、日本が長年主張してきた尖閣諸島の統治の実
権をすでに奪っている。」(中国人民解放軍・国防大学戦略研究所の孟祥青所長)とい
う趣旨の見解を紹介している。また同報告書は、孟氏ら中国側の軍事専門家たちの著作
などを根拠として、中国が尖閣諸島周辺での大規模な軍事演習を実施して、その演習を
一気に実際の尖閣奪取作戦に変えるという戦術や、人民解放軍が正面から水陸両用攻撃
で尖閣を占拠する作戦を立案していることも指摘していた。日本にとっては、まさに「
今そこにある明白な危機」というわけである。


665: 名無しさんAA:17/11/24 20:56
 伊勢神宮を参るには、安濃川(あのうがわ)と言う一級河川がある。三重県津市を流
れ伊勢湾に注ぐ河川で。二級水系の本流である。平成の大合併以前の津市内では塔世川
(とうせがわ)とも呼ばれていて これより南には俗人は入る事が許されなかった場所
だ。その俗人が入れるようにしたのは平安時代であろう。今でこそ伊勢神宮がより南に
遷宮されて鎮座したが、俗人がその伊勢神宮に行くには、体を清め数か月沐浴して参詣
が許されて、初めて通行出来た。その沐浴場所は今や津市のヨットハーバーとしている
。津市の名は此処に津波が押し寄せて大勢の死体が上がっていた事で有名な所だった。
北を流れる安濃川、東に掘削された堀川(岩田川の分流)とともに、伊勢国の要衝津城
(津市)の外堀代わりに利用されて、鎌倉時代には城下付近で一部内堀と接しており、
現在も鰡堀(ぼらぼり)の地名として地域に残っている。ところがこの鰡堀もこれ以南
の土地も、殺生不可の神聖な土地だった。その結界内では阿漕とされ、何人足りとも、
草の実一掴魚介一匹とも持ち帰るを禁じていた。そこにある飢えた者が魚を取って死罪
を申し与えた場所である。それほど神聖な場所は、日本の各地にあった。今韓国軍占領
の竹島も福岡の沖の島も或いは中国漁船が乗り込んで来る尖閣諸島も、実は日本人が、
古来慈しみ大事に残して来た 神聖な自然遺産の場所であったのだ。こうした場所は、
沖縄でも秋田でも北海道でさえあり3萬か所を超えるとされていた。ところがどうだ。
今の政府の森友学園の沼地も元はそうした神聖な場所だが周りを都市化してしまい、あ
げくに手入れが行き届かずゴミの山となって安売りして問題になっている。八女市岡山
も又同じである広大な台地を日本陸軍は航空基地を希望して窃取し建設したが、今や払
い下げられた住宅用地や学校用地として変わってしまったのである。竹島はどうだ。そ
の日本の中核をなす神聖な場所は 取られたままで、取返す勇気すらない状況だ。更に
尖閣は有志が募ってしっかりした国防地として募金が集まっていながら、国は中国との
係争を避け 今でも戦えばいいものをそれを嫌っている。身を守る自衛の戦いは有史の
中で何処の国であれ正当化されるいくさの筈だ。正にそこに、あくぎな者らを排除する
勧善懲悪が全くみられないくして 何処に亡国以外の姿があると言うのだ。


666: 名無しさんAA:17/11/24 21:20

 日本は、こんな解らず屋の韓国には、懲罰の宣戦布告すべしである。日本戦略が日韓
米などと甘い事を言うから北朝鮮がつけあがるのだ。まずは米軍と共に韓国を占領して
韓国の中国属国主張を排除すべしである。既に李明博大統領時代に そうした知恵を持
つべきだったのだ。このままの推移で日本に未来がある筈はない。日本政府が何者かの
傀儡政権で「中国を脅威としない。」などと発言させた事は全く日本の国会の恥だが、
このまま北朝鮮を対話と圧力として経済制裁するのはお角違いで やるのであれば韓国
に対して行うべきである。北朝鮮の核ミサイルや拉致問題はあるにせよ韓国の様な占領
するには至っていないし、この慰安婦問題のような嘘もついていない。もし米軍の地位
協定や人権侵害を叫ぶのであれば まずは韓国政府を日本の日韓併合時に戻す事が先決
事項である。それは数々の条約や約束をしていながら 全く一つとして行った試しがな
く日本人の50人もの被害者まで出していながらやっと朝鮮戦争に勝っていながら李承
晩は全く道理に反して漁船を拿捕し船長など拉致し裁判で有罪にし国内の親日家三千人
を処刑し竹島を盗ったのだ。これに怒るべきを怒らず 策略を案じる事もせず自民党は
放置し更に中国を巨大化した罪は大きい。我々は全く第二次世界大戦は連合国とは契約
し敗戦国との身分に成り下がったが 韓国にくれてやる合意は国民全員持っていない。
沖縄返還まで行きついた今では朝鮮半島返還の声をあげ 当時の西洋列強すらも大賛成
した日中併合の土地の権利を国連に申し出る事を行うべきである。なまじっか野蛮な法
のない人権すら尊ぶ事の無い国を持ち上げてどうなる物ではない。セォール号に見る様
に政府の策略の下で、国民が悲劇に会うのが道理である。全く国としての威信も尊厳も
無い国は認めては国際社会の混乱の素なのだ。

667: 名無しさんAA:17/11/27 19:24 ID:YYM
 何なんだ今国会は いつから自民党は東京大学の広告塔になったのだ。いつから3面
記事のかわら版屋の手先になったのだ。 大体与党の質問時間など必要ないのだ。議論
にもならない政府の賛美で占めてこれからのやり方や今の苦悩の脱出策など何処にもな
い。一方で馬鹿の細野はあれだけ大見得切って民主党をこき落として、野田氏に謝罪だ
と言う話だが 全くこんな薄っぺらの人間を何故選挙であげるのか。全く日本は人材が
いない。

669: 名無しさんAA:17/11/28 14:13
 やはりと言おうか何というか、中国は北朝鮮を利用して開発して来た様な様相が発表
された。中国中央テレビは26日、中国軍が開発を進めてきた新型大陸間弾道ミサイル
(ICBM)「東風(DF)41」が来年前半にも配備されるとの見通しを伝えたのだ
。核弾頭10個を搭載可能で北米全域を射程に収めるという。トランプ米政権が進める
最終段階高高度地域防衛(THAAD(サード))の在韓米軍配備などに対抗する狙い
があるとみられる。DF41の射程は従来より数千キロ・メートル長い1万2000〜
1万4000キロ・メートルで、命中誤差は100メートル程度。固体燃料型の採用で
燃料注入の時間が不要で迅速な作戦行動が可能となり、自動車や列車など移動式発射台
も導入されているという。中国の軍事専門家は、多弾頭化が進み敵国のミサイル迎撃シ
ステムを突破する能力が「非常に強まった」と指摘。別の専門家は、米露の最新ICB
Mと比較しても「一部の技術では上回っている」と強調している。これは一体何なのか
。まずTHAAD(サード)対抗と言うにはちょっと発表が遅い。更に北朝鮮が進めた
今までの実験が出来なくなったので、まあ自国にその性能データーの共有部分は取り入
れてと言う事だろうか。これまで北朝鮮の発射エンジンはウクライナで開発された液体
燃料式エンジン「RD250」のダブル噴射をシングル噴射に改良した型が搭載されて
いて、不思議な事だと思っていたのだが。これらのエンジンはがロシアまたはウクライ
ナから闇ルートで導入され科学者も連れてこられたのだろう。と予想されていた。だが
この資金が北朝鮮にあるのが不思議と思っていたし、その移動式車両が中国製でピタッ
と収まっていた事に違和感があった。ロシア企業の持つエンジンにはRD-217, RD-225 ,
RD-250 の三種があるうち、RD250が北朝鮮が使用したものに合致する と分析され
ていた。これは写真で見る限り確かでWエンジンである。それが単一の機械にマイナー
開発した理由はどうも噴射調整の電子機器が造れないからだろう。とされていた。ロシ
アからはこのツィクロンロケットエンジンの設計図は誰にでも供給可能との報道はあっ
ていたいたのだが、不思議にも北朝鮮の物真似エンジンがスタートすると、2016年にこ
れまでの開発していた従来のエンジンを簡単にあきらめて、新エンジンに変えた。同時
に一気に固体燃料になったのである。これにはどの国の専門家も違和感しかなかった。
と言うのも例え科学者や図面があっても、その環境が無い為一気に飛躍して開発が加速
する事はあり得ないのだ。


670: 名無しさんAA:17/12/02 11:43
 「各事業部門の収益がどうかだけを見ていて、品質管理など工場の生産活動に関する
諸問題を把握できていなかった」神戸製鋼所の川崎博也会長兼社長の11月10日の発言だ
。再発防止策に関する報告書を公表する記者会見の場で、品質データ改ざんの原因につ
いてそう述べた。端的にいえば、経営陣が重視したのは「儲けているか」だけであり、
それ以外は軽視していたということだ。まさにガバナンスの欠如を裏付ける発言であり
、その姿勢には首をかしげざるをえない。とニュースは伝えて居る。昭和29年という
正に団塊時代の安倍氏などの世代の無責任時代の考え方である。これらの世代は 全く
信用ならない世代であり、上の者に反発し下の者を見るに色眼鏡の時代であろう。徒党
を組んで体制を推し測る不毛な世代の牛耳るこうした事で 世の中は変化するが良くは
ならない。理想は高いが自らを律しないで 粛清をはかった数々の教団や赤軍派の横行
した時代の寵児でもある。今の日本の苦悩はこうした者らを育てた少し上の敗戦派時代
の落胆と混乱の亡霊と破壊こそ建設などとふざけた考えの下に壊された日本社会の体制
による。未来を高々と掲げても その根元の社会生活の実態を見ないで中国の風光明媚
な強固な街並みが次々と壊され、観光資源も環境資源も生活風景も無くなり人の居ない
高層ビル群を愛でて欧州文明に追いついたのだと誇張する姿と似た様なものだ。事実に
日本の中の生活システムは欲の皮の突っ張った消費文明にどっぷりつかり、かつての、
穏やかで賢明なささやかな生活はさせてくれない体制を次々と作り 貧民虐めと高給取
りに救済する経済に移行する政治に取り組んだ。トリプルダウンなどと嘘を付き、更に
取り立てやすい文句の無い労働者を経済奴隷にし、表向き暴力団対策などといっては、
一般社会を暴力的にして、それを活性化などと呼ぶ。更には議員報酬と公務員給与は今
やウナギ登りであり、かつての費用対効果の面では5分の1の仕事しかしていない。そ
れは時間であっても海外からの収入やGDP伸び率であっても下手すれば30分の1の
仕事しかしていないのである。今のこうした年寄りの退場しないで馬鹿に固執する様は
全く社会性は負の遺産である。それは総理自ら こうした加計森友と言った汚職問題で
解る様に 日本社会が先に行くどころかあの小泉氏以来後退する社会のみだ。まるで、
馬鹿の発想だ。アフリカ高原での象の集団が群れ伴ないながら道が迷えば水が飲まれず
死に絶えるか、水のみ場で押しやられるかである様に、日本は中国人にしてやられては
今や未来はない様だ。


671: 名無しさんAA:17/12/02 13:30
 世界新時代−‐‐01

韓国の持ち込んだ慰安婦問題と北朝鮮の持ち込む核ミサイル開発は同じ問題が横たわる
1876年に李氏朝鮮が日朝修好条規を締結し開国して、釜山と元山には、次第に日本人居
留地が形成され、日本式の遊郭なども開業して行った。日本式遊郭は他の国に先んじた
システムで一つの街として塀で覆われた特殊な環境にあった。しかし1895年の日清戦争
を境に、後には料理店でも芸妓雇用を公認(営業許可制)する事で、1902年からは釜山
や仁川、1903年に元山、1904年にソウル、1905年に鎮南浦で解放された遊郭が形成され
た。これまで一般的には外国人若しくは政府高官の相手だった公娼制度が、一般の金持
ちまで広がった形である。この氾濫により日本と同一の娼妓取締規則と婦女売買国際条
約を結び1900年には娼妓取締規則が制定された。これにより、娼妓の年齢を18歳以上
とし従来の15歳を高年齢化し、住居や外出に制限を加えた形を取った。つまり奉公人
的遊女制度を諸外国に合わせた公娼制度に変えたのである。これらは海外から持ち込ま
れた淋病による病人が増えた為、公娼制度の目的は性病(花柳病)予防と風俗頽壊防止を
目的としていた。この見本的日本の制度から、1904年に欧州12カ国で「醜業を行わし
むるための婦女売買取締に関する国際協定」が、ついで1910年に13カ国間で「醜業を
行わしむるための婦女売買禁止に関する国際条約」が締約された。国際連盟の中では、
規約23条でこれら取決めの一般監視を行うとした為、1921年の第二回国際連盟総会に
おいて「婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約」として23ヶ国で再締約された。こ
の時日本も条約に加盟したが、すでに娼妓取締規則があり年齢に関する条項の21歳未
満を禁止については留保した形になった。1905年の日露戦争の勝利によって日本で
は目まぐるしく国際化の波にさらされ、20才とする混乱を避けたかったのだ。既に朝
鮮は保護国として以降で、さらに日本の売春業者が増加していた現状があったとされる
。日韓併合ではソウル城内双林洞には新町遊廓が作られ、これは財源ともなった。1906
年に統監府が置かれるとともに居留民団法も施行、営業取締規則も各地で出されて制度
が整備され、同年には龍山に桃山遊廓(のち弥生遊廓)が開設した。日本人の居住地で
知られる京城の新町、釜山の緑町、平壌の柳町、大田の春日町などには数十軒から数百
軒を数える遊郭が設けられ、地方の小都市にも十数件の青桜(遊女宿)軒を連ねた。



673: 名無しさんAA:17/12/02 13:32
 世界新時代−‐‐03

つまり田舎出を上手く誘っては人身売買する習慣がこの頃の多く朝鮮人の常識的生活だ
ったのだ。こうした路上で甘言に騙されて、誘拐される事例が増加してきた背景には、
米国の人身売買の奴隷制度があった。売春業者に売却された朝鮮人女性の値段が 500円
〜1200円であったとされ、これは国際化した人の値段では相当高い値段だったのである
。第一次大戦時1ポンド=4.85ドルであり1ドル=2.04円だった。ということ
は1ポンド=9.894円。当時黒人奴隷が1ポンドとされた黒人が南北戦争や世界大
戦で人が減って5ポンドに上がったと記録がある。つまり5ポンドででも10円にして
50円であり、労働市場の黒人より高く扱われた。仮に20円時代に入っていたとして
も日本円の換算では100円で黒人達が売られた中では、5〜10倍の値段だったのだ
。こうした事で海外に輸出される女達で、国内は潤っても当然若い韓国人の性欲に与え
られないのである。だが中国の属国時代から韓国人には慣れたものであって、近親相姦
や強姦身売りを合法化していた常識がそこにはあったのである。近年朝鮮の欠陥DNA
問題はそうした長年の結果であると結論付けているが、この「怨恨感情文化」を醸成す
る性格は全く第二次世界大戦後も続いた。それがフィリピン駐留問題でありベトナムの
混血児問題である。実は韓国から出た「従軍慰安婦問題」は本来日本には全く関係ない
。と言うのも従軍慰安婦制度を創ったのは 日本軍で国民総動員令が置かれ一般朝鮮人
を徴兵してからである。それまでも公娼制度はあったし遊郭もあった。更に先の性病の
対策として軍部の管理下に置かれた事は昔からの事で、民間でもあった遊女部屋が進駐
した諸外国にも置いていたに過ぎない。尼港(ニコライエフスク)は、樺太の対岸で、
黒竜江からオホーツク海に注ぐアムール川の河口に位置する町である。世紀の残虐事件
として尼港事件で知られるが この時の街の事情も解っている。事件の一年前、1919年
(大正8年)1月の調査によれば、ニコラエフスクの人口は12,248人で、1919年6月 調査
では、日本人は領事以下 353人(男169人、女184人)となっている。職業の主な内訳は
商業、大工、指物、裁縫業、理髪、金銀細工、錺職等であった。日本人で唯一ニコラエ
フスク市商業会議所の議員であった島田元太郎は別格として、商店を営む日本人として
は、米、小間物、木材などを扱う川口力太郎、雑貨商の川内多市、溝上乙吉、菓子パン
製造業の百合野熊次郎などがいた。1918年1月調査の日本人数は499人であり、男女比は
ほぼ半々であったが、職業についている女性としては、娼妓90人、家事被雇人(家政婦
や乳母、女中として雇われている者)61人が主であり、残り100人の女性には 既婚者が
多い。つまり一般の商店と同じに娼妓と言う職業は 身売りや奉公は問わずあったのだ

674: 名無しさんAA:17/12/02 14:10
 世界新時代−‐‐04

 だがこの尼港でも朝鮮半島でも上海でも 何処でも日本が日韓併合してからは、彼ら
は道徳を宗とせず日本人を名乗ったのである。此処で大きな国際問題が生じたのである
。つまり西洋人には中国人も朝鮮人も日本人も見分けがつかない中で、今の慰安婦問題
に似た事件が爆発的に多発したのだ。大正9年(1920)、勝田汽船の「陽明丸」は
第一次世界大戦後ロシアの大暴動を逃れサンクトペテルブルグから逃避行し1年以上も
アメリカ赤十字社の保護のもとシベリアに滞留し送還のめどがたたないでいた4歳から
18歳の児子達約900人を極東のウラジオストックからパナマ運河を経由しほぼ地球
を半周して故郷のペテログラードまで約3ヶ月間の困難な大航海の末、ロシア難民の子
供達を故郷に送り届けた。この行為は称賛はされるが 何の支援もない義憤からであっ
たであったが 実はその裏にあるこの朝鮮人達の人買い組織の存在があったのだ。この
孤児達がペテログラードであろうがウラジオストックであろうが 本来は同じに見られ
ていた。そこで放置されていた。だが現実はかなり違っていた。当時のウラジオストッ
クはまだ建設途上で朝鮮人労働者や中国人労働者がいて その地下組織には粗暴な共産
パルチザンや中華クーリーの非合法九龍組織と繋がり 人を売る商売が成り立っていた
のである。つまり歴史的には人は太古の昔から 娼婦活動は食べる為に行っていたので
ある。だがそこに唐突として西洋列強の人身売買が現れたのである。そして朝鮮人はそ
れを真似て一部は成功した。そして阿片商売にまで手を出したのだ。勿論そうした行為
が昔の事で日本も似たり寄ったりはあっただろう。だが許せないのは日本人を騙り日本
の行為とした事だ。そのやり方が日本の様な女衒からの買い取りでは無く日本兵に扮し
た朝鮮人だった事は判明している。何故なら日本兵の軍服が貸し出され或いは地方の中
の方言の難しい所でも流暢な朝鮮語で村落の長老と話をしている事だ。まだ日韓併合に
なって無い頃からの話である。日本の身分制度は職業に特化して暖簾や家名を継いでい
たが、朝鮮の身分制度が家長制度の中の属国構造の保身であった事の違いがあった。更
に大陸にはモンゴル女真族の奇妙な風習に溢れていた。宴脳料理である。生きたままの
人間を檻に入れ、頭を金槌で叩いて割って生のまま共に食べるのが最高のおもてなしと
する料理であったり、嫁入り前の娘は必ず父親が孕ませてから嫁がせそれが出来なけれ
ば若い青年を雇ってでも婚前交渉をさせて居なければ嫁に出せなかった。更に敵を殺す
見せしめは日本では晒し首だが、ここでは首を刎ねれば逆さ貼り付けにして血を出す為
陰部は男でも女でも切り取って草や棒を指し良く血を出すと言う習慣である。これらは
日本人には衝撃的な風習で気味が悪い物だった。信長のシャレコウベの杯も風習であ

675: 名無しさんAA:17/12/02 16:52 ID:zmw
 世界新時代−‐‐05

 英紙インディペンデント「戦時下でレイプされたベトナムの女性たちは、生涯受ける
苦痛と損害に対する裁きを求めている。」 以前の本コラムでご説明したように、ベト
ナム戦争時、米の同盟軍としてこの戦争に参戦した韓国軍が13歳から14歳(の女性
)を含む数千人のベトナム女性に対し激しい強姦または性的暴行を行い、その残虐行為
によって多くの女性が妊娠・出産。彼女たちが産んだ混血児(ライダイハン、Lai Dai
Han )と蔑まれて、現在、ベトナムには5000人から3万人存在しています。と伝え
た。ところがこれは非常に野蛮な文化の組成である。つまりまともな平和な種族は減り
こうした破廉恥で恥知らずがのさばると言う構図はイスラム教ならずとも征伐すべき種
である事は明らかだろう。だがこの朝鮮社会には今進歩が目覚ましい人工知能の世界が
人を不幸にしている現実を垣間見る。能力が人間を超える「シンギュラリティ」(技術
的特異点)がいつ起こるのかという議論があるが、現実に韓国は中国に次いで比較的に
早くから電算化や情報技術化している。日本の様な基礎技術の蓄積はないもののカード
や自動認識や整形医療などだが、これによって圧迫されたのは若者の就業と株配当によ
る経営圧迫、更に過剰生産による自然淘汰の企業の出現であった。そうした事から、こ
国にはシンギュラリティはもう起こっているのではないか、と考えられる。人工知能、
より一般的に情報処理システムは、すでに人間の能力を超えてしまっている中で北朝鮮
からのサイバーテロは、韓国情報部の軍部までも情報が盗まれ今や深刻な問題が起こっ
ている。交通事故の多さもこの国の特徴の一つだがこうした事にまず機械に無い物の流
行がこの国の文化である事が解る。一つは「生殖活動や淫行」であるし一つは「恨怨の
感情」であり、一つは「賭博精神」である。つまり人間においても整理の付かない事が
機械にも煩雑すぎてより流行している。と言う流れである。賭博を一つとっても本来の
ルーレットゲームであれば機械の方が確率であっても認知からも勝つはずである。だが
此処に裏がある「玉入れ」或いは「サイコロ振り」はプロであり職業で好きな数にほぼ
入れられる事だ。つまり将棋の様な理論やカードの様な確率では無く手品の様な種なの
だ。


676: 名無しさんAA:17/12/02 18:20
 世界新時代−‐‐06

 TPP論議ででて来た問題は集団と個人の乖離である。とかく「国益を守る」という
言葉が鵜呑みにされて国家間の貿易競争で有利な位置に立つという意味に変換されがち
だが、産業界の利益と国民の利益更に政府と消費者とは必ずしも同じ立場ではない処で
。あくまで国民の利益を守る。国家の歴史を守るという意味の国益の追求を論じて欲し
い。特に軍産複合体の今日の飛躍的躍進は国民を脅かして止まない。「急進派ジャーナ
リスト」を自ら自称したI.F.ストーンは、20世紀代の苦悩するアメリカを代表しての
調査報道を行った記者だ。学術にも匹敵する緻密で徹底した調査によって政治スキャン
ダルを数々暴いた功績には輝くものがある。独特のスタイルで、報道界に大きな影響を
与え続け60年にわたる活動を通じて取り上げた問題は数多い。ニューディール政策、
第二次世界大戦、マッカーシズム、冷戦世界大戦、イスラエルパレスチナ問題、公民権
運動、ベトナム戦争と多岐にわたり、一貫してこの世を巣食う人の欲望をさらけ出して
批判している。彼の手で批判して止まなかったのは、マッカーシー時代の言論弾圧の中
での、国民生活の悲惨さであり公的医療保険の導入を阻む医療業界のボスを果敢に批判
してはマスコミから追放されたことであった。と言われる。結果は、先進国の中で唯一
、今なお公的医療保険制度を持てない不幸な米国市民の現実の姿であった。このストー
ンのような忌憚のない報道をして世の中が良くなるものを、わざわざ多くの人類や市民
や主流メディアはその場から排除すること望んだ。これがいかに危険であるかを、この
人の人生の中にある国際変動の歴史がよく物語っている。一人の手で4千部から出発し
た『週間IFストーン』は、最盛期の1960年代には発行部数約7万のを記録した。今又、
「すべての政府は嘘をつく」と題して公開に併せて再編集され彼の生涯と時の巨大米国
国家組織との闘いを描いている。ところがこの公開は意味深い明日をさらけ出している
。すなわち集団と個人の関係性の弊害である。集団は抜きんでた指導者を求め教育する
為に作られるが、その集団は指導者の決定によって悲惨な道を敢えて選ぶと言う性格だ
。誰もがよそ見して物事の本質を見失う事を望んで敢えて指導者が選ぶ道である。我々
が市民が本当に平和や安定安心の暮らしを願っているのかの問いだ。危険な物語に狂喜
して映画を鑑賞し、ハラハラ、ドキドキを現実世界にも追い求め悲惨な他の国を傍観し
現代文明の持つ消費文化を謳歌して食糧やエネルギーを欲望のままに浪費している社会
は一向にまともにならないのである。


677: 名無しさんAA:17/12/03 03:37
 世界新時代−‐‐09

 ところがこの戦前の話と済む話ではない事が起こっている。カナダ・バンクーバー市
に周辺都市リッチモンド市やバーナビー市などを含めた地域は「グレーダー・バンクー
バー」と呼ばれる。人口は約213万人、そのうち約40万人が中国系移民だ。彼らが
来たことで、かつて商社マンの駐在希望地の上位に必ず入っていたバンクーバーの街が
大変貌を遂げた。近年では交通事故が増え自分達も間違えられる。そう顔をしかめる、
30年近く暮らす日本人がそうぼやいている。或る時中国で贈収賄の容疑をかけられて
、大金を抱えて逃げ込んできた中国人親子がいたと言う。ボンクラ息子はBMWを買っ
てもらい、同じような中国人の仲間と夜中にカーレースをやり、途中で警察官をひき殺
して遊んで暮らしていた。これまで平和で安全だった街が彼らの少年ギャングぶりに集
団化したむろする姿に、住人らは少なからずショックを受けている。何故なら中国系の
移民たちは、免許証は賄賂を渡して買うものだと思っているから、交通ルールすらも覚
えようとしない。従って運転が荒いので、すぐ中国系だと分かる。急にUターンするか
ら、それを阻止するため、大通りの真ん中に花壇がわざわざできたほどだ。地元住民が
ぶつけられでもしたら、もっと大変だからだ。だがこの事件の裁判には一族郎党、現場
にいなかった人間までが目撃者として警察へ出頭し、まことしやかにウソ証言をする。
公営プールでも近年、シャワールームが大混雑する。原因は中国系の「入浴」である。
「石鹸、シャンプー&リンス、歯磨きセットを持参し、素っ裸のまま体をゴシゴシ洗い
、歯をガシガシ磨く。後ろに長蛇の列ができてもおかまいなし。白人はいいかげんにし
ろと何回怒鳴っても、しらんぷりされる。又トイレ問題も浮上している。中国人は洋式
トイレで用が足せないらしく、便座の上にまたがってやるから、便座に靴跡が残る。更
に水洗の習慣がないので、流さないから、トイレが異様に汚くなる。中国の国民は、全
ての行動を”損か得か”で判断する。ルールを守ることは損をすること、という意識で
生活している為マナーも信用もない。ましては契約や国際協調などさらさらない。そん
な中マナーの低さを実感するトイレは流さない、小便や大便が便器からはみ出す。その
まんま出る、それでも恥ずかしいとも何とも思わない。そんな性格なのだ。清朝政府は
外交交渉では何度も約束したが、それが実行される保証がない。最も政府に実行する気
がさらさらないし、実行させる力もない。少し情勢が変われば、たちまち前言を翻す。
軍艦で威嚇すれば譲歩するが、隙さえあれば約束を破る。報復を受けると、新しい利権
を提供して逃げる。それの繰り返しで半植民地になった。アヘン戦争から現代までの歴
史の背景には、常に条約違反や国際違反を繰り返した中国民の愚かな行為があった。

678: 名無しさんAA:17/12/03 03:39
 世界新時代−‐‐07

 「ジャーナリズムの本質は、真実を書き、弱者を守り、正義のために闘い、憎しみや
恐怖心に癒しの視点をもたらすこと。いつの日か、多様性ゆえに殺し合うのではなく、
その多様性を享受できる世界が実現することを願って。」とI.F.ストーンは伝える。
が、この試みが現代の特定アジア圏とされる朝鮮半島にあるとは思えない。フランクリ
ン・デラノ・ルーズベルト大統領は75年前の1942年2月19日に、大統領令9066号に
署名し、これにより12万人以上の日系の人々が収容キャンプに強制収容されました。
ここには7万人近くのアメリカ市民が含まれていた。ナチスの収容所が大量虐殺と宣伝
されたが、それは不衛生と餓死者によるものだった事が今では解っている。だが米国で
の日系人もこのナチスのユダヤ人狩りと同じ様に、いやもっと過酷に扱われた。ただ、
日本人の場合その地で野菜栽培や水や共同作業所を創り生活環境を良くする為に働き、
健康を維持し、幸いにも米国が敗戦に追い込まれ無かったから人々は生きて居た。この
時米国は日本とは戦争せずにいた時から入国拒否をしていた。実は米国人には支那人や
朝鮮人そして日本人の見分けがつかなかった。1882年 中国人排斥法が出来てアメリカ
へ入国できなくなった中国人は代わって、日本経由で日本人として移民として渡った。
1904年 中国人排斥法に日本人と韓国人を加えるよう動議され、以前からくすぶってい
た黄禍論が西洋社会を席巻してアジア人排斥同盟が結成された。つまり日本人には寝耳
に水の状態であったが、朝鮮人の悪さと中国人のずる賢さ、更に日本人の真面目さに、
危機感を募ったとされる。1907年のサンフランシスコで反日暴動は後からやって来た、
朝鮮人達と中国マフィアの縄張り争いから起こった。実は日露戦争以前から中国人であ
る支那人の横暴さは認められて、1882(明治15)年には既に支那人移民禁止法成立して
支那人はアメリカに移住できなくなっていた。だがイギリスから発せられたアフリカの
黒人奴隷の人権解放を議会で突き上げを受けて、黒人の代わりに支那人を代用としての
植民地経営に変化させて、その禁止法を解いたのである。当時の朝鮮や中国がかなりの
悲惨な状態に陥っていたのは周知の通りで、一斉に移民としてアメリカ上陸を果たした
事は米社会の環境が大きく暗黒社会に変わった事を意味していた。又日本の日清日露の
や大戦での勢いに米政府としても1906年(明治39)にオレンジ計画(対日戦略)を確定
する程に危機感があった。中国大陸ではその結果として、資本家は多くの支那人に日本
人を叩く事を支援した行為に没頭し反日活動を煽り始めた。これにサンフランシスコで
大地震が起こった。この時日本政府、サンフランシスコ市に見舞金50万円(現在の十
数億円に相当を送ったのだがこの行為は報われることなく、地震調査のために渡米した博士等は投石され、日本人料理店はボイコットされるに至る程に米政府やロシアのプロパガンダは成功していた。

679: 名無しさんAA:17/12/03 03:40
 世界新時代−‐‐08

 なぜロシアのプロパガンダが成功したか。それがアジアの大陸横断鉄道の建設にある
。この工事にはユダヤ金融資本とロシアの国家経営と日韓併合に反対していた朝鮮人の
奴隷商会と中国人クーリーの苦役人夫達が暗躍していたのだ。ユダヤ資本はハリマンの
協議で解る様に満州鉄道を共同経営を持ち掛けた人物だが、彼らが日露戦争でロシアと
の人脈がいる事は当然であった。更にその後抗日に厳しい中で渡米する朝鮮人や中国人
九龍会がアヘン売買と共にアメリカ社会に人脈を築いた事は良く知られている。彼らが
シチリヤマフィアやメキシコギャング或いはパナマ資本などの使い走りや用心棒として
台頭していた事も明らかだった。実は我々が勘違いするのは朝鮮人と言うの人種は多種
に渡っていて渡米した多くの者は体格も良く日本人より背が高い細目の言わばモンゴル
人に近い姿であったのだ。それは鎌倉時代既に元寇時代に支配されてその子孫達が王朝
の基礎を築いていたのである。彼らの蛮行はギャングと共にあった為留まる事は無かっ
た。その為チャイナタウンは多くの襲撃を受けていた。勿論日本人街も同じに受けた。
だが、日本からの移民は武士だった。つまり暴動で店がやられる事はあったが多くは、
片腕を日本刀で切り捨てられる事になった。この違いがあった。そこにドイツ移民が、
黄禍論を持ち込んで来た。こうして排斥運動は アジア排斥同盟は1905年5月14日には、
サンフランシスコにおいて67もの労働組合によって結成された大きな業界方針になっ
た。最初の会合に集まった労働運動指導者(ヨーロッパ系移民)の中には、サンフラン
シスコの建設労働組合評議会や、海員組合も加わっていた。この組織の目的は反アジア
の宣伝を広げ、アジア系移民を制限する法律に影響を与えることにあった。特に対象と
なったのは、日本人・中国人・韓国人であった。アジア排斥同盟はサンフランシスコの
教育委員会に圧力をかけ、アジア人学童を分離することに成功している。このアジア排
斥同盟が報告によれば、1908年までに231の組織が提携し、そのうち195の組織は労働組
合であった。カリフォルニア州検事総長は、アジア人の財産所有を制約する法律の制定
に尽力した。こうしてアメリカの新聞には、度々「日本軍がハワイに上陸した」「日本
がメキシコと同盟を組んだ」「日本がアメリカに最後通牒を送った」といったフェイク
ニュースが流れはじめた。その後1907年(明治40年)にサンフランシスコで反日暴動起
こって多くの日本人が殺傷された。この事を重視して翌年には米国政府と紳士協定を結
んだ。だが1913年いとも簡単に紳士協定を破り、アメリカで排日土地法が発令されて、
日本人を帰化不能外国人とする事を蹴ってされた。

680: 名無しさんAA:17/12/03 03:46
 世界新時代−‐‐09

 ところがこの戦前の話と済む話ではない事が起こっている。カナダ・バンクーバー市
に周辺都市リッチモンド市やバーナビー市などを含めた地域は「グレーダー・バンクー
バー」と呼ばれる。人口は約213万人、そのうち約40万人が中国系移民だ。彼らが
来たことで、かつて商社マンの駐在希望地の上位に必ず入っていたバンクーバーの街が
大変貌を遂げた。近年では交通事故が増え自分達も間違えられる。そう顔をしかめる、
30年近く暮らす日本人がそうぼやいている。或る時中国で贈収賄の容疑をかけられて
、大金を抱えて逃げ込んできた中国人親子がいたと言う。ボンクラ息子はBMWを買っ
てもらい、同じような中国人の仲間と夜中にカーレースをやり、途中で警察官をひき殺
して遊んで暮らしていた。これまで平和で安全だった街が彼らの少年ギャングぶりに集
団化したむろする姿に、住人らは少なからずショックを受けている。何故なら中国系の
移民たちは、免許証は賄賂を渡して買うものだと思っているから、交通ルールすらも覚
えようとしない。従って運転が荒いので、すぐ中国系だと分かる。急にUターンするか
ら、それを阻止するため、大通りの真ん中に花壇がわざわざできたほどだ。地元住民が
ぶつけられでもしたら、もっと大変だからだ。だがこの事件の裁判には一族郎党、現場
にいなかった人間までが目撃者として警察へ出頭し、まことしやかにウソ証言をする。
公営プールでも近年、シャワールームが大混雑する。原因は中国系の「入浴」である。
「石鹸、シャンプー&リンス、歯磨きセットを持参し、素っ裸のまま体をゴシゴシ洗い
、歯をガシガシ磨く。後ろに長蛇の列ができてもおかまいなし。白人はいいかげんにし
ろと何回怒鳴っても、しらんぷりされる。又トイレ問題も浮上している。中国人は洋式
トイレで用が足せないらしく、便座の上にまたがってやるから、便座に靴跡が残る。更
に水洗の習慣がないので、流さないから、トイレが異様に汚くなる。中国の国民は、全
ての行動を”損か得か”で判断する。ルールを守ることは損をすること、という意識で
生活している為マナーも信用もない。ましては契約や国際協調などさらさらない。そん
な中マナーの低さを実感するトイレは流さない、小便や大便が便器からはみ出す。その
まんま出る、それでも恥ずかしいとも何とも思わない。そんな性格なのだ。清朝政府は
外交交渉では何度も約束したが、それが実行される保証がない。最も政府に実行する気
がさらさらないし、実行させる力もない。少し情勢が変われば、たちまち前言を翻す。
軍艦で威嚇すれば譲歩するが、隙さえあれば約束を破る。報復を受けると、新しい利権
を提供して逃げる。それの繰り返しで半植民地になった。アヘン戦争から現代までの歴
史の背景には、常に条約違反や国際違反を繰り返した中国民の愚かな行為があった。

681: 名無しさんAA:17/12/04 16:57 ID:cjA
 世界新時代−‐‐10

戦争にはまった事を天皇はこう回想している。「この原因を尋ねれば、遠く第一次世界
大戦後の平和条約の内容に伏在している。日本人の主張した人種平等案は列国の容認す
る処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州(カリフォルニア)移民拒否の如きは、
日本国民を憤慨させるに十分なものであった。又青島還付を強いられたことも亦然りで
ある。かかる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上がった時に、之を抑へることは
容易な業ではない。」と述べて居る。欧米人の有色人種の差別意識は相当強いもので、
例えば、米への日本人移民は「写真結婚」を行うに至っていた。つまり日本人との結婚
が果たせなかったのだ。写真、履歴書を故郷の仲介者に渡して、文通だけで交際して、
入籍して渡米するというものです。こういう文化の違いも奇異の目で見られて攻撃材料
にされた。男女同権などほど遠く米国でさえ行わない中でも奇異に映っていたのである
。既にこの排日運動が起こった当初の日露戦争のときには、日本を支援していたセオド
ア・ルーズベルト大統領は「排日は日米関係を危うくするもの」との認識をしており、
息子宛の手紙で「余は日本の問題(排日)では痛く悩んでいる。カリフォルニア、特に
サンフランシスコの大馬鹿どもは向こう見ずに日本人を侮辱しているが、戦争となった
暁には、その結果に対して責任を取るのは国民全体なのである。」と書いている。そし
て議会の演説で注意を促し、これ以上、日本人への迫害が続くなら、合衆国軍隊の出動
も辞さずとまで警告していたのだ。こうして1908年の日米紳士協定が結ばれ事は鎮
まる筈だった。だがハリマンの来日での共同経営工作失敗でユダヤやドイツは国内工作
し更に再燃した。1913年に再び排日が噴出し、1919年でのベルサイユ会議では
日本が人種平等を提唱し世界は日本叩きを政府として行った。排日運動の再燃化した影
で移民法案が着々と進められていった。世界は日本をユダヤ以上に冷遇する事を決めた
。これに厳重に抗議します。もはや日本は移民の受け入れではなく、差別的扱いの中に
置かれ日本国民を憤慨させるものとなり、世界の友好のためにならない、と主張しても
相手にされなかった。移民法案は可決され日本の反米世論が沸騰し、日本のマスコミは
連名で「排日移民法の成立は内容において人道に背き正義に反するのみでなく、日米両
国の伝統的信用と道義を無視したる暴挙である・・。」との抗議をした。あちこちで、
集会が開きます。この中には「米国民に訴ふ」「日本同胞国民に与ふ」と遺書を残して
割腹自殺を遂げる人まで十数人が出た。両国国技館での集会は3万人が集まったといい
、日本国内では、世論沸騰状態だったのだ。


682: 名無しさんAA:17/12/04 16:57
 世界新時代−‐‐11

 此処に挙げられる支那人や朝鮮人は実は昔からの土着民ではない。混血によって出来
た女真族系でありモンゴル人系統ではあろう。つまりウイグル人でも漢民族でもない。
ましては朝鮮人でもモンゴル人でも大和民族でもない。勤勉な北方騎馬の清王朝の人々
の末裔なのであろう。その意味では日本人も中国人も朝鮮人も全くの混血であり米国も
欧州各国も又同じであろう。さて問題はそこである。こうしてドイツや米国の人種差別
によって日本は戦争に陥ってしまったのだが、第二次世界大戦以降も全く同じだった。
中国は戦勝国に仲間入りしたが、日本を敗戦に陥れても全く和平運動に及んだ訳ではな
い。又中国大陸を人民のものとしたか。全くその気配はない。ソ連はロシア革命で自国
を共産革命の意志を満たせたはずだが労働者は西側より幸せだったか。それはない。核
を持った米国に対立しようと多くの欺瞞の血は流れて行った。英国は独国の非を世に問
うたがその後世界平和を全うしたか。とんでもなく違ってアイルランドと抗争し香港島
を持っても中国に人権を持ち込まなかった。イスラエルに勝手にユダヤ人と称する贋物
のユダヤ教徒を送り込んだ。更にロヒンギャ問題はそうした勝手に送り込んだインド人
兵士の末裔であるし中東問題は自国の利益で起こした国境問題でもある。仏国は高らか
に「自由・平等・博愛」を掲げたが その進出は中南米やアフリカでスペインや英国と
の抗争劇に埋もれて居る。勝手に引かれた植民地時代の国境線はどこの国でも今や紛争
の種に変化している。米国は朝鮮半島でもベトナムでも中東でも東欧でも中途半端に介
入しては核をちらつかせては威嚇し、人々に愛国心や闘争を引き起こしては、自国内に
逃げる軍人達を要した。宗教でも文化でも技術でも兵器でも彼らに一貫した姿勢は無い
。アメリカ帝国主義でパンアメリカンを説き、アメリカ市民とする意志統一を図るが、
アメリカイズNo1は何がNo1なのかは問わない。国家宗教はユダヤ教かと言われれ
ばユダヤ主義ではないと言い、国はキリスト教と答えるが資本の90%以上がユダヤ資
本で成り立って軍需産業は排斥主義を色濃く貫く。多民族文化だと人種のサラダと問わ
れる程移民で成り立つが、それでも白人主義を貫き今でも人種差別は凄まじい。こうし
た二枚舌の国内政権は国外の外交にも色濃く残る。平和の為と言いながら武器輸出や紛
争国への調達を怠らない。ロッキードマーチン社は株主に言う「我々の(イラクシリア
の紛争解決をみても武器)商売は今だ小さくなく今後3年間は大きく拡大している。」


683: 名無しさんAA:17/12/06 12:27 ID:IEM
世界閲覧 01

 金融資本論の中で「デリバティブ金融理論」の王道の中に米国はハマった様だ。そも
この金融理論は「LTCM破綻」で解るように4つの定理から起こっている。確率論と
しての中心極限定理である「平均値の行く方向に流される。」と言う衆同誘引の法則と
「予言の自己成就論」と言う「間違っていても人は意識し信じた方向に歩き突き進む」
と言う「イワシの頭の信心から」と言う「生物の習性法則」と、更に世界経済はカタス
トロフの悲劇は見る事はない。とする気休めの天変地異は起こらないと言う「杞憂不還
の法則」。更には分散した物体にベクトル的解法を用いて「リスク」と「不確実性」を
分けた分散隠蔽から生じた「不明不考」からだ。そも解らない物は見えなく、見えなく
ば考える事もない。と言うものだ。リスクは想定された事象で確率がわかるもの、した
がって保険が可能だが、それに対し、「不確実性」は想定範囲にも入っておらずその確
率は測れない。としたのだ。「確率」自体が成立しない。いわば、本物の不確実性と述
べた古典法則には沿っていなかった。その意味で、ケインズが賢くも確率論の古典「デ
リバティブの起源」を展開した確率思想、つまり数値としての確率概念は不可能でも、
確率概念は半順序としてのみ可能とする意識があった。「デリバティブ」は金融派生品
と言う意味で多くはオプションと先物とに言われる。オプションは日本語的には予約で
あり権利への投資である。先物とは「帳簿取引」であり架空の現物取引で現実的に期限
が来れば欠損や利益は処理される。いずれも今後の予想で取引が成立され、そこに科学
的見地を取り入れたのだ。この社会的事態に金融科学は確率を扱う事によって重要な見
地を得たのである。1700年代に起こった「ベイズの定理」とよばれる逆確率計算法
を基礎に統計学の体系が出来た。ベイジアン・パラダイムの実際計算法は統計的な品質
管理の考え方を、ややむりを承知で統計理論に仕立てたものであったが、統計学が品質
管理に有効である事を見せ始めた。例えば芝生で2つのゴルフボールがカップインする
かしないかは二者択一でしかない。だが、これをボールを打つ前に賭けをすれば賭け率
がでる。これが統計学だ。その分け方は一般的には人間で分けようが芝生の種類で分け
ても天候だったり季節であったり温度だったり色んな視点があるだろうが、回数をかけ
れば一般的統計学となり得る。だが此処での賭け率はそれを一変する。つまり9割が成
功を賭けた時、幾人かはその為に失敗に賭けるのだ。そこで異常な最高値と最低値を切
り捨ててその分散値をグラフにしたのである。


684: 名無しさんAA:17/12/06 12:28
世界閲覧 02

 「セイ法則」は「近代経済学の父」リカードが採用したことで、マルクス、ワルラス
、ヒックスといった多くの経済学者によって継承された。ケインズで否定され、その問
題点が認知されと「あらゆる経済活動は、物々交換にすぎず、需要と供給が一致しない
ときは価格調整が行われ、仮に従来よりは供給が増えても価格が下がるので、ほとんど
の場合需要が増え需要と供給は一致する。よって、需要(或いははその合計としての国
の購買力や国富)を増やすには、供給を増やせば良い。」とする市場の自動調整論は多
くの経済学で却下された。このジャン=バティスト・セイの「経済学概論」に叙述した
販路法則は、「セイ法則」とされ、それまで信じられてきた。この法則が主張する点は
、経済の後退は財・サービスへの需要不足や通貨の不足によるものではなく、供給不足
とする点にある。これらは古典経済学とされ、「ケインズ革命」での「根幹を成してい
るのは、有効需要の原理である。」と言う主張と真っ向から対立した。この「供給量が
需要量(投資や消費)によって制約されるはずだ」という有効需要によってGDPは決
まる。とする主張は、従来の古典派の主張は、特殊形態であって唯一可能となる時は、
完全雇用における「均衡GDP」を下回って均衡する「不完全雇用を伴う均衡」の可能
性認めたものに過ぎない。と仮定した。つまり労働者が誰もが生産して均衡しても、「
需要と供給」のパランスが取れても、供給側の調整のみではGDPは増えない。幾人か
の休業者で調整しても需要を喚起しない限り制約される。と論じたのだ。このような原
理から、有効需要の政策的なコントロールによって、完全雇用GDPを達成し「豊富の
中の貧困」という逆説を克服することを目的とした「総需要管理政策(ケインズ政策)」
が起きた。このケインズ経済学の根幹を成しているのは、「有効需要の原理」だがこの
事に軍産複合体つまり兵器産業は飛びついて利用した。こうして「ケインズ革命」は、
戦争を引き起こし戦争によって達成された。つまり、一般的な需要と供給が許す範囲で
は需要こそが至上命題となっていったのだ。この中で不完全雇用は、その原因が貨幣賃
金の硬直性にあるとされる。「ケインズ一般理論」は、この主張は古典派経済学に属す
るとして退けられている。貨幣賃金の引き下げに@「社会全体の消費性向」に対して、
あるいはA「資本の限界効率表」に対して、あるいはB「利子率」に対してに影響を及
ぼすことによる以外には、雇用を増加させる持続的な傾向をもたない。とした。つまり
貨幣賃金の引下げの効果を分析する方法は、貨幣賃金の引下げががこれらの3要因に及
ぼす効果を追求する以外にはない」とケインズは語る。消費指向と資本限界と利子率の
低下以外に何も起こらない。としているのだ。

685: 名無しさんAA:17/12/06 12:28
世界閲覧 03

 この二つの理論、つまり「ケインズの経済学」と「マルクスの古典的経済学」は多く
の日本人には、馬鹿な議論に見えた。つまり古典的経済学は供給側が支配する、いわゆ
る「御祝儀相場論」であり「乱獲市場論」であったし、ケインズの消費者経済学は更に
上を行った「飢餓時代の食糧論」だったからだ。この二つは人の本質である「欲望原理
」から来ている事は明白であり自然現象や改革的改善とは袂を解れた所にあったからだ
。それでも今尚サプライサイド経済学として新古典派を名乗り、「供給力を強化するこ
とで経済成長を達成できる」と主張する一派と、「経済生産より早い貨幣供給量が増え
ることによってのみ生まれ得るインフレーションとは、いついかなる場合も貨幣的現象
である」としたケインジアン(ケインズ経済学者)マネタリストは「貨幣数量説」に再
び光を当て、裁量にかわってルールに基づいた政策の実行を主張する一派が、対抗した
理論を自慢げに語る。だが現実社会では多くの不幸や悲劇しか産んでいないこの経済理
論が実は現実社会を模倣した模擬理論に過ぎない。先の「LTCM破綻」の原則から言
えばCの青天の霹靂は考えない。と言う事で進んだ理論である事は明白だからだ。例え
ば、中国や北朝鮮の社会でそうした経済理論が成り立つのだろうか。答えは「NO」だ
独裁者の下にある経済はあくまで「忠誠」のでありその為の「信心」と「環境」なのだ
。中国式偽札は回収は出来ない。又北朝鮮式偽札は既にITコインとして世界で通用す
る。又例えば今現在で50発程の核兵器が今後200発程の水爆が製造出来たとして、
アメリカは今の様な株式上昇で経済活動を行えるのだろうか。今のイエメンやシリアの
様に町が破壊されると予想しても 北と一戦を交えても平然と戦い、株式上昇を引き起
こしたいと政府は考えて居る。日本がかつて第二次世界大戦でいわれのない制裁から、
戦争を起こし、戦後復興さえも ままならぬ中で必死に食いつないで大和民族が復興を
得たのは歴史的事実である。此処にあるのは純粋な経済論ではない。疲弊した生活難で
の助け合いや物々交換や物乞いと奉仕と布施の精神でしか成り立っていない。つまりは
ブレトンウッズなど色々な工作はあったが それ以上なのは文化財の国外搬出であり、
戦闘機や戦艦の爆破であり、黄金や絵画や古文書の盗難であった。此処には強盗と同じ
アメリカ初めの連合国の強気しかなく経済論では話されない例えば朝鮮人の暴行などが
大きく社会に影響していたのである。


686: 名無しさんAA:17/12/06 23:47
世界閲覧 04

 日本での講と言う最寄りの仏教寺院が、神社に対抗して門徒相手に資金援助し利子を
つけて資産を増やしだしたのは、飛鳥時代の朝廷の寄進からであると言われる。当時は
腹を空かした孤児の為に学習塾の様な形での経営に布施を求めて、集まった金で運営を
していたものとされる。ところが平安末期から盗賊や悪と言う荘園制度での賄賂と武力
による自衛が求められた。此処に子供以外寺の門徒以外の養いが必要となった。博打が
はびこり、その内企業経営としての寺の運営が必要になった。そこで行われたのが講で
ある。神社ではしめ縄をして売り市場をしてその枠の権利で潤っていたが、仏閣では、
全く経営は死者の弔いしかなかった。そこで貯蔵米を各家庭に求め、寄進でその集まっ
た米による施しの祭りと振る舞いをし、起こったのが一年間の猶予に於ける金の貸し借
りであった。農民しか産子に持たなかった神社に比べ 仏閣では木工業者や金鉱労働者
まで入れて商売をした。つまり数珠も仏像も三鈷も経文も、ある意味村の経営や資本の
蓄積に大事な商工業の育成の為だった。こうした者らの独り立ちに支援し一年後には、
より多くの返済と報酬をして次の講を募ったのである。富くじもその一環だった。江戸
時代には海運送が整備され藩の経営として寺社仏閣は幕府の管理となり、そこには人の
戸籍を持つ事実上の役所とまでになった。安定すると各藩には商工会所が出来大阪では
その中央としての米会所が株売買をおこなった。これが世界初の株式上場の会所だった
とされる。各藩は江戸幕府の締め付けで多くの台所は火の車だった。参勤交代のあるま
では人々は関所などなく自由往来が出来ていた。だが参勤交代が始まる頃は領地が確定
し米の取れ高は税を資本として藩財政の主体となり格式が問われた。最初は余剰米での
米相場だったがその内には、藩の発行した藩券によって売り買いがなされ米相場には、
先物が出来た。つまり二百俵の米の値段が例え20円でも200円でも買い付け券をし
て発行されれば期限にはそれを母国からでも他所からでも買い付けて蔵に納めなければ
ならなかった。そこで藩券を商人に渡して銀貨をしてそれを用意したのだ。それが出来
たのは日本が米を主食にしながらも野菜や魚で生き延びて来れたからだ。これが先物の
本質だった。世の中の集まる米俵は決まっていた。ところが相場は違っていた。誰もが
高い時売り安くして買い入れたいと願い藩券を乱発したのだ。当然弱小藩は相場の餌食
であった。そこで特産品を作り売ってそこをしのいだのだった。これが経済だった。


687: 名無しさんAA:17/12/06 23:47
世界閲覧 05

 この米相場を参考にして 会社の株を運用したのが米国の株式の始まりで、日本の講
から出た英国の保険の銀行取引と米国の株式取引は実は日本が手本になっている。だが
日本ではその加熱する相場を知っていた。オランダでチューリップ相場で荒れる前から
日本ではより以上の資本の下では成り立たない事が石山本願寺などの講で解っていたの
だ。よく織田信長の楽市楽座を言われるが、この市場の画期的な事は寺領の桝売りと売
り上げの一割の手数料が常識だったし、その前にそうした座の会員料を払わなければ市
で売る事は出来なかった。所謂市の権利権を会員料金で払う賄賂の世界である。その手
数料を一定とし、藩内を桝売りの差配を藩のものとし誰でもが小さな商店すら出せる事
になった事が画期的だったのだ。此処に石山本願寺などの寺社領としての権利と城や藩
主としての権利とに確執が起こったのである。経済的に言えば寺社の荘園経済から藩主
による藩経済に変わった事になったのだ。そして朝廷の奉貢経済も生き残ったままであ
った。実はその株式が出るまで世界経済は実質経済の中で動き 金の生産量でしかなか
った。その為江戸時代に日本の金貨を諸外国は欲していた。何故それが出来たかと言え
ば金の量が少なくても貨幣価値を調整すればそれが出来たのである。更に日本でも同じ
様に貨幣は銅や銀が使われていたのである。が逆に言えば世界は日本の門戸が開かれる
まで全く同じ銀貨の価値の中にいたのだ。これが皇帝の銀の燭台とされる理由だ。とこ
ろが日本だけは藩札と言う紙幣や約束手形の信用商売が行われていた。そして銀は安く
取り扱われ米相場でも相対硬貨は銀だった。理由は簡単だった世界の大帝国の殆どが扱
い中国皇帝までもその量で国家威力となる国際通貨だったからだ。中国清王朝が滅びた
のはアヘンでガタガタになり砲艦外交でひざまずいたと言われるがその賠償金の銀塊が
尽きた事による。つまり結果的に徳川幕府の方が量的は少なくても金貨からの銀の分離
に成功して永く保てていたからだった。それだけ開国までの混乱が無かったと言える。
だが今や通貨は印刷すれば世界に氾濫する。そしてもはや印刷さえも必要ないIT通貨
が世界に広まりマネーロンダリングさえ必要無くなった。だが直ぐに破滅する1千倍の
速度のパソコンが登場したからだ。もし今後も中国国民がより以上の経済的優位性を狙
っているとしたらそれは不可能だろう。既に地球は危機に瀕している。アメリカでさえ
この地球をガタガタにし絶滅種を増やし続けたのに中国民ともなれば もはや絶望的で
あろう。


688: 名無しさんAA:17/12/06 23:49
世界閲覧 05

 この米相場を参考にして 会社の株を運用したのが米国の株式の始まりで、日本の講
から出た英国の保険の銀行取引と米国の株式取引は実は日本が手本になっている。だが
日本ではその加熱する相場を知っていた。オランダでチューリップ相場で荒れる前から
日本ではより以上の資本の下では成り立たない事が石山本願寺などの講で解っていたの
だ。よく織田信長の楽市楽座を言われるが、この市場の画期的な事は寺領の桝売りと売
り上げの一割の手数料が常識だったし、その前にそうした座の会員料を払わなければ市
で売る事は出来なかった。所謂市の権利権を会員料金で払う賄賂の世界である。その手
数料を一定とし、藩内を桝売りの差配を藩のものとし誰でもが小さな商店すら出せる事
になった事が画期的だったのだ。此処に石山本願寺などの寺社領としての権利と城や藩
主としての権利とに確執が起こったのである。経済的に言えば寺社の荘園経済から藩主
による藩経済に変わった事になったのだ。そして朝廷の奉貢経済も生き残ったままであ
った。実はその株式が出るまで世界経済は実質経済の中で動き 金の生産量でしかなか
った。その為江戸時代に日本の金貨を諸外国は欲していた。何故それが出来たかと言え
ば金の量が少なくても貨幣価値を調整すればそれが出来たのである。更に日本でも同じ
様に貨幣は銅や銀が使われていたのである。が逆に言えば世界は日本の門戸が開かれる
まで全く同じ銀貨の価値の中にいたのだ。これが皇帝の銀の燭台とされる理由だ。とこ
ろが日本だけは藩札と言う紙幣や約束手形の信用商売が行われていた。そして銀は安く
取り扱われ米相場でも相対硬貨は銀だった。理由は簡単だった世界の大帝国の殆どが扱
い中国皇帝までもその量で国家威力となる国際通貨だったからだ。中国清王朝が滅びた
のはアヘンでガタガタになり砲艦外交でひざまずいたと言われるがその賠償金の銀塊が
尽きた事による。つまり結果的に徳川幕府の方が量的は少なくても金貨からの銀の分離
に成功して永く保てていたからだった。それだけ開国までの混乱が無かったと言える。
だが今や通貨は印刷すれば世界に氾濫する。そしてもはや印刷さえも必要ないIT通貨
が世界に広まりマネーロンダリングさえ必要無くなった。だが直ぐに破滅する1千倍の
速度のパソコンが登場したからだ。もし今後も中国国民がより以上の経済的優位性を狙
っているとしたらそれは不可能だろう。既に地球は危機に瀕している。アメリカでさえ
この地球をガタガタにし絶滅種を増やし続けたのに中国民ともなれば もはや絶望的で
あろう。あまりにも理性や道徳がなさすぎる


689: 名無しさんAA:17/12/07 06:40
世界閲覧 06

 この世の中で何故白人社会が兵器を開発し 何故黒人社会が虐げられ アジア中南米
がその争いに巻き込まれたのか。それは糞族の野蛮さに他ならない。そしてそれが今の
童顔で割腹の良い体格の良いモンゴル系朝鮮人の考え方である。まず芯が無い道徳が無
いその上信義がなく歴史を学ばない。自分勝手で約束を守らない。対して人類の進化や
進歩は信心からしか始まらない。此処にロシアの苦悩がある。古来よりロシア人は芯の
強い者の証として北方に住むことが出来ていた。ところが糞族は度重なる戦果を得ては
帝国を作り上げてボルガの川辺にも朝鮮半島の岬にもやって来て勢力を持った。当然に
日本に逃げ延びた朝鮮の先人達であるツングース族は宮崎などで隼人族として受け入れ
られた。紀元前の話である。だが本来ツングース族の骨格は大きくフン族よりも優れた
体格の筈なのである。つまり日本人の祖である大和民族倭人であり又移って来たのは、
刺青した鯨人だったのである。彼らが何故鯨人と呼ばれたかは諸説あるが海人であり、
船を操ってやって来た筈だ。日本で言う海幸彦と山幸彦の神話に残る物語と同じであろ
う。先に言った様に経済的には海の民が山の民と同居する事はそう難しい話ではない。
更に双方の文化的価値からは海の食べ物と山の食べ物を採る事が出来てより豊かな暮ら
しが出来たとも言える。又北欧に於いてもヨーロッパ社会では住み分けは出来ただろう
。だが問題も起こっていた。つまり陸続きであった為このアルタイ系の騎馬民族は執拗
に何回もやって来たであろうと言う事だ。それによってアテネやスパルタなどの都市国
家が滅びた。加えて彼らにはバビロンの煉瓦作りやアスファルトや鉄器などの技術集団
もやって来た事だ。日本には鳥取砂丘が有名だがアフリカやアジア或いは中東の砂漠は
日本の砂漠と違って 文明の進化と共に木々を活用した文化によって砂漠を作りだし、
古代文明は滅びたとされる。この事は歴史的事実として裏付けされている。勿論米国の
砂漠の様に放牧や山火事などの乾燥した大地での生活風習も動物が新芽を食べ皮をはぎ
そうした自然環境も手伝っての砂漠化でもあったろう。だがその現象を昔の事だなどと
過去には出来ない。紀元前500年から紀元後500年まで千年間で起こった事が、そ
の後500年から1500年までの千年間に同じ様に起こっていたからだ。そして今、
又同じ様に1500年から今までの凡そ五百年間は地球資源の食いつぶしと言う面では
全く同じ展開を見せて居る。どんなに新しい生活や新エネルギーを得ての人の生活であ
ったとしても 植物自体の生産活動が無くなれば人が生きる事など殆ど不可能なのであ
る。世界の巨大都市の中にはそれが解っている都市構造にはなっていない。


690: 名無しさんAA:17/12/19 15:41
 世界新時代−‐‐20

 なぜTV局は今更ながらに 貴乃花問題に固執し、議員の小さな不倫問題に終始する
のだろうか。折角の安づくりのワイドショー番組を構成しているというのに。である。
今海外では大変な状況に陥っているのに。まずロヒンギャ問題は対岸火事では済まされ
ない様相に変化している。つまりミャンマー軍事政府は何ら基本的手を尽くさないで、
アウン・サン・スーチー女史の言動すら嫌悪したようだ。此処にきてバングラデシュ政
府とミャンマー政府を飛び越えて、仏教徒対イスラム教徒の対立に発展していく雲行き
である。もともとこの地は海の民ロヒンギャとしてミャンマー政府とは関係ないインド
洋上の民の墓所と水の供給場所だったのだ。これが中国支援の言葉に乗って今後開発し
中国からの鉄道乗り入れを目的に追い出しを図っていると言うのがもっぱらの見方だ。
これが今後インティファーダ―のイスラエルの様になるのは必至の雲行きなのだ。中国
政府は知らん顔しているが、これまで陸上の兵士の放火だったが今やヘリコプターや機
関銃などの虐殺に変化して拡大しているのである。本家イスラエルも知っての通り米国
大統領の突拍子もない発言でペルシャ人やアラブ人を怒らせている。イスラム教徒の対
イスラエル政策に火を付けた格好だ。だがイスラエルとサウジアラビアはいつの間にか
仲良しになっている仲だ。つまりは対イラン包囲網の一環である事が伺えるのである。
現実にロシアのテロにアメリカとの連絡で未然に防ぎ捕まえたとして、プーチンが感謝
している。そしてこんなにアメリカと仲良しだとアピールして選挙戦にでている。だが
加来言うロシアも国家経営には色々模索してる筈だ。目の前の北朝鮮問題では予防戦争
か核抑止力かで米国が論じているが、直ちに予防戦争して150万の死者今後5年して
核の完成時に核抑止の戦争起こしても1040万人の死者と言う遥かな違いを計算して
いる。こんな計算は日本がやるべきで日本政府が国民に問う問題だろう。対抗核も用意
出来ず韓国さえも全く無知のままでは、果たして150万で済むだろうか。広島原爆で
凡そ150万人の死者である今や8倍の威力で3発は来ると言われる。韓国は通常兵器
で乗っ取られるだろうが8x100x3日本は2400万の死者で止められると言うの
が今での予防戦争だ。ところがアメリカ本土は0人である。良くてコンピューターの、
誤作動だろうが5年後では10発で800万人位が死ぬだろうとされる。このウォーゲ
ームにはユダヤ金融も軍産複合体も、中国は勿論ロシアさえも絡んでいるのは確かだ。


691: 名無しさんAA:17/12/22 02:53

 今や中国で、最悪の国家規模の社会評価制度が生まれようとしている。政府が独自の
基準で、国民の信用度を定めた制度の確立だ。この新制度では、個人の金銭取引記録や
オンライン・ショッピングに関するデータ、ソーシャル・メディア上での言動、そして
、雇用履歴などが組み合わされ、全国民一人一人の総合的「社会信用度」が勝手に割り
出される。しかも信用度は、西洋社会での金融制度の一環として利用されていると言う
。その内容は、各個人の金銭取引記録に基づいて弁済能力が定められ、ローンを借りる
ための条件付けが行われるだけであると説明される。ところが、中国で採用されたこの
信用度制度は、個人の懐事情をちょっと確かめるという範疇を大きく超えて利用される
。それは、中国政府が公表した「社会信用力制度構築のための概要計画」による発表と
、制度の目的が「政界」、「経済界」、そして「民間」という3者間の信頼を精査して
、個人を高めることだけではない。政府業務や商取引上における信頼性と、社会的誠実
性(誠信)を強化し、「司法」の中立性を構築することもその目標の内に掲げられている
からだ。中国政府ではこの信用力制度の試験的な実施にあたり、複数の信用調査会社に
対しても、国民の信用情報を「収集・評価そして管理」する権限を与えた。こうした事
の仲介会社の中にはセサミクレジットと呼ばれるゲーム形式のアプリを作成し、制度試
行の先導となったアント・ファイナンシャル(アリババ系列)も入っていた。この中で
かつてのナチス党のヒットラーが想い悩んだ様な、異様な世界をアリババは創りだそう
としている。それは各国で行っている様な、加点型のサービス型点数評価と違った方式
である。加点型は単に使ったサービスの累計でしかない。しかし、セサミクレジットで
は、ゲームによるビックデーターで各個人がどの程度「良い」人なのかが割り出される
。ユーザーは、取得した点数を知り合い等と共有するよう推奨されており、オンライン
活動の如何によっては、月一回の更新で点数アップを狙うこともできるプログラムであ
る。この利用するオンラインプラットフォーム及びサービスは、アリババ関連である事
が必要だ。12月下旬にアップロードされた新作は、ネット上で急速に拡散した。とい
うのも、そのビデオが上記ゲームを「オーウェル風ディストピア」として評した為だ。
つまり、浪費型ゲームに金満家としての信用点数を付けた形なのである。何とも異様な
そして世界的にも人類史上初の違法で大胆な勝手な組み合わせを可能にしているのだ。




692: 名無しさんAA:17/12/22 02:53
 中国政府がこうした人間管理制度とも言えるプログラム発注し、2014年に初の計
画草案公表してから、制度に関する話題は事あるごとに盛り上がってきた。その信憑性
は千差万別である。グローバルボイスの中国チームは、最近の盛り上がるメディア報道
や論争を受け、社会信用度制度に関して頻繁に問われる一連の質問と答えをまとめてみ
る事にした。すると信用調査会社は、各人の信用度をどのように計算するのかが浮かび
上がってきた。各信用調査会社は、社会信用度を計算するためのアルゴリズムを独自に
開発してきている。だが、セサミクレジットが公表しているところによると、スコアは
下記の要素を考慮した個人データを参考に算出されるという。1、学歴や職務経歴等を
含んだ、社会での相対的地位。2、アリペイや、その他のアリババ系列及び提携会社の
利用記録に基づく個人のクレジット履歴。3。契約履行能力を示す記録。つまりは、現
金・株式・投資における個人データのこと。4、社会的つながり。或いは、当人に関り
のある人物や友人らの信用度。5、オンラインでの消費や、その他の活動に基づいた行
動様式。これらに、どのような種類の活動が、信用度を下げることにつながるのかは全
く公にされてはいない。しかし、ウェイボー等の大手コンテンツ・サービス・プロバイ
ダーは、詐欺に関する地域内での「風聞」や「政体批判」を指す隠語である「噂」をも
とに、既に「ユーザーのブラックリスト」を作り上げているのである。この「噂」を検
索させる採点プログラムでの発動である。政治的にも微妙な発言が低スコアをもたらす
可能性について、人々が広く懸念するようになったのもこうした「噂」のためだ。つま
り先の基本評価である資産や学歴と過去の消費行動や契約履行の評価に政権批判係数を
掛けて信用度評価をしているのだ。この批判係数が文字通り、噂に基づいた信用調査を
行った結果なのだ。ではどうしたら得られるのだろうか。上記のアルゴリズムに基づい
て、セサミクレジットは、信用度数を上げるためのヒントをいくつかの紹介をしている
。1、融資や投資を受ける際など、多額の取引が発生するサービス利用時に、オンライ
ン決済を選ぶこと 2、登録は本名で行い、学歴や職業上の経験を公にすること。3、
高スコアを持った人と友達になり、スコアが低い人とは友達設定を解除すること。特に
、本名を使用していない人は要注意だ。4、寄付を通じて、「良いエネルギー」の推進
に、インターネット上で貢献すること。としている。二つ目と三つ目のアドバイスは、
たやすく政治的問題の領域になり得るもので、かつてのドイツのSS仕様を真似た物と
いえよう。


693: 名無しさんAA:17/12/22 02:54
 中国政府が勧めているのが、実際の身元を使ってインターネットを利用することだが
、偽名の使用は、政府批判や報道行為に従事する者にとって、己の安全を確保する為に
はに絶対に欠かせないものだ。特に、中国当局は最近意味の無い暴力に依存した体制を
確立している。政府及び共産党に関する前向きなメッセージをオンライン上でどんどん
発信するよう、国民に対して強く働きかけているが、それは詭弁である。最後に紹介さ
れている「良いエネルギー」の拡散とは、その傾向に迎合したものだ。中国人民がが今
信用度ゲームに夢中になる理由は、それ相応の理由がある。勿論ネット市民の中には、
単純に、ソーシャル・メディア上で自分の高スコアを友人に見せびらかして楽しむ者も
いる。しかし、それは別としても、人々がゲームに熱中する理由の一つは、高スコアを
獲得した人に対して与えられる特権待遇がかなりの生活差を産むためだ。例えば該当者
は、実社会でも、航空券の購入やホテル、車のレンタルサービス等を利用する際、VI
Pクラスに昇格され、保証金を支払う必要が無くなる。また、クレジットサービスの処
理システムを通し、ビザ取得に必要な期間を短縮することができる。セサミクレジット
のスコアが700点以上であれば、雇用書などの証明書類を提出すること無く、シンガ
ポールへのトラベルビザに申し込みが可能だ。750点以上のスコアを持つ人は、ルク
センブルクへの優先ビザが取得できる。つまりスコアによる篩い分けが凄まじいのであ
る。又、逆にスコアが低い人にはどのような罰則が科せられるのか、の問いには信用度
以外にも実社会のペナルティが課される。それは、社会的信用度運営の背後にある基本
的な考えの、信用できないと思われる個人に罰則を科す事が主眼だからだ。セサミクレ
ジットを率いるホゥ・タオは、マスコミによるインタビューの中で、システムの目的を
そう説明した。「車やお金を借りること、或いは就職すらも、信用の置けない人には、
出来ないようにするためだ。」と言い切った。その上でセサミ・チームは既に、中国の
教育庁に対して国家試験で不正行為を行った生徒のリストを共有するよう働きかけた。
彼女はそうとも明かした。将来の職探しで、生徒らに不正の対価を支払わせる為だとい
う。先進各国の犯罪者へのニュース映像すら配慮し、犯罪者の今後の人生を案じる姿と
は、真っ向から対極の考えである。



694: 名無しさんAA:17/12/22 02:54
 しかし、信用度管理機関は、そうした事で運営できるのだろうか。否今でもどのよう
に利益を得ているのだろうか。そこに汚職や忖度は無いのだろうか。信用度の管理機関
は、各国民に関して取得した情報を利用し、政府や商業組織にサービスを提供するが、
セサミクレジット等の信用度管理機関が得る利益は、そうした取引間利益から生まれる
。インターネット界の巨人であるテンセントの信用度サービス提供先は、多く金融部門
に属していると言う。当企業では、自社メッセージソフトウェアであるテンセントQQ
の8億人のユーザー情報のコンテンツを基に、アップロードされている総計4千億人の
写真を利用し、顔認識データベースを勝手に構築する予定になっている。勿論会社組織
の勝手な商売での個人情報漏えい産業でもある。クライアント先である金融機関達が、
顧客の身分を簡単に照合できるようにする為だ。将来的には、オンラインのデートサイ
トや、各種会議及び試験(国内・海外大学の入学試験等)時の本人確認のために、同様
のサービスを提供することを目指している。この中に社会信用制度の裏に潜む政治的意
図が潜んでいるのは明らかだ。何故ならこうした個人情報コンテンツは政府との共有で
初めて価値があるからだ。中国版の信用制度自体は、活動家や潜在の反乱分子に対して
特定して向けられている訳ではない。と説明される。だが公安省は、政治的反体制派の
友人や親族を監視するデータベースをとっくに作りあげていて、実質の未然検挙を数多
く行いこれは中国人民や国内や大陸に留まらない。海外でもこの制度は有効に機能する
。意図はむしろ、社会の治安を維持する管理機構を対象特定型から全国民監視型へと変
える事を標榜している為海外での捜索に威力がある。各個人の政治的志向や財務履歴、
消費パターン、社会的つながりに基づいて、報酬を与えたり或いは罰則を加えることで
「善良なる国民」の自己規律を育もうという思惑と、これを利用して何が問題か。と居
直っての活動が続けられている。また制度の広がりは、今や中国政府に人民の間の信頼
が失われた社会における倫理崩壊への反応でもある。しばしば口にされるが、中国では
、路上詐欺に引っかかることを恐れ、真に困っている人に手を差し伸べるのを躊躇する
人は多い。加えて、企業による詐欺や疑問視される食品安全保障、そして横行する汚職
等も、国家の道徳を危機的局面に立たせている。加えて銀行すらも偽札流通に加担して
いた。


695: 名無しさんAA:17/12/22 02:54
 又 政府指導者らは、縁故資本主義(まさに政府の政策・事業が可能にしたもの)を
成長させてしまった政治経済体制を見直す代わりに、問題は、「低い信頼性」が特徴の
中国文化にあると論じるようになった。彼らが、中国版の信用度制度について、個人の
単なる金銭取引記録ではなく、人々の「グアン・シー」(社会的関係)を反映していな
ければならないと主張するのはそのためである。此処には、ジョージ・オーウェルの発
したディストピア小説『1984年』では、「ビッグブラザー」と呼ばれる支配者が社会に
強力な監視体制を敷いている社会と同じ様相が広がっている。国家的監視制度に関して
は、似たような批判を受け、中国の政府指導者らは「歴史上、中国は調和を何よりも重
んじてきた」と反論する。この場合の「調和」とは「国家の全般的な安定性」である。
つまりは、今の中国の枠組みでは、社会的信用度制度は、西洋思想では全く成り立たず
又中国の国の大きさを盾にした最強中国を模索している海外向けの顔と、その大きさ故
に全く管理できずに個人情報すらも勝手に取り込んで審査し、秩序や権威や国体や安定
を保とうとする顔とが交差している。かつて粛清に取り組んだ毛沢東の恐怖政治を今も
正しいとする矛盾と崩れてしまった共産党の計画経済の中に、すっぽりとはまった資本
主義自由経済の光が 窓を開けた太陽の光でなく、形ばかりの蝋燭の光でこれが国家と
言う家をも燃やす事を全く恐れてはいない。その良い訳はむしろ東洋の知恵に導かれた
革新だというのだ。どちらにせよ、その詳細が徐々に明らかになるたびに、中国の監視
社会は強化され、非人道的行為が日常化されて行くのは間違いないであろう。この信用
度制度が、ビッグブラザ―監視体制の恐怖をはるかに超越する可能性については、恐怖
であろうし世界に先駆けてこれらの思想が伝播するのはそう遠くない未来であろう。今
後に国民に喜ばれ選出されたナチスヒットラーの世界がこの世に復活して来ている。と
そう思わずにはいられない様態だ。事実あれほど綿密に打ち合わせ合意された香港返還
でさえ、舌の根が乾かぬうちに中国政府は一国二制度を取り下げ、今では香港自治には
軍や治安部隊或いは共産党員の大動員をもって果敢に介入し 青年の抵抗運動家を拘束
し拉致監禁や議員職権はく奪と あらゆる手を使って阻止しているにも関わらず、国際
社会はその支援の手は差し伸べてはいない。


696: 名無しさんAA:17/12/22 02:55
、自分たちの気にくわない思想や言論は徹底的に弾圧し、人民に対し、いまだに厳しい
言論統制を断行。ネットも平気で規制・検閲する中国に関する話は今やドイツ・カナダ
豪州・英国・米国・日本で事件を起こしている。街なかAI監視カメラ+顔認証+ネッ
ト履歴+犯罪歴…」などを駆使し「中国14億人『完全管理』ディストピア実現へと足
を進めているが国内ではそれは完了している。ビッグデータとAI(人工知能)によっ
て人民を完全に管理下に置き、不満分子の徹底排除を企(たくら)む中国が、その常軌
を逸した企みの成果は、中国国内の人民だけでなく、海外もしっかり対象に入っている
。あの米サンフランシスコの慰安婦像の一件でも、裏で糸を引いていたのは中国系の反
日団体であるように 人を動かす手段として有用なのだ。豪紙シドニー・モーニング・
ヘラルドなどが伝えているのは、電子ニュース圧力と出版規制圧力とが尋常でない事だ
。「静かなる侵略:中国はどのようにして豪州を傀儡(かいらい)国家に変えつつある
のか」という本が不発刊になった。この書籍のタイトルが示す通り、豪州で密(ひそ)
かに進む中国共産党の巧妙な党略によって、気付かない間に豪州が彼らの意のままに動
かされる「Puppet State=傀儡国家」の道を突き進んでいる状況をつまび
らかにして告発する内容だったですが、著作者のは豪ニューサウスウェールズ州にある
名門チャールズ・スタート大学で公共倫理学を教えるクライブ・ハミルトン教授は、今
年11月6日の週に、この出版社のロバート・ゴーマン最高経営責任者(CEO)が、
同教授の完成原稿の出版を断念すると明かしたのである。ゴーマンCEOがハミルトン
教授宛に送った電子メールには断念した理由が書かれてあった。「『静かなる侵略:−
』は非常に重要な本であることは間違いありません。」「北京(中国政府=中国共産党
)から、この書籍と当社に対して起こされる可能性があるな潜在的脅威」に対する懸念
が記され、こう書かれていたと言います。「これらの脅威の中で最も深刻なものは、弊
社に対して、そして恐らくあなた個人にも、最もシリアスな名誉毀損(きそん)訴訟が
起こされる可能性が極めて高いということです。」と書かれてあった。

697: 名無しさんAA:17/12/22 02:55
社に対して、そして恐らくあなた個人にも、最もシリアスな名誉毀損(きそん)訴訟が
起こされる可能性が極めて高いということです。」と書かれてあった。そして11月1
2日、この出版社はハミルトン教授のこの書籍の出版中止を正式に表明したのでした。
これはこの出版を手掛けたオーストラリアの巨大企業、SMHや経済紙ジ・オーストラ
リアン・フィナンシャル・レビュー、そしてマカリー・ラジオ・ネットワークといった
さまざまなメディアを傘下に持つ複合企業体「フェアファックス・メディア」(本社・
シドニー)でさえも、中国政府に恐れをなした事を物語っている。この措置に当然なが
らハミルトン教授は憤慨(ふんがい)。前述のSMHに対し「外国の力で、その当該国
を批判した書籍の出版が止まったという事例は、豪州の歴史上、聞いたことがない」と
呆れこの一件、当然ながら中国当局がこの出版社に圧力をかけた、もしくは何かしらの
圧力があったという証拠はありませんが、前述のSMHは、豪州の諜報機関「豪州保安
情報機構(ASIO)」の調査を引用し、こうした中国政府の工作活動の実態は秘密裏
、もしくは非常に不透明で、豪州の政治家や学者がターゲットになっていると報じてい
ます。教授「私の書籍を出版させたくない…それが真実を示している。」と訴えている


698: 名無しさんAA:17/12/25 08:31
延吉市の概況
延吉市は延辺朝鮮族自治州の首府であり、吉林省東部最大の工業、商業貿易、観光都
市であり、中国全体では中堅都市の一つです。 延吉市中国、ロシア・北朝鮮の境界地
にあり、ロシアのウラジオストク、北朝鮮の清津と北東アジアの大三角形を形成し、
北東アジア経済圏の奥地である「ゴールデントライアングル」の中国側の頂点となって
います。延吉市の面積は1,350平方km、総人口は42万人、そのうち朝鮮族の数は57.7%
を占め、朝鮮族の民族風情を色濃く備えています。 改革開放以来、延吉市の経済は急
速に発展し、食品、医薬、包装、建材並びにハイテク技術を基盤・強みとする工業形態
を 備え、生態農業、特色農業も力強い発展を見せています。民族色の濃い観光経済も
活気を見せており、情報、会計、諮問、法律 サービスなどの新型サービス業も急速に
伸びており、交通、卸売、小売貿易、飲食業などの伝統サービス業種も穏やかに発展
を 続けています。吉林省全体の41の県・市の総合経済実力評価では1位を占めてい
ます。 地理的には長白山(朝鮮語では白頭山ともいう)北麓の山間盆地に位置する。
南北東は山に囲まれ、西に開けている。延辺朝鮮族自治州の中心部に位置し、北は敦化
市、北東は汪清県、東は図們市、南から南西は竜井市、西は安図県と接する。
  1881年 清朝、封禁令撤廃し招墾局設置。
1902年 局子街(延吉の古名)に延吉庁設置
1909年 延吉府に昇格
1912年 中華民国、延吉県に改める
1932年 満州国間島省省都となる
1943年 間島市に改める
1945年 延吉県より延吉市(県管市)が分割される。
1952年 中華人民共和国、延辺朝鮮族自治区設置
1953年 県級市の延吉市に昇格
1955年 延辺朝鮮族自治州の州都となる
1985年 開放都市に指定、外国人の入市が可能となる
2009年 竜井市朝陽川鎮を編入。[1]朝陽街道を進学街道に改名。

699: 名無しさんAA:17/12/25 08:32
 コンバット事情 01

タバコを電子タバコに変えてから早2ヶ月経つのですが、
これで普通のタバコを吸わなくても、ほとんど大丈夫な状態になりました!
僕が買った電子タバコは、KANGERTECH TOPBOX MINIというやつ。
値段は、日本円で8,000円前後かな?
中国国内で購入するならタオバオのKANGERTECH店で購入できます。
これに電子タバコ用の液体リキッドを購入します。
リキッドは、ここで購入できます。
これを入れて吸うと煙が出ます!かなりモクモクです!爆煙!
ただリキッドは、ニコチン入りじゃ無いと普通のタバコを吸いたくりますよ!
ニコチン入りのリキッドを購入して吸えばヤニ中毒の人も電子タバコで禁煙できます。
中国は、タバコ文化?なので、そこら中でタバコをプカプカしてる人が多いですが、
最近は、カフェなどで禁煙や分煙などの店も出て来ました。
一番良いところは、タバコ代がかなり安くなりました。
今までは、1日タバコを3箱前後吸うヘビースモーカーだったので
中国のタバコ「中南海」1箱10元で買ってたので1ヶ月1,000元くらい掛かりました。
※1,000元は、日本円で17,000円くらいです。
電子タバコに変えてからだと、1ヶ月3,000円くらいになりました。
ヘビースモーカーにしたら、かなりお得になりました。
吸った煙には、タールが含まれていないので家の壁紙などが黄色くなる事も無く
歯も黄色くならないし肺も黒くならないので良い事三昧です。
体に悪いのは、ニコチンよりタールなんですよね〜
ニコチンは、ヤニ中毒の原因になるだけです・・・
中国で大気汚染も気になる方は、タバコを電子タバコに変えて少しでも体の負担を軽くして下さい。


700: 名無しさんAA:17/12/25 08:32
 コンバット事情 02

テレビなど見てると北朝鮮が、そろそろ核実験をおこなうんじゃないかと噂されてます
ね・・・ こまるぅ〜〜〜〜^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
今回の核実験場は、以前も実験をおこなった「豊渓里」(プンゲリ)という場所。近い
今までの北朝鮮の核実験は、下記の通り。
1回目は2006年10月9日
2回目は2009年5月25日
3回目は2013年2月12日
4回目は2016年1月6日 「豊渓里」(プンゲリ)
5回目は2016年9月9日 「豊渓里」(プンゲリ)
でもって今回も???「豊渓里」(プンゲリ)ここでやる様な報道が・・・もう勘弁して
くれ・・・また地震が起きるじゃないか・・・^^!
中国製のマンションで25階の最上階に住んでるのですが、これが以前の核実験でも、か
なり揺れて怖かった・・・マジ恐怖です。普段地震が無い地域ですので、核実験の時の
地震は、ビビりまくりました!「マンション自体が崩れるんじゃないか!」などと思い
ました。地図を大きくしてもらえば解ると思いますが、「豊渓里」(プンゲリ)からは
延吉まで、かなり近いっす・・・延吉まで直線距離で200Kmも無いですよね??なので
、揺れるんです!もう普通の地震と同じです!上の画像は、3回目までの核実験だけの
資料ですが、6日目の実験の威力は、10ktだったと出てました。今回は、もっと威力が
あると言います。〜〜〜怖いな〜〜〜・・いつ実験するかこっちも解ってれば、その日
は、別の場所に泊まるとかするのに・・・

前の実験時は、延吉が震度4程度でした。 でもこれが、「あっ!マンション崩れる!
?」と思うほどです!中国の高層マンションの壁なんて・・・こんな物です!・・・壁
がレンガです・・・だからヤバいんです・・・お願いです!金正恩様〜!無慈悲の様な
事は、しないで下さい・・・ボタン押しちゃダメですよ・・・
 ぜえ〜〜〜ぜえったいダメですよ・・・

701: 名無しさんAA:17/12/25 22:17 ID:sFs
 全く仕事していない団体として、消費者庁がある。消費者庁は25日、コインパーキ
ングの料金表示について相談が相次いでいるとして、注意喚起した。「想定金額の10
倍を請求された」という苦情もあり、同庁は「分かりにくい場合は業者に確認してほし
い」と呼び掛けている。こんなバカげた政府行政はない。注意すれば何でも収まるのな
ら世の中に詐欺行為など存在しない。こうした呼びかけや甘い処罰は 返ってそうした
悪者を増やし、更に勉強して法律の合間を抜った悪行を起こさせ 消費者にとっては大
変な迷惑行政省なのである。だがそうした疑惑や不信任の国民意志を感じないらしい。
 業界団体の日本パーキングビジネス協会にちょっと意見し協会はは苦情を受けて、2
014年に料金表示のガイドラインを作成しているが、消費者庁の大元慎二表示対策課
長は「まだ分かりにくい表示が残っている」と指摘。「業者には利用者目線の表示に努
めてほしい」と求めた。と言う 行政手腕で協会に過大な違法金返還を強制すればよく
、そうして違法の反則金を5憶位命令すればいいのである。全く本当に甘えた税金詐欺
の集団である。日本の為にならない行政は大臣の不監督によるものだろうが、押してな
べてこのくらいの非国民ばかりである。前に「ボクのおとうさんは、桃太郎というやつ
に殺されました。」と言うキャッチコピーの道徳の授業が生まれたと言う。多様な価値
観がぶつかり合う時代に、異なる視点を持つことの大切さを考える。桃太郎伝説の故郷
、岡山県で始まった授業が全国に広がるか――。などとしているがこれこそ教師の資格
の無い教育である。ネットで「もう、アホとしか・・・敢えて言う、桃太郎は勧善懲悪
という教えのための物語である。しかもだ、桃太郎は鬼を懲らしめたのであって殺戮し
たわけではない。」全く同感だ。ともかくにも此処に刺激を求めた教師の姿があって、
そこには教育も生徒も見えない。只の暇つぶし論議に面白さを加味すると言う低能級の
今のTV局やお笑いやらの企画倒れの 全くどうしようもない論理しか見えない。これ
がまともな大学授業であり博士論文というのであれば、それなりの論議を呼ぶだろうが
。国際問題のイロハすら理解が進まないトランプ大統領程度の高校生の教師ぐらいなら
話にならない。教師は教師の仕事をしろ。こんな多様性を持ち込んでだ授業では道徳に
はならない。教師が一から道徳とは何かを考え学んで来い。


702: 名無しさんAA:17/12/25 22:37


 世の中に「絆を持とう」とか「正義は必ず勝つ」などと 嘘をつくフレーズが登場す
る。だがその間違いは気付くべきだ。特にNHKなどは大きく間違っている。正義は必
ず勝つのではなく「正義を必ず勝たせる」べく生きるべきとの示唆であり戒めなのだ。
絆も 若者に多くある4世代5世代前の日本が明治の夜明けの頃の叔父さんや叔母さん
の悲劇の中でも逞しく、未来の為に汗をかき血を流して 今の貴方達の命を繋いできて
文化や国家を紡いできたのである。生活して来たこの過去をもっと重く見るべきで、今
簡単に古い民家を壊し 耕作地をコンクリ―ト護岸で覆い尽くし 樹木の一本たりとも
育てられない農地改革など 反対すべきである。特に犯罪的に農林省や国土交通省が今
行っている行政は過去の江戸時代以前からの街づくりに比べて 百年も持たない思想や
設計である。馬鹿としか言いようがない。口では温暖化や緑地の有用を進めながら、や
ってる事は災害の拡大化である。今度の九州豪雨の壊れた宅地や山崩れは90%が行政
の行った 過去の政府の農地改革や町の市街化計画で 被害が産まれて居る。線路の破
壊なんぞは、大正時代から噂されて居ながらも行った工事で 時の財政省力化で無理に
路線を変えて行った場所ではないか。 全く保線や保全も行わず 計画もずさんと言う
現代社会の代表的被害である。




703: 名無しさんAA:17/12/27 14:42 ID:YYM
 子供ぽい事を言われても困ると言う 子供以下の 相撲協会の言い分
 力士会というなら 横綱未満の力士から選出するのが筋だろう。今だ
 罪のある力士を選出する様な 非常識者しか育てない組織とは 全く
 最低な社会性である。そもそもそうした事こそ相撲協会が提言すべき
 ものでは ありませんですかね〜〜〜

704: 名無しさんAA:17/12/27 21:57
 大体日本相撲協会は、常識はずれではないのか。法律や憲法と言う物は、人間行動の
最終的な そして最低限の規定なのであって、それ以上に厳しくあるのが常識である。
ニュースでは「日本相撲協会も貴乃花親方(45)への聴取を終え、28日の臨時理事
会で処分を下して年内決着を図るが、貴ノ岩の被害感情は強く、貴乃花親方の怒りも収
まっていない。法律の専門家は、現場に同席し事件のきっかけを作った横綱白鵬(32
)についても「告訴や告発を受ければ、傷害の共謀共同正犯として同じ罪に問われる可
能性がある」と指摘する。――――との報道だ。事実報道各社の例えば顔を見せなかっ
たり発言を規制しているのも 人権でも法に違反しているからでも無い。それだけ法律
以上の規制を自らに律して報道させることを旨としているからだ。例えざる法でも、挨
拶であっても法に規制がないからなどと言うはふざけた話で、日本人は例え違反ではな
いものでもやってはいけない事はやらないものだ。「樹下にして冠を正さず」である。
これが人の人としての生き方である。借りる物は声掛け確認し確実に返す。それは身内
であっても仲間であっても共有の品物であってもやるべきものでやって来たのだ。その
他人の敷地にむやみに入らないというのもそうだ。例え知った隣人でも行わない。その
道徳心が今やない。大体高級マンションに暗証番号を付けるなどと言う馬鹿建設をする
のは憲法違反であるがこれを可能にする社会情勢自体は 警察や行政の怠慢なのだろう
。相撲協会も同じでこれだけ審議委員会や理事会や文部科学省などが居ながら、なぜに
こんな体たらくのままなのだ。白鳳を諫める勇気が無いのか 興行収入に毒された興業
だからかモンゴルに対する忖度なのか解らないが出鱈目ではないか。一緒にいた理由さ
えまともでないのに何故親方の教育の悪さが処罰されないのか、何故報告義務のあると
される力士達に処分が軽度なのか。全く威厳すらない権威だ。もし今の国会と同じ暗い
決断しかないのなら、全く日本の未来は無い。自民党のやっている違法さと同じではな
いか。もっと身を正せ。野党も法を説くな法の精神を説け。報道も議員の民進の離党届
を崩壊ドミノなど言うが全くおかしい。自由に出て党籍を変える事はニュースではない
当然のことだ。党則で束縛し利権の上にどっぷり動かない議員こそニュースである。今
の自民党に昔のままのイデオロギーは無いではないか。

705: 名無しさんAA:17/12/28 03:20


 大体こんな朝鮮人を相手にするから不満や意見がでる。今や既に朝鮮人が生きていけ
るような場所は地球上にあろうはずはない。こんな考え方の国家なんぞ明治以前の頃か
ら各国の羞恥の中にある。日韓併合も日本は世界から押し付けられいやいやながらの物
だったではないか。日本政府は過去をしれ。この国を蹂躙したのは他の国で わざわざ
蹂躙させては泣きついて来たではないか。無視どころか交戦相手とし国交閉鎖でも金融
閉鎖でもやれば済む事だ。世界が望むなら派兵して交戦してもいいではないか。北朝鮮
を焚き付け中国にすり寄りロシアに媚びる。その上日本を敵対視しアメリカに嫌悪する
こんな西側の国なんぞ何処にもないし 朝鮮戦争に応援されて生き残った恩も世界大戦
に戦場にならなかった恩もない。こんな腐れた国がどこにあろうか。



706: 名無しさんAA:17/12/28 10:08

 大体韓国は国際社会で決めた違法ばかりやっている。外交調整を一方的公開する事は
その相手に極めて失礼な事で 通常の国法なら どこであれ逮捕して拘留が普通である
。更に大使館前での公共物で不敬を働いたという団体は 通常の国では代表者は死刑か
無期拘留である。更にこれが最大の友好国とすべき西側陣営の支援した隣国なら極刑は
当然なのだ。この普通の事ができない裁判所で 異様な判決ばかり出す事自体が極めて
異常な政権であり かつての北朝鮮の進軍に隠れて地元に残り赤狩りとした粛清に名を
借りて 逆に自由派や親日親米派を2万人も殺して行った歴史の闇である。日本での、
金大中事件でもその根深さが解るであろう。どうしようもない国賊ばかりの国なのだ。



707: 名無しさんAA:17/12/28 14:30
 八角委員長は何を馬鹿な事を言っているんだ。理事長より大きな責任がこの巡業部長
に在る訳ないじゃないか。自らが理事長を辞任を発表しているなら兎も角福岡場所前に
事件発覚がありながら 議題にすら載せなかった理事会は 即刻全員が解任されるのが
、当然の常識だろう。TVの何処か女史は「協会の言い分が解る。」とか「貴乃花親方
に報告義務がある。」だとか 犯罪現場の責任ある4横綱の取り調べを場所前にする程
常識的な正義がない中で、何を根拠に伏魔殿などと言うのか。TV局内はもっと伏魔殿
ではないか。こんなに可笑しな報道を進めていて。「横綱と協会の利益は一緒。」とい
うのは厳然たる事実ではないか。
 


708: 名無しさんAA:17/12/28 14:36

 八角委員長は何を馬鹿な事を言っているんだ。理事長より大きな責任がこの巡業部長
に在る訳ないじゃないか。自らが理事長を辞任を発表しているなら兎も角福岡場所前に
事件発覚がありながら 議題にすら載せなかった理事会は 即刻全員が解任されるのが
、当然の常識だろう。TVの何処か女史は「協会の言い分が解る。」とか「貴乃花親方
に報告義務がある。」だとか 犯罪現場の責任ある4横綱の取り調べを場所前にする程
常識的な正義がない中で、何を根拠に伏魔殿などと言うのか。TV局内はもっと伏魔殿
ではないか。こんなに可笑しな報道を進めていて。「横綱と協会の利益は一緒。」とい
うのは厳然たる事実ではないか。何処の企業だって、もっと簡単な書類不正や異物混入
すら、損害の為に発送ストップして回収するのに こんな人の傷害事件という大問題に
場所の休場すらやらないのだ。NHKの労働死亡と全く同じに常識の無い経営体質には
何が言えるのか。

 

709: 名無しさんAA:17/12/28 14:42 ID:keA
 八角委員長は何を馬鹿な事を言っているんだ。理事長より大きな責任がこの巡業部長
に在る訳ないじゃないか。自らが理事長を辞任を発表しているなら兎も角福岡場所前に
事件発覚がありながら 議題にすら載せなかった理事会は 即刻全員が解任されるのが
、当然の常識だろう。TVの何処か女史は「協会の言い分が解る。」とか「貴乃花親方
に報告義務がある。」だとか 犯罪現場の責任ある4横綱の取り調べを場所前にする程
常識的な正義がない中で、何を根拠に伏魔殿などと言うのか。TV局内はもっと伏魔殿
ではないか。こんなに可笑しな報道を進めていて。「横綱と協会の利益は一緒。」とい
うのは厳然たる事実ではないか。何処の企業だって、もっと簡単な書類不正や異物混入
すら、損害の為に発送ストップして回収するのに こんな人の傷害事件という大問題に
場所の休場すらやらないのだ。NHKの労働死亡と全く同じに常識の無い経営体質には
何が言えるのか。そもそも法律上の労働環境や利害対立は緩いもので最低限の規制なの
だ。その常識すらこの協会の懲罰や動きは違反しているではないか。馬鹿もほどほどに
するべきだろう。小学校や保育児家庭にすら いじめに刑事を入れるべき時代に

 


710: 名無しさんAA:17/12/28 14:47
略式起訴なんて 警察も忖度の度が過ぎる 日本を崩す気か警察は


711: 名無しさんAA:17/12/28 15:04

略式起訴なんて 警察も忖度の度が過ぎる 日本を崩す気か警察は
 本来なら協会の家宅捜査と親方達まで事情聴取であろう。優勝賞金が吹っ飛ぶ大きな
事件ではないか。全く此処に一場所何千万かの金が動いている中の事件である事を全く
理解していないじゃないか。




712: 名無しさんAA:17/12/28 15:45

略式起訴なんて 警察も忖度の度が過ぎる 日本を崩す気か警察は
 本来なら協会の家宅捜査と親方達まで事情聴取であろう。優勝賞金が吹っ飛ぶ大きな
事件ではないか。全く此処に一場所何千万かの金が動いている中の事件である事を全く
理解していないじゃないか。今後の民事訴訟では30億ぐらいの手当てが妥当な線であ
ろう。一人の若者に 権謀術数で横綱が 相撲協会を利用し暴力をそそのかしたのだ。
これは当然このくらいの金額は 相撲協会は 未来ある力士払うべき妥当より少ない位
の金額だ。夢のある野球少年が年棒3億X10年の世界である。酒の席で他の部屋から
の暴行事件をそれも取り囲まれて行われたのだ。これは傷の大小ではない。協会の陰険
な体質を排除しない やくざや暴力団の体質と同じにある所の責任にある。今までの、
経緯の発表すら多くの納得しかねる発表だ。他の加害者側の力士の口封じなのか話も、
全く箝口令なのか聞こえて来ない上に 白鳳などは巡業中の取材に全く悪い事をした。
と言う悪びれたそぶりもない。まるで障害がいなくなって我が家の春としている様だ。




713: 名無しさんAA:17/12/28 16:56
 この高野や八角などは 自分が言っている事が何なのかを 解っているのだろうか。
これでは 警察の捜査協力するな 協会の捜査が上だ。と言っている様なものだし、ま
ず被害者と加害者が はっきりしていながら 同じ処分とは犯罪集団のやる事だ。



714: 名無しさんAA:17/12/29 16:10 ID:AHg
 この高野や八角などは 自分が言っている事が何なのかを 解っているのだろうか。
これでは 警察の捜査協力するな 協会の捜査が上だ。と言っている様なものだし、ま
ず被害者と加害者が はっきりしていながら 同じ処分とは犯罪集団のやる事だ。

 なんだ なんだ 相撲協会ってのは 自浄作用を持たないのか。外部役員って・・・
ふざけてねぇ〜〜〜か。どんなに考えてもふざけた奴は一人二人はいるもんだろうよ。
それが 横綱日馬富士だった。って言うところが異常だよって話で、親方は日馬富士を
何故教育出来なかったのか。と言う視点で考えて 白鳳はどうなんだ。って事なんだよ
ここに なぜ入れなくって 貴乃花親方を処罰できるのかって問いに全く肩透かしの、
今までと同じ様な 暴力根絶に向けて再発防止に向けて外部委員に委ねてなんて甘すぎ
るっていう話なんだよ。大の大人がよってたかっているのに なんでまともな視点やら
常識が備わっていないのか。っていう批判なんだよなぁ〜〜〜〜解ってねぇ〜〜〜
もと検察庁の旦那って言う人も 池坊女史もごっつう偉い御方なんだろう。その人達が
この体たらくな 不平等非人格の発言してるのを問題視出来ないで どんな人選なんだ
。一般人いれても 外部を入れても 無駄って事がどうしてわかんないのだろうかな。
 ま・と・も・な・い・け・ん や ま・と・も・な 視野がなければおんなじだっち
いうの。


715: 名無しさんAA:17/12/29 23:19
 神手組乗事故之論 (新テクノロジー論)03

 AI電脳は@人の意識が変わるA人が争うB人の社会が変化するCその影響は主要国
の広範囲で過去に戻らず10年以上影響する・・・などの規定から言えば、AI革命と
言えると言う事実がやって来る。と言う。更に興味深い解説では機械にとって奴隷とし
て人間は必要である。と言う事だ。これは何を意味するのか。メンテナンスの為か進化
の為か。その疑問では、メンテも進化も機械自身で出来るというのが答えである。では
なぜ、人が必要か、それも奴隷の如くに。それは機械では消費が無いからだと言う。の
だ。つまり機械に取って明確な目的と経済が無くなってしまうと言う事だ。そして何故
奴隷なのか。それは人が、共存の為にそれを目的に「人」が行うからだと言う。その上
でこれは「昔に戻る」事だともいうのである。考えればそうはそうかもしれない。省力
化や太陽光などの高価な設備も、現実の理由はそれが経済効率がいいからである。その
維持費用やら経費の使用の少なさの為に人はそれを利用する。だがAIは言う。コスト
が安くなることは企業負担が減る事であっても、それは労働収益が増える事ではない。
と企業収益が労働者福祉には全くつながらない。今論議されるトリブルダウン論議であ
ってもそれは証明されている。水でコップなら満タンになれば溢れ下に落ちる。しかし
金融であれば容量などない。もし容量があってより以上は貯められないのなら労働者に
還元されるであろう。だが企業が金を貯め込む事は異常に不自然だが、人の胃袋と違い
どんな事をしても、又どんな事があっても、幾らでも出来る。その中で邪魔になるのは
、国家機関やその税体系と言う道徳観念の枠だけだ。と言うのである。此処に理論があ
る。つまり機械やロボットの通信手段は同じプロトコルを持つか持たないで決まる。つ
まり周波数と流している計算式である。ノーマルでは声であり波長である。そして言語
と言う事になる。だがロボットはそれを聴こうと言う意志つまりプログラムが動かなけ
ればそれを行わない。ところが人間は最初から動く様に産まれて来る。それが違うとい
うのだ。つまり赤ちゃんが母親からのミルクを飲めばそれ自体が認識をし習慣化する。
ある学者は「知性とは短時間で解決する力の事だ。」と言ったがこの赤ちゃんは人間で
あろうが動物であろうが植物であろうが、産まれた瞬間からそれが備わっていると言う
。ところがAIにはそれが無かった。そして幾ら人とやっても勝てなかった。チェスで
も囲碁でも将棋でも。だが或る時ある人が認識のプログラムを変えた。

716: 名無しさんAA:18/01/02 20:05 ID:zmw
NHKには誇りは無いのか これまでもコラボ番組は色々あったが鶴瓶とタモリは
全く史上最低の構成だ。 こんな番組なら 捨ててしまえ 時間と予算の無駄使いだ。



717: 名無しさんAA:18/01/02 21:24
 そも韓国は他国に自分達の立場を理解しくれ。などと言える立場があるのだろうか。
全く自分の領土すら不明のまま建国し 歴史的には全く韓国領であったことのない竹島
を、韓国側にとって「民族の自尊心」や「独立の象徴」と教育し、日本軍や米国と共に
フィリピンやベトナムに派兵しては暴行略奪虐殺の連続で、虎の威を借りた狐以上の事
を起こし、日本が敗戦に至った時などは自国を守るよりは日本で連合国軍だと言いたい
放題やりたい放題で日本に於いて防衛の為のヤクザを作らせたではないか。彼らが問題
にしているのは歴史の事実ではなく、歴史で問題を起こす事が楽しみだった民族であっ
たのだ。それに反省があるかと言えば全くない。これに対し、日本政府が「竹島は歴史
的にも国際法上も日本の固有の領土だ」と発言したところで、彼らは自らの歴史認識の
誤りに気がつくどころか、聞く耳すらない。日本政府は、これまでも効力のない発言を
何十年となく繰り返し、これからも続けていくことだろう。だがらもう相手する必要な
どない。彼らは勝手に好き勝手を行う民族であり又それを求める民族であり続ける。こ
こで問題なのは朝鮮民族の破滅でなく全人類の破滅が問題であり、このままではICB
Mは完成し米国は危機に陥り 更に今以上の死者がでるだろうと言う確定した予想であ
る。ならばプーチンと言うロシアの混乱を許さない大統領がいる間に例え朝鮮半島の中
が惨事に陥り崩壊しても諫めるべきはきちっと諫めれる瞬間の今に、ちゃんと整理する
しかないのである。更なる困難や壁が立ちはだかる前に。韓国はこれまでも何回も日本
は注意し助言は繰り返して来た。だが全く聞くどころか協調すらない。だからミサイル
もなく衛星も待たず近代兵器は北朝鮮の1割の威力すらない。迎撃しようにもアンテナ
の無いレーダーと特定機密すら漏らすコンピューターシステムの稼働である。例え火の
海になろうとも、これまで歴代大統領になった者は、国民を思った試しはない。こうし
た国民の民族性を問う事もなく国家機構を作り上げ 戦時になれば地下壕に入り、後は
米軍の防衛や日本などの諸外国が勝手な支援や援助に来るのを甘んじて受け、兵隊のみ
が一応対戦しているふりだけを海外に見せつければ事足りたのである。これは建国以来
からの伝統の形である。竹島占領もその中にある。つまり北朝鮮に相対するに自国のみ
では心細いから日本を巻き添えにせよ。と言う李承晩の命令からである。それは朝鮮戦
争時代日本の山口を指定した亡命政府に日本はNOを返事したうらみからだったのだか
らだ。


718: 名無しさんAA:18/01/04 23:15

 これは著しい憲法違反である。 人権団体であろうとも検察でもこれは取り締まる
べきである。組合報告なしに警察報告し 組合長との連絡拒否に 個人の自由権がない
というのは 軍国主義以下の判断だ。 これは警察は評議員逮捕すべきである。これ
はおかしい話で 電話を取らなかった。怪我に対して警察に勝手に行った。と言う理由
で よその社長を、業界理事を解任したのだ。これはマナー違反で留置場に入れる様な
行為である。




719: 名無しさんAA:18/01/04 23:21

 全く安倍首相は 行政をどう思っているのか。先の都知事選の石原文書でも同じだが
こうした違法の感覚が無い事がほぼおかしい政治にしている。文部科学省は爆破される
ぐらいの 失政であろう。



720: 名無しさんAA:18/01/05 02:18

 全く安倍首相は 行政をどう思っているのか。先の都知事選の石原文書でも同じだが
こうした違法の感覚が無い事がほぼおかしい政治にしている。文部科学省は爆破される
ぐらいの 失政であろう。こんなの許したら 個人の自由や表現の自由放送の自由など
無いに等しく すべからく人は集団が勝手に決めた法律違反規約でも守れと言う事にな
る。これでは話にならない。 この池坊という馬鹿は 何故精神病院に拉致されないの
か 全くおかしい論理だろう。 事件起こした方は全部自ら引いて処罰なし 起こされ
た方は 実害もあり降板もあり更に辞任せよとは 全くでたらめ委員会ではないか。



721: 名無しさんAA:18/01/07 06:35

 又赤ちゃんや子供の事件が起きる。不登校や自殺もだが こんな事件の大元は 今の
政治にある。まるで貧民が女衒に娘を身売りする様な 債権政治を安倍首相や麻生財務
省はことなげに平然と行っている。馬鹿げた政治で借金財政ならあのアフリカ独裁政治
と全く同じ 無知の独立国と同じである。全くすべきでない事を押しのけてやって来て
やるべきをやらず。鬼や悪魔かの様な自民党政治は 今からも段々補助に群がる企業で
謳歌する経済に仕上がっている。これを亡国と言わずして何を亡国と言う。今の相撲の
協会倫理と同じだ。全く独裁の上 論理も合議もない合理性の無い不法社会でないか。



722: 名無しさんAA:18/01/07 12:37
 キッシンジャーの名著「回復された世界平和」は、ナポレオン戦争後の国際秩序がい
かに形成されたかを描いています。オーストリアの、そして事実上は全ヨーロッパの首
相であったメッテルニヒは、侵略者ナポレオンが敗北に瀕するや、彼を守るために同盟
軍のパリ侵攻を遅らせています。単に勝利しさえすればいいのなら、ナポレオンを滅ぼ
すことです。ですが勝利以上のもの、戦後の秩序のことを考えれば、フランスを温存せ
ねばなりませんでした。ナポレオンの敗北はロシア遠征の失敗から始まったのであり、
戦後、最大の発言力をもつのはロシア皇帝アレクサンダーです。フランス軍を打ち破っ
たロシア軍は、そのまま西欧に乗り込んできました。中欧のメッテルニヒにすれば、前
門の虎、後門の狼です。ロシアであれフランスであれ、一国がヨーロッパに号令するよ
うな事態は避けねばならない。であるなら、ナポレオンにはフランスに閉じこもっても
らい、なお健在であることで、ロシアの一強支配を防いでもらうべきです。結局はナポ
レオンが和平を拒否し、フランスにブルボン朝が戻ったことで、メッテルニヒはブルボ
ン朝を相手に講和を結びました。そしてナポレオンを裏切ったタレイランの活躍もあっ
て、フランスは欧州の大国としての地位を保ちました。革命の子たるナポレオンを除い
て、フランスは現状維持側の勢力として、国際秩序に復帰したのです。こうしてヨーロ
ッパ世界は修復されました。敗者を処遇するにあたって、これは成功例だったと言える
でしょう。その後に生まれた数多い失敗例に比べるならば。タレイランはかなりの曲者
だった。大貴族の長男として生まれるが、片足が不自由となったので貴族でなく聖職者
としての道に進む。若い頃は相当な遊び人として鳴らし、社交界の花形だった。
1788年にオータンの司教となり、翌1789年の三部会に参加。革命派僧侶として活躍。財
政難解決のための教会財産国有化に賛同、司教領を放棄したために法王から非難される
。が、屈せずフランス憲法を支持して司教職も放棄。イギリスに外交使節として派遣さ
れている間に恐怖政治期になったのでそのまま亡命、アメリカ合衆国へ行ったりする。
1796年に帰国、1797年に総裁政府の外務大臣に就任。外相辞任後はナポレオンの擁立に
暗躍。1799年ブリュメール18日のナポレオンの政権掌握後、外相に復帰。多くの条約と
外交活動にかかわるも、やがて勢力均衡を重んじる立場からナポレオンの対外拡大的政
策と対立。1807年に外相を辞すると、その後はロシア皇帝らと通牒、ナポレオンの没落
とブルボン家への王政復古とを画策する。王政復古後、ルイ18世のもとで外相となり、
ウィーン会議にも出席。ウィーン会議では「正統主義」を振りかざしつつ列強の利害対
立を巧妙に利用、(敗戦国のはずの)フランスの領土保全と戦争責任回避とに成功する。



723: 名無しさんAA:18/01/07 18:14
 行事が男色家だった?何とも哀れな不祥事である。こうした不祥事が続くのは当然で
いまの相撲協会の判決みたら こんな事件は当然である。全く出鱈目なのだから。一時
が万事で全く式守伊之助など名乗る資格はない者を行事にさせたのだ。



724: 名無しさんAA:18/01/07 23:52
 世界新時代−‐‐32

「私の家族は感情を表に出す家族だったとは言えません。会話もそんなに多くはありま
せんでした。皆それぞれが、自分の中に閉じこもっている感じでした。とはいえ、私た
ちはとても仲がいい家族でした。私の両親は死ぬまでずっと一緒に過ごしました。それ
でも、両親はロシアの英雄の偉業や困難、悲劇といったことを熱く語ることを好まず、
わたしもそういったことは知らずに育ちました。」これはプーチンの自叙伝の一文であ
る。プーチンの母親は、1941年から1944年まで、ドイツ軍とフィンランド軍による、ソ
連のレニングラード包囲戦と言われる、史上最大の悲劇に出会っている。すべての物資
供給を組織的に遮断し、この大都市の住人を餓死させようとしたこの出来事は、ドイツ
軍がソ連領土で犯した戦争犯罪の中で最も過酷なものだったと言う。プーチンの母親、
マリア・イワーノヴナはこの凄惨な包囲をくぐり抜けて生き延びた人だった。この包囲
戦で100万人が死亡し、その中にはウラジーミルの兄もいた。とされるが、ウラジー
ミル・プーチンはまだ生まれていなかった。その後彼は成長が遅かった事で柔道を習う
。知っての通りKGBに入りスパイになった。現在のロシア連邦の政治家であり、その
中でも特に大きな影響力を持っている政治家である。国民が初めてプーチンの名前を聞
いたのはロシア連邦保安庁庁長であるプーチンがエリツィンによって総理大臣に選ばれ
た時だ。2000年3月26日の選挙でプーチンが52.94%で選ばれた。以降、15年間でプーチ
ンの鋭い言葉、冗談、格言が記憶にある。プーチンに対しては、明らかになっているだ
けで過去5度暗殺が試みられている。プーチンが、前妻に 自分が諜報機関(KGB)で働
いていることを伝えたのは、結婚する直前だった。その事について「諜報機関で働いて
いることをどうしても話さなければいけない立場にある人間は、諜報機関で働くのには
ふさわしくない。」とプーチンはザイベルに語っている。2001年にドイツ連邦議会では
完全なドイツ語でスピーチをした。彼は約5年間、ドイツのドレスデンでKGB諜報員
として活動し、1990年に東ドイツが崩壊し始めると、モスクワに戻った経歴だったので
ある。2008年の記者会見で、プーチンは自分の仕事についてコメントをした。「私に2
回投票してくれた人の前では恥ずかしいことなどない。この8年間、私はガレー船の奴
隷のように働いた。朝から夜まで一生懸命。」と語り同じ記者会見で、ヒラリー・クリ
ントンの、「プーチンは心がない」と言う言葉に対してプーチンは、「国家公務員は少
なくとも頭を持つべきだと思う。国際関係を作るためには感情ではなく国の利益に基づ
くべきである。」と答えた。

725: 名無しさんAA:18/01/07 23:53
 世界新時代−‐‐32-2
 このウラジーミルプーチンに対して「この人恐い。この人、本当に恐いわ。」と松本
人志は言ったが、誰もが恐れるプーチンは明言も多い。北の海で潜水艦が沈んだ事件が
2000年9月に起こったが、CNNのラリー・キングに、「クルスク潜水艦はどうしたの
?」と聞かれたプーチンは、無表情を振舞い「沈んだ」と気まずく端的に答えた。しか
し、ラリー・キング自身は 10年後にそのプーチンの返事をBrilliant(素晴らしい)
と評価している。1999年の 9月、まだ総理大臣だったころの有名な言葉がある。「ロシ
アの飛行機はチェチェン・テロリストの基地を攻撃してきたしこれからも続ける。テロ
リストがどこにいようと攻撃は行う。空港に来たら空港まで追撃する。失礼だがトイレ
で捕まえてトイレで殺す。以上。」と言ったのである。既にチェチェンがロシアが作っ
た内乱であった事は確かだが、それを追うなと言う意志表示であった。2003年ユコスの
(石油会社)揺れている時もに同じで、「皆さんが覚えておくべきことがある。いつで
も法律は守るべきだ。あそこを掴まれたときだけじゃなくてだ。」と国内に威嚇を示し
た。彼の頭の中は国があって企業がある。と言う旧大日本帝国時代の考えそのままであ
った。つまり彼には、彼が法律であったのだ。2008年のクレムリンで行われた記者会見
でも、記者にルーブルのデノミについて聞かれ、「嘘だ」と厳しく答えた。その保証を
聞かれたプーチンは彼にこう述べた。「あなたは何がほしい?植木鉢の土を食べてほし
いのか?血で誓ってほしいのか?」と言った。今は強権の時だと言いたかったのだろう
。かつての革命時代に出た死者を出したくなかったのだ。2005年、プーチンはコムソモ
ルスカヤ・プラウダ新聞のスタッフと話をした。ラトビアが、プィタロフスキー地域を
返還してほしいという話になり、プーチンはこう述べた。「領土関係の話し合いは一切
しない。プィタロフスキー地域ではなく、死んだロバの耳を渡すよ。」と言った。ロバ
は王様の耳はロバの耳で同じ様に「偽贋同志」の訴えのジョークである。2005年に「ソ
連崩壊は20世紀の最も大きな政治的な災害である」と言った。その5年後に「ソ連の
崩壊を惜しまない人は心がない。ソ連を以前のまま復元したい人は頭がない」と言った
。2000年、プーチンはNATOに入る可能性を話した。「ロシアの利益が無視されなかった
ら。みんなと同じ権利を持てるのならば」一方、2008年にはロシアの国境のそばに基地
が現れることを脅迫だと話した。「ビスマルクが言ってた通り、大事なのは意向ではな
くてポテンシャルである。」「軍的な連合にうちの柵のすぐそばに居てほしくない。彼
らはいいやつらだけど、シンフェロポリに遊びに来てもらったほうがよっぽどいい。」
とNATOについて2014年に話している

726: 名無しさんAA:18/01/07 23:53
 世界新時代−‐‐32-3
。2006年、プーチンはアメリカのことを話しながら、「狼は誰を食べればいいか知って
いる。食べていて誰の意見も聞かない。という慣用句を思い出した」と述べた。2007年
にプーチンが「国の中にいまだ外国大使館あたりでジャッカる人(工作員?)がいる。
」といい「私は純粋な民主主義者であるか。もちろん、完全で純粋な民主主義者だ。し
かし問題がある。知っているか?私は一人だけ。全世界探しても他にはいない。(代わ
る者がいない)マハトマ・ガンジーが死んでから話す相手もいない。」と2007年に愚痴
をこぼした。2012年に欧米の問題点を指摘した。「彼ら自身だって…臭い物はある。更
に耳まで沈んでいる。以前、その問題点を挙げたことがある。彼らはそれらの問題に溺
れているのに、ロシアが悪いかのように言っている。」2013年には具体的に言う。「彼
らはもちろん、親玉を噛もうとしている。そうすれば自分の評価が上がるからだ。でも
やはり気をつけてやらないと。無茶するとズボンがなくなる。見せられるほどのものだ
ったらまだいいけど、あまり誇りに思えるものがなかったら残念なことになる。」2014
年には、「私達は善人の皮をかぶらないので責められている。」と述べた。こうした言
葉と共にロシアを支える柱としての信頼感はロシア国民には高い物がある。さまざまな
国内問題を抱えているにも関わらず、プーチンはロシアを「再建した」と評されている
。これは、1990年代にロシアが深刻な危機に瀕していた事実に大きく関わる。90年代の
危機は、ロシアの経済に打撃を与えただけでなく、官僚制度や、文化生活、社会的結束
、そしてロシアの独立国家の概念が大きく揺らいだ。2000年にプーチンが政権を握ると
国家機構の改革に着手し、独裁的なやり方で再建した。その後の数年間で、天然資源の
輸出を中心にロシア経済を立ち直らせた。しかし今では、クリミア危機の前に経済成長
が減速したのも事実だ。ロシアが今必要としているものは投資である。現在ロシアには
制裁措置が課されているため、現時点でロシアへの投資は予測できない。プーチンが、
権力の象徴だったソ連に強い親愛の情を抱いているのは事実である。例えば、彼はソ連
国歌に新しい歌詞をつけて再びロシアの国家として導入した。だが、ソ連時代に実施さ
れた社会政策の成果などは、もはやほとんど残っていない。例えば、壊滅的な医療制度
や財政的セーフティーネットなどだ。2011年末の時点で16%のロシア人が月に192ドルと
いう最低保証すら下回った生活をしていた。その一方、ロシア富裕層は比較的良い暮ら
しをしている。又ロシア富裕層は21世紀初頭から所得税を13%しか払っていない。

727: 名無しさんAA:18/01/07 23:54
 世界新時代−‐‐32-4


 「西側諸国のあなたに対するネガティブな態度は何が原因だと思いますか?」との問
いに、「不安だと思います」と答え、「あなたへの不安ですか?」と記者は更に聞く。
「ロシアへの不安です。ロシアの規模、ロシアが所有する核兵器、その他様々な分野で
のロシアの可能性が彼らを不安にさせるのです。しかし、それは古い考え方です。」と
言った。現在のところロシアは国際的な制裁を遵守している。が、今般の北朝鮮を見れ
ば、一度スホイ35を手にすれば核兵器の運搬手段を得ることになるので、それを狙っ
ている。これは注意深く見守る必要がある。北朝鮮は弾道ミサイルを開発したが、核弾
頭はそれに搭載できるほど小型化していないと言われる。しかしスホイ35があれば、
北東アジア一帯に北朝鮮が核攻撃できる。もちろん、ハドソン研究所のリチャード・ワ
イツ政治軍事分析センター長が主張するように「ロシアが最新鋭戦闘機を輸出して制裁
に違反するリスクを冒すよりも、航空機器のスペア部品を、民間用と偽装して北朝鮮に
供給する可能性の方が高い」のは確かである。いずれの場合もプーチン政権が北朝鮮に
対する核不拡散のための制裁を骨抜きにするかどうか、注意深く見守らねばならない。
2014年12月25日、プーチン大統領は軍事ドクトリンの改訂を承認した。これまでは軍事
ドクトリンはおよそ7-10年周期で改訂されており、前回のバージョンは2010年に承認さ
れたばかりであったから、かなり早い。しかしプーチン大統領は今年9月、軍事ドクト
リンを年内に改訂するよう突如指示し、今回の改訂となったものである。 ところが、
新軍事ドクトリンは、紛争を武力紛争(限定紛争)、局地紛争(国家間軍紛争)、地域
紛争(国家が核・通常兵器を用いて同一の地域内で戦う戦争)、大規模紛争(国家連合
または主要な世界的共同体間で行われる戦争)の4つの項目に分類してる部分は変化が
ない。ただ新軍事ドクトリンは「非核抑止力システム」の概念が盛り込まれた。「対外
政策、軍事的手段、軍事技術的手段の総体での、非核手段によるロシアに対する侵略を
防止することを目的としたもの」と定義された。核以外の手段で抑止力を確保するため
にロシアが最近、重視している大きな概念だ。従来ではイデオロギー対立の後退で大規
模紛争の蓋然性が低下したとされていたのだ。新軍事ドクトリンで国際的な環境を非常
に厳しく捉え、しかもそれが既存の安全保障秩序では制御できていないという視点を打
ち出している。さらに大規模紛争の蓋然性低下はないとし、その一方、情報空間やロシ
ア国内では軍事的危険が増加しているという事を示した。

728: 名無しさんAA:18/01/08 00:04
 世界新時代−‐‐32-5


新軍事ドクトリンは現代の潮流を、国際的・地域的な相互作用において、様々な分野で
グローバルな競合が激化している。多くの紛争が制御されず放置されていて、既存の国
際安全保障アーキテクチャ(システム)は、全ての国家に平等に安全保障を提供できて
いない。と指摘している。情報空間及びロシア国内領域における軍事的危険及び軍事的
脅威が変化する傾向が生まれた。ロシア連邦に対する大規模戦争が行われる蓋然性は低
下したにも関わらず、ロシア連邦に対する軍事的危険は増加している。としている。前
回同一で、NATOの拡大やミサイル防衛システム・宇宙兵器の配備、領土要求、大量破壊
兵器の拡散などが列挙されているが、注目したのは、新たに追加された項目もある。
それは国際的協調の無い中での国際的犯罪集団の活動と、国境紛争や民族紛争が消えな
いままでの同盟国ないしロシア連邦の維持においての活動だ。更に、正統な政府機関の
転覆活動を含んだ国益に脅威となる体制や政策を打ち立てる革命とロシア連邦の主権の
弱体化を謀る、統一及び領土的一体性の毀損を目的としたテロ組織及び個人の活動に近
い国民に対する情報感化に関する活動である。特に祖国防衛に関する歴史的、精神的、
愛国的伝統の弱体化を目的として「若い国民」を狙ったものと指摘し民族間及び社会的
な対立、過激主義、人種的宗教的憎悪又は敵対の喧伝を謳っている。ここで問題は、強
くロシア連邦の政府組織の機能・重要な政府施設・軍事施設・情報インフラの妨害をす
るロシア連邦の憲法体制の強制的な変更、内政及び社会的状況の不安定化を挙げた事だ
つまりは、自由化した憲法改正は行わない。と暗に明言していると言える。この覚悟は
かつてのヒットラーに似ている。つまりユダヤの食種が又貪欲すきて触手を広げ過ぎた
事を意味している。クリントン女史やオバマ大統領がどんな外交をしたのかは不明だが
、交渉にならない強い支配的要件を突き付けて聞く耳を持たなかったのだろう。本来の
クリミア半島では、あんな過激な右翼分子が政権取ってそれを応援する事自体がおかし
い話で、ロシアからすればウクライナ支援は、米国がロシアを通じて行えば事足りた。
と考えていたはずだ。事実各個が独立や信仰を持ち出せば4分1だけロシア人白ロシア
人ウクライナ人トルコ人と言う民族模様の中で 収拾がつかないのは当然でロシア軍で
はもっとも繊細な核や潜水艦の集中したところなのだ。ここにロシア人排撃などと言う
スローガンを建てた事自体が狂気の沙汰といえる。それは即ち西側支援なくして在り得
ない言葉や行為の筈だった。

729: 名無しさんAA:18/01/08 00:12
 世界新時代−‐‐32-6

今回の軍事ドクトリンで、現代の軍事紛争の特徴及特質として、次の9点を挙げている
。 a) 軍事力、政治的・経済的・情報その他の非軍事的性格の手段の複合的な使用によ
る国民の抗議ポテンシャルと特殊作戦の広範な活用 b) 精密誘導型兵器及び軍用装備、
極超音速兵器、電子戦兵器、などの核兵器に匹敵する効果を持つ新たな物理的原理に基
づく兵器、情報・指揮システム、無人航空機及び自動化海洋装置、ロボット化された兵
器及び軍用装備の大量使用である。v)グローバルな情報空間、航空・宇宙空間、地上及
び海洋において敵領域の全縦深で同時に活動を行うこと d) 軍事活動を実施するまでの
準備時間の減少 e) 垂直的かつ厳密な指揮システムからグローバルな部隊及び指揮シス
テムネットワークへの移行による部隊及び兵器の指揮の集中化及び自動化である。更に
恐ろしいのは「常在戦場」を打ち出した事だ。zh) 敵対する国家の領域内において、常
に軍事活動が行われる地域を作り出すこと z) 軍事活動に非公式の軍事編成及び民間軍
事会社が関与すること i) 間接的及び非対称的な手段の利用 k) 政治勢力、社会運動に
対して外部から財政支援及び指示を与えること。…と「形を変えた侵略」に対する意識
が顕著に此処に表現され、これまでは工作員の活動つまりKGBなどの裏社会の特筆で
あったがこれをアメリカナイズしたスマートな諜報員として民間活動させる方針にして
いて、これからの標的が今のトランプ問題の様に、特定して集中せず全方位的攻撃に変
化させている。民間も軍事もない。としていて領土的或いは領域的撤退は在り得ない事
を厳しく追加している。もちろん、ここではロシアがこのような侵略を受けることへの
懸念として表現されているのだが、ロシア自身がこのような方法を用いることも考慮さ
れていない筈はない。ウクライナ危機におけるクリミア半島の併合や、ウクライナ東部
での紛争は、まさにロシアがこうした「形を変えた侵略」を自分自身で実施した最初の
事例として、死んでも放さないのは確かな覚悟の様だ。今のトランプ疑惑もこの作戦の
一部かも知れない。こうした事から透けて見えるのは、今まで対アメリカ外交だったが
今や欧州も中東もインドも中国も対抗しうる敵対国として軍事化を進めて居る事だろう
。これは今回のシリア政策やイラン或いはトルコにと何処でも火を噴く可能性を示唆し
ている。つまり「米英よ、いい加減な外交するな。」と言う圧力だ。当然今回の北朝鮮
の核ミサイルもそうした中の支援である可能性が強い。これまで攻める事はない中国や
日本に改めて圧力をかけて、利を得ようと変えたのである。それが3年前のロシアの、
新ドクトリンだったのだ。とすれば北方4島などと言う生ぬるい話ではない。

730: 名無しさんAA:18/01/09 02:22
 近頃ウキベディアなどの日本軍関連記事はどんどん消されている。その上何故だか、
中国の応戦した詳細な記事が消されて10Pに及んだ文も今では3p程度に削られた上
日本軍の悪口に代わっている。ここ2・3年の話だ。経営者が代わり日本での中国人の
教授が増えたせいであろうが、詳細な文章は間違いであっても大事なものだ。他と照ら
し真実がしれるからだが、今では何故か無くなっている。日本政府も消費者センターも
一体何を手ぬるい事しているんだ。真面目に国民の正しい知識を知る権利を守るべきだ



731: 名無しさんAA:18/01/09 02:24
池坊女史の様な めちゃくちゃな中国のやり方や中国の汚い文化を取り入れるな。

732: 名無しさんAA:18/01/09 13:34

ひるおびは、今度の着付け詐欺の問題では 福岡支店などの好意を美談にしてはいけな
いというが 私は大きな美談だと思う。八代弁護士は全く会社の社員を共同参加者みた
いに思っているが、会社と社員は契約労使関係で、続けて成人式時に営業して当たり前
など言うのはおかしな論調だ。会社から給与が無ければボランティアでありその休業の
保証やハローワークなど公的機関の書類すらままならない中で、一般的には消費者より
従業員の給与の方に大きな権利がある。その中でやりくりして本当に一生に一回の中だ
と頑張っておこなった各支店は業務中止して資材を売り払い給与に充てても正当化され
るはずだ。かれらは勇士であり美談であるのは間違いない。これを国際弁護士であろう
ともひねくれて物を見るのは 全く間違っている。


733: 名無しさんAA:18/01/09 16:07

 日本政府は、さっさと韓国政府と断交すべし、全く国連合意をないがしろにする行為
ではないか。やっと制裁効果が出る頃に、全く胆が据わってない自国のみが小回りして
北朝鮮と調子よく付き合おうと言う腹が見え見えではないか。日本政府はシベリア問題
にプーチンとの会談も大事だがハバロスク自治委員との会合を持つべきだ。北朝鮮制裁
だけでなんの進展があろう。制裁を強く言うなら日本の平昌オリンピックをボイコット
すべきだ。大体オリンピック憲章に政治利用はしないとある中で平然と違反しているで
はないか。

 

734: 名無しさんAA:18/01/09 23:29 ID:XMs
カヌーでの実力者の落とし入れ事件は 全く今度の相撲協会の日馬富士事件と同じだ。
ただ使われたのが 日馬富士と言う人間が 薬物と言う飲み水であっただけだ。ここに
相撲協会の甘さがある 日本人では「良心の呵責」があるがモンゴル人にはそれは無い
。その違いを良くわきまえないといけない。張り手やかち上げを多用してそれがルール
上違反じゃないというのは そういう場合もある。と言うから違反にしていないだけだ
。本来は大相撲としては違反だったが、各地にある奉納相撲の力士いわんや藩の殿様が
パトロンだった為に出来た調停ルールであって 言わば仕方ないからしても良いとした
だけで強いとされる横綱では在り得ない行為なのだ。それはサッカーが人の集合体の時
オーバーヘッドキックシュートをした時 危険行為とみなすかシュート得点と見なすか
の違いだ。やっても良いが考えろ!出来るだけやるな!!と言うグレーゾーンである。
ただ西洋の場合それを審判に委ねていて ペナルティルールも全く同じに見つかるか見
えない所でファールするかを競っている。今やサッカーは球技で無く格闘技になった。
スポーツでさえこうなのだ。どこでもグレーはある。



736: 名無しさんAA:18/01/11 09:31


TV局はちょっと馬鹿だ。今相撲協会の問題を取り上げるべきであろう。 今八角
親方の 会議場での大声を取り上げ大きな批判すべきであろう議長でありながら こん
な不逞の心身の親方を失格なり会議退場なりさせなかった、池坊女史の無責任で曖昧で
 不条理な態度や決断に糾弾すべきであろう。民主主義の為にも。大体TVは勢いが、
民衆や芸人虐めに入り浸っている。何かあれば庶民の中に物貰いのごとく旅に出た映像
を送り、お笑いと言えばめちゃくちゃ多用し しかも北野の馬鹿の様ななりふり構わず
の下地のない企画しかない。昔の知恵のある御仁がいた頃なら兎も角 今のご時世に、
女優なのかお笑い芸人なのかわからん様な 使い方ばやりだ。食べ物に匂いも味もない
TV画面で美味いとのたうち ニュース解説も奥が無い同じ時事を延々と行う。他にも
国際舞台では、かなりの異常がおこっているし 日本の政治家も不祥事は全く無くなっ
てはいないし、法律も公務員に甘いばかりだ。




737: 名無しさんAA:18/01/15 09:53
 韓国は10年の敵日本は100年の敵中国は1000年の敵 金正恩



738: 名無しさんAA:18/01/16 10:54 ID:Svw
 国際人権NGOヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)は12月13日、ニュース
リリースを発表し、新疆ウイグル自治区で当局がさまざまな手法で住民の生物データを
採取していると告発しました。HRWは、中国当局は同自治区で12歳から65歳まで
の住民全員のDNAサンプル、指紋、虹彩、血液型を採取していると告発しました。「
重要人物」とその親族については、年齢に拘らず全員採取されているとのことです。

739: 名無しさんAA:18/01/16 10:55

料で実施する国民検診でDNAや血液型が採取されていますが、検診についての報道や
政府の関連文書では、検診項目にDNAは含まれていません。当局は採取した医学情報
がどの部署に送られ、何に使われるのか、また保存期間についても、受診者に何の説明
もしていません。プレスリリースは、これまで同自治区ではパスポート申請時のみ生物
データを提出するだけだったのが、全面的な収集を実施するようになったと告発してい
ます。HRW中国部長のソフィー・リチャードソン氏は、「説明と同意」や「最適な選
択」といった問題が考慮されておらず、国際的な人権規範に反し、人々を不安に陥れる
ものだと批判しています。同自治区アクス市のサイトでは今年7月の「アクス地区人口
服務管理・実名制工作領導小組(りょうどうしょうそ)弁公室」の発行印が記された「
全区人口登録調査確認工作の指南」と題する通知が掲載されており、HRW「人口管理
」は通常公安部が担当すると指摘しています。同指南によると、生物データをタイプ別
に複数の機関が収集することとし、さらに、他県に居住する者も含め同自治区に戸籍を
置く者全ての情報を収集し、「村の世帯一つ残らず調査し、人を見れば必ず調査するこ
と」としています。同自治区の多くの地方政府は多岐にわたる生物データの収集の実施
に関する細かい規則を定めているといいます。新華社は11月1日、同自治区で今年、
国民検診を受けた住民は1880万人以上だと報じました。HRWは、住民が強制的に
検診に参加させられること、DNAサンプルなどの生物データがさまざまな人権侵害行
為に濫用されることを憂慮しています。ウイグルアメリカ協会代表のイリシャト・コク
ボレ氏は、背後には恐るべき目的があると指摘します。イリシャト・コクボレ氏は、中
国政府はウイグル人を敵と見なし、同化するか絶滅させるか、しようとしているとし、
統制強化や生物兵器の開発のほかに3つ目の目的がある可能性を指摘しました。ウイグ
ルアメリカ協会代表 イリシャト・コクボレ氏:「ウイグル人という民族を臓器移植の
ストックにし、臓器移植が必要になると、ウイグル人の若者から臓器を調達するという
可能性があります。生物データ収集の目的ははっきりとは分かりませんが、良いことに
使われるのではないことは確かです。こうした生物データの採取をウイグル人に強制的
に行っていることは、非常に危険な兆候です。」中国外務省報道官は12月13日に記
者会見を行いましたが、新疆ウイグル自治区で、住民のDNAサンプルを収集している
との情報について否定しませんでした。


740: 名無しさんAA:18/01/16 11:28
 日本の岐路 45


 神奈川県逗子市のストーカー殺人事件で、被害者の三好梨絵さん(当時33歳)の住所を市職員が漏らしたとして、三好さんの夫(47)が、市に1100万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が15日、横浜地裁横須賀支部であった。
 前沢功裁判長は、加害者側への情報漏えいによって三好さんのプライバシーが侵害されたと認定し、市に110万円の支払いを命じた。
 訴状などによると、東京都内で暮らしていた三好さんは元交際相手の男からストーカー被害を受け、逗子市に転居したうえで住民票の閲覧・交付制限を申請して認められていた。しかし、同市職員は12年11月5日、夫を装って電話で三好さんの住所を問い合わせてきた元調査会社実質経営者の探偵の男(偽計業務妨害罪などで有罪判決)に対し、夫本人であるかや閲覧・交付制限の有無を確認しないまま住所を伝えた。

 ふざけて居る。人の命を奪った事件の先導者がこんなに安い罰金ですむのか。裁判所
もどうかしている。2桁ぐらい金額がちがうだろう。国家権力を盾にして国民を詐欺て
税金徴収係が一体何をしているのか知っているのか。世の中の多くの土地や係争は、殆
どこの税金係の無知にある。法律を知らず、人間も見らず 一方的に権力で徴収する。
その為 墓所は勝手に崩し、御神木は切り倒し、過去の歴史すら探らない。国家予算で
国土を壊し続け、福島災害の様に 災害を大きくする。全く非人道非道徳すぎる行政の
根本原因である。国民を守らない市や市職員に 何故税金徴収できる権利があろうか。
 本来なら死刑位の罪状である。 裁判所は何を勘違いしているのか。こんなに甘い処
断では 全く行政や市町村は変わらない。ちゃんとした姿勢を示せ。探偵や業務を知り
尽くした者は簡単に悪行に染まれるとなれば 教育は一体何処にあるのだ。よく考えよ
。教育も行政が負担しているのだ。教育が退廃するはずだ。



741: 名無しさんAA:18/01/18 03:54

 ビットコインが急落した。要因は幾つかある。一つは日本にやって来た外国人が住み
付き始めた事だ。日本は観光立国などと浮かれているが、こんな危険な事は無い。今や
人の過去を探れないほど黒い闇が広がっている。此処で住み着くには日本ではまだまだ
電子マネーは流通していない。従って現物引き下ろしになる。それが一つの要因であろ
う。更に付随して大手銀行は新電子通貨の販売を売り出している事だ。黒い闇のある物
よりは通帳記録の方が納得行く話である。ただこのブロックチェーンと言う通帳は開く
事には大きな電力消費が伴う。更に暗号化技術の漏えいまで心配であろう。銀行の負担
も相当な物になる。更にもう一つの要因が各国の対応だ。既に東南アジアでは規制の方
向だし中国は規制が効いて、ちょうど今が検挙時期であろう。隠れて扱っていた銀行は
今の高値の内に売り捌きたいと思ってもいい頃だとも思っていたが、やはり、とも言え
る。だが又安くなったら国家規模で買い付ける可能性は高い。第三の要因はロシアや北
朝鮮或いはアメリカのサイバー戦争だ。今までは機密事項の盗用や盗聴或いはシステム
の錯動や破壊であったが、それではハッカーたちは面白がった犯行で愉快犯でしかない
。ホビーの世界ならあり得る話だが、国家規模ともなればそれは在り得ない。何らかの
意図しかない。更に大規模犯罪となれば金銭にまつわる犯行が行われてしかるべきで、
今まで緩かったセキュリティもこの所高くなったとすれば、当然ビットコインは狙われ
る。この書き換えを可能にするのが100倍早い量子コンピューターである。通常の取
引で乱高下する株式売買すら今やトップスピードの売買で行って利益を得て居る時代だ
。全く手数料の届かない中では如何様にも変化する。株操作も外貨操作も今や人工知能
でどう変化するか不透明な不確実時代に入った。そこに現金化する理由がでれば一瞬の
内に大暴落は簡単に起こる。人類の知能は、それを信頼や勘で乗り越えてきたのだが、
今やそんな古臭い信頼や勘などは無い。と言うより入り込めない時代である。さてさて
戌年と喜んでいる日本こそが、一番貧乏くじを引きそうな雲行きである。

742: 名無しさんAA:18/01/18 04:13
ハンギョレはこうして嘘を創る

焦点となっているのは“英雄”のシム・イル小隊長。その「功績」は1950年6月に始まった朝鮮戦争でのものだ。開戦当初は戦車をほとんど持たない韓国軍に対し、北朝鮮が大量のソ連製T−34戦車で攻勢をかけたことから、韓国軍にとっては敵戦車の破壊が最重要課題だった。当時韓国にあった対戦車砲や小口径のバズーカ砲(無反動砲)では歯が立たず、韓国軍は総崩れした。この窮地に立ち向かったのがシム氏だ、というのが定説だった。

 韓国KBSラジオ(電子版)などによると、シム氏は開戦当日の6月25日、北朝鮮と国境を接する韓国北東部の江原道にある春川市で、北朝鮮の「戦車型自走砲」10台あまりを発見。対戦車砲部隊の小隊長だったシム氏は砲撃を開始するものの、命中した弾はすべて戦車の装甲にはじかれた。そこで、5人でチームを組んで手榴弾と火炎瓶で肉迫攻撃を行い、3台を撃破した−というのが、伝えられてきた「韓国の歴史」だった。

 朝鮮日報(電子版)によると、証言したのは当時、シム氏と同じ第7連隊の隷下にあった第1大隊で中隊長だったイデ・ヨン予備役陸軍准将(91)だ。イデ氏は当時、シム小隊長が戦車の攻撃を受けて逃走したのを、自分の布陣する高地から見ていたという。「後退するのは仕方ないとしても、自分の部隊の大砲を置き去りにして逃げたことは問題だった」。シム氏の上司にあたる中隊長は責任を問い、小隊長だったシム氏は閑職の連絡員とされた。

こうしてシム氏は作戦中に敵の攻撃で戦死したが、問題はこの後に始まった。シム氏の親が軍部隊を尋ね、他の兄弟も戦死したと嘆き悲んだところ、連隊長は同情し「勲章をやろう」と約束したのだ。副官はシム氏の敵前逃亡を知っていて反対したが、新任の連隊長は1939年の日本軍のノモンハンの戦いを例に出し、肉迫攻撃で戦車を破壊することは不可能ではないとしたうえで、「息子を失ったのだから勲章くらい渡してやれ」と怒鳴って反論を封じた。こうしてシム氏に1951年10月「太極武功勲章」が授与された。

743: 名無しさんAA:18/01/18 04:14
後に国防部の役人が軍の記録を整理中に、シム氏の受章理由を見て「すごい英雄を発見した」と雑誌に紹介。もはや誰も「嘘でした」とは言い出せなくなってしまった。イデ氏は当時の真相を知る関係者と話し合い「シム氏の両親が亡くなったあとで本当のことを話そう」と約束したが、シム氏の母は2005年に100歳で死去。その時、軍側の関係者はイデ氏を除く全員が死去していた。「最終的には私に責任がある」として、イデ氏は「事実」を打ち明けたというのだ。

マシュー・リッジウェイ将軍が「韓国軍の態度だけが私の悩みだった。中国軍は韓国軍部隊を次々と敗走させ、そのたび韓国軍は補充困難で高価な多数の(米国供与の)装備を放棄した」と自著で呆れるほど敵前逃亡が繰り返された韓国軍。休戦後に政府と軍を再建し、北朝鮮と対峙するうえで、勇敢に戦った英雄が必要だったのだ。それが例え「作られた英雄」であっても。こんな“架空戦記”は、韓国では珍しくない。

米軍の「バウト・ワン作戦」もその一例だ。韓国の“定説”では、10人の英雄が登場する。朝鮮戦争勃発時、創設されてまもない韓国空軍の選り抜きのパイロット10人が、米国製の戦闘機を受け取るため日本の在日米軍基地に到着。 一般的に戦闘機は機種ごとに操縦方法や機体のクセなどが違うので「機種転換訓練」が必要になるが、韓国説では、10人は大日本帝国陸軍で熟練パイロットだったので、機種の違いは問題とならなかったというものだ。なかには天候悪化のなか数日の訓練で操縦をマスターしたとの説もある。

しかし、当時の米軍パイロットの回顧録によると事情は異なる。 朝鮮戦争の勃発で韓国に急派された米国空軍第18戦闘爆撃飛行隊のデュアン・バイトマン中佐の記録によると、10人の韓国人パイロットは、それまで米国製の練習機「T−6」で短期間訓練したに過ぎず、F−51を空輸したのは米軍部隊だった。韓国人パイロットのうち数人は強い希望でF−51に乗って地上攻撃に出たものの、最初の出撃で対空砲火によって隊長機が墜とされ、使い物にならない。

そこで、米軍の現地指揮官は「貴重な機体をこれ以上失うわけにはいかない」と判断。そもそも米軍の判定では全員、操縦技量が未熟だと断じられていた。結局、F−51には米空軍パイロットが搭乗することと決定。韓国軍パイロットは「モスキートになった」とされている。モスキートとは、米国製T−6練習機を改修した観測機のことだ。記録によると、地上攻撃に飛び立った米国人パイロットは、地上戦を行う北朝鮮陸軍と韓国陸軍の見分けがつかず、どちらを攻撃すればいいのか判断に迷う為の判別用観測機である。

 とはいえ、韓国空軍パイロットが英語をほとんど解さないこと、また米空軍戦力が増強されたことなどから、モスキート任務もわずかな期間で終了した。その後韓国軍パイロットたちは戦線後方の基地で長い訓練期間に入り、実戦にでることはなかったという。韓国らしい話である。その頃教育を受けた韓国人ならば、いち早く日本人国籍を取り日本語を話し日本人になっていたからだ。韓国人としての英雄が暗殺テロ犯しかいないのはこの為である。それは中国人にも言える事だった。

744: 名無しさんAA:18/01/18 14:55
暗黙のルールは 慣習法と言う法律であり ルールである。これを白鵬は無視して登り
つめた。親方の指導の無さの根源である。


745: 名無しさんAA:18/01/19 03:16 ID:iPk
 NHKが8Kの送受信放送の研究をしているのは 視聴者の求めるコンテンツの良識
化に対する背信行為であろう。コンテンツが綺麗で見栄えが良いと言うのは寓拝である
。本に例えれば、子供の為の絵本が綺麗で美しいと言う事と同じで、本来の本としての
機能である、物語を知る。物語を検証し自分の内まで放り込み、かみ砕き、物を感じる
世界とは程遠い存在となる。成程一般向けのTV視聴率の高さを競争して、というのは
あるだろう。だがこの開発は邪道であり国の予算で行うべきものだ。この行為はかつて
の大日本帝国が陸軍の逸脱した行為で日本国中が悲惨な戦争に巻き込まれた226や他
のテロ行為と全く同じで、本分を忘れた集団の卑猥な行為と言わざるを得ない。かつて
ナチスのヒットラーが夕日に向かって演説し、大日本帝国が中野の神宮庭園で学徒出陣
を雨の中送迎式典をやったような、只の演出の盛り上がりの一事業に過ぎない。これに
自分のTVCMまで入れて盛り上げようなどとする姿は怒りや憤りすら覚えて止まない
。人の持つ知る権利を次々と剥奪して、民間同様に劣化した脚本や演出や演技や配役で
今やTV界は見るに堪えない。お笑いは人をけなすか大声だすか圧倒した姿みせるかで
お笑いなどとなっていない。通常芸人であれ一芸に秀でる者にはそれなりの知識や風格
や国民の拠り所があるのだが、今の芸人には全くない。特によしもとなどと言う形には
意識も人間性も言葉使いも礼儀もなくTVにだせるキャラではないにも関わらず多用し
視聴者を馬鹿にした番組ばかりだ。旅もの食事もの更にスタジオものでまるで統一でも
したかのような全く金も労力も知恵も使わない番組ばかりだ。そうした中手っ取り早い
集金に政府の法律を入れて徴収し、今度は有料CASを造ろうと言う不法行為に至る。
今盛んに人のコンテンツのアップロードを違法としたり、或いは著作権を手にピアノの
教室まで料金取りする違法が日本ではまかり通っている。これは政治や裁判所が不正を
行っているに過ぎない。まともに考えてこうした独裁的考え方が許している国はない。
それこそ人々の口さえ楽器と定義すれば、口笛ふいても著作料の徴収義務に陥るのだ。
こんなバカな規定はどこの国もない。つまり今の安倍政権はこうした一つ一つの悪行を
小さいとほったらかして、みずからも情報保護を盾に汚職を増やしている政権なのだ。
これをそのままにしている野党もどうかしている。大体前原なんぞ小沢の様に大成のな
い、言わば国家の為の目標のない最も黒い闇政治家ではないか。理念や理想国家のない
発言で自民党打破などと叫んでこれを信じて既に民主党時代にミスっていながら同じ様
にスローガンでついていくなんて反省が無さすぎる。政策の無い政党など必要ない。


746: 名無しさんAA:18/01/25 14:18

 又相撲協会の不祥事か、と思いきや 3年4ヶ月も前の事件だった。とは言えTVも
新聞も なぜこの事件の事を知らなかったのだろうか。裁判までされていながら 新弟
子死亡事件を起こしての不祥事も発覚した後の頃で、なぜこの事件が発覚もせず新聞も
出ず なぜこんなにもメディアは怠慢なのだろうか。もう少し精力的に記事を見つける
べきだろう。相撲協会にも裁判所にも記者はいただろうに。危機管理委員会も全く同じ
で親方への報告は一体何の為なのか。更に対応に問題は無かった。と言うのが何故病院
にも行けず治療出来ないで後遺症が出る事なのか。不思議な答弁である。又裁判所は全
く世間ずれしていて甘すぎる。なぜ部屋を持つ親方に責任が無いのか。全く国民を馬鹿
にした判決を出すな。日本を悪くばかりしている。裁判長が犯罪者と同じなのだ。全く
日本は崩壊寸前ではないか。



747: 名無しさんAA:18/01/26 15:13 ID:2lQ
 日本の岐路 45


 神奈川県逗子市のストーカー殺人事件で、被害者の三好梨絵さん(当時33歳)の住
所を市職員が漏らしたとして、三好さんの夫(47)が、市に1100万円の損害賠償
を求めた訴訟の判決が15日、横浜地裁横須賀支部であった。前沢功裁判長は、加害者
側への情報漏えいによって三好さんのプライバシーが侵害されたと認定し、市に110
万円の支払いを命じた。訴状などによると、東京都内で暮らしていた三好さんは元交際
相手の男からストーカー被害を受け、逗子市に転居したうえで住民票の閲覧・交付制限
を申請して認められていた。しかし、同市職員は12年11月5日、夫を装って電話で
三好さんの住所を問い合わせてきた元調査会社実質経営者の探偵の男(偽計業務妨害罪
などで有罪判決)に対し、夫本人であるかや閲覧・交付制限の有無を確認しないまま、
住所を伝えた。ふざけて居る。人の命を奪った事件の先導者がこんなに安い罰金ですむ
のか。裁判所もどうかしている。2桁ぐらい金額がちがうだろう。国家権力を盾にして
国民を詐欺て税金徴収係が一体何をしているのか知っているのか。世の中の多くの土地
や係争は、殆どこの税金係の無知にある。法律を知らず、人間も見らず 一方的に権力
で徴収する。その為 墓所は勝手に崩し、御神木は切り倒し、過去の歴史すら探らない
。国家予算で国土を壊し続け、福島災害の様に 災害を大きくする。全く非人道非道徳
すぎる行政の根本原因である。国民を守らない市や市職員に 何故税金徴収できる権利
があろうか。本来なら死刑位の罪状である。まったく裁判所は何を勘違いしているのか
。こんなに甘い処断では 全く行政や市町村は変わらない。ちゃんとした姿勢を示せ。
探偵や業務を知り尽くした者は簡単に悪行に染まれるとなれば 教育は一体何処にある
のだ。よく考えよ。教育も行政が負担しているのだ。教育が退廃するはずだ。大体一体
国民に対してどの位申請書を創り続けるのか。いままでにも2万を超える書式を各自治
体は発行してる。つまり二百万以上の書式を人々は無理やり書かされているのである。
裁判所はその実態を把握しているのか。その全てを知る事は人間に不可能だろう。市の
職員だったら知れるしそれを騙すのは簡単だろう。此処に愚策のシステムがある。玄関
を暗号化して警察さえも入れないマンションで秘密の殺人が各所で行われ事件にならな
い。何故なら彼らは国籍のないヤクザだからだ。そして日本人に成りすます。そしてそ
の元締めは不動産会社であり、中国人に原野や家屋を売り出し大儲けする。全くあって
はならない事だ。かつて金正男の使っていたネットワークである。その話も全く出ない


748: 名無しさんAA:18/01/26 15:49
 日本の岐路 46

日本では「持ち上げる」と言う言葉があるが韓国では「落とし入れる」と言う言葉に代
わる「盆と正月が一緒に来る」という言葉がある。新年を迎えた韓国が、まさにそれだ
った。1月9日に板門店で南北閣僚級会談が行われ、翌10日には、文在寅大統領が慰安婦
問題での日韓合意に関して、あらためて日本に謝罪を求めた。「盆と正月」がいい形で
やってくるならおめでたいが、残念ながら、そうはならなかった。とくに慰安婦合意に
ついての大統領の方針には、常識ある国々、人々があっけにとられただけでなく、日韓
関係がいよいよもって「マネージ不能」(河野太郎外相)に陥るという深刻な状況をも
たらした。内憂外患である。韓国は、しかし、そういう国なのだろう。誤解を恐れずに
いえば、過去に同じ目にあっているにもかかわらず、また騙された日本政府の外交的失
敗でもあった。韓国の非を鳴らすだけでなく、自ら反省することも必要だろう。理解で
きない。記者会見での文大統領の発言、慰安婦合意検証に関する韓国政府の方針はすで
に日本のメディアで報じられているので、その詳細を繰り返す必要はあるまい。それに
しても驚くのは、先進国クラブ、OECD(経済協力開発機構)に古くから加盟して、
西側からの多大な協力を得て、更に日本からの返済の無い慈愛の援助を幾多も得て早々
と、世界で11位(2016年)の経済大国である韓国の指導者が、感謝も疑念もなく、今
だに前世紀の発想から抜け出せず、更に民衆も未来を見えないでいると言うことだ。絶
望的なことだが、そのことを議論しても詮ないことなので、やめておく。むしろ釈然と
しないのは、こういう結末になることはわかりきっていたのに、“秘密交渉”を進め、
10億円の拠出を余儀なくされた日本政府の非常に甘い外交姿勢だ。しかも、日本国民
の税金から支払われたその拠出金は、すでに多くの元慰安婦や遺族に給付された後であ
るにもかかわらず、韓国側が馬鹿なほど「凍結」にこだわった発言をするという。日本
側の意思が踏みにじられた形になってしまった。驚く事にこの10億円を返済するのに
募金で10憶ウォン目標に募金しだした事だ。一体何故1億円を目標に金集めをし政府
に金を返せ。と言えるのか解らないがそれでも7憶ウォン程集めて居る。「韓国挺身隊
問題対策協議会」「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶財団」その中で5憶ウォン
を自ら手出しして寄付している。一体何処からこの金が出ているのか。それが北朝鮮で
ある。言わば文政権は、この北朝鮮からの支援団体を無視してはやっていけない立場に
ある。


749: 名無しさんAA:18/01/28 01:55 ID:keA
 日本の岐路 40

 今日本のコンビニのお客はバタバタと、死んだり、病気になったりしている。それは
原料に対するものだ。日本の「輸入」は殆ど毒入りを止めていない。欧州で、卵の中に
殺虫剤成文が入っている問題になった。その汚染卵は「ベルギー、オランダ、ドイツ、
フランス、スウェーデン、英国、オーストリア、アイルランド、イタリア、ルクセンブ
ルク、ポーランド、ルーマニア、スロバキア、スロベニア、デンマーク、スイス、香港
」で販売を止められ、廃棄になった。だが問題はそれだけではない。その汚染源が問題
となった。中国の会社によるドイツの食肉会社を買った事がそもそもの原因だった。つ
まり金を持たない中国企業がドイツの名だたる中核の食品会社を国策として買った事で
当然本部からの利益を上げる事が求められた。そこで鶏舎の雑草には違法の草殺しが使
われ整備された。これを指導したのは購入する卵の流通会社である。勿論農薬も中国製
である。それは欧州一杯の汚染状態である。こうして一部は卵は破棄する事になった。
つまり問題とされ分析され違法成分がでた鶏舎のみの話だ。卵はその他の鶏舎から供給
できた。問題は鶏だった。つまり農薬を使われた餌を食べた鶏肉の処分である。日本で
言うなら公認で土に入れる殺処分である。だが中国人はずる賢い。それをそのまま欧州
で出す事は食肉で監視された中で出来ない。そこでそのまま食肉にして中国に送られる
。もともと鶏を鳥肉として食べる西洋人は少ない。そこでこれらは屠殺場に送られ羽だ
げ取られて解体され冷凍処理され中国香港に送られた。その後は更に解体され東南アジ
アの屋台の焼き鳥に送られると思いきやそれを買い付けた業者がいた。日本のコンビニ
に仕入れする業者が格安で冷凍商品として持ち込んだのである。全くこのコンビニやら
税関でもそうした薬品検査はされず流通ルートに乗っていったのだが。この悪名高いコ
ンビニがやりすぎで減っていくのは確かであろう。全く今までの小売店以上に高く売り
危機管理はそれ以下 自分達のコンビニ店長さえも病気にさせて全く気にしないという
卑劣極まりない業態は 大体下請けの食品の分析を常時やっているのかそういう機関す
ら持たないで大手を振って弁当なりおにぎりなりを納めさせおざなりな事なかれ社員に
営業させいるのではあろう。だがこのコンビニが廃れて廃業した時田舎では一体誰が店
を始めると言うのだろうか。

750: 名無しさんAA:18/01/28 18:49


春日野親方は 暴行事件を起こし 人一人の人生を転落させていながら何ら償っていな
い。それどころか、理事選に出るとか、貴乃花に代わって巡業部長になるなど、全くこ
の馬鹿相撲教会は神事である事を解っていない。こんな殺人犯まがいの親方にそのまま
資格を与え続ける八角理事長など 協会からの追放すべきであろう。池坊女史のこれま
での数々の嘘や文部科学省の調査や認識不足は 国会でも取り上げ追求すべしであろう
まったく 鈴木氏含めてとんでもない非国民たちだ。しっかり懲罰すべき事件であるし
反省も後悔もないこれまでの、のけのけとした行動は、不正義極まりある。




751: 名無しさんAA:18/01/29 22:00 ID:AHg
25日放送のフジテレビ系「とくダネ!」(月〜金曜・前8時)では、大相撲の春日野
部屋に所属していた元力士(23)が弟弟子(22)の顔を殴って傷害罪で起訴され、
2016年6月に懲役3年、執行猶予4年の有罪判決が確定していたことを特集した。
全く横審もいい加減なものだ。これまで貴の岩事件で「こんな事件などはもみ消しなど
しないし、出来ない。」と池坊は盛んにまくしたていた。しかしいまの状態をみろ。春
日野部屋の弟子から殴られ、矢作さんは、殴打されてあごに包帯を巻いて入院し、イン
タビューでは後遺症をして。味覚障害まであって、相撲協会や春日野親方を訴える程の
憤りであるはずだ。その弟子であろう栃ノ心が優勝のパレードなどとは在り得ない凶事
であろう。神事である筈の相撲の席をここまで穢した八角理事長や春日野親方など相撲
界から永久追放であろう。 それすらできない横綱審議会なら あって百害の委員会で
ある。良識者や相撲愛好者など聴いて呆れるほどの非人格の盲目老人団体だ。




752: 名無しさんAA:18/01/30 07:17

 NEMのコインが盗まれた。取引所のパンクである。不正アクセスを許してしまった
のである。どうせ中国か北朝鮮の攻撃がそのミスをついたのだろう。朝鮮銀行が無くな
って以来日本への工作員支給資金は、韓国や中国からの運び込みしかない。ところが金
の不正が捕まってからはマネーロンダリングも利益がない。仮想通貨取引所大手コイン
チェックから約580億円分の仮想通貨である。全く目立たず大量の通貨を手に入れた
のだ。紙幣であればトランクでも持てない量だ。ところがこの結末では恐らく今後に大
きく信用のある国かどうか問われる事になる。NEMの通貨が無価値になり、引き出せ
ば即座にその相手は判明する。中国では既に電子通貨は規制されている。これまでは、
世界最大のビットコインのマイニング(採掘)コミュニティーを抱える中国が、仮想通
貨の取り締まりを進めている。本土の取引所での仮想通貨取引停止や新規仮想通貨公開
(ICO)禁止など、他の多くの経済大国より厳しい措置を講じ、ビットコインなどの
価格急騰に先手を打つ役割を担っている。中国では株式から不動産に至るあらゆる相場
の浮き沈みが見られたが、今の習近平国家主席が標的としているのは経済における金融
リスクであり、仮想通貨に対する規制もその一環であり、これが中国からの盗難となれ
ば一挙に中国内の通貨は無価値になる。日本で一部に中国の電子通貨を取り入れた企業
もあるが、この影響は東南アジアに飛び火するであろう。結果として、かつての世界の
仮想通貨界の圧倒的だった中国の影響力が低下するが、仮想通貨そのものが破綻する可
能性すらある。



753: 名無しさんAA:18/01/31 18:54

日本の久留米市内で折れない筈のメインのシリンダーシリンダー留めが破損した事件が
起こったが、その頃は頻繁に大型クレーンの倒壊事故が起こっている。使用もあろうが
予備強度不足が殆どだろう。調査結果は発表されていないが、恐らく隠れて中国製や韓
国製の鋼材仕様であったろうと専門家は見て居る。所謂粉末製法の製鉄品である。全く
同じ強度だが耐久性や練度がないらしい。



754: 名無しさんAA:18/02/02 14:54
 日本の岐路 41              <思わぬナンセンス コイン>

 NEMのコインが盗まれた事件はどうもややこしい展開を迎えそうだ。取引所のパン
クであるコインチェックにとっての落とし穴は、仮想通貨交換事業者として求められる
法的要件が、IT業界での慣行に沿ったものではなく、金融業界で適用されてきたもの
に近い内容だったことではないだろうか。と言う私見が私に投げかけられたからだが。
おおよそこのNEMのコインは日本独自ののもので 一般的にはビットコインの方が大
きくリードしている。だがこのNEMはその小さな領域つまり中国台湾日本米国カナダ
韓国での展開が多い。つまり日本人の観光地での日本人の利用向けである。マレーシア
など東南アジアでも展開もあるが、今では中国がこの仮想通貨を認めない見解をだして
東南アジアと台湾では中々両替は出来ない。加えて韓国は今や五輪と北の脅威で日本の
盗難事件には助けになる。となれば日本では無理だから米国かカナダでの取引であろう
。凡そカナダでもNEMの会員は少ない。ま最も日本への往来がある人は別だが。こう
して絞って行けば今取引量の多い東南アジアやドイツ南米とアメリカと限られる中では
アメリカと日本でしか引き出せない。日本ではまず無理で塩漬けになる事を考えれば、
アメリカのブラックマーケットでの欧州仮想通貨マネーに交換と言う事になるだろう。
これが一番問題だろう。つまりNEMは大よそまともな通貨だが、取引所次第では、東
南アジアや南米の闇の麻薬カルテルが使っているいい加減なコインとの交換が出来る。
これがカナダや豪州やアメリカである。そして本拠地アメリカでも現在地は他の場所と
言う取引所が存在するからだ。つまりアメリカの法律では検挙されても他のカナダや、
中東に於いて活動している取引所であれば捕まえられずOKと言う事になりかねない。
からだ。そしてこれにどうもモサドかアルカイダか南アフリカ戦線が関与している疑い
がある事だ。つまり国際的ネットワークが少し出てきた事だ。ロシア・北朝鮮も怪しく
このNEMの報道に余り国際社会は大事とは思っていない。いずれにしよコインチェッ
クは成功したITベンチャー企業経営者で使い勝手の質のいい利用を模索していたのだ
ろうが、国際的IT強盗団から目を付けられた格好だろう。日本人のみの相手であった
ならこういう事も起こらなかったが今やセキュリティチェックはうかうかしてられない
時代に入ったと言える。秘密鍵を物理的に隔離した「コールドウォレット」を一部利用
していたとは言え急激な利用者増加に追い付けなかったのだろう。12月の同社の仮想
通貨取引高は3.1兆円、単純計算で手数料収入(粗利)は年間2400億円となり、
痛手にはならないだろうがそれでも今後の日本の仮想コイン市場に集中攻撃されそうな
雰囲気である。

755: 名無しさんAA:18/02/02 14:55
 日本の岐路 41              <思わぬナンセンス コイン2>

 ところが、これは大きな仮想通貨のコインチェックの信用を落とし、NEMの信用を
を上げる結果をもたらすかも知れない。JK17氏が突然現れたのだ。ツィートでは、
「NEM財団が、流出資金自動追跡プログラムの作成を開始しました。その完成を待ち
引き継ぎを行い、作業終了とさせていただきます。それまでは、こちらで追尾を続けま
す。」とその現状をツィートしているのである。更に「コールドウォレットなどについ
て話題になっていますが、NEMはオフラインcold storageの安全性を保ちながらXE
Mを送受信できるウォレットを発表しています。HOTの利便性とCOLDの安全性を
併せ持ったウォレットネム史上最高セキュリティ[ Hot/Cold Wallet の作成と使い方 ]
を解説している。又 正しくはNEM.IO財団がNEMを開発してるわけではない。な
どと言いながら追跡できるらしい。どうも最新型の日本人が作ったプログラムと言われ
る。2chを作ったひろゆきによると「まずあんまり有名ではない仮想通貨を現金化する
というのはわりと大変」という。それは「仮想通貨自体を誰かが現金で引き取ってくれ
ない限りは現金は手に入らない。」からだ。「なので、コインチェックのような仮想通
貨の取引所で、ビットコインに変えたり、現金化したい。」となる。ところが、そこで
NEMの開発元の人達は、一計を案じまして、その仮想通貨を盗んだ人の口座に対して
”印”をつけるってのををやりました。「今の所その”印”をつけることで盗んだ仮想
通貨を現金化できなくなってしまったので そこで関係ないアカウントに1NEMとか送金
して沢山の使用の出来ない口座にする。」で「使えないのはおかしいじゃないか!と揉
める」か「犯人から印を送られたせいで、口座のNEMが一切使えなくなってすげー困
るってのが増えて、NEMの価値がめちゃくちゃ下がってみんなで一緒に困るってパタ
ーン。」が起きるで「ホワイトハッカー」なんて言うのが犯人を突き止める。と言う話
かな というとちょっと違っていて「仮想通貨の取引所がハッキングされるのは時間の
問題で、予想の範囲内だったのですが、それでも手を出す人が後を絶たないのは、普通
に働いて億を稼ぐのなんて無理だから、ワンチャン当てたいけど、ちゃんと調べるとか
したくないって人が多いせいだと思うんですよねぇ」と言う自論の展開らしい。


756: 名無しさんAA:18/02/02 14:55
日本の岐路 41              <思わぬナンセンス コイン3>

 こうして高見の見物する博之だが「ビットコインは必ず失敗する」という話を書いた
。「ビットコインの取引所には色んな人が預けていて、そのサーバーに侵入することが
出来れば、下手すれば数億円手に入る。そうすると、普通の銀行と同じくらいの、セキ
ュリティが必要になるわけですよ。で、普通の銀行は、機関システムをインターネット
に繋げてはいない。でも、銀行のシステムがインターネットに繋がっていて世界中から
ハッキングしてください、どうぞ!ってなってたら、そりゃもう世界中から攻撃される
じゃん。ワンチャンス、一億円とか手に入るわけでさ。ロシアのハッカーなんぞどうせ
暇だしマウントゴックス(取引所)侵入してみるか、みたいなことをやる人が世界中にい
る。で、そんなハッカーたちと毎日闘うなんて、無理無理。」と言う話をしたかったら
しい。つまりダークヒューマン博之VSホワイトハッカーJK17氏の闘いらしい。ま
裁判で随分損しました人だからね。だがこの博之は随分間違っている。事と次第では、
実は銀行よりも随分と安全なのである。一つは実物や実体が無いと言う事だ。それは、
このNEMが例え潰れて、コインチェックが無くなってもそれはそれで他の仮想コイン
が儲かる話であって、全く普通の銀行で鉄砲持った銀行ギャングが襲って来る事よりも
安全なのだ。まあ日本は違うのだが他の国では、出歩くのが危険か籠るのが危険か解ら
ない危険な国も多々ある。更に田舎で電波の方が安心確実と言うのがある。つまりは、
他の国では無くならないのである。更に国家管理の紙幣はその信用に莫大な経費を作り
流通している。その意味ではこの口座に指紋認証や声紋判断を取り入れたら破格に精度
高まる。つまり自由口座が無くなり一人一アカウントしか出来なくなればその人は他で
も何もできなくなる。元々紙幣は通貨であって金ではない。つまり社会サービスの価値
基準でしかない。それは今の政府の債権発行を見るようにサービスと発行額が一致しな
くなっている。となるとインフレやデフレに政府誘導が行われてひずみが起こる。が、
この仮想通貨は発行額が決まっている。言わば市町村の独自金券の様なものだ。つまり
デパートの商品券と同じで本来決して高くなる物ではない。只マニアックな者が多大に
使おうとする馬鹿が今いるだけだ。それでもこの流通券は世界規模であり偽札が出回る
事が無い限り大きな顧客を持っている。


757: 名無しさんAA:18/02/02 14:56
日本の岐路 41              <思わぬナンセンス コイン4>

 だが問題はこの偽札だ。現物通貨でもスーパーKや中国札の様に大量に出回る事は、
その収拾がつかないものが出る事を意味する。今や紙幣はかなりの危険にさらされてい
る。その為1万円以上は発行しないとか偽造防止を付けるとかに苦慮している。海外で
ビットコインで家を建てたと言う話は、それが憶単位の等価交換をしたと言う事で そ
れはブラックマーケットが存在していると言う事を意味している。手数料の安さよりは
その利便性に武器調達や麻薬売買などで利用されているからである。では現物ではない
かといえばそうでもなく最初からそういう取引はあった。と言うより日本の歴史よりは
海外は遥かにその利用で銀行が大きくなってきたのである。だがこの認証システムには
多くのコンピューター稼働が必要になる。安い手数料で一挙にその通貨の正式取引を認
証しなければならない。そこがネックなのだ。北欧などではその冷却費用が少ない為に
稼働コンピューター基地が数多く出来つつある。それだけ利用者がいると言う事になる
。これが3つ目の問題なのだ。もう一つは核心技術の存在だ。このコンピューター社会
は元々暗号化解読から始まっている。次々と新しい技術は生まれ暗号化も固くはなって
も所詮人の社会なのであって 今まで紙幣と人と管理すれば良かったが人も紙幣も機械
もプログラムも管理しなければならない様になったのだ。かつて大工が鋸と鉋で良かっ
たものが今や電動丸鋸やドライバーなど多種多様な機器が必要となって居る様に多くの
浪費が必要になったのである。これは利便性と技術信用のバランス問題と言う事になる
。つまりこの盗難や信用の為の実装プログラムをつくれば創る程それらは利便性はなく
なるのである。つまり永遠にダークヒューマンVSホワイトハッカーの戦いは続くのだ
が、果たしてそれでいいのか。と言う問題もある。社会が便利一辺倒の経済社会を作り
今や御神木も切り倒し墓所破壊は繰り広げられ、道路拡張と物流都市で進展して来て、
安価で身近で短く太い利益に終始して来た。しかしそこには全くの文化価値は見いだせ
ない子供が大人になっている。つまり支払いすれば済む。欲しい物は手に入れる。とい
った風潮だ。人の価値はそれを手に取らない事が価値である事が理解出来て居ない。


758: 名無しさんAA:18/02/02 14:56
日本の岐路 41              <思わぬナンセンス コイン5>

 だが足を踏み入れた以上この仮想通貨は常に革新技術を実装して新しい価値の創造に
走るしかない。もはや誰も止められない。今回金融庁が調査しているがこれは消費者庁
の仕事である。仮想コインという商品だからだ。だが、この消費者庁は全く仕事をしな
い。これだけ混乱して問題が方々に出て居ながら「晴れの日」の詐欺にすら声明を出し
確実な事はしない。この仮想通貨も実は残念ながら共通認識の通貨にはならない。通貨
とは万人が手に取れるものだが、この通貨は高度な機器が無ければ使えない。どんなに
簡単な仕組みにしても読み取りとそのチェックが欠かせないないし連絡照合の電波が必
要だからだ。つまりダイヤモンドの様な宝飾品すらなり得ない。現物通貨や宝飾品は手
に取って流通は出来る。つまり これは訪販の行う信用取引の証書と同じなのである。
つまりポイントカードや宝くじと同じとなれば、消費者庁のちゃんとした分析や積算が
必要のはずだがどうも消費者庁からの申し出による金融庁の調査でもないらしい。やや
こしい行政である。大体内閣がだらしない。それにしても今後このコイン其の物が信用
はあったとしても発行者のメンテナンスの信用は無いだろう。超高速パソコン通信が、
こうしたあっという間の流出事件が多発するであろうからだ。どうも今回は金融庁が出
るほどの事はないだろうと思われる「はいから@NEM界隈の小作人?@sakurairo 」のツイ
ートではその存在が追跡されているからだ。「すべてのNEMberが救われました。本当に
ありがとうございます!」としているからだ。対してRin, MIZUNASHI (JK17)は「commu
nityでも普段私がハッキング関係は追っているので、普段と同じ事しかしていません。
今回は個人ではなく取引所だったので、新規にモザイク等作って対応しましたが、基本
的にはいつもと同じつもりです。」と答えている。つまり何処かの取引所が空きアドレ
スを使った巧妙な仕掛けをしたらしい。つまり新規の取引所が原資不足によって 無謀
にも資金を盗っていったのだろう。と推測される。問題はどうやって取り返すかである
。追跡調査でどんな海外アドレスを使っていても、本人は特定できなくてもアドレスそ
のものはたどり着ける。つまり国外の法規の問題であり 犯人特定は出来るが逮捕とな
れば裁判所や警察がこの仕組みについて行けるだろうか。正に金融庁が今このコインチ
ェックに勉強しに来たと言う所だろう。今後このお馬鹿な窃盗団は取引所を開設出来な
い。但しこのコインチェックも再開できないかも知れない。金融庁の馬鹿には説明して
も理解不能だからだ。オンラインを開ける事は出来ない中で検証も不可能だろう。


759: 名無しさんAA:18/02/02 14:57
日本の岐路 41              <思わぬナンセンス コイン6>

 2chを作ったひろゆきによると、「今回の580億円の盗難は歴史上最大の盗難事件
なわけですけど、犯人は証拠を残さないでも出来ちゃうわけです。ってことで、ハッキ
ングに10億円ぐらいかけたとしても元が取れちゃうので、取引所のセキュリティコス
トってめちゃくちゃ高くならざるを得ないんですよね。ところが、仮想通貨の取引所は
、プログラムがある程度かければ、誰でも作れちゃうので、取引手数料の安値合戦にな
ってるんですよね。」と言い。例えば、まったく関係ないおいらのアカウントに1NEMと
か送金しちゃうわけです。そすっと、おいらの口座は仮想通貨の取引所で取引できなく
なっちゃうのですね。なので、こんな感じで第3者で困る人を1千人ぐらい作ると、普
通にNEMを買っただけなのに使えないのはおかしいじゃないか!ってことで、揉める
と思う」と言っている。更にそこでNEMの開発元の人達は、一計を案じまして、その
仮想通貨を盗んだ人の口座に対して”印”をつけるってのををやりました。「mizunash
coincheck_stolen_funds_do_not_accept_tradesowner_of_this_account_is_hacker」っ
てのがそれですね。ちなみにその仕組みを作ったのは日本人なんですけどね。」といけ
しゃしゃと内情を明かしている。だが最初に送られた場所は特定されるし順追ってその
後も特定され。今その追跡プログラムを解体し消去して配ろうとしているが、しかし、
それは出来ない。それとセットでNEMだからだ。博之ちゃんは、犯人をどうも知って
いる様な話でその胆まで解っている。となると、高みの見物ではいかんでしょ。白状し
てみたら、犯人はみずから名乗り出た方がいいかも知れない。となる。これは勝負は終
わった様だ。大体ベーシックインカムの論理を解らなずぎる。中には生活保証で働かな
い奴が出て来る。などと言う物がいる。実はとんでもない誤解である。こうした盗賊を
失くす事にある。つまり今や資本主義社会では、格差社会を過ぎて国さえも危うくする
企業利益や個人利益が日々の公共投資を圧迫しているからだ。どんなに内需拡大をさけ
んでもそれはそれで穴を掘って、穴を埋めるような仕事でも、「経済活動」にカウント
されてしまっていて、長期的には単なる無駄なので、減ら方がいいのだ。既に製造機械
はAI機能まで含めて人間の仕事の50%は必要ない時代に入っている。贅沢をしなけ
ればの話だが。だが平和を希求すれば単純に今の資源の公平な分配しかない。


760: 名無しさんAA:18/02/02 14:58
日本の岐路 41              <思わぬナンセンス コイン7>

 ここで、何が公平で公明正大かと言う事になる。それが人権であり命の保証であろう
。つまりは仕事をしない事よりは、戦争や不幸な偶然での事故を無くす事である。利益
追従のままでは全くそれが出来ず、常に利潤追求するにしても、中国の様な毒入りや、
公害出しても 或いは米国の様な人を殺してでも、戦争しても、と言うのは全く公平で
はない。つまり環境において不幸にして稼げない中でも頑張る人を 今までの繋がりや
書類審査や権力などで篩い分けて支援してきたものをまっさらにして一から考えて一定
の支援しようという事なのだ。事実「生産性の高い経済活動」とは何かっていう認識か
らすればこうした盗賊や泥棒が一番高い。しかし、それは違うだろうと言う話である。
 例えば教師と言う職業には何ら点数など付けられない。学力を高める能力の人もいれ
ば、心の師と仰ぐ精神性での教師もいる。或いは逆にそうした能力より生徒に人気であ
ると言う能力もある。全くそこには違う価値観があるし又それを規定しては日本進歩し
ない。ここに仮想通貨の理論がある。つまり、ポイントカードはより良いお客様の為の
サービス提供にこれが編み出された。実は銀行も又本来は同じ仕組みで会社を作った物
であり郷土の繁栄や産業育成の金銭的支援や経済的便利屋として発足している。殆どが
こうした社会福祉の政策としての認可であり発足なのだ。それがたまたま資本主義に乗
った仕組みで完成し、その後国際社会の波で利益優先主義に変わっただけである。又、
国も税金が昔は高収入の地主の特権として納めていたのが広く薄く選挙権と共に普及し
たのだ。ある意味ではこの税収が国を腐らせている。社会主義とは言わないまでも、ほ
とんどの社会資本は万人の為に必要で 例えば公衆便所だからと言って壊していいもの
ではない。これは当然の理で公共自治体だからと言ってこれまでの生活や自然を破壊し
ていいとはならない。だが例えばリーマンショックでも米国で自動車や保険会社を保護
し日本でトヨタや銀行を保護した様に 逆に大勢の者の環境激化に保護する事は必然で
ある。逆にその最下層の受け皿があればそうした保護は必要ない事になる。勿論かとい
って恐慌になってもいいとはならない。だが同じような巨大な資本を残してもドイツの
様に人体実験してまでも公害はないみたいな方向では 全く当たり前ではない。企業に
よる軍国主義なのである。


761: 名無しさんAA:18/02/02 14:58
日本の岐路 41              <思わぬナンセンス コイン7>

 つまり経済の仕組みとして、グローバル化や巨大化は当然あるし、技術革新の無人化
も出て来る。これは仕方ないことだが、その波を壊したのが法人税の少なさであった。
つまり各国政府は馬鹿な事に法人税軽減を競争したのである。その為貧民層を加速させ
結果自国の貧民も増えて中産階級すらも消えて行く事になったのだ。こうして巨大な悪
行集団は更に悪行を増して巨大になり中国まで取り入れた形になった。今後もそのまま
ではアフリカ社会や南米社会までも飲み込むだろう。しかし物質社会や消費経済がこの
まま増えても地球を管理できない。つまり温暖化や国境を超えた公害や疫病に人類はお
そらく耐えきれない社会になる。911の再来やイギリステロの発現が多くなる可能性
が高い中資源枯渇では更にひどくなる。これを止めるのがベーシックインカムの本当の
目的である。恐らく特に中国やアフリカなどはこうした下支え保証が無ければ人口抑制
や資源枯渇には耐えられないであろう。今でさえ消費文明を取り入れながら民主主義の
基本原則である人権保障すらしていなかったからだ。つまり生活保証があればわざわざ
大手企業や政府役人などの超優遇な酷い職業につかなくても それなりの自然保護やら
人的資源に恵まれた社会が実現するのだ。ある意味社会主義が生き残って来た理由でも
ある。そもそも株式投資にはその生産性はないのだ。それでもそれで食えるのはそこに
非人間的でも生活保証があるし成果が世界に悲劇を起こしても価値ある物と見るからだ
。これを変えるのがベーシックインカムや公開投資である。利益より人の為になる物へ
の移管である。この時なにが必要か、それは今の生活保護や母子家庭などの不正操作や
企業に似たブラック産業の立ち入りの禁止措置や外国人流用の歯止めである。そして、
それが政府組織より強い不正に関与しない管理だ。その為この仮想通貨が必要なのであ
る。本来は消費者庁あたりが民間指導して 今の自動車事故の映像記録の一元化やら、
不正アクセスや 電話勧誘などの歯止めを民間指導すべきが なんと消費者相談窓口を
逆に吸収してしまうぐらい阿保なのだ。此処にこの仮想通貨やコインの意味がある。つ
まりかつて富裕層がダイヤモンドをまとい新たな株券投資や大航海や絵画のパトロンに
なった様に 今後のより良い社会を築く責任をこの希少コインが担うべきになる。本人
確証の単一カードによる一元管理とその生活保証と 安全管理である。既に自治体は今
無駄な税金を一般から集めているのだ。これを巨大化させてはいけない。

762: 名無しさんAA:18/02/02 16:29

TVコメンティターはなんて非常識なのだ。----これは文部科学省の失態でしかない。
つまり 次の理事長選に八角理事長や春日野親方は立候補させませんよね。と言えば
済んだのだ。春日野親方の事件は自浄作用もない協会だから起きた事件で、こんな事件
をおこした部屋の本人が理事長辞任を問わないで、病院に行かせた理事を辞任にしたの
が危機管理委員会ではないか。つまり新弟子が病院に行くのを勝手な事をしやがって、
と言った事と全く同じ隠蔽工作に加担した事をやったのである。これを問わないでは、
全く可笑しな政府である。 元力士(23)が弟弟子(22)の顔を殴って傷害罪で起
訴された親方であり、過去にもゴルフバーで殴ったりしてる馬鹿を放置し権威ある理事
にした事が全くおかしな話で、危機管理委員会は一体必要なのか。これをなぜ文部科学
全くコメンテーターは下馬評の票田の事ばかりで 事の本質を解ってない。我々社会が
どこまで暴力事件を容認しているのか いじめや事件の真相が何処にあるのか これを
問うべきであって、誰が理事長になるのか どういった会議をし貴乃花が黙っていたな
どは 全く問題ではない。この身を捨ててでも改革したい良くしたいと言う熱望や、こ
うして黙っていても理解するべき内情こそが問題であって 社会をそこに引き込むべき
回答を話すべきで 批判すべきは文部科学省なのだ。全く腐れた様な原因究明を頼んだ
などとは 危機管理が無さすぎる。無能に等しい議員たちだ。


763: 名無しさんAA:18/02/03 09:07
日本の岐路 41              <思わぬナンセンス コイン9>

「18’2月2日のニューヨーク株式市場で、ダウ平均株価(30種)は大幅に下落し
、前日比665・75ドル安の2万5520・96ドルで取引を終了した。この日の下
げ幅は、世界的な金融危機が襲った2008年12月1日以来、約9年2か月ぶりの大
きさとなる。終値としては、1月10日以来、約3週間ぶりの水準に下がった。この日
比較的高かった情報技術(IT)企業の銘柄が多い ナスダック店頭市場の総合指数の
終値も、144・91ポイント安の7240・95だった。」当然である。今でも米国
株価は比較的高い。何故か今や米ドルを盛んに回収しようとしているが、中国の札束の
量に敵わないからだ。更にもう一つの理由が仮想通貨の存在だ。つまりポイントカード
にしろ、仮想通貨にしろ株式にしろ、その信用が金満家が認めればそこに流通は発生す
る。それは偽造通貨と同じ中国の通貨が世界中で駆け回るのと同じ様に。それは誰がそ
の流通通貨を認めたか。などと言う思惑は存在しない。それが使うのに有効か。だけが
判断基準だ。例えばA氏が勝手にお札めいたものを発行したとする。他の誰も信じない
としても、このA氏をある一定量の人は信じる。とその一定量の人の中では通用するの
だ。例えば子供の肩叩き券でも同じである。その家庭のその中では信用でその肩叩き券
は有効なのだ。こうして昔の江戸時代以前から江戸時代以降まで村社会では券のない講
が存在していた。その親となっていたのが寺である。と言うのも多くは産子であり神社
の枠の下に物々交換を行っていた。仏教が入っても多くは仏門には入らなかった。そこ
で考えられたのが今仮想通貨の中の株の様なシステムだった。神社経営は多くの神主は
御賽銭と神事とされる祭りで支えられていたが、寺院はお布施と言う寄付に頼らざるを
得なかった。そこで商売として物を造る物や宝籤の様な富くじ或いはこうした講による
貸し借りを厳正に行った。御香は最も高い捨てて無くなる物である。それを高貴な物に
したし各家にある仏壇や数珠は一般に売られる絵画の様な人の予徳による嗜好品に近い
生活には遠いものである。だがこれを過去の遺人につなげる事で成り立つ宗教儀式の最
も成功した商売であろう。このように商による売る行為は、日本では通貨流通の一役を
担った。つまる所 商売にこの尊さが無ければ成り立たない事が証明されて日本は大き
く進化したのである。


764: 名無しさんAA:18/02/03 09:08
日本の岐路 41              <思わぬナンセンス コイン10>

 元々自然界の例えば果物でも そこに価値はあっても金貨がぶら下がってはいない。
その価値を決める物は、正にそれを欲しい人の心理である。そこに貨幣が代理となる。
見向きもしない物に価値はあっても価格はない。その差が資源国と消費国の差額として
存在する。ところが今消費社会に変化が産まれて居る。つまり大量生産大量消費が消え
つつあるのだ。そこで台頭しているのがIT業界だった。新しい製品は新しい企画の下
高速計算を行い複数の同時使用が可能となり、今まで映像と音楽を別々に加工していた
ものが一緒に出来る様になったのである。つまり多分に高度な性能を持って販売されて
来たのだ。しかし「Jカーブ理論」の様に既にその頂点は超えた所にあり、今後の展開
を見守っていた。仮想通貨はその頂点から出来た言わば副産物である。株式同様に仮想
通貨はこの投資エコノミストから暖かく迎え入れられた事によって飛躍的に信用を獲得
していた。株価好調を受けて一般人の参加で、更に加熱した。しかしそれが今や雲行き
が怪しくなった。ファンド・アセット・マネジメントのエコノミストはこう断言した。
「ビットコインは(その名が示すように)ある種のマネーとして開発されており、マネ
ーには価値がある。それはビットコインのような、ほとんど物質を伴わないマネーであ
っても同じだ。」と更に「その価値は取り引きの媒体としての需要に基づくというこの
考えに立てば、基本的な価値は容易に概算できる」「ビットコインの供給はそのリミッ
ト(現在は1500万前後)に向かって、ゆっくりと増える。支払い手段としてビットコイ
ンが使用されるのは、月に1億ドル前後もしくは年間12億ドル前後。ビットコインが
普通の通貨のように使えても、年間の利用は4倍前後だろう。つまり6000万ビットコイ
ンで12億ドル相当の経済活動を支えるなら、1ビットコインの価値は20ドルだ。と
言ったのである。つまり1BC=20$=3000Yen が目安の数字と言う事になる。
ところが今や1BC=965,000Yen なのである。これでは、当然「憶り人」なる
億万長者が日本に登場しても仕方ないだろう。この発表を受けて当然ビットコイン類は
急激な下げに転じている。そしてそのまま米国株価にまで反映しだしたのである。これ
まで好調とされていたIT株は軒並み営業成績がいい中で大赤字に入り込んだのだ。と
いうのも こうした予想値も無い中で人々は仮想世界で需要の多い中に安住していた。
つまり五里霧中で仮想通貨と現実世界の価値を組み合わせていたのである。


765: 名無しさんAA:18/02/03 10:55
日本の岐路 41              <思わぬナンセンス コイン11>

テザーが「ねずみ講」のようなことをやっていたのであれば、一気に、テザーに対する
信頼そのものが崩れてしまうからだ。それはテザー社のみならず、多くの投資家のトレ
ード・プランに影響を与えこれが沢山の仮想通貨に横断的に不安が走っている事の理由
である。実は、今年に入ってかなりの仮想通貨が荒されている。1月末には、何者かが
ビットコインに大きな売り注文を入れたのですが、それが、テザーが顧客から預かった
ドルを無断で投資に回してしまった。と言う憶測が入った為捜査が入るというので慌て
てドルに戻そうとしたのではないか? という観測が出ています。真偽のほどは、今だ
わからない。折から、日本ではコインチェックがNEMが盗難に遭い、出金ができない
状況が続いている。それとも相まって、取引所などの業者に対する不信感が募っている
。つまり何者かが取引所荒らしに回って大量通貨を要望している。と言う現実に直面し
ているのだ。更に問題なのがテザー社の謎である。テザーは、同名のテザー社が発行し
ているのだが同社はイギリス領ヴァージン諸島で設立された。とされる。同社のウェブ
サイトには、本社は香港にあり、アメリカにもオフィスがあると記載されている。又、
テザーの経営陣の多くは、香港にある世界最大級の仮想通貨取引所ビットフィニックス
の経営陣も兼ねている事だ。例えば、2社のCEO、CSO(最高戦略責任者)は同一人物と
される。仮想通貨では先駆者のビットコイン価格は欠かせない存在だ。仮想通貨マーケ
ットの世界でドルと連動する「ペッグ制」が特徴のテザーは、リアルコインと呼ばれた
。こうしてビットコインを扱っているのがビットフィニックスで繋がってビットコイン
の価格が信用価値が出て高騰した。ビットフィニックス=テザーとなれば、双方の等価
での価値が決まるのであるが、例えばテザー社としても8億1400万テザーが流通してい
る限り、どこかの銀行に8億1400万ドルが準備されているということにならなければな
らない。こうしてこの謎に、米国商品先物取引委員会(CFTC)がテザー(Tether)とビ
ットフィニックス(Bitfinex)の2社に召喚状を出したとのニュースを受けて下落して
いるのだ。ここ数カ月、テザーについての懸念が仮想通貨マーケットでは広がっていた
。仮想通貨取引所の殆どが銀行と取り引きすることは難しい。銀行は仮想通貨ビジネス
に懐疑的だからだ。よってテザーは、取引所にとってもユーザーにとっても、ドルの安
定性に裏打ちされた代替手段となっている要であったからだ。

766: 名無しさんAA:18/02/03 10:56
日本の岐路 41              <思わぬナンセンス コイン12>
 ところがこのテザーの、取り引き表記は現在、20億ドル相当が流通しているのだが
、2017年11月には3100万ドルもの金が(約34億円)がハッキングされて無くなっていた
のである。この事で中国では事実上は、仮想通貨の取引所が閉鎖に追い込まれ、ICO
も規制された。韓国でもICOが規制され、他の仮想通貨の取引への規制強化も検討さ
れている。ICOつまり資金調達仮想通貨(イニシャル・コイン・オファリング)を米
コダック社までもが発表している。まるで株価の如く新規電子通貨はかつての日本のテ
レフォンカードの様にインフレ様態を世界に巻き起こしているが、此処に来て日本の国
を集中して狙っている。それはなぜか。つまり日本の規制が中途半端だからだ。米国は
このテザーにあるように、例えケイマン諸島だろうがヴァージン諸島だろうが徹底して
探るし時には戦争になっても解明しようとするだろう。そして中国だろうが香港だろう
が、締め出し破産宣告する位まで罰則規定を行使する。ところがそういう力のない日本
はこの種の等価交換やFX投資以上の危険には比較的鈍感に対応し又内々で対応したが
るからだ。いまでこそ金融庁が出てきたが、それでもこれは金ではない。また地理的に
も日本は中継地となっている。日本国内で取引所を運営する、ある経営者は「2017年の
秋以降、日本の取引所で取引をする中国人の個人投資家が増えたように思う」と話す。
「中国人の投資家が札束を満載した車で、日本の取引所のオフィスに直接現れた」とい
う真偽不明のうわさも飛んでいる。というのも香港から逃げて行くのに中国では大陸人
に売ったもののその通貨を外に持ち出せない。そこに仮想通貨が必要だからだ。電子通
貨は取引所さえあれば、現物調達出来るアメリカでもカナダでもオーストラリアでも使
えるからだ。何も日本や中国で取引する必要はない。又、ビットコインの急騰の中では
飛行機に乗っている中でも利子が付く。移住する国の入国や移民としての許可を待つ間
に倍値になれば原価分で日本製品を買っても充分海外に行けるのである。仮想通貨には
株式とは異なるので、株主が企業に対して経営に関与できるような議決権も分配金を受
け取る権利もない。このため、株式の追加発行、すなわち増資で資金を調達するのと違
って、ICOの発行側には既存の株式の価値を希薄化しない。よって、株価にも悪影響
を与えない。リスクとしてはそこに法的根拠がないのである。テザー社はこうした疑惑
を強く否定している。だが彼らの主張が事実だとしても、仮想通貨マーケットにおいて
返金する義務はもともとないのである。テザーに対する懸念は、ビットコインや取引所
に対して影響を与えかねない。ドルと連動する「ペッグ制」が特徴のテザーは、多くの
主要な仮想通貨取引所の運営に欠かせない存在だ。だがもともと発行会社テザー側には
、発行量に相当するドルを保有していなくてもいいのである

767: 名無しさんAA:18/02/03 12:00
日本の岐路 41              <思わぬナンセンス コイン12>
 ところがこのテザーの、取り引き表記は現在、20億ドル相当が流通しているのだが
、2017年11月には3100万ドルもの金が(約34億円)がハッキングされて無くなっていた
のである。この事で中国では事実上は、仮想通貨の取引所が閉鎖に追い込まれ、ICO
も規制された。韓国でもICOが規制され、他の仮想通貨の取引への規制強化も検討さ
れている。ICOつまり資金調達仮想通貨(イニシャル・コイン・オファリング)を米
コダック社までもが発表している。まるで株価の如く新規電子通貨はかつての日本のテ
レフォンカードの様にインフレ様態を世界に巻き起こしているが、此処に来て日本の国
を集中して狙っている。それはなぜか。つまり日本の規制が中途半端だからだ。米国は
このテザーにあるように、例えケイマン諸島だろうがヴァージン諸島だろうが徹底して
探るし、時には戦争になっても解明しようとするだろう。そして中国だろうが香港だろ
うが、締め出し破産宣告する位まで罰則規定を行使する。ところが、そういう力のない
日本はこの種の等価交換やFX投資以上の危険には比較的鈍感に対応し又内々で対応し
たがるからだ。山一証券と同じだ。今でこそ金融庁が出てきたが、それでもこれは金で
はない商品券だ。また地理的にも日本は中継地となっている。ある経営者は「2017年の
秋以降、日本の取引所で取引をする中国人の個人投資家が増えたように思う」と話す。
「中国人の投資家が札束を満載した車で、日本の取引所のオフィスに直接現れた」とい
う真偽不明の噂も飛んでいる。というのも香港の政情で中国での、大陸人に売ったもの
のその通貨を外に持ち出せない。そこに仮想通貨が登場する。電子通貨は取引所が認め
れば、現物調達出来るアメリカやカナダでもオーストラリアでも使える。何も日本や中
国で取引する必要はない。又、ビットコインの急騰の中では飛行機に乗っている中でも
利子が付くぐらいだ。移民としての入国許可を待つ間に倍値になれば原価分で日本製品
を買って行っても充分海外に住み着けるのである。ICO仮想通貨には株式とは異なる
ので、株主が発行企業に対して何ら関与できるような議決権も分配金を受け取る権利は
ない。株式の追加発行で資金を調達するのと違って、ICOの発行側には既存の株式の
価値を希薄化しない。よって、株価や社内影響を与えない。逆にリスクとしては額面を
買う顧客にある。そこに法的根拠がないのである。テザー社は現金不足を強く否定して
いる。だが彼らの主張が事実だとしても、仮想通貨マーケットにおいて返金する義務は
もともとないのである。テザーに対する懸念は、ビットコインや取引所に対して影響を
与えかねない。ドルと連動する「ペッグ制」が特徴のテザーは、多くの主要な仮想通貨
取引所の運営に欠かせない存在だ。だが発行会社テザー側には、発行量に相当するドル
を保有していなくてもいいのである。他の仮想通貨を持っていれば充分なのだ。

768: 名無しさんAA:18/02/06 03:36
 禅姿資本主義(ぜんししほんしゅぎ) -----29 < ミトラの 箱舟 1 >

この禅姿資本主義は 言わばユグノー資本主義の塗り替えと考えても良い。これは田舎
の資本主義であり、かつての太陽神を崇めた ミトラ教の復古主義に近い封建時代の中
での自由社会を頑なに守った人々が守った戦いの姿に近い。パンドラの箱を崇めていて
決してそれを覗かない。とする掟である。日本神話の「鶴の恩返し」である。ユグノー
の掟もその自由主義を広げない事を掟としていた。しかし、現代の資本主義の社会は、
その姿を遠の昔に姿を変えて ケインズ主義の資本社会や グローバル資本主義という
話になっている。ところがそれは初代の遥か昔の資本主義 技術の資本主義とは全く異
質のものとなっている。それが産業革命だった。今回その盟主であるべき英国メアリー
首相が、事もあろうに偽物資本主義のままの中国にトランプに次いで訪中している。も
ちろん香港返還は間違いだった。既に日本の物になっていた物で又返してくれ手違いで
あったから。など言う相談では無い様だ。拡大EUから離脱した民意に英国は身勝手に
も離脱表明をおこなった。当然英国は他の国からの信用を落とし国の価値が下がって、
これまでの国内産業は輸出に潤う事になる。勿論最初は今までの機械や今までの労働力
で現時点は国内は潤うだろう。だがこの先進国と言う名の代理店の看板を下げた商品に
は誰も振り向かず又そのショールームは今までの在庫セールの活況から一変して新しい
仕入れや新しい機械は据え付け出来なくなる。つまりは自ら売る商品がなく買うのは高
すぎると言う話になる。と今までの原子力を造ろうと発注していた中国に最と早くに、
安くそして安全に手を抜かずやってくれと頭をさげ、更に巨大な刑務所に商売させてく
れEUを抜けて韓国のようになった。と泣きつくしかない。勿論旧EU内で貿易はその
ままにしておいて離脱した国として扱ってくれ。とおこがましい交渉は行ってはいるも
のの、EUはじゃあ今まで通りののれん料の倍額払うのかい。などと強気であろう事は
間違いない。このEUと言う老舗に唾吐いて辞めたのは、EUの屋台骨の一本をしょっ
ていた大番頭なのだから仕方ない。ほかの丁稚にもしめしが付かないのだから。しかし
白人はこの手の嘘はよくまあやる事やる事。あの結成時のイタリアにたいする大きな声
の信念は一体何処にいったのだろうか。あの自国運用出来ない金融政策は我が国の基本
の自治権を奪うもので成功しないとか言ってらっしゃったのである。だが既にこの時は
この仮想コインは広く大きく広がっていてICOを出せばそれで済んだ話ではあったが
それをしなかったし、そうした話は全く出なかった堅物ばかりの首脳会談であった。


769: 名無しさんAA:18/02/06 03:37
 禅姿資本主義(ぜんししほんしゅぎ) -----29 < ミトラの 箱舟 2 >

 アメリカ大統領トランプも中国に拝礼した一人である。中国が普通の国なら何と言う
事もない訪中である。だが全く違って偽札が蔓延し、経済指標や人権無視や情報操作は
お手の物の国である。法体系は共産党員が最高であると書き、地方政府も中央政府も、
土地は我々の物だ。権力の前にひれ伏せろと説いた毛沢東語録で白も赤と言えば赤と言
え。と教育する可笑しな超巨大国家なのだ。とは言えアメリカも巨大さやいい加減さや
情報操作や嘘も負けてはいない。911ではCG仕様の映像を流し、ビルを管理爆破で
何百人も殺しながら真相を探ろうなどとしないでアルカイダがやったとアルカイダもい
ないイラクへ攻撃したのだから。もともとアメリカは嘘の誇りでまみれた国で英国と共
に2枚舌外交を繰り返して来た詐欺師社会だった。だからアフガン同様ピストルは欠か
せない銃社会で麻薬がはびこる社会なのである。今までもアメリカが居たから自由主義
になった。アメリカこそ戦争を終わらせた。アメリカが経済の発展を背負って来たなど
と平気で嘘をついてきた国だ。核心的技術はドイツで産まれたし、アメリカ自体が移民
の国家であり、共産主義ソ連と植民地主義仏国の間に挟まれ覇権主義英国の肩入れで、
ドイツに管理主義である社会主義が根強く残っていた。法体系を固め信仰や人の権力に
支配されない社会を目指したし技術者も科学者も大勢がアメリカに渡った。イギリスや
ソ連のユダヤ人送還計画がなかったら、ユダヤ人収容所と言う奴隷市場の収容所と言う
観念は起きなかったであろう。もっともユダヤ人達も収容所内で野菜を作ったり農作業
などと言う話は全く無く、与えられた食糧と衣服に 死人を埋める死体作業しかなかっ
たらしいが。とりあえずそうした白人社会のルールで戦争は進められて第一次大戦から
のいわくつきの勝敗を決する為原爆まで作っていたが さすがに口では殲滅作戦だと言
いながら客船まで無差別攻撃しながらも原爆の英国投下は認めなかったらしい。チェコ
に送れとした爆弾は国策英雄のロンメル将軍の一味に奪い去られ、自身の身も何回も、
暗殺の憂き目にあった。だが経済学はアメリカのケインズ経済学の様に重商主義で根幹
を成して、有効需要の原理である最大利益は需要と供給の重なり点であるなどとして、
時間や場所を選ばない科学を提示した。有効需要とはマクロ経済全体で見た需要のこと
で、消費・投資・政府支出および純輸出(輸出マイナス輸入)の和で定義される。つま
り資源の浪費こそ最大の利益であり、生産のない輸出こそ最大の国家と提示した。


770: 名無しさんAA:18/02/06 03:38
 禅姿資本主義(ぜんししほんしゅぎ) -----29 < ミトラの 箱舟 3 >

 このケインズ経済学は投資と投機の理論で浮き出ていた。所謂「見せかけの美人コン
テスト論」である。つまり投資とは美人に票を入れる事と同じであるというのだ。更に
そのルールに、優勝者については票を入れられた方に賞金を分け合います。というのだ
。そこには好みや美人と言う枠は無く 人気投票に変化し 俄然審査する投票ではなく
なりマルチ商法的な隣の様子を気にする投機対象になるのである。投資は世界を見て、
事を興し長期的な視点から完成するが、投機は時に応じた投資家の趣向で決まり目先の
利益を求められる。アメリカは独立した時から強くある事を願う白人とそれにたむろし
たユダヤ資本で固められ、経済学も又言いなりの屁理屈を重ねて出来上がってきた。軍
事でもナチスは優位だったし、経済でも労働保護のドイツを習って英米はニューデール
や労働斡旋事務所を開いた。冷酷さもナチスに習い、世界で決めた協定違反の無差別の
商船破壊や焼夷弾攻撃や原爆を日本に落とした。ソ連はそれを見て不可侵条約を破って
悲惨な戦争を更に過酷にした。日本が作った産業都市北朝鮮や満州は好い狩場で機械類
はほぼソ連に持ち去られた。資料や技術は米国に持ち去れた。経済学はこの戦争も又、
経済の基礎に入れた。馬鹿げた事に先行自由主義の博打資本主義は、株価を釣り上げて
日本の米相場とはおよそ違った似つかぬ幼稚な様態で落ち着いた。江戸以前に日本の講
も英国で保険や銀行の賭け事の対象に変わった様に全くの変貌を遂げた社会を作った。
とは言ってもナチスが原爆を東欧に落としたからと言って勝った筈もなく又日本が現代
の様な幸せな暮らしをたて人類が平和になったとも言えないだろう。が、直ぐに本性は
出た朝鮮戦争やベトナム戦争フィリピンや中南米紛争などである。投資家達は何にでも
投資した英国が何にでも賭け事の対象にした様に。兵器産業、麻薬組織、革命家、武器
商人、探検家、ゴールドラッシュの出稼ぎ労働者、自動車産業、毒ガス会社、ウラン鉱
山……だが地球一個は地球一個だった、リンゴ一個がリンゴ一個であるように。例え、
店頭価格がどんなに値上がろうとも又どんなに下がろうとも。地球資源は枯渇に向かい
理屈に合わない高利益産業は全てを台無しの値打ちの無い物にして立ち去った。投資の
負の遺産だけを残して。死んで行く者は未来人に債権と言う借金と撤去と言う負担を置
いていったのである。


771: 名無しさんAA:18/02/06 03:38
 禅姿資本主義(ぜんししほんしゅぎ) -----29 < ミトラの 箱舟 4 >

第一の革命が火を持った事なら 第二の革命は洞穴から家を作り集落を作った事だろう
第三は編み物で衣服を作り道具を持って獲物を追い果物の採取で人工林を築いた事だ。
稲作や貯蔵で金貨や物々交換が行われた。従って鉄や銅の精錬技術で機械化した事は、
産業革命と言っても第四の革命に過ぎない。世界の戦争が終わり国際連盟が機能する事
は中央集権支配の第五の革命かも知れない。此処に映画やアニメの世界が現れる。世界
征服王朝の話だ。王になるのがAIなのか宇宙人なのかはたまた一国の首脳なのか経済
資本なのかは不明だ。しかしケインズの起こしたマーケット理論では愚民が起こす些細
な興味や流行でも大きく社会を変えるから市場に任せろ。と謳っている。が日本では、
既にそんなものは役に立たない事が江戸時代に証明されている。管理のない米相場は、
利益を煽る一部の商人の思うつぼなのである。こうしてアメリカ社会は国家がドル札を
賄えないままにきた。やっと政府と中央銀行の話合いが付く頃、ソ連邦は破綻し中国は
自分のお札が偽札だろうが構わない経済を立ちあげた。世界が社会主義や共産主義でな
いから共産主義は成り立たないとレーニンは言ったが、同じ様に世界が平等資本主義で
ない中では自由主義も成り立たない。それが解っていながらアメリカの双子の赤字は、
その解消を中国に求めた。とんだ茶番劇である。民衆は子供の舐める玩具塗料や粉ミル
ク・傷用のグリセリン・野菜・肉・海産物とあらゆるところに毒を入れても平気な文化
に落とし込まれたのだ。麻薬や毒の蔓延し生態学的に異常者が派生する社会に社会論議
や経済学が成り立つはずがない。それでもリスクか不確定要素だかを論議する。それは
リスクとは計算できるもので不確定要素は計算できないものと言う分類である。こうし
た分類はあっても良いかもしれない。しかしそれは日本人には納得できないものだ。と
いうのも経済学ではすべてを金額に置き換え例えば保険はその損害額と加盟者の売り上
げによって計算できる。つまり事故の損害金を決めれば事故の件数ではじき、それが1
割であれば9年間で8年間はそのまま営業活動に入れると言う話である。機械導入にし
ても同じ製品を作れた時例えば人の3倍の働きをすれば3人分の価値を持ち人の100
倍の価格としても50ヵ月で返済できると言う考え方である。これがリスク管理と言う
のだが、それは単に仮定の話である。未来は全てにわからないのが正解なのだ。この、
不確定要素を大恐慌やブラックマンデーやリーマンショックとしている。


772: 名無しさんAA:18/02/06 03:39
 禅姿資本主義(ぜんししほんしゅぎ) -----29 < ミトラの 箱舟 5 >

 だがそれは可笑しな話である。何故なら科学式と同じに、車でも、ロケット打ち上げ
でも保険はある程度は計算できるがしっかりと研究された物ではない。つまり過去の例
から個々の判断を抜きにして大まかな数量変化しか見て居ない。車の死人でもその人が
果たして無名でも、本当は大きな人類の為の人であったかも知れない。そもそも掛け金
に応じての人の命の値段が決まる事自体がおこがましい話である。又株式に人の移ろい
ゆく心理が計算できるなら、株の暴落すら計算出来て当たり前で、その同じ物が小さい
物は計算出来てリスクであり、大きなものは計算できない不確定要素と言うのはおかし
いいい訳なのだ。もし計算できても天文学的数式を持って解明しなければならないから
と言うのであれば少しは解る。それでも疑問は残る単なる確率論の中ではないかと。が
今AIの進化は実はこの確率論の認識によって成り立っている。簡単に計算できる百く
らいのパターン認識で一番いい答えを更に同じ百くらい集めてよりベターな結果を積も
り結果を出す事にした。従って逆転劇が起こる結果や、最後の答えは全く見ない。そう
した答えをもって行動している。つまり先を見ないで決定する事を、可能にしたのだ。
しかし、これはアメリカ流のブラックジョークである。つまり今のゲームの世界では、
AIは殆ど無敗の王者に変化した。それでもそのルールや駒の進め方は一定の量でしか
なく無意味な動きや進められない駒を除けば更に少ない量だ。株式売買においてはその
対象は3つしかない。株価が上がるか下がるかそのままかである。そして行動も又買う
か売るかそのままかと言う単純明快なこの行為だ。だがこの行為に莫大な投資をしては
生産性のないこの仕事に報酬と言う価値を与え続けたのである。するとどうなったか。
既に空想世界の株価は正に電子世界の仮想世界の作り物と化けたのである。先に話した
様に一個のリンゴの価値は一個のリンゴである。例え店先の値段が上がっても下がって
も。ミカンと同等になろうがミカンの10個と同じになろうが 地球資源もまさしく、
地球一個の価値を持っている過去も現代も未来も。つまり時間に於いては等価なのだ。
人がどんなに文明社会を築きどんなに戦争し傷つけても。その為その行為は人類に跳ね
返る。例えナチスがやった。或いはユダヤが核兵器を作りだした。白人が資本家になっ
て操ったとわめいても、その悲劇も喜劇も全く関係なく 人類全員ををいたぶるのだ。


773: 名無しさんAA:18/02/06 03:39
 禅姿資本主義(ぜんししほんしゅぎ) -----29 < ミトラの 箱舟 5 >

 ところがAIが持ち出した世界はとても奇妙な奇抜な世界だった。つまり仮想空間が
無限の経済活動にする話を持ち出したのだ。ICO、つまり掛け値なしの人のいない株
の世界である。発行は全て電子世界であり、管理するのも電子世界だ。ただ現物通貨で
その募集をする。これに気づいたのが20年前の円天通貨事件だったが金融庁。だがイ
ンターネットが普及してから紙幣の信用の無い中国でそれは成功した。ネット通販での
創業を果たしたインターネット通販最大手アリババの総帥、馬雲(ジャック・マー)氏
である。今や中国の長者番付ナンバー1にのし上がった。元々は贋物作りで有名なカー
ド偽造のメッカで中国浙江省杭州市にその下請け的存在の電子カードのプログラム書き
がいた。しかし中国国内は中国解放を叫んでも、毛沢東は所詮掛け声倒れだった。だが
1976年毛沢東が死んでからはその開放路線は本物になった。周恩来がケ小平を助けて、
彼が技術の供与を世界に求め、胡 錦濤が経済を世界に求めた。こうして 1978年以来の
経済改革の結果、数億の中国人民が貧困線から脱出することに成功した。1981年には、
人口の53%が貧困線以下だったが、2001年には8%にまでに減少し。依然全体の生活水準
は低いものの、中産階級の数は世界最大となった。当時1元=0.1円から今や10円
で100倍の資産になった中で、中国政府は農業をかつての人民公社から生産責任制に
変更し、産業における地方政府の権限を増やし、サービス業や軽工業における、様々な
小規模企業(郷鎮企業)を許可し、外国との貿易や投資を増やす為に経済を開放した。
この中でアパートジャック・マーと18人の創業者により中国浙江省杭州市にあるアパ
ートの一室にてアリババグループ設立していた。折からの2022年北京オリンピック準備
と 上海万博 (正式名称 上海国際博覧会 開催時期 2010年)の会場作りに投資環境は、
空前のチャンスだった。1999年3月創業すると、銀行外投資の優良企業として資金集めに
は事欠かなかった。企業間電子商取引をサポートするマッチングサイト「阿里巴巴 」は
当時世界のコンピューターの巨人IBMが作ったサービス以上に、アリババ・コムは、
多くの会員を集めた。更にIBMを中国が購入すると更にそのスピードは上がった。そ
の配布資金で瞬く間に急成長した。


774: 名無しさんAA:18/02/06 03:39
 禅姿資本主義(ぜんししほんしゅぎ) -----29 < ミトラの 箱舟 6 >

現在のアリババドットコムとアリババクラウドコンピューティングになった、基本形態
はこの時立ち上げた、電子商取引サイト「淘宝網」、検索サイト「Yahoo!中国雅虎」や
電子マネーサービス「支付宝」、ソフトウェア開発会社「阿里軟件」などの会社を設立
し次々と必要な資源会社の買収し傘下に収めたからだ。国際的な知名度を高めたのは、
2005年に行ったYahoo!中国の買収案件を成立させたことだ。この際、アメリカYahoo!は
阿里巴巴集団の株を入手し、2007年現在筆頭株主となった。創業者はジャックにアメリ
カ検索サイト大手ヤフーの創業者ジェリー・ヤン、ソフトバンクの孫正義と交流があり
、2007年からソフトバンク取締役を務める。2016年のソフトバンクのアリババ株一部売
却後も馬と孫は互いにソフトバンクとアリババの取締役を兼任して提携関係を継続して
る。2007年11月に阿里巴巴網絡有限公司(アリババ・ドットコム)を香港証券取引所の
メインボードに上場。2012年6月、アリババ・グループによる株式公開買付けにより、
香港証券取引所の上場を廃止。買付け価格は、上場公募時の価格と同じ一株13.50香港
ドルであった。2014年、ロスチャイルドを財務アドバイザーに起用し、ニューヨーク
証券取引所に上場し、当時でも時価総額2兆円を超えた。ただその原資の一つに、あの
おしんの元になった日本のスーパーのダイエーを始めとした流通騒動があった。つまり
中国側には、常に資本が無いのに資本提携を叫び、日本の主要な中国取引に嘘を持ち掛
け詐欺て乗っ取りを図っていたのである。正に盗賊集団の阿里巴巴集団 アリババしゅ
うだんだった。(日本語名アリババ・グループ・ホールディング)もしグループの一員
として社内で電子通貨を貰ったら、彼らの中で中国政府に関係なく暮らしていける現実
世界を築いている。しかしそれだけにとどまらないアリババグループはその関連会社と
して500兆円は越すだろう流通を収めて、資産規模は今や計算出来ないくらい表と影
を担っている。ヤクザのネットワーク社会と全く同じだ。しかし現実には中国の価値は
0.5円だろうが10円だろうが経済成長した今だろうが貧民だった昔だろうが変わら
ない。八百屋の売り上げが変わらない中では。では何が変わったか。そのそれはその国
が大きくなり価値がある事で他の国の価値が下がった事だ。イギリスは科学技術を捨て
今や基幹の原子力政策すら中国資金に頼っている。日本も同じだ中国の毒食品に覆われ
必死に原産地表示のない所で、市場や店頭販売に 粉粒加工物にしてその足跡を隠した
製品開発をし、物流コストや企業利益に組み込もうとしている。もっと酷いのが米国で
ある。自ら株式での資金募集を許しながら、全く自国の勤労に寄与しない搾取に中国を
のさばらせているのである。

775: 名無しさんAA:18/02/06 03:40
 禅姿資本主義(ぜんししほんしゅぎ) -----29 < ミトラの 箱舟 7 >

 これらのシステムが基本の道徳にかなった資本主義を壊しているのは疑うべきもない
。税金の避暑地としてのパナマやケイマン諸島に本拠を置くのと同じく、多国籍企業を
装って中国企業は米国進出を果たし、中国の毒入り玩具や、メラニン入り粉ミルクや、
毒入り餃子や先進国では使われない農薬を最貧国に売りつけて、一方で中国の下請けを
探して企業買い取りして物真似から本物を大胆に中国商品と取り混ぜて中国民に売りつ
けて需要に追い付けない中国の生活に寄与している。これが麻薬取引と同じ悪態効果に
あるのは当然だ。国際収支の中には含まれず、闇取引と同じで、窃盗品であろうが物真
似品であろうが売れれば一向に構わないし、又回収する措置はない。つまりゴミの出し
放題でやりたい放題で、韓国の製品開発を捨てた企業以上に斬新な悪態企業である。こ
うした企業にルールも下請けを育成する気も無ければ、新たな社会事業にもならない。
韓国が偽物を史実の様に語る醜悪な映画や劇場がドラマが日本でTV局が買い付け全く
日本のTV局の国民信用を落としたように、中国では世界を中国民の様な民度や思惑の
ない消費垂れ流し社会を築こうとしている。日本の原発が便所のないマンションと比喩
される様に「生産のない生産活動」を行っている。全く米国のゴールドカラーと同じに
。日本人も今や多くがこの詐欺的ブラック企業や若者の就職に流れている。もちろん、
これらのシステムがこの博打資本主義で機能する事は世界大戦前から解っていた事だ。
そもそも日本の行政もこの詐欺師団体の仲間としか見て居なかった。ヤクザで有名な、
山口組も実は敗戦時の朝鮮人暴動を政府も誰も抑えられなかったから出来た集団である
。ところで等価資産の価値は一体幾らであろうか。実は決めなければいいのである。回
りの作った論理では世界は動いて居ない。少なからず神の見えない手なども存在しては
いない。経済のゲーム理論も例えば囚人のジレンマも実は大体の予想でしかない。一人
の囚人を同じ尋問でも100%とは限らない。情報も思考も性格も環境も違う者が同じ
である訳がない。そこで人々を支えたのは行動原理と直感である。つまり米国株式落下
に人々はどう閃くのかでしかない。1900$程度の利益や国益を支えない企業が人々
の信頼が厚いとは思わない。3000$に届こうとする株価が落ち込むのは当然だが、
それが理由が必要とも限らない。元々ICOが人々の集金を集めた自体で株式に価値は
ない。高い手数料と一部の限られた者の支配的金融には誰も賛成しない。だがそれが悪
い訳ではない。つまりそこに妥当な判断が出来る。日本化現象である。外的成長の無い
内的充実社会の実現だ。


776: 名無しさんAA:18/02/06 03:40
 禅姿資本主義(ぜんししほんしゅぎ) -----29 < ミトラの 箱舟 8 >

 よくトランプ信者はオバマ政権批判を繰り返す。だが今の米国の景気の良さは戦争に
踏み込まなかったオバマ政策の底堅さが景気の下支えしている。加えてICOが流行る
中でドル紙幣が流通量の規制で回収に走っていても景気変動が無いのはそれだけ安定化
した社会に入ったからであろう。それに対して兵器産業が危機感をもち原子力産業はそ
のしわ寄せを喰った。その中で日本は、東芝は多大な支払いを迫られ、日本はアショア
の購入をせがまれた。北朝鮮との合作での日本防衛への脅迫である。多くの経済学者は
こうした世界のいがみ合いを計算しない。しかし現実は平和であっても小さな出来事で
物事は推移し、加熱すればマックスウェルの拡散理論の如くJカーブで破綻する。他に
高率の利益のある投資する物が無いために、平和では簡単に株に辿りつく。これは人間
の浅はかさと無恥で無知な欲望の生物である事を物語る。だがその仮想世界の喜びも悲
劇も現実世界の大きな努力の殆どを食い潰してしまう。戦前も戦後も自らの生産性を持
たず余禄を持って生きているからだ。つまり存在する事自体が普通の社会に大きな負担
なのだ。そこでCカーブ理論の日本化と言われるものだ。LTCM破綻の頃株価トレー
ダーが取り入れた丸山理論によると、株価は何処かで戻る。と言う理論で計算できる。
と言われていた。つまり株価が上がる時上がるだけではない何処かで反転する。いち早
くその反転で売り抜ければそこに成功があるのだ。又逆に下がる時も同じでいつまでも
下がらない。そこで逆に少しでも反転した兆しがあれば買い付けすればいいと言う理論
である。この理論によって物事は全体でみれば平行線にしかなりえないと言う物だった
。これが日本化現象を産んだとされる。つまり物価も生産も株価も上がらないし下がら
ない。と言う物で決して現実世界が進歩しないと言う物ではないと言う話だ。ところが
この理論による利潤が大きな災いとしてのしかかる。日本企業の輸出益に対しての、保
険を売って自社の運用益を上げようとする群れだ。通称ハゲタカファンドと呼ばれる米
国のヘッジファンドの群れだ。それは営業巧みに日本の資金で大きくなりながら米国の
退職者年金組合に大きく支払っていた。その中でノーベル賞の金融工学者を取り揃えた
LTCMは異彩を放ったトップだった。そこに日本の銀行も保険をかけて破綻と同時に
自社も赤字に陥ったのである。理由は簡単だった米国内は欲望の巨人でCカーブを認め
無かったからだ。その資金で下げにも先物取引して益をとる正にハイエナ集団で、更に
利益の良い危険株まで手を出したハイリターンの会社に自らなっていた。


777: 名無しさんAA:18/02/06 03:41

 禅姿資本主義(ぜんししほんしゅぎ) -----29 < ミトラの 箱舟 9 >

 こうして此処にマルクスの資本論も資本主義のケインズ理論も破綻して、無名の丸山
哲学や丸山カーブ理論の正しさが証明されたのである。つまりこれからもどんなに米国
がドル札を回収しても株価は下がるのであるし一定にしかならない。それに業を煮やし
たのが欧州EC政策である。英国は自国の自由な金利政策ができないと時代遅れの加盟
に際した時金融の非加盟を申し出ていた。しかしこれが逆にECを弱くしていた。次々
と起こる各国の焦げ付きに手当てが必要だったからだ。そしてこのECの均等化原理に
逆らう為にEC離脱が良いと考える世論がこの度英国を制覇した。しかし馬鹿な事に、
世界でその均等化の波にのまれる事は更に英国の地位や資源や価値が下がる事だった。
現に今や英国は頼るべき柱が無く、寄生虫の如く栄養を吸い取る中国に頭脳資産は次々
と持っていかれているのである。大きくなった中国は天下無敵であった。サイバー戦争
と自ら言い放ったこの国は、ブラックドアを付けた電子基板を各国で使ってもらい、今
や殆どの情報は衛星を使わずインターネット回線で盗聴盗撮可能となっていたからだ。
毎月何百万台と出来る家庭機器の電子基盤はもはや中国の手に落ちて、今までの国内の
監視プログラムと相まって、世界中で相当な成果を上げた。米国も同じに前々からの、
電波ジャックによる違法プログラムの開発をイスラエルと共に開発出来ていた。ロシア
は更に上を行く無敵のハッカープログラムを北朝鮮に流出させたと言われている。これ
はもはや日本が立いく話では無くなっていたのである。イージスアショアは打ち上げと
同時に失敗する。当然一瞬でも計算が止まれば当たらないからだ。本来成功するべき物
もハイテクでは強襲電波には敵わないからだ。とりもなおさず、米国も英国と同じ様に
白人社会の傲慢で、自分達が一番偉いと思っているし一番強くなければならないと思っ
ている。その感情に訴えて当選している事は確かな事だ。日本人の東洋思想ではそうし
た人達を許してはならない。のさばらせてはならないとしている。つま「り実るほど頭
が下がる稲穂かな。」の視点である。つまり頭の弱い馬鹿をのさばらせては世界が混乱
した物に変わるからだ。今後小型核の開発を認めたが、恐らくは日本にその製品の売り
つけを目論んでいるのであろう。対抗核を持つにしても日本はそんな大型を持たせられ
ないと判断したのかもしれない。だが主旨は解るが使えない核を持ち込んでも通常弾頭
でも戦争の悲劇が増えるだけだ。その意味ではそのままで中国の台頭を止めれば済む話
でこれが出来ない日本政府や米軍のふがいなさが北朝鮮問題を暗くしている。


778: 名無しさんAA:18/02/06 03:41
 禅姿資本主義(ぜんししほんしゅぎ) -----29 < ミトラの 箱舟10 >

 とは言えアメリカは今の所西側諸国の盟主であり、東側諸国ではロシアと中国と言う
巨大な二本柱が立ち、今の所二つの国に人権問題や条約批准などと言う内政干渉を言え
る国はいない。アメリカ英国豪州と訪れて居るものの誰一人として、チベット、香港、
ウイグル、台湾、南沙諸島の問題で激しく渡り合った記録は見当たらない。株価下落に
対して、今や少し違った見方が出てきた。中国破綻もシリア紛争での親米対反米の戦い
にも落胆論が出始めてきたのである。つまり、世界中がシリア内戦は日本で一般に言わ
れているような「独裁者vs国民」では無い事に気付いた。と言う事である。これまで
トランプ政権で脱不況や雇用拡大を期待し大きな支持があったが、先の中間選挙演説で
民主党の掲げた「今の好景気は、オバマ政権を挙げた国民の遺産である。」とした声が
図らずも証明され受け入れられたからだ。トランプ支持を掲げた人ですら「直ぐに彼が
政策で景気を起こすと思わない。」と言っていた。が、今が景気と言うのに迷いが出た
のだ。これは「間違ったトランプ支持をした」と言う懸念である。更に最大なのは原油
が再び下がる可能性である。シリア内戦で原油や天然ガスの争奪が思われたが、今も、
米国内はパイプライン敷設が行われており重大な懸念がある。つまり損益分枝点とされ
る単価1Br=40$より下がる気配である。既に米国内にシェール石油が出てロシアの
天然ガス供給設備の整備がおぼつかない状況だが、イギリスの離脱は北欧などの増産を
後押ししている。つまりOPECの価格決定権が無くなった事を意味している。つまり
イランイラクシリアに石油の増産がなくても、サウジはジリ貧に陥ったままと言う訳に
なる。アメリカ国内はNFLの調査でスポーツ観戦すら「既に熱狂世代は終わった」と
ぼやくぐらいに「静観指導者待望論」に近い静かな支持者が増えている。Cカーブ理論
で上がれば売るし下がれば買う。と言う全くの極めて基本に立ち返った考えに終始して
「別に株価は上がらなくていい」と言う考えと、利上げした債権など必要ない。と言う
考えである。ある意味物質主義の終焉である。車でも「古くて良い見ろよキューバを」
と言う訳である。金利も日本では今だ銀行を支えてマイナス金利だ。過去のセオリーな
ど今に合わないと言う訳である。果たして本当か。一方で過去のセオリーに戻っていて
今までのやり方こそ間違っていたのだ。と言う声もある。いずれにせよ未知の時代に、
入っていったと言えよう。そもそもGDP対伸び率概算で2000$前後にしかならない。
それがこんなに高い。更に中国にしても、紙切れ同然の企業が値を付けて居る不思議だ
香港以外の地にそんな法律も通らない国の土地建物に価値があろうはずもない。


779: 名無しさんAA:18/02/06 03:42
 禅姿資本主義(ぜんししほんしゅぎ) -----29 < ミトラの 箱舟11 >

 こうした虚実の世界の創成はキリストユダヤのお手の物でもある。イスラエル民でも
ユダヤ民でも無い者達がイスラエルを建国しエルサレムにひれ伏すのである。御大層な
事だ。キリストが生まれてユダヤ民が追われたがユダヤ教徒が増えたが、この時の措置
が時のローマ帝国が行った行為がこうした事だった。ミトラ教は多神教だったが一神教
に代わりアテネポリスがギリシャに喰われギリシャはローマに喰われた。民を口説いて
なびかせるにはこうした宗教が一番だったのだ。更に民衆も参加した会議で大衆の意見
として少数の正しさを犠牲にして国を大きくした。今の香港に大陸の人間を数多く送り
さも香港の意志であるかの様にその頂点を規制した。この事が自国の進化を滞どまらせ
凶悪をはびこらせると知らずに。皇帝ネロはそうした時代に産まれた。だがこの時には
まだオリンピアがあった。棒投げやレスリングや駆け足競争や長距離などである。だが
これがコロッセムが作られ、残虐な闘技場として生まれ変わり、猛獣や奴隷同士の決闘
や馬を使った決闘や箱乗り戦車の決戦場に変化したのは、皆が知る所である。その後に
ローマが堕ちて行くのは目に見えていた。というのも皇帝ネロがオリンピアで何度も優
勝したのは金を使った賄賂であった事が解っている。つまり既に人の心は病んでいたの
である。その後四方から常に戦争が起こったのも当然であった。ピエール・ド・クーベ
ルタンはオリンピックを復活させた。19世紀に既に発掘されていたオリンピア競技場
の成果から得た知見によって、近代オリンピックを開花させたのだったが、この五輪が
韓国では北朝鮮懐柔の策として利用しようとしているが、全くナンセンスで、何故なら
韓国民の意識が文政権の支持率がどんなに高くとも統一されず更に北を統一する機運に
ないからだ。人心がバラバラの上他国と交渉など出来ないのが正常だ。更に吸収などは
特に出来ない。それが米国でも英国でも世界各地で起こっている。シリア内戦では、今
まで敗退を余儀なくしたシリア自由軍やヌスラ戦線がトルコの後押しでシリア政府軍と
戦っている。アメリカが推すクルドを政府軍救援に駆け付けたいのだがイラク合同軍が
それをさせないであろう。クルドにしてもイラクもイランもトルコも敵であるし米国と
ソ連が一体化すれば、すぐに軟化させ自国のみで戦う事は放棄して行く扇動者である。
人類学者に言わせれば、こうしたパートナー選びに人間のみが特異な性質を持っている
という。所謂「進化のもつ意識」と「本能の行う欲望」に乖離があり、それが「感情の
いい訳をする」と言う。つまり不満は意識では無く その奥の進化で出来た知識と本能
で組み立てている摂理の乖離がもたらしている。というのだ。

780: 名無しさんAA:18/02/06 03:42
 禅姿資本主義(ぜんししほんしゅぎ) -----29 < ミトラの 箱舟12 >

 皇帝ネロは暴君と知られているが、彼らの頃は欲求不満は意外に少なかったはずだと
思える。というのも残虐行為は溢れ、一夫多妻も数多くあったからだ。それでも暴君だ
った裏には、芸術性が乏しかったからだ。オリンピア時代の彫刻も薄れ、振り珍の格闘
技も血生臭い殺し合いの刺激に変化していたからだ。ブータンでの幸せには、「みんな
の幸せが自分の幸せに繋がり、皆の幸せのその世界が来ないと心の満足は一生来ない」
と諭している。実はユダヤ金融資本はそれが最も怖い事で、独裁者も又同じだったのか
も知れない。人々が新しいものを欲せず、競争を誇りにしなく、物や領土にこだわらず
車どころか自転車すらもシェアで済ます世界だ。物売りは新製品よりは古物販売を回り
、家屋は新築よりは修繕による使い勝手を望む世界だ。機能ある間取りよりは今の良さ
を更に便利にと言う世界だ。その意味では日本の国立競技場が二転三転して安い新製品
になった事は何とも情けない話だ。今建築の競技場なら昔のままの方がよっぽど価値が
ある。と言う考え方は株価を上げないし、新規需要を満たさない。借金もせず過剰生産
や新製品や設備投資にも余り寄与しない。それどころか経営者には先の見えない暮らし
が待っているからだ。だがAIの発展やICO(電子通貨発行)や少子高齢化や国際的
取引(グローバル社会)はそれを意味している。その意味では日本銀行や日本政府の行
っている対応は全く間違っている。アメリカも今後兵器産業や軍産複合体や金融街には
鋭い国民の眼が政界をにらんで止まないだろう。そも「人類の夫婦論」から読み解ける
生物の中で最も奇異な「一夫一妻」は「一夫多妻」や「多夫一妻」「多夫多妻」からは
かけ離れた存在だ。よく鳥の世界で「一夫一妻」と言われるがそれは見せかけで「多夫
多妻」でグループでの集団社会で、チンパンジーと同じに、DNA解析による独占子孫
率は60%で4割は自分の血縁子供を育てて居ないと言われる。それは弱者の生き残り
方法であり、ヒマラヤなどの食糧が乏しく厳しい仕事の多い場所の「多夫一妻」はその
名残りとされる。「一夫多妻」は権力の集中を意味し、仕事の無い世界の暴力的支配が
ある事で維持されると言う。ゴリラやアザラシなどはその維持に「力」が必要で「繁殖
投資」と言われる投資活動として強い雄を求めるからだとされる。砂漠のシステムも、
水やオアシスの権利の為に暴力が必要だったからとされ、それがハーレム社会とされる
。男が女を見染めるのは「気に入ったから」「気があったから」というが学者では、そ
う出は無く「本能にある進化の意識」で決して「人の感情の説明」ではないと言う。つ
まり生殖は取引であり過去のデーターの蓄積で「より安全な子孫作り」をそれを本能が
悟って感情に訴えて居る。と言う話である。

781: 名無しさんAA:18/02/06 03:46
 禅姿資本主義(ぜんししほんしゅぎ) -----29 < ミトラの 箱舟11 >

 では何故それが経済学と関係あるのか。実は国対国の条約でも会社対会社でも、経済
的つながりはこの理論に従い、強い相手、より安全な相手、より利潤を生む仕組み、を
選ぶというのだ。残念だがその通りで戦略的にそうした相手を、好むと好まざるに関わ
らず選んでしまう。しかし今やグローバルショックが起こる現代では人の本能も変化し
ゲーム世代で賢く分散型に変わった。つまり誰も得しないしかし誰も損しない社会科学
の出現である。中でもこのジェネレーション・ターミネーターズはかなりに強い。今ま
でもヒッピーや黒人差別運動などあったが、今の反トランプの叫びはちょっと違ってい
る様に見える。と言うのも今までのベトナム戦争反対だからと軍需産業に対抗はしてい
なかったし黒人差別の撤廃でも至る所で抜け穴があった。しかし今やトランプ支持をし
ているキリスト教福音派でさえも、軍国主義や封建社会への後戻りに危惧している。世
界教会協議会(WCC)のエキュメニズム(世界宗教会議)、自由主義神学(リベラル
)、新正統主義を否定するが、キリスト教根本主義(ファンダメンタリズム)にも同意
できない福音主義の立場によってアメリカ合衆国の福音派が形成された経緯から当然で
はある。基本は「聖書に忠実であれ」とする平和主義者であり、闘わない争わないとい
う姿勢こそ大事というのだ。だが世の中の定石として平和を望むのは半数に過ぎない。
この半数でさえ売られた喧嘩は買う立場であろう。武力は勝らないまでも劣る事のない
事が生きる為の常道であるからだ。常に備えたい。と言うこの思いが実は過剰な隣国と
の戦いの火ぶたになる。川中島の戦いと同じで結局は究極の支配まではいきつかない。
そこが後に禍根を残して更に過酷な戦いとなる。イラクの様にアフガンの様にあるいは
中東の様に。イスラムとキリストの信者の戦いの様に。そして結局はその指導者は過激
な発言に終始する。だがオバマはそれを知っていた。広島に献花した姿勢は最も正しさ
を具現化したものだろう。だが支持しない層はこれに反発したのである。仮にクリント
ンについてもトランプについてもどちらが選ばれても軍需産業には大した違いはなかっ
た。ところがである。支持者の変革を求める声は大きく、特に若者を始め移民混血に前
向きな姿勢がある。インターネットの普及と共に違和感を失くしつつあるのだろう。が
刺激的なCMの如くに 人を駆り立てるだけ駆り立てて AI社会にAIは責任を持た
ない。勿論開発者もあのアインシュタインが悔いても、何ら責任を取らない様に。

782: 名無しさんAA:18/02/16 10:41 ID:Svw

麻生太郎副総理兼財務相は15日、衆院予算委員会で、佐川氏について「極めて有能な
役人だ」と述べ、更迭を拒んだ。だがその言葉だけで 嘘を付いた役人をかばった責任
が生じているし 国会法を犯している。つまり副総理兼財務相と言う役職すら不資格者
の烙印が生じている。国会議長は何故そうした違法をそのままに議論させるのか。




783: 名無しさんAA:18/02/16 10:57


 NHKはもっと素直な物語や講座TVボキャブライダーだのドーモ君だの全く人気が
でれればいいなどというものではない。紅白歌合戦も同じだ。昔からの伝統の重みの中
に価値がある頃にころりと方針を変えて 派手で人目を引きつける仕様に変化させた。
変化は人は求めて居ない。むしろ昔の構成を望んでいるし昔の映像に価値を見ている。




784: 名無しさんAA:18/02/16 17:54

 さすが韓国 平昌オリンピックは政治利用の上 この大会委員会はコース整備も出来
ないらしい。屋外競技はアクシデントが続き、その上ボブスレーなど見るに堪えない。
唯一スケート場が少し整備されているものの、カーリングを見る限りきめ細かな温度の
管理や氷の質が非常に悪いようだ。まあ面白さは抜群のようだが スキージャンプなど
よくまあ事故が起きなかったものだ。選手の健闘が光る。



785: 名無しさんAA:18/02/20 18:38 ID:JIo
 福岡の歯科医師会は、医学の基本も知らないらしい。全く無茶苦茶な治療である。今
だ3歳の子に虫歯治療して麻酔の不備で死亡している。そもそも3歳は虫歯を治療する
に値しない。幼児では歯は抜け替わるからだ。そもそも原始の世界から 医師などとは
存在しない。祈祷師や呪術師が代わりにその役を務めていたが、その全部と言わないま
でも半分は治癒している。何故か病気の回復は全てが自然治癒力という自己修復能力に
あるからだ。その意味では薬だろうが、注射だろうが、お祈りだろうが、その身体に合
った適切なものが一番の回復をもたらす。そこに医学の基本がある。たった虫歯ぐらい
で死人を出すとはもってのほかで そも子供の頃虫歯になるほど甘い物には強くなった
歯が抜けがわるとされている中なぜ6歳以上に待てなかったのか。この馬鹿医者はと思
う。全く歯医者詐欺が横行している証左である。福岡県警は全力を上げて殺人犯とせよ



786: 名無しさんAA:18/02/21 00:09


 福岡地検は馬鹿か。12億金塊の強奪の犯人を 起訴しない。証拠がないなどとは。
自動車のナンバーも車種も解っている。警察は地道にタクシーなどの車に付けた映像を
かき集めなかったかったのか。300台以上走っている福岡市内で足取り位解るだろう
足取りが解ればその中の20台位はすれ違っているだろう。タクシー以外でも車載カメ
ラを付けている筈だろう。片っ端から民間の車両も問い合わせしたのか。全く仕事をし
ていないのではないか。





787: 名無しさんAA:18/03/07 12:16 ID:2Hw
 近頃官僚の馬鹿さが露呈して、火事場泥棒的にその場しのぎでほいほいと大それた
不法行為が明るみに出ている。 日本の議員が大馬鹿なので合わせて馬鹿をやったのだ
ろうが 東京オリンピックの国立競技場にしても 以前の競技場と今の建設する競技場
は、オークションにかければ20倍ぐらい価値の無い物で建設している。この馬鹿さだ
豊洲と築地では 築地に既に価値がないのは解った話である。全く東京はどうかしてい
る。そのキチガイや馬鹿の まるで生産のない大富豪都市にリニアを通すなんぞ必要の
ない話である。さっさと遷都しないから 地震では人的被害が大きくなる。過密すぎて
動けない上にそれいに対応しようとムダ金を使う。それも田舎から吸い上げた金で。全
く安倍政権始め 小泉のこしゃくれた小僧政権とは戦前や戦後の吉田・佐藤の小指にも
にもない中曽根と同じだ。国立競技場は ザハ案を通さないなら解体する必要はない。
採用しなかったら 今までの国立競技場の方が20倍もいいと言う話である。その馬鹿
をやった舛添をまたぞろTV局は出している どういう神経なのか。常識のない業界だ
今回の国立競技場が一体2世紀3世紀残る建物で ギリシャのコロセウムの様に観光の
メッカや色んなコンサートまで含めた催しが出来るのか。残念ながら価値はない。




788: 名無しさんAA:18/03/08 11:39


 安倍はなんて馬鹿なのだ。「捜査中なので」などと言う言葉は内閣にはあってはなら
ない。何故なら内閣は行政府の長であり議会は立法府の長なのだ。警察・検察・自衛隊
を指揮する立場にあって、三権分立の仕組みで裁判所の独立が確保される事に、議会は
機能する。つまり 議会の要求に内閣はそれを開示し身の潔白をはかる義務がある。又
議会の長は責任において野党の要求を内閣に付きつける義務がある。議会運営委員会は
その意味で国民に開示し、国民の代弁者にならなければならない。自民党はその責務を
放棄している。これは憲法違反である。



789: 名無しさんAA:18/03/08 18:40 ID:1OU
 箱崎の馬鹿神職は巨大な鳥居を壊すと言う。今まで何故に保守管理をして来なかった
のか。いまでも樹脂の注入工法や 炭素繊維の葺巻き工法とか やれる事は沢山ある。
危険にさせといて、朽ちたら壊す。いい加減な物だ。要らない物なら最初から撤去して
神社を名乗るな。全く今の日本人の奢りや昂ぶりは目に余る。作る側も石で作ればよか
ったのかも知れないが、近代工法の限界であろう。散々参拝客や産子に御賽銭を貰って
食っていながら何という不始末だろうか。どこの建設会社が解体を申し出たのか知らな
いが、全く馬鹿どうしである。撤去するならもっといい鳥居を建設する手立てをつけて
行うべきである。


790: 名無しさんAA:18/03/09 09:06


環境省は馬鹿だろう。中間貯蔵施設をつくって金の計算ばかりして 福島のダンプを
かきよせても動かせない量を動かすと発表した。まさしく安倍政権の無駄政策である。
どんなに置いても 仮置き施設である。タンカーの様なものに載せてそれこそ軍艦島や
尖閣諸島に持って行けばいい物を全く何らそうした処置をしない。人がかき集めた土で
問題は何処に置くかである。全く環境省とは名前だけで 無駄な職員ばかりで本当の
仕事はしない。野田聖子も困ったものだ。




791: 名無しさんAA:18/03/12 18:08 ID:fQ2
 さてさて ソ連の手の上に乗った 北朝鮮と更にその北朝鮮の手の上に乗った文政権
とトランプ政権だが、全く紛れもない偽りだが日本を警戒しつつ 会談したいと韓国を
通じて言って来た。としている。全く金正恩はしたたかだ。ま最も長男すら殺すぐらい
で今や米国との戦争も辞さないぐらいの緊張だったから、必死で幾つもの対応策をくり
広げていたであろう。日本の安倍の明恵夫人で振り回される国会も 充分解っていたの
かもしれない。なぜなら あの強硬派のトランプから180度変えた発言を取り付けた
のだから。トランプのこれまでの営業トークを奪った形である。更に米国政府が手の上
にありながらも「物事が北朝鮮の期待どおりの方向へ動いている。」事実が気にかかる
。それにしても「その速度は期待と予想を遥かに超えている」状態だ。西側諸国は制裁
が効いていると勝手な妄想を引き、囲む中国や韓国には「空想の朝鮮半島の平和支持」
を抱かせソ連日本には、「自国の主権だろ」と有無を言わせない。街中は車は少なく、
痩せた軍人が蠢くが、国際的には「制裁措置も軍事的な脅しもどちらも現実ととらえら
れがちだが、これまで、制裁措置には顕著な効果はない。」と語る人は多い。平壌を、
最近訪問した人々の証言によれば、穀物価格や交換レートは安定している。但しそれは
見せかけ以上に金政権が強固な政権に変わっている事を示している。金氏は今、小さな
譲歩でも大きな収穫を得る立ち位置にあり、核開発計画に影響を及ぼすことなく実験の
凍結を申し出ることさえ可能だ。北朝鮮は、トランプ大統領が繰り広げる戦争話には、
慌てているかもしれない、しかし経済的な締めつけの影響はそれほどでもないロシアと
中国と日本在住の工作員が裏にいるからだ。 金氏はいつもの様に包括提案を示してき
た。板門店の軍事境界線の韓国側で4月に南北首脳会談を開くこと、米韓合同軍事演習
計画への反対を撤回することや、潜水艦問題そして話し合いを進める間、北朝鮮のミサ
イルと核兵器の実験を凍結すること。サリンのミサイル積み込み。など北の譲歩カード
は幾つもある。その小さなカードを幾つか切ればホワイトハウスは混乱する。何故なら
大きな大陸弾道弾を持ってそれを確立させれば、鬼に金棒であると自認しているからだ
。その意味では、米国は制裁解除と戦争行動の停止の2つしか持たない。いずれも北に
は北の壊滅にきわめて有用な問題だ。こうして幾つもカードを持ったが彼は外に出れな
い国内不安がある。そこに頭を下げてトランプ大統領と会談し、「朝鮮半島の非核化」
について話し合おうというだから馬鹿げている。どちらの国でも核保有国であるという
前提で交渉するのは、北朝鮮の辞書ではおなじみの言葉だ。まずは予定通りだろう


792: 名無しさんAA:18/03/12 18:11
ロシアの欲しい金が 米国経由で日本に出させ 北朝鮮経由で手に入る。まるで明治期
のような仕組みである。



793: 名無しさんAA:18/03/13 11:48

 米国はクアルコムの買収措置禁止命令を出した。当然である。日本は東芝半導体を、
簡単に買収させた。国家戦略室などムダ金に相当するほど日本の未来を考えていない。
そもそも安倍首相は自らの資産増やしの安倍夫人なんぞを嫁とりした時点で首相には、
全く相応しくない。あたら高位の有能な官僚を死なせ、その上真面目な財政長官を忖度
させて左遷させ 今度は麻生大臣が辞めるぐらい深刻だ。それでも明恵夫人は国会証人
には至っていない。全く自民党の不始末と安倍氏のお友達内閣の悪行の極みであろう。
国民はよく覚えておくべきだ。こうした知らぬ間の重大決定がこれが自民党の本質で、
それがこれまでもこれからも 全く日本を悪くしてるそもそもの原因だ。



794: 名無しさんAA:18/03/13 23:28 ID:1BM

政府は何考えているのか 今や精神は幼稚化の一途である。アパートにしろ何にしろ
25歳まで親の権限の下にすべきで 成年の成人式は14〜12位にすればいいのだ
徴兵制があるわけでもなく 貧困にあえいだり富裕層の遊びで 殺人強盗放火ばかり
では 世の中は暗くなる。学校のみが子供を教育してはいない。それどころか悪を広
げている。電話やスマートホンも同じだ。勝手に幼児まで持たせて国が建つ訳がない



795: 名無しさんAA:18/03/15 14:17 ID:1E.

 この至学館大学の谷岡郁子学長は馬鹿であろう。アルソックにしろ至学館大学にしろ
自分の保守しか考えていない。栄コーチが自分の配下でありパワーが無いから嫌がらせ
ができないなど 学長としての資質がない。全くこの学長といいあの相撲協会の女史と
いい全く解ってない。伊調馨に対してのもっとも良い提言をしなく提言者を付けなかっ
た事にある。なぜ何も自分に非がない栄監督が衰弱するのだ。何故そんなにろれつの回
らない程になるのか。問題はそこにある。次のオリンピックを目指す選手であるかどう
か。と言うは大きな奢りである。こうした上から目線で教育はできない。選考人事にな
っていなければ目指す選手じゃない。と言うのは全くおかしな話だ。更にアルソックで
広報に入ったからレスリングすらもしてはいない様なニュアンスは全くおかしい。




796: 名無しさんAA:18/03/17 13:07



 甲賀市の選挙不正が見つかった。だがこうした事は 度合は違えども全国何処の自治
体で、特に自民党が優勢の所は行われている事だ。それは中央政権への市町村や都道府
県の忖度として 議員が絡まって厚生事業組合や農業組合を相手に市長給与を上げた所
はかなり怪しく 隠れて出て居ないだけだ。もし本当に選挙制度が自由選挙とした民主
主義の基幹と言うのであれば 確実にVTRに全て治めて、その結果に対するちゃんと
ランダムな番号付けた投票券を配り それが同じで無い事をチェックする機械と配布し
なかった投票券まで数えた 全く間違いのない統一数字が投票数として公示に出る必要
がある。それが無ければおかしい事は確定である。




797: 名無しさんAA:18/03/20 11:46


 ウーバーが人を殺した。当然である。人の運転は見失いがちな危険性から機械のチェ
ックをいれた。それをどこか馬鹿がこれからは自動運転だ。と映画の様に叫んで研究し
た。しかし人間の見失う事象を発見したからと言って機械が完全に認識するなどと言う
事はない。むしろ人間よりも機械のほうが見失いがちな危険性は多い。それは、いまの
インターネットやスマホのつながりも同じだ。過去の人々の繋がり方をここ数年で簡単
に切って異質なものにしている。しかしこの繋がりが素晴らしい物とはならない。いや
むしろアマゾンと同じように負担の大きな人々を奴隷にしてやまない功名で複雑なシス
テムを作り出すだけである。大量輸送大量消費を生んだ歴史のたわものではあろうが。
今のイエメンの戦争と同じだ。人は欲望を満たそうとするし、満たせば増長し満たさな
い怒りは人を攻撃する。人は変化し状況は変わる。そして攻撃される者の痛みは人類の
悲しみであり悲劇である。アマゾンによって壊されゆく文化は二度と戻らない。貴重な
伝承工芸もアマゾンなどでは売られないし人からは遠ざけられる。電話が出て映像記憶
能力が下がりコンピューターが出来て数字記憶の能力がなくなった。物が届いて匂いの
認識能力すらなくなった。キレイ好きになって社会性能力もなくなったのだ。つまり、
人はどんどん 馬鹿になったのだ。だからTVも映画も 全く面白さがない。今の芸能
やアニメにはなんら過去にあった教養や含蓄や示唆の文化がない。只のガラクタに変化
した。今の政治の様に。




798: 名無しさんAA:18/03/21 17:18 ID:YHg

 アッキード事件の張本人 安倍昭恵夫人は悪人である。だがこの婦人は天然ボケなの
か、自分が悪意がなければ悪人ではないと思っている。自覚がなくても事件事故は起き
る。また罠にかけるつもりはなくても 罠にはまる事がある。まさしくその悲劇がない
様に法律を作っているのに この総理と夫人は馬鹿な事に 罠を作って歩く。まず代表
になるべきでもTVにも開演にも 矜持すべき言葉はそこにない。総理大臣夫人の地位
があるとすれば この人はなるべきではない人だ だから個人か総理大臣夫人を分ける
道義も智慧も持ち合わせいない。会社代表の社長すら 社長職と個人行動は分けるのが
サラリーマンすら行う社会的常識だ。こんな常識のない人は犯罪者に他ならない。まる
で戦国武将か戦争中の独裁者のごとき むちゃくちゃな非情の人間の行動原理だ。




799: 名無しさんAA:18/03/22 14:56

 なぜNHKは 韓国歴史ドラマをして 韓国人の全くの虚実の妄想の世界を広げる様
な手助けををするのか。それが強制徴収して国民テレビとしての公共放送の在り方とは
到底思えない。一般の民放テレビであっても韓国ドラマの虚実は批判されるべきであろ
う。かつて中国のTVで抗日ドラマの様に全くのデタラメを放送していたが、同じ様な
事を この民主社会で実現している。全く情けない放送局に成り下がったものだ。他に
放送すべきニュースもドラマもいっぱいあろう。何ならアフリカの現地映像の生放送の
ほうがよっぽどいいだろう。先の太陽の塔の放送など まったくいい視点なのに構成や
今流行りのバーチャル映像を出してつまらない物に変えた。もっと話させて過去の映像
を編集したがよっぽど良かったはずだ。全く何を考えて どうデザインしているんだか
話にならない。能力不足もここまでくると悪意である。



800: 名無しさんAA:18/03/23 16:08

本当にこの国の裁判所は大馬鹿である。今や北朝鮮のミサイルの第一目標は玄海原発で
ある。確かに地表地殻の動きから見れば、雲仙の火山造山運動からすれば2%ぐらいに
低いものであろう。しかし北朝鮮の通常弾頭の正確な目標物としては50%の確率で、
目的化されていることは当然である。近くで確かに当たって一番影響がある。とするの
は、そこいらの都市攻撃よりもはるかに小さい能力で はるかに大きな影響力が出るか
らだ。だが九州電力はこのレーダー対応は勿論迎撃対応も もっと言えば安全隔離司令
棟の建設すらしていない。 安全委員会が言う様に彼らは審査するだけで安全を保証す
るものではない。 その点裁判所はその裁判結果をどう保証するのか。伊佐早水門すら
保証できないでいて いい加減な判断は 憲法違反の団体のやる事である。



801: 名無しさんAA:18/03/23 19:01

 裁量労働制の偽造データーの撤回はもちろんだが、こうした偽造データーがどうして
こうも頻繁に国会まで上がってきて 時の政権になびいて 総理総裁の意図する報告に
堂々と発表され得るのか。これが 非常に問題がある。
 


802: 名無しさんAA:18/03/24 12:28

 だいたいMCなんぞにお笑い芸人を使いすぎる。映像が粗暴で全くちゃちばかり入れ
人々を全く小ばかにした放送ばかりで 視聴者を異質のちゃら馬鹿に変えてしまってい
る。だからあんな安倍政権や安倍夫人が出てきて利用されるんだ。もっと思慮深き民の
日本人の世界を創れ。出ないと中国どころか韓国や北朝鮮すら負けてしまう昔に戻れ



803: 名無しさんAA:18/03/24 14:41
TV局はなぜ ふざけた奴ばかり出したがるのだ。全く俗悪の塊だ


804: 名無しさんAA:18/03/24 23:13

 なぜこんなことが起きたのか、強く真相解明に・・・・と安倍氏が吠えた。だがそれ
は安倍氏がお友達内閣を作ったから 山本農水大臣などで 真相隠しをする体質だから
と なぜ自民党議員は言わないのだ。 まるで社長と社員の様な関係で まるで議員と
は言えない会合だ 自民党のやっている事や姿は違法ではないのか。学校問い合わせも
都議会選の締め付けも 体質が悪すぎるのではないのか。




805: 名無しさんAA:18/03/25 00:53

いまの70歳代はみんな 日本を知らない日本を捨てた世代だ。彼らを教育もせず親達
は日本を復興する事に熱中していたから仕方がないが そもそも万博や五輪に見るよう
な伝統的に若者に任せて 我々が後押ししようじゃないか。と言う姿勢を見習わず、
念仏の様に大学闘争して 危険思想にはまっていった世代で日本の一大白雉世代である
。これらが学校に行けば 学校は太陽族と言う不良社会を築き 就職すれば集団列車で
上京し、窓際族と言う全く智慧を借りない押しやり世界やりすぎ世界を作った。経営者
や資本家になれば、バルブを築き、年功序列を捨て 能力主義や大店法規制を外して、
ともかくやる事なす事すべて自分本位でデタラメ社会を作って 世界進出を成し遂げた
。そのあげく孫の世代は同じ様にゆとり教育など言って教育もせず、改革など言って、
殆どの国家事業の衰退をもたらし 中国を巨大にし日本の金融世界をつぶした。つまり
未来を壊し続けて、今に至り さも自分たちがこの豊かな日本を作った顔する。さんざ
んこれまでの資産を壊しておいて 国民を貧乏社会に引きずりこみ国家権力にすり寄っ
て格差社会の上辺にしがみついている。これが今回の官僚問題だろう。



806: 名無しさんAA:18/03/25 21:01 ID:sFs
 佐川氏が 国民の公僕でありながら 自民党の官僚になったと批判が上がっている。
が では最初の文書に書かれた議員達は、一体誰の為の議員なのか。公僕たる枠を超え
一部の人間の 要請に応え 全く適正な視点もなく、体制におもねる活動が政治活動で
あるはずがない。それは歪曲の志士、汚職のすすりと言うものだ。




807: 名無しさんAA:18/03/26 11:32


 今や東京も政府も一体何考えているんだか。かつては オリンピック或いは万博とい
えば決まった瞬間から高揚にあふれ 猫も杓子もまるで未来に悪いことは無いかのよう
な礼賛に次ぐ礼賛だった。それは軍国主義の中の天皇崇拝の儀式の様に神功の守の学徒
出陣のように若い者の能力に期待した政治が行われた。ところが今やどうだ。使い放題
の予算が改められたと思ったら何のことは無い メインの国立競技場があんなに素晴ら
しいデザインからちゃちな通常の未来のかけらも見えないデザインになり聖火台すらも
常備しない始末、さらにプレスセンターと選手寄宿舎建設は、馬鹿な反対で豊洲市場に
引っ越さないばかりか筑地市場も併用するなどと言って ごまかして政治利用され欠陥
市場を使い続けると言うお粗末さだ。青島幸雄の国際都市博中止に都市博以上の違約金
を出したように 国民のそれぞれの夢や期待や理想像は全く雲散霧消して TVを始め
全く意味のない理論のない大衆に支持のない官僚政治に落ちいる。つまり何もない中国
国内の方が数十倍も政治混迷や人権蹂躙でありながら 人々が輝いているのである。こ
の一大イベントを、赤字の主体建造物にしない為の予算が 今や中古を集めたがるゴミ
屋敷住民の様な食事映像や金のかからないスタジオ解説に専門家すらいないお笑い芸人
という始末悪い映像ばかりで どこにも日本を盛り立てよう よく考えよう 明日の為
に と言う充足感が存在しない。唯一そこまで言って委員会が練りつめた結果結論を出
していたが 馬鹿司会に変わってから 先の見えないバラエティにもならない物に変わ
った。こうして衆智の中和主義で 内容も意味もないもので過ぎるのだろうか日本は、
だったら 五輪誘致などしなければいいのである。せっかくの高揚感や気合いや気迫が
競技選手のみで 建設やイベントやその競技を支えるもの観客までないとしたら東京都
は ふざけた行政しかやっていない事になる。小池百合子の甘さはとても許さる物では
ない。さらに今回森友加計問題の書類上に 理財局問い合わせに小池百合子の名が挙が
ったことは 説明がない限り都知事辞任に値する行動であったはずだ。



808: 名無しさんAA:18/03/27 14:12


 なぜ 野党は証人喚問の委員長を糾弾しないか。証人喚問で当初の説明での、捜査中
で要所は答弁できないという佐川氏の返答に それはできませんここは最高の国会機関
での場所で、他の司法に影響があっても独自の機関です。と答えるべきであろう。これ
を行わない限り 市民代表の議員の作る議会ではなく そこは民主主義の基幹部分だ。
これを糾弾しなくては 自民党他時の政権与党のなりさがり機関としか運用されない。
それは憲法上は違法のはずだ。




809: 名無しさんAA:18/03/27 22:08


 やはり 韓国は馬鹿をやってしまった。韓国が北朝鮮と米国の仲を取り持った為に、
北朝鮮は中国に会いに行った。多分中国からのお誘いだろう。これにより中国とロシア
の仲を取り持つはずだ。北朝鮮は大陸弾道弾の夢や核開発の力を捨てる筈はない。多分
中国は嫌々ながらも 核を持つ北朝鮮との交渉には乗らざるを得ないだろう。厄介な事
と思いつつも 米国の鉄鋼輸出などの経済制裁に対して北朝鮮に売りつけも対応策とも
なると思っている。又北朝鮮もロシアのパイプラインでのガスの供給中継基地としての
地位を模索している。核の電力と共にガス化した電力供給に中国も北朝鮮も目覚めた。
と言う事だろう。ロシアもトルコや欧州よりはいいお客と見ている。問題は資金である
。しかしかの共産国のやり方はバーター取引の物々交換でも充分やっていける。金鉱山
をそれぞれに持っているからだ。これで米国や日本は韓国を経済的に引き上げる事は、
ほぼほぼ不可能になる。今までどちらかと言えば共産主義社会国家と自由主義民主国家
の縄張りの緩衝国を北朝鮮が背負ってきたが 今度は韓国が背負わざるを得なくなるか
らだ。中国もロシアもそっぽ向いて 日本や米国の思惑の外になって韓国は行き先は、
ないだろう。中国の様に第3国と言うアフリカやその他の最貧国にそうそう足がかりや
経済力或いは連携力があるわけではないからだ。日本も米国にしがみつく時代に変わっ
たのかもしれない。ともすればEUより親しくしていた身分だったが 米国の今回新政
権すなわちトランプは異例な政権だが アメリカのNO1の本質からは何も変わっては
いない。さてさて今後の旧共産国の躍進と結束に自由主義はどう立ち向かうのか。英国
のスパイ暗殺と石油株高騰の様な奇妙な連動した事が 次々と起こる。今後の情勢分析
をティラーソンにでも聞く方がいいかもしれない。




810: 名無しさんAA:18/03/28 11:50 ID:keA

 自民党は馬鹿しかいないのか。全く昭恵夫人の名が出ていたものが 消された事が、
一体何故だったのかを明らかにしなかった。この明らかにしなかった事が限りなく黒に
近い。と言うのは当然であり、その論理も無しに 全く関りが無かった事が証明された
などと言うのは 国民に欺瞞をしている党の顔そのものではないか。そんな嘘をどうし
て議員ともあろう者が 堂々と言えるのか。 又野党も馬鹿だ。この用地問題には用地
費用更に建設費用今後解体されれば解体費用が 国費で賄うその上に職員一人の命が、
無残にも召されている。この責任がどこにあるのか誰にあるのかどうしたいのかを佐川
氏に聞くべきだったのである。一人の責任を負えばいい問題ではない。更に言えばこの
仕組みがわるければ 副大臣組織をやめて内閣人事権を捨てまともな昔の事務次官制度
に戻る事が 日本の将来には不可欠の制度で 派閥や省内争いや見えや役作りの議員で
は日本は今後もたない。平成天皇は、これらを指摘して退位すべきなのである。今でも
悪しか育たず、自殺者や貧困者を増やしている中で 一体どう日本を存続させようと言
うのだろうか。




811: 名無しさんAA:18/03/28 13:21

 多分韓国の斡旋で米朝会談の煮詰まろうとしているのだろう。だが一方で米朝会談に
は5つの問題が発生している。一つはどこでどうゆう形で行うのかである。それは日本
でも韓国でもいいが朝鮮人民は聞き入れないだろう。トランプが朝鮮に来る筈もない。
と考えれば、第三国で防備の優れた共産国となれば、ロシアと中国しかない。しかし今
中国との貿易戦争が幕開けとなろうとしている。これに焦ったはずだ。ロシアに個人的
にはトランプと近いだろうが今やEUとは険悪な仲なのだ。そこで中国しかないという
事になる。第二に中国の意向もある。よく擦り合わせしない限り、韓国の様に中国体制
が一転して北朝鮮排除に向かう様な処理が無いとも限らない。それではやっと食いつな
いでいる北朝鮮は更に貧しくなるからだ。第三に朝鮮半島の非核化の真意である。今も
中国にとっては北朝鮮の核ミサイルには反対の筈だ。更にこれが完成配備となれば大き
く反対する可能性がある。従って非核化にアジアにおける包括的な核の排除を持ち掛け
る工作や一時的でも日本や米国海軍を含めた非核化までの間の北の核の所有を容認して
もらう必要があった。とも言える。第四には、どうせトランプ政権は一年後には存在し
ていない。と言う分析だ。対して中国もロシアも今後少なくとも5年は存在し北朝鮮を
揺るがし兼ねない存在である事だ。小泉氏が国連常任理事国入りを阻害ししてから日本
の国連での地位は急速に傾き今や国際情勢には疎い国に変わった。国にはそれぞれに、
時の勢いというものがある。日本が沈み米国が苦戦しEUが身震いする中では債権国と
は言えそれは隠されていて 独裁独自路線で世界を股にかけて文化は最低でも躍進して
最新技術を蓄えて来ている。その為これまでは国営企業相手の兵器部品の購入だったが
今回の制裁決議で中国首脳特に習近平との商談の認可を取り付ける必要が生まれたのだ
。そして第五は、韓国や米国と会談を果たしても資金協力まで行くとは到底思えない。
核については現状の凍結でいいだろうが、外交貿易では例え制裁解除が出来ても 融資
や資金協力が欠かせない。それは統一朝鮮が出来ても同じで韓国にその能力があろう筈
もない。とすればロシアは今や同じ制裁で貧しく、日本は敵対政策でとてもできない。
残る中国に金融支援と食料援助・技術提供など求めるのが 北朝鮮にとっては当然の選
択になる。もちろんこれははなっからあった北朝鮮の計画だった。だがそれなりの理由
やきっかけがいる。それを韓国が思った様に動いてくれて 中国訪問のきっかけを作っ
てくれたのだ。このチャンスを北朝鮮は見逃さなかった。と言う事だろう。



812: 名無しさんAA:18/03/29 18:04 ID:AHg
 何考えているんだ文部科学省は 全く相撲協会の批判をしない。などと言う念書は、
パワハラそのものではないか、少しは指導しろ。こんな パワハラがあるもんか。すぐ
にでも相撲教会を解体しろ。弁護士相談や文部省への申請ががまるで違法の様に扱い、
悪人になっているではないか。 まずは日本武道館の10年くらいの使用禁止 更に法
の言う「国民への福祉と利益への享受」の違反で 株式会社より悪いこの悪行を止めて
今の体制を解体せよ。全く理不尽で 国民の持つ 自由と平等と義務教育の享受には、
全く違反している。 若い力士に対しても朝鮮学校並みの違法である。



813: 名無しさんAA:18/03/30 12:36

 相撲協会に「迷惑をかけた」とそれぞれが口々に言うが 当たり前の事をして「影響
」はかけただろうが、迷惑な筈はないであろう。こんな法律違反の契約を何故許すのか
文部科学省が 何もしないなら、国民は怒るべきだ、これは国技であり、国民の神への
奉納の祝いなのだ。こんなに不平等な馬鹿な行為は許してはならない絶対に。正しきを
したものを非難するというのは 極悪非道の行為であり協会解体すべきである。




814: 名無しさんAA:18/03/31 12:50
 日本のオピニオンや評論家は何を勘違いした事を言っているのか。北朝鮮が中国訪問
したのは、日本が北朝鮮の核開発を応援しなかったからだ。つまり日本の対抗核の要請
が出る前に、朝鮮半島の非核化協議を持ち出したに過ぎない。これは非核化を打ち出し
た事ではない。只の日本の締め出しでしかない。更に北朝鮮はもう一つ思わぬ水爆の威
力と放射能で地下核実験が出来なくなっているという現実もある。つまり陸上無いし、
洋上核実験しか今は行うしかない中にある。今までの地下実験の映像が出されたのに、
最後の核実験の映像が出されなかったのは此の為だ。したがって過去の中国訪問と同じ
に見えるが全く今の条件は違っている。そもそも今まで外交しなかった金正恩も、ここ
に至っては真剣にこの国の明日を考えざるを得なくなった。加えて言えば第一金正恩は
今やいないのかもしれない。又どうやら影武者たる何番目かのこの金正恩が李雪主夫人
と妹の与正氏との3立運営に決まった様な趣きである。だいたい喜び組とさんざん遊び
ほうけて無理して食べて肥満になれば中風や脚気にもなるだろう。更に健康体に痩せよ
うとしても、映像を世界が見て分析してる中では世間が許さない、と言う国内事情では
病院すらも医療が整っているのかどうか疑問だ。まあ韓国は力なしとて隣国だロシアと
中国に睨まれたら米国がどんな事を言おうが聴く耳は北朝鮮と共にない。それが今の結
果だ。しかし、米国もジョン・ボルトン元国連大使が国家安全保障問題担当の大統領補
佐官に起用された。これで米朝首脳会談の開催準備に当たり、予測不能な要因が増えた
。ドナルド・トランプ大統領が北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長
との会談に同意した後、ボルトン氏はテレビのインタビューで、北朝鮮の申し出は核兵
器を開発する時間を稼ぐ単なる策略だと一蹴した。韓国の千英宇(チョン・ヨンウ)元
大統領外交安保首席秘書官は「ボルトン氏は北朝鮮に対してそれほど忍耐がなく、協議
中も北朝鮮側に疑わしきは罰せずという好意的な判断を余り示さないだろう」と語った
。千氏は2000年代にボルトン氏と連携したことがある。 ボルトン氏は北朝鮮に対する
先制攻撃の支持者。首脳会談が開かれた場合でも、北朝鮮の核武器を撤去するための、
飛来する「米軍の輸送機の着陸場所をどこにすべきか」という内容になるべきだと指摘
したほど 具体的な核撤去を求めている。つまりアメリカは韓国をリードしてなりふり
構わず北との交渉を行う。日本は離れて見守ってもいいどうせ又泣きついてくるのは決
まっている。問題は米国の対中政策である。軍事制圧と経済協調を絡めた話では米国も
そうそう動けない。従って日本は対抗核の要請なり、衛星からの破壊兵器なりの確立を
すべきであろう。

815: 名無しさんAA:18/04/01 06:10 ID:mb2
 大体もりかけ問題の特別証人喚問に 何故自民党と言う時の与党が質問する必要が
あるのだろう。もし自民党内の小派閥で取り調べが出来なかったというならそれこそ
野党に行けばいいではないか。予算審議も同じに 何故反比例時間にしないのか。こ
の仕組みは平等の権利を阻害している。




816: 名無しさんAA:18/04/04 21:24


NHKはいい加減にしろ 今日のニュースセンターの気候情報は一体何?だ。意味不明
の 人間に梅雨前線をひっつけた格好させて こんな映像しか発想できないならニュー
スなんぞやめちまえ。 全く思想や態度が感覚的に 最初からおかしい。かつての、
ニュースの金字塔となった埃や気合のかけらもない。



817: 名無しさんAA:18/04/05 10:13 ID:LUE
  そもそも「常識」と言う物がない韓国人に教えるほうがおかしいのだが、今回では
「世界30の国・地域の人工知能(AI)やロボット工学の研究者らは4日、AIを用いた軍
事技術の研究センターを設置した大学、韓国科学技術院について「ロボット兵器の
開発競争を加速させる動きで遺憾だ」と批判、開発をしないと確約するまで絶交する
と宣言した。 呼び掛けたのは、AIの研究で知られるオーストラリアのトビー・
ウォルシュ氏。ロボット研究の中村仁彦・東京大教授ら60人近くが賛同した。
 研究者らは声明では、AIを持つロボット兵器について「戦争を悪化させ、テロ
  にも悪用されかねない。開発したら後戻りできなくなる」とした。

 キリスト教が布教されれば 淫乱集団の新宗教を創るし
  技術を提供すれば 開発もせずに他国の成果を盗んでは潰し
   金を与えれば、さらに何回もチャラにして 批判して脅迫強奪に及ぶ
    民主主義を知れば、法律さえないような裁判所を運営し時の大統領を殺し
     警察を創れば 全く秘密警察で性的に 独裁に走って行く。この癖は、
      全く人類の敵以外に何者でもない。駐留米軍が離れると言えば反故にし
       戦うと意志を示せば 制裁どころか 欺瞞の会談で和平をうたう。
        日本人でも今や教育がなく やりすぎが解らぬ馬鹿が多い


818: 名無しさんAA:18/04/05 14:22


 またTV局は嘘をついている。相撲が女人禁制と言うのは伝統ではない。単に二子山
が言った個人的私観である。戦前の明治の頃の各所の奉納相撲は江戸期からも 女性の
立ち合いはあったし、同じ相撲の女子相撲すらもあった。さすがに藩主の行った江戸の
旗本相撲や将軍の天覧相撲などにはなかったろうが 女子の女人禁制をしたのは仏教で
あり神道にはそうしたものはない。そもそも天照大神そのものがいまだ男神であるとか
にはなっていない。古来より女神であり日本武尊が男神で 二つの2柱をもって祀られ
るのが普通である。ほぼ女人禁制と言うのは女神の嫉妬とされ 相撲界が女人禁制を、
今からでも謳うなら、ほぼ力士に限った事で 表彰者や土俵に上がったから伝統を踏み
にじる行為だというのは、言いがかりに過ぎない。又仏教の女人禁制は出家者の妻帯を
認めなかった為にあった事で 当時は武家の未亡人も尼僧として入信してきたからだ。
その意味をよく知るべきだ。本当の問題は、そうした規定をルーズに運営している今の
相撲協会にある。八角理事長のいい加減な采配は処罰は全く国賊と同じだ。同じ部屋内
での暴行事件は多発していながら、貴乃花部屋だけを糾弾して批判する親方衆を纏めず
規定も法律もない言わば無法地帯にしている。これは安倍政権にも言える自民党のいい
加減さは、日本の未来を無くしている。例え一国主義や平和主義であろうとも例え不況
であろうとも 日本人たりと言う姿勢は貫くのが日本人だ。ハチャメチャ嫁の不法行為
を止めきれない総理に 日本を差配する資格などどこにあろう。自由主義や人権という
のは、凶悪犯人の人権や権力者の自由を認める者ではない、広く一般の、強いていえば
弱い者を助ける為の 税の再配当と同じに権力の均衡化の為のものだ。それが資本主義
であり名誉や権勢に依ってくるものと徒党を組むためのものではない。




819: 名無しさんAA:18/04/06 11:46 ID:IEM
 ひるおびに、街路樹の桜の木が腐ってしまった話で 暖かい少4児童との話があった
が、近頃の木々の消失は恐ろしいくらい早い。これらは農水省系つまり今の国土交通省
の無能なせいである。もともと木々は天然世界の虫達と共存していている。中でもカミ
キリ虫系統との競争の中で生きている。これに対抗するのは、蜘蛛や蜂系の虫である。
昔は雑草はともかく稲穂には蜘蛛の巣が張られる事で害虫駆除をした。つまりお茶や、
芝花や蜘蛛が好む木を一緒に植林していない事による害が多い。黒松などの害虫駆除も
同じである。天敵を育てる工夫がなく、更に地下においての水分が不足の場合が多い。
そもそも 樹木医としての知恵も工夫もない様な 植木屋や植林職員ばかりで全くもっ
て国土を保全していない。多くは空洞の幹の中に石灰と木炭とを昆布や柿渋などで練っ
た物で密閉させて保全すれば木々は生き返る。さらに木々の周りは溝で常に水分が保た
れる腐葉土を置いた場所が良い。今の街路樹はその意味では、全くそぐわない造りであ
る。



820: 名無しさんAA:18/04/09 12:09 ID:XMs

 安倍首相は「証拠や証人がいない。」ので犯罪ではない。と言う。又「詳細に調査し
て原因を探り 膿を出し切って行く事が使命である。」と答える。ではこの2人も自殺
者を出したこの事件は、一体大きな隠ぺい事件か。言えばそれは違う。この加計や森友
の問題の後の話であり、その前に自殺者が出た訳では無い。つまり今の政権そのものが
隠蔽工作の真っただ中にある中で、なぜ調査や公正な指導が図られるだろうか。さらに
今世界で最も「ファシズムの人間」とされるのは、プーチンや金正恩ではなく安倍晋三
とされる。何故か。それはプーチンや金氏は犯罪者であり独裁者である共産党員と解っ
ている。彼らは恐怖政治と強権はファシズムでなく、もう一段高い狂心者とされるから
だ。対して安倍氏は病的狂心者でも、環境的独裁者でもない。自由主義の日本の首相で
広く支持を得ているとされての中での 強権をバックにした証拠のない汚職だからだ。
そして、これまで次々と明るみに出た手法がまるでアルカポネならぬ暗躍街の手法であ
る。と世界が見ているからだ。




821: 名無しさんAA:18/04/09 13:07

そもそも 一連の不祥事の結果責任と 明快な分析指導と 今後の対策は全く示されて
いない。特に首相夫人行動が 公人と決めていた大正時代からの認識と文書公示に際し
て存在しない。と答弁した全くの違法答弁を どう規制するかは個別でなく国会の内閣
の問題だ。



822: 名無しさんAA:18/04/09 13:22

 大体さっさと公務員給与を半額にしないから こんなバカな事態になる議員給与30
%自治体給与50%にして人員不足能力不足を補い 更に今の色んな事の仕組みの体系
を国民に示し 難しい部分をちゃんと明確に区分けする必要がある。全く権力や自分の
利益で区分けし憲法を変え選挙区替えなど行うから おかしな国会になっているのだ。
そもそも国会質問に与党は必要ないし、国会証人にその当人の利益当人が質問する矛盾
は国民の怒りのもとだ。



823: 名無しさんAA:18/04/09 14:31

春日野親方は最低の男だ。今だ新弟子の手当てしないまま人生を失った元力士にTVに
でて、全く謝罪会見や その後の本人の人生保証をしていない。言わば新人を就職させ
力士であれ社員であれ その方向に育てる責任が経営者にはある。今やそれを捨てて、
いい加減なブラック企業やブラック協会であることは許されない事だ これに対して、
公権力はなぜに公明公正正大に事を処理しないのか。
 伊調馨の栄コーチの様な最低の人間を「作り出す」この仕組みを止めなければ、今の
国会など 不要である。直ぐにこのコーチ所属の学校への私学助成金は5年間ほど止め
るべきであろう。学校長の辞任を含めてちゃんと粛正すべきである。




824: 名無しさんAA:18/04/09 17:37


 日本のTV局は いい加減に朝鮮語の朝鮮人の放送を止めよ。全く日本人の為になら
ない。はっきりこんな公害に似た贋物ドラマをギャーギャー言う朝鮮語の言葉で放送す
る意味が どこに放送法の言う公共福祉の原則があるか聞きたい。各放送局の倫理委員
は、こうした情緒のない戦うだけの穢い醜いもののをみたり、あるいは愛情ある自然の
美しい物を見てほっとする「景観教育」をどう考えて放送しているのか とくと聞くべ
きである。 決して社会福祉に寄与はしないものはTVCMより悪い。




825: 名無しさんAA:18/04/10 23:25


 二階堂幹事長は 何を馬鹿な事を言っているのだ。 そもそもこうした総理独断を許
した二階堂幹事長に この国会混乱の責任がある。いまだ世界の3流どころか4流にも
至っていないこの国会の 非民主主義的な手法と体制とその金銭的与党保護に問題があ
る。もちろん野党の力の無さもあるだろう。だがそれ以前に では自民党が野党時代に
真面目にちゃんとした研究会をしたか していない。全く悪く悪態の限りだった。与党
になった民主党も最初に鳩山や最後に馬鹿真面目な野田氏などを首相に据えなければ、
こうはならなかった。財政負担ばかり大きくしてコンクリートから人へのスローガンの
みにしていれば そのままで官僚がなんとかした筈なのだ。そのまま10年20年過ぎ
ればそれで良かったのに下手に首相官邸を建て替え 八ッ場ダムを止め 国民年金すら
何も変えきれなかった。沖縄政策を足止めし 原子力を足止めしたが その手法は全く
代替え案の無いままに勝手気ままに動いた。この致命的な間違いは今の希望の党の細野
でも解る。こんな細野や安倍や甘利或いは小泉の様な国賊の馬鹿を出さない仕組みこそ
大事なのだ。国連の常任理事席を蹴り、今になって原子力の危険性を謳う馬鹿は死んで
地獄に落ちた方が利口だ。棚ぼたで国防をおろそかにして台湾を捨てた中曽根と同じに
全く日本の為にならない。



826: 名無しさんAA:18/04/11 09:06
 総務局自治大臣の甘さには反吐がでる。今やフェイスブックのザッカ―バーグ氏すら
暗号化しても利用され続け 対策を講じているというのに盗まれ続けている。日本の、
このマイナンバーはそれらより幼稚なプログラムで統一化すると言う危険性を持ちなが
ら全く進化していない。 既に1/3は中国に乗っ取られ 年金機構のデーターと中国
マフィアは韓国で照会している。中国内のサイバー戦争は今や混戦模様だが、中国政府
以上にカード―ポインターズの攻撃は鋭い。フェスブックのビックデーター管理手法は
そのまま中国のカードの真面目ポイントに流用されている。そしてそのポイントも中国
政府も中国マフィアも簡単に開錠して改造している。これは驚嘆すべき脅威である。今
やロシアの電子戦部隊と共に全く一般では手に負えない。手法は理屈では簡単である。
一回計算違いを起こせばいいのである。コンピューター内では正常計算では一秒間に数
十回の計算させ照合し先に進む。この中で一回でも間違えばその前の部分を自動的に、
チェックする。その間に先行して一つのプログラムを差し込めば次の数分後には更に小
さなプログラムを空きアドレスに潜り込ませ乗っ取ればそれだけで どこでもドアが開
かれ 今までの様なコンピューター異常でチェックする手法ではこのウイルスは見抜け
ない。常にアドレスを使う訳ではないからだ。この手法は消されたデーターの修復に使
われる。一度水に浸かった電話がそれで戻せるのが解っていたのにドコモはそれが出来
なかったと返品してきた。全く馬鹿げたふざけた日本のIT熟練者である。そうした事
も解らず、例えば自治体内に常にバックウォールをしてバックアップと新規データーを
扱える部隊は置いてはいない。つまり得体の知れない中国人や韓国人のいる外部企業な
のである。こうして殆どがよその国の強力な外部データー保管庫にしまわれ今や確認と
新規の抽出用の整理作業に移ったようなのである。全く日本政府は、ロシアや中国に比
べて数十年遅れた兵器用インフラと数百年遅れた指向性プログラムは民生用では、同じ
レベルでもウイルス性や兵器用では途端に通信機器の様に遅れる。それは軍事プログラ
ムが日本では作られなれなかったからだが、それでも官僚や議員のいい加減な考え方に
は 全くもって企業と同じに世界には類をみない音痴である。今や銀行も保険も政府も
企業も海外からはザルと言われるほど流出がはなはだしい。それは逆にそれほど見つか
らず巧妙に、ネックの部分が掴まれている事を示している。政府の国会質疑と同じであ
る。


827: 名無しさんAA:18/04/11 11:43


 野党が追及する度に いたら有能な官僚がその組織から出たり自殺したりする。この
非情さは 私物化した内閣のせいであり 悪評高い下村議員が又名が挙がる。自民党の
この腐れた体質は 野党も又同じ穴のむじなにしている責任がある。もっと風通しの良
い政界とその国会の仕組みを作るべきで 官僚は決して悪くないのに内閣が悪すぎて、
この忖度した汚職だらけの様相の中にいる。この議長を含めた改革を行わない事には、
日本は沈んで行くばかりだ。




828: 名無しさんAA:18/04/15 14:36 ID:1E.
 武田は馬鹿か。良く、伝統と慣習を間違えている。大相撲の女人禁制は東北文化であ
って狼の除けの風習でしかない。本来相撲文化は西日本発祥であり、沖縄のニライカナ
イや式年斎宮巫女つまり祭主というのは、女性のみとされていた。又日田英彦山におけ
る天照大神でも宗像三神でも女性が神であり、男女同等に女人禁制どころか男子の方が
禁制であった。沖の海女人の話では、男は神主ではなかったのだ。陰陽道が道教からき
て日本に伝えられてから、こうした仏教観念がはいった。神話においても天の岩戸を開
くのに、桶の把舞台で相撲も裸踊りもしている。日本書紀によると
(天照大神が機屋で神に奉げる衣を織っていたとき、建速須佐之男命が機屋の屋根に穴
を開けて、皮を剥いだ馬を落とし入れたため、驚いた1人の天の服織女は梭(ひ)が陰
部に刺さって死んでしまった。ここで天照大神は見畏みて、天岩戸に引き篭った。高天
原も葦原中国も闇となり、さまざまな禍(まが)が発生した。そこで、八百万の神々が
天の安河の川原に集まり、対応を相談した。思金神の案により、さまざまな儀式をおこ
なった。常世の長鳴鳥(鶏)を集めて鳴かせた。鍛冶師の天津麻羅を探し、伊斯許理度
売命に、天の安河の川上にある岩と鉱山の鉄とで、八咫鏡(やたのかがみ)を作らせた
。玉祖命に八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠(八尺瓊勾玉・やさかにのまがたま)を
作らせた。天児屋命と太玉命を呼び、雄鹿の肩の骨とははかの木で占い(太占)をさせ
た。賢木(さかき)を根ごと掘り起こし、枝に八尺瓊勾玉と八咫鏡と布帛をかけ、フト
ダマが御幣として奉げ持った。アメノコヤネが祝詞(のりと)を唱え、天手力雄神が岩
戸の脇に隠れて立った。天宇受賣命が岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、神憑りして胸
をさらけ出し、裳の紐を陰部までおし下げて踊った。すると、高天原が鳴り轟くように
八百万の神が一斉に笑った。これを聞いた天照大神は訝しんで天岩戸の扉を少し開け、
「自分が岩戸に篭って闇になっているのに、なぜ、天宇受賣命は楽しそうに舞い、八百
万の神は笑っているのか」と問うた。アメノウズメが「貴方様より貴い神が表れたので
、喜んでいるのです」というと、天児屋命と太玉命が天照大神に鏡を差し出した。鏡に
写る自分の姿をその貴い神だと思った天照大神が、その姿をもっとよくみようと岩戸を
さらに開けると、隠れていたアメノタヂカラオがその手を取って岩戸の外へ引きずり出
した。すぐにフトダマが注連縄を岩戸の入口に張り、「もうこれより中に入らないで下
さい」といった。こうして天照大神が岩戸の外に出てくると、高天原も葦原中国も明る
くなった。 日本書紀  )とある。つまり今の地鎮祭や新年のお参りやと同等の物と
してTVのない古代日本では相撲は伝統行事のお祭りとして行われてきたのである。
 もしこの女人禁制の悪しき慣習をおいていいと言う事であれば、南洋首狩り族の慣習
に等しく、日本が国際社会とは一線を引くと言う決心になる。

829: 名無しさんAA:18/04/15 15:26

 「天高く、皇帝遠し、匈奴秋に至る。馬肥え弓勁(つよ)し。即ち塞に入る」と。
つまり天は高く、みかどはとおい。秋になって肥えた馬を狙い匈奴がやってくる。守り
を固めよ。と言う事だが、最近は中国人が日本にやって来ては スーパーや得値品を、
奇妙にも 転売屋まで使って買い占めていくらしい。しかし 本来メルカリでもヤフー
でも 古物転売の許可を提示していない電子取引で 現行法でも大きな違法なのである
。個人でも暴力団でも 商売には商売の許可がいる。これが日本の法体系であり、よく
目にする現行法では取り締まりする法がない。などと言うのは法を知らない法曹界弁護
士や裁判官の勝手な言い訳と言いがかりである。ほとんどが許認可規制の中にあり、仮
に今回の違法な文面のある内閣でも、相手に出来ない巨大な権力であるだけで、逮捕し
重罪に処する事が出来るのは、お隣の韓国の法律がほとんど同じ日本の法律でも量刑を
課している事からも解り得る。問題はだれがどのようにどう言う趣旨で運営するかだけ
である。幸いにも日本は頂点に権力のない象徴天皇の重しがある事で人が辛抱強くも、
絶えしのいだ生活をやっているからいいが それでもこんなバカな行為を許して中国人
をのさばらせている為に、意味不明殺人や暴行や不快な軽犯罪はかなり増加している。
検挙率を上げる為にか 近頃は小さな案件は全く警察は取り上げない。更にはつきまと
いや少年犯罪に至っては 今の刑務所更生少年の脱獄事件の様に 巨悪どころか微小な
犯罪少年すら取り締まれていない。 世も末の政り事のなれのはてであろう。霞が関の
役人の意識も低く 議員の知能レベルも与党ではあの議長を超える事もないぐらい幼稚
のままだ。全く日本は世界指導どころか 経済戦争や格差是正もこれでは出来ないであ
ろう全く闇夜の勢力にすり替わって行くてらいに なんの抵抗もないのだろうか。無辜
の者の悲鳴が聞こえる様だ。これで人口増加する訳もない。



830: 名無しさんAA:18/04/16 10:50
 不思議な国、日本の履歴は今作られ続けている。中国に香港島が返される頃、日本で
はウナギ登りに自殺者と貧困者が増えて行った。当然である。大店法規制の規制を勝手
に解いて、銀行法をやりすぎ自民党が審議していた頃だ。これで軒並み日本社会は奈落
の底に落とし込まれ、その上議員や官僚は勝手に給与を対生産物価比2倍にしたのだ。
全国の市町村は農協などと結託し市町村長や都道府県知事などの給与を急に上げはじめ
職員救済年金と他の年金問題と同じなるのを渋った。なぜならこうした議員共済年金に
5割もの政府補助で運用していたからだ。なぜなら、われわれの税金は公務員の給与の
為にある。と大ぴらに公言した議員もいるほどだった。そうした無能議員を食べさせる
為に税金を払えというのである。そして彼らは言った。給与が安ければ色んな賄賂が出
て政治が出来なくなる。と。しかしそうした議論もノーベル科学者が作ったLITMの
倒産ですぐさま日本を襲ってかき消された。NHKの論陣を張っていた山一證券が破産
して言ったのだ。「社員は悪くありませんから。」と。全く違う全国の山一社員は勝手
に預かり金運用を勝手し放題で、高額給与の足しにしていながらそう言い放ったのだ。
それは他の企業も同じだった。あたら頭のいい高学歴の社員を雇いながらも、やらせた
事は詐欺師スリ師同然の、売り上げ確保と利益増大に尻を叩く方法とそのやり方だった
。それは政治界にも法曹界にも経済界にも蔓延していた。救済システムに効率と運用率
が持ち込まれ、馬鹿な事に国鉄やNTTが郵政局が解体され、放送業界に視聴率が至上
命題のごとく扱われた。人が知るべきものや見るべきものより、刺激的な喜ぶもの欲し
がるものが大事だと言うのだ。これによって作られた子供は異次元人であったし、その
考えを極端に推し進めた大人達も又日本文化を壊しまくった。それが中曽根宮沢世代で
そうして真似たの橋本小泉政権達だった。人生はスリル・スピード・サスペンスという
訳だ。おかげで軽犯罪から重犯罪・宗教犯罪はうなぎ上りに上った。人の救済心理が、
オーム真理教まで産んだのだ。新興宗教も暴力団犯罪も警察白書の数字には表れない。
影に隠れ地下潜入と行末不明者の中に入ったし、小泉氏などテキヤ稼業者が就職列車の
時代に住所変更を強制しタコ部屋生活をした名残りを法令化したからだ。不思議にも、
こうして税金管理はされても、救済管理は全く歯抜けの様に壊されていった。幼児向け
の殺人TVゲーム業界と同じだ。粗悪な邪気思考を刷り込んでいながら会社規制をしな
くなったのである。

831: 名無しさんAA:18/04/16 13:53

 たるみにたるみ切った自民党は こんな安倍政権を支えて 日本がたって行けると言
うのは全くお門違いだ。議員は国を守り方を考えるもので 官僚はその守りの要とする
ものだ。ところが国や国民や正義がそこには全くない。今度の福田事務次官のセクハラ
と安倍政権のパワハラ行政は全く同じ構図ではないか。これだけ音声データーまでもが
揃っていて、大勢の某女性記者達の証言があるのに 公然と否定しうやむやで乗り切る
。そこには司法も正義も介在しない ただの権利者である特権階級の欲望のみである。
こんなことが日本社会で横行していのである。欧米社会なら公聴会と判断する市民陪審
員制度で、重罪すら免れない偽証として判断されよう。それくらい疑惑と欺瞞と狡猾に
満ちた政治である。早急に政府指導の入らない 予算のみ第三者機関の法的整備をする
必要がある。このままでは朽ちかけた政治しか行われない中に国債償還の健全財政すら
消えてしまう。日本では米国のような 宣誓宣言はスポーツ大会しか見られないが、そ
れはかつて国会が 神社の祝詞をあげる事の祭りと同じくらいの神聖なものであったか
らだ。それを逸脱している。



832: 名無しさんAA:18/04/16 13:55

 たるみにたるみ切った自民党は こんな安倍政権を支えて 日本がたって行けると言
うのは全くお門違いだ。議員は国を守り方を考えるもので 官僚はその守りの要とする
ものだ。ところが国や国民や正義がそこには全くない。今度の福田事務次官のセクハラ
と安倍政権のパワハラ行政は全く同じ構図ではないか。これだけ音声データーまでもが
揃っていて、大勢の某女性記者達の証言があるのに 公然と否定しうやむやで乗り切る
。そこには司法も正義も介在しない ただの権利者である特権階級の欲望のみである。
こんなことが日本社会で横行していのである。欧米社会なら公聴会と判断する市民陪審
員制度で、重罪すら免れない偽証として判断されよう。それくらい疑惑と欺瞞と狡猾に
満ちた政治である。早急に政府指導の入らない 予算のみ第三者機関の法的整備をする
必要がある。このままでは朽ちかけた政治しか行われない中に国債償還の健全財政すら
消えてしまう。日本では米国のような 宣誓宣言はスポーツ大会しか見られないが、そ
れはかつて国会が 神社の祝詞をあげる事の祭りと同じくらいの神聖なものであったか
らだ。それを逸脱している。まったく国会も 国会に従事してる肩書も職責に馬鹿にし
ている 軽々しい人間ばかりだ。




833: 名無しさんAA:18/04/16 15:27 ID:Svw

 近頃官僚は怠けて 自治体は詐欺ばかりする。民間でも電話販売が長期契約など違約
金を課したり、水販売でも停止期間金をしたりする。もっとひどいのは柳川市の水道局
だ。加入時には加入課金としてメーター設置料金などで高く取っていながら、勝手に、
撤去し不法侵入の上樹木をからして行っても何もなかった顔をする。指定業者などを軒
並み増やして 市外業者すらさせる割りに指定者以外には門を全く開かない。おかしな
事を行っている。優遇政策までは解るが規制政策なら独占禁止法違反自治体となる。も
っとおかしいのは九電の偽文の土地借用である。高圧線下を整理したのだろうが、全く
偽りの境界線と登記をおこなっても知らんふりしている。こうした会社が何故原子力を
伴う公益法人として存在できるのか。管理や調査すらいい加減な社風で原発事故が止ま
るはずはない。今でも管理棟のないままに運転実施し 点検ミスの事故ばかり起こして
いるというのに。である。




834: 名無しさんAA:18/04/16 16:53
全く 福田といい佐川といい 生きる資格もない者の安倍政権だ


836: 名無しさんAA:18/04/17 18:10 ID:mog

 まったく馬鹿げた話ばかりだ。法律に触れなけければ、何でも良いと思っている。こ
れは大きな間違いだ。律文法も法であるが、慣習法も法である。公けと役所とは違う。
まず公益法人は公けであり、国の公務員は役所で役人なのだ。公けは公人を有し役人を
有している訳ではない。この違いは法に準じたより厳しい規則を背中に追っているか、
どうかである。その意味でも、昭恵夫人は課せられた義務を果たしていないし、今度の
財務省の対応は非常識で、殺人事件でも血痕だけでは死体がないので事件ではない。と
警察が判断するようなものだ。こんなバカな事はない。周りに事実があり証拠があれば
それは吟味し調査するのが当然だ。オームサリン事件が起きたのもこの事情を全く無視
したので弁護士一家殺人事件が起こったのであって、その後の地下鉄事件を食い止める
事が出来なかった。今度も麻生氏は3つの違反をしている。一つは何故「本人を諫めた
。」とする記者会見を開いたのか。更に当初から事実を肯定したいた本人が何故今にな
ってこうした告訴まで考えていると言う話なったのか。そして三つ目はこの口裏合わせ
の張本人である弁護士事務所の会見が何故出てきて記者会見をしてこの文書の内容など
を公けにださないのか。である。これは麻生氏が会見するものでなく この委託された
言わば代理人の非常識な時間稼ぎの口裏合わせあろう。それが醜悪な自由な民生の法律
違反である事は間違いない。




837: 名無しさんAA:18/04/19 16:58 ID:iPk
 ニュースは古今の日本の状況を伝える。本来ならトルコなどの共産化や独裁化を憂う
べき記事が出てしかるべきだがそれ以上に日本国内が病んでいる。「テレビ朝日は19
日未明に開いた会見で、女性社員が福田淳一氏からセクハラを受けていると上司に伝え
、この事実を報道すべきだと相談したが、本人が特定され二次被害が心配されることな
どを理由に「報道は難しい」と伝えたことを明らかにした。」と伝えている。「このた
め、社員は(責任の重い立場にある人物による不適切な行為が表に出なければ、今後も
セクハラ被害が黙認され続けるのではないか)との思いから、週刊新潮に連絡。録音の
一部も提供したという。19日は、朝からテレビ朝日の情報番組もトップクラスの扱い
で、40分近くを割いてこの間の経緯などを議論した。「羽鳥慎一モーニングショー」
では、時事通信の田崎史郎・特別解説委員が「このテレビ朝日の女性記者を、率直に申
し上げて尊敬します」と述べ、「彼女が(週刊誌に持ち込むという)行動をとらなけれ
ば、うやむやになっていた」と指摘した。テレ朝の対応については「まずかった。少な
くとも抗議ぐらいは財務省に対して早くしておかなければいけなかった」と批判した。
 テレビ朝日社員でもあるコメンテーターの玉川徹氏は、この女性社員が取材情報を第
三者である週刊誌に提供したことについて「僕は公益通報だったと思う。彼女のやった
ことは正しかったと思う」との見解を示した。「テレビ朝日は反省しないといけない」
とも語ったのだが、これは日本の仕組みの問題だ。つまりTVの倫理委員会BPOは、
批判や指導や規制はしても全く救済措置をしていないこの姿にある。まず彼女が会社に
訴えた事は当然であり、それに対して上司が「報道は難しい」と判断した事は正しいと
言える。更に彼女が週刊誌に情報を流しその上で「今後もセクハラ被害が黙認され続け
るのではないか」との思いから、週刊新潮に連絡。録音の一部も提供した。そうした事
も批判される事ではない。新潮にしてもTV朝日にしても個々に巨大組織である政府な
りヤクザなり他の国の大使館員なりISなどと闘うなどは不可能と言える。当然真実の
中の詳細な特定情報は外して戦う事は強いられる。ではこの正しい判断が何故肯定され
にくいか。それは消費者相談センターと同じく、完全な第三者機関としての独自調査や
救済措置が全くないからだ。従って公的機関と離れた予算運用やこの天下り弁護士事務
所などと違った形が財団として出来る事が当然だが 欧米の様には出来ていない。これ
が問題なのだ。本来自分の言動で職責が出来ないと言う言葉自体が違法を起こしたとい
う事実であり公務員法違反なのだ。更にこの財務省の呼びかけそのものが個人的人権の
破壊行為であり違法である。調査依頼なら刑事の如く足を汗を使い調査をすべきだろう

838: 名無しさんAA:18/04/19 17:14

 野党もつけあがってはいけない。なる程麻生氏の力量不足だろう。証人喚問も必要で
あろう。しかし 問題は仕組みの問題であるし 官僚の問題であるし 今の行政のやり
方の問題だ。つまりは地方自治体も含めて これらの官僚を問いただすのが議員の姿で
あったのが、いつの間にか官僚は省庁声明も規制され事務次官会議も 素人の議員上が
りの副大臣以下の立場に追い込まれ、やってられず又勝手な大臣たちの国会答弁に奔走
し、本来の国力や冨の蓄積には程遠い仕事に変わった事だ。これらを又軌道修正して、
今までの高度成長期の様な正常な 国債発行の無い予算編成に戻す事こそが大事である
。つまり与党を攻めるのもいいが、その国会の仕組みや官僚の仕組みを訂正すべきだ。



839: 名無しさんAA:18/04/20 11:26
 日本の岐路 33

 アキバ事務次官がどんな事をロシアと協議をしているか知らないが、日本は北方4島
と言わず北方領土のシベリア区言わばウラジオストックまで領土であると言うべきだ。
戦争時に終戦のどさくさにわざわざ満州国に攻め入ったのだから、それくらいの事をい
い新たな大和国を作って、ソ連と日本の緩衝国として当然ソ連の艦隊や軍事施設を日米
安保の様に大和ロシアの安全保障を取り決めればいいのである。そもそも領土としての
価値はない。海洋資源と鉱物資源にしかそこに居住する理由はない。ロシアにしても、
寒い中で収益の無い部分に負担のはずだ。そのシベリアを譲ってもらって代わりに経済
援助や技術支援をしてインフラ整備をし輸出入を別の国として行えばいいのである。元
々我々はシベリア出兵では多大な負担があった。にも関わらず欧米はその負担はしなか
ったし、その時大勢のロシア人を救い騒乱を食い止めていたにも関わらず、日本人居留
者は皆殺しにされた揚げ句第二次世界大戦では、拉致され収容所として強制労働で50
万人はその地で死んで行ったのである。そうした戦後の補償は何一つ日本に行われはい
ない上に人の停戦処理どころか日ソ不可侵条約すら勝手に破棄されたのである。全く鬼
や狼の様な鬼畜の有様である事は誰もが知っているところだ。逆に日本人の仏の姿のま
ま甘い交渉であれば、先祖や英霊には申し訳が立たないだろうし、学びのない国民とし
て国際社会からは冷ややかに見られるのがオチだ。であればこの新領土新国家として、
日本の法律と日本語だけを明確に要望して行けば、他に軍事防衛や外交貿易などはその
時の政府として行ってもらえばいいではないか。ただ法律と言語だけはロシアの国法も
あろうが日本のものが適用されなければならない。実質的には議会制民主主義を取るな
らばそのままロシア人の方が多いし、日本人も少子化の中で増えるとは思わない。日本
人の憂いは、日本人の先祖の御霊の慰霊である。ここに戦争の悲惨さがあった以上は、
天皇の行幸といつの日かこの場立って 慰霊の言葉慰労の言葉をかけてもらい、御霊を
祀り、多くの残留日本人が隠れて住んでいたであろうこの地に 繁栄の礎をかけたいと
思っている筈なのが、日本人としての本心であろう。更に言えば日本の公共投資は、既
に満杯であろう。もっと開発効力のあるロシアの原野は自然保護と共に東南アジアと共
にもっとも日本のうちちこみ努力すべき場所なのかもしれない。

840: 名無しさんAA:18/04/21 12:42
 日本の岐路 32              <ITの支路‐‐‐‐1 >

 近頃IT業界が凄まじい。さながらレボリューションパワーとでも言うべき革命熱気
が漂っている。既にAIが人間を凌駕したためか馬鹿げた事に「自動運転」「クラウド
システム」などと人以上の様に振舞わせている。しかし地磁気の変化や格差社会の不幸
には太刀打ち出来ないだろう。およそ今の子供たちには不幸な事に過去に戻った世界に
入り込んだみたいだ。かつて人はP・NP問題など言う愚問があった。簡単に言えば、
(P≠NP)≠(P=NP)又は(P≠NP)=(P=NP)を解けばいいのであって禅問である。世
の中に同一などという事はない。数学上の1であっても貴方の書く1の意味と私の書く
1は違うのである。より単純化しているからそこに同じ様に見え同じ様な認識の上で、
計算が行われるが、円周率も現実に即して言えば完全円などはなく、半径が解る事すら
現実世界では不可能である。では電子の世界ではどうか。電子の世界も同じである。計
算される世界でも実は不安定動作がほんの少し出ても数十回の同量計算で端数なり誤算
なりを捨てているに過ぎない。つまり揺らぎや誤動作は常にあるのである。これを踏ま
えて行っているのが電子化プログラムである。ところが人間は馬鹿な事に進化したこの
電脳の最速さに信頼を置こうとしている。その事は実は大きな誤りである。その証明と
なる事件は今や多発している。つまりこのプログラムに過去の記憶はあっても未来の為
の予想はその延長線上にしかない事実が露呈して来て、今までの生物の起こした自浄の
奇跡は計算できないのである。車の自動運転を止めたウーバーは正常な判断だろう。今
でも飛行機事故すらも無くならないのは自然条件がそれだけ過酷である証明なのだが、
それを理解しない人類に明日はない。ウーバーの自動運転事故は単に感知器が感知しな
かった為の事故ではない。走ると言う決定から逃れられない機械の宿命の事故である。
不慮の故障は必ずある。しかし生物は子孫繁栄のプログラムでクラゲでも芽でも分化し
てでも生き残ってきたのだ。このプログラムは同じ生き残りでも、機械の記憶学習の中
には埋もれていない。予知不能の中を漂って生まれたものだからだ。此処に個体と精神
の統合理論が組み込まれているのである。人がどんなに知り得て数値化しても自然界の
推測であり実体でも実態でもない。ここにIT業界の嘘がある。仮想通貨は仮想の通貨
であり真の信用通貨にはなり得ない。金やダイヤモンドの様に美術の鑑賞価値に過ぎな
い。生物の持つ価値と観念は持たないのである。


841: 名無しさんAA:18/04/21 12:43
 日本の岐路 32              <ITの支路‐‐‐‐2 >

 人々に通貨が行き渡らない時代は、人々は記録と記憶に準じて生活をしていた。その
頃は物々交換を行っていた。通貨も又通貨と言う価値の物々交換なのである。今でこそ
人々は通貨に信頼を置いているが、日本では米にその資本を置いた通商だった。従って
江戸時代でさえ藩札や銀貨でも米よりは価値のない物だった。藩札は発行時に値崩れに
おいては半値すらなったのである。その時価値を支えていたのは魚などの海産物であっ
た。その点ロシアの様な不幸は生まれ無かった。ロシアはそうした麦などの食料と金銀
と交換して仕入れていたが支えていたのは放牧民のトナカイだったとされる。肉に毛皮
や角や樋爪までが金に変わり糞尿までも肥しや暖を取る燃料であったのだ。したがって
戦さが絶えず戦いがある度に飢餓の地域や村が生まれていた。穀物や家畜などに価値を
置く事は同じ食料として当然である。それは生命の糧だったからだ。しかし欧米が進出
するまでそうした交換は貧しい地域に限った事で今でもジャングルでは相互扶助で平等
分担で部族内での通貨はない。それらは当然一緒に育ててくれたジャングルをそのまま
でいる事で食料が豊富にあったからだ。しかし今サンゴ礁を始め海洋資源も森林資源も
鉱物資源すら再生の域を超えた疲弊の途にある。つまり未来のない姿である。これに対
して今IT活用が叫ばれているのである。日本は真面目にその活用を考えているが他の
国にはそうした事は皆無に近い。何故か近視眼的研究に終始して保護監視摘発には至っ
ていない。そもそもITの出来る事特にAIに出来る事は限られている。その人間より
限定的な物の活用が便利になる程に人は能力を減衰していく。今や計算と比較から大き
く通信や選別や認識までも行うに至った。記憶領域も遥かに高い。しかし、それが故に
人はついていけない。車に乗ってポケモンGOで人を殺したり、自転車に乗ってメール
して事故ったりが今のIT狂騒曲の現状である。そうした中で幾つか象徴的なサイバー
テロともいうべきハッカー攻撃が浮き彫りになっている。一つはロシア系のハッカーの
のサイバー攻撃である。マネーテイカーととされるこのハッカー集団はグループIBの
調査によって過去2年間で20ケ所の金融機関や弁護士事務所に、サイバー攻撃を成功
させていたという。その内訳は、アメリカの企業が16社、ロシアの銀行が3行、そし
てイギリスのIT企業が1社と言う。その名の通りサイバー空間による銀行強盗である
。バンキングトロイとして知られる、コード認知と足跡消去を使ったプログラムを駆使
し、POSシステムスキャニングで、POSシステムをターゲットにして、隠れて空間
アドレスにマルウェアを忍び込ませて、メインバンクの書き込み司令の暗証コードを拾
い送り届ける。するといつでも書き込み可能で、これでシステム分類しているようだ。

842: 名無しさんAA:18/04/21 12:43
 日本の岐路 32              <ITの支路‐‐‐‐3 >

 その後は本式に攻撃対象によって異なるツールを使い分けて自分の口座に送金させる
ようだ。例えば、ロシアの銀行に対してサイバー攻撃を行なった際には、MoneyTaker
v5.0という組織内の特製ツールを使用した。MoneyTaker v5.0は非常によく出来ており
、主に2つのモジュールがターゲットに対して悪質な挙動をする。一つ目は、「取引改
ざんモジュール」である。ターゲットとなるネットワーク内での、支払いのオーダーを
検索し、支払金額の編集、支払い先の変更、変更履歴の抹消をする事で書き換えられる
。二つ目は、「取引隠ぺい」モジュールで、1つ目の「取引改ざん」された支払いオー
ダーで発行される「引き落とし通知」を、改ざん前のオーダーで発生すべきものに差し
替えてしまう。つまり足跡を隠してしまう。この2つのモジュールが機能することで、
幾日経っても勘定系システムの台帳上では、あたかも問題なく金銭取引が行われている
ように見えてしまう。こうしてまんまと足跡を隠して、大銀行の金庫の金が無くなって
いるのである。IBの調査によれば、今後マネーティカー、は、南アメリカの勘定系シ
ステム(STARR)をターゲットにサイバー攻撃を仕掛ける可能性があるという。被害に あ
った企業のバックエンドネットワークや、ATMには、マルウェアが仕込まれたログは
存在しなかったものの、ATMのHDDにはマルウェアが活動した痕跡を示すログがあ
ったのだ。その事から、HDDにマルウェアが直接書き込まれており、遠隔から管理者
権限のあるユーザーのコマンドを使って、攻撃を実行したと思われている。というニュ
ースである。もう一つは、このマルウェアなるクラウドシステムの素がどうやら一気に
開花しているようだ。先に引き起こしたサイバー攻撃によって発生した損害額は、各サ
イバー攻撃につき平均50万$で、単純計算で、およそ$1千万$=11億3千万円であ
る。マネーティカーという名前の通り、莫大な損害金額を金融機関に及ぼした事がわか
るだろう。こうした巧妙で洗練されたサイバー攻撃を行う事が近年増えている。チェコ
共和国の議員選挙では結果を掲載するウェブサイトが、DDoS攻撃の被害に遭っていた事
が明らかになった。DDos攻撃の被害に遭ったのは、チェコ政府の直轄の統計機関のウェ
ブサイトだ。同ウェブサイトは、ポピュリスト系の政党である「不満を抱く国民達の行
動」党から出馬したアジト氏が当選した事実を掲載していた。氏は、選挙の得票率は30
%を記録し、他の候補者を圧倒した得票率を叩き出した。DDos攻撃による選挙の結果に
影響はなかったとしていて、DDoS攻撃の目的が明確ではない。しかしそうした障害は、
イギリスのEU離脱の国民投票やトランプの大統領選でも色々取り沙汰されて、当選に
何者かが攻撃を仕掛けた行為があったとみられている。

843: 名無しさんAA:18/04/21 12:44
 日本の岐路 32              <ITの支路‐‐‐‐4 >
 今やSNSを使った選挙活動が一般的になってきた。正しい情報を取得する為に政府
機関のウェブサイトにアクセスする人が増えてきている。このような攻撃の被害に遭っ
たり、全く同じフェイスサイトを創ったりすると、政治家に対する国民からの信頼が揺
らいでしまい、選挙の影響に左右する事態になっているおそれがある。国政にかかわる
選挙だと尚更、様々な人の利権に影響するので注意が必要です。あらゆる機関も、セキ
ュリティ対策を強化しておくべき所にきている。フィシング用のフェイスサーバーとし
てサイトに有益なのだ。近頃発展的成果を遂げたものがファイルレス・マルウェアであ
る。ファイルレス・マルウェアとは、文字通りファイルを持たないマルウェアのことを
意味する。このウイルスが送られれば、従来型ファイルスキャンを回避するし検知され
ずにターゲット端末に侵入することが出来る。現在広く使われているエンドポイントセ
キュリティは、従来型のマルウェアファイルの特徴との比較とマッチングさせて脅威を
検知している。が、ファイルレス・マルウェアはそもそもスキャンするファイルがどこ
にも存在しない。その為ファイルレス・マルウェア攻撃は簡単にある一定時間に莫大な
損失させて消えてしまう。ファイルレス・マルウェアの侵入は、囮のワードファイル等
を用意してターゲットの端末に無害なファイルをダウンロードさせて始まる。ユーザー
がそのドキュメントを開い途端、その動作をスイッチとしてPowerShellコードを実行さ
せる。この手法は、過去のありふれた詐欺手法だ。こうしてRAMやレジストリ、カー
ネル等に直接、悪意のあるコードを書き込んでしまう。このファイルレス・マルウェア
は盛んにロシアが進化させている。PowerShell上で実行するコードに関しては、再起動
される事でコードが終了してしまう可能性が高いが、RAMやレジストリ等に書き込ま
れたコードは、再起動される毎に新たにコードに書かれたコマンドが実行されるので、
全くどうしようもない。実際には、銀行などでファイルレス・マルウェアの被害に今年
の始め頃に、40ヵ国以上の規模で、百を超える銀行や金融機関がファイルレス・マル
ウェアの被害に遭っている。当初ファイルレス・マルウェアを使った攻撃は一般的では
なく不備であった為、被害にあった企業は対応に追われた。実際に被害にあった企業を
担当するあるセキュリティ専門家は、マルウェアソフト ”Meterpreter”のコピーがマ
イクロソフト・ドメイン・コントローラーの物理メモリに発見しして知れ渡った。驚い
た事に最後には、rundll32.exeがペイロードを実行しCOMコンポーネントのハイジャ
ックが実行されexplorer.exeによって実行される。つまりマイクロソフトの脆弱性の上
に実行され更にそれは新しいタイプ程行われやすい結果を生んでいる上にロボット型の
機器全般に入り込むのものである事が解っていて 簡単に誤動作と司令動作を行う。

844: 名無しさんAA:18/04/21 12:44
 日本の岐路 32              <ITの支路‐‐‐‐4 >

 そもそも日本は能天気にTVでも「ユビキタス社会」やら「戸外からの遠隔操作」な
どクーラーや光調整まで行う器具を取りそろえしようとしてるが全く論外である。何故
ならそれらによって既に事故死した人間の調査すら行われていない。AT車の自動運転
で死んだ老人の車のマルウェアシステムには、傍受された無線司令は事欠かない。しか
し一般的にそれによって起こった事故の証明にはつながらない。それはその痕跡が残ら
ないからだ。あるおんぼろ町工場の一定の場所で常に車がエンスト起こす場所が発見さ
れた事がある。今は閉鎖されたがラジオは聞けずすごい物だったがトヨタ系はホンダ系
の新車はそこでは常にリセットされ坂が登れなかったと言われている。ニュースは伝え
る。「Group IBの共同創始者のDmitry Volkov氏は、Money Takerのサイバー攻撃に関し
てこう語る。Money Taker によるサイバー攻撃は世界各地で発生している。アメリカ国
内の銀行からは、2回も機密文書が漏洩した。今後は更にMoney Taker による攻撃が発
生する事が予想される。最初のMoney Takerのアメリカ企業に対する攻撃は 2016年に発
生した。Money TakerはFirst DataのSTARR(勘定系システム)の管理者用ポータルサイト
にアクセス。それ以降、Money Taker はカリフォルニア州、ユタ州、オクラホマ州、コ
ロラド州、イリノイ州、ミズーリ州、サウスカロライナ州、ノースカロライナ州、ヴァ
ージニア州、フロリダ州の企業に対してサイバー攻撃を行なった。Money Taker が多く
のケースで使用しているとされるツールには、以下のものが挙げられる。「Citadel」と
「Kronos」「ScanPOS」 Citadel とKronos は、バンキングトロイとして知られており
、ScanPOS は、その名の通り POSシステムをターゲットにしたマルウェアである。」と
 又 中国のインターネット社会では、奇妙な事が起こっている。中国中央政府は仮想
コインを規制し使用不可とした。しかし一方で銀嶺や中国で最も普及率の高い「支付宝
(アリペイ)カード」を地方政府は推進している。又韓国ではその中止騒動に多くの若
者が自殺したり、暴動を起こしたりしている。ま最も韓国人は潮流に乗って風見鶏であ
るのが特質ではあるのだが。日本でも馬鹿な事に、コインチェック流出問題、マウント
ゴックス事件などが起こっている。MTGOXのマルク・カルプレス社長の記者会見で
は「ビットコインがなくなってしまい、本当に申し訳ない」と謝罪した。消失したのは
顧客分75万ビットコインと自社保有分10万ビットコイン。金額にして「114億円程度」
としているが、他の取引所の直近の取引価格(1ビットコイン=550ドル前後)で計算
すると、470億円前後になる。日本ではこうしたIT記録を捜査できるデータ能力者は
一人も育っていない。

845: 名無しさんAA:18/04/21 12:46
 日本の岐路 32              <ITの支路‐‐‐‐5 >

 そもそも日本は能天気にTVでも「ユビキタス社会」やら「戸外からの遠隔操作」な
どクーラーや光調整まで行う器具を取りそろえしようとしてるが全く論外である。何故
ならそれらによって既に事故死した人間の調査すら行われていない。AT車の自動運転
で死んだ老人の車のマルウェアシステムには、傍受された無線司令は事欠かない。しか
し一般的にそれによって起こった事故の証明にはつながらない。それはその痕跡が残ら
ないからだ。あるおんぼろ町工場の一定の場所で常に車がエンスト起こす場所が発見さ
れた事がある。今は閉鎖されたがラジオは聞けずすごい物だったがトヨタ系はホンダ系
の新車はそこでは常にリセットされ坂が登れなかったと言われている。ニュースは伝え
る。「Group IBの共同創始者のDmitry Volkov氏は、Money Takerのサイバー攻撃に関し
てこう語る。Money Taker によるサイバー攻撃は世界各地で発生している。アメリカ国
内の銀行からは、2回も機密文書が漏洩した。今後は更にMoney Taker による攻撃が発
生する事が予想される。最初のMoney Takerのアメリカ企業に対する攻撃は 2016年に発
生した。Money TakerはFirst DataのSTARR(勘定系システム)の管理者用ポータルサイト
にアクセス。それ以降、Money Taker はカリフォルニア州、ユタ州、オクラホマ州、コ
ロラド州、イリノイ州、ミズーリ州、サウスカロライナ州、ノースカロライナ州、ヴァ
ージニア州、フロリダ州の企業に対してサイバー攻撃を行なった。Money Taker が多く
のケースで使用しているとされるツールには、以下のものが挙げられる。「Citadel」と
「Kronos」「ScanPOS」 Citadel とKronos は、バンキングトロイとして知られており
、ScanPOS は、その名の通り POSシステムをターゲットにしたマルウェアである。」と
 又 中国のインターネット社会では、奇妙な事が起こっている。中国中央政府は仮想
コインを規制し使用不可とした。しかし一方で銀嶺や中国で最も普及率の高い「支付宝
(アリペイ)カード」を地方政府は推進している。又韓国ではその中止騒動に多くの若
者が自殺したり、暴動を起こしたりしている。ま最も韓国人は潮流に乗って風見鶏であ
るのが特質ではあるのだが。日本でも馬鹿な事に、コインチェック流出問題、マウント
ゴックス事件などが起こっている。MTGOXのマルク・カルプレス社長の記者会見で
は「ビットコインがなくなってしまい、本当に申し訳ない」と謝罪した。消失したのは
顧客分75万ビットコインと自社保有分10万ビットコイン。金額にして「114億円程度」
としているが、他の取引所の直近の取引価格(1ビットコイン=550ドル前後)で計算
すると、470億円前後になる。日本ではこうしたIT記録を捜査できるデータ能力者は
一人も育っていない。

846: 名無しさんAA:18/04/23 17:02 ID:oxM
 全く安倍政権の往生際の悪さは 後味も悪いものだ。自民党議員もあの長尾議員の様
な、まるで幼稚園の園児並みの常識では 日本はどうなるのか。安倍首相の次に立つ者
がいない。などとささやかれるが全く野党ともども もっとちゃんとした議員をたてて
いくべきだろう。細野や細田氏を加えても、こんな議員達をどの有権者が応援するのだ



847: 名無しさんAA:18/04/24 23:19 ID:uH.
 日本の岐路 34              <食卓の寂しさ‐‐‐‐1>

 恐らく現代ほど貧しい食卓は無いだろう。かつて戦後すら家庭では貧しい暮らしの中
工夫して田舎の食材を持ち寄って家族で食べていた。政府はその必要量の足りなさに、
外米すら輸入して配給した。その後に産まれた者はそうした中でもひたすら働く労働者
として戦後の復興や高度成長を支えて今に至っている。今世界中で貧困世帯が増えて来
ている。又その後の経済成長時代でも大まかな国際的冷戦時代すら、中国や北朝鮮ある
時にはソ連にすら、人道支援として米や小麦を供給し人類愛を体現していた。ところが
今や北朝鮮が核放棄ミサイル開発を放棄した様な姿であっても、日本を始め各国は疑心
暗鬼の中で今だすんなりとした北を取り込む態度に出てはいない。今だ停戦の中で戦争
が終わってない南北朝鮮と考えれば当然と言えば当然なのだが。しかし、今や日本だけ
を取れば、核兵器やICBMの怖さと日本の原子力発電の怖さと比較すれば、現状の国
内の原子力規制委員会の許可の方がよっぽど怖い存在だ。北朝鮮の金正恩が司令すれば
簡単に発射できるだろう通常兵器でも、日本の原発は戦う事も守る事も全くやってない
からだ。逆に言えば日本は米国の核交渉に6ヶ国協議などの席に着いたが一体何かした
のか。日本政府は何もやっていない。それどころか小泉馬鹿政権はそうした通常発電所
の危機に目をやる事すらしなかった。今やイランの核合意がニュースになるが、しかし
例え核合意があろうが無かろうが、それは国の意志や信用でしかない。イラクのフセイ
ン或いは今のシリアの空爆は、ロシアとの代理戦争的趣きもさることながら、対米姿勢
の問題であり化学兵器と同じく 使用する国の国民を捨てた指導者の姿に そこに原因
がある。よその国から見ればシリアでも何故アサドはこんな馬鹿な事をしているのだろ
う。或いは北朝鮮の金正恩は、なんて国民の生活を顧みないのだろうか。と思うし又そ
う見える。しかし、それは認識についての認識の間違いだ。というのも日本でも米国で
もそれらの事は起こっている。多かれ少なかれ指導者やリーダー或いは首脳とされる者
らの間違いが正される事はなく、又勝手な思い違いに政策は行われている。よくシリア
でもアフリカでも難民達が「かわいそうだ」と言わんばかりに食糧や生活物資をNGO
などが供給する姿が映し出される。しかしこんな間違いはない。戦争被害は戦争当事者
の問題である。決して武器があるから食料供給が無いからの問題ではない。英国でのE
U離脱の国民投票があったが、その未来の姿もその工程も全く示されなかったし今では
離脱派の嘘の広告や偽の資料まで見つかっている。にも関らず、人は離脱を支持し今も
戻さないと言う 全くのいい加減さである。こうした西洋社会のいい加減さこそが歴史
の真実であり北朝鮮の姿なのだと 人類は批判すべきあり知るべきなのである。

848: 名無しさんAA:18/04/24 23:20
 日本の岐路 34              <食卓の寂しさ‐‐‐‐2>

 ではODAは難民保護を捨てたが良いか。実は難民問題の多くは今や欧州での国境を
ガードする姿勢にある。EU社会が目指したものは紛争のない社会であり、国境のない
EU社会であった。何故なら国境は時の政府戦勝国が勝手に引いたもので民族分断での
境界線だと解っていたし、資源や領土や権益での奪い合いとなる戦争を避ける為に起き
た。問題はロシアとの協調であった。実はロシアには食料となる平野は凍土が覆う地区
が多く昔はツングースの森林が長く横たわりカザフの平野とは隔てていた。しかしこの
温暖化に置いて、今やシベリアから欧州までのツングースの森林は倒されて木材は輸出
され、乾燥化した残った森林も大火災でなくなってしまっている。ここ20年ほどの、
失われた森林面積はEUの二倍とされ十年にヨーロッパの面積一年で日本の国土面積が
開発もしくは消失した事になる。これは何を意味するのか。つまり過去の遺産としての
地球資源を現代社会が食い漁っている事になる。よく太平洋問題が取りざさされる。こ
の大きな海が漁獲量にして10年で5分の1に落ち込んだのだ。50年前とすれば1桁
違いになる。よく漁船が減ったからと思われるが、実は漁船は中国韓国東南アジアを入
れれば格段に増えているし大型化して機械化している。魚群レーダーまで活躍している
現状を考えればおそらく百倍くらいの能力であろう。それでも漁獲量は30%に落ち込
んでいる。それは当然中国民や朝鮮人の乱獲や規制の無い幼魚まで取りつくす行為から
ではあるが、近年の温暖化で海洋環境の変化でサンゴ礁すらも無くなっている。つまり
海の中は不明だが現実に戦中戦後の半数まで漁量は減っている事は確かな事様だ。これ
までも海の資源は深海にはない。とされ大陸棚と呼ばれる比較的浅瀬の海で豊漁になる
事から、陸の養分や木々の生い茂る山々が海を作るとされていた。近年の研究で 特に
東日本大震災前後の研究でその実証がなされ大きな知見結果を産んでいる。しかしそれ
は同時に中国韓国はおろか東南アジアのごみ問題の深刻さを物語る結果を産んだ。まず
野焼きの二酸化炭素公害より酷い結果が 今のプラスチックごみに存在したことが明ら
かになっている事だ。つまり燃やした煤や排気ガス以上に海に流れ込むプラスチックは
人類に大きな問題を引き起こしているのである。やっと近頃欧州科学者がマイクロプラ
スチックとして破砕された2o以下のごみの問題に着手しているが この見えない物が
確実に大きく 魚介類を通して人類にかなりの疾病原因を運んでいる事が解ったのだ。


849: 名無しさんAA:18/04/24 23:20
 日本の岐路 34              <食卓の寂しさ‐‐‐‐3>

 食の問題を経済と切り離して考えることはできない。アンパンマンではないが、人の
行動原理と精神構造において食の豊かさは切り離すことはできない。そもそもソ連共産
党が革命を起こしその革命を輸出して第二次世界大戦の幕が切って落とされたその理由
は簡単にも食糧不足だった。東欧州の穀倉地帯にロシア―トルコの戦いは過去の遺産も
未来の子孫の負債も食いつぶして戦った事にある。それがフランス貴族の欲を唆ったの
だ。スランスも又食料危機だったがからくもアメリカから小麦を仕入れる事が出来た。
人はおかしなもので同じように同じ地位にあってもその中の一人二人は教育が無い様な
不遜な輩を産む。勿論多くのフランス人は戦い貴族社会を壊そうと試み自由を勝ち得て
来た。しかし残念ながら英国ユダヤは、米国ユダヤは過去でも今でも勝ち誇った様に、
差別主義を進め格差社会を創る。この事はアジア人にとっては、取り分け戦争体験者の
日本人には狂気を産む元兆としか見えないのである。何故ならそもそも北朝鮮が出来た
理由は、明らかに北の金日成も李承晩も、自らが朝鮮の征服者としての権力を捨てなか
っただけで、本来の正当な朝鮮政府が無力であった事を良いことに韓国・北朝鮮では共
に権力争いが続きそれにソ連米国が後ろに付いただけである。そして今も全く変わって
いない。自由主義に居ながら韓国の法曹の最高権力である最高裁判所の検事局は、米国
を後ろにいて権力を持ちながらも、過去歴代大統領の法執行を命令し行わせている。こ
の真実は全く朝鮮民族の明らかな不義不公正不良の温床である。こうした政権を作った
米国も又政権母体は去れば知らん顔である。イラク問題は全く無駄で無理の道徳も秩序
も常識もない開戦だった筈だが、未だにブッシュJrの勝手なフセイン打倒の裁判の声
すら上がっていない。ブッシュJrの裁判をかければ 911の本当の姿が見えてくる
。そうなれば今のトランプの内情など細かい事だと解って来るだろうし、それらが解明
しない限り米国に明日は無いし人類の明日もない。マイクロプラスチック問題は、ある
意味中国問題でもある。野放図に良いとなれば拡散させる。今の劣悪スマホがアフリカ
に蔓延しアラブの春を創ったのも中国人のネットワークである。汚水だろうが公害だろ
うが汚染など考えない。そもそも宇宙実験室の宇宙ステーションが地球に落ちる事など
あろう筈がない。速度が遅くなればなるほど地球から離れて行くのが原則だからだ。中
国華僑軍団がどこまで馬鹿なのかしらないが、インドネシアやフィリピンの熱帯雨林の
地も日本人の製材用の木を植林しても尚その木を切る。サンゴすら残して置いたものを
取る。揚げ句に日本海の養育筏すら根こそぎ盗るのが中国や韓国の独島エビのルーツだ
。全くどうしようもない隣人の盗賊団である。

850: 名無しさんAA:18/04/24 23:21
 全く安倍政権の往生際の悪さは 後味も悪いが考えものだ。自民党議員もあの今の長
尾議員の様な、まるで幼稚園の園児並みの常識では 日本はどうなるのか。政治外交は
常に時間との戦いである。安倍首相の次に立つ者がいない。などとささやかれるが全く
野党ともども もっとちゃんとした議員をたてていくべきだろう。細野や細田氏を加え
て、こんな議員達をどの有権者が応援するのだからあきれる。全くどうしようもない議
員の群れだ。米国のトランプはとっかえひっかえ首脳部を変えても、およそ殆どに議員
がなにがしかの企業経営者なり財団なりでグローバルな知見を持ち合わせている。それ
に比べてなんと貧弱な議員達であろうか。視察や研究と言う議員旅行と言えば観光旅行
で国際世界が動いて止まらない事を知っていない様だ。恐らく議員の殆どは自らが議員
である事を理解していない。議員は議論をしなくて何が議員なのだ。国会は国民へのア
ピールの場でもなく議会であるのだ。更に政党は与野党共に党のPRでパーティばかり
の金集めとはどういう事だ。政党というのは主義主張を一にした徒党でありその主張の
公開集会のみ認めている。ところがどうだ。秘密集会や隠れ資金のごとき様態ではない
か。憲法や議員法にも公務員法にも違反している。まず物価2%高騰を推し進めるとい
うとてつもない間違いをやっていながら堂々と金利マイナスの政策を行っている。この
間違えた政治をそのままにして債券発行など全く政治を行っていない証拠でしかない。
まず物価が上がる事は税収は増えるが、それ以上に国民生活の下辺が苦しい事を意味し
ている。それは実働年代の苦しみと言う結果をだす。当然企業はなんらかの形で出費で
あり経費である給与を抑えて節税に勤しみ片や販売を高価にする形を取る。それが意味
するのは労働者の奴隷化である。二つ目の金利がマイナスと言う事は預入する金がない
事だ。銀行や保険や交通インフラなど貯めるべき資産の価値は上がらず余禄が増えず、
又結局は政府の人件費や経費など事業予算が食われ実施される物の実利がない状態だ。
それは子供や老人世帯の預金に及ぶ。これで株投資が増える訳がない。余裕のない生活
が増えるだけだからだ。第三のマイナス金利は人々の悪徳を意味する。海外市場に比べ
単価が安い海外技術に頼り今後インフレは見込めず海外資本に政府が食われたと言う事
の結果だ。大体TV局もどうかしている。今や旅と食をルポしているが そもそも食に
文句をつけたり美食や放浪を卑しきもので忌むべき戦争の元としたこだわりは何処に行
ったのか。バカ騒ぎやスポーツ中継などブルジョアの遊びばかりで もっと歴史・文化
その中の詳しき説明や理論は何処に行ったのか。あのバカ竹中平蔵の様な全くプライマ
リーバランスなど言う馬鹿を言う経済は何処の国にもない政策を出さない事だ。そも株
式発行が借金の為の発行券であり、この借金の為に西洋経済が動いていると言う経済の
基本も解らぬものを全くTV業界は批判しなかった。今の黒田の馬鹿さも批判していな

851: 名無しさんAA:18/04/26 13:09 ID:2lQ

 国対委員長ともあろうものが 何と衆院の解散も選択肢の一つと言った。バカそのも
のの不用意発言であろう。国対委員長とは何ぞや。内閣の解散権や野党不信任案を出さ
ない出させないで、正常な国会運営を図るために置かれた役職であろうに まずその任
に値しない委員長発言である。全く議員退職するべきである。自民党としてはありでも
日本の与党として許されない行為である。大体巨額の選挙費を使いすぎなのだ。年がら
年中解散総選挙の乱暴な政局ばかりを行い 本来の国民奉仕の政治は行わないで無理な
法律を通して、使いッ切予算を手当てするのみで、全く智慧や底上げを考えず今までの
日本人が積み上げた遺産の切り売りと文化のぶち壊しばかりだ。見よ小池都知事なんぞ
は無能力も甚だしいではないか。林文科大臣をして 全くその任にない五輪の盛り上が
りの無さ、スポーツや科学或いは学会の門閥で学校の汚職や違法行為の多さは他時代の
比ではない。類を見ない程幼稚園から大学院までスキャンダルに満ちていて、高額就学
私学助成金の勝手運用といたるところで、教育でなく商売になっているではないか。こ
の中で全く働かない林なんぞ 何で大臣やっているのだ。と言う話である。相撲協会、
レスリング協会、オリンピック準備委員会、東京築地問題、森友・加計問題、すべてこ
の文科省の問題ではないか。こんな人間の屑の様な人間を大臣にしてどうするつもりか
内閣は腐れている。自民党政権では、明日の日本はない。無駄のやりすぎでしかない。

 

852: 名無しさんAA:18/04/27 11:46
 全く、国民を馬鹿にした動きが日本に蔓延している。今回食品業界が協力して新会社
を創ると言う。全く馬鹿げている。独禁法違反も甚だしい。どういう形の連携なのかわ
からないが、組合形式ならまだしも、新会社による供託でなく共同資本でと言う事なら
大きな問題である。銀行業界も同じだ。スーパーやコンビニと同じに離合集散どころか
集合廃棄を続けて、国鉄解体や電電公社民営化みたいな馬鹿をやっている。そもそも、
中曽根以下馬鹿首相の勉強不足ばかりで、独占的営業が必要かどうかで、国の事業とし
たものをなし崩し的に解体して、国民損害を税収で補うと言う事で進歩を遅らせている
。詐欺的携帯電話会社は今でも大勢の若者を不良化非行人間にし、ゲームアプリやフェ
イスブックなどは、社会問題になる程に、怪物にかわり吸血鬼の様に人の生活を殺して
いる。竹中の馬鹿な銀行整理によって、国中が現金の行き渡りが不都合になり、利潤の
みの銭の亡者が若者の職と食を奪う行為が続く。そもそも銀行が街づくりの原点であり
、エコノミストと言う馬鹿な経営指南ばかりで、かっての地場浮上の賢人者や有識者を
集めず、影響力のあるオピニオンリーダーに頼ったやり方だけで、全く文化事業に視点
がない。大体資本の無い自民党に何億もの資金を貸し出し、個人の知恵に貸し出さない
様な銀行なんぞは赤字になって当然である。貸付する限り博打の賭けへの投資である事
いは違いはない。そのリスクを取らずに、只の集金会計係の行為に甘んじて、赤字支店
は閉鎖し統廃合する。というのは放送業界の全くコンテンツを作り出さず、韓国ドラマ
やスポーツ実況中継に頼ってしまって、全く本当のTVの魅力を捨てた放送界のような
ものだ。揚げ句にNHKなどは8Kや4K放送などと騒いでいる。本来ならフィリピン
など日本は放送アンテナを整備したのだから、そうしたものを支援して日本にそのコン
テンツを持ち込んでも維持管理していれば 中国放送などに盗られる事はなかったのだ
。そうした未来の為の投資を間違った中途半端な行為に染まっている。4K8Kは日本
の文部省や科学技術長官の役割だ。原子力すらうまくできない大臣を内閣が任命するか
ら可笑しくなる。安倍の他に政治能力者はいないのか。野党もたいがいにしろ。言うべ
き言葉が違う。もともと四面楚歌は楚を滅ぼした後の項羽と劉邦の戦い(楚漢戦争)で
を項羽軍に楚の兵隊が多く宮都を焼き払った恨みが蔓延していた事に驚いた話で、正に
希望の党はそうした中にある党で 国民民主党もいいが立憲民主党と手を取るのが先で
あろう。必勝必罰で裏切った党員をそうそう認めてはいけない。

853: 名無しさんAA:18/04/28 13:40 ID:keA
 かつてP・H・ドラッカーが言ったように、社会のあらゆる「組織」は、どうしても
「全体主義」という独善の罠に陥りやすい。それを避けるには組織の「外」とつながり
、そこで得られた「結果」を真摯に受け止めて、検証を繰り返していく「フィードバッ
ク」しかないと説いた。そういう意味では、日本型組織も、ようやく「内部告発」とい
うフィードバックがやっと働き始めたと言える。今回テレ朝は女性記者のセクハラ問題
でTV局としての資質の問題が問われている。これまでもテレビ朝日の関連会社である
「Abema TV」が“安倍礼賛番組”を放送したり、有料番組でありながら国政表明をやっ
たりして公共電波の違法放送を繰り返しいることは有名だ。そもそも放送業界にはこの
無理な公共を厭わない放送原理が蔓延している。民間放送とは言え、インターネットの
馬鹿放送とは一線を画した常識的CMや良識内容或いは洗練された企画やタレントやM
Cの配員が求められるのは当然である。それは広く一般に無料提供する映像の権威と責
任でもある。だがこのてれ朝は15年に、『報道ステーション』のレギュラーコメンテ
ーターで安倍政権に批判的だった古賀茂明氏に、不可解な圧力と経緯で番組を降板させ
た事件を起こしている。この態度に世間がテレ朝の醜態を見て取っている。つまりは、
公明正大であるべきTV番組はちょっとした不愉快な発言を許さなかったのだ。忖度と
してかもしれないが独裁というしかない。そうした放送会社に国民の9割は情けない、
非情な徳のない放送会社と見ているのである。こうした醜態の延長線上に今の政治醜態
が乗っかかっているのである。日本人はこれらを変える変えれる筈だ。と切に望んで、
その国民付託を受けて 野党の審議拒否が起こっている。と信じたいのである。




854: 名無しさんAA:18/04/29 05:17

 金融庁はちょっとおかしいのではないか。かつて戦後に手数料を値上げした時があっ
たが、会合では およそ金利の5%つまり引き出しの0.02%の割合にとどまるよう
御達しがでていた筈である。今や日銀はマイナス金利である。つまり銀行がいまだ市場
に金を流通させていない。つまりリスクにおののき投資や地場開発をしていないのだ。
日銀がマイナス金利である以上 手数料は無しすべき政策であるべき何ら規制しないの
は金融庁職員が全く仕事をしていない。と言う事を示している。日銀ともども全く無駄
職員ばかりだ。本来なら米国と共に金利を付けて景気拡大を図るべき時期なのだ。



855: 名無しさんAA:18/05/03 11:00
世界閲覧 11

 韓国では 1990年代に入り、いわゆる民主化によって韓国では「北の脅威論」が大き
く後退しました。そして、北へ宥和的な「太陽政策」を掲げた金大中(キムデジュン)
大統領(1998年〜2003年)の後を継いだ、左翼色の強い盧武鉉大統領の下では、これま
での保守政権下で起こった政治的出来事の評価をひっくり返す動きが起こった。大韓航
空機(KAL)爆破事件や金賢姫逮捕も再検証の対象にされました。「親北」の左派政
権にとっては、北の邪悪な犯行は都合の悪い存在だった。そこで「真実・和解のための
過去史整理委員会」という政府機関がわざわざ設置された。そこでは真相糾明と称して
、KAL機事件の真相に「韓国政府謀略説」や「金賢姫ニセ者説」などを公表し、さも
意味ありげに取り上げた。それに韓国メディアも飛びつきこれに便乗し準国営のKBS
をはじめ テレビ3局は「KAL機事件の“謎”と“真相”」などと題する特集番組を
競って放映し、まるで北朝鮮の意向を受けたような“金賢姫つぶし”キャンペーンをし
て日本のTV局すらそれに乗った話題作りした。その間金賢姫に国情院(国家情報院)
の調査員は「再調査に応じなさい」と何度も自宅を訪ねてきた。「あなたの自宅に届く
ミルクには毒薬が入っているかもしれない」と脅迫されたり、当時、ソウルにあった自
宅の住所が流出してテレビ局のクルーが毎日のように押し寄せてきた。こうして、左派
による保守派への攻撃材料として使われていた。韓国社会に誠実と言う言葉はない。常
に世情主義に捉われ、どんな重大な公約や国家義務も自分達の御都合主義でしか行わな
いと言う、全く簡単な未発達の蛮人意識社会である。こうした危機感で金賢姫はまとも
な暮らしは出来なくなり、ソウルを逃れ、夫の実家がある地方都市への引っ越しをした
「避難生活」を強いられた。この劇場型の場末の生活態度は日本でも小泉純一郎とか、
鳩山由紀夫とかに現れるが、それでも大方の日本の国民はそのいぶかしさを知っている
。だが韓国社会は、その後、李明博(イミョンバク)大統領、朴槿恵大統領と保守政権
が変わっていくが、前政権の全否定と言う刑事裁判がまかり通る。司法世界すらも過去
を捨てて行く状況は変わらず、伝統などと言う事はない。従って歴史的事実も、簡単に
塗り替えるし人の命や意志には重みなどない。金賢姫は、2008年に受けた迫害の実態を
嘆願書にして政府に送り、この身に起きた出来事を手記にしたためて、公表に及んだ。
国家情報院の院長にも面会して「ニセ者説」が意図的に流布されたことも認めさせたが
、それでも結局、迫害の責任については有耶無耶(うやむや)にされている。つまり、
徒党を組んだ暴動も、政権に忖度した裁判判断も 財閥のパワーゲームも違法としては
いないのである。

856: 名無しさんAA:18/05/03 22:54
世界閲覧 12

 なんとのんびりした憲法論議であろうか。と各議員の論議は思う。日本は明治以来否
江戸時代から、日本は西洋列強の威圧は常にあったし、中国韓国ロシア共に今も昔も、
全く変わらない国際情勢である。であるならば、これまで9条で守られての、国際情勢
に右往左往せず、平和行政に繁栄を謳歌したこの時代の意義は高い。もちろん日米安保
によっても守られてきたであろう。しかし、それは核の傘つまり報復核の脅威である。
であるならば、日本も核保有は行うべきで、憲法はいじる必要は全くない話である。戦
争とは何か。と言えば生活している領土への侵攻である。これは犬が番犬として吠える
様に威圧する事は大事な事だ。それと自衛隊を軍隊とする事とは全く違う。自衛隊員に
法律的地位がない。と言う事がしばしば問題になるが、それは当然だが仕方がない。そ
れは日本以外でも例えば米国でさえも軍隊の隊員が守られているとは言えない。今や、
例えば、シリア内戦ではクルド人を指揮しているのはフランス軍であるし、イラク軍の
指揮下で戦列を統制しているのは米国の下請け会社である。それらは既に軍人の域を出
て国策に応じて指令によって行われながらも、軍人の地位にはない。又イラク戦争では
軍隊内の過酷ないじめや、あるいは捕虜虐待やら相当な陰湿な事が明るみにでていて、
人間性を失い、軍隊みずからがアメーバ―のごとく作戦行動の建前の元に軍人の保護は
なされていない。それは過去のベトナム戦争も同じで韓国軍さえも制圧できず米軍内の
争いが起こっている。国際社会とはそういったもので、今でもロシアと米国或いは中国
とは一体となった平和活動に軍を投入したとは至っていない。これは仕方がないのであ
る。日本に問題なのは四流以下の政権の下で何が出来るかと言う事である。金大中事件
でも 金正男が拘留された時も 中国漁船が尖閣沖で戦った時も 或いは、今の領空侵
犯行為や海洋資源の略奪行為や不法な日本の国土の買収行為も 全く日本が馬鹿にされ
るほど政治が情けない姿であるからに他ならない。つまり威嚇実行行為はしなくても、
襲われないぐらいの力は永世中立国としたスイスでも行っている行為である。もともと
国内法と国際法が合致する必要はない。行為が国際法以上の事にならなければいいので
あって、ロシアの様に独裁にならない事や米国の様に格差社会が現れない事、あるいは
中国の様に政府の産業独占が無い事が大事であって、人々の公衆道徳のある政治形態が
培われ、よく言われる法治国家となっているかが大事である。それらを未だ満たしてい
ない。ドイツではなんと各国が敵対し紛争地の近くのトルコにまで最新戦車を売ってい
て批判の的になっているのである。


857: 名無しさんAA:18/05/07 15:21 ID:2Hw
津久井山百合園が 解体されて建て替えすると言う。ちょっと違うのではないか。この
行政の馬鹿さは何なんだ。津久井山百合園が殺傷事件によっていろいろと非難があった
のは当然だろう。だが こんなムダ金を何故議会は出費を認め、裁判所は違反として、
検察に取り締まりをさせないのか。建物が悪くて事件が起こったわけではない。職員の
採用に問題があった事件だろう。又その事件の本質や分析公表は行っていない中で証拠
隠滅とは、今の国会疑惑と全く同じではないか。もし入居者や職員がそこを忌み嫌う事
で解体すると言うのなら、場所を変えて建設すべきで、何も殺人事件があったからと、
次々に何億円もの建て替えするとは 行政でも福祉でもない。全く馬鹿げてている。そ
んなに死人が嫌いで事件が嫌いと言うのであれば、他の場所で作ればいいのであって、
日本の空爆において日本列島各地にその慰霊場所がある、日本において事件のなかった
場所などないのだ。全くげせない工事である。我々の税金はそんなムダ金に高い利率で
払っている訳では無い。見てみなさい ほとんどの市町村で若者の低賃金で過酷な労務
を戦時中より厳しく取り立てられて、年金や健康保険どころか 朝食にもありつけない
子供が爆発的に増加しているというのに なんなんだこの大量の無駄工事は、福祉も、
農政もスポーツも 全く業務不正が目白押しではないか。地方議員のこの非常識な監査
能力の無さに起因がある。まず監査すべき議員が偽の領収書などで富山の政務活動費約
362万円をだまし取った事件は、検察側は懲役1年6月を求刑して結審しているが、
軽すぎるだろう。その軽い求刑に弁護士は更に軽い処置を求めている。冒頭陳述で検察
側は矢後被告について、自らが役員を務めている会社の事務員に架空の領収書発行を依
頼したと主張。「政活費を使うのは当然の権利で、返還するのはもったいないなどと考
え、不正受給に及んだ。」と指摘した。全く会社の名さえ出さないニュース中で 社会
的制裁などどこに受けているというのだ。会社はつぶれたか。会社は告訴されてるか。
甘すぎるだろう 日本の議員や公人や公務員の処罰は。一般認識とかけ離れ過ぎている
。高給をのうのうと貰い、仕事もせず能力評価もなく、更に汚職と同じ公務違反しても
尚 ニュースにならない。とんでもない話である。更に議員退職では年金は破格で、今
の下層市民の子供たちが、かわいそう過ぎるだろう。親は時間に追われ子は食べられず
我慢しても 大学すらいけないぐらいゆとりがない。何時からこんな非情な日本になっ
たか。安倍の初政権からだ。つまり小泉時代に壊しまくったのだ。


858: 名無しさんAA:18/05/08 18:55 ID:1OU
 福岡地裁は 裁判所の資格を成していない。裁判所は公平で公明正大にして法に基づ
いた裁判を行うのが 裁判所である。伊佐早干拓の 開門協議は 一体どこにその根拠
がある判定なのか。通常自然災害に於いては その自然破壊の執行任者はその詳細な、
変化や予想や生態系の調査資料を開示するのは、当然の義務だ。更にその被害者の救済
に当たって、全面保証を命令するは裁判所の責務である。その責任を全く放棄して地域
全体を暗くし、国民を犯罪者にしてしまっているのは、裁判所としてその信認を犯すも
のでもはや裁判所ではない。只の犯罪者のいる刑務所より質の悪い公舎である。水門と
言うからには調整池の調整をするのが水門の役割のはずだ。だが今まで一度も開けられ
る事も無く、又その為の調査室や保安室もメンテ室もなく堂々と利用している。こんな
犯罪はない。環境衛生法では、例えば水質汚濁法でも水質も水流も水量も そのどれ一
つとっても変化があれば、違法行為であり影響を受ける人の合意を取り付け話合いを行
う、調査をする、計画を公示して その変更を行う事としている。つまりこの公権力へ
の規制こそを憲法の国民の権利や平等の原則の規定の根幹にしているのだ。ところがど
うだ。全く福岡県は全国一のいい加減さである。従って審査もいい加減、計画もいい加
減、工事に至っては全く全体計画すらなく、工事業者にのみ工事管理を指導するのみ。
こんないい加減な開発は、自然が許すはずはない。だからこそ人口増加に水飢饉が起こ
った。これは簡単に鳥飼の巨大沼を埋め立てて住宅地にしたからにすぎない。その為に
作られたのは久留米の筑後川大堰である。当然の如く川上の地下水位は3mも変わって
浮羽の岩盤は水を流さない。又川でながされた流木も止まってしまう。こうした山の変
化は今回の朝倉大雨でもわかる。全く気象すら変わったのだ。当然である空気中の乾湿
量が1割ちがうのだから。その後も福岡の土堤柳はなくなり 御弊竹で覆った田畑も又
コンクリ―ト護岸のクリークに変えた。ここで起こった事は小動物がいなくない湧き水
の地もふさがれ、護岸塑化と言う台座変化である。次々に大河川の護岸は低くなり、有
明海を望む堤防すらも地盤沈下を起こした。こうした事を何ら調査していない。全くの
暗闇行政であり それを強制指導や遠隔操作を行い悪行の限りを尽くしているのが、こ
の大馬鹿で無知非道の 福岡地裁なのである。まったくここまで酷い裁判所は過去にも
ない。



859: 名無しさんAA:18/05/08 19:07

なぜ 鎌田九電社長や高村自民党議員のような 国賊にも似た人間が叙勲されるのか。
まったく 宮中も もっとまともな人間を選べ。彼らより優れた人ばかりで腐れた様な
自民党員になんぞ選ぶな。



860: 名無しさんAA:18/05/09 16:03
  日本の岐路 30             <馬鹿の中心街‐‐‐‐1>

 かつて 国際ビエンナーレ展で拍手喝采を受けた日本人がいた。宇佐美圭司氏である
。もう死んだがB・カルハンは彼の絵を非常に高い価値を見出していた。宇佐美氏の絵
は、人間を記号として描いた初めての人だ。ある意味文学肌の東大において希望の星的
存在だ。何故なら、官僚機構に入らず絵画での活動家や知的人物が非常に少ないからだ
。政権と関係ない所で知名度が高くあった。というのも、彼は苦労人で、異色の画家だ
ったからだ。東京藝術大学を受験するが不合格となり、東京に居をかまえ独学で創作を
開始しているからだ。当時学歴のない画家に多くの画壇は見向きもしなかった。しかし
1963年、南画廊で初個展を成功させ、海外に打って出て、1965年、「新しい日本の絵画
と彫刻」展(MoMA、NY)出品した。この年に見つけた『ライフ』誌上のワッツ暴動は彼
にいくばくかの怒りが押し寄せた。米国で起こった一般黒人を標的にした警察の差別的
取り扱いに端を発した人権運動は、公民権運動と言われ、スラムの黒人暴動とされた。
このワッツ暴動写真から抜き出した4人の人型を、翌年の自作に用いて、1967年第5回
パリ青年ビエンナーレ(パリ市立近代美術館)展では、多くの称賛を得て、その後1972
年、第36回ヴェネツィア・ビエンナーレ参加しその後続々と多くの国際展に出品した。
1970年、「 Expo'70」の大阪万博でも、鉄鋼館では美術監督を務めている。当時人気の
パビリオンの一つで、音と光を組み合わせた超近代的ものだった ホールには 1,008
個のスピーカーが天井、壁、床下に配置され、ホール全体が巨大な楽器に例えられた。
この音響装置は、演出プロデューサーである作曲家武満 徹の意図に基づいて NHK 技術
研究所主任研究員藤田尚が設計した。世界でも最新、最高の技術が結集されスピーカー
のほかに、多元再生のための各種の音響機器があり、自由自在に音を出すことができて
、四方八方から音が沸き上がり、駆け巡るように聞こえた。これに合わせ、宇佐美圭司
は光による空間演出が行なった。その一つは、青(アルゴンレーザー)と赤(ヘリウム
ネオンレーザー)の2種類のレーザー光線を使い、この光線は7ヵ所から発射された。
特別に開発したミラーによって変化させられ、様々な光りの空間をデザインし、それが
刻々と変化して、40 種類のパターンを描き出した。同時に客席の下から出る 4 色の光
りが、プラスチックパイプの座席を浮かび上がらせ、その光りが流れるように変化して
いく演出で今のVR(バーチャルリアルティ機器)の元祖とされた。


861: 名無しさんAA:18/05/09 16:05
 大阪万博で、この世界で初めて出現しただろうこの斬新な音楽ホールの機能を、芸術
的に余すところなく発揮するために、三つのプログラムが組まれ、武満徹の「クロッシ
ング」、イアニス・クセナキスの 「ヒビキ・ハナ・マ」、前衛芸術家 高橋悠治の作品
「エゲン」を幻想的な演出で催した。また他にも、生の演奏会場としての魅力を発揮し
月1回の特別公演がおこなわれ、雅楽、そう(筝)曲、天台声明(てんだいしょうみょ
う)、文楽、能、現代音楽祭などが、鑑賞する事が出来た。このホールの多様な舞台機
能がフルに利用され、各界の巨匠が目をみはり 特にこれ以降のTV界を変えたとまで
言われた。彼はその後も活動を続け、1989年第22回日本芸術大賞を受賞。2002年芸術
選奨文部科学大臣賞を受賞。2012年3月に開催された個展「制動・大洪水」(大岡信こ
とば館)などで展示した。しかしそれが最後の展覧会となった。この現代の正統なバリ
ケードアーチストの巨匠は、東大では軽くみられた人だったようだ。世界からの北野武
の様な、馬鹿げた狂気の映像でなく、ちゃんとした美術としての意味を持つ、アートで
表現した人だったし、国際的評価もあったのだが、全く祀りあげてはいない。したがっ
て知らない者もおおく 学生食堂改装には棄てられしまったとされる。この絵は 凡そ
最低でも五百万円程度で、黒人差別を戦う人の嗜好品コレクターのオークションでは、
一桁違った値を付けるとされる。一億円には届かないもののかつては請われても手に入
れられないもので、反戦平和のもう一つのルーツとさえされる程だった。 東京大学の
(東京都文京区)安田講堂前の地下食堂に飾られていたこの大作が、施設改修で行方不
明になっていた問題で、食堂を管理する東大生協は、正式に廃棄を認めて謝罪した。し
かしこれらは謝罪して済む問題ではない。東大を一年間閉鎖すべきである。大体教育と
は一体何か、学ぶ事とはなにか。を解らなくしてる東大の責任論である。地方都市にお
いても似たような多くの事が起きる。いわれのある場所や伝説の木が切り倒され、公共
施設として学校に寄付されたものが 勝手な無知な公務員で廃棄される。柳川市や福岡
県は、そうした事が多い。全くムダ金を往々にしてふんだんに使いその上既設の施設の
価値を学術調査も正統判断を全くしない。柳川に伝習館高校があった、その煉瓦作りの
意味や学内の玄関牢舎の意味も知らず壊された。柳城学校の小野文書は私財を投げうっ
て教科書変わりに作ったとされる日本発の活版印刷諸本や、筑紫風土記筑後風土記など
およそ1億円とされる本も廃棄された。又柳川を守った木とされる50銘木も、今や温
州みかんの木ぐらいで、大塔の千年柳も立花ハゼの原木も神功皇后の通り道とされた楠
木も切られている。まったく天皇の受勲もいいが 九電の社長や自民党の馬鹿議員など
を重く見てどうするんだ。全く勲章をやる相手がちがうだろう。だがら日本が疲弊する
のだ。害獣をそだて益虫を懲らしめる。中国の飢餓の元だ

862: 名無しさんAA:18/05/10 16:08 ID:SB6
   世界閲覧 20   文政権の朝鮮 1

 第3のエデン計画が発動したようだ。韓国の文政権が考えそうな事だ。あの廬武鉉政
権でも中途半端に 盛大に北朝鮮を支援した3年分の韓国軍事予算を北に与え、韓国内
の軍事規模を半分にしたのだ。北は大喜びして38度線を越えてくる廬武鉉と握手した
。北朝鮮の金王朝の喜びそうな事をすべて支援した。その事務のトップ韓国の事務次官
として文氏はいた。その延長上に今回のミサイル発射がある。もともと冬季五輪は失敗
しそうになっていた。話題もなく北の危機で選手すら来ない可能性があったのだ。この
平和の祭典が、まるでヤクザの襲名披露の会席のごとくに北朝鮮に頭をさげ合同チーム
を作り、お土産まで持たせて返した。相変わらずだが米国は「北朝鮮の核排除」を掲げ
、北朝鮮は「朝鮮半島の核廃絶」を叫ぶ。また「韓国は統一朝鮮」を叫ぶが、北朝鮮は
「祖国統一」を叫んでいる。こうした言葉の違いに、明確に意志が違う事を読み解く人
は外交官になれる。つまりこの2つの 核廃絶と統一朝鮮は朝鮮戦争の時の双方の合言
葉であったのだ。北の人も南の人も統一朝鮮を叫んで同じ民族が武力統一を掲げて戦っ
たのである。韓国に大量の武器が来る前にと北が押し寄せ、北朝鮮が国家認定されない
為にと韓国は果敢に国際社会とりわけ米国に媚びを売った。何故なら双方に正統王朝を
棄てていたからだ。こうした現象は中国も同じで言ってる事や日本と合意した事は全く
同じだったが、常にゴールは遠ざけられ、直ぐに破棄された。この今の3国には、国際
常識など通用せず、常に「不可逆的な検証のある条約」と言う言葉や文字を入れなけれ
ば、彼らの民族としての信用ある言葉や行動はなく、国としての責任ある力も無いのだ
。スローガンが正しければ行動が間違ってもいいのである。所謂「愛国無罪」の論理な
のだ。日本で言う「終わりよければすべて良し」の中での、終わりのない状態である。
この不思議さは到底日本人にはない環境であり考えであり感覚で、きっと解り得ない。
逆に 信用とか信心とか確約とかの義務の世界も又、朝鮮人や大陸中国人にはきっと解
らないであろう。つまり公徳心や道徳或いは倫理と言ったものは、おそらくは力関係や
欲得世界或いは合理的判断でしか見ていない。言わばカラーの日本を黒白でしか見えな
い犬の目しかないのだ。赤も黒も青も、彼らには同じ濃淡であればそれは同一のものに
みえるのである。悲しさや醜さが見えない人々と言っても過言ではない。しかし この
アメリカの根拠のない自信と言うのは何処から来るのだろうだろうか。根拠の無い理論
形成は全く不明だ。例えば連続射殺事件に被害者の何故簡単に銃が手に入るのかの問い
に、「警備員や先生が銃を携帯していたなら素晴らしい。」などとトランプは答えてい
る。死んで行く事の理不尽さに、生徒が凶悪犯となった事の悲しみはない。

863: 名無しさんAA:18/05/10 16:08
   世界閲覧 20   文政権の朝鮮 2

 エデン計画は自由主義の中に完全管理社会を出現させようと言う試みだ。しかしこれ
まで多くの失敗を起こしている。韓国で起こったのは財閥の育成だった。財閥の発行し
た多くの株は米国資本が持っている。この事は絶妙に米国が韓国を抑えている事を示す
ものだ。当然文政権もこの中の操り人形だった。しかし核戦争は既に小型核開発を指示
した時に軍需産業の連中は核戦争を想定している。つまり、シリアの戦局がここに来て
安定化しそうで、又石油の値段が下がる事を恐れているのである。そこで起こった事は
うまく行っているイランとの核合意の撤廃である。相も変わらず馬鹿イスラエルはこの
行為をそそのかしている。アメリカもこのイスラエルの中心エルサレムの中心街に核を
落し廃墟とすれば、すべての世界の紛争やねじれが終わるのである。平和を論じ今回の
様な強い戦争すら辞さない明言をするなら、そこまでの意志を示す必要がある。船難合
意と言われる共和党内の亀裂や、イスラエル内の亀裂に対しては、米国内を差し置いて
イランの核開発合意を破棄したトランプは、ほぼエスタブリッシュメント(国家,政府
機関,支配階級,特権階級)とよばれる軍産複合体の支配者層が彼の周りを囲んでいる
と思われる。乱立する米国内の秘密結社の山を作りその上層に白人至上主義団体がいて
、彼らの頂上に全米ライフル協会(ぜんべいライフルきょうかい、NRA)がいる。こ
の他にロビイストは多く、米国銃所有者協会(GOA)などもあるが、軍産複合体が裏
に支配しているクラブは相当に強い。銃規制に一切妥協しない陣営の中でも「NRAは
全米最強の銃規制団体」と批判されている程だ。この全米銃砲組合の他に石油メジャー
も全く同じである。イスラエルロビイストの全米での勢いはすべて金である。トランプ
の選挙にも多大な寄付金が彼の取り巻きの主な部分だ。ティラーソンが起用され時誰も
が期待した石油価格維持には動けなかった。ロシアとの事前の会合疑惑が付きまとった
からだ。そして今や#MeToo運動は世界的な一大ムーブメントとなりトランプ側近のセク
ハラ被害を告発する「極端で過激な時代には過激派が勝つ。過激派のイデオロギーは宗
教となり、自分たちの考えをそっくりそのまま真似しない者は誰だろうと、背教徒や異
端や裏切り者とみられる。中間にいる穏健派は、抹殺されるのだ」とアトウッドさんは
書く。アトウッドさんは論説で、「そもそも女性は人間で(中略)犯罪行為も可能だ」
「(女性は)間違った行為のできない天使ではない」と前置き。その上で、性暴力被害
を告発し連帯する「#MeToo」運動を、「破綻した司法制度の症状だ」と呼び「女性に対
する戦争とは異なり、女性同士の戦争は常に、女性のためを思わない連中を喜ばせる。
今はとても大事な時だ。無駄遣いされないよう願っている」と結んだ。

864: 名無しさんAA:18/05/10 16:09
   世界閲覧 21   文政権の朝鮮 3

 この運動は耳の痛い話であろう。フリーアナウンサーの高橋真麻(36)が、一般人
による“イジり”を不快に感じた経験をつづり「めちゃくちゃ難易度が高いから、軽々
しくしてはダメよ〜」と私見を述べた。がこれは可笑しい。芸能人が或いはお笑いが、
話芸だからいじっていいなど言う事にはならない。それは映画だから殺しても殴っても
いいのだ。という暴力映画と同じである。つまり映画ではわざわざ映画館に行き金を払
い乞う人間に見せている。だがTVにはパトロンである企業がつき公式に表明する映像
だから成しえるものであり、ある種美術論或いは文学の中の芸術としての地位の出来る
ものでその登竜門たる審査が無い限り行うべきではない。それはヌーデストクラブと同
じである。公式に認めた物は各国にあるだろう。しかし公共と公徳に於いて日本では、
そうしたものは認めれられない。つまり世界のたけしなど宣伝するなら日本での放映な
いし上映は禁止すべきなのである。逆に海外ニュース映像や確定した犯人なのをぼかす
のはおかしい事だ。日本人の文化では、例えばテロ犯が首切りしても、小さな事件で上
がった犯人も、裸の事件も公けに公開すべきなのだ。これが日本の法律と価値観で西洋
と同じと考えてはいけない。TV局の忖度もあろうがそれは全くの違法である。大体、
放送の自由は放送局が築くもので、顔が出たからと言って人権侵害には当たらない。厳
しく犯罪者が公示されても、世間から冷評されてもそれは当然で、裁判所が社会からの
処罰を受けていると言う情状酌量は全くナンセンスな話であるべきものではない。この
風潮は大きく反対すべきだ。公務員が犯罪して既に辞めているから情状酌量して実刑を
免れると言う事はあってはならない事だ。こうした風潮はNHKがおかしいのだ。放送
法14条は、政治権力の放送権の侵害を規定して抑えてきたものが、自らの徴収力が無
くなって税のごとく法律で徴収した。そういう馬鹿をやるから政府は放送中止さえ権限
があるように誤解する。全く放送の自由を守る事には、経営の破産も認める事で自由の
社会であり、政府の救済を求めると言う逸脱した行為は民間放送会社も大きく反対運動
すべきだったのだ。こんなバカげた「いじくりまわし芸人」を多用して社会をパワハラ
氾濫に導いている社会体質は、大きく反省し解体をすべきである。このセクハラと言う
風潮は男性社会のパワハラなのだ。これを何故セクハラとするのか。縦社会を律する事
これが大事な問題なのだ。

865: 名無しさんAA:18/05/10 16:09
   世界閲覧 21   文政権の朝鮮 4

 北朝鮮の核ミサイル廃棄問題とイランの核合意の破棄問題は、実はアメリカのブッシ
ュを支えた、エスタブリッシュメント(国家,政府機関,支配階級,特権階級)とよば
れる支配者層の、黒い影の死の商人の手配である。つまり北が核廃棄すれば中東に特化
した戦争を行おうとしているのである。サウジに武器供給を約束し、イスラエルと共同
歩調を取り、イランに揺さぶりをかけた。としか見えない。これにロシアが許すはずが
無いのは目に見えている。欧州は大変である。せっかく平和裏に安定社会で国家経営が
出来るというのに、イランを怒らせ、紛争地を又広げるとなれば 難民は更に増えて、
ロシアからのガス供給も止まる可能性すらある。つまり原子力と北極海の天然ガスで、
細々と生きれと米国に押し付けられた様なものだ。米国としてもイランが大きくなって
中央アジアが復活して来ている今では、ロシア・中国と例えEUと同盟関係でも同時に
相対できない。北朝鮮と上手くやれない場合は 北朝鮮の核ミサイルは完成真近でいつ
米国内に打ち込んで来るかは不明のままだ。かと言って韓国・日本・台湾を火の海にし
て戦えるとは全く思えない。アフガンすら過激なイスラム教徒の一掃には至っていない
のである。ここは韓国提案に乗って模様眺めするしかない。と言う判断である。オバマ
以来平和外交で米国内でもこの原発を含めた軍需産業や石油メジャーは911の手痛い
しっぺ返しを喰らった。つまり反戦思想の中で3大自動車産業まで窮地になった程、貸
付を行う相手がいなくなったのだ。かと言ってオバマ路線の平和産業での切り開いた道
は、このトランプは全くやりたくない。特に南米を平和裏に切り開き米国資本で興して
TPPによって協調し、中東をロシアと共に平和に導きイランを復興させるのは、イス
ラエルの猥屈なネタニヤフ首相は自らの政権支持が下降の中で更に下降する為賛成しな
い。ネタニヤフは、外国メディアに対して、イランと米英仏中ロ独の6カ国が結んだ核
合意について「致命的な欠陥がある」と批判し、パレスチナ自治政府(パレスチナ国)
を全く認めようとしない。本来イスラエルの正統政府がパレスチナ国であるのだ。国連
がこのイスラエルの傲慢な違法行為をシャキッと違法と決めて連合軍がはいれば済む話
を、この首相の保身の話に国際社会が耳を貸すからいけないのである。つまりそもそも
エルサレムで血を流す事を厭わないというのであれば、原爆投下を決定すればアメリカ
のねじれた感覚の論理は済むのである。しかししてこの朝鮮半島の危機を止めイランの
核合意を削ったのは 他ならぬこの朝鮮の文政権の手際の良さかもしれない。しかし今
統一を掲げて成し得ても、朝鮮民族の為には全くならない。それは朝鮮民族そのものが
知る通り覚悟のない民族体だからだ。

866: 名無しさんAA:18/05/10 16:09
   世界閲覧 21   文政権の朝鮮 5

 さてさてここでイランで紛争が起これば イスラエルの思うツボである。中東の戦い
が新たに始まるとしたら、サウジとイスラエルをアメリカが操る所にある。これを止め
るのはロシアであり欧州でしかない。なんとも物騒な刃物になったトランプである。も
ちろん握っている手は黒幕の死の商人であるユダヤ金融であろう。しかし危険すぎるこ
の行為は米国民によって叩かれるべきだ。馬鹿な事に株価が上がっているがその根拠は
ない。円ドルレートも変わる理由は全くない。円は今でもマイナス金利持続でありドル
の長期金利が上がる理由がないのだ。原油価格も中東情勢悪化と言うの取ってつけた様
な理由だが、実は今やOPECやシカゴ原油はあてにならない。40$は新たな採掘用
の投資すれすれの原価とされるが、中国やロシアなどの原油代金は25$以下である。
旧ソ連国内の原油は陸上輸送代がこれに加わる事ににはなるが、それでも今のような、
60$超えた話はでない。長期契約で中国華僑の商売のうまさであろう。つまり原油が
高くなれば高くなるほど、アメリカも日本もいやOPECから正式に買っている先進国
はロシアなどとの国力が削がれ弱くなると言う事になる。国の金利も上げられない国際
的にも上げすぎた今は後進国の資金倒れでアメリカに不幸が起こるし銀行も破産する。
資源も上げれば枯渇と環境汚染と国力低下となる。株式も本来の価格から上昇しすぎて
いて投資とならず投機の域を出ない。仮に投機熱で上昇でもすればバブル崩壊の二の舞
は免れない。更に言えば今や仮想コインは株式発行の様ないかがわしい世界からの資金
調達を止める可能性すらある。もう上げられないのだ。つまり現代社会は神の見えざる
手によって、金融界を塞ぐ暴挙にでたのである。三方ふさがりの金融資本に明かりが見
えるとすれば、今路線変更したロスチャイルドの能力であろう。つまり投機や投資を捨
て喜捨や布施の世界である。米国流に言えば寄付なのかも知れない。見返りのない投資
である。僅かな利子での内容においての地球への資本投下である。これは何とも馬鹿げ
たものと映るかも知れない。しかし長期的に見てその利潤は今の株式利益より大きい。
それは当然ながら 福祉や残すべきものとしての厳しい審美眼がそこにあるからだ。更
に短期投資でない分、新しい第一人者としての地位がより多くの利潤を産んでいる事も
ある。更に分断社会や差別主義や格差社会を産まないからだ。いわゆる直接投資であり
独立投資の形が取られ 恐らくリターンのない投資は経済の減速とはなるだろうが、そ
れが人類を助けるだろう。

867: 名無しさんAA:18/05/11 18:53 ID:J/A
   世界閲覧 21   文政権の朝鮮 5

 欧州西洋社会と東洋の日本社会の違いには、人のやさしさがそこに介在するかどうか
である。このやさしさは、強くぶれない程に。本人の知恵や勇気が必要で注視される。
 岡山県岡山市でバス会社の労組が4月末に実施した「無賃運行ストライキ」が、中国
のネット上で注目を集めている。とサーチナの記事が載った。微博のあるアカウントで
「岡山市の路線バスがストライキを起こした。しかし、乗客たちに不便を強いることの
ないように、運転手たちは平常通り営業を行った。彼らがとったストライキのやり方は
、お客さんから運賃をもらわないというものだったのだ」と紹介している。日本人も知
らなかったストだった。無賃ストを実施したのは、同市の両備グループの労働組合。バ
ス路線への競合事業者算入に伴う賃金低下、雇用不安の解消を会社側に求めて26日に
実施したもの。23日に1時間の完全ストを実施し、26日にも終日ストを予定してい
たが、地域への影響を考慮したうえで、運賃収受業務だけをボイコットする「集改札ス
ト」に切り替えたという。中国のネットユーザーは、日本で起きた一風変わったこのス
トライキの方式について「日本人の意識というのは本当に無敵だな」、「働く人の心の
中には市民がいるんだなあ」、「日本人のサービス精神はすごい」、「われわれが想像
できないことを、彼らはやってしまう」といった感想を寄せている。ところがこの無賃
ストは中国でソ連に対して行った事が知られている。戦時中は一時期ソ連は満州権利を
棄てて中国に返した時があった。ところがその後ソ連の赤化職員に対して白軍職員が、
経営を批判して行ったストが無賃ストだった。当初は運行停止を考えていたが日本軍部
の圧力で無賃ストを起こしたのである。ネットでは「中国では永遠にそんなこと起きな
いだろうな」、「あるかもしれないけれど、実際にあったら車内はギュウギュウ詰めだ
ろうな」といった声もあった。さらに「地下鉄でやってほしいな」、「日本の航空会社
もぜひこんな形のストをしてもらいたい」、「銀行でもこんなストが起きたらお金をく
れる・・・なんてことはないか」などのコメントを残すユーザーもいた。と書かれる。
今フランスの列車運行にストによる足止めが国民を不満にさせている。ここでは通常の
ように運行を中止した。このストは国鉄の民営化みたいに合理化案に労働者が反対した
からだが、そもそも労使と経営者の戦いは経営者の欲からである。その欲が何故生まれ
るのかと言えば物価高による収益欠損からだ。つまり欧州型の気風が日本でも蔓延して
いるが、本来人類の平和や社会の安定を目指すなら日本化と言う低成長は避けられない
。当然である。アフリカの様な爆発的人口増加やインドの様な階層社会、欧州米国の様
差別主義、ロシアや中国の様な独裁主義は全く認める事は出来ない。

868: 名無しさんAA:18/05/11 18:53
                               一部も全部も安易
な政治体系や、性急な発展は、アマゾンの贈り物が、他人にに盗まれる様なものだ。ア
マゾンは否定しようが、それは大量物資の損失とそうした泥棒社会の育成をしていると
いう社会悪の拡大なのだ。全く大仕掛けの詐欺である。政治が規制しない例の一つだ。


869: 名無しさんAA:18/05/14 01:00
   世界閲覧 22   

 中国は2隻目の空母を進水させた。その船が就航する頃には3隻目の建造に取り掛か
るという。更に将来的には原子力空母も視野に入れていると政府筋は話ている。しかし
それを中国国民は許すだろうか。かつても今も中国海軍が海外に打って出た事は無い。
いや日清戦争以前から第二次世界大戦まで中国海軍は、海軍として国の為に戦った事は
ない。それは世界最強と謳われた時も世界最低の海軍とされた時も海軍は国に従わなか
った。海軍力の保持の為に。それが中国民族の習慣だからだ。つまり今も昔も政府には
中国海軍を統率する力も権限も地位も持ちわせていないのである。それは鄭和の大航海
時代から同じである。鄭和も一代限りの大航海で皇帝が変われば直ぐにそれは維持出来
無い事が知れて取りやめになった。当然である。彼らは海の民族としての思想が無く、
陸の騎馬民族の横取り思想しか無かったからだ。生存権問題ではリバーパレスやシーパ
レスは協調や融和が無ければ常に海賊船と同じにパラダイムシフトが行われ遭難に陥る
。しかしランドパレスやマウントパレスは逆に動物や鉱物を独占して転居して食を得る
。つまり生存権問題の中で答の違いである。世界的な人口増加は陸上では食糧調達が出
来れば過密社会でも共存できる。仕事を増やせばいいからだ。しかし沿岸部や島嶼部で
はそうは行かない。川辺の村も同じだ。つまり細々と暮らしている中では、仕事を増や
す事などとんでもないことなのである。しかし逆に平野部ではそれが大事な仕事となる
。つまり食を得る為にとんでもない行為をする物を取り締まる必要に迫られるからだ。
つまりは仕事もしない者をのうのうと生きらせるわけにはいかない。そこには人口増加
の問題が横たわる。災害の多い過酷な土地では多くは小さな民族集団として守られる。
しかし今多くの人口増加で食料危機に面したインドや中国やアフリカアメリカなどでは
、恐らくは、今後も深刻な問題が人類を悩ますのである。中国海軍は常に力を発揮する
のは国民と対峙した時の威圧である。それは陸軍も又同じなのだが、事、海軍ではその
力は強大である。天安門事件では人民が戦車に曳かれ、チベット僧を皆殺しにしたのだ
が、それは相手が弱いと見れば、どんな権威も尊厳も認めない共産党思想にある。これ
は民主主義の相対位置にある。弱者の意見すら取り上げる議会とそれを力で切り捨てる
姿の差は歴然である。問題は海軍が独立しながら自らの力で生きる糧を持たない事にあ
る。この共産中国の自出がそうした海賊の中から生まれている事に 人類の共通の脅威
と恐怖がある。西洋社会の暗さはそうした醜悪の世界に自らも落ち込み嵌っている事だ
。何故だか私利私欲のブッシュを大統領に選出し中東に戦争を仕掛けた。全く愚か者の
国家なのである。それでも神は見ているし、それは自業自得として返ってくる。

870: 名無しさんAA:18/05/23 23:47 ID:oxM
   世界閲覧 23
 馬鹿な事に、記者達は北朝鮮の今度の核実験場閉鎖の公開に不審感がなかったのだろ
うか。彼らは北朝鮮の核実験場の閉鎖の日程を何故米朝会談前にしたのかを解らないで
いるらしい。まずはポンぺオ氏に帰還させた人質は米国人と言うが韓国の大学教授であ
ろう。つまりねつ造された米国人国籍者である。彼らを返した理由は挨拶代わりの餌な
のである。これにつられてトランプの気をよくしたところで核実験場の閉鎖を公表し、
その会談の人質に閉鎖公開を発表した。もともと水素爆弾つまり核弾頭の数十倍の威力
で既に実験坑道は使えないほどのものの筈だ。まあ他の坑道が使えるとして言い張って
いるが、いずれも一方的な言い分であり実質は不明のまま。この一方的言い分は 更に
この記者団への対応でも見れる。まず日本を除いた、放射能問題や北朝鮮問題に詳しい
日本は記者の入国を拒否している。本来ならここで既に記者団は異を唱えて入国拒否や
取材拒否してその対応にポンぺオ氏を向かわせるべきだったのである。だがそうはしな
かった。その為に飛行機が降り立った場所で、線量計を取り上げられている。北朝鮮曰
く「絶対安全な場所であるから必要ない。」というのである。既にもうここで矛盾をさ
らけ出している。もし安全な所ならなおさら線量計を取り上げる必要がない事なのだ。
つまりはかなり危険なやばい所へ案内する。と言う事なのだろう。更にIAEAの査察
前にこうした処理をして証拠を無くすと言う事も かなり怪しいものでありそうした批
判は韓国で起こってほしくない。とでも思ったのか急遽韓国の記者すら入国禁止措置で
ある。ここに裏の意図が透けて見える。つまり北朝鮮の並進路線は何も変わってはいな
いのである。強国体制とその体制維持は、たまたま中国が同意して経済封鎖が協力に効
いた為に軟化したように見えるのだが、そうではない。お馬鹿なトランプはその折角の
効果を表した経済封鎖を前に、兄弟国中国への威圧をかけて、IT輸出に税をかけると
言い出した。勿論華僑がそれを止めたし中国から仕入れる米国バイヤーもかなり混乱を
させた。それを機に早速北朝鮮は中国を訪問し、何やら雲行きは怪しい。中国との規制
を少し緩めた所をみると 中国との対米国への路線に少し機がおもなって意見が統一さ
れたのだろう。国境の橋を渡るトラックが増えたと言う報告が上がっている。中国人の
記者はその違いを目の当たりするであろう。勇ましい事だが、坑道の入口爆破に記録は
残るだろうが、先の冷却塔爆破と同じく 一つの広報作戦であり全く実質的には 何ら
意味はない。冷却にはその後川の水を使ってウランは使われたし、今回の地上実験も、
パキスタン同様開発過程の実験が不必要となったかも知れないし、他の国では既にデー
ター収集が終わり仮想爆破で行う事が主流だ。又掘ろうと思えば入口を掘れば直ぐに又
再生できる話である。これにほいほいついて行こうと言う記者の姿勢も又大きな懸念だ。     

871: 名無しさんAA:18/05/28 22:10
   世界閲覧 25

 北朝鮮の高官は今やかつてのシリア高官の様になってしまっているようだ。つまり、
今日本の国会でこしゃくれたガキの様に2転3転して嘘をふるまう安倍総理の下で多く
の有能な役人が首を切られる様な事態である。もっとも北朝鮮の場合はこの将軍様の御
威光は安倍氏に比べて、比べ物にならない嘘と方針転換だからついていく高官達にには
常に死が付きまとう。トランプ政権高官によると、「米朝は、首脳会談準備のために今
月上旬にシンガポールで実務者級協議を設定していたが北朝鮮代表団は姿を見せなかっ
た。」また、「先週末に、ヘイギン大統領首席補佐官代理らホワイトハウス当局者がシ
ンガポール入りし、北朝鮮政府当局者と首脳会談の議事進行などを含めた詳細について
協議する予定だった。しかし、北朝鮮側は連絡すらよこさず準備会合を無断欠席」し、
米側に待ちぼうけを食らわせた。と言うものだ。この時北朝鮮の高官はまず動けるもの
ではない。つまり、北朝鮮国内での将軍様の意志が不明だからだ。かつての戦前の李氏
朝鮮王朝と全く同じに どういう意見を持って進めばいいかが解らないからだ。当の金
正恩氏本人すら国際社会は解らずし、経済運営とアメリカ対応に苦慮してにいるのであ
る。そしてそれはロシアと同じである。今や経済成長した中国の後ろ盾を得たものの、
どういうトラップと罠と落とし穴があるのか、或いはどう我々が仕掛ければいいのか、
迷いに迷っている。と言っていいだろう。それは民主主義の米国の継続性と違い独裁の
場合の家系存続の大きな足枷や重圧も又そこにある。この中国の忠告や伝言は知らされ
てはいないが、「唇無ければ歯は寒い。」の域を出ないであろう。つまり中国の影響力
が排除されないやり方、つまり米朝のみの決定をしない方向の助言だったろう。ここに
トランプが噛みついた。とも言える。明快に「中国訪問してから、全く良くない。不愉
快だ。」とインタービューに応えている。こうして「われわれは5月、あるいは6月初
めのある時点で彼らに会うことになるだろう。歴史的会談に期待している。」と話した
所から一転している。下交渉では、北朝鮮が朝鮮半島の非核化を協議する意向があると
米側に伝えたとされるが、金次官談話で、「もし米国が我々を追い詰め、我々が核兵器
を放棄するのを一方的に要求するなら、我々は協議への関心を失い、予定されている米
国の首脳会談を受け入れるべきか再考せざるを得なくなる。」と述べ、ペンス副大統領
は開催予定の米朝首脳会談で「ドナルド・トランプ米大統領を手玉に取れると考えるの
は大きな過ちになる」と述べ「リビアの故ムアマル・カダフィ大佐が核開発計画の放棄
に同意した数年後に反体制派の蜂起で殺害されたことに言及し、北朝鮮も同じ命運を、
たどる可能性がある。」と指摘した。

872: 名無しさんAA:18/05/28 22:10
   世界閲覧 25−2

 この発言について崔外務次官は米国で、北朝鮮国営の朝鮮中央通信を通じ、「米副大
統領の口からそのような無知でばかげた発言が飛び出すとは、驚きを隠せない」との声
明を発表し。「抑制の利いていない、厚かましい発言だ。」と激しく非難した上で、「
米国が同じ席に着くことを望まないのなら、わが国は対話を懇願することも、わざわざ
説得することもしない」と述べ、米朝首脳会談の再考を金委員長に進言する可能性に言
及した。又崔外務次官は「この米朝会談に「米国がもしこのまま態度を変えなければ、
首脳会談について再考するよう北朝鮮指導部に進言する。」と強調。「米国が実直な我
々との会談に臨むのか、それとも愚鈍な核対核の対決で我々に立ち向かうかは、すべて
米国の決断と行動次第だ」と語った。「愚鈍な間抜け野郎」であり、和平交渉が進まな
ければ唯一の選択肢は「核と核の決戦」になるとの脅した。少なくともトランプ大統領
は北朝鮮の金正恩(キムジョンウン)朝鮮労働党委員長との会談に、「米側が、正恩氏
が言ったとされる非核化の協議が、核とミサイル開発の完全放棄を意味するものか聞い
ていない。会談場所も正恩氏が自身のプロパガンダに利用する危険があり、平壌で開か
れることはない。」としていたから、「坑道爆破と共に北との会談の中止」は、別に特
別な事では無かったのであろう。トランプ氏は、「正恩氏が核とミサイル開発を完全放
棄する確約をしない限り、米朝首脳会談に応じない。」とする路線を踏み外さないもの
とみられ、その不安を隠せない北朝鮮がいる事は確かだ。日本の政府関係者は「正恩氏
がトランプ氏との米朝首脳会談にコマを進められるかは不透明だ」と疑問視するものの
いずれ会談は行われるとみていた。しかし、米中間の“貿易戦争”を見てもトランプ外
交は、常識が通じない。米朝交渉が進められる中で突然、首脳会談の開催が中止される
こともあり得る状況は確かであろう。又その瞬間に朝鮮半島は再び緊張が走ることにな
る。事実その会談中止の報道は 爆破し帰着した列車の中で一般兵士は一様に口をつぐ
み、文韓国大統領の顔は引きつってしまい早々に会談の申し入れをした。北朝鮮外交団
は、ここで破談になる事を望んだに違いない。今や核を37発もってICBM8発程度
、潜水艦搭載8発程度残りにノドンやテポドンなどを隠し持っているとされ、これらが
差し出されるか隠し通せるかは彼らの命に関わる。これらはあくまで噂ではあるものの
、その真実は不透明だ。又正恩が欲しいのは、あくまで経済支援であり、それが米国で
も中国でも良く、あわよくば西側との会談をテコに東側同志からの支援韓国の支援で、
又盛り返して、核もそのままで玉座も王朝もそのままなら、それでいいのである。だが
国際社会はそれを許さないであろう。その意志が今回のイランとの合意破棄である。

873: 名無しさんAA:18/05/28 22:11
   世界閲覧 25−3

 イランとの核合意破棄は、そもそもがオバマ政権の合意に不満が国際社会にはある。
それは核開発の停止であり中止ではないからだ。更に研究核は認め、年限も無制限では
ない。つまり経済制裁を解いてのち、中国の様に大きな経済大国となった後核ミサイル
を持つことに、その可能性の道を取り除いてはいないからだ。米国の不安は決して稀有
な事でなくこの北朝鮮のミサイルや核の技術が北朝鮮から締め出され時に一番に輸入さ
れやすい国である。北朝鮮が韓国と同民族でありながら対立しているようにイランとサ
ウジは同じイスラム教徒でありながら対立している。こうした世界鳥瞰を見てユダヤは
完全にトランプを利用している。まずオバマ政策との決別である。イスラエルのエルサ
レム首都はユダヤの第二の目的であったし、イラン叩きはサウジとの共同作戦である。
モサドはトルコの反エルドワン派に武器提供をし、その裏でエルドワンに情報提供をし
た。それは双方に貸しを作り、どちらが体制側になってもいいように行ったのだ。シリ
ア内戦も全く同じに、自由シリア軍を支援していながら、ISILを通じたシリア政府
との石油取引を可能にしていた。石油をイスラエルが買っていたのだ。だがロシアの諜
報部は、ウクライナつまりクリミヤ奪還で、その相手がモサドとCIAであった事を掴
んだ。ここでシリア介入を決定した。欧米には驚きだった。つまりロシアはクリミアの
強行奪還を批判され経済制裁で疲弊していると見ていたからだ。それを支えたのがバク
ーの深層開発油田だ。古い枯れた油田からその層を超え更に深く掘り進めて吸い上げた
原油がそのロシア経済を支えていたのである。トランプ政権にバクー油田を復活させた
エクソンCEOのティラーソンは釈明に追われたはずだ。そしてこのトランプとプーチ
ンのトップ会談を危険視しただろう。勿論こうしたプレッシャーはいつもの事だ。だが
オバマの打ったイラン協調は、思った通りに効果を表した。原油のだぶつきと米国政府
の地位を上げ石油メジャーはじめユダヤ金融資本の資金枯渇を呼んだのである。正に、
アメリカ政府が自国のドル札の発行権利を中央政府が取り戻すチャンスが訪れたのだ。
だが、しかし、米国のトランプ政権は見向きもしなかった。ロシア問題や差別問題や女
性スキャンダルで足元が常に掬われている状態である。つまりこれ以上ユダヤを怒らせ
るのは票にもならず得策ではない。とでも判断したのだろう。そのままユダヤの原油高
騰措置の一環としてイラン合意破棄に及んだ。しかし欧州社会は今やEUに英国はいな
く大きくはフランス・ドイツの良心がいる社会で米国追従とはならなかった。ロシアも
中国も今後の経済運営と絡まっている為 見守った状態で20X室やKGBは動いている。

874: 名無しさんAA:18/05/29 12:16
   世界閲覧 26

 精神世界に於いて日本人とは稀有な存在だ。多くの人種や宗教は救いを求めた信仰で
成り立っている。従って地獄に落とされその後の一縷の望みや光に神を見る。そして神
の下僕(しもべ)となったと自分に誓い、悪魔の思うがままの行動をする。ところが、
西洋社会はそうであっても東洋社会の特に日本社会は常に悪魔などはいない。すべてが
神であり善悪の対象とならない。自分の行為によって悪になる。と言う考え方である。
つまり西洋の悪魔と日本の妖怪とは全く違い、悪魔の様な司令はない。妖怪個々の悪行
なのだ。武家社会に於いて勝ち負けと善悪は別々であり、その土俵とは別に金銭の経済
社会がある。としている。明治維新の時幕府が負けて朝廷に返上して無血開城した後で
も会津や五稜郭で戦ったのはそこにある。更に江戸時代逆に切腹や打ち首をよしとした
のは「後世の名を遺す」「義を持って生きた」とする誇りがそうさせた。つまり仏や神
に祈りはしても救いは求めなかったのである。それが今の相撲の世界にもある。奉納相
撲は、その相撲を行う事に意義がある。としていた。つまり拝火教の5柱6神の世界で
の二元論である。闇と光あるいは善悪が戦うが、その戦いに意義がある。とする世界で
ある。つまり日本の戦国時代は親鸞や宣教師が持ち込んだ新しい善悪や世界が滅ぶとし
た終末論で起こったものだ。これによって多くの人は救いを求めたのだ。今のイスラエ
ル同様に人を信じない。我々は弱者だ虐げられた者だと人を殺して行く様は全く異様だ
。だから彼らはユダヤ教徒以外は敵であり死者も弔わない。日本は逆に例え戦う事にな
ったとしても死者は仏である。つまり敵であれ弔い葬るものだった。更に生きて求めが
あれば戦うが又苦しみには手を差し伸べた。それが武田信玄の「塩を送る」逸話である
。つまり事情により戦っても大将を求めるが故と諦めていたのである。この潔さは海外
では解らないだろう。例え一人でも生きた証があればそれでいいのである。つまり第二
次世界大戦まで日本人は植民地進出する西洋に西洋式の特にドイツ民族の様な殲滅論を
持っていなかった。つまり生存権などと言う意識はなく誰でも生存し共存して当然であ
る。と言う常識だった。ところが西洋人や中国人や朝鮮人ロシア人はその優しさに付け
入った。それが終戦時のソ連の満州侵攻であり、中国の毛沢東革命であり、米国の朝鮮
戦争であり、日本への原爆投下だった。日本人は人を知っていた。飯を喰らい強いの好
きだと。だから死にもの狂いで戦っていると。だが連合国は違った奴隷が欲しかったの
だ。植民地を拡大させたかった。世界を手に入れたかったのだ。救いの証の為に。


875: 名無しさんAA:18/05/31 18:47
   世界閲覧 26−2

 5月24日、トランプ米大統領は突如、米朝首脳会談の中止を表明した。それに先立
つ22日、同大統領は金正恩・朝鮮労働党委員長が、習近平・中国国家主席と2回目の
会談をしてから「態度が少し変わった。気に入らない」と発言していた。その後中止の
声明に急遽米国次官との協議を申し出て、新たなに米朝会談を継続して用意してくれと
懇願したようである。新たに会談の盛り上がる。もともと日本で言われる特定アジアの
国、つまり特亜3ヶ国(中国・北朝鮮・韓国)は「悪罵の国」の外交とされる。この逸
脱した外交非礼の国の姿勢は国の体を成していない。軍隊は何処にでも威嚇し、国が人
民を人質にし脅迫し、先祖や先人に尊厳を持たない。まったく厄介この上もない隣人だ
。その他に厄介なのが隠避な国ロシアである。地政学的に人の住めない所に住むのは、
自由を求めた民族であるからだが、今や生活が成らないから南下政策と輸入食に頼るの
は昔も今も同じだ。プーチン政策の要は地下資源である天然ガスや鉱物資源の輸出権益
の支配である。これが無ければ産業は成り立たない。これを充分知り得ていて、その守
りに於いて軍備増強KGB維持は欠かせない。と思っている。欧州経済の一昔前の姿で
ある。本来ロシアと中国は良き交易相手であり中国の加工品とロシアの天然資源は交換
するに良きお客であり生産者だった。しかし、古来より中国は権力欲旺盛で、支配する
中華思想は何処の国でも雑菌やカビの様にはびこり人々を狂わしては時の政権によりつ
いて離れなかったし、ロシアまでやって来た近代産業も、森を切り開き火と狩猟食糧の
域を出なかった。この事はローマ帝国以来森の木を切り開き、本来食糧枯渇で滅亡すべ
き都市国家が戦争の末生き残った欧州社会では全く解らない感情であろう。そもロシア
人の良心は白ロシア衛兵にあったがそれを野蛮な赤ロシア軍が駆逐したのである。そう
して野蛮な一般市民の方が多くなったのだ。総じて野蛮と言うのは頭が悪いと言う事で
はない。論理的思考が現状維持の生活の為の暴力から離れられない事の生活実態だ。つ
まり文化や言語や科学などの余裕がない状態で生活しているのである。北朝鮮にロシア
は、例え草の根を喰っても維持する国に経済制裁は意味が無いと言った。この大陸思想
は北朝鮮のみならず中国にも同じと思っている。日本と違って大陸では幾つもの抜け穴
が人々の生活の糧であることを知っていたのだ。ここに中国の妄想がある。中国は10
年以上の時間をかけて、朝鮮の隷属国化を考えている。それはかつての「中華復権」で
ある。これは「ロシア復権」と全く同じでこれを「中華の夢」とした。



876: 名無しさんAA:18/05/31 18:48
   世界閲覧 26−3

 もともと「中華」と言うのは中国の事ではない。中華は中心の華であり、今の中国で
ある「支那」の相対語で、ウイグルやチベットのシルクロードの十字路の町の事だ。つ
まりロシアからインドへ向かう縦の道とアラブや地中海から朝鮮半島に向かう交差点を
中華と呼んでいたのである。華というのは花の中の花びらでの中心を指す言葉だ。この
中華の夢とはこうしたウイグルやチベットの夢では無い事は確かだ。では何を指すか。
実はチベットやウイグルは所謂騎馬民族のフン族から常に脅かされていた。このフン族
はヨーロッパにも侵攻し中央アジアにも侵攻した。そうしてオアシス都市国家をイナゴ
のごとく食いつぶしたら、次に朝鮮半島に出て来た。そして 海に苦手で日本が台風に
よって守られると、ちゃっかり中国を占領し征服王朝として存続した。その時行った治
政が宗教でも食料でも金でもない技術でもないただただ朝貢と言う権力保持のみであっ
た。それはローマ建国も全く同じである。このフン族の始祖は今のトルコの地であるの
は間違いない。今のトルコ人が末裔かどうかは不確かさが残るが、有史以前からの戦争
はトルコを中心に起こっていた。そして一神教信仰のユダヤ教が起こって戦争に駆け出
したのである。DNAや地層の研究で今の砂漠地帯が 町の建設の為にに伐採させられ
て今日の砂漠状態に至ったのが解っている。現代技術はそのスピードを増しているとい
われる。フン族は日本語的には蛮族である。よく野蛮とか力が強いイメージだが 実は
言葉が通わない文化の違った者と言う意味だ。古代ギリシアでは異国の民をバルバロイ
と呼んだし、ペルシアに負けたギリシャであは、非ギリシア人への排外の感情とともに
、英語のバーバリアンという語にこめられるような蔑視のニュアンスを含む用法になっ
た。それが明治になって野蛮人と言う言葉が生まれた元になったのである。古代ローマ
人にとっても、領外のガリア人、ゲルマン民族、スラヴ人は蛮族にすぎなかった。つま
り英国領の原住民だったガリア人もフィヨルドのケルト人も蛮族であり、古代ヨーロッ
パ人であるゲルマン人も中央アジアのスラブ人も紀元前千年頃は蛮族だったのである。
よくゲルマン人の大移動などと歴史説明がなされるが一つの古い学説でありその痕跡は
ない。ケルト人もスラブ人も拡散があり民族の戦さは数多くあった中の一つの出来事と
見られている。


877: 名無しさんAA:18/05/31 18:48
   世界閲覧 26−4

ゲルマン民族がローマ領内に移動し、キリスト教による平等主義で教化されたヨーロッ
パ世界でもこの構図は、形を変えて繰りかえされる。アリストテレスによれば「ギリシ
ア人は捕らわれても自分自身を奴隷と呼ぶことを好まず、またバルバロイだけをそう呼
ぼうとする」。古典古代のギリシア人にとって、自分以外に主人を持つものを奴隷とみ
なし、家の中での家長=主人と奴隷の関係を律する論理と、主人=家長である自由人同
士との関係を律する論理は異なるものであった。従って、家の論理を拡張したものとし
ての王=家長=主人につかえるオリエントの臣民たちは奴隷に準じるものとして理解さ
れたのであった。と言う。中国や朝鮮人も全く同じこの思想である。第二次世界大戦で
一方で日本軍に従軍し、いざ日本が弱ると一斉に叩きに行って 自ら作った国民党軍を
蹴散らし共産党万歳と言ったのである。朝鮮半島は明治時代にわざわざ日本は中国と戦
って独立国としたのにロシアに身売りし中国の属国となろうとした。その後日本の敗戦
後にもわざわざ共産党派とアメリカ侍従派が起こったがその実双方共に自立尊厳を掲げ
た者を粛清に次ぐ粛清をしたのである。その支配思想は中国では、中華中心主義の象徴
でもあった。支配民族としてモンゴル汗族の支配でも、漢民族や漢人とは限らず異民族
への蔑称として、夷狄戎蛮(いてきじゅうばん)や戎狄(じゅうてき)、蛮夷(ばんい
)とも呼ばれ、東夷・北狄・西戎・南蛮と呼び続けた。実は知ってのとおり南蛮は大黒
様であり西戎は福禄寿として日本は祀る。北狄を毘沙門天で守り東夷をえびす様の行く
道としていた。歴史的には、稲作、仏教、鉄器、鐙、胡服から始まる服装など、様々な
四夷文化(非中華)が持ち込まれて中国文化は進んだ。宗教価値観(道教含む)などを
含めて多くの面で影響を受けているのも事実があるが、中国はそれを認めず日本は礼賛
する。そして朝鮮はそれを罵倒する。この違いが今までの歴史の違いである事は火を見
るより明らかである。つまり日本はもう既に北朝鮮や中国に或いは韓国に充分に手を差
し伸べて助けて来ている。これ以上関りを持つことも必要はない。敵視する事も融合す
る必要もない。この卑屈な思想を変える事は出来ない事は この20世紀の歴史で充分
示されているではないか。戦前に上海企業の8割の工場を日本人が興した事も、今や夢
(ゆめ)幻(まぼろし)と同じである。核だろうがミサイルだろうが関係なく、我々が
手を携えるべきはシベリアの民であり、ロシア人とのまともな親交である。


878: 名無しさんAA:18/06/11 16:45
―――――――――――レレレーのレー 1

 米国の苦労は、実は第二次世界大戦の失敗にある。米国は国内向けには、モンロー主
義を掲げて国民には欧州戦争には参戦しない。と言っていた事が大きな米国の誤りであ
ったろう。もちろん当時やっとニューデール政策で大不況や失業の波を超えたばかりだ
ったからである。それでもこのネオコンの隠し事は日本人にとっては災難以外なにもの
でもなかった。この時英国を助けて参戦すると素直に言えば何も問題は起こらなかった
が、国内のイエロージャーナル相手にそれが出来なかったのだ。騒ぎを求めたこのジャ
ーナリズムも又正確に日本人を記事にしていれば良かったのだが東洋の理解も中国人と
日本人或いは朝鮮人の文化の違いが判って居なかった。更に悪い事に海の向こうの日本
に植民地主義の運営として、彼らは大きな脅威を感じていたのである。この事が悲劇を
産んだ。日本への経済制裁も時の国際法違反までして船を沈めて嫌がらせを行ったし、
既に戦争をして敵国になっていたドイツ人すら強制収容所には送らなかったが、日本人
には財産没収までしてそれを行った。それは欧州でのドイツのユダヤ人の財産を没収し
た事と全く同じだった。ドイツで起こったアーリア人優性主義は直ぐにアメリカで優生
保護法となって日本人にも襲い掛かった。とりわけ、ドイツでのユダヤ人収容所と全く
同じにアメリカで行われても結果が違ったのは、日本人は野菜などを栽培して自給自足
を行ったからである。その主体となる排外主義は敗戦時にソ連ですら同じに日本人収容
を全く同じに行った事で解る。上流支配層では奴隷が誰でも良かったし中流の一般の実
行支配者は下流労働者をイエロージャーナリズムで洗脳に利用し、日本批判で実利を得
ていたのである。結果敗戦に向かい、国際法違反の民間向け焼夷弾攻撃し原爆を落した
。本国では威勢のいい声が、現場では硫黄島や沖縄では憤りに声すら詰まっていた。敗
戦後でもその憤りがソ連参戦を呼びかけ、ドイツ朝鮮ベトナムマレーシア中東南米など
にそれぞれの分離独立を仕掛けて今日の様な国家系統を産んだのである。これは他なら
ぬ、英国の気まぐれな馬鹿さによる。香港を台湾でなく中国を返しEUを抜けた様に、
英国人には正義が全くない。日本的に言えば偽善者にもならない偽者である。鬼畜の化
けた姿とされる偽者は先を読まないで今に生き結果、世界を混乱させ破壊させる。正に
その怖さが今の北朝鮮の危惧するところなのである。戦前にはやりたくも無い日韓併合
をし多大な国家予算を費やして日清戦争での日本防備を続けるしか無かった。シベリア
出兵すらも、本来日露戦争での損害賠償の領土割譲があれば行う必要のない出兵だった
が、欧米世界の魑魅魍魎の世界に日本が引きずり込まれていたのである。


879: 名無しさんAA:18/06/11 16:45
―――――――――――レレレーのレー 2

 妄想の世界が現実世界になる事は多い。それは、理想社会の夢にしろ血塗られた闘争
社会にしろ或いは地獄の釜の様な原爆の世界も諦め捨てていた筈の凶悪兵器をわざわざ
開発させた。アメリカとはおかしなそんな国である。もしアメリカが出来たての赤ちゃ
んの様な国でなかったら、英国が幼児の様な新しい島の国家でなく日本の様な欧州でも
古い歴史のある国家であったなら、恐らく日本と言う国を正確に良く知る事が出来たで
あろうし日本とは固い友人となったであろう。しかし、それは無かったし、自らの使命
として東南アジアの支配欲にさらされて人間である事を見失っていた。そして今も同じ
である。西洋社会の悪魔的仕業はその考え方にある。今や落ち着いて人口抑制に傾き、
出生率が低くなったが、一時期の爆発的人口増加に闇雲に戦争はその自然な行為とした
。それは植民地主義の奴隷による自分の世界の広がりからだ。栄華に満ちた独善は今の
アサド大統領の世界だし金王朝の世界観であろう。そもそも日本の様な君臨すれども、
統治せずなど言うのは珍しい形態である。しかし欧州の殆どの王家の安泰は日本を真似
て口出ししなくなった事にある。ロシア皇帝の悲劇もそこにあった。感情論と君主権限
とその責任の重圧に間違いを犯したし、ヒットラーの失敗も同じだし、インテグラルと
言う正義感を失った国に未来は無い筈だった。大英帝国のチャーチルも全くそこにいた
。原爆投下を命令したトルーマンさえも常識のない野蛮人であったと言えよう。生まれ
たてのこの国々には、西部劇に見られる野蛮な人を殺して襲う事を「アメリカンスピリ
ット」として崇拝する思想の中にあったし、今でもその伝統が白人優位主義の中に息づ
いている。今トランプを支持している思想はその裏にある伝統的不安である。因果応報
の悪業に近い消費社会の行く末が或いは生産のない襲撃や搾取の社会が続く筈はない。
と言う根本原理を知った上で、しかし自分はその頂点でそれは許される人間や人種だ。
と言う強い自己陶酔である。この卑賎思想はアジアを分断した。もしアメリカが日本を
怖がらなかったなら程よいアジアが世界を一望していたであろう。もともとアメリカ国
内外のいわゆる政経オピニオンリーダーは、独立戦争が終わると、「次はアジア」とば
かりに植民地主義の中の奴隷の量を増やす事を資産と考えていた。この事を抜きに今の
世界は語れない。それはまるで軍隊が武器の量と大きさで物事をはかる様に領土と労働
人口で国力を見ていた。つまり世界地図で見る様にちっぽけな島国の指導者が世界で発
言する日本の姿が全く気に入らなかったのである。代わりに中国をアジアの長として、
巨大と見て居たしそこが頭下げてやって来ることを大変満足していたのである。

880: 名無しさんAA:18/06/11 16:45
―――――――――――レレレーのレー 3

 1868年は日本では戊辰戦争時代で、江戸城の無血開城した年である。つまり幕府
が無くなり明治新政府が出来る頃が1868年〜1898年末の講和が成立しパリ条約
でキューバの独立は承認されまでの年だったのである。1898年のアメリカ海軍の戦艦の
メイン号がが白人士官の上陸後に爆発、沈没して266名の乗員を失う事故が発生した
この中には8名の日本人コックとボーイが含まれていた。爆発の原因は不明だったが、
証拠とされたものは矛盾が多く決定的なものが無く、ニューヨーク・ジャーナル、ニュ
ーヨーク・ワールドを始めとした当時のイエロージャーナルはスペイン人による卑劣な
サボタージュが原因であると主張し騒ぎを煽った。こうして戦いの始まりが出来た。正
にネオコンの始まりだった。ウィリアム・マッキンリー大統領は開戦に同意せず世論に
持ちこたえていた。しかしメイン号の爆発は、戦争への世論を非常に強力に形成させた
。さながら911架空テロの様に時の米国民は熱狂した。この戦争でスペインでは太平
洋艦隊、大西洋艦隊を失ってしまい戦争を継続する能力を失った。交戦はに停止した。
形式上の和平条約は12月10日にパリで調印され(パリ条約)、1899年2月6日にアメリカ
上院によって批准された。この時奇妙な契約が交わされた。勝ったはず米国が金を払い
南米とフィリピンの権利を買い付け、ハワイを準州としたのである。パリ条約ではキュ
ーバの独立は承認され、アメリカはフィリピン・プエルトリコ・グアムを領有が認めら
れ、アメリカの帝国主義の最初の戦争となった。1775年から1783年がアメリカ独立戦争
と言われ、僅か十数年で海外に殖民地をもつ国家として一躍世界の強国となったのであ
る。又、米西戦争ではアメリカに協力して戦ったフィリピンの独立派アギナルドなどの
フィリピン共和国に対してはその独立を認めず、フィリピン=アメリカ戦争で植民地支
配を開始し、それを足場に、中国への進出をはかることとなった。ハワイでは親英的な
政治から、米国の属国を求める声が経済界から強くなり。1887年にクーデターが起こり
、カラカウアは修正憲法(銃剣憲法)の成立を承認せざるを得なくなり属州となった。
こうして1898年にはハワイ準州として併合されて消滅した。この頃既に中国は阿片戦争
に負けて多くが渡航しアメリカ移民となっていた。アメリカ社会の中で黒人奴隷制が廃
止され契約労働者として、代わる安価な労働力として中国人移民は歓迎されていた。又
ゴールド=ラッシュの西海岸の鉱山でも急増し、大陸横断鉄道建設が始まるなかでも、
中国からの移民が無制限に認められ、多くの中国人労働者が苦力(クーリー)といわれ
て酷使されていた。特にカリフォルニアでは1870年代には州人口の9%をしめるま
でになり、清朝政府の公式には海外移民禁止令は絵に描いた餅だった。

881: 名無しさんAA:18/06/11 16:46
―――――――――――レレレーのレー 4

こうした中の南洋華僑は、独特の習慣や言語から集団で町を形成して、辮髪や中国服・
中国語を捨てずに、白人に同化しないことにいらだちがあり、中国人移民排斥運動が激
しくなった。白人の中国人に対する人種的な差別、攻撃はたびたび暴力的になり、多く
の犠牲者が出た。チャイナタウン焼き討ち事件は各地で頻発し、残虐な殺人も行われた
。これらの運動には、労働職場を追われた東欧民やアフリカインド人の怨嗟の声も含ま
れていた。こうしてアメリカ合衆国議会は、1882年に中国人労働者移民排斥法を議
決した。移民の国アメリカにおいての、初めて制定された移民制限法である。この時の
白人の中国人に対する人種的な差別、攻撃はたびたび暴力的になり、多くの犠牲者が出
たが、これは今の欧州諸国の中東難民状態に似た状況とも言える。この約150年前の
時代、スコットランドの写真家ジョン・トムソンは、中国で辮髪(べんぱつ)と呼ばれ
るラーメンマンみたいなヘアスタイルが義務付けられており、辮髪を拒否したら、死刑
となる刑罰すら存在したと書く。日本はこの時期、やっと文明開化を迎え明治時代が始
まった頃である。戦後にアジアを決めたのは、こうした中で、やっと一息ついた米国の
平和ボケした野望であった。米国は既に中国人がやりすぎ民族でしたたかである事を忘
れてしまっていて、二つのプランが策定された。一つは救済のマーシャルプランと平和
のアチソンラインである。当時のトルーマン政権は実は棚ぼた式で大統領になっていて
、強硬派と穏健派の意見は調整していない。図らずも日本が原爆が落とされたのも、こ
うしたトルーマンの優柔不断の態度からだ。原爆批判から強硬派のJ・バーンズ長官を
退けて、穏健派のJ・マーシャルを中国特命大使にし、マッカーサー将軍を孤立させた
。又穏健派のD・アチソンを1949年に国務長官にして全く間違えた平和主義を作った。
このアチソンが作った「不退転防衛線」つまり譲れない領域として、今の中国の赤い舌
の境界線が作られたのである。元々ソ連共産党と中国共産党の違いすら認識しておらず
、チャーチルの言う危険性すらマーシャルは認識していなかった。欧州の防共ラインと
同じ様に、フランスにしたように国民党と共産党との調停に奔走していた。中国人から
「平和の使徒」ともてはやされ、北朝鮮はこの中国の支援を得て朝鮮戦争を起こした。
マーシャルとアチソンのデタラメさが明るみなって、それを見た金氏が朝鮮戦争の開戦
を謀ったのだが、それ以降もアメリカは中国の内戦に積極介入しようとはしなかった。
そればかりかアメリカは「国民党を中心に、共産党と連立した民主主義的政権をつくる
ことが望ましい。」として「民主主義を作るんだ。」と言うヨーロッパのような戦略観
強い意志もなく、アジアの中国危機を放置・拡大させてきた。

882: 名無しさんAA:18/06/11 16:46
―――――――――――レレレーのレー 5

 米国は、戦後のアジア特に中国に対する対処は、原爆を持った事の特権に胡坐を画い
た中で幼稚を極めた。これは、米国主導部や高官の怠慢と誤算のままの推移があり、そ
の後米国内での本国のスパイ狩りや赤狩りにより失政のままで手が付けられない状態だ
った。戦後のアメリカのアジア政策の失敗は、そうした経緯から直される機会を失った
のである。真っ正面からソ連と対峙する事もないだろう。とした米国の態度はそのまま
東欧・中央アジア・中東・東南アジア・極東・中南米を混乱を陥れた。今日のアジアの
危機構造に直結する姿は、既にチャーチルは予言し、今の現代人をを苦しめているが、
それでも米国のの怠慢と誤算は、今尚続いている。中国人には「人を許して罪を許さず
」と言う事は恐らく体得出来ないであろう。又「悪人も死ねば死人」と言う考え方や、
八百神(やおろずのかみ)に御蔭様(おかげさま)の姿の思想などは、全く無理解であ
ろう。米国のペリーが、黒船に乗って日本を訪れて以降、開国を強要し、不平等条約を
押し付け、第2次世界大戦では東京を空襲し、広島と長崎に原爆を投下するなどひどい
ことをし続けてきた。それでも「日本人はなぜ、米国を恨まないのだろうか。と疑問を
投げるという。又、今も尚、米国は戦後に日本の憲法を作り、日本に軍隊を常駐させて
、米軍の駐留経費まで負担させている。と言う事が不思議らしい。しかし日本人にすれ
ば、例えば国連を大事にする事や、敵を作らない事、或いは協調した繁栄社会を築く事
は、生きる事の本質であり、戦争する事と全く同じ大事さを持つと思っている。多くの
中国人や韓国人から見れば、米国が日本に対して行ってきた事に「恨みを抱いても自然
なこと」である。という主張をし、日本人g米国を恨むどころか、米国や米国人を尊崇
する傾向すらある。と伝えて不思議がる。しかし日本人はその土俵の上の達観者たる物
の視点を有する。相撲が神事であり、その勝敗よりもより勝負の場がある事の大事さ、
或いは正々堂々とした戦いを見せた事の意義を大事にしているのである。「なぜ米国を
恨まないのだろうか」と疑問を投げかけて止まないは、卑怯な行為や疚しい事の代価を
払わない事の正義を大事にする国民性にある。「生きるは修行」「山の如き無償の愛と
恵みは至上の喜び」とか「幸福は子孫為に」などと言う言葉は諸外国でも同じに見える
。更に日本人の賢さは「足るを知る。」と言う言葉にある。

883: 名無しさんAA:18/06/11 16:46
―――――――――――レレレーのレー 5

日本には、「旅は道づれ、世は情け」と言う言葉を持つ。生きるに喜びを得る事は資格
である事を海外では理解できないであろうか。この多くの日本人達は敗戦した事に悔い
は持っていない。いやむしろ薩摩が薩英戦争で負けて尚船を所望し発注したように、避
けられない歴史だったと思っている。が、許せない事は原爆や焼夷弾攻撃を市民に浴び
せ、商船沈没を計って国連憲章にもとる行為をし、兵士の戦争を国民の戦争に変えたル
ール変更やルール違反をしていながら、その全てを、ソ連を初めに 欧州諸国らが全く
米国を処罰できなかった事だ。その理由が中国にある。やりすぎ中国は常に正義を持た
ない世界を構築する。イスラム教やユダヤ教の頭にかぶる帽子のキッパーが実は中国人
の持っていた辮髪を隠す習慣から帽子が発展して今に至っている事を知るものは少ない
。紀元前のアマゾネス時代に乳房お切ってまで戦った名残でもある。実は大きく間違っ
ているのは、日本人が中国を支那人と呼ぶ事を軽蔑した言葉として捉えてしまった事だ
。これは中国人や朝鮮人が勝手に作った歴史である。良く支那人をチャイナ人の当て字
とされるが逆で、支那人がチャイナと言う呼び名になったのであって日本語というより
九州方言から付けられた名称なのだ。それは九州で電柱を電信柱と呼ぶ事に似ている。
そもそもが電信柱の方が先にありそれが正式な言葉だったのだ。支那の「那」は刹那や
任那の那である。つまり遠く向こうの地と意味を有する。日本の神話の時代から、その
言葉はあったし、東支那海や南支那海は、その頃の人々の知識である。日本は「満州国
」を建国したが、建国する以前から「満洲人」の漢字はあったし、満洲の民族名manju
(マンジュ)もその当て字である。つまり、元来人々は表記はしなくとも言葉は使って
いたのだ。中国人は今でも甲骨文字が漢字の起源と思っている。しかし甲骨文字以前に
中国にあった文字がバビロニアから伝わっていた。近年の研究で黄河文明よりは、揚子
江文明更に長江文明が現代中国の文化を作ったと言うのが正しい見方の様だ。つまりは
漢人などと言うのは成り上がりの少数民族に過ぎず彼らが中国を代表する民族ではない
。那族は今もまだ謎だが恐らくは白ロシアなどに居た農耕民族であろう。というのも、
白ロシアに騎馬民族のような風習はあるが、水の多い湿地や沼地は戦いに不具合があっ
た。現在解っているのは近代の前には土の色でルーシ族はそこを呼んだ、方角を色で示
していたのだ。南部の赤、西部の白、北部の黒が彼らの認識だった。ベラルーシ白ロシ
アなどだ。その中で革命が起こり蛮族の覇者が赤軍だった。対してエカテリーナの帝政
ロシア軍は戦いつつも白系ロシア人として海外に逃亡したのである。

884: 名無しさんAA:18/06/11 16:47
―――――――――――レレレーのレー 6

 朝鮮半島の特に北朝鮮問題には、常に民族問題が付きまとう。従って漢民族朝鮮半島
の歴史と言う視点は特に大事だ。特に何故日本が日韓併合させられ、既に権益を持って
治めていた満州国を建国するまでに至ったのか。その精神的要因の影に日本人は誇りに
基づいた並々ならぬ努力があった事を思い知る事になる。紀元前770年頃周の幽王が
殺され落邑(洛陽)に都を移して、春秋戦国時代と言われる時代に既に中国は騎馬民族
の攻撃の前に国内治政は常に波乱の中にあった。隋や唐の時代に一旦は落ち着くが、又
同じ様な国力を争う時代がやってくるのである。その理由が今の韓国と北の闘争の様な
ものであった。この中を隋を作った楊氏がいた。隋とは「走り回る」と言う意味がある
。当時将軍の一人となった楊氏だったが、その国は鮮卑族によって廃帝させられていた
。そして漢人である楊氏にも普六茹(ふりくじょ)という姓を与えられたとされる。普
六茹とは鮮卑語でヤナギのことである。この苗字に嫌気があったのか北周の外戚となっ
て次々と頭角を現し国を平定し隋を建てた。『隋書』によれば、後漢代の有名な官僚・
楊震の子孫にあたる楊震は、かつての教え子が「誰も知らないことですから」と賄賂を
渡そうとしたところ、「天知,神知,我知,子知,何謂無知(天地の神々が知っている
。私とあなたも知っている。誰も知らぬとどうして言えよう)」と言って拒否したとい
う四知の逸話で有名な人物である。日本語で言う「天知る地知る我が知る。」である。
この隋の国号に既に儒教的史観による革命解釈に適合するものとして喜ばれ、楊堅改字
説が定説となった。こうした儒教じみた影響が深く、中国では「身体髪膚(はっぷ)こ
れ父母に受く。あえて毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり」(体のすべては両親か
らいただいたものなのだから、これを大切にし、傷つけたりしないというのが親孝行の
基本である。)と言う考えがありこの唐の時代すら辮髪はない。ではあのラーメンマン
の辮髪は一体何処から来たか。それが隋の周りにいた鮮卑族や、突厥・西域・突騎施・
契丹などのトルキスタンを中心にした遊牧民族である。ステップロードの諸民族が混入
した騎馬遊牧起原の人びとである。彼らは拝火教や仏教を信じる民族と信じない民族と
入り乱れて生活していた。ここにイスラム教がやって来た時、羅髪と言う髪を大事にし
た民族に徹底して攻撃を加えた。実は宗教的に仏教や拝火教以外は、剃毛師と言う陰毛
処理の専門職を与えている。当然刃物を扱うため信任のある役職となっていた。後世の
アショカ王伝説では前王ビンドゥサーラの剃毛師がヒンズー教のバラモンだった為に、
民衆の仏教徒達がアショカ王の兵となって王位を与えた事が伝えられている。


885: 名無しさんAA:18/06/11 16:48
―――――――――――レレレーのレー 7

 イスラム・キリスト・ヒンズー・ユダヤを問わず、殆どの近代宗教は成り立ちに於い
て、陰毛も頭髪も穢れたものとして扱う。しかし自然崇拝する多神教の幾つかの宗教の
みはそれを嫌い、清貧宗教として存在していたのである。その為に偽宗教として政治的
に体制と同じく権威を求めて王冠と同じく帽子を被る事になる。その為に伸ばした髪は
邪魔で辮髪となった。実は紀元前の太陽神を信じたミトラ教でも同じで、編み上げた髪
を帽子に隠す為に被り物をしている。つまり剃髪は僧となっているか一般人かの目印と
して多くの宗教に認められた行為だったのである。ただミトラ教時代即ち紀元前7〜5
世紀頃のヘレニズム文化の中で育った宗教でかつら被る流行すら起こったとされる。元
々中世時代まで人々はそんなに綺麗な暮らしはしていなかった。風呂も月1回は多い方
だし野糞は街に散らかっていた。つまり毛を剃ってでも綺麗にすることは身だしなみで
も健康の為であったが、髪の無い事は隠す必要も又起こったのである。そこに帽子や鬘
の必要性も起こったと考えられる。こうした鬘や帽子の発展は何も欧州に限らない。そ
して、中国の辮髪はそのミトラ教の類の名残りだったのである。日本が戦争に突入する
まで、中国人はその辮髪スタイルや皇帝の体系を止めては居なかった。ラストエンペラ
ーの時代である。その後に、中国で毛沢東がこうした宗教を捨てさせ共産党礼賛に走り
、朝鮮半島にもその勧誘の共産党員が多数出来た。そして戦争が終わって「俺が俺が」
でそれぞれに政権を作ったしその為の国内大戦を繰り返した。これが朝鮮戦争の実体で
ある。近年勧誘平昌(ピョンチャン)オリンピック(五輪)をきっかけに南北間の対話
ムードが形成させて、「ロケットマン」と「老いぼれた爺い」の戦いは拳を下げた形に
なった。「交渉の条件は『完ぺきな非核化』でなければいけない」という米国の確固た
る態度や立場はあるが、朝鮮半島からの米軍撤廃にしたたかに挑戦する北朝鮮には変わ
りない。CVID(完全かつ検証可能で不可逆的な核廃棄)が前提だ。などと言う声も
あるが、それは不可能であろう。そもそも日本が経済支援も隣国経済の交易もなければ
中国も韓国も北朝鮮も平和な小国であったのだ。そもそもこのゲームには各国の思惑が
炒り込み過ぎている。既に中国は飛行機を貸し出しシンガポールはホテルを提供した。
国際華僑の暗躍がここにある。もう北朝鮮は、アメリカがユダヤに乗っ取られている様
に借りを作った形の会談である。かつて、隋の皇室である楊氏は「金銭鼠尾」(コイン
の下に鼠のしっぽ)と馬鹿にした辮髪も、その後清朝宮廷の正装とされてその髪型にな
い中国人は虐められて辱めも受ける羽目になった。日本以外のアジアはそんな世界であ
る。北朝鮮を弄ぶには火傷する。箸にも棒にもならぬ道具で物は掴めない。

886: 名無しさんAA:18/06/11 16:55

箸にも棒にもならぬ道具で物は掴めない。米国も中国で学んだはずだ。どうしよう無い
国は発展してもクズ大国のままである。特亜3国は恐れを知らぬ馬鹿国家でアニメの中
の世界制覇の悪の軍団と同じで、戦い始めれば、それこそ中国の歴史の様に常に戦わね
ばならず 平和なんて来ない。付き合わない。言葉を交わさない。目を合わせない。勝
手な事をさせない。この事が大事である。それでも歴史は繰り返されるのかもしれない



887: 名無しさんAA:18/06/12 16:03 ID:fQ2
―――――――――――レレレーのレー 8

箸にも棒にもならぬ道具で物は掴めない。米国も中国で学んだはずだ。どうしよう無い
国は発展してもクズ大国のままである。特亜3国は恐れを知らぬ馬鹿国家でアニメの中
の世界制覇の悪の軍団と同じで、戦い始めれば、それこそ中国の歴史の様に常に戦わね
ばならず 平和なんて来ない。付き合わない。言葉を交わさない。目を合わせない。勝
手な事をさせない。この事が大事である。それでも歴史は繰り返されるのかもしれない
。かつて、大正天皇崩御当日の1926(大正15)年12月25日、東京日日新聞(毎日新聞の
前身)が新元号を「光文」と報じる号外を他紙に先駆けて発行した。だが、その後には
、宮内省は新元号を「昭和」と発表した。この誤報は当時、同新聞社での社長は辞意を
表明する大騒動となった。結果的に編集幹部の処分にとどまったが、この「光文事件」
として号外史に“黒歴史”を刻んだという。又 平成に入ってからも、産経新聞の出し
た電子版号外の2大誤報などがある。2011年7月に「死去」と報じられた江沢民氏は後
に生存が確認され、編集局長が処分を受けた。最近では暗殺の危険にウクライナでフェ
ィクニュースを意図的に流して命の危険を回避した。と言う事件が起こっている。日本
では天皇が未だ解決しない福島原発を前に 津波の市町村を訊ねられて 多くの市民に
優しい言葉で語りかけて人々に希望の光を灯し続けていられる。「君臨すれども統治せ
ず」を 厳しく守られるその御姿には頭が下がる。昭和天皇もそうだったが見識の深さ
と 見る目の確かさは、日本を見守るに相応しい人間像を見せている。これらは言葉の
持つ強さ、情報の豊かさや伝達がもつ重要さが見え隠れしている。この言葉の持つ強さ
、伝達の持つ正確さや正義は、恐らく人間社会が出来た時から古代より変わらないもの
であるのだろう。考えれば生物が声を発するのは3つしかない。危険や仲間に注意喚起
を知らせる声と、求愛を求めて仲間に声を上げる事、更には悲しさのあまり親を探す事
の三つである。強いて言えばもう一つは餌として罠を取る際に物まねや威嚇もある為に
4つなのかもしれない。日大において報復人事や報復予算更に報復パワハラが横行して
いる事が判明した。今の中国共産党の国内と全く同じである。こうした中に麻生氏など
は今だに国会答弁で、佐川氏の処罰は妥当なものだと答えている。かつての民主党議員
が偽メール事件で自殺するまで自民党は追い込んだ発言をしていたが、その時の攻撃的
発言とは大違いである。そもそも国会審議において安倍首相を初め理由なき嘘発言は既
にアウトであろう。今政権からでも政界から退場させなければいけない話である。首相
夫人が公人ではない。とか妻が関わって居たら辞任する。とか、佐川氏の資料は廃棄し
たとか証拠がない。と言った類の嘘は国会の外でも認められない話である。

888: 名無しさんAA:18/06/12 16:04
―――――――――――レレレーのレー 9

こうした報復人事や報復予算報復パワハラを行ってやまない環境の国に、米国はサミッ
トを抜け北朝鮮は話し合いを持つと言う。果たして一体人類は一体何を求め 何をしよ
うとしているのか。報道各社は翻弄させる速報でなく時代を超えた報道をすべきであろ
う。退化してのこの4つの声のみの代弁者となってはならない。全く盗人猛々しい声に
推された様な日大や国会の様な様態には、世論や人は怒りを覚えるべきで 代任者とし
ての天皇の権威がある事をよく考えねばならない。全く日本人で無くとも、世界人類は
欲の皮が突っ張った生物であり、この「君臨すれども統治せず。」ただただ権威によっ
て奉仕する姿に、議会制民主主義の在り方を問わねば、今のEU離脱を決めた英国議会
の様な嘘の決定を下し判断に突き進む可能性がある。今では平和の為に人類が守るべき
規範の代弁者たる資格を持つ国王や女王すら無用のものであろう。全く暴走自民党の止
まらないままに国会の独裁化選挙の私物化をどうにかする事は大事な事だ。よく馬鹿な
国会議員を社員に例える話をする議員がいるが、そんな認識で不勉強な議員には決して
投票してはならない。議員とは代弁者であり監督者である。党をして一つの価値観で支
配し利益尊重で自由離脱のいい加減な会社などと比較して、社員の様な議員なら議会な
ど必要は全くない。今日本の陥っている問題はそこにある。国会や議会、地方議会や隣
組でも話し合いをせず時流に乗った伝達機関にしかなってない上に経済原理に立ってい
る事である。法案通過も作った者の認識不足や知見不備をそのままに欠陥法案を並びた
てて次々と年間何十本も作成している。無駄で全くの間違い多い法案ばかりだ。予算委
員会も同じで全く審議をしていない様な国会運営のままだ。まず各省庁の所信声明など
公的発言体である事を取り戻す事が大事である。だいたい米朝会談は只のインスタ映え
した映像ニュースでしかない。より以上に問題なのはG7サミットの中の4項目である
。米国が貿易戦争関税競争を辞さなかった事や今だに英国のEU離脱のままである事、
更に移民問題が片付かない事イランや中東の未来やロシアの情勢分析がなされなかった
事である。このしなかった事に更にプラスチックゴミの話合いに日米が取り残された事
も入れるべきかもしれない。これだけ動かない更にカナダ米国或いはEU米国が仲違い
したG7も珍しい事で世界的には危機的状況なのだが それでも米英の株は呑気に上昇
している。全く考えられない非人道株価である。

889: 名無しさんAA:18/06/12 23:49
―――――――――――レレレーのレー 10

 まあこの程度であろう。「6ヶ国協議時代に戻った。」「しかし戦うわけいかんだろ
う。戦争したら韓国人が死んじゃうかも知れないんだぜ。」「ええ、そして韓国が西側
から離れるかも知れない。」「そうなんだ。物わかりが良いじゃないかシンゾ―。」て
な話しぐらいだろう。しかし北朝鮮としても例え金氏が核を手放すなど言っても北朝鮮
人民は全く驚かないだろう。かつてシンガポールがルックイースト日本を見習え。など
と言っていた戦後すぐには北朝鮮の方が随分と豊かであった筈だ。しかしあっと言う間
にその繁栄を築き、今や北朝鮮の景色とは打って変わった繁栄の中にある。金正恩は、
度々日本を隠れてやって来ていた。福岡のスペースワールド長崎ハウステンボス東京デ
ィズニーランドなど彼は遊興施設は好きだった。もっとも彼の母が在日コリアンとされ
るが実は戦時中日本から北に渡って帰ってきた日本人らしい事が解っている事から、心
の底には日本人的真面目さがあるのかも知れない。基本的には韓国は、今や民主主義の
危機にある。文氏には日本の様な「君臨すれども統治せず」の国王が必要になっている
。歴代大統領はこの韓国の成立の経緯から全く犯罪人としてその退位後は良き人生に至
っていない。光州事件では形だけの民主主義に民衆が対決し大勢の死傷者を出してまで
も全斗煥のクーデター軍事政権を倒せなかった過去があるからだ。演説で「文在寅政府
は光州民主化運動の延長線上に立っています。」「新政府は5.18民主化運動とろうそく
革命の精神を仰ぎ、この地の民主主義を完全に復元します。光州の英霊たちが心安らか
に休めるよう成熟した民主主義の花を咲かせます。」などと文氏は言っている。北朝鮮
では逆に金王朝の安泰である。北朝鮮の体制もだがそれ以上に身の安全の保証と自らの
自由や権力更に金を求めている。そして北朝鮮人民の豊かさである。核の放棄はいつで
もOKであるがそれはこの王朝の安泰があればの話と言う事になる。非核化は北朝鮮の
開放を行うしかない。となれば休戦から終戦宣言は不可欠だがこれにロシア側と中国側
の了解が必要だがそれが可能だろうか。ロシアは日本と同じ様に統一朝鮮が大きく経済
大国になる事は望まないが、核兵器撤去であれば了解する可能性は高いかもしれない。
ロシアにとっては朝鮮人の労働力は欲しいからだ。しかし中国はどうだろうか。習近平
は案外安全を取り 名目通りに非核化には賛成かもしれない。韓国の駐留米軍がなくな
れば、の話であろうが。その為に代用飛行機を用意し華人ホテルを用意したのだろう。
つまり鳥瞰してみれば朝鮮半島の住民の気持ちに誰も反対していない事になる。問題は
この南北の同床異夢の境地なのかもしれない。


890: 名無しさんAA:18/06/13 11:50
 しかし又このトランプという男は何処まで身勝手でお騒がせ大統領だろうか。イラン
の核合意ではオバマのこの中途半端な年限を限った核開発制限合意をこっぴどく批判し
、こんどの合意では道筋の一端すら書き込まずに、時間が無かったんだと平然と言って
いる。通常こうした会談には裏ではかなりの打ち合わせし、合意を突き詰め秘密裏に下
準備して臨むもので、更に目標値を下げて期待を裏切らない用意をするものだが、今回
は盛んに上げて宣伝して結果は下手なTV番組より悪い結果だ。金正恩の時間引き伸ば
し作戦に乗っかかり、北朝鮮の非核化などと言う文言もなく、米韓の軍事演習を止める
という譲歩を取って、努力目標のままでなし崩し的に制裁解除を中国や韓国にさせてい
る。ミイラ取りがミイラになったと言う正に機先一転で北朝鮮の駒犬になった形だ。ま
もともと、この人は常に騒ぐだけの実力も知識もないキャラクターとして米国民が当選
させたのだろう。いかにも米国人の好きそうな内容のないチャラ男である。移民対策に
境界線には壁を建てると意気込んでメキシコに行ったが、ちょろっと会談しただけで帰
って来て、TPPを蹴ってFTAを見直すと言っては韓国カナダを驚かせた。中東では
イエメンの悲惨さがあったにも関わらず、武器売却をサウジにどんどん売り込む契約を
後押しした。EU諸国にはもっと金を出せNATOを応援しないぞと威嚇しては、中国
で皇帝待遇にコロッと首を担がれた猫の様に騙された。今度はG7すら貿易戦争を煽る
発言で怒らせてしまい、隣のカナダの首相には言いがかりとも取れるSNSを発して、
このシンガポールに乗り込んでいる。まあこれで完全に北朝鮮は核兵器を完成させる手
立てが出来た。と言う事だろう。まあどっちみち北朝鮮は貧民集団を率いて既に高価な
ミサイルを飛ばせない、核実験場は思わぬ威力の大成功で使えない。経済制裁で窮鼠猫
を噛む状態が続いた中では、取り合えず正解の処置でもある。とロシア中国は手を叩く
。まあとりあえず昨年までチキンレースと取りかねないツイッター攻撃の戦争突入は、
無くなった形である。まあ日本のTV局や政府が騒ぎ過ぎだが、といって隣国の核ミサ
イルを向けられた中では気にせずにはいられない。と言った処だが。しかしこの農地の
ないシンガポールの繁栄は北朝鮮に限らずロシアや中国や米国には、多分に頭が下がる
思いだろう。つまり領地や支配地の拡大や権益の多さを比較するが、実は繁栄や幸福や
或いは地位と言った物はそうしたものには関わらず、いかに完成させるかでありそれが
平和の維持にある事は、この国が物語っている。日本の北方四島や尖閣諸島或いは竹島
など占領されても戦わないのはその合理性にある。そして敗けると解っていた米国との
戦いも実はその合理性からだ。良く自虐史観で日本の軍国主義を称賛するなと言う話が
ある。だがもともと日本は米英の自由な気風の中にいた。全く進化しない中国やアジア
に行きたく無かったのだ。大東和共栄圏構想は、そうした嫌がる国民に指導する言葉だった

891: 名無しさんAA:18/06/14 19:26
五族共和の大東和共栄圏構想や、鬼畜米英と鼓舞されたのは
、わざわざ軍部が洋風文化の礼賛を止める為に作ったものだった。しかし、その理由は
別に戦争する為でなく、植民地政策で拡大する他民族奴隷主義、つまり今のパンアメリ
カンを標榜し大英帝国が世界を動かしなどと言う欧米列強の覇権主義の上に動いていた
事の対抗の為に出来たのである。この事覇権進出の阻止が最大の課題として動いていた
。というこの事は紛れもない事実であり、アジアのその後を決定もした。その意味では
日本はアジアの黎明期を支えてきたのは自虐史観を説こうが 軍部礼賛を説こうが事実
であり現実だったのだ。DV事件は女性の嫉妬と同じである。本当に愛していればしな
い行為つまり暴力やら殺人を行う。女性の嫉妬も全く同じで本当に好きな男には近づき
たがらない。だが他の女と競う事で好きでもない男に付れ添うのである。そこには悲し
いかな性交と言う実利が伴う。恐らくこの北朝鮮の金氏と米国のトランプ氏の問題も似
た様な物であろう。全くもって恒久平和や核廃絶を謳っていても、心からそう願う話で
はない。そこが問題で北朝鮮代表として北朝鮮の人民を思う事も無く、又米国代表とし
て米国国民の為ではない事を簡単に行う。これは第二次世界大戦のトルーマンの虚栄心
と全く同じなのである。菅長官の「IAEAの査察の初期費用の負担は用意する。ただ
し前提となるのは、北朝鮮の非核化が進んで国際原子力機関(IAEA)の査察が行わ
れることだ。」と言う言葉は日本国民の恥辱である。北朝鮮の核廃棄に「日本や韓国が
費用をはらうだろう。」と何処かの不良にぶら下がった坊ちゃんよろしくATM代わり
に利用されている。この不甲斐ない安倍政権はトランプが首脳会談キャンセルのための
書簡を送付した後に、世界でたった1国だけ「トランプ大統領の決断を支持する」と表
明した国を見せつけた。こんな日本政府は小泉中曽根の欺瞞行動で日本の行政破壊と、
全く同じ行程である。世界からこんな軽い国とされるために世界大戦に挑んではいない
。戦争に負けても戦争に走ったのはアジアの誇りと正義をかざして戦う意義を持ってい
たからだ。そして今の日本の企業精神も天皇を持つ日本の憲法精神も同じだ。どんな署
名や条文や同意があろうと、思いと信用が大事であり人間性の問題なのだ。イラン核合
意破棄で外交音痴の大統領レッテルの挽回で、拉致問題を餌にされて電話会談を信用し
て米国と一体などいう事自体おかしいのだ。日本は日本でちゃんと諜報活動して、日本
の方針を策定し国民に公表すべきなのだ。こんなミサイル発射時より悪い環境など日本
人なら許されない合意である。つまり日本は強固に米国の言い分も北朝鮮の言い分も突
っぱねてソ連に核ミサイルの購入計画を立てた方がまだましだ。

892: 名無しさんAA:18/06/15 05:14

 英国民にはEU離脱によって 企業が競争力の為にリストラされる事を理解していな
いようだ。もし多角的にEUに食い込んだ企業経営であればリストラする必要はない。
だがはっきりと境界線を引き利益や損失を支店や支所ぐらいの規模で決定するしかない
なら、英国の半分は失業の憂き目にあうだろう。EU内にいて給与が下がる事が嫌いと
離脱して5割ほどの浮浪者を抱え込むことが良いと政府が考えたと思うべきだろう。全
くかつて植民地拡大策をとった国とは思えない英国離反である。



893: 名無しさんAA:18/06/15 06:37

 経団連は何をどう考えてこんな非国民の様な春闘を行うのか。今業績が良い好売上げ
の会社と言うのは解せない話だ。何故か、それは原料高騰のあおりを食っているからだ
。ここで業績が良い或いは利益が良いという会社は 殆ど詐欺師か荒稼ぎ団体であろう
。つまり政府が補助する団体であり 出さないで良い国家予算を賄賂で使っているとい
う話である。食品が小さくなり 税出しを大きくし 更に数々の経費を多くする中で、
利益を上げるのは簡単な事しかない。道徳的価値感を捨てる事だ。つまり良心的価格を
奉仕価格を捨てて利益を取る。そういう企業に変わったと言う事だ。これもアサヒビー
ルの指導であろう。全く国民を馬鹿ににした政策だ。トリクルダウン説はあろう筈もな
い富者の供給である。こんなバカな感覚では誰も何も買わなくなる。全く産業破壊思考
である。事実旅館業法をちゃらにしたような民泊や旅客業法を無視した白タクの蔓延は
実は業界団体が 何をもってどう守るかが間違えているからだ。



894: 名無しさんAA:18/06/15 23:54
    世界閲覧 28

 英国の間違った治安対策は近年すごい。警察治安予算が削られたのは、EU離脱の声
があがった年だ。移民問題でほホームアローンテロと呼ばれるイスラム国に入って戻っ
てきた英国人が増えて来た時に膨大になる予算の執行を止めたのである。だがこれは、
国内治安悪化の予兆でもあった。EUから離脱を決めると次々と企業はフランスドイツ
に本社機能を移し、移民どころか自国民の若者の就職先を更に減らしたのである。更に
ロンドンの治安は悪化し、今では8千円以下の被害や交通ルール無視やら小さな軽犯罪
や盗難や落書きなどには無駄な労力として受け付けていない。オリンピック時の大きな
支出として監視カメラを町中に据え付けたのを利用し、それ以降は軽微な予算でいいと
していたが全く間違った政策になった。もちろん監視システムはそれなりに効果を挙げ
た。しかしそれで今までの警らや巡回が減ったのと同時にスクーターギャングという、
やりたい放題のグループが町をさまよう。店を集団で窓ガラスを割って盗品しそのまま
フルフェースのヘルメットで犯人が特定されないまま横行した。更に白昼でも道行く人
のハンドバックもスマホも手提げカバンも何でもかんでもグループで追いはぎを行うの
だ。更にその集団は共謀で一人はピストルを所持している。そして今年は初めてニュー
ヨークの軽犯罪を上回りスクータテロともいうべき殺人事件も起こってしまっている。
これではもう手を付けられない。現に恐らく3千人程いて2千人の予備部隊がおり、恐
らく5千人程のこうしたナンバープレートすらつけない不埒な若者がいるとされ、今に
なって必死になってその検挙に挑んでいるが増加の一途である。つまり既に不況の元凶
が若者に及び 行政の支出削減で悪者がはびこると言う状況に陥ってしまったのである
。果たしてこれが終息するのに何年かかろうか。今の検挙青年が20才で既に職を得ず
こうした事で70まで過ごすとしたら50年は警察とのいたちごっこが続く。これは、
結局鉄は熱いうちに打ての鉄則に反れて、落書きや小さな器物破損或いは暴言や小さな
軽犯罪を経済合理性で捨てた結果である。結局それは単年度の研究成果で長年にわたる
景観教育の悪さが大きな経済損失を産む結果を出したのである。これが西洋式の合理性
で中国の覇権主義中華中心主義と同じだ。無駄をどこに見るか。人間の生き様をどこに
置くか。此れには深い思慮と見聞を持たなければ 現代医学や現代の経済理論は 既に
破綻しているのである。この事を人々はもっと知るべきだろう。


895: 名無しさんAA:18/06/16 12:55
 米朝会談は万々歳の平和裏に終わった。しかしその後米国内でも日本でも、朝鮮側の
報道に注視したまま推移したが、とうとう北朝鮮は国営ラジオ平壌放送は15日論評で
、日本を「無謀な北朝鮮強硬政策に執拗にしがみついている」としたうえで、「日本は
すでに解決された拉致問題を引き続き持ち出し、自らの利益を得ようと画策した。」と
の主張をした。この時初めて従来通りの北朝鮮が「拉致問題は解決済み」との主張を示
した。米朝首脳会談以降の初めての論説である。この北朝鮮側の主張を出して北朝鮮は
自ら退路を断った事になる。この大きな失敗で金正恩は恐らく3年は持たないであろう
。シンガポールでの「マーライオン劇場」は、主役のドナルド・トランプが「会談はパ
ーフェクトだった」と大見得を切るほど満足だった。米朝首脳会談のテーマ「北朝鮮の
非核化」を敢えて「朝鮮半島の完全な非核化」という文言で、「完全かつ検証可能で不
可逆的な非核化(CVID)」に踏み込まなかった。強硬派の、ポンペオ米国務長官や
ボルトン補佐官あるいはマティス司令官の意見を、敢えて取り入れずに北朝鮮をフリー
にした形の共同声明である。こお北朝鮮に期限を区切って核を放棄させ、検証措置を呑
ませることはできる筈でもあったがそれをしなかった。セントーサ島のホテル・カペラ
での「アメリカとしては、完全な非核化が実現されれば経済制裁は解除するつもりだ。
だが、本格的な経済支援を受けたいと考えるなら、日本と協議するしかないだろう。」
と言う金正恩に語った言葉を理解したと思われたからだ。トランプは、その日本とは、
直接会談して拉致問題を解決しない限りは、経済支援に応じないだろうとくぎを刺すこ
とを忘れなかったのだ。「拉致問題は解決済み」と強硬な姿勢を崩してこなかった北朝
鮮はトランプの説得はそれなりの効果を上げると期待したからだ。中国の入れ智慧であ
ろう米韓軍事演習の一時中止もその為に快諾したし、日本の「対北交渉を、支えていく
つもりだが、北朝鮮が正しい方向に歩み出し経済支援を考えるなら、拉致問題の前進が
絶対に欠かせない。拉致問題は解決しなければ政府が北に資金を出すなど国民の理解は
到底得られない。」と言う意向にも沿ったものだったからだ。朝鮮戦争に事実上終止符
を打ち、朝鮮半島の永続的な平和体制を築くと謳いあげた。更に北朝鮮の体制を保証し
、米朝の対話が続く間は米韓合同演習を行わないとし、資金提供の可能性まで示唆した
。これまで譲歩しても尚「拉致問題は解決済み」との主張を示した。と言う事は中国の
顔に泥を塗った事になる。これで中国との経済戦争は避けられない。ハワイ以西を中国
支配で整えるとした意見に、実力が伴わない事を見せつけた事になるからだ。当然世界
の市場は中国排除に動き出す。もっとも近い兄弟国を思うに任せられないからだ。平和
の尊さは誰もが知る。だがそれが米国の影にある事を思い知るであろう現実がそこにあ
る。このままでは例え韓国が泣きついても中国や韓国すら国として建っていかない。

896: 名無しさんAA:18/06/16 17:59
 IT業界の試練は、メルカリと言う不用品販売におけるマナーに通じている。今や、
世界的にもアマゾンもフェイスブックもウーバーも人々は許せないほどの悪業媒体と見
なしていいだろう。今までのビジネスモデルで培った信用や生活習慣を全く壊して止ま
ないからだ。例えばアマゾンの企業実態は社会に住み着くダニや吸血鬼と同じ実態だ。
仕入れに関しての入場や登録は常に威圧的でライバル会社を巻き込ませ常時利益をもた
らす。一方配達に関して言えば多くのプラットホームに言えるがその顧客の個人情報は
常に盗まれたり利用されたりしている。そこで配達した品物は追いかけてくる盗賊によ
って次々に盗まれて更に再販売されている。又届けられた庭先での事件は頻発し中には
殺人事件までも起こっているが、当然アマゾンは自社には届け先の住所の敷地内まで届
けた後には自分の会社に一切責任はないとにべにもない。更に深刻なのはアマゾン本体
の赤字は全ての下請けが背負っている事だ。例の山火事や放火などで どこかの倉庫が
焼けたがそれで配達できなかった家庭に遅延料金が発生する事も納入業者の倉庫として
その後納入できず更に資金回収も出来ず潰れたのも関係ない話だとよりつく隙もない。
一方フェイスブックもそうした流出した個人情報にフェイスブックは真摯な姿で欧州の
諮問委員会の査察に応対したが、それでも内情やその機能やプログラムは一切開示はし
ないしその後改良したとして会員を増やし続けている様な風情は、かつての闇の組織や
武装旅団などの秘密結社のサークルクラブ恩礼のパレードだ。配車システムのウーバー
はフェイスブックのような真摯さはない。自動運転で失敗すればすぐにやめる、タクシ
ーの影響妨害との声には開き直ってC2CのIT活用は未来の姿と胸を張ったし、その
プログラムが伝播して行く事に止める手立てもしなかった。メルカリのビジネスモデル
の消費者と消費者をダイレクトに結ぶ「C2C」の手数料収入だ。出品者の身分証明が
不要のまま盗品の出品も多く、逮捕者も出る。社会批判や警察からの要望を受けて、今
やっと本人確認を強化した。それでもトーアと言う闇市場に近いフリーマーケットこそ
が人気が高い。従って運転免許証など顔写真と住所が記載された本人確認書類はいまだ
に不要で、盗品を売りさばく闇社会の集団にとっては、使い勝手がいい中でしかITは
生き残っていない。つまり悪人しかITを使っていない。と言う結論になるのである。
すなわち既に仕事しなくても充分暮らしていける現代社会がITと言う遊び場空間を、
現実空間に存在させた。暗黒街の様な殺人や盗品売買すら自由なアウトロー空間と平和
と秩序を築き上げた今まで法の支配や道徳のある経済空間の狭間で、人が揺れ動いてい
る。ITが悪魔の様にささやくからだ。そう脱却せよ人間界を離れ地獄に来いよ楽しい
ぞと。血踊り胸が高まる地獄に来いよと。その具現化が米国TV映画の画像に現れる。


897: 名無しさんAA:18/06/16 19:32
―――――――――――レレレーのレー 11

 日本の北方四島や尖閣諸島或いは竹島など占領されても戦わないのはその合理性にあ
る。そして、敗けると解っていた第二次世界大戦の米国との戦いも実はその合理性から
だった。良く自虐史観で日本の軍国主義を称賛するなと言う話がある。だが、もともと
日本は米英の自由な気風の中にいた。全く進化しない中国やアジアに行きたく無かった
のだ。五族共和の大東和共栄圏構想は、そうした国民に大陸進出を指導するものとして
練られた言葉だったのだ。五族共和の大東和共栄圏構想や、鬼畜米英と鼓舞されたのは
、わざわざ軍部が洋風文化の礼賛を止める為に作ったものだった。しかし、その理由は
別に戦争する為でなく、植民地政策で拡大する他民族奴隷主義、つまり今のパンアメリ
カンを標榜し大英帝国が世界を動かしなどと言う欧米列強の覇権主義の上に動いていた
事の対抗の為に出来たのである。この事覇権進出の阻止が最大の課題として動いていた
。というこの事は紛れもない事実であり、アジアのその後を決定もした。その意味では
日本はアジアの黎明期を支えてきたのは自虐史観を説こうが 軍部礼賛を説こうが事実
であり現実だったのだ。DV事件は女性の嫉妬と同じである。本当に愛していればしな
い行為つまり暴力やら殺人を行う。女性の嫉妬も全く同じで本当に好きな男には近づき
たがらない。だが他の女と競う事で好きでもない男に付れ添うのである。そこには悲し
いかな性交と言う実利が伴う。恐らくこの北朝鮮の金氏と米国のトランプ氏の問題も似
た様な物であろう。全くもって恒久平和や核廃絶を謳っていても、心からそう願う話で
はない。そこが問題で北朝鮮代表として北朝鮮の人民を思う事も無く、又米国代表とし
て米国国民の為ではない事を簡単に行う。これは第二次世界大戦のトルーマンの虚栄心
と全く同じなのである。菅長官の「IAEAの査察の初期費用の負担は用意する。ただ
し前提となるのは、北朝鮮の非核化が進んで国際原子力機関(IAEA)の査察が行わ
れることだ。」と言う言葉は日本国民の恥辱である。北朝鮮の核廃棄に「日本や韓国が
費用をはらうだろう。」と何処かの不良にぶら下がった坊ちゃんよろしくATM代わり
に利用されている。この不甲斐ない安倍政権はトランプが首脳会談キャンセルのための
書簡を送付した後に、世界でたった1国だけ「トランプ大統領の決断を支持する」と表
明し、不甲斐ない国を見せつけた。これはかつての日本政府の小泉や中曽根の欺瞞行動
で日本文化の行政破壊と、全く同じ行程である。世界からこんな軽い国とされるために
世界大戦に挑んではいないのだが仕方がない。

898: 名無しさんAA:18/06/16 19:33
―――――――――――レレレーのレー 12

 戦争に負けると解っていながら戦争に走ったのは、アジアの誇りと正義をかざして戦
う事に意義を持っていたからだ。そして今の、日本の企業精神も天皇を持つ日本の憲法
精神も全く同じだ。あれだけ中国に近づくなと制する声を聴かず、田中が中曽根が加藤
が近づいて今や日本に軍事でも経済でも戦争を焚きつける大国に育てた。馬鹿な政府は
中国脅威論に虚偽答弁をくりかえし、更に政経分離として経済界の尻をたたいた。曰く
バランスシートの無い銀行はつぶす、海外進出のない貸付は行わない。などだ。全くに
も無用の整理をして小泉は最後の日本叩きを行い中小企業は軒並み潰しかかり銀行さえ
も潰した。いわく「聖域なき構造改革」である、推進役として全く馬鹿の極致の竹中平
蔵を閣僚に起用経済再生担当をさせた。今や茂木敏充を充てているが今だに日銀も政府
予算もバランスシートを取らない一方的な財政支出を行い国債をジャンジャン発行して
いる。日銀も銀行を動かすどころか、買い入れに終始している。銀行も竹中平蔵がやっ
た様に自らの政府には計画も良識もなく銀行にには投資物件にバランスシートを求める
とされれば貸付なんぞできようがない。更にトヨタさえも利益が無ければ税金を払わず
銀行を作る程預金を担保してる有様で戦々恐々としている政府の無策の経済方針には、
小さな銀行が貸付出来る筈はない。全く馬鹿だ。そのほんの少し前にわざわざ保険銀行
の保有株を現行帳簿に変えさせて担保株を放出させておいて潰したのである。日本無策
時代は続く。今度の北朝鮮との外交文書や共同声明がどんな署名や条文や同意があろう
と、結局は思いと信用が大事であり、今後の人間性の問題な事はトランプは良く知って
いたのだろう。事実朝鮮や中国は外交はうまい。ディールと言う交渉がうまいのでは無
い。その抜け道や文書の隙間を逃げるのがうまくそうして出来た国だからだ。日本の様
に正当には戦わない。日本の自衛隊は米国が指導して作られたが、北朝鮮義勇軍は人民
解放軍がそのまま戦場を変えた無頼者集団だったので北朝鮮も中国も痛くも痒くも無か
った。大余りの大量人民の食糧供給に支障があったからだ。こうした歴史を脇に置き、
イラン核合意破棄で外交不毛をさらけ出しの外交音痴レッテルの挽回で、拉致問題を餌
にした電話会談などで、日本は米国を信用し外交一体などいう言葉自体おかしいのだ。
日本は日本でちゃんと諜報活動して、日本の方針を策定し国民に公表すべきで、こんな
ミサイル発射時より悪い環境など日本人なら許されない合意である。つまり日本は強固
に米国の言い分も北朝鮮の言い分も突っぱねてソ連に核ミサイルの購入計画を立てた方
がまだましだと言える。

899: 名無しさんAA:18/06/20 12:29
 近頃白人国家において およそ文盲とされる教育のなされていない者が政府の要職に
ついていても、全く恥じる事も無く自説を公言して止まない事が続いている。ニュース
では、ヘイリー米国連大使は19日、国務省で、「米国は国連人権理事会(定数47)から
公式に離脱する」と表明した。一連のエルサレム問題で批判を受けて「イスラエルやユ
ダヤを誤解している。」と言いつつ反論している。だが誤解も何もない。かつての世界
大戦以降イギリスの植民地時代にパレスチナ国家樹立を約束しておきながらも、時の英
国首相のチャーチルはユダヤ難民を引き取らずにこの地に送ったのである。この時も又
ユダヤの民が力を付ける事は無い。私が約束する。だった。ところがその後もどんどん
とここに送って難民が多くなるとパレスチナは犯罪者ばかりで国家樹立の政府どころで
はなかった。それはユダヤの民が着の身着のままの移住だったからだ。そこで内戦に似
た紛争が起こり ユダヤも又町を占領して一か所で集団化して住み着続けた。そして、
先行してアメリカのユダヤから支援を受けると国家樹立を勝手に宣言し アメリカはそ
の行為に後ろ盾となって支援した。つまりパレスチナ国内に勝手にイスラエルと言う国
を作ったのである。これを国連もしぶしぶ認め今に至っている。つまり英国の支援を求
め難民を受け入れた為勝手に難民たちが国を作ったと言う訳だ。白人社会に共生や共済
と言う思想を打ち砕いたユダヤ教は今もヨーロッパ社会に偏在する。イタリアのマッテ
オ内務相は18日、同国内に居住する少数民族ロマの人口調査を実施し、イタリア国籍が
なければ国外追放する意向を明らかにした。もともとサルビーニ氏は反移民を掲げる極
右政党「同盟」の党首として内相についてはいる。しかし歴史上ロマ人はその名の通り
ローマの先住民達である。言わばアメリカでアメリカインディアンを追い出すと言った
様なものだ。サルビーニ氏の出身地の北部ロンバルディア州では地元テレビ局に対し、
伊当局にロマに関する人口調査の実施を許可し、外国籍で不法滞在と判明したロマにつ
いて国外追放の可否を検討できる権限を与えると発言したのである。一方で、イタリア
国籍を保有しているロマについては「残念ながら国内にとどめておかなければならない
」とも述べている。イタリア人としてロマ人の方が資格あるのだがそれが何故かこうだ
。又一方で、地中海で救助されたアフリカ系を中心とする移民630人あまりを乗せた
船の入港を拒否して非難を浴び、今回のロマに関する発言に対しても抗議の声が上がっ
ている。危険なサルビーニ氏の発言である

900: 名無しさんAA:18/06/20 16:29
 2018年6月19日、中国外交部の耿爽(グン・シュアン)報道官は定例記者会見で、日本
の関西地区でマグニチュード(M)6.1の地震が起きた事の記者の「日本側に見舞いの意
を伝えたのですか。」という質問に、耿報道官は「関西地区の被災状況に注意している
。亡くなられた方々に哀悼の意を表し、遺族やけがをされた方々にお見舞い申し上げる
」とコメントした。こうした大阪北部地震についての、暖かいお見舞いの言葉を述べた
事を見れば、中国中央共産党も習体制になって、少しまともに変わってきている様な感
じが受け取れる。こうした感じを素直に取れば、一応外交部は毛沢東の様に抗日思想で
支配する事は無くなってきている形だ。しかし、国際的予想で言えば、アジアは今後は
中国が軍事支配を強めるだろうと予想している。香港の一国二制度を完全に無視して、
民主化層に弾圧をして止まないからだ。又韓国でもOECDは異例の韓国用報告書を書
き、反日を繰り広げた李明博が大統領になって以来、瞬く間に労働生産性が落ち込んだ
事を示し今後の韓国の斜陽を危惧した内容を伝えている。そもそも韓国民のいい加減さ
や危うさは日本人には不思議でならない。この男は日本の大阪で生まれて、島田牧場で
可愛がられ戦時中も敗戦後も普通の日本人よりは良い暮らしを得ていた筈だ。当時の馬
は軍馬としてもてはやされていたし、牧場そのものが仕事として徴兵を免れた仕事であ
ったからだ。だが彼の目には相当反日の魂が刻み込まれたらしい。戦後には父親の故郷
韓国に帰り1964年に、朴正煕政権下の日韓基本条約締結に向けての日韓会談に対し
ては、約1万2千人参加の大規模デモを仕掛け反対闘争を繰り広げた。知っての通り、
漢江の奇跡と言われる程の転機であり、韓国の救い主であった朴政権は当時認められる
事無く妻も自分も卑劣な凶弾に倒れて政権は終わった。そうした反対運動資金が北朝鮮
から流れ共産党台頭に米国はしつこく韓国の開放を迫った。ところが軍事クーデターで
政権を担った全斗換はKCIAを通じて赤狩りの名のもとに、日本語を話せる者は皆殺
しにした為多くの者が更に日本に逃げて来たし、日本漁船も拉致されたりした。今でも
正確な数字は無いが、そうした虐殺は市民裁判で正式処刑だけて5万人を超えるとされ
る親日家は排除された。それでもその反日活動家李明博を、経済悪化の元で浮上を願い
ながら何故かこの男を大統領にして裁判所すらも法を超えた裁判をさせたのである。金
大中も拉致されたり金泳三や廬武鉉や盧泰愚も、いずれも末路は悲しい結果となってい
る過去があってもである。過去25年間、加盟国で急速な生産性拡大の勢いを見せてき
た韓国が、2012年以降は成長モデルが失速し、労働生産性が加盟国中最下位レベルに転
落した。当然である性根が腐った様な考え方で文化発展が望める筈はない。だが、その
腐ったような文化を今や日本のTV局はこぞって放映して日本も事件が多発している。

901: 名無しさんAA:18/06/20 17:02
 韓国の指摘された数値は、ODCEでは「上位17ヵ国に対する労働の時間当たりの
生産性ランキングで、韓国は35カ国中33位と言う。これは、近年経済危機を迎えた
ギリシャよりも低く、生産性は加盟国平均の半分にも達していない状態だという話だ。
これは一つの構造不況であり、解決策のない思想の現実化現象で展化現象とされる話だ
。忠告・助言した報告書は「デジタル化:韓国の次世代生産革命の動力」を指すもので
、OECDが特定の国家を対象にこうして報告書を出すのは異例だという。原因に指摘
されたのが、アメリカナイズされた資本家主義である。これは資本主義とは異なる考え
方だ。資本主義は自由貿易の下の平等な社会資本の整備を公平に求める物だが、資本家
主義はすきあらば、政治的でも法治を外れても資本家としての利益を出そうと言うもの
だ。そこに国家に貢献したい、税によって人々に幸福の分配をしてもらおう。と言う意
志はない。公益福祉の増進はあくまで建前であり、更に自国ナンバー1は自社や資本の
利益拡大の為であり他国が割りが良いとあればタックスヘブンも簡単に行う。この思想
の極限が韓国事情である。大企業偏重・輸出主導型の韓国の産業構造で成り立ち。輸出
製造業を支配する大手企業の利益は資本家のみが享受し国民には行き渡らない。又優秀
な人材の集まりも生産性が高めても自社のみで、一方で人材不足の零細中小企業中心の
産業で生産性はないどころか買い叩く。所得格差は広がる一方で政府すら税収のみに、
視点が行き現状把握や経済発展を行おうとしない。実際、1988年韓国内の中小企業にお
いての生産性は大企業の半分はあった。しかし2014年には3分の1にまで落ち込んでい
て先が見えない。又、国内に貧民層が溢れる事で政府予算は常に不満の政策しか取れず
多くの経済難民とする自立できない生活者がたむろする社会に変化する。こうなっては
福祉や医療の金額はウナギのぼりでアフリカの未開地より住みにくい所に変化する。未
開地なら泥水をすすり草を食べても生きて行こうが、文化国家では水も下水道も電気も
ガスも食料も経済活動の一部とされて、共生や自立どころか学習すらおぼつかないので
ある。政府の中小ベンチャー企業部が提示した資料によると、昨年の韓国中小企業の月
平均税引き前賃金は322万7904ウォン(約32万5500円)であり、大企業513万569ウォン
(約51万7300円)の63%ほどにとどまっていたが、日本の一般アルバイターよりかなり
高い賃金なのだが、それでも生きていけないと自殺志願者は後を絶たない。それは親が
更に学力以上の学校の肩書をもって楽な暮らしを求め借金してでも塾通いを強いるから
だ。大・中小企業間の両極化と所得格差の拡大という「社会的悪循環」が国民生活全般
に影響を及ぼし、韓国経済の限界を示唆していると厳しい指摘をしている。日本も他山
の石ではない。

902: 名無しさんAA:18/06/23 02:54 ID:oxM
     世界閲覧 30−1  小日本と中国人

 近頃インターネットを見ていると、中国人が欧米の中で我儘な主張する難民の様な、
中東人に見えて来た。サーチナが報じる記事は最も的確に、この白人優位主義を強く訴
える姿と重なる思考がある事に気付く。中国メディア・東方網で「どうして一部の日本
人は、日本が中国文化を継承していると認めないのか。」とする記事を掲載して「韓国
人やベトナム人に比べると、日本人は中国文化をリスペクトし続けてきた。なかには、
『今の日本は、中国よりも中国らしい』と言う人もいるくらいだ。しかし一方で、日本
人は中国人が思っているように、日本が中国文化を継承しているとは考えていないので
ある」とした。一部の日本のネットユーザーからは「日本文化は独自のもので、中国文
化は異なる」との声が常々聞かれると紹介している。と言う。しかしそれはちょっとし
た言語障害である。独自の起源説を唱えている訳では無く、中国様式をそのまま伝統と
して受け継いではいない。と言う客観的意見である。その為、中国にいる日本人留学生
に話を聞いても、やはり「日本の文化は中国文化を継承したものではない」との見方が
多く見られたとし、「どうしてそのように考える日本人がいるのだろうか」と、疑問を
提起した。と書かれる。だが逆だ。なぜそんな疑問を持つのだろう。紙にしろ電算機に
しろ或いは算盤にしろ発明した国が中国であろうとなかろうと、人々は好いと思えば採
用するしまずいとすれば改良する。それは日本だけではない。中国文化も単に「吸収」
し、改善し生活に溶け込んだに過ぎない。古代、日本人は中国が先進的だと認識して、
中国の文化や制度を採用してきた。しかし、文化全体を見れば、日本の文化は中国文化
からのみ枝分かれしたものではない。日本人は、中国文化を採用してそれを改良した。
欧州人がローマ文化を吸収したのと同じだ」と語ったとしている。しばしば京都や奈良
について、中国の西安や長安の都を「盗んだもの」という表現が中国のネット上では見
られるらしい。これは悪意ある表現でしかない。何故なら日本人はこの古都をわざわざ
残しその改善し、時の日本社会に溶け込ませた努力を称賛し又敬拝しその時々に守る為
に散ったであろう命を尊び祀っているのである。それは単なる物まねや贋物主義の中国
思想とは大きく異なる部分だ。それは、まず本物を見て、苦難の上に身を挺して体験し
覚えて、許可や認可の上に僧正となって広める役職に就き位を付けて帰ってきて日本に
広めて行き更に、それが不可能ならばわざわざ中国から召喚してまで奈良や京都を作り
、日本人の都や国民の安寧を祈願したのである。

903: 名無しさんAA:18/06/23 02:55
     世界閲覧 30−2  小日本と中国人

 総じて中国人は、力が無ければ卑屈になり力があれば威張り散らす。朝鮮人はその上
に身の保全に嘘さえつく。と日本人は思っている。実は歴史がそう言う形で残っている
からだ。恐らく中国人も朝鮮人も自分は違うと思っている人も多いだろうし、またこう
したレッテルを貼った評価というものは間違いを起こしやすい。しかし竹島問題でも、
或いは尖閣問題でも、政府主導の不正義で嘘の教育と歴史評価に立ち上がる術もない人
達の国民は、どう転んでも、個人を評価せよなどとは反論できない。国内に個人の権利
がどれほどあるのか。中国国内では失われてしまった当時の様子を、よりよい形で残し
ていることに対する評価は中国人は評価していないと言える。京都や奈良が古の面影を
残したまま現代に到るのは、いわゆる「完コピ」ではなく、時代を重ねる中で少しずつ
だったろうが大きな努力が強いられる。かつての世界大戦時代、在米の日本人や中国人
も大きく運動して来たし、戦後も、街並み保護の調節、工夫してきた結果の産物なのだ
という事を、大きく考えてもらう必要があるだろう。自国の伝統文化は、やはり自分達
の手で守ってこそではないだろうか。「確かに4世紀頃、日本人達は中国の物質文化を
自国に持ち帰った。持ち帰った。しかし芸術品や建築、ファッション、食器など、時間
の経過とともに次々と改良と調整を重ね、日本独特の状況に適応させてきた。インド産
のカレーや中国産ラーメンの進化と同じだ。日本人の精神は決して簡単な模倣や継承で
はなく、本物に接して、実際に使っていく中で自分に合う形で発展させていくというも
のがたりを演じる。総じて、日本は中国の文化を継承している訳ではなく、中国を始め
とする外国とは異なる独自の文化精神を持っているのだ。」と留学生は論じた。しかし
中国人は何故こんなにも、日本にやって来るのか。何故自国の文化継承を止めてしまい
他国を評価したがるのだろうか。かつて東洋のベニスと称された川辺の商業都市は、こ
こ30年間で次々と破壊尽くされ、町中に奇妙な洋風ビルが建ち 空き室の多い事務所
貸出しのオフィス街に変貌してしまった。やたら幅の広い道路を一直線に通して、風情
も景観も文化も生活もない、投機マネーで踊る洋風ファッションの躍る小娘街と変わっ
ている。それは田舎の地方都市まで進出し、地方共産党の財源にすらなっている。こう
した破壊された環境に応じてない街が、金は産んでも生活を支えない事解っているのだ
ろうか。先進国に追いつけ追い越せの意気込みだろうが、それは鬼城を産んだゴースト
タウン政策と全く同じであり 服造れど主人は居らずと同じである。

904: 名無しさんAA:18/06/23 02:55
     世界閲覧 30−3  小日本と中国人

中国のネット上で常々「小日本」と揶揄されている日本と書かれる記事は多い。だが確
かな事だ。あまりに広大な国土面積を誇る中国から見れば、日本は「非常に狭い国」で
あり、巨大な12億からの民のいる国に比べれば、今や1億さえ切るかもしれない人口
の島国は小国以下であろう。しかし、世界的に見るとそうした小さな国は多く日本以下
の国も多数存在する。記事に、「日本はわが中国に比べると、まるで小さな芋虫のよう
なサイズだ。しかも、中国に加えてロシアという広大な国があることで、日本がますま
す小さく見えてしまう。しかし、実際のところ日本を「小さな国」と呼べる国はそう多
くないのである。」「日本の国土面積は約37万8000平方キロだが、これはヨーロ
ッパで考えるとフランスよりもやや小さい一方で、ドイツや英国よりも広い。欧州の中
では上位の広さになるのだ。国土面積の世界ランキングでは、上位3分の1には入る」
と説明している。いやいや小さな国で結構であるあまり分析しないでくれ。さらには、
「日本にとって不足しているのは資源だ。しかし、鉄鋼の生産量は欧州全体の生産量の
65%を占め、米国よりも20%も多い。もし、日本がロシアや中国の隣というポジシ
ョンでなく、欧州にあったとすれば間違いなく『大きな国』だったのだ」としている。
また、「領海と排他的経済水域を合わせると約450万平方キロと、中国の陸地面積の
半分にも及ぶ。そして、中国の海域面積は日本の半分程度だ」と指摘。海洋部分を含め
て考えると、日本はますます「小さな国」ではないとの見方を示した。記事は最後に、
「厳しい生存環境や不足する資源も日本という国を作ってきた要素になっている。生き
ていくために必死に工夫したり改善したりしてきたのだ。歴史問題など感情的には複雑
ではあるが、日本は間違いなく強力で、かつ、リスペクトに値するライバルなのである
」と締めくくっていると言う。正しく日本は江戸時代以降、死にもの狂いで、なんとか
西洋列強に舐められまい、潰されまい、と先人達は働いて来た。広大な土地と、強大な
皇帝を頂いく歴史を持った中国でさえも植民地化され、土地を切り売りし帝位を無くし
内乱や動乱に陥っているのを見て、朝鮮半島の自立化に走った。朝鮮半島の人の多くは
日韓併合当時は大きく喜んだ事だった。しかしソ連は思想教育の輩を送り込んで、社会
主義化闘争を江戸時代以前から始めていた。それが伊藤博文暗殺であり、親日家暗殺で
あり、朴政権暗殺である。それは今でも消えてない。僅か10年で100倍の所得に、
変化した戦前ですら反日を増やし、戦後の貧困を救った漢江の奇跡で200倍になった
経済政策でも、反日をぶり返した。つまり棄てられた北朝鮮の生活の方が良かったと、
言っているような行動をとる韓国民なのである。

905: 名無しさんAA:18/06/23 02:56
     世界閲覧 30−4  小日本と中国人

 この韓国と同じような中国民が傍にいる。東方網は、「日本はいつごろからこんなに
清潔になったのか。」とする記事を掲載した。作者の見立てによれば、日本に現在のよ
うな公衆衛生が定着し、国民のモラルが高まったのは「だいたい21世紀に入ってから
」とのことである。と書く。全く間違いも甚だしい。江戸期に来日した欧米人は、その
つつましやかで、ゴミを出さない生活と、笑顔が絶やさない文明に惚れこんで 日本を
助けたのである。明治になって、日韓併合が起こると、途端に江戸の町は不穏になり、
ゴミが増えたのである。勿論文明や文化の発達もあろうかと思う。しかし渋谷焼き討ち
事件の真相は、不貞なその朝鮮人達の生活態度であったのだ。記事では、戦後の日本が
食糧危機や困窮を乗り越え、1950年の朝鮮戦争特需以降目覚ましい経済発展を遂げ
たとする一方で、経済発展に社会環境の進歩が追いつかない状態だったと紹介して。「
当時の日本の公共環境は極めてひどく、トイレは汚く悪臭が鼻をつき、街や川にはゴミ
があふれ、立ち小便は日常茶飯事だった。列車を乗るにも整列せず、車内もゴミだらけ
だった。公務員の態度も横柄だった」などとしている。こうした状況はあった。空襲で
日本が焼野原になり、本当の日本人と言うのは半数にも満たない人口で、単に国籍だけ
で日本人として生活したからだ。だが幸いな事に日本文化も日本言語も日本の習慣も、
残っていた事で日本は天皇陛下を掲げた体制を再興できた。日本人の万感胸にある誇り
は、江戸時代に幕府があったにも関わらず、明治天皇の死んだ時は160人の自殺した
人がいた事だ。冥土の御伴として割腹した人も40人程判明している。つまり時代の中
で同期を生きる共生感を多々有していて、共に良くしようと言う力は、そうした無料の
奉仕で街を綺麗するところまで出てきている。ところが在日と呼ばれる人はそれを嫌っ
た。まず税を払うのを嫌い、日本人になる事を拒否したのだ。そして「我々は戦勝国の
人間で日本政府の言う事を聞く義務は無い。」と言いだしたのである。その為朝鮮半島
への帰還運動は盛んになった。またそうした戦勝国人として暴行・殺害・脅迫・無銭飲
食・追剥・盗賊が起こった。この事に警察は無力であった。ここに自警の暴力団として
ヤクザが形成されたのである。かれらは勇敢に戦い闇市場や商店街を守ったと言われる
だが時代と共に金銭による収拾が行われ、物言う株主として総会屋と称される右翼と変
化した。飲食街の首領よりは旨味が大きかったのである。その後経済ヤクザと変わった


906: 名無しさんAA:18/06/23 02:56
     世界閲覧 30−5  小日本と中国人

「日本人が初めてこのようなゴミ問題を意識するきっかけになったのは、1964年の
東京五輪だった。外国人の前で恥をかかぬように、東京都が、大規模な環境整備運動を
展開したのだ。行政が街の清掃、ゴミ箱の設置、たんやつば、立小便の禁止などに取り
組んだが、人の習慣は一朝一夕には改まらない。東京五輪後も、日本人のモラルはあま
り大きく改善されなかった」と論じているがこれも又間違っている。さらに、「経済成
長により裕福になった日本人が海外旅行に出ると、陋習を海外に持ち込むことで欧州を
はじめとする国外から様々な批判が寄せられた。これを恥とした日本人は、モラルを高
めることを意識し始めた。政府と民間団体、企業が協力しての取り組みにより、日本人
のモラルは少しずつ高まり続け、旧来の陋習も徐々に改善された」と伝えている。記事
はそのうえで、「われわれが現在見ている、かくも清潔で整然とした、民度の高い日本
は、だいたい21世紀に入って出来上がったものであり、その歴史は長くない。日本が
明治維新の頃から清潔好きだったとする人が多いが、それはまさに、専門家にとっての
笑い話なのである」と結んでいる。だが全くデタラメである。まず徳川家康が江戸の街
を作った時、他国と同じように上水道を完備させている。ロンドン・パリのような地下
に下水道用の暗渠こそ作らなかったものの、肥料となる肥樽を運ぶ運河を走らせ江戸城
からも搬出して、田舎の野菜作りに活用している。これは奈良時代の遺跡からも出土し
た竹の導水管の技術で古来より日本人の考え方は現代だから綺麗と言う訳ではない。そ
の為中国国内でも、数多くの街作りは戦時前の日本人が作った町も多くある。特に満州
や鉄道駅舎はその面影を持つ。従来は中国は全てに泥作りでセメントや鉄筋或いは石と
言った物は、皇帝が禁じていた。城のみが石で作られ外敵に対応した。その為西洋式で
日本とは違って市民も外周の城壁内に住まわせた文化をもっていて、それらは煉瓦作り
で造作された。明治38年〜1945(昭和20年)日本統治時代には、日本が蓄積してきた都市
計画の理念と社会資本整備の技術を一気に投入し大日本帝国が威信をかけ建設した街が
ある。大滿洲帝國、満州國新京特別市である。無電柱化道路をして、早くも地中に電線
上下水道とガス管埋設し、住居は水洗トイレ ガス炊飯 ペチカ壁暖房とスチーム暖房
システムが採用で一年中、熱いお湯とガス炊飯 電話が完備されていた。満州時代には
左側通行でしたが現在は右側通行になっています。終戦して進駐米国将軍が来た時に、
「後世に誇るべき傑作」と評価した先進的な都市だった。その日本の街並みの痕跡は少
しだが現在もみる事が出来る。

907: 名無しさんAA:18/06/23 02:56
     世界閲覧 30−6  小日本と中国人

 こうした環境衛生や景観科学の考え方は、少しずつだが中国社会に受け入れられては
来ている。ある中国人は「一番強く感じたのは“清潔”の2文字だ。日本の清潔さは大
都市や大通りだけでなく、田舎や細い路地にまで行き届いている。私たちは箱根の農村
部を訪れ、日本式の旅館に宿泊した。旅館の前には畑が広がっていた。流れる小川の水
は澄んでおり、道路はきれいに整備されている。日本国では、中国のような「都市部は
欧州、農村はアフリカ」といった、発展の不均衡を感じることはない。」と話している
。長春駅前は、満州時代に道路の幅が70メートルから100メートルもある大同大街
を作っていて、現在は、人民大街として知られる。地下埋設による配管でさながら公園
のように街路樹が美しかった。と米軍は言っている。長春は、日本が満州国を作った時
、1932年から1945年まで首都になり「新京」と改名されていた町です。1944年当時は、
人口が86万人で、そのうち日本人が15万人だった。だが、現在は、長春の市の区人口は
358万人、都市圏人口は750万人、と言うことなので、そこらに負けない地方の大都会に
なっている。中国自体も、僅か25年前に一人当たりGDPは日本人の 1/100でしかな
かったという経済状態から急激に生活を向上させている。社会の変化が肌で感じられる
この都市はなかなか日本人観光客も多い。ある記事ではゴミ管理の中国人の差について
、「重視度の不足であるとともに、管理レベルの不足だ」と指摘した記事が載る。ゴミ
収集車や処理工場のにおいを減らし、清潔に処理するには、高いレベルの管理が必要に
なる。細やかな管理が、ゴミ処理の各セクションにおいて実施されなければならないの
だ。言う。近年習主席はトイレの改善を発動したが、記事では、「トイレは社会モラル
の表れであり、ゴミ分別はその複雑さゆえに、都市のモラルと管理レベルが総合的に試
される。上海は中国国内で管理レベルが高い地域。率先して行動する条件も責任もある
。管理を強化し、制度を充実させ、全市民を参加させ、強制的なゴミ分別制度を作り、
全国に先駆けて難題を解決しようではないか」と結んでいた。「しばしば超大都市では
共通の問題に直面する。例えばゴミの分別だ。隣国の日本は、われわれが想像するほど
の先端技術を駆使した設備がたくさんあるわけではない。しかし、ゴミの分別レベルは
多くの人を敬服させる。われわれに欠けているのは、先進の設備ではなく、この考え方
や管理の部分なのだ」とも指摘している。

908: 名無しさんAA:18/06/23 02:57
     世界閲覧 30−7  小日本と中国人

今日頭条は、「人類の進歩に影響を与えた日本の発明」として、20世紀に日本企業が
世界に先駆けて発明、ないしは、実用化したものを列挙する記事を掲載した。記事では
まず、1950年代から70年代にかけて発明したものとして、インスタントラーメン
、電気炊飯器、カラオケ、家庭用ビデオシステム、新幹線、ポケット電卓、ウォークマ
ン、モーターボートなどを紹介し、続いて1980年代から90年代にかけての発明品
として、自撮り棒、自動車ナビゲーションシステム、3Dプリント技術、LED照明を
挙げている。3Dプリント技術は本格的な実用化こそここ数年の話だが、80年代の最
も早い時期に日本人の小玉秀男氏が3Dプリント技術の原型ともいえる「光造形法」を
発明し、日本では新聞の像判印刷に利用されていた。これまで取り上げられてきたのは
、戦後の日本が高度成長を遂げ、成熟した技術を持つに至るまでの間に発明、開発され
て、人びとの生活をポジティブなものに変えたものがほとんどだが、その一方で、日本
が最初に作ったが、結果的に日本を敗北に導く要因になったものも挙げている。それは
、1922年に日本で誕生した世界初の正規空母「鳳翔」だ。記事は「これは世界初の
正規空母だが、その後米国海軍が広く空母を用いて軍事力を強化し、反ファシズム戦争
への勝利を促す結果となった」と説明している。しかし他にもある。伊型潜水空母であ
る。伊七型潜水艦は、伊型潜水艦を改造したものだったが、1937年に1番艦の伊号第七
潜水艦、翌年に2番艦の伊号第八潜水艦が就役。水上偵察機搭載のために格納庫とカタ
パルトを備えている。1番艦の伊号第七潜水艦は真珠湾攻撃前の1941年11月17日、搭載
した九六式小型偵察機によるオアフ島の航空偵察を行うなど実戦での水上機運用を行っ
た。その後伊九型潜水艦1941年に就役開始。伊七型潜水艦の発展型として3隻が建造さ
れ、零式小型水上偵察機1機を搭載。大戦初期には航続力と水上機運用能力を生かして
各地の偵察任務に従事した。その後、伊四百型潜水艦1944年から1945年にかけて3隻が
就役した。アメリカ本土攻撃を目的として開発され、攻撃機晴嵐3機の搭載に加えて、
地球1周半にも及ぶ航続距離を持っていた。1939年 8月26日から10月20日双発の三菱は
G3M2モデル21を輸送機に改造したニッポン号による世界一周 52867kmを飛行時間194
時間で56日間掛けて無着陸飛行を成功している。その為、中島飛行機創設者の中島知
久平氏は開戦直後から「アメリカとの戦争は、技術力と資源量の差から長期化すれば必
ず負ける」と考え「必勝防空計画」として晴嵐と共に爆撃機のZ機計画「富嶽」を設計
し開発したが終戦となった。この時に中村良夫も開発に加わり後にホンダ四輪車の開発
責任者となっている。そして本田は世界に先駆けてCVCCエンジンを造った。

909: 名無しさんAA:18/06/23 03:08
 戦時前には、北朝鮮の日本海側である実験が成功していた。小規模な原爆実験である
。戦前に行いその為に陸軍はこぞって戦勝すると思っていた。しかし、昭和天皇は大き
く反対してすぐさま研究や実験の即時中止を命令した。陸軍は表向き皇民を集めた皇軍
としての誇りを持って戦っていた。その中で天皇曰く「日本がそうした残酷極まりない
兵器を、率先して造り広めてはまかりならん。」との公示を行ったのである。そうして
その研究成果や設計仕様はドイツに送られた。ドイツでもそれは作られた。だが実験で
の痛ましさを知っていたノンメル将軍はチェコ輸送時にトンネルに列車ごと隠し入口を
爆破したと伝えられる。こうした原爆完成の情報を得て米国は原子爆弾を開発した。と
されている。そして敗戦が決まった8月16日にそれらは処分された。そしてそれは、
大きくアメリカの新聞に謎のキノコ雲として大きく取り上げられた。こうして朝鮮半島
は平和裏の戦争終結だった筈だが、それでも朝鮮人は欲深く争いを繰り広げた。北朝鮮
は当時としては世界最高の産業施設を持ち韓国では世界一の発電量を持って市民生活を
していたのである。しかし第二次世界大戦後、朝鮮戦争を作り分裂させ、なおかつ日本
漁業の経済水域をマッカーサー・ラインによって大きく制限されたものであった。その
後に、1951年9月8日に調印されたサンフランシスコ講和条約により撤廃された。翌1952
年4月28日の日本主権の回復後 この制限撤廃予定が決まった時、この主権回復前の間隙
を縫って韓国は漁船拉致を始めた。1951年7月19日 そうして韓国政府は、サンフランシ
スコ講和条約草案を起草中の米国政府に対し反対の要望書を提出し、竹島、波浪島など
を韓国領とすること、マッカーサー・ラインの継続を要求したのである。これに対し、
アメリカは 1951年8月10日に「ラスク書簡」にて回答し、この韓国政府の要求を正式拒
否回答を行った。「ラスク書簡」の約1ヶ月後の1951年9月8日にサンフランシスコ講和
条約は調印されたが、講和条約発効の約3か月前 1952年1月18日には、日本の山陰への
亡命政府を打診しながら、朝鮮戦争下に韓国政府は、突如としてマッカーサー・ライン
に代わる李承晩ラインという軍事境界線の宣言を行った。1965年の日韓基本条約によっ
てラインが廃止されるまでの13年間に、韓国による日本人抑留者は3929人、拿捕された
船舶数は328隻、死傷者は44人を数えた。拉致もさることながら、抑留者は6畳ほどの板
の間に30人も押し込まれ、僅かな食料と30人が桶の1杯の水で1日を過ごさなければな
らないなどの劣悪な非人道の抑留生活を強いられた。このような国際法上違法であり、
かつ非人道的侵略行為に対し、当時我が国政府のみならず米国も抗議していたが、米国
は直接的な利害関係国ではないため積極的な介入は行なわず、それがために韓国による
竹島侵略が固定化されてしまったのである。戦後に味方の国に、である。


910: 名無しさんAA:18/06/23 03:09
     世界閲覧 30−9  小日本と中国人

 日本人は至って真面目で優しい性格の大和民族であろう。こうした事が起こっても尚
隣国の人間としてまっとうに付き合おうとしている。それはシベリア出兵時も白ロシア
人は満州鉄道に乗り込んで、赤化した野蛮な民衆から逃れる為に舞鶴や横浜経由で米国
に送り届けている。そして第二次世界大戦中ですら同じである。それはシベリア開発に
多くユダヤ人が送られて来ていたからだ。ピロジャンの収容所は街が出来る程だったと
言われる。そして日本人が逃がした避難民は500万人を超えるとさえ言われる。もち
ろんその中には白ロシア人も満州人も韓国人も中国人もユダヤ人も入る。ところが、そ
うした事をしても、中国や韓国から或いはソ連から 感謝の声と尊敬した行為は行われ
てはいない。あまつさえしっぺ返しの様に敗戦時には、満州の多くの一般市民が50万
単位でシベリアの強制収容所に送り出され、強制労働の下で命を落としたのである。帰
還を果たした多くの人は言った。「風の入る丸太小屋で、ウオッカ一瓶が一か月で与え
られ、毎日はパン一切れの一食しかなかった。一週間に一人は死んでいった。人が減る
と何処からか連れてきて小屋は常に5・6人いて線路の敷き込みが仕事だった。しかし
、凍り付いた大地にはとても鶴嘴(ツルハシ)は効かなかった。これはいつか死ぬとし
て闇夜に南に逃げて3年かかって日本に着いた。」と。勿論こうした話はここだけの話
ではない。アメリカやオースラリアやカナダさえも、戦争前から日本人を収容所送りに
している。ただ米国などの場合は、体よく3つに分けられ、兵士としてアメリカ軍につ
いて戦う者と、あくまで反対し残る者、更に反抗し犯罪者の刑務所に送られる者とが、
その運命が分かれた。しかし、戦争に行った者は華々しい成果を持っても止めさせられ
ず1割程度の生き残りしかいない。又刑務所では優生学の医療処置までされた。収容所
内でも、これまで家畜小屋と使われていた小屋が多く、食事や待遇も決してドイツの国
の収容所と変わりなかった。いやもっと悪かったのだ。だが日本人たちは自らに床屋や
食堂や教室を開き野菜作りや鳥を飼ったりなどして、環境を整えて行った。そして終戦
時には、一般の兵士たちすら此処に食事に来る程評判の美味さを提供していたのである
。ロシアでも、スペインの独裁に憤慨した日本人留学生がカタルーニャの友人の誘いで
、兵士として志願した。共和国側義勇兵の日本人として知られる函館出身ジャック白井
は、その料理の美味さから与えられた任務は炊事兵でしかなかった。国際旅団エイブラ
ハム・リンカーン大隊の兵卒だが、外航船やNYのレストランのコックだった経歴を買
われた配属で、実際に彼は戦場でも、「美味く、早く、大量に」食事を作る達人で兵士
達に評判だった。と言われている。まるで人の好いアンパンマンの現実である。

911: 名無しさんAA:18/06/23 03:10
     世界閲覧 30−10  小日本と中国人

この結果、皇帝側は敗けフランコ政権は勝って完全なファシスト体制への転換を目指し
たものの、ドイツのファシスト軍団であるヒットラーとは一線を引いて大きな国内戦乱
を起こさずに第二次世界大戦を終結させて国を保った。だが毛沢東は全く逆で、既に同
じ中国人の蒋介石は、国際的にも国内的にも正統政府として中国を治めていた。にも拘
わらず、国内で派手に爆破活動や暗殺やテロを行い、隠れてゲリラ活動をして逃げ回っ
ていた。この為正式な国民党軍の要請に、日本軍は当惑の中に進軍していた。もともと
日本軍は中国などは必要なかった。何故なら満州鉄道を経営出来れば、食料や鉱物資源
は充分間に合っていて、要は石油調達のみが頭を抱える問題だったからである。しかし
蒋介石総統は何処までも共産党追撃に走り罠にはまり、毛沢東は共産党でありながらも
米国と英国の支援を受けるのだ。あげく終戦時には、話し合いと称して周恩来将軍を拉
致しデマを流し自軍に取り込み、仕方なく国民党政権は台湾まで退いて日本に支援を求
める結果になった。国民党政府が台湾に来た時、多くの台湾人は反対した。しかし日本
はその声を受けることなどできなかった。又その時やって来た国民党軍はまるで野蛮で
盗賊であった。漁船を燃やしたり、言葉の通じない原住民を虐殺したりしたので、政権
はすぐさま人気を落し、その後和解を得て台湾総統李登輝が選出されて民主化の道を歩
いた。もともと台湾は日本で最初に植民地化した場所で、阿片の巣窟を一掃する為に、
多くの金と時間をかけインフラ整備を進めて、日本以上の教育施設が整っている土地だ
った。従って日本的文化や西洋的思考も生活様式も日本に近い。中国人が不思議がる様
な日本人の食習慣の「何を食べるにしても、必ず白飯を添える」ことも台湾では当然で
もある。ステーキに白飯かと奇妙に思うかもしれないが、これが日本人の特徴の1つと
いうが台湾も普通だ。冷たい麺料理にもライスを付ける」「調味料の味が薄い」点も、
又同じである。「日本は料理の味が薄いだけではなく、調味料の味自体も薄い。自分は
辛い食べ物が好きで、唐辛子味噌を料理に投入しなければ気が済まないが、多分日本で
は生きていけないと思う」と紹介した記事もあるが、実際は本当の中国人漢人は菜食系
で河魚を食べて米を食べていた。肉食系なのは、騎馬民族系のウイグルの血が入って、
祖先にモンゴル人を持つからだ。山岳地帯でも台湾でも質素であり「調味料」というの
は主に味噌醤油で魚醤でありトビウオなのだ。辛さを出すための調味料が必要なのは、
潮の無い砂漠の民の土地の血を引いているからだ。

912: 名無しさんAA:18/06/23 08:21
     世界閲覧 30−11  小日本と中国人

 中国は、公害の様にどうしようもなく不幸は突然振って来る場合が多いが、韓国に至
っては、それに加えて数年前から良いと思ってやったことが かえって人の命を奪うと
いう皮肉な事件が増えている。例えば健康では、健康器具が健康を害する加湿器問題な
どがある。この事件は、加湿器自体に問題はなく、加湿器をきれいに使おうと洗浄剤を
入れたことから悪質物質を発生させ、原因不明の死者がたくさん出てしまった事件だっ
た。この原因が加湿器ではなく中に入れた洗浄剤のせいだと証明されるまで長い年月が
かかった。今度はラドンベッドが問題になっている。又、業者や研究所がラドン検出を
明らかにしたのではなく、ある主婦が偶然ラドン測定器を買って家のモノを調べている
うちに分かったことだった。主婦がラドン検出器を買っていなければ、まだ韓国民には
ラドンベッドのことを知らずにいたかもしれないという恐怖付きだ。SBSの報道を受
けて他のマスコミでもラドンベッドが報道されるようになると、発売元テジンベッド側
はラドンが検出されたマットレス4種に対する回収とリコール措置を直ぐに取った。し
かし別に被害者たちは、「テジン・ラドンベッド事件集団訴訟のための公式サイト」を
立ち上げ、集団訴訟への動きを見せた。政府も関心を示して、原子力安全委員会が自ら
ラドンベッドに関する中間調査結果を報告したりした。が発表が、室内空気質や人体に
該当ベッドのラドンが及ぼす影響は少ないとしながらも、日量10時間睡眠で0.5mSv
(マイクロシーベルト)ほどの内部被曝が起こるが「放射能が基準値以下」という文言
が入った発表をした。ところが、これがネットではさらに炎上し、ラドンベッドではダ
メージがまだはっきりとは分からず、ラドンが検出されたというだけで風評被害になっ
た。又「マイナスイオンパウダーをコーティングしたのは、実はテジンだけではないら
しい。他の韓国のブランドのベッドも怪しいものだ」といったものもでて、テジン以外
のベッド製造会社も、ラドン測定を済ませ、検出されなかったということを必死に宣伝
する騒動になった。被害が無いにも関わらず2日間で2万以上のマットレスを回収した
が、突然で、回収が間に合わずさらに回収したマットレスの置き場にも困っている。こ
うして遅々と進まないので、大統領も「郵便局の流通網を使って回収を早めよ」という
異例の命令が下され回収が進み、16〜17日の両日で全国から2万2298本を回収した。が
、その回収に携わった郵便局員が死亡するという事件も起きた。実際には、ラドンを運
んだからか、過労死なのかはまだはっきりしないものの、こうした騒動は多い。過去も
空調機移動でビル崩壊、輸送量オーバーで船転覆、野外ステージに観客が転落死などが
あったが、いずれも二重三重に法や規制を破った利益習得を目指した事件であった。

913: 名無しさんAA:18/06/23 10:30
 中国人の話を書こうとするが、どうしても朝鮮の話になる。どう見ても一緒の人種の
様に見えるからだろうか。歴史的に大日本帝國は、1945年8月15日、大東亜戦争
(1941〜45年)敗戦を国民に知らせ、戦争の終結をみた。無政府状態を憂う朝鮮
総督府は、直ぐに「朝鮮建国準備委員会」を設置させ、比較的冷静・公平に対処できる
者を選び朝鮮人指導者に要請した。その後にソ聯軍侵攻→朝鮮人政治・思想犯の釈放・
流出→朝鮮共産化→日本人への掠奪・暴行などが想定され為、朝鮮人釈放や治安維持へ
の協力を取り付ける必要性があった。だが、自治組織に過ぎぬ委員会は45年9月6日
そのまま亡命臨時政府を騙っていた李承晩は「朝鮮人民共和国」を樹立し「独立」を宣
言した。このの流れで、朝鮮総督の阿部信行・陸軍大将や朝鮮軍管区司令官の上月良夫
・陸軍中将は、総督府はじめ主要な建物から日章旗を降ろし、太極旗(現韓国国旗)を
掲揚させて、政務総監の遠藤柳作によって呂運亨らに独立に向けて朝鮮建国準備委員会
の組織化が瓦解していた事を知った。つまりその後を総督府の行政を継続させる話し合
いに李承晩は金九を代理としたが彼の暗殺指令によって変死に至るのだ。朝鮮は台湾総
督府などの外地政庁とは全く異なり、朝鮮総督府は今の大韓帝国政府の機構をほとんど
そのままもっていた。最初から多くの朝鮮人官僚を抱えて、朝鮮の郡守、面長(内地の
郡長、村長に相当)などは朝鮮人が原則として任命されていた。その為に知人を通じて
容易にテロ行為が出来たのだった。道知事は概ね半数程度は朝鮮人だった。多くは旧李
氏朝鮮王朝、その前の衛氏朝鮮王朝、更に王朝開放の閔妃一派の頃の両班貴族で、柵封
国家時代に権勢をほしいままで甘い汁を吸っていた人達だった。彼らに亡命政府として
乗り込んだ留学難民の李承晩の横やりで、話合いはもつれて国民の統率ができずにいた
のである。そして突然に建国宣言された。今や旧朝鮮総督府庁舎は撤去されてしまった
が、大韓民国政府の樹立にともない、旧総督府の庁舎は政府庁舎として利用され、中央
庁と呼ばれ大韓民国の成立宣言は、ここでおこなわれた。それは早々と話合いを離れて
独自の独立を果たそうとしたソ連属国の金日成政権に対抗した米軍のいい加減さだった
。街は電気が通り、旧ソウル駅舎(旧京城駅)や韓国銀行本店(旧朝鮮銀行)なども残
され、西大門刑務所もあった。今は博物館となり周囲は独立公園となったが米軍が使わ
なかった。治安維持を放棄していたのだ。日韓併合時朝鮮総督府は、当初は武断政治と
批判はされたが、大日本帝国政府は、朝鮮を内地と同様の経済水準に引き上げるため、
莫大な日本の国家予算で投下を行い、鉄道、道路、上下水道、電気、病院、学校、工場
などのインフラの整備を行っていた。糞尿の大地と米英すらなげた地が敗戦時は世界一
の先進国だった。

914: 名無しさんAA:18/06/23 10:39
 教育制度や医療制度の整備などは日本以上の精力的に建設を行い、朝鮮半島の近代化
にインフラへの莫大な投資を行い世界一の先進工業地帯にしていたがダムを初め多くは
北朝鮮だった。日本以上に電源開発した土地だったが、総督府長官が朝鮮防備の軍事権
を米国に移管して韓国が出来るとすぐに北朝鮮との戦いで、内乱状態のまま侵攻された
。朝鮮総督は天皇によって勅任され、委任の範囲内における朝鮮防備のための軍事権を
行使し、内閣総理大臣を経由して、立法権、行政権、司法権や王公族及び朝鮮貴族に関
する多岐な権限を持っていた。朝鮮総督府には政務総監、総督官房と5部(総務、内務
、度支、農商工、司法)が設置され、中枢院、警務総監部、裁判所、鉄道局(朝鮮総督
府鉄道)、専売局、地方行政区画である道、府、郡などの朝鮮の統治機構全体を包含し
ての議会決済の近代政治が行われていた。しかし結果は、かつての王朝役人の両班貴族
が赤化して抗日に走らせ、敗戦で放棄させられると言う散々なものだったが、日本人は
悔やむ事はなかった。何故なら平和の為にやった事だったからだ。


915: 名無しさんAA:18/06/24 07:05 ID:uH.
     世界閲覧 30−13  小日本と中国人
 しかし何故だか“独立宣言”直後には、進駐した米軍はわざわざ太極旗を降ろさせ、
日章旗を再び掲揚させた上で、米軍の軍政が本格的に始まるや、日章旗が星条旗へと付
け替えさせたのである。米国は日章旗掲揚で朝鮮=日本だと公認させ、星条旗=開放と
軍政に正当性を持たせたたかったし、報道によって母国にそうアピールさせた。朝鮮が
独立国家ならば植民地解放をした事にならず、解放し統治を朝鮮に任せる過程を生ませ
たかったのだ。従って終戦直後、米軍上陸前の統治を総督府に密命し、治安も朝鮮軍管
区や日本の官憲に担わせて指導した。上陸後には、日本人官吏は相当期間軍政を支援、
治安も軌道に乗るまでは日本側が協力した。日本側の統治能力や軍紀を大いに評価して
いた背景も在ったが、その連絡係が李承晩であった事が禍いだった。米国は当初から、
朝鮮人を軍政より徹底的に遠ざけた。朝鮮人の軍政登用は牛歩で進められ、先行してい
た朝鮮建国準備委員会の組織化した呂運亨は、それを知っていたがまとめられなかった
。李承晩は金日成の暗殺失敗していたからだ。そして米国指導部も知っていた節がある
。朝鮮民族の、統治能力欠落や、度を超した自己主張、激高しやすい民族性に加えて、
偏狭な民族主義者や共産主義者が入り乱れ、一致団結して建国に邁進すると言うまとま
りに欠けている国民性を理解していたのだろう。こと朝鮮人に関し米国側の学習分析は
アメリカ国内では高かったのだ。45年秋には、30もの朝鮮人軍閥が警察署や新聞社
、企業・工場・商店を勝手に接収。米軍は武装解除を強制した。が効果は限られた強い
抵抗と無法があったからだ。政党や政治結社も200近くにのぼり、指導者は内部抗争
を繰り返し暗殺・テロが横行した。会議には金日成も呂運亨も李承晩も重要人物は全て
が入っていた。そも朝鮮人民共和国ですらも、中華民国に建てた韓国臨時政府と対立し
ていた。2つの“政府”でそれぞれの内部の抗争に明け暮れた。米国は朝鮮人の政党も
政治活動も全く認めなかった。収拾のない有り様だった中で、この混乱では、38度線
の北側に陣取るソ聯軍に対する力の均衡維持は覚束ない事が、米国の最重要課題だった
。ソ聯の半島全支配を阻止する事だったが、決して南朝鮮独立に最新兵器や戦車供与を
行わなかった。米国は、曲がりなりにも内閣・政府を通じて権力を行使していた日本と
は同じ統治形態を取らず、韓国に直接軍政を敷いておいてその正解を噛み締めたのだ。
朝鮮人は戦前〜戦中〜戦後と、日本に向けまともなゲリラ抗戦も、民族蜂起も起こして
いない。むしろ帝國陸軍内の朝鮮人高級軍人の武勇は目覚ましく、触発された朝鮮人達
には志願兵募集に殺到していた。42年と43年の場合、募集各4000/6000名
に25万5000/30万人超が受験。競争倍率63/50倍となっていた。朝鮮人の
戦意に推され日本が戦争した形で、日本=朝鮮を確信する米国専門家もいた程だった。

916: 名無しさんAA:18/06/24 07:06
     世界閲覧 30−14  小日本と中国人

 米国の連絡係の李承晩が勝手に政権を取った声明を出した時、声明は、「韓国は日帝
を打ち負かして独立を勝ち取った」と強弁した。しかし、独立は日本敗戦3年後。米国
の聯合国による長期の半島信託統治を描いた夢が、北朝鮮に統一国家を建設する動きを
見せソ聯に対抗して破れた時、やっと韓国の独立実施を大きく前倒した形で認めたのだ
。呂運亨らの朝鮮建国準備委員会を結成し、日本との提携及び宋鎮禹、゙晩植、金性洙
、安在鴻、張徳秀など、日本留学を経験している知日派の力をいれて、既に朴憲永を代
表とした独立後の体制作りを考えていた。又、その中には日本の資本を借りて全羅地方
の湖南財閥からの宋鎮禹や金性洙やパルチザンの金日成も会議に加わっていた。しかし
かつての李氏朝鮮の両班だった李承晩は、アメリカで活動し金九ら左派を重慶で活動さ
せて別個の韓国臨時政府を作っていた。その後に行政が米国軍に引き渡された時も、総
督府の行政は継続されて、平和的に朝鮮総督は天皇勅任から占領軍指名になって機能し
ていた。しかし委任の範囲内における朝鮮防備のための軍事権を行使出来ず、治安維持
の金九がテロに走っていた。大韓民国臨時政府の警察本部長で臨時政府最後の指導者で
あった金九は独立した大韓民国の初代大統領こそならなかったが、アメリカ軍軍政庁統
治下の第一人者であり続けた。信託統治が韓民党の党首・宋鎮禹に決定しようとした時
暗殺を企て、信託統治反対暴力デモによりアメリカ軍政庁に召喚された。現実に韓民党
の党首・宋鎮禹暗殺示唆の容疑で軍司令官に再召喚されている。南北朝鮮・左右両翼か
ら比較的尊敬されている人物として稀有な存在で、米軍の単独選挙実施に反対し、あく
まで南北統一を進めるべきという立場の活動した。上海で呂運亨、李裕弼、孫貞道など
と韓国労労兵会を組織するが、金九は刺客とした呉冕稙と盧鍾均に韓国人の共産主義者
・金立を上海で狙撃殺害させたり韓人愛国団での天皇暗殺未遂や爆弾未遂を指令してい
る。韓国独立党結党を経て、韓人愛国党を組織し、李承晩率いる独立促成中央協議会と
統合し、大韓独立促成国民会を結成、副総裁に就任している、韓民党の党首・張徳秀を
暗殺した疑いで米軍の法廷に召喚されるが、あくまで武闘闘争を止めない抗日パルチザ
ンの一生を過ごした。南北交渉を要請する書簡を北朝鮮に発送して、金奎植、金昌淑、
趙素ミとともに南朝鮮の単独総選挙反対声明を発表したが、極右反共団体の西北青年会
の元会員で、思想的には李承晩に近い安斗煕によって暗殺される。安斗煕は、金九の暗
殺は李承晩の部下の金昌龍の指示であったとする証言を出版したが、金九熱愛者朴g
によって自宅で殺害された。一連の事件が李承晩の仕事だと金日成は語っている。

917: 名無しさんAA:18/06/24 07:06
     世界閲覧 30−15  小日本と中国人

 朝鮮半島が一時的でも中国を抜き、日本以上の先進工業国となったのは精力的に日本
が建設や投資を行った事による。教育制度や医療制度の整備などは日本以上の努力して
建設を行い、朝鮮半島の近代化にインフラへの莫大な投資を行い世界一の先進工業地帯
にしていたが、それは日産コンチェルンの野口遵がダム建設を背負った事による。その
為工場の多くは北朝鮮にあった。日本以上に電源開発した土地で敗戦時に、話し合いが
もつれた時金日成はダムからの電源を切って混乱させている。総督府長官が朝鮮防備の
軍事権を米国に移管して韓国が出来ると、すぐにこのダムを権利の北朝鮮との戦いが行
われ、一夜にして朝鮮半島の進軍は行われて占領された。内乱状態のまま侵攻された韓
国だったが、旧王朝皇族を殺し、大臣を経由しての、立法権、行政権、司法権や王公族
及び朝鮮貴族に関する多岐な権限を破壊つくした李承晩に、米軍は朝鮮総督が持ってい
た朝鮮防備のための軍事権を決して与えなかった。その為に、当時は中古になっていた
エブラハムの無敵戦車すら貸出ししなかった。朝鮮総督府には政務・官房・総務、内務
、度支、農商工、司法が設置され、中枢院、警務総監部、裁判所、朝鮮総督府鉄道、専
売局、地方行政区画である道、府、郡などの朝鮮の統治機構全体を包含しての議会決済
の近代政治が行われていた。しかし、結果は、かつての王朝役人の両班貴族が赤化し、
抗日に走らせ、敗戦で放棄させられると言う散々なものだった。それでも、日本人は 
悔やむ事はなかった。何故なら平和の為にやった事だったからだ。わざわざ終戦前に、
コンタクトをとって、上海で呂運亨、李裕弼、孫貞道などに韓国労労兵会を組織させ、
共産主義者・金立まで立てたが、しかし金九が放った呉冕稙と盧鍾均などの刺客により
、金立は上海で狙撃され自ら民族自立の建国は瓦解したのである。その後韓国民主党(
韓民党)が組織され、呂が期待していた議会制正当政府を無くした時国内では、李承晩
の命令で、金九らが暗殺に明け暮れた。こうして李承晩は朴憲永・金性洙・呂運亨など
を秘かに排除し続けて、治安維持の警察長官の金九すら殺して実権を握ったのである。
この歴史は日本の日韓併合だけではなく、日本に勝った米国に、内部抗争をしながらも
敗戦後は棚ぼた式で譲ってもらう卑しい国民性の持つ政権を意味していた。安昌浩は、
「クァン・ジャク」、金九は「ドク・グベ」、李東輝(イ・ドンフィ)は「イ・ベク」
、申圭植は「キム・ジェグァル」という仮名を使って、自ら暗殺集団となっていた。と
言われる。わざわざ戦前や戦中にインフラへの莫大な投資の結果、朝鮮半島で流行して
いた伝染病が予防され、その恩恵で生まれ助かった子供らは、抗日パルチザンのなれの
果ての暗殺集団だったのである。

918: 名無しさんAA:18/06/24 07:06
     世界閲覧 30−16  小日本と中国人

 こうした話にならないどんでん返しは、共産党社会は常にある。日清戦争で、多大な
労力や命を捧げて日本防衛に清から朝鮮半島を得た時も、三国干渉で朝鮮に返したが、
全くそうした血も流さず得た自分の地を朝鮮王朝はロシアに預けた為、更に日露戦争が
勃発する。日露戦争で勝った時も日本は何の賠償金も貰わず、アメリカはしたたかに、
交渉の中立を嘯いた。シベリア出兵時も本来アメリカがやるべきシベリア鉄道防衛や、
チェコ人保護は日本人が行って多大な犠牲と負債を背負った。米国はロシア皇帝に財宝
探しに行く数人の将校に大隊の軍隊の防衛が欲しかっただけだったのだ。朝鮮半島には
ロシアの南下しか弊害がなく米英が仕掛けなかったのは、全く国家の機能も食料の生産
も無かった上に汚かったからだ。第二次世界大戦後に中国建国も全く同じで、毛沢東は
全く国民など眼中に無かったし日清戦争後に日本が作った羊毛工場や繊維工場やリンゴ
農園などは、共産党はわざわざストライキを呼びかけ、破壊工作に及んだ。朝鮮半島で
は日韓併合後は欧州人は目を見張るほどの進歩に驚いた記述は数々ある。日本の農地開
発などにより食糧生産が増加して、併合当初米の生産量が約1千万石であったものが、
20年後には2千万石へと倍増したことにより、朝鮮半島の人口は、併合前の1906年(明
治39年)には、国勢調査で1600万人程度だったものが1940年(昭和15年)には 2,400万
人程となって、併合時(1910年)に平均寿命が24歳に満たなかったが、1942年(昭和
17年)には45歳へ伸びたという正式な健康調査結果が歴史に刻まれている。南京はも
ともと古い都だ明建国で、この地に大都城を築いて京師と称し都とした。北京遷都して
からも副都となり、南京と言われる。かつては金陵→建業→建康→江寧→南京と地名は
変化した。南京付近の農村では綿織物業が盛んで南京木綿は諸外国の大陸進出の足場産
業として中国の主要な輸出品工場地帯だった。江南地方の中央都市の一つと重要都市で
アヘン戦争では、この地が講和条約の締結地となり南京条約が締結された。その後天京
と言われ辛亥革命が起きると中華民国は南京に首都が置かれた。国共合作で蒋介石軍の
北伐が迫って、南京ではアメリカ・イギリス・フランスの領事館などは次々に襲撃され
る南京事件がおこった。米英は報復として南京を砲撃、中国側に多数の死傷者が出て、
蒋介石はこの共産党排除に上海クーデターを起こした。その後権力を握り南京国民政府
を樹立した。日中戦争が勃発すると、1937年に軍は日本軍に見せかけた首都の南京
攻撃を画策した。これが南京虐殺を起こし国際的な非難を浴びる。

919: 名無しさんAA:18/06/24 07:09
     世界閲覧 30−17  小日本と中国人

 南京事件は、捕虜の殺害、民間人を含む無差別殺戮、強姦、略奪、暴行、放火などの
両軍が行った 大小様々な戦争犯罪の総称である。そこには当然、南京大虐殺あるいは
南京虐殺と呼ばれる殺害事件も非道な行為としてその中に含まれている。盧溝橋事件前
に無駄な北伐を数回繰り返した蒋介石は、既にゲリラ活動して共産化を進めてる毛沢東
に側近であった何人もの幹部を国民党内に入れてしまい首根っこを掴まれた状態だった
。そうした中で大陸運営は日本は国民党軍と共に国民党政府として運営していた。だが
盧溝橋事件はそうした日中共同の軍事作戦を阻む決定的なものだった。今では日中戦争
と呼ばれる一連の戦闘なのだが、当時は上海クーデターは政府が政府の転覆をはかると
言う奇妙なもので、表向きは共産党排除の為の戦闘だったが、裏は米英と日本との対立
を煽る為の工作に溢れていて、国民党が共産党の手玉に取られたゲリラ活動に悩んでい
たのが実情だった。当然である12月12日、張学良と楊虎城は西安事件を起こして蒋介石
を拘束し、生殺与奪を握っり第二次国共合作を認めさせていたのだ。その為に当時既に
周恩来以外は政府要人達は対日で共産党に通じていたと言われるからだ。1937年(昭和
12年)こうして対日抗戦の上海戦の戦線が拡大していたが、多くの日本軍は事件鎮圧と
して国内事変を蒋介石の要請で鎮圧する形で中華民国の首都南京で展開していた。日本
軍は中国軍を追撃し、南京を陥落させ、日本軍からは南京攻略戦。しかし中国側からみ
て、上海戦と南京戦を併せて上海南京保衛戰で、国民党軍と日本軍を戦わせる絶好のゲ
リラ戦だったのである。これに輪をかけたのが朝鮮半島からの志願兵達である。日本の
上層部は対国家運営が先で石油供給路の確保だったが、侵攻した軍部は、この戦闘の最
中に南京事件(南京大虐殺)を発生させて、軍部の暴走が始まっていたのである。南京の
日本軍司令部は、南京城内で一万五〇〇〇人以上の捕虜を得たと発表したが、市内には
、このほか軍服を捨て、武器を隠し、平服を着た兵士二万五千人がいると信じられた。
「本報告の報じる南京における査問会議は、難民キャンプおよび非軍事化されたはずの
安全区に中国人将校23名下士官54名、兵士1498名が隠れていた。その内の一部
は掠奪の件で処刑されたということを明らかにした。これらの高級将校の一部は、大使
館、領事館、その他中立国旗を掲げた建物に避難している事が、特に強調された。これ
ら平服の中国軍将校及び副官は、明らかに多くの場合大量の軍需物資を隠匿していた。
某国大使館近くと特に曖昧に言及された。防空壕内の捜索では、軽砲1、機関銃34、
小銃弾42.000、手榴弾7000、砲弾500、迫撃砲2.000が発見された。記者側に日本の報道
官は中国軍は全大使館員が退去した後に構内に入りったものであることを認めた。

920: 名無しさんAA:18/06/24 07:12
     世界閲覧 30−18  小日本と中国人

声明は「いずれかの非中立的な外国が紛糾を起こしたと示唆しようというのではない」
、と国際社会を気を使った言動だった。その大使館の国名を挙げるように強く求められ
たが、「この問題については皆さん自身の回答にお任せしましょう。」と報道官はこう
言って返答を避けた。その報告書の主張するところによれば、彼らの中には、南京平和
防衛軍司令官王信労(ワンシンロウ音訳)がいた。かれは陳弥(チェンミー音訳)と名
乗って、国際難民地域の第四部門のグループを指揮していた。また、前第八八師の副師
長馬保香(マーポーシャン音訳)中将や、南京警察の高官密信喜(ミシンキ音訳)もい
るといわれている。馬中将は安全地帯内で反日撹乱工作の扇動を続けていた、と言われ
る。また、安全地帯には黄安(フワンアン音訳)大尉のほか17人が、機関銃1丁ライフ
ル17丁をもってかくまわれ、王信労と3人の元部下は掠奪、扇動、強姦に携わったと
いう。此処で不思議なのはジョン・ラーベの存在だ。日本軍は北へ向かうので、ジョン
・ラーベはあわててまわれ右をして追い越して、中国軍の三部隊を見つけて武装解除し
、助けることができた。全部で六百人。武器を投げ捨てよとの命令にすぐには従おうと
しない兵士もいたが、日本軍が侵入してくるのをみて決心した。我々は、これらの人々
を外交部と最高法院へ収容した。私ともう一人の仲間はそのまま車に乗っていき、鉄道
部のあたりでもう一部隊、四百人の中国軍部隊に出くわした。同じく武器を捨てるよう
に指示した。と書く。つまり先の武器にしろこの兵隊にしろ、それを指導していたのは
ドイツのこのラーベだった事は日本軍に報告されていた。中独合作から中共合作に変化
しその後アメリカからさえ支援を受けた蒋介石将軍だったが、実はそれが過去の援助が
消えた事では無かった。ここが中国のしたたかな戦略と性格である。「大陸報(チャイ
ナプレス」は中国の記録であるが、後に、毛沢東自身が「持久戦論」を決め込み延安で
ゲリラ活動を指令しながら自らはこの地に閉じこもリ「日本侵略者一年来の暴行」を大
きくアピールして来た事を告白している。曰く「日本軍がいたから我々は建国出来た」
というのである。延安は漢口から約1,000km、上海からは1,500kmも離れた山間の奥地で
あり、交通は不便でラジオ放送がそのまま受信できる環境ではなかった。南京で行われ
たことは時間を過ぎて新聞により伝わっていた。その新聞記事をジョン・ラーベ達が書
いていたのである。その意味でラーベ日記には共産党視点で書かれ、毛沢東軍が住民を
襲い食料を空にした事は書かれていない。実はそこにからくりがあって、国民党軍も又
食糧を持たなかった。さらにゲリラ活動は堤防爆破を行い、多くの川の氾濫を起こして
災害を作っていた。この共産党軍の司令所が第八八師団だったのである。

921: 名無しさんAA:18/06/24 07:15
     世界閲覧 30−19  小日本と中国人

 この南京大虐殺の南京事件の衝撃は、日本人はあまり解っていなかったと言える。実
はその日本人と中国人の受け取り方の違いこそが大きな違いである。日本の軍部も又、
こうした力に頼った支配からの脱却を強く望んでいた。日本では日中戦争などと言う言
葉はない。あくまで日華事変か支那事変なのである。盧溝橋事件(1937年7月7日)は、
突然の抗日宣言だったが、4日後の松井ー秦徳純協定では、共産党員のやった事として
報告を受け事態は収拾している筈だった。だがその後も中国共産党の国共合作によって
国民党軍内でも徹底抗戦の呼びかけ (7月15日)が始まり、又蒋介石までも「最後の関
頭」談話における徹底抗戦の決意の表明 (7月17日)を手のひら返しに行った。この為
に、中国軍は、日本軍及び外国人居留民に対する攻撃が行われた。この時卑怯にも多く
を日本軍の行為として事件前から新聞報道がなされていた事が解っている。こうして第
二次上海事変が連続して起こり、戦闘が本格化した。したがってこの行為の端緒を、盧
溝橋事件と考えた日中戦争などと言うのはこの時の実体ではない。また、少なくとも、
日本軍は3つの失態や失策の上にあった。一つは思わぬ攻撃を受けていた事だ。実は、
日本軍の中国駐留は味方として国民党応援部隊として駐留しの大日本帝国兵士は、この
突然の変節には対応していなかった。もともと中国大陸など必要なかった。満州国も、
樹立する必要はなかったが、山本五十六のメキシコ油田の権益がアメリカの領土購入で
うまく行かなかった上に、陸軍からの満州の油田開発を強く押されての樹立だったのだ
。国内では2・26事件まで起こして石原莞爾はそれを勧めていたのである。二つ目は
食糧供給問題だった。この必要もないと中国大陸だった。と言う理由は各国の租界と言
う領事館施設の様な外国人居留地の存在であった。国際的に日本は開国時から既に孤立
していた。国際社会の中にアジア人と言うのは居なかったに等しく、もし頼るならそれ
こそソ連ぐらいだったが、そのソ連の南下作戦で英国と共同歩調を取っていたのである
。西洋と東洋の違いは生活様式に限らず、思想や哲学或いは国や国際社会が求める物も
違っていたのだ。インド人に見る様に、神を信じなくても正義を求めた東洋に比べて、
契約社会の西洋は、一神教で絶対神を説きながら 他の神には不正義でも嘘でも構わな
い主義であったのだ。だから日本はその考えについていけなかった。第一次大戦後に、
ベルサユ宮殿の話合いで 植民地政策の撤回や有色人種の人権を持ち出し煙たがられた
が、充分にアジア社会の自立自尊を憂いての発言だったからだ。この八路軍が八八師団
として国民党軍に組み込まれている事を日本は全く重く見ていない。それどころかまだ
中国国民党軍は共産党ゲリラ部隊と戦っていると信じて止まなかったのである。

922: 名無しさんAA:18/06/24 07:16
 全く大陸の権益より石油権益がほしい大日本帝国の軍部だったが、足元の大陸のその
中国大陸の国民は実は飢えていたのである。度重なる共産党のゲリラ行動に悩まされ、
追剥盗賊の類の行動に蒋介石率いる国民党軍の正統政府は全く打つ手が無かったのであ
る。田舎から共産党討伐を求められ大部隊を移動し、その移動した兵士が次々と共産党
になり又国民党に戻ってくると言う国内事情に目がまわり、自給自足や国家建設がなさ
れなかったのである。当初は工場デモや都市破壊だったが、毛沢東が田舎に逃げると、
田舎の食料を奪い、国は税の徴収すら計れなかった。1937年(昭和12年)の日本と中華
民国(支那)の間で始まった、長期間かつ大規模な戦闘はそうした中での一方的な中国
の隠れた宣戦布告だった。南京事件はその中のエポック的な象徴された事件で、日本軍
が南京で相当規模の虐殺事件を含む数々の戦争犯罪を行った。というのは日本軍の戦闘
詳報や陣中日記から明らかな歴史的事実だろう。しかしその主張の先にはまるで日本の
みが、平和の中でそうした事が起こったような言い分である。他国のアメリカやドイツ
やソ連はもっと多くの虐待した死者が出て居る。にも拘わらず 中国の誇大宣伝による
そこに居留する人民の数十倍の死者と言うのが大きな嘘になっている。勿論南京事件は
日本軍が出征先で行ったことであり、日本側の記録も多数ある日本史である。だがそこ
に真実はない。もしそうした悲劇の反省があるなら中国に天安門事件など起こらない。
当時中国国民は八路軍によって、強姦、略奪、暴行、殺人、放火などあらゆる事が起こ
っていた。日本軍も又末端部隊における不法行為の実態は似たようなものだった。ただ
それには理由があった。私が聞いた幾人かのご老人の話は「いや〜ともかくひどかった
。死体も行為も。戦争なんてするもんじゃない。」と言う事だった。つまり極限状態で
食事すらままならない中の進軍だった。と言うもので、よくある南京入城写真は、その
前の戦う部隊とその後の入城部隊とは全く違う者達で、関東軍と言う現地部隊は全くの
ならず者達で、後からやって来て支那人も朝鮮人も多数いた。と言う事である。この、
中国の変節に対応していなかった。と言う事と食料自給などできなかった。と言う事の
二つの失敗は更にもう一つの大失敗を起こした。つまり中国軍も革命を目指す毛沢東軍
も食料を持たなかった。と言う事である。の戦略は、華北の日本軍を南下させる為に、
毛沢東は中国軍が華北まで後退し、主戦場を上海から華北へ華東へと誘致し「日本軍に
上海戦場を開かせ、「持久消耗戦略」を行い、アメリカやイギリス、ソ連などを日中戦
争に巻き込め。と蒋介石始め共産党ゲリラに命じて、自らは延安にこもり新聞を取り寄
せていたのである。これに日本軍のみならず中国軍も乗って兵士は餓死を逃れる為投降
してきたのだった。自軍をも餓死させる。これが戦後もとった毛沢東の戦略であり、今
までの北朝鮮の戦略だった。日本人には考えもつかない乞食物乞い戦法である。

923: 名無しさんAA:18/06/24 07:23
     世界閲覧 30―21  小日本と中国人
 韓国でも中国でも国民を欺く為に粛清の嵐が吹いて、人々は洗脳教育の中に埋没した
。「国民保導連盟事件」も反日名の下で、政府の粛清した事件で、埋没させたい超弩級
の韓国の傷だろう。会見で「馬山」の名もでた事件の舞台だ。保導連盟とは共産主義者
が転向し、韓国に忠誠を誓う人々と家族を再教育・統制すべく立ち上げられたと言う、
思想保護観察組織である。ところが、朝鮮戦争(1950〜53年休戦)勃発によって
連盟加入者名簿は虐殺リストにすり変わって粛清が行われた。北朝鮮軍がソウルに迫る
や初代大統領・李承晩(イ・スンマン:1875〜1965年)は、国民や韓国軍将兵
を見捨てて僅か数名で大統領府を捨てて逃亡し釜山に臨時政府を構えた。その際、日本
の山陰に米軍を通じて臨時政府を置く事を打診している。同時に連盟登録者や親日派を
「危険分子」として処刑するよう軍・官憲に命じた。北朝鮮側間諜が紛れた可能性は有
るが、大多数は無辜の民。食料の優先受給目的での登録した人も大勢いた。それ程食料
自給は圧迫していた。日韓併合で日本の力で二倍の農業生産が戦争で2割に落ち込み、
生きたままの猿やイノシシの、脳みそすら食べる習慣が流行る始末だった。政治犯らの
政権に目障りな人々の抹殺の為に米国の好きな「赤狩り」の言葉を利用したのだ。韓国
紙によれば60万〜120万人、政府も「子供を含む最低10万人以上」の国民を虐殺
し、排水溝や海に遺棄した暴挙を認めている。馬山でも廃坑や労働刑務所内での殺戮が
行われた。こうしておびただしい数の韓国人が難を逃れ、日本に密入国し、大半が居座
った。つまり戦争よりは政治犯としての殺戮に逃げたのである。南北朝鮮とイスラム国
の最大の共通項は凶暴で残忍である事だが、大量の死者・棄民を輩出しても 心痛まぬ
思考回路はその後のベトナム戦争でも発揮される。米軍の肩書でベトナム戦争で傍若無
人の殺人狂レイプ犯として韓国軍は名が知れ渡ってしまう。ベトナムでの聞き取り取材
ではこのような証言を得ている。「韓国兵はベトナム人を蔑み、人前で平気でビンタを
とる。ベトナム人には美人が多いので、女は皆、慰安婦にさせられた。韓国との混血児
は名乗り出ないので、はっきりとした数は分からないが、1万人以上いるはずだ。」と
韓国の有力左系新聞社の週刊誌『ハンギョレ21』によれば、「女性を強姦した後は、
殺害して、妊産婦の腹を胎児が破れ出るまで軍靴で踏み潰す」といった行為があたかも
鼻歌まじりに行われていたという。さらには、「強姦の被害者は判明している数の数倍
はいるだろう。なぜなら、韓国兵は犯した後に殺すからだ」という声もあったという。
この戦争では韓国軍兵士は「きれいに殺し/きれいに燃やし/きれいに破壊する」という
スローガンの下、各地で掃討作戦を展開したと伝えられている。こうして出来たの子は
ライダンハンで韓国人とベトナム人の混血とされる。

924: 名無しさんAA:18/06/24 07:43
 かつて戦後世界中の人は、中国や朝鮮は、このままではいずれ国として滅ぶであろう
。と予想した。今のイエメンの様に放っておくのが一番と決め込んでいた。ところが、
多くの日本人も自らが生活するのに必死であったのに、どこの血潮がうずいたのか隣国
の同世紀を生きる人間として冷たく放って置くのを潔しとはしなかった。何故か援助を
申し出たのである。勿論この正義のまともな人間的愛情行動に、裏切られる一抹の不安
はあっただろう。しかし臆することなく、隣国の人間として手を差し伸べたのである。
が、その不安は見事に的中する。つきまとって離さぬ韓国は日本を歴史捏造でいたぶり
、日本人を拉致・誘拐までして体制維持に終始する北朝鮮。自国を後進国と自認しては
援助を恐喝し、軍備拡張と威圧で国内外に、徹底した独裁の中国、「北朝鮮解放は核ミ
サイルの開発放棄」でじらす外道ぶりは、三国共通である。常に「我が国は国際法を順
守し法を破る者を制圧の為に軍増強をしている。平和を愛する我が国は他国に侵略に行
った事はない。」と、どの顔で言えたものか。海軍増強に東シナ海でフィリピン漁民を
機銃掃射で殺してまで無人島に軍港を整備し、歴史的にも朝鮮にベトナムにインドに隙
あらば戦い、今でも尖閣諸島は自分のものだ。と、いちゃもんをつける。この品格の無
さはかつての名門の中華の国とはとても信じられない。この哀れな中国・韓国は「歴史
の不完全燃焼」に身悶え、制御不能な嫉妬の炎は、贋物作りが名物になった「歴史の改
竄」も「歴史の新作」何処にこのエネルギー源があるのか。取り憑かれた国になった。
情念で日本を「口撃」している間は、不都合な史実は目立たないと思っているのだろう
世界中が知っている事実なのだが、韓国の為政者の反日カードは国家戦略であり続ける
。自分達が送り出した娼婦達の像は次々に飾られる。日本にも娼婦はいたし、米国にも
いた。しかし、慰安婦の様に現地の将軍の50倍もの給与のある人は慰安婦ぐらいだろ
う。中国の抗日ドラマでも、これほどあからさまな嘘には、恥ずかしくて出せないのが
普通だ。日本軍と戦った。全くのデタラメで日本軍は共産党とは戦っていない。南方の
スマトラ、ボルネオの油田を目指したのであって、勝手にゲリラ活動し中国を破綻させ
建国したのであって、そもそも江戸幕府の開港すら欧米列強の強制ではじまっている。
日清日露の戦争は清王朝が弱く、日本がロシアの暴力的南下作戦の壁となった話だ。日
韓併合はその欧米の借金特にロシアの取り立てに危機感から仕方なし李氏朝鮮の王朝に
応じたものだった。又満州国も満鉄の経営権で充分足りていたが、愛新覚羅の王朝復活
の熱に折れての事だ。南京大虐殺などする理由もない。南京入城は北京の国民党政府の
呼びかけで行って結局は起こった。戦時体制で軍部だから仕方ない。が上海爆撃を日本
に見せかけ、ゲリラ活動の堤防爆破被害よりには比べようもないくらい小さな事件で、
大々的見せつけて 今も抗日戦線を今も演じている事を我々は知らなければならない。

925: 名無しさんAA:18/06/24 19:17
 かつて戦後世界中の人は、中国や朝鮮は、このままではいずれ国として滅ぶであろう
。と予想した。今のイエメンの様に放っておくのが一番と決め込んでいた。ところが、
多くの日本人も自らが生活するのに必死であったのに、どこの血潮がうずいたのか隣国
の同世紀を生きる人間として冷たく放って置くのを潔しとはしなかった。何故か援助を
申し出たのである。勿論この正義のまともな人間的愛情行動に、裏切られる一抹の不安
はあっただろう。しかし臆することなく、隣国の人間として手を差し伸べたのである。
が、その不安は見事に的中する。つきまとって離さぬ韓国は日本を歴史捏造でいたぶり
、日本人を拉致・誘拐までして体制維持に終始する北朝鮮。自国を後進国と自認しては
援助を恐喝し、軍備拡張と威圧で国内外に、徹底した独裁の中国、「北朝鮮解放は核ミ
サイルの開発放棄」でじらす外道ぶりは、三国共通である。常に「我が国は国際法を順
守し法を破る者を制圧の為に軍増強をしている。平和を愛する我が国は他国に侵略に行
った事はない。」と、どの顔で言えたものか。海軍増強に東シナ海でフィリピン漁民を
機銃掃射で殺してまで無人島に軍港を整備し、歴史的にも朝鮮にベトナムにインドに隙
あらば戦い、今でも尖閣諸島は自分のものだ。と、いちゃもんをつける。この品格の無
さはかつての名門の中華の国とはとても信じられない。この哀れな中国・韓国は「歴史
の不完全燃焼」に身悶え、制御不能な嫉妬の炎は、贋物作りが名物になった「歴史の改
竄」も「歴史の新作」何処にこのエネルギー源があるのか。取り憑かれた国になった。
情念で日本を「口撃」している間は、不都合な史実は目立たないと思っているのだろう
世界中が知っている事実なのだが、韓国の為政者の反日カードは国家戦略であり続ける
。自分達が送り出した娼婦達の像は次々に飾られる。日本にも娼婦はいたし、米国にも
いた。しかし、慰安婦の様に現地の将軍の50倍もの給与のある人は慰安婦ぐらいだろ
う。中国の抗日ドラマでも、これほどあからさまな嘘には、恥ずかしくて出せないのが
普通だ。日本軍と戦った。全くのデタラメで日本軍は共産党とは戦っていない。南方の
スマトラ、ボルネオの油田を目指したのであって、勝手にゲリラ活動し中国を破綻させ
建国したのであって、そもそも江戸幕府の開港すら欧米列強の強制ではじまっている。
日清日露の戦争は清王朝が弱く、日本がロシアの暴力的南下作戦の壁となった話だ。日
韓併合はその欧米の借金特にロシアの取り立てに危機感から仕方なし李氏朝鮮の王朝に
応じたものだった。又満州国も満鉄の経営権で充分足りていたが、愛新覚羅の王朝復活
の熱に折れての事だ。南京大虐殺などする理由もない。南京入城は北京の国民党政府の
呼びかけで行って結局は起こった。戦時体制で軍部だから仕方ない。が上海爆撃を日本
に見せかけ、ゲリラ活動の堤防爆破被害よりには比べようもないくらい小さな事件で、
大々的見せつけて 今も抗日戦線を今も演じている事を我々は知らなければならない。

926: 名無しさんAA:18/06/24 19:18
     世界閲覧 30−23  小日本と中国人

 今度の日朝会談前には、金正恩を「指導者として頭が良く優れているから国を率いて
いる。彼なりの優秀さがある。」とトランプが褒めた事がある。これを聞いて中曽根が
中国への追加支援を決めた時の事を思い出す人も多いだろう。彼は「中国の友人の胡耀
邦が困っている。是非手助けしたい。」といい「国を治めるのは大変なんだ。」と言っ
た。同感である。中国を治めるというのは容易なことではない。当時、住民は生活物資
を供給してもらわないと暮らせないから、それを供給する側につきたがる。物資の供給
をしなかったら、絶対に住民の支持が得られない。それが中国の人民だった。だが日本
は占領地から鉄鉱石・石炭・綿花・塩とかを確保し供給していたにも関わらず、共産党
のゲリラ作戦でその分断が続いていたのだ。当然その供給も分断されていた。もし北京
政府の蒋介石がそれを放置し北伐に走らなかったら共産党に負ける事は無かったろう。
しかし地方の困窮や泣訴に追撃に立ち上がり、西安にまで出てあっけなく張学良・楊虎
城らに拉致監禁され西安事変を起こされてしまった。その後軍事委員会高等軍法会議に
までかけられたが張学良は特赦を受け軟禁状態に捨て置かれたまま反日を指示していた
。それは北京政府は共産党員に乗っ取られ抗日でまとまってしまったからだった。当然
蒋介石軍は内戦に備えて対日戦を手控えるようになって、戦争は共産党軍の散発的な、
ゲリラ戦が主なものとなっていった。戦争は続いたけれども、他方で日本の占領下中国
各地では日常生活が回復しつつあったのである。この時代の戦争は、戦闘だけをやって
それで勝てればいいというのではなかった。今の先進国の近代戦争とは様相が全く違う
。まことに変な戦争だった。鉱山を開発し、炭鉱を整備しなければならない。占領地の
経済の運営をやって、住民を食わせなくてはならない。国民党軍と共産党軍の敵対意識
は、日本軍に対する意識よりもはるかに強く対抗していたが、上層指導部は違っていた
のである。それを形だけ抑えて国共合作と称して日本を戦っているわけだから。日本軍
の前で国民党軍と共産党軍が戦闘を始めることは多々あったのだ。そうすると日本軍は
この南京虐殺の様に入っていかないで、黙って見ているわけである。馮玉祥(ふうぎょ
くしょう)・閻錫山(えんしゃくざん)なども日本軍の間では、お互いに攻撃しないと
いう一種の約束も出来ていた。それどころか、山西軍のある部隊で、給料が払えなくな
ったので、二百人くらいの兵隊を日本軍で引き取ってくれと密偵が言って来たこともあ
る。そんな戦争だったのである。中国人達は近代的インフラを整備する土台を日本人が
作ったという事実は、きちんと評価しなければならない。

927: 名無しさんAA:18/06/24 19:21
この中国人大陸には近代的インフラを整備する。その為に労働兵士の日本軍は進軍した
。又、日本の占領軍は、梅蘭芳・斉白石・周作人など文化人を尊重し、彼らに公職への
就任を打診し、たとえ拒否されても危害を加えるようなことはなかった。しかし、この
大日本帝国陸軍がいかに大部隊で、中国都市を制圧しても、広大な中国では所詮点と線
しか制圧できなかったのである。日中戦争時、日本は鉄道建設に情熱を注ぎ、1千キロ
の新線を中国に増設している。また速度も向上した。この鉄道は、日中両国に経済的に
驚異的利益をもたらした。日中8年戦争においても、日本はその占領地域において内戦
を停止させ、中国の統一・社会の安定と発展に相当な努力を払っている。当時日本は、
中国で鉄道・港湾(築港)・電力・医療・インフラ・金融・財政・経済発展・民政の安
定について、実に想像以上に大きく寄与している。しかしこれらの事実は無視されるど
ころか、むしろ歪曲・否定されて中国人は認識している。この産業や鉄道をはじめとす
る近代的施設に対する破壊・略奪を行ったのは、日本軍ではなく他ならぬ馬賊出身など
軍閥争いをしたの各政府・各武装勢力の中国人だった。そして住民の多数もそれに従っ
た。毛沢東は山奥でそれを眺めているだけで、ゲリラに発破かけていた。共産党中国が
日本の敗戦まで命脈を保ちえたのは、隠れて国際法違反の米ソの軍事・経済的支援があ
ったからで、決して「長期戦」「持久戦」などの勝利ではない。日本軍の進撃に対して
、中国軍はひたすら逃走・撤退を重ねるというのがこの戦争の通常パターンだったため
、日米戦争のような激戦は少なく、犠牲者もそれほど多く出てはいない。中国側犠牲者
も軍人が中心であり、国共内戦や共産党の階級闘争のように住民を巻き込んでの、逃げ
場のないような凄惨な殺し合いは、基本的に行われなかった。日本政府の推計によると
、1938〜45年までにおける日本の対中国投資の累計は、46億8千万円に達している。
( 華北蒙彊含む地域33.3億 華中10.4億 華南3.1)億円更に軍費の諸費に数
十億を調達している。当時の日本の国家予算は約20億円程度だから、どれだけ巨額か
投資されたかがわかるだろう。実に現地での食料増産を望んで仕事をしていたか。それ
は兵站線の確保がもともと困難としていたからだ。更に伝統的に日本軍の戦略の中には
「糧秣は現地で調達すべし」というのがあって、この戦争も同じだった。軍票を預かり
発行し経営する。それはシベリア出兵以来一貫した日本陸軍のやり方だった。現地調達
は日清戦争の時に清国兵があまりに弱く、清国は平壌に糧秣を山にように積んで陣をた
て「さあ、来い」構えたのだ、そこに山県有朋の第一軍が攻めていくと、その糧秣を置
いてすぐさま逃げてしまい、第一軍はその食糧を食べて新たな補給なしでやっていけた
経験からだ。同じことが旅順でも起き、そうしたことで「現地調達」となっていた。

928: 名無しさんAA:18/06/24 19:22
     世界閲覧 30−25  小日本と中国人

 戦後になって、マッカサーは余生の中で、元アメリカ大統領ハーバート・フーヴァー
と連合国軍最高司令官マッカーサーは「太平洋戦争とはいったい何だったのか」を3日
間にも渡って話し合ったと言う談話がある。そのとき、日本人なら誰も思いもしないよ
うなことをフーヴァーは口にしたと言う。「太平洋戦争は、日本が始めた戦争じゃない
。あのアメリカの『狂人・ルーズベルト』が、日米戦争を起こさせた。気が狂っている
と言っても精神異常なんかじゃない、ほんとうに戦争をやりたくてしょうがなかったの
だ。その欲望の結果が日米戦争になったんだ。」とその言葉を聞いて、マッカーサーは
はっきりと同意した。私たち日本人は、小さい頃から「日本が真珠湾を宣戦布告もなし
に攻めて戦争を起こした。」「日本は残虐な悪い国だ。」ということを新聞でも、テレ
ビでも繰り返し教わる。だが真実は、今から数年前、我々が耳にしてきた太平洋戦争の
常識とは真逆とも言える証言が沢山出てきてそれが表にでない。47年公開を禁じられ
たフーヴァー元大統領の回顧録は、そうした真実を次々と浮かび上がらせる。ハル・ノ
ートから始まる真珠湾攻撃、原爆投下、終戦に、アメリカでは今はこの証言をもとに、
歴史の見方が、世界の見方が少しずつ変わり始めている。しかし日本の大手メディアは
一向に取り上げないし、日本人ににこの事実を大きく受け止める世論も育たない。太平
洋戦争に隠されたその大嘘の数々は、歴史的転換点が如何に白人優位主義の下に行われ
たかが解る。この太平洋戦争と言われる第二次世界大戦も、公式に天皇陛下は各国大使
館大使を呼び寄せて公式に声明まで出していて、その時に米英やドイツの記者さえいた
。しかしいまでも奇襲作戦だったからと真珠湾奇襲攻撃と称される。米国は当然のごと
くおとしいれた事は明白であり、ハルノートがあっても無くても戦争に追い込んだのだ
。終戦直後の中国国防部発表は、日中戦争での死者は175万人(軍人のみ)だった。
中国が言う「日中戦争で3千五百万人が日本軍に殺された」なら、日本兵全員が「百人
斬り」をしなければならない。対して日本人は朝鮮や台湾人も日本国籍を持っていた為
700万人が動員され230万人が戦死か行方不明になっているのだ。勿論国内被災者
も大勢いよう。この正確な数字に負けない数字を中国でもと言う腹積もりの盛った数字
だろうが、中国自体戦争は、無かったに等しい物だった。日中戦争中ででも蒋介石でも
基本的には反日ではなく、占領各地の自治政府や汪兆銘政権の樹立を見ても、親日派が
多数存在したことが事実である。これが共産党には気に入らない。だが共産党員は支持
されていなかったし、殆どの死者がこのゲリラ工作の死者なのである。


929: 名無しさんAA:18/06/24 19:22
     世界閲覧 30−26  小日本と中国人

 良くなぜ東南アジアは戦争で弱かったの。何で日本自体は戦争に敗けたの。と言う質
問が若い人から聞く。しかし、その答にインフラ整備に重きを置いたから。とは誰も言
わない。実は弱かった理由に福沢諭吉の声の中にある。同じアジア主義者だった福沢諭
吉は、のちの頭山満ら玄洋社系の志士たちと異なり、早々にアジア主義を捨て脱亜を唱
えるにいたった。なぜか。諭吉が誰よりも朝鮮と朝鮮人に大きな期待をかけていたから
ではある。また中国人に大きな未来があると期待していたからだ。だが期待大きければ
失望も又大きいものであった。国民の民族性とは文化に現れるものである。かつて鎖国
で国際化しなかった日本に於いて、市民から選ばれる議会や大統領選を素晴らしいもの
として開国し、アジアが列強の牙にかかりアジアの長としての中国と隣国としての朝鮮
に大いなる自主独立の尊厳を求めたのは当然だった。だが あまりにも発達発展のない
国土と思想に諦めたのは別に福沢諭吉のみではなく、多くの日本人の当時の見識だった
。モラルが白人中世の以下ものであるというのは、じつのは中国兵を非難する際には、
しばしば使われた形容である。「フン族のように」とはドイツ皇帝が言ったものだが、
実際、当時の中国兵のふるまいはまさに中世のそれ以下というほかにない。中国共産党
のシンパであったかのアグネス・スメドレーでさえ当時、中国で一般的に行われていた
刑罰を指して「これは中世よ!」とヒステリックに非難している。その中枢が共産党の
社会だったのである。1934年10月、蒋介石軍に敗れた毛沢東の共産党軍は根拠地
の中国南部を脱出し、北西部へと逃れた。いわゆる大長征である。1936年秋、2年
にわたる逃避行の末、共産党軍はやっとソ連国境に近い延安に到着した。しかし、そこ
は不毛な黄土台地にある中国でも最も貧しいとされる地域であった。加えて、その兵力
は出発時の十分の一まで激減していた。兵隊はいないし、武器もない。これでどうやっ
て戦うか。いや戦いどころではない。今いる兵隊たちをどうやって食わせていけばよい
のか。毛沢東は頭を抱えた。しかし彼は巧みに張学良・楊虎城を抱き込み兵を預けて、
影で指令する事を決め込んだ。領民への略奪などで全く協力が得られなかったからだ。
兵士を預かったものの楊虎城は兵の食料すらおぼつかず、先の密偵による日本軍で引き
取ってくれと言う懇願だ。しかし張学良は頭が良くそれを行わず、共産党が暴れて困る
討伐に兵を挙げてくれ。と被害者の振りを装ったのである。こうして日本軍が止める事
を聞かず自軍を西安に向けた。1936年12月、こうして張学良が突然蒋介石を監禁
し、「共産党への協力と一致抗日」を迫ったのである。いわゆる西安事件である。

930: 名無しさんAA:18/06/24 19:23
 これによって一気に共産党員は生気を得た。ここまで残った者は殆どが毛沢東の子飼
いのシンパであり妄信する熱狂的な共産党員であった。この殆どを国民党に迎え入れて
蒋介石軍は北京政府に帰ってくるのである。これは、降って湧いたような天佑がであっ
た。ゲリラ部隊が中央政府の役職に次々と着任したのだ。崩壊寸前の共産党にとっては
文字通り最後の命綱であった国共合作が出来たのである。これは蒋介石の甘さであった
し、同族国民としての温情でもあったのだが、それらは次々と羽を広げた悪業を成した
。1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋で謎の発砲事件が発生。日中の小ぜり合いが
発生したのである。世に言う盧溝橋事件である。戦後にこれが新しく国民党軍に入った
劉少奇の部隊の抗日活動だった事を毛沢東自身が誇らしげに言っている。その後劉少奇
は第二国家主席として数々の汚ない活動をする。国共内戦・チベット侵攻・ウイグル侵
攻・朝鮮戦争・中ソ対立・大躍進政策・中印戦争・文化大革命・林彪事件・四五天安門
事件・中越戦争・中越国境紛争・改革開放・一人っ子政策・六四天安門事件と数々の多
く歴史の裏に居る。毛沢東・周恩来・劉少奇・朱徳・華国鋒・林彪・江青・ケ小平まで
いずれも現代の独裁共産党の指導部の面々だ。胡耀邦や趙紫陽が困って日本に行く事に
その援助資金で抗日記念館を建てさせたぐらいの大物となっていた。事件発生前からそ
の電文は打たれ、全国民に向けて一致抗戦を訴えた。事件を事前に打ち合わせて異例の
段取りが組まれていたのだ。あわや全面衝突かと危惧されたが、日本政府は不拡大方針
を堅持し、直後に結ばれた現地停戦協定によって小ぜり合いはいったん収束に向かった
。共産党は落胆しただろう。日中が衝突すれば内戦より抗日を求める世論が高まり、そ
れだけ国共合作の気焔を上げて共産党にとって追い風となるはずだった。停戦協定が結
ばれたその直後からは、日本人をねらった殺害事件や挑発事件を執拗に中国各地で頻発
させて停戦協定を事実上無効にした。7月13日 大紅門事件(爆殺により日本兵4名
が死亡)7月25日 廊坊事件(日本軍が銃撃を受ける)7月26日 広安門事件(日
本軍が銃撃を受ける)7月29日 通州事件(日本人居留民223名が辱貶惨殺される
)8月9日 大山事件(大山勇夫海軍中尉が殺害される)などだ。特に大山事件は当日
に元外交官船津振一郎を介した和平交渉(船津和平工作)が予定されていた。この会談
では日本側は、満州事変以後、日本が得た権益のほとんどを放棄するつもりでいた。そ
こまでして紛争を終結させようと思っていたのである。こうした中でも外国人軍事顧問
の教唆を受けた蒋介石は8月13日、上海の日本人租界に向けて突然攻撃を開始した。
日本軍のふりをして第二次上海事変の勃発である。一連の動きから蒋介石が強固な開戦
意志を持っていると判断した日本政府は、それまでの不拡大方針を撤回。8月15日、
「南京政府の反省と懲罰」のためとして日本軍の上海派遣を決定した。

931: 名無しさんAA:18/06/24 19:24
     世界閲覧 30−28  小日本と中国人

 第二次世界大戦中の日本軍がいかに残虐であったかという言説が一人歩きしている。
もちろん日本軍残虐説はただのプロパガンダだ。だが、一部にはそう思われても仕方の
ない行為があった可能性は否定できない。しかし、ではなぜそのような残虐な日本兵が
いたのか、といえばおそらく中国共産党戦線での経験がそうさせたのではあるまいか。
この戦争で漁父の利を得た毛沢東は、幸運なだけで無能な指導者だったのは戦後中国の
国内事情が示している。この戦争は日本がしかけた侵略戦争だったという人は社会党の
挨拶と同じに無知すぎる。この支那事変の発生後、何十回と中国政府との接触をし、更
に公式にも和平交渉を何度も試みたという事実がある。しかもそれは戦線が拡大した後
でさえ複数回にわたって試みられている。以下はそうした和平交渉の主なリストである。 1、現地停戦協定(松井-秦徳純協定)1937年7月11日
 2、宮崎竜介和平工作 1937年7月19日
 3、船津和平工作 1937年8月9日←
   同日午前、大山大尉殺害事件が発生し中断
 4、トラウトマン和平工作 1937年11月5日
 5、汪兆銘和平工作 1939年?1940年
 6、桐工作 1939年〜1940年
これらは国民の心境も日本の意向も既に充分国民党政府に伝わっていた事を示すものだ
。しかし哀れにも、共産党ゲリラ部隊はネズミが母屋をかじって壊すように破壊活動に
勤しんだのだ。戦後に中国共産党が発行した『初級事務戦士政治課本』というパンフレ
ットには、大きく「盧溝橋での発砲事件は党中央の指令を劉少奇同志が実行に移したも
の」と称賛の記事が記されている。又、1964年、訪中した日本社会党の委員長は、
素直な気持ちで過去の戦争への謝罪を述べたのだが、それに対し、毛沢東はこう答えた
。「何も申し訳なく思うことはありません。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたら
し、中国人民に権力を奪取させてくれました。みなさんの皇軍なしには、われわれが権
力を奪取することは不可能だったのです。」と言って周恩来などの他のものに「ありが
とうと言って余りある。そうだろう皆んな。」と呼びかけた。日中国交が目の前にぶら
下がっていたとは言え、この現実を把握しての姿勢は、日本も当然知っていると思って
言ったものだった。と言われている。


932: 名無しさんAA:18/06/25 10:51 ID:sFs
     世界閲覧 30−28  小日本と中国人

 第二次世界大戦中の日本軍がいかに残虐であったかという言説が一人歩きしている。
もちろん日本軍残虐説はただのプロパガンダだ。だが、一部にはそう思われても仕方の
ない行為があった可能性は否定できない。しかし、ではなぜそのような残虐な日本兵が
いたのか、といえばおそらく中国共産党戦線での経験がそうさせたのではあるまいか。
この戦争で漁父の利を得た毛沢東は、幸運なだけで無能な指導者だったのは戦後中国の
国内事情が示している。この戦争は日本がしかけた侵略戦争だったという人は社会党の
挨拶と同じに無知すぎる。この支那事変の発生後、何十回と中国政府との接触をし、更
に公式にも和平交渉を何度も試みたという事実がある。しかもそれは戦線が拡大した後
でさえ複数回にわたって試みられている。以下はそうした和平交渉の主なリストである

 1、現地停戦協定(松井-秦徳純協定)1937年7月11日
 2、宮崎竜介和平工作 1937年7月19日
 3、船津和平工作 1937年8月9日←
   同日午前、大山大尉殺害事件が発生し中断
 4、トラウトマン和平工作 1937年11月5日
 5、汪兆銘和平工作 1939年?1940年
 6、桐工作 1939年〜1940年
これらは国民の心境も日本の意向も既に充分国民党政府に伝わっていた事を示すものだ
。しかし哀れにも、共産党ゲリラ部隊はネズミが母屋をかじって壊すように破壊活動に
勤しんだのだ。戦後に中国共産党が発行した『初級事務戦士政治課本』というパンフレ
ットには、大きく「盧溝橋での発砲事件は党中央の指令を劉少奇同志が実行に移したも
の」と称賛の記事が記されている。又、1964年、訪中した日本社会党の委員長は、
素直な気持ちで過去の戦争への謝罪を述べたのだが、それに対し、毛沢東はこう答えた
。「何も申し訳なく思うことはありません。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたら
し、中国人民に権力を奪取させてくれました。みなさんの皇軍なしには、われわれが権
力を奪取することは不可能だったのです。」と言って周恩来などの他のものに「ありが
とうと言って余りある。そうだろう皆んな。」と呼びかけた。日中国交が目の前にぶら
下がっていたとは言え、この現実を把握しての姿勢は、日本も当然知っていると思って
言ったものだった。と言われている。


933: 名無しさんAA:18/06/25 10:51
     世界閲覧 30−29  小日本と中国人

 不思議な事に戦時中に、「中華民国を創設した革命の指導者たちは、偉大なアメリカ
の政治思想家たちの啓発を受けました。また数千の中国人学生がアメリカに留学し、ア
メリカの思想と理想を持ち帰っています。中国は、アメリカの人民が我々のために戦っ
てくれるのを望むものでは決してありません。」「しかし、中国が精神的支持と物質的
援助を必要としているのは確かです。偉大な(ルーズベルト)大統領の指導下に中国を
全力で支持し、国際関係における法律と秩序を回復し、永く太平洋の平和を保たんこと
を心から希望します。」とカイロ会談に応じた蒋介石は声明を発している。今又全く同
じ声明文が出た。法と秩序を破っているのは中国でありながら、昔も今も恬(てん)と
して恥じない中国である。ルーズベルトは大統領になる前、選挙公約で戦争には中立を
維持し、アメリカ人を戦場に送ることはしないと約束している。しかし、その後に彼は
戦争を欲し日本を扇動した。戦争の口実を得るためにルーズベルトはアメリカに対する
敵国からの攻撃を必要としたのである。ルーズベルトはあらゆる手段を使ってドイツを
挑発した。しかしもちろんドイツはその手に乗らなかった。第二次世界大戦に参戦する
以前からアメリカ海軍は大西洋でドイツの潜水艦に攻撃を加えていた。しかしヒトラー
は反撃しなかった。それが囮だとわかっていたからだ。アメリカにはドイツに圧力をか
ける手段がかぎられていた。というよりすでに考えられる限り最大級の圧力を受けてい
た当時のドイツにはそれ以上の圧力をかけても効果がなかったのだ。ユダヤ集会では、
スチムソンもマーシャルも、アメリカを参戦させないでは勝つ事は出来ないが、どうし
て参戦させるかについては知恵が出なかった。ルーズベルトは、彼らに可能なギリギリ
の対ドイツ戦争挑発を行ったがヒトラーは乗らなかった。彼にはもうトリックの種は残
されていなかった。「言葉を換えて言えば、チャーチルは初めてルーズベルトに会って
大西洋憲章を書いた時、アメリカは日本が我々を攻撃しようとしまいと対日開戦すると
云えたという。これはチャーチルに明らかに満足のいくある種の保証を得たのだと喜ば
せた。更に言葉を換えれば、我々はパールハーバー以前に、大統領によってこの戦争に
立候補していたのだ。」アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領はどういうわけ
か日本に深く関与していくことになる。大統領は突然、日本が中国を侵略している。と
非難しはじめたのだ。当時、日本は既に10年に渡り、中国と戦い続けていた。それも
前回説明したようにそれは日本が先にしかけた戦争ではなかった。日本はたんに巻き込
まれた事変であった。また、日本はアメリカに対して侵略的な行動を執っていた訳でも
なかった。にも関わらずアメリカは日本と中国との争いに突然、口をはさみ始めたのだ。

934: 名無しさんAA:18/06/25 10:52
     世界閲覧 30−30  小日本と中国人

 このようにして真珠湾攻撃は、戦争に向かって微妙な政治的罠を、ルーズベルトに成
功させたのです。この破局の一ヶ月後チャーチルは議会でこう語っています。「アメリ
カは自身が攻撃されなくてさえも、極東の戦争に加わり、かくて最後の勝利が保証され
る、と云う可能性は、私がルーズベルト大統領とこれらの問題を語り合った大西洋会談
(1941年8月14日)以来のものである。」と高らかに議会で自画自賛している。
しかし、日本だけは、真面目に必死で中国国内建設していた。米国は日本に圧力をかけ
る余地があった。島国で資源が絶対的に不足していた日本は、産業に必要な資源の多く
を輸入に頼っていたからだ。かねてからのユダヤの世界征服計画通り、ルーズベルトは
日本に圧力をかけた。そして最後通牒になる処置を何回も送りつけた。それを呑まなけ
れば禁輸措置を課すぞと脅し続けたのである。その条件には中国本土および満州からの
撤退も含まれていた。このうち満州についてや満州鉄道利権などは本来中国の主権が及
ばない地域だった。この条件を呑まなければ日本が必要としていたくず鉄も、そして、
もっとも不可欠な石油も日本には売らないと通告していたのだ。よく理由にインドシナ
に日本軍による侵略したから。などと飛んでもない嘘が聞こえる。まったく事実でない
。日本はインドシナを侵略などしていない。日本はインドシナ(今のラオス、カンボジ
ア、ベトナムだが)宗主国であるフランス政府の許可を得て、いくつかの拠点に軍隊を
進駐させただけだ。背景にあったのは英米による国民党政府への軍事援助だ。日本はそ
れをやめさせるためインドシナに進駐したのだ。その時国際法違反の物資が援蒋ルート
上の倉庫から見つかった。戦前の話である。この処分に関して紛糾したが一つも記事に
はなっていない。その頃フランス政府はビシー政府であり、ビシー政府は当然米英を含
む連合国から正統なフランス政府としては承認されていなかったが、一次戦後は米国の
農産品を英国の船で輸入していた。正統かどうかは別にして日本は、当時フランスを実
質的に統治していたとしてフランス政府の許可を得た上でそうしたことはやっていた。
アメリカは連合国側は、ドイツがフランス領土に攻撃をしかけるまでにはビシー政府を
承認してスペイン経由で兵を送っている。りルーズベルトはどうしても介入したかった
のだ。ルーズベルトは選挙の際、外国との戦争にアメリカは参戦しないという公約を掲
げて当選した。彼はその後、それに修正を加えた。アメリカ合衆国への攻撃は外国との
戦争ではなく自国に対する戦争だからその場合、公約違反にはあたらないとしたのだ。
このあたりを裏付けるマッカラムメモが資料としてある。そこにはどうしたら日本を、
挑発し、アメリカに対して最初の一撃を打たせるか、そのための策略が記されている。

935: 名無しさんAA:18/06/25 10:52
     世界閲覧 30−31  小日本と中国人

 アジアの「植民地支配からの解放」「自立自尊の独立」は日本の悲願だった。この萌
芽でアフリカより三十年独立が早かったし、その他の国も自衛の自国独立を果たした。
当時、独立のために立ち上がり戦った人は多い。しかし中国韓国などは自らに王朝を壊
し国を作ったと叫ぶ。そして今は「侵略された」「植民地になった」「搾取された」と
都合の良い声をあげる。辛亥革命は、世界史的にみれば、きわめて異常な革命である。
元々は「滅満興漢」「駆除韃虜」というスローガンが示すように、辛亥革命の元は本来
、満州族が支配する清朝からの分離をめざした漢民族による独立運動だった。ところが
孫文が逃げて来て、革命後に樹立された中華民国は、それらをいつのまにか「五族共和
」というスローガンにすりかえた上、満州、内蒙古、チベット、ウイグルなども領土の
その版図に組み込んでしまった。革命のどさくさにまぎれて旧清朝領土までもちゃっか
り自分のものにしてしまったのである。此処に馬賊張作霖が日本に頼った理由がある。
この正悪逆転思想は中国にはちょいちょい出て来る。普通文化の進歩に逆転はない。戦
後、長い間植民地支配を受けていたインドは宗主国であるイギリスから独立したわけだ
が、仮に、イギリス本土はもちろんのこと、その旧植民地であったマレーや中東、さら
にアフリカ諸国や北アメリカ大陸までも含めすべて自分たちの領土だ。などとインド政
府が主張するだろうか。当然ながら、馬鹿なことをいうなとインド政府は世界中から袋
だたきにあうだろう。ところが、中華民国や朝鮮にかぎっては、どういうわけか、そう
はならなかった。独立した新国家が、かつての宗主国の領土をそっくり受け継ぐという
異常事態が国際社会でそのまま認められてしまったのである。新政府での重鎮となった
袁世凱将軍は、清朝時代から満州に利権をもっていた。袁世凱にしてみれば、満州が他
人のものになってしまうのは不都合なことだった。またのちに満州に覇を唱えることに
なる張作霖もその当時、すでに満州に地盤を築いていた。こうした状況であれば、満州
の利権を失うことをおそれた当時の実力者たちが裏で満州併合を画策していたとしても
不思議ではない。何より過去の騎馬民族の王朝はそうした慣習があったのだ。そして、
これがおそらく中華中心主義思想の主体である。こうした騎馬民族思考の最大の理由で
中国や朝鮮は冊封国家を経営して来たのである。すでにユーラシア大陸の半分ともいえ
る広大な領土をもちながらも、尚チベットやウイグル、さらに尖閣諸島までも自分達の
領土だといってはばからない程貪欲な怪物国家の、現在の中国は、清朝の版図を継承す
ることを望んだ政府よりも、むしろどん欲国民である。つまり中国人自身の姿なのだ。
その強欲さは世界を見回しても類がない。これが統一朝鮮の思想と重なっている。

936: 名無しさんAA:18/06/25 18:08
 まず満州人が独立を望んで日本に来ていたことは、辛亥革命前にも後にも、数度にわ
たって発生した満州独立または清朝復活をめざす武装蜂起やクーデター事件に、多数の
日本の放浪浪人がいた事で解る。その熱望は並々ならぬものであったのは明らかである
。宗社党という満州人グループによって1912年と16年の二度にわたって引き起こ
された武装蜂起事件はいずれも失敗に終わった。とはいえ、その当時、満州人が抱いて
いた中華民国への反発と独立国家樹立への強い願望があったことを示している。仏教徒
として宗門あげて援助したり、日本に写本や仏像など送って保護を求めたりもしている
。一方、新たな支配者となった中華民国政府が廃帝となった溥儀を北京から放逐せず、
紫禁城に幽閉し続けたのは、そうした満州人の独立運動をけん制する為と言われる。仮
に溥儀が故地である満州に戻ってしまったら、満州人による満州独立運動に大義名分を
与えることになってしまう事で大きく中国新政府は反対したのである。当時の権力者達
がおそれ、北京から出られないよう事実上の軟禁状態においた理由である。弟愛新覚羅
溥傑(あいしんかくら ふけつ)、は溥儀を常に支えていた。紫禁城を追い出されたの
は1924年10月の馮玉祥と孫岳が起こした第二次奉直戦争に伴うクーデター(北京
政変)が発生しての事だった。直隷派の曹混が監禁され馮玉祥と孫岳が北京を支配する
こととなった為だった。馮玉祥と孫岳は政変後に、帝号を廃し清室優待条件の一方的な
清算を通達し、紫禁城に軍隊を送り溥儀とその側近らを紫禁城から強制的に退去させた
。これを受けて日本政府は北京政変で追われた彼らを、天津の日本租界での庇護した。
その後関東軍の主導で建国された満洲国の執政に就任、満州国軍大元帥や満州国協和会
名誉総裁などを兼任し、帝政移行後の大満洲帝国で皇帝に即位した。満州国皇帝として
は元号から康徳帝と称した。ところが残念な事に、1945年のヤルタ会談でのイギリスや
アメリカとの密約により、突如ソビエト連邦政府は、モスクワの駐ソ連日本国特命大使
に日ソ中立条約の破棄を通告し、同時にソ連軍が北西の外蒙古(現在のモンゴル国)及
び北東の沿海州の2方向からソ満国境を越えて満洲国に侵攻したのである。それは悲惨
なものだった。阿鼻叫喚の中を潜り抜け、兵力を南方諸島にとられて駆けつける事が出
来なかった関東軍は一方的に敗け、溥傑やその家族、満洲国の閣僚や関東軍の上層部達
は、ソ連進撃に首都の新京を放棄して、朝鮮に程近い通化省臨江県の大栗子に避難した
。しかし太平洋戦争(大東亜戦争)に日本が敗北し、その2日後の8月17日に国務院
会議が満洲国の解体を上奏、8月18日には大栗子で溥儀が満洲国解体を自ら宣言し、
皇帝を退位した。その後は日本軍機が、経由地の奉天の飛行場で赤軍空挺部隊に捕らえ
られた。その後ソ連領内に移送され、ソ連極東部のチタとハバロフスクの強制収容所に
収監された。

937: 名無しさんAA:18/06/25 18:14
     世界閲覧 30−33  小日本と中国人

 よく中国人の反日感情の原点は、第一次世界大戦中、日本が中国におしつけた「21
か条の要求」であるなどと言われる。しかしながら、その21か条の要求の多くもこの
満州問題にからむものであった事は知られていない。しかし、この21か条の要求など
が日本の帝国主義的体質の露骨な現れであった。という実しやかな批判や虚実の説が、
流布されて続けてきた。自虐史観の擦り付けで真っ赤な嘘である。実際にはこの要求は
、政敵を説得する口実にするためできるだけ強硬なポーズをとるよう袁世凱側が日本側
に頼んだものであり、いわば自作自演の芝居であったことが、最近の研究によって明ら
かにされている。袁世凱将軍は中国清朝末期に兵となり、義和団の乱では袁世凱は自ら
の治下での反乱を逸早く鎮圧し、新建陸軍の強さを証明した。西太后を戴く朝廷は各省
の指導者に義和団と結んで欧米列国軍を攻撃する命令を下すが、袁世凱は、両広総督・
李鴻章、両江総督・劉坤一、湖広総督・張之洞らと協調し、諸外国と東南互保の盟約を
結び、朝廷の命令には従わず領土と軍隊を保全した。こうして結局義和団の乱は列国軍
によって鎮圧され、西太后に動員された北京周辺の清軍はほとんど壊滅し、袁世凱の力
は相対的に強まることとなって清王朝は終焉を迎えた。軍内の洋式化を推し進めていた
袁世凱にとって、変法派の主張は好ましく思えるもので彼自身、梁啓超の学習サークル
である強学会に所属していたこともある。その為海外の大きな兵力差は既に知っていた
のである。海軍総帥李鴻章は光緒27年(1901年)、没するに当たって袁世凱に北洋通商
大臣兼直隷総督を引き継ぎ、北洋軍が誕生する。従来の新建陸軍事務に加え、直隷総督
と北洋大臣を得たことで政治的な立場も上がった。その後、栄禄ら有力者が没していく
中で権勢を強めた。日本軍にも近づき、日露戦争時、清は表面上は厳正中立を表明して
いた、しかし袁世凱は諜報や馬賊隊編成などで日本に協力し、諜報将校を日本軍の特別
任務班を仕立てて派遣した。光緒29年(1903年)11月中旬、袁世凱は青木宣純と天津で
会見して、「情報は入り次第日本側に渡す。馬賊の使用に関しては、その蜂起を直隷省
以外で行うのなら支障ないので、秘密裏に援助しよう。」と返答した。袁世凱は選りぬ
きの将校らを満洲・蒙古の奥深く、露清国境付近まで潜入させた。当時ロシアの南下に
よる馬賊の侵入は長年の中国の脛となっていたのだ。この地の混乱や侵入は清王朝にと
っても甘んじて受けがたい屈辱だったのである。中国初の軍人政治家で北洋軍閥の総帥
となった。大清帝国第2代内閣総理大臣を務め、清朝崩壊後は第2代中華民国臨時総統
、初代中華民国大総統に就任。一時期中華帝国皇帝として即位し、その際に使用された
元号より洪憲皇帝と呼ばれる。悪しき軍閥の元を作った人でもあった。

938: 名無しさんAA:18/06/25 18:15
 北朝鮮核開発に限らず、欧米は常にこのアジア政策特にこの極東政策は失敗している
。それは欧州社会が遠い場所だからかも知れないが西洋文化と違いがあるかも知れない
。東洋には「敗けの美学」と言う「負けや失敗を恐れない」と言う思想がある。つまり
正統派や王道覇道の正義感がそこに漂っているのだ。一つの滅びても正統や清流を重き
に於いた美学美意識である。だからこうした皇帝や過去の英霊には畏怖をするのである
。この中華民国建国時に満州併合は、国際社会にとっても歴史的な誤りであった。なぜ
なら、満州が辛亥革命後、ただちに独立国となっていたならば、その後に発生しただろ
う東半球全域を覆う大規模な世界戦争は、避けることができた可能性さえあるからだ。
そもそもが、満州事変から支那事変、そして太平洋戦争へと続く日中の、さらには米国
をも巻き込んだ一連の戦争の原因は、突き詰めてていえばみなこの満州問題に帰着する
。すなわち、これらの戦争の背景にはすべて満州の権益問題が関係しているのだ。もち
ろん、現実は欧米の欲望とロシアの南下があってそう単純ではないのだが、ここで概略
的に言い切ってしまえば、問題の根底にあったのは第一に満州をめぐる日米の主導権争
いであり、第二にそれをいたずらに複雑化させた中国共産党の存在でしかない戦争だ。
20世紀はじめ開放宣言以来、遅れて来た米国が中国市場への進出を画策していた事は
よく知られた事実だ。日露戦争の後、アメリカの鉄道王・ハリマンが日本に南満州鉄道
の共同経営を提案したことなどは、アメリカの野心が満州へ向けられていたことを如実
に示している。また日本がそれを突っぱね日米対立の遠因となった事が戦後、研究者に
よって明らかにされている。既に当時日本にとって莫大な資金投下して満州が死活的に
重要な地域で、それが簡単には解決できる問題でなかった。だが、日米両国だけの争い
であったなら、同じ近代国家としての理念を共有する先進国同士、もしかしたらもっと
スマートな解決策を見つけ出していた可能性もあった。しかし当時、日米両国だけでも
外交交渉は上手く行ってなく、太平洋戦争は取りつくしまも無く、最悪の事態に陥った
。いうまでもなく中国共産党が、共産主義を旗印にかかげる政党で中国人の多くの文盲
に、難しい理屈を言っても誰も理解してくれない。そこで中国共産党は、簡単に「日本
による中国侵略」という命題に「抗日運動」と言う民族主義的な危機感をあおることを
最大限に利用し、それによって勢力を拡げ、中国人に反日感情を浸透させたのである。
日露戦争で、侵略を前になすすべもなく傍観していた清朝政府は、代わってロシア人を
追い出してくれと日本に要請した。その後、日本は満州を清朝に返してやると同時に、
将来同様のことが起こらないよう睨みを利かし遼東半島に軍隊を駐留させ、満鉄線沿線
を租借し、その警備を肩代わりしたのである。従って国民党政府が充分機能すれば返還
するまでなっていたのだ。が、一部の中国人は今になって、日本による侵略だと言う。

939: 名無しさんAA:18/06/25 19:35
     世界閲覧 30−35  小日本と中国人

中国の古老は話す。「中国大同から少し離れた山中で、八路軍と国民軍の丁度真ん中に
谷川が流れていて、水が欲しいと思ってもそこしかないのよ。(中略)でも翌日からは
水汲みにいってもまず大丈夫と思って安心していったよな。むこうも大体同じ時間にき
てタバコ交換したり、大してうまくなかったけど、饅頭もらったこともあったな。こっ
ちも慰問袋のキャラメル、人数分だけ一粒ずつやったこともあったな。しまいにはすっ
かり仲よくなって身ぶり、手ぶりでわかるんだ。でも夕方だけで、昼間はばんばん撃ち
あう。ところが終戦にここに良く赤ん坊が捨ててあるんだ。よく見ると日本人たちが、
乳飲み子を置いて逃げて行った事が解る。そこでおいらたちは手分けして里親を探した
んだ。[坪田理基男]「戦争が終わると、海軍の兵隊だったわたくしは、すぐ両親の疎開
先の信州にいき、ときどき長野や東京に出ました。そして町や地下道や公衆便所などで
、ぼろをまといまっ黒によごれた子たちが、うずくまり、うろついているのをたくさん
みました。当時そういう子を浮浪児といいました。ある時、長野駅のプラットホームで
、両親を思い出してでもいるように、みしらぬ夫婦の足もとで、絵をかいている浮浪児
にあいました。わたくしは、その子のすがたをわすれることができませんでした。どの
子でも戦争さえなければ、両親のそろった幸福な家庭でそだてられたはずでした。しか
し、第二次大戦中、戦場になった国や、いまなお戦いのさなかにあるベトナムなどにも
、こうじのような子が、おおぜいいるにちがいありません。そう思うと、胸がいたみま
す。」その少年の名前はこうじと言う名だった。彼は一人で焼けた家から離れません。
「でも そのとき、こうじという ひとりの 男の子のことを 思い出すものは だれ
も おりませんでした。」 廃墟というのも、当事者にとっては、ただの物質ではない。
「こうじは、やけくずれた おうちの まえで ないていました。おとうさんのじてん
車も、おあかさんの ミシンもやけただれて ころがっていました。やけたとたんが 
ばたばた なっていました。むかし、おとうさんが うえた あかしやの 木が黒こげ
て、かれ木のように なっていました。−略−」そして、終戦。やさしい人そうでない
人もいたという。−−しかし、この少年の不幸の そのもっとも大きな原因である戦争
をすすめた人は、いくらその後にやさしくしたところで、やさしい人ではないだろう…
。罪の償いにしかすぎない。今も、戦争をすすめる人たち、支持する人たちは、世の中
に不幸をまいている。これは、日本だけに限ったことではありません。


940: 名無しさんAA:18/06/25 19:36
     世界閲覧 30−36  小日本と中国人
 日本人は何故原爆まで落とされた敵国米国を憎まないのか。と中国人は不思議だと2
chで盛んだ。日本人の多くが戦後アメリカを恨まなくなったのは、アメリカの占領政
策が奏功した部分が大きいと考えているがそうではない。勿論戦後食うや食わずの日本
人に真摯になって食糧援助、技術援助をしてくれた。朝鮮戦争があり自衛隊を再興し、
その後の日本製品をたくさん買ってくれた。原爆投下だけを思うならその根には日本・
日本人に対するアメリカ人の差別意識があって落とされたのは明白だ。、今も怒っては
いる。戦後にも日本の大多数者は アメリカを恨んでいたし、天皇廃止も又叫んでいた
。広島、長崎で身内の殺された遺族は、特に恨んでいる人が沢山いたし、核廃絶支援も
大きかった。社会党と共産党更に民主党がもし一つだったら、大きな社会主義国家とし
て育ったであろう。米ソ冷戦時代に、アメリカの日本の重要性が強くなり、日本に対し
てそれなりの影響をしている。確かに占領政策の効果が上手く行って自分たちの民族の
誇り、アイデンティティが希薄になっている事はある。しかし本当は違う。映画や歌と
いった米国の文化が日本になだれ込み、日本人は米国文化に親しむようになったことで
、「恨み」など持たないようになった、この背景が日本人は米国を恨まないのだという
のも違う。もともと、日本人は平和主義者であり、過去を振り返った憎しみの連鎖など
嫌いなのだ。米英の凄さが大きさだけでなく、技術も経済力も装備していて、戦いを挑
む愚かは、戦前から既に開国以来の知っている事だ。明治維新が西風を取り入れ成功し
たが、日本の長所は こうした相手の優れた点を正当に評価し、正しく取り入れる懐の
深さだ。これが、日本人の性格だ。この長所の故に日本は明治維新を経ても、アジアで
唯一欧米の植民地にならずに済んだ。ただこの一点にある。米国はペリーが黒船に乗っ
て日本を訪れて、開国を強要し、不平等条約を押し付け、第2次世界大戦で東京を空襲
し、広島と長崎に原爆を投下した。しかも、米国は戦後に日本の憲法を作り、今尚日本
に軍隊を常駐させ、日本は米軍の駐留経費まで負担させている。中国人から見れば、今
日本に対して行ってきたことは「恨みを抱いても自然なこと」であると主張。それなの
に日本人は米国を恨むどころか、米国や米国人を尊崇する傾向すらあると伝え、「日本
人はなぜ米国を恨まないのだろうか」と疑問を投げかけていると言う。実は日本は終戦
前から経済危機に直面し、中国や朝鮮半島支援で多大な犠牲を国内では行ってきたのだ
。人びとは苦しい生活を強いられていたが、終戦後に米国は日本の経済再建と民主化を
支援され、軍部が無くなり中国に抜かれるまで米国に次ぐ世界第2位の経済大国になっ
た。つまり、日本人は忙しかったので恨みや憎しみの教育などしなかっし、それでいい
とおもったのだ。

941: 名無しさんAA:18/06/25 19:37
     世界閲覧 30−37  小日本と中国人
 結局は結論として、駐留米軍も、憲法擁護も それでいいと思っていたからに過ぎな
い。我を忘れた「憎しみ」「恨み」「怨み」が嫌いな民族で、真面目に正確に物事を見
る。そうした性格なだけだ。そして時代に流され易い 呑気な平和主義者なのである。
 日本人の多くは、中国人も朝鮮人も或いはイラン人もアラブ人も対して変わらない。
と思っている。戦争やその他の差別は、それは平等主義の下で教育がなく、教える者の
偏見から起こっている事を知っているからだ。共産主義や社会主義を悪いとは思ってい
ない。更に言えば民主主義や資本主義或いは自由主義が良いとも思ってない。今はどう
か判らないがかつてはそうだった。戦争や喧嘩や事件が起こる事が悪い事と思っていた
。紛争や権威主義も、それによって食べれない人がいる事や格差社会が産まれる事を、
悪態としていたのである。そして天皇崇拝はしながらも、そうした軍部の情けない差別
や抑圧を悪としていた。よく中国人は戦争でも「弾は正面からだけではない。」という
事を言う。即ち、敵・味方関係なく彼らは我が道を行くのが主流である。その現実は、
いまでも例えば横断歩道を横断しない。人の子をさらって売って商売する。などと現れ
る。最近は、そうした中華主義がアフリカを中心に批判され、「シノフォビア(Sin
ophobia)」という英語の言葉が目に付くようになっている。と伝えられている
。シノフォビアとは「Sino=中国」「Phobia=嫌悪」で「中国嫌悪」という
意味でだそうだだ。そもそもは世界に進出する中国人や中国文化に対する嫌悪感を表現
する言葉である。最近シノフォビアが急激に広がっているのは、アフリカでの中国によ
る進出が顕著であるからだと言う。中国はすざましい勢いでアフリカに入り込んでおり
欧米ではこうした動きを「新植民地主義」と非難する。貧しいアフリカ諸国はカネを落
としてくれる中国を当局政府は歓迎している。例え軍事政権でも独裁政権でも出資する
。その貪欲さは桁外れである。そして結局は中国人に対する反発がどんどん高まってい
るのが現状である。アフリカでの反中意識の背景にあるのは、中国からの輸出である。
アフリカ諸国は中国に天然資源などを輸出しているが、逆に衣料品や電化製品など安価
な贋物商品を中国から輸入している。そのため、国内の産業が成長しない上廃品が溢れ
る状況が生まれている。南アフリカでは、ここ10年で8万人ほどの製造業の雇用が、
安価な中国製品によって奪われた。こうした輸入は年々増加しており、近い将来には、
アフリカ人と中国人の大規模な衝突が起こる可能性が予想されている。こうした強気に
出る中国の対外政策に、恐怖心や不快感を示す形で、日本、アメリカ、欧州、東南アジ
ア、アフリカでシノフォビアが広がっている。そこにトランプの貿易戦争がのしかかる
。日本語的には、支那火々悪とでもいうところか。

942: 名無しさんAA:18/06/30 14:32 ID:gyk
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  1 >

 日本の思想信条は海外ではなかなか解り辛いであろう。およそ平安時代から武家社会
武士文化が流れている。多くは主君の荘園の防備であり今の警察か門番の思考が強く、
そもそもが平和主義、されど事戦いになれば一番先に矢面に立って戦う。と言う気概と
共有地を守り通す覚悟と意地が脈々とある国なのだ。武士は喰わねど爪楊枝。といわれ
る程決して人の物を欲しがらない。と言う庶民感覚がある。更に同じ頃の仏教文化広が
りは、多神教で多くの宗派を内包し、神仏は尊し、されどこれを頼まず。という考え方
が固定化した。祈りや祀りは行う。奉納も寄進も多々しても、これを頼って試す事は、
全くない。平安以前の呪術も呪いも残る。しかし西洋の様な魔術や占星術などは行わな
い。何故なら兵法などをを重くみて、単なる家の方位学の慣習や暦紀(こよみ)の気象
学や季節を読むだけでも多くの習わしがあったからだ。旱魃や大雨はどこにもあっても
日本にはその他に地震と火山と台風がある。こうした天災の多さは特殊であろう。この
為の習慣も違う。つまり相互扶助の精神が異常に高い歴史をつないできた。従って他の
国より小さな箱庭で四季を愛でて小さな長家で生活するか、大勢の大家族のまま生きる
かしかなかったのである。又神道も紀元前からの拝火教の流れを組むものだ。仏教伝来
での「天上天下唯我独尊」(てんじょうてんがゆいがどくそん)という自分というもの
は世の中に一人しかいない。過去にも未来の世でもいない。ので大事にする。と言うも
のである。それが受け入れられたのはこの神道での、天孫降臨の岩戸開放での御祭りに
ある。即ち天照大神は、その神々しいくも光り輝く未来を自らに捨て自身で引き籠りに
なるが、神々全員が集まって酒を飲み歌い踊り相撲をして御祭りによって引き出すので
ある。ここに八百神の幾多の御蔭様の存在を感じて、泉の精霊で禊(みそぎ:無垢の誓
い)によって再度国造りに長となる決心をするのである。これが神輿を担ぐ。という、
日本独特の文化や相撲がその為の神事、つまり祀り上げる人を奮起させて、協力を惜し
まない事の証の行事として、それが根付き、田植えや稲刈り或いは節分お盆酒宴を共に
する集団行事の村社会文化を形成したのだ。ここに大和魂とされる和の尊重が形成され
る。こうした信仰でのこの独特な日本文化は、多分他の国にはなく又他の民族に理解は
不能であろう。ちなみに、天照大神(あまてらすおおみかみ)が八百神(やおろずのか
み)に助けられるが、その穴籠りのきっかけは弟である素佐男(すさのおう)の行動で
機織娘が死んだ事による。即ちここには家族の罪は一族が取る事が故事として物語られ
ているのである。つまり物も他人も神が宿る。そうした文化が流れているのである。

943: 名無しさんAA:18/06/30 14:33
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  2 >
 玄洋社では1901年(明治34年)に、内田良平らが黒龍会(玄洋社の海外工作を担う)
を設立してからは、より多彩な活動が展開されるようになる。孫文らの辛亥革命を支援
するために、多くの浪人たちが清朝政府軍やその後の軍閥政府軍と戦っている。頭山満
は玄洋社総帥として愛国主義団体や右翼団体に道を開いたとされる。明治から昭和前期
にかけて活動し、アジア主義者の巨頭と目された。玄洋社は、日本における民間の国家
主義運動の草分け的存在であり、教え子の内田良平の奨めで黒龍会顧問となると、大陸
浪人にも影響力を及ぼす右翼の巨頭・黒幕的存在と見られた。一方、中江兆民や吉野作
造などの民権運動家や、遠縁のアナキストの伊藤野枝や大杉栄とも交流があった。この
大陸浪人として宮崎滔天も動いている。大陸浪人(たいりくろうにん)とは、明治初期
から欧米列強の支配を目にして、第二次世界大戦終結までの間に中国大陸・ユーラシア
大陸・シベリア・東南アジアを中心とした地域に居住・放浪して各種の政治活動を行っ
ていた日本人の一群がいたのである。それが良かったかどうかは別にして、そうまでし
て憂国の士としてアジアを守ろうと多くの日本人が動いていたのである。KKKは今や
白人優越団体の代名詞だが、本来はフィリピン独立運動のKKKをもじって始めた共産
主義団体だった。KKKはカティプナンという名前で、タガログ語の正式名(カタアス
タアーサン、カガランガランガン、カティプナン・ナン・マガ・アナック・ナン・バー
ヤン)」(母なる大地の息子たちと娘たちによるもっとも高貴にして敬愛されるべき会
)の短縮形であるが、長すぎて白人社会に誰にも受け入れられなかった為「kkk」と
いうシンボルマークを作ったと言われている。早くから奴隷として米国社会に組み入れ
られてきた人達で、黒人社会のみが人種差別の代表の様に言われるがフィリピーナも又
ていよい安価な住み込み奴隷として扱われていた。今のドテルテ大統領の憤慨は今だに
その歴史の傷跡が心にあるからだろう。その前身団体として「ラ・リガ・フィリピナ」
(フィリピン連盟)が知識階級が中心に非暴力改革を志向した団体が作られた。だが、
主要メンバーたちの逮捕などスペイン官憲の徹底的な弾圧を受けた。こうして国内には
武力闘争路線のもと1896年にカティプナンによるフィリピン独立闘争(フィリピン独立
革命)が始まった。しかし、粛清に次ぐ粛清が行われ、又、連盟も多く志士の分裂があ
った為アギナルド将軍はスペイン政府と休戦協定結び、メンバーは香港へ去った。しか
しその後も騒乱状態になり米西戦争の勃発を受けて多くの仲間が再びフィリピンへ戻っ
た。米西戦争の終結に米国はスペインには賠償金を払い、メキシコ・フィリピンには、
独立を約束して乗り込んできた。しかしこれは先進国の勝手な植民地取引での言い訳で
あざといアジア進出の足場つくりの独立のないものであった。

944: 名無しさんAA:18/06/30 14:33
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  3 >

 この時カティプナンを率いていたのは、エミリオ・アギナルドでスペイン領東インド
のカウイト(現フィリピン共和国カヴィテ州)で、中国系イスラム人メスティーソ家の
弁護士にしてカウイト町長を務めていてビナヤカン地区のバランガイの首長を引き継い
だ首長だった。しかしゲリラ活動を一旦収めて和平協定を調印して、スペイン側からの
補償金を得て海外亡命を申請し、アギナルドと他26人の首長達のカティプナン会員は
香港に到着し、新生活にいた頃だったと言う。ここで多くの革命文士との接触を得て、
アギナルドは新たに米西戦争の勃発後フィリピン独立戦争の再開を宣言して、再編成し
たフィリピン革命軍を率いて5月に帰郷し、スペイン海軍陸戦隊270名を打倒して、
フィリピン旗を掲げてスペイン軍への攻撃に大戦闘を行った。6月にスペイン軍を打倒
したフィリピン革命軍は1898年6月12日にカウイトの自宅にて各国代表やジャー
ナリストを招き、フィリピンの独立を宣言したのである。このアメリカ対スペイン戦争
においてアギナルドは独立支援を約束されていた。この戦争勃発後、香港に駐留してい
たアメリカ海軍アジア艦隊がマニラ湾海戦でスペイン海軍艦隊を全滅させ、アメリカ合
衆国マッキンリー大統領はは提督の要請の3倍に当たる15,000人のアメリカ陸軍部隊を
派兵し、フィリピンの制圧に向かわせた。しかし、アメリカとスペインの密約により、
マニラ入城を果たせなかった。フィリピン革命軍と新たな支配者となったアメリカ合衆
国との関係は悪化して、新たな派兵しやって来た米軍の大量殺戮時代が続きアメリカの
植民地時代が幕開けするのである。フィリピン革命政府とアメリカ合衆国との間に新た
な戦争が勃発し、アギナルドは囚われの身となってしまったものの、米比戦争敗北後、
1901年4月にマッカーサーから釈放されたアギナルドは 郷里のカウイトに帰還し引退の
生活を送ってた。日露戦争最中の1905年に、特使としてアメリカ合衆国のウィリアム・
タフト陸軍長官の「桂・タフト協定」が結ばれて、日英同盟を背景にフィリピンに於け
るアメリカ合衆国の優先権と朝鮮に於ける大日本帝国の優先権が相互に承認されたが、
フィリピンに於けるアメリカ帝国主義と朝鮮に於ける日本帝国主義が日米両国によって
保障は、。かつて1898年に日本にマリアン・ポンセの訪日で、大隈重信、山縣有朋や、
犬養毅ら政府要人と親交を結び、アメリカ合衆国との関係悪化を望まない青木外務大臣
の反対を押し切って、川上操六や犬養毅の支持によって平山周、宮崎滔天、中村弥六ら
の働きで、日本陸軍が日清戦争で鹵獲した旧式のモーゼル銃と弾薬をドイツ系ユダヤ人
商人ワインベルゲルを通じ、布引丸でフィリピン革命政府に送ろうとした友情は、途中
で布引丸が沈没しにフィリピン革命軍支援失敗(布引丸事件)と共に消えたのである。

945: 名無しさんAA:18/06/30 14:34
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  4 >

 布引丸事件は、フィリピン大統領エミリオ・アギナルドの独立宣言によって、初めて
の外交官としてフィリピン政府要人が訪日した事件だった。日本に派遣されたマリアノ
・ポンセは、宮崎滔天や中村弥六衆議院議員の支援を受けて、米比戦争のための武器弾
薬(中古の村田銃)と、それらを運搬する布引丸を購入した。 1899年7月19日に布引丸
は長崎を出航したが、フィリピンへの航海中の7月21日午前、東シナ海 寧波沖で暴風雨
のため沈没した。とされている。一説では英国艦による爆沈。布引丸には、フィリピン
独立革命に参加するために日本人志士も同乗していたが、石川傅船長以下19名が犠牲
となった。その後、布引丸事件は公けになり、日本人によるフィリピン革命参加の企て
を知ったアメリカは日本に厳重に抗議し、日米両国による監視が厳重になった。これに
加えフィリピン独立派による資金も枯渇したこともあって、日本からの武器購入・輸送
計画は頓挫した。ポンセによって購入され、フィリピンに輸送されることなく大倉組の
倉庫に眠っていた残余の銃器は、その後、ポンセの承諾を得て彼と親交のあった孫文の
恵州事件の兵力として流用されることになっていたが、輸送の段になって中村弥六が既
故人の弔いに無断で売り払い、かつ私消していたことが判明し、一大スキャンダルとな
った。この時宮崎滔天は浪花師となったと言われる。1910年代に農園経営の為の日本人
労働者がダバオに大量に移民し、1916年には町の日本人人口が1万人を越え日本人街が
形成された。日本人学校や神社仏閣なども建設され発展したが、しかし太平洋戦争が始
まると日本人は強制収容された。日本軍のフィリピン占領によって日本人は解放される
が、更に又1944年にフィリピンをアメリカが再奪回した際に街は激戦地となり壊滅した
。こうした間にも1913年フィリピン第一共和国が崩壊した時は、アルテミオ・リカルテ
将軍らの政治亡命を快く受け入れたりしていた。又アギナルドを養ったとされる中国系
イスラム人メスティーソ家は恐らく首長の家だったのだろう。スペインではコンキスタ
ドール(征服者)がインディオ(先住民)の首長の娘と結婚し、その息子が父の後継者
になることも可能な地では、混血を意味しする言葉がメスティーソである。現代におい
ては形質的・血脈的特徴でなくスペイン語を母語とする者をメスティソ、インディオの
言語を母語とする者をインディオ(先住民)とする文化的側面が多い。


946: 名無しさんAA:18/06/30 14:34
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  5 >

 ところで、このフィリピン問題が何故中国人と関係あるのだろうかと、不思議がる人
もいるかも知れない。しかしこの日本の開国の頃、イギリスの海軍やスペイン人航海で
多くのフィリピン人が、自由に或いは束縛されて香港で生活していたので、深い繋がり
を持っていたのである。出稼ぎにしろ米国渡航にせよ海外亡命にせよ欧米社会の入口の
都市として香港が欠かせなかったのだ。木庵先生のブログを借用してもう少し歴史をみ
てみよう。この独立宣言後の1899年、8万の大軍を率いてフィリピンに乗り込んだ
軍政長官はアーサー・マッカーサーで、その副官が息子のダグラス・マッカーサーであっ
た。革命政権のリカルテ独立軍司令官は、弾薬が欠乏したので、大胆不敵にも、蛮刀で
武装した特殊工作隊を指揮してアメリカ軍の本陣に斬り込んだが、1900年6月武運
尽きて、囚われの身となった。勿論アギナルドも捕虜された。アギナルドは「アメリカ
国家に忠誠を誓うなら釈放され、その上、邸宅、年金を与える」というアメリカの取引
に、日本人の様な具現の意地は無かった。誘いにすぐに乗り、その後豪邸で優雅な生活
を送るようになった。同志の土民の頑なに独立運動を続けようとする仲間がグアム島に
流され次々に窮死している時でも、アギナルドは仕方なし優雅に暮らして過ごしている
。このあたりが、南洋流の「今が大事だ。明日ではない」と言う考え方なのであろう。
この中にフィリピン指導者にある二つの極端な傾向を見る。しかしグアム島の悲惨な状
況は時を経て大きくなり、アメリカ本国でも非難さえるようになった。すると、例によ
って「アメリカに忠誠を誓うなら、身柄を自由にする」という条件を提示した取引がな
される。そうすると、28人の内26人がこの条件を呑んで自由の身となった。これは
驚きである。自国の自立を馬鹿らしくて捨てたとしか見えない。幾多の南洋の日本兵と
の違いは、皮肉な事に大いにアメリカ兵をひるませるに充分であった事を証明している
。ここでアメリカに最後まで忠誠を拒否したのは、リカルテ将軍とマビニ元首相だけで
あった。マビニはリカルテと一緒にグアムからマニラの監獄に移されたが、この年には
コレラにかかり、39歳の生涯を閉じている。現在、1ペソ紙幣にその肖像が印刷され
たり、マニラ市に「マビニ通り」という道路があることで遺徳を示している。


947: 名無しさんAA:18/06/30 14:34
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  6 >

 一方のリカルテはどうしてもアメリカに服従しないということで、アメリカ側は彼を
香港に追放した。香港で機関誌「現代の声」を印刷発行して密かに、フィリピンに送り
続けた。そうするとフィリピンの古い同志や学生たちは、世界情勢に目を開きだした。
特に、日本と帝政ロシアの関係が注目を集めた。リカルテは日露の開戦は必然と見てい
ただけに予想した。「日本が勝てば、アジアの民族意識は欧米帝国主義に抵抗して、独
立・解放の気運が高まるだろう。そのためには日本に勝たせたい。」と念じて、1903
年のクリスマスが近い頃、カトリック僧に変装して、祖国フィリピンに潜入し再度の蜂
起をたてようとした。その為まず、旧友アギナルドの豪邸を訪ねた。が、もはや腰抜け
となったアギナルドに期待ができないと、憤然として宮殿を後にした。リカルテは日露
戦争を契機に再び対米独立戦争を決意して止まなかった。そして、その根拠地をバター
ン半島に決め移り住んだ。リカルテがフィリピンのバターン半島を占有していることは
直ぐにアメリカの官憲は探知していて、リカルテの首には500ペソそして1500ペ
ソに増額された。この時点で裏切り者が当局に密告し捕縛された。リカルテは日露戦争
に日本が勝つことを祈りつつ反米闘争を行なったていたが、東郷艦隊がロシアのバルチ
ック艦隊を全滅させた3日前、1905年(明治38年)5月24日、アメリカ官憲に
よって逮捕されている。禁錮6年の刑に服し、香港の東北方向にある無人島に流された
。これより少し前には、インド独立運動の志士、ラス・ビハリ・ボーズが日本に亡命し
、頭山満や犬養毅に保護されていたが、リカルテの救出を両雄に頼み、リカルテを脱獄
させることに成功した。そして、愛知県、瀬戸町においてリカルテを引き取り住まわせ
た。その後1923年(大正12年)から横浜に移り住んだ。リカルテが横浜に住むよ
うになってから間もなく、関東大震災がおきて日本に外人記者が押し寄せた。リカルテ
が日本に亡命していることが国際ニュースになり、「独立革命の英雄を祖国に迎えよ!
」という一般国民やジャーナリズムの声が紙面を踊り、「米比間の平和を脅かせた無法
者、帰国は許さぬ」という政府筋の論説の声もあった。その内誘いもきたが、リカルテ
は本国の誘いにはのらなかった。それから10年経った後、1934年、「1944年
に完全に独立が許可される。」ことを前提として、フィリピン連邦政府憲法が制定され
て、ケソンが大統領に就任した。アメリカ主権の代表には、総督に代わって高等弁務官
が置かれ、軍司令下の独立と言う形を取り、フィリピンは半独立国になった。ケソンは
かつてのリカルテの部下であった。

948: 名無しさんAA:18/06/30 14:35
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  7 >

 ケソン大統領は就任するや直ぐに、横浜のリカルテ宛に丁寧な帰国を促す手紙を送っ
たが、リカルテはきっぱり断った。更に、6年後の1940年、太平洋戦争の開戦の前
年、ケソン大統領は訪米の帰途、横浜にリカルテを訪ね帰国を懇請した。それでも、「
フィリピンに星条旗が翻っている限り祖国には、絶対帰らない。」とリカルテは言って
固辞している。ところが直ぐに太平洋戦争が始まって、ケソンは、戦争時には、マッカ
ーサーと将軍と共にほうほうの体でバターン半島を脱出し、アメリカに亡命したが、す
ぐに病死している。1941(昭和16年)太平洋戦争が勃発した時、リカルテは陸軍
参謀本部に呼ばれ、日本軍のフィリピン作戦に協力を求められ、「日本がフィリピンの
独立を認めてくれるのであれば、協力をおしまない。」と答えたという。こうしてフィ
リピンに戻ったリカルテはフィリピン国民には歓呼で迎えられた。日本軍も連戦連勝で
、首都マニラに迫ろうとしていた。リカルテ将軍は独立戦争の経験から「バターン半島
の制圧が先決だ。」と強く意見を具申したが、軍当局は聞き入れられなかった。これで
マッカーサーはバターン半島に陣とって、日本軍へのフェイクニュースやプロパバンダ
を横行させて苦しめることになった。このために、リカルテの日本軍への信頼は一時に
冷却してしまった。これが日本軍の最初も間違いであった。こうして戦利勲功を急いで
首都マニラに軍政を敷き始めた日本は、次に二つ目の間違いをした。すべてのフィリピ
ン人が親日と思いあがっていたのだ。政府高官をそのまま起用して親米派の組織を作ら
れてしまっていたのである。更に、リカルテの人脈のフィリピン独立に命がけで戦った
リカルテやラモスなどの親日派を全く起用しなかった。「日本人は口と腹が違う」と、
心あるフィリピン民衆には、対日不信感を強く植え付けてしまう結果を残した。ここに
大本営のフィリピン研究不足が露呈した一つの例が見える。当時のフィリピンの日本人
界の世話人であった人は次のように言っている。「日本の将兵は、フィリピンの風俗と
習慣と宗教をまったく知らない。人様の目の前でフィリピン人の頬を殴ったり、道路の
真ん中で大声で最敬礼をさせたり、怒鳴ったりしたので、多くの人はその日から親日か
ら反日になってしまった。物質あふれる国だったフィリピンを、戦争で物資の欠乏する
国にしてしまった。‥‥最も悪いことは、戦争末期、マニラを平和都市に宣言しないで
、この地で死闘し、瓦礫の街にしてしまったことだ。そのうえ、マニラ市民をアメリ
カ軍のスパイと見なして、掃蕩作戦を敢行して多く死傷させたことだ。」と語る


949: 名無しさんAA:18/06/30 14:35
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  8 >

 既に時遅くして、1943年(昭和18年)5月、東条英機首相はマニラにやってき
ては、リサール公園で、数万の民衆の前でフィリピンの独立を公約した宣言をした。こ
の年の10月、日本軍制が廃止され、フィリピンが独立し、ラウレル初代大統領が就任
した。ラウレルは親日家ではあったが、信望の厚いリカルテが大統領にならなかった事
は大衆の不満とする所であり、日本軍への不審感と疑惑が残った。日本側の指導部達は
リカルテを年齢75歳の高齢の老人で、風采が上がらず、力量不足と見た故であるだろ
うが、これもまたフィリピン人の心が分からず、間違いを犯したことであった。東条は
太平洋戦争開戦早々、何故この時フィリピンの独立を承認しなかったのだろうか。作戦
遂行が第一義で、独立援助は第二義であった為と見られている。独立を認めてやると、
フィリピン人は感激して日本軍に見方していただろう。フィリピン人に銃を持たせれば
銃口を日本軍に向けるとでも思ったのだろうか。実の所は多分にフィリピンを日本人は
良く知らなかったしフィリピン人と言う、土地も人種も異国で解らなかった。と言うの
が素直な所だろう。そうした研究成果がなかった事は大東亜共栄圏、大東亜戦争への理
念が、本当のところ大本営にはなかったということでもあるのだろう。このフィリピン
の大統領として最適人であるリカルテをないがしろにした、日本の指導者の能力のなさ
は当時なら糾弾されるべきものである。これが日本を狂わしたのだから。当時も今も、
フィリピン占領は中国以上に難しいものであろう。広い領地の中国でも幾多の民族がい
るが、日本軍はこの地の人間を突然の占領で掌握すると思っていたのだろうか。最後に
は中国戦線の数多くの部隊を引き連れて戦っているが、米軍すらも管理統治はあきらめ
た国である。海に魚野にバナナと食料は豊富で誰もが部族となれる地だったのだ。その
後残置日本兵の小野田氏が生き延びて来られたのもそうした理由からだ。時に、日本軍
の若手将校とフィリピン独立運動家が、2回程、ラウエル政権を打倒して、リカルテ将
軍を首班とするクーデター計画を練ったことがある。ところが、2回ともリカルテ将軍
の「敵前で分裂騒ぎを起こすのは危険である」と反対され、計画は中止された。リカル
テ将軍は山下総司令官たちと逃避行を続け、1945年4月、アゲタ婦人は赤痢で死去
し、将軍は3ヶ月後、山岳の原住民の部落で、80歳の生涯を閉じた。彼の遺言は「わ
しの墓は第二の故郷である日本に建てて欲しい」であった。私の父はマラニアでついて
行けなかったのだが。


950: 名無しさんAA:18/06/30 14:35
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  9 >

 和辻哲郎の“風土と人間学的考察”では、我々は、南洋的人間が何ゆえに文化的発展
を示さなかったかを理解し得るであろう。南洋の風土は人間に対して豊かに食物を恵む
。人間は単純に自然に抱かれておれぱよい。しかも人と自然との関係は、あらゆる移り
行きを含まないものである。人間はその受容的・忍従的な関係において固定する。……
そこでは生産力を発展せしむぺき何らの機縁も存せぬのである。…南洋は文化を産まな
かった。そうして文芸復興期以後のヨーロッパ人に易々として征服され、その奴隷に化
したのである。…和辻の言うところのこの南洋人<比人>の無感動性は、致命的である
。と書いている。この風土論は、全く粗雑にも南洋では文明が発達しないかの誤解を受
ける。少し現代の時代に合わせて説明が必要があるだろう。フィリピンは確かに猛暑の
国で労働に向かない国だ。豊かな食物を恵み、受容、忍従の固定に縛られ、既に生活を
支えていて、生産力や文化を生む土壌がない。それに多くの島から成り立ち、国家とし
ての統一性に欠ける。確かに、和辻の指摘する要因は、フィリピンの未来の羽ばたきを
阻止して来たことは間違いない。しかし、このような国に、未来はないのであろうか。
過酷な環境なら、イスラエルもロサンジェルスも同じである。夏は砂漠のように一滴の
雨も降らない。このような所に当初は白人は住もうとはしなかった。が、ゴールドラッ
シュの波で、北カリフォルニアへの移住が流行。共に北カリフォルニアからの水の移送
の成功。これで、砂漠の町が大都市になった。風土的にはどうしょうもない所が、人間
の力によって人が住める最適な環境に改造し多くの人が住み着いた。アメリカにおいて
、東海岸出身人と西海岸出身人との勤勉さを比較することがある。一概に四季があり、
寒さを経験した人間が勤勉かというとそうでもない。究極の創造力では風土的な要因が
大いに影響する。しかし、物質文明を起こす、維持する知性を育てるのに風土はそれほ
ど関係はない事が知られている。問題は政治であり統治なのだ。フィリピンの場合に、
スペイン統治時代に一部はスペインで教育を受け、高い知性を具えた人が幾らかいた。
また、アメリカ統治時代も相当数のインテリが誕生した。しかしフィリピン人に任せて
花を開く事は無かった。当時は、フィリピン人に任せるから駄目だったのである。ただ
己の利益だけを追求しているので、フィリピンは前へ進まない。一般大衆が酷暑の中で
生活し、怠け者で、どうしょうもないというのは偏見である。この人たちに、教育さえ
与えれば何とかなるものである。その意味で日本がもし戦争に勝っていれば、今のよう
なフィリピンではなかったろう。それが明治期の沖縄の進化にある。


951: 名無しさんAA:18/06/30 14:36
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  10 >

 つい最近までは、中国も北朝鮮同様に 全く文明進化の無い国として存在していた。
フィリピンを通して見える事は、中国も北朝鮮も日本が捨てた途端に進化が途絶えたの
だろう。日本の軍隊式教鞭は、ある意味時間がない中の強制的泳ぎの訓練みたいな物で
あった。それは否応なくやって来た欧米列強の外圧に、とにかく真似しなさい水に飛び
込めいずれ泳げる。といった類のものだったろう。こうした教え方の問題で戦争が終れ
ば学校が残り、道が出来ていた。ぐらいで、中国ではその施設の本当の価値を知らぬま
まに粛清の公開処刑場として使われていた。勿論日本統治は、西洋列強の放任搾取主義
からは遥かに良かったのは間違いない。日本が統治した朝鮮では新しい文字まで考え、
台湾でははびこる阿片窟の一掃から始めなければならなかった。そしてフィリピンでも
校舎や道路つくりから始まっていた。日本が彼らに良い教育を施したので現在の豊かな
国になったのは間違いない。欧米の植民地政策と日本の植民地政策の違いは日本は現地
の人に教育を与えたという結果はある。しかし、西洋が宗教から入り物質的利益の還元
を求めたのに対して、何とつつましやかな事か。教育し反抗に及び敵対心の抗日記念館
やら嘘の歴史の塗り替えやらされてまでも、何ら日本政府は声明を上げない。それどこ
ろか米国に教わった自虐史観のままに謝罪すら受けている。これほど蛮行に抗言もしな
いような躾のない国民政府もない。ロス在住で、亡くなられた、徳川慶喜のひ孫三の話
をが残る。彼女は徳川慶のひ孫さんで、実は慶喜(七郎丸)の義兄一郎丸(水戸家の家
長)徳川御三卿の一つである清水家の家督を継いだ人のひ孫である。この末裔の彼女か
ら漏れ出た彼女の幼少時代の話に、子供の時から、たとえ人形でも赤い色のリボンさえ
つけさせてもらえなかった。ある時、下女に無礼なことを言った。その時母親は即座に
座敷牢に彼女を閉じ込めた。「おかあさま、もうそのような生意気な言い方をしません
」と薄暗い座敷牢から許しを懇願したが、「あなたは、今ただ外に出たいために言って
いるだけ」と、一晩中、食事もなく閉じ込められた。たとえ、徳川時代は終わっても、
武士の棟梁の末裔である。人様を見下してはならない。その家訓が徳川時代が250年
続いた理由で、彼女の話からそれが如何なるものかが知れる。質実剛健、質素倹約、そ
れぞれの使いや下僕への気遣いが、彼女の話から伺えた。これぞ、躾の最たるものだろ
う。

952: 名無しさんAA:18/07/01 19:56 ID:mb2
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  11 >

 日清戦争後の賠償交渉の三国干渉に憤慨した玄洋社の一部は、大陸での活動をする為
に、1901年、平岡浩太郎の甥に当たる内田良平を中心として葛生修吉らが黒龍会を設立
した。黒龍会(こくりゅうかい)は1901年(明治34年)1月に設立されて国粋国家主義
を打ち出し、明快に右翼団体化した物だった。中国・満州・ロシア国境を流れる黒龍江
の建設を提言し勧めたのは他ならぬ明治天皇の父孝明天皇のブレーン達である。実は、
歴史的に天皇家が表に出た江戸後期のこの時期は、初めて天皇家が意見を言った 初の
ケースであった。平安時代から明治維新まで、幕府が勝手に色々行う或いは家系争いで
部下を付けて戦うと言う事は多々あっても、やおら幕府が行う政治に直接外国との調印
に文句を付けたは初めてであった。ま最も、海外との文書交換条約の発効などは遣唐使
以来の事だったに違いない。日本では正統とする家系や屋号や錦旗を重んじる。それは
江戸の将軍家が京都の弱小天皇家を重んじた事でも解る。そういう秩序や文化を築いた
のである。海外の脅威は何も明治期だけじゃない。宣教師がやって来た戦国時代・元寇
の鎌倉時代も、室町時代の鄭和(ていわ)の大航海でも、常に日本は危機にあり幕府は
その都度に無能ながらも必死に方策を建てて、戦ったのである。大政奉還時代徳川家定
の将軍宣下の勅使は三条実万と阿部正弘であった。形式上は朝廷が将軍を認可した形だ
がわざわざ下向して宣下をしているように幕府の権力の方がずっと強力だった。しかし
黒船来航以来大地震が続き、海外の黒船を見ない朝廷の内裏は関心は極端に高かった。
元号を安政と改元した後も、大地震と続き国内不安は増え続けた。嘉永7年3月、日米
和親条約が締結されると、宮中の内裏は直ぐに炎上した。既に朝廷の国家安寧の祈りに
打つ手がなかったからだ。日本人の中の御祭り血気がそのまま終末思想の地獄図になっ
た様な形だった。しかし、改元後も安政大地震の群発地震は終わらなかった事は大きな
問題だったのである。日本列島に於いて治安は大きな問題だったが、それを守る為にこ
そ朝廷がありその頂点の天皇は現人神(あらひとがみ)と言う現生に生きる神だったか
らだ。呪術師の祈祷であれ、武家の防衛武力であれ、人の生活の不安をさせない事が、
日本の中の領主たる長の暗黙の了解事項として存在していたのである。不思議にも祈り
ながら見えない神には頼らないがこの見える神や人には頼るべき。と言うのは日本人の
様式の中で最も大事な要素であった。仏教布教でもそれらは実践された。


953: 名無しさんAA:18/07/01 19:56
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  12 >

 要するに、自然を畏怖し尊敬するあまり、自然現象をして悪い事は人の悪さが引き起
こしたものとされたのだ。仏教やキリスト教伝来まではそうした事はなかったが、平安
期にそうした災害とそれによる飢餓が襲い日本人の中に仏教の因果応報の思想と交差し
天然自然の現象も神の怒りに似た天罰と言う考え方で、官使はおろか天皇や朝廷さえも
忌み嫌われた。この事とその後元寇などを神風が吹いたとの江戸の御伽噺として流布さ
れていたからだ。今では海底発掘などで日本の武将達が一週間以上戦った事によって、
一回目の文永の役(ぶんえいのえき)は寒さと兵糧において退散し、二度目の弘安の役
(こうあんのえき)は文字通りの台風で宋からの急造船が破壊され、蒙古襲来が避けら
れと解っている。日米修好通商条約の調印に勅許を得る為、堀田正睦が上京したが、こ
の時近衛忠煕、鷹司輔煕、三条実万の三大臣および議奏、武家伝奏へ開国か鎖国か下問
をしたが、大勢は開国に賛成とも反対とも決められず、大納言以下蔵人頭以上に範囲を
広げ下問をしても、結果は公武一和にて決める「定見なし」で決意は成立しなかった。
江戸から太閤鷹司政通と関白九条尚忠は、ともに内覧政務の補佐にあたっていて、徳川
斉昭の義兄であった鷹司太閤は開国論を主張し提言するが、孝明天皇は容れなかった。
宸翰には「我代にこの儀に相成り候ては、後々までの恥の恥に候わん、それに付いては
、伊勢始めところは恐縮少なからず、先代の御方々に対し不孝、私一身置くところ無き
に至り候あいだ、誠に心配仕り候」とある。詰まるところ自分の代では変化は恥になる
。伊勢参りに先代に不幸を報告したくない。と言う言葉だった。堀田老中が上京し演説
し海外との開市開港を願うが、全く認めないし、ましてや畿内近国ではいうまでもない
と述べている。後日堀田老中に対して改めて衆論一和の上で勅許を求めるように沙汰を
し、堀田は幕府が保証するため勅許を貰いたいという答書を出している。この時これま
で開国派だった鷹司関白と九条関白は開国反対に回り、宮家は臣籍降下の縁戚の宮家達
をして、反対運動を起こさせた。皇室は平安時代から、跡継ぎ争いを未然に防ぐために
、後を継がせない皇子たちをどんどん出家させて皇位継承権を剥奪し子孫を残させない
ということを延々行ってきていた。臣籍降下は皇太子になる前に籍を外し宮家除名にし
一部の時期を除いて常に皇族の人数を最小限に留めて来ていたのだ。こうして潜在的に
継承問題の存在を消してきた。幕府は全国に隠密や忍びの者で国々を見回って草の者を
配していたが、公家である宮家は、この廃籍で地方やその他に神人や巫女として配して
いた。実は菅原道真公も、実はそうした事で下向を賜わった形だったのだ。


954: 名無しさんAA:18/07/01 20:17
 黒龍会は玄洋社の海外工作センターといわれた。海外では日本の壮士集団として恐れ
られ1931年に大日本生産党を結成。1946年、GHQ当局によって、最も危険な影響力の
ある国家主義団体として解散させられた。南北朝時代に南朝の正統皇位は渡さなかった
。そこで北朝は、臣籍降下も出家もしていなかった伏見宮を天皇に即位させた。その後
即位した天皇は伏見宮家を存続させて、正統天皇家をスペアとしてをそのまま存続させ
た。そのまま江戸時代になり、皇位継承問題が起こるのを防ぐために伏見宮家3親王家
(近衛家、鷹司家、三条家、)を天皇の臣下として、分家し、伏見宮家とあわせて四つ
を世襲親王家とし影の第二天皇家とした。この流れは、徳川家と同じである。明治以降
も続いたが、武家制度が崩壊し困窮したように、明治政府も公家社会の頂点である宮家
の生活も貧窮して取り合えず帝国陸軍の軍人将校として生活の糧を得ていた。しかし、
その面倒は、足手まといの煙たい存在だったのである。明治天皇の近親は正統な手当て
を持っていたが縁戚のみの三大親王家は従者も多く難儀を極めてた。ここに堀川氏がい
た。金光教はもともとは陰陽道の艮金神賽の神社の祭りの帳簿を受け持つ神としていた
。呼んで字のごとく銀行の様な講の貸付の取り者で、諸場とされる博打場の用心棒神主
だった。艮(うしとら)とはいわゆる家の方位では悪鬼が守る場所、禍いの方角とされ
る。陰陽道は政治の体制が神仏習合と神仏分離の波で形骸化し江戸時代には殆どかき消
され、山岳宗教に名残りを残すのみとなっていた。明治・大正・昭和の時代を超え殆ど
が無くなるその中で、新興宗教として一部を捉え成功したのものもある。その一つが、
金光教であった。救済神を唱え、口伝仏教で門徒制を新たに取り入れ、陰陽道での救済
は聖(ひじり)の指導による開墾や土木技術や医療などだけだが、宗教に特化した形で
金光教は非公認のまま布教を続た。明治に「信心の徳」「愛の神、恵みの神」を天地金
乃神(てんちかねのかみ)として立ち現れると言う伝説から、祟(たた)り神を金神(こん
じん)にしてキリストのエホバの神の様に扱った。この考え方は 幕末維新の日本の社会
の今までの禁忌(タブー)や呪術(じゅじゅつ)宗教的信仰儀礼、人間中心の肩書文化に
変革を起こした。神への「無礼(ぶれい)」な事には拒む力を産み、さまざまの価値を
転倒した。こうして個人化・内面化して西洋化を進めた一因として新しい宗教的統合を
もたらした。信者が唱える「国家社会を越え、聖と俗、此岸(しがん)と彼岸(ひがん)の
境界を越え、天地に遍満する親神、天地金乃神が与える「おかげ」を「受ける」こと、
「天地の道理」に基づく実践、「人が人を助ける所」すなわち「神国」の建設を説き、
人がみな等しく神の子で、心の内なる神を実現して生神になること」は西洋科学の合理
主義の論理と実践であり、因習を除いて人類愛や神の国を説くのは、キリスト教の終末
思想と全く同じだった。

955: 名無しさんAA:18/07/01 20:18
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  14 >
 内村鑑三は、明治11年(1878年)6月2日には、アメリカ・メソジスト教会のハリスか
ら国内で洗礼を受けている。後に日本のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者
として活動し、福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を
唱えた。「代表的日本人」の著者をしている。札幌農学校への入学を決意するが、札幌
へ旅立つ前に、東京の芝で1ヶ月の合宿をした。その時、東京大学予備門時代の同級・
新渡戸稲造、宮部金吾、岩崎行親らと立行社というグループを結成した。東京英語学校
はその頃は花形授業だった。札幌農学校を在学中、内村は水産学を専攻し明治14年に
札幌農学校を農学士として首席で卒業した。卒業の際、新渡戸、宮部、内村の3人は、
札幌の公園で将来を二つのJのために捧げることを誓い合った。二つのJ(ふたつのジ
ェー)は、内村鑑三の思想のひとつであり、内村が信仰する 「Jesus」すなわちイエス
・キリストと 「Japan」すなわち日本の二つのことを指す。キリスト教の無教会主義は
結果大陸浪人の気概ともなった。堀川辰吉郎が自説する孝明天皇の世に隠れた直系なの
か、否かは定かではないが、後で日本政府は南進に転じたが、それまで北進路線は開国
日本の、大きな悲願だった。数多くのロシア人が帰化し日本人になったのは、長年大陸
特有のキリスト教ユダヤ差別の多くが行われていたからだ。キリスト教がローマの国教
となったとき、それは加熱され、反ユダヤ主義は、受肉した神をユダヤ人たちが十字架
にかけて殺したとして正当化されてきた。イエスを十字架にかけたのは実際にはユダヤ
人ではなくローマ人であるという事実は福音書によっても隠蔽されてきた。マルチン・
ルターの焚書は宗教改革運動の象徴だが、だが彼は反ユダヤ主義の旗手で盲目的信者で
シナゴーグを徹底的に焼き払い、ユダヤ人家は打ち壊し、田舎に住まわせ宗教書を取り
上げよ。と叫び、ラビの伝道を禁じ、従わな者は処刑し、ユダヤ人撲滅の方途を実行す
べしと訴えて、高利貸しを禁じ、金銀を没収し、ユダヤ人を農奴として働かせるべし。
と意見している。つまり教会の行っていた経営手法はユダヤ人のせいにされて、貧困の
原因とされていたのである。そもそも聖書からの宗教はキリスト教もユダヤ教も科学的
検証から既に終焉すべき時で、教会に不満を持つ宗教改革要望者はカルヴァン始め数多
くいた。こうして神政政治の離脱は、神父のいないミサが出来る。カルヴァン派は福音
主義と予定説を唱え蓄財を容認したため、新興市民階級の支持が拡大した。これまでは
金を貯め込む事は悪とされユダヤ教のみに利子などが許されていたのである。カルヴァ
ン派は長老制度によって運営され、ヨーロッパ各地に広まった。イギリスではピューリ
タン、スコットランドではプレスビテリアン、フランスではユグノー、ネーデルラント
ではゴイセンと呼ばれた。

956: 名無しさんAA:18/07/01 20:54
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  15 > 
 ゴイセンは、ドイツ語でゴイゼン、オランダ語でフーゼン、フランス語でグー、と呼
ばれ、一般にユグノーとされスペインによる迫害に抗して結成されたネーデルラントの
貴族の同盟であった。われらが知る「フーテンの寅さん」はこのフーゼンと言う貧乏を
意味する言葉から来ている。乞食は物貰いであるが、山伏、虚無僧、坊主を指し、後に
万歳、鳥追い、獅子舞(ししまい)、人形回しなどの門付(かどづけ)芸人などが、この名
が言われ風転とされた。又それ以外に赤貧武士がいたが、彼らは転落武士ルンペンとさ
れ布切れやボロ服を意味するドイツ語「Lumpen」が語源であるとされる。大陸浪人達は
その志の高さからルンペンで通っていた。五位賤もしくは乞銭は雇われ武士で黒龍会は
その糧を求めて満州族の義勇武士となった。頭山満は玄洋社総帥として内田良平も黒龍
会結成に資金提供していたが、実は他に同じ様に金子堅太郎の知遇を得て第一勧業銀行
を設立した杉山茂丸に頭山満は同じ玄洋社内に白龍会を作らせていた。いわゆる銀行の
取り立て屋や情報屋として使われたものだった。阿片売買や石油など闇の出資には表沙
汰に出来ない物が多々あったからだ。そんな中で上原 勇作(うえはら ゆうさく)は山
縣有朋から飛んでもない話が持ち掛けられていた。陸軍大臣や教育総監又参謀総長など
歴任していた上原は信認厚く、日本の鉄道利権で強力な軍閥を築き上げていた。いまで
言う不動産屋の買い占めと同じに二束三文の土地を政府に買い上げさせていたのだが、
それでも良心的であった為開通後の住民は喜んでいた。日向国都城(現宮崎県都城市)
出身で、山縣有朋、桂太郎ら長州閥の元老凋落の後に陸軍に君臨し、強力な軍閥(上原
閥)を築き上げた頃は、満州経営の野口遵とも知り合いになっていた。上原閥に属する
者に荒木貞夫、真崎甚三郎、柳川平助、小畑敏四郎らがいた。山縣有朋の相談は徳川家
や宮家の財務であった。明治の頃軍閥競争が激しく、九州薩摩を初め長州藩土佐藩佐賀
藩と大きくその系統があった中抜きんでて長州藩は郷土愛に自藩の官使を取り入れてい
た。そこで出て来たのが大陸運営で、日韓併合後には線路建設での大陸物資の供給が、
日本国中で画策された。1890年に久邇宮朝彦親王を総裁に中山忠英を会長として組織さ
れた皇道会は、その後中山忠英が1911年大日本皇道立教会を設立して初代会長に就任し
、大隈重信、一木喜徳郎、牧口常三郎、戸田城聖、数名の華族や陸海軍人により構成さ
れた。後には児玉誉士夫も加入。後に、大日本皇道立教会の会員のうち、創価教育学会
の創立に貢献していた。一方仏教界では対立し、「我日本の柱とならん」という請願か
ら智学によって「日蓮主義」という表現された運動を起こし、国柱会が作られた。戦前
の日本「八紘一宇」を最初に標榜したのは国柱会であった。こうして天皇の法華経帰依
による広宣流布、宗教革命を目指した。

957: 名無しさんAA:18/07/01 20:54
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  16 >

 同会は新体制運動や大政翼賛会には批判的であったため、1942年3月17日結社不許可
処分を受け、解散に追い込まれた。1926年(大正15年)には明治節制定の請願運動を契
機に外郭団体「明治会」が創設され、愛国主義運動を宣揚、1927年(昭和2年)に請願
が実り明治節が制定された。また、宮沢賢治と同じ著名な会員であった帝国陸軍・石原
莞爾中将の「東亜連盟」構想や「世界最終戦論」、更には石原が参謀であった満州国建
国の思想的バックボーンとして、国柱会の思想は多大な影響を及ぼした。特に満州国に
は皇軍慰安隊を国柱会より派遣し、関東軍軍人を支援している。この時期が国柱会の歴
史上もっとも活況だった時代であり、日蓮系諸教団の中でもエリート主義集団と目され
るほど、有数な著名人が会員であったことで知られる。黄龍会総長中山忠英は、家系上
中山忠英の神道研究に努め、その門下には大本教の開祖・出口王仁三郎、PL教団開祖
・御木徳近、陽明学の大家・安岡正篤、そして山蔭神道宗家の山陰基央らの昭和の偉人
らが門下にいた。彼らは後の翼賛会になった皇道会を出て黄龍会を組織し国柱会と対抗
した。緑龍会総長上田吉松は真田幸村で知られる信州上田を出自とし、生糸貿易の西陣
織を輸出していた。オランダからの輸入雑貨を扱う「尾張屋」を京に出店して宮中にも
出入りしていて、上田家は江戸時代末期は繁盛していた。当主は、神主も行い上田吉松
はケシを用いた御祓いを看板に全国を徘徊し、公家の密偵を務めていた。放浪する画家
の身分は宮廷の諜報者として重宝だった。幽霊画で知られる丸山応挙は本名上田主水と
言われ吉松の五代前の先祖とされる。しかし上田吉松の子は育てられず次々と名を変え
て、時の愛人と暮らしていた。創価学会の初代会長の牧口常三郎、北朝鮮残置者の畑中
理(金策)、日本財団の笹川良一であり、孫になって大本の上田鬼三郎(出口王仁三郎
)、創価学会二代目会長の戸田城聖でという。明治25年いとこで愛人の渡辺ウメノと
、愛人の出口ナオと3人で東北で大本教を開教したとされる。上田吉松は青森県下北郡
に流れて槇玄範を名乗った。その後、長男・鬼一郎に下北郡の医師・槇玄範を継がせ、
自らは死去を偽装し氏家省一郎と称した。鬼一郎の子が笹川良一と陸軍中野学校出身で
北朝鮮残置謀者となった畑中理(金策)だった。新潟県柏崎市の漁師・渡邊長松とイ子
(いね)の間にはで双子の兄弟が誕生している。それは戸籍上であり、渡邊長松が海で
行方不明になってからイ子は双子を生み、離婚している。

958: 名無しさんAA:18/07/01 20:54
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  17 >

 この、イ子に接近していたのが上田音吉だった。その頃の東北では食いつなぐだけで
大変だった。特に家の無い放浪者は、宗教か芸事でしか食って行けなかったのである。
双子はそれぞれ「父親知らず」としてと逸見家と牧口家に養子に出されたという。兄が
逸見十郎太(戸田城聖の父)で弟の方が創価学会の初代会長の牧口常三郎。初代の上田
吉松と妻の宇能(中村孝道の姪)との間に生まれたのが世祢(よね)。「初代吉松」は
当時の慣習で娘の世祢19歳の時、兄弟(世祢にとっては叔父)の経営する伏見の船宿
に養女に出した。その船宿は有栖川宮熾人親王のお忍びでの定宿していた。ところが、
何故か世祢は突然上田家に戻り、二代目吉松(船井郡川辺村船岡の紺屋、佐野清六の次
男)を婿に迎え、鬼三郎(出口王仁三郎)を産んだ。穴太村を本拠とする上田家の家伝
では、上田の本姓は海部で、丹後一宮の籠神社の神官から出た旧家であると自伝する。
海部・上田家は、古代に渡来したイスラエル族の子孫で、なかでもアヤタチと呼ばれた
特殊の家系という。これは、戦前の皇国史観や戦後の弥生史観に泥んだ耳には荒唐無稽
なものだが、他の伝承などを良く聞くと、充分首肯しうるものであるようになっている
。古くからオランダ取引をしてきた上田本家には、夙にオランダ人の血が入り、吉松の
五代前の先祖で画名を丸山応挙として知られる上田主水も、オランダ血統であったとい
う。一抹のオランダ人の落とし子の家系なのだ。幕末の当主上田吉松は、「言霊呼び」
という御祓いをしながら、全国を巡ってケシ薬を売り、裏では代々の朝廷の諜者として
働いていた。 その子が上田鬼三郎で、大本教(皇道大本)の聖師出口王仁三郎である。
渡辺家に嫁いだ吉松のオバはウメノを生むが、そのオバがケシ薬の秘伝を渡辺家にもた
らしたもので、いとこのウメノを愛人としていた吉松は、同じような関係にあった出口
ナオと図って、明治二五年に皇道大本を立ち上げている。この阿片を使った消炎軟膏に
目をつけたのが徳川家だった。大航海時代、ヨーロッパ人のアジア進出を阻んだ大きな
壁は、蚊が媒介する感染症マラリアだった。それまで南米ペルーに自生するキナという
植物がマラリアに効くことは早くから知られていましたが、成分を薬にまで精製する技
術はなく、ようやく19世紀の初頭、キニーネというアルカロイド成分の分離に成功、こ
れがマラリアの特効薬となったことを受け、東南アジアの植民地化が進んだ。

959: 名無しさんAA:18/07/01 20:55
 星 一(ほし はじめ)は、1873年(明治6年)産まれの義眼の博士だった。子供の頃
に悪戯っ子からのいじめで片目を失っていた。大変な努力家で、杉山茂丸の知遇を得て
岡倉覚三(天心)の勧めで国家主義の高橋 健三(たかはし けんぞう)などが支援した
と言う。東京商業学校(現・東京学園高校)を卒業後渡米し、苦労の末にコロンビア大
学を卒業して帰国した。写真植字機を開発した石井茂吉や森澤信夫と出会い星製薬を築
いた。また、最盛期には、野口英世やフリッツ・ハーバーなどを応援していた。星薬科
大学の創立者なりSF作家星新一の父親として有名になった。星製薬はチェーンストア
という販売方式を日本で初めて確立した。なお、彼が発案した『三十年後』はSF小説
であるため、それが長男の親一(新一)と関連付けて語られることがある。杉山茂丸は
明治・大正・昭和・政界実力者と結び、経済や外交、内政などにさまざまな献策を行っ
た人物である。自らは官職も議席も持たない在野の浪人で、山縣有朋・松方正義・井上
馨・桂太郎・児玉源太郎・後藤新平・寺内正毅らの参謀役を務め、政界の黒幕などと呼
ばれた。実は戦国大名・龍造寺隆信の末裔で、長男は作家の夢野久作となった。孫は、
インド緑化の父と言われる杉山龍丸である。詩人の杉山参緑。杉山研究会の杉山満丸は
曾孫。戯号として其日庵(そのひあん)。杉山は明治13年(1880年)、諸国巡遊に旅立
ち、初めて東京へ来て、山岡鉄舟の門人となり、また後藤象二郎や大井憲太郎と知遇を
得た。滞京一年半で帰郷するが、明治17年(1884年)、熊本の佐々友房から旅費を借り
て上京、伊藤博文を悪政の根源、脱亜入欧、藩閥の巨魁と目してその暗殺を企てた実行
に移る。山岡鉄舟の紹介状を持って面会に成功するが、逆に、お互い国家のために身を
大事にと説伏されて断念した。その後その暗殺失敗が漏れ官憲の追及を避けて北海道に
渡るなどして、八重野範三郎の紹介で同郷の頭山満に出会い頭山の番頭となった。杉山
は、玄洋社の経済基盤確立のため、頭山に筑豊炭田の取得を勧め、自らその資金調達に
奔走、そのために当時元老院議官であった安場保和を福岡県知事に就任させた。その後
明治21年(1888年)九州鉄道を創立し列車を走らせた。杉山元は太平洋戦争開戦時の
参謀総長で、元帥陸軍大将、陸軍大臣、教育総監など務めた軍人だった。杉山貞はおそ
らく杉山茂丸の縁戚だったと思われる。こうして宗教界を緑龍会総長の上田吉松が宮家
を赤龍会総長の上原勇作が薬学会を黄龍会総長の中山忠英が言論界を白龍会総長杉山茂
丸が金融経済界を黒龍会総長の永野重雄が君臨した。ところが突如八咫烏の総長として
堀川辰吉郎が満州の日産コンチェルンの用心棒として仕えた。大アジア主義者と称する
奇怪な大陸浪人である。世界救世教元最高顧問。善隣会最高顧問で、出口王仁三郎の黒
幕とも呼ばれた。1912年当時、活動写真(無声映画)の九州全域への配給会社を経営し
ていた。

960: 名無しさんAA:18/07/01 20:56
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  18 >

 ペルー原産のキナは、その後、オランダ領ジャワに移植され、20世紀初頭にはジャ
ワ産が世界市場を席巻し欧米で独占していた。どうしてペルー原産の植物がジャワ島に
移ったかというと、あるイギリス人がペルーの山中でもっとも医薬品に向いたキナ種を
探し出し、これをイギリス政府に献上したものの、政府はまったく関心を示さない。そ
こで、この人物はオランダ政府にこの種を買ってもらったのです。キナの将来性に気づ
いたオランダ政府が、ジャワに移植し、特産品として育てたからだった。第1次世界大
戦が起きると、解熱・消化剤としても価値があるキナを押さえるため、イギリス・アメ
リカ・フランス・イタリアの4カ国が購入連盟(シンジケート)を作り、オランダから
独占的に買い始め、大勢の奴隷をジャワに送った勿論フィリピンの原住民も送られた。
 ところが、戦争の進展とともにヨーロッパでは船舶が不足し、キナの輸送が止まって
しまったのだ。困ったのはジャワ島の栽培農業の業者で、収入が途絶えたうえ、大量の
在庫に悩まされた。既にハワイ王国は米国に飲み込まれて、東南アジアは欧米世界の独
壇場と化していた。この状況の中で、1916年、ジャワ島の領事館から日本の内務省に報
告が届きます。「いまだったら、この4カ国連盟に割り込めるチャンスだ。」と。当時
の内務大臣は後藤新平で、後藤と親交のあった星一(ほしはじめ)がこの話に白羽の矢
が放たれ、星氏も乗っかります。星一は、当時湿布薬で破竹の勢いだった星製薬の社長
で、作家・星新一の実の父でもあります。しかし、オランダの言う取引条件は厳しいも
のでした。3年分の信用状を先に出すのと、少なくとも200トン、できるなら300トンの
在庫の売り払いの一括引き取りでした。当時、星製薬はキニーネの精製に成功したばか
りであり、まだ産業精製はしていなかった。もし大量生産に失敗したら、経営危機にな
るのは確実だった。だが、この機会を逃せば、キニーネの国産化はおそらく2度とでき
なくなる。材料仕入れがなくなるからだ。星一は決断し条件を呑み、キナ取引に参入し
た。台湾銀行の協力で信用状を発行してもらい、百坪の倉庫を急造して、大量のキナを
ここに保存し、キニーネの製造に入った。元々キニーネの製造技術は星製薬しか持って
いない最先端技術で、この話に他社は最初から参入できなかったのですが、世界相手に
は不明だった。しかしこれを管轄の内務省衛生局は苦々しく思っていました。星製薬は
自分たちの言うことを聞かず、いつも勝手な行動ばかり取っている。と見たからです。

961: 名無しさんAA:18/07/01 20:56
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  19 >

 キニーネの製造が始まると、シンジケートの幹事国であるイギリスからは、外務省
に圧力がかかり連絡が来ます。「シンジケートへの日本の加入を認めるので、輸入業者
を1社決め、年間の所要量を決めてほしい」というものです。「内務省衛生局は、星製
薬への嫌がらせのため、キニーネの独占輸入会社に三井物産を指名した。外務省は既に
阿片の栽培で三井との合弁を徳川財閥と軍部の三者の甘い汁をなめている仲間であった
。驚いたのは星一です。衛生局の案だと、星製薬は自分たちが原料を押さえているのに
、輸入に際して三井物産に手数料を払うことになります。いくらなんでもそれはひどい
と内務省に掛け合いますが、内務省は一歩も譲りません。結局、何度も足を運び星一は
外務省を巻き込む形で内務省を説得し、なんとか独占輸入社の立場を確保します。しか
し、メンツを潰された内務省衛生局や軍部や三井は、星製薬への恨みを募らせます。星
製薬は、アメリカ帰りの星一が、1910年(明治43年)に創業した比較的新しい会社だっ
た。直ぐに翌年、アメリカで普及している湿布薬「イヒチオール」の製造を開始し、そ
の後、「ホシ胃腸薬」などの家庭薬で成長していきます。日本国内では、富山の薬売り
などや暖簾販売の江戸からの伝統販売を、初めて投資家によるチェーン店の仕組みを作
り上げた画期的人だった。最盛期で全国に3万5千店を組織。圧倒的な販売網と大宣伝
によって、一気に業績を拡大していった事で三井の都市店舗販売からも敵対されていた
。第1次世界大戦の始まった翌1915年(大正4年)、星製薬は日本で初めてモルヒネの
抽出製造に成功します。このキニーネ買収の話はその次の年である。欧州では1817年に
ドイツでモルヒネが単離されるが、それにさきがけた2年も前に成功していたのだ。医
薬品としての最重要品であるモルヒネは、阿片(アヘン)から精製していた。アヘンは
ケシの実から出る液汁を固めたもので、当時、日本政府は専売品として政府管理として
いた。国内では大阪府三島郡を中心に栽培されていましたが、量が足りないため、輸入
でまかなっていた。アヘンを専売しているのは東京衛生試験所ですが、ここの卸値は外
国産の3〜4倍もあり更に品質も海外より悪かった。これを精製してモルヒネを作って
も割に合わない。しかし、星一は、台湾建設していた後藤新平の依頼でアヘンを大量に
使用していた、台湾専売局の為に品種改良を研究していた。当時、台湾にはアヘン中毒
患者が多数残っており、台湾総督府は「現在の患者にはアヘン吸引を認めるが、新規吸
引は認めない」という、後藤新平以来の漸禁政策をとっていました。

962: 名無しさんAA:18/07/01 20:57
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  20 >

 そのため、台湾ではインドから大量のアヘンを輸入していたのです。星一は、インド
産アヘンのモルヒネ含有量が6%だと知ります。しかし、ペルシャ産は6%、トルコ産
では14%、ものによっては16%のもありました。それなのに、植物の種なので値段
は一様で1斤あたりインド産もペルシャ産も12円、トルコ産は12.5円と言う輸送の
コストで金額は決まっていた。つまり、台湾専売局はインド産を減らし、ペルシャ産か
トルコ産に変えるだけで、余剰モルヒネが大量に生まれたのだ。この事を当時の後藤に
報告した。その余剰分を払い下げれば、専売局には膨大な収入が生まれます。星一はそ
のことを専売局に提案し、みごと払い下げを受けることに成功したが、しかし、その後
三井は軍部を通じて、中国と満州国の間の中間地帯に、台湾専売局の為に品種改良した
ケシを栽培しして熱河地方の産物とした。こうして海外からの阿片の値段を操作した。
それまで台湾での阿片は、中国での阿片戦争以来大英帝国の植民地の香港に本社をもっ
た中国語名を従来から「渣甸洋行」(ジャーディン・マセソン商会)の独壇場であった
。日本のお茶や陶器の輸出で後に武器商人となったグラバー商会も1859年に上海へ渡っ
てきて「ジャーディン・マセソン商会」に入社して長崎支店として独立した商人だった
。香港に本社を移しして「怡和洋行」に変更しジャーディン・マセソンは更に中国経営
を強化しようとしていた。このマセソン商会も又インドの英国東インド会社の中国支店
のようなものだった。明治新政府も又開国当時から、長州五傑、五代友厚(薩摩)、坂
本龍馬(海援隊)、岩崎弥太郎(三菱財閥)等を支援した事を知っていたからこそ中国
に三菱商会を派遣しなかったのだろう。児玉源太郎が推薦した後藤新平も又表立っては
何も取り締まらなかった。現場調査に力を入れ、星のキニーネを充分に活用した。後藤
新平は、緻密な計画で土地改革を行いつつ、電気水道供給施設・交通施設情報施設など
を整備した。更に学校教育の普及、製糖業などの産業育成を図り、アヘン中毒患者の撲
滅に向かった。台湾の近代化を推進し、一方で統治に対する叛逆者には取り締まりをす
るという法治国家の持つ「飴と鞭」の政策を有効に用いることで統治体制を確立した。
それは鮮やかだったと言えるだろう。アヘンは麻薬だがキニーネはモルヒネに存在する
鎮痛剤である。つまり病院建設をして痛み止めでアヘン中毒患者を抑えたのだ。しかし
それでも軍部は三井と共に台頭した。


963: 名無しさんAA:18/07/01 21:05
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  21 >

 軍部において経済は死活問題となっていた。石原莞爾は満州を領地とした事を自慢し
、満州国樹立に及んだが、既に満鉄経営は順調であったし、北朝鮮に於いては資本投下
が日本を潤していた。今の尖閣問題でわざわざ石原知事が国際社会に一石投じた事と、
全く同じに日本の権益にとっては意味のないものでもあった。更に満州経営に2つの壁
がでてきた。それは今まで満鉄の社用地が日本の領地となって満州国の税収が必要にな
った事だ。軍部はその取り立てに入り、これまで税替わりに払っていた関東軍の運営資
金である紙幣の発行の軍票の清算が満州国家で行われなければならなくなったのだ。こ
の問題に朝鮮銀行の利益が持ち出され、税問題は2年間の猶予で話し合いがなされた。
もう一つの壁がシベリヤ出兵からのユダヤの議定書問題だった。ロシア帝国が共産党革
命に及び民主主義化するかに見えたが、更に赤化した軍の内部粛清で共産党化しユダヤ
批判ユダヤ差別や弾圧や虐殺などポグロムは消えなかった。ポグロムとはユダヤ人に対
し行なわれる集団的迫害行為で「殺戮・略奪・破壊・差別」を言うもので、チェコ語に
は同系のポフロマという言葉があり、不時の災難を意味するように、永年の迫害は続い
ていた。それが日本では理解不能だったし又そのユダヤの世界征服が何を指すかが日本
国内では不明のまま、不幸にも共産党思想の拡散に使われたのである。帝政ロシア政府
が社会的な不満の解決をユダヤ人排斥主義に誘導し助長されることになっての、1903年
から1906年にかけての度重なるユダヤ人襲撃はユダヤ人の国外脱出の引きがねとなり、
シオニズム運動を招くことになった。この頃シオニズムによってアメリカに流れたユダ
ヤ民衆はアメリカの中枢の政治経済を牛耳って、アメリカをテコに世界を動かしだした
。日本を経由して独立後からアメリカに移住して行ったのだ。中継地ハワイは早くから
独立はしていた。しかし日本から艦船派遣はしたものの、ホノルルでハワイ人による反
対集会が繰り返される中で、1894年7月4日、臨時政府はサンフォード・ドールを大統領
として共和国の独立宣言が行なわれて争乱となった。翌1895年1月6日、王政派が反乱を
起こすも、数日の銃撃戦の後に新政府軍に鎮圧された。リリウオカラニ女王は捕縛され
、私邸、あるいはイオラニ宮殿の庭からたくさんの銃器が見つかったとして、リリウオ
カラニは反乱の首謀者の容疑で逮捕されて、イオラニ宮殿内に幽閉された。1月22日
、反乱で捕らえられた約200人の命と引き換えに、アメリカはリリウオカラニは女王
廃位の署名を強制し、こうして独立のハワイ王国は滅亡させられ、太平洋などの日本の
軍艦などによる米国牽制が、既に米国からは横やり覇権国家に映っていたのである。

964: 名無しさんAA:18/07/02 00:46
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  22 >

 こうした動きに影響を与えていたのが東インド会社だ、ジャーディン・マセソン商会
だ。ジャーディン・マセソン商会は早くからの東インド会社での東南アジア部門であっ
た。貿易商社として既に名を馳せていた「ジャーディン・マセソン商会」は東インド会
社として英国議会までも動かし得る力をもっていた。英国海軍すらも指導する商人であ
ってその力は中国のアロー号事件では、それはいかんなく発揮された。1832年、スコッ
トランド出身のイギリス東インド会社元船医で貿易商人のウィリアム・ジャーディンと
ジェームス・マセソンによって作られた。この会社は、中国の広州(沙面島)に設立さ
れた時は、簡単な小さな英国インド会社の貿易出張所であり、単に取次店であった。し
かし中国語名は「怡和洋行」に変え。当時では、ヨーロッパ商人に唯一開かれた貿易港
であった広州で、直ぐに大きくなり広東システム体制下でのかなりの実力を持つに至っ
た。1842年に、広州から香港に本社を移すと、中国語名を従来の「渣甸洋行」(渣甸は
ジャーディン船医の意)からの「怡和洋行」に変更した。由来は、広東十三行のひとつ
となり、西洋にも有名だったからだ。「怡和行」から取った。広東十三行といっても必
ずしも13人の商人団ではないという。1685年に康熙帝によって、海外貿易が許可され
た時、貨物の集散、関税の徴収等に粤海関監督のもとで13の牙行(仲買商)である者
を貢物を差し出す広東十三行を許可指定したことによる。この行商制度は、当時の広州
に於いては、この許可制限によって数十家の牙行(仲買商)の倉が、珠江の沿岸に店舗
等を張って立ち並んでいた。これがそのまま十三行と呼ぶ習わしとなった。その後少し
緩くして。1720年、海関監督は数十家の牙行(仲買商)のうち有力な16家を選んで許可
し、5行に対しては貿易額の全額を、6行に対しては貿易額の半額を、残りの6行に対
しては、貿易額の4分の1の責任と貢物負わせた。こうして新たに加入しようとするも
のに対しては1千両を権利金として第三の6行に加えようとした。当然この制度は多く
の牙行の反対にあい、翌年にはあっけなく解散した。この時の貿易管理体制を「カント
ン体制」「広東貿易体制」などと言われ、ヨーロッパ商人は交易を広東(広州)1港の
みに限定されたものとして、清国の独占的商人の貿易体制である。と認識されていた。
一方ジャーディン・マセソン商会は、東インド会社の船医でマニアック商会の共同出資
者であるスコットランド出身のユダヤ人ウィリアム・ジャーディンが、サッスーン財閥
と争っていた事で同じスコットランド出身のユダヤ人で、カルカッタ貿易商として独立
しマニアック商会の共同出資者であったジェームズ・マセソンに中国貿易を呼びかけた
ものだった。

965: 名無しさんAA:18/07/02 00:46
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  23 >

 ジャーディン・マセソン商会は、元東インド会社の船医でマニアック商会の共同出資
者であるスコットランド出身のユダヤ人ウィリアム・ジャーディンと、同じくスコット
ランド出身のユダヤ人で、カルカッタで貿易商として独立していた、マニアック商会の
共同出資者であったジェームズ・マセソンにより、1832年に中国のマカオに設立された
貿易商社で、主なビジネスはアヘンと紅茶で重なるものがあった。東インド会社後期の
利権をめぐって、サッスーン財閥と激しく争っていて、その後、アヘン戦争が終わると
、1941年に本社を香港に移しています。明治維新の功労者で、フリーメーソンでもある
トーマス・グラバーが長崎に設立した。「グラバー商会」 は、このジャーディン・マ
セソン商会の代理店であった。サッスーン財閥と激しく争ったジャーディン・マセソン
商会ですが、1877年に、ジャーディン一族と結婚したファミリーとしてとケズウィック
という人物が現れ、サッスーン=ロスチャイルド連合との和解を申し出てこれが実り、
このアヘンにまみれ、悪いことばかりしている2つの会社は手を組むことになりました
。そうして、このジャーディン一族のウィリアム・ケズウィックはサッスーン一族(ロ
スチャイルドと親戚)が最大株主であるHSBC(香港上海銀行)の取締役として迎えられ
た。そうして、ジャーディン家・マセソン家・ケズウィック家・ロスチャイルド家・サ
ッスーン家は複雑に婚姻関係で結ばれていきました。大英帝国のヴィクトリア女王の時
代に、アヘン戦争は起こりましたが、その莫大な利益により、その富を取り扱う銀行が
必要になりました。1864年、太平天国が滅亡し、メーソン・ロッジが上海に林立した年
、ロンドンで植民地協会が設立され、その4年後、同協会は、英国王室の後ろ盾によっ
て、王立直轄植民地協会と名を改め、この王立直轄植民地協会によって創立された金融
機関が、HSBC(香港上海銀行)であった。出資者のデビッド・E・サッスーン商会
は他の、エヴリン・ベアリングのベアリング商会、ウィリアム・ジャーディンとジェー
ムズ・マセソンのジャーディンマセソン商会、そしてロスチャイルド人脈の役員によっ
て作られたバークレイズ銀行で、全員が高位フリーメーソンのメンバーで構成された。
 東インド会社の蛮行が知れ渡り世界の非難を浴び、正式に東インド会社は消滅するが
、それでも名を変えてその利権は、HSBC(香港上海銀行)、サッスーン財閥、ロスチャ
イルド財閥、ジャーディン・マセソン商会などが、ほぼ同じ様に引き継いでいった。話
は飛ぶが、アメリカ大統領は以前はハーバード大学出身者で占められていました。最近
ではブッシュ大統領はじめエール大学のスカル&ボーンズ出身者が幅を利かせている。


966: 名無しさんAA:18/07/02 00:46
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  24 >

このスカル&ボーンズを創設したのが、エール大卒業生のウィリアム・ラッセルとアル
フォンゾ・タフトである。このウィリアム・ラッセルのいとこが、中国のアヘン戦争の
引きがねとなる世界最大のアヘン密輸企業のジャーディン・マセソン社と手を組んでい
て大きく資産を積み上げたラッセル・アンド・カンパニーの経営者であります。あの名
門エール大学も、その資金は中国のアヘンの利益から得ていたのです。ジャーディン・
マセソン商会は、超高級コニャック「ヘネシー」を販売し、日本では「ホワイトホース
」の輸入業者として知られていますが、あのマンダリン・ホテルGrもジャーディン・
マセソン商会が運営しているものだ。1963年に、香港に拠点を置くイギリス系の大手総
合商社・ジャーディン・マセソン商会のヘンリー・ケズウィック会長の指導の元、当時
イギリスの植民地であった香港のセントラルにオープンした「マンダリン香港(現在の
マンダリン・オリエンタル香港)」が始まり、その後社名をマンダリン・インターナシ
ョナル・ホテルズと改名し、1974年には、タイのバンコクにある有名ホテル、「ザ・オ
リエンタル・バンコク」を買収し、1985年に現在のマンダリン・オリエンタルホテルグ
ループの社名に改名しました。現在、13カ国に21(約 8,000室)のホテルを展開し、
シャングリ・ラ・ホテルズ&リゾーツや香港&上海ホテルズと並び、アジアを代表する高
級ホテルチェーンとして欧米でもその名が知られており、2005年12月2日には 日本初進
出となるマンダリン・オリエンタル東京が日本橋にオープンしています。ロスチャイル
ドグループであるLVMH(ルイ・ヴィトン・モエ・ヘネシ−)の洋酒販売部門は、元ジャ
ーディン・マセソンと ダルモア蒸留所の合弁洋酒会社(ジャーディン・ワインズ&スピ
リッツ)からジャーディンが合弁から離脱し、LVMH傘下となり、MHDディアジオ
・モエ・ヘネシーという会社になったものです。(LVMH:ルイ・ヴィトン・モエ・
ヘネシー) 明治維新で伊藤博文、井上馨ら長州5傑が、グラバーの仲介で、イギリスに
密航しロンドン大学に留学に行きましたが、そのときの船はジャーディン・マセソンの
もので、彼らを迎えたのはジェームス・マセソンの甥であったヒュー・マセソンでした
。このように、明治維新はフリーメーソン、ジャーディン・マセソン商会、サッスーン
財閥、ロスチャイルド財閥と深く関わっているのです。明治維新では、ジャーディン・
マセソン商会は、アメリカ南北戦争が終わり売れ残った武器を上海で取扱い、維新軍は
「グラバー商会」 を通じて、銃や軍艦なども輸入しています。その取引のダミー商社
が坂本龍馬が長崎に設立した「亀山社中」だった。この「亀山社中」が、発展し「海援
隊」と改称された。

967: 名無しさんAA:18/07/02 00:47
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  25 >

 もともと清は1757年以来広東港でのみヨーロッパ諸国と交易を行い、「公行」という
北京政府の特許を得た商人にしかヨーロッパ商人との交易を認めてこなかった。日本で
の長崎出島と同じ様な広東貿易制度である。欧州で広東システムと言われるものだ。一
方でヨーロッパ側で中国貿易の大半を握っているのはイギリス東インド会社であった。
同社は現地に「管貨人委員会」(セレクトコミュニティオブスーパーカーゴ=選任監督官
Select Commitee of Supercargoes)という代表機関を設置していた。しかし北京政府は
ヨーロッパとの交易を一貫して「朝貢」と認識していたため、直接の商人貿易交渉には
応じようとしなかった。そのため管貨人委員会さえも公行を通じて「稟」という請願書
を広東地方当局に提出できるだけであった。これはあくまで稟議つまり申し立て書願い
である。このような広東貿易制度は中国市場開拓を目指すイギリスにとっては全く満足
のいくものではなかった。広東貿易制度の廃止、すなわち北京政府による貿易や居住の
制限や北京政府の朝貢意識を是正することによって英中自由貿易を確立することが課題
になっていった。この頃イギリス東インド会社は1773年にベンガル阿片の専売権を獲得
しており、ついで1797年にはその製造権も獲得した。これ以降同社は中国への組織的な
阿片の生産・製造・販売をして中国への売り込みを開始していた。北京政府は阿片貿易
を禁止していたが、地方の中国人アヘン商人が官憲を買収して取り締まりを免れて、密
貿易に応じたため、阿片貿易は拡大していく一方だった。1823年には阿片がインド綿花
に代わって中国向け輸出の最大の商品となっていくのに時間はかからなかった。広東貿
易の枠外に広がりゆく阿片貿易は広東貿易制度を崩壊させるきっかけとなっていく。 
当時のイギリスは、茶、陶磁器、絹などを大量に清から輸入していた。が一方で、イギ
リスから清へ輸出されるものは、時計や望遠鏡のような富裕層向けの物品はあったもの
の、大量に輸出可能な製品が存在しなかった、又本国ではイギリスの大幅な輸入超過で
あり、スペインに入ってくる金銀などで。相対的にイギリスは産業革命による資本蓄積
やアメリカ独立戦争の戦費確保が出来なくなり、銀の国外流出を抑制する政策をとった
。この事でイギリスは植民地のインドで栽培した麻薬であるアヘンを清に密輸出する事
で超過分を相殺しようと、三角貿易を整える事になった。こうした大きな世界的狂いは
結局は中国商人の清王朝の管理の目を盗んで、自己の営利に走った事が引き金だった。
その意味で中華中心主義を押し通した清代の王朝は、只の威厳でしかなかった。


968: 名無しさんAA:18/07/02 00:47
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  26 >

 こうして前身は東インド会社で、元は貿易商社のジャーディン・マセソン社だったが
1832年、麻薬王のサッスーン財閥と繋がれた事で更なる高見を目指した。中国の広州の
(沙面島)に設立された事務所を香港占領と共に移し、銀行を作り、日本を目指したの
である。幕末・明治期の日本における歴史では、よくまあ日本は占領されなかったなあ
。とつくづく日本人の几帳面さによる運の良さを感じてしまう。かねてより沖縄や台湾
、長崎の中国人商人を通じて日本の物品を密貿易していた同社は、江戸幕府の1853年の
日米和親条約を皮切りに、1854, 1855, 1856年と立て続けに日英、日露、日蘭和親条約
を締結し、長崎港と函館港を開港する事に目を見張る。1859年(安政6年)には、上海
支店にいたイギリス人ウィリアム・ケズィック(ウィリアム・ジャーディンの姉の子)
を日本に派遣した。ケズィックは西洋の織物、材木、薬などを持ち込み、日本からは、
柳川藩を通じて、出島経由で、石炭、干し魚、鮫皮、海藻、米などを購入、ビジネス的
にはとても成功とは言えなかったが利益は出て居た。日本製絹の品質の高さに将来性を
抱き、グラバーを外れて、1860年初頭に、横浜居留地の1番地(旧山下町居留地1番館、
現山下町一番地)に「ジャーディン・マセソン商会」横浜支店を設立した。同商会では
日本に進出した外資第1号としても知られる。後には吉田茂の養父・吉田健三が一時期
、同社横浜支店長を務めてさせていた事でも有名だ。岸もこの事務所と関りがあった。
鹿島によって建設された横浜初の外国商館である社屋は、地元民から「英一番館」と呼
ばれた。跡地には現在シルクセンター(国際貿易観光会館)が建っている。長崎でも、
1859年9月19日(安政6年8月23日)に 幕末・明治期の最重要人物であるトーマス・ブレ
ーク・グラバーが「ジャーディン・マセソン商会」長崎代理店として「グラバー商会」
を設立して大きくなっていた。グラバーは、長州五傑、五代友厚(薩摩)、坂本龍馬(
海援隊)、岩崎弥太郎(三菱財閥)等を影で支援していた事で知られる。長州藩は1965
年、同商会から軍艦ユニオン号を購入し、戊辰戦争を率いた。商会の跡地は長崎でグラ
バー園として公開されている。1863年(文久3年)の井上聞多、遠藤謹助、山尾庸三、
野村弥吉、伊藤博文の長州五傑の留学の際にはマセソン商会ゴーワー支店長が出航の手
配をし、英国滞在は、甥にあたるロンドン社長が世話した。しかし、馬関戦争を聞いて
長州藩士伊藤俊輔と井上聞多は四国連合による下関攻撃が近いことを知らされ、戦争を
止めさせるべく急ぎ帰国の途についた。マセソン商会はその他、神戸・大阪・函館にも
代理店を置いた。この事で競合した「グラバー商会」は大きく売り上げを損なった。

969: 名無しさんAA:18/07/02 00:47
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  27 >

 中国の明代末期からは、民衆にアヘン吸引の習慣が広まり、清代の1796年(嘉慶元年
)に大きくアヘン輸入禁止処置を取った。以降こうして危機感を募らせる政府は、19
世紀に入ってからも何度となく禁止令が発したが、アヘンの密輸入は止まず、国内産の
アヘンの取り締まりも効果がなかったので、清国内にアヘン吸引の悪弊が広まっていき
、健康を害する者が多くなり、風紀も退廃していった。中国の人口が18世紀以降急増
したことに伴い、民度が低下し、自暴自棄の下層民が増えたこともそれを助長させた。
。アヘンの代金は銀で決済したことから、アヘンの輸入量増加により貿易収支が逆転、
清国内の銀保有量が激減し後述のとおり銀の高騰を招いた。この事態に至って、清では
官僚の許乃済から「アヘンを取り締まる事は無理だから輸入を認めて関税を徴収したほ
うが良い。」というものが上奏された。だが、宮廷ではこの論はほとんどの宦官からは
反対を受け一蹴され、帝に届く事はなかった。その後、アヘンを吸引した者は死刑に処
すべきだと言う意見が出て、道光帝は1838年に欽差大臣(特命全権大臣のこと)をたて
林則徐を任命し広東に派遣して、アヘン密輸の取り締まりに当たらせた。林則徐は真面
目で、今までの欽差大臣と違った。アヘンを扱う商人からの贈賄にも応じず、非常に厳
しいアヘン密輸に対する取り締まりを行った。1839年(道光十九年)には、アヘン商人
たちに「今後、一切アヘンを清国国内に持ち込まない。」という旨の念書である誓約書
の提出を要求し、「持ち込んだら死刑」と通告した。さらにイギリス商人が持っていた
在庫のアヘンを没収し、夷館も閉鎖した。同年6月6日には没収したアヘンをまとめて
焼却処分したが、燃え残りが出た灰すらも、阿片塊を海水に浸した上で塩と石灰を投入
し、化学反応によって無毒化させるほどの念をいれた。この時に処分したアヘンの総量
は1、400トンを超えたという。その後も誓約書を出さないアヘン商人たちを港から
退去させた。この確固たる取り締まりは上手く行くものの様にみえた。しかしこの大胆
で急激な変化は英国には伝わっていない変化だった。1836年に、英国外相パーマストン
子爵は現地イギリス人の保護のため、植民地勤務経験が豊富な外交官チャールズ・エリ
オットを清国貿易監察官として広東に派遣した。パーマストン子爵は強硬派で海軍省を
通じて東インド艦隊に対し、清に対する軍事行動の規制を大幅に緩めるのでエリオット
に協力するよう通達したが、36年の段階では阿片取り締まりが始まっていないで、直
接の武力圧力をかけることは禁じていた。しかし1839年に着任した林則徐による急激な
一連の阿片取り締まりがはじまると、エリオットは狼狽した。


970: 名無しさんAA:18/07/02 00:48
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  28 >

 エリオットはイギリス商人の所持する阿片の引き渡しの要求には応じたが、誓約書の
提出は強く拒否し、イギリス商人と相談の上5月には広東在住の全英国人を牽き連れて
一旦はマカオに退去する処置を取った。この急速な事態の進展に東インド艦隊も事態を
掴んでおらず、軍艦を派遣してこなかったのだ。砲艦外交の弱さであった。エリオット
の元に武力がなかった事は中国官使をのぼせさせた。絶好のチャンスと見た林則徐は、
九竜半島でのイギリス水兵による原住民殺害を口実に、8月にはマカオを武力封鎖して
市内の食料を断ち、さらに井戸に毒を撒いてイギリス人を毒殺しようと企んだのである
。これによりエリオットはマカオすらも放棄して船上へ避難することになった。しかし
避難の手筈の中たまたま迎えに来たのが東インド艦隊のフリゲート艦「ボレージ」と「
ヒヤシンス」が2隻だけ到着した。エリオットと清国の揉め事を察知したわけではなく
、パーマストン子爵の方針にしたがってたまたま6等艦という英海軍の最下等の軍艦を
差し向けていたのである。エリオットはこの2隻をよって早速に反撃に打って出る。当
然ながら砲撃を持たない中国軍には軍事力など無いに等しいものだった。9月に九竜沖
砲撃戦、11月に川鼻海戦に及んで清国船団を壊滅させた。この報告が伝わるとイギリ
スの本国も外相パーマストン子爵の主導で対清開戦に傾き、貴族院内閣の閣議において
遠征軍派遣が決定した。「阿片の密輸支持」は開戦理由に対して、人々からの反発が強
く出た。イギリス議会の庶民院でも、野党保守党のウィリアム・グラッドストンは後に
自由党首相になったが、「不義の戦争」とする批判を繰り返した。しかし、清に対する
出兵予算案は9票の僅差で可決承認され、議決を受けたイギリス海軍は、イギリス東洋
艦隊を編成して派遣に出た。1840年8月までに軍艦16隻、輸送船27隻、東インド会社 所
有の武装汽船4隻、陸軍兵士4,000人が中国に到着した。英国艦隊の40隻が突然中国の
港の沖合いに来たのだ。現れたのは林則徐が大量の兵力を集めてたった2隻と戦ってい
た広州ではなく、兵力が手薄な北方の沿岸地域だったを占領しながら北上し、大沽砲台
を陥落させて首都北京に近い天津沖へ入った。高見していたさしもの道光帝も、天津に
軍艦が現れたことに驚き、強硬派の林則徐を開戦の責を負わせて新疆イリへ左遷した。
和平派のキシャンを後任に任じてイギリスに交渉しかけ、イギリス軍側もモンスーンの
接近を警戒しており、また舟山諸島占領軍の間に病が流行していたため、これに応じて
9月に一時撤収したのである。

971: 名無しさんAA:18/07/02 00:48
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  29 >

 この時の中国は英国議会の仕組みを知らなかった。それは日本軍が米合衆国を知らな
かったように無知であった。また米英も同じに極東を知らなかった。1841年1月20日に
キシャンとエリオットの間で川鼻条約が結ばれた。広東貿易早期再開、香港割譲、賠償
金600万ドル支払い、公行廃止、両国官憲の対等交渉。などだ。比較的に 後の南京条約
と比べると清に好意的な取り決めだった。ところが、宦官で占める城廷の会議は異様な
怒りが溢れていた。まずこれまで朝貢しか扱っていなかった貿易に香港割譲でまたアヘ
ン取引がなされる。と言う危惧だ。更に中国中心の中華主義の権威が崩れた事の怒りだ
土地はおろか賠償金まで付けられて負けましたと言わんばかりの屈服である。これを広
く国民に知らしめ税を取り立てるのは不可能に近かった。帝の武力が負けた事はそうし
たこれまで地方の役人の言わば各州の太守への用心棒的課税徴収が出来ない事を意味し
此処に組織だった反感があった。こうして条約を決め英軍が撤収するや否や清政府内で
強硬派が盛り返し、道光帝はキシャンを罷免して川鼻条約の正式な締結も拒否するに至
った。日本と中国の違いは此処にあった。日本では江戸の草創期の安土桃山時代に一時
織田信長は天皇制廃止に向かったが江戸期の徳川氏は曲りなりに保護し残した。従って
藩主を束ねたのは徳川幕府であり、明治新政府でも、国内での権威の失墜が起こっても
裏にもう一つの権威を残して外交決定をしたのである。しかし中国は征服王朝であり、
今の共産党独裁でも国外への権勢と国内への権威は表裏一体で、一つでしかなかった。
この破棄の連絡を受けて、イギリス軍は早速軍事行動を再開した。英国艦隊は、廈門、
舟山諸島、寧波など揚子江以南の沿岸地域を次々と制圧しく。三元里事件での現地民間
人の奮戦や、虎門の戦いでの関天培らが奮戦もあったが、完全に制海権を握り、火力に
もはるかに優るイギリス側が自由に上陸地点は選択し、戦争は一方的に進み防御する清
側正規軍は撃破の様相された。特に「ネメシス」号をはじめとした東インド会社汽走砲
艦の活躍は目覚ましく、水深の浅い内陸水路に容易に侵入し、近くから清軍のジャンク
船を次々と一発で沈めて行った、その為後続の艦隊の進入を用意にし成功に導いていた
。英国艦隊はモンスーンに備えて冬の間は停止したが、春にはインド兵を増強し 6,700
人、本国からの援軍2,000人、新たな汽走砲艦などを受けて北航を再開し、5月に清が誇
る勇猛果敢な満洲八旗軍が駐屯する乍浦をを陥落させた。こうして揚子江へ進入を開始
し汽走砲艦が活躍する中、7月には鎮江を陥落させ英軍が鎮江を抑えたことにより京杭
大運河は止められ、北京は補給を断たれ北京政府は破滅的状況を目にした。


972: 名無しさんAA:18/07/02 00:49
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  30 >

、道光帝らは戦意は完全に失われ1842年8月、両国は南京条約に調印し、第一次阿片戦
争は終結した。阿片戦争以前に、清国は広東(広州)、福建(厦門)、浙江(寧波)に
海関を置き、外国との海上貿易の拠点として管理貿易(公行制度)を実施していたが、
南京条約では公行制度を完全廃止し、自由貿易制に改め、従来の3港に福州、上海を加
えた5港の開港と自由貿易港と定めた。加えて本条約では英国への多額の賠償金の支払
と香港の割譲が定められた。また、翌年の虎門寨追加条約では治外法権、関税自主権放
棄、最恵国待遇条項承認などが定められた。この取り決めが標準化し、日本でも適用さ
れて明治政府を苦しめた。こうして中国人の貿易商の地位も失われた。この英国と清国
との不平等条約の他に、アメリカ合衆国との望厦条約、フランスとの黄埔条約などが結
ばれている。この戦争を英国が引き起こした目的は大きく2つあった。一つは東アジア
で支配的存在であった中国を中心とする朝貢体制の打破と、厳しい貿易制限を撤廃して
自国の商品をもっと中国側に買わせることだった。しかし、結果として中英間における
外交体制に大きな風穴を開けることには成功したものの、もう一つの経済的目的は達成
されなかった。逆に中国製の綿製品が英国製品の輸入を阻害したからである。これを良
しとしなかった英国は次の機会をうかがうようになり、これが第二次阿片戦争とも言わ
れるアロー戦争へとつながっていく。もう一つは対外的に欧州社会での英国の地位の為
だった。早くから南方貿易で東インド会社を設立したものの、ネーデルランドのドイツ
のロシアを巻き込んだハンザ同盟のオランダ貿易には勝てず、ポルトガル・イスパニア
に戦争で勝つぐらいでしかなかった。そして後ろにアメリカ大陸の独立運動が控えてい
たのである。つまり経済的国民生活と財政的国家運営と両方が植民地主義で壁になって
いて、貿易拡大と国家収入に飢えていたのだ。この打破に中国はいけにえの牛にされた
のである。阿片戦争の清側の敗戦が深刻な衝撃になった人々は王朝と兵士と貿易商人に
限られていた。一つは北京から遠く離れた広東が主戦場であった事、一つは中華が夷狄
(いてき)に敗れる事はしばしばあって驚きではなかった事だ。そもそも、清という国
自体が、漢民族は夷狄の満州族が支配する帝国であった。広東システムの管理貿易は廃
止させられたものの、清は、依然として華夷秩序は捨てておらず、イギリスをその後も
「英夷」と呼び続けた。まあ英国にしても議会は商人だらけで、そのままでもアヘンの
商売は続けていたであろう。となるともっと悪い結果も出て居たかもしれない日本は。


973: 名無しさんAA:18/07/02 04:19
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  31 >
 この清朝の敗戦は長崎に入港するオランダや清の商人を通じて幕末の日本にも伝えら
れた。西洋諸国の軍事力が東洋に比して圧倒的に優勢であることがいよいよ明白になっ
のである。それまで異国の船は見つけ次第砲撃するという異国船打払令で強硬な態度を
採っていた江戸幕府首脳達も、この戦争結果には驚愕した。同時期に、日本人漂流民を
送り届けてくれた船を追い返すというモリソン号事件が発生したこともあり、天保13年
(1842年)には、方針を転換して、異国船に薪や水の便宜を図る薪水給与令を新たに打
ち出すなど欧米列強への態度を軟化させた。大きな衝撃をもって迎えられたこの情報は
、かつて強国であったはずの清の壁の決壊であり、さらにその先の東アジアへ進出する
者らが西洋の旗印となる危機的な懸念があり、速やかな国体の変革が急務であることを
日本に募らせた。こうして幕府の対外軟化が進んだが、それがやがて開国の大きな要因
の一つとなり、ペリー来航、明治維新を経て、日本の近代化へとつながることになった
。こうした歴史は、全く米国TVドラマのごとく流転する歴史だ。まるでFOX映画の
西部劇の様に、米国はNO1を狙って生活や人間などは、どうでもいいというはた迷惑
なならず者のガンマン世界を見せる。大戦時代において日本はこの欧州文化について行
く事ができなかった。秩序も道徳もこだわりもなく 日本の船は中国機に似せた米兵は
戦前から攻撃していたし、開戦以降は民間船でも撃沈させられ石油輸送にはつながらな
かった。その後の焼夷弾による都市攻撃も原爆投下でも、全く躊躇なく日本人を殺し続
けた。それは何故か。実は中国国民も日本国民も見分けがつかなかったし、人殺しが好
きだったからだ。歴史は最終的に米国は中国に上陸する事無く日本を攻めたが、その頃
の大陸に上陸していれば、中国民は国民でなく農奴であり、牛や豚と同じだった。と言
う理由で結構な死人が出ただろう。というのも中国王朝がそういう体制で保持して来て
いたからだ。教育や読み書きも兵士には必要なかった。ちなみに日華事変は不思議な話
は溢れている。例えば兵士の話だ。古老は語る「ある日夕食を終えると,突然大騒ぎす
る人声が聞こえた。さらに,家の屋根の上を歩く足音が聞こえた。突然,一人の男が、
わらぶき屋根を踏み破って部屋に落ちて来た。そして声を出さないようにと,大慌てで
懇願した。彼が言うには,自分は十七歳で,わら紙の職人だが,集金に出たところへ軍
隊に捕まってしまって,服とお金は没収され灰色の軍服を着せられたのだった。当時に
中国兵の補充は、勝手に通行人を拉致するか、人買い組織から壮年男子を買い入れて、
充足すればよいのが普通だった。」こうして、中国の兵士はほとんど全員が文盲であり
、軍事訓練を受けたものは少なく、強制的に連れてこられた農民たちがほとんどで軍隊
を作っていて、彼らが銃の撃ち方を学んだのは、戦場であったのだ。と言われる。

974: 名無しさんAA:18/07/02 04:19
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  32 >

 1851年に開催された第1回ロンドン万博は、世界で最初の万国博覧会である。ナポレ
オンのフランス産業博覧会を真似て、ロンドンのハイドパークに建てられた会場は、そ
の外見からクリスタルパレス(水晶宮)と呼ばれ、この建物自体が最大の目玉展示物であ
った。この万博を中心となって推進したのは、ヴィクトリア女王の夫であり王立技芸協
会会長のアルバート公であった。当時ロンドンの公文書館で館長補佐をしていたコール
は、1849年にパリで開かれた産業博覧会を参観し、フランスでは万博開催を果たせなか
ったことを知って、予定していた国内博覧会を国際博覧会に拡大することをアルバート
公に進言し、アルバート公はこれを受け入れた。当時のイギリスは18世紀末から始ま
った産業革命により農業中心の伝統的な産業が後退し、代わって工場生産業が幅をきか
せるようになっていた。進歩の一途をたどった世界の工場イギリスの繁栄は明らかであ
り、イギリスはこの万博を開催することで、その圧倒的な工業力を世界に知らしめるこ
とになったのである。参加国は34カ国で、141日間の会期で一日の平均入場者数は約4
万3,000人、10月7日には約11万人の最高入場者数を記録した。会期中の延べ入場者数は
約604万人で、この数は当時のイギリスの総人口の約3割、ロンドンの人口の3倍に
当たる人が来場した。これだけの人々が入場した背景には、国内的には印刷技術の進歩
による宣伝効果や、会場までの交通手段が鉄道網の発達により格段に進歩したことが考
えられる。また国外についても同様で、この頃海上帝国のイギリスは定期蒸気船航路で
南・北アメリカ、アジア、アフリカに、分散する植民地を結び付けており、ロンドンは
文字通り世界の中心として君臨していたからだ。出品者は1万3,937人、うち半数以上を
大英帝国からの出品が占めた。出展品は、鉱物・化学薬品などの原料部門、機械・土木
などの機械部門、ガラス・陶器などの製品部門、美術部門(絵画を除く)のように分類さ
れていた。この万博は大成功を収めた。約52万ポンドの収入があり、利益は約18万
ポンドにものぼった。そしてその利益をもとにしてできたのが、150年以上たった今
も尚ケンジントン一帯に残る、ヴィクトリア・アンド・アルバート・ミュージアムや科
学博物館、ロイヤル・アルバート・ホールなどの文化施設である。この時日本は出品し
無かったが日本製品は公爵などの趣味で集められた磁器・絵画が展示されている。更に
人気が高かった為に機関車などがこの後中国で展示された。


975: 名無しさんAA:18/07/02 04:20
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  33 >  

 この万国博覧会は、大成功に終わった為に、その後ニューヨーク・パリと行われた。
その後1865年(慶応元年)に上海博覧会が行われた。そしてアメリカのカーネギー財団
日本では、トーマス・グラバーが、1865年(慶応元年)に上海博覧会に出品されていた
英国製の蒸気機関車「アイアン・デューク号」を買い取り、客車2両計3両を長崎出島
で走らせている。長崎(現在の市民病院前)〜大浦海岸(現在の大浦川)までの約600mの
線路をわざわざ敷設して、売り込みに走らせた。大きさとしては、「アイアン・デュー
ク号は、思ったよりも小さなもので。遊園地の汽車を少し大きくしたぐらいだ。しかし
、長崎の町民も藩主も、はじめて黒煙を吐いて走る蒸気機関車を目の前で見たときは、
さぞや驚いたはずだ。この時に佐賀の藩主で肥前の妖怪とされた鍋島直正は何回も見学
に来たはずだ。既に反射炉を研究し鉄を作り出し、大砲の作り方を薩摩藩に譲った後の
頃で三重津海軍所(みえつかいぐんしょ)は佐賀県佐賀市川副町大字早津江字元海軍所
に所在し、佐賀藩が1858年(安政5年)に既に設立し蒸気船の造船に取り掛かっていたか
らだ。三重津海軍所はその後東芝の前身東京芝浦製作所を作った、からくり人形の田中
義衛門を呼んで開発させた。その後は船の修理・造船施設。西洋船運用のための教育・
訓練機関も兼ね備えていた。その興味はそれは出島などの長崎の番回りの奉行としても
見たに違いない。当時この「アイアン・デューク号」の名前は、当時の英国の将軍のウ
ェリントン公爵のニックネームで「英国艦隊のアイアン・デューク号」もあるほどボイ
ラーの圧力タンクとしては優れていた。当時は、「陸蒸気」と呼ばれていたこの機関車
を売ろうとしたのは。既にグラバーは武器商人となって財は得ていたが、1860年か
ら、ジャーディン・マセソン商会が横浜他各地に出張所や支社を置いたからだった。こ
の時多分グラバーには日本国内に危険を冒してもアヘンや麻薬を売って利益を得る事も
考えた筈だ。だが彼はその後に小森氏として帰化したように、日本をこよなく愛したよ
うで、その後は知古をお客とする細々と商売する道を選んだ。それは日本を好きになっ
たからだ。八女茶から嬉野茶に変わり伊万里焼や唐津焼から有田焼に変わったが横浜の
売り上げが伸びると次第に廃れていった。お茶も清水の静岡茶がチッゴティとして輸出
された。その後外国人技術者を紹介する人材派遣業みたいな事をして食いつないだ。だ
がそれもオランダ人や英国人米国人から、ドイツ人に移行して行って尻すぼみになった


976: 名無しさんAA:18/07/02 04:26
「ゴー宣」にこんな話があった。日本の敗戦で日本人が台湾から退去すると,入れ替わ
りに国民党軍の兵士が上陸してきた。その風体は浮浪者同然であった。ある兵士は水道
を知ると,蛇口の金具を買い,壁にぶち込んだ。蛇口をひねっても水が出ないので,腹
を立てた。「飲み水で苦労した,未開人の姿である。」と書いている。教育の無さは、
戦いにもあった「広西からの部隊が前線に到着したが,日本の飛行機が爆弾を投下して
くるのを見ても,身を隠したり伏せようともしなかった。突っ立ったままで,飛行機を
指さしてののしる者までおり,多くの人間が戦場に赴く前に,むざむざと命を落とした
(『李宗仁回想録』)」「日本軍は食料の供給を長老を介して求めて来て、村を守った
が、八路軍が盛り返してくると、それはもう盗賊だった。村の娘は犯され、家は焼かれ
明日の食料も種米も無かった。彼らには食糧を造ると言う意識はなく、そこにあるもの
を奪って貯めると言う智慧のみが働いていた。必死に生きて居たのだろうが水ガメの池
すら破壊して行った。」と言う。中国軍と、日本軍の行軍の間には、大きな質的差異が
あった。それは、中国軍は特に八路軍では討伐に逃げている軍だったからだ。同胞であ
あろう中国民衆を行く先々で強奪し、また大量殺害したのはロシア赤軍と同じだった。
それに対し、日本軍は行く先々で彼らを救済しようとした。あくまで討伐応援だったか
らだ。中国では伝統的に、民衆とは、戦乱で虫けらのように殺される存在であり、少な
くとも権力者から愛護を受ける対象とはなっていない。梁啓超は、中国の民衆を「戮民
」(りくみん 殺戮される民)とも呼んでいた。たとえば、「国共合作」により共産軍
と組んで日本との戦いを始めた蒋介石の軍隊は、一九三八年、日本軍の進撃の道をはば
もうと、黄河の堤防を爆破した。このとき、大雨が降ったこともあって一一の都市と、
四千の村が水没し、水死者一〇〇万人、その他の被害者六〇〇万人という大惨事となり
った。しかも、それだけでは終わってはいない。この人為的水害の結果、黄河の水路が
変わり、周辺に大飢饉が広がった。そして、被災地で食糧不足に悩んだ中国軍部隊は、
民衆から食糧の強奪を始めたため、飢饉はさらに深刻化しました。その惨状をみた当時
のアメリカ人記者は、「道ばたには凍死者と餓死者があふれ、飢えた人々は屍肉を食べ
ていた。」と記している。中国側はまた、事件直後から、堤防決壊を日本軍のしわざと
して宣伝もしていました。しかし中国側のこの自作自演は、外国人記者に見破られてい
る。この堤防決壊のとき、日本軍兵士は一人も死にませんでした。それはただ、中国人
を大量殺戮しただけで終わったのだ。堤防決壊の直後、日本軍は堤防の修復作業を行な
っただけでなく、被災した民衆の救助と、防疫作業を行ない進んだ。日本軍は、中国軍
から虫けらのように扱われた中国民衆を、必死になって救済していたのです。それは軍
の食料調達は現地自給が基本だったからだ。

977: 名無しさんAA:18/07/02 04:34
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  36 >

こうした中国軍の性格は、蒋介石の軍だけでなく、毛沢東の共産軍でも同様だった。い
や、共産軍はもっとひどいものだった。共産軍は、民衆から「共匪」(きょうひ)すな
わち共産主義の匪賊と呼ばれていました。それは彼らが行く先々で、民衆に略奪、殺人
、強姦を厭わず働いたからだ。中国の軍隊は、共産軍でも国民党軍でも、基本的に軍隊
というより、ルンペンを寄せ集めたような集団にすぎなかった。彼らが軍隊に入ったの
は、占領地区で略奪が出来るため、食いっぱぐれがなかったからだったし、人が減れば
捕まえて来て縄でつないで兵を動かし戦地で銃を持たせた。そうしたならず者集団だっ
た為に、中国の司令官は、ある土地を占領すると、最低一週間は兵士たちの好きなよう
に略奪や強姦をさせた。それは、そうしないと司令官が殺されてしまう危険から行って
いた。南京城入城の祭も多くは愚衆の群れだった。従来の民衆が次々と潜入者を告白し
それらを日本軍が捕まえたと言われる。日中戦争における戦闘は、たいていの場合、日
本軍が攻めると中国軍が撤退し敗走する、という形で進みました。ですから、激戦地を
除けば、中国側が宣伝するほど日本軍に殺された中国兵の死者は多くはありませんでし
た。むしろ中国兵の死者の多くは、中国人が中国人を殺したものでした。中国の軍隊と
いうのは、兵士たちの後ろに「督戦隊」(とくせんたい)がいたのです。督戦隊とは、
後ろで「敵を殺せ、殺せ」と叫びながら兵士たちを戦わせ、逃げる兵士がいると、その
兵士を撃ち殺す中国兵です。つまり正規の中国兵は後ろにいて中国兵を殺したのです。
これはドイツ式の戦闘方法だった。中国史家・黄文雄氏によれば、日中戦争時の死傷者
は、日本軍によって殺された中国兵よりも、そうやって督戦隊に殺された中国兵たちの
ほうが多かったくらいだといいます。また、中国兵は負傷すると、置き去りにされまし
た。ある戦場で、中国兵の一団が塹壕(ざんごう)の中で戦死していました。それを発
見した日本兵たちは、思わず涙を流したといいます。なぜなら彼らの足には、逃亡防止
のための鉄の鎖がつけられていたからです。日本軍と中国軍とでは、質の上でそれほど
の差があったのです。南京大虐殺はそうした中で日本軍でなく日本軍と共にいた中国兵
が自ら決めた処置だったと言われる。つまり志願した彼らは中国語を理解していたし、
行き先々の古老の悲話を聞いていたのである。又正規の日本軍もこの当時南京を落した
後は、他に進軍しているのである。南京に残った中国軍の中の朝鮮人や中国兵は自らに
この民間に潜入を試みた便衣兵がよほど憎かったに違いなかった。と言うのも日本の中
国兵は恐らく志願して多くの教育機関で学習した将校として存在していたからだ。

978: 名無しさんAA:18/07/02 04:43
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  37 >

 昭和12(1937)年12月13日、南京事件が起きたとされる時期である南京城陥落以降
に撮影された写真には多くが笑顔にある。陥落当時には120名をこえる報道陣が南京
に滞在して、外国人記者達を含めて多くが記録を取っている。彼らの多くは戦争が終わ
りほっとしていたのである。何故なら匪賊の蛮行に悩まされていたからだ。1937年
ドイツ軍事顧問を得ていた蒋介石は、国際都市上海にて日本軍をおびき寄せて殲滅する
作戦を立てた。対して暴支膺懲(乱暴な中国をこらしめる)スローガンの下、対決姿勢
をとった。日本陸軍は上海派遣軍を送り、上海において、日中両軍の激しい戦闘が起こ
った(第二次上海事変)。日本海軍は8月より日本海軍機による首都南京への空襲(渡洋
爆撃)を開始し、国際社会より非難された。しかしそれは作られた史実であり真実では
ない。それは既に1931年〔昭和六年〕、日本が満州を侵略した直後、中国政府は、
中国本土にたいする日本の攻撃に備えて、色々なな手を打っていたからだ。ベルサイユ
条約によって日本は権益確保していたのだが、敗戦国ドイツは中国から引かなかった。
ドイツ陸軍を退役した将校たちが、中国陸軍部隊を訓練するために募集されたのである
。同時にそれを了承したのが、アメリカ軍事使節団であった。あくまで日本を退ける為
の工作を開始したのである。こうして中国空軍の再編と拡充のために招かれ、外国依存
の中国空軍強化策を秘密裏に中国国民党は進めていた。ビル・ミッチェル将軍の元参謀
であったジョン・ジュエット大佐を団長とする米航空ミッションは、中国空軍を、日本
の侵略を阻止できるほど強力な部隊に仕立てあげることを、引受け調印した。1932
年から1934年までに、ジュエット大佐と彼についてきた五人のパイロットたちは、
強力な防御部隊にするための基幹部隊を編成した。ジュエット大佐が中国に到着した時
、中国空軍は、全く混沌とした状態であった。飛行場や航空基地が少なく、飛べるよう
な飛行機もほとんどなく、そのうえ、わずかばかりの飛行機をうまく操縦できるパイロ
ットさえ、ろくにいなかった。この状況を建直す仕事に着手した直後、ジュエット大佐
と彼のアシスタントたちは、杭州〔ハンチョウ〕に中国空軍中央訓練学校を設立した。
ここで、ジュエット大佐らは、ヨーロッパやアメリカから中国政府が購入させて、新た
に民間パイロットを母国から寄せた。250機の新しい飛行機を飛ばすために、約35
0人のパイロットを訓練したのだが、いずれも思わしくなかった。それでも国民党軍の
援蒋ルートは確保され続け、共産党軍の飛行場作りは拡大して行ったのである。この時
既に日本軍は石油不足から大きくは動けない状態で戦艦大和などの威圧に頼っていた。


979: 名無しさんAA:18/07/02 14:14
 私には、羽生選手が国民栄誉賞を貰う事に、反対ではない。だが本来 国民栄誉とは
、指導者として部下が偉くなった事で貰うのが筋だ。つまり国家建設に明るい灯をとも
した功績である。未だうら若きものがオリンピック連勝と言う華々しい成果をもつもの
の、その功績を生かした事績はいまだ歩いていない。こんな時にはたして国民栄誉賞が
必要なら、指導者こそ与えられてしかるべきではないだろうか


980: 名無しさんAA:18/07/03 06:02
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  38 >

 ジュエット大佐の米航空ミッションは、短期間にたくさんの仕事をしたが、不幸にも
、日本の圧迫が強くなったことと、中国とアメリカの政策上の食い違いなどがあって、
突然、この仕事を終らせなければならなくなった。この米航空ミッションが1934年
に帰国して後は、イタリアの軍事顧問団が、アメリカのミッションにとってかわった。
蒋介石総統の招きに応えて、ムソリーニは、1935年に、パイロット40人、整備工
および技師100人からなる公式のミッションを、中国に派遣した。こうして彼らは、
洛陽〔ルオヤン〕に飛行学校を、またフィアット飛行機の組立工場を南昌〔ナンチャン
〕に新設した。アメリカの民間人たちは、その後もしばらくは、杭州の訓練学校を運営
し続けたが、彼らも、しだいにイタリア人にとってかわられ、早々に引揚げていった。
イタリア人たちは、中国空軍の生徒を数多く訓練するだけではなく、中国政府の数百万
ドルにのぼる飛行機購入費からも、多くの利益を得ていた。1937年、日本が本格的
に中国侵略を開始した直前には、既にイタリアは、完全に中国空軍を支配していたのだ
。蘆溝橋〔ろこうきょう〕事件がおこる3ヵ月ほど前の1937月、中国政府は、中国
空軍の調査を3ヵ月でやってくれるように、クレア・シェンノートに依頼した。航空戦
至上主義をとなえる理論家のシェンノートは、機康上の理由で米空軍を退役していたが
、蒋介石夫人からの強い要請で、この重要な任務を引受けた。中国空軍強化の面倒をみ
るように蒋介石総統から命じられていた蒋介石夫人は、アメリカ人の友人から、シェン
ノートの彼の理論について耳にしていたので、イタリア軍に訓練されている中国空軍の
戦闘即応能力についての公正な調査を、彼に依頼すべきであるという提案を、すぐさま
受入れたのであった。シェンノートは、1937年5月1日、中国にむけて出発した。
そして、1945年戦争終結のときまで、中国において仕事を続けた――このとき、彼
には想像もつかなかったのだが調査をはじめた。このときは彼は、調査が終りしだい、
アメリカに帰る予定であった。37年5月〜6月にかけて、シェンノートは、中国空軍
の諸施設や訓練所などを点検したが、この期間の調査に基いて、中国空軍が、日本軍の
進攻にたいして中国を効果的に防衛するためには、どうしようもないほど準備不足であ
る、という結論に達し提言した。日華事変以降、蒋介石は日本との徹底抗戦の構えを崩
せなかった、日本の首相近衛文麿も「爾後國民政府ヲ對手トセズ」と声明を出し、和平
の道は閉ざされた。

981: 名無しさんAA:18/07/03 06:03
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  39 >

日本は蒋介石に代わる新たな交渉相手を、汪兆銘に選び和平工作を行っていた。汪兆銘
は日本の軍事力を背景に、北京の革命分子の作った中華民国臨時政府や南京の中華民国
維新政府などを結集し、南京正統政府を立ち上げた。こうして日本が中国で保持してい
た専管租界の返還と、治外法権の撤廃に関する協定を締結し、不平等条約の中核である
「治外法権の撤廃」と「租界の回収」が実現した。ところが連合国側のみ承認は得られ
ず1941年11月の提示されたハル・ノートでは、「蒋介石政権以外のいかなる政府も認め
ない」という形で汪兆銘政権の否認が盛られ、翌12月に日英及び日米間で開戦となった
。この汪兆銘の正統政権として南京政府を立ち上げるが、連合国は逃げ延びた蒋介石の
武漢政府を何故だか離さなかった。それはユダヤコミンテルンの大きな貸付にあった。
元々蒋介石政権はおかしな政権だった。袁世凱が興した北洋軍閥は彼の死後それぞれに
軍閥に移ったがその中に蒋介石はいない。と言うのも袁世凱の思想的支柱は孫文にあっ
た。その孫文は日本に学んでいる。革命を後押しした南方軍閥は最も力を持った集団だ
った。その為、中華民国の設立後、袁世凱の皇帝即位に反旗を翻した。湖南省と広東省
を支配し、陸栄廷は雲南派と共に護国戦争を起こしたが、成立後はすぐに孫と意見が対
立し両広戦争が勃発した。この広西派はその後広東国民政府と共同して、桂軍は第7軍
を改編して蒋介石をたて国民革命軍を作った。第7軍は江南に転戦して大きくなり「鋼
の7軍」や「鉄の4軍」としてそのまま国民党軍になっていた。一番問題だったのは、
中華民国の蒋介石は、ドイツ軍事顧問にゼークトを選んだ事だ。中国国民党政権は、相
次ぐ内戦の中で、ドイツの軍事技術と兵器を求めていた。ゼークトは1920年代から中華
民国側と交渉において接触しており、中国側もゼークトに信頼感を抱いていた。1931年
9月18日の満州事変後、国際連盟が事件の調査団を派遣しようとしていた際にも、ド
イツ代表としてゼークトが候補の一人となったが、蒋介石は強くドイツ代表としてゼー
クトを熱望するほどだった。代わりに蒋介石の個人顧問としてはアレクサンダー・フォ
ン・ファルケンハウゼン、軍事問題の再編担当顧問としてヴィルヘルム・ファウペルを
推薦した。しかし蒋介石は断念せず、ヴェッツェルの倍額の報酬を提示し、非正規の外
交ルートをも使ってでもゼークトの就任を要請した。ここにいたって外務省も2〜3ヶ
月の視察旅行としてのゼークト訪中を許可するに至った。


982: 名無しさんAA:18/07/03 06:03
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  40 >

ゼークトは「狂った大地作戦(殲滅計画)」と「黒い国防軍計画」で知られた人だった
。狂った大地作戦では他民族殲滅作戦を取り黒い国防計画では革命期のロシア(ソビエ
ト連邦)と提携して再武装を行い、条約が禁じる戦車・化学兵器・航空機などの兵器を
ロシア奥地でドイツ人が開発研究する事だった。これはラパッロ条約の締結となって実
を結びドイツに帰ってきたが同時に、その後のロシア侵攻を不可能にしていた。この危
険な思想は蔓延した。陸軍統帥部長官すなわち陸軍総司令官に就任すると。ゼークトは
10万人の陸軍を、エリート化して将来拡大する国民軍の中核とする構想を抱いており
、これがドイツの中のナチスの親衛隊につながった。事実上のピラミッド構造の確保を
目指したのだ。そして「指令はトリクルダウン」と今の経済学の見習う軍隊組織論を、
展開していた。事実上の督戦隊(とくせんたい)の自軍部隊を後方より監視し、戦闘続
行の強制は、軍隊においての最も有効なものだ。と、ドイツ人軍事顧問は思っていた。
しかし驚いた事に、代わりに蒋介石の個人顧問としてアレクサンダー・フォン・ファル
ケンハウゼンや、再編担当顧問としてヴィルヘルム・ファウペルなどを送り出したが、
彼らは訪日したり留学した親日家で、時の政府の要人もまた親日家達であった事だ。も
し、ヴァイマル共和国軍最大の実力者として「国家の中の国家」であるハンス・フォン
・ゼークトを中国に入れなかったら、或いは宋美玲が中華民国の指導者蒋介石の妻でな
かったら、日本軍は中国にてこずらなかったろうしアメリカと戦争する事も無かったろ
う。となるとナチスドイツが勝っていたかも知れない。ところが、チャーリー宋はメソ
ジスト教会の宣教師で、印刷業から財を成した浙江財閥の一人で孫文の支援者で金庫番
だったし、ゼークトも又有能であった。私旅行の軍事顧問で旅行者で蒋介石の信任も厚
く状態を一瞬で把握していた。1927年4月に蒋介石らの右派が反共クーデターを起こし
(上海クーデター)、南京国民政府を樹立して共産党を弾圧した時、汪兆銘の武漢政府
も共産党を弾圧して合流していた。こうして反共方針を明確化(国共分離)・分裂した
かに見えた毛沢東は、江西省瑞金に「中華ソヴィエト共和国臨時政府」を打ち立てて、
包囲されると江西省瑞金の根拠地を逃げて、陝西省北部延安に盗賊、殺人、略奪しなが
ら、共産党思想をまき散らして逃げ延びていた。実は1927年に井崗山を革命根拠地とし
て最初に選んだ毛沢東は、地主・富農を殺して土地・財産を没収して貧しい農民に分配
するという「土地革命」を実施した。実はこの時集会所の床の血を拭いて洗っても赤い
布は赤いまま干された為に、それが紅軍とされ今の中国の赤旗となっている。


983: 名無しさんAA:18/07/03 06:04
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  41 >

毛沢東の紅軍長征は、イナゴのごとく食い散らして進んだ。江西省からスタートして、
貴州省、雲南省、四川省、陜西省、山西省と、中国の奥をぐるっと回って、内モンゴル
のすぐ近くの黄土丘陵地帯を目指している。ソ連からの援助物資を貰う為の飛行場を作
りながら逃避行は行われた。日本が支援した汪兆銘政権(おうちょうめいせいけん)は
1940年から1945年にかけて存在したが、国際社会の承認はその意味で弱かった。つまり
毛沢東政権をソ連が後ろ盾になり、蒋介石政権を米英が後押ししていた中で、この南京
政府の為に南京皇軍が行われ、太平洋戦争を行ったと言っても過言ではなかったのだ。
汪兆銘はマレーシア華僑の子で日本の留学生だった。孫文の来日を機に同年8月中国同
盟会が結成され、汪兆銘は機関紙『民報』の編集スタッフを務め「精衛」という号を用
いて論説を書いた。1906年、法政大学を卒業し官費留学の期限は切れたが、汪はそ
のまま法政大学の専門部へ進み、革命運動を続けた。イギリス領マレーのペナン島の有
力華僑の出であり、のちに汪の妻となる陳璧君も運動に参加していた。孫文の下で、汪
は広東軍政府の最高顧問を務め「革命尚未成功、同志仍須努力(革命なお未だ成功せず
、同志よって須く努力すべし)」との一節がある孫文の遺言を起草した。汪は国民政府
常務委員会主席で軍事主席を兼任し、毛沢東ら共産党メンバーとも同席して政権を担っ
た。しかし、共産ゲリラに耐えかねた蒋介石が中国共産党員らの弾圧を開始し、中山艦
事件により蒋介石との行き違いが生じ、汪は自発的に職責を辞任し、フランスに亡命し
た。蒋介石の召喚に応じ、再度帰国し、「中国国民党の同志、およそ中国共産党理論や
中国国民党の真実の態度を解する人々は、だれも孫総理の連共政策を疑う事はできない
。」と発表し蒋介石の上海クーデターの共産党弾圧に呼応した。蒋介石は共産党の影響
が強い武漢政府から離反したが汪は武漢政府に残った。「反共産」で一致し武漢政府と
南京政府の再統一が図られ武漢政府内にて清党工作を行い、その責任をとって政界引退
をし、再びフランスへ外遊した。しかし蒋は独裁に動き、反発する反蒋派との対立が生
じて汪は反蒋派から出馬を請われ、北京にて国民政府を樹立したが、北京国民政府主席
は戦局から直ぐに瓦解した。汪は国民党から除名処分を受け香港に蟄居していたが南京
国民政府が成立して蒋は汪と共に政府をまとめ上げ汪は関東軍と交渉し実質的に満州国
の存在を黙認する塘沽停戦協定の締結を行った。汪の「一面抵抗、一面交渉」思想で、
「日本と戦うべからず」を前提とした対日政策を進め、結果的に反対派を作った。国民
党六中全会の開会式の記念撮影の時、汪兆銘は狙撃された。汪は3発の弾を受け、弾は
急所を外れていたが、後の骨髄腫の原因となり、汪の命を奪うこととなった。

984: 名無しさんAA:18/07/03 06:05
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  42 >

民国27年(1938年)3月頃から、日中の和平派が水面下での交渉を重ねるようになった
が、この動きはやがて、中国側和平派の中心人物である汪をパートナーに担ぎ出して「
和平」を図ろうとする、いわゆる「汪兆銘工作」に発展していく。10月12日には汪は、
ロイター記者のインタービューに対して日本との和平の可能性を示唆した。さらにその
のち長沙の焦土戦術に対して明確な批判の意を表明したことから、蒋介石は毛沢東との
間が嫌煙になるのを恐れて、汪との対立は決定的なものとなった。今井武夫によれば、
汪は11月16日の汪と蒋との話し合いで、蒋との訣別を決心したと伝えられる。汪政権と
日本軍の両者は「中国側の満州国の承認」「日本軍の2年以内の撤兵」などを内容とす
る「日華協議記録」を署名調印した。そしてその合意の実現のため、汪側は、「汪政権
は重慶を脱出する。日本は和平解決条件を公表し、汪はそれに呼応する形で時局収拾の
声明を発表し、昆明、四川などの日本未占領地域に新政府を樹立する」という計画を策
定し発表した。しかしこれに大反対したのがソ連と米国の連合国だった。12月18日、汪
は計画通り重慶脱出を決行した。12月20日、ハノイに着いて、陳公博、陶希聖、梅思平
らの汪グループも次々と重慶から脱出した。しかし、汪の期待に反して、昆明の竜雲、
四川の潘文華、広東・広西の司令官張発奎将軍などの軍事実力者たちは、汪に同調する
ことはなかった。武器調達をした連合国が反対し手を回したからだ。さらに汪にとって
12月22日、汪の脱出に応えた近衛声明は、汪と日本側の事前密約の柱であった「日本軍
の撤兵」には全く触れておらず、汪グループに強い疑念と失望を持たせる結果となった
。12月29日、汪は通電で広く「和平反共救国」を訴えた。蒋政権はただちに汪を国民党
から永久除名とし、刺客を送った。一方近衛文麿は突然首相を辞任し、汪の構想は完全
に頓挫する。しばらくハノイに滞在する汪に、3月21日、国民党の刺客が汪の家に乱
入し、汪の腹心であった曽仲鳴を射殺した。刺客は汪を狙ったが、たまたま当日は汪と
曽が寝室を取り替えていたため、曽が身代わりに犠牲になったものだった。こうして、
日本側は、ハノイが危険であることを察知し、汪をハノイから脱出させることにした。
影佐禎昭、犬養健らがこの工作に携わり、 4月25日、汪はハノイを離れ5月6日、上海に
到着し、「日本占領地域内での新政府樹立」を承認した。上海で「第六次国民党全国大
会」を開催、自ら党中央執行委員会主席に就任した。こうして日本占領地内の傀儡行政
の長であった王克敏、梁鴻志と協議を行い、 9月21日、中央政務委員の配分を「国民党
(汪派)三分の一、臨時維新両政府(王、梁政府)三分の一、その他三分の一 」とする
ことで合意に達し、彼らと合同して新政府を樹立した。

985: 名無しさんAA:18/07/03 06:06
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  43 >
1944年の戦時中に入ると、狙撃の際に受けた傷が激しく痛み始め、まもなく下半身
不随の重体となった。汪は若い頃から体質的な糖尿病を病んでおり、この糖尿病が傷の
症状をさらに悪化させた。3月3日には渡日して名古屋帝国大学医学部附属病院に入院。
多発性骨髄腫と診断された。汪は身体の激痛に耐えながら闘病生活を続けたが、11月10
日、そのまま名古屋にて客死した。汪は晩年には家族に対して、日本人に本当の友人は
いないと嘆いていたとも伝えられる。遺体を小牧飛行場から飛行機に乗せて送り出す際
には、小磯国昭・重光葵ら当時の政府閣僚、近衛文麿・東条英機ら重臣などが見送りに
訪れた。南京郊外の梅花山に埋葬されたが、墓を暴かれる恐れから、棺はコンクリート
で覆いがされた。終戦後の民国35年には(1946年) 1月15日、国民党第七四軍は、墓の
コンクリートの外壁を爆破、汪の棺を取り出した。遺体はまもなく火葬場で灰にされた
後、野原に捨てられたという。その人望の厚さから、「漢奸」の墓を残すわけにはいか
ない、との考えからだった。新政権は誕生させたものの、結局は汪の意図したような、
「中国人の集結」や「重慶政府との和平」は実現せず、戦争は継続されることとなった
。民国30年(1941年)12月8日から、太平洋戦争が始まったが、汪には事前に 日本の開
戦決意を知らされておらず、「和平」の実現がますます遠のいたことに衝撃を受けた。
という話が伝わっている。しかし汪は、日本の国力では英米に対抗できないとの判断か
ら開戦には反対していたが、結局は開戦するだろうと見ていた。朝鮮や台湾政府と同じ
に、汪兆銘政府も参戦することになり、民国32年(1943年)1月には、英米に対し宣戦
布告をするに至った。同11月には東京で開かれた大東亜会議に、汪は南京国民政府代表
として出席した。他のアジア諸国の首脳とともに大東亜共栄圏の中の賛意を発表した。
島本真によると同時に中華民国滑空士指導者講習会も行ったという。しかし、ポツダム
宣言受諾が公表された翌日には、米軍指導で1945年 8月16日に解散された形になった。
大東亜会議(だいとうあかいぎ、旧字体: 大東亞會議)は、1943年(昭和18年)11月
にアジア地域の首脳会議として東京で開催された。同年5月31日に御前会議で決定さ
れた大東亜政略指導大綱に基づき開催されたが、これがもう少し早い時期に開催されて
いれば日米開戦の反対の声も大きかったであろう。当時の日本の同盟国や、旧宗主国を
放逐したことにより独立したとされたアジア諸国の国政最高責任者を招請して行われた
。そこでは、大東亜共栄圏の綱領ともいうべき大東亜共同宣言が採択された。その当時
日本は第2回目の大東亜会議を開催する計画を持っていたが、戦局の悪化に伴って開催
困難となり、昭和20年(1945年)5月には代替として駐日特命全権大使や駐日代表によ
る「大使会議」が開催された。しかし、それは結局は連合国会議の対抗とみられた。

986: 名無しさんAA:18/07/03 06:06
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  44 >
「中国空軍は、イタリア軍の指導によって、数量的にはめざましく成長したが、シェン
ノートが見た通り、空軍将兵の質と使用中の機材には、改善の余地がかなりあったし、
イタリア人運営の洛陽飛行学校については、特に批判的であった。この学校は、飛行機
を正しく操縦することができるできないにかかわらず、入校生徒全員を卒業させていた
のだった。この学校の入校生徒のほとんどが、国民党を支持する金持ちの家庭の出身で
あり、上流社会を形成して、賄賂によって入校生徒を“みそもくそも”一緒に卒業させ
ていた。このイタリア人のやり方は、蒋介石をよろこばせた。総統は、多くの中国空軍
将兵たちが、どんなに貧弱な訓練をうけていたかに気づかず、卒業生たちは皆、有能な
パイロットであると思いこんでいた。日本軍の侵略が開始された直後に中国空軍の行動
の異常さは、洛陽飛行学校卒業生の無能ぶりと訓練の欠陥を、痛ましいほど暴露した。
日本軍が、1937年7月の蘆溝橋事件を、中国侵略の口実としていろいろ工作してい
た時は、シェンノートは、中国空軍に関する報告を作成中であった。日本軍攻勢は迅速
で、しかも決定的であった。ある地域においては、中国軍の英雄的抗戦にもかかわらず
、日本軍は、中国沿岸部の都市を次々に占領し、中国政府が西方に退くにつれて揚子江
に沿って、どんどん西進していった。日中戦争開始の当初は、両軍間の空中戦はあまり
みられなかった。中国空軍には、揚子江にそって西進する日本軍の進撃を鈍らせる能力
が無いばかりでなく、日本軍の空からの攻撃にたいして、国土を防衛する力の全くない
事が、はっきりと知れた。戦争勃発当初、中国は約500機の飛行機をもっていたが、
そのうち飛行可能なのは91機で、パイロットも、空中戦適格者はほんの僅かに過ぎず
太刀打ち出来なかった。戦争の始めの数年間、中国は基地または航空母艦から飛びたつ
日本軍パイロットたちの訓練場として使われた。」と回顧している。しかしそれは、全
く違って、日本軍はそう簡単に飛ばせなかった。日本の社会主義政党で「社会民主党」
の設立に関わった K・カール・カワカミ(日本名河上清)は、1873年生まれのジャー
ナリストだが、彼は上海空爆他色々な自国民に空爆を中国空軍は行ったて成功した事を
記述している。「カール」の名は「カール・マルクス」からとった事で社会主義シンパ
とされ、渡米中のアジア専門のジャーナリストとして、日本への国際的非難が集中した
「対中国二十一か条要求」「満州事変」問題などで日本側の支持に回ったことなどから
、米国では日本帝国主義のシンパ。と批判され、太平洋戦争中には、「日本は負けなけ
ればならない」と主張するので米国シンパと見られた。さらに戦後は再び立場を転じて
「革新」の側にシンパシィを示し、帰国後49年には、自署の印税の中から10万円を
日本社会党に寄付し、社会党幹部に対して、「非武装中立」政策を提言してている。

987: 名無しさんAA:18/07/03 06:07
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  45 >
 日本は自分から攻撃に出るのを厳しく抑えているのに、中国では国際租界を自分自身
で攻撃することによって日本に対する国際干渉を引き起こそうと目論んでいた、という
のは実際、ニューヨークタイムズの特派員が八月二七日付で報じたように、黄浦江上の
アメリカ、イギリス、フランスの戦艦に精密機器を携えて乗船していた外国の陸海軍の
観察者たちは次のように証言している。「日本軍は上海の避難区域の上空に爆撃機を飛
ばせたりはしない。という自らの誓いを固く守っているのに対し、中国軍はそのような
誓いを打破して波風を立てるのを目論んでいる」と。つまり防空権に日本が無力な事は
、日本軍野蛮説の公布の大きく前進し、国際的支援も国際的批判も中国国民にとっては
良い事だ。と上層部は判断したのだ。
八月一四日:中国軍の爆撃機が国際租界のパレスホテル及びキャセイホテルの近くに爆
      弾を投下した。この付近は極東で最も有名な簡易宿泊街であり、百名以上
      が死んだ。
八月一六日:中国軍は別の爆弾を租界の大通りに落とし、数名の外国人と中国人を死亡
      させた。
八月二三日:中国軍の飛行機は再び国際租界を爆撃したが、この時は上海で最大の中国
      人の商業施設であるシンシアー及びウイン.オンデパートを直撃し、二百
      人以上を死亡させその他に二百人を負傷させた。ニューヨークタイムズの
      二人の特派員がこの負傷者の中に入っていた。
八月三〇日:中国軍爆撃機の飛行大隊がアメリカの大型定期船プレジデント・フーバー
      号を攻撃し、五人の水夫と二人の乗客を負傷させ、その中の一人が数日後
      亡くなった。
このような中国軍の爆撃の及ぼす影響があまりにも深刻であったので、ニューヨークタ
イムズの上海特派員が八月二七日付で次のような声明を発した程であった。「中国軍が
無責任な空爆を行って上海の国際租界とフランス特権区域の無力な民間人を殺すのを防
ぐための、武力手段あるいは他の抑制措置をとることに、外国の領事館員及び陸海軍の
軍人が合意するならば、何らかの国際的措置をとることを決議しなければならない。」
八月十四日敵の爆撃機来る。この日の上海は夜来暴風雨に襲はれた。その中でこの日、
海陸空にわたる激しい戦闘が行はれた。午前二時といふのに敵の攻撃は始まつたのであ
る。と記されている。つまり全くの奇襲攻撃を自国民に何回もしている事が記録で解る
。日中戦争が華北から華中へ飛び火した1937年昭和一二年八月第二次上海事変時の
事だった。

988: 名無しさんAA:18/07/03 06:11
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  46 >

かくて壮烈な地上戦が展開されてゐるさ中に、突如敵の空襲ははじまつたのである。午
前九時五十分支那の爆撃機は一機我が陸戦隊本部上空に飛来して爆弾を投下しはじめた
のでわが陸戦隊は高射砲をもつて応射した。同時刻、爆撃機四機はわが軍艦に爆弾二個
、また商業学校地区、楊樹浦紡績工場地帯、英人経営ジャーデン・マジソン会社上海埠
頭に命中、倉庫粉砕、多数の死傷者を出し、逓信省ケーブル修理船沖縄丸にも爆弾を投
下し、死傷四名を出した。敵機の爆撃開始と共に、支那人群集は雪崩を打って租界商業
中心区(旧イギリス租界)方面に逃込み、同地一帯は混乱不安の極に達するに至つたの
で、江岸通一帯の外国銀行業者は一斉に門戸を閉し、完全に営業を休止するに至つた。
又江岸通南京路方面の電車、バスは車掌、運転手が逃げ出したため、道路上にそのまま
立往生となつて居り、電線は所々で切断され、名状すべからざる混乱に陥つた。烈風を
衝(つ)いて上海上空を飛行中だつた支那飛行機(アメリカより購入のマーチン爆撃機
およびノースロップ爆撃機)は、十四日午後四時半八機編隊をもつて上海上空に来襲、
猛烈なる爆撃を開始した。しかも血迷へる敵機は照準を定めず高層建築とみればところ
きらはず爆弾を投下したため、上海全市は全く敵機の蹂躙下に陥り、大混乱をきはめ、
なかでも共同租界、フランス租界の外人たちはホテルを空襲されたため 色を失ひ、右
往左往し、阿鼻叫喚の巷と化し去つた。無謀言語に絶した空爆の洗礼は支那人、外人問
はず死者の山を築くに至つた。(P194)午後四時半にはバンド北京路に落ち、支那避難民
多数を傷け、西京路に落ちたものはカセイ・ホテル玄関前に命中し、死傷者外人に多く
数百名、東洋一といはれる数多のツーリストを呑吐したホテルのロビイは凄惨な血の海
と化し、パレス・ホテルは屋根から地階まで滅茶々々に破壊され、外人八名惨死した。
同四十五分には歓楽街大世界に落下支那人二百名死傷、その他浦東アジア石油のタンク
に命中し、米艦オーガスタ附近にも落下し、又租界も多大の被害を蒙つたため、英米仏
各国の激怒を買つた。しかし不思議にも紙面は違った。
(A)支那紙:十四日の不測の惨事を惹起したるは、日本の高射砲が、支那爆撃機の爆
弾保持機を破壊せる為めなり(上海英字紙南京ロイテル電報)つまり事故としたのだ。
(B)米国紙:十四、共同租界空爆は日本側の射撃により、機体の自由を失ひたる結果
余儀なくせられたるものにして、右は蒋介石の命令に基くものに非す (十六日、A・P
電報、蒋介石夫人より「シオドル・ルーズヴェルト」夫人宛弁明電報)


989: 名無しさんAA:18/07/03 06:12
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  47 >

第三艦隊司令部声明:二十三日南京路、先施、永安公司に投下された爆弾につき第三艦
隊司令部は次の談話を発表した
一、二十三日南京路に投下されたる爆弾につきて工部局本部において当隊司令部附爆弾
  専門家の鑑定せる所によれば本品は弾径四〇乃至四五インチ、弾長一メートルの厚
  壁の球式鉄鋼タイプの爆弾にして後部には軽合金を使用しあり、白色の炸薬を填充
  しある二百五十キロ程度のものと想像され、 弾筒及び弾の後半部に信管その儘等、
  現存し本爆弾は炸裂しあらざるもその破損状況より見て高度より投下せられたるも
  のと鑑定される
一、爆弾形式 弾底背の文字及び塗色等よりして全然帝国のものにあらざることを確信
  す
「上海の国際租界及びフランス特権区域に居住する無力な一般市民を、中国軍が無責任
に空爆したり殺害したりするのを防ぐために、武力手段または他の抑止策をとることに
ついて何らかの国際的な合意が必要であるということは、上海在住の外国の領事館員や
陸海軍スタッフたちの一致した見解となっている。」
 「中国の検閲官は、発信された外電やラジオ通信から前述の事実や意見を削除した。
そして場合によっては 外電のニュースそのものを変えてしまいさえもした。その目的
は、現地の外国人たちがあたかも心の中で、この爆弾は恐らく日本軍の飛行機から投下
されたものかも知れない、と疑っているかのように見せかけるためだったのである。だ
がしかしこれは明らかに真実ではない」
(C)「中国軍は、この爆弾は日本軍の飛行機から投下されたものである、と宣言する
ことによって責任を拒否した。しかしながら今や、これらの爆弾は両方ともが、中国が
イタリアから購入したイタリア製のものであることが判明している。この判明した事実
について、アメリカとイギリスの現地の海軍調査官の意見は一致している。そして、イ
タリア当局もこの爆弾が自国製であることを認めている。これは決定的な証拠であるよ
うに思える。何故ならばイタリアは、日本がイタリアからそのような軍需物資を購入し
たことは一度もない、と証言しているからだ。」(九月六日付香港発信のニューヨーク
タイムス特電)


990: 名無しさんAA:18/07/03 06:16
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  48 >

 今次の上海に於ける日支衝突により、外国人の生命財産は危険に瀕し、各国領事は、
日本軍艦の黄浦碇泊は支那側の砲撃不正確なる為、附近の外国船其他に脅威を与へ、日
本が作為的に起せる北支事変の不同情的傍観者たる、西洋諸国は大影響を受けつつあり
。若し、在留民の保護か目的なりとき、日本側の主張か真実ならは、日本海軍は他に有
効なる方法ありしに拘らす、虹口に不充分なる兵を上陸せしめ、支那軍の砲火を租界に
集中せしめんは奇怪なり。窮極の責任は勿論日本に在り。然れとも大軍を上海に接近せ
しめ日本海軍に虹口を根拠とする口実を与へしことは不可解なり。(十四日、紐育ヘラ
ルド・トリビューン」論説)
一、支那側は前後三回に亘り日本軍艦を空襲せるも、目的を達せす、却て共同租界内の
  外支人に五百の死者九百の負傷者を出し右死者中に数名の英人を含む
二、海軍省十四日発表に依れは支那飛行機は在呉淞支那艦隊旗艦「カンバーランド」号
  を爆撃せるも命中せす 右は日本軍艦と誤認せられたるものならし
三、西蔵路と「アベニュー・エドワード七世」との交叉点に投下せられたる支那爆弾は
  死者四五六傷者八二九(仏租界警察調)を生せるか右地点は、程近い日本軍艦より
  の距離 実に一里半 
四、上海市長は出雲の近傍にある英軍艦の即時撤退を求めたり
五、日本機は支那機一機を射落せり。尚工部局は支那側爆撃に鑑み出雲の移動慫慂方を
  決定又英艦デネー艦隊は右同様の「サジエスシヨン」為せるも日本司令官拒否せり
六、英米仏は支那側に共同租界爆撃方抗議せり
ーーーーーーーーーーーーー(十五日英国ルーター及B・U・P・電)‐‐‐‐‐‐又仏国紙では
一、両軍の飛行機か交戦中のことで何れのものか見分け難い(上海アヴアス電報)
三、支那空軍の上海共同租界爆撃は支那軍指揮官の報告通り、爆弾投下装置の破損に依
  るか、夫れとも支那飛行士の過失に依るか判らぬか後者か尤もらしい(十五日上海
   アヴアス電報)
四、支那飛行機か再ひ租界上空を飛行した場合は直ちに発砲せよ、(同上、各国指揮官
  の命令)

991: 名無しさんAA:18/07/03 06:17
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  49 >
そんな訳で日本軍は、戦争開始第一週に、中国の制空権を完全に握り、日本軍のパイロ
ットたちは、中国を空中実験場として、貴重な戦闘経験を積んだようなものだったと言
うのは全く違っていて、中国軍に対抗のみで高射砲の注ぐ中を爆撃したのは中国軍だっ
た。「結果、パールハーバー〔真珠湾〕攻撃のときまでに、日本軍パイロットたちは、
世界中でいちばん戦闘経験を積んだ者となっており、ドイツやイタリアの枢軸軍パイロ
ットをはるかにしのいでいた。中国空軍が、日本軍の攻撃にたいして、国土防衛能力の
ないことが明らかになると、多くの中国要人は、国土を防衛するため、国際航空志願兵
部隊を編成すべきであると提案した。これは、新しい考えではなかった。かつて日本軍
が満州を侵略したあとの1930年に、蒋介石の義弟であり、国民党の重要人物であっ
た群が、この案を提出したことがあった。ところが、この群の提案は、当時、米航空の
ミッションの団長であったジュエット大佐の「このような計画は、中国空軍の拡張を阻
害するだろう」という意見に従って、蒋介石がにぎりつぶしてしまったのである。しか
し、1937年の九月には、情勢は日本との条約の拘束により、イタリア軍の顧問団は
、中国を引き払って、前述空襲後に上海〔シャンハイ〕戦の後は、わずかに12機だけ
が作戦飛行機として残っているだけで、中国空軍は、日本軍にたいしてほとんど抵抗で
きない状態だった。そこで、国土防衛のための国際飛行中隊が、大急ぎで編成される事
になった。この時イタリアは2つの事で離れた。まず自分達の飛行機の整備士や味方の
市民が居住している所を、戦争でもなく、平和な時にとつぜん空襲している状態が全く
理解出来なかった事だ。事前連絡もなく、更にその予兆もなく この空爆は蒋介石政権
は行っていた。二つ目は国際批判である。この飛行機が写真に写っていたにも関わらず
、数回の空爆を行う間も中国軍は日本軍の飛行機がやった事と通していた。「十四日午
後四時少し過ぎ、私が「同盟」支社にいると、空軍の編隊が上手から黄浦江上空に進ん
で来て、旗艦「出雲」の高射砲や機関銃が反撃しているようだと、記者の一人が急いで
駈けよって、知らせてくれた。すぐ窓側に行き、黄浦江の上空を眺めると、マルチン爆
撃機の五機編隊で、「出雲」めがけて進んでいるではないか。私の肉眼で、編隊の高度
はだいたい六、七百メートルとみた。「出雲」その他の高射砲がパーン、パパーンと鳴
り響いている。ふと見ると、五機のうち一機の急所に高射砲の弾が命中した。その一機
が隊伍を乱すかと見ると、中国空軍の射手らしいものが、真っ逆さまに降って黄浦江に
沈む。すると、編隊は「出雲」の方向からやや左旋回し始めたと思うと、一つ、二つ、
三つと大型の爆弾を落しつつ、 租界上空を通って飛び去った。」つまり飛行機同士よ
り高射砲で撃墜されていた。こうして撃ち落とされて直ぐに中国軍と判明したのだ。

992: 名無しさんAA:18/07/03 06:27
この部隊はたった15機だった。そして前線に12試艦戦が送られた直後の7月末、この試作
機は「零式艦上戦闘機」として制式化された。ただ、配備されたからといって、すぐに
戦闘に参加できるわけではなかった。実戦機として採用するには、無線機、兵装、又は
機体細部に改修を施さなければならない。漢口に着いてからは連日のように実験飛行が
行われ、Gがかかると脚が出てしまうトラブルや、急に20mm機銃が出なくなったり、空
中戦の最中にシリンダーの温度が上がりエンジンが焼き付くおそれがあったりと、改修
すべき点が数々浮上してきた。技術陣は、零戦のこれらのトラブルを解決していった。
さらにそれをチェックするためと操縦技術向上のための訓練をしなければならない。こ
うして訓練に明け暮れ、一向に出撃しない横山大尉に、艦隊の司令官は「命が惜しいの
か。」とまで言われ怒鳴られた。だがテストを繰り返しついに8月19日になって零戦
12機が96式陸攻54機とともに出撃した。中国軍も新鋭戦闘機の情報を察している
のか、この日の巡回に重慶には敵の戦闘機の姿は見えなかった。零戦の初陣は空振りだ
った。2度目の出撃は翌日の20日だったが、またもや敵戦闘機の姿は見えず、無駄に
終わった。3度目の出撃で、零戦隊が重慶を去って20分後に中国軍機が重慶に戻ってく
るのを偵察機が発見した。そして4度目の出撃となる9月13日に、新藤大尉が率いた
13機の零戦は重慶爆撃を終えいったん帰途についたが50kmほど行ったところで重慶に
再突入。そこに安心して上空に上がっていた中国軍機を発見。初の空中戦となった。敵
機はソ連製の旧式戦闘機ポリカルポフ「イ−15」「イ−16」計27機。たちまち交戦に入
り30分で全機撃墜。零戦隊は被弾4機で損害ゼロという、すばらしい戦果を上げた。
20mm機銃の威力はすさまじく、最初の命中弾で敵機の主翼付け根に大穴をあけ、続く
命中弾で機体が吹き飛び墜落していった。これを機に日本軍は重慶から成都の制空権を
確保、12空零戦隊は目覚ましい活躍を見せ、増漕装備時には3500kmに及ぶ長い航続距
離を持ち これを生かし、遠くゴビ砂漠、ヒマラヤを望む大陸奥地にまで進出した。こ
うして、一方的に勝利をおさめ、再び大陸の制空権を掌握することになった。しかし、
この初陣からの神話的良さは不幸であった。大東亜戦争開戦前までの中国戦線における
零戦の戦果は、初陣から撃墜270機。さらに昭和16年に入ると中国軍は零戦にかなわ
ないことを悟り、戦闘機を飛ばさなくなってしまう程になり。おかげで零戦隊は出撃し
ても敵機を発見できないまま帰還することが多くなり、米国に新たな飛行機を創造させ
た。全体でも中国戦線における零戦の被害は地上砲火による2機のみという圧倒的なも
のであり、むろん空中戦による被害はゼロ。ここに「無敵零戦」の神話はスタートする
のであった。

993: 名無しさんAA:18/07/03 06:28
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  52 >
 この零戦隊の活躍を知ったシェンノートは、その高い空戦能力、長い航続距離に驚き
、ただちにイギリスやオーストラリア、アメリカ本国に零戦に関する情報を送った。し
かも、零戦は米英の戦闘機と遜色がないどころか時には圧倒されることもある。と素直
な警告まで発している。アメリカはこの警告を信じなかった。日本は、近年まで欧米の
模倣でしか戦闘機が作れず、そのような高性能な戦闘機など作れるはずがないとタカを
くくっていたのである。当時のアメリカの情報では、日本の空軍力は日華事変では中国
軍にも劣り、パイロットの数も年間1000人以下しか育成できないため、大規模な作戦は
できないということで、空軍を送れば日本軍は大陸から出て行くと言われていた。第2
次世界大戦直前の戦力分析でも、日本には空母が4隻しかなく、艦載機も200機程度
しかないという誤った見方をしていた。実際は正規空母が6隻、小型空母3隻、艦載機
は零戦だけで590機あった。しかしこの後、中国在住の米陸軍武官補も、零戦に関す
る機密文書を日米開戦前に盛んに本国に送っている。が、注意は去れず無視されている
。シェンノートに至ってはその報告は、錯覚かあるいは中国軍パイロットの未熟さをご
まかすためのねつ造だと決めつけられた。日本を航空後進国と見下すアメリカの先入観
は根強くあった。しかし、その先入観は下の将校までで、大東亜戦争開戦初頭における
真珠湾奇襲、フィリピン・クラークフィールド基地空襲での大損害の頃は、ち密にひた
隠しして日本分析と兵力分析の為の暗号電文の解読を行っていた。中国戦線、大東亜戦
争開戦初頭において活躍した零戦11型。熟練搭乗員との組み合わせによって無敵の強
さを見せた。その後零戦は12空零戦隊の運用結果をもとに11型以降、細部にわたる
さらなる改修を進めていくことになる。その後中国空軍用として飛行機400機がソ連
からおくられたが、見送られて漢口基地から出撃する第12航空隊の零戦11型には、
敵では無かった。中国戦線で零戦の相手になった戦闘機はほとんどがソ連製I-16、I-15
、I-153であり、これらは2級戦闘機と言われ、当然の ごとく零戦の敵ではなかった。
当時の日本海軍が、主力戦闘機を代替わりさせるサイクルは3年であった。世界全体で
も平時では4年、戦時では2年で次期主力戦闘機が開発される、そうした日進月歩の時
代だったが日本は出来なかった。敵地に侵攻して制空権を確保する「制空戦闘機」を、
甲戦と呼ぶ戦闘機戦で勝つことが要求される。対して侵入し敵爆撃機を撃墜する14試
局地戦闘機「雷電」や局地戦闘機「紫電改」などは乙戦と呼んだ。乙戦というのは迎撃
戦闘機のことを指す。零戦の正統な後継機が17試艦上戦闘機「烈風」なのは言うまでも
ない。烈風は、零戦が制式採用された昭和15年末に「16試艦上戦闘機」として海軍か
ら三菱に開発が内示された。

994: 名無しさんAA:18/07/03 06:29
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  53 >

 しかし、雷電の開発さえも零戦の改造に技術者が取られて思うように進まず、1号機
の完成は昭和17年2月と言う遅さであった。しかも振動などのトラブルが解決せず、
雷電11型として正式採用になったのは昭和19年1月だった。この間雷電は堀越技師
は休養し、高橋己治郎技師が設計主務者を務めたこともある程忙しかったのだ。烈風の
性能要求は堀越技師の予想をはるかに超えており、最高速度は 零戦21型を100km/h以上
上回る639km/h。空戦性能を重視するため翼面荷重130ku。加えて、零戦21型以上の
航続距離と全備重量で200kgを越す20mm、13mm機銃の搭載を要求された。しかも 上昇能
力は6000mまで6分以下。防弾装備もつけるなど、要するに零戦の登場で欲の出た海軍が
全てに零戦を超える性能を要求したのだ。烈風開発の着手は開戦後の昭和17年4月に
ずれこんだ。エンジンの候補は2種類あった。サイズが小さく公称出力1860hp(離昇出
力2000hp)の中島製「誉21型」(ハ−45)エンジンと、少し大きいが公称出力1900hp
(離昇出力2200hp)の三菱製「MK9A」(ハ−43)堀越技師は実用化できるまで3年
後を予想して米英戦闘機に対抗すべく、厳しい性能要求に応えられる自社製2200馬力級
エンジンのハ−43の搭載を考えていたが、エンジンの種類が増えることにより生産効率
が落ちることを恐れた海軍は、出力の劣る中島製ハ−45エンジンを強要した。もちろん
発注側の意向には逆らえず、昭和19年4月に烈風の試作1号機「試製烈風」が完成した。
しかし、これは大きなお世話だった。全長11m、全幅14mという99式艦爆なみに大きな機
体で、全備重量が零戦より2トンも重い4.4トンでは、この低出力エンジンでは明らかに
馬力不足を産んだ。最高時速は550km/h程度、高度6000mまで10分近くもかかり、零戦52
型にすら及ばないというさんさんたる結果となった。当然実戦機として使える代物では
全くなかった。戦況の悪化もあったために、海軍は開発に見切りをつけて、19年8月
にはこの開発中止と紫電改の生産を三菱に命じた。こうした屈辱的命令にも挫折する事
なく、自分の設計に自信を持っていた堀越はあきらめなかった。その為三菱の設計チー
ムは許可を得て独自で2200hpの「ハ−43」エンジンに換装した烈風を作り続け、昭和19
年10月にはハ−43に換装してテスト飛行を行った。その結果、同一機種とは思えないほ
どの性能の向上を見せた。最高速度は70km/hも速い628km/h。高度6000mまでの上昇時間
6分7秒と、海軍側の要求をほぼ満たす機体となった。しかも重量はハ−45搭載型から、
自重で100kg、全備で300kg増加したにもかかわらずである。

995: 名無しさんAA:18/07/03 06:29
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  54 >

 すると海軍側は態度を一変した。昭和20年6月に「烈風11型」として制式採用され
た。だが開発の遅れは致命的だった。既に時遅しであった。よく言われるのは航空本部
のエンジン選定ミスだが、ハ−43が試運転で予定出力に達したのは昭和18年秋になっ
てからであり、また敗戦時までこのエンジンを搭載した日本軍量産機は陸海軍を通じて
ゼロだった。しかも昭和119年12月に起こった東南海大地震は 「カミカゼ」どころ
か完全な「バチカブリ人柱」の地震だった。更に戦局の悪化による三菱の主力工場のあ
る名古屋爆撃が大打撃となってしまい、烈風はわずか試作機8機のみ完成という、実戦
参加から遥か遠い状態で終戦を迎えた。「烈風(れっぷう)は、日本海軍の艦上戦闘機
。設計生産は三菱航空機。略符号はA7M。連合国のコードネームは「Sam」。1943年8
月以前の試作名は「十七試艦上戦闘機」。零式艦上戦闘機の後継機として試作されて、
試作機8機が完成し、制式後の量産機は未完成のまま終戦を迎えた。」と説明される。
三菱が実践機を設計する中で、日本軍による初のアメリカ本土空襲が想定するに至り、
中島飛行機の創始者である中島知久平に「必勝防空計画」がもたらされた。アメリカの
本土空襲後にそのままヨーロッパまで飛行し、ドイツまたはその占領地に着陸すること
求められる大型長距離戦略爆撃機である。「Z飛行機計画」である、これがのちの富嶽
の試作機だった。 1942年8月15日、大本営陸軍部は各部局に「世界戦争完遂ノ為ノ決戦
兵器ノ考案」を要望した。その中に陸軍省に「超遠距離飛行機」「特殊気球(フ号装置
)ノ能力増大」という項目が取り上げられたのだ。日本を飛び立ち太平洋を横断してア
メリカ本土を爆撃、そのまま大西洋を横断してドイツで補給を受け、再び逆のコースで
アメリカを再攻撃しながら戻ってくるか、またはソ連を爆撃しつつ世界を一周すると言
う壮大な計画であった。全長45m(ボーイングB-29の1.5倍)、全幅65m(B-29の1.5倍)
、爆弾搭載量20トン(B-29の2.2倍)、航続距離は19,400km(B-29の3倍)、6発エンジ
ンを目指した。こうして中島飛行機が設計にかかり、軍部の説得に取り掛かった。陸海
軍共同計画委員会で承認され、これに軍需省も加わり開発体制が出来た。しかし陸海軍
の要求性能が異なり調整に時間を費やし、軍需省は独自に川西航空機に設計案を作らせ
た。陸海軍にはや他社も中島内部にも反対論が存在し、開発体制に問題があった。第一
次案では54×6基であったが、空冷四重星型の新形式の開発に手間取り、応急案に ハ44
やハ50の二重星型エンジン6基装備で暫定的に計画を進め爆弾搭載量も20tから15tに減
らし進んだ。しかしこの空前のスケールの機体もサイパン陥落により、「この戦争に間
に合わない」と判断された富嶽開発は中止となった。

996: 名無しさんAA:18/07/03 06:30
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  55 >

大川工業高等学校は、高校の男女分離から男子の木工者養成として分離独立高校となっ
た。ここでは科学技術も磨かれ、尿素系接着剤も開発された。三菱の帝国海軍が佐世保
や長崎造船所など権勢を誇っていたが、ある企業の委託を受けて、ここの高校生が作っ
た翼を付けた飛行機が飛ばされた。今の筑後川の堤の河川敷で飛んだ時は喜びであった
。その飛行機は明星と呼ばれた。軍を通じ、高校に土地を提供した石井氏の紹介だった
。明星(みょうじょう)は、大日本帝国海軍(以下、海軍)の航空技術廠(以下、空技
廠)が試作した木製爆撃機。型式名D3Y1−K。その時の宮部青年はその後、この高
校で教鞭を取って熱く語った。木製双発高速機「デ・ハビランド モスキート」の活躍
に刺激を受けた海軍が、習作として九九式艦上爆撃機の木製化を企図し、空技廠でほぼ
全面的に改設計したもの。松下飛行機株式会社の松下幸之助が軍の要請で設立した木製
機専用工場で太平洋戦争末期に4機が完成し、試験中に終戦を迎えた。幻の飛行機と呼
ばれた。空技廠が旧態化著しい九九式艦上爆撃機を基にした爆撃機の木製化に着手し、
原型機をそのまま木製化することは不可能だったため、強度の確保と工作性の向上を主
眼に大幅に改造設計された。主翼と尾翼は楕円テーパー翼から直線テーパー翼に改めら
れ、面積が縮小された。また胴体が約1.3m延長され、併せて風防も延伸された。この他
細部の構造・形状も、木製化に合わせて単純化されていたが、エンジンやプロペラは原
型機を踏襲した。本機は松・ヒノキ材をボルト留めした骨格に バルサ積層材の表皮を
尿素樹脂で貼り付け、旧来の羽布張りも多用された。モスキートに多用されたエポキシ
樹脂は、当時の日本では工業化以前の段階だったため、接着剤の強度調整には、きな粉
が用いられた。治工具類は空技廠で準備し、組立は木造船の量産で実績のあった松下造
船に委託され、同社社長で幸之助の義弟・井植歳男(三洋電機を創業)は1943年10月、
盾津飛行場そば大阪府住道に専用工場(松下飛行機)を新設した。1944年春より実機製
作に着手したが、松下飛行機は家電等の木工部品については実績を持っていたものの、
航空機に求められる絶対的な高品質と信頼性に対する認識・経験・人材が不足し、翼を
ここに委託したものだった。1910年に初めてモータージェットを搭載した航空機がルー
マニアでコアンダ=1910が作られた。その後モータージェット推進の航空機として最も
著名なのは1940年に初飛行したイタリアのカプロニ・カンピニN.1であった。当時のフ
ァシスト政権により「世界で最初に飛んだジェット機」と宣伝された。実際にはその一
年前にHe 178が初飛行に成功していた。このジェットエンジンの設計図を中島飛行機は
見れると思っていたが期待に反して、イタリアもドイツも手放す事をしなかった。

997: 名無しさんAA:18/07/04 02:56
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  56 >

 中国の航空兵や士官候補生達に、機材の使用法を教育するため、いくつかの飛行学校
や砲兵学校も設立された。これらの学校の卒業生達は、直ぐに中国空軍のもっとも有能
な将兵になって行った。従って、戦争中、中国空軍の指導者は、ほとんどがソ連空軍に
訓練された人たちであった。それでも、中国でのソ連部隊による航空防御にも、限度が
あった。というのは、彼らの操作や作戦はすぐれていたが、数的には、日本軍よりはる
かに劣勢であった。日本軍は、華北地区にあるソ連軍を“打つ手なし”の状況に追い込
んだうえ、四川〔スーチョワン〕省や雲南〔ユンナン〕省内にある中国の、各種施設を
攻撃するために、新しい部隊を追加派遣していた。1939年1月、日本軍は中国の南
西部にたいする大々的な航空攻撃を行い、中国の戦時首都であった重慶〔チュンチン〕
に、はじめての航空攻撃を開始した。この攻撃は、中国国民党との軍事的“ゆきづまり
”を打開して、彼らに降伏をおしつけるために、一ヵ月にわたって、弱まることなく続
けられた。中国では、この攻撃にたいする適切な防御手段をもっていなかったし日本軍
機に、思いのままに爆撃させる結果だったが、中国空軍は隠れた飛行場が日本軍の攻撃
目標となる防御はできて 残っていた。国際飛行中隊や、その残留部隊は無能であり、
ソ連部隊は華北に隠れて飛ばないでいた。要するに、戦況は緊迫していた。この状況に
即応するため、アメリカ志願兵部隊の必要性が認識され、ついに部隊が編成されること
になった。重慶〔チュンチン〕にたいして、日本空軍の情容赦ない攻撃がつづいたので
、当時中国空軍大佐だったシェンノートと中国空軍作戦部長の毛邦初少将は、1940
年〔昭和十五年〕九月、蒋介石総統に重慶までよびつけられた。蒋介石は、シェンノー
トと毛邦初にたいし、アメリカ製飛行機の購入と、アメリカ人パイロットの雇い入れの
為、特使としてアメリカにいくことを、要請した。最新型飛行機の購入については楽観
的であったが、志願兵部隊の能力については、国際飛行中隊の経験から、疑わしい点が
ないではなかった。だが、毛邦初とシェンノートの二人は、その任務を引受けて、直ち
にアメリカにむけて出発した。しかしこれは実は本来国際法違反の最たるものであった
。ベルサユ条約他で中国への兵器売りつけは禁じていたからだ。しかし米国のユダヤの
金融家は喜んで勧めた。1940年11月、アメリカに到着するとすぐ、11月25日
には、毛邦初とシェンノートの二人は、蒋介石の申入れを大統領連絡委員会に提出した
。この委員会は、合衆国内における外国の武器購入を調整している民間機関であった。



998: 名無しさんAA:18/07/04 02:58
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  57 >
シェンノートと毛邦初の協力で作成された蒋介石の申入れは、660機の飛行機(戦闘
機500機、練習機150機、輸送機10機)と、14ヵ所の主要航空基地の整備、及
び122本の滑走路を建設するのに必要な資材、それに一年間の作戦行動に必要な弾薬
と部品を要求していた。これらの機材の要求に追加して、蒋介石は、飛行機を操縦した
り、整備したり、また中国空軍パイロットを訓練するために、合衆国内で志願兵を募集
する許可も求めていた。ワシントンのアメリカ政府官僚たちは、蒋介石の申入れを、条
約違反の武器購入と兵士派遣などとんでもない要求だと思ってはいた。しかしアメリカ
駐在中国大使・宋子文は、援助計両の実現につとめ、強力な政治交渉を続けてた独力で
ナチに対抗して戦っているイギリスに、各種機材を補給しなければならないばかりか、
米陸海軍の拡張も行われているのに、蒋介石に援助を与える事など、ペンタゴン〔国防
総省〕は、初めから考えようとしなかった。だが、シェンノートと毛邦初の二人には、
重要な支持者を、ホワイトハウス内で知故としていた。大統領顧問のローチリン・キュ
リー、トーマス・コーコラン、海軍長官のフランク・ノックス、財務長官のへンリー・
モーゲンソーなどである。彼らはユダヤ機関派遣将校達だった。彼らは、駐米大使宋子
文とともに、フランクリン・ルーズベルト大統領の気持ちを、この計画に有利な方向に
かえることに成功した。そして、アメリカ志願兵部隊を創設する道に立ちふさがってい
た多くの障害を、取り除くことができた。ホワイトハウスの承認をえたシェンノートは
、志願兵部隊用の飛行機を購入するという、やっかいな仕事にとりかかった。1940
〜41年の冬、シェンノートは、アメリカ国内をひろく旅行して飛行機製造工場や軍事
施設を見てまわった。アメリカ志願兵部隊が使用した標準戦闘機は、カーチス「ホーク
」81A−3(カーチスP40C)であった。もともとこれらの戦闘機は、英空軍むけP40Cの内
の100機であって、ヨーロッパで`ドイツ空軍戦闘機と対抗するに十分な性能をもっ
ていなかったため、中国空軍にゆずられたものである。そして中国空軍は、さらにそれ
を中国・ビノシマ戦域のアメリカ志願兵部隊に与えたのであった。この機は1941年12月
、はじめて作戦に使用された。頑丈で、アメリカ製戦闘機のすぐれた飛行特性である、
強度、装甲防護力、急降下性能などをもっていた。これらの特性により、パイロットは
絶体絶命のピンチから、逃れる事ができたのである。だがその三つの特性をのぞけば、
日本軍が中国に投入した近代的な戦闘機には劣っていた。日本軍の旧式戦闘機や爆撃機
には、優位に立ったこの機体だったが、しかしアメリカ志願兵部隊は成功した、飛行機
の性能よりもむしろ、パイロットの熟練とエネルギーによるものとされたのだった。
実は開発時に大きく飛行時間のある熟練のパイロットをつけて輸出したのである。

999: 名無しさんAA:18/07/04 02:58
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  58 >

 志願兵部隊用の飛行機を購入することは、非常にむずかしい仕事だった。英空軍は、
アメリカ製飛行機の購入に最優先権を与えたられ、一方、航空部隊を急速に増強してい
た米陸海軍の要求は、飛行機メーカーの生産能力をはるかに上まわる発注を行っていた
。そのため、シェンノートが飛行機を購入できる可能性は、極めて少なかった。やっと
、カーチス・ライト飛行機製造会社の副社長ブールデット・ライトおよび同社の中国代
理店主のウィリアム・D・ポーレーの助力で、たまたま英軍に引き渡す予定だった機が
、英軍が受領を拒否したP40戦闘機100機が納入待ちになり購入できる商談が成立し
た。カーチス・ライト社は、英空軍にP40を購入する権利を放棄してもらうかわりに、
さらにすぐれた戦闘機を提供すると約束した。英軍では操作が欧州型と違っていたのだ
。英軍がこの取決めに同意したので、1941年一月に、この飛行機は、中国に890
万$で売りわたされた。P40戦闘機は、中国でつかうのにいちばん適した飛行機とはい
えなかったが、この飛行機しか手にはいらなかったのだから、仕方がなかった。さらに
中型爆撃機などを追加しようとしたが、成功しなかった。中国政府は、P40の装備が、
完全でなく、戦闘即応の状態ではなかったが、大急ぎで飛行機を入手したかったので、
当初の買主である英軍から、武器や弾薬、そのほかの装備品を提供してもらえるという
条件のもとに、受領することにした。これが後の援蒋ルート開拓に功を奏した。だが、
まもなく、中国政府が購入した一〇〇機のP40用の装備品を、英軍から提供してもらえ
ないことがわかった。アメリカにおける中国政府の調達補給のおもな代理店である中国
防衛補給会社は、英空軍がP40を装備することができなければ、米陸軍省がそれを行う
責任がある、と主張した。陸軍省の官僚たちは、この圭張を認めず、中国政府が購入し
た飛行機の装備を、米陸軍省がやらなければならない理由はない、という意見をもって
いた。だが、陸軍長官ヘンリー・L・スチムソンは、これら官僚たちの意見に同意しな
かった。アメリカ志願兵部隊は、米陸軍省または米政府の責任ではなかったが、弾薬や
正規の武装なしに飛行機を中国におくれば、とうぜん国際問題を引き起しかねない、と
思っていた。メーカーが送ったアメリカ志願兵部隊は言わば人質同然だったのだ。スチ
ムソンが、この考えをルーズベルト大統領に報告すると、大統領はすぐさま、陸軍省に
たいして、P40完全装備用の装備品を放出するよう、命令した。こうして周囲の反対を
おし切リ、陸軍長官ヘンリー・L・スチムソンは、P40 完全武装用の武器、弾薬の放出
を認めさせた。

1000: 名無しさんAA:18/07/04 02:59
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  59 >
 かくて飛行機は、1941年二月一日までにラングーンに向けて発送する為、ニュー
ヨークの埠頭に梱包集積された。ところが、カーチス・ライト社と同社の中国代理店主
ウィリアム・ポーレーとの間で、売り渡しにともなう手数料についての話し合いがこじ
れたため、飛行機の受け渡しが遅れてしまった。この話しあいがつくのに、二ヵ月を費
やしたのだ。この間、飛行機は、裁判所命令で、ニューヨークに留め置かれた。財務長
官ヘンリー・モーゲンソーの仲介で、やっと一九四一年四月一日、この“ゆきづまり”
が打開された。紛争中の両者が、モーゲンソーの妥協案を受入れたので、飛行機発送に
関する法的処分が取り除かれ、飛行機は、ビルマに向うノルウエー貨物船に積込まれた
。こうした、アメリカ志願兵部隊用飛行機の購入が、非常に困難な仕事であった事から
も、その飛行機を飛ばし、整備する志願兵を募集することが、それに増して難しかった
事は、容易に解るだろう。二つの要素がからんでいたために、この募集は、ややこしい
ものになってしまったのである。第一の問題は、陸海軍の指揮官たちが、彼らの基地で
、将来性のある要員を志願兵として募集することを、許したがらなかったことである。
この頃、陸軍航空部隊、海軍航空部隊ともに、その戦力拡大につとめている最中だった
為、志願兵の募集は、その拡大計画にたいする脅威とみられた。しかし1941年四月
十五日、ルーズベルトが大統領訓令をだしたことで、やっと、陸海軍部隊が協力的とな
り、志願兵の募集を行えるようになった。第二の問題は、そのとき、日米両国間にあっ
た中立的立場の申し合わせである、パイロットや整備要員を募集することを、合法化す
る必要があった。しかも、日米関係は、徴妙にゆれうごいていた。そのためアメリ力人
志願兵の募集は、極秘で行わなければならなかった。中国の戦争に、アメリカが中立の
立場をとっているかぎり、軍需品および軍事援助を与える事は、中国政府とアメリカ政
府が直接交渉を行うことはできない筈だった。そこでこの問題は、国務省および陸軍省
の援助をうけて活動していた民間グループが、取り扱わなければならなかった。中国と
アメリカとのあいだの取り引きの責任者は、中央飛行機製造会社(カムコ)と中国防衛
補給社であった。中国防衛補給社は、カムコが要員の募集をおこなっているあいだに、
飛行機購入に活躍した。アメリカ人志願兵は、表向きは、カムコの社員として採用され
た。従ってシェンノートも、カムコの「監督者」という、軍隊式でない職名をもらった
。このように、カムコとの雇用契約という形をとった事は、いわば“逃げ道”であった
。どんな理由にしろ、アメリカ志願兵部隊が公然と戦闘部隊になることは、一般から認
められるものではなかった。志願兵たちは、飛行機を“製作、修理、運用するため”に
、カムコと一年間の契約をむすんだのである。

1001: 名無しさんAA:18/07/04 02:59
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  60 >

 太平洋戦争(たいへいようせんそう)は第二次世界大戦の局面のとされるが、大戦前
まで日中戦争などとは誰も言わなかった。日本でも日華事変であり国内紛争と言う認識
だったし、又国際的にもそうだった。真珠湾攻撃まで、第二次世界大戦とは誰も言って
いないし、真珠湾攻撃すら太平洋戦争だった。これを変えたのは大日本帝国やドイツ国
など枢軸国とした条約とされるが、これも日本が国際連盟脱退以後に米国からの輸入が
途絶えた為にドイツに輸入を求めた物が軍事同盟とされたからだ。ソ連の不可侵条約で
解る様に、日本はそれが大変な国際的戦争とは気づいていなかった。連合国の主にイギ
リス帝国、アメリカ合衆国、オランダなどを相手に太平洋戦争と決めたのは、1940年の
対日制裁の日米通商航海条約の破棄から始まり、軍部が中心となって作成し1941年11月
15日に大本営政府連絡会議が決定し、盛んに交渉するも、新オレンジ計画の米国の敵国
と目した秘密理の政策が変えられず、日米交渉決裂の結果、東條内閣は12月1日の、
御前会議において、日本時間12月8日の開戦を最終決定したからだ。日本側の名称も
作戦名で1941年(昭和16年)12月12日に東条内閣が閣議で「大東亜戦争」と決定して、
支那事変も含めるとしたからだ。この理由は当然予算編成時に中国から予算ひきはがし
を恐れた陸軍の意向と石油探索を南方に求める海軍の妥協であった。1931年(昭和
6年)に満州事変が起こり、関東軍の後押しによる満洲国が成立すると国際社会の中で
日本は大きく非難されることとなって以来、既に国際社会はドイツを初め条約違反でも
中国を軍事支援していた。1937年11月から翌1938年1月にかけて、こうした条約違反で
中独合作をする事により、中華民国と友好関係にあったドイツを仲介者とするトラウト
マン和平工作が行われたが、12月の南京陥落によって日本側では対中強硬論が政府と
海軍に台頭し陸軍もその声に流されていた。それは総理大臣近衛文麿や外務大臣の広田
弘毅や海軍大臣の米内光政は、この違反に屈した勝手な調停に憤慨したからだ。理由は
中国国内より欧米政府を見ていたからに他ならない。つまり中国と手を握って内政干渉
する欧米の非常に滑稽な米国の戦略が透けて見えていたからだ。1938年「帝国政府
は、爾後国民政府を対手とせず。真に提携するに足りる新興支那政権に期待し、これと
国交を調整して更生支那の建設に協力せんとす。」との第一次近衛声明で、トラウトマ
ン和平工作は頓挫した。、これによって日本と英米蘭の開戦を機に蒋介石の中華民国政
府が頓挫した。しかしその後台頭する共産党は更に悪かったのである。日米開戦では、
待ってたと日本に対して正式に宣戦布告し、日中戦争(支那事変)も包括する戦争とな
ったのは、中国人が中国大陸の自国民を捨てていたからであった。

1002: 名無しさんAA:18/07/04 02:59
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  61 >

 アメリカ合衆国は、日本海軍によるパールハーバー攻撃の遥か以前より、大消費地と
して植民地化を狙っていた為、支那、特に日本が支援していた満州国の利権を強奪すべ
く、着々と計略を実行に移していた。既に最終段階として、早くから国際法の『中立条
約』に違反し、中国軍に2つの援蒋ルート(南部仏印とビルマ経由)を使って物資を入
れ、イギリスと共に戦闘機・戦闘車両・重火器を含む軍事物資を大量に送り込んだばかり
でなく、空軍兵士(フライング・タイガース)までをも送り込み、日本軍機と戦闘を行
うなどなど、日本軍とはすでに交戦状態、戦争を起こしていた。日本としてその支援の
打ち切りが無くては、中国国内の安定は図れず、それを叩く事が政府の悲願だったが、
陸軍としては手に余るもので、平和裏に叩けるものではなかった。安定の為の内々の和
平協定が必要であったし、そうしたルートは叩いても叩いても北方から西方からも直ぐ
に作っていた事であった。日本軍はこうした大陸の事情に疎く、更に地理的にも巨大で
気候的にも冬の寒さ、雨季の変化、夏の害虫など様々な予備知識が無かった。さらには
中国側からその道を塞ぐと、インドビルマ側から米英の最新兵器が現れたりしていた。
持ってない筈の機関銃、化学兵器、日本のものより大きい重量で大口径の滑腔砲などが
野戦砲として突然山の中から現れた榴砲弾と言われる炸裂弾はその飛散範囲は大きかっ
た。更に空軍である。持ってないだろう中国軍の航空機が ソ連機ドイツ機イタリア機
イギリス機アメリカ機と忽然と現れては、帝国陸軍の兵士を襲った。味方と思われる機
が襲う恐怖は、兵士たちを狂わせた。戦地でラジオも新聞もなく現地人の仲間意識で、
やっと食料を分けてもらい進軍している中に、仲間の国の戦闘機が敵兵に空中から補給
し仲間の住民すらも殺し去っていくのである。全く考えられない事だった。「国際法の
基本原則によれば、もし一国が、武力紛争の、一方の当事国に対して、武器、軍需品の
積み出しを禁止し、他の当事国に対して、その積み出しを許容するとすれば、その国は
必然的に、この紛争に軍事干渉をすることになるものであり、宣戦の有無にかかわらず
、戦争の当事国となるのである。」とその後の東京裁判でも米英列強のその卑劣さを認
めている。こうした事は「国際法」に照らしても分かるとおり、米・英両国は、日本に
対して「宣戦布告をせずに戦争を仕掛けていた」のである。しかもこのことは、日本政
府が再三にわたり注意喚起したが聞く耳は無く、早く宣戦布告しろよと言う態度だった
。彼らはこの勧告をあえて退けて、敵対行為を続行していたのだ。蒋介石総統率いる国
民党は首都を後方の重慶に移し抗戦を続け、アメリカやイギリス、ソ連から軍需物資や
軍事支援を受け続けた。

1003: 名無しさんAA:18/07/04 03:00
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  62 >
 援蒋ルートは、地の利を活かし各地で抵抗して住民を殺し、徐州会戦や武漢会戦が発
生していた。。また正規戦法以外に督戦隊戦法やゲリラ戦術、清野戦術などの戦術を用
い日本軍を攪乱した。一方、西安事件を通じ成立した国共合作に基づき中国共産党軍も
山奥の延安を拠点に朱徳率いる八路軍や新四軍が日本軍にゲリラ戦を仕掛けた。こうし
て日中戦争の戦線は制圧できず伸びて長期戦に陥って住民は落胆していた。蒋介石夫妻
は、かなり上手に宣伝工作活動を行うことで、「悪逆な日本軍により侵略されつつある
可哀そうな中国の人民」を見事に演出していた。それは巧妙に条約違反のアメリカ支援
を取り付けていた事でも解る。その為にわざわざ夫妻揃って、キリスト教に改宗して、
キリスト教国である米国の絶対的な仲間意識を見事に利用し、好条件でユダヤ資本の金
融を調達していた。その為ユダヤを味方につけて、第二次大戦で蒋介石総統の中国国民
党軍に協力し、飛行機と軍人を送り出さない訳には行かなかった。中国南部とビルマ戦
線で日本軍機を大量撃墜したことで知られる「フライング・タイガース」は、その後、
平成になって裁判で軍人の地位を得ている。日米開戦半年前の1941年春、米国防総
省の承認のもとに空軍基地から集められた戦闘機パイロット259人による正規の“エ
リート空軍部隊”だった、と6日付のロサンゼルス・タイムズ紙が報じた。退役軍人会
に入れずに年金さえなかったからだ。アメリカ志願兵部隊の先遣隊は、1941一年七
月二十八日に、ラングーンに到着した。シェンノートのはじめの計画によれば、アメリ
カ志願兵部隊は、昆明〔クンミン〕を基地として使用するはずであった。ところが、飛
行機の発送と隊員募集のおくれ、そして中国側が雨期にはいるまえに昆明に基地を建設
することができなかったので、先遣隊は、ビルマのトングー郊外にあるキエドー飛行場
につれていかれた。ラングーンの北方二七〇キロにあるキエドー飛行場(アスファルト
舗装の一二二〇メートル滑走路がある)は、志願兵部隊の訓練センターとして使用する
ために、ビルマにある英植民地政庁とロンドンの英陸軍省から、中国に貸与されたもの
だった。中華民国の蒋介石は国家主席になって意欲的に国内指導に当たった。しかし、
それは名ばかりで、毛沢東はソビエト連邦の支援の下支配領域を広げていき、1931年に
は江西省に「中華ソビエト共和国臨時政府」を樹立するまでに勢力を拡大していた。こ
の事でソ連は後押しに空軍を送っていた。その後西部奥地のソ連国境に近い延安に追い
込まれた様に見えるが実は中国系ソ連軍によって一挙に拡大したのだ。実は 延安から
西安に向かって成都 昆明 雲南 と砂漠と山脈の境目の土地には、一見しては見えな
い空軍基地が14個も出来ていた。その内砂嵐などで地理的要因で7つに絞られたが、
いずれも小さいながら飛ぶのに相応しい平地であった。

1004: 名無しさんAA:18/07/05 16:51
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  63 >

1930年に西安討伐を決め込み、西安事件が起こるが、この時の失態で1931年に
に江西省に「中華ソビエト共和国臨時政府」を隠れて樹立するまでに至り、結局は毛は
その代表として蒋介石を手下として動かすことに成功するのである。つまり張作霖は息
子の張作良がソ連に従った為に共産党に殺されたのだ。1938年、漢口〔ハンコウ:
現在の武漢(ウーハン)〕にあった中国国民党の航空基地が破壊されると、彼らの活動
は、たちどころに終止符をうたれてしまったが、日本軍が南京から武漢に占領に行く事
を恐れたソ連機即ち共産党軍が破壊してしまったのである。1937年(昭和12年)7月の
盧溝橋事件で日本と中国は全面衝突盧溝橋事件の後、日本が中国に対し「速戦速決戦略
」を採用したのに対して蒋介石は、華北の日本軍が南下し、武漢地区での中国が東西に
分断されるのを防ぐため、中国軍が華北では後退した言われる。日本は11月5日第10軍
を杭州湾に乗り入れ、第16師団は白茆口に上陸させ、11月7日に上海派遣軍と第10軍を
併せて中支那方面軍として編成し、11月15日なって、第10軍が「一挙追撃を敢行し、
南京を占領すべき」と積極案を出して、参謀本部が容認したのは11月24日なのだ、南京
攻略で、蘇州-嘉興線以東の制限を廃して、作戦を考え 主力は無錫〜湖州線より東部で
準備すると命じて、10軍は嘉興〜湖州〜長興へ、114 師団一部は宜興・漂陽へ、18師団
追撃隊および国崎支隊は広徳に進出し、主力は後方地区に終結したのは12月である。
最前線の部隊は、中国軍によって徹底的に破壊された橋梁や道路を修復しながら進撃を
つづけ、南京入城したのは1937年12月4日まで戦い、12月13日に中華民国 南京市に入城
行進した。南京大虐殺と言われる事件は12月のこの入場から2月の日本軍の交代まで
には全く起こってはいない。特にこの間に海外からも記者が大勢居たからだ。兵士の日
記でもそうした物は出ない。ただ南京入城前に大勢が死んでいてその死体片づけがあっ
たと言う現実だ。それでも一万人もいた筈はない。とされる。なぜなら直ぐに片付いて
僅か1〜2日で再度南京入城の行進は続いたからだ。更に進むと数百の死体は転がって
いて先頭集団で戦闘があったのだろうと解ったというのである。実は、中国の正規軍隊
は、兵士たちの後ろに「督戦隊」(とくせんたい)がいた。督戦隊とは、後ろで「敵を
殺せ、殺せ」と叫びながら兵士たちを戦わせ、逃げる兵士がいると殺す係だったのだ。

1005: 名無しさんAA:18/07/05 16:52
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  64 >

 この歴史と世界情勢の真実は不思議な日華事変が、全く真逆に宣伝され、日本は真の
中国独立を望んでいたのに「南京大虐殺」の汚名を着せられた事だ。ドイツ人が南京城
を安全都市にと要望して止まなかった。南京には「防守都市」で無差別爆撃できたが、
日本軍は国際安全区にできるだけ被害が及ばないように配慮した。このことについては
国際安全区委員長ジョンラーベは日本軍に感謝状を贈った。という。この防守都市とは
「地上兵力による占領の企図に対し抵抗しつつある都市をいう」(原爆訴訟東京地裁判
決、昭和38年12月 7日)砲爆撃における軍事目標主義では、軍事目標および防守都市に
対する砲爆撃が認められる。防守都市に対しては無差別攻撃が認められ、無防守都市に
対しては軍事目標に対する攻撃が認められる。赤十字は戦闘行為として認められるのは
(1)軍隊 (2)軍隊の占領する陣地・建物 (3)兵営・要塞・軍関係関連施設 (4)軍需品の
集積所 (5)飛行場・ロケット基地・海軍基地 (6)軍用の交通線と交通手段 (7)放送局・
軍用の電信電話局 (8)戦争遂行に重要な産業  (イ)武器製造工場  (ロ)軍事的性質を
もつ物資製造工場  (ハ)軍事的性質をもつ原料製造工場  (二)武器ないし武器原料の
産業の貯蔵と輸送の施設  (ホ)主に国防エネルギー(石炭・石油・原子力)供給施設
と、主に軍用のガス・電力の生産施設と限られているのである。つまり何もない所には
攻撃してはならない。としていたのだ。南京においてはその要件は当てはまっていたの
だ。それでも空爆はしなかったのである。南京虐殺事件は東京裁判の大きな目的だった
。その為米軍は現地証言や証人を集めに奔走した。しかし、提出された「南京地方法院
検察処敵人罪行調査報告」によれば、第二次大戦後、日本の「戦争犯罪」を裁くための
連合国が開廷した「東京裁判」に備え、中国国民政府は一九四五年十一月七日「南京敵
人罪行調査委員会」を設置し、中国人に南京における日本軍の犯罪を申告するよう呼び
かけたが、日本軍の残虐行為を申告する者が「甚だ少なき」ばかりか、聞き取り調査を
行うと唖然として「口を噤みて語らざる者」や虐殺を「否認する者」までいたという。
やむなく中国政府は暫定的な報告を一九四六年一月二十日、東京裁判に提出したのだが
、「日本軍による大量虐殺」の証拠は埋葬記録を除けば、魯甦という人物の「目撃証言
」ただ一件のみであった。中国国内に国民党軍や共産党軍の残虐行為を見た者は多いが
、日本軍は優しかった為批判する気にならなかった。それどころか聞きまわる米軍も又
憎かったのである。

1006: 名無しさんAA:18/07/05 16:53
南京戦に参加されていたという会津若松の方は言う。「大変なことがあったから、もう
南京には行けませんね」と声をかけると、「いやいや、私は死ぬまでにもう一度南京へ
行きたい。」とおっしゃった。「私は衛生兵として南京で日本兵を助けたが、怪我をし
た中国の敗残兵も大勢助けた。軍のトラックで送ってやったから中国人の家族が非常に
感謝していて、ある人はわざわざ家の奥の家宝の掛け軸をくれる程だった。そして『戦
争が終わったら、ぜひもう一度南京へ来てほしい。歓待したい。一日千秋の思いで待っ
ている』とまで言われたんです。だから、私は死ぬまでにもう一度南京に行きたい。」
とその人は言った。このことでハッと思い出したのは、私自身が幼いころ、南京戦直後
に中国にわたり、天津で過ごした日々のことでした。それは、「大虐殺」があったなど
とは到底考えられないほど、大変のどかな日々があった事だった。この方にはその後、
もう一度お会いする機会があったので、「南京大虐殺」の証拠写真とされている松葉杖
をついた片足の中国兵と、笑顔の日本兵が並んで移っている写真を持って行ったんです
。キャプションには、「残虐な日本兵によって、逃げられないように片足を斬り落とさ
れた中国兵」と書かれていた。ところが、この写真を見せたところ、南京戦に参加され
たその方がとても喜んだんです。「〜ああ〜。この兵隊のことは良く覚えていますよ。
アルマイトがなかったので、ヤカンをつぶして義足を作ってやったんです。いやー、〜
懐かしいよかった。この写真、いただいてもいいですか。」と言うのである。他にも、
実際に参戦された方々からさまざまなエピソードやをお話しいただきました。ある人は
「たしかに、南京戦で相手の兵士を殺した。だが、それはあくまでも中国の兵士であっ
て、日本兵も戦死しています」「トーチカ裏から撃ってくる兵士を仕留めて近づくと、
機関銃手はまだあどけない顔の若者で、鎖でつながれていた。武士の情で彼らの墓を作
ってやりました。」「南京戦後、中国人から『兵隊さんありがとう。あなたの靴を磨か
せてください』と言われて、泥だらけだからと断ったのだが、どうしてもといわれたの
で磨いてもらった。気持ちが嬉しくて、飴玉をあげました」などと多くの証言があった
。ジョン・ラーベさえも日本軍宛に「私どもは貴下の砲兵隊が安全地区を攻撃されなか
ったという美挙に対して、また同地区における中国民間人の援護に対する将来の計画に
つき、貴下と連絡をとり得るようになりましたことに対して感謝の意を表するものであ
ります」との書簡を送っており、その報告書でも、日本軍からの米と小麦の配給があっ
たことに触れています。「聞いたところによると、日本の兵隊さんが食糧を分けてくれ
たので、南京の人々は助かったんだそうだ。お前もいい兵隊さんになるためには、強い
だけではダメで、思いやりをもたなければいけないよ。」と、言うのが当時の躾だった

1007: 名無しさんAA:18/07/05 16:55
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  66 >

 ドイツは1932年に支那軍組織の改造の為に国防軍のフォン・ゼークト元帥を指導
者とし、その下にファルケンハウゼン将軍を筆頭とする約六十人の軍事顧問を支那に送
っていた。彼等は軍事顧問であると同時に、端的に云えばドイツ武器の売込の斡旋をす
る仲介者という地位に立って居った。これらの軍事顧問は一方において支那の軍備を高
度化し近代化する為の、そして又かかる軍隊を訓練する為の目的を持ち、一方において
はそのために必要なる軍需資材、特に既成の武器を支那に向けて輸出すると同時に、本
国軍需産業に必要なる原料、鉱石又は油、皮革類を支那より輸入するという、軍需品と
その原料品を中心とする対支貿易を、斡旋する役割を直接間接に果していたのである。
ジョン・ラーベ日記では、10月3日、「政府高官筋の人々、とりわけ 蒋介石夫人の
宋美齢はドイツにあまり好感を持っていないという噂だ。ドイツが日本と防共協定を結
んでおり、ソビエトと同席したくないという理由から、ドイツでのブリュッセル会議へ
の出席を拒否したからだ。私たちの味方でない者はすなわち敵、と夫人は言ったという
。それなら、ドイツ人顧問はどうなんだ。いまや、中国人があんなに誇りにしている高
射砲部隊、つまり防空隊を導入したのは、いったいどこのだれだ。ドイツ人の軍事顧問
じゃないか! (以下略) 」と不満を書き入れている。ヒットラーの台頭する前に社会
党員とはなっていた。途中上司の勧めでナチスに入ってはいたが、形だけの党員だった
。ラーベは当初からのナチス党員では無い。元々根っからナチス党員は国外に出さなか
った。何回も総統暗殺未遂が起こっていたからだ。又ラーベも一度はナチスに入ってい
てチェコで原爆開発実験の現場に派遣されたが、その傲慢さに本国を離れ中国での仕事
に変えて、中国に再訪していた。蒋介石は既に「国共合作」後は周りには共産党員しか
いなく 何時殺されるか解らないぐらいで言いなりだった。愛国正義の合言葉で異常な
政策でも頷くしかなかったのだ。ちなみに、張治中が国民党員の指令をし生粋の共産党
員で毛沢東の入れた「 隠れ共産党員 」だった。実はこのラーベなどドイツ人の指導で
強固なトーチカ陣地を何重にも敷き更にクリークを掘り堅固な要塞として上海は防備し
ていて更にまた上海と南京の間にも堅固な陣地を構築し、戦に備えていて、殆ど負ける
事はないとみて、戦闘扇動のドイツが仲介となり、トラウマン和平協議をしていたので
ある。此処に如何に日本の大本営が無能であったかが解る。しかし現地にはその備えは
伝わっていた。上海派遣軍 2個師団、更にに第2次派遣部隊として 3個師団、そして
手早く終了し国際社会からの非難を避ける為にさらに3個師団と言う8個師団を投入し
たのである。

1008: 名無しさんAA:18/07/05 16:56
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  67 >

 こうして蒋介石の不安の中共産党とドイツ技師の自信満々の提言を持って臨んだのが
上海戦だったが、敗色濃厚となれば、南京を守るべきか放棄すべきかが問題になった。
蒋介石自身は、既に夢破れて和平が欲しかった。しかし幹部は抗戦と放棄の間で揺れ動
いて、11月16日、揚子江上流の重慶に遷都することを決めて宣言した。12月7日
、蒋介石は南京を脱出してしまい、南京は空居城になった。日本軍の南京攻撃が始まる
前のことでした。そも9月頃から日本軍侵攻の噂を聞いた市民は脱出をはじめていた。
南京市政府書簡は「調査によれば本市(南京城区)の現在(11月23日)の人口は約50余
万である。将来は、およそ20万と予想される難民のための食料送付が必要である。」と
しており米大使館報告11月27日の報告には、在留外国人に対して「避難勧告」が出され
た。「市民の脱出は続いているが、市長の話では30万から40万の市民がまだ南京に残っ
ているとのこと。」と書いている。ジョン・ラーベの書物でも察庁長王固盤は、南京に
は中国人がまだ二〇万人住んでいると繰り返した(11月28日付けの日記)と記して
いる。しかし現場にいた古老によれば当時、安全区外に住民はほとんどいなかった。し
かし日本軍の来る前に南京防衛にあたった中国軍が、安全区以外にいる一般市民は、「
漢奸(日本側のスパイ)」とみなすとの布令を発した事で雪崩打って安全区以外の地区
でも非難していった。南京城入城後は食糧配給の試算が目的で南京安全区国際委員会の
を作り報告させた。安全区委員会側も12月17日の文書で「13日に貴軍(日本軍)
が入場した時にわれわれは安全区内に一般市民のほとんど全体を集めました」と記して
20万人(安全区内の人口)と報告している。これは厳密性が要求されることから信頼
できる数字であると思われる。また、当時安全区に居た民間人に加え、区外の民間人も
安全区に避難してくることも勘定に入れていたとされ、そのことからも数字は多すぎる
ことはあっても少なすぎることはないと推測される。ラーベの日記でも。「(中国軍・
黄上校との対話)なぜ、金持ちを、約八十万人という恵まれた市民を逃がしたんだ。首
に縄を付けても残せばよかったじゃないか。どうしていつもいつも、一番貧しい人間だ
けが命を捧げなければならないんだ?」(12月6日付けの日記)「日本政府と蒋介石
はなんといってくるだろう。一同、固唾をのんで待っている。何しろ、この街の運命と
二十万の人の命がかかっているのだ」(12月10日付けの日記)

1009: 名無しさんAA:18/07/05 16:59
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  68 >
 南京アメリカ大使館通信「南京の陥落を前にして、中国軍と市民の脱出は引きも切ら
なかった。人口のおよそ五分の四が市を脱出し、主要な部隊は武器・装備もろとも撤退
していった」(12月10日以降の報告)日本軍は安全区委員会の調査の報告として、
食糧補給を25万人として報告した。食糧給付のため日本軍が安全区委員会を通しての
調査結果として割り当てを申請してたのだ。これは極めて重要な報告で、人数の差異が
あれば餓死者や暴動などが発生するからだ。従って数字はかなり正確であると思われる
。こうしてこの時期、良民証(戦闘員でないことを示す日本軍発行の証明書)を発行し
て食糧を給付した。この時の領民症は、給付数は16万とされる。しかしその後は報告
をうけた数字の25万という説が一人走った。しかもこの数字には高齢の女性と12歳
以下の子供は含まれないとする説まであった。もしこれが正しいのであれば、この時点
で30万人以上の中国人が南京市内にいたと推定されるとさえ言う者が現れた。東京裁
判速記録でも、この惨殺に於いて、東京裁判でロヴィン弁護士が「南京ニ於おいテ殺害
サレタ数ハ30万トナッテ居おリマスガ、私ノ承知シテ居(い)ル範囲ニ於キマシテハ南
京ノ人口ハ20万デアリマス」と質問をしたところ、ウエッブ裁判長は「今ハソレヲ持チ
出ス時デハアリマセン」とあわてて発言を封じてしまった。(「極東国際軍事裁判速記
録」58号21・8・29)が残って居る。『南京安全地帯の記録』 第41号 福田氏への手紙
では、 1938年1月14日、ジョン・H・D・ラーベ委員長……我々は貴軍が、10歳以下
の子供、及びいくつかの地区では老人の女性を含めないで、16万人を登録したと理解
しております。すると、当市の人口は多分25万人から30万人ということになります
。この住民を通常の米の配給で養うには……『南京安全地帯の記録』 第54号 プリドウ
ブリューン氏への手紙 1938年1月28日、ジョン・H・D・ラーベ委員長 ……南京25
万の難民のうち、 大部分は市内及び近郊の大規模な火災のために家がありません。…
と書き記している。「南京特務機関 南京班第二回報告(二月中状況)」の治安には
(1)敗殘兵及抗日分子の摘出にこう記されている。「治安確立の先決問題は城内外に
於ける敗殘兵及抗日分子の捜査摘出にしては、昨年12年22日以降、本年1月5日に至るの
間に於て中島兵團の施行せる査問に協力して、約4千名の敗殘兵竝抗日分子を摘出し、
1月6日より2月25日に至る間、更に特務機關に於て天谷警備支隊の協力を得て城内外に
渉る査問を續行し約5百を摘出せり。此の結果良民として(老婆及12歳以下の小兒を
除く)して安居之證を交付せる者左の如し(概數)中島兵團…15万人特務機関…10万人
と報告している。つまり正規軍の囲う住民が15万人で、その兵士や捕虜は10万人で
あった事を示す。

1010: 名無しさんAA:18/07/05 17:02
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  69 >

元ニューヨーク・タイムズ記者、ティルマン・ダーティン氏は南京大虐殺を論じた最初
の記者だった。しかし、彼が見たのは大勢の兵士の虐殺と言えるものではなかった。敵
兵を日本兵の服を来た兵士の処刑だったのだ。「中国軍は南京城内に立てこもって日本
軍を撃退するという作戦をとり、上海方面から南京への日本軍進路にあるすべての建造
物を焼き払って退却しました。敵には何ひとつ残さないという、中国側が焦土作戦と呼
ぶ手段です。住宅からその他の建物まで、一切すべて、遮蔽物を残さないために樹木ま
で切り倒して撤退するのです。」――そういう地域の住民はどうなったのですか。――
「大多数は戦闘の始まる前に避難しました。南京の方向へと逃れ、市内に入った避難民
もかなりいました。漢口のほうにまで逃げていった民間人もかなり多数いました。」「
上海から南京近郊に到達するまで中国軍は日本軍に正面から戦いを挑まず、撤退してい
たし、地元の住民もみな避難していたからでしょう。私は当時、虐殺に類することは何
も目撃しなかったし、聞いたこともありません。虐殺は日本軍が南京を占領してからな
のです。」ダーティン氏のこの言葉は「上海から南京までの間で日本軍による大規模な
殺害や略奪があった」という説とは随分ちがっている。しかし同氏は南京では日本軍の
虐殺があったと明言する。その点は同氏は南京陥落についての第一報、ニューヨーク・
タイムズ1937年12月18日付の記事にもはっきりと書いている。「南京で日本軍が恐怖を
まき散らすなかで民間人も殺される」という見出しのこの記事は、「日本軍の無差別残
虐行為と略奪」があったとし、「中国軍捕虜の大量処刑」と「女性や子供を含めての、
民間人の広範な殺害」とを伝えている。処刑を見ていた将兵たち――さてまず中国軍の
捕虜に関してですが、南京を守っていた軍隊の人数はそもそもどのくらいだったでしょ
う――「唐生智将軍の指揮下に約5万人だったと思います。日本軍の南京総攻撃が始ま
る直前、私は市内をあちこち走りまわって防衛軍の状況を調べました。市内には軍隊が
あふれていた。唐生智司令官にインタビューして「城壁内にこれだけの部隊を入れて守
る作戦はわかったが、日本軍は当然、城壁を包囲するから、もし負けた場合にはどうや
って撤退するのか」と質問したのものです。すると唐将軍は「われわれは死ぬまで戦う
決意だ。撤退は天に向かってのルートだけだ」と豪語していました。しかし実際には、
将軍は日本軍の一部が城壁を越えてすぐ、部下には何も告げず、市外へと逃げたわけで
す。」ダーティン記者は1938年1月9日付の記事でも中国の南京防衛について、合計16個
師団だが、1師団の兵力は2千から3千人程度に減っているので総計約5万人と推定してい
る。これは大きな問題である。何故なら日本軍の入場時には殆どいなかったからだ。

1011: 名無しさんAA:18/07/05 17:04
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  70 >

 ダーティン記者にはその同じ記事のなかで、中国軍の死者数について日本軍が南京
への本格的攻撃を開始した12月上旬から市内を占領して3日目の15日までに3万3
千人が死んだと伝え、そのうちの2万人が処刑されたとみられる、と報道しているから
だ。――捕虜の処刑は実際に目撃しましたか。――「はい。私が南京を去ることになる
12月15日にも城門のすぐ外の揚子江の水ぎわで日本軍が機関銃で中国軍の捕虜を射
殺しているのを見ました。捕虜たちは50人くらいずつにまとめられ、並べられて射殺
されるのです。そのあとにすぐまた50人ほどの次のグループが引き出され、機関銃の
連射で殺されるのです。この処刑が進行している間に別の日本軍の将兵が近くにたむろ
してタバコを喫ったり、大声で話し合っていた光景をいまでもよく覚えています。」と
答えている。――中国の捕虜の側は抵抗とか逃走をまったく試みなかったのですか。―
―「その捕虜たちが両手を縛られていたかどうかはもう覚えていませんが、さからって
も無駄なことは明白でした。中国軍は司令官が逃げて、指揮系統が混乱してしまったこ
ともあって、日本軍が城内に入ってからはすぐ抵抗をやめ降伏するか、軍服を脱ぎすて
て民間人の群にまぎれこむかでした。とても無気力だったのです。軍服を脱いだ軍人達
の多くは『安全地区』に逃げ込みました」――『安全地区』には何人くらいが集まって
いたのでしょうか。――「私の当時の推定では約10万人だったと思います。しかしここ
にも日本軍が入ってきました。中国兵が多数まぎれこんで民間人を装っていたことが原
因だといえばいえます。そのために日本軍に『安全地区』に入って捜査をする口実を与
えてしまった。兵隊ならば衣類を脱ぐと、銃や背嚢(はいのう)をかついでいた跡が半
分タコのようになって体に残っているのがわかるとというのです。若い中国の男たちは
みな日本軍に調べられ、兵士だと断定されると『安全地区』内でも殺されるというケー
スがよくありました。ただ日本軍も外部からいきなり『安全地区』に攻撃をかけるよう
なことはしなかった。市内の他地域での流血にくらべれば、まるでたいしたことはあり
ませんでした。」ダーティン記者は、南京市内での日本軍による民間人の無差別殺害を
も、当時、くわしく報道していた。「12月15日に南京市内を広範にみてまわった外国人
たちは、民間人の死体があちこちにあるのを目撃した。犠牲者のなかには老人や子供も
いた。警官や消防夫がとくに攻撃の標的となった」(1937年12月18日付報道)と書いて
いる。

1012: 名無しさんAA:18/07/05 17:07
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  71 >

 予想されなかった虐殺――日本軍はやはり民間人をも無差別に殺したのですか。――
「はい、無差別の殺害といえます。銃で射つのがもっとも多かった。銃剣を使う場合も
あった。とにかくウサギを殺すような感じでの虐殺が行われたのです」ダーティン氏は
こうした発言をしながらもとくに表情は変えず、淡々とした口調で語りつづける。「南
京の日本軍兵士は、上層部から略奪や虐殺をしてもよいという通達を受けているような
印象を、私は受けました。『中国人を殺せ』というような命令ではないにせよ、『殺し
てもかまわない』というような通達です。こうした行動は私には大きなおどろきでした
」――どうしてですか。――「日本軍は上海周辺など他の戦闘ではその種の虐殺などま
るでしていなかったからです。上海付近では日本軍の戦いを何度もみたけれども、民間
人をやたらに殺すということはなかった。漢口市内では日本軍は中国人を処刑したが、
それでも規模はごく小さかった。南京はそれまでの日本軍の行動パターンとは違ってい
たのです。南京市民にとっても、それはまったく予期せぬ事態でした」――南京にいた
中国の民間人は虐殺などがあるとは思っていなかったということですか。――「南京の
市民や周辺の住民は中国軍にすべてを焼き払われ、戦闘が長く続き、日本軍が南京を制
圧したときには一種の安堵感をおぼえていた人も多かったのです。日本軍の占領をあき
らめからにせよ、歓迎しようとする市民たちもいたのです。それまでの2~30年間も中国
の軍閥に支配され、搾取(さくしゅ)され、軍閥同士の戦いで被害を受け、という状態
で、別に支配者が日本軍になってもそう変わりはしない。日本軍でさえ、またやがては
去って行く。だったら戦闘を終了させたことだけでも日本軍を歓迎してもよいではない
か――そんな受け止め方が多かったのです。まさか日本軍が民間人を虐殺するなどとは
まったく考えていなかったのです。もしそんな心配が前からあったなら、民間人はみな
市内から逃げていたでしょう。」ダーティン氏のこの言葉も、「上海から南京への進撃
途中に日本軍が中国人を大量虐殺した」という説に疑問符を突きつけている。もしそう
した虐殺があったならば、南京陥落時に市内に中国民間人が多数、残っていて、歓迎の
姿勢さえみせるということもなかったはず、と考えるのが自然だろう。では南京市内で
日本軍に殺された中国側民間人の数はどのくらいなのか。ダーティン記者は12月18日付
記事では「数千人にのぼった」と報じている。しかし――民間人の死者の数はもう少し
具体的に推定はできなかったのですか。――「ええ、数千という以上にはわからないで
すね」と答えている。

1013: 名無しさんAA:18/07/05 17:11
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  72 >

 ――日本軍が攻略した時点での南京市内の総人口はどのくらいだったのですか。――
「私が自分の記事で報じたのはたしか50万だったか・・・・・あるいは30万だったか。
とにかく近郊からの避難民もかなり流れ込んでいたわけですから・・・・」海発のハム
レット・アベンド記者の報道は、南京市内にいる中国民間人の人数が30万人だとしてい
ますね。「ああ、そうですか。それなら私もきっと30万人という推定をしていたと思い
ます」とあくまで推定としている。民間人の虐殺については、スティール記者も「大規
模で無差別の殺害」であったことを伝えており、犠牲者の数に関してはやはり「数千人
」という表現を使っている。スティール記者のこうした推定数もダーティン記者同様に
12月15日の時点までの報告である。両記者とも同15日にはアメリカ海軍の砲艦オアフ号
に乗って南京を離れたのだ。犠牲者の総数の推定についてはダーティン氏に改めて尋ね
てみた。――南京で日本軍により戦闘以外で殺された中国の人たちですが、ダーティン
さんの当時の報道では軍人の捕虜が2万人、民間人が比較的なニュアンスのある表現に
せよ数千人とされていますね。――「ええ、当時、できるだけ数多くの関係者に質問し
、自分の体験や見聞も含めて推定した数だといえます。質問した相手のなかには日本側
関係者もいました。中国外務省の職員たちもいました。しかし、ああした状況下などで
は犠牲者の正確な数を推定することはきわめて困難なのは自明です。周知のように中国
側は犠牲者30万と主張しています」――ダーティンさんの報道した数字と中国側のその
数字とではあまりにも差がありすぎますね。――「すでに述べたように、私が南京にい
たのは日本軍の占領から3日目の12月15日までですから、私が報道した数字はあく
までその時点のものです。南京占領後、日本軍の虐殺は2ヶ月以上つづいたといわれて
いるのです」――中国側のいう30万という数字の根拠についてダーティンさん自身はな
にか知っていますか。――「いや、私にはその根拠はわかりません。というのである。
――日中戦争が始まってからはどうですか。――「南京攻防戦の際でも日本軍将兵の中
には自制や寛容さをもって行動している人たちもいました。私自身、日本軍が市内を占
領してすぐ、激しい戦闘のあったばかりの東方の城門で日本軍将校と話をしましたが、
その将校がきわめて礼儀正しかったことを記憶しています。日本軍と接触した他の外国
人たちからも理や情をわきまえているようにみえる将兵に会ったという話を聞きました
。」 

1014: 名無しさんAA:18/07/05 17:16
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  73 >

 ――日本軍のその種の非人道的な軍事戦略は南京以外ではあまりうかがわれなかった
ということでしたね。――  「日本軍は南京攻略のあと漢口を攻撃して占拠しました
が、私はそのとき漢口にいました。その際には無差別とか大量の殺戮というのはまった
くみませんでした。中国の国民党政権が南京での虐殺を内外に向けて宣伝し、非難して
いたので日本側も気をつけるようになったのかもしれません。」と話した。こうして、
 つまりこの記者のとてつもなくいい加減な話は広く流布されたのであったのだ。噂で
南京の人口を推察し、証しもなく兵士と一般人を分け、その処刑は虐殺と称して勝手な
数字で煽り立てた記事を新聞に載せたのである。実はこの戦時中のこうした記事イエロ
ージャーナルは部数伸ばしに伸ばしたし誇張した記事は多々盛りつけられてあった。も
っと言えば政府に踊らされて金を貰ってでも書いたのだ。新聞の発表とは、別にリーク
記事も推測記事も国の方針に沿えばよかったのだ。日本での大本営発表と同じである。
だがそれが民間での、発行競争の中だったので始末が悪い。又、その結果が実は日本人
が強盗や殺人をやってもいずにやったと書きたてられたのだ。日米開戦まで国の誘導で
なされていた事実もある。実は、米国での日本人収容所は、そうしたあられもない記事
で日本人は野蛮人で次々と職場を奪っている。とまことしやかに報道され、ハリウッド
まで使って「悪魔のジャップ」のイメージ作りがなされた。鬼畜米英の様な話は、日本
だけの話ではなかったのだ。この南京にいた日本人記者の話と全く違う作り話がこの中
にある。何故か。実は彼らも又ドイツ人の派遣した軍事顧問団とつながりが近かったか
らだ。そもそもドイツの軍事顧問団は、本国との連絡を特別には持たなかった。彼らの
船や無線連絡を借りたのである。多くは米英の軍事艦船を借りた連絡であった事がわか
っている。つまりドイツのナチスへの報告さえも、このアメリカの新聞社を使って報告
していたのだった。「興奮や恐怖に駆られて日本軍の近くを突っ走った中国人はすぐに
狙撃された。明かに背中から射たれた老人の死体などが、うつ伏せになって歩道によく
横たわっていた」(1938年1月9日付報道)などと書いている。実はここに大きな間違い
がある。彼は中国軍の戦争や極東の地理を全く理解していなかった。特にドイツが指導
して塹壕を掘り、中国軍「督戦隊」兵士を立たせ、正規の中国軍で後ろから狙って戦争
し、逆に冷静にして日本軍に戦い行かない農奴のような一般兵の督戦士を撃ちまくって
死者が出ても構わない戦争をしていて、それを予想してもいなく、いや知っていても隠
して、現実の死と想像の戦いの記事を世界に発信していたのである。

1015: 名無しさんAA:18/07/05 17:18
実はここに大きな間違い
がある。彼は中国軍の戦争や極東の地理を全く理解していなかった。特にドイツが指導
して塹壕を掘り、中国軍「督戦隊」は兵士を立たせ、正規の中国軍として後ろから狙っ
て戦争し、逆に冷静にして日本軍に戦い行かない農奴のような一般兵を督戦士は撃ちま
くって死者が出ても構わない戦争をしていて、それを予想してもいなく、いや知ってい
ても隠して、現実の死と想像の戦いの記事を世界に発信していたのである。


1016: 名無しさんAA:18/07/05 17:25
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  74 >

「興奮や恐怖に駆られて日本軍の近くを突っ走った中国人はすぐに狙撃された。明かに
 背中から射たれた老人の死体などが、うつ伏せになって歩道によく横たわっていた」
(1938年1月9日付報道)などと書いている。実はここに大きな間違いがある。中国軍の
先に述べた様に「督戦隊」兵士が正規の中国軍であり、その正規兵の前で戦っている兵
士は雇われだったり農奴だったり拉致されたりした、足錠をされた囚人の様な兵士だっ
た。戦場まで僅かな食料でつれまわされ、水や便意すら決まった時にしなければならな
かったのだ。まともな水もなく腹を壊したものが多く 従って臭くてたまらないので、
日本兵の中で勝手に便衣兵と作られていた。しかしこの便衣兵も全く色々いて本当に妻
や子を人質にされた現地の農奴は、都合よく日本兵を数多く殺していた。この南京城で
も戦うようにわざわざ現地人に成りすまして日本軍を乞い、共産党に似せた中国軍と戦
う様にしたりした。この南京戦は上海戦の盧溝橋事件の話し合いの優位さを築く為だっ
た戦の繋がりがあった。上海陥落は当然だったので、国民党軍の南京に日本軍を呼び出
せと言うのは、共産党軍の戦略だった。現場では上海戦でも自軍が日本軍と戦う矛盾の
ままに戦い多くは逃げようとして、多くは背後から撃たれていた。南京でも同じに便衣
兵を集めと督戦隊を置いて戦った。この場所は城壁で逃げる所がなく前線の中国兵が言
う事を聞くからだった。しかし、日本軍が入ると直ぐに降参したのだ。司令官や将校は
既に逃げていたからだ。上海クーデターは、蒋介石が北伐でやられ帰って来た時北京政
府内もコミンテルンの政治顧問ボロディンの指導で左翼化してしまっていたので内部の
革命を試みたものだった。この時、程潜は蒋介石の反共路線を支持し、第1軍第2軍の
総指揮に任ぜられた。同年10月、程は西征軍第4路総指揮に任命され、李宗仁などの
新広西派と協力して、反蒋クーデターを起こした湖南軍の唐生智を討伐している。11
月には、武漢を攻略した程は 湘鄂臨時政務委員会主席に任命され、翌1928年(民国17
年)2月、唐を撃破して長沙を占領した。しかし、その後突然中央政治会議武漢主席の
李宗仁によって、各職から罷免され拘禁されてしまう。その時討伐したはずの唐生智が
牢獄から出され任命されていて、何故かこの南京城に構えていた。程は、早稲田大学で
政治経済学を学び、李根源・李烈鈞らと欧事研究会を組織しての、その幹事となる程の
智慧者だったがここでは一時失脚状態になって、牢獄につながれたのだ。それは蒋介石
政府が既に共産党員が幹部として囲っていたからに他ならない。こうして日本政府の、
血や涙の和平協議や和平工作や国土建設や中国民保護の政策も灰燼に帰したのだった。

1017: 名無しさんAA:18/07/07 01:40
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  75 >

 一方。唐生智は1914年に保定陸軍士官学校を卒業後、辛亥革命、護国戦争、護法運動
、北伐戦争など中華民国建国初期の重要な戦争に参加していずれも逃げ延びている。北
洋軍閥のクーデター時期には、唐生智は壊滅した湖南軍閥に属しており、その都度戦局
を渡り歩いて来ていた。クーデターにより趙恒タを長沙から追い出した後、自ら省長の
職に就き、反対勢力の駆逐を図ったが。趙恒タ側は武漢で反撃準備をしていた呉佩孚に
救助を求め唐生智を追い出した。敗戦して長沙から退き、北閥軍に参加し、1926年6月2
日に正式に部下と共に国民革命軍に参加し、国民革命軍の第八軍の軍長になった。6月
に再び長沙を占領した後、湖南省の主席となった。彼は1961年11月入院したが。12月に
見舞いに来た陳毅は、「孟瀟先生、あなたは友人として余りある人だ。国民党の一級上
将の中であなただけが、我々紅軍、解放軍を攻撃しなかった。」と称えた。つまり国民
党軍の将軍でありながら共産党軍とは戦わなかったのだ。しかし1968年に林彪、江青に
よる文化大革命の反革命集団は数回にわたって湖南に人を送り、唐に対して様々な手を
使って、人民裁判を起こそうとしたが、賀龍が「人民の敵」であると声明させようとし
たが、頑強な抵抗に遭った。彼らは唐が言う通りにしないのを見て腹を立て、一人がピ
ストルを腰から取り出すとテーブルの上に叩きつけ、「言うのか言わないのか!言わな
いならお前を撃ち殺すぞ!」と叫んだが、唐はその一言を聞いて激怒し、衣服をはだけ
て胸を叩き、「小僧!こっちに来い!俺は各地を歴戦して銃弾の雨を歩いてきたが、死
を恐れたことはないぞ!」と言ったと言う。唐の気迫の前に、彼らは頭を下げ、あわて
て退却するしかなかった。と言う逸話が残る。又一方の程潜は蒋介石の北伐について行
った。1927年(民国16年)1月、程は江右軍総指揮に任命され、南京へ進撃を開始し、3
月24日までに南京を攻略して入城した。ところが、この時に程の軍は外国の領事館、教
会、商店、住宅等を破壊・略奪してしまい、長江駐留中のイギリス・アメリカの軍艦も
砲撃で反撃するという事態を引き起こしてしまう(1927年南京事件)。つまり日本が、
南京占領する僅か10年前に同じ様に共産党退治に程将軍は攻略し、その相手が米英の
武器調達にある事を知っていたのである。日本軍入城前には中国人同士が撃ち合った。
又上海戦も同じだった。ラーベの日記ではその模様が淡々と記述される。「私はアメリ
カ人数人と市の南部にでかけました。日本軍司令部と連絡をとり、また街の被害状況を
ざっと調べておこうと思ったのです。司令部はみつかりませんでした。」と彼こそは、
ドイツ人将校の一人で、指揮者だったのだ。

1018: 名無しさんAA:18/07/07 01:41
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  76 >

 ラーベの12月13日(陥落初日)の日記は随分と考えさせられる。「我々はメイン
ストリートを非常に用心しながら進んでいった。手榴弾を轢いてしまったが最後、ふっ
とんでしまう。上海路へと曲がると、そこにもたくさんの市民の死体が転がっていた。
 ふと前方を見ると、ちょうど日本軍がむこうからやってくるところだった。なかにド
イツ語を話す軍医がいて、我々に、日本人司令官は2日後に来ると言った。」 多くの
死体が有ったというが、紅卍字会の埋葬記録が正しければ上海路では20体の埋葬であ
ったから、死体は20体しかなかったことになる。では、ラーベの言うように「市民」
の死体であったのか?支那軍正規兵は、敗戦の際は常に軍服を脱ぎ捨て便衣(平服)を
まとっていた上、逃げようとする 友軍兵士を督戦隊が背後から撃っていた。支那兵に
武装解除を勧めるラーベの近くで、支那軍将校がカービン銃を撃っていた。死体は、撃
たれて死んだ兵士の死体だった。他方、12月8日、唐生智の安全地帯避難命令が出て
、市民は安全地帯の外での移動を禁じられた。日米双方の記録にある上の事実がラーベ
の日記にはない。ところがラーベの署名する国際委員会9号文書は次のように記録する
。「13日、貴軍が城内に入った時、我々はほぼ全ての非戦闘員の住民に安全地帯へ集
まってもらっていた。」つまり市民はほぼ全員が安全地帯に集まっていた。中山北路と
上海路の交差する戦場にいるはずもなかったのである。ラーベが目撃したのは「市民」
ではなく兵士の死体であったことになる。もし日本軍が市民を撃ったのであれば、南京
在住アメリカ人14人がアメリカ大使館のエスピイに訴えた事の記録、「エスピイ報告
」に、その非難が出て来るはずであった。しかしそれもない。日本軍は「市民」を銃撃
していないことになる。上海路へと曲がったが、そこにはいくつかの市民の死体が転が
っていた。そして、前進してくる日本軍に向かって車を走らせた。... 日本軍は北へ向
かっているので、われわれは日本軍を迂回する回り道を車で急行し、三部隊約六百人の
中国兵を武装解除して助けることができた。と書いている。つまり、彼は指導して便衣
兵にさせ、武装解除を命令したのだ。それは何故かそれは前の日に仲間が情報をくれた
からだ。


1019: 名無しさんAA:18/07/07 01:41
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  77 >  

12月12日「夜の八時少し前、龍と周がやってきた(林はすでに逃げてしまった)。
ここに避難させてもらえないかといってきたので、私は承知した。」龍と周は支那軍の
大佐で、ラーベは彼らと停戦交渉をしていました。」これは彼の部下同様の者で この
上海交戦を指導したドイツの軍事顧問の下に働いていたのを如実に物語っている。支那
軍の将校を匿うということは国際委員会は中立どころか支那兵を動かす上層部だった。
実際、多くの逃げ込んだ支那兵は便衣兵を殺して自らが便衣兵に成りすまし、日本兵の
行為に見せかけて悪事を働いていた。チャイナ・プレスの1938年1月24日 日本
憲兵隊の報告書では、「彼らの中には南京保安隊隊長王信労がいた。彼は陳弥と名乗っ
て、国際避難民地帯の第四部門のグループを指揮していた。また第八十八師の前副師長
馬包(あしへん)中将や南京警察の高官密信喜もいたといわれている。馬中将は安全地
帯内で攪乱行為の扇動を続けていたと言われる。また安全地帯には黄安大尉ほか十七人
が、機関銃一丁、ライフル十七丁を持ったまま匿われ、王信労と三人の元部下は略奪、
扇動、強姦に携わった。」ラーベは龍と周が去った日の日記に「残念ながら我々の友情
にはひびが入った。」と書いており、彼らが使い物にならないと捨てたのだ。悪事を働
いていたことはラーベは知っていたはずです。しかし、ラーベはそれを敢えて日本軍の
暴行というプロパガンダでヒトラーに上申した。12月16日ドイツ人軍事顧問の家は、片
端から日本兵によって荒らされた。中国人はだれひとり、家から出ようとしない。(つ
まり私を守ってくれていない。)私はすでに百人以上、極貧の難民を受け入れていたが
、車を出そうと門を開けると、婦人や子どもが押しあいへしあいしていた。ひざまずい
て、頭を地面にすりつけ、どうか庭に入れてください、とせがんでいる。(つまり味方
であった家族である。)この悲惨な光景は想像を絶する。菊池氏(通訳)と車で下関に
行って、発電所と米の在庫を調べた。発電所は見たところ損傷なく、もし作業員がきち
んと保護されれば、おそらく数日中に稼働できるだろう。手を貸したい気持ちはやまや
まだが、日本軍のあの信じられない行為を考えると、40〜45人もの労働者をかき集める
のはむずかしい。それに、こんななかで、日本当局を通じて我が社のドイツ人技術者を
こちらに呼ぶような危険なことはごめんだ。(つまり自分が将校と知れる危険性があっ
た)

1020: 名無しさんAA:18/07/07 01:42
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  78 >  

「たったいま聞いたところによると、武装解除した中国人兵士がまた数百人、安全区か
ら連れ出され、銃殺されたという。そのうち、50人は安全区の警察官だった。兵士を
安全区に入れたというかどで処刑されたという。」実際は日本兵と戦った便衣兵を束ね
た督戦兵(とくせんへい)で逃亡防止の背後の銃を持つ者達だった。「下関へいく道は
一面の死体置き場と化し、そこらじゅうに武器の破片が散らばっていた。交通部は中国
人の手で焼きはらわれていた。悒江門(北門)は銃弾で粉々になっている。あたり一帯
は文字通り死屍累々(シシルイルイ)だ。日本軍が手を貸さないので、死体はいっこう
に片づかない。安全区の管轄下にある紅卍字会(民間の宗教的慈善団体)が手を出すこ
とは禁止されている。」この記述は間違いで日本の自治の憲兵隊が査察を終えた所から
直ぐに紅卍会は活動している。逆に赤十字が中国軍の為に活動が制限されていたのだ。
「銃殺する前に、中国人元兵士に死体の片づけをさせる場合もある。我々外国人はショ
ックで体がこわばってしまう。いたるところで処刑が行われている。一部は軍政部のバ
ラックで機関銃で撃ち殺された。」この話は私が知る8人の老人でも聞かない。方々で
処刑があったと言うのは中国人同士ではあったのだろう。と推測するのが妥当だ。まだ
入城前の話でもあるからだ「晩に岡崎勝男上海総領事が訪ねてきた。彼の話では、銃殺
された兵士が何人かいたのはたしかだが、残りは揚子江にある島の強制収容所に送られ
たという。以前うちの学校で働いていた中国人が撃たれて鼓楼病院に入っていた。強制
労働にかり出されのだ。仕事を終えた旨の証明書をうけとったあと、家に帰る途中、な
んの理由もなくいきなり後ろから2発の銃弾を受けたという。かつて彼がドイツ大使館
からもらった身分証明書が、血で真っ赤に染まっていま私の目の前にある。」と書く更
に「いま、これを書いている間も、日本兵が裏口の扉をこぐしでガンガンたたいている
。ボーイが開けないでいると、塀から頭がにゅっとつきでた。小型サーチライトを手に
私が出ていくと、サッといなくなる。正面玄関を開けて近づくと、闇にまぎれて路地に
消えていった。その側溝にも、この3日というもの、屍がいくつも横たわっているのだ
。ぞっとする。女の人や子どもたちが大ぜい、庭の芝生にうずくまっている。目を大き
く見開き、恐怖のあまり口もきけない。そして、互いによりそって体を温めたり、はげ
ましあったりしている。この人たちの最大の希望は、私が「外国の悪魔」日本兵という
悪霊を追い払うことなのだ。この話はもっとも可笑しな話で 岡崎勝男上海総領事が訪
ねる程の人間なら、当たり前なら全く日本軍の暴行などなかったはずだ。実は逆に中国
の残存兵を怖がっていたとしか考えられない。

1021: 名無しさんAA:18/07/07 01:45
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  79 >  

 ラーベ日記1月9日には「11時にクレーガーとハッツが本部に来て、たまたま目に
するはめになった『小規模の』処刑について報告した。日本人将校一人に兵士が二人、
山西路にある池の中に中国人(民間人)を追いこんだ。その男が腰まで水につかったと
き、兵士のひとりが近くにあった砂嚢のかげに ごろりと寝転び、男が水中に沈むまで
発泡し続けたというのだ」この事項は国際委員会の記録にもあります。そして注釈がつ
けられています。「われわれは、日本軍による合法的な死刑執行に対して何ら抗議する
権利はないが、これがあまりにも非能率的で残虐なやり方でおこなわれていることは確
かである。」と国際委員会は便衣兵(いわゆるゲリラ)の処刑は合法的と考えていたわ
けですが、ラーベの日記にはこの見解が一切書かれていないのです。また、ラーベはこ
の暴行する支那兵を匿っているのです。「自転車に乗った日本軍の前哨によれば、総司
令官は三日たたないと到着しないということでした。中国人の民間人の死体がそこここ
にありました。いくつか調べてみたところ、至近距離から背中を撃たれているのがわか
りました。たぶん逃げようとするところ だったのでしょう。中山路と太平路をぬけ、
夫子廟の手前まできて、太平路にあるアリカ人伝道団の地所で車を降りました。」つま
りここではラーベ自身が、中国人の為の偵察将校となり調べているのを告白したような
ものである。何を調べたのか、実はこの戦線で戦った者が逃げた者を督戦兵(とくせん
へい)は背後から殺すのだがその数を数えていたのだ。それらは足に脚錠があったとい
うので直ぐに見分けられたはずだ。又老人子供はその逃げ延びた先の匿った住民であろ
う。殺さなければ正規兵は更にこの地の警官に殺されるのだ。「12月15日、外国の記者
団が上海に向かう日本の軍艦に乗せてもらうことになりました。ところがそのあとで、
イギリスの軍艦でいけることになり、桟橋に集合するよう指示がありました。出発まで
予想以上に時間がかかったので、偵察をかねて、あたりを少し歩くことにしました。そ
こでわれわれが見たものは、広場で日本軍が中国人を縛り上げ、立たせている光景でし
た。順次引きたてられ、銃殺されました。ひざまづいて、後頭部から銃弾を撃ち込まれ
るのです。このような処刑を百例ほど見たとき、指揮をとっていた日本人将校に気づか
れ、すぐに立ち去るように命じられました。ほかの中国人がどうなったかのかはわかり
ません。」これはちょっと考えられない。一列50人ほどとされ100例と証言する。
広場で行われそれをぼっーと見ていたと言うのだ。それも1月9日と言うのだ。ありえ
ない妄想である。


1022: 名無しさんAA:18/07/07 01:52
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  80 >  

 ここに幾つかの日本の同行取材陣の話がある彼らは中国での特派員である。彼らは、
「14日のことだと思いますが、中山門から城門に向かって進んだ左側に蒋介石直系の88
師の司令部がありました。飛行場の手前です。ここで、日本兵が銃剣で中国兵を殺して
いました。敗残兵の整理でしょう。これは戦闘行為の続きだと思います」(東京日日新
聞カメラマン・佐藤振寿)とここでも日本兵の服がそのまま日本人と誤認されている。
南京事件を聞いたのは?「戦後です。アメリカ軍が来てからですから、昭和21年か22年
頃だったと思います。NHKに『真相箱』という番組があって、そこで南京虐殺があっ
たとの放送を聞いたのがはじめてだったと思います。」先の南京攻略戦に同行した東京
日々新聞カメラマン・佐藤振寿の証言だ。「十三日に、中山門から城内に入りました。
もうこの日は、難民区の近くの通りでラーメン屋が開いていて、日本兵が十銭払って、
食べていました。それでも、中国人の略奪が続いて、中山路で机を運んでいる中国人や
、店の戸をこじ開け盗んでいる者もいました」(東京日日新聞カメラマン・佐藤振寿)
「十六日は、中山路で難民区から摘出された便衣兵の写真を撮っています。中山路いっ
ぱいになりましたが、頭が坊主の者、ひたいに帽子の跡があって陽に焼けている者とか
、はっきり兵士と分かる者を摘出していました。でも髪の長い中国人は、市民とみなさ
れていました」「日本兵の屍体は撮ってはいけないと言われていましたが、私は何でも
撮りました。日本兵が残虐なことをやっている写真なんか一枚もありません。この中に
は日本兵が慰問袋を中国人にわけてやってるのがありますが、たくさんの中国人が群が
っている、そんなものもあります」「朝日新聞が『中国の旅』という連載で、南京で虐
殺があったと、中国人の話を掲載していましたが、そのころ日本には、当時南京にいた
人がたくさんいるわけです。それなのに、『何故日本人に聞かないで、彼らに都合のい
い嘘ばかりのせるのか』そう思いました」「13年春(=1938年春)から3年以上も南
京に駐在し、取材に当たっていた私が、ついぞそういった風聞(=虐殺)も聞いたこと
がないのですからね。私も東京裁判でこのことを初めて知った組です。私は“南京虐殺
”など、信じません」(当時、上海・南京に特派された従軍記者・小山武夫、後に中日
新聞役員・中日ドラゴンズ社長等を歴任)勿論虐殺や処刑が無かったなどとは言う気は
ない。所詮戦争である。武器を持った兵士が日本人だからと100%の人がまともだっ
たとは思わない。しかし、現実に行って来て戦って帰還した人からは2千人ぐらいの、
中国人は死んだが、大陸で殺された者は大勢が日本人だった。と7人の老人の証言だ。
それが嘘とは思えないし、やみくもに命令を出し、それに従ったとは思えないのだ。

1023: 名無しさんAA:18/07/07 01:52
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  81 >  

 大日本皇道立教会を設立して初代会長に就任した大隈重信は、明治維新に際して小松
清廉の推挙により明治元年(1868年)、外国事務局判事に任ぜられた。キリスト教禁令
についてのイギリス公使パークスとの交渉などで手腕を発揮するとともに、賠償金問題
など山積みであった。明治2年(1869年)からは会計官副知事を兼務し、高輪談判の処
理や新貨条例の制定などの金融行政にも携わった。次いで、大蔵大輔となり、鉄道・電
信の建設、工部省の開設などに尽くした。時の大久保利通ら権勢を欲しいままであった
。これを牽制した大隈の下には伊藤博文や井上馨といった若手官僚が集まり、木戸孝允
とも結んで近代国家の早期建設を謳って、伊藤や井上らが集って政治談義にふけった。
当時はまだ倒幕後の不穏な動きもあり「築地梁山泊」と称した大隈の私邸に集まり情報
や対策など国家の中枢として私邸は機能していた。殖産興業と財政改革という点から、
明治8年(1875年)10月には、大久保利通と連名で財政についての意見書を太政官に
提出したりしている。殖産興業政策を推進し、征韓論には反対して、その後、単独でも
財政の意見書を提出し、西南戦争による支出費用の調達とその後の財政運営に携わった
。又大隈は、会計検査院創設のための建議をおこなっており、会計検査院は明治13年
(1880年)3月に設立された。明治14年(1881年)には、正確な統計の必要性を感じ
統計院の設立を建議、設立し、自ら初代院長となった。こうして欧米列強と肩を並べた
資料作りに勤しんだ。しかし、やっと出来た第1次大隈内閣(隈板内閣)では、文部大
臣であった尾崎行雄が行った財閥批判の演説が問題となり、内閣瓦解の発端となり事件
が起こった。共和演説事件(きょうわえんぜつじけん)である。これまで財閥を育てて
海外に対抗していたのだが、財閥支配に憤慨した尾崎は 1898年8月21日に帝国教育会茶
話会で行った演説の中で、「世人は米国を拝金の本元のように思っているが、米国では
金があるために大統領になったものは一人もいない。歴代の大統領は貧乏人の方が多い
。日本では共和政治を行う気遣いはないが、仮に共和政治がありという夢を見たとして
も、おそらく三井、三菱は大統領の候補者となるであろう。米国ではそんなことはでき
ない。」と批判した。これが大日本帝国憲法下の当時の日本では「不敬の言」であると
曲解され、まず宮内省から批判の声が挙がり、初の政党内閣である隈板内閣に批判的な
枢密院・貴族院に非難の声は広がり、陸軍の桂太郎らと密かに連携して尾崎排除を計画
し新聞まで非難した。尾崎は9月6日に参内して明治天皇に謝罪したが、明治天皇より、
不信任の意向が伝えられたことにより辞任した。

1024: 名無しさんAA:18/07/07 01:53
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  82 >  

この舌鋒の鋭さから立憲政友会をつくり、憲政擁護運動では立憲政友会を代表して質問
を行い、「玉座を胸壁とし詔勅を弾丸とするもの」と首相・桂を糾弾する演説を行って
大正政変のきっかけとなった。こうして第3次桂内閣退陣後、山本権兵衛が組閣すると
、政変後に自党の利益を優先しようとする政友会の方針に反発して政友会を離党し、以
後政友倶楽部・亦楽会・中正会・憲政会・革新倶楽部と移る。第1次山本内閣がシーメ
ンス汚職事件で総辞職し、清浦奎吾が首相就任に失敗すると、大隈重信に再びお鉢がま
わり第2次大隈内閣が組織され、尾崎は中正会を代表して司法大臣として入閣した。こ
こでこの海外の大企業や日本の財閥の実態を探るべく、新聞社を立ち上げていた平岡浩
太郎に白羽の矢を立てた。玄洋社は平岡浩太郎を社長として旧福岡藩士らが中心となり
、近郊の浪人藩士を食いつなぐ為に作られたものだった。杉山茂丸、頭山満、箱田六輔
、大原義剛、福本誠、内田良五郎(内田良平の父)、進藤喜平太(進藤一馬の父)、月
成功太郎、末永純一郎、武井忍助、古賀壮兵衛、的野半介、月成勲、児玉音松らが創立
に参画して、福岡はもとより佐賀藩士や熊本藩士や山口藩士などが大勢にいた一大右翼
の新聞になっていた。この大所帯から幾つもの部隊を中国に送り出そうとしていた。中
には宮崎滔天や親日開花運動家金玉均や朴泳孝、インドの独立運動家ラース・ビハーリ
ー・ボースらを庇護したり、アメリカと独立戦争を戦うフィリピンのアギナルドなどと
大アジア主義をもつ偏在するグループとも知り合いがいた。玄洋社の社則の条項では「
皇室を敬戴すべし」、「本国を愛重すべし」、「人民の権利を固守すべし」の民主主義
であり、愛国民主の藩閥政治の打倒にあった。そうした中第一勧銀が貸し付けていた、
野口遵から朝鮮での活動の要件が出て来て1901年(明治34年)に、内田良平らが玄洋社
の海外工作を担う黒龍会を設立した。その後満州経営は大きくなり、朝鮮銀行窓口とな
った。しかし黒龍会によってより多彩な活動が展開されるようになり孫文らの辛亥革命
を支援し、多くの喰い詰め浪人たちが清朝政府軍やその後の軍閥政府軍と戦っていた。
日本の勝利に大きく貢献した明石元二郎も玄洋社の社中(社員)であった。陸軍参謀本
部参謀次長長岡外史は「明石の活躍は陸軍10個師団に相当する」と評した。しかし、
在中の満蒙人となると世代交代時代にその繋がりが必要だった。その時の「福陵新報」
は1898年(明治31年)に「九州日報」と改題し、さらに1942年(昭和17年)には新聞統
制に伴い「福岡日日新聞」に合併されて「西日本新聞」となり、現在に至っている。

1025: 名無しさんAA:18/07/07 01:59
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  83 >  

頭山満の玄洋社には来島恒喜など社員がいた。上京し中江兆民に仏語を学んだ後、筑前
共愛公衆会や、頭山満率いる玄洋社に参加していた。朝鮮開化党の金玉均と過ごし朝鮮
の政治改革について語り合った仲となった。その為、大隈重信の条約改正案に反対し、
玄洋社を退社すると大隈を暗殺するべく、1889年(明治22年)10月18日、外務省からの
帰路にあった大隈に、彼の乗る馬車ごと爆弾を投げつけ、右足切断の重傷を負わせた。
来島は爆弾が炸裂すると同時に、短刀で喉を突き自害した。享年29歳の若さだった。
大隈の右足切断手術は、佐藤進やドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツの手によ
り行われた。大隈はその後、来島について「爆裂弾を放りつけた者を憎い奴とは少しも
思っていない。いやしくも外務大臣である我が輩に爆裂弾を食わせて世論を覆そうとし
た勇気は、蛮勇であろうと何であろうと感心する。」と語っている。そして大隈は来島
の墓を建ててお参りに行った。伝説では、来島本人は酒を受け付けず、大隈重信暗殺に
出向く際、別れの盃は水であったという。来島も学んだ興志塾(通称人参畑塾)の塾長
高場乱(たかばおさむ)は来島自決の報を聞き、「ながらえて明治の年の秋なから心に
あらぬ月を見るかな」という嘆きの歌を詠んでいる。博多の侠客だった「勇敢仁平」の
異名をとる大野仁平と話がこじれ乱闘となり、燭台で大野仁平の頭をたたき割っている
血気盛んな若者だった。この事件によって大隈の条約改正案は破棄された。来島の死後
、後の首相となる広田弘毅の父・広田徳平により、墓碑が作られた。大隈襲撃には月成
功太郎(広田弘毅の岳父)も計画に加わっていたが、老母、妻子を持つ月成の身を欺き
、単独で決行した。また、博多の玄洋社墓地(崇福寺)にも墓があるが、勝海舟によっ
て谷中霊園にも墓が建てられた。同墓はその後、頭山満によって建て替えられたが、当
初の墓石も傍に横たえて残されている。灯篭も勝の寄贈だが、「暗夜の灯」と彫られた
文字は官憲の手によって削られてしまった。こうして頭山満は福岡のフィクサーとして
名が知れ渡った。頭山満は右翼の総帥とされたが、日産コンテェルンとのつながりが、
出来てからだ。戦前、戦中期にかけて軍部・官僚・財閥、政界に強大な影響力を持ち、
日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦そして第二次世界大戦と日本の関わってきた数々
の戦争において情報収集や裏工作に関係してきて、米国はこの解体に力を注いでいた。
九州のの柳川は乃木希典がよくやって来た地であった。後年希典は、よく銃後の夫人の
哀れさを説いたと言う。彼が宮崎滔天や立花氏とも親交があり、その為に柳川の名家は
その多くが息子を差し出して第二次世界大戦以降跡継ぎを失っている。それに小作人が
虚をついて農地をせしめて成り上がりの大農家となっている。それがこの地方は多い

1026: 名無しさんAA:18/07/07 02:00
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  84 >  

本来は思想的には西郷が起こした西南戦争に賛同した向陽社のほうが大きな右翼だった
。高知の立志社に倣って武部小四郎が矯志社を組織すると、箱田六輔等と共に参加して
1877年(明治10年)、西南戦争に呼応して越智彦四郎、武部小四郎等が挙兵(福岡の変
)するとこれに加わるが敗れ、その後、単身西郷軍に合流し、豊後・日向の本営におい
て謀議に参与。敗戦後、東京の獄に懲役一年の刑を受けている。出獄後は自由民権運動
に参加し、箱田六輔、頭山満、進藤喜平太等と共に向陽社を組織し1879年(明治12年)
11月に開催された愛国社同盟第3回大会では幹事を務め、1880年(明治13年)3月に開催
された愛国社第4回大会においては国会期成同盟の設立に主導的な立場をとっている。
1881年(明治14年)、向陽社を玄洋社と改名して初代社長に就任。1882年(明治15年)
、朝鮮の壬午事変に際し、西郷軍の生き残りの野村忍助と義勇軍計画を起こすなど、早
くからアジア問題に関心を示し、大アジア主義をとっていた。平岡浩太郎が興したこの
玄洋社は進藤喜平太などの勧めで実業方面にも進出し、この時頭山満などが参加した。
赤池・豊国炭鉱などの経営に成功し、その豊富な資産で玄洋社の対外活動を支え、一方
で九州鉄道の創設、官営八幡製鉄所の誘致運動などに関わり、福岡県の経済発展に貢献
している。進藤喜平太の子息で、中野正剛の秘書や玄洋社の最後の社長を務めた進藤一
馬は福岡市長となった。多くの玄洋社の運動家が輩出した福岡藩の藩校である修猷館は
、現在は県立高校(福岡県立修猷館高等学校)となった。進藤の跡を継ぎ1986年(昭和
61年)から1998年(平成10年)まで福岡市長を務めた桑原敬一も修猷館高校出身である
。また、玄洋社の思想に共鳴した柴田徳次郎によって、関東一円の学生によって設立さ
れたのが青年大民團である。青年大民團は玄洋社の思想を多くの青年へ教育するための
教育機関として私塾國士舘を設立しており、こうした関係から第二次世界大戦直後は国
士舘大学はその名称を変更させられていた時期もあった。ここに徳川氏の中国経営が入
った。堀川辰吉郎は幼少時に、福岡にある維新後、元黒田藩士が結成した政治工作結社
「玄洋社」に預けられた。玄洋社の社長は「頭山満」でしたが、隠れた社主は黒田藩主
だった黒田長溥の実子「杉山茂丸」であり、辰吉郎は杉山を後見人として育てられた。
辰吉郎は10歳のころ上京し学習院中等科に入りますが、問題行動を繰り返して放校処
分を受けたため、13歳の時、日本に亡命していた孫文に托され支那に渡り革命行動を
共にした。こうした事は大陸浪人の面目でもあったらしい。


1027: 名無しさんAA:18/07/07 02:02
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  85 >  

 堀川辰吉郎はその後、奉天の「世界紅卍字会」の会長に就任し、日本軍と支那政府と
の折衝に当たり、日支講和に尽力した。1912年に帰国し活動写真の配給会社を経営した
後、1935年に「大日本国粋会」第3代総裁に就任した。国粋会は立憲政友会の用心棒的
存在だった。原敬の内務大臣・床次竹二郎が世話役に、全国の博徒の行動を統制しよう
と出来た物だった。右翼の頭山満を顧問に迎えて結成され、大日本国粋会は、土建業者
を含む博徒の生業を保障して全国的な超党派的純国家主義思想団体として、伝統の侠客
道をもって海外勢力を抑える右翼団体となっていた。侠客の人情を根本信条の行動原則
とした。創立当時、総裁には伯爵大木遠吉、会長は村野常右衛門、理事長は中安信三郎
が務め、会員数60万と称して外国からのスパイ活動や扇動活動する工作員を抑えよう
としていた。しかし、堀川辰吉郎は、大陸での反軍閥運動が逼迫し、東條内閣と対立し
て再び支那に渡った。この江戸から明治に至っては、武士の至難の時代だった。徳川家
は、華族になり少しの俸禄は得た。徳川宗家は公爵で華族の最高位にいた。必ず貴族院
に議席を占める権利を有することになっていた。徳川御三家もそれぞれ侯爵の爵位を授
けられ、後に水戸徳川家だけは勲功を考慮され公爵になった。更に、徳川御三卿家もそ
れぞれ伯爵の爵位を受けた。加えて徳川慶喜家も特別に公爵になり、徳川家だけでもざ
っと公爵3家・侯爵2家・伯爵3家を、明治政府は議員年俸で生活を預かった形である
。しかし徳川家の家臣になれば、全ての大名、旗本、御家人は飢えていた。一方的な、
廃藩置県や農地解放が行われたからだ。それでも、大名については基本的に朝敵でも、
新政府側(薩長土肥など)も全て華族になった。石高や家格・勲功に応じて爵位が割り
当てられた。ちなみに会津松平家はきちんと石高に応じた子爵になっている。問題は、
旗本・御家人だった。基本的に維新後は士族・卒族に編入され、更に卒族は廃止された
、その際に士族になる者と、平民に編入される者に分かれた。士族になる条件は「世襲
の武士であったもの」でありますから、世襲の御家人つまり「譜代」「二半場」の家格
を有する者は士族にでも、非世襲である「抱席」の家格だった者は平民に編入される事
になります。こうして士族としての身分でも有秩禄処分等々で士族の特権は次々と無く
なり、普通の士族と同じように困窮して行く者が多くなっていった。これの救済が藩主
の器であった。多くは新天地の開拓にその希望をのせて、北海道やサハリン・満州に、
その種を一生懸命になった。

1028: 名無しさんAA:18/07/07 02:03
1935年6月10日には梅津・何応欽協定、同月27日には土肥原・秦徳純協定が成立した。
両協定によって国民政府と中国国民党が中国北部に置いていた機関や部隊がいくつか廃
止あるいは移動させられた。梅津・何応欽協定に関しては中央直属駐平憲兵第三団が北
支から撤退し、国民革命軍の第五十一軍、旧東北軍、および第二師と第二十五師が移駐
した。土肥原・秦徳純協定に関しては宋哲元の二十九軍が移動させられている。しかし
その後、1935年10月21日河北で民衆運動が発生した。河北自治運動とされる。最初の運
動は香河県の有力者・武宜亭を指導者とし、減税と自治を要求し、ライフルとショット
ガンで武装しており、この事件は中国側で香河事件と呼ばれた。多くの日本人の「浪人
」が参加していたため、日本の憲兵隊がその中の6人を逮捕して取調べを行い、監視の
下、天津に移送した。冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)はそうした中
で出来た中立地帯だった。1935年から1938年まで中国草創期の中国河北省に存在した政
権で、当時の日本側の認識によると、地方自治を求める民衆を背景に殷汝耕の指導によ
り成立していた。中国側からは当時から現代に至るまで日本側の特務機関の工作活動に
より設立された傀儡政権であると主張されているが全く違って、日本政府とは別に孫文
や殷汝耕を後押ししていたのである。この国は日本や米国にも中国側と同様の認識での
傀儡政権であった。国旗には中華民国が最初に定めた五色旗を使用した。つまり国際的
に認められれながら、何一つ自立の出来ない国だった。張作霖はそれを見越して兵を挙
げたのだ。1935年同年11月25日、土肥原賢二に誘われる形で、殷汝耕は「冀東防共
自治委員会」の成立と自治を宣言した。これにより、殷に対して国民政府は逮捕令を発
している。翌月、委員会は冀東防共自治政府に改組され、殷は政務長官に就任した。。
しかし、奉天派の軍人・郭松齢が張作霖に対して兵変を発動すると、殷は郭の配下とな
り、外交処長に任ぜられた。しかし翌月に郭は敗死し、殷は日本領事館に逃げ込んでい
る。蒋介石の国民革命軍総司令部通訊処処長兼参議に任ぜられ、蒋が日本と交渉する際
には通訳を担当した。翌年の上海クーデターを経て、上海市長黄郛の下で秘書に任ぜら
れ、黄郛が外交部長に就任すると、殷汝耕は駐日外交特派員となった。なお、この頃ま
でには、殷汝耕は殷同、袁良、程克とともに、日本通の四巨頭と目されるようになって
いる。しかし5月に済南事件が勃発してから数ヶ月後の冬に、首相田中義一と対立して
いた床次竹二郎が南京を訪れた。この時蒋介石と事件解決等を話し合ったが、このとき
通訳を担当していた殷汝耕は、会談内容をすべて首相の義一に密告してしまい、同郷の
床次は政治的打撃になってしまった。床次は殷の漏洩行為を蒋に通知し、蒋は殷を通訳
から罷免した。

1029: 名無しさんAA:18/07/07 02:10
 日本の満鉄経営で華北工作は失敗に終わっていた。にも関わらず板垣と石原は勝手に
占領地を作ってしまった。この日本が満州事変を起こして中国の東北4省を占領した後
政府は軍部と一様に将来は見えて居なかった。つまり方針は定まっては居なかったのだ
。これに接する河北省(冀),察哈爾(チヤハル)省(察)をはじめ山東,山西,綏遠(す
いえん)の華北5省を中国国民政府から切り離し日本の支配下におこうとした工作が産
まれ殷汝耕によって冀東防共自治委員会が成立し、中立地帯政府が出来たのだ。しかし
結局は「満州国」の抗日運動を孤立させ,対ソ戦に備えて軍事基地を確保し,あわせて
鉄,綿花など重要資源に富む華北を日本の経済ブロックにとりこもうというねらいがあ
ったが、抗日抗争を拡大化させたのみの功績で、ロシアの南下を止める手立てにはなっ
たが中国経営には障害だった。軍にとっては大きな自由度がもたらせられたが、満鉄は
そもそも税金を中国に払った方がうんと安く、又日本政府もそのままの方がこじれずに
済んだ。新たな満州国となった事で国際的には孤立を深め、国内的には中国の産業育成
が税問題で複雑化したのだ。そこに又軍がアヘン経営を持ち込んで、陸軍独自の予算を
作って軍票発行を行ったのである。この華北分離工作は1935年から日本の出先軍によっ
て高圧的に推進され,中国の抗日救国運動をひろげ,最終的に日中戦争をひきおこした
。だがしかし少し前に1920年3月7日、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のソビエト
政権は日本のシベリア出兵に対峙すべく、極東共和国を建国して、1922年11月19日まで
存在させて傀儡政権を作っていた。シベリア出兵が開始された時、特にその中核である
日本軍がバイカル湖西岸までにいたるシベリア鉄道沿線を中心とするロシア極東地域を
占領していたが、日本が支持した白軍の主力たるコルチャーク軍が1920年1月、赤軍な
らびにパルチザンの攻勢により瓦解すると、アメリカの圧力等も含め日本政府のシベリ
アからの撤退を強制された。、ボリシェヴィキ政権の政策が硬く根を下ろしたために、
対抗したブルジョア民主主義を掲げた緩衝政権の樹立を構想したクラスノシチョーコフ
を首班として、社会革命党などの協力を得て成立していた。しかし、日米の撤退により
コルチャークと戦った赤軍将校ブリュヘルが共和国軍の最初の司令長官となったことか
らも明らかなように、実際にボリシェヴィキの影響力が強く、赤軍が取り巻き、占領を
続ける日本軍との対決を続けた。しかしその後、赤軍が1922年10月にウラジオストクを
陥落させ、日本は北サハリンを除く地域から撤退し、共和国は存在意義を喪失してソビ
エト政権へ統合される事になった。ウラジオストックはロシアが開港した様に言われる
。だがもともとは古くから鮮卑族や伊濡族やアイヌ族など多用の民族の物々交換場所で
あった。目の前に金角湾が半島に切れ込んでいるが金角湾の名は金の積み出し港だった
からだ。

1030: 名無しさんAA:18/07/07 02:10
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  88 >  

殷汝耕は1937年(民国26年)7月、国民革命軍第29軍軍長宋哲元と秘密裏に連絡を取り
合っていた冀東保安隊第1総隊長張慶余、第2総隊長張硯田が蜂起し、あえなく殷汝耕
は捕縛されてしまった(通州事件)。張慶余は、捕らえた殷を宋に引き渡そうと北平に
護送した。ところが、宋はすでに北平を離れており、日本軍と遭遇した護送部隊は蹴散
らされてしまう。混乱の中殷汝耕は逃げて身を隠したが日本軍は、殷を通州事件の首謀
者と誤解して、まもなく殷は日本軍により逮捕されてしまった。危うく処刑されそうに
なったが、親交のあった頭山満の斡旋で辛うじて助命された。しかし、政務長官は辞任
することになる。こうして殷汝耕は力及ばず袁世凱の北洋軍閥の一部であった馮系(西
北派)は東北の奉系(奉天派)に食われ、奉天軍はその後の安直戦争で直系(直隷派)
皖系(安徽派)も平らげた。しかし孫文が没する。1926年に蒋介石を中心とする直系は
国民革命軍を作り北伐を開始し内紛状態が続いた。晋系(山西派)を率いた、閻錫山(
えん しゃくざん)は模様眺めだったが、中国国民党の北伐が本格化すると、蒋介石と
同盟し、国民政府内で重鎮となった。しかし、権力の拡大とともに蒋と次第に対立、反
蒋戦争の中原大戦で敗北し、一時下野している。復帰後も山西省に拠り、日中戦争期に
は中国共産党や日本軍と交渉・対立した。最後は国共内戦で共産党に敗北し、台湾へ逃
亡している。殷汝耕は治水専門家としての技量を 日本側から評価されることになる。
1942年(民国32年)、殷は汪兆銘(汪精衛)の南京国民政府に参加する形で政界に復帰
した。同年2月、山西煤鉱公司董事長に任命されている。翌年3月17日、国民政府経済委
員会常務委員に任命され、1944年(民国33年)1月からは、治理運河籌備処主任、治理
運河工程局局長を歴任した。しかし、殷は権限の小ささに不満を抱き、6月に治水関係
の職務を辞して北平に戻った。日本降伏後の1945年(民国34年)12月、殷汝耕は漢奸と
して逮捕され、翌年5月、南京に護送された。殷は獄中で回顧録を著し、自分の行動が
実は愛国心に基づいたものであったと主張したが、悪評しか残らず愛国無罪とはならな
かった。1947年(民国36年)、最高法院で死刑が確定すると処刑までの日々は、終日、
読経により過ごしたとされる。12月、南京の刑場で銃殺に処せられたが、最期まで従容
とした態度であったという。享年63歳だった。殷汝耕は汪兆銘は日本留学を果たした親
日家であった為煙たがれ時には罵倒された。しかし袁世凱や孫文らの独裁で強権的支配
に抵抗し中国国民を愛した。だが一方で日本の政府に利用され米国派の蒋介石ロシア派
の毛沢東などとは袂を分けて日遇な運命だった。

1031: 名無しさんAA:18/07/07 02:15
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  89 >  

 済南事件が勃発してから数ヶ月後の冬に、首相田中義一と対立していた床次竹二郎が
南京を訪れ、蒋介石と事件解決等を話し合った時、冀東防共自治政府は独自の政府とし
ては存在しなく北京政府の下に置かれた。柳条湖事件に始まる満州事変の軍事的衝突の
停止の話し合いだったが、奉天軍の張作霖のテロ行為を止める為の方策とも言える。古
来より熱河は 清朝の夏の別邸地域として歴史上は、漢人のいない土地だった。満州と
中国本土の間にくさびのように存在し、その狭い終端は山海関で海に向かっている。こ
の地は満州国の建国宣言では満州国の一部とされ、塘沽協定が締結された当時は既に、
その山間地は北京を含む中国北部を威圧する場所としても、あるいは満州へ軍隊、扇動
家、工作員が送り込まれる場所としても重要となっていた。また三井が行ったアヘン栽
培による収益が当地の価値を高め、日本の宮家や徳川家の台所を支える形に変わってい
た。その地理上の位置から欧米資本の無い戦略的・政治的に重要な機能地になっていた
。済南事件は馬賊のロシア支援の北軍と日本支援の南軍が戦っている場所だった。日本
が投資した膠済鉄道は日本の借款で大きな経済効果をもたらしていた。同鉄道沿線の鉱
山は日中合弁会社が経営するなど、山東省には日本の権益も存在して治安は悪化してい
たが、済南は主要な商業都市であり、日本人を中心として多くの外国人が居住していた
。この為権益確保と治安維持に日本軍が駐在していた。当時投資総額は約1億5千万円に
なり日本の国家予算の3倍がつぎ込まれて経営していた。第1次国共合作の終了により
北伐が頓挫し、そのままに推移するかに見えたが、1928年(昭和3年)1月上旬、再度
蒋介石が国民革命軍の総司令に就任し、2月に蒋介石は馮玉祥、閻錫山と北伐に関する
協議を行って北伐軍を編成し北伐を宣言した。4月12日、韓荘、台児荘の線を占領し
ていた山東軍は敗れ、戦乱はふたたび山東省に及ぼうとした。これが中国の最初の悪態
であった。破壊活動を続ける共産党員の退治に、逃げ込んで行く共産党ゲリラがいたか
らだが、その要因の一つは大麻の栽培にもあった。南京において1927年(昭和2年)3月
24日早朝、国民軍総司令蒋介石の北伐軍が南京に入城した。その軍長は程潜であった。
当初は平和裏に入城していたが、まもなく、反帝国主義を叫ぶ軍人や民衆の一部が外国
の領事館や居留地などを襲撃して暴行・掠奪・破壊などを行い、日本1人(後述の宿泊
船警備の海軍兵)、イギリス3人、アメリカ合衆国1人、イタリア1人、デンマーク1人の
死者、2人の行方不明者が出た。これを機に貧富の格差が中国内で外国人襲撃となって
いた。これが上海クーデターの遠因になるとは当時はおもいもしなかった日本軍がいた


1032: 名無しさんAA:18/07/07 02:17
 昭和12年8月、第2次上海事変が起きた。上海の難民区で30万人のシナ人を保護
していたフランスのジャキノー神父は、東京日々新聞に次のように語った。
 日本軍は人道上の誓約を守り通して、一発の砲弾も打ち込まなかったため、
   抗日的態度をとるものもなかった。私の永い支那生活中、今度くらい日本軍
   が正義の軍であることを痛感したことはありません。食料があと二、三日分
   しかなく、心配していたところ、松井大将が一万円を寄贈して下され、非常
   に感謝しているところです。
この「松井大将」とは、この後の南京攻略の際に、20万人以上を組織的に虐殺した責
任を問われ、東京裁判で死刑に処せられた上海派遣軍司令官・松井石根(いわね)大将
である。上海で神父に称えられた人が、続く南京では「20万人以上もの組織的虐殺を
した悪魔」となるなどという事がありうるのだろうか。まさに歴史ミステリーである。
 松井石根は貧乏士族の六男で、12歳の時に名古屋から上京し、軍人養成のための全
寮制学校、成城学校に入った。その後、陸軍士官学校は2番、陸軍大学は首席で卒業し
た。参謀本部第二部長の時、張作霖爆死事件が起こり、松井はその犯人河本大作大佐を
厳罰に処すべしと強く主張したが、当時台頭しつつあった革新的青年将校の威勢の中で
、処罰はうやむやのうちに葬り去られた。松井は、軍紀にやかましい煙ったい親父とし
て青年将校から嫌われたが、この下克上の風潮はさらに悪化し、満洲事変の勃発時に、
白昼陸軍省内で永田軍務局長刺殺という前代未聞の不祥事を起こした。松井大将は軍の
長老として、責任をとり、自ら退役を願い出たのである。四十余年の陸軍在職中には、
10年以上も中国に在任し、孫文や、蒋介石など、多くの名士と親交を結んだ。そして
、軍事はもとより、政治、経済その他あらゆる漢民族の文化を研究するにつれて、中国
愛好の念を深め、次第に日中の親善提携と、アジアの復興を念願するようになった。特
に孫文の唱えた日中提携による大アジア主義に、松井は深く共鳴し、現役の時から「大
亜細亜協会」設立発起人の一人となり、退役とともに会長となって、日中和平・提携を
、日本国内、および、中国で説いて回った。松井は孫文の第2、第3革命を陰に陽に支
援し、孫文亡き後は、その遺志を継いで中国の統一と日中提携を実現しうるものは蒋介
石をおいて他にない、との認識から蒋を支援した。昭和2年、蒋介石が北伐の途中大敗
して、最大の危機にあったとき、松井は蒋を日本に呼び、時の田中義一首相に引き合わ
せた。この会談の結果、日本は蒋の北伐を援助し、張作霖を満洲に引き上げさせた。昭
和11年、支那事変の前年には、反蒋介石の巨頭胡漢民らと会談し、蒋介石の南京政府
と提携して、中国の統一を図るべきだと進言している。その足で南京により、蒋介石と
会談して、国父孫文の「大アジア主義」の精神に帰ろうと呼びかけた。

1033: 名無しさんAA:18/07/07 02:17
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  91 >  

 蒋介石軍の戦いぶりは、およそ近代的戦争の常識や国際法をはずれたものであった。
たとえば、「清野戦術」とは、退却に際して、敵軍に利用させないために民家などをす
べて焼き払ってしまうものである。これは、後に南京から撤退する時にも、ニューヨー
ク・タイムズのダーディン記者が目撃・報告しているように、中国軍自体による放火略
奪となって現れる。もうひとつは「便衣兵」で、中国兵が農民に偽装して、日本兵を背
後から襲うというゲリラ戦法である。国際法では正規兵はそれと分かる軍服を着用しな
ければならない。一般市民を戦闘の巻き添えにさせないためのルールである。しかし、
中国軍の「便衣兵」とは、およそ軍隊でなくこのルールを破り、人民の背後に隠れて、
攻撃をする、という不法な「禁じ手」であった。それは、共産党軍が同じだったからだ
。さらに日本軍を驚かせたのは、「督戦隊」であった。これは戦意のない兵隊に対して
、後ろから機関銃掃射を浴びせかけて、前進して戦わなければ、後ろから撃たれるだけ
、という状況に兵を追込むものである。これでは、兵は降伏もできず、死に物狂いで戦
うしかない。南京を根拠とする中国軍は、再び、その付近に大軍を集めつつあり、江南
地方全体の治安を維持する為に、乞われて日本軍は南京攻略を決意した。松井は、南京
攻略を全軍に伝えるに際し、「南京は中国の首都である。これが攻略は世界的事件であ
るゆえに、慎重に研究して日本の名誉を一層発揮し、中国民衆の信頼を増すようにせよ
。特に敵軍といえども抗戦意思を失いたる者および一般官民に対しては、寛容慈悲の態
度を取り、これを宣撫愛護せよ」と命じた。特に松井は南京郊外にある孫文の慰霊廟、
中山陵を戦火から守ることを厳命し、その保全に成功している。12月9日に、松井は
平和理に南京開城を願って、降伏勧告を行ったが、すでに蒋介石や他の将軍達は南京を
脱出し略奪暴行がおこっていた。南京防衛を命ぜられた唐生智将軍も、降伏勧告を無視
して、12日、部下と民衆を置去りにしたまま逃亡した。正規に降伏する機会も与えら
れず、見捨てられた将兵達は、パニックに陥って、城壁の前で大勢が折り重なって圧死
したり、数千人の便衣兵が市民を殺してその衣服を奪い,難民区に紛れ込んだ。南京で
はドイツ人ラーベを委員長とする民間人有志による国際委員会は、その為銃器をもって
、教会に逃げ込み安全地帯を設け、難民区としていた。ラーベは、日本軍に対して、「
貴軍の砲兵隊が安全地帯を砲撃しなかった見事な遣りに感謝するため、我々は筆をとっ
ております。」と謝意を表明している。

1034: 名無しさんAA:18/07/07 02:21
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  92 >  

 しかし、清野戦術と便衣兵とで疲弊していた日本軍の一部にも、「若干の暴行・略奪
事件があった」と憲兵隊から聞かされた。松井は、必要以外の部隊を城外に出させた。
18日、中国軍将兵をもあわせ祀る慰霊祭を執り行い、「これが日中和平の基調であり
、自分の奉ずる大アジア主義の精神である」と声涙くだる訓示を行った。日本軍により
治安が回復すると、民衆も続々と南京に戻り始め、屋台も出るなど、市はもとの活況を
取り戻していった。12月24日から、1月6日まで続いた住民登録では、5万人の人
口増加が記録されている。上海戦から、南京占領までに、日本軍の戦死は2万1,30
0、戦傷病者は5万余であった。勿論多くの中国兵も死んだに違いない。しかし多くは
後ろから銃口が向けられ、逃亡し損ねての足輪のついたままの死体だった。松井大将は
帰還後、昭和14年に日中戦没者の血の沁みた土を取り寄せ、これをもって熱海・伊豆
山の寓居に興亜観音を建立した。この事変を転機として、両民族が親和し、今事変の犠
牲者が東洋平和の礎石となる事を願って、朝夕、読経三昧の生活を送っていた。昭和2
1年、東京裁判が開かれ、松井大将はここから引き立てられ、聞いたこともない南京で
の「20万人以上の虐殺」の責任者として絞首刑に処せられたのである。その思いは、
そうした嘘が通る国際社会への憤慨と日本国への危惧であったとされる。それは弁護士
が言う様にいわゆる証言のもみ消しとしてアメリカ側が松井大将の死刑を急いだからだ
。 すべては、旧日本軍が南京を占領したことから始まっている。当時の中国の首都で
あった南京を攻撃することになり、この戦いで旧日本軍に多くの死傷者がでていた。戦
友を失って殺気も立っていたのだろう。既に南京城内には、南京接近の攻防戦の最中に
、中国軍守備隊の司令官・唐生智は敵前逃亡していて、中国軍の指揮系統は混乱してい
た。大日本軍陸軍大将の南京派遣隊隊長・松井石根の発案で降伏勧告を2度起こしたが
、守備隊は全く応答が無かった。そんな南京守備隊を見た旧日本軍は「守備隊は降伏し
ない」と判断し、攻城戦から城内に入って殲滅戦に切り替えて、南京へ入ります。この
時松井大将が懸念していたのは、実は便衣兵と呼んだ民間人に偽装した制服もないゲリ
ラ兵の存在であったのは当然だ。日本軍は彼らにたびたび悩まされていたからだった。
この便衣兵に対する日本軍の対処が虐殺に見えたのではないかともいわれています。中
国側は丸腰の民間人であったと主張しているのに対し、南京大虐殺否定派は便衣兵の処
刑であるとし、軍事行動としては当然の行為だったとみなしています唐生智将軍が指揮
下に約5万人だった中で何割が便衣兵で何割が逃げれたのか未だ不明である。

1035: 名無しさんAA:18/07/07 02:21
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  93 >  

 この時東京裁判に提出された紅卍字会の埋葬記録によれば、2月15日の段階で約1
万7千体の埋葬が行われたことになっています。この紅卍会こそは前身の卍会の後継団
体だった。卍会は少林寺拳法で有名な少林寺の下部組織があまりの共産党の放埓に耐え
かねて、日本の資金を乞いて、孤児以外の生活共生を始めたサークルだった。その後日
本の仏教会の活動と連動していて、これにより共産党と対立した。ここに満蒙開拓団な
どで応援を受けた八咫烏の堀川辰吉郎がいた。かれは軍人でも満鉄社員でもなかった。
 そこに日本軍の後ろ盾で自治委員会が成立させて住民代表となった。1938年1月1日で
すから、紅卍字会が自治員会(特務機関)の元で埋葬を行ったのは、元旦以降というこ
とになります。1937年12月13日(陥落)から年末までの埋葬は、軍の指導による使役で
その労働者の元締めだった。日本軍が紅卍字会を雇ったのである。当初1月まで日本軍
の要求しない地区の埋葬活動はできなかった。自由に埋葬ができないという意味でなら
ば、埋葬許可は下りなかったということもあるが、それ以上に労務者が集められず病気
や感染症も考えた埋葬と日本人と中国人の身元区別が必要で遅々として進まなかったの
だ。『南京特務機関の報告』によれば、正式な紅卍字会の埋葬が始まったのは一月上旬
で、紅卍字会の埋葬記録によれば1938年は1月10日には埋葬が始まっている。死体は
どれぐらい存在したかを、上記の日記で言うと、1月7日の時点で一切の埋葬許可が下
りていないというのはありえるが、その状態が2月まで継続したということはない。1
月31日のラーベの日記には「家の前の死体が埋葬された」とは書いていますが、許可
が下りたという記述はされていない。1月22日の記述は、過去においては埋葬許可を
申請したという意味でしょう。これらのことは、ラーベも知っていたと思われますが、
日本軍の残虐度をヒットラーにアピールする為に、家の前の死体がなくなるまで一切の
埋葬が許可されなかったという風に「勘違いさせる」文章を書いたと考えられます。そ
の後安全と解れば難民は続々と安全区に流れ込んできた。ラーベが寄せたのだ。「私達
は城壁にポスターを張り、安全区の友人の家においてもらうよう、それから充分な夜具
と食料を持って来るように指示しました。」つまり中国兵の司令官で命令したのだ。「
次に、もっと貧しい人の為に、いまや方々にある空家や入居前の新築の建物を明け渡し
、最後に極貧の人々、いわゆる「老百姓」に、アメリカ伝道団の学校や大学などの大き
な建物を開放しました。」その為、恐れていた難民の殺到を避けることが出来たのです
。」と言っている。清野戦術で安全区以外は殆ど残って居る家は少なく住民がいた筈だ
これを安全区に入れての空き家に便衣兵を寄せたとしか考えられない。

1036: 名無しさんAA:18/07/07 02:25
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  94 >  

「この様に、安全区は何日にも亘って少しずつ塞がっていったのですが、それでも、一
家そろって野宿しなければならなかった難民が後を絶ちませんでした。おいそれとは、
手頃な宿が見つからなかったのです。私たちは全ての通りに難民誘導係員をおきました
。ついに安全区がいっぱいになったとき、私たちはなんと25万人の難民という「人間
の蜂の巣」に住むことになりました。最悪の場合として想定していた数より、更に5万
人も多かったのです。「住民は敵意を持っていなかったし、日本兵を怖がってもいなか
ったと思います。逆に、便衣隊がいましたので日本兵の方が中国人を警戒していました
。」(読売新聞上海特派員・森博)「捕虜を捕らえたが、捕虜にやる食糧がないし、収
容する所がない。放してもまた兵隊になる。それで困って処刑をやったと言っていまし
た。・・・下士官が単独でやったと思います。分隊長クラスの下士官です」(読売新聞
上海特派員・森博)「南京にいる間(虐殺を)見たことがありません。戦後よく人から
聞かれて、当時のことを思い出しますが、どういう虐殺なのか私が聞きたいくらいです
。アウシュビッツのように殺す場所がある訳でもないですからね、私が虐殺の話を聞い
たのは、東京裁判の時です」(報知新聞カメラマン・二村次郎)「虐殺事件に関しては
、守山(義男)君が船着場で中国兵を射殺する処刑のところを見たといって憤慨してい
たので、よく憶えている。守山君は中国語ができたので、いろいろ面白い記事が送れた
ようだ。しかし、他のそうした虐殺については全く聞いていない。」(東京朝日新聞記
者・平松儀勝)「揚子江岸に夥しい中国兵の死体の山が連っている。千は越えていた。
2千に達するかもしれない。1個部隊の死体であった。城内に戻って、警備司令部の参
謀に尋ねてみた。少数の日本部隊が、多数の投降部隊を護送中に逆襲を受けたので撃滅
した、というのが説明だった」(同盟通信記者・前田雄二)「犠牲が全然なかったとは
いえない。南京に入った翌日だったから14日だと思うが、日本の軍隊が数十人の中国
人を射っているのを見た。塹壕を掘ってその前に並ばせて機関銃で射った。場所ははっ
きりしないが、難民区ではなかった」(東京朝日新聞記者・足立和雄)「こうして安全
区を別とすれば、南京市は人気(ひとけ)が無くなり、我々委員会のメンバー、わずか
のアメリカ人新聞記者、取り残されたヨーロッパ人が2〜3人いるだけになりました。
中国側によれば、まだ中国人が大勢安全区の外に隠れていると言う話でしたが、これは
確かめることができませんでした。」(米国記者の証言)

1037: 名無しさんAA:18/07/07 02:27
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  95 >  

 本当の「事実」は、紅卍会という宗教団体が埋葬した記録をつくっている。1937
年12月から翌年3月にかけて南京市内で4万体以上の死体を埋葬した記録が正確だ。
(正確には40371体)この記録は他のいくつかの記録とも符号していて、信憑性の
高いものである。また崇善堂という慈善団体も埋葬の行動をしており、これは11万2
266体と記録している。この数字は日本人中国人を問わず記録されている数字といえ
る、1922年(民国11年)、世界紅卍字会は中華民国山東省済南府において政府の批准に
より組織された。道院の付属施設機関であり、大網二項の宗旨に基いて慈善博愛の善行
を挙弁する附帯事業の執行機関であった。世界紅卍字会の赤色の印「卍」は「万」を当
てることもあるが、発音は共に(wan) とする。紅は赤誠を表徴し、卍は吉祥雲海と称し
て佛相を象徴させたもの。」といわれる。宗教的な仏教シンボルである。支那事変の当
時は、上海などの一部地域を除けば、世界紅卍字会のほうが赤十字社よりはるかに活動
していて、認知度も高かった。満州事変以前から、日本では傀儡政権を担う組織に適し
ていると考られていた節があって盛んに寄付を行ったからだ。図らずもアメリカからの
赤十字は送った荷物が、薬品や食料以外に銃器類が認められた例もあるほど、米軍密偵
の派遣先として利用されていたからだ。1937年の日本軍による南京占領の際には、日本
の法政大学に留学した経験のある南京分会会長・陶錫三(陶宝普、陶錫山)が南京自治会
長に任命された。ただし、病気を理由に執務はしなかった。それでも世界紅卍字会が行
う慈善事業には恒久的のものと臨時のものがあり、恒久的事業として「医院」や「平民
学校」「貧民工廠」(貧民の為の共同工場)「惜字会」(字を粗末にしないという趣旨
の共済会)「因利局」(貧民への為の無利子融資の銀行代行)「育嬰堂」(親が無力の
嬰児を育てる幼児保育施設)「残廃院」(身体に障害を持つ人のためのリハビリ施設)
「卍日々新聞」「慈済印刷所」などのほか、いくつもの慈善事業を行っていた。1929年
9月、満州及び北平中都等の紅卍字会幹部が日本の京都嵯峨の人類愛善会訪問、翌年に
人類愛善会が渡航し、宗教・国籍の違いを超えた世界平和実現活動を前提とした提携関
係を築いた。



1038: 名無しさんAA:18/07/07 02:38
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  95 >  

 本当の「事実」は、紅卍会という宗教団体が埋葬した記録をつくっている。1937
年12月から翌年3月にかけて南京市内で4万体以上の死体を埋葬した記録が正確だ。
(正確には40371体)この記録は他のいくつかの記録とも符号していて、信憑性の
高いものである。また崇善堂という慈善団体も埋葬の行動をしており、これは11万2
266体と記録している。この数字は日本人中国人を問わず記録されている数字といえ
る、1922年(民国11年)、世界紅卍字会は中華民国山東省済南府において政府の批准に
より組織された。道院の付属施設機関であり、大網二項の宗旨に基いて慈善博愛の善行
を挙弁する附帯事業の執行機関であった。世界紅卍字会の赤色の印「卍」は「万」を当
てることもあるが、発音は共に(wan) とする。紅は赤誠を表徴し、卍は吉祥雲海と称し
て佛相を象徴させたもの。」といわれる。宗教的な仏教シンボルである。支那事変の当
時は、上海などの一部地域を除けば、世界紅卍字会のほうが赤十字社よりはるかに活動
していて、認知度も高かった。満州事変以前から、日本では傀儡政権を担う組織に適し
ていると考られていた節があって盛んに寄付を行ったからだ。図らずもアメリカからの
赤十字は送った荷物が、薬品や食料以外に銃器類が認められた例もあるほど、米軍密偵
の派遣先として利用されていたからだ。1937年の日本軍による南京占領の際には、日本
の法政大学に留学した経験のある南京分会会長・陶錫三(陶宝普、陶錫山)が南京自治会
長に任命された。ただし、病気を理由に執務はしなかった。それでも世界紅卍字会が行
う慈善事業には恒久的のものと臨時のものがあり、恒久的事業として「医院」や「平民
学校」「貧民工廠」(貧民の為の共同工場)「惜字会」(字を粗末にしないという趣旨
の共済会)「因利局」(貧民への為の無利子融資の銀行代行)「育嬰堂」(親が無力の
嬰児を育てる幼児保育施設)「残廃院」(身体に障害を持つ人のためのリハビリ施設)
「卍日々新聞」「慈済印刷所」などのほか、いくつもの慈善事業を行っていた。1929年
9月、満州及び北平中都等の紅卍字会幹部が日本の京都嵯峨の人類愛善会訪問、翌年に
人類愛善会が渡航し、宗教・国籍の違いを超えた世界平和実現活動を前提とした提携関
係を築いた。ここに後で八咫烏を率いた堀川辰吉郎がいた。この惨状に涙した様だ。特
に鉄の轡をして鉄砲を持たされて転がり死んだ中国兵に哀れさを感じたという。後年に
世界救世教(メシヤ教)の乗っ取り世界仏教として「人類が平和でありますように。」
と言う標識杭を打ち歩いた。


1039: 名無しさんAA:18/07/07 02:51
多くの書籍のその大半は1938年4月に南京城外で10万5千体を埋葬したとなって
いる。その時期までに城内の死体埋葬はほぼ終了していた。崇善堂は数千の死体埋葬を
すませていた。4月になると気温も上昇し、死体の腐敗もすすむという状況になったの
で、それまで死体に軽く土をかけただけのものなどが城外に放置されていた。これ以外
に日本軍が揚子江に流してしまった遺体などは記録されていないとされる。しかし実態
はそんなに多いことにはならない。ほぼ戦う事よりインフラ整備に兵士は動いていたし
何よりも、この南京を逃げた蒋介石将軍の捕獲にあった。米英仏国の隠れた武器提供は
、タイとベトナムから雲南を通じた援蒋ルートの暴露で解っていて、その大掛かりな、
フランス軍倉庫の捕獲からも解っていたからだ。武器弾薬薬品が赤十字倉庫の食料援助
と共に発見されて国際社会に記者会見までしているが、記事にはされず国際法違反とし
て日本陸軍が非難されるまで至っていた。この内政干渉が国連の脱退のもう一つの理由
だった「我々はメインストリートを非常に用心しながら進んでいった。」ラーベの日記
は、全くデタラメである。「手榴弾を轢いたら最後、ふっとんでしまう。上海路へと曲
がると、そこにもたくさんの市民の死体が転がっていた。ふと前方を見ると、ちょうど
日本軍がむこうからやってくるところだった。なかにドイツ語を話す軍医がいて、我々
に、日本人司令官は二日後にくるといった。日本軍は北へむかうので、我々は慌てて回
れ右をして追い越して、中国軍の三部隊をみつけて武装解除し、助けることができた。
全部で六百人。武器を投げ捨てよとの命令に直ぐには従おうとしない兵士もいたが、日
本軍が進入してくるのをみて決心した。我々は、これらの人々を外交部と最高法院へ収
容した。(「南京の真実」文庫版P122) と書いてある。仮にこの頃の最高法院が、
この兵士を匿ったとして、海外の外国人を入れる事は出来無かったはずだ。それが出来
たと言うその現実は、如何にラーベが中国政府の中心部に居た将校であったかを物語っ
ている。日中戦争(支那事変)当時は、上海などの一部地域を除けば、世界紅卍字会の
ほうが赤十字社よりはるかに優れた活動しており、認知度も高かいもので、いわゆる南
京で話題となる遺体の埋葬は「臨時的慈業」に属する。こうした事を許可したのがこの
最高法院だった。実は事変での傷病兵民の看護や埋葬は本来の事業ではなかったのだ。
末光高義『支那の秘密結社と慈善結社』に掲載されている「世界紅卍字會救済隊規定」
基づいて、「本會の救済隊員は出發に際し戦時公法に依り従軍救護するものとす。」(
第二条)とし、需用品を汽船や汽車等に輸送する場合は、「陸海軍人同等の特遇を受く
るものとす」(第三條)とされていた。これを見れば、世界紅卍字会には赤十字社に匹敵
する特殊な地位が与えられていたことを示すものと解る。白地の楕円に紅の卍は、「人
夫の制服の認識票であり」(第十条・乙)、日中戦争の写真の各所にみることができる。

1040: 名無しさんAA:18/07/09 13:57
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  97 >  

中国人は書く。「私は小さい頃に、外祖父が抗日戦場から何故逃げ出したのか分からな
かった。逃げたことは秘密で、外祖父が死去する前年に、よく雑談の中で何時間も話す
ようになっていた。外祖父は、妻が早く死去した。ということだったが、それが逃げた
理由ではないだろう。私はある日、やつと外祖父から真相を聞き出した。彼は四川省の
貧農の出身で、小さい頃から武術で鍛えていた。1928年に四川で国民党に捕らえられて
兵士にさせられ、1937年の南京大虐殺前夜に少尉にさせられて、日本軍の猛烈な攻撃を
、首都を守れ・国父を守れというスローガンで防衛するよう命じられた。しかし日本軍
の進政を食い止めることなど出来ないので、南京城から撤退した。部隊は列車を何両か
手配して、軍用の荷物と食料を積み込んだ。その時に周囲から一般の民衆が老人や子供
の手を引きながら列車に乗り込んできた。大勢が列車の屋根にも乗っていた。日本軍は
、すぐ近くまで迫っている。このままでは、国民党の兵士たちは逃げることが出来ない
。誰かが、日本軍が来たぞと叫び、国民党指揮官は列車に乗り込んだ民衆に列車から降
りろと怒鳴った。しかし誰も従わないので、指揮官は民衆を銃殺しろと命令を出した。
兵士たちは民衆を銃殺することなど出来ないので、互いに顔を見合わせていた。指揮官
は兵士たちに、もうすぐ日本軍が来るのだから、民衆は日本軍に銃殺されたことにした
ら良いのだと言って、一斉射撃を命じた。あたりは血の海となり、兵士の足首まで血が
溜まったと言う。ここで約1千人の南京市民は、国民党の兵士たちから銃弾を浴びて死
んで行った。国民党の部隊が必死で逃げた後には死体の山が血の海の中に残され、それ
は日本軍の残虐行為として転嫁された。外祖父は、こんな部隊には残りたくないので、
撤退途中に九江で夜陰に紛れて脱走し、長江を渡り武漢で列車を乗り換え、南の小さな
山村に逃げ込んだ。外祖父の記憶では、他の部隊も同様のことをしてきたという。全て
の国民党による民衆大虐殺は、日本軍の残虐行為として転嫁されたのである。外祖父は
貧農の出身だが、国民党が貧乏人を虫けらのように扱うことに抵抗があつたという。外
祖父は、国民党の軍隊に残っていれば、出世したかもしれない。また抗日戦争で戦死し
ていれば、抗日戦闘英雄烈士との美名で呼ばれたかもしれない。しかし、逃亡する道を
選んだ。そして裏切り者という悪名で呼ばれ、経歴を隠し通して逃げ回った。その過去
の真実を、外祖父は死ぬ前になって初めて語ったのである。南京大虐殺は自分自身が犯
した罪である。外祖父は恥ずかしくてたまらなかっただろう。私は反日・反米の青年で
あり、ネットによく論評を発表していた。だが、そんな単純な反日・反米の青年たちは
利用されているだけなのだ。天国にいる外祖父よ、私を許して下さい」と。

1041: 名無しさんAA:18/07/09 14:01
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  98 >  

 ラーベの日記で、(1938年1月17日)38年 1月17日には下記の様に伝えている。
「昨日の午後、ローゼンと一緒にかなり長い間市内をまわった。すっかり気が滅入って
しまった。日本軍はなんというひどい破壊のしかたをしたのだろう。あまりの事に言葉
もない。近いうちにこの街が息を吹き返す見込みはあるまい。かつての目抜き通り、イ
ルミネーションなら上海の南京路に引けをとらないと、南京っ子の自慢の種だった太平
路は、あとかたもなく壊され、焼き払われてしまった。無傷の家など一軒もない。行け
ども行けども廃墟が広がるだけ。大きな市が立ち、茶店が建ち並んでいた繁華街夫子廟
もめちゃめちゃで見るかげもない。瓦礫、またがれきだ。一体誰が元通りにすると言う
んだ。帰り道、国立劇場と市場の焼け跡に寄ってみた。ここも何もかもすっかり焼け落
ちていた。南京の三分の一が焼き払われたと書いたが、あれはひどい思い違いだったの
ではないだろうか。まだ十分調べていない東部も同じような状態だとすると、三分の一
どころか半分が廃墟と化したといってよいだろう。日本軍は安全区から出るようにと、
くりかえしていっているが、私は逆にどんどん人が増えているような気がする。上海路
の混雑ときたら、まさに殺人的だ。いまは道の両側にそこそこしっかりした作りの屋台
ができているのでなおさらだ。そこではありとあらゆる食料品や衣料品が並べられて、
なかには盗まれた故宮宝物まで混じっている。難民の数は今や二十五万人と見積もられ
ている。増えた五万人は廃墟になったところに住んでいた人たちだ。彼らは、どこに行
ったらいいのかわからない。」―――しかし、これはちょっとおかしい。自らポスター
を貼り引き入れていた事を書いているし、兵士達も見ていて匿っていたからだ。更に、
既に援蒋ルートも 蒋介石軍の本体が重慶に引いて遷都した政府がある事は知っていた
はずだ。いや指導さえしたかも知れない。そして、新たな汪兆銘の武漢政府を応援する
日本軍を探っていたはずだ。日独協定からも可能かどうかは大問題の筈だからだ。
ラーベは既に37年11月28日の日記に、偽りの新居を設けて作戦を練っているのだ
。「寧海路五号の新居に、今日表札とドイツ国旗を取り付けてもらった。ここには表向
きだけ住んでいることにするつもりだ。家の庭ではいま、三番目の防空壕作りが急ピッ
チで進んでいる。二番目のほうは、あきらめざるをえなくなった。水浸しになってしま
ったからだ。警察庁長王固盤は、南京には中国人がまだ二〇万人住んでいると繰り返し
た。ここにとどまるのかと尋ねると、予想通りの答えが返ってきた。「出来るだけ長く
」 つまり、ずらかるということだ。」―――― と書いている。多分に面と向かっては
中国軍の非道と書けなかったのだろう

1042: 名無しさんAA:18/07/09 14:06
又この日記の嘘は37年12月6日の日付けで「黄上校との話し合いは忘れることが出
来ない。」と書いている事だ。既に12月6日にはいない筈の黄と話した事で書いてい
る。「黄は安全区には大反対だ。そんな物を作ったら、軍紀が乱れるというのだ。」「
日本に征服された土地は、その土のひとかけらまでわれら中国人の血を吸う定めなのだ
。最後の一人が倒れるまで、防衛せねばならん。良いですか、あなた方が安全区を設け
さえしなかったら、今そこに逃げ込もうとしている連中を、我が兵士達の役に立てるこ
とが出来たのですぞ。」(つまり督戦隊の前に立たせて戦わせる事が出来るぞ。と言う
脅迫である。)これほどまでに言語道断な台詞があるだろうか。二の句が告げない。し
かもこいつは、蒋介石委員長側近の高官と来ている。ここに残った人は、家族を連れて
逃げたくても金がなかったのだ。おまえら軍人が犯した過ちを、こういう一番気の毒な
人民の命で償わせようと言うのか。なぜ、金持ちを、約八十万人という恵まれた市民を
逃がしたんだ。首に縄を付けても残せば良ったじゃないか。どうしていつもいつも、一
番貧しい人間だけが命を捧げなければならないんだ。…(中略)…なんとか考えを変え
るよう、黄を説得しようとしたが無駄だった。要するにこいつは中国人なのだ。こいつ
にとっちゃ、数十万という国民の命なんかどうでもいいんだ。そうか。貧乏人は死ぬよ
りほか何も役に立たないというわけか! 」――――と、憤慨している。つまり 自分の
情報屋であったり諜報者だったり工作者は全て中層貧民であったに違いない。 1937年5
月には軍事顧問団はとうに 100名を超えるまで膨れ上がり、それぞれに数十人を同じ様
に雇っていたはずだったから千人を超える。しかし、ラーベすらその歯車の中にあった
鬱憤があったのだ。又、12月12日に最後の非難する英国船が出ていて日付けはあわ
ない。   37年12月7日
 城門近くでは家が焼かれており、そこの住民は安全区に逃げるように指示されている
。安全区は、ひそかに人の認めることになっていたのだ。たった今、クレーガーが中華
門のちかくのシュメーリング家から帰ってきた。こじ開けられ、ところどころ荒らされ
たという。現実家の彼は、とりあえず残っていた飲み物を失敬してきた。十八時、記者
会見。馬市長は欠席、外国人も半数くらいしか出席していなかった。残りはもう発った
のだろう。門の近くにある家は城壁の内側であっても焼き払われると言う噂がひろまり
、中華門の近くに住む人達はパニックに陥っている。何百という家族が安全区に押しよ
せているが、こんなに暗くてはもう泊まることころが見つからない。凍え、泣きながら
、女の人や子供たちがシーツの包みに腰かけて、寝場所を探しに行った夫や父親の帰り
を待っている。今日、二千百十七袋、米を取ってきた。明日もまた門を通れるかどうか
は判らない。

1043: 名無しさんAA:18/07/09 14:07
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  100 >  

 蒋介石は11月7日の日記で「抗戦持久」が重要で、「遊撃戦を発動し、敵を疲労させ
る」と書いている。つまり既に7日には決定し10日前には南京は捨てているのである
。しかし日本軍は11月15日、第10軍がやっと「一挙追撃を敢行し、南京を占領すべき
」と積極案を出して、独断で進撃を開始し、この先行独断につられ、激論となっていた
が参謀本部も11月24日に折れて、南京攻略を容認し、蘇州-嘉興線以東の制限を廃して、
上海戦から南京方面攻略に移った位だった。東京裁判判決で、「中国軍はこの市を防衛
するために約五万の兵を残して撤退した。1937年12月12日の夜に、日本軍が南門に殺到
するに至って、残留軍五万の大部分は、市の北門と西門から退却した。中国軍のほとん
ど全部は、市を撤退するか、武器と軍服を捨て国際安全地帯に避難した」とあり、中国
軍を約5万とする。と書いている。数は兎も角、12日まで戦闘中なのだ。しかしラー
ベは違っている。
37年12月8日
 何千人もの難民が四方八方から安全区へ詰めかけ、通りはかつての平和な時よりも活
気を帯びている。貧しい人達が街をさまよう様子を見ていると泣けてくる。まだ泊まる
ところが見つからない家族が、日暮れていく中、この寒空に、家の陰や路上で横になっ
ている。われわれは全力を挙げて安全区を拡張しているが、何度も何度も中国軍が口ば
しをいれてくる。いまだに引き上げ無いだけではない。それを急いでいるようにも見え
ないのだ。城壁の外はぐるりと焼き払われ、焼け出された人達がつぎつぎと送られてく
る。われわれはさぞまぬけに思われていることだろう。なぜなら、大々的に救援活動を
していながら、少しも実が上がらないからだ。
37年12月10日
それはそうと日本政府と蒋介石はなんといってくるだろう。一同、固唾をのんで待って
いる。何しろ、この街の運命と二十万の人の命がかかっているのだ。 
37年12月25日
 難民は一人残らず登録し「良民証」を受け取らなければならないということだった。
しかもそれを十日間で終わらせるという。そうはいっても、二十万人もいるのだから大
変だ。早くも、悲惨な情報が次々と寄せられている。登録のとき、健康で屈強な男たち
が大勢よりわけられたのだ。行き着く先は強制労働か、処刑だ。若い娘も選別された。
兵隊用の大がかりな売春宿を作ろうというのだ。そういう情け容赦ない仕打ちを聞かさ
れると、クリスマス気分など吹き飛んでしまう。

1044: 名無しさんAA:18/07/09 14:12
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  101 >   ラーベ日記 12月12日
「夜の八時少し前、龍と周がやってきた(林はすでに逃げてしまった)。ここに避難さ
せてもらえないかといってきたので、私は承知した。」 龍と周は支那軍の大佐です。
安全区のラーベ邸に匿ったのです。安全区は中立地帯ではなかったということです。
 同じく国際委員会のメンバーであるフィッチ師も支那兵を匿っていました。ラーベの
裏の顔はドイツ軍事顧問団の連絡員でフィッチは妻が蒋介石夫人と親友です。このほか
にも匿った人がいたらしく、支那軍の高級将校らは一般の兵士を見捨てて安全区にトン
ズラし、国際委員会の外国人が匿ったり先導したりしていたわけです。 国際委員会は
「反日」であり、安全区は支那軍便衣隊の隠れ家になっていたのです。これらの潜伏し
た支那兵の中には掠奪、煽動、強姦を犯すものがおり、日本軍が取り締まっています。
委員のベイツ教授は、当初は日本の取り締まりに抗議しましたが、後に支那兵が「なら
ず者」であったこと認めて抗議をやめています。中には日本軍の名をかたっていた者も
多々いました。(逆に日本人の振りしなければ生きていけなかった。)大阪朝日新聞は
2月27日「皇軍の名をかたり南京で掠奪暴行 不逞支那人一味捕らわる」の記事が躍
る。チャイナ・プレス 1938年1月24日 日本憲兵隊の報告書より引用すると、
「彼らの中には南京保安隊隊長王信労がいた。彼は陳弥と名乗って、国際避難民地帯の
第四部門のグループを指揮していた。また第八十八師の前副師長馬包中将や南京警察の
高官密信喜もいるといわれている。馬中将は安全地帯内で攪乱行為の扇動を続けていた
と言われる。また安全地帯には黄安大尉ほか十七人が、機関銃一丁、ライフル十七丁を
持ったまま匿われ、王信労と三人の元部下は略奪、扇動、強姦に携わっていたという」
国際委員会は日本兵の非行の話を日本側の外交官補の福田篤泰に訴えをいれますが、な
んら検証することなく、すべてを事実として記録します。福田氏は当時を回顧してこう
言っています。「当時ぼくは役目がら毎日のように、外人が組織した国際委員会の事務
所へでかけた。出かけてみると、中国の青年が次から次へと駆け込んでくる。『いまど
こどこで日本の兵隊が15,6の女の子を輪姦している』。あるいは『太平路何号で日
本軍が集団で押し入り物をかっぱらっている』等々だ。その訴えをマギー神父とかフィ
ッチなど3,4人が、ぼくの目の前でそのままどんどんタイプしているのだ。『ちょっ
と待ってくれ。君たちは検証もせずにそれをタイプして抗議されても困る。』といくど
も注意した。が、全く聞き入れず、まるで示し合わせていたように構わず打ち続けた。
時に私は彼らをつれて強姦や掠奪の現場にかけつけてみると、何もない。住んでいる者
もいない。そんな形跡もない。そういうことも何度も何度もあった。」と言っている。

1045: 名無しさんAA:18/07/09 14:13
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  102 >  

 攻撃日記では、日本軍による南京攻撃(及び南京陥落)の前日の、12月12日朝、蕪湖
でレディーバード号事件が発生した。満鉄の秘密結社桜会の橋本欣五郎砲兵大佐の指揮
する陸軍砲兵が英国砲艦のレディバード及び同型艦のビーに砲撃を加え被害を与えた。
イギリス海軍のインセクト級砲艦レディバード艦は中国に移動され揚子江で活動してい
た。1937年12月12日早朝、日中戦争の南京攻略戦の際、撤退する国民党軍の傭兵を連れ
た中国船団の中にいたため、日本軍が中国籍の船と誤認して砲撃、本艦と同型艦のビー
に被害を与えた。また陸軍の作戦に協力すべき任務を課せられていた海軍航空部隊指揮
官は、12月11日以来、「南京方面の支那兵が船舶により上流方面に逃走しつつあり」又
「此等船舶は屡々南京とその上流との間を往復しつつあり」等の情報を受領していた。
こうして、12月12日午前、中支那方面軍司令部に連絡参謀として派遣されていた青木武
海軍少佐から「南京上流約10海里の揚子江上に中国の敗残兵を満載した商船約10隻が上
流に向かって逃走中である。陸軍にはこの敵を攻撃する手段がないので、ぜひとも海軍
航空部隊で攻撃してもらいたい。」との、陸軍からの攻撃協力要請の主旨の、電話連絡
を受け、また同日正午には「大小汽船十隻およびジャンク多数は敵退却兵を搭載し南京
上流12浬ないし25浬付近を遡行中」との情報を得て、第二連合航空隊第十二航空隊の三
木森彦大佐は直ちに常州飛行場より攻撃隊を発進させた。中国軍の83個師団約40万の兵
力を江北に撤退させる退却掩護作戦でもあり、南京防衛は固守して援軍を待つものでな
く、敵軍の消耗を目的としたものであった為に、日本軍進撃を食い止めるために橋梁、
道路は徹底的に破壊され、家屋は焼かれ、食料は持ち去られた後は、こうした中国艦船
や米英に艦船に乗って退却して行った。T・ダーディン特派員によれば、南京城外15
マイルの「空野清野作戦」は中国軍の怒りとフラストレーションであり、焼き払いでは
軍事目的には役に立たなかった。元々は督戦隊の目視する事や囚人兵の欲求不満をはき
出させる為に略奪放火を許していた。と言われ、欧州の城が石で出来ているのは、その
戦い方は欧州式で特にドイツが取り入れ指導した古代的陸戦とされる。実は塹壕掘りは
その後ろの正規軍の隠れる場所として掘られた。こうして1937年12月12日、揚子江上に
おいて、日本海軍機が米国アジア艦隊河川砲艦「パナイ」を攻撃して沈没させ、さらに
その際に機銃掃射を行った。パネー号事件とも表記される。同日にレディバード号事件
も発生している。


1046: 名無しさんAA:18/07/09 14:13
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  101 >  

1937年12月5日には、敗残兵が避難しようと乗り込んでいた。放火を追った兵士は連絡し
、蕪湖沖停泊中のイギリス汽船2隻や、蕪湖埠頭のイギリスの会社の倉庫が爆撃された
。大勢隠れていたのである。 12月8日、日本は、第三国人は一律に南京を立ち退くよう
に申し入れを行い、翌9日、揚子江沿岸各地において各国がその船舶車輌を中国軍から
遠ざけ、交戦地域外に移転するように通報した。ドイツ人と共に中国軍は外国旗を掲揚
して外国船を偽装した中国船に乗船した。これが先のラーベの手紙である。あるいは、
外国船を借用したり、さらには中国軍に味方した外国船に護送されて南京からの脱出を
図っていた。日本軍による南京攻撃(及び南京陥落)の前日の、12月12日朝、蕪湖では
レディーバード号事件が発生した。橋本欣五郎砲兵大佐の指揮する義勇軍の陸軍砲兵の
桜会が英国砲艦のレディバード及び同型艦のビーに砲撃を加え被害を与えた。陸軍の作
戦に協力すべき任務を課せられていた海軍航空部隊指揮官は、12月11日以来、「南京方
面の支那兵が船舶により上流方面に逃走しつつあり」又「此等船舶は屡々南京へとその
上流との間を往復しつつあり」等の情報を受領していた。12月12日午前、中支那方面軍
司令部に連絡参謀として派遣されていた青木武海軍少佐から「南京上流約10海里の揚子
江上に中国の敗残兵を満載した商船約10隻が上流に向かって逃走中である。陸軍には、
この敵を攻撃する手段がないので、ぜひとも海軍航空部隊で攻撃してもらいたい」との
(陸軍からの攻撃協力要請の)主旨の電話連絡を受け、また同日正午には「大小汽船十
隻、およびジャンク多数は敵退却兵を搭載し南京上流12浬ないし25浬付近を遡行中。」
との情報を得て、第二連合航空隊第十二航空隊の三木森彦大佐は直ちに常州飛行場より
攻撃隊を発進させた。(分派により三木大佐の指揮下には第十三航空隊の一部も入って
いた。)この時パナイは、中国空軍基地に運ぶガソリンを満載したタンカー3隻を護送
していた。先の思い違い記者ダーティン氏の発言ではこうある。 ――――実際には、
あなたが南京を去った後で南京虐殺はひどくなっていますので、もう少し残っていたら
もっと南京大虐殺の報道ができたと思いませんか。(P561-P562)―――の質問に
 そうですね、私はもっと南京虐殺の事実を目撃できたでしょうね。ただし、ニュース
を外に送れなければ何にもならなかったのも事実です。私はパナイ号の無線を使って、
南京戦のニュースをアメリカへ送っていました。


1047: 名無しさんAA:18/07/09 14:17
フィッチの妻は蒋介石の妻宋美齢と親しい友人であり、さらに中国軍は、南京安全区内
高射砲陣地を設置し、国際委員会の度重なる抗議にも撤去しなかった。が、フィッチは
蒋介石側に立って「唐生智将軍は安全地帯から軍隊と高射砲を一掃する。という非常に
困難な仕事に概して非常によく協力した。」と堂々と記している。米国の新聞報道によ
ると、フィッチは南京攻略戦の時、蒋介石に任命された、"the War Service Corps"(
戦争奉仕企業団)(the War Area Service Corps:戦闘機業務企業)の顧問であった。
更に蒋介石の個人的な友人とされ、軍事顧問の通訳でもあった。1940年、フィッチは、
重慶で蒋介石軍への福祉活動を指導しており、蒋介石に妻宋美齢と共に戦時の政権を支
えている。1941年、中国工業組合(Chinese industrial cooperatives)の相談役に任
命される。 また、報道によれば、フィッチの妻は "Courageous China"(中国勇士会)
"United China Relief Society"(安心中国連合結社)という団体との関係があるとさ
れる。更にこのフィッチの妻には他に大きな疑惑もある。マギーフィルムと呼ばれる物
だ。『WHAT WAR MEANS』出版にあたって、南京安全区国際委員会委員であり金陵大学
(現:南京大学)教授でかつ中華民国政府の顧問であったマイナー・シール・ベイツへ
の書簡(1938年2月4日付)においてティンパーリは次のように書いている。
「ジョージ・フィッチが持参したマギー(南京安全区国際委員会委員ジョン・マギー)
のすばらしいフィルムを一見してから、妙案を考えています。ジョージに直ちにアメリ
カに帰ってもらい、ワシントンで国務省の役人や上院議員などにこの話をするよう進言
しました。効果はてきめんです。中国人への同情が喚起されて、(中略)ハル国務長官
からは会見を申し込まれるだろうし、(ルーズベルト)大統領とも会う事になるかもし
れません。(中略)これはまったく私一人で考えついたことです。(中略)資金の手配
はしているところです。」と書いている。 リバレンド・ジョン・マギーは、英国国教
会派の牧師で、1937年の日本軍による南京攻略の際に設置された国際安全区と呼ばれる
地区を管理する、22人の西洋人の一人であった。彼は日本軍占領下にあって、国際安全
区の赤十字責任者として、難民を日本軍の銃剣、銃殺、強姦から護ることに努めるとと
もに、多くの犠牲者を16ミリ白黒フィルムに記録した。また一方で、被害者がどうして
傷ついたかを日記に書きとめた。これらは歴史的にも重要な虐殺記録となったが。この
、マギーのフィルムは、ドイツ大使ジョン・ローゼンの手でコピーされているし、ドイ
ツのナチ本部にも送られた。ヒットラーに日本軍の非道を報告するための映画であった
。つまりドイツからの軍事顧問団での報告書の類で、それが米国に流れたと言う形であ
る。そして彼らは中国人を日本兵として配役をさせ日本軍が来る前に撮っている。これ
は一体どういう事か。実は本国に帰ってもユダヤ収容所に送られる危険があったからだ

1048: 名無しさんAA:18/07/09 14:18
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  104 >  

 この南京虐殺事件を探っていくと、膨大な資料と更に次々に消えて行く真相とこれま
で思いもしなかった黒い闇が広がっている事に気付く。それはバチカンの動きである。
人々に嘘を信じさせ 清い人に貧しさを授け、愚衆に怒りと悲しみを飢えさせた行為に
徹していた事だ。ファシズムは、軍備拡張、領土拡張に走り、既存の秩序・権益を主張
する米英仏と対立が始まった。ヒトラー総統(Fuhrer:フューラー)は,東欧・ソ連に
「ドイツの生存圏(Lebensraum)を獲得すること」を1925年の『わが闘争』で公言し,
ドイツを弱体化させるユダヤ人は,共産主義者,ペストのようなものであるとのアンチ
・セミティズムを喧伝,ユダヤ人への憎悪を煽動した。反ユダヤ主義はアンチ・セミテ
ィズムとも言われる。聖職者を志す少年たちに入学する初等教育機関がセミナリオとさ
れる狭義のアンチセミティズムはこの教義に反するもの或いは反論するものとして扱わ
れ村の者とはされなかった。言わばガリレオみたいなものだった。それが長い歴史の間
に、貸付利子を取るユダヤ教徒およびユダヤ人への敵意,憎悪,迫害,偏見を意味する
言葉となった。反ユダヤ主義は,古くは聖書時代からみられるが,19世紀になって、
アンチセミティズムという言葉は、人種説に基づく 新しい反ユダヤ主義理論が出現し
た。ここで反ユダヤ主義は、従来の異教徒教義から宗教教義や慣習の伝統的な反ユダヤ
主義に変化した後に、新たな人種説に基づく反ユダヤ主義(狭義のアンチセミティズム)
と変わる。19世紀に、民族主義に基づく近代国家が成立すると,彼らは,ユダヤ教の
伝統的教義である民族と宗教の間の不可分な関係を否定する〈改革派ユダヤ教〉を創設
した。 しかし,ヨーロッパの民族主義はユダヤ人の同化を拒否し,ユダヤ人をスケー
プゴートにして激しいアンチセミティズム運動を起こした。帝政ロシア末期の混乱の中
で,ユダヤ人を無差別に殺戮(さつりく)するポグロムが広がったため,多数のユダヤ
人はアメリカに逃げた。ところが彼らはユダヤ教徒からユダヤ人を創設した。19世紀末
にいたってこの〈ユダヤ人〉規定をくつがえし,もっぱら「出生や血に基づく人種の集
団」、とする考え方が現れた。直接には1870年代の大不況の影響のもとで没落の危機感
にとらえられた中部ヨーロッパの中間層の間で,資本主義社会の矛盾をあげて〈ユダヤ
人〉=セム人に帰そうとする反ユダヤ主義者のこの主張は強い支持を発揮し,ドイツ,
オーストリア,フランスでこの人種論的反ユダヤ主義(アンチセミティズム)は急速な広
がりをみせた。ここにユダヤ教徒であるかどうかとは無関係におよそひとたびその血を
うけた者は,信仰のいかんにかかわらずつねに〈ユダヤ人〉であり続けるという観念が
成立したのである。

1049: 名無しさんAA:18/07/09 14:24
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  105 >  

 これはバチカンが仕掛けた罠とも言える。こうしてドイツから逃げた人達はナチス前
から大勢いたのである。1933年の6月の人口調査によると、ドイツにおけるユダヤ人の
人口は約50万人でした。ユダヤ人の割合は、合計約6,700万人のドイツ人の人口の1%未
満に過ぎませんでした。ナチスでは、1935年のニュルンベルク法で体系化されたナチス
の人種差別的基準とその後の条例によって、個人の祖父母が実践している宗教に従って
ユダヤ人を分類しました。最終的に、ナチスでは、ユダヤ教から別の宗教に改宗した数
千人もの人々もユダヤ人として分類しました。その中に、ローマカトリック司祭、修道
女、および祖父母がユダヤ人であるプロテスタントの牧師までも含まれてしまう。通常
の人口調査の実施方法とは異なり、これらは正式な普通の調査、すなわちユダヤ教徒と
されるユダヤ人の数が膨れ上がった。全体で、ドイツのユダヤ人の約7割は都市部に住
んでいて、全ユダヤ人の半数はドイツの際立った10大都市に住んでいた。そこに又、
純潔主義が加えられた。1935年ニュルンベルク法が制定され調査が入ると、新しい法律
で、ユダヤ人の政治的権利の多くを剥奪する。さらに、ユダヤ人は、「ドイツ人」また
はその「血族」との結婚や婚外交渉が禁じられ、「人種的不品行」は刑事事件となった
。ニュルンベルク法では、「ユダヤ人」を3人または4人の祖父母を持つ者または実践
的なユダヤ教徒である者と定義しています。即ち親の親が8人いれば半数以下は純粋な
ユダヤの血が流れていけないとしたのだ。だが知っての通りユダヤ人と言うのはどこに
もいない。100%である。居るのはキリスト教義に背くユダヤ教徒だけなのだ。しか
し、不思議な事にその報告ではドイツ人の2〜3割突き詰めれば4人に1人はユダヤ人
と推測された。そして又不思議なのは、戦時期になると8割のドイツ人が終戦時は4割
〜6割とされるドイツ人迫害が起きるのだ。3万人以上の人々が逮捕され、強制収容所
に収容されるに至ったこのポグロムの後、「アーリア化」(ユダヤ人の経営する商店を
「アーリア人」に売ること)が加速したが、このアーリア人=ドイツ人が8割→9.9割
→5割に変化するのである。如何にポグロムが常識的だったかが知れる。ところでこの
中で、ヴァイマル共和政のヒンデンブルク大統領より前のプロイセン王ヴィルヘルム1
世の皇帝時代から続いた悪しき排除主義の慣習であった中から、中独合作は行われて、
大戦の頃でも概算で200人+68人+130人+80人の軍事顧問団400人以上が
中国に来ている。日本でもゾルゲ事件などスパイ事件は起こっている。では戦後にどこ
に消えたのか。彼らドイツ人軍事顧問団500人が中国大陸で忽然と消えるのである。

1050: 名無しさんAA:18/07/09 14:27
「ジョージ・フィッチが持参したマギー(南京安全区国際委員会委員ジョン・マギー)
のすばらしいフィルムを一見してから、妙案を考えています。ジョージに直ちにアメリ
カに帰ってもらい、ワシントンで国務省の役人や上院議員などにこの話をするよう進言
しました。効果はてきめんのはずです。中国人への同情が喚起されて、ハル国務長官か
らは会見を申し込まれるだろうし、(ルーズベルト)大統領とも会う事になるかもしれ
ません。(…)これはまったく私一人で考えついたことです。(…)資金の手配はして
いるところです。」とマギーフイルムストーリーの中でティンパーリは手紙を書いてい
る。しかし、当時のティンパーリを知るティルマン・ダーディンの証言によれば、ティ
ンパーリは金銭的に厳しい生活をしていた。まもなくフィッチは渡米し、政府関係者と
面会し、以後7ヶ月ものあいだ全米各地で講演会を開いた。北村稔の考証ではこれらの
資金源は北京政府の国民党であった。フィッチにかぎらず、中華民国政府の顧問であっ
たベイツも蒋介石をお得意様とするジョン・ラーベも他の安全委員会のメンバーも当時
中華民国の首都だった南京にいた外国人は、殆どが蒋介石と親しかったし、資金提供を
受けたものだろう。嘘をつくのに十分な動機があったし、バチカンの意向にも沿ったと
言える。「これらは国際委員会の61通の文書となりました。殺人は49件記されてい
ます。しかし検証したものは一つもありません(国際委員会書記長スマイス博士証言)
。仮に事実としても南京虐殺などとは程遠い話しです。そしてこの文書は支那国民党の
宣伝本であるティンパーリーの「戦争とは何か」にも使われました。これらは支那人に
金を握らせてウソの訴えをさせて、記録して抗日宣伝に使ったものや隠れている支那軍
の便衣隊の仕業を日本軍の仕業にすり替えたものでした。国際委員会の実態は「反日」
組織であり、支那国民党の宣伝部隊だったわけです。そしてこれが成功しているのだ。
昭和12年(1937年)の支那事変南京戦には、海軍も参加していた。あまり知られ
ていないかもしれないが、海軍第11陸戦隊が揚子江を上り、12月13日には南京に
到着しています。陸地から攻撃してくる支那軍に砲撃を加え、揚子江上を敗走する支那
軍の舟艇を銃撃している。九州の人に限られたが、私も数十人の今は無きご老人の証言
からも、虐殺はあったが南京大虐殺などとはなかった。南京戦は上海上陸や徐州進軍に
比べたら最も小さな戦争だった。何故ならその時になってゼロ戦部隊が画期的な戦勝を
誇ったからだ。更にマギーフィルムも、米国知人を持つ人からの話では当時の生活状態
の記録写真で、死体はあってもそうした虐殺や戦闘のフィルムではなかった。と証言し
ている。更に興味深いのは、日本軍が来る前に中国人宣教師たちが映画を撮っていた事
が知れ渡っていた事だった。

1051: 名無しさんAA:18/07/09 14:28
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  107 >  

砲艦勢多艦長 寺崎隆司少佐
「13日の午後3時15分です。中興碼頭には日本陸軍が来ていまして 日の丸を振っ
ていました。南京に着いたら陸軍と連絡せよと司令官から命令されていましたので、中
興碼頭に向かうと保津に信号しましたら先頭の保津がすぐに中興碼頭に向かったので、
勢多が先頭になり、さらに先の下関桟橋に向かいました。下関桟橋に近づきますと多く
の兵が手を振っているので、双眼鏡で見ますと中国兵なのです。中国兵は日本の軍艦が
こんなに早く来るとは思わず、中国の軍艦だと思って手を振ったのだと思います。そこ
でまた二十五ミリ機銃で掃射して近づきました」(ここまでにジャンクや筏の支那兵に
遭遇している)寺崎隆司少佐は翌年の7月まで南京にいましたが、もちろん南京虐殺な
ど見ておりません。
砲艦勢多 次席大尉・関口鉱造 
15日の南京偵察で「星条旗を掲げている建物(鼓楼病院)をのぞいたところ、年配の
米国人(発音で米国人とすぐ判りました)が出てきたので城内の様子を訊ねました。こ
の人がフィッチ氏であったのでしょう・・・彼の話を要約すると『城内(難民区?)は
完全に非武装化され難民が溢れている。しかし、便衣に姿をかえた支那兵が潜入してい
ることは事実である。難民の処理、治安の維持については米・英など第三国が斡旋して
日本軍当局と交渉中である』・・・」「城内(難民区)は女子供でゴッタ返していたが
、若い男の姿はあまり見かけませんでした。時折り、窓越しに険悪な眼で注視している
男を見かけましたが、便衣兵らしく思われました。」
国際安全委員会の委員だったマギー牧師の目撃証言
東京裁判において、マギー牧師は「私は自分の証言の中ではっきりと申してあると思い
ますが、ただわずか一人の事件だけは、自分で目撃いたしました。」と回答し、日本兵
に後ろから、誰かが何かされて驚いて逃げ出した中国人が、竹垣があって行詰りになっ
た為に逃げられなくなった処を、日本兵が追い詰めて殺した件のみが自身が目撃したも
のである。」と証言した。
南京の病院で勤務していたアメリカ人、ジェームズ・マッカラム医師
1937年12月29日の日記にこう書いています。「(安全区に入ってきた日本軍は)礼儀正
しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。若干のたいへん愉快な日本兵がい
ました。私は時々日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を
抱き上げているのを目撃しました」(東京裁判 速記録210) 

1052: 名無しさんAA:18/07/09 14:35
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  108 >  
 さらに、こう書いています。「12月31日、今日 私は民衆の群が当該地帯から中山路
を横断して集まるのを目撃しました。あとで彼らは、行政院調査部から 日本軍の手に
よって配分された米を携帯して帰って来ました」。「日本人の善行を一つ報告しなけれ
ばならない。とても気持ちのよい日本人が最近病院にやってきた。彼らに患者の食料の
不足を告げたところ、きょう、百斤の豆と牛肉を持ってきてくれた。この一ヵ月という
もの肉は食べられなかったので、この贈り物は大歓迎だ。他に欲しいものはないかと言
ってくれた」(『南京事件資料集[1]アメリカ関係資料編』p263)
 ハロルド・J・ティンパーリの指示により、「侵略された中国」と題して、YMCA
(キリスト教青年会)による反日キャンペーン用に全米各地で上映されてました。その
目的は、日本軍の蛮行を訴えることでした。ハロルド・J・ティンパーリとジョージ・
アシュモア・フィッチは、南京大虐殺30万人説の有力な証拠の一つとされた『戦争と
は何か----中国における日本の暴虐』(1938年7月)という本を共著で出版しまし
た。また、ハロルド・J・ティンパーリは、中国国民党(蒋介石)の中央宣伝部国際宣
伝処の顧問を務めていました。ジョージ・アシュモア・フィッチは、第二次上海事変の
後、上海の日本人街の虹口公園で行われた祝賀式典(昭和7年4月29日)では、その
会場に爆弾を投げ、爆弾テロを行ったテロリストの尹奉吉を、自身の運転する自動車で
会場まで送迎したことがありました。(上海天長節爆弾事件)この事件は、大韓民国の
臨時政府の首班の金九の指示で尹奉吉を使い行われた爆弾テロでした。ワシントンでは
国務次官のスタンレイ・ホーンベックをはじめ下院の外交委員会や、戦時情報局などの
要人、新聞記者などの報道関係者にもフィルムで上映会を催し映画を見せています。又
このフィルムは、昭和13年(1938年)5月の「LIFE」誌においても紹介された。
このマギーフィルムは、全米で上映会が開催され、反日世論の醸成と中国に対する同情
論の醸成に、大きな威力を発揮しました。これが中国民の惨状を大きくしたのである。
先に言った様にポグロムは欧州世界に横たわった常識だったのだ。ペテルブルクのロシ
ア人民連合やロシア人連合・ロシア帝政党やモスクワの対革命闘争活動協会やオデッサ
の「双頭の白鷲」などの、多くの右翼集団は1905年革命の時期とその後に創られた2つ
の集団、神聖旅団とロシア会議に集約され更に黒百人組に収斂された。この集団は右翼
政治団体だったがテロリスト集団であり、小商店主・浮浪者・職業的犯罪者から成り立
っていて、ロシア皇帝の資金源でロシア正教会が動かしていた。そしてロシア革命と同
時に赤化した共産党は同じ様に公式に秘密警察に移行させKGBとなった。彼らが共産
中国で指導指揮しながら、日本軍を翻弄させていた。要するに中独米英ソの合作だった

1053: 名無しさんAA:18/07/09 14:42
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  109 >  
「『虐殺』などという事件は、艦長以下全乗組員とも目撃しておりません」南京陥落後
、海軍は南京下関から1.8キロ離れた紅卍字会の保国寺難民区(難民と市民二万余り
)に対して食料や被服を給与しています。そして敗残兵の掠奪から市民を守っていまし
た。これに尽力したのが土井中佐で、救援物資が到着したとき、市民と難民は「南京下
関平和街」の横断幕をはり爆竹をあげ、日の丸を掲げ、歓呼して迎えています。土井中
佐に紅卍字会から感謝状が送られました。紅卍字会 陳漢森の礼状「・・・閣下の軍艦
は江浜府に停泊する際、閣下は民衆が餓えている状況を察せられ、小麦粉と食用油を賜
り、大勢の民衆の命をお助けになりました。また道路の整備と橋架けを命ぜられ、且つ
自らご指導に当たられました。・・」土井申二中佐「私は第三艦隊艦隊司令部にいき、
人道上、宝塔橋街をそのままにすることができない、といいました。すると長谷川清司
令長官は宝塔橋街でやったことを非常に喜び、医療品や食料をくださいました。(中略
)平和街が落ち着いた頃、比良(砲艦)は蕪湖の警備を命ぜられましたので中興碼頭を
離れました。陳漢森(紅卍字会の代表者)はその後もわざわざ礼状をくれまして、終戦
まで手紙のやりとりをしました。よっぽど感謝したものと思います」 南京で30万人
を虐殺するような日本軍に 救援物資をくれただけで感謝してずっと手紙のやりとりを
するはずがありません。日本軍は武士道の精神で行動していました。もちろん陸軍も同
じで、脇坂部隊(歩兵36連隊)は13日夜、敵の戦死体をねんごろに埋葬し、一晩中
読経をあげて弔いました。18日には陸海軍合同で慰霊祭を行っています。当時のドイ
ツでは、虐殺の推進を管理していた親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンが「ユダヤ人問題
の最終解決」と言う様に、この法や慣習に乗らない人とテロリスト問題は国家問題とし
て人々を悩ませていた。しかし、日本人は同時期に多くのユダヤ人を救い、大本営方針
に逆らっても助けた。同時期の、ナチス・ドイツの人種政策「人種に基づく国家の敵の
定義」によって行われた政策には、ロマ人に対するポライモス(ロマ絶滅政策)、成人
の精神障害者へのT4作戦(優生学での絶滅選別)、反社会分子とされた人々(労働忌避
者、浮浪者、シンティ・ロマ人など)や、障害者、同性愛者(ナチス・ドイツとホロコ
ーストによる同性愛者迫害)若しくは(絶種手術)、エホバの証人、スラヴ人に対する
迫害などへの強制労働もホロコーストに含んで語られる。主に独ソ戦における戦争捕虜
、現地住民が飢餓や強制労働による死亡者に対しても「ホロコースト」の語が使用され
る。ここに国の資金でわざわざナチスから逃げてた軍事顧問団の虚像が浮かびあがる。
日本を非難しながら、母国の非道は訴えて居ない。それどころか中国でもやっていると
報告せねばならない矛盾に陥っていたのである。そこで虐殺をねつ造するしかなかった

1054: 名無しさんAA:18/07/09 14:44
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  110 >  

 つまり 本当の敵であるドイツのヒットラー政権下の兵士で、虐殺やホロコーストや
ポグロムなどを強く批判する姿勢を持つ信者の一人と言う 全く矛盾に満ちた人生の中
にあったのが中国に派遣された軍事顧問団であった。そこに醜悪な米国ユダヤ資本の参
下で蒋介石将軍は期待されながら、痛烈な抗日共産党の毛沢東の毒牙に刺されていた。
この構図の唯一の頼りは 反大日本帝国の狼煙により集金して国民の声に答えて愚衆の
暴動を抑える事しかなかったのである。対してやってくる日本軍はやさしい軍隊だった
。ラーベの日記には 37年12月26日
安全区の二十万もの人々の食糧事情はだんだん厳しくなってきた。米はあと一週間しか
持たないだろうとスマイスは言っているが、私はそれほど悲観的には見ていない。
W・マイヤー社長の1938年1月3日付けの書状に関して 〜
 ドイツ大使館を通じてお手紙いただきまいした。去年、漢口へ行くようにとのご連絡
をいただきましたが間に合いませんでした。電報が届いたとき、ドイツ人たちはすでに
クトゥー号で発った後だったのです。また韓さん一家を始め、中国人従業員は皆オフィ
スに避難しておりましので、彼らを見捨てることは出来ないと考えておりました。あの
ときお返事しましたように、私は安全区を設置するために当地で発足した国際委員会の
代表を引き受けました。現在はここに二十万人もの中国人非戦闘員の避難場所になって
います。これを組織するのはかなずしも容易な仕事ではありませんでした。しかも日本
から全面的には承認を得られず、中国上層部が、ぎりぎりまで、つまり南京から逃げ出
すまで部下と共にここに駐留していた為に、いっそう困難になりました。今まで、給食
所や食糧の配給所などを設置して、安全区にひしめいている二十万人の市民をどうにか
養ってこられました。ところが今度、「難民の保護は新しく設立された自治委員会が引
き継ぐ。よって米販売所を閉鎖すべし」との命令が日本軍から出されたのです。市内に
秩序が回復し、南京を出る許可が下りましたらそちらに参ります。今のまでのところ、
申請は全て却下されています。安全区委員会の解散まで私が当地にとどまることをお許
し下さいますよう、遅ればせながらお願い申し上げます。というのも、わずかとはいえ
、我々外国人の存在が大勢の人々の禍福を左右するからです。十二月十二日以来、私の
家と庭だけでも六百人以上の極貧の難民たちがおります。たいていは庭の藁小屋に住ん
でおり、毎日支給される米を食べて生きています。
 ナチ式敬礼を持って     ジョン・ラーベ  と買いて送っている。

1055: 名無しさんAA:18/07/09 21:09
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  111 >  

 しかし、日米開戦を宣言して( 米国はちゃんとした宣言はしていないまま戦争し、
日本は日本にいる外交官に天皇宣下をしている。)3月も過ぎると一変した。日本船籍
の民間船団を次々と攻撃したのである。大西洋ではドイツのUボート攻撃を批判しなが
らも、太平洋では客船貨物船を限らず、日本が進出し占領したマラッカ海峡のパレンバ
ン油田と今のブルネイ傍のミリ油田からの油輸送を止める為に、やみくもに襲撃してい
たのだ。実は中国建設も日本軍にとってそう難題では無かった。一番の難題は米国ソ連
などの海外からのゲリラ支援と、それに伴う犯罪者処刑への国際的非難だった。よく、
日本の第二次世界大戦を南方ビルマ戦線の失敗や、マレーシア占領から南洋開戦の失敗
として説明される。だがそれは正確ではない。基本的に日本が負けたのは日米開戦が、
アメリカが思う通りで行ったことだった。非開戦派の多い中で大日本帝国は威信を賭け
て戦った。戦えば米国は解ってくれるだろう。ソ連は仲裁に入るだろう。と勝手に思い
違いした。同じ人間のはずだ。と紳士的に捉えていたのである。今の日本国憲法と同じ
に……世界は、……国際社会は、と主語の相手のいない思想の中に陥っていたのである
。それは、民間で言えば、いつも獲れた肉や芋を分け合った引っ越してきた隣の立派な
城の紳士が、ボロボロの掘っ建て小屋を襲うなどと考えるだろうか。と言う事だった。
今でもステーキを食べる様な金持ちが、生臭い海の魚なんて食べないだろう。としてい
たが、今や寿司に刺身に盛況である。明治以来日本人は、我々も石のお城の様な文化を
作るのだ法治世界を築くのだ。とばかりに「殖産興業」「富国強兵」を強制してきたの
である。しかし当の欧米は明治のとある偉人が言う様に、「伝聞しかず一見するは、知
るにおぞましき制度なり、欧米王朝貴族は、愚民の(中国の)大陸文化の似て卑猥なり
…。」などと言っている。日本が戦争を宣言したのは、勿論真珠湾攻撃からだが、頻繁
に中小船舶は、王道から外れて、既に米国からの攻撃に逢っていて、日本海軍にも敵対
攻撃を仕掛けよと、国内では海軍は散々陸軍からの突き上げは起こっていた。しかし、
山本五十六は断じて非道は行わない。王道の戦いが肝心であるとの信念だった。その為
、日米開戦は陸軍の開戦宣言反対と共に、日に日に遅れていた。元々南洋諸島は日本の
管理地となっていたし、米軍が攻撃する言われは何一つ無かった。永野修身は教育者と
しては優れた実績を残した。海軍兵学校校長の兵学校長時代は、伊藤整一とともに自学
自習を骨子とするダルトン式教育を採用し、体罰の禁止など、抜本的な教育改革を推進
し画期的な海軍文化を開花させている。既に非開戦論者の山本五十六は、戦争では、今
後の日本の身が持たないと危惧していたのである。

1056: 名無しさんAA:18/07/09 21:11
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  112 >  

 水野広徳は1923年(大正12年) 水野広徳は、米国を仮想敵国とする新国防方
針が二三年に作成に大きな批判記事を書いた。これはこの国防方針に対して水野なりの
論点で「新国防方針の解剖」としたが、これは多くの海軍の見方でもあった。こうして
『中央公論』大正十二年六月号に論評を書き、日米戦争を徹底して分析、日米戦うべか
らずと警告した。「次の日米戦争は空軍が主体となり、空襲によって、東京全市は一夜
にして灰じんに帰す。戦争は長期戦と化し、国力、経済力の総力戦となるため、日本は
国家破産し、敗北する以外にない。当局者が発狂せざる限り、英米両国を同時に仮想敵
として国防方針を策立することはあるまい。」と指摘した。太平洋戦争が始まる十八年
前にすでに敗北を見通していたのである。その後、一九三二年(昭和七)十月、水野は
日米戦争仮想物語『興亡の此一戦』(東海書院)を刊行したが、東京大空襲の惨状、被
害をリアルに措き、日本の敗北をにおわせた内容であったため「左傾的記事があり」と
いう理由で、直ちに発禁処分となってしまった。が大方がこの見方と同一であった。よ
く「中国における権益問題でアメリカと対立した日本政府は、内政に対する国民の不満
をそらす意図もあって、対米開戦を決意する。開戦当初、日本はアメリカより海軍力に
おいてやや優位にあり、その優位を維持し戦局を有利に展開しようと海軍はフィリピン
に奇襲攻撃をかけマニラを占領しようとした。」などとデタラメを書く輩がいる。しか
し、それは全く外れている。日本は第一次大戦後は、ドイツの南洋諸島領地が国連から
の日本の委託統治領になり南洋諸島の建設に入ったのだが、それでも客船や貨物船の安
全がないまま、三井、郵便汽船の船舶が沈んでいた。この批判によって海軍は日米開戦
に陥ってしまったのである。既に開戦前から、劈頭パナマ運河の封鎖、フィリピン・グ
ァム占領、カリフォルニアへの潜水艦攻撃を敢行してドイツ以上に商船や漁船などの、
一般民間船の爆破を決行して撃沈させていたのである。こうして西太平洋の制海権を握
った。戦時に至ってはこの海軍の平和主義が、ハワイの石油貯蔵タンクの50余りは、
全く爆撃対象としなかった。その為、生産力に優るアメリカが海上封鎖による持久戦法
をとり、中ソ両国も反日に転じ、戦局は逆転する。そして艦隊主力をもって行なわれた
ヤップ島沖海戦では日本は簡単に敗北し、アメリカはグアム島など南洋の島々を次々に
占領し、日本側守備隊は全滅するのである。こうしてマニラも奪い返されソビエトから
は樺太(からふと)に侵攻されて、最後の油田もこれを占領され、中国軍は南満州など
を支配下にされて。ついに内閣は総辞職するに至った。山本五十六の甘さのままの海軍
だったのである。

1057: 名無しさんAA:18/07/09 21:24
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  113 >  

 米国留学した者なら一度は目を通したであろう「太平洋戦争」と言う本はよく読まれ
て関心はあったようだ。日米開戦の17年も前に、英人軍事評論家のヘクター・C・バ
イウォーターは、太平洋戦争 (The Great Pacific War) の予測をしていたが、それは
ヘクターのみではない。結論からいえば、日本がアメリカに屈服し屈辱的な講和を強い
られるというものである。このバイウォーターの「太平洋戦争と其批判」は、海軍少佐
の石丸藤太により訳されて、文明協会から発行されたが、結論が気に入らないと言うこ
とで、この貴重な予告を日本人は信じなかった。と言うよりは、これを肝に日米関係を
良好にしようと 幾度も頭を下げた外交が、結果的にアメリカ合衆国をのさばらせた。
ロシアの大陸横断鉄道は、ウラジオストック〜舞鶴〜香港〜横浜〜ハワイ〜カルホルニ
アと繋がって、大勢のユダヤ人は米国に避難したが、日本は一度でも差別による足止め
にする事はなかった。しかし、1941年の日米開戦によって中断したのである。この航路
には、日米間のしからみがあった。太平洋航路は、パシフィック・メール汽船会社によ
って1867年元旦に一番船「コロラド」の米国出航から始まった。その22日後の 1月24日
横浜到着、そして最終目的地の香港には 1月30日到着したのであった。この頃には日本
には太平洋を横断する民間船はなかった。1896年になって初めて 日本郵船がシアトル
航路を開設し、1898年東洋汽船がサンフランシスコ航路を開始して日本船社の参入とな
り競争が始まった。そしてその競争が落ち着いた頃戦争で中断された。1941年の、日米
開戦で中断した太平洋航路は、戦後になって復活した。しかし、戦争中の航空機の技術
革新により、太平洋航路の連絡交流の役目においては、既に客船需要は急速に衰退して
いた。戦後 1953年(昭28)7月22日、横浜港から一隻の客船が、北米・シアトルに向けて
出帆した記事がのった。戦前の日本の客船黄金時代を今に伝える唯一の生き証人として
その時まで横浜港で保存された船の話である。あまりにも有名な「氷川丸」が就航した
のである。日本の客船が定期航路で太平洋を横断するのは、戦争前夜の1941年(昭16)夏
に航路が休止されてから、実に12年ぶりのことと書かれた。その「氷川丸」の1957年
(昭32)頃の運航予定表も残って居る。かつては姉妹船「平安丸」「日枝丸」と合わせて
3隻で、2週に1回の割で日本とシアトルを結ぶ便が運航されて他を圧倒して移民など
を送り出していた。しかし再就航した「氷川丸」1隻ではさすがに2ヶ月1回の割の乗
客しかいなく、激減してしまいました。それでも、まだ航空機が一般的でなかった時代
で、日本から戦後の留学生や移民などを送り出し、重宝されていたのである。


1058: 名無しさんAA:18/07/09 21:41
 汽船の歴史は日本では結構浅い。1824年には、一定日数内に、英印間を乗切った
汽船に対する八千ポンドの賞金がインドで発表された。そのため四百七十トン百二十馬
力の汽船がデットフォードで造られ、翌二五年八月十六日にファルマウスを解纜(かい
らん)させ、百十三日目にカルカッタに着いた。だが、賞金が出るくらい貴重で、大洋
航路が汽船会社の算盤(そろばん)に合うのは、まだまだ先の時代の事だった。これと
前後して、インド政府に身売のつもりで英国から押渡った汽船ファルコン号は、新しい
汽罐(きかん)も両輪もはぎとられて、ただの帆船としてやっと買手がついたという。
こうして大洋航路の汽船会社は幕があがるが、それはようやく三十年代の終頃になって
設立された。こうして日本人の乗れる船会社がアジア航路にやっと出て来る。
東洋航路 The Peninsular & Oriental Steam Navigation Company(P & O), 1837
大西洋航路 The Cunard Company, 1838
太平洋航路 The Pacific Steam Navigation Company, 1840
の3大航路が確立した時代だった。しかし、これで七つの海にでた汽船が通じたのだ。
しかし、この初期の時代は、ただ大陸の対岸に行きつくのみの航海であった。つまり、
「太平洋汽船会社」とは名乗っても、実はリヴァープールと南米の太平洋岸チリ、ペル
ーをつなぐラインで、バルボアのように、拠点拠点の港には行かず、太平洋を覗(のぞ
)いたというまでのことだったのだ。それでも胸躍る航海であったに違いない。サザン
プトンを起点とする、P&O(彼阿ピーオー)はそうした中で便利な航路を開港した。
1945年に、スエズを“鉄道や陸路”で連絡しながら、香港まで延びた航路である。
しかし太平洋の中の日本には、一隻の汽船も渡らなかった帆船の時代だった。汽船にと
っては、世界はまだ扁平で冒険の時代だったのだ。独立戦争時代でも、両輪パドル船だ
ろうが、低圧の単式機関だろうが、炭庫を広くとって、ボイラーの水には海水を使い、
羽根車を回転させた船で、人を運ぶ事より資材の運搬や積み荷の方が大事だった。六十
年代中頃までは、ふんだんに大西洋は行き来し、あのミシシッピ川さえ登っていたのだ
が太平洋は未知の海で石炭を積み込んでまで航海するほどの利益はなかった。1843
年に三千二百七十トン一千馬力というのが、北大西洋に煙を吐い通行していた位である
。日本の開国まではそうしたものだった。しかし、開国の頃パナマ地峡に線路で連絡さ
れると、ニューヨーク・サンフランシスコ間の太平洋郵船パシフィック・メイル号は、
1949年二月の処女航路以来は人気で非常な景気で人気を博した。「パナマ」「オレ
ゴン」「ゴールデン・ゲート」「コロンビア」などの当年切っての優秀船が就航して、
次にくる太平洋横断就航をいつでも来いと待構えた。事実これらの船の大部分が、後日
ヨコハマへ入ってくる事になった。1914年にパナマ運河が開通してのことだが。

1059: 名無しさんAA:18/07/09 21:42
1849年二月の処女航路以来は人気で非常な景気で人気を博した。「パナマ」「オレ
ゴン」「ゴールデン・ゲート」「コロンビア」などの当年切っての優秀船が就航して、
次にくる太平洋横断就航をいつでも来いと待構えた。事実これらの船の大部分が、後日
ヨコハマへ入ってくる事になった。1914年にパナマ運河が開通してのことだが。


1060: 名無しさんAA:18/07/09 23:20
 かくして米国独立戦争が終ると、米英の貿易戦争が幕開けした。1815〜50年の
カリフォルニアは黄金狂時代に入っていた。その船はゴールド・ラッシュの中従前未聞
の快速船が生れ出た。「カリフォルニアン・クリッパー」である。設計者アルゴノーツ
の願いそのままに、収容人数・快適さ・機械装備、おまけに「美しさ」を驚異的に高め
た絶品を就航させた。それまでニューヨーク〜サンフランシスコ間の帆走記録は143
日〜267日だったが、天才技師ドナルド・マッケイのこの木造船は処女航海に110
日で走り、彼の最大傑作フライング・クラウド(木造1793ton )は同じ年に89日
の驚異的新記録を作った。だがこのカリフォルニアン・クリッパーに関する最大の驚異
は、その早さだけでなく、太平洋横断のいわゆる「三角航海」によって全世界を席巻(
せっけん)した最高収益を過分に出した事である。「三角航海」とはニューヨーク、サ
ンフランシスコ、広東(または上海)の三点を一航路に結び、世界一周航路を継続して
回ったものだ。カリフォルニアン・クリッパーはこのコースを確保し、ニューヨークか
ら貨物と旅客を満載し、人気のサンフランシスコで降ろすと、空荷で一気に太平洋を横
切って中国に向かい、銀の硬貨で広東または上海で茶を積込み、その後インド洋および
喜望峯経由で、綿花や香辛料を持って帰航したのだ。こうして英国の持っていたスペイ
ン銀は英国人は使い果たす事になる。折しもゴールドラッシュで人は押し寄せサンフラ
ンシスコに乗り込んできた。このコースはきわめて合理的航路で、カリフォルニア貿易
は五〇年代を通してほとんど片道貿易で収益を持った。実は金輸送は少数の船で限られ
陸路もありそう多くなかった。金掘に失敗した者は定着して戻らない。つまり片道でも
充分だった。これが砂金の代りに金色の麦を輸送する様になっていく。労働者の食糧も
輸送を産んだのだ。55年以降でも少量だった金より重宝となった。当時のシナ貿易は
、茶積み船はほとんど空荷でシナに向うのが常だったが、実に1852年当時の英支の
貿易の数字について見ても、シナへの輸出総額は約三百万ポンドだが、シナからの輸入
は茶だけでゆうに六千万ポンドに達している。この米国船の三角航路と、英船の自国の
往復路競争をしたが、勝負は明らかに負けだった。黄金狂患者が創り出した米船の画期
的な船のスピードと航路は、英国を寄せ付けなかった。この利益は物をいい、三角路に
は途中でカリフォルニア貿易というおまけが付いた。運賃競争の上で物を言い利益の面
寄せ付けなかった。こうして「三角」航路はすぐさまロンドンを一角加えた事実上の四
角航路となり、米国クリッパーはシナ米国間の貿易だけでなくシナ英国間の貿易をも、
一時は独占した。こうして南北戦争が終ったころは、上海ロンドン間の英米帆船のクリ
ッパー戦争は完全に米国の勝利に帰して他の国をはじいていた。これが後の日米開戦に
米国の人間に欲望を掻き立て、夢を与えていた。

1061: 名無しさんAA:18/07/09 23:24
当時のシナ貿易は
、茶積み船はほとんど空荷でシナに向うのが常だったが、実に1852年当時の英支の
貿易の数字について見ても、シナへの輸出総額は約三百万ポンドだが、シナからの輸入
は茶だけでゆうに六千万ポンドに達している。この英国船の三角航路と、米船の自国の
往復路競争をしたが、勝負は明らかに負けだった。黄金狂患者が創り出した英船の画期
的な船のスピードと航路は、米国を寄せ付けなかった。この利益は物をいい、三角路に
は途中でカリフォルニア貿易というおまけが付いた。運賃競争の上で物を言い利益の面
寄せ付けなかった。こうして「三角」航路はすぐさまロンドンを一角加えた事実上の四
角航路となり、米国クリッパーはシナ米国間の貿易だけでなくシナ英国間の貿易をも、
一時は独占した。こうして南北戦争が終ったころは、上海ロンドン間の英米帆船のクリ
ッパー戦争は完全に英国の勝利に帰して他の国をはじいていた。これが後の日米開戦に
米国の人間に欲望を掻き立て、夢を与えていた。


1062: 名無しさんAA:18/07/09 23:30
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  116 > 

 こうして1954年に「和親」条約が成功しても米国に太平洋に汽船が通う商船など
の余裕はなかった。当の五八年に「通商」条約がハリスの手でできてしまったのだが、
結局、実は蒸気軍艦船の威嚇も、横断汽船のための和親条約ではなかったのだ。単なる
こけ脅しの一手だったのである。こうして最初の複式機関を据えたスクリュー汽船が、
英国旗をなびかせていった。南北戦争は英米海運戦および市場戦の上で決定的に英国を
勝利させ、次の時代の帆船も汽船も鉄や鋼で造られるようになっても、もう英国の重工
業の優位が物をいった。しかも六九年にスエズ運河が開通しても日本を開いた殊勲賞は
米国だったが、実利はヨコハマ当初の貿易額を見ても八〇%は英国のものだったのであ
る。カリフォルニア黄金狂時代に生れ出た太平洋郵船(パシフィック・メイル)会社の
「コロラド」(三、七二八トン)が金門湾を解纜したのは一八六七年(慶応三)一月の
元旦のことだった。航海は月一回、姉妹船に、中国丸、日本丸、米国丸などがあったが
、いずれも図体は四千トンに近い大きさだが、木造の、使い古した単式機関両輪船で、
大西洋上の鉄造複式機関船に比べて前世紀の遺物であった。サンフランシスコ横浜間は
二十二日、横浜香港間七日、横浜碇泊日数をいれて全コース三十日と言う長い時間を乗
せた。 サンフランシスコの C. W. Brooks 会社の船で、合衆国政府の郵便補助金を受
け、この船を最初として定期に太平洋を往復した。1881年以降の出来事だった。こ
の年3月ハワイ王国国王カラカウアが、10か月に亘る世界一周各国歴訪旅行のアジア
最初の訪問地として日本を訪問した。日本を訪問した初の国家元首となった。赤坂仮御
所を訪問し、明治天皇との単独会談を行い、ハワイ・アジア連合を構築し、明治天皇が
その盟主となること、また姪のカイウラニを日本の皇室に嫁がせることなどを提案した
。同時に親日家のロマノフ朝第12代皇帝アレクサンドル2世が暗殺され世界は不穏な動
きが謄著になった。日本初の私鉄の日本鉄道設立帝政議会の国会開設の詔が発せられ、
9年後の国会開設を約束された。日本最後の斬首刑が執行され、廃藩置県と共に開拓使
官有物払下げ事件が起こっている。次々と新しい技術が取り入れられ新しい会社が出来
日本の近代史が走り出す。1856年に初代駐日米国領事タウンゼント・ハリス下田に
米国領事館設置したが、8月23日 - 安政八戸沖地震発生。9月23日 - 安政3年の台風。と
日本争乱の匂いが漂った。この時勝手に大老が国を売り開国して、大洋航路から追われ
て、上海をも含めた日本沿海航路をよたよたと稼せぐ頃、1865年の造船所設立以来
、原始的な蓄積会社の観がある維新政府が、郵便汽船三菱会社は新鋭船を所有すること
ができた。

1063: 名無しさんAA:18/07/10 05:18 ID:SB6
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  117 > 
 こうして80年代が訪れる数年前に、横浜佐世保の造船所や佐賀君津の軍艦所を造り
すでに沿海航路を覆っていた 米の太平洋郵船と英の彼阿ピーオーを駆逐することがで
きた。こうして日本郵船が早くも90年代に太平洋航路に営業を争うこととなったが、
日本は帆船と言う汽船の前史を所有しなかったからこそ、後史の汽船を先進国以上の早
さで組成し、修理改造し、所有することを成し得ていたのである。もとより傍若無人の
気概ある維新政府の支持や江戸幕府の指示が、あったればこその話だろう。しかしこの
日本人のバイタリティーや審美眼や読先術は、中国の公害もそうだが中国人民の飛行機
や船や水力ダムなどの発電機やTVを国産技術として習得しようとしていない事に比べて
かなりの違いがある。日本で「仕事が先を教える」「技術が人を育てる」と言われる。
職業姿勢の違いは、第二次世界大戦でも民族性の違いが出て居る。トゥキディデスは「
新興の大国は必ず既存の大国へ挑戦し、既存の大国がそれに応じた結果、戦争がしばし
ば起こってしまう」との法則を見出しこの法則を「トゥキディデスの罠」という。とし
ているがしかし、日本では全く皆無であろう。日本は、古代から中国からの技術や文化
を取り入れて来た。朝鮮に於いてしばしば戦争は起こっていたが、それは領土戦争でな
く防衛戦争である。その為中国が攻めても日本が攻めてもいずれもその王朝は滅んだ。
そこには海があり台風がやって来る。中国も朝貢外交で臣下の礼があれば、それだけで
事足りた。日本の歴史はそうして進んだ。国内争乱に於いて、中国では大陸での覇権争
いはあったが、概して日本と中国は、それぞれに独立した視野や主権で国家経営してい
た。つまり競争競合の覇権争いや既存を犯す「トゥキディデスの罠」は起こらなかった
対して欧州諸国はそうは行かなかった。エジプト遠征でもフン族の戦いでもあのローマ
帝国ですら、自領の山を切り塩や金は他国に求めて国内を鎮めている。その為競技場を
造りアテナを滅ぼしドイツの様に生存圏問題を起こし下層民排斥を起した。不思議にも
どの時代でもどんな調査でもだれがシュミレーションしても日本は大国に勝てないと、
考えて行動し、それは的を得ている。それは聖徳太子以前から今日まで、小野妹子や、
武内宿禰(たけのうちすくね)の時代でも、言葉は違うが「防衛に専念すべし」として
戦っても勝てない事を示唆し、占領でなく討伐のみに傾いた処置に終わっている。つま
り世界観の違いがここにある。対米戦争前から、アメリカに勝つためには何よりも船を
作り、彼らの船を沈めなければならない。との見方は誰にも解る。軍用艦艇の記録は、
開戦時点における日本の艦艇は237隻、100万1千トンだ。 一方アメリカは345隻、143万
9千トン。トン数の比率は69.56%でいわゆる対米7割で、なんとか維持していたぐらい
で勝る事があるなどとは思っていない。そも過去に於いて鉄板船すら真似た国なのだ

1064: 名無しさんAA:18/07/12 23:49
 今でもコンピューターによる日米開戦のシミュレーションでも。米国と戦争したら、
日本は勝てない。100%が結論は、どんなに「緒戦優勢としても、徐々に国力の差は
顕在化する、ソ連は参戦し、開戦三〜四年で日本は敗れる。」というものだったという
。これは、原爆投下以外、ほぼ正確に太平洋戦争の帰趨を言い当てている。単なる憶測
の域を超えた研究なのだが、殆ど正確だ。…研究所は商船隊の撃沈率をはじき出し、や
がて補給路は断たれる。と結論づけた。驚くことにその撃沈率は、その戦後に調査され
た実際の数字と、ピタリ一致するのだ。…推計は日本郵船に蓄積されていた、英ロイズ
保険組合のデーターではじき出し独潜水艦による英商船隊撃沈率をもとに計算されたが
、まあ誰がどう考えても同じであろう。日本は海域が広いだけで人は半魚人ではない。
海の中では生きられない。造船予想の結果も歴史的現実でも、開戦から最初の半年間の
、つまり日本が連戦連勝していた時期ですらも、米国船は減るどころか23隻も増して
いるのだ。その内訳は目を見張る位に造船する艦艇規模も、米国の建造とは差があり、
2年も経てば、隻数&トン数は開戦時点の約2倍である。撃沈された船を計算に外して
も、2年間で「開戦時の合衆国海軍」をもう1個大隊が運用出来た程の保有数なのだ。
一方で日本の建造は、ピークに戦争前後は肩を並べて、艦艇数こそ248隻と多いが、
殆ど作れたのは小さな舟艇や特攻艇である。当初大型輸送艦が少し多めに数が出現する
。が、それは捕獲した船を改造したからだ。最初から原料不足していた中で、民間商船
に至っては「300万トン」か「1500万トン」かが 論争はあるが、いずれも太平
洋戦争の起こる頃には既に沈められていて民需300万トン説も疑わしい程少ない保有
だ。既に、日本の民間商船はアメリカの潜水艦によって次々と撃沈された事が解ってい
て、日本列島の回り180度海で護れないのだ。輸送商船が次々沈められて資源や軍需
物資を輸送する船舶が不足し、日本は既に物資が欠乏し兵器すら生産する事もままなら
ず、アメリカ軍の圧倒的な物量の前に敗れ去ることになる。これは容易に推測できる。
逆に言えばだからこそ、戦争したのである。更に正しく言えば日本の持てる船は、建造
し損害が無い事だが、アメリカの建造量もを上回る事は全くないし損害量を増やす事も
ない。製造した大型戦艦の大和ですら、鋼板不足で厚さが問われ、海軍では一般的には
甲板を木造として、鉄の使用量は極限まで絞って作っている。「味方の商船を守りひた
すら損害を抑えつつ、相手の商船を沈めてひたすら損害を与え続けるなどとは全くでき
ないのだ。戦いで生産が出来ずそれがまた原料不足を呼び造船できず、増産どころか、
損失すらも補えなくなる。戦前の軍部だって予想していた事だ。戦時に資源が無い中で
はその予想以上の船を日本は造り 粉骨砕身(ふんこつさいしん) したのだが、沈没も又
予想の3倍以上もあった。と言う激しい戦闘だった事が解る。。

1065: 名無しさんAA:18/07/12 23:50
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  119 > 

開戦してしばらくはタンカー不足で商船からの改造が相次いだ。がそれは、開戦第1年
目に70万トン近い輸送船とタンカーを捕獲できたからだ。実に大きい収穫とみえるがこ
の殆どはサミエル商会が英国に会社を売ったからだ。つまりドイツとの戦争で英国の油
の供給は、米国の経済制裁で日本への輸送は絶たれたが、それとは別に英国自体も自国
の供給の為に東南アジアの油田も輸送船も接取したのである。又一方でロシアとドイツ
の協定でロシアのバクー油田路が絶たれて、英国は米国に頼らざるを得なかったのだ。
日本に原油を運んでいたシェル石油の利権は英国海軍は買い取った。しかし航路や位置
が乗務員から把握出来た。その上で仏英海軍の守りは油田よりシンガポール本部だった
。それがマレーの強襲で可能になったのである。「43年に日本が作った全輸送船」と
ほぼ等しい量の船が捕獲し手に入った。これは棚からぼた餅ではない。その前に充分に
調査し分析し手にいれた。例えばチェレンバレン急襲も2千人の遠征部隊が消えている
。ミリ油田でも五百人の先行派遣兵士が死んだ。そうして日本への油輸送を始めたが、
長くは続かなかった。45年には油田地帯への船が米国の「シャットアウト作戦」が、
実行されたからだ。日本はマレー戦略ではシンガポール陥落をしていたが、海軍はこの
地を守る空軍を送れなかったのだ。この失敗はひた隠しされたが、どうしようも無かっ
た。巨大戦艦「武蔵」をフィリピンのこの海域に投入したが、空母のいない船団には、
全く勝ち目はなく、ましてはフィリピンを奪還したアメリカに勝つ見込みすらなかった
こうしてタンカー就航の9〜8割が沈められた。残りの1〜2割の残っていたのは北方
海域の樺太油田とされたオハ油田からの輸送タンカーであった。しかしここでも大本営
は失敗してしまう。つまり北方の守備と南方の守備を分けずにいた事だ。地理的条件も
気候や天候条件も全く違ったこの人間の条件に、作戦司令部は卓上机上の議論で決めた
。仮に横浜から直接ハワイに出港して攻撃していれば、真珠湾攻撃も全くの急襲であり
成功したであろう。しかし、海軍の水や食糧と共に油の供給もアリューシャン給油所で
供給し戦艦を終結させて出陣したのである。これらは当然英国のスパイが入ったシェル
の石油商人から米国に打電されていて この動きを元に空母をハワイの港からはずした
。実は1940年にアメリカ海軍がダッチハーバーに基地を設置していた、第二次世界大戦
中には大日本帝国海軍の攻撃対象となっていた。1942年ミッドウェー海戦と連動する形
で空母「龍驤」「隼鷹」を主力とする日本海軍の航空隊による空襲を受け大きな被害を
出したものの、日本陸海軍の上陸を受けることはなかった。また、第二次世界大戦中は
アメリカ軍の北方作戦の中心基地として機能した。ここの奪還をアメリカは危惧した。

1066: 名無しさんAA:18/07/12 23:55
 不思議な事だが、米国はアリューシャン列島を非常に重要視していた。太平洋戦争の
開戦当時の連合艦隊作戦計画では、「占領または攻撃破壊すべき外郭要地」として定め
られていた程だった。これは十分に検討されたものではなかったが、北方のアラスカの
油田が見つかった頃だった。1942年、第一段作戦を終えた日本では、AL作戦も含めた
第二段作戦を立案した。AL作戦の目的は、アメリカの北方路の進行を阻止するもので、
米ソ間の連絡を妨害し、シベリアにアメリカ軍の航空部隊が進出するのを妨害しようと
するものであった。1942年2月の図上演習では、当時開発されたとの情報があった米大
型爆撃機が、アリューシャン列島の基地から帝都空襲をおこない奇襲に成功するという
結果が示されたことで、同方面の関心はさらに強くはなっていた。同作戦でミッドウェ
ーとキスカ間に哨戒機を往復させてアメリカ海軍空母が近接するのを防ごうという意見
もあったが、殆ど机上論であり、軍令部航空主務部員の三代辰吉も連合艦隊航空参謀の
佐々木彰も霧などの関係から到底そのような飛行哨戒は不可能と考え、全くそうした案
は考慮しなかったと回想している。アリューシャンには、攻撃部隊が空母隼鷹、龍驤を
中心とする空母2隻、巡洋艦3隻、駆逐艦5隻の艦隊(細萱戊子郎中将、角田覚治少将)
で大湊を出航し、続いて巡洋艦2隻、駆逐艦3隻、輸送船2隻のキスカ島攻略部隊が5月28
日、巡洋艦1隻、駆逐艦3隻、輸送船1隻のアッツ島攻略部隊が5月29日にそれぞれ出航し
て海戦している。真珠湾攻撃でも暗号が傍受されていたが、その後の海戦でも日本は、
この近くの孤島はあまり気にかけて居なかった。これが日本の敗因となっている。ダッ
チハーバーの空襲は防衛作戦で押収基地の一つとして行っているに過ぎない。アメリカ
軍は暗号解読により日本軍の攻撃を知り、ロバート・シオボルド少将麾下の巡洋艦5隻
、駆逐艦4隻をコジャック島方面に、駆逐艦9隻をウナラスカ島に配備した。しかし、
1942年(昭和17年)6月3日から翌日にかけて、日本海軍機によるダッチハーバーに対す
る空爆やアッツ島、キスカ島の攻略でアメリカ軍を撃退した日本軍は両島を占領した。
これは、アメリカにとって第二次世界大戦における初の領土喪失であった。この事は、
各地で敗北を重ねるだけでなく、アメリカ本土砲撃をはじめとする本土への攻撃を受け
ていたアメリカ国民の士気喪失につながるとして軍および政府は強い危機感を感じた。
6月3日早朝、龍驤の攻撃隊がダッチハーバーのアメリカ海軍基地を空襲し、翌4日日本
軍は再度空襲を行い基地内外に大きな被害を与え、施設や宿舎などを炎上させた。日本
軍は6月6日にアッツ島翌日にキスカ島に上陸し占領した。両島ともアメリカ軍の守備隊
は存在していなかった。アメリカ軍は10日になって、アッツ島、キスカ島に日本が上陸
していることを発見、爆撃機による空襲を開始した。12日には駆逐艦響が爆撃により
損傷した。

1067: 名無しさんAA:18/07/13 00:10
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  121 > 

 実はこの地こそ太平洋戦争の勝敗を喫する所である事を米国も日本も、名のある将軍
は知っていたのだ。よく考えれば簡単な事で、1年2年かけて巨砲の軍艦を作るよりは
この島をもって空母とし戦艦として利用できれば手っ取り早く安価な砦となる。ハワイ
と同じく飛行場と製油タンク巨砲の砲台が幾つも設置されれば、後は食料が自給できて
ばそれで済むのである。こんな手軽な軍艦はない。しかしこの地は暖流と寒流が合わさ
る所で霧が立ち込める要所で この地を守るのも攻めるのにも、既にレーダー開発して
いた米国に利があった。日本が太平洋戦争開戦の決定を各部隊に知らせるために用いた
暗号は「ニイタカヤマノボレ 1208」だったが、これは「12月8日に開戦するので各部隊
は事前計画に従って作戦行動を取れ」という意味の他に、日本が国際社会で更に高見の
地位に登るしかない。との意志や悲痛な声でもあった。それは新高山(ニイタカヤマ)
とは現台湾にある「玉山」という山の日本名での呼称で、当時の日本国内では最高峰であ
った富士山(3776m)より新高山(3952m)と海外が標高が高いものを示す意味があった
。「ニイタカヤマ」は、技術や軍事の高い米国そのものの文化の事だったのである。つ
まり「ニイタカヤマノボレ一二〇八」という海軍の暗号電文は日米交渉は決裂したから
12月8日に決行すると言う意味に、新たな山は危険な所気を引きしめよ。と言う自戒
の訓令でもあったのだったのだ。もともと日本はこうした戦いは好きではない。伝統的
にバルチック艦隊撃沈以来防備で叩くのがやり方だった。アメリカと戦争になった場合
、日本はどのように戦うのか。は何回も想定していただろう。日本海軍は1904年〜1905
年の日露戦争以降、バルチック艦隊の戦法しか眼中になかった。太平洋を隔てた米国を
仮想敵国とはみなさず、米国のみが日本を敵としていた。日本海軍の持っていた伝統的
な戦争では、対アメリカ作戦では充分勝てる見込みだったのだ。太平洋を渡って来る中
アメリカの艦隊に対し、潜水艦等で相手の戦力を減らし、日本近海に来たところで艦隊
主力による決戦によってアメリカ海軍を打倒するというものが、伝統戦法であった。こ
れは、少しずつ相手の戦力を減らし、迎え撃つ作戦で、それを頭に国の防衛戦力の拡大
をしていた。「漸減邀撃(ぜんげんようげき)作戦」と呼ばれて、南洋を砦としていた
戦法だ。軍艦を多く保有することで、日本よりも強大な海軍力を誇るアメリカの力を弱
めつつ対抗しようとしていました。その主眼にあるのは、戦艦を中心の軍艦同士の海戦
で、いわゆる巨砲主義で対抗した船の砲弾より遠くから大きな威力の弾を飛ばせる事が
大事とされていた。対抗した船が沈む沈まないは2の次だったのである。世界中の海軍
が、大きな軍艦になるべく大きな大砲を積むことで、敵の優位に立とうとしていたのだ。

1068: 名無しさんAA:18/07/13 00:18
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  122 > 
 だがこの日本海軍伝統の作戦計画に対して、連合艦隊司令長官に就任した山本五十六
(いそろく)は異論を唱えていた。連合艦隊司令長官は、作戦計画については軍令部(
大本営海軍)の指示を受けているしかし、天皇直属であり、非常に立場の高い地位での
存在でした。アメリカとの戦争に大反対していた山本長官は、アメリカと戦わなければ
ならなくなった場合、先制攻撃によって敵の海軍力の中枢に大打撃を与えて、それ以上
日本と戦う気を失わせることだけが、唯一の取る道だと主張していた。事実もしハワイ
が製油貯蔵タンクも空母も全く撃破していたならば全く違っていたであろう。ドイツは
もっと勢力を増して、もっと日本は徹底的に戦い合い悲惨な結果だったろう。山本長官
がこのような主張をした背景は、日米の国力差を知っていたからだ。アメリカは日本よ
りも圧倒的に経済規模も、工業力も大きく高く、長期戦になれば確実に日本に不利にな
ると予想された。アメリカ・ハーバード大学への留学やアメリカ大使館勤務を経験して
いた山本長官は、その際にアメリカの工業力が日本とかけ離れて高いことを認識してい
たのである。1940(昭和15)年9月の御前会議で、当時の近衛首相に対アメリカ戦の自
信を問われると、「是非やれと言われれば、はじめの半年や一年は存分に暴れてご覧に
入れましょう。ただし二年三年ともなれば確信はありません。」と述べています。ここ
に2・3年すれば確実に日本は敗けますよ。と素直には言えない力が日本の弱さだった
。こうして先制奇襲攻撃を行う事を発案するが山本長官の力はそこまでで、勝つ見込み
は立てられず、航空本部技術部長や空母赤城艦長を務め、航空畑を歴任して、自身がそ
れまで育ててきた航空部隊(空母部隊)による攻撃には自信を深めている。だがそれは
優位な攻撃形態と言うだけで、空母に攻撃機や爆撃機、戦闘機を搭載し、遠く敵本拠地
まで隠密行動で近づいて攻撃する事は、米国でも考えているものと思われ、日本はやら
ないと思われていた。短時間に敵に大打撃を与えられる。と考案された戦略の中でハワ
イ・真珠湾に、アメリカ太平洋艦隊への奇襲攻撃が最も有効である。そう考えた。山本
五十六(いそろく)は名前も珍しいが、実は生まれた当時の父の年齢56歳だった為に
この名を付けられた。本人は気に入ってはいなかった。そんな五十六だったが、生まれ
ながらにかなり頑固な気性で、小学校時代に友人から「鉛筆は食えないだろ。」と冷や
かされるや、ボリボリを鉛筆を食べ始めたといいますから、その負けず嫌いぶりは驚く
べきものだった。しかし、中学生の五十六に将来変える出来事が起こった10歳年上の
親戚の甥で、軍人を目指していた人が病気で亡くなったのである。この死を悼んだ親は
五十六に軍人になることを強く勧め、これを受け、五十六は海軍兵学校を受験すること
となり、200人の合格者中、2位という好成績で難関を突破した。

1069: 名無しさんAA:18/07/13 00:19
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  123 > 

 当時は本家を護り奉る(たてまつる)。と言うのは習わしだった。つまり次男以下は
この家主や当主の代用品として生かされ、もしもの為の身内筋だった。仮に何名もの代
理が産まれていたら、直ぐに奉公人や養子に出されて育つのが一般的であったのだ。日
本がロシアと戦った日露戦争の最中に、五十六は兵学校を優秀な成績で卒業したため、
少尉候補生として直ぐに戦場に送られる事となった。装甲巡洋艦・日進に配置され、そ
れが彼の配属された船であったが、この初陣は彼にとっては悲惨なものだった。敵の攻
撃により日進は被弾し、五十六は左手・左足を失いかねない怪我を負ってしまったから
だ。場合によっては切断も止むなしという大怪我をするが、奇跡的な回復を果たして、
又海軍に復帰し、その後様々な軍艦で任務をこなして行く。しかしその後艦船の近代化
に声を上げた為25歳の時には、駐在員としてアメリカに渡ることで、見識を広める処
置が海軍では取られた。1913年(大正2年)には、老齢の両親が揃って亡くなっている
。この後、海軍幹部となるための登竜門・海軍大学校に入学を果たした。またこの時に
旧長岡藩家老という由緒正しい家格を持つ山本家を相続することとなり、高野五十六は
海軍エリート候補生、山本五十六としてここに誕生した。32歳で五十六は海軍大学校
を無事に卒業したが、腸チフスに掛かりまたもや生死の境を彷徨う。どうにか命を取り
留め、仕事も順調に進め始めた頃、五十六は友人から紹介された礼子との結婚を果たし
た。しかしながら1919年(大正8年)、再び公務でのアメリカ駐在が決まり、甘い新婚
生活は出来なかった。「アメリカ駐在時代、セントラルパークなどに出かけ、得意のカ
メラ撮影で、米国人の生活やありさまを写し取っている。被写体の多くは、女性と子供
たちであった。」と記憶されていて、平和をこよなく愛している事が解る。留学中には
アメリカ中を旅行して見聞を広め、デトロイトの自動車工場、テキサスなど各地の油田
視察し、メキシコの採掘状況など見学している。メキシコシティの日本大使館で、駐在
武官の山田健三少佐は山本と同郷人で、日露戦争時に山本の兄の戦友と判明し親しくな
った。山田が急遽帰国することになったが旅費が足りず、その窮状に借金していた自前
の旅費を山田に提供している。その為パンと水とバナナの貧乏旅行をしメキシコ政府か
ら、日本の亡命者扱いを受けた。又長官時代油の代わりの代替え油が開発されたとする
詐欺に海軍がかかった。この時も山本は、海軍を相手に「水からガソリン」なんて話を
堂々と売り込だ本多維富を受け入れている。

1070: 名無しさんAA:18/07/13 00:26
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  124 > 

米内 光政(よない みつまさ)は、公私共に山本五十六の上司だった。日本の海軍軍人
だったが、乞われて政治家になった。最終階級は海軍大将。位階は従二位。勲等は勲一
等。第23代連合艦隊司令長官で49〜52代海軍大臣となり第37代内閣総理大臣となった
。旧盛岡藩士・米内受政の長男として生まれたが、異様な人格者だった。海軍兵学校の
29期に入校。同期生に高橋三吉、藤田尚徳、佐久間勉、八角三郎(中学も同期)らがい
るが、兵学校では「グズ政」という渾名がつく程の文才だった。当時の米内のノートは
記述の質・量が膨大であり、ひとつの問題に対して自分が納得が行くまであらゆる角度
からアプローチをかけ問題を解決して対処を考えている。これは詰め込み式教育が当た
り前だった海軍教育においては珍しい勉強法で、米内の勉強法を知っていた当時の教官
は「彼は上手くいけば化ける。いや、それ以上の逸材になるかも知れない」と目を掛け
、多少の成績の不振でも米内をかばい続けて何とか米内を海軍兵学校から卒業させた。
後に同期の藤田尚徳は人事局長時代、当時の呉鎮守府司令長官・谷口尚真から「君のク
ラスでは誰が一番有望かね」という質問に即座に「それは米内です」と答えたという。
谷口はそれに「そうか。僕も同意見だ。ただ米内君は面倒くさがり屋で、その面倒くさ
がりの度が少し過ぎてやせんかと思うがね。」と答えたという。ハーバード留学時代に
嵌められた山本五十六について言えば、彼は「嵌められやすい」人材だったのでしょう
私生活もそんな感じである。終戦前に、たぶん良心の呵責と自責の念で精神的に耐え切
れなくなって最後は自殺に近い形で航空移動中南方で行方不明で死んだ事になってる。
それと対照的に、米内光正は山本五十六とは違うとんでもないワルだったと言われる。
1915年(大正4年)に、ロシア・サンクトペテルブルク大使館付駐在武官補佐官に赴任
しているが、ロシア時代の駐在員監督官が海軍省に送った報告書で、米内は「語学の上
達が非常に早く、ロシア人教師も驚く程である。異国の風土にも違和感なく溶け込み、
(米内のロシア駐在という)人選は適格である」と絶賛している程だ。ある同期生は「
ロシア語で電話が出来る海軍省内唯一の人」と回想し、佐世保鎮守府参謀時代は「暇つ
ぶし」と称して『ラスプーチン秘録』というロシア語で書かれたルポを翻訳したりして
いた。彼は石原莞爾によく似た境遇に於いて その年代の環境の差だろうか全く違う様
な 対照的思想を持っていた。莞爾が国柱会を得て最終戦争に備える事念頭に戦略があ
たが、米内は、日本のソ連駐在からか日本人の相互扶助的、独善的覇者の国家王道国家
を求めていた。

1071: 名無しさんAA:18/07/13 00:32
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  124 > 

 その後ポーランド駐在員監督を経て1922年(大正11年)、装甲巡洋艦「春日」艦長。
1923年(大正12年)、練習艦「磐手」艦長。と艦長就任で世界を回った。米内はニュー
ジーランドの小学校を訪問した事があるが、もともと口数が少ない方で挨拶をした際は
、「 I'm glad to see you, thank you.」としか話さなかったと言う。1924年(大正13
年)戦艦「扶桑」「陸奥」艦長。1925年(大正14年)、任海軍少将。第二艦隊参謀長で
当時の司令長官の谷口尚真の下に赴いた。谷口があまりにも謹厳であり部下にもこれを
要求したため米内が「河の水棲むほどの清さかな」という句を送っている。それを預か
る谷口は「ありがとう。」とこれを受け取ったという。鎮海要港部司令官になったが、
この役職は「クビ前の島流し」と言われたが、ここでも「帝国海軍の将来を考える時必
ずこの人に大任を託す時期が来ると思う。」と周りの者が持ち上げた。彼の運命はこう
して誰かが庇って護られた人生だった。1936年(昭和11年)、二・二六事件発生の際、
鎮守府に着いた米内は参謀長の井上成美とともにクーデター部隊を「反乱軍」と断定、
制圧に動いている。こうして連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官に補される。1937年
(昭和12年)、林内閣の海軍大臣に就任したが、米内は軍政が嫌いで連合艦隊司令長官
を就任僅か2ヶ月で退任し海相になるを非常に渋った。周囲には「一属吏になるなんて
、全くありがたくない話だ。」とぼやいていた。当初、林銑十郎は海相に末次信正を望
み、両人間で了解済みであった。しかし海軍次官・山本五十六は前海相・永野修身に、
米内を強く推して軍令部総長・伏見宮博恭王の同意を得て決定したようだ。4月に海軍
大将に進級したが、海相の初期には「金魚大臣」と渾名(あだな)がついた。大臣秘書
官だった実松譲中佐は、米内のあまりの博識に驚き、どこでそんな知識を身につけたの
か質問した。と「鎮海に二年、佐世保に一年、横須賀に一年、官舎でやもめ暮らしをし
ている間に読書の癖がついた。特に鎮海の閑職時代には書物を読むのが何より楽しみで
あった。そして、いま海軍大臣という大事な仕事をするのに、それが非常に役に立って
いるように思われる。人間と言うものは、いついかなる場合でも、自分の巡り合った境
遇を、もっとも意義あらしめることが大切だ。」と答え、永野は「練習艦の米内艦長か
ら教えられているような少尉候補生時代の気分に戻った」と回顧している。これらから
も東洋的な孤立した自主独立道徳主義であり、明治以降の誰でもが開港で夢見たが知っ
てがっかりした日本人の、言わば西洋嫌いの堅物の横顔が見える

1072: 名無しさんAA:18/07/13 00:47
1933年(昭和8年)、佐世保鎮守府司令長官に着任した時友鶴事件が発生した。この
時査問委員会の一人である森田貫一機関中将は、佐世保の米内を訪ねた際、米内は「こ
れは(日本海軍の)根幹に関わることだ。僕はどうなってもいいから本当のことをしっ
かりやってくれ」と言って真相解明に力をいれた。納入業者の財閥の力が強い中で、森
田は「偉い人だ。米内さんが職を賭して徹底解決を推進された。役人根性で責任回避を
謀り、うやむやにしていたら、日本海軍は大変なことになった」と話している。1937年
(昭和12年)6月4日、第1次近衛内閣でも海相に留任した。8月9日に第二次上海事変が
発生した。8月13日の閣議で断固膺懲を唱え、陸軍派兵を主張した。8月14日に、不拡大
主義は消滅して、北支事変は支那事変になった。その後全面戦争論を展開し、台湾から
杭州に向けて進軍し、更に8月15日には 長崎から南京に向けて海軍航空隊による渡洋爆
撃を敢行した。同日から 8月30日まで、上海・揚州・蘇州・句容・浦口・南昌・九江を
連日爆撃し、これにより日中戦争の戦火が各地に拡大した。こうして1938年(昭和13年
)1月11日の御前会議では、トラウトマン工作 の交渉打切りを強く主張し、「蒋介石を
対手とせず」の第一次近衛声明につながった。とされる。この行動に歴史家は正反議論
があるが、少なくとも時の事情を一番知っていた大臣で、最も日本の為の事だったろう
。何故ならこの進軍が無ければ、もっと大勢の日本人が死んでいただろう。しかしこの
空爆で中国への米国支援が拡大し米国の反日対策が成功したのも事実であった。11月25
日の五相会議で、米内は海南島攻略を提案し合意事項とした。当時の海軍中央部では、
「海南島作戦が将来の対英米戦に備えるものである」という認識は常識であった、米内
は「対英米戦と海南島作戦の関係性」は承知であり。この件に関し「第二次上海事変で
、出兵に反対する賀屋興宣を閣議で怒鳴りつけ、無理矢理に兵を出しては、シナ事変を
泥沼化させた」「海南島に出兵を強行して日米関係を決定的に悪化させた」という批判
も当然の帰結だった。海軍次官・山本五十六、軍務局長・井上成美とともに、ドイツ・
イタリアとの日独伊三国軍事同盟には、かなり反対している。これらから国際事情も又
よく知り、中国の共産党化も良く知っていて、蒋介石の行動や腹積もりも見透かしてい
る大物だったのだろう。日独防共協定締結に際しての意見は、「なぜソ連と手を握らな
いか」と慨嘆した親ソ派であったと言われる。その為両派の折衷案をひっさげてたのが
馬鹿な松岡だった。ソ連との不可侵条約とドイツと輸出入協定を結んだが、これが国防
協定として米国は宣伝し、米国の反日をあおった。基本的に対ソも対米も外交的に破綻
していたのである。これが中国の蒋介石夫人を始めとする、宣伝工作の浸透だった。そ
こまで中国人に操られる西洋社会はあり、国際社会は馬鹿だったのである。

1073: 名無しさんAA:18/07/13 00:52
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  126 > 

8月の五相会議の席上では、ドイツと同盟を締結し日独伊と英仏米ソ間で戦争となった
場合、海軍として見通しはどうかと石渡荘太郎から問われたが、堂々と米内は「勝てる
見込みはありません。日本の海軍は、米英を相手に戦争ができるように建造されており
ません。独伊の海軍にいたっては問題になりません。」と言下に答えた。この事は大き
く問題になったが、8月30日 昭和天皇は、米内に「海軍が(命がけで三国同盟を止め
たことに対し)良くやってくれたので日本の国は救われた」という言葉を残している。
 同年に豊後水道で潜水艦が沈没し呉鎮守府が引き揚げ作業に当たったが、沈没場所が
水深数百メートルである上に、潮の流れが速いため作業は難航し、外部から経費の無駄
遣いと批判を浴びて現場も「こっちも好きでやっているのではない。非難があるなら、
やめてしまえ。」と意欲が低下していた。それを察した鎮守府参謀長が海軍省に報告に
行ったところ、当時海軍次官であった山本五十六は「経費はいくらかかってもいいから
しっかりやれ。しかし無理して人を殺さぬように。」と激励した。米内も「次官から聞
いた。御苦労。」とただそれだけ述べた。参謀長は現場に戻り、これを現場に伝えたと
ころ非常に奮起が上がり作業も無事終了した。参謀長は戦後に「あの短い大臣の言葉と
次官の人を殺すなという一言は、千万言にも勝る温かい激励でした」と回想している。
 海軍大将の立場で日中戦争を拡大する工作を行い、米軍の原爆投下を天祐(天の恵み
)であると言った。とされ、ある意味まじめな山本五十六と違ってこの人はのうのうと
戦後も生きながらえている。山本は石炭から石油へのエネルギーの転換中のアメリカの
発展する工業力を見聞している。山本は飛行機の発達に注目し、留学時の研究テーマに
選び、飛行機の将来性、飛行機の燃料となる石油への着目は、当時の山本の指導上官で
あり、米国駐在武官であった上田良武(よしたけ)大佐の影響を受けたと考えられてい
る。上田は、帰国後、航空機試験所長など航空畑を歴任し、海軍における航空機開発の
先頭に立ち続けた人物でした。恐らく山本が飛行機について本格的な話を聞かされたの
は上田が最初であり、山本の飛行機への興味は、上田の山本への指導抜きには語れない
とされている。上田良武 (うえだよしたけ) は明治の海軍卿で国連海空軍代表、及び、
ワシントンから第2次ロンドンまでの海軍軍縮会議に案内した海軍代表武官であった。
おおむね大佐・少将が派遣され、百武代表以降、ロンドン軍縮条約随員要員として送ら
れた佐藤代表以外は、パリに派遣された上でジュネーブ入りしている。殆どの代表随員
となる半年前から欧米を出張しており、海外に慣れた人物ばかりである。

1074: 名無しさんAA:18/07/14 18:25
 その後大正10年11月12日開会されたワシントン軍縮会議では、日本は、大きな岐路に
たった。11年2月6日調印・12年8月17日発効したこの軍縮調印は、英国の被害を負った
第一次世界大戦後だった為に、米国や仏国と共に、他国の艦船建造の増強を遅らせる為
の手法だった。世界大戦を無傷で終えた日本は、八八艦隊計画、米国はダニエルズ計画
を推進して海軍の充実や拡大を図る途上にあった。しかし米国では植民地購入の後で、
膨大な予算の浪費において、アメリカの議会背景は猛反対の反応を示していた。世界大
戦の損害を回復する必要がある欧州諸国との戦力比を考慮しアメリカ・イギリス・日本
・フランス・イタリアの5カ国で主力艦の建造量を調整し削減する事を決定することと
した。この条約によって、戦艦・駆逐艦の保有量を固定し、10年間の新戦艦建造凍結
を決定させ英国は経済停滞による新造船の遅れをさせまいと企画したのだった。海軍は
巨大戦艦を5隻既に発注し作っていた。しかしこのあおりを受けて直ぐに、砲台のない
この条約の対抗策として空母に転化した。又、妙高型・ペンサコラ級に見られる巡洋艦
の強力化や、龍驤・レンジャーに代表される新造空母の小型化が生じた。こうして抜け
穴となる空母建造に対してもジュネーブ軍縮会議が持ち出された。昭和2年6月20日
開会し2ヶ月もの議論があったが8月4日に決裂した。二回目のワシントン条約の結果
では、補助艦の強化でも英国では問題視して、その強化や空母および巡洋艦の制限も勘
案されるようになっていたからだ。しかし、国家予算保護のワシントン条約が、大恐慌
対策の米国と、その前の条約と同じに経済の危機を回避せねばならない英国とは、この
局面での建造調整は出来なかった。重巡洋艦重視のアメリカと軽巡洋艦重視のイギリス
が反目してこの条約は決着を見ることなく決裂したのだ。巡洋艦は帆船や石炭の頃は、
旗艦の周囲に置いた浅瀬用の補助艦の流れの軍艦だった。しかし重油によるエンジンで
砲弾の貯蔵が可能になり大型砲台すら可能になっていた。この巡洋艦は1922年のワシン
トン軍縮会議で締結されたワシントン海軍軍縮条約によって、「砲口径5インチ(127mm)
超過8インチ(203mm)以下で基準排水量10,000トン以下の艦」と定義された。これを一般
に条約型巡洋艦と言った。それ以前まで、大日本帝国海軍では、アメリカ合衆国海軍の
新造オマハ級軽巡洋艦の出現に脅威を感じていた。1923年計画艦で1922年11月に起工さ
れた新型の巡洋艦は、直前のワシントン条約に定義された砲口径上限制限の20cm砲搭載
していたからだ。この為日本でも巡洋艦「古鷹」を新造する。それに刺激された列強は
、この巡洋艦が条約上は主力艦のような厳しい保有比率制限を受けない補助艦艇扱いで
ある事を理由に、これに着目し主力艦に匹敵しうる戦力として位置付けて造りだした。

1075: 名無しさんAA:18/07/14 18:27

    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  129 > 
ロンドン海軍軍縮会議でのこの問題は、日本を相手に艦の建造や戦力低下を標榜して
行った意志は同じだったがその中身に於いて大きく違っていた。この会議で締結された
ロンドン海軍軍縮条約において、砲口径6.1インチ(155mm)超過8インチ(203mm)以下の巡
洋艦を「カテゴリーA」、砲口径6.1インチ(155mm)以下の巡洋艦を「カテゴリーB」と
分類し、保有制限枠を設けたまでは進んだ。日本では、前者が重巡洋艦、後者を軽巡洋
艦と通称された。日本海軍の正式な分類では、前者は一等巡洋艦もしくは甲巡、後者は
二等巡洋艦もしくは乙巡である。しかし英国はジュネーブ会議で、うやむやになったこ
の巡洋艦制限問題に決着をつけられなかった。又これをそのままにしておくことも又、
英国を弱くするものだっだ。何故なら無制限に認める事はドイツや仏国の建造も許す事
だったからだ。こうして英国主導の強力なロンドン軍縮会議が開かれた。ワシントン条
約の期限切れが迫り、この会議の準備中に世界大恐慌が勃発した。財政破綻の危機が訪
れていた米国には弱みがかかり、米国軟化で条約は締結に漕ぎつけた。しかし、条約の
非加盟国のドイツがポケット戦艦を就役させて、フランスは対抗艦を建造せざるを得な
くなって、フランスを仮想敵とするイタリアも、フランスに対抗する戦艦の必要性が高
まってこの条約協定には意味がなくなった。直ぐにこの協定は仏伊両国が脱退を表明し
、昭和5年1月21日開会 4月22日調印・12月31日の発効だったが、発効を待たずして
瓦解した。又この軍艦製造には大きな問題が介在していた。それは相次ぐ恐慌の連鎖で
経済破綻した国内で、軍需によるその救済である。こうして再度ジュネーブ軍縮会議が
大国以外も引き入れて開かれる事となった。しかし日本はこの年も問題だった。一つは
一年前の満州事変である。二つ目は1932年2月2日のジュネーヴで国際連盟主催の
ものが一般軍備制限会議として開催された事だ。日本代表には伝統的に陸軍は居なかっ
た。代表団として出席していた海軍における建造制限ではなかったのだ。アメリカ合衆
国、ソ連邦も招集されて64カ国が参加し、これはパリ講和会議以来の大きな国際会議
であった。折しも日本が上海事変を起こし、戦火が中国の大陸本土に拡大している最中
で蒋介石政権のプロパガンダは大いに暗躍して、大日本帝国の表明するアジア経済圏の
脱植民地主義などは全くかき消されていた。もっとも米英ソはこの中国大陸においては
、既に分割接収の話し合いが起こっていて、日本を敵視した政策は固まっていたのだが
。昭和5年すなわち1930年は、日本は昭和天皇が産まれてやっと軍部に天皇の意見
が産まれた時代だった。これまでの勝手な軍部の大正天皇を持ち上げた世界から明るい
希望が産まれていた。

1076: 名無しさんAA:18/07/25 20:21

    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  130 > 

 戦闘中止の会議の成功に国際社会の期待が高まっていた。アメリカは日本の中国進出
に態度を硬化させたていが、イギリスはアメリカとの共同歩調を取ろうとしなかった。
恐慌にあえぐ各国はそれぞれ自国の労働運動の高揚や植民地の独立運動を抑え、ブロッ
ク経済体制を維持するために軍隊の拡大を図っており、ドイツの台頭でイギリスやフラ
ンス、の軍需工業資本家は盛んに軍縮条約が成立しないよう暗躍していた。当然ドイツ
も同じだった。ジュネーヴ軍縮会議はこのようにして始めから失敗を予告されていた。
1930年2月9日に若槻軍縮会議の全権大使は、英放送局から日本へ向けて演説放送
をして初の国際中継放送を日本に送った。これは画期的な広報ではあったが、これは、
日本の争乱の元になった。2月20日に第17回総選挙で民政党273,政友会174,国民同
志会6,無産諸派5,革新党3,中立その他5と言う結果で、民政党圧勝して絶対多数を、
確保したのである。これによって統帥権問題が再燃していた。これは関東大震災で軍部
と行政警察の自治が衝突していたからだ。明治憲法下で天皇の権能は特に規定がなけれ
ば国務大臣が輔弼する。しかしそれは憲法には明記されておらず慣習であった。また、
同じく慣習的に軍令の戦争作戦・用兵や徴兵に関する統帥事務については、国務大臣で
はなく、統帥部(陸軍:参謀総長。海軍:軍令部総長)の大本営本部の指揮下軍部が、
補翼し、何となく分かれて権利行使を行っていたのだ。大日本帝国憲法第11条の天皇
大権で、陸軍や海軍への統帥権は、陸海軍の組織と編制の制度、および勤務規則の設定
、人事と職務の決定、出兵と撤兵の命令、戦略の決定、軍事作戦の立案や指揮命令など
の事細かには規定されていた。陸軍は陸軍大臣と参謀総長に、海軍では海軍大臣と軍令
部総長に委託され、各大臣は軍政権(軍に関する行政事務)を、参謀総長・軍令部総長
は軍令権を担った。しかし明治憲法下ではその天皇の権能は規定が無ければ国務大臣が
輔弼し指令を出せる話だったのだ。が憲法明記がなく、既に慣習的に軍令は国務大臣で
はなく、統帥部が勝手に行っていたのだ。つまり国務大臣が海軍大臣や陸軍大臣を任命
拒否が出来た筈がその事務する参謀総長が実権を握っていたのである。この軍令と国務
大臣が輔弼するところの軍政の範囲についての争いが原因で統帥権干犯問題が発生して
、この明治憲法が抱えていた欠陥が終戦に至るまで解決をしないまま、日本の軍国主義
化を進めて行き、敗戦に至る事になった。この軍縮会議や国連脱退問題も、実は議会を
仕切った国務大臣ではなく、総理大臣の直属軍部としての陸海軍の参謀長合意であった
のである。

1077: 名無しさんAA:18/07/25 20:50
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  131 > 
 写真集『私たちの神父様は写真家』は、ソウル大教区のチェ・スンニョン神父の本だ
。収拾した写真約1千点がある。ソウル大教区古文書庫の責任者だった頃、メリノール
本部の古文書庫の中に朝鮮半島の古い写真を見つけ、複写した編集した本だ。チャン神
父は前書きで「宣教師たちは専門家にも負けない資料を写真として残した。当時、貧し
くみすぼらしかった朝鮮半島の現実が映像として記録されて、明るい子供たちの姿は、
ほほえましい。」と紹介している。2012年朝鮮日報の記事は 「1931年1月26日の朝鮮日
報社会面には、「世界初の試み」が報道された。東京航空輸送会社「エアーガール」、
つまりスチュワーデスを飛行機に搭乗させることにしたという記事だ。この航空会社は
「部屋には綺麗なエアーガール(公衆の女給仕)を乗せ、カクテルと熱いコーヒー・、
茶を勧めることにする先進的計画」を発表したと書いてある。実は世界的にはそうした
給仕女は既に一般的だったがアジアに無かった。「欧米各国ではすでに飛行機の中でお
菓子とお茶を勧めることなどはしている。が、美人が給仕をするのは今回が世界で初め
てである」と書いている。現代文明の花であるとしばらく自慢されてきた飛行機も、最
近では一般的になって普通の一交通機関となったと表現するほどになった。1936年に飛
行機の搭乗人が395人に上って、スピード愛好時代の到来と書いた頃だ。 「このような
雰囲気の中、1937年に、この土地(朝鮮半島)最初のスチュワーデス公開募集が行われ
た。中区小公洞にある日本の航空輸送会社・京城営業所では、「麗人を求める」広告を
出し、エアーガールを募集し、市内で綺麗な処女だけで約七十人が応募した。この試験
を通じて選抜された一人の女性について、記事は「この麗しき処女こそ、朝鮮航空系の
最初に咲く一輪の花であろう」と表現した。1922年(大正11年)以降に内地人向けの教
育に尋常小学校と現地人向けの普通学校が発足させた。普通学校の就学率が、1933年(
昭和8年)でも2割という低率であり、義務教育でもなく、授業料が必要だった当時で
は当然であった。教科書は日本語であったが朝鮮語も必須で、朝鮮の歴史も教えた。校
長は日本人が多く、教員は朝鮮人が主であった。そうして昭和14年にやっと普通学校
も小学校に名称変更され、昭和16年で就学率は55%に上昇した。そうした中の広告だっ
た。中学校、女学校も日本人と朝鮮人は別々とし普通学校からの進学率は4%と極端に
低かったが、大多数の朝鮮人の子どもは、民間で勉強した。じつは李朝以来の初等教育
機関として書堂があり、貴人には初歩の漢文と習字を教えていたのである。昭和4年か
らは、総督府編纂の国語、朝鮮語、算術の教科書を学ぶことになり、日本語を理解する
朝鮮人の割合は、昭和4年8%が、17年24%(台湾62%)、20年35%(台湾70%)と低
率ながらも上がった。しかし大々的な国語普及運動を行ったが成果は挙がらなかった。

1078: 名無しさんAA:18/07/25 20:51
 識字率に関して、朝鮮では朝鮮総督府が公式に識字率を調査したのは1930年の1回限
りなどと堂々と嘘をつく輩がいる。今や資料は朝鮮側が勝手に廃棄したが、明治時代か
ら色々な実態調査は行われていた事が知られている。1930年は朝鮮国勢調査の数字では
日本帝国の支配下で朝鮮は工業化が進み豊かになった。しかし生活実態は、工業従事者
世帯で朝鮮人に占める割合は、1940年でも僅か5%程度だ。つまりロシアへの国債払いに
追われていたのである。工業従事者など賃金労働者の所得は、物価を加味すると、実質
的には向上しなかったとされる。しかし賃金の無い農奴の時代からは飛躍的な生活実態
が起こっていた。朝鮮人と日本人の間にも概ね2倍の給与格差があった。株主会社の持
ち主の9割が日本人であり、日本語の解らない朝鮮職工に与えられ能力差であったとも
言われる。1910年から1918年までこの時期は韓国併合直後で、土地調査を実施
していた。1915年まで一様に伸びたが、1920年に急激に物価も工賃も上がり、
インフレになったが農業生産はそのまま高価にならず安価で食生活が送れた。満州から
の輸入で答えたのである。代わりに輸出したのが繊維だ。日本向けの殖産興業の多くは
朝鮮女工の織物で「フランス人宣教師シャルル・ダレの朝鮮事情では1871年から、
1872年にかけての見聞に、不作で飢餓が朝鮮半島を襲い、国土は荒廃した。あまり
の酷さに、西海岸の人々の中には、娘を中国人の密航業者に一人当たり米一升で売るも
のもいた。北方の国境の森林を越えて遼東半島にたどり着いた何人かの朝鮮人は、惨た
らしい国状を絵に描いて宣教師達に示し、「どこの道にも死体が転がっている」と訴え
た。しかし、そんな時でさえ、朝鮮国王は、中国や日本からの食料買入れを許さず、む
しろ国民の半数が死んでいくのを放置しておく事を選んた。日韓併合後には農地は一割
程度しか広がっていない。ところが農業の生産は飛躍的に伸びて、日本地主の家に農奴
は集まって来た。統治時代の道知事「朴栄」は公平無私なる観察を下せば、いくら日本
の朝鮮統治に反対しても善政である事に違いなく如何に伊藤博文公を毛嫌いしても公の
真意には感謝せざるを得ない」と、ある評者の言である。「究意するに韓国を亡ぼした
のは日本でもなければ之を責めるにも当たらぬ。また当時の李完用始め自余の責任者で
もなければ之を攻撃するの必要なし。」と言った。加耶大学客員教授の基鎬は書いてい
る。十九世紀から二十世紀初め帝国主義、列強諸国時代、暗愚の李朝両班階級は、その
挑戦に直面、固唾を飲んだままで無為無策だった。その失策は、あらためて糾弾すべき
であって、日本帝国主義の植民地へと転落したことについての責任を、他国のせいにす
べきではない。大いに反省すべきなのにもかかわらず、今日にいたるまでいつまでも、
錯誤した常識を放置、愚純の感情に委せているわけで、今日のような歴史の初段は、当
然再発すること、火を見るより明らかである。と危惧している。両班には良かったのだ

1079: 名無しさんAA:18/07/25 22:01

    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  133 > 

「朴泰赫」は書いている。日本人地主は、韓国人の小作人の間で、大きく評判が良かっ
た。日本人がやってきてから、改良された堆肥を奨励したし、化学肥料が配給されたし
、改良品種や、進んだ農業技術を導入したので、収穫が増えた。農地開拓と河川整備を
進めたので、村人の生活水準が大きく向上したからだ。それに日本人地主は、昔の両班
たちよりもはるかに寛容だった。かつての両班のように小作人である常人を理不尽に、
不義や苛める事が無かったし、不作のときには、小作料を安くしてくれた。日本人地主
のほうが、物わかりが良かった。だから、日本人の地主は人気があった。皆な、韓国人
の地主の小作人となるよりは、日本人地主の小作人になりたがったのは、当然だった。
日本人の下で働いていた常人たちは、羨望の目で見られ、日本人が所有していた農地は
、独立後には、「敵産」として全て没収されたがしかし、日本人が、今日の韓国農業の
発展の土づくりから基礎を作った事は、否定できない事実だ。と書いた。つまり、農産
高はおろか農地も把握していた。農地はその後1940年まで2万km2 程度の広がった。公
式には0.2万km2しか増えておらず、農地把握にいそしんでいた初めの10年で1.9万km2も
の開墾できたのは、そこが部族の紛争地だったからだ。つまり農地が増えたのではなく
、把握率が上がった。農地として本来の作業が出来たと考えられる。農地とほぼ同じ程
度上昇している農産高も同様です。把握していない農地の生産高は0だったが、その後
管理されを集計ができていたと考えられ。従って統計上では、人口も飛躍的に増えて、
1910年からの10年間で1313万人から1692万人に激増している出生数・死亡数ともに辻褄
が合わない程住民登録が出来たのである。これまで把握していなかった人の所得や生産
高が把握できたのだ。これを問題視したのが両班の朝鮮共産党員であった。明治44年
度末に於ける私立学校現在数は普通学校および実業学校を除き合計約千七百校にして、
近年著しく減少の趨勢を示し、明治44年中設立の許可を与えたるものは39校あるの
みに反し廃校の届出を為したるものは461校の多きに及べり。』(1911年)と声明を
発している。



1080: 名無しさんAA:18/07/25 22:02

『今なお職員の言動が穏当を欠き、その経営また宜しきを得ざるもの尠か
らず。之が指導監督の必要洵に緊切なるものあるを以て、本年度に於ては視学の制度を
設け、私立学校の指導監督を一層周到ならしめたり』と監視無くては何をするかわから
ぬ朝鮮人の姿勢が見え隠れする。今の日本の朝鮮学校の様な問題が朝鮮国内大きく持ち
上がり、共産党思想の教育に多数の宣教師やロシア人やドイツ人共産員などまで入れた
教育をして抗日ゲリラの養成に至っていたのだ。公費を補助し、その実態調査において
『約五百校は外国宣教師の直接間接関係する所謂宗教学校にして、輓今漸次良傾向を示
し」と言う様に危惧され明治44年度末に於ける私立学校現在数は普通学校および実業
学校を除き合計約千七百校にして、著しく減少を示した、明治44年中設立許可を与え
たるものは39校あるのみに反し廃校の届出を為したるものは461校の多きに及べり
。と全く憂国の士は居なく 意固地な廃国ゲリラの巣窟を朝鮮人自らが望んだのだ。



1081: 名無しさんAA:18/07/25 22:03
 韓国政府は、小学校制度に織り込んでいた「義務教育の精神」を全く廃してしまった
と自ら言っている。つまり、教育を朝鮮人に任せたところ、その大部分を占むる長老・
監理両派に属する学校は進んで本府の指示を請い、殆ど全部その教科課程を略普通学校
または高等普通学校の課程と一致せしめ、教科目にハングルの国語を加えてしまい、漢
文を捨てたのだ(1913年版)として『私立学校の整理改善は本府の常に留意する所にし
て年々之が指導監督に力を致すと共に…』『特種の私立学校に対しては国庫及地方費よ
り補助金を交付してその改善に資し、一而、私立学校規則を改正してその方針を明確に
し…(中略)…その校数に於ては年々減少せるも…概して維持比較的鞏固なる学校のみ
存続するの情勢を示し、国語の教授実科の施設に勗むるもの漸く増加し頗る往時の面目
を革めたり。然れども往々にして朝鮮教育の方針に遠ざかるものなきに非ざるを以て、
常に厳密なる注意を加えつつあり』(1917年版)と閉鎖させる事につながった。つまり
朝鮮人達は、嘘を平気でいい、日本からの資金援助を貰いながら独立闘争に火をつけて
ハングルを広めて行って最後は歴史すら嘘をついて由々しき事態に陥ったと言うのだ。
植民地朝鮮で農地造成(土地改良)事業が本格化したのは、1920年に「産米増殖計画」
が開始されて以降のことだった。この計画は、1918年にベラルーシは独立宣言を果たし
第一次世界大戦が勃発していた。この為多くのロシア人や東欧州人が日本に逃げて来た
。この事情で日本はシベリア出兵を決めた。食料は高価で取引され日本国内のコメ不作
は朝鮮の農業振興に一層の力が入れられた。この農業景気或いは食料景気は1910年(明
治43年)に、韓国併合条約が漢城つまり現在のソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用
首相により調印され、韓国併合して以来の好景気をもたらした。この食料供給力を補う
ために開始事業での資本投下は更に朝鮮人の両班の懐を潤した。ところが30年代には、
農業不況にともなって農産物問題は、戦争の終結と共に物価安定化した。朝鮮から日本
国内へのコメ輸出量を抑え、この増量計画は中途半端に中止された。しかし農地造成事
業は、朝鮮における食糧の安定供給ではなく、なにより、朝鮮国内での工業化を果たし
て急激な工業生産の伸びを見せ、1940には化学物生産量などは大きく追い越した。
物価は適度なインフレを保ち主食はコメ需給バランスが崩れて安価になり。「産米増殖
計画」は平和裏の中、大規模な水利事業が実施された。こうして貯水池などの築造によ
って、更に地元の農民は伝統的な水利慣行の変更で殖産興業をして朝鮮半島は潤ったの
である。しかし追いやられた両班達は地元農民をそそのかししばしば水利事業に対する
反対運動をおこした。しかし、日本人大地主や朝鮮総督府の主導によって事業は強力に
推進されたが、ソ連の支援で地下活動やパルチザン活動にはいると中国まで進出した。


1082: 名無しさんAA:18/07/26 17:46
かれてその派閥が二つに分かれていた。「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」
の永田が作った統制派はその一つだった。国家総動員計画を作り上げ国民全体を戦争の
渦に巻き込んだ事務局が作った長州の亡霊集団である。対して陸軍をはぐくんだ天皇護
衛の旧来の日露戦争の遺族の臣下として、乃木将軍などの遺構をしょい込んだ東北など
の反長州勢の志士達、皇道派である。更に開明派とでもいうべき現場重視の九州勢であ
る。台湾をして海外での存在感が高く意向を無視には出来ない大きなものだった。関東
軍はそれに対抗した。宇垣軍縮が始まって多くは左遷され教育総監真崎甚三郎の真面目
さ真摯に受け継いだ者達が集まり集団化しそれぞれに四つの考えたがあった。一つは、
対ソ連戦略をちゃんとして北方の守りを固めたが良いと言う者。一つは中国経営をしっ
かりやるべき。一つはドイツから譲り受けた南洋の委託統治領をちゃんとやれ。と言う
者と3者がいた。しかし、軍上層部のとりわけ大本営をもつ事務局は全く違っていて、
油田地帯とりわけインドネシアやマレーシアの、チェレンバン油田とミリ油田を取って
その油を日本本土へ供給する事が大事だった。中間派の石原莞爾が下手に満州を取った
為に中国国民に抗日意識を高め、米国を反日にさせ、ロシア赤軍とりわけ共産党ゲリラ
のパルチザンを生み出して、米国との外交問題も満州国建国によって壁が塞がり、国内
争乱の蒋介石は政権が保てずアメリカ支援までも取り付ける様相になっていった。この
時点でビルマなど援蒋ルートを叩く事で一層の悪化した戦争にした陸軍だったのだ。勿
論太平洋海域でも多くの者が死んだ。しかし、太平洋が自分だけでは手に負えなくなり
、陸軍を騙して太平洋に連れ込んだと言うのは全く言いがかりでそのままでは陸軍が、
日本をつぶす形になっていたのを、海軍が止めた。と言うのが正しい見方である。現実
にアメリカを程よく太平洋戦争に引き入れ無ければ、敗戦後ソ連フランス英国米国カナ
ダ中国に日本は分割統治領に変わっていた。「言わば、アメリカのスパイだとも言える
、山本五十六とその後ろ盾の米内光政で代表される海軍と言う最悪の組織を持ったこと
が当時の日本の最大の不幸であった。」というのは幻想も甚だしく、未だ「日本陸軍や
大日本帝国が勝つはずの世界大戦だった。」と言う誇大妄想論である。それを知れば、
米内光政の言った原爆は天祐であった発言は正に的を得た発言であり、日本の神風であ
ったのだろう。阿南惟幾大将が、終戦の日当日に「米内と海軍はアメリカの犬」である
ことを今更ながら知り、陸軍が海軍に騙されたとの思いがこみ上げてきて「米内を斬れ
」と言い残して自害したのだ。などと言うのが本当なら、正にこの自害して果てた阿南
こそ「獅子身中の虫」であり、「非国民で皇民の恥」であったのである。

1083: 名無しさんAA:18/07/29 11:39 ID:AHg
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  133 > 

「朴泰赫」は書いている。日本人地主は、韓国人の小作人の間で、大きく評判が良かっ
た。日本人がやってきてから、改良された堆肥を奨励したし、化学肥料が配給されたし
、改良品種や、進んだ農業技術を導入したので、収穫が増えた。農地開拓と河川整備を
進めたので、村人の生活水準が大きく向上したからだ。それに日本人地主は、昔の両班
たちよりもはるかに寛容だった。かつての両班のように小作人である常人を理不尽に、
不義や苛める事が無かったし、不作のときには、小作料を安くしてくれた。日本人地主
のほうが、物わかりが良かった。だから、日本人の地主は人気があった。皆な、韓国人
の地主の小作人となるよりは、日本人地主の小作人になりたがったのは、当然だった。
日本人の下で働いていた常人たちは、羨望の目で見られ、日本人が所有していた農地は
、独立後には、「敵産」として全て没収されたがしかし、日本人が、今日の韓国農業の
発展の土づくりから基礎を作った事は、否定できない事実だ。と書いた。つまり、農産
高はおろか農地も把握していた。農地はその後1940年まで2万km2 程度の広がった。公
式には0.2万km2しか増えておらず、農地把握にいそしんでいた初めの10年で1.9万km2も
の開墾できたのは、そこが部族の紛争地だったからだ。つまり農地が増えたのではなく
、把握率が上がった。農地として本来の作業が出来たと考えられる。農地とほぼ同じ程
度上昇している農産高も同様です。把握していない農地の生産高は0だったが、その後
管理されを集計ができていたと考えられ。従って統計上では、人口も飛躍的に増えて、
1910年からの10年間で1313万人から1692万人に激増している出生数・死亡数ともに辻褄
が合わない程住民登録が出来たのである。これまで把握していなかった人の所得や生産
高が把握できたのだ。これを問題視したのが両班の朝鮮共産党員であった。明治44年
度末に於ける私立学校現在数は普通学校および実業学校を除き合計約千七百校にして、
近年著しく減少の趨勢を示し、明治44年中設立の許可を与えたるものは39校あるの
みに反し廃校の届出を為したるものは461校の多きに及べり。』(1911年)と声明を
発している。『今なお職員の言動が穏当を欠き、その経営また宜しきを得ざるもの尠か
らず。之が指導監督の必要洵に緊切なるものあるを以て、本年度に於ては視学の制度を
設け、私立学校の指導監督を一層周到ならしめたり』と監視無くては何をするかわから
ぬ朝鮮人の姿勢が見え隠れする。


1084: 名無しさんAA:18/07/29 11:40
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  134> 

 今の日本の朝鮮学校の様な問題が朝鮮国内大きく持ち上がり、共産党思想の教育に多
数の宣教師やロシア人やドイツ人共産員などまで入れた教育をして、共産党抗日ゲリラ
の養成に至っていたのだ。公費を補助し、その実態調査において『約五百校は外国宣教
師の直接間接関係する所謂宗教学校にして、輓今漸次良傾向を示し」と言う様に、危惧
された。明治44年度末に於ける私立学校現在数は普通学校および実業学校を除き合計
約千七百校あったが、著しく減少を示した、明治44年中設立許可を与えたるものは僅
か39校あるのみに反して、廃校の届出を為したるものは461校の多きに及べり。と
全くこの朝鮮半島が瞬く間に共産党抗日の牙城となり行く姿が出てくる。自国に対した
憂国の士は居なく 意固地な廃国ゲリラの巣窟を朝鮮人自らが望んだのである。この時
韓国政府は、日本が小学校制度に織り込んでいた「義務教育の精神」を全く拒絶し廃し
てしまったと自ら言っている。つまり、教育を朝鮮人に任せたところ、その大部分を占
むる長老・監理両派に属する学校は進んで本府の指示を請いながら、殆ど全部その教科
課程を略普通学校または高等普通学校の課程と一致せしめ、教科目にハングルの国語を
加えてしまい、漢文を捨てて、戦う姿勢に変わったのだった(1913年版)として『私立
学校の整理改善は本府の常に留意する所にして年々之が指導監督に力を致すと共に…』
『特種の私立学校に対しては国庫及地方費より補助金を交付してその改善に資し、一而
、私立学校規則を改正してその方針を明確にし…(中略)…その校数に於ては年々減少
せるも…概して維持比較的鞏固なる学校のみ存続するの情勢を示し、国語の教授実科の
施設に勗むるもの漸く増加し頗る往時の面目を革めたり。然れども往々にして朝鮮教育
の方針に遠ざかるものなきに非ざるを以て、常に厳密なる注意を加えつつあり』(1917
年版)と、朝鮮人自らが日本から金を貰い学校を作り学校の本分を捨て反政府ゲリラの
巣窟とさせ、これまで使わなかったハングルを暗号の様に使う事で、最終的に閉鎖させ
る事につながった。つまり朝鮮人達は、嘘を平気でいい、日本からの資金援助を貰いな
がら独立闘争に火をつけてハングルを広めて行って、最後は歴史すら嘘をついて由々し
き事態に陥ったと言うのが今までの歴史だったと書き記し、100年経った今でも変わ
らない姿にあるのだ。日本が植民地朝鮮で農地造成(土地改良)事業が本格化したのは
、1920年に「産米増殖計画」が開始されて以降のことだったが、この計画は、1918年に
ベラルーシなどでは独立宣言を果たして、第一次世界大戦が勃発していた頃だった。こ
の時多くのロシア人や東欧州人が日本に逃げて来た。

1085: 名無しさんAA:18/07/29 12:09
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  135> 
 この時の多くのユダヤ人が今日の米国金融資本だったり、メジャーと言われる国際企
業の創業者達である。勿論第一陣のユダヤ資本はイギリスより清教徒達と米国大陸に渡
って行った人達だが、彼らはシフに見られるように、屈強の正義感でロシア打倒ボグロ
ム廃止の人達で技術革新で名声や金を新時代の革命に身を投じた清貧の人達だった。が
今回の大陸鉄道を通じて日本経由で米国に行った人は、母国救済を捨てた人達だった。
言わば、力の無い難民達だった。この事情で、国際社会は日本にシベリア出兵を求めた
し、日本がそれを受け入れ決めた。この為、日本ではこれまで安価だった食料は高価で
取引され日本国内のコメ不作からも、尚一層の朝鮮の農業振興に力が入れられた。この
為朝鮮半島では農業は、軍事景気或いは食料景気が起こり1910年(明治43年)に日本以
上の活気に沸き、韓国併合条約が漢城(現在のソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用
首相により調印され、韓国併合して以来の好景気をもたらさせたのである。つまりここ
に李斯朝鮮王朝と臣下の金と権力を持った両班(貴族および科挙官僚を輩出する階層)
の力に逆転現象が出来たのだ。つまり守るべき王をすて、王に会いにくる伊藤博文を暗
殺するに至ったのである。この両班・良民・卑賤民と言うピラミッドは壊れる事無く、
良民に入る、中人(技術官僚・下級官僚を輩出する階層)・常人(一般の農民)と言う
国民階層には不満が詰まっていた。ところがこの食料供給力を補うために開始した事業
での日本の資本投下は、更に朝鮮人の両班の懐を潤したのみで止まった為、下層級には
伝わらず30年代には、農業不況になって現れた。どの産業でも言えるが社員の給与や
生活向上が無ければ搾取者の頂点の社長のみでは産業育成にはつながらない。こうして
農産物問題は、そのまま戦争の終結と共に物価安定化と言う方向が放置された。朝鮮か
ら日本国内へのコメ輸出量は抑えられ、この増量計画は中止された。しかし農地造成事
業そのものは、増産よりは朝鮮における食糧の安定供給に成果を得て、朝鮮国内での国
民疲弊を無くし工業化を果たさせた。こうして急激な工業生産の伸びを見せ、1940
年には化学物生産量などは大きく世界一となり日本を追い越した。物価は適度なインフ
レを保ち主食はコメ需給バランスが崩れて安価になり。「産米増殖計画」は平和裏の中
、大規模な水利事業が実施された。こうして貯水池などの築造によって、更に地元の農
民は伝統的な水利慣行の変更で殖産興業をして朝鮮半島は潤ったのである。しかし、こ
の政策で追いやられた両班達は地元農民をそそのかし、しばしば水利事業に対する反対
運動を台湾に渡航してもおこさせた。しかし、日本人大地主や朝鮮総督府の主導によっ
て事業は強力に推進されたが、それでもソ連の支援で地下活動やパルチザン活動にはい
ると中国まで進出した。

1086: 名無しさんAA:18/07/29 12:32
 この時の多くのユダヤ人が今日の米国金融資本だったり、メジャーと言われる国際企
業の創業者達である。勿論第一陣のユダヤ資本はイギリスより清教徒達と米国大陸に渡
って行った人達だが、彼らはシフに見られるように、屈強の正義感でロシア打倒ボグロ
ム廃止の人達で技術革新で名声や金を新時代の革命に身を投じた清貧の人達だった。が
今回の大陸鉄道を通じて日本経由で米国に行った人は、母国救済を捨てた人達だった。
言わば、力の無い難民達だった。この事情で、国際社会は日本にシベリア出兵を求めた
し、日本がそれを受け入れ決めた。この為、日本ではこれまで安価だった食料は高価で
取引され日本国内のコメ不作からも、尚一層の朝鮮の農業振興に力が入れられた。この
為朝鮮半島では農業は、軍事景気或いは食料景気が起こり1910年(明治43年)に日本以
上の活気に沸き、韓国併合条約が漢城(現在のソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用
首相により調印され、韓国併合して以来の好景気をもたらさせたのである。つまりここ
に李斯朝鮮王朝と臣下の金と権力を持った両班(貴族および科挙官僚を輩出する階層)
の力に逆転現象が出来たのだ。つまり守るべき王をすて、王に会いにくる伊藤博文を暗
殺するに至ったのである。この両班・良民・卑賤民と言うピラミッドは壊れる事無く、
良民に入る、中人(技術官僚・下級官僚を輩出する階層)・常人(一般の農民)と言う
国民階層には不満が詰まっていた。ところがこの食料供給力を補うために開始した事業
での日本の資本投下は、更に朝鮮人の両班の懐を潤したのみで止まった為、下層級には
伝わらず30年代には、農業不況になって現れた。どの産業でも言えるが社員の給与や
生活向上が無ければ搾取者の頂点の社長のみでは産業育成にはつながらない。こうして
農産物問題は、そのまま戦争の終結と共に物価安定化と言う方向が放置された。朝鮮か
ら日本国内へのコメ輸出量は抑えられ、この増量計画は中止された。しかし農地造成事
業そのものは、増産よりは朝鮮における食糧の安定供給に成果を得て、朝鮮国内での国
民疲弊を無くし工業化を果たさせた。こうして急激な工業生産の伸びを見せ、1940
年には化学物生産量などは大きく世界一となり日本を追い越した。物価は適度なインフ
レを保ち主食はコメ需給バランスが崩れて安価になり。「産米増殖計画」は平和裏の中
、大規模な水利事業が実施された。こうして貯水池などの築造によって、更に地元の農
民は伝統的な水利慣行の変更で殖産興業をして朝鮮半島は潤ったのである。しかし、こ
の政策で追いやられた両班達は地元農民をそそのかし、しばしば水利事業に対する反対
運動を台湾に渡航してもおこさせた。しかし、日本人大地主や朝鮮総督府の主導によっ
て事業は強力に推進されたが、それでもソ連の支援で地下活動やパルチザン活動にはい
ると中国まで進出した。

1087: 名無しさんAA:18/07/29 12:37
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  136 > 

日本は日清戦争て勝って朝鮮半島の権益を持った。しかし西洋列強の三国干渉によって
、独立国としての李斯朝鮮の意向を尊重して植民地としなかった。しかし、李斯朝鮮は
事もあろうにロシアに自ら身売りして、ロシアの権益を許したのである。その為1905年
には日露戦争を起こし日本勝利となってもロシアが貸付していた朝鮮の負債の返済に及
んだ。こうして日本が朝鮮王朝の保護国となった事で、日本に対しての請求が出来る様
に日韓併合を国際社会は仕組んだのである。1909年に表面化した李氏朝鮮政府の分別を
欠いた債権返済不足は国際社会の大きな危機であった。多くのユダヤや東欧国家は運営
にその利子配当で国家経営していたからだ。返済延期は許されても返済拒否しロシアへ
の合流は許されなかった。何故なら借り手も貸し手もロシアでは中間金融家は要らない
からだ。大陸鉄道も朝鮮王朝も代金請求先だったのである。当時ロシアのロマノフ王朝
は日本の賠償金も払わない代わりドイツユダヤへの返済も途絶えていた。又ロシアのソ
連邦移行でもその権益と共産党の返済に関して協議が続いている中にあった。朝鮮が国
家経営能力不足で財政破綻し、欧米列強に対する莫大な借金、土地資源の抵当でのロシ
アへの権益移譲の運営財政は益々難しくなり、国内で李氏朝鮮政府への不満が台頭して
、日本への併合を望む声は国内でも高まり暴動に発展した。こうして露親派や清親派が
交差する朝鮮半島に降り立って現状視察を行う為に降りたったのが伊東博文だった。彼
は日韓併合反対派で、国内の殖産興業と富国強兵をもっと進めて国家予算の負荷を無く
して行くべきと唱えていた。と言うのも日本の国家予算2億円追加を含めて2.6億し
かない一般会計の財政の中で特別会計18億2千万更に遺族補償に2億8千万又次の年
の遺族保証金の予算が必要である。如何に日露戦争の負担が大きかったか50倍以上の
金を払ったと言う事は、今後何もしなくて国家予算を借金返済に充てても50年の損害
である。その上ロシアの借金を背負う事を求めたのが朝鮮人だったのである。まともに
死んだ兵士はその殆どは日本人だった。これが何の原因で起き、誰のせいで戦わなけれ
ばならなかったかは、火を見るより明らかな事で、朝鮮人の日和見姿勢の親露派のせい
だったのである。反対して当然である。国の財政に重きを成した伊藤の心情は察して余
りある中にあった。国の一般・特別会計の日露戦争の戦費総額は18億2629万円のこの捻
出に大きな交渉がある事が懸念された。しかし、1909年10月26日安重根は満州のハルピ
ン駅ホームで、凶弾によって伊藤博文は暗殺された。実はこうした国際金融の仕組みを
伊東博文は日本の中で一番良く知る人だったのである。


1088: 名無しさんAA:18/07/29 16:38
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  137 > 

 これを機に韓国内のソ連への返済金はうやむやにされ韓国併合への流れが加速して、
日本側への返済金となり、大韓帝国は独立国としての形を日本から教えてもらう結果に
なった。本来は印璽すら持たず契約すらせず声明すら発しなかった国として成り立たな
い王朝の後ろ盾などと言うのはあり得ない事だが、当時の日本は富国強兵殖産興業を、
欧米列強の仲間入りしたい最中だったのだ。勿論大陸も又洋務運動など日本の様に考え
る者もいた。しかし日本ほど清廉潔白なまま純粋な技術希求はなかった。1910年〜1945
年大韓帝国の要請を受け日本が併合し韓国皇帝純宗の「請願」で、総理の李完指示の下
で、側近の李人稙が密使として動き、日本が李氏朝鮮の破綻財政を肩代わりして解決す
る合意を取り付けた。自立出来ない未開の地だった朝鮮半島の、誰もが手を付けなかっ
た蛮族の地を、地理的問題から国家経営に乗り出す。日本国内並みのインフラ整備に力
を入れ、港湾、鉄道、橋梁、発電所、役所警察署、病院、各種学校などを、公私共に資
金や資材や人材を投入、総力を揚げて短期間で日本国内並みに完全整備する事になった
のである。理由は3つあった。もともと日韓併合反対派が多い中、国内的な反発を避け
たかったのだ。更にロシアの復活する前に日本側陣営にする必要があった事だ。更には
既に日本は債権国であった。つまり朝鮮半島経営は一か八かの大いなる賭けで日本政府
を飲み込む程の大事件だった。つまりいくら注ぎ込んでも成功させなければならない物
だったのである。ただの地政学的隣国であっただけで、朝鮮半島は日本の復興資金に、
ただのりして安楽を得たのだった。(明治43年〜昭和20年)李朝末期の韓国は、暗黒の
世界であったが、日本がこの暗黒を破り、光明をもたらした。1890年代〜1930
年代の間の日本人が韓国にもたらした革命的な大改革は、西洋にも当時の朝鮮人社会に
も どれほどまでに賞賛されたことだったか。韓国人が自らの手では到底行えなかった
偉業であった為、諸外国から次々に視察に訪れる程だった。1940年代の化学工業は
一部ではドイツさえ超えていたとある。それが今の北朝鮮にあったのである。しかし、
1929年に朝鮮半島全域で大規模な水害が発生し約700人死亡して約1000人以
上の負傷者が出た。この急激な水害の被災者が出て病気が蔓延した。そして1930年
は不作になっていった。既に植民地政策の頃を通じて、朝鮮においては、日本版鉄道網
などの交通機関が整備されていた上、その後も大規模な水利事業や水力電源開発が実施
され不作なる理由はなかった。


1089: 名無しさんAA:18/07/29 16:39
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  138 > 
 更に化学肥料工業などの重化学工業部門を中心に工業化が急速に進展していて、日本
以上に大陸では化学肥料の流通が起こっていた。それは日本以上に天然の肥溜めは韓国
は大事に隠していたからだ。こうした朝鮮半島への資本投下や発展のそれは、日本の軍
事的要請にもとづくものであり、あるいは朝鮮に賦存する資源を開発して日本に安価で
安定的に供給することをめざすものになっていたかrだ。その中で不作になったのは単
に朝鮮人の悪態や悪行だった。インフラ整備や産業開発に際して、朝鮮人にはあまりに
も多大な幸せをもたらした。時の技術が数世代を超えて日本以上の文化生活がもたらせ
られたのだ。その日本人信仰は宗教に近く敬われた。しかし一方でそれが両班は大きな
不幸をもたらせられていた。多数決と言う強権的な手法で農地解放が採用され、朝鮮人
利害関係者達、つまり昔の権力者の意向はしばしば無視されて過去の権力が蔑みや罵倒
に変わってしまったからだ。この改革的事業の民主化の過程で、生産が個々に変化し生
活の基盤を失って移住を強いられた朝鮮人の中には米国や欧州に渡った人も多くいた。
代わりにチェコのユダヤ人や農奴に土地が取られた赤化革命家などが朝鮮にやって来て
つながった者も多かったのである。インフラ整備・産業開発は、朝鮮経済に大きな変化
をもたらし、農村において、近代的農業や所得水準が出来た。又兼業・副業就業機会が
増え、その結果において、確かに朝鮮農民の所得水準は増えた。しかし両班や地主など
、古来からの農地所有者は逆だった。権利を失う農家が続出し、近代化しない農場主は
借金すらした。その裏で農奴の移動は、朝鮮人地主から日本人地主への農地所有集中が
進んだ。農奴が離反して居なくなったからだ。植民地下での朝鮮では、工業化の急速な
伸展で、非農業部門における労働力市場の展開が起こり、満州やロシア或いは中国の苦
力(クーリー)すら入り込んで競争する時代になっていった。つまり農地を喪失した農
民でも、小作農として農村に滞留せざるを得ない状況に変化した。それが農地の小作料
水準を高止まりさせて、農民の所得水準を停滞させる一つの要因となった。農村に滞留
することさえ困難となった朝鮮農民には、「満洲」や日本に移住して、土木作業などの
中国苦力など最下層民としての労働力市場への参入しか残っていなかったのである。こ
れが朝鮮人は悲劇にしか見えなかった。そこに共産党のソ連勧誘が重なっていた。当時
、京城など都市の雑業者となる者も多数現れた。近代的に流動的市民となった中で貧窮
した農民は、相対的に高価な生産されたコメは商品として輸出され、代わりに「満洲」
から輸入された粟などの安価な雑穀類を購入して消費して暮らした。それでも1930年代
の大洪水で農業不況に陥った、農村に留まることができず、数多くの零細農民が就業機
会を求めて日本や「満洲」に渡り、都市部最下層の労働力市場への参入を試みた。

1090: 名無しさんAA:18/07/29 16:40
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  139 > 

 北朝鮮などでは一部の農民は、森林地帯に分け入って焼畑農業を行い火田民とされた
。あるいは、京城(現ソウル)市内に流入して都市の雑業商人となった者もいた。京城
市街の周辺部には粗末な家屋を立てて居住し、日雇いなど単純労働に従事する都市貧民
(土幕民)の集落が大きく形成された。それでも暮らしぶりは過去に比べてはるかに良
く自由市民になっていった。その変化は海外からやって来る宣教師の報告が、欧州やア
メリカの各所に残っていてその姿を記録している中にも見て取れる。この1929・3
0年の天候不順は、日本の東北地方も、中国の西北地方も 朝鮮半島も大飢饉に陥らせ
ていたが、朝鮮飢餓は比較的には少なかった。米国のシカゴの小麦市場も高止まりにな
るほど世界的飢餓だったが、日本でも世界から見れば小さかった。犬養政権は金輸出再
禁止などの不況対策を行うことを公約に1932年(昭和7年)2月の総選挙で大勝をおさ
めたのだが、一方では満州事変を黙認した事で、陸軍との関係も悪くなかった。陸軍の
勝手なこの行為は、国際的孤立を日本政府にもたらし、満州国の権益では南満州鉄道な
どの企業を推す政府と中国亡命高官を推す軍部に軋轢が生じていたのである。同時に起
こったこの時の天候不順は、世界的兆候であり、1929年(昭和4年)の世界恐慌にまで
及んだのだ。アメリカのニューヨークより発した大不況により企業倒産が相次いで社会
不安が増し満州事変(柳条湖事件)勃発し農本主義者が海軍による5・15事件を起こ
した。もし日本が日韓併合をしていなかったなら朝鮮人と言う民族はこの世に存在しな
かったであろう。それ程の異常気象だった。河北省では大水害が起きと陜西省では大干
害が起こっていた。被災者3,000万人以上。餓死者900〜2,000万人。陜西
省だけで、100万人以上の婦女子を含む200万人以上が流民となり、70万人以上
の女性や子供が中国人人身売買業者によって奴隷(性の奴隷)として売られた。父権を絶
対視する当時の正統派儒教は、女性や子供の人権を一切認めず単に男の夫や父の道具と
しか認識されていなかった。中国では、人身売買はアヘンの密売と同じく普通に行われ
ていたし、重要な産業であった。中国には、歴史的事実として、人道などは存在しない
。日本政府は、23年の関東大震災に、清朝最後の皇帝溥儀と北洋軍閥の段祺瑞の北京
政府から受けた支援を、恩義として忘れず「人道」の見地から二つの調査団を派遣して
いた。たとえ、現在の国家や政府が反日的侮日的であっても、民衆には罪はないと割り
切っていたのだ。かつての北朝鮮への穀物支援のように。無償で被災民の救済に乗り出
し、一定の効果を持っていた。戦前の日本人は、「敵に塩を送る」事を武士道的美徳と
し、「罪を憎んで、人を憎まず」の天皇神話を信仰していた。

1091: 名無しさんAA:18/07/29 16:44
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  140 >  
 しかし西洋列強のキリスト教団は、大災害や戦争を布教の好機として救済活動に乗り
出して競う事になっていた。宣教師らは、被災地で人が命を失うのは唯一絶対神の「愛
」を信じない事に対する神の審判である。と糾弾して、被災民達に貧困や困窮から抜け
出すには伝統的民俗宗教や土着的自然宗教を捨て普遍的教義のキリスト教を信仰する事
だと布教に熱心だった。又、キリスト教会は、天皇制度国家日本の救済活動には侵略意
図ありとして反天皇的宣伝をおこなった。これに日本軍部は、被災地の被害状況を調べ
るべく調査団を派遣したが、往々にして妨害された。日本赤十字社は、軍部の協力を得
て、被災民を助ける為に優秀な医師や看護婦達を被災地に派遣した。中国人の指導者達
は、被災した同胞が幾ら餓死しようともペストやチフスなどで病死しようとも気にはし
なかった。というのもこの雑多な文化国家は敵が減るのは喜びとしたのだ。当時の中国
には、疫病や衛生のその知識も制度も意志もなかったのだ。こうして日本軍部は、中国
の風土病やペストやチフスなどの細菌研究にも乗り出した。戦後、この細菌研究は細菌
兵器開発として宣伝され非人道的犯罪と認定されたが、現実的には日本兵保護が目的で
細菌研究をしていたもので、野口英世などを見て解る様に武器になる程の培養や遺伝子
改造などはできないぐらいの技術なのである。この頃正露丸は万能薬だった。正露丸の
成立は、1830年にドイツ人化学者カール・ライヘンバッハが、ヨーロッパブナの木から
木クレオソートを蒸留したことが起源だ。当初は化膿傷の治療に用いられ、後に防腐剤
として食肉の保存などに使用され、更に殺菌効果を期待して胃腸疾患に内服されるよう
になった。日本には1839年長崎の和蘭商館長ニーマンにより持ち込まれ、1856年刊の薬
物書には木クレオソートを「結麗阿曹多(ケレヲソート)」と記した記載が見られる。
また、1866年刊の「新薬百品考」には、結麗阿曹多の製法、効能、用法が簡潔に記載さ
れている。1902年、大阪の薬商中島佐一薬房が戦争の征軍に「忠勇征露丸」の売薬免許
を取得。木クレオソート丸剤に「忠勇征露丸」という商品名がつけられた。一方、日清
戦争において不衛生な水源による伝染病に悩まされた帝国陸軍は、感染症の対策に取り
組んでいた。陸軍軍医学校の教官であった戸塚機知三等軍医正は、1903年にこのクレオ
ソート剤がチフス菌に対する著明な抑制効果を持つことを発見した。 1930年7月
中原大戦では。蒋介石軍60万人以上対反蒋介石軍70万人以上。中立、張学良軍20
万人以上。各軍は、強制連行した数十万人の苦力(クーリー)、数多くの従軍慰安婦(
性の奴隷)、日常品は勿論武器やアヘンなどを扱ういかがわしい商人を多数抱えて行軍
している。彼等は、イナゴの様に食糧等を暴力的に現地で調達していた。気の荒い盗賊
の様な兵士は、駐屯地周囲の地元民から強奪し、抵抗すれば容赦なく虐殺した。

1092: 名無しさんAA:18/07/29 16:46
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  141 >  


 ここで戦場となった地元民は、強盗の様な軍閥軍兵士を兵匪と毛嫌いしたが、それ以
上に見境なく虐殺する乞食の様な中国共産党員を最も凶暴な共匪と恐れられていた。上
海や香港の秘密結社は、不法行為で暴利を得る為に、内戦を拡大させるべく両陣営を煽
り立てていた。ここが中国や朝鮮人の不思議なところである。中国国内は、法秩序を失
い、約2,000万人の匪賊などが横行する無法地帯となってしまっていたが、これを
斡旋していたのだ。この中には、多くの朝鮮の宮廷の下の両班を初めとする既得権益者
は朝鮮を逃れて反日本帝国で離合集散する中に仲間になっていた。中国社会は常に、「
勝って生き残る」か「負けて死ぬ」かの二者択一の実力主義社会として成立していた。
能力至上主義社会で温情などは露ほどもない社会だった。「生きる事」を選んだ中国人
や朝鮮人は、自分本位で金銭を第一とし、損得勘定で行動する為に貧しく弱い被災者を
救済するなどとんでもない事だったのだ。人望があった汪兆銘ら穏健派は、飢餓と疫病
に苦しむ民衆を救済するべく北京で反蒋介石の国民政府を組織するが、理論のみで軍事
力を持たない為に参加者や賛同者は少なかった。武力を持たない者の正論は、負け犬の
遠吠えとして聞こえ誰からも支持されなかったようだ。こうして社会を混乱させるだけ
の部隊を作り有害無益な行動をとった。非暴力・無抵抗や人道などは、犬の糞ほどの価
値もなかった。それを真に受けるのは、無能な日本人だけであった。中華民国最大の内
戦である中原大戦は、買収された張学良軍が味方した蒋介石軍の大勝利で終結したので
ある。戦死者は、蒋介石軍9万人以上、反蒋介石軍30万人以上であった。戦災による
庶民の被害者数は、両軍の戦死者の合計50万人以上といわれている。勝利者は、戦闘
終了後兵士に対し褒美として、3日間支配地で略奪、強姦、殺人、放火の自由を与えた
。軍資金や物資な乏しい中国では、味方であっても負傷者の治療はせず、敵兵への治療
はなおさらしなかった。敗走兵は匪賊として集団となって村や町を襲撃し、略奪しては
戦闘力を軍閥に売り込んだ。集団に入れなかった敗残兵は、盗賊と見なされて民衆の前
に猟奇的に惨殺された。「弱い者」は生きる資格がない社会であり、他人の助けが得ら
れない以上は「個」人として強く生き抜くしかない社会で他人をけっして信用しないの
が掟とする社会であり、他人をむやみに信用するのは無能な馬鹿の証拠とされた。



1093: 名無しさんAA:18/07/30 14:32 ID:gyk
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  142 > 
 1930年 関東庁警察が取り扱った満鉄とその附属地への破壊工作件数は、129
4件。一日30件の割合である。関東軍が取り扱って件数は、運行妨害・貨物被害60
件、電線妨害20件。関東軍も関東庁警察も、破壊工作を止めない反日派中国人への不
満や怒りが増して、蒋介石には中国経営を捨てていた事はこの事実を見ても解り得る。
。1930年の河南大戦。死者は12万人に達し、負傷者は1万9,500人以上、省
外へ逃亡した戦争難民118万5,000人以上。軍に拉致され、軍役を強いられた者
は129万7,700人以上。女は強姦され娼婦として売られ、男は兵士する為に連れ
去れて殺され、男の子は奴隷として売られた。鬼畜のような中国には、人権も、人道も
、良心も、道徳も、何もなかった。そして朝鮮人は共産党幹部として組み入れられそれ
を喜んで指導していた。そこにあるのは、自分だけの「個人の利」でけであった。個の
利の為に、自分の「面子」が存在している。「面子」は「利」であったのだ。中国人に
は、西洋式や日本人の様な戦争と言う意識はない。敵兵捕獲の捕虜収容所は概念すらな
く、食糧や医薬品は貴重品の為に、捕虜が仲間となっても死ぬまで苦力として酷使する
か、あるい味方の兵士として採用しても鉄砲の前で戦わせを殺させるか、その場で猟奇
的手段で惨殺するか。であった。時にはその人肉さえ食する事を厭わなかった。この敵
を殺して生きるか、敵に殺されるか、その二者しか選択はない非情さに日本人は畏怖し
た。中には狂人になった者も多々居たと言う。日本の軍事力は、中国の総軍事力に比べ
てはるかに弱小であり、その装備も中国軍に劣っていた。日本軍の装備は、国際的な軍
縮要請を受けた国会での軍事費削減攻勢の中にあって、日露戦争の賠償金も無く、朝鮮
半島の負担が重くのしかかっていたからだ。その為にそれほど近代化されずにいたのだ
。1931年 揚子江、准河及び大運河流域の16省で大水害。被災者は8,000万
人以上で、死者は14万人以上である。数百万人の難民が、南京や上海の都市部に流入
し、各都市の治安は悪化した。避難民や下層階級の貧民は餓えと寒さに苦しみ、毎朝、
都市では百人近い不運な者が路上で死んでいた。貧困者に、救いのないのが中国社会で
あった。各革命政府及び軍閥の兵士は盗賊(兵匪)と同じで、貧しい無力な農民から女
や食糧を奪い、抵抗すれば容赦なく殺しそして家を焼いた。三光作戦とは、屠城作戦や
清野作戦と同様に、中国民族の伝統的正攻法である。中国大地は、血に塗られた地獄の
様な土地であった。歴史的事実として、中国人は中国人を猟奇的に惨殺していた。何時
の時代でも、中国の歴史では武官や軍人は戦場で残虐行為を行うのが因習であり、文官
・知識人から人殺し集団として嫌われ、社会的身分・地位は低かったが。支配者は常に
この武官の反乱を恐れながら支配していた。

1094: 名無しさんAA:18/07/30 14:33
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  143 >  

 極東アジアでは、文官は武官より身分が高く、文官は戦場へ出ない為に武官より遥か
に残忍であった。役人とは、一般庶民を知恵なき獣人とし奴隷としてあしらい、そして
重税を課して全てを奪い賄賂も厭わなかった。ゆえに、民衆は位の低い役人でも「官匪
」として恐れられた。中国の何れの政府も腐敗し、ワイロと横領が横行していた事実は
その証でもあった。貪官汚吏の横暴によって、民衆は救い様のない地獄生活を強いられ
、悲惨の極地で生きて居たのである。中国人には自力による自浄能力は遥かに無理で、
外的な衝撃のみが現状を改善する唯一の望みであった。その為英国も米国も日本さえも
歓迎された。ヘレン・ミアーズは「調査団が集めた事実を証拠として日本は、中国に対
して世界平和を乱した罪で告発できる。」(『アメリカの鏡・日本』)とさえ言ってい
る。それでも独裁中国には、独裁との認識すらない。戦前には円借款3億円の支払いを
遅延し、そして金を返すのが惜しくなって借金を踏み倒す事に米国を利用した。同じ様
にユダヤにそして共産党に資金を借りた。日本の配慮や思いやりや気遣いが、逆に中国
の強欲を引き出し、そして踏みにじられたのである。円借款は3億円であったが、全く
返さない事で更に追加融資を迫り元利合計10億円に達していた。そして話し合いすら
応じなかった。遂に日本軍部は、貸した金の返還を督促し、渋れば担保を差し押さえ、
最悪の場合は懲罰的に軍事力を行使して返還させる事を検討した。こうして辛亥革命で
清朝が崩壊するや、山東省などの貧困層漢族が大挙して満州に移住した。満州の水田農
耕可能な土地には、すでに多くの朝鮮人が入植し生活していたので混乱や紛争は必然だ
った。新たな入植者である漢族は、華夷意識から、満州族や朝鮮族を下位者と見下して
彼らが苦労して切り開いた土地を次々と奪った。今でもソ連領まで敷地を伸ばし問題と
なった事でもその性格が解るだろう。この事で内乱が起こった。蒙古と漢人と朝鮮族の
戦いである。山東省から出てきた張作霖等は、多数派となった漢族入植者の支持を得る
為に朝鮮人農民への迫害を加えて行った。その上馬賊として勢力を広げ軍閥化して名を
上げた。漢人と蒙古人に媚びを売ったのだ。更に脅しと独立国としての開放協力も約束
した。過去の清朝時代は、漢族の入植が禁止されていた為に、現実的には満州族やモン
ゴル族は多数派でも実権を持たなかった。朝鮮族と漢族は少数派でもこれまで通りこの
地域を治めていた。しかし漢族の大量入植で多数派と少数派が入れ替わり、満州は無法
地帯と化した事で秩序や治安は大いに求めていた。

1095: 名無しさんAA:18/07/30 15:01
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  144 >  

 が、1931年になって中国国民党(中国ファシスト)政権は、非常任理事国に選任
され、ソ連の傀儡と米国の欲望と更にドイツの生存主義を利用して、蒋介石は日本から
離れて動き出す。9月18日の満州事変はある意味国際社会の帰結だった。日本軍は、
中国兵士捕虜を信用して武装を取り上げて故郷へ帰し国際協定や規約に順守した行動を
とった。しかし、帰らない者や帰れない者は特種工人として強制連行し地域復興の為に
鉄道や橋などの建設現場での低賃金の使役の道も残した。戦後、この行為にジュネーブ
条約(俘虜条約)違反の戦争犯罪とされ、多くの日本兵が戦犯として処分された。しか
しこれは言いがかりに過ぎなかった。この事でも、欧米列強は勝手に中国支援と日本排
除を模索してた事が解る。その苦役は多くの日本人と全く同じ条件で同じ賃金だったか
らだ。その後の年金などの生活保障や昇級がなかっただけで日本人に国籍を変えれば又
同じになった。彼らの多くは協定違反には問えない督戦隊の前線兵であったのだ。彼ら
が郷里に帰らないのは、郷里から国民党の強制で差し出された農奴だったので、当然だ
った。中国兵捕虜を信用して武装を取り上げて返した事の馬鹿さは裏目に出た。おなじ
将軍が何度も利口になって襲ってきたからだ。しかし日本には囚人として収監する収容
所を持たなかった。つまりもともと日本軍は植民地とは思っていなく、中国国民党の援
軍として要請によって中国派遣に及んでいたのだ。日本は共産思想やゲリラ思想の南下
が本国に及ばなければそれで良かったのである。しかしその進軍は頼りにされ過ぎて、
羨望された。山東省など華北の被災民は、救済せず戦乱ばかりを繰り返す非人間的中国
人指導者に絶望して、日本軍が支配する安全で安心な満州に逃亡してくる始末だった。

1096: 名無しさんAA:18/07/30 15:01
数十万人の日本人居留民が、中国各地で生活していた。中国政府は、日本人を自国民同
様に見捨て、そして危害を加えていた。国際世論は、中国の主権防衛を無条件で容認し
、日本の自衛権に基ずく自国民保護を侵略行為として盛んに宣伝し、実態調査すらしな
いイエロージャーナルに頼った。そこには欧州戦争の参加の為に、日本の行為は全てに
完全否定し、中国侵略から大戦に引きずり込む意図がアリアリと見える。米国政府も、
軍も記者も民間商社もこぞって本国国民に戦争参加を呼び掛ける為の処置をした。戦前
の日本には、こうした生命財産を自力で守るという正当防衛の権限すらも、西洋列強か
らは認められてはいなかったのである。板垣征四郎や土肥原賢二らは、華北分離作を取
った日本人として、日本国家の国益と自国民を平和的に守ろうとした行為が、何故だか
人道の罪及び平和に対する罪にあたるとしてA級戦犯の汚名を記せられている。市民裁
判的リンチであり、巣鴨で縛り首で処刑されたのだ。ここには画一的に、国際常識が専
ら中国人側を被害者として、日本人を加害者として判断し 昭和6年(1931年)夏に、
満州事変の際、奉天臨時市長となって清朝最期の皇帝の溥儀を隠棲先の天津から脱出さ
せた行為すらも罪としている。全くの間違いである。中国はこうした歴史的事実を全く
知らずA級戦犯を呪い、A級戦犯が祀れている靖国神社の廃社を訴えている。


1097: 名無しさんAA:18/07/30 15:15
 1930年は中国においての共産ゲリラは市民の協力もないままに活発化していた。
これに中国国民党は片っ端から相手して討伐をしていた。しかし、ある年から中共合作
に応じた。これによって7月28日に長沙の日本領事館が中国共産党軍に焼かれた。そ
の後日本軍は中国国民党の意見を聞いてその地を離れた。が同時に、いきなり長沙ソビ
エト政府の樹立を宣言した。つまり中国共産党と中国国民党には既に合意が出来て居た
事になる。事はこれで終わらなかった。日本軍の偽装をして、海外列強の戦艦を攻撃し
たのである。しかしこの共産党軍に列国の砲艦は中国共産党政府を砲撃した。7月30
日の事だった。昭和天皇は、戦争ではなく平和を希望していた。満州事変の不拡大早期
解決を望んでいた。その為、一度は裁可した熱河作戦の取り消しを軍部に求めていた。
しかし軍部は一度は進んでいまったこの作戦を変更する事は出来なかった。これが先の
裁判での、昭和天皇の統帥権問題となったのである。こうして、満州事変不拡大という
希望はうやむやになり、2・26事件でこれをを拒否した形で進んだ。1931年9月
18日 国際連盟の年一回の総会が開催された。中国代表の施肇基は、「中国の主権を
侵害している日本は侵略である。」と激しく非難した。治安を守る部隊がいながら治安
をせず清野作戦しての意見だった。制裁を科す可能ある規約第15条の採択を強く求め
た。これにイギリスのロバート・セシル代表は、中国が終わらない内戦と度重なる災害
で無法状態にあり、過激派民族主義者による日本人居留民への横暴などを知っていた。
これを考慮して、中国側が要求する規約15条を避け、当事者間の話し合いで解決を図
る事を求める規約第11条の採択を求めた。9月30日 国際連盟理事会は、国際紛争
解決決議は全会一致で行うという原則に従い、日中両国に話し合いによる和解を求める
決議が採択された。中国側に対し、日本軍が管理する満鉄附属地外における日本人居留
民の生命財産を保護する事の約束が課されていた。日本側に対し、日本人居留民の保護
が確保され次第、「出来る限り速やかに」軍隊を条約上認められた鉄道附属地に引き揚
げさせる事も提言された。更に新たな事態が生じない限り、次回会合を10月14日と
決めた。しかし10月8日 関東軍は、張学良軍が反撃の為に集結している錦州を示威
する為に、10機程度の軽軍用機で爆撃した。中国側は、錦州爆撃を、国際連盟勧告を
無視した新たな侵略行為と告発して、欧米で反日世論を大いに煽った。国際連盟理事会
に当問題に関する会合を開くよう要請し、反日親中国の国民世論に従って対日強硬派と
して鳴らした、ヘンリー・スチムソン国務長官を事務局のロビーとして送った。だが、
本来アメリカは国際連盟加盟国ではなかったし、全く関係の無い国だった。過度に米国
が中国を支持した理由は、米国の意志通りに、その工作を行い大いに第二次世界大戦の
機運を盛り上げ、軽軍用機の張学良攻撃すらも企画した事を示している。

1098: 名無しさんAA:18/07/30 15:29
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  146 >

 1931年11月になって ソ連の支援を受けた中国は公約通りに、江西省の瑞金に
一党独裁体制の中華ソヴィエト共和国臨時政府を樹立した。毛沢東にしてみれば蒋介石
の了解の上だった。主席は当然毛沢東だった。何故合意の上かと言えば、そもそもの、
盧溝橋事件そのものが中共合作による指令で、蒋介石が軍を動員し、大本営を設置して
、上海周辺に軍の集結を命じたものだったからだ。これを指導したドイツの軍事顧問は
「蒋介石は戦争を決意した」と本国に打電し報告している。そして、上海周辺には、そ
のドイツの顧問の指導で作られた強固な防衛線が築かれていて幾千の日本兵が死んでい
ったのである。このゼークトラインと呼ばれるものは、溝と土塁で幾重にも防いで鉄壁
の守りだと共産党に国民党はわざわざ報告している。作戦の基本「日本軍を挑発して、
上海に誘引して有利な地勢で戦い、出血を強いる」というものが毛の司令だった。この
日華事変の主導権を握っていたの、あくまで蒋介石だったが、自信のあまり、自分の政
権が自分の国で、共産党の指図のまま自分で革命を仕掛けた戦争だった。外務省は、8
月13日までこの国民党外交部の口車に乗り、のんきに交渉を続けていた。陸軍参謀本
部の石原莞爾は、御前会議で昭和天皇から下問されても尚、上海での決戦=蒋介石との
対決を避けようとし上申している程の馬鹿だった。満州事変・柳条湖事件は、石原莞爾
らの関東軍の緻密かつ、入念な事前の計画に基づくものであった。対して、盧溝橋事件
は偶然の発砲が発端となり、また、松井=秦徳純協定により盧溝橋事件はいったん収拾
したように見せた。が1941年(昭和16年)12月までは、双方とも宣戦布告や最後通牒を
行わず、戦争という体裁を望まなかったのみの話であり。現実は相当イカレタ話だった
。国際的孤立を避けたい日本側の意図は利用され、外国の支援なしに戦闘を継続できな
い蒋介石側が工作を仕掛けていて、共産党はその支援体制を整えていた。戦後毛沢東は
ちゃんと蒋介石に送った劉少奇将軍と共に抗日戦線の布告の声明を行ったと話している
のである。この蒋介石声明を無視していただけであり又蒋介石側も明快に共産党と協定
で行っているなどとは言えなかった為に日本を攻撃すると声明を発したに過ぎなかった
。この時日本側では多くは共産党と国民党が一体である事を知っていた。


1099: 名無しさんAA:18/07/30 15:29
それを石原な
どはもみ消した。軍部も紛争が勃発した当初は北支事変と称して政府を詐欺た。1937年
の第1次近衛内閣の閣議決定で支那事変を正式の呼称とした。1941年12月に上海抗戦で
負けて、敗走し重慶に逃げ込んで、共産党員に護られて蒋介石の重慶政府が出来ると、
すぐさま日本に宣戦布告し、事変が戦争にエスカレートしたが、当然だったが、石原な
どの懐柔策で米国の中国支援が見えなくさせていた。これを受け、東條内閣は10日の
閣議で大東亜戦争の一部に含めることを決定したのである。日本の占領地域内には既に
中華民国臨時政府(北京)や中華民国維新政府(南京)中華ソヴィエト共和国臨時政府
(延安)中華独立政府(安徽)台湾自治政府(台湾)などの勝手な自治政府が誕生して
いた。


1100: 名無しさんAA:18/07/30 18:13
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  148 > 

それでも彼は、それ以上もそれ以下もない機関士のみの人だった。武昌以来、革命軍を
指揮して来たと言う自負はあったが、帰国して中国革命を成し遂げた孫文やそれに仕え
た段祺瑞の様な、才能や知見のある政治家ではなかった。皇帝治政時代、これまで革命
派を弾圧してきた黎元洪は、暫定的な司令官に任命され、渋々軍政府湖北都督に就任し
た黎元洪だったが、清朝の軍機大臣(総理大臣)である袁世凱との対座し停戦交渉を行
い、いつのまにか革命の中心人物となって躍り出ていた。しかし、革命派内部は、武昌
派と上海派に分かれていてそれをまとめる程の器量はもっていなかった。そこにアメリ
カから帰国した中国革命同盟会の孫文が推され、人望から一本化されて、1912年に南京
で中華民国臨時大総統に就任した。この時黎元洪を妥協案として副大総統に就任させる
事にして新中国政府が出来た。ところが黎元洪としては面白くなく、袁世凱を担ぎあげ
て「第二革命」を起こし袁世凱の軍事力の前に孫文を排除したのである。広すぎる中国
の地方の思い思いの勝手な強権は、これ以来ずっーと吹き荒れるのである。器量の狭い
黎元洪から始まる中国の国難の始まりだった。こうしてやむを得ず孫文は日本に亡命し
た。袁世凱の死は、本来なら北洋軍の側近の段祺瑞・馮国璋・徐世昌らが大総統を継い
で「袁世凱の後継者」声を発するべきだった。が、帝政復活宣言以来反乱まで起こした
梁啓超ら南方の護国系が納得せず、北洋軍閥内にも、多くの派閥があり一応は国内平穏
には黎元洪が、無難な人事であったのである。この時まで指導者は中国統一、国内和平
を望んで、身を引いた知見を持っている指導者の姿や思想があったようだ。しかし「中
華民国の後継者」をアピールできた黎元洪は袁同様に大総統府の長であるとして、国務
院の段祺瑞を排除して、政事堂国務卿が握る実務権限を自分のものにしたのだ。こうし
て段祺瑞が下野した途端に、北洋軍閥系の督軍が続々と中華民国からの独立を宣言した
のである。如何に北洋軍閥で孫文と段祺瑞が信頼され期待されていたかが解る。ここで
中国指導者は派閥のない非参戦派の張勲に督軍団との仲裁を依頼して国内を武力鎮圧し
、張勲は此処に立憲君主制を目指す康有為を呼び寄せた。しかしこの康有為は皇帝君主
を回顧夢見ている軍人であり、清朝宣統帝を復位させてしまうのである。迷走を続ける
ままの中国国家にまともな人間は居なかったのだ。ここでアメリカが蒋介石を担ぎ出す
用意をするが、その前に黎元洪はドイツ資金での工作を続けている。袁世凱の息子と、
黎元洪の娘と結婚していて国際関係も国内事情も良かったからだ。


1101: 名無しさんAA:18/07/30 18:14
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  147 > 

それを 石原などは満州占領による抵抗運動と知って居乍らももみ消した。軍部も同じ
に国際批判の中でも、紛争が勃発した当初は北支事変と称して政府を詐欺たのだ。1937
年第1次近衛内閣の閣議決定で支那事変を正式の呼称とした。1941年12月に上海抗戦で
負けて、敗走し重慶に逃げ込んで、共産党員に護られて蒋介石の重慶政府が出来ると、
すぐさま日本に宣戦布告し、事変が戦争にエスカレートしたが、これは当然だった。が
、石原などは 尚も懐柔策を進言し米国の中国支援を見えなくさせていた。これを受け
、東條内閣は10日の閣議で大東亜戦争の一部に含めることを決定までしたのである。
この日本の占領地域内には既に中華民国臨時政府(北京)や中華民国維新政府(南京)
中華ソヴィエト共和国臨時政府(延安)中華独立政府(安徽)台湾自治政府(台湾)な
どの勝手な自治政府が誕生していた現状がある。もともと、日本は、当時の中国国内の
北部をシベリア出兵に際して進出し、多くの諜報員を配置して暮らさせていた。又歴史
上も中国北部に日本は近しかったし信頼し頼っていた。その為に日本留学していた北京
の段祺瑞(だんきずい)に対しての支援をしていたし政権樹立後国際社会の批判や横やり
が無ければこれがうまく行くはずだった。しかし上海は日本支援を南部に入れたかった
。その為アメリカを動かした。その為日本の明治政府は、国際的にも広東(カントン)軍
政府を中心とする南方勢力を承認してしまい、その為段祺瑞の北京政府と広東政府は対
立までしていたのである。1912年から1928年まで北京に存在した段祺瑞政権の中華民国
政府は、正統な北洋軍閥政府の流れの本流であった。中華民国政府(北京政府)の国務
総理に段祺瑞なった頃、親日政策を採用し、日本の経済的な支援を受ける方針を示して
いた。6月6日、袁世凱(えんせいがい)が憤死(ふんし)するが天津で洋式の新建陸
軍を編成し、中国皇帝を追い落とし辛亥革命後の中華民国初代大総統に就任していた。
この時の袁世凱在任1913〜1915の政治は、かつての帝制を模擬したものであって、治政
の進化でも洋風化もなかった。直ぐに反袁運動が起こり大統領と言う皇帝の地位のまま
治政が行われ、中国統一出来ず怒りの内に死んで行った。この憤死の後は急速6月7日
、副大総統であった黎元洪(れいげんこう)が大総統になった。ところがこの黎元洪は
武装した反乱軍鎮圧の為に袁世凱に拾われた一介の海軍機関士に過ぎなかった。船の操
作を教えた軍事顧問に教わって英語が使えたと言う、非常な努力家で人望が厚かった。

1102: 名無しさんAA:18/07/30 18:14
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  148 > 

それでも彼は、それ以上もそれ以下もない機関士のみの人だった。武昌以来、革命軍を
指揮して来たと言う自負はあったが、帰国して中国革命を成し遂げた孫文やそれに仕え
た段祺瑞の様な、才能や知見のある政治家ではなかった。皇帝治政時代、これまで革命
派を弾圧してきた黎元洪は、暫定的な司令官に任命され、渋々軍政府湖北都督に就任し
た黎元洪だったが、清朝の軍機大臣(総理大臣)である袁世凱との対座し停戦交渉を行
い、いつのまにか革命の中心人物となって躍り出ていた。しかし、革命派内部は、武昌
派と上海派に分かれていてそれをまとめる程の器量はもっていなかった。そこにアメリ
カから帰国した中国革命同盟会の孫文が推され、人望から一本化されて、1912年に南京
で中華民国臨時大総統に就任した。この時黎元洪を妥協案として副大総統に就任させる
事にして新中国政府が出来た。ところが黎元洪としては面白くなく、袁世凱を担ぎあげ
て「第二革命」を起こし袁世凱の軍事力の前に孫文を排除したのである。広すぎる中国
の地方の思い思いの勝手な強権は、これ以来ずっーと吹き荒れるのである。器量の狭い
黎元洪から始まる中国の国難の始まりだった。こうしてやむを得ず孫文は日本に亡命し
た。袁世凱の死は、本来なら北洋軍の側近の段祺瑞・馮国璋・徐世昌らが大総統を継い
で「袁世凱の後継者」声を発するべきだった。が、帝政復活宣言以来反乱まで起こした
梁啓超ら南方の護国系が納得せず、北洋軍閥内にも、多くの派閥があり一応は国内平穏
には黎元洪が、無難な人事であったのである。この時まで指導者は中国統一、国内和平
を望んで、身を引いた知見を持っている指導者の姿や思想があったようだ。しかし「中
華民国の後継者」をアピールできた黎元洪は袁同様に大総統府の長であるとして、国務
院の段祺瑞を排除して、政事堂国務卿が握る実務権限を自分のものにしたのだ。こうし
て段祺瑞が下野した途端に、北洋軍閥系の督軍が続々と中華民国からの独立を宣言した
のである。如何に北洋軍閥で孫文と段祺瑞が信頼され期待されていたかが解る。ここで
中国指導者は派閥のない非参戦派の張勲に督軍団との仲裁を依頼して国内を武力鎮圧し
、張勲は此処に立憲君主制を目指す康有為を呼び寄せた。しかしこの康有為は皇帝君主
を回顧夢見ている軍人であり、清朝宣統帝を復位させてしまうのである。迷走を続ける
ままの中国国家にまともな人間は居なかったのだ。ここでアメリカが蒋介石を担ぎ出す
用意をするが、その前に黎元洪はドイツ資金での工作を続けている。袁世凱の息子と、
黎元洪の娘と結婚していて国際関係も国内事情も良かったからだ。


1103: 名無しさんAA:18/07/30 18:16
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  148 > 
それでも彼は、それ以上もそれ以下もない機関士のみの人だった。武昌以来、革命軍を
指揮して来たと言う自負はあったが、帰国して中国革命を成し遂げた孫文やそれに仕え
た段祺瑞の様な、才能や知見のある政治家ではなかった。皇帝治政時代、これまで革命
派を弾圧してきた黎元洪は、暫定的な司令官に任命され、渋々軍政府湖北都督に就任し
た黎元洪だったが、清朝の軍機大臣(総理大臣)である袁世凱との対座し停戦交渉を行
い、いつのまにか革命の中心人物となって躍り出ていた。しかし、革命派内部は、武昌
派と上海派に分かれていてそれをまとめる程の器量はもっていなかった。そこにアメリ
カから帰国した中国革命同盟会の孫文が推され、人望から一本化されて、1912年に南京
で中華民国臨時大総統に就任した。この時黎元洪を妥協案として副大総統に就任させる
事にして新中国政府が出来た。ところが黎元洪としては面白くなく、袁世凱を担ぎあげ
て「第二革命」を起こし袁世凱の軍事力の前に孫文を排除したのである。広すぎる中国
の地方の思い思いの勝手な強権は、これ以来ずっーと吹き荒れるのである。器量の狭い
黎元洪から始まる中国の国難の始まりだった。こうしてやむを得ず孫文は日本に亡命し
た。袁世凱の死は、本来なら北洋軍の側近の段祺瑞・馮国璋・徐世昌らが大総統を継い
で「袁世凱の後継者」声を発するべきだった。が、帝政復活宣言以来反乱まで起こした
梁啓超ら南方の護国系が納得せず、北洋軍閥内にも、多くの派閥があり一応は国内平穏
には黎元洪が、無難な人事であったのである。この時まで指導者は中国統一、国内和平
を望んで、身を引いた知見を持っている指導者の姿や思想があったようだ。しかし「中
華民国の後継者」をアピールできた黎元洪は袁同様に大総統府の長であるとして、国務
院の段祺瑞を排除して、政事堂国務卿が握る実務権限を自分のものにしたのだ。こうし
て段祺瑞が下野した途端に、北洋軍閥系の督軍が続々と中華民国からの独立を宣言した
のである。如何に北洋軍閥で孫文と段祺瑞が信頼され期待されていたかが解る。ここで
中国指導者は派閥のない非参戦派の張勲に督軍団との仲裁を依頼して国内を武力鎮圧し
、張勲は此処に立憲君主制を目指す康有為を呼び寄せた。しかしこの康有為は皇帝君主
を回顧夢見ている軍人であり、清朝宣統帝を復位させてしまうのである。迷走を続ける
ままの中国国家にまともな人間は居なかったのだ。ここでアメリカが蒋介石を担ぎ出す
用意をするが、その前に黎元洪はドイツ資金での工作を続けている。袁世凱の息子と、
黎元洪の娘と結婚していて国際関係も国内事情も良かったからだ。


1104: 名無しさんAA:18/07/30 19:11
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  149 > 
 黎元洪は日本公使館に避難し、7月3日に段祺瑞と馮国璋に張勲の軍の制圧を依頼する
。しかし相手にされず7月5日に段祺瑞を再度国務総理に任命し、7日に馮国璋を大総
統代理に任命した。表舞台に舞い戻った段祺瑞の北洋軍閥は、あっけなく張勲の軍を打
ち破り、7月12日には北京を制圧、段祺瑞は7月14日に悠々と北京入京を果た。こ
れを見た黎元洪はその日のうちに日本公使館を出て大総統を辞職し、政治の一線から退
いた。大総統を辞職した黎元洪は天津に移り、彼は悠々自適に隠居しながら、民間事業
への投資を行って財を成していた。しかし直隷派の馮国璋は病死し、さらに直隷派は保
定派と洛陽派に分かれた。又1920年直皖戦争によって安徽派の段祺瑞は失脚し、1922年
の奉直戦争で奉天派が敗北する。こうして戦いの上に政権は直隷派が担うことになった
。しかし、直隷派が政権を担うとなれば、それ維持するには支持層が少なかった。そこ
で直隷派は再び「誰もが反対しない大総統」として黎元洪を擁立したのである。黎元洪
が目指したのは「平和的な統一による中央集権国家への移行」であったが既に中国国内
でのしこりは大きく、就任直後から「黎元洪の大総統就任は直隷派の手によるものであ
り、民主政治と言う割には大総統選任のプロセスが中華民国約法に則っていない。」と
いう議論が沸いていた。これに対して黎元洪側は「前回大総統職を離れたのは辞任では
なく(張勲による)外的圧力で職を離れただけである。従って今回大総統に『復帰』し
たので、その任期は1年3ヶ月残っている。」と反駁したものの、説得力に欠け黎元洪
の求心力は低下して力はなかった。又旧知の孫文の取り込みを当てにした「平和的な統
一」は、孫文の逮捕状を取り下げたものの、当の孫文が黎元洪の前回の失脚の後に北京
政府と袂を分かち「広州国民政府」を樹立しており「広州政府が中国唯一の政府であり
、黎元洪は新しく来た偽総統に過ぎない。もし列強が彼を承認するのであれば、それは
中国に対する内政干渉だ。」と内外に対して宣言が発表されて、統一の夢は瓦解してい
た。迷走を続け、翌1923年に半ば直隷派に放逐される形で辞職したが、大総統の職を追
われても自ら公式に「辞職した」とは認めず、天津・上海で大総統復帰のための工作を
行った。黎元洪は直隷派に包囲された自宅にこもったり、北京にいられなくなって天津
に脱出する際も大総統の印璽を持ち出して天津に仮政府を設置しようとするなど、ギリ
ギリまで抵抗を試みたが、結局印璽は天津に脱出する途上で直隷派に奪われてしまった
。黎元洪は天津のイギリス租界に逃げ延びた。(1924年)に第二次奉直戦争が勃発して
直隷派政権が瓦解したが、黎元洪はもう政界に進出する気はなくなっていた。結局中国
は世界大戦が終わっても尚 こうした政争闘争を繰り返して独裁に終始していたのだっ
た。

1105: 名無しさんAA:18/07/30 19:11
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  150 >
 この中国での府院の争いの頃は、日本は大きなかじ取りの中にいた。国連の中で、第
四次日露協約が締結されたのである。内容は、「日露間で特殊権益擁護を相互に承認す
る。」というものである。シベリア出兵以来赤字続きの日本において、秘密協約での、
「中国が第三国の政事敵掌握に陥るのを防ぐために相互軍事援助を行うこと」を規定し
た協定を結んだのである。日本国内で対華21か条への批判で大隈内閣が総辞職するに
至ってしまい第18次内閣に寺内正毅内閣が成立した。10月に、黎元洪が大総統とな
った時段祺瑞国務総理はその代表として日本からの援助をこぎつけた。この時、時の中
国政府内が対立し、馮国璋(直隷系軍閥の巨頭)を中華民国政府の副総統に選出してい
る事も日本は解らなかった。1917(大正6)年1月20日、日本興業銀行・朝鮮銀
行・台湾銀行は、段祺瑞内閣に対し、交通銀行への借款500万円を供与するという契
約を締結し、西原借款の最初を起債させたのである。これを2月13日、イギリス外相
は、駐英大使砂田捨巳に対し、次のような回答をし、英国覚書を作っている。その内容
は、次の通りです。(1)イギリスは、講和会議での日本の利権を約束する。(2)山
東省のドイツ権益ならびに赤道以北のドイツ領諸島に関する日本の要求を支持する。そ
の後は3月1日、フランスもイギリスの提案を支持すると回答しました。更に3月5日
、ロシアもイギリスの提案を支持すると回答しましていた。つまり、5月7日、段祺瑞
政府が、対独参戦案を衆議院に提出し、国民党系の5派は反対で結束したのだが、これ
を利用して、黎元洪大総統は、段祺瑞を罷免せずにいたなら、それで中国は何もない、
大国として自治政府は収まったのである。この「府院の争い」は終わりのない国内紛争
になっていく起点であった。5月29日、これに不満の段祺瑞は、安徽・河南・奉天・
山西・陝西・浙江・福建各省の軍閥に働きかけ、独立を宣言しました。窮地に追い込ま
れた黎元洪は、安徽督軍の張勲に援軍を要請しました。辮髪を切らない程の極端な保守
派である張勲は、その条件として、国会解散を要求して軍閥政府が連立する国家に変化
したのである。日本はこの貸付をしてる以上、奉天政府を後押しせずにはいられない様
な立場になった。ここに張作霖の勢力圏ができたのである。この借款は、第一次世界大
戦に日本に流入した外資を中国に投資して、段祺瑞などの中国統一を援助すると同時に
、経済利権の確保をねらったものだった。原資には、大蔵省預金部資金と政府保証興業
債券収入をあて、日本興業銀行(現、みずほ銀行)、朝鮮銀行、台湾銀行の3銀行を通
じて供与された。しかし投資の大半は、南北争乱中の政権の政費に費消され、段祺瑞派
の失墜や黎元洪大統領の辞任で回収不能となった。日本では担保不確実な焦付(こげつ
き)債権として、また中国では高利(八分内外)の国恥借款として非難を浴びた。

1106: 名無しさんAA:18/07/30 19:15
 しかしこの貸付に、担保が無い事はなかった。黎元洪大総統が印璽をもって天津に脱
出する途上で直隷派に奪われてしまったのだが、この印璽によって支払われこの印璽の
保証によって作られた会社が数多くあったからだ。黎元洪は日本公使館に避難し、7月3
日にそこで段祺瑞と馮国璋に張勲の軍の制圧を依頼したのは、その経済的支柱が日本に
あったからだ。大総統を辞職した黎元洪は天津に移る。ここで彼は悠々自適に隠居しな
がら、民間事業への投資を行って財を成しているは、この資金が有用だったからである
。彼は数々の投資を膨らませ学校すらも建設していた。1926年、焦付債権は公債に肩代
りされて日本国民の負担となった。一方中国では国民政府が成立し、段祺瑞政権は負債
には責任がないと債権の棚上げを主張し続けて、西原借款は全額回収されず、蒋介石政
権は逃げたが、一方でその資金を回収していた。その金が夫人を通して米国工作に使っ
ていたのである。蒋介石国民政府は台湾に移る際には、総統としての指示で、中央銀行
、中国銀行などを初めとする関係銀行が所蔵する国庫の金、銀、米ドルなどの財貨と外
貨を秘密裏に台湾に搬入した。この時、黄金390万オンス、米ドル7千万ドル、白銀
7千万ドル相当、合計時価5億ドルにのぼったという。また北京が共産党軍に占領され
る前に、故宮博物館(旧清朝の紫禁城)にあった移動可能なほとんどの文化財を台湾に
運び込んでいた。これらは現在、台北の故宮博物館に展示され、台湾の重要な観光資源
になっている。実はここがみそである。中国中央銀行は、実は上海と香港にある銀行を
資金としては作られてはいなかった。その前身は中国独自の華北銀行であった。その管
理を「府院の争い」での国務院が管轄したのだ。これが大統領に乗っ取られたのである
。汪兆銘政権は 1940年3月30日に成立したが、その統治下に日本は中国占領地域で日本
軍の軍票や華北の中華民国臨時政府(後の華北政務委員会)による中国聯合準備銀行(
聯銀)・蒙古聯合自治政府下の蒙疆銀行(蒙銀)・華中の中華民国維新政府による華興
商業銀行(華興)が物資調達の手段としてそれぞれの紙幣を発行した。一般的には中華
民国(重慶政権)側の法幣が広く流通していたが、その裏書がこの金だった。汪政権に
よって1940年12月19日に中央儲備銀行法が公布・施行され21日に資本金1億元で創立
し、日本銀行との相互の預合いによって兌換準備を行う為に「中央儲備銀行」を蒋介石
政権が1937年に将来設立する予定として準備した。中華民国の中央銀行の名称であり、
中華民国の正統政権を謳う目的もあったと言う。中国共産党は各解放区に一つの銀行を
設立し金融財政政策を行おうと躍起になった。全国統一にともない,1948年12月,華北
銀行を中心に中国人民銀行を設立した。中華人民共和国成立以後は国民政府の銀行と民
間都市銀行を国有化し,人民銀行の配下に収めた。こうして今の5千億円くらいが中国
にかすめ取られた形だった。

1107: 名無しさんAA:18/07/30 19:19
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  152 > 

 西原借款は、寺内正毅(まさたけ)内閣下の1917〜1918年(大正6〜7)に、中国の北京
政府に供与された借款のうちで、国際的には対中国国際借款団が形成されて、借款をし
たものもあった。当時は英・仏・露・日の四ヶ国の代表団の規制があった。しかし日本
の日露戦争後の負担は大きく、その外での貸付利益を求めて借款を起債した。経済借款
の名目でまとめたこの借款は正規の外交ルートによらず、寺内首相の私設秘書だった西
原亀三(かめぞう)が、首相および勝田主計(しょうだかずえ)蔵相の意向を受けて交渉に
あたって契約をまとめた。この事でこの名がある。通常次の8件と総額1億四千五百万
円の事をいうとされる。第一次交通銀行借款 500万円、第二次交通銀行借款2000万円、
有線電信借款2000万円、吉会(きっかい)(吉林〜会寧間)の鉄道借款前貸し1000万円、
黒吉林鉱(こくきつりんこう)黒竜江(こくりゅうこう)・吉林両省の森林・鉱産物)借款
3000万円、満蒙(まんもう)四鉄道(長春〜南(とうなん)間、吉林〜開原(かいげん)間、
南〜熱河(ねっか)間、熱線〜地点から海港まで)借款前貸し2000万円、山東二鉄道(済
南(さいなん)〜順徳(じゅんとく)間、高密(こうみつ)〜徐州(じょしゅう)間)借款前貸
し2000万円、参戦借款2000万円。別に兵器代借款3200万円を含める説もある。こうして
南満州鉄道の権益の殆どはこの時の借款で出来た物だ。この列車で上げた利益は、他に
そのまま華南銀行 朝鮮銀行などに行きわたっていた。その中にドイツ東亜銀行や横浜
正金銀行が日本勧業銀行と共にあった。その後満州中央銀行が1932年に日本からの出資
による3千万円の資本を基に新京に設立され、同年正式開業した。新京の本店の他に、
140の支店が満洲・中国・日本に展開していた。銀行設立を認可した1932年の通貨法
に従い、満洲国は通貨単位として「(満州)圓」を採用した。圓は、中国の通貨の伝統に
基づいて、24グラムの純銀を含んだ通貨だ。中華民国の通貨と同じく銀本位制でスター
トした。発行した紙幣に対しては、その額面の最低3割相当の準備金を保有している必
要があったのだ。しかし、1935年11月に日本円を基準とする管理通貨制度に移行して、
満洲中央銀行の紙幣自体は不換紙幣となり、交換義務を負わなくなった。つまり紙幣は
信用貨幣となり、満洲国の信用が紙幣の信用となっていった。。開業と同時に、張作霖
管理下にあった東三省官銀号・吉林永衡官銀銭号・辺業銀行・黒竜江官銀号の4行を合
併した。これにより満州中央銀行の資本金は8千万円以上に膨れ上がった。が、こうし
た事の推移を知っている日本人が今やどれだけいようか。日本は中国に騙され韓国に吸
い取られ米国に叩かれた世界で有数の悲惨な国家だったのだ。

1108: 名無しさんAA:18/07/30 19:30
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  153 > 

 段祺瑞や殷汝耕は清朝を倒した辛亥革命(1911年)に参加し、1925年反張作霖クーデ
タに加わった烈士の一人であったが、ものの見事に失敗して、一時日本に亡命した。し
かし日本軍と中国軍との間に始まった柳条湖事件からの満州事変の軍事的衝突停戦協定
に動いて塘沽停戦協定締結するに大きな動きをしている。義和団の乱の際に結ばれた、
北京議定書においてのロシアを意識した要求をしては、山海関には北寧鉄路南側の兵営
に歩兵百人と工兵の小部隊を駐留させて砲台を4基設けるとともに秦皇島には守備隊約
50人を駐屯させて日本人に治安を任せてくれた。しかし中国軍は、すぐ傍の南門付近
に常駐していて、突如射撃を加えて兒玉利雄中尉が戦死し、他に数名の負傷者を出す事
件が起こった。やむなく自衛に応戦し日本の空軍が出るまでに至ったのが、最初の蒋介
石の攻撃だった。陸軍省は、これは当時、張学良が盛んに熱河省並びに山海関付近にお
いて反満抗日の行動に出つつある情況とみて注視していた。日本軍爆破隊は山海関沖に
ある駆逐艦からの艦砲射撃、綏中から飛来した航空機の爆撃の援護を得て山海関南門を
爆破すると、戦車隊と守備隊の一部が突撃して中国軍を撃退し、日章旗を揚げるに至っ
た。両軍の歩兵は同等だったが日本軍は駆逐艦「芙蓉」と「刈萱」からの艦砲射撃に加
え19門の野砲、7機の航空機で中国軍の軽・小火器の陸軍と対峙した。英国デイリー
・メール紙は事件は張学良によるもので彼は国際連盟が日本に対して実力を行使するこ
とを期待したのではないかと論じた。事実こうした行動の中国側は盛んにアピールして
、日本の非道を装った。世界は日本軍による山海関占拠の合法性を認めなかったが、ロ
ンドン・タイムズは「1901年に調印された北京議定書に基いて占拠している日本軍に対
して中国軍が攻撃的態度を取ったことは中国軍の責任であり、日本側が侵略されたとし
て防御するのは当然の権利。」と説明している。これによりシベリア出兵にあっては、
参謀本部附を命ぜられてハルピン特務機関長、オムスク特務機関長をして現地支援して
いた武藤信義を派遣した。武藤はかなりの戦略家だったが、同時に弱さもあった。湯玉
麟は、かつては張学良の部下で腰の財布とされた金庫番だった。しかし満州国の建国宣
言に署名し、熱河省長に就任して、その為に、傀儡政府とは言え、冀東(きとう)防共自
治政府の成立に尽力した。このために中国政権には後ろ指刺されたが、かれは時の住民
を充分に保護していた。それが批判され共産党政権に後は処刑された。


1109: 名無しさんAA:18/07/31 02:55
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  154 > 

 関東軍の武藤司令官は「長城を隔てる河北省は中華民国の領土である。」として長城
を越えて行動しないように、兵士達に自制を強要した。これに乗じて、中国は熱河に対
して7千の兵力を進めた。外国人記者団から「中国軍の長城線における挑戦態度が継続
される場合に日本軍の行動はどのようになるか。」との質問に対し、私見として「日本
軍は忍べる限度までは忍ぶが中国軍が増長して反省がなければ一大鉄槌を下す場合を、
否定する事はできない。」と答え「満州国に忠誠を誓う者は居住を許され、家族・部下
・財産が安全に保障された多くの例がある。」と答え、熱河作戦、渫東作戦、関内作戦
に応じた。中国軍のこの作戦は、雑軍だけが前線にあり、本体の中国軍は最初から勝ち
目のないと知って日本軍との戦いを望むことはなかったが、雑軍は日本軍・満州軍にで
きるだけ打撃を被るように裏で仕向けられていた。従って中央政府の中国軍は敗退した
雑軍を後方で待ちうけ、その武力解散、武装解除を行っているふりをして賊軍を兵士に
組み入れたのである。これは蒋介石の常套手段であり、逐次東北軍と雑軍を第一線に立
たせて反共の者を日本軍に当たらせ、その壊滅を策す一方、自力による武装解除を行い
中国北部を完全に中央軍の掌中に収めようとする意図によるものであった。これにより
段祺瑞や殷汝耕の兵は減らし、塘沽停戦協定の成立と共に軍事活動停止され何とか平和
が保たれていた。民衆運動は香河県城を占拠し、「中国国民党打倒」「官吏の罷免」「
孫文の建国大綱に基づく地方自治と農民救済を要求する宣言」などを発表し、自治化運
動は河北省全域に波及する情勢となった。宣言では自治を原則とし、土地の公有反対、
共産勢力に対する警戒、農村救済、減税、福祉増進を挙げている。同日、河北省各県代
表連席会は緊急会議を開催し、重税に反対する運動を支援する方針を決議した。当時の
日本には、この運動の根本原因が国民政府による搾取があると報道されていたが、一般
兵では解らなかった。10月27日には、話し合いで、保安隊により香河県城が接収され、
その地域で解決したが、自治を求めて次々と蜂起が続いていた。河北省首席の商震など
は国民政府の意向を受け、事態の収拾に当たったが、自治運動が塘沽停戦協定で決めら
れた非武装地帯内で発生したことから、武力鎮圧をおこなうことはできなかったのだ。
こうして、1935年日本政府に急接近した傀儡(かいらい)政権の冀東(きとう)防共自治政
府が成立した。自治政権冀東防共自治委員会を通州に樹立し、自治宣言を中外に発表し
て地域内民衆の自治を開始し国民党旗を撤去して国民党との分離が表明された。委員会
は、共産党員を怒らせた。

1110: 名無しさんAA:18/07/31 02:55
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  155 > 

委員長の殷汝耕は完全な共産党員の排除をした。他、委員として池宗墨、王厦材、張慶
余、張硯田、李海天、趙雷、李允声、殷体新が名を連ね、塘沽停戦協定での軍事行動が
禁止された地域をその統轄範囲として自治活動を行った。組織としては秘書長を池宗墨
としてその下に秘書処、保安処、外交処、民政庁、財政庁、建設庁、教育庁、税務管理
局、北寧鉄路新楡段監理処を設け、他に委員長直属の唐山弁事処と各保安総隊を持った
。こうして徐々に徘徊していた悪者は中国側に出て行った。しかしある時点でこれが変
わった。毛沢東の紅軍遠征からである。日本政府が北京政府の蒋介石を重んじて自治政
権だった冀東防共自治政府を認めなかった事で、中華民国は3つの条件を出した。金融
破綻で銀の海外流出のために政府系銀行の準備銀が急激に減少した事で銀の決済を止め
て、中国が発行する中央、中国、交通三銀行券を完全なる法定通貨とする様公布したの
だ。更に銀弗、銀塊を隠匿又は不法に所有流通するときは、緊急治罪法を以って処断す
るとしたのだ。その上各自が発行する銀行券は増やさない限り許すとしたのだ。これに
よって自主流通の通貨ルートが絶たれたのである。つまり金銀で保証された黒竜江省の
付近で行われていたロシア〜中国間の物流流通が無くなったのだ。そもそも中国政府ど
ころか日本軍の発行した紙幣すら信用がなく朝鮮銀行の持つ銀現物の裏打ちで流通して
いたぐらいだったのである。それが無くなる事は中国商人にとっては死活問題で物々交
換の時代に戻る事を意味していた。つまり冀東防共自治政府が後押ししていた殷汝耕の
商社の両替が無くなったのだ。それも急激に何の前触れもなく。1937年(民国26年)に
、かねてから国民革命軍第29軍軍長宋哲元と秘密裏に連絡を取り合っていた冀東保安
隊第1総隊長張慶余、第2総隊長張硯田が蜂起し、罠にかかり殷汝耕は捕縛されてしま
った通州事件である。張慶余は、捕らえた殷を宋に引き渡そうと北平に護送した。とこ
ろが、宋はすでに北平を離れており、日本軍と遭遇した護送部隊は蹴散らされてしまっ
ていた。こうして殷汝耕は頭山満の斡旋で辛うじて助命になり汪兆銘政権に参加したが
、時既に遅く日本の敗戦時で給与や権限が小さく辞して北平に戻った。だが日本の傀儡
政府であった汪兆銘政権は、共産党政府では漢奸とされ殷汝耕は逮捕され南京に囚人と
なった。既に取り巻き防衛を行っていた志士達、すなわち大陸浪人と呼ばれた日本人た
ちは討ち死か世代交代をした中だったのだ。


1111: 名無しさんAA:18/07/31 02:56
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  156 > 

宋哲元中心の防共自治委員会が北部に結成された場合はどうするかとの質問には「合流
する」と即答している。冀察政務委員会が成立すると直ちに冀東政権へ使者を送り殷に
新政権への合流を求めたが、宋の新政権が依然として南京政府からは離れなかった。こ
うして蒋介石や毛沢東の死の恐怖政治を行い、反共産主義者18万6,000人以上を
虐殺して、210万人以上の住民を追放した政権との決別をはかる政権が出来上がった
。共産主義政権の多くは、「人民の名」において反対派を大粛清し、反共産主義者や民
族主義者や宗教関係者を大虐殺した。人民の敵とされた者から没収した資産は、特権を
利用した共産党幹部が大半を横領し、ごくわずか金が「絶対平等」の原則として兵士ら
に均等に配られたていたまま山にこもる長征を開始していた。共産党幹部による横領は
、日常茶飯事的に行われて、貧しい兵士は、凶暴化して、共産主義の大義を振り回して
地元民から金品や食糧を暴力的に奪った。匪賊・兵匪・官匪の中で、貧しい共匪がもっ
とも恐れられた。無力な人民は、生きる為に、容赦なく奪いさる赤匪に逆らうことなく
従うしかなかった。共産党政権はまるで戦う事は行わなかった、各地で発生している数
百万人の被災民を救済する事はなう、国民党支配地を混乱させ暴動を誘発させる為の敵
陣営へと疲弊し追いやったゲリラ活動は続いた。中国の戦術は、食い詰めた貧しい人民
を暴徒化して敵軍にけしかける事を、常套手段としていて、天災は人災に、戦災へと、
発展させてした。そこには、「情において忍びない」という日本の軍隊のやさしさが、
逆に弱く負担ばかりが存在しては、中国軍に殺されていった。こうして人民からの支持
を得けられず敗走(長征)した経験を生かして、人民の支持でなく恐怖を得る為の闘争
方針へと変更していた。日本軍n平津治安維持委員会を設置し占領統治を開始したのは
遅すぎた結果だった。湯爾和を首脳とする中華民国臨時政府を宣言し、1935年に成立し
ていた冀東防共自治政府もこの臨時政府に合流した。日本政府は1938年「国民政府を相
手とせず」声明を発表して臨時政府に期待をかけた時は、既に蒋介石夫人と米国大統領
とは握手し日本の敗戦後の話し合いをした後の事だった。1938年に北支那開発株式会社
を成立させ、日本は北京で政治、軍事、文化、経済体制をほぼ確立し、独自の通貨とし
て中国聯合準備銀行券(聯銀券)を発行し、華北自治軍という軍事組織を保有していた
。1940年3月に南京で汪兆銘が南京国民政府を樹立すると、臨時政府が吸収合併されて
、」その後は華北政務委員会へと改編され、臨時政府の統治機構を継承して終戦まで続
いたが、その力は日本軍が育てるまでいかない程兵力を持たなかった。


1112: 名無しさんAA:18/07/31 12:56
 湯玉麟は、かつては張学良の部下だったが、満州国の建国宣言に署名し、熱河省長に
就任していた。国民政府の対日問題専門家として活躍。一時日本に亡命した後,国民政
府の対日問題専門家として活躍。しかし日本政府に急接近し、1935年日本軍の傀儡(か
いらい)政権の冀東(きとう)防共自治政府を、成立させたために、のちに処刑された。
パリで、国際連盟理事会が開催された時、ジュネーブの連盟本部では、多くの常任理事
国の大国の意向に不満を持っていた。その国々には、軍事行動を起こした日本の現状を
理解していた国は、いなかったのである。中国及び満州に何ら権益を持たない小国が多
数派であり、軍事・経済の弱い小国は、米英が帝国主義的政策に呼応して、自国の利益
の為に武力で領土拡大をするのではないかという懸念で日本を見ていた。の「支那のよ
うな特別な状態の下にある国に起こった事柄は、かかる特別状態のない欧州各国に間に
は先例となるものではないか云ふ懸念がある。」と連盟調査団史に伊藤述史は書いてい
る。良くも悪くもアジア事項は、記者の色眼鏡を通した記事などで政府も動いていた。
フランス世論では、第一次世界大戦時での日本赤十字社・軍医部によるパリ日本病院の
活躍に感謝して、日本に好意的であった。代表団とは別に、交渉団の一員としてパリに
参集した親日的なイギリスのジョン・サイモン外相やアメリカのチャールズ・ドーズ駐
英大使らは、日本に有利な解決案を話し合ったりした。松平恒雄駐英大使は、サイモン
外相やドール大使らに、満州の特殊性、日本の歴史的経緯、領土拡大の意志がない事な
どを説明した。ドーズ大使は、親日的フーバー大統領の意向に従い、日本に受け入れら
れる妥協策を成立させるべく裏工作を行ったりしている。満洲中央銀行は新京に設立さ
れ、正式開業した時、主要な機能は国家資金の保管・管理、及び金融市場のコントロー
ルとされた。しかし北京政府は満洲国内の金融システムを統一することで、これら機能
によって満洲国の通貨価値の安定を図っていくにつれてHSBC(香港上海銀行)に力
がかかり、その日本の決算企業は失っていった。上海銀行はトーマス・サザーランドに
よって、アヘン戦争後にアヘン取引の為の大英帝国の植民地政策で、特別に香港で創設
された非法人の決済銀行だった。1865年と言う古い時代から営業を開始し、1866年にな
って香港政庁命令第二号により認可され、法人と変わった。主に在華外国企業(サッス
ーン商会、ジャーディン・マセソン商会、デント商会などのアヘン貿易商社のクラブ)
の御用達であり、インドなどの他の大英帝国の植民地との間におけるアヘン貿易の利益
のイギリス本国送金を業務とし、貿易金融を扱い、通貨の発行権利も行っていた。その
行名が示す通り、香港に本店を置き、イギリスの共同租界が置かれた上海支店でも同時
に営業を開始した。正式には発足して香港会社法による1865年で資本金は250万ドル
で銀行となったが、後の蒋介石政府はこれを使って、英国の後押しを得た。

1113: 名無しさんAA:18/07/31 12:57
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  158 > 

 香港上海銀行は、ドイツ系商社とも第一次世界大戦直前まで親密な関係を続けていた
。アヘン取引、奴隷貿易、外貨送金、何でも決済を行っていた。それだけ広がりを持っ
た下請け企業がいたのである。今や有名な死の商人達の軍産複合体への融資も蒋介石が
広めた。日本を詐欺て国力を高めようとしたからだ。しかし日本政府も日本陸軍もそれ
を止められなかった。1914年取締役12人のうち4人はカルロヴィッツ商会(禮和洋行
)などドイツ系出身が軍事顧問と共に指導していたからだ。取締役の業務関知は内規で
規制されたが、広範な業務裁量が頭取以下職員に与えられていて、複雑怪奇な会計がこ
こでは行われていたのだ。第一次大戦後、ヴェルサイユ条約で、ドイツは国際金融の中
から主役を降板したかに見えたが、国際金融の連邦準備制度に対して隠然たる影響力を
保持していた。ドイツ系アメリカ人としてユダヤ金融の力が充分にあったからだ。既に
米国紙幣の発行権利を得ていたし、米国大企業はほとんどがユダヤ協会員だったのであ
る。1922-24年頃は 関東大震災が起こって日本が債務国となって、米国の投信熱が高ま
り出す直前にこの米国金融が引き受け手となった。この間に香港上海銀行は、インド・
上海・ウラジオストク、日本および南洋興発の関係するオランダ領東インドから資金を
吸い上げ拡大し、ほとんどのアジアの利益は集中的にロンドンへ送られていった。一方
で、香港上海銀行は、主要店舗がロンドン送金の2倍程度も証券を購入して世界の半分
を所有していた。世界恐慌が及んだ日本では、香港上海銀行はナショナル・シティ(現
シティバンク)と並びドル買い事件の槍玉にあがった。1941年、香港上海銀行を通じて
上海とシンガポールの資金がロンドンへ送られた事実からだ。主要店は香港政府の負債
証券と英国債を購入した。対して満州地域で満洲中央銀行を設立した日本では、農業・
工業・商業企業へ融資業務の一般の銀行業務も行って安定化するとに努めるしかなかっ
た。この地域からの国際業務をしていた朝鮮銀行を撤退させていたからだ。日本の代理
人的な立場として軍票権限を持たせ、ドル決済のない資金運用を可能にしていたのだ。
ここにアヘン貿易の上海商人との確執が産まれた。日本軍の華中における支払いが、軍
用手票を銀行が発行する儲備券としたが、それらはある意味需要はなかった。既に1866
年以後、横浜、1867年カルカッタ、1869年神戸とボンベイ、1870年サイゴン、1873年ア
モイ、1875年マニラ、1877年シンガポール、1881年天津で、香港上海銀行は南洋の大半
で権限を持ち、各支店を開設し大不況を迎えても、極東を舞台に勅許銀行らしくフラン
ス系金融機関と競争して支店を開業して信用を得ていた。

1114: 名無しさんAA:18/07/31 13:08
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  159 > 

 それは例えば、南洋のイロイロへ支店を出した時の1883年を例としても、インドシナ
銀行に膨大なピアストル貨を供給したし、1884年バタビア、1892年コロンボにも支店を
設けた時も、惜しげもなく各地域のプランテーションをファイナンスしている。そして
先述のとおり1890年代後半に門戸開放をめぐりアメリカへ接近していったのである。蒋
介石に貸付して、ユダヤ資本との取引決済するのは、国際シェアを持つ戦略上の面では
当然の帰結であった。戦前の日本の石油買い付けに軍票で買われても決済できなかった
が、蒋介石の口約束の負債には各国の銀行保証がついていると言う異常さである。英国
海軍と狂気の男ルーズベルト大統領の戦略がそれを後押ししていた。国際会議は軍備の
平等権を要求する敗戦国ドイツと、それを危惧して安全保障の優先を主張するフランス
との対立によって紛糾し、国連国際会議は行き詰まっていた。ようやく12月11日に
至って、ドイツの軍備平等権を、「原則として認める。」英米仏伊四国宣言が出され、
ドイツはこれを受諾した。これにより事実上は、ドイツは連合国の兵器規制の重しが取
れ、連合国側からのヴェルサイユ体制の崩壊の端緒となった。日本にとっても全く意味
の重い会議だった。だがその知らせは全く日本の新聞は重要視していない。というのも
この国際会議には日本は海軍出席となっていたからだ。昭和7年2月2日開会したこの
軍縮会議が特定の争点がない一般軍縮会議に海軍では意味がなかった。それでも、満州
事変に対し報告書を 取り急ぎまとめたリットン調査団の発表は、大きく日本を棄損し
たし、ナチがドイツの政権を掌握するなど、国家レベルでの緊張状態が国際社会を覆っ
ていた中の重しの取っ払いだった。会議期間中にドイツが国連脱退を表明、それに対し
非加盟国アメリカのルーズベルト新大統領が継続を要求するもドイツは結局国連脱退を
決定し、国連の紛争解決能力に疑問符がついた形で紛糾のまま会議は終了した。


1115: 名無しさんAA:18/07/31 13:08
この時
会議の長期化は日本の深刻な問題を露呈した。長期に及んだため、永野全権は途中で帰
国を命じられ、主席随員の長谷川中将が全権に昇進して会議が続行される異様ぶりだっ
た。それでも未だ日本では危機意識がなく、海軍は艦隊派と条約派に別れた血みどろの
闘争があり、中道の永野全権から若干条約派寄りの長谷川全権への交代劇を簡単に行っ
ていたし、陸軍と海軍のしこりも解消されていなかった。満州事変・熱河侵出などの陸
軍問題は、議題にまったく関わりのない海軍を置いた日本政府の気楽さを露呈していた
のである。明治30年に発足したに設立された日本勧業銀行は、養蚕、紡織、食品など
農業と密接した軽工業を主な融資対象としており、日露戦争を契機に急成長した製鉄、
造船、電力などの重工業は除外されていた。国内資本の不足を露呈し、産業界では外資
導入の必要性が出来た為だ。しかし企業単独で外資を調達するのは困難であり、政府の
保証のある下外債を発行し、国内重工業への融資を行う、いわば「工業の中央銀行」の
必要との判断で日本興業銀行は産まれその後長期信用銀行に移行した。


1116: 名無しさんAA:18/07/31 13:08
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  160 > 

 実は日本は国連から脱退して、4ヶ国の安保条約も破棄しても、永世中立国を宣言し
て軍備を増強して国防できると踏んでいた向きがある。松岡全権大使は国連脱退を宣言
したのでなく席を去っただけであった。これに対してアメリカのイエロージャーナリズ
ムは盛んに脱退したと報じたし、日本の新聞もそれを報じて国民喝采の宣言をしたのだ
。松岡洋右(まつおかようすけ)は日本の外交官として決定的な無知だった上に、政治
家の資質に欠けた人材だった。アメリカへの留学経験があり、満州国では満鉄総裁とし
て弐キ参スケの一人に数えられたが、彼が意思表示した行為は満鉄時代も政治家時代も
平和の崇高な意志をもった行為は何処にもない。言わば言われた指令に忠実に行ったぐ
らいの事だ。多くの軍人政治家の中で、一番の苦労人でありながら一番のするべきでは
無かった働きの人だった。日本の国際連盟脱退は大きな背信行為だったが、日独伊の三
国同盟も又同じ様にやってはいけない行為だった。更にドイツに行く前にソ連と不可侵
条約を結んだが、信頼の無い国同士で生まれる条約などなんの突っ張りにもならない事
を知らない馬鹿だった。多くの軍人や政治家が死ぬ気で日本を守る中では、彼はあまり
にも中途半端な知識で固まっていた。無知の上に更に権力のある責任の座についていた
。、日本自由メソヂスト教会の指導者となる河辺貞吉から大きな影響を受け、洗礼を受
けてオレゴン大学法学部を卒業していたながら帰国して外交官及領事官試験を受け合格
し外交官となった。つまり米国帰化の在米日系人の弁護士や神父とならなかったのであ
る。外務省で、領事官補として上海、その後関東都督府などに赴任しパリ講和会議の通
訳や報道員として随員している。満州記事には「砲火剣光の下に外交はない、東亜の大
局を繋ぐ力もない。休ぬるかな。」と自らの対中外交方針が破綻したことに落胆してい
る。だがここがおかしいのであって武力や威圧や優位や外圧と言う物は、欧米流外交の
やって来た事で、当時も今も武力や兵力の無い所にこそが外交力は無かったのである。
 そもそも松岡洋右や大島浩などは全く外交など向いていない人種だった。人脈もなく
情報も取れず、努力家で明るく開放的でありながらも、非常に人を信じやすく、癇癪持
ちであった為だ。人から騙されやすい人間を信じる日本人的配慮こそがおかしく外交と
言うシリアスに国の行き先を決める重要な位置に彼らを置いた事に問題があった。また
そうした人生から、一度決めたらなかなか信念を変えずこれらのことから政治や術策に
は不得手であり、自身らも「政治や外交は好きではない」と語っていた程だったのだ。


1117: 名無しさんAA:18/07/31 13:09
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  161 > 

 ドイツの国連脱退は、アメリカの英国寄りの政策提言からだった。 ドイツ共和国は
1926年に国際連盟にやっと加盟を認められた。ドイツ共和国政府の下で国際協調を
進める約束をしたからだ。しかし英国の野放図な植民地経営破綻とアメリカの沸騰した
金融興行熱は恐慌を起こすに十分な借金をばらまいていた。よく金融工学では恐慌を、
株式破綻の様に言われる。だが本来の理由はユダヤの東欧からアメリカ大陸に移った事
で起こった事だった。つまりスラブ平野の食料不足が穀物を高価にし、アメリカの大型
機器による大生産はその不足を補っていたからだ。しかし何処でも誰でもいつまでも、
他国に食料を頼る事はない。第一次世界大戦後食糧需要が高まり、価格も上昇したが、
世界的な穀物増産で、小麦などで穀物メジャーが育ち、他の国にもアメリカ資本が投下
され、アルゼンチン・カナダ・オーストラリアなどで作付け面積が増加・機械化が進ん
だ。結果生産増大はその傾向が続き、フランス・ドイツなどの食卓を飾っていた。しか
しヨーロッパ諸国の農産物の自給化推進で、輸入農産物に関税を敷き、小麦以外の砂糖
、綿花、ゴム、コーヒーなども生産量が著しく増え供給過多による農産物価格の下落が
始まった。こうして1924年頃から米国などの農産物輸出国の国際収支を悪化させ続
け1930年になっていた。この時中央銀行が紙幣発行をユダヤ資本に委ねていた。つ
まり日本の様に国ではなく営利によって発行していたのである。ここにジレンマがあっ
た。つまりドイツフランスなど復興を果たした国に供給量の低下は米ドル紙幣の不要を
意味したからだ。だが米国ドルの発行こそ米国の利益だった。発行してドル価値低下を
取るか回収して紙幣不要を取るか。に迫られたのである。アメリカ国内的には需要を欲
していたが、国家予算はその支払うべく資源のゴールドラッシュも終わっていた。最初
に手をつけた世界恐慌はドイツへの紙幣供給だった。ドイツはナチ党の勢力が増大し、
1933年にヒトラー内閣が成立した。ヒトラー内閣は国会議事堂放火事件などを通じ
て共産党や社会民主党などの反対勢力を抑え、全権委任法を成立させた。そのヒトラー
が最初に行った強硬な外交政策が国際連盟脱退であった。当然である海外からの、高価
な兵器を買って国内供給する事は不可能だったからだ。これまで飛行機や戦車・潜水艦
など大量の鉄で作る高度な兵器は規制され連合国からの買い入れしかできない事は、ド
イツ国内の不況対策や雇用対策には屈辱的だった。イギリスなどの未開地の植民地政策
には効果があっても、ドイツに課される物ではなかったのだ。


1118: 名無しさんAA:18/07/31 13:10
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  163 > 
ドイツに精通、陶酔していた大島やキリスト教に帰依を図った松岡などはドイツ在住の
ユダヤ人演奏家を庇護・援助し続けて、アメリカ人とも人脈のあった近衛文麿の弟で、
指揮者であった近衛秀麿のグループとの確執が生じ、近衞のドイツ本国内での演奏活動
は政府によって大きく制限される結果となった。大島のヒットラー狂いと言われる程だ
った。又松岡と同じに吉田茂とはかなりの悪い仲でドイツの偽情報をそのまま本国日本
に送る程だった。だがその事が日本の命運を握っていた。戦後に「財界総理」と呼ばれ
た元経団連会長石坂 泰三(いしざか たいぞう)は敗戦後、吉田茂から大蔵大臣就任を
打診された。しかしある理由で拒否している。三井銀行(現・三井住友銀行)頭取だっ
た佐藤喜一郎と東京芝浦電気(現・東芝)社長の津守豊治の依頼で、1948年(昭和23年
)東京芝浦電気取締役、翌年社長となった。佐藤喜一郎は三井グループの実質的総帥で
フィクサーで鳴らした人斬り五郎、三井の首領(ドン)とされる小山五郎が表に現れて
社長になるまでは戦後の経済界は彼以上の地位はなかった。戦後になって東芝は、労働
争議のため労使が激突し倒産の危機にあり大労働運動の中で、あえて火中の栗を拾った
形となった石坂であったが、真正面から組合と交渉し、六千人首切りをして人員整理し
東芝再建に成功した。旧日本興業銀行の中山素平・旧日本長期信用銀行の杉浦敏介らに
続いて小山五郎が死んだが、この継承は戦後金融界の鬼籍であった。中山素平は、戦前
の一橋大学を卒業し日本興行銀行に入社している。終戦直後、興銀は、特殊銀行として
GHQ(連合国軍総司令部)の指令により廃止の危機にあったが、中山は調査部長・復
興金融部長として、GHQと興銀の存廃をかけて交渉している。結果、ついに存続を認
めさせることに成功し、この経験から、ねばり強い交渉力と強い意志に基づく経営理念
を身につけその後の興銀の理事となり日本開発銀行や経済同友会をして活躍している。
1950年(昭和25年)に、川崎製鉄が千葉に銑鋼一貫工場を建設する計画書を通商産業省
に提出した時に、 1950年度に250万トン程度の粗鋼生産しかない業界の中で、一挙に50
万トンの生産力をもつ一貫工場を、資本金5億円の川崎製鉄が163億円かけて建設す
るという計画書を作った。日本銀行の一万田尚登総裁は金融引き締め政策に逆行したこ
の巨額投資に憤り怒った。「製鉄所にペンペン草をはやしてやる」とまで言い放ち、大
反対の立場を取ったが。中山は、原料の船からの荷下ろしから製銑・製鋼・圧延、製品
の船積みまでの全工程が合理的にレイアウトされていて、全工程に最新の設備の導入が
予定されていることなど、優れた計画であることを認め、この反対を押し切り、融資を
決め、製鉄所実現に尽力した。此処にアメリカの新日鉄潰しや日本銀行潰しに日本政府
が何ら対抗しなかった姿が戦前戦後共に浮き彫りになったのである。

1119: 名無しさんAA:18/07/31 13:33
 大島はナチ党とのあいだに強い個人的関係を築き、1938年(昭和13年)駐ドイツ日本
大使に就任してから日独同盟の締結を推進した。大島の外交思想は、同時期の駐イギリ
ス特命全権大使の、親英派であった吉田茂とは対極であった。大島らはドイツでの敗戦
直前、在留邦人や大使館職員らをベルリンに残したままに、ドイツ南部の温泉地へと逃
避した。それはソ連軍によってシベリア行くよりはアメリカ軍の捕虜となるほうがまし
との判断からである。この時のことに当時の部下で外交官補だった、後の外務省アメリ
カ局長・吉野文六は、自身が大島から「決死隊」としてベルリンに残留するよう命じら
れている。その後「酒とつまみ」を持ってくるよう命ぜられ、アメリカ軍機の機銃掃射
を受けながらもドイツ人運転手と共にそれらをベルリンから温泉地まで届けたことなど
を回想している記録がある。大使在任中の諜報活動では、在オーストリア英国大使館の
下働きの夫婦をスパイに仕立て、情報はウィーンの中央公園のベートーヴェンやモーツ
ァルトの銅像の前で受取る、などといったこともしていて、ドイツの動向はかなり知っ
ていた筈だった。それでもナチスに信奉していた信者だった。1940年(昭和15年)に
調印された日独伊三国軍事同盟を強力に支持した。終戦後にはA級戦犯として終身刑に
処せられ、1955年(昭和30年)まで服役した。戦後には、昭和天皇は決して松岡と大島
を許さなかった。従って松岡の大島の靖国の英霊忠魂の移籍には大反対の言葉を発し、
その後一切靖国参拝には行かれていない。日独伊三国同盟の締結や日ソ中立条約の締結
などに、松岡は奔走した。第二次世界大戦前夜の日本外交の重要な局面に、代表的な外
交官ないしは外務大臣として関与していた。外交官同士のジョセフ・グルーとの親交が
あり、岸信介、佐藤栄作とは血縁のない甥にあたると言う。外交官ジョセフ・グルーは
、日米開戦時の駐日アメリカ合衆国大使だ。日米開戦回避に努めた人でもあり開戦時の
(1941年12月)後に日本国内に抑留され、日本の外交官との交換により帰国(1942年)
した。帰国後は国務次官となり、占領政策立案・終戦交渉に尽力した。終戦と同時に国
務次官を辞任し、私人として講演活動などを通じ、日米両国の親善に尽している。後に
吉田茂は、「グルーは本当の意味の知日家で、『真の日本の友』であった。」と高い信
用と評価をしている。しかし他方、グルーの日本理解には限界があった。彼は政治的に
きわめて保守的であって中央のユダヤ金融家に対して力は及ばなかった。というのもの
だ。グルーの日本着任の前年に満州事変が起こり1932年〜1933年にかけて、本国で共和
党から民主党に政権が代わった時期だった。グルーは共和党支持で通常ならば更迭され
るところであり、慣例に従って辞表を提出したが、年金資格が得られる翌年まで上級外
交官職に留まりたいという希望を併せて伝えた結果、グルーは駐日大使に留まることと
なった駐日大使だった。つまり民主党からも共和党からも重要視されてはいない人

1120: 名無しさんAA:18/07/31 13:52
 1937年7月7、 盧溝橋事件が起こり、日中戦争が勃発した。グルーは当初は、事件は
日本による「謀略工作」の結果だとする説に対しては懐疑的だった。しかし次第に事件
の発端は日本側に責任があるという見方に変わったという。しかし彼は、アメリカから
の政策主要目標は、厳正中立を維持し、極東の混乱した事態の外に立つことでなければ
ならないと考えていて、この段階でも、対日圧迫策は無駄であり不公平で、その上危険
で破壊的であると見ていた。1937年10月、ルーズベルト大統領は、世界に無法状態を生
み出す国家は隔離されるべきである「隔離演説」と呼ばれることになる演説を行った。
交渉を通じての紛争解決を望んでいたグルーは落胆した。ルーズベルトの演説に戦争狂
のアメリカナイズされいる優越主義が滾々と込められていて戦争遂行論に満ちていたか
らだった。又日本では、その後も中国大陸で次々と米国は中国を支援して中国人にわざ
わざ問題を起こさせている事実が次々と発覚して、常にクルーは間に立つことなった。
1937年11月7日、日本軍が上海に上陸し、12月1日、南京を占領するに至っても、グルー
は日米友好は可能という信念はゆらぎはなかった。しかし、アメリカやドイツによる調
停によって和平を実現することには、悲観的になっていく兆しを彼は見逃すことはなか
った。1938年、日本軍は重慶を爆撃したとされた。近衛文麿首相は帝国議会で、日本は
「支那の領土並びに主権および支那における列国の正当なる権益を尊重する方針にはい
ささかも変わるところはない。」と演説した。この時のグルーの本国への報告は、この
演説を真に受けたもののように思われた。すなわち日本軍の行動は単なる軍事的逸脱で
はなく、経済圏確保が目的である。と説明したのである。しかし米国内の対日プロパガ
ンダは凄まじくこれに相対した。国務省の極東専門家は、グルーが日本寄り過ぎるとい
う批判的なコメントを出し、日本は逸脱した武力行使と発言するに至っている。これは
既に作られたイエロージャーナルだった。今でも911が予め決定され企画され用意さ
れた映像などが使われた事が解っている。米国がそんな国だとはグルーは思ってはいな
かった。1939年夏休暇で本国に帰ったが。「経済、財政、商業、感情のどの点から見て
も合衆国は、日本が米国と同様に付き合うならば、世界中のどの国よりも、日本の良き
友人である得る。どの点から見ても日米戦争は、まさに愚の骨頂である。」と日記に記
している。しかし本国においてのアメリカの世論は、日本に対して厳しくなっているこ
とを知って。帰任後、日米協会において「馬の口から一直線に」(最も確かな筋がき)
と題する演説を行った(1939年10月19日)「おそらく米国ほど宗主権も尊重の原則を、
時々発動させた国家はない。」と強調した。それは明らかに、日本は中国の宗主権を侵
し、機会均等の原則を踏みにじっていると、批判したもので、移民でありながらも、米
国への愛国心での色眼鏡しか見えてない証左であった。

1121: 名無しさんAA:18/07/31 14:02
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  166 > 

 かつて米内光政が海軍大臣の頃、中国・華南でハンセン氏病に罹った兵が、戦いでは
なく、病気で軍を離れたことに対する苦悩を手記にして人事局長だった清水光美に送っ
た事があった。この話は人事局長を経てその手記が米内大臣まで届いた。これをみて、
「これを送って慰めてやってくれ」と漢詩を書いた書と絵画を送ったという話がある。
その頃下士官・兵の家族の福利厚生、特に病気になった時の対策は、資金面の都合で滞
っており、これは歴代海軍相の共通の悩みの一つだった。その頃に福利といえは、日露
戦争を契機として田中義一などが興した帝国在郷軍人会(ていこくざいごうぐんじんか
い)に委ねられていたのみだった。陸軍省の指導下にこれらの団体を全国的に統合して
、1910年11月に任意団体の帝国在郷軍人会が創設され、初代総裁に陸軍大将伏見宮貞愛
親王,会長に寺内正毅陸軍大臣をあて,本部理事を陸軍の高級将校が構成し,各地方の
連隊区司令部に支部を設け、町村に分会を設置したものだった。機関誌《戦友》を発行
して士気を煽り、創立当時約100万人だったが14年からは海軍軍人も加えて、30
年代には約300万人の在郷軍人を擁していた巨大な組織となった。だが既にこの組織
は政府と一体化した様になり、救済の任意の民間団体では無くなっていた。この米内は
大蔵大臣の結城豊太郎に相談してすぐに許諾をもらい、要港の大規模病院の建設を行う
事を決めた。がしかし、支出については大蔵省に渋られたため、民間からの寄付で補お
うと海軍相官邸に財界の有力者を呼び集め寄付を呼びかける事にした。ところが行って
みると予定額をはるかに超える寄付金が集まって建設は急速に着工出来た。これにより
歴代海軍大臣の懸案であった医療問題が解決していた。米内内閣は、就任直後から、1
月21日、千葉県房総半島沖合いの公海上で、イギリス軍巡洋艦が貨客船「浅間丸」を
勝手に臨検すると言う事件に見舞われた。英兵が乗客のドイツ人男性21名を戦時捕虜
として連行する浅間丸事件が発生したのだ。世論はイギリスを非難する中で、国際社会
の中でもイギリス国の強行と無辜のドイツ人船客の解放をめぐって米内は難しい交渉を
行うことになった。これこそは米国の行った英国扇動であり、吉田茂と大島浩の考えの
違いを象徴する物だった。既に1939年9月3日に英仏が第二次世界大戦においてドイツに
宣戦を布告していて、9月4日の海の向こうではイギリス客船アセニア号がドイツ潜水
艦に無警告で撃沈され128名が犠牲になるなどの事件は起こっていて、英兵には憎き
ドイツ国民が敵国としてあったのだ。


1122: 名無しさんAA:18/07/31 14:13
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  167 > 
 開戦当初より大西洋上では英独海軍の熾烈な戦闘が繰り広げられ、強力な海軍力を持
つイギリスはドイツ商船隊を全世界の公海上で制圧して行動不能にして、自沈や中立国
での係船の航海不能に至らせ、代わりにドイツはエグニマ暗号通信とUボートで盛んに
攻撃していたのである。松岡全権大使を送った日本の帝国海軍も陸軍事務局も国連から
脱退して軍備を増強して国防で中立となれる構想などは、この時既に破綻していたのを
知るべきだったのだ。この時の浅間丸の所属する日本や、出港地のアメリカ合衆国では
1941年12月までは、第二次世界大戦には全く参加しておらず、太平洋上ではドイツ海軍
による戦闘は公式には一つも発生はしてはいないのである。太平洋を挟んだ両国間では
商船会社による定期運航が戦争当事国に関係する物資や人員の輸送の制約をもうけなが
らも比較的に平穏に行われており、日本などのアジアとヨーロッパ間を行き来する人々
の、特にユダヤ人の避難などのルートの1つとしても使用されているほど安全だった。
しかし、かつてドイツの友好国中国は軍事顧問を置き、日本は南洋のドイツ駐留基地を
委譲されていた。イギリス海軍側の「浅間丸」に対する公海上における臨検とドイツ人
乗客に対する措置は、戦時国際法の上では、全く適切なものであった。これに対して、
外務省は1909年のロンドン宣言47条「中立国船上から拉致できる者は、既に軍籍にある
交戦国人に限る。」を原則としており、ロバート・クレイギー駐日イギリス特命全権大
使に対して、外務省に招致して正式に抗議した形は取ったものの、日本のマスコミ各社
の新聞と国民は「帝国の面目に泥を塗った」などと一斉にイギリス海軍を非難していた
。国際法に無知なマスコミは、「友邦のドイツ人を無抵抗で引き渡した」として船長の
渡部喜貞に対しても激烈な批判を行った。『写真週報』では「浅間丸ドイツ船客拉致事
件」というタイトルをつけ、『報知新聞』は「国民の感情を無視するな」と主張した。
だが「浅間丸」の船長が21人のドイツ人引渡しを拒み、それが「浅間丸」の敵対行動と
 しかし、イギリス軍艦より、敵船とみなされた場合には、船体は拿捕の対象となり、
乗客全員も一時的とはいえども、全員勾留される危険をはらんでいたのである。日本海
軍首脳は、イギリス海軍のこの行動に関して自軍も同様の行動をとりうるとして、特に
問題行動とは考えず、船長の判断も妥当との認識ではあったが、日本人感情は沸き立っ
たし日本国籍の朝鮮人や支那人は過激な手紙が送られるにまで至っていた。その為日本
郵船は世論に考慮して 1月24日には船長を交代させていた。宇垣一成は、1月26日の
日記には、日本は類似の事件を沿岸封鎖中のイギリスの植民地の香港や、フランスの植
民地のハイフォンの沖で起こしていることを指摘して、沸騰する日本の世論について恥
の上塗りをしないような注意が必要だと書き残している。

1123: 名無しさんAA:18/07/31 14:17
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  161 > 

日本も中国に調達される武器などで臨検は行っていたのだ。この事件は、英独開戦後、
イギリス海軍省と日本各商船会社の間では戦時禁制となる人や物の輸送中止の紳士協定
が結ばれていたが、日本郵船の「浅間丸」は日本大使館の強い要請によって、ニュージ
ャージー州メイ岬沖での イギリス海軍駆逐艦の追跡から拿捕を免れて自沈したドイツ
客船コロンブスの船員など51名を乗客に加えて輸送中の事だった。1939年12月にサン
フランシスコよりホノルルを経由して 横浜港に向けて出行し、翌1940年1月21日、千葉
県房総半島沖の公海上(東経140度31分、北緯34度34分)で イギリス中国艦隊所属の軽
巡洋艦「リヴァプール」より空砲で停船を命じられ臨検を強制されたものだった。まあ
客船打電なら直ぐに知れ渡る事は当然だった。臨検は士官3名と武装水兵9名により行
われ船長は当初、イギリス領海で「榛名丸」にドイツ人船客を乗せて通行できた1938年
9月の先例をあげて拒否した。が イギリス軍の戦時国際法による強硬な乗客の身元調査
の要求により、ドイツ人乗客51名のみが1等サロンに集合させられ、イギリス軍が所
持する名簿と照会の上「国際公法上の権利」として21名の連行を船長に通告し、戦時
禁制人と看做された少年も含む男性乗客とヘルマン・グロース船長などを「戦時捕虜」
の名目で浅間丸船上より身柄を拘束し連行したものだった。こうして問題は政府外交の
手腕に視点は移った。戦時禁制人(軍属や徴兵可能な人間)をどこまで認めるかが焦点
で、この点を米内内閣の有田八郎外務大臣は、クレーギー大使を通じてイギリス政府に
対して交渉を行い、イギリス政府もハリファックス外相を通じて行き過ぎがあったこと
を認めるに至った。2月5日の公式発表では、@日本政府は、イギリス軍艦の行為は、
遺憾とするイギリス政府の表明を了承する。Aイギリス政府は、比較的に兵役勤務が難
しい9名の解放に応じるが、12名の引渡し権利は放棄しない。B日英両政府は、この
種の事件の再発防止に努める。日本政府は、交戦国軍人(疑いある者含む)の乗船引受
けを禁止する。と言うものであった。列強の一角をなし、かつアジア太平洋地域で大き
な軍事力を持つ日本と、無用な衝突が起こることを憂慮したイギリスは、日本との間の
交渉の決着を受けて、同年2月29日に9人を横浜のドイツ領事館前で解放した。しかし、
この事件は当時関係が懸念された日本とイギリスの国際問題に発展した。のみならず、
国内では米内内閣を米英に対する「弱腰」の表れとみなし、独ソ不可侵条約の締結によ
り締結にこぎつけなかった日独同盟から、新たに日独伊三国同盟締結への材料の一つと
して使用された。

1124: 名無しさんAA:18/07/31 14:19
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  169 > 
 この事件は米内光政内閣には大きな痛手となった。僅かでも方針転向で米英との話合
いにこぎつけようとした方針が却下されたに等しかったからだ。さらに一方で国内的に
、陸軍と米内の関係は最初からうまく行かず、倒閣の動きは就任当日から始まっていた
。といわれる。旧盛岡藩士米内受政(よないながまさ) の長男として盛岡に生まれ 盛岡
中学を経て海軍兵学校へ進み、卒業後海軍少尉に任官、日露戦争では海軍中尉として従
軍した。後に ロシアやポーランドなど ヨーロッパに駐在し、その地の実情を直に見聞
した。1937(昭和12)年には林内閣のもと海軍大臣に就任し、陸軍の主張する三国同盟に
反対した。この反戦主義の姿勢は終戦まで変わらなかった。天皇の信頼も厚くあった。
1940(昭和15)年には岩手県出身者としては3人目となる内閣総理大臣に就任、しかし、
陸軍の反対に遭い半年後に退任した。太平洋戦争末期には、小磯内閣のもとで4期目の
海軍大臣として入閣、終戦のために尽力する。終戦後も海軍大臣に留任し、海軍省廃省
の責任者として日本海軍の最期を見届けた。海軍の要職を歴任ののち、昭和15年(1940
)首相。日独伊三国同盟を望む陸軍と対立して総辞職。その後、海相として戦争終結と
海軍の解体に当たった。村文男著『米内光政と山本五十六は愚将だった』(テーミス社
)では手厳しい嘘が淡々と描かれている。日中開戦の責任については「蒋介石と和解す
べし」とした石原莞爾の進言を無視し、第2次上海事変の後、「事後、国民政府を対(
相)手とせず」といって日中戦争にはまっていった当時の近衛首相に大きな責任がある
。彼以外では米内光政と山本五十六が特A級の戦犯である。と書いている。しかしそれ
は情報の違いで、既に中独合作から中共合作と移行して英米までも中国支援を打ち出し
て増長した蒋介石政権は毛沢東が首を縦に振らない限りゲリラ戦法に明け暮れたであろ
う。その意味では吉田茂や大島浩の情報のいい加減さに問題があった。事後、国民政府
を対(相)手とせずとした近衛声明の最大の推進者であり、トラウトマン工作をつぶし
た張本人である。との批判は正当だろうが、既に遅かったのも歴史的事実だ。そもそも
がこの盧溝橋事件工作が中国側の工作だったのだ。駐中国ドイツ大使トラウトマンが、
「この戦争は蒋政権を弱体化し、中共とソ連を利するのみ」とドイツ外相の判断に基づ
き仲介の労を取った。が、事実はその後の上海工作では着実に溝を掘り土嚢を付き銃器
を新しくして対戦防護基地を各所に指導して作らせて指導し、その後も続々と軍事顧問
団をいれて3年間も抗日を訓示している。つまりこの上もなく悪質な偽りであったのだ
。それは長くロシアに駐在武官して情報を持っていたのだろう。その第1次調停で日本
側は、「北支と上海の非武装」を掲げ、蒋介石はそれに「北支の宗主権、領土保全権、
行政権を変更しないこと」を追加し、日本側条件を受諾する意思のあることを表明した

1125: 名無しさんAA:18/07/31 14:33 ID:Ubs
しかし、並行して首都南京に迫っていた日本軍は、独自に進撃命令を出した。短期間で
南京を攻略してしまう。首都を制圧して優位に立ち、蒋介石との和解の条件をつり上げ
、先の条件に加えて満州国承認、北支に日満支3国の新しい機関を設置し、内蒙古に防
共自治政府を樹立させ。中支に非武装地帯を設置する等々、主権を損なう内容とした。
 全く事実誤認である。この時日本が攻めなければ恐らく日本消滅計画が発動していた
であろう。そのつり上げられた条件に蒋側が、「範囲が広すぎるので、その性質と内容
を具体的に確定してほしい。」と返してきたことを捉えて、米内と杉山元・陸相、広田
弘毅・外相は「もはや交渉は無用、蒋政権を否定し、新しい政権をつくる」とした考え
は正解で遅すぎたのである。香港上海銀行は既にアメリカのユダヤ金融との席を設けて
今後の金融について話していた。日本の戦争拡大路線に追い込んでいたのだ。米内など
、和解交渉の継続を主張した参謀本部次長の多田駿(はやお)中将に対して、「参謀本
部が辞めるか、内閣が辞めるか、どちらかだ」と圧力をかけてまで戦争拡大路線を主張
したのは、当然中国駐留兵士の安全だったのだ。米内光政が日中戦争を拡大し停戦の機
会を失わしめた張本人の一人ではあるのだが、中国においての追加派兵の泥沼が無けれ
ば三国同盟があったとしても対米戦争を避けられた可能性は無い。和平で戦争に至らな
いというのはたわけた言い分である。陸軍は日独伊三国同盟の締結を要求して止まず、
米内が「我国はドイツ人のために火中の栗を拾うべきではない。」として、再三これを
拒否したのは当然だったが、国際音痴の陸軍は大臣畑俊六を辞任させて後継陸相を出さ
ず、米内内閣を総辞職に追い込んだ。当時には軍部大臣の現役武官制があり、陸軍又は
海軍が大臣を引き上げると内閣が倒れて政局を陸軍のものとするべく支離滅裂に動いて
いた。つまり軍は天皇の直属の擁護兵として議会にいたのだ。米内はその経過を公表し
て、総辞職の原因が陸軍の横槍にあったことを明らかにした。しかし米内は畑の疲れ切
った表情をみて「畑が自殺でもするのではないか。」と心配してこれを受け入れた。陸
軍自体が、中国の共産党分子を叩けず又石原莞爾や板垣征四郎らとともに柳条湖事件を
起して、国際批判や中国の人民からの反感を買って指導困難な帰り道のない状態に陥っ
ていながらも、石原などを処罰出来ないでいたのである。昭和天皇も石原莞爾にしては
「あいつはわからん。」と言わしめ「米内内閣だけは続けさせたかった。あの内閣がも
う少し続けば戦争になることはなかったかもしれない。」と、石渡荘太郎に語っている
。米内は総理大臣を辞任した直後に、何故か日光を訪れ「見るもよし 聞くもまたよし
世の中は 言わぬが花と 猿はいうなり」という短歌と、「寝たふりを しても動くや
猫の耳」という句を詠んでいる。つまり猿は日本人であり猫は米国であった。

1126: 名無しさんAA:18/07/31 14:56
 先の句は意味深な事で、国際社会の裏事情は、見ても聞いても戦争に走るしかない。
と思っていたのだろう中国の奪い合いの中にしかない。と事を知っていたのだ。更には
どんなに関係ないふりをしても ネズミの日本の動きはアメリカの猫の耳に届いている
。と言う言葉なのだろう。1940年10月、「一六会」の親睦会で米内が内閣総理大臣を辞
した後、陸軍を除く秘書官達で米内の親睦会が作られた。陸軍の秘書官も「あなたたち
は(米内内閣の瓦解とは)関係ないのだから」と誘われたのだが、「我々は米内さんに
迷惑をかけた存在なので参加する資格などありません」と丁重に断りを入れている。米
内内閣が発足した日も辞表を奉呈した日も16日だったことから「一六会」と名付けられ
、戦後も長く行われ年号が平成に変わっても存続した。会員には宇佐美毅、福地誠夫な
どがいた。つまり小さな日本の満州国樹立よりは、国際社会での権益の確立こそ大きい
と踏んで動いていたのだろう。満州国樹立よりは、満州鉄道の経営の方が大事だったの
だ。米内光政と山本五十六は愚将だったというのは結果論である。現に米内光政の頃の
トラウトマン工作で日本は中国大陸が順次撤退する事までほのめかした。この事で上海
攻撃には勝てると信じていた蒋介石にあんまり早く負けてその後の事が考えられなかっ
た。と後の懐柔録に書いてあった。つまり中国の日本兵は全て叩けるものと思っていた
。というのである。更に米内光政はソ連や上海も風情を良く知っていて中華中心主義の
貪欲さも又良く知っていたのである。村文男は更に言う。山本五十六海軍大将は、その
最期から悲劇の名将といわれる。たしかに悲劇にはちがいないが、名将と呼ぶにはあま
りにも疑問が多いと批判する。むしろ愚将とするのが穏当な評価であろう。それも並の
愚将ではない。その判断の誤り、失敗の重大性から天下の愚将という名に砿じない軍人
であった。例えばミッドウェー海戦で、山本は、空母八(三百七十二機)、戦艦十一、
重巡十七、軽巡十一、駆逐艦七十四、総計三百五十三隻、世界最強の連合艦隊を率いて
出撃した。ニミッツは、ハワイで指揮してこれを遊撃した。空母三 (二百二十一機)
、戦艦ゼロ、重巡七、軽巡一、駆逐艦二十一、総計五十七隻の太平洋艦隊である。つま
り353対57である。普通の陣形で勝つのが当然という圧倒的な勢力差である。ニミ
ッツは「あれほど航空優位を主張していた山本が、自分の指揮する艦隊を最も妥当な形
に編成し運用できなかったとは信じられないくらいだ。」酷評した。(「ニミッツの太
平洋戦史」恒文社)。この海戦に敗れた山本を愚将と呼ばずして、何と言っていいのだ
ろうか。とさえ言っている。彼を讃え、粉飾して名将に仕立てる幇間的作家評論家達は
これまで数知れず、今ものさばっている。旧軍人の中でも彼を正当に評価する者は少な
く、彼をたたえる事によって、国運を傾けた拙劣な戦争指導を糊塗することが多いので
ある。と言う。が現実的にはこれは飛躍した無知なる妄想だ。

1127: 名無しさんAA:18/07/31 14:56
 実際のミッドウェー海戦は、圧倒的戦力・戦略的優位と海軍機の高性能と搭乗員の高
熟練度という戦術的優位がありながらも、戦闘指揮の失敗で敗北した戦いであった。連
合艦隊は山口多聞少将の索敵徹底に関する意見具申を入れなかった。山本五十六は大和
の情報分析能力により敵機動部隊の動向を知りながら無線封鎖を理由に南雲部隊にそれ
を伝えなかった。大戦力を擁しながら空母部隊に十分な護衛をつけなかった。そのため
に空母部隊による敵艦隊の発見が遅れ、敵部隊の攻撃により空母四隻を失ってしまった
。「運命の五分」は言い訳に過ぎない。海軍がミッドウェー海戦における戦果を偽った
ことも罪が重い。それこそが早期停戦への道を閉ざし、あたら国民の犠牲を増やす結果
を招いた。もし山口多聞少将が連合艦隊司令長官であったならばあのような戦いには、
ならなかった。と村は書いている。真珠湾第一撃の成功後、現地では第二撃を主張する
山口多開少将はじめ、渕田美津雄中佐らの意見具申は、南雲艦隊司令部によって斥けら
れたが、連合艦隊司令部でもその是非で、激論が続けられた。その結果、最終的に幕僚
のほとんど全員一致で、第二撃の命令書をしたため、山本長官に意見をのべた。しかし
山本は「いや待て、むろんそれをやれば満点だが、泥棒だって帰りはこわいんだ。ここ
は機動部隊指揮官にまかせておこう。」「やる者は言われなくったってやるさ、やらな
い者は遠くから尻を叩いたってやりはしない。南雲はやらないだろう」と言って却下し
た。まるで他人事のような、傍観的な言辞である。」とも書いている。又ニミッツは、
「攻撃目標を艦船に集中した日本軍は、機械工場を無視して、修理施設には事実上手を
つけなかった。日本軍は湾門の近くにある燃料タンクに貯蔵されていた四百五十万バレ
ルの重油を見逃した。長いことかかって蓄積した燃料の貯蔵は、米国の欧州に対する約
束から考えた場合、ほとんどかけがえのないものであった。この燃料がなかったならば
、艦隊は数カ月にわたって、真珠湾から作戦することは不可能であっただろう」と懐述
している。実際真珠湾攻撃に精製タンクには全く見向きもしていない。これは一体どう
いう事か。実は、御前会議や大本営の正道論にある。つまり国体を司る天皇を含んだ席
上の「御前会議」の実態にあると言える。近年の研究では日本が226事件を起こした
理由は原子爆弾の成功と石原莞爾の進言で陸軍の中に増長があって起こったとされる事
が解っている。御前会議は広義に、官制上天皇親臨が定められていた枢密院会議、王政
復古直後の小御所会議や、天皇臨席の大本営会議なども御前会議といえる。しかし狭義
には、戦争の開始と終了に関して開かれた、天皇・元老・閣僚・軍部首脳の合同会議を
指す。この時の天皇の姿勢も軍もあくまで正しい事の処置であり、いささかでも悪意の
ある放言行為は許されなかった。つまり建前上だけでも正しくなければ、軍人ではなか
ったし、発言資格がなかったのである。米国性善説が生きて居たのである。

1128: 名無しさんAA:18/07/31 14:57
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  173 > 

 K作戦(けーさくせん)とは、第二次世界大戦中に日本海軍が実施した二式飛行艇(
二式大艇)を使用したアメリカのハワイ準州に対する航空作戦だった。第一次は真珠湾
に対する空襲を企図した。この作戦は二式大艇の初の実戦となった。第二次はミッドウ
ェー作戦のため、ハワイにいると思われる敵機動部隊に対する偵察を企図した。秘かに
日本海軍は、マーシャル諸島からハワイオアフ島の真珠湾を直接空襲し、真珠湾在泊の
アメリカ太平洋艦隊に脅威を与えて出撃を強要し、艦隊決戦に持ち込むことを計画して
いた。又太平洋戦争開戦時、完成間近の川西航空機の一三試大型飛行艇 (高度4,000m
・速力160ノットで航続距離距離3,862浬、800kg魚雷2本または爆弾2発、または250kg
爆弾8発搭載可能)ならば、途中一回の補給でマーシャル諸島から真珠湾空襲が可能で
あった。又、真珠湾攻撃後の1941年12月17日に潜水艦伊7から発進した偵察機のハワイ
偵察を行い、翌1942年1月5日にも伊19より搭載機による偵察を行った。これによりアメ
リカ軍が灯火管制もせずに急ピッチで真珠湾攻撃の損害の復旧をしていることを知った
。これを受けて大本営海軍部(軍令部)は、真珠湾の復旧活動を妨害すると同時に、当
時各地で負け続けであった上に、本土さえ攻撃されている米軍の士気に更なる損害を加
えるため、一三試大型飛行艇(二式大艇)による空襲計画が立ちあがる。こうして1月
17日、連合艦隊参謀長宇垣纏少将は、第六艦隊(司令長官清水光美中将、旗艦香取)と
第四艦隊(司令長官井上成美中将、旗艦鹿島)に、一三試大艇による作戦研究および計
画立案を行うよう伝えた。この計画がK−作戦とされる。作戦は予定通り遂行されたが
、上空の視界の悪さや急遽の灯火管制のためもあり、爆弾は真珠湾内のアメリカ海軍基
地のドックや燃料タンク、停泊中の船舶などの目標を外れて周辺の道路などに落下した
。道路は損傷を受けたものの、灯火管制が敷かれていたために周辺を走る車もいなかっ
たことから、アメリカ側の被害は軽微で死者や負傷者もいなかった。しかし作戦決行に
わざわざ、第一回・第二回と出撃し、オアフ島西北西約480海浬のフレンチフリゲー
ト環礁に潜水艦2隻(状況により予備1隻追加)を配備して二式飛行艇に燃料補給を実
施し、誘導の潜水艦をハワイ方面に配備することにし。二式飛行艇の飛行経路はマーシ
ャル諸島ウオッゼ島を出発し、途中フレンチフリゲート礁で潜水艦から燃料補給を受け
、真珠湾攻撃を敢行という計画を遂行しているのである。本作戦は「K作戦」と命名さ
れ極秘任務として補給任務についたのだ。更に潜水艦3隻(伊15、伊19、伊26)はまで
も水偵格納筒を改造して、航空燃料補給装置を装備した。そして失敗しているのである

1129: 名無しさんAA:18/07/31 15:31
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  174 > 

 川西航空機(現新明和工業)は九七式飛行艇、二式飛行艇、戦後のPS-1、US-1などの
大型飛行艇の輸送飛行機メーカーとして有名となった。これは日本海軍が意識的に川西
を大型飛行艇メーカーとして育成した結果であった。九七式飛行艇は川西が製作した2
番目の大型飛行艇で、前作は1929年(昭和4年)に海軍の指示でイギリスの名門飛行艇
会社ショート・ブラザーズ社に設計を依頼し、1931年(昭和6年)に初飛行した複葉3発
の九〇式二号飛行艇であった。背景にワシントン海軍軍縮条約とロンドン海軍軍縮条約
により世界各国は、海軍休日に突入、日本海軍は航空兵力の拡大によって軍艦の劣勢を
補おうとした事がある。第一次世界大戦終了後には、日本が統治委任された南洋諸島は
軍事施設を置くことが禁止されて、日本海軍は飛行艇を活用する事で、来襲する米艦隊
に対抗する事を意図した。しかし、この頃に画期的な技術が日本で生まれて居た。指向
性高性能アンテナの八木アンテナである。実は良く知られていないが、世界初の映像通
信、つまりブラウン管による電波受像実験成功は日本であった。また世界最優秀の受信
アンテナである八木アンテナも日本で開発された。つまりレーダーに必要な基本的技術
力を日本はいち早く持っていた。しかし、自ら電波を出して探索するのは夜間にわざわ
ざ提灯を灯して敵に発見させる様なもの「役に立たない。」と本当に軍部に一蹴されて
しまった。これを本国に持って帰って研究したのが米国だった。又英国も又日本と同じ
にドイツから持ち帰ってきた無線とその探知技術でエニグモと同じに暗号受信やレーダ
ー開発に資金を注いでいた。こうして米英で実用化されたのが基地用対空レーダーだっ
た。場所が最初から特定されている地上基地に一次大戦で活躍した航空機の来襲をいち
早く発見し迎撃機を上げるメリットを海外の軍部は理解したが、日本は理解出来なかっ
たのである。あれほど飛行機について或いは空母攻撃の先見性を持つ山本五十六の海軍
元帥だったが、この画期的なレーダー開発に先鞭をつけた八木アンテナの研究には全く
見向きもしなかったのである。ここでは、山本を愚将と呼んでも良いだろう。日本海軍
は九七式飛行艇の成功により、後続機の一三試大型飛行艇の開発を川西に発注した。特
徴は親子式二重フラップで、着水速度が130km/h以下で安定性のある離着水性能でし
た。 九七式大艇に代わる日本における大型飛行艇の決定版で、太平洋戦争の全期間に
わたり長距離偵察哨戒及び爆撃に素晴らしい活躍をした。なかでも昭和17年3月の真珠
湾爆撃は有名であり、またこの時電探による敵艦隊の発見などに、飛行艇としての最大
級の性能を発揮していた。

1130: 名無しさんAA:18/07/31 15:32
日本の電探には1930年頃から第二次世界大戦の開戦時点まででの予算であった。日本の
レーダー技術に関わる要素技術は既に相応のレベルにまで達していた。特にマグネトロ
ン、八木・宇田アンテナ、電波高度計の3要素については、日本が先鞭を付けていた技
術領域であったが、日本海軍では1936年(昭和11年)にレーダー研究の提案がなされた
が、当時は大艦巨砲主義が幅を利かせて提案は却下され、その後の研究開発費は全く出
なかった。1939年(昭和14年)に「暗中測距」の名称で研究に着手し、翌年秋の大観艦
式の際に艦船からの波長10cmの反射波が捉えられ、レーダー開発の可能性がもたらされ
たにも関わらずである。しかし1941年(昭和16年)6月にイギリス政府が本土防空戦で
威力を発揮したことが公式に発表されると、急遽日本海軍でも開発に本腰を入れること
となったが、しかし、すでに企画から7年遅れと開きが露呈し、更に希少金属が得られ
ず人材もいなくなっていて開発は難航したのだった。その後波長10m以下のメートル波
と波長10cmのマイクロ波(センチ波)の2本立てで進められたが、技術者も兵員となり
離散していた。1941年に、ドイツのウルツブルグ・レーダーが戦果に結びついている。
という報を受けて、44名もの調査団を派遣し、当時の日本のマグネトロンは波長10cm
で500Wの連続出力という性能であったが、それを上回る性能に衝撃を受けて、アドルフ
・ヒトラーとの交渉を経て設計図を持ち帰り、やっと本格製作を始めたぐらいに戻った
状態だった。知っての通り1897年、ドイツの発明家ブラウンによってブラウン管が発明
され、1925年にはイギリスのベアードがニポー円盤による機械方式のテレビ実験に成功
したが、その頃、日本の電気工学者の高柳健次郎氏らは、当時画期的だった電子式装置
によるテレビの開発に取り組んでおり、1926年(昭和元年)12月25日、世界で初めての
ブラウン管による「イ」の字の電送・受像に成功している。昭和元年から昭和16年ま
で、その電波の世界は細々と研究が続けられたぐらいで軍部の後押しは無かったのだ。
これ以降は海軍の理解が進み実戦配備が急がれ、潜水艦や駆逐艦などを含めて殆どの艦
艇に装備はされたが、既に世界の趨勢は決まった後であった。つまり満州事変以前では
最新鋭だったが、その後真珠湾攻撃頃はゼロ戦と同じ様に活躍しても旧式の遺物にさえ
ならなかった程技術は遅れたのである。実は同じ事は他でも起こっていた。第二次大戦
の実戦にジェット機を投入したドイツに対してイギリスにもプロペラ機優先の勢力があ
り、彼らは「確かにプロペラ機は先が見えてる。でも、加速、耐久性、信頼性、整備性
、生産性、費用、今のところ全てジェット機が劣っている。プロペラ機に比べてトップ
スピードが多少勝るだけ。戦力として欲しいのは今であり今のレシプロエンジンを熟成
させるほうが話が早い。戦争に間に合わなければ高性能も役に立たない。」とされた。

1131: 名無しさんAA:18/07/31 19:03
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  176 > 

 この話は、如何にイギリス人と中国人とよく似た思考かを物語る話である。中国人民
の悲痛な「清野作戦」という民家も畑も焼野原にして虐殺を繰り返す戦法は、言わば南
米で行われたスペインの虐待と同じだった。つまりスペイン人には原住民の生活など眼
中になく非道が行われたが、中国人の中国国内の戦争も同じに国民や住民の生活などは
眼中になかった。つまり今が良ければいいのであり自分が良ければそれで良かったのだ
。対してドイツや日本は原爆すらも作って居ながら使用しない。わざわざ必死になって
ジェットエンジンやロケットエンジン或いは大口径の砲台砲身を作ってまで威嚇してい
た。意味のない長大主義者とも言える。かつてドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はオースト
リア=ハンガリー帝国のフェルディナント大公に人が気持ち悪くなるぐらいおべっかを
使いゴマすりを行った。それでもドイツ国民は卑下しなかった。ある意味大正天皇が公
式にも少し知恵遅れとされても担いでいた国民性と全く同じであった。中国では起こり
得ない現象だろう。日本では航空基地の建設に力を発揮したブルドーザーなど建設機械
も又戦前から小松あたりで開発していた。しかし鉄の入荷と不況で人件費が下がってる
から機械より人手のほうが安上がりで「失業者対策で人手を使いたい」ということで発
達していない。ところが米国ではキャタピラ社などは傑作を作っていた。こうして操作
仕組みが何通りも出来て 戦後の建設機械は操作統一とはなれなかった為事故が多発し
たが、それは戦後の事だった。他にも日本で多くの発明発見があっても進展しない物は
多いし、逆に何故日本では発展するのかと言われる事象も多い。オートメイションや分
業化態勢或いはトヨタなどの系列化も日本独自に発展した。当初仕事の無いドイツに産
まれたが、ソ連に伝わりソ連侵攻のドイツに対して、ソ連は奥地に新たな工場を作って
対抗した。それが分業と規格化したオートメイションだった。短期間に集めて組み立て
る為の方策だった。これはアメリカのフォード社などにも取り入れられた。T号戦車は
ドイツが第一次世界大戦後、初めて量産した戦車である。訓練および生産技術の習得の
ための軽量・簡易な軽戦車として開発された。本来、訓練と戦車生産技術の習得を目的
としたものだったが、その目的のためでさえ小型軽量に過ぎ、時をおかずU号戦車の開
発が行われることとなった。日本でも戦車の必要性から陸軍大臣は、昭和元年(1925年)
に軍事視察と戦車購入のため欧米に緒方購買団を派遣した。しかしイギリスのヴィッカ
ーズ社、フランスとも交渉するも購入交渉は失敗した。アメリカのクリスティーとも接
触したが、戦車実績に乏しかったため購入を見送った。と言われる

1132: 名無しさんAA:18/07/31 19:04
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  177 > 

 結果的に大日本帝国は自国産の戦車開発に踏み切ることになった。そして量産化にこ
ぎつけたのが国民的作家司馬氏に「戦車・この憂鬱な乗り物」というエッセイでボロク
ソにけなされた評判の悪いチハ車・97式中戦車であった。攻撃力は大根を敵に投げる
程度。炭団が飛んでいくように砲弾が目で追えたと言う世界最弱の戦車だった。だが、
西暦1927年昭和2年の 試製1号戦車は極めて優れていた。陸軍にとって全く前例が無
く、また時間との戦いの中作られた本車は非常に優秀だった。ただ問題があったのは陸
軍の要求では12トンだったが、設計段階で16トンを予定し、車体重量が各部の補強
などのため結果的に18トンになってしまっていた。その為、最高速度が20km/h(陸軍
の要求は25km/h)になってしまったことであった。当時、ソ連を仮想敵国とし、広大な
中国での戦車の運用を考えていた陸軍にとって、これは大問題と考えられた。しかし本
当の問題はもっと大事な燃料消費だった。その後八九式中戦車が作られ1929年10月には
東京〜青森間660kmの長距離運行試験に成功し、八九式軽戦車として仮制式化(仮制
定)がされた。初期試作車は、予定通り重量が 9.8 tにおさまったため軽戦車に分類さ
れたが、部隊の運用経験から度々改修が施され又もや11.8 tに増えてしまうのである。
試製1号戦車は1927年(昭和2年)に開発され、唯一の欠点は重量が当初予定していた
値より2t重い18tとなり、最高速度が20km/hに低下したことだった。この初めての国産
戦車である試製1号戦車を改良し更なる試製車が作られた。しかし敵に対し優位に立つ
ために重戦車も必要と考えた陸軍が、1928年(昭和3年)に開発を決定した91式戦車
も1車両で92式に変わった。「重装甲車」と名付けられた92式は、編成上騎兵装甲
自動車隊用として発足した制定の際に歩兵科管轄の戦車呼称にしないよう注文を受けた
。騎兵部隊の戦車らしく、本車は何よりもスピードを第一に開発された。最高速度は3
年前に正式化された八九式中戦車の最高速度25km/hを大きく上回る40km/hを出した
。軽量化のため、リベット接合から異例の溶接構造を採用した。最大装甲厚は6mmを採
用し、重量は3.0tとなっていた。熱河作戦で、日本初の自動車化歩兵部隊として投入さ
れ中国砲兵第101団第1営を、実に140kmにわたって追撃し、日本側の負傷2名(百武
大尉と兵1名)と引き換えに敵に対し戦死者五百名、負傷千名の日本側の記録を残した
。世界では第二次世界大戦まで戦車は重戦車、中戦車、軽戦車、豆戦車、駆逐戦車など
多様を生産し。戦後、戦車に求められるあらゆる任務をこなせるように走攻守をバラン
ス良く備えた主力戦車が登場し統合が進んでいった。

1133: 名無しさんAA:18/07/31 19:04
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  178 > 

 ロシアの強力な陸軍と渡り合うためには日本陸軍も戦車を必要としており、1920年代
半ばから純国産戦車を開発し始め、1929年に八九式中戦車の生産(三菱重工)を開始し
ました。なお、中戦車という区分はこの八九式中戦車からの採用で、それまでは10トン
未満の軽戦車と20トン以下の重戦車の区分しかありませんでした。また八九式という型
式は西暦1929年が神武歴2589年に当たるためです。この日本軍の純国産量産中戦車は数
両が満州事変に投入され、戦車や対戦車兵器を持たない蒋介石軍に対しては威力を発揮
し軍内部では無駄に高く評された。高評価ではあったものの八九式は対歩兵戦のとって
着けた形ばかりが戦車であって、ソ連の戦車戦にはかなわないとされ、新たに九七式中
戦車(チハ車)を対ソビエト戦の緊張が高まる中で戦車戦を想定した戦車が求められた
。そうして開発を急がれたが、やはり歩兵支援で相変わらず歩兵直協目的の戦車となっ
た。歩兵支援が目的ならば敵の歩兵支援に戦車がある、つまり本来なら対戦車戦を想定
しての開発になるはずがそれが出来なかった。大陸に船で運ぶ為に重量や容積制限が見
込まれたからだ。最初の八九式中戦車はダイムラー社製の水冷式ガソリンエンジン(飛
行機用)を戦車用に改造したもので排気量は9500tで6気筒120馬力だった。しかし1930
年代後半には三菱重工製の排気量14300t、6気筒120馬力の空冷式ディーゼルエンジン
に換装された。一方、1937年に登場した九七式中戦車(チハ車)は最初から三菱重工が
製造した排気量21720t、12気筒170馬力と八九式中戦車よりはパワーのある空冷式ディ
ーゼルエンジンを搭載していた。当時、他国の戦車がガソリンエンジンを搭載する中で
、ディーゼルエンジン、しかも空冷式というのは画期的であった。空冷式ディーゼルエ
ンジンの開発理由は満蒙(満州モンゴル地域)の草原では水を調達することが難しいと
いう想定と、当時のガソリンエンジン搭載の戦車が事故や意図的な火炎攻撃で炎上しや
すかったことを考慮していたからだ。八九式中戦車の車体重量は11.9トンで全備重量が
12.7トンであったのに対し、この九七式中戦車(チハ車)の車体重量は14.3トンで全体
をリベット止めだった。全備重量は15トンで約2トンも重くなっていた。速度は八九式
中戦車が最大速度25キロだったのに対して九七式中戦車は最大速度38キロとされ、
満州での試験運転時には平坦路面を40キロで走行したとされる。フィリピンでは45度
を超える傾斜の海岸から上陸出来ず、登坂に成功していた鹵獲品のアメリカM3軽戦車
の助けを受け(重量13トン、262馬力)にけん引されて上陸するということさえあった。
如何に軽く仕上げ弱い力だったかが伺い知れる。


1134: 名無しさんAA:18/07/31 19:05
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  179 > 
航空も九七式飛行艇の後続機の一三試大型飛行艇は、当時の世界的レベルにあった英の
ショート”サンラーダンド”及び米のコンソリデーテッドPB2Yよりも遥かに優れた性能
をもって、戦後米国において徹底的な調査を受け、その後、世界の優終機として長い間
博物館に展示されていた。本機を輸送機に改造したものを「晴嵐」と称し、乗客62名
を収容できた。こうして川西製作所は名を轟かせ戦後に強い査察が入った。生産機数百
三十一機で二式飛行艇、通称二式大艇の名で親しまれ、大戦の全期間を通して活躍した
。しかし、中期以降では先のレーダの発達などにより行動範囲もせばめられ、また身を
隠すのが困難な大型機というハンディキャップもあり多くが簡単に失われていった。そ
の為戦時使用の疑問が生じた。しかし、二式大艇の残した幾多の記録は戦後も永く破ら
れることは無く、レシプロ式大型飛行艇では事実上世界で最後の最優秀飛行艇として、
その名を残した。海軍が、このような大型飛行艇を発展させた背景には、軍縮条約によ
る洋上兵力の劣勢にある。侵攻してくるであろう米主力艦隊を、本土より出来るだけ遠
方で補足し、これを攻撃し洋上兵力の劣勢を補おうというもので、大型陸上攻撃機など
の整備が、昭和6年ごろからその計画が進められていた。戦前には中部太平洋上に、委
任統治地の島々が散在するが、これらは国際法上軍事目的の使用は禁じられており、し
たがって飛行場の構築は出来ず、陸上攻撃機は使えないことになっていた。そこで浮上
してきたのが、洋上より自由に離発着できる攻撃型大型飛行艇であった。昭和13年に、
海軍は九七試飛行艇に代わる4発高性能飛行艇の試作を川西に対し一三試大型飛行艇と
して指示し、その要求性能は、最大速240kt(440km/h)以上、航続距離4,500nm(3,800km)
という過酷なもので、飛行艇としては前代未聞だった。更に爆弾2トン又は魚雷2本を
搭載可能が加えられていた。あとで本機に施された強力な防弾設備などを考えると、同
じころ中島に出された一三試大型陸上攻撃機「深山」の要求性能が同一なことから、従
来型の飛行艇でなく攻撃型飛行艇の実用化を意図していたことがうかがえる。川西は同
年8月、菊原静男技師を主務者とし技術陣の総力をあげ、この難題に向かい設計を開始
した。大航続性能と高速性能という矛盾点を調和させる基礎研究の結果、当時の飛行艇
としては画期的な高翼面加重を採り、従来のパラソル式の主翼を廃し、片持式肩翼の近
代的な形式を採用して有害抵抗を減少させ、また空中性能を向上させるため、艇体を当
時の標準よりも小さくした。このことは、飛行性能を向上させるが反面、水上での性能
に多くの難点を生ずる恐れがあったが、その対策として川西が独自に研究を進めていた
親子フラップ(ファウラー・フラップとスプリット・フラップを組合わせたもの)を採
用し、離着水性能の向上をはかった。

1135: 名無しさんAA:18/07/31 19:06
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  180 > 

 その他にも、主翼桁材に超々ジュラルミンの使用、開発中のわが国最大出力「火星」
発動機の採用、攻撃防御装備の面では、当時世界で試みられていた斬新な手法を取り入
れた。強力な兵装に加えて防御面では、ゴムを用いた完全防弾タンクに加え、乗員保護
の装甲板、自動消火装置などを装備していたが、特に耐弾防御能力では、従来の日本機
には見られない徹底したものであった。このことは、当然のように重量増加をまねき、
計画時28トンであったのが完成時では、32.5トンになり、水上特性に悪影響を与える結
果を招いた。試作第一号機は15年12月末に完成した。試験飛行の結果、全備状態におけ
る離着水滑走時の際、機首からの飛沫が激しく、滑水時艇体に障害をおこす恐れが指摘
されたが、この対策として艇底面につぎ足しをして艇体を 0.5m増し、さらにその前に
、独特の波抑えの細い段、いわゆるかつお節をとりつけるなどの改修を行い解決した。
一般性能、特に速度と上昇力は九七式飛行艇よりも隔段の向上を示したため艇体などの
改造を行った後、二式飛行艇11型(H8K1)として昭和17年2月、制式に採用された。実用
化された本機において、水上滑走時の縦安定性の悪さが問題とされ、また戦後米軍での
テストでも指摘されているが、これは未熟な操縦士によるもので、熟練操縦士の指導で
解決されている。また操縦性の問題もあったが、4発の大型機に、単発の水上機なみの
運動性能を強いて、雷撃を可能にしようとしたことによるもので、しょせん無理な相談
であった。しかし、外国の同機種と比べたとき、本機の操縦性は格段と優れたものであ
って、二式飛行艇は、日本における最大で最後の大型飛行艇でとなったが、米国でも高
評価されて研究対象となった。本機の完成によって、飛行艇に関する技術と用兵思想は
絶頂に達し、海軍では遠洋哨戒の任務のみならず、長距離進攻しての爆撃や雷撃という
戦闘行動の遂行にも大いに期待をかけていた。しかし、海戦様式の変化と兵器の発達は
、飛行艇がこのような攻撃用とには全く向かないものとし、大戦半ばにして第一線を退
いて、後方の連絡や輸送、又対潜哨戒など、飛行艇本来の任務に戻った。開発中の一三
試大艇の性能は、当時の海軍に攻撃任務が可能だという観念をいだかせても当然なほど
に、素晴らしかったのである。結果的には、海軍の予期した戦果を挙げることなく終わ
ったが、開戦間もなくの昭和17年、ハワイ夜間爆撃に初陣したのをはじめ、大戦初期
には哨戒機としてのみでなく、遠距離雷、爆撃機としてもかなり使用され、太平洋戦争
における海軍の全作戦地域に活躍した。第二次大戦中における大型飛行艇の最高水準を
行く傑作として世界が注目していた。

1136: 名無しさんAA:18/07/31 19:07
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  181 > 

 このレーダーの運用に陸軍がつかなかった事も日本の敗因であろう。艦船ならば敵に
発見される危険性やデメリットも多いが、位置が既に特定されている地上基地において
メリットは多かったはずだ。積極的にレーダーを否定する理由はちょっとない。しかし
防備を考え出したのは国連脱退からであって、日本の大陸占領軍隊は、もともと治安や
自治を守る軍隊だった。シベリア出兵以来兵站を考えても、他の国の様な、大きな攻撃
機材を空輸して設置し進軍し侵攻する様な事にはなっていない。見張り員の能力を高め
や第一次大戦での航空機の活躍はあったが、それは本国の航空隊の整備の話であって、
現地ではもっぱら、医療や治水や教育と言ったインフラ整備の要因で、西洋映画の様な
例えばノルマンディ上陸作戦の様な、要害の地の突破に物語があるような事はない。例
えば日本はインパール作戦前にイギリス軍のシンガポ−ル陥落を得ているが、それは単
に蒋介石の援助を止める為であってそれ以下でもそれ以上でも無かった。つまりドイツ
撃退とかフランス開放とか明快な民族的意図は皆無だったのである。この戦う意志の無
い戦いはある意味悲劇であった。マレーの虎とされた山下は、第二次世界大戦の1942年
2月7日から2月15日にかけて、イギリスの海峡植民地のシンガポールで 大日本帝国陸軍
と連合国軍の間で行われた戦闘は、当時難攻不落と謳われたシンガポール要塞を、2倍
を超える兵力差を覆して、日本軍がたった10日足らずで攻略したのである。結果、イ
ギリスが率いる軍としては歴史上最大規模の将兵が降参した。当時のイギリス首相で、
戦争責任者となったチャーチルは自書で「英国軍の歴史上最悪の惨事であり、最大の降
伏」と評している。よく太平洋戦争(大東亜戦争)に、「真珠湾攻撃により太平洋戦争
が始まった」という一部の記事に記述がのるが、それは甘んじて歴史の嘘であり衝撃的
文句を並べたい文章の彩(あや)である。マレー作戦こそは太平洋戦争における最初の
作戦で、世界史的には、本攻撃によって第二次世界大戦はヨーロッパやアフリカのみな
らずアジア太平洋を含む地球規模の戦争へと拡大したのだ。此処を間違えるとこの戦争
の意義を大きく失う。つまり南京城を落しても尚中国攪乱戦術を毛沢東も蒋介石も止め
ずに、アメリカもイギリスもソ連もドイツも、より多くの戦争物資と兵士要員を送って
拡大化させていたのだ。これに困って宣戦布告に陥ったのである。その原因は石原莞爾
の西洋社会の無知に起因し、世界最終戦争と目した国柱会などの無謀さであり、決して
米内光政と山本五十六が愚将だったせいでは無かったと言う事実である。もっと言えば
天皇の権威を軍部は利用したが、天皇の権威は軍部が強くなる程に小さくなり内部矛盾
が生じていたのである。

1137: 名無しさんAA:18/07/31 19:19
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  182 > 
 1941年12月8日にマレー半島北端に奇襲上陸した日本軍は、イギリス軍と戦闘を交え
ながらたった55日間で1,100キロを進撃し、1942年1月31日に半島南端のジョホール・
バル市に突入した。これは世界の戦史上まれに見る快進撃であった。作戦は大本営の思
う期待を上回る大成功を収め、日本軍の南方作戦は順調なスタートを切った。これが、
ある意味日本の災難でもあった。開戦前における日本軍の戦略目標は、石油や天然ガス
、ゴムなどの豊富な天然資源を持つオランダ領東インド(現インドネシア)の資源地帯
の占領であった。しかし手前に立ちはだかるイギリスの植民地であるマレー半島および
シンガポールを攻略する必要があって言わば前哨戦の類で勝つのは当然だったが日数は
かかると目されていた。当時のシンガポールは、最新鋭戦艦のプリンス・オブ・ウェー
ルズとレパルスを中心にアジア太平洋地域とインド洋一帯を、イギリス東洋艦隊の根拠
地として機能していた。このイギリスの東南アジアにおける植民地支配の中心拠点では
、かなりの武装した都市だった。ヨーロッパやアフリカ戦線においてイギリスの抵抗に
手を焼くドイツにとっても、イギリスの資源補給線であるインド洋を抑える意味からも
日本軍による攻略を、ドイツは切望するところだった。この為に陸軍も日独伊の三国同
盟を求めていた。つまり世界の国の動向すらも陸軍の大陸運営に於いて同盟を望んだの
である。ある意味イギリスも米国も望んだ三国同盟であったが、日本は決して軍事同盟
を結んだつもりは毛頭なかった。しかしながら米国は既に10年も前からこの資源遮断
作戦を練り、長年イギリスの植民地支配下に置かれていたシンガポールに上陸し、日英
同盟の破棄が起こる事を英国に伝えていた。その為同盟破棄以降は、イギリス軍によっ
て防御設備の強化が進められて、「東洋のジブラルタル」とも称されるほど難攻不落の
地と見られていた。海に面した南側には戦艦の主砲並みの15インチ砲が(38センチ)
を各所に並べ、それ以下の重砲群やとトーチカ群が構築されて、鉄壁の守りを見せてい
たし、その他河川などは巧妙に毒薬を流していた。さらにジャングルの影には多くの戦
闘機や爆撃機群が配備され、難攻不落の要塞と言われていたのは当然のほど東洋一の守
りをしていた。北側のジョホール海峡側および同じく植民地であるマレー半島における
イギリス軍の防備は手薄ではあったが、広大なマレー半島そのものが天然の防壁となる
ものと考えられていて、簡単には落ちない計算された城塞都市であった。ところが、日
本は、欧州戦線の戦車の重戦車化し火砲の強力化などの進化に比べ、日本陸軍の銃火砲
や戦車或いは飛行機など中国建設の異常で、全く進化が遅かった。全く無かったと言っ
てもいいぐらい古かったが、それでも大本営は、精一杯南方作戦の中でマレーを最重要
視して精鋭部隊や機械化部隊をこれに当てた。

1138: 名無しさんAA:18/07/31 19:20
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  183 > 

第5師団(広島)は建軍以来精鋭師団であり、1941年初頭に馬匹編成から自動車編成に
改編された虎の子の機械化師団である。又近衛師団(東京)は宮城警護を任務としてお
り日露戦争以来一部の部隊を除き実戦経験がなかったが数少ない機械化師団の1つであ
り本作戦にいれた。第18師団(久留米)は馬匹編成で機動力は劣っていたが、精鋭師
団の一つで橋梁を破壊の遅滞に対する橋梁修理のための独立工兵連隊を持っていた為、
これを増強させた。つまり日本一流の軍隊を投入したのだった。大本営はマレー上陸と
アメリカの属領であるハワイに対する真珠湾攻撃との関係に考慮を要した。陸軍はマレ
ー上陸が長途の海上移動の危険を伴うことから奇襲を絶対条件とし、海軍も真珠湾での
奇襲に期待をかけていた。しかし、一方が先行すれば他方の奇襲が成り立たなくなる。
マレーとハワイとでは18時間の時差があるため、双方を両立させるのがマレーの深夜、
ハワイの早朝、という作戦開始のタイミングであった。このコタバル上陸作戦自体は、
駐米日本大使館の失態による遅延により結果的に開戦後の宣戦布告となってしまった。
対米宣戦布告予定時間より前に開始されており、開戦前に宣戦布告を行う予定であった
対米開戦とは異なり、日本軍が宣戦布告無しで対英開戦することは予定通りであった。
この時の日本軍の開戦日の暗号は「ヒノデハヤマガタ(ヒノデハヤマガタトス)」であ
る。「日の出は山形とす」は陸軍の切望だったののだろう。飛行機による戦略は日本は
そんなに認識が高くはなかった。貴重な油の浪費と考えていたのである。航空機による
偵察を積極的に評価し実用潜水艦にまで偵察機を積んだ日本海軍の形態は、山本五十六
や米内光政などの強い要請からであり、他者は、レーダーの有効性を頭ごなしに否定し
た日本海軍が一般的体質であり一致してはいなかった。もっと言えば陸軍などは国際化
よりは中国大陸の建設か制圧か和平撤退か実権行使かで全くその場その場で変わってい
たのである。しかしこの時マレー沖海戦はまともな海戦で思わぬ大勝を得た。イギリス
海軍の最新艦であったプリンス・オブ・ウェールズとレパルスは、セレター軍港に到着
したばかりで、両戦艦に直掩機をつける余裕がなかったため、両戦艦は10日に、マレ
ー半島東方沖で九六式陸上攻撃機と一式陸上攻撃機による雷撃と爆撃を受け、撃沈され
たのだった。これによりイギリスの東洋艦隊主力が壊滅してしまった。イギリス海軍は
航空機による戦艦に対する攻撃能力を甘く見ただけでなく、これによりマレー半島東岸
の制海権が日本軍の手に帰したのみならず、後のインド洋におけるイギリス海軍の敗北
の序章となってしまう結果を産んだ。英国インド本部の怠慢だった。

1139: 名無しさんAA:18/07/31 19:31
 初期のレーダーは発電機や電波発信機などは大型で艦船向きではなかった。又太平洋
の島々に航空機を配置して来寇する米艦隊に斬減作戦をする戦略にもレーダーは合致し
たが採用していない。軍部は敵航空隊が手ぐすね引いて島々の基地に飛来しても高射砲
による攻撃のみしか考えなった。世界初の急降下爆撃機を開発した米国が主力艦隊のに
随伴する空母から航空隊を出撃させ島々の基地を無力化しに来るのは、戦争中盤からで
あったからだ。つまり先に航空攻撃されない様にレーダーで見張る意味合いは有効であ
ってもどの国もレーダーを否定し使わなかったのだ。その流れに添って日本も予算を付
けて開発などしなかったのだ。そうした事で軽装備の日本軍はこのマレー作戦で快進撃
をした。英国は重装備のレーダーを積んで来ると思っていた。マレー沖海戦では、日本
の諜報部は空母インドミタブルが飛行機を送って帰還する中11月13日にジャマイカ島の
近海で座礁事故を起こし、合流できなかった事を知っていた。その情報はレーダーによ
るものと思い込んでいたからだ。航空機に関しては、イギリス軍参謀本部は「日本軍機
とパイロットの能力はイタリア空軍と同程度」と見ていた。従って戦力は「イギリス軍
の6割」と想定し、マレー防衛計画に336機の配備を、議会決定していたが、実際に
は半数程度しか配備されていなかった。これはチャーチルがソ連に大量の航空機を供給
し、ソ連経由で中国に送っていていたからである。かわりに小型空母ハーミーズの合流
決定を命じて海軍の火砲を頼った。しかしこのハーミーズはダーバンで修理中だった。
フィリップス提督は自軍の戦力に不安を感じ、リヴェンジ級戦艦リヴェンジ、ロイヤル
・サブリン、クイーン・エリザベス級戦艦ウォースパイトを12月20日頃までに派遣する
よう希望して速報の電報を打っている。日本軍は、こうしたイギリス東洋艦隊の実情を
水上偵察機と潜水艦で把握して、対策をとっていた。12月7日、シンガポールの北東
約三百kmにあたるアナンバス諸島とマレー半島東岸のチオマン島の間に、特設敷設艦辰
宮丸が機雷を敷設した。さらに第四潜水戦隊・第五潜水戦隊の潜水艦複数隻(伊53、伊
54、伊55、伊56、伊57、伊58、伊62、伊64、伊66、伊65)の10隻が三線の散開線を構
成して哨戒していた。潜水戦隊の軽巡洋艦(鬼怒、由良)は輸送船団護衛部隊と共に、
行動して潜水母艦はカムラン湾に待機させていたのだ。 連合艦隊参謀長宇垣纏少将は、
「ウェールズをやっつけたら、次にジョージ5世でも6世でも良い。」と陣中日誌に記録
している。実際に日本軍は松永貞市少将の第二十二航空戦隊(美幌航空隊 元山航空隊
:九六式陸上攻撃機27、元山航空隊 サイゴン基地:九六陸攻27)を南方に進出待機さ
せ、新たに鹿屋航空隊の一式陸上攻撃機54機を配備してイギリス東洋艦隊を待ちうけ
ていた。此処でも本来のイギリス空母艦隊は現れなかった。ハワイ奇襲の南雲中将と違
って全くの正攻法の体制だったのだが。

1140: 名無しさんAA:18/07/31 20:51
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  185 > 

 シンガポールのイギリス軍はタイ経由の日本軍侵攻を警戒しており、対日開戦直後に
タイ領南部へと侵略を行い、タイ警察の抵抗を排除して防衛線を築いていた。しかし、
進撃してきた佐伯挺進隊により、短時間で突破されてしまった。これはイギリス軍が、
タイとイギリス領マレーの国境近くのジットラには、ジットラ・ライン(ジットラ陣地
)と呼ばれる強硬な防御陣地を構築していた。狭隘な地形を利用しており、英印軍第6
、第15旅団からなる兵力 6,000、装甲車90両が展開し、その強固さから「小マジノ
線」とも称され、イギリス軍はこの要塞で日本軍を3ヶ月は足止めできると豪語してい
た。だが、本来ジットラは湿地帯であり構築段階での工事は難航、工事を請け負ってい
たタイ政府も匙を投げかけていた土地だった。そこに目をつけた日本軍は、「マレーの
ハリマオ」として現地で名をはせていた盗賊・谷豊と彼を引き入れた諜報員・神本利男
をジットラ・ラインに潜入させ調査させていた。まず谷が仲間とともに陣地の測量を行
い、神本がそのデータをタイ王国公使館附武官の田村浩大佐を通じ本国へと送った。第
5師団はこのデータを基にして、半年にわたって演習を重ねた。続いて一党は二人一組
に分かれて労働者の中に紛れ込み、資材の投棄や建設機器の破壊などの実力行使に入っ
た。この結果、ジットラ・ラインの工事は大幅に遅れた。こうして進化の遅れた戦車は
12月10日、佐伯挺進隊は九七式軽装甲車を先頭にタイ・イギリス領マレー国境をやすや
すと通過した。さらに11日にアースンの国境陣地を突破したため、九七式中戦車10両
・九五式軽戦車2両を装備する戦車第1連隊第3中隊等が佐伯中佐の指揮下に入り特別
挺進隊を編成、ジットラ・ライン突破に当たった。12日未明予期せず砲撃を受け、特別
挺進隊は東側の敵陣地に戦車で夜襲をかけ一角を占領、夜が明けるとその場所こそが、
ジットラ・ラインであった。12日昼間は猛烈な砲撃を受けるが午後には歩兵部隊も到着
。その夜の夜襲を決意し準備を進めていたところ、午後5時に英印軍はジットラ・ライ
ンから全面退却した。ジットラ・ラインをわずか1日で、しかもたったの581名の、
佐伯挺進隊が突破するとは大本営ですら驚愕した勝利であった。佐伯挺進隊の戦死者は
27名、戦傷83。英印軍の捕虜は1,000名以上。この勝利によって山下中将は 作戦の
スケジュールを繰り上げて空前の速さで侵攻した。実はこの湿地帯にイギリスやドイツ
の重い戦車を想定しての作戦は、木造と薄い鉄板小さな車体の日本軍には全くヤシの木
の柵も沼地の走行も意味をなさずやって来ていたので、英兵はどうする事も出来なかっ
た。つまりサイズ違いで軽く仕上がった戦車は湿地を走り木々の間を小回りの利く戦車
に負けたのである。

1141: 名無しさんAA:18/07/31 20:52
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  186 > 

 12月6日本軍輸送船団はオーストラリア空軍偵察機に発見され、同機は戦艦1隻を
含む大部隊が南方に向かっていることを報告されていた。しかしイギリス軍は日本軍船
団がタイ国へ上陸するのか、マレー半島へと上陸するのか、判断できなかった。 12月7
日午前9時50分、宣戦布告前にも拘らず、日本軍零式水上偵察機と陸軍戦闘機隊がPBY
カタリナ飛行艇を撃墜した。午前10時30分、小沢中将の艦隊はG点に到達して、日本軍
輸送船団は予定に従って分散した。行く先は、プラチャップ方面に輸送船1隻、バンド
ン方面に香椎と輸送船3隻、ナコン方面に占守と輸送船3隻、シンゴラとパタニ方面に
第二十駆逐隊(朝霧、夕霧、天霧)・第十二駆逐隊(叢雲、東雲、白雲)・掃海艇3隻
・輸送船17隻(第二十五軍先遣兵団)、コタバル方面に軽巡洋艦川内(第三水雷戦隊
旗艦)、第十九駆逐隊(綾波、磯波、浦波、敷波)・掃海艇3隻、輸送船3隻である。
12月8日午前1時30分、日本軍はコタバル上陸を開始、イギリス軍も応戦し真珠湾攻撃よ
り2時間前に交戦がはじまった。イギリス軍機は輸送船淡路山丸を航行不能とし、綾戸
山丸、佐倉丸大破という戦果をあげ、護衛部隊司令官橋本信太郎第三水雷戦隊司令官に
一時退避を決断させた。しかし各方面の日本陸軍上陸作戦は成功していた。第一航空部
隊の松永少将はイギリス東洋艦隊が出現しない可能性が高まったため、配下部隊にシン
ガポールの四箇所の飛行場爆撃を命じた。元山航空隊は悪天候のため引き返したものの
、美幌航空隊32機が12月8日午前5時38分からシンガポールを爆撃、損害なくツドモー
基地に帰投した。イギリス軍側は日本軍の兵器は時代遅れで、さらに日本人には身体的
欠陥により夜間飛行はできないと錯覚していた。その為に日本軍の空襲に全く対応でき
なかった。この時、山田隊の偵察機がシンガポールを偵察し、『1120、湾内に戦艦2(
プリンス・オブ・ウェールズとレパルス)、巡洋艦4、駆逐艦4』を報告した。この他
にシンガポールには軽巡洋艦や駆逐艦が存在した。しかし修理中や低速などの理由でZ
部隊には加わらなかった。この時、アメリカの太平洋艦隊の真珠湾での損害は明らかに
なっていて増援は望めなかった。トーマス・フィリップス提督はシンガポールの極東軍
総司令部で航空掩護を求めたが結論は出ず、提督はプリンス・オブ・ウェールズに戻る
と作戦計画を練った。東洋艦隊司令部は、日本軍輸送船団を撃滅し日本軍の機先を制し
、日本軍が態勢を立て直す間に英軍は増援を待つという方針を立てた。しかしイギリス
空軍司令部はコタバル飛行場から既に撤退し、フィリップス提督に哨戒と艦隊上空警戒
を約束できなかった。抜錨して間も無く、イギリス空軍司令官は『遺憾なるも、戦闘機
による護衛不可能』と連絡が入った。

1142: 名無しさんAA:18/07/31 20:53
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  187 > 

 しかし、それでもイギリス東洋艦隊は夜にシンガポールに出撃に出した。事前に、イ
ギリス東洋艦隊の存在があまりにも宣伝され、また極東イギリス連邦国民に「危機にな
れば東洋艦隊が出撃する。」と長年約束していたため、面子の関係から出撃しないわけ
にはいかなかったのである。マレー半島とアナンバス諸島の間に日本軍が機雷を敷設し
ていたためZ部隊はマレー半島沿いに北上出来ず、同諸島東方を迂回して日本軍輸送船
団に向けて進撃した。英国東洋艦隊には楽観的な気運が漂っていて、レパルス乗艦中の
CBS記者は士官が日本艦隊出現に「彼らは日本人だ、心配することなんか何もない」
と呑気に笑っていた」と記録して「(日本軍の)艦船は飛行機よりマシだが、日本人は
近眼で射撃できない」「日中戦争に5年もかけてまだ勝てない」等の情勢を楽観視して
いた。イギリス軍は前述のように日本軍航空機の性能および日本人の能力を過小評価し
ていた。空襲による危険は小さく主力艦が致命的な被害を受けることもないだろう。と
判断していた。そのときまでにこうした作戦行動中に空襲で沈められた戦艦はいなかっ
たからだ。もっとも、かつてプリンス・オブ・ウェールズと交戦したビスマルク級戦艦
1番艦ビスマルクが、雷撃機フェアリーソードフィッシュの魚雷攻撃によって、舵とス
クリューを破壊され、間接的に撃沈に追い込まれた事例は存在はしたがそれでも飛行機
で沈められた例は稀であった。まクレタ島の戦いでクイーン・エリザベス級戦艦2番艦
「ウォースパイト」がドイツ空軍の空襲により大破した事もあるにはあったのだが。一
方、日本海軍の戦力として、この方面には高雄型重巡洋艦2番艦愛宕を旗艦とする南方
部隊本隊(指揮官近藤信竹中将/第二艦隊司令長官、参謀長白石萬隆少将)がいたのだ
。南方部隊本隊の戦力は第四戦隊(愛宕)第三戦隊第2小隊(金剛)、第4駆逐隊(嵐
、野分)、(萩風、舞風)、第6駆逐隊(響、暁)、第8駆逐隊(大潮、朝潮)(満潮
、荒潮)という、蒼々たる過去の老齢艦長の大佐級の編成だった。特に愛宕麾下の金剛
型戦艦2隻(金剛、榛名)は近代化改装を受けてはいたが、両艦とも艦齢30年にもな
る老艦であり、また元来巡洋戦艦だったため、兵装・装甲の厚さも最新鋭戦艦プリンス
・オブ・ウェールズよりかなり劣っていた。このため、プリンス・オブ・ウェールズに
砲撃戦を挑むことは無謀な艦と言えた。また戦闘が始まったときは日本の戦艦部隊は北
に離れており、海戦には間に合わず、戦艦同士の砲戦は起こらなかった。しかし調査で
は、両軍艦隊は一時プリンス・オブ・ウェールズの主砲射程圏まで接近していたことが
明らかになっている。

1143: 名無しさんAA:18/08/01 00:49
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  188 > 

この時、フィリップス提督は駆逐艦テネドスが燃料不足気味だったため、艦隊から分離
単艦でシンガポールに引き返させた。その際、テネドス艦長に対し無線封止を解除し、
アナンバス諸島東方に連合国軍巡洋艦・駆逐艦を集結させるよう求めた。その後もZ部
隊はシンゴラ沖の日本軍上陸船団を目指したが、前方5マイルに青い閃光を確認する。
これは武田機が投下した吊光投弾であり、シンガポールのパリサー参謀長から受信した
「本日午後の航空偵察によれば、コタバル付近の海面に戦艦1、最上型巡洋艦1、駆逐艦
11及び輸送船多数集結中なり」との報告を検討した結果、針路をシンゴラから、南東の
コタバルに変更した。小沢艦隊の距離は接近しており、豊田穣は「プリンス・オブ・ウ
ェールズのレーダー(25マイル)が鳥海を捉えなかったのは不思議だ」と指摘している
。実はフィリップス提督は「わが目標はシンゴラ沖にして、日本軍上陸部隊支援部隊中
主力艦は金剛ただ一隻なるものの如し。他に愛宕級3、加古級1、神通級2 の各型巡洋艦
と駆逐艦多数あり。」と的確に取られている。当時のイギリス船はポンポン砲と言う、
極めて威力はあるが発射がのろく玉が詰まるもので飛行機を相手に戦っていた。つまり
不良在庫を抱えたヴィッカース40mm機関砲弾の在庫処分対策として開発された8連射の
銃砲は極めて信頼性に乏しかったのだ。対して巨砲である主砲は老齢艦の日本の旗艦に
は有効だった。つまり主艦同士であれば勝算はあるが空母や飛行機には弱かったのだ。
こうして双方共に主艦探しにレーダー対飛行機で探索合戦を続けていたのである。この
時作戦中止とシンガポール基地に戻り戦力再編を行うことを伝達して帰還しようとした
頃だった。日本にとってマレー沖海戦は、太平洋戦争(大東亜戦争・第二次世界大戦)
初期、真珠湾攻撃に続いてマレー半島沖で決行された航空作戦であった。シンガポール
防衛のため出撃したイギリス海軍東洋艦隊に、大日本帝国海軍の航空機群が突如として
襲いかかりこのマレー沖海戦によって、それまでの世界の常識であった大艦巨砲主義が
終わりを告げた瞬間だった。当時は大艦巨砲主義、いわゆる大きな艦ほど強いとされる
思想が中心であって、作戦行動中の戦艦が航空機によって沈められることはほぼない。
と考えられていた。さらにイギリス軍は、日本軍航空機を過小評価しておりゼロ戦など
小さい機関銃攻撃機と思われていた。しかし、イギリス空軍司令部は今やコタバル飛行
場から撤退したこともあり、この時イギリス海軍東洋艦隊には上空支援は一切ない状態
で無防備状態だった。

1144: 名無しさんAA:18/08/01 00:52
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  189 > 

 一方、大日本帝国海軍は、新鋭戦艦を主力とするイギリス東洋艦隊の動きを察知して
いた。しかしこの方面を担当していた艦隊は、主力となる戦艦『金剛』『榛名』が老朽
艦であったことから、艦隊戦は避ける方針で対応が進められた。探索に 12月9日、潜水
艦『伊65』『伊58』がイギリス艦隊を発見し、10日早朝にかけて追跡するも、途中で見
失ってしまう。12月10日 6時25分、索敵と攻撃を兼ね、松永貞市少将が指揮する海軍第
二十二航空戦隊(計85機)がサイゴン、ツドゥム基地から出撃した。11時45分、先導す
る索敵機がイギリス艦隊を発見し、マレー沖海戦が開始された。航空機のみで、あえて
行動中の戦艦を沈めることを狙いとした、常識を打ち破る海戦であった。12月10日12時
45分、対空砲火をかいくぐった「九六式陸上攻撃機」が次々に爆弾を投下し、巡洋戦艦
『レパルス』が被弾した。命中した1発の爆弾は居住区を貫通し下甲板で爆発。『レパ
ルス』の艦内が激しい炎に包まれる。イギリス東洋艦隊司令官トーマス・フィリップス
大将は、日本軍航空機が雷撃できるとさえ思っておらず、空軍に掩護を求める気配もな
い。この時、シンガポールではイギリス空軍の戦闘機がただただ待機し続けていた。と
いう。つまり空軍も自分いる飛行場を守る事で制空権を得て居なく又この船の位置すら
把握出来て居なかったのだ。13時14分、そんなトーマス・フィリップス大将が座乗する
『プリンス・オブ・ウェールズ』に2本の魚雷が命中。隔壁が破壊された『プリンス・
オブ・ウェールズ』はいきなり傾斜し始めた。一方、『レパルス』は、初弾以降は、巧
みな操艦で日本海軍第二十二航空戦隊の攻撃を全て避け切っていた。しかし防戦一方で
あるこの状況を鑑みた『レパルス』のテナント艦長は、独断で無線封止を破り空軍に掩
護を要請した。13時37分、さらに「一式陸上攻撃機」26機がイギリス艦隊上空に到達、
猛攻を開始する。回避し切れなくなった『レパルス』は魚雷を立て続けに受け、14時03
分、ついに沈没。同様に被弾し続けた『プリンス・オブ・ウェールズ』は遂に14時50分
に転覆、艦尾から沈んでいった。この際、トーマス・フィリップス大将は戦死、テナン
ト艦長は駆逐艦『ヴァンパイア』に救助された。マレー沖海戦終了後、日本国内では、
その戦果を発表するニュースと同時に、「英国東洋艦隊潰滅」という軍歌も流された。
真珠湾攻撃に続いて常識を打ち破った戦術に世界が驚愕し、また、このマレー沖海戦に
よって、イギリスに支配され植民地化されていた東南アジア各国では独立の機運が高ま
ることとなった。よくまあポンコツ船でこの海戦に勝ったものだと思うが、それが山下
将軍の運の良さであろう。努力の下に道が開く。と言うものだろうか

1145: 名無しさんAA:18/08/01 00:54
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  190 > 

 マレー半島では、降伏交渉を行う山下中将とパーシヴァル中将が戦っていた。 マレ
ー半島のイギリス軍は軽く抵抗して時間を稼ぎながら、大小250本の河川にかかる橋梁
を逐次爆破し後退した。日本軍は、当時のマスコミが「銀輪部隊」と名づけた自転車部
隊を有効活用し、進撃を続けた。日本軍の歩兵は自転車に乗って完全装備で1日数十キ
ロから100キロ近くを進撃し、浅い川であれば自転車を担いで渡河した。戦前から、
この地域には日本製の自転車が輸出されていたため部品の現地調達も容易であった。こ
の進撃は驚嘆するスピードであった。ドイツのフランスへの進撃でも40km/日である
また快進撃としたチェコでも60km/日である。戦車と歩兵の速さはそのくらいなのだ
。戦わず進軍しても80q/日日本軍のこの110q/日と言うのは如何にスムーズに
事が運んだかが解る。1941年、日本帝国は米英蘭に宣戦布告。日本陸軍中将・山下奉文
率いる第18軍は開戦とともに英領マレーのコタバルに上陸した。日本軍は破竹の勢いで
進撃、上陸からわずか55日間で、95回の戦闘を行い250本の橋梁を修復しつつ、
1100qを進撃してマレー半島を制圧した。そして三か月はもつと言われた東洋最大
の要塞・シンガポールは 2月15日、わずか一週間で陥落、ここに大英帝国のマレー支配
は終焉を迎え、植民地帝国としての英国は崩壊への道を進んだ。日本軍の兵力は戦闘員
約4万。それに対してイギリス・豪連合軍は約8万8千人。英軍は倍以上の兵力を持ち
ながらも日本軍に敗れ、最強を誇った要塞を落とされたのだ。英軍の司令官はアーサー
・パーシバル中将、砂漠の弧豹とされたドイツのロンメル将軍に互角に渡り合い、チャ
ーチルの失敗を背負ったダイナモ撤退作戦を上手く成功させた悲運の将軍とされれた人
だ。彼はこの作戦中に判断ミスを繰り返したこともあり非難を浴びた。そして痩せこけ
たパーシバルが、豪快な風貌の山下将軍に降伏する写真は世界の注目を浴び、日本人は
快哉を叫んだが、白人社会の衝撃は想像を絶する程だった。これにより連合軍の義勇兵
が集まったとさえ言われる。「彼は広い軍事知識、優れた判断力、傑出した能力を持ち
、とても周到な男である。しかし印象的な風貌(存在感)はない。一目見て彼の真の値打
ちを正当に評価した人は居なく、評価しそこねる人は多い」と評された。かなり才能を
期待されて軍人だった。しかし中将に昇進し、栄光ある司令官となってシンガポールに
赴任し待っていたのは、雑多な傭兵団だった。フランスは昔から傭兵の軍隊であった。
雑多な食い扶持つなぎのインド兵やマレー兵、つまり職を求めて入隊した植民地の現地
民族からなる兵士の混成部隊。しかも、西洋の植民地からの解放を謳っているような者
が食繋ぎに入隊していた。

1146: 名無しさんAA:18/08/05 17:06
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  191 > 

更にアーサー・パーシバル中将を悩ましたのは、本国から遠く離れてこの地で勤務する
ある意味左遷された人の、正直喜んでいないイギリス兵士の下で傭兵は働いていた事だ
った。最後の船団で客船「エンプレス・オブ・エイジア」が撃沈されて搭載物資を全損
していた中、新しく着任し気の合わない戦闘経験のない若造司令官ばかりで意見が対立
する中に、食料供給が滞った段階で、本部と各所の砦とは全く反問の中にいた。それは
戦闘経験のない若造司令官のありがちな、高飛車で高慢な躾の無い意見であった。全く
優秀とは言えない装備や旧式飛行機に、空軍司令官は「日本軍にはこの飛行機で間に合
う」などと豪語し、各所の砦の兵士は食糧の保管すら一様な指揮が出来てなかった。対
する日本は、勇猛果敢にとどまることを知らずに前進を繰り返し、自軍は敗走を繰り返
していたのである。先のドイツの軍事顧問団の督戦隊戦法にしろ、この英国や仏国の、
国際部隊や傭兵部隊にしろ、白人優位主義の思想の下に運営されていた。牛をつないで
歩く少年は向かい合って何気なくフランス兵を見て目を合わせただけで百叩きのむち打
ち刑を喰らっていた。その少年のベトナム人が後に老人となって話してる。そうした事
は、ほんの少し前まであった。ベトナムで召使いをしていた少女は突然の兵士に拉致さ
れて犯され主人夫婦は殺された。そうした残虐行為を働いたのは韓国兵士だった。米兵
がベトナムから離れたのは1975年サイゴン陥落からだ。ベトナム戦争の最末期、4
月30日に北ベトナムによって南ベトナムの首都サイゴン(現在のホーチミン市)が接
収された出来事である。これによって、共産主義陣営による南北ベトナム統一が決定的
となったがこの西洋優位思想は、アジア各国に取り入れられていた一般的常識ですらあ
った。日本のみがそれを切り裂いたのである。ちなみに「陥落」は主にアメリカ側で使
われる表現であって、ベトナム共産党はこれを「サイゴン解放」と呼んだ。ホーチミン
の開放作戦は、決して彼が共産党員であるからではない。1975年に米兵は南ベトナムか
ら撤退が決まったが南ベトナム国民はレジスタンスの中でもあったからだ。常に負けな
いベトナム人は、米国が見捨てて支援を断わり、北ベトナムの勝利となった。この時の
ルートも又日本軍を悩ました援蒋ルートであった。北の軍隊はサイゴンに到着したが、
統一会堂に到着すると、北は南の大統領チャン・バン・フォンに対して辞任を要求した
時誰もこの国会を死守する者は居なかった。フォンは北側の要求に応じて大統領を辞任
して、ズオン・バン・ミンに引き継いだ。これによってミンはベトナム共和国の最後の
大統領となったのである。


1147: 名無しさんAA:18/08/05 17:10
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  193 > 

 このポーおじさんの苦しみは、仏領インドシナとされた土地を占領した旧帝国陸軍の
苦しみと全く同じだった。第二次世界大戦で仏領インドシナの傀儡国家バオ・ダイ帝と
の協定は日本軍がこの土地を占領する事ではなく通過し使用する事を認めた協定だった
。その為日本軍は全くベトナム人とは戦わなかった。その事が第一の援蒋ルート叩きに
功を奏していた。ここで発見された連合国の秘密の武器支援は全く国連での決議違反が
多くあった。しかし日本人はアピールする事は下手な上に、多くの海外特派員のこの記
事や情報は全く本国では取り上げられなかった。およそ5回ほど摘発され白人が逮捕さ
れたが、いずれも現地人若しくは欧州系中国人として処理され全く軍人とはされなかっ
たのである。特にそれらの身分が赤十字の社員だったり蒋介石の友人となったので余計
に日本陸軍はそれを公に公表する事をアピールする事をやめていたのである。日本軍と
すれば今だに切れる事の無い連合国からの蒋介石への支援を潰す事が目的だったのであ
る。1938年10月に武漢や三鎮が日本軍の手に落ち、蒋介石の国民政府は長江上流
の重慶に退いた。重慶に対して日本軍は激しい空爆を加えたが、11月から重慶の国民
政府に対するアメリカ・イギリスなどの支援が強化され、その抵抗は今だ続いていた。
この蒋介石の重慶政府支援のルートを当時日本では、援蒋ルートと言って探しては叩い
た。このルートは7つほどあったが、全体としては3つ程に集約された。ベトナムの船
からの道とインドからのビルマ空輸と、黒竜江省からの砂漠の道だ。アメリカ・イギリ
ス・フランスによる仏印ルートとされるハノイ・ルートは、後にホーチミンルートとさ
れ、その支線にラオスルートやカンボジアルートがあった。米国の空爆やポルポト進軍
はそれらの獣道を攻撃したり使ったりしていた。コヒマの白骨街道は、ビルマ雲南ルー
トとされインパール作戦の日本軍の最重要玉砕拠点とした所だ。さらにソ連による共産
ルートは赤色ルートとして毛沢東専用のルートではあったが、独自に新疆方面などから
中国に支援物資を送った物は蒋介石まで届けられていた。欧州でのドイツ戦に専念する
ために、日本軍を中国に釘付けして日本の北進を止める為に中国南方で戦わせたという
。 日本軍は日中戦争が膠着する中、これらの援蒋ルートの遮断を大きな課題だった。

1148: 名無しさんAA:18/08/05 17:10
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  194 > 

 ノモンハン事件というのは、日本陸軍の中で最も隠された戦争である。今から75年前
の1939年5月から9月にかけて、日本と、ソ連、モンゴルの連合軍との間で戦われた戦争
で、多くの文献でも取り上げられてはいる。第一次大戦後に日本は満州を大きく領土化
したが、境界は、縛られる事無く動く放牧民と支配しようとするソ連や日本でしばしば
食い違っていた。この中で日本が実質的に支配していた満洲国とモンゴルとの国境紛争
がソ連の国家回復に伴い、遂に日本とソ連との間の戦争に発展したものと理解できよう
。「事件」という言葉とは大きく異なり、この戦闘は、局地戦でありながら、数多くの
将兵と当時の最新兵器が投入された事実上の、最初の第二次世界大戦前の国家間戦争で
あった。日本軍は、近代的な装備と物量を誇ったソ連軍を前にほぼ壊滅し、日本陸軍に
とっては、思い出したくもない呪縛となって、以後の作戦計画を大きく変えるきっかけ
となる。シベリア出兵から撤退した後も満州は常に危機の中にあった。従って日本陸軍
の多くは北進論者であり、ソ連軍の実力を軽く見ていた。しかし以後「日本の生命線は
南方にあり」と言わんばかりの陸軍と変わった。それほどまでの大敗北だったのである
。大雑把に、ノモンハン事件は、第一次(1939年5月〜6月)と第二次(同 7月〜9月)の二
期に分かれた戦いだった。第一次事件の勝敗は五分五分で第二次事件はボロ負け、特に
、第二次事件では、投入された第23師団(指揮官:小松原道太郎陸軍中将)の7割以上
、補強するため駆けつけた精鋭第7師団から増強部隊の第26連隊(指揮官:須見新一
郎陸軍大佐)の9割が死傷するという凄惨な結末を迎えて終っている。 これら一連の戦
闘での日本軍将兵の死傷者は、少なくみても1万8千名、多い見積もりでは2万3千名
にのぼる。失った戦車は30両、航空機180機と言う日本軍創設以来の大損害を被った と
され、戦闘目的であった満洲とモンゴルとの間の国境線画定すら実現できないという、
得るもののほとんどない戦闘だったというのが定説である。、かなり最近まで、ノモン
ハンにおけるソ連軍は、統制の行き届いた軍隊と、高い技術を用いた最新兵器のため、
戦闘による損害は軽微だったと言われてきました。それは凍り付かない銃器AK47と
重量戦車のカノン砲の威力にあった。当初ソ連はドイツの試作車BT−2を作り改良車
BTー3として量産化しドイツの受注生産品を輸出していた。しかし、それの上を行く
BT−5を自国の主力戦車として登場させている。ドイツはソ連にBT−2を発注して
輸入しながらも自国ではT−28中戦車を作っていたのだ。機動性に勝るドイツ軍のこ
の戦車に翻弄され、緒戦においてそのほとんどの車両が失われてしまったのである。


1149: 名無しさんAA:18/08/05 17:11
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  195 > 

 快速戦車BT−5は改良されBT−7が作られ1930年代におけるソ連の主力戦車
として多くの戦場に姿を表している。ノモンハン事件では日本軍戦車に痛打を与え、そ
の機動力を生かして活躍した。しかしソ連の戦車の開発は目覚ましく重戦車KV4を試
作し、発展させたT−34名物戦車を第二次世界大戦の終わりには作り投入している。
この衝突に対して日本・満洲側が冠しているノモンハンは、モンゴル語では「ノムンハ
ン」といい、「法の王」を意味する。日本や満洲国は「ノモンハン事件」としているが
、ソ連は「ハルハ河の戦闘」と呼び、モンゴル人民共和国及び中国は「ハルハ河戦役」
と称している。ソ連・モンゴル側が冠している「ハルハ河」とは、戦場の中央部を流れ
る河川の名称で、これが一種の境界であった。中ソ紛争で中国が敗れた後はソ連はハバ
ロスクを初め勝手に自分の領地とした。所謂戦勝領地である。日本が満州の権益を持っ
た時ソ連は満州国を承認しなかったが、満州国内の権益を整理して撤退する方針を採っ
た。ソ連とは北清鉄路の南満州鉄道への売却交渉が始まったが難航していた。その間に
ソ連はモンゴルと事実上の軍事同盟を結びソ蒙相互援助議定書を交わして、ソ連軍が、
モンゴル領に常駐するようになったのだ。モンゴル人民革命軍はソ連の援助で整備され
、モンゴル人民革命軍はソ連の援助で整備され、1933年(昭和8年)には騎兵師団4個
と独立機甲連隊1個、1939年初頭には騎兵師団8個と装甲車旅団1個を有するに至った
。こうして日ソ両国の勢力圏が大陸で直接に接することになり、満州事変以後、日本と
ソ連は満州で対峙するようになり、初期には衝突の回数も少なく規模も小さかったが、
次第に大規模化し、張鼓峰事件を経てノモンハン事件で頂点に達した。モンゴル側は、
何故か外蒙古と内蒙古の境界を作った。ハルハ河東方約20キロの低い稜線上の線を国
境として主張し満洲国はハルハ河を境界線として主張した。満洲国、日本側の主張する
国境であるハルハ河からモンゴル・ソ連側主張の国境線までは、草原と砂漠であった。
土地利用は遊牧のみであり、国境管理はほぼ不可能で、付近の遊牧民は自由に国境を越
えていた場所だったが、恐らくその河川の水の占用権を持っていたかったからであろう
と思われる。満州里会議として国境線策定の話し合いは断続的に行ったが埒がなかった
1935年になるとソ連軍の極東兵力増加が進み、ソ連の高圧的態度は一層増した。ソ
連と接した満州東部国境ではしばしば銃撃戦となっていたが、遂に大きな紛争となった


1150: 名無しさんAA:18/08/05 17:12
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  196 > 

 係争地では満州国軍とモンゴル軍がパトロールしており、たまに遭遇し交戦すること
があった。5月11日、12日の交戦は特に大規模なものであったが、モンゴル軍、満州国
軍がともに「敵が侵入してきたので損害を与えて撃退した」と述べているため、真相は
不明である。ソ連側には単純な国境紛争で無い政略的意図があったとも言われる。しか
し張鼓峰事件では、直前のゲンリフ・リュシコフ亡命事件があった為、ソ連側としては
威信を示す必要が生じていた。ノモンハン事件に関しては、日本に局地戦で一撃を加え
て対ソ連積極策を抑える狙いを有していたとの見方があるが、既にソ連側には、日本国
内での報道やリヒャルト・ゾルゲ、尾崎秀実らによる諜報活動などで日本の不拡大方針
が知られていて、全面戦争を恐れることなく大兵力の投入に踏み切れたと考えられる。
というのが正直な話で、モンゴル軍の為に常に満州国をいつか取ろうと狙っていたのが
大事件となった真相であろう。その為に、国境での衝突を受けてのソ連軍の動きは、日
本軍より機敏に行動を開始している。第57特別軍団長フェクレンコが、第11戦車旅団か
ら機関銃狙撃兵大隊(狙撃兵中隊3とT-37戦車8)砲兵第2中隊(自走砲4)装甲車中隊(
BA-6及びFAI装甲車21 )に進出命令を出し、直ぐ様、指揮官には狙撃兵大隊の大隊長で
あるブイコフ上級中尉が任命された。さらに、5月19日にはブイコフ支隊はM-30 122
mm榴弾砲や化学戦車(火炎放射器搭載の戦車)の増援を受け、ハルハ河に向かって来た
。5月23日にはモンゴル軍の第6騎兵団も加わり、総兵力は2,300名(内モンゴル軍1,25
7名)T-37が13輌、装甲車としては強力な砲を装備するBA-6 16輌を含む装甲車39輌、自
走砲4門を含む砲14門、対戦車砲8門、KHT-26化学戦車5輌と戦力的に充実して対陣した
のだった。指揮はウランバートルから来着した第57特別軍団参謀部作戦課長のイヴェン
コフ大佐が執ることとなった。ソ連軍はさらに後詰としてウランバートルからタムスク
に車載狙撃兵第149連隊と、砲兵一個大隊を移動させていた。つまり第一陣第二陣と用意
万端整えていたのである。対して日本軍は追い払ったはずのモンゴル軍がまた係争地に
舞い戻ってきたのを知り、5月21日に、歩兵第64連隊第3大隊と連隊砲中隊の山砲3門、
速射砲中隊の3門をあわせて1058人、前回に引き続いて出動する東捜索隊220人(九二式
重装甲車1輌を持つ)、輜重部隊340など総勢1,701名の日本軍と満州国軍騎兵464人の混
成部隊を出撃させたが、この部隊は山県支隊と呼ばれ連絡はしたが、勝手な単体攻撃だ
った。

1151: 名無しさんAA:18/08/05 17:43
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  197 > 

 ノモンハン事件では、この日の日本軍は、支隊主力東捜索隊など6隊に分かれて前進
したが、無線機の欠陥で互いに連絡が取りにくかった上に、目標物が乏しく地点評定が
できなくなっていた。結構な緩やかでも高い山があったからだ。幅30kmに近い広正面
で各部隊がバラバラに戦うことになってしまった。その中で前進しすぎた東捜索隊が敵
中で孤立することとなった上に、支隊主力との戦闘で後退したソ連・モンゴル軍部隊と
、ハルハ河西岸に集結しつつあった149自動車化狙撃兵連隊と砲兵1個大隊の増援部
隊から挟撃されるという最悪な状況に陥りつつあった。一方、ソ連軍も全く同じ状況で
、部隊や車両に無線機が十分行き渡っていなかった、有線電話や連絡将校による通信に
頼っていたが「交戦が始まった後指揮所と各部隊を結ぶ有線連絡は途絶し、統制は失わ
れ、各部隊は放任され、分隊単位で現場の状況を想像しながら独自に戦った。」とソ連
側が記録している。基本的には大本営は、日ソ間の紛争については不拡大の方針であっ
た。しかし、小松原はまったく意に介すこともなく5月22日の日記には「山県支隊は
出動の直前なり。今さら其の出動を中止すること統率上出来難し。防衛司令官の遣り方
異議ありとて軍が制肘すべきにあらず。」と書くなど開き直っている。これはモンゴル
からの挑発的攻撃が日増しに増えていたからだった。それでも小松原は関東軍の指示に
一旦は躊躇し、3日間部隊を待機させたが、5月25日には部隊に出撃命令を下した。
この出撃は、関東軍の指示を無視した形とはなるが、辻はこの小松原の行動に対しての
「師団長の善良な人柄は、関東軍のこのような電報に対してもなんら悪感情は抱かれな
かったのである。」と逆に小松原を気遣うような表現で理解を示している。逆にこの時
今だソ連の動静や武器を把握していなったその為に、拙い戦闘をした咎で更迭したソ連
軍に対し、日本軍は、敵の戦力を過少評価し敵の撃滅に失敗した小松原も、また小松原
や辻から「東捜索隊を見殺しにした」と散々非難された山県も留任させ、小松原には賞
詞まで送っているなど、人事面では非情なソ連に対し、日本の関東軍の温情ぶりが際立
つ結果となって第一次モノンハン事件は終わった。 1939年8月23日、スターリンはドイ
ツと独ソ不可侵条約を締結し、日独防共協定の締結後だった。日独の軍事同盟を積極的
に推進してきた陸軍はこの報に大きな衝撃を受けており、宇垣一成はその時の陸軍の様
子を「驚天狼狽し憤慨し怨恨するなど、とりどりの形相」と記述している。


1152: 名無しさんAA:18/08/05 17:43
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  198 > 

 かつての大日本帝国の陸軍刑法に擅権の罪というのがあった。第35条に「司令官外
国ニ対シ故ナク戦闘ヲ開始シタルトキハ死刑ニ処ス」があり、第37条は「司令官権外
ノ事ニ於テ已ムコトヲ得サル理由ナクシテ擅ニ軍隊ヲ推進シタルトキハ死刑又ハ無期若
ハ七年以上ノ禁錮ニ処ス」である。そして第38条には「命令ヲ待タス故ナク戦闘ヲ為
シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ七年以上ノ禁錮ニ処ス」としていた。しかし、陸軍中央の
制止を振り切って出先の関東軍が中国への戦争を仕掛けた石原莞爾や板垣征四郎の満州
占領によって、これは有名無実のものとなっていた。これが大きな問題だった。193
9年に、辻政信は大本営陸軍参謀本部から関東軍の高級参謀に転属した。着任し辻政信
は、早速「満ソ国境紛争処理要綱」なるものを作成した。一ヶ月後の4月になって植田
謙吉関東軍司令官は、辻政信の進言に盲従し、関東軍麾下の軍司令官や師団長に、この
この「満ソ国境紛争処理要綱」を示達した。この示達された直後の5月4日に小さな国
境侵犯が起こった。それがこの要綱によって、10日、11日、12日、次々とエスカ
レートしていったのが。ノモンハン戦争の最大の原因だった。この辻政信が作成した「
満ソ国境紛争処理要綱」には国境画定交渉の「満州里会議」を大胆に無視した徹底征伐
をしたためていたのだ。こうした、大本営陸軍参謀本部の方針に100%違反する要綱
を示達した辻政信の進言に盲従し植田謙吉関東軍司令官の方針無視と国際情勢判断は、
陸軍刑法第2章第35条及び第38条の擅権(せんけん)の罪に該当し、この示達はそ
の証拠物であったが、第一次モノンハン事件での彼らへの処罰はなかった。ノモンハン
事件では、太平洋での海軍の戦争と同じに、日ソ両軍ともに偵察活動が不十分で、お互
いに誤った情報による作戦ミスを犯している。ソ連軍は総攻撃の際も同じ轍を踏んでお
り、攻撃に際しての偵察活動もお粗末であった。軍司令部は全く情報を持たなかったし
、各部隊は日本軍に攻撃を悟られないよう偵察活動は禁止されていたので、ソ連軍も又
司令部から前線部隊までまともな情報を持たずに総攻撃を開始したことになったようだ
。率先して事を起こした小松原は山県の指揮に不満を抱き「前進せず、又捜索隊を応援
せず。遂に見殺せしむるに至り。--任務を達成せんとするの気魄なし。」と散々な評価
を書き、山県が帰投するや呼びつけて作戦の細部について問い詰めている。が、ソ連軍
戦力の過少評価により、十分な砲兵等の支援兵力を出さなかった自分の失策についての
反省はなかったのである。

1153: 名無しさんAA:18/08/05 17:44
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  199 > 
 終わった後の戦場を視察した辻は、報告において「外蒙騎兵がこんなに戦車を持って
いようとは誰も思ってはいなかった」、「戦場に遺棄された外蒙兵の死体には食糧も煙
草もないが、手りゅう弾と小銃の弾丸は豊富に持たされていた。」と気がついたことを
記述し、この戦いの反省として「第23師団の左右の団結が薄弱であることと、対戦車
戦闘の未熟さであろう。」としていたが、そもそもの十分な速射砲などの対戦車兵器を
準備もせず仕掛けて行った自分らの反省はなく、第2次ノモンハン事件以降も同じよう
な光景が繰り広げられることとなった。石原莞爾や板垣征四郎の起こした満州地占領は
満州国建国を起こし、建国以降、ノモンハン戦争以前の1932年〜1938年の7年
間、満ソ国境においては国境侵犯事件が多発していた。7年間で759件の多きに達す
るが、その実はモンゴルを抑えたソ連側の殲滅計画の余波であるといえる。満州国軍と
モンゴル人民共和国軍の衝突に端を発したものだったが、両国の後ろ盾となった大日本
帝国陸軍とソビエト労農赤軍が戦闘を展開し、一連の日ソ国境紛争のなかでも最大規模
の軍事衝突となったのだがその少し前に日本がシベリア出兵した時は、中核である日本
軍はバイカル湖西岸までにいたるシベリア鉄道沿線を中心とするロシア極東地域を占領
している。この時日本が支持した白軍は、赤軍ならびにパルチザンの攻勢により瓦解し
、アメリカの圧力により日本政府はシベリアからの撤退した経緯があった。新しいソビ
エト政権は国内行政や経済混乱のため戦争の脅威を避けるべく、直接対決を避ける為の
辺境地帯に対する自治または独立の承認を行いボリシェヴィキ政権の政策を承認した地
域の緩衝政権の樹立を次々と認めていた。ウラジオストクの陥落後、日本は北サハリン
を除く地域から撤退したが、この時の恨みがこの地域にはあった。かつての敵も味方も
裏切られたのである。かつてチタ共和国と呼ばれた極東共和国の住民は日本人を信じな
かった。又この他に中国清の滅亡によって蒙古連合自治政府も日本政府は支援していた
時があった。1938年11月28日、第1次近衛内閣時代、対中国中央機関としての興亜院の
設置を閣議決定し、張家口に興亜院蒙疆連絡部が設置された。後に第68代・69代総理大
臣となった大平正芳が、蒙疆連絡部経済課主任(同年10月、経済課長)として着任して
、1940年10月まで日本の大陸経営の一端を担ってきた。大平の重要な職務のひとつは、
興亜院が主導する阿片政策の遂行であった。結局、蒙疆地区は、アジアの阿片供給源と
して位置づけられていた。日本軍は軍内部に3個旅団からなる「蒙古鎮圧部隊」が作ら
れはこれを察哈爾守備隊として4個師団八千人体制に再編制した。終戦時には、内蒙古
政府は2個歩兵師団と4個騎兵師団、3個中国人独立旅団と1個警備連隊を保有してい
た。

1154: 名無しさんAA:18/08/05 17:51
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  200 > 

 ここに大きな問題があった。実はここに出て来る陸軍参謀・辻政信は全く無知の人間
だったからだ。陸軍が統制派と皇道派で争っていたが、実は全く違う次元で、宗門派と
開国派の戦いに苦慮していた。宗門派は当然仏教なり国家神道なりの通常の日本人だが
開国派はキリスト教に改宗したり洋学に心頭した共産党だったりした者だった。この中
に長州派閥の多くは開国派主義でキリスト教や共生共済主義を上げていた。更に多くの
仏教宗徒の多くは皇道派であり、問題だったのは彼らが明らかに真面目であった事だ。
これらにに対して別格の宮家派がいた。つまり皇道派と言うかねてからの旧陸軍派も、
統制派と言う国際協調主義のドイツ信奉者も居た中で、天皇を担いで止まないご学友の
現存皇道派とも言える者らが居た事だ。この中には徳川慶喜公の縁戚など数々の有力な
名家の伯爵筋の会合だった。その仲間として辻政信がいたのである。昭和7年の五・一
五事件では、磯部浅一・片岡太郎らが逮捕され、佐藤、武藤候補生らも軍法会議にかけ
られることになった。辻が情報密通に利用した陸士生徒5名が退学処分を、青年将校ら
には不起訴、停職処分。辻には重禁錮30日の処分、その後、水戸の歩兵第2連隊付。
となった。村中らのクーデター計画は後の憲兵隊による調査では。村中と磯部は事件が
軍務局長・永田鉄山と辻らによるでっちあげであると主張した。その後辻、片倉、塚本
を誣告罪で告訴し、2人は事件の経緯を書いた「粛軍に関する意見書」を配布し免官処
分を受けた。この陸軍士官学校事件、真崎甚三郎大将の教育総監罷免、相沢事件を経て
統制派と皇道派の対立は頂点に達し二・二六事件の発生につながることになる。この流
れは一体何処から流れてきたのか。実は天皇同胞秩父宮雍仁親王などの威光である。彼
の進路を決めたのは陸軍大学であった卒業席次は3位で首席は天野正一、次席島村矩康
であり、恩賜の軍刀を拝受している。陸大での同期の秩父宮雍仁親王は天皇の次席とし
て大きな力を持っていた。モノンハンでの辻は満州占領軍、つまり関東軍司令部一参謀
に過ぎなかった。肩書の上では中堅の少佐である。が、彼の強気一辺倒の議論は関東軍
を引きずり回し、国境紛争を一気に拡大させた。事件の最中に関東軍司令部に急行した
モスクワ駐在武官の大佐・土居明夫は「ソ連は国境に相当の兵力を輸送している。戦車
はものすごい数がどんどん東に向かっている」とソ連兵力の充実ぶりを会議で指摘し、
、辻に別室に呼ばれ、「あんたがあんな恐怖症のような報告を東京でしたら、若い将校
が『刺し殺す』と言っとる。我々は、ソ連の戦車をぶんどって戦勝祝賀の観兵式をやる
計画でおる。そんな時にあんな報告をやられたら困る。」と脅された程だった。まさに
半藤一利さんが「絶対悪」と評する人物だった。

1155: 名無しさんAA:18/08/05 17:56
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  201 > 

 ここに、天皇や宮家の裏の顔があった。大正6年に、阿片法が改正された。星製薬会
社以外の製薬会社が原材阿片の輸入とモルヒネの製造に加わった事で徳川家が握ってい
たアヘンの専売は三井に移って行った。大正13年に憲政会系の伊沢多喜男が台湾総督
に就任したことで、星製薬に台湾専売局の相談が出た。台湾からのアヘン一掃の為に大
量に買い付けていた、横浜の保税倉庫に保管していた原料阿片に対して、台湾専売局と
の相談の上に、税関から即時処分を命じられ為、やむなくロシアの商社に販売すること
にしたのだ。しかし、その売却行為が台湾阿片令に反するとして起訴されたのである。
憲政会系の官僚、警察、裁判官といった国家権力を総動員し、星製薬には相当な圧力が
加えられた。当時は、武田薬品、田辺製薬、星製薬が御三家と呼ばれ、新興会社の進出
が困難な状況にあったが、背後には星製薬の躍進を妨害したい同業他社と三井の画策が
あった。というのも満州利権が生じて、戦時中に里見機関がそのアヘン販売に手を出し
始めたのである。中国大陸で北支那方面軍第一軍で司令官を務め、満州の利権を終戦時
まで支配した人物に澄田來四郎がその裏にいた。児玉機関の元締め児玉や岸などがそう
であったように大陸において悪事の限りを尽くしたのに助命されたのは、おそらく澄田
一族がアメリカに忠誠を誓ったことと、満州利権による財宝のためと推測されている。
かつて中国は、アヘン戦争でイギリスのジャーディン・マセソン商会やサッスーン商会
は、アヘン販売の利権を独占的に手中におさめることによって、巨万の富を得ていた。
これに貧困の宮家や徳川家など多くの名家の伯爵が乗り込んでいたのである。今日でも
來四郎の息子、澄田登日銀総裁は就任後にアメリカ大手のモルガン・ギャランティー・
トラストとバンカーズ・トラスト、チェース・マンハッタン銀行、シティーバンク、メ
リル・リンチなどが日本の金融市場に上陸する為の旗振り役を務めていた。1985年、「
日米経済摩擦」、「電電公社と国鉄の民営化」、「アメリカ金融界の日本上陸」と、こ
れらが澄田一家が如何にアメリカ資本の毒牙の中に居たか解るであろう。星一(はじめ
)は、台湾経営について後藤新平や新渡戸稲造に誘われ乞われて星製薬を日本で作り、
台湾に工場を建てて財を成していた。しかし、星は財閥ではなかった。三井や三菱など
の政商でもなかった。第一次世界大戦後に急成長した鈴木商店とよく似ていて、庶民や
地元財界の支援で成り立っていた時代の財界人だった。政府と太いつながりをもたない
と企業は大きくなれなかった時代で特に満州の陸軍は酷い利権屋だった。だから、敵と
見られれば徹底的に悪くなり、一気にだめになる。財閥が結託してつぶしにかかるのだ
から逃げ道がない。その罠に星はかかってしまったのである。

1156: 名無しさんAA:18/08/05 18:03
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  202 > 
 こうして、東京青山にあった星一の自宅は家宅捜索を受け、金融機関は、星製薬と星
一個人への融資を凍結し、金融資産を押さえた。融資が受けられない事は、すなわち、
事業が継続できなくなることを意味する。食品冷凍技術を事業化するため新しく立ち上
げようとしていた低温工業株式会社という画期的な計画も、あえなく頓挫した。福島県
で星の本家を継ぐ星照光によれば、郷里の家や土地は、遠い親族のものを含めてすべて
抵当に入れられていた。その後1925年(大正14年)に森鴎外の孫で文化人類学者で解剖
学の草分け的存在の東大教授、小金井良精と森鴎外の妹、喜久子の娘・精と婚約・結婚
したが二人とも晩婚だった。製薬事業が、陸軍が接収し三井を通じて三共製薬になった
。アヘンから風邪薬ヒロポンの誕生した瞬間である。星の作った蒸留施設ではキニーネ
やモルヒネの成分が抽出されて軍の医療品として配布され出した。こうして人生最大の
ピンチのときに、星一は結婚し星新一は産まれた。星一はニューヨーク時代に、新渡戸
稲造の紹介で津田梅子の妹と婚約、破棄されているが、このとき仕事優先として断った
一方、精は―ここで著者はアメリカ在住の新一の妹、鳩子に取材しその記憶を辿って、
伯父の森鴎外の日記に陸軍大将に嫁がせるべく精子(せいこ:当時は女性の名前に子を
つける習慣があった)同伴の記述があったという。その日記は精子の兄、小金井良一海
軍軍医の家にしばらく保管していた記録から、その精子は陸軍大将には結婚相手がいた
為に、結婚に失敗してこの実家にもどってきていた。結婚相手の候補に、東急のドン、
五島慶太の名前も上がっていたらしいが森鴎外と同様、医学界の大御所、陸軍軍医総監
だった石黒忠悳が精子に星一の人物を保障し結婚している。1926年(大正15年)5月台湾
高等法院第二審で無罪判決を受けながらも同月入籍し 9月6日長男、新一誕生。二年後
弟、協一、三年後妹、鳩子が誕生している。1932年(昭和7年) 4月 高利貸の芝商事か
ら提出された破産申請が受理され、星製薬は破産し星一は税金滞納によって二ヶ月間の
市ヶ谷刑務所に収監された。事業の失敗でなかなか大変な経験をしている。ノンフィク
ションの威力である。このとき星新一は6歳、京北附属幼稚園に通っている。1939年の
ノモンハン事件は、このアヘンがモンゴル民族まで押し寄せてきた事にあった。「第一
次世界大戦でドイツからモルヒネの供給が途絶えた」時に台湾でモルヒネの大量生産に
星は成功した。 第一次世界大戦は1914〜1918 年ですが、大戦が終わるまでの数年間に
、モルヒネ製造は星製薬の独占状態となった。第一次世界大戦直後から1915年頃にモル
ヒネの 大量生産に成功して、朝鮮では1914 年にアヘンが禁止され、モルヒネがとって
代わった。欧米のモルヒネが売り出されたがその後安価で品質の良い星の蒸留法による
モルヒネが、三共製薬によって市場を席巻したのである。

1157: 名無しさんAA:18/08/05 18:04
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  203 > 

 南満州鉄道は中国領を走るロシア資本の朝鮮の鉄道だった。日露戦争の結果、日本が
ロシアから譲渡された。もう少し背景を述べれば、もともと極東ロシアは外満州の土地
で外満州と呼ばれていた。後に満州と呼ばれた内満州と合わせた地域を満州となり中国
領で遊牧民や騎馬民族のものだった。しかし19世紀中頃になって、ロシアの侵略によ
り外満州がロシアの領地にするべくウラジオストックが開発されて行くその間もロシア
の占領として時は過ぎた。だがアヘン戦争や日清戦争の結果中国の弱体ぶりが露呈され
、その結果、中国はヨーロッパ各国から 色々むしりとられた。1. ロシアは旅順と大連
2. ドイツは膠州湾 (青島) 3. フランスは広州湾 4. 英国は九竜半島 (香港) を手に
入れた。更に、ロシアは4国干渉で日本を避けて、内満州を事実上の自国領とするため
に、鉄道を建設したのだった。この後日露戦争の結果、日本はこのロシアの権利を譲り
受けた。中国領における外国の鉄道という非常に奇妙な事実は、ロシアの中国侵略から
生じたものだった。しかし、東清鉄道(とうしんてつどう)と言われるロシア帝国が作
った満洲北部の鉄道路線の一部でしかなかった。満洲里からハルビンを経て綏芬河へと
続く本線と、ハルビンから大連を経て旅順へと続く支線があり、中東鉄道、東支鉄道、
北満鉄路あるいは北満鉄道と呼ばれてロシア側でも呼称は数度変更された。しかし1932
年に満洲国が成立しても、ソ連は満洲国を承認せず、東清鉄道は事実上の満洲国とソ連
の合弁事業となっていた。1933年には満洲国交通部がその名称を北満鉄路に変更して、
日本はソ連との衝突を避けるため鉄道の売却を提案したまま推移した。両者の間で長ら
く価格で折り合いが付かなかったが、1935年3月になってようやくソ連は満州国と北満
鉄道讓渡協定を結んで北満鉄路全線の利権を満洲国に売却し、満洲から撤退した。こう
して旧・東清鉄道は満洲国有鉄道となり、経営は満鉄に委託された。また、軌間も1937
年まではロシア建設時の広軌(1,520mm)であったが、満鉄に合わせて標準軌(1,435mm
)に改軌された。つまりここでも国際社会は金銭の売買で領土や権益が動いていたので
ある。ここに天皇家つまり日本政府の大本営から離れて関東軍がアヘン商売に陥った理
由があった。「アヘン」というと、一般的には「アヘン戦争」の「英国」を思い浮かべ
る人が多い。しかし「アヘン帝国」と呼ばれる国があるとすれば、これは戦前の日本で
ある。と言う人は多い。先進国はすべて、中国への「アヘン」輸出に手を染めて儲けた
。実はこのモノンハン事件はこのアヘンの運び屋たるモンゴル人の規制に元があった。

1158: 名無しさんAA:18/08/05 18:12
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  204 > 

 こうした欧米社会の紳士的なそぶりと裏での悪態がある表裏の暗黒社会は国際社会の
中で広がっていた。「アヘン戦争」によって「アヘン」が中国になだれ込み酷い事にな
った。だがそれもずっとひどいまま日本は受け継いで、引き起こされた。にも関わらず
日本ではほとんど隠され兵士も国民にも隠されていて語られていない。中心にある諸悪
の根源は、「アヘンの専売制」だった。最初はこれはヨーロッパの植民地政策として行
われいたが日本がネットワークそのままにかすめ取っていた。中国国内には例えば香港
などでアヘンの専売制が古来からあった。恐らく英国が真っ先にしたことと思われるが
、日本進軍後におけるアヘンの専売制も基本的には、英国のそのまま引き継いだ事にあ
った。 しかし規模では日本は、他を圧倒的に凌駕した。 日本は最終的には「満州帝国
」との領地紛争の中間点で大麻を生産し、関東軍の占領下における麻薬のアヘン・モル
ヒネ・ヘロインの流通を独占した。しかもアヘンの消費量を増やすために、アヘン中毒
患者を大量に作った。中国侵略はむしろアヘンを売りさばくための戦争であったと考え
たほうがよいくらいの大陸戦争だった。この時期、日本のアヘンの生産量はほぼ世界の
アヘン生産量に匹敵した。(1937 年には全世界の90%とされた) 1917 年に星製薬以外に
モルヒネの製造に加わったのは、現在の大日本製薬・三共・武田薬品工業で、この時既
に星一の抽出法は利用され悪い奴から外されている。理由はかの製薬会社の株式利益は
国に5割皇族に3割納められていたからだ。ところが星製薬の株の全ては今の松下電器
の様な協賛販売店が特約店として持っていたのである。大阪府三島郡福井村二反長音蔵
(にたんおさおとぞう)は、台湾で必要な阿片の殆どを輸入に頼っている貿易赤字を改
善するため、内務省の後藤新平の支持で、ケシ栽培に取り組んだ。モルヒネ純度の高い
ケシの品種改良に成功して、大阪府・和歌山県・京都府・岡山県・福岡県の医薬品原料
の商品作物として、農村の収益を高めた。とされる。遼東半島・山東半島・満州そして
上海租界地では、日本陸海軍の特務部が、治外法権の特権を利用して阿片の密売を公然
と進めた。医薬品や中毒是正の目的とは無関係となり、中国人相手の阿片・麻薬販売の
利益を得ることと、中国民衆の阿片中毒による弱体化が主目的となったのである。この
とき陸海軍の手先として活躍したのが笹川良一、児玉誉士夫たちだ。戦後右派の黒幕と
なった人達で、日本を動かしていく曲者たちは阿片で莫大な財産を手中にした。自民党
はそうした阿片の金で動いていた麻薬党として大きくなったのである。まあ日本の借金
も同じ様にこの金で国費が賄われていた点もある。

1159: 名無しさんAA:18/08/05 18:14
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  205 >   

 日清戦争、日露戦争いずれの場合にも、英国から戦争のために艦船を購入していた。
その前にも明治政府は、下関攻撃や薩英戦争あるいは馬関戦争と、数々の賠償金も又の
しかかっていた。日本が明治政府になって借りた金は僅かな鉄砲の代金だ。それに貸付
したのは阿片貿易で儲けていたサッスーン家である。「1820 年においてさえ、世界の
GDPの 1/3 が中国で生産されていた」 と言われたユダヤ金融だった。中国がとても
豊かな国であったため、世界中から狙われた理由だとされる。最後に日本に食い物にさ
れたというのは、日本の自虐史観である。当時の国の財政は金銀によって基軸通貨とし
て日本は銅を買うぐらい金銀の産出があった。中国は銀でまかない、日本は金で賄って
いて、日本の開国の頃は、最終的賠償金決済を保有する金貨銀貨で支払いをしていたの
である。つまりジャーディン・マセソン商会やサッスーン商会、或いは長崎のグラバー
商会などの時代はそうした幕府や皇帝が保管ないし貯めていた財宝で、その支払いを行
ったのである。ところが新興勢力である中国政府や明治政府や天皇にはその財力基盤は
どこにもなかった。中国の清が北洋艦隊を作った時ドイツやイギリスから最新鋭艦船を
買ったが、この金は清が持っていた銀の棍棒だった。アヘン戦争やアロー戦争は、18
40年であった。イギリスの勝利で終わり42年に南京条約が締結されてその賠償金が
支払われたのは、銀の延べ棒だった。当時アヘンの輸入量は約 4,500箱(一箱約60kg)
から1830年には2万箱、阿片戦争前夜には約4万箱に達した。とされる。このため1830年
代末にはアヘンの代価として清朝国家歳入の8割の銀が国外に流出し、国内の銀流通量
を著しく減少させて銀貨の高騰をもたらした。当時の清は銀本位制であり、銀貨と銅銭
が併用され、その交換比率は相場と連動していた。乾隆時代には銀1両は銅銭700〜800
文とされていたが、1830年には1,200文となり30年代末には最大で2,000文に達していた
。地丁銀の税額は各省から銀何両という形で指定されるが、農民が支払うの銅銭だった
、納税の際には銅銭を銀に換算し支払うので、銀貨が倍に高騰することは納税額が倍に
増えることを意味してた。この戦争よりも前、1880年の李鴻章の提案により1881年に、
ドイツのフルカン造船所に発注・起工され、清国海軍に就役した。清仏戦争による中立
期間を経て1885年10月に最新鋭戦艦が天津に到着した。定遠や鎮遠である。ザクセン級
装甲艦でイギリス海軍の「インフレキシブル」を少し小型化したものだが、イギリスの
旗艦とはないものの新鋭装甲艦で最高の戦力を持つ物と考えられ、正に東洋一であった
。この支払いが銀塊のキャッシュだったのだ。これが欧米に火をつけた。イギリスも又
貿易による銀流出が続いていた。240tのアヘンはその代価の銀の流出止めだった。

1160: 名無しさんAA:18/08/07 12:50
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  207 >   

 明治天皇は、開国以来の懸案であったイギリスやアメリカなどの各国との不平等条約
の改正を完了させたが、それは明治44年(1911年)であった。名実共に日本は列強の
一員となったが、次の年の1912年(明治45年)7月30日午前0時43分に崩御した。公式に
刊行された号外でも「聖上陛下、本日午前零時四十三分崩御あらせらる。」とあった。
天皇は明治45年 7月11日の東京大学卒業式に出席したが、気分は悪く、侍医では対応で
きず、20日青山胤通と三浦謹之助が診察し、尿毒症と診断され入院静養となった。崩御
には、皇后、皇太子、同妃、各内親王が病床を囲み、侍医らが手当てする中で永遠の眠
りについた。9月13日午後8時、東京・青山の大日本帝国陸軍練兵場(現在の神宮外苑)
において大喪の礼が執り行われ、崩御からこの日までの約1ヶ月半の間、宮中では様々
な儀式が執り行われた。各国のとりわけ「有色人種」の間では、「明治大帝は亜細亜全
州の覚醒を促し給いたる救世主」と賞賛した。明治17年(1884年)以降は、間近に控え
た議会創設に備えて、立憲制に対応する諸制度を創設した。内閣制度、市町村制、府県
制、郡制の制定など、官僚制支配体系の整備と並行して、莫大な皇室財産の設定を行っ
た。明治22年(1889年)2月11日になって、ようやく大日本帝国憲法を公布するに
至った。この憲法によって、日本史上初めて天皇の権限(天皇大権)を明記して、立憲
君主制国家確立の基礎を作った。翌明治23年(1890年)10月30日には教育勅語(教育
ニ関スル勅語)を発し、近代天皇制国家を支える臣民(国民)道徳の涵養に努めた事は
今の義務教育につながるものだった。こうした事で日本は救われたのだろう。帝国議会
開設当初は、超然主義を唱える藩閥政府と衆議院に依拠する政党勢力が鋭く対立衝突し
たが、天皇はしばしば詔勅を発し、調停者的機能を発揮し日本を進めている。今のタイ
のフミポン国王みたいなことであったろう。慶応4年1月15日(1868年2月8日)に元服し
て以来、儀式を経て即位の礼を執り行い即位を内外に宣下し、征夷大将軍であった徳川
慶喜が、慶応3年10月14日大政奉還を奏上し、翌15日(11月10日)に明治天皇は奏上を
勅許した。討幕派の大義名分が消滅し削がれた筈だが、そのまま王政復古の大号令を発
し、新政府樹立を宣言した。新政府軍は西郷隆盛を筆頭に、更に徳川家及びその近習の
大藩を追い詰め疎外する事に成功して、薩長土肥の政府となったが、その形態は決して
明治天皇の意図するものではなかったのである。しかしそれを許した大藩の多くこそが
日本人的日本人で日本を作った人達であった。もし中国の様に次から次に西郷打倒とし
て兵を挙げて自分が最高などといった行動があったら今の日本は無かったろう。つまり
賢かったのだ

1161: 名無しさんAA:18/08/07 12:57
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  208 >   

 明治天皇は、家庭と政局は常に表裏一体であったのだろう。大正天皇は1879年に(明
治12年)8月31日に産まれている。明治天皇の第三皇子として東京の現在の赤坂御
用地敷地内の赤坂迎賓館)で誕生している。明宮嘉仁(はるのみや・よしひと)と命名
された。生来健康に恵まれず、生まれてから年が明けるまで重度な病気を患ったが、他
の側室出生の親王・内親王ら4人も、第三皇子である明宮(嘉仁親王)の出生以前に相
次いで薨去していて如何に生きる事に壁があった時代だったか解る。このような状態で
、明治天皇と皇后美子との間には皇子女がおらず嘉仁親王が皇太子となった。誕生の翌
年から皇室の風習により、中山忠能の屋敷に里子に出され、この間父親の明治天皇は、
養育にほとんど口出しをせず、干渉はしなかったと言う。1889年(明治22年)、旧皇室
典範の制定により嘉仁親王は皇太子となり、立太子礼を挙行した。しかし、学習院での
学習は一向に進まず、乗馬などに進歩があった一方で、抽象的な思考を要する理数系の
教科を苦手としたと言われる。明治天皇は伊藤博文の奏上を受けて、これまで東宮職の
役人に任せきりであった皇太子嘉仁親王の養育を、教育から健康まで総合的に施すため
、新たに東宮輔導の職を設け、有栖川宮威仁親王をこれに任命した。これ以降、有栖川
宮威仁親王を兄のごとく慕い、のちに威仁親王が継嗣のないまま危篤に陥った時には、
自身の第三皇子・宣仁親王に高松宮の称号を授与することで、有栖川宮の祭祀を継承さ
せている。1900年(明治33年)に嘉仁親王は九条節子(さだこ)と結婚したが。この時
は世界の激動の時代であった。妻の節子は15歳であったがこの早い結婚については、
「病弱の皇太子に早めの結婚を」との意図があったが、両親から離されて寂しい幼少時
代を過ごし、結婚は非常に嬉しい出来事だった。結婚後は父の明治天皇とは対照的に、
側室を置かず一夫一妻を貫き、子煩悩で家庭的な一面を見せたという。彼の養育係とな
った有栖川宮威仁親王はよほど宮家内の信頼の於ける人だったのだろう。ロシア帝国の
ニコライ(後の2世)皇太子来日の際、外国留学の経験を買われ明治天皇の名代として
接待役を命じられたが、このニコライ皇太子訪日の日程中、滋賀県大津市において大津
事件が発生している。外国の王皇族に不祥事を働いた日本外交史始まって以来の大事件
だったが、国同士のいがみ合いにならななかった。威仁親王の要請で明治天皇自らが、
ニコライを見舞うなど、日本側の誠実な対応で事なきを得て、その時のロシアとの関係
悪化は回避されて、日本は今だ軍事すら整わない中の安泰にそのまま居られた。


1162: 名無しさんAA:18/08/07 13:00
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  209 >
   
 明治末以来、藩閥勢力の代表で陸軍に近い桂太郎(長州藩出身)と立憲政友会の西園
寺公望(公家出身)が「情意投合」のもと、交互に政権を担う慣例が続いていた。これ
は日本の国難に立ち向かう大事な時代だった。桂園時代と呼ばれたが世界中は恐慌を前
に混乱していて先の様な日本の中国進出に白い眼が持たれていた。明治天皇崩御(死去
)直後の1912年(大正元年)12月、第2次西園寺内閣は日露戦争後の財政難から、政府
は大きな渦の中にあり、緊縮財政の方針を採ったままだった。陸海軍は、帝国国防方針
に従っての予算を請求し、当面は陸軍が2個師団増、海軍が戦艦1隻、巡洋艦3隻を要
求していた。1912年(大正元年)11月30日の閣議で、陸軍大臣の上原勇作は増師を要求
したが閣議の結果、増師計画は見送られた。この不採用に際して、上原勇作は帷幄上奏
権を利用して、単独で即位直後の大正天皇に直接辞表を提出したのである。この事は大
きな軍の増長を招いた。上原勇作は陸軍の老獪な重鎮だった。山縣有朋、桂太郎ら長州
閥の元老凋落の後に陸軍に君臨して、強力な軍閥の上原閥を築き上げたとされる。上原
閥に属する者に荒木貞夫、真崎甚三郎、柳川平助、小畑敏四郎らがいたが、陸軍大臣、
教育総監、参謀総長の「陸軍三長官」を歴任して元帥府に列したのは、帝国陸軍史上で
は、その後の杉山元と2名のみであった。1900年(明治33年)に、山縣有朋は軍部大臣
現役武官制を成立させていたため、陸軍は後任を送らず、西園寺内閣は総辞職に追いこ
まれる事態に陥ったが、これは如何に陸軍が国際音痴であり、軍内を掌握できない状態
だったかが解るものだった。いわゆるこの時の上原勇作は只の老人ボケした馬鹿だった
のである。かつて海軍の東郷平八郎が老害あって一理もなしと言われた様に時代を生き
た偉人の特に軍人の組織老害だった。だがこの頑なさが明治の日本を護っていた。実は
、アヘン貿易は日本でもやっていたことであった。日本では鎌倉時代の中国が鄭和の船
団を出した辺りから「アヘンというものが薬になるらしい」ということは伝わっていて
た。室町時代に南蛮貿易によって種が入ってきて、栽培もされた。量産はされなかった
が細々と富山の薬売りに売られていた。中毒患者を出すまでには至らなかったが、中国
のアヘン戦争があるまで、医師が医療目的で使う分には制限されず、日本国内のコレラ
患者に対し、アヘンを処方するということがあった。特に微量で催眠効果があったらし
く、徳川慶喜が朝廷との折衝で神経をすり減らし、睡眠障害らしき状態になっていた時
には、アヘンを使って睡眠を取らせたと伝えられている。


1163: 名無しさんAA:18/08/07 13:00
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  210 >   

 こうして、江戸時代でも山梨・和歌山・大阪あたりでケシの栽培は行われていた。基
本的に藩の秘密だったので生産量が少なかったことで、きちんと医療用や薬として使わ
れていた。実は紀元前三千年以上も前から存在し、エジプトで鎮痛剤に使っていた記録
がある。人が怪我して一番の難題は死ぬことより痛さだったのだ。アヘンが採れるケシ
の栽培は、紀元前3400年頃からされていたことで中東系のサッスーン家がその方法
を伝統的に知っていて流通していたと思われる。少なくとも紀元前1500年のエジプ
トにおいてでアヘンが製造されていた記録も存在する。当時から鎮痛剤として使われて
いた。はじめは民間療法として広まったのかも知れない。現在はケシ→アヘン→モルヒ
ネ→ヘロインの順で精製して医薬品になる精製工程は変わらない。このエジプト人の先
見性はその後の西洋社会を凌駕する。かつて小麦もビールも欧州貿易の大きな輸出品で
あった。しかしやがて、ケシの栽培も小麦栽培もアヘン精製もワイン醸造も地中海沿岸
地域にも広がっていく。ギリシア神話では、豊穣の女神デメテルがアヘンを発見したと
され、やはり医学的に利用されました。西ローマ帝国が滅びたあたりで、地中海世界で
はアヘン利用は一旦は途絶えた。5世紀頃になると、イスラム世界から、インド・中国
・アフリカ中部にも広まっていき、イスラムの商人は、アヘンを薬とみなして売ってい
た。行く先々で「これを飲めば痛みが収まる」といった効能があったのだろう。ところ
が9〜10世紀頃から欧州でも中国でも変わった使い方になった。長い間用いていたか
らか、宗教がらみの煙の吸引と言う使い方で、集団催眠術の小道具として使われだした
のである。中国とアヘンというと例の戦争ですが、しかし領土や人口的には清王朝末期
までは流通がそれほど多くなかったようで、医療用として適切に使われていたようです
。むしろ、それ以降この煙の吸引が宣教師を通じて伝わった事で増えたようだ。日本で
中国ほど庶民へと広がらなかったのは徳川幕府時代に禁教令をしていたからだった様だ
。鎖国によって輸入量が多くなかったことや、煙を吸うのではなく飲用していたからだ
。中南米からタバコが伝わって煙管(キセル)まで伝わった。アヘンなどは精製の度合
いによってかなり毒性が変わったようだ。更にアヘンに限らず摂取方法によって効き目
が変わるという。中国のアヘン戦争以来敏感に情報集めを行い西洋習慣を見習った。し
かし開国してからは事情が異なってくる。



1164: 名無しさんAA:18/08/07 16:10
 開国してすぐに中国の定遠や鎮遠は長崎佐世保にやって来た。つまり大型艦船の修理
するドックが無かったのだ。だがその時の中国水兵達は長崎の街を賊のごとく荒らし回
ったのである。こうした中国人達の蛮行は代々続いていた。外国人居留地での西洋人が
アヘンを密輸したり、清から来た中国人が持ち込んだりして、日本人のアヘン中毒死が
増えてしまったのである。その為明治新政府は、被害が全国へ及ぶ前に強い禁制政策に
乗り出したのだ。明治元年(1868年)閏4月19日に、このとき既に「アヘンは命
を縮める為に所持を不法とする。」と明記されている。この明治元年は、4月5日(慶応
4年3月13日) - 神仏分離令布告 4月6日(慶応4年3月14日) - 五箇条の御誓文 4月7
日(慶応4年3月15日) - 五榜の掲示 4月18日(慶応4年3月26日) - 日本初の観艦式
(天保山沖)と行事を行っているが、同時に5月になると3日(慶応4年4月11日)には
戊辰戦争: 江戸開城 が起こっているのである。こうして明治政府は、年を経るごとに
使用・売買・生産について規制が進んでいって、最終的には国内にいる外国人にも適用
され、何とか拡大を防ぐことができた。1871(明治3)年8月、政府は阿片煙草の
取締りと同時に、医薬用阿片の取扱規則を定め、全国にすべての薬店で所持している阿
片の品位・量目の付け届けの報告と、医師に売り渡した際には、薬店と医師双方に品位
と量目を届け出るよう命じている。これを受けて、国内で一斉に調査が行われた形にな
った。そのため、現在の鳥羽市や名張市からこの時に提出された度会県管内の届出書が
80点あまり残っている。当時のイギリスは、茶、陶磁器、絹を大量に清から輸入してい
た。一方、イギリスから清へ輸出されるものは時計や望遠鏡のような富裕層向けの物品
があったものの、大量に輸出可能な製品が存在しなかったうえ、他の植民地からの輸入
もありイギリスの大幅な輸入超過であったという。イギリスは産業革命による資本蓄積
やアメリカ独立戦争の戦費確保のため、銀の国外流出を抑制する政策をとった。その為
イギリスは植民地のインドで栽培した安価なアヘンを広げ、清に密輸出する事での超過
分を相殺を企画し、三角貿易を整えることとなった。清では、日本と同じ様に既に1796
年(嘉慶元年)にアヘンの輸入を禁止した。その禁止令は19世紀に入ってからも何度
となく発せられたが、アヘンの密輸入は止まらなかった、国内産アヘンの取り締まりも
効果がなかった。国土が広すぎた上に、清国内には国家認識や郷土愛などを育てる教育
も民族把握もなかった。こうしてアヘン吸引の悪弊が広まっていき、健康を害する者は
多く、風紀も退廃していった。また、アヘンの代金を銀で決済し、アヘンの輸入量増加
によりこれまでの貿易収支が逆転、清国内の銀保有量が激減し後述のとおり銀の高騰を
招いた。こうして中国商人が中国を壊していったし、日本や朝鮮を食い物にした。

1165: 名無しさんAA:18/08/07 16:33
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  212 >   

 では、どこに 中国と日本の違いがあったのか。それがこのノモンハン事件である。
第一次ノモンハン事件で小松原が手もとの戦力を出し惜しみし、東捜索隊を壊滅に追い
やった戦訓が活かされず、更に辻の強行で頑なな意見が通ってしまったのだ。この辻に
よる関東軍の作戦計画は21日に参謀本部に伝えられ、陸軍省も交えて大論争となって
はいた。陸軍省の軍事課長岩畔豪雄大佐や西浦進中佐らは「事態が拡大した際の、その
収拾のための確固たる成算も実力もないのに、たいして意味もない紛争に大兵力を投じ
、貴重な犠牲を生ぜしめる如きの用兵には同意しがたい。」と強硬に反対していたのが
大勢だった。しかし結局は板垣征四郎陸軍大臣の「一個師団ぐらい、いちいち、やかま
しく言わないで、現地に任せたらいいではないか。」の鶴の一声で関東軍の作戦計画は
認められた。このモノンハン事件は歴史上極めて大きな分岐点である。何故ならこれま
での戦争は捕虜や食糧など理由があったが、日露戦争でロシアが賠償金不払いによって
、機械も兵器も近代化し人民や領土の制圧権の取引に変わっていた。更に中国も民族の
自立や北洋軍閥の作った新政府のアヘンの奪い合いに代わっていたのである。アヘンの
中毒を重く見た明治政府は、被害が全国へ及ぶ前に禁制に乗り出し、その一例が明治元
年に「アヘンは命を縮めるから禁止」と明記し、年を経る事の改正で使用・売買・生産
の規制を進ませ、国内の外国人にも適用し拡大を防ぐ処置をとったかに見えた。しかし
日本政府は違った見方をしていた。「アヘンは麻薬としては最低だが、大麻と同じに有
用であるのではないか。」とつまり日本人は一方で国内では研究を開始したのである。
明治政府はアヘンの医療用途に目をつけ、独占販売で儲けることにした。西洋のやり方
を真似たのである。販売は許可を得た薬局のみで、購入目的は医療用途に限った。さら
に購入者と栽培農家も登録制とした。この管理法は日清戦争後の、台湾を統治にも行わ
れた。台湾でも清と同様にアヘン常習者が多くなっていた為、急に禁止すると離脱症状
に陥る者が多発するであること、そこにつけこむ密売人が現れ西洋資本がある事など、
問題が発生する事などを考慮した、後藤新平のプロジェクトチームは丹念に調査し、こ
こで導きだした方策で中毒を減らした。既に中毒になっているものには制限付きで販売
を認め、さらに台湾内でのケシ栽培を禁止しお茶に変えさせ、少しずつアヘンの常用者
を減らしていった。満州でも同じような政策が採られた。しかし、ここで大きな天災が
起こった。東京大震災である。この頃は中国軍も生産・流通も減少させて、効果出始め
た頃で、前年の生産がやっと減ったぐらいだった。


1166: 名無しさんAA:18/08/07 16:34
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  213 >   

 1923(大正12年)9月1日11時58分32秒頃に発生した大地震が襲った。通勤が
終った帝都にやって来たこの振動は未曾有の災害をおこしていた。南関東および隣接地
で大きな被害をもたらし関東大震災とよばれた。2004年(平成16年)頃までは、死者・
行方不明者は約14万人と推定された。この数字は、震災から2年後にまとめられた「震
災予防調査会報告」に基づいた数値である。しかし、近年になり武村雅之らの調べによ
って、14万人の数字には重複して数えられているデータがかなり多い可能性が指摘さ
れ、その説が学界にも定着したため修正され、数字を丸めて「死者・行方不明 10万5千
余」としている。しかし、先の2年後の調査にたずさわった人の話では、軍部や政府は
意識的に過小にしていたと言われ、この地震被害を大きく報道したくなかったようで、
その人の話では16万人は超えていたかも知れないとさえ言っている。つまり浮浪者で
田舎からの身元の分からない死体処理が人数には数えられずにいたらしいのだ。存在す
ら掴めない人の死は数字には表れていないのである。幾つかの列車事故や自動車事故は
あったが、地震の揺れによる建物倒壊などの圧死よりは、強風を伴った大火災による死
傷者が多くを占めたからだ。又、津波の発生による被害は太平洋沿岸の相模湾沿岸部と
房総半島沿岸部で発生し、高さ10m以上の津波が記録されている。山崩れや崖崩れ、
又それに伴う土石流による家屋の流失・埋没の被害は神奈川県の山間部から西部下流域
にかけて発生した。特に神奈川県足柄下郡片浦村(現、小田原市の一部)の根府川駅で
はその時ちょうど通りかかっていた列車が駅舎・ホームもろとも土石流により海中に転
落し、百人以上の死者を出し、さらにその後に発生した別の土石流で村の大半が埋没、
数百名の犠牲者を出した。被害の中心は震源断層のある神奈川県内で、振動による建物
の倒壊のほか、液状化による地盤沈下、崖崩れ、沿岸部では津波による被害が発生した
。東京朝日新聞、読売新聞、国民新聞など新聞各社の社屋も焼失した。唯一残った東京
日々新聞の9月2日付の見出しには「東京全市火の海に化す」、「日本橋、京橋、下谷
、浅草、本所、深川、神田殆んど全滅死傷十数万」、「電信、電話、電車、瓦斯、山手
線全部途絶」といった凄惨なものが見られた。同3日付では「横浜市は全滅 死傷数万」
、「避難民餓死に迫る」、4日付では「江東方面死体累々」、「火ぜめの深川 生存者は
餓死」、「横浜灰となる あゝ東京」…などという見出しが続いた。190〜200万 人が被
災者となった。10万5千人余が死亡あるいは行方不明になったと推定される。犠牲者は、
東京府と神奈川県がほとんどを占めている。

1167: 名無しさんAA:18/08/07 16:40
建物被害においては全壊が10万9千余棟、全焼が21万1千余棟であるとされた。が
東京の火災被害が中心に報じられているが、津波被害も出て居て、静岡県熱海市6m。
千葉県相浜(館山市)9.3m。洲崎 8m、神奈川県三浦 6m。などが記録されていて、鎌倉
市由比ケ浜で300人余が行方不明。関東大震災では、建物の倒壊と火災による被害が
甚大で、津波と地震動の被害を分離することが困難なため、津波に関する報告は断片的
で、津波の全体像が明確になっていない。津波の高さは、鎌倉由比ヶ浜では局地的に9m
に達し、逗子、鎌倉、藤沢の沿岸では5mから7mの高さの津波が到達している。つまり、
帝都のみでなく、そこかしこででも被害があって居るようなのである。東日本大震災以
前の日本において、史上最大級の被害をもたらし、府県をまたいだ広範囲に渡る災害で
未曽有の犠牲者・被災者が発生し、帝都を直撃して国難に及ぶことから、国(大日本帝
国)も対応に追われた。しかし、内閣総理大臣の加藤友三郎が震災発生8日前の8月24日
に急死していたために、外務大臣の内田康哉が内閣総理大臣を臨時兼任しての職務執行
内閣を続けたのである。発災翌日の9月2日に、山本権兵衛が新たに新総理に就任して
(大命降下は8月28日)、9月27日に帝都復興院(総裁:内務大臣の後藤新平が兼務)
を設置し復興事業に取り組んだ。金融の停滞で震災手形が発生し、緊急勅令によるモラ
トリアム(支払猶予)を与えた。復興には相当額の外債が注入されたが、その半分は、
火力発電の導入期にあった電力事業に費やされた。モルガン商会は1931年(昭和6年)
までに占めて10億円を超える震災善後処理公債を引き受けたが、その額は当時の日本
の年度別の国家予算の6割を超えるものだった。引受にはロスチャイルドも参加した。
金策には森賢吾が極秘で奔走した。日英同盟の頃から政府は資金繰りに苦慮していたが
、特にこの復興事業は国債・社債両面での対外債務を急増させた。また震災不況から、
昭和金融恐慌(1927年(昭和2年)3月〜)、1930年(昭和5年)行われた金解禁は、そ
の後の世界恐慌(昭和恐慌)に至る厳しい経済環境下で悪影響が大きかった為、翌年に
は金輸出再禁止になった。なおこの震災により東京市から郊外に移り住む者も多く、「
天災によるドーナツ化現象」が発生した。40年近く後の高度経済成長期に三大都市圏の
中心となる大阪府や愛知県等に移住する者も多くみられ、特に大阪市は東京市を超え、
世界第6位の人口を擁する都市に躍進した。朝鮮半島でも伸びて、1919年にアヘン
取り締まりを始めて許可制にした。既にモルヒネが開発され、カルカッタのアヘン売り
場では、日本はインドのアヘンの重要な大口購入者の一つになったインドで売られたア
ヘンは日本の許可の下に神戸に船で送られ、神戸で青島 (チンタオ) 向けの船に積み替
えられた。この貿易に朝鮮も加わり多くの儲けを出した。日本の代表的な企業のいくつ
もが参入し、大阪と朝鮮が近くなった。この輸入は綿花と同時に行なわれた。

1168: 名無しさんAA:18/08/07 16:41
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  215 >   

 中国では清朝時代、朝貢外交が終ると1港のみの広州を開港して粤海関と言う税関の
本所を置いた。康煕 24年(1685) から始まった海禁を解いて外国貿易を許し、粤 (え
つ:広州) 憫 (びん。樟州) 、浙 (寧波) 、江 (上海) などの海関(かいかん)を設け
て、監督をおいて内外の関税を徴収した。アヘン戦争後も海外に広州1港から5港への
開放がされ、他の海関での公行制の廃止や関税協定などの新条約が結ばれたが、伝統的
に海関事務は満人官吏にまかされて旧態依然のもので運用された。しかしキリスタンの
布教が始まり太平天国の乱に際して、咸豊4年(1854)に上海で外国人に海関を管理させ
る外国人税務司制度がとられて、同8年には、天津条約の通商協定で全海関に適用され
て翌年には海外からの洋関の新設となる。これにより海関は新旧に区別され,旧関では
内地関税のみに縮小され,新関である洋関が外国人管理のもとに解放前まで続いた税関
となった。日本も又、この中国における海関のシステムをそのまま真似て運用した。日
本人弁務官が事務所を持って港での日本から輸入を管理し、貿易のセンターが設立され
てアヘンやその派生製品がまったく堂々と密輸された。日本が年間に持ち込むモルヒネ
は満州国建設からは国際条約によって禁止されたが20トン程度持ち込まれたと言われ
る。この量は一つの中国を中毒にするに足るものであったようだ。アヘン戦争とアロー
戦争を総称してアヘン戦争と呼んだが、下関条約以降には日本政府の許可さえあれば、
日本人は容易に中国に麻薬を持ち込むことができたのである。つまりヨーロッパの国々
と対等の立場で中国と接する事になったのだ。しかし中国の新政府の頃は、欧米各国に
交渉を繰り返し中国の麻薬から手を引かせる事に成功していた。従ってモノンハン事件
の頃は、桁違いに大量のモルヒネを中国に持ち込んでいたのが日本だった。報道では、
「日本政府の証明書があれば、青島に上陸する物資は税関の検閲を受ける必要がなかっ
た。このようにして、アヘンの非合法な輸入のみならず、武器の不正な輸入の道を開い
ている。アヘン中毒を撲滅しようとした中国だが、その結果台湾業者によってモルヒネ
が流通することとなった。北中国とりわけ満州におけるモルヒネ中毒はすでに広範囲に
なっている。中国政府はこの災いに警戒態勢を取っているが、抑圧する試みは麻薬業者
の行動によって妨害されている。つまり各国の海関は各国の領事館特権を持っていたの
で密輸入し放題だったのだ。


1169: 名無しさんAA:18/08/07 17:18
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  216 >   

 麻薬業者は中国政府、日本政府の規制をかいくぐって、中国国内をモルヒネ漬けにし
ていた。営口では、二千人ものモルヒネ中毒が1915の一年間に死亡した。モルヒネはま
だ東洋では、生産されていない。又モルヒネの摂取に必要な皮下注射器の製造をする事
すら出来ない。大量に生産されているのは、英国、ドイツ、オーストリアであった。こ
の取引にはエジンバラの2つの企業とロンドンの企業が従事しており、貿易においての
日本の業者が輸入実行していた。商業取引所の報告書によれば、英国から東洋へのモル
ヒネの輸出はこの数年の間に極端に増やしていた。サッスーン家の盛り返しであった。
しかし、日本の軍部はこの1915年に、それを知らず市場操作の為にアヘンの材料で
ある大麻草を大量買い付けした。高値売りに攻勢をかけたが、モルヒネに代わってしま
い売れずに大量に在庫品として倉庫に眠ってしまう。陸軍が頭を抱えてしまった。この
年ちょうど星一は長年の研究成果としてモルヒネの精製に成功した。軍部の要請に応え
この余剰アヘンを買い戻した年だ。実は台湾での中毒患者の撲滅はこの医療用モルヒネ
の開発で、徐々にアヘンから市民を遠ざける事が出来た。しかし前述の様にこの台湾で
英国から買い付けて販売していた麻薬業者は大陸に移って商売し、モルヒネに代わって
いったのである。張作霖は、中華民国初期の軍閥政治家で、北洋軍閥の流れを汲む奉天
派の総帥となった。張作霖はこの仕組みを知っていた。と言うよりも彼は朝鮮半島での
この組織販売の元締めとなった一人だった。満州統治者であり張学良・張学銘・張学思
の父だったが、彼はその利権を手放そうとはしなかった。自出では獣医の継父から乗馬
を習ったが気が合わず、家を飛び出したとも言われている。その後吉林省に渡り、馬賊
に身を投じ1895年、営口市高坎鎮一帯で生活。当時の東三省は警察力が弱く、非合法組
織の麻薬密売人として頭角を現した。張はその中でたちまち頭目となり、朝鮮人参や、
アヘンの密売で巨利を得ていたと考えられている。彼の仲間には後に満州国の国務総理
を務めた張景恵などがいた。息子の張学良は昭和天皇にそっくりだったらしく、学生時
代には驚くほど似ていた。その為か学校から出され1919年に、父の義弟である張作相の
抜擢で奉天派に迎い入れられた1928年に、張作霖爆殺事件により父張作霖が死亡す
ると、すぐさま関東軍の仕業と表明し、蒋介石は率いる北伐軍で北京に駐留した。奉天
軍閥との間に緊張が走っていたが、易幟(青天白日旗を掲げ、国民政府への服属を表明
)することで満州への軍事・政治への不干渉を認めさせ、独立状態を保つことに成功し
た。


1170: 名無しさんAA:18/08/07 17:18
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  217 >   
 満州の奉天軍閥は、父・作霖と共に大日本帝国に協力的であったが、この奉天軍閥の
金庫番は湯玉麟であった。湯玉麟は切っての抗日派で汪兆銘の親日派とは仲が悪かった
。汪兆銘は辛亥革命の孫文に傾倒していて、来日を機に中国同盟会を結成して機関紙の
『民報』の編集スタッフを務める程だった。徹底抗戦を叫んでいた湯玉麟は馬賊の独立
を願う志士で張作霖と対立していた。その後馬賊の金庫番は湯玉麟から汪兆銘に変わっ
た。湯玉麟が馬賊で張作霖の仲間になったのは、若い頃誘ってくれた海沙子に従ってい
たが、海沙子が張作霖と決闘して死亡したからだ。しかし湯玉麟(とうぎょくりん)は
、清末期の特に北京政府奉天派の張作霖の中では、人望ある中華民国の軍人であった。
国民政府時代もその子・張学良に属し、北京政府時代の1926年(民国15年)から満州国
建国前後まで、純然とした熱河省の統治者であった。張作霖爆殺事件によって、27歳
の張学良は父の満州における全権力及び巨額の財産を承継したが、この時の後見人でも
あった。父が殺された日が張学良の誕生日であったため、それ以降彼は生涯にわたって
誕生日を一ヶ月繰り上げて祝ったという張学良だったが、満州事変が勃発した時には、
北平にいて、日本軍侵攻の報告に対して、日本軍への不抵抗を指示した。応戦すれば日
本軍の挑発に乗ることになる。と判断したことや平和解決を望んだということ、日本が
国際的な非難を浴びる事は好ましくない結果をもたらすだろう。と考えたと後に述べて
いる。その為、満州で左派勢力に煽られた抗日運動が活発化して、関東軍や在満邦人の
強い反発をかっていたが、関東軍が満州への武力侵攻を決め、軍を続々と集結させてい
る時でも、いつもの軍事演習だと思い、何の対策も取らなかった。日本と積極的に戦わ
ず退いた事は、従来からの国民政府の方針通りでもあった。この頃蒋介石は下野してい
たし蒋介石の意向も同じだった。国共内戦のため対日戦に兵を割く余裕が無かった上に
、日本が満州の全面戦争に踏み切るとは予期していなかった。この頃の、つまり1931年
(昭和6年) 9月18日に中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、ロシアの共産党集団
が、白ロシア軍の残党狩りが終わり対日戦線に移って、盛んに活動している頃だった。
実は張作霖が奉天軍閥で頭角を現す頃は、充分に満州地域にはアヘンは出回っていた。
と言うのは、馬賊とされるモンゴルでも栽培は古来より行われ西のルートからも入って
来ていたのだ。即ち大陸横断鉄道の開通は、アヘンの流通ルートでもあった。当時では
来客があれば、まずはアヘンが出された。コーヒーや紅茶のような感覚の水タバコだっ
た。いわばステータスシンボルのように扱われたように、このときのお金持ちの条件と
して三つの条件が挙げられていた。それは「よい馬に乗り」「新しい車を持ち」「良質
のアヘンを吸うこと」であったのだ。アヘンを吸うことに今の様な麻薬感覚は無かった

1171: 名無しさんAA:18/08/07 22:27 ID:2Hw
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  218 >   

 馬賊にとっては、アヘンは運営資金を換金して得るために、現金と同程度の価値を持
った非常に重要な物資だった。今の南米の大麻と同じだ。又、現在でもモルヒネは医療
で使われているように、馬賊はアヘンを時に医療用に使っていた。その例として、足を
弾丸によって折られた者の足に包帯を巻いて、その上に幅3センチ、長さ15センチ程
の板切れを3枚、骨の折れている部分にあてがって、その上にまた包帯を施し、小指の
頭ほどに丸めたアヘンを飲ませ、さらにアヘンを吸わせたところ、うめき声も出さなく
なり、翌日の軍の引き上げに彼は遅れをとらず山をのぼって移動した。という話がある
。日本軍でさえ必要としていたのである。戦場では衛生兵が負傷兵にモルヒネを与える
ことで、痛みから引き起こされる体力消耗を防ぐ処置が行なわれている。この実例は、
それと同じ効果のことで、麻酔の医薬としてアヘンが馬賊の間で利用されていたことが
知る好例であろう。その他にも、使用例としてアヘンは褒章として賞与され、戦場に向
かう兵士の士気を高揚させるためや、休憩の時にも与えられ消費されたと言われる。ア
ヘンを兵士に積極的に与えたのは、東北軍閥出身の張宋昌の部隊である。「双槍部隊」
と呼ばれていた。そう呼ばれるには少し笑える理由がある。例えば十字軍が「右手に槍
、左手に聖書」と敬虔な戦士の姿が表現されるが、「張宋昌・双槍部隊」は「右手に槍
、左手にはアヘンキセル」を持っている姿を指して両手に槍という中国流の風刺を利か
せた呼び方だった。この双槍部隊はアヘン中毒の症状が比較的軽い内は、アヘンの効果
で忘我状態になるために、正気では考えられないほど果敢に攻撃を仕掛けた。つまり、
「常勝部隊」と呼ばれる程だったのだ。しかしアヘンの毒は確実に兵士の体を蝕むし、
最終的には戦うどころではなくなって「烏合の衆」となるまでに落ちぶれたという笑う
に笑えないエピソードが残っている。先に言う様に中国軍は、督戦隊の特攻隊システム
を持って日本軍と戦っていた。この報奨にもアヘンは多用されていた。つまり後ろから
自国の兵士を狙う理由は、命令通りに動かし、廃人となって襲い掛からない様にも必要
な戦法だったのである。こうした事で日本の商社が熱河領域に栽培にかかる前に既に、
中国国内ではケシ栽培は西の砂漠地帯で起こっていたのである。アヘンのもたらす経済
効果はすさまじく、ひとつの寒村にすぎなかった村を大きな町へと変貌させる力がある
。奉天省の安図県を例にすると、はじめは数十戸にすぎない部落であったのが、アヘン
の取引がはじまるとまたたく間に四百戸まで成長した。アヘンの収穫期には、買い付け
に来る商人だけでなく、それを目当てに劇団が吉林や奉天方面から来るだけでなく、遊
女も多数集まってきて、まさにお祭り騒ぎ様に町は賑わいを呈した様子を見せたという。

1172: 名無しさんAA:18/08/07 22:29
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  219 >   
 東北陸軍講武堂(とうほくりくぐんこうぶどう)は、清朝末期から北京政府期にかけ
ての、奉天に存在した陸軍軍官学校であった。時期によって名を変えた為に、盛京講武
堂 (奉天講武堂)・東三省講武堂・東三省陸軍講武堂・東北陸軍講武堂とそれぞれの名が
あるが、一貫して中国の近代軍隊の充実のための学校として存在した。日本でいう陸軍
士官学校に相当する役割を担って、日本はこれに習って士官学校を作ったかの様に古い
。最盛期には雲南陸軍講武堂・保定陸軍軍官学校・黄埔軍官学校と並んで「四大軍官学
校」とも称された。1931年の満州事変によって奉天が日本軍の占領下に置かれると共に
消滅したが、熱河都統になった湯玉麟はここを出た生粋の中国軍人だった。故郷が馬賊
出身だった為に思い入れがあった様だ。先に述べたように熱河では軍費等の経費を捻出
するため、1921年に熱河都統の姜桂題がケシ栽培を解禁したが、その買い付けは日本の
商社だった。ケシの栽培の解禁とは、その土地の支配者がケシ栽培を公認する代わりに
税金をかけることを意味し、熱河の都統はこの方針を代々継承してきた。とりわけ1926
年に熱河都統に就任した湯玉麟政権はケシ栽培の拡大政策を推進した。湯政権になって
から熱河の栽培面積は増加し、熱河では満州や平津の市場にアヘンを出荷し、中国でも
屈指の生産地に成長した。そのため「満州国成立」は、熱河はアヘン目当てに、関東軍
などからマークされることになった。湯玉麟の経歴では、彼は土黙特旗出身のモンゴル
人であった為、漢民族に牧草地を奪われて「馬賊」になっている。。1931年(民国20年
)、張学良の指揮下で、モンゴル族のガーダー・メイリンによる武装蜂起を鎮圧した。
東部内モンゴルで武装蜂起したことで知られるモンゴル族(モンゴル人)で。ムルトゥ
ド氏の孟青山がそのガーダー(末っ子)メイリン(防衛隊長)であった事による。この
任命は中国王朝だったのだが今でも民謡に残る。「南方飛来的小鴻雁呀、不落長江不呀
不起飛」(南方から飛んできたガンは、揚子江に下りないと又飛び起きることはできな
い、「要説起義的口凜達梅林、為了蒙古人的土地。」(武装蜂起したガーダー・メイリ
ンは、モンゴル人の土地を守るためであった。)と言う物だ。張作霖の初期からの志士
である二百五十人の配下のうちの一人に加わった。しかし、彼の出身の土黙特旗(トゥ
ムドき)とは今の内モンゴルに当たる民族で、騎馬民族のモンゴル族の侵略を押さえる
為に清王朝は幾つかの工夫をした。それが八旗制で、この東と西を恣意的に戦わせてい
た。そうした中清王朝の元であるヌルハチは満州女真族の出でその強さを知って八旗を
当初、ヌルハチが支配する後金(清の前身)に属するすべての軍民が所属する軍事組織
とした。女真族以外にも他のモンゴル人や漢人で後金に服属した軍人も八旗に編入され
ヌルハチの後継者ホンタイジの時代には、清に服属して八旗に編入された軍隊となった

1173: 名無しさんAA:18/08/07 22:30
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  220 >   

 こうして新たに蒙古八旗及び漢軍八旗とを編成したが、満洲人の八旗と区別して満洲
八旗と呼ばれて遠征させた。八旗の旗人たちは、日本の開拓の県人会の様に平時は開拓
農民で農耕・狩猟に従事し要地の警備や兵役にあたらせた。こうして要地の警備に特定
の場所に集団で移住させ八旗を駐防八旗として置いていた。清王朝ができ入関して万里
の長城以南の全中国を支配すると移動移住を転々とさせた。数多くの旗人が新たに首都
となった北京へと移住させられ、北京内城が旗人(北京八旗)の街になると、歴代の王
朝は互いに大きくなる集団達を危機感を持ち互いに戦わせ領地を確保した。ガーダー・
メイリンとははこの司令官だった。この理不尽な歴史的指令に公然と立ち上がったのだ
こうして 清朝時代に支配階層である満洲人が所属した社会組織・軍事組織を子飼いの
集団として動かしていたのが止まった。特に大陸横断鉄道の建設前にはロシアとの戦争
に明け暮れ、この制度の八旗制を拡大して大いに戦わせていたが敗戦の連続だった。こ
うして八旗は旗と呼ばれる集団社会の軍事集団は、すべて満洲人で8個の旗のいずれか
に配属されていった。後には他民族で編成されたがいずれもモンゴルの地の支配に於い
て中国行政が行われていた。八旗に所属する満洲人・モンゴル人・漢人は旗人(きじん
)と総称され、清の支配階層を構成しだした。しかし、新政府には北洋軍閥に組み入れ
られ清王朝が倒れた時いずれかの軍閥か独立の志士かに分かれた。シベリア出兵時に、
日本が朝鮮半島に気を取られている中で、ロシアはちゃかりと中国と清露密約とされる
秘密の軍事同盟を結んた。ロシア側は外務大臣アレクセイ・ロバノフ=ロストフスキー
、と財務大臣セルゲイ・ヴィッテは、清側は欽差大臣李鴻章この条約を結び、日本がも
しロシアか清のいずれかへ侵攻した場合には、互いの防衛のため参戦するという相互防
御同盟の結成だ。しかし同時に、清はロシアの満州における権益を大幅に認めさせると
いう不平等な条約ともなった。その為日本の日清戦争の勝利の頃は、まさにアヘン戦争
及び、アグイン条約に伴う露国及び西欧諸国による植民地化と清王朝の乱れ等生じて、
中国の内部事情が大きく揺らいだ時代になった。日清戦争もそうしたもので、日露戦争
の勝利でも、赤化に伴う帝政ロシアの混乱に乗じての勝利であり、決して連合政府率い
る日本の力が優れていた訳で無かったがそれだけ勝者として戦後交渉も困難であった。

1174: 名無しさんAA:18/08/07 22:33
アヘンは例えば陝西省を取り上げると、1920年代には既に軍閥はケシ栽培から収益を上
げると同時にアヘン税を取り立てている。アヘンの被害は黒色恐怖と呼ばれたが、中国
国内に農業生産力の衰退と農民破産をもたらしていたが軍閥には関係なかった。陝西省
では清末期アヘンと綿花が基幹作物であったがこれが北京政府の輸入によって価格破壊
を起こした。満州と違って中央政府の力がおよびやすく禁煙は比較的よく進んでいたが
。だが辛亥革命を境に、軍閥の指揮のもとでケシ栽培はより収益の高い綿花の栽培へと
代わって行くかに見えが北京政府の1922年に綿花の輸出を禁じたことから綿の価格は暴
落しは財政が維持できなくなった。陝西省でもこの有様である。中央政府が如何に無能
であったかが解る事例だ。政敵にも清野作戦を執拗に行ったのである。


1175: 名無しさんAA:18/08/08 02:23
こうして各軍閥は財政を維持するために禁止されているはずのケシの栽培を再び解禁し
た。比較的アヘンが収束いた陝西省でさえそうであった。中央政府の力が及びにくい辺
境の様子は推して知るべしである。蒋介石も毛沢東も人民などどうでも良かったのだ。
「ケシ栽培の拡大の第一の原因は、軍閥の悪辣な強制栽培にあり」と指摘されている。
、先の八旗の代表格として自治委員になった湯玉麟が作った湯政権も強制栽培を行った
。熱河ではケシの栽培面積に応じて税金がかけられており、栽培面積の拡大はそのまま
政権の税収の増大であった。湯が着任する前の1925年までは、「禁煙罰款」と称してい
てケシを栽培する土地1畝につき6元徴収していた。いわゆる生産地の土地税である。
湯政権になるとそれを1畝3元の禁地印花税を加えて、1畝9元と増税した。つまり、
ケシの生産税を付け加えたのである。しかしこれだけでは、この政策はただの増税にす
ぎない事になる。アヘンは豆、麦、綿などの作物に比較して容積あたりの利益が大きく
てしかも腐敗せず、銀と同じ価値で扱われている。とりわけ鉄道など大量輸送手段を持
たない軍閥に、持ち運びが容易でしかも大きな利益のもたらした。しかし実際にケシを
栽培するのは農民であった。ケシの栽培が大きな利益をもたらす事はは間違いないが、
栽培面積に比例してかかる税金として高く、痩せた土地で労働力の不足の中ではケシ栽
培の増加はしない。熱河の農民は、決して生活をケシ栽培のみで生計をたてていたわけ
ではなかった。むしろ、自らを養う食料も作って生活をしていた中でケシを余分の場所
や開墾した荒地の作物として作っていた。熱河の痩せた土地事情で同じ作物を同じ方法
で栽培しても、豊かな土地のそれに及ばない。つまり小麦や大根でも他に売り捌く程の
物が出来なかった。そこに熱河で栽培面積で税金がかかってくるが、日本の検地した税
とは違って土地税は一切土地状態は考慮に入れない。土地が痩せていようが肥えていよ
うが税金は同じだ。どこで何を栽培しても同じなので、農民は決して安くはない税金の
為にケシの栽培を行う土地を肥えた土地に変えた。参考に、白菜や大根、タバコなどの
通常の作物栽培の利益は、10元程度だった。1畝あたり7〜9元という禁煙罰款の税
が如何に高いがわかるだろう。この時、農民にとってメリットになる大きな政策がとら
れず、アヘンの収穫に失敗し、ケシの栽培が不作であった場合を考えると、この増税は
農民にとってリスクのみが増えた結果になり、控えようとは思っても好んで栽培しよう
と思わなくなるのは当然だろう。つまり各個は今までとは変えて痩せた土地で食卓の作
物を生産し、肥えた土地でアヘンを栽培した以上のリスクを取らなかったのである。こ
うして伸び悩んだ売り上げだった為、更に湯玉麟は奨励金をかけた。この日中戦争時に
おける関東軍(日本軍)の中国熱河省は金によって揺れ動き、かなりのリスキーな土地と
なって行った。

1176: 名無しさんAA:18/08/08 02:24
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  222 >   

 河北省への侵攻作戦である熱河作戦や日韓併合にはそうした内部事情の調査はなかっ
た。熱河省は地理的には内モンゴルの一部である。しかし政治的には奉天軍閥の支配下
にあり東三省(奉天,吉林,黒竜江)に連なって民族がいた。これが問題の素となった。
 1932年3月満州国を樹立した関東軍は熱河省もその領域であると宣言した。しか
し、省主席の湯玉麟は全くあいまいな態度をとった。それには理由が3つあった。地元
の民の抗日意識に触れたくなかった事、そして他の八旗部族を敵にしたくなった事、更
に国家経営のアヘン奨励が自分が行い売り捌いている事。この三つがあったのだ。関東
軍は北満作戦を一段落させると、33年の1月に山海関で日中両軍の衝突が発生したが
、これを機に2月熱河制圧に着手し,第6第8師団,混成第14・第33旅団その他の
兵力を動員して熱河省へ侵攻,3月4日承徳を占領したうえ、10日前後で万里の長城
の線に達した。この時の戦略は阿片ばらまき作戦であった。馬賊であっても国民党軍で
あっても、戦闘の仕方は督戦隊を置いて農奴や雇用兵を先頭に鉄砲持って立たせるやり
方だったのだ。この戦闘の兵士に先にアヘンをばらまき与えて戦闘をさせずに戦車など
を進軍させた。しかし、最後の頃は賢くなって拾ったアヘンは直ぐには使わなくなって
いたと言う。1939年5月−9月のノモンハン事件は、そうしたアヘン権益確保に走
った湯玉麟以外の部族がソ連に力を求めた戦争だった。ソ連軍との小さな国境紛争から
始まった中で、関東軍(満州駐留の日本軍)の高級参謀に着任した辻政信が、個人的な
戦功をねらって次々と画策し、大本営陸軍参謀本部を無視して独断専行を重ね、日本・
ソ連の双方に多大な犠牲を出した本格的戦争に発展させた事件であった。熱河産のアヘ
ンが中国では最も上質で天津に集められ、天津・北京での消費と満州国での消費に回っ
ていた。満州国は長春(新京)などの新都市建設に膨大な国費を必要としていましたが
、日本政府には財政余力は少なく、しかもフランスからの借款も反対意見で制限してし
まい、アヘンの収益のみが満州国の主要財源でした。湯玉麟は対抗部族と抗争したり、
張作霖の娘を背負って奮戦するなど張作霖の信頼厚く、1926年から熱河の統治を任され
た金庫番として第一人者だった。しかしながら、自らもアヘン吸飲と賭博と売春に明け
暮れて圧政をしいたと言われる。彼を弁護するわけではないが、いかにも馬賊出身らし
い放埓な性格であった。彼は関東軍が熱河作戦を展開して熱河が「満州国」に組み込ま
れる1933年まで、熱河に君臨していた。当時日本は最大収穫で、年間40トンの日本の
アヘン流通を行ったが清の時代でさえ240トンのアヘンの摘発である。如何に当時の
中国の麻薬漬けの国を日本の軍部が改たに正常国家に変えようとしたかが解る。

1177: 名無しさんAA:18/08/15 15:12
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  223 >   

 1875年(光緒元年)、内モンゴルのジョソト盟(卓索図盟)トゥムド左翼旗(土黙特
左翼旗、現在の遼寧省阜新市)に生まれた。漢族の占領で10歳頃に彰武県大冷営子へ
移住する。1904年からの日露戦争では日本側の募った義勇部隊「満州義軍」に参加した
が、日露戦争が終わって満州義軍が解散すると、彰武県へ戻り巡警局長を務めていた。
このトゥムド左旗(さき)は、地名はモンゴル語で卍を意味する。所轄地域の大部分が
すべて大青山にあり、農牧を主とする放牧民の村だった。内モンゴル中部に位置して、
フフホトより西に当たる。面積は2733平方`、人口は35万人(2006年統計)。管轄行政
地域は察素斉鎮、畢克斉鎮、善岱鎮、台閣牧鎮、白廟鎮、沙璽沁郷、北什軸郷、塔布賽
郷、只幾梁郷がある。政府所在地の察素斉鎮はフフホトから47`も離れている。トゥム
ド左旗は北側が山岳地帯、南側が平原地帯、平年気温は6.3℃、平年降雨量は400ミリ。
歴史的には、優れた緑草地帯で、遼、金、元の時代は豊州と呼ばれていた。16世紀に
はアルタン・ハーンがトゥムド部落を率いて、この地方に入り込み、「トゥムド川」と
呼ばれるようになった。17世紀には清の時代ではトゥムド地方を左翼、右翼旗に分け
、18世紀ではトゥムド地方を「旗庁の並存で、蒙古人と漢人を別々管理」という統治方
法で支配した。民族人口はモンゴル人の比率は一割に過ぎず、漢民族人の比例は九割を
占る。こうしてトゥムド地方は長い間、漢民族の文化に交わった結果、モンゴル文化は
ほぼ消えた。モンゴルの名前を名づけられたモンゴル人もモンゴル語が分からず、山西
省の方言に近いトゥムドの地方方言を話す様になったがこれこそ中国式のやり方だった
。中国の判官には宦官制度を用いていた。実は宦官はオリエント時代の東欧文化から来
ているとされ、イスラム文化では、この欧州の去勢文化に対抗して作られたとされる。
この男色家傾向は強く、コーランに記載されている教義上の去勢禁止規定を回避す為に
他の教徒を襲い、幼年期に男色相手に選んで切り落としてしまっていた。こうして奴隷
の始まりがこの男根の切断だったとされる。その頃は医療技術が及ばず陰茎を切断する
と死亡率が高く、半分は何等かの病気になって死んでいった。一方で刑罰として去勢の
刑(宮刑・腐刑)がなされたり、神に仕える神官としてキリスト教の清貧の行として、
自ら欲望を絶った去勢した者を崇めた。女郎宿や淫売が日常で梅毒などの感染もあった
からだ。その流行は凄まじく東欧を襲った。紀元後になってその種類が分かれた。異民
族の捕虜や去勢された後の献上奴隷が皇帝や後宮に仕えるようになり、宦官が始まったた。

1178: 名無しさんAA:18/08/15 15:16
 宦官の頃は陰茎の去勢と陰嚢の去勢、或いは全去勢や自ら去勢したものや去勢された
者はそれぞれに意味が違い呼び名も違っていた。皇帝や寵妃等の側近として重用される
と、権勢を誇る者も出て来て、自主的に去勢しての宦官を志願す者が、王の宮廟に仕え
るようになり宦官と呼ぶようになった。当初、宦官は去勢された者(閹人)とは限らな
かったが、しかし後漢以降、宦官が閹人専用の官職になった。両者が区別されずに別名
の、黄門・太監・帳内、三保・三宝、火者・官者・宦者、閹人・資人・寺人・舎人・浄
人・仙人など呼ばれた頃には、既に違う理由がなく科挙の登用試験には去勢は前提条件
である事に変わっていた。宗教では睾丸摘出のみで去勢された者が仙人や寺人とされ、
宦官試験では多くは無くなった股下の目視検査と、布で包んだ自分の一物とを見せて試
験場の検査官入場出来た。科挙の試験に人気があると、多くの者が試験に挑み登用され
ると他人の物でも入城した者もいる。その頃には去勢の術も定着化し高い金で施術が行
われた。それでも去勢した後の傷口から細菌が入って三割が死ぬことから命がけであっ
たともいわれている。中国諸王朝において、官僚は特権階級であり、貴族ではない庶民
階級の者が、文武問わず正規の官僚として高位へ登る道は、競争の激しい科挙の進士採
用試験以外には事実上なかった。そうして自宮者は後を絶たなかったという。自宮宦官
に多くの優秀な宦官を作った。五代十国のひとつ南漢国は、特に宦官を重用したことで
知られ科挙の成績優秀者は、まず性器切断してから登用したほどであった。最後の皇帝
劉eの時代には、総人口100万人に対し宦官が2万人もおり、この国の男性25人に1人は
完全去勢していたことになる。統一王朝でも、宦官は普通は多くても数千人ほどいて、
おもに後宮に配置された。しかし、明代には爆発的に増え、約10万人に膨れ上がった。
「皇明実録」によると、1612年(明の天啓元年)に政府が、宦官の補欠3000人を募集し
たところ、応募者が2万人に達したため、急遽募集人数を4500人に増やしたという記録
が残されている。大多数の宦官は下級宦官まま一生を終えた、日々において、上級宦官
の不満のはけ口でいじめられることは日常茶飯事であった。下級宦官は高齢になっても
激務が多く、使い物にならないと解雇された。多くはその後乞食としての生活を強いら
れ餓死することになった。この境遇に陥らないため出世するしかなく宦官はひたすら、
上級宦官に対して、媚びへつらい、機嫌を伺うことに力を尽くした。と言われる。なお
切り取られた性器は「宝」とされ大切に保管され、本人の死亡後一緒に棺に納められた
。死後、性器と一緒に埋葬されなければロバに生まれ変わるといい、昇進に際しては、
宦官の証明するための「検宝」と称される作業があった。「宝」を失くした場合、他の
宦官のを盗むに至った事例もあった。

1179: 名無しさんAA:18/08/15 19:42
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  225 >

 清代末期には、低級官吏である七品官の畢五家と小刀劉の2家が、政府公認の手術小
屋「小廠(チャンツ)」を営業していた。そこには「刀子匠(タオツチャン=切り師)
が、去勢手術を請け負っていた。ここでの手術の方法については、イギリス人の研究家
ステントの発表した記録が残されている。それによると、裸にした自宮志願者をオンド
ルの上に座らせ、刀子匠の弟子に身体を押さえつけさせてから、刀子匠が、やや反り返
った形状の刃物で、根元を緊縛して勃起させた男性器を、麻酔もなしで下から一気に切
り落とした。という。その後酒で洗い術後は出血を熱した灰で止め、尿道に金属の栓を
して尿道が塞がるのを防いだが、傷口は縫合されることもなく紙で包まれるだけだった
。多くは失神して、3日後に尿道の栓を抜くまでは水を飲むことも禁止され、傷が癒え
て起き上がるまでには2ヶ月を要したと報告している。なお、中国は全去勢だが以外に
おいては、部分去勢で睾丸の摘出や陰嚢の切除或いは男根去勢だけで宦官として登用し
た例も多い。、中国の自宮(自己去勢)は残された記録で見る限り、男性器全てを切り
落とす完全去勢の方法で行われていたようである。「刀子匠」(タオツチャン)と呼ばれる政府
公認の専門家には、一人銀六両(約三万円)を支払えばすっかり治療するまで責任を持
って手術してくれたが、自宮の際には手術代の代わりに性器を質に入れるものもいたと
いう程 その頃の物価では高い手術費で、手術代すら払えなかった者もいたのである。
宦官によって国政が乱れることは多くあった。が、歴代中国王朝は廃止しなかった。中
国皇帝は、絶対的な存在の飾りで、半面実務は彼らが負っていた。自分の地位が簒奪さ
れる事を常に恐れ、皇帝は外戚は勿論のこと、親・兄弟や皇太子・皇子の自分の家族や
、有能な家臣でさえも信用ができない民族だった。宦官でない普通の人間には、権力を
託せば更に、帝位を簒奪される危険が高かった。孤独な皇帝は、権力を維持する存在と
して、去勢し子孫を残す事がなく、権力世襲のない宦官は必要不可欠な存在であった。
後漢の末期の群雄の曹操ですらも、宦官の弊害は、宦官制度そのものに問題があるので
はなく、皇帝が宦官に依存しすぎるから引き起こる、と発言しているのである。宮廷内
における、一般社会と違った、特別な制度や行事、習慣、用語、禁忌、礼儀作法、規則
などを維持していく専門職は必要不可欠、宦官に依存し、宦官制度の維持につながった
。宦官の特長は去勢の影響で男性ホルモンが分泌されず女性的な体型であり、髭が生え
ていない。


1180: 名無しさんAA:18/08/15 21:13
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  225 >

 清代末期には、低級官吏である七品官の畢五家と小刀劉の2家が、政府公認の手術小
屋「小廠(チャンツ)」を営業していた。そこには「刀子匠(タオツチャン=切り師)
が、去勢手術を請け負っていた。ここでの手術の方法については、イギリス人の研究家
ステントの発表した記録が残されている。それによると、裸にした自宮志願者をオンド
ルの上に座らせ、刀子匠の弟子に身体を押さえつけさせてから、刀子匠が、やや反り返
った形状の刃物で、根元を緊縛して勃起させた男性器を、麻酔もなしで下から一気に切
り落とした。という。その後酒で洗い術後は出血を熱した灰で止め、尿道に金属の栓を
して尿道が塞がるのを防いだが、傷口は縫合されることもなく紙で包まれるだけだった
。多くは失神して、3日後に尿道の栓を抜くまでは水を飲むことも禁止され、傷が癒え
て起き上がるまでには2ヶ月を要したと報告している。なお、中国は全去勢だが以外に
おいては、部分去勢で睾丸の摘出や陰嚢の切除或いは男根去勢だけで宦官として登用し
た例も多い。、中国の自宮(自己去勢)は残された記録で見る限り、男性器全てを切り
落とす完全去勢の方法で行われていたようである。「刀子匠」(タオツチャン)と呼ばれる政府
公認の専門家には、一人銀六両(約三万円)を支払えばすっかり治療するまで責任を持
って手術してくれたが、自宮の際には手術代の代わりに性器を質に入れるものもいたと
いう程 その頃の物価では高い手術費で、手術代すら払えなかった者もいたのである。
宦官によって国政が乱れることは多くあった。が、歴代中国王朝は廃止しなかった。中
国皇帝は、絶対的な存在の飾りで、半面実務は彼らが負っていた。自分の地位が簒奪さ
れる事を常に恐れ、皇帝は外戚は勿論のこと、親・兄弟や皇太子・皇子の自分の家族や
、有能な家臣でさえも信用ができない民族だった。宦官でない普通の人間には、権力を
託せば更に、帝位を簒奪される危険が高かった。孤独な皇帝は、権力を維持する存在と
して、去勢し子孫を残す事がなく、権力世襲のない宦官は必要不可欠な存在であった。
後漢の末期の群雄の曹操ですらも、宦官の弊害は、宦官制度そのものに問題があるので
はなく、皇帝が宦官に依存しすぎるから引き起こる、と発言しているのである。宮廷内
における、一般社会と違った、特別な制度や行事、習慣、用語、禁忌、礼儀作法、規則
などを維持していく専門職は必要不可欠、宦官に依存し、宦官制度の維持につながった
。宦官の特長は去勢の影響で男性ホルモンが分泌されず女性的な体型であり、髭が生え
ていない。


1181: 名無しさんAA:18/08/15 21:58
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  226 >

清代の宮廷事務や皇帝の身辺の世話は皇帝直属の八旗(上三旗)の旗人の中で、家政を担
当するボーイ(包衣)が管轄する内務府の宦官が、その管轄下に置かれ后妃の世話も行
っていた。最後の皇帝の愛新覚羅溥儀は共産党政権で入牢したが、自分で食べる事や、
便所で尻を拭く事も出来なかった為弟の溥傑が着いて回って教えて改めて生活が出来る
様になったという。それだけ宦官は皇帝に何もさせなかったのである。しかし、時代と
共に宦官が国政に口を出す余地はほとんど無い時代になると、去勢されても性欲の為、
宦官と女官との不義がたびたび起こり、大量の張型が押収されるという事件がたびたび
起こって来る。宦官の性行為では多量の張型を自分自身に使用していたと言われ、直腸
から前立腺を刺激することで射精に近い快感を得る方法が知られていたようだ。1911年
の辛亥革命によって、中国は清王朝が滅亡する、最後の皇帝である先の宣統帝溥儀は、
1912年の退位後も清室優待条件により紫禁城に居住し続けた。太監(宦官)もこの条件
によって新規採用者の募集を停止したのみでその後、1923年に溥儀は、家庭教師であっ
たイギリス人ジョンストンなどの影響を受け、宦官の腐敗への不満から、宦官の多くを
追放しようと試みはした。しかし、自らの排便処理すら宦官の手で行って居た中では、
不可能だった。宦官を百人程度にまで減らし絞った時溥儀の食事の準備すらできなくな
るなど、逆に宮廷の運営が滞ってしまい、結局1ヶ月足らずで、宦官の追放を撤回する
ことを余儀なくされたのである。その翌年1924年の馮玉祥のクーデターで宣統帝ととも
に宦官も紫禁城から追放され、その歴史の幕を閉じることとなったが、このとき追放さ
れたのは、宦官二千人と女官二百人だったと伝えられる。その後に皇帝溥儀に仕えたの
は実弟の愛新覚羅溥傑だった。日清戦争の戦後に袁世凱の下で、天津の新軍訓練に従事
した曹棍(そうこん)は、袁が直隷総督に昇進すると右翼歩兵第11営管帯(第一軍)
長官となっていて、黎元洪と国務総理段祺瑞との政争(府院の争い)が勃発すると曹は
両者と一定の関係を保持しつつ中立を維持していた。この為辛亥革命で、袁世凱が清国
政府を建国し、袁世凱は第2代内閣総理大臣の地位を要求と共に、醇親王の摂政王の退
位と溥儀の退位を要求し、その後1912年2月溥儀は宣統帝から退位することとなった。


1182: 名無しさんAA:18/08/15 21:59
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  227 >
こうして臣下に裏切られた形で退位したが、日本の様に大事にはされなかった。まあも
っとも、平和時の施政そのものが、日本の場合徳川幕府が実権を握って天皇を飾り物と
していたが、中国の場合は皇帝の中の宦官の差配でそのまま実権があったと言う違いが
あったが、が、しかし、中国人民を想えば、次に来た袁世凱でも曹棍でも、天皇の差配
を切って飾り物であっても存在させていても良かったろうにと思う。さらに、1924年に
馮玉祥と孫岳が起こした第二次奉直戦争に北京政変で、直隷派の曹棍が監禁され馮玉祥
と孫岳が北京を支配し、又その政変後に、帝号を廃し清室優待条件の一方清算を通達し
、紫禁城に軍隊を送った時には、溥儀やその側近らは紫禁城から強制的に退去させた。
この事を受け溥儀らは北京の日本公使館に避難し、その後溥傑も日本政府の庇護を受け
る事になった。溥傑はこの後、1929年(昭和4年)3月に婉容皇后の実弟の潤麒と共に、
来日を果たし、日本語等の学習後に、学習院高等科に留学した。しかし、その後も中国
国内の政変劇は続き、ドイツや英国を背景にした蒋介石政権が北京政府となった。馮玉
祥と孫岳の政権を、欧州や米国が認めなかったからだ。もっとも彼も又大の西洋嫌いで
あった。孫岳は秀才であり、又家系も悪くなった。だが侠客の徒党の頭目となり人望も
あったが帝を拝する者では無かった。従って、帝に近づいていた欧米列強を嫌っていた
のだ。明の兵部尚書孫承宗の後裔で孫岳は幼くして秀才となったが、祖先が清に殺され
た為、反清感情が強く、科挙を受験しようとせずに無頼の道に走ったのである。秀才(
しゅうさい)とは、通常の家柄ではない。秀でた才能を持っている人物や、他人よりも
才能が秀でているとされる村落の長として仕えた者の家系だった。もともと秀才とは、
漢の時代に科挙には5教科の試験がありそのすべてに点数を取らねばならなかった。そ
の為難関だった事からそこを通った者を「秀才」として讃えた事から来ている。しかし
一年で一人もいない程の難関でも人気があった科挙の試験は、推挙や推薦がなければそ
の面接すら出来なかった。唐の時代にこの大挙して押し寄せる試験生に規制が敷かれて
、この推薦で試験受けた者が失格の場合は死刑とされた。すると見る間に科挙には人が
集まらなくなった。初唐の科挙では、明経・進士・明法などの科目の中で、科挙の筆頭
科目に位置づけられていた。その試験科目としては、方略策を5道課し、その文理の精
粗によって判定されて起用された。その後又戻したが、科挙試験の前の前段階試験が行
われてふるい分けされた。こうして科挙の前段階で及第した者が『秀才』と呼ばれて、
『秀才』になった者は、学習に励んで学識を積み、その博い知識で問題を解決できる能
力を持つ人物を指して使用される教育がなされた。このため、社会的地位は相応に高い
所が与えられ、一種の尊称として『秀才』と呼ばれるようになった。

1183: 名無しさんAA:18/08/15 23:53 ID:1E.
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  228 >

 明・清時代になると国ではなく、府・州・県学にもこの制度が取り入れられ在学生を
持ちその者も秀才と呼ばれるようになった。こうして訓練生や特待生の資格を持つ家と
なり、1904年(光緒30年)、保定武備学堂砲兵科に入学する。1906年(光緒32年)、陸
軍行営軍官学堂(後の陸軍大学)第2期速成科で学んだ。後に、孫岳は中国同盟会に加
入している馮玉祥が国民軍を成立させると、孫岳は副司令兼第3軍軍長に任命されて、
孫文の北京訪問を後押しした。直隷派の残軍を華北から駆逐し、保定に駐屯し秩序安定
と軍備拡充を進めて、国民党政府の樹立に貢献した。1925年豫陝甘剿匪総司令に任命さ
れて、陝西督弁に着任任命すると、国民軍は奉天派の李景林軍と戦い、これを撃破する
と、孫岳は直隷督弁兼省長に任命された。しかし1926年は、「赤化」の傾向が強くあっ
た。毛沢東の起こしたテロ事件は多く市民には、その取り締まりを願う大きな声があっ
た。共産党や赤化の批判に耐えかねた馮玉祥が下野し代理として、孫岳は奉軍に対する
前敵総指揮を務めた。しかし、国民軍は共産党攻勢の展開に心労を抱え病床に臥した。
この科挙に行かなかった秀才達は、朝鮮にも多くいた。朝鮮も中国に倣って、自国の官
僚機構には宦官制度を導入していた。朝鮮最古の歴史書「三国史記」の「新羅本紀」に
は、新羅の第42代「興徳王」(ホンドクワン:こうとくおう)の王妃の章和夫人は、
即位後2ヶ月で死去したが、後妃を迎えず、後宮の侍女も近づけず、宦官に身の回りの
世話をさせたと書いている。9世紀に宦官制度があったからだ。高麗王朝や朝鮮王朝に
も宦官「内侍」(ネシ)制度が存在した。医療技術が及ばず陰茎を切断しての死亡率は高
く7割を超えたために、後は朝鮮では睾丸摘出のみで宦官とされたようだ。この事から
彼らは中国の宦官より位が下とされ半眼とされ帳内であった。彼らまた貢物として、自
国の官僚として使用しただけではなく、自国民を宦官にして歴代の中国王朝に貢進して
いた。、火者・官者・宦者、閹人の始まりだ。元の順帝時代には、後宮に権勢を振るっ
た朴不花は、高麗から貢進された宦官で名を残しあ、また明の永樂元年1403年には
、「明の皇帝の聖旨を奉じ、容姿閑雅、性質利発な火者(宦官の別称)35名を選抜して
貢進した」という記録が、朝鮮側の記録に残されている。東アジア(日本以外)の宦官は
それぞれ別名を持ち、黄門・太監・帳内、三保・三宝、火者・官者・宦者、閹人・資人
・寺人・舎人・浄人・仙人などといい、その他にも甚だ多い。しかし高麗でも毅宗の頃
寵愛する宦官の専横を許したのが毅宗の廃位と武臣政権成立の一因となった。朝鮮王朝
の内侍府も1894年の甲午改革で宦官制度は廃止された。

1184: 名無しさんAA:18/08/15 23:54
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  229 >   

現在の韓国・ソウル市鍾路区にある孝子洞(ヒョジャドン)や「火者洞」(ファジャド
ン)と呼ばれ、かつて退職した宦官が住んでいた。もともと宦官が去勢を施された官吏
である事で去勢技術が家畜に施すものとして生まれたため、宦官は牧畜文化を持つ国に
のみ存在するという説がある。だが現実には家畜の無い世界にも宦官制度がある。これ
は中国王朝など巨大王朝から侵略征服されて出来た文化である。というのが根拠となる
。英仏によって、中国華僑の活躍した東南アジアは、阿片の拡散は弊害を産んでいた。
実に欧米の商社販売から、日本軍部に代わった販売網は、日本は大東亜阿片圏と言うべ
き阿片の毒牙をむきだしに及んだ。三井・三菱の阿片船がアジアを往来した。三井物産
は上海へ、1938年4月に約3万トン、1939年1月に約7万トンもの阿片を運び
込み、南京維新政府の財政を助けた。一方で三菱商事は三井の 3.5倍もの量を193
9年2月に満州の大連へ運び込んで満州の建国を助けている。南満州進出で、21カ条
要求し、満州事変と中国への日本の侵略は拡大して、さらに日中戦争へと突入した日本
は、中国の占領地に満州帝国を始めとする傀儡政権を次々とデッチあげていくが、この
傀儡政権には致命的な欠点があった。これらの傀儡政権や親日の軍閥は、日本軍の擁護
の下に、阿片を政府・地域の許可・専売制として、阿片・麻薬の利潤を日本軍と分け合
ったが販売競争をして管理ができていなかったのである。傀儡政権の満州・内蒙古では
堂々とケシが大量栽培されていたし、輸入したアヘンもこれまで以上の数十倍の量だっ
た。価格において利益が出ない中ではケシの麻薬患者が増えるのみで、健全な市民がい
なくなれば、それだけ叛乱する要素は残ったままで兵士達に蔓延したのである。正に、
平和の特使たるアヘンとなっていった。中華民国では、この熱河の利益に更に新たな処
置を起こした。1935年(民国24年、昭和10年)12月18日に国民政府は冀察政務委員会を
設置し宋哲元を委員長に任命した機関を作った。こうして河北省、チャハル(察哈爾)
省を統治させた。スローガンに「河北省の自治と防共」、「国民政府からの分離」を目
指しすとして、先行した殷汝耕の作った冀東防共自治政府は、この冀察政務委員会と、
満州国に挟まった傀儡地方政権となるややこしい事態が生じた。1938年1月30日に、
北京の日本軍北支派遣軍特務部において、日本軍特務部長喜多誠一少将が立会人として
列席の上、冀東政府代表池宗墨長官と中華民国臨時政府代表王克敏行政委員長が会見し
、2月1日より冀東政府が中華民国臨時政府に合流することで両者の意見が一致させる
事にした。合流に関する協定の調印が行われ、こうして冀東政府は解消した。

1185: 名無しさんAA:18/08/15 23:54
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  230 >   

 南満州鉄道の設立は、日露戦争(1904年〜1905年)に勝ったから、と言うよりはロシ
アがソ連の革命政権にかわったからである。つまりシベリア出兵(1918年〜1922年)ま
での間に、ハリマン交渉があり小村寿太郎が帰国して、その合意を破ったと知るのは、
ハリマンが帰国の船の中で、ポーツマス条約が結ばれた1905年からだ。ハリマンは
グレートノーザンの社長であり、いわゆるアメリカの鉄道王であった。当時に大陸にこ
のアメリカのユダヤ資本家が足場がなかったは、アメリカ政府と共に苦慮していた時で
あった。日露戦争は停戦状態で、ロシアは、日本がロシア皇帝ニコライ2世は対国宣戦
布告をしないまま旅順港のロシア旅順艦隊を襲撃した。と強く非難した。1907年の万国
平和会議では開戦に関する条約創設の討議が行われた。またハーグ陸戦条約の改訂が行
われ日本は双方に署名し、1911年の第2次桂内閣期に批准した。国内議会を通過し日本
における効力発生は1912年だった。実はこの法律が日米開戦に対する足枷になっていた
。南満州鉄道は1906年(明治39年)に設立され、1945年(昭和20年)にポツダム宣言の
受諾に伴って閉鎖されるまで、この通称満鉄は大日本帝国の特殊会社として存在した。
南満州において鉄道運輸業のみならず、同時にその敷設所有地近郊の鉄道施設・付属地
として租界があった。ロシア帝国では、モスクワからのシベリア鉄道の一部として清国
を縦断する、東清鉄道が計画され敷設され、1896年にロシアは露清密約を結び、鉄道の
建設に必要な土地の管理権まで獲得していたのである。これが、いわゆる後の日本の、
「鉄道附属地」でロシアはこの条約を拡大解釈し、土地の単なる所有権だけでなくて、
清朝の行政権が及ばない排他的行政権、つまり領事自治権を認めさせていた。つまり、
線路や駅など本来の鉄道用地のみならず、鉄道から数百メートルも離れた用地をも鉄道
附属地として、鉱山開発や都市開発などを治外法権のある海外用地として運用していた
のである。1906年に日本の国策会社南満州鉄道が設立されると、この鉄道附属地制度も
同じにスライドさせて日本も又国際社会のしきたり通り継承した。しかし、日露戦争以
降は東清鉄道の付属地1917年にロシア革命が勃発し、革命政府が中国内の権益の放棄を
宣言せねばならなかった。そのため中国は1921年に附属地の行政権を回収して「東省特
別行政区」を設置し軍の治政下に置いた。南満州鉄道の附属地満州国の成立後1937年に
行政権が移譲され、満鉄には、ロシア帝国から引き継いだ鉄道付属地での使用権と同様
に、用地独占的行政権を与えられた。

1186: 名無しさんAA:18/08/15 23:55
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  231 >   
 当初、後藤新平は、「満鉄十年計画」を策定させ、ロンドンでの社債の発行によって
2億円を調達して、これらを原資として経営を始めた。このうちの1億円は政府の現物
(鉄道施設とその付属物)買付出資として、中国政府や日本政府に購入資金として渡り
、残りの一億円が事業資金となった。満鉄の初代総裁・後藤新平は大風呂敷男とされて
いたが、「午前八時の男でやろう」というスローガンを掲げ、台湾総督府時代の腹心で
40歳そこそこの中村是公を副総裁に抜擢し、中村とともに30代〜40代の優秀な人
材を理事はじめ要職にスカウトして、調査部を発足させ企画させて動かした。その内の
1人が三井物産元門司支店長の犬塚信太郎は32歳であった。満鉄は、ロシア帝国から
引き継いだ鉄道付属地での独占的行政権を与えられて、地方部で大規模な、他に類のな
い近代的都市計画(大連、奉天、長春のちの新京など。)を進めた。上下水道はもとよ
り、電力、ガスの供給、さらには港湾、学校、病院、図書館などのインフラストラクチ
ャーの整備を進め、満洲経営の中心となった。又発電を水力発電に頼るまでに火力によ
る発電設備まで整えて挑んだ。その為満鉄は鉄道経営に加えて炭鉱開発(撫順炭鉱など
)、製鉄業(鞍山製鉄所)、積み出し港湾事業、電力供給、農林牧畜、ホテル(ヤマト
ホテル)、航空会社などの多様な事業を行なうまでに至った。後藤の発案で設けられた
満鉄調査部は当時の日本が生み出した世界最高のシンクタンクの一つであった。満鉄は
当初から、単なる鉄道会社にとどまらず、日露戦争中に児玉源太郎が後藤新平の影響を
受けて献策した欧米の巨大メジャーのユダヤ金融の組織的拡大を求めていた。小村寿太
郎が帰国してそのアメリカ資本の巨大さを説いていて、日本の国際社会での植民地化や
奴隷化阻止を求めていたからだ。児玉機関の児玉源太郎は企画書の「満州経営梗概」に
「戦後満洲経営唯一ノ要訣ハ、陽ニ鉄道経営ノ仮面ヲ装イ、陰ニ百般ノ施設ヲ実行スル
ニアリ。」とあるように、それを具現するための組織であった。ただ後藤の心配は陸軍
の横槍での会社乗っ取りだった。そこで陸軍の動きを探る児玉機関があった。しかし、
陸軍は満鉄経営より領地拡大に走った。そして満州国が建国され満洲全土が日本の勢力
下に入ると、鉄道付属地は必要なくなり、1937年(昭和12年)に満洲国に返還された。
これに伴って、地方部の行なっていた付属地行政(土木・衛生・教育)は満洲国政府に
移管され、満鉄地方部は廃止された。大量の満鉄職員(その多くは教員)が満鉄から、
満州国へ移籍した。2億円の資本金は1906年(明治39年)の半官半民の特殊会社は1920
年(大正9年) - 4億4千万円(第1次増資)1933年(昭和8年) - 8億円(第2次増資)
1940年(昭和15年) - 14億円(第3次増資)などを行い、巨大な組織になった。そして
軍部は馬鹿な事にモノンハン事件を起こすのである。

1187: 名無しさんAA:18/08/16 00:16
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  232 >   

 日本は不思議な国である。というのもこのモノンハン事件はかなりの死傷者を出した
が、一応は日本は勝ったのであるし、ロシアの損害も大きかった。辻政信の画策と独断
専行で始まったモノンハン事件だが、この頃の銃器類は日露戦争よりは少しは発展はし
ていたが、日本の考え方や戦い方は江戸の開国時代と同じだった。世界各国は日進月歩
で進歩していたが、日本軍の兵器は進歩する余裕はなかった。たまたまその時代が船に
ガソリンの燃料機関が充実しディーゼルエンジンが開発された時期で、飛行機や電磁気
やモーターや電球が発展する時期だった。日本の開国が、もっと前かもっと後では植民
地化されて大日本帝国となってはいなかったであろう。中国に仏英が目をつけたのは、
単に日本が小さな島国がイスパニアやポルトガルと既に交易していて、中国の方が楽だ
と思ったからに過ぎない。更にもっと後に、電気や燃料機関や飛行機が標準化された後
での開国なら、それこそ官営八幡製鉄所などおぼつかないぐらい叩かれていたであろう
。そうした明治の開国時代は全く日本は頑張った。ソ連が今だ極東の地を占領せずに、
アメリカがよちよち歩きで、フランスやイギリスが植民地を増やしてイスラムのトルコ
帝国と睨み合っていた不思議な時代だった。その為日本は頑張後は、軍が巨大組織にな
って統制取れずに、その兵器開発や国体維持には綻びや甘えが出て来ていた。つまり国
は平和を希求して疲れてきていたのだ。現場主義から遠のいた所の指導者が勝手な司令
をジャンジャン吐いて、これまでの苦しかった日本の昔を忘れ、如何に生きて来たかを
忘れ、薄氷の上の国家を見失った頃だった。従って旧態のまま19世紀以前の様な軍隊
を持って気焔を吐き、戦国時代の軍隊と変わらない精神思想で、日本的視野で日露戦争
後は、第一次大戦後第二次世界大戦と進んだ。旧日本陸軍の最高指導者たちと高級参謀
たちが戦争は外交の一端であると考えていても、その外交は軍部によってかき消されて
いた。また戦争の正義や国内の仕組みは、必死に取り組まなければならなかったが中国
経営に於いて長期的な視野はなく、日本の借款返済に追われた国家予算だった。それは
他の国も同じ事だったが、アジア主義や平和融合主義を持っていた概念を、欧米に溶け
込ませる事は出来なかった。日露戦争時の白兵突撃によるおびただし戦死者を出さない
為の工夫や戦略は、軍備・兵器を近代化することとは等しかったはずだが、その欧米の
崇高な命や国や思想の本懐はこの頃に指導部は理解出来ていなかった。その上に天皇の
持つ崇高な平和への祈りも又無知で愚かで理解していなかった。このモノンハン事件の
顛末とその処分に関しては旧日本帝国陸軍の最高指導者・高級参謀たちの無能・無策・
無責任を嘆かずにはいられないものだった。

1188: 名無しさんAA:18/08/16 00:18
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  233 >   
 モノンハン事件はそうした意味では、大きな節目の事件だった。つまりこの戦争での
戦いから、全く世界は変わってしまった戦いに入った。と言って良いだろう。その変化
を起こしたのが、中国の蒋介石と農業経営出来なかった朝鮮の両班達であった。英国領
インドでは、中国市場へアヘンを輸出することを停止することについに余儀なく同意し
たが、インドが綿花輸出に変えた事で綿花の暴落と中国の綿花栽培の縮小を招き結局は
ケシ栽培を増産させてしまっていた。つまり中国国内はより多くのアヘンが増えたので
ある。同時に既に東南アジアの他の地域の植民地の「(アヘンの)専売」には規制が無く
インド以外のアヘンまで中国に向かった。アヘン戦争でイギリスのジャーディン・マセ
ソン商会やサッスーン商会は、アヘンの販売の利権を独占的に手中におさめることによ
って、巨万の富を得たのだが、その特権を日本陸軍はそのまま継承した。満州における
アヘン漸禁主義と専売制度は、満州帝国経営の基礎的資金となったばかりか、特務機関
や憲兵隊の豊富な謀略資金ともなったのである。1932年には組織化されたアヘンの専売
があり、三井商事は、さもこれが国内における麻薬の多量の消費を抑える目的のため、
と説明してアヘンを栽培していた。事実当初は台湾の様にモルヒネに加工される事での
アヘン患者の縮小を図った。しかし、それは大陸では無理な話だった。結果安価な麻薬
の氾濫となって更に大きく作られ販売された。固定された栽培地が熱河省と吉林省など
の北西に設定され1934〜1935 年の間の栽培面積は 480 平方キロメートル、1 平方キロ
メートルあたり 1.1 トンを生産していたと米国の密偵は観測していた。 また、多くの
非合法の栽培もあって、非常によく儲かるためこの危険な麻薬を効果的に抑制すること
に障害となった。こうしてアヘンの利益からモルヒネの販売利権まで持っていかれた米
国のユダヤ資本は巻き返しを図る為に調査と行動を起こした。中国の意向を聞いて1909
年、上海で国際会議が行われた。本来なら米国や英国で行われる国際会議が上海で行わ
れた理由は、勿論本国の同業他社に醜い姿を見せない為だった。こうしたロビー活動は
成功し、1912年のハーグにおける万国阿片条約が決まった。だがこの条約は結局は国が
専売として管理し、必要以上は生産流通に乗せず密貿易と認定し、所持する事を犯罪と
する声明であった。更に密偵は、満州の架空の商社を見つけ出しニキサンスケを突き止
めた。東条英機・星野直樹の「二キ」と、 鮎川義介(ヨシスケ)・岸信介(ノブスケ)・
松岡洋右(ヨウスケ)の「三スケ」である。条約会議で決まった専売で、1 年当り2000〜
3000万円の利益を生み、満州国の産業発展に資金供給をした。更に軍隊は兵士や自国民
よるアヘンと麻薬の使用を禁止し、日本の市民権を剥奪されたが、劣等種族の士気をく
じくために使用することには欧米同様に許可を与えていた。

1189: 名無しさんAA:18/08/16 00:19
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  234 >   

 岸信介(きしのぶすけ)は佐藤家の第5子次男として生まれた。多布施の作り酒屋と
いうから比較的裕福な家庭であったろう。後に佐藤家は佐藤栄作が産まれているが、信
介の方は比較的体が弱く、又学力も思わしくなかった為か10才の元服がすぎると岸家
へ養子に出された。後に東京に上京して第一高等学校に入学して東京帝国大の法学部ま
で行って無事卒業している。あの三島由紀夫の親父などと親友であり、随分と国粋主義
的物があったようだ。マルクス主義などの本を読み漁っているから現代経済学に通じた
考え方を持っていたようだ。満州国総務庁次長をしていたが、終戦前に東条英機内閣の
商工大臣(第24代)になり、以降には衆議院議員9期務めて、自由民主党幹事長までも
なっているが、吉田茂の土下座外交とは反りが合わずに離れている。昭和の妖怪と言わ
れる程に財力を持っていた。何処からともなく政治資金を調達する岸は、満州から去る
際には「政治資金は濾過機を通ったきれいなものを受け取らなければいけない。問題が
起こった時は、その濾過機が事件となるのであって、受け取った政治家はきれいな水を
飲んでいるのだから関わり合いにはならない。政治資金で汚職問題を起こすのは濾過が
不十分だからだ。」という言葉を残している。これは長州閥がふんだんに資金を手に入
れ満州利権を長州閥で固めようと岸を総務庁長官に呼んだ他でもない理由であったのだ
。彼を動かし重用したのが、久原房之助であった。久原房之助は近代会社の草分け的な
存在でやけっぱち財界人で知られていた。彼の投資はものすごく儲けては会社を作り、
作って不況時になり無一文より悪い借金生活をし、軍需が起きれば更に会社を作った。
いわゆる目利きの良いどんぶり勘定の経営者だった。当初は他を真似た日立銅山を藩の
財政立て直しに入札で手にして近代化した機械設備を取り入れ明治初頭に久原鉱業所の
成功を見て久原財閥の総帥として「鉱山王」の異名を取った。その後事業拡大に転じて
日立製作所、日産自動車、日立造船、日本鉱業創立の基盤を作った。第一次世界大戦後
の恐慌を機に政界へ進出。「政界の黒幕・フィクサー」と呼ばれ、右翼に資金を提供し
て二・二六事件に深く関与したと言われる。戦後はA級戦犯容疑者となり、公職追放と
なったが日中・日ソ国交回復会議議長などを務めている。逓信大臣、内閣参議、大政翼
賛会総務、立憲政友会(久原派)総裁などを歴任している。ニキサンスケの星野直樹な
どは満州国のアヘン専売局の儲けを抵当にして、日本の複数の銀行から多額のローンを
取り決めたりして事業を興している。当局者によれば、満州国の分も含めて中国全体の
麻薬の収入は日本軍によって年間3億円だったと推測されこれらが満州国に使われ消え
ていった。

1190: 名無しさんAA:18/08/16 10:12
 不思議なのはこの長州閥の流れがいずれも戦後においてクリスチャンであった事だ。
米国では、先祖がアイルランド移民出身のジョン・F・ケネディが歴代アメリカ大統領
となった時は、多数派プロテスタントではないとして、アメリカの歴史上初めてでかつ
唯一の少数派カトリック教徒だ。と騒がれアメリカ人にとっては大問題であるとされた
。この事実は無関係な日本人でも全員が知っている様にアメリカ中の話題でもあった。
しかし、対照的に、靖国神社は騒がれても、我が国の最高責任者の首相が何教を信じて
いるかは、あまり誰も話題にしない。アメリカとは大違いで日本国の国民は一切無関心
で国家神道の信者だと思っているか思われている。なる程日本には天皇と言う元首は別
にいるにはいるが、アメリカの大統領と同じぐらいの日本での権限を持つ首相である。
 実は日本の首相は意外にもクリスチャンが多く、判明しているだけでも信教の自由が
侵害されていた敗戦以前の日本の首相は30人の中で、近々の敗戦前だけでも原敬首相
がキリスト教徒であり、戦後に信教の自由が日本国憲法に明記された敗戦後の首相32
人中で、吉田茂、片山哲、鳩山一郎、大平正芳、細川護熙、麻生太郎、鳩山由紀夫と、
キリスト教徒の首相が7人もいる。ほぼ4人に1人が西欧系キリスト教信者だったので
ある。この事実をもっと欧米やアジア・アフリカ・中南米などキリスト教国に宣伝した
ら、日本を見る目が変わってくるであろうが、一神教の他国と多神教の中で仏教も神道
もキリスト教も信じてその祭礼に列席する姿はちょっとやそっとでは理解出来ない姿で
はなかろうか。外務省などまったく無関心ではあるが価値観の違いの共産党国が、東方
正教のロシアだったり、仏教や儒教を弾圧した朝鮮半島や中華人民共和国だったりだと
G7でロシアを追放した理由が解る。日本を除けば全員がカトリックかプロテスタント
の西欧系のキリスト教諸国で、共通の認識や価値観を謳った会だと言う事もあながち嘘
では無い様だ。日本の場合、キリスト教信者の首相とは言え、厳格な意味では欧米世界
の『一神教』では無い。何しろキリスト教信者の筈の麻生太郎首相が靖国神社に参拝し
て、中国韓国と大騒動を起こしている。大平正芳も熱心なキリスト教徒だったが、嫌々
靖国参拝を行い、わざわざ中国の批判を焚きつけている。うがった見方をすれば彼らは
日本人であったのかどうか。あの国家神道を軍国主義で盛り上げて、辛辣な体罰教育で
特攻爆撃隊をつくり、陸海空共に自殺テロの様な軍人精神を叩き込んでまでいながらも
彼らはのうのうと戦後の日本に生き残り君臨し続けたのである。善し悪しは兎も角も、
今更ながらに驚嘆する考え方や生き様があったのだろうと思えてくる。近年では鳩山が
意味不明に沖縄米軍撤退を言ったが代替案は無いに等しいもので盛り上げた。今でも、
クリミア奪還をロシアが正しいなどと馬鹿を言う。住民疎外の勝手な意見の野郎だが一
体どこからそんな考えが出て来るのか、日本の不安定要素の一つである。

1191: 名無しさんAA:18/08/16 10:22
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  236 >   
 治外法権の中で歴史的に最も有名なものは恐らく、いわゆる不平等条約の下での19
世紀の時の中国と日本におけるヨーロッパ国籍者に関連するものであろう。勿論南米や
アフリカも比べ物にならない位極悪非道の白人優位主義がまかり通っていたであろう。
しかし、事文献や歴史的絶対的な事実が克明に記録され論議される程の国際社会に出て
いながらも、しつこく又強制的に公然と国際政治でそれらが行われていたのは欧州地域
と中東地域とアジア地域しかない。その中でも中東や欧州には歴史的な対立軸があった
が、アフリカや南米やアジアは、何ら因果の元となるそうした物はもたない無辜の人々
の地域であった。ただ単に歴史上の旅行者たる進んだ技術を持つ欧米人が立ち寄ったに
過ぎず、治外法権が持ち込まれる程の悪さがあった訳では無い。特に日本が第二次世界
大戦で受けた仕打ちは、単に欧米人よりは先に行くかもしれない。と思う恐怖心からの
白人達からの威嚇と恫喝との戦いであった。時代背景として「白人の植民地支配」をさ
れるのか、対抗して「白人以上の独立帝国」を築くかでしか、国の判断が進まなかった
のは事実であったろう。こうしてアジアの盟主たる中国が、第一次アヘン戦争の結果、
南京条約で中国に治外法権が押し付けられ、アロー戦争で賠償金が課されてしまった事
で影響下にあったベトナムや朝鮮やモンゴルやチベット或いは日本は、それぞれの自立
した文明や防衛の道を手さぐりで探す事になったのだった。とりわけこの時の中国の悪
態は、上海に2つの治外法権の領域である「国際居留地」と「フランス居留地」があっ
た事だが、これを治める力が無く、外国人の活動の中心地となった事で、日本にまで不
平等条約が持ち込まれ大きな迷惑を被った。しかし、この治外法権は公的には第二次大
戦後にようやく終了したが、日本も文明国の列強に仲間入りした時に、ちゃっかり同列
に座って各都市の租界地を利用した事で大きな国際的反発を受けた。中国国内からは、
同じアジア人を白人崇拝の中に入れないとする反発があり、海外列強からは、白人優位
主義の法的基盤の類に合致しない。と言う人種偏見で叩かれた。しかし、この列強の席
につかなかったとすれば、今のアジアはなく、中国大陸はアフリカや南米の様に小さく
分断された統治形態で、おそらく中東の様に戦争が絶え間なかっただろう。この国際的
アヘン貿易に日本が本気で取り組まなかったら、世界は既にユダヤ支配の下でインドの
社会の様な混沌とした不衛生の中で生きる人類が蠢き、世界カースト制みたいなものが
出来て今の文化なんてものは全くできなかったであろう。かくして日本はこの内外の、
治外法権反対勢力との戦いに巻き込まれる。日本の意志が伝わらず日本でも利用にかこ
つけた軍政の軍国主義が触手を伸ばした。敗戦後は現に世界一とされるアメリカ国内に
でもそれは生き残り、今でも銃砲事件麻薬の麻薬犯罪は後を絶たないのだった。

1192: 名無しさんAA:18/08/16 10:34
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  237 >   

しかし現代においてもこの軍隊式の有無を言わさぬ上意下達の教育システムは、何故か
どこかしこに生き残っている。人は強制的命令がすきなのだろうか。面白いのはコンピ
ューターシステムの世界では真逆の事が起こっている事だ。人工知能の世界では、しば
しばその埋め込まれるべき高速搬入の知識でも、コンピューター同士で勝手な話し合い
をして正確さを要求し、誤動作を誘導したりする。今流行りの仮想コインやら、サイバ
ーテロやウイルスで行われる多くのプログラムは、その振れ幅で確実性を試す為に共に
組み入れられるミスシュートのトラブル防止システムの悪用である。電脳世界では計算
は完全に行われ例え人工知能で映像記憶の仕組みを取り入れても、AI学習でもミスは
許されない程に複数計算されて一回でも同じ答えが出なければ答を出さない。コンピュ
ーターの計算は、その為基本的にOSのプログラムのその上の機械的処置として複数計
算を同時進行してもその答えが一緒である。この確認は常に行われる。その性格そのま
まに実は進化した。従って車の自動運転でも或いは認識の自動記憶も勝手にネットワー
クで確認するようだ。つまり逆に電脳世界では個性を出すことが能力となるが、それが
出来ないでいる。当然である車の保護プログラムもエンジン能力と操作やタイヤ回転な
ど幅はあっても規定して管理するのがシステムというものだ。決して軽自動車にトラッ
クエンジンを付けるなんてことは、不可能だから機械は発想も行わない。しかしそれが
誤動作の元となる。今や正確さのそれを壊す事が進化となったのである。人間は逆に、
システム化を学習する規律として行う。それにより進化とした。モノハン事件ではその
分枝点であった。その頃にアメリカ社会に起こった異変があった。ニューヨークを始め
、チャイナタウンが林立して抗争を初めて、アメリカ国内にアヘンが蔓延していたので
ある。まるでゴミ溜めの様な一角が強力になって、行政の息詰まりが始まっていた。彼
らは阿片を持ち込みタバコの様に習慣として吸った。当初そんなに大した事は無かった
。米国政府は、今の禁煙の様にチャイナタウン撲滅の為に対麻薬撲滅キャンペーンを張
った。実はコカインやアヘンは精製さえされなければ、決して危険な物にはならなかっ
たし常習性のみが問題だっただけだった。しかし精製されキニーネが出来モルヒネが広
がるとそれは違っていた。又司法当局もチャイナの奴隷の一掃には、この麻薬取締法は
欠かせないものとなっていた。しかし、同じアジアの日本人はそうした麻薬の法律には
かからなかった。それが戦時中の米国に唯一現れた日本人収容所の理由である。中国人
や朝鮮人は簡単に捕まえられたが、日本人には効果が無かった為、新たに排斥法を作っ
たのである。

1193: 名無しさんAA:18/08/16 10:45
 ある意味半藤一利さんが「絶対悪」と酷評する元陸軍参謀・辻政信のような人物が出
てきて戦争に導いた歴史の流れは、逃れようのない運命ではあったろう。「辻さんは強
いですよ。徹底的に言うから。ちょっとでも消極的なことを誰か言うと、どやし上げる
から辻さんの前では、みんなまともにものを言わない。軍司令官だって師団長だって、
みんな黙ってます。すると軍の方針が辻さんの言う通りにだんだんなっていくんですよ
。」と言った。この集団化し強権化ピラミッドを作る群衆の心境は、今でも変わらない
人の中にある葛藤かもしれない。集団化した社会では、規律が無ければ収拾がつかない
。ところが規律を作れば個人の多様化した思考は保てない。ある意味会議や民主主義は
この多様化で他人の知恵をも借りてでも未来の幸福社会を創ろうと言うシステムでもあ
る。第一次モノンハン事件があった頃までは、日本は米国以上の民主国家だった。何故
なら軍法会議でも作戦会議でも或いは戦地の前線すら一兵卒すら意見できる集団だった
からだ。だがその後大戦前夜頃は軍が総動員令をかける頃は、上司は絶対的権力者に、
変わっていた。モノンハン事件の途中に損害が遥かに大きかったソ連軍には続々と援軍
が到着していた。対して、第23師団に満州全域の各部隊から抽出した4千名の補充兵
が到着するのはまだ先のことで、関東軍は第23師団が現状でこれ以上の攻勢を維持す
るのは困難であると考え、総攻撃2日目に第23師団に対し陣地を構築して防衛体制に
入れと命令した。この命令を主導したのも辻であったが、辻は満州の自然を熟知してお
り、「満州近辺の冬は零下51度にもなる。9月には降雪が始まる。そんな状況で攻勢
作戦をとれば冬越えの準備が疎かとなり、兵士は戦ではなく寒さに凍え死ぬことになる
。」と意見具申し、この作戦の大転換を決めてしまった。既に銃弾が尽きた関東軍には
新たな軍団編成が必要と判断し第6軍を送った。しかし6軍の幕僚らはノモンハン戦に
は当初から関係している人物はおらず、又参謀すらも関東軍参謀20数名の横滑りした
参謀すらなかった。参謀長の藤本鉄熊少将は朝鮮の航空団団長から転じてきた航空畑の
人物だったのだ。これまで主導してきた辻は「破れそうな茅屋を、雨漏りのままで譲る
。」という事を書いている。中間司令部ができたことにより「軍の自主性を尊重しよう
」という建前で、戦局が悪化するノモンハン戦から離れて、東部国境に出向している。
「関東軍は大局的な視点に立った事件の収拾に注力するため。」との意向だったが、し
かし、軍編成にあたって、関東軍司令官植田などから第7師団を追加するという提案も
辻ら作戦課参謀が「関東軍唯一の戦略予備である第7師団を極東ソ連軍が全面的に不穏
な動きを見せている今、軽々しく動かすべきではない。」と言う意見や「築城と冬営設
備の輸送を続けているため、これ以上の輸送量が増大する方策は不可」という反対意見
を主張したため見送りとなっていた中の交代だった。

1194: 名無しさんAA:18/08/16 10:46
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  239 >   
 第一次モノンハン攻撃事件以降に、この戦地の戦略を重要視したソ連軍は、7月末よ
り、大反転攻勢に向けて入念な準備を開始した。まずは、五万五千トンにも及ぶ膨大な
軍需物資をピストン輸送した。ここでシュルテンは見事な手腕を発揮した。膨大な物資
の輸送を円滑に行う為の偽装策まで練った。またザバイカル方面軍から7月末に第57
狙撃兵師団に第6戦車旅団、8月には第152狙撃兵連隊第1連隊と第212空挺旅団
などが次々と増援部隊として移動を開始した。モスクワでは最終的にジューコフが要請
してきた以上の3個狙撃兵師団、2個戦車旅団、3個装甲車旅団を増援として送り込ん
だのだ。増援の兵員数だけでも総勢三万名以上となったが、このあまりにも多い物資と
兵員の輸送量に対して、一部の狙撃兵部隊は、徒歩でノモンハンまで行軍させられた。
7月末からのソ連軍の増強は、実質増援を全くしなかった日本軍と好対照の戦力増強で
あったのである。ソ連軍は総攻撃作戦準備として3週間に渡って、その意図を気づかれ
ないに様々な欺瞞工作を行っていた。陣地構築中の日本軍に対し砲撃と小規模部隊によ
る攻撃を繰り返したし増援以外の兵を集めたりデマを流したりした。特に8月1日〜8
日にかけ行われた第149狙撃兵連隊と第5狙撃兵機関銃旅団による攻撃では、欺瞞の
攻撃とは思えないほどの強力な攻撃であり、準備砲撃では「生きとし生けるもの全てが
掃滅」されるほど激しいものであった。その為いずれの攻勢もソ連軍が大損害を被り、
撃退されている。日本軍はこの攻撃により、大規模な偵察攻撃に慣れてしまい、大部隊
の移動に警戒が薄れ、総攻撃部隊の移動を見過ごした上に、両翼の兵力を中央に集約す
る動きを見せ、ソ連軍は「攻撃は失敗ながら、日本軍司令部の判断を狂わせた。」と、
対照的高評価している。小松原はこのソ連の欺瞞工作を見抜けずにいた、日記にも「噂
されし8月攻勢の企画も見えず。戦場概して平穏なり」、「戦線平穏」との記述が散見
され、第23師団司令部の情報記録もソ連軍総攻撃前の記述にも「特に変化なし、平穏
なり」、「コマツ台上羊群の放牧せるを散見せり。」という緊張感のないものである。
ソ連軍の作戦は、中央を歩兵攻撃し、正面の日本軍を集めて、両翼から装甲部隊で敵を
全面包囲しようとするものであった。具体的には、魚の獲り網の様な作戦で捕虜収穫の
目的のようなものだった。だがシェフニコフ大佐が指揮する左翼の北方軍が、フイ高地
の捜索隊を攻撃して南東に進撃し、ポタポフ大佐が指揮する右翼の南方軍は日本の第71
連隊を攻撃してハイラースティーン(ホルステン)に向けて北進し、南方軍と北方軍と
で日本軍を包囲するが、共に充分な人員と戦車や銃弾が供給されていた。両軍が包囲を
完了するまで、ペトロフ准将が指揮する中央軍も又それだけでも威力のある兵力がつけ
られた。

1195: 名無しさんAA:18/08/16 10:53
 総攻撃に投入されたソ連軍の兵力の合計は なんと兵員5万2千名、更に戦車438輌
、装甲車385輌、76 mm以上の重砲・野砲292門、高射砲87門、対戦車砲130門と圧倒的な
もので、兵員数でだけで5倍、火砲4倍以上、戦車に至っては日本軍は全く持ってなく
その戦力差は歴然であった。日本軍は一部前線部隊を除けば、完全に不意打ちを食らっ
た形となった。第23師団はソ連軍の意図を読み取ることが出来ず、3方面の攻撃につ
いてもどこが攻勢の重点が見極めることさえできなかった。さらに今までも、何度も繰
り返してきたように敵戦力を過小評価し、攻撃開始日の夕刻に小松原は反転攻勢の準備
を下命している。しかし、これは小松原の独断ではなく、ソ連軍の総攻撃があった場合
には、ソ連軍の重点攻勢地点を逆に日本軍が側面迂回して、後方を遮断し一挙に殲滅さ
せるという、従来からの関東軍以下第6軍、第23師団の共通の方針であった。関東軍
の作戦参謀らも「我の最も好機は、敵が攻勢に転じたるものにして、この機会において
敵を補足し得るものと信じたり。」考えていた。しかし、ソ連軍の総攻撃を「我の最も
好機に敵が攻勢に転じたる」と思った理由が第23師団正面の陣地は逐次強化されてい
て、相当の兵員や銃器強度を有していると期待された、現地興安軍も代わって指揮官が
日本人である満州軍石蘭部隊が陣地防衛に参加し、第7師団の森田旅団の歩兵2個大隊
砲兵1個大隊が戦場付近に警備として常駐、速やかに戦闘に参加できる態勢がある事を
前提としていた。しかし現実は、陣地築造はソ連軍の妨害で工事進行度はいまだ3分の
1も未達成、満州石蘭部隊は、ソ連軍攻撃を受けるや直ぐに日本人指揮官を殺害して、
ソ連軍に参加し、森田旅団程度の戦力の追加では焼け石に水の大戦力の攻勢であった。
この関東軍の情勢分析などは実情とは、全く大きく乖離していたのである。ノモンハン
事件では、日ソ両軍ともに偵察活動が不十分で、お互いに誤った情報による作戦ミスを
犯している。ソ連軍も総攻撃の際も同じ轍を踏んでおり、攻撃に際しての偵察活動もお
粗末であった事は日本軍にとっては幸運だった。ノモンハンから離れていた辻だったが
不慣れな第6軍参謀らはこの時「関東軍本作戦の主任参謀たる辻少佐出向を望んだ。」
といわれる。8月23日に関東軍司令官植田の命令で再度ノモンハンの前線に派遣され
ることとなった。北方軍の 兵員約6,000名、戦車200輌、装甲車123輌に対し、向い立つ
井置捜索隊には800名の兵と 少数の火砲しかなかったが、北方軍は大苦戦を強いられた
。陣地攻略に絶大な威力を発揮する化学戦車を先頭に、ソ連兵は「ウラー」と喚声を上
げながら突撃し塹壕に大量の手榴弾を投擲してきた。塹壕を巧みに活用した日本兵によ
って、陣地内の塹壕に化学戦車が擱座すると、日本兵が得意の白兵戦に持ち込んで、ソ
連兵を銃剣突撃で圧倒し大損害を与えて撃退するといった一進一退の攻防が終日に渡っ
て繰り広げられた。

1196: 名無しさんAA:18/08/16 11:06
こうして日本軍はソ連軍のフイ高地防御防衛は成功していた。北方軍スターク少佐戦死
を含む大損害で、フイ高地を訪ねてジューコフは、これ以上の作戦の遅れは容認できな
いと予備兵力全てをフイ高地攻略に投入することにした。それを知ってシュテルンが駆
けつけ「無理をせず一息入れて、2〜3日かけて準備し再度攻撃せよ」と勧告した。が
、ジューコフは「戦争に犠牲はつきもの、特に頑強な日本軍相手であれば当然のこと、
3日も延期すれば、途方もない作戦遅延と損害を出す、貴方の勧告を受け入れたら損害
は10倍にもなる。貴方の勧告が命令なら書面にしてほしい、もっともそんな命令書は
モスクワが拒否するはず。」と突っぱねた。この後にジューコフは国防相のヴォロシー
ロフに手を回しシュテルンに何らかの助言で勧告を取り下げている。結局ジューコフが
正しくあったが、シュテルンは、戦後に「予備部隊については、これは理解できない作
戦だった。」と報告書に記述している。フイ高地攻略に手間取った軍司令シェフニコフ
大佐を更迭し、新たにアレクセンコ大佐を司令官に任命し、予備部隊の212空挺旅団899
名と第9装甲車旅団1,809名を追加投入して、猛攻撃を加えてた。既に戦力差は10倍以上
となっていたが、それでも井置捜索隊は弾薬尽きるまで戦い続けた。その頑強な抵抗は
戦後の報告書に書かれている。24日に八百名の兵員は、既に内戦死182名、負傷183名で
、半分兵員が死傷していた。食糧・弾薬も尽きて指揮官の井置は拳銃で自決しようとし
たが、部下に制止され、24日の16時に日本軍としては殆ど前例がない独断での撤退命
令を出した。残存兵269名は勇猛にソ連軍の重包囲を掻い潜り、オポネー山まで撤退
した。散々ソ連軍を足止めし大損害を与え、「ジューコフが指揮官なら勲章を授けてい
ただろう優秀な指揮官」の働きした井置だったが、本隊に来ると独断撤退を小松原や辻
から責められて、ノモンハン戦停戦後9月16日に自決する。小松原は第8軍をソ連軍
の猛攻撃の中で反転攻勢の準備を進める指令を出した。増援の第7師団森田旅団が敵主
力を引き付けている間に、第23師団主力がソ連軍の側面に回り込むという作戦を主張
した。が、安全策で大きく迂回しハルハ河まで追撃するとした第6軍案があり、対立し
決まらなかった。丸1日作戦が決まらず砲兵団の畑少将も加わって激論し、結局上部組
織の第6軍の案が採用されて敗戦に向かう。やっと各部隊に伝達された時は既に応戦し
て3日目で動けなかった。作戦では諸連隊の中央をあわせて右翼(北)を進んで、森田
少将率いる南の歩兵隊が左翼(北)を進撃し、ソ連軍主力で南方から日本軍を包囲しよ
うとしている南方軍を逆包囲する作戦で攻撃開始は翌24日と決められ、攻撃計画が決定
した後23日午後に関東軍司令部から派遣された辻だった。道中ソ連軍戦闘機や砲撃によ
り命からがらがら前線司令部に辿り着いた時、司令官の荻洲はウィスキーを飲んで、辻
に「君一杯どうかね、明日の前祝に」と語りかけるなど余裕綽々であった。

1197: 名無しさんAA:18/08/16 11:08
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  242 >   

翌日には、攻撃参加予定部隊はすでにソ連軍の猛攻で防戦一方で、攻撃開始し前進どこ
ろの事ではなかった。既に動ける部隊は歩兵連隊の合計5個大隊となり、予定の9個大
隊の半分に満たなかった。更に支援の砲兵の展開も間に合わないと知らされ攻撃開始の
直前に、フイ高地から全滅したことが知らされた。辻は「何たる幸先の悪さ」と考えた
が、悪いのは幸先ではなく、第6軍や第23師団の戦況や敵状を探索せず、兵力を無視
して立てた無謀な作戦計画そのものであった。前線の指揮官や下士官は、この攻撃が全
く無茶な事は十分に認識した者は多くいた。第72連隊の平塚少尉が小倉第2大隊長へ
「このままやったら全滅ですよ」と話しかけ、小倉は「おれもそう思う」と返事をして
いるのが常識として無駄な戦いと知っていた事を物語る。攻撃は9時開始と司令され、
戦車を含む重武装の第57狙撃師団第80連隊が守る780高地(ヤレ高地)に向かって
白昼堂々と4〜6kmも突進するという近代戦では考えられない戦術すらない古風な作戦
で始まった。突撃を開始し、ソ連軍の圧倒的な火力で日本兵はバタバタと倒されていっ
た。小林少将、酒井連隊長、小倉大隊長などの指揮官・部隊指揮官も負傷し、8月24
日のわずか1日で、第72連隊の損害は戦死324名、負傷377名にも上った。正に玉砕死
闘で死傷率50%である。連隊が壊滅状態に陥ったのは当然だった。一方攻撃を受けた
ソ連軍の損害は、公式戦史では死傷285名、戦車4両撃破と、日本軍の損害の3分の1と
発表されている。しかしこの公式戦史は、実際に被った損害の約3分の1の記述であっ
た事が、後にグラスノスチによるソ連軍公文書解析で判明しており、実際は日本軍と同
じぐらいの損害を被っていた。攻撃に同行していた辻はこの状況に、独断で『師団命令
』を出して攻撃を中止させた。実は辻にはそんな権限はなく越権行為であったのだが、
小松原からはその判断を感謝され不問にされている。事実小松原は無能の戦武将だった
。同時に攻撃していた左翼の森田兵団は、全く同に、有り余る重火器展開で撃退された
。しかし小松原は攻撃を諦めず翌25日も攻撃を続行し続け、今度は歩兵第28連隊も
にも5割以上が死んで行った。『ノモンハンでもっとも拙劣な作戦』と酷評された反転
攻勢はこうして大失敗に終わった。この攻勢の失敗は、単に日本軍が大損害を受けたに
留まらず、戦力を抜かれて無駄に消耗した日本軍の防衛線を崩壊させるきっかけを作る
。シュルテンは後にこの日本軍の攻撃を「大喜びでおびき寄せたかった場所」に日本軍
が自らはまりこんできたと評した。つまりソ連の飛んで火に入る夏の虫状態であり、ソ
連の側の待ち構えた蟻地獄であった。

1198: 名無しさんAA:18/08/16 11:09
 この圧倒的な火力兵力のソ連軍と、747や757といった高地を巡って激しい争奪戦を繰
り広げたが、747高地の歩兵第71連隊第3大隊主力が防戦してかなりの被害を及ぼした。
化学戦車を先頭として、守る日本軍兵士には『黒山のような』と形容したほどのソ連軍
は歩兵の大群が何度も攻撃してきたのである。しかし化学戦車はハルハ河西岸で日本軍
歩兵に苦戦させられた経験により安易には日本軍陣地に近づかず、50m離れた場所で
一旦停止しては、火炎放射攻撃してきた。実は日本兵は化学戦車に対して肉薄すると、
火炎瓶や、手榴弾を何個も縛り付けた結束手榴弾を投げつけて機甲師団泣かせの戦術で
応戦してた。戦車が止まれば、土塁の日本兵と、マシンガンを持って戦車の影に潜んで
応戦するソ連軍歩兵とは、高地の至る所での白兵戦をなった。白兵戦展開は2時間戦い
続けようやく撃退している。しかし、尽きる事のないソ連の弾薬に比べ、日本軍は弾薬
・食糧も底をついた。こうして、ソ連軍は次から次と新戦力が攻め込んできて、7月2
2日には各拠点が包囲されてしまっていった。夜には一旦拠点を放棄し、翌23日に第71
連隊は三角山とヒョウタン砂丘に集結したが、第3大隊は殆ど壊滅していたのである。
そこに第6軍司令部より、攻勢移転のため連隊全兵力を攻撃開始位置に移動せよとの命
令が入った。南岸から転進するとノロ高地を守っている南端の長谷部支隊が孤立するこ
とになるため、師団司令部に意見具申したが回答はなかった、やむなく森田連隊長は独
断で第1大隊だけを転進させ主力(第2大隊と残存兵)はそのまま現地に残らせた。が、
しかしただでさえ少なかった兵力が、南端を守るため第1大隊の転出する事は、各部隊
の境界地域が手薄となって、各拠点が孤立して戦うことを意味した。そうしてやっとソ
連の思う様な中央終結で、7月22日にノロ高地北翼に戦車18輌で攻め込んできた。第1
師団から派遣されていた岡崎速射砲中隊は迎撃し、速射砲と火炎瓶などを駆使して13
輌を撃破して撃退した。中には戦車に飛び乗ってツルハシで砲塔のハッチをこじ開け車
内に結束手榴弾を投げ込み撃破した日本兵もいた程勇猛だった。ソ連軍は日本軍の抵抗
が激しいと知ると、確保した『蒙古山』と呼称されたノロ高地至近の砂丘に重砲や野砲
を設置して、至近距離からの直接照準でノロ高地の日本軍守備隊に集中砲撃を行った。
ここでも化学戦車が活躍し、掩体や地下壕から現れた日本兵を焼き尽くした形となった
。長谷部支隊の指揮下にあってノロ高地前面陣地を死守していた梶川大隊は、砲撃が終
わった後に肉薄してきたソ連軍歩兵と、大隊長自ら銃を撃ち手榴弾を投擲するとこまで
追い詰められながら何度もソ連軍を撃退し続けたが、弾薬と水が尽きかけている状況で
は持ち堪えられないと支隊長の長谷部に暗に玉砕を申し出たが、拒否され「なるべく長
く陣地を確保せよ」との命令が届いた。


1199: 名無しさんAA:18/08/16 11:09
 この命令を知った梶川大隊の将兵は、最後の突撃による玉砕を梶川に進言するが、梶
川は「死ぬときはこの陣地で死のう」と部下を諭した。この梶川大隊の勇戦敢闘は後に
アメリカ陸軍戦史部のエドワード・ドレー博士は、「その勇気と頑強さはノモンハン戦
では随一」と特筆表記している。こうして26日にノロ高地の戦況が最後の段階に達する
と、その東方で同様に苦闘していた歩兵第71連隊主力の命運も尽き、連隊長の森田が、
ソ連軍の重機関銃の銃撃を受け戦死した。8月8日に連隊長に着任しわずか18日での出来
事であった。第71連隊は第2大隊遠井大隊長が代行したが、第23師団からの命令で撤退
したため、27日にはハイラースティーン(ホルステン)川南岸からは日本軍が駆逐され
、残る日本軍の拠点は第23師団主力が守るバルシャガル高地(ソ連名レミーゾフ高地)
のみとなってしまった。これまで最前線で戦い抜いた山県大佐率いる歩兵第64連隊と第
7師団歩兵第26連隊の1個大隊で守っていた。またその後方では、7月25日からの砲撃戦
でソ連軍に巨弾を浴びせた砲兵団主力が支援する形で配置されていた。対するソ連軍は
高地全周を7個連隊2師団で囲い、他の部隊は国境線まで進出し、日本軍の増援の進出
を牽制した。27日にはバルシャガル高地の歩兵第64連隊も風前の灯火となっていたが
、このまま第23師団が全滅してしまっては、国際的に日本の大きな不名誉になると考
えた小松原は手持ちの残存兵をかき集めてバルシャガル高地を救援することとした。合
計の兵力は歩兵第71・72連隊の生存者を含め 1,440名であったが、数万の兵力でバルシ
ャガル高地を包囲するソ連軍の包囲を突破し高地まで達するのは極めて困難と思われた
。第6軍は救援を止める勧告した。しかし小松原は勧告を無視し自ら救援隊の指揮をと
ることとし28日に出撃した。一方第64連隊の山県は師団よりの知らせで救援部隊が、
到着すると認識していたが、第6軍の勧告などで出撃が遅れ28日には到着しなかった。
事情を知らない山県は小松原救援隊は敵の妨害によりもうバルシャガル高地には到着で
きないと判断し、唯一砲兵隊で指揮官が健在だった野砲第13連隊の伊勢高秀大佐と協議
し、主力に合流するため29日高地の脱出を命じた。山県の命令で隷下の部隊は同時では
なく時間差を置いて後退しており、小松原直率の救援隊がバルシャガル高地に到着した
ときには既に山県と伊勢率いる主力は撤退済みであった。脱出した第64連隊主力はソ連
軍に捕捉され、進退窮まった山県と伊勢は、ソ連軍の重囲下で軍旗を奉焼した後自決し
た。ソ連軍は撤退したバルシャガル高地に進攻させ、日本軍残存兵が籠る陣地を一つ一
つ虱潰し(しらみつぶし)に殲滅していった。しかし激しく抵抗され戦功をあげていた
旅団司令官ビクターアレクシェビチアミネフが戦死している。こうした日本軍の激しい
抵抗を制して、ソ連軍が完全にバルシャガル高地を占領したのは5日も後だった。

1200: 名無しさんAA:18/08/16 11:12
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  246 >   

 苦労して高地まで辿りついたが、山県らと入れ替わりでバルシャガル高地の左翼陣地
に到達した小松原救援隊であった。しかし、そのまま引き返すことなく陣地を構築し防
衛態勢をとった。辻はその状況を知ると30日に第6軍司令部にかけつけ、そこで司令官
の荻洲が辻に「辻君、僕は小松原が死んでくれることを希望しているんだが、どうかね
君は」と話しかけられたため、辻は憤然として荻洲に「軍の統帥とは師団長を見殺しに
することですか」とどなり、その後に第6軍の参謀らに「誰か若い参謀が決死隊を連れ
て師団長を救出して来い。」と命じた。が、これまでの第6軍幕僚と小松原の感情的な
しこりもあって、誰も反応しなかったため、辻は「よしっ、君たちが行かないのなら、
俺が行く。」と立ち上がるとようやく高級参謀の浜田大佐が自分が行くと名乗り出た。
しかし、敵の重囲下に小規模部隊を派遣しても損害が増えるばかりという結論に達して
、救援隊の救援は出されず、30日に小松原に第6軍より撤退が命じられた小松原救援隊
は大損害を被りながらも31日に敵中突破に成功している。小松原救援隊は大損害を被り
ながらも31日に敵中突破に成功している。しかしながら第23師団の損耗率ははげしく
既に78%にも達し文字通り全滅していた。8月だけの死傷数は八千五百名に達してい
た。一方力押ししたソ連軍の損害も又大きくロシア国防省戦史研究所ワルターノフ大佐
の報告では死傷者数11,205名と日本軍を上回っている。しかし前述の通りワルターノフ
大佐の報告はその後のロシア人研究家たちの調査により過少と判明しており、実際はも
っと大きな損害を被っていたと推定されている。大本営はソ連軍総攻撃前の7月末には
、既に日本政府として停戦を模索していた。東郷特命全権大使は停戦交渉を指示してい
た中で、土居明夫駐在武官は「戦勝の裏付けがなければ見込みは薄い。」との進言し、
その通りに交渉には進まなかった。ソ連も外交交渉による事件解決の希望を持ってはい
た。ソ連軍大攻勢開始直後のに、東郷が樺太問題についての協議にソロモン・ロゾフス
キー外務人民委員代理が会見したが、「日ソ国交の正常化はソ連も希望している。」と
の話で、そのためには国境諸問題(ノモンハンを示唆)を解決する必要があると東郷は
力説し、ロゾフスキーは「日本側から具体的な申し出が有ればソ連は検討する」と回答
している。しかしこれは遅すぎた。ソ連軍の大攻勢で、戦勝どころか第23師団が壊滅
状態に陥っていた状況下で、独ソ不可侵条約の締結は日本の立場を更に弱いものだった
。独ソ不可侵条約が締結された8月23日に、リッベントロップは大島との約束通りに
、スターリンに日ソの仲介を申し出た。この時関東軍も大本営も被害を隠す事に奔走し
全く反省がなかった。天皇も怒っていたがどうしようもなく軍部が強かった。

1201: 名無しさんAA:18/08/16 11:17
スターリンは戦局が有利に進んでいたことから「時には彼ら(日本)を厳しく取り扱わ
なければ」と拒絶はしなかったものの、即答を避けた。既に第一次攻撃でノモンハンで
は日本軍戦車隊は終局をむかえて兵員かいなく増兵もないまま戦っていた。ノモンハン
で戦闘が続くなか、1939年8月23日 スターリンはドイツと独ソ不可侵条約を締結した。
日独防共協定の締結後、日独の軍事同盟を積極的に推進してきた陸軍はこの報に大きな
衝撃を受けた。宇垣一成はその時の陸軍の様子を「驚天狼狽し憤慨し怨恨するなど、と
りどりの形相であった」と記述している。25日には平沼騏一郎内閣が日独同盟の締結交
渉中止を閣議決定し、28日に平沼が「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じ」と声明
し、総辞職するに至った。これは日本の国防の混乱だった。つまり国際社会の均衡が、
ソ連との不可侵の和平を作っている事を軽視していた大本営や現地司令官や参謀辻政信
の不始末であった。勿論欧州応戦か日本侵略かを天秤にかけて、大量機甲師団をモノン
ハンに差し向けて居た事の徴候すら見抜けなかった駐留武官や視察兵の怠慢も又あった
参謀本部は、戦局を関東軍を通して報告を受けていたので、実情を十分に把握できてい
なかったが、参謀本部第2部第5課(露西亜課)は独自のルートでノモンハンの戦況を
掴み、同課の甲谷悦男少佐から「ノモンハンは総崩れ」という報告がなされ、 8月29日
ごろになって戦局はかなり厳しいということをようやく把握した。そのため、 8月30日
には方針を転換した『大陸命第343号』を起案して、趣旨説明に参謀次長の中島らが
関東軍に出向いて事の真相が明らかになった。参謀本部の意図は中島が持参した『大陸
命第343号』の一項に書かれてあった通り「北方の平静を維持するにあり、之が為の
「ノモンハン」方面に於いては勉めて作戦を拡大することなく速やかに之が終結を策す
」とノモンハン事件の早期収束であった。この頃にノモンハンでの戦いを仕切っていた
関東軍参謀の辻は、今までの経験により「戦法も改めねばならぬ、戦車と重砲と飛行機
において我に数倍する敵に、従来のような原則的戦法では到底勝つ見込みはない」と考
え、その新しい戦術として、前代未聞の3個師団もの大兵力による集中的な夜襲攻撃を
考案していた。ただしこの作戦は苦肉の策とも言えるもので、発案者の辻ですら「名案
ではなく、これ以外に勝ち目はない。」としていた。作戦課長の寺田から辻考案の3個
師団夜襲作戦を説明されるとその夜は祝宴が開かれたが、これを知った参謀本部作戦課
長の稲田はすぐに次の手を打ち、「情勢に鑑み大本営は自今「ノモンハン」方面国境事
件の自主的終結を企画す。」「関東軍司令官は「ノモンハン」方面に於ける攻勢作戦を
中止すべし。」とより具体的で断定的となる『大陸命349号』を出し前命からわずか
4日しか経っておらずこの急変は、なぜかと激怒し詰め寄った。前回に懲りた中島は、
「大命です」の一点張りで突き通した。

1202: 名無しさんAA:18/08/16 11:18
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  248 >   

 この参謀本部の頑なな態度に植田ら関東軍司令部もついに観念し、9月6日に植田の
署名では最後となる関東軍命令『関作命第178号』が発せられ、ノモンハン方面での
攻勢作戦は一切中止され、実質的にノモンハン事件は終わった。植田は「戦場に残され
た遺体の収容をするための出撃だけはぜひ許可して欲しい」と懇願したが、中島は「そ
れさえも、お許しにならないのが大命の趣旨です」と突っぱねた。関東軍は「戦場整理
」の名目で攻勢発動をする目論見であったが、中島はそれを見抜き拒み続けたのである
。しかし、第6軍に発令されて関東軍より増援された各部隊の総計は、この時点では、
関東軍より多くの増援を得ていた。第6軍司令荻洲として高揚していた。この時に荻洲
の指揮下に、第23師団の残存の他に、第2、第4、第7師団と第1、第8師団の一部に重
砲と全満州からかき集めた速射砲230門があり、総兵力は65,000名にもなっていたの
だ。ノモンハン戦に関する記述で、よく日本軍の参戦兵力として記述されるのが、この
時点での兵力である。さらに9月3日には、参謀本部が第5、第14師団などの増援が決定
したという報告も受けていた為、その増援を加えると10万以上の規模に達する部隊と
なっていた。荻洲の気持ちはさらに高まり「速に敵に鉄槌的一撃を加え、国境鼠賊掃滅
の蠢動を一挙に封殺し、皇軍の慰武を宣揚し以って大元帥(天皇)陛下の信綺に応え」
と部隊に檄を飛ばしている。そんな司令官の高揚が全軍に伝播し、『関作命第178号
』が第6軍の参謀に到着した際は、参謀長の藤本は一読するとポケットにねじ込んで、
「当分のうちはこの電報は絶対に他に漏らしてはならぬ」と部下参謀に厳命している。
第6軍の、島貫参謀は計画で、『関作命第178号』の発令前に第115旅団に997高地
への夜襲を計画していた。6日に一旦中止していたが、『関作命第178号』発令後に
、島貫が直接片山旅団の歩兵第16連隊(連隊長宮崎繁三郎大佐)に当初計画通り97
7高地への夜襲を命じた。夜襲時に防衛していたのは、狙撃兵603連隊モンゴル兵の300
名前後であったが、激戦の末、8日朝に977高地を占領した。同日の日中になってソ
連軍は、第6戦車旅団の戦車50輌を含む宮崎連隊を圧倒する戦力で逆襲してきた。数回
ソ連軍の攻撃を撃退し、激戦を繰り広げた後に、宮崎連隊は10日に977高地を撤退
したが、宮崎は引き揚げる前に、今後の停戦協定に備えて証拠を残そうと、部隊の石工
出身の兵士に命じ、十数個の石に部隊名と日付を刻み付けて、占領地の地中に埋め込ん
だが、これが後の国境画定交渉で日本側の主張が通る大きな要因となり、宮崎連隊は『
ノモンハン唯一の勝利部隊』と称賛された。


1203: 名無しさんAA:18/08/16 11:18
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  249 >   

また11日に、独立守備歩兵第16大隊と独立守備隊15大隊黒崎中隊の日本軍四百名
が吹雪の中、1031高地(ハルハ山マナ山)に進攻し、1031高地を防衛していたモンゴル
軍騎兵第8師団22連隊六百名を白兵戦で潰走させ占領した。モンゴル軍が退却した後
には、遺棄死体22体、砲4門、数十頭の軍馬が残されていた。これがノモンハン戦の
最後の戦いであった。日本軍の快勝劇であり、責任を問われモンゴル軍騎兵第8師団2
2連隊のバダルチ連隊長は処刑されている。その後、モンゴル軍の要請を受けたジュー
コフが奪還を準備していたがこの日本進撃の報をうけ、9月15日に停戦合意に至り、
1031高地は最後まで日本軍が確保した。この事はソ連でも同じ様に指導部と現場の
戦略戦法とに乖離があった事を示すものだった。と言うのも、もともとソ連軍はモンゴ
ル軍の要請を受けてこの戦車や兵員投入を決めていて、決して領土奪還ではなかった。
もっと言えばウラジオストックへの交通路や大陸鉄道のスムーズな運行などの利権であ
り、モンゴルの騎馬隊などと敵対しない為に建前上は応援部隊だったのだ。この点にお
いて関東軍は理解していなかったと言える。日本人は、定住民族としての土地の領地に
こだわるが、このモンゴル人民にはそうした概念は土地の利権でしかなく言わば海の中
の漁業権みたいなもので、自由に放牧民を交通させて味方に入れて居ればこの戦争その
ものが無かった事だった。そこの一部の定住民族との党首なり長なりとの会談で合意が
あったとしても一部にしか過ぎなかった。その意味ではこの戦争は無意味な戦争だった
。支配して言葉もつながらない者らがその支配地を巡回しても、例えば不審者を見つけ
兵舎や営舎まで引っ込んで会話しようとしても、それは大陸の人間から言えば連れ去り
拉致監禁と見られていたのである。基本的に言葉か通じない者は誰であろうと敵だった
。特に銃など武装した新手の集団でやって来た部族にしか見えなかったのである。ここ
でもし粘りづよく丹念に多くの多部族を味方にしても部族間の古来よりの敵対心などは
消える事は無かったのだ。つまりこの事を辻は理解していなかったのである。要請で停
戦となり、この1031高地占領のおかげで、停戦後の領土交渉の際にソ連軍に占領された
ハイラースティーン(ホルステン)川周辺の係争地とほぼ同じ面積 (500 km2) の広大
な土地を日本は確保することができたのである。又第一次モノンハン事件と第二次モノ
ンハン事件は全く異質の戦いであった。第一次では厚い装甲版をもつソ連戦車は試験的
車両で全体に10〜5台もなく重層車両として使っていない。従って軽装甲しか持たない


1204: 名無しさんAA:18/08/16 11:19
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  250 >   

 当初はソ連の装輪装甲車は脆弱であった。しかもタイプによっては操縦手の膝上や後
上部にガソリンタンクがあるという構造的欠陥もあり、7.7mm重機関銃の徹甲弾の集中
射撃や、九二式車載十三粍機関砲の13.2mm弾でも撃破可能であった。しかし、第二次で
は2割以上の重装車両を置いて戦った為に、更にこの厚い鋼板車両には外から留め具を
付け今までに車両を置いて逃げて来る兵員を減らす処置がとられていた。更に直ぐに壊
れた車両や軽車両を持って帰り、鋼板を繋ぎ込むと言う修理班を連れてやって来ていた
。その為欠点であるガソリンエンジンの車両の排気カバーを取り付けであったり、日本
のジーゼルエンジンを組み込んだりした車両があったりしていた。、主砲については、
ソ連軍戦車装甲を貫通していたし、装甲厚にしても、ノモンハンの戦場で最も厚い装甲
をもっていたのは、日本軍の4輌の九七式中戦車(最大装甲厚25 mm)が勝っていたが
しかし新車両はそうした欠点をカバーしていた。ジューコフの率いる第一軍集団は上部
機関として極東のソ連・モンゴル軍を統括した前線集団司令官グリゴリー・シュテルン
の下にいた。司令官はノモンハンの勝利を「ソ連の8個師団に対し、日本は不完全な2
個師団に過ぎなかった。言うなれば4対1であった。戦車・大砲においても我々は優越
していた。ただ、損失数においても優越していた。死傷者数は膨大であり、ベッドは不
足していた。我々が世界に吹聴した勝利は、あまりに犠牲の大きい勝利であり世界に勝
利を喧伝するほどのものではなかった。ノモンハン事件は間近に迫っていた軍事的災難
の序章で、我々に戦争の準備ができていなかったことは確実であった。」と話、後年考
えた通り停戦後には、参謀本部に戦闘経験を調査し、作戦の誤りや、軍の戦争準備の遅
れ等の問題点を洗いなおすよう指示をしている。「一般にノモンハン事件は日本軍惨敗
だった。と言われるが、ペレストロイカ以後に旧ソ連側から出た新資料によれば、実態
は引き分けに近かった。」としている、しかし「損害の面では、確かに日本軍のほうが
少なかったし、領土に関していえば広さは変わらなかった。しかし、一番中心的な地域
では、ソ連側の言い分通りに国境線が決まったが、停戦間際に日本軍はその南側にほぼ
同じ広さを確保してしまう。それがいまだに中国とモンゴルの国境問題の種になってい
る」と指摘している。半藤一利は「勝ち負けをいえば、これは国境紛争で、停戦のとき
、向こうの言い分通りに国境を直してますから、負けですね。しかし、戦闘そのものは
互角だった」と述べ「最新鋭の装備であったソ連軍に対して日本軍は全くの白兵攻撃で
あったわけで、「日本軍が勝ったとまではいえない」が兵器の無い中でのその奮闘ぶり
は相当なものであったと言える。

1205: 名無しさんAA:18/08/16 11:21
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  251 >   
 また、ソ連側では、戦略的に二正面作戦を避けるために独ソ不可侵条約によって後顧
の憂いを断つなど、この事件を単なる国境紛争ではなく本格的な戦争として国家的な計
画性を持って対応していた。だがこれに対して、日本側は政府が全く関与していなかっ
たばかりか、日本軍の中央もソ連軍が大規模な攻勢に出る意図を持っていることを見抜
けず自重するように指導していた為に、関東軍という出先軍の、辻政信と服部卓四郎な
ど一部の参謀の独断専行による対応に終始した作戦しかなかった。福井雄三の著書では
「10倍近い敵に大被害を与えて足止めをした実戦部隊は大健闘、むしろ戦術的勝利と
も言えるが、後方の決断力欠如による援軍派遣の遅れと停戦交渉の失敗のため戦略的に
は敗北した。」と結論付けている。事実日本がもっと精力的に境界策定してソ連側との
膝付き合った談判と了承を得ていたなら、この戦争は起きなかった。それどころかモン
ゴルの先住民に一部でなく全体から受け入れられた可能性すらある。そうなればモンゴ
ルがソ連に泣きつき増兵要請はしなかっただろう。基本的に満州国樹立も遅かったし、
こうした和平交渉も遅かったからだ。更に言えば先のシベリア出兵時にちゃんとチタ共
和国をちゃんと支援すれば良かったのである。ところがアメリカ艦隊の横浜入り事件な
どに追われて国際社会に忖度しそれを行わなかったのである。モンゴルでは日本軍の戦
死者は5万と伝えられている。元ソ連参謀本部長、故ヴァシリイ・ノヴォブラネツ大佐
の手記では、『ノモンハンで勝ったのは、兵力と武器類の面で優位に立っていたからで
あり、戦闘能力で勝利したのではない』と書いている。ノモンハン戦で最も多く投入さ
れたBT-5戦車は、車体後部にむき出しで大型の円筒形マフラーが設置してあり、これは
寒い地域仕様で、夏場の戦いでは車体が灼熱化と火災延焼の原因となっていた。ノモン
ハン開戦直前にはBT-5とT-26とT-37しか配備されていなかったが、第二次ノモンハン事
件のソ連総攻撃時には、そのマフラーを機関室内配置し、車体が灼熱状態になり難い新
型のBT-5やBT-7が投入されている。この新型は鉄板を厚くし、砲弾を強く仕上げたもの
だった。その為連射が可能でその時の日ソの砲弾消費量の比率は1対10以上になって
いた。砲の性能は「威力性能はソ連火砲に些かも劣らず。とくに十五榴と90野砲は威力
を十分発揮した。」とソ連軍火砲との性能差は感じていない。それは第二次には、既に
戦車の機動部隊は消滅し九六式十五糎榴弾砲や九〇式野砲の野砲しか残って居なかった
からだった。もともと日本軍の八九式中戦車の装甲板17mmは、ソ連軍の戦車砲で簡単に
破壊されたが、八九式中戦車の短砲身57mm砲はソ連戦車の装甲を破壊できなかったし、
戦車運用も兵員補強で一緒に行動する為の物で、間違えても戦車同士の対面決戦は避け
る事を教示していた。

1206: 名無しさんAA:18/08/16 11:23
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  252 >   

 戦車の戦闘性能はソ連軍のそれに比べ劣っていた。敵のジューコフは「戦車は射程が
短いが高射砲は我が方をしのぐ長距離の重砲」と射程の面ではむしろ日本軍重砲の方が
上回っていたと評価している。ソ連軍は化学戦車と称した火炎放射器をT-26に搭載した
戦車をノモンハン戦初期の5月から投入していた。火炎放射器は陣地攻撃に絶大な威力
を発揮、特に日本軍歩兵は火炎放射されると、恐怖と呼吸困難により陣地を維持するこ
とができず次々と放棄していった。しかしソ連軍は、火炎瓶攻撃によってやられていた
為、直ぐに出て機銃掃射で戦うのが得策だった。ノモンハンで日本軍が火炎瓶を使用す
るきっかけは諸説あるが、1939年に岡野一等兵がトラックで移動中にソ連軍戦車に攻撃
され、ガソリン缶を敵の方に投げ捨てたところ、戦車がガソリン缶が踏みつけると同時
に発火し戦車が炎に包まれた。或いは負傷兵を収容していた時戦車が来て、アルコール
瓶を投げつけたら戦車に勝った。などと言われる。これでソ連戦車がガソリンで炎上す
ると知った日本軍は、手軽に手に入るサイダー瓶をかき集め大量の火炎瓶を作成した。
火炎瓶で戦車を攻撃する肉薄攻撃班は、火炎瓶2〜3本と手榴弾数発を持った2名を1
組とし、それぞれ個人壕に籠り、戦車が接近すると火炎瓶の導火線に点火して戦車に向
かって投げつける。すると戦車はたちまち炎に包まれると30mぐらい走って止まり、
炎上する。炎上した戦車から飛び出した戦車兵は日本軍に射殺されていった。一番効果
のあった7月2日・3日までのハルハ河東岸での戦いでの第26連隊の報告では、わず
か1時間で10輌の戦車を火炎瓶で撃破した。としている。しかしこの奮戦が第二世界
大戦でも竹槍で勝つと信じられる元になった。火炎瓶攻撃といった古式の戦いは神のご
とく崇められ日本の精神論者に強く受け入れられたのだ。これが第二次世界大戦の日本
の敗戦を決めた玉砕精神論である。一方ソ連軍は各戦車中隊ごとに戦車の修理を監督す
る技術担当士官を配置していた。技術士官には修理対象の損傷戦車を牽引するトラクタ
ーと、技術士官自身が搭乗するための戦車があてがわれたが、その戦車やトラクターが
日本軍速射砲の餌食となることも多かった。日本軍は撃破や擱座させた戦車をソ連軍が
回収・修理できないように火炎瓶などで全焼させた。一方のソ連軍も全焼し修復の目途
の立たない戦車は穴を掘って埋めていた。埋めた理由というのは、日本軍は撃破された
戦車に狙撃兵を忍ばせ、回収するために近づいてきた技術士官やソ連将校を狙撃したり
、時には速射砲や機関砲を備え付けた即席陣地とし、防御の拠点にすることも多く日本
軍に再利用させないためであった。

1207: 名無しさんAA:18/08/16 11:26
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  253 >   

 総合的に日本軍の戦車砲・対戦車砲は、ソ連軍の戦車砲・対戦車砲の長砲身45mm砲と
比べて、砲初速、徹甲弾の強度や貫通力が劣っていた。日本側は希少金属の制約により
弾頭の金質も又悪かったからだ。少年戦車兵学校の校長となった玉田美郎は、ノモンハ
ンの戦いでは戦車第4連隊長を指揮していたが、部下の砲手が「隊長殿、私の撃つ砲弾
は、たしかに命中するのですが、敵戦車は跳ね返します。」と嘆くのを聞いて、この戦
闘の行く末を心中ひそかに心配していたと言う。こうした事は航空戦でも起こっていた
。航空戦の主力となったのは日本軍は九七式戦闘機、ソ連軍はI-153とI16であったが
。当初はソ連空軍に比べて日本軍の操縦者は練度が圧倒的に上回っており、戦闘機の性
能でも、複葉機のI-153に対しては圧倒的な優勢、ほぼ互角であった。また、投入した
航空機の数も、当初はほぼ互角であった。そのため、第一次ノモンハン事件の空中戦は
、日本軍の圧倒的な勝利となった。日本陸軍航空隊(陸軍航空部隊)の操縦者達の活躍
は目覚しく、20機以上撃墜のエース・パイロットが23名おり、なかでもトップ・エ
ースの篠原弘道は3ヶ月で58機撃墜を記録した。ある時、関東軍は日本側の主張する
国境線よりモンゴル側にあるソ連軍のタムスク飛行場(モンゴル語ではタムサグ・ボラ
ク)の爆撃計画を立てた。計画を事前に知った大本営中央は国境を越えた軍事行動で、
事態の拡大を招来することに危惧して、自発的な計画の中止を打電、6月25日に大本
営作戦参謀の有末次中佐を派遣し計画の翻意を図った。しかし空爆計画の実行を強く願
った関東軍は、有末中佐の到着以前の計画実行を決定し、6月27日タムスク飛行場を
重爆24機、軽爆6、戦闘機77の合計107機で実施して、未帰還機4機という少ない被害に
より戦術的には大戦果を上げた。しかし、こうした事は毛沢東の意図する事であった。
実はソ連では国内に2つの迷いがあった。一つは対ドイツ戦略である。米英はもともと
対日よりドイツとソ連の戦闘を望んで画策していた。母国欧州を心配するユダヤ人が多
くいたからだ。実はこの年の東欧の穀物は更に不作にあったのだ。これに対して輸入し
ていた仏国や英国は米国から輸入していたが、ドイツやソ連はその恩恵は受けられなか
った為ドイツでは、生存圏構想を持ち上げソ連の食糧生産領土を狙っていたのは自明の
理だった。対して共産党ソ連は、不満ある農民や貧民を次々に収容所に送り過酷な強制
労働に送り国民の300万人が連行されて行ったとされた。それでも不満が収まらずい
たので、これらの農民を徴兵で国境部隊に参加させようとしていた。つまり送った所で
紛争が起こるのは明らかだったのだ。


1208: 名無しさんAA:18/08/16 11:28
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  246 >   
 第二の問題はその食料問題だった。中国の毛沢東は満州などを中国の物にしてくれた
ら、肥沃な満州からの収穫を送る事を約束した。工業力も農業力もない中国はソ連の耳
元に食糧供給の夢をささやくしかなかったのである。それが嘘っぱちな事は解っていた
スターリンだったが国内不満は取り除く必要があった。更に嘘でもこれを利用して英米
の中に食い込む必要があった。つまり、日本との紛争に英国や米国が仲裁に入って食料
供給をしてくれれば援助でなく購入でも良かった。つまり勝てば境界線協定には賠償金
を絡めて引く事が出来るからだ。ところが第一次は敗け第二次も振るわずいたのである
。第二次ノモンハン事件に入ると、ソ連軍は日本軍をはるかに上回る数の航空機を積極
的に動員してきた、操縦者の練度で優る日本軍航空部隊を数で圧倒させるとともに、ス
ペイン内戦に共和国義勇兵として、ドイツ空軍と戦っていたベテラン・パイロット参加
を招聘し派遣し訓練した。旋回性能の優れた日本軍の九七式戦闘機に対し、操縦手背面
に装甲板を装備したI-16によるロッテ戦法や一撃離脱戦法で対抗し、これにより日本軍
は開戦時の損耗率10:1から3:1とかなりに損耗したが、空での優勢は停戦まで続いた。
第一次と第二次を併せたソ連側損失は、日本側の発表では 1,252機だった。(戦闘機隊
によるものは97式戦闘機が1048機、95式戦闘機が48機)。しかしソ連側が主張していた
損害は145機、後のソ連崩壊直前に訂正された数字でも被撃墜207機+事故損失42機だが
大戦後には日本側の発表に近いとされる。一方、日本機の損害は記録によると大中破も
合わせて 157機(未帰還及び全損は64機、内九七戦は51機で戦死は53名)だった。日本
側の最終的な損耗率は60%で、最後には補給が追い付かず九七戦の部隊が枯渇し旧式な
複葉機の九五式戦闘機が投入されるに至るほどだったからもっと大きかったかも知れな
いが如何に小規模の空軍だったかが判明した。これらの戦訓から陸軍は航空機の地上戦
での有効性と損耗の激しさを知り、一定以上の数を揃える必要性を痛感した。関東軍の
中には、辻発案の夜襲による総反撃が参謀本部の横槍で中止されたため、負けてはいな
いという強い空気もあったが、陸軍中枢では陸相の畑が「大失態」として更迭された。
中島の後任の沢田茂参謀本部次長が「陸軍始まって以来の大敗戦、国軍未曽有の不祥事
」として更迭された。作戦課長の稲田は「莫大な死傷、敗戦の汚点」などと敗戦意識が
強く、その責任を追及する方針となった。又、特に関東軍司令官の植田については、目
覚ましいタムスク空爆を指揮したが、独断で越境した罪で、昭和天皇は何らかの処分を
求めた。それは昭和天皇の指名による阿部内閣の畑陸相も「明らかに越権行為にて一の
大権干犯と見ざるを得ず。当然関東軍司令官の責任なり」と昭和天皇の意向を汲んで、
植田を激しく非難したからだった。

1209: 名無しさんAA:18/08/16 11:37
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  255 >   

 しかし植田自身も充分承知であって自ら「全責任は軍司令官たる植田に存す」と考え
ていたため、まずは9月7日付で植田を司令官から辞任し、ほぼ同時に関東軍の作戦参謀
も解任された。 又、日本軍は、戦後の捕虜交換で204名(うち満州軍44名)が生還して
いるが、ソ連軍の記録によれば捕虜は 566名であり、捕虜交換で生還しなかった者もい
てその人達の消息は不明である。この頃は、日本ではまだ「生キテ虜囚ノ辱シメヲ受ケ
ズ」の「戦陣訓」のなどの示達前であり、捕虜になることに対しては、国際法上も国民
意識も悪い事でなくむしろ皇民として親からもらった命を粗末にしなかった。無駄死に
しないで天皇に働けると称賛すらされた。しかし、226事件以降には天皇も国民に対
して考え方を変えて、特に田中義一の就任の際の、三百万円の政治資金を持参金とした
陸軍機密費横領問題や在郷軍人会を票集めに利用したとする疑惑などの真相不明ではあ
ったが、在郷軍人会の育ての親である憲政会(後に立憲民政党)が軍縮政策が在郷軍人
の投票行動に影響し対立する田中の政友会票がのびて総裁就任になった事から多くの声
が天皇批判に傾き厳しくなっていた。又、高橋前総裁時代に出されていた陸海軍大臣の
文官化論が就任直後の田中による「鶴の一声」で否定され、党の政策が軍備強化・対外
強硬路線へと転換しながらも、5.15や2.26事件が起こっていたからである。こ
の天皇に忖度する様に、というより軍部の反対が無かった為合意したかのように、陸軍
刑法などでの法的裏付けも明文化された規則もなかった。ノモンハン事件の捕虜に関し
ては1939年9月30日付の陸満密845号においては陸相命で「捕虜すべて犯罪者と見なして
捜査して、有罪と認めたる者を之を起訴すべし」という厳しい方針が示された。これで
、一部将校については軍法会議にもかけられず自決勧告がなされた。乗機を撃墜されて
捕虜となった飛行第1戦隊長の原田文男少佐はモスクワに連行されて、「日ソは協力し
て南方に進出すべきだ、ソ連はインド・イランへ向かい、日本は英国を駆逐する。」な
どとソ連側に意見書を提出させられたりし、捕虜交換で日本に帰ると、同じく捕虜とな
って帰国した飛行第11戦隊の大徳直行中尉と共に自決勧告を受けたのであった。この時
若い大徳は「撃墜されて人事不省で捕虜になったのだから恥じる必要はない。再起して
もう一度戦いたい。」と抵抗し願ったが、原田が説き伏せて2名とも自決している。こ
の時から日本の上層部の曖昧模糊の決断と結果責任回避に部下を自決させるという卑怯
な作戦本部が生き延びる事になる「支那形態」が出来た。それが敗戦まで続いたのである。

1210: 名無しさんAA:18/08/16 13:28
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  256 >   

この7月と8月の戦闘だけで、日本軍の死傷者数は、4万4,768名(戦死者1万8,868名、
負傷者2万5,900名)に達したとしている。後に出たシーシキン大佐の本では、日満軍の
損失の総計は5万2,000〜5万5,000、そのうち、死者だけで2万5,000人と記述している。
大体の所だが5万5千人の死傷者で、その内の二万五千人の半分が戦死者と見て最低線
であろう。だが実は当時の大本営は必至にこれを隠したのである。他方ソ連はどうだっ
たか、ソ連軍中央国家文書館の文書によれば、 戦死者18,300人、戦傷者3,500人、捕虜
566人(88名は捕虜交換)、遺体引渡し6,281体であった。としたソ連軍も又、過少報告
を望んだのだった。中央国家文書館所蔵のソ連軍資料では「日本陸軍当局は戦死傷者数
が1万8,000人であることを認めたが、日本陸軍当局(正確には第6軍軍医部)発表より
過大な戦果報告を行っている。基本的にソ連発表は「ソ連の損害九二八四名、日本軍の
損害五万二千〜五万五千」という情報をベースにしたものである。今解って来た事は、
ソ連の損害はもっと大きく二万五五六五名で、日本の損害一万七四〇五名を大きく上回
っているとされる。日本軍が苦戦をしたことは事実であるが、それは当時の戦力では約
10倍にもおよぶ敵と戦った事にある。さらにソ連は遅れた機械化部隊だったが、トラ
クターなどで引き揚げして改良し改善して使った。戦車本体は、走行射撃はできない物
で、寒い寒冷地水準であり、夏場の戦車戦では全く室内が暑く問題にならなかった。又
日本軍の速射砲・高射砲のえじきになり、約八〇〇台が破壊されている。又先に述べた
様に第二次では圧倒的な兵站と兵器の量があったが、第一次で戦車から降りての銃撃で
そのまま逃げて来るので外からの簡単な掛け錠を作った。つまり蓋止めである。こうな
ると外に出れなくなって、無茶苦茶な戦いになりより熾烈な戦いと為ってより死者が出
た。戦車や飛行機も督戦部隊として2種に分けて砲弾に弱い戦車だったが1〜2台に、
全く日本の砲弾に当たっても潰れない戦車がいたと話される。真偽は不明だが2016年時
点で最新のソ連軍・モンゴル軍の人的被害調査ではソ連軍の損害は、日本軍とは比較に
ならないほど大きかったことがわかってきた。戦闘の勝ち負けという意味では、戦争目
的を実現できなかった日本の敗北であることに違いはなかったが、ただ、この戦闘では
大きな教訓を得たのかが、その後の両国の命運を分けることになった。つまり、日本軍
は、言われているほど惨敗したわけではなく、苦しみながらも相当健闘したことが伺え
、それも手製の火炎瓶や手榴弾での白兵戦だった。ソ連軍は、この戦闘で日本軍のとっ
た様々な戦術を取り入れ、兵器にも改良を施して、1941年に始まるドイツとの戦争に応
用したつまり2万5千人の死者にモンゴル人は入れられない上に過少報告だったのだ。

1211: 名無しさんAA:18/08/16 13:40
 ヒトラーはフランス侵攻を成功させると、軍に対してソ連への攻撃を命令した。1940
年、ドイツ軍は西方でフランスを瓦解させたが、ドーバー海峡の制空権である航空戦の
バトル・オブ・ブリテンには敗北し、イギリスを屈服させることはできないでいた。ド
イツ軍首脳部はイギリスを背面にしたままのソ連を攻撃する二正面作戦に懸念を表明し
たが、ヒトラーは側近の助言をしりぞけ、「土台の腐った納屋は入り口を一蹴りするだ
けで倒壊する。」と豪語し、ソ連侵攻のバルバロッサ作戦を開始した。北欧の鉱物資源
に依存しているドイツにとって運搬路であるバルト海は生命線であり、レニングラード
を電撃的に占領しソ連バルト艦隊を無力化する必要があった。また農産物と鉱物資源の
宝庫であるウクライナは「東方生存圏」構想実現のためには欠かせない地域だったし、
経済的理由からも、ヒトラーはレニングラードとウクライナの奪取にこだわり、ヒトラ
ーの意向を重視した陸軍総司令部は、レニングラードとウクライナを第1目標に位置付
けた。ドイツ陸軍はポーランド侵攻の「白作戦」、フランス侵攻の「黄作戦」イギリス
「赤作戦」など、攻勢作戦名に色名を付ける伝統があった、発展形のバルバロッサ作戦
は頓挫した影響から、ソ連侵攻作戦は「青作戦」と純粋な色名に戻された。しかし、こ
のバルバロッサ作戦(ソ連侵攻作戦)は第一次世界大戦前のシュリーフェン・プランの
書き写しであった。その為ブラウ作戦(青の作戦)に収拾しても尚、各目標の優先度は
曖昧なままで兵士は前線に捨て置かれた。従って最初から、中央軍集団は白ロシア赤軍
殲滅後は、モスクワに進撃すべきなのか、それともウクライナやレニングラードに向か
うべきなのかが、現場も本部も作戦案では明らかにされなかった。これは日本軍との戦
いによってソ連は各段に戦法を変えていた事にあった。ヨシフ・スターリンは、1930年
代後半に党や軍における反対派の大粛清を強行しており、経験豊富で有能な陸軍指導部
を含む何百万もの人々を処刑していた。その為、軍は弱体化し、指揮官不足さえ引き起
こしていた。ドイツ軍がフランスを電撃戦で破った後も、赤軍はドイツ軍の進軍速度を
侮っていたし独ソの不可侵の可能性は破られない。と見ていた。しかし赤軍は、ドイツ
軍を要塞線で阻止している間に主力が後方に集結し、やがて前進して反撃する展開を想
定して出来ていたスターリン・ラインの要塞の国境線は意味の無い物であった。開戦か
ら半年で、ドイツ軍はオランダ、ベルギー、ルクセンブルクのベネルクス三国に侵攻を
開始(黄色作戦)フランス・ドイツ国境地帯においてもマジノ要塞を超えて既にフラン
スに進駐を果たしていたからだ。マジノ線はかつてのソンムの戦いなどで塹壕戦などで
多くの負傷者をしたので横に掘られた塹壕を縦に地中深く要塞化した建物を掘って点々
と作った兵舎兼武器庫兼要塞としたものだったが、過度に期待されて増員がおざなりに
なっていた為に易々と超えられていた。

1212: 名無しさんAA:18/08/16 13:42
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  258 >   

 このフランスの構築された要塞では、簡単にフランス・ドイツ国境地帯のマジノ要塞
がドイツ軍が落として行った。ドイツ軍はオランダ、ベルギー、ルクセンブルクのベネ
ルクス三国に侵攻を開始(黄色作戦)。ベルギー北部で防御戦を展開するという戦前か
らの計画(ディール計画(英語版))に従ってフランス・イギリス連合軍は軍の主力を
ベルギー方面に進出させ、ドイツ軍はベネルクス三国と、マジノ要塞の中間に位置で、
対峙させた。しかしフランス軍の防御が手薄となっていたアルデンヌの森から戦車部隊
を投入させて(赤色作戦)を行い。このことによってフランス軍の防衛線は崩壊、ベル
ギー方面に進出したフランス・イギリス連合軍もドイツ軍に包囲され、5月末、これら
の部隊の多くが、イギリス本土への撤退にかろうじて成功した(ダイナモ作戦)しかし
バルバロッサではそうは行かなかった。1939年までの国境線において構築された要塞で
あったが、スターリン・ラインは、同年にソ連がポーランドの東半分を併合すると廃棄
されて居た。ドイツの第3SS装甲師団 トーテンコップ(だいさんSSそうこうしだん)は
、ナチス政権下における最新鋭の武装親衛隊でこの最新兵器を若い新人兵士に任せて、
38個師団の上部に据えた。トーテンコップはドイツ語でで骸骨(がいこつ)、髑髏(ど
くろ)であり髑髏部隊と呼ばれた。しかし、戦術も戦法も持たない未熟兵士だった。フ
ランス侵攻ではA軍集団に編入されるが、アラスでマチルダII歩兵戦車等を擁する英軍
装甲部隊の反撃を受けて敗走し、結局フランス戦期間で同師団は士官三百人以上損害を
被った。バルバロッサ作戦〜デミャンスク包囲戦では、レニングラード方面を担当する
北方軍集団に編入されリトアニアとラトビアで戦闘を行い、4月にバルバロッサ作戦で
7月までにスターリンラインを突破、7月31日から8月25日にかけて激しい戦闘を行いな
がらデミャンスクを経てレニングラードに達した。しかしその後、ソ連軍は最初の冬期
反攻によりデミャンスクで包囲され、激しい戦闘により戦闘団規模になるほど消耗し、
、1942年春に友軍戦線に合流し、再編成のためフランスへ向かった。フランスで再編成
して装甲擲弾兵師団となり、1943年2月の第三次ハリコフ攻防戦で増援として投入され
、第1SS装甲師団、第2SS装甲師団とともにハリコフを奪還した。この戦闘期間中、師団
長テオドール・アイケが航空機で麾下部隊の捜索中に乗機を撃墜されて戦死した。


1213: 名無しさんAA:18/08/16 13:44
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  259 >   

1941年バルバロッサ作戦でレニングラード方面を担当する北方軍集団に編入された髑髏
隊がリトアニアとラトビアで戦闘を行い行軍し、7月までにスターリンラインを突破し
たものの、その後8月末までに激しい戦闘を行いながらデミャンスクを経て、レニング
ラードに達した時は霜の起つ時期に入っていた。その後駐留したが、ソ連軍最初の冬期
反攻によりデミャンスクで包囲された。スターリンは前線部隊に撤退や捕虜を犯罪者と
して収容所送りにする。と声明を出し伝達したからだ。補給のないまま対戦するドイツ
部隊にもヒットラーから撤退も降参も部隊には処刑の対象となると通達が来た。こうし
て、全く下がれない部隊は、激しい戦闘により戦闘団規模になるほど消耗したが、1942
年の春になって友軍戦線に合流し、再編成のためフランスへ向かった。既に部隊は3割
にも満たない人数だった。1935年以来ソ連最大の最大の仮想敵国はドイツだった。日本
はあまり眼中になかったのだ。つまりノモンハン事件はモンゴルや中国の要請によって
小手調べに機械や兵員を入れた物だった。だがしかし、大損害を経てソ連は航空も戦車
も人民や作戦にもてこ入れをした。それが先の住民の撤退を犯罪者とする。と言う声明
だった。更に戦車はドイツ設計の戦車を盗んだソ連戦車BT戦車から、独自に米国から
農業用トラクターの名目で予備部品とともに2両が送られ開発され誕生したT戦車シリ
ーズが出来上がっていた。当時の戦車としては最先端といってもよい設計が施されてい
た。知っての様にT34はT32の改良型だったが、T32には、さらにルーツともい
うべき戦車が存在した。それがクリスティー戦車であった。その名はアメリカ人ジョン
・W・クリスティーが開発したM1928、およびM1940戦車である。。輸入した
2輌の「M1940」あるいは「M1930」を使って1931年から試験を開始し、その結果を
もとに各部を強化するなどして、最初の量産型BT2を開発していた。M1928から採用
されていた「クリスティー式懸架装置」は、大直径転輪と、ストロークの大きいコイル
スプリングによるサスペンションの組み合わせで、これに航空機用の大馬力エンジンを
用いることで高速走行を実現していた。装甲自体は薄かったが、代わりに車体前面には
傾斜し、避弾経始を取り入れていた。BTシリーズの最終型であったBT7は。1935年
から生産開始され、1940年までに各型合計4600輌〜5328輌、うちディーゼルエンジンを
搭載したBT-7Mは、すぐ後に同じエンジンを搭載したT-34の生産が始まったために、706
〜788輌と少ない。だがこのタイプは鋼板もほどほどに改良しモノンハンに投入されて
いる。

1214: 名無しさんAA:18/08/16 13:46
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  260 >   

T-34(Т-34 テー・トリーッツァチ・チトゥーリィ)は、第二次世界大戦から冷戦時代
にかけてソビエト連邦を中心に使用された中戦車である。1939年の時点で、ソ連赤軍で
最も数が多かった戦車は、T-26軽戦車と、BTシリーズの快速戦車であった。T-26は動き
の遅い歩兵重戦車で、戦場の歩兵と同じペースで進軍するように設計されていた。一方
、BT戦車は巡航戦車で、敵の歩兵と戦うのではなく敵の戦車と戦うために、非常に快速
の軽戦車として設計されていた。少数のT-35などの多砲塔戦車も存在したが、いずれも
装甲は薄く、小銃・機関銃の射撃に対しては耐弾性はあったものの、対戦車ライフルや
高射砲や対戦車砲の攻撃には耐えられなかった。傾斜装甲を取り入れたA32があった
が、しかし、冬戦争でもBTシリーズの装甲の脆弱性が問題となり、A-32の装甲を45 mm
にするとともに、より幅広の履帯が採用された。また備砲を76.2mm 砲 L-11に強化する
など、ディーゼルエンジンを搭載した重装戦車となった改良試作車A−34を完成させ
る。しかしソ連国内は既に戦闘に入っていて完成待たずに、1939月T34としての
正式採用正式生産をした。T-34の名前は、戦車生産を率いることとなったグリゴリー・
オルジョニキーゼが、新型戦車に関するアイデアをまとめ始めた1934年の年号にちなん
でコーシュキンが既に命名したものを使ったものだ。そのごT34Mの改良計画があっ
たが大量生産ラインの変更を苦慮し廃棄された。しかし1942年には、長砲身の優れた、
貫徹力を持つ 75 mm砲を装備したドイツ軍戦車が戦場に登場し、既に放棄されていたこ
の計画の元にT-34を発展させたT-43戦車の開発を計画した。T‐43が出来た。T−3
4はこのT‐43の中間戦車とは言えモノンハン事件同様にドイツ軍には脅威であった
。T-34は1945年末までに、5万7,000輌以上のT−34が作られた。このうち 3万4780輌
は、1940年から1944年に掛けて製造された初期型のT-34で、残りの2万2,559輌は、1944
年から1945年に掛けて作られた改良されたT-34-85である。Т-43は、第二次世界大戦中
にソビエト連邦で試作された中戦車である。T-34中戦車およびKV-1重戦車を共に更新す
ることを想定して開発されて、従来の戦車よりも装甲を重視した設計であったが、その
後ナチス・ドイツの戦車技術に対抗するには強力な火力こそが必要と判断され、より重
武装のT-34-85 中戦車が採用されたため、開発は中止された。ドイツ側では事前に得て
いたソ連邦の戦車開発に関する情報から、T-34-85中戦車を当初はこの「T-43戦車」と
して識別していた。

1215: 名無しさんAA:18/08/16 14:03
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  261 >   

このT-34の性能は見事という他なく、傾斜装甲は三号戦車の砲撃をほぼ無力化したし、
搭載された76.2ミリ砲は、逆に三号戦車の装甲を 正面から楽に貫通可能だった。しか
も整備性と生産性に優れていて、故障もしにくいという非の打ち所がない優秀な戦車で
あり砲だった。一クラス上位の四号戦車相手となると楽勝とは行かないまでも、それで
も性能的には優位を保っていた。そんな恐るべき性能でありながら、生産性も高くて、
ソ連の基礎工業力の高さを差し引いても、次々と恐ろしい台数が生産され続けた。初期
型だけで約3万5千輛が生産され、最も工業力的に厳しい独ソ戦の初期ですら、甚大な
損害を上回る数の戦車が、前線へと送り出されていきます。この生産性の高さによって
、最終的にはドイツ装甲部隊を数で押し切ることに成功した。どれだけ5号戦車パンタ
ーや、6号戦車ティーゲルが強力であっても、10倍の数で囲まれればどうにもならな
いというのが歴史の証明した結果だった。高い性能とバランスの良さ、生産性の高さと
言うスペック面で全て高いレベルを実現したT-34でしたが、その実では兵員の居住性に
はかなりのしわ寄せがきていて、残念な点もいくつか存在した。T-34戦車の欠点のその
代表格が「居住性」と「操作性」であった。まず、T-34の装甲は圧延鋼材を溶接したも
のが基本だったが、この溶接には所々いい加減なところがあったせいで、次々と雨漏り
に見舞われる車両が結構有った。又走行中の河川横断でも、浅い水中に入った際に浸水
してエンストした。理由ははドイツの先制攻撃によって、大規模な工場疎開をする羽目
になったり、天然ゴム輸入が不足でゴムパッキンなどを十分に使えない時期が有ったり
などの国情的理由が大きかったが、戦闘時に戦車の中で水の汲みだしや雨漏り受けをし
なくてはいけないというのは、湿地帯の多かった地域での戦争では致命傷で、更に個体
差で、湖面を乗り切る戦車と浸水する戦車が出て居た事はかなりのトラブルだった。ま
た、搭乗員だけならまだ耐えようも有りますが、水漏れと雨漏りは、電気系統のトラブ
ルや、弾薬のトラブルなどを誘発した。「雨漏りが原因で砲撃できません」という報告
も多かったらしい。また、この装甲は非常に優秀なものではあったのだが、実地の生産
レベルでの問題も抱えていた。敵弾を貫通させず、弾くことに重きを置いた為T−34
の装甲は、圧延鋼材に硬化処理を施したものが使われたからだ。最大で 495HBにも達す
る非常に高い硬度に仕上げられた装甲は、確かに敵弾をよく弾いたのですが、同時に「
硬すぎて割れる」という問題を発生させ、内部の乗務員の多くを内部装備で殺した。


1216: 名無しさんAA:18/08/16 14:03
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  262 >   

例えば徹甲弾でなく榴弾などを食らった場合、装甲は貫通されずに中に爆風を通さない
が、受けた衝撃そのものが消えずに車体や装甲板内部を伝わり、内側の表面を剥離させ
内部破裂をさせた。この剥離片は、ものすごい勢いではじけ飛びますので、装甲近くに
顔を置いている運転手などはひどい目に遭い一度で3人共に深部に破片が食い込んで、
負傷者の病院は手当てできずにいた。本来は、ここまで靭性の低い装甲になる予定では
無かったそうなのですが、対独戦初期は鋼鉄に添加しての、柔らかく仕上げ靭性を高め
るニッケルが不足したなどの事情が加わって、「内側で炸裂するほどの装甲板」が出来
上がってしまったという。また、基礎的な設計段階でも問題が存在した。当時最新の設
計思想である、傾斜装甲を取り入れたのだが、その為車体装甲となっているのだが、同
じ投影面積で装甲板を斜めにした場合には、中の容積が減るのを避ける事ができません
。結果、T−34の内部は非常に狭苦しいものとなり、居住性は悪化し2人でも窮屈だ
った。その為長距離を戦車で、行軍するときの辛さは特筆モノでした。ガタガタ揺れて
景色も見えず、雨漏りするエコノミー席に丸2日詰められて耐えると言ったら想像でき
るでしょうか。広々設計のアメリカ人に「どうやって兵士を詰めてたんだ」と言わしめ
るほどでした。初期のT-34には覗き窓(砲塔の上のたんこぶみたいな部分です)が無か
ったため、車長は戦車用潜望鏡か、直接顔を出して対象を目視する必要があり、この潜
望鏡のガラス品質がかなり悪く、気泡が入って曇っていたりと実用に辛いものだった。
しょうがなく直接顔を出すと、狙撃される事が多かったという。そもそも砲塔のハッチ
は非常に重く、負傷すると開けられないほどだった。又ギアも整備性と生産性に重点を
置いて「乾式クラッチ・ブレーキ式操向装置」を採用したが、操作レバー、やたらと重
く固くて操作性が最悪だった。基本的に力のあるロシア人でさえ、片腕では操作できず
足まで使って押していた。長距離行軍などは、あまり仕事のない通信手が手伝ってやる
のが普通だったそうで、操縦だけで体重が2〜3kg減るという話だ。バックさせるときは
更に固かったようで、ハンマーで殴って切り替えていた。貨車で欧州戦線と中国戦線に
行ったり来たりしてるが、この時もギヤが変えれず案内の駅員を何人か殺している。と
言う。このスペックの割に使いにくさから大きな損害を重ね「できれば乗りたくない」
と万人が口をそろえてT‐34を嫌がったが、その優秀さは歴史が証明していた。次々
と改良され、どんどんと戦果をあげていったのである。


1217: 名無しさんAA:18/08/16 14:04
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  263 >   

 こうしてスターリングラードは攻められた。しかし元来ドイツ軍にとってブラウ作戦
の副次的目標の一つに過ぎなかった。戦略上の要衝の地ではあったが、時のソビエト連
邦のスターリンの名を冠した都市でもあったことから寄り道となり熾烈な攻防戦となり
、史上最大の市街戦に発展し、日露戦争の奉天会戦や第一次世界大戦のヴェルダンの戦
いを上回る動員兵力、犠牲者、ならびに経済損失をもたらす野戦に拡大したのである。
しかし、が此処にドイツ自慢の戦車が全く通用しないソ連軍の優秀な新型戦車「T-34」
が登場しドイツは敗戦に向かう事になる。緒戦は優位に進んで、市街地の9割を占領し
たものの、最終的にソ連軍側の反攻で、ドイツ第6軍を主軸とする本体は包囲され、降
伏するに至った。これは独ソ戦の趨勢を決し、第二次世界大戦の全局面における決定的
な転換点だった。米国の軍史家イヴァン、はこの戦を「ミッドウェイ海戦、エル・アラ
メインの戦い、第三次ソロモン海戦」と同じく第二次世界大戦の大転換点であるとはっ
きり位置づけた。この勝利こそ、10倍もの機甲師団を持ちながら、日本がモノンハン
事件で白兵戦でも互角だった事で見直しをした戦車がもたらした勝利だった。この時ま
でソ連には、新しい国境沿いの要塞は構築半ばで、スターリンラインは途切れ途切れの
点の存在だったた。ベルギー要塞と同じ要塞線の構築完了までソ連側の防備は脆弱であ
ったが、国境付近を越えて来るとも思えない中にドイツが進軍していた。ソ連には配備
する兵力は粛清によりいなかった。また、精鋭部隊はウクライナに置かれ、工業生産の
中心は、ドイツ国境に近い欧州領ロシアやウクライナに集中していた。当時のソ連は、
主要軍備の保有量と工業生産力においては、大きくドイツを上回っていた。工業生産高
において資本主義国が世界大恐慌で苦しんでいた中で急速に発展していて、米国に次い
で世界2位とも言われていた。重工業、特に軍需産業に重点が置かれて、戦車も航空機
も最新鋭のものはドイツの兵器に匹敵した。一時ドイツの設計の委託生産という形が多
かった為それを凌駕する性能を誇った機器を隠れて作る為、スターリンは後方に大きな
組み立て工場地帯を置いて順次増設していた。ドイツ軍侵入に備えた防衛計画の研究と
作成が1938年に始まった時にそれらの作戦始動している。ソ連の欧州部は、プリピャチ
沼沢地によって南北に分断されている中、参謀本部は北の白ロシアに重点を置くのか、
南のウクライナに重点を置くのか防備の選択を迫られていた。


1218: 名無しさんAA:18/08/16 14:06
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  264 >   

 対してソ連のスターリンは南北どちらの要請にも、均衡に戦力配置し、ハリコフ機関
車工場をウラルへ疎開させて組み立てさせる賢明な判断をした。1941年夏にウラル戦車
工場を新たに作ったが有名な第183工場である。勿論183の旧工場にもそのままド
イツ仕様戦車を作らせてはいた。しかしこうしてT-34の1941年型は1940年型と当初同時
並行で生産が行われて、砲以外の部分はほとんど同じであったが、各段に鉄板の厚さと
強度が違っていた。又生産途中で改良が加えられてそれらの強い戦車はウラルから供給
された。こうしてドイツ軍の前に立ちはだかった「T-34」は善戦する。対して日本軍は
白兵戦で機械や兵器もなく血と汗と智慧を振り絞って運に任せて勝った事は、陸軍を疲
弊させた。大本営はその機械の改良や供給を怠って精神論に終始した。又海軍に負けた
情報を渡すことなく、空挺部隊や全てに特攻精神論を広めて国民総動員令を作り悲惨な
戦争に変えた。何処の国でも国民の戦場は陸軍に尽きる。護る舞台は陸地であり、空軍
や海軍は他国を脅しても国民の期待には陸軍しか応える事が出来ないからだ。その陸軍
にある存在感は戦車であろう。戦車の盾を持ち高速で攻撃する概念は紀元前からあった
。馬が引く2輪車は、チャリオットと呼ばれてエジプトやローマの軍隊が使用した。し
かし2〜3人が乗れる2輪車を、2頭の馬で引かせる小型のこの攻撃用馬車も紀元前9世紀
頃の、ウクライナ高原で発生した新しい「騎馬兵」でに負けたのである。それままでの
「乗馬」は裸の馬にそのまま乗り、剣をふりあげれず乗るだけで精一杯だったらしい。
ところが、ラクダのキャラバンから出現したろう補助具は発展し、画期的な「鐙(あぶ
み)」と「鞍(くら)」を装備して戦う騎馬兵を創った。鐙(あぶみ)は、馬に乗る踏
み台となり、移動時に身体を支えた。また、鞍(くら)は、人間の尻と馬の背の間にあ
って、乗馬を安定させ座席となった。この2つの発明は、安定した移動と攻撃を可能に
して、台車を駆動したチャリオットに比べて、荷車がく簡単で効率的で高速の小回りが
効き、兵員にメンテナンスを強いる事なく大部隊を作り得た。こうして早々に駆逐し、
軽い弓や鉄剣の時代に入ったのである。その後投石機などは形を変え、火薬が作られて
砲弾が発明され鉄の大量生産が可能になって、近代の戦車が登場する。近代の戦車以前
に駆動する燃料機関がエンジンとして車両が出来た。それらはトラクターやトラックに
付けられ画期的なものとなった。兵員輸送に使われ出したがすぐさま高射砲が載せられ
た。飛行機が作られたからだ。

1219: 名無しさんAA:18/08/16 14:07
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  265 > 

 第一次大戦時はソンムの戦いやヴェルダンの戦い・マルヌの戦いなどは、何れも白兵
戦を考慮しての塹壕戦である。オセロのような領土拡張戦であり、大量の人員に穴を掘
り前線で向き合った戦い方であった。日本では海洋の軍艦の撃沈闘争であったが欧州大
陸では今だ農奴捕虜や捕虜交換の為の賠償金交渉で国の運営を行っていたのだ。だが、
領土拡張の為の戦争コストは、電撃戦でも行わない限り、終戦下の戦勝した利益を上回
る事は無かった。そこに登場したのが飛行機や飛行船、戦車や化学兵器などのあらゆる
新兵器投入だったのである。膠着状態の続くフランスVSドイツ戦は基本的に過去の城
の城主の領主の境界争いからは抜け出していなかった。和平交渉も片方が負けを認める
までは手出しは出来ないでいたのである。そこに登場したのが、鉄に覆われた動く倉庫
のマークTと言う代物だった。どでかいキャタピラの重量級の戦車はの砲弾もこうるさ
い音も度肝を抜かれるものだった。モノクロ映像も残っているが、ノソノソと動く姿は
いかにも重く頑丈に作られた初代戦車の威風をもった物だった。一応キャタピラ駆動の
さすがは農業トラクターの人の歩く速さの3割程で進み、鉄条網や野戦の鉄砲などをは
じき、ゆっくりとではあるが前線を進めていった。高さ1mの障害物なら何とか乗り越
え、この不細工な機動ユニットは、膠着状態にあった西部戦線に投入され威力を発揮す
ると思いきや、湿地帯にはまるで動かず、市街地でもちょっとした凹凸でも前の見えな
い運転で横転を繰り返した。しかしこのイギリス製の戦車に対して人かにドイツ軍は改
良した高速で機動性の高い戦車を開発した。「タイガー戦車」である。戦車に興味がな
い人でも、名前ぐらいは聞いたことがあるだろう。タイガー戦車は、第二次世界大戦で
活躍したドイツ陸軍の重戦車である。分厚い装甲、長大な戦車砲、いかついキャタピラ
。こんな戦車の象徴を最も体現しているのがタイガー戦車だった。戦場は機動力・防御
力・打撃力の三拍子そろった新兵器を必要としていたのである。1914年夏に始まった第
一次世界大戦も、半年もすると、西部戦線はすっかり膠着し、塹壕の病人が負担になり
冬の寒さをしのいでもその後の雨季には人々は動けなかった。お互いに溝やトンネルを
掘って隠れて撃ち合う塹壕戦の形態が意味のない戦いだった。というのが第一次大戦の
教訓だった。こうして秘かに第二次世界大戦に向けて戦車は幾つかの種類が設計された
。ドイツの「電撃戦」は、このタイガー戦車を秘密兵器として緒戦で目覚ましい戦果を
上げた。しかし、宿敵イギリスには通用しない。ヨーロッパ大陸とイギリスには、ドー
バー海峡が横たわっていたからだ。


1220: 名無しさんAA:18/08/16 14:09
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  266 > 

 無敵ドイツ機動部隊も海を疾走することはできない。そこで、ドイツ軍は飛行機によ
る爆撃でイギリスの戦意をくじく事を計画した。連日、空軍の大編隊を送りこんだのだ
のだが、だがしかし、ドイツ空軍は無惨な敗北を喫する事になった。最新鋭のレーダー
と連携したイギリス航空部隊がドイツ軍機を大量に撃墜したのである。これは思いもよ
らぬドイツの挫折で敗退だった。この敗北は、ドイツのV2ロケット開発を加速させた
。こうしてイギリスを威嚇するも占領は叶わないと見たドイツは、頭の切り替えが速い
ヒトラーを先頭に、いち早くイギリスをあきらめ、矛先をソ連に向けた。ソ連軍などは
、兵器が劣悪で、兵士の士気も低く、士官も無能、とヒトラーは高をくくっていたのだ
。ソ連など、ドアを一蹴りすれば、すぐに降伏すると信じて東方行進を再開したのだっ
た。しかしここに立ちふさがったのが強力なT−34であった。バルバロッサ作戦は、
フランス侵攻作戦と同じように、ドイツの快進撃ではじった。ヒトラーはモスクワは冬
までには陥落するだろうと鷹をくくりご機嫌だった。ところが、1941年7月3日初夏の、
迫りくるドイツ第18装甲師団に対して、ソ連機動部隊は見たことのない戦車を投入し
てやって来た。T−34との遭遇にドイツ軍はV号戦車で応戦したが、主砲の50ミリ砲
が命中しても、はね返された。逆に反撃され、悉くV号戦車は火だるまになった。そこ
で、ドイツ軍は最強のW号戦車を投入する、75ミリ砲を持つ本格的後方車両であった。
しかしこの戦車前線に立たせ砲撃したが、結果は同じだった。「ありえない…」ドイツ
軍にパニックが広がった。それでもW号戦車の機動性をいかし、敵戦車に肉薄、キャタ
ピラに命中させ、やっと停止させる。この謎のソ連戦車こそ、第二次世界大戦中、最高
傑作といわれる「T34戦車」だった。ドイツ軍の対戦車砲や戦車砲では、T34を貫通でき
ない、この事件は後に「T-34ショック」とよばれたのである。この時多くのドイツ兵は
投降する。T-34の最大の特徴は、歴史上初の傾斜装甲にある。つまり、戦車のボディー
が傾斜しているので、直進してくる砲弾を反射しやすい。一方、T-34のライバル「タイ
ガー戦車」は、砲塔は円筒形なので、砲弾と直角に衝突する可能性が高かった。その分
、分厚い装甲が必要だった。又、T-34のエンジンは日本の戦車を研究し、飛行船のV1
2ディーゼルエンジンが転用される事になっていて燃費が良かった。しかもディーゼル
エンジンにしては構造がシンプルなので、メンテナンスも容易だったのである。T-34戦
車は農村出身者でもすぐに操縦できるよう設計されていた。これがソ連式の標準化だっ
た。

1221: 名無しさんAA:18/08/16 14:11
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  267 > 

 余談だが、アメリカは日本参戦を確認すると、堂々とアメリカ政府は戦争特需を動い
た。オートメーションによる戦車の量産化である。ここで作られたのがM4シャーマン
戦車だった。1944年6月6日、第二次世界大戦末期、連合国軍はフランスのノルマンディ
ーに上陸し意気揚々と大量に上陸させた。ヨーロッパをドイツから解放するためである
。この史上最大の作戦で、連合国軍の主力戦車として、アメリカの新型戦車「M4シャー
マン」の大量投入をはかった。M4シャーマン戦車は、GM、フォード、クライスラー
など名だたるアメリカの自動車工場で量産された。主砲は75ミリ砲で、攻撃力は十分。
動力は、空冷9気筒の航空機用エンジンを搭載し、時速40kmと機動力も高い。又、操
作も簡単で、自動車なみに容易に運転することができた。さらに、構造がシンプルなの
で、故障が少なく、メンテナンスも容易だったアメリカの技術の集積で上陸まで無敵か
互角として投入した。この連合国軍自慢のM4シャーマン戦車を迎え撃ったのが、ドイ
ツのタイガー戦車だった。タイガー戦車とシャーマン戦車ではスペックでは劣るものの
機動力に於いて勝るものがあった。しかし、タイガー戦車とM4シャーマン戦車の実戦
では苦難の連続だった。ノルマンディー上陸作戦の緒戦でノルマンディーに上陸した4
百両のM4シャーマン戦車をいれたが、次々とタイガー戦車に破壊され、反撃のひまさ
え与えられなかった。また、ある戦場では、25両のM4シャーマン戦車が、待ち伏せした
タイガー戦車に遭遇、わずか30分で12両が撃破された。又あるときは、タイガー戦車が
発射した砲弾がM4シャーマンに命中したが、勢い余って、反対側の装甲版まで突き抜け
てしてしまった。砲弾が貫通したため、シャーマンの乗員たちは命びろいしたという話
さえ実話だった。砲弾が入って出て、鋼板4枚、つまり戦車2台分の装甲を貫通したこ
とになる。恐ろしい打撃力だった。タイガー戦車の88ミリ砲は、1.4q かなたのM4シャ
ーマン戦車を撃ち抜くことができた。ところが、M4シャーマン戦車の75mm砲は50mの
至近距離でも、タイガー戦車を貫通できなかった。やがて、ドイツ兵は面白がって、M4
シャーマン戦車をストーブと呼んだ。砲弾が命中すると、たちまち炎上したからである
。まるで勝負にならなかった。タイガー戦車の最大装甲は厚さ100 mmで、M4シャーマン
戦車が75mm。攻撃力は。タイガー戦車の主砲は88ミリ砲で、M4シャーマン戦車は75ミリ
砲で、機動力のみがタイガー戦車が時速38km、M4シャーマン戦車は時速40kmで、M4シャ
ーマン戦車に後れをとり。また、砲塔の回転がタイガー戦車は手動で3分、エンジンを
使っても2分もかかったが、シャーマン戦車はそれよりも速く回転させることができた。

1222: 名無しさんAA:18/08/16 14:12
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  268 > 
 しかし、M4シャーマン戦車は、量産化の粋を決していた。自分たちの優位点である
数に気づいで作戦を変えた。M4シャーマン戦車は4両1組となり、1両のタイガー戦車
に挑んだのである。それでも、タイガー戦車を1両しとめると、M4シャーマン戦車は3
両から5両が炎上した。つまり、タイガー戦車はスペックだけでなく、実戦でも虎(タ
イガー)だったのである。量産ではM4シャーマン戦車がタイガー戦車を圧倒していた
。タイガー戦車の構造が、複雑で、同じ手間で、他の戦車なら3台つくれた。しかも、
タイガー戦車は他の戦車との共通部品が少なく、量産効果も期待できなかったが一方の
、M4シャーマン戦車は、部品は標準化され、シンプル構造で、量産が世界一容易だっ
た。しかも、デトロイトの自動車工場のコンベア生産ラインで生産された。その差は歴
然だった。生産台数ではタイガー戦車の生産台数は1300両、一方、M4シャーマン戦車
では5万台。桁違いである。これは飛行機生産にも言えた。日本が、援蒋ルート(えん
しょうるーと)潰しに躍起になっていた大東亜戦争時に、主にアメリカ、イギリス、ソ
連の中華民国を軍事援助するための輸送路には大量の兵器が供えられた。仏印ルート(
ベトナム)は一年かかりで潰したものの、英米が金を出してフランスの物資を買い、雲
南省へ輸送させている仕組みは変わらなかった。日本は、仏印に監視団を送り、昭和1
5年(1940年)8月30日「松岡−アンリ協定」を結び、9月23日に日本軍の仏
印進駐を開始し送らせない砦としていた。一方的に軍を進めたということはなかったが
その間に有名なビルマルートの開発が行われていた。これで仏印ルートを遮断したが、
フランス商人は援蒋物資でボロ儲けしており、日本軍が海南島に上陸すると大慌てとな
り国際批判を繰り返した。GHQ焚書図書開封ではその量がとてつもない量だった事が
記録されている。「港の倉庫の援蒋物資をみて私の貧しい筆はともあれ、おそらくこの
量感は実際に見たものでなければ、納得できまいと思われるほど凄いものだ。現に私な
どもあの倉庫に一杯ですよと指さされていながら、実際にその倉庫に入ってみるまで、
その物量感がピンとこなかった。ところが入ってみて、あっと声をあげんばかりに圧倒
されてしまったのである。海防監視委員事務所の後藤少佐の部屋に援蒋物資の見本が並
んでいる。薬品、電話機、鉱石、顕微鏡、ラジオ、防毒マスク、ワイヤ、電池、水枕、
飛行帽、電信機、測量計などなど数えきれない。これはまだほんの一部でボイラーや鉄
道のレールは並べきれませんからね、と後藤少佐は説明する。そればかりではない。こ
の海防附近にはまだどのくらい隠匿されているかわからない。例えば海防上流60キロ
地点に百五十メートル平方の平地を掘り、周囲に土民窟を設けて援蒋物資を隠していた
のが発見されたという事実もあるのだ。」

1223: 名無しさんAA:18/08/16 14:14
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  269 > 
 日本軍は、国際社会を通じて、フランスに蒋介石軍に送るのはやめろ、と再三に渡り
申し入れをしている。しかしフランス人は言う事をきかない。「売りものですから」と
のらりくらり逃げた。というのも既に第一次大戦以降はアメリカ政府の言いなりだった
からだ。フランス革命は反革命を標榜する対仏大同盟との一連の戦争を起こした。当初
はフランス革命に対する外国の干渉戦争であり、シベリア出兵と同様に旧債務を確認す
る意味をもっていた。そもそも普仏戦争は市民革命政権に戦々恐々とした旧態のままの
帝政の国王の脅威からの攻撃だった。こうして反革命連合として対仏大同盟ができてい
たのである。1794年前後を境に形勢は逆転し、フランスによる侵略戦争に変貌し、ナポ
レオンはイタリアでの作戦を成功させて、これまで最前線でフランス軍と対峙してきた
数々の小王国を降伏させ、オーストリア軍の拠点マントヴァすら包囲しエジプト遠征す
ら行う程の国力だった。それが第一次大戦でドナウ川の穀倉地帯やチェコなどのスラブ
からの食料供給が途絶えたのである。そこに貿易をして輸入していたのが米国産の小麦
やジャガイモやトウモロコシだったのだ。この引き換えに輸出したのがドイツの工業品
の横流しだった。敗戦したドイツ工業はフランスの銀行管理下であったのだ。だがこの
頃はドイツが侵攻を果たし、本来、フランスはドイツに敗北してドイツ配下になってお
り、ヴィシー政権も日本に味方しても良かったのだが、米国からの食糧輸入が禁輸とな
ればフランスは崩壊した。商売根性の強い米国はフランス人に引き下がるなと脅迫をし
ていた。この国連決議違反に日本の同盟特派員が日本本国へ「援蒋物資が流れている」
と電報を打つとフランス側からは「悪意ある電報を打電しては困る」と抗議される始末
。仏印縦走記では日本の総領事、日本軍、外務省の役人は「そろいにそろってへっぴり
腰外交、弱気外交」と述べています。このあたりは昔も今も国際事情は変わらない。そ
うして、アメリカは「松岡−アンリ協定」を敵視し、すでに実施されていた屑鉄の輸出
許可制を一歩進め、日本とイギリスのビルマルート停止の協定にも「通商の自由を侵害
」などと非難しました。「見誤ったニッポン」はこの後、どんどん追い詰められていっ
たのである。この頃総力を挙げてアメリカ国民を味方にし背徳政府としてルーズベルト
を糾弾すれば良かったのであるが、ソ連のみを注意し中国を注視していて、米英を見て
いなかった為そうした地勢的意味からしか見て居なくドイツに近寄っていた。此の時の
仏領インドシナの総督ドクーはヴィシー側が任命した人物で、「日本軍とは不戦」の打
電の総督命令電報は届いていたが、個々のフランス軍部隊に迄は伝えて居ない。南方の
英国軍との折り合いもあったからだ。つまり、ヴィシー政権を支持しない部隊として、
南方軍が存在し日本軍に抵抗すると言う局面が在ったと言う事実である。

1224: 名無しさんAA:18/08/16 14:15
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  270 > 

 日本軍の進駐開始が9月23日。西原・マルタン協定締結が前日の22日。松岡・ア
ンリ協定の締結は前月の8月末と言う時系列から見てもハッキリして居る事から、真珠
湾の時の様な問題は無く、又真珠湾に固執する理由も無かった。それでも陸軍は海軍に
米国への抑えを言う。油の供給に危機感のあった大本営は陸軍の判断に後押しした。困
った海軍発言に山本五十六も又困っていた。他方日本軍の側も、参謀本部から出向して
来た富永恭二が西原・マルタン協定を無視する様な拙速な進駐を進めたと言う側面が有
り、富永は此の責任を問われ懲戒処分を受ける。富永恭二は日本の陸軍軍人史上最低最
悪の軍人だった。最終階級は陸軍中将まで行ったが、この熊本出の長崎人は卑怯者の鏡
であろう。1927年には参謀本部員に転属し、1928年、歩兵少佐に昇進。同年12月には、
駐ソ連大使館付武官補佐官となり、その後ジュネーブ海軍軍縮会議全権の随員なども務
める。1932年(昭和7年)、歩兵中佐に進級し参謀本部員(第2課)に就任。その後、
参謀本部付仰付(欧州駐在)、近衛歩兵第2連隊付、参謀本部員庶務課を経て、1936年
(昭和11年)歩兵大佐に昇進し参謀本部第2課長となった。1937年1月関東軍司令部
付に転じ、関東軍参謀、近衛歩兵第2連隊長を歴任した。1939年(昭和14年)陸軍少将
に進級して参謀本部第4部長に着任。同年秋には参謀本部第1部長に就任したが1940年
9月の北部仏印進駐に際して現地に出張し、参謀総長の命令と偽って、軍司令官の間で
合意した西原・マルタン協定に違反し強引に軍を進めて数百人の死傷者を出したために
停職処分となった。この処分に富永は参謀飾緒を引きちぎって怒りを露わにし、その後
仏印提督からフランスの勲章を授与して貰えるよう日本の総領事に掛け合ったが一顧だ
にされなかった。不思議な事になぜこうした事が出来るのか。東部軍司令部付、公主嶺
陸軍戦車学校長を経て1941年(昭和16年9に陸軍省人事局長として中央に復帰して、「
東條英機の腰巾着」というあだ名を持つに至った。フィリピンに赴任した冨永はフィリ
ピン決戦において陸軍初の航空特別攻撃隊、万朶隊の出撃命令を出すこととなる。特攻
隊出撃前訓示で「諸君はすでに神である。君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本
官も特攻する」と言う一方で、機体の故障等で帰還した特攻隊員は容赦なく罵倒して、
62回にわたって約四百機の特攻を命令しパイロット達を全員戦死させた。一番手にパ
イロット教官の富嶽隊を出撃させ、以後続々と特攻隊を出撃させた。生存者証言では、
特攻前は一升瓶をぶら下げて現れては訓示を垂れるしか能のない司令官だったという。

1225: 名無しさんAA:18/08/16 22:05
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  271 > 

 彼はレイテ島が陥落すると、第14方面軍司令官の山下奉文大将はマニラを放棄して
ルソン島山中に後退と決めたが、富永は「すでに多くの特攻機を送り出している。マニ
ラを離れるわけには行かない。」と強く主張しマニラ放棄を拒否し、軍の規則を破る。
更に、いざ本戦では敵前逃亡した上、突然の撤退に際しては指揮下の部隊に連絡をせず
、機密書類を放置し無断で台湾に後退した為全く日本軍は混乱した。この間にも心身の
消耗を理由に南方軍に対して司令官の辞任を2度も申請していた。が、決戦最中に司令
官を交代することはできないとして拒否された。ところが翌1945年(昭和20年)1月6日
に、冨永は突然、マニラからの後退を決定・実行した。撤退に際しては指揮下の部隊に
連絡をせず、機密書類を放置した。さらに戦況の悪化を理由に第4航空軍も台湾に撤退
して戦力の再建を図ることを検討し始めた。だが1月16日冨永は視察のためとして、
上級司令部に無断で台湾に後退した。マニラから徒歩で引き上げてきた司令部要員の大
半をエチアゲの南5,6キロにあるサンチャゴ集結地に足止めした上、その間に自動車で
先に到着した司令官・参謀・軍医その他高級将校たちは残り少ない飛行機を駆って、フ
ィリピンのエチアゲ飛行場から台湾の台北へと続々と逃亡させた。事後承諾を求めに行
った参謀に対し山下奉文大将は語気鋭く「部下を置き去りにして逃げるような奴に何が
できるか! 」と面と向かって罵倒され、褒められると思っていたのか腰を抜かした。置
き去りにされた約1万の第4航空軍の残存将兵は山下が率いる尚武集団に動員され伍長
の小隊長、准尉の中隊長といった奇妙な編成で満足な小銃も与えられずバレテ峠で全滅
した。エチャーゲ南飛行場を発した際の冨永自身の乗機は、第三十二戦隊に属する九九
式襲撃機であった。しかし富永は最初には当時の複座以上の陸軍機で最も高速と言われ
た一〇〇式司令部偵察機を脱出用の乗機として選んでいた。滑走路をオーバーランし、
破損してしまい、上述の九九式襲撃機で脱出した。それには証言もある。直前までを、
マニラ死守を呼号していた軍司令官が単独逃亡した事実に、南方軍である第14方面軍
は憤激した。しかし今更第4航空軍司令部を比島に戻しても意義が少ないため、これを
追認した形になり、2月13日に大本営は第4航空軍司令部の解体を発令するに及んだ。
これは日本軍には決定的な痛い結果であり、マッカーサーのフィリピン進出と5万人の
兵士の犬死と3万人の居留民の命を奪った。

1226: 名無しさんAA:18/08/16 22:09
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  272 > 

航空特別攻撃隊の出撃命令と自身の敵前逃亡疑惑など陸軍史上最悪の軍人だと批判され
この間、冨永は胃潰瘍になり治療に専念した。しかし、第4航空軍はその後台湾からの
航空作戦を効率的に行えなかったばかりか、冨永自身も軍司令官として指揮をとること
もなく、富永の行状は逃亡先の台湾でも知れ渡り、第10方面軍に申告を行った際、同軍
司令官の安藤利吉から「申告は受け付けられない」と拒否されている。また昼間から軍
の乗用車に芸者を乗せて走っており、一兵卒でさえ富永に敬礼しなかった。本来であれ
ば軍法会議が行われるべきところ、暫く何の処分も下されなかったが、陸軍中央で問題
になり、 2月23日待命、5月5日予備役編入の処置がとられた。しかし、「死ぬのが怖く
て逃げてきた人間を予備役にして戦争から解放するのはおかしいのではないか」という
声があり、7月に召集し、第139師団の師団長として満州の敦化に赴かせた。この部隊は
関東軍の主力が南方に転出した後の穴埋め用根こそぎ動員部隊の一つである。8月のソ
連参戦、終戦の後、富永はシベリアのハバロフスク収容所に抑留された。大惨敗のミッ
ドウェー海戦から帰ってきた兵員を待っていたのは、病棟監禁だった。瀧本さんらは言
う「なんでやと。罪人あつかいやないか。俺ら、そんな悪いことした覚えはないわ。そ
う思とりますやん。こんなばかな話はないと腹がたちました。」理由は新聞報道で知っ
た。「我が方の損害」として空母1隻喪失、同1隻大破という大本営発表が書かれてい
たからだ。「仰天ですわ。大本営はこんな大嘘をついておるのかと。こっちはそこに行
っとった訳やから。この目で見とったわけやから。虎の子の4隻をたった1日で失った
ことを知っておる訳ですから。」この事実を漏らされないようにと監禁されたに違いな
かった。その後送りこまれたトラック諸島では、戦友や部下が次々と餓死した。「痩せ
て痩せてほんま痩せて、本当に骨と皮になって、ほんで死んでいくんですよ。もう人間
の姿ではありません。」「1日が終わると、『ああ、きょうも生き延びた。死なないで
いた』と思う。我々はいったい何の為、誰のために戦争をしているのか。もう戦争など
まっぴらごめんだ」「この頃の戦闘行為とは、ただただ生きることだけでした。」「で
仲間が餓死すると、近くの山に埋めに行く。穴を掘る体力など無く。地面をかきむしっ
て遺体を入れ、穴からはみでているところは土を乗せて薄く均らして終わり。何と申し
訳ない事をしたのかと思う。思うけれど、その時はそれどころじゃないんですわ。遺体
の処理をしながら、あ、俺はいつやろかと、そんなことを考えながらやっとる訳です。
明日は自分の番や。だから堪忍してくれと心の中で手を合わせて、ほいで帰ってきた」

1227: 名無しさんAA:18/08/16 23:00
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  273 > 

 南方に行くまで、それまで上官から繰りかえし聞かされたのは「貴様ら、よく聞け。
いったん戦地に行ったら階級の上下は関係なしに一緒に死ぬんやぞ」という事だった。
全くの嘘だった。戦後73年となる今も瀧本さんが声に怒気と殺気を込めて語るのは、
やはりトラック諸島でのできごとだ。木の葉を海水で煮て食らうしかない日々を重ねて
いた時。餓死していく下っぱ兵たちを尻目に、非常用の備蓄食糧に手を出して食べてい
る上官達がいた。どうにも我慢ならなくて瀧本さんは分隊長に食糧の開放を願い出た。
「一発で断られました」「われわれ下っぱが草を食って命をつないでいるときに、士官
どもは銀飯を食べとるんですよ。銀飯ですよ、銀飯。こっちは草くうとるん最中にです
。」みずからにも餓死が迫りくる中、瀧本さんはこう考えるしかなかった。「こんなね
、南のね、ちっぽけな島の上でね、骨と皮になってね、のたれ死んでやね、ヤシの木の
肥やしになるだけなんて、家族と涙の別れし御国の為にと出て来たのに、こんな死に方
はもう納得できない。どうすることもできないが我慢ならなかった。」「ここで死ぬ事
がなんで国の為か。こんなばかな話があるか。こんな死に方があるか。何が国の為じゃ
。なんぼ戦争じゃいうても、こんな死にかたに得心できるか。敵と戦こうて死ぬ事なら
わかる。こんな犬死やのたれ死に、このどこが国のためか。」と語る。こうした陸軍へ
の不満や憤懣やるかたない不祥事は多い。南方戦線では、例えばインパール作戦などを
今の日本の報道や歴史家は徹底して酷評する。そこに海軍の姿は見えない。しかし果た
してそれは真実か。補給や兵站が切られて撤退し本隊合流に決定したが、そこには末路
のない世界がなかったその為撤退路は死人の山となり、白骨街道と呼ばれた。後に懲罰
会議が開かれるが、此処でも何一つ解明がなされなかた。1944年という戦局が厳しく、
もはや防衛領域縮小を図ろうとしていた時期に、何故か政府はインドに向けて出撃した
。英国軍は15万人の兵力、日本側は日本軍9万人、これに現地インド国民軍4万5千
人を加えるとほぼ同等の14万5千人になる。しかし日本政府は、インド国民軍を温存
し撤退した。イギリ軍は、30万人もの兵がいたこの歴史的規模の陸戦に、勝利を誇る
と言うことをしない。英国インド人が戦勝記念式典を企画し、英国軍に上程したが止め
たとも伝えられる。戦後東京裁判の判事に、まだ独立を果たしておらずイギリス植民地
のままのインドから、現地人、つまりインド人のラダビノード・パール判事をイギリス
は選んだ。パール判事が日本無罪の判決付帯書を書くことについて、イギリスは止める
ことが出来る立場ではあった。現にオートラリア判事は交代した。しかし敢えてそのま
まにした。何故そのままにしておいたのか。この謎は第二次世界大戦の本質にある。

1228: 名無しさんAA:18/08/16 23:01
 アーサー・パーシバル将軍は、本当は降参する話し合いに出かけた訳ではなかった。
この自軍の撤退に関して食料問題でこの地の戦闘は不可能で、今後の帰国の安全の確約
を取るためだったとされる。しかし、山下奉文は国際や国情に音痴だった。満州建国の
頃永山元彦陸軍少将(騎兵第2旅団長佐賀県の出身)の部下の、宇都宮太郎・真崎甚三
郎・荒木貞夫へと長州閥外軍につながった、いわゆる「佐賀の左肩党」の系譜に属した
皇道派の為に、軍部の干され組だった為、今の国際の流れなど知る位置にいない将軍で
あった。二・二六事件の後不審がられて南洋に送られたものだった。犬飼内閣時に宇垣
軍縮が実施されて、非皇道派の中堅幕僚層は、後の永田鉄山や東條英機を中心に出来る
、長州派の満鉄利権は宝満資金を得ての統制派としてグループにいい様に餌になった。
、これに対して陸軍中枢部の宇垣は永田鉄山を陸軍省動員課長に据え、薩摩閥につなが
るうるさい旧陸軍正統派を、土佐薩摩を中心に、地上兵力から4個師団約9万人を削減
したのだ。これら左遷された者を皇道派とした。こうした宇垣らの軍閥の縮小をして、
逆に長州閥権力が固まった。上層部を占めた有力財閥の子孫や宮家・重臣・官僚閥に一
般の兵士が不満を持ち反乱を起こした。これが二・二六事件だった。シベリア出兵後に
起こった共産党思想の赤化が溢れて、四民平等から共産の共同平民共生思想。これに対
して国粋会を始め最終戦争の世界戦争に勝つには、「君側の奸」を討ち、「国体を明徴
」にし、「天皇親政」を実現すべしという思想が明確に打ち建てられたのだ。これを受
けて海外諜報員の探索が厳しくなり、日本の特高警察の活動は共産国の秘密警察に近く
なっていったのである。二・二六事件において山下宅の電話は事件前から逓信省と陸軍
省軍務局(事件後は戒厳司令部)によって傍受・盗聴を受けていた。決起部隊が、山下
の説得で自決を覚悟した。がこのときの山下は陸軍大臣と侍従武官長を通じて、彼らの
自決に立ち会う侍従武官の差遣を昭和天皇に願い出ていた。これが昭和天皇の不興を買
い主流派の長州閥からの左遷を買うことになったとされる。山下なりの温情や武士道が
災いしたのである。こうして2・26事件収拾の大きな立役者でありながらも、山下は
天皇や元老の評価は極めて低く左遷され、陸軍省や参謀本部・大本営のエリートポスト
につくことはなかった。山下自身は参謀本部部員、陸軍省軍務局課員を務めて、スイス
・ドイツ・オーストリアにも駐在し国際舞台を知らないわけではなかったが、情報は限
られていて、会談の仕方や捕虜の取り扱いなどは全く欧米流に習う事はなかったのだ。
パーシバル将軍は、欧州戦線やアフリカ戦線と数多くの海外経験者で西洋式会談は東洋
も同じに行っていた。従って「イエスかノーか」と降伏を迫ったという逸話は一躍有名
になったが、これは統制派の作り話で、実際にはより落ち着いた紳士的な文言・口調の
会話だった中で問うたというのである。

1229: 名無しさんAA:18/08/16 23:02
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  275 > 

 統制派は、二・二六事件の後は、陸相として皇道派の追放(粛軍)を主導し、「親の
七光」と称された寺内 寿一(てらうち ひさいち)を猫の鈴のごとく付けた。「追放さ
れた連中が陸相になれないように」との口実で軍部大臣現役武官制を復活させ、軍部の
影響力を増大させて軍政拡大を図り、「腹切り問答」後に議会解散を要求し、二日間の
議会停会の後、広田内閣を総辞職に追い込んだ。しかし大恩ある宇垣の内閣には流産さ
せた。南方軍総司令官在任時は、無謀なインパール作戦を進め、現地司令官の反対を押
し切ってルソン島からレイテ島への作戦転換を指示した。結果多大の犠牲者を出すに至
った。同時期に寺内はサイゴンの旧フランス総督官邸から一歩も移動しなかったばかり
か、愛人の赤坂芸者を軍属にして軍用機で日本からサイゴンに乗せて、現地で豪遊して
いた。第18代内閣総理大臣を歴任した元帥陸軍大将寺内正毅の長男で天皇に覚えが良
かった為にこうした悪行となった。山下がインパールからフィリピン戦線に送られるが
第14方面軍はダグラス・マッカーサーらの指揮するアメリカ軍に対して、台湾沖航空
戦の誤った戦果報告に基づいて立案された「レイテ決戦」を大本営から強いられる。彼
の部下には優秀な兵士が多数いて善戦していたが、本来予定していたルソン島での決戦
を行う事はできなかった。飛来する敵航空機がまったく減らない上、捕獲したアメリカ
軍パイロットの尋問からも、誤報は裏付けられたが、南方軍総司令官として寺内寿一元
帥陸軍大将は命令を変えなかった。こうしてもともと、このレイテ決戦に反対していた
山下はじり貧になって追い込まれた。部下には、敵の意図や行動を正確に予測すること
から「マッカーサーの参謀」というあだ名の名参謀堀栄三陸軍中佐がおり、山下希望の
武藤章陸軍中将が着任していた。しかしレイテ決戦に多くの兵力が投入されて、制海権
と制空権を敵に握られて輸送船の大半が撃沈された。ルソン島の戦いでは兵力差で圧倒
され、最終的には山岳地帯へ退いての持久戦に追い込まれている。民間人が多く残る首
都マニラでは、無防備作戦で行くつもりだったが、大本営は許さなかった。実質第14
方面軍部隊の大半をバギオ方面の山中へ撤退させているが、マニラ死守に固執する海軍
や大本営の猛烈な反対を受け、無防備都市宣言は頓挫。マニラ海軍防衛隊を中心にマニ
ラの戦いが行われ民間人約10万人が死亡している。もともと明治の時代の「名誉の捕
虜」と国際感覚の思考が、昭和軍人では戦陣訓は「生きて虜囚の辱めを受けず」の言葉
に変わった。これが大きな昭和軍人や天皇の大きな間違いだったのである。「マニラ戦
で民間人を殺傷した件や華僑の虐殺」は事実無根であったがしかし彼は潔く「知らぬ事
であったが、責任が無いとは言わない。」と絞首台に乗った。

1230: 名無しさんAA:18/08/16 23:20
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  276 > 

「待てしばし 勲のこして ゆきし友 あとなしたひて 我もゆきなむ。」これが山下
の辞世の句と言われている。(待ってくれ、今しばらく、武勲をたてて、先に逝った友
たちよ。君らの後を、私も直ぐに行くつもりである。)と言うのが意味とされる。児島
氏は、著書『指揮官』の中で山下中将のそうした性格を証明するエピソードを紹介して
いる。ドイツの精神医学者『体格と性格理論』を山下中将と敵将A・E・パーシバル中将
の体格に、その勝敗の行方を「心理学」の観点から分析している。山下中将は身長174c
〜180cm、体重100sの巨漢で太鼓腹を誇る肥満体であった。この肥満型の性格として、
「社交的、善良、親切、暖かみがある、活発、激しやすい」を人は感じる。また「疲れ
を知らぬ活動力、ぬかりなさ、果敢さ」、「理解力も敏速で多くのことを同時に把握し
、よく刺激に順応する」という。つまり、山下将軍は、大いびきをかいて居眠りをする
「明るさ」と、下をいたわる「暖かみ」、その上細心な「ぬかりなさ」、銃弾にも身を
さらす「果敢さ」という気質・特性がこの「シンガポール攻略作戦」の勝利を導いた。
と言う。一方、敵将パーシバル将軍はどうであったか。ザ・タイムス誌によると「(パ
ーシバル)中将はやせて背が高い。そしてウサギのように二本の前歯が突き出ている。
容姿的には、「社交的には魅力的な紳士だが、いざ付き合うと可能性を見出す前に困難
に注目する。」といった消極的な人物である。「野心も、特色も、信念もない。性格は
強くなく、指揮者としては部下にも一般市民にも人気がない。」と分析している。上記
のクレッチマー教授は、細長型、つまりやせ型の人物に最も多く見られるのが分裂的性
格だといい、その気質の特徴として「静か、まじめ、臆病、敏感、神経質、その他」を
あげるが、特に行動面では「貴族的な繊細さ、時に激しく興奮するが決断がなかなかつ
かない優柔不断。」「自分を悩まし傷つける環境を嫌がる」傾向とする。パーシバル将
軍は、山下軍の輸送船団の接近の報告を受けながらも、自分の希望的観測の(日本軍は
ここへはやって来ない)を信じて動かなかった。事態が急迫しているにも関わらず、い
つもどおり朝9時に司令部に出勤し、5時に宿舎に帰る。という平時と同じ夕食と食後
のブランデーを楽しみ、窓から吹き込む夜風を首筋に受けながらの読書のひと時を過ご
してベッドに入るなど、自身の生活のペースとテンポをかえなかった。と紹介されてい
る。


1231: 名無しさんAA:18/08/16 23:21
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  277 > 

 山下将軍は、信望厚く、名声も頭脳もあった。昭和の日本軍の逸材と言われていたが
、その為に面倒見が良く二・二六事件以降干された。その軍人としての人生は輝かしい
ものではなかった。反乱将校に同情して天皇陛下の不興を買っていた事もあるが、統制
派の東條英機やアヘン商売の宮家方から疎まれていた。といった話がある。事実、本省
から前線に左遷されて前線の敗戦を強いられた。その後も山下は戦犯として処刑される
わけであるが、それも軍人として不名誉な囚人服を着せられての絞首刑であった。本来
、軍人は軍服着用で銃殺刑に処せられるのが本懐であるが、マッカサーにも嫌われてい
たのは、吉田茂などの長州財閥や海軍の米軍コンタクトがあった為とも噂される。私の
父は、その山下将軍率いる 工部隊だった。言わば兵舎を作る部隊だ。このルソン島の
戦線では随分の仲間が無駄死にしたらしい。結局は物量に負けたとささやいていた。実
は食料も水も弾薬も無い中で戦っていたと話をしている。ジャングルの中で集団行動は
かなり厳しく、水を求めて行軍したらしい。食料は煮炊きすればなんとかしのげたとも
言えるが 問題は病気だったと言う。薬品の無い中ではジャングルに潜むのはかなりの
戦死者を覚悟しなければならなかったと言う。作戦会議でも制空権の無い中で、街中の
爆弾や機銃掃射の飛行機にやられるか、ジャングルに潜んで食を得るかでもめたが、背
に腹は代えられず潜む結果になった。父の場合マラリアにかかって行軍から置いていか
れた。その後病気のまま捕虜になり、米兵の病院で治癒している。ただ驚いた事には、
多くの黒人兵がいて白人兵にこき使われていた事だった。と話していた。服はやぶれて
靴も履かず、一応は兵士の中にあった。その黒人が父の看護をして病室で治っている。
椰子の繊維で草履を織って送り、その後ナイフで木を削り、下駄を作ってやったと言う
。その後黒人兵は大いに喜んでガムをくれ、ジープに乗せてくれて、他の囚人に比べて
かなりのいい身分だったと言う。山下将軍には、多くの知恵多き人がついていたのだが
、それでも北朝鮮の野口が作った日産コンチェルンにはあまり通じていなかったらしく
、政界から疎まれていた。野口 遵(のぐち したがう、したごう)は、日本の実業家と
して日本窒素肥料(現・チッソ)を中核とする日窒コンツェルンを一代で築いた。「電
気化学工業の父」や「朝鮮半島の事業王」などと称された。チッソの他にも、旭化成、
積水化学工業、積水ハウス、信越化学工業の実質的な創業者でもある。彼の生まれは、
金沢の貧しい士族の家に生まれとされ山下とは顔を合わせたはずであった。

1232: 名無しさんAA:18/08/17 01:08 ID:mog
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  278 > 
 この山下将軍の率いた部隊は、信棒の元に、兵士は献身的に働いて勝っていった。昭
和16年(1941年)12月8日夜間、「ヒノデハヤマガタ」の暗号で開戦した。日本軍
はコタバル上陸作戦を開始し、陽動作戦で主力部隊は北約50キロの地点に上陸した。
コタバルでは壮絶な上陸作戦となりました。ここにはトーチカと呼ばれるコンクリート
で固められた陣地が100m間隔で配置されており、兵士達はトーチカの間を走って抜
けて向こう側にいかなければなりませんでした。ぐずぐずしていると部隊は全滅になり
ます。ところがトーチカとトーチカの間には鉄条網が三重に張り巡らされており、しか
もそこには地雷が埋められていると思われました。この戦闘に参加した兵士が書き記し
たものがその3ヶ月後昭和17年2月に出版されています。星港攻略記である。永らく
「GHQ焚書図書」とされ世にでなかった。しかし近年開封されてこうして記録がでた
――― やがて挺身隊が帰ってきた。そして、「トーチカを二つ制圧しなければどうし
ても通ることは出来ません。」と云うのであった。そこでトーチカの攻撃は繰り返され
た。しかし誰も隊長の下に帰ってこない。(戦死したということ)時間は刻々と経って
いく。この時四名の兵士が、「私達をトーチカ攻撃にやってください。」と申し出た。
こうしていつまでもとどまっていたならば全滅してしまうであろう。しかしこの場合、
何が何でもやってみなくてはならない。いや、やりとおさなければならない。けれども
誰が言っても成功しないこのトーチカをこの四人の兵はどう攻撃するつもりなのか。‐
隊長は暗然とせざるを得なかった。四人の兵は、二人づつ左右に別れてトーチカに向か
って突進していく。急にトーチカの砲口は火を吐き出した。瞬時に四人は地に伏した。
小さい丘阜を利用して僅かに銃丸を逃れている。発射音が止むと、すかさず飛び出す。
どうやらトーチカの正面に近づいたらしい。と、どうしたことだろう、二つとも砲口の
火が止んでしまったのだ。この時だとばかり部隊は弾幕の間隙を縫って、脱兎の如くに
飛鳥の如く後方の林に突入して言った。トーチカの裏へ出られたのだ。椰子(やし)の
密林は兵たちを覆っている。部隊は遂に突入できた。が、あの四名の兵はどうしたであ
ろう。隊長は部下の身を案じて伺ってみた。おお、何という忠烈!彼等は肉弾を以って
、あの頑強なトーチカを制圧したのだ。トーチカの銃眼に我と我が頭を突っ込んで、肉
弾の壁を作って、肉弾の線をはめてしまったのだ。この一瞬に、部隊は弾幕の間隙を通
り抜けて、無事に椰子林に突入することが出来たのだ。何という壮烈さよ!」と綴る。
命令なのか本当に立候補したのかは別にして、こうした非業の死が繰り返されていた。
よく考えて見ましょう。これは戦争です。その中で全滅になろうであろう極限の場面で
ある。美談でも何でもない。仕方なかったのである。

1233: 名無しさんAA:18/08/17 01:09
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  279 > 

1944年2月、日本陸軍は、無茶苦茶なウ号作戦(インパール作戦)開始直前に、英
軍は雲南省からビルマに侵攻し、さらにウィンゲート少将率いるチンディッツ特殊部隊
に、ビルマ北部の交通・通信網を破壊することを命じた。既に日本軍のインパール作戦
を暗号解読によって察知していた英軍には、インパールと離れた日本軍の後方支援に対
して、果敢な防衛攻撃を展開した。この空軍の爆撃は先鋭隊の食料や武器弾薬の兵站を
切って孤立させたのだ。1944年2月英軍第14軍司令官スリム中将と米陸軍義勇航空隊
ジョージ・ストレイトメイヤー将軍はウィンゲート准将と第1航空軍フィリップ・コー
チャン大佐に、インドに向かい,ビルマ北部ミートキーナの日本軍の交通通信網を破壊
すること、雲南省怒江(サルウィン川)を渡河しビルマ北部に侵攻することを命じた。
雲南省は、チベット高原を発する三つの川、金沙江(長江上流部)、瀾滄江(メコン川
上流部)、怒江(サルウィン川上流部)が流れている三角洲地帯だった。その三江併流
(さんこうへいりゅう)の地域は,現在,迪慶(ディーチン)蔵族(チョンツー)自治州
、怒江リス族自治州を含み、ナシ族、イ族など多数の少数民族が多数居住していた。こ
うした少数民族の地は、古来より勇猛果敢な戦士が古来から残って居る地域で、本来、
彼らを味方にするべく時間をかけて戦うのがより効率的な戦い方だったのである。それ
は日本側も、英国側も中国側も同じ認識だった。三江併流地域は、中華人民共和国雲南
省の北部で現在、デチェン蔵族自治州、怒江リス族自治州がある。この地域はインド大
陸が移動してユーラシア大陸に衝突した場所で、ヒマラヤから続く褶曲山脈が南北に走
っている。この褶曲山脈の間の渓谷に、西から怒江(サルウィン川上流部),瀾滄江(
メコン川上流部),金沙江(長江上流部)が流れている。標高は4000-6000mで、峡谷も
1000mから2000mの深さがある。渓谷と山脈に隔離された三江併流地域には、現在であっ
ても独自の言語を持つ10以上の少数民族が暮らしている。当時には、西側のビルマ(
現在のミャンマー)との間の交通路は限られた山道しかなく、隔絶した地域だった。し
かも、このビルマと中国を結ぶ陸路として、インド方面から中国に、アメリカ、イギリ
スの援助物資が、この蒋介石援助ルート(援蒋ルート)を通って流入には現地人にも、
潤わせていた面もあったのだ。そこに、日本軍は、三江併流地域を占領し、インド・ビ
ルマから中国を隔離し、中国に援助物資が流入するのを阻止しようとした作戦を立てた
。この兵站が切られた構図が日本の大きな失策で敗因となった。


1234: 名無しさんAA:18/08/17 01:20
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  280 >

 雲南省怒江方面で戦闘が本格化したのは,1944年、5月のインパール作戦の失敗が明
らかになってからである。米英中の連合軍が、ビルマ北部,雲南省怒江方面から攻撃を
開始した1944年5月11日からだった。ミイトキーナには飛行場があって、重慶に伸び
るレド公路がイラワジ川を渡河し雲南省に入る地点で、そこが中国の騰越の地である。
騰越(とうえつ)からイラワジ川の東に,怒江(サルウィン川),その更に東が瀾滄江
(メコン川上流部)である。その東が,雲南省の州都昆明(クンミン)である。つまり
北ビルマ・雲南省の日中両軍は、この三江併流地域で戦線を接していたのだが、未だに
戦火はなかったのである。英軍を主力とする連合軍がミートキーナを占領した1944年8
月3日。雲南省怒江方面の要衝である拉孟(らもう)は9月8日に、騰越(とうえつ)
は9月14日に連合軍は陥落させた。つまり,インパール作戦の帰趨が決するまでは、
ビルマ北部・雲南省怒江方面の帝国日本軍は、戦闘の中で持ちこたえていたのである。
渓谷と山脈に隔離された三江併流地域には、現在でも、独自の言語を持つ10以上の少数
民族が暮らしているが、当時、西側のビルマ(現在のミャンマー)との間の交通路は限
られた山道しかなく、隔絶した地域だった。しかし、ビルマと中国を結ぶ陸路として、
インド方面から中国に、アメリカ、イギリスの援助物資が、この蒋介石援助ルート(援
蒋ルート)を通って流入していた為に、そこで、帝国日本軍は、三江併流地域を占領し
、インド・ビルマから中国を隔離し、中国に援助物資が流入するのを阻止しようとした
のである。雲南省怒江方面で戦闘が本格化したのは、1944年5月に、インパール作戦の
失敗が明らかになってからである。英軍を主力とする連合軍がミートキーナを占領した
のは,1944年8月3日で、雲南省怒江方面の要衝である拉孟には9月8日、騰越は9月
14日になってやっと連合軍が陥落させたのである。つまり、インパール作戦の帰趨が
決するまではビルマ北部の、雲南省怒江方面の日本軍は、持ちこたえていた事になる。
1944年2〜3月、日本軍がインパール作戦を開始する直前には、ビルマ北部・雲南省怒
江方面では、チンディッツなど連合軍による日本軍への反攻が開始されようとしていた
。日本軍はこの後方撹乱を「陽動」「威力偵察」と考えた。深刻な大反攻とは全く認識
してはいなかった。しかしこれは、連合軍による本格的なビルマ奪回作戦の一環であり
、制海権を奪還して飛行機が飛ばないインパール作戦へ別方向からの妨害行為であった
。もし山下部隊の中にこれを見切る将校がいれば事は変わったろうが山下のみでしか感
じてなかった。

1235: 名無しさんAA:18/08/17 01:29
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  281 >

 既に伝令の日本に向けた大本営との交信は全て暗号解読は出来ていた。つまり日本の
行う作戦は読まれていたのである。1944年2月9日,ファーグソン将軍の率いた第16
旅団はレドを出発,残りの部隊は,輸送機で空輸された飛行場の周囲に陣地を構築して
日本軍を待ち構えていた。ウィンゲート将軍のチンディッツの特殊部隊は,1943年2月
8日に「ロングクロス」作戦を行い1944年2〜3月には、新たな「木曜日」作戦を出動
させた。これは,チンディッツ特殊部隊と英連邦の将兵など2万名に参加した大掛かり
なものだった。ウィンゲート准将にとって、1944年2月は第二次チンディッツ作戦であ
り二回目のビルマ侵攻で日本軍への復讐だった。「木曜日」作戦では,輸送機とグライ
ダーを利用して大規模な空挺作戦を展開し進軍を挟みうちして全滅させるものだった。
しかし3月24日ウィンゲート少将が飛行機事故で死亡すると,チンディッツ指揮官に
ランタイン少将が就任して更に大掛かりな作戦に変わった。1944年初頭チンディッツの
第三インド歩兵師団第二軍の隷下には、第三西アフリカ旅団、第十四英歩兵旅団、第十
六英歩兵旅団、第二十三英歩兵旅団,第77インド歩兵旅団、第百十一英歩兵旅団モリ
ス支隊(モリス中佐)にも、砲兵隊、第百六十野戦連隊、第六十九軽対空連隊などが、
付随した。ただし予備軍も含んでいるので,全部隊がビルマに侵攻したわけではない。
このチンディッツ侵攻部隊の特徴は,@空輸部隊とA負傷者の後送更にB補給物資の空
輸C空輸に密接な航空支援D制空権の確保を目的に、目的に添った部隊を作られていた
事にある。ウィンゲート准将は,敵地での精力的な後方撹乱は90日が限度と想定して
いた。これには大きな理由があった。イギリス本国ではドイツの制空権には全く歯が立
たなかった上に、V2ロケットによる攻撃で今や自国の空の空軍は意味のないものだっ
たのだ。当初ダグラス社に発注していた飛行機はキャンセルし、中国に送られたが、そ
の後のアメリカからの納入もUボートや自国の飛行場を避けてインドに送られたのだ。
こうして3月には英軍チャンディッツ特殊部隊のビルマ北部侵入の強化が図られた。こ
の情報は日本軍にも送られた。こうしてビルマの基地作りの最中を、日本陸軍はウ号作
戦(インパール作戦)を開始した。4月に第三十一師団「烈」はコヒマの一角を確保し
持久戦態勢に入った。しかし,現地の第三十一師団佐藤中将は,糧食・弾薬の補給が全
く得られなかった。1944年6月1日雨季が迫る中、病人が続出した。佐藤高徳は第十五
軍の猛者を率き連れたままコヒマ死守命令を無視して独断で退却を開始するに及んだが
、それは弾薬や食糧などの物資供給の差であり、それはそのまま経済力や物量の差だっ
た。

1236: 名無しさんAA:18/08/17 01:34
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  282 >

  日本軍はインパール作戦の一環として、インパール作戦と同時にその北に位置する
コヒマにも進撃し制圧していた。しかし佐藤高徳陸軍中将率いる第31師団はコヒマを
制圧しているにも関わらず約束の物資補給はなかった。マラリア患者を率いて、薬品も
食料も砲弾も絶たれて届かず、愚将中の愚将第15軍司令官牟田口廉也に殺されも同然
の状態に陥っていた。当時佐藤高徳陸軍中将率いる第31師団は陸軍少将であった宮崎
は、第31師団の歩兵団長としてコヒマ戦線を指揮していた。険峻な山岳地帯を自ら大
きな荷物を背負ながら先頭に立って部下を率いた。コヒマを奪還し常駐したが、食糧が
尽きる事を危惧した。宮崎繁三郎陸軍中将は1892年(明治25年)1月4日に産まれの気
骨の明治軍人だった。岐阜県厚見郡北島村(現在は岐阜市)に産まれノモンハン事件、
インパール作戦など、日本軍が劣勢に立たされた戦場で常に戦功を挙げたことで知られ
る、帝国陸軍屈指の野戦指揮官としては、かなりの兵将だった。最終階級は陸軍中将だ
が、佐藤中将に撤退して前線から中継本部に合流するしか手がない事にしんがりを務め
る事を伝えた。本隊を先行撤退させ7月9日,撤退を続ける第三十一師団長・佐藤幸徳
中将には、第十五軍牟田口廉也中将からビルマ方面軍司令部付き命令書が届き。速やか
にラングーンに「赴任」せよとの解任電報が届く。その後第三十一師団は宮崎少将が師
団代理として指揮を継承して撤退を続行した。牟田口廉也中将が愚将だったはコヒマを
攻略した後、ただちに第31師団をアッサム鉄道が通る 大英帝国軍の物資集積地である
ディマプールへ急行させるように考えていた事を明示していなかった事だ。ディマプー
ルを占領すれば、大日本帝国陸軍は武器・弾薬・食糧、戦いに必要な物資が手に入る。
アラカン山脈を越えていく第31師団と第15師団は、軽装備を余儀(よぎ)なくされた
が、コヒマとインパール攻略後は、自動車道が開通し、補給が受けられる。牟田口廉也
は作戦期間を勝手に3週間から1か月とし、不足分は「敵に糧(りょう)をよる」とし
たのである。敵の虚(きょ)をつく迅速(じんそく)な進撃がこの作戦の要(かなめ)
である事で秘密理に下のだろうが、兵站線が乏しい中で最初からディマプール占拠を掲
げていれば良かったのである。事実インパールを主力部隊で攻めさせコヒマを落させた
のは精鋭部隊だった。ディマプールはコヒマから直ぐの所だった。もしインパール部隊
をなくしてディマプールを占拠した後の時期に、インパールを落せば簡単だったのだ。
しかし、自分のいるマンダレーの本部の守る為に精鋭のみをコヒマに送っていたのであ
る。そしてこの佐藤の猛者部隊もディマプールを目的に変えて進軍すればよかったのだ
。これが佐藤の甘さや幼稚さだったし、それを指令できなかった日本の幼稚さだった。

1237: 名無しさんAA:18/08/17 01:53
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  283 >
 そもそも第三十三師団とともに国境を越えたインド国民軍は、祖国にインドの国旗を
掲(かか)げることができていた。他の師団よりも1週間早く作戦を開始した第三十三
師団は、3月13日、インパールの南のトンザンで、混乱した英印第17師団を包囲し
ていたのである。しかし、前線から「玉砕覚悟で戦う」という主旨の電報を「玉砕寸前
」と誤解した師団長の柳田元三中将(やなぎだげんぞう)は包囲を解き、敵をインパー
ル方面に逃がしてしまったのである。その上に柳田元三中将は、敵への追撃を10日間
も躊躇(ちゅうちょ)し、インパール手前に防御陣地を構築する時間を与えてしまって
いた。これは日本軍通信技術の幼稚さが産んだ手違いと海軍の支援のない体制での、お
粗末な結果だった。もし2隻の空母で空軍が併用出来ていたら起こる事のない戦い方な
のだったのである。そもそも戦争では要所を獲ろうが本部の作戦通りであろうが、物資
や兵隊や近代兵器の絶対量の不足の中では、より確実な戦略がなければ勝つ事は無理で
ある。特に空輸や輸送路を絶たれる事に於いては、そこまで伸びた敵の進軍がある事を
意味していた。砦を落す事や占領地を拡大する事も大事だったが、より以上に、確実に
維持し守られて兵力を温存する事がより大事な事であった。牟田口廉也にはそれがない
愚将作戦しかできなかったと言われる。一方3月15日から進撃した第15師団の本体
は果敢に攻め、3月28日にはコヒマ〜インパール間の道を遮断する事には成功してい
た。しかし、第33師団の動きが遅く一手でインパールが反撃される破目になった。同
じく3月15日に、コヒマを目指し進撃を開始した第31師団は、宮崎繁三郎(みやざ
きしげさぶろう)少将の率いる歩兵第58連隊が、3月21日にウクルルを占領し、敗
走する敵を追ってサンジャックに突進した。しかし、サンジャックは第15師団の担当
地区であり、このときの宮崎繁三郎少将の 1週間のロスが、後で大きく響くことにな
った。その10日後の4月5日に第31師団はついにコヒマを占領した。牟田口廉也中
将はコヒマの第31師団に、ただちにディマプールを攻略するように命じた。コヒマと
ディマプールは、徒歩で2日の近さであり、大英帝国軍の補給基地はすぐそこである。
しかし、ビルマ方面軍の司令官川邉正三(かわべしょうぞう)中将が、ディマプールへ
の突進命令を取り消してしまった。ビルマ方面軍の作戦案には、アッサム州ディマプー
ルまでの進出は含まれていなかったのである。こうして大英帝国軍は体制を整(ととの
)えて、空からも補給を受け、迅速(じんそく)さを欠いた日本軍は、やがて、不利に
なっていったのだ。これらの状況は全て日本軍の通信機器の不備と妨害電波さえ持った
英国軍の技術の高さであった。つまりモノンハンの時の様には、人海戦術や精神論では
どうにもならない事情や事象であった。

1238: 名無しさんAA:18/08/19 01:23 ID:iPk
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  284 >

 インパール作戦の失敗は、良くも悪くもこの佐藤高徳がビルマに来た事にある。佐藤
は「いいとこのお坊ちゃん」だった。山形県に生まれた佐藤は、鶴岡中学校(現山形県
立鶴岡南高等学校)から仙台陸軍幼年学校を経て、陸軍士官学校卒業した。さらに1921
年(大正10年)に陸軍大学校を卒業。陸軍参謀本部勤務や部隊勤務などを経た。鶴岡神
宮いわゆる鶴岡八幡は、近くの豪商の寄付で建てられた通常の藩主の寄贈と違っていた
。それが可能だったのが米の醸造、則ち酒造会社の運営だった。戦国時代画期的な経済
の一部として江戸時代に繁栄を謳歌した。本宮鎌倉の鶴岡八幡は康平6年(1063)の源
頼義が奥州を平定して鎌倉に帰り、源氏の氏神として出陣に際して、ご加護を祈願した
京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜辺にお祀りしたのが始まりとされている。その後、源氏
再興の旗上げをした源頼朝公は、治承4年(1180)鎌倉に入るや直ちに御神意を伺って
由比ヶ浜辺の八幡宮を現在の地にお遷しし、 建久2年(1191)には鎌倉幕府の宗社にふ
さわしく上下両宮の現在の姿に整え、鎌倉の町づくりの中心とした。つまり鶴岡八幡は
征服王朝の大和朝廷の足跡の記録だった。中央集権の体制ができると、この地の租税の
対象となり米を船で都に運ばれる。しかし鎌倉時代からこの地を都にする地方豪族によ
って鎌倉や江戸以上に京都の風情となった。寒さがそうさせたと言える。海産物が宝庫
のこの地は例え重税でも米は取れない事は大前提で、余米の出荷は隠れて市場に送った
。しかし豊作では安くなり不作ではどうしようも無かった。その為納豆や酒などが発展
した経済を持ち江戸期には大いに栄えたのである。佐藤は1930年(昭和5年)から2年間
を陸軍参謀本部の戦史課で過ごす。この戦史課勤務時代に、小磯國昭や東條英機などの
統制派に属する人物と多く交際して行き、橋本欣五郎とともに桜会の規約作成にも関与
した。この時の交際が、階級の上下などにこだわらない佐藤の性格形成にも関係した。
いわゆるフランクなお調子者であった。と言われ、桜会集会の経費も彼がもった。他が
うらやむ金満家だったのだ。しかし佐藤にすれば蔵元や船持ち漁師など、持ってる者が
持たざる者を救う事は、郷土の民是だったのである。しかし、桜会の活動を巡っては、
同じく参謀本部の総務課長だった牟田口廉也(皇道派)と激しい喧嘩となったことがあ
り、このいさかいが後のインパール作戦での抗命事件の一因となった。皇道派による二
・二六事件の際には、統制派の佐藤は第6師団参謀として断固鎮圧を主張した。張鼓峰
事件では歩兵第75連隊長として参戦して、部隊の損害が5割に達した。停戦まで陣地を
守りぬき、その大胆不敵な戦闘指揮ぶりに、剛将として名を轟かせた。


1239: 名無しさんAA:18/08/19 01:24
 インパール作戦は当初より第15軍司令部内部でも無謀さが指摘されていた。佐藤も
作戦前から第15軍の会議にて補給の困難を主張していた。佐藤は、第15軍司令部には
作戦中の補給量の確約を求めるほどの危惧があった。佐藤は、部下の師団の将校を集め
て、「諸君の大半はアラカン山中で餓死するだろう」と訓示していたほどだ。しかし、
牟田口廉也中将も又佐藤以上に危惧があった。日々英軍が迫って来ている兆候が見て取
れ、今や食糧自給で村を維持する段階を過ぎていた。ここ3ヶ月の間に、隠れた飛行場
がコヒマに建設されようとしていたのが確認され、これで英国の拠点創りが7ヶ所目と
言うインド人の報告であった。このままではやられる街造りの速さが日本軍に比べ十倍
も百倍も違っている。と感じていたのである。佐藤幸徳中将(第31師団長)は土門周平
によるとインパール作戦時に、上司の牟田口中将とだけでなく、第33歩兵団長である
宮崎繁三郎少将とも折り合いが良くなかった。それどころか部下の31師団の兵員から
も全く好かれていなかった。嫌われる程ではなかったが、誰も相手しようとはしなかっ
たのでれある。宮崎には、この佐藤がおべんちゃらをいい、食糧が十分でない前線部隊
にまで慰安所を設けようとしたことや、宴席で率先して猥談をしたこと、公然とインパ
ール作戦の失敗を予言していたこと、他がテント暮らしの兵士を尻目に佐藤用の数寄屋
造の豪華な師団長宿舎を造らせていたことなどを不快に感じていたのである。これは、
宮崎に限った事ではなく、この部隊の中で浮いていている事を佐藤はひしひしと感じて
いた。1944年(昭和19年)のインパール作戦前に、第31師団(通称号:烈)の師団長と
して参加したが。この時、上司の第15軍司令官には、前述のように参謀本部時代に因縁
のある牟田口廉也中将が就いていたのは当然参謀本部の仕組んだ事だった。烈の部隊名
はもともと佐藤がなる前から猛者揃いであった為に付けられた名である。九州人や東北
の田舎の者が多く学よりも力を持って制圧する事に長けていた。佐藤は述懐において、
「俺は東條首相に受けが悪くてね、張鼓峰事件の時も連隊長として派遣され、今度も又
一番悪いところへやらされたよ」と言っていたと言う。そもこの男は戦争を見る視点が
一般の日本人の様な視点を持ってなかった。だがこの佐藤が軍団で嫌われているが、軍
団も又東京の参謀本部から嫌われていた。余りにも戦果が華々しかったし、所帯が大き
く兵站の食糧さえ供給に苦慮していたからだ。その軍部も日本の皇室国会には煙たい物
で、常に責任の無い見通しのつかない嘘の方向や報告に終始していて居たからだ。その
国会や皇室も国際社会では疎んじられた。というのも真面目に植民地政策を批判して、
アジア共栄圏を求めていて、欧米列強の搾取する領土拡張政策とかち合って居たからだ
。小さなぽっと出の島国が全く真面目に正義ぶった巨大帝国である事が気にくわなかっ
たのである。

1240: 名無しさんAA:18/08/19 05:45
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  286 >

 本来は佐藤の役割は、師団の状況把握に努め、数寄屋の家よりは牟田口の政策に助言
をし、成功させる情報を得る事だった。ここで、牟田口は英国軍が日本軍の領域を調べ
コヒマ領域を英国が拠点を置く前に叩く事を主眼とした。時間的制約があった。それに
対して佐藤はここまでのタイ方向からの進軍に兵は疲れていて、拠点を置きじっくりこ
れから戦う覚悟で 集落さえも作って生活し原住民を味方にする事が大事と考えていた
節がある。しかし、この31師団どころか第15軍司令あるいはビルマ方面軍そのもの
が既に孤立する淵にいて食糧や弾薬の供給が滞っていたし、そうした時間はなかった。
というのも、日本国政府そのものが時間がなかった。ミリ油田やチェンバレン油田から
の石油の本国輸送に 民間も軍船も強制接収し輸送していながら、それらは次々と撃沈
されていたのだ。民間船団は既に無防備での航海は出来ない中で、日本の船の半分は叩
かれ、叩かれた分英国タンカーなどを捕獲改造してしのいでいた。勿論この米英の攻撃
は条約違反であった国際法にも違反していた。しかしドイツのUボート攻撃に対抗する
ように、民間船への無差別攻撃は既に始まっていた。モノハン事件の反省からソ連部隊
が圧倒的戦車を作った事。ハワイ攻撃から米国内に一般国民のオートメーション工場で
軍需発注兵器が大手を振って作れる様になった事。この二つは大きな事件だった。こう
してインパール作戦は悲惨な末路を迎えた。第31師団の第十五軍高級参謀の木下秀明
大佐は、退却して来た31師団参謀長加藤国治大佐と面会した時、回想録で次のように
記している。「その晩、佐藤師団長罷免の軍命があったので、朝これを加藤参謀長に告
げたところ、加藤大佐は、今は上官ではないから事の真相を話そう。といって、師団長
の態度及び処置について一切を詳しく私に打ち明けて、統帥上、軍紀上、軍律上の痛憤
止まる所を知らないと、真に憤慨した。」と書く。事実@31師団主力の独断撤退により
インパール作戦の失敗は確定した。A佐藤幸徳中将は指揮下の宮崎支隊(第31師団歩兵
団長=宮崎繁三郎少将)を前線のコヒマに残したまま、宮崎少将にほぼ無通告で転進し
、B31師団主力は、コヒマ攻略中の宮崎支隊に対する協力に消極的だった。C31師団の
転進と宮崎支隊のコヒマ前線の壊滅によって、コヒマの南のインパール周辺での戦闘中
の15師団主力の無防備な側面がイギリス軍の攻撃にさらされ数多くの戦死者となった
。これは31師団の転進が15師団の壊滅の原因となった。この命令違反して撤退した
という事実に対して、牟田口廉也中将の補給計画と作戦指揮に問題があったのだ。と主
張したが、どのような正当な理由があろうと命令違反であることは事実で、撤退後に言
う事ではない。と言い放った。

1241: 名無しさんAA:18/08/19 05:46
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  287 >

「インパール作戦」に関わりのある陸軍軍人(昭和19年時点)を見ればそこに経験の差
がかなりある事がわかる。
・ 寺内 寿一 65歳 陸士11 陸大21 山 口 南方軍司令官
・ 杉山  元 66歳 陸士12 陸大22 福 岡 参謀本部総長
・ 東條 英機 66歳 陸士17 陸大27 東 京 総理大臣
・ 河辺 正三 58歳 陸士19 陸大27 富 山 ビルマ方面軍司令官 陸大・優等
・ 飯田祥二郎 56歳 陸士20 陸大27 山 口 第15軍司令官
・ 牟田口廉也 56歳 陸士22 陸大29 佐 賀 第15軍司令官 昭和18年03月より
・ 佐藤 幸徳 51歳 陸士25 陸大33 山 形 第15軍第31師団長
・ 田中 新一 49歳 陸士25 陸大35 北海道 第33軍第18師団長
・ 山内 正文 53歳 陸士25 陸大36 滋 賀 第15軍第15師団長
・ 柳田 元三 51歳 陸士26 陸大34 長 野 第15軍第33師団長 陸大・優等
・ 中 永太郎 51歳 陸士26 陸大36 北海道 ビルマ方面軍参謀長
・ 田副  登 51歳 陸士26 陸大36 熊 本 第5飛行師団長
・ 綾部 橘樹 50歳 陸士27 陸大36 大 分 南方軍参謀副長 陸大・首席
・ 稲田 正純 48歳 陸士29 陸大37 鳥 取 南方軍参謀副長 陸大・優等
・ 片倉  衷 46歳 陸士31 陸大40 宮 城 ビルマ方面軍作戦課長
・ 真田穣一郎 47歳 陸士31 陸大39 北海道 参謀本部第一部長
・ 小畑 信良 47歳 陸士30 陸大36 大 阪 第15軍参謀長
軍人の名の次は、昭和19年時点の年齢、陸士、陸大、出身地、当時の所属順だが、牟田
口以下は全員が若い陸大の30期以上の者達であり牟田口が29期で丁度中間世代であ
る。56歳で以下佐藤以下は51歳となっている。ここに苦悩がある。戦況は苦しくて
補給が途絶した状況で、上長の第15軍(司令官=牟田口廉也中将)の命令に反しての
独断撤退をした師団長だったが、彼と同じ想いが15軍にあって、糧を繋いで生きて戦
う意味に於いて、既に御国の為とか天皇万歳などと言うのは飾りだったのである。その
上に、牟田口の危機感である、東京の参謀本部すら命令の出せない勝つ為の秘策を打つ
事の意義が、彼らには理解が出来ないでいたのである。これが第二次世界大戦の大きな
日本の敗戦の理由である。ある程度文化的に教育を受けた者に欧米の奴隷制度が見えず
アメリカからの風の便りや朝鮮半島や中国大陸の暮らしぶりが聞こえる中で日本人には
上層部や外交や大本営のような危機感は既に無くなっていていたのだ。政治家すらも。

1242: 名無しさんAA:18/08/19 05:47
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  288   >

しかし、牟田口の命令を聞かない者、つまり河辺正三ビルマ方面軍を襲っていた不穏な
空気で我の仕事をしなかったのは何も佐藤のみの話ではなかった。第33師団の師団長
だった柳田元三は、古くから合理主義者で、旧友からも穿った見方で嫌われ者だった。
陸軍大学在学当時から合理主義的発想を好むタイプとして知られていて、空虚な精神論
を侮蔑していた。戦争の勝負は兵力であり機械の多さである持論は曲げなかった。又、
第15師団長の山内正文は、山本五十六と同じに昭和初年代にアメリカの陸大に留学を
命じられ、そこを最優秀の成績で卒業している。優秀さだった。昭和10年代のアメリ
カでの駐在武官をつとめていて、アメリカ軍の事情にも精通していた彼は、アメリカの
技術力も経済力も巨大な軍事力も総じて知っていた。その為山内も又機械力工業力の無
い貧相な兵力に、精神論を持ってきて打ち勝つと言う演説をぶちかます牟田口のような
タイプを軽侮していたのである。その上で第30師団長の佐藤幸徳が言う、インパール
作戦そのものに不信感をもった言葉や、自分の師団に兵站の保証を求める姿に牟田口は
疫壁していたのである。補給も十分でない状態で兵士を戦線に送りだすことはできない
と、主張していたが、牟田口に言わせれば何処の戦場でも現場調達が当然で甘ったれる
な。と言う事であって言葉が無かった。こうして、どうすればインパール作戦が成功す
るか。と言うテーブルにつかないままに、上意下達のままトップダウン式で自分達で考
えて行動せよ方式で、まかり通してビルマ戦線の前線にでたのである。牟田口には三人
の師団長がよほど煙たかったのだろう。各月に各師団に作戦計画を示達するときに、三
人の師団長を第十五軍司令部に呼ばずに参謀長や作戦参謀だけを呼んで命令を下してい
た。三人は打ち合わせをしていた訳ではなかったが、こうした事がともに牟田口に対し
て反感を強くした理由にもなっていた。が、もともとこのビルマの奥地の前線が苦しい
中にあって、苦しいから何もしない。と言う主張は通るはずもなかったのだ。牟田口に
は、この日米決戦に勝つと言う強い意志の無い、言わば大学進学後の中央司令官候補の
点数稼ぎに、そこいらの社会奉仕や現場研修の様な軽い意志で戦場に来ていた彼らが、
数千数万の兵士の命を預かっている事が不思議な事だった。これが作戦開始後に抗命、
罷免、更迭といった事態を生むことになった。この三人の師団長と牟田口の対立の構図
は、昭和陸軍の根本的な問題を露出していた。それは精神論と合理主義的分析の対立と
いう側面と、高級指揮官がひとたび理知や知性を失ったらどうなるかを示すケースとも
いえたし、これまでの将位にある者へ特権を与えた老害でもあった。


1243: 名無しさんAA:18/08/19 05:48
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  289   >
 牟田口を擁護する気にはならないものの、昭和18年の後半で、戦争への懐疑は徐々
に醸成されていた。大正デモクラシーで起こった生命尊重や唯物主義や先進技術の多用
で育った三人の師団長が、仮に15軍のビルマ侵攻の司令官であっても「作戦遂行」に
はならなかっただろう、中途半端な人権尊重はもっと酷い結果を産んだであろう。この
ビルマ軍・南方軍は、既に英米の包囲網の中心にいたからだ。もともとこの英軍の包囲
網が無ければ、援蒋ルート叩きもビルマ交戦もする理由は無かったのである。ここに、
「一発逆転」「急所をつく」「楔を放つ」の発想は、何も牟田口の動機だけでは無かっ
た。「失敗の本質」に出てくる言葉の「不測の事態」のこれは、この中国戦線でも太平
洋戦争のみならず日露戦争以降の日本の外交も何もかもが、この「不慮の事態」だった
。こうした事を全く考慮に入れなかった大日本帝国は致命的ミスばかりだった。が、そ
もそもそうした予測さえ不可能だったのかもしれない。明治以降暗中模索で日本は国際
社会に船出していたのだから成功したうちかもしれない。そも日清戦争で朝鮮半島を手
に入れ乍らも更に戻して日露戦争になった事も、「不測の事態」だし、その後に朝鮮半
島に日韓併合で莫大な建国資金を投入せざるを得なくなった事も「不慮の事態」だった
。ノモンハンに於いて広大な領土を持つソ連が遊牧民族の通行に際した小さな境界争い
に大量の最新兵器を持って日本軍に押し寄せ来ることも全く「想定外」の出来事だった
し、いつの間にか蒋介石政権と毛沢東の共産思想が合致して盧溝橋事件をおこして国内
にわざわざ紛争を起こす事も、考えられない現象だった。そして今そうした中国支援に
ビルマの山越しに支援物資を送り、日本のあらゆる輸入を止めて戦争に持ち込む欧米列
強の姿も全く理解の外にあった。よく、帰還を果たした一兵の証言が悲惨だった。一体
何の為に戦ったのか。戦争は絶対行う物ではない。と言う。戦争はあってはならない。
と訴える。しかし、この訴えそもそもが間違いである。戦争があるから戦争しない為に
人は学び日本人は、国は賢くならねばならない。と訴えるべきなのだ。圧倒的なアメリ
カの巨大な「物力」は太平洋戦線の緒戦から解っていた。当初は非力だったイギリス軍
に勝利したコタバル上陸やシンガポール陥落は、実は戦果では無い事を大本営は知って
いた。終始念頭にあったのは石油供給のみだったと言える。当初昭和17年の「マレー
半島攻略」があまりに簡単に成し遂げられた事で陸軍は有頂天だった。情報将校の新庄
健吉は日米開戦前に、「数字はウソをつかないが“ウソが数字”を作る」と開戦を警告
し、敗戦懸念を主張した。統計的予想で既に日本は戦争し衰退する事が公然と判明して
いたのである。昭和16年春「若手官僚の模擬内閣」が示した通りに推移し連合国が、物
理的に勝れば、時間の問題であったのである。

1244: 名無しさんAA:18/08/19 05:49
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  290   >

 戦争の理由には色々の理由があったし原因もあったのだろう。又負けた原因も同じ様
に沢山あったのだろう。それまで日本の兵士達は事大主義(じだいしゅぎ)が大手を振
って、世流に付き従う事で良いとされていた。が、大正デモクラシーはその風潮によっ
てだ強い勢力に付き従うという言ったものが壊れた時代だった。又明治気風が、一言で
いえば寡黙である事を人間性の美徳とした文化を持っていた事も禍いとなっていた。こ
こに妙な軍国主義が入って来たのである。この軍国主義はこれまで明治政府が持ってい
た五行則の敬老子尊を無くしてしまったのである。万世一系の言葉の下で天皇には逆ら
わない風土が出来た。それまで政府やお役人まで尊敬し敬う物とはされたが、現人神(
あらひとがみ)であり祀り上げた人で生活には何ら関係がなかったのだ。それが急に、
全員に国税が敷かれ、総動員令によって徴役が敷かれたのである。小作人や農奴のよう
な関係ない人の苦役や徴兵工が施工された。こうして志望しないで赤紙による兵役につ
いてしまうと、部下になれば上官の命令は絶対だったのだ。上官の命令は天皇の命令で
あり。上官の考えに疑問があっても、逆らう言葉は閉ざされてしまったのである。例え
一兵卒でなく上級将校でも上官の命令は絶対服従になった。これまでの志願兵は志願し
兵となり、兵を降りれば退役軍人であり自由であった。つまり逆に罰則として予備役(
よびえき)があり、一般社会で生活している軍隊在籍者の、軍隊就役が無くなった人を
示していた。しかし有事の際や訓練の時のみ軍隊に戻る事で在郷軍人とも呼ばれ程で、
ほとんどすべての陸海空の軍隊に存在し、自由な一般人になり生活が出来た。だが戦争
となれば予備役は存在しない。予備役で構成される在郷軍人会はそのまま予備役の兵で
編成された軍隊である予備軍として、この時には前線に投入されたからだ。日露戦争時
の乃木将軍の物語などでは、かなりラフに上司部下は話をしている。つまり明治の頃の
方が封建体制を取らず自由行動が多かったし全体会議も多かったと言える。しかし時代
を越えて、この頃は緻密な作戦と周到な準備を具申すれば「弱腰」とされ、頭ごなしに
口を封じられたという。一言で終り話が連絡と命令であり尊厳や相手に対した尊重は消
えていた。日本軍の特徴は、「言葉を奪った」事でありそこに敗戦があった。日本軍が
同胞に犯した罪悪の最も大きなものが序列であり徹底した封殺だった。これがあらゆる
諸悪の根元であった。何かの失敗があって「違います、それは私ではありません」とい
う事実を口にした瞬間、「言いわけするな」の言葉とともに、その三倍、四倍のリンチ
が加えられる。黙って一回撲られた方が楽だったと言う程の馬鹿な体制に変わっていた

1245: 名無しさんAA:18/08/19 16:31

一下級将校の見た帝国陸軍の山本の指摘は正鵠を射ていた。上官の命令は「天皇の命令
」であり絶対だった。上官の考えに疑問があっても逆らう言葉は閉ざされていたのであ
る。一兵卒でなく上級将校でも上官の命令は絶対だった。「緻密な作戦と周到な準備」
を具申すれば「弱腰」とされ口を封じられた。だが山下や牟田口などはそうした智慧を
求めていた。実は集団とは常にこの矛盾の事に悩んでいた。つまり集団としての実行力
である。作戦の企画力に於ける力は個々の能力である上に情報の集約にある。そしてそ
の審査力こそはこの合議にあったが、それが集団の力のはずだった。それを封印して戦
ったのに勝つ筈はなかった。その上さらに行動力や実行力となれば、その指導力と言う
事になるが理解のない反感の兵士にあろう筈もなかった。この問題を持ったまま牟田口
は悩んでいた。どうやって勝つか食糧を確保するか。と、実はチェンバレンの油田探索
には200人部隊が3班出て居た。これらは共に象を連れてジャングルを進んだ。途中
には毒が流された川やマラリアや苦難は多かったが、殆どは全滅した。象は最終的には
食糧になった。そうして目的地に向かった8000人から辿り着いたのは6人だった。
こうした教訓からジンギスカン作戦が出来た。昭和19年1月に「インパール作戦」が
正式に発令された頃、第15軍下の3個師団は急ぎその準備を進めた。いちばん険しい
北側のルートを進むことになっていた第31師団は、補給のための自動車道路の開設と
、物資の集積に懸命だったと言われる。つまり高射砲や軽戦車を入れる準備をしていた
のだ。更に、五千頭もの牛の訓練に追われていた。牟田口司令官は、現地の農民から、
軍票で一万頭以上の牛や羊を調達せよという命令を出して集めていた。それらの動物に
物資を運搬させ、目的地に着いたのちは食糧にしようという計画で「ジンギスカン作戦
」と自画自賛した。だが、この牛の群が、逆にイギリス軍に作戦を察知される要因にも
なったと言う。しかし動きがあったとしても日本軍が何をしようとしているかは察知は
出来なかった。この牛の移動は実は大きな誤算が生じた。家畜の牛は映像で見ても痩せ
ているのが解るが、この牛はチンドウィン川という大河を渡れなかった。大半は流され
て水死し、それを捌いて直ぐに食糧となり、兵士の持つ食糧は重荷になったのだ。さら
にジャングルや急峻な杣道では兵士は、この牛の食べる食糧を調達できず毒草によって
次々と倒れていった。またこの多数の家畜の移動がイギリス軍の格好の標的にもなった
。爆撃に晒された家畜は荷物を持ったまま逃げ惑ったため、多くの補給物資が散逸した
のは想像できたことである。こうして牟田口が自画自賛した「ジンギスカン作戦」は、
すぐ頓挫し半分も行かぬうちに脱落・破綻した。しかし原因は兵員達の若さの無知にあ
った。

1246: 名無しさんAA:18/08/19 16:36
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  292   >

 しかしこうした物資の不足から補給・増援が約束されないまま、昭和19年3月8日、
第15軍3個師団を主力とする日本軍は(8〜10万人とされる)予定通りインパール攻
略作戦を開始した。日本軍は3方向よりインパールを目指すことになった。だが作戦は
本来の行軍のゆっくり進む事が許されなかった。毒草の見分けも飼料係に連絡が行き届
けば問題のない物だったがそうした連絡網と整えて居なかった。又本来知らない土地は
案内が必要で地域の種族を仲間にしながら行軍すれは良かったのであるが、それもしな
かった。そうした余裕が日本陸軍にはなかったのである。さらに急峻な地形では重砲な
どの運搬を困難にした。映像ではトラックを解体して、兵員が分散して担いでの行軍す
る驚いた行為をしている。これでは戦う前に移動そのものに兵士の体力が消耗する。負
けて当然と言っても過言でない。こうして各師団とも前線に展開した頃には戦闘力を既
に消耗していたのだ。1000キロになんなんとする山河を一人の兵隊が40〜50キロの荷物
を背負って越えて行くのは今では信じられない行為だろう。陸軍大学の教育では「歩兵
・砲兵」を主力とする指揮官の育成が主流で重用され、情報・兵站の地味な部門は軽視
されていた。これは昭和史の様々な事に共通する。「三週間の行軍」はまるでそれを隠
すかのようでもあった。「当時の兵隊の定食は、一食2合、一日6合だった。その3週
間分というと、だいたい重さ18キロぐらい。それに調味料や副食もありました。それか
ら小銃弾240発、手榴弾6発、着替え、鉄帽、穴を掘るための円匙(シャベル)、天
幕、雑嚢(布製カバン)、雨外套、防毒面、水筒など全部で40キロ程度だ。とくに軽
機関銃のような弾をたくさん発射する火器を持った者は、弾丸をよけい持たなければな
らず、一人50キロぐらい背負って歩いていた。それで、休憩になると、兵隊は全部、
上を向いて引っくり返るが、その後自分一人では起き上がれなくなってしまう。前で手
を引っ張ってもらい行軍していた。これで2000メートルからの山を、いくつも登ったり
降りたりして戦争しに行ったのである。」「では、作戦が頓挫したときは、食糧はどう
するのか。軍では、ジャングルに生えている野草を食べる研究を、大真面目で行なって
いた。牟田口司令官は、兵士たちに次のように訓示した。「日本人はもともと草食動物
なのである。これだけ青い山を周囲に抱えながら、食料に困るなどというのは、ありえ
ないことだ。」と訓示した。しかし知識のない雑草は食えない。現に牛は毒草で死んで
しまったのである。上司の牟田口中将は佐藤幸徳中将とは不仲で作戦そのものにも反対
の立場だった。作戦指揮は終始消極的だった、という評価をし、牟田口中将の作戦構想
も指揮能力にもたしかに問題があったが、佐藤幸徳中将にも大きな問題があったのだ。

1247: 名無しさんAA:18/08/19 16:37
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  293   >  

 昭和史の専門家ならとっくに承知の話だが、こうして序列と年代違いは大きな壁だっ
た。いわゆるジェネ―ションギャップである。世代壁は米英帝国でも日本でも中国でも
起こっている。実は日本が国を開国した時にうまく国際社会に乗り出せたのは、その壁
が低かったからであった。明治時代の大きな要素は江戸時代が残って居た事にある。こ
の江戸時代に起こった文化は命を大切にした文化だった。例えば税が高くて米屋が襲撃
になる。と言う事件は多発した。百姓一揆も同じに多発した。しかしそこで起こった事
は、例えば米倉は打ち壊されて盗まれても、その庄屋や米屋は殺される事はなかった。
桜田門の変が起こる前安政の大獄事件が起こるが、捕まったのは300人にも及んだが
それでも死罪や罪人として処遇になったのは1人である。他は一週間若しくは一ケ月位
の投獄であってその他に百叩きなどの刑など行ってはいない。食事付の謹慎なのだ。そ
うした風習は藩主や家老の処罰も同じで蟄居閉門が恐ろしい処罰であったのだ。これは
その後日本の「恥の文化」として研究されたが、勇ましく交戦に及ぶが鉄砲から刀文化
に戻った唯一の国と言う側面がそこに見て取れる。世代間格差に於いても多くの長老は
若い者に道を開く事を念頭に置いていた。赤ちゃんに未来を託す為に最大の事をして生
きる事が日本人の文化だったのだ。徳川慶喜が大政奉還し江戸城を無血開城したのは、
その意識の下で育っていたからだ。後輩に道を譲る。老人は敬われるのみで良い。それ
が日本文化だったのである。だが西郷隆盛は異国文化を肌身を持って知っていた。多分
鹿児島から島流しの折に琉球王朝や中国人などの悲惨さ卑怯さを知っていたのだろう。
世界大戦において、「第一次世界大戦」が1918年・大正7年に終了しているがその後に
兵士になった者とそれ以前の者の差は大きかった。「陸軍大学」卒業の「30期生」は、
もののみごとに牟田口廉也と佐藤幸徳を分けている。つまり単純に考察すれば佐藤幸徳
以後は「近代戦争」を学び、熟知しなくても、その感覚を知り育った若者だったと言え
る。ヨーロッパでは「20世紀の戦争」と言えば、「第一次世界大戦」で第二次世界大戦
ではない。つまり近代戦争は唯一第二次世界大戦で、モノンハン事件の初期と後期は、
ものの見事に変わっていたのである。第二次世界大戦では、ドイツでもフランスでも、
数百万人の単位で若者が大動員されて戦死している。佐藤幸徳から小畑信良まで、イン
パール作戦が下達される頃、部下に居たのは大人として陸軍軍人として分別があった者
と思う。その為情報が乏しくても一般人よりは遥かに、近代戦争の残酷さを判っていた
筈である。それ以前の軍人は逆に「日露戦争」の薄氷の勝利、すなわち「白兵・突撃」
の精神世界から脱却できなかった。この盲人無知の世界が戦争の時代だった。

1248: 名無しさんAA:18/08/19 16:39
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  294   >

 インパール作戦の「惨状」は細部にわたって記述するのも憚れるほど悲惨だったろう
。ただその頃の常識は、中国大陸を含めた文化や風習があった。昭和40年代に著わさ
れた「日本の歴史」のなかで「太平洋戦争」に指摘されて様に、日本はある意味戦争の
近代化に遅れを取った事がこの悲惨さを産んだのである。戦後20数年しか経ていない
時点で書かれた一般人からの視点があり、牟田口廉也が昭和41年まで生きていた事を考
えば1970年代まで戦前の匂いがあったと言えよう。既に当時に、陸軍の一部では、
例えば第五飛行師団長・田副登中将は“戦闘機”の重要性を説いていた。イギリス空挺
部隊の降下は、極めて合理的で強力だった。牟田口には「空中補給」を理解できなかっ
たの訳ではなかった。理解していなかったのはこのミャンマーの地理的要因だった。こ
こにそびえる千〜3千m級の山々が、渓谷、ジャングル、雪山に思いが及ばなかった。
日本の富士山の山頂付近やアルプス山脈などに木が生えず雑草さえも繁らない(ほこら
ない)草木の植生や雨季の大雨の川の状態などがイギリス人の様には知見が伴わず戦い
に挑んでいたのである。インパール作戦とは、更に個人的考察すれば既に負けていた日
本の空威張りの戦争の「成れの果て」だった。物理・科学・社会・地理に思いが至らな
い古い軍人の知識の無い「精神論・運命論」に終始した結果である。6万人の死者は、
哀れだと形容するしかないが中国を治められなかった結果と欧米を納得させ得なかった
結果であった。牟田口は戦線の実情を知ってか知らずか、最前線の佐藤の補給の連絡を
無視、戦闘の督促の電報しか出さなかった。物資が欠乏した各師団は、補給が来るのを
信用したのは当然だろう。だが事実上実情からも補給は出来ないに等しいものであった
。戦争行為は3週間と決めてあった。ここにもボタンの掛け違えがあった。3週間は敵
の食糧基地を奪うまでの期間のメドだった筈が、コヒマが戦略基地で食料庫が無かった
のである。ここで師団長達は食料の現地調達原則を既に忘れていたのである。牟田口も
敢えてそうした指導や言葉は使わなかった上に標高差で食料が無くなっている事をそう
そう気にしてなかった。しかし現地では4月に入ると、食糧は尽きて、輸送部隊の所に
さえ来なくなっていた。輸送に使っていた馬の馬糧が尽き、馬はガリガリに痩せ衰えて
いたのだ。山砲の弾薬の搬送も人間が行なうようになり、大砲の重い弾を一人2発を背
負って、山道を前線まで歩いていたのだ。そんなやり方では、前線での激しい戦闘に、
弾薬が間に合うはずはなかった。そのうち傷病兵が続出し、それらの兵士を担架で後方
の野戦病院へ運ぶ作業に追われるようになった。この山道での担送はつらい仕事だった
。やがて担ぎ手の兵隊も疲弊し、バタバタと病いに倒れていった。

1249: 名無しさんAA:18/08/19 16:39
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  295   >

 インパール作戦(インパールさくせん)は日本側の正式作戦名ではウ号作戦(ウごう
さくせん)と言う。1944年(昭和19年)3月に日本陸軍により開始され7月初旬まで継続
され、援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指し
たビルマ攻略作戦の中の大枠であった。作戦に参加した殆どの日本兵が死亡した。補給
線を軽視した杜撰(ずさん)な作戦に、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫し、無謀な
作戦の代名詞として呼ばれこの敗北から日本が敗けて行った為史上最悪の作戦などとも
呼ばれた。この作戦の司令部は、「メイミョウ」にあった、戦地インパールとは300
キロ以上も離れていた。それも高い山の山間部である。素朴な個人の感想として、東京
にいてアルプスの山村の長野や岐阜での戦争を指令しているようなものだったと言える
。戦争の一つの作戦に勝利しようとするなら、司令官はその最前線に立つべきではない
のか、などと思う。真珠湾攻撃でも南雲に任せて山本五十六は大阪の石油メジャーとの
話し合いをしていた。ここでも牟田口は、日本で云えば避暑地・軽井沢のようなメイミ
ョウでひたすら叱咤激励、神頼みするだけだった。これはこの頃の日本人の陥った特性
なのかも知れない。もし慎重に情報を探り的確に敵の食糧源まで辿りついていたらこう
はなって居なかったろう。単にこの戦争の勝敗を決めたのは補給力の差でしかなく、他
に理由は無かった。弾も食糧も尽きた日本軍将兵の状況は、いよいよ限界に近づいてい
た。第31師団の佐藤幸徳師団長は、5月25日、第15軍の司令部に電報を打った。
「師団は今や糧絶え山砲及び歩兵重火器弾薬も悉く消耗するに至れるを以て、遅くも6
月1日迄には「コヒマ」を撤退し補給を受け得る地点迄移動せんとす。」軍司令部では
、驚いて対策を協議したが、とにかく佐藤師団長の翻意を促すことにして、返電した。
「貴師団が補給の困難を理由に『コヒマ』を放棄せんとするは諒解に苦しむところなり
。尚10日間現態勢を確保されたし。然らば軍は『インパール』を攻略し軍主力を以て
貴兵団に増援し、今日迄の貴師団の戦功に酬いる所存なり。断じて行えば鬼神も避く」
とこの時もディマプールまで進撃せよとの命令を行っていない。又佐藤幸徳もディマプ
ールはインド師団の役割として気にもかけて居ない。牟田口も又何ら知らなかった様だ
。ここに奇妙さがある。第31師団が一時的に占領に成功した要所・コヒマを巡る戦闘
に参加した。日本軍の侵攻が続き、コヒマやインパールの北方に位置する拠点・ディマ
プールを奪われることを英軍は強く警戒していた。英軍のコヒマ奪還に向けてジャング
ルの中では死闘が繰り広げられた。。

1250: 名無しさんAA:18/08/19 16:40
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  296   >
日本軍はインド人で構成される「インド国民軍」と共闘しており、英軍は、作戦での
敗退によって、インドの独立運動が勢いづくことを恐れてもいた。コヒマに入ってから
は、両軍の兵力差が如実に表れた。英軍が5000発ほどの砲弾を撃っても、日本軍の
反撃はわずか1、2発にとどまる日もあった。英軍は食料や弾薬を飛行機からのパラシ
ュートで補給していたが、日本軍には補給がなかった。それを見た英国兵士は「日本に
勝てる」と確信していった。実は日本がこの時戦ったのは英軍ではあったが英兵ではな
かったとされる。最強戦士とされるグルカの民だった。グルカの民はネパールからの傭
兵でヒマラヤの鬼神ベンガルの虎と称される。事実今でも世界中を守っているのは金で
雇われた彼らが米英の入口に門番として常駐しているからである。その起源は古くイス
ラム教がインドにはいり得なかったのは彼らと戦ったからだとされる。19世紀になって
、ネパールとイギリス東インド会社軍との2度にわたる戦争(英・ネパール戦争)では
2度とも英国は勝てなかった。停戦条約が締結されると、英国はこのネパール山岳民族
特有の尚武の気性と白兵戦能力や、宗教的な制約が小さい点で彼らを起用した。一般的
に、ネパールのグルカ族出身者で構成される山岳戦・白兵戦に非常にたけた戦闘集団と
されるがグルカランドとされる部分の民族で、実際にはグルカ族なる民族は存在せず、
マガール族、グルン族、ライ族、リンブー族などの複数のネパール山岳の複数の民族か
ら構成されている。その戦闘能力の高さから、今でも世界最強の戦闘民族として認知さ
れている。よく登山家かシェルパなる道具や荷物運びを雇うが、彼らこそこのグルカの
民で常に道なき道の山岳を登り降りを小さい頃からやっていて、足腰は強く山の事情に
も詳しく食糧や水などを調達し他国の民と会話が出来る器用な民だった。彼らはインド
独立も関係なく生きて居た。既に一世紀以上も英国は付き合いがあり、如何に精神論を
ぶっても日本が適う相手では無かったのである。つまり英国は物資補給のみで既にこの
地を押さえていた。と言うのが正確な状況だったのである。インド開放を名目に大日本
帝国陸軍はインドへと侵攻し、後に「無理、無茶、無謀」の史上最悪の作戦のインパー
ル作戦が開始されたが、作戦そのものは妥当であったのだろが、元より勝算はゼロに等
しいものだった。制空権も制海権も無く補給線も無いそうした作戦の為に日本軍10万
とインド国民軍4万5千が投入された。第二次世界大戦の日本自体と同じに要は計画性
皆無の戦争だったのだ。それでも兵士となった帝国軍と国民軍は果て無きジャングルを
切り開き、山を越え川を渡りインパールへと肉薄した。ここで初めて世界にグルカ兵の
戦果が、後に彼らの名を知らしめる事となった。日本も米英もいや英国すらも一部しか
このグルカ兵の真実を知らなかったのである。

1251: 名無しさんAA:18/08/19 16:40
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  297   >

 東インド会社が民兵として送り込んだグルカ兵は、殊作戦部隊として投入された。こ
の時正規兵とはならなかったグルカ兵はゲリラ作戦を展開して、主力であるイギリス軍
及びインド軍をサポートする役目を担った。最前線のジャングルに展開したグルカ兵は
破壊工作を次々と実行した。奇襲や陽動を繰り返し、確実に日本軍を追い詰めていった
。主力であるイギリス軍が苦戦する中、唯一戦果を挙げ続けるグルカ兵の名前は日本軍
に恐れられた。実際、グルカ兵の担当区であったビルマ西部における日本軍の戦死者の
大部分は、グルカ兵と戦って戦死したものであった。かれらがいなかったら、コヒマに
砦を敷き、食糧調達を考えながら物量に勝る英軍に仕掛けや落とし穴などを工作しての
長期戦をしたかもしれない。しかしこのグルカ兵は日本軍にそうした余裕を持たせず、
連日連夜の奇襲や襲撃が続いたとされる。終戦になって後でイギリス特殊部隊SASの
前身となるコマンド部隊などを展開していくが、この時中心になったのがグルカ兵であ
り、その後SAS等の特殊部隊設立には大きな影響を与えた。今やSASと共に世界最
強と認知され、各国の平和防衛の傭兵部隊の中心を担ってきている。こうして日本軍を
恐怖のドン底に叩き落として、インド延伸を止めた兵士達、それがグルカ兵達だった。
セポイの乱で、ネパールは14,000人のグルカ兵を派遣し、イギリス軍が行った鎮圧戦で
大戦力となり、後に発足した英印軍では、シク教徒・ムスリム系インド人・パシュトゥ
ーン人などとともに重要な地位を占めている。その後も第二次世界大戦においては日本
軍と交戦した他、イギリス連邦占領軍として日本の占領任務や朝鮮戦争にも従事した。
 歴史上はイギリスの商店民兵でありやイギリス連邦の傭兵であった。植民地経営にと
派遣され、今でもイギリス陸軍にはグルカ兵からなるグルカ旅団がある。2005年現在、
イギリス軍に従軍しているグルカ兵は約 3,600人と言われ非常に勇猛なことで知られ、
フォークランド紛争など、イギリスが関わる戦争や紛争地域への派兵での先遣隊として
派遣される。フォークランド紛争時には、グルカの兵が攻めてきたと聞いて逃げ出すの
が普通のアルゼンチン部隊であったという。イギリス本国や植民地(1997年以前の香港
)、ブルネイなどのイギリス連邦諸国に駐屯しているほか、マレーシア軍、インド陸軍
(ゴルカ連隊)、アメリカ海軍、シンガポール警察にも多数雇用されている。この様に
現在もイギリスの信頼は非常に深く、2004年にブレア首相によって、イギリス軍で勤務
したグルカ兵は、完全なイギリスの市民権を付与されるようになった。

1252: 名無しさんAA:18/08/19 16:45
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  298   >

 もともとシッキム王国の一部だったが、18世紀初頭、カリンボンはブータンに占領さ
れ、1780年にダージリンの周辺はネパールから来たグルカ族の土地になった。インドの
独立後、グルカ族はネパール語の公用語化を求めるなどして、西ベンガル州政府と対立
した。1980年代には西ベンガル州からのグルカランド自治州としての分離を要求した。
1986年にグルカ国民解放戦線(GNLF)による暴動が起きたが、暴動の後1988年に大幅な
自治が認められて、ダージリン・グルカ・ヒル議会が確立された。現在は落ち着いてい
るが、グルカランドの自治権の拡大を求めるグルカの武装勢力も存在する。アフガンで
駐留していた英国軍にグルカ兵が門番をしていた。度重なる自爆テロでそこは引き払っ
て一人しかいなかった検問所に十数人のタリバン兵が襲ってきた。イギリス軍の中でも
勇猛無双で知られるグルカ兵たった1人が、この十数名のタリバン兵を相手に戦った。
ライフル弾やロケットが飛び交う中、たった1人で「ぶっ殺す!」と叫びながら機関銃
の三脚を投げつけて暴れまわった。と、にわかには信じられない鬼神っぷりだった。結
局この戦闘で機関銃の弾250発、小銃弾180発を射撃、各種手榴弾12個とランチャーから
の榴弾5発、クレイモア地雷1個を起爆させ、増援が来るまで検問所を守りきったのであ
る。まさに「ランボー」の世界でアフガンのグルカ兵がたった1人で、十数人のタリバ
ン兵との大銃撃戦を制したのである。こうした兵士の中でも元グルカ兵(ネパール人)
の一人が証言している。「我々は世界最強の傭兵だ。第二次大戦で英軍の傭兵の時、マ
レー軍を3時間で撃破した。インド軍は1日で降参させた。だが、日本の正規軍との戦
いは過酷で一週間不眠不休で戦わされ、我々も半数以上が戦死した。これだけの死闘は
初めてで、勇敢な敵軍を尊敬したのはこの時だけだった。銃弾も砲弾も守る場所も我々
は勝っていた。見えない敵に連射した。たまに撃って来る影に砲弾を浴びせた。だが、
撃っても撃っても解らない。兵士が崖から落ちてこない。玉砕した日本軍の所に行って
さらに驚いた。木に体を縛り付けて身を乗り出して我々を撃っていたのである。日本軍
は貧弱な武器なうえ食料も、わずかな米しかなく、日本軍の死体はみんなやせ細ってい
た。戦友が死んだ時には泣かなかったが、敵である死んだ日本人を見て皆泣いた。」と
これが語り継がれたグルカ兵の中の日本兵に話だった。イギリス軍の中でも勇猛無双で
知られるグルカ兵が、十数名のタリバン兵を相手にした大銃撃戦を制し叙勲の栄に浴し
た。そんなグルカ兵の涙するものが、日本兵の進駐だったのである。

1253: 名無しさんAA:18/08/19 16:49
「戦後インドで傭兵としてパキスタン軍と対峙してた時、遠くから歌が聞こえてきた。
知らない言葉の歌だったが、味方じゃないことは確かなので銃をそちらに向けたとき、
上官に殴り飛ばされた。何がなんだかわからなかったが不思議なことに、パキスタン側
でも銃声がやんでいた。歌声の主は数人の年寄りで、我々に気づかないのか旗を持って
一列で歩いてきていた。我々側もパキスタン側もその数人のお年寄りが通り過ぎて見え
なくなるまで一発の銃弾も発射しなかった。結局その日から2日間は、全く話し合いの
ない停戦期間となっていた。戦闘は再開されなかった。停戦命令も出ていないのにどう
して戦闘がやんだのかわからずに、上官に聞きに言った。その年寄りたちが歌っていた
のは日本の軍歌で持っていた旗は日の丸だということを聞いた。その話を聞いてその夜
は泣いた。ものすごく泣いた。その年寄り達は、第二次世界大戦で死んだ戦友を弔いに
来ていたのだと知ったからだ。こんな危険地帯に、第二次世界大戦から何年もたってい
るのに、戦友を弔うためにこんなところまで来てくれる人たちがいることに涙が出た。
あとで知ったが、パキスタン側もそれが日本人でかつてインド(パキスタン)独立のた
めにイギリス軍と戦った人たちだと知って敬意を表して戦闘を中断したそうだ。停戦の
訳は歌が聞こえてきたからだったのだ。この半年後、傭兵を辞めて日本に留学した。た
くさん勉強して日本語の読み書きも覚えた。何年もたって日本のお酒が飲めるようにな
って、サクラを見ながら飲んでいたとき、サクラの花びらがコップに入った。それを見
て急に涙が出てきた。あの年寄りたちのことを思いだした。日本人が本当にうらやまし
い。」とある兵士は書いている。インパール作戦では、佐藤中将は、コヒマ攻略に近く
のナガランド郡に滞在した。コヒマの北に位置する。日本軍は必要な補給の10分の1
にも満たない食糧しか持たず、現地調達を余儀なくされていたことはよく知られている
。そのため、村人の記憶も、食糧にまつわるエピソードが中心である。チャカサンとい
う村には、日本軍が1944年4〜7月の2ヵ月半も滞在していた。村人は自ら食べるのも事
欠く状態だったが、出来る限りの食料を日本兵に提供した。そのお返しに、日本軍は軍
票を村人たちに支払った。時には、飢えた兵士が、村人から食料を無理矢理奪ったこと
もあったが、村人は彼らを咎めなかったという。長老ナギ氏は言う。「村人達は、同じ
人間として空腹で苦しむ日本兵たちを哀れに思い、また、日本軍こそが自分たちを英国
の手から解放してくれるはずと信じていたから、食料を提供しました。お礼にと、日本
人は村人に戦うことを教えました。実際、彼らが自らの国のために身を犠牲にしてまで
戦う姿に、ナガの人々は少なからず影響を受けた。」又村人は、日本軍とインド国民軍
との違いも正確に理解していた。また、日本軍の部隊には日本人だけではなく、戦争捕
虜、女性兵士、ビルマ、中国、シンガポール人が連行されていたことも把握していた。

1254: 名無しさんAA:18/08/19 16:50
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  300   >

ナギ氏は、ジャカム村のアンガミ族と日本軍の交流を示すこんな証言を紹介してくれた
。「ある日、村のリーダーだった当時80歳の老人が、佐藤中将に面会にやってきました
。老人が、『日本人とナガランドの人々は先祖を同じくする兄弟である。兄弟を助ける
ため、我々が持っている食料を提供し、できる限りの支援をするように。』と話すと、
それを聞いた佐藤中将は大変感銘を受け、『ナガランドのリーダーが大変素晴らしい事
を言ってくれた。我々日本人は、ナガの人々に決して危害を与えてはならない』とその
場で電話を取り、皆の前で部下たちに命令したそうです」日本兵とのやり取りの多くは
、インド国民軍の通訳か、ナガランドの人々で英軍に雇われていた人を介して英語でお
こなわれたという。佐藤中将は、ナガランドの人々からの支援を受けるため、兵士達に
「絶対に地元の女性に触れてはいけないと命令を下した」という証言もある。ナガラン
ド独立運動のリーダーで、英雄として住民から高い尊敬を集めていたピゾが、ビルマで
インド国民軍に行動をともにしていた際、日本軍へそのように進言したという。「ピゾ
の忠告を受けた佐藤中将は、『女性に手を触れた兵士は、裁く前にただちに銃殺刑とす
る』という厳しいルールを敷きました。しかしながら、インド国民軍はモラルに欠け、
地元の女性を乱暴することがあった。その結果、インド国民軍と一緒にいた日本兵まで
村人の反感を買ってしまった」それでもナギ氏の証言では、ほとんどの村で、日本人に
ついて好意的な意見を聞いたと言う。しかしある日、日本兵と非常に仲がよかった兄弟
に、連合軍側のスパイの嫌疑がかかった。彼らは、村人たち全員の前で日本兵によって
斬首された。その村では、当然ながら、今日でも住民の間に反日感情が残っている。ナ
ギ氏は当時の複雑な状況を、次のように説明する。「2ヵ月経って、村の食料も尽きて
しまうと、多くの村人たちは連合軍側を支援しはじめました。実際、連合軍側は多くの
村人をスパイとして雇い、なかには、兄弟で異なる軍を支援したケースもあったそうで
す。連合軍側がこういった村人に日本人を殺害するよう、金を渡すケースもありました
。」佐藤中将は再三の食糧補給を連絡した、補給が滞った状況で仲間が危険に及び、村
人からも批判し始めていた。これ以上の滞在は不可能で作戦継続も不可と判断し、5月
末には独断で撤退を決意している。村人の証言によると、ナガ丘陵から撤退する前の晩
、日本軍は一晩中大声をあげて叫んでいたという。つまり夜を徹して師団の話し合いが
行われたのだろう。そして6月初めに31師団はもと来た道を撤退していった。


1255: 名無しさんAA:18/08/20 12:29
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  301   >

 民族独立を信じ、日本人を支援してきたナガの人々にとって、この事は非常にショッ
クな事だったと同時に英軍からの卑劣な仕打ちの元にもなった。「日本兵が去った後、
住民達はさらに過酷な目にあいました。日本軍のせいで食べ物は尽きてしまったうえ、
日本軍を匿っていたとの名目で連合軍側から空爆や戦車砲撃を容赦なく浴びせられ、村
が焼かれたからです。村人は住む場所を失い、コヒマの市街地や村々は焦土と化しまし
た。」撤退した日本軍も英国に追われてひどい状況だった。連合軍の銃弾に倒れた者も
いれば、飢えて病に倒れた者もいた。軍服が腐って悪臭を放ち、遺体からはウジが湧い
ていた。雨の中で、住民は、英国人と日本人双方の膨大な数の遺体を運ぶ任務を担わさ
れた。それは過酷で、悲惨な体験だった。特に日本人を匿ったとする部落は容赦なく、
食糧は無くなった。6月は雨期の真っただ中であった。多くの者はチンドウィン川を渡
れなかった。進軍時もこの川で牛が流された川だ。この撤退では更に増水していた。だ
がなぜ、ナガランドの人々は日本軍の撤退に大きな衝撃を受けた。インパール作戦がな
ければ、ナガの独立運動はなかった。英国はナガランドを1880年から支配していた。つ
まり、日本軍が攻める遥か昔から英国領として支配していた。日本軍がでてこなければ
、そもそもこのような戦争は起こらなかった。それゆえ、地元の人々は、第2次世界大
戦を 「日本の戦争(Japan War)」と呼んでいる。実際、ナガランドの村のリーダーに
は、今でも日本軍が来るのを、いまかいまかと待ちわびる人もいたほどだ。なぜなら噂
では、日本人が英国人を追い出してくれると聞いたからである。「日本人は我々と同じ
人種で見た目がよく似ている。もし日本人に食料が潤沢にあり、住民を苦難に追い込ま
なければ、ナガランドの人々はもろ手を挙げて日本人に協力して一緒に戦ったでしょう
。しかし、日本兵は、誰もが自分の最後を悟っているような様子でした。それでも、あ
きらめず自らを犠牲にして渾身の戦いを続ける彼らを見て、ナガランドの人々は日本軍
が必ず自分たちを幸せにしてくれると確信していたのです。」ナギ氏によれば、日本軍
が来るまでのナガランドは、ビルマからの難民がアッサム方面へと抜ける通過点でしか
なかった。ところが、日本兵が忽然と現れ、連合軍が応酬し、人々は否応なく飛行機、
戦車、銃や爆弾などの最新鋭の武器を目のあたりにし、攻撃の方法を学ぶことになった
。戦争をきっかけに、双方の軍によって病院や学校が建設され、日本人は、「ナガラン
ドが独立したら、学校では日本語、英語、そして現地の言葉で子供たちは学ぶことにな
るだろう」と地元の人たちに話していたという。こうして通過点が村になり消えたので
ある。

1256: 名無しさんAA:18/08/20 12:30
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  302   >
ナガランドの人々は日本軍に大いに刺激を受け、啓発されました。なかには、『第2次
大戦がなければ、ナガランドの人々は、日本人のように勇敢になることも、英国人のよ
うに教育を受けることもなかっただろう』と話す老人もいます」とナギ氏は言う。日本
兵が種を持ち込んだといわれる「セリ」はいまでも現地で食されている。」ナガランド
には、「日本が来て、ナガは立ち上がった(Japan came Naga stood up)」という言葉
がある。ナガランドでは独立をかけた紛争が、インド北東部の他州や周辺国に先駆けて
始まった。彼らの戦いは、「アジア最長の独立運動」と呼ばれている。だが、日本軍の
存在がなければ、戦後のナガランドの独立武装闘争はなかっただろうという意見は多い
。「大戦のおかげで、誰も知らなかったナガランドの存在を世界に知らしめることもで
きました。住民にとっては過酷な時代でしたが、ある意味、それは我々の黄金時代でも
あったのです」75年の禁忌がいま明かされる。第2次大戦コヒマの戦いについて日本
兵の飢えた気の毒な様子や、当時大量に避難してきたベンガル地方(現バングラデシュ
)の難民がたくさん餓死した。その描写に「涙した」と話した人も多いという。また、
英国からお金を受け取り、村に滞在していた日本兵の殺害にナガの人々が少なからず関
与した事実が、世間に明らかになることが恥ずかしいから、取材や出版をやめてほしい
とも懇願された。しかしナギ氏は、たとえ自らにとって恥ずべきものであっても、それ
が事実である以上、史実として記録して厳粛に受け止めなければならないと強く考えて
いる。それが、歴史であると。「戦争の記憶は子に孫に言い伝えられてきました。が、
これまで、誰一人として記録して本にした人はいませんでした。私たちにとって非常に
重要な歴史の転換点であるこの時代を、どうして誰かがもっと早く記録しなかったのか
と悔やまれます。」とナギ氏は言う。証言を長年記録できなかった大きな理由のひとつ
は、当時、誰が日本側につき、誰が連合軍側についたかを公にすることは長年、村人の
間でもタブーだった。ただ、75年近くの月日を経てようやくいま、明かしてもいいと
いう機運になってきた。「私の著書が出てから亡くなった老人もいます。この本が、も
しかしたら生存者の声を拾った最初で最後の記録になるかもしれません。」最後に、と
ナギ氏は付け加えた。「戦いに日本は負けて退散し、英国は勝利しました。コヒマは焦
土と化し、ナガランドは戦後、独立運動をきっかけに、長い紛争に巻き込まれていきま
した。一方、大国の英国と日本はいち早く復興し、繁栄を謳歌しましたが、ここには、
二度と同じように戻っては来ませんでした。それはまるで、象と虎が畑を荒らしまくっ
て、そのまま悠然と森に戻っていったかのようです。残念な事に日本人は今や、コヒマ
で何が起こったかもすっかり記憶の彼方に追いやり、忘れてしまったのです。」

1257: 名無しさんAA:18/08/20 12:31
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  303   >

 2010年9月のこと。ビシュヌ・シュレスタ元グルカ旅団伍長は、故郷・ネパールに向
かう列車で40人の武装強盗に襲われてしまった。命あっての物種、と他の乗客の略奪
を行なう彼らをじっと見ながらシュレスタ伍長は沈黙を保っていた。自分の財布を奪わ
れた時さえ、感情を表に出さないでいたシュレスタ伍長。しかし、盗賊達が、18歳の
少女を捕まえ強姦しようとしたその瞬間、ついに彼の怒りは爆発した。盗賊のたった1
つのミスを犯した。グルカ兵からククリナイフを取り上げなかったことである。シュレ
スタ元伍長は、巨大なククリナイフを一気に抜き放った。少女を手にかけようとしてい
た男を後ろから羽交い締めにすると、そのまま彼を盾にしながら横に立っていた盗賊を
切り倒す。そして、ひるむその他の盗賊の前で彼は盾にしていた男の喉を切り裂き、さ
らなる獲物を求めて哀れな盗賊に飛びかかっていったのだ。結局、3人の死者と8人の
重傷者を出した盗賊は撤退していった。こうして助かりながらも黙って見ていることし
かできなかった少女の両親は彼に謝礼を申し出たものの「敵と戦うは兵士のつとめ。賊
を倒すは自分の人間としてのつとめ」と、受け取ろうとしなかったそうである。2004年
には、イギリスのブレア首相によって、イギリス軍で勤務したグルカ兵は、完全なイギ
リスの市民権を付与されるようになった。一方で冷戦の終結により、イギリス軍の部隊
縮小計画で若いまま退役したグルカ兵が、シエラレオネ内戦などの紛争では傭兵として
参加していることが問題になった。 グルカ兵は山岳民族特有の小柄な体格(150cm前後
)の持ち主が多い。性格は勇猛かつ敏捷であることを求められる。体力差については、
イギリス本土の白人兵士との徒競走において、平地では大柄な白人兵が優位であったが
、傾斜地でのそれでは白人兵はグルカ兵に全く歯が立たなかった。NHK特集番組では
、訓練教官が射撃姿勢に移るまで 0.5秒で終わると証言している。登山家の行くヒマラ
ヤでの山岳ガイドを行うシェルパ族には、元グルカ兵という経歴の者がしばしば見られ
る。グルカ兵は「ククリ」「グルカナイフ」などと呼称される、刀身が内側に湾曲した
独特な形状の刃物を携帯しており、イギリス陸軍グルカ・ライフル連隊では部隊章にも
使用されている。ネパールではカースト制が緩やかなため、食事などに関するタブーが
少ないことも近代的な兵士に向いているという。

1258: 名無しさんAA:18/08/20 12:31
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  304   >

元グルカ兵のPMCコントラクター(アフガニスタン、ナンガルハール州)グルカ兵へ
の登用は非常に狭き門で、小学生程度の子供の頃から格闘技や英語等の基礎教育を受け
させるための専門学校もネパール国内に存在する。また、グルカ兵は、徴兵制でも志願
制でもなく、スカウト制である。イギリス軍のスカウト部隊が山村を巡回する方式で、
そのまま退役した多くのグルカ兵は、雇用契約によりネパールへ帰国させられる。が、
軍の年金だけでは生活できずビジネスを始めたり、民間軍事会社の契約社員として現役
復帰を果たして、紛争地域に向かう者もいる。現代ではグルカ・セキュリティー・ガー
ズ(GSG)を初めとしてグルカ・セキュリティー・グループと呼ばれる大規模な民間
軍事顧問会社が形成され、世界中にグルカ兵を派遣しており、実質上の傭兵派遣業とな
っている。これらの会社の経営者達は、主にイギリス軍やローデシア軍などに所属して
いた白人将校でかなり中央とのパイプがある。民間軍事会社では月給千ドル以上の高給
で働くことが前提条件となる。国民一人当たりのGDPが1,200ドルしかないネパールでは
、かなりの高給職である。彼らは英語の軍事の教育を受けている為グルカ兵は、指揮命
令において英語で意思疎通ができ、軍の規律を遵守する。その為世界的にも重用されて
いる。ネパールの山岳民族からスカウトされ、訓練されたグルカ兵は、昔から剽悍きわ
まりない戦士として恐れられてきた。「ククリナイフ」と呼ばれる伝統的なナイフを使
った白兵戦能力は特にすさまじいものがある。ククリナイフはグルカの伝統的な山刀だ
。連合軍にとっても彼らを公に使う事はためらっている。今でもこのビルマのコヒマの
争奪戦は勝っていても大声で戦闘勝利と謳っていない。連合軍側にとっても、インパー
ル及びコヒマでの戦いは、その後の戦局に決定的な影響を与えたことから、「東のレニ
ングラード」だったと称する人もいるほどの、決定打であったにも関わらず歴史に出し
たがらない。それには3つの事がある。一つは今だ国境線を確定せずに軍を引い揚げて
来たからだ。実は日本軍が引き揚げて敗戦処理となったが、イギリスは連合国側として
大きな負債を負った。これまで勝った占領地の経営は、その土地の産業なり産品で経営
出来た。しかし既にインドもビルマも中国も何もない状態だった。それどころか、中国
は毛沢東と蒋介石の戦いに介入はしなかったし、インドではガンジーの独立開放同盟が
国民を沸かせていた。ビルマではアンウンサン将軍が国民戦線を張り、タイやベトナム
からの難民を率いた忌まわしき残虐者ポルポト派の影響と戦っていたのである。

1259: 名無しさんAA:18/08/20 14:58
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  305   >

 実はカンボジア王国はこの東南アジアの中心で、カンボジアの王室は今は遺跡となっ
て藪の中であった事で解る様に、ほぼ大乗仏教の庇護者としてアンコールワット遺跡が
残るほど権勢を誇っていた。だが中国の明の頃4回ほど大戦争を起こして、内乱が起き
その後鄭和の大遠征において消滅してしまったのである。こうして中国から攻められ、
敗退するも、恐らく東南アジア最大の王権であっただろう。シハヌークの家系はそうし
た王家の末裔の血筋だった。ポルポトの家系はその従者の中で会計と呼ばれる家系だっ
た。カンボジア中心のプレイ・ヴェン州で中国系クメール人とクメール人の間に生まれ
れて、フランス式の教育を受け、シハヌーク王朝の公務員として起用されていた。1946
年に王に縁故だった知人の勧めで州知事になって、カンボジア警察の初代長官に就任し
その後は軍の役職に就き、1960年に国防相に就任。その後1966年から1年間首相に就任
し、1969年に再任されている。だが所詮商売の上手い華人だった。国王が1970年に癌治
療でモスクワと北京へ訪れている間に、従兄弟の副首相と共にノロドム・シハヌークを
追い落とした。こうして国家元首の政権をクーデターで倒し国会にシハヌークの退位を
決議させて、当時副首相だったシハヌークの従兄弟であるシリク・マタク親王にそその
かされて、クメール・ルージュもそれに参加した。こうしてカンボジア王国の国防相の
ロン・ノル将軍が注目を浴びる。クーデター後、アメリカは反シアヌークを訴えるビラ
を巻きロン・ノルを支持した。国王裏切ったノロドム・シハヌークには当然府に落ちな
い体制が出来た。カンボジア内戦の始まりである。親共産主義を行ったシアヌーク体制
下でカンボジア領内に北ベトナムの多くの後方基地を設けていた。また食料の買い付け
も北ベトナムは行っていた。当然ソ連の後押しを受けカンボジア東部に侵攻した。この
侵攻はクメール・ルージュのヌオン・チアからの明確な要求によって行われた。この時
ポルポトはクメール・ルージュを率いて王家の親衛隊に着いていた。ロン・ノルは米国
の傀儡政権を担ってクメール共和国の初代大統領を歴任し最終階級は元帥となったが、
クーデター後には、猛然と北ベトナム軍はカンボジア東部を制圧し瞬く間に蹂躙された
。しかし、カンボジア軍を破った後、プノンペンの25Kmに迫った北ベトナム軍は、
獲得した地域を地元の武装勢力へと引き渡して本国に帰っていった。その後、クメール
・ルージュは北ベトナム軍からは独立して活動し、カンボジア南部および南西部におい
て「解放区」を打ち立て、ベトナム侵攻後、激しい反ベトナムキャンペーンを行い、在
カンボジアのベトナム系住民を迫害しだした。こうしてプラソト、ネアクルン、タケオ
などで収容所に隔離させられたベトナム系住民の集団虐殺が起きた。

1260: 名無しさんAA:18/08/20 15:41
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  306   >

 この虐殺に影響で在カンボジアのベトナム系住民50万人のうち、1970年からわずか
1年の間で、20万人がベトナムに大量帰還した。極左武装勢力クメール・ルージュは
もともと反シハヌーク闘争を開始し出来たものだったが、米国の傀儡政権とみて北ベト
ナム軍の侵入を許した。その為対ベトナムでシアヌークの護衛になったがそうして取っ
た政権は非情なものだった。北ベトナムの侵攻に呼応して、アメリカ軍と南ベトナム軍
が共産勢力を追撃してカンボジアに侵攻してきてその双方と戦ったからだ。アメリカ軍
の撤退は早期に行われたものの、共産勢力は駆逐されず、こうした状況から反政府勢力
クメール・ルージュの勢力は伸張して、政府軍との間でカンボジア内戦が始まっていた
。1970年、アメリカに支持されたロン・ノルのクーデターで王政が廃位された直後から
、アメリカ軍と南ベトナム軍がホーチミンルートの南ベトナム解放民族戦線を追撃する
ためカンボジア領内に侵攻してきた。さらにこれまで局地的であった米軍のベトナム空
爆は人口密集地域を含むカンボジア全域にまで拡大され、空爆開始からわずか一年半の
間に二百万人が国内難民化したのである。とくに東部は人口が集中する都市部などは、
重点的に爆撃を受けた。日本が戦争が終わった後にこの地域には帝都空爆の事態が起こ
っていたのである。この事態を受けてシハヌークは亡命先の北京でカンプチア民族統一
戦線を結成し反撃にでたのである。ロン・ノル将軍は、アメリカへ支援を求めざるを得
なかった。1970年11月18日にニクソン大統領は、カンボジア政府への援助金1億5,500万
ドル(8,500万ドルは軍事援助)を連邦議会に求めた。ロン・ノル政権は シハヌークの
中立政策で展開していた北ベトナム軍とベトコン追放の名目でニクソン政権を頼り、金
とCIAの支援を受け取った。しかし、クメール・ルージュの攻勢を止めることはでき
なかった。1971年国会により元帥に指名、1972年国家元首に就任。同年3月大統領就任
。正式にロン・ノル政権になって以降、北ベトナム・クメールルージュとアメリカ・南
ベトナムに支援された政府軍の内戦は止まらず本格化し、カンボジア全域に拡大され、
数十万人の農民が犠牲となり、さらに難民が百万人以上都市へ流入して、食糧輸出国で
あったカンボジアは食糧輸入国に転落したのだ。共産勢力が1975年4月に迫り、ロン・
ノルはカンボジアを出国し、インドネシア経由でハワイへ逃れた。その後1979年にカリ
フォルニア州フラートンに移り住み、1985年に死去した。

1261: 名無しさんAA:18/08/20 15:42
 1970年のロン・ノル将軍によるクーデターの背景には、カンボジア軍のチャム人将校
レ・コセムのよき理解者としての、シハヌーク国王を説得して被抑圧民族闘争統一戦線
(FULRO) の中心人物を支援していた事にある。レ・コセムは山岳エデ族のイーバム・
エニュオルが創設し南ベトナム領メコンデルタのクメール族や中部沿海のチャム族、中
部高原の山岳民族エデ族などと共同で、シハヌークを打倒し自治・独立闘争をしようと
ロン・ノムを希望としていた。米国は、日本がビルマの少数民族を無視した様にタイや
ラオスやカンボジアの山岳民族を無視して挫折した。こうしてニクソンが対中政策の見
直しを宣言したのが1969年、ニクソンの干渉による 「FULRO」の南ベトナム軍への投降
・解散も1969年であり、ロン・ノルによるクーデターは、アメリカのアジア勢力圏の再
分割(インドシナ半島の中国への譲渡)のプロセスの中で行われた。境界争いの調整に
あって起こった。軍事支援は米中和解後はただちに中止され、ロン・ノル及びカンボジ
アの自由民主主義者たちは見捨てられ、亡命したロン・ノルらを除いて、親中派だった
カンボジア共産党(クメール・ルージュ)は、例のごとく中国式に徹底的に虐殺した。
ロン・ノルに任命されたシリク・マタク元首相や弟ロン・ボレト首相も 1975年4月17日
のプノンペン陥落直後に殺害された。この影響は山岳移動民族によって、タイやビルマ
に及んでいた。ビルマでは早くから日本は諜報活動を行い、当時のイギリスの目を盗み
日本陸軍は、戦争状態となった場合のビルマ侵攻作戦を想定して、このタキン党などを
支援して、日本軍に協力的な現地人組織の育成を図ろうとし、その為にビルマ独立支援
を担当する特務機関として「南機関」を創設していた。アウンサンらは、南機関の支援
を受けて、日本軍占領下の海南島で軍事訓練を開始したが、南機関としては、訓練を施
したゲリラ要員をビルマに帰国させてから、ビルマ公路の遮断工作をさせる計画であっ
た。この人数が30人だった事から、30人タキン党を結成してと言う予定に反して、
直ぐに太平洋戦争が勃発し、日本とイギリスが戦争状態に陥った。南機関の本拠地を直
ぐにタイに移しビルマのみの制圧では無くなってしまう。その為にこのBIA(ビルマ
独立義勇軍)が直ぐに出来上がってしまう。本来軍事訓練を開始した南機関としては、
訓練を施したゲリラ要員をビルマに帰国させて政治的に、ビルマ公路の遮断工作をさせ
る計画であった。しかし既に戦争になった事で、南機関は現地商社員や日本人義勇兵な
ど74人も参加した大所帯でマレーシア・シンガポール・タイ・ラオスまで範疇となった
。独自の階級制を敷き、軍司令官には南機関長の鈴木敬司大佐がビルマ名でボーモージ
ョー大将を名乗って就任し、アウンサン(階級は大佐)らは参謀とされた。日本からの
支給された小火器で武装し、専用の軍服なども支給された。

1262: 名無しさんAA:18/08/20 15:44
 もともとが、少数民族の精鋭部隊の集まりだったのだ。大東亜戦争終盤の昭和19年
に(1944年)8月に、日本軍に対応したビルマで抗日組織の秘密組織。反ファシス
ト人民自由連盟が結成されている。この頃、日本はインパール作戦で大失敗して日本の
旗色が悪くなってきた頃だった。ビルマの独立はどうなるかわからない。焦っていたの
は他の部族も一緒だった。ビルマ国防軍司令官のアウンサンは治安維持よりは英国諜報
部との接触を強めた。日本が負けた場合は英に貸しを作っておく密約が取れた後では、
 昭和20年(1945年)3月27日、日本軍はビルマ国軍から攻撃を受け始める。
仲間だった30人部隊も分裂をした。このとき、アウンサン将軍は各部隊長に対し、元
南機関員、指導部・顧問部で直接訓練・教育を受けた日本軍将校下士官の救命を指示し
、戦争終結後に戦争捕虜として日本へ送還するよう通達している。南機関員でビルマ国
軍に残っていた高橋中尉はアウンサン将軍の計らいで身柄を保護され、戦後のインドよ
り捕虜交換船で帰国しています。このとき、日本への義理をたてたビルマ独立30志士
のひとりミンオンは自害した。終戦の後1947年にイギリスの首相のクレメント・ア
トリー氏に交渉の末に、1年以内のビルマの独立を約束させる事に成功した。この年の
4月の総選挙で202議席中の196議席を取るという快挙をとげて軍事政権の新政府
を作った。しかしそれは国民には詐欺たものに映った。1945年に日本は敗戦の玉音
放送はしていたが、各地に日本兵は残っていたし、事実上は日本軍が作ったインド独立
義勇軍はガンジーの下でうごめき、同じ様にビルマ独立戦線もベトナム独立戦線も新た
なソ連の承認や支援を経て、まだまだという英米中の承認を待つ中にあったからだ。つ
まり英国もインドやビルマを手放そうとしてなかったしフランスもベトナムを植民地の
ままにして置きたかったのである。それどころか植民地経営を前提にして、フランスは
利権をアメリカに譲った。例のごとく食糧援助の支払いからだった。イギリスはインド
さえ保てれば良かった。グルカ兵の強靭さは解っていたし、中国との境界策定にも面倒
があったからだ。しかし、国内的には日本軍が居なくてイギリス軍が駐留する事は、昔
に戻っただけであり許されない事だった。ビルマ軍と日本軍の戦いは半年で終わったが
実は日本軍はビルマ軍やインド軍を温存し独立を願っていた。つまり戦わせては居なか
った。1947年7月19日に内閣を作るが、弟やその他の大臣4名、合計6名が会議
中に射殺された。この射殺は、アウン・サン将軍のライバルであった平和発展党のウ・
ソーが首謀者としてウ・ソー氏は処刑されたが、当時から少数派であって、後にクーデ
ターを起こした社会主義計画党のネ・ウイン(客家華人)が全てを計画したのではない
かとの囁かれている。こうして。中国の影響が強い政権が出来上がったのである。

1263: 名無しさんAA:18/08/20 15:50
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  308   >

 こうしてビルマ独立義勇軍は1941年発会、翌年からの開始(昭和17年)となり、
ビルマ侵攻作戦に参加した。任務の重点は、戦闘よりも民衆工作に置かれ、ビルマ独立
義勇軍は、占領地各地で志願兵を募ってより多くの軍事訓練を施しつつ前進するつもり
だった。しかし、正規国軍でなく又一部では敗走中のイギリス軍と交戦するなど命令系
統に支障がでた。3月には首都ラングーンで4500人による観兵式を行い、4月には日本
人将兵が指揮系統から外れた、軍事顧問としての立場に退いたのだ。ビルマ攻略戦終結
時には、ビルマ独立義勇軍の総兵力は約2万7千人に激増していた。6月に小さな独立
自治の政府組織を起こさせ、俘虜や捕虜を集めて、クリーク地帯での作戦用に、英国兵
の兵力30人の小規模な海軍が、ビルマ独立義勇軍の下に設置されたが、元イギリス海軍
兵が主体で彼らは学ばなった。現在のミャンマー海軍の起源となった。しかしながら、
彼らは国家意識は欠如した民族で勇猛ではあったが、食糧生産意識も、集団共済意識も
こうした海外学習意識も他よりは少なかった。つまりタイやラオス或いはビルマからの
食糧に支えられた山岳民族のままだったのである。これには日本軍も参ったようだ。彼
らは不真面目ではなかった。真面目な民族だった。しかし、彼らは彼らの自立した世界
があって、集団を好まなかった。他民族とは争う事は無いにしても連携も無かった。全
く諜報活動すら使われない自立者達の群れだったのである。中国の様に他を圧倒し迷惑
をかける事はなかったが、かと言って日本や中国の様なコミュニュティ―や集団を大事
にし公衆道徳で他人に気を遣う事は無くサバサバしての個人能力主義で、敵国英国人か
ら習う姿勢もなかった。その為俘虜は直ぐに引いた。日本軍は、石油と上質のゴムが手
に入る日本の植民地化を考え傀儡政権を設立していた。バー・モー貧民党主をビルマの
行政長官としながらも、日本軍がいつでもビルマを植民地化できるように計画していた
しかし、アウンサン将軍はビルマからイギリス軍を追い出した後もビルマに残り日本兵
と戦う事に変えた。1943年から1945年に防衛大臣になっていたアウンサン将軍は、日本
の第2次世界大戦で連合軍に勝つと、近衛首相の言葉とは裏腹に、インパール作戦で敗
戦やずさんな作戦に計画と失敗を目の当たりにし、日本の敗北が濃厚と感じ、日本軍が
駐留したまま連合軍との交渉を行っていた。「もし日本が負けた場合には、イギリスは
、日本軍のビルマへの侵略からビルマを解放したと言い出してイギリスからのビルマ独
立が不可能になる。」と考えた。そこで、その前に連合軍側の司令官であったルイス・
マウントバッテン卿と取引をし、1946年にイギリスの支配下で1945年5月に首相となる
道を歩いた。

1264: 名無しさんAA:18/08/20 15:51
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  310   >

 しかしこのビルマは日本やベトナムの様に可哀そうな土地ではある。お隣の巨大王朝
の中国やインドがあるからだ。客家華人(はっかかじん)とは、結局呼んで字のごとく
華僑のよそ者という意味だ。中国人は決して周りの地元の民と溶け込む事はしなかった
。円形土楼や福建土楼などと呼ばれる巨大な中庭式の木造重層式の家の中で過ごす。一
見してイスラム邸宅と同じに外敵を遮断する為だとわかる。客家の人々は、周辺に住む
他の集団とは異なり、山間部に好んで居住することが多く、独特の言語・文化を持って
いる。言語には古代の漢族語を今に伝えているともいわれ、他に独自の客家語を持って
いる集団すらある。そうした性格から歴史的に他の集団と軋轢を起こすことが多かった
。しかしながら、少数派であるがゆえに劣勢で、政治工作や策略に長け、中央政権や王
朝と良好な関係を保とうと画策する傾向がある。このような背景から、客家には漢人と
しての華人の誇り意識が非常に強い。移民の通例だが土地の所有が困難であったために
流通や商業に従事することが多く、子弟の教育にも熱心なことで知られている。商業に
は教育の高さからも、教職に就くことが多く これらの特色で「中国ユダヤ人」などと
呼ばれることもある。客家を含む華僑はユダヤ人・アルメニア人・印僑と共に「四大移
民集団」の一つとされている。客家の多い地域では、中国共産党が非常に強い影響力を
持ち、客家には共産党勢に加わった者が多い。毛沢東が重点的に攻めて隠れたからだ。
しかしそれまでは、伝統的な中国人の階級意識においては卑しめられることの多かった
ので軍人となる者や、反乱や革命に参加する者も近代以前からかなり多く、太平天国の
指導者である洪秀全や、中国国民党の孫文、中国共産党のケ小平やシンガポールのリー
・クアンユー(李光耀)などがいる。台湾総統の李登輝、蔡英文や映画監督の侯孝賢も
出自は台湾に移住した客家であり、タイの首相を務めたタクシン・チナワット・インラ
ック・シナワトラ兄妹も出自はタイに移住した客家である。ビルマのクーデターを起こ
し、社会主義政権を打ち立てたネ・ウインも漏れずに客家であり、こうした客家集団は
どこの国でも国内紛争の大原因であった。経済力があり、これまでの因習を守らず、権
力を取って自由に横柄に謳歌するのだから問題を起こすのは当然だった。ビルマで起こ
った1947年7月19日の事件は、弟やその他の大臣4名、合計6名が会議中に射殺
された痛ましい事件だ。この射殺が、アウン・サン将軍を亡き後新政権の革命クーデタ
ーを起こした客家華人を率いたネ・ウインと目されるは当然であったが、全てが闇の中
で封印されてしまった。しかしノン・メルにしろこの東南アジアの悲惨さは全て華僑の
客家の流れの独裁者集団であった事は調べる程に出て来て恐ろしい程ユダヤ的だ。

1265: 名無しさんAA:18/08/20 15:52
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  311   >

。1942(昭和17)年3月1日、現インドネシア・ジャワ島のスラバヤ沖海戦では
、英重巡洋艦エクゼターと駆逐艦エンカウンターが旧日本海軍の艦隊に撃沈されている
。両艦の乗組員らは海に投げ出され24時間漂流。力が尽きる寸前の翌2日、雷に発見
された。「幸い海は温かかった。遠くに見えた船影が日本艦とわかった時は機銃掃射を
覚悟した」と、エンカウンターの士官だったフォール氏は語る。第二次世界大戦中、イ
ンドネシア沖海戦で艦隊が撃沈されて、漂流していた英兵422人を、この雷は救助し
た。旧日本軍の駆逐艦「雷(いかずち)」のを動かしていたのは工藤俊作艦長だった。
当時駆逐艦「雷」の砲術長は「雷」は艦隊に合流せよとの命令を受けスラバヤ沖を西進
中であった。姉妹艦の「電(いなずま)」も救助活動を行っており、この旗艦の司令官
も工藤艦長の決断を承認していたという。作家の恵隆之介氏は「工藤艦長が海軍兵学校
で薫陶を受けたのが鈴木貫太郎校長(海軍大将)だったからだ」と指摘する。大戦末期
に首相を務めた鈴木首相は45年4月、フランクリン・ルーズベルト米大統領の死去に
『深い哀悼の意を米国民に送る』との談話を発表し打電している。米国に亡命中のドイ
ツ人作家、トーマス・マンが「東洋の騎士道を見よ」と称賛している。3月2日午前7
時頃遥か洋上に点々とする多数の漂流物を発見、すぐに昨日の海戦で敗れた英国海軍将
とわかった。艦は直ちにエンジンを停止し収容作業が始まった。「雷」の乗員数は24
0人で救助した総数は、404人を数え、甲板はごった返した。怪我人や体の弱った者
も多く、2時間かけて艦上へ引き上げるのは大変な作業であった。「雷」は昨年11月
9日以来、4ヶ月上陸したことがなく、狭い艦内での生鮮食料にも事欠き、乗員には神
経質になるものもいて心がすさんでいた。私が心配したことは敵国兵に捕虜虐待をしな
いだろうかという不安であった。特に、年長の粗暴な水兵数人に注目していたが、彼ら
は優しく人が変わったように英兵の傷の手当をしていた。私はこの光景を見て心を打た
れ、目頭が熱くなり、感動のあまり甲板に立ちつくしたことが今もありありと記憶に甦
ってくる。英将兵は「雷」が近付いた時は、機関銃で皆殺しされるのではないかと思っ
ていた。それがこんなに優しく手当てされるとは思っていなかった。それはまさに、チ
ルバリー(騎士道)というべきもので、正に私は敗れた弱者に対する憐れみと寛容を見
たし、また受けたのであった。多くの西欧の人達には、第二次大戦中、日本人は野蛮で
非人情、あたかも「アッチラ族」か「ジンギスカン」のように印象づけられていた節が
ある。確かにそんな人達もいたであろう。しかし幸いなことに私の体験はこれと全く違
うものであった。と書いている。

1266: 名無しさんAA:18/08/20 15:53
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  312   >

 実は昔から、それは江戸以前から、日本人は「強さは日々の努力、勝つは時の運」と
してきた。つまり努力して人間を高めないと人を助ける程の強さを持てない努力せよ。
といい、一方で負けても弱くて負ける訳ではない。と言った思想があった。つまり戦陣
訓である「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ」などと言う
思想など後で作られたもので、それどころかあこうろうしの赤穂浪士の討ち入りででも
白虎隊の自決事件でも、その時の武士の生き様なり背景なりを語り部として人へ伝える
者をわざわざ於いている程に捕まった虜囚というものは誉れの資格があった。事実1914
年に第1次世界大戦が勃発し、日英同盟を結んでいた日本では、中国・青島を拠点に、
極東に進出する清・ドイツに宣戦布告し、日独戦争が起こった、地の利から圧倒的な兵
力の日本軍にドイツ兵が相次いで降伏する形で、3ヶ月もしないうちに終結した。この
時日本は、英国が引き取らなった為に、四千六百人以上のドイツ兵捕虜を受け入れるこ
とになった。当時の英国思想の、捕虜となって辱めを受けるくらいなら「自決」するの
が望ましいと考える風潮が出て来てドイツ兵も日本を望んだのだ。日本もこれほど大勢
の捕虜を受け入れることになるとは想定していない戦争だった。そこでまずは日本各地
の公民館や寺などを仮の収容所とした。捕虜としての正当な扱いを求めるドイツ兵から
の不満は増し、国際的地位を駈け上る事に必死だった日本の中で、先進国並みの収容所
をと1917年に新設されたのが「板東俘虜収容所」だった。板東俘虜収容所の所長には、
当時44歳の松江豊寿が任命された。陸軍の戊辰戦争に敗れた会津藩士の子として、降伏
した者の屈辱と悲しみを目の当たりにして育っていた苦労人でもあった。「薩長人ら官
軍にせめて一片の武士の情けがあれば」。そうつぶやく周囲の大人たちの苦悩の表情は
、幼い松江の心に深く刻み込まれていた。「武士の情け、これを根幹として俘虜を取り
扱いたい。」と、ドイツ兵捕虜を収容所に迎える前日、松江は部下にそう伝え、捕虜を
犯罪者のように扱うことを固く禁じ、捕虜という存在の理不尽と悲しみを、真に理解す
る松江の収容所運営を始めた。それまで欧州の収容所を経験していたドイツ兵は警戒心
を持って板東俘虜収容所にやって来た。松江は「諸子は祖国を遠く離れた孤立無援の青
島において、絶望的な状況の中にありながら、祖国愛に燃え最後まで勇戦敢闘した勇士
であった。しかし、刀折れ矢尽き果てて日本軍に降ったのである。だが、諸子の愛国の
精神と勇気とは敵の軍門に降ってもいささかも損壊されることはない。依然、愛国の勇
士である。それゆえをもって、私は諸子の立場に同情を禁じ得ないのである。願はくば
自らの名誉を汚すことなく、此処に居てほしい・・・。」と話している。

1267: 名無しさんAA:18/08/21 11:02 ID:YHg
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  313   >

 大戦中、タイとミャンマーを結ぶ泰緬鉄道の建設に駆り出された英兵ら連合国軍捕虜
5万5000人のうち1万人余までが死亡、英国内で元戦争捕虜らを中心に、戦後40
年たった当時は反日感情が強かったからだ。彼らの一部では今も、同じ思いを引きずっ
ている。戦後、外交官になり退職していた氏は「戦争はとうに終わった。日英間には真
の和解が必要だ」と願い、「雷で工藤艦長が艦橋で『戦いが終われば敵も味方もない。
全員救助せよ』と命じ、『救助活動中』の国際信号旗が掲げられ、乗組員は縄ばしごや
竹竿で英兵を次々と救助し「目の前で沈んでいく英兵もいた。われわれは220人。甲
板は倍近い英兵でいっぱいになった」「工藤艦長は集められた英士官たちに、『貴官ら
はよく戦われた。本日は日本海軍のゲストである』と述べ、十分な食料をふるまった。
」などとこの救助劇を寄稿して新聞に載せた。フォール氏が87年に米海軍機関誌に「
騎士道」と題して寄稿するまでして語られるまで、知られることはなく、こうした美談
に戦友らは旧日本軍を称えた氏をいぶかった。天皇、皇后両陛下が訪英された98年に
も英紙タイムズに同様の寄稿をしている。終戦まで3年半近くは旧日本軍の捕虜にもな
った。氏はその時の記憶を問われて、「その話はするつもりはない」と口ごもり、さら
に促すと、「金歯」と呼ばれる旧日本軍の軍曹が「2〜3人の捕虜を殴らないと熟睡で
きない」として捕虜を虐待していた事実を打ち明けた後、涙をぬぐった。しかし工藤氏
は79年に77歳で他界するまで、救助劇のことは家族にも語っていない。雷の元航海
長、谷川清澄氏(92)は「口が重く、温厚な人だった。きざな言い方をすれば武士道
だが、当たり前のことをしただけだから、決断した艦長も口外しなかった」と話した。
勝又氏によると、姉妹艦の「電(いなずま)」も救助活動を行っており、旗艦の司令官
も工藤艦長の決断を承認していたという。戦場にかける橋の題材にもなった様に泰緬鉄
道は熾烈を極め捕虜達は酷使されていた。しかしこの鉄道の建設は、早くの英領ビルマ
時代からイギリスが検討していた。しかし、地形が急峻で複雑であり建設を断念した。
と言う曰く付きのものだった。戦時中の1942年旧日本軍は既に船は標的となり、この鉄
道を頼りにしかできなくなっていた。海上輸送の危険を避け、ビルマ戦線の物資輸送の
ためのルートを確保するために建設を開始していた。背景として当時のビルマとタイの
間にマラッカ海峡経由の海上輸送路以外に補給に適したルートがなく、その海上輸送路
もミッドウェー海戦などで日本側が劣勢になり、海上輸送路とは別に陸上輸送路が求め
られていたからだ。

1268: 名無しさんAA:18/08/21 11:03
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  314   >

 1942年の6月にその建設は開始された。実は1944年6月の雨季が迫る中、病人が続出
した。佐藤は第十五軍の猛者を率き連れたままコヒマ死守命令を無視して撤退している
。終戦まで3年半近くは旧日本軍の捕虜で過ごしたとされるこの英兵達は過酷な時期で
あったと想像がつく。ビルマ側からは1942年6月28日にタンビュザヤより建設を開始され
、タイ側は1942年7月5日に南本線のノーンプラードゥック駅から始められた。建設作業
員には、日本軍1万2000人、連合国の捕虜6万2000人が携わった。そのうち英国人6904人
、豪州人2802人、和蘭人2782人、米国人133人の合計1万2621人が死亡している。他にも
、募集や強制連行による労務者(ロウムシャ)と呼ばれた労働者のタイ人数万(正確な
人数は不明)ミャンマー人18万人(うち4万人が死亡)マレーシア人(華人・印僑人含)
8万人(うち4万2000人が死亡)インドネシア人(華僑含む)4万5000人が使役された。
とされている。建設現場の環境は劣悪であり、いわゆるタコ部屋労働であった。特に工
事の後半の1943年には翌年のインパール作戦に向けての準備に加えて、敵潜水艦によっ
て海上輸送が困難になった。その為雨季にもかかわらずさらなる迅速さが要求されて、
食料不足からくる栄養失調とコレラやマラリアにかかって死者数が莫大な数に上った。
戦後に問題となった。犠牲者数は日本側とタイ・ミャンマー側の調査で食い違いが出る
。しかし殆ど総数の約半分が死んだ言われ、それは確かなようだ。特に、巨大な一枚岩
を掘り下げるなどしたヘルファイアー・パスと呼ばれる箇所や、断崖絶壁に沿わせるよ
うに木橋を建設したアルヒル桟道橋など未開発の地帯では、工作機械不足と突貫工事に
よる人海戦術のため、事故死が多かったという。また現場の作業を監督した鉄道隊には
国際法を理解したものが少なく、しばしば私的制裁が横行し建設続行された。こうした
労働者の多大な犠牲のもと、当初5年は掛かると言われた建設が1943年10月に完成した
という。しかし、完成後も連合軍の爆撃機により何回も空爆が行われ、橋は破壊されて
は復旧されることを繰り返していたと言う。それにも関わらず、連合軍は鉄道の輸送を
完全に止めさせることができなかった。これは「枕木一本、死者一人。」と言われる一
因となった補修工事を行っていたからだった。捕虜収容所は橋から近かった為に、連合
軍の爆撃は補修や保守が行われて居た時も行われ、外れた爆弾が多々落ちてきて、多数
の死者が出ていた。しかし結局は当初の予定では一日の輸送量3,000tの予定であったが
工期短縮のため1,000tになり、貧弱な線路は雨期の豪雨や空襲によりそれさえ達成でき
なくなった。突貫工事による欠陥により脱線事故が多発し、沿線のあちこちに機関車や
貨車の残骸が放置されていた。

1269: 名無しさんAA:18/08/21 11:04
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  315   >

当時のヘルファイアー・パスと呼ばれた切り通し崖は、破砕は夜を徹して行われた突貫
工事であった。建設現場で夜を徹して明りに灯されたかがり火が地獄の送り火に見立て
たものの呼称だった。完成後、1943年11月6日の大東亜会議共同宣言に続き、1944年3月
に開始されたインド国民軍と日本軍協同のインパール作戦に重要な役割を担った。がこ
の鉄道はそう多くは使われてはいない。戦後、捕虜虐待の責任と、軍作戦のための鉄道
建設に捕虜を使用したという戦争法規違反により、日本軍の泰緬鉄道および泰俘虜収容
所の関係者多数が起訴され注目された。イギリス軍オーストラリア軍のBC級戦犯裁判
が起こったのである。裁判の中で検察側は、俘虜収容所関係者に対しては「食糧・医薬
品が不足していたこと」や「病弱者も作業に就かせたこと」を責め、鉄道部隊に関して
は「作業が苛酷であったこと」を追及したが、それぞれの責任の限界を明白にすること
はできなかった。弁護側は、俘虜を使用しての工事の決定・計画は大本営が決めたこと
で現地部隊は決定に関与していないこと、鉄道建設使役者の健康に対して適切な注意と
保護ができなかったのは、雨季が例年より早く到来して交通が途絶し、コレラが突発的
に発生したためで、医薬品や食糧の欠乏も故意に行ったわけではないこと、また全体的
に不足していたのであって、捕虜に対して差別的な扱いをしたわけではないことを主張
した。又、俘虜の総数や死亡者数の事実関係については、日本側が使用総数を5万人、
死亡者数を10,672人と申告し、英軍側は米国俘虜の証言として英・米・蘭の俘虜総数6
万4千人、1944年10月までの死者は1万7千人であり、本裁判の対象外となっていた、
マレー俘虜収容所の指揮下にあったF隊とH隊の俘虜総数9,950人、死亡者数3,938人を
除くと俘虜総数は約5万4千人、1944年10月までの死亡者数は約13,400人であるとして
おり、両者の主張に大きな差はなかった。最も奥地での建設にあたったF隊では、過酷
な労働で約7千人の連合軍の捕虜のうち3千人余が死亡し、英国シンガポール裁判では
収容所と鉄道隊から7人が起訴され4人に死刑が宣告された。しかし、被告人が捕虜の
死を引き起こしたことも残虐行為に加わったことも十分に立証されず、高い死亡率の原
因は被告人たちの責任範囲外の要因によるとして再調査確認がされ、結果2人が終身刑
、2人が禁錮15年に減刑された。有罪となった被告人は、鉄道関係ではなく、泰俘虜
収容所の関係者が多く追及はもっぱら泰俘虜収容所関係者に向けられ、初代収容所長の
中村鎮雄大佐、二代目所長の佐々木誠少将とも、死刑を宣告された。泰緬鉄道建設裁判
では、「下級者に重く、司令官に軽い」傾向に、英国本国でも問題視された

1270: 名無しさんAA:18/08/21 11:05
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  316   >

 日米開戦当初は、華々しく日本軍は東南アジアや南太平洋で連戦連勝し、多数の連合
国軍兵士を捕虜にした。占領地域や日本国内に収容所を設置し、捕虜に過酷な労働を課
した。道内でも函館や室蘭など計9カ所の収容所で、1500人以上(終戦時)が港湾
荷役や炭鉱労働などに従事させられた。日常的に暴力が横行し、食事も不十分だった。
戦時中の捕虜収容所について。シャーウィン裕子は『それでもぼくは生き抜いた−日本
軍の捕虜になったイギリス兵の物語』(2009年12月、梨の木舎発行)を書いている。「
知らない」ということは恐ろしいことだ。英国やオランダにおいて対日感情が悪いのは
、捕虜問題が原因であることは当然ながら知ってはいたが、例えば英国の場合、6万人
近くもの旧日本軍による捕虜がいて、そのほとんどが、ジュネーヴ条約に違反した過酷
な取り扱いを受けていた。と言う現実にはまだまだ人は知らずに過ごしている。この本
にある、その数の大きさ、また苛酷な実態に改めて驚くだろう。著者は1960年から
30年間アメリカに暮らし、現在は英国在住で、その生活のなかから「捕虜」と出会っ
ている。アメリカで 「Remember Pearl Harbor」などと言われてはいるが、一方で日本
の主要都市への無差別爆撃、原爆の投下などがあるために、戦争に関する怨恨はお互い
様的なところがある。しかし、英国には地理的にも遠くドイツへの憎しみもあり、アメ
リカが日本を占領したような「接触」もなく、また、捕虜の人数も莫大なものだった。
そのために、日本への恨みが長くのこった。それでもこの本で取り上げられた元捕虜の
5人の人々の恨みは、おそらくはある意味で例外的なひとびとなのかもしれない。又、
終戦時にはその憎しみが日本兵捕虜に向けられ、日本兵を残虐に『人間以下に』扱った
イギリス軍があった。それがビルマ戦線日本兵捕虜のの「アーロンの収容所」である。
ラングーンのアーロン収容所は降伏した日本兵は武装解除後に、収容所に入れられた。
敗戦により捕虜となった日本兵は、その扱いは国際法やジュネーブ条約による戦争捕虜
の待遇にはせず、「降伏日本軍人」という枠を設けて、国際法に抵触しないとされる程
度の特別の取り扱いが行われた。アーロン収容所はラングーンの塵埃糞尿集積所と道一
つ挟んだ場所に設けられ、そこで発生するすさまじい悪臭と蝿が襲ってくる場所であり
、コカイン収容所は家畜放牧場に接し、集中的な放尿所のそばであり、「他にも空地は
無限なほど多かったのに、どうしてこういう場所を収容所として選んだのか」と書かれ
ている。


1271: 名無しさんAA:18/08/21 11:07
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  317   >

 彼らにとって捕虜は人間では無かった。捕虜は英軍の部屋に入るのに、ノックをする
必要さえ無かった。これは日本軍捕虜が信頼されていた訳では毛頭なく、ただ人間扱い
されていなかっただけに過ぎない。以下は、本書でよく引用される部分である。その日
、私は部屋に入り掃除をしようとして驚いた。一人の女が全裸で鏡の前に立って髪をす
いていたからである。ドアの音にうしろを振り向いたが、日本兵であることを知ると、
そのまま何事もなかったようにまた髪をくしけずりはじめた。部屋には二、三の女がい
たが、寝台に横になりながら『ライフ』か何かを読んでいる。なんの変化もおこらない
。私はそのまま部屋を掃除し、床をふいた。裸の女は髪をすき終わると下着をつけ、そ
のまま寝台に横になってタバコを吸いはじめた。その他にも、日本人捕虜の衛兵を全く
気にすることなく、男女の交わりを遠慮なく見せる英軍下士官の例も挙げられている。
英国の或いは他の西欧諸国の植民地経営が、それなりに実効的であったのは、原住民を
全く人間扱いしなかったという点に負うところが大きいと考えられている。敗戦後には
著者の会田は武装解除され約2年間の捕虜生活を送る。その舞台が題名にもなっている
ラングーンのアーロン収容所である。前書きにはこうある。「すくなくとも私は、英軍
をさらには英国というものに対する燃えるような激しい反感と憎悪を抱いて帰ってきた
のである。」「私たちだけが知られざる英軍の、イギリス人の正体を垣間見た気がして
ならなかったからである。いや、たしかに、見届けたはずだ。それは恐ろしい怪物であ
った。この怪物が、ほとんどの全アジア人を、何百年にわたって支配してきた。そして
、そのことが全アジア人のすべての不幸の根源になってきたのだ。私たちは、それを知
りながら、なおそれとおなじ道を歩もうとした。この戦いに敗れたことは、やはり一つ
の天譴というべきであろう。しかし、英国はまた勝った。英国もその一員であるヨーロ
ッパは、その後継者とともに世界の支配をやめてはいない。私たちは自分の非を知った
のだが、しかし相手を本当に理解したであろうか。」と。日本が、ビルマに軍政を敷い
て日本統治を進めた時、ただちに独立は認めなかった。ただし、バー・モウを首班とす
る自治政府の整備を進めている。それと同時に、日本軍は、ビルマ独立義勇軍の縮小再
編を進める方針を決めた。これは、肥大化したビルマ独立義勇軍を規律のとれた国軍と
して整備する意図と、アウンサンらがビルマ人の支持を集めて日本の占領統治の妨げと
なることへの危惧から、決まった方針だった。しかし実はこの頃帝国陸軍でも海軍でも
日本国籍の中で他民族だった兵士の特に朝鮮人達からの虐めが著しく、それは残虐さを
極めた。英国の植民地政策が経済障害を起こしたが日本は人種弊害を起こしていた。

1272: 名無しさんAA:18/08/21 11:08
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  318 >

 南方戦線での上陸するアメリカ兵にとっては、実は恐怖以外何ものでも無かった。と
言うのも戦況が終わりに連れ、泥仕合の如き様相だったからだ。死んだふりをしておい
て手榴弾を投げつける日本兵。白旗の下に機関銃乱射する連合軍兵、負傷したふりをし
てアメリカ軍の衛生兵に救いを求め、近づいた相手をナイフで刺し殺す卑劣。水の採取
に薬品を混入する米兵のやり口。それぞれに奇襲攻撃や過剰攻撃が日々行われていた。
おかげで海兵隊員たちは日本兵を激しく憎み、捕虜にとる気にもなれなかった。戦後に
書かれた公刊戦史の歩兵の回想録も、こうした憎悪にはめったに触れていない。しかし
あの戦いのさなか、海兵隊員たちは間違いなく、心の底から、激しく日本兵を憎んでい
た。こうした憎悪を否定したり軽視したりするなら、私が太平洋の戦場で生死を共にし
た海兵隊員たちの固い団結心や熱烈な愛国心を否定するのと同じぐらい、真っ赤な嘘を
ついていることになるだろう。ある時見つけた海兵隊は木に吊られそのまま食肉とされ
ていた。人は食べる物を探しだすと、人肉まで食して生きながらえた。上陸部隊は巧み
に配備された防御網を越え、海岸線から島の中心部を走る尾根筋の地下深くに陣を構え
た師団司令部にまで、網の目のように一分の隙もなく張り巡らされていたし、落とし穴
も、落石も背後のナイフも数々の罠を越えて行く事になる。1台や2台の戦車や火炎放
射器は直ぐに使えなくなる。万歳攻撃の為だ。島そのものを一つの前線に見立てた日本
軍の強さは、水も漏らさぬ完璧な「縦深防御」の態勢を築いていたのである。そして、
最後の守りが落ちるまで、守備隊は徹底抗戦を続けてくる。思わぬ深夜の襲撃には、食
糧を奪わずに殺しに来る。とても本隊から外れては動けなかった。峻険な地形に助けら
れて、日本軍の戦術は目覚しい成果をあげた。ライフル兵のつかない戦車は、日本軍の
地雷を抱いた決死攻撃に破壊されるのが必定だった。太平洋戦線で、戦車がライフル兵
を伴わずに行動を試みたのは、私の知るかぎり、沖縄戦における陸軍戦車隊が唯一の例
だった。つまり大量上陸しないかぎり無駄だったのである。例え小さな島でも上陸部隊
は大隊を付けねばならなかった。予想どおり、戦車の大半は日本軍に破壊された。日本
軍の夜襲は悪夢だった。その後島を去るまで夜ごとに襲われたあの身の毛もよだつ恐怖
を味わっていた。日本軍は夜襲の戦法に長けていたが、ペリリュー島ではその戦法に一
段と磨きがかかっていた。ペリリュー島の日本軍の攻撃は見事なまでに無駄がなく、ど
の兵器を使うときも、決してむやみに撃ってくることはない。日本軍は常に、我々には
最大限の損害を与えられるタイミングを狙いすまして撃ち、チャンスが去るとただちに
砲撃を停止する。

1273: 名無しさんAA:18/08/21 11:08
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  319 >

 近くにさらに二発ばかりの迫撃砲弾が炸裂した。われわれの運も尽きてしまいそうだ
った。日本軍の砲手の腕前はいつもなかなかのものなのだ。ファイブ・シスターズの陣
地に篭る日本軍兵士がわれわれから片時も目を離さずにいるのがわかっていた。しかし
狙撃兵の銃弾や迫撃砲弾が飛んでくるのは、こちらに最大限の損害を与えられると見極
めたときだけだった。日本軍の射撃に関する規律は見事というほかなかった。もし彼ら
が発砲したと言う時は、ほぼ例外なく誰かに当たり死人が出る時だった。相変わらず、
尾根筋を攻撃しつづけている第一連隊に同情の念を禁じ得なかった。第一連隊の死傷者
は、すでに膨大な数にのぼっていた。それでも小山の尾根を制覇出来ない。「噂による
と、第一連隊は地獄を見ているらしいぞ」とスナフが言った。「かわいそうに、同情す
るよ」と仲間の一人が応じた「ああ、おれもだ。だがなんとかしてあの尾根を占領して
もらいたいもんだ。おれたちまであそこに行かされたんじゃ、たまらんからな」と、さ
らに別の者が言う。「あの尾根からの敵の砲撃は地獄そのものだったな。双眼鏡を使っ
たって相手の砲の位置は見えやしないんだから」と誰かが付け加えた。「なあ、スレッ
ジハンマー。第一連隊のやつに聞いたんだが、彼らは銃剣を構えて あのいまいましい
尾根に正面攻撃をかけているが、どこから撃たれているのかもわからず、肝心のニップ
の姿すら見えないらしい。どうみたって馬鹿馬鹿しいじゃないか。あんなこと続けてて
も何にもならん。みすみす虐殺されてるようなもんだ」「そうだな。どっかの見栄っ張
りの士官がもう一つメダルでも欲しいんだろうよ。おれたち歩兵はそのために戦場で倒
れるんだ。士官は勲章もらって、国へ帰って、大いに英雄扱いされる。英雄だなんて、
馬鹿馬鹿しいにもほどがある。部下の兵士を殺されておいて、どこが英雄なんだ」と別
の古参兵が恨みごとを言った。哀れな海兵隊員はすっかりおかしくなっていた。戦闘の
ストレスでついに気がふれてしまったのだ。まわりの者がその兵を鎮めようとしていた
が、男は激しくのたうちまわって、言うことを聞かない。悲惨なまでに神経をいたぶら
れてきたこの戦友は、忍耐の限界を超えてしまったのだ。日本兵が飛び込んだタコ壷で
は、見張り番の海兵隊員に油断はなかったが、続く取っ組み合いのなかで両方とも武器
を取り落としてしまった。万事休した海兵隊員は人差し指で敵の眼窩を抉って殺したの
だという。われわれにとって戦争の実態とは、かくも残酷でおぞましいものだった。
その日本兵の口元には大きな金歯が光っていた。


1274: 名無しさんAA:18/08/21 12:41
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  320 >

川邉正三(かわべしょうぞう)中将は更に牟田口の上将で親知の中にある。彼と牟田口
廉也とは盧溝橋事件当時も部下と上司の関係で、インパール作戦に際しては「かねてよ
り牟田口が熱意を持って推進してきた作戦なのでぜひやらせてやりたい。」と作戦を認
可したと言う。全く戦争を私物化した大馬鹿だったと言える。まるでゲームのごとくに
日本を敗戦に導いた張本人であろう。最終階級は陸軍大将で富山県出身。ビルマ方面軍
司令官、航空総軍司令官、第1総軍司令官を歴任した。この航空総軍司令官こそが陸軍
航空隊でありながら特攻作戦などを考えた最も忌まわしき軍司令官だったのだ。人を自
爆の武器にしての戦争をすると言うのは普通の軍人には思いつかない発想である。つま
り彼は大前提である生きる為の戦いを棄てた発想者だった。全く戦争は人が死んで行く
もので戦果や戦略などどうでもいいと言う、全くの無知の軍人だった。インパール作戦
を指揮したのも、彼には国の為とか領地確保など、彼にはその戦略的意味はなかった。
第15軍司令官の牟田口廉也陸軍中将はこの上官を補佐して力尽きたようなものだった
のだ。敗色濃厚となった1944年(昭和19年)6月に牟田口を訪ねて戦況を確認した際
、両者とも作戦の中止を内心考えていたと言うほどいい加減だった。インド独立運動の
指導者の一人であるスバス・チャンドラ・ボースのことを極めて高く評価していたにも
関わらず支援するインドの為に戦うと言う姿勢がない。河辺はラングーンでボースと始
めて会見した際、歓迎の宴席で示されたボースのインド独立にかける意志と、その後の
態度を見てボースに惚れ込み、「りっぱな男だ。日本人にもあれほどの男はおらん」と
述べたという。只、彼の戦況把握も出来ない愚将中の愚将であり続けた事は大問題だっ
た。大本営>南方軍(総軍)>ビルマ方面隊>第15軍>各師団(15師団31師団3
3師団)という組織構造でビルマ方面隊を預かりながら、1943年12月「15軍」司令部
にて最終検討し「補給を無視した机上の計算」で「3週間以内にインパールを落とす」
と結論付けた。15軍司令牟田口廉也中将は「英軍は弱い、補給無くても勝てる、天長
節(天皇誕生日)までには占領する。」と強気な発言に、ビルマ方面軍参謀長「中永太
郎」は補給困難を訴えた。この時よく話補給問題を解決すれば良かったのだ。上級司令
部南方軍総参謀副長の「綾部橘樹」がこれを決定したが、参謀総長「杉山元」元帥は、
「寺田さんのたっての希望だから是非やらせてあげてくれ」と反対を抑えて最終的に承
認をした。牟田口の攻撃は理にかなった電撃戦ではあったが、闇雲に補給も無しでは、
人は戦えなかったのである。

1275: 名無しさんAA:18/08/21 12:42
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  321 >

 このマレー上陸作戦からインパール作戦に移行する頃、日本軍は直ぐに戦争を終らせ
たかったのは間違いない。しかし後の陸軍大臣になった阿南や川邉などと、牟田口更に
この佐藤との意識の乖離は考えられないほど大きかった。戦争認識その物が違っていて
阿南や川邉は戦争するのが運命であり戦場で死ぬのも天命で、今まで死んで行った先人
の後を追いかけて当然で、武運と行くのは生きて残る事では無く、戦争に勝つ事だった
。したがって、捕虜や俘虜になろうともそれは武士と同じく兵士として戦った証で栄誉
であった。が佐藤などの世代は違っていた。欧米の植民地政策や奴隷制度など関係なか
った。必死に生きる事が大事であり、戦いは勝ってこそ意味ある物だった。捕虜も奴隷
も敗戦国の労働者であり、植民地政策や奴隷制度が人類の不幸の遺産などと言う視野は
何処にもなかった。従って食料の無い中では敵は只の無駄飯で戦場なら死んで当然とい
うのが戦陣訓の教えだった。天皇は尊ぶなどと言う物でなく雲の上の仰ぎ見る物で全く
生活や行動には関係ない物だった。阿南は1945年(昭和20年)に鈴木貫太郎内閣の陸軍
大臣に就任して、太平洋戦争(大東亜戦争)末期に降伏への賛否を巡り混乱する政府に
おいてしつこく戦争継続を主張した。しかし、聖断によるポツダム宣言受諾が決定され
、8月15日の終戦に割腹自決をした。日本の内閣制度発足後現職閣僚が自殺したのは
これが初めてであった。阿南が産まれたのは明治20年で日本が先進諸国に仲間入りし
格差社会消費文化が産まれた頃だった。これまでの金の要らない生活が経済中心に動き
田舎と都会或いは政府の言う事と町の風習とにかい離があった。阿南の部下であり、そ
の自刃にも立ち会った井田正孝陸軍中佐によれば、阿南が求めていたのはただ国体護持
のみであり、その目的のためあらゆる可能性を残しておくべく、抗戦派・終戦派のいず
れにも解釈できる態度だったが、陸軍の砦としてもてはやされた結果であろう。米内を
相当嫌っていたが、同じ和平派だった鈴木や東郷に対しては、阿南は前述のように自決
前に礼儀正しく和やかな別れを告げに訪れている。河辺も明治19年に産まれている。
インパール作戦の遂行が滞り、日本軍の敗色が濃厚となった昭和19年、河辺は牟田口
を訪問し戦況を確認し合ったとされる。2人とも既に同作戦の失敗を認めた上で、その
中止の是非を検討した。しかしこの2人が面会した時、牟田口は、河辺の口から、河辺
は牟田口から同作戦の中止命令を出させ、作戦失敗の責任を相手に被らせようという、
したたかな狙いがあった。所謂保身だった。だが川辺自体は恐らく牟田口に騙されたの
であろう。

1276: 名無しさんAA:18/08/21 12:43
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  322 >

 インパール作戦の推移について、この二人に状況把握は困難だったろう。連合軍側は
第14軍第4軍団(英印軍3個師団基幹)を中心に、約15万人がこの地域に配備され
ており、オード・ウィンゲート准将のこの地のコマンド旅団が、ビルマ地域の日本軍の
脆弱な補給線への破壊活動の分析を行い攻撃していた。また、暗号解析などにより的確
に状況把握と敵軍位置を把握し 1944年2月頃までに日本軍が三方向より侵攻するという
攻撃計画は、全ての全容を把握していたのである。つまり隠れての牛の行軍だったから
見つかったのでなく、最初から狙われていたのだ。そこで第14軍司令官スリム中将な
ど連合軍司令部では既に、重火器装備をそろえた上で、空輸作戦による補給体制を確立
する一方、本国に増兵や海軍航空隊の要請まで行っていた。英印軍部隊をインパールま
で後退させつつ防御戦闘を行うことで、後方兵站部隊の脆弱な日本軍を疲弊させ、その
進出限界点(攻撃の限界点)であるインパール平原で一気に反攻に移る作戦を固めて、
待ち構えて、一方で終戦過ぎてもグルカ兵の傭兵を募集し、獲得し続けていた。もっと
も、ウィンゲート旅団参謀長だったデリク・タラク少将は、上記のインパールまでの後
退が第14軍の作戦通りだったとする多数説には懐疑的である。タラクによれば、1944
年2月末時点でも確固たる作戦計画が無かったのが実情だったという。つまり強靭な現
地人グルカ兵を次々とハンティング契約しては、パラシュート降下のみ訓練し飛行機で
周辺部隊に物資と共に送り込んで居たのである。当然日本はそれを知らずに進軍した。
この作戦の困難さを、吉川正治は次のように説明している。「この作戦が如何に無謀な
ものか、場所を内地に置き換えて見ると良く理解できる。インパールを岐阜と仮定した
場合、コヒマは金沢に該当する。日本の第31師団は軽井沢付近から、浅間山(2542m)
、長野、鹿島槍岳(長野の西40km、2890m)、高山を経て金沢へ、第15師団は甲府付近
から日本アルプスの一番高いところ(槍ケ岳3180m・駒ヶ岳2966m)を通って岐阜へ向か
うことになる。第33師団は小田原付近から前進する距離に相当する。兵は30kg - 60kg
の重装備で日本アルプスを越え、途中山頂で戦闘を交えながら岐阜に向かうものと思え
ば凡その想像は付く。後方の兵站基地はインドウ(イラワジ河上流)、ウントウ、イェ
ウ(ウントウの南130km)は宇都宮に、作戦を指導する軍司令部の所在地メイミョウは
仙台に相当する。」と言っている。

1277: 名無しさんAA:18/08/21 12:44
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  323 >

 つまり東京から川や山を越え、富山や新潟に戦闘しながら行く様なものだった。移動
手段がもっぱら徒歩だった日本軍にとっては、戦場に赴くまでが既に苦闘そのものであ
り、牛馬がこの峻厳な山地を越えられないことは明白だった。ましてや雨季になれば、
豪雨が泥水となって斜面を洗う山地は進む事も退く事もできなくなり、河川は増水して
通行を遮断することになる。そして20〜50sを担いで行進したのだ。河辺と牟田口
が思案している間、結局、同作戦の中止決定は遅れ、損害は拡大。戦闘で華々しく散る
事なく、第15軍の大体はつまるところ牟田口からの食料の補給を止められ、ガダルカ
ナル戦と同じに無残に餓死しや病死や溺れ死んで行き、勇猛果敢でこれからの将兵達が
路傍の露となった。作戦に加わった日本軍将兵約9万人のうち、戦死者・戦病死者3万
人超えて、後送の戦病者約2万人となった。この痛みに河辺は、戦後、特攻平和観音奉
賛会という団体の発起人となり慰霊碑を経てた。つまり、自分の葬儀に至るまで自己の
弁護に明け暮れた牟田口は死より罪を恐れたが、それと比べ既に罪人の生死観を持って
戦場にいた河辺は生まれた時から価値観が違っていたのである。彼には弟に河辺虎四郎
と言う名将がいた。陸軍大将河辺正三の弟として同じ陸軍で陸軍航空総監部総務部長や
総監部次長にまでなっている。1943年(昭和18年)中国に居たが東京に呼ばれ敗戦にな
った際、連合国と会談するため全権としてマニラに赴いている。ドイツ武官から第7飛
行団長になった。日本の航空隊は海軍の空母の前に出来ていた。だが飛行機で編成され
た実戦部隊としては、第一次世界大戦(日独戦争)の時1914年(大正3年)青島の戦い
に初めて実戦投入された臨時航空隊(青島派遣航空隊)が日本陸海軍初の実戦飛行部隊
となったと言う。1915年(大正4年)12月10日には臨時でない常設の飛行部隊として、
日本の航空発祥の地である所沢陸軍飛行場にて航空大隊が編成され、1917年(大正6年
)には計6個大隊を保有していた。1919年(大正8年)に官衙たる陸軍航空部が設立、
1925年(大正14年)に陸軍航空本部に昇格し、同時に航空兵科が独立した。第2飛行
隊は新京を本拠地とし1935年(昭和10年)に作られた関東軍飛行集団が、1937年(昭和
12年)第2飛行集団とそれぞれ改称された。そして、1942年(昭和17年)に第2飛行師
団と改称し、満州での防空を担当した。しかし特攻攻撃で機数が不足し第7飛行師団下
に入った。


1278: 名無しさんAA:18/08/21 15:11
佐藤師団長は「このままでは無駄に死者が増える。」と作戦続行の命令を無視して独断
でコヒマ撤退を決意した。病兵1500名の後送を指示して、6月1日主力を補給集積
地のウクルルまで撤退させた。このときビルマ方面軍にむけて激しい司令部批判の電報
を送った。内容は「でたらめな命令を与え師団が躊躇すると軍規を盾に責めるとは、部
下に不可能な事を強要する暴虐だ。」と書いている、しかし撤退したウクルルにも弾薬
、食糧が全く無く、独断で更に後方の「フミネ」まで後退した。佐藤師団長は死刑を覚
悟し軍法会議にて第15軍司令部の作戦指導を糾弾するつもりだった。命がけの命令違
反によって、より多くの兵士の命が奪われることとなった。牟田口司令は独断によって
作戦途中に3師団の師団長を解任するという前代未聞の処置を戦場で行う。佐藤中将は
死を決して軍法会議で作戦失敗の責任を明らかにしようと決意し、陸軍上層部は作戦失
敗の責任が軍中枢まで来る事を恐れて、「佐藤中将、心神喪失」の診断を下し不起訴と
し、組織の防衛を優先させた。当然でもある。コヒマは攻略は出来たが、食糧がなく、
新任の佐藤は逼迫した。早めにディマプールに進軍すれば良かったがコヒマに固執した
。その調査の無さは責任所在の曖昧さや狎れ合いの人間関係を示し、無知で無謀な作戦
を立案し断行した理由でもあった。70,000人の死傷者をだした作戦司令部の責任
は問われることはなく、かえって陸軍中枢の人達は作戦失敗は戦意の低い佐藤ら三人の
師団長が共謀し招いたものとして非難と責任を師団長に負わせた。対して佐藤幸徳中将
は弁明せずに、戦死者の家に出向き黙って焼香して帰っていったという。同年6月5日
インタギ―村にて15軍牟田口司令とビルマ方面軍川辺司令は、会議をしていた。その
時のそれぞれの思いが後に明らかになる。その時の川辺司令は「牟田口は何か言いだし
たくても言いだせない顔色だった。露骨には聞かなかった。」といい牟田口司令は「作
戦断念が喉まで出かかったが言えなかった。顔色で察してほしかった。」と尋問調書に
ある。牟田口は「4月末ごろ作戦失敗と思ったが、その時、川辺司令が早期撤退を渋り
従うしかなかった。」と話している。こうして陸軍が作戦中止の決断を欠く中、日本軍
は壊滅に追いやられたのである。同年7月1日になって、やっと東條参謀総長は中止を
天皇に奉上し、無謀で無知な作戦は終了した。その後も大本営参謀総長「杉山元」元帥
は小磯内閣陸軍大臣となり、南方軍総司令「寺内寿一」元帥は終戦まで留任した。佐藤
は軍規に照らし命令違反は大罪だった。が無知で無謀な命令に命がげで背き部下の命を
救った勇気ある行いは賞賛に値し、軍人である前に一人の人間として、立派な武勇者の
物語がそこにあったと書く。が、真実は決死の撤退よりは、決死の進軍すれば、楽々と
食料や武器弾薬が得られたを見誤ったのである、自らの調査偵察という仕事をしなかっ
た為に。

1279: 名無しさんAA:18/08/21 15:11
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  325 >

彼らの足を後退させたのは、本当はグルカ兵の強靭さだったのだろうと思う。援蒋ルー
トで兵器や物資を送ったのはグルカ兵にだった。一方食い物も無く砲弾も尽き、痩せ細
って道に迷う日本兵は、きっと戦いにはならない程で、今までの供給食糧にも、住民の
白い眼や反対の声が上がり始めて、このままいけばイギリスに味方する住民を処罰して
対住民戦になる。と踏んだのだろう。それが怖くなって佐藤幸徳中将が退却した理由で
あったろう。と想像する。ビルマ方面軍司令「川辺正三」中将は、何故か大将に昇進し
航空総軍司令官で特攻を指導し15軍司令「牟田口廉也」中将は予科士官学校校長にな
っている。佐藤幸徳中将は「大本営、総軍(南方軍)方面軍(ビルマ)、15軍という
馬鹿の4乗がインパールの悲劇を招来した」と痛烈な批判した言葉を残したが、それは
勘違いも甚だしいものだ。英国軍側ではスリム中将を司令官とする14軍は、兵力は3
倍にして、改めて250万トンの空輸補給可能な状態で戦車まで装備して態勢を整えて
いた。既に日本軍をインパール周辺に引き込み、補給ルートが伸びきった時点で一気に
叩く作戦を考案して退却し実行していたのである。5月16日現場は苦戦を強いられて
いるにも関わらず「東條英機」参謀総長(首相兼務)は、わざわざ天皇に「作戦に不安
無し、剛毅不屈、既定方針の貫徹に努力いたします」と上奏文を送っている。嘘も甚だ
しい上奏であった。これに似たのが満州事変後の東条の軍の習性である。16期の同期
生が南ドイツの保養地バーデン・バーデンで来たるべき戦争に、人事刷新と軍制改革を
断行して、陸軍における長州閥打倒、満蒙問題の早期解決、革新運動の断行を誓い合っ
たとされる。東條は板垣征四郎や石原莞爾らと共に会の中心人物となり、満州問題解決
方策大綱が完成している。これには、張作霖爆殺事件の3ヶ月前(3月1日)の木曜会で
、既に対露戦争を準備するべき旨を述べ「満蒙ニ完全ナル政治的勢力ヲ確立スル事」を
目標とし木曜会の結論を、米国参加に備えながら「満蒙ニ完全ナル政治的勢力ヲ確立ス
ル」と決定している。この方針が永田鉄山、岡村寧次などが揃った中で出され、その後
二葉会や一夕会などを含め二・二六事件を起こさせた。関東軍内部で関東憲兵隊司令官
・関東局警務部長の立場で検挙し、こうして支那事変(日中戦争)を勃発させて、東條
は察哈爾派遣兵団の兵団長として察哈爾作戦に参加しているのである。



1280: 名無しさんAA:18/08/21 15:12
 つまり、日本で起こった2、26事件もこのこの東条達が裏で糸を引いていたと言え
る。二二六事件は、皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが 1,483名の下士官兵を率い
て起こした日本のクーデター未遂事件である。とされこの事件の結果岡田内閣が総辞職
し、後継の廣田内閣が思想犯保護観察法を成立させた。この頃は格差社会が広がり、統
制経済による高度国防国家へ、と改造計画した陸軍中央幕僚と、上下一貫・左右一体を
合言葉に特権階級除去の天皇政治の実現を謳う革新派の隊付青年将校が対立していた。
はじめは懐柔策を講じていた幕僚らも、目障りな隊付青年将校に圧迫を加えるようにな
っていった。五・一五事件(1932年)で犬養毅総理殺害事件が起き、真崎甚三郎教育総
監の罷免事件は、永田鉄山が惨殺される1935年(昭和10年)相沢中佐事件になって現れ
た。三井財閥で血盟団事件(1932年)で団琢磨を暗殺され、1936年(昭和11年)に2月
にこの事件は起こった。この首謀者とされた磯部は「ロンドン軍縮条約以来、統帥権干
犯されること二度に及び、天皇機関説を信奉する学匪、官匪が、宮中府中にはびこって
天皇の御地位を危うくせんとしておりましたので、たまりかねて奸賊を討ったのです。
……」と答えている。言わば天皇機関説とは言わば日本と言う名の会社の経営者と言う
考え方である。あくまでも天皇は現人神で万世一系の頂点でなければならなかった軍の
考えとは対立していた。「大義を明にし、人心を正さば、皇道奚んぞ興起せざるを憂え
ん」これが維新の精神であります。と答えていて、既に真崎甚三郎でさえも、このまま
では血を見るし、物を言えば真崎が先導したと言われる。と悩んでいる位だ。石原には
この反乱軍の意向が来ていた。従って一方で賛意を示し、一方であぶり出し側に加担し
た。東条は第1次近衛内閣の時 陸軍大臣板垣征四郎の下で、陸軍次官、陸軍航空本部
長に就くが、天皇は非常に杞憂した。ところが本部長になると勝手に人事局課長・額田
坦に強引な赤松貞雄少佐の強引な引き抜きをし、軍人会館で「支那事変の解決が遅延す
るのは支那側に英米とソ連の支援があるからである。従って事変の根本解決のためには
、今より北方に対してはソ連を、南方に対しては英米との戦争を決意し準備しなければ
ならない。」と発言し、「東條次官二正面作戦の準備を強調」と新聞報道される程に、
戦争遂行主義を取っていた。その為板垣の下で退職を迫られるが「多田次長の転出なく
ば絶対に退職願は出しませぬ」とダダをこねて抵抗し、結局多田は転出となり、同時に
東條も新設された陸軍航空総監に補せられた。近衛は、支那派遣軍総司令部から「アメ
リカと妥協して事変の解決に真剣に取り組んで貰いたい」と見解を述べたが、東條の返
答は、「第一線の指揮官は、前方を向いていればよい。後方を向くべからず」と言う返
事で、全く、人馬皇軍を犯した物言いで終わっている。


1281: 名無しさんAA:18/08/21 15:13
 近衛内閣の後任首相については、対米協調派であり皇族軍人である東久邇宮稔彦王を
推す声が強く決まる筈だった。皇族の東久邇宮であれば和平派・開戦派両方をまとめな
がら対米交渉を再び軌道に乗せうるし、また陸軍出身であるため強硬派の陸軍幹部の受
けもよいということで、近衛や重臣達だけでなく東條も賛成の意向であった。ところが
内大臣・木戸幸一は、独断で東條を後継首班に推挙し、天皇の承認を取り付けてしまう
のである。この木戸の行動については今日なお様々な解釈があるが、此処に米国側の工
作もあった。木戸は、太平洋戦争前後の政治に関与した罪で、敗戦後にGHQによって
戦争犯罪容疑で逮捕され、東京裁判において終身刑となったが後に仮釈放された。宮中
政治に深く関与し、宮中グループの学習院時代から親独派として知られた人物で全くも
って危険人物だった。日米交渉の行き詰まりによって、広田弘毅は外務に従事していて
既に戦争しかない道の途上にある事を認識していた。1938年(昭和13年)1月22日の
広田は、帝国議会で「到底事変解決の見込ないことが明かとなったのであります。」と
述べ、「帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待」するとした。この
後に南京に日本の支援で「中華民国維新政府」が設立されたが、蒋介石率いる重慶国民
政府との交渉ルートは絶たれ和平は絶望的になっていた道を作った。こうした路線転換
を図った近衛は内閣改造を行い、広田は外相を辞任したが、後任はかつての広田内閣後
の首相候補となった宇垣一成であった。が、平和主義者だった宇垣は、参謀本部の石原
莞爾らから疎まれ、彼らが中心となって陸軍の反発は予想を超えて陸軍大臣を推挙しな
いと言う作戦を取った為、宇垣内閣は成立しなかった。この時から木戸幸一は対米開戦
の最強硬派であった陸軍を抑えるのは東條しかなく、天皇の意向を絶対視する人物と見
て政治工作に乗っていた、昭和天皇の意を汲んで戦争回避にもっとも有効な首班だとい
うふうに逆転的発想をした。といわれるが、それらはドイツの対ソ両面作戦での、日本
工作で成立する筈ない夢外交だった。つまり友人のドイツ人に木戸幸一はそそのかされ
て、「戦争しても勝てば問題ないではないか、その為には開戦派の東条なんかが相応し
い。」などとと進言されていたのである。ドイツの秘密兵器もどんどんと教えますよ。
とか言われて、なるほどと思ったのだろう。こうした、いい加減人事をさせたのが石原
莞爾である。彼は最終戦争論者で日本は生き残りを賭けて戦うべきだと言う異色の開戦
論者だったからだ。口だけ上手く尻拭いしないこうした策士が上位者になった時代で、
天皇は全く発言できなかった。この木戸幸一のドイツ式の保身によって全く日本は苦境
に陥ったのだ。この石原莞爾の同窓生がインパールを指揮した河辺正三を兄に持つ河辺
虎四郎なのである。つまりこいつらが策略に長けた一番の戦犯だったのだ。


1282: 名無しさんAA:18/08/21 15:16
   世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  328 >

 インパール作戦では、「牟田口廉也」司令官は苦戦している前線部隊に対し「天長節
までに成功せよ」と無謀な激文を送っていた。司令部からは「これから弾薬食料を送る
から進撃せよ」などの電文が来るだけで、全くいっこうに物資は来ない。佐藤師団長「
15軍の補給の約束はまったくのでたらめである」と激怒した。それに対し牟田口司令
は弱気と決めつけ「食うものが無くても勝て」と電文している。この頃、一部隊(10
0人)の一日分の食料が手のひら一杯の米しかなく「飢え」は「極限状態」に達してい
た。又それ以上に雨季も重なり「赤痢」「マラリア」にかかる兵士が大勢いて、栄養不
足による体調不良で、風土病が蔓延する兆しすらあった。これを見て佐藤師団長は補給
要請に全精力を注いでいたが、ついに物資不足から撤退を進言するに至った。しかし、
司令部は尚も作戦継続の命令を強いて、撤退提案を受け入れなかったのである。こうし
た皇軍の私物化は当時は既に詰問される事は無い程になっていた。1944年3月7日以来、
牟田口廉也第十五軍司令官は3個師団を使った「ウ号作戦」を発動し 3月15日二千百人
を率いた佐藤幸徳中将の第31師団の三つの突進隊は,チンドウィン河渡河を開始して
死闘の末順調にコヒマ陥落を果たしていた。しかし1944年5月20日の、第三十一師団
佐藤幸徳師団長は、ビルマ方面軍司令官宛に「作戦開始以来,すでに6旬(60日)を過
ぎこの間に、分隊からは一物の補給も無くいまや糧食・弾薬ことごとく尽き果て、遺憾
ながら予は、補給無くては部下を統率するをえず。」と電報を打っている。つまり2ヶ
月前3月末には戦って到着しているのである。第十五軍「林」は、ミートキーナで連合
軍による攻撃を受ける中に、西方の第三十一師団「烈」にコヒマ死守を命令した。しか
し補給は届けることはできなかった。1944年5月末に第十五軍「林」久野村参謀長は、
「烈」に対して、現態勢の確保を再び命じたが「烈」佐藤師団長は、「独断で処理する
ことを承知されたい」との電報を打った。こうして1944年6月1日佐藤中将は牟田口中将
のコヒマ死守命令に逆らって、生きる為に補給を受けられる地点まで撤退を開始する。
これが「抵命事件」である。佐藤中将は牟田口司令官に電報を打って、1944年6月1日に
コヒマを撤退し、補給を受けられる地点まで移動する。と第十五軍「林」に通告した。
それでも第十五軍はコヒマ死守を命じ、さらにインパール攻撃を指示してきたが、佐藤
中将はそのまま撤退を続けて、僅かの兵員だったが命を守ったのである。とされる。は
たして佐藤氏の判断は正しかったのか。悲しい事は日本にはそれが違反と言える食料が
なかったし、情報もモノ言える文化も無かった事だ。それが大量の兵士を殺した。

1283: 名無しさんAA:18/08/21 15:16
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  329 >

 太平洋戦争が始まったのは、正確には「真珠湾攻撃」からではなかった。それよりも
少し早く、陸軍の部隊が現在のマレーシア北部コタバルの海岸に上陸を開始していた。
コタバルの「パンダイ・サバッ海岸」に立った日本軍は、モンスーンが吹き荒れて波が
高い中だった。待ちかまえていたイギリス軍は、約9千の兵力で海岸一帯に25のトー
チカを築いて待ち構えていた。鉄条網が水際に張り巡らされ、地雷敷設されて重装備を
担ぎ荒波の中をようやく上陸した兵士達に、容赦なく機関銃弾が浴びせらる。「あたり
は真っ暗で、イギリス軍は上陸を知っていて目を凝らして、機関銃の連射が飛んできた
。弾がピューンという音なら遠くで、ブスッという音なら近くと分かる。鉄帽を片手に
砂浜に穴を掘って、直ぐに身を伏せた。背負っていた背のうには3発当たりました。」
こう語るのは、淡路山丸に乗って上陸した武田義雄さんである。激戦となった。320
名の死者をだし負傷者638名上陸用舟艇の沈没15隻という大きな犠牲を出し4時間
の激闘の末、海岸線を制圧した上陸部隊はコタバル飛行場に向かった。東洋のノルマン
ディ上陸作戦と言えるぐらいの死闘だった。この間にも、上陸船団の「淡路山丸」「綾
戸山丸」「佐倉丸」がイギリス軍機の攻撃をうけ被弾した。暗闇の中の空襲であった。
「敵機がライトで照らし、輸送船が襲われているのも分かりました」どうにか上陸した
佗美支隊は、翌9日午前2時に当面の目標だったコタバル飛行場を制圧した。「この日の
お昼頃に、飛行場についたような気がします。私達の到着が早すぎたのか、日本軍機に
敵と間違われて機銃掃射されたんですよ」武田義雄。この作戦は、いわゆる陽動作戦で
ある。陸軍第25軍(山下奉文中将)の主力を、タイ東南部のシンゴラとパタニに安全
に上陸させるために、イギリス軍航空機をコタバルに引きつけておく必要があったのだ
。そのための、コタバル上陸作戦であったが、幸運にも佗美支隊の作戦は成功した。こ
の時シンゴラ、パタニ、コタバルの三カ所が日本軍のマレー作戦の上陸地点である。シ
ンゴラとパタニはタイの領土にあり、コタバルは当時イギリスの植民地のマレー領であ
る。独立国として中立を表明していたタイ国に、日本は簡単に軍隊を入れるわけにはい
かない。「軍隊の一時的通過」であっても領土侵犯にかわりはなく、当時のピブン首相
の返答によってはタイとの間に武力衝突が起こる可能性もあった。12月8日12時頃に、
ようやく軍隊通過協定をタイ国は締結する。「私は現在70歳ですから、当時は10歳にも
満たない子供でした。パタニに上陸した日本軍の兵達が、当時私の住んでいた国境に近
いベトンの町を通ったのです」そう語るのは、地元の大学で教鞭をとるヘッドさんである。

1284: 名無しさんAA:18/08/21 15:17
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  330 >

 コタバルに向かうには、タイの首都バンコクからマレーシアとの国境の町スンガイ
コーロク行き(約1200キロ)の長距離列車に乗る事になる。列車の中で日本人の私に声
をかけてきたのが、ラタナジャラナさんである。「何せ私は小さな子供だったのですが
、彼らはピースフルでしたよ。それ以上のことは覚えていませんが、パタニでは戦闘が
あったんです」こうして日本軍は一部で小競り合いがあったものの、主力の第5師団と
第十八師団は平和裡に進駐が進み、サイゴンからは近衛師団がタイ領を通過しマレー半
島を南下していった。ちなみに、開戦の第一報を見てみると、次のようになっている。
「(大本営陸海軍部発表一二月八日午前一〇時)帝国陸海軍は本八日未明西太平洋上に
おいて米英と戦闘状態に入れり。」コタバル沖合で巨大な船体がズシーンと揺さぶられ
ると、船室内の兵も装具も玩具を放り散らかされたように、それぞれの場所から横へ投
げ出された。混乱した中で起き上がろうとすると、続けざまに二回、三回とまた大振動
が起こる。池原一等兵は這うようにして上甲板への通路を進み、便所入り口の把手につ
かまった時、ガガーンという大音響とともに床にたたきつけられた。「うーむ」とうな
っている目の前は真っ暗闇だった。電灯が消えてしまったのである。「全員上甲板へ上
がれ!」と怒鳴る声に、今しがた叩きつけられた腰の痛みも忘れ、暗い中で立ち上がる
と、兵士たちの奔流に巻き込まれ、運ばれて階段を上がっていた。甲板上は兵達でごっ
た返し、それをかき分けるように乗組員と船舶工兵たちはわめきながら船尾へと急いで
いる。船尾は黒煙に包まれ、それが風の煽りで左右に這う度に、その中から紅蓮(ぐれ
ん)の炎が舌をなめ回す。甲板上を見回す間もなく、魔鳥のような黒い機影は一機二機
三機と低空で飛来し、本船目指して突っ込むかと見る間に、旋回して急上昇していく。
と同時に舷側(げんそく)に近いところで巨大な水柱が立ち上り、船が激しいローリン
グを起こした。甲板に伏せている背に海水のスコールが降る。続いてきた飛行機の機銃
掃射は、身辺をかすめて船橋の鉄板に当たり、火花を発して不気味な響きを立てて弾き
飛ぶ。船からは広角砲や高射機関砲で応戦している。敵機の接近とともに、曳光弾を交
えて砲身が焼けよとばかりに撃ちまくる。すさまじい発射音や爆発音は、飛行機の爆音
や急上昇のうなりと交じり、鼓膜を叩き、脳天をかき回す。煙と海水の飛沫は容赦なく
甲板上を襲い、風の煽りで舞い立った船尾の炎は、そのたびに甲板上の修羅場を赤々と
照らす。

1285: 名無しさんAA:18/08/21 15:17
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  331 >

 池原一等兵は甲板の片隅で、いよいよ今日が最後の日かと縮み上がっていた。彼らが
乗っている船は淡路山丸という一万トン余の大型輸送船で、沖縄出身兵たちはアワリサ
ン丸(哀れしない丸)ということで、その船名の縁起をかつぎ、喜び勇んで乗り込んだ
ものだった。しかし今は、船名を沖縄方言になぞらえて言って見ても、どうにもならな
いことを思い知らされているのである。ここは英領マレー半島コタバルの沖合昭和十六
年一二月八日、午前一時を少し回ったばかりである。帝国陸軍軍人が、と思う心とは裏
腹に、池原一等兵の体はひとりでに震える。息を潜めてジーッとしていると歯の根が合
わない。三、四時間前の静けさが、こうも変わろうとは夢想だにしなかった。その三、
四時間前からのことが脈絡なく彼の頭の中に浮かんでは消えた。三、四時間前、それは
十二月七日午後十時か、十一時だったはずである。波のうねりは高かったが、敵前上陸
を前にしては船酔いどころの騒ぎではなかった。遥か遠く月明りの下、黒々と眠ってい
るのはマレー半島だ。電灯がチカチカ光っているところはサバク海岸か、あるいはコタ
バル飛行場かも知れない。ジョンブル(イギリス人)の奴ら、きっと飲み明かすつもり
かも知れないと思うと、一戦も交えたことのない相手への敵愾心がムラムラと湧き上が
って来るのを覚えた。いよいよ十二月八日午前一時少し前、第一次上陸部隊の舟艇移乗
が行われる頃となって風が強くなり、波はそのうねりを一層高めて来た。「出発準備完
了!」の報告を耳にすると、支隊長侘美少将は直ちに鈴木高級副官に命じ、発進を号令
せしめた。池原一等兵がその時対岸に目をやると、いつの間にか電灯の光は消え、黒々
とした陸地だけしかなかった。「これは敵さんに気づかれたかな」と不安の入り混じっ
た思いで見ている間にも、舟艇群は青標灯を檣頭(しょうとう)に掲げ、四縦陣となり
、発動機の音も勇ましく、荒海の中を一斉にサバク海岸に向かって行った。やがて二十
分もたったと思われる頃、黒々と見える対岸上空に照明弾が二発撃ち上げられた。と見
る間に、波打ち際あたりで火花が散り始め、引き続いて砲声が轟いてきた。明らかに敵
の砲火だ。上陸軍の武装は小型火器だけなのだ。対岸の戦闘を目にしていながら、船上
では手も足も出ず、やきもきするばかりであった。一時間以内に第一次上陸部隊を運ん
だ舟艇群は帰って来る。その時こそ第二次上陸部隊として敵地に上がるのだと思うと、
武者震いして、勇躍した血が胸を高鳴らせた。「それにしても遅い」「無電さえも届か
ない…」。不安な表情を見せ始めた兵たちの間を通り、池原一等兵が出番を控えて船室
にくつろいだその時、突然大揺れを食らい、投げ出され、先述の修羅場を現出したので
ある。

1286: 名無しさんAA:18/08/21 15:18
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  332 >

 「第六中隊、舟艇に移乗!」空襲に怯えてばかりもおれなかった。砲声と飛行機のう
なりが交錯する中で、大隊長中村中尉の鋭い声が甲板上に響きわたると、池原一等兵の
軍人精神は呼び覚まされた。千磨必死の訓練の成果は、こういう時にあらわれるのかも
知れない。いよいよ敵前上陸だ。第一陣を運んだ舟艇は帰ってきていたのだ。それにし
ても数が少ない。けれども今は舟の数を確かめたり、それを気にしている余裕はないの
である。縄梯子を降りていると艇長の声が波間から聞こえて来る。「上陸成功、ただし
敵の抵抗が激しく海岸に釘付け」と聞こえた。上陸時間のことも報告しているようであ
るが、時間なんて、このような際、どうでも良いことだ、と思った。後日、諸情報をも
とに、第一次上陸部隊の上陸作戦の状況を総合すると、次のようであったという。作戦
途中、敵弾を受けて多くの艇は大破、転覆あるいは沈んだものも多く、一時は波打ち際
で混乱状態を呈していたという。したがって兵の揚陸を果たした艇でも指揮艇の所在が
つかめず、すべて単独判断で帰ってきたのである。上陸部隊にしても、敵の激しい迎撃
で砂浜を一歩も進めず、その上無線機は海水に濡れて発信は不可能だったというのであ
る。さて、池原一等兵ら第二次上陸部隊の兵士たちは、第一次上陸部隊那須連隊長以下
の安否を気にしながらも移乗を終えた。敵機が繰り返し襲う中での行動であるので、そ
れこそ命懸けの行動なのだが、先発隊の運命が自分たちのそれにも繋がることを思えば
、敵機襲撃の恐怖の中にありながらも、対岸の様子も気にせずにはいられなかった。大
隊長中村中尉の艇を先頭に、五、六隻の艇はうねる波の間をついて対岸へ向かった。支
隊長侘美少将も陣頭指揮を取るべく、この一陣と行動をともにした。発進五、六分後、
思わず振り返ると、今しがた離れたばかりの淡路山丸は、甲板一面で大火災を起こし、
闇の海上を真っ赤に照らしている。池原一等兵は、その船から脱出した僥倖(ぎょうこ
う)を思うと同時に、乗組員及び船舶工兵たちを残して去って来たという後ろめたい気
持ちにも襲われた。僚船綾戸丸および佐倉丸は無事で、その巨体を暗い波間に浮かべて
いる。それらの船からの第二次上陸部隊は発進したであろうか、そのような思いが頭を
かすめる。艇は一四、五メートルの強風に悩まされ、高い波浪に弄ばれながらも上陸地
点目指して一路進んで行く。砂浜に達するやいなや、激しい銃撃が襲いかかってきた。
水際から直ちに匍匐(ほふく)前進に移り、砂上を虫けらみたいに進むと、やがて砂上
に散在する黒い影が目に入ってきた。第一次上陸部隊の兵たちである。

1287: 名無しさんAA:18/08/21 15:19
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  333 >

 前方の黒い椰子林の陰から狙い撃ちされ、全く釘付けの状態である。少しでも、体を
もたげると、たちまち機関銃弾が雨あられのように飛んでくる。時々頭上をかすめて、
砲弾がヒューンと飛んで来て水際や海中で炸裂する。では、先に上陸した第一次の上陸
部隊はどのような経路と経過をたどっていたであろうか。ここでは落合軍医の手記をも
とに、その後をたどってみよう。サバク海岸はコタバル飛行場に最も近く、予想した通
り敵は堅固な陣地を布いて待っていた。上陸地点五〇〇メートルに達すると、敵の砲門
はにわかに火を吐き、激しく撃ち込んで来た。その熾烈な砲火のため、上陸部隊は予定
より進路を右に変えざるを得なかった。その結果、数井大隊と松岡大隊は入り混じり、
一時は大混乱に陥った。数井大隊長の艇は海岸近くで転覆し、将兵も大波をかぶりなが
ら上陸したが、大隊長は間もなく負傷し、代理の中隊長も立て続けに受傷するという悲
惨な状態になった。松岡大隊では、一隻のダイハツ(舟艇)が迫撃砲弾を受けて転覆し
、一隻は大波のため海岸に打ち上げられた。そのような状態で、上陸はしたものの、水
際で撃ちまくられ、一時は相当な混乱状態で苦戦を強いられたのである。第一次上陸部
隊を率いた那須連隊長は、軍旗を奉じて上陸はしたものの、一次上陸部隊の様相を確認
するや、佐藤参謀に命じて数井大隊の指揮を取らせた。それでも汀線からあまり遠くな
い砂丘から先は全く進めず、膠着(こうちゃく)状態となった。この状況から脱しよう
と、砂丘の死角に入りながら入り江の向こうに渡ろうとした一隊は、潮流に流されて海
の中に押しやられた。こうして一次隊はその勢力を二分され、死傷者が続出して惨憺(
さんたん)たる状態になっていったのである。さて、池原一等兵らの第二次上陸部隊は
、支隊長侘美少将や中村大隊長の指揮の下、淡路山丸を離れたが、予備隊長国武中尉は
爆弾で戦死し、その他にも多くの死傷者を出した。上陸地点五〇〇メートルのところで
展開した舟艇群は、右が支隊長、左は中村大隊長の指揮で上陸を敢行した。上陸と同時
に、椰子林の中の闇は一斉に火花を吹き始めた。それは正面からだけでなく、斜め左前
方からも釣瓶撃ちされ、その上に砲弾も混じっていたのである。こうして同海岸は銃砲
弾の掃射地帯となり、左正面の中村大隊長(陸士三五期)は上陸と同時に戦死した。支
隊長の乗ったダイハツ艇の長が「達者」(上陸の暗号)と叫ぶと、護衛小隊長と支隊長
、和田次級副官は海に飛び込んだ。将兵も続けて飛び込んだのだが、海底に脚が届かず
、ブクブクと水中に沈み、ようやく岸にはい上がる有り様であった。


1288: 名無しさんAA:18/08/21 15:19
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  334 >

 こうして上陸部隊がそろったところで、各隊はそれぞれ正面で血路を開き、ついに椰
子林へ突入した。椰子林に入ると敵弾弾着の数は極端に少なくなった。敵軍の大勢は、
我が軍の前線突破と同時に算を乱して(無秩序に散らばって)退却していったのである
。池原一等兵(大正十年生)、十九歳で陸軍に現役志願し、昭和十四年久留米歩兵第四
八連隊へ入営、第六中隊第二小隊の擲弾分隊員であった。昭和十六年十一月までは南支
広東地方警備の任に当たっていたが、それまで激しい訓練が日夜続けられた。主として
上陸戦闘・ジャングル戦・舟艇移乗・折り畳み舟の運送と組み立て・水上浮遊等であっ
た。それは当然、悪化している米英との間で、万一のことが起こった場合のためのもの
であることは想像はついていた。そして遺言・遺髪・遺爪の整理があった頃からは、い
よいよの感を強くしたのである。十一月末になると、急に乗船命令が出て、乗船は海南
島三亜港に向かった。海南島では再び総合演習があり、十二月三日、支隊長から次の作
戦実施命令が出された。歩二三旅作命甲第二号 侘美支隊命令一二月三日一二〇〇於淡
路山丸  一、敵情別冊情報記録ノ如シ「軍主力ハ「シンゴラ」「ターベ」「パタニ」
方面ニ急襲上陸シ一挙「ペクタ」河左岸ノ線ニ進出ス第七戦隊・第三水雷戦隊ノ一部ハ
支隊ノ作戦ニ協力ス 二、支隊ハX日未明「コタバル」方面ニ急襲上陸シ「コタバル」
南側地区ニ進出シ以後ノ作戦ノ準備ヲセントス 三、諸隊ハ別冊上陸計画ニ基キ行動ス
ベシ 四、支隊ノ合言葉ヲ左ノ如く定ム「谷」「水」 五、予ハ淡路山丸ニ在リX日未
明上陸部隊ト共ニ上陸シ先ズ「サバク」三叉路付近ニ位置ス支隊長 侘美少将--である
 十二月四日は朝から日本晴れ、海は静かであった。午前六時三十分、護衛艦隊旗艦川
内及び一〇数隻の駆逐艦は、先頭・後尾・両側を航行して護衛に任じ、輸送船団はその
中を二列縦隊となって一隻又一隻と七〇〇メートル程の距離を隔てて進発した。両縦列
間隔は一〇〇〇メートル位で、併行して航行した。その威風堂々たる光景に、池原一等
兵たちは狂喜した。これだけの戦力で向かえば米英何するものぞ、と心は躍った。とこ
ろが十二月七日午前十時、支隊の淡路山丸・綾戸丸・佐倉丸の三隻は軍主力の艦艇と交
信をし、左に分進して別の方向へ向かった。遠ざかる大船団を目のあたりにして、池原
一等兵たちの驚きはやがて不安に変わった。一万トン級の巨船とはいえ、たった三隻、
それに護衛はちっぽけな水雷艇ではないか。実は先程の命令は、池原一等兵たち下級の
者には全く知らされてなかったのである。こうして、この支隊は太平洋戦争開戦劈頭(
へきとう)の第一陣を受け持つ上陸軍となったのである。これが真珠湾攻撃と共に起こ
った、コタバル上陸戦である。

1289: 名無しさんAA:18/08/21 15:26
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  335 >
 真珠湾第一撃の成功後、現地では第二撃を主張する山口多開少将はじめ、渕田美津雄
中佐らの意見具申は、南雲艦隊司令部によって斥けられた。が、連合艦隊司令部でも、
その是非で激論が続けられていた。その結果、最終的には幕僚のほとんど全員一致で、
第二撃の命令書をしたため、山本長官に意見をのべた。しかし山本は「いや待て、むろ
んそれをやれば満点だが、泥棒だって帰りはこわいんだ。ここは機動部隊指揮官にまか
せておこう」「やる者は言われなくったってやるさ、やらない者は遠くから尻を叩いた
ってやりはしない。南雲はやらないだろう。」と言って却下した。まるで他人事のよう
な、傍観的言辞であった。南雲も南雲なら山本も山本だと憤慨する。この将にしてこの
部下あり。「鳴かぬなら鳴かせて見せよう時鳥」ほどの統率力は南雲にも山本にはなか
ったのか。戦果をあげた以上、フリート・イン・ビーイングという帝国海軍の保全主義
が何よりも優先して急にこわくなったのか。ニミッツは「攻撃目標を、艦船に集中した
日本軍は、機械工場を無視し、修理施設には事実上手をつけなかった。日本軍は湾門の
近くにある燃料タンクに貯蔵されていた四百五十万バレルの重油を見逃した。長いこと
かかって蓄積した燃料の貯蔵は、米国の欧州に対する約束から考えた場合、ほとんどが
かけがえのないものであった。この燃料がなかったならば、艦隊は数カ月にわたって、
真珠湾から作戦を実行することは不可能であっただろう。」(「ニミッツの太平洋海戦
史」恒文社)と書いている。山本の戦術眼からは、重油タンクやドックは物の数ではな
かったらしい。ハワイは米国の太平洋における重要な戦略拠点であった。真珠湾攻撃の
際にハワイの基地機能を破壊しておけば太平洋戦争の様相は大きく変わったであろう。
山本五十六は軍事的合理性に基づいた部下の意見具申を斥けた。そして、それによって
当然獲得できる筈であった太平洋における戦略的優位を失ったのだった。その後空母を
恐れて帝国海軍はミッドウェー海戦を計画する。ミッドウェー島の攻略を決めた日本軍
は、二式大艇によるハワイ方面の敵情偵察を行うことにした。この作戦は第2次K作戦
と命名され、前回と同様にフレンチフリゲート礁で潜水艦からの給油を実施する計画だ
った。有馬中佐は、オアフ島西方900q海面に第三潜水戦隊6隻、第5潜水戦隊8隻
が6月2日までに南北線に哨戒網を張り監視するという作戦要領を作成した。しかしなが
ら、潜水艦は11隻しか用意できず、6月2日に到着できるのは1隻であり、残りは3日
以降の到着となる。連合艦隊は作戦を変更せず、そのまま黙認実行した。戦後になって
、連合艦隊参謀の黒島亀人は「海軍の常識からいえば、この場合の散開線構成は、西方
で散開隊形を概成したのち東進して、所定配備に潜水艦をつけるべきであった。ところ
が私の敵情判断の間違いから、あんな配備を計画してしまった。と南雲は語っている。

1290: 名無しさんAA:18/08/21 15:28

 そのうえ、連合艦隊の指導が至らず潜水艦の準備が遅れた。また、今次作戦は連合艦
隊の主兵力を使って行なう作戦であるから、潜水部隊は連合艦隊の全兵力を集中すべき
であった。」と語っている。とんだ間抜け作戦をである事を有馬中佐は証言している。
アメリカ軍は、第1次K作戦の後、飛行艇による同様の作戦が繰り返されることを警戒
し準備した。5月6日、日本海軍による無線交信の通信解析と暗号解読により、フレンチ
フリゲート礁が中継地として利用されたことを突き止め、フレンチフリゲート礁の利用
を阻止するため、艦艇を派遣して警備することにした。こうして5月30日、第2次k
作戦の遂行のため、給油担当の伊123はフレンチフリゲート礁に到着した。しかし、
アメリカ海軍の機雷敷設艦「プレブル」と水上機母艦「ソーントン」が先に展開して、
警備中で待ち構えていたのだった。伊123は米艦の存在に気付いて作戦を延期する。
翌31日、同じく給油担当の伊121がフレンチフリゲート礁に到着し、伊123とと
もに米艦の動向をうかがうが、この日も米艦の警戒が厳重であり、翌6月1日に作戦は
中止となった。6月1日、二十四航戦の司令部からミッドウェーの六百浬圏付近で敵の
潜水艦や飛行艇と会敵したことと、第2次K作戦の中止が連合艦隊司令部、南雲機動部
隊司令部に伝達された。このK作戦の失敗で日本は重要な知敵手段のひとつを失った。
失敗の報告を受けた連合艦隊は計画が崩れたことを知るが、何ら対策を取らなかった。
連合艦隊参謀らによれば、連合艦隊は米艦隊のハワイ出撃が遅れるだろうと考えていた
ので大した心配はしていなかったという。黒島は「わが機動部隊は無敵で、敵を圧倒で
きると信じていたので、このため特別な処置は考えなかった。」と回想している。南雲
機動部隊首脳部もK作戦の中止を大した問題とは考えなかったのである。レーダーも暗
号解析も米国に大きく遅れとっていたにも関わらず、帝国海軍は圧倒していると誤認し
作戦を立てていた。日本海軍が戦略構想の根幹と考えていた主力艦同士による艦隊決戦
時の補助兵力に過ぎなかった陸上攻撃機は、現下の太平洋戦争が、航空戦力のいかんで
勝敗が決する方向に推移した事の認識すら、根本から開発指針変更を余儀なくされた。
そして、同じ「陸攻」という機種名称を冠しながら、内容的には全く異なった長距離戦
略爆撃機に準じた構想に基づいて開発された四発大型機が「連山」であった。しかし、
アメリカ陸軍のB-17やB-24に匹敵する四発大型機は、当時の日本の航空技術力では手に
追いかねる代物で、太平洋戦争には到底間に合わず、試作段階で消える運命にあった。
 こうした戦時の戦闘能力補助の備品開発には日本は大きく劣っていた。こうして三百
万有余の国民を殺した不条理の戦争は、もっと早くやめるべきであった。痴呆と阿呆の
廟堂密室 を上にいただいた国民の不幸、不運が、改めて思いかえされるのである。

1291: 名無しさんAA:18/08/21 15:28
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  337 >

 山本五十六が作った真珠湾攻撃は多くの矛盾と失敗を孕んでいて何回も拒否された物
だった。真珠湾を攻撃するには、戦略レベルから戦術、そして技術面にいたるまで多く
の困難があり、連合艦隊内でも、また連合艦隊の上部にあたる軍令部でも多くの反対意
見があった。それでも当時指摘された主な点を解決することなく実行されていった。そ
もそもこのような計画は日本海軍の念頭になく、兵の訓練から装備にいたるまで、準備
ができていなかった。仮にハワイまで隠密行動で近づくことが成功しても、敵艦隊が湾
内にいなければ空振りとなってしまう。居ればいたでの発見される危険性と合わせてい
て、失敗するリスクが高い。又わざわざ遠出してハワイまでの長い道のりを、補給も含
めた大艦隊が移動することにデメリットは多くメリットはなかった。途中で敵に発見さ
れる可能性が高く、奇襲が失敗する可能性もかなり高くそれを中止する段取りも回避策
もなかったのだ。つまり作戦とは名ばかりのそれこそ玉砕戦法の最初であるような開戦
と言えた。これに実施する予定の南方地域の攻撃にも、空母3隻以上が必要と考えられ
ており、ハワイだけにその空母その他を向ける余裕が日本にはない。又地理的に真珠湾
は水深が浅く、航空機から魚雷を投下すると海底に突き刺さってしまい海戦とならない
。当時日本の一般的には航空機からは50m〜100mの高度から魚雷を投下し、魚雷は50m〜
60mほどいったん潜ってから浮き上がる為に命中率は極めて低い。真珠湾は水深が12m程
度とされ、当時の常識では航空機からの魚雷投下は無理である。航空機から爆弾や魚雷
を落とす際の命中率を上げないと、攻撃が中途半端に終わってしまい、反撃されて戦艦
喪失の可能性が高すぎる程高い。と言った物だった。更には真珠湾攻撃での日本空母は
「加賀」と「瑞鶴」などで、空母は艦上戦闘機、爆撃機、攻撃機などを30機〜90機ほど
搭載して攻撃地点まで移動するが、戦艦のような巨砲は積んでおらず、戦闘機に守られ
ていないと防御力が極端に弱いのである。不安要素に裏打ちされた根強い反対意見があ
ったが、何故か山本長官は陸軍の南方作戦が実施されている時に、アメリカ艦隊に東京
を攻撃される為の真珠湾攻撃を提言した。防空の守りが不可能となれば、南方の資源を
確保する意味すら失ってしまうと具申し、決してハワイ攻撃を取り下げませんでした。
ついには海軍は、山本長官はじめ、連合艦隊の全幕僚も職を辞すると軍令部に迫り、つ
いにハワイ奇襲攻撃を軍令部の作戦としてゴリ押しで認めさせた。この強弁は本来なら
戦争しない為のはったりではなかったかとも思える程だったとさえ言われる。

1292: 名無しさんAA:18/08/21 15:28
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  338 >

海軍大臣であった米内光政は広島・長崎に原爆が投下されてすぐの8月12日、つぎの
ように語ったと言う。「私は言葉は不適当と思うが原子爆弾やソ連の参戦は或る意味で
は天佑だ。国内情勢で戦を止めると云うことを出さなくても済む。私がかねてから時局
収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし、原子爆弾やソ連参戦でもない
。 一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。 従って今日その国内情勢を表面に出さ
なく収拾が出来ると云うのは寧ろ幸いである」と言ったと言う。対して阿南惟幾(陸相
)は太平洋戦争末期、梅津美治郎参謀総長とともにあくまで本土決戦を唱え、御前会議
では「これまでの対米敗戦は兵站に失敗したからであり、本土決戦とは違う」と主張し
た。阿南は太平洋戦争末期には、梅津美治郎参謀総長とともにあくまで本土決戦を唱え
、御前会議では「これまでの対米敗戦は兵站に失敗したからであり、本土決戦とは違う
」と主張した。これに対し、米内海相は「そんな責任の転嫁は止めよう」と言って終戦
を主張し譲らなかった。その後に、御前会議で阿南惟幾は、昭和天皇の終戦の意志が固
いことを知り、最終的には終戦に同意し、最終的に天皇の裁可の終戦となった。米内海
相に恥をかかされた形の阿南惟幾は、軍事クーデターをほのめかす部下の軽挙妄動を戒
めながら、8月14日夜、ポツダム宣言の最終的な受諾返電の直前に陸相官邸で切腹に
より自刃した。介錯を拒み翌15日朝絶命。「一死をもって大罪を謝し奉る」との遺書
は有名である。そして阿南惟幾はこの時に「米内を斬れ」と言い残して自害したのだ。
とも伝えられる。対米戦に限れば、もともと海軍が破れれば本土決戦しかなく、陸軍は
まさにその為に育てられてきたのであるから、 阿南陸相ならずとも陸軍首脳たるもの
「本土決戦は避けて降伏しよう」とは口が裂けても言えない立場ではあったのだ。阿南
は陸軍軍人として天皇の裁可を受けるまで、抗戦主張を取り下げる事は出来ない相談だ
ったのである。阿南惟幾の辞世「大君の深き恵みに浴みし身は、言ひ遺こすへき片言も
なし」が、天皇の終戦裁可を待ちに待っていた心境を表している。昭和12年8月15
日に、第一次近衛内閣は、近衛声明を出して、当時中国との接点の蒋介石との交渉を、
断絶することを宣言する事を行った。この時の4相の内、近衛、広田、杉山は東京裁判
による追及と断罪で非業の最期を遂げたとされる。ひとり米内のみ訴追を逃れた。近衛
、広田、杉山も「米内を斬れ」の思いだったろう。当時の海軍から見て、陸軍はアメリ
カ軍より憎い相手だった。終戦の日当日の阿南惟幾の自殺は、日本の内閣制度発足後、
現職閣僚の初めての自殺だったという。

1293: 名無しさんAA:18/08/21 15:29
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  339 >
『アメリカはいかにして日本を追い詰めたか』という大変面白い本の訳者渡辺惣樹さん
嘆いている言葉は興味深いものだ。「当時、戦争に反対する8割のアメリカ国民の声こ
そが日米衝突を回避する最大の武器であった。現代の政治状況からみても容易に想像で
きることだが、8割という数字は生活感覚からいえば、まず国民全員が反対していた。
ともいえるのである。私たち日本人は、その声を武器として活かせなかったこそを反省
すべきである。」と説いている。当時のアメリカ国民は、既に第一次世界大戦の結果に
幻滅し、いわゆる孤立主義的な感情が全体に行き渡り、欧州で第二次世界大戦が始まっ
ていても渡辺さんが指摘するように、モンロー主義を表向きは貫き、8割の米国国民の
人達はあえて戦争に介入することに反対していたのです。それなのになぜ、親米派の山
本五十六は、あえて強大なアメリカを敵とする真珠湾攻撃を発動したのか。と問うので
ある。山本五十六はアメリカを侮っていたわけではありません。真珠湾攻撃から3ヶ月
前の9月18日に 山本の母校である長岡中学校の同窓会が開かれて、その席で彼は「米国
人が贅沢だとか弱いとか思うてる人が沢山日本にあるようだが、これは大間違いだ。米
国人は正義感が強く偉大なる闘争心と冒険心が旺盛である。」と語り、「日本人は絶対
に米国と戦うべきではない」と結んでいる。---鳥居民『山本五十六の乾坤一擲』)----
このような正確なアメリカ認識を持っていてなぜ真珠湾攻撃なのでしょうか。さっぱり
わからなくなりそうだがそこに理由がある。実は山本のようなアメリカ認識が逆に彼の
心のトラウマとさせられていた。という。前掲書に阿川弘之氏の『山本五十六』に引用
されている部分があります。「例えば赤城の飛行隊長の淵田美津雄少佐、のちのハワイ
攻撃隊の総指揮官は、山本五十六が長官に就任して『山本五十六というのは妙にイギリ
ス、アメリカが好きで弱いらしいで、腰抜けと違うか。』と公言するような雰囲気があ
った。」山本は陰で、あいつはチキンではないのかと思われていたのです。というので
ある。つまり山本は陰で皆から臆病者といわれることを軍人として恐れていた。という
のである。鳥居民さんは次のように分析される。「もしも戦いになってしまったら、そ
のぎりぎり最後まで戦争を避けようとした臆病者、大きな恥辱を受け入れさせようとし
た卑怯者が、航空部隊、潜水艦部隊の指揮官達に向かって、あろうことか勝利の意思を
持てと説かねばならなくなるのです。だからこそ、あらかたの海軍幹部の反対を退け、
僅か一時間で西太平洋を制圧してみせるという一か八の大冒険をかれは行うことにした
。」と説明する。つまり山本五十六は決してチキンではないことを証明する為に真珠湾
攻撃を立案した。そこにはアメリカ人の8割が戦争に反対していることは入り込む余地
がない場所だった。

1294: 名無しさんAA:18/08/21 15:30
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  340 >

 しかし、このことは、決して山本五十六個人の問題ではなかった。日露戦争後の帝国
国防方針では、陸軍は仮想敵をソ連邦と定め、海軍はアメリカと定められていました。
このような軍部の2頭体制は、平時の場合は予算の分捕り合戦ぐらいで済む事だが、い
ざアメリカとの戦争が近づいてくると、ここに大変危険なものとなる。つまりそれは、
海軍が正直に「アメリカと戦ったら負ける。」公示し日頃から暗示をかけているのに、
それが告げる事ができなくなる。と言うジレンマにおちいるからだ。近衛文麿が総理の
時に、東条英機に対して中国からの撤兵を求めるのだが、彼は全く受け入れなかった。
この時も、陸軍は既に中国進出と蒋介石との決裂は日本としての既定方針であったので
、陸軍に撤退が敢えて言えなかった。これが日米交渉の中心問題が中国からの撤兵でし
たので彼の内閣はそこで行き詰まったのである。ここに木戸幸一が目したように陸軍の
意志として泥をかぶっても撤退を決めてくれる人間だったなら日本は違ったであろう。
そしてこうした宣戦布告をする開戦に導くのであれば、東久邇宮稔彦王の方を選んでで
もあと1〜2年間ドイツが負ける頃まで開戦せずにいたかもしれないのである。もし仮
に東条に中国からの撤兵を承諾させる可能性があったとすれば、海軍が「日米交渉が失
敗すればアメリカとの戦争になり、帝国海軍に勝ち目は無い。」と告げることでした。
これが海軍は戦争やむなしの御前会議があっても戦争は無いとしていた理由であろう。
御前会議で7月2日 情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱 を出し、9月6日帝国国策遂行要
領を決めても尚8月のアメリカ対日石油輸出全面禁止を受け、アメリカ・イギリスに対
する最低限の要求内容を定め、交渉期限を10月上旬に区切り、この時までに要求が受
け入れられない場合、アメリカ・オランダ・イギリスに対する開戦方針が定められたが
しかし、9月6日の御前会議において、昭和天皇は開戦に反対しこの決定を拒否、あく
まで外交により解決を図るよう命じている。その際、以下の明治天皇の御歌が引用され
て「 四方の海 みなはらからと思う世に など波風の立ち騒ぐらむ 」と風の吹くなか
でも陸地を探せと命じたのである。しかし、その後第3次近衛内閣は解体され同年11
月5日東條内閣になって同じ様に御前会議を行い帝国国策遂行要領を策定した。その後
条件として白紙還元の御諚が発せされたが、帝国国策遂行要領を覆すことは不忠にあた
るとの信念から引き続き外交交渉を行い、戦争の決意が盛り込まれた帝国国策遂行要領
が御前会議で決定された。のである。ここで海軍は流石に「アメリカと戦ったら負ける
」と言えず真珠湾攻撃を確約した形になった。

1295: 名無しさんAA:18/08/21 15:30
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  341 >

 もともと、そんなことを告白すれば、陸軍側では中国との負け戦を自分の責任を放棄
して「海軍がアメリカと戦えないから。中国から撤兵する。」と宣伝しまくるだろう。
いずれは海軍はアメリカを仮想敵のままで戦わないと言う事に、目をつけて予算の縮小
を求めることとなる。そうなることは海軍としては是が非でも避けなければならない。
つまり「アメリカとの戦いは怖くはない」と去勢を貼り続けなくてはならなかった。こ
れが、日本の内実だったと言える。『アメリカはいかにして日本を追い詰めたか』の著
者、渡辺さんは日本の陸軍は、南方戦線で「イギリスやオランダだけ」を攻撃してアメ
リカとの全面対決を避ける作戦も追及されている。にも関わらず、海軍の作戦には、一
切そのようなものがない。と指摘されている。これは帝国海軍が対米戦で弱気なところ
を見せたくないかの証左だ。と言っている。更に、海軍にとっての戦争はあくまで海の
上であり陸軍と共同しての国の戦争と言う認識が欠けていた。ともいう。陸軍青年将校
はドイツ視察を重んじていたし、海軍の青年将校はアメリカ視察を主にやっていた。こ
の違いはそのまま対ロ政策なり作戦の違いが出て居た。又日露戦争やシベリア出兵以来
からのしこりもあった。日露戦争では宣戦布告が無かったとしてロシアは賠償金支払い
を拒否したからだ。山本五十六も帝国海軍も自分達が決して臆病者、チキンでは無いこ
とを証明したかったのだが、と言って正面からでは負ける。かと言って陸軍の言う様な
米国を本気にさせずに宣戦布告して戦うなど言うのは土台無理な話だった。真珠湾攻撃
はその為の作戦だった。勝手な私見で良ければこの時山本五十六は降りた。その後海軍
は南雲中将を中心に動いていた。海軍兵学校では学術優等賞を授与される程の優等生で
、頭は極端に良い訳ではなかったが、堅気で、知力や体力も充分あり人柄が魅力的であ
った南雲に任せたのではないだろうか。南雲は海軍の正統である艦隊派に属して下から
の人望が厚かった。国際社会を重視した条約派に対して、軍縮条約反対派の論客として
知られ、山本五十六や井上成美と対立していた。つまり日本の中の御山の大将であり、
ある意味江戸時代からの日本人像の集約的人物ではなかったか。と思うのである。その
政治的な活動は外部にも知られ、1930年に開催されたロンドン軍縮会議の後南雲は山下
知彦らと同郷の先輩である左近司政三を含む条約派に対して、その保身に辞職を迫り、
後の大角人事に関係していた。彼自体直観的人物であり、日本が迷路に入った1931年(
昭和6年)の10月10日、軍令部第一斑第二課長に就任した。


1296: 名無しさんAA:18/08/21 16:13
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  342 >   

 伏見宮博恭王軍令部総長の赤坂園遊会では酒に酔い、外国武官や家族達の三百名の前
で池に放尿し、目撃した中瀬泝は仰天したという。天皇が現人神の時代に皇居での放尿
は誰も行わない。池に小便ではあるが、何とも思っていない所は放埓な豪快さだ。南雲
自体は全く戦争とか規制とかよりは 人の生活や国の有り様に目を向けていたのだろう
。たぶんに二心のない清廉潔白な人物だったに違いない。そこを山本五十六は嫌ってい
た。1932年(昭和7年)、五・一五事件を受け南雲が作成した『五・一五事件の解決策
』と題する文書に、被告の死刑または無期を避けることや、ロンドン条約に統帥権干犯
の疑義を生じさせた重要責任者に適当な処置をとることなどを求めた。ただしこの意見
書がどのようにされたかは不明だ。つまり、海軍の問題児であった可能性は高く。1933
年(昭和8年)の南雲は、日本のロンドン海軍軍縮条約からの脱退を求めて盛んに活動
した。連合艦隊の各艦長、航空隊司令らの署名までを集めて、加藤寛治の使嗾(しそう
:そそのかす事)までした。最終的にこの署名は海軍大臣・大角岑生に提出された。こ
の署名の写しは伏見宮博恭王に提出され、伏見宮は懸念を示した。これが先の放尿事件
であったのだろう。加藤及び当時の連合艦隊司令長官・末次信正に注意を与えている事
で終わったが海軍の異端児であろう南雲が、条約派の堀悌吉を予備役に追いやり、堀と
親睦が深かった山本五十六には宿敵になった。第二次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉に
参加中で、それを阻止出来ず、南雲を一生涯許さなかったという。南雲自体は、山本五
十六を卑怯者と見下していた。つまり山本五十六にとっては、天敵のような反りの合わ
ない存在だった。海軍報道部部員の海軍次官時代の山本に3年間接した松島慶三には、
当時の南雲にそのような実力があったか疑問であり、又山本もそこまで器量の狭い人物
ではなかった。と語っている。が苦労人の山本が表向き動かないで紳士的行動だったの
だのは当然だろう。軍令部の権限拡大を図った「軍令部令及び省部互渉規定改正」では
、海軍省軍務局第一課長井上成美と激しく対立し、酒気を帯びて井上に対し「貴様なん
か殺すのは何でも無いんだぞ。短刀で脇腹をざくっとやればそれっきりだ。」などと、
脅迫する発言していた。理由は「米沢海軍」の総帥・山下源太郎の遺志を継ぎ天皇直属
の軍令部の統帥権を確立し、強い海軍をつくろう。とする彼の南雲大佐の意思に対して
、井上成美は旧来の一艦隊一政府主義で、統帥権を軍令本部に委任する法案に捺印する
のを渋った。年下の井上が起草して上級者に廻さなければ改正案は陽の目を見ない。判
を押せということは、起草せよと迫るに等しかった。

1297: 名無しさんAA:18/08/21 16:13
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  343 >   

 堅物の押しの一手の、真面目な不良南雲忠一大佐は海軍兵学校36期、井上大佐の1
期先輩である。艦隊経験が長く実戦派であり、海軍の軍隊としての統率を求めていた。
それ程頭が器用でなかった。この話はそれは無理な話で、当時艦隊ごとに作戦があり、
その作戦に利用されて、囮艦などとなれば全員が犬死する。海軍の中で、時の判断では
自由行動して敵を叩く事は生き残る権限であり、作戦司令はその都度発令されていたの
だから この起草には他の思惑が隠れているとしか言いようが無かったのである。この
上奏は、現場を知らぬ本部から司令が飛んで来る事を意味しその事の懸念に心配があっ
たのだ。しかし井上は反論しなかった。南雲に言っても無駄だったからだ。南雲は一級
下で生意気に軍令部との折衝役を買って出ていて、海軍部内で叛乱ともいえる不埒な事
がまかり通ってしまうことは断じて許さない性格でもあった。南雲の艦隊は終始綺麗な
統率された練習艦隊で図版演習で負けてもあまり勝敗は気にしない気質で運命と思って
いた節がある。作戦通り動き作戦通りの成果があればそれ以上も以下も求めなかった。
昭和17年8月25日の第二次ソロモン海戦では、南雲支援部隊は米軍空母エンタープ
ライズを大破させたが、空母龍驤と駆逐艦睦月を失い、飛行機も損害を出した。この時
、ガダルカナルを中心とするアメリカ、オーストラリア軍の、容易ならぬ反攻態勢を窺
知することができた為に、10月26日の南太平洋海戦で、旗艦翔鶴が被弾損傷したが
、米軍の大型空母ホーネットと駆逐艦ポーターを撃沈、空母エンタープライズも大破、
その他戦艦1隻、巡洋艦1隻、駆逐艦1隻に損傷を与えて勝ち戦となった。南雲として
は悲願であったミッドウェイ海戦の敵討ちを果たす事ができたはずだったが。しかし、
それまでの勢いは消え、同僚を失った悲しみは深く大きく癒える事はなかったようだ。
その後南雲中将は、昭和17年11月11日に佐世保鎮守府司令長官、昭和18年6月
21日呉鎮守府司令長官10月20日第1艦隊司令長官を歴任したのだがあまりいい顔
ではなかった。昭和19年3月4日、南雲中将は中部太平洋方面艦隊司令長官兼第14
航空艦隊司令長官に転補された。この頃には生彩を欠いた南雲中将がいた。中部太平洋
方面艦隊は第四艦隊と第十四航空艦隊で編成されていたが、陸軍の小畑英良中将の率い
る、第三十一軍(四十三師団・二十九師団)が南雲司令長官の指揮下に編入された。



1298: 名無しさんAA:18/08/21 16:14
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  344 >   
 この時、総理大臣の東條英機は東京に出て来た南雲司令長官を官邸に呼んだ。既に、
南雲は山本の言った「一年間の戦争で後は外交部が何とかするだろう。」と言う言葉が
全くの虚偽雑言であった事に落胆して負ける事を知っていたようだ。「何とかサイパン
を死守してほしい。サイパンが陥ちると、私は総理を辞めなければいけなくなるのだ。
」と東条は言ったという。その時彼は言葉に詰まった。「この後に及んで保身の総理の
座か。」腸は煮えくりかえったであろう。と共に落胆した総理大臣がいた事が悲しかっ
たという。南雲は東條とは親しくなかった。同じ東北出身ではあるが、とくに付き合い
はなかった。東條は南雲より三歳年長であるが、進級の早い陸軍では、二年以上前に大
将に進級していた。後に南雲は帰り道の際に「いくら、東條さんに頼まれてもな。無理
なものは無理じゃよ。何しろ武器も兵員もない所へ行くんではな」と洩らしている。3
月9日、南雲司令長官は幕僚を伴い、サイパン島に進出視察した。サイパン島では日本
の不沈運命を背負う重大な戦局の基点となる前線基地があった。南雲は島を視察した後
で、参謀長の矢野英雄少将に「こんな装備で戦争ができると思うとるのかね。」と嘆か
わしげに言って顔を見た。矢野参謀長も又サイパンのあまりの無防備に驚いていたとこ
ろだった。サイパンの日本軍の兵力は海軍15000名、陸軍29000名合計440
00名もあった。しかし、もともと装備も無い中でよく頑張っている兵士であり、これ
に涙がでた。昭和19年6月15日、米軍は米海軍全艦隊支援のもとに大軍でサイパン
島に上陸し、総兵力16万人の圧倒的な兵力はたちまちの内に、同島の飛行場を占領す
る。海軍は小沢中将の率いる第一機動艦隊の全力を以って6月19日、20日に渡り、
サイパン島西方海域で戦った。が、大した戦果もなく、主力空母3隻を失って敗退した
。大本営はついに6月24日、サイパン島奪回を断念した。当然でもあった。サイパン
島では、南雲中将率いる陸軍部隊、海軍部隊は孤立無援となり、孤軍奮闘して、玉砕に
至った。南雲司令の最後について「悲劇の南雲中将」(徳間書店)では、次のように述
べている。7月6日早朝、第四十三師団長斉藤義次中将は、南雲長官に「長官、この時
をのがさず自決しますか」と訊いた。南雲長官は「そうですね、すぐ私も後を追っかけ
ます」と言ったと言う。7月6日夜地獄谷の陸軍洞穴で、斉藤中将と井桁少将が自決し
た。南雲中将は海軍の残存将兵を集めると「では、今から突撃する。全員俺に続け!」
と海軍中将の襟章をもぎ取った軍装のまま拳銃を構えるとジャングルを抜けて万歳突撃
が始った。突撃部隊は武器らしい武器ももたず、マタンシャからタナバダの方向に向か
った。撃っても撃っても押し寄せてくるので、米軍も一時はタナバグの南まで後退した
。しかし力尽き万歳突撃が終わったのは7月9日であるとされる。

1299: 名無しさんAA:18/08/21 16:14
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  345 >   

 南雲忠一は1944年のサイパン島攻防戦で自決した。南雲は愚将には違いない、しかし
愚将論は間違っている。@真珠湾攻撃で第2次攻撃を仕掛けなかった。 Aミッドウエ
ー海戦での敵空母部隊発見後の指示のまずさ B南太平洋海戦での消極性が挙げられる
。などを指摘する。しかし当初から、真珠湾攻撃は奇襲攻撃が前提であり、その後には
政府は米軍が体制を立て直す前に、終戦の受諾を果たす約束をしていた。一年後には外
務省や大本営即ち軍部事務局は終戦を行う約束であったのだ。つまり無理に攻撃しての
戦果を大きくする必要性がなかったのである。また、同じ様に第2波攻撃で既に加賀艦
爆隊などに大損害がでており続けていて、攻撃しての航空隊に損害が生じた上に以後の
作戦に支障が出る事は避け無ければならなかった。更に、空母搭載の航空弾薬自体が、
それほど残っていない状態だったのだ。6隻の空母での真珠湾の施設を無効化などでき
ない事も一因だった。燃料施設を破壊しなかった理由は簡単である。当初から破壊しな
い方針だったからだ。山本は燃料はアメリカ西海岸の要港やオーストラリアにも備蓄さ
れており米艦隊が1年間も行動不能になるなんてことは起こらない事を熟知していたの
である。又、燃料施設は当時に石油地下備蓄技術が導入され、施設はダミーだとも判断
していた。使ってはいても、見えてない貯蔵もあったのだ。つまり攻撃しなかったのは
南雲の判断ミスではなく、立案した連合艦隊司令部のミスで攻撃不許可だったのである
。約束を破らない南雲は、潔癖主義では無かったが芯からの軍人だったのだ。逆にこう
した時「作戦目的を達成したのにそれ以上の戦果を求める」事は逆に自軍を不利にする
原因にもなり軍人や司令官として戒める行為だった。不在だった米空母の所在が掴めて
いなかった以上リスクを冒して攻撃を続行するのは愚将のする行為で、山口2航戦司令
が攻撃続行を催促したのは単なる不安からだった。山本五十六が第二波の真珠湾攻撃作
戦を握りつぶした時は、既に米国の立て直しが出来る日数が立ってからだった。人命を
大事にして艦隊の棄損を重視する南雲がその戦いに反論するのは充分な事だった。それ
ほどにまともな戦略者だったのである。真珠湾攻撃に山本が出なかった理由もこの人望
の高い上に完璧な人物だったからこそ、失敗せよ成功せよ山本には任せるしかなかった
のが海軍の実情であった。自分が出て失敗し叛乱が起こる或いは成功して羨望を受ける
。この事が嫌だったし海軍の危機になる事が充分解っていたのだ。慎重で信頼ある南雲
なら、失敗しても自分の立場は揺らがない。成功したら海軍の地位は陸軍より遥かに優
位になる。ただそうした事だけで軍は動いていたのである。


1300: 名無しさんAA:18/08/21 16:15
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  346 >   

 南雲中将の最期はサイパンでの貧相な武装にあった。万歳攻撃の頃最期を遂げたもの
で、時刻は7月7日未明とされる。既にこのサイパン島に赴任し、視察を終えた時死を
覚悟していたと言える。軍規はあるものの、既に兵器の無い軍隊に兵士は居ないも同然
だった。いや兵器どころか食べるのがやっとの中にしみじみと「海ゆかば水行く屍(か
ばね)、波面(みなも)の藻屑の波枕」と思っていたに違いなかった。南雲中将の愚将
さは単に戦争認識の違いであった。つまり日本はぎりぎりの挑戦をしていて「皇国の興
亡の一戦」と言う認識が甘かったに他ならない。それは山本も同じだった。いや天皇さ
え同じだった。仕方なしに開国し仕方なしに大和民族の生存をかけて連合国と戦ってい
たが、勝つ事より、終始国が生き残る事に追われていた。だが大本営も教育もそうした
必死さがなく、新人兵士や仕官は逆上せ(のぼせ)野捌って(のさばって)いたのだ。
南雲中将はミッドウエーで敵空母発見の報を受けた時点で4空母の兵装転換は実はそれ
ほど進んでおらずに、赤城、加賀で9機ずつ終了した段階で、、蒼龍、飛龍では兵装転
換すらなされておらず 格納機は未装備状態で飛行甲板には艦載機はならんですらいな
い。ここで山口氏の具申を採用していたとしてもすぐさま出撃させれる訳ではないので
1時間近く待たねばならない。この間ミッドウエー攻撃隊は燃料切れで不時着水し全機
損失するし直掩に全戦闘機を出していたので護衛が付けられずにいた。この致命傷は、
史実以上に空母攻撃隊は大損害を受け、既に敵攻撃隊は出撃してるので味方空母も失い
戦果も大して変わらなかった。と言える。逆に南雲中将の慎重策だからこそ空母4隻は
失いましたが熟練搭乗員は殆ど生還し総数500名弱程のうち戦死者は110名ほどの
みで済んだ。こうして、続く戦いでも日本軍は戦えたのだ愚将策を採用してたら結果は
変わることなく、より多く日本軍は損害を被りガダルカナルの戦いはあっという間に、
アメリカが勝利していたでしょう彼の行動が「愚策」とは、専門的にみては、とても思
えない。つまり南雲の判断は妥当なもので、真珠湾で反復攻撃をすることは無謀に近い
危険な行為で、ミッドウェーで、すぐに攻撃隊を出すことは現実的に不可能な事だった
のだ。ミッドウェーの南雲艦隊はアメリカ空母が居ないという前提で作戦していますが
、この判断は連合艦隊司令部の出した結論であって、上級司令部によって作戦が決定さ
れ、その内容が暗号解読によってアメリカにバレバレでは、誰がなっても裁量権のない
前線の艦隊司令官では敗戦は同じだったか、より以上だった。実はこの井上晴美に迫っ
た同意こそ彼が愚直な愚将たるもので、大日本太平洋艦隊を滅亡に追い込んだ元だった
のである。行動を審査する大本営には良かったが自由の無い艦隊に生き残る術がなかっ

1301: 名無しさんAA:18/08/21 16:17
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  347 >   

ただただ南雲中将の不幸は日本型のいい加減な指令にあった。1942年5月アメリカ
太平洋艦隊が真珠湾のアメリカ海軍への攻撃では、速度の遅いものは倒したが、最新型
の航空母艦は打ちもらしていた。戦争舞台が両国の中間に位置する島ミッドウエー島に
移った時、アメリカの前哨基地には、沈んだはずのアメリカ空母ヨークタウンがいた。
数週間前に日本海軍の爆撃を受けていたはずだったが、被弾の応急処置をし、穴に木の
杭を打って、ほとんどの攻撃をふせいで寄港していたのである。日本では、修復に対す
る考えが違い、船員は修復しないで後で機械工にまかせて直していた。アメリカの場合
には危機管理があった、下士官でも修理する。日本は命令を待たねば何もできなかった
。簡単に沈まないヨークタウンは直ぐに修理され、第二次大戦の中でも重要でドラマチ
ックな修理完了をしていた。不眠不休、真珠湾、24時間で完了。3つの空母がそろっ
ていた。又数学者ジョセフ、ロシュフォート中佐は暗号解読と言う功績まであったAF
という場所はどこか。ミッドウエーの故障を平文で流した結果、反応したところミッド
ウエーがAFと判明した。この時流したデマの水不足が電波に乗ったのだAFは水飢饉
だと。こうして攻撃目標を知るに至る。ここで南雲中将の不幸が始まったフレッチャー
の作戦が、始まり日本艦隊のミッドウエーへの爆撃機が飛び立つのを待っている中に、
飛び込むのだ。これは全く蜘蛛の巣にかかった餌状態だった。爆撃機が戻り再装備をす
るタイミングを見計らい攻撃した。1、南雲艦隊をミッドウエーに向かわせ爆撃計画し
アメリカ艦隊をおびき寄せ、そこを攻撃する。2、次に零戦の航続距離の長さを、作戦
に活かし日本船艦でアメリカ艦隊を殲滅する。南雲艦隊は直線的にミッドウエーに向か
った。50万平方を7機で偵察した結果アメリカ艦隊を見落とした。アメリカ艦隊は4
倍の偵察機と最新鋭レーダーを送った。ミッドウエーから22機。偵察機は日本艦隊を
とらえ隠れた。ミッドウエー島のレーダが爆撃機をとらえると島からアメリカ雷攻機が
日本艦隊に向かう。アメリカ雷撃機は新人で日本の戦闘機にほぼ落とされた。しかし、
それも作戦だった。ミッドウエーでの攻撃は既にばれていた、迎え撃つことは予定され
たので爆撃機は壊滅した。日本爆撃機側は、再度爆撃を日本艦隊に打診した。やっとそ
のとき日本偵察機が400キロ先にアメリカ艦隊を発見。電文の結果日本艦隊は、ミッ
ドウエー爆撃を中止しアメリカ艦隊に応戦を決定。対艦爆弾に積み替えは1時間かかる
。南雲は積み替えを兵装転換を指示した。当燃料はガソリン。攻撃機を格納庫にもどし
外した対地爆弾を横に積んだ。

1302: 名無しさんAA:18/08/21 16:17
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  348 >   
発艦の瞬間は近づいたが、アメリカ雷撃部隊がせまった。戦闘機の援護は全くなかった
。零戦から雷撃機は打ち落とされた。一発でもあたれば日本艦隊は沈むところだ。あと
45分で爆撃機が出れる。第一次雷撃機が出撃の90分後フレチャーは第二次攻撃機の
17機を発艦させた。今度は戦闘機と共に攻撃にだした。ジョンサッチ少佐はジョンサ
ッチ戦法を編み出していた、2機で飛行し1機がおとりになるが、2機目がそれと入れ
替わって真直ぐ標的をとらえると言う戦法だ。ゼロ戦を研究しサッチウィーブと呼ぶこ
の戦法は研究尽くされ練習までしていた戦法だった。それも又モノハン事件で開発され
た対日本戦法でロシアが数量に任せて編み出したものだった。その為日本の零戦は、雷
撃機を攻撃する余裕がなかった。この第二次雷撃機機のパイロットは、新人ではなかっ
たが飛び立てないまま空母加賀に4発の魚雷が命中。ブリッジが吹き飛んだ。1分後に
航空母艦蒼龍(そうりゅう)に命中した。赤城は回避した。3機のドーントレス急降下
爆撃機に狙われた。リックベストの一発が赤城の真ん中に命中。格納庫に直撃。260
人が一瞬で焼死。5分で3隻が大破。旗艦を捨てた。南雲は、このとき撤退を選ばなか
った。偵察機がヨークタウンを発見。零戦18機中13機が対空砲に被弾。ヨークタウ
ンに3発命中させた。日本側は、ヨークタウンの黒煙を見て沈んだと思い込んだが以前
の経験があったため、ヨークタウンは可燃物を投棄していた。燃料火災の対策法は、水
をかけると飛び散る、水は使えないその為米国は消火用の炭酸ガスで火を消した。あら
かじめ炭酸ガスを仕込んでいたのである。日本側の木造甲板は既に知りつくされ、米国
は自沈を避ける用意までしていたのだ。日本側にも15機の残存機があった。15機が
発艦した。ヨークタウンはすぐに修復を終えた。日本機は、修理を終えた状態のヨーク
タウンを攻撃した。結果船体が傾いた。日本側は、2隻の船を沈めたと勘違いをした。
しかし魚雷を無駄にしただけだった。ヨークタウンは戦闘不能になりフレッチャーは用
心の為下船した。さらにヨークタウンからは偵察機が離発着が出来た。敵の残存兵力を
探そうと発艦したのだ。3時間後に飛竜を発見した。アメリカ船から魚雷が発射された
。最後の空母は大破し、結果日本側4800人が死亡。275機を失った。こうして、
太平洋の制海圏を争った関が原は終わり、日本の制海権は大きく失う目にあった。これ
は大本営本部のいい加減な作戦と進化のない技術の為だった。日本に炭酸ガスの消化法
や最新鋭のレーダーなど装備は不十分で、空母の鋼板すら厚さが違っていた。その上、
太平洋の制海権を大本営は暗号解読されて既に自ら無くしていたのを知らなかった。代
わりにこの戦果によってアメリカは戦時体制を進めて海洋進出の早い船出を果たした。

1303: 名無しさんAA:18/08/24 12:46 ID:uH.
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  349 >   
----当時の海軍から見て、陸軍はアメリカ軍より憎い相手だった。「原爆の投下は天佑
だ」と言った米内光政の言葉の意味を、「これで、アメリカ軍より憎い陸軍をやっつけ
ることができる」 と言う喜びの言葉だったのだ。と旧陸軍の帰還兵士には聞こえた。
アメリカ軍の日本占領は、米内光政にとってまさに友軍が来たようなものだった。----
こんな事を書く輩すらいる。が真実は違っていると思われる。第一南雲氏の作戦も牟田
口中将の作戦も双方にあるのは大本営作戦指令そのものが、全く勝手な言い分に覆われ
ていた書かれた作戦だった事だ。南雲には失敗はなく。ミッドウエー海戦すらも偵察が
出来ない事ぐらい解って居る筈で、これもどちらかと言えば不運だったと言えるような
敗戦である。レーダーの知識すらない大本営の作戦部隊は水を石油に変える詐欺に会う
程、只の馬鹿だったのだ。ただ、牟田口中将の場合は、すぐ傍に優秀な佐藤幸徳師団長
を持っていたし、川辺司令官をまだ説得させる術は残って居たであろう。作戦にしても
ダダ広いこの中ビルマ戦線をもっと分析して援蒋ルートを叩く事が出来た可能性がある
。しかし、対して洋上の南雲の場合は、海の上で大本営が持つ暗号解読や他からの情報
が命でもあった。臆病な山本五十六をどんなに威圧しても、或いは米内光政を批判して
も恐らくこの隠したがる大本営の変わらない方針では海軍の敗戦は誰がやっても変わら
ない。当時、大陸は陸軍、太平洋は海軍と言うような縄張りに次第に決まっていたらし
いが、何も好き好んで海軍は戦争拡大策には取り組んでいない。そもそも、米山や山本
の様な知見を持たずに総理大臣になった東条英機の様に、国際社会相手に日本はうまく
戦えると勘違いしたような石原莞爾や阿南惟幾のような者を沢山産んだ陸軍思想に問題
がある。アメリカ武官として駐在し、ハーバド大学にも留学した山本五十六やソ連駐在
で悲痛なソ連の思いを知っていた米山達は、当然世界の広さや偉大さや強さを知ってい
た。ところが陸軍に於いては、あれほど広い原野のシベリア出兵を果たして悲惨な目に
あいながらも、精神論を捨てずに先端科学技術を持つとして、中国を画策していたドイ
ツとは離れられず、駐留武官の教育先に指定したまま共産党の赤化思想を蔓延させてい
た。これが、まだまだ人種偏見と原野開拓を行っていた米国や、既に貴族社会の優雅な
建物の中で様式生活を整えた欧州の勢力争いの中のドイツ思想とでは、おのずと染み入
る感覚が違っていた。日本の海軍と陸軍の方針や知見や感覚が違っても仕方がないが、
それが又日本のこの大戦の起因であり敗因でもある。中国では朝鮮以下に海外留学生は
帰って来ないで毛沢東や蒋介石が幅を利かせて独裁主義で人を動かしていた。日本は形
は独裁主義での天皇直属の皇軍だが、天皇に意見を求める事は殆どなかった。意見は軍
内で統一しは難しい決定でもはかる為に立ち会う事ののみだったのだ。

1304: 名無しさんAA:18/08/24 12:57
山本五十六がやったことは、何もかも中途半端で、無責任極まりないと批判される。ハ
ワイの真珠湾攻撃において、工場の攻撃は無視し、修理施設にも事実上手をつけなかっ
た。重要な燃料タンクも攻撃はしなかった。ハワイを攻撃すれば、世界の非難を浴びる
ことは必定だし、そもそも主力の空母もいないオンボロ戦艦を沈めたところで、米軍の
兵力に殆ど影響を与えないだろうと言うことは素人にも分かることだった。それでも、
陸軍海軍を含めた大本営指導部はその方針を変えなかった。山本五十六はハワイが米国
の太平洋における重要な戦略拠点であるから攻撃したと言うならば、なぜ徹底的にその
基地を破壊しなかったのかが疑問として残る。と言う話をする馬鹿がいる。しかし海軍
に与えられた陸軍の要請は、日本が南方を侵略している時にアメリカ太平洋艦隊の主力
が横から出てきて邪魔しないように数ヶ月抑えておく、と言うのが対米開戦の主旨であ
り米国を叩く事ではなかった。この開戦にあたっての海軍に与えられた大命題は和解の
出来る開戦だった。それを山本は周囲の反対を押し切って真珠湾攻撃という大作戦で果
すしかないと言ったのだ。本当の開戦ならサンフランシスコやワシントン空爆と全戦力
の米国上陸が一番良いだったはずだ。しかし日本は米国はもとより、中国さえも占領な
ど考えていなく、油供給の通行確保のみだった。海軍のこの作戦で日本軍の南方作戦は
予想以上にスムーズに完了している。つまり真珠湾攻撃での海軍に与えられた目標は、
完全に達成されし成果を挙げた。そもそも米国を叩く事が目標であれば米国本土に陸軍
も大部隊を送りやって米国本土決戦を望むのが一番正しいやり方だった事は当然だった
。世界最終戦争を叫びながらも、南方の領土拡張に終始固執した陸軍の矛盾にその敗因
があった。既に明治開国以来からカナダやワシントンなどにロシア艦船は領土取りに出
てアラスカを獲って売って居る。つまり日本も本来のアメリカ決戦太平洋戦争と思って
いれば、当然アメリカの占領に行って売りつけても良かったのである。逆に山本五十六
や米内などに、アメリカを刺激せずにアメリカと戦え。などと言う陸軍の思い付きの方
が中途半端な事だったと知っていたのだ。ここに軍部破綻の原因がある。陸軍は途中で
国民総動員法をかけたが、他国に囲われたドイツの真似事で、日本はあくまで職業軍人
でミッドウェー海戦し、当然勝つべきはずの海戦をするべきだったのだ。当時の日本海
軍機動部隊はハード、ソフトとも名実ともに世界最強の部隊で「物量」でもアメリカを
圧倒していたのだから。南雲と参謀たちが艦隊司令部から大本営命令がされずに、勝手
ににやっておれば勝っていたのだ。しかし、日露戦争以来連戦連勝で頭に血がのぼって
いた軍部と艦隊司令部は陸軍との競争意識で、現場認識も甘く、多くの電文は解読で知
れ渡って、筒抜けの作戦で、飛んで火に行くなんとかと同じになり、意味の無い海戦を
強いられた。恐らく暗号解析や作戦司令が無ければ、勝っていた海戦だったろう。

1305: 名無しさんAA:18/08/24 13:01
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  351 >   

 アメリカ海軍も勝ったのは「偶然だった」「幸運だった」と言っている。つまり暗号
解読が幸運をもたらしたのである。こうした事は、決して、商船を護衛しなかったので
なく陸軍の勝手で護衛できなかったのである。--海軍は陸軍の補給路を保つこともやら
ず、護衛も一切しなかったため、大半の陸軍の船はアメリカ軍の攻撃を受けて海の藻屑
と化した。阿南惟幾ならずとも陸軍は「海軍に騙された」との思いが極めて強かった。
--と言う意見を持つ陸軍の兵士に大きな問題がある。陸軍内にも4つぐらいに意見が分
かれてその派閥が二つに分かれていた。「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」
の永田が作った統制派はその一つだった。国家総動員計画を作り上げ国民全体を戦争の
渦に巻き込んだ。この戦争形態は大本営が作った長州の亡霊集団である。対して陸軍を
はぐくんだ天皇護衛の旧来の日露戦争の遺族の臣下として、乃木将軍などの遺構をしょ
い込んだ東北などの反長州勢の志士達が、皇道派であった。更に開明派とでもいうべき
現場重視の九州勢もいた。いわゆる満州とつながった上海駐留や台湾駐留の事務局干さ
れ族だ。海外での存在感が高く、国内でも意向を無視には出来ない大きなものだった。
関東軍はそれに対抗した。宇垣軍縮が始まって多くは左遷された教育総監真崎甚三郎の
真面目さ真摯に受け継いだ者達やシンパが集まり集団化してそれぞれに四つの考えたが
あった。一つは、対ソ連戦略をちゃんとして北方の守りを固めたが良いと言う者。一つ
は中国経営を満州経営をしっかりやるべき。一つは、ドイツから譲り受けた南洋の委託
統治領を中心にやれ。と言う者と3者がいた。しかし、大本営や軍上層部のとりわけ、
外務省と海外協調もつ事務局は全く違っていて、油田地帯のインドネシアやマレーシア
の、チェレンバン油田とミリ油田の原油ストップをどうにか再開若しくは日本国利権で
その油を日本本土へ供給する事で頭が一杯だった。中間派の石原莞爾が下手に満州を取
った為に中国民に抗日意識を高めてしまい、米国までも反日にさせ、ロシア赤軍とりわ
け共産党ゲリラ応援するパルチザンを生み出して、何もかも行き詰ってしまっていた。
とりわけ米国との外交問題も、何故か満州国建国によって壁が塞がり、国内争乱のもと
蒋介石は政権が保てずアメリカ支援までも取り付ける様相になっていったのだ。この時
点でビルマなど援蒋ルートを叩く事で、一層の悪化した戦争にした陸軍だったのだ。勿
論、太平洋海域でも多くの者が死んだ。しかし、太平洋が自分だけでは手に負えなくな
り陸軍を騙して太平洋に連れ込んだと言うのは全く言いがかりで、そのままでは陸軍が
、日本をつぶす形になっていたのを、海軍が止めた。と言うのが正しい見方であろう。
今の安倍政権の忖度内閣をみれば、これが如何に戦前の軍部と同じであるかを感じとれる

1306: 名無しさんAA:18/08/24 13:14
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  352 >   

 現実にアメリカを程よく太平洋戦争に引き入れ無ければ、敗戦後の日本の分割統治は
ほぼ出来ていてソ連フランス英国米国カナダ中国に日本は分割統治領に変わっていた。
「言わば、アメリカのスパイだとも言える、山本五十六とその後ろ盾の米内光政で代表
される海軍と言う最悪の組織を持ったことが当時の日本の最大の不幸であった。」とい
うのは、陸軍の幻想も甚だしく、未だ「日本陸軍や大日本帝国が勝つはずの世界大戦だ
った。」と言う誇大妄想論である。もし陸軍が当初のごとく中国経営をうまく収めてい
たら、共産党への蒋介石つながりを絶っていた。問題なく米国と蒋介石のつながりもな
かったであろう。日本が終戦出来ずにずるずると、一億総玉砕などといっては兵器も何
も無しに国民に無駄死にを増やしていたのは陸軍の巨大権力である。それを知れば米内
光政の言った様に原爆は天祐であった発言は正に的を得た発言であり、これに怒る軍人
こそが戦争の本質をわすれた世迷い事なのだ。この原爆も悲しいかな日本の一つの神風
であったのだろう。と思わざるを得ない。”阿南惟幾大将が、終戦の日の当日に「米内
と海軍はアメリカの犬」であることを今更ながら知り、陸軍が海軍に騙されたとの思い
がこみ上げてきて「米内を斬れ」と言い残して自害したのだ。”などと勝手な事を言う
のは許されない。もし本当なら、正にこの自害して果てた阿南こそ「獅子身中の虫」で
あり、「非国民にして皇民の恥」であったのである。この自害事件を潔いなど言う言い
方もできようが、後にも先にもそれだけであり、全く、そうした軍人を育てた戦人訓の
教育と総動員令にこそ大きな弊害で、戦争の為の物だった。元々阿南惟幾は全くもって
軍人に相応しくない人間だった。人格的には異常なほど清廉潔白でありながらも、全く
戦略や知略に乏しい人間で、彼らは統制派にいいように利用される皇道派の代表であっ
たのだ。

1307: 名無しさんAA:18/08/24 13:14
人格的には異常なほど清廉潔白でありながらも、全く
戦略や知略に乏しい人間で、彼らは統制派にいいように利用される皇道派の代表であっ
たのだ。彼は大分県竹田市玉来出身であって、父の阿南尚は、内務官吏として転勤を繰
り返したため、幼少時は東京、大分の竹田、徳島などを転々としながら育った。本籍は
竹田市に置かれままで移り住んだ。早くから陸軍将校を志望していたが、徳島中学校時
代に当時第11師団長であった乃木希典陸軍中将の助言があって、陸軍幼年学校を受験
して合格した。その後阿南は乃木を終生の模範として仰いでその行動は規律に溢れてい
たらしい。1929年(昭和4年)8月1日から1933年(昭和8年)8月1日までは侍従武官を務
めており、当時の侍従長は鈴木貫太郎であった。阿南は鈴木の懐の深い人格に尊敬の念
を抱き、その鈴木への気持ちは終生変わるところがなかったという。事実鈴木は終戦の
日本を作った人だ。阿南は先の南雲や河辺と同様に、多分清廉潔白で不器用な明治の軍
人だったのだろう。陸軍を背負い動けなかったし米内が海軍を背負っていた事で双方に
心の内では尊敬していたと思う。鈴木はそこを知っていて何回も御前会議で降伏会議を
した事がこの感謝の気持ちであろう。鈴木はそれだけ懐のある偉人だったしそれで日本
は救われた。


1308: 名無しさんAA:18/08/24 13:36
人格的には異常なほど清廉潔白でありながらも、全く
戦略や知略に乏しい人間で、彼らは統制派にいいように利用される皇道派の代表であっ
たのだ。彼は大分県竹田市玉来出身であって、父の阿南尚は、内務官吏として転勤を繰
り返したため、幼少時は東京、大分の竹田、徳島などを転々としながら育った。本籍は
竹田市に置かれままで移り住んだ。早くから陸軍将校を志望していたが、徳島中学校時
代に当時第11師団長であった乃木希典陸軍中将の助言があって、陸軍幼年学校を受験
して合格した。その後阿南は乃木を終生の模範として仰いでその行動は規律に溢れてい
たらしい。1929年(昭和4年)8月1日から1933年(昭和8年)8月1日までは侍従武官を務
めており、当時の侍従長は鈴木貫太郎であった。阿南は鈴木の懐の深い人格に尊敬の念
を抱き、その鈴木への気持ちは終生変わるところがなかったという。事実鈴木は終戦の
日本を作った人だ。阿南は先の南雲や河辺と同様に、多分清廉潔白で不器用な明治の軍
人だったのだろう。陸軍を背負い動けなかったし米内が海軍を背負っていた事で双方に
心の内では尊敬していたと思う。鈴木はそこを知っていて何回も御前会議で降伏会議を
した事がこの感謝の気持ちであろう。鈴木はそれだけ懐のある偉人だったしそれで日本
は救われた。


1309: 名無しさんAA:18/08/24 13:37
阿南が大佐時代は侍従武官として昭和天皇に仕えていた。昭和天皇の人柄や気持ちを誰
よりもよく知り、昭和天皇に対する忠誠心は陸軍随一と言っても良いほどの明治の軍人
だった。終戦時「大君(天皇)の 深き恵に浴みし身は 言ひ遺すへき片言もなし」と言
う辞世の句を残している。阿南は陸軍大臣の職にあり。昭和天皇が早期終戦を望む中、
陸軍の徹底抗戦・本土決戦の声の代表だった。陸軍大臣である阿南は立場上、天皇の意
に反した徹底抗戦を叫ばざるを得なかった。しかしその理由は阿南自身の長沙作戦にあ
った。侍従武官を辞した後は近衛歩兵第2連隊長を経て東京陸軍幼年学校長となった。
1936年二・二六事件が発生して、鈴木侍従長も襲撃され重傷を負った時、阿南は広報で
、幼年学校生徒への訓話をして「農民の救済を唱え、政治の改革を叫ばんとする者は、
まず軍服を脱ぎ、しかる後に行え。」と叛乱将校を厳しく批判し、軍人は政治にかかわ
るべきでないと説いて同化したがる青年を止めている。この活動が天皇の目する所とな
った。日中戦争中に重慶政府を叩く為に、湖南省の長沙周辺で香港奪取の作戦が行われ
たが、1941年の9-10月にかけて行われた第一次長沙作戦について、第11軍司令官とし
て阿南惟幾中将は大きな成果を収めていた。ところが支那派遣軍総司令部内で「長沙作
戦がかえって敵の逆宣伝の材料になっている。」との声が耳に入り、阿南軍司令官は鬱
憤を募らせていた。この頃太平洋戦争の開戦によって中国戦線が戦争の主戦場で無くな
った風潮が広がり、これを恐れた阿南軍司令官は、態勢を整えるよう訓示を行った。し
かし、第一次長沙作戦後、重慶国民政府は長沙の不落を宣伝し、湖南省・長沙の重要性
を再認識していた蒋介石は、第6、第9戦区の軍長・師長を南岳へ招集して督励した。
第9戦司令長官・薛岳上将は、戦区内の官僚・軍人代表を長沙に集め、軍民一体による
戦備の強化を訴え、その防衛方針として「天炉戦法」と名付けた後退決戦の戦略を示し
た。それは道路の徹底破壊、中間地帯の焦土化(空室清野)、伏撃地区の縦深配置など
で敵との戦力の逆転を図り、決戦地区(長沙付近)に誘い出し日本軍を四周から「天然
の炉で鉄を溶かす」ように包囲殲滅するという戦略だったが、これが受け入れられた。
この時日本は、中国国民がこの重慶政府を既に中共合作によって北京を追われた亡命政
府とは思っていなかった。中国人も又ほぼ理解していなかった。ある者はこの戦いは、
ゲリラ共産党との戦いで、日本軍の戦いすら認識がなかった者も数多くいた。本来なら
阿南惟幾の役割は、汪兆銘政権(おうちょうめい)の南京政府と国家建設と平安な生活
の政治活動により中国人民を掌握する活動に移行すべき時だった。しかし阿南惟幾は、
そうした事は苦手で不見識であった上その認識すらなく、蒋介石の武力闘争にのって、
武力平定のみの日本式の征伐しかなく 謝ったら戦争は終わりとする考え方しかなかっ
たのである。

1310: 名無しさんAA:18/08/24 13:38
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  354 >   

 既に大本営作戦本部は、1940年から1945年にかけて存在した南京政府に、行政院長の
役(首相)は汪兆銘として首都を南京としていたことから、当時の日本では南京国民政
府(なんきんこくみんせいふ)とも呼ばれ初めていた。彼は既に病身であったが日本通
のはずだった。しかしこの阿南には、聞く耳は持たなかった。いや理解する頭脳が無か
った。第一次長沙作戦の成功をみて、第一次長沙作戦の態勢を整えるよう訓示していて
この方針に基づいて中国の日本軍は動いていた。一方国民党軍は既に人民を助けるなど
と言う考慮は微塵もなかった。共産党ゲリラと同じ戦法で、立去った後には、青野作戦
による放火略奪惨殺で原野に戻し、人も食料も森林も橋も失くして立ち去る戦法であり
、恐怖と威圧で防御を固めていた。新牆河―汨水の間の地域が伏撃・誘撃地帯、瀏陽河
―撈刀河間の地区が決戦地区に指定され、各部隊が配置されていた。この事を考えれば
、阿南には他にやり方があったはずだった。また湖南省の民衆は道路の破壊、水田の蓄
水、食料の運び出しなどの作業に総動員されて、保甲制度等の民衆組織を強化して準備
を整えていた。これら民衆組織は、土木作業などの外に密偵の役割も果たし、狼煙をあ
げて日本軍の接近を知らせた。道路破壊・陣地構築・輸送・警戒連絡などに動員されて
いる。数多くの諜報員がいた日本軍にも、抗日に働いた民衆は20万人以上に達していた
事は知れた筈である。つまり阿南はこの時今の国民政府の非道を広報すればよかったの
だ。だが中国軍の挑発に騙されて第二次長沙作戦を作っていたのである。ここでも東京
の大本営司令部の命令がその動きに自由さを止めている。12月8日になって、華南の
日本軍(第23軍)は香港攻略作戦を開始した。が、この背後を衝くため中国軍(第4軍
・暫編第2軍)が、長沙付近から広東方面への南下を開始したのである。これを知った
第11軍では、すぐさま中国軍の南下を牽制する作戦が検討され、12月13日に阿南軍司
令官が即座に作戦を決裁した。第一次長沙作戦が事前から周到に計画準備された作戦で
あったの対し、今回の作戦は咄嗟に決心されたものであり、弾薬・食料・医療品・輸送
手段などの準備は十分に整っていなかった。にも関わらず決済した。ここが阿南の馬鹿
さだった。第二次長沙作戦は当初、香港作戦に策応する形で開始されたのだが、香港の
戦いは、太平洋戦争(大東亜戦争)緒戦の当時に、軍港としての香港を使用する為に、
日本軍と供に香港を植民地としていたイギリス軍を追い払う為に行われていた。


1311: 名無しさんAA:18/08/25 17:19 ID:sFs
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  355 >   

 香港奪取作戦は日本側作戦名で「C作戦」としていた。日本軍の作戦本部は、九龍半
島の攻略に数週間を見込んでいたが、英国軍側は準備不足の中で城門貯水池の防衛線を
簡単に突破され九龍半島から撤退した。ところが海軍側で、香港島への上陸作戦が行わ
れ、18日夜から19日未明にかけて突然陸戦隊は占領に行った。島内では激戦となっ
たものの、イギリス軍は給水を断たれて25日に降伏するに至った。この間、日本軍は
わずか18日間で香港攻略を完了した。こうして海軍陸戦隊の上陸作戦が華々しく成果
を挙げて、東南アジア戦線における日本軍の優位が確定した事に、陸軍上層部は焦りが
阿南にあったとされる。12月24日にこの報を聞いておらずに、第6師団と第40師団は
新牆河の渡渉を開始した。両師団も中国軍の頑強な抵抗に遭い、夜襲を繰り返して、や
っとその陣地を突破していた。第3師団と澤支隊は25日早朝から攻撃前進を開始した
。実は九龍半島は、水脈の多い沼地の大地で多くの大河が走って海に流れていた。陸軍
の行進はその渡河には多くの労力が必要で本来は意味のない事であった。12月25日にな
って、香港のイギリス軍が降伏した報が来たため、岳州の戦闘司令所にいた阿南軍司令
官は、翌朝漢口への帰還を予定していたが、しかし、26日は悪天候で出発できず、阿南
軍司令官は帰還を見合わせ、陸軍の体面から長沙進攻への熱意を燃やし発破をかけた。
ここで執念のごとく熱意を燃やした事が間違いの本質だった。汨水の南岸の中国軍は、
第37軍( 第60、第95、第140師)第99軍(第92、第99師)と判断され、29日からの
攻撃が予定された。第3師団は汨水の渡河を急ぎ、12月27日の昼に時間を繰り上げて、
渡河を開始した。対岸の第99軍はトーチカ・既設陣地から頑強に抵抗したが、重火器の
援護をうけた第3師団各部隊は、その抵抗を排除して、28日夜までに渡河、第37軍の
背後にまわる追撃を開始した。第6師団は12月26日夜から、第40師団は29日から汨水
の渡河を行ったが、河は数日続いた雨雪のために増水し、架橋作業の渡河には数多くの
困難がともないながらも、渡河を果たした。渡河完了後も、南岸地区の中国軍は険しい
山地の地形を利用して頑強な抵抗が行われた。12月30日夜、第40師団後方では輜重兵第
40連隊が敵襲を受け、連隊長森川敬宇中佐が戦死した。その為中国は諜報作戦で、第40
師団内では、汨水渡河後に作戦を打ち切って反転するという噂が流し、これが帝国陸軍
の弾薬の消耗を早めてしまう一因となった。この過酷な進軍は日本軍を消耗させた。

1312: 名無しさんAA:18/08/25 17:19
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  356 >  

こうして、日本陸軍は何ら作戦もなく、広い中国大陸で進軍を繰り返したのみだった。
又九龍半島での香港攻略戦で、捕虜となったイギリス軍は11,000名。内訳はイギリス人
が 5,000名、インド人が4,000名、カナダ人が2,000名もあった。捕虜達の証言によれば
、イギリス軍は半年間は持ちこたえる構えで食糧弾薬等を準備していたという。だが香
港はわずか18日間で日本海軍によって攻略された。香港の戦いで捕虜となった将兵は
香港内に設置された捕虜収容所へ抑留されたが、維持出来る体制はなく本国に移送され
た。これが又間違いだったと言える。日本、台湾の捕虜収容所は国家総動員法によって
日本中の若者が徴兵対象となり戦地に送られ、国内や台湾など軍需産業に携わる人員の
不足をきたしたため、それを補うため各地の捕虜収容所から各地の産業の従事に送られ
た。捕虜は多くの記録を残しているが、多くは過酷な鉱山労働だったようだ。この頃に
大本営は陸軍の暴走に手を焼いていた。第一次のカ号作戦(ソロモン島奪取作戦:南洋
作戦)から第二次サ号作戦(インパール作戦:インド洋作戦)は、全く想定はあったも
のの、軍本部の司令の範疇ではなかった。その為C作戦で既に第11軍部隊が汨水南岸
の第37軍包囲作戦を進めている頃に、阿南軍司令官は長沙進攻に、慎重な意見を述べ
る参謀を説き伏せる為、深夜まで説得する一幕があった。これ以上の兵員は融通が利か
ないものだったし、軍規違反の連続とも言えたからだ。しかしこの作戦に熱意を燃やし
ていた阿南は12月27日になって、第11軍の参謀部は、支那派遣軍総司令部に長沙進攻
の許可を求めて、武漢警備中の独立混成第9旅団を、戦場へ呼び寄せてまでいる。しか
し総司令部からの返事は阿南軍司令官の期待したものではなかった。この混成旅団では
武漢警備を旨として、和平を築くことに本分があった為中国軍追撃は本末転倒の話だっ
たのだ。更に、二日後の12月29日、第3師団の豊嶋師団長は、軍司令部に対して「長沙
進攻」を意見具申した。この日に阿南軍司令官は「独断専行」による長沙進攻を決心し
て、長沙方面へ向かう追撃を命令したのである。この長沙進攻の命令を受け取った第3
師団は、第37軍に対する包囲移動をやめると、すぐに長沙への突進を開始した。一方
、突然の命令を受け、すでに第3師団が長沙へ向かっている事を知った第6師団長神田
正種中将はこの事態に憤慨した。第6師団と第40師団は新牆河の渡渉を開始し香港島
奪取を終えたばかりだったからだ。やむなく、罠をはる中国軍に不眠不休による進撃を
再度開始した。がしかし、汨水の線までは、到達しても情報・兵站の十分な準備もない
ままの長沙への進攻を開始した為多くの混乱を生じていた。これは阿南の我が儘だった

1313: 名無しさんAA:18/08/25 17:20
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  357 > 

 中国軍の作戦に乗って、日本軍は、前回の第一次長沙作戦に比べ歩兵戦力が3分の2
以下という小さな兵力で進軍するに及んだ。それに比べて前回の負けた事で前回の勢力
を考えた布陣で中国軍は待ち構えていたのである。こうして、完全に準備を整えていた
中国軍30個師の蟻地獄の巣の中へ飛び込んでいっていた。前回作戦では実際に中国側
へ与えていたダメージは小さく、更に中国側が防衛準備を進めていたことを、日本側は
見誤っていた。と言うよりは調査や情報を取らなかった阿南の独自のこの作戦に日本軍
(第11軍)は振り回された。その為日本の損害は多く戦死1,591人、戦傷4,412人で、
あった。またその削られる欠員の大きさは重かった。この作戦で中国軍に与えた損害は
、遺棄死体約 28,612、捕虜1,065人である。と報告されているが、しかし重慶国民政府
の広報は、この戦いを利用した広報活動だったが、長沙会戦における完全勝利を宣言し
、日本軍の損害を死傷56,944人、捕虜139人、鹵獲品多数 と発表し、内外に対し戦勝の
宣伝に努めてアメリカ・イギリス両国からの祝電を受け取るに至っている。つまり勝っ
ても負けても、この戦いが徹底した重慶政府の蒋介石の首を取ら無ければ米英の援助が
待っている事を解らなかったのだ。この阿南の仕掛けた戦争で、大きく中国が蒋介石の
政府になる予想や期待を与えたし、それを目標の戦いだった。この為在米移民や国内の
華僑などが蒋介石側につき、全国民から寄せられたとされる義援金や戦勝祝賀献金は、
250万元以上に達したと発表した。これが太平洋戦争の開戦以来の、敗北が続いてい
た連合国陣営の中で唯一日本軍を撃退した「勝利」となって一定の政治的な力をアメリ
カ国内に持たせた光になった。第6師団長神田正種は後に「本作戦は阿南将軍の統帥と
しては、一寸拙かった。予は、阿南さんの人格に絶大な尊敬を持つものであるが、この
作戦計画にはどうも同意し兼ねる。」とし、第40師団長青木成一は「思い出したくも
ない、第二次長沙は恐怖の一言に尽きる」と評した。だた彼は陸軍内の派閥に属してお
らず政治的に無色であったことが評価され、敗戦の愚将で責任も取らず阿南は、戦中に
は地位を得てしまっていた。本来なら勝手な行動と規律違反の軍法ものだったはずだ。
これが阿南の後悔の過去とならなかった。阿南は戦争とはそんなものと思っていたのだ


1314: 名無しさんAA:18/08/25 17:21
 1941年(昭和16年)1月、大本営と支那派遣軍は、重慶政府は既に可笑しな行動にあ
った事に作戦変更が迫られた。満州事変以降から日本を敵対していた為、蒋介石政府に
中国を平定すれば日本は引き揚げるとまで条件を出してトラウマン工作を行っている。
それは日本にとっては攻撃さえなければ中国など要らない物だったからだ。南方の石油
資源の確保。それのみの話だった。だが重慶政府は違っていた。蒋介石は毛沢東の司令
の通りに国内平定の為の国内紛争が必要だった。つまり敵が無ければ団結出来ないと見
ていたのだ。又日本も一枚岩では無かったし、中国には日本が信じられていなかった。
信じていても共産党主義にどう対処すべきか解決法は見つからないままだった。しかし
米国の締め付けは厳しく、日本時間1941年(昭和16年)12月8日未明、ハワイ時間12月7
日)に、アメリカ合衆国のハワイ準州オアフ島真珠湾に至った。実はこの至った原因が
この中国の制裁を加えんととした陸軍の動きにあった。盧溝橋事件からの日中戦争の中
で、1941年9月18日から10月6日の間に湖南省の長沙周辺で行われた日本陸軍の作戦で、
長沙を拠点とする中国軍第9戦区軍に、日本の第11軍が打撃を与えた。これが長沙作
戦である。当初の作戦呼称は加号作戦(後に長沙作戦と命名)。中国側呼称では第二次
長沙戦役(または第二次長沙会戦)という。しかしこの時の日本軍の長沙方面への作戦
に対しては、1941年(昭和16年)6月22日に独ソ戦が開始した事で、7月2日の御前
会議では『情勢の推移に伴う帝国国策要綱』を採択しており、独ソ戦が有利に進展した
ら武力を行使して北方問題を解決するとの方針を決定している。これに基づいて7月7日
に関東軍特殊演習の大動員令が下り、第1次動員として13日に内地から 約300の各部
隊を動員、16日には第2次動員として14個師団基幹の在満州・朝鮮部隊を戦時定員
の充足かつ内地より2個師団を動員、北満に陸軍の膨大な兵力と資材が集積された。陸
軍は、ソ連との戦争を念頭とした態度案を海軍側に提出、陸海軍間で話し合いが行われ
るも、文書から「対ソ開戦」の文字を削除するように海軍側が迫り、5日に妥結した。
これを受け、大本営陸軍部と関東軍は1941年8月9日に年内の対ソ開戦の可能性を断念し
た。しかし、ソ連側はこの情報を得ていて、ナチスドイツがモスクワに迫る中救援に迎
えなくなっていたのである。その後、兵力は充実させたが南方進出方針の決定により、
対ソ戦は行われず満蒙国境警備のみを行うに留まった。その後、太平洋戦争の中期から
島嶼防衛のために南方軍に対し関東軍から兵力・資材の引き抜きを始めた為に末期には
本土決戦のためにさらに兵力・資材を引き抜いて、満州在留邦人でその穴を埋めていっ
た事が解っている。結果的にこの時の、関特演で集められた根こそぎ動員で集められた
兵員・資材は大戦末期まで決戦を迎えることなく、本来とは異なる役目を果たすことに
なった。

1315: 名無しさんAA:18/08/25 18:43
 1941年(昭和16年)1月、大本営と支那派遣軍は、重慶政府は既に可笑しな行動にあ
った事に作戦変更が迫られた。満州事変以降から日本を敵対していた為、蒋介石政府に
中国を平定すれば日本は引き揚げるとまで条件を出してトラウマン工作を行っている。
それは日本にとっては攻撃さえなければ中国など要らない物だったからだ。南方の石油
資源の確保。それのみの話だった。だが重慶政府は違っていた。蒋介石は毛沢東の司令
の通りに国内平定の為の国内紛争が必要だった。つまり敵が無ければ団結出来ないと見
ていたのだ。又日本も一枚岩では無かったし、中国には日本が信じられていなかった。
信じていても共産党主義にどう対処すべきか解決法は見つからないままだった。しかし
米国の締め付けは厳しく、日本時間1941年(昭和16年)12月8日未明、ハワイ時間12月7
日)に、アメリカ合衆国のハワイ準州オアフ島真珠湾に至った。実はこの至った原因が
この中国の制裁を加えんととした陸軍の動きにあった。盧溝橋事件からの日中戦争の中
で、1941年9月18日から10月6日の間に湖南省の長沙周辺で行われた日本陸軍の作戦で、
長沙を拠点とする中国軍第9戦区軍に、日本の第11軍が打撃を与えた。これが長沙作
戦である。当初の作戦呼称は加号作戦(後に長沙作戦と命名)。中国側呼称では第二次
長沙戦役(または第二次長沙会戦)という。しかしこの時の日本軍の長沙方面への作戦
に対しては、1941年(昭和16年)6月22日に独ソ戦が開始した事で、7月2日の御前
会議では『情勢の推移に伴う帝国国策要綱』を採択しており、独ソ戦が有利に進展した
ら武力を行使して北方問題を解決するとの方針を決定している。これに基づいて7月7日
に関東軍特殊演習の大動員令が下り、第1次動員として13日に内地から 約300の各部
隊を動員、16日には第2次動員として14個師団基幹の在満州・朝鮮部隊を戦時定員
の充足かつ内地より2個師団を動員、北満に陸軍の膨大な兵力と資材が集積された。陸
軍は、ソ連との戦争を念頭とした態度案を海軍側に提出、陸海軍間で話し合いが行われ
るも、文書から「対ソ開戦」の文字を削除するように海軍側が迫り、5日に妥結した。
これを受け、大本営陸軍部と関東軍は1941年8月9日に年内の対ソ開戦の可能性を断念し
た。しかし、ソ連側はこの情報を得ていて、ナチスドイツがモスクワに迫る中救援に迎
えなくなっていたのである。その後、兵力は充実させたが南方進出方針の決定により、
対ソ戦は行われず満蒙国境警備のみを行うに留まった。その後、太平洋戦争の中期から
島嶼防衛のために南方軍に対し関東軍から兵力・資材の引き抜きを始めた為に末期には
本土決戦のためにさらに兵力・資材を引き抜いて、満州在留邦人でその穴を埋めていっ
た事が解っている。結果的にこの時の、関特演で集められた根こそぎ動員で集められた
兵員・資材は大戦末期まで決戦を迎えることなく、本来とは異なる役目を果たすことに
なった。

1316: 名無しさんAA:18/08/25 18:43
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  360 > 

 帝国日本軍が太平洋戦争開戦後(S16・12・8)以後に、初めて「軍事的敗北(
任務達成失敗)」した戦いは何か。と言う問いに、正確に長沙攻略の失敗と答える日本
人が一体どのくらいいるだろうか。心の師匠の著書では「香港攻略作戦支援のために、
長沙攻略を実施するのは『隅田川の火事に田園調布の消防車が出動するような愚挙」と
書いている。実の所「香港攻撃部隊を挟撃すべく、かなりの部隊がこの地域から南下」
していた。作戦目的そのものは、そうおかしくは無かったのだが。ただ、ここで問題な
のが用意不足と情報不足、考慮不足の攻略部隊司令官である阿南惟幾中将の行動だった
。阿南は一年前の同様の作戦をやった時「長沙を一時占領して撤退」したのを「日本軍
、長沙攻略失敗」と誇大宣伝されてよほど頭にきたらしく、全開の作戦よりはるかに劣
る戦力&補給体制であるにも拘らず、「南下部隊の牽制のみならず、長沙攻略作戦を実
施」するというムチャな決断をした。実際の第一次は香港島奪取で海外の影響は大きく
これで止まれば、日米開戦もなく捕虜交換の申し出があった可能性すらあるし、日本の
威厳もそのままで、あったはずで連合国の中国支援も取り下げられたのかも知れない。
ところが火に油を注ぐように阿南は行動と言動を取った。国際社会でギリギリの境目に
居る日本の立場も考えずに、陸軍色に染まって天皇の意見すら聞かなかったのである。
その動きは中国側にバレバレで、中国軍は香港攻略戦が早期終了したのを受けて「南下
部隊を急遽呼び戻し、日本軍進撃路側面にアンブッシュ体制(日本側はこの可能性すら
考慮せず)」を敷き、正面には囮部隊を配置するという「軍団レベルでのイア・ドラン
渓谷状態」を長沙近辺に出現させていて、その結果はご想像の通り「香港戦の2倍近い
犠牲を払ったあげく、長沙にすらたどり着けず、『軍団レベルでの退却』を強いられる
」惨憺たる日本軍敗戦の結果となってしまった。これはモノンハン事件より悪かった。
 阿南司令官は、別宮暖朗さんによれば、かなりのろくでなしだった。その後彼がこの
作戦の責任を取って予備役編入となってたら、日本の歴史は変わっていたかも知れない
。軍司令部も1941年9月18日から10月6日の間に何故第一次長沙作戦(だいいちじちょう
ささくせん)を行ったのか。よく南方の石油を盗る為にとは言われるだが、それなら、
ハワイ占領の方が手っ取り早いし交渉の種になる。日米の国力差は開戦前の時点で、ア
メリカは日本に対してGNPで10〜20倍の国力差があり、石油生産量で700倍に
及んでいた。


1317: 名無しさんAA:18/08/25 18:44
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  361 > 

 陸軍の、盧溝橋事件(7月7日)により始まった華北(北支)での戦闘は、4日後に行
った松井-秦徳純協定によりいったんは収拾した。停戦協定が結ばれたものの、7月25日
の廊坊事件で停戦が破られる。その後は立て続けに26日の広安門事件で日本人に犠牲者
が発生し、29日の通州事件では民間人を含む230名が虐殺された。 武藤章や田中新一ら
拡大派が、石原莞爾や河辺虎四郎ら不拡大派を押し切った。この事件以後華中(中支)
において交戦が拡大することになった。予想外の総力戦となった日中戦争は泥沼化し、
解決の目途が立たなくなっていた。そのため日本は南進を行い、中国国民党への物資の
補給路を断ち、石油などの戦略物資を入手することで日中戦争の解決を図ろうとした。
南進が欧米の反発を買うことは必至であったが、欧州は第二次世界大戦の勃発により、
東アジアより後退していたため、アメリカへの対策が問題となった。そこで日独伊三国
同盟や日ソ中立条約を結び、アメリカを包囲することで南進への反発を抑えようとした
。しかしアメリカはこれに強く反発し南進を認めず、日米開戦へと至った。第二次上海
事変は日中戦争と呼ばれる物だ。上手く行くかと思われた中国経営が、突然の蒋介石の
政変劇で共産党征伐を止めて狂った様に日本人虐殺で事件を起こし抗日を叫びだしたの
である。この急激な変化は日本は驚嘆したに違いない。上海事変では、英米仏の各領事
は日中双方に申し入れを行い、上海での敵対行動を回避する為に直接交渉を行うことを
勧めた。また、回避案として以下を提案した。この提案原文が東京に届いたのはこの日
の深夜であった。1. 中国軍は国際共同租界とフランス特権区域から撤退する。 2. 
日本軍は国際租界から撤退する。 3. 中国軍撤退地域は多国籍軍が治安維持を行う。
 というものだった。だが多くの偵察部隊からの連絡で、長谷川清海軍中将(海軍上海
特別陸戦隊及び第三艦隊司令長官)は、当初戦争回避を考えていたが、7月からの華北
での戦火拡大から考えて、中国軍はすでに開戦を意図していると察し、主戦論に切り替
えて、5個師団の増援を日本政府に要求するに至った。しかし政府は華北事件の収拾に
気をとられ、1個師団の増援にとどまったのである。1937年(昭和12年)13日午後9時
頃から国民党軍が帝国海軍上海特別陸戦隊への総攻撃を開始し戦闘に突入した。当時、
上海居留民保護のため上海に駐留していた陸戦隊の数は多めに見ても5千人であったの
に対し、国民党軍はすでに無錫、蘇州などですでに20万人以上が待機していた。その
為同日夜には日本海軍が渡洋爆撃命令を発令している。


1318: 名無しさんAA:18/08/25 18:44
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  362 > 

 前日の8月12日未明には、中国正規軍本隊が上海まで前進してきて、中国軍の中で
屈指の精鋭部隊である第87師、第88師などの約3万人が国際共同租界の日本人区域
を包囲していた。所謂八路軍である。又既にドイツの指導で日本軍の上陸に備えて揚子
江の呉淞鎮と宝山にも約1千名を配置していた。対する日本軍には、上海陸戦隊2200、
漢口から引き揚げてきた特別陸戦隊300、呉と佐世保から送られた 特別陸戦隊1200、又
出雲の陸戦隊200、他320と言うまるでお粗末な計4千人あまりしかいなかった。この為
、日本領事は国際委員会を再び招集し、中国軍の撤退を要求した。しかしながら上海市
長は、中国は既に侵略をうけているとの声明を発表し、最後に喩市長は、中国軍は攻撃
されない限りは攻撃しないと、中国政府として認められるのはせいぜいそれぐらいだと
断言した。つまり日本軍が居る事が侵略されている事だと開き直ってしまったのだ。こ
れまで懇願されて治安維持の為に派兵して来たというのに。である。これは蒋介石政府
が既にこの上海市長を抱き込んでいた事に他ならない。中国式の清野作戦が目に見える
筈だったが、戦闘状態を構わないと言う発言で焼野原になり人がいなくなっても良いと
言う意思表示だった。明けて14日に日本艦艇をねらった国民党軍機の空襲が開始され
た。フランス租界・国際共同租界に投下された爆弾はパレス・ホテルとキャセイ・ホテ
ル前の路上に着弾し、729人が即死し、861人が負傷した、31分後には婦女子の避難所と
なっていた大世界娯楽センターに爆弾が落ち1,012人が死亡し、1,007人が負傷した。民
間人3000人以上の死傷者が出た事に対し、国民党政府は遺憾の意を表明し、爆撃は日本
軍機によるものであるとの内容を表明した。九州から南京への渡洋爆撃も予定されてい
たが、九州の天候が悪かったため延期されていた。つまり租界への爆撃、もしくは誤爆
はその後も発生したが日本軍機は居なかったのだ。日本軍の方は渡洋爆撃命令を受けて
、日本海軍も台湾の航空基地より爆撃を飛ばして、杭州や広徳を爆撃していたのだ。つ
まり海軍機のみで陸軍機は飛べなかったのである。こうした陸軍の不手際は続き増援の
派兵を迫った。しかし不拡大を望んだ石原莞爾参謀本部第1部長は派兵をしぶっていた
。9月9日、台湾守備隊、第9師団、第13師団、第101師団に動員命令が下された。そこ
に起こった戦闘で9月末までで第11師団は戦死者1560名、戦傷者3980名、更に第3師団
は戦死者1080名、戦傷者3589名であった。こうして9月27日、石原部長の辞職が決定し
た。 10月9日、3個師団を第10軍として杭州湾から上陸させることを決定した。


1319: 名無しさんAA:18/08/25 18:44
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  363 > 

 戦後になって、阿南惟幾や石原莞爾などは盛んにもてはやされる。つまり 突出した
人物像に魅力があり、傑作の逸材であるからだろう。しかしここで見る様に国際音痴の
まま陸軍を引っ張っているような日本人の典型的な人物で、実は陸軍の突き上げや国民
の声に引っ張られて戦争拡大を起こした張本人である。もともと海軍が目覚ましい成果
をしたじ航空兵器の運用でも船で運んだ画期的な手軽さがあった上に、海軍の陸戦隊な
どは陸軍以上のものだった為、大陸の遠隔地に拠点を築く意思が無い限り日本陸軍は、
戦争には必要無かった。逆に戦争後の占領社会に武人として治安を司る役人が必要で、
いまのODAを守るPKO活動の様な事や欧米列強の諜報活動の方が重要であったが、
馬鹿な事に日本陸軍は、欧州のドイツを真似た対国防の総動員令に邁進し海軍との競争
を起こしたのである。これでは世論や天皇が戦後において、海軍が褒められ陸軍が突き
放される構図があったのは当然だった。しかし兵士本人としては、陸上で特に厳しい戦
闘に耐えて生きて帰還兵になりながら戦争責任者として白い眼でみられる事は不本意で
あった。その頃日本はその経済効率の悪さから予算措置からも、一括化し国際情勢に合
わせた交渉と戦闘を任せた海軍を主力として、陸軍は中国の治安維持に努めて縮小しよ
うとしていた。しかし226事件や米内光政や鈴木貫太郎などの内閣は、陸軍の反発で
次々と倒閣の憂き目にあっていた。戦後アメリカの歴史家ジョン・ステファンは呼称と
して、第二次世界大戦は広範囲であり、「太平洋戦争」は「あまりに狭すぎる」ので不
適切であり「大東亜戦争」という呼称がふさわしく、「日本がインド洋や太平洋、東ア
ジアおよび東南アジアで繰り広げようとした戦争を最も正確に表現している。」と指摘
している。またイギリスの歴史家C・ソーンは戦時中もアメリカはイギリスとの関係か
らも、この対日戦争にいたった経緯から「太平洋戦争」は不適切で、極東戦争を提唱し
ていた。ソーンの他A・J・P・テイラーらは日本がアジアでの英国勢力を駆逐する為
に開戦し、結果としてイギリスは植民地を失い「敗北」したことを考えれば、「大東亜
戦争」呼称は妥当とした。ジョン・プリチャードらは「十五年戦争」は曖昧で「極東戦
争」は地理的にヨーロッパ中心主義、「対日戦争」の名も一方的なので「大東亜・太平
洋戦争」という呼称を提案しているくらいだ。これらは第二次世界大戦とは言えドイツ
が行った欧米の侵略覇権でのフランス・チェコ・イタリアといった共和国連合として戦
ったドイツと中国が味方とならず日本一国で戦ったような植民地開放の様なアジアの戦
いとは違っていたのである。


1320: 名無しさんAA:18/08/25 19:50
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  364 > 

この頃では、陸軍も陸軍省陸軍大臣杉山元が、政府・海軍と同じく強硬派であった為に
、多田駿陸軍中将を筆頭とする参謀本部は終始、日中和平交渉の継続を強く主張してい
たがいぶかしく思われた。参謀本部の要請によって日露戦争以来の御前会議がわざわざ
開かれるなどしたが、政府・海軍の太平洋の制海権とや陸軍省の中国や南方戦線の早期
決着の確認で済まされ、海陸対立の圧力を受けて嘘がまかり通ってしまう。阿南や石原
達を処罰できなかった弱さもここにあった。この後の中国との交渉は1月15日に打ち
切られたが。この事は致命傷だった。日本はもっと中国からの引き揚げを念頭に置いた
計画を立てるべきだったし、欧米外交官との交渉を、粘り強くすべきだったのである。
翌日16日に近衛内閣は「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず。真に提携するに足り
る新興支那政権に期待し、これと国交を調整して更生支那の建設に協力せんとす。」と
の声明を発した。蒋介石が北伐を繰り返し、失敗して毛沢東の首輪を掛けられた事から
突然に起こった治安悪化と抗日戦線は僅か1年で、毛沢東の狙いどおりにソ連と米英の
支援をうけた国となったのである。しかし国内は、戦前には経済状態や食糧事情は5分
の1と落ち込み、その後敗戦国となって引きあげた後の共産党建国時は30分の1にな
ったと言われている。清野作戦の応酬で、なんら建設が行われず、粛清で知識人は居な
くなったからだ。そして今でもその状態は変わらない。日中戦争において上海事変後の
中国側国民革命軍は堅壁清野と呼ばれる焦土作戦を用い、退却する際には常に掠奪と破
壊が行われたが、中国軍が退却時のこうした発生により、実際には遅く、11月9日と
なる中国軍の退却が予測された。中国政府は「徴発」に反抗する者を漢奸として処刑の
対象としていたが、あるフランス将兵によると彼は中国の住民も掠奪されるばかりでは
なく、数が勝る住民側が掠奪する中国兵を殺害する。という光景を何回も見ていた。中
国側の敗残兵により上海フランス租界の重要機関が放火され、避難民に紛れた敗残兵と
、便衣兵に対処するためフランス租界の警官が銃撃戦を行うという事件も起きていた。
上海の英字紙には中国軍が撤退にあたり放火したことは軍事上のこととは、認めながら
残念なことであるとし、一方中国軍の撤退により上海に居住する数百万の非戦闘員に対
する危険が非常に小さくなったとして日本軍に感謝すべきとの論評がなされたりしてい
た。つまり毛沢東革命軍、蒋介石国民政府軍、新たな住民防衛として汪兆銘(おうちょ
うめい)の南京政府や市民防衛隊更に海外からの居留民が連れて来た兵士達と入り乱れ
て殺し合いをしていたのだ。馬鹿な中国政府の為にそして日本軍もその土俵の上にいた

1321: 名無しさんAA:18/08/25 19:51
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  365 > 

 そもそもいったんは停戦協定が結ばれたが、そのまま実行されたら共産党叛乱分子に
は動きようがなく、そのままでは蒋介石政権を奪えなかった。7月25日の郎坊事件を
起こしで停戦が破られると、26日の広安門事件で日本人に犠牲者が発生し、29日の
通州事件が起こした。この事件は華北分離工作で日本の傀儡政権である冀東防共自治政
府保安隊によって引き起こされたとされるが確証はない。戦後には盛んに党員の名が出
ている以上傀儡政権構成員でも共産党員だったと考えられる。この民間人を含む230
名が虐殺されたことにより、武藤章や田中新一ら拡大派が、石原莞爾や河辺虎四郎らの
不拡大派を押し切った形を作った。この事件以後華中(中支)において交戦が拡大する
ことになったが、既に蒋介石政権は、多くの防護嚢を敷き始め対戦戦略を作っていた。
ドイツ軍事顧問団の指導により、大陸沿岸と揚子江には砲台が築かれ、第一次世界大戦
型の要塞線「ゼークトライン(チャイニーズヒンデンブルクライン)」が上海の西方の
非武装地帯に上海停戦協定を違反して盧溝橋事件以前から築かれていたのである。又、
継続的に参謀も派遣され、当時ドイツからの軍事顧問として国民党で働いていたファル
ケンハウゼンの計画にそって、国民党軍は上海租界を攻撃し、日本軍を要塞線にひきつ
けようとしたこの作戦は、上海に駐留する日本軍を攻撃により挑発して要塞線で出血を
強いる事で、日本国内の対中干渉世論を転換させる事が目的であった。第一次世界大戦
で得られた軍事的経験に従えば、これはあまり攻撃的ではない作戦計画であり、だから
こそ蒋介石も採用したと思われる。中国軍はドイツ製の鉄帽、ドイツ製のモーゼルM9
8歩兵銃、当時世界一といわれたチェコ製の軽機関銃などを装備し、火力では日本軍を
はるかに上回る装備を整えていた、第36師、第87師、第88師、教導総隊などは、ドイツ
軍事顧問団の訓練を受けて精鋭部隊に変身していた。既に 1934年(昭和9年)から、上
海・南京間の陣地構築が始まり、1936年には陣地構築が急ピッチで進んだ。福山と呉県
の間(呉福線)、江陰と無錫の間(錫澄線)、呉淞と竜華の間(淞滬線)、呉県から嘉
興を通って乍浦鎮の間(呉福延伸線)にトーチカ群が設置されていた。10月10日、上海
派遣軍はゼークトラインに攻撃を開始した、2日後には各所で突破に成功した。10月26
日、上海派遣軍は最大の目標であった上海近郊の要衝大場鎮を攻略し、翌27日、「日軍
占領大場鎮」というアドバルーンを、上海の日本人街に上げた。大場鎮を落として、上
海はほぼ日本軍の制圧下になった。しかし、中国軍は蘇州河の南岸に陣地を構えており
、第3師団と第9師団は強力な、トーチカのため、進めなかった。

1322: 名無しさんAA:18/08/25 19:53
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  366 > 

この時日本軍は思わぬ反撃を受ける。猛毒の化学兵器の反撃だった。ドイツから大量に
買い付けて輸入していたのだ。というのもこの戦略の基礎となったのが1930年代におけ
る中独合作で、1934年からドイツの中国国民党への投資が続いており、ドイツ製の軍需
物資が輸入され、その時多くの最新兵器として輸入された。ゼークト大将とファルケン
ハウゼン中将は戦術だけでなく、戦争指導にまで行い、対日敵視政策、対日強硬策を、
蒋介石に進言し、中国の敵は日本が第一、共産党を第二と考え、昭和10年(1935年)
10月においては、漢口と上海にある租界の日本軍を奇襲することを提案し、昭和11年
(1936年)4月には、対日開戦のチャンスだと進言している。もともと中国軍には上海を
占領自治する気はなかった。既に武漢政府を樹立し、この上海を荒野にする計画だった
。つまり蒋介石は引き上げる為に、この上海の街を放火よりは化学兵器で清野作戦に出
るつもりで、対岸にいて化学兵器を使用させたのだった。その為日本軍は制圧しても、
一時足止めされた。が、化学兵器は効果が少なかった。上海の街は海辺に面していた。
風を読んで使用されたが浜風によって風向きが変わり時間と共に対岸に流れていった。
その頃物陰や建物に潜んで難を逃れた兵士たちに防毒マスクが配られた。化学兵器使用
の兵隊から奪う事が出来たからだ。防毒面を着用して白保羅路の崇コ女學附近で攻勢に
出る海軍陸戰隊があった。中国の毒瓦斯彈攻撃を報じる新聞記事が出て居る。「毒ガス
彈下を衝く−人馬マスクで進撃」 濱野 (嘉夫) 特派員 十八日発としてある。中国政権
もここまで落ちたかと言う思いで日本兵は見て居たのである。 8月13日に商務印書館付
近の中国軍が日本軍に対し機関銃による射撃を開始して以来、小規模な戦闘が勃発して
中国軍は空襲を加えた事は米国記者の証言でも解る。これ以降翌日には海地区の警備司
令官である張治中が率いた中国政府軍が航空機により日本軍艦艇を攻撃した。日本政府
は国民党軍が上海において日本側に対しての砲撃、さらに日本の軍艦に対しての爆撃ま
で行った事で、それまで日本が取っていた不拡大政策を見直し、15日未明には「支那軍
膺懲、南京政府の反省を促す。」との声明を発表している。このように中国政府軍によ
る上海攻撃の結果、日中両軍は全面戦争に突入し背景の共産軍解散を目論んで蒋介石が
先の西安事件によって捕らえられ方針を変えざるを得なくなったことが明るみになった
。蒋が作ったソ連と不可侵条約を結び(8月21日)、共産党と妥協して統一戦線(9月22
日第二次国共合作)での戦争の構図は、蒋介石の保身の為とはいえ、他の中国人にとっ
ては非常に罪の重いものだった。

1323: 名無しさんAA:18/08/25 20:05
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  367 > 
 蒋介石はソ連が作った8月21日に不可侵条約を結び、共産党と妥協して9月22日
に第二次国共合作を行い、ドイツ指導の下で作られた国民政府軍の精鋭部隊は、その後
上海から南京に続く約4ヶ月の戦闘では、日本軍の必死の自衛と防戦で、殆ど壊滅状態
に陥ったと言う。しかし、国民党政府軍は共産党指令で、その後の内戦や清野作戦を立
て執拗に戦った。日本敗戦後に、中国国土は共産党政府となるが、当然であろう。共生
世界を叫びながらも、常に嘘で固めた強制強権世界しか作らない共産党に勝つ見込みは
なく、国の建設が出来ない事は解っていた。世界中どこの国もどの時代も共産党とはそ
の程度の下等な思想しか持ち合わせていない。しかしそれでも、欧米列強政府は中国の
巨大な市場を手に入れたい欲望には勝てなく中国紛争に手助けして兵器を送っている。
当時の上海にはフランス租界、日英米の共同租界、上海特別市の三行政区域に自国民を
守るため、 米軍2800人、英国軍2600人、日本海軍陸戦隊2500人、仏軍2050人、伊軍770
人がいたのだ。凡そ一万人の兵士と五万以上の外国居留民の彼らを飛び越えて、英仏や
米国が支援した罪は重い。この後第二次上海事変などにより在中邦人の中国軍や中国人
に虐殺される事件が頻発し、世論は中国を徹底的に叩くべきという方向に傾いてはいた
。「暴支傭懲」である。しかしその声は避難してきた日本の方が高くこの結果、政府は
軍事行動を主張する陸軍・海軍を抑えきることが出来なくなっていた。また日本にやっ
て来ていたスパイの多くは通信社や新聞社の特派員が多く大いに吹聴していた部分もあ
った。扇動された情報によって情勢は 日中両軍による大規模な全面衝突に発展した。
日本軍は北京や上海など主要都市を占領、続いて中華民国政府の首都南京を陥落させた
。1937年8月26日、日本海軍によるものとされる英国大使襲撃事件であるヒューゲッ
セン事件が起きると、今度は英国新聞は日本に対する怒りを顕わにした。1937年10月、
国際連盟は日本を九ヶ国条約及び不戦条約の侵犯であると決議し、1937年11月3日には、
ブリュッセルで九ヶ国条約会議が開かれ、英国は自身が首唱し指導した国際議定によっ
て、それまでソ連により行われていた第二次国共合作中の蒋介石への支援に参加したの
である。ここに国際社会の日本包囲網が完全に出来上がり各国の思惑はあるものの日本
叩きがきまったのだ。これはその後の阿南や永田が進めた陸軍強化の成れの果てであり
、海軍の南雲と全く同じに失敗がそのまま日本の失敗となる前触れとなったのである。
しかし日本の田中や中曽根は馬鹿であろう。共産党政府と日本との戦いが終ったのは、
共産党が自らの社会主義思想が負けたと知った時だ。つまり1970年代なのである。
この時の日本政府も、米国政府も、何故敗戦処理をちゃんとして分割した国にしなかっ
たのか不思議だ。

1324: 名無しさんAA:18/08/25 21:09
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  368 > 

 ヒューゲッセン事件は1937年中国で英大使が戦闘機によって撃たれた事件である
。「八月二十六日午後、ヒューゲッセン大使は、経済顧問ホール・パッチ氏他一人と共
に、イギリス国旗掲揚の自動車に乗って 南京から上海に向う途中、常熟・大倉間で、
飛行機二機から掃射機関銃弾を浴びせられ、背柱に一弾を受けたのである。大使は上海
カンツリー・ホスピタルに運びこまれ手当を受け、危篤状態を脱したが重体、加害機は
日本機と認められる旨が同乗の遭難者から発表された。当時上海方面の制空権が、完全
に日本海軍に帰していた実情から、誰が考えても加害機は日本機であると推定されるの
であった。しかるに、現地海軍は、事を聞いた当初、艦隊長官長谷川中将自ら病院に馳
せつけて、遭難見舞の辞を述べ、遺憾の意を表したに関わらず、たちまち態度をかえ、
事実調査をした結果、その日自動車を襲った飛行機はないと言い出した。現地海軍から
の報告として、海軍省係官の図上説明によると、当日当刻、上海・南京間の上空に遊撃
した海軍機は飛んではいたが、遊撃航路は現場より大きく外れており、かつイギリス国
旗掲揚の自動車を襲った覚えなしと伝えた。イギリス大使館から、謝罪要求の厳重抗議
が提出され、堀内次官と、着任早々のクレーギー・イギリス大使との間に折衝された。
現地海軍が、事実調査の結果を根拠として、加害の責任を否定し続け、次官、イギリス
大使間の折衝は行き詰まり、問題は容易に解決に至らない。イギリス本国に悪感情が湧
くのは、当然であった。」と書く。又杉山の日記には同じ様な事が書かれている。
 八月三十日(杉山陸相に私的意見具申)・・・・

1325: 名無しさんAA:18/08/25 21:09
 八月三十日(杉山陸相に私的意見具申)・・・・
 数日前在南京英国大使ヒューゲッセン氏は 陸軍武官と共に自動車に依り南京上海道
を上海に来る途中 某飛行機上より機関銃射撃を受け重傷を負へり こは多分我海軍飛
行機の射撃に依るものらしきも 昨日支那軍飛行機も機体に赤丸の印を附し我飛行機に
模する事実あり 果して日支何れのものなるや明らかならす 殊に支那共産党は此際、
日本軍のみならす上海租界、其の他を爆撃せし事実あり 又一昨日米商艦フーバー号は
呉淞下流揚子江内に仮泊中 支那飛行機の爆撃を受け死傷者を生せし事実もあり 今後
共産党派の行動に付ては端倪し難きものあり自然上記英国大使の負傷の如きも敢て之を
我軍のものと断定するを得さるのみならす 仮令我軍の射撃によるものとするも 警告
なく戦場内を通過する内外人か戦闘の傍杖を受くることは已むなき次第にして 我が国
より敢て慌てて遺憾の意を表すへき性質のものに非す 我が政府及上海外む、海軍の態
度は余りに慌て過きたる感あり。又 先日来英国軍艦に護衛せられ入港せることもあり
、英国船か支那側を利すへき輸入を続行せることは事実なり 蓋し、今後是等の状勢は
戦時状態の永続せられ支那軍需品漸く欠乏を告くるに際し益々頻繁を加ふへく察せらる
 依て予て希望せし沿岸封鎖を実行するの手段に出つこと益々必要なるを痛感す 依て
此旨大使館附武官に通し重ねて之に関する意見を具申すへく慫慂す 因に海軍の行わん
とする封鎖んは消極的にして第三国船に対して実攻(ママ)なし。


1326: 名無しさんAA:18/08/25 21:10
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  370 > 

 つまり当時「海軍の方でも探すのだが日本機はやってないとの結果が出たが。あやし
いと言えば怪しいのだが、かと言って海軍がしたとは断定出来ない。今や中国軍機が勝
手に日の丸を描いて攻撃したり、上海租界を爆撃をしている事や英国軍艦をすらも襲っ
ている事を考えると制空権を得ているとは言え、いたずらに日本海軍がしたとは言えな
い状況は英国は解っているはずだ。更に今では国際規約を違反しても、秘かに支那軍の
軍需物資を送り込んでいる。仮に日本機がしたとしても戦闘の為の軍備品を入れていた
とすれば、その関わる事で襲われた場所も違うのかも知れない。慌てて謝る必要は無か
ったであろう。が兎も角よくよく調べて意見する必要がある。」と考えている事が解る
。更に2機の飛行機である1機なら兎も角2機である事は中国機の可能性は高い。当時
小回りのきく日本機は1機でも充分どこへでも行っていたからだ。しかし日本機に劣る
ソ連機若しくは米機は2機編隊は常習だった。ヒューゲッセン事件での1937年8月26日.
石射猪太郎による言及や杉山陸相の思惑はそうした混乱状態を認めたものでもあった。
K・カール・カワカミ『シナ大陸の真相』では本人も「一見したところ奇妙なことのよ
うに思えるかもしれない」と述べている通り、中国機が「国際租界」を爆撃すれば、た
とえ「誤爆」であっても、普通は中国側への国際的非難をまき起こす結果にしかなりか
ねないが、この「国際租界」を爆撃すると、列強が中国に有利な形での介入を行ってく
れるだろうと中国は考えていた事がありあると解る。しかし欧米列強はその強欲さから
その狂気の謀に乗ったのである。そして今も変わらない。かつて清西蔵とされた5民族
は今や漢民族の意向で人の絶滅民族だ。彼らの残りはチベットとウイグルに逃げた。こ
の世界大戦前は89%〜97%まで現地の民族だった。ところが今や7割が漢民族とさ
れる。つまり虐殺されたのだ。2010年の追跡調査でタイやビルマベトナムに逃げよ
うととして強制連行され母国に帰って行く末不明は三千人にも上る。そしてしばしば、
警官が市民を殺す一般映像まで出回って、労働収容所で生きたままの女性が魚の様に捌
かれて人肉食で食われても国際社会は問題視しない。この現代でさえも。しかし歴史は
この後世界を変えた南京大虐殺 パナイ号(バネー号)事件 レディーバード号事件が起
こる。


1327: 名無しさんAA:18/08/25 21:10
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  371 > 

 既に上海事変で、中国人の中国人による中国国土殲滅作戦が行われていた事を世界は
知るべきだった。いや何よりも日本軍は早く悟るべきであったのだが、この戦争が国内
事変として処理されていた為に戦術や戦略に夢中で戦争の意味や意義を失っていたのだ
。とりわけ日中戦争中の1941年9月18日から10月6日の間に湖南省の長沙周辺で行われた
日本陸軍の作戦である。長沙を拠点とする第一次長沙作戦は爪が甘く、世界に向けた中
国広報非道の国際規範無視の批判を行わなかった上、新聞紙上に中国軍の勝利と宣伝さ
れ阿南は第二次長沙作戦を行った。もともと第一次長沙作戦でも、阿南軍司令官が熱意
をもって推進していたが、計画段階から何度も中止の議論が起こったため「作戦期間の
短縮」などの制約をうけて行っている。支那派遣軍は中央統帥部に揺り動かされながら
も、昭和十六年にはいってから中央の命令に基づき、南支方面軍と共に中、南支海岸の
封鎖遮断しやだん作戦と同時に、長沙作戦を主体とする総合圧力の強化を検討していた
。又現政権を転覆させ事変解決のきっかけをつくるため、夏から秋にかけての総力を挙
げた一大攻勢作戦を決意していた。その主体となったのが第11軍による第二長沙作戦
であった。当時の日本側はハワイ海戦(布哇海戦)想定と太平洋戦争における南方作戦
の一環として、開戦劈頭でマレー作戦に主眼をおいていた。その為、6月独ソ戦の勃発
による「関特演」への兵力転用や、日米交渉の難航による南方作戦準備が問題になるに
つれ、大本営や陸軍省では長沙進攻中止論が台頭していた。しかし第11軍司令官阿南
惟幾中将の長い大いなる熱意をもってこの作戦準備を推し進めた為。それは南方や満州
へ兵力が抽出される前に中国軍に打撃を与え、以後の自存自活を容易にするという理由
で、南方へ転用予定の兵力を使用しないこと、なるべく早期に切り上げ反転帰還する、
という条件付けを受けて作戦は実行に移されることとなった。こうして中央と現地の間
で、八月二十日までに兵力転用命令がなければ、九月十五日攻撃開始予定の長沙作戦は
一応実施するという、あやふやなとり決めで実施された。こうして日中戦争中の1941年
9月18日〜10月6日の間に第一次長沙作戦を中国軍第9戦区軍に、日本の第11軍が打撃を
与えた。ところが11月23日頃、支那派遣軍総司令部内での「長沙作戦がかえって敵の逆
の宣伝の材料になっている」との声が耳に入り、阿南軍司令官は鬱憤を募らせ、日中戦
争中の1941年12月24日〜1942年1月16日まで、湖南省の長沙周辺で太平洋戦争の開戦前
に終わらせる約束により始まった。香港攻略作戦(第23軍)を支援する目的で前回の第
一次長沙作戦の3分の2の兵力である第11軍が実施した。


1328: 名無しさんAA:18/08/25 21:11
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  372 > 

 ところが中国サイトの説明ではこれは第二回、第三回の長沙会戦としている。では、
第一回は何を指すか。説明によるとどうも南京攻防戦をそのまま起こった武漢会戦だっ
た様だ。南京陥落後、薛岳(せつがく)と言う中華民国の軍人がいたが、彼が活躍をし
た。と言う伝説が強い。1914年(民国3年)、中華革命党に加入し、ケ鏗や朱執信に従
って広東で反袁世凱活動に従事した。ケ鏗が粤軍(広東軍)第1師を創設すると孫文の
総統府警衛団の営長となった。陳炯明がクーデターの際には、葉挺と共に宋慶齢を護衛
し救出した。以後、陳討伐のための戦いで軍功をあげた。北伐には、薛岳は第1師副師
長兼第3団団長として参加したが、江西省で孫軍を度々破る軍功をあげた。11月に、
南昌が北伐軍が攻略すると、第1師は浙江省へと移り、翌1927年(民国16年)2月杭州
攻略に貢献した。3月には上海に進軍し、上海総工会など労働者勢力とは協調関係を確
立した。この関係から上海に人気の軍長となった。しかし、蒋介石は中国共産党排除の
動きと共に。薛岳の労働者に対する協調姿勢で蒋の怒りを買い薛は罷免されてしまう。
その1週間後に、蒋は上海クーデターを起こした。その後、薛岳は第4軍軍長李済深の
下に至り、広東新編第2師師長となり、更なる張発奎・黄h翔の反李反蒋クーデターを
起こすと、薛も加わり、第4軍教導第1師となり軍功にて第4軍副軍長に昇格し、軍長
繆培南と共に東江一帯に駐屯した。しかし李・蒋の支持派の陳銘枢・黄紹рノ挟撃され
て半数喪失する大損害を受けて、残軍を率いて北上し、第2次北伐に参加し山東方面の
攻略に活躍した。北伐終了後軍縮・再編に伴い第4師とされ、繆がそのまま師長に残っ
たが、薛は蒋介石に忌避され失脚した。薛は汪兆銘(汪精衛)らの反蒋活動に参加し、
蒋派の蒋光ダイ・蔡廷テカイに大敗を喫し、その後、李宗仁ら新広西派の支援をうけて軍を
回復させた、情勢は依然悪く1932年(民国21年)に香港九龍に一時引退した。1933年(
民国22年)10月、第5次共産党掃討作戦を開始した蒋介石の招聘に応じて薛岳は南昌で
帰参し、北路軍第3路軍副総指揮兼第7縦隊司令に着任した。翌年1月、第1路軍代理
総指揮となり江西省内各地で紅軍を撃破し、10月には紅軍を瑞金から長征に追い立て
ることに成功した。その後も薛は紅軍を追撃し結局、紅軍を殲滅することはできなかっ
たが、薛の軍功は大きく貴州省政府主席になった。、第二次上海事変(淞滬会戦)では
第19集団軍総司令で、左翼軍となり、左翼軍中央作戦区総指揮官で、竹園村で日本軍
と激戦を展開し、双方互角で渡り合った。が 11月5日、日本軍の増援部隊が金山衛上陸
を果たし、第19集団軍は呉福線まで撤退した。13日、左翼軍総司令に昇進して抗戦を
続けたが、その後も日本軍の攻勢に苦戦し、後退を余儀なくした。

1329: 名無しさんAA:18/08/25 21:15
その後薛岳は、南京陥落後に第3戦区前敵総指揮で正規軍は防御し、ゲリラ部隊で攻撃
するという方針を採用して日本軍に対処した。1938年(民国27年)5月、第1戦区第1
兵団総司令に任ぜられ、同月末には第1戦区前敵総指揮に昇進した。この昇進が南京の
大虐殺であるとされる。又その後も土肥原賢二率いる第14師団が河南省内黄県などを
占領していたが、薛は効果的に反撃してこれらの占領地の多くを奪回した。武漢会戦で
は、薛岳は第9戦区第1兵団総司令に任ぜられて、日本軍と戦闘を繰り広げた。最終的
に武漢会戦は中国側の敗北に終わるが、薛自身は第106師団など日本側各師団に大打
撃を与え、良好な戦績をあげている。この薛岳が中国では英雄だが常識を外れた悲惨な
督戦隊の指揮を執ったとされる。つまり中国式の兵士を勇猛果敢に戦わせるには、仲間
でも農民でも街を焼き血祭りにして、鎖で縛って戦地に連れて行き誰でも彼でもどんど
んと捕まえ奴隷状態で戦場から逃さない様に包囲を完璧に囲む事を行ったからだ、勝っ
ても負けても戦争前に清野作戦を確実に行う事とされたのだ。こうした事で彼が応戦し
た町では、どこでも二千年の歴史を持つ古都の面影がない。長沙作戦などの三年前に当
る昭和十三年に、蒋介石が日本軍の来攻を予想して街に火を放ち、ほぼ全域を焼き払っ
たためという。武漢会戦終結後、第9戦区司令長官に昇進し、1939年(民国28年)2月
には湖南省政府主席兼中国国民党省党部主任も兼任し1941年(民国30年)9月及び12
月の3度の長沙会戦で日本軍を湖南省から撃退することに成功したという。これには、
「安・便・足」の三字施政方針と「生・養・教・衛・管・用」の「六政」建設に象徴さ
れる一連の省内施策が功を奏した。と言われる。(安は安居・安業・安心、便は便民・
便国・便戦、足は民足食・国足兵・人足智)とされる。「生民之政」は国民の身体健康
の向上を第一義とすること、「養民之政」は農林業や水利の発展、「教民之政」は小中
学校と中等師範・職業教育の発展、「衛民之政」は警察組織の強化、「管民之政」は、
政治・社会組織の整頓と抗戦喚起、「用民之政」は物価の厳格管理を指すという。この
中で日本では便衣兵と言う名を使う。つまり戦う時はより安価で便衣兵を手足として使
う事が大事だ。と言う意味に見えて仕方がない。ただ彼も何回も紅軍征伐や中国政府と
対立や抗戦して普通の抗日戦士では無かったようだ。「生・養・教・衛・管・用」もと
もと農家の子として生まれ黄埔陸軍小学に入学しているので高貴な家柄であろう。中国
同盟会に加入し、その後中華革命党に加入し反袁世凱活動に従事している。武昌陸軍第
2予備学校に入り、1917年 卒業後は、保定陸軍軍官学校第6期で学んでいる。国共内戦
後は蒋介石が総統に当選すると、薛は総統府参軍長になって、以後台湾に逃れ、総統府
戦略顧問に任ぜられる。

1330: 名無しさんAA:18/08/25 21:15
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  374 > 

 1937年12月13日の南京陥落前日、日本海軍機が揚子江上において、米国アジア艦隊の
揚子江警備船「パナイ号」を爆撃し沈没させた。日本軍の砲弾を避けるため南京上流に
移動中のパナイ号(バネー号)には、艦長のジェームズ・J・ヒューズ少佐以下将校・
乗組員59名、南京アメリカ大使館員4名、アメリカ人ジャーナリスト5名、アメリカ商社
員2名、イギリス人ジャーナリスト1名、イタリア人ジャーナリスト2名、他1名が乗船し
ていた。アメリカでは、事件後主要紙がパナイ号生存者の目撃・証言報道を連日写真入
りで展開し、パナイ号艦長ヒューズ少佐の報告書や南京アメリカ大使館二等書記官ジョ
ージ・アチソン・ジュニアの報告書、日本海軍機による故意爆撃説を公式見解とした。
アメリカ海軍当局査問委員会の報告書等は、次々に全文掲載した。また、あわせて様々
な情報に基づくフェイクニュース的南京大虐殺の報道も加わったため、アメリカ全土で
は、日本商品ボイコット運動が広がっていった。これは毛沢東がソ連経由で流したもの
も相当あったようだ。また、同日、橋本欣五郎大佐の指揮する第10軍野戦重砲兵第13
連帯が、英国砲艦のレディーバード号及び同型艦のビー号に砲撃を加え、レディーバー
ド号旗艦艦長と領事館付陸軍武官およびビー号に乗艦の参謀長からも抗議を受けている
。そのとき、橋本欣五郎大佐が長江上にあるすべての船を砲撃するように命令されてい
ることを認め、ビー号に乗艦の参謀長が英国代理大使ホーウィに打電しているという。
その命令に関して、『日中前面戦争と海軍 パナイ号事件の真相』笠原十九司(青木書
店)に次のようにある。ーーーー
 橋本が長江上のすべての船を砲撃せよとの命令を受けていたというのは、前日12月11
日午後6時に、南京より退却する中国軍を撃滅するために第10軍が発した丁集団命令
(丁集団司令官・柳川平助中将)であった。それは、
1、敵は十数隻の汽船に依り午後4時30分南京を発し上流に退却中なり、尚今後引続
  き退却するものと判断せらる。
2、第18師団(久留米)は蕪湖付近を通過する船は国籍の如何を問わず撃滅すべし
  というものであった。
これは、中国軍が外国国旗を掲揚して外国船に偽装した中国船に乗船したり、あるいは
外国船を借用したり、さらには中国軍に味方した外国船に護送されて、南京からの脱出
を図っているという情報が日本側に流布されていたことによる。漢口のアメリカ大使館
には、12日の朝のレディーバード号事件に続いて、午後に発生した海軍機による英国
砲艦クリケット号とスカラブ号に対する爆撃事件の経緯も伝えられた。

1331: 名無しさんAA:18/08/25 21:38
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  375 > 
 クリケット豪とスカラブ号の両艦は3度の空襲をうけたが、反撃が素早く行われたた
め、爆弾は至近に落とされたものの直撃弾をうけなかったので、船体に目に見える被害
は受ける事はなかった。そのため、日本軍機の空襲は無線通信によりすぐに漢口の英国
大使館にも報告されたのである。なお、英国汽船黄浦号には、南京から最後の脱出をし
たローゼン書記官ら数人のドイツ大使館員も乗船していて、この日本軍機に爆撃される
という運命に遭遇した。このため、ドイツ外務省は、駐日ドイツ陸軍武官に訓令して、
日本政府に激しく抗議させている。同じ12月12日 米国アジア艦隊揚子江警備船の「パ
ナイ号」の安否をめぐって、南京〜漢口〜ワシントン〜東京の間を電文があわただしく
行き交った。再び同書より抜粋すると、まず揚子江警備隊司令官から中国駐留米軍の総
司令官への作戦情報として以下の電報が発信された。
 ”パナイ号は再び砲火の危険にさらされ、上流への移動を余儀なくされた。ジャップ
はパナイ号の周辺にいるジャンク船や小舟を狙って砲撃しているものと信じられる。午
前9時に、イギリス艦レディバード号が蕪湖のアジア石油施設の近くでジャップの砲列
の攻撃を受け、4発の砲弾が命中し、水兵一人が死亡、数名が負傷した。イギリス砲艦
ビー号も直接の砲火にさらされているが、まだ被弾していない。”漢口のジョンソン・
アメリカ大使はそれまで何度か日本政府・軍部に対して、パナイ号への攻撃を避ける措
置をとるよう要請していた。これを受けて駐日アメリカ大使のジョセフ・C・グルーは
、広田引毅外相を訪問して、ジョンソン大使の電報の抜粋を手渡し、「日本の砲兵部隊
は、長江上のあらゆる船を国籍を問わず砲撃するようにと命令されているというが、も
しも無差別にアメリカ船を攻撃することを阻止しるよう手段を講じなければ、アメリカ
市民も被害に巻き込むという 深刻で悲しむべき事件が起こるであろう。」と警告した
。そのときの広田の対応は事務的で、「すべての外国人は南京の戦闘区域から避難する
ように警告されているはずだ。それでも、あなたの報告は軍当局に伝えておきましょう
」と述べただけだった。すなわち、既に20日以上も前から南京から避難するよう再三
の連絡しても離れないまま、戦争している中国の督戦隊を乗船させて、武器供給などの
公務を行う航行が既に特務員から報告されていた上で、前日にその回避を言っても出来
る物ではなかった。又激戦区になってから一日前に連絡に来る事は全く国際的常識では
なく激戦区にした。というのが正解だった。というのもドイツ・フランスは武器を売っ
て手助けしていくつもの倉庫から証拠品は出て居たし、ロシア・アメリカ表向きは親日
を装い裏では中国民や自国民を裏切って唆しの情報を出していたからだ。それは軍部は
既に戦争方針を固めていたのである。

1332: 名無しさんAA:18/08/26 18:32 ID:2lQ
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  376 > 

 長江上のイギリス砲艦が砲撃を受けたという情報に接して、不安にかられていたジョ
ンソン大使は、この日午前11時、パナイ号のアチソンから「日本軍にパナイ号の位置を
報せたし」と同号の投錨地を知らせる電報を受信し、ひとまず安堵の胸をなでおろした
という。しかし、その電報を最後に、午後1時をすぎてもアチソンからの報告が入らな
くなり、漢口のアメリカ大使館に焦慮の雰囲気がただよった。そして、ついに揚子江警
備隊司令官よりパナイ号からの通信が途絶えたという連絡が入ったのである。ジョンソ
ン大使はただちに、ワシントンの国務長官宛に次のように打電した。
 「揚子江警備隊司令官は、本日、13時35分以後、パナイ号との交信が不能となってい
ます。日本陸軍が江上の船舶すべてに対する砲撃命令を発したとの情報があります。本
日、南京付近および蕪湖にてイギリス艦に砲撃があったことに鑑み、直ちに東京に連絡
し、日本外務省に緊急申し入れを行うこと、また、アメリカ人避難民を乗せているパナ
イ号、およびスタンダード石油の船舶の所在についても通告するよう願います。呉松上
流221マイル地点に投錨、がパナイ号からの最新の報告でした。」こうしてパナイ号
との通信が途絶え、焦慮感ただよう漢口のアメリカ大使館に、不吉な思いをつのらせる
以下の電報が、揚子江警備隊司令官から届いた。「護衛船をともなった英国砲艦クルケ
ット号とスカラブ号は、南京上流12マイル(約19.2キロ)の地点で午後3回にわたっ
て空襲される。18発の爆弾が落とされる。1発が商船に命中したほかは命中弾なし。2
隻の砲艦とも攻撃してくる飛行機に対して発砲した。」と、こうした情報に接した漢口
のジョンソンアメリカ大使は、パナイ号やアメリカの商船にも同様な攻撃が行われ、恐
るべき惨事が発生する可能性を察知し、国務省から日本政府に対して、緊急に予防措置
をとるよう要請してほしい旨の電報を打たせた。「本日午後、英国砲艦スカラブ号とク
リケット号は、外国人避難者を乗せたジャーディン倉庫船と商船黄浦号と一緒のところ
を故意に爆撃された。死傷者はなかった、と報告されているが、倉庫船には南京を避難
したアメリカ人が乗っているので、国務省は緊急に東京に訓令して、日本政府が、今後
このようなことが起こるのを阻止するための命令を出すよう、圧力を加えられたし。本
日、蕪湖の日本軍は、イギリス人に対して、日本軍守備隊は長江のすべての船に発砲す
るよう命令を受けていると言っている。もしも日本軍が、これらの船は友好国のもので
あり、アメリカ人と他の外国人の避難のために用意されたものにすぎないことを理解し
なければ、恐るべき惨事が起こるように思われる。」ーーー


1333: 名無しさんAA:18/08/26 18:32
なければ、恐るべき惨事が起こるように思われる。」ーーー
 こうして ジョンソン・アメリカ大使が、通信の途絶えたパナイ号が災難に遭遇する
予感に襲われ、懸命に防止措置をとろうと外交努力をしていたとき、すでに惨事は進行
していたのである。

1334: 名無しさんAA:18/08/26 18:33
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  377 > 
 東京の駐日アメリカ大使ジョセフ・C・グルーが、広田弘毅外相に対し、中支那方面
軍当局にアメリカ人の生命・財産を攻撃しないように厳重措置をとるよう要請したのみ
ならず、上海のガウス米国総領事も同地の岡本季正総領事にパナイ号の位置を知らせ、
関係方面への通報を要請したという。にもかかわらずパナイ号は撃沈された。これは、
当然アメリカ政府を決定的に怒らせた。勿論米国軍部や石油供給の輸入商社ジャーディ
ン社の武器譲渡などは中国政府要請よりの行動が引き金ではあろうが、アメリカ側には
人道主義内のものと考えていた。しかし国際法違反は明確であり、非常に丹念に隠され
てパナイ号に積み込まれていた。船は、煙突は純黄色、船体は白塗りで、アメリカ艦で
あることを明確にするために、上甲板の前と後の屋上に水平に大きな星条旗を新しく描
き、上空のどの角度からも識別できるようになっていた。また、後尾のポールには、緊
急事態に備えて最大の軍艦旗が常時掲げられいたという。そして、当日は晴天であった
。これらの条件は決定的にアメリカ流の正義を持っていた。だがこの中国ではそうした
事は通用しなかった。例えアメリカ国旗を掲げてアメリカ船舶の装いをしても、中国人
の凶暴な督戦隊の清野作戦で各村々を襲撃し火を放った者を追込み逃げ込んだ避難船で
あれば攻撃するのは当然であったからだ。そもそもがこのパナイ号が居た所は居留地で
は無かった上にわざわざ激戦区に航行に来ていた。長江を遡って来ていたパナイ号のヒ
ューズ艦長は、第10軍国崎支隊木下の永山部隊主隊に発見され、手旗信号で停船を命
じらて、乗り込んできた大隊副官の村上繁中尉とやり取りをしている。村上中尉らは、
パナイ号が「日支交戦区域より避難せるものにして他意なし」という言い訳を聞いてい
る。船内を見て確認できたとして握手をしたのち、またボートに乗って艦を離れたとい
う。その後に、砲撃を受けたために沈没した。沈没しつつあったパナイ号の船内から脱
出して北岸に向かった2隻の救命ボートに機関銃掃射を加えたのは、午前中にパナイ号
に乗り込んだ村上繁中尉の指揮する大発(大型発動艇)であったという。さらに、沈み
つつあったパナイ号に接近し、機関銃掃射を加えた日本軍の哨戒艇が、同じ第10軍の
国崎支隊所属の永山部隊の支隊であったという証言がある。「我々が隠れている湿地か
ら脱出する道を探しているときでした。爆撃機3機からなる日本の飛行隊が、長江上流
の空からやってきて我々の上を飛びました。そのうちの一機が我々が負傷者を隠し、我
々も隠れている湿地の葦原の上を旋回しました。この飛行機の行為や先の日本軍哨戒艇
の行為をパナイ号爆撃という信じがたい事実と結びつければ、日本軍が爆撃の証言者を
抹殺するために、我々を探していたということは疑問の余地がありません。」と証言し
ているのは南京アメリカ大使館二等書記官アチソンである。

1335: 名無しさんAA:18/08/26 18:34
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  378 > 

 こうしてその時パナイ号に乗船していた南京アメリカ大使館二等書記官アチソンが、
証言している事を見るとこの頃から大きな変化があったようだ。他国の事情や国際法を
考慮しない日本軍の強引な軍事行動で、南京無差別爆撃ともいえる南京空襲や南京大虐
殺と同質のものではないかと疑わざるを得ない。パナイ号事件もレディーバード号事件
も、爆撃や砲撃の状況を考慮すると、日本側の「誤爆の弁明と陳謝」は不可解である。
この南京入城時から、日本は急激に変化している事情が阿南が始めた無理な行軍である
。この時の死者数が若者の徴兵を増やして、これまでの国際規約内の戦争が無くなった
と言える。加えてドイツ進軍で、中国にいた軍事顧問団も非情な戦略を立てるに至った
ようだ。不平等条約から50年たって陸奥宗光や小村寿太郎の努力で治外法権と関税自
主権をいち早く勝ち取ったアジアの中の日本が出来た。それが日露戦争後だった。明治
の先人達は多分にその欧米列強の思惑の怖さを知ってた。だがこの上海事変の軍人であ
る者達、とりわけ阿南などの世代はそれをその部下に教える知識や教養が無かったと言
える。戦陣訓が出来た頃から、それが先述の様なものが言えない軍部、正論が言えない
大本営の姿になっていたと思われる。そうした事実を踏まえると、日本は負けて当然で
もある。しかし国際社会も又どんなに日本が証拠と弁論を重ねても中国から離れず武器
を送り続けた。つまり第一次大戦の盟約などは途端に藻屑になっていたのである。中国
政府の罠にかかり、日本はロシアの赤熊とアメリカの白熊に挟まれたのだ。逃げ場はな
かった。日本軍には、既に堪忍袋の緒が切れた状態で、日米決戦は日本と言う国の経済
の尻にも火が付き石油や食糧や鉄すらままならなかったのだ。多くの市民が住む南京の
市街地を、空襲し逃げ延びようとする中国兵のみならず、「殲滅掃討作戦」で戦意を喪
失し武器を放棄した投降兵や敗残兵、さらには避難民をも殺害した事実がある。とされ
る。しかし生き残った日本の帰還兵のある上等兵の証言では違っていた。既に空中戦が
あり、日の丸の双発機がまだ開城前の進軍する前を飛んでいたと言うのである。つまり
偽物の日本機で手や国旗を振る日本兵に機銃掃射をして何人も死んだというのである。
勿論陸上でも多くの中国人の偽装日本兵がいたとされる。それでも、それだけ戦争によ
って死んだ日本兵が死者でも放置されれば身ぐるみはがされて 野垂れて死んで行った
証拠だとも言う。

1336: 名無しさんAA:18/08/26 18:35
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  379 > 

 パナイ号事件の石射手帳にも「海軍省は、戦備考査協議会を組織し……今次事変の推
移を見るに、事変勃発いらいの不拡大局地解決方針による時局収拾は、その望みなきに
いたり、今や対支膺懲の作戦を余儀なくせられ、作戦相当長期に渡り、戦局拡大の算大
なるのみならず、その第三国の動向に対しても 慎重なる考慮を必要とするにいたれり
。」と述べている。つまり既に日本軍は住民に対して非常に不安を持って接していた。
 米国外交官ジョージ・アチソン・ジュニアは、敗戦後の日本の駐留米軍GHQのいた
頃に日本に外交官としてマッカーサーと共に訪日して外交官を行った人だ。1919年に、
カリフォルニア大学バークレー校を卒業し、第一次世界大戦中は兵役を務めたという。
1920年に国務省外交局に入り、中国の北京公使館で通訳研修生として勤務し以降、主に
極東関連の事案を担当している。1923年から1924年まで中国の長沙領事館で副領事を行
っている。1926年から1927年までカナダのノースベイ領事館で副領事をし、1927年から
1934年まで中国の天津領事館で領事となり1934年から1939年まで中国の南京公使館に務
め1935年に大使館に昇格し二等書記官となっていた。こうして1938年から1939年までは
南京外交官地区管理委員長も務めた。 長沙作戦(1941年)の前に1937年12月8日、日中
戦争の南京攻略戦により空襲を受け沈没するパナイ号に乗り込んでいたようだ。この時
既に日本は、第三国人に対して南京からの退去を申し入れていた。アチソンら大使館員
は12月11日に合衆国艦隊の揚子江警備船パナイ号で避難を開始しているがしかしながら
 翌12月12日には、パナイ号は日本軍から空襲を受け沈没しパナイ号事件が起こる。ア
チソンらは大使館員は救助されて、上海に搬送されたが何故か1938年3月11日に、又も
アチソンは南京へ戻っている、その2日後に再び上海へ移動している。つまりアチソン
は帰国をしていない。これは米国の諜報工作員の一人だったとも言える行為なのだ。日
米開戦となって、1939年アチソンはワシントンD・C勤務となり、国務省極東部での内
勤となった。1941年から1943年まで国務省極東部次長となった。1943年から中国の重慶
大使館で参事官となり、1945年に代理公使に昇任する。1945年、アチソンは上長であっ
たパトリック・ジェイ・ハーリー駐華大使の業務命令に違反したとの嫌疑をかけられた
。当時のアメリカ連邦議会では、中国国民党政府を支持する勢力が強くあった。しかし
ながらアチソンはそれに反発し、中国共産党に対する武器貸与援助を提言した一人だ。


1337: 名無しさんAA:18/08/26 18:35
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   380    > 

 アチソンは同様の考えを持っていた極東局長ジョン・カーター・ヴィンセントと手を
組んで、アメリカは中国共産党と良好な関係を築くべきである。と盛んに勧奨した。ア
チソンは、国務長官ジェイムズ・バーンズの擁護を受けたものの、その行動は最終的に
はハーリー駐華大使の要求により自宅謹慎となったとされる。しかし1945年9月7日、ア
チソンは連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの政治顧問として、国務省から派
遣されて訪日した。バーンズ国務長官はアチソンに対して、マッカーサーの動きを監視
する役割も期待したとされる。 ウィキソースにアチソン大使の指示項目の原文がある。
10月8日、元内閣総理大臣近衛文麿、高木八尺博士、松本重治、牛場友彦と大日本帝
国憲法改正に関し初めて会合を持ち、12項目の米国側の改正項目案を示して検討を開
始。 国務・陸軍・海軍三省調整委員会が「日本の統治体制改革の指針」( SWNCC228と
SWNCC228/1)を策定した。とされる。 「日本の統治体制の改革」(SWNCC228)は 1946年1月7日の文書で、マッカーサーが日本政府に対し、選挙民に責任を負う政府の樹立、
基本的人権の保障、国民の自由意思が表明される方法による憲法の改正といった目的を
達成すべく、統治体制の改革を示唆すべきであるとした文書であった。すでに極東委員
会の設置が決定され、米国政府は憲法改正問題に関する指令権を失うこととなり、マッ
カーサーは命令ではなく「情報」の形で伝達された。この後のGHQ草案の作成には「
拘束力ある文書」として取り扱われ、極めて重要な役割を演じた。とされる。米国政府
はこの文書で、改革や憲法改正は、日本側が自主的に行うように導かなければ日本国民
に受容される為、改革の実施を日本政府に「命令」するのは、「あくまで最後の手段」
であることを強調している。1946年に、米国政府に対し、朝日新聞、毎日新聞、読売新
聞など報道メディアに報告を行っている。4月、連合国軍最高司令官総司令部内に外交
局が設置されたことに伴い、外交局長に就任。加えて大使の地位も与えられた。1946年
4月22日からは、マッカーサーの代理として対日理事会議長も務めた。 1947年5月3日、
日本国憲法が公布。7月26日には国務・陸軍・海軍調整委員会(SWNCC)が四省(国務・
陸・海・空)調整委員会(SANACC)と改称した。アチソンは公務でワシントンD.C.へ戻
る時、B-17爆撃機に搭乗して東京を出発したが。アチソンを乗せたB-17爆撃機は途中、
エンジントラブルのためグアムでエンジンの交換し3時間のテスト飛行を行った後でも
クェゼリン環礁を出発して、次の目的地であるハワイ諸島のオアフ島を目指したが燃料
切れによりオアフ島の西方約百キロメートルの地点で墜落した。アチソンの遺体は発見
されず、8月17日に死亡したものと推定された。


1338: 名無しさんAA:18/08/26 19:06
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   380    > 

 アチソンは同様の考えを持っていた極東局長ジョン・カーター・ヴィンセントと手を
組んで、アメリカは中国共産党と良好な関係を築くべきである。と盛んに勧奨した。ア
チソンは、国務長官ジェイムズ・バーンズの擁護を受けたものの、その行動は最終的に
はハーリー駐華大使の要求により自宅謹慎となったとされる。しかし1945年9月7日、ア
チソンは連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの政治顧問として、国務省から派
遣されて訪日した。バーンズ国務長官はアチソンに対して、マッカーサーの動きを監視
する役割も期待したとされる。 ウィキソースにアチソン大使の指示項目の原文がある。
10月8日、元内閣総理大臣近衛文麿、高木八尺博士、松本重治、牛場友彦と大日本帝
国憲法改正に関し初めて会合を持ち、12項目の米国側の改正項目案を示して検討を開
始。 国務・陸軍・海軍三省調整委員会が「日本の統治体制改革の指針」( SWNCC228と
SWNCC228/1)を策定した。とされる。 「日本の統治体制の改革」(SWNCC228)は 1946年1月7日の文書で、マッカーサーが日本政府に対し、選挙民に責任を負う政府の樹立、
基本的人権の保障、国民の自由意思が表明される方法による憲法の改正といった目的を
達成すべく、統治体制の改革を示唆すべきであるとした文書であった。すでに極東委員
会の設置が決定され、米国政府は憲法改正問題に関する指令権を失うこととなり、マッ
カーサーは命令ではなく「情報」の形で伝達された。この後のGHQ草案の作成には「
拘束力ある文書」として取り扱われ、極めて重要な役割を演じた。とされる。米国政府
はこの文書で、改革や憲法改正は、日本側が自主的に行うように導かなければ日本国民
に受容される為、改革の実施を日本政府に「命令」するのは、「あくまで最後の手段」
であることを強調している。1946年に、米国政府に対し、朝日新聞、毎日新聞、読売新
聞など報道メディアに報告を行っている。4月、連合国軍最高司令官総司令部内に外交
局が設置されたことに伴い、外交局長に就任。加えて大使の地位も与えられた。1946年
4月22日からは、マッカーサーの代理として対日理事会議長も務めた。 1947年5月3日、
日本国憲法が公布。7月26日には国務・陸軍・海軍調整委員会(SWNCC)が四省(国務・
陸・海・空)調整委員会(SANACC)と改称した。アチソンは公務でワシントンD.C.へ戻
る時、B-17爆撃機に搭乗して東京を出発したが。アチソンを乗せたB-17爆撃機は途中、
エンジントラブルのためグアムでエンジンの交換し3時間のテスト飛行を行った後でも
クェゼリン環礁を出発して、次の目的地であるハワイ諸島のオアフ島を目指したが燃料
切れによりオアフ島の西方約百キロメートルの地点で墜落した。アチソンの遺体は発見
されず、8月17日に死亡したものと推定された。


1339: 名無しさんAA:18/09/01 21:52 ID:mb2
 このアチソンがパナイ号事件では、殆ど九死に一生を得る様な体験をしている。なの
に又何度も中国に来て更に日本に駐留して国務省の極東局長に座った。これは一体何を
意味して居るのか。又アチソンは国民党軍を推していた米国政府にわざわざ反発して、
中国共産党に対する武器貸与援助を提言している事から共産党員であった事が解る。こ
の当時は米国内にコミンテルンの同志は数多くいたのであろう。第二次世界大戦後半の
1944年の7月に不思議な会議が行われた。場所はアメリカ合衆国のニューハンプシ
ャー州ブレトン・ウッズである。会議名は、非公式の連合国主要国通貨金融会議である
。後に連合国通貨金融会議にそのプランは渡され45ヵ国参加で締結された。世にいう
ブレトンウッズ体制である。1945年に発効した国際金融機構についての協定でこれで、
「アメリカ合衆国ドルを基軸とした固定為替相場制」が決まった。これまでも米国基軸
の変動する為替相場の通貨比率で運用されていた。ここで固定相場のドルペッグ制が決
められた。というのもこれまでの大きな大戦を受けてユダヤ金融家に不安が走っていた
。既にアメリカ国内に世界の金の8割は貯めこめられ、疲弊した各国には金本位制で買
い付けする力が無かったからだ。世界大恐慌により各国がブロック経済圏をつくって、
二度の世界大戦をまねいた反省によって、第二次世界大戦で疲弊・混乱した世界経済を
安定化させる必要があった。つまり自由な貿易経済が阻害されるといつまた同じ戦争が
起こるかわからない危機感があったのだ。資源国はどこも貧困地でありアメリカの製品
を買う相手がいなかったし、それで又国内不況が起こる事を阻止する必要に迫られたの
である。そのため具体的には国際的協力による通貨価値の安定、貿易振興、開発途上国
の開発を行い自由で多角的な世界貿易体制をつくり為替相場の安定が計る必要と、国際
通貨基金(IMF)や、国際復興開発銀行(IBRD)の設立して貸付を行う必要に迫
られたののである。こうしてこれらの組織を創る決定をしこれを中心とする体制を確立
させたのである。ソ連は1944年のブレトン=ウッズ会議には代表団を派遣し、参加
し一時は積極的に動き、国際通貨基金への12億ドルの出資を表明するなどしてケイン
ズを喜ばした。しかしソ連はブレトン=ウッズ協定に調印したが批准を行わず、アメリ
カなどの催促にもかかわらず、結局、IMFにも世銀にも参加しなかった。更にIMF
にいったん加盟したチェコスロヴァキアに対しては、圧力をかけて脱退させたのだった
。その上でソ連は独自に東欧諸国を含むコメコン(経済相互援助会議)を創設し、ブレ
トン=ウッズ体制と張り合った。また外国貿易の国家独占をふまえてルーブル通貨管理
、外貨の国家の独占、関税の強化など、世界経済からの分離を始めて行った。


1340: 名無しさんAA:18/09/02 00:55
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   382    > 

 この国際通貨基金IMFと世界銀行が誕生した時のブレトンウッズ会議は、イギリス
代表が経済学者のフェビアン社会主義者のジョン・メイナード・ケインズだったのに対
して、米国代表はハル・ノートの作成者、財務次官のハリー・デクスター・ホワイトだ
った。又この会議の主催者でこの会議を取り仕切ったのが、米国財務長官のヘンリー・
モーゲンソーJr.と言う異例であった。ヘンリー・モーゲンソーJr.は、日独に苛酷な
賠償請求を課した事で知られモーゲンソー・プランの提唱者で、父親はロスチャイルド
一族の銀行家ゴールドスミス家、母親はロスチャイルド一族の鉱山王だったグッゲンハ
イム財閥の出身という人物である。彼らは各国代表と言いながらも私的会議だったが、
それでも絶大な権力を持っていたのかIMFの設立資金88億ドルのうち、アメリカは
27.5億、イギリス13億、ソ連12億、中国5.5億、フランス4.5億、インド
4億を拠出させて、アメリカが全体の3分の1を占めて設立されている。1973年に
国際通貨制度が変動相場制に移行してからは、加盟国の国際収支の不均衡を是正したり
、発展途上国への支援したりするための融資を主な任務として機能させている。国際復
興銀行(世銀)の方は国際連合の専門機関の一つとして世界大戦後の戦後復興に必要な
長期性の資金を融資する機関として設立され、その資金の多くはアメリカに依存した。
 日本は1952年に国際復興開発銀行(世界銀行)に加盟し、1953年から66年
の間に合計31件、8億6290万ドルの融資を受け、電力・鉄鋼などの重工業の復興
に充て、60年代には高速道路や新幹線の建設に充てた。1990年代には世銀借款を
完済し、現在では日本は世銀に対するアメリカに次いで多く出資している国になった。
今では戦後復興よりも1960年代から開発途上国への融資などで役割を果たすように
なったが、実はこうした貸付環境を良くしても、戦後復興には二度の大戦とその間を通
じ、欧州に工業製品などを輸出し続けて儲けたアメリカに、工業生産が集中して存在し
ていた。通貨がドルが世界の貿易決済通貨として使われる体制を決めたものの、欧州な
どのアメリカ以外の国々は、金も工業設備もないので何もアメリカに頼るものがなく、
ドルを得られないのでは輸入も輸出もできなかった。こうしてとりあえずは無償提供の
人道援助から始まっていた。ソ連も代表団を派遣して会議に参加し協定に調印した。が
しかし拠出に当たり、最終的に国内批准はせず、割り当て出資を拒み、IMFには参加
しなかった。その上先にIMFに参加したチェコスロバキアに圧力をかけ脱退させて、
同じ仕組みの、東欧諸国によるコメコンを設立した。国内を納得させる事が不可能と決
断したのである。又ここで世界政府が出来てソ連は下部につく事は許せなかったのだ。

1341: 名無しさんAA:18/09/02 00:55
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   383    > 

 世界はドルを貿易決済通貨とするブレトンウッズ体制に切り替わったのだが、世界の
金と工業設備の多くがアメリカに集まり、そのアメリカの通貨が世界の貿易決済通貨と
して使われる体制下では、欧州などアメリカ以外の国々は、金も工業設備もないので何
もアメリカに拠るものがなく、ドルを得られないので輸入もできなかった。制度が始ま
って3年後の1947年には、ブレトンウッズ体制は世界の貿易振興や経済発展には、
役立たないことが明らかになった。世界の富の大半がアメリカに集まり、他国より工業
生産が発展していたという状況を考えれば、確かに他の国が輸出をしてドルを手にし、
世界にドルが流通することは考えにくい。アメリカは考えたのだろう。ドルを貿易決済
通貨にして世界経済を発展させるには、アメリカ国外の世界で流通するドルの量を増や
す必要がある。外国にドルを流出させるには、アメリカは意図的に輸入や経済援助を増
やし、国際収支を赤字にしなければならなかった。この問題を解くため、最初にアメリ
カがやったのは、当時ちょうど始まったばかりの「冷戦」を口実にした、西側諸国への
気前良い「経済援助」だった。その代表は、西欧諸国に対する巨額の経済援助「マーシ
ャルプラン」(欧州復興計画、1947−51年)であり、日本に対しては朝鮮戦争(
1950−53年)に際しての軍事特需や、ソニーやトヨタなど日本のメーカーに対す
る技術提供であった。「欧州や日本の共産化を防ぐため、アメリカからの巨額の経済援
助が必要だ。」という説明が考案された。ケインズはフェビアン社会主義者で、ホワイ
トは国際共産党主義者で、社会主義者と共産主義者が協議して戦後の“資本主義体制”
を決定するという実に不思議な会議は、フェビアン協会が卓越した知識人の協会だった
から集められた会議とも言える。フェビアン協会は1884年1月4日にロンドンで設立され
た。和名は「改良社会主義」と訳されていて社会主義草創期に新生活友愛会と言う支部
が出来て、清潔で単純化された生活の模範を示すことで、ゆっくりした社会変革をしよ
うとした機運にあった。しかし、個人の精神生活に籠ろうとするグループと、社会改革
に携わろうとするグループがあり、後者のメンバーがより政治的な団体を別に作ろうと
した結果、フェビアン協会の創設が決まった。さしずめ日本はその前者の方の発展形か
も知れない。設立後、数々の著名な社会主義に魅力を感じた多くの知識人が入会しメン
バーとなり、ステータスの様に見えた。このグループは革命的ではなく、むしろ緩やか
な変革を志向し、漸進的社会変革や教条主義的マルクス主義に対抗し、暴力革命を否定
しそうしたものをした抑制思想や運動をフェビアン主義とされた。

1342: 名無しさんAA:18/09/02 00:56
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   384    > 

 このフェビアン社会主義の目指すものは、今の中国の様な意味不明の理想郷である。
それは、土地と産業資本の共有化を目指すなど社会主義団体としての綱領を明確にして
いるからだ。中国社会は、少なくともこの要綱に於ける企業資本と土地に関して個人の
所有は認めていない。フェビアン社会主義の特色のひとつである、レント(地代)論が
ある。これはリカードの言う比較優位理論の骨子を援用し、土地・資本・技能における
比較優位から得られる超過利潤は社会的に共有されるべき、という主張からだが、少な
くとも良い方向の管理社会で余剰利得の個人所得を認めない。と言う事では日本の税制
も似て居たと言える。ここにあるのは世界政府と言う思想に近い物だった。ケインズも
ホワイトもリトアニア移民のユダヤ人の息子だったらしく、常に領土紛争の餌食になっ
て紛争が絶えなかった為、土地と言うものを最初から独占物とさせない思想を訴えたの
かも知れない。その上でその領土の特殊性で得られる富を公平に分配すると言う主義を
尊重したのであろう。だが、不思議にもそれは日本の江戸幕府の考え方と同じだった。
違っていたのその経済に対する精神性だったのだろう。江戸時代の幕府にしろ藩主にし
ろ巨大な権力を持っていた。だがその土地も資本も技能も恐らく直ぐに無駄になる地域
性をもっていたのである。それが地震や津波や火山や豪雨といった自然災害の多い国の
特徴だったのだ。更にその超過利潤の再配分は、徳川氏の、目利きの効くように行った
参勤交代や江戸城に婦女子を住まわすと言うしきたりを置いたものだった。これによっ
て図らずも再配分となり、金の産出する所や海外交易の場所を幕府直轄として領地差を
少なくしたのである。ところがこうした思想は人や社会を管理する事で成功する。江戸
期も随分と試行錯誤して御犬様で有名な徳川綱吉の頃にやっと精神性が出てきて朱子学
や道教などでやっと人がまとめられたのが現状のようだ。荻生徂徠はそうした江戸元禄
期の享保年間に出た儒者である。古文辞(こぶんじ)学派を作り、名は双松(なべまつ)、
字は茂卿、通称は惣右衛門(そうえもん)とされる。徂徠は号で物部氏のの家系の出とい
い「物徂徠(ぶっそらい)」と称した。父は徳川綱吉の侍医。江戸に生まれ14歳の時に
「四書大全」などを学んで江戸に戻り、柳沢保明(やなぎさわやすあきら)に仕えている
。将軍綱吉の学問相手も務め,赤穂浪士処断の時「法にのっとり厳罰に処すべき」と献
言し有名である。1709年江戸茅場(かやば)町の自宅に家塾園(けんえん)を開いて、山県
周南、安藤東野、服部南郭、太宰春台らの門人を育てて、徂徠の学問は宋学や山鹿素行
伊藤仁斎の復古学の影響を受けながらも、批判し古文辞学による六経(りくけい)の正確
な理解を通じて新たな儒教体系の確立したと言われる。今の中国に聞かせたい偉業である。

1343: 名無しさんAA:18/09/02 00:56
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   385    > 

 終戦からの1945年から47年まで、英米は敵国だったドイツや日本が国力を復活
しないような方策の策定だった。特にドイツには、主要な鉱工業の生産量に上限を設け
て経済成長を阻害させた。しかしソ連の「IMFの政策は、計画経済と対立する」とし
ての、IMF不参加で結果、ブレトンウッズ体制は資本主義世界(西側世界)だけでの
スタートとなった。この頃疲弊したイギリスも、ブレトンウッズへの参加に迷いを見せ
ていた。その為アメリカは、イギリスへの200億ドルの武器貸与額の帳消しと、37
.5億ドル の借款供与でようやく参加を認めさせた。英国はV2攻撃によって国内産業
は早いうちに壊滅し微々たる生産で対抗していた。これに米国の武器支援が累積で20
0億ドルにもなっていたのである。又アメリカは、1948年に国際貿易機構(ITO
)を結成しようとしますが、多くの国が同意しませんでした。そのため、暫定的な措置
として、GATTが23カ国の参加で結成されます。GATTは、「最恵国の待遇」や
「内国民の待遇」を原則に据え、貿易の数量制限の撤廃と関税率の引き下げを目指すも
のだった。その後GATTは、1995年にはWTOに衣替えをして、国連の一機関と
なって存在した。このIMF、IBRD、GATT、ゴールドとドルの兌換制をまとめ
て、『ブレトンウッズ体制』と言う。この体制が戦後のアメリカの経済力に大きく寄与
した体制だったが最初は機能しなかった。その為マーシャルプランの導入を機に、これ
まで敵国条項で抑止政策していた日本やドイツの投資禁止が廃止され、政策は180度
転換し、西ドイツや日本に対する気前の良い経済援助、技術援助が開始された。元々、
世界のウラン鉱山のほぼ全てを独占するロスチャイルド財閥の配下で軍需産業関連会社
が、大戦後に予定されていた米ソの二大国間の核軍拡競争と原子力産業によって、原料
や技術供与からくる莫大な利益を見込んで、核の脅威を世界に示した後の商売を見据え
た会議の必要があった為だ。という真相だった。よく巨大金融資本とは、ワンワールド
構想で勇名な「フリーメーソン」とも言われるが戦後に幅を利かして冷戦に飛び回った
事は確かなようだ。代表的プレイヤーのキッシンジャーはその回顧録には苦悩をしたた
めている。日本に於ける戦費は、天皇の口座によって戦争のための兵器購入資金を敵国
である米国ディロン・リード銀行から「借り入れ」ていた。ディロン・リード銀行社長
は、J・フォレスタル国防長官であって、「日米安保条約」を策定した親日家だった。

1344: 名無しさんAA:18/09/02 00:57
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   386    > 

また、副社長は陸軍次官のウィリアム・ドレーパーだった。ある意味アメリカ国防長官
が社長を兼務している銀行が、敵国である日本軍の総指揮権を持つ天皇に戦争資金を貸
し付けていた事は異常とも言える。こうして貧相な日本軍の兵器購入資金は天皇口座の
一部がスイス銀行に莫大な財産を蓄積した事で賄えた。このディロン・リード銀行の親
会社はブッシュ一族のカーライル軍事産業専門投資会社であり、ブッシュ一族が経営す
る銀行がハリマン銀行であった。第二次世界大戦の戦費がアメリカの、ディロン・リー
ド銀行・ハリマン銀行・カーライル投資会社から出ていた事で、海軍の軍船は建設中止
は仕方なかった。こうした立場の天皇は、戦後に戦争責任を問うことは別問題だったが
、東条英機以下軍部が全ての責任を負うという東京裁判に、天皇を犯罪人で決着させる
事は困難だったといえよう。江戸の黒船来航と明治開国期から既にディロン・リード銀
行やハリマン銀行の日本の代理人は天皇を指定していた。彼らが、マンハッタン計画に
おいて、ディロン・リード銀行の社員として現場で核兵器開発を指揮したデイヴィッド
・カーママンを通じて海軍基地の、広島、長崎に投下する事を示唆した。とされている
。彼らが核兵器製造の専門家であると同時に、ニューヨークでディロン社の兵器を販売
する「死の商人」の商社カーママン&ウィットキンを経営していた。このカーママン&
ウィッキン社は、カーママンと昭和天皇が共同で設立したメキシコ原油の掘削会社の筈
が、いつの間にか兵器商社に変わっていた。ウィリアム・ドレーパーは、大学卒業直後
に米国陸軍に入隊し、第一次世界大戦中は歩兵連隊の少佐として戦い、終戦後は予備役
なったが後に第77歩兵師団の参謀長(1936年〜1940年)にまで昇進し、同時にニューヨ
ークのナショナル・シティ・バンク(1919年〜1921年)、バンカーズ・トラスト(1923
年-1927年)、ディロン・リード(1927年-1953年)と渡り歩いている。1937年ディロン
・リード(戦間期の米国で数百万ドルのドイツ産業の債券を引き受け投資銀行)の副社
長に就任した。しかし、優生学の支持者であったドレイパーは、ニューヨークの米国の
自然史博物館で開催された第3回「国際優生学会議」(国際優生学会連盟主催)を後援
し、許しがたいドイツのユダヤ迫害に資金提供している。日本とアメリカが戦争すれば
するほど、ディロン・リード銀行が儲かる仕組みであり、ディロン・リード銀行の株主
となっているベクテル社は、世界最大の核兵器原料メーカーで近年の福島原発の汚染水
問題でも研究者を派遣した。このベクテルはパパブッシュが経営している。

1345: 名無しさんAA:18/09/02 00:57
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   387    > 
 マーシャルプランは、1947年に米国務長官ジョージ・マーシャルが発した宣言的
な演説によって始まったが、ハーバード大学で行われた演説を聞いたのは、欧州のジャ
ーナリストらが中心で、欧州、特にイギリスでは大々的に報じられたが、米国内マスコ
ミではあまり報じられなかった。ホワイトハウスはこの日、トルーマン大統領の記者会
見を行なっていて、国内マスコミの目をそらした形になった。米国内に知らせないよう
にしたのは、議会や世論から、対外援助の大盤振る舞いを無駄遣いと批判され、計画を
潰されかねない恐れがあったからと言われる。思惑通りに1950年代以降、ドイツや
日本は、アメリカからの経済援助と技術支援、巨額の買い付けによって、急速に経済力
を回復し、対米輸出を増やし、ドル備蓄を増やして行った。米政府はまた、冷戦を口実
に自国の防衛費を増やして、世界中に米軍基地を置き、海外で駐留費を使いまくった。
終戦時には大きな黒字だったアメリカの国際収支は、1958年には赤字になり、その
後は日独などからの輸入が増えて行き、経常収支も赤字となった。1972年代には、
ユダヤの金融の長であるデイビッド・ロックフェラーは、オランダ王室ビルダーバーグ
会議への日本の参加を打診した。しかし昭和天皇は断られたため、ズビグネフ・ブレジ
ンスキーに日本が加わる会議の創設を提案した。この時宮沢喜一、大来佐武郎らを招待
した勉強会が開催され、翌年の1973年10月に「三極委員会」が誕生したといわれる。そ
の後昭和天皇に拝謁して、米国が管理していたロスチャイルド銀行の天皇家の口座や、
スイス銀行の口座をそのままにしておく事を懇願しに来たとされる。1965年からの
ベトナム戦争の出費大幅増に加え、米国内での「偉大な社会計画」の、貧困対策の出費
などで、米政府のドル増刷に拍車がかかり、経常赤字増加で、アメリカからの金の流出
はついに止まらなかったからだ。1971年には、米政府はドル発行総額の22%分し
か金を保有していない状態になり、ニクソン大統領が金とドルとの交換停止を宣言して
「ニクソンショック」を引き起こし、ブレトンウッズ体制を終焉させてその処理に銀行
は天皇家の資金が必要だったのである。2007年にも来日、回想録の出版記念会が都内の
ホテルで催され、出版記念サイン会が催された。この時のデイビッド・ロックフェラー
の来日はシティグループがサブプライム問題で大きな損失を被ったことで天皇に会いに
きたとされる。デイヴィッド・ロックフェラーのオフィスには150000人の名刺を納めた
ローロデックスがあるが、その中には世界の政財界の要人4万人の「銀行外交官」と称
される親交ある人達がいる。その中の斎藤邦彦(元駐米大使、元外務事務次官)はロッ
クフェラー宅で甲虫類のコレクションを見学しているが、民間人として天皇を自宅に招
いた唯一の人物であるという。

1346: 名無しさんAA:18/09/02 00:58
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   388    > 

 アメリカが赤字を拡大し、世界にドルを流出させ世界経済は成長させた。貿易量は増
え続け、同時にドルの刷りすぎ状態で、国内にインフレや金相場の値上がりが起きた。
ブレトンウッズ体制は金1オンス35ドルの固定相場制であった為、相場を維持するに
は、ドルをアメリカの金保有量に見合う限度の発行量にとどめておく規則が必要だった
。しかし実際にはドル発行量の規制は何もなく、ドルはアメリカの金保有量に見合う額
を大きく超えて増刷され続けていたのだ。ロンドンの金相場(自由市場)は、1960
年代から1オンス40ドルを超えて値上がりし出していた。この状態で各国政府は、手
持ちのドルを米政府に持ち込んで金に替え、それをロンドンで売れば利益が出る状態に
なっていて盛んにピストン式の利ザヤ稼ぎをしたのだ。アメリカは日独などにドルを金
に替えないようクギを差したが、1965年からはベトナム戦争の出費大幅増に加え、
米国内での「偉大な社会計画」(Great Society programs)と呼ばれる貧困対策の出費
などで、米政府のドル増刷に拍車がかかったままで、一向に変化がなく経常赤字は増加
し続けた。アメリカからの金の流出も止まらず、ついに1971年には、米政府はドル
発行総額の22%分しか金を保有していない状態になり、ニクソン大統領が金とドルと
の交換停止を宣言して「ニクソンショック」を引き起こし、ブレトンウッズ体制が終焉
した。この時キッシンジャーは中東に飛び中東のオイルマネーをドル建てとして行く確
約をとり一番の購入者の日本に了承を求めていたのである。ニクソンショック前のアメ
リカの状況は、今のアメリカの状況と良く似ていて、当時ベトナムの戦費や財政の大盤
振る舞いによってドルの信用不安が起き、1972年のニクソン訪中など世界の政治体
制の「多極化」が推進されていた。今はイラクの戦費や、テロ対策・ハリケーン被害、
復旧費などの財政の大盤振る舞いが行われ、ドルの信用不安が起こり、同時にロシアや
中国の台頭をアメリカが容認し、世界の多極化が推進されている。歴史は繰り返されて
いるとも言える。ブレトンウッズ体制の、基軸通貨のポンドからドルへの移行は、単に
覇権国イギリスが崩壊してアメリカに覇権が移ったわけではない。イギリスの覇権維持
のために、アメリカを利用する体制を作っていた。それが先の金交換である。これを裏
で画策したのが、金融資本家=金貸しだった。金融資本家は、当時の覇権国イギリスを
2度の戦争に陥れたが、次の覇権国アメリカを利用してより磐石な覇権(米英中心主義
)を握り中央銀行の発行権を得ている。そして、その中心はロスチャイルドであった。
当時アメリカ資本を握っていたロックフェラーとの力関係については、ロックフェラー
はロスチャイルドと縁戚となりの手下となって協働していた。

1347: 名無しさんAA:18/09/02 00:59
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   389    > 

 よく第二次世界大戦で話題なのは、極悪非道のナチズムの台頭とされる。しかし現実
には一番ひどかったのは共産主義の台頭であって、ナチスと言う社会主義正義党はソ連
の赤軍の様に、暴力革命を起こしていないし暴力革命を支持もせず国民の反共産主義の
中から自国防衛に出来て民主的に選ばれたヒットラー政権であった。更に間違えてなら
ないのは、そのソ連の共産主義を応援したのはユダヤの代理人となっていたチャーチル
でありフランスの保護の為にドイツとソ連との対立で消耗戦を期待したイギリス国民で
あり、独国VS仏国では仏国に味方し独国VS露国では露国を味方した。こうして囲わ
れてしまった独国人にとって活路は南下政策しかなかったのである。しかし日本では、
こうしたフランス戦争の頃に開国したと言う、実に運のいい開国であり、中東のオスマ
ン軍が露国や英国と戦って居る頃で。大英帝国が世界の植民地に手一杯で日英同盟が出
来た。欧米から言えば日本はまだよちよち歩きの幼児のようなもので、第一次世界大戦
すらも国としては幼稚園の幼児が重たい鉄砲を持って世界大戦に出かけて、英国の様な
大人の後ろをついて行くような有様だった。日本が自立しようとしたとき一番中国と違
ったのは金融の独立が図られた事だろう。日本の金融制度は徳川幕府の金塊から始まる
。新たに出来た明治政府には、各藩が所有していた保有する資産しかなかった。日本は
、英国や仏国米国と戦争した長州と薩摩の賠償金に追われ、徳川埋蔵金しか頼れる物は
なかっただろう。薩長土肥の新政府において薩摩のみが金を持っていた。対外交易、つ
まり密貿易で貯めていた。しかし薩英戦争での膨大な賠償金で借金財政となるところを
支払い拒否続けて徳川幕府が仕方なしに代理支払いしていた。この為薩摩と長州は、ど
うしても徳川氏を政権内の末席にでも、旧幕藩の首領を入れる事は出来なかった。統合
紙幣で中央銀行券の発行が待たれた時、日本銀行設立に新政府は動く。創設時には薩摩
財政を担っていた松方正義に預けられ、金融制度の中枢であるスイスユニオン銀行の、
バックアップを求めた。スイスのチューリヒおよびバーゼルに本拠を置くスイス最大の
銀行で、当時から世界有数の金融持株会社ではあったものの、1862年設立当初はスイス
興業の為のスルザー家拠出で出来た五百万フランの資本金の小さな民間投資会社でしか
なかった。。今では1998年のスイス銀行コーポレーションなどをスイス・ユニオン銀行
との合併した「UBS」が正式社名となり、スイス銀行のシンボルマークである3つの
鍵がブランド登録された銀行になっている。

1348: 名無しさんAA:18/09/02 00:59
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   389    > 

 1877年に渡欧し、1878年3月から12月まで第3共和制下のフランスのパリ
に滞在して、時のフランス蔵相のレオン・セイとの会談にこぎつけた。この事から次の
3つのアドバイスを受けて実行している。1.日本が発券を独占する中央銀行が権利を
持つべきである。2.フランス銀行やイングランド銀行は参考にならない。3.最新の
ベルギー国立銀行を例として精査するべし。というものだ。その後フランス滞在におい
てレオン・セイの紹介で、フランスのアルフォンス・ロスチャイルドと会見している。
アルフォンス・ロスチャイルドは1827年にロチルド家(ロスチャイルド家)の始祖であ
るマイアー・アムシェル・ロートシルトの五男(末子)のジェームス・ド・ロチルド男
爵の長男としてパリに生まれている。ロシア皇帝が作った東インド交易の株式会社配当
で大儲けして1870年5月にアルフォンスは皇帝ナポレオン3世に召集されてワイン産業に
投資して住み着いていた。しかし、スペイン王位継承問題で普仏関係が悪化する中では
普仏関係の調停を英国にするよう働きかけてほしいと依頼されていた。ロチルド銀行を
を継承した頃に普仏戦争が勃発し、プロイセン軍のパリ包囲戦中、アルフォンス所有の
フェリエール宮殿もプロイセン占領軍に大本営として接収されたが、ヴィルヘルム1世
が一切の略奪を禁止し、鉄血宰相ビスマルクが入城した事で難を逃れた。この時既に、
英国に資金を移していた事もあって、パリ包囲戦中は、ロンドン・ロスチャイルド家の
協力も得て、飢餓にあえぐパリ市民に食料を届ける救援活動に尽くしたと言われるが、
恐らくはこの救援活動こそが資金や貴金属の移動であったのだろう。フランス銀行理事
であった事で、プロイセン政府との交渉にも活躍し、その後代々継いで松方正義に会っ
ていた。鉄道投資でロシアとも繋がりのあったアルフォンヌは、1883年には財政困窮に
陥ったロシア帝国政府の公債発行を引き受ける代わりに、バクー油田の中でも最大規模
のバニト油田をロシア政府よりもらい受けている。バクー油田の開発を進めている。そ
の後縁戚に当たるアルフレッド・ノーベルに資金提供して開発を進め、大成功を収めた
。専用列車で鉄道旅行するのが趣味だったといい、ルネサンス期の金工品を収集してい
た。慈善活動も熱心に行い、フランス全土に博物館や役所、学校を寄贈している。寄贈
を行った市町村の数は二百にも及ぶ程でフランス文化を憂い、芸術家の保護に熱心だっ
たと言われる。

1349: 名無しさんAA:18/09/02 01:00
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   390    > 

ベルギー国立銀行(BNB:ベルギー ナショナル バンク)ベルギー国有国際銀行は
、ベルギーがまだネーデルラント連合王国の頃、1822年にソシエテ・ジェネラル・ド・
ベルギーという総合商社の会計部門として立ち上がった。ウィレム1世が発起人であり
、彼と関係者が株式の大部分を保有した。この会社は大掛かりな抵当貸付を営む一方、
政府銀行家として国債を発行し、中央銀行としての発券や、貯蓄銀行の資金を預かりを
していた。しかし1835年、対抗して民間用にベルギー銀行をチャールズが男がつくった
がベルギー銀行は、ジョン・コックリルと組んで、ベルギー総合会社とロスチャイルド
が計画していたパリ=ブリュッセル鉄道の利権を奪った。コックリルは羊毛屋だったが
1817年1月にウィレム1世から工場建設の為のスラン城をわずか4.5万フランで払い下げ
てもらい、手広く商売を行い、羊毛・染色、精糖、各種鉱業と製鉄・機械におよび、オ
ランダ・フランスにも投資をする一大コンツェルンを築きあげて居た。両社は共に手形
の応酬や株式発券などでライバルを潰そうとした戦いを繰り広げていた。しかし国王排
除の1848年革命では、ともにデフォルトしてしまっていた。この救済にベルギーは双方
の銀行券を法定通貨として認め、元法務大臣のフランソワ・ド・オシー卿を初代総裁と
して国立銀行とした。第一次世界大戦ではドイツ帝国に占領されたが、10億ベルギー
フランをこえる銀行券を発券して、フランス、ベルギー、イタリア、スイスを原加盟国
とする通貨同盟の中心であった。景気循環を入れた為替レートを決めたり、参加国の金
為準備・金為替両方の制度をつくり一貫した口座振替制度を牽引してきた存在だった。
フランス銀行の正貨準備高は25%も跳ね上がり、正金の余剰が生まれ、比較的少額決済
に使われた銀硬貨が都市部で相対的に希少となったのだ。名目の市場原理が、実際には
農村部の残存銀へ投機を追認した変動価格の金本位制および産業資本が此処に生まれて
居た。しかし、ロスチャイルドら東アジア貿易を重視して金銀比価を固定した(金銀複
本位制)を主張する金融資本とが対立した構図にあった。しかし歴史上この通貨同盟は
古くから投資し後ろ盾となり、スラブ通貨同盟や北欧通貨同盟、中東通貨同盟、アジア
通貨同盟、と世界を決める通貨価値の決定権を持っていたのである。しかし普仏戦争に
敗れたフランスは50億フランの対独賠償債務を背負い、フランス銀行が兌換停止とな
り、大不況で減価した銀が通貨同盟圏に押し寄せた。1878年にはラテン通貨同盟全体が
、目的を失って銀貨の発行を停止し変化した。この事はオセアニアをふくめた東アジア
貿易での銀貨による支払いが倍増したロスチャイルド系の投資銀行も又影響を受けた。

1350: 名無しさんAA:18/09/02 01:00
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   391    > 

 こうして、ベルギーの中央銀行は、欧州中央銀行制度に参加していて日銀のモデルと
なった。松方正義は明治維新後には、独自通貨ベルギー・フランを発行していたこの姿
や会計処理を真似て日銀を作った。国立銀行の設立時に通貨発行権をベルギー総合会社
に譲った歴史をもっており、現代へいたるまでの経営史も他行との関わりにおいて興味
深く、ベルギーの中央銀行を真似て、天皇家や各藩の男爵や伯爵家の持つ地方銀行や更
に三井や三菱や海外資本に銀行部門を作らせ彼らからその資本である株式を持ち合いし
て不足分を海外から供給すると言う負担の少ない方式でスムーズに出来あがった。この
時横浜に出て来ていたのが、みなとみらいに銀行業務発祥の地とした、英国系金融機関
HSBCグループの香港上海銀行は,創業2年目の1866年(慶応2年) 居留地62番に、
日本で初の支店となる横浜支店を開設した。その後, 居留地2番(現山下町2番地)に移
転した横浜支店は貿易金融業務の提供に留まらず、日本政府に対して銀行業や通貨制度
に関する助言も行いました。香港上海銀行は、現在日本で営業を行っている最も古い銀
行です。日本で一番最初の銀行は 明治6年創立の 「第一国立銀行」とされ、日本橋に
発祥の地のプレートが飾られている。これは「日本の資本による銀行」の意味だという
。つまり銀行の文字が作られたのは、この第一国立銀行からだ。それまでは両替商であ
り、外国資本はあくまでも銀行業務を行ったに過ぎない。ところがその銀行業務は実は
日本初は長崎のグラバー商会が最初である。この商会業務そのものが日本最初であり、
商会と言うのが物々交換の中の会計処理を示している。つまり古物商の質屋と同じに、
輸出入品を預かっていたのである。知っての通り、幕末の騒動期には佐賀鍋島藩や薩摩
島津藩更に幕府直轄で反射炉が出来て、輸入品か国産品かが紛らわしく長崎からの輸入
も見つかり難かった為に摘発は無かったものの、基本的には幕府許可が出ない品々では
密貿易と言う他はない。ただ長崎では今の長崎造船所で日本初の機関車が走っている様
に長崎出島付近では既に便利な南蛮品は長崎奉行の責任で認めていた様だ。しかしこの
グラバーも横浜に本社のジャーディン・マセソン商会やサッスーン家が乗り込んで来る
に至っては支店のグラバー商会は手も足も出なかった。こうしてその後見人としてこの
ロスチャイルド家4代目当主アルフォンス・ロスチャイルドは、それに乗って出資や株
券の保証に同意した。だが日本政府には厳しい制限があった。当然日銀を設立した松方
正義はそのために国立銀行条例を改正し、国立銀行から貨幣発行権を奪って日銀総裁を
置いた。

1351: 名無しさんAA:18/09/02 02:20
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   392    > 

 それは諸大名だった伯爵家には全く憤慨するものだった。各藩内の流通や会計の融通
に銀行を設立させ、その銀行発行券や今までの藩札が見る間に只の紙切れになったのだ
。その上その中央銀行の設立に買わされた株券がそのまま日本銀行券と引き換えられて
、覇権国とのカウンターパートの関係者で押え、ロスチャイルドのカウンターパートに
なって株券譲渡に及んで今までの発行権限は無くなり、日銀券発行権限も各藩の銀行が
株券を持っていながら外されたのだから。これが日本の金融史上、重要なポイントで、
新政府にとっては仕方のない事だったのである。貨幣発行権を奪われた各藩の公立銀行
は期限内に私立銀行に転換させられた。こうして日銀券の流通により、江戸時代の「藩
札」以来の地方通貨は姿を消し、日本の金融は日銀の支配下に入ったのである。この時
に要になったのは、その制度が金本位制とした事だった。金と紙幣との兌換制度を確立
することによって、それまでバラバラに発行されていた紙幣を統合した。この為各藩や
産業の長であった財閥はこぞって閉鎖された金鉱山や銅鉱山或いは石炭鉱脈に力をいれ
資本投下をそうした鉱山運営に注いだ。この時、三井組と小野組を中核にして設立した
「三井小野組合銀行」の後身「第一銀行」は大量の日本銀行株を保有していた。従来、
三井も小野も互いに同様の営業を為していたがこれら富豪を含めなければ、新しい事業
に邁進できないとして、かねてより井上馨、渋沢栄一紙幣頭、芳川顕正紙幣権頭の尽力
により2社を纏めたものとして作られた。払込資本金244万円。今の価値で244億
と考えて良い。初代頭取には、大蔵省の内紛から 下野していた渋沢栄一が就任した。
又日本銀行創設以前にちゃっかり紙幣発券が認められており、発行する銀行券は金貨と
の交換を義務付けられていた。また、日本初の株式会社でもある。行章は「二重星(ダ
ブルスター)」であった。陸羽の物産と上方の物産を交易していたとされる小野家は、
、上方から木綿・古手などの雑貨を運び、奥州から砂鉄・紅花・紫根を上方に送って、
物産交易を営み財を成していった。江戸後期には幕府の「金銀御為替御用達」となり十
人組に加入し、御為替名目金を自己の営業資金に流用し、京都では和糸・生絹・紅花問
屋を、江戸では下り油・下り古手・繰綿問屋、盛岡では木綿商・古手商・酒造業を営ん
でいた。小野江戸の小野組は、日本橋本石町(現日本銀行敷地内)に為替会社を置き、
日本橋田所町に油店を持っていた。盛岡紺屋町の井筒屋の小野善助の時代に明治新政府
が出来たが全国に支店を置いたこの商店は分社化を決定し、京都府庁に転籍を申し出る
に至っていた。

1352: 名無しさんAA:18/09/02 02:21
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   393    > 

 小野助次郎は神戸へ、小野善右衛門は東京への転籍を希望したが、京都はその届出を
処理しなかった。小野組は当時既に全国28の支店を持つ大商人であって、租税収入の
減少と献納金の喪失は京都府庁には受け入れがたかったからだ。ここに国と藩の確執が
あった。直ぐに小野一族は小野組として転籍の許可を求める裁判に至った。しかし京都
の裁判所は裁判を行おうとしなかった。当時江戸に本拠地を変更していたが、後藤新平
は巨大資本と役所の馴れ合いを許さず京都裁判で、明治新政府内の長州閥と薩摩閥の争
いに巻き込まれる事を恐れていた新政府は京都府に許可の受入れを説いていた。当時の
明治政府は封建体制の範である移動の禁止を否定していたことから転籍の許可はスムー
ズに行われる事は原則だったが宮家の権利も絡んでいたのである。行政と司法の癒着に
激怒した司法卿江藤新平は直ぐに北畠治房を派遣し小野組の戸籍の送付を命令したが、
それでも事は進まなかった。京都裁判所はこの京都府の対応を見て、受け入れを迫ると
ともに命令に服さない場合は六円の賠償金を知事と大参事に納付するよう命じた。それ
でもなお、京都府は前回と同様の理由で速やかな対応を拒否した。さらに征韓論を巡る
一連の事件によって江藤新平が下野し、事態はますます膠着状態に陥いった。その法を
無視した京都府の対応に、明治政府から疑問の声が上がる。見かねて声を上げたのは、
長州の文部卿木戸孝允だった。木戸は知事長谷信篤に裁判所の命令に従うよう説得を始
め、京都裁判所の北畠治房も厳しい態度で京都府に臨むようになった。1873年(明治6
年)年末、知事へ対して懲役100日もしくは贖罪金40円、大参事に対しては懲役100日も
しくは贖罪金30円という命令を再度下して、両者が守らないと見るや、大参事槇村正直
は東京に出た機に身柄を拘束して、ついに収監に至った。知事長谷信篤は司法の強硬な
手法に動揺し木戸の説得を受け入れ、翌1874年(明治7年)になってようやく送籍手続
きがとられて小野助次郎、小野善右衛門両名の移籍の希望は叶った。しかし明治3年か
ら3年間以上も経ち時代は大きく動いていてそうした事に足元を掬われた形で破産した
。1871年(明治4年)の廃藩置県以後、三井・島田・小野三家の為替方は府県方と称し
、三府七二県に支店。出張所を置き公金の収支に従事していた。中でも小野組は為替方
であることによって多額の金を無金利で運用して、生糸貿易を全国的に手がけていた。

1353: 名無しさんAA:18/09/02 02:21
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   394    > 

生糸取引は古河市兵衛が、為替店は小野善衛門(西村勘八)が統括していたが、1872年
(明治5年)渋沢栄一の仲介によって、三井組と共同で「三井小野組合銀行」を設立し
たが三井は、鉱山開発などの資本も必要な事から三井銀行を別に作っていた。小野商会
は三井を大きく凌駕した老舗であったが、政府方針突然輸出入制限を行い、為替方に対
する方針を担保額の引き上げなどを行い、国際協調の為に優遇策を切った事で小野組は
御用御免を願い出て、資金全部を大蔵省に提出して精算をし、1877年処分を完了した。
こうして三井小野組合銀行は政府の第一銀行となり第一勧業銀行に合併していく。
 ところが、お隣りの朝鮮半島では近代金融制度の基盤がないまま開国主義にいた。こ
こにロシアが作った清露銀行が資本投下を狙っていた。欧米や日本の資本主義の影響を
受けた李氏朝鮮では、1884年以後日本の第一銀行韓国総支店(1878年設立)に関税収入
の管理を委託し、やがてはそれを担保にして同銀行からの融資を受けるようになった。
1902年以降大韓帝国(李氏朝鮮が改称)で第一銀行券を発行して、それを韓国国内の公
用紙幣として流通させる権利を得て、事実上の中央銀行化していた。その後第一次日韓
協約により目賀田種太郎が韓国の財務顧問につくと、この時民間銀行に過ぎない第一銀
行が外国の中央銀行業務を行っている事を問題視して韓国統監伊藤博文と相談した。結
果ここで日韓併合直前の1909年に韓国銀行条例(韓国法)に基づく中央銀行・韓国銀行
が大韓帝国政府と、日本皇室、韓国皇室および個人から資本金により設立されて、第一
銀行から中央銀行業務を取り上げた形となった。その韓国銀行は併合後の1911年には、
朝鮮銀行法(日本法)に基づく特殊銀行として朝鮮銀行と改称された。当初は日韓併合
時に、日本銀行券を朝鮮にも流通させる目的もあったが、その有力な意見を蹴って、元
老で財政通として知られていた松方正義が、「朝鮮経済の不安定さが、そのまま内地に
影響するのはまずいだろう」との見解を示したことから朝鮮銀行券を発行することにな
った。1884年には李氏朝鮮(後の大韓帝国)と契約して、関税取扱業務を代行し、後に
民間銀行でありながら、同国の中央銀行の業務を代行した。こうして1896年に普通銀行
の第一銀行に改組。1943年に三井銀行と合併して帝国銀行(通称・帝銀)となった。最
初の苦労する時期に小野銀行は第一銀行として、朝鮮半島経済を支えた業務を行い信用
を得てその地位を作っていたが、朝鮮半島での日本の第一銀行韓国総支店も政府に取り
上げられた形となった。不運な事だった

1354: 名無しさんAA:18/09/02 02:22
1873年(明治6年)7月20日 - 株式会社第一国立銀行開業。資本金250万円。
1874年(明治7年)     - 三井財閥が同行100万円分の株式を担保にオリエンタル・
バンクから借り入れ。
1875年(明治8年)8月 - 小野組の倒産により150万円に減資。
総監役渋沢栄一が頭取に就任。
1884年(明治17年) - 李氏朝鮮国政府と契約。釜山、仁川、元山での海関税を
取り扱う。
1896年(明治29年)9月 - 国立銀行条例による営業満了。株式会社第一銀行と改称。
1902年(明治35年) - 韓国で第一銀行券を発行。韓国政府公認紙幣として流通
1909年(明治42年)11月 - 株式会社韓国銀行(のちの株式会社朝鮮銀行)へ
韓国中央銀行業務を譲渡。
1912年(大正元年)9月 - 株式会社二十銀行を合併。
1927年(昭和2年)4月 - 株式会社東海銀行を合併[注釈 1]。
1931年(昭和6年)10月 - 株式会社古河銀行を合併(古河銀行は、小野組の流れ)
1940年(昭和15年)4月 - 前年傘下の国際信託株式会社を第一信託株式会社と改称。
1943年(昭和18年)4月   - 株式会社三井銀行と合併。株式会社帝国銀行設立。


1355: 名無しさんAA:18/09/02 02:23
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   395    > 
 オリエンタル・バンクは、時々インディアン銀行と称されていた。1842年、ボンベイ
で設立されて、当時は「バンク・オブ・ウェスタン・インディア」という名前であった
為だ。設立3年後には、本社がロンドンへ移動するに伴い、オリエンタル・バンク・コ
ーポレーションに改称した。1851年、イギリス東インド会社に続いてアヘン貿易の特許
状を得て、カルカッタ、コロンボ、それに香港をふくむ南京条約で開港された都市群、
それから日本の横浜、モーリシャス、ケープタウンにまで支店を展開した。1860年代、
オリエンタル・バンクの活動はインド・中国を軸にして、スリランカのプランテーショ
ンへ資本を集中投下し紅茶と香料輸出に出たが、そこにはずっと以前から手ごわい先客
がいた。英領セイロン総督のはじまる前からの、スリランカはバークレイズのデイビッ
ド・バークレイのプランテーションでがあったのだ。オリエンタル・バンクは、元々19
世紀のイギリス領インド帝国の農民の産業輸出用の植民地銀行として登場していた。香
港で最初の銀行であったし、同時に、その香港で初めて紙幣を発行した銀行でもある。
1893年恐慌で倒産するまで、日本国債の発行を積極的に引き受けた。明治期の文献には
、英国東洋銀行と書かれた。一方、1890年代に浅草に資本金20万円の東洋銀行という紛
らわしい別の金融機関が存在した。英国東洋銀行は幕末から明治維新にかけて、一般的
にはオリエンタル・バンクと呼ばれていた。これらの事情を考えて、呼称は、オリエン
タル・バンクに統一されている。そしてセイロンにオリエンタル・バンクが登場した時
にはマイアー・アムシェル・ロートシルトの孫モーリス・ベネディクト・ド・ウォルム
ズの所有地であった。ウォルムズ家は二百家族の一つであり、モーリスが1867年に死ん
でも農園の継承者はソロモンなどにいくらでもいたのである。この頃からオリエンタル
・バンクは投下資本の回収が出来なくなって融通資金が滞り、貸し渋りをするようにな
って行った。1866年の恐慌時代は、乗り超えたものの、会長のハリー・ゴードンがオー
バーレンド・ガーニー商会取締役兼任であったのをとがめられて辞任し、その後1873年
と1875年に不安定なチリ政府公債の発行に関与し、これがもとで1878年に9万ポンドの
損失を計上。1877年末、「諸支店での損失」補填のため準備金を17万5000ポンド取り崩
し。翌年末、チリでの損失以外で、オーストラリアを含む諸地域の支店で発生した焦げ
付きなどの損失補填に24万ポンド、銀価格下落に伴う損失補填に18万ポンドを充当した
。これらは予期せぬ火山噴火や地震や津波などであったと思われる。1884年、特許状の
禁じる半額減資を断行した為知る処となり、取り付け騒ぎが起きて、預金者をなだめる
ためリストラをした。その後各支店から株式を発行、「ニュー・オリエンタル・バンク
・コーポレーション」として再出発した形を取った。

1356: 名無しさんAA:18/09/02 02:28
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   397    > 

 イギリスでは、各孤島の植民地は植民大臣の直轄とされていた。総督は大臣から命を
受けて任期6年を務めるにすぎない。そして植民大臣は南アフリカ情勢に釘付けでもあ
った。そこで、副大臣のピアブリッジ男爵ヘンリー・ドゥ・ウォルムズが一族の利益で
セイロンを支配した。こうしてオリエンタル・バンクは追い出されたのである。1685年
頃アムステルダムに移り住んだユグノー教徒や教団は、もともと工業職人集団で経済資
本の要の人々であった。プロテスタント系であった彼らは世界初の銀行協会の組織を作
り金融融通を制度にした。ここに従来ではカトリック同盟がバチカンを通じて隠れて利
潤をため込んでいた権力が、初めて公に商業としての保険や貸金や利子の為の投資家が
生まれた瞬間だった。ナントの勅令やユグノー戦争はそうした新教団の行う融通資金を
認める代わりに、プロテスタント教会もカトリック教会も並びに国王には従来通りの課
税を敷くと言う3重課税の対抗戦争だった。1685年にアムステルダムに移住して起こっ
た貿易戦争でも、いち早く17世紀最大の銀行家にまで成長し、フランス革命後には多
くのユグノー銀行家がフランス金融界で活躍し、現在でもユダヤ系以外はプロテスタン
ト系によってフランス銀行業は担われている。ユグノーはとくに集中マニュファクチュ
アの担い手として重要であり、金融・商業においても支配的であった。コルベールは、
重商主義政策の柱に国内の金融業・商業・工業の発展を据えていたので、当然その担い
手であるユグノーを保護し、これと提携する道を選んだ。毛織物工業では、ラングドッ
ク・プロヴァンス・ドフィネはレヴァント地方への輸出用ラシャが大量に生産されてい
た。シャンパーニュ地方のスダンも北ドイツへの輸出用ラシャを生産し、毛織物工業の
中核でもあったが、ここではユグノーの製造業者が織機の半数を所有していた。ユグノ
ーはカルヴァン派がジュネーブで神権政治(1541年〜1564年)を履行して以降主流派と
なり、そしてマックス・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」
で称賛して現代資本主義の元とされる。多年の戦争による莫大な戦費の為にフランスの
財政は破綻しかかっており、重税の為にフランスの民衆は困窮しきっていた。1709年に
はかつて革命を起こして王政を打倒したことのある「イギリス人を見習え」と謡う小唄
が流行したほどであったのだ。こうしてフランスの持っていた公国の財宝管理者だった
ベルギーの銀行とフランスの分家筋のイングランド銀行がインド洋や東南アジアで衝突
した。

1357: 名無しさんAA:18/09/02 02:29
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   398    > 

 1825年時の恐慌はフランス、ドイツ、アメリカにも影響していて、特にフランスにつ
いては国会で、「消費を増加させる事が機械によって生産物を増加させるほど容易でな
い」と言うような議論まであったとされる。1826年、セーの経済学概論の5版が出され
、セーが消費の限界を認めたと思われるほど経済の動きはて停滞していた。この恐慌に
付いては、イギリス政府の認識としては、1、投機の拡大 2、それを地方銀行の小額
銀行券が醸成した。とされ、その論点としては、ある者は銀行券の過発行を全般に非難
し、他の者は地方銀行のみを非難したとされる。結果として、まず前提として金融市場
に援助が必要とされる場合それは政府でなくイングランド銀行が行うべきとされ、1826
年に二つの法律が通され、1、5ポンド未満の小額銀行券の発行禁止  2、発行権の
ある株式銀行の設立、イングランド銀行の支店の設立、などが決められた。これらにつ
いては、スコットランドの銀行制度が安定していた。と言う現実から決められたとされ
る。当時のイギリス商務省長官で有力政治家であったハスキソンが、金銀複本位制の考
えを抱いたとされる。ハスキソンは、明らかに一定量取れて行く鉱物資源に活路を見た
1、当時の有力貿易相手であった南米が銀を多く算出していた事や、2、当時希少金属
こそが取付け時の金属準備となる事 3、戦時等の海外への流出に対応する為に必要な
戦争物資である。と言う資源だった事。などが考えられていた。が、政府内での明確な
国策結果は出なかった。ただ、これに付き後の1844年銀行条例がその3条で金属準備の
1/5は銀でも良いとされた事に関係が有る。こうした複本位制は19世紀後半に於い
ても国際金融史上では又、大きな問題になっていく。しかし日本はまだ江戸期真っ盛り
であり、逆に銀の需要が増えたスペインやフランスやオランダに向けて、浮世絵に包ん
だ有田焼などがどんどんと輸出されている頃だった。つまり、欧州社会はこうした海外
貿易の幕開けと共に、海外から格安輸入で自国産業の空洞化現象を引き起こしていたの
である。これが不況の元だった。このフランス恐慌が終わった頃、1890年に「ベアリン
グ恐慌」が起こった。これは恐慌史のうえでも1873年恐慌の次に起きたものとして取り
上げられる。一般的にはアメリカ、ドイツ等の工業隆盛に伴い又イギリスを徐々に凌駕
するにつれ景気循環の波が移行していった為とされる。

1358: 名無しさんAA:18/09/02 02:29

  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   399    > 

 オリエンタル・バンクは世界中に支店をばらまいていた頃、それらをベアリング恐慌
が直撃した。ベアリング恐慌は、欧州第6番目の有力者と呼ばれたベアリング商会が、
貸付債権が出せず証券の転売不可能になったイングランド銀行内の事件だった。1880年
代後半からは金持ちが増え、金満家の余剰金による投資ブームが訪れていた。北米への
投資、南アフリカでの金鉱等への投資、南米への投資、などが進んで旧来商社の農産物
の輸出入商社にも貸付の枠が広まったのである。南米への証券投資でも89年のイギリス
海外証券投資総額が1億2千2百万ポンドにある中に、4千万ポンドもの量が南米の投
資に向けられていた1/3の量だ。その中で多くがアルゼンチンに向けられ、それが、
「セデユラス」という「土地担保付債権」で売られていたのが現状だった。イギリスで
名門とされる会社は、ある時この確定利付き債権の一部が、アルゼンチンの財政状態に
不安を持った事で、イギリス国内では大きく危惧されて、この農産物用の優良な証券に
、価格下落が起ってしまい資金集めが困難になった。当初は商会は取るに足らない状況
と、楽観視していたが、取り合えず帳簿を銀行に完全開示し、大蔵大臣ゴッシェンとの
接触を持った。しかしこの時ゴッシェン総裁は「一商会の為には介入する事は出来ない
。」と話し、「支払い能力があるなら、あらゆる支援を惜しまない。」との発言してし
まった。こうして、ベアリングの状態が明かになるにつれて波乱が起こる。イングラン
ド銀行内部で主たる銀行、商社の会合が行われ、商社の支払い能力の調査と成ったのだ
。こうした事件と並行してフランスからは金(三百万ポンド)が払い込まれ、又ロシア
からも百五十万ポンドが振り込まれた。更にバンクレートを6%に引上げた。バンクレ
ートは中央銀行の市中銀行に貸し出す金利である。実際は支払い能力に問題は無かった
が、中央銀行は支払い拒否を恐れて、銀行の悪しき慣行である担保設定を行い、しかも
保証基金を作って防衛に務めた。これらが更に危機を煽った。それらの結果も、「銀行
の取付は一軒も無く、又国内の金の流出も起きなかった。」が、保証基金は3年間の予
定であったのが存続された続けた。これらを総括すれば@“保証基金“の創設は全く例
外であり一般的には持ちいれられた。A1883年以来引退していたTCベアリングは改組
され同社の取締役になりその財産を正大に新会社の自由に委ねられクラパムは「家族の
個人財産が次々に注ぎ込まれた。」B1844年法の法執行の停止を回避した事でその悪し
き慣行になる事がまぬがれた。C上記の通り政府から保証を取り付けたこと。とされる
。しかしこれが慣行になるなら正しくいう「民営」の根幹の問題になった。

1359: 名無しさんAA:18/09/02 02:30
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   400    > 
 イングランド銀行内部で開かれた主要銀行の会議は「公衆の利益が危機に瀕しており
ベアリング家にとってはその負債を払う事が不可能であった事を考慮して(実際には支
払い能力はあったが)同家の援助を行う決定」をし、イングランド銀行が「債務の為に
支給し」その代わり全ての不測の損失は3年間継続する「保証基金」によって「各自の
保証金額に比例して保証される」ことが申し合わせられた。こうして保証基金は1700万
ポンドにも達した。又並行して大臣は「ベアリング商会の手形の割引によって蒙るかも
しれない損失の半分を負担する約束をした」とされる。(ポンド・スターリング)但し
これについてはクラパムによれば文書にした時には表現は「曖昧」にされたと言う。保
証人については損害は発生せず、結果的に「直接的政府の支出」は無かった。結果1894
年には一切の支払いが新会社に移行されたとされます。実は日清戦争(にっしんせんそ
う)は、この年、1894年(明治27年)7月25日から 1895年(明治28年)3月(光緒21年2
月)にかけて、日英同盟の下で行われたが、この時大英帝国が正に各所植民地の叛乱と
、同じ欧州内の銀行権力の覇権争いと、スラブ地域の食糧輸送の制海権でオスマン軍と
戦い挑んでいた頃の事情があった。日清戦争では朝鮮半島(李氏朝鮮)をめぐる日本と
清国の戦争であったがしかし、アロー戦争以来のアヘン専売と清の開港と共に起こった
賠償金支払い問題だった戦争とも言えた。一方でこの戦争の結果が香港上海銀行やイン
ド・オーストラリア・中国チャータード銀行に競り負けて、1892年6月8日に清算される
結果も産んだ。オリエンタル・バンクは純利益は、ほとんど全てを配当していた。準備
金積み立ては主として増資のプレミアムで行われていたのだ。株主の構成に大変興味が
持たれる中実は債権者は対照的に、倍額責任条項がなかった。このため重い損害を被っ
たままになった。現在バークレイズ銀行は香港上海銀行(HSBC)の支配下にある。
こうしてオリエンタル・バンクが引き受けていた外債元利支払事務は、横浜正金銀行が
引き継ぎ、横浜正金銀行ロンドン出張所は支店に昇格した。この時の金融関係は全く、
微妙なものだった。先のベルギー銀行がベルギーフランを発行していたのはフランスが
後ろ盾に在ったからだが、フランスの金融はスイス銀行の金庫にあった。その実態は、
ベニスの商人を握っていた名門オーストリアハンガリー帝国のハプスブルク家の預金で
あったとされる。しかしロシア皇帝が資本投下した為に新興勢力であるイングランドに
大勢が替えて行こうとしていた。イギリス対オランダの東インド会社の抗争が熾烈にな
ったからだ。特に中国の権益には強い欲望が渦巻いていて拮抗していた。この時英国は
米国の独立を認めた、米国は仏国と組みスペイン攻略に出て居た。日本は英国について
行ったが、仏領インドシナと呼ばれたベトナムはフランスの物だった。

1360: 名無しさんAA:18/09/02 02:31
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   401    > 

 江戸時代、三井家は紀伊徳川の守護する伊勢松坂から出て来ていた。御用商人として
、紀州徳川家に対しては、既に巨額の御用金(貸付金)があり、これからもこれを納入
し続けなければならないことは、三井家の経済的・政治的負担でもあった。幕末期にお
いて起こった政変は、紀州家御用金の激増を招いた。1769年10月時点で、上納金額は金
36万4629両、銀662貫500目で、利息年8%,返済15ヶ年賦で既に回収出
来ない部分は不良資産として大元方に計上され消化された中の残額だった。これは恐ろ
しく巨大な数字で現代で365兆円を上回るものだ。享保期には、幕府は大坂・二条・
大津の御蔵にあった米・大豆を、米相場で売却する事に決めるが、その代銀の江戸送金
を1722(享保7)年から三井へ一手に任せた。それだけでなく、臨時御用とか急御用が
増えて、金銀為替送金を命ぜられていた。歴史的には嘉永6年(1853年)ペリー提督の
アメリカ艦隊が浦賀沖に来航し、幕府に開国を迫り、翌安政元年(1854年)幕府は日米
和親条約を締結した(ペリー来航)。安政5年(1858年)、アメリカの強い要求により
、幕府は日米通商修好条約を締結し、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様
の条約を結び(安政五カ国条約)、幕府の鎖国体制は完全に崩れた。そんな中、文久2
年旧暦8月21日(1862年9月14日)に武蔵国橘樹郡生麦村で発生した生麦事件の解決と、
補償を艦隊の力を背景にイギリスが迫り、攘夷実行名目で着々と兵制の近代化を培って
いた薩摩藩兵が、実力でこれを阻止しようとして鹿児島湾で激突した。薩英戦争である
。更に続けて英仏米の連合艦隊に封鎖された関門海峡で下関戦争が起こり、歴史的には
1864年の戦闘を馬関戦争とされるが、薩英戦争におけるイギリスへの薩摩の賠償金二万
五千ポンドで、一両一ポンド換算で二万五千両幕府に肩代わりしてもらっている。薩摩
はその前年に藩政改革において、薩摩が三都の商人から借りていた五百万両を無利息の
250年賦返済を決めていて、反射炉建設他色々の借財があって、明治新政府になって
踏み倒している。渋る三井に50万御用金の催促が32万も減額して18万両でも手に
入れればよい。とされたが、これは幕府も崩壊寸前であり、しかも、小栗と(三井の三
野村)利左衛門の個人ルートで決定したとしか考えられない催促であった。こうしてこ
の年(1867年)10月,大政奉還,あくまで戦闘を主張した小栗忠順(当時の幕府の勘定
奉行)は翌年1868(慶応4)年知行地に帰ったところ,同年閏4月,勤皇軍に捕えられて
斬殺された。

1361: 名無しさんAA:18/09/02 02:31
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   402    > 

 鳥羽伏見の戦いの前夜に薩摩へ金千両を献納する三井組の最後の賭けが行なわれた。
かくて,1868(慶応4)年2月、新政府の会計局が設けられた時に、三井・小野・島田
三家が為替方三家として御用達を命ぜられるのである。翌68(慶応4)年1月17日、
三家は正式に会計事務局(金穀出納所改名)為替御用達となり,御為替方三井組が誕生
する。三井は前年末更に千両を献金し、翌1月15日は三井・小野・島田共同で1万両
2月13日に三家で3万両を拠出している。と会計官調達金元帳に記されている。この
金は「京両替店の地下穴蔵に「密建金」と名づけて秘蔵してあった秘密の積立金によっ
てまかなわれたものであった。」大元方の資金が全く枯渇していたときに、秘密の積立
金は確かにあったろうが、どのように明治維新以降の三井が立直っていくかは、三野村
利左衛門の腕だけでなく、諸研究のテーマでもあった。大臣になった時大隈財政は、各
開港場に貿易管轄の通商司を同年2月に設置し、7月大蔵省が設けられた。その下に属
してこれまでの商法司を廃止させた。その担い手として通商会社,金融を担当する為替
会社が設けられた。総頭取には小野・島田とともに任ぜられた三井は1872年7月までに
14万五千両を出資し(三井身元金総額94万8500 両の15%)とした。」 要するに御用
商人達は、時の施政者への金貸しを、徳川の時代から、薩摩、明治政府へと連綿と行な
ってきたのだった。ここに一人の佐渡の金山から生まれた画期的人物がいた益田である
。現在の新潟県佐渡市相川に生まれ幼名は徳之進と言った。父の鷹之助は箱館奉行を務
めたが曾祖父は筑後のキリスタンで罪人扱いとして佐渡に赴任していた。鷹之助が江戸
に赴任し孝も江戸に出て、ヘボン塾(現・明治学院大学)に学んだ。この頃麻布善福寺
に置かれていたアメリカ公使館に勤務し、南関村の手塚と同じくハリスから英語を学ん
だ。文久3年(1863年)、フランスに派遣された父とともに遣欧使節団(第二回遣欧使
節、または横浜鎖港談判使節団)に参加して、ヨーロッパを訪れていた。ヨーロッパか
ら帰国後は幕府陸軍に入隊。騎兵畑を歩み、慶応3年(1867年)6月15日に旗本とな
って、慶応4年(1868年)1月には騎兵頭並に昇進した。丁度薩英戦争の頃の話である。
賠償金問題の頃小栗から小判の粗悪鋳造を頼まれ 三井の持つ両替小判を西洋技術で、
銀の抽出に成功していた。こうして新鋳造技術は益田孝とともに,岡田平蔵が中心とな
って岡田組という新会社を設立する機会を得た。

1362: 名無しさんAA:18/09/02 02:32
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   403    > 

 横浜鎖港談判使節団は、池田長発(筑後守)を正使、河津祐邦(伊豆守)を副使、更
に河田熙(相模守)を目付とし、文久3年12月29日から元治元年7月22日にかけて(1864
年2月6日 - 8月23日)幕府が不平等条約の改定交渉にフランスに派遣した外交団である
。第2回遣欧使節、又は池田使節団とも呼ばれる。というのも孝明天皇は文久3年5月10
日(1863年6月25日)攘夷勅命を発して、幕府は5月9日(1863年6月24日)各国公使に開
港場の閉鎖を通達した。諸外国は当然拒否し、幕府も9日後に撤回した。更に下関事件
や薩英戦争、フランス士官カミュ殺害事件等が起きて諸外国との軋轢も高まっていた。
この状況で、幕府は攘夷派懐柔のため、江戸に近い横浜閉鎖交渉の使節団を派遣した。
これはもとより達成不可能な任務で、使節団の目的はフランス士官殺害事件の賠償交渉
のみが主眼となった。パリに着いた一行は皇帝ナポレオン3世に謁見し、横浜の鎖港に
関する交渉は、横浜を対日貿易・交渉の拠点と考えるフランスの抵抗にあい失敗に終わ
った。もとより長発自身も西欧の文明の強大さを認識して開国の重要性を感じ、交渉を
途中で打ち切り、5月17日(6月20日)、フランス政府とパリ約定を結んだ。一行は他の
国には寄らずそのまま帰路に就き、同年7月22日(8月23日)に帰国した。ここに「日本
條約基金」と題した1868(明治1)年1月8日付けの1通の書簡がある。いわく、
1868年1月8日、国務省、ワシントン 拝啓、名誉をもって以下の如くご通知しま
す。1864年10月22日付けで合衆国も参加して結んだ日本との取極め書の条項に
より、本政府は日本政府より、本質的に相当する理由のない、この取極め書に述べられ
る賠償金支払い分としての金貨・60万ドルを受領しました。この総額は 合衆国登記
公債に投資され、議会の処分決定を待っています。敬具 ウィリアム・H・スーワード
下院外交委員会委員長 N・P・バンクス閣下 というものだった。この金貨・60万
ドルは、「下関戦争」の合計300万ドルの下関戦争賠償金のうち、アメリカに支払わ
れるべき78万5千ドル分の半分に相当する金額と、その合衆国登記公債の利子や通貨
交換差益なども含め、当時アメリカ政府の手に渡っていたものであった。通常ならアメ
リカ政府の歳入として国庫に納入されてもおかしくない入金だが、その後に残りの支払
い分や長期に渡る公債の利子も合わさり、アメリカ国内で後に「日本賠償金基金」とも
呼ばれ、その処分について、アメリカ議会では15年もかけて繰り返しその処分方法が
論じられ、ようやく1883(明治16)年2月、日本がアメリカに支払った全賠償金
額を日本政府に返還する決定がなされた。と云うものだ。


1363: 名無しさんAA:18/09/02 02:32
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   404    >
 
そもそもアメリカ国務省では、何故、登記公債に投資するなどの特別処理がなされたの
か。当時のスーワード国務長官が決定したものだが、バンクス委員長宛てに、「本質的
に相当する理由がない」と個人的見解を書いた。即ち受け取る理由のない賠償金とした
のだ。つまり取り過ぎた賠償金だったのだ。なぜアメリカがこんな賠償要求をしたのか
。またこの300万ドルという金額そのものは、一体現今の価値でどの位か、あるいは
「取りすぎだ」と言うほど膨大なものだったのか。米国内の世論は「取りすぎだ」との
気運が強く、スーワード国務長官はその世論に配慮して登記公債に入れたと見る向きが
多い。しかし、若年寄・酒井忠眦(ただます)が横浜で4カ国と下関賠償取極め書を取
り交わした元治元(1864)年9月22日頃や、この翌年、ニューヨーク・デイリー
・トリビューン紙にフランシス・ホールの下関賠償記事が「日本からの興味ある情報」
と題して載ったぐらいで余りにも簡素だった。アメリカ国内は南北戦争時代であり日本
を気にするほどの余裕はないかった。それでも、このバンクス宛の書簡を書いた約1年
前の1867年3月末には、スーワード国務長官が主導し、アメリカ合衆国が720万
ドルでロシア帝国領のアラスカ購入に調印したが、多数の共和党議員からさえ「スーワ
ードの愚行」とか「スーワードの巨大冷蔵庫購入」などの声も出て、強い非難と反対意
見も出されていた。スーワードの粘り強い説得が議会でなされ、最終的にこのアラスカ
買収条約は上院議会で認められ、下院からも予算が付けられたが、今から振り返れば、
当時「巨大冷蔵庫」と非難されたアラスカは、その後金が発見され、一大原油・天然ガ
ス田が発見され、地政学的リスク面でも重要になったアラスカの地は、アメリカにとっ
ては金額に換算できない程の要所となった。そのアラスカの半額である。日本にとって
は膨大な散財で支払金だった。この300万ドルが如何に途方も無い大金であったかは
、当時の、次の幾つかの数字を比較して見れば感覚的に理解する事は出来る。当時ドル
・両の交換比率「一ドル三分換え」で換算すると、225万両の大金だった。下関戦争
の前年、文久3(1863)年当時の徳川幕府「貨幣方歳出」では、現金歳出は金換算
で705万7千両だ。これに「米方歳出」の約66万石を、当時の米の単価、1石2両
で金換算した148万5千両を合計すると、総歳出額は854万2千両になる。従って
この賠償金額300万ドル、すなわち225万両は、現金支出と現物支給の米を合わせ
た日本の総歳出額の26%強になる。文久3年の幕府年間歳出額の四分の一強という、
大変高額な賠償金額だった。

1364: 名無しさんAA:18/09/02 02:34
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   405    > 

この賠償交渉をした2年前、すなわち文久2(1862)年8月29日、当時の幕府は
蒸気軍艦を購入に、幕閣・板倉勝静(かつきよ)は、アメリカ公使・プルーインと会談
した。やり取りの中でアメリカでの最新造船軍艦の例として、船の長さが20−25間
の約千トン級の蒸気軍艦で16万ドル、長さが35間の約千五百トン級で、大馬力の最
新エンジンを搭載して30万ドル位の値段だと交渉している。これは300万ドルとい
う賠償金額が、当時最大35間・千五百トン級大型強力蒸気軍艦が一度に10艘も購入
できる金額だったのである。又鹿児島の薩摩藩が抱えていた積み上がった藩債の500
万両の強引な返済計画で無利子の踏み倒し、新政府樹立に動いたのはその軍艦20隻分
で、正に天文学的金額だったのだ。計画は、家老の調所笑左衛門廣郷と部下が発案し、
天保六年(1835)十二月頃に、500万両の藩債の踏み倒しに着手し、その方法は
新古を問わず、すべて250年ローンの無利子返済と言う無茶苦茶なものでした。債権
者側の京・大坂・江戸・奈良や国元などの大商人、親類筋、寺社などの隔てなく、一律
にこの返済方法を押し付け実施しました。返済額は年に2万両を明治四年(1871)
の暮れまで毎年の返済を実行し、旧藩債消滅の暴令発布の前年、すなわち明治五年の暮
れから返済を停止した。この新政府の踏み倒しの煽りを食ったのが長崎のグラバー商会
だったのは当然だった。下関で砲撃されたアメリカ商船・ペンブローク号の船主・ラッ
セル商会の損害賠償請求書によって、プルーイン公使はアメリカ公使館・善福寺の焼失
賠償と共に、幕府に合計1万ドルの賠償金支払いを求めていた。この時期は、老中格・
小笠原長行がイギリスに生麦事件の賠償金の44万ドルを支払い、条約4カ国に三港鎖
港通告を出し、将軍後見職・一橋慶喜が朝廷の命ずる攘夷を指揮するとして単独で江戸
に帰り、江戸の幕府では諸役の総反対にあって立ち往生をした頃だった。幕府は既に、
プルーイン公使のもとに外国奉行を派遣し、ペンブローク号の賠償金は支払うが、人心
が安定するまで支払いの延期を願いたいと交渉し、プルーインの同意を得ていたのだっ
た。その後、薩英戦争や朝廷内の「文久3年8月18日」の孝明天皇によるクーデター
など大事件の陰で解決が遅れ、1年近くも遅延された。痺れを切らしたプルーインは、
未払いの賠償金に遅延の利息支払いを要求するなど圧力をかけ始め、やっと元治1(1
864)年7月1日、幕府は30日以内の賠償金支払いを承諾すると云う経緯があった
。このペンブローク号賠償金の解決は、ちょうど下関戦争が始まる1ヶ月前の事だった。

1365: 名無しさんAA:18/09/02 02:36
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   406    > 

 実は馬関攻撃で被害にあったと主張するアメリカ商船・ペンブローク号へ日本政府か
らの賠償金は支払われ、軍艦・ワイオミング号派遣による長州軍艦破壊でアメリカの国
威に対する侮辱を晴らし、事件としては全て解決していた。しかしその上で下関戦争が
始まり、下関賠償取極め書による合計300万ドルの賠償金のうち更に78万5千ドル
がアメリカへ支払われるという成り行きが、ここでスーワード国務長官が言う、「本質
的に相当する理由のない賠償金」の重要な視点の一つでもある。突然の馬関攻撃後も、
長州藩は攘夷の姿勢を崩さず、下関海峡は通航不能となっていた。これは日本と貿易を
行う諸外国にとって非常な不都合を生じていた。アジアにおいて最も有力な戦力を有す
るのはイギリスだが、対日貿易ではイギリスは順調に利益を上げており、海峡封鎖でも
イギリス船が直接被害を受けていないこともあって、本国では多額の戦費のかかる武力
行使には消極的で、下関海峡封鎖の問題については静観の構えだった。だが、駐日公使
ラザフォード・オールコックは下関海峡封鎖によって、横浜に次いで重要な長崎貿易が
麻痺状態になっていることを問題視し、さらに長州藩による攘夷が継続していることに
より幕府の開国政策が後退する恐れに危機感を持っていた。元治元年(1864年)2月に
幕府は横浜鎖港を諸外国に持ち出してきていたのを機に武力行使を決意した。日本人に
攘夷の不可能を思い知らすため「文明国」の力を示す必要を感じたオールコックは長州
藩への懲罰攻撃を決意し、この方針にフランス、オランダ、アメリカを同意させ、4月
に四国連合による武力行使が決定された。オールコックは本国に下関攻撃する旨の書簡
を送っていた。だが、本国外務省側は依然として日本との全面戦争につながりかねない
武力行使には否定的でこれを否認する旨の訓示を日本へ送って来た。しかしこの当時は
イギリスと日本との連絡には二カ月から半年かかり、訓示が到着したのは攻撃実行後と
なり、結局、現地公使の裁量で戦争が進められたのだった。しかしこの戦争はあっけな
い英国の勝利に終わる。というのもそもそも日本で作った大砲は命中率も低く炸裂弾で
はなかった。対して外国船の狙いをすました砲弾に下関砲台はいとも簡単に吹き飛んだ
。この四国連合艦隊の艦は17隻で、イギリス軍艦9隻、フランス軍艦3隻、オランダ
軍艦4隻、アメリカ仮装軍艦1隻からなり、総員約5000の兵力であった。また横浜には
イギリス軍艦1隻、アメリカ軍艦1隻と香港から移駐してきた陸軍分遣隊1350人が待機
していたのである。

1366: 名無しさんAA:18/09/02 02:37
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   407    > 

幕府は伝令をすぐに走らせ8月4日、四国連合艦隊の来襲が近いことを知った藩庁は、よ
うやく海峡通航を保障する止戦方針を決め、伊藤を漁船に乗せて交渉のため艦隊に向か
わせるが、艦隊は既に戦闘態勢に入っており手遅れであった。下関を守る長州藩の兵力
は奇兵隊(高杉は前年に解任されており総管は赤禰武人)など2000人弱・砲100門強 で
あり、主力部隊を京都へ派遣していた。8月8日、戦闘で惨敗を喫した長州藩は講和使節
の使者に高杉晋作を任じた。この時、高杉は脱藩の罪で監禁されていたが、家老の宍戸
備前の養子宍戸刑部を名乗り、四国連合艦隊の旗艦のユーライアラス号に乗り込んで、
キューパー司令官との談判に臨んだ。イギリス側通訳のアーネスト・サトウはこの時の
高杉の様子を非常に傲然としていたが、出された要求は何の反対もせずに全て受け入れ
たと述べている。18日に下関海峡の外国船の通航の自由、石炭・食物・水など外国船の
必要品の売り渡し、悪天候時の船員の下関上陸の許可、下関砲台の撤去、賠償金300万
ドルの支払いの5条件を受け入れて講和が成立した。ただし、賠償金については長州藩
ではなく幕府に請求することになった。これは、巨額すぎて長州藩では支払い不能な事
もあるが、今回の外国船への攻撃は幕府が朝廷に約束し諸藩に通達した命令に従ったま
でという名目であった。1866年1月のイギリスからの提案で、賠償金配分は、急速
にヨーロッパ3カ国政府の合意ができ始めた。この最終的合意は、各国の派遣した軍艦
や兵士数には無関係に決まった。先ずアメリカ、フランス、オランダの3カ国船舶への
砲撃賠償として、ほぼ1年半前に幕府が批准こそ拒否し破棄したが、かって横浜鎖港談
判使節・池田筑後守一行が 「巴里約定」 でフランス政府と合意したフランス軍艦・キ
エンシャン号砲撃の賠償金・14万ドルを基礎に、先ずこの3カ国が14万ドルずつを
取り、残りの258万ドルを4等分し、各国とも64万5千ドルずつの配分とする事と
なった。すなわち、アメリカ、フランス、オランダが合計78万5千ドルづつ、イギリ
スが64万5千ドルという配分だった。米国スーワードは「欧州に任す」 態度であり、
英国外務大臣・ラッセル卿は日本に居るオールコック公使に宛てに、数次に渡り武力行
使禁止の書簡を送っていた事もあり、瀬戸内海に入ること自体に、「勝手に日本領土内
に侵入した」とクレームの対象になりかねない危険と、理由もなく軍艦を派遣し高額な
賠償金を取ったなどと強い反対意見が出るかも知れない本国の反応の危うさの対策に、
自ら英国取り分を少なくさせていた。

1367: 名無しさんAA:18/09/02 02:38
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   408    > 

 実はこの時馬関攻撃で砲弾を受けた中にラッセル商会の船があった。当時ラッセル商
会(ラッセルしょうかい、中:旗昌洋行)は、19世紀において極東で著名であった。
アメリカ系の貿易会社で生糸の貿易に実績があった。主に上海に拠点を置き、横浜にも
支店を置いた。主にトルコから中国への阿片の輸出と、東アジアからの生糸と茶の輸入
を中心に取引を行なっていたといわれる。1824年、アメリカ合衆国コネチカット州ミド
ルタウン出身の事業家サミュエル・ラッセルはより広州で設立し、1830年、ブライアン
ト&スタージスとパーキンス商会がラッセル商会と合併し石油事業にサミュエル商会を
設立させようとしていたところだった。サミュエル商会は知っての通り日本最古の輸入
石油会社でエッソ石油の本体であった。ラッセル商会は1845年、商会の共同出資者の一
人であるジョン・マレー・フォーブスが清からボストンへ帰国し、大陸横断鉄道建設に
参加して投資を行った。こうして利益が中国大陸にあると見て1846年本拠地を上海外灘
へ移転した。しかし、1853年に太平天国の乱により、広州・上海と茶葉の産地とを結ぶ
道路が寸断され、直接武夷山から仕入れるため福州へ赴いた。1862年になって、カニン
ガムが船舶会社である上海蒸気船舶会社(中:旗昌輪船公司)を設立させ、上海−漢口
間を開通させ、続いて。1867年、上海−天津間を開通させた。こうして京都に出来た生
糸取引の水力発電の紡績工場に感心して、1878年、上海で生糸工場を建設した。その後
アヘンと茶葉の交易で利益をあげ、1891年、ラッセル商会が中心となって中国国立銀行
を香港に設立する。勿論サッスーン家デイヴィッド・サスーンとの繋がりも多く、1911
年、中国国立銀行の営業を停止する。1905年に清朝によって大清戸部銀行が北京に設立
されて大清銀行(1908年に改称)を経て、中華民国成立後、臨時大総統孫文が中國銀行
と改称し、1912年中央銀行として稼働したからだ。1928年10月26日の中國銀行条例が作
られ、政府特別許可の国際為替銀行として本社管理部門は北京から上海へ移って大清戸
部銀行が以降中国銀行となった。戦後1935年に国民政府によって幣制改革が行われると
、交通銀行・中央銀行・中国農民銀行と共に法幣を発行する発券銀行となった。北京市
に本店を置く中華人民共和国第3の商業銀行である。総資産は16兆8156億人民元とされ
、2016年には世界第5位にランクされている。日本には東京都・横浜市・大阪市・名古
屋市・神戸市に支店を置き。中国建設銀行、中国工商銀行、中国農業銀行と共に中国四
大商業銀行とされる。 なお、中華人民共和国の中央銀行は中国人民銀行とされた。

1368: 名無しさんAA:18/09/02 02:44
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   409    > 

 1874年(明治7年)から翌年にかけて、三井組はオリエンタル・バンクから百万ドル
にのぼる借入れを行なっている。とりわけ、明治7年11月にオリエンタル・バンクへ
提出された抵当差し入れは、日本米十万余石(63万2400円)、日本産生糸・茶・各種輸
入品(99万2600円)、及び第一国立銀行券(100万円)からなる合計262万5000円である
。この頃は恐らく1ドル=1両から超インフレを起こして1ドル=1円=1両時代だっ
たのだろう。それでも263万ドルである。今の1ドル=百円換算で2億6千3百万円
である。概算3億円のこの巨大な抵当を差し出して、6億円相当のドルを借りている。
それではオリエンタル・バンク横浜支店からの累計百万ドルにも及ぶ借入金を、三井組
はどのようにして返済したのであろうか。その内実は、三井組横浜支店の「田村報告」
によって、ある程度明らかになっている。オリエンタル・バンクの返済要求に対して、
三野村(三井組本店代表)は交渉を重ね、いくつかの条件と引き換えに、返済猶予を、
しばらくの間、認めさせることに成功した。それは条件として台湾事件に対する清国の
賠償金50万両のうち、44万5万6千両を、日本政府が三井組経由でオリエンタル・
バンクに預け入れることを約束し、日本政府が三井組経由で金貨30万円をオリエンタ
ル・バンクに預け入れること。の確約をしたのだ。更に利息をこれまで9%から12%
に引き上げることを了承している。このように、三井組は政府の援助によって、危機を
乗り切ったのである。金貨30万円については鉱山経営からおそらく産出していただろ
う。台湾事件は1874年(明治7年)10月に、台風の嵐で台湾に漂着した宮古島島民54
人が現地の先住民に殺害される事件が発生し、この事件に対して、清政府が「台湾人は
化外の民で清政府の責任範囲でない事件(清政府が実効支配してない管轄地域外)」の
事件とし責任はない。とした為に、領土外であれば犯罪捜査の為に出兵する。としたも
ので、54人殺害という大規模な殺戮事件であるため、警察ではなく軍を派遣した事件
である。この日本軍が行った最初の海外派兵には、清国アモイ駐在のアメリカ合衆国総
領事チャールズ・ルジャンドルも英国領事館もそこを通じて抗議していた為野蛮な原住
民制圧には賛成していた。征台の役(せいたいのえき)、台湾事件(たいわんじけん)
とも呼ばれ、宮古島島民の遭難から台湾出兵に至るまでの一連の出来事を牡丹社事件は
(ぼたんしゃじけん)と呼ぶこともある。当時は台湾さえ清は自国の範囲でないと表明
し、日本の領地であるなら日本が成敗すればいい。と投げ捨てたのである。


1369: 名無しさんAA:18/09/02 03:00
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   410    > 
 しかし、日本ではこの年秋から政変が続き、朝鮮使節派遣をめぐって政府が分裂した
(明治六年政変)、翌1874年1月は岩倉具視暗殺未遂事件、2月の江藤新平による反乱(
佐賀の乱)が起こるなど 政情不安が昂じ、大久保利通を中心とする明治政府は国内の
不満を海外にふり向けるねらいもあって台湾征討を決断し、1874年(明治7年)4月、
参議の大隈重信を台湾蕃地事務局長官として、また、陸軍中将西郷従道を台湾蕃地事務
都督として、それぞれ任命して軍事行動の準備に入った。いざ準備に入ると海外領事館
も日本政府も意見は真っ二つに割れていた。英国でも先の公使パークスやデロングの後
任のアメリカ公使ジョン・ビンガムは反対し、参議木戸孝允らの長州系は征韓論を否定
しておきながら、台湾への海外派兵をおこなうのは矛盾であるとして辞任している。こ
うして谷干城と赤松則良に、台湾蕃地事務局参軍と西郷従道を輔翼し成功を奏する事を
任命し海軍省から孟春艦、雲揚艦、歩兵第一小隊、海軍砲二門を付け、陸軍省から熊本
鎮台所轄歩兵一大隊砲兵一小隊の出兵命令が命じられる。という経緯で台湾上陸した。
5月6日に台湾南部に上陸すると台湾先住民とのあいだで小競り合いが生じた。5月22日
、台湾西南部の社寮港に全軍を集結し、西郷の命令によって本格的な制圧を開始した。
6月3日には牡丹社など事件発生地域を制圧して現地の占領を続けた。こうして戦死者は
12名であった。劣悪な衛生状態のなか、亜熱帯地域の風土病であるマラリアに罹患す
るなど被害が現地軍に広がり、早急な解決が必要となった。マラリアは猖獗をきわめ、
561名がそれにより病死した。明治政府は、出兵の際に清国へ通達をせず、また清国
内に権益を持つ列強に対して通達・根回しを行わなかった。これにより紛争の引き金に
なりかねない失策となっていた。清国の実力者李鴻章、イギリスの駐日大使パークスは
当初から日本の軍事行動に激しく反発した。その後、イギリス公使ウェードの斡旋で、
和議が進められ全権弁理大臣として大久保利通が北京に赴いて清国政府と再交渉した。
大久保は、ルジャンドルとフランス人法学者ボアソナードを顧問として台湾問題を交渉
し、主たる交渉相手を総理衙門大臣の恭親王として会談した。中国は捨て日本が拾った
形だったののでなかなか難航した。イギリスは中国認可の領事館を置き、ウェードの仲
介や李鴻章の宥和論もあって、10月31日、「日清両国互換条款」が調印されるに至った
日清両国間互換条款互換憑単によると清国は遭難民に対する撫恤金(見舞金)10万両(
テール)を払い、40万両を台湾の諸設備費として自ら用いる事を願い出費した。また、
清国が日本軍の行動を承認していたため、琉球民は日本人ということになり、この時、
琉球の日本帰属が国際的に承認されるかたちとなった。つまり中国は琉球も台湾も日本
の物として相手したくなかったのだ。台湾に道路も学校も造りたくなかったのだ。

1370: 名無しさんAA:18/09/02 03:03
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   411    > 

 このとき明治政府は兵員輸送に英米の船会社を想定していた。しかし拒否され大型船
を急遽購入して国有会社であった日本国郵便蒸汽船会社に運航を委託した。がこれも又
米英国との関係で拒否され、大隈重信はやむなく新興の民間企業である三菱を起用する
ことに決定した。この時この協力により、以降三菱と名を替え、政府からの恩恵を享受
できることとなった。こうして三菱は一大財閥になるきっかけとなった。オリエンタル
バンクの代理人に、グラバーの名も挙がっており、その影響力があった。三井は この
オリエンタル銀行の融資によって破産を免れたという過去を持った。もともと三井の破
産する様な収益悪化はこの日本郵船と三井客船との顧客獲得競争による価格戦争にあっ
た。日本軍の損害は戦死8名、戦傷25名と記録されるが、長期駐屯を余儀なくされた
ため、マラリアなどの感染症に悩まされ、出征した軍人・軍属 5,990余人の中の患者延
べ数は1万6409人、すなわち、一人あたり、約2.7回罹病するという悲惨な状況に陥った
。1871年(明治4年)兵部省が陸軍省と海軍省に分かれて出来たが、軍医寮は陸軍省に
属して、軍医頭に松本良順を当たらせた。台湾出兵当時、軍医部は創立より日が浅く又
経験不足で、総力を挙げて事態にあたったが漢方医が殆どだった。出征軍の医務責任者
に桑田衡平二等軍医正(少佐相当)、隊付医長は宮本正寛軍医(大尉相当)がいて他に
24名の医官を従軍させたが、熱帯病の治療経験は無く、彼らの交代に22名が到着し
たため、ようやく帰国できた。これは宮内省から外国人医師が派遣された為で、明治天
皇のはからいだった。ドイツ出身のセンベルゲルは、東京大学医学部の前身に大学東校
のお雇い外国人医師レオポルト・ミュルレルの推挙だったが、能力低くトラブルを起こ
していた。しかし、一緒に送られた6台の製氷機械は大いに役に立った。とされる。こ
の軍の創設と軍艦購入においては、徳川時代の遺物を摂取していたが、新たな鉄道建設
に明治政府が初めて国債を発行した。1870年(明治3年)4月前年ホレシオ・ネルソン
・レイと、関税収入と鉄道営業収益を担保に金利12%で百万ポンドを借り入れる契約
をした。明治政府から権限を付与されたレイによって、パリのエマイル・エルランジェ
商会が引受け、シュローダー商会が募集取り扱いを行う公募債として調達されることに
なった。明治政府は、公債払込金の受け取り等の代理店として、先述したオリエンタル
バンクを指定した。ロンドン証券取引所で公債募集を行ったシュローダー商会だったが
この後1923年に、米国ニューヨークのウォール街に進出し、1936年にニューヨークのJ
・ヘンリー・シュローダー銀行は、ロックフェラー財閥と資本を提携し、シュローダー
・ロックフェラー商会という投資銀行を設立した。

1371: 名無しさんAA:18/09/02 03:14
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   412    > 

 そもそもここで払われた日本や中国の巨大な賠償金は、一度英国と仏国に入ったが、
結局はオスマントルコやスラブ等の戦争で疲弊した欧州に物資供給してた米国に入った
。第二国立銀行(だいにこくりつぎんこう)は明治期に横浜で設立された銀行で、後の
横浜銀行の前身の一つで、その名の通り日本で二番目の銀行だった。私立銀行第二銀行
と改称した時期もあったりしたが、初代頭取は豪商だった原善三郎が就任し、早い時期
から洋銀券をめぐりオリエンタル・バンクと関わりを持った。第一国立銀行(だいいち
こくりつぎんこう)は、その後株式会社第一銀行(だいいちぎんこう)となり、かつて
存在した日本の都市銀行で、今は第一勧業銀行を経て、現在はみずほ銀行が承継してい
る。第一銀行も同じ様に三井財閥が同行百万円分の株式を担保にオリエンタル・バンク
から借り入れたりして総監役渋沢栄一が頭取に就任した頃から関係が深い。、J・ヘン
リー・シュローダー銀行は、ロンドンの独占的な手形引受会社委員会を構成する17の
マーチャント・バンクのなかで2番目の資本金をもつ会社としてリストアップされてい
る。当時は一番だった。(シュローダーはドイツ語読みで英語ではシュレーダーである
)合衆国ではほとんど知られていないことであるが、この会社は米国の歴史においては
大きな役割を果たした。他の銀行と同様、この銀行も又最初はイングランド銀行の認可
を受けなければならなかった。ウォーバーグ一族と同じく、フォン・シュローダー家は
ドイツのハンブルクで銀行業を開始した。1900年という世紀の変わり目に、ブルー
ノ・フォン・シュローダー男爵はロンドン支店を開設していた。1902年、彼はただ
ちにフランク・シリル・ティアクスの参加を決定した。ティアクスはハンブルクのエマ
・フランチェスカと結婚し、1912年から1945年までイングランド銀行の理事を
つとめた。つまり明治政府の債権発行にはイングランド銀行理事の持つ権限でなされた
のだった。世界の富を持つと言われたハクズブルク家の総帥フェルディナンド大公は、
サラエボでガヴリロ・プリンチップによって暗殺された。オーストリアはセルビア人の
謝罪を要求し、セルビアは謝罪文を送り届けた。それにも関わらず、オーストリア側は
宣戦布告し、次第に他のヨーロッパの国々がその争いに参加した。こうしてスラブ領有
を巡って第一次世界大戦が始まった。ひとたび戦争がはじまってしまうと、それを継続
することが難しいことに気づいた。ドイツにおける最大の問題は、食糧と石炭の不足で
あり、戦争を継続することは困難であったのだ。既にハクズブルク家以上の金銀が米国
のゴールドラッシュや中国・日本の賠償金で米国本土を満たしてしまい価値が下がった
のである。つまり米国発行の兌換紙幣は 流通に埋め合わせ出来る量が発行できたのだ

1372: 名無しさんAA:18/09/02 03:18
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   413    > 

 ロスチャイルドが関与している他の企業もそうであるが、イングランド銀行は1694年
の創立以来ずっと国際的陰謀とスパイ活動の中心となってきた。ただし、ロスチャイル
ドがイングランド銀行と関わりをもつにいたるのは、ようやく1812年のことだったと言
われる。ワーテルローの戦いでイギリスが敗れたという根も葉もないうわさが、ロンド
ン証券取引所になぜか広まると、これを利用してネイサン・マイアー・ロスチャイルド
は財産を6500倍に増やしたのである。こうして急速に大きくなったイングランド銀行だ
が、もともと革命から誕生していた。オレンジ公ウィリアム三世が国王ジェームズ二世
を王座から追放した革命(名誉革命)で、イングランド銀行の特許状がウィリアム三世
によって授与された。縁戚だからオランダ・ベルギーなどネットワークが存在したのだ
ろう。これで以来、国王に対する反乱は一度も起こっていない。こうして革命には不可
欠の資金源を支配下に収めてきたので、王室はずっと安泰だったのである。国王チャー
ルズ二世(在位1660〜1685)はバッキンガム公爵(ジョージ・ヴィラーズ)以下の閣僚
(クリフォード、アシュレー、バッキンガム、アーリントン、ローンダーデイル、その
名前を組み合わせるとCABAL(陰謀)という言葉になる。)5人のおかげで不安定
な地位をなんとかもちこたえた。しかし、この時陰謀を意味する新しいことば「CAB
AL」をつくりだした。と言われている。オラニエ公ウィレム1世(1533〜1548)は、
サクソニー家のアン、ブルボン家のシャルロット、コリニー家の王女らと結婚すること
数度におよんだ。今日、ヨーロッパを支配する各王室および、領国をもたない王室も、
すべて、オレンジ公ウィリアム三世の直系子孫である。すなわち、オランダのユリアナ
女王、デンマーク女王マルガレータ、ノルウェーのオラフ五世、スウェーデンのグスタ
フ、ギリシアのコンスタンティン、モナコのレニエ大公、ルクセンブルク大公ジャンな
どである。これは政略結婚の極みであり、イスラム型のハーレムでの支配に他ならない
後々の、アンソニー・サットンも、「ヨーロッパの王族はすべてサックス=コーバーグ
=ゴータ家に起源があり・・」と言っていた程だ。イングランド銀行の株主たちは初期
には「1300人協会」と呼ばれた人達がいた。株主には、イングランド国王と女王も
名前を連ね、それぞれ1万ポンドずつの価値に相当する株式割当を受けた。マールボロ
公爵は1万ポンドを出資した。彼は1697年には例の「仲介手数料」のなかから多額の金
を東インド会社にも投資した。のちに彼は、アメリカ港湾局の前身であるハドソン湾会
社の総督になるが、この会社は75%もの配当金を出した。結構な金額だ。


1373: 名無しさんAA:18/09/03 20:38
 他にも井上毅もプロイセン憲法の研究者としてつとに有名であり、当時のドイツにお
ける憲法学者が皆ユダヤ人であったことを考え合わせる時、思い半ばに過ぐるものがあ
ろう。何故ユダヤ人が特にドイツにおいてこの憲法問題に熱心であったかというに、こ
れが国家を内部から転覆させるマルクス主義国家論への捷径であることを知っていたか
らに他ならない。伊藤博文から美濃部達吉に至るまで愛用した「機関」という言葉は、
ドイツのユダヤ人の間では、マルクスももちろんこの「Organ」 という言葉が大好きだ
ったのである為だが、階級闘争における「支配者」が「被支配者」を「抑圧」「搾取」
する「手段」「道具」という意味から、ドイツでは専ら使われていたのである。恐らく
伊藤博文も美濃部達吉もこのユダヤ人の真意は知る由もないのではないか。ドイツは、
あくまでドイツであった。そもそもドイツ人はドイツ人かどうか。を非常に気にしてい
る民族だった。自らが混血などと思っていなかったのだ。スラブからやって来る移民の
他の民族を絶対相容れない、ポーランド系ドイツ人ロシア系ドイツ人デンマーク系ドイ
ツ人などとは認めて居なかった。それは中間というものの存在する余地のない民族闘争
がはるか昔から繰り広げられていたからだ。しかし日本人は夢にも知なかった。日露の
戦争になって、ロシアの首都サンクトペトロブルグの日本公使館駐在武官の明石元二郎
陸軍大佐である。 開戦にともなってスウェーデンのストックホルムに拠点を移して、
ロシア革命の工作をした賭される。運動家に資金を供給し 、革命の火に油を注ぎ、 帝
政ロシア崩壊の導火線を仕組み、彼に戦争継続の困難ならしめ、米国のルーズベルトが
斡旋する日露講和会議の席に着かざるを得ざらしめた。と言う、後にドイツ皇帝ウイル
ヘルム2世は 「明石一人で、 大山満州軍20万に匹敵する戦果を上げた」 と激賞し、
ウォーナーの「日露戦争全史」は「東郷や大山はロシアの艦隊や地上軍を撃破したが、
明石はロシアの心臓部に直接攻撃を加えた」 と記している。工作資金百万円現代価値
500億円が使われた。それでも日露戦争の戦費とされた8200万ポンドを起債して戦費
総額は当時の金で18億2629万円つまり1826分の1だったのだ。現代の相対価値にし
て約5000倍とされ9兆131億円つまり10兆円が無駄な国家予算として使われて
その支払いは戦後まで続いた。クーン・ローブ商会に就職したシフは1370年からフラン
クフルトのゲットーで、初代マイアー・アムシェル・ロスチャイルド時代に「グリュー
ネシルト(緑の盾)」と呼ばれる建物に赤の盾ロスチャイルド家の隣に住んでいた。そ
の後日露戦争にシフの援助になるが、金を工面した高橋是清は若い頃騙されて米国では
奴隷になろうとした。その高橋でさえも「ロシアでの反ユダヤ主義(ポグロム)に対す
る報復」だったと言われて、「世の中は解らない。」と言った。日本が憲法制定でドイ
ツに回った時はもっと理解していなかったであろう。

1374: 名無しさんAA:18/09/03 20:52
 ユダヤ人が日本人に謝らなければならない事の最大の問題は、戦後日本共産党を育て
残置諜者として残していったことである。これは具体的にはニューディーラーが全て行
ったことであったのだが。共産主義者や自由主義者から成っていたニューディーラーは
社会主義革命こそ行わなかったが、戦前の日本にあった類い稀な長所をすべて破壊した
のである。それ以上に大きな誤りは、残置諜者として日本共産党を育てて社会党に融通
し自由党に資金を入れた事である。我々が戦後改革によって犯した誤りは、この残置諜
者=日本共産党=自由民主党なかりせば、既にもうとっくに賢明な日本人達は、本来の
大和民族の日本に蘇生したであろう。東京裁判、日本国憲法、その他の戦後改革による
悪弊も、この病理をタブーにして一指だに触れさせじとするこの侠党達がなかりせば、
とっくに払拭された事であろう。不思議な事だが、日本共産党は米国共和党から自由民
主党は米国民主党から日本社会党はソ連共産党からその資金が出て居た。理由は簡単だ
った。日本を動かしたい米国の意志と、共産側に寝返らない為の英国の意志でソ連から
の資金あったからだ。東京裁判の場合でも、これにニューディーラーが持ち込んだ論理
が戦前からの日本共産党の講座派史観(天皇制を軍部の絶対悪とする史観)と一致する
ことで日本共産党をとらえたのであるが、日本国憲法の場合には、教科書的マルクス・
レーニン主義しか知らない日本共産党が憲法を捉えるべき要素はほとんどなかったのだ
が、あるとすれば、第28条の勤労者の団結権の保障ぐらいのものである。あとはすべ
てマルクス・レーニン主義世界の、教科書からは出てこないものである。しかし何故か
それにもかかわらず、日本共産党は日本国憲法を溺愛した。不思議に思われるであろう
。その答えはユダヤ教の宗教的呪縛力なのである。いきなりこういっても日本の皆様に
はピンとこないだろう。いや何よりも、日本共産党自身が全く意識していない。一般の
戦後改革、例えば国家意識、民族意識の去勢にしても、果たして日本共産党がどの程度
に、この意味を知っているだろうか。恐らく、プロレタリア国際主義というコミンテル
ンのテーゼにある線からこれを考えているのであろう。しかしそれでは、わかっている
とはいい難い。マルクス主義の国家論ぐらいしか来ない。つまり、国家を破壊するには
愛国心が最大の障害物になるわけで、もし日本共産党がこの辺まで分かっていたという
なら、家族制度は国家転覆のやはり大きな障害物なのである。憲法にある自由、平等、
男女同権等はすべてこの目的に添ったものである。共産党には、そこまで知っていての
日本国憲法を死守ではない。私にはそうは思えない。もともと日本は集落に於いて社会
主義的共同生活者の農耕民族だったのだ。言わば郷土愛や郷愁において参加している。
そしてそれは、共産党のみならず自由党も民主党も同じだった。つまり社会とこそ革新
だったのである。

1375: 名無しさんAA:18/09/03 21:02
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 57

 日本共産党が日本国憲法改訂をタブーとして死守する根拠は、マルクス・レーニン主
義からは導き出せない。ではこれはどう説明すればいいのか。それはユダヤ教の呪縛力
としか説明できない。擬似宗教性といわれるものである。今や中国共産党社会でも跋扈
して共産党と言うの擬似宗教科学は、その飴と鞭の文化を駆使して、疑似信仰において
最も巨大な力を作用させる国家として復活した。マルクス主義の害毒といった場合に、
およそ普通は表面に現われたもの、例えば安保騒動の如きものとしか捉えず、日本共産
党の民主連合政府綱領や自民党の米国隷属主義を見て、革命というマルクス主義の現実
的脅威はなくなったと考えるかも知れない。だが、問題はそんな生易しいものではない
。というのが現実である。マルクス主義とは単なる「革命理論」ではないということで
ある。それは経済至上主義にその恐ろしい本質がある。人は蟻の共同生活の様な同族社
会を好み、その中の上位主義を目指す。本能的にそうした社会を築きたがるのである。
しかし、今日本の中の行方不明の若者や社会に溶け込めない自殺者などはその被害者な
のだ。核家族で愛に飢えた青年の暴走や貧困でもなく食べられない子供達の急増も同じ
である。マルクス主義の戦後における影響の最たるものは、この稿でとり上げる戦後の
病理、虚妄性、日本歴史の真の構築を阻む跛行性をつくり出したということにある。と
いわねばならない。これらを具体的にいうと、国家・民族意識、愛国心の去勢、道徳観
の失墜、拝金主義の培養、家族制度の崩壊、その他、戦前の日本が世界に誇った冠絶し
た長所を失墜せしめたことにある。マルクス主義はこの病理の精神的支柱となっている
。創価学会などはその最たるものだ。これは根拠のないことではない。何故ならば、日
本共産党は戦前の日本の長所をすべて「絶対悪」として否定するもので発展した。そし
て、日本共産党はマルクス主義を唯一絶対の世界観として信奉する政党である。これを
模倣した経済団体が創価学会である。彼らが仏教徒の団体などと言うのは嘘偽りの中に
ある。戦後の病理のマルクス主義と言う癌に併発した白血病みたいなものだ。歴史のな
い新興宗教に宗教を語る資格などない。本来の伝統がないからだ。こうした新主義主張
がマルクスと密接な関係があることはわかったが、これらはただ単に散在していただけ
では、これほどの影響を及ぼせたかどうか疑わしい。それにはやはりこれらをひとまと
めにパックして、しかも日本国民に強制する力をもった何物かがなければならない。そ
れがアメリカ占領軍中のニューディール派であり、その所産である日本国憲法と、その
擁護者としての日本共産党や経済至上で米国に貢ぐ自由民主党なのである。この脱却は
かなりの意識改革を必要とする。

1376: 名無しさんAA:18/09/03 22:22 ID:6IE
 では、これほどまでに多大の影響を戦後日本に及ぼしたマルクス主義とは一体、如何
なるものなのか。日本のみなさんは、虚構論理というものを信じられるだろうか。それ
は一見学問体系の如き体裁を整えてはいるが、事実は真っ赤な嘘で固めたもの、それが
虚構論理という実態である。世界には、大変手の込んだ虚構論理というものが存在する
。それが、マルクス主義を広めたコミンテルン集団なのである。そういう仮設を設定す
るには、2つの前提が要求される。1つは誰かが目的を持ち周到に計画し出費を惜しま
ない無駄に投資する事だ。もう1つは何の目的でそんなものを構築したのか。と言う事
に納得させられる嘘の回答を持ち得る事だ。この2つの前提に答えなければ、そのよう
な虚構論理は持ち出せない。例えば王立アカデミーでは30年も40年も前から石油は
枯渇する。と煽っていた。それが嘘だと誰も言えない。何故か新規油井が掘られ油田が
発見されたからだ。と言う言い訳を持っていたからだ。しかし、真実はその策井戸資金
の為や油メジャーの地位の保全に巨大な利益が欲しかったからだ。日本でも銀行潰しに
竹中平蔵が同じ手法を行った。つまり日本の債権焦げ付きが終わっているにも関わらず
過去の恣意的な米国金融グラフで日本銀協を脅迫したのである。そこある意図も解らず
その為企業はビックバン以来でも活躍のなかったハゲタカファンドに覆われて潰されて
いったのだった。当然である本来貸付すべき市中銀行が貸し剥しするくらい絞めたのだ
から。本来政府予算を減らし流通紙幣を増やすべきが逆をやったのだ。当然その後国外
に出た利益は日本を貧困化させ今では日銀が政府起債を買い戻してやっと景気が順調に
なった。馬鹿の極みである。そして政府は能天気に今でも増税論を敷いている。国家予
算を絞ること、そして企業が借りても設備投資させる事。この2つを止めて産業は成り
たたない。この基本を知らないで不良債権の排除をとことんやったのだ。馬鹿の極みだ
そして強制貸付した金は直ぐに銀行は返した。銀行自体は堅調で市中が不況だったから
だ。そして曰く、「行財政改革が今だ途中だから不況である。」との論陣をはった。そ
して小泉時代に売り払った山林やNTT株国鉄用地は全く売り払われたが、不況の焼け
石には水だった。当然である当時の資料では7兆円程度が米国に送られていたのだから
ただし海外旅行やその分材木や肥料や医学機器が日本に入って来たのだろうだろうが。
が問題はそうして太らせた米国投資家の運用先が無かった事だ。国内運用合戦で巨大な
悪質事件が起こった。直ぐにリーマン以外は銀行とした査定を受けて政府救済を受けた
だがリーマンは江戸期からの投資会社である意味日本的な投資家としての意地があった
ため救済が受けれずに破産した。7兆円の負債は140兆すなわち20倍の国家損失を
起こしたとされる。それが虚構論理の構築により既存歴史を破壊方向へ流すという雄大
なプロセスであった。これがマルクス主義である。嘘は自然が許さない。と言った処か

1377: 名無しさんAA:18/09/03 22:31
 こうして、マルクス主義成立過程の種明かしして行く前に、資本・共産両建て主義と
言う物を考えたい。さて、これが20世紀に入り、戦争という手段が19世紀的な革命
とに有効な手段と考えられるようになった。これがレーニン主義の暴力革命である。と
同時に、神経戦、心理戦ともいうべき革命、戦争の如き組織性を必要としない手段も考
えついた。近世史では、この我々の逆転プログラムによって創られたものだった。教科
書的な歴史観では何も分からないだろうが、これらを要約して我々は両建て主義と呼ん
でいる。つまり、革命による変革の共産主義(マルクス)の共産党宣言と、戦争による
暴力革命変革した資本主義(レーニン)帝国主義論が合致してマルクス・レーニン主義
となったのだ。このようなマルクス・レーニン主義は資本論として、ユダヤ民族解放の
「手段」「道具」にすぎかったのである。これをまるで歴史の発展法則として見て売り
込んだのは、勿論ユダヤ人であった。そのために近世史は、今日見る如く救い難い混乱
に陥ってしまった。典型的な訓話学者の上田耕一郎氏や不破哲三氏にはにわかに信じ難
いことであろうが、これが真実だ。つまり勝手に創られた株式操作に理屈をつけた様な
話だったのである。よくTVで何とかエコノミストとされるが全く間違っていて庶民が
株式操作や相場介入できるならいざ知らず、株式を動かすのは大きな運用資金の一部の
者である。LTCM危機も全く同じだった。取り巻きがついて回り取って付けた理屈を
説明するのだ。が実態は難しくない。赤字を隠し運用実績を隠して米国政府の様に強く
支配した力が動かす。銀行の銀行である中央銀行以外に銀行の銀行として運用実績をつ
けた会社が、中央銀行に潰された。それには目的がある。ただそれだけだ。多くの日本
の銀行・生保・証券会社・商社・社会保険に営業し資金を得て、それを潰した。日本政
府が3億円貸付すれば良かったのが蹴って14兆が消えたのだ。狙い撃ちされた米国の
銀行団のノーベル学者叩きだった。フランス革命における変革の手段で、感性的なスロ
ーガンを身に着け、「自由」「平等」「博愛」のスローガンを 日本国憲法の骨子とし
て持ち込んだのも同じユダヤ人である。弱者解放のためのスローガンが、高度な理性的
国家日本へ持ち込まれると、予想だにしなかった混乱を引きおこすことに我々は、気が
つかなかった。これが第一期だったが、第二期では反撃プログラムであるマルクス主義
の成立過程が存在した。マルクス主義はマルクスが構築した論理であるからマルクス主
義と呼ばれている、とこう解釈するのが当り前と考えられているようである。しかし、
現実には、マルクスには、虚構論理の構築を依頼した注文主がいた。この注文主こそが
マルクスに送った手紙、発注書ともいうべきものが第二次大戦前にこの世に出た。これ
は日本でも知られているマルクス主義の源流である。この事が全く理解されていないよ
うである。

1378: 名無しさんAA:18/09/03 23:03
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 60 

 次に紹介するのが、この手紙、つまり発注者のユダヤ人バリニッシュ・レヴィーの、
マルクスに宛てた文面の一部である。「救世主(メシア)は団結せるユダヤそれ自身で
ある。宇宙の支配(世界)は他人種の統一に、各個独立主義の城壁たる国境及び君主国
の廃止と、ユダヤ人に対し随所に市民的権利を認むる世界共和国の建設によって保たれ
るであろう。全然同一種族でかつ全く同一の伝統的陶冶をうけているイスラエルの子孫
、しかも特殊国家を形成していないイスラエルの子孫は、爾後地球の全表面に拡がり、
この新しい人類社会の組織の裡に到るところ何らの抵抗なく指導要因となるであろう。
殊に彼らの中のある学者の賢実なる指導を労働大衆に課するに至ったならば、尚更の事
である。世界共和国(世界政府)を建設したならば、国家の統治権は無産者の勝利によ
って、何らの努力を要せずしてイスラエル人の手に移る。ここにおいて私有権は到る所
 公共財産を管理するユダヤ人の支配によって廃止せらるるに至るべく、かくてメシア
の時代の到来せる時、ユダヤ人は全世界の人民の財産をその鍵の下に掌握すべしという
ユダヤ伝統の約束は実現せらるるものと信ずる。」と書いている。この手紙の意味する
ところを概略すると、自己のメシア思想の実現には先ず、非ユダヤ人、つまりキリスト
教社会の現状維持の砦である国家を転覆する必要がある。しかもその国家転覆の最大の
障害は君主制である。これを実現して人類社会に新秩序を建設する。つまりユダヤ王の
下による世界政府の逆転劇である。これだけで十分とも考えられるはずだが、さらに、
もう一つの考えが附随しているのである。それはユダヤ民族固有の唯物思想がある。既
存の秩序を転覆すれば協力者たるプロレタリアートにより、なんなく全財産がユダヤの
もとに転がり込んでくるであろう。という推測だ。しかも、そのことはユダヤ民族の、
伝統的約束であるということを述べているのである。ここに、ユダヤ的思考の最も大切
な2つの要素が含まれている。その1つは、メシア思想の基本パターンである。選民た
るユダヤ民族が、異教徒との葛藤に勝利を収め、至福千年王国を建設するという終末論
がここにある。これが唯物史観の原型で、選民とはプロレタリアートであり、異教徒が
ブルジョアジーと言う訳なのである。これが今の西洋思想の根本にある。この姿は今の
中東にイスラムのイスラム国ISが宣言した「カリフの統治国・イスラムの理想郷」と
何ら変わらない夢がある事が解る。更にロシアの「ソ連復活」や中国の「中華の夢」と
全く「パンアメリカン」と変わらない覇権思想が介在する事が解る。しかし既に地球は
もたず、異常気象で巨大台風や洪水、日照り干ばつ山火事、海洋汚染漁獲減少と一気に
経済資源の縮小と生活負荷の上昇が起こっている。すなわちもう人類問題過ぎ生物問題になっているのである。

1379: 名無しさんAA:18/09/03 23:15
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 61 

 これこそユダヤ的思考法の二元論の原型である。これに宗教的倫理観が加味されるの
で、善悪二元論と呼ばれる。ロシアから亡命した哲学者ベルジャーエフは既に、マルク
ス主義は、出発点において黙示録的性格を有すると分析していた。また、日本では鈴木
成高氏がその著書『歴史的国家の理念』において、「唯物史観はその最後の帰結におい
てプロレタリア独裁を想定し、歴史の弁証法的発展を止揚することによって、一種の、
エスカトロギー終末論に陥っているのである。発展的力学の論理はそこにおいて停止し
、階級対立の消滅、国家の解消とともに歴史もまた終止する。それは、ユダヤ的終末観
とその外形において極めて酷似するものがある。すなわちプロレタリアートは神の選民
に該当し、ブルジョアは異邦人に該当する。歴史はエホバの代わりに、同じく人間意志
と能力を超越した、経済的必然によって支配されるのである。」と述べ、かなり克明に
本質を突いている。日本では恐らく唯一人の仮設論者であろう。この構図は、ユダヤ・
キリスト教(いわゆるヘブライズム)の終末論的歴史観とマルクス主義の歴史観が、そ
の基本構想において全くおなじである。マルクス主義とヘブライズムがいかに同じ土壌
に立ち、同じ延長線上にあるかは賢明な有識者がしばしば指摘しているところである。
さて、もう一つの要素たるものは、ユダヤの民法ともいわれるタルムードの思想である
。これはユダヤ人たるものの、生まれてから死ぬまで信念としているものだ。タルムー
ドは5、6世紀ごろ完成された実に膨大な法であるが、また日本では、戦後いろいろの
ユダヤ人、日本人によって紹介されているようであるが、不思議なことに、何故かこの
最も肝心なところが紹介されていない。肝心なところというのは、「シュルハンアルク
ノショッツェンハミツバッド第348条」である。すなわち「非ユダヤ人達の所有する
財産は、本来ユダヤ人に属するものなれど一時彼らに預けてあるだけである。故に何ら
の遠慮もなくこれら財産をユダヤ人の手に収むるも可なり」とするものである。これの
意味するところは大別して2つある。1つは、「一時預けてあるものであるから、何時
なん時でも代償を払わずに取り返して然るべきものである」ということであり、もう1
つはユダヤ人の財産は故なく非ユダヤ人に奪われたものである。」ということになる。
 詰まるところ、「世界はユダヤのものだ。今使わせいるのは一時的に預けているだけ
で、いつでも、ユダヤ人なら取り戻してもいいのだ。」と天才バカボンの意識なのだ。
たまげたたわごとなのだが、これが終始一貫して唱えられ崇拝され意見されて歴史を作
って来ていた。驚くべき感覚である。


1380: 名無しさんAA:18/09/03 23:18
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 62 

 前者がレヴィーのマルクスヘの手紙の骨子となっているものだ。つまり、私有財産の
奪取という思想はここから来ている。さらにもう1つの後者の解釈は マルクスの大作
「資本論」の根本思想をなしているものでもある。つまり、「ユダヤ人の財産は故なく
非ユダヤ人に奪われたものである」から かの有名な剰余価値説が生まれているわけで
あり、「搾取」とマルクスが強調するものが存在するのである。短絡的なマルクス主義
の論理的飛躍は、本来なら日本のインテリ層が見ぬけないはずはないと思う。しかるに
何故、そのような論理的飛躍があるにも拘らず、これだけの信者を集められるのか。と
いう疑問がある。これは宗教的呪縛力としか説明できないタチの悪いクセのものである
。遠目に眺めればマルクス主義の真の素顔は宗教ということでもある。日本共産党の態
度を見ればこのことはすぐわかる。科学といいながら、実際は決して経験科学の実証を
受け入れようとしない態度がしばしば見受けられる。ここで、共産主義者のいう科学的
社会主義の「科学」という形容詞がどこから出たか。説明した如きマルクス主義が何故
「科学」といわれるのか、この答もこの際明らかにしておこう。これは、レヴィーらの
熱烈な民族主義グループが宣伝のため吹聴したからだ。唯物史観のいう「社会の必然的
な発展法則」ということを強調する事で、人間の意識から独立した物質的、客観的条件
により歴史は動かされ、一定の法則に従って一定の方向性をもって動く。と説明した。
これを弁証法的唯物論を社会応用した唯物史観であると宣伝しているわけである。虚構
の大きさ故に、かえって多くの人々は自己陶酔に陥る。アカデミックな真摯な態度と、
宗教的呪縛力の奇妙な混合といえよう。以上のようなことから、日本で行われている、
マルクス主義論争は不毛の論争といわねばならない。もっとも、日本のインテリ層は、
恐らくマルクス主義の成立過程をご存知なかったのだろうから、無理もないことかも知
れない。完全な虚構論理であれば共産主義の矛盾を衝くのは易しい。虚構を現実に無理
にあてはめようとするのであるから、すべてその矛盾は露見する。だが、それでもなお
現在もマルクス主義が生き続けるのかということを解明しなければならないだろう。こ
の論法は、日本のオウム真理教でも使われた手法である。つまり解らない事や解る節度
に線引きのない状態にさせて、勝手な狭義の中に引き摺り込むのだ。他が一つでも間違
いがあれば、ほら俺の言ってる事が正しい。全部正しいのだ。と言う魔法の呪文である
よく、あの東大など頭のいい若者が馬鹿の麻原などに。などと言うが人はおよそ半分も
人を見抜けない。時に自分が落ち込んでいる中では 傍にいる計略にははまってしまう
ものだ。

1381: 名無しさんAA:18/09/04 00:01
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 63 

 このような虚構論理を科学と誤認させるだけの根拠はあるにはある。それは「絶対的
貧困化」という設定である。物質的、経済的にこれより悪くなることはないところまで
行きつけば、人や社会は根本的に変革されるという仮説である。つまり火事場の馬鹿力
的発展である。これは説得力があった。複雑なメカニズムをもつ人間社会で設備や機械
の如く、体制が古くなったからそっくり取り替えるという訳にはいかない、がしかし、
結局それでも押し寄せる「絶対的貧困化」の必然性を説けば、その「恐怖」と共に人間
社会は変革に対しても説得力をもつ。というものだった。このマルクス流の考え方は、
ものの見事に図に当たったのである。水に沈むとして、自然に手足を掻き泳ぐ事に似て
いる。フォームも何もない。だがその前に岸まで泳ぎ着こうとするのである。だが人は
水に浮く存在である事を自覚しなければならない。つまり。この水の恐怖が先に走って
その対処法が見えなくなる事がある。だが本当は冷静になればそうした改革は必要なく
人は生きていけたのである。しかしこの宗教のマルクス主義は一神教的思想はユダヤ的
世界観のコピーで、その唯物論は、有神論のもつ“矛盾”と“限界”に反動で生命を得
て、キリスト教の効力を失った時代の「代替宗教」言わば擬似宗教になった。つまり一
言で述べるなら、マルクス主義とは、19世紀の欧州の時代背景にした、特定地域の、
一時的に発生した宗教であるといえた。イギリスの世界的歴史学者であるアーノルド・
トインビー博士は、「マルクス主義はキリスト教の亜流だ。」と言ったが、中世の「神
」の力が喪失していく時代に、ヨーロッパ人は次なる「福音」として、マルクス・共産
主義を受け入れ、マルクスの「理想郷=共産制社会の実現」という“予言”を信じたの
た。このマルクス主義は当たった。「ユダヤ民族解放」の為の虚構理論を利用し日本開
放を勝手使い米国は戦争を進めたのだ。戦後日本の混乱に最大責任があるのはそうした
間違えた開放論で、それの原資となったマルクス主義であった。日本の共産主義論者は
、何かというとすぐ「マルクスはこういっている」とマルクスやレーニンの原典から答
を出す。訓話学的アプローチの好きな彼らは自分の頭で考えていない。自分の頭で考え
ていれば訓話学的態度に陥ることはない。彼らがもう少し注意深いアプローチをとって
いれば、「共産党宣言」「経済学批判」「資本論」というマルクスの原典の発表順序に
気をとめ嘘の話と解る筈だ。結論が先に出されその説明が後に続くということは仮説で
しか成り立たない根拠である。つまりサイコロの目が先にありその為に理由を付けたの
だ。


1382: 名無しさんAA:18/09/04 00:54
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 64

 根本的な問題は、二元論による唯物論と観念論の二者択一を強制されることである。
マルクス主義の学習はこの点から入門させるのを常とする。結果として唯物論を否応な
しに選択させられ、これをすべての土台として考えさせられる。しかも二極分化を強制
する。つまり、如何なる時でも中間というものの存在を認めない。元来哲学的に唯物論
と観念論は二者択一云々の問題ではない。原点においてすでに二元論的思考に陥ってい
る当然の帰結として唯物論絶対優先ということに導かれる。その結果に、社会的存在が
意識を決定するという原則を勝手に創る。したがって、戦争も革命も物質的、経済的要
因によってのみ引き起こされるものであるという絶対論に導かれる。これがマルクス主
義の最も肝要な点である。原点からしてこの調子だから、以後経験科学の実証など考え
たくもなくなる。また、こういう盲目的な二者択一を強制できるのは宗教的呪縛力以外
にはありえないということも真理であろう。更にこれは人間にとって致命的な欠陥でも
ある。というのも人間は動物の様な成長過程を得ない。生物学的に馬や羊の様に生まれ
て直ぐに立てないし、しつけを暴力的には行えない。そこに幼児教育では二者択一の中
の原始的学習法で幼児の危険を取り除く。つまり親は言葉や行為は二者択一で話して、
行動を学ばせるのである。基本は危ないか、危なくないかの、この認識で育って行くの
である。動物の勝手な潜在意識の中の条件反射的な二者択一の仕分け本能を利用して、
錯覚させているのである。ウラジミール・レーニンはユダヤ人であり熱烈なユダヤ民族
主義者であった。この点はマルクスに劣らないだろう。血統的には父系が蒙古族のカル
ムイック人であり、母系がユダヤ人である。クループスカヤ夫人は純粋のユダヤ人であ
った。建前論からいえば、レーニン主義とはマルクス主義を資本主義の最高段階、帝国
主義の時代に適用、発展させたものということになっている。しかしレーニンは、革命
家でも思想家でも無かった。実際は、煽戦家策略家だった。レーニンが「帝国主義論」
を使ったが本人も認めている如く、ホブソンの「帝国主義」の盗作で、側近に勧められ
た「帝国主義諸国間の戦争は不可避である」という点を言ったのみだった。レーニンが
「帝国主義論」を書いた目的はただこの一点にある。戦争というものが、ユダヤ民族の
解放事業に最も有効な手段であるということを見抜いた為の目的だったのだ。19世紀
のマルクスの持ち出した内部抗争による国家の転覆手段よりも、ずっと安く手っ取り早
い手段が戦争だった。戦争で国家が疲弊した時が一番の変革、解放事業のチャンスであ
るということで、中国にもそれを輸出したのである

1383: 名無しさんAA:18/09/04 00:55
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 65

1913年8月18日付の『セーベルナヤ・プラウダ』紙上でレーニンは「ロシアにお
けるロシア民族は、全体の43%を占めるにすぎないのに、(政府高官は)自らロシア
民族にあらゆる特権を与えようと努力している。そしてロシア在住の他民族、いわゆる
タタール人に対してますます彼らの権利をきりつめて、分離政策を推し進め、相互に反
目させるような政策をとりつつある。その最も極端な現われが、ユダヤ人学校の民族別
化政策である。この内容は、私立、官立をとわず、すべての学校でユダヤ人に門戸を、
完全に閉ざそうとしており、そのためユダヤ人中学生の数を百分率で制限しようとして
いる。ヨーロッパでは中世にだけ存在したこのような差別政策を今頃から始めようとし
ている。」とこうして、ユダヤ人の差別をこのように熱心に反対、批判する。ユダヤ人
でなければできるものではない。又『イスクラ』の1903年2月15日号の中では、
ユダヤ人労働者総同盟、通称「ブンド」を非難する主張で、「ユダヤ人プロレタリアー
トに独自の政党が必要か」と題して論じられているものがあるが、この論文の中でレー
ニンは、シオニズムを猛烈に攻撃している。シオニズムはハンガリー生まれのジャーナ
リストの、テオドル・ヘルツル博士がドレフュス事件を見るにつけユダヤ人は結局自分
の国を建設しなければならないと決心し、祖先の地、シオンの丘、パレスチナへ帰ろう
とする運動である。つまり現在のイスラエル建国はこのシオニズム運動の結晶であるの
はいうまでもない。ではユダヤ人レーニンは何故、この理想的なシオニズム運動を攻撃
したのか。実はユダヤ人の運動にはもう1つあったのである。それはマルクスの唱える
革命、レーニン自身の唱える戦争での暴力革命である。この2本を組み合わせて両建て
主義というのだが、この線からのユダヤ人の理想の実現という線があったのである。今
流にいえば、前者をハト派、後者をタカ派というべきか。レーニン自身は勿論、レーニ
ン主義という如く後者のタカ派路線の要である。ヘルツル博士の唱えるナショナルホー
ムとしての国家建設運動の如きは白昼夢にすぎないと見て居た。建前論のマルクス・レ
ーニン主義ではシオニズム運動のユダヤ人だけの運動に論及する必要は毛頭ないはずだ
。思わず本音が出て、このブンド攻撃の論文をだしたと言う事だろう。明らかに内輪の
ケンカといった感じがあり、これが建前論としてのマルクス主義を論じるレーニンと同
一人物かと思わせるほどの口調が貫いているという。革命と建前論に終始するものは、
今日では日本共産党以外ほとんどなくなった。当時から、欧米の新聞論調はロシア革命
とはいわず、「ロシア・クーデター」と呼んでいた。つまり、クーデターは革命と違い
国家転覆し首がすげかえられただけのものだったのである。

1384: 名無しさんAA:18/09/04 00:55
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 66

 ユダヤ権力がツァー権力にとって代わったものという意味で使われたが、それがフラ
ンス革命に次ぐユダヤ人の反撃プログラムの第二弾だったのである。実はこのロシア革
命には予言された一面を見せる。1913年10月、ウィーンで発行されていたユダヤ
機関誌『ハンマー』第274号に次のような記事がある。「ロシア皇帝ツァーはキエフ
においてユダヤ人に対する徹底的な撲滅政策を決議した。運命は この大闘争の結果に
かかっている。ただしそれはユダヤ人の運命ではない。何故ならユダヤ人は負けること
がないからである。それはただツァーの運命にすぎないというだけのことである。ツァ
ーの勝利は、その終焉の発端にすぎない。逃れる道はないことを知るべきである。この
ことをよくのみ込んでおけ。我々はキエフにおいて、全世界に向かってわれらに侮辱を
あたえるものを容赦しないことを示そう。もしユダヤ人が今までにロシアに革命を起す
事実を隠す政策をとっていたのなら、キエフ事件におけるツァーの態度が判った今日、
その政策は捨てるべきである。この事件の結果がどうであろうと、ツァーに対しては、
容赦しない。それが我々ユダヤ人の決心である。」と書いている。この自信にあふれた
予言を発表している。このような状勢に対しては警戒論も勿論出ている。その一例とし
て、駐露オランダ公使ウーデンディクは、英国外相バルフォアに対して次の様な報告を
送っている。「ボルシェヴィキに対しては、すみやかに弾圧を加えねばならない。この
ままだと全世界にその毒牙は広がるだろう。ボルシェヴィキは国家をもたないユダヤ人
に鼓吹されている。その目的はユダヤ人の利益のために、現状の変革を狙っているので
ある。この危険を救うのは列強の共同行動のみである。」と。これに対して、親ユダヤ
主義者、英国首相ロイド・ジョージとアメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンが強固に
反対したことはいうまでもない。ボルシェヴィキ1917年の十月革命以前から活動してい
た者は特にオールド・ボリシェヴィキと呼ばれる。日本語では過激派と和訳された。ボ
リシェヴィキはメンシェヴィキや社会革命党に比べ少数派であったが、人事と要職を握
ったので「多数派」を名乗った。暴力革命を主張し、徹底した中央集権による組織統制
が特徴である。その特徴は、そのまま後身であるソビエト連邦共産党へと引き継がれた
。当初はメンシェヴィキとされた白ロシア人の三月革命だったが、ボリシェヴィキ(多
数派)とされる赤ロシア軍の十月革命が起こり少数派のユダヤ人の政権が多数派を名乗
ってソ連邦が出来たと言われている。


1385: 名無しさんAA:18/09/04 00:57
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 67 

 これらの状況証拠をみてもわかる通り、ロシア政変というものはユダヤ人の解放運動
だった。実は、今世紀に入っての革命運動というものは、ユダヤ人の苦しめられていた
国々で起きていたのである。ロシア然り、ドイツ然りである。これはフランス革命の結
果、ある程度の自由を獲得したユダヤ人がフランスその他西欧、ユダヤ人に寛大だった
スカンジナビア諸国、ユダヤ人を経済的刺激要因などに、巧みに利用する術を心得てい
たからだ。アングロサクソン諸国などにおいては革命運動がほとんど起こっていないの
もそれが理由だ。もしこれが社会の発展法則云々ということなら、均等に起こって然る
べきだが起こって居ない。ロシア政変の成功はアメリカの援助に負うところ大きいとさ
れている。第二次大戦後の米ソ関係しかしらない人は驚かれるだろう。しかし、もっと
ものことだから世界の常識となっている。現在のアメリカとウィルソン時代からルーズ
ベルト時代までのアメリカは少しは違うといえるかも知れない。が、当時のアメリカは
ユダヤ勢力が非常に強かった。JSAといわれたものである。日本では隷猶国といって
いたそうだが。ユダヤ人ではないが親ユダヤ主義者のウィルソンが、ロシア政変には、
非常な努力を惜しまなかったのである。財界の巨頭クーン・ローブ商会のヤコブ・シフ
は、トロツキーらを通じて当時の金で1200万ドルという巨費を出してシフが日露戦
争の時、日本に貸したのも目的は同じであった。とされる。またアメリカ政府は個々の
革命家にも便宜を与えた。ツァーの弾圧の激しかった当時、ロシアでのユダヤ人革命家
はいろいろと行動を制限されていたと言うより迫害されていた。そこでアメリカ政府は
これらロシアのユダヤ人革命家を一旦アメリカに入国させ、アメリカの市民権を与えて
再びロシアへ送り返すという手の込んだことをしでかした。これらアメリカ市民権をも
ったユダヤ人革命家は、当時国際関係においては弱かったツアーのロシアで、治外法権
をもったものの如くふるまえたのであった。これと同じようなことはまだ他にもある。
日本がシベリア出兵を決議した翌日に、ウィルソンは米軍の派遣を発表している。これ
は偶然ではない。ユダヤ権力の擁護が真の狙いだったのだ。それともう1つは、日本の
極東地域での伸長を妨害することだった。これはユダヤ民族がナショナルホーム建設候
補地として満州を狙っていたことに対する側面援助に他ならない。ビロビジャンにユダ
ヤ人入植地をつくったのも、マクロ的に考えれば満州へのユダヤ人進出に対する橋頭堡
(きょうとうほ)であり、ミクロに考えればアメリカとの接点をつくることであった。

1386: 名無しさんAA:18/09/04 10:25
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 68 

 ここでちょっとインターナショナルの概念について触れておこう。このインターナシ
ョナルというのはユダヤ人の横の連帯のことであり、日本語でいう「国際」という観念
とは根本的に異なる。それはユダヤ人は国家を持たなかった民族で、インターナショナ
ルのみだった。国家をもった民族の国家間の「国際」とは違う概念である。マルクス主
義を盲信する人々は、「プロレタリア・国際主義」という言葉を信じてユダヤ人と同様
に国家を否定して共産党間の横の串刺しの方が国家より優先すると考えている。これが
虚妄であることは中ソ対立、中越戦争を見れば明白だ。ユダヤ勢力は得意の両建て主義
の一方の雄として「プロレタリアート」無産階級を創造して、国家を内部から崩壊させ
るため階級闘争なるものを指導してきた。それはラテン語の Proles =子孫という意味
の言葉から出ているもので、子孫しか財産のない者、言葉でいうところの「無産者」で
ある。また逆の意味では、子孫を生産する以外に能のない、「無産階級者」は何も地位
のないものという意味にもユダヤ人は使われている。つまり、この用語にはユダヤ人の
自己侮蔑的意味がこめられて、無産階級者=労働者=自由人=定住し安住の資産を成し
得ない者。それがインターナショナルの語源なのである。貧困生活で大英博物館へ通う
生活を始めたマルクスは女中に子供を宿し、エンゲルスがそれを認知していたという。
何故、極貧状態の中で生活しているものが女中など雇えるのか、という疑問もある。が
、マルクスの実像はユダヤの組織から巨額の資金を得ていた。マルクスがロンドン時代
に住んだソーホーにある住居は当時で都心高級マンションともいうべきものだった。ソ
ーホー地区は19世紀の高級住宅街。マルクスは、恵まれた環境の中でゆうゆうと至上
目的の創作にかかっていたのである。ここではマルクスが創作した『資本論』は、日本
では「経済学体系」の中へ組み込まれているがそれが単なる虚構で作った夢言葉でマル
クス主義やこの『資本論』の怪物たる威力も、放浪民=自由人の労働者を作りだして、
発揮する。「共産党宣言」や「経済学批判」では、学問体系としては、この絵空事を、
まじめに考えるのは日本人だけだ。だが『資本論』は個々の部分に学究的態度の反映が
見出されることは否定できない。悲しいかな戦争によって、全体を流れる難民思想はマ
ルクス主義と同じく、メシア思想とタルムードの思想に他ならない。総論反対、各論賛
成とでも言うべき人生物語だ。やはりこれも、強制の予言者といわなければならないよ
うである。つまり戦争を仕掛けて放浪の労働者を作り、羊の群れの様に誘導する。日本
では『資本論』の研究レベルは他国と比べてケタ外れに高い。江戸から4回の農地解放
廃藩置県から5回も投げ出された労働者ということで、『資本論』の予言通りである。

1387: 名無しさんAA:18/09/04 10:26
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 69
 マルクスが一連の予言者のけじめとして、また自己の学者としての欲求を満たす為に
余生を打ち込んだのがこの『資本論』である、マルクス主義と同じく「始めに結論あり
き」という類いで考え、結論に導く工程を考える。その工程の為に出された結論とは、
「革命」である。したがって、革命に行きつかない理論は却下される。従って帰納的手
法では迷宮入りするしかない。演繹的に分解する必要がある。そこで予言者の発想の源
流、構築作業の過程、目的などの解明に焦点を当てなければならない。資本論の源流も
タルムードの思想にあり。再三繰り返しで恐縮であるが、「非ユダヤ人の財産は一時的
に彼らに預けてあるものである。」と言う思考で、原点はやはりここから始まるものだ
。『資本論』の中での骨格の剰余価値の法則というのが正にこれである。マルクスは、
これを「搾取」と呼んだ。マルクスの頭に「搾取」の方が先にあり、タルムードの思想
が「本来自分達に属する筈の財産が、理不尽にも今は他人の手にある」と導く。この考
えが「搾取」という言葉の原像である。「 Ausbeutung 」というドイツ語が普通日本で
「搾取」といわれている言葉である。この「 Ausbeutung 」という言葉は、中世におい
てユダヤ人に投げつけられた言葉で、中世においてはユダヤ人に許された唯一の正業が
高利貸しであった。この特殊な職業からして商法も又、特殊なものにならざるを得なか
った。その特殊なユダヤ人の商法を非ユダヤ人は「搾取」と蔑んだのである。強烈な民
族主義者であるマルクスがこの不名誉な言葉をいつかは非ユダヤ人に投げ返してやりた
いと秘かに思っていたとしても、なんら不思議はない。マルクスの考えでは、本来自分
達に属するものを故なく奪われている。のであるからそれを取り返すのは当り前なので
ある。しかるに高利貸しの如き収奪でさっそく「搾取」という言葉を投げられている。
『資本論』の胆は、剰余価値の法則で「貸付利息の利潤」或いは「労働価以上の商品価
」にあるが、これは論理的に考えても人間社会にあてはめるべきものではなく、蟻社会
か蜜蜂社会にででもあてはめるべきものである。この剰余価値論の構築には、マルクス
主義の構築の時と同じく、二極分化論を立てた終末論の展開である。労働者即ちユダヤ
民族が理不尽に財産を奪われているということ、したがって手段を選ばずこれをとり返
すのは当然であるという「論理性」の衣でもって信じ込ませれば目的は達するわけであ
る。この時代には証明する如何なる材料も見出せず、マルクスも枕を高くしてパークに
眠りについたが、昨今ではそうもいかなくなったようだ。資本論は唯物史観の肉付けの
役を与えられたもので、労働価+余剰利益=労働価+搾取分の論法である。したがって
、唯物史観と同じく「絶対的貧困化」が如何にして必然性をもつものかという説明する
のを目的としていることは当然である。今では生産のない蟻の論法とされる。

1388: 名無しさんAA:18/09/04 11:52
 マルクスはタルムードの前述の思想とメシア思想の黙示録のパターンを実にうまく結
びつけたものだ。だが、発想の原点は非常に卓抜なものであるが、結論である「絶対的
貧困化」と「革命に至る過程」の説明には、妙案はなかったものと見える。生産力と生
産関係の矛盾というのがマルクスがそのプロセスで用いた仮説の中身である。生産関係
というのはメシア思想の二値論理による二極分化でブルジョアジー(資本家)とプロレ
タリアート(労働者)の葛藤ということでうまく設定できたが(少なくともマルクスは
そう思っていた)、生産力などは非常に苦しく、この生産力というのは膨脹した生産力
という風に設定されている。つまりは、豊かな生産力である。そうであれば、マルクス
は「資本主義」体制で、いいかえれば「市場経済」体制で生産力が飛躍的に増大すると
いうことを認めていたことになる。「経済学」に足を入れたマルクスなら、それは認識
していてもおかしくはない。市場経済原則を崩し自由競争を原則とした生産体制を止め
た「共産主義」体制では、生産力が落ちることぐらい、とうの昔に分かっていたであろ
う。しかしマルクスは、建前論としては、「共産主義」経済体制で無限に豊かになると
いう結果を探らなければならなかった。そこで相対する「資本主義」というものをマル
クスが見つけ創造し、実在するものではなかった。自由競争生産体制がその唯一の基盤
として経済体制であると空想して創造した。しかし所詮発想のみで封建制社会の原則は
そのままで、次元の異なるものではあり得なかった。こうして「資本主義」は否定の為
の否定材料として設定された。つまり共産主義を理想社会として夢に登場させられたも
のにすぎなかった。ここでよく論議される資本主義と社会主義、あるいは共産主義との
収斂説は架空のものと知るべきである。中国のケ小平の推進する近代化を一方の収斂現
象と見、他方スエーデンあたりの福祉国家を資本主義からの収斂現象のサンプルと考え
るが如き意見は意味をなさない。何故なら双方ともに原始社会からあった各個の夢物語
だっただけだ。誤まってはならないことは、「資本主義」という言葉である。多くの人
々も一般化しているが、その意味のとり方は共通していない。社会科学の用語や、経済
体制の一つとして受け取っている向きは多い。当然のことながら、共産主義、社会主義
、あるいは封建主義社会と対比されるのが普通だが、これは間違っている。ユダヤ人が
この「資本主義」という言葉を発する意味は、搾取の手段、方法のもので、非ユダヤ人
に宣伝するときは、マルクス主義の社会科学用語として過渡期の経済体制として売り込
んでいるだけの話である。つまり純粋な社会主義も或いは純粋な資本主義や自由主義も
存在していなく、泥棒とするユダヤ人以外の人種からユダヤに戻す為の方便で意味はな
いものだ。資本主義や自由社会にも税や計画は必要で、社会共産主義でも土地管理の責
任者や所有者の登録は必要なのだ。何ら変わるものではない。

1389: 名無しさんAA:18/09/04 11:55
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 71 

 かつては、共産主義での革命を叫び、内部からの国家崩壊、権力奪取を目ざすもので
あり続け、19世紀にはこれを主武器と考えていた。20世紀に入ると「資本主義」が
順当に発達し「自由・平等・博愛」と言うスローガンを見つけ、思わぬチャンスを内包
する事になり、ユダヤ人達は金融資本を武器に出来るようになった。それは「戦争」と
言う過程で拡大した。レーニンのいう如く「戦争は革命への最短距離にあるまたとない
チャンスである。」と論した。かくてレーニンはホブソンの「帝国主義」を丸写しにし
て「帝国主義戦争不可避論」を論じ、有名な「帝国主義論」を書き上げた。これは扇動
煽戦の為の虚構仮設で、レーニンの用いた方法で戦争を起こす事に成功した。マルクス
と同じ弁証法的唯物論という虚構で経済的要因がすべてを決すると強弁することにより
、戦争必然論を説いた。レーニンにとっては、戦争を起こさない資本主義は三文の値打
ちもなかった。つまり「資本主義」「帝国主義」というものは革命の方便で戦争を起こ
すための手段、方法にすぎなかった。それは例えば、「市場経済」の原則という言葉で
表現しても同じだった。「市場経済体制」「自由競争生産体制」などと言う事になる事
も、社会主義でも同じで、経済体制というものは自由競争を唯一の原則とするものであ
った。つまり意識は低くとも競争原理が無い訳ではなかった。したがって、例えば日本
でいえば、江戸時代も明治以後も全く同じ自由な経済体制であり規制が違っていただけ
に他ならない。規制は自由化しても封建社会でも、共産社会も又同じ様に出来るのであ
る。経済メカニズムの複雑性や、生産力、技術の差、基幹産業の違いはあれ、江戸時代
も明治以降も同じ自由競争を原則とした生産体制である。つまり、自由競争経済体制と
いう変な言葉も、共産主義という疎外形態の経済体制を対比としてあるものではない。

1390: 名無しさんAA:18/09/04 11:55
それは民主主義だろうが独裁主義だろうが変わるものではなかった。世界の複数の経済
体制の一つであるかの如く持ち出されるが、自然の摂理として平等というものは決して
あり得ない。経済において自由競争が自然の摂理であるし、力の差は、資産や生産の差
は当然のごとく、共産主義や独裁でも起こるのである。ユダヤ人は資本主義や共産主義
を両建て主義といって使用した。これ以外はこの両建て主義の引き立て役にすぎない。
封建制社会、古代奴隷制社会、原始共産制社会等いずれもユダヤ人にとってはどうでも
いい事だったのである。この2つを両建てとして至上目的の達成に向かうということを
示し行動していたのだ。「資本主義」「社会主義」を日本人は経済体制と誤認して苦心
の末、収斂論というものまで出した。資本主義と社会主義が収斂するかの如き幻想を抱
くのも虚構論理にはまってしまえばむしろ自然かも知れない。しかし、元々、それは、
「自由と平等の収斂」というあり得ない概念に収斂されることで、現実はその線引きす
る規制の問題なのだ。自由と平等は決して両立しない原則である。そこに「資本主義」
「社会主義」を経済体制と考えることが誤りであることが立証できるのである。


1391: 名無しさんAA:18/09/04 12:42
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 72

 歴史的に、ユダヤ民族と言われる人々は、至上目的に自己のメシア思想を基調として
「共産主義」という架空を創造し、そこに自由競争原則の「資本主義」を諸悪の根源た
る悪玉に仕上げる宣伝をした。一方でディアスポラ以来の筆舌につくしがたい苦難から
脱するために、現状を絶対悪としその対応物として絶対善の架空の未来を設定し、ごく
自然に「資本主義」と命名し置いて、宗教民族の流浪の民としてこれを利用した。一方
、絶対善の架空未来を「共産主義」は家系も神もいない経済宗教の呪縛力でユダヤ支配
を広げた。しかしこの西洋式の答や結果から数式を見つける人生観と、逆に基礎や足元
を清め固めて積み上げる人生に未来がある。とした和風式の考え方とは、こんなにも違
う物だろうか。と言うのが、第一次や第二次の世界大戦の結果だったのだろう。日本人
は朝鮮半島を、中国大陸を、その後南洋やマラッカのインドネシアを軍を率いて行った
。がそこには自衛の為と言う理由はあっても、目的など無かった。しかし、逆に米英を
初めとする列強国には、巨大な植民地拡大、植民地支配と言う目的があって、理由など
は後付けだったが、その為に非常に武力も経済力も強かったのだ。この違いの大きさは
改めて痛感させられる、かくの如き単純極まりない神話が、近世史にも、大きな影響を
及ぼし人類の歴史を迷路に追いこんだという事実だ。現在、世界の3分の1をの国々で
は、自由競争体制から離脱している。そしてソ連や中国は超軍事大国化している。ソ連
では半分がロシア人であり、後の半分は60種類以上の多民族から成っている国だが、
1917年のクーデターは、ロシア人はツァーの暴政に終止符を打つのに成功し、すぐ
ユダヤ人の政権に取って変えられた。力不足のためスターリン1人にユダヤ権力はつぶ
された。その原因は色々あるが、赤軍を掌握できなかった事が敗因だされる。何故なら
、我々ユダヤ人は軍人としての素質は極めて弱く、赤軍掌握を不可能にした原因とされ
た。スターリン死後にロシア人の権力は強くなり、今日、ロシア人でなくては指導的ポ
ストにつくことはできない。非ロシア人はソ連ででは、タタールと言う言葉で表される
。タタール人の仲間は、現在は息苦しい空気の中で圧し潰されたようだ。現指導体制が
崩壊した後、如何なる人物が、指導権を握るかは、予測がつかないが、80年代経済的
な動脈硬化症とも合わせて、タタール人のくび木の動きは活発化せざるを得ないと、時
のソ連の疎外形態の国家から、解放するのは、経済的不満分子ではなく民族的不満分子
であると予想され、ゴルバチョフ政権時もペレストロイカが失敗した。

1392: 名無しさんAA:18/09/04 19:21


 何を今更 経団連が青田刈りを禁止し、球団の新人闘争にも助言していながら
馬鹿か 老害もはなはだしい中西なんぞ腐れきっている。 そも経団連とは経済団体の
長として、こうした社会人の育成 或いは社会人の生活を守る為や 公共福祉の増進を
掲げたたから国としては団体を認めたのだ。もしこの団体がこうした社会規約を守らな
いで政治助言など行っているのなら とんでもない事で政治結社に当たる。こうした、
政治家の集団決済は、市民平等の位置からずれていて政治結社認定は不法行為と定める
。つまり集団で徒党を組んだ社会活動は すべからく公共の福祉を持ちあげねば一切が
不法行為と 日本国憲法は規定している。つまり会社は会社法組合は組合法である。基
本的市町村団体が集まる 町長会議や県知事会議などは殆ど違法行為であって警察が取
り締まらないだけの話である。つまり基本は指定暴力団など規定しなくても取り締まる
事はできたのだ。




1393: 名無しさんAA:18/09/05 11:06
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 73 

 実にに不思議なことだが、論理的に辻褄が合わないことでありながらも、その論理的
不整合が今まで全く研究されていない問題が日本の各所に存在する。1920年代のニ
ューヨークにおいてロシア人の亡命団体である「ユニティ・オブ・ロシア」は、ソ連の
支配者達の人名録を出版しているが、それによると当時のソ連政府の各委員会に占める
ユダヤ人の数やパーセンテージは巨大である。それを見る限り7割強がユダヤ人で占め
ているここには、極左的戦後改革を強行したユダヤの秘密がある。そして戦後の日本に
もそれは起こっている。何故か。それは実はアメリカが資本主義や自由社会と言う名の
共産主義者の世界だった為だ。かつてアメリカ国内も、およそ9割の資金や資産が1割
の人に握られている。現代でもGNPなどでは少しは比率が変わったが、大金持ち優遇
国家である事は変わりがない。馬鹿な事は日本はそうした奴隷差別国家と同じ税制を引
いてしまった事だ。消費税はそうした高額所得者から税収できない国の税制だったので
ある。日本共産党が当初、アメリカ占領軍を「解放者」であると規定したことは、野坂
発言で有名である。アメリカが資本主義国であったという事実を、如何にして矛盾なく
論理的に整合させることが可能なのか。これは戦後史研究上の最大の問題点である。が
、この問題解明をしようという試みは未だなされていない。ブレトンウッズ体制もそう
だし、韓国国旗の三度の掲揚事件もそうだ。私はここで率直にこれらの日本の戦後史を
創ったのがユダヤ人であり、それが実に恥ずかしいほどの我々の無知に基因しているも
のであることを告白し、我々の「信じ難いほどの頭の悪さ」をお許しいただきたいので
ある。日本人は、その戦後史の顕著な跛行性、経済面の驚異的な高度成長と精神衛生面
の硬直化、停滞性、虚妄性に深く悩まされているのではないかと考えている。戦前日本
にあった世界に冠たる長所や、美点は跡形もなく消され、残ったものは欲の皮のつっぱ
り合いで、金、金、金の拝金主義的傾向で、国際的にはエコノミック・アニマルぶりの
みである。現在までのところ確実にいえることは、日本人はいまだに、この戦後史の、
180度転換の真の原因や理由について語っていないし、世代が終わり盲目同然である
ということである。日本人は大変困難な二元論的思考を強いられていた。つまり、戦前
のいいものを、消し去る行為と、民主主義といわれる戦後持ち込まれた制度を使うと言
う行為の、その疑問と、民主主義は一点も誤まることのない善玉の制度であると盲信さ
せられ強制されるジレンマである。


1394: 名無しさんAA:18/09/05 11:08
 制度的に、天皇制と民主主義が相容れないアンチテーゼであるということは、案外と
日本人は理解していないのではないか。と思える。日本では「民主主義」は全く聖域に
祭り上げられている。戦後30年を経た今日であっても、日本では「民主主義」を批判
しようものなら、それこそ袋叩きに会う。軍国主義礼賛とののしられ、よしんば、民主
主義にケチをつけるとしても、それは民主主義の本質に対してではなく、それに対応す
る態度が問題にされる。戦後史の謎を解く鍵は、こうした環境にあるものと思われる。
民主主義という言葉は、ギリシア時代に遡る事が常識化している。しかし今日、日本が
、否、世界中で云々されている「民主主義」というものは、全く違った物で、実は我々
ユダヤ人が創作したものである。ギリシア時代でさえ、多数決はなかった。路地裏の、
広場の中の井戸端会議で体制批判をする事はなく街の有力者の、ローマ独裁の伝達方法
が庶民的だったのみだ。戦後の占領改革が始まるや否や、我々在米ユダヤ人達は、戦前
の「天皇陛下万歳」に代わる言葉として「民主主義・自由・平等」を日本人の頭に植え
つけることに成功した。かくて「民主主義」の呪文は、天皇現人神に代わる絶対の善の
神として聖域に安置された。しかし、この飾られた「民主主義」には奇妙なことが多い
。例えば、イデオロギー的に絶対に相容れることのない自民党と共産党とがこの「民主
主義」の守護神を買って出ている。本来これはおかしいのであるが、絶対の善玉を自己
の看板にしない手はない。選挙戦では同じ土俵で行われたのだ。ここで考えるべきこと
は「民主主義」とは何ら実体を伴わない虚構概念であるということである。具体的概念
であれば、双方のイデオロギーに奉仕するなどはありえないが。しかし実体のない理想
なのでどうとでも言える。そう考えてくると、もう一つ面白い事実を発見する。それは
「民主主義」の精神的支柱である「日本国憲法」の中には、「民主主義」という語句が
全くない。という現実である。日本国憲法を、形容する時には必ず「民主主義」「民主
的」といった言葉で飾られているが内容にその文言はない。このように「民主主義」と
は何ら実体のない虚構論理の目かくし役も与えられているものを日本人は大切にした。
この奇妙な「民主主義」の本質は是非とも明らかにされなければならないが、日本人は
実に巧みにこれを利用した。この民主主義は、絶対の擁護者を自任するマルクス主義の
本質であるのだが、軍国主義を引いて天皇礼賛していた日本人にはハードルの低いもの
で、監理者には居心地のいいものだったのだろう。日本に来たゴルバチョフは、「これ
は素晴らしい、我々が求めていた理想の社会主義だ。」と感激している。又当時の米国
は「ジャパンイズNO1」や「ゼロサム社会」など次々と日本を見習えと発言した。マ
ルクス主義即革命ではないが、日本の戦後には病巣をおいてしまった。しかしそれでも
ソ連指導者には理想郷であったのだ。

1395: 名無しさんAA:18/09/05 11:08
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 75 

 私は、これら民主主義とマルクス主義がいずれもユダヤ的思考の所産であることを告
白し、その虚構性と源流を白日の下にさらし、同時に、我々が第二次大戦終結時におい
て日本人の精神的虚脱状態にあった時、巧妙に日本人の頭脳、意識の中へインプリント
してしまった。また、それが我々ユダヤ人の浅はかな錯覚によって引きおこされたもの
であることをご説明させて頂き、お許しをねがいたいと思うのである。これは我々の罪
ほろぼしの一環でもあって日本の共産党に残した、マルクス主義への絶対視ということ
の大前提の上で、あのアメリカの占領改革がマルクス主義に基づくもので、敗戦後の改
革を行ったニューディーラー達が、マルクス主義を頂くグループであった事を証明し説
明したい。ニューディーラーがマルクス主義を頂くグループであったということは、彼
らがすべからずユダヤ人から成っていたという事実からもいえる事だが。別章で説明し
た如くマルクス主義はユダヤ民族解放のための虚構ハイポセシスであって、これらから
ユダヤ人グループは、マルクス主義を駆使したのは当然すぎるほど当然であった。日本
共産党は戦後間もなく、アメリカ占領軍を解放者と規定し、双手を挙げてこれを歓迎し
た。このことは後でコミンフォルムにより激しく批判されることになったことは、日本
人ならご存知の筈である。その後に、アメリカでマッカーシズムの嵐が吹き荒れる頃、
日本でもレッドパージが起こったからだ。この頃より日本共産党は、反転しアメリカを
「帝国主義者」と呼びはじめて、今日に至っている。ここに、2つのアメリカの顔が存
することを知る。つまり、今日共産党が規定している「帝国主義」のアメリカと、終戦
直後日本共産党が規定した「解放者としてのアメリカ」である。これの意味するのは、
非資本主義的アメリカ人が、現実に社会主義化は行わなかったが、数々の左傾化政策等
を行いその後遺症のまま今日に持っている事実である。これは絶対に相容れない対立物
であったはずである。日本で議論されている単に「アメリカの占領改革」といった事で
は片づけてはいけない。本質的重要な部分で見抜くことが必要である。これが現実の歴
史で日本がある理由だからだ。もう一つ別の角度から見てみよう。戦後数年して、アメ
リカのマッカーシズムといわれる嵐は「赤狩り」といわれるものである。この時「非米
活動調査委員会」というものがつくられた。この非米活動というのは内政、外交両面に
おけるアメリカの国益に反する政治活動という意味で、戦時中日本でいわれた「国賊」
「非国民」の類いとは根本的に違うものであった。いわゆるボランテアの類である。

1396: 名無しさんAA:18/09/05 11:09
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 76 
 マッカーシズムは、1948年頃から1950年代半ばのアメリカで、激しい反共産
主義運動が起きた。この時代表だったジョセフ・マッカーシー上院議員の名から付いた
名称である。マッカーシズムの嵐は様々な現象を巻き起こした。この非米活動というの
は、具体的にはルーズベルト政府、即ちニューディール派を指すものである。内政にお
いては資本主義国アメリカで明らかに共産主義政策と考えられるような極左政策を行い
ながら、外交、軍事面ではアメリカに何ら利害関係のない対独戦に強引に引きずり込む
という過激な政策を行ったニューディール派が、戦後処理においてヤルタ条約により、
ソ連を極端に利し、対中国政策でも失敗し、米国は、中国大陸を完全に失うことになっ
た。また対日戦後処理においてもこれから問題にする如くに、極左政策を実行し、日本
資本主義の基礎を崩さんばかりの変革を行った。既に日本は廃藩置県で新政府は農地の
開放を行い、その後戦前にも大農地分割や軍事接収を行い、殆ど小作人と言うのは経済
使用人だった。これを農奴に看たてて開放し、財閥開放まで及んだ。理由は米国資本家
との対抗を無くす為だった。しかし、これらは資本主義国アメリカの国益に合致するも
のとは決していえないものであった。アングロサクソン系を中心とするアメリカの支配
層は、長い間のユダヤ支配から脱出するために、遂に立ち上がったのがマッカーシズム
の本質である。いわばアングロサクソン革命である。ここでいうところの「赤狩り」と
は「ユダヤ狩り」に他ならない。これにより、ニューディール派は完全に息の根をとめ
られ、以後「名存実亡」となろうとした。つまり移民ユダヤのアメリカと清教徒アング
ロサクソンのアメリカと2つの顔があったのだ。この時ユダヤ系アメリカというものが
アメリカの真の国益に関係なく行動するものであったことが事実として起こったのであ
る。つまり幾多の激戦で死者をだしてまで進出した中国大陸が、アングロサクソン米国
は何一つ手に取れなかったのだ。典型的な軍人といわれたマッカーサーもこれを疑問視
した。しかし軍部も、現実にはこのニューディーラーに操られ組みしていた。ダグラス
・マッカーサーは戦後1945年8月30日から約5年半、日本占領に当たったGHQ
の最高司令官である。軍人であるマッカーサーは、政治に弱く。当時東京のGHQへ送
られる諸々の指令は、トルーマン大統領以下、閣僚の全く関知しない内に国務省の秘密
グループから発せられていたが分らなかった。政府中枢がもう少し気を配っていたら、
このようなことにはならなかったが、この国務省の覆面グループと呼ばれる秘密組織は
、つまるところニューディーラーの残党であった。議会やトップの目をかすめて送られ
てくるこれらのニューディーラーの残滓の指令を逐一実行に移していたのが、無知な軍
人マッカーサーであったのだ。

1397: 名無しさんAA:18/09/05 11:09
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 77 

 しかし、有名な、FEC(極東委員会)230号といわれる本国から送られた指令は
、財閥の解体から始まって独占資本を日本共産党の息のかかった労組などに、二足三文
で払下げることや、革命行為があっても見て見ぬふりをしろ、といったロシア革命もど
きの極左政策の命令であった。何も分らないマッカーサーは、そのようなニューディラ
ーの下部の一部グループから送られた指令を忠実に実行していたが。ある時から調査を
する様になった。ここで判明したのが、直接手足となってこれを推進したのが「GS」
といわれる民政局のホイットニーや、憲法の作者であるチャールズ・ケーディスであっ
たとされる。チャールズ・ケーディス(ユダヤ人)はGHQ民政局次長で、日本国憲法
の草案作りの実務責任者だったそれに対して「G2」といわれるマーカット、ウイロビ
ーのグループは、懸命にこれらニューディーラーの暴走を阻止しようとした。また民間
人では、例のグラマン事件で有名になった当時『ニューズウィーク』誌の外報部長であ
ったハリー・カーンも極左化阻止に力を尽くした。ここで、ルーズベルト政府、つまり
ニューディーラーの日本に対する態度とドイツに対する態度は根本的に違っていたのだ
。ドイツに対してはユダヤ人の権利に制限を加えた。ドイツ民族的な憎悪を露骨に現わ
しこの民族対立に危惧したからだ。しかし日本に対しては、朝鮮人にそのような感情的
な行動があったがそれを阻止せず、規制した形跡は見当たらない。我々ユダヤ人は、第
二次大戦においてはドイツは我々に対する加害者であると考えていたし、日本に対して
も加害者であり朝鮮人は被害者ではないかと考えていたのである。そのようなことから
、戦後処理については日本に対しては民族的敵意をもった政策を最初から考えていた。
しかし、それがむしろ日本人の政策がより自由に、より平等にしてあげた形であった事
が知らしめる事になった。我々の苦しい経験からして、朝鮮人や日本人にも、より自由
な生活をしてもらいたいと真に短絡な考え方で戦後改革を行うことになったのである。
しかし、それが大変な誤りであることに我々が気づくのは、戦後改革の悪弊が出てしま
ってからであった。日本でも、日本の戦後改革を行ったのがニューディーラーであると
いうことは、知られているがしかし、私の見るところでは、ニューディーラーとは一体
何者か、ニューディーラーの本質となると、その認識ははなはだ心もとない認識であろ
う。朝鮮国内が全くいらだつくらいに支離滅裂な状態になった事で強くこれが間違いで
あった事を露呈した。

1398: 名無しさんAA:18/09/05 11:10
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 78 

 ニューディーラーがユダヤ人のグループであるということは知ることが出来る。しか
らば、自ずとその政策のはしばしに現われてくる ユダヤ的思考の所産を発見できる。
また、このグループの政策が自ずと共産主義であることが簡単に理解される。事実、マ
ッカーシーの「赤狩り」というのはこのニューディーラーの残滓を一掃することだった
し、マッカーシズムが吹き荒れた時、日本人はアメリカにも「赤」がいるのかと不思議
がっていたが、この赤とはニューディーラーのことに他ならなかった。ニューディーラ
ーの指導者の一人は、フランクリン・デラノ・ルーズベルトであった。アメリカ人の中
で90%は今でもルーズベルトがユダヤ人であったことを知らない。しかし、彼は若い
頃ユダヤの支援で育った。歴記としたユダヤ人だったのだ。この第32代アメリカ大統
領フランクリン・ルーズベルトは、良きにつけ悪しきにつけ、日本人には因縁深い名前
である。1933年、奇しくもヒトラーが政権をとったその年にアメリカ大統領に当選
した、1945年、第二次大戦終結の年に死去するまで、文字通り独裁者としてアメリ
カに君臨した。このルーズベルトを語る場合、先ず真っ先きに留意すべきことは、この
ルーズベルトという名前が今日では半ばタブーとなっている事実がある。この点は日本
ではあまり気づかれていない。さらに、全米600万のユダヤ系市民の間では、完全な
タブーであるということも、全く知られていないようである。もともとユダヤ問題など
、殆ど関心のない日本人である。それもむしろ当然かも知れない。何をさて置いても、
彼がユダヤ人でありチャーチルとも仲が良かったという事実だ。ルーズベルトは、正真
正銘のユダヤ人で、このようなユダヤ人を「諜者」といっている。マルクスも改宗後は
この諜者であった。この諜者というのは、ユダヤ民族の遠大な計画のために表面上改宗
したことにし、クリスチャンになるわけである。しかし、本質的に、強固なユダヤ教徒
であった。陸軍中野学校の卒業生が戸籍上死亡したことにして特殊な任務についたのと
似ている。ルーズベルトの家系はユダヤ系であった。このような名門のユダヤ家系の中
から改宗者が出た時は、例にたがわず諜者となる場合が多い。ルーズベルトの家系のル
ーツの祖先は17世紀の末葉、オランダにいたユダヤ人である。ローゼンフェルト家の
先祖は異教徒審問中、スペインから亡命したユダヤ人の一群に属し、ローゼンカンポと
称されていた。その後 この一群のユダヤ家は欧州各地に分散している。彼らの中の、
ヤコブス・ローズベルトがオランダに定住し、この一家のみが諜者となるためプロテス
タントに改宗したといわれる。

1399: 名無しさんAA:18/09/05 11:13
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 79 

 この一家が1649年、オランダから当時ニューアムステルダムと呼ばれていたニュ
ーヨークへ移住して投資家であった父が亡くなっている。1682年にクラエス・マル
テンザン・ローズベルトはジャネツェ・サミュエルズと結婚し、戦後、布商を営んでい
た。また、1935年3月14日の『ニューヨーク・タイムズ』紙上で『デトロイト・
ジューイッシュ・クロニクル』紙に掲載されたルーズベルトの書翰によると、「自分の
先祖は多分ユダヤ家であろう」と記しているという。ルーズベルトが全米のユダヤ系の
市民からモーセの再来として信仰に近い尊敬を集めていたことは、よく知られている。
ルーズベルトは1933年大統領に当選するや否や、在米ユダヤ系市民から信じられな
いほどの喜びで迎えられ崇拝された。これはなんとも奇妙な話だった。何故なら、ルー
ズベルトは選挙公約では、ユダヤ系市民の利益になるようなことは何一つ公約していな
い。また今後ユダヤ系市民にどのような政策を行うかも全く予測などできないはずなの
である。しかし何故にか、盛大に祝われたのだ。もしルーズベルトがユダヤ人でないと
するならばあり得ない話だ。ルーズベルトが当選し、生みの母ゼームス・ルーズベルト
夫人がジューイッシュメタルを贈られ、ニューヨークユダヤ協会の名誉会員に推薦され
、その祝賀式典の式上で、ニューヨーク市長ラガーディア(ユダヤ人)は、全ニューヨ
ークユダヤ人の名において金牌を贈与した。これに対して母親は金一封を謝礼として贈
っている。シオン組合の前会長ルイス・リプスキーは同夫人はアメリカの勇敢な指導者
を生んだとの讃辞を呈し、マイロン・ザルツバーガーは「夫人は単に米国の母として、
偉大なるのみならず、世界の母として偉大となられることを希望する」と述べている。
これに加え、メタルの鋳造がある。1933年3月4日に大々的に売り出されメタルは
、表面にルーズベルトを演出し、裏面にダビデの星がきざまれているものである。ルー
ズベルトの当選を待ちかねたように、せきを切ったルーズベルト絶賛がユダヤ系市民か
ら起こった。ルーズベルトを囲繞するブレーントラストは全てユダヤ人であり、その大
部分がマルクス主義者であったことは、日本でもよく知られている。大部分はプライベ
ートブレーンであるが、見逃せないのは、国務、財務、労働の3つの重要な長官を、ル
ーズベルトのこのグループだったということである。国務長官のコーデル・ハルも妻君
がクーン・ローブ商会のユダヤ人ヤコブ・シフの親類の出身である。開戦後交換船で帰
国した栗栖大使が語ったように、ハルは圧力のため思うように政策がすすめられなかっ
たのであった。


1400: 名無しさんAA:18/09/05 11:22
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 80 

 野村大使ではとてもそんなハルの本音は聞き出せないだろうが、栗栖大使の腕では、
さすがに、ハルががっちりルーズベルトに、いいかえれば、ニューディーラーに組み入
れられていたのを見抜いていた。アメリカ国務長官を務めたコーデル・ハルは、有名な
『ハル・ノート』を日本に突き付けて、日本政府を挑発した張本人だった。1945年
に「ノーベル平和賞」を受賞した。財務長官ヘンリー・モーゲンソーもユダヤ人であっ
た。戦後処理をめぐって対独強硬案を出し、最もユダヤ的なユダヤ人だった。このモー
ゲンソーは、ルーズベルトの史上最大の赤字作りにも貢献する。モーゲンソーは戦後、
「全米ユダヤ人組織連合」の名誉会長を務め、イスラエル援助機関を指導した。もう一
人の労働長官はフランシス・パーキンス女史である。彼女は、労働者に団結権を与え、
階級闘争を激化させる要因をつくった。ロシア系ユダヤ人である。アメリカで史上初の
女性閣僚であった。これら指導者がユダヤ人であるということは述べた如く、共産主義
を自己解放のための手段、道具として活用しようと考えた。それは何ら不思議ではない
。なんの臆面もなく資本主義国アメリカで共産主義化政策を追求していた訳は、彼らの
信条にある。これら3人のほかに、私的ブレーンが数多く存在したことは有名である。
ルーズベルトの取り巻き連に顕著なことは、俗流ラジカルといわれるユダヤ人マルクス
主義者の群である。その代表格が、ウィーンから来たフェリックス・フランクフルター
である。彼は12歳の時渡米して、1906年、ハーバード大学で法学士号をとり政界
入りし、検事総長特別補佐、陸軍省法律顧問等を経て1920年最高裁判事に任命され
た、ハーバード大学教授で一見自由主義者の如き経歴であるが、実は大学で盛んに革命
思想を吹き込んでいた。ユダヤ人学生を卒業後政府内の、枢要な地位に推薦することに
努力し、彼が最高裁判事に任命され、ルーズベルトの許に入って国民から抗議が寄せら
れた。ルーズベルトは気にせず9名の最高裁判事の中の2人までユダヤ人に占めさせた
。もう一人の最高裁判事ルイス・ブランダイスも、ルーズベルトの私的アドバイザーで
あった。「世界シオン賢人会」の会員であった彼は、日本国憲法の事実上の草案作製者
で、現在ニューヨークでの弁護士をしているケーディスは、これらユダヤ系法曹人の弟
子である。バーナード・バルークについては有名であるが、兵器産業界の大立物であり
、第一次大戦にアメリカが参戦したのもこのバルークの力が真に大きい。当時バルーク
の許可なしには工場一つ建てられなかった。

1401: 名無しさんAA:18/09/05 11:31
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 81 
 バルークは第二次大戦中原爆の製造に尽力した。「米国のディズレイリ(英国のユダ
ヤ人首相)」と呼ばれて、アメリカのユダヤ人では最大の権力者だった。バルークは、
第一次大戦中に、1917年アメリカの参戦後間もなく軍需工業院総裁になり、全産業
無制限的統括権を振るう。軍需工場の全て掌握し、バルークはA・A・ハウスマン銀行
の共同経営者になり、1900年、同銀行と手を切って、ウォール街の株式取引所の、
有力な地位についた。一方では、自己資金で株式売買や株式市場の不正操縦により暴利
を稼いでいた。ウィルソン時代には、真の大統領はこのバルークではないかといわれた
程だ。バルークは第一次大戦の煽動に続いて、なんとかアメリカを 対独戦へ引きずり
込もうと狂奔した。彼の場合、単にドイツのユダヤ人救出だけでなく、戦争による膨大
な金権支配力を得ようとしていた。「死の商人」とは、彼のためにつくられた言葉かも
知れない。第一次大戦後、上院の一委員会が大戦の前史的事態について調査し、バルー
クを喚問した際、彼は上院議員J・ハリスの質問に答えて次の如く公言してはばからな
かった。「最後の決定権は自分にあったので、つまり陸軍と海軍とが 所要の軍需品を
供給されるか否かは自分次第だった。鉄道が果たして莫大な輸送に耐えうるか 否か、
連合国が所要の機関車を米国で手に入れることができるか、それともロシアかフランス
で製造させる以外に手がないか否か、それらはすべて自分次第で決まるのだ。」と同時
にまた、「大戦中、自分以上の権限をもった奴がいたかどうか聞くのは愚である」とも
言った。彼1938年、南米からの帰途、ドイツはアメリカ侵略を目論んでいる、ドイ
ツ軍のアメリカ侵略は近い。として対独戦参加の伏線をしいていた。レックス・ジー・
ダグウェルはコロンビア大学教授であり、マルクス主義経済学者として知られ、ソ連と
も近い人物であった。第1次大戦後、国際金融の中心は、ロンドンのシティからニュー
ヨークのウォール街に移った。近代世界システムの中心都市となったニューヨークは、
1920年には人口800万人を超える世界最大の都市となった。ウォール街では、全
盛期のアムステルダムやロンドンの金融街がそうだったように、ユダヤ人が多く活躍す
るようになった。こうして1913年から21年にわたるウィルソン大統領の政権のも
とで、アメリカの社会に大きな変化が起こった。それまでのWASP支配の体制の中に
、多くのユダヤ人が参入したのである。ロスチャイルド家とそれに連携するユダヤ人金
融資本家らによって中央銀行(連邦準備制度)が設立され、アメリカが第1次世界大戦
に参戦したことでユダヤ系軍需産業が発展し、大戦後はユダヤ人の入会を認める外交問
題評議会が開設されるなどして、第二次世界大戦ではユダヤ人が米国の政治・経済に深
く参入するようになっていた。

1402: 名無しさんAA:18/09/05 11:33
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 82 

 レーモンド・モーリーはコロンビア大学教授であり、ブレーントラストの表面的首魁
である。モーリーはニューヨーク州知事フランクリン・ルーズベルトを支持し、1933年
の大統領選挙において、ルーズベルトの顧問団「ブレーントラスト」を組織するため、
コロンビア大学の教授陣を集めた。モーリーをはじめとする顧問団は、ルーズベルトの
ニューディール政策について立案と遂行のための助言を行った。そしてルーズベルトが
大統領に当選すると、モーリーは国務次官補に任命されたのだった。モーリーはルーズ
ベルト大統領を支援し、ニューディール政策の策定に当たった。だが、1933年9月突如
として政府権限拡大に向かい、モーリーは連邦政府に反対し、国務次官補を辞任した。
こうしてモーリーは民主党から共和党へ移り、週刊誌ニューズウィークのコラムニスト
となった。モーリーは保守派の人物としてよく知られるようになり、ニューディール政
策と自由主義を批判しだした。モーリーは、共和党において、ウェンデル・L・ウィル
キー、バリー・ゴールドウォーター、そしてリチャード・ニクソンを支持した。しかし
ルーズベルトが当選した1933年のこの年は不思議な年だった。世界が変わった年と
言っても良いだろう。1月30日に晴れてヒトラーが独首相に就任しナチス政権獲得し
た。しかしこれによって大勢のドイツユダヤ人が前にも増してアメリカ大陸に押し寄せ
た。1884年の移住民が始めたリトルトーキョウも日露戦争以降 1925年 中華料理店
「Chop Suey (チャプスイ)」が開店。チャップリン等の映画スターが数多く常連になっ
て繁盛したが、)1934年日系アメリカ人の若者達が「二世ウィーク祭り」を興して
(世界最大の日系人の祭り)を提唱、開催。翌年、「エンブンマーケット」がオープン
すると、中国人韓国人と日本人を判別できない為に大きな軋轢と共に、排斥運動が起こ
ったのである。この運動と呼応するように、1906年のサンフランシスコ大地震も記憶の
残る中で、日本では、2月23日 - 日本軍、熱河省に侵攻 3月3日‐三陸地方大地震(M
8.1、死者3021名、不明43名、負傷968名 )、3月4日 - フランクリン・ルーズベルトが
第32代米大統領に就任。ニューディール政策始動。3月10日‐米国ロングビーチ(カリフ
ォルニア州)地震 5月31日‐日本が中国国民党との間で塘沽協定を結ぶ(満州事変の終
結)。と日本の話題で賑わい、その上リトル東京の繁盛で政府に羨望があった。1945年
からギフトショップ「文化堂」がこの住所で営業して、送ったのは米国兵士達だったと
言う。10月14日‐ドイツが国際連盟を脱退する事は予測されたが、ナチスの台頭でドイ
ツ人さえ排斥されるに及んで、10月17日‐アインシュタインも米国に亡命したのだ。


1403: 名無しさんAA:18/09/05 11:33
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 83 

 1885年日本人漁民チャールズ・カメこと茂田浜之助は、ロサンゼルスのダウン・
タウン地区1番街340番地に日本食店カメ・レストランを開店した、以降25世帯の
日系人が居住し、日系児童の為の学校も出来、これがリトルトーキョー発祥の基礎とな
った。そこで1888年YMCA(ヤング・マン・クリスチャン・アソシエション:キ
リスト教青年会)が出来た。1906年サンフランシスコで大地震があり、北カリフォルニ
アに住んでいた日系人数千人がリトルトーキョーに移住。初の寿司屋、初の日系人経営
の映画館 「The International」がオープン。アズサ通りにあるキリスト教会で現在の
ペンテコステ派の土台となる集会が持たれるようになり、全米の注目を集める。この頃
の急激な日本人増加からロスでの排日ムードが高まった。とされる。が母国日本でも、
ゾルゲ事件以降特別警察は非常に苦しい立場にあった。2月20日‐作家小林多喜二が
治安維持法違反容疑で逮捕された。その後東京・築地署に留置され特別高等警察の拷問
により虐殺される。1933年9月ソ連籍のドイツ人リヒアルト・ゾルゲが、フランク
フルター・ツァイトゥング紙記者の肩書で来日。近衛内閣のブレーンだった尾崎秀実ら
の協力を得て、日独両国の機密情報をソ連に流したスパイ事件。ゾルゲと尾崎は死刑と
なった。摘発の端緒は伊藤氏の密告とされ、伊藤氏は53年に共産党から除名処分を受け
た。ゾルゲ事件は結構厄介な事件だった。ゾルゲは10月初旬、アメリカ共産党員との
受け渡ししていた、画家の宮城与徳がロスアンゼルスから横浜に着いた事で始まった。
12月下旬、ヴーケリッチの仲立ちでゾルゲと宮城与徳が会談し、連絡体制を構築した
。1934年になって2月11日、天津から大阪に戻った川合貞吉が、尾崎秀実と連絡
を取り、至急組織の連絡体制の構築を要請。2月に、ゾルゲと尾崎秀実が奈良の若草山
で再会。本拠を日本に移したゾルゲと再会し、親密な関係に入った。その物語には次の
ように記されている。「 ゾルゲ諜報団は、各国から送り込まれたコミンテルン・メン
バーに加え、国際共産主義運動の実現に燃える日本人活動家たちによって構成された。
中でもゾルゲが絶大の信頼を寄せた人物、当時朝日新聞記者であった尾崎秀実(ほつみ
)は、近衛文麿首相の側近として日本政府の中枢まで潜り込み、決死の覚悟で、次々と
国家機密をゾルゲに通報していった。その中には日独防共協定、第2次上海事変、ノモ
ンハン事件、そして、最高国家機密である御前会議の内容までが含まれていた。ゾルゲ
は、こうした情報に独自の分析を加えたものを、無線やソビエト大使館員を通じて、モ
スクワのスターリンへ送り続け、やがて、日本の対ソ参戦回避と南方進出の提唱を謀る
べく世界情勢を大きく塗り替えていく。」 と。

1404: 名無しさんAA:18/09/05 11:33
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 84 

 ここには2つの重要な事がある。一つはロシアが国際コミンテルン、則ち国際旅団の
中心会議を持っていて情報の中枢だった事だ。2つ目は日本にやって来たスパイ達は、
およそ日系人で、ドイツ共産党やアメリカ共産党の中に居て帰国した。と言う事だった
。この頃あの無抵抗主義を唱えたマハトマ・ガンジーさえも、イギリス軍に投獄されて
いる時代だった。日本画壇で大正ロマン派の筆頭とされた竹久夢二も1931年(昭和6年
)父が死んで47歳で渡米しその後不況の米国を渡り歩き欧州を回っている。3年後に
帰って来た時は共産党のスパイとなっていたと言われる。闘うコックのジャック白井も
彼は15歳の時に北海道函館の孤児院を飛び出し、年齢を偽って、カムチャツカ航路の
貨物船に雇って貰い船員となり、1929年にアメリカ合衆国に密入国している、其の後も
、ニューヨーク市でパン職人や料理人として働いたが、アメリカ共産党系の、日本人の
労働者団体である「日本人労働者クラブ」に属し、労働運動に身を投じている。1936年
7月、理不尽なスペイン内戦が始まると、彼はアメリカ共産党の義勇兵に志願し、スペ
インへ旅立ち、そして第15国際旅団第17大隊「エイブラハム・リンカーン大隊」に配
属された。しかし、余りにも料理が美味いので、大隊長は彼を前線には出さなかった。
しかし、彼は料理よりは義侠心でスペイン人民の為に立ち上がった人々を救いたい事が
胸の内にあってわざわざやって来たと言う意志である。チェと共にボリビアで闘った、
革命のサムライと言われるフレディ・メイムラ(前村)も1941年にボリビアのトリニダ
ドで生まれた移民の子であったが、1962年にキューバ革命によって提示された、補助金
付きで医療を学ぶ為にメイムラはキューバへ渡ったのに、ゲリラに身を投じた。この時
も理不尽な大国の植民地政策に、ラテン・アメリカの革命的大衆闘争が心打ったからで
あった。たまたまこの日本人移民の息子のボリビアのサムライは、キューバでチェと出
会い、ニャンカウアス・ゲリラに参加し、身を投じたのであったのだ。日本を舞台とし
た大規模なゾルゲ事件と言う国際スパイ事件は、1941年 10月 15日,国際スパイ容疑で
元満鉄嘱託尾崎秀実がさらに、同18日、ドイツ人R・ゾルゲらが警視庁に逮捕された
。しかし新聞記事の解禁は 42年5月であった。ゾルゲはコミンテルン本部の指令で
33年9月に来日し上海で旧知の尾崎らと接することで軍・政府上層部から二・二六事
件、三国同盟、関東軍特別大演習など対ソ情報を入手通諜していた。44年3月15日
東京地方裁判所は非公開でゾルゲや尾崎に死刑を判決し、11月2日に2人は処刑され
て幕を閉じた。

1405: 名無しさんAA:18/09/05 11:34
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 85 

 レーニンによりマルクス理論は、尖鋭な革命思想に仕上げ、 共産主義(communism)
のイデオロギーとし指導した。資本主義を批判し、生産手段の社会的所有をめざす社会
主義のイデオロギーを、マルクスが体系だった社会主義思想として樹立したわけだが。
マルクスは、資本主義社会における搾取と疎外の克服を説き、労働者階級のイデオロギ
ーとして黎明期にあった貧民知的階層の精神的支柱となり人々に受け入れられてしまっ
た。ざくっと言えば、革命にあたっては暴力の行使も辞さず、革命が成功した後には、
後戻りしないよう、前衛政党である共産党が独裁をしいて、共産主義の建設を進めると
いう思想を、国の支配のない活動として流行させたのである。つまり、後に売国朝日と
された朝日ジャーナルや尾崎秀実・日本共産党は、日本を共産化するために、共産主義
革命の具体的実践者として、日本を太平洋戦争に陥れる事に盲進した。自国民の命なん
ぞ虫けら以下にしか考えない共産主義革命の実践は、毛沢東の大躍進政策によっても、
盛んに称賛されている。この時の状態に近衛内閣は辞職した。昭和20(1945)年2月14
日、近衛文麿は天皇に以下のごとく奏上した。「翻って国内を見るに、共産革命達成の
あらゆる条件具備せられゆく観有之候、すなはち 生活の窮乏、労働者発言度の増大、
英米に対する敵愾心の昂揚、その反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、之に便乗
する新官僚の運動、及びこれを背後より操りつゝある左翼分子の暗躍に御座候。」 と
「今をを取り巻く一部官僚および民間有志は (これを右翼といふも可、左翼といふも
可なり、いわゆる右翼は国体の衣を着けた共産主義者なり。)意識的に共産革命まで引
きずらんとする意図を包蔵しており、無知単純なる軍人これに踊らされたりと見て大過
なしと存候。」と。これはドイツもロシア本国との関係で孤立化を深めていた。その頃
仏国との商売で米国の借金を返していた英国や米国は、盛んにロシアとドイツの戦争を
望んだ工作を繰り返していたのだ。その一環としてスペイン国内戦争があった。米国内
に移民としてやって来た白系ユダヤ人達が作ったのは、ユダヤ人用の機関紙だったが、
新聞社として大きく成長すると、大手新聞社の競争でイエロージャーナリズムと呼ばれ
る捏造記事が盛んに増販し、一大勢力となった。そうして起こったのが戦争を煽る記事
だった。そこに起こったのが米西戦争だ。、1898年にアメリカ合衆国とスペインとの領
土の取り合いはキューバまで巻き込んでいた。確かに革命理論は成功したであろう。が
しかし、ゲバラもカストロもメイムラでさえ、そこで戦った理由は郷土愛であり決して
共産主義では無かった。国際旅団の人員と戦う武器が欲しかっただけだったのだ。


1406: 名無しさんAA:18/09/05 11:40
 1900年は米国の賠償金によってスペインは疲弊していた。北米大陸の植民地はお
ろかメキシコやキューバすら手放す事で 植民地の利益も海運の利益も底をついていた
。この困窮においてドイツの対フランス対策として、仏英国米連合軍にスペイン国内は
諜報工作に満ちた国になっていた。既に左派が選挙で勝利し、王制から共和制へと移行
(スペイン革命)しスペイン第二共和政が成立したが、その後1933年の総選挙で右派が
勝利して政権を奪回し左派と右派の対立が続いた。左右両勢力とも内部の統一が図れな
かった膠着状態が続いた。その上に自治州単位の独立戦争の意味合いがあった。経済状
態のいいフランス側につきたい境界を接する自治州。1935年にコミンテルン第7回大会
で人民戦線戦術が採択された左派勢力。この結束が深まり1936年の総選挙で、政府に反
対する立場から棄権を呼びかける無政府主義者は自主投票に転換した。王政復古派共和
制派さらに自治独立派、人民戦線派も議会制民主主義を志向する穏健派と、社会主義・
無政府主義革命を志向する強硬派が存在して、ますます混乱していた。この構図は第二
次大戦の前哨戦とされる紛争になった。第一次大戦後で発展した戦闘機や戦車あるいは
化学兵器や無線など、各国のあらゆる改良兵器の試験場と化したのである。それほど、
各国が独自に支援する色々な部隊が存在した。ドイツは空軍部隊を秘かに送り、英国は
戦車をフランスを通じて送った。ソ連も同じ様に国際旅団を送っていた。それぞれが、
それぞれの任意の義勇軍だった。ソ連はその時最新鋭のAK銃を送っていた。最終的に
マヌエル・アサーニャ率いる左派の人民戦線政府(共和国派)と、フランシスコ・フラ
ンコを中心とした右派の反乱軍(ナショナリスト派)とが争った。反ファシズム陣営で
ある人民戦線をソビエト連邦が支援し、欧米市民知識人らも数多く義勇軍として参戦、
フランコをファシズム陣営のドイツ・イタリアが支持・直接参戦するなどした。戦場を
マスコミ報道が出現し、空前のレベルで人々の注目を集めた。この時小説家のアーネス
ト・ヘミングウェイ、ジョージ・オーウェル、写真家ロバート・キャパらが関わった。
そのため、この戦争は激しい感情的対立と政治的分裂を引き起こし、双方の側の犯した
虐殺行為が知れわたり有名になった。フランコは、ファシズム政権を樹立していたドイ
ツとイタリア王国から支援を受けて内戦に勝利した。その後人民戦線派の残党に対して
激しい弾圧を加え、軍事法廷は人民戦線派の約5万人に死刑判決を出し、半数は処刑さ
れた。特に自治権を求めた人民戦線側のバスクとカタルーニャに対しては、バスク語、
カタルーニャ語の公的な場での使用を禁じるなど、その自治の要求を圧殺した為亡命者
も多かった。だがこの後遺症はつづき、ヒットラーの要請にも応えるものの第二次大戦
に参戦せず議会も王政も残り、国内は空爆など免れている。

1407: 名無しさんAA:18/09/05 11:41
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 86 

 このスペイン内戦は世界を変えた。帰還した兵士や改良を残した兵器が進化し、戦術
や戦略が変わったのだ。ソ連はモノンハン事件と双方で戦ったのだが、日本はスペイン
内戦に関わる事は無かった。しかしその影響で急速に国内諜報員(スパイ)は増えたの
である。又ドイツでも、スペインがカトリックの国であった事から、教会襲撃が始まっ
た。これまでの政権ととナチズムのキリスト教観は大きく違っていて、カトリックとは
相違して、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)員が教会を攻撃する事件もしばしば
発生した。これをうけてドイツのカトリック教会は信徒にナチ党へ参加することを禁止
する通達を行った。1933年ナチ党は権力掌握したが、バチカンがナチ党政府にどういう
対応を行うかが注目されミュンヘンのミヒャエル大司教は教皇ピウス11世の言葉とし
て「貴殿(アドルフ・ヒトラー)はボルシェヴィズム(共産主義)と手を切った。最初
の指導者である。」とヒトラーを賞賛した報道がドイツで行われた。ナチ党政府が正式
に「政府声明」を行い、これをうけてカトリック教徒のナチ党参加禁止令が解除された
。ナチ党政府はこれを「カトリック教会がナチス・ドイツを承認した」と喧伝し一方で
ナチ党員による教会攻撃は激化した。6月にドイツの司教団が具体的なライヒスコンコ
ルダート制定(政教契約)を訴え、攻撃から教会を守ろうとした。バイエルン・コンコ
ルダートの締結交渉の最中にドイツ外務省はドイツ側からの8点の要求をまとめ、ミュ
ンヘンに送付した。1921年1月6日にはこの8点の要求を骨子とした基本草案「デルブリ
ュク草案」が外務省によってまとめられた。ドイツ国首相ヨーゼフ・ヴィルトはバチカ
ン側の要求をまとめることを要請し、11月15日には「バチカン暫定案」が提出された。
当初パチェッリ枢機卿国務長官とピウス11世は「ミット・ブレネンダー・ゾルゲ」(
この題名の「とてつもない懸念とともに」、などと訳されている。)の文書を発出して
回勅された。それには「ナチズムおよびナチス・ドイツ体制が、人種・民族・国家を、
神格化している」と批判したものだった。一方でバチカン側は、カトリック政党である
中央党を支援しており、ドイツ国内において対立関係だがしかし、共産主義者やユダヤ
民族を敵視する反共の観点では両者は共通していた。バチカンとドイツの間で政教条約
(ライヒスコンコルダート)が締結されて、ナチス政府がカトリック教会及び信徒への
保護を行うことと、ドイツ国内のカトリックの聖職者と信徒がナチス政府への忠誠を誓
うことが合意された。しかしナチス政府によるカトリック教会への弾圧・迫害はやまず
、ライヒスコンコルダートが無視される事態がしばしば発生し教会破壊は続いていた。

1408: 名無しさんAA:18/09/05 11:41
 日本国内でも、1937年(昭和12年)の4月ごろから尾崎は「昭和研究会」に入り、「
支那問題研究部会」の中心メンバーとして活躍していた。この「昭和研究会」は軍部と
も密接な関係を持って、近衛新体制生みの親となり、大政翼賛会創設を推進して、一国
一党の軍部官僚独裁体制をつくり上げた中心機関である。尾崎は「中央公論」14年1月
号に「『東亜共同体』の理念とその成立の客観的基礎」を発表した。これに呼応して、
陸軍省報道部長・佐藤賢了大佐も、「日本評論」12月号に「東亜共同体の結成」を発表
する。尾崎は、中国に親日政権を作り、それをくさびとして、あくまで日本と蒋介石を
戦わせようとしたのである。中国共産党は蒋介石を抱き込み、尾崎グループは親日政権
を作らせて、日本と国民党政権をあくまで戦わせ、共倒れにさせて、日中両国で共産革
命を実現しようという計画であった。1940年(昭和15年)6月近衛は本格的に、新体制
運動に乗り出す。しかし、国内の麻生久の社会大衆党、赤松克麿の日本革新党、中野正
剛の東方会などの革新勢力を結集し、 前衛政党的な新政党を結成しようとし、ゾルゲ
のマルクスレーニン研究所に所属したコミンテルン(国際共産党)活動やドイツや米国
英国、仏国、イタリア、中国、朝鮮のどれもが、この尾崎の活動と、似たり寄ったりの
意見や意識の中にあって、日本の軍部を初めとする大部分が疑心暗鬼の中に国賊行為に
振れていった。そもそも中国国民党軍が、共産党軍との闘争を捨てて今まで支援してい
た日本軍と戦うなどと言う事を想定していない上に、本土上陸の玉砕作戦のつもりだっ
たのだろうが、米英やソ連の支援をもらうために、わざわざ出来ている代表政府が支援
して駐留を申し出たまま 国土や国民を犠牲にして戦う事など考えられない清野作戦で
あった。ゾルゲの仕事は、1930年〜33年”社会学雑誌”特派員として上海で諜報活動を
行い、そのとき尾崎秀實(ほつみ)を知り、1933(昭8年)一旦モスクワに帰り、日本
派遣を命ぜられて、ナチス党員に化けて「フランクフルターツアイトゥング」紙の特派
員として来日している。日本での諜報活動網を確立すべく慎重にメンバーを選定して、
メンバーの一人である尾崎秀實が後に近衛内閣のブレーンになっていた。尾崎秀實は、
朝日新聞社の特派員として上海に駐在中に多くの左翼人士と交わり、マルクス主義信奉
者になった。尾崎はアメリカ人左翼ジャーナリスト、アグネス・スメドレーを通じて、
ゾルゲと知り合った。尾崎は国内世論を誘導するだけでなく、和平の動きそのものをも
妨害した。蒋介石以下の国民党首脳部と親しい間柄にあった茅野長知は、上海派遣軍司
令官で、全くデタラメ男の松井石根大将の依頼により、昭和12年10月ごろから日中和平
に乗り出した。松井は孫文の大アジア主義に強く共鳴し、辛亥革命を支援し、インパー
ル作戦ではその行動を止めなかった。優しすぎる戦略のない軍人だったのだ。

1409: 名無しさんAA:18/09/05 11:42
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 88 

 在学中、松井が感銘を受けた思想があった。それは川上操六が唱えた「日本軍の存在
理由は東洋の平和確保にあり。」という見識であった。川上は、日本が将来、ロシアと
の戦争を回避することは困難だと断じ、その防備としてアジア全体の秩序を構築し直す
必要性を訴えていた。そのための軸となるのは、日本と中国(支那)の良好な提携であ
る。こうした川上の思想に接して強い共鳴を覚えた松井は、中国への興味を改めて深め
ていった。陸軍士官学校(9期次席)卒業後、明治34年陸軍大学校に入学した。明治37
年、陸大在学中に日露戦争に従軍した。この時期の松井の同郷の先輩にもあたる荒尾精
とも親交があり、荒尾の思想の根底にも同じ日中の強い提携を思っていた。欧米列強の
侵略に対し、アジア諸国が連携しあって対抗していこうというのがその主張の要であっ
たろう。明治生まれの松井は、特に日中やその他アジアの連携強化により、欧米の横暴
な植民地支配からの開放を模索していた事が分かる。大東亜戦争をアジア開放と、大ア
ジア同盟の構想を考えて居たのは、この頃の日本人の殆どだったに違いない。日露戦争
がそれだけの死と考えをもたらしていた。松井石根大将を含めて、上層部の実力者達が
アジアの開放と同盟強化を真面目に考えて居たのは確かだろう。そんな人達が、韓国や
中国の言う様な「過酷な植民地支配」などするだろうか。また、大東亜会議の様な物を
ワザワザ開催するだろうか。いくら政治宣伝の為とは言え、植民地支配して奴隷同然に
現地民を扱って居たのなら、ワザワザこんな事をやったり、大東亜共栄圏など構想した
りはしない。現代でみれば過酷かもしれないが、当時の仏印のベトナムや英国の香港や
インド、米国のフィリピンと欧米の植民地はもっと酷い有様で牛馬のごとく売り買いさ
れて鞭打ちで殺されていた現実があった。明治40年(1907年)フランスから帰国した
松井は、次の勤務先として清国へ派遣された。これは松井が自ら志願してのことであっ
た。陸軍参謀本部宇都宮太郎は三菱財閥の岩崎久弥に10万円の資金を供出させて、これ
を松井に任せ、孫文を支援するための元金に使わせた。その後も、中国国民党の袁世凱
打倒に協力した。松井は日本に留学した蒋介石とも親交があり、昭和2年(1927年)9月
、蒋が政治的に困難な際に訪日を働きかけ、田中義一首相との会談を取り持って事態を
打開させた。盧溝橋事件以降に昭和13年4月には、即時停戦、日本の撤兵声明発表な
どの合意に至った。近衛首相も板垣陸相も承認して、この線で和平実現に努力すること
に同意して、茅野は国民党政府と接触し、5人の中国代表を東京に派遣することとなっ
た。


1410: 名無しさんAA:18/09/05 11:43
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 89 
しかし、茅野が再び帰国して、交渉の結果を報告すると、板垣陸相の態度は急変し「支
那側には全然戦意はない。このまま押せば漢口陥落と同時に国民政府は無条件で手を挙
げる。日本側から停戦声明を出したり撤兵を約束する必要はなくなった」という話にな
っていた。茅野が「それはとんでもない話だ。国民政府は長期抗戦の用意ができている
。そんな情報はどこから来たのか」と問いつめると、板垣陸相は、同盟通信の上海支局
長をしていた松本重治が連れてきた国民政府の外交部司長・高宋武から直接聞いたとい
う。松本重治は尾崎の年来の友人であり、共に「朝飯会」のメンバーとして近衛首相の
ブレーンともなった人物である。高宋武は、日本側に「国民政府はもうすぐ無条件降伏
する」と伝え、蒋介石には「中国があくまで抗戦を継続すれば、日本側は無条件で停戦
、撤兵する」という偽りの電報を打っていた。この謀略によって、茅野の和平工作は、
水泡に帰してその後、高宋武、松本重治、尾崎らによる汪兆銘政権樹立の動きとなって
いく。国民党副総裁であった汪兆銘は、蒋介石にコミンテルンの謀略に乗った抗日戦争
を止めさせるよう願っていた。尾崎らは、その汪兆銘を担ぎ出して親日政権を作らせ、
それを以て日本と国民政府の戦いを続けさせようという巧みな謀略を仕組んだのである
。近衛首相は、事変が始まった後、早期停戦を目指してドイツを仲介国とする交渉を行
ってきたが、昭和13年1月には新たな親日政権の成立を期待して、「今後国民党政府
を相手にせず」という第一次近衛声明を発表していた。同年11月、近衛は日本・満洲
・支那3国の連帯を目指した「東亜新秩序」建設に関する第二次声明を発表。これは、
尾崎らの「東亜共同体」構想そのものである。まさに「見えない力にあやつられてゐた
ような気がする」という近衛の述懐通り、近衛内閣は尾崎の描いた筋書きに完全に乗せ
られていたのである。尾崎は、当時の近衛の嘱託という立場を利用して政策決定に影響
を加えた。このゾルゲ・グループのもたらした情報はソビエトが対独戦を戦う上では、
不可欠であった。つまり中国戦で日本軍を足止めしておきたかったのだ。この功績でゾ
ルゲには1964年「ソビエト連邦英雄」の称号が贈られた。まもっともこの方法は、日本
が日露大戦時にドイツロシア戦と政権転覆を仕組んだ輩に資金提供した事と同じだった
ゾルゲや尾崎秀実や日本共産党の戦前の反日活動が、反戦平和活動だったなどと言う笑
止千万なことをいう輩がいるようだが、彼らはソ連の野望のための下働きにすぎなかっ
たのである。尾崎は、「東亜に終局的な平和を齎(もたら)すべき『東亜における新秩
序』の人柱となることは、この人々の望むところであるに違ひないのである。」とのべ
ている。つまり大陸の赤化社会が共産革命後に成立するソ連・日本・中国による「赤い
東亜共同体」であった。

1411: 名無しさんAA:18/09/05 11:45
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 90 

 この尾崎と同じに、世界新秩序を標榜したのがルーズベルトであった。1933年5
月2日、下院議員ハミルトン・フィッシュはルーズベルトのブレーントラスト群の中の
レーモンド・モーレー、ダグウェル、モルデカイ・エゼキル、ウィリアム・ブリットの
相互連絡について発表している。ダグウェルは、社会主義者スチュアート・チェーズと
共産主義者ロバート・ダンと協力して『第2回の10年計画下のソ連』を出版したこと
があり、これら3人の学者は密接な関係を保っていたのである。レーモンド・モーレー
は既に1919年にクリーヴランド財団の理事長となっていてコロンビア大学教授をしてい
た。他のルーズベルト政権のブレーンのモルデカイ・エゼキルは、アメリカの農業計画
はユダヤの利益の為に。と言うユダヤ計画の代表者で弟子にラジデンスキーがいた。レ
ックス・ジーダックウェルも同じコロンビア大学教授で、マルクス主義経済学者だった
同じ教壇にガイ・ダグウェルがいた。彼もユダヤ人で、社会党機関誌「新共和」の寄稿
者となっていた、社会主義者スチュアート・チェースと共産主義者ロバート・ダンと共
著で『第2回十年計画下のソ連』を出版、アメリカのユダヤ革命・アメリカのソ連化を
企図していたのであった。モルデカイの名はバビロンから流刑後、エルサレムに帰還し
た人で、エゼキエルは、旧約聖書に登場する紀元前6世紀頃のバビロン捕囚時代におけ
るユダヤ人の預言者の名である。彼らは共産主義化の方向へ進めることに全力をあげて
おり、米国民もロシア人も、両者間に性格の相違点は見出せず、したがって米国でも、
ロシア同様の革命が可能であるという意見をもっていた。これすなわちユダヤ革命の事
であり、共産主義云々というのは所詮建前論であり、カモフラージュにすぎない。次の
問題人物はレーモンド・モーレーである。コロンビア大学に講座をもっており、常にル
ーズベルトの腰巾着であった。1933年5月8日号の『TIME』の表紙を飾ったが
ユダヤ人学者だった。農務長官顧問モルデカイ・エゼキルは、ダグウェルの影武者とし
て農業問題についてはユダヤの計画の代表者であり、米国の農業計画はユダヤの利益の
ために進められていた。戦後日本で農地改革をしたラデジンスキーはポーランド系ユダ
ヤ人であり、彼の弟子で、当時農務省にいたのであった。国務長官補佐となったウィリ
アム・ブリットについては別に述べるが、彼もまたレーモンド・モーレーの親友であり
共産主義者リンカン・ステフェンズの親友でもあり、長らくソ連にありレーニン、チチ
ェリン、リトヴィノフと交渉していた。こうしてルーズベルト政権のブレーンはユダヤ
人が占めていた。スチーブン・ワイズはユダヤ教のラビだったが、アメリカ・シオニス
ト機関の総務として世界新秩序=新共和理論=ニュー・ディールの合言葉の下にいた。

1412: 名無しさんAA:18/09/05 11:54
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 91 

 初代駐ソ大使を務めたウィリアム・ブリットもユダヤ人だ。ブリットは1933年初
代駐ソ大使になっているが、彼の腰巾着が共産党員のリンカン・ステフェンズである。
彼は1917年のロシア革命の時代にはトロツキーと共にロシアに渡り革命のため画策
したのであるが、莫大な資金はアメリカ政府から出ていた。アメリカが「ソ連の助産婦
」ともいわれるゆえんである。これらルーズベルトを囲繞するユダヤ人達がアメリカに
忠誠を誓っていたかというと、大いなる疑問であろう。第二次大戦勃発後、ルーズベル
トは在米日系人を隔離収容所へ入れた。このことに対しては最近、カーター大統領が、
正式に謝罪した。ルーズベルトはこれら日系人に対してアメリカヘの忠誠を強引に誓わ
せようとした。それに対して日系人は、市民権を与えることが先決であると反論した。
全く当然の論理である。一方、ルーズベルト・グループのユダヤ人達は、途中移民でも
皆市民権を獲得しながら、兵役にはつこうとしなかった。このホワイト・ハウス内のニ
ューディール派の特徴をざっと説明しよう。この一派は、特に外交政策においてアメリ
カの国益と直接なんの関係もない欧州戦介入のため伝統的な孤立主義、中立主義を侵犯
し強引に対独戦にアメリカを引きずり込むという「非米活動」を行った。さらに国内に
おいては、200万ドルという当時としては天文学的数字の赤字をつくってしまったの
である。これはルーズベルトの前任の32人の大統領がつくった赤字と同額であるから
、驚くほかはない。このケタ外れの赤字をつくる原因となったのは、階級闘争の激化を
もたらすところの労働組合に対して団体交渉権を与えたことである。資本主義国におい
て大統領が率先して内部闘争を激化させる政策をとることは信じ難いことである。しか
しこれは白昼夢ではない。このことはただこれ自体でも驚くべきことであるが、そんな
ことぐらいで驚いてもいられない。外でもなく、戦後の日本にそっくり持ち込まれてい
るからだ。ばらまき行政の始まりで、米国労働組合に汚職まがいの金をつぎ込んだのだ
しかも国の基本法たる憲法にまで書き込んでいる。ここで2つのことがいえる。1つは
、資本主義国といっても反資本主義的政策を行うことは簡単であった事だ。いま1つは
、したがってアメリカという国も、本国の本来的利害を離れた政策を進めるということ
である。後者の方は単一民族国家である日本では想像もつかないことだ。戦後アングロ
サクソンのアメリカとしての怒りを爆発させたマッカーシズムであるが、この怒りはル
ーズベルトの国内政策における共産主義化傾向で、何よりも対独戦介入を強引におしす
すめた結果でありの原因であった。


1413: 名無しさんAA:18/09/05 12:42
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 92 

アメリカには、伝統的な孤立な中立 モンロー主義というものがあった。ルーズベルト
にとっては、これが最大の強敵であったのであった。そのため、自らが行う政治的工作
とは別に、ユダヤ系で占めるジャーナリズムを 総動員した。その先頭に立ったのが、
なんと今日の日本で平和のチャンピオンの如くたてまつられている『ニューヨーク・タ
イムズ』紙だったのだ。1940年9月27日付の『ニューヨーク・タイムズ』では、
ワシントン支局長の言として、「米国が日本に対してとり得る唯一の道は、経済封鎖で
ある。」と公言し、人道上肯ぜられない近代工業国家へ資源を絶つ行為を米国政府に、
要求している。12月1日の紙上では「米国政府がいよいよ積極的に日本の東亜新秩序
建設に圧力を加えていくだろう。さらにソ連の対支援助も米国の今次の行動により大い
に鼓舞されるであろう。」と、ソ連の捲き込みも狙っていた。また、9月26日の社説
では「支那の抗日戦継続は 太平洋における列強としての米国の利益に、一致する。従
ってこの政策遂行の第一歩は、対支借款増加であり、今回の2500万ドル新借款発表
は米国政府の動向を示すものとして注目される」と公言している。東亜(極東地域)の
禍乱を望む発言であり、「太平洋における列強としての米国」ということは、極東の局
地戦であるはずの支那事変を、世界大戦の規模にまで拡大せんとするものである。9月
3日付では、「米国は日本と事を構える意志もなければ、事実 その理由ももたない。
しかし、米国としては純然たる利己的理由からいっても、日本を現在のまま支那事変に
没頭せしめ、さらに援蒋政策を拡大し、重慶をして引続き抗日運動を継続せしめる方が
米国の利益となる。」として、支那事変の解決を誠心誠意希求する日本をあざ笑ってい
る。マルコポーロ・ブリッヂ(盧溝橋)事件との関係でないのだろうか。1938年6
月17日付のフランスの新聞『ル・タン』は、『ニューヨーク・タイムズ』紙の社説か
ら次の如きものを引用している。「アメリカが、いくら地理的に隔離していようとも、
欧州の戦乱から生ずる結果に対して孤立、無影響であることはできない。どんな中立法
もアメリカ市民がその諸国民(欧州のこと)に好意をよせることに、制肘を加えること
はできない。欧州で戦前戦後の如く紛争が続いている今日では、アメリカの好意と支持
とは、そして結局、又一層の有力な手段とは、アメリカ市民のそれと同様の生活様式を
守っている国々によせられるのが当然である。」これは廻りくどい表現だが、つまると
ころ、欧州のユダヤ人を助けろ、といっているのである。『ル・タン』紙は上の一部を
引用した後、次の如くつけ加えている。

1414: 名無しさんAA:18/09/05 12:43
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 93 

『ニューヨーク・タイムズ』紙の社説は、更に尚、現在の世界情勢に関するアメリカ市
民の感情を次のように表現している。「アメリカ市民は、今やもう戦争を招来するよう
などんな時局に対しても 中立的態度をとり続けることはできない。将来において世界
列国の政治的均衡を 破るに至るような恐れのある局面に対しても 我々は到底傍観者
たる立場を守りうるものではない。我々は、ヨーロッパから、かけはなれているにもか
かわらず、ヨーロッパ国民(その実、ユダヤ人=著者注)と共同歩調をとらざるをえな
いのである。これに対して国務長官ハルも賛同的な意見を、もらして『自分は新聞に 
かような言説が表われるのを目にして アメリカが海外の事態に対して だんだん関心
を深めていることの表徴である。と、見なしたいので、自分もこの点についてはすでに
ナショナル・プレスクラブで言明しておいた』と述べたそうである。」『ニューヨーク
・タイムズ』紙のこの社説は各国に大きなショックを与え、国際ユダヤ勢力が、必ずや
ドイツに対して戦争を挑発するであろうという確信をもたせるに至ったのである。顧み
ると、ユダヤ人リバン・ブランが『ル・タン』紙上で、頭から アングロサクソンのア
メリカを馬鹿にしてかかり、あらゆる手段に訴えても、彼らアングロサクソンの世論を
ユダヤの戦争政策の方向へ転換させることが必要である。と書いたのは1936年11
月27日のことであるが、1938年6月17日の前述の『ル・タン』紙には以上の如
く、ブランを通じて与えられた「ユダヤの大号令」が実行され、実を結んだことが報道
されている。すなわち、ユダヤ人達は以来1年半の間に、アングロサクソンに対して「
諸君達もヨーロッパの情勢に無関心ではいられないのであるぞ」という信念を吹き込む
ことに成功したのである。アメリカが徐々に 欧州の政局へ容喙しだしたのは、ユダヤ
勢力の一大勝利であった。ギリシアのフランス語ユダヤ新聞『ランデパンダン』の、1
938年6月16日号は、肉太活字の見出しで、「アメリカの中立はもはや放棄されて
いる。」と書き、その下で凱歌もどきの得意たる一文を書いていた。ライフ誌の編集長
、ユダヤ人のヘンリー・ルースは「アメリカの世紀」という論説で次のようにいってい
る。「我々はもう戦争に参加しているのである。我々はアメリカの領土を守るために、
参加するのではない。我々がこの戦争に加わるのはアメリカを防衛するためといい張る
ことはできないはずである。それ故、我々の直面している問題は生存上の必要に関する
ものではなく、ほとんどもっぱら自由選択と打算の問題である。」

1415: 名無しさんAA:18/09/06 04:16 ID:IEM
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 94 

 東条英機は1920年(大正9年)8月10日に陸軍歩兵少佐に昇任し、1921年(大正10年)
7月にはドイツに駐在した。この時 同年10月27日に南ドイツの保養地バーデン=バーデ
ンで永田・小畑・岡村が結んだバーデン=バーデンの密約に参加した。だがこの時岡村
は既に共産党員だった。これ以前から永田や小畑らとは勉強会を通して親密になってい
たという。岡村寧次(おかむらやすじ)は、1914年(大正3年)から参謀本部で勤務し
、同6年には北京駐在員として中国勤務を経験している。この頃に北京に暗躍していた
共産党員はかなりの者達が多かったからだ。この斡旋で1921年(大正10年)6月から、
半年間欧米に出張し、つぶさにユダヤの実態や共産党の洗脳を受けていた。1921年(大
正10年)の欧米出張の際には10月にスイス公使館付武官永田鉄山・ロシア公使館付武官
の小畑敏四郎とドイツのバーデン・バーデンで合いこの密約を結んだと言われる。とこ
ろが1921年には、日本にとってもう一つ大事な事件があった。天皇の訪門である。
3月3日‐日本の皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)がヨーロッパ歴訪に出発し、実は裏で
大掛かりに護衛なり親衛隊がついて回った。皇太子裕仁親王の欧州訪問自体は短期間で
であり、何事もなかったので問題はなかったが、ポグロムからの離脱や世界政府の陰謀
論者、シオニスト達すべてが極東の島国日本というのを目にした瞬間であり、この時か
らアメリカもロシアも欧州各国も日本を利用しよう企んだ事は間違いない。特にドイツ
は、例にもれずいち早く中独合作で、中国への物売りに熱心になり銀行まで中国に作っ
て極東軍需に力をいれる。3月4日 - ウオレン・G・ハーディングが第29代米大統領に
就任したが最初の現職上院議員であり、実力派大統領として期待が高かった。しかし、
在職中に死去した6人目の大統領となった。彼は初めて論壇から出た議員で有能な演説
家で名をはせた。ハーディングの保守主義、そして『敵を作らないでください』という
選挙戦略は、名実共にアメリカ人の心中を表現し、彼を1920年の共和党全国大会におけ
る妥協選択の候補となった。「正常」への復帰を約束し「アメリカが一番」というキャ
ンペーンをはり、外国の影響から独立した工業化と強い経済を促進した。しかし、ハー
ディングは、これでセオドア・ルーズベルト大統領以来の議会を支配していた進歩主義
から、離脱した事になった。

1416: 名無しさんAA:18/09/06 04:17
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 95 

 外交政策では、ハーディングは国際連盟への加入を拒み、ドイツおよびオーストリア
と単独講和条約と結び、第一次世界大戦を正式に終了させた。彼は又ワシントン会議を
開催し、世界の海軍力削減を促進し、国際法廷へのアメリカ合衆国の参加を主張した。
内政面では、ハーディングは合衆国における最初の児童福祉プログラムに署名したし、
坑夫や鉄道従事者のストライキに対応した。アメリカ合衆国の失業率はハーディングの
おかげで任期中に半減した。だがしかし、汚職の蔓延る政界の中に、彼を支えた友人に
は「オハイオ・ギャング」と呼ばれた集団がいたし、彼らは進歩主義を標榜していた旧
来のルーズベルト派のユダヤ人達のニューディーラと対抗した。ハーディング自身は不
正行為を行うような人間ではなかったが、能力的にも、決断力に乏しい性格からしても
大統領の器ではなかった。にもかかわらず大統領に選ばれ、最も腐敗した政権という汚
名を歴史に残したことは、ハーディングにとっても、アメリカにとっても悲劇だった。
一連の不正事件のなかでももっとも悪名高い「ティーポット・ドーム事件」では、内務
長官アルバート・フォールがワイオミング州ティーポット・ドームとカリフォルニア州
エルク・ヒルズにある海軍の油田を、内務省に移管することをハーディングに認めさせ
て、その後、油田を民間の石油業者に貸与して莫大な贈賄を受けた。海軍長官も連座し
た。ハーディングが、自分の死後に明るみに出た一連の不祥事をどこまで知っていたか
は定かではない。しかし石油利権については、この頃ユダヤがアメリカ国内に安売りを
仕掛けてバクー油田の油を売り出し、安くなったアメリカ原油を欧州に持って行き巨大
な利益をむさぼっている。ここにロシア共産党が新経済政策(ネップ)の動きが連動し
ていた。ソヴィエト=ロシアからソ連に移行する時期の1921年に、それまでの戦時
共産主義に代わってレーニンの指導で採用された計画経済は、部分的に市場経済を容認
した経済政策を取った。略称として、NEP、ネップと言われる。革命によりバクーの
権益はソビエト預かりとなったが、その後全く高価な原油は売る事が出来なかった。輸
送にも精製にも技術がなかったからだ。この政策転換によってソヴィエト政権は経済の
復興に成功し、その市場経済容認への転換はソヴィエト政権の国際社会での承認へと向
かい、復興の手筈は整った筈だった。しかしネップは、1928年まで継承されるが、
レーニンの死後、権力を握ったスターリンのもとで29年に否定され、ソ連は社会主義
経済建設に向かったのである。

1417: 名無しさんAA:18/09/06 04:37
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   414    > 

イングランド銀行特許状の応募者にはさらにウィリアム・ベンティンクがいた。初代ポ
ートランド伯爵の彼は、もともとオレンジ公ウィリアム家の近習だった。1670年のウィ
リアム最初のイングランド訪問に随行していた。1677年のメアリーとウィリアムの結婚
にいたる難しい交渉を担当して、さらに1688年のウィリアムのイングランド侵攻にさい
しては細部の詰めを行なった。ベンティンクはポートランド伯爵という爵位を授与され
ウィリアムのもっとも信任の厚い外交政策代理人となった。1984年の今日、第九代ポー
トランド伯爵キャヴェンディッシュ・ベンティンクは、英国バイエル社およびドイツの
原子力化学中央共同体の会長である。外交官としても卓越した経歴の持ち主で、1922年
に外務省に入り、パリ会議、ハーグ会議、ロカルノ会議で英国代表をつとめた。1939〜
45年には参謀本部統合情報局議長をつとめ、1945〜47年という重大な時期にポーランド
大使に赴任した。この時期にポーランドは英国の内々の支持によってソ連の勢力下に入
ったのである。このほかのイングランド銀行の特許状への応募者のなかに、チャッツワ
ース邸を建てたデヴォンシア公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュがいる。ウィリア
ム三世へのイングランド王位就任の招請状にも著名した人物である。1702年のアン女王
戴冠式では執事長を果たした。第11代公爵はリズデイル男爵の娘デボラ・フリーマン
はミットフォードと結婚した。その義兄になる現在のリズデイル男爵はチェース・マン
ハッタン銀行の副頭取である。リーズ公爵のサー・トーマス・オズボーンも特許状応募
者である。ウィリアム招請状にも署名している。大蔵卿をつとめ、ウィリアムとメアリ
ーの結婚に尽力した。彼は英国でも最高とされる遺産を残すことになった。ほかにも、
ペンブルック伯爵トーマス・ハーバート、カーナーヴォン伯爵(同時にポーイス伯爵、
ブラッドフォード伯爵)、エドワード・ラッセル卿(1697年オルフォード伯爵を授爵)
、ウィリアム・パターソン、サー・テオドール・ジャンセン、ヒュー・チェンバレン博
士、ジョン・アスギル、ニコラス・バーボン博士、ジョン・ホランド(スコットランド
銀行創立者)、マイケル・ゴドフリー(初代イングランド銀行副総裁)、サー・ジョン
・フーブロンと一族20人、ソロモン・デ・メディナ、サー・ウィリアム・スコーエン
、サー・ギルバート・ヒースコート(ロンドン市長、新東インド会社設立)、サー・チ
ャールズ・モンタギュー(初代ハリファクス伯爵、現伯爵はハンブローズ銀行役員)、
ノルマンディー侯爵ジョン・シェフィールド(バッキンガム伯爵の爵位も保持)、アラ
ンデル伯爵トーマス・ハワード、チャールズ・チャプリン、ジョン・ロック。などなど
層々たるメンバーがこのイングランド銀行の株主として特許状応募者に名を連ねている

1418: 名無しさんAA:18/09/06 04:38
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   415    > 

 日本で日本の中央銀行が日銀券を発行するは「日本銀行」である。しかしこの道筋に
も大きな困難があった。日本銀行の設立は明治である。この時代の日本の中央銀行は日
銀券を発行する「日本銀行」であろうとした。しかし、この時代の支配者は英国であり
、明治維新そのものが英国による「演出」であった。戦後になって米国が日本を支配す
るようになると、戦後直後の日銀総裁が就任に占領軍の承認を得ていたことからも見え
るが、日本銀行は米国の意思を強く反映する機関でしか存立し得なかった。しかしこれ
は何処の国もそうだった。支配者が英国から米国に代わったように見えるが本当は同じ
「勢力」が世界に通貨を発行させていた。ロンドンからニューヨークに活動拠点を移し
た「国際金融ユダヤグループ」が日本を含む「先進国」の経済をコントロールしていた
からである。この「国際金融家」の経済的権力掌握が明確に確立されたのがイングラン
ド銀行の設立にあった。米国の連邦準備制度(FRB)を「私有」し、さらには各国の
中央銀行を「管理」するスイス・バーゼルの国際決済銀行(BIS)を「私有」する事
でその地位を掴んだ。イングランド銀行を「私有」した同じ「国際金融家グループ」で
あると理解できるだろうと考える。同時に、世界銀行もIMFも「国際機関」の名を呈
した「私有機関」である。それは「五輪」も「万博」も「FIFA」あらゆる国際機関
が、そういう名を冠した私物と判断できるはずである。これは先行の頂上君臨であった
。通貨に関しては、まず、イングランド銀行設立の時代の統治者に注目することが重要
だろう。イングランド銀行に独占的な発券権利=通貨発行権を与えたのは、当時の統治
者(国王)とそれ以後の統治者(国王)ということになる。女王エリザベス1世(テュ
ーダー家)が亡くなるとスコットランドからジェームズ6世がやってきてジェームズ1
世として君臨した。スコットランドの王朝はスチュアート朝だったことから、この16
03年がイングランドでのスチュアート朝の始まりである。ジェームズの子であるチャ
ールズが1625年に国王になると、不満の蓄積が爆発し革命(清教徒)が起こり処刑
されてしまう。その後、王政復古によりチャールズの息子であるチャールズ2世が16
60年に亡命先(フランス)から帰国し国王となり、1685年に亡くなると、チャー
ルズ2世の弟であるヨークがジェームズ2世として王位を継いだ。ジェームズは前国王
と同じように親仏派だったと言われている。

1419: 名無しさんAA:18/09/06 04:39
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   416    > 

 このスチュアート朝時代に巨万の富を稼ぎ合って対抗していたのが、イギリス東イン
ド会社とオランダ東インド会社であった。アジア地域の貿易支配で争っていたように、
経済的に全盛期にあったオランダと戦争が行なわれていたのである。世界貿易において
イギリスがオランダを圧倒するようになったのは、この時代のオランダの統治者達が、
現在も存続しているドイツ起源のオラニエ家(オレンジ公)を担いだからである。ジェ
ームズ2世のときに起こったのが1688年の「名誉革命」でジェームズ2世はフラン
スに亡命(追放)した。このときオランダからやってきたのがオランダ総督オレンジ公
ウィリアム(オランダ名でウィレム)である。(ウィリアムの妻はジェームズ2世の、
長女メアリー)で姪にあたる。そしてこのウィリアム(3世)が1689年に統治者と
して国王となり、ケンジントン宮殿で死去する1702年まで君臨した。これによって
英蘭戦争を繰り返していたオランダとは「同盟関係」(正確にはメアリーとの結婚から
とも言える)の様になったが、ウィリアムの「敵」であるルイ14世が君臨するフラン
スとの戦いに引き込まれていく。この戦費が借金となりが増大した。フランスとイギリ
スは「スペイン継承戦争」や植民地アメリカ大陸での植民地争奪戦などを起こし「ブル
ボン王朝と名誉革命政権との戦争」と言えるほどしつこく戦った。この戦費の調達先が
イングランド銀行だった。設立は1694年であるからこのときの国王はウィリアム3
世(メアリーとの共同王位)であり、イングランド銀行に発券業務=通貨発行権を与え
た(特許)のはウィリアム3世である。ウィリアムはオランダとイングランドとスコッ
トランドこれら3国の君主になっていたが、イングランド銀行を設立したのは、初代の
大蔵卿チャールズ・モンタギュー(ハリファックス伯爵)とスコットランド人のウィリ
アム・パターソンであった。チャールズ・モンタギューはニュートンの弟子であった。
ニュートンが造幣局長官に就任したのはモンタギューの任命による。また、1695年
にはスコットランド銀行(発券銀行)も創業している。サー・ジョン・フーブロンは、
イングランド銀行創始者で。1632年に7人兄弟として生まれる。フーブロンと他の兄弟
4人もイングランド銀行設立メンバーとなり、1694年にフーブロンが初代総裁となる。
在職期限の1697年まで勤務したが、亡くなるまで管理者として勤続しました。

1420: 名無しさんAA:18/09/06 04:41
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   417    > 

 この時代もうひとつの注目しておくべき事件がある。ウィリアム3世が亡くなって、
メアリー女王の妹アンが女王になったが、この時に1707年にスコットランドと闘争
から進んだ関係が「連合」から一段と強い「合同」にしたのである。これがグレート・
ブリテン王国の成立である。つまり単なる英国から大英帝国そして英国連邦に変化した
。と言った処である。イギリスはスコットランドからジェームズ6世がやってきて、ジ
ェームズ「1世」を名乗って以来スチュアート王朝になったわけだが、これは大きな事
で「同君連合」であり国家としては別々であったスコットランドがイングランドと一緒
のものになった。かつてはスコットランドはフランスと友好関係にあって当然、「外国
人」のウィリアムが国王になることをすんなり認めなかった。この「併合」により以後
のスコットランド(スチュアート朝)はイギリスの歴史に合流したことになる。注目す
るのは次である。アン女王が1714年に亡くなると、ドイツのハノーヴァー家から、
ゲオルクがジョージ「1世」として国王になった。このとき王朝がスチュアートから、
ハノーヴァーにかわったのである。ここから英国はハノーヴァー朝になった。21世紀
の現在もこのハノーヴァー朝(現ウィンザー家)が続いている事になる。ハノーヴァー
朝はザクセン=コーブルク=ゴータという家名を持ち、オランダから独立したベルギー
では、初代ベルギー国王のレオポルド1世がザクセン=コーブルク=ゴータ家であり、
これは現在も続くベルギー王国の起源になっている。上にも書いたように、オランダの
統治者オラニエ家(オレンジ公)もドイツに起源を持つ。甥と姪が縁組しては本家から
養子を取って暖簾を継いだ形とでも言えようか。以上のことから見えてくるのは、この
時代にドイツの元ベルギーの家系に、英国は乗っ取られたということになる。英国に「
寄生」した主体は「国際金融家」としての力も連れて来た。莫大な戦費を必要としてい
た英国に、イングランド銀行は国家の債券を担保に「銀行券」を発行して独自通貨「ポ
ンド」を流通させた。こうして紙幣が発行されたのである。スイスの流れのフラン金貨
が、ここで一掃されるのである。こうして英国の「金本位制」が本格的に確立された。
これは「大事件」であった。商業銀行が金貨を預かり紙幣を渡すシステムになったこと
で何が起こるか。紙幣が流通し通貨として浸透してしまえば、金利目当てに金貨を預け
る人が急増することはあっても、紙幣から金貨に交換する人は殆どいなくなる。「紙幣
システム」が浸透し、それが安定すると、金貨を引き出す必要がなくなるのである。が
それでも、それには金貨の保管と、ポンド発行国の絶対的信用は不可欠だった。


1421: 名無しさんAA:18/09/06 04:50
 この時一緒にできたのがその混乱を納める公開結社だった。(フリーメイソン)とは
厳密には会員の事を指しており、団体名としては英国では「フリーメイソンリー」仏国
では「フランマソヌリ」伊太利「マッソネリア」独逸「フライマウレライ」露西亜「マ
ソンストヴォ」日本「マッソン結社」と呼ばれた。フリーメイソンそのものを友愛会員
とし「友愛結社」ともよんだ。これが紙幣の守り神であった。日本もグランド・ロッジ
が存在し「フリーメイスン」と表記して、友愛結社は金融支配の組合で活動した。管轄
上、独立したグランドロッジが協会として、もしくは一部が(東方社、オリエント、大
東社系)の組合の形で組織された。又、それぞれが下部組織の下位のロッジから成る自
身の管区を管轄を持っている。これらの多様なグランドロッジは、それぞれが認め合い
、あるいは拒否し、境界を形成する会議を持つ。つまり隠れた調整会議の形態を持って
進められた。勿論最高調整員や仲介人は英国国王にあったが、殆どは、その下の大物議
員などで調整出来た。また、フリーメイソンリーの主要な支部には、関連した付属団体
が存在するが、それらはそれぞれが独立した組織であるが殆どが同じ様に組合形態や協
会形態の倶楽部の団体の形を取っている。フリーメイソンリーは秘密結社または、半分
秘密の団体と表現する場合があるが、いかなる団体であれ団体内部の秘密というものが
あり、そうした視点においてフリーメイソンリーは広く知られた公開結社であった。と
フリーメイソンリー側は思っている。しかし会員は全てが勧誘であり、協会存在を公言
する事を咎め、ある時は秘密の暗殺団ともなった。口伝で秘技を伝えた実務的メイソン
の時代はこうして400年間続いた。西洋史に深い関わりをもつ家柄の帝国郵便を担っ
たトゥルン・ウント・タクシス家出身の皇帝特別主席代理は全員がフリーメイソンであ
った。英国グランドロッジ(GLE、グランドロッジ・オブ・イングランド)は1717年6月
24日に設立されて、この日に、イングランド・スコットランド・アイルランド・北アイ
ルランドの4つの既存のロンドンのロッジが合同で晩餐をしている。こうして統括機関
は素早く拡張され、殆どの英国のロッジが結合した。これは選ばれし人達の勝手な賢人
会議であった。しかしここでの意見は猛威を振るい、英国議会は不良商人の巣窟となっ
た。何故ならこの時から、天変地異で瀕死に陥ろうと言う英国預金が業務を行なう銀行
に莫大な量の金貨が「吸い上げられた」のだから。もっと言えば政府に「盗まれた」つ
まり詐欺されたのである。この他国から輸入して流通していた金貨はイングランド銀行
を中心とする金融家が金庫に「吸収」して、国際市場の色々な買収には、各国が個人の
金貨での取引に競り勝ったのである。今世紀の中国と同じである。この国家単位で確保
した金は、マン島に集められ英国は驚異の金融国家として流通紙幣だけで産業革命を果
たしたのである。

1422: 名無しさんAA:18/09/06 05:10
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   419    > 

 その後大いに英国は海外に出た。そしてイングランド銀行は民間銀行であり、イング
ランド銀行を「私有」していたのは預金業務を行なっている商業銀行の金融家達だった
のである。日本は、通貨発行権を金融家に握られることは、なんとしても阻止しなけれ
ばならないと小栗上野介は思った。なぜなら、通貨発行権を国家が握っていれば国家が
通貨(紙幣)を使うことで通貨を供給でき、景気に対して雇用するとか、物を買うとか
給付がとかが出来るが、通貨発行権を金融家が握ると、この紙幣の流通は貸し付けから
始まることになる。からである。これが、藩札藩権のあった日本では解っていたのだ。
こうして英国は通貨供給が利息付きの「借金」から始まるという「経済システム」にな
る。これを日本は危険視して用心深く銀行を創った。しかし英国では逆に権利を売って
王室を守った形を取った。こうして英国王室御用達のイングランド銀行は金融家グルー
プが握ったのである。この結果、金融家は、近代的中央銀行制度を確立しそれを掌握し
たことで「経済システム」そのものを支配する様になったのである。国家=政府への貸
し付けを通じ、政策に影響を与えることで「国民の命運」まで掌握した。我々が生きる
現在の世界は、この「経済システム」の中にいる。この金融家グループが米国は上陸し
て強く防御した「公的な顔」を持った連邦準備制度(FRB)を創設している。FRB
も又イングランド銀行と同じように「公的な顔」をした民間銀行なのだが、名称の連邦
準備制度は民間が所有している。従って「連邦」ではなく株式でもない。又、準備金の
必要がない紙幣を「創造」して発行するので「準備」でもない。中央銀行が出来た理由
は、各銀行のピラミッドの頂点にあり構図的に、イルミナティやフリーメイソン或いは
かつての選民思想を持ったユダヤの民族上位思想の中世の教会思想の延長上の考え方で
バチカンに対抗するその形態を作ったのであった。邦準備制度理事会(FRB)も重要
な存在だが、FRBの中枢は、ニューヨーク連邦準備銀行なのでここを支配する事こそ
が国家の最重要だった。ニューヨーク連銀の初代総裁はベンジャミン・ストロングであ
り、ストロングを総裁に推薦したのは他ならぬモルガンとクーン・ローブ商会である。
あの「ジキル島の会議」にはストロングも又参加しており、クーン・ローブ商会の共同
経営者であるポール・ウォーバーグと、J・P・モルガンの、ネルソン・オールドリッ
チ(ネルソン・ロックフェラーの祖父)が、「ジキル島の会議」の中心にいたのである


1423: 名無しさんAA:18/09/06 05:23
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   420    > 

 1910年11月アメリカのニュージャージー州ジキル島で秘密会議がもたれました
。この時出来た「ジキル島会議」で、この連邦準備制度はポール・ウォーバーグの素案
に沿って創設された。ベンジャミン・ストロングはモルガンのバンカ−ズ・トラストの
頭取を務めていた。そして任命され、ニューヨーク連銀の総裁となったベンジャミン・
ストロングは、イングランド銀行の総裁モンタギュー・ノーマンと強固なつながりを持
ち、英米の中央銀行は連動したのである。ノーマンはヒャルマール・シャハトの親友で
あった。この時代の中央銀行支配者は、ベンジャミン・ストロングとモンタギュー・ノ
ーマン、そしてなんとドイツ帝国銀行(ライヒスバンク)総裁のヒャルマール・シャハ
トであり、この3人は1927年7月に何やら重要な会議を開いていた。このモンタギ
ュー・ノーマンの祖父は2人(父方と母方)とも、イングランド銀行の総裁を務めた。
この時ブッシュ家につながる「ブラウン・ブラザーズ」を支配していたのはモンタギュ
ー・ノーマンその人であった。ノーマンは1944年までイングランド銀行総裁を務め
たが、1944年と言えば「ブレトン・ウッズ会議」である。ノーマンのお友達である
BISの理事だったシャハトは、この時ニュルンベルグ裁判(国際軍事裁判)で無罪に
なっているのだ。こうした各国のといっても民間の、中央銀行制度は各国の政治体制と
経済を支配下におさめ、世界的な金融管理制度を創設した。もちろん日本も管理されて
いた。こうした管理制度の頂点に位置付けられたのがスイス・バーゼルにある国際決済
銀行(BIS)であり、日本銀行が日本政府が過半数の株を所有しているもののBIS
には従うしかない位置にしかない。かつて、日本が民主党政権に変わったが、この立場
や仕組みを理解しなかった首相がいた。鳩山と野田である。鳩山政権は自ら国際会議の
日本ロッジの経営者でありながらその地位を捨てて活動していた。そして民主党の個々
の人間を米国に渡米する事を止めなかった。又野田政権は、あろうことか国際会議や、
このバーゼル機関への承諾もなく日本の通貨の円安に向かわせて政府発表をした。これ
ではいくら円札を刷ろうとも、円安にはならない。基軸通貨はドルでありドルを支えて
いるのはポンドと金だったし、それをもった英国と米国が中東の石油・ロシアの技術・
南米の木材・世界の農産品などを操っていた。中国の元すらも監視下にあったのだから



1424: 名無しさんAA:18/09/06 05:36
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   421    > 
 今でも秘密裏に そして公然と「ジキル島会議」は行われている。11月下旬、米連
邦準備理事会(FRB)の議長交代が決まった後、米南部ジョージア州にあるジキル島
を訪れている。小さなリゾート地の海辺に建つホテルには、やや堅苦しい趣きのままに
部屋の扉に「連邦準備 (Federal Reserve)」と名付けられた小部屋がある。ホテルの
話によると、この部屋は今では時折、食事や会議に使うだけだという。にもかかわらず
、大仰な名前が付くのは、およそ1世紀前の1910年に、大物銀行家らがFRBを設立す
るに及ぶ極秘会議を開いた場所だったからだ。当時の会議に参加したのは6人。米議会
で金融改革を主導したオルドリッチ議員の他にも、モルガン家やロックフェラー財閥も
経済界金融界政界から専門家が集った。ニューヨークからジキル島に向かう列車には、
特別の6人の専用車が用意されて、移動の祭には偽名を使う手の込みようだった。10
日間の会議では、現FRBの骨格となるアイデアが出そろい合意を得た。中央集権を嫌
う国内事情から「中央銀行という名前は使わない」。さらに「独立した15の地域支部
をワシントンで刷札管轄する。」「金融危機時に最後の貸し手として機能するため、単
一通貨を創造して管理する手順を決める」ことなどが、この二大財閥と大物議員と海外
の国際銀行家との合意で決まった。この頃は、連邦制を重んじた米国政府は1世紀前の
当時に、既にドル札の発行権を奪われて中央銀行を持たなかった。その為南北戦争から
の借金の返済は終わらず、「ほぼ15年おきに金融パニックが起きる状態」だった。(
リッチモンド連銀)。利子付き発行債権に、返済額が生産におぼつかなかったからだ。
中央銀行設立には大きな資金力と強力な人材、機転の利く金融資本家が欠かせない。し
かし、国民感情は金融危機を度々起こす民間銀行に、極めて冷たい目を向けて居たのだ
。オルドリッチ氏らはFRB設立法案を成立させるため、同会議を極秘扱いにして民間
銀行が介在していることを隠す必要があった。民間銀行の介在を隠さなければ集中砲火
の非難は予想された。更に新しい共通通貨でなければ、この金融パニックは収められな
かった。FRB設立は1913年だったがジキル島会議の存在はその後20年間も秘せ
られていた。FRB設立は静かに息を潜めて発動していたのだ。しかし大手金融資本が
関与していたことが表沙汰になり、農場経営者ら金融資本家と対立する思想勢力からは
「ジキル島の陰謀」などと強い批判が持ち上がる。その為FRBは金融機関の救済に奔
走した。これが株暴落の原因となった。ある資産家が株を引いたのだ。火が付いた恐慌
の発生を食い止められず、国民全体の信頼も失った。「FRBは米国民ではなく銀行資
本家のためにある」という不信感は、極秘会議発覚と未曽有の大恐慌が重なり、拭いが
たいものになった。

1425: 闇サイトただし一派の報告:18/10/06 20:10 ID:pTo
2018年の10月にて栗山鷹志くんは脳内盗聴器が5年目になりました…

1426: 自由の国?アメリカ?:18/10/06 20:13 ID:pTo

  カ ー モ ン        ベ イ ビ ー             ア メ リ カ
          ♪                              ♪
  cm  ハ,,ハ     cm  ハ,,ハ     cm  ハ,,ハ     cm  ハ,,ハ       .彡⌒ミ      彡⌒ミ
.   l .|ミ n゚ω゚).    l .|ミ n゚ω゚).    l .|ミ n゚ω゚).     l .|ミ n゚ω゚)      ( ゚ω゚ )     ( ゚ω゚ )
    二∋        二∋        二∋        二∋         /⌒         〈 、 \
     )   |       )   |        )   |        )   |     / ./、   ヽ      ヽ \ト、ヽ
    キ .   l.         キ.   |        キ.   |        キ.   l     し'  〉  _l__   ミ ( \_) `┘
      \ \       .\ \         .\ \         .\ \       (____ ヽ    \ \    ♪
 ♪    〉\ \__,

1427: たこ虹にラブ一途♪♪:18/10/11 01:39 ID:QeM
『たこ虹の堀くるみ女子高校生カワイユス♪♪』
https://twitter.com/taco_staff/status/1048585668836749313

1428: 名無しさんAA:18/10/15 09:23
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   422    > 

 しかし、これを可能にしたのは、マン島会議であった。平成23年6月22日財務省
は小さく6月21日(火)【日本時間6月22日(水)】、ロンドンにおいて、日本国政府
とマン島政府との間で「租税に関する情報の交換のための日本国政府とマン島政府との
間の協定」の署名が行われました。と発表した。本協定は、租税に関する国際標準に基
づく税務当局間の実効的な情報交換の実施を可能とするものであり、一連の国際会議等
で重要性が確認されている国際的な脱税及び租税回避行為の防止に資することとなりま
す。と説明している。スノーデンの情報漏えい事件以降、英国と米国は目の敵にして、
この情報公開を塞いでいる。パナマ文書で見る様に、一般人の資産よりは、各国政財界
の大物の公有財産を私有財産に変える手法として、租税回避地の運用が行われている。
実はこの姿は、1800年代から同じ姿である。マン島会議の前にはバーゼル会議があ
っていた。かつて1431年頃は、スイスのバーゼルで開会されたキリスト教の公会議であ
ったとされる。この公会議主義者と教皇支持派の争いの場となって以降に、1897年には
シオニスト会議(しおにすとかいぎ)が開かれ、ユダヤ人代表会議でイスラエル移殖の
討議が行われた。スイスのバーゼルで、テオドール・ヘルツルのイニシアティヴの下に
、シオニズムという語を作ったナータン・ビルンバウムの協力を得て開かれた。目標を
、「パレスチナにユダヤ人のための、国際法によって守られたふるさとを作る」と纏め
られた。パレスチナへの組織的なユダヤ人入植については、オスマン帝国スルタンアブ
デュルハミト2世の許可を得る必要があったが出来る筈はなかった。機構は、粘り強い
小規模移住によるホームランドを形成して、1901年の第五回シオニスト会議でのユダヤ
民族基金創設、ナサニエル・ロスチャイルド(初代マイヤー・アムシェルの三男の三男
)からの資金援助による1903年のアングロ‐パレスチナ銀行創設をし、イスラエル建国
の公金提供をするという戦略を追求した。ユダヤ民族基金は、こうして購入していった
土地をイスラエル建国後の基本法で、非ユダヤ人に売ったり、貸したりできぬようにし
ていく事を決めた。日本での中国民の北海道購入みたいなものだった。遡ること1910年
日本では、幸徳事件(こうとくじけん)が起こっていた。大逆事件の一つであり、明治
天皇の暗殺を計画したとして、全国の社会主義者や無政府主義者を逮捕・起訴して死刑
や禁固刑判決を下した事件であった。明治天皇暗殺計画に関与し、幸徳秋水、宮下太吉
、管野スガ、新村忠雄、古河力作の5名が、実行計画に関与したとされる。宮下は長野
県東筑摩郡中川手村明科(現・安曇野市)の明科製材所で爆裂弾を製造、同村大足で爆
破実験をおこなった。1910年(明治43年)に千駄ヶ谷の平民社で実行計画が練られた。

1429: 名無しさんAA:18/10/15 09:24
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   423    > 

 同時期には米国でマッキンリー大統領暗殺事件、ポルトガル王国でカルルシュ1世暗
殺事件などの無政府主義者、社会主義者、共和主義者によるテロリズムが多発しており
、この事件は国内に衝撃を与えた。政府はこの事件の発覚を受け、跋扈していた社会主
義者、無政府主義者を調査摘発し、根絶を図ったが、この過程で政府による捏造もあっ
たとされている。教科書では、第一次世界大戦の発端は、セルビア青年によるオースト
リア皇太子暗殺となっていますが、オーストリアVSセルビアの戦争はユダヤが煽った
ものとされる。ヨーロッパの戦争に、アメリカからや日本参戦を促し、1914年に勃発し
た第一次世界大戦の前年1913年にアメリカの中央銀行FRB(連邦準備制度)が早急に
、設立された。戦争当事者の各国へ、巨額の戦争資金融資をFRBから送る必要があっ
たからだ。このFRBシステムはドイツやロシアの貸出に対応する為に法制化しようと
、国際金融機関、軍需産業、重工業、輸送機、などを支配する人々が集まり、1910年11
月アメリカのニュージャージー州ジキル島で秘密会議がもたれた。そして、1913年に、
「1913年の連邦準備法」の名の下で、その法案は可決化され、欧州各国に巨額の資金融
資が行えるようになり、翌年の1914年に第一次世界大戦は勃発する事になった。戦争を
行うには、巨額の資金が必要となるのは目に見えていたのだ。その資金を貸し付ける事
のできる巨大な資本を持つ銀行が必要となり、戦争と銀行はセットだった。日露戦争で
は、その戦費はシフを含めて75%を日本はロスチャイルド系金融機関から借りており
、ロシアも又6〜9割を調達した。シベリア鉄道で資金が枯渇していたからだ。勝利し
たのはロスチャイルドが融資してくれたおかげである事を、日本は認識した。そもそも
日清戦争に勝った日本は、講和条約により台湾、澎湖諸島、遼東半島の割譲を受けるこ
ととなったが、ドイツ、ロシア、フランスの三国干渉によって、遼東半島を返還してい
た。この日清戦争すら、ロシアの南下作戦に対応した英国の戦争だったのだから、この
後の、ドイツ、ロシアはそれぞれ膠州湾、旅順・大連を占領した事は許されない事だっ
た。日本は南下の勢いを強めるロシアに強い脅威を感じるようになるが、より以上に脅
威を感じたのは米英であった筈だ。また、ロシアに対する反感も強く、世論も急進化し
、戦争準備に入るが、日本は強大なロシアに対して、国力、軍事力などの差が大きく、
戦争に勝つことは困難であると思われた為日露戦争をそそのかされた。


1430: 名無しさんAA:18/10/15 09:28
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   424    > 

 この時活躍した戦艦三笠は、ロスチャイルドが所有するイギリスの兵器会社ヴィッカ
ース製で作られていた。こうして日露戦争と、バルカン戦争の用意が、1910年に行
われ1914年にはFRBが賠償金受け入れ態勢として完成した。そもそも日本の開国
はこのバルカン地方の戦争、則ちクリミア戦争から始まっていると言う気の長い話であ
る。1853〜56年、いわゆる東方問題は長年の問題であった。「東方問題」以前は
、バルカン半島ではオスマン帝国の統治が行われ「パクス・オトマニカ」(オスマンの
平和)の安定のもとにあっただろうとされる。オスマン帝国によるバルカン制圧当初で
は、イスラームの支配を嫌う住民が流出し、十字軍の遠征など人口減少に襲われたが、
16世紀になるとその統治は安定化していた。この東欧に領土を拡大するオスマン帝国
に対し、オーストリアをはじめヨーロッパ諸国は脅威を感じていた。特にキリスト教の
バチカンは、しかし19世紀に顕著となったオスマン帝国領内での紛争に関連して、ヨ
ーロッパ諸国間の国際問題化した。一般的にサンクトペテルブルクから資本を注入され
債務国となったロシア帝国は、オスマン債務管理局の利権にくいこめずロシア南下政策
を完封された。この時オスマンの衰退に応じて、ギリシャや東欧諸国は民族問題として
独立を求め、欧州諸国はオートリアのとりわけハクスブル家などはそれを支援した。そ
こに中国やスラブ民との戦いでロシアは食い込めなかったのである。この時東欧諸国で
は王家は互いに手を結び神聖同盟を作っていたが、ロシアを欠いた同盟は第一次世界大
戦で粉砕されたが、英仏を入れてこの東方問題は一応の決着をみた形になった。ヨーロ
ッパ社会での体制は、ブルボン王家とハプスブルク公爵家の間の大きな利害対立をイタ
リアで調整することによって勢力均衡は成り立っていた。16世紀末以来の ロシア=
トルコ戦争は、フランス(ナポレオン3世)とイギリスがオスマン帝国(=トルコ)を
支援し、実質はロシア軍対フランス・イギリス連合軍の戦争だった。この戦争はクリミ
ア半島を戦場とし、ヨーロッパでナポレオン戦争後、たったの約40年間だけだが、こ
れまで続いた戦争のない平和な時期を簡単に終わらせ、1848年に終わりを告げてい
たウィーン体制の国際秩序が完全に破壊され崩壊した。唯一、ロシア側に近かったのが
バイキング問題でポルトガル・スペインであり窓口を持ったオランダであった。しかし
、これもイギリスが台頭しアメリカが独立するに及んで世界が変わったのだった。世界
がこうして変わる時、中国は植民地になり、次の標的が日本だった。


1431: 名無しさんAA:18/10/15 09:43
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   425    > 

 ロシアはクリミア戦争の敗北でバルカン、黒海方面での南下政策を一時棚上げせざる
を得ず、ロシア軍の 陸海軍の装備や戦術が、今やイギリス・フランスに大きく立ち後
れている事が露呈させた。一般に「ヨーロッパの憲兵」と思われていた地位は瓦解した
。一方フランスは、勝利の結果、ナポレオン没落以来の低い地位からヨーロッパの強国
の覇者として一角にその地位を取り戻した。このクリミア戦争で遅れを取ったのはロシ
ア帝国だけでは無かった。独立を果たしていないアメリカも同じだった。そこで西欧列
強諸国は東南アジアや南アメリカに権益拡大に走るのである。こうした列強諸国の動き
はアフリカ・南米・極東などは共にいい迷惑な話ではあった。1914年6月28日の
サライェヴォ事件で、オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝フランツ=ヨーゼフ1世と
その政府は、大セルビア主義の民族団体とそれを支援したセルビア政府の領土で皇太子
殺害の補償問題が生じていた。ドイツ帝国のヴィルヘルム2世とその政府から白紙委任
を取り付けた上で、権益に最後通牒を発した。フランツ・ヨーゼフ1世は「君主は神に
よって国家の統治権を委ねられた。」とする王権神授説を固く信じて疑わない人物であ
り、自由主義、国民主義の動きを抑圧し、「新絶対主義」(ネオアプゾルティスムス)
と称する絶対主義的統治者で、新皇帝にとって憲法とは、その内容いかんにかかわらず
、神から与えられた「信念が命ずるままに統治する。」という統治者の義務に背くもの
。と考えていた。統治者=神の意思で憲法=愚衆の声だったのだ。そのためフランツ・
ヨーゼフ1世には法治国家としての契約主義の、自由主義、国民主義の動きを抑圧しよ
うとした。とは言え財政難の中では、多額の財政資金の援助をユダヤから受けて居た。
ヨーゼフの弟マクシミリアンはメキシコ皇帝になっている。スペイン・ハプスブルク家
からの伝統を信奉し、マクシミリアンの養育は 「アーヤ(aja)」と呼ばれるガヴァネ
スによって6歳まで英才教育がなされた。その後の彼の教育はチューターに委ねられた
。マクシミリアンの一日のほとんどが勉強に費やされた幼年時代だった。7歳のときに
は週に33時間だった学習時間は17歳のときには週に55時間まで伸びた。この家庭
教師達の学科は多様であり、歴史、地理、法律、理科から語学、軍事にフェンシングに
外交まで及んだ。また母語のドイツ語に加えて、彼はハンガリー語、スラヴ語、英語、
フランス語、イタリア語、スペイン語を学んでいる。彼が終生賢者として扱われた事か
ら、こうした詰め込みで、一般人も最低でも週40時間の学習が人を作るとされた。


1432: 名無しさんAA:18/10/15 09:58
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   426    > 

 ある意味、宗教では、殆ど自らの自殺する者は悪者で罪人である。としている。そし
て天国には行けない者の烙印が押される。社会建設が出来ないからだ。これによって、
正義の者が生きる事は、艱難辛苦の生活であっても、修行する事は大事で、命を離れさ
せない用意を説く。つまりイスラム教徒の自爆テロなどは、もっての外と言う事だが、
日本の骨格であった国家神道も又同じであって、本来自らの命を絶つことを違反者であ
り教義としては罪人であり辱めの者が自分の命を絶つとしている。良くキリシタン武将
が切腹や打ち首が許されていないとして行われなかったとしている。しかし、本来の日
本の武将たちの持つ生死感も又同じであったのだ。つまり、国家神道の基礎となった、
天皇の軍国主義も、実特攻隊などは 宗教上の教義ではもっとも認めていなことだった
筈だったのだ。昨年の、天皇陛下御即位20周年をお祝いする国民祭典での出来事で内外
の著名人が大勢集まる中、最初に祝辞を述べられたのは駐日ポーランド全権特命大使の
ヤドヴィガ・マリア・ロドヴィッチで流暢な日本語で祝辞を述べている。その中には、
「ポーランドと日本皇室の歴史の始まりは、1925年に朝香宮鳩彦(あさかのみややすひ
と)殿下が、その5年後の1930年には高松宮宣仁(たかまつのみやのぶひと)殿下と喜
久子妃殿下が訪問されたことに遡ります。その際に、ポーランドへのご訪問を迎え入れ
たのが、ポーランド共和国建国の父である当時の国家元帥、ユゼフ・ピウスツキでした
。この両国の交流の歴史は非常に古くから始まりますが、盛んになってきたのはおよそ
百年前からであったと言えましょう。ポーランドは、自国の再生を夢見ながら、日本人
の内に潜む個人主義とは相反(あいはん)した様な、全力を国家の為に傾ける気高い日
本人の精神に感嘆せずにはいられませんでした。…………最後に、古(いにしえ)より
続くある美しい歌について一言申し上げたいと思います。小石が寄り集まって、やがて
巨大な巌(いわお)となり、その長い時の流れの中で巨大な岩に苔(こけ)むすように
、揺ぎなさの神髄を、そして自然に潜在する悠久を私たちに語りかけてくる国歌の「君
が代」で始まるこの歌の、「言葉と調べ」は私たちポーランド人に深い感銘を与え続け
ています。この歌と、田植や稲刈りをなさる天皇陛下、そしてご養蚕をなさる皇后陛下
のお姿は私の記憶に深く刻まれ、そのお姿を思い出しては、純粋で美しい生活の営みや
自然との関わりによる「国民と君主の結びつき」がいかに重要なものであるのか、日々
思考を紡(つむ)いでいる次第でございます。平成の世が千代に、そして八千代に続き
ますよう、お祈りいたしております。」と 挨拶している。これは日本人でも感じない
感想ではないだろうか。

1433: 名無しさんAA:18/10/15 10:48
 1909年の陸軍士官学校21期生の中に樋口季一郎がいた。淡路の廻船問屋の奥浜家の中
で、手代の子だったらしく実家の阿萬家に戻されたが直ぐに樋口家に養子に出された。
その頃は旧来の北周船が政府系の日本郵船と三井商船が積荷の格安競争を繰り広げ殆ど
が凋落の問屋となっていた。樋口季一郎は、陸軍士官学校に行くと共に一方で東京外語
学校でロシア語を徹底的に学んだ。こうして陸軍士官学校を卒業し、陸軍大学校(30期
)を経て、ロシア語が堪能であることで卒業後すぐ1919年にウラジオストクに赴任した
。折しもシベリア出兵の終わる頃だった。明石機関の下で特務員になり満州、ロシア方
面部署を転々と勤務す、1925年公使館駐在武官(少佐)としてポーランドに赴任した。だ
が不幸にも、歩兵第41連隊連隊長時代に起きた相沢事件は、直前まで部下だった者が起
こした不祥事であったため 進退伺いを出して軍人から離れ予備役となる覚悟だった。
しかし、上官の小磯国昭に慰留され、ハルビンに赴任する事になった。小磯国昭は朝鮮
軍司令官を歴任した政治家的にも軍人としても有能な予備役軍人だった。平沼内閣や米
内内閣で拓務大臣、朝鮮総督を務め、大東亜戦争中にサイパン失陥を受け辞職した東條
英機の後継として1944年に内閣総理大臣にも就任している。1944年(昭和19年)に内閣
総理大臣に就任し小磯内閣で、悪化の一途をたどる戦局の挽回を果たそうと画策したが
、軍部の反体制活動で中華民国との単独和平交渉も頓挫し、小磯は1945年(昭和20年)
辞任し鈴木貫太郎に後を譲った。戦後にはGHQによりA級戦犯容疑で起訴され、東京
裁判で終身刑の判決を受けたが服役中に死去している。小磯は太平洋戦争開戦後の1942
年(昭和17年)に朝鮮総督に就任した時、今までの前任者の「内鮮一体」をスローガン
の南次郎総督が行った皇民化政策を、よりいっそうの過激な政策を押し進めたという。
小磯はこの時、朝鮮人官吏の登用を認め、朝鮮人企業の規制を無くし企業推進をした。
朝鮮人達の自らの政治関与の実現などを掲げて、各支配の県令も朝鮮人を認めた画期的
手腕を発揮した。しかし1943年(昭和18年)8月1日国家総動員令に対して、総督府統治
下の朝鮮にも徴兵制度を施行した馬鹿な軍部があった。朝鮮独立について小磯は「今更
、朝鮮の独立を夢みるのは九州や、北海道が独立を企図すると同じで、馬鹿げた意味の
ないこと。」と否定的だったが李斯朝鮮を追われた両班は勢いづいて中国から指令をだ
しレジスタンス運動を過激にしていた。樋口季一郎がユダヤを助けたと称賛されるが、
実は日本人全員がほぼ同じ様に、こうした扇動や虐殺や迫害を忌み嫌っていたのだ。た
だ役目上、此処に名が出て来た軍人が活躍したのであって、日本人全員が中国人の様な
殲滅作戦などは、思いもしない国民だった事は言える。特に同胞を殺しても平然とした
清野作戦など あろうはずはないと思っていた。ところが、中国では常套手段であり、
通常の作戦だったのである。この違いはなんともしがたいものだった。

1434: 名無しさんAA:18/10/15 10:51
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   428    > 

 実は日本は1915から明石機関での1917年のロシア革命までも日本とは繋がり
が既にあった。依然としてロシアに蹂躙されスラブのユダヤの殲滅作戦が取られていた
中に、イエジ・ストシャウコフスキ少年はいた。1925年に朝香宮鳩彦(あさかのみやや
すひと)殿下が、ポーランド訪問したのは、1914年(大正3年)に陸軍大学校(26期)
を卒業し歩兵第61連隊中隊長となって。1922年(大正11年)にフランスに留学していた
からだ。翌年、義兄の北白川宮成久王の運転する自動車が交通事故を起こし、この事故
で成久王は薨去し同乗していた鳩彦王は重傷を負った。怪我の療養のためフランス滞在
が長引いたことで、フランス文化により長く触れることになって療養看護のため渡仏し
た宮妃ととも1925年(大正14年)のパリ万国博覧会(アール・デコ博)を観覧して、同
様式に対して強い関心と理解を示していた程のころだった。実はポーランドはボレスワ
フ1世時代、オットー3世と会談し神聖ローマ帝国の貴族の称号と冠を授け、ポーラン
ドにグニェズノ大司教座に加え、四つの司教座を置くことに合意した。つまりかつては
フランスの一部からドイツ・ベルギー・ノルーウェー・東欧の殆どスイス・オーストリ
アまでイタリアの一部と言う広大な土地を持っていた。キエフ公国と東ローマ帝国が対
立すると東ローマ皇帝バシレイオス2世と同盟を結び、キエフ公国を撃退し一部を征服
し、西に進んでラウジッツを征服し、神聖ローマ帝国領のマイセンを侵略して手に入れ
た。こうして巧妙に立ち回って、征服に抵抗した住民は捕え、奴隷としてイスラム世界
に売り飛ばした。この為、大変恐れられた国王で帝国を打ち立てた名残りを持っていた
。こうしてチェコを征服し、支配下に置き、自らボヘミア公となった。こうして神聖ロ
ーマ皇帝カール4世の時、ボヘミアの王冠を新しく作ってヴェンツェル王冠とし、自ら
をヴァーツラフの後継者と人々に印象付けようとした。そしてマジャル人やクロアチア
人の居留地に侵攻し国王となりポーランド東南部にも勢力を拡大した。従って、1403年
ヴィイプリ創設時の憲章邦訳は次のとおり書いている。「我エーリック、神の恩恵によ
りスウェーデン王、デンマーク王、ノルウェイ王ヴェンデイ及びゴート王、ア・ポンメ
ル連合王は、ウプサラ憲章に述べられた街の諸特権を、街の住人たち、ヴィイプリ交易
地に居住する街の人々に許諾することを、現在当地にいるすべての人々に、更には私達
を継承する人々に公式文書で告知する。…‥‥執行吏、軍人、他のすべての人々は、我
らの恩恵を享受を望み、報復を避けると望む者に対し、何人であれ、それを妨げてはな
らない。上述のとおり、我はこの憲章に証印し封緘する。神聖1403年聖処女マリア天昇
につづく日曜にヴィイプリ城にて祭祀を行う。」と公布しているのである。

1435: 名無しさんAA:18/10/15 10:51
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   429    > 

 ところがボレスワフ2世(ポーランド王)は、ピャスト家出身の君主の中でも有能な人
物と評されていながら、冷酷な王だった。「大胆王・冷酷王」とも呼ばれて、カジミェ
シュ1世とキエフ大公女マリアの息子で、ヴワディスワフ1世ヘルマンの兄であった。
治世の間は国中に教会を建て、1075年にはグニェズノ司教座を再設置するなど威光があ
って、ベネディクト会派修道院を、ヴロツワフ、ルブリン、モギルノに建てる程だった
。ポーランド初の硬貨鋳造をしたりした。1079年、敵対していたクラクフ司教スタニス
ワフを、ミサを挙げているところを捕らえ殺害した。これが発端となって国を追われ、
妻子を連れてハンガリー王国へ亡命するに至った。1082年頃に死んだと伝えられて、埋
葬場所は現在も不明である。その後に、祭祈を司る軍制民主警察隊のクニャージ部族長
が立ち、キング系の称号を冠する称号を名乗った。、クロアチア王(925年 - )、ポー
ランド王(1025年 - )、ボヘミア王(1198年 - )、セルビア王(1217年 - )、 ルー
シ王(1254年 - )などが 百花繚乱で各地に王が並び立っていた。ポーランド立憲王国
でロカルノ条約は、その後の紛争を終結する為に、1925年10月5日 よりスイスのロカル
ノで,イギリス,フランス,ベルギー,ドイツ,イタリア,ポーランド,チェコスロバ
キア各代表が参加してヨーロッパの安全保障に関する国際会議が開催された。つまりこ
のポーランド王の退却死亡は、スラブの混乱の元となったのである。10月最終議定書の
ほか,イギリス,フランス,ベルギー,ドイツ,イタリア5ヵ国のラインラントの現状
維持に関する相互保障条約を締結した。これがロカルノ条約あるいはライン条約と言わ
れる物最初の議定書だった。ドイツとフランス,ベルギー,ポーランド,チェコスロバ
キアの各国との四つの仲裁裁判条約が仮調印され,12月ロンドンで正式に調印された。
基本的にはヴェルサイユ条約を踏襲したものだが、その中にフランス・ベルギーの国境
現状維持と、ラインラント非武装の確認(ラインラント条約)などが含まれ、国際紛争
を軍事によらず仲裁裁判で解決することも含んで人々は平和を希求していた。ロカルノ
条約の締結によりドイツは1926年に国際連盟に加盟。独仏の関係の緩和により、ヨーロ
ッパ全土もこうしてしばらくの間、相対的安定期を迎えることになる。第一次大戦まで
のスラブ諸侯の紛争の、国境維持して、この各国の均衡化したままでここで止める為に
設けられた議定書が効力を発揮したのである。これにより彼は金貨すら発行するほど国
を豊かにする。つもりだった。現に一時的に訪れた平和がこの地を豊かにしていた。こ
の時日本は落ちぶれたカール4世の孫などと白川伯爵が会い、暗殺に似た自動車事故が
起こっているのである。

1436: 名無しさんAA:18/10/15 10:52
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   430    > 

 日露戦争中に、スウェーデン駐在武官の明石元二郎大佐は「明石機関」を設置させら
れ、ロシア国内の反体制派への支援等の活動を行った。この活動は、陸軍における最初
の本格的な特殊任務として、陸軍中野学校の授業でも題材とされた。この種の活動を行
う組織が「特務機関」と称されたのは、シベリア出兵に際して、純粋な作戦行動以外に
生じた種々の複雑困難な問題に対応する必要からであった。1919年には、現地における
情報収集・謀略工作を担当する機関を改めて設置したのは、全くこれまで人種間格差と
いう国際問題さながらの地獄を知らなかったからだ。「特務機関」の名称の発案者は、
当時の、オムスク機関長高柳保太郎陸軍少将で、ロシア語の「ウォエンナヤ・ミシシャ
」の意訳とされる。このとき設置された特務機関の任務は、統帥の範囲外の軍事外交と
情報収集とされた。初期の特務機関はシベリア派遣軍の指揮下で活動し、機関員辞令は
シベリア派遣軍司令部附として発令された。いわゆるシベリア内の現地調査の域を出て
はいなかった。その業務は軍参謀長の監督を受けた。はじめ、ウラジオストク、ハバロ
フスク等各地に設置されたが、戦局の推移にともない改廃・移動が度々なされて、なか
なか一般には把握できなかった。そして猶太問題も同じだった。シベリア撤退が国連の
強制的指導で決められたが、対共産党活動を観察の為に、そのままハルピン特務機関を
中心に、残置諜報者を置いて、ソ連各地で情報収集にあたっていたとされる。1940年に
そのハルピン特務機関は関東軍情報部に格上げされた。それ以外の各特務機関は情報部
支部へと改編された。それら11支部あった情報部支部は1945年8月には特別警備隊に
改編され、日露大戦が終戦を迎えていた、明治期後半から、陸軍は中国各地の軍閥とさ
れた地方政権や北洋艦隊の軍閥に、軍事顧問(団)を派遣していたが、それら軍事顧問
と配下の機関員ら含んで活動した為組織全体を「特務機関」として活動させた。例えば
袁世凱政権・張作霖政権等にも、形骸化した軍事顧問が派遣されて招聘された形を取っ
て入っていた。東南アジア各地においても中国内における軍事顧問と同様の軍事顧問と
いう形での「特務機関」が存在し、それらは反英(英・蘭)反米運動を煽動し、各種の
工作活動を行った。それら「特務機関」に関与した日本人の中には、敗戦においても尚
現地に残り、被植民地民族の独立運動に際し、有形無形の支援を行った例も一部におい
てはあったようだ。例えばインドネシア独立戦争におけるPETA(郷土防衛義勇軍)に対
するそれである。それらを残置諜者と呼んだが、中国の公開処刑や粛清は30万人にも
及び親日家や知日家はことごとく殺されて行った。そうして中国は平和や繁栄を捨てた
国家になったのである。

1437: 名無しさんAA:18/10/15 11:01
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   431    > 

 ハルビン特務機を置いたのは米英の指導であった。ドイツの皇帝が明石機関を各国の
多くに知らしめた為だ。この日本の特務機関を調べる為にシベリア出兵を促したとされ
る。つまり米国は既に日露戦争後は急速に日本対抗を見せていたのだ。ハルビン特務機
関は1917年のシベリア出兵時に、関東都督府陸軍部附として黒沢準少将が駐在したのが
始まりとされるが、実はちがっていて、米国のロシア皇帝の財宝探しに端を発する。と
言うのもロシア皇帝ロマノフの財宝は黄金80トンとされ、その他に翡翠の王冠やダイ
ヤモンドの指輪などがあったと言う。イルクーツク、ウラジオストク、アレクセーエフ
カ、満州里、チチハル等に駐在していた情報将校グループらを統轄したこの機関は一時
、浦塩派遣軍隷下に移り、連合軍下でこのロマノフの財宝探索の為に動き始めた。しか
し見つからず母国に帰った。のち再び関東軍司令部隷下に復帰し、1940年関東軍情報部
に改編された。機関長は情報部長となり、その他の在満機関を支部に改編し統轄した。
ハルビン特務機関は1917年のシベリア出兵時に、関東都督府陸軍部附として黒沢準少将
が駐在したのが始まりとなったが、イルクーツク、ウラジオストク、アレクセーエフカ
、満州里、チチハル等に駐在していた情報将校グループらを統轄した。機関は一時的に
、浦塩派遣軍隷下に移ったが、のち再び関東軍司令部隷下に復帰し、1940年関東軍情報
部に改編された。と言う。機関長は情報部長となり、その他の在満機関を支部に改編し
統轄した。こうして関東軍情報部(ハルビン)に中央本部を置き、間島支部(元・延吉
支部)琿春出張所(こんしゅん)は、高句麗時代には柵城府が置かれ、東方支配の拠点
となって今の北朝鮮に近い最も日本的な支部だった。中朝国境境界線を挟んだ両岸の村
で中心的存在だった。黒河支部や熱河支部は満州国が出来て中国との国境になったが、
地元は本来馬賊の草原だった。通化支部は中国通化事件の起こった所だ。戦後に多くの
居留民が残り「関東軍の軍人が中華民国政府と組んで八路を追い出す」というデマが飛
び交った1945年12月23日、「中国共産党万歳。日本天皇制打倒。民族解放戦線統一」な
どのスローガンのもとで、日本人民解放連盟と日僑管理委員会の主催で通化日本人居留
民大会が通化劇場で開かれた。大会には劉東元司令を始めとする中国共産党幹部、日本
人民解放連盟役員らが貴賓として出席し、日本人居留民3000人が出席した。大会に先立
って、日本人居留民たちは、「髭の参謀」として愛され、その後消息不明とされていた
藤田実彦大佐が大会に参加すると伝え聞いており、大会の日を待ちかねていた。つまり
かつては中国も共産党も仲が良かったので、ソ連共産党工作が始まった。この為に富豪
の猶太人の息子が最初に殺されたのである。扇動に乗ったのが毛沢東だった。

1438: 名無しさんAA:18/10/15 14:14
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   432    > 

 敗戦後の占領下の日本人はソビエト軍による強姦・暴行・略奪事件などにも脅かされ
ていたが、この段階まで日本軍憲兵隊はシベリアに連行されずに治安活動を行っていた
。ソビエト軍蛮行を傍観していたわけではなく、原憲兵准尉などはソビエト兵が女性を
襲っているとの通報を受け、現場に駆け付けるなどしていた。白昼の路上でソビエト兵
が日本女性を裸にし強姦していた為、女性を救おうと制止し、ソビエト兵が行為を止め
ないため、やむなく軍刀で処断した。原准尉は直後に別のソビエト兵に直ぐに射殺され
たほど躾や道徳のない共産部隊だった。これ以降は日本刀も没収の対象となった。更に
ソビエト兵による日本女性への強姦は路傍、屋内をとわず頻発した。女性は外出を避け
、丸坊主に頭を刈る娘たちが多く男装した。日本人居留民会がソビエト軍司令部に苦衷
を訴えていたが、逆にソ連兵は、日本人女性を慰安婦として司令部に供出するよう命令
して来た。思い余った居留民会は料亭で働く日本人女性たちに犠牲となるよう頼み込み
、やっと慰安婦として供出した。ソビエト軍司令部は女性たちが司令部に出頭すると、
朝鮮人兵が素人娘でなければ認めないなど要求し、同行していた居留民会救済所長の、
宮川梅一はこれを拒否し、後日ソビエト軍司令部も折れて朝鮮人を納得させ供出に至っ
た。日本人はソビエト軍進駐時にラジオを全て没収され、外部の情勢を知ることは不可
能となっていた。中国共産党軍は日本軍の脱走兵狩りを行い 600人を検挙し後吉林へ連
行し蛮行の限りを尽くした。こうして集めた後は、ソビエト軍の撤退後、通化の支配を
委譲を中国共産党軍に置いた。しかしこれまでの楊万字通化省長、超通化市長、菅原達
郎通化省次長、川内亮通化県副県長、川瀬警務庁長、林通化市副市長などの通化省行政
の幹部を連行し、拷問や人民裁判の後、中国人幹部を全員処刑した。また、中国共産党
軍は「清算運動」と称して民族を問わず通化市民から金品を掠奪した。9月になれば、
更にひどくなり、中国共産党軍が中華民国政府軍を攻撃し、通化から駆逐した後に10月
23日、正規の中国共産党軍の一個師団が新たに通化に進駐させて奪略の限りをつくした
。11月、中国共産党軍劉東元司令が着任すると、司令部の置かれた竜泉ホテルでは「竜
泉ホテル」の看板が「東北民主連軍東辺道地区司令部」の看板に掛け替えられ、屋上に
は赤旗が掲げられた。11月2日に、中国共産党軍は17,000名を超える日本人に対しては、
収容能力 5,000名以下の旧関東軍司令部への移動命令を出した。中国共産党軍は、遼東
日本人民解放連盟通化支部(日解連)を設立し、日本人に対して中共軍の命令下達や、
中国共産党で活動していた野坂参三の著作などを使用した共産主義教育を行った。この
時の日本軍の死体が今の多くの南京虐殺の写真として掲示されている。それは服で解る

1439: 名無しさんAA:18/10/15 14:15
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   433    > 

その中の日本人居留民たちが嘆願を続けると、中共軍は先に命じていた移動を見合わせ
る条件として、集めて射殺した。これが南京虐殺として流用された。日本人民解放連盟
は、中共軍の指令に従い、日本人男子15歳以上60歳迄の強制徴用と使役、日本人居留民
に対し財産を全て供出し再配分すること、日本人民解放連盟に中国共産党側工作員を採
用することを命じて、ソ連収容所送りの人間を選別した。その後も宮中を襲うと、午前
8時になると、16歳以上の日本人男性は事件との関係を問わず全員拘束され、連行さ
れた。また、事件に関与したとみなされた女性も連行された。八路軍は連行する際に、
日本人を一人一人首を針金でつなぎ合わせて連行した。寝間着、素足に下駄履の者や病
人までも零下二十度になる戸外を数珠繋ぎで行進させられた。通化市から15kmも離れ
た郊外の二道江から連行された人々には途中で力尽きて落伍するものもいてその場で、
簡単に射殺された。この映像に八路軍の連行時の加来繁・田代・森が射殺された写真が
何故だか 南京虐殺として映っている。加来は行進中に倒れると引きずり出されて右股
、胸を撃たれて銃殺。田代の遺骸は事件後に殺害された場所で雪に埋もれた状態で発見
されるが衣服は剥ぎ取られた状態であった。と言う。この頃までにも満州里出張所の下
に、チャムス支部、興安支部、東安支部、ハイラル支部が置かれ、三河出張所の下に豊
原支部、奉天支部、大連出張所、牡丹江支部、綏芬河出張所、チチハル支部、対英用の
インド独立工作における特務機関、などが起かれたが、いずれも上海からの蒋介石夫人
の米英との合作行動や活動を阻止することはおろか、その行動さえも気付くことが出来
なかった。対米開戦前において、日本の陸軍部は同時に対英開戦が回避不可能であるこ
とを想定し、当時イギリスの植民地であった英領インドの対英独立工作を画策し始めた
。その端緒は、タイ王国公使館附武官田村浩大佐の下に 設置された特務機関であった
。1941年(昭和16年)9月に発足したこの機関は、参謀本部の藤原岩市少佐以下10名程
から構成され、機関長藤原(Fujiwara)の頭文字と自由(Free)を意味する英語をかけ
てF機関と命名された。しかしそれは遅すぎた。この頃F機関の人員はすべて陸軍中野
学校出身の青年将校であり、発足当時は数名だったものの12月には10名を越えていた。
発足当時にF機関に与えられた任務は、インド独立連盟やマレー・中国人などによる反
英団体との交渉・支援を中心としたマレー方面の工作活動に関して、田村大佐を補佐す
ることであったが、開戦直前より南方軍の指揮下となり、インド独立連盟と協力し工作
活動に当たり、インド国民軍の編制にも当たっていた。


1440: 名無しさんAA:18/10/15 14:16
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   434    > 

 機関長藤原少佐は「私達はインド兵を捕虜として扱わない。友情をもって扱い、イン
ドの独立の為に協力したい。」とインド兵に宣言した。当初はインド駐在イギリス軍の
内部分裂を目的としていた為に、インド人を対象とした工作を行っていたが、マレー作
戦終了から目的が変わり大東亜新秩序の建設、即ちインドでの反英運動を煽り、ひいて
はインドを独立させることでイギリスのアジア・太平洋戦線からの離脱を狙った。その
宣言通り、インド人を多用する事は無く、それは、ビルマやタイ人でも同じであった。
同機関は、その後岩畔豪雄陸軍大佐を機関長とする岩畔機関に発展改組され、250人
規模の組織となり、マレー作戦等で投降したインド兵を教育しインド国民軍に組み入れ
た。その後も同国民軍の指導、宣伝などを行ない、市民の協力を得て機関は6班で構成
され、総務班・情報班・特務班・軍事班・宣伝班・政治班などを作るまでに至っていた
。終戦前夜には、機関はやがて500名を超える大組織となり光機関と改称された。光
機関は1943年(昭和18年)、ナチス・ドイツに亡命していたインド独立運動の大物スバ
イのチャンドラ・ボースを迎え、ボースと親交の深い山本敏大佐が機関長となっていた
。光機関の命名はインドの言語(ヒンディー語)で“ピカリ”という言葉と、「光は東
方より来る」という現地の伝説から“光”とされたと言う。支援していたインド国民軍
は自由インド仮政府軍に発展、一部はビルマの作戦に従事した。またインパール作戦の
途中、大本営の遊撃戦重視への作戦方針変更に伴い、機関は南方軍遊撃隊司令部と改称
し同時に、前述の各班の外参謀部・副官部・マライ支部・タイ支部・サイゴン出張所を
設けて連絡を取った。途中機関長が磯田三郎中将に交代するも、この機関自体は終戦ま
で軍事顧問団として活動していた。結局インパール作戦は失敗し当時の日本陸軍とイン
ド国民軍は連合国軍に降伏した形になった。しかし敗戦後にタイ・カンボジア・ベトナ
ム・アレーシア・インドネシア・シンガポールは、米軍の思い通りにはならず、戦後に
独立を果たした。またフィリピンやシンガポールやインドやセイロン島やビルマも同じ
様に王室が信頼したのは、日本軍を離れたこの義勇軍たちであったのだ。考えてみれば
最初から、朝鮮半島や中国大陸なんぞは、せがんできても相手にせねば良かったのだ。
素直に、インドネシアやマレーシアやフィリピンに義勇軍を送っていれば良かったのだ
。明治時代布引丸で独立軍支援に行くとき、日本の軍艦で送れば良かったのである。し
かし、歴史はそうはならなかった。戦後に出来た009などの漫画はそうした光機関の
事の想像たくましく、戦争の現実に悩んだ 戦中世代の意識だったのだろう。


1441: 名無しさんAA:18/10/15 14:20
 布引丸事件は、1899年7月,フィリピン革命を支援するため武器,弾薬および日本人
志士を日本からフィリピンへ送ろうとして失敗した事件である。フィリピン革命政府は
1898年6月以来,M.ポンセ,F.リチャウコらの代表を日本に送って、武器・弾薬の調達
と政府支援を求める工作を行った。ポンセは日本亡命中の孫文を介して宮崎滔天,犬養
毅らアジア解放に関心を抱く日本人グループらの協力で陸軍参謀本部から使い古された
村田銃の武器および弾薬を払い下げてもらうことに成功し、武器・弾薬は99年夏布引丸
に積載されて長崎港を出航した。しかし上海沖で台風に遭い沈没し待望する革命軍の手
には届かなかった。日本陸軍は又、武器払下げと交換に,日本軍人を革命軍に招聘する
よう要請し,原禎中佐以下5人の軍籍を離脱した〈軍人〉と民間人平山周などが、別途
フィリピンへ渡った。もともと平山周などは無理やりタイの割譲をさせた事で大アジア
主義を説いていた。タイは1893年夏の、フランス海軍のチャオプラヤー川の運河河口か
らの、上流進入を強行した2隻の仏国軍艦が、オランダ対フランスの代理戦争を起こし
ていた。君主であったラーマ5世(チュラーロンコーン)は。これは国家存続を揺る事
だと賠償金をインドシナ問題において、フランスと対立関係にあったイギリスに借りよ
うと試みた。しかし英国は受け付けず、結局メコン川東岸全域の今のカンボジア部を、
フランスへ割譲する事になったのである。この頃、蒸気船は、蒸気機関を用いて、スク
リューを廻すことより推進する船に代わり、一般に蒸気船は石炭を燃料とする古典的な
船でも、きれいな水の蒸気タービンを持って高出力となっていた。蒸気機関を持つ帆を
張った船は蒸気船と帆船とは別に、蒸気機関を備えた帆船(汽帆船)としてが多く造ら
れていた。イギリスの、フランシス・ペティ・スミスが1836年にスクリュープロペラの
特許を取り「フランシス・P・スミス」号を造った。2ピッチの長いスクリュープロペ
ラでの実験を始めた。偶然水中でプロペラが破損した後で船速が上がり、この後、1ピ
ッチのものに変更して5.5ノットまで速度を上げられた。その後、徐々にスクリュー式
プロペラを備えた船が造られるが、まだ帆船が主体であり、蒸気船でも水車の様な外車
によって推進されるものが主体であった。1850年の船舶総トン数では帆船9に対しても
蒸気船1の比率であった。この後1845年、イギリス海軍はスクリュープロペラと外輪の
性能比較実験をし、スクリューのラトラー号と外輪軍艦アレクト号を条件を変えて競走
させ、いずれもラトラーが勝ち、最後に綱引きを行なわせた結果も、ラトラーが勝った
スクリューが有効であると結論付けられた。以後イギリスとフランスは軍艦競争が始ま
り結果アジアにやってきていたのである。この両国が1853年のクリミア戦争に参戦する
要因となり、クリミア戦争が砲弾や船を砲撃艦を進歩させていた。こうした軍艦競争を
する欧州社会が、銀行と共にわざわざ極東にやって来たのである。

1442: 名無しさんAA:18/10/15 14:21
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   436    > 

平山 周(ひらやま しゅう)は、明治3年生まれで、筑前国夜須郡(現在の福岡県筑前
町)出身だった。東洋英和学校卒業後、宮崎滔天(桃中軒牛右衛門)の同志としてアジ
アの反植民地民族運動を支援した。先のタイのパークナム事件(1893年)に端を発する
「シャム開拓移民計画」が起こると滔天とともにこれに参加、その後孫文を支持、明治
30年(1897年)に孫文が日本に逃れた際には、平山の家庭教師の名目で入国させたと言
われている。1898年、清国(中国)での戊戌政変に際しては梁啓超に同行して彼の日本
亡命を助け、翌1899年にはフィリピン独立革命を支援するために現地に渡航した。1900
年に孫文派の革命党が武装蜂起した恵州起義では滔天とともにこれを支援。明治39年に
(1906年)、宮崎滔天、和田三郎(板垣退助の秘書)、萱野長知らと革命評論社を設立
。『革命評論』を創刊して、孫文の辛亥革命の支援を加速させた。明治44年(1911年)
に『支那革命及び秘密結社』を公表するなど、一貫して中国の革命運動を支援し、ブレ
なかった。その後昭和6年(1931年)には南京国民政府から陸海空軍総司令部顧問に迎
えられている。しかしアジア主義は、当初は欧米列強の脅威の排除を主眼として唱えら
れ、開国すれば、アジアとの連帯を目指した主張となった。明治中期までの日本では、
脱アジア論に代わり、興亜会に代表される「興亜論」(こうあろん)の名称となった。
当初の大久保利通と李鴻章の約束に始まる日本と支那(中国)・朝鮮との対等提携指向
を目指すものであったが、大陸の無知を経て起こった日清戦争で、アジア主義は主戦論
と非戦論に分裂し、政府や国内も清への対外硬が主流となり、日清戦争以後のアジア主
義は、国際情勢の変化と共に主張内容が変化した。日清戦争以後のアジア主義の定義は
、元来のアジアとの平和協調路線(興亜論)とは完全に正反対のもので、東アジアや、
遠くインドまで含めた経済圏の独立と繁栄にいち早く変わった。そこでは、日露戦争以
降のアジア主義の定義が、ロシア帝国に勝利して得た東アジアにおける日本の優位を前
提にした、アジアの独立革命を要請なり支援し共済する思想に発展し、やがて日中戦争
を通じ、日本を盟主とした「東亜新秩序」のアジア・モンロー主義あるいは大アジア主
義などに変わった。こうして日中戦争初期に昭和研究会による「東亜協同体論」として
の政策化した、大東和共栄圏構想、と言う形に落ち着き、この構想は元々の大英帝国の
持ち込んだロシア南下政策の対抗策として機能するものが、石油社会となり欧米列強へ
の対抗策にがらりと国策を変化させたのである。そして今やこの不幸な対ロシア主観は
、共産主義などと言ういわれのない独裁政治を起こし、国際政治上の極東社会の在り方
を暗くさせている。

1443: 名無しさんAA:18/10/19 07:07 ID:iPk
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   437    > 

 明治期の軍人は優しく、こうしたシベリア出兵後も、連合軍米国が勝手にさっさと母
国に帰った後も、日本軍はポーランド人を守ったり、チェコ人をシベリア鉄道軽油で、
サハリンやウラジオストックから、船でパナマ運河経由でドイツやノルーウェイまで送
ったりしていた。そんな中にイエジ・ストシャウコフスキ少年はいた。実はユダヤ人の
移住作戦がソ連では行われ、その実はこれまでロシア皇帝下でオスマン・トルコ軍と戦
ってくれたチェコ人などのスラブ民族を穀倉地帯から追い出し極寒のシベリア開発に当
たらせ、ルーシー国として基盤を作ると言う新しいソ連の方針で、バクー油田の権利と
共に、食糧難の中で強い現住民の兵や政府の壊滅作戦だった。此処に中央アジアやウラ
ジオストックに流れて来る難民や孤児が大勢出来たのである。そんな中、窮余の一策と
して日本政府に援助を要請することにし、救済委員会会長のアンナ・ビエルキエヴィッ
チ女史は1920年6月に来日し、外務省を訪れてシベリア孤児の惨状を訴え援助を懇請し
た。これを受けた外務省の埴原正直外務次官は日本赤十字社に相談し、そのわずか16
日後には、シベリア孤児救済が決定される程だった。1925年に朝香宮鳩彦(あさかのみ
ややすひと)殿下が、ポーランド訪問した時にもその5年後の1930年には高松宮宣仁(
たかまつのみやのぶひと)殿下と喜久子妃殿下が訪問された時も、その活躍は喜ばれた
。こうして孤児の一人、イエジが十七歳の青年となった一九二八年、日本との交流を深
める為に、シベリア孤児たちの組織「極東青年会」を組織し、自ら会長となりました。
極東青年会は順調に拡大発展し、国内の九都市に支部が設けられ、一九三〇年代後半の
最盛期には会員数六百四十余名を数えたといいます。極東青年会結成直後にイエジ会長
が、日本公使館を表敬訪問した時に思いがけない人に会った。イエジ少年がシベリアの
荒野で救い出され、ウラジオストクから敦賀港に送り出された時の、在ウラジオストク
日本領事として大変世話になった渡辺理恵氏でした。その渡辺氏が、ちょうどその時に
ポーランド駐在代理公使となっていたのです。これが契機となり、日本公使館と、極東
青年会との親密な交流が始まって、極東青年会の催しものには努めて大使以下全館員が
出席して応援し、また資金援助もした堅い絆となった。しかしその後も一九三九年九月
一日午前四時四十五分ナチス・ドイツがポーランドに侵攻しました。第二次世界大戦の
勃発である。この瞬間に、同時にドイツと密約を交わしていたソ連軍も又ポーランドに
侵攻したのである。



1444: 名無しさんAA:18/10/19 07:08
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   438   > 

 イエジ青年は直ぐに、極東青年会の本部を孤児院として開放して、戦禍で親を失った
戦災孤児たちを庇護しました。そして極東青年会幹部を緊急招集し、その後勇士を募っ
てレジスタンス運動参加を決定しました。この時のイエジ会長の名から、この部会の名
はイエジキ部隊と愛称されました。祖国の危機にやがて孤児たちも参加し、一万数千名
を数える、とても大きな組織に膨れあがりました。こうしてワルシャワでの地下レジス
タンス運動が激しくなるにつれ、ナチス当局の監視も厳しくなり、ある時に、とうとう
孤児院に三名のドイツ兵が押し入り、強制捜査を始める事になりました。一人の子供が
隙を見て逃げ出し日本大使館に知らせに行き、この時急報を受けて駆けつけた日本大使
館の書記官は、現場に駆け付けこう言い放ちました。「この施設は日本大使館の保護下
にある。子供たちに謝罪して下さい。」そして孤児院院長を兼ねていたイエジ部隊長と
孤児たちに向かって、「君たち、このドイツ人たちに日本の歌を聞かせてやってくれな
いか」と頼みました。イエジたちが日本語で「君が代」や「愛国行進曲」などを大合唱
すると、ドイツ兵たちは呆気にとられて、歌を聞いた後「大変失礼しました」といって
礼儀正しく、直ちに引き上げました。以降、ドイツ兵は二度と孤児院には姿を見せなか
ったといいます。当時、日本とドイツは三国同盟下にあり、ナチスといえども日本大使
館には一目も二目も置かざるを得ない状態にあったからだ。日本大使館はこの三国同盟
を最大限に活用して、救援を求めて来たイエジキ部隊を、快く庇護したのでありました
。この下地になっていたのが日露戦争時の松山の俘虜収容所の待遇であった。日露戦争
時代の、松山の捕虜収容所に収容されていたロシア軍捕虜の中で、約3割はポーランド
人でした。来日したユゼフ・ピウスツキが川上俊彦(としつね)・駐ヴラジヴォストク
貿易事務官(後に在ポーランド初代公使)と後に外相となる広田弘毅(当時東京帝国大
学生)を伴って同収容所を訪れ、ロシア人とともに収容されていたポーランド人捕虜を
比較的良い環境に分離し、ロシア人と離して生活させました。一九二七年、広田弘毅が
オランダ公使として任地へ赴任する途中ワルシャワに立ち寄ると、ピウスツキは喜んで
駅で出迎えました。その後もポーランド側は戦後東京裁判において、ロメル元駐日ポー
ランド大使が口上書を法廷に送り、広田の功績を挙げて無実を主張してくれる程だった


1445: 名無しさんAA:18/10/19 07:08
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   439   > 

 そうした日本人の優しいDNAはかつてポーランド駐在武官を務めた樋口季一郎中将
(1888〜1970年)にもつながっている。樋口がユダヤ人にここまで協力したの
は、若い頃ポーランドに駐在武官として赴任していた時に、ユダヤ人たちと親交を結び
、また彼らに助けられ、さらに37年に独に短期駐在して、ナチスの反ユダヤ主義の様
をまざまざと見て居たし、強い疑念を抱いていたから、といわれている。シベリア出兵
後もユダヤの極北開拓の為の強制移住は行われ続けられた。9月初め、露ハバロフスク
に近いユダヤ自治州ビロビジャンのユダヤ教会を訪問したが、スターリン時代にユダヤ
移住地に指定された自治州は、実際は辺鄙(へんぴ)な「幽閉地」で、移住したユダヤ
人も殆(ほとん)ど逃げ、今では人口の2%以下である。樋口季一郎中将(1888〜
1970年)のオトポール事件は、彼の名はユダヤ民族に貢献した人を記したエルサレ
ムの「ゴールデンブック」にも載っている。しかし、わが国でも、樋口を知っている人
は以外に少ない。露でも日本でも政治により戦前の歴史に蓋がされて、国民にリアルな
現実認識がない。当時、日本はナチスドイツと防共協定を結んでおり、ナチスに追われ
たユダヤ人を満州に受け入れることは、日本の外務省、陸軍省、満州の関東軍にも反対
論が強かった。しかし緊急の人道問題だと理解した樋口は馘(くび)を覚悟で松岡洋右
満鉄総裁に談判し、2日後にはユダヤ難民を乗せた特別列車をハルビンに到着させた。
 その後は、案の定 独のリッベントロップ外相から外務省にこの件に関して強い抗議
が来た。樋口の独断行為を問題にした関東軍の東条英機参謀長は、新京の軍司令部に、
樋口を呼び出した。しかし強い決意の樋口は、軍の「五族協和」「八紘一宇」の理念を
逆手にとり、日露戦争時のユダヤ人の対日支援に対する明治天皇の感謝の言葉なども引
き、ナチスのユダヤ人弾圧に追随するのはナンセンスだと、人道的対応の正しさを強く
主張した。この樋口の捨て身の強い信念と人物を見込んだ東条は、彼の行動を不問に付
すことに決めた。樋口は関東軍や東条の独断専行には批判的だったが、後に樋口は「東
条は頑固者だが、筋さえ通せば話は分かる」とも述べている。樋口が陸軍幼年学校、陸
軍士官学校、陸大卒の超エリートだった事もあった。戦前の陸大は東京帝大より難関と
された頃の卒業生だ。1938年のユダヤ難民事件のころ彼は諜報分野に長(た)けた
陸軍少将で、事実上、日本の植民地だった満州のハルビン特務機関長の身分であった。
同機関は対ソ諜報の総元締で、樋口は日本陸軍きってのロシア通だったのである。


1446: 名無しさんAA:18/10/19 07:08
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   440    > 

 オトポール事件は、この極北開拓に強制移住させられた住民や、アメリカ避難を行い
たいスラブからの避難民が歩いて満州国境を渡ってきて、オトポールにひしめいた事件
である。38年3月10日、彼は満州のユダヤ組織代表、カウフマンから緊急依頼を受
けた。ソ満国境のオトポールにたどり着いた多数のユダヤ人が、満州への国境通過許可
がもらえず、酷寒の中で餓死者、凍死者も出る事態になっており、すぐにでも彼らを、
ハルビンに通してほしいとの必死の依頼だった。樋口はユダヤ人にここまで協力したの
は、若い頃ポーランドに駐在武官として赴任して、ユダヤ人たちと親交を結び、また彼
らと知り合いになっていたからだ。さらに37年に独に短期駐在して、ナチスの反ユダ
ヤ主義に強い疑念を抱いていた。戦後には、ソ連極東軍は米占領下の札幌にいた樋口を
戦犯としてソ連に引き渡すよう要求していた。その理由は、樋口がハルビン特務機関長
だっただけでなく、敗戦時には札幌の北部司令官であり、樺太や千島列島最北の占守(
しゅむしゅ)島でのソ連軍との戦闘(占守島でソ連軍は苦戦した)の総司令官だったか
らだ。しかし、GHQ総司令部マッカーサー将軍は樋口の引き渡しを完全に拒否した。
後で判明したことだが、ニューヨークに総本部を置く世界ユダヤ協会が、大恩人の樋口
を守るために米国防総省を動かしたからであった。私たちは、同じように日独関係の政
局に抗して数千人のユダヤ人を救い、映画にもなった外交官の杉原は知っていても軍人
の樋口についてはあまり知らない。それは「将軍=軍国主義=反人道主義」「諜報機関
=悪」といった戦後パターン化した認識があるからではないか。ビロビジャンのユダヤ
教会も、遠いリトアニアの杉原は知っていても隣の満州の樋口は知らない。ロシアでも
「軍国主義の戦犯」は歴史から抹消されたからだ。実は日本の映画の先駆けとなった、
甘粕正彦のもつ甘粕機関も影て多くのユダヤ人を密航させてやったとされている。最初
の大陸映画スターの李香蘭=山口淑子女史は、度々あったが便宜上に諜報活動に携わっ
ていたともいう。李香蘭の実父山口文雄の父は佐賀県出身となっているが柳川藩の人だ
った。かつて佐賀に神風連の変があった。明治九年(一八七六)に新開大神宮宮司の太
田黒伴雄を首領とする神風連の志士が挙兵し、熊本鎮台を襲撃した事件だ。彼らは神道
を重んじ尊皇を信条として自ら敬神党と名乗っていましたが、一般に神風連と呼ばれて
いた。神風連についてまず肥後勤皇党の歴史があるが、それに柳川城炎上まで起こって
いる。肥前石井氏は佐賀でも有力な経済武士だった。



1447: 名無しさんAA:18/10/19 07:09
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   441    > 

 肥前石井氏(ひぜんいしいし)は、別名佐賀石井家(さがいしいけ)と言う程に明治
時代の日本を背負っていた。というのも、佐賀が産んだアームストロング砲や軍艦など
の代理店的位置にいたからだ。鍋島藩は十代藩主・直正(閑叟)以降、藩政改革や西洋
技術の摂取につとめ、特に大がかりなリストラを行い、役人を5分の1に削減し、農民
の保護育成、陶器・茶・石炭などの産業育成・交易に力を注ぎ藩財政は潤った。などと
書かれるが、実は全く違う。もともと藩主は龍造寺氏であり、縁戚となった後に鍋島氏
が城主となった。石高は35万7千石あったが、竜造寺氏に仕えた言わば旗本が支藩と
して蓮池藩、小城藩、鹿島藩を持って、鍋島藩の赤字財政をやりくりしていたのである
。その筆頭として石井氏がいた。しかし閑叟公の夫人は、薩摩から嫁入りし、頭を飛び
越えて鍋島氏は薩摩に鉄の製法である反射炉技術を教えた。それは藩の商人ならず貸付
していた支藩の借金を棒引きして、代わりに薩摩から金を借りたからに他ならない。又
明治維新を推進したのが薩長土肥とされるが、とんでもない間違いだ。薩摩も長州も、
海外には疎かった。対して佐賀藩自身も、35万7千石の大封でありながらその実情は
、3支藩(蓮池、小城、鹿島)・鍋島4庶流家(白石、川久保、村田、久保田)と龍造
寺4分家(多久、武雄、諫早、須古)の各自治領があった為に、藩主の実質知行高は6
万石にも満たなかった。これが長崎のグラバー邸の小森氏が北茂安町と佐賀市の間を、
筑後茶集荷場とした理由であった。中国でアヘン戦争が起こる前から、筑後茶は有名な
甘い緑茶として最高品種とされていた。つまり筑後や肥後や有馬の農産品を出す為に、
わざわざ違う藩の肥前にその元を置いたのだ。九州諸藩はどこでも科学技術の研究機関
を創設していた。フェートン号事件以来、肥後細川藩・柳川立花藩・久留米有馬藩・秋
月黒田藩・長崎半領大村藩などは、過料さえ取られてひしひしと海外の技術を目にして
いた。特に重罰だった鍋島藩は、鉄鋼、加工技術、大砲、蒸気機関、電信、ガラスなど
の研究・開発・生産をいち早く行い、幕末期における最も近代化された藩の一つとなっ
た。その為藩財政は火の車どころでは無かったのだ。グラバーの借金はその土地にも化
けていた。長崎警備をし福岡藩と共にいち早く牛痘ワクチンを輸入したり、嫡子直大に
種痘を施すことで普及に努め、当時は不治の病であった天然痘根絶を成し遂げる先駆け
にもなっていた。ちなみに秋月藩の藩医である緒方春朔は、ジェンナーの牛痘法成功に
さかのぼること6年前に秋月の大庄屋・天野甚左衛門の子供たちに人痘種痘法を施して
成功させていた。


1448: 名無しさんAA:18/10/19 10:34
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   442    > 
 鍋島氏が藩主であったことから鍋島藩(なべしまはん)と呼ばれた佐賀は、1874年(
明治7年)2月に江藤新平・島義勇らをリーダーとして佐賀の乱を起こした。明治政府
に対する士族反乱の一つである。佐賀の役や佐賀戦争ともいわれるこの乱は、不平士族
による初の大規模反乱であった。電信の情報力と汽船の輸送力・速度を活用した政府の
素早い対応もあり、激戦の末に鎮圧された。征韓論は前参議の江藤新平の持論で彼を擁
する中島鼎蔵など征韓党は征韓論争で下野して政府を去っていた。又前侍従・秋田県権
令島義勇、副島義高らを擁する憂国党は逆に強い義国派で願わくば保守鎖国の旧幕藩体
制を望んだ。いずれも食い扶持を無くした混成軍で、旧佐賀藩士を中心とした反乱であ
り、以後続発する士族による乱の嚆矢となった。元々乱を率いた江藤と島は、不平士族
をなだめるために佐賀へ向かった。政府の強硬な対応もあり決起することとなった。し
かし、半島への進出の際には先鋒を務めると主張した征韓党と、封建制への復帰を主張
する反動的な憂国党はもともと国家観や文明観の異なる党派であり、主義主張で共闘す
べき理由を共有してはいなかったのである。明治五年(1872年)突然に柳川城は、
火災で櫓一基、土蔵、厩、城門三棟を残し、五重天守など多くが焼失した。実は明治の
新政府は九州に政府を建てたいと思っていた。北海道の五稜郭と同じに支部を置きたか
った。その為柳川城の明け渡しを熊本城と共に探っていた。新政府の開始時期説につい
ては諸説ある。狭義では明治改元に当たる明治元年旧9月8日(1868年10月23日)となる
。がしかし、一般的にはその前年にあたる慶応3年(1867年)の大政奉還、王政復古の
大号令以降を指すことが多い。まだまだだった維新体制が整う前の政治状況も庶民生活
も、なんら変わらなかったのだ。ただ俸禄については幕末の騒乱中にあった。終了時期
についても、廃藩置県の断行(明治4年、1871年)、西南戦争の終結(明治10年、1877
年)、内閣制度の発足(明治18年、1885年)、立憲体制の確立(明治22年、1889年)ま
でとするなど諸説あるのはそれぞれ理由がある。だが新政府が一番問題であったのは、
徳川幕府の経済的封じ込めと、新政府の経済自立の問題だった。それが柳川にあった。
柳川藩は独自に、ペンテコステ基督教会の繋がりで英国やドイツなどとの繋がりを持っ
ていて多くの海外支援を得て早くから藩経営の三池炭鉱開発を行っていた。日本三大暴
れ川のひとつと言われ、筑紫次(二)郎(つくしじろう)の別名で呼ばれる筑後川に、
1601年(慶長6年) - 津村三郎左衛門は、中州の島取りの抗争に水天宮の「御幣流し」
を利用してその領界が決まり同士7人とともに開拓開始した。それが古賀(後の渡辺)
、今村、中村、長尾、永島、堤、武下、吉川各氏の祖先とされる。佐賀藩領大詫間は、
藩主鍋島氏の親戚大川石井家の始祖鍋島茂賢(深堀茂賢/石井茂賢)の知行地となった

1449: 名無しさんAA:18/10/19 10:35
 その後も武家救済は遅々と進まず、とうとう西郷隆盛を担ぎ出した西南戦争に行きつ
いた。1877年(明治10年)に熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において起こった士族
による武力反乱で、明治に起こった士族反乱の中でも最大規模のもので、国内で最後の
内戦であった。そしてその理由は、細川熊本藩に多くがあった。実学党の内紛である。
 時習館の多くの人々と実学党の生徒の争いは、学校党の庇護者であった細川藩の筆頭
家老松井章之と、次席家老でもあった長岡是容との間の権力闘争に発展した。弘化4年
(1847年)に松井が長岡を失脚に追い込んで学校党が勝利を収めたが、時代は第三勢力
と呼ぶべき勤皇党が勢力が拡大していく中にあった。この細川藩の藩内対立は膠着状態
に陥った。反主流派となった実学党と勤皇党は協力して主流派である学校党と対立した
が、安政2年(1855年)になって、安政の大獄事件で、横井小楠が積極的な開国論を唱
えるようになった事で、勤皇党の影響で これまで尊王攘夷論に接近しつつあった長岡
是容が反発して、両者は絶交状態に陥った。こうして実学派も分裂し、家老として藩士
の信頼が厚かった長岡の坪井派(藩士派)と郷士や豪農の支持を受けた横井の沼山津派
(豪農派)に再分裂した。やがて、安政6年(1859年)になって長岡が急逝し、横井も
福井藩の招きに応じて去っていくと急速に力を失った。ところが、明治維新の際になっ
て、佐幕派である学校党と尊王派である勤皇党の対立によって熊本藩は旗幟を鮮明にす
ることが出来ず、両者とも力を失い、その間隙を縫って実学党の人々が台頭した。明治
3年(1870年)の細川護久の藩知事就任を機に実学党両派は政権を獲得した。実学党は
進歩的な藩政改革を推進し、廃藩置県後も白川県(後の熊本県)の要職を占め続けたが
、余りにも進歩的な改革に危機感を強めた明治政府は、明治6年(1873年)には権令、
安岡良亮に命じて実学党を県政から排除する事に取り掛かった。その後も実学党出身者
は民間などで活躍し、一部は「民権党」に流れて学校党(のちに「熊本国権党」に発展
)と対立しつつ明治期熊本政界の一大潮流を形成する一方、元田永孚のように明治天皇
の侍読として重用される者もいた。この実学党の多くが柳川藩からの多くの志士が学ん
だ。熊本洋学校は1871年(明治4年)に肥後実学党の献策によってアメリカ軍人リロイ・
ジェーンズが招聘され、官費の学校として開校される。ジェーンズは月給四百円が与え
られ、妻子と共に来日した。熊本県は洋学校のために敷地、校舎、寄宿舎、教師館を用
意した。授業は英語、数学、地理、歴史、物理、化学、天文、地質、生物を行い、すべ
て英語で行った。明治7年、日本で初めて男女共学を行い、横井玉子・徳富初子(蘇峰
・蘆花の姉)・横井みや子(小楠の娘)などが入学した。生徒の自主性を重んじる教育
方針のもとに多彩な人材を輩出するが、熊本バンド結成に対する旧守派の反発が一因と
なって、ジェーンズの任期終了とともに閉鎖となった

1450: 名無しさんAA:18/10/19 11:35
アメリカ軍人リロイ・ジェーンズは、結婚後の1871年夏、アメリカ・オランダ改革派教
会宣教師のグイド・フルベッキの斡旋で来日して、陸軍士官学校とイギリスのラグビー
校を目指して熊本洋学校設立に参加し、全教科を一人で教えることとなった。最初の頃
キリスト教については言及しなかったが、三年目に、毎週土曜日に自宅で聖書研究会を
始めた。この参加者の中からキリストを信じるものが起きた。1876年に洋学校の「奉教
趣意書」を朗読して、小崎弘道、海老名弾正、金森通倫、宮川経輝、横井時雄、浮田和
民、不破唯次郎ら35人が署名した。この出来事が問題になりジェーンズは解任され、
洋学校は閉鎖された。閉鎖後、生徒は同志社に転校して、これが熊本バンドと呼ばれる
キリスト教の源流の一つになる。熊本洋学校が1876年10月に閉鎖された後、大阪英語学
校(旧制三高の前身)で英語を教える。ジェーンズは同志社に招聘される予定であった
が、1878年にアメリカに帰国した時に婦人から離婚訴訟を起こされる。ジェーンズは、
かつての教え子横井時雄の斡旋で再来日する。お雇い外国人として1883年から1899年ま
で京都第三高等学校と鹿児島高等中学校造士館で英語を教える。1885年に妻ハリエット
は実弟ドリマス・スカッダーと共に再来日して新潟に行く。ジェーンズは1899年に帰国
し、米国では不遇な晩年を送りサンノゼで死去した。宣教師のグイド・フルベッキは、
上海に観光に来てた。長崎に立ち寄り上陸して直ぐに気にった。フルベッキは長崎の第
一印象を「ヨーロッパでもアメリカでも、このような美しい光景を見たことはない」と
記している。長崎では聖公会のジョン・リギンズとチャニング・ウィリアムズに迎えら
れ、崇徳寺広徳庵に同居した。その後妻マリアを上海より呼び寄せた。1860年長女を授
かったが生後2週間で死去した。長崎では、開国後も依然としてキリシタン禁制の高札
が掲げられており、宣教師として活動することができなかった。しばらくは私塾で英語
などを教え生計を立てていた。1862年に自宅でバイブルクラスを開いた。1861年〜62年
に佐賀藩の大隈重信と副島種臣がフルベッキの元を訪れ、英語の講義を受けた。1863年
(文久3年)の生麦事件をきっかけとした薩英戦争の時は上海に避難して、1864年には
又長崎に戻って、大隈重信と副島種臣を英語の個人授業をしている。大隈はフルベッキ
の授業によってキリスト教に興味を抱いたと述懐している。長崎奉行は幕府が長崎につ
くった長崎英語伝習所(在籍した当時は洋学所→済美館→広運館→伝習所)の英語講師
招聘して経営していた。フルベッキも教師として幕府に雇用されていた。幕府の英学所
「済美館」と共に、佐賀藩が設置した致遠館や立花伝習館などでも教鞭を取っており、
彼に師事して集まった学生達の姿はフルベッキ群像写真(上野彦馬撮影)として継承さ
れ、現在も長崎歴史文化博物館で展示公開されている。高椋写真館は上野彦馬と同時期
に写真館を経営した。

1451: 名無しさんAA:18/10/19 11:35
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   445   > 

 この頃 明治天皇は国家の姿を洋風化して行く事に難色を示していたが、岩倉具視(
いわくらともみ)、大久保利通(おおくぼとしみち)らによる「王政復古の大号令」に
より、天皇を中心とした新政府を作って行くのに、天皇の洋装を重ねて願い出ていたか
らであった。1869年に「版籍奉還」、1871年に「廃藩置県」が行われ、近代国家として
の日本が確立していく中で仕方なく了承した。鹿鳴館時代となり、食事や衣服も洋風が
取り入れられ、髪型も変わり、文明開化を楽しませて華族として不満を和らげようとし
た。日本で初めての鉄道が出来て1889年に、「大日本帝国憲法」を発布した。この洋風
化に、ビクトリア時代の芸術的建築を造った巨人の中にあって、建築の異才ウィリアム
・バージェスに習ったジョサイア・コンドルに新政府の建築を頼んだ。バージェスの作
風は、その作品は19世紀の工業化と新古典主義建築様式の双方から逃れ、ユートピア
的中世ヨーロッパの建築と社会の価値を再構築することを追求しものとされ、これまで
のゴシック復古調の伝統に立ち、ラファエル前派のものを写し、アーツ・アンド・クラ
フツ運動の先駆けとなった。また彼自身は、ジャポニスム支持者としても知られている
。ジョサイア・コンドルはイギリスのロンドン出身の建築家だった。1875年バージェス
の事務所を辞して、ワルター・ロンスデールのもとで、その頃まだ新しいガラスの技術
を見たいとステンドグラスを学んでいた。1876年「カントリーハウスの設計」で一流建
築家への登竜門であるソーン賞を受賞して後、日本政府(工部省)と5年間契約でお雇
い外国人として来日した。こうして、新政府関連の建物の設計を手がけた。また工部大
学校(現・東京大学工学部)の教授として辰野金吾ら、創成期の日本人建築家を育成し
、明治以後の日本建築界の基礎を築いた。のちに民間で建築設計事務所を開設し、財界
関係者らの邸宅を数多く設計した。日本女性を妻とし、河鍋暁斎に師事して日本画を学
び、日本舞踊、華道、落語といった日本文化にも大いに親しみ、趣味に生きた人でもあ
った。ファン・ドールンは小学校を卒業後、ユトレヒト工業学校(現在の日本の工業高
校に相当)に6年間通い続いて1855年に18歳でデルフトの王立土木工学高等専門学校
(現・デルフト工科大学)の聴講生となって公務員である技官として働いていた。成績
は優秀で1860年に「技師」の免状を送られ、オランダ国から技術官僚として採用された
。その後、水政省の命令でオランダ領東インドのジャワ島に派遣され、技術助手として
鉄道建設などに携わった。彼は1837年2月9日にオランダ東部のヘルダーラント州ブルメ
ンで生まれた。とされる。改革長老教会の牧師である父のピーテル・W・ファン・ドー
ルンと、母のコルネリア・J・H・ファン・ドールンの5人兄弟の次男だった。

1452: 名無しさんAA:18/10/19 11:36
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   447   > 

 1872年に大久保に乞われて、ファン・ドールンは来日し、お雇い外国人として契約を
結んだ。明治政府から求められていたのは全国各地の港湾・河川の整備であった。まず
同年5月に、利根川と江戸川の改修のため利根川全域を調査した。この際、日本初の科
学的な水位観測を行ない、両河川の分流点にやはり日本初の量水標を5月4日に設置して
いる。7月には淀川、その後は信濃川、木曽川も視察している。さらに政府から求めら
れた大阪港の築造のため、ヨハニス・デ・レーケ、ジョージ・アーノルド・エッセルら
の技師をオランダから招聘し、翌1873年に彼らが来日するとリーダーとしての役割を担
った。同年3月には木津川支流を調査するなど精力的に業務をこなし、1874年には内務
卿・大久保利通によって月給を500円から600円に増額されている。これは当時の閣僚と
同程度の金額である。契約期間の延長を前提とし、翌1875年にはオランダに一時帰国し
た。ファン・ドールンは1年後に再び来日し、大久保の立案した1878年の土木7大プロ
ジェクトの実現のため、安積疏水や野蒜築港の事業計画を立案した。安積疏水の事業に
おいては、奈良原繁や内務省官僚の南一郎平の優れた働きもあり、他国の大規模な灌漑
事業との比較から詳細な計画が練られ、大きな成果を収めた。なお、他の開削案には、
他にもあって4つがあったが、現地での調査から沼上峠開削案が最適であると報告して
いる。一方、野蒜築港については明治天皇の東北巡幸の際に各県の県令から要望があっ
たため、1876年にはファン・ドールンが現地に派遣されている。その後1878年に工事が
始まったが、完成の1882年より前の1880年2月にファン・ドールンは契約を終えて帰国
した。しかし、1885年に台風で壊滅的な被害を受けて野蒜築港は廃止され、後に廣井勇
はファン・ドールンの設計を厳しく批判している。このため、自ら設計した野蒜築港の
工事中に帰国したのは、設計の不備に気付き完成の確信が持てなかったためではないか
と批判したとも云われている。一方、当時は古市公威らヨーロッパで土木工学を学んだ
人々が続々と帰国しており、財政上の理由もあって多くのお雇い外国人が契約を更新さ
れなくなった時期でもあったため、特別な事情はないという見方もある。事実帰国の頃
は日本人技術者が台頭し、かれはそれの相談役程度だった。帰国後、1880年にファン・
ドールンは日本政府から勲四等旭日小綬章を贈られている。1883年にオランダ植民地省
の委嘱でカリブ海のオランダ領キュラソー島に赴き、主任技師として埠頭工事や乾ドッ
ク建造などを行なった。その後、ハーグで「オランダ鉄筋コンクリート会社」を設立し
、筆頭取締役に就いている。また、共著で治水工学の本も執筆した。生涯結婚せずに、
1906年2月24日にアムステルダムの自宅で逝去した。

1453: 名無しさんAA:18/10/22 11:50
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   447   > 

 1872年に大久保に乞われて、ファン・ドールンは来日し、お雇い外国人として契約を
結んだ。明治政府から求められていたのは全国各地の港湾・河川の整備であった。まず
同年5月に、利根川と江戸川の改修のため利根川全域を調査した。この際、日本初の科
学的な水位観測を行ない、両河川の分流点にやはり日本初の量水標を5月4日に設置して
いる。7月には淀川、その後は信濃川、木曽川も視察している。さらに政府から求めら
れた大阪港の築造のため、ヨハニス・デ・レーケ、ジョージ・アーノルド・エッセルら
の技師をオランダから招聘し、翌1873年に彼らが来日するとリーダーとしての役割を担
った。同年3月には木津川支流を調査するなど精力的に業務をこなし、1874年には内務
卿・大久保利通によって月給を500円から600円に増額されている。これは当時の閣僚と
同程度の金額である。契約期間の延長を前提とし、翌1875年にはオランダに一時帰国し
た。ファン・ドールンは1年後に再び来日し、大久保の立案した1878年の土木7大プロ
ジェクトの実現のため、安積疏水や野蒜築港の事業計画を立案した。安積疏水の事業に
おいては、奈良原繁や内務省官僚の南一郎平の優れた働きもあり、他国の大規模な灌漑
事業との比較から詳細な計画が練られ、大きな成果を収めた。なお、他の開削案には、
他にもあって4つがあったが、現地での調査から沼上峠開削案が最適であると報告して
いる。一方、野蒜築港については明治天皇の東北巡幸の際に各県の県令から要望があっ
たため、1876年にはファン・ドールンが現地に派遣されている。その後1878年に工事が
始まったが、完成の1882年より前の1880年2月にファン・ドールンは契約を終えて帰国
した。しかし、1885年に台風で壊滅的な被害を受けて野蒜築港は廃止され、後に廣井勇
はファン・ドールンの設計を厳しく批判している。このため、自ら設計した野蒜築港の
工事中に帰国したのは、設計の不備に気付き完成の確信が持てなかったためではないか
と批判したとも云われている。一方、当時は古市公威らヨーロッパで土木工学を学んだ
人々が続々と帰国しており、財政上の理由もあって多くのお雇い外国人が契約を更新さ
れなくなった時期でもあったため、特別な事情はないという見方もある。事実帰国の頃
は日本人技術者が台頭し、かれはそれの相談役程度だった。帰国後、1880年にファン・
ドールンは日本政府から勲四等旭日小綬章を贈られている。1883年にオランダ植民地省
の委嘱でカリブ海のオランダ領キュラソー島に赴き、主任技師として埠頭工事や乾ドッ
ク建造などを行なった。その後、ハーグで「オランダ鉄筋コンクリート会社」を設立し
、筆頭取締役に就いている。また、共著で治水工学の本も執筆した。生涯結婚せずに、
1906年2月24日にアムステルダムの自宅で逝去した。

1454: 名無しさんAA:18/10/22 11:56
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   448   > 

 1862年にロンドン万国博覧会(1862年)での展示した事から 日本美術が広まって、ウ
ィリアム・バージェスの東洋への興味からの理解されて、ジサイヤコンドルの来日にな
ったのだが、ここに始まった建築や土木の西洋力学的思考は日本に多大な影響を及ぼし
た。鹿鳴館(ろくめいかん)は、国賓や外国の外交官を接待するため、外国との社交場
として明治政府によって建てられた社交場である。鹿鳴館を中心にした外交政策を「鹿
鳴館外交」、欧化主義が広まった明治10年代後半を「鹿鳴館時代」と呼ぶ。当時の極端
に走った欧化政策を象徴する存在でもあった。しかし馬鹿な日本政府は、建物は後には
華族会館となり、1940年(昭和15年)に取り壊されたのである。全く 歴史を残せない
哀れな日本人であった。計画を推進したのは外務卿(内閣制度以降は外務大臣)井上馨
であった。当時の日本外交の課題は不平等条約改正交渉、特に外国人に対する治外法権
の撤廃が急務で最も大事とするところであったが、日本に住む外国人の多くは、つい数
年前まで行われていた磔刑や打ち首を実際に目撃していて強固な反論姿勢を持っていた
。外国政府は自国民が前近代的で残酷な刑罰に処せられることを危惧していて治外法権
撤廃に強硬に反対していた。そのため井上は欧風化政策を広く推進し、欧米風の社交施
設を建設して外国使節を接待し、日本が文明国であることをひろく諸外国に示す必要が
あると考えたのである。国内外に同じ人種である。同じ道徳を有している。と宣伝する
或いは自制させる事は最も大事な事になっていたのである。、1880年(明治13年)に着
手し。途中規模変更(拡大)があり3年がかりで1883年(明治16年)7月に落成した。
設計はこの為に来日した、お雇い外国人のジョサイア・コンドルで、施工は土木用達組
が担当した。この組織は大倉喜八郎と堀川利尚との共同出資で設立したもので現大成建
設の源流を成すものだった。筑後川に、明治17年査察し河川改修に尽力したヨハニス
・デ・レーケは、河川改修の要請を受けた。しかし主眼は舟運強化であり、筑後川河口
から早津江川間の6q導流堤を建設し河口の堆砂を防除して水運の便を図った。実は、
江戸以前は浮羽は椿油の一大原産地であった。明治以降に喜多商会が全国に筏で送って
いたらしいが幼少時に養子になった喜多氏は久留米に出て喜多村商会を建て筑後川に、
最初の遊覧船を浮かべたが 船底が当たって失敗に及んだ。浮羽の椿油の豪商もこれに
は痛かったらしい。当時軍艦を作っていた佐賀の蒸気船奉行に田中義衛門の東京芝浦製
作所の株式取得に失敗し、城島の酒蔵組合の期待を一挙になくしたようだ。ここで三潴
の大運河計画が持ち上がる事になる。

1455: 名無しさんAA:18/10/22 12:19
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   449   > 
 日本多くの藩では、木版印刷による出版物が江戸時代の文化を支えていたといっても
過言ではない。実は、江戸幕府が始まる前に、金属活字の技術は日本に入ってきていた
が、幕府のキリシタン禁止令により、金属活字印刷は使われなくなった。金属も高くつ
いたからだ。その後、ずっと木版印刷が主流になっていった。再び、金属活字の技術が
日本に入ってきたのは、幕末の頃です。ヨーロッパの金属活字印刷技術が消えてから、
実に250年もの年月がたったときのことでした。それによって、日本の近代印刷技術
は発展していき、明治時代の文明開化にも、多大な影響を与えた。江戸時代に盛んであ
った木版印刷の時代から、再度、幕末に金属活字が輸入され、活版印刷が発達した歴史
をもつ。しかし摺師彫師木肌師半紙屋絵師など多くの職業を支えていた職業が一変した
。木版による多色刷りは、江戸時代のカラー印刷の凄さがあった。浮世絵の印刷は、絵
を描く絵師、版を彫る職人、版に着色をして絵を刷る3人の職人更に木板を納めた木肌
師、半紙屋の共同作品で、印刷技術の高さがなければ成立しない芸術であった。浮世絵
は、木版印刷の非常に古典的な技術であったのにも関わらず、その完成度は非常に高く
、現在でも日本の浮世絵は世界的に評価されている。浮世絵絵師、喜多川歌麿、写楽、
葛飾北斎、安藤広重などの天才によって、次々に傑作が生みだされ、江戸の芸術界は全
盛期をむかえたが徳川氏は代々こうした瓦版や、娯楽版画、更には見世物小屋など遊興
を禁じ、取締まりをした。こうして江戸時代の文化を支え、浮世絵といった芸術を発達
させた木版印刷だが、ところが、開国と共に長い間姿を見せなくなった金属活字の印刷
技術が襲う。幕末、再び、日本に上陸した。オランダから来港した活版印刷は1857年に
長崎・出島に印刷所を設置し、持参した印刷用資機材で蘭書製作が行われ、これに興味
をもったのが、オランダ語の通訳の本木昌造が日本語の印刷物を作りたいと考えた。本
木昌造は、その活版機を買ったのが立花藩の小野氏に購入させ研究を重ねて、片仮名邦
文の鉛活字をつくり好評を博した。実際に和蘭書や蘭和を印刷し刊行しており、技術は
確かなもので本木昌造はさらに活字づくりに没頭し、明朝体の号数活字をつくり成功し
た。家老立花壱岐の守は、この印刷機を、堤印刷に預けて高椋銀行発行の藩札を刷り合
わせて史歴書や物語本を京都や奈良の神社から発注を受けて発行している。又小野文書
という日本最古の活版印刷がペンテコステ教会が取り仕切った事実もある。西郷隆盛も
明治新政府もこの藩札の精巧さには大きな注目していた。インクがにじまず綺麗で細い
線を使い特製の水に強い矢部川和紙であった。この和紙はあとで仏壇の金箔や八女提灯
や七夕人形にまで使用され博多人形まで影響を及ぼしていた。しかし柳城中学校の図書
館に預けられたそれら全て遺失している。全く福岡県には文化醸成の意思が無くて困る。

1456: 名無しさんAA:18/10/22 12:30
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   450   > 
 ジョン・リギンズは宣教師として、米国聖公会から派遣されたプロテスタントの洗礼
に上海に派遣されていた。日本では最初のプロテスタント宣教師とされていて、上海で
のキリスタン排除がはじまる中でマラニアに感染した。チャニング・ウィリアムズと共
に中国で宣教を行っていたが、マラリア療養のために来日し。1859年、長崎に上陸した
、その後日本では英語教師として活動を行った。プロテスタントには、エキュメニカル
派(リベラル派)と福音派(聖書信仰派)が、それぞれ別に集団となった。福音派側は
日本宣教百年記念聖書信仰運動大会を開催。百五十周年にあたる2009年にエキュメニカ
ル派、福音派、聖霊派の三派が共同で日本プロテスタント宣教百五十周年記念大会を開
催した。ペンシルベニア大学はベンジャミン・フランクリンが創設者の一人で、創立時
の校名は「フィラデルフィア・アカデミー」だった。イギリス植民地の大学としてハー
バード大学、ウィリアム・アンド・メアリー大学、セントジョンズ大学、イェール大学
に次いで1740年に設立され、アメリカ独立に先行する長い歴史を持っている。独立宣言
の9人の署名者と合衆国憲法の11人の署名者が大学創立と関連している土地柄である
。そもリベラル、リベラリズムなどは、キリスト教のプロテスタントの神学的立場の一
つでその発生以来、プロテスタント教会の主流エキュメニカル派の多くが採用する立場
の事だ。「自由主義」の解釈は社会学・政治学用語からの借用だが、神学分野で「歴史
的・組織的な教理体系から自由に、個人の理知的判断に従って再解釈する。」という、
決して聖書を歴史書とせず寓話や説話である。と言う改訳だ。日本の福音派も、「聖書
は神の霊感によって書かれ、誤り無い神のことばであるという、聖書の十全霊感(聖書
信仰)を信じるすべての教会」であるとして。この聖書信仰は「福音派全体の恵みの絆
」と呼ばれる。組織としては、日本プロテスタント聖書信仰同盟などは、日本福音同盟
、世界福音同盟が代表的であるが、そこに属さない福音派の教会も存在する。正教会の
総主教やカトリック教会の教皇といった指導者は存在せず、聖書を信仰する多くの新宗
教の緩やかな連帯である。聖霊派(せいれいは)は、キリスト教の教派のうち、三位一
体の位格のひとつである聖霊の働きを強調する教派ないし集団の総称ないし俗称とされ
。主にプロテスタントのホーリネス教会から1900年頃に、ペンテコステ運動として始ま
って、結果的に分岐した教派であるペンテコステ派が最初の教派として挙げられる。実
は、このペンテコステ派は今の柳川伝習館高校の元になった組織であったのある。それ
は江戸時代まで遡って、鯛生金山発見前まで遡らなくてはならない。何故なら八女金山
がこの頃は活発で、その為黒田家から切り離し天領とした日田が既に掘りつくされ後だ
ったからだ。この金鉱の発見こそ米英の開国要請理由だった。

1457: 名無しさんAA:18/10/22 12:37
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   451   > 
 アメリカが独立戦争を得てリンカーン大統領となる頃、最初にアメリカ移民、つまり
日本からの帰化人となっているのは、安政年間である。つまり今だ開国しない時期だっ
た。最初の帰化人ジョセフ・ヒコはペンテコステ派の洗礼を受けている。播磨国加古郡
(現兵庫県加古郡播磨町)生まれのジョセフ・ヒコ(本名:浜田彦蔵 幼名:彦太郎)
は、幼い頃に父を無くし、嘉永4年(1851年)の13歳の時に母を亡した。その直後に
縁戚を頼り、北周船の義父の船に乗って海に出て途中で、知人の船・栄力丸に乗り換え
て江戸に向かって航海中、その船が11月22日に紀伊半島の大王岬沖で難破難破した。時
季外れの台風と地震である。2ヶ月太平洋を漂流した後、1852年1月12日に 南鳥島付近
でアメリカの商船・オークランド号に発見され救助された。13歳の時の、この遭難と
漂流アメリカ商船に救われてサンフランシスコへ到着し、その後香港に着き帰国を待っ
た。東インド艦隊の長官・ペリーの船に同乗し日本へ帰還を正式に望みますが、ペリー
はなかなか来ず、又モリソン号事件の日本人漂着民力松と知り合い、アメリカ政府の方
針が自分たちを送り届ける名目で、日本に開国を求めようとしていることを知って断念
した。他のの栄力丸船員の多くは、同じモリソン号事件関係者と一緒に、上海定住して
いた日本人・音吉などに匿われて、後に清国船で密航した上で長崎経由の帰国に成功し
ていた。こうしてただひとり仙太郎はペリー艦隊に同行し、10月に他の遭難者亀蔵・
次作と共にアメリカに戻った。優秀だった彼は、サンフランシスコで税務長の知遇を得
て、日本人で初めて3人の大統領と正式に謁見し、1858年(安政5年)日本からの帰化
第一号としてアメリカの市民権を得ています。その後、21歳でアメリカ領事館通訳と
して帰国しますが、外交の場で活躍し再び渡米、リンカーン大統領と会見する機会を得
て、彼と握手した唯一の日本人となりました。帰国後は実業家に転じ、岸田吟香(ぎん
こう)の協力の下、外国人居留地の英字新聞を抜粋・訳出した日本初の新聞を発行し、
日本の「新聞の父」の名をゆるぎないものにした。月2回毎回百部24号まで発行された
。同紙は、庶民にも情報を開示するなど、事実を正しく伝えようとする彼の情熱に満ち
あふれていました。また、彼には自著が2冊ありますが、『漂流記』(1863年)は江戸
時代に 木版刷りされた唯一の漂流記、英文自伝の『The Narrative of a Japanese』は
日本人初の英語による自伝だった。日本人に戻るという彼の願いはかなえられず、いま
も外国人「ジョセフ・ヒコ」として、青山霊園外国人墓地に眠っている。しかしこの男
の他にも多くの奴隷や難破船があり、彼らがアメリカに何百人と送られた史実がある。
秀吉が宣教師に言ったことはただ一つ「日本人を開放せよ。さもなくば成敗に行く。」
であった。宣教師達が奴隷船寄港として隠れていたのが韓国の釜山だったのである。

1458: 名無しさんAA:18/10/22 13:26
 文明開化によって、日本人の衣服や履物にも洋風化の波が押し寄せた。佐倉藩側用人
の三男に生まれた西村勝三(かつぞう)は、支藩の佐野藩に仕えますが脱藩し、実業家
を志した。当初は、富山藩の専売特許だった鉄砲弾薬の販売を海外の横浜商社から買い
付けで一時的巨利を得たが、国内は平和になって、藩財政も弾薬どころでなくなった。
その後外国米の輸入、米相場、雑貨販売、洋服裁縫店、陶器販売など多数の事業に手を
かけたが、いずれも思わしくなく、失敗に終わっていた。転機は維新後に軍隊を近代化
するうえで靴の国産化が急務となった事だった。西村はすぐさま軍靴製造で商機をとら
え明治3年東京・築地に安い払い下げ用地に日本初の製靴工場をつくった。現在この日
3月15日は「靴の記念日」で靴業界で讃えられている。この時西村勝三は洋靴を普及
させ、靴業の祖といわれその名を残した。その後も、その成功が他の事業の資金となっ
て、それ以上の大きな功績を残して文明開化を背負った。ガラスとレンガである。文明
の象徴ともいうべき白煉瓦や硝子の製造を興したのだ。1875年(明治8年)に品川白煉
瓦(現品川リフラクトリーズ)を設立し、耐火レンガや赤レンガを製造、有名な「東京
駅の赤レンガ」の全量を納入している。さらに、ドイツの技術を取り入れた洋式硝子工
場を創設し、1888年(明治21)にはビール瓶の大量生産に成功するほか、ガス、メリヤ
スなど数多くの事業を興した。西村が「明治の工業の父」と称される由縁だ。しかし九
州は小規模ながら江戸期からグラバーの影響で博多ちゃんぽんの板ガラスや瀬高の赤レ
ンガはそれより少し古く、それは佐賀の反射炉の材料として八女にその土を求めて作っ
ている。筑後茶輸出で財を成していたグラバーは佐賀の有田陶磁器に力を入れた鍋島氏
に、ドイツ人を引き合わせし八女茶木の苗株を佐賀の山に植え、嬉野茶園を開き川内焼
きの分業式製法にすると同時にレンガ製法も教えた。(株)佐賀鉄工所も工場には、明治
の早くから佐賀市神園に反射炉が作られて失敗したところで技術者を入れている。その
ラインの中にはドイツ人から習った製法の技術指導した2つのラインがあったと言う。
実は戦後の工場の中で佐賀の工場だけは空襲に合わなかった。有明海の干潟が長く空爆
位置を間違えたからだ。大川には明治31(1897)年に九州セメント株式会社が設立さ
れ、小保浜口に工場があった。セメント成形に燃料が必要で杵島と三池の石炭が近かっ
たからだ。セメント工場の高い煙突は大川の名物とされた。工場は若津港に隣接して、
運輸の便に恵まれていた。この時石灰岩は熊本県八代から運び、粘土は筑後川沿岸から
採取し、燃料の石炭は大牟田から運び込んだ。と言われている。これに商売の根を張っ
たのが柳川藩だった。柳川藩は銭の紋とされたが、これは佐賀藩に貸し付けていた事に
よる。つまり銭の門だった訳だ。だが明治では柳川の殿さま(とんさん)の破れべコ。
つまり倒産の破産赤紙、破れかぶれ、と揶揄された。

1459: 名無しさんAA:18/10/22 13:52
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   453   > 

 その後は鉄道を通じて資源を持ち込む事が流行り、苅田町が開発され大川はすたれて
いく。鉄道貨車は国鉄の肝入りで、標準化されて番号が振られた。本形式は、セメント
専用の40t 積タンク車として1968年(昭和43年)6月から1974年(昭和49年)3月に
かけて173両(コタキ11500 - コタキ11599、コタキ111500 - コタキ111548、コタキ101
550 − コタキ11573)が日本車輌製造、日立製作所、川崎重工業、富士車輌の4社にて
、製作された。記号番号表記は特殊標記符号「コ」(全長 12 m 以下)を前置し「コタ
キ」と標記する。落成時の所有者は、富士セメント、豊国セメント、住友セメント、宇
部興産、小野田セメント、電気化学工業、日本セメント、日鉄セメント、敦賀セメント
の9社であった。1970年(昭和45年)10月13日に富士セメントが、日鉄セメントへ社名
変更された。1973年(昭和48年)に豊国セメント所有全車6両が三菱鉱業セメントへ名
義変更された。社名は1990年(平成2年に三菱マテリアルへ変更した)こうして日本の
近代化に伴い業務が拡大し、日本セメント株式会社と合併し日本セメント株式会社大川
工場と名称を改めました。販路は、東京および九州・沖縄・朝鮮半島・台湾などに拡大
していきました。日本の近代化を支えてきたセメント工業でしたが、関東大震災の後の
不景気で日本セメント株式会社大川工場は閉鎖された。佐賀セメント(明治30年頃)
も操業したが、豊国セメントに改称する。早津江車両もあったが姿を消した。人々の生
活習慣を大きく変えたという点では、煙草も文明開化を象徴するものの一つだった。刻
みたばこを煙管(キセル)で吸っていた日本人の間に、西洋人の吸うシガレット(紙巻
たばこ)が瞬く間に広がりをみせた。やがて国産化が始まり、鹿児島などのシラス台地
すら育つ煙草は重宝な作物だった。その中で1884年(明治17)に発売された「天狗煙草
」は、覚えやすいネーミングと口付の吸いやすさ、舶来品の半値という価格で庶民の支
持を受け爆発的に売れた。販売したのは、岩谷松平(いわやまつへい・1849〜1920)だ
った。薩摩藩の商家の次男に生まれた岩谷は、西南戦争後上京し、銀座(松屋周辺)に
呉服反物を扱う薩摩屋(後の岩谷商会)を開店します。派手な新聞広告で大きく売上げ
を伸ばすと、郷里薩摩の物産の一手販売元となり、薩摩絣、泡盛、鰹節のほか、故郷国
分の葉たばこなどを扱い、商社として急成長を遂げた。明治30年代、外国たばこ会社の
資本を背景に京都の村井吉兵衛がアメリカ葉を使った「ヒーロー」を発売する。これに
対し岩谷は、「愛国天狗」「輸入退治天狗」などを発売した。両者は煙草が専売制にな
る1904年(明治37)まで「明治たばこ宣伝合戦」の激しい対決を繰り広げ、煙草産業の
大立者として共に「明治のたばこ王」と呼ばれた。

1460: 名無しさんAA:18/10/22 14:00
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   454   > 

 実は岩谷が「父」としてその名を後世に残すのは、卓抜した広告センスだった。村井
との壮絶な宣伝合戦で、「勿驚(おどろくなかれ)税金三百万円」「国益の親玉・東洋
煙草大王」と大書した看板のほか、引札、新聞広告などを駆使し、彼以降の宣伝広告の
あり方、さらには印刷技術の発展にも大きな影響を与えた。この事で彼は「近代日本の
PRの父」と呼ばれた。岩谷は、赤マントに赤い足袋で赤い馬車を乗り回し、「大安売
りの大隊長」と名乗って大声で宣伝して回り、人々の度肝を抜いた。銀座本店も屋根か
ら柱・壁までを真っ赤に塗り、店頭にはいくつもの大天狗面を掲げていました。日清戦
争の勝利を祝う宮中の宴に招かれた時も全身真っ赤な装いで参内したため、明治天皇が
「あれは何者か」と周囲に尋ねたそうです。これを聞いた岩谷は大喜びして、以後広告
には「商一位大薫位功爵国益大妙人、岩谷松平」と記載しました。その紙巻たばこに欠
かせないのがマッチだ。明治初年、初めてマッチが輸入されると、たばこと同じに、全
国に流行し国産化を志す人物が現れます。「わが国マッチ業の父」と称される清水誠(
1846〜1899)です。金沢藩出身の清水は、1870年(明治3)に渡仏してパリ工芸大学で
造船学を専攻します。1874年(明治7)、パリ滞在中の宮内少輔吉井友実(ともざね)
から、貿易不均衡を解消するにはマッチの国産が必要と聞いて、二年後に帰国すると新
燧(しんすい)社を設立、わが国初のマッチ製造工場(現東京都墨田区江東橋)で国産
マッチの製造を開始します。製法を広めたこともあり、数年後には輸入マッチを、ほぼ
駆逐し、国産マッチは主力輸出産業となり、日本はスウェーデン、アメリカと並ぶ世界
3大マッチ生産国となりました。しかし国産マッチの製造では、もう一人、「父」と呼
ばれた人物がいます。「安全マッチ」を製造し、中国にも進出するなどの成功を収めた
、長州藩三田尻(現山口県防府市)出身の柏木幸助(1856〜1923)です。代々薬商を営
む家に生まれた柏木は、少年時から化学に興味を持ち、清水とほぼ同時期に化学を応用
したマッチ製造で事業を成功させました。しかし、工場が全焼したためマッチづくりを
断念したところ、生家にあった寒暖計にヒントを得て医療用の体温計の製造を志します
。独学と実験を積み重ねた末、ついに1883年(明治16)、水銀体温計の実用化に成功、
「柏木体温計」を完成させました。外国製に比べて安く、手に入りやすいことから、柏
木体温計は全国に普及します。第一次世界大戦後は国内市場を独占し、また諸外国に輸
出もされ、1959年(昭和34)まで生産が続けられました。しかしマッチに革命を起こし
たのは大川酒見マッチであった。10本の内3本しかつかないと日露戦争で乃木将軍か
ら開発を委託されたていたからだ。

1461: 名無しさんAA:18/10/22 14:08
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   455   > 

 柏木は、郷里の人々から尊敬され、「水銀体温計の父」と称されている。この時代の
化学者や発明家には珍しく柏木は東京や海外に出ることなく、終生三田尻にあって研究
に没頭したことで、かれは大きく郷里で愛され続けていた。蓮池藩の家老職を世襲した
石井家も幕末の時代、佐賀藩の西南雄藩の一角を占め、明治維新に主導的な役割を担っ
た。戊辰戦争では、官軍海軍副参謀となった石井富之助、海軍陽春丸艦長石井忠亮が軍
功を挙げ、明治天皇よりその功を賞される栄誉を得ている。また、蓮池藩第8代藩主の
鍋島直与の三男石井忠躬は、蓮池藩兵を率いて出羽国に出陣し、武功を挙げている。明
治政府では、石井忠亮が初代逓信省電信局長をつとめ、電話事業の創設に尽力し、後に
元老院議官、和歌山県知事をつとめた他、石井忠恭は大審院判事、貴族院議員に、石井
常英は横浜地方裁判所長、台湾総督府覆審法院長官をつとめた。軍人も多く輩出し、石
井義太郎(海軍少将)、石井虎雄(陸軍少将)の2名の提督・将軍を輩出。また、民間
では、石井亮一が日本初の知的障害者福祉・教育施設滝乃川学園を創立するなどの活躍
をみせている。福岡県がまだ合併する前は三潴県令が大川に置かれて、石井氏が初代の
権令官になっている。大川町の人口は11,000人三潴郡一の市街人口で佐賀市・久
留米市は2万〜3万の人口の半分はいた事になる。大川町は明治22年4月1日に向島
村、榎津町、小保町、酒見村が合併して出来ました。明治時代から昭和時代の初期にか
けての若津は警察署、郵便局、造船所、銀行、商社、商店、旅館などが軒を並べる繁華
な河口の港町だった。大川橋のたもとに二階建ての明治洋風建築の建物は今でも残る旧
三潴銀行本店である。三潴銀行は、明治27(1894)年に大川市の酒造会社「清力
(せいりき)」の事務所の横に設立された鐘ケ江銀行がはじまりだった。明治29(1
896)年、鐘ケ江銀行は若津へ移転し、三潴銀行と改称しました。明治42(190
9)年には、二階建て洋風建築の本店を現在地に建築しました。棟梁には「大川市清力
美術館(福岡県指定文化財)」を建てた中古賀の名工・筬島傅太郎(おさじま・でんた
ろう)の名が刻まれていると言われている。その後、三潴銀行は、福岡銀行の前身であ
る十七銀行に合併された。鐘ケ江銀行の顧客の多くは城島の酒屋で富安一門だった。古
くから瀬高船積みで鷹尾神社を庇護していた田尻家の家臣で後の蒲池家の家老の一門で
ある。唐津や伊万里で焼酎など西洋式や薩摩式の酒の開発に田尻酒造が関わりを持ち、
これが火縄銃の導火線に使われたと言われる。鍋島公もその開発に熱心で家を焼いたと
される。この流れが大川のマッチにあったのである。


1462: 名無しさんAA:18/10/22 14:30
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   456   > 
 浜田仙太郎 (仙八=サム・パッチ、 倉蔵、 倉次郎) の乗船栄力丸が漂流状態とな
ったのは、 嘉永3年10月29日 (1850年12月2日)でした。53日目に米国商船に救助
され、翌嘉永4年2月2日 (1851年3月4日) に、サンフランシスコに入港している
。船頭から見習い水夫の炊 (かしき) までの一行17人を出身地別にまとめてみると
次のようである。 播州住人(兵庫県加古郡播磨町)万蔵(船頭)安太郎、次作、甚八
、浅右衛門、清太郎、喜代蔵、彦太郎(炊・彦蔵) 摂津住人(神戸市) 幾松、長助
(梶取)備中(岡山県倉敷市)徳兵衛 芸予諸島(広島・愛媛県の島嶼部)仙八(炊・
仙太郎:倉蔵尾道市瀬戸田町)、亀蔵 (亀五郎:尾道市因島椋浦)、民蔵 (帰国後は
大吉、愛媛県上島町岩城)紀州(和歌山県下津町塩津)岩吉(ダン・伝吉・岩蔵)讃州
(香川県木田郡庵治町)京助 伯州(鳥取県羽合町長瀬)利七(与太郎)である。シス
コに到着した一行は温かく迎えられ、日本への関心を深め初めていた同地の市民によっ
て、歓迎の舞踏会に招待されたりしている(『アメリカ彦蔵自伝』 平凡社)また 滞米
中の一行の写真が、ニューヨークの新聞 (ILLUSTRATED NEWS 1853年1月22日付) に
掲載されていることも判明した (平成8年7月4日、 朝日新聞夕刊)嘉永4年2月2
日(西暦1851年3月4日)米国商船オークランド号シスコ入港2月(西暦3月)税関の
ポーク号に移り、翌年まで同乗、嘉永5年2月(1852年3月)米艦セント・メリー号に
移り極東に向かう。閏2月14日(西暦4月3日)ハワイ着、病臥中の船頭万蔵死去、同
地に葬る。4月2日(西暦5月20日)セント・メリー号香港着、数日後米艦サスケハナ
号(のちペリー艦隊旗艦)に移乗。母国に向かった一行は、こうして香港に碇泊中に、
同地に住み着いていた肥前島原出身の力松が一行を訪ねてきた。力松は天保6年(1835
年)に難破してルソン島に漂着した肥後川尻の、庄蔵船の乗員であった。その後マニラ
からマカオに送られ、1837年の米国商船モリソン号による日本への送還の試みが、幕府
の砲撃により失敗した7人の日本人漂流船員の一人でした。日本への帰国が挫折すると
、香港に住み着き、アメリカ人女性と家庭を持ち2人の子供もいたらしい。彼は深刻な
自分の体験を語って、一行に艦隊を離れるように勧誘したが、この時点では誰も応じな
かった。しかし、遠く本国を離れた艦内での一行の待遇は急速に悪化していった。そこ
で、清太郎・浅右衛門・亀蔵・京助・徳兵衛・民蔵・岩吉・利七・安太郎の9人は、中
国人の手引きで脱走し、清国政府に母国送還を願い出ようとした。だが、脱出直後に追
いはぎに遭った一団は間もなく帰艦している。その後に、彦太郎 (同時16歳)・亀蔵
(28歳)・次作 (30歳) の3人は、退役して帰米する水兵の、トーマス・ロイに誘わ
れて、香港から再度アメリカに向かった。

1463: 名無しさんAA:18/10/22 14:31
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   457   > 

再度、合衆国に現われた3人は、それぞれ独自に行動する。彦太郎は世話人に恵まれて
合衆国の市民権を取得、開国後の日本に現われ、アメリカ彦蔵の名で注目された。亀蔵
は米国の商船に水夫として乗組んでいる内に、幕府は鎖国から開国に転換して日米修好
条約の批准の運びとなって帰る事が出来た。その使節一行が米艦ナイアガラ号で香港に
入港した際に、たまたま乗船が同港に入港した亀蔵は名乗り出て帰国している。漂流後
、10年目であった。名乗り出た際の状況を、遣米使節団の一員、野々村忠実は、「形
状総テ西洋服ヲ着シ---常語モ叉用イルコト能ハズ---頻リニ帰国ヲ乞ヒ、涙ヲ流シ--」
と日記に記している(『遣米使節史料集成』第一巻)。もう一人の次作も、安政6年に
箱(函)館にたどりついている。嘉永6年2月11日 (1853年3月20日) サスケハナ号
は、残留組を乗せて香港から上海に向かった。上海では、また、その風聞を耳にした別
の日本人(漂流船員)が訪ねてきた。力松等と一緒にモリソン号に乗船しながら、祖国
帰還が挫折した尾張出身の音吉であった。音吉は、尾張国知多郡美浜町小野浦の宝順丸
で、天保3年(1832年)冬に遭難、翌年末に北米に漂着、インディアン集落での生活中
に救出され、英国軍艦でロンドンに送られた3人組の一人でした。ロンドンからマカオ
に送られ、米国商船モリソン号による日本送還が失敗すると、習熟した英語を駆使して
英国系の商社に勤務、重要なポストに就いていた。 この音吉の説得の結果、 同年3月
1日(西暦4月8日)栄力丸一行の残留組は、一人仙太郎だけを残して、その他の者、
全員が、サスケハナ号から退艦した。この後、3月27日 (西暦5月4日) にミシシッ
ピー号で上海に到着した新任の司令官ペリーは、報告を受けると激怒して、音吉宅から
一行を連れ帰るように指示した。しかし、一行は音吉のはからいで雲隠れしてしまい、
ペリー艦隊が出航したのちになって、音吉の邸に帰って来ている。その後に、下艦した
栄力丸の一行は清国の商船で長崎に送還され、長崎奉行所で取調を受け、それぞれの藩
に引き渡された。多くの藩では緊迫した海外情勢掌握のため、帰還した漂流民を士分に
取り立てるなどして活用している。一方、紀州(和歌山県下津町塩津)の岩吉は、待機
中に一人脱走して英国船に乗組み、やがて日本に帰国してイギリス領事館の通訳となっ
た。しかし 安政7年(1860年1月29日)イギリス公使 オールコック付きの通訳の小林
伝吉は洋装しており、かなり有名であった。しかし、江戸のイギリス公使館の門前に立
っているところを攘夷派の浪士により英国公使館の前で、2人の侍に背後から刺されて
殺害された。上海で一行を下艦させた音吉は、一行に強烈な印象を与えていた。

1464: 名無しさんAA:18/10/22 14:33
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   458   > 

伊予の岩城島(愛媛県上島町)に帰還した民蔵は、上海での世話になった音吉について
、次のように語ったことが、隣島の大三島(愛媛県今治市)の此蔵の日記に書き残され
ている。「厚く世話にあい成り候、其の人(音吉)曰く、この国(清国)もイギリスに
打ち負け、今はイギリスに随い候、遠からず内に、日本も又イギリスの為に大乱あるべ
しと申せし由、岩城人より--話し候由」(藤井此蔵一生記、『日本庶民生活史料集成』
2、三一書房)としている。音吉は、何故か その後も帰国せず、国際舞台で活躍し、
シンガポールでその生涯を終えた。『The Career of Otokichi』 シンガポール 日本人
会、Leong Foke Meng、 雷少玲訳、2005年)。出身地の愛知県知多郡美浜町の「音吉顕
彰会」の努力もあって、平成17年にシンガポールから遺骨は「故郷に帰りで永遠の眠り
」 についている (中日新聞、 県内総合、 同年2月19日)
 米国側の公式記録である『ペリー提督日本遠征記』(大羽綾子訳、法政大学出版局)
には、次のような記述が見られる。「アダムス大佐は浦賀奉行に一通の手紙を渡した。
それは艦隊所属の 一日本人がその友人に宛てたもので、水夫仲間では、サム・パッチ
(三八)というあだ名で呼ばれ--乗組みの一人として正規にやとわれ、艦隊と共に第一
回の日本訪問をし、今度は二回目という訳だった。」と。浦賀奉行に託された手紙が、
その後どのように処理されたのかは、記録は残っていない。しかし幕府当局は、直ちに
現地に指示して事情を掌握したのではなかろうか。仙太郎の郷里、芸州生口島の福田(
広島県尾道市瀬戸田町)の興福寺の過去帳には、嘉永5年と6年の余白に次のような覚
え書きが見られる。「今年、 天神社開帳---十二月五日大風。当所ノ熊蔵子倉次郎、死
候由申、法名付候処、其後アメリカノ舟へ乗来、叉アメリカへ帰ル。実ニ不死、アメリ
カ人ト成也--」と。幕府の当局が仙太郎の存在を確認したのは、嘉永7(安政1)年、
ペリー艦隊が再来した時期であった。仙太郎は同年2月8日(西暦3月3日)には、幕
府役人の香山栄左衛門等に面接を受けている。その姿を先の公式の『遠征記』は次のよ
うに記述している。「サム・パッチは日本の役人の前に連れて来られたが、かれはこの
大官連を一目見ると、全く恐怖に打たれた様子でひれ伏した ---アダムス大佐が頭を上
げるように命じると、目も当てられぬ程恐れて、全身をわなわなさせながらうずくまっ
た。」と書かれている。

1465: 名無しさんAA:18/10/22 14:37
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   459   > 

 幕府側の『幕末外交文書』には、帰国を勧めたが、仙太郎は応じなかった、とある。
ペリー側は本人の自由意思にまかせた。と記述されている。その後のサム・パッチは、
故国を目前にしながら、必死に帰国を拒否した仙太郎こと、サム・パッチになり米国に
住んだ。かたくなに帰国を拒んだサム・パッチは、二度にわたり来日したペリー艦隊に
乗組員だった。しかし一人の日本人として幕府を恐れていた様だ。米国では、一人の海
兵隊員が接近してきて、キリスト教宣教師を勧めてきた。東洋への布教を夢見ていたジ
ョナサン・ゴーブルである。彼は除隊して、ニューヨークに近い実家に帰り、ハミルト
ンの神学校に入学していた。東洋伝道熱に燃える学生組織「東洋協会」に所属して、こ
の時、勧誘されていたサムも共に入学し、同じ寄宿舎で生活した。が、なぜか中途で退
学している。言葉や感覚の違う学校生活は苦痛であったのであろう。しかし、1858年3
月には、ハミルトンのバプテスト教会で、日本人として最初のバプテストとなった。
(『主のあしあと』、高松、第五号1979年10月1日、宮地慶信氏)その後にバプテスト
教会の宣教師となったゴーブル夫妻は、万延元年(1860年)に、横浜に上陸したが、サ
ム・パッチも同伴している。来日後、一家は横浜市の神奈川区森川本町の成仏寺の境内
の小さな家に住んで過ごした。ゴーブル夫妻は、貧しい生活にたえながら、明治4年に
最初の日本語訳『摩太福音書』を刊行している。この『摩太福音書』の翻訳については
、仙太郎が大きく寄与したという見解と、否定的な見解がある。この訳文を詳細に読み
直してみると、平易に訳出された日本語には、明らかに広島県の東部地方の備後方言ら
しい言葉遣いがうかがえる。随所に出てくる二人称の「おまい」や断定の「--じゃ」あ
るいは打消しの「--なんだ」等であるが備後なまりの方言である。直接、翻訳は手伝っ
てはいないかも知れないが、ゴーブル夫妻が習得した日本語が、基本的には備後方言で
この『摩太福音書』には、サム(仙太郎)の生命力が脈々と生き続けている。やがて、
仙太郎はゴーブルのもとを離れ、成仏寺に寄宿していた S・R・ブラウンや J・H・バラ
ー夫妻等に近づいている。その後、深い関係を持つことになったのは、来日して間もな
い E・W・クラーク であった。クラーク邸(静岡城内)と仙八(右の平屋の前)クラー
クは、今は敗者となった徳川氏が、静岡(府中)に開設した新しい学問所に招かれた若
い独身の教師であった。最初は郊外の蓮永寺に住み、間もなく静岡城内に新築された二
階建ての洋館に移った。

1466: 名無しさんAA:18/10/22 14:50
サム・パッチすなわち浜田仙太郎は、日本に上陸した時穏やかな心境ではなかったろう
。その時のサムは、料理役として勤務していた。隣の平屋に漸く(ようやく)迎えた妻
と共に暮らしたが、彼はこの時が一番平和だったのかもしれない。明治6年、クラーク
は開成学校 (東大の前身)に移り、料理人のサムも東京人となった。しかし、間もなく
して明治7年に病死している。朝野新聞では(同年10月15日)に、「米国人某のもとに
て、三見某と云へる者死せり---」 とある。この「三見」は三八君ことサム・パッチの
事の様だ。その葬儀の模様をクラークは次のように記している「--妻や他の夫人達が人
力車で続き---最後に中村とわたしが---しんがりをつとめた」(「日本滞在記」クラー
ク、飯田宏訳、講談社)。一緒に葬儀に加わっていた中村は、幕臣出身の優れた英学者
で「西国立志編」の訳者としても著名な中村正直(敬宇)であった。静岡学問所以来の
同僚で、キリスト教の洗礼も受けていた。明治34年に創設された弓削海員学校(商船高
専の前身)の校長として着任した小林善四郎の実父も幕臣で、中村家とは姻戚関係にあ
った由であった。(善四郎長女、小林愛子氏談)葬儀の列が向かったのは、中村家の菩
提寺、日蓮宗の本伝寺(東京都文京区)であった。この中村家の墓地に「三八君墓」が
、そして後、そのかたわらに中村家によって次のような銘文を刻んだ石碑が建てられて
いる。 石碑には、「三八君安芸の生まれ、本名仙太郎、米名サム・パッチ、幕末ジョ
セフ・ヒコ等と難波(ママ) 漂流し、米船に救われ---帰米後日本人最初のバプテスト
派洗礼者となり、再びゴーブル牧師と共に来日し、聖書摩太福音書(全文ひらがな)の
翻訳に協力した。その後、クラーク教師に仕え、晩年は敬宇先生 (中村正直) の馭者
として生涯を終わる。明治七年十月八日死、行年四十一歳」と、こうして郷里の誇りと
して語り継がれる帰国した日本人もいたが、そのまま異邦の地の中で生活した日本人も
いた。この栄力丸の遭難と漂流は、船で引き上げられる前に無人島に漂着している事も
知られている。大川の三潴銀行跡地は、昭和時代は戦前は北島氏によって南方汽船の発
着場だった。戦後は真崎氏によって屋久島や八重島運行する船便があった。バプテスト
派は17世紀初頭に、イギリスに起こった聖霊主義にある。清教徒内部から興った妖精
を信じたプロテスタントの一教派である。その起源にはカルバン主義に立つものやアル
ミニウス主義に立つものとの2派があるとされる。「ミラノ勅令」によってキリスト教
はローマ帝国の公認宗教となったが、その後もローマ教皇派とバチカン教皇派が争い、
異端派排除の異端尋問や異端裁判を行い、その為に処刑する魔女まで産み出していた。
大川のこの南方汽船は今の尖閣諸島を江戸時代から持っていた領主であった。その為に
ここの近くの難破船救助が江戸期になってやっている。マッチのリンや硝石もここから
運ばれたと記載される。

1467: 名無しさんAA:18/10/22 14:56
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   461   > 

 そもそも、西洋の論理破綻は、この魔女裁判でもある。魔女はキリスト教を信じてい
ないので異端とはならない。異教の者なのだが、それでキリスタンとして裁判している
多神教から一神教へ全土掌握の宗教としての地位や名声や権力に於いて、贖宥状を売る
などの行為を行った。贖宥状(しょくゆうじょう)は言わば免罪符で罪の償いを軽減す
る証明書として金銭に応じて販売するのが教会が役目だった。金で贖宥状が買えるのだ
から、イギリス王女やフランス王などいくらでも免除だろう。ルターの宗教革命は聖書
のみに基準をおいて考え、人間の救いは、すべて神の恵みのみによるものであり、人間
から考えるならば、信仰のみによるのであり、贖宥状を買うなどの行為によるのではな
い。と論じた「聖書のみ」「恵みのみ」「信仰のみ」の主張である。こうして多くの、
戦後のキリスト教は日本プロテスタント聖書信仰同盟の信仰などで広まった。日本福音
同盟、世界福音同盟が代表的であるが、そこに属さない福音派の教会の中に聖霊派(せ
いれいは)は、キリスト教の教派のうち、三位一体の位格のひとつである聖霊の働きを
強調する教派ないし集団の総称ないし俗称としてペンテコステ運動として始まっている
。ニュージーランド、アメリカなどの各地で連合体を組織し、現在では長老派、組合派
と並ぶプロテスタント三大教派の一つとなってバプテスト派が存在した。アメリカでは
、南部バプテストとアメリカン・バプテストの二大連合体があって,アメリカ最大の教
派をなした。ヨーロッパで1834年にオンケンによってドイツにバプテスト教会が創設さ
れ、北ヨーロッパ、オランダ、とりわけロシアに広まっていき、正式なパブテスト教会
が作られた。日本バプテスト連盟はキリスト教の正統なプロテスタントのバプテスト派
として、福岡市の「西南学院大学・高等学校・中学校、小学校」、久山町の「重症心身
障害児施設・久山療育園」、北九州市の「西南女学院大学・短期大学・高等学校・中学
校」、京都の「バプテスト病院」「バプテスト看護学校」等の事業体を運営している。
現在、連盟の教会は北は旭川、南は沖縄まで、330の教会があると広報する。この派
の特徴は、(1) 信仰個条をもたず聖書のみを信仰の規準とし,(2) 洗礼は浸礼,すなわ
ち全身を水に浸すものとし,幼児洗礼を認めず,(3) 自覚的信仰告白者のみを教会員と
し,(4) 教職を認めず万人祭司主義に立ち,(5) 各個教会の自主独立を認め,(6) 国家
と教会の分離を主張していることなどである。

1468: 名無しさんAA:18/10/22 14:59
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   462   > 

 日本は1889年に発布された「大日本帝国憲法」では日本が立憲君主制国家たることを
宣言しているが、それでもこの中で信教の自由は限定的なものだった。さらに天皇に対
する忠誠を説く「教育勅語」(1890年)によって明治に、日本における天皇の位置づけ
が明確に示された。国家の核としての天皇と国家神道の位置づけが明確にされたことで
、キリスト教に対する風当たりは、相当強くなった。このような風潮を象徴する出来事
が内村鑑三の不敬事件(1891年)が起こった事だ。政府は大逆事件(1911年)で幸徳秋水
を処刑したが、キリスト教に批判的な立場から、彼の遺作である『基督抹殺論』の刊行
を認めた。その裏には、明治になってから、長崎で隠れキリスタンがいてしばらくは、
差別されたままにあったからだ。バチカン報告によって国際社会で批判されてやっと、
明治政府が信仰の自由を認め、隠れキリスタンを認めたのである。実は西洋のルネッサ
ンスは、単に古代ヘレニズムへの回帰運動と教えられる。だが付随して起こったもので
真の意味は、宗教改革の意識改革にある。教会におけるヘブライズムへの回帰運動で起
こった各国のルター派の、改革派の国教会・領邦教会に対して、ここで、バプテストや
メノナイトさらにメソジストが生まれて、ルネッサンスから啓蒙主義を経て、近代合理
主義が生まれ、唯物主義が生まれ、マルクス・共産主義まで宗教に引き込んだのだ。主
にプロテスタントペンテコステ派が最初の教派として挙げられる。1897年(明治30年)
、当時、日本メソジスト教会の伝道者であった中田重治は、米国においてムーデー聖書
学院在学中に聖潔(きよめ)の体験をした。その後、日本帰国後巡回伝道に携わった。
1901年、来日したC・E・カウマン夫妻と提携して東京神田神保町に中央福音伝道館を開
き、あわせて聖書学校を始めたのが、ホーリネス教会の起源であるとする。新生・聖化
・神癒・再臨からなる信仰の四重の福音を掲げて大きく成長し、さらにホーリネス・リ
バイバル(信仰復興運動)によって1932年(昭和7年)には教会数439、信徒数19,523名
、教役者数428名という巨大組織となり、日本における新教の五大教派の1つになった。
しかし、教義において代表の特殊改訳が問題となり聖書学院の学長派と五教授派の分離
が成立し、日本ホーリネス教会は「日本聖教会」と「きよめ教会」とに分離し、日本ホ
ーリネス教会は消滅した。(ホーリネス分裂事件)。1941年に(昭和16年)、日本は、
アジア・太平洋戦争に突入したが、日本のプロテスタントキリスト教諸派は、政府の圧
力により自主的に合同して日本基督教団を組織した。日本聖教会はその第六部、きよめ
教会は第九部としてこれに加わった。1942年、再臨信仰を理由に官憲の弾圧が下され、
ホーリネス系諸教会は解散させられた。

1469: 名無しさんAA:18/10/22 15:01
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   463   > 

 メソジスト教会内部から、信仰復興のための「ホーリネス運動」が起こされた結果、
生まれたキリスト教プロテスタントの教派の一つである。ホーリネス教団及びその教会
をいう。メソジストと同様、神学的にはアルミニウス主義の立場をとるとしている。異
言派(ペンテコステ派)とは一線を引いているが、近年の対話では様々な修正が試みら
れてきた。現在では暗黙の内に異言を「神からの賜物の一つ」として受け止め、あくま
でも個人的な密室の祈りにおいてのみ認められ、公の場では控える。としている。日本
では、1891年にイギリスのバークレー・バックストン、1901年にアメリカのチャールズ
・E・カウマン夫妻とアーネスト・A・キルボルンによって伝えられた。バックストンに
よって日本伝道隊としてアジア侵略の為に打ち立てられた教義は、1917年に「東洋宣教
会ホーリネス教会」が設立されるまでに至った。しかしまもなく「日本ホーリネス教会
」と改称、東洋宣教会は、アジア宣教のための別組織として改組された。組織は監督制
をとりその権威は大きかった。こうして元の集団である異言派(ペンテコステ派)は大
きくホーリネス教会にとって代わられた。1900年頃に結果的に分岐した教派であるが、
このペンテコステ派は今の柳川伝習館高校の元になった組織であり、実学派を名乗った
この時期、自由主義神学、高等批評が導入され、日本の教会に混乱を与えることになる
。1885年にドイツ普及福音教会のウィルフリード・スピンナーが来日し、聖書は人間の
宗教的な記録であると主張した。またこの派からオットー・シュミーデルも来日する。
この立場は、新神学と呼ばれたが、彼ら自身は「最も進歩せる学術的キリスト神学」と
称した。これは日本組合基督教会に強い影響を与えた。1887年にはアメリカからユニテ
リアンの宣教師が来日し、三位一体でのキリストの神性を否定した。熊本バンドの小崎
弘道はこのリベラルな新神学を受け入れ、1889年に同志社大学で開催されたキリスト教
青年会の夏期学校では、「聖書のインスピレーション」と題して講演をしているた。ま
た、1891年に金森通倫もモーセ五書は、ユダヤ人の伝説や神話の寄せ集めであると主張
し、ここに歴史書や経典や教科書的見方を否定し 寓話の寄せ集めである見方が決定さ
れるに至った。1892年には日本基督教会で「日本の花嫁事件」が起こり、田村直臣牧師
が免職になった。1893年に東京帝国大学の井上哲次郎教授は、『教育と宗教の衝突』を
発表して内村鑑三を非難し、キリスト教と日本は相容れないとした。しかし1901年5月
に20世紀大挙伝道の働きの中で、リバイバルが起こり、1907年にはプロテスタント人口
が日本で約6万人ともなった。彼らは社会不安の中でキリスト教を救世教としたのであ
る。

1470: 名無しさんAA:18/10/22 15:11
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   464   > 

 しかし、1900年代黒人差別は止まる事はなかった。1901年9月から、リベラル神
学を巡って、日本では、植村・海老名論争が起こる。1902年に福音同盟会は総会を開き
、イエス・キリストの神性を確認し、海老名を追放したが、植村も十全霊感を否定した
。1903年には、それまで各教派別に編纂されていた讃美歌集を一つにまとめた共通『讃
美歌』が作成された。1904年の日露戦争では、海老名弾正、植村正久、井深梶之助、本
多庸一が主戦論を唱え、内村鑑三、柏木義円、白石喜之介が非戦論を唱えた。トルスト
イの影響を受けた、キリスト教社会主義者の安部磯雄、木下尚江、西川光次郎、石川三
四郎、片山潜らも無抵抗主義の非戦論だった。しかし、それは、植民地主義で自由を奪
われて行く有色人種の救済にならない事との矛盾に満ちていた。この頃ウィリアム・ブ
ース神父がやって来た。1907年には救世軍の創立者ウィリアム・ブースが来日した。2
万人を超える群集がブース大将を歓迎し、彼は西園寺公望、大隈重信、明治天皇に面会
した。1912年に救世軍病院が開設される。エディンバラ宣教会議が開かれた時の1909年
10月には、日本におけるプロテスタント宣教開始50年を祝って、宣教開始50年記念会が
開催された時だった。1910年エディンバラ宣教会議の決議により、東京女子大学が設立
。1910年の朝鮮併合後に朝鮮総督府は、日本基督教会の指導者植村正久に朝鮮宣教を持
ちかけた。植村は朝鮮併合には賛成していたものの、朝鮮宣教は断ったため朝鮮総督府
は、日本組合基督教会の指導者海老名弾正に朝鮮宣教を命じた。日本組合基督教会は、
同年10月の第26回定期総会で全会一致をもって「朝鮮人伝道」を決議し、渡瀬常吉を代
表派遣として送った。しかしこの救済が間違いだった。日本組合基督教会は朝鮮総督府
より莫大な資金援助を受けて朝鮮植民地伝道を繰り広げたが、朝鮮人や支那人の勝手な
脚色した信仰に翻弄されるのである。日本国内では、明治の終わりから大正期にかけて
、明治時代後半にみられた国粋主義への傾きが一時的に退潮した。1912年の神仏混合に
よる三教会同は、ようやくキリスト教の地位が宗教界で同等なものとみなされたかのよ
うな印象を与えたが、その一方で昭和に入ってキリスト教が国家の統制下に組み込まれ
ていくことへの伏線となった。この時期、日本基督教会の信徒であった賀川豊彦は労働
組合運動など活発に社会運動を行ったが、彼の設立した消費組合は後の生活協同組合へ
とつながった。バプテスト教会は内村鑑三の描いたホーリネス教会は、此処に来て信者
への勧誘は出来なくなった。

1471: 名無しさんAA:18/10/22 17:30
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   465   > 

 本木 昌造(もとき しょうぞう)、文政7年6月9日(1824年7月5日)に生まれた 江戸
幕府の通詞、教育者であり、日本における活版印刷の先駆者として知られる。諱は永久
、幼名作之助または元吉。異表記に昌三、笑三(或は号とも(曲田(1894)))、咲三
としてしられる。なお本には、木本昌造ともあるがは誤記であるとされる。長崎の通詞
の家系へ養子に入って、幕府の通詞をする傍ら、西洋への興味から操船、造船、製鉄、
活字製造などに関わった事で、明治維新後の廃藩置県により職を失くした武士への授産
施設として私塾を開いた。そこの一事業であった活字製造は、のちに独立して「新街活
版所」となり、門下生らによって築地活版製造所などへと繋がった。私塾の関係者に築
地活版の創設者であり石川島造船所の創設者でもある平野富二、横浜毎日新聞の創設者
である陽其二がいる。 文政7年(1824年)、長崎に生まれる。生家は本木家の親戚であ
る北島家、や生家の馬田家あるとされる。11歳(天保5年(1834年)) 本木昌左衛門
のもとへ養子に出され、本木家は平戸のポルトガル通詞に始まるオランダ通詞の家系で
、本木の二代前の正栄は、英和や仏和の辞典を作っていた。本木家へ行った後はオラン
ダ語を学び、オランダ舶来の書物によく接して西洋の技術に強い関心を寄せた。父の職
を襲った(かさねついだ)のち、嘉永6年(1853年)にロシアの使節エフィム・プチャ
ーチンが長崎へ来航し、翌安政元年(1854年)に下田に向かった件では、下田での条約
交渉の通詞を担当した。11月に彼らの乗艦が嵐により破損すると、ロシア側との交渉を
取り持ち、無事に建造せしめるなど、通訳以外の仕事へも強い関心を保っていた。同元
年投獄される。嫌疑は蘭通弁書の印行の咎(とが)、英和辞書を印行しようとした咎、
他人の罪の身代わりの咎など定まらない。出獄して謹慎となった本木は、パンチ父型の
製造(鉛活版のその母型の鋳型)などに取り組むが、技術の未熟や材料の不足もあって
成功しなかった。万延元年(1860年)11月、飽浦の長崎製鉄所の御用係に任命され、イ
ギリスより蒸気船を買い入れ、自ら船長となり文久元年(1861年)や元治元年(1864年
)などに江戸などへ航海をした。後年の弟子平野富二は、機関士として同船することも
あった。寸暇を見ては活版印刷を考え、また、長崎版の印行に関係した(関与のほどは
不明)。

1472: 名無しさんAA:18/10/22 17:35
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   466   > 

 本木は長崎町版と呼ばれる、安政6年(1859年)の『和英商賈対話集』、翌万延元年
(1860年)の『蕃語小引』を、名義を藉りて印行している。前者は欧文が鋳造活字、さ
らに和文を整版で併せたもので、後者は和文欧文ともに鋳造されたものであった。それ
以前、嘉永4年(1851年)に流し込み活字を作り、「蘭和通辯の事を記せし一書」を、
印刷したと伝えられる。これは、『蘭和通辯(弁)』を印刷したものともされ、あるい
は訛伝で長崎町版の一書を指すとも云われる。1869年、長崎製鉄所付属の活版伝習所を
設立し、同年グイド・フルベッキの斡旋で美華書館のウィリアム・ギャンブル(Gamble
・William )から活版印刷のために活字鋳造及び組版の講習を受けた。このとき、美華
書館から5種程度の活字も持ち込まれた。川田久長 『活版印刷史―日本活版印刷史の研
究』(1949年)ではこの伝習は1869年6月 のこととするが、小宮山博史「明朝体、日本へ
の伝播と改刻」(『本と活字の歴史事典』、2000年)では11月より翌3月までとする。
1870年、同所を辞し、吉村家宅地(ただし吉村家屋敷を長州藩の者がたびたび使用した
ため萩屋敷ともいったという)、若しくは長州藩屋敷に武士への授産施設や普通教育の
施設として新街新塾を設立する(ただし、陽其二が設立したものを引き受けたとの異説
がある)。この塾の経営で、負債が溜まり、解消の一助に新街活版製造所を設立した。
1869年 - 長崎製鉄所に本木昌造によって 「活版伝習所」が作られたのが起源で、その
後本木は長崎製鉄所を離れ新街私塾に移るが、長崎製鉄所に残った組が工部省に引き継
がれ「勧工寮」と称した。1871年 -大蔵省「紙幣司」が創設。その後、「勧工寮」を合
併し「紙幣寮」と改称。1872年 -初代紙幣頭(現在の理事長に当たる)に渋沢栄一が就任
。同年、「太政官正院印書局」が創設。1875年 -「太政官正院印書局」が「大蔵省紙幣
寮」に合併される。なお、当時政府の印刷工場が紙幣を印刷し、国立銀行に発行機能を
持たせるとする構想から、紙幣寮から印刷局の初期にかけては銀行の監督業務も職掌と
していた。1877年 -大蔵省「紙幣局」に改称。1878年 -大蔵省「印刷局」に改称(この
時に銀行業務を分離)。初代局長に得能良介。1898年 -内閣の「官報局」と統合され、
内閣所管の「印刷局」となる。1923年 -関東大震災で大手町の紙幣印刷工場や王子の抄
紙部が被災して全面的に造幣局として大阪に移った。柳川伝習館はその伝習所を作る前
の立花氏の作った公式印刷教示所だった。破れべコ伝説では雨で敗れる様な紙幣では、
使い物にならない。と言う風刺があって薩摩の西郷隆盛は布製の紙幣を刷ったとされる


1473: 名無しさんAA:18/10/22 17:53
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   467   > 

 その後独立行政法人国立印刷局(こくりついんさつきょく)は、紙幣・切手・旅券・
郵便貯金通帳・証券類・政府刊行物等の印刷を主に行う独立行政法人として発足した。
東京都港区に本局をおく他、全国に6工場(東京、王子、小田原、静岡、彦根、岡山)
を運営している。行政執行法人(旧:特定独立行政法人)であるため、職員の身分は国
家公務員である。明治新政府は 1868年5月16日(慶応4年4月24日)に旧金座および銀座
を接収し、 6月11日(慶応4年閏4月21日)に貨幣司を設けて二分判および一分銀などの
鋳造を引き継がせている。1869年3月17日(明治2年2月5日)に貨幣司が廃止されて太政
官に造幣局が設置され、8月15日(明治2年7月8日)に造幣局は造幣寮へ改称されて大蔵
省所属となる。1868年(慶応4年)にわざわざ 参与会計事務官三岡八郎、外国事務局判
事 五代才助らが、中国に行って同年に廃止された イギリス帝国・香港造幣局の造幣機
械を6万両で購入する契約を結び、11月1日(明治元年9月17日)に、英国建築技師トー
マス・ウォートルスが御雇外国人として雇用され局舎設計および機器購入などを担当し
ている。この時もっと精巧な新しい機械が香港に置かれたが、それが長崎から大川を渡
り柳川に置かれた。これが柳川城炎上の元となった。つまり三条実美に西郷などから知
られ城の明け渡しが迫られたのである。1870年3月3日(明治3年2月2日)に 旧香港造幣
局長キンドルが造幣寮首長に任命されていよいよ紙幣発行発行準備が整うといよいよそ
の交渉は熾烈に立花藩に襲ってきた。大阪本局は1871年1月17日(明治3年11月27日)に
銀貨製造を開始し、4月4日(明治4年2月15日)に大蔵省造幣寮として創業式を挙行して
いる。 6月27日(明治4年5月10日)に新貨条例および造幣規則布告がされて近代的貨幣
制度が開始される。 1875年(明治8年)1月31日限りで キンドルらお雇い外国人10人を
解雇して寮務全般が改革され、試験分析局のディロンおよび冶金室のウィリアム・ゴー
ランドに造幣頭の顧問役を兼任させている。 1877年(明治10年)1月11日に造幣局へ改
称される。1871年の創設時以来、工場内および近隣周辺に貨幣鋳造時の余剰発生ガスで
ガス灯を灯しており、当初は日本初のガス灯による街灯で見物人が多数訪れている。そ
の後も1964年の東京オリンピックや札幌オリンピック・長野オリンピックの金・銀・銅
の各メダル、名古屋城の金鯱なども製作され、大阪造幣局とも俗称される。こうした経
過から、造幣局では紙幣は製造しない。紙幣を印刷するのは国立印刷局である。

1474: 名無しさんAA:18/10/22 18:50
 2013年に NHK大河ドラマ「八重の桜」には嘘ばかりで腹がたった。小崎弘道や海老名
弾正(喜三郎)らの登場で同志社的、日本キリスト教史的には重要な回がありますが、
私は同志社にもキリスト教にも興味ない人はそれでいいだろうが。海老名弾正は乞われ
て前橋で前橋教会を創立したがそれも相当苦労している。ドラマでは、「いやなら出て
けよゴルァ」なウザキャラだが、全く変えている。現実にはそういう対応もあっただろ
うが中身が違う。明治9年(1876年)、新婚初日。プリーズ・コール・ミー・ジョーっ
てことで、「八重さん」「ジョー」で呼び合うことに。これとニイジマジョーのレディ
ーファーストな行動が物議を醸したことは、有名な話だろうが、レディーファーストっ
てのは女性を盾にして自分の身を守るために始まった風習ではない。又廃刀令発布。浩
の什仲間、竹村が起こるはずはない。完全に何かやらかす感じで山川家を退去。これが
与七郎と幸之進の今生の別れとなっている。この頃の日本は食い扶持が減る事は荷が軽
くなる話としか考えていない。それほど食がなかった。同志社英学校は生徒数も当初の
8人から30人に急増したが、習熟度の差が大きくデイヴィス困惑。この状態で、熊本
洋学校(設立:細川護久)の生徒受け入れ問題発生。覚馬は反対しますが、ポール金森
の懇願で熊本バンド受け入れ決定。まぁ、ニイジマジョーらしい展開に仕上げているが
実は逆のはずだ。9月、熊本バンド転入。ここで早速一悶着。さらに、早速猪一郎(徳
富蘇峰)に鵺(ぬえ)呼ばわりされる八重があったが。鵺と言う筈はない。鶏なら解る
が、確かに和服に西洋風のハットとハイヒールってのは現代では珍妙奇天烈だが、パン
ツなど下着を履かない時代にハイヒールをする筈はない。鵺とは神の鳥怪鳥で簡単に言
えるのは昭和の時代からだ。そんな猪一郎が、割と簡単に八重と接近。食事の時のちょ
っとした様子だけで猪一郎の風邪を見抜いた八重(さすが八重さんぱねぇ)、風邪薬を
与えます。ノベライズだと、猪一郎が食事をほとんど残しており、顔色も悪かったから
気付いたのですが、ドラマの不自然さだ。新聞記者志望を打ち明ける猪一郎。割と簡単
に心を開いた。蘇峰が八重と和解したのは、ニイジマジョーの臨終の席で蘇峰が過去の
非礼を詫びた時点だったということは、それまでは蘇峰がいろいろと非礼な言動をして
いた。そんな設定である。全くいい加減にしろ、、この頃は餓死者もでる頃だったのだ
ドラマだと、猪一郎は今回で八重シンパとなったが全く明治の気風がない仕上がりだ。
ブイブイいわす熊本バンドによってギクシャクする同志社英学校。同志社やめるジョー
しょんぼり。熊本バンドの増長はとどまることを知らず、改革要求を突きつける始末。
隣人を愛さない、しょーもないクリスチャンという扱い。西南戦争では浩の熊本城入城
も、谷干城や児玉源太郎らの籠城戦あってこそ映えるエピソードだろうが史実は変えら
れる。最低の大河ドラマ「八重の桜」であった。ドラマだからって全く思考しろよ。

1475: 名無しさんAA:18/10/24 23:21
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   468   > 

 柳川川下りコースの一角に「海老名弾正先生顕彰碑」がある。海老名喜三郎(のちの
弾正だんじょう)は、幕末の安政3年(1856)に海老名休也の長男として、柳川城
下外小路(十時邸の北方)で生まれる。15歳で熊本洋学校に入学し、ジェーンズの感
化をうけてキリスト教徒となっている。その集団が後に「熊本バンド」と呼ばれるよう
になる。のちに卒業生や元在校生約40人が同校教員のジェーンズの紹介で、大挙して
京都同志社に転校。明治12年に同校の第一回卒業生15名は全員熊本バンドのメンバ
−であった。海老名は卒業後、新島の故郷、群馬県安中で伝道活動に従事し、安中教会
を創立する。明治15年(1882)に横井小楠(よこいしょうなん)の長女みや子と結
婚する。明治17年に前橋教会、明治19年に東京本郷教会を創立する。その後、熊本
に戻り、熊本英学校、熊本女学校を創立する。明治23年に日本伝道会社長、晩年の大
正9年には母校の同志社大学第8代総長になる。就任の辞で4つの基本原則を提示した
。@人格教育、Aデモクラシーノ高調、B国際主義、C男女共学昭和12年に80歳で
亡くなった。文久3年に、海老名喜三郎(のちの弾正だんじょう)が国学党の中にいた
。幕末の安政3年(1856)に海老名休也の長男として十時氏などと共に同志社大学
設立にも多大な力を発揮している。熊本洋学校に入学しているが、天保14年(1843年)
に長岡・横井らが藩校時習館のあり方に飽き足らず自らの手で行った勉強会で実学党を
結成し、大塚退野の学風を慕い、李滉(李氏朝鮮の儒学者)を範として治国安民・利用
厚生・実践躬行を学問の本旨とした活動を通じて、内面を高めて真実を見出すことを目
標にした。この時、時習館は「実学」追求の集団であると批判的な意味で実学党と呼ん
だが、横井らは却って「内実(真実)の学問」の意味だと解釈して自らの呼称として、
熊本に学問の場を建設した。この海老名弾正の書翰要約が中には、「火事は午後9時頃
知りました。(弾正宅は外小路西北隅)城の北側より出火(出火点は殿守の附御櫓近く
)堀側南・西・北は人の山・・・上階は全く火焔に包まれ、終に猛火の真中に傾きつつ
倒れ落ちた。そのせつな一同泣き叫びました」とある。また森を焦がした炎上は、武家
屋敷の柱に縦罅たてひびを走らせた(外小路十時邸)、遠く中山の白壁を紅に染めた(
立花茂久氏母堂の話による)藩民はこの時、うち日枯れ「既に一時代が終わった」こと
を体感したことであろう。武家屋敷では家を解体して、家中を離れ、離れた場所に移築
して住む武家もいた。明治12年の測量地図では、武家屋敷が無くなり田んぼの表記が
多い。柳川藩の記録も焼失し、新県庁に書類の引渡しを好まずに放火したとも言われる
程だった。

1476: 名無しさんAA:18/10/24 23:37
こうして明治6年(1873)の町村制の実施によって、16あった小路名と本城址
・三の丸東西北郭かくが、町名に改正され、城址などは本城町となった。しかし、次の
年は大きな台風にやられてしまう。城の石垣は明治7年(1874)の大風により海岸
堤防が決壊けっかいした為、新開の地に運ばれ、その補強に転用てんようされ失う。ま
もなく明治8年(1875)12月に城址は陸軍省(のちの大蔵省)から競売で民間に
払い下げられ、柳河の、木下庄吉氏の私有地となり、城濠には蓮はすが植えられ、蓮根
畑となり、二の丸は畑に、本丸址は牧場となり避病院が建てられ牛が2、3匹うろつき
、荒涼たる廃墟となり萱が欝蒼と茂り、狐や梟ふくろうの鳴き声が聞こえ、荒城の悲哀
ひあいを物語るものがあったというしかし この柳川の市民は、立花氏を敬ったが、他
から沢山の商人がやって来て柳川を駄目にした。この地におこった江戸期の物産会所は
、柳川軌道をいち早く鉄道を走らせた事で盛況だった。柳河軌道が敷設されていた所は
、現在の国道443号線である。明治18年(1885)に新設開通した道路で、明治
42年の柳河軌道敷設により矢部川には木造の瀬高橋が架設された。その以前に橋はな
く、小舟か馬でで渡った。明治38年、日露戦争後、矢部川を渡る渡し舟の不便さから
、洪水で流される覚悟で川面すれすれに簡単な有料の「ガタガタ橋」を使っていた。い
わゆる板橋である。橋ぎわから河岸に下って使用してた物を柳河軌道線路と一般通行と
の共用木橋となり「ガタガタ橋」と言われた。開通4年の短い間で廃止され鉄道橋が作
られた。この鉄道によって、柳川や大川や瀬高に商店街の出現した。矢部川駅周辺には
旅館は旭屋旅館・さかき屋旅館)、料亭(日新亭料亭)、馬車駅ができ、まだ田んぼや
畑の下庄の柳河軌道沿いに、商店の次男などの新規開店や従来の店を移転するところが
増え栄町ー恵比須町ー矢部川の新沿道に新しい商店が出きた。大正5年 柳河軌道社長
元衆議院議員 立花親信(紀伊 柳河藩後断隊長)が逝去した時の当時の記録が残されてい
る。この時 衆議院議員は富安保太郎(山門郡三橋村)、吉原正隆(大川町)、永江純一 2
代目瀬高町長立沢久雄辞任であった。実は富安保太郎(やすじろう)は私の祖先である
。伝え聞くと、話は古く江戸以前に遡る。田中吉政が入城するまで、柳川は遠く八女の
祈祷院から下の水は立花氏の管理する所だった。それまで蒲池家にその水守として各地
に城を持ち縁戚を持っていた。柳川蒲池家と大和田尻家も富安家も同じ祖を持つとされ
、南北朝時代目野家と縁戚になった。目野家は紀伊からの豪族を多く連れて来て磯見宮
裏「柳宮」を管理した。それが今の二ツ河小学校である。この小学校は柳枝の編物特産
で、この枝の細工をして竹細工や樽などを全国に送っていた。南北朝の楠正成公の生誕
地と言う伝説すら持つ。大塔の宮が居住してたとされ、木之元村と称した。紀伊の人の
村がなまった言葉でもある。

1477: 名無しさんAA:18/10/24 23:38
 もっと言えば、南北朝時代の、この大塔の宮家、つまり護良親王(もりよししんのう
/ もりながしんのう)は、延慶元年(1308年)は、鎌倉時代後期から建武の新政期の人
物で後醍醐天皇の皇子、母は源師親の娘親子。妃は北畠親房の娘。または藤原保藤の娘
である南方(みなみのかた)。興良親王の父。大塔宮(だいとうのみや)と呼ばれた。
天台宗座主である。この頃の天台座主は貴族社会では、最高権力者の称号であったが、
彼らを迎えたのが菊池水軍の一員であった富安家だった。この南北朝時代は元弘元年(
1331年)、後醍醐天皇が2度目の鎌倉幕府討幕運動である元弘の乱を起こすと、還俗し
て参戦するし、その時は伊豆近くにまで進軍して幕府を討伐した。後醍醐天皇により新
たに開始された建武の新政で、護良親王は征夷大将軍、兵部卿に任じられて上洛して、
尊氏は鎮守府将軍となったが。建武政権においても尊氏らは離反して新たな室町時代を
築いてしまったのである。こうして追われてこの地に都を築こうとした。実はこの上の
地は瀬高とされほとんどが瀬高清水山の御神領の土地だったのだ。つまり柳川は実は、
清水山の門前町であったのである。洪武帝として即位した朱元璋は、日本にも倭寇禁圧
を要求した。しかし、日本でも南北朝の動乱などで倭寇まで手が回らず、倭寇に対応で
きない状況が続いた。足利義満の時代になって南北朝の合一が果たされ、街づくりにそ
の対応が待たれた。そこで、義満は1401年、遣明船が派遣されるがその時祖阿(そあ)と
いうお坊さんと、肥富(こいずみ)という、博多の商人の二人を派遣し、手紙を託して、
外交を始める準備をしたのだが、実はちょっとちがう。この時朝廷は、純友の乱を起こ
した藤原遠経の孫で大宰少弐・藤原良範の三男の藤原純友には、追討のために追捕使長
官・小野好古、次官・源経基、主典・藤原慶幸、大蔵春実による兵を差し向け、天慶4
年(941年)5月に博多湾に追い詰め、純友の船団は追捕使の軍により壊滅させられた。
と聞いていた。のである。「吾妻鏡」には、「伊予国宇和郡のこと、…公業先祖代々の
知行、就中(なかんづく)遠江掾遠保、勅定を賜り、当国の賊徒純友を討ち取りてより
以来、当郡に居住し、子孫に相伝せしむること年久し。」とある。これによると遠保を
遠江掾とする伝えがあったことも分かる。こうして橘氏は遠祖以来天皇から海賊退治に
専念していた。壱岐対馬の壱岐氏は大川に在した式氏が連絡係であり、対馬は宗氏の家
老柳川氏が連絡していた。対馬は度々倭寇に襲われた。しかし対馬で軍を養えるほどの
食糧はなかったし、当時の大宰府の役目からも福岡に土着兵を置く事は当然だった。実
は豊原の鷹尾神社は久留米の玉垂れ宮と共に都に送る米の一大集積出荷地だったのだ。
これを護り、奪うのが、九州騒乱であり、そこに海賊の領地争いまであったのだ。蒲池
氏家老として富安家は存在し、その調整こそは九州では英彦山座主のいる高良山であり
その御座主は玉垂れ宮に居たのである。そして全国を納めたのが天台座主だったのだ。

1478: 名無しさんAA:18/10/24 23:39
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   472   >

 その後時代を得て竜造寺は龍氏、足利は阿志賀氏、海賊は川野氏や河野氏や梅津氏、
など地名や変化した名で名乗った。立花氏は、純友の子・重太丸は伊予へ逃れたが、同
天慶4年6月に伊予警固使橘遠保により討たれたと聞いていたが、博多の守りとして残り
立花氏を名乗って住み着いている。純友は平安時代中期の藤原北家、右大弁藤原遠経の
孫で貴族であった。伊予掾を取り仕切っていて海賊になっていた。伊予橘はその追討で
子孫が楠正成だった。この時、純友が藤原の血統であることを名乗ってはいない。これ
には有力な異説がある。それによると純友は、大山積神(オオヤマツミ)を祖先とする
伊予の豪族越智氏の一族で今治の高橋郷の高橋友久の子であったが、良範が伊予の国司
として赴任したおりに養子になり、藤原姓を名乗ったというものである。つまり高橋氏
の長として子供の嫁を藤原氏から娶ったのである。この高橋氏が住み着いたのが蒲池で
あった。蒲池はその字のごとく加茂の繁る湿地であって人が住んでいなかったのだ。が
弥永氏の竹細工技術を得た一族は垂水の職人となった。又後世、有馬氏・大村氏らは、
藤原純友の子孫と称した。筑後国の蒲池氏もまた藤原純友の後裔とする伝承があるが、
繋がりがあるのは橘公頼とされる方であろう。すなわち壱岐対馬の宗氏の家老柳川氏が
連絡していたのは橘公頼に連絡していたと思われる。橘公頼(たちばな の きみより)
は、平安時代前期から中期にかけての公卿で歌人であり、それほどの武功をたててはい
ない。参議であった橘広相の子として貴族の中で九州下向には反対しなかった。ところ
が三男の橘敏通(たちばなとしみち)を、官位は従五位式部大輔に授け、筑後国蒲池の
領主として高橋家を婚儀を終えた頃に倭寇にあった。かなり古い昔柳川は瀬高清水寺の
門前町として栄え、遣唐使も遣隋使もここ大和鷹尾神社に参って海外渡航の安全祈願を
清水山に祈願して甘木唐船から出るのが習わしだった中で、襲撃はかなり続いた。川野
氏も、高橋氏も応戦したが、矢留すなわち矢が止まったものの大火に焼かれてしまった
のである。瀬高では既に天慶2年 (939年)文章得業生。承平天慶の乱に際しては、矢
が壁になった戦いがあったのだ。天慶4年(941年)大宰府に攻め寄せてきた 藤原純友
の弟・純乗を、父・公頼と柳川郊外の蒲池城で迎え撃ち、純乗を撃退する。鷹尾神社は
、平安時代の貞観11(869)年に、清和天皇の命によって祭られたと社伝には伝え
られる。応神天皇・仲哀天皇・神功皇后を「祭神とするこの」神社は、もともと鷹尾郷
の郷社と考えられ、平安末期には、筑後一の宮として、京都の別宮としての地位があっ
たのだ。

1479: 名無しさんAA:18/10/24 23:53
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   473   >

 かつて磐井のの乱が板付で起こった。とされる。磐井は挙兵し、火の国(肥前国・肥
後国)と豊の国(豊前国・豊後国)を制圧するとともに、倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路
を封鎖して朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み、近江毛野軍の進軍をはばんで交戦し
た。とされ、このとき磐井は近江毛野に「お前とは同じ釜の飯を食った仲だ。お前など
の指示には従わない。」と言ったとされている。ヤマト王権では平定軍の派遣について
協議し、継体天皇が大伴金村・物部麁鹿火・巨勢男人らに将軍の人選を諮問したところ
、物部麁鹿火が推挙され同年8月、麁鹿火が将軍に任命され 528年11月11日、磐井軍と
麁鹿火率いるヤマト王権軍が、筑紫三井郡(現福岡県小郡市・三井郡付近)にて交戦し
、激しい戦闘の結果、磐井軍は敗北した。日本書紀によると、このとき磐井は物部麁鹿
火に斬られたとされているが、『筑後国風土記』逸文には、磐井が豊前の上膳県へ逃亡
し、その山中で死んだ。とされる。ただしヤマト王権軍はその跡を見失ったと記されて
いる。同年12月、磐井の子、筑紫葛子は連座から逃れるため、糟屋(現福岡県糟屋郡付
近)の屯倉をヤマト王権へ献上し、死罪を免ぜられた書かれている。だが筑紫の国風土
記は違う伝承があったとも言われる。既に九州王権は設立し大和王権は実はその下部組
織であった。その為、大和王権が朝鮮と話し合い佐賀の方から攻めて来たのだ。『古事
記』では筑紫君石井(いわい)が天皇の命に従わないので、天皇は物部荒甲(物部麁鹿
火)と大伴金村を派遣して石井を殺害させた、と簡潔に記している。『国造本紀』には
磐井と新羅の関係を示唆する記述がある。実はこの時岩井こそ肥前石井家のルーツであ
るとされる。つまり、物部荒甲は荒井氏のルーツで神崎あたりで戦ったのだ。負けてこ
の筑後まで攻め込んで来たのを久留米でやっと止めた。と言う話である。信憑性も史実
としての証拠資料もないが、唯一言えるのは吉野ケ里遺跡が、恐らくは石井家のルーツ
か、荒井氏のルーツではないか、と言う事だ。もし事実が磐井の墓が石井家のルーツな
ら荒井家のルーツとなる。実は富安家がかつては、肥富(こいつみ)つまり肥の国の、
水運夫であった事は確かだ。それは紀元前後はいつの時代かは不明だ。肥の国が肥後や
肥前と思われがちだが、実は柳川を除いた今の筑後市周辺から神崎付近を肥えた国とし
て肥と表していたと思われる。この三橋も、例えば野田と言う姓も多いが、野田と言う
のは紀伊人の田と言う意味だとされる。つまり奈良からの従者であったのだ。英彦山も
実はその意味で肥の後山の意味だったとされている。これが安曇の磯良丸伝説とつなが
っている。神功皇后が三韓征伐の為に武内宿禰と共に兵を集めにやって来たと言う伝説
である。

1480: 名無しさんAA:18/10/24 23:54
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   474   >
磐井の乱が古代に重要視され注目されるようになったのは、磐井の乱について、ヤマト
王権による朝鮮出兵が再三に渡り、九州地方に負担が重なり、その不満が具現化したも
のと位置づけた学説によってだった。これに対し、『日本書紀』に記す磐井の乱は潤色
されたものであり、実際は『古事記』に記す程度の小事件だったとする主張が出された
。ただしそれらの主張は、磐井の乱が持つ意義を否定するものではなかった。研究が続
けられた結果、磐井の乱を古代史の重要事件と位置づける見方が通説となった。継体期
前後に国家形成が進展し、ヤマト王権が各地域の政治勢力を併合していく過程の中で、
磐井の乱が発生したとする研究が相次いで発表された。従前、磐井の乱は地方豪族によ
る中央政権への反乱だと考えられていたが、古代国家の形成という点に着目し、乱当時
に統一的な中央政権が存在していた訳ではなく、磐井が独自の地域国家を確立しようと
したところ、国土統一を企図するヤマト王権との衝突、すなわち磐井の乱が起こったと
した意見が大勢である。この磐井の乱後の529年3月、ヤマト王権(倭国)は再び近江毛
野を任那の安羅へ派遣し、新羅との領土交渉を行わせている。以上のほか、『筑後国風
土記』逸文には交戦の様子とともに磐井の墓に関する記事が残されている。なお『古事
記』では袁本杼命(継体天皇)の没年を丁未4月9日(527年5月26日)としている。しか
し筑後史の口伝では、朝鮮征伐に神功皇后は安曇の磯良丸を訪ねてやって来た時にカサ
サギである八咫烏がこの浜に降り立ち清水山に行った事でここに降り立った。それが、
清水の雉車の伝説である。清水の麓は大きな古墳群があったが、九州電力や高速道路建
設或いは導水管設置などによって福岡県の勝手な事業によって壊されてしまった。と、
ここいらの郷土学者は憤慨する。加えて江戸以前の建築様式をしてまともな風浪宮社殿
を簡単に壊して建て替えた。まるで福岡県の行政はデタラメである。近年調査でも吉野
ケ里遺跡の数百年の以上の古さの遺物が、続々と瀬高の遺跡で出たが、そうした縄文中
期の土器が、連絡もせず重機によって壊されている事が通報されている。こうしてこの
清水の集落に置いて磯石宮(いそみやぐう)に出かけ、そして出会ったとされるのが、
今の二つ河小学校でかつて龍王宮居や島田宮と呼ばれたこの場所だった。この時水路の
右を磯鳥、左を白鳥と名付けたとされている。この龍王は海童丸とされる大和両開地区
の昭代からこの磯宮までを仕切っていて昭代に降りる日子族の運搬を受けもっていたと
言われ彼らにによって柳川の風浪宮まで送って行ったと言う。実は安曇の磯裸丸伝説は
富(つみ)氏の元となった。「あずみ」とは入れ墨の事で「あづみ」とは「安富」とも
書いたのだった。その後つみは背負う者や犯した事を罪として呼んだが実は従者の事で
資格をもつものの事を言った。

1481: 名無しさんAA:18/10/24 23:56
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   473   >

 古くは、瀬高〜柳川間の道は大将軍通りと呼ばれた。大将軍とは、かつては、素戔嗚
尊/須佐之男命(スサノオノミコト)の通り道だったとされる。だが太閤秀吉が九州平定
に駆け付けた事から秀吉の通ってきた道とされた。肥富(こいつみ)氏が安富氏とされ
たのは諸富氏など分家が出来たからだ。そのすべてが入れ墨をし安富族だったかは不明
だが、佐賀の方で同じ安富氏が出来ると、菊池一族の日脚紋を持つ東の方は富安と名乗
った。平安時代は、五山派禅僧が有している仏教天文学的な世界観や『神皇正統記』の
引用に基づく「神国」観念の部分が出て来て、明国皇帝に対する上表文の形式について
、「(将軍は)日本国王を自称してはならない」「(明国皇帝の臣下であることを示す
)臣の字はやむを得なければ日本天皇の臣であるように書くべきである」「元号は日本
の年号(元号)を用いるべきであるがやむを得なければ干支を用いるべきである」など
と、文章博士の統制が出て来た。日本国王として冊封及び同国の暦を受けた足利義満の
姿勢を批判している。このため、戦前から戦後の一時期にかけて、同書の国体観が注目
された時期があった。だが、瑞渓周鳳の国体観は長年彼と親交のあった明経道の清原業
忠の影響が大きく彼独自の観念とは言えないこと、瑞渓周鳳自身は足利義満以後に確立
された外交そのものを否定する立場ではなかったことが明らかになっている。文章博士
や、五山派禅僧などは公式令を忠実に解釈すれば、朝廷の外交文書起草が職務であった
。大内氏の勘合貿易を担ったのは,奥堂氏,神屋氏,河上氏,小田氏といった博多商人
であった。神屋寿禎は大陸から先進的な銀の精錬技術を輸入し,石見銀山の開発に利用
したといわれている。この室町時代の博多商人の中に肥富がいた。《善隣国宝記》によ
ると、応永の初年に肥富が明から帰って足利義満に明と通交することの利益を説いて、
これにより義満は1401年(応永8)の遣明船を計画したという。肥富は同朋衆(どうぼう
しゆう)の祖阿(そあ)とともに遣明使節にあげられて日明間を往来した。この同朋衆
は陰陽道に信仰し、古来より将軍や天皇の近くで雑務や芸能にあたった人々を指した。
一遍上人の起した時衆教団に、芸能に優れた者が集まったものが起源とされるが呼び名
だけであろう。阿弥衆、御坊主衆とも呼ばれ時宗の流れだけではなかった。1866年(慶
応2年)に廃止された。同朋は猿楽や庭園作りなどの芸能を司り、また唐物奉行として
、唐物、唐絵の目利き、表装、出納などを行った。

1482: 名無しさんAA:18/10/25 00:16
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   476   >

 鎌倉時代末期から合戦に同行する陣僧の中に時衆(宗)の僧が多かったことから、武
家との結び付きが強まり、平時においても芸能を活かして武士の慰めとするようになっ
ていき、同時に側近、取次ぎ人としての役目も果たすようになった。また時衆による踊
り念仏は民俗的な歌舞に結びつきやすく、一遍や遊行上人二世真教、三世智得らが歌人
であったことに加え、時衆における遊行は室町幕府から関所自由通過を許され、正規で
なく時衆に加わる手続きも簡単だったため、芸能を生活の手段とする人々が時衆集団に
加わるようになる。連歌師の頓阿、周阿は、時衆僧ではないが四条道場(金蓮寺)の、
万葉集を研究した由阿は藤沢道場(清浄光寺)の阿弥だった。阿弥衆には、能面師の増
阿、立花の立阿、文阿がいて、南北朝時代に四条道場や六条道場(歓喜光寺)などで、
立花(いけばな)が行われていた。時衆の寺の阿弥衆は遊行によって地方に連歌や立花
などの芸能を広めていった。地方においても、筑前の時衆寺院金台寺の職人達が芦屋釜
の制作に携わった。義政の代には、能阿弥による唐物の東山御物の制定などを行った。
能阿弥、芸阿弥、相阿弥の三代は、書院座敷飾りの様式を創案し、絵画では「国工」「
国手」とも呼ばれ、連歌では宗匠と呼ばれるほどだった。竜安寺や大仙院の石庭は相阿
弥の作と伝えられ、東山文化の形成に大きな影響を与えたと考えられる。じつはこの時
の芦屋釜は革命的もので、今まで武将や貴族にまで隠されていた鉄の作り方が一般の中
で公表され、鉄や瀬戸物が一般に浸透して行った時期だったのである。これによって、
これまで高価な物しか売買出来ていない中で、一般した生活必需品が仏具以外に売買す
るようになったのである。京都の待賢門院を本家、徳大寺大納言家を領家とする瀬高下
庄の鎮守となっていた。待賢門院(たいけんもんいん)は平安後期の鳥羽天皇の皇后で
ある。女院は幼時より白河上皇に愛育され,上皇の猶子として鳥羽天皇の後宮に入った
が、関白藤原忠実の嫡子忠通との婚約を破棄しての入内であったらしく、忠実はこれを
不快とし後その女泰子(高陽院(かやいん))の入内問題に尾を引いた。徳大寺家(とく
だいじけ)も藤原氏北家閑院流(ほっけかんいんりゅう)の系統を引く三条家より分立し
た家。家格は清華家(せいがけ)で藤原7家の一つ。平安時代末の権大納言三条公実(き
んざね)の子徳大寺実能(さねよし)に始まり、家号は京都衣笠に建立した徳大寺にちな
む。白河・鳥羽・後白河の各天皇の生母となった。こうした人の荘園が数多く瀬高の庄
を覆っていたのである。これを水運で都にせっせと運んでいたのが肥富だったらしい。
山門鷹尾神社や久末神社にそういう記録がその発着場所でかつては記録があったらしい。鍵倉とされ、管理されたものだった。


1483: 名無しさんAA:18/10/25 00:24
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   477   >

 天正9年(1581)、柳川城主の蒲池鎮漣は策謀の中、肥前(佐賀)の鹿子に途中
肥前の龍造寺隆信軍に殺され、下蒲地家は滅び、龍造寺家晴が佐嘉から柳河城に居城し
たが、それに伴い迎家の先祖は佐嘉から柳河に移り住んだと言い伝えられている。いつ
頃から商人として活躍したかは不詳であるが、過去帳による家系図では元禄年間頃には
1代目(仮定)迎半左衛門(〜享保元年・1716)が商売をやっていたと推測される
。2代目半左衛門(〜1720)3代目半左衛門(〜1747)4代目半左衛門(17
51〜178?)と続き、同名を名乗っているところから藩から任命された御用商人で
あったと、推測される。いずれも本光寺に葬られている。5代目は迎治右衛門(〜寛政
2年・1790)で西方寺に葬られている。6代目迎松衛門(1760〜1822)か
ら西町(西魚屋町)の日蓮宗・台照院の信徒に変更している。7代目迎定治郎(正信)
は安政2年(1855)に迎半左衛門と迎定次郎の2氏の名で台照院の本堂前に大きな
一字一石塔の供養塔を建てている。(一説には天正15年(1587)に肥後国人一揆
の首謀者である隈部親永一党を放し討ちを行い見事全員を討ち取った時の城内・黒門橋
の供養塔を台照院に移設したという。)半左衛門とは先祖から藩から賜った名である。
また本堂内の右座には迎正信が目の病が完治した御礼に寄進した三十番神の仏像30体
がある。当時かなり繁盛した豪商で、嘉永5年(1852)の柳川藩の「永代扶持拝領
者名」の記録では藩に米700石を寄進した新船津町の森繁和吉の10人扶持に次ぎ、
米600石と金100両を寄進して9人扶持を賜っている。(扶持とは藩からの俸禄・
給料)8代目迎治三郎(1856〜1916)で幕末から明治の混乱の中活躍している
。迎家には西方寺、本光寺、台照院と長い年月に渡り先祖を葬った菩提寺がある。迎定
次郎の屋敷は富安長右衛門の店の道を隔てた西隣(現・亀屋、佐賀銀行柳川支店)の場
所に古舗であり、向え側には隠居屋敷があった。迎家は古文書などから、立花藩の御用
商人として両替商・薬・材木の商を営んでいたとされている。元治元年(1864)に
田町御蔵から今摺米三百俵を11月25日限り引取で買入れた米切手で、その内の18
0俵を藤市、儀右衛門、今村治左衛門、木下庄右衛門の4氏に分売し、残り12俵を売
り払ったと見られる裏書きの銀会所発行の米切手がある。明治5年(1872)の旧柳
河町の酒造家の免許税(5分税)によると、迎半次郎は一番高額の37円6銭3厘を納
めており豪商ぶりが解る。店舗の東側の並びには酒蔵が並んでいたという。維新後には
佐賀出身の大隈 重信と交友があり、筆不精の重信の直筆の手紙が残されている。曾孫
の定次郎は柳川商工会儀所専務であった。佐賀県には今も迎姓が多い。

1484: 名無しさんAA:18/10/25 00:25
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   476   >

 富安家は蒲地鎮連(旧柳川城主・天正9年5月27日没)の子孫で蒲地家の一族であ
る。瀬高町2丁目(現・京町)に店を構えて両替商を営む豪商で、天保5年(1834
)大坂蔵役所が発行した手書きの「三分(163×50 2 2479)・弐分」の銀札がある。両
替所は細工町の田中惣右衛門と瀬高町(現・京町)の富安長左衛門である。旧・北原病
院(京町通り信号)の角に 広い屋敷と向かい側に蔵があった。(右の地図は城下町図
瀬高町・細工町・出来町付近 柳立4224よる)文化4年の銭札の裏書人となっている。天
保4年(1833)、藩は天草の豪商の石本平兵衛から急場凌しのぎに干拓地を保証(
担保)として3500両を借用せねばならない程、財政が悪化していた。天保5年(1
834)大坂蔵役所が発行した手書きの「三分(163×50 2 2479)・弐分」の銀札があ
る。両替所は細工町の田中惣右衛門と瀬高町(現・京町)の富安長左衛門である。とこ
ろが、これは大坂の鴻池庄兵衛(鴻庄)から借用した金の為に発行されたもので、鴻庄
で引換える際は大坂蔵屋敷で改める事との但し書きがある。(為替の形式)天保時代に
は完全に米札が主流にとなった。米札には弐斗札は銀10匁、壱升札は銀5匁、弐升札
は銀1匁として使用される。しかし、藩外から物を輸入する場合、幕府発行の通貨でな
いと通用しないので、両替商などで両替をする必要があったが、現在と同じく為替相場
が毎日変動するのと似た状態がみられ正銀との間には大きな差があった。天保3年(1
832)柳川札役所から、「銀拾匁・五匁・壱匁・五分」の銀札を発行。保証品として
米のほか生蝋きろうを提供し大坂で改印して為替手形の様式を取り、領内の不信用を大
坂引請の形式で補充し、大坂に対しては領内の重要産物である米と生蝋の販売を広めよ
うという信用持続の策に出たのである。しかしこの札を産物方一手の支配に委ゆだねた
ために弊害が続出した為に、十時摂津惟恵や吉弘儀左衛門、戸次親道が産物方の運用に
対して苦言を書いた古文書が残されている。また各藩は藩札の信用を落とす偽造に手を
焼いた。柳川藩はサンスクリット文字を札に刷り込み、文字知識がないと偽造できない
ようにしていた。サンスクリットは古代インド・アーリア語に属する言語で、古代イン
ド語で日本の古文は様々な分野の文献はサンスクリット語で書かれていた。仏教やジャ
イナ教でもサンスクリット語と俗語が併用されていた。日本では、近代以前から梵語(
ぼんご)としても知られて、今日でも墓の卒塔婆に見ることが出来ます。なお弁財天の
背後の図柄に「ヤナカハ」の隠れ文字が一字ずつ配されている。また裏面上段は太上神
仙霊符十二文字の一字で「複」を図案化してある。現在、柳川商工会から発売されてい
る「プレミアム柳川藩札」はこの天保3年の藩札を模してある。

1485: 名無しさんAA:18/10/25 00:26
  世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   477   >

 嘉永3年(1850)藩は、産物方一手の支配に委ゆだねていた、札役所を廃止して
銀会所を設立され、藩札が一本に統一されて藩民は非常に利便になった。しかし藩札発
行の役所は、特定御用商人に対して、胴金の上納を命じていた為。命を受けた商人は同
役所に金貨の納付を行い、ほぼ1カ月後に1両=68匁で計算した藩札(銀札)の交付
を強制で受けた。藩札交付の折には1カ月当たり1%の利息が付加された。しかし又、
この兌換紙幣である銀札は、その所有者が幕府発行の硬貨と引換えをすぐに要求した場
合でも、銀会所はこれに応じなければならない。その為の準備金の胴金は必要であった
。現実には藩から許可を受けて、藩外から物品購入の場合のみに許可された紙幣だった
ようだ。他藩との取引には、原則として「両・分・朱」の幕府発行の通貨を使用する事
になっていた。しかし維新前には肥前札・久留米札・三池札・肥後札などが罷り通って
いる。嘉永5年(1852)に瀬高・下庄の石橋文蔵・阿部善兵衛・星隈慶次郎・久冨
徳蔵・牛島竹次郎は5人合わせて1000両の金を藩に調達している。安政4年(18
57)柳川藩銀会所札発行の「五匁・三匁・一匁・五分・三分・壱分」の銀札発行した
。ここでは胴金納付が停止している。裏書人に諸藤弥平次などが、見つかっている。立
花壱岐による安政の改革が柳川で行われた。藩は江戸藩邸の保持に月に千両を要する上
に、参勤交代費用数千両と金貨は幾らでも必要としていた。最後の藩主である12代立
花鑑寛(あきとも)は安政3年(1854)より、家老の立花壱岐を登用し安政の改革を
断行した。鑑寛は財政再建と軍備増強を主軸とした藩政改革を行ない産業奨励の為に、
物産会所を設置、さらに藩札を大量に発行して御用商人に渡し、この藩札で産物を買い
付けさせた上で長崎に送って販売し、金貨を稼ぎ藩(銀会所)にその金貨を上納させる
制度をとった。写真は明治元年長崎にて撮影。すでに総髪そうはつである。万延元年(
1860)、財政改革の為に柳川銀会所から前期と後期の2度に渡り発行された「二十
匁・拾匁・五匁・三匁・一匁・五分・三分・壱分」の銀札は、家老の立花壱岐(いき)
は準備金(胴金)の備えなく発行した。銀会所から指定商人に銀札が交付され、その商
人は3カ月以内に月1%の利息を付けて金貨を納付しなければならなかった。また藩は
私札を発行する権限を有力商人にも与えた。請け負った商人はそれらの札で傘下の集荷
人に渡して特産品の白蝋・お茶・和紙・カラシ(菜種)などを集荷し、長崎の松尾屋伊
助の仲介で薩摩藩が、それらの商品を大量に購入してくれた特需の為に金貨が獲得され
有力商人の手に入り銀会所に納付された。


1486: 名無しさんAA:18/10/25 03:56
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   478   >

 この時柳川では壱岐の守の産業改革で、畦豆やしめ縄、立花ハゼ、樟脳製剤を行い、
産業の交流化を図った。つまり藩内で足りないとされた、豆の生産と木蝋や樟脳の原料
としての流通を多くさせたのだ。この頃薩摩藩は特産品である砂糖を、長崎・大坂にて
換金し、その金でおもに、土佐藩からは、茶・樟脳・生糸を宇和島からは干藻かんそう
を柳川からは茶・白蝋はくろうを購入し、長崎に集荷、上海で売り、軍艦を購入してい
る。兌換(だかん)紙幣である紙幣は、いつでも金貨と交換できる筈だが現実には一部
を除き交換できなかった。とすれば物を媒体として、紙が金貨に化け、藩の財政に寄与
した事になる。これがインフレとなり、以前の嘉永・安政の時代でも藩士の家計は常時
赤字で、古文書の記録では藩士、町野安馬(350石)の場合、嘉永6年は2804匁
赤字、嘉永7年は970匁赤字、安政2年では1133匁の赤字であった。この赤字は
御用商人から当座貸しとなる。しかし立花壱岐の藩改革で物価高騰し米の値段が先行し
て高騰し石高で報酬をもらう藩士にとって追い風となり、安政3年(1856)で1俵
20匁が慶応2年(1866)では150匁となり10年で7,5倍に急騰。前記の町
野安馬の記録では慶応元年は1265匁の黒字、慶応2年では1265匁の黒字化とな
っている。他の物価より米の値段が先行した影響で藩士の家計はプラスとなり、借金も
価値の下がった貨幣で返済出来た。貸し付けた業者は大損をしている。しかし藩士にと
って、明治維新後の廃藩による失業が迫っていた。高椋たかもく新太郎は文化14年に
(1817)〜明治14年(1881)蜑ヘ町瀬高町(京町)に20歳で父の許可をうけ、豪家から3
0両を借り受け、八百屋町に魚問屋を開き、商才に優れ藩内で評判となった。当時の「
魚百五十目也預かり」の魚問屋の私札を発行している。その才能を買われ、天保7年(
1836)、天草の幕府御用達の松坂屋の石本平兵衛が藩主に会う時に 高椋たかもく
新太郎は随伴して藩主に見出され、大いに経済財政の手腕を発揮し、石本平兵衛失脚後
は新太郎が藩命を受けて日田、天草、長崎などに往来して、柳川藩の藩財政の建て直し
を委ねられるようになった。各地の豪商を訪ねて金策に努め、家老の立花壱岐の命を受
け、新太郎は大阪の鴻ノ池(こうのいけ)や加島屋(かじまや)の大富豪から1万両と
いう大金を借りようと、料亭で彼らを接待した。その際に、相撲界入りに当たって世話
になった義理を果たすべく一肌脱ぎ、巨額融資の白星に貢献したのが、伝説の柳川藩お
抱えの第10代横綱・雲龍だった。

1487: 名無しさんAA:18/10/25 04:34
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   479   >

 当時大関だった雲龍は弟子と共に料亭に乗り込み、時間になると、庭のふすまを開き
雲龍らを招き入れ、揃そろい踏みをさせ、余興の神道相撲を披露させた。鴻ノ池や加賀
屋は、度胆を抜かれて大変喜んで大金を融資したという伝説が残っている。この新太郎
の奇策と、ふるさとを想う雲龍の勇気が柳河藩の窮地(きゅうち)を救ったと言われて
おり、その功績により新太郎は年行司格として帯刀が許され商族から士族に列せられて
12人扶持を頂いた。明治になり三瀦県庁為替方。醤油の醸造業を営み、また第九十六
国立銀行設立、(通称高椋銀行)の初代頭取となる。明治14年(1881)9月12日に
亡くなり西方寺に墓を建て葬られている。郷土史家の解説によると、「明治4年(18
71)7月14日、廃藩置県(はいはんちけん)によって柳川藩は柳河県となったが、
通貨は藩札を用いていた。明治政府は藩札を何銭何厘となして通用させた。のちに藩札
の表面に何銭何厘表記に加えて大蔵省印の朱印を捺して通用させる事にし、柳川藩札に
も新貨加印した。ところが、相場の都合によって少々下落して引き換えたので一般民衆
においては不満を募らせ、明治5年5月8日役所に 町内の群衆が集まり請願を行い、
9日にも強請におよんだ。新政府は容易ならない雰囲気となり夕方5時過ぎに、役人は
願いを聞き入れざるを得なかった。群衆は一応退散したが、中にはとうとう暴徒化して
町屋「蔦屋つたや」に押し入り、少し店方の品物を荒らした。日没後には近浦(ちかう
ら)方へ押し入り家屋を破壊し、6尺桶17〜18本を輪切りなどを行った。続いて、
細工町の酒屋の橋本儀助(はしもとぎすけ)宅に行き、少々乱暴を働いたが、近浦方に
比べれば損害は軽少であった。それから、高椋(たかもく)新太郎宅に乱入し、家屋、
器械はいうに及ばず衣類などまで、ことごとく強襲し破却した。酢・醤油の本瓶40〜
50本を打ち破り、遂には金庫も押し破り、公私のお金多額を取っていった。暴動の中
には「武松甚吉宅へも押しかけろ」との声もあったが、幸いなことに、襲撃は免れた。
(中老・吉田孫一郎日記参照)明治5年の新酒の製造高は275石程度であるから、そ
のすべてが暴徒の手によって流失したと言っていい。現在の額にすれば、5000万円
〜1億円の相当が酢や醤油が土にしみ込み機械や棚が傷んだことになり、被害の大きさ
が推測できる。これが「新太郎さん騒動」としてこの藩の一番の事件となった。ちなみ
にこの時は、昭代や蒲池は三潴県として大川に三潴県令として石井氏を置いている。又
山の井など筑後の一部を八女県令を置き更に瀬高などに山門県令を置いた。困ったのが
沖の端川の河北の方に巨大な土地を持っていた橋本氏である。この4つに分かれた部分
を集めて河北村を作り磯鳥にその村役場を置き初代村長代理に橋本氏がなった。

1488: 名無しさんAA:18/10/25 04:36
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   480   >

 田中惣右衛門は細工町から新町に曲る角の屋敷で、俗に「角の惣よむ」さんと言われ
た名門である。江戸時代文政の頃発刊された柳河藩士、西原一甫によって書かれた「柳
川明証図会(名所図絵)}に細工町の田中家の全容が描かれている。広い敷地に豪壮な
建物は当時の豪商の家として参考になる。田中家は両替商を営んだ豪商である。文化4
年(1807)発行の藩札の裏書人にもなった田中重右衛門は惣右衛門の先代である。
天保5年正月柳河役所から発行された為替手形の引替所として大坂鴻池庄兵衛殿・柳河
両替所細工町田中惣右衛門・瀬高町冨安長左衛門の名がある。裏面に「此の手形鴻庄に
て引換の節は大坂蔵屋舗において一応、改め請可巾候」とある。文化2年8月の「永代
売渡し宅地」(吉田家文 C3-1)に北大野島開地の売主として名があり、干拓事業ある
いは、土地収集もしていたと見られる。また瀬高町(京町)冨安長左衛門も両替商だっ
たことが判明する。ところが明治と言う時代は柳川にとっては冷たい時代だった。柳川
の殿様は優しい人だったようで、他の藩の殿様の様に借金の踏み倒しをしなかった。例
えば薩摩藩は薩英戦争を起こしたが、薩摩藩の借金は重症で、その額 500万両だった。
今でいう1兆2500億円ほどです。これは、江戸への参勤交代に加えて、重豪(しげひで
)が教育へお金をつぎ込み、どんどん増えていった結果でした。さらに泣きっ面に蜂と
ばかりに、桜島も噴火した。絵にかいたような借金地獄だった。しかし「薩摩に暗君な
し。」という言葉通りびっくりするような変わり者ぞろいで、将軍家とは一線を画すレ
ベルの藩主が、実権を握り続けてきた。島津家は、この島津斉彬が描かれる事は多い。
しかし彼を幼いころから高く評価し、ドイツ人医師のシーボルトにも合わせたのが、第
8代藩主であり曾祖父の島津重豪(しげひで)だった。悩んだ重豪はダメもとで、茶坊
主である調所笑左衛門を大抜擢。下した命令は、「借用証文を取りかえせ、そして50
万両を備蓄金として蓄えよ」という無茶ぶりでした。笑左衛門はまず、薩摩藩の得意の
密輸分野を拡大した。中国からの輸入品目を増やし、砂糖の生産に目をつけていた孫兵
衛と出会い、彼が薩摩の砂糖が有望と触れこんで、新たな融資団を集めまた。こうして
基盤が整い、前代未聞の財政改革が始まりました。まず藩とは別に、新たな会社「島津
家」を設立した。専売とした砂糖を、物流の合理化、高品質化を図り、より高く売れる
ように工夫し、大阪を通さず江戸に送った。砂糖以外にも工夫を重ね、大阪市場では、
薩摩藩の品物は極上品として高く取引されるようになったのです。

1489: 名無しさんAA:18/10/25 04:38
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   481   >

 大阪市場では薩摩藩の品物は極上品として高く取引されるようになったのです。肝心
の借金は、「250年かけて返済する、ただし利子はナシ」と宣言。少しずつ返済し続
けると言うとんでもない宣言をした。このとんでもない好条件で商売を続け、薩摩藩は
破綻は回避。その結果、返済しつつ100万両以上の備蓄金までできたのです。これは
、薩摩の石高にあった。公称77万石とは、籾殻での石高ですので、77万石分の米の
収穫があるわけではないのです。しかも、薩摩というところ、現在は大部分が鹿児島県
になりますが、その土壌はシラス台地で、土地は痩せていた上にしょっちゅう桜島が噴
火していた。また、薩摩藩というのは、日本の中でも非常に特殊な風土で、700年間
も長きに渡って島津氏の支配地を通すわけだがこれは日本でも共生精神の強く極貧生活
で生きてきたからだった。他のところは、入れ替わり立ち代り領主が入れ替わります。
ところが島津氏だけは、鎌倉時代から幕末までずっと薩摩の地を支配します。したがっ
て、薩摩の人々と島津氏との関係というのは、他国での関係とはちょっと違うところが
あった日本の片隅であった事も大きかった。佐賀鍋島藩も同じだった。「肥前の妖怪」
、鍋島閑叟が先代から藩を受け継いで、江戸に報告しから佐賀に帰る支度を終え、藩邸
を出発して品川で昼食をとった後17歳の時に、江戸から佐賀に帰る為藩邸を出発して
品川で昼食をとった後、なぜか、行列が進まなくなりました。なぜ行列が進まないのか
と家臣をしかりつけると、味噌や醤油などの日用品の購入代金を払っていなかったため
、商人たちが座り込みをして抗議し、動けないことを白状したほどだった。ところが、
この佐賀藩は鎖国内鎖国の藩だった。と言うのも、本来鍋島家は領主ではなかった。戦
国時代の猛将は、龍造寺氏だった。秀吉にも家康も筆頭家老として対応している。しか
し目まぐるしく動いた情勢の上、江戸では家臣のいない幼君として育てられ、化け猫騒
動の頃に、病身で登城できずに藩主替わりを申したててちゃっかり鍋島家の藩主となっ
ていった。その為、佐賀藩は肥前の中に佐嘉、神埼、小城、杵島、藤津、三根の全部と
養父、松浦、高来、彼杵の一部を合せて35万7千石を領有した外様の大藩でありなが
らも藩の中の各藩が自立した藩だった。つまり藩主と言うよりは代表藩主のような存在
であったままだった。慶長16年のときは全知行地に対して実施されたが、元和元年の
ときは多久、諫早、須古、武雄の龍造寺四家に対してだけ行われた。龍造寺四家は龍造
寺一門が鍋島家に臣従して改姓し親類同格とされていた。勝茂は四家から上地した分で
小城(7万3千石)、蓮池(5万2千石)、鹿島(2万石)の 三支藩を設立した。この四家三支藩
には逆らえなかったのである。

1490: 名無しさんAA:18/10/25 04:47
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   482   >

 諫早騒動は、佐賀藩五代藩主宗茂が元文3年(1738年)に眼疾によって隠居し、六代藩
主に嫡男宗茂が就いた時起こった。宗茂が襲封して10年ほどたった寛延元年(1748年)に
三支藩のひとつ蓮池藩主の直恒が諫早家の茂行と結んで老中酒井忠恭に働きかけて、宗
教を隠居させて弟主膳を佐賀藩主にしよう陰謀を企む。ことは宗教の知るところとなり
、幕府にも報告され酒井忠恭は老中を罷免された。宗教も直恒を出仕停止処分とし諫早
の茂行は隠居謹慎、諫早領のうち1万石を没収した。直恒と茂行が結んだのは、直恒の
妹が茂行に嫁していたためであり、その背景には小城、鹿島、蓮池の鍋島三家や諫早家
など龍造寺四家が、本藩の統制下にある不満があったとされる。諫早家では、この処分
に対して重臣が協議したが恭順派と反対派に分かれて結論が出なかった。そのうちに騒
ぎは領民の間に広まってしまう。これは諫早領の年貢が本藩よりも優遇されていたため
で、農民にすれば本藩領に組み入れられるということは、年貢の増加を意味する。諫早
家では1万石の上地に代えて、物成4千石を納入する妥協案を示したが、本藩はこれを
認めず、ついに上地の村を具体的に指定してきた。指定された村々の農民はこれに対し
て長崎奉行に訴えようとするが、これは農民側が説得に折れて中止された。なお農民と
行動を共にする下級武士が80人ほどいたが、これは下級武士が農業を営んでいたからで
あった。次いで農民側は日田代官所へ訴状を提出した。日田代官所は訴状を突き返した
が、同時に訴状の写しを本藩に送り取締り強化を求めた。藩では諫早家の当主だった行
孝を出頭させて、代官所への訴人の逮捕を命じた。これを聞いた諫早領の農民は立ち上
がり一揆が起こった、諫早家の大手口に押しかけて騒動となった。この場は諫早家の重
臣の必死の説得で農民は解散したが、10日ほどすると再び一揆となり、農民は多良に集
結した。このときは白石鍋島家の隠居徹竜が間に入り、日田への訴人は逮捕せず、諫早
領の上地は3年間のみという条件で纏めようと動いたが、農民側は条件を飲まなかった
。農民側は大坂町奉行所に上訴し、これを知った本藩では一揆の鎮圧を決定さざるを得
ず実力行使に出た。一揆の首謀者と目された若杉春后は捕縛されて佐賀に送られ、ほか
に数名の農民も逮捕された。若杉春后を失った農民側はたちまち結束が乱れて、農民側
は敗れて上地が実行され、諫早行孝は蟄居、諫早家家老の諫早五郎太夫は切腹、三村惣
左衛門は獄門、農民側では若杉春后ほか3名が磔となった。ほかに農民8名が死刑とな
り13人が追放処分となっている。これを幕府の命で指導したのが唐津藩と長崎奉行だ
った。

1491: 名無しさんAA:18/10/25 04:59
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   483   >

 このように諫早家の領地没収に端を発した農民一揆は、農民側の敗北に終わった。宗
教の治世は文治主義が基本であったが、そのなかでこの諫早騒動は大事件として特記さ
れる。宗教は宝暦10年(1760年)11月に養子重茂に家督を譲り隠居した。しかしその農民
はくすぶり続けた不満は脱藩農民として柳川近郊にやって来た。それは佐賀もたびたび
天災に見舞われていたからだ。天明元年(1781年)には藩校弘道館を創設した。直茂を神
格化することによって藩主の権威の確立を図り、藩校を創設して人材の育成を行う政治
を行うためであった。既に佐賀藩は財政難に喘いでおり、病虫害や大雨などによる不作
や江戸屋敷の焼失による再建費負担などが重さんで、さらに財政状態を悪化させた。農
村は荒廃し、また江戸から持ち込まれた退廃の気風が藩士を蝕み始めていた。状況を憂
いた治茂は自身の厳格な性格もあって、改革に取り組む決意をした。治茂が意識したの
は有明海を隔てて隣り合う肥後熊本藩の細川重賢の宝暦の改革であった。重賢は宝暦5
年(1755年)から追放刑を懲役刑に改めた。追放すれば追放地で悪事を働くだけであると
いう視点から、懲役にし労賃を支給し、勤勉に務めれば放免して正業に就けた方が罪人
も更生し、ひいては藩の利益にもなると考えたのだ。治茂もならって天明3年(1783年)
に徒罪方(ずざいかた)を設けて追放刑を懲役刑に改めた。懲役の内容は川浚えや土砂の
運搬、窯業地の有田での陶土の運搬などであった。しかし、この政策に逃亡者も多く、
文化2年(1805年)から天保9年(1838年)までの間に365人の徒罪人のうち85人が逃亡
した。天明3年にはこのほか長尾矢治馬の献策で殖産振興を目的とした六府方も設けて
いる。六府方の中心は干拓事業で、これは搦方と呼ばれた。六角川河口の白石地区や有
田川河口の伊万里地区で干拓を実施し、前者は新搦、後者は八谷搦と言われ、この事業
の代表的なものである。これより前の安永8年(1779年)に治茂は財政の復興の為に米筈
と称する藩札を発行した。佐賀藩では享保20年(1735年)、宝暦13年(1763年)に続く3度
目の発行である。この米筈の胴銀(兌換準備金)を得るために領民に対し人頭税を徴収
し、その年額は銀一千貫目であった。米筈は領内によく通用したようであるが、その後
の財政逼迫により次代(九代)斉直のころには暴落し、十代直正の代に通用が停止された
。寛政年間には度々天災に見舞われて、寛政4年(1792年)には雲仙普賢岳が噴火して領
内にも多くの被害が出た。農村の荒廃は著しく、地方行政機構の改革が急務となった。
この時やって来たのが古賀氏と言われ、佐賀では空閑氏とされた。つまり空き地にいる
人と言う意味である。それらの人は古くから居た人と同じに土木などの徴用され扱われ
た。

1492: 名無しさんAA:18/10/25 05:09
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   484   >

 天明元年(1781年)から郷村の行政は大庄屋が司どっていたが、農村振興の成果が挙が
らないばかりか、荒廃をもたらすこととなったために、寛政10年から12年(1798〜1800
年)にかけて順次大庄屋を廃止して7人の代官を在住させた。もっともこの代官の設置
は蔵入地のみで三支藩の支配地や藩境地帯には大庄屋が残された。しかしそんな中で「
鍋島不幸」と呼ばれるものは続くのである。朝鮮征伐出兵、天草出兵、岡本事件、アン
ボイナ事件(アンポンタン事件)フェートン号事件などだ。これらは九州の、とりわけ
長崎に商家を置いた者の被害は莫大だった。とりわけ文化5年(1808年)には英国の軍艦
フェートン号が長崎に不法入港した事件は、警備の番の佐賀藩は財政難のために充分な
警備ができず、英軍艦の跳梁を許す結果となった。このフェートン号事件によって斉直
は逼塞処分となった。またこの事件後には長崎砲台などの増築が行われ、これは後に、
佐賀藩始め近郊の諸藩軍事支出を大きくし藩政赤字に繋がっていく。この軍事費の増加
は財政を悪化させ、加えて斉直は華美な生活を好んだために、財政は破綻寸前であった
。文化14年(1817年)には参勤交代の費用も捻出できずに、斉直は病気と称して参勤を引
き延ばしていた程だ。斉直は人員整理などによって節約をさせたが追いつくはずもなく
、支藩の切り売りをグラバーなど帰化商人や借用を柳川商人などに打診している。又、
支藩鹿島藩主の直彜が隠居しようとしたのを狙って鹿島藩を廃藩として本藩に吸収しよ
うともした。支藩への財政援助の負担減を企図したが、さすがに三支藩が一致団結して
反対した為に頓挫し、逆に支藩からの資金援助を得ていた。斉直は幕府に願い鹿島藩の
公務負担を5年間停止してもらったほか、強制的な献金や米筈の発行で財政難を凌ぐが
、所詮急場凌ぎにすぎなかった。文政6年(1823年)には相続米渡りという、藩士の知行
や切米を藩が一括して管理し、藩士には最低生活費のみを支給する制度まで実施してい
る。だが文政11年(1828年)には台風が襲い、領内に大規模な被害をもたらし、幕府から
2万両と米1万5千石の借入れを行った。斉直は天保元年(1830年)に直正に家督を譲り
隠居した。このとき直正17歳。直正は文久元年(1861年)に隠居して閑叟と号し、隠居
名の方が有名である。直正が初入部のために江戸から佐賀に向けて出発し品川宿に入っ
た途端、藩に貸付金のある商人たちが借金の返済を迫って押しかけたために行列が停止
するという屈辱的な状況であった。直正はここで藩政の改革を強く決意するが、隠居し
た父斉直とその側近勢力が隠然とした力を持っており、当初は倹約令の発布がせいぜい
であった。又鹿島藩は、古来より久留米藩に入った江上氏族や古賀氏などの飛び地とな
っていて鍋島藩の税収はほぼ無きに等しかった。

1493: 名無しさんAA:18/10/25 05:13
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   485   >

 直正が本格的に改革の乗り出すのは、反射炉で鉄砲造りを企画してからだった。火縄
銃だったこの頃この導火線は高値で売れた。これを聞き薩摩の蒸留技術の焼酎での試験
を行っていた。とされる。ところが、天保6年(1835年)の佐賀城二ノ丸が大火で全焼し
てしまう。本丸に御殿を新築する佐賀城再建計画を斉直の反対を押し切って実行し、そ
れを機に藩政の実権は直正に移った。直正はまず人員の整理を実施し、藩役人の五分の
一を削減した。24万両余りもあった江戸の藩債を8割を切り捨てて、残りの2割も5
0年賦返済にするという、実質踏み倒しも行った。およそ400億円程の藩札を100
億の借金と代えて50年の少額年賦にしのだ。その半分の200億ぐらいの支藩の借り
受けも借財なしと強行した。更にそのまま神崎の成富茂安の地行境を召し取りそのまま
グラバーに担保地として借金した。こうして資金を得て農村の支配機構を整備して禁令
を徹底させたほか小作料の免除などによって農村の振興を図り、藩校弘道館を拡充して
人材育成にも努めた。殖産政策では陶器、白蝋、小麦、茶などのほかに石炭の採掘に力
を入れている。石炭は英国軍艦用に輸出されて外貨を稼いでいる。また佐賀藩は長崎警
備を分担しており、直正はその強化を掲げ、洋式の軍事技術を積極的に導入した。嘉永
3年(1850年)に大銃製造方を設けて鉄製砲の製造に必要な反射炉の建設に着手する。嘉
永5年(1852年)には鉄製36ポンド砲四門の製造に成功、文久3年(1863年)にはアームス
トロング砲の鋳造に成功している。安政5年(1858年)には鉄砲の自藩での製造にも成功
している。これにより万延元年(1860年)には総鉄砲が命じられて弓や槍などは全て廃止
されて警備に銃隊としている。また安政元年(1854年)11月に鍋島十左衛門を蒸気船製造
心遣に任じ、翌安政2年に幕府が長崎に海軍伝習所を設けると47名のも伝習生を派して
いる。嘉永6年(1853年)のペリーの来航時、直正は攘夷論者であり、品川台場建設に技
術を提供し幕閣の信頼を得ている。これは直正が将軍家斉の女盛姫と結婚し、盛姫逝去
後は徳川一門の御三卿田安斉匡の女筆姫を継室に迎えたことと関係があった。一方では
貿易の重要性に早くから着目しており、英国には軍艦用に石炭を輸出して利益を上げて
、英国との外交が注目されると開国論を主張する。また公武合体論者でもあり、幕府、
朝廷とも距離を置きつつ、強大な軍事力を背景にしながら、それを行使せず、また政治
的な動きも見せなかった。そのために肥前の妖怪と言われて警戒され、小御所会議など
中央での発言力は持てず、これが薩摩や長州に比べて佐賀が維新であったが、それが、
柳川城炎上にもつながっていた。

1494: 名無しさんAA:18/10/25 06:39
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   486   >

 大村藩の記録類によれば、藤原鎌足の子孫である純友の孫の直純を初代として大村し
います。藤原純友は瀬戸内海の海賊を率いて朝廷に背いたため941年朝廷により滅ぼ
されました。988年に純友の罪が朝廷より許され、孫の直純(その時伊予ー愛媛県に
いた)は、肥前の国(佐賀・長崎)の藤津、彼杵、高木の三群を賜ったという説がある
。994年直純は家臣を連れ、現在の寺島に(大村公園を海沿いに諫早よりに行くと、
小さな島が海に突き出すようにある)上陸したとされています。もう一つの説は鹿島市
古枝大村方一帯を本拠地とした大村直が南北朝期の度重なる敗北により彼杵群大村に移
住し定住したという説。更に 少年使節団に出てくる原マルチノの先祖が藤津郡金剛勝
院の荘官より中央から下向した。という説。朝廷に背いた子孫を許すということも不自
然なので、藤原一門説でなければ、平一門説になる。鎌倉時代は、京都東福寺の荘園で
あったとされています。鎌倉時代の武士団は、小村一帯に 大村氏、武松氏、今富氏、
秋月氏、日宇氏などがありました。大村氏武松は今も地名として駅が残る。柳川の逆さ
柳の物語では、大村氏は、林氏と婚儀の前に花園家の若武将が、上司宮川氏の嫌がらせ
で殺されて、仇討ちに女手で清水に祈願して旅に出る。そこで大阪の陣で活躍した蜂須
賀の知行地となった淡路島で果し試合が出来た。この時剣豪の宮川氏に対して、林氏に
助太刀として応援したのが大村氏だったとされる。髑髏を持ち帰り首実検をしてもらお
うと帰ってきたものの立花氏の時代に代わっていた。柳小路に居を与え、あっぱれとし
たが、この時大村氏は筋を通した者として木村氏の姓を賜ったとされる。更に林氏は、
清水の山門の麓で茶屋や悩み相談などで尼として過ごしたと言われる。この大村氏の家
臣として、西彼杵半島から、武松家や相浦家などが柳川に来たとされる。彼杵半島には
時津氏、長与氏、馬場氏、福田氏がいたとされ、ほとんど今の地名になっている。本来
乃木将軍の乃木氏の領だったが随分昔に竹崎氏や西郷氏諫早氏などに天皇が土地を与え
て地元から少数になっていたようだ。奈良時代には条里制がしかれた地域で、多くのお
寺ができた。この時代に六〇〇巻もの大写経が行われた。それを富松神社に奉納をして
神前で読経、経文の奉納をした。当時の神仏習合の時代にあってはなんら不思議ではな
かったそうです。大村では伝統的に、お葬式が終ってお坊さんが帰ると、火葬に家族が
行っている間に神主さんが自宅をお祓いにくる。神の世界に入った事とした。この慣習
は、大村だけのようだと言われるが実は隠れキリスタンの家では意味も無く慣習化して
いる。


1495: 名無しさんAA:18/10/25 06:50
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   487   >
 武松家は天保年間に、初め頃に分家し城下の外町(ほかまち)に店を構えて綿・紙・
茶・菜種・白蝋・米を手広く扱う豪商だったようだ。幕末に柳川藩の御用商人を勤めた
。武松甚吉は藩札発行をおこなう札座役所(札役所)・銀会所への胴金上納を専売で行
い、藩士給米手形の預託を受けた。明治4年(1871)に新政府は、これまでの酒造
株(鑑札)制度を廃止した事で、太政官布達「清酒濁酒醤油鑑札収与並収税方法規則」
を発布し、営業税を納めれば、自由に酒造業を営むことができるようになる。武松甚吉
も地主酒造家として起業した。子供の虎太郎、さらに孫の茂久太郎に引継がれている。
虎太郎は明治8年(1875)暮以降に業務開始された郵便為替制度で柳川郵便局の為
替掛屋を制度が終わる時の明治17年(1884)まで勤めていた。島田家の祖の島田
六兵衛は、宗茂公が領していた陸奥棚倉(福島県)の魚商であった。宗茂公が柳川城に
再入城される時に、柳川に来ないかとの仰せがあり、直ちに仕度をして、島田駅(宿)
にて宗茂公に追いつき、お供して柳川に来た。よって島田の姓をもらって代々明治維新
まで魚問屋魚問屋の元締めで、「魚問屋役」を仰せ付かった。その為他の魚屋販売業者
は柳川に来れば、まず島田氏の魚市場店に置き、藩内で直接売ることはできなかった。
勝手に売った場合は、魚類は没収され、柳川にて販売することを禁じられた。文化11
年の(1814)発行の米札一升がある。女優の新珠三千代の母の里である。現在の当
主は筑紫野に引越しされている。と言う。その後明治になって藩預かりの資格は次々と
売られた。明治新政府は酒類と塩に国策の専売をした。そこで塩販売の近藤氏に魚市場
の権利を譲りその資金で酒類の問屋業を行った。博多の豪商だった伊藤小左衛門は黒田
藩の御用商人として藩を支えていたとされる。長崎の出店などで非常に豪壮で、長崎の
邸宅の天井にギヤマン(ガラス)をはり金魚を泳がせていた。小左衛門は、寛文2年(
1662)から、寛文6年(1666)の間に7回の密貿易(朝鮮への武器の輸出)を
行っていた事により寛文7年(1667)に捕われた。その時柳川の豪商の江口吉右衛
門も、朝鮮に武具を密貿易したことが連座し発覚した。柳川藩は足軽の伊本九右衛門、
宮島茂を長崎に遣わし江口を捕えて死刑に処している。この事件で捕らえられた人数は
270名余りにのぼり西国一帯を股にかけた大密貿易団だったという。この時捕まえた
のは長崎奉行所だった。つまり家康は長谷川なる密偵に新たに代官以上の職権を秘かに
与えていたのである。これは隠れキリスタン狩りを強く申し出た天草領主の意見からだ
った。江口氏は久留米有馬氏と繋がりが深く、津村氏の御幣流しの領界決めにも尽力し
佐賀側の立ち合いにも関与した。どうも蓮池藩の中老と縁戚で小柳氏などとのつながる
らしい。

1496: 名無しさんAA:18/10/25 06:57
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   488   >

 この事件で捕らえられた人数は270名余りにのぼった西国一帯の大密貿易団だった
が、この多くは柳川藩の者も多かった。伊藤小左衛門は豪商三傑と言われる島井宗室(
しまいそうしつ)、神屋宗湛(かみやそうたん)、大賀宗伯(おおがそうはく)の中に
は入っていないが、博多3傑の中で悲劇の豪商とされた。長崎代官にもなっている末次
平蔵(すえつぐへいぞう)は博多の中で抜きんでた豪商であった。秀吉の頃から、船舶
の大型化に伴い遠浅の旧来型の良港博多津は、次第に水深の深い新型の良港長崎にその
地位を譲ろうとしていた。博多商人達も長崎へ店を移したり、支店を開設するものが多
くなり、彼らは「ニュー博多」ともいうべき長崎の町の形成に尽くした。その中心的な
人物がここに居を構えていた博多商人末次家の末次興善(こうぜん)で、その功績から
、興善町の町名が現在も長崎の中心街に残る。また鎖国期において世界へ唯一の窓口と
なった「出島」の造成(1634〜36)に出資した「出島商人」にも末次宗徳や大賀九郎左
衛門など博多商人の名がある。末次興善(すえつぐこうぜん)は豪商で元々は博多の商人
だった。博多に出る前は生所は解っていない。しかし富田氏の分流で北面武士であった
藤原季清が佐藤を名乗って、藤原秀郷の7世孫で徳大寺家に仕えた子孫だろうと推測さ
れる。久寿元年(1154年)に監使としてその子季喜と季次を伴って肥前国に下向したの
が始まりである。この兄弟はそのまま肥前国に土着して、弟の季次は肥前国佐嘉郡小津
郷の一部(現在の佐賀市本庄町末次)に領地を得て地頭職となり、以降末次氏を名乗る
ようになった。兄の季喜は龍造寺氏の祖となった。ただし子供がなく母方の親類であっ
た高木氏より養子を迎えている。つまり季喜の血筋が龍造寺氏となったわけではない。
肥前末次氏の多くは、平安時代後期から戦国時代に至るまで龍造寺氏の家臣として仕え
ている。元々彼の祖先は瀬高清水に徳大寺領の守り役だったが、蒲池氏の時代に龍造寺
に兵をつけて家臣鍋島が横取りした水ヶ江城を3回も攻めさせている。この時の将の一
人だったのだろう。元亀二(1571)年長崎に移住し、その時に私財を投じて町を開いて、
現在の長崎市興善町の由来となった。部下に村山等安(村山東安)がおり、等安によって
貿易で巨利を得たという。3代目末次平蔵が伊藤小左衛門と、だいたい同時期に活躍し
ている、末次がまず1番の博多商人、小左衛門がその次くらいと考えていいようだ。伊
藤小左衛門が朝鮮への武器密輸で磔(はりつけ)に処せられた後、末次氏も本流は、御
禁制の外国商への金融で処罰されて没落してしまう。こうして縁戚を辿れば平安末期に
清水山から唐船までの船便を運航していたのが末次氏の地出のように見える。


1497: 名無しさんAA:18/10/25 07:10
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   489   >

 秀吉による朝鮮出兵(文禄の役)の頃から、家康による豊臣方平定(大坂の陣)の後
の時期に当たっては、従来からこの時期までのキリシタンに関する重要問題は、ポルト
ガル貿易とイエズス会の拠点であった平戸から長崎に集約されていったと考えるられる
。またこの時期に、ポルトガル船とイエズス会に加えて、フィリピン経由のスペイン船
と托鉢修道会(ドミニコ会・フランシスコ会)が長崎に進出してきて諸問題がさらに複
雑化している。そのスペイン系勢力進出の後ろ盾となったのが初代長崎奉行の村山等安
であった。等安が1594年に長崎代官に任ぜられてから、1618年に失脚するまで
の25年間は、キリシタン教会と長崎とが一体になって発展を遂げて、又衰退を辿って
行った時期であった。それはまた、90年にわたる日本のキリシタン時代のうち、最も
華やかで深刻な多くの問題が露わになった時期でもあった様だ。その舞台の上で、等安
は商人、武士、宣教師、背教者といった日本人だけでない人と、それも一筋縄ではいか
ない強(したたか)な人々と交錯交流する。しかも、等安自身も代官職を梃子に危ない
「顔役」として神輿に乗せられ、実力を蓄え、イエズス会すら敵に回してついには幕府
にとってさえ 邪魔な存在となってしまった様だ。言わば時代と幕府に踊らされた人の
一人でもあった。洗礼名アントニオにあてて安東を名のっていたが、秀吉の言を入れて
等安や東庵と改めた。既に朱印船貿易で巨利を得たが、元和2(1616)年の台湾遠征の息
子の渡航上陸失敗をきっかけに、キリシタン信仰への非難し、等安の里親であった興善
の子末次平蔵との抗争が次第に大きくなり訴訟にまで発展し、等安にとって末次氏は里
親同然のだったが幕府に告発されて処刑されるに至った。徳川家康の鎖国にとって障害
になるのは、生糸と綿糸が入るかどうかであった。もともと文禄元年(1592年)豊臣氏
による朝鮮征伐の文禄の役の際に、名護屋に在陣していた豊臣秀吉に謁見し、長崎での
地子銀25貫を納めさせる代わりに、御免地(地子御免除の特別地域)以外の直轄地を預
かる長崎代官になりたいと願い、許可された事で長崎代官となっていた。彼を支えてい
たのは末次船と言われるルソンやベトナム、中国などとの交易する大船団だった。慶長
9年(1604年)の正月にイエズス会のジョアン・ロドリゲス神父とともに。伏見で徳川
家康に謁見し、引き続き長崎の代官となることを追認された。その後、呂宋壺の他に、
生糸・印子・金・鉛・水銀などの貿易を行い、薩摩藩や佐賀藩に融資するほどの金を蓄
えた。また、元和2年(1616年)には台湾(高砂国)征討のため、次男・村山秋安を司
令官とする13隻の船団を台湾に派遣したが、これは暴風のため失敗に終わった。しか
しこれがきっかけとなりイエズス会に大きな不満が出来た事が大きく影響した。

1498: 名無しさんAA:18/10/25 07:22
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   490   >

 秀吉による朝鮮出兵(文禄の役)の頃から、家康による豊臣方平定(大坂の陣)の後
の時期に当たっては、従来からこの時期までのキリシタンに関する重要問題は、ポルト
ガル貿易とイエズス会の拠点であった平戸から長崎に集約されていったと考えるられる
。またこの時期に、ポルトガル船とイエズス会に加えて、フィリピン経由のスペイン船
と托鉢修道会(ドミニコ会・フランシスコ会)が長崎に進出してきて諸問題がさらに複
雑化している。そのスペイン系勢力進出の後ろ盾となったのが初代長崎奉行の村山等安
であった。等安が1594年に長崎代官に任ぜられてから、1618年に失脚するまで
の25年間は、キリシタン教会と長崎とが一体になって発展を遂げて、又衰退を辿って
行った時期であった。それはまた、90年にわたる日本のキリシタン時代のうち、最も
華やかで深刻な多くの問題が露わになった時期でもあった様だ。その舞台の上で、等安
は商人、武士、宣教師、背教者といった日本人だけでない人と、それも一筋縄ではいか
ない強(したたか)な人々と交錯交流する。しかも、等安自身も代官職を梃子に危ない
「顔役」として神輿に乗せられ、実力を蓄え、イエズス会すら敵に回してついには幕府
にとってさえ 邪魔な存在となってしまった様だ。言わば時代と幕府に踊らされた人の
一人でもあった。洗礼名アントニオにあてて安東を名のっていたが、秀吉の言を入れて
等安や東庵と改めた。既に朱印船貿易で巨利を得たが、元和2(1616)年の台湾遠征の息
子の渡航上陸失敗をきっかけに、キリシタン信仰への非難し、等安の里親であった興善
の子末次平蔵との抗争が次第に大きくなり訴訟にまで発展し、等安にとって末次氏は里
親同然のだったが幕府に告発されて処刑されるに至った。徳川家康の鎖国にとって障害
になるのは、生糸と綿糸が入るかどうかであった。もともと文禄元年(1592年)豊臣氏
による朝鮮征伐の文禄の役の際に、名護屋に在陣していた豊臣秀吉に謁見し、長崎での
地子銀25貫を納めさせる代わりに、御免地(地子御免除の特別地域)以外の直轄地を預
かる長崎代官になりたいと願い、許可された事で長崎代官となっていた。彼を支えてい
たのは末次船と言われるルソンやベトナム、中国などとの交易する大船団だった。慶長
9年(1604年)の正月にイエズス会のジョアン・ロドリゲス神父とともに。伏見で徳川
家康に謁見し、引き続き長崎の代官となることを追認された。その後、呂宋壺の他に、
生糸・印子・金・鉛・水銀などの貿易を行い、薩摩藩や佐賀藩に融資するほどの金を蓄
えた。また、元和2年(1616年)には台湾(高砂国)征討のため、次男・村山秋安を司
令官とする13隻の船団を台湾に派遣したが、これは暴風のため失敗に終わった。しか
しこれがきっかけとなりイエズス会に大きな不満が出来た事が大きく影響した。

1499: 名無しさんAA:18/10/25 07:32
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   491   >

 この頃等安は長崎の外町に影響力を持つスペイン系の托鉢修道会に近付いた一方で、
末次平蔵たちは旧来のポルトガル系のイエズス会が占める内町を勢力の基盤とし、両者
の対立は内町対外町、イエズス会対托鉢修道会、ポルトガル対スペインの権力争いに発
展した。等安は数多くの妾を持ち、そのため妻子と不和に陥り、また奉行だった事で多
くの人々を殺害した。その際は江戸幕府長崎奉行・長谷川藤広のとりなしで、かろうじ
て息子らと和解したという。しかし、現実は長谷川藤広の罠であろう。何故なら等安は
キリスタンで殺人や自殺は禁じている。加えて長谷川は幕府にキリスタンのあぶり出し
を自ら申し出て、迫害や処刑をする事でこの地位に付いたからだ。これは筑後でさんざ
ん蓑に火を付けて焼き殺し、或いは槍で串刺しし水車に縛って逆さ水責め刑にして年貢
を取り立て、それが出来ない時は子供や女達を奴隷に売った松倉勝家の下の三潴での、
実行部隊の長だったからだ。岡本事件が発覚して、ほどなく松倉勝家が島原藩のある肥
前島原半島の領主となった事で松倉の執り成しで長崎奉行になったのだった。同じ様に
同僚の寺沢堅高は唐津藩の領主となっていた。飛地肥後天草諸島の領民が、百姓の酷使
や過重な年貢負担に窮し、これに藩によるキリシタン(カトリック信徒)の迫害、更に
飢饉の被害まで加わり、両藩に対して天草の乱が起こったほどだ。ここでの「百姓」と
は百姓身分のことであり、貧窮零細農民だけではなく隷属民を擁した農業、漁業、手工
業、商業など諸産業の大規模経営者をも指している。これが信仰を深め同時に過激で悲
惨な取りたてを起こした。加えて松倉は従来以上の年貢を徳川氏に約束していた。こう
した中で、したたかな長谷川の策略で等安は、長崎の指導者層である頭人のグループや
新興商人らと衝突することとなった。元和4年(1618年)の末次平蔵の訴えにより、キ
リシタンを擁護したことと、徳川氏が敵対していた大坂の豊臣氏と通じたという嫌疑で
、元和5年(1619年)10月26日に江戸で斬首、一族も長崎で処刑された。彼の死後長崎
の代官業務は末次平蔵政直が継いだ。海外貿易には2つの手法に分かれた。1つは物品
取り引き、もう1つは船を預かる貿易商人に対する融資である。これは抛銀(なげがね
)と言わ、博多三傑の島井家などが有名で、小左衛門も抛銀をやっていました。抛銀は
投銀とも書き、1種の成功報酬に対する投資である。これは直接投資の末次船よりリス
クは少なかった。この間接投資でも利率は最高13割にもなっていたという。しかし、
これらも末次船のような交易船が動かなければ、何も生まれないものだった。危険承知
の投資で、豪胆な連中でないとできなかった交易だった。


1500: 名無しさんAA:18/10/25 07:37
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   492   >

 ジョアン・ロドリゲスはバリニャーノの通訳として秀吉に謁し、秀吉はこのロドリゲ
スを厚遇し、彼に対し頻りにポルトガル船の来日を要請した。そしてロドリゲスは、こ
の秀吉の意向に応えるかのように、ポルトガル船船長を伴い肥前名護屋に秀吉を訪ねた
。秀吉にとっては、貿易と布教の不可分を今一度見せつけられた様なもので、貿易仲介
者としてのイエズス会を意識しない訳にはいかなかった。村山当安が長崎外町代官に任
ぜられたのも、やはりこの同じ年の出来事なのである。イエズス会士フランシスコ・ヴ
イエイラは言う。「長崎市に等安アントーニオと称するキリシタンがおりました。貧し
い生まれではありましたが、秀れた能力とキリシタンらしい行ないをもっていましたの
で、イエズス会はこの者を庇護しました。彼はその援助によってこの市の主要なキリシ
タンたる代官の一人になるに至りました。」と。つまりイエズス会は、熱心なキリスト
教信徒を長崎代官にすることによって、貿易のことや長崎町政のこと、更には長崎貿易
をめぐる様々な政治・経済関係にまで有利な地位を獲得しようとしたのである。その証
拠に、秀吉没し政権が徳川家康に移るや、イエズス会パードレ、ジョアン・ロドリゲス
は、この等安を伴い年頭の挨拶として家康を訪ねた。それは、秀吉以来の長崎代官の職
を当安に対し引き続き安堵してもらうためであった。イエズス会は「長崎代官」村山等
安を必要としたのである。時に一六〇三年(慶長入)、等安四十一歳の時のことであっ
た。イエズス会は、等安を長崎代官にすることによって、貿易のことや長崎町政のこと
、更には長崎貿易をめぐる様々な政治・経済関係にまで有利な地位を獲得していた。し
かし、元和2年(1616年)には台湾(高砂国)征討のため、次男・村山秋安を司令官と
する13隻の船団を台湾への派遣で莫大な投資と次の流通が消えたのである。イエズス
会自体にもこの原因で活動資金が無くなったのだ。この頃イエズス会は、布教資金捻出
のため、生糸を中心とした長崎−マカオ間貿易に深く関わり、ついには本末転倒し利潤
を追求するのが急務となっていた。キリスト教布教団体としての枠を大きく踏みはずす
ように見えるが教えでは教団が太る事と信徒の修行とは分けて説いている。イエズス会
は、この貿易に関係する日本人の商業活動を、キリスト教といぅ枠ではイエズス会への
貢献は神への貢献であるとして、信徒の個人の利益は大きく制限したのである。これが
等安には二枚舌の言い訳に見えたのである。



1501: 名無しさんAA:18/10/25 07:43
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   493   >

 このため、その取引について「望み通りの生糸を入手出来ない」日本商人達の不満が
常に存在した。さらに、この長崎〜マカオ間貿易の全般に渡り、日本人とポルトガル人
の仲介に、終始パードレや、ジョアン・ロドリゲスは「法外な糸値段」をつけたらしく
、宣教師ですらそのやり方を適切でないと指摘した程であった。加うるにイエズス会は
、等安を利用して長崎町政まで関与しようとしたのである。貿易の内容については詳(
つまび)らかにはわからない。しかしこうした生糸を購入していた事は確かで、生糸は
当時最大の輸入品で中国から入ってきていた。購入する貨幣は銀だった。日本は銀産国
として当時は知られていた。神屋家が石見銀山(いわみぎんざん)を発見し、銀の採掘
に成功したのを皮切りに。石見に限らず、当時の日本は豊富に銀を産出して外国へ放出
していた。途中からそれが海産物や銅に替わり、住友の別子銅山などが出てくるが、そ
れはずっと後で、その頃に住友・三井などが出てくる。小左衛門や末次平蔵らが17世紀
の60−70年代に没落して三井・住友、鴻之池など、いわゆる問屋商人が一世風靡する。
それはキリスタンが居なくなってからだった。等安とロドリゲスの対立は次第に根深い
もの対立になり、遂に1610年マードレ・デ・デウス号事件が起こった。1609年
(慶長十四)夏、長崎に入港したポルトガル船マードレ・デ・デウス号に、長崎奉行の
長谷川左兵衛と代官村山等安はその積荷に厳重な統制を加えた。積荷の目録を呈出させ
、その商品に対し価格の面その他において、日本人官憲の指揮権を発動しようとしたの
である。それは従来のイエズス会主導の貿易介入を排し、ポルトガル貿易の主導権は、
日本人にある、という意志表明だった。この為生糸を中心とする積荷の多くが差し押え
られ、許可なく荷揚げをすることが禁じられた。しかし船長アンドレア・ペッソアは、
あくまでこれに反対し、家康に直訴さえほのめかした。この前年、マカオにおいて有馬
晴信の部下とポルトガル官憲との間に武力衝突がおこっていた、日本人が暴徒として鎮
圧され、その多くが殺され又捕えられるという事件が発生したのだ。この事件の鎮圧に
当たって乱暴したのがほかならぬこのペッソアだったのである。等安らは積荷に関する
種々の統制が拒否されたと知るや、マカオにおける日本人騒擾事件を利用して、ペッソ
アを陥れる事を画策した。ポルトガル側は、マカオにおけるこの事件を長崎入港後に何
より早く家康に報告する筈であった。しかし等安や左兵衛は、あろうことかイエズス会
を使って報告のその中止を説得させたのである。

1502: 名無しさんAA:18/10/25 07:44
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   494   >

「マカオで殺された日本人たちのことを内府の耳に入れるのは適当ではない。この後に
絶対非常な打撃をうけられ苦しまれるに違いないし、内府様を納得させるに足る理由も
弁明もあろう筈がない。」と更にこの事は「決してポルトガル人の利益にはならない」
であろうと。こうしてマカオにおける事件はポルトガル人の口からは家康へは知らされ
ないままだった。それは結果として、ポルトガル人がこの事件を家康に対し、隠そうと
したかのような印象を与えた。イエズス会は等安らに躍らされ同胞破滅の原因をつくり
出してしまった。次に当安らは有馬晴信にゆさぶりをかけた。イエズス会士モレホンは
言う。「この策謀の張本人は左兵衛と等安であった。彼らは有馬殿をこの策謀に引入れ
るために、左兵衛は、もし貴殿が家来の殺されたことを遺憾に思わず同盟に加わらない
ならば、貴殿の家来が日本の外で犯した種々な問題について貴殿を訴えるといって嚇し
た」と。晴信はマカオより逃げ帰った部下を連れ、駿府へ赴き、マカオにおける事件の
一切を報告するに至っていた。ポルトガル側の報告は左兵衛や等安らによって阻止され
ていながら、有馬晴信の報告が一方的に受け入れられ、怒った家康は、ポルトガル船の
捕獲・ペッソアの逮捕を晴信に命じた。事件は既に周知のごとく、デウス号の爆沈とい
う形で結末を見た。しかし等安のイエズス会に対する攻撃は終らなかった。彼は家康の
怒りを背景に、日本からイエズス会の立退きをほのめかしたのである。そこで日本管区
長パシオは、等安や左兵衛に和解工作を講じた。等安らは「ペソア来朝中の行動に関す
る責任をロドリゲスに帰し、ロドリゲスをマカオヘ追放すること、それはイエズス会の
決議の結果によると家康に伝えること。」この二つを条件にパシオの和解工作に応じた
のである。おさまらないのはイエズス会である。等安らにさんざんふりまわされた挙句
、デウス号事件の責任をおしつけられ、ロドリゲスをマカオへ追放しなければならなく
なった。しかもこのデウス号沈没で、イエズス会は一万二〇〇〇ドゥカド相当の生糸を
失い、莫大な負債をかかえこむことになったのである。イエズス会の士は言う。「われ
われは想像も出来ない程みじめな状態に陥った。というのは、維持する財源をもたない
許りか、既に二万ニ〇〇〇タエルの負債を負っており、しかも毎年さらに負債を重ねて
いくことになろう」と。すなわちイエズス会も航海には各管区の投資が必要とされてい
たのである。

1503: 名無しさんAA:18/10/25 07:51
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   495   >

 ところが、デウス号を爆沈させた有馬晴信は、徳川家康からの使者岡本大八に、その
恩賞として「先祖の失った土地、肥前の藤津・彼杵・杵島の三郡」を取り戻せはしない
かと、大八に相談をもちかけた。本多正純の家臣岡本大八はこれに対し、本多正純に取
次ぐとして運動資金を要求し、これを騙しとったのである。一向に事の進展しないのに
業を煮やした晴信は本多正純に報じた。しかし正純はこの事を知らず、晴信は、はじめ
て己が騙されていたことを知ったのである。事は家康の耳に入り、岡本大八は駿河の阿
倍川原で火刑に処せられる事に至った。しかし、大八も逆に晴信を訴えていた。デウス
号焼打のとき、晴信が長谷川左兵衛(長崎奉行)と衝突し「左兵衡を斬り、長崎を火の
海にして自殺する」と洩らした言葉がとがめられたのである。このため晴信も甲斐に流
されたのち死罪となった。問題はこのあとである。家康はこの二人が共に切支丹であっ
た事を知り「日本人には為し得ないようなことを、キリシタンは敢えて行なう。」と、
切支丹への不信を高めた。更に調べるうち、家康をとりまく側近や侍女の中にさえ切支
丹が発見されたのである。オルファネールは言う。「それゆえ、皇帝は大八の死後、キ
リスト教に対する迫害を公然と開始した」と。これらにより1614年(慶長十九)、
即ち切支丹大追放の年が明けた。この年長崎では禁教令に対抗するかのように連日贖罪
の行列が町をねり歩いた。このおりスペイン系修道会とその信徒達の行列は凄惨を極め
、五月十九日には「三千人以上の血の贖罪者の行列が出た。彼らはかつてみたこともな
い程惨たらしく互いに鞭うっていた。」そしてこの行列には長崎代官村山等安が家族ぐ
るみで公然と参加していたのである。これに対しイエズス会の行列は、かなり見劣りの
するものであった。アビラ・ヒロン『日本王国記』は記す。「行列の歩き廻った距離は
極く短いものだったが、それは町の年寄らが、あの悪魔のような敵がこの上怒らないよ
うに、パードレたちに行列を通りへ進ませないでくれと頼んだからであった。」と。つ
まり幕府に気兼ねした内町乙名達がイエズス会に行列を目立たぬようにと依頼し、イエ
ズス会はこれに応じた訳である。二種類の聖行列を見くらべる時、内町=イエズス会と
外町=スペイン系修道会のそれぞれの連繋がそこにあらわれているように思われる。
こうして寛永17年(1640). ポルトガル使節団長崎受難事件が語り継がれるのである。


1504: 名無しさんAA:18/10/27 03:57
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   496   >

 事の真偽の程はともかく、デウス号事件にまつわる「岡本大八一件」が切支丹迫害の
テコとして家康に利用されたのである。時に1614年、諸国の切支丹は長崎に集めら
れ、この地からマカオ・マニラへと追放される事に決した。「彼はおとなしく謙虚で以
前とは別人のようにみうけられたから、我々は感嘆し、かくも力強く憐れみ深くましま
す我等の主に感謝を捧げた。」と書かれている。このような変化がどのようにして現わ
れたのかはわからない。ただ、長男トクアン・アンドレスを始め、彼の家族の切支丹と
しての優れた行ないが確かに等安に影響しているだろう事がほぼ推測されるのみである
。同じ年の十一月、約百名近い宣教師及び日本人信徒がマカオ・マニラへ向けて追放さ
れていった。しかしオルファネールによれば、この内41名の多きが日本残留に成功し
たという。この中には等安の子フランシスコも含まれていた。つまり等安は、このフラ
ンシスコを始め九人の司祭を長崎沖で小舟に収容し、再び日本へ潜入させたのである。
だが事件はこれで終った訳ではなかった。再潜入したフランシスコは、大坂の陣に際し
て秀頼方に与し、切支丹浪人の慰安に当たる事となった。豊臣秀頼はこの時、キリスト
教の自由布教を約束していたのである。このため、当安もその事に関わり、武器・弾薬
を大坂方へ運びこんだといぅ。しかし大坂方はもろくも破れた。等安のこの切支丹とし
ての一連の行動は、徳川幕府への反抗であり、その発覚は村山一族の滅亡を意味した。
等安は幕府への忠節を証明するため、また自らの地位を高めるため、日・中出合貿易の
拠点を確保すべく、自費で台湾遠征を試み、更に遣明使節の派遣を計画したのである。
しかし事はいずれも失敗に帰し、今や徳川幕府への功労者としての面は全くなく、禁制
の切支丹、しかも大坂方に与した反逆者としての事実のみが残されたのであった。松竹
秀雄の「ポルトガル使節団長崎受難事件」はそもそも1610年からその兆しがあった
と説いている。長崎の海外貿易に関し,「長崎叢書」寛永17年(1640)の項に次の三つ
の記事がある。「その1は『薩摩下甑島に潜匿する伴天連5人,異宗徒2人を長崎にて斬
る。さきに一旦帰国し,或は放流せられて阿婿港に在り,本年唐船に托し渡船したる者
らなり。』その2は,「幕府,平戸のオランダ貿易場を長崎に移し,外国交通の事務を
長崎奉行の管掌とす。オランダ船の平戸に貿易するもの30余年,是に至りて之を遷す。
且沿海に令し,唐・蘭・韓の諸船漂着せばその地より挽船を出し,皆長崎に送付せしむ
」と捕獲曳航の事にしていたようだ。

1505: 名無しさんAA:18/10/27 04:02
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   497   >

 その 3は 同年5月 17日,南蛮船 2般来り,戸町浦口に泊し通商を復せんことを請
う。6月 16日その船を焼き乗員を斬る。」とある。ここで完全にポルトガル船のイスパ
ニア船員を処刑し縁を絶つことを決定していた事になる。慶長 14年(1609) の東南アジ
ア海域の我国海運について」という書面に於て、既に我国の大航海時代の中で1609年に
500石積軍船の破壊したという結果を書いている。徳川幕府の突然、の命令によって、
これを契機ににわかに鎖国貿易の途を辿る。その経過は、但しそれは一挙にではなく、
色々と国内事情や国外情勢をはかりながらも幕府は出していた。慶長15年(1610)5月4日
秀忠スペイン人に通商航海免許を与え,慶長 16年(1611) 7月24日〜1月28日家康より、
オランダ平戸商館長スペックスに渡海朱印状を与え,同年に明国商人に長崎での貿易免
許状を下付している。慶長 17年(1612)10月29日 家康はオランダに対し,パタニ及びパ
ンタムより日本への渡船朱印状を与え、又遅まきながらも慶長18年(1613) 8月にイギリ
ス船通商許可朱印状を出している。また幕府は元和元年(1615) 9月20日には長崎の代官
村山等安にも、台湾占領の為の朱印状を出した(1616.5.5)東安は船13般をととのえ、次
を出し、翌元和 2年 3月には3男ジョアン(秋安)を自分の代理として出発させた。これ
らは1616年 2月25日(元和 2年 1月19日)イギリス平戸商館長リチヤード・コックスから
東インド会社に送った書簡によれば、皇帝(家康)は長崎の富人、東安殿に命ずるに自ら
費用を負担して支那の沿海に在るファーモサと称する島に赴き、戦いて之を取ることを
以てせり。その為に彼は今や船その他の必需品を準備しつつあり。然れども或者は逃亡
せる。君主秀頼様をして、琉球その他発見し得べき所に到りて捜し出さんとするなりと
言えり。」とある。また彼の同年 7月7日(元和2年6月4日)の日記に、この東安の船の内
3般は帰着せり。その船はタカサンゲ即ちファーモサ島に赴く筈なりしが、同地に行か
ず、支那沿岸にて掠奪を行かず、小艇或はジヤンク船11般を牟捕し、船員が抗争せしめ
たため 彼等を悉く殺したり。」と書いている。又同日の日記に、東安の家来の船が数
隻で台湾島の入江をさかのぼって、更に奥地を調査するつもりであったところが、不意
に土民から襲われて、所詮逃げられないと分ると敵の手に陥りたくないので切腹した。
という噂である。」とと綴っている。此処に南蛮貿易とキリシタンを受け入れた信長と
貿易=信仰を知らなかった秀吉と 貿易と信仰を切り離して国を開きたい家康の違いが
あった。国をあげて台湾を獲りに行かないしたたかさがあったのだ。


1506: 名無しさんAA:18/10/27 04:02
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   498   >

同じくコックスの 7月12日(元和 2年6月9日)の大坂又は他所のリチャルド・ウィッカム
への書では「寛永17年6月1日」の書簡には「東安がファーモサ島を征服する為めに派遣
したる諸船は、その目的を達せず般の小船とその中に在りし者を悉く失えり。……その
ため他の者も入ることを敢てせず。支那の海岸に赴き、そこにて1200余の支那人を殺し
たり。而してその会せる小舟又はジヤンク船を悉く掌捕し、乗組員を海中に投じたり。
これがため今年は支那ジヤンク船は、1般も日本に来らざるべしと思わる。因て、長崎
の支那人等はこのことにつき、皇帝に申告せんと決心せり。或は東安がその生命とその
有するもの一切を失う動機となり得べしと考えられる。」とある。つまり逐一本国にに
報告しているが此の事は互いに書かないでおこう。と文をしたためているのである。又
「琉球国中明の神宗実録」にもそれらしい記事が1616年 7月14日に記がある。山王尚寧
,遺通事禁墨来言,週間倭冠各島,造戦船五百余隻,欲協取鶏龍山…・…・・倭若得此
,益芳枚東番諸山……又1617年 8月31日の書に…其長岐ー島,被名為肥前川,島首村山
等安,我呼為桃員者,近受武蔵総揺之命,監主市易交関唐人者也,明石道友乃其領,倭
出版準率,而正木矢次衛門実等安,親随典計之僕,其一人柴田勝左衛門則船中頭目也。
因問其何故侵擾鶏龍一淡水,何故謀拠北港,…・…・・家康匪茄狭湾,有窺我南部之心
,市長岐之首,日等安即桃員者,以他事得罪,家康之滅之也……・・因首長等安造其子
秋安,謀犯鶏箆・淡水,屡失利,不敢帰島…・・・」等の記載があるのだ。何れにして
も、幕府は、家康の後を引続いて秀忠は,オランダ・スペイン・イギリス等の諸外国や
国内商人に渡航朱印状を発行しつつ,その反面ではキリシタン禁教令を出している。最
初は幕府天領(直轄領)にその禁令を敷き、すぐ引続いて全国に出し、長崎の教会1ヶ所
を破壊(慶長 19) し、元和2年(1616) に重ねて禁教令を再度強く発布し、キリスト教会
堂を廃し、唐船以外の外国船の入港を平戸・長崎の二港に制限し、寛永 10年(1633) の
奉書船以外の海外渡航を禁ずる第 1次鎖国令を出し,引続いて翌年(1634) 日本人の海
外往来通商まで制限した第2次鎖国令となり、後寛永11年出島築造に着手する。翌寛永
12年(1635) 日本人の海外渡航はもとより、海外居住地からの帰国をも禁止し、500石以
上の大船建造禁止の第3次鎖国を寛永13年(1636) に出島が完成して出して ポルトガル
人の市中散宿を禁じ令を出した。結局幕府は、台湾を通じた交易を等安にさせようと、
占領許可をおろし、ポルトガルから取り戻そうとしたが失敗し、その報復を恐れて出島
を作ったと言う事になる。

1507: 名無しさんAA:18/10/27 04:03
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   499   >

 等安がファーモサ島を征服する為に船団を派遣したのは台湾に他ならない。かつては
琉球王国と仲良くやっていて、日本にも琉球からの特使に紛れていた。しかし西洋諸国
は「フォルモサ」(ポルトガル語: Formosa, 「麗しの島」) として知られ、中国の封建
制度そのままにポルトガルに上陸許可し台湾島に、漢民族が同島に移住し始めた。17
世紀になって大航海時代の初期はオランダ及びスペインの植民地で、台湾原住民が主に
居住していた。ここで本国の戦闘が東南アジアに伝わりマカオにあるポルトガル居留地
をネーデルラント(オランダ)が攻撃したのだ。そしてこの報復を恐れて2年後の1624
年(寛永元年)、ネーデルラント(オランダ)は台湾島を占領、熱蘭遮(ゼーランディ
ア)城を築いて台南の安平をタイオワンと呼び始める。それは正式に清王朝がオランダ
のみの交易と居住区を認めたからだった。タイオワン事件はそうした中で島の経営に税
金の取りたてをやり始めた事による。ではマカオはどうだったか。マカオもベトナムと
同様な認識で朝貢外交さえすれば日本すら自国のものとする感覚だったのだろう。国の
概念が無いのであった。この熱蘭遮(ゼーランディア)城はこうしたスペインの報復を
恐れて作っている以上日本も海外の報復を恐れ出島を作ったのも当然だった。しかし、
寛永11年から着手し完成が13年(1636)年で2年の月日を費やしている。出島が完成した
後はすぐさまポルトガル人の市中散宿を禁じ令を出して布教を止めて、年第4次鎖国令
でここに収容した。こうなって外国人が市中で見かける事は、有無を言わさず捕縛する
事が出来て、すぐさま天草などの貧農な百姓に一揆が起こるのは必然でそれをキリスタ
ンが支援するのも目に見えていたと言える。すぐに翌年から寛永14年(1637)10月に島原
・天草の乱が勃発した。寛永15年(1638)2月末に原城が落ち,乱は終ったが、この一連
の動きは既に幕府が仕組んでいた事だったと言わざるを得ない。又次の一揆を恐れて、
翌寛永 16年(1639) 7月5日幕府はポルトガル人の入国を禁止し、在住していた宣教師や
キリシタンに帰国を命じた第5鎖国令を出した。これによりオランダ・イギリス及び子
女は誰も居られなくなりこれによって鎖国は完成するに至った。これらの経過を閲しつ
つ、1640年の出来事の冒頭に掲げた、オランダ商館の平戸から長崎への移転命令は寛永
18年(1641)になって通達されたものであるが,長崎叢書のこの記事は寛永17年の五ヶ所
商人の請願その他によって,実質的には寛永17年に決定されていたことを示している。
と考えてよい。それがポルトガル使節団を刑死せしめ,そしてその報復を警戒して,後
に長崎警備制度化に進んで行くことを検討したと考えられる。

1508: 名無しさんAA:18/11/01 17:50
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   500   >

 そもそもこの奇妙な、そして悲惨な日本のキリスタンの歴史がどうして産まれたのか
。平戸オランダ商館日記 (1617) によれば,長崎奉行(幕府)は末次平蔵 (二代茂貞) を
して,オランダ人にマニラを攻撃させようとしたという。次の文書をオランダ側から自
発的に提出せよ。と書かれている。「『謹んで言上する。我々は既に長い間,また最近
にも,マニラの人々が皇帝(将軍)の禁令を破り,禁止された宣教師を日本に送っている
と聞いた。そこで彼等は,罪人として貴下に捕えられた。もし最高の閣老が同地を粉砕
しようと考えているなら,オランダ人は毎年よい時期に,かなりの数の船で日本に来る
のだから,この時期と機会にその船と大砲を,役立てるよう提供する用意が常にある。
我々はこの様な機会には,例外なしに常に日本に奉仕する用意があり,そのために貴下
にこのことを申し出ていることを 信じてほしい。』これは,ニコラス・クーケパッケ
ルが書いた日記であるが,末次平蔵に応待したのは平戸商館の上級商務員カロンである
。カロンは,この件を我々が約束するのは難しいと断っているが,度重なる平蔵の説得
の後に,上司に伝えて上司から回答することを約束している。平蔵は次のように言う。
「貴下は何と気が小さいのか。貴下は何を言っているのか。一・・・・・貴下は謙虚に
次のように言うべきである。『我々が長い間待望してきた聖なる幸福の時が来た。我々
がどれ程日本に奉仕したがっているか,皇帝に示すことが出来る。』と、貴下がこれを
拒絶するなら,第一に貴下は不服従な虚言者と思われるだろう。貴下は常に,日本に出
来る限り奉仕する用意がある。といっていたが,これは虚言だと考えられるだろう。こ
れと反対であることがわかるからである。何故なら,私は奉行にも江戸の閣老にも,『
オランダ人は、少しの取引しかしていないが,彼らは信用出来る人々で,彼らの兵力・
船・大砲で常に皇帝に奉仕する用意があることを,私は知っている』と,度々言ってい
たのである。否,『彼らは皇帝の国の領主の1人のように信頼するに足り,正直である
』とも言っていたのである。第二に,貴下は,貴下の不服従,信頼を裏切ったことによ
り,今後ますます困らされ,貴下の要求し,希望していることが、常に反対を受けるの
は(今後)確実である。更に貴下の船はすべて押収され,貴下の貨物や資本を送り返す
ための船は1隻もなくなる。また、貿易或いは当地の状況の報告も,出来なくなる。」
「何故なら,シナジヤンク船やガレオット船は1隻も碇泊させて置かず,すべて人員を
満載したまま押収しようというのが,御奉行の計画だからである。また西国の領主達の
ジヤンク船は1隻も残さず実行するよう命令を受けるだろう。」


1509: 名無しさんAA:18/11/01 17:50
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   501   >

「これについて,非常によい提案を知らせよう。スペイン人を欺くためマニラ湾の艦隊
の前にガレオット船3隻を進ませれば、彼らはマカオからのガレオット船だと考えるだ
ろう。……(つまり日本に船を譲るか、マニラを攻撃するかせよ。)……このように、
すばらしい3隻多くの船を件について,自発的に熱意を示し,今年或いは例年より2門
送ってほしい。そうすれば,貴下には当然、貴下の資本と貿易維持のために45隻の船が
認められるだろう。その上,注意すべきことに,皇帝がこれを確認し,実行することを
命ずるかどうかは確実ではないが奉行がこれに熱心であり,宣教師の執劫さに我慢出来
なくなり,また、マニラの人々が日本に対して、余りにも度々罪を犯すために,彼らの
絶滅しか望んでいないのは事実である。」と。これは正にスペイン・ポルトガル船に困
った日本が、オランダ船に脅迫しているのである。1617年の話である。少し整理した方
がいいだろう。等安がファーモサ島(台湾)を征服する為に船団を派遣したのは寛永元
年である。この時既に朱印船貿易の台湾占領許可を貰っているのだ。そして秀吉の様に
国は応援しないまま船団を送ったが、丁度マカオのスペインをオランダが襲って台湾の
防備を固めている所だった。其の為散々暴れて帰って来たのだが、その理由が防備資金
に入港料や税金徴収だった。日本側も朝鮮戦争で勘合貿易が途絶えて中国との直接貿易
が出来なくなったからだ。この点徳川家康はかなり慎重に真剣に知識を蓄えての事だっ
た。そしてその前まで、1609年(慶長14年)〜1615(元和元年)朱印状乱発し禁教令を
出した。このすじがきから見えるのは、もし信長が死んで直ぐに家康の時代だったら、
もっと上手く中国に撃って出ただろう。まあ負けてはいただろうが。宇喜多秀家は岡山
城主直家の次男だった。父・宇喜多直家が毛利家を見限り、織田家(羽柴秀吉)に臣従す
ると、1581年に宇喜多直家が病死。1582年、僅か10歳で羽柴秀吉仲介により織田信長
に遺領相続を許された。こうして10歳本領を安堵され、宇喜多秀家が家督を継いだのだ
。重臣が補佐し戸川秀安や長船貞親、岡利勝らが動いた結果とはいえ、織田軍の秀吉勢
の、毛利攻めの最終ではなかったらこうは行かなかっただろう。宇喜多家は羽柴勢の傘
下に加わり、中国地方を転戦した。叔父の宇喜多忠家が代理として軍を率いて、清水宗
治の備中高松城攻めにも参戦し、黒田官兵衛の秘策の献上により高松城水攻めで落し、
宇喜多家に与えられ、重臣の花房正成が城主として入城した。この時キリスタンも鉄砲
や大砲を盛んに供給し、火薬一樽が女子供の奴隷50人だった。男で半数が相場だった
ならば、水攻めの方がずっと安上がりだった。


1510: 名無しさんAA:18/11/01 17:50
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   502   >

 1573年(天正元年)信長は足利義昭の追放し、ルイス・フロイトが謁見した。洋化し
自分が神だと思っていた信長は、イタリア出身のイエズス会宣教師であるオルガンティ
ーノに対して,京都や安土での教会堂(南蛮寺)の建設や安土でのセミナリオ(神学校
)の設立を許可しています。1570年の事だ。ここで確実に明智は自分が信長に攻められ
ている事に気づいたのである。信長が明智に求めたのは人望と人徳であった。つまり人
の頂点になる事だった。しかし、石山本願寺で解るように、仏や神を持ち出す信仰には
全く興味も恐れも無かった。そして西洋のイエズス会までもが宗教と考えが一体化して
げんなりした物だった。日本で宣教活動を行ったイタリア人宣教師オルガンティーノは
カトリック司祭のイエズス会員だった。人柄が良く、日本人が好きだった彼は「宇留岸
伴天連(うるがんばてれん)」と多くの日本人から慕われ、30年を京都で過ごす中で
織田信長や豊臣秀吉などの時の権力者とも知己となり、激動の戦国時代の目撃者となっ
た。ルイス・フロイスの記録によれば、パウロ三木は十字架の上で、押しかけた群衆に
向かって「自分は罪状書きにあるようなフィリピン人でなく、れっきとした日本人であ
る。私はキリスト教を信じたというだけで 殺されるのである。この理由のゆえに私は
命をささげることをいとわない。私はキリストの教えに従い、自分の処刑を命じた人(
豊臣秀吉)と処刑にかかわったすべての人を許したい」と叫んだという。このパウロ三
木はオルガンティーノの安土城内に作ったセミナリヨ神学校の一期生だったのである。
1582年6月2日、明智光秀による本能寺の変で、織田信長が死去。羽柴秀吉は安国寺恵瓊
を呼び、毛利輝元と和睦となった事で、宇喜多秀家は備中東部から美作・備前を領有す
る57万4000石の大大名となり、毛利家の監視と抑えを担った。直家の子である宇喜多秀
家は秀吉子飼いの武将ともいえる存在で五大老の一人として、関ヶ原の戦いで西軍につ
いたことから、行長も宇喜多家との縁で西軍についたとする説もあるがこれがキリスタ
ン繋がりだった。石山本願寺で現場で辛酸をなめて悲惨さを知っていた秀吉や家康には
舶来品の技術や交易の利潤は取りたいものの神の下で命を落とす事をいとわない信者と
の争いはまっぴらだった。こうした事で武断派と、関ヶ原の戦いでは東軍についた領地
が隣同士でありながら、仲が悪かったとされる加藤清正は対立し東軍についていた。小
西行長は、信長と同じにキリシタン容認の西軍についた。


1511: 名無しさんAA:18/11/01 17:51
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   504   >

1562年(永禄3年)  足利幕府の イエズス会布教公認
1561年(永禄5年)  横瀬浦開港・西海トルレス教会建設
1563年(永禄6年)  口之津アルメイダ教会学校開校 平戸フロイス教会再建
1564年(永禄7年)  宗麟庇護の大分トルレス教会  3ヶ条の制札布教
1566年(永禄8年)  松永久秀の足利義輝の将軍暗殺 エラ、フロイス京都追放
1568年(永禄11年) 信長の足利義昭の京都入場許可
1569年(永禄12年) 天草領主直種が崎津教会が建設 長崎サントス教会建設
1570年(元亀元年)  天草志岐の司祭イルマン会議  長崎港開港
1573年(天正元年)  信長の足利義昭の追放     フロイトの謁見
1579年(天正7年)  安土城内の教会建立      セミナリヨの盛況
1580年(天正8年)  安土と島原へのセミナリオ誘致 イエズス会の台頭
1581年(天正9年)  本能寺の変
1582年(天正10年) 天正遣欧少年使節団の長崎出港
1583年(天正11年) 島津義久のイエズス会追放
1584年(天正12年) スペイン商船平戸来航
1587年(天正15年) 伴天連追放令 発布     
1588年(天正16年) 秀吉の長崎没収キリスタン追放
1589年(天正17年) 加津佐コレジオ神学校の迫害
1590年(天正18年) 秀吉の北条攻め      天正遣欧少年使節団の長崎帰港
1591年(天正19年) ルソン総督入貢貿易    グーテンブルク印刷機輸入
1596年(慶長元年)  豊臣秀吉の禁教令布告   フェルペ号の土佐漂着
1597年(慶長2年)  島原城築城        日本26聖人処刑   


1512: 名無しさんAA:18/11/01 17:51
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   505   >

1598年(慶長3年)  太閤 豊臣秀吉死去    
1599年(慶長4年)  大村玖島城建設      フランシスコ浅草教会建設  
1600年(慶長5年)  豊臣徳川         関ケ原の戦い
オランダ船豊後漂着、ウイリアム・アダムス徳川謁見、細川ガラシャ・小西行長死亡
1603年(慶長8年)  徳川家康将軍宣下     長崎直轄公領公布    
1604年(慶長9年)  有馬晴信原城完成     等安の謁見長崎代官安堵 
1608年(慶長10年) マカオのポルトガル総督の有馬朱印船乗務員の大虐殺
1609年(慶長14年) ポルトガル船デウス号撃沈 徳川家康謁見等安  
           家康のポルトガル親書 貿易保護の約束
1611年(慶長16年) 京都神学校 創立
1612年(慶長17年) 徳川幕府 領内禁教令布告 京都教会破壊
1613年(慶長18年) イギリスの通商許可    浅草鳥越殉教者36人
1614年(慶長19年) 司祭総払い 38名追放  4名斬首 37名他潜伏
1615年(元和元年)  台湾(高砂国)征討の勅使、次男・村山秋安用意させる。
1616年(元和2年)  徳川幕府  徳川家康死去 外国船長崎港平戸港 入港規制
           キリスタン西国大名の一斉取り締まり
1617年(元和3年)  ペトロ神父処刑   台湾派兵占領失敗  タイオワン事件
1618年(元和4年)          タオオワン事件逃避者発見 捕縛
1619年(元和5年)  禁令強化    末次平蔵の訴えにより   
1620年(元和6年)  ミサ施設破壊
1621年(元和7年)
1622年(元和8年)  元和の大殉教       平山常陳事件
1623年(元和9年)  キリシタン隠避者の同等罪 江戸の東海道大殉教 
1624年(寛永元年)  支倉ソテロ火炙りの刑   キリシタン渡航禁止 
1625年(寛永2年)  キリシタン弾圧開始
1626年(寛永3年)  踏み絵探索の開始     松浦氏の仏教改宗
1627年(寛永4年)  長崎居住禁止       松倉重政の340人処刑



1513: 名無しさんAA:18/11/01 17:51
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   506   >

1628年(寛永5年   長崎奉行水野守信の、キリスタン処刑
1629年(寛永6年)
1630年(寛永7年)  寺請け制度開始       島原で藩主交代
1631年(寛永8年)  長崎奉行竹中重義の、キリスタン雲仙拷問
1632年(寛永9年)
1633年(寛永10年)               (第1次・海外渡航の禁止)
1634年(寛永11年)               (第2次・通商貿易の禁止)
1635年(寛永12年)               (第3次・大船建造の禁止)
1636年(寛永13年) ドミニコ会4聖人磔け     出島の建設開始
1637年(寛永14年) 天草・島原の乱        イタリア人宣教師 捕縛
1638年(寛永15年) 天草・島原の乱原城陥落(春)(第4次・出島外の入国禁止)
1639年(寛永16年) 外国人入国 再禁止 捕縛  (第5次・鎖国令 帰国命令)
1640年(寛永17年)
1641年(寛永18年) オランダ商館の平戸→長崎  (海禁体制の確立)
1642年(寛永19年)
1643年(寛永20年)
1644年(寛永21年) 最後の宣教師マンショ小西の殉教
1646年(生保3年)   筑後守山屋敷をキリシタン収容所(切支丹屋敷)設置 
1657年(明暦3年)  大村郡(こおり)崩れ  608人捕縛 411名の一斉斬首
1658年(万治元年)  平戸
1600年(万治3年)  豊後崩れキリシタン処刑 220名捕縛処分
1661年(寛文元年)  美濃外のキリスタン狩り 7年間3000人処刑
1663年(寛文3年)  肥後崩れキリスタン処刑 33名捕縛処分
1790年(寛政2年)  浦上一番崩れ191名捕縛処分 大村民の五島移住 
1804年(文化2年)  隠れキリスタン調査5,202名の潜伏伴天連が発覚



1514: 名無しさんAA:18/11/01 17:54
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   507   >

『長崎叢書・増補長崎略史』によれば、「嘗て東安の長崎に来るや落魄し未次興善に頼
る。代官となるに及ひ又興善と快からす。元和二年(四年の誤)興善の子平蔵其旧債を
責む。東安顧みす終に官に訴へ皆江戸に召さる對審に及ひ平蔵辞屈す 即ち東安か大坂
に通したる密事を告く 初め東安か子某天主教を修むるに坐し阿媽港(マカオ)に放た
る 東安中途に於て窃に之を奪ふ 又去年之を大坂に篭城せしめ又玉薬を輸送せり 是
を以て東安は江戸に斬せられ一家十三人は長崎常盤崎に磔せられ家亡ふ。」と書いてい
る。つまり興味深いことは、追いつめられた平蔵が、等安が切支丹である事、大坂の陣
で豊臣氏に荷担した事等を訴えて、その巻き返しを計ったことである。平蔵は平戸の中
で木村氏を祖とする、いわばザビエル以来の名門切支丹であり、イエズス会との関係も
深い。しかし、にもかかわらず平蔵は等安を訴えるに、切支丹であることをもってその
主な訴因とした。等安を切支丹として訴える事は己れの背教をも意味し、それはキリス
ト教界に対する裏切りをも意味する。それでも平蔵は、この事件以後、苛酷な迫害者と
してイエズス会をはじめとする日本キリスト教界の前に立ち塞がったのである。ここに
イエズス会=末次平蔵・内町の連繋は断ち切られた。末次平蔵にとっては貿易商人の単
なるアイテムに過ぎないキリスト教に興味はなかったし、仏教すら関係なかった。イエ
ズス会にとってはまさに青天の霹靂、信ずべからざる事であった。現にパードレ・コー
ロスなどは平蔵の背教を信じず、1620年五月、平蔵が自分を捕らえようとした時、
初めて彼の棄教を認めた程であった。ところが等安の場合、逆にキリスト教への肩入れ
が激しくなっていっていた。公然と贖罪行列に加わり、追放切支丹を救出し、挙句はキ
リスト教の自由布教を約束する秀頼(大坂)方に荷担するという有様であったのだ。こ
れは市民レジスタンスで救済の為の抵抗だった。仮にも 長崎を代表する代官が御禁制
の切支丹であり、幕府への反逆者であり、その発覚は一人等安が罰せられるだけでは収
まらない危険はしっていた。だが長崎自体にあたえる影響よりその後の自由が大事であ
ったし、無辜の庶民の信仰は大事な事だった。これを防ぐために道は一つ。幕府に露見
する前に、内町の庄屋や長老の手で等安を訴える事であると平蔵は考えた。彼を切支丹
として、また反逆者として告発する事は、彼らが幕政の忠実な実行者として幕府に迎え
られることであり、対立する外町の行政権を獲得することでもあった。これが島原での
しめ縄飾りにつながった。こうしたキリシタン狩りからの防衛手段として、各家庭は盆
と正月にしめ縄飾りを掲げ替えるがそれでも年中入口に飾る。自分達は日本の神仏を祈
る宗徒であると言う証明として。

1515: 名無しさんAA:18/11/01 17:55
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   508   >

 寛文7年(1667年)、幕府の鎖国政策に反して朝鮮と密貿易を行った罪により、
博多商人伊藤小左衛門とその一族は処刑され満四郎神社は、建立された。父小左衛門に
連座して処刑された、小四郎と万之助兄弟の幼い魂を祭ったと伝えられる。商売繁盛や
子供の健やかな成長祈願にご利益のある神様として信仰されている。別の伝承によれば
、小左衛門に仕えた老狐を稲荷の神として祭ったともいう。伊藤小左衛門や平蔵は、ち
ょうど商人の新旧交替の時期に、華々しく散っていった豪商だった。長崎奉行所の犯科
帳や、外国人宣教師が日本のことについて書いた記録などです。それらをつなぎあわせ
て、かいつまんでお話ししますと、小左衛門は博多の生まれではなかったようで、出生
についても諸説があります。粕屋郡青柳村(古賀町)の出であるとか、鞍手郡木屋瀬(
北九州市植木)や、遠くは尾張名古屋説まであります。2代目小左衛門が、鎖国令に反
して、朝鮮への武器密輸事件をおこし、一家断絶、結局2代しか続かなかった。本拠を
博多浜口町に置き、長崎にも出店した。一説によれば壱岐や木屋瀬にも出店していた。
と言われている。また経営内容も非常に漠然としています。当時の博多商人の営業は、
海外貿易と貿易商人への貨幣の融通が主体でしたから、小左衛門も同様のことをやって
いたでしょう。オランダ商館やポルトガル商人とも取り引きがあったと思うのですが、
不思議なことに、それらの外国人は、小左衛門に関して、あまり多くを語っていません
。ただ、オランダ商館員が「小左衛門は毎年銀10貫を消費できる身分で、通詞や乙名(
おとな)(長崎町役人のこと)の話では、銀7千貫以上の資産を持つ豪商である」(『
オランダ商館の日記』)と書いている。豪商でなく投資家で投銀の鉱山師だったのかも
しれない。巷(ちまた)の噂にのぼるような大商人で当時、だいたい銀千貫ぐらいを金
持ちと言ったようですから、7千貫となると、今で7千億のたいへんな豪商です。噂話
はこのほかにもいろいろあって、長崎の五島町の支店の天井は総ガラス張りで金魚を泳
がせていたとか、外出には駕籠を使っていたので、小左衛門の顔を見知っている者はい
なかったとか言われて不明瞭ではある。しかしこの小左衛門の株が福博商人の中で浮上
したのは、寛永期(1624−1643)以降、少なくとも、正保4年(1647)の長崎黒船来航
事件後の頃だ。寛永の博多糸割符(はかたいとわっぷ)には小左衛門の名前は見あたり
ませんが、承応期(1652−1654)の糸割符では、最高の割付けを獲得している。この、
急激に出現したのはポルトガル船デウス号撃沈後に何らかの形で、この積荷を引き揚げ
処分したのが伊藤では無かったかと思われる。未次興善の後継者となって幕府や国の為
働いたのである。

1516: 名無しさんAA:18/11/04 07:57
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   509   >

 1594年、長崎の町役である乙名たちやルソン壺を扱っていた商人たちが秀吉から
呼び出しを受け、その中に等安がいた。その集団が秀吉と面談することになった際に、
交渉力のある等安が代表に選ばれ、秀吉に気に入られた。等安という名は、秀吉からの
名前を尋ねられ「アントン」と答えると、「ト−アン」とするように命じられたものだ
という。等安は秀吉から、外町(51町)を差配する代官職に任ぜられそれ以降代官と
なっている。その後、長崎の商人として朱印状を受け、貿易船を渡航させ財を貯えて行
ったと考えられている。徳川幕府の支配が開始されると、長崎は幕府の直轄地とされ、
今まで代官の下の奉行は、江戸幕府の奉行職として置かれる事になった。奉行の職務は
主として、港の治安維持と貿易の管理だった。1604年、等安はイエズス会のジョア
ン・ロドリゲスとともに徳川家康に謁見し、引き続き長崎代官として外町の行政にあた
ることを承認されたものの、直轄領には揺らぎが無かったと思われる。多分ここで幕府
は台湾を獲れれば等安に任す事を話したに違いない。というのもそれから充分に攻めれ
れるべき用意をしているからだ。だからこそ息子を行かせている。だがこのスムーズに
行くべき台湾遠征に大きな障害があった。実はこの村山等安の台湾遠征の計画に最も大
きな危機感を持っていたのは、かねてより生糸の転売で大きな利益を上げていたポルト
ガル商人らであり、その背後で経済的繋がりを持つイエズス会そのものであった。本来
ポルトガルはマニラでありルソンである。オランダがいた台湾では敵であったはずだが
、ここにきてイエズス会と敵対する長崎の等安勢力が台湾へ遠征するという情報は、彼
らに少なからぬ驚きをもって受け取られ情報が走った。もしも、この等安の遠征計画が
成功すれば彼らは日本での生糸の独占的市場を失い莫大な経済的損失を被ることになる
わけで、彼らがこれまで独占してきた仲介貿易事業も宣教活動も一気に破たんする要因
にもなりかねない。こうして南蛮貿易の宣教師勢力は結束して直ちに遠征の妨害工作に
出た。実はこうした日本(幕府)と中国(明)との直接の交易の動きは以前より是が非
でも阻止するよう、彼らのバチカンの教会本部の上層部から特別に指示が出されていた
事が判明している。それは、日本の為政者である将軍が、明(中国)との直接の交易を
強く望んでいることを察知していたからでもあった。だが『長崎叢書・増補長崎略史』
既に等安の息子は阿媽港(マカオ)にて貿易が失敗し、イエズス会のお尋ね者となり、
大きな怒りを買っていて、大阪城を味方にせざるしかなかったようだ。「是を以て東安
は江戸に斬せられ一家十三人は長崎常盤崎に磔せられ家亡ふ。」と言う処刑は、キリス
タンの利用が徳川幕府の当初からの狙いだった事を物語る。

1517: 名無しさんAA:18/11/04 07:57
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   510   >

 1610年2月17日付けリスボン発、ポルトガル国王のインディア副王宛書簡「モンスー
ン文書と日本: 十七世紀ポルトガル公文書集」(p173ー175 1610年、文書13)より引用
)では「台湾を獲得し中国貿易を行おうとする日本国王の意図を、策を用いて妨害する
よう」命令を出している。本文では、「現在日本全土を統治している国王(徳川秀忠)
は、彼らが高砂と呼ぶフォルモザという島に遠征する準備をしている。其処は、泉州の
沿岸の近くである。彼ら意図は、そのフォルモザ島を獲得して、其処とシナとの間の貿
易を手に入れることである。(中略) 日本人たちにその「狙い」が 遂げることなど
出来ない旨の偽装工作をすることによって、それが成就しないよう尽力することを依頼
する。」となっている。南蛮がこうした対抗策に出る直前の慶長十三年(1608年)家康
は日本に漂着した台湾のアミ族の者と駿河城で直接引見していた。これ以降には台湾に
興味を持った家康は、その翌年、有馬晴信に台湾探険を命じている。家康の命を受けた
有馬晴信は、部下を台湾に送ってまずは視察をし、原住民を撫順してから通商を試みた
が、結果は失敗に終わった。元和元(1615)年、今度は長崎代官・村山等安が高山国の
朱印状を得る条件にしたのだった。実は、当時の台湾には主権者たる「国王」がおらず
、各地方の代表者といえば各集落の首長であり、国書の受け渡しなどできる状態ではな
かった。これは入貢のことなど話をすることができない状態を意味する。しかし、以前
にも山田長政がシャムへ行く途中に一時台湾に停留していたり、泉州堺の商人・納屋助
左衛門(呂宋助左衛門)が文禄3年に台湾の物を、日本に帰って秀吉に謁見して珍品を
献じたりしていた経過もあり、ポルトガルも充分に蛮行を働いたと推測できる。江戸幕
府は台湾で勢力を持つ高砂族との関係改善を強く要望して、早くから明国や東南アジア
との交易の際の中継基地となる拠点造りを企画していた。それがオランダに先を越され
、それでもこの時代いまだにそれは果たせないままでいた。翌年の慶長十四年(1609年
)、九州大名の有馬晴純は家康の名により、台湾へ朝貢を促すために渡海したが、台湾
の原住民との交渉は成功せずに追い返されてしまっていた。これは、事前に講じた南蛮
勢力側の妨害工作が成功した結果であった。こうした中で改めて長崎代官・村山等安が
、台湾遠征計画に名乗りを上げたわけである。この時建白書が、等安や他から幕府へ奉
じられたのかも知れない。等安を育てた末次氏当たりも過去から知って居た筈だだった
。幕府は、国体主導によって台湾遠征の事業が考えられたが朝鮮の様な失態では明王朝
との大戦争を想定し、避けるしかなかった。それを実施すること自体大変な企てである
が、これ以上の明との交易遮断は避けたかった事は違いはなかった。

1518: 名無しさんAA:18/11/04 07:58
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   511   >

 博多糸割符は博多商人の勢力の分布を象徴している。糸割符というのは、生糸貿易の
入札権利のことだ。博多は伝統的に貿易港だった。糸を売買する商人は非常に沢山いた
。そこへ鎖国令が敷かれ、寛永12年(1635)に海外渡航が禁じられ、明船来航も長崎に
限定された。そうなると生糸貿易量が限られ、活気ある商人は密貿易に走りかねない。
それを先取り、防止策に黒田藩は最初に糸の貿易の権利を藩公認で分けて与えてた。と
いうのが、博多糸割符で手数料での先行貿易の投資金だった。だからその権利は、米問
屋相当の力のある豪商でないと与えられない。保証が居るからだ。鉄や伊万里焼などの
貿易で財を成したと言われている伊藤が、下人からの密告で武器を朝鮮と密貿易をして
いたと発覚し囚われの身となった結果、小左衛門一族は長崎など各地でことごとく処刑
され、博多柳町浜の刑場でも多くの関係者が処刑された。のちにその悲劇的な事件を祀
る祠が造られた際、罪人として処刑された小左衛門を祀るのは、はばかられるとのこと
で、小左衛門の三男小四郎と四男萬之助の名前をあわせた「萬四郎」という名で祀られ
た。また、境内の「白川稲荷大明神」は小左衛門に仕えたとされる狐を祀ったものだと
言われる。萬四郎神社は現在は博多の商人に商売繁盛の神だが、伊藤小左衛門の悲惨な
エピソードを物語る神社であったのだ。大久保氏族はもともと宇都宮氏の一族で宇津と
呼んでいた。三河国に松平氏に仕え大久保氏を名乗った。相模国の小田原藩の大久保家
( 11万3千石)は、天下の御意見番大久保彦左衛門の一族である。忠茂の三男の忠員は十
男二女をもうけ、徳川家康の関東入国で、嫡男の七郎右衛門忠世は、相模国小田原4万
5千石となる。次男の治右衛門忠佐は上総国茂原5千石。忠世の嫡男の相模守忠隣が武
蔵国羽生2万石。大久保忠隣は老中務めた。本多佐渡守正信と対立し大久保長安事件で
改易のうえ蟄居し忠隣の嫡孫の忠職は連座して蟄居させられたが、後に許され武蔵国私
市(騎西)2万石、美濃国の加納藩5万石。子孫は、播磨国の明石藩7万石、肥前国の
唐津藩8万3千石、下総国の佐倉藩9万3千石を経て、相模国の小田原藩10万3千石
となった。分家に、下野国の烏山藩3万石。又、鉱山師の大久保長安の大久保姓は、大
久保忠世からあたえられた姓で、元は大蔵姓だった。天草の乱では鍋島勝茂は割り当て
以上の3万2092人の軍勢を派遣し、原城総攻撃の際には幕府の総指揮を執る松平信綱の
決めた期日を守らず、1日早く攻撃を開始し、軍令違反に問われ、翌寛永15年(1638年)
に評定所に出頭を命じられて逼塞を申し渡される。また、勝茂の代の寛永19年(1642年)
に幕府から長崎御番役を福岡藩と1年交代で行なうように命じられた。

1519: 名無しさんAA:18/11/04 07:58
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   512   >

 ここに大久保氏が絡んでいる。ところが寛文七年(一六六七)、通報する者があり、密
貿易が発覚した。伊藤小左衛門は実は貿易実行していたのは対馬出身の大久保甚右衛門
ら海商で、数年間にわたり朝鮮へ鳥銃・硫黄・鎧・長万・脇差・鉄砲薬ならびに金など
を、大量に密輸していたのである。つまり伊藤は只の投資家でしかなかった。ここに、
徳川幕府の政変がある。つまり、実行部隊は何故か天下の御意見番の大久保彦左衛門や
大久保長安の姓と同じに大久保甚右衛門とされる。対馬出身の大久保は恐らく金山関係
で島流しにあっていた者だった。と考えられる。そして伊藤小左衛門自身も鉱山師の出
身だった。伊藤は太宰少弐武藤氏から貰い姓である。本来大橋家や橋本家を家系の祖と
している種族である。大橋家や橋本家は古代豪族の流れを持ち、奈良において紀元前か
らの住民とされる。元々北畠氏系の農民で、桓武平氏の流れで、平貞能が肥後国山本郡
大橋に下向し、大橋氏を称したことに始まるとされる。宗良親王の時代に下向した親王
を護衛し都造りを受け持った一族である。南北朝時代の事だ。彼らが住み着いたところ
に柳川にもある。大橋氏や石橋氏はかつては大阪の浪波の波止場を作ったとされる海童
とされ、彼らは童顔の特徴を持つ中国人だったとされる。柳川伝播では、明治まで彼ら
は土木の工人として重宝されたと言う。熊本の村上水軍に属したとされ、西洋より早く
ラチス構造を持った細工をしていた。とされる。つまり水道橋の様なアーチ状の石橋造
りの名人であったがその下地となる木枠がアーチ状の木柵ラチスを用いていたとされる
。かつて朝鮮征伐時代に朝鮮での加藤清正の城も築いた。あの重たい石の下地をどう受
けてて眼鏡橋の様なものを作ったのかは不明だが筋交いが大きな役割を持った事は確か
で、日本古来の錦帯橋の様な羽根出しの文鎮型の束構造の社寺構造では無かったと考え
られる。この黒船がやって来た事で蛇骨構造とアスファルト防水が日本にやって来たと
言える。大久保甚右衛門が活躍したであろう江戸中期までは、恐らく日本の中で、一番
貿易商人が虐(いじ)められた時代だった。海外貿易には2つの問題がある、一つは当
然ながら言葉であり慣習である。もう一つは相手国の体制である。特に南蛮貿易に於い
て、キリスト教と英語なりラテン語は必須の物であった。しかしここで通訳たる宣教師
の処刑や弾圧があり、加えて伴天連書物とされた辞書や風物書物は宗教書と共に焚書と
された事で、彼らの本拠地は対馬しかなかったようだ。

1520: 名無しさんAA:18/11/04 07:58
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   513   >  

 初代は末次興善の長男宗得の娘と結婚している。このことから末次家との深い繋がり
をうかがい知ることが出来る。また信心深い所もあり、出身地と言われる木屋瀬にある
八所神社の再建に多額の寄付をしたり、清水寺に梵鐘(現存)を奉納している。江戸時
代の長崎街道の宿場町の木屋瀬宿として栄え、筑前六宿の一つに数えられていたのが、
木瀬屋(こやのせ)である。鞍手郡に属していた村だが、1955年(昭和30年)八幡市へ
編入され町に変わった。一方京都清水寺は真言僧慶順(けいじゅん)が元和9年(1623)
当寺を開創したが、寺観の整備に意を用いて、寛永19年(1642)博多の豪商の伊藤小左
衛門尉(いとうこざえもんじょう)吉次の援資により、京都三条釜座(かまざ)伊豆守
藤原朝臣(ふじわらあそん)真次の鋳造(ちゅうぞう)した梵鐘(ぼんしょう)1口を
得た。戦時中の金属回収も免除された名鐘で、長崎に現存する日本の梵鐘では最古のも
のとなり、また京都の鋳物師(いもじ)の鋳造したものは現在これだけが残った。禁制
品の武具類を朝鮮へ密輸出して抜荷(ぬけに)の罪で捕えられ、寛文7年(1667)11月
一味の首魁(しゅかい)として磔刑(たっけい)に処せられた伊藤小左衛門吉直は、吉
次の子であったが、当時の貿易は大体抜荷と紙一重であったから巨万の財を得た。初代
小左衛門は慶安2年(1649年)に享年は70で死去。妙楽寺に葬られた。そして二
代目が「悲劇の豪商」と呼ばれるのが、この伊藤小左衛門吉直である。小左衛門は黒田
藩の御用商人として藩を支えていた。寛永16年(1639)の鎖国後、キリスト教へ
の弾圧はますます厳しくなると同時に、鎖国政策も強化されていった。その矢先正保4
年(1647)6月、ポルトガル船2隻が長崎港に入港した。イスパニアから独立した
ことから再度通商を求めるための来港であった。幕府は長崎奉行に、福岡、佐賀の両藩
に長崎港を厳重に警備することを命じた。この時期、福岡藩主、黒田忠之は300余艘
の船、1万の兵を率いて出陣した。小左衛門は同じ博多の御用商人大賀宗伯と共に軍に
従った。長崎ではポルトガル船を焼き払う方法を取ることとなった。そのためには大量
の焼き草が必要となる。佐賀藩は領地は近くで薪の確保は迅速に出来たが、福岡藩の領
地は遠く確保もままならない。黒田忠之は頭を抱えてしまった。がしかしここで、小左
衛門と宗伯は素早い行動に出た。稲佐にある家を買い集め、なんと一夜のうちに屋根に
使っている藁や柱などをかき集めて焼き草を調達してしまった。結局、ポルトガル船と
は穏便に話がつき速やかに帰帆することとなった。

1521: 名無しさんAA:18/11/04 07:59
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   514   >  

 この時黒田忠之は窮地を救ってくれたことに感謝し、その功績を讃え、家紋入りの陣
羽織を与えた。その陣羽織には火薬が塗ってあり、万一の場合は自爆する覚悟だったと
言われる。このような事から小左衛門は確かな地位を確立していった。小左衛門は浦五
島町に邸宅を構えていた。その他にも船津町に別宅、水の浦には別荘があったと言う。
天井にはガラスで水槽を作り金魚を泳がせ、その贅を尽した作りに来客など見るものを
驚かせていた。その屋敷では歴代の長崎奉行をもてなし、蔵屋敷としての機能を発揮し
ていたために福岡藩の屋敷が出来るのが他藩より遅かったとも言われる。正保の頃に、
佐賀藩主である、鍋島勝茂はその臣下に「福岡藩の伊藤、大賀という者たちが、黒田家
に代わって長崎屋敷で長崎奉行をもてなしているそうだが、彼らは一体、何者なのだ」
と問いただしている。長崎での深刻な米不足により長崎奉行はその対策を小左衛門に命
じた。小左衛門は東北からの買付けを行い、奉行の信頼も厚いものになる。そしてその
後も糸割賦商人となることにより蓄財を進めていく。しかし、繁栄を誇った小左衛門も
遂にその罪が明るみに出てしまう。小左衛門は、寛文2年(1662)から、寛文6年
(1666)の間に7回の密貿易(朝鮮への武器の輸出)を行っていた事により、寛文
7年(1667)6月25日長崎でとらわれた。この事件で捕らえられた人数は270
名あまりにのぼり西国一帯を股にかけた大密貿易団だった。小左衛門が引き連れられて
いくときに大勢の町人を見て「この中に木屋瀬の者はおらぬか」と大声で問いかけると
一人の町人が出てきた。小左衛門はこの男に身につけていた金のたばこ入れを与えたと
いう。小左衛門の息子甚十郎以下150余人が捕らえられたのは寛文7年(1667)
10月15日であった。この日は甚十郎の婚礼が予定されており祝宴が行われる予定で
あった。(この事件のため戦前までの博多では10月15日に祝言をあげることは避け
た風習があった。)11月19日甚十郎は博多で処刑され、この時博多の町人達は戸を
閉じて商売を止め、仏壇の前で今日を唱え成仏を念じたという。続いて、11月29日
小左衛門一族は西坂で磔となった。博多の妙楽寺には小左衛門の墓、伊藤小左衛門父子
哀悼碑がある。また同時に処刑された幼い二人の息子小四郎・万之助を供養するために
小左衛門の屋敷の裏側に万四郎恵比寿神社が建てられている。が近年の調査からこの子
達はこの時に処刑はされず助命されているようである。この社内では子供が遊んでいて
も怪我をしたことがないと言伝えられる。


1522: 名無しさんAA:18/11/04 07:59
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   515   >  

 伊藤小左衛門について近松門左衛門が書いたものに「博多小女郎波枕」があり、小左
衛門は毛剃九右衛門として描かれている。この演題は市川団十郎によっても取上げられ
ている。団十郎が長崎に来たときに高木代官は5本爪の龍を描いた唐人服を送っている
。江戸に戻った団十郎はこの唐人服を着て毛剃を演じたところ大変好評で有ったという
。団十郎の供養塔は聖福寺に現存する。『博多小女郎波枕』は、人形浄瑠璃世話物で、
3巻の大作を近松門左衛門は作った。1718年(享保3)11月20日,大坂竹本座で初演した
。物語は、京の商人の小町屋惣七が、下関から毛剃(けぞり)九右衛門の率いる海賊船
に乗り合わせた所で発展する。博多へ下る便船に乗り、その船主毛剃九右衛門(けぞり
くえもん)が抜符買(ぬけふかい:密輸)の頭目だったことを知ったため、海中へ投げ
込まれるが、運よく伝馬船(てんません)で逃げ延びる。落ちぶれた姿で知った所の博多
の博多柳町の遊廓(ゆうかく)奥田屋へ恋仲の遊女小女郎を訪ねる。が惣七は、運悪く豪
遊する毛剃一味に出会い、仕返ししようとするが、なだめられ、小女郎の身請けを条件
に、この金欲しさに同意して、仲間に加わるのである。これが前半であり、上の巻「元
船(もとぶね)」と「奥田屋」が舞台としている場面題目だ。後半は、中の巻・下の巻の
、小女郎と京都心清町(しんせいちょう)で所帯をもった惣七が、父の意見によって毛剃
と手を切り、草津へ落ち延びるが、罪状が知れて追い詰められ、自害するまでを描く。
意志の弱い男が女への愛着のため、しだいに破滅に至る過程を描写、父子の愛情もよく
描かれているが、歌舞伎(かぶき)では、毛剃を主役に改訂され、ことに7世市川団十郎
の創始した演出が現代に伝わり、普通、上の巻だけを『恋湊博多諷(こいのみなとはか
たのひとふし)』の名題(なだい)にして、惣七を小松屋宗七の役名で上演することが多
い。巨大な元船を飾って大道具のスペクタクルを示す「元船」と、「奥田屋」の異国趣
味豊かな廓(くるわ)情緒が特色で、通称「毛剃」として呼ばれる。享保三年(1719年)
近松門左衛門の頃は、日本の漁船(韋駄天)が海賊に襲われた。昔から瀬戸内には村上
水軍など名だたる海賊が横行していた事から、海賊を扱ったスケールの大きな作品を発
表したいと思っていたらしい。文献によると享保三年十月、近松が六十六歳のとき、海
上抜荷買い(密貿易)の罪人六十四人を刑に処した事件があって、それに惹かれて丹念
に状況を聞きまわり後世に残そうとこの浄瑠璃が出来た様に言われている。


1523: 名無しさんAA:18/11/04 08:00
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   516   >  

主人公は、毛剃九右衛門。名前からして海賊の頭領だ。歌舞伎だと『元船』の演出で、
月光を背に元船の舳先に立ち、舞台が大きく廻る勇壮な一コマとなる。ところが面白い
ことに、第二の『奥田屋』の場面では、この海賊はいたって小心なところがある。海賊
一味が大勢で遊んでいる博多の廓、奥田屋の中に手入れが入ると聞くと怯えるのである
。「奥田屋の段」の冒頭は、意味の解らない詞から始まる。“いひきにて、いひきにて
、すいちゃえんちゃ、すはひすふいちょうお、ひいたらこはいみ、さいはんや、さんそ
、わうわうわう” 座敷での 按摩の欲市が弾いている歌だ。この曲は「唐人」といい、
詞も「唐人詞」といっている。当時の人々のイメージとしての“唐の言葉=外国語”ら
しきものを使うことによって、博多のエキゾチックな雰囲気を醸し出そうとしている。
これは、イエズス会の聖歌だ。最後の「Wow~ww」などは驚いた時の感嘆符であろうと思
われる。「HeTalrrco hai me 」は返事を私の元に。と意味になる。「Sanhainn ya san
soo」一緒に上海に行こう。ともとれる。「Soo Wie enntr 」君も僕も終わりだ。「 su
o Wer hesu fuu eii How tyou」世界も知らずに馬鹿な事だ。「Ee he kee Neite 」は
東の中心。つまり「東の教会から、東の教会へ、世界も知らずに馬鹿な事だ 上海に一
緒に逃げよう、君も僕もこの国では終わりだ。返事は私にくれ あ〜あ神よ。」となる
。既に処刑が決った伊藤小左衛門か、或いはキリスタン宣教師の話した言葉では無かっ
たか。と推測する。まあいい加減だけど大方は当たって居るだろう。大坂・竹本座初演
で、当時話題になった長崎の密貿易団事件に取材した作とされる。多分近松門左衛門が
見聞に、江戸から大阪に出かけた頃は、東海道で多くのキリシタンが古い木杭の十字架
に、そのまま髑髏になって磔(はりつけ)て居乍ら朽ち果てていている数十人の中を通
り、大阪や京都の関所の前には、踏み絵と首切り坂を越えて行かなければならなかった
はずだ。首切り坂には、それぞれの罪状を書いた立て札の下に顔だけ地面から出ている
中で、竹や木で作った鋸を役人のいる中で引かねばならず、その時は切れもしない鋸の
痛さに うめき声や新たな血が流れて、目を見張るような恐怖を覚えながら関所を越え
て大阪に着いて この浄瑠璃義太夫(じょうるりぎだゆう)節。世話物の演目を書いて、
やっと発表したに違いない。数限りなくお咎めの無いように書き換えての発表だった筈
である。

1524: 名無しさんAA:18/11/04 08:00
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   517   >  

 曲も三下りで異国的で面白い雰囲気を出している。毛剃九右衛門一行の大挙しての廓
への入り込み、大勢の遊女の請出しの賑わいも異国諷できらびやかにしている。金持ち
になったのは「長者経」のおかげと、毛剃が読み上げる滑稽味ある長者経(もちろんイ
ンチキ)なのだが、永代蔵から採ったものと言われる。本当は他の物、例えば沈没船か
らの財宝や宝島の様な隠し財宝としたかったのだろうが、余りに似通った話では具合が
悪いと思ったのではないだろうか。このあとに子分たちが歌う在所唄も楽しい。「おん
らが在所はの、奥山のててうちの、でんぐりでんぐり栗の木の、木の根をまくらに転び
寝、この小女郎恋する山家の品物で、南無阿弥陀仏帯といて、コレござれ、抱いて転び
寝」こんなところにも作者の遊びが感じられるが、「転び寝」とは隠れ切支丹達に呼び
かけたもので、「転びねぇ〜」を短くしたもので、何も死ぬこた無いだろうと言う呼び
かけと思える。つまりこの歌には「おらが在所」=「キリスタンの信仰心」は奥の中に
「ててうち」=「神父」の様に引っ込めて、「でんぐりでんぐり」=子々孫々に伝え聞
かせ、栗の木=長き後で実る物、だから根っこにのみ持っておけば、仏教徒でもいいで
はないか。と言っていると考える。隣座敷の賑わいとは対照的に無一文になった宗七は
、敵の九右衛門の子分になり、小女郎も身請けされる。「七人一度に身請けとは聴きも
及ばぬ大大尽」 亭主が見送り、「男自慢は七人の鼻にあらわれ。」でこの浄瑠璃は終
わっている。享保年間は7代将軍徳川家継死去のため改元された年だ。つまりこの徳川
将軍家が7代目で、南蛮貿易の息の根を止めたと悔やんでいる。そして大大尽=金持ち
=権力者であり、その江戸幕府がキリスタン弾圧で自慢している事を笑っているのであ
る。この歌舞伎「奥田屋」ではそもそも、野沢吉二郎師が改訂作曲されたものである。
義太夫教室初期の段階でこの奥田屋が教材になり、私は掛け合いで小女郎が振り当てら
れた。“この身は廓にいるとても”はカン音なので何十回も稽古された。と言う。京都
心清町(しんせいちょう)で所帯をもった。と言う話は架空の街で「清いこころ」を意味
している。では何故小町屋惣七(こまちやそうしち)が主人公でその船主毛剃九右衛門
(けぞりくえもん)が抜符買(ぬけふかい:密輸)の頭目なのか。それは「困っちゃ、
そうするしかない。」の語呂合わせに見える。そして「七」も七代将軍家の当てつけで
あろう。毛剃九右衛門も、「もう、それは苦労する上(様)も」か「(お上)反り食え
ない。」のダジャレではないだろうか。更に寛永7年に寺請け制度開始され島原で藩主
交代が起こっている。

1525: 名無しさんAA:18/11/04 08:01
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   518   >  

 寛永14年(1637年)の島原の乱は、徳川家への忠誠心発揮の踏み絵の機会だった。松平
信綱が司令官として派遣されたが、何処の藩もあまり動かなかった。理由は交易に投資
していたからだ。更にこの反乱は水田の無い島の百姓一揆だった。更に三潴山門地方で
見るも哀れな取り立てをしていた松倉重政と松倉勝家の島原藩だったからだ。明智光秀
から筒井順慶への要請に対し「洞ヶ峠の日和見」を献策した武将で伊賀者を使う武将と
して知られていた。又奴隷貿易にも加担していた。島原城はみかけも5層の城だが、内
部5層の荷物部屋や娼館部屋の造りの上堅牢な石垣が高い城だった、1618年に島原城を
開始しました。1624年に完成した。とても4万石に不釣り合いな立派な城だった。この
地の半島民は特に漁師に税など払えないのは当然だった。もともと、雲仙の島原半島は
火山灰や溶岩流の地盤であるため、作物が余り育ちません。そのため、領民はタダでさ
え貧しい暮らしを強いられていたため、実質的な島原藩の石高は2万石も満たなかった
。よって、4倍近い重税に苦しみ、更に普請に人手も駆り出され、追い打ちを掛けるよ
うにキリスト教の弾圧と、不満を募らせて行った。また、松倉重政はキリシタンの根拠
地であるルソン攻撃の許可を幕府から取っており、さらなる戦費を領民に課したとされ
ます。しかしそれは徳川幕府でなく秀吉の頃の話であったろうと想像する。アンボイナ
事件(アンボイナじけん)は、1623年にオランダ領東インド(現インドネシア)モルッ
カ諸島のアンボイナ島(アンボン島)にあるイングランド商館をオランダが襲い、商館
員を全員殺害した事件である。これによりイングランドの香辛料貿易は頓挫し、オラン
ダが同島の権益を独占した。東南アジアから撤退したイングランドは、インドへ矛先を
向けることとなった原因だった。この頃は既に多くの奴隷船で、東南アジアに日本人が
多く進出し、アユタヤやプノンペンには日本人町が形成されるほどであった。アンボイ
ナ島にも日本人が居住し、傭兵として勤務する者もいた。1623年2月の夜、イングラン
ド側の日本人傭兵・七蔵がオランダの衛兵らに対し、城壁の構造や兵の数についてしき
りに尋ねていた。これを不審に思ったオランダ当局が、七蔵を拘束して拷問にかけたと
ころ、イングランドが砦の占領を計画していると自白。直ちにイングランド商館長ガブ
リエル・タワーソンら30余名を捕らえた当局は、彼らに火責め、水責め、四肢の切断な
どの凄惨な拷問を加え、これを認めさせた。こうして貿易戦争で疲れた英国とオランダ
は合併共同での東南アジア進出が阻まれたのである。


1526: 名無しさんAA:18/11/04 08:01
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   519   >  

 九州は南蛮貿易の利があるため、当初はキリシタン貿易に暴利を望んだ松倉重政でし
たが、徳川幕府は鎖国政策を取り、改めて禁教令を出し悲惨な結果に陥った。その後、
1625年に、将軍・徳川家光から、キリスト教弾圧が甘いと指摘され、松倉重政は徹底的
な弾圧を開始する。1627年には雲仙地獄の熱湯で、キリシタンの拷問・処刑を行ったと
も記録があります。島原城本丸の北側にある四基のキリシタン墓碑にはその歴史をもつ
。松倉勝家(まつくら-かついえ)は、独自に検地をやり直すと、4万石を10万石と過大
評価した。すなわち、領民は実質的に5倍もの税負担を強いられたと言う事になる。そ
して、島原城を全面白色に塗装するなど改修し、切支丹弾圧も残忍を極め、領民は更に
苦しんだとされています。特に1634年は悪天候で凶作でしたが、松倉勝家は重税を課し
、更には人頭税や住宅税を新設したと、オランダ商館長ニコラス・クーケバッケルの日
記や、鍋島勝茂公譜の記述に見られます。年貢を納められない農民や、村長ある庄屋か
らは妻や娘を人質にも取り、年貢を納めさせました。長崎のポルトガル人ドアルテ・コ
レアは、人質の若い娘や子供に、藁蓑を着せて火をつけ、もがきながら焼死する姿を「
蓑踊り」と呼んでいた記録しています。1637年10月、村の年貢を納められなかった口の
津村の庄屋・与左衛門の妻は、身ごもっていましたが、冷たい水牢に裸で入れられまし
た。庄屋宅に集まった村民は、何とか年貢を捻出する方法を話しましたが、すでに出せ
るものは全くなく、庄屋の妻は水の中で6日間苦しみ、水中で出産した子供と共に絶命
したと言います。そのため、遂にたまりかねた領民は、1637年10月25日に蜂起し、有馬
村の代官所を襲撃して代官・林兵左衛門を殺害したのです。これが日本最大の一揆とな
った「島原の乱」勃発の経緯とされている。こののち天草四郎をたてポルトガルの支援
を待つ事70日に及ぶ原城籠城戦となったのだった。しかし松平信綱はしたたかだった
。当初、板倉重昌と石谷貞清を派遣し、さらに日根野吉明や鍋島勝茂、寺沢堅高、松倉
勝家ら九州の諸大名に鎮圧と加勢を命じた。しかし一揆勢は原城に立て籠もって抗戦し
、戦闘は長期化していた。当初、幕府軍の総大将は板倉重昌で、信綱は戸田氏鉄と共に
一揆鎮圧後の仕置・戦後処理のために派遣されていた。だが寛永15年(1638年)1月1日
に重昌が戦死。石谷貞清も重傷を負ったため、代わって信綱が幕府軍の総大将に就任す
ることになった。信綱は長崎平戸に伝令を差し向け、ポルトガル船から原城向けて大砲
を撃つように要請した。そして出来なければイギリスとの交易と替えると脅迫した。し
ぶしぶ帆船を出して遠くから届かない距離で砲弾が飛んだ。この効き目は強烈だった。

1527: 名無しさんAA:18/11/04 08:01
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   520   >  

 1月11日には篭城する一揆軍に対してオランダ船のデ・ライブ号に要請して援護射
撃をさせた後。1月28日に副将格の戸田氏鉄が負傷するなど一揆の抵抗も激しく、信
綱は立花宗茂、水野勝成、黒田一成ら戦陣経験がある老将達と軍議が行われて兵糧攻め
に持ち込んだ。この結果、2月下旬には一揆の兵糧はほぼ尽きてしまい、2月28日までに
原城を陥落させた。信綱は一揆の総大将である天草四郎の首実検を行い、さらし首とし
た。このとき信綱の家臣6名も戦死し、手負い103名であった。3月には原城を破却して
捕らえた者は斬首してさらした。また松倉勝家・寺沢堅高両名も一揆を招いた責任あり
として処罰を言い渡した。既に1623年にアンポイナ事件を起こしていたポルトガルは、
本国でも英国や仏国に負かされていて国は苦戦の中にいた。つまり今日本の幕府とは、
闘う術を持たなかったが、唐津城主・寺沢堅高を始め抵抗しているキリスタン達は海外
のポルトガル船の援助を心待ちにしていたのである。寛永15年(1638年)乱が破れて後
終結した天草・島原の乱をうけて、この禁教政策を徹底させるために幕府は寛永16年に
はポルトガル船の来航を全面禁止した。ところがその翌年にポルトガル船が通商再開を
求めて再び来航したため、乗組員74名中61名を長崎にて処刑した。その報復に備える為
の長崎警備が寛永18年に福岡藩、寛永19年に佐賀藩に命じられて以後、正保4年(1647)
に初めてポルトガル船が来航した際の長崎港の様子が極めて緊張した。停泊中のポルト
ガル船2隻と対峙するように無数の早船が控えており、神崎・女神間に臨時で作られた
舟橋がポルトガル船の脱出を防いだ。沿岸部には佐賀・福岡両藩に加え、緊急動員され
た熊本藩・柳川藩・小倉藩・唐津藩、さらには松山藩や今治藩など西国各藩の陣幕が、
賑々しい陣を敷いた。正保四年長崎警備の図 (しょうほよねんながさきけいびのず )
が残っている。各陣幕には「人数」と「舟数」が示されており、「松平信濃守」( 初代
佐賀藩主・鍋島勝茂)は11,350人・125艘を送り込んでいるが、数値は 他の諸資料と必ず
しも合致しない。また、各藩(大名家)の家紋にも正確ではないものがある。本図は後世
に描かれたもので、この事件後の承応2年(1653)に出島造営が始まり七ヵ所台場が描か
れている点など注意を要するが、江戸前期の物々しい警備の様子が伝わってくる。


1528: 名無しさんAA:18/11/04 08:02
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   516   >  

 鎖国政策は、徳川幕府の代表政策となったが、実際はオランダや中国の王朝・明とは
、鎖国中も交易が続いていたわけで、必ずしも徹底されていたわけではないことがわか
る。と言うのも、鎖国を進めた理由は国内からのキリスト教の排除と、各大名に交易に
よって力をつけさせないためであるところが大きかった。1637年には島原の乱が発生し
ており、キリスト教の弾圧には幕府も敏感になっていた。キリスト教の教義では、封建
制度を確立するうえでも都合の悪いものだったからだ。おまけに、キリスト教を布教し
ているスペインやポルトガルには日本を植民地にする計画があるとする噂も流れていた
。その事でキリスト教の布教をしないオランダや明とは国交断絶に至らなかったのであ
る。鎖国は、実は複数回の海外船の来航禁止や、日本人の渡航禁止命令が出てやっと完
成に至ったものだった。まず、元和2年(1616)、ヨーロッパ船の寄港地を平戸と長崎
に限定。そして、寛永元年(1624)にスペイン船の来航を禁止し、寛永10年(1633)に
は奉書船以外の日本船の海外渡航禁止。寛永12年(1635)には、日本人すべての海外渡
航と外国にいる日本人の帰国を禁止し、そのうえで、明船の寄港地を長崎に限定した。
ここに1637年の島原の乱があり、寛永16年(1639)ポルトガル船の来航を全面的に禁止
し、一応鎖国が成ったのである。ちなみにこの後、寛永18年(1641)には、平戸にあっ
たオランダ商館を長崎の出島に移して、オランダ人もすべてここに移された。オランダ
人はここを出ることを許されず、長崎奉行が厳しく監視したのである。幕府は段階的に
鎖国を進めていたが、海外渡航中で、帰国を禁じられた者たちは帰国して捕縛されて、
棄教を迫られ、踏み絵によって分けられ、信者のままでは獄中生活を強いられた。なお
鎖国は、よく知られるように、幕末のペリー来航による日米和親条約締結まで続いたか
ら、およそ2世紀の間、日本は世界情勢から取り残されることになった。その分、日本
国内において、元禄文化、化政文化といった独自の文化が花開いたが、幕末の開国後に
そのツケはまわってくる。しかし、明治日本に、偉大な指導者、人物がいたからこそ、
日本は西洋列強の植民地になることなく、近代国家の仲間入りをできたのである。とは
いえ、鎖国中にも、熱心に海外の文化や情報を集めようとする人物はいた。なかでも安
政の大獄では200人以上が入獄したが死んだの病死が数人程度だったが、吉田松陰な
どは別件の暗殺計画を勝手に白状し処刑させられた。そこに朝廷の幕府飛び越えた水戸
藩などへの司令があったとされる。

1529: 名無しさんAA:18/11/04 08:05
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   517   >  

 福岡藩は、2代藩主黒田忠之(くろだただゆき)の治世である寛永18(1641)年、
外国に開かれた幕府直轄の貿易港長崎の警備を命じられた。この長崎港の警備を福岡藩
では「長崎御番(ながさきごばん)」と称して、翌寛永19(1642)年に佐賀藩が、長
崎港の警備を命じられてからは、1年交代で長崎へ警備に行くこととなりました。異国
船の警備を通じて、江戸時代の鎖国(さこく)体制下の貿易港長崎にかかわった福岡藩
の役割については黒田資料を中心に展示されいる。だが肝心のウイリアム・アダムスの
漂着後の博多の話はない。長崎警備の直接の契機は、幕府がポルトガル船の入港を禁じ
、その報復に備えてのものであったが、その原因は彼らの戦争であった事を掴んでいた
。幕府が布教を禁止していたキリスト教を、ポルトガルが日本にもちこむと考えられて
いて、第二の一向一揆の石山本願寺の事件を危惧したからである。しかし交易の綿糸は
日本には大量に入っていて必要だったのである。だが金銀の鉱山からの採掘量も少なく
なり、この後、長崎でオランダと中国の商人のみの貿易を許す事になった。その後正保
4(1647)年にポルトガル船が通商再開を求めて来航しました。あわや一戦という緊迫
した空気が流れましたが、このときは大事に至りませんでした。慶安2(1649)年に、
福岡藩が西泊(にしどまり)番所を、次いで佐賀藩が戸町(とまち)番所を「定小屋」
として整備するまで西泊と戸町にあった長崎警備の藩士の詰番所は仮小屋で、福岡藩と
佐賀藩が警備を交代する度に取壊されていました。このことから、長崎港の警備を担当
した時は、すぐ終わる一時的なものだと考えられていたことが知られます。しかし長崎
警備は恒常化していきました。当初、当番の年には藩士を5回に分けて長崎に派遣して
いましたが、寛文11(1671)年から、1年4回の交代で1回につき 約1,000人を長崎
に派遣するようになります。この1隊は派遣順番に「長崎壱番々(ながさきいちばんば
ん)」「長崎弐番々(にばんばん)」などと称されました。また、藩主も又年に3度、
西泊や戸町の番所や道生田(どうしょうだ)の塩硝(えんしょう)蔵を見回り、石火矢
の台場を船から視察したりしました。以上のように、島原の乱を最後に国内では幕末ま
で戦乱がなくなった中で、福岡藩は長崎警備を通じて常に実戦に備えていた特殊な藩だ
ったと言うことができましょう。特に江戸時代前期(寛永〜元禄)の福岡藩の長崎警備
を中心に事件の記録が残っている。


1530: 名無しさんAA:18/11/04 08:07
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   518   >  

 また肥後細川藩でも中村氏が書き留めている。肥後中村家は、加藤清正に召し抱えら
れ肥後に入るが、慶長十五年(1610)に金春流の奥義を相伝された以後、中村家は師家
としての印可を受けて伝書を授けれた家として能界に大きな権威を持つに至った。加藤
家が改易された二ヶ月後には細川家に召し抱えられている。かつて早川(そうかわ)村
厳島神社は中村家650余石の知行地であったため、宮司という立場で親密な付き合い
をしていたことが日記から伺い知ることができる。また、玄察にとっては、中村伊織は
金春流能の師であり、能舞で行動を共にしていた。家老長岡(米田)監物下屋敷で能を
見物したり、伊織のお供で豊後臼杵稲葉能登守のところへ出掛け御能交流を行ったりし
ている。玄察は寛永九年に生まれて(1632年上益城郡早川村厳島神社宮司)拾集物語(
渡邊玄察日記)の最初に、「十三より内の事は相尋候而書記候其以後は自分見聞之事色
々書出候」と書いている。すなわち13歳までのことは,父親から聞いたことであり、
それ以降は自分で見聞きしたことという。正保4年(1647)15歳の日記に肥前(長崎
)に来航したポルトガル船について詳しく記している。当時世界の海に乗り出していっ
た木製ガレオン船の大きさなどが改めて玄察日記に書かれている。現在の様に情報伝達
手段のない時代に、肥後藩の片田舎(現御船町)での「情報源」については以下のよう
に記している。「禁制の南蛮船が肥前国長崎に着船したので、警備のため九州各藩から
出陣するが、給主(領主に給田を与えられ,年貢課役の納入責任者)である中村伊織(
加藤家、細川藩に仕えた武家役者)も陣立(軍勢の配置)する。伊織の家老である瀬崎
太郎兵衛が長崎で見聞きし、書き留めていたのを見せてもらって、即座に書き写したと
記している。その中に、幕府役人が「二艘のポルトガル船は如何様の船であるのか」と
質問した際の回答内容が書かれている。ポルトガルは60年前の1580年、アヴィシュ家が
断絶するとスペイン王フェリペ2世がポルトガル王となりスペインの支配下に置かれて
しまった。1640年に、ジョアン4世(ブラガンサ王朝)により独立を回復したのを機に
、王の肖像画を持参して、その間の事情を日本に説明し、親交を深めて通商の再開を求
めるため来航した。」と書く。天草・島原の乱以来の断絶状態を解消すべく、新国王の
下での国交回復が目的と言いたかったものと考えられる。

1531: 名無しさんAA:18/11/04 08:07
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   519   >  

 出港して4年目に到着した理由については、去年琉球表まで来たものの大風で天川(
マカオ)にかけ戻り、今年6月にマカオを出港し、24日に長崎に到着したと報告して
いる。(実際の日付は、1647年7月26日(正保4.6.24)である。) 本船は、従船を伴って
来航した。本船の長さは25間(45m)と書かれているが、正保四年長崎警備の図に
は26間(46.8m)と付記されている。横幅は7間(12.6m)、上から底まで
7間と記している。大船には大砲26門、小舟には24門を積んでいてその配置につい
ても書かれている。乗組員数は、それぞれ200人余,150人余である。熊本藩主が
川尻の造船所で建造した御座船(ござぶね)は、長さ18間(32.4m)、横幅は4間(
7.2m )である。来航したポルトガル船が如何に大きかったかが分かる。伊達政宗が建
造したガレオン船、サン・ファン・バウティスタ号の船長は55m,排水量は 500トンで
あった。つまり日本の和船より10〜20m長くその船を2〜3横に並べた大きさで、
造りが違って、高さが7倍もあったのだ。幕府の対応は、船で橋を作り船を堰き止めて
燃やしてしまう。と言う大胆な物だった。と言うのも船の真下には大砲が打てなかった
からだ。ガレオン船はキャラック船に比べて幅と全長の比が1:4と長く、荷が多く積
める、スマートで吃水が浅いためより速度が出るといったメリットがあった反面、安定
性に欠け転覆もしやすくなるデメリットもあったという。この天草・島原の乱の翌年に
来航したポルトガル船の乗組員は、13名を残し61名を処刑したため、幕府は報復を
恐れて諸藩に厳重な警備を求めた。長崎・佐賀両藩では対応できない可能性があるため
福岡藩・熊本藩にも出陣させている。玄察日記には、その陣容も記載されている。日記
には記載されていないが、肥後藩の長岡監物は長崎港の出口に船を繋いだ船橋を作り、
湾を封鎖して封じ込める案を提案して、採用されている。船を繋いだ上に、材木は海辺
の町家を崩して調達して敷き詰めたため、馬でも通れる通路ができたと伝えられている
。この時長崎奉行は、幕府の指示を待つあいだ、ポルトガル使節が下船したり勝手に出
航したりしない様に直ちに厳重な警備にあたった。前回のポルトガル船員処刑の報復を
恐れていて、この非常事態の警備に伊予松山藩・伊予今治藩、細川藩、福岡藩、佐賀藩
、大村藩、小倉藩、柳川藩に指令を出し、軍勢は約48,300人、船は約898艘が この警備
に参加させられた。と記されています。その後は、処罰なしとし、幕府の出航命令に従
って長崎港を8月に去っていった。

1532: 名無しさんAA:18/11/04 08:07
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   520   >  

 今回の幕府の対応は前回の事件とは異なる柔軟なものであった。「今回の使節はポル
トガルの新王から日本の将軍に対して派遣されたので、寛大な処置をとるが、今後来航
すれば(1640年の事件のように)処刑する」と伝えて、入港から40日後に糧米・薪水
を与えられて出港させた。11日後にマカオに着いている。しかし、使節船は11月に
ジャワ海で暴風に遭い、乗組員のほとんどが亡くなっている。「徳川実紀」によれば、
この事件で動員された軍勢は48300余人,船数は898艘の臨戦態勢である。この時の数多
くの船と資金を融通し薪を運んだのが伊藤小左衛門であった。この為長崎奉行は出店を
許した。「正保四年(一六四七)、幕府から長崎警備を任されていた福岡藩が、ポルトガ
ル艦来航危機に立たされたことがある。そのさい、大量の焼草を調達するなど尽力した
博多商人小左衛門と大賀宗伯に、藩主黒田忠之は商人としては破格の五十人扶持を与え
た。」とある。これが小左衛門飛躍の契機となり、福岡・博多町人社会における地位を
不動のものにする。やがて小左衛門は、唐蘭貿易品購入の拠点として長崎に出庖を設け
た。ここが福岡藩の蔵屋敷代わりとして、長崎奉行接待、幕臣宿所にあてられる。内外
貿易商人への利貸し(融資、投資)、出雲や広島の鉄の売買、出雲への伊万里焼の販売、
米穀株相場売買を中心とする福岡藩の御用、糸割符貿易、小判鋳造と多角経営を行い、
莫大な財を築いてゆく。ところが寛文七年(一六六七)、通報する者があり、密貿易が発
覚した。金元は小左衛門、実行犯は対馬出身の大久保甚右衛門ら海商で、数年間にわた
り朝鮮へ鳥銃・硫黄・鎧・長万・脇差・鉄砲薬ならびに金などを、大量に密輸していた
のである。ここに徳川幕府の政変がある。つまり、実行部隊は何故か天下の御意見番の
大久保彦左衛門や大久保長安の姓と同じに大久保甚右衛門とされる。大久保長安事件は
、大久保長安が死んでから起こった弔い騒動での幕府の金奪取の事件ある。これは岡本
大八事件からつながっている。大久保長安事件(おおくぼながやすじけん)は、慶長18
年(1613年)に起こっている。かの大久保氏は全国関所の支配権を持つ言わば日田など
の幕府の持つ全国天領の領主であった。ところが金鉱山も新規開拓が出来ず、じり貧の
中でこのエロ爺さんは家督を譲り子作り遊興にふけっていたとされる。息子や娘は全国
に居て30人とも60人とも言われる中で死んで行った。彼も徳川家康の子飼武士で誰
も触れらず、駿府内府の台所を納めていた本多正純と同じだったのである。だがそもそ
もがアンドレ・ペソアがノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号の自沈事件が発端ではある。


1533: 名無しさんAA:18/11/05 14:29 ID:LUE
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   526   > 

 慶長14年(1609年)、マカオで有馬晴信の朱印船は乗組員がマカオ市民と争いになり
、乗組員と家臣あわせて48人が殺されるという事件が起きた。これに怒った晴信は徳川
家康に仇討ちの許可を求めた。そこへ、マカオにおけるポルトガルのカピタン・モール
(総司令官)であるアンドレ・ペソアがノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号(マードレ・
デ・デウス号)に乗って長崎に入港したため、晴信は船長を捕らえるべく、多数の軍船
でポルトガル船を包囲し、積荷検めを行おうとした。ところが船長は船員を逃がして船
を爆沈させると言う事件が起こる。実は、この時の長崎奉行の長谷川藤広も元は本多の
家臣であり、この取り調べに岡本大八を送ったのも長谷川の家臣だっだからだ。この事
件の後、晴信は鍋島直茂の所領となっている旧領三郡を家康に願い出て回復しようとし
た。これを知った本多正純の家臣の岡本大八が慶長17年に、急速晴信に接近しのであ
る。そのため晴信は、大八に白銀六百枚(金にして六千両)を贈った。しかし、その後
、幕府から旧領回復の沙汰がなく不審に感じた晴信が正純に詰問したため、幕府は晴信
と大八を対決させることとした。晴信は数通の証文を提出し、これに対して大八は全く
弁明ができず、そして事実を白状したため大八は下獄された。ところが、大八は幕府の
獄中から、晴信が長崎奉行の長谷川藤広(左兵衛)を殺害しようとする計画を有してい
ると訴えた。のである。そのため幕府は大八を獄から出し、晴信と対決させたところ、
大八は晴信の陰謀の詳細を述べた。これに晴信は何ら弁明することができなかった。こ
の理由で捕えられた。大八も獄に戻され、江戸に送られ、阿倍川原で火刑に処せられ、
そして晴信は甲斐国に流され自害させられた。と言うしかし、この取り調べに本多正純
は大久保長安屋敷の地下牢でこの岡本大八の入獄させているのである。藩主有馬晴信は
何故か簡単に、このマカオの朱印船貿易事件をもみ消された上に、領土再興を瑕詫(か
た)に六千両の金をまんまとだまし取られた事件を起こしたのか。又、これ以降幕府は
キリスタン禁教令を出し、有馬氏は所領代えとなり、旧有馬領内ではより過酷なキリシ
タンへの弾圧がはじまり、これが島原の乱の遠因となっていった。晴信南蛮貿易に熱心
であり、朱印船派遣の回数は、大名の中では島津氏・松浦氏と並び、九州大名の中でも
最多であった。有馬氏の領内は龍造寺氏の侵攻によって度々戦火に晒され、国人衆らの
反乱も相次いだ為、決して肥沃な土地ではなかったが、南蛮貿易により多大な利益を上
げており、またそれによって多くの宣教師・キリシタンの協力も得ており、沖田畷の戦
いでも大量の鉄砲・兵糧の援助を受けている。


1534: 名無しさんAA:18/11/05 14:29
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   527   > 

 日本のキリシタン教会を決定的な壊滅状態に追い込んだと考えられている1613年
1月の全国的なキリシタン禁教令発布の重要な契機として、この「岡本大八事件」と同
時期の「おたあジュリアの追放」がよく挙げられます。「おたあジュリア」というのは
、江戸城大奥にいたひとりの女性です。朝鮮の貴族の出で、「秀吉の朝鮮侵攻」の先鋒
であった「キリシタン大名」小西行長の軍に捕えられ、日本に連れ帰られて「ジュリア
」の洗礼名で受洗したと言われています。行長が関ケ原で敗れたため、江戸城に仕える
ことになった。人望もあり、その影響をうける大奥女中も少なくなかったということで
す。大奥での「おたあジュリア」の存在に気付いた家康は、ただちに棄教することを求
めたが、おたあは拒否し、初めは伊豆大島、最後は伊豆諸島の神津(こうづ)島に流さ
れ、そこで亡くなったと伝えられる。そもそも、小西行長軍が連れてきたキリシタン女
性が大奥に入ったということが意外だが、どうも家康が惚れ込んで助けたという経緯が
あったらしいが、その記録はないようです。さらに、江戸幕府開府から10年近くが経
ったこの時期まで、大奥の他の女中にも影響を及ぼすようなキリシタン女性がお膝元に
残っていたということも私には意外です。ただ、行長の妻ジェスタが家康の赦免を得て
助かったという話がありますので、その関係でおたあも家康の世話を受けるということ
になったのかも知れません。家康は、「おたあの件」で、キリスト教の幕府内部までの
浸透ぶりを改めて知り衝撃を受けたと言われていますが、上に書きました事情や家康が
非常に用心深かったはずであることなどから、「おたあ」の存在などは既に良く知って
いたと考える方がむしろ自然ではないかと私は思います。大坂の陣を控えたこの時期、
家康が一番恐れたことはキリスト教勢力が豊臣勢と結びつくことだったでしょう。その
ため、全国的な禁教令発布を検討し、既によく承知していた「おたあの件」からキリシ
タン潰(つぶ)しを始めたということだったのではないかと考えられる。つまり弾圧に
利用した事件で、外様大名がこうした資金を持って大きくなるのを抑えたと言う話にな
る。と言う事は消えた六千両は、家康のへそくりになっていたと考えられる。それ程の
貿易利潤が伊藤小左衛門の下で大久保甚右衛門ら海商の手にはいるのが我慢ならなかっ
たのだろう。

1535: 名無しさんAA:18/11/05 14:30

 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   528   > 

 此処に家康と幕府と言う政体との確執もあった様に見える。実は家康は、秀吉よりも
したたかに海外制覇を企んでいたにもみえる。黒田藩で黒田孝高(官兵衛)が未だ天下
盗りをも思っていたが息子長政は平和志向のキリスタン大名で家康恩顧の家来になって
居た様に、どこかに間尺に合わない部分があったように見える。ペソアが長崎で長崎奉
行長谷川藤広に事件の調書を提出して奉行からの報告は握りつぶされても、幕府はこの
キリスタンの連絡網でその事件は明るみに出ていた。、晴信は龍造氏を倒すためには、
島津氏と内通しイエズス会も利用した策略家です。更に、島津氏と手を切って豊臣勢に
加わり、関ケ原の戦では、今度は豊臣勢を裏切って同じ「キリシタン大名」小西行長を
攻撃し生き残った海千山千の存在だったはずです。その晴信が、そんな間抜けなことを
したというのは不自然である。事件の経緯を見ると、有馬晴信が領地奪還の工作の進展
を大八の主家である正純に確認したことによって露見した。ということになっています
が、いくら多額の賄賂を贈ったからといっても、当時家康の側近的な存在である正純に
直接、自分の贈賄の事実を告白するようなことを晴信がするでしょうか。もし、晴信が
そんなことをしたのであれば理由があって、もし理由が無ければ「バカ殿様」である。
又キリスタンの浸透に驚いて云々となってはいるが、それは一部であって禁教令の主要
なものではなないと言える。実は家康も伽羅といわれる香木の趣味を持っていた。これ
を有馬晴信など多くの者に送る事を託している。この香木は金よりも高く小さかった。
藤広は、前年の事件に対する報復を考えていた晴信を教唆し、ペソア捕縛と商船捕獲と
を家康に請願させた。晴信に伽羅木購入を委託していた家康は、当初は報復行為によっ
てポルトガル貿易が断絶することを懸念していたが、マニラ船のスペイン商人がポルト
ガル船積載生糸などを補完することを保証し、またオランダ船の継続的な来航も期待で
きるようになったため、晴信に許可を出したという。つまりそもそも、ポルトガル貿易
船の爆沈事件であるノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件は、家康の香木奪取事件だっ
たと言える。ではその前の、慶長13年(1608年)11月に起こった肥前日野江藩主の、
有馬晴信が占城(チャンパ)に派遣した朱印船がマカオに寄港滞留中に、船員が取引を
めぐっての騒動事件は何だったのか。

1536: 名無しさんAA:18/11/05 14:32
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   529   > 

 マカオのカピタン・モール(総司令官)が日本人60人も殺す程の事件である。その
後もマカオにいてもいい程の者がわざわざ日本に来て船を爆破したのである。簡単な物
の密輸事件では無く。それこそ、高価な伽羅の大木を只の木材として輸入しようとした
からでは無かったか。原住民とは話合いがついた輸入が、ポルトガルに見つかって吹っ
掛けられたのではないだろうか。と思うのである。ではポルトガル使節団長崎受難事件
は何だったのか。平戸商館が閉鎖され全て出島の長崎商館に統一して長崎奉行に当たら
せる。と言う事が幕府で練られたのだろう。本来平戸でも良かったが、ボルトガル船や
イスパニア貿易に宗教色が強く、また博多までもキリスタンが増えだした事で危機感は
秀吉時代からあった。そこで代わって進出してきたオランダ貿易に変えることを模索し
た。その丁度良い時期だったに違いない。朱印船貿易が行われていたのは江戸初期の、
安土桃山時代である。朝鮮戦争によって明(中国)は朱元璋以来冊封された国としか、
貿易を行なっていなかった上に朝鮮の役による影響で、厳しく日本商船を取り締まり、
ほぼ中国本土に寄港することはなかった。そのために中継ぎ貿易として、主な寄港地は
アユタヤ(タイ)やトンキン(ベトナム)などと共に、台湾島南部台南の安平(タイオ
ワン)などが昔から明(中国)や日本の船などが寄航する中継ぎ港であった。ここで、
1628年の台湾のタイオワン(ゼーランディア城)で事件が起こっていた。当時日本
、ポルトガル王国(ポルトガル)、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)、イギリス
第一帝国(イギリス)の商人が日本貿易や東洋の貿易の主導権争いを過熱させる時代で
、1622年(元和8年)には明(中国)のマカオのポルトガル王国居留地をネーデルラン
ト(オランダ)が攻撃し、敗退したネーデルラント(オランダ)は対策として台湾要塞
を築いてポルトガルに備えた。ネーデルラント(オランダ)は台湾島を占領、熱蘭遮(
ゼーランディア)城を築いて台南の安平をタイオワンと呼び始めてここの占領権を中国
から獲得していた。その中に、日本の末次平蔵所有の朱印船とオランダ商館の衝突事件
が起こった。長崎を拠点にした日本の朱印船貿易もタイオワンにも入港し、中国商人か
ら生糸を得ていたので、その地がオランダに占拠され、入港料が請求されたため新たな
紛争となった。有力な朱印船貿易家で長崎代官であった末次平蔵は、配下の浜田弥兵衛
に指揮させた持ち船二隻をタイオワンに入港させたところ、オランダの長官ノイツは、
日本船に課税した上、武器を携行しているとして乗組員を捕らえたのである。交渉のた
めに長官の屋敷に赴いた浜田はいきなりオランダ人二人を殺し、ノイツに飛びかかって
縛りあげて日本船に連れ帰ったのだ。

1537: 名無しさんAA:18/11/05 14:32
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   530   > 

 これは公然と幕府の知る処となった。オランダ側と浜田弥兵衛が交渉し、長官ノイツ
を釈放する代わりに互いに人質を出し合い、幕府の裁定を仰ぐことになった。ところが
幕府では折りから将軍秀忠が亡くなったこともあって、裁定が遅れ、その後5年にわた
って幕府とオランダは絶交状態が続いた。ようやく強硬派であった末次平蔵が死去し、
オランダ側もバタビアの総督スペックスがノイツの責任を認めて損害を賠償する措置を
とったので1632年に事件は解決し、貿易が再開された。貿易の利益で私腹を肥やし
た幕府高官達は困惑していた。とおいうのも、このタイオワン事件については日本では
浜田弥兵衛の冒険談としてしか知られていないが、平戸のオランダ商館に保存されてい
た日記によると、末次平蔵の背後には時の江戸幕府の幕閣にあった土井大炊頭利勝や酒
井雅楽頭忠世らが幕府高官に禁じられていた貿易への出資や、朱印船貿易家への利益誘
導、はては長崎奉行竹中重義、江戸町奉行島田弾正らがオランダ商人に賄賂をねだる。
など、さまざまな形で利害を有していたことが明らかになった。なお、同じくオランダ
商館日記の一部には、末次平蔵は悪事が露見することを恐れるあまり発狂したとか、幕
閣の誰かに暗殺されたなどの噂があったことが記録されている。つまりこの平戸商館の
閉鎖は幕府高官の私腹を増やさない為の方策だったのだ。しかし、事はこれでは収まら
ない。これで末次興善(すえつぐこうぜん)や等安らが力を無くすのである。ノイツの
代わりにウィルレム・ヤンセンを特使として日本に派遣したが、平戸藩主松浦隆信と末
次平蔵はヤンセンが江戸幕府3代将軍徳川家光に会うため江戸へ行くことを許さなかっ
た。1636年(寛永13年)、ニコラス・クーケバッケルの代理として参府したフランソワ
・カロンは、拝謁の際に将軍家光に銅製の灯架を献上。家光はこれを非常に気に入って
返礼として 銀300枚を贈った。この時以前より平戸藩主から、ノイツの釈放に力を貸す
よう頼まれていた老中の酒井忠勝がノイツの釈放を願うとすぐに許可された。このノイ
ツの捕縛で江戸幕府は世界情勢と、オランダとの密約ができたのだろう。こうして3年
後、1639年(寛永16年)に日本への来航を禁じられたポルトガル人は出島から追放され
、同年10月に2隻の船がマカオに帰港し、鎖国の完成が成立した。しかし、これを受け
て、マカオ評議会は、日本との通商が絶えればマカオが荒廃すると考え、通商の再開を
求めるために、翌年(1640年)6月に74人の使節団を派遣した。

1538: 名無しさんAA:18/11/05 14:34
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   531   > 

 使節団を乗せた船は、7月に長崎港外に到着した。使節団の船は日本の船に曳かれて
、出島の前に投錨し、使節団のメンバーは出島へ連れて行かれ、大村藩の兵士の監視の
下に置かれた。翌年には早々ににオランダ商館が平戸から出島へ移された。(1641年)
のことである。使節団は、長崎奉行所へ貿易再開の嘆願書を提出した。嘆願書は直ぐに
江戸に送られ、その後、幕府の特使2人が長崎へやって来た。幕府の特使は使節団74
人全員を呼び寄せた。使節団一行は大いに喜び、着飾って特使の前に現れた。ところが
、使節団には死刑が宣告され、ただちに手足を縛られ牢獄に入れられた。死刑を宣告さ
れたメンバーは、泣いたり訴えたりしたが、翌日、全員は西坂へ連れて行かれた。ただ
、74人は直ちに尋問され、うち13名は命を助けられることになり、残りの61名の
首がはねられた。その後、一行の金鎖、家財、着物などの財産の全ては、ポルトガル船
に積み込まれ、生き残り13名の目の前で火がつけられた。助命された13名には小型
の船3隻が与えられて、全員が無事マカオに帰り着いた。これが今回発見された論文「
寛永17年 (1640) ポルトガル使節団長崎受難事件」である。1637(寛永14)年に勃発
したキリシタンを中心とした島原の乱はその翌年に鎮圧され、徳川幕府はその後、極め
て厳しいキリスト教禁令を発布し、1639(寛永16)年にはポルトガル船の来航を禁じる
措置に出た。それにも拘らず、翌1640(寛永17)年にポルトガル使節が来航して貿易の
再開を求め、幕府はこれを退去させたが、さらにその一ヵ月後にはマカオから使節が訪
れたため、幕府は8月3日 (旧暦6月16日) 長崎に停泊していた船舶を焼き払い、マカオ
出身のポルトガル使節4名と同行者、乗組員57名を斬首の刑に処しこの処置を知らせ
るため数人をマカオに送り返した。本書は難を逃れた人から証言を得て、イエズス会宣
教師アントニオ・フランシスコ・カルディンがこの模様を書き綴っている。このカルデ
ィンの日誌やアルメイダの日誌から、日本に於いての一番のキリスト教信者は筑後の地
であり、又一番の悲惨だったのが、筑後地方であった事が知られる事になる。

1539: 名無しさんAA:18/11/05 14:35
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   532   > 

 草創期に平戸商館にイエズス会は本拠地を構えたが、日本人との交易はトラブル続き
だった。永禄4年(1561)に平戸港で絹の取引上のトラブルが、こじれてポルトガ
ル人の総司令官が応援に駆け付ける騒ぎとなり、領主の松浦氏の家来たちが総司令官、
および13名のポルトガル人を殺害する「宮の前事件」が起こっている。これにより、
領主の松浦氏と不和となってポルトガル人は新しい港を探し始めた。翌年の永禄4年(
1561)、肥前の大村純忠(すみただ)は大村領は弱小ではあったが、肥前佐賀から
の龍造寺隆信による威圧がすさまじく、防御する狙ねらいもあり、南蛮貿易は手放せな
いものだった。そこで、自領にある横瀬浦(現在の長崎県西海市)港を提供する事に決
めた。イエズス会士に対して住居の提供もした。ポルトガル船のもたらす富や武器を手
に入れるという目的があったのだ。この年に宣教師・フロイスが横瀬浦に上陸している
。彼は生涯日本にとどまり、布教の傍ら、信長や秀吉らと謁見し、多くの「日本史」を
書いている。(現在、全12巻、中央公論社出版)大村純忠の兄の有馬義貞(アンドレ
ス)も洗礼を受け島原半島の南端にある口之津港を南蛮貿易港として開港した。永禄6
年(1563)には大村純忠(ドン・バルトロメ)は日本初のキリシタン大名となり、
領民にもキリスト教信仰を強いて僧侶や神官を殺害した。又改宗しない領民も殺害し、
強行にキリスタンを広めた。これに家臣の西郷などや領民の反発を招き、反乱を起こさ
れ横瀬浦が焼き払われた為に、領内の「福田の浦」に港を開いた。元亀元年(1570
)に純忠は福田より港として地形の良い長崎の地に南蛮貿易の港を新たに開き、以来、
長崎は急速に発展してきた。南蛮貿易の輸入品は、生糸や絹織物などが中心だが、貿易
品だけでなく、鉄砲などの武器や医学、天文学、音楽、美術なども伝えられ、日本文化
に大きな影響を残した。天正8年(1580)にキリシタン大名の木村純忠は長崎の地
とその付近の土地をイエズ会の知行地として寄進した。天正10年(1582)島原の
口之津港から大友宗麟、有馬晴信、大村純忠の名代として、伊藤マンショ(宗麟の名代
)、千々石ちぢわミゲル(純忠の甥)、中浦ジュリアン、原マルチノの4人の少年がヨ
ーロッパのローマ教皇のもとに派遣されるに至った。彼らは「天正遣欧使節」と呼ばれ
、日本初の公式西洋への使節だった。一行は、マカオ、ゴア(インド)を経て、喜望峰
(きぼうほう:南アフリカ共和国ケープタウン)を廻り、2年半後にヨーロッパに上陸
した。この使節を繰り出した時に、日本は戦国時代であり、そもそもの間違いがあった
のである。

1540: 名無しさんAA:18/11/05 14:35
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   533   > 

 ポルトガル使節団長崎受難事件は大変不幸で悲惨な事件のに見える。ところがこれら
は徳川幕府に仕込まれた対イエズス会事件だった。と言うのも松倉重政の非情さは噂が
あったとしか思えない。江戸時代の刑法は身分によって大きく分かれていた。武士の身
分の者に適用された死刑は「斬刑」で、一般庶民の死罪と同じ打ち首ですが、庶民の死
体は刀の試し切りなどにされるのに対し、武士はありませんでした。しかも、最も大き
な違いは、武士には切腹があった事です。切腹は江戸時代の刑法典に正式に規定された
ものではない。しかし、武家社会では討ち死と同じく切腹は武士の名誉に配慮した形で
、尊きものとされていた。そこには指導者と言う層のメンツが隠されていたからだ。幕
府や主君から賜わる恩典として一般的には切腹は見なされていたのだ。松の廊下を汚し
た赤穂藩の改易浪士に対しても幕府が下した判決は切腹で、浪士達は非常に喜んだと伝
えられている。もちろん武士で斬刑に処せられた者はいましたが、大名となると、幕府
の役務中に刃傷を起こした内藤忠勝や、江戸城中で刃傷に及んだ浅野内匠頭でさえも、
それぞれ切腹でした。しかし、江戸幕府260余年でただ1人、打ち首になった大名が
いる。それがは、肥前島原4万石の藩主松倉勝家である。松倉勝家は、初代島原藩主の
重政の嫡男として、1597年(慶長2年)に生まれている。重政と共に島原城とその城下
町の新築、参勤交代の費用など種々の口実を設け、また独自に検地を実施して実質4万
石満たない程度の石高を10万石と過大に見積もり、領民に10万石相当の過重な年貢・労
役を課した。島原・天草両地方はともに十分な耕地はなく、古くから漁業・対外貿易・
出稼ぎなど、東シナ海からの収入への依存で高いやっと食いつなぐ中で1616年(元和2
)に新たに領主として移封してきた松倉重政は、前領主の日野江城・原城をともに廃し
、七年の歳月を費やして分不相応といわれた島原城を築き、さらに1630年(寛永7)に
は税率を64%とし、計10万石の草高として領民に課税し、更に幕府に対しても10万石
の軍役を負担した。とにかく、無茶苦茶な重税だったみたいです。1630年(寛永7年)
に重政が急逝した後を受け、藩主となってからは、父をも凌ぐ過酷な収奪を行って領民
を苦しめます。1634年(寛永11年)は悪天候と旱魃による凶作でしたが、勝家は容赦せ
ず重税を取立てます。米や農作物の徴収だけでなく、人頭税や住宅税などありとあらゆ
る税を新設して厳格に取り立てたことが多くの記録に残っている。


1541: 名無しさんAA:18/11/05 14:41
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   534   > 

 聖ビセンテ塩塚は長崎で生まれ、九歳の頃からイエズス会のセミナリオで学んでいる
。彼は芸術的才能に恵まれており、オルガニストとして活躍する一方、絵を描いたり、
聖歌隊の指揮者としての面でも、その豊かな才能を発揮している。セミナリオ終了後、
宣教活動に従事して、一六一四年、マカオに追放された。その後、マニラに渡り、フラ
ンシスコ会のて日本宣教に向かう司祭に、日本語を教えていた。長崎奉行所での本人の
証言によれば、日本潜入の数年前からマニラで司祭となった。1588年のセミナリヨ名簿
には「50番、ルイス塩塚、長崎出身、11歳、健康良好、1578年に入学、予備級で学んで
いる。」と書かれている。1614年にマカオで念願の司祭叙階を受け、1622年にルイス・
カブレラ・イ・ソテロ神父らと日本に戻ろうとしたが、マニラ政府の反対により、ソテ
ロ神父たちだけで密航して日本に行き、ビセンテ塩塚(この時はルイス塩塚)は取り残さ
れた。そこで聖トマス学院学長アントニオ・ゴンザレス神父とフランス生まれのギョー
ム・クルテ神父、スペイン人のアオザラザ神父からなる日本宣教師団に加わり、1636年
、殉教を覚悟の上で日本に向かいました。彼の役割は通訳兼案内者で、出発前に先立っ
てドミニコ会に入会し、この時名前もビセンテ・デ・ラ・クルスに変えました。6月に
、琉球の吐喝喇列島の一つ悪石島に着き、すぐに発見され、長崎に連行された。そこで
水責めの拷問を受け、殉教覚悟で入国したが、耐えられずに棄教してしまう。棄教した
ものの釈放されず、潜伏している宣教師のことなどを、白状させようと水責めを受けて
、更にクルテ神父とアオザラザ神父の2人にした、金針を指と爪の間に押し込む拷問を
を塩塚も受けた。夜になると3人は獄に戻され板越しに話ができたが、その時2人の外
国人神父は塩塚神父を力づけ、祈ってくれた。その祈りと神の恵みに助けられて、塩塚
神父は落ち着きを取り戻し、悔い改めた。1637年、9月21日、ゴンザレス神父と2人の
信徒、京都のラザロとルイス・ロレンソも長崎奉行所に到着し、彼らも又何回も水責め
に会い、同月23日にゴンザレス神父は牢内で死去。ラザロは一旦転ぶと言いましたが取
り消した。こうして同月27日残る5人にとって最後の戦いが始まりました。西坂に連行
され5人は挨拶を交わし、次々と穴吊りにかけられた。そして3日間そのままにされ、
同月29日に引き上げてみたところ、ラザロとロレンソは既に死んでいましたが、3人の
神父は耐えて生きていました。この日に狩りに行こうとしていた長崎奉行は、3人の死
が待ちきれず、斬首にするよう命じ、3人の神父は穴から引き出され、その場で首を斬
られ殉教。遺体は焼かれて海に撒かれました。こうして一六三七年九月二十九日、殉教
の冠を得た。

1542: 名無しさんAA:18/11/05 14:46
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   535   > 

 薩摩の琉球侵攻は島津氏立ち上がる頃からに遡る。もともと島津家の前に薩摩藩は、
開かれた開港を持っていた。種子島や琉球は、当然ながらこの鹿児島の地との交易は盛
んだったのである。16世紀中ごろ、日明貿易(勘合貿易)が途絶えると、堺・博多の商
人が琉球に来航するようになった。彼らは、薩摩の周辺海域を通行するため、島津氏は
海防を名目に、琉球王府に対して、島津氏の印判のないものとの貿易を認めないように
求め税を取った。多くの日本商船との交易を望んでいた琉球としては、島津氏の要求を
すんなりと受け入れるわけにもゆかないため、琉球王府と島津氏との間で対立関係が生
まれていた。17世紀に入ったころになると、薩摩・日向・大隅平定以降、九州平定をめ
ぐる戦いや、朝鮮出兵、関が原の戦いと、出費が相次ぎ、財政は破綻状態であり、これ
を再建する必要や、分散した内部権力を島津家久の元に統合する必要に迫られていた。
こうした問題を解決するためにも、薩摩では奄美出兵が企てられた。幕府は当初、明国
を刺激しないため、琉球への派兵には慎重であったが、1606年に島津家久の要求を受け
入れた。1609年3月初旬、薩摩軍は約3000の兵と100隻の軍船により、琉球に進攻した。
鉄砲隊を中心とした薩摩軍は、奄美大島・徳之島・沖永良部島を次々と攻略し、簡単に
それらを従い、3月25日、沖縄本島北部・運天港に上陸し、27日には 今帰仁城を陥落さ
せた。3月29日、読谷(ヨミタン)に到着した薩摩軍は、陸路と海路から、4月1日には
那覇・首里に到着した。琉球軍も抵抗はしたものの、戦国時代を経験し圧倒的な軍事力
を持つ薩摩軍を相手になす術はなかった。4月5日、琉球国王・尚寧が降伏を申し入れ、
首里城は占拠された。5月15日、尚寧以下 重職にあった者達は薩摩に連行され、翌年の
1610年、島津家久は尚寧をともなって徳川家康・秀忠に謁見した。これより前、琉球王
府では、1606年に謝名利山(じゃな りざん:抗日派)が、久米 村人として初めて三司
官(宰相職)に就任していた。通常、久米村人の最高官職は三司官座敷(政治を司る三
司官の国議の場に列席して、意見を述べる官職)までとなっていたので、謝名利山の三
司官就任は異例の事だった。琉球敗北によって、薩摩に連行された国王・三司官らに対
し、島津氏は忠誠を誓う誓約書を提出させたが、謝名利山ただ一人、連判を拒否して、
薩摩藩により斬首された。なお、謝名利山は薩摩抑留中に、長崎に来航した中国船にひ
そかに救援依頼していたが失敗している。恐らく台湾人だったのだろう。


1543: 名無しさんAA:18/11/05 14:47
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   536   > 

 薩摩藩は奄美諸島を直轄地としたが、沖縄・八重山は薩摩の支配下で国家として存続
することとなった。琉球を支配下に置いた島津氏は、さらに掟15条を定め、支配を強固
なものとした。掟の第1条には、中国との交易を薩摩が支配することが定められている。
1612年、尚寧が琉球に戻ったことを北京に知らせ、対中国貿易の再開を図るが、明国の
解答は、これまで2年に1度だった進貢交易を、今後は十年に一度とするものだった。
このため、琉球を介して対中国貿易を図ろうとした、島津氏の目論見は失敗に終わった
。1623年、明国に冊封を願い出ると、明朝廷は礼官の建議により、暫く五年一貢と定め
た。さらに1633年には二年一貢が認められ、朝貢は元に戻った。薩摩藩の支配を受けて
以降、琉球王は、将軍や琉球王が変わる時には慶賀使・謝恩使を江戸に派遣することが
慣習となった。その際の服装は、琉球が異国であることを強調するため、琉球風・中国
風のものと決められた。琉球侵攻以降、薩摩の支配を受けることになったが、琉球が、
日本の領土になったわけではなく、琉球王府は従前通り継続し、人事権・裁判権等は、
琉球王にあった。また、琉球は、明国を宗主国とする服属国だった慣習で、琉球王就任
は、明国(のち清国)の冊封を受けていた。ただし、琉球王家の収納米の3割近くを、
島津氏へ貢納させられ、1647年からは貢米中に砂糖を含めさせられた。琉球が薩摩藩の
支配を受けていることは、明・清に対して隠蔽されたようだ。薩摩の支配がバレナイた
め、冊封使が来ると、薩摩の役人達は浦添間切城間村(現浦添市城間)に隠れたのだ。
これは当然乍ら、戦乱の地にしたくない琉球王と、交易を続け明からの輸入で利益をは
かった島津との利害が一致していた事によるものだった。琉球が薩摩藩の支配を受けて
いることを隠蔽したのは、明・清に対してだけではなく、19世紀になって欧米列強が
来琉するようになって、欧米に対しても、隠蔽された。こうした事でトカラの悪石島で
もすぐさま捕縛され送られた塩塚氏だった。この塩塚姓は柳川立花藩に多くあったが、
彼らは佐賀藩や長崎に移動していた。私見ではあるが彼らは古くからのイラン人ではな
いかと思う。塩の行商人でその作り方を良く知る者だったと言われる。かつては少し塩
の作り方は違っていた。日本では、外国人の入国やキリスト教の布教は禁止されていた
が、琉球は日本の支配下にないので、日本の法律は適用されなかった。フランス人宣教
師フォルカード神父は、1844(天保15)年に琉球にやってきて2年間 滞在した。また、イ
ギリスの宣教師で医師のベッテルハイムは1846年から8年間琉球に滞在した。

1544: 名無しさんAA:18/11/05 14:50
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   536   > 

 薩摩藩は奄美諸島を直轄地としたが、沖縄・八重山は薩摩の支配下で国家として存続
することとなった。琉球を支配下に置いた島津氏は、さらに掟15条を定め、支配を強固
なものとした。掟の第1条には、中国との交易を薩摩が支配することが定められている。
1612年、尚寧が琉球に戻ったことを北京に知らせ、対中国貿易の再開を図るが、明国の
解答は、これまで2年に1度だった進貢交易を、今後は十年に一度とするものだった。
このため、琉球を介して対中国貿易を図ろうとした、島津氏の目論見は失敗に終わった
。1623年、明国に冊封を願い出ると、明朝廷は礼官の建議により、暫く五年一貢と定め
た。さらに1633年には二年一貢が認められ、朝貢は元に戻った。薩摩藩の支配を受けて
以降、琉球王は、将軍や琉球王が変わる時には慶賀使・謝恩使を江戸に派遣することが
慣習となった。その際の服装は、琉球が異国であることを強調するため、琉球風・中国
風のものと決められた。琉球侵攻以降、薩摩の支配を受けることになったが、琉球が、
日本の領土になったわけではなく、琉球王府は従前通り継続し、人事権・裁判権等は、
琉球王にあった。また、琉球は、明国を宗主国とする服属国だった慣習で、琉球王就任
は、明国(のち清国)の冊封を受けていた。ただし、琉球王家の収納米の3割近くを、
島津氏へ貢納させられ、1647年からは貢米中に砂糖を含めさせられた。琉球が薩摩藩の
支配を受けていることは、明・清に対して隠蔽されたようだ。薩摩の支配がバレナイた
め、冊封使が来ると、薩摩の役人達は浦添間切城間村(現浦添市城間)に隠れたのだ。
これは当然乍ら、戦乱の地にしたくない琉球王と、交易を続け明からの輸入で利益をは
かった島津との利害が一致していた事によるものだった。琉球が薩摩藩の支配を受けて
いることを隠蔽したのは、明・清に対してだけではなく、19世紀になって欧米列強が
来琉するようになって、欧米に対しても、隠蔽された。こうした事でトカラの悪石島で
もすぐさま捕縛され送られた塩塚氏だった。この塩塚姓は柳川立花藩に多くあったが、
彼らは佐賀藩や長崎に移動していた。私見ではあるが彼らは古くからのイラン人ではな
いかと思う。塩の行商人でその作り方を良く知る者だったと言われる。かつて昔は塩田
ではなく、少し塩の作り方は違って素焼き壺に頼っていた。日本では、外国人の入国や
キリスト教の布教は禁止されていたが、琉球は日本の支配下にないので、日本の法律は
適用されなかった。フランス人宣教師フォルカード神父は、1844(天保15)年に琉球にや
ってきて2年間 滞在した。また、イギリスの宣教師で医師のベッテルハイムは1846年
から8年間琉球に滞在した。

1545: 名無しさんAA:18/11/05 14:55
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   537   > 

 琉球王府はキリスト教の布教はもとより、外国人の滞在も嫌がったが、清国の法では
禁止されていなかったので、清国の属国である琉球国が拒否する根拠がなかった。フォ
ルカード神父は琉球王府の意向を受け入れて、おとなしくしていたため布教活動はでき
なかった。ベッテルハイムは琉球の民家を訪ねて、布教活動をしたが、琉球王府にそれ
を止めることはできなかった。当間重陳(伊地知太郎右衛門)は元・薩摩藩士。薩摩藩
の琉球侵攻の翌年ごろ琉球に渡り、その後1628年に、「大和横目」に任ぜられ、交易船
などの監視に当たった。1636年、江戸幕府は寛永通宝を鋳造し唯一の銭貨とした。薩摩
藩は加治木銭と言われる鐚銭の鋳造が盛んだったため、銭貨が寛永通宝に統一されると
、使えなくなった鐚銭が多量に残った。当間重陳は薩摩の鐚銭を改鋳して鳩目銭を作っ
た。このため鳩目銭のことを「当間銭」ともいう。寛永通宝と鳩目銭が使われた。鳩目
銭は貧弱な銭貨のため価値が低く、通常は400枚〜1000枚を紐通しして 結び目に封をし
た形状で使用した。このため「封印銭」ともいう。琉球に寛永通宝が流通してくると、
鳩目銭は使用されなくなっていった。しかし、琉球では、中国に対して、薩摩藩の関係
を秘密にしていたので、中国から冊封使が訪れると、寛永通宝が目に触れないように回
収して、代わりに鳩目銭を流通させた。このため、鳩目銭は廃棄されることなく貯蔵さ
れた。時代は下がって、1945年、日本の敗戦により琉球はアメリカ軍の占領統治となり
、1957年那覇市長選で反米の瀬長亀次郎が当選すると、アメリカ軍当局は瀬長の追い落
としを目論んだ。当時、アメリカ軍により琉球政府行政主席に充てられていた当間重剛
は、那覇市民により選挙された瀬長亀次郎を強制的に排除した。当間重剛は当間重陳の
子孫だった。琉球を支配した薩摩藩は、琉球を介して清国と貿易をすることにより、利
益をあげていた。しかし、第28代当主・島津斉彬の時代になると、琉球を介した交易に
も行き詰まりが見え、さらに、欧米列強の琉球開国圧力は強まり、それがために、薩摩
藩では、かえって経費が必要な事態になってきていた。こうした中、島津斉彬は贋金を
作って藩財政の立て直しを目論んだが、斉彬の時代には、少数の試作品を除いて贋金は
作られていない。琉球王朝は、この布教と贋金の発達には持て余していたが臣下は優れ
て薩摩には台湾を 中国には薩摩を利用していた。これが崩れたのが同じ黒船到来だっ
た。大砲にも宣教師にも敵わなかったのだ。しかし宋やルソンなどの言葉や文化を理解
していた王朝は、協定や条約によって国を守った。


1546: 名無しさんAA:18/11/05 14:56
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   538   > 

 文久2年(1862年)、琉球救済の名目で幕府に申請していた「琉球通宝」の鋳造許可が
おりる。琉球通宝は領内限定で通用が認められたものなので、薩摩藩の利益にはなりに
くかったため、天保通宝を贋造した。薩英戦争で鋳造所が焼失したのちは、場所を移し
て再開し、鋳造量も増大した。贋金は秘密裏に作るものなので、公文書などは残ってお
らず、詳しいことは不明であるが、贋金作りの中心を担った市来四郎の自叙伝によると
、贋 天保通宝の鋳造量は290余万両だったとのことなので、1億枚を超える鋳造枚数だ
ったことになる。贋金つくりに必要な銅材料の調達には、寺の鐘や仏具も使用された。
現在、鹿児島県には古刹がほとんどない。幕末から明治の廃仏毀釈が徹底していたと説
明されることが多いが、贋金つくりに鐘や仏具を没収した歴史が、徹底した廃仏毀釈に
つながっている。琉球通宝は、薩摩で作られた天保通宝は、色や字体の微妙な違いなど
で見分ける必要がある。薩摩は天保通宝の贋金を大量に鋳造したようで、現在、残存数
も多い。琉球通宝は多くない。薩摩藩以上に険しかったのが島原藩だった。秀吉の朝鮮
出兵以降は、幕府の鎖国政策により、重要な副収入でもあった対外貿易を絶たれた島原
藩は、密輸か重税でしか幕府には納められなかった。また1635年(寛永12)からは凶作
が続き。当時日本に居たポルトガル人のドアルテ・コレアや、オランダの平戸商館長の
クーケバッケルの報告記録では、「あらゆる生産物や生活手段に課税し、未納の際の取
立ての厳しさは言語に絶し、この為の一揆であった」という記述がある。勝家は年貢を
納められない農民や、村の責任者である庄屋から、妻や娘を人質に取るようになった。
島原の乱の記録を残した長崎のドアルテ・コレアは、人質の若い娘や子供に藁蓑を着せ
て火をつけ、もがきながら焼死する姿を「蓑踊り」と呼んで見せしめをしていた。と書
いた記録を残す。1637年(寛永14年)に、口の津村の庄屋・与左衛門の妻は身重のまま
人質にとられ、冷たい水牢に裸で入れた。村民は庄屋宅に集まり年貢を納める方法を話
し合ったものの、納める事が出来ず、庄屋の妻は6日間苦しみ、水中で出産した子供と
共に絶命した。たまりかねた領民は蜂起し、代官所を襲撃して代官を殺害した。これが
島原の乱の始まりとなった。乱の鎮圧後、勝家は肥前唐津藩主の寺沢堅高と共に反乱の
責任を問われ、勝家は改易、所領を没収され、美作津山藩主森長継に預けられた。勝家
は悪政を布いたことを否定し、あくまでキリシタンによる反乱と主張し続けた。松倉家
から折檻された農民の遺体が発見され容疑は定まり、1638年(寛永15年)、幕府は正式
に松倉を江戸に召喚して評定を重ねた結果、死罪と決して7月、森家の江戸屋敷で斬首
に処せられた

1547: 名無しさんAA:18/11/05 14:58
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   539   > 

 その遺骸は松倉家の家臣に引き取られ、芝の金地院に葬られた。大名が切腹さえも許
されず一介の罪人として斬首刑に処せられたことは、大反乱を引き起こす原因を作った
勝家の失政を、幕府側が極めて重大な罪と見なしていたことを示している。この少し前
慶長14年(1609)の東南アジア海域の我国の海運」の書面で、大航海時代の中で1609年に
500石積 軍船の破壊したという結果を書いている。多分ポルトガル船デウス号の撃沈の
話だろう。徳川家康謁見等安が死罪にまでなったからそれで終りでは無かったのだ。当
然イスパニア船は大軍では無かったが多くの帆船が出港していた。サン・フェリペ号は
秀吉時代の南蛮船だ。16〜17世紀貿易活動に従事したポルトガルの小型帆船で、バ
テレン追放令が出て無かった頃だ。ガスパル・コエリョが船長のフスタ船を秀吉に見せ
た所、その船の動力源である船漕ぎが全て日本人であり、鎖に繋がれ苦役にあえいでい
る姿を見て驚愕した。秀吉がコエリョに問うと、皆犯罪者だと平気で言い、人間として
扱っていない事に激怒した。コエリョは博多でこの船を乗り回し大砲を秀吉に撃たせて
秀吉も喜んだと言う。早い時期からフィリピンからの艦隊派遣を求めていたし、高山右
近や小西行長がこの行為を懸念したが一向にこの傲慢さは収まらなかった。こうして、
バテレン追放令が出た原因のフスタ船となった。しかし、その後も、貿易をしたかった
秀吉は、バテレン追放令は発令したものの余り厳しくしていなかった。がしかし、土佐
でのサン=フェリペ号の難破漂着事件が起きた。土佐に漂着したサン=フェリペ号の船
員がキリスト教を布教したのは領土を広げる為と言ったことで、キリスト教が禁止され
、キリスト教弾圧が始まった。これが長崎の26聖人殉教の原因となった。サン=フェ
リペ号そのものは壊れたが、秀吉の許可によりサン=フェリペ号の修繕は開始された。
あまり知られてないが、アブラハム・ファン・デン・ブルック、ニコラース・ボイクは
オランタ船隊特使として国書授受し、通商許可朱印状を受領している。朱印状の日付は
慶長14年7月25日である。つまり、この慶長14年1609年にデウス号が沈没が
ある頃に、一方ではタイオワン事件で等安を捕縛する事を決め、オランダ人船長には、
御朱印状を出している幕府だったのだ。


1548: 名無しさんAA:18/11/05 14:58
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   540   > 

 1600年の関が原の戦いの時に、肥前にオランダ船豊後漂着して、ウイリアム・ア
ダムスが徳川家康と謁見した事が大きかった、細川ガラシャや小西行長は関ケ原の西軍
で死んだのだが、小西は宇土の城主だった。宇土は鎌倉時代末期に宇土氏によって築か
れた宇土古城とともにみると、鶴が翼を広げているように見えたことから「鶴の城」の
異名を持っていた。この宇土城普請に従わなかった天草五人衆とは戦になり、天草国人
一揆が起こっている。佐々成正が平定できず、これを加藤清正らとともに平定。天草1
万石あまりも所領とした。秀吉は、後の朝鮮出兵を視野に入れて、水軍を統率する行長
を肥後に封じたという。このころの天草は人口3万の2/3にあたる2万3千がキリシタンで
あり、60人あまりの神父、30の教会が存在したという。志岐氏の所領である志岐には宣
教師の要請によって画家でもあるイタリア人修道士(イルマン)ジョバンニ・ニコラオ
が派遣され、ニコラオの指導下で聖像学校が営まれ、油絵、水彩画、銅版画が教えられ
聖画・聖像の製作、パイプオルガンや時計などの製作が行われていたと言われている。
オランダ東インド会社(VOC)は1602年、バタビアで設立された世界初の株式会
社とされる。植民地経営や外国との条約締結、自衛戦争遂行など準国家的な権限を持ち
、バタビアを拠点に香料貿易を独占、コーヒーの強制栽培などにも乗り出していた。古
来よりヨーロッパで、金銀を豊富に産する「金島」・「銀島」の伝説があった。1635年
(寛永12年)、平戸のオランダ商館の職員であったウィレム・フルステーヘン(後の商
館長)は、オランダ領東インド総督のアントニオ・ヴァン・ディーメンに宛てて、「日
本の東方北緯37度半、海岸からおよそ380〜390マイル」に金銀島があると聞いたと報告
している。すなわち寛永12年には既にオランダ商館は盛んだった。平戸オランダ商館
は、1609年に江戸幕府から貿易を許可された東インド会社が、平戸城主松浦隆信公の導
きによって平戸に設置したとなっている。だが1600年に既に臼杵黒島に漂着した事
を思えば、平戸以外に既にあったと考えられる。当時平戸は東アジアにおける貿易拠点
で、オランダ商館長日記などの記述によると、当初は土蔵の付属した住宅1軒を借りて
始まり、その後、貿易が拡大するに従い、1612、1616、1618、1623、1637、1639年とに
順次施設の拡大整備が行なわれている。タイオワン事件(台湾での中国貿易をめぐるオ
ランダ商館との紛争事件)によって1628年から5年間交易が途絶えた後の1637年と1639
年に建設された倉庫は規模が大きく、充実した貿易体制となった。つまりタイオワンの
事件で日本との交易が無くなった事は、オランダにとっても痛手だったのである。


1549: 名無しさんAA:18/11/05 15:11
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   541   > 
 江戸幕府の鎖国時代に、日本の北方ルートをしつこく探索したのがVOC(オランダ
東インド会社)の測量隊だった。スペインは早くから、日本政府に金銀島を持っている
。との噂が絶えなかったからだ。カストリカム号とプレスケンス号の2隻は1643年
、バタビアを出発。国後島と択捉島の間の海峡を通り、サハリンまで行き、根室の海岸
では2週間停泊した。その時々に船舶修理や食料補給などをした。人なつっこいアイヌ
の人々とシャケや木材などを物々交換したという記録が残る。しかし徳川幕府は、長崎
・出島のみ交易が許された鎖国体制を維持し、当時に、このうち1隻が岩手の陸前高田
近くで一時拘束される事件が起きた。急速出島のオランダ商館が動き、江戸幕府に渡航
目的を説明して釈放された。コロンブスの「新大陸発見」に沸く当時のヨーロッパで、
東方にあるとされた「金銀島」や北方ルート開拓を目的とした探検だったとみられる。
鎖国をするためにはどこまでが国なのかを明確にする必要が生じたが、VOCの測量隊
は幕府を通り越し、北方の島を探検、狩猟民族のアイヌ人と接していた。オランダ人が
捕縛されたという話は、すぐに出島のオランダ商館にも伝えられた。このため、新旧二
人の商館長ピーテル・アントニスゾーン・オーフルトワーテルとヤン・ファン・エルセ
ラックが例年より1ヶ月ほど早く江戸に参府し、宣教師の潜入や日本への領土的野心を
目的とするものではないと釈明した。これが受け入れられ、12月に10人は釈放された
。鎖国で長崎からバタビアへ追放された混血女性「じゃがたらお春」の悲話もあるが、
日本では混血児を哀れむ程も無く、バタビアでは差別意識は持たれず、オランダ人と結
婚して裕福な生活を送ったという。鎖国中のバタビア、長崎、北方のアイヌの人々など
と知り合っている。この事がその後のロシアの南下を誘い込んだ。ウィリアム・アダム
ス(William Adams)は、1564年に生まれたイギリス人で後に帰化し三浦按針となった。
5隻の船団で 1598年6月24日に、ロッテルダムを出港し、南米マゼラン海峡を抜けて、
太平洋に出た。航海は困難を極め、2隻はポルトガルとスペインに拿捕され、1隻は、
はぐれてUターンした。ウイリアム・アダムスが乗船していたホープ号も太平洋で沈没
し、残った僚船リーフデ号1隻が漂着した。そして、1600年4月29日(慶長5年3月16日)
、リーフデ号は九州の東岸となる豊後臼杵の黒島沖に漂着しました。しかし、赤痢など
で次々に船員は倒れ、出港時に110人だったリーフデ号は 24名まで減っており、自力で
歩ける者はウィリアム含めて6名だった。先行したスペイン・ポルトガルは同じキリス
ト教でも「カトリック」で、オランダ・イギリスは「プロテスタント」であり、植民地
・海外進出ではお互いに争っている中で、徳川家康 は5月12日(慶長5年3月30日)にウ
イリアム・アダムス(35歳)らと直接会った

1550: 名無しさんAA:18/11/05 19:34
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   542   > 

 このイギリス人ウィリアム・アダムスと一緒だったのが、後に八重洲口の名の元にな
ったオランダ人ヤン・ヨーステンである。彼らは、海賊ではなく、欧州事情の説明に4
年の歳月がかかってやっと家康と謁見ができたほど困憊を極めて獄門からはなれた。こ
れはイエズス会が、イギリス人は海賊と説明していたからだった。その後は徳川家康に
信任され、江戸城の内堀内に邸を貰い、日本人と結婚した。屋敷のあった場所は現在の
八重洲のあたりだが、この「八重洲」の地名は彼自身の名に由来する。「ヤン=ヨース
テン」が訛った日本名「耶楊子」(やようす)と呼ばれるようになり、これがのちに「
八代洲」(やよす)となり、「八重洲」(やえす)になった。やがて東南アジア方面で
の朱印船貿易を行い、その後に帰国しようとバタヴィア(ジャカルタ)に渡ったが帰国
交渉がはかどらず、結局あきらめ日本へ帰ろうとする途中、乗船していた船がインドシ
ナで座礁して溺死したと言われる。東南アジアの日本人町は、江戸幕府による鎖国政策
の完成(1632年)を受けて日本との往来が途絶えたため、在住日本人が現地住民と同化
する形で徐々に貿易は消滅した。鎖国中にも貿易が許されたのは清と李氏朝鮮およびオ
ランダに限られたが、そのうち朝鮮半島のプサンには、中世の居留地である三浦倭館を
受け継いだ「草梁倭館(そうりょうわかん、チョヤンウェグァン)」が置かれていた。
そこは対馬藩の役人や商人など日本人400〜500人が居住していた。又厳密には日本人町
ではない「琉球人の町」も存在した。アユタヤ日本人町の住民は、傭兵、貿易商、キリ
シタン、あるいは彼らの配偶者やタイ族の奴隷などで構成されて、この時代、江戸時代
初期の国際貿易、キリスト教の布教・禁教など、わが国の対外政策の歴史をしる上で、
平戸商館の繋がりある町の重要性はかなり高い。こうして、東シナ海を制覇していたイ
スパニア・ポルトガルから急速にオランダイギリスの世界に変化した。長崎出島が出来
る前までは恐らくだが、平戸のポルトガルは閉鎖され平戸にオランダ商館があり天草に
ポルトガル商館が移った事があった。その頃薩摩に琉球の出張所出島があってこの3港
が主な輸出入貿易の起点とだったが、実は他にも、壱岐対馬や済州島、或いは種子島や
トカラ列島の島々が一斉に、各藩の抜け荷の一時保管庫として、街を形成していたもの
とも思われる。

1551: 名無しさんAA:18/11/05 19:34
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   543   > 

 抜け荷(ぬけに)とは江戸時代に幕府の禁令を破って行われた密貿易である。主とし
て日本に来航したオランダ人や中国人を相手に行われた。寛永年間以後、日本の貿易は
長崎に限られ、その後相手国は中国、オランダのみとされ、渡来船の数、貿易額などは
制限された。また、貿易は指定される特許商人によって行われ、元禄以後は、長崎会所
に限られた。こうした諸制限の外で貿易を行おうとするために抜け荷が発生したとされ
る。江戸幕府はその防止に努め、正徳4年以来しばしば多くの禁令を発して、禁を犯す
ものは死刑に処した。が後を絶たず、幕末に至るまで根絶はしなかった。享保年間は捕
えた密商を釈放して、逆にこれを抜け荷の監察に用いて効果を上げた時期もあった。多
くは唐船との間で行われ、あらかじめ期を約して所定の航路外の海上で、夜間、取引を
行うのが常とされ、中には唐人と通じて唐人館内で行う者もあり、また外船に漂流を装
わせて、九州あたりの交通の少ない海岸で行う者もあった事が記録されている。後には
唐、オランダ以外の国とも密貿易を行う者も生じた。以上は、外国船との密貿易である
。しかし藩によっては、藩運営の専売品の仕法やもしくはこれに類似した仕法を行って
、特定商品を密かに藩外と売買することも禁じられ、これを犯すことをも、抜け荷と言
った。それが火薬の硝石や金や蝋や綿にも及んだ。一例が会津藩の抜け蝋であり、また
阿波藩の藍の抜け荷でもあった。取り締まるために抜荷制道役を設け処罰したが大きく
は商人の方が強かった。なお、「ぬきに」(抜き荷、抜荷)という言葉もあるが、これ
は、船頭が、回送を委託された荷主の商品を抜き取って私販する汚職を言った。八重山
の抜け荷事件は石垣島で起こった諍いだった。久留米藩は真崎氏を通じて与論島や種子
島や石垣島航路を持っていた。多くは椿油を輸出して綿や硝石を入れていた。また柳川
立花藩も壱岐対馬を通じて明との貿易が古くからあった。米を送り、綿や金銀を入れて
いたと言われる。金銀は日田が天領になって多くの九州大名は困惑し、黒田藩すら公式
には手が付けられなくった。その為北方民族から熊の妙丹、毛皮などの仕入れが閉ざさ
れたとされる。徳川幕府は突然の命令によって鎖国にした。これを契機ににわかに鎖国
貿易の途を辿るが、各藩の財政は殆どが交易で余力を持っていた。その経過は、それは
一挙にではなく、色々と国内事情や国外情勢をはかりながら幕府は出して絞めていた。
慶長15年(1610)秀忠はスペイン人に通商航海免許を与え,慶長 16年(1611) 7月24日〜1
月28日家康より、オランダ平戸商館長スペックスに渡海朱印状を与え,同年に明国商人
に長崎での貿易免許状を下付している。慶長 17年(1612)10月29日 家康はオランダに対
し,パタニア貿易の将来性を問い合わせして、より厳しいキリスタン禁教令を出した。

1552: 名無しさんAA:18/11/05 19:35
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   544   > 

 もともと交易は九州の大宰府政庁の持ち分で、物部麁鹿火時代に九州王朝が白水江の
戦いで負けた大和朝廷に米を送る事でやんわりその権益をもった。と伝説は言う。しか
し蒙古襲来で一変し関東武士が台頭し、その後大内氏がその権益を持ったが、瀬戸内の
水軍が反対しそれを利用した毛利が一世を風靡したが大友がそれに挑んで戦国時代が進
んだと伝説ではされている。その意味では博多は喫水が浅く良港ではなかったらしい。
 長崎出島は狭い町だった。バタビア(現、インドネシアのジャカルタ)を出港したオ
ランダ船は季節風の関係から旧暦の6月、7月(時には5月や8月)に長崎に入港して
くる。その隻数は18世紀半ばからは2隻、或いは1隻であった。(江戸時代にわが国
に来航したオランダ船は、1621年から1847年までの227年間に延べ715隻
を数えたが、これ以外にも、27隻が途中で難破している。)長崎の外港に到着したオ
ランダ船は帆を下ろし、多数の曳船によって長崎港に引き入れられたが、その際、祝砲
を発射しながら入港した。オランダ船が出島の沖に碇を入れると、当時の世界の情勢を
記した阿蘭陀風説書や積荷目録が提出され通詞たちは即翻訳の作業に取りかかった。そ
の他、積荷の検査や人数改めといって船の出航地や乗組員の人数などの取調べが行われ
た。荷役作業は長崎奉行の命令によって開始されたが、それは通常、オランダ船の長崎
入港から2〜3日を経過してからであった。オランダ船の貿易品は、水門側から小舟で
出島の水門に搬入された。水門は2ノ門とも呼ばれ、出島の西側、現在の電停・出島の
付近にあり、オランダ船の出入港の際の荷役作業の時に開かれるだけで、通常は厳重に
閉鎖されていた。出島に陸揚げされた荷物は、検使役が1つ1つ点検し、本方荷物と脇
荷物とに区別され、イの蔵、ロの蔵と呼ばれたそれぞれの倉痺に収納された。本方荷物
は「コンパニヤ」と呼ばれ、東インド会社が取引を行う貿易品で、イの蔵に(レリー:
ゆりと呼ばれた。)収納された。脇荷物は「カンバン」と呼ばれ、東インド会社社員の
私的な荷物で、(その利益は社員達のもの)ロの蔵(ドールン(いばら)と呼ばれた)
に収納された。入港予定のオランダ船がすべて入港したのを見届け、まず生糸の価格の
決定の協議が始められました。生糸の取引が終了すると、それ以外の商品の取引が行わ
れ、全国から訪れた商人たちは、入札によって次々に商品を引き取っていった。入港以
来約2〜3ヶ月たち取引もすむと、オランダ船は旧暦9月20日前後に長崎を出港、バ
タビアへ向った。


1553: 名無しさんAA:18/11/05 19:35
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   545   > 

難破船バタビア号の惨劇はノンフィクションとされている。大航海時代の1628年、オラ
ンダからバタヴィアへオランダ東インド会社の船団が向かった。そのなかの一つ帆船バ
タヴィア号だった。340名の乗員乗客( 水夫、兵士、一般乗客、船員、その家族)を乗
せる大型船だった。航海中、船長と船団長が不仲となり、船内ではナンバー3の地位に
ある副商務員イエロニムスに唆された船長は船団長を殺害し船を乗っ取り海賊となるこ
とを企てるようになった。1629年、船団から離れバタヴィア号一隻となった時、密かに
集めていた仲間を使って計画を実行しようとしたが、オーストラリア沖で珊瑚礁に座礁
した。近くの無人島に生き残った乗員乗客の大半が上陸し、船長と船団長他20名は救助
を求め小型船で脱出したと言う。それからまもなくバタヴィア号は沈没したがその後に
この乗員達は船や食糧を中心に血みどろの戦いが繰り広げられる。船の名簿に記載され
ていた341名のうち、難破で60人が死亡。280人の生存者は無人島であるビーコン島に逃
げのびたと言われている。ところが島でも生存者らは血みどろの争いを続けて、以降ビ
ーコン島は”殺人島や”バタヴィア号の墓場””という異名で呼ばれるようになった。
そうして近年、当時の生存者である5人の遺体が新たに共同墓地から発掘された。この
商船「バタヴィア号」は、オランダ東インド会社の船団の1隻として1628年、オランダ
からインドネシアに向かっていた。とされ、ところが1629年にオーストラリア西海岸沖
60キロの海に浮かぶサンゴ島で座礁し、船内では座礁する前から権力争いが行われてい
た。と言う。バタビア号と言うからには、やはり向かっていたのはバタビア国の港には
違いない。1628年はタイオワン事件から10年後である。この時既に幾つもの南蛮船が
行き交っていた事になる。台湾の熱蘭遮(ゼーランディア)城が完成し、フォルモザ島
の名はタイオワン島に既に変わっていたと思われる。1561年の「宮の前事件」は、更に
50年も遡る事になる。平戸にオランダ商館の出来る前にポルトガルのイエズス会が教
会を築いていたのだ。宮ノ前事件(みやのまえじけん)は、永禄4年(1561年)という
早い時期に、平戸においてポルトガル商人と日本人との間で発生した暴動事件である。
平戸港そばの七郎宮の露店で発生したことから、松浦党や郷土史の研究者の間では、「
宮ノ前事件」「宮前事件」と呼んだ。1561年の南蛮船来航にあわせ、平戸・博多・豊前
の商人達との売買交渉が始まっていた。絹糸(または絹織物)の交渉が決裂し、両者の
間に険悪な空気が生じたものだ。

1554: 名無しさんAA:18/11/05 19:35
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   546   > 

しかし、長崎でも宣教師は強く商人達との売買交渉があったが絹糸など交渉が決裂した
。日本商人が商品を投げつけたことで、これを契機に南蛮商人が殴りかかり、双方入り
乱れての乱闘に発展した。見かねた武士が仲裁に入ったが、南蛮商人は日本側への助太
刀と勘違いし、船に戻って武装し、日本商人や武士団を鉄砲で襲撃した。武士団も抜刀
して応戦し血みどろの戦さ場となった。南蛮商人はフェルナン・デ・ソウサ船長以下14
名の死傷者を出し、平戸港を脱出するに及んだ。この事件は、単なる商取引上のトラブ
ルではなかった。平戸領内でも臼杵同様に、キリシタンと仏教徒の確執が表面化したも
のと解釈される。鹿児島での布教を断念したフランシスコ・ザビエルが次に布教の拠点
としたのが平戸であり、領主松浦隆信も南蛮貿易の利権を獲得するために布教を受容し
たため、生月島と度島だけでも1400人が改宗した。改宗したキリシタンは寺社や墓地の
破壊を行い、入信を拒んだ仏教徒との間に確執が生じていた。永禄2年(1559年)、西
禅寺住職と日本人修道士ロレンソ了斎との宗教論争を契機に、仏教徒による暴動未遂事
件が発覚した。松浦隆信は、キリシタン側の総責任者として平戸で布教活動をしていた
ガスパル・ド・ヴィレラ神父を追放したが、禁教には踏み切らなかった。そのため仏教
徒の不満は解消できず、キリシタンへの不信感はくすぶっていたままだった。これが、
宮前事件の伏線であったと考えられている。豊後で布教活動をしていた日本教区長だっ
たコスメ・デ・トーレスは、この暴動の後に日本人への処罰が行われなかったことから
、平戸での貿易を拒絶することに決めた。1559年の暴動未遂事件以来、ルイス・デ・ア
ルメイダ神父に新貿易港の探索を命じており、ひとまず平戸から撤退することをゴアの
ポルトガル総督に進言している。一方、アルメイダ神父は大村純忠との接触に成功し、
翌永禄5年(1562年)、純忠が提供した横瀬浦を新貿易港として、対日貿易を再開した
。フランシスコ・ザビエルは、カトリック教会の司祭で中央会宣教師として、イエズス
会を創設している。ルイス・デ・アルメイダは、マカオで成功した商人だった。イエズ
ス会の宣教師に出会い、思うところがあり、豊後府内(大分県大分市)にやって来た。
当時の日本で広く行われていた赤子殺しや間引きの現実にショックを受け、私財を投じ
て乳児院を建て、さらに豊後府内の領主であった大友宗麟に願って土地をもらいうけ、
1557年に外科、内科、ハンセン氏病科を備えた総合病院を建てた。これが日本初の病院
であり、西洋医学が初めて導入された場所である。

1555: 名無しさんAA:18/11/05 19:36
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   547   > 

 この病院においては、みずからが外科医療を担当した一方で、元僧侶の日本人キリシ
タンが内科医療や薬のことに携わった。そのほか、聖水や十字架、数珠、祈祷文などを
用いた呪術的な医療も盛んに行われた。実際、この病院で主力だったのは、外科医療よ
りも呪術的な医療であり、アルメイダ自身は、実際のところ、外科医療よりも呪術的な
医療を重視しており、病気治癒の効果がデウスの力あることを強調する発言を残してい
る。こうして豊後で病院の面倒を観ながら、新たな長崎勝浦港に布教拠点を開き、往復
して双方に通った。その道はアルメイダ街道と呼ばれ、後での隠れ切支丹の逃げる街道
となった。こうして勝浦〜佐世保〜島原・天草〜玉名・南関〜荒尾山門〜三潴筑後〜久
留米〜瀬高八女〜浮羽日田〜玖珠などの各所が隠れキリスタンの潜伏所とて被害を受け
るのである。ルイス・デ・アルメイダはカトリックの宣教師ではあったものの、熱心な
イエズス会員でも無かった。父親がユダヤ教からの改宗者だったせいか学識も高く、僧
侶など知識人の欲求によく応え、改宗へと導いた。医師としても貧しい人々を助けたの
で多くの信者を獲得した。神父としての活動を始めてからも、貿易への投資を続け、病
院の資金を調達した。また、慢性的な財政難に苦しんでいた日本の教会へも惜しみなく
私財を寄進した。日本人医師の協力を受けて病院を運営していたアルメイダは1558年に
は医学教育も開始。医師の養成を行った。やがてアルメイダは九州全域をまわって医療
活動を行うようになり、1566年には五島の領主宇久純定の治療を依頼されるほどその名
声は高まっていた。冒険商人から無償奉仕の医師へと転身し、病人と乳児に尽くした波
乱の生涯を送っている。家康はイギリス人アダムスやオランダ人ヨーステンとを分けて
紅毛人とした。これにより南蛮人とは、ポルトガル人とスペイン人を指す事になった。
南蛮貿易は、インドネシア(モルッカ諸島等)や中国(マカオ、マニラ等)から海流と
季節風を利用して、帆船で日本に来るが、帆船は風がないと航海できない。このために
、地理的に九州西岸域(長崎など)が、来やすく、また、帰りやすかった。しかし、こ
のアルメイダが進めた天然痘は八女を中心に莫大な命を救ったとされる。元々大宰府が
牛を祀っていた為に牛の血の注射を許したとされる。その為八女の入口には石工が奉納
した牛が数多く祀られていたが、今や盗難にあってそれがない。かつての久留米藩の宝
とされていたのだが残念である。

1556: 名無しさんAA:18/11/05 19:46
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   548   > 

 南蛮貿易は、帆船で、7〜8月ごろの南方からの季節風にのって長崎に入港し、取引の
後、季節風が逆方向に吹き始める、晩秋・初冬(10月頃)に、マカオに戻って行った。
ポルトガル商人は、自身の信仰のためと、ポルトガル人宣教師の日本での情報網も必要
であったため、宣教師の求めに応じて、キリスト教布教の許可を条件に貿易をしていた
。しかし、ポルトガル人は、鹿児島の薩摩藩でも貿易していたが、藩内の仏教勢力がキ
リスト教布教を妨害し、藩主も布教をあまり好まなかったため、宣教師が鹿児島での布
教をあきらめたので、鹿児島での貿易は無くなった。九州騒乱時代に大友宗麟が蒲池氏
以下層々たる武将に宮崎の飫肥城攻めを決めたのは、切支丹の国造りをそそのかされた
からだった。旧来から伊東氏と島津氏は1485年から1568年の約80年の間、9回に亘って
飫肥城を奪い合い、筑後合戦と同じに南国の川中島状態だった。伊東義祐は飫肥城を手
に入れ日向国内の48の支城を治め伊東氏の最盛期を築き上げていた。ところが1572年に
起きた木崎原の戦いで島津義弘に敗北する。そこに九州制覇を狙う豊後国の大友宗麟は
総力を挙げて奪還しようと、薩摩国の島津義久に挑んだ。これが耳川の戦い(みみかわ
のたたかい)だった。天正6年(1578年)の事だ。元々は、大友氏の加判衆(田原親賢
・臼杵鑑速・志賀親度・佐伯惟教)から島津氏の老中(川上忠克・島津季久・村田経定
・伊集院久信・平田昌宗・伊集院忠金)に充てた連署状には両家の関係を「貴家(島津
氏)当方(大友氏)代々披得御意候」と表現したほどの同盟のあった仲だった。1567年
に、念願かなって飫肥城を奪取した伊東義祐(祐国の孫)は、子の祐兵に飫肥の地を与
えた事で弱くなり、1572年に伊東氏が木崎原の戦いをきっかけに没落し、日向国全土を
島津氏が治めるところとなったのだ、飫肥も再び島津氏の支配となった。実はキリスタ
ンかぶれの大友によって、古来神道の総本山岩牟礼城までも盗られようとしたので島津
が奮闘し奪還したのである。こうして古刹岩牟礼城は島津に帰する事になった。現在の
宮崎県小林市東方の城ヶ迫にあった古城で。築城年数、築城者などは一切不明。小林市
にあった城の中では一番高地にあった城である。こうして逃げ延びた伊藤氏が「天正遣
欧使節団」の伊藤マンショや海商大久保甚右衛門らに祀られた伊藤小左衛門であろう。
岩牟礼城は、古代九州王朝の祖とされた大神氏族の祀り城だった。だが大神氏は移り、
九州戦乱で明朝貿易の通訳だった伊藤氏に譲った形になっていた。伊藤氏は同じ関東武
士で大友氏を引き連れて来た武将だったとされ太宰少弐氏の縁戚であったとも言われる

1557: 名無しさんAA:18/11/05 19:46
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   549   > 

 ポルトガル人達は、貿易については、印度だけでは満足せず、東シナ海域に進出して
、(中国の明は、海禁政策中であったが)中国人とともに貿易を開始していた。ポルト
ガル商人は、中国人も乗船した帆船で、貿易のために中国へ行く途中、嵐に遭遇して、
偶然、種子島へ漂着した。とされる。1543年の種子島の鉄砲伝来とはなっているが
巌流島に、1618年(元和4年)タイオワン事件逃避者が発見され捕縛された事を思えば
多分この関門海峡付近がこうした南蛮船の交易場所だったのだろう。その頃から、ポル
トガル商人は貿易のため、宣教師やキリスト教を連れて、日本へやって来るようになっ
ていた。国崩しと言われた大砲は、大友宗麟と毛利元就の海上封鎖の戦争では既に使わ
れているので、もっと早い時期から鉄砲伝来はあったようだ。当初、ポルトガル人達は
鹿児島で貿易していた。しかし薩摩藩がキリスト教布教に冷淡で途中から禁教令を出し
た。仏教僧との問答に負けたからと言われている。つまり全知全能の神キリストは何故
世界滅亡時にしか助けないのか。と言う事に答えられなかった。これによりキリスト教
宣教師は他に布教ができる地域を探す事になった。当初豊後で居を止めた。しかし、こ
こが戦乱と海賊の多い事で他を探した。平戸の松浦藩の藩主松浦隆信は、貿易での利益
を得るため、中国人の倭寇=海賊の頭目王直らの紹介で平戸へ招へい(1542年)し
、中国と貿易していた。中国人の王直は、1540年に、五島の福江に来て居城として
いた。領主の宇久氏(後の五島氏)から通商許可を得て貿易等(倭寇)をしていたとい
われる。ポルトガル商人は、これらの中国人(王直)に導かれて、貿易のために平戸へ
入港した。(1550年)ポルトガル人は貿易と共にカトリック教の布教を求めたため
に、松浦隆信は、貿易をするため、キリスト教布教を容認して、貿易を開始したのだが
、次第にキリスト教布教に消極的となった。それは諫早氏や西郷氏などとの確執であっ
た。1561年に、ポルトガル商人と日本人との間で、貿易トラブルから、ポルトガル
商人が日本商人を襲撃したため、日本人が応戦しポルトガル商人を10数名死傷した。
先述の宮の前事件である。このためポルトガル人は、犯人を処罰するように藩主の松浦
隆信に執拗に求めたが、隆信は処罰しなかった。このためポルトガル人は藩主の隆信に
不信感を抱き、それ以降、ポルトガル人宣教師が、カトリック教の布教を許可する大名
を探し貿易を打診したところ、大村藩の大村純忠がキリスト教の布教を許可した。


1558: 名無しさんAA:18/11/05 19:47
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   550   > 

 ポルトガル商人は平戸入港を止めて、大村藩の領内の横瀬浦(西彼半島)へ入港して
貿易を開始した。(1562年)しかし、大村藩内や近隣藩のキリスト教布教反対派に
より、横瀬浦港も焼き討ちされ、廃墟となり、貿易ができなくなった。(1563年)
ポルトガル人の宣教師と商人は、大村藩内でのキリスト教布教と貿易を希望したため、
大村藩主の大村純忠は長崎の福田港を開港して、キリスト教布教を認めると共に貿易を
始めた(1565年)。しかし、福田港は、外港に面しており、波が荒く地形的には良
港ではなかったため、ポルトガル商人は地形的な良港を要求した。こうしてポルトガル
人宣教師(フィゲイレド)は自ら、隣接する入り江である長崎港を測量した結果、地形
的には天然の良港であることがわかって要望した。このためポルトガル人宣教師(トー
レス)が大村純忠に長崎港の開港を求め開港した。その当時、長崎は港として認識され
ておらず、海辺には集落はほとんどなかった。と言う。フィゲイレドはイエズス会士だ
がゴアで生まれている。永禄7(1564)年来日し,天正14(1586)年まで島原,豊後,大村,
五島,博多,などで布教した。健康にめぐまれず同12年病気治療のために上京し、当代
随一といわれた医師曲直瀬道三の診察を受け、そのさい彼をキリシタンに導いた。同15
年日本を退去しゴアで死亡した。ト−レスもザビエルや日本人ヤジロウと共に、日本へ
の宣教を志し 1549年8月15日、鹿児島に到着している。ゴアはかつてはインドの最大の
マハラジャ(諸侯王)がいた所だったが、アレキサンダーの大遠征時代に、船便が発達
しその後イスラム教時代に回教徒の国になった場所だった。ゴアはインド西海岸中部の
マンドウィー河の河口にある島に位置し、天然の良港を有し、イスラーム王朝のビジャ
ープル王国の重要都市であったが、1510年、ポルトガル王国のインド総督アフォンソ・
デ・アルブケルケが 1,000人のポルトガル兵を率いて来航し、この都市を降伏させた。
このポルトガルによるゴア占領でポルトガルの占領地になったが、ゴアの要塞が老朽化
しており使えなかったため、同年5月にビジャープル王国のスルターンが50,000の兵を
率いて攻撃してくると一旦引き上げた。アフォンソ・デ・アルブケルケはポルトガル本
国からの増援が到着すると、同年11月2,000の ポルトガル兵によってゴアを再び陥落さ
せて占領した。その後ビジャープルのスルターンは何度もゴアを攻撃したが、奪回でき
なかった。1512年にはゴア要塞へ通じる水路を制するベナステリム要塞を奪取し、ゴア
に病院といくつかの教会を建設し街を建設した。

1559: 名無しさんAA:18/11/05 20:46
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   551   > 

 こうしてアジアの全植民地を統治するポルトガルのインド総督あるいはインド副王が
駐在した。ゴアとリスボンの間には喜望峰経由の定期航路が開かれ、多くのポルトガル
人をアジアに送り出し、アジアの富をポルトガルに持ち帰った。1534年にはローマ教会
の大司教座が設置され、ローマ教会において全アジアを管轄する中心となり、これを機
にサンタ・カタリナ大聖堂が建設された(1562年〜1619年)。17世紀初頭のゴアはモザ
ンビークから長崎に広がるポルトガル海上帝国の首府として「東洋のローマ」と呼ばれ
る黄金時代を迎えた。当時のゴアの人口は20万人に達し、市内には壮麗な教会や修道院
、総督府などの建物が立ち並んで、ヨーロッパの都市にも引けを取らなかったとされる
。この頃、東インド貿易はポルトガルが香料貿易を独占して、とてつもない富をもたら
し繁栄を納めていました。実はこの野蛮なポルトガル人達を、東アジアへの航海心をか
き立てたのは、「黄金の国ジパング」という、日本国の伝説からだったといわれている
。マルコ・ポーロが東方見聞録でヨーロッパにおいて日本のことを、「黄金の国ジパン
グ」と紹介したことで皆が競争して海に出て、東南アジア進出をはかった。日本国に住
んでいる私たちが一番分かっている様に、金など普通の様にない稲穂の国だ。彼らは明
治過ぎても信じていたと言われている。実は鄭和の大航海時代に奥州での金の採掘が行
われており、中尊寺金色堂についての紹介をしたとも言われている。という説がある。
んです。この極東の情報で、黄金の国は実際には存在しないと聞き、ポルトガル人は、
日本への関心は急速になくなってしまいました。つまり、日本はがっかりされた国だっ
た。こうして早くからポルトガル人が日本近海に大航海時代には来ていた。1543年に明
国の船が突然の事故で、鹿児島の大隅半島沖に浮かぶ種子島に漂流した。種子島に辿り
着いた船には、3人のポルトガル商人がたまたま乗り合わせて。これが、ポルトガルと
日本の出会いとされる。この時ポルトガル人が持っていた鉄砲に、大きく興味を示した
のが島津氏と闘っていた種子島島主の種子島時尭(たねがしまときたか)だった。彼は
大金を払いその鉄砲を2丁買いました。これが、有名な日本への鉄砲伝来とされている
。その値段は驚くことに鉄砲2丁で、2000両だったとされる。これがヨーロッパと日本
の最初の公式な交易であった。実は鉄砲は既に中国経由で日本に幾つか伝わっていた。
何故なら大砲すら国崩しで大内氏排除や大友毛利の海上戦では使用されていたからだ。
しかし精度が悪く、音ばかりで 重く火薬さえ貴重で管理出来なかったのだ。


1560: 名無しさんAA:18/11/05 20:47
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   552   > 

 メンデス・ピント著「東洋放浪記」の中に「狩に行って鳩をたくさん取って帰った後
、銃を献上した。時堯は実に貴重な物をくれた、シナ人の全商品よりはるかに価値があ
るといって、銀千両を返礼に与え、さらに火薬を作る方法を教えるように頼んだ。」と
あり。ピントの「廻国記」に、「ゼイモトは好意に報いるために、ある日、鉄砲を贈っ
た。ナウタキン(時尭のこと)は高価の品としてそれを受けとり、このために一〇〇〇
タエルの銀を彼に贈ることを告げた。」と訳している。ポルトガルは、ジャカルタまで
来ると、中国との貿易でも利益を得るため、中国の王直らとの交易を開始していた。ま
た、琉球王国との貿易をしようとしたが断られた。そのような中、1543年に中国人らと
ともに、中国へ交易に向かう途上、嵐に遭遇して、種子島へ漂着した。この船には、ポ
ルトガル人とともに、中国人の王直もいた。と思われる。種子島藩士と、中国人との筆
談で、鉄砲が伝来した。(1543年)ポルトガル船はその前年(1542年)すでに琉球王国
に到着していたが、琉球人はポルトガルがマラッカを攻撃して占拠したことを知ってい
て、交易を拒否した。それ以前に、中国人王直らは、松浦藩の平戸と交易をしていた。
王直は、1540年には日本の五島に来住し、1542年に松浦隆信に招かれて平戸に移った。
地の利を活かした交易活動は九州の諸大名、とりわけ島津氏一族には歓迎されて日本の
商人を後押ししたため、ポルトガル船は頻繁に訪れるようになった。以来、この薩摩領
(現在の鹿児島県西部)内には元亀元年(1570年)までに18隻(倭寇船ジャンク船を含
めればそれ以上)のポルトガル船が侵入していた。1549年にはカトリック布教のために
イエズス会の修道士ザビエルが来日した。彼は実はポルトガルのスパイという説があり
ますが至って不明だ。だがイエズス会そのものが創りたての国際スパイ団という説があ
る。つまり、東インド会社の先発隊としてバチカンの公式諜報員のクラブだったのであ
る。ザビエルは日本で洗礼を授けたベルナルドという名前の青年と2年後にはさっさと
日本を去っている。ベルナルドは単身でリスボンに到達し、始めてヨーロッパに渡った
日本人として名を残している。こうしてポルトガルと交易がはじまったのは、まだザビ
エルが日本にいた頃であった。ポルトガルの商船が平戸に入港し、ザビエルは織田信長
らの庇護のもと南蛮貿易がはじまった。この時彼らは、日本にはまだなかったものをい
っぱい持ち込みました。

1561: 名無しさんAA:18/11/05 20:49
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   553   > 

 1549年8月15日に日本に到来した宣教師のフランシスコ・ザビエルは鹿児島で宣教を
行ったが、ベルナルドはザビエルが最初に洗礼を授けた日本人であった。以降2年間、
ベルナルドはザビエルに同行してその活動を支え続けた。1551年11月5日にザビエルが
日本を離れると、他の4名の日本人の一人として帯同した(他は大友義鎮の家臣といわ
れる上田弦佐なる武士と、日本名不明のマテオ(山口出身)、ジョアン、アントニオと
いう青年)。一行はマラッカからコチンをへて、1552年2月にポルトガルの東洋におけ
る拠点都市ゴアにたどりついた。同年4月、中国入国を目指すザビエルはベルナルドら
と別れてゴアを出帆、上田もこれに同行した。残ったベルナルドとマテオの2人はゴア
でイエズス会学校に学んだが、マテオは病死し、他の2人もその後の消息は不明となっ
た。1553年にベルナルドはリスボアに上陸した。日本では武田信玄と上杉謙信が川中島
で初めて戦った年である。ところでこのザビエルを連れて来たのはヤジローだったが、
フロイスの『日本史』では海賊(“八幡”(ばはん))であったと書かれている。ザビ
エルの導きでゴアに送られたヤジロウは、1548年の聖霊降臨祭にボン・ジェス教会で、
日本人として初めて洗礼を受けた。洗礼により彼は「パウロ・デ・サンタ・フェ(聖信
のパウロ)」の霊名を授かった。その後、彼は同地の聖パウロ学院でキリスト神学を学
んだ。ヤジロウはザビエルから、日本でキリスト教の布教をした場合を問われ、スムー
ズに進むだろうと答え、ヤジロウの人柄と彼の話す日本の様子を聞き、ザビエルは日本
での活動を決意した。と伝えられる。ヤジロウは薩摩国あるいは大隅国(両国とも鹿児
島)の出身である。という。彼自身やザビエルの書簡によれば、彼は若い頃に人を殺し
、薩摩や大隅に来航していたポルトガル船に乗ってマラッカに逃れた。その罪を告白す
るために彼はザビエルを訪ねたという。二人を引き合わせたのは、天文15年(1546年)
に薩摩半島最南部の山川にやって来たポルトガル船船長のジョルジュ・アルヴァレスで
あった。船長はマラッカへ帰る際ヤジロウを乗船させ、ザビエルを紹介した。ヤジロウ
はザビエルに従い ゴアを離れ、1549年8月15日に鹿児島に上陸。ここに日本におけるキ
リスト教布教の第一歩を記した。その後のヤジロウの生涯については不詳である。上記
フロイスの記述によればザビエルの離日後、ヤジロウは布教活動から離れて海賊の生業
に戻り最後は中国近辺で殺害されたという。またフェルナン・メンデス・ピントの『東
洋遍歴記』、ジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』によれば仏僧らの迫害を受けて出
国を余儀なくされ、中国付近で海賊に殺されたという。

1562: 名無しさんAA:18/11/05 20:49
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   554   > 

 1547年12月にマラッカで出会ったヤジロー(アンジローとも)とザビエルは、
1548年11月ゴアで宣教監督となり、1549年4月、イエズス会員の神父、修道
士、マヌエルという中国人、アマドールというインド人、およびゴアで洗礼を受けたヤ
ジロウら3人の日本人と共にゴアを日本を目指して出発した。1549年8月、中国を
経て鹿児島(現在の鹿児島祇園之洲)に上陸し、同年9月には伊集院の一宇治城で薩摩
の領主島津貴久に謁見し、宣教の許可を得ました。ザビエルは鹿児島で布教する日々の
中で、福昌寺の住職で友人の忍室(にんじつ)と宗教論争を行う事を好んだといいます
。ここで後に日本人初のヨーロッパ留学生となる鹿児島のベルナルドなどに出会ている
。かねてから都が目標であったザビエルの一行は、1550年8月に島津貴久のはから
いで平戸へ向かう。平戸への旅立ちは、当時薩摩の重要港であった水引の京泊港を利用
した。ザビエルは平戸でも宣教活動を行っていたが、平戸の信徒の世話のためにトーレ
ス神父を残して、鹿児島のベルナルド、フェルナンデス修道士と共に京都の都を目指し
た。そのころの京都は、11年にわたる応仁(おうにん)の乱で、すっかり荒廃してい
て後奈良天皇は力がなく、幕府の権威は地に堕ち、将軍足利義輝(あしかがよしてる)
は、近江に逃れていた。ザビエルは、内裏から、日本全国で宣教する許可をもらい、都
に聖母マリアを保護者とする教会を建てたいと望んでいました。しかし、天皇との謁見
も、宣教も許されません。夢やぶれたザビエルは、都を去って、平戸にもどり、ふたた
び山口での宣教を試みましたが、思わしくなく中国での布教に方針を切り替えて、2年
2カ月の日本滞在を終え中国へ旅立った。それからおよそ半世紀あとの慶長7年(16
02年)フィリピン・マニラのドミニコ会は、島津家久(忠恒)の招きに応じて、下甑
島の長浜海岸に、フランシスコ・デ・モラレスら4人の宣教師と修道士1人が上陸しま
した。その時の船長は、地元出身のレオン喜左衛門だったといいます。彼らは6月1日
にルソン島のマニラを発ち、7月3日に甑島に到着しました。この数年前、1587年
には豊臣秀吉により、伴天連(バテレン)禁止令が出されていたのですが、一方ではポ
ルトガル船の来航は歓迎していたため、禁教が徹底していなかった。島津氏が、敢えて
キリスト教を禁止していなかったのは宣教師等を通じて東南アジア等との貿易をするの
がひとつの目的であった為といわれています。ドミニコ会の宣教師達が甑島に到着し3
年ほど布教活動をした1605年には島津氏の寄進により、甑島の里村に布教のための
修道院を建てたが、数日後には折からの強い台風により倒壊してしまった。


1563: 名無しさんAA:18/11/05 20:51
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   554   > 

 その後に、1606年(慶長11年)には、許可を得て本土側の水引村京泊の小高い
丘にロザリオの聖母にささげられたロザリオの聖母聖堂(天主堂)が設立された。これ
は日本で最初の教会のひとつであるといわれています。また、同時にハンセン氏病患者
のための療養所が開設された。彼らは当時の厳しい環境下の甑島や京泊に居を構えて布
教に努めるかたわら、島津氏の本拠、鹿児島はいうにおよばす、はるばる京都方面へも
出向いていったようです。モラレス神父などは、慶長12年、駿府において、二代将軍
徳川秀忠に謁見もしているそうです。しかし、慶長14年(1609年)、島津藩主に
よりキリシタン追放令が布告され、さらに1614年には徳川幕府(家康)によっても
禁教令が出され苦境に立たされました。このころ、薩摩川内平佐を治めていた北郷(ほ
んごう)家家臣の税所七右衛門敦朝(あつとも)は、京泊の教会で洗礼を受け「レオン
七右衛門」となっていた。熱心なキリスト教信者であった七右衛門は当主の北郷三久か
らキリスト教を離れるよう促されましたが、従うことはなく、1608年薩摩における
ドミニコ会初の殉教者となったそうです。殉教した七右衛門は、京泊の教会に埋葬され
たとあります。島津の禁教令によって、薩摩からの退去を命じられたドミニコ会の宣教
師たちは、1609年、京泊教会を解体して、その材木とレオン七右衛門の遺体と共に
長崎に移り、その材木を使って、長崎にサント・ドミンゴ教会を建ました。京泊教会に
あったロザリオの聖母像は、その後マニラのサント・ドミンゴ教会に移され、「日本の
マリア様」と呼ばれ大切に保存されているそうです。この頃薩隅日(薩摩・大隅・日向)
では朝廷と独自のパイプを持っていた禰寝氏が領主として守護島津氏に依らない権勢を
持っていた。しかし天文12年(1543年)種子島恵時との戦いで勝ち屋久島を領地とする
が、これは翌年には奪いかえされるという「根占(禰寝)戦争」が起こり、以後種子島
氏との対立が激化疲弊し、禰寝一族の中でも本家と分家の対立が生じて、禰寝重長は琉
球との交易や産業振興で領内の拡充を図る一方、領地の拡大をもめざし、戦国大名とし
て成長していくが、この過程で種子島氏は島津氏を後ろ盾としたため、対抗上、禰寝氏
は対立していた肝付氏と連合を組むこととし、永禄4年(1561年)の廻城の戦いでは、
肝付兼続側に付いている。その後、肝付氏、伊地知氏らと連合し、海軍を率いて鹿児島
を奇襲するが、これは島津氏側の必死の防戦により失敗しおちぶれる。この豪族禰寝氏
庶流池端氏がこの宣教師を連れて来たヤジロー可能性が指摘されている。


1564: 名無しさんAA:18/11/05 20:53
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   555   > 

 つまり、ここに何故、種子島島主の種子島時尭(たねがしまときたか)が2000両もの
大金をもち、又大金を払いその鉄砲を2丁共に買い、倭寇船であるジャンク船の頭領の
王直がいて、ヤジローがマラッカにいたのかの理由があった。種子島は有名な日本への
鉄砲伝来とされているが、ずっーと早くに沖縄琉球王朝は持っていた。持っていたから
こそ、強力な日本の武将たちが攻め入る事が出来なかった。特にフランシスコ・ザビエ
ルにヤジロウを紹介したポルトガル船長ジョルジェ・アルヴァレスは日本について記述
した「日本報告」を情報収集してザビエルに伝えている。天文十五年(1546)春又
は初夏頃に、アルヴァレスは日本に来航し、薩摩の山川に初冬頃まで滞在した。アルヴ
ァレスが得た日本の知見は1547年十二月にアルヴァレスが執筆した「日本報告」か
ら知ることができる。半年に満たない日本滞在期間中に地理や環境、風俗、生活習慣、
宗教などを非常に細やかに観察していたことがうかがえる内容となっている。これは既
に琉球からの諜報者が薩摩や他の藩にいて琉球王朝に常に情報を集めていた事を物語る
。そして日本にそうした者がいる様に海外の中国王朝にも他の日本人街にも当然いた。
それがイギリス商人の日本人傭兵だったり、信者のヤジローだったのだ。禰寝(ねじめ
)氏は、南北朝時代には島津氏とともに足利尊氏に加勢したり、室町期には琉球との貿
易で勢力を拡大したり、一時期は屋久島を領地とするなど、歴史的にも大きな功績を残
してきた一族だった。近代に入ってからも西郷隆盛と親戚関係を結んだ様に、西郷家と
近習関係にあった。西郷家は日本の近代競馬における「最初の日本人馬主」も西郷家の
西郷従道氏ですので、まさに日本の土産馬史に深く関わってきた一族であった。そも、
北海道に道産子と言う馬を指す言葉があるが、鹿はいたが馬はいなかった。寒かったか
らだ。又日本の牛は貴重な家畜だったが、それ以上に馬は貴重だった。よく戦乱の中で
騎馬武者が姿とされるが、実はそういう馬兵で戦うほど日本の馬は大きくないし走れな
い。だが代わりに脚足は力強く木曽林などの荷馬車に使われ木曽馬などと呼ばれた。こ
の日本の馬の原種が宮崎の青馬や岬馬とされる。御崎馬のルーツは、時を遡れば軍馬。
江戸時代に宮崎にあった高鍋藩秋月家は、軍馬を生産するための牧場をここに開いた。
都井岬では当時でも、極めて自然に近い形で放牧が行われ、設備といえば柵や周囲の堀
といったものだけだったという。高鍋藩秋月家は元々筑前甘木の秋月家であった。しか
し、九州征伐の頃早々と島津に恭順しその後も秀吉にも恭順した。というのも佐賀の熊
龍造寺氏との戦い以降は余力や威厳が無かったのだ。黒田藩が秋月藩を納めると秀吉の
求めN応じた島津からこの地を授かり、江戸期の高鍋藩秋月家となった。

1565: 名無しさんAA:18/11/08 01:42
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   556   > 

 ちなみに名君として名高い上杉鷹山は秋月氏の出身で母方祖母の実家である上杉氏へ
の養子縁組によって出羽米沢藩主となった。筑前福岡藩を領有した黒田氏とは縁戚関係
で、血統として現代まで続いている。旧甘木街道の秋月藩は馬頭観音の総本山でもあり
本来は、民間信仰では馬の守護仏としても祀られていたのを仏教が取り込んだのだった
。馬頭とは、文字通り厩屋の主で、牛や馬の管理の指導者だった。牛頭馬頭(ごずめず
)を祀りその集団を指した。「牛頭馬頭」とは、仏教において地獄にいるとされる亡者
達を責め苛む獄卒で、牛の頭に体は人身の姿をした牛頭と、馬の頭に体は人身の姿をし
た馬頭をいう。牛頭馬頭は漢訳語であり、元のサンスクリット名は牛頭は(ゴーシール
シャ)、馬頭は(アシュヴァシールシャ)であるが、日本では牛頭鬼馬頭鬼(ごずきめ
ずき)、牛頭獄卒馬頭羅刹(ごずごくそつ めずらせつ)と表記され、中国は牛頭馬面
(ごず ばめん)とも呼ばれている。地獄の様子を描写した民間の書籍や説明文では、
こちらも広く使われている。牛頭人身の鬼で地獄で亡者を責めさいなむ獄卒のひとつ。
仏典では、地獄にいる「牛頭人手 両脚牛蹄」の獄卒を阿傍という。とある。 近世にな
って牛頭天王信仰がはやると、牛の守護神が牛頭天王と習合して、牛神を祀るとともに
牛頭天王を祀るようになったところもある。これは朝廷に献上する蘇(そ:牛乳やチー
ズ)を生産していたからだ。干支(えと)では午(うま)年があり。馬にも馬の守護神
がいて、それが馬頭明王などと習合したと思われます。もっとも、古代中国の仏教では
「牛頭馬頭」という閻魔大王の眷属が、地獄の役人だった。地獄の役人が、民間の牛・
馬の守護神と習合し、さらに「上級」の神様「天王」「明王」になったということで、
牛馬の価値も高まったと思われます。だが牛馬(きゅうば)を飼うと言う事はそれなり
に病気や虫の対策が必要だった。そこにハエ取り紙の効用がある。かつての農家はどこ
も日本バエがぶんぶん飛んでいた。このハエ取り紙は昔は、あの納豆で作っていた。納
豆のねばねばに引っ付いてしまい蜘蛛が食べるのである。天然無毒の自然の除虫材だ。
ヤジローの略歴は、年齢は35歳くらいであったといられ、何か事情があって人を殺(
あや)め、夜陰に乗じて山川港から海外に逃れようとする。ところが船を間違えたまた
ま、その船の船長がザビエルの友人で、ヤジローの告白を聞き、高徳の神父、ザビエル
に会って相談することを勧められる。ヤジローもその気持ちになり、1546年マラッカに
入るがザビエルは不在で帰国しようとしたが嵐で断念し、再びマラッカに帰った。1547
年やっとザビエルに会い、ザピエルはヤジローにあって大いに喜び、彼をゴアの神学校
に学ばせ、その案内で、上述の通り1549年鹿児島に渡来することになった。

1566: 名無しさんAA:18/11/08 01:43
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   557   > 

 彼は鹿児島城下で海運業をしていたらしくお金持ちでもあり、ポルトガル語もいくら
かはできるインテリ商人だった。と言われる一説では昔薩摩黒住教なるものがあった。
とされる。薩摩では薩摩大嶽柱教(さつまおたけきょう)とも言うべき宗教があったと
される。今の木曽御嶽教(きそおんたけきょう)の前身のような修験道を起源としてい
るが、仏教色は薄く祭祀も神道に準じているようなものと思われる。御嶽教(おんたけ
きょう)は奈良県奈良市に教団本部(御嶽山大和本宮)を置く教派神道で、神道十三派
の一つ。創始者は下山応助とされている。祭神は国常立尊、大己貴命、少彦名命の三柱
の大神を奉斎主神として「御嶽大神」と奉称し、木曽御嶽山の開闢大道彦たる覚明、普
寛の二霊神を崇敬神として「開山霊神」と奉称する。また天神地祇八百万神を配祀神と
している。がたぶんこうしたものより更に古く、桜島や阿蘇山・雲仙などの噴火の恐怖
から生まれた宗教で紀元前の九州の独特なものだったと思える。薩摩赤柱教から阿蘇の
宮地嶽教と変化した。宮地嶽神社の祭神には「勝村神。勝頼神」が祀られて続けている
。言い伝えでは二神は筑紫君葛子の子と伝えています。つまり筑紫君磐井の孫に当たる
。伝説では、昔、神功皇后が新羅を征された時、仲哀天皇の葬儀を行ったのが香椎宮と
され、箱崎宮で船に乗せたと言う。理由は香木があって死臭が取り除かれたからと言わ
れる。この時運んだのが安曇の磯良丸を使った武内宿禰であったと言う。送ったのが、
宮地岳の山上にて宗像三柱大神を祭らせられ、新羅に勝って還幸された宗像大神を奉斎
され、後に神功皇后を配祝した。勝村と勝頼だったとされる。この名は新羅を征し、勝
ちを得たという事からついた名前で社も昔は山上にあったのを、後に移転しているとさ
れる。勝浦村にも勝浦岳神社があるが、ここに八幡神社の帯長垂姫の物語がある。倭寇
とされた八幡船(やはたぶね)は紅白の布が船団の旗だったのである。負ければ白旗、
勝てば赤旗で、戦いはこの旗で退いたり攻めたりして体制を整えて戦ったとされる。こ
の頃の銅鑼の音が銅鐸であったとされる。この伝説の流れに薩摩赤柱教(あかはたきょ
う)があったようだ。ところが伊集院の頃だから平安末期にはこの八幡船よりは中国の
ジャンク船やイスラムのダウ船が増えたのである。つまり日本の四角い帆の八幡船(ば
はん)より蛇折れ帆のジャンク船や三角帆のダウ船の方が薩摩に数多く押し寄せて寄港
したのだ。勿論数が多く追っ払う事は出来なかった。


1567: 名無しさんAA:18/11/08 01:45
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   558   > 

 三浦按針ことウィリアム・アダムスは徳川家康の家来になったイギリス人となった。
アダムスが当時の日本から祖国・イギリスの知人に届くことを期待し、オランダ東イン
ド会社はインドネシアのジャワ島西部にあるバンタム(又はバンテン)の町に新しい拠
点を造った。1524年にジャワ北岸のデマックにイスラムの港があったからだ。ここは、
イスラム教国のバンテン王国内で香辛料交易で栄えていた。当時のムスリム商人達は、
スマトラ島のアチェ王国などと往来し、ポルトガルの進出に対抗していた。16世紀後半
になると、明が海禁解除して、中国船の往来も増加し、16世紀末になると、スペインか
らの独立を図るオランダが、スペインの勢力下にあるマラッカ海峡を回避して、スンダ
海峡沿いのバンテンに寄港した。その為後にこの地にオランダは商館を設けたし、さら
に東方のアンボイナ島にまで進出する拠点になった。こうした事で三浦按針は、イギリ
スの東印度会社や知人宛の何通かの手紙を出し、いまでもそれは保存され残っている。
1609(慶長14)年には平戸にオランダ船が来て商館を建設しているが、当時まだ
ジャワ島のバンタムの町を拠点にしていたオランダ船に依頼し、祖国に宛てた手紙を託
したのだ。そんな手紙の中に、自身の手により日本で建造した2艘の外洋航海ができる
船についての記述がある。この三浦按針ことウィリアム・アダムスが日本で建造した、
80トンと120トンの船の建造については、「1611(慶長16)年10月22日
、日本にて、ウィリアム・アダムス」と結ぶ、未知のイギリス人に宛てた長い手紙の中
に出て来る。いわく、「名前こそわからないがイギリス商人たちがジャワ島に来ている
という事を聞いたので、この好機をとらえ、私のよく知らないこの会社の人々に私の無
作法を許してもらえると期待し、私自身を励まし、次の様な内容を書き送りたい。私が
この手紙を書送る理由は、第一に私の祖国の人々と祖国とを愛する気持ちからである。
」「・・・(徳川家康に救助され保護されて以降)以前から折りに触れ時々皇帝(徳川
家康)から呼び出されていたが、この様にして4、5年が経った時、皇帝から声がかか
った。今回は、皇帝のために1艘の小型の船を造れないかと言われた。私は、船大工で
もないし、造船の知識もありませんと答えた。彼(徳川家康)は、まー出来るだけやっ
てみなさい。よしんば良い船が出来なくても問題はない、と言われた。この皇帝の命に
従い、私は、80トン程度の船を建造した。


1568: 名無しさんAA:18/11/08 01:48
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   559   > 
これは、全て我々のやり方で造ったが、彼は船に乗り込んで見て回り、大変気に入って
くれた。こんなことがあって私はますます皇帝に気に入られ、もっと頻繁に皇帝の前に
出たが、時々プレゼントを貰い、そしてついには1年の俸禄として、およそ金貨70ダ
カット分に相当する、日々2ポンド(筆者注:約6合)の俸禄米を貰うようになった。
………ここで分ってもらいたいことは、最初に建造した船で私自身が乗り組み一、二回
の航海を行ったが、国王がもう一艘の建造を命じたので、120トンの二艘目を造った
。この船でロンドンからリザードあるいはイギリスの島の端までに当たる距離がある、
都(博多又は大阪)から江戸まで航海をした。この船は、西暦1609年に国王がマニ
ラの総督(日本沿岸で遭難したドン・ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコ)に貸し与
え、80人の従者と共にアカプルコまでの航海を行ったものである。1609年に、お
よそ1千トンのサン・フランシスコ号と呼ぶ大型船が、北緯35度50分にある日本の
海岸に漂着した。天候上の危難にかかわり、船のメイン・マストを切り落とし、日本に
針路を向け、何も見えない夜中に船は岸に乗り上げ難破してしまった。そして36人が
溺れ死に、340人から350人が救助された。その中に、新スペイン(メキシコ)に
戻る途中のマニラ総督が乗り組んでいたのだ。そしてこの総督は、1610年に私の造
った大きい方の船でアカプルコに送られた。そして1611年にこの総督は、他の船に
多大な贈り物と同時に皇帝の素晴らしい友誼への感謝のための使節団を乗り組ませ、更
に皇帝から借りた大切な船に対する贈り物と対価の礼金を乗せ送り返した。この皇帝の
船は今、スペイン人がフィリピンで使っている。……さて、この私の成し遂げた貢献と
日々行っている皇帝の命に従う奉公に対し、皇帝は私に英国における貴族に似た領地と
、私に奉公し付き従う八、九十人の農夫とを与えてくれた。ここでのこんな待遇、ある
いは領主のような地位は、かって異国人に与えられた事はなかったものだ。こうして神
は、私の悲惨な境遇の後に、私に与えて下されたのだ。そして神にのみ全ての尊敬と賞
賛と、全能と賛美と、現在未来永劫、終焉なき世界があらんことを。」と綴っている。
 この手紙はまだ長く続くが、こうして徳川家康の命に従い2艘の船を自ら建造した経
緯と、自身が取り立てられ領地を与えられた事を述べている。そしてこの手紙の中の、
「この船は、西暦1609年に国王がマニラの総督に貸し与え・・・」と書いている船
が、アダムスが新造した120トンの船「サン・ブエナ・ベンチュラ号(ベントゥーラ
号)」の事である。また、サン・ブエナ・ベンチュラ号ではないが、このアダムスが最
初に建造した80トンほどの西洋船は、当時、完成後に江戸に回航され浅草川(隅田川
)の入江に係留されていて、江戸で大変有名だったようだ。

1569: 名無しさんAA:18/11/08 01:49
おそらく徳川家康も、ここで
 完成した船を検分しただろう。当時の慶長19(1615)年に三浦浄心により書か
れた『慶長見聞集』と題する随筆集の巻之九に、「唐船作らしめ給ふ事」と題しこの船
の事が書かれている。三浦按針の名前は出てこないが、徳川家康が作らせ浅草川の入江
に繋がせていた唐船の、即ち西洋型船は、アダムスと仲間達が中心になって作ったこの
80トンほどの西洋船に違いない。いわく、「昔見た事があるが。慶長年間に家康公が
唐船(西洋船)を作らせ、浅草川の入江に繋がせていた。こんな大船を作り海に浮かべ
る事は、汀では人力も及ばないだろう。どんな方法で浮かべたか、道理が分からない。
・・・昔、実朝の時代に鎌倉の由井ヶ浜で唐船を作らせた。・・・ようやく唐船が出来
上がり、その船を進水させようと建保5(1217)年4月17日数百人の匹夫を動員
し、その由井の浜に浮かべようとした。実朝公も出掛けて監臨した。信濃守行光が采配
を振るい、全員がこの船を引いて午の刻(正午)から申のななめ(午後4時過ぎ)にな
っても進水できない。・・・将軍も見捨てて帰ってしまった。この船は期待通りになら
ず、砂の上に朽ち果てたという。・・・人々は船を陸上に作る事のみを考え、海に進水
させる事をわきまえなかった事は愚の至りである。・・・先年作らせた浅草川の唐船は
、伊豆の国、伊東という浜辺の田舎に川がある。これこそ唐船を作るべき地形だと言っ
てその浜の砂の上に柱を敷き台として並べ、その上に船の敷きを置き、半作りになった
所で砂を掘り上げ、敷台の柱を少しずつ下げ、堀の中に船を置き、この船を海中に浮か
べる時になって河尻を堰き止め、その川水を船の有る堀へ流し入れ、水の力を持って海
中へ押し出す。この巧みを昔、鎌倉の人は知らなかった様だ。」この様に鎌倉時代の失
敗例と比較し、この造船場所や造船方法を、興味深いタッチで述べている。



1570: 名無しさんAA:18/11/08 01:50
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   560   > 

 田中勝介は慶長15年(1610年)8月1日、徳川家康の命を受け、前フィリピン総督ドン
・ロドリゴの帰郷について、他の21人とともにサン・ブエナ・ベントゥーラに同船し
てヌエバ・エスパーニャ(ノビスパン、現在のメキシコ)のアカプルコへ向かい航海し
ている。3ヶ月後同年11月13日に到着したが、これは、前年にロドリゴがノビスパンへ
の帰任に際し、台風で乗船していたサン・フランシスコ号が遭難して、1609年9月30日
に上総国岩和田村(現御宿町)に漂着して乗組員317人が岩和田村の人達に救助され
たことを契機とした。この為家康側近で財政家の後藤庄三郎(光次)の仲介でノビスパ
ンへの渡航を許されたものであった。帰国にあたって、勝介はヌエバ・エスパーニャ副
王ルイス・デ・ベラスコにより派遣された答礼使セバスティアン・ビスカイノとともに
1611年3月22日に、アカプルコを発ち、同年6月10日相模国浦賀(神奈川県横須賀市)に
到着した。ビスカイノは、エスパーニャ国王フェリペ3世の親書を携えて答礼使と金銀
島探索の使命を帯びて来日しており、現在の全権大使にあたるとされる。ビスカイノに
よれば、勝介は洗礼を受け、洗礼名をフランシスコ・デ・ベラスコといい、太平洋渡海
中は善良な態度で周囲の尊敬を集めていたという。このとき、使節団のうち、アロンソ
・ムニョス神父は家康の使節としてエスパーニャ本国に向かい、3名はヌエバ・エスパ
ーニャに残り、帰朝したのは勝介ほか17名であったとされている。エスパーニャとの
通商を試みての渡航であったが、通商に関しての具体的合意には至らなかった。ただし
、至らなかった理由は、全権大使的立場にあるビスカイノと大御所家康との間で行われ
た協議の結果であり、勝介の責任ではなかった。帰国後の勝介は、家康に葡萄酒と羅紗
を献上したことが『駿府記』慶長16年7月22日条にある。また 将軍徳川秀忠にも五色羅
紗、葡萄酒、ヘレス酒(シェリー酒)を献上したといわれている。1610年、徳川幕府が
成立して間もないころ、徳川家康の命を受け、日本人で初めて太平洋を横断してメキシ
コへと行き帰ってきた人物であった。書には京の商人田中勝介とされ万延元年(1860年
)の咸臨丸による太平洋横断からは、大きく遡ること丁度250年前の事でる。黒船来航
以前に太平洋を横断した人物は他に支倉常長(長経)の慶長遣欧使節団、ジョン万次郎
とその仲間たちを乗せて遭難した漁船、サム・パッチこと仙太郎や後にジョセフ・ヒコ
と呼ばれる浜田彦蔵らを乗せて難破した英力丸船員などが知られるが、この日本人21
人については、あまり明確には解っていない。


1571: 名無しさんAA:18/11/08 01:51
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   561   > 

 この田中勝介と前フィリピン総督ドン・ロドリゴの帰郷について、他の21人ととも
にサン・ブエナ・ベントゥーラに同船しヌエバ・エスパーニャ副王ルイス・デ・ベラス
コにより派遣された答礼使セバスティアン・ビスカイノとともに、 1611年3月22日に、
アカプルコを発って、同年 6月10日相模国浦賀(神奈川県横須賀市)に到着した。ビス
カイノは、エスパーニャ国王フェリペ3世の親書を携えて答礼使と金銀島探索の使命を
帯びて来日しており、現在の全権大使にあたるとされる。ビスカイノによれば、勝介は
洗礼を受け、洗礼名をフランシスコ・デ・ベラスコといい、太平洋渡海中は善良な態度
で周囲の尊敬を集めていたという。実はこの時田中達は奴隷として日本にやって来てい
たのである。実はエスパーニャ国王フェリペ3世は、祖父スペイン帝国を作ったカルロ
ス1世の孫ではあったが、「怠惰王」と呼ばれ続けて23年に及ぶ治世は、スペイン、
ナポリ・シチリア、ポルトガルの王として在位を守る事しかなかった。というのも、オ
ーストリア・ハプスブルク家との間の3親等クラスの近親であり、フランスのプロテス
タント活動が活発で、カトリックの救世主となればポルトガル・ドイツ・イギリスなど
束ねればならない程危機があり、微妙な力関係の一端に居たからだ。先の叔父がやり過
ぎた中の末子で、母もマクシミリアンから嫁いでいたが、次々とプロテスタントに改宗
摩る中でこの時期のポルトガル王家はフェリペ2世が継いでスペイン・ポルトガルの両
王国は合併するしかなかった。結局、選択肢はオーストリア・ハプスブルク家との近親
結婚のみとなった。ポルトガル王としてはフィリペ2世しかない立場だった。この中で
ウルダネータはスペイン・バスク地方のギプスコアにあるオルディシアで生まれた。ラ
テン語と哲学を学んだが、孤児となり、軍隊に入り、イタリア戦線で大尉に昇進した。
スペインに戻ってからは数学、天文学を学んだが、それをきっかけに、海に憧れ1525年
、ガルシア・ホフレ・デ・ロアイサの下で、香料諸島(モルッカ諸島)への苦難に満ち
た遠征に参加した。スペインの貴族で探検家のガルシアはスペイン王の命でマゼランの
帰港後直ぐに世界一周を行い二番目の早さで世界一周を果たし、スペイン回航路を作っ
た。


1572: 名無しさんAA:18/11/08 01:52
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   562   > 

 その後フィリペ2世からメキシコの任命を受けエスパーニャ貴族となり、植民地政治
家になったウルダネータだった。こうしてヌエバ・エスパーニャ副王となり、メキシコ
で植民地政策を推し進め3代にわたって支配し奴隷貿易や虐殺を続けていた。孫が生ま
れ、ヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)で叛乱が起こり、1564年に息子のロドリ
ゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコの下では危険なので、孫のロドリゴ・デ・ビベロはエス
パーニャ本国で成長していたが、伯父のルイス・デ・ベラスコに預けた。こうして勧め
でフェリペ2世の王妃アナ・デ・アウストリアの小姓を勤め、伯父のヌエバ副王は重用
し、ロドリゴを1595年サン・フアン・デ・ウルア要塞守備隊長兼市長、1597年タスコ市
長、1599年ヌエバ・ビスカヤ地方長官兼軍司令官を経て、前総督在任中の死去にともな
い1608年に臨時総督としてフィリピンに派遣され、伯父のルイス・デ・ベラスコの後を
継いだ。こうして江戸時代初期に日本を訪れた人物となった。日本ではドン・ロドリゴ
の呼び名で知られる処となり、村上直次郎訳『ドン・ロドリゴ日本見聞録』をはじめ、
『国史大辞典』や『世界大百科事典』などに書かれた。姓をビベロ・イ・ベラスコとす
る文献が多いが、これは父親のロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコと混同され、誤り
である。とされる。ロドリゴ・デ・ビベロは、フィリピン臨時総督在任中、マニラで起
こった日本人暴動に際し暴徒を日本に送還し貿易量の制限と暴徒の処罰を要求、徳川家
康の外交顧問だったウィリアム・アダムスが訪れた際会見し家康に友好的な書簡を送っ
ている。1609年(慶長14年)、次期総督と交代のため召還命令を受け、ガレオン船3隻
の艦隊でマニラからアカプルコへ向けての航海中台風に遭い、ロドリゴの乗った旗艦「
サン・フランシスコ」は難破した。 9月30日に上総国大多喜藩領の岩和田村(現千葉県
夷隅郡御宿町)田尻の浜に漂着、地元民に救助される。大多喜城の本多忠朝も 300人余
りの家臣を率いてロドリゴのもとを訪れ、幕府への報告を約束し温情ある措置をとった
。なお僚艦の「サンタ・アナ」も、 9月12日豊後の臼杵中津浦に緊急入港し、もう一隻
の「サン・アントニオ」のみヌエバ・エスパーニャへの航海を続けた。地元民に救助さ
れたロドリゴ一行は、本多忠朝の歓待を受け、大多喜城から江戸城に立ち寄り、駿府城
で家康と会見するなど日本滞在の後、家康からウィリアム・アダムスの建造したガレオ
ン船(日本名:安針丸)の提供を受け、「サン・ブエナベントゥーラ」と命名、1610年
(慶長15年)8月1日に日本を出発し、同年11月13日アカプルコに帰還した。この日本滞
在中の見聞録は『ドン・ロドリゴ日本見聞録』として今に残されている。


1573: 名無しさんAA:18/11/08 01:56
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   563   > 

 ドン・ロドリゴの日本見聞録(安藤操)〜スペイン人の見た400年前の日本の姿〜
ロドリゴの日本旅行を追って行くと。ロドリゴという人は、当時の他の宣教師・軍人商
人・冒険野郎とは一線を画し、育ちのいいインテリ、ヨーロッパも新大陸も東アジアも
知っていた。貴族としての視点だ。その観察は鷹揚で公平、鋭く面白く、「日本と日本
人」を語るに落とせない貴重な記録を残していた。時代は家康の晩年1609年、秀頼
や淀君は大坂城に頑としている頃だ。平和の中にも緊張感は続いています。のちの江戸
時代の風景とは全く異なり、非公認ながら伴天連は結構いて日本キリシタンは史上では
、最高数居住し国際貿易も(朝鮮以外)大きく展開し史上最盛期でしょう。他方で、農
夫や武士や土建屋は余剰で江戸や駿府や地方都市がどんどん整備されていく、人々は専
制下で貧しかったにも関わらず、安土桃山の文化が残り、清潔で活動的に思われます。
@ 漂流。1609年7月25日、フィリピン諸島ルソン島からサン・フランシスコ号
でアカプルコ(メキシコ)を目指すが、9月30日、日本の岬33度半の緯度で座礁。
村人に救出され、凍死寸前の者はー火に当て急に体温を上げると心臓への負担で死にか
ねないという海辺の村人の知恵で村の女達が人肌で温めたという話も伝わっている。上
陸地の田尻海岸をはじめ岩和田の浜は殆どが崖のような岩肌の下にあり「岩和田の村人
達の食事は主食の米の他は殆ど大根や茄子等の野菜で、魚は時々だった。この海岸では
漁獲は用意ではない」旨をロドリゴは記している。日本漂着は、既に13年前(慶長元
年8月、1596.10)豊臣政権下のに同じように長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の
治める土佐国浦戸(高知県高知市浦戸)に漂着したスペイン船サン・フェリペ号は元親
に一度は保護されたものの、この時は日本を害するようなキリシタンの弾圧を推し進め
ていた秀吉は、派遣した奉行に積荷を没収し、残留した宣教師が翌年処刑された不幸な
事件があり一行は不安であったが、ロドリゴは今の最高権力者がマニラから公式書簡を
交わした徳川家にあることを頼み思っていた。海岸から粗末な道を通り1レグア(4〜6
Km。古いスペインでは約4.19m) 先の集落を訪れると、乗船員と同じ数程しか住民が居
ない小さな村であったが、村民達は遭難者達に心から同情して惜しみなく食物を差し出
し綿入りの着物を貸し与えた。乗船者373名のうち56名溺死し、生存者317名であった。


1574: 名無しさんAA:18/11/08 01:56
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   564   > 

A 上京。駿府より都まで80レグワ(≒里、4km)、道は平坦で快適だ。途中数本
の水の多い川があったが、一方から他方に曳船で渡った。船は大変大きく旅客の馬も、
自由に乗れる。旅行者は多いが、途中無人の地で野営する必要などなく泊まるところは
必ずあった。前述通り(東海道は)1レグワの1/4とて無住の地はない。これほど広
大で交通が盛んなのに、こうした街路や家屋の清潔な町々は 世界の外のいずれにもな
いことは確実だ。この地の旅行は甚だ快適で至る所飲食物多く、ほとんど無料で提供す
る。旅館にも事前予告して食物の準備を命ずる必要はない、何となれば日中いつでも求
め望むものが得られるからだ。・・私(らの場合加えて)皇帝家康の命令があったので、
途中各地の領主や代官は大いに接待饗応してくれた。・・ある日の午後、都に入った。
都は世界でも有名だが、なるほど道理だ。広大な平野にあって住民はかつて80万を超
えたこともあるが、いまは30万〜40万という。それでも世界最大の都市だ。その周
壁が10レグワ、朝7時から晩6時まで歩いてみたが家並は続いていた。
B 京都。内裏すなわち王(天皇)はここ都に住んでいる。天皇は日本創始から直系継承
するが、日本人は天皇を見ず語ることをしない。以て、威厳ありとなす。常に引籠り、
日本の統治は、権利・理屈としては天皇に属すが、数年前太閤様(秀吉)が武力で諸侯
や領主たちを服従せしめて以降は、ただ名のみの存在となった。天皇は日本の大官、皇
帝(家康)に至るまで称号を授与し任官する、このため毎年決まった日に諸人皆官位は
それを表する身なりで来集する。天皇は、また最高の司祭(神官)で坊主(神仏習合が
行われていた。)という偶像崇拝の統領ゆえに彼らに位階を与える。家康は任官する時
はやむないが、それ以外の時は来て服従する事はない。ただ諸儀式のときは皇帝も内裏
に大いなる尊敬を示し天皇に上席を譲る。これ以外に天皇に与えるものは少なく、生活
していくに足る分(献上米や荘園領)を与えるだけだ。(それでも)その住まいは壮麗
で江戸や駿府の宮廷に匹敵する。天皇は都の政治にさえ関与しない。門内内裏を 支配
するだけだ。都には、皇帝家康の任命する副王(京都所司代板倉伊豆守勝重)がいる。
伏見・堺・大坂など大きな都市が近くにあるがこれらは管轄しない。淀川など運河の範
囲内だが、副王は大国の領主と同じで皇帝と同じ権限で都の政治を行う。ただし所司代
が外に出ることはなく6人の執政を置いてこの地を治めさせている。

1575: 名無しさんAA:18/11/08 01:56
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   565   > 

C 京所司代板倉勝重は大いに私を歓待し、イスパニアについて多くの質問をオウム返
しに次々に質問し答えてくれた、といいます。都には神々の宮5千はある(寺社仏閣の
数、神仏)、当局が指定した特別区域だけで娼婦は5万いる。太閤様(秀吉)の墓所・
その大仏(方広寺)・三十三間堂を案内させたがこの3か所をみるだけで3日間を費や
した。大仏と称する金属の偶像は世界7大奇観といっていい。ことごとく青銅ででき、
予想外に大きかった。同行の最も長身のものに命じ大仏に上らせ掌の上でその右親指を
両腕で抱えさせたがなお2パルモ(40センチ)足りなかった。まだ建設途中で大工以
下10万人が働いており、悪魔(仏教)は皇帝(秀頼の徳川幕府は)の富を消費させて
いる。太閤の墓所は有名でかつ壮麗だが、人の遺骨を崇拝する為とは悲しむべきことだ
。この堂の入り口は坂道で400歩、両側に3歩おきに高さ5パラ(40センチ)石灯
篭をたて燈明をともし夜も明るい。この参道の終端に第一の階段があり上ると堂がある
、堂の手前には女坊主(尼僧:駆け込み寺)の僧院があり彼らも祭司として勤行に参加
するが他とは隔離されている。正門は磨いて金銀を飾り構造は巧みで、内部はそれ以上
だ。堂の中には頗る大きな柱が並び、柱の間には合唱所(祈祷所:前座所)があって格
子や椅子があることは他の大寺院と同じだ。坊主や補助員が一定の時間に読経する。私
は聖教(キリスト教)に反すると思ったから読経は聞かなかったが、所司代の案内役は
私らのことを告げたらしく、補助員4名が私らを出迎えた。彼らの服装は大きな襞があ
る以外トレドの司祭のものと変わらず、上が広がった頭巾をかぶっていた。彼らは活発
に我らと会話し、進んで内部を見せてくれた。多数の灯篭がならびダソダルーベの聖母
と似ているがその灯明は(教会の)3分の一に及ばない。それ以上に驚いたのは、堂内
の多数の人の非常な敬虔と沈黙だ(敬虔と沈黙については、他の箇所で、キリスト教徒
以上、キリスト教徒は見習うべきだとまで言っている。)その奥に、鉄網・銀網・金網
で囲まれた蝋燭台が並び太閤遺骨箱がありこれは何人も見れない。人々はみな平伏した
が、私にはウソの信心にしか見えず 逆に彼らには(私たちは立っており)尊崇の薄さ
を見たに違いない。よって早々に立ち去りそのあと、彼らは墓所付属の寺院(方広寺)
・林・庭園を案内してくれた。これまたアランスエスの離宮庭園に人工の点では劣るが
自然なこと快活なことでは勝っている。


1576: 名無しさんAA:18/11/08 01:57
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   566   > 
 高い廊下から下を眺めたが、人(接待者)が言うには、昼夜人の絶える事はなく、彼
らの聖水や数珠で釈迦ないし阿弥陀を祈るという。日本には神仏35の宗派があり、霊
魂の不滅は信じず、多数の神がある。となし、四元(五元)を尊ぶ、何人もこれ(宗教)
につき強圧はを加える者はない、という。(キリスト教に対しては)坊主らは団結して
伴天連追放を皇帝(家康)に請願し理屈を説いたが、家康は日本に宗派はいくつあるかと
聞き、彼らは35と答えたので、「35あるなら36になっても妨げなかろう。あって
もいいではないか。」と言った、と聞いている。2時間滞在し、さらに1ブロック半隔
てた尼院に案内された。尼は青と白の絹の法衣、青い紗で頭を覆っていた。尼衣という
より晴れ着にふさわしい。長老の尼は大きな部屋にでて、私を引見し食事酒で饗応した
。彼女が先に杯をあげ同席した10〜12人の尼たちも続いた。次いで鈴を持ち舞を披
露し半時間以上に及んだ。私の方から辞退せねばもっと続いたに違いない。この日はこ
れで宿舎に引き上げた。
D 京都の町の様子「この町は、行政が隅々まで行き届いていて、ローマ人の政治と競
えるでしょう。市街は、どこも優劣がなく、道幅は広く長く、まっすぐに延びていて、
イスパニアの市街より優れています。また、街路は清潔で、だれも歩いたことがないよ
うに見えるほどです。」他にも猟獣を売る市場、魚市場がある。「何しろ沢山の種類が
大量にあるばかりか、清潔できちんと陳列されていて買う気持ちを大いにそそられます
。」「遊女のいる場所は常に町外れです。武士や身分の高い人たちは、一般の住民とは
別の場所に住んでいて、職制ごとの区画となっています。・・・」
M 東海道を西へ、「どこへ行っても交通が盛んで、このように街路や家屋の清潔な町
は、世界のどこにもないことは確かです。・・・この国はどこでも物が豊かで自由に飲
食ができるのです。」と書き綴っている。この日誌からすると日本が好きだったようだ
。岩和田を領する大多喜城に異国船漂着の知らせが届くと、城主本多忠朝は、外国人の
無断入国が許されない時世において一行の処遇を慎重に扱うためにまずは岩和田の浜に
家来を視察に出した。豊臣政権時に比べれば キリスト教の弾圧は緩められたものの、
徳川も寛容とは言えない。江戸幕府に睨まれればお家取り潰しも有り得るため城内での
会議では、一行を全て切り捨てる意見が強かった。しかし、忠朝は視察が戻るまでは首
を縦には振らなかった。そしてロドリゴ達は礼儀正しく、財宝一式流され苦境にあると
の報告を受けた忠朝は、速やかに一行を付近の寺に預けさせ、厚遇するようはからう一
方、異国人が無闇に他所へは行かないように命じた。心から温情をよせつつも拙速な行
動に出ず適切な処置をとったのだった。

1577: 名無しさんAA:18/11/08 01:58
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   567   > 

 数日後に忠朝は威儀堂々と300人余りの武装した家臣を率いて大宮寺を訪れた。(この
時の南蛮船検使は柳田平兵衛、小鹿主馬、山本忠右衛門、大原惣右衛門)。領主の忠朝
を村人達は深い土下座で迎えたが、西洋人のロドリゴは立って敬礼した。忠朝は馬から
降りて、自らロドリゴへと近づく。そして、ロドリコの手をとり、接吻をした。村々を
領する城主としてはうら若い28歳の忠朝は、ロドリコも「マドリッド市で最も宮中の
礼に慣れた者がするような返答」と感嘆するほど完璧に洋式の作法を心得ていたのだ。
着席する際も信頼の証にロドリコを左(刀で切りかかりにくい上座)に座らせ細やかな
心配りにを見せた。金糸と絹糸で刺繍を施された見事な緞子(どんす。別色の経糸と緯
糸で模様を織った高級織物)の着物4着、刀一振り、地産果物、日本酒、彼らが好む乳
を出す牛一頭や鶏数羽までもを贈り、そして江戸幕府への報告を約束し、村に滞在中の
乗船員一同の食事も支給された。幕府へは、アントン・ペケニョ少将とファン・セビコ
ス船長に書簡を持たせて派遣し、20日以内で迅速に手続きを済ませ秀忠の使者と共に
戻った。10月13日に江戸へ向かうロドリゴ一行が大多喜の町(『日本見聞録』に人口1
万〜1万2千人と記している)の宿に着くと城主忠朝の使者が訪れ、町よりも高い所にあ
る大多喜城へ招かれた。城は堅固な構えで、城兵は礼儀正しくロドリゴを屋敷に案内し
、忠朝も20人程の家来と共に屋敷の入口で出迎えた。城主の屋敷の金銀と美しい装飾の
部屋の数々を見学し、暖かい歓待を受ける。夕食の時間になると、忠朝は日本で親しい
客人にする風習通りにロドリゴのための初めの一皿を持参した。肉、魚、果物他様々な
美味が供される。そして忠朝は旅立つロドリゴのために、立派な馬を一頭与えた。忠朝
の温情は自分の領地に居る間だけではなく、この先ロドリゴと再会するまでの六ヶ月間
、忠朝は絶えずロドリゴに書簡を送って親しみ続けた。大多喜に逗留して10日目に、
家康の外交顧問である英国人航海士ウィリアム・アダムス(三浦按針/みうらあんじん:
慶長5年リーフデ号漂着時より家康に召抱えられた)から通行証と朱印状を受け取る。
家康と秀吉名義の朱印状は以下のことが命じられていた。@海岸に漂着した積荷は全て
ロドリゴのものとする。Aロドリコは将軍徳川秀忠の江戸城と、大御所家康の住む駿府
城へ行き謁見すること。B城への道中の領主は歓待し旅程に必要な物資を提供すること
。C以上慣例通りに漂着物を将軍のものとする所を、その貯蔵庫の鍵をロドリコ達に渡
して事実上保管物を受取るというはからいとなった。当初の忠朝の指示が家康の意に適
っていた明断であったと知らされたロドリゴは、両者に今後の日本とスペインの友好的
な外交の可能性を見出した。

1578: 名無しさんAA:18/11/08 01:58
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   568   > 

 一方、鍵を渡されたセビコス船長は難破で失った積荷の盗難を疑い、長時間かけての
返却により後のマニラでの売却値が半減したことで、損害を日本側の責任としてスペイ
ン王に訴えることになった。忠朝から馬が送られ、江戸への道中はスペイン国王の使者
として歓迎され快適であった。江戸に着くと地位の高い武士達に招きを受けたが、将軍
が宿を用意していたので断った。夕方5時に宿につくまで交通整理の人員が必要になる
ほど人だかりができて休めず、将軍の側近に頼んで宿の門に衛兵を立たせて無断進入不
可の禁令の札を掲げて貰う。江戸は人口15万、物価が低く小額で愉快な生活が得られ、
市街は美しく清潔で家は木造、二階建ても多く、欧州に比べて外部より内装に美点をお
いている等、詳細に江戸風俗や豪華絢爛な江戸城の様子が記されている。江戸に到着し
て2日後に将軍は海軍司令官(船手方向井兵庫頭正綱)を通して部下が2度訪れる。午
後4時頃に江戸城へ向かい、将軍秀忠に謁見した。ロドリゴが秀忠の手に接吻する間は
同行者は控えさせ、ロゴリゴ一人が部屋に通された。秀忠は色黒だが容姿は良く、微笑
してロドリゴを励まし、日本に居る間の面倒を見るとして安心させ、また航海と帆船に
ついて尋ねた。ロドリゴが駿河行きの許可を願うと、大御所(家康)や道中各所への連
絡のため、出発は4日後とした。駿河までは西洋と同じく村々があり、街道は両側に植
えられた松並木が心地よい日陰をつくり、2本の樹を植えた小山(一里塚)が、正確な
距離を示し、絶えず人が行き交っていた。5日後に駿河に着くまでの道中は将軍の連絡
が行き届き行く先々で手厚いもてなしを受けた。駿河は人口12万で街は江戸並に美しい
とは言えなくても 気候はとても良い。ここでも見物人に囲まれ難儀したが、宿に着く
と家康の家臣が12枚の着物を贈り物を携えて来て、宿泊中も菓子や果物を 提供した。
6日間滞在し、翌日2時にようやくお目通りとなった。(1609.10/29)駿府城では、上
座を勧められ、家臣から謁見についての長い説明を受け、家臣は大御所に伺いに行く。
江戸城ので将軍に謁見した時と違い、ロドリゴは大御所に触れることは許されず、同行
者も大御所の見える場所でひざまずくよう命じられた。家康は60歳程に見え秀忠のよう
に色黒でなく、中背で肥えていて温雅であった。励ましの言葉をかけ帽子を脱ぐよう勧
め、感激したロドリゴは家康の手にキスをし感謝の意を示した。翌日ロドリゴはコウセ
クンドノ(上野介殿。本多正純)の屋敷を訪れ、日本語に訳した嘆願書を進上した。

1579: 名無しさんAA:18/11/08 02:00
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   569   > 

1.日本国内の耶蘇教徒を保護し教会堂の自由使用を妨げないこと
2.日本はスペイン国王ドン・フェリペ(フェリペ3世)との親和を保続すべきこと
3.オランダ人は海賊まがいなことをしフェリペ王の敵なので日本から追放すべきこと
が嘆願であった。翌日10時に上野介殿が贈り物を携え宿に訪れ、嘆願書に対して大御所
は宣教師の迫害はせずスペインとの友好も続けるが、オランダ人には渡来免許を既に与
えてあるので変更はし難いとの返答を伝えた。そしてアダムスに作らせた西洋船の一艘
をロドリゴ達を乗せてヌエバ・エスパーニャに渡航させるので、帰国後にフェリペ王に
折り返し銀山技師50人を日本へ派遣して貰えるよう、ロドリゴに仲介を求めた。ロド
リゴ自身はサン・フランシスコ号と共に遭難し豊後(大分県)に停泊中の随伴船サンタ
・アナ号が乗船出来ない状態なら日本船を利用するとし、西へ向かった。ロドリゴは京
都・大坂を経て九州へ行く事を決めた。大御所の保護のもとで快適な旅をしミアコ(都
。京都)に立ち寄る。ロドリゴは馬で人口は34万人の大都市街を一周し、所司代の板倉
伊賀守勝重の世話になり見聞する。京市中には5千の大きな寺社があり遊里の妓婦の類
が5万人になると聞く。3日間かけて万広寺大仏殿や三十三間堂等の名所を見て歩く。
太閤(豊臣秀吉)を祀る豊国神社では(生前にキリスト教を弾圧し)地獄に落ちている
魂を祀ることに違和感を感じている。11月24日(1609.12/20)付けで大御所からの鉱夫
派遣依頼についての提案された事に、新スペイン副王に許可を伺うにあたり、@銀山を
採掘し精錬した鉱石の半分を鉱夫に与え、残りの更に半分をフェリペ王のものとする。
A各鉱山で聖祭が出来るよう司祭を置く。B大使にスペイン人の司法権を与える。Cオ
ランダ人の日本追放の再検討及びフェリペ王の日本来航時の保護。Dフェリペ王がマニ
ラへ行く際の人員派遣と必要物資の現地価格(関税無し)での提供やそのための事務所
や礼拝所の設置許可、などを条件に、関東にスペイン船用の港を開港、駐在者の日本国
内での歓待の協定案を書状にし、パードレのルイス・ソテロに伝達を託した。こうして
28日(12/24)クリスマスイブに 伏見のフランシスコ会(カトリックの修道会)のパー
ドレ(司祭)ヌエストラ・セニョラ・デ・ロス・アンヘレスの住院に泊まり教徒達とミ
サに参加した。伏見を後にし、淀川を下って1日で人口20万の大坂に到着。ヌエストラ
・セニョラ・デ・ラ・コンセプションの住院に寄宿。大坂からフネア(船)で十数日か
けて豊後へ向かった。

1580: 名無しさんAA:18/11/08 02:08
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   570   > 

12月12日、ロドリゴが豊後滞在中に肥前島原(長崎)のキリシタン大名有馬晴信(2年
前に晴信の朱印船の乗組員が、マカオにおいて、ポルトガル貿易船マードレ・デ・デウ
ス号の船員と起こした騒動を、マカオ総司令官アンドレ・ペソアが鎮圧し、日本側に多
数の死傷者を出していた。)が、今度は長崎に入港した因縁のデウス号を包囲した。乗
船していたペソアは捕われる前にデウス号を爆沈させ自殺に至る。という深刻な事件が
起きた。ここで日本で役目を終えていないとロドリゴは、補修後にすぐマニラへ出航す
るサンタアナ号への同乗を取止めた。日本に批判的なセビコス船長はマニラへ発った。
(1610.5/17 ロドリゴは駿府へ戻り浦賀から帰国する事を決めて、) ロドリゴは再び
駿府に戻り、家康の招きを受けて数ヶ月滞在した。ルイス・ソテロに託した協定案につ
いてはオランダ人追放と銀の報酬以外は家康の承認を得られた。フェリペ王と副王に贈
り物と親書を携えて派遣する使者はロゴリゴがアロンソ・ムニョスを推薦し、彼に出航
の許可証が渡された。慶長15年6月13日 (1610.8/1)ドン・ロドリゴ一行は、アダムス
が建造した和製ガレオン船サン・ブエナ・ベントゥーラ号(按針丸。120t)で浦賀から
ヌエバ・エスパーニャへ向けて出航した。家康からは金貨4千ドゥカドが貸与され、按
針丸はアカプルコで売却し、代金を日本人乗船者の帰国費用にあてるという厚遇を命じ
られた。この船には京都の御用金匠後藤庄三郎の仲介で京商人田中勝助・朱屋隆成・山
田助左衛門他21名の日本人も同乗し、これが日本とメキシコの交通発祥の契機となっ
たと言われている。一行はマタンチェル(現メキシコ西海岸のナヤリット州サンブラス
)を経て(10/27)、アカプルコ港に着いた(11/13)。余話だが、セビコスの日本批判
とビスカイノの来日があった。一方サンフランシスコ号のセビコス船長は、マニラに着
くとすぐさま日本との友好批判を国王に訴える書簡を出している(1610.6/20) 難破船
の漂着物の倉庫の鍵を預かってはいたが、流された財貨は長期間受取れず(ゼビコスは
日本人の盗難に遭ったとも主張。)売った時には価格が下がってしまい、50万ペソの
損害で、日本人が難破したサンフランシスコ号の全ての財貨を略奪したもの。として大
御所に使者を送って訴え、将軍に財貨の返還要求を認められたものの、難破から35日も
返されなかったのは日本人の道徳心の欠如である。と批判した。又日本人は宗教の信仰
が薄く、宗派争いもしない。専制政治で領民は厳しい生活と立場を強いられていること
。日本人は勇敢だが両国で海戦になれば航海・造船技術に勝るスペインが勝つ予想し、
長崎でのポルトガル船焼討事件や、フィリピンでの暴動等日本人の異国に対する悪事等
を書き連ねて手紙を送っていた。

1581: 名無しさんAA:18/11/08 02:15
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   571   > 

 慶長15年11月に使者ムニョスがマドリッドに着き、家康と秀忠の贈り物と書簡を王に
捧げた。この時の会議では毎年一隻の商船アカプルコから浦賀へ渡航させることが決議
れたが、メキシコ総督府は日本貿易に反対し使者を拘留しスペイン本国に再考を求めた
。慶長16年2月上旬(1611.3) 遭難者達の返礼としてセバスチャン・ビスカイノを大使
とする一行がアカプルコを出航し 4月29日(6/10)浦賀に入港。ラシャやビロード、葡
萄酒等を買入れた日本商人たちも帰国した。ビスカイノは将軍と大御所の許可を得て貿
易に先駆け海岸の測量を行い測量図を寄贈した。慶長17年8月21日(1612.9/16)に帰航
するも暴風雨に逢い浦賀に入港する。しかし幕府は直ぐに不信感をもち(オランダ人か
らビスカイノの日本近海の金銀島調査隠匿の密告や、カトリック教圏との取引を危険視
する英国人アダムスの進言を受けた。ともされる。)ビスカイノの新しい船の建造支援
を断っている。この時、ポルトガル・スペインはカトリック、オランダやイングランド
のプロテスタントで戦っていた。またアカプルコに送った使者の半数は留め置かれて、
奴隷商人に売られたのが解ったのかもしれない。更にこの年の3月21日、2年前のポルト
ガル船爆沈事件に関わる有馬晴信の監視役であったキシリタンの岡本大八(おかもとだ
いはち。本多正純の家臣)事件が発覚し、朱印状の偽造の罪で処刑され、晴信の余罪も
発覚していた。大八は晴信のようなキリシタン大名と宣教師による領内寺社の抑圧につ
いて自白し、幕府はキリシタン大名に対しキリスト教の禁教令を発してもいた。こうし
た事で、江戸を離れ、翌年ビスカイノは仙台藩の藩主伊達政宗の新造船要請に応じて、
サン・ファン・バウティスタ号で政宗の家臣支倉常長ら遣欧使節(けんおうしせつ。慶
長18年派遣)と同乗して月ノ浦(現石巻市)を出航(1613.10/28)し、三ヵ月後アカプ
ルコに到着(1614.1)した。元和元年(1615)アカプリコから欧州へ向かう政宗の船に
、ムニョスの件の使節も同乗したが、日本で強まるキリスト教排斥の影響で親書からは
貿易の件は取り消されていた。その後も諸交渉は捗らないまま、日本は鎖国に至った。
その後、1620年 ロドリゴはパナマ総督に任命され、1627年3月29日にはバジェ・デ・オ
リサバ伯爵の称号を授かる。1635年スペイン王により正式に日本との国交断絶が発せら
れた。失意もあってかロドリゴはその翌年の1636年にベラクルス州オリサバにて72歳で
亡くなり、遺書により故郷テカマチャルコの聖フランシスコ修道院に眠っている。日本
との交易協定は叶わなかったが、ロドリゴは日本の様子を『日本見聞録(La Relacion
Japon)』として詳らかに書き残している。

1582: 名無しさんAA:18/11/08 02:19
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   572   > 

 明治時代になって欧米を歴訪した岩倉具視等がスペイン船遭難の話を聞き、それが日
墨交流の契機となったことが日本でも知られるようになった。明治21年(1888)11月30
日、日本とメキシコは日墨修好通商条約を締結。メキシコにとってアジアの国との初め
ての条約であり、日本は欧米列強国(アメリカ、イギリス、ロシア、フランス、オラン
ダ)と不平等条約を結んでいた中でアジア以外の国との初の平等条約となった。明治30
年(1897)3月24日元外務大臣榎本武揚はメキシコに36人の殖民団を送る。しかし 資金
難で数ヵ月で解散となったが、残留した移民は苦心しながら後のメキシコ移住者の基礎
を築いている。御宿日西墨国交通発祥記念碑 大多喜メキシコ通り墨西大統領来町記念
に、御宿の日西墨交通発祥記念碑と大多喜のメキシコ記念塔が建っている。建立は昭和
3年(1928)10月1日に、御宿に日西墨交通発祥記念碑が建立され、平成21年(2009)に
ロドリゴ達の漂着した1609年から400年目の 日墨交流記念にメキシコ政府から抱擁の像
が贈られた。昭和53年(1978)11月1日には 大多喜町にメキシコ大統領が訪問したのを
記念して大多喜城跡までの道を「メキシコ通り」と命名された。イスパニア国王への上
申書を書いたフアン・セビコ資料は残っていて、@,日本国と日本人については、「同
じ村にいろいろな宗派がありますが、人々は争わずに親しく付き合っています。本人の
貧困は神の思し召しであり、裕福にしてくれる神が良いと考えています。キリシタンに
なっても逆境になれば信仰を捨てるでしょう。」「専制政治で、産物はすべて領主が保
有し、生産者は貧しく食べるものしか残りません。」「兵士の数は、とても多く、・・
・彼らは軍事訓練は私たちに劣りますが、生命をかけて戦います。武器も精巧で射撃も
上手です。濠と衛兵所を備えた城を持っていて、大砲がなければ攻め落とせません。」
「彼らは、航海術を知りませんし、強固な船も建造できませんから大砲を積んだ船で、
攻撃すれば、容易に勝てます。」と書き送っている。メキシコのアカプルコには、ヤマ
ダ・カトウ・コンドウ(田中、山田、加藤、近藤、後藤・・・)などの姓の人がいてい
るが、彼ら自身は日本人の末裔だと言っている。カタナ(刀)・カマド(竈)・ワラッ
チェ(わらじ)・ビョンボ(屏風)などの言葉も残る。本書はロドリゴの遭難から40
0年を記念して出版されたもので、2009年と新しいのであるが、すでに絶版となっ
ている。「日本見聞録」の時代背景を「異国船漂着物語」と共に考察する必要がある。


1583: 名無しさんAA:18/11/08 02:29
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   573   > 色々とにわかには信じがたいような記述もある。その信じがたい記述は、たとえば、
徳川秀忠も大多喜城の殿も、スペイン風の手へのキスの挨拶を自ら行うシーンや、既に
日本人の多くがが江戸時代初期に太平洋を何度も航海していた。ということ。それだけ
江戸の初期の方が江戸の鎖国の開放期より藩主は海外を身近に感じていたと考えられる
。面白いのは、江戸城のなかの厩舎の馬の向きを書いていることである。実は、幕末に
来た外国人もこのことを書き残している。ヨーロッパでは逆なのである。つまり、日本
は馬の右に立つが、西洋は左に立つためかもしれない。一つは従者が殿の刀を護る為か
も知れない。対して西洋は従者は刀はなく 馬の脚に当たる事も無かったのだろう。こ
の貴族の国王代理大使の、ロドリゴと、セビコス船長では日本の評価が大きく異なって
いる。ほぼ同じものを見て、同じ行動をしていたはずなのだが、全く違う視点である。
そして、船長は、常に疑心暗鬼で懐疑的であり、日本の植民地とする武力の比較に余念
がない。また2人とも、オランダ人を追放するよう進言しているが、この時代、すでに
スペインは大西洋や地中海で海戦に負けて、斜陽を始めており、植民地先での容赦ない
搾取と奴隷労働を行い、出遅れて後でやってきた英国やオランダなどのヨーロッパ諸国
に糾弾され始めていた。これまで略奪したり奴隷労働で得たであろう財宝が、イギリス
やオランダなどの海賊達に奪われ、神経を尖らせていた。ヌエバ・エスパーニャ国の(
メキシコ)も、もともとジパング伝説から、欧州での伝説化した日本近海にあると言わ
れていた「金銀島」の採掘や搾取の為に、大航海時代に作られた国だった。こうした事
で日本の金や銀に興味があったのは当然だった。こうした事の意図よる問答がされて、
やり取りがあったと言える。徳川幕府の秀忠は、既にキリスト教と貿易が表裏一体であ
り、信長式に全てを飲み込むつもりがあっても、禁教令は出しても、この日本の沿岸全
てを守るのは無理だと考えていた筈だ。しかし家康は石山本願寺の焼き討ち事件なども
意図せず地獄の様な無辜の民が死んだ事の記憶や、信仰による強さが武士にも入って来
て、切腹すら拒否し受け入れない信者が増えてきている事にも悩んでいた。のである。
サン・フランシスコ号の日本漂着は、1608年に未着任の総督府長官ドン・フアン・デ・
シルバに代わり、44歳のドン・ロドリゴが臨時総督府長官となった。ヌエバ・エスパー
ニャのアカプルコを出発 (1608.3/15)し、三ヵ月後には、マニラの南にあるカピテに
入港(6/15着任)し、前年マニラで暴動を起こして捕縛されていた日本人達の処罰につ
いて、ロドリゴは調査の上で 200人の処刑を取下げて追放処分とした。明らかに海賊行
為を行っていた犯人は投獄した。つまりここに日本人300人前後が投獄されていたの
だろう。これは驚きである。

1584: 名無しさんAA:18/11/08 02:53
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   575   > 

 「これゆえに、日本では決して貴地の教えを説き広布してはならない。閣下がもし日
本国および家康と交誼を保ちたいなら、自分家康が欲することをなし、欲さざることは
決してなさぬことだ。」と書いている。更に。「また邪悪な日本人で貴地に何年も滞在
後に帰ってくるものが多いと聞く。これは自分家康の好まないことだ。だから、閣下が
許可派遣するマニラ船にこうした日本人を乗り込ませないようにして欲しい。諸事、思
慮を用い自分家康の嫌悪を受けないよう務めてほしい。」と、切支丹に改宗したものの
出国をさせるな。とも書いている。しかしこれは先の取り締まりの上奴隷になった日本
人の開放を拒否したと取ったかもしれない。マニラ貿易は、キリスト教と抱き合わせだ
ったが、徳川幕府は、朱印状(海外における安全保証)やchapa(国内における外国船の
安全保証)による徳川管制独占を試みたが、既に発行において失敗している。益々、事
はそう簡単ではないように為っていった。日本で渡航禁止をしても、マニラ総督は島津
や平戸他へ伴天連と合わせ交易船派遣を継続していたし、何かあっても朱印船許可を、
盾にとって相手をしなかったのである。こうして拉致し送られるマニラでの日本人奴隷
の数は増える一方で日本人との摩擦も強まった。1603年の支那人騒擾の時には日本
人500人がマニラ総督によって鎮圧したといい、1606年、1607年、1608
年、1609年と毎年のように日本人騒擾が起きその日本人規模は1500人、とされ
る。伴天連の調停で治まったり(1607年)、マニライスパニア軍に鎮圧されたり(1608
年)、支那人と日本人が一緒に暴動を起こしたり(1609年)していた。この間に、日本
人の勢力が増し他方でマニラ総督府は現地人抵抗の高まり(ホロやマラッカテレナテで
の征服戦争継続)は、英蘭との対立を深くし、スペインの力を徐々におとしていく現象
を産んだ。総督アクニヤはこうした中で病死(1606年6月)して、こうして後任のドン
・ロドリコ・デ・ベベーロ・イ・バエルッサが、1608年6月、ノバイスパニアからマニ
ラ臨時総督として転任してきた。そして日本は、1596年(慶長元年)の豊臣秀吉の禁教
令布告から1637年(寛永14年) 天草・島原の乱まで、60年間海外との交易促進の
親交や友好と、布教の禁止や外国船打ち払いと、この間を揺れ動いていた。豊臣秀吉の
唯一のキリスト教徒への直接的迫害である日本二十六聖人殉教のきっかけとなったとさ
れるフェルペ号の土佐漂着も、フィリピンのマニラを出航したスペインのガレオン船が
メキシコを目指して太平洋横断の途についた中の出来事であった。五百〜千五百人が3
年間メキシコに送られた。と言う事は2千人は送られた事になる。

1585: 名無しさんAA:18/11/08 02:55
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   576   > 

 天正15年(1587年)に豊臣秀吉が発したバテレン追放令は、キリスト教の布教禁止は
、南蛮貿易の実利を重視した秀吉の政策上からもあくまで限定的なもので、黙認された
中にあった。1596年7月、メインマストを切り倒し、400個の積荷を海に放棄しながらも
、日本に流れ着くことだけが唯一の希望であった。こうして文禄5年8月28日、船は四国
土佐沖に漂着し、知らせを聞いた長宗我部元親の指示で船は浦戸湾内へ強引に曳航され
、湾内の砂州に座礁してしまった。大量の船荷が流出しの町に留め置かれ、使者は秀吉
に会えず、代わりに奉行の増田長盛が浦戸に派遣され、先立って使者のファン・ポーブ
レがもとに戻り、報告では積荷が没収されること、自分たちは勾留され果ては処刑され
る可能性があることを伝えていた。増田らは、白人船員と同伴の黒人奴隷との区別なく
名簿を作成し、積荷の一覧を作りすべてに太閤の印を押し、船員たちを町内に留め置か
せ、所持品をすべて提出するよう命じた。さらに増田らは「スペイン人たちは海賊であ
り、ペルー、メキシコ(ノビスパニア)、フィリピンを武力制圧したように日本でもそ
れを行うため、測量に来たに違いない。このことは都にいる3名のポルトガル人ほか数
名に聞いた。」という報告を、秀吉への書状で告げた。このとき、水先案内人(航海長
)であったデ・オランディアは憤って長盛に世界地図を示し、「スペインは広大な領土
をもつ国であり、日本がどれだけ小さい国であるか。」を語り、その大きな国をどうし
て持ちえたかは、海賊行為と布教行為であった事を明かしていた。こうして増田らの一
行は、積荷と船員の所持品をすべて没収し、航海日誌などの書類をすべて取り上げて破
棄した。荷物の没収に抵抗した船員たちに対し、増田が世界地図に示された欧州、南北
アメリカ、フィリピンに跨るスペインの領土について「何故スペインがかくも広大な領
土を持つにいたったか」と問うたところ、サン・フェリペ号の水先案内人が「スペイン
国王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服を事業としている。それはまず、そ
の土地の民を教化し、而して後その信徒を内応せしめ、兵力をもってこれを併呑するに
あり」という意味のことを告げた。とされているが証明する証拠や書類は今もってない
。しかし、長盛によって都の秀吉に報告され、直後の12月に天正に続く禁教令が再び出
され、京都や大坂にいたフランシスコ会のペトロ・バウチスタなど宣教師3人と修道士
3人、および日本人信徒20人が捕らえられ、彼らは長崎に送られて慶長元年12月19日
(1597年2月5日)処刑された(日本二十六聖人)。


1586: 名無しさんAA:18/11/08 03:02
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   577   > 

 この事件には、秀吉の対明(みん)外交、イエズス会とフランシスコ会の対立などいく
つかの問題が関係した。日本にいた宣教師ルイス・フロイスもこの事件の顛末を述べて
いるが、そこでは「漂着した船舶は、その土地の領主の所有に帰する。という、古来の
習慣が日本にあったために積荷が没収された。」と述べている。歴史書では、しばしば
「漂着した船の積荷には、その土地へ所有権が移るのがこの時代の海事法(廻船式目)
であったため。」というような記述が見られる。廻船式目とは、日本では既に北廻り船
と言う輸送船団が存在し、鎌倉時代に当時の海上の慣習を文章化した上で、法が存在し
鎌倉幕府の裁可を得て所有した。その地の豪族・大名によって内容の統一が保たれては
いなかったが、豊臣秀吉が海法規定を整理・統一出来る程に人々は慣習化していた。そ
の後に鎌倉時代の廻路式目の中から取捨選択、補足・削除をした「海路諸法度」(1592
年)を制定した。廻路式目からの大きな変更は見られず、領土領海への侵犯や国家間の
衝突時の拿捕に関する記載が特別に設けられた形はない。 サン=フェリペ号事件に関し
ては、しばしば長盛との問答でのスペイン人の船員(デ・オランディアとも)の「積荷
を没収された腹いせ」による発言が秀吉を激怒させたと説明されるが、これは1598年に
長崎でイエズス会員たちが行った「サン・フェリペ号事件」の顛末および「二十六聖人
殉教」の原因調査のための査問会での、証人の言葉として出た。とされる資料であり、
日本側の記録には一切残されてはいない。又変化の無い海事諸法度を改めて公示した意
図も不明のままだが、おそらくは世界に合わせて変えようとしたが中止した。と言う事
かもしれない。この後、徳川家康は豊臣秀吉死後から積極的に対外関係の構築に動いて
た。明・朝鮮に対しては朝鮮出兵後の和平交渉を進めつつ、朱印船貿易を活発化させて
ヨーロッパ・東アジア諸国との関係構築に努めようとした。中でもスペインは、太平洋
横断しうる航海・造船技術と鉱山開発技術に魅力を覚え、交渉・通商相手として最も重
視していた。慶長三年(1598年)十一月、秀吉没後三か月で、秀吉によって追放された
スペインの宣教師ジエズスを保護して「ジエズスを介しスペイン国王に対し、メキシコ
商船の関東誘致と鉱山・造船の両技師並びに航海士の招聘」を依頼している。その後も
スペイン宣教師を保護して関係構築に前向きに取り組んでいるが、スペインは技術協力
に消極的であったため、交渉は難航していた。ここには、イエズス会士の処刑が重く横
たわっていて、それが奴隷船貿易の為だったとはバチカンも公表してはいない。


1587: 名無しさんAA:18/11/08 09:56
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   578   > 

 こうして観ると海外貿易の 日本の形を作ったのは、改めてこの秀吉の時だった事が
解る。その後の徳川家康は、子や孫の代になっても、海外からの侵略には、かなり神経
を使い行動していた。少しまとめてみても、その動きは慎重に慎重を重ね、秀吉と同じ
認識で、人が売られていて、日本人奴隷が拉致され船にとじ込められて送られていた事
を知っていたが、秀吉の様な批判的な行動はしなかった。1598年秀吉死去。天下統一事
業は家康が引き継いだ形になった。フランシスコ会士のヘロニモ・デ・ヘススが、通商
に関心を持っていた家康と会談した。家康はルソンとの友好と通商関係の樹立を望み、
マニラのガレオン船の日本寄港を歓迎すると表明した。一方で日本船のルソンとヌエバ
・エスパーニャでの受け入れ方を要望、その実現のため造船技術者、航海士、また鉱山
開発のための技師の日本への派遣を要請した。ヘロニモ・デ・ヘススはマニラ総督テー
リョに宛てて書簡で家康の要請を報告した。総督はヌエバ・エスパーニャの上司に本件
を伝達するも特段の反応が得られなかった。1600年のこの年の春、2年前に西回りで、
東洋に向けて出発したオランダ東インド会社の船隊の生き残りの一艘リーフデ号が豊後
に漂着した。その航海長であった英人ウイリアム・アダムスはその後家康の顧問となっ
た。ここで日本にとっては一大転機となった。1601年には、家康はまだ三浦按針とは、
会見してはいなかった。再度スペイン植民地との通商関係樹立を図ろうとしてマニラ総
督にペドロ・ブルキーリョ修道士を使者として送り込み、日本人海賊数百人を捕らえて
処刑したので日本近海の制海権が確保されたことを知らせに来た。ヌエバ・エスパーニ
ャに、通商を要請する旨を伝えさせた。また、ヘロニモ・デ・ヘススもマニラ総督に、
回答を促進させるために送り込んだ。家康はルソンとの友好と通商関係の樹立を望み、
マニラのガレオン船の日本寄港を歓迎すると表明していた。日本人のガスパール・フェ
ルナンデスやミゲルやベントゥーラの3人は、いずれも男性だが僅か7ペソで売られた
労働者だったとみられる。ガスパールは豊後(大分県)生まれ。8歳だった1585年
、長崎で日本人商人からポルトガル商人のペレスに、奴隷として3年契約7ペソで売ら
れた。その後の詳細は不明だが、引き続きペレスのもとで、料理などの家事労働をして
いたとみられる。当時のスペインで、高級オリーブオイル1本が8ペソだった時代だ。


1588: 名無しさんAA:18/11/08 10:05
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   579   >
 1602年ペドロ・デ・アクーニャルソン総督は日本との通商関係を結ぶことに好意的な
返信を送り、実際に家康の希望に沿って商品を積んだ商船を関東に送る手配をしたが、
船舶建造等のための技術者派遣は自分の権限外としてヌエバ・エスパーニャ副王とスペ
イン国王宛に報告を送った。家康は総督に対し返信を送り、その中でガレオン船が通商
目的で、あるいは悪天候から避難するために日本の港への入港することを認めることを
伝え、他方日本船のルソン、ヌエバ・エスパニャでの受け入れ方を要請した。ペドロ・
デ・アクーニャ ルソン総督が日本に派遣した商船は家康の支配下の関東でなく、九州
の港に到着した。この年のナオ・デ・チナの一隻エスピリツ・サント号が暴風雨で難船
し土佐清水に入港した際に積み荷の一部没収等当局の不適切な取り扱いがあった。10月
、抗議を受けて家康は没収品の返還を命じた文書を発行し、再度マニラ総督に宛て日本
の港への緊急避難時の入港と船の修理を保証する書状8通 と入港許可書を送付した。
 1603年ペドロ・デ・アクーニャ ルソン総督が日本に派遣した商船サンテイアゴ号で
フランシスコ会士ルイス・ソテーロ等が日本に到着し、ソテーロは、家康から布教する
許可を得た。イエズス会の布教活動開始からは凡そ半世紀遅れたが、フランシスコ会は
関東を中心に本格的布教活動を開始し、京都、大分、大阪、浦賀に聖堂、修道院を建て
た。この年、ヌエバ・エスパーニャ、スペインとの直接交易を望んでいた家康の命を受
けたウイリアム・アダムスがマニラに赴き、家康の直接支配下の地方との通商関係樹立
についてスペイン側に説得を試みたという。1603年の支那人騒擾の時には日本人の
500人がマニラ総督によって鎮圧したという。つまりここで起こったのは、三浦按針
と共に、布教ys奴隷をやめて、幕府と直接取引せよ。と会見したのではなかったのか
と思える。しかし、ここで彼らは捕まり捕縛され三浦按針だけが帰ってきた。と考えら
れる。ここで幕府は長崎直轄領を決め、出島構想を作りその為の方策を考えたのだろう
。等安があわてて家康にそのまま長崎支配を頼むころ、スペインのマニラ支局も1604年
アクーニャ総督は、友好を求める書簡を贈物と共に家康に送っている。これが先ほどの
手紙である。1605年に家康は、アクーニャ総督に書簡の受領と、贈物への謝意を述べた
返信を送った。この中で家康は再度、日本でキリスト教の布教は許されないとの見解を
表明している。ロドリーゴ・デ・ビーベロ総督代理は家康に派遣されてマニラに滞在し
ていたウイリアム・アダムスに託して、家康と秀忠に宛てて書簡を送り、友好関係の継
続を望み、日本船のマニラ入港を歓迎する、また天候によってはスペイン船が徳川幕府
の支配下の日本全土への入港が認められるべきこと、キリスト教布教活動を行う宣教師
への待遇改善等の要請を行っている。

1589: 名無しさんAA:18/11/08 10:06
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   580   > 

 東軍の勝利に終わった関ヶ原の戦いは、18日、三成の居城・佐和山城を落として、近
江国に進出し、21日には戦場から逃亡していた三成を捕縛し、10月には小西行長、安国
寺恵瓊らと共に六条河原で処刑した。その後大坂に入った家康は、西軍に与した諸大名
をことごとく処刑・改易・減封に処し、召し上げた所領を東軍諸将に加増分配する傍ら
自らの領地も250万石から400万石に加増。秀頼、淀殿に対しては「女、子供のあずかり
知らぬところ」として咎めず領地もそのままとしてひとまず息をついた。後は論功行賞
により各大名家の領地に含めていた太閤蔵入地(豊臣氏の直轄地)を諸将に分配する事
だった。結果として、豊臣氏は摂津国・河内国・和泉国の3ヶ国65万石の一大名となり
、家康は天下人としての立場を確立したが、まだ西国大名は新年の挨拶に大坂城に伺候
し豊臣家が西国を支配すると言う二重公儀体制が残っていた。ここで朝廷宮家を動かし
征夷大将軍職を慶長5年(1601年)12月19日、に得た。文禄4年(1595年)に豊臣秀次
が解任されて以来空いたままになっていた関白に九条兼孝が家康の奏上により任じられ
た。このことにより、豊臣氏による関白職世襲を止めて、旧来の五摂家に関白職が戻っ
た事になった。関ヶ原の戦いの戦後処理を終わらせた慶長6年(1601年)3月23日、家康
は大坂城・西の丸を出て伏見城にて政務を執り、征夷大将軍として幕府を開くため徳川
氏の系図の改姓を行い、慶長7年(1602年)、関ヶ原の戦いの戦後処理で唯一処分が決
まってなかった常陸国水戸の佐竹義宣を出羽国久保田に減転封。代わりに佐竹氏と同じ
く源義光の流れをくむ武田氏を継承した五男・武田信吉を水戸に入れた。慶長8年にな
って(1603年)後陽成天皇は参議・勧修寺光豊を勅使として伏見城に派遣した。朝廷よ
り六種八通の宣旨が下り、家康を征夷大将軍、淳和奨学両院別当、右大臣に任命した。
また3月、伏見城から二条城に移り、衣冠束帯を纏い行列を整えて御所に参内し、将軍
拝賀の礼を行い、年頭の祝賀も述べた。27日、二条城に勅使を迎え、重臣や公家衆を招
いて将軍就任の祝賀の儀を行った。また4月4日から3日間も二条城で能楽が行われ諸大
名や公家衆を饗応したのである。この間キリスト教は放って置かれたが秀吉の禁教令は
有効であった。つまり、1587年(天正15年)に伴天連追放令を発布し、1588年(天正
16年)秀吉の長崎没収しキリスタン追放令で宣教師活動の停止は有効に機能して隠れ
た活動しか出来なかったのだ。豊臣秀吉は九州討伐の途上で、当時のイエズス会の布教
責任者であった宣教師ガスパール・コエリョを呼んで人身売買と宣教師の関わりについ
て詰問し、即日奴隷の売買を含む南蛮貿易の禁止とキリスト教の布教を禁じるバテレン
追放令を発布していた。

1590: 名無しさんAA:18/11/08 10:07
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   581   > 

 実は日本はしばしば室町時代から、東南アジアにおける重要な交易相手としてだけで
なく戦略拠点としても重視された。この時代は日本は室町から安土桃山時代の乱世にあ
たり、漂着した外国船の保護を契機として、海に面した各地の諸大名が渡来する外国船
から火薬などを調達し、大量の銀が海外に流出していた(南蛮貿易)。つまり蒙古襲来
以来恒常的に時々火薬と交換に行われていたのである。日本へは、中国産硝石、生糸、
絹織物、奴隷、ミイラ、火薬などが入り、日本からは輸出品:硫黄、銀、海産物、刀、
漆器、そして日本人も奴隷として輸出されていた。古来から日本の戦場では戦利品の一
部として男女を拉致していく「人取り」(乱妨取り)がしばしば行われていたが、これ
は中国の督戦隊の戦場のやり方によって中国国内に人が必要だったからであった。古代
には朝貢外交の贈り物ともなった名残りのままだったかもしれない。又朝鮮ではコリア
カースト制が厳然としてあった為農奴も不足気味だったのである。秀吉は死ぬ間際にお
いてこの日本人拉致や奴隷において対策を講じる事に全力を注いだ。それが朝鮮出兵で
の明の占領だった。そもそも戦国時代既に信長に黒人が送られたり、大友宗麟に長持ち
に青い目の裸体夫人が送られていたりしている。又大内氏時代の大宰府で博多商人に、
火薬の取り寄せに奴隷を許したとして九州大名の反発が起こっている。1597年(慶長2
年)に起こった日本26聖人処刑は、それこそキリスタンには恐怖であったし効果を持
った。この時は安政の大獄の様な一斉探索が発令されたと思われる。大坂と京都でフラ
ンシスコ会員7名と信徒14名、イエズス会関係者3名の合計24名が捕縛された。京
都・堀川通り一条戻り橋で左の耳たぶを切り落とされて、市中引き回しとなった。1597
年1月、長崎で処刑せよという命令を受けて一行は大坂を出発、歩いて長崎へ向かうこ
とになった。また、道中で世話をするよう付き添っていたペトロ助四郎と、同じように
世話をしていた伊勢の大工フランシスコ吉も捕縛された。二人はキリスト教徒として、
己の信仰のために命を捧げることを拒絶しなかった。厳冬期の旅を終えて長崎に到着し
た一行を見た責任者の寺沢半三郎は(当時の長崎奉行であった寺沢広高の弟)、一行の
中にわずか12歳の少年ルドビコ茨木がいるのを見て哀れに思い、「キリシタンの教え
を棄てればお前の命を助けてやる。」とルドビコに持ちかけたが、ルドビコは「(この
世の)つかの間の命と(天国の)永遠の命を取り替えることはできない。」と言い毅然
として寺沢の申し出を断った。

1591: 名無しさんAA:18/11/08 10:24
1560年代鉄砲伝来以降、イエズス会の宣教師たちは、ポルトガル商人による奴隷貿易が
日本におけるキリスト教宣教の妨げになり、宣教師への誤解を招くものと考えていた。
度々、ポルトガル国王に日本での奴隷貿易禁止の法令の発布を求めており、1571年に、
王セバスティアン1世から日本人貧民の海外売買禁止の勅令を発布させることに成功し
ていた。それでも、奴隷貿易は根絶にいたらなかった。1587年(天正15年) 7月24日
に、豊臣秀吉は九州討伐の途上で当時のイエズス会の布教責任者であった宣教師ガスパ
ール・コエリョを呼んで人身売買と宣教師の関わりについて詰問し、即日奴隷の売買を
含む南蛮貿易の禁止とキリスト教の布教を禁じるバテレン追放令を発布した。豊臣秀吉
では、キリシタン禁教令は宣教師達の追放命令が主な目的だった。理由には諸説あるが
、秀吉は国内の政治と宗教のつながりを恐れていたため、特に九州征伐の時に信仰の絆
で強く結ばれているのを見てキリシタンに対する警戒心が危機感があった。とされる。
その当時、キリシタン大名やキリシタン(信者)によって寺社が焼き払われたり僧侶が
迫害されたり、逆に仏教を信仰する大名の元ではキリシタンが迫害されたりする事件が
相次いで起こっていた。さらに秀吉を怒らせたのはポルトガル商人によって、日本人が
奴隷として海外に売られている事例が日本で発覚した為だった。ただし秀吉は南蛮貿易
の実利を重視していた。その為この時に、大規模な迫害は行われなかった。黙認という
形ではあったが宣教師は、隠れて日本で活動を続けることができたし、キリシタンとな
った日本人が公に棄教を迫られる事はなかった。しかし、1596年10月のサン=フェリペ
号事件をきっかけに、秀吉はイエズス会の後に来日したフランシスコ会の宣教活動は、
全く活発で強迫的布教で、禁教令に対して挑発的であった。京都奉行石田三成に命じて
、京都に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛して処刑するよう命じたのは
当然の処置だった。大御所として政治を行う家康は、慶長10年(1605年)将軍職を辞す
ると、朝廷に嫡男・秀忠への将軍宣下を行わせて将軍職は以後「徳川氏世襲」を天下に
示し、表向きは引いた形を築いた。同時に豊臣秀頼に新将軍秀忠と対面するよう要請し
た、しかし秀頼は拒絶し、六男・松平忠輝を大坂城に派遣したことで事は収まった。慶
長12年(1607年)に駿府城に移って、「江戸の将軍」に対して「駿府の大御所」として
実権を掌握し続け幕府の制度作りに努めた。同年 朝鮮通信使と謁見して、文禄・慶長
の役以来断絶していた李氏朝鮮との国交を回復して交易の道に途が開けた。又慶長14年
に(1609年)、オランダ使節と会見し。オランダ総督(使節は国王を自称)マウリッツ
からの親書を受け取り、朱印状による交易と平戸にオランダ東インド会社の商館の開設
を許可した。

1592: 名無しさんAA:18/11/08 10:25
慶長16年ヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)副王ルイス・デ・ベラスコの使者セ
バスティアン・ビスカイノと会見し、スペイン国王フェリペ3世の親書を受け取った。
両国の友好については合意したものの、通商を望んでいた日本側に対し、エスパーニャ
側の前提条件はキリスト教の布教で、家康の経教分離の外交を無視したことが、家康を
して禁教に踏み切らせた真因である。この後も家康の対外交政策に貿易制限の意図が全
くないことから、この禁教令は鎖国に直結するものではない事であったが、イスパニア
やポルトガルは昔と同じ交易を求めてやまなかった。慶長18年(1613年)、イギリス東
インド会社のジョン・セーリスと会見。イングランド国王ジェームズ1世からの親書と
献上品を受け取り、朱印状による交易と平戸にイギリス商館の開設を許可した。武家諸
法度(ぶけしょはっと)は、慶長16年(1611年)4月12日、2代将軍秀忠の頃、徳川幕府
は3カ条の法令を定め、京都に参集している西国の諸大名から「誓詞」を徴する形で、
その順守を命じたことから始まる。関ヶ原の戦いで東軍が勝利し家康の指導力が強まっ
たものの、豊臣家は依然として存在し、豊臣家を内々盟主に仰ぐ大名も存在していた。
そこで、1 鎌倉幕府以来の法令を順守すべき事、またこれを修正して施行する徳川幕
府の法令に従う事。2 法度や上意に背く者の隠匿を禁止する事。3 叛逆人・殺害人
の拘置を禁止する事。この3カ条誓詞には、このときに京都に参集していた主要大名の
22名が連署した。この誓紙を取ったことで、徳川公儀による天下支配が概ね成った。
ともいわれる。フィリッピンでは既に何回も暴動が起こっていた。1606〜08年、マニラ
在住の日本人約1500名が武力蜂起したが、修道士達により慰撫されて事なきを得た。又
日本人の暴動は1607〜08両年にも発生し、武力鎮圧されて日本人はマニラ市外に追放さ
れた。ビーベロ総督代理は日本からの来航船を制限して欲しい旨、家康に要請し、同時
に暴動時に捕らえていた日本人を送還している。1608年この年初めてルソン発の商船の
関東の港(浦賀)への入港が実現した。家康・秀忠はビーベロ総督代理の書簡に対し交易
拡大を望む旨書き送った。1609年フアン・デ・シルバ新総督が着任し、マニラの日本人
の行為について不快であることを家康に書き送り、家康は返信で不穏分子の処罰を促し
た。新総督はまた日本における宣教師の取り扱い、日本のガレオン船受け入れに謝意を
表した。1610年ビーベロ他を送り届けるためウイリアム・アダムスの指導で日本で始め
て(慶長15年)建造された洋式船サン・ブエナベントウーラ号(日本名安針丸)は8月浦賀
を出港、10月27日ナヤリット州マタンチェルに到着し、その後アカプルコへ回航された
。同船には家康の使者としてビーベロとアロンソ・ムニョス神父と通商開始を期待して
京都の商人、田中勝介、朱屋隆成、堺の商人、山田助左右衛門等23人を乗船させた。

1593: 名無しさんAA:18/11/08 10:36
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   585   > 

 メキシコ国立文書館に残る異端審問記録で確認する「日本人奴隷」の実態を示す貴重
な資料の『審問記録』には、名前の後ろには「ハポン(日本)」と明記されている名は
「日本生まれ」の「ガスパール・フェルナンデス」「ミゲル」「ベントゥーラ」の3人
だ。ガスパールは 豊後(大分県)生まれ。8歳だった1585年、長崎で日本人商人から
ポルトガル商人のペレスに、奴隷として3年契約7ペソで売られた。その後の詳細は、
不明だが、引き続きペレスのもとで、料理などの家事労働をしていたとみられる。当時
のスペインで、高級オリーブオイル1本が8ペソだった。ベントゥーラは来歴不明だが
、ミゲルは1594年、ポルトガル奴隷商人がスペイン領マニラで、ペレスに売った。ペレ
スはマニラ在住時の1596年、隠れれユダヤ教徒として当局に逮捕され、有罪判決を受け
た。この異端審問のため一家は、1597年12月、マニラから太平洋航路でスペイン領メキ
シコ・アカプルコに移送された。その審問記録に、ペレスの「奴隷」として3人の名が
ある。このガスパールは審問では、食事内容をはじめとするペレス家の信仰の様子など
を証言。その後の1599年、ベントゥーラと共に、自分たちは奴隷ではないと当局に訴え
、1604年に解放されている。ここに日本人の名はないが、按針丸がベントゥーラ号
であり、この裁判されたのがベントゥーラと名があったのは偶然には思えないのである
。その後1623年にモルッカ諸島のアンボイナ島(アンボン島)にあるイギリス商館を、
オランダが襲い、商館員を全員殺害した事件が起こっている。別名はアンボン事件だ。
これでイギリス香辛料貿易は頓挫し、オランダが同島の権益を独占した。イギリスは東
南アジアから撤退し、インドへ矛先を向けることとなった。」この時殺害された中に、
日本人傭兵9名がいたことが分かっており、海外に様々な人材が出ていたようだ。メキ
シコに日本人奴隷がいたという事実と、今回メキシコ国立文書館に残る異端審問記録で
確認されたことの意義は大きい。1609年(慶長14年)に、太平洋を東航中のサンフランシ
スコ号、サンアントニオ号、サンタアナ号が大暴風雨に遭遇し全三艘が難破し、上総沖
の岩和田(大多喜領、現御宿)で座礁し 317名が救助された。この時にたまたま帰国途次
のロドリーゴ・デ・ビーベロ・イ・ベラスコという前ルソン総督代理が乗船していた。
、日本滞在でビーベロは江戸に出て二代将軍秀忠に謁見し、翌年には駿府の家康を訪問
している。当時日本に居たフランシスコ会士ルイス・ソテロを介して、日本の将軍と、
スペインの高官の対話が実現し、ここに両国間通商交渉が開始された。


1594: 名無しさんAA:18/11/08 10:52
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   586   > 

これに対して、ビーベロはスペイン船の海難への救助協力と宣教師の保護、家康とフェ
リペ三世間の友好関係の維持、及びスペインの敵オランダ人の日本追放を要請していた
。メキシコに帰着後ビーベロは副王に日本各地の見聞について詳細な報告を行うと共に
「ドン・ロドリゴ日本見聞録」を著し、更に、太平洋横断に際して嵐に多く遭遇する。
ロス・ラドローネス諸島(グアム・マリアナ)経由でなく、船の補給、修理に都合良い、
また交易の可能性も高い日本経由航路の開設と鉱山技師の日本派遣について副王、イス
パニア皇帝に意見具申した。これに対しスペイン本国は、日本との通商はイスパニア領
のフィリピンを窓口にするとの意向を示した。つまりメキシコは却下されたのである。
 この頃日本の総人口は2000万人と推定され、内キリシタンの数は凡そ75万に達してい
たとされる。フランシスコ会宣教師の日本でのキリスト教の布教の容認され、日本の港
におけるスペイン船の入港許可と保護、及び商館設置等は認められたが、オランダ人の
日本からの追放は受け入れられなかった。家康はビーベロがヌエバ・エスパーニャに帰
還出来るよう、ウイリアム・アダムスに洋式船の建造を命じ、サン・ブエナベントウラ
号120トンの建造とその艤装に必要な経費4000ドウカート相当を幕府より提供した。とい
う。慶長15年(1610年)に、徳川家康の命を受け、前フィリピン総督ドン・ロドリゴの
帰郷の時他の21人とともにサン・ブエナ・ベントゥーラに同船してヌエバ・エスパーニ
ャ(ノビスパン、現在のメキシコ)のアカプルコへに到着した中の田中勝介(たなかし
ょうすけ)は、江戸時代初期の京都の貿易商人。歴史上初めてアメリカ大陸に渡り、ま
た太平洋を横断・往復した日本人とされるが、彼を紹介したのは、後藤庄三郎とされる
。後藤は代々養子入れの家系で、九州討伐時、筑後から秀吉が連れて来た山咲だった。
実は徳川氏が使う葵紋は、京都賀茂神社の神紋であり、賀茂(加茂)神社の神主・氏子
・信仰者に葵紋が広まったが、いわゆる橋本氏数十人の氏子を持つ神人のみが許された
家紋だった。三河から伊豆には賀茂と言う地名が残り加茂氏を名乗った。神社の勧請や
社領が多くあった瀬高の庄の名残りとされる。三河に居た松平氏・本田氏・伊那氏・島
田氏などは葵紋を使っていた。柳川の島田酒店はその流れを持ち、江戸時代柳川の魚河
岸の魚座の座長だった。徳川家康が天下を取ると、葵紋の独占を計り他家の使用を止め
させた。ただし本田氏のみが賀茂神社神官の出なので、徳川家康の要望に「殿こそ新田
の一引紋に変更されたら」と断った。この為立ち葵の紋を用いた。徳川の葵紋は三つ葉
葵紋で、この家紋だけは徳川の直系でさらに認可を受けた家系のみが使用された。

1595: 名無しさんAA:18/11/08 10:55
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   587   > 

桐紋は恩賞の家紋で、功績のあった足利尊氏・太閤秀吉などに賜与(しょ)された。ま
た足利将軍から織田信長・豊臣秀吉にも再度授けた。従って太閤秀吉は2度桐紋を賜っ
た。太閤秀吉が天正大判を後藤家で作らせ始めた時に、桐紋の仕様を許可した。桐紋は
幕末の頃には、約2割の武家(ほとんどが五三の桐)で使用され権威も落ちていたが、
明治になり皇室の裏紋として、内閣総理大臣の紋となり権威が戻ったという。九州征伐
で、筑後を訪れ時御神領となっていた高良山から大牟田までの橋本氏族の所領を各氏の
武将に明け渡しする事にわざわざ秀吉は、橋本氏を立ち合わせたと言われる。今の水田
小学校は豊臣秀吉が九州征伐の頃は金物の一大産地とされていた。加茂神社の神主の修
行金座として古くから在住し、河川の橋の袂に住して橋本家を名乗っていたからだ。後
藤家(ごとうけ)は、室町後期からの、幕末に至る装剣金工家の家系で多くの弟子を持
つ加治屋として大成した。後藤祐乗(ゆうじょう)を祖とし、足利(あしかが)家以来に、
織田、豊臣(とよとみ)、徳川の各将軍家に仕えて16代に及び17代典乗は明治まで続
いた。さらに傍系一門が繁栄してこの世界第一の勢力となった。後藤宗家は10代目廉乗
の1662年(寛文2)に京都から江戸に移ったが、元々代々将軍家の御用を勤めたところ
から、その作を「家彫(いえぼり)」と称し、町職人の「町彫(まちぼり)」と格式を異に
した。作品は鐔(つば)の製作は少なく、小柄(こづか)、笄(こうがい)、目貫(めぬき)な
どを主として、いずれも用いる素材は赤銅、金、銀で、原則的に鉄は使用しなかった。
図柄は、絵師の狩野(かのう)家のごとく、技法とともに一定の規格を守り続けていた。
竜(りゅう)、獅子(しし)、波文、紋散(もんぢらし)、武者、花鳥、草木などの高彫りの
作品を製作した。したがって、立派な家門を持ち伝統ではあるが、町彫のように取題や
技法の自由さと斬新(ざんしん)さに欠けた様式を守っていた。この中で先の桐の紋を授
けられ、下命によって大判を作った後藤家は金座後藤家としてこの傍系の分家筋だった
。この京都大判座後藤で働くうち、橋本庄三郎は、本家筋が家康の下命で江戸に出る事
で後藤姓を許され後藤庄三郎光次を名乗る事になった。当時判金といえば大判のことで
あったが、家康は貨幣としての流通を前提とした一両小判の鋳造を構想していた。初代
庄三郎は、後藤四郎兵衛家の五代目後藤徳乗の名代として江戸に招かれ、江戸本町一丁
目を拝領している。大判は貨幣と言うよりは恩賞に使う勲章の代わりに使われていた。
今でいう記念硬貨である。江戸時代の大判・小判には、真似されない様に、むしろ太閤
から受けついだ桐紋しか用いられなかったのは後藤家の信用からだった。家紋に対して
思い込みの強い時代にこの事象は例外的事柄でもあった。

1596: 名無しさんAA:18/11/08 11:04
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   588   > 

豊臣秀吉に許可を貰い、京都後藤家から弟の後藤長乗光栄と橋本庄三郎が文禄2年に呼
び出しを受けて、文禄4年(1595)に建設中の江戸に下向した。長乗は早々に京都に帰
ったが、橋本庄三郎(手代)が中心になり、武蔵墨書小判を作った事で信用を得た。文
禄4年(1595)の事とされる。この武蔵墨書小判(楕円)は天正大判を参考に約4.4匁
の1/10の定位定量であり、薄く延ばす技術を必要とした。これが橋本庄三郎のアイデア
とされる。関東ではそれまで甲州金が使われていて、金工達は旧武田の流れであった。
つまり、粒銀や金を型にいれた瓢箪型の高額貨幣の大久保長安の世界である。一方徳川
は天正大判を作っている後藤家の様に権威ある判金を作りたかった。橋本庄三郎は大判
の欠点が高額で、貨幣として使用しにくく一両判(即ち小判)を江戸町奉行の板倉勝重
に提案して、徳川家康の許可を得た。当時関東の甲州金は武田氏が滅んで信用性が薄れ
秤量貨幣としてか通用しなくなっていた。武蔵墨書小判は、この庄三郎が京都後藤家の
徳乗の次女、2歳年上になる出戻り娘のお亀の婿養子になる条件で、扇面に五三の桐紋
の極印を打つことを許可された。この扇面桐紋は後藤本家の丸に五三の桐紋が豊臣秀吉
の認可を得た家紋だったことの為であった。こうして養子になった後藤庄三郎光次は、
証人に兄の山崎喜六と共に証文を、本家後藤徳乗・栄乗に慶長元年(1596)出している
。趣旨は(1)大判の墨書き・極印打ちは本家が行うことを守る。(後藤庄三郎は大判に
は手を出さない)(2)小判の桐紋(扇面)は子孫まで守り使う。(3)後藤の苗字は変え
ることなく子孫まで使う。(4)黄金3枚を毎年子孫代々本家に贈る。(5)これらに背けば
小判等製造の収入を残らず本家に差し上げ、役儀も返上する。と言う物で、こうした絶
対服従の誓いの元に暖簾分けが出来た。こうした苦しい職人生活の中に、訪ねて来た者
がいた。慶長3年(1598)後藤庄三郎の理財の才能を見抜いた家康である。家康により
戦争(後の関が原の合戦)の為の軍用金調達を命じられた。光次は、この調達に成功し
て多額を家康に収めた。贋金で米相場に投資し、買占めて徳川に送り、先物も買った為
、人々は時代の変わり目の米相場と勘違いし、高価になった時売り抜けた。これが儲け
元であった。又後年伊能忠敬が全国地図測量に自己資金で歩いたが、彼も又幕府の旗本
のお抱え商人に各地の米の作柄情報を送って米相場で稼せがせていた。関が原の合戦(
慶長5年・1600)後に後藤庄三郎光次は金銀改役(きんぎんあらためやく)に抜擢され
、以後後藤庄三郎の名を代々継がせた。この金や米が大阪城の不穏な動きと家康に糾弾
される元になった。豊臣方は、高値になる米に人の食い扶持の為金を放出するしかなか
ったのだ。米倉も小さくなった大阪城の地下にしか貯蔵出来なかった。

1597: 名無しさんAA:18/11/08 11:16
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   589   > 

 慶長6年(1601)に慶長小判・慶長一分金を発行した。同じに慶長6年(1601)慶長
大判を長乗名で発行、徳乗は石田三成方に味方し家康に睨まれていた。ここで、丸に五
三の桐紋が使われたが、家康は太閤亡き後葵紋の大判を発行したかったが。庄三郎には
本家への証文もあって新貨幣発行は出来なかった。こうして家康の要請の新たな小判の
発行は、呼吸を見計らい断ったと思われる。又、庄三郎が徳乗弟の長乗を名目にして、
本家とは粘り強く掛け合い事をなした。家康の庇護の下となって強い意見も出来ただろ
うがしていない。慶長6年(1601)京都伏見に銀座開局を命じられて、末吉孫左衛門の
差配によって、品位を一定し大黒常是(だいこくじょうぜ)の極印を打った。慶長丁銀
・豆板銀である。この末吉孫左衛門は、例の長崎の大商人の末吉氏の分家筋であった。
元亀2年(1571年)生まれ。本姓橋本は江戸に帰った。家康が用意した家は、現在の日
本銀行本店が建っている処に 屋敷があったとされる。なおこの小判座が金座と呼ばれ
るのは元禄11年以降とされる。家康は、慶長6年(1601年)慶長金銀を制定した折に、
初代庄三郎に判金鋳造を命じている。初代庄三郎はのち拝領地に後藤屋敷を建て屋敷内
で小判の験極印を打つ後藤役所を設けている。慶長8年(1603年)に家康が征夷大将軍
に任ぜられると、庄三郎は小判座の長である「御金銀改役」となって小判座を統括し、
以後、御金改役は後藤庄三郎家が代々世襲することとなって世襲制で受け継がれた。こ
のち銀座設立にも関与し、さらに天領の金山、銀山を支配し、家康の財政、貿易などの
顧問として大久保家の後の権力を誇った。初代は「御金銀改役」であったが、二代目以
降は銀管理の職掌が少なくなり、宝永2年(1705年)には「御金改役」と「銀」が無く
なっている。実はここに問題がある。金も銀も同じ地層から同じ比率で出来上がってい
たはずで、本来は銀が不足と言う事は金も不足だった筈だった。だが東南アジアにおい
て使われていたのは銀貨幣だった。その上欧米の技術は優れていて金の小判から銀を抽
出して金を戻して悪貨にして同等で使っていた。その為ある時期から金の悪貨改造すら
出来ない徳川幕府があった。初代後藤庄三郎は、後藤四郎兵衛(大判座後藤)の職人と
して働く中、五代後藤徳乗に抜擢され別家を起こしたが、御用金匠後藤庄三郎家は、金
座も銀座を支配していたが、文化7年(1810年)に取り潰され、分家の三右衛門方至が
その地位を継いで残っている。この後藤家の勧めで田中勝介はメキシコ留学に行ったの
だった。しかしメキシコの前の、マニラですら、使節団の日本人が売られたのである。
これはもう充分に鎖国や出島の理由になったし、禁教令からキリスタン磔の理由だった


1598: 名無しさんAA:18/11/08 11:28
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   590   > 
 慶長9年(1604)大奥で事件が起こった。大奥女中の子お亀が身ごもったのだ。長男
銀之助を産んだ。慶長9年(1604)家康から側室阿茶の局の連れ子、お岩(大橋の局)
を、庄三郎に下げ与えられた。大橋の局は家康の子供(他説・2代将軍秀忠の子供)を
宿しており、家康の命令で庄三郎に与えられた。また阿茶の局は青山家出身の女傑で後
年将軍秀忠の娘和子は、後水尾天皇に入内する時に付いて行き、難しい朝廷対策を任さ
れた女官であった。大橋の局が生んだ次男がお松で、後に実子の銀之助を差し置いて二
代目金座当主後藤広世であるとされる。また9代金座当主後藤光暢は青山家からの養子
だった。この失態で慶長10年(1605)に、家督を秀忠に譲り征夷大将軍職も譲り、家康
は隠居した。自身への罰だった。しかし、奥の幕府として金鉱山と外交を駿府様として
、隠然と力をもっていた。その力は元和元年(1615)に大阪の夏の陣をして、豊臣氏滅
亡させ徳川幕府の安泰まで及んだ。徳川家康も後藤光次も共にガマン強い慎重居士で、
我身よりは、それぞれ徳川家・後藤家を第一に考える似た性格の持ち主であった。家康
は自分の希望を部下に押し付ける暴君型では無いし、家康は庄三郎に軍資金(カネ)と
大橋の局(女)及び子供(家康の実子or孫)で大きな借りを作ってしまい、葵紋の大判
・小判作りを強制しなかった。と言われている。又、一緒にメキシコに行った山田助左
衛門も恐らく3代目だろう。まだ黒田官兵衛が秀吉と共にある前に黒田半兵衛がいた。
彼も軍師として優れていたので、二人のあわせて両兵衛などと呼ばれていた。しかし、
この二人を合わせた様な、すご者がこの半兵衛の下にいた。それが山田助左衛門とされ
た。1556年、斎藤道三と子の斎藤義龍が戦った長良川の戦いでは、竹中家は斎藤道三に
味方した。父・竹中重元が不在の菩提山城に、西保城主・不破光次が来襲するが、父に
代わり、竹中半兵衛(13歳)は弟・竹中久作とともに不破勢を撃退した。1562年父の重元
が死去すると竹中家の家督を19歳の竹中半兵衛が継いだ。ところがこの機に信長は岐阜
に攻め込んだ。又城主斎藤道三も死去しその後を継いだ斎藤龍興に仕えたものの、彼は
享楽にうつつを抜かしたため、知将として優れた半兵衛は、家督を継ぐと、家臣の山田
助左衛門と共に関ヶ原にて浪人となっていた。これに信長は秀吉を使わし臣下にしよう
と三顧の礼を持ってやっと秀吉は迎えた。しかし、信長の部下であるなら拒否する。と
自ら秀吉の部下となり、家康の下に竹中は山田を使わし断ったという。この時山田は家
康が目をつけ、領主の九門太郎を討って版図を拡大、その勢力は不破郡一帯に及んでい
た領地摂取と至った。江戸時代の石高になおせば、同郡は約三万石だった。その後、近
江国の六角氏から要請されて、坂田郡に兵を出すこともあったが。押さえの援軍で、竹
中遠江守の名で感状を受けている。しかし、半兵衛は生涯官名を用いていない。

1599: 名無しさんAA:18/11/08 11:28
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   591   >

 黒田官兵衛共々秀吉の中国攻めに参加し、宇喜多氏の備前八幡山城の城主を調略成功
によって落城させ、この報告のため京都に赴き 信長に賞賛され銀子100両を授けられて
播磨へと帰陣した。同年、信長に対して謀反を起こした荒木村重に対して(有岡城の戦
い)、秀吉幕僚の黒田孝高(官兵衛)が有岡城へ赴き帰服を呼びかけるが、城内で捕縛
・監禁され外部との連絡を断たれたため、信長は孝高が村重に加担したと思い込み、孝
高の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)の殺害を秀吉に命じた。しかし重治は信長の首実検
に際し、秀吉に偽の首を提出させることで松寿丸の命を助け、松寿丸は自身の領地に引
き取り、家臣の不破矢足の屋敷に匿った。のち、助け出された孝高はこのことを非常に
感謝し、竹中家の家紋を貰い受けている。この時活躍したのも山田助左衛門だったとさ
れる。黒田半兵衛は長篠の戦いで、武田勢の一部が向かって左側に移動した。秀吉は回
りこまれるのではないかと焦ったが、重治は織田勢の陣に穴を開けるための陽動ではな
いかと進言した。秀吉は重治に従わず迎撃のため兵を動かしたが、重治は反対し、挙句
手勢と共に持ち場を離れなかった。まもなく武田勢は元の位置に戻って秀吉が不在の地
点に攻め寄せた。重治が守っている間に秀吉もあわてて帰還し、重治が正しかったこと
が証明された。中国攻めの陣中で病死する際には秀吉は京で養生するように戒めたが、
重治は「陣中で死ぬこそ武士の本望」と断ったとされる。また最後の策として、三木城
の兵糧攻めを秀吉に授け、別所長治を降伏させている。この無血開城戦法は、後の備中
高松城の水攻めにも通じている。徳川の時代になって、秀吉が重治(半兵衛)の功績に
報いるため、加増を約束した書状を渡そうとしたが、「このような物は不用です。もし
私の子が自身の不覚悟を忘れ、『父にはここまで殿は懇意にされていたのに、なぜ私に
は。』と恨みに思うようなことがあっては災いとなります。」と述べて破り捨てたとい
う。こうした逸話を残した半兵衛だったが、いつも頼りにしていたのが山田であった。
ある日、黒田孝高(官兵衛)が秀吉が約束した知行の加増をいつまでたっても実行しな
いことに不満を覚え、秀吉の花押が入った書状を持って秀吉の前に現れて不満を述べた
ことがある。そのとき、秀吉の側にいた重治(半兵衛)が書状を手に取り、破って燃や
してしまった。驚く孝高に対して、「こんな文書があるから不満を感じるのだ。それに
貴殿の身のためにもならない」と述べたとされる。こうした事をつぶさに見ていた山田
助左衛門は、この船でメキシコに行った事を考えるに金鉱山師(やまし)の一面もあっ
たのだろう。

1600: 名無しさんAA:18/11/08 11:30
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   592   > 

 貧相な馬を買っては、それに乗馬していた。ある時秀吉が「貴殿の身分でその貧相な
馬はなかろう」と言うと、「名馬を買うと、いざ戦おうとする時にその名馬を他人に盗
まれはしないかと惜しんで馬を下りられずに戦機を逃がすことになりますから、馬は乗
り捨てる覚悟なのでこれがいいのです。」と述べたとされる。そうした負け惜しみとも
取れる気風があったとすれば、この山田助左衛門も養子や婿など取り入れた、名を継が
せた家であったのだろう。山田氏は早くからの渡来系の山田連(やまだのむらじ)で、
河内国に住み着いた山田宿祢(やまだのすくね)が一族の発端とされる。こうして命が
救われた松寿丸は秘かに秀吉か遠避ける為にその後家康庇護の元になった。徳川秀忠(
とくがわひでただ)は、安土桃山時代から江戸時代に移って江戸幕府の第2代征夷大将
軍となったが、彼の人生こそ異常な時代のうねりに飲み込まれたものだった。徳川家康
の三男として遠江国浜松に誕生し、母は側室の西郷局。母の実家・三河西郷氏は土岐氏
一族であり、明智光秀の縁戚であった。室町初期には三河守護代を務めたこともある名
家であり、当時も三河国の有力な国人であった。乳母・大姥局によって養育される。同
母弟に関ヶ原の戦いで活躍した松平忠吉がいる。美人で賢かった西郷局は強度の近眼で
あったとされる。今川義元の傘下で命脈を保っている程度の三河西郷氏は今川氏が織田
信長によって絶命すると、三河西郷氏は自らが守る必要に迫られる。駿河国を武田領と
したい武田氏側は、遠江国を徳川領としても良いと言う同盟を再三再四呼びかけ同盟を
呼びかけた。しかし当時信長の下での領地であり勝手な同盟は出来なかった。しびれを
切らした武田氏は永禄11年(1568年)12月に駿河国今川領への侵攻を開始した(駿河
侵攻)。家康は充分に武田と戦えるほど強くない事を熟知しており三河西郷氏族は秋山
善右衛門尉の下に庇護される事になった。しかし、この武田氏も秀吉時代に疲弊し家康
時代には小さく収まり家系が途絶えた。家康は義元配下だった早い頃ころに最初の正室
築山殿を迎えている。出戻りの養女だったらしくかなりの地元の有力者の娘と思われる
。家康は、彼女との子である長男・信康を自害させている。一応は井伊直平の娘・佐名
で、佐名は一度、今川義元の養妹となって関口親永に嫁いでいた。と通説ではなってい
る。この結婚は、松平家を支配しようとする今川義元の意向を大いに汲んだ政略結婚で
あった。1560年、桶狭間で義元が戦死すると家康は独立し今川家を早々と離反し、今川
氏真から怒りを買って自害を命じられる。

1601: 名無しさんAA:18/11/08 11:34
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   593   > 

 夫の家康が今川を裏切った為、自分の肉親の両親が処断される、自分は自害を勧めら
れ人質状態……辛い状況である。この時に、息子の信康と共に駿府館で人質だったが、
人質交換の申し出によって無事に家康の元に帰った。しかしながら、無事に家康の元ま
でたどり着いた瀬名でしたが、家督を繋いで生きていた徳川家は姑(しゆうとめ)の於
大の方(おだいのかた)が、この侍の嫁でありながら自害しなかった事は恥として、結局
、岡崎城に入ること許されませんでした。しかも、瀬名は岡崎城の外れにある菅生川の
ほとりの惣持尼寺で幽閉生活を送ることになります。この時少し気がふれていたとも言
えるのだろう。この時に瀬名が幽閉された土地の名前が築山で、これ以降築山殿と呼ば
れた。徳川家は、そもそもが今川家に連なる政略結婚に、特に父親は反対だった。京都
と反対に向かうというのもあるし、今川義元の贅沢が気に入らなかった。こうして瀬名
は徳川家からはあまり歓迎されていない存在だったが、家臣団は今川の融和を願って止
まなかった為だった。しかし、時は過ぎ、家康と瀬名の子供の信康が、織田信長の娘・
徳姫と9歳で結婚し岡崎城で暮らすこととなり、この時も瀬名は幽閉状態のままだった
が、家康が遠江浜松城に拠点を移した時に幽閉が解け、1570年以降は信康と再会し、元
服が済んだ信康は正式に岡崎城主となった。1575年には長篠の戦いでも活躍し岡崎城主
としての信康の戦いぶりは、家康も彼の戦上手に感心するほどのものなっていた。しか
しその凄まじい勢いに家臣や伯母は次男、則ち家康の子孫の保険を求めた。当時の信康
と徳姫の間には2人の娘がいたものの、男児が居なかったからだ。この時に男児を生ま
ない徳姫を案じて信康に複数の側室を持たせる事になる。この行動が信康と徳姫の歯車
を狂わせた。心配になった家康、信長が相次いで岡崎を訪れて、ご機嫌伺いをしている
が、夫婦仲も姑とも相当深刻な不仲であった。つまり「元から築山殿と徳姫の仲が悪く
、その上、頼みの信康までもが築山殿に味方していた。」と徳姫を失望させた関係のま
ま側室が献上されていたのだ。この当時徳川家は領地は小さく、大ざっぱで三河・遠江
(とおとうみ)しかない。その殆どを信康に預けようとしていた。家康の不安は尽きず
、世間にも悪評判の状態になってしまっていた。そして戦国時代である。敵側にしれて
あらぬ画策・陰謀の元になった。当時の徳川家には、家康の子が弟・於義丸(結城秀康
)や、生まれたばかりの長松(徳川秀忠)がいたが、大名の習わしで家臣の養子に出して
長男の嫡子だけを自分の家を継がせていたが、信康は傲慢な家康そっくりであり、家康
の命令に従わないことも多々あった。これに不安な家康に更に拍車をかけ、耳打ちする
者もいた。

1602: 名無しさんAA:18/11/08 11:54
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   594   > 

 徳姫は織田信長の長女であった。全幅の信頼を寄せていた家康と信長は、ある意味竹
馬の友であった。その為幼き頃からの約束や、家康の見張り番としてこれも政略結婚の
一部として嫁いでいた。当然徳姫とすれば、家康も信長も幼き頃から知る中で、伯父や
叔父として申し分なかったが、それは重荷以外何物でもなかった。信康が鼓舞し武勇伝
に、母の築山殿は子供の武功を喜んだが、徳姫は妻としてその行き過ぎに不安だった。
その上に、この信康の側室達は、他ならぬ築山のスパイだったのだ。これに困り果てて
酒井忠次を通じて相談し、信長に悩みを通じようとした。だが、既に信康の親の家康や
築山との不仲は決定的なものとして映っていた。この長男の信康は、全く能天気な気性
が激しく男で、日頃より乱暴な振る舞いが多かった。弟とされた於義丸(結城秀康)は
双子で誕生したとの説があるほど比較された。この事は双子でなく、同時期に生まれた
家康の側室の不義の子と言う事だろう。愛人の浮気の子は当然家康は取り上げない。し
かし、その後、家康が正室・築山殿の悋気を恐れたために、秀康を妊娠した於万は重臣
の本多重次のもとに預けられ産まれたという。父・家康とは満3歳になるまで対面を果
たせず、その対面も、あまりの冷遇により異母弟を不憫に思った兄・信康による取りな
しで実現したものであった。とされる。この時既に武田勝頼との戦いで、家康は秀康を
浜松城に引き取る機会も、対面する機会も持てず窮地であった。こんな時冷遇を不憫に
思った嫡男・松平信康が仲介し、ようやく会ったのだ。その後、松平信康が謀反の疑い
を掛けられて、1579年にに切腹となるのは当然だった。本来であれば次男の結城秀康は
(6歳)が家督を継ぐ立場でこの画策もその取り巻きだったかもしれない。しかし、1584
年の小牧・長久手の戦いの後に、徳川家と羽柴秀吉が和睦した条件は、結城秀康は11
歳の実質的な人質として羽柴秀吉の養子となった。こうして徳川家康の跡継ぎは、異母
弟の長松(後の徳川秀忠)とされた。天正7年に武田との内通疑惑で織田信長の命令で
、信康が切腹させられたが、信康は家康と対立しいて、この窮地は和議を徳姫を返した
がいいとの判断だろう。このために切腹させ、これを利用して家康は信長の信任をとっ
た。次男である秀康は、本来ならば徳川氏の後継者となるはずだが、しかしここでも、
秀吉が助け船を出した。(1584年)天正12年の家康と羽柴秀吉が和睦の条件が、家康の
不義の子秀康の養子(人質)差出しだったのか。結局家康は殺すも生かすも無かったが
かつては、秀吉も不義の子で、家康に助けられたのではなかったか。後継者が異母弟の
長松(後の徳川秀忠)となったのは、側室の母親の身分は秀忠の方が上で、信康切腹前
に生まれた秀忠が当初から後継者にしたかった事が秀吉と通じていた。とも考えられる。

1603: 名無しさんAA:18/11/08 12:02
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   595   > 

 これまでにも信康は評判が悪く、盆踊りにおいて、服装の貧相な者や、踊りの下手な
領民を面白半分に弓矢で射殺し、「殺した者は敵の間者だった」と信康は主張していた
。又、鷹狩りの場で一人の僧侶に縄を付けて縊り殺した。理由は狩の際、僧侶に出会う
と獲物が少なくなるという因習を信じ、狩に行く際にたまたま出会った僧に腹を立てた
。などとされ、これに対して信康は後日、お詫びをしている。こうした事から彼の周り
に諜報者や間者が多数見張っていたと考えられる。それらは見つかり次第殺されていた
。これは諜報がやりにくい利点はあろうが、諜報者を雇った上部者や身内から批判があ
るだろう。ちょっと頼まれ調べに行って殺された。となれば表向きも怒れない。秀吉も
信長も、異母兄弟の本多氏、義父である織田氏、敵である武田や今川氏、この徳川家康
や築山殿すらそうした諜報活動をしていた可能性が高くこの切腹はその代償だったのだ
ろう。その後、徳姫は天正8年(1580年)に家康に見送られ岡崎城を出立、安土へ送帰
えされ、2人の娘は家康の元に育つ事になる。近江八幡市に居住し、化粧料田が近江長
命寺に設定された尼寺に住んだ。天正10年(1582年)に起きた本能寺の変において父・
長兄ともに死去すると、次兄の織田信雄に保護されたが、小牧・長久手の戦い後に信雄
と羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の講和に際して人質として京都に居を構えた。ところが、
天正18年(1590年)に信雄が秀吉によって改易された為、生駒氏の尾張国小折に移り住
む事になった。これは「埴原家文書」に残された秀吉の朱印状から秀吉による処置だっ
たことが明らかで、その後すぐにまた京都に居住するなど、徳姫の処遇は秀吉の支配下
で転々とした事が推測できる。家康が心配で不仲に取り合った頃は、信長も又心配して
いたようで、岡崎に来たことも記されている。信長も娘夫婦の仲を心配してやって来た
可能性から、家康には大いなる圧力があったと言えよう。一時的にせよ夫婦仲がこじれ
た事が彼の命を縮めさせた事は事実であるといえよう。いつまでも嫡子が生まれぬのを
心配した姑の築山殿が、信康に元武田氏家臣の浅原昌時の娘や日向時昌の娘など、部屋
子をしていた女性を側室に迎えさせたのが、諜報活動の一環であったのだろう。この頃
から築山殿に徳姫が不審がり、不和になったのだろう。最も史料に忠実な信長の返答は
「家康のよきに計らえ」と、全く信康を殺すようには支持してはいない。しかし、武田
や今川で頭の痛かった家康は、既に嫁を信長に返す事が一番いい方法と考えていたとし
ても不思議ではない。家康はすぐさま忠次を呼び出し詰め寄り談判したが埒が明かずに
返す方法はこいつの切腹しかない。と踏んだのだろう。大殿の命令とあれば逆らうわけ
にもいかず、止む無く信長の返答に信康を切腹させたて答えた形になったのだろう。

1604: 名無しさんAA:18/11/08 15:35
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   596   > 

こうした魑魅魍魎の徳川氏の側室がいた西郷局は、こうして家康の後継者の異母弟ので
ある長松(後の徳川秀忠)を産んだ母親の身分となった。それが時代のうねりとは言え
悔しいの築山殿だったのだろう。側室の西郷局は美人で人から慕われていて、潔癖な壁
があって、その上賢母であったからだ。明智の知者ぶりからも秀でている一族の出身で
、秀忠の方が上であり、信康切腹前に生まれた秀忠を当初から後継者にしたかったと考
えられる。西郷局の実家の三河西郷氏は土岐氏一族で、室町初期には三河守護代を務め
たこともある名家で、当時も三河国の有力な国人でもあった程だ。乳母の大姥局によっ
て養育されたがこの大姥局さえも今川家を支えた岡部の名家の出であった。同母弟に関
ヶ原の戦いで活躍した松平忠吉がいる。とされる。家康と秀吉の講和条件として秀吉の
妹の朝日姫(旭姫)が家康に嫁がせることになった時に、家康は「朝日姫が家康の子を
産んでも嫡子とはしないこと」「長丸を秀吉の人質としないこと」「万一、家康が死去
しても秀吉は徳川領5か国を長丸に安堵して家督を継がせること」を条件にしたと伝え
られている。これは長丸(秀忠)の存在を徳川は如何に大事にしていたかを物語る。天
正18年、小田原征伐に実質的な人質として上洛を各大名に命じた。しかし秀吉は長丸
の上洛を猶予しているのに対して、家康は長丸を上洛させる希望を述べ、更に上洛後も
秀吉に拝謁し、織田信雄の娘で秀吉の養女・小姫(春昌院)と祝言を挙げた直後に帰国
を秀吉の許して、他諸大名の妻子とは別格の待遇をしている。秀吉に拝謁した長丸は、
元服して秀吉の偏諱を受けて秀忠と名乗ったとされ、秀吉から、豊臣姓も与えられてい
る。秀勝は、豊臣秀吉の姉である瑞龍院日秀と三好一路の次男で、秀次の弟、秀保の兄
であった。豊臣秀勝は秀吉の養子となって、九州征伐の頃、豊前岩石城(巌石城)攻め
の大将となり武功をたてた。しかし、戦後の論功行賞の席で、秀勝は丹波亀山28万石で
は知行が不足である。と秀吉に不平を訴えたため、その怒りを買って勘当され、所領を
没収されて、丹波亀山は豊臣秀長に与えられた。しかし後年、、蜂屋頼隆が子がなく断
絶したため、遺領のうち5万石と私財の全てを秀勝が引き継ぎ、秀吉は敦賀城主の座を
大谷吉継の知行を絶対条件として許した。その後 甲斐信濃23万石を与えようとしたが
、ここでも甲斐は僻地で遠すぎると太閤秀吉に嘆願を続けたため、天正19年(1591年)
に美濃岐阜城へと転封となり、甲斐は替わって加藤光泰に与えられた。体が弱かったの
か、朝鮮征伐の折に、細川忠興らを率い、4月下旬に壱岐島から朝鮮国の巨済島に渡っ
たが、半年ほど病の内に死んだ。しかしこの時細川忠興は切支丹ガラシャ夫人だった事
を思えば細川氏は誰かの司令で秀吉身内を殺して行ったとも考えられる。

1605: 名無しさんAA:18/11/08 15:37
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   597   > 

 細川忠興(ほそかわただおき) こと、長岡忠興(ながおかただおき)は、戦国時代から
江戸時代初期にかけての武将である。丹後国宮津城主を経て、豊前小倉藩の初代藩主。
肥後細川家初代藩主となった波乱の時代に平凡を歩いた数少ない大名だ。足利氏の支流
・細川氏の出身であるとされ、正室は明智光秀の娘・玉子(通称細川ガラシャ)を娶り
。室町幕府将軍・足利義昭追放後は長岡氏を称した。その後は羽柴氏も称したが、大坂
の陣後に細川氏へ復した。足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、時の有力者に
仕えて、現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた。また父の幽斎と同じく、教養人であ
り茶人(細川三斎(さんさい))としても有名で、利休七哲の一人に数えられる。茶道
の流派三斎流の開祖であるともされるが、その生き方は起用である。もともと将軍家に
仕えた細川藤孝(幽斎)の長男として京都で生まれたとされ、そのまま家督を継ぎ将軍
についていた。しかし明智氏と支える頃はいち早く信長氏に仕えた。15歳で紀州征伐に
加わり初陣を飾ると、その後信長から離反した松永久秀の城を僚友・明智光秀と共に落
とし信長直筆の感状を受けている。元服し、織田信忠より、忠興と名を貰い信長の仲介
を受けて、光秀の三女・玉子(ガラシャ)と勝竜寺城で結婚した。天正9年(1581年)
の京都御馬揃えに、若年ながら参加し、この際に信長が着た「蜀紅の錦の小袖」は、こ
の忠興が京で探し求めて信長に献上したものだという。天正10年(1582年)岳父の明智
光秀が本能寺の変を起こし、藤孝・忠興父子を誘ったが細川父子はこれを拒否した上、
妻玉子を娘だからと丹後国の味土野(現在の京丹後市弥栄町須川付近)に幽閉したのだ
。細川父子の協力を断られた事は、光秀の滅亡を決定的にした。光秀は天下人の座を細
川氏に預けていいほど頼りにしていたといわれるが、にべもなく即断拒否で秀吉や家康
すらも疑う事はなかった。その後の論功で秀吉から羽柴姓や豊臣姓を数々貰っている。
秀次事件では、秀吉の甥・豊臣秀次に借金があったため細川は嫌疑をかけられた。主君
・忠興が秀吉から関白・豊臣秀次の謀反連座の疑いを受け、家臣松井康之は秀次からの
借銀の返済や秀次縁者に嫁していた忠興の娘・御長(おちょう)差出要求に対して奔走
し、金を用意し事なきを得た。これに感謝して忠興は、娘・こほ(11歳)を康之の次男
・新太郎(後の興長)の妻とした。この松井康之が奔走し、金子(きんす)を用立てて
秀吉に返納したが、この時に金子用立てに力をかしたのが徳川家康であったという。つ
まり早くから細川氏は徳川の諜報間者だったのである。又この奔走した松井康之(まつ
いやすゆき)は室町将軍の水軍大将の子であった。

1606: 名無しさんAA:18/11/08 15:37
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   598   > 

 つまり、足利将軍の子ガラシャ夫人は既に松井康之を通じて外交貿易の餌である布教
の下で改宗してキリスタンになっていた事になる。これは大きな事だっだ。細川ガラシ
ャは永禄6年(1563年)〜慶長5年7月17日(1600年8月25日)に生きた 戦国時代から安
土桃山時代にかけての女性だ。明智光秀の三女で細川忠興の正室として有名だが信長に
まだ謁見する前にキリスタンになっている事になる。越前国で生まれ、天正6年(1578
年)15歳の時に父の主君・織田信長のすすめによって細川藤孝の嫡男・忠興に嫁いだ
それまでは出家した舅・藤孝とともに<禅宗>を信仰していた珠だったが、忠興が高山
右近から聞いた「カトリック」の話をすると、その教えに心を魅かれていったという。
天正15年(1587年)、夫の忠興が九州征伐に出ると利用して、侍女数人に囲まれて身
を隠しつつ教会に行った。とされる。しかし、そのちょっと後では打ち壊しと禁教令が
出ているので、この話は果たして本当だろうか。それに明智氏が信長を撃つ本能寺の変
では、既に伴天連許可を足利氏が認め、この認めた事にそういう資格はないと足利氏を
京都から追い出している。足利氏としてはキリスト教徒でも石山本願寺の信徒でも助け
を借りられれば誰でも良かったのだろうが。ところで舅「細川藤孝」は、いかなる人物
か。なぜ光秀に味方せず「出家」したのか――。「初め室町幕府13代将軍「足利義輝
」に仕え、その死後、15代将軍「足利義昭」擁立に尽力した。義輝の弟「一乗院覚慶
」は還俗し「足利義昭」になるも興福寺に幽閉される。兄・三淵藤英と協力してこれを
救出、近江国の六角義賢、若狭国の武田義統、越前国の朝倉義景らを頼って義昭の将軍
任官に奔走した。当時は貧窮で灯籠の油にさえ事欠くほど。その後に明智光秀を通じて
、尾張国の織田信長に助力を求め、永禄11年(1568年)、信長が義昭を奉じて入京し、
藤孝もこれに従い入京したという。後に織田信長に従い、長岡藤孝を名乗り丹後宮津11
万石の大名となった。本能寺の変後、主君・信長の死に殉じて剃髪、家督を忠興に譲る
。となっている。この三淵氏は、三淵藤英が弾正左衛門と名乗っている。 顕家、藤之
、宗光と続き。大和守三淵晴員の嫡男とされる。三淵晴員はもともと細川氏の出身で和
泉上守護の元有の子。母方の縁で三淵晴貞の養子となったという。実はこの三淵(みつ
ぶち)氏族はかなりの謎おおき一族である。彼らが掲げた九曜紋は、繁栄や収穫、健康
に大きな影響を与えるとされた。東アジアでは宿曜道や陰陽道などの星による占いで使
う。九曜のうち七曜は実在する天体で、残りの2つも古代インドでは実在すると考えら
れた天体である。

1607: 名無しさんAA:18/11/08 15:38
しかし同じ宿星紋でありながら、太極旗の陰陽道の九星は名前は似ているが、実在に拠
らない抽象概念で、大きく意味は異なる。『見聞諸家紋』では、千葉氏、荒尾氏、宿久
氏、溝杭氏が載る。他に青山氏、戸田氏、三宅氏、佐久間氏、伊達氏、相馬氏、細川氏
、保科氏などが載る。従者松井氏は松井松平家の一族で徳川家康の松平家の本流である
。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは忠興と共に徳川方に与した。これに先立ち、
家康に謀反の疑いをかけられ窮地に陥った忠興を救うため、松井康之は久美浜特産の「
コノシロの麹漬け」(このしろ寿し)を家康に献上させ難を逃れたとされ、その礼状と
思われる文書が如意寺(京丹後市)に保存されている。関が原の戦いでは、康之は忠興の
飛び領であった豊後杵築城に城代・有吉立行と共におり、丹後へ戻るよう忠興より命を
受けるも既に戻れる状況下になかったため、杵築に留まった。そして 攻めてきた大友
吉統の攻撃を防ぎきり、救援に来た黒田如水と合流、石垣原の戦いで勝利した。この功
績により戦後、忠興より2万6,000石の知行と、速見郡の御領所1万7,000石を預けられた
。慶長17年に死去嫡男の長男・興之は朝鮮出兵において戦死していたため、家督は次
男の興長が継いだ。優れた茶人でもあったといわれている。子孫は代々徳川家直参の身
分を持ち、熊本藩の2万8,000石の筆頭家老(別格家老家)であり、さらに代々肥後八代
城主に封じられ一国一城制の例外であった。舅「細川藤孝」は、いかなる人物か。なぜ
光秀に味方せず「出家」したのか――。又不思議なのは。石田三成の家紋も「九曜紋」
なのである。これは当然三成、と言うより石田家はこの九曜紋を家紋としていたからだ
。この九曜紋の意味ですが、月曜、火曜、水曜、木曜、金曜、土曜、日曜、計都、羅と
いう9つの星を指しており、もともとはインドの天文学や占星術で扱われていたものが
中国、そして日本へと伝わり、平安時代以降から貴族、そして武士の間で信仰の対象と
して用いられてきたという。この9つの星が家紋になったのが「九曜紋」であり、伊達
政宗や細川忠興、高山右近など数多の武将の間で用いられ石田家もその中の1家だった
。石田三成の裏家紋には「下がり藤」がある。成が用いていたもう1つの家紋として、
この「下がり藤」が挙げられている。三成とこの「下がり藤」の関係については、江戸
時代に書かれた関ヶ原の戦いの屏風に描かれ、実際に家紋として使われたのかは定かで
ない。この下がり藤という家紋は鷹尾松藤家の家紋である。最後の「藤」という文字に
注目される様に、藤原氏の「藤」を意味しており、藤原氏を待って護衛した者であり、
血縁関係にある者、そして藤原氏に加勢したもの。と伝えられています。石田三成のご
先祖が、藤原氏にあやかってこの家紋を貰った事があったのかもしれません。また三成
は一時期「藤原三成」と名乗っていたため、その影響で使用した時期があったとも考え
られる。

1608: 名無しさんAA:18/11/08 15:38
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   600   > 
 朝鮮出兵で秀忠が中納言になる事で、江戸中納言と呼ばれたのは文禄4年(1595年)
に、この秀勝が死んで、秀吉は養女・江を引き取り、中納言を条件に秀忠と再婚させた
。この年の7月には秀次事件があり、江の姉である淀殿所生のお拾が秀吉後継者と確定
したばかりの時点での婚姻であった。秀吉から、羽柴の名字を与えられるほど気に入ら
れた。天正19年(1591年)頃の秀吉から家康に充てられた書状では秀忠を「侍従」と称
しており近習として仕えていたようだ。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東海
道を進む家康本隊に対して、中山道を進む別働隊を率いる役割を与えられた。進軍途中
、信濃国上田城攻めを行なっていたが、天候不順による進発命令の遅れと、行軍の遅れ
から、9月15日(新暦10月21日)の関ヶ原本戦に間に合わなかった。9月20日に、大津に
到着した秀忠は戦勝祝いと合戦遅参の弁明をすべく家康に面会を求めたが家康は怒って
「気分が優れない」として面会しなかった。3日後になって怒りが静まりやっと面会し
たと言われている。この時に子守役をしていたのが黒田だった関ヶ原の戦い(せきがは
らのたたかい)は、実は重要な戦いが大きく7つもあった。その中で美濃国不破郡関ヶ
原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦はその一つに過ぎなかった。
関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合
戦とも呼ばれる。しかしこの合戦には我々の知らない事が各地で起こっていたといえる
。慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、たった2日で大勢が築かれかに見えるが
そうではない。河内国・和泉国における橋本氏は橘姓と称した楠木氏の一党で、橋本八
郎正員の名が『太平記』巻十六に確認できる。という。和泉国日根郡橋本郷を発祥とす
る。南北朝時代に惣領家の楠木正成に従った一族である。正成の死後は南朝方として、
活躍し、正員をはじめとする多くの一族が戦死した。その中でも九州に移って筑後にも
在住した。橋本関雪はその子孫にあたると言う。そも豊臣家は五大老の筆頭関東の「徳
川家康」なしには成り立たなかった。北陸の盟友「前田利家」中国の覇者「毛利輝元」
秀吉の門番「宇喜多秀家」上杉家の後継者「上杉景勝」の彼らが大きな藩域を持ってい
た。対してそれを操っていたのが「豊臣五奉行」で、筆頭が「石田三成」で「増田長盛
」「浅野長政」「前田玄以」「長束正家」が政務を取り仕切る官僚であった。これまで
各地の大名は家臣として「婚姻(結婚)」「知行(領地)」などは、全て五奉行に相談
する習わしを決めていた。しかし秀吉の死と共に家康は独断で行う。加えて朝鮮征伐で
は大きな諸大名が逃げ加藤清正などは囲まれて居乍ら奮戦し命からがら帰りついても、
恩賞がなく悪口を叩かれていた。こうした事で反三成派を徳川が味方にしていっていた
。これまで仲裁を行っていた重鎮の「前田利家」が死去して徳川が動いた。

1609: 名無しさんAA:18/11/08 15:41
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   601   > 

 領地の知行が思わしくない武将や戦さ武将達は、天下取りは目指さないまでも地域の
覇者として良地が欲しかった。特に武断派Tされた「福島正則」「加藤清正」「黒田長
政」「藤堂高虎」「細川忠興」「加藤嘉明」「浅野幸長」という名の、戦国の名立たる
名将や「池田輝政」「蜂須賀家政」「脇坂安治」などは昔を懐かしむ兵者(つわもの)
でしかなかった。つまり戦場で死ぬことを望んだ武将だったのだ。家康は勝手な婚儀斡
旋や領地交換などを批判されると、黒田長政をけしかけ、加藤清正らの「石田三成暗殺
未遂事件」を発生させる事に成功した。察知した石田三成は、家康の子の「結城秀康」
に駆け込んだが、これが家康に火をつけた。仲裁を頼みで石田奉行の信用は失墜し、尚
かつ仲裁には家康しかいなく、政権政務に食い込んだ。そして、政務干渉に反対してい
た前田利家が死んだ以降、前田家を継いでいた「前田利長」と豊臣五奉行の1人「浅野
長政」が結託し、「徳川家康暗殺計画」を計っていた。と言うでっちあげを公表した。
こうして一角がもろくも崩れさった。結城秀康は先に言った様に家康のいう事を聞かな
い言わば目の上のコブであり、家康の泣き所となっていた。浅野長政はこの発表で失脚
した為いち早く前田家が服従する姿勢を見せたため、沈静化した。こうして最も力を持
つに至り「徳川家康」は、各地の大名家に年賀の挨拶を求めて色分けした。新年の挨拶
の求めに断った武将に「上杉家」がいた。又上杉は挨拶を伝える使者の家臣を謀反の疑
いで処罰しようとした程だった。こうして家臣は上杉家を出奔し、家康に「上杉景勝に
謀反の気配があり。」と言わせた。これに対して、「くだらない噂で謀反を疑うなど、
子供の論、釈明の必要もない。軍備を進めるのは東北大名に対する備え。そちらは京都
で茶器の収集の趣きが似合いだろうが、当方は田舎者ゆえ武具を整えるのが武士だと思
っている。大体自分が勝手に婚姻の斡旋などをして、人に違約違反を言うのはおかしい
。前田家をお仕置きしたらしいが、大層なご威光だ。あらぬ噂を真に受けて汚名を着せ
ようというのなら、兵を率いて出迎えてやるから、いつでもかかってこい。」と直江状
を叩きつけた。これがすでに天下を掌握しつつあった徳川家に対し、堂々と挑戦状を叩
き付けた上杉家の威信だった。徳川家康は「上杉家の謀反の疑いはもはや確実、討伐の
ために出陣する。」と、大軍を率いて大阪城を出発する。これらは双方ともに解ってい
た事だった。

1610: 名無しさんAA:18/11/08 15:42

世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   602   > 
 こうした事ですかさず石田三成は行動を開始した、友人の「大谷吉継」を館に招いて
三成はここで「家康打倒」のこころざしを語った。相談の上、豊臣五奉行の「増田長盛
」や、豊臣家の重臣で友人の「小西行長」、豊臣五大老の大名家「毛利家」の外交僧「
安国寺恵瓊」などを集め徳川軍を打倒する計画を立案する。ここで「内府ちかひの条々
」の激文が飛び交う。(「内府」とは徳川家康の事で、「ちかひ」とは「違い」、つま
り間違っているという意味)その内容は、家康が勝手に婚姻や知行(領地)の斡旋を行
ったり、無実の前田家や上杉家を攻撃しようとしたり、他にも勝手に手紙をやり取りし
たとか、城の一部を無断で改修したとか、大なり小なり様々な家康の罪状を並べたてて
、討伐を訴えた文章(檄文)である。こうして、「毛利輝元(毛利元就の孫)」を総大
将として軍勢を準備し、西側の大名家が徳川軍に参加できないよう関所を封鎖、さらに
大阪城にいる東軍の武将の家族を人質に取って、必勝体制を整え、翌日には京都徳川軍
の駐留部隊がいる京都の城「伏見城」を総攻撃した。徳川家康は京都での戦いの報告を
受けて「小山」と言う場所で「評定(会議)」を開いた。これは「小山評定」と呼ばれ
る、有名な会議とされる。ここで家康は武将達に「人質を取られて困っている者もいる
だろう。 ここで大阪(西軍側)に帰っても構わない。 道中の安全は保証する」と発言
したとされるが、これは後世の作り話で出来過ぎである。恐らく、福島正則や黒田長政
などが「卑怯にも我らが人質を取って内府様の城を焼き討ちした。この上は武士の恥辱
にかけて恥じることなく、石田三成をさらし首にしなければ悪ははびこるばかりだ。」
などと激を飛ばした演説をしたに違いない。この石田三成の挙兵を受け、その軍勢と戦
うことを決意した徳川軍だが、もと上杉家を攻撃のために出発した軍勢ですから、上杉
家をそのまま放置する事は、西軍との戦闘中に背後を襲われる危険があります。取り合
えず関ヶ原 東北の情勢を掴むためここから徳川家康は、関東を中心とする各地の大名
家に協力を要請、関ヶ原のための足場固めを始めた。ここまでは恐らく双方の予定通り
で、わざと東北方向の進軍だったのだろう。上杉家は進軍してくるはずだった徳川軍を
待ち構えていたが、徳川軍は秘密兵器を繰り出した。最上家と伊達家の両家への上杉家
攻撃依頼である。察知した上杉は、直江兼続や前田慶次など派遣し最上家を先制攻撃し
。最上家は追い詰められるがしかし、伊達政宗は最上家の救援し、そのまま戦いは激化
、一進一退の攻防となった。恐らく、伊達のこうした軍備に対応した上杉の軍備だった
のだろう。上杉そのものは領地替えにあって大きさこそ大きいもののかつてはもっと巨
大な藩主で、伊達の進軍の押さえに家康が提案した配置であったのだ。

1611: 名無しさんAA:18/11/08 15:42
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   603   > 

 しかし時がたてば、大阪にも続々と九州大名や四国の諸将が集まって来た。また戦国
の名将「真田昌幸(真田幸村の父)」は、当初は徳川軍に参加していましたが、小山評
定の際に徳川軍から離脱している。これが後になって、徳川軍の行動に響くこととなっ
た。徳川家康も負けじとしばらく各地の武将や大名に協力要請の手紙を書き続けていた
が、1ヶ月ほど経ってついに出陣に乗り出した。東軍の先鋒として「福島正則」の部隊
が進軍を開始し、海沿いの東海道を通り、江戸から三河や尾張(愛知県方面)に一気に
進んで、その周囲を押さえていく。その後を、本隊の軍勢を2つに分け、1つは自分が
率いて東海道から西に向かった。更にもう一方の軍勢を徳川家康の三男、徳川家の後継
者でもあった「徳川秀忠」が率い、「中仙道」という山間部のルートを通って西に進軍
させた。その為「徳川秀忠」の部隊は、結果的に「関ヶ原の戦い」には間に合いません
。なぜなら途中に、徳川軍を離脱し西軍に付いた 真田昌幸・真田幸村 が守る「上田城
」があったからだ。この上田城には 2000人の兵がいましたが、徳川秀忠の軍勢は 3万
8千、圧倒的な差です。一時通り過ぎて関が原に向かう案も出たが、後ろから戦われて
も困る事で、城には降伏しろとの使者をだしたままで時をすごしていた。秀忠軍は楽勝
で城を落とせそうな話で黒田氏は進言し、落城させる事に決定する。しかし名将「真田
昌幸」の防戦の前に大苦戦を強いられたのである。これが戦場に到着しなかったのは、
徳川家康としては大誤算の少人数となった原因となった。しかし、元々西軍より東軍の
方が協力者が多かったこともあり、尾張(名古屋)・美濃(岐阜)と西軍に味方した武
将の城は次々と陥落していきほぼ人数は互角となっていた。ここで西軍の大誤算が露見
する。毛利家も宇喜多家も大大名ではあって当主をした武将だったが、多くが「二代目
」であり戦争を知らなかった、戦国時代を生き抜いた経験豊かな武将がいなかったため
に全く力にならなかった。その上その戦国を勝ち抜いていた小国の兵をうるさいとばか
りに先行して大津城攻めに行かせていたのである。石田三成は徳川軍の京都・大阪への
進軍を止めるべく、関ヶ原の近くの「大垣城」に入った。東軍もこの大垣城に進軍して
いき、舞台は決戦の地「関ヶ原」へと移る。戦場に到着した東軍(徳川側)は、まずは
大垣城の近くに布陣します。1600年、9月14日 のことだ。東軍と西軍はにらみ合いが続
き、そのまま夜になる。その夜は雨で見通しが悪かったため、西軍に参加していた島津
軍や島左近などの西軍の武将たちは「士気も上がっており、見通しも悪いので、城を出
て夜襲で勝負をかけましょう」と石田三成に進言したが、三成に却下された。歴戦の将
の意見を聞かなかったのだ。

1612: 名無しさんAA:18/11/08 15:42
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   604   > 

 関ヶ原という場所は四方を山に囲まれたくぼ地であり、その中に入った東軍を、山の
上に布陣した西軍が完全に包囲している形です。これは誰がどう見ても「西軍有利」で
あった。実際、後世にこの布陣図を見たドイツ軍の将校も、見た瞬間に「西軍必勝」と
叫んだそうです。ですが、戦いはその通りにはなりません。戦いは夜明けと共に始まり
、まずは、先鋒を任された東軍の「福島正則」と、西軍で最も大軍を率いていた豊臣五
大老の1人「宇喜多秀家」の軍勢が戦闘に入ります。福島正則の部隊には、槍の名手「
可児才蔵」などもいて、強力な部隊と思われていたのですが、宇喜多軍にも「明石全登
」という勇将がいました。「キリシタン武将」として知られていて、後の「大阪の陣」
では十字架とキリスト像を掲げた日本版「十字軍」を率いて戦ったという、ちょっと変
わった人です。東軍の主力の1つである福島正則の部隊は、明石全登を擁し、兵力も多
い宇喜多軍に苦戦、一進一退の状況が続きます。その後、石田三成の本隊に、東軍の「
黒田長政」「細川忠興」「加藤嘉明」などの部隊が攻撃を開始します。この人たちは、
石田三成憎しの「暗殺未遂事件」の実行者であり、石田三成に恨みを持っていた人達で
、そのため西軍本隊の正面に配置されていた。石田三成の本陣の前にも「島左近」が立
ち塞がっていた。しかし島左近は、開戦早々に黒田長政の隠し兵の鉄砲隊の銃撃をまと
もに受けて重傷し本陣に担ぎ込まれてしまう。石田三成にとって、最も頼りにしていた
武将の1人である島左近が、開戦直後に戦闘不能になってしまったのは大誤算であった
。ここに不慣れな戦国武将の罪があった。1600年9月15日 の昼、開戦から約半日。様々
な出来事があった日本最大の合戦「関ヶ原の戦い」は、約6時間ほどで決着となった。
じつは、徳川軍が江戸城から行く前に戦いが既に行われていた。「福島正則」の部隊に
対応し進軍の開始と同時に、海沿いの東海道を通り、安濃津城攻防戦や杭瀬川の戦いな
どが起こっていたのだ。特に大津城の戦いは、慶長5年(1600年10月13日)から(10月
21日)まで行われ、近江国大津城を巡って行われた、関ヶ原の戦いの前哨戦と位置付け
られている。徳川家康と石田三成らの対立は、慶長5年の会津征伐を契機として三成は
家康が会津攻めに赴いたことを好機として捉え、大谷吉継や諸大名を糾合して挙兵した
。近江大津城の城主・京極高次は大谷吉継と仲が良く共に西軍についていた。ところが
吉継が北陸から美濃へと、進軍する最中に突如東軍に寝返り、手勢三千名を率いて自城
の大津城に籠城し、防備を固め始めた。大津城は城自体が琵琶湖に面した舟運基地で、
城下には東海道・中山道・西近江路が束ねられる場所だった。

1613: 名無しさんAA:18/11/08 15:43
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   605   > 

 淀殿は西軍支配の大坂城内において中立の立場であったが、妹の「初」が高次の正室
として大津城中にあった。海津殿を使者として遣わして停戦・降伏を求めたが大津側は
その要求を拒否した。そのため西軍側は毛利元康を大将とし、それに立花宗茂、小早川
秀包、筑紫広門ら九州方面の諸大名の軍勢を中心とした総勢1万5千人の軍勢をもって
、慶長5年9月7日より大津城に対して包囲攻撃を開始したが、京極高次は充分に用意し
ていて城攻めは捗らなかった。中でも赤尾伊豆守・山田大炊は兵五百を率いて城外へ討
って出て、戦っては城に引くという戦法と街を野焼きし隠れる場所もないと言う有様で
火と鉄砲隊で攻めあぐねた。立花氏は船で大砲を寄せ13日には大砲を城内に撃ち込んだ
。砲弾は天守にも命中、城内は混乱した。高次も防戦するが、ここに立花勢の先鋒大将
・立花吉右衛門が一隊を率いて城壁に取り付いた。高次をはじめとする京極勢は、木食
応其の仲介により 9月15日に降伏して、大津城を開城し高次は一命を助けられ、高野山
に上って出家することとなったが、そこに関ケ原の負けの一報が届いた。大津城攻防戦
は西軍の勝利に終わったが、大津城が開城した 9月15日は関ヶ原の戦いのまさに当日で
あった。そのため西軍は、本来ならば関ヶ原にあったはずの1万五千人の兵力を欠いた
まま東軍と戦う、という状況に陥った。立花宗茂は大津城を開城させた後、そこで西軍
の壊滅を知って大坂城への退却を余儀なくされ軍勢を率いて草津まで進出し船で帰着し
たが、戦後に改易された。一方、敗軍の将である京極高次に対して徳川家康は、関ヶ原
戦後に高次の弟・京極高知が関ヶ原で東軍の将として功を挙げたとして高野山に派遣し
、大名としての復帰を許し、若狭一国・八万五千石を与えて功に報いた。その翌年には
近江国高島郡から7100石が加増され、あわせて9万二千百石となった。家康は高次が、
宗茂らを大津城に引き付け、関ヶ原へ向かわせなかったことを大いに称賛した。既に城
下には町屋一つない。城下は焼け野原となっている。近江国琵琶湖畔の大津城。東海道
の要衝で、重要視されている城だ。町並みを焼き払い、苅田を実施、瀬田から三井寺の
辺りまで、刈取った。町民たちは、大いに高次を非難した。高次は本丸にいる。共に籠
城する兵は3千人ほどであった。西軍は、毛利元康、立花宗茂などの1万5千人で長等
山に本陣を構え、大津城を湖上も含めてぐるりと包囲していた。開戦当初は、数に任せ
て押していただけに「大筒を手配しました。」と立花氏に報告がはいり本陣に隣接して
大筒を据えつけて、砲撃を開始した。


1614: 名無しさんAA:18/11/08 15:43
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   606   > 

 末次 元康(すえつぐ もとやす)は、安土桃山時代の武将で毛利氏の家臣であった。
毛利元就の八男で末の子で末次氏に出されていた。元就に出雲国末次庄(所領2400貫)
の末次城を与えられたことから名字を末次と称した。居城の末次城は亀田山にあったと
され、現在その地には松江城が建っている。出雲源氏の流れをくむ末次氏の始祖は富田
氏から分流した末次胤清(鎌倉時代前期)であり、建長の頃より出雲国法吉郷の一部が
末次を領して末次氏を称したものとされる。その子、清政・清鎮の兄弟は弘安4年に起
こった蒙古襲来の弘安の役(1281年)で、海辺警護のため九州に出陣し、清鎮の孫佐隆
は、元弘3年(1333年)隠岐に配流されていた後醍醐天皇の帰京に尽力した。一方清鎮
の子隆宗は足利尊氏の下で北朝方に戦功があった。文明10年頃尼子経久が出雲守護代と
なり、この頃末次城は尼子氏の手に渡り、その後、尼子氏と毛利氏との数々の戦の中、
末次城主は次々に変遷することになる。山城の戦いにおいて、尼子経久に従って、毛利
元就と戦うも、毛利元就が攻める石見銀山攻防戦に負けた。その子、定隆は毛利氏に滅
ぼされ尼子氏復興を目指すもかなわなかった。毛利氏が末次城を略奪し、毛利元就の八
男元康が末次元康を名乗ったが、その子孫は厚狭毛利家として毛利姓に戻った。毛利元
康は兄・吉川元春に従い因幡国宮石城を攻め初陣の功名をあげた。天正13年(1585年)
、毛利氏が四国攻めに参加し、南条直秀に伯耆国河原山城を奪われたが、同城を奪還し
戦功を讃えられた。同年、急死した同母兄の毛利元秋の家督を相続して、出雲月山富田
城主となっていた。天正19年(1591年)に豊臣秀吉が吉川氏当主の吉川経言(広家)に
月山富田城への移封を命じたため、元康は備後国の神辺城へと移され毛利に名を戻した
。文禄元年(1592年)から始まる文禄・慶長の役にも主君・毛利輝元の名代として朝鮮
に出陣して、碧蹄館の戦いでは明軍に攻め込み敵兵1000人余りを打ち取って勝利の発端
を作るなど大きな戦功を立てて、豊臣秀吉から感状を送られた。文禄4年(1595年)に
は従五位下に任じられ、豊臣姓を与えられている。しかし、文禄の役後には慶長3年(
1598年)に瀬戸内海に接する小さな半島上に王子山城を築城し、居城を神辺から移した
。嫡男・毛利元宣はこの城で生まれていた。この朝鮮征伐での碧蹄館の戦い以来、立花
氏の勇猛果敢な正義感に、心の友となっていた。先に引き上げた日本軍の為、加藤清正
は明軍に取り囲まれていたのを知って立花宗茂軍は一軍で救出に向かい戦おうとしたの
だ。この時の大将も末次元康であったからだ。これには末次氏も感動していた。

1615: 名無しさんAA:18/11/08 15:44
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   607   > 
定隆の子佐房は天正18年(1590年)、孫の勝重は寛永15年(1638年)に没す。どのよう
に生きたかは不明だが、この頃までは「末次姓」を名乗ることが出来たらしい。その後
、一族は姓を奪われ、野浪(松江市内)に定住し、「野浪姓」を名乗った。そこは日本
海沿岸の地であり、海洋貿易ya海賊のような生活をし、一族は富を蓄えていった。数
世代後、一族は出雲国の隣、伯耆国に移り住み、末次姓を再び名乗り、大地主として定
住した。現在は、本家は関東に移り分家のみが米子に残っているとされる。では毛利氏
以前にいた末次氏族は何処へいったのか。戦国時代に、陶興房は大内義興・大内義隆の
補佐を務めている。出雲国を中心に活動した尼子氏の尼子経久・尼子詮久(後の晴久)
との戦い、筑前国・筑後国での少弐氏との戦いでも多大な功績を挙げて、陶氏の大内氏
における地位を確実なものとした武将だ。この陶氏こそその末次氏の分流だった。陶氏
の本流はもっと古く、福岡の須恵に住み着いた人達とされている。まだ太宰府天満宮に
菅原道真が祀られてはいない時代の話である。須恵町の最古の遺跡は今から約1万2千
年前にさかのぼりかなり古い時代から住み着いた町である事が解る。町北西部の乙植木
山城戸遺跡からは、石器類が出土しています。縄文時代・弥生時代にも遺跡が営まれ、
古墳時代になると遺跡は急増し、若杉山麓には古墳が作られ、乙植木の牛ヶ熊遺跡から
は滑石の原石や未製品が出土していて、玉製品の工房跡であることがわかっている。こ
の若杉山から西に伸びる尾根の頂に高鳥居城が築かれていた。永仁元年(1293年)
に築城されたと伝えられている。室町時代には大内氏の筑前守護代・杉氏の居城となり
、大内氏が陶氏の反乱があった際、城は落城し、守母神社の伝説が成立した。とされて
いる。その後、天正十四年(1586年)、島津氏の北上の際に城に立てこもった星野
兄弟を立花統虎(後の柳川藩主・立花宗茂)が攻め落とし、その後は城として用いられ
ることはありませんでした。高鳥居城主杉弾正忠(豊後守興運)の幼児の乳母、慈照天
眼禅尼、守母大菩薩を祀る。は由緒正しい武門の出身にして、長じて杉氏家臣に嫁つぎ
、一男児をもうけて佐谷に住した。文武両道に秀いで、良妻賢母の名声城下に高く城主
に召出されてその幼児の乳母となり館に上る。幼君の養育に専念して僅か六ヶ月後の、
天文二十年(一五五一)九月初旬、戦いのため、高鳥居城は落城し、幼君を植木村の霊
樹山道林禅寺に託すべく、夜陰に乗じて落延びる途中、この谷間祠の奥の大岩の陰に隠
れて休息して処、抱かれ熟睡していた幼君が突然発した泣き声で岩陰に潜んでいた処で
見つかり捉えられてしまい、首をはねられた。この際、「自分が殺されても世の中の泣
く子の味方となり守り続ける。」と誓ったことにちなみ子守の神が祀られ、高鳥居城落
城の際の悲話を伝えている。

1616: 名無しさんAA:18/11/08 15:44
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   608   > 

 「島津義弘」の島津軍は、関ヶ原から脱出して本国・薩摩(鹿児島)に戻りますが、
九州では東軍の味方を宣言した豊臣秀吉の元軍師「黒田如水(黒田官兵衛)」が西軍に
付いた「立花宗茂」などと合戦を繰り広げていて、島津軍も加わって一触即発の状態と
なった。というのも島津が徳川と対峙して戦って居た時、その傍にいたのは大蔵流高橋
氏を継いだ高橋統増は立花氏の実弟であった、そこへ大砲を送り届けて来た従兄弟の橋
本立花家と三池立花氏が帰ってきた。当初徳川氏は増援かと見ていたが、後ろ脇から切
り付けつけて来るので一時どよめきが起こった。そこのすぐ側に島津は活路を見て前進
を叫んで徳川本陣の裏手に来た数十人の立花氏と合流しそのまま退路として大阪にかけ
抜けて行った。大阪に入るとそのまま隠れ、夜陰の中で知り合いの博多商人末次船を、
用意して乗り込んだ。そのまま淡路に渡ると他の船を用意させ末次船は4艘を関東に向
けて走らせた。立花氏の本体は、当初の計画通りそのまま街道を行き、草津に入ろうか
というほどだった。しかしほどなく追いかけて来た軍が関ヶ原の戦いが終わった。と、
徳川家康からの停戦命令が届いたと早馬が何回かやって来た。この時実は黒船も動いて
いた。戦いこそなかったがこの九州のキリシタン大名たちを淡路で載せたのは黒船であ
った。また「合戦は中止」との御触れを同じ様に伝えるふりを探したのが末次船の高橋
立花家であった。酒見城主小野鎮幸と共に、湯布院の領主由布惟信や剣豪渡辺氏居合い
の達人問注所氏など大勢の中で、追ってきた岡崎兵はとても近寄れなかった。鎌倉を前
にして陣立てしていた立花氏に、5っ日後になってここに秘かに末次船を回したとする
商人がきた。そこで浜名まで戻って4艘に乗り込むが、全てが乗れるはずもなかった。
そこで比較的知られて居なかった富安家がこの地に残る事を決めた。およそ3百人ほど
だったが、それで福岡長崎周りで、筑後に行く事にした。この時周防灘で待ち受けてい
た黒田如水は亀甲船を待機させていた。しかし、黒船の大砲には敵ではなく一発で沈ん
だ、これを見た伊予水軍は道を明けた。立花氏が通過してると知るや、黒田如水はすぐ
さま肥前と肥後に早馬を走らせ柳川領地を奪うよう指示していた。もともと「関ヶ原の
裏で天下を狙っていた第三の男」とも言われていた食えない男だった。関ヶ原が1日で
終わったのは、彼にとっても想定外で九州を盗るつもりでいたのである。立花氏は南北
朝時代に筑前国糟屋郡立花城に拠り立花を称したことより始まる。しかし立花鑑載の時
大友義鎮(宗麟)に背き、大友氏支流の戸次鑑連(立花道雪)により攻められ鑑載の子
・立花親善の代で断絶した家だった。しかしかねてから縁戚であった大友氏は戸次鑑連
に立花道雪と名乗る事を強く望んだ。それは明朝貿易の列席にいたからだ。

1617: 名無しさんAA:18/11/08 15:45
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   609   > 

 立花宗茂の実弟大蔵流高橋氏を継いだ高橋統増は、大友義統改易後に直次と改名し、
豊臣政権下で1万8,000石を領していたが、関ヶ原の戦いで兄と共に西軍側について帰途
につき酒見城に帰って来た時、佐賀から鍋島氏が城島方面から成富茂安の兵と共に江上
氏を囲っていた。直ぐに増援に行きそのまま城島兵と闘い。久留米からの遠征軍が水田
に来たとの報を受けて三池軍を八女に走らせた。既に三池藩は籠城に及び矢部川沿いに
肥後藩の加藤清正の軍が陣取って柳川に向けて座っていた。黒田が久留米から来るが、
三潴から城島八女などにずらりと並び黒田軍をけん制しながら立花氏の柳川を囲ってい
た。この為水田の城は直ぐに取り戻せたが、そうした中で船で立花宗茂は柳川城に入っ
た。それを待ったかの様に荒尾からの使者は、江の浦城から出て柳川に入った。と同時
に榎木津城からの使者が来た。「江上氏が今城島の野上先で鍋島軍と奮戦中で、蓮池の
連中の様だ。」と。そして城内には、西郷・諫早という二人が待っていた。「おうおう
早津江沖ではまことに、有難い。貴殿に世話になった礼を言うぞ。」と謝意を示した。
「はは、有難き幸せ、いまでも早瀬(竹崎内の竹崎氏についてない人々)の連中は戦っ
ているでしょう。」「ああ、もう大詫間に緒方らが何とか追い込んでいるであろう。」
と話した。「では、これで。」「いや残って下座に話を聞くが良い。」と言うと、「今
の状況は。」と言い放った。「はっ江上氏の救援に馬場や神納(後の金納)大坪達を向
かわせております。」「ほう、肥前の方はそれで足りるのか。」「はっ、早馬の話では
そう多くは無いとの事」「して肥後の方は。」「肥後の方は大軍勢で、荒尾から山川を
過ぎ八女安武と三池藩はおろか黒木藩その他ぐるりと取り囲んだ状態でございます。」
「して戦果は。」「それが久留米蒲池と茂安のいる藩境ではいざこざがあったようだが
戦を仕掛けてはいないもの。との報告であります。」「なんとな。戦っていない。」「
はっ。何とか対峙し平穏であるとの報告であります。」「して三潴は。」「水田方面に
黒田勢が入ったが、成敗されたとの事。行基の聖僧(ひじりそう)たちが懲らしめた。
とあります。」「さらに、江の浦からの伝言で、肥後の使いが十数名が居て殿を待って
数名こちらに向かったとの報告が入っています。今は、番所橋で足止めしているが、こ
ちらの指示を待っております。」「そうか、丁重に数人付けて通すよう計らえ。」「は
っ」「それから誰か綿貫一刀斎と小野弦馬を此処に通せ。」当時中山より先には、聖河
があってその中は中州として綿貫氏は立花側の門番であった。またその中の行基寺の、
神門教徒は小野弦馬の通称鐵賤和尚が治めていた。つまり聖僧の僧兵の長だったのだ。


1618: 名無しさんAA:18/11/08 15:46
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   610   > 

 こうして、江の浦からの使者を受け入れ肥前との会議の席が整ったのは1ヶ月も過ぎ
た頃だった。久末の綿貫氏の傍の豪商末次屋敷を使い、大勢の立花勢が久末神社に待ち
かまえる中で、わずか数人の手勢と共に加藤清正はやって来た。それは威風堂々とした
ものだった。「立花殿、お久しぶりで」「ああ加藤殿自ら来たとは。」と旧知の仲であ
った二人は、直ぐに、歓待の家の中に入った。碧蹄館の戦いでは、明軍に取り囲まれた
加藤清正を一人攻め込み敵兵を蹴散らし、救出途中で毛利の末次氏が救出を助けていた
事を充分知っていた加藤は、その後も立花宗茂とは親しかったのだ。というのも朝鮮か
らの帰国後秀吉は、加藤清正の素手で虎を捕まえたの褒めたが、その加藤を救出しに行
った事に大いに喜んで二人に天下一双の武人との称号を与えていた。立花氏は他の武将
にも良く知られた所で、黒田藩が秘密裏に明朝貿易を亀甲船を奪って行っていたが、日
本軍が朝鮮征伐に出た時には、明軍に付き兵站の食糧供給分断に走っていた。これは、
その船の操縦を朝鮮人に任せた事で、既に黒田氏の手が付けられない状態で、この朝鮮
人との話合いをしようとしていたものの、九州武士と同じに朝鮮上陸の先鋒の軍師だと
秀吉に命じられ身動きできなかったのである。この時遅まきに駆け付けた立花氏によっ
て、一艘は崖の側で岩を落とされ沈み、一艘は夜陰に紛れ油を流されて火矢によって、
灰塵に期した。此の事が非常に重荷になっていた黒田氏は、何が何でも立花氏を潰す必
要があった。と言われる。つまり最後の火矢で沈めた折に幾人かのこの事の証人を手に
いれていたからだ。それを知っていたのが、まんまと亀甲船を盗まれた船奉行の小西行
長であり、立花軍勢を朝鮮へ載せる船を調達した有馬晴信であった。この3人は必ずや
没落させねば、と思っていた。彼らに尻尾を掴まれたままでは立ち行かない。ましては
噂でも流されれば黒田藩の命運さえ尽きる可能性があったのだ。そこで博多の地を所望
し、自らは隠居して、大分との境に居たのである。これは目立って動かない仕方のない
措置であったが、とは言え自己の中にある天下取りの夢は老人になるほど、ふつふつと
煮えたぎり、欲望をもって生きていた。この朝鮮貿易の人脈やコツも残り息子とは別に
多くの利益をもって小金を貯めていたのである。しかしここで金で雇った浪人は武士で
はなかった。つまり雑兵であり、命に代えても戦う程の兵士とはならなかったのだ。部
隊こそ大勢ではあるが、高橋氏の敵ではなかったし、逃げても肥後勢に囲まれて切り捨
てごめんの措置では、おいそれと前に出る事は出来なかったのだ。


1619: 名無しさんAA:18/11/08 15:54
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   612   > 

朝鮮で戦端が開かれると釜山の攻略を皮切りに、次々と朝鮮軍を破り(釜山鎮の戦い、
東莱城の戦い、尚州の戦い、忠州の戦い)など戦勝して行き、清正に先んじての漢城の
占領を成し遂げ、さらに北進を続けて平壌の攻略を果たしている。(大同江の戦い)。
この間にも行長は、度々朝鮮側に対して交渉による解決を呼び掛ける余裕もあり、何れ
も朝鮮側が拒絶と黙殺して戦いに至っている。これは明軍の要請と明の意向がなければ
動けない事を意味していた。その後、平壌奪還を図った祖承訓率いる明軍の攻撃を撃退
し、この平壌の戦いでも明軍に対して講和を呼び掛け、50日間の休戦と講和交渉の同意
をしている。次に朝鮮軍が平壌を攻撃したがこれも撃退する。しかし講和交渉の明側の
返答を待ち続ける間に、明では李如松率いる4万余の朝鮮派遣軍を編成し、平壌に向か
って進行し、更に日本軍に撤退の伝令を送った。こうして各武将は翻弄され帰郷する中
で、文禄2年(1593年)1月に明軍による平壌攻撃が行われると、抗しきれず漢城まで
退却するに至った。この時弟・小西与七郎と従兄弟・小西アントニオ、一門の日比谷ア
ゴストの他に著名な者の戦死者を出した。その後、同年5月に島津忠辰が仮病を使って
出陣を拒否し改易され、身柄を預かり、嘘の講和書が図られた際には対馬の宗氏と共に
家康や黒田氏の術中に陥って、国内でも活動が裏目に出ている。この時九州の武将以外
は引き揚げてしまい、碧蹄館の戦いの頃では漢城も明軍に取り囲まれてしまっている。
このとき行長軍は漢城に駐留し、戦意を喪失した明軍と兵糧不足に悩む日本軍との間に
講和交渉が開始された為に、明軍は全てが碧蹄館の方に振り向けられたのだ。これが、
加藤清正の大きな不満だった。つまり講和の勅使を招き、秀吉に合わせる為に休戦する
と言う伝言や通達が、加藤清正にだけ届かなかったのである。これは毛利氏の伝令が、
明軍に殺された事と、行長軍以上に先に先鋒で軍功を競った加藤清正に非があったのだ
が。清正本人は、そうは思っていなかった。明軍の撤退デマもそれで引き揚げた日本軍
の他の2班の本州軍も、加藤清正を陥れる罠に見えていたし、現実に漢城から一歩も外
に撃って出ず、この講和を考えるとした事に不満があったのだ。明軍は少人数でも捕虜
をして、日本との交渉材料としたいので、他を退かせて大将や武将の生け捕りを狙った
作戦だった。しかしかなわず、更に明の降伏国書が朝鮮が作った贋物である事が判明し
直ちに朝鮮人使者は打ち首にされ行長はその後策を練ったのだろう。しかしそれは又、
黒田の知る処でもあった。朝鮮と通じていたのだから仕方はないが。


1620: 名無しさんAA:18/11/08 16:06
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   613   > 

 慶長2年(1597年)慶長の役では、行長に再び出兵を命じた。特に講和交渉における
不忠義の埋め合わせのため、武功を立てて罪を償うよう厳命されての朝鮮進攻だった。
漆川梁海戦で朝鮮水軍を殲滅し、南原の攻略戦(南原城の戦い)に参加後、全州を占領
し全羅道方面を制圧し、順天倭城に在番。翌慶長3年に(1598年)9月末から行われた
順天倭城の戦いでは、戦いに先立って明将・劉から講和が持ちかけられ、行長はこれに
応じて交渉に臨もうと城を出て、行長を捕縛する明側の謀略があったが、明側の不手際
で寸前で窮地を脱し城内に駆け込んで籠城する事件も起こった。続いて明・朝鮮軍によ
る水陸からの攻撃が開始されたが、これを撃退し占領を続けた。その後、秀吉死去によ
る帰国方針が伝えられも、明軍と交渉の円滑な帰国を認める同意を取り付けたが、そこ
を狙って朝鮮水軍の李舜臣の海上封鎖や帰国妨害が行われ続けた。この時、島津義弘等
の救援により無事帰国することができた。もともと行長は強い武将だったが、武士では
なかった。商人として育った武人だった。秀吉も実は朝鮮とは折り合いを付けたかった
。しかし朝鮮王朝は明の意向を汲んで降りる事はなかった。更に日本人と違って戦いに
理由や美学や任侠などは無かった。つまり無茶苦茶でも、村が消えても虐殺されても、
勝てば官軍で生き残れれば良いと言う思想で他はどうでも良かったし、兵がいくら死ん
でも気にしない王朝だった。これに対して優しい行長はキリスタンになる程人間的で、
石田三成と共に明との講和交渉に携わって、明側の講和担当者・沈惟敬らの悲しさにも
愛情を持った。共謀して秀吉には明が降伏すると偽り、明には秀吉が降伏すると偽って
講和を結ぼうとしたといわれるが、それは朝鮮の策略の一端であった。これまでもそう
した偽書で生き残って来たのが朝鮮半島だったのだ。この時、行長家臣の内藤如安は(
明側史料では小西飛騨)が日本側の使者として明の都・北京に向かった。この結果、明
の使者が秀吉を日本国王に封じる旨を記した書と金印を携えて来日する事になった。冊
封の内容はアルタン・ハーンのものを先例とし、順化王の王号と金印を授与するもので
あった。これは明の臣下になることを意味するもので、秀吉が求めていた講和条件は何
ら含まれないものだった。秀吉に報告する段階で行長は、書を読み上げる西笑承兌に対
して内容をごまかすよう依頼したが、承兌は書の内容を正しく秀吉に伝えた。という。
このため講和は破綻し、交渉の主導者だった行長は秀吉の強い怒りを買い死を命じられ
るが、承兌や前田利家、淀殿らのとりなしにより一命を救われている。西笑承兌(せい
しょうじょうたい)は、朝鮮人の幼年帰化の僧で中華承舜を信奉する臨済宗の異端派で
直江兼続の手紙を書かせる程、他人を怒らせる事で政権の顧問となっていた。

1621: 名無しさんAA:18/11/08 16:07
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   614   > 
この臨済宗の異端派こそ、ユダヤの末弟を行く教えを持っていた。細川家紋の八曜紋は
元々八曜に月紋で八曜は仏教曼荼羅を示し中心の月と真上の太陽を除いて6曜を示す。
そして月と太陽、すなわち月星紋はイスラム紋なのである。ユダヤつながりの紋などだ
 この清正と行長は、領地が互いに隣接していたため、常に境界線をめぐって争った為
といわれている。清正が熱心な日蓮宗信者であったのに対し、行長が熱心なキリシタン
であったことも対立の一因を成したという。例えば天正17年(1589年)の天草五人衆
の反乱の際、キリシタンの多い天草衆に対して行長は事態を穏便に済ませようとしたが
、清正の強引な出兵・介入が原因で武力征伐に踏み切らざるを得なくなったという経緯
がある。清正からは文治派のひとりと見なされて、「薬問屋の小倅」と侮られたという
。その反発として行長は、朝鮮出兵のとき、軍旗として当時の薬袋である紙の袋に朱の
丸をつけたものを使用したという。文禄の役の際の京城攻めでは、どちらが先に一番乗
りするかを争い、行長が一日の差で清正を出し抜いたという。李氏朝鮮に配下の要時羅
(家臣・梯七太夫)を派遣して清正軍の上陸時期を密告し、清正を討ち取るよう働きか
け李氏朝鮮は李舜臣に攻撃を命じた。しかし、李は罠だと思い攻撃を躊躇ったために、
陰謀は失敗した。と書いている。しかし、清正の上陸時期の密告は黒田氏以外には出来
ない。先行して上陸したとしても、そう離れた時間ではなく李氏朝鮮に連絡するのは、
不可能であり行長自身も戦う羽目になるからだ。しかし黒田氏の様に元から交易し繋が
りがあれば別だった。この時期行長は既に南蛮貿易であり明朝貿易を直接取引などは、
九州大名では行っていない。出来るのはやはり高知や大阪に近い難波商人達であろう。
文禄・慶長の役を通じて、清正と作戦や講和の方針をめぐっては、武闘派の清正とは、
常に対立していた。既に朝鮮人が卑怯な事を見抜いていたからだ。切って捨てぇーの時
に悠長に講和を論じていた行長を小馬鹿にしていた。しかし、行長は今や南蛮貿易に、
秀吉が疲れていた事を知っていた。つまり朝鮮を我物として、一応そこに溜めて南蛮人
を留め置き、キリスト教やアヘンや黒船や鉄砲を遠ざけた国造りを目指していたのであ
る。言わば出島の拡大版である。現に今までの中国との朝貢貿易はそうした形で、中国
に年一回の贈り物と許可を貰い、どこの港でも開拓し居住し館を作り防衛して行えた。
それが習わしだったのだ。後に武断派と対立する一因を成した明との講和の文書は、出
した際「大将摂津州前司小西秘書少監豊臣行長」と書いている。又秀吉の王冊封以外に
も宇喜多秀家、小西行長、増田長盛、石田三成、大谷吉継ら和平派諸将が大都督、前田
利家、徳川家康、上杉景勝らが地方の都督指揮に任じられてる。これは由々しき問題で
あった。

1622: 名無しさんAA:18/11/08 16:13
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   615   > 

 天正16年(1588),行長は,肥後(球磨郡を除く)の南北半国ずつを加藤清正
と共に豊臣秀吉から与えられた。行長は肥後入国当初は,豊臣秀吉が九州出兵に際して
名和氏から接収した中世宇土城(西岡台)に居住していた。しかし,中世宇土城は山城
的様態、小規模な城下形態であったため、行長は入国後まもなく新城の築造に着手して
いる。新城は中世宇土城(西岡台)の東,約300メートル離れた低丘陵上に築かれ、
近世宇土城(城山)は、「外構」=石ノ瀬城,「町」=宇土町,「城」=宇土城の3つ
で構成されている。石ノ瀬城は近世宇土城を防御する出城の役割を果たしてはいるもの
の、平野の城の中では極めて弱い造りだった。行長は,宇土の町筋を近世宇土城(城山)
に取り込んで、拡大整備して城下町として機能させ、船場川を外堀に見立ててその外側
の薩摩街道の出口の位置に石ノ瀬城を配した。広大な城域を構想した江戸に似た構造だ
った。このような形態を、「惣構」といいます。かつては「惣構」に沿って掘割がめぐ
り、掘割は城の主郭部分(本丸・ニノ丸・三ノ丸)の大手を中心に伸び主郭部分の一角
には瓢箪渕という潮入り・船入りが存在していた。このように 近世宇土城(城山)は
、海・河口部の取り込みを強く意識した城郭でした。近世宇土城(城山)の主郭部分の
北方、塩田地区には100軒以上の家臣屋敷の区画が、南北の6筋の道に沿って整然と
並び、その区画ごとに堀状の溝をめぐらしていました。ここから掘割の河水が家臣屋敷
の区画にまで毛細化していたことが想定される壮大なものだったことが見える。このよ
うな家臣屋敷の区画性は家臣の独立性,小西氏家臣団の組織度の弱さをうかがわせます
が、同時に行長と共に国元を留守がちな家臣団が,留守宅の防禦のためこのような屋敷
形態をとらせたともいえる、いわゆるベネチヤスタイルなのだろう。つまりこの都市の
構造には、何らかの形でイエズス会が関わっていたように見える。惣構(そうがまえ)
の技法は、山城が大砲や鉄砲の出現で交易も籠城も不便な城だと判ったからだ。そこで
すべて水路で包み、武士商人の街造りをしたものだ。山城で人を見下ろし百姓で守った
時代が、兵士や武家と言う専門の武闘軍団を常時置いていく時代に代わったのである。
又キリスト教や黒船ばかりが注視されるが、それ以前にイスラムの交易船が日本にも、
数多く入って来ていた事の事実が抜けている。この当時イスラムジャンク船は中国には
相当数入って来ているし他の日本人街でも商売している。これが大事な事である。日本
の教科書はそうした世界視野を持つべきである。鄭和の大航海時代、博多湾に大船は入
れなかった。座礁を恐れたからだ。しかし並走してきたジャンク船は入港したはずであ
る。

1623: 名無しさんAA:18/11/08 17:59
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   616   > 

 新城築城と同じ頃,天草では天草国人一揆が起った。原因は天草国人衆が新城の普請
への参加を断ったことにある。天草国人衆は、外からの海賊に戦いながら暮らして来た
。天正15年(1587)に起きた肥後国衆一揆は行長・清正以前に肥後領主となった
佐々成政の時代に起きた地元勢力の反乱で、自主性の高い武装集団だったが、肥後人の
山の叛乱には参加していませんでした。あくまでも海族の集団だったのだ。天草五人衆
はその時に秀吉から直接領地を安堵されており、そのため行長に対しては対等な立場に
あった。こうして考えていたことが,行長への税納や築城労夫などの助力を拒んだ理由
だった。五人衆の拒絶を受けて,行長はまず,天正17年(1589)10月23日に
一揆の中心人物・志岐麟泉(鎮経)と交戦し勝利を挙げると,次いで志岐城を攻略した
。志岐勢を本丸に追い詰め、さらに同月28日には渡海してきた加藤清正の軍勢も加わ
り,11月8日に完全制圧を果たした。最後まで敵対行動を取っていたのが天草伊豆守
の本渡城だったが、彼らも11月25日に落城し,天草五人衆といわれ、ここで天草国
人衆の割拠基盤は壊滅しました。行長の天草出兵に際して、一般的には行長自身で一揆
を鎮圧できずに清正に援軍を頼んだように書かれている事は多い。しかし実情は違って
いて行長は、清正の渡海してのチョッカイを思いとどまらせようと説得したが、それで
も天草攻略に強引に割り込んできた為、両人で一揆を制圧することになった。ここにも
黒田官兵衛のチョッカイがあった。天草諸島は,天草国人衆のもとで活動する海上勢力
の地盤であり,「唐入」をひかえていて、海上勢力・海上能力の掌握を課題とする豊臣
政権にとっての天草統治は非常に重要な海賊の要だったからだ。こうして残りの肥後北
半国を領した清正とは次第に確執を深めることになった。大友氏の重鎮・立花道雪(た
ちばなどうせつ)の死により、島津は大友氏の支配が緩んだ筑後の諸国人衆も傘下に収
め、九州統一を目前にしていた。豊後の大友宗麟(おおともそうりん)は、島津氏の圧迫
を回避するため、当時近畿、四国、中国を平定し天下統一の道を歩んでいた羽柴秀吉に
助けを求め、これを受け、関白となった秀吉は、1585年(天正13年)10月島津氏と
大友氏に朝廷権威を以て停戦を命令を発した。しかし島津氏は黙殺し九州統一戦を進め
た為、秀吉は九州攻めに踏み切った。それは当然であった。九州地方は当時は、既に、
日向の伊東氏、肥後の相良氏、阿蘇氏、肥前の有馬氏、龍造寺氏などを下して九州の全
ては島津一色だったのだから、本州の秀吉に何か言われる筋合いはなかったのだ。


1624: 名無しさんAA:18/11/08 17:59
 取り合えず成敗に、豊後国戸次川(現在の大野川)において、仙石秀久を軍監とした
、長宗我部元親・長宗我部信親・十河存保・大友義統らの混合軍で島津軍の島津家久と
戦う。しかし、仙石秀久の失策により、長宗我部信親や十河存保が討ち取られるなどし
て大敗北している。ここで、秀吉は京を空かす事は嫌いだったが、自らが立ち上がり、
弟・秀長と共に20万の大軍を率い、九州に本格的に侵攻し、島津軍を圧倒、島津義久
を降伏させる為の策を練った。この時頼りにしたのが小西行長だった。行長は先発部隊
として乗り込み、清正は後発で秀吉といっしょに攻めた。肥後は、国人と呼ばれる土地
とのつながりの強い武士たちの勢力が強く、秀吉はこの九州の地の平安は保てないとは
思っていた。佐々成正は古くからの友人で前田利家と同じ武人だったが、常に先走りし
敵対する反乱分子の武将だった。この佐々成政に3年間は国人たちの既得権益を守るよ
うに厳命したが恐らくは無理だろうと予測はしていた。案の定、佐々成政は検知を強行
し、旧来の在地勢力である「国衆」が抵抗し、検知反対の一揆を起こした。成政は有力
な国人達を味方に付けることが出来なかったのだ。反発する国人が一斉蜂起し、これを
自力で鎮めることができずに秀吉に援軍要請を行い一揆を鎮圧した。旧来の在地勢力で
ある「国衆」が抵抗し一揆を起こしそうなのは島津の大きさからも解っていた。こうし
て佐々成政は、一揆の原因を作ったことを理由に、摂津国尼崎法園寺において切腹させ
られた。またこれにより一揆に参加した国人たちはことごとく斬殺された。その後秀吉
は、肥後を二分し、肥後北半国を加藤清正に、南半国が小西行長に与えた。佐々成政は
秀吉かから最初に肥後国主に任命されたが、それは人吉以外のすべてだった。これがミ
ソだった。秀吉は人吉を2万石の領主として相良家の存続が許していた。もし佐々成正
が聡明な国主や領主であったなら、この相良家との好みを大きくして治世を行ったであ
ろう。しかし、佐々は相良氏など歯牙にもかけなく独断を進めた。言うならば佐々成政
は都落ちし派遣された中央官僚知事のようなもの。「よそもの」が構造改革をしようと
する行為は、当然地元反発は大きく。地元は秀吉の言うことは聞くが、佐々成政のいう
ことは聞かない。これが一揆の元だった。秀吉は熟知し一揆にならないようにしろ。住
民とは仲良くしろ。性急な改革を慎むように、と言ったがうまくいかない事も解ってい
た。既に素早く鎮圧する手はずも行っていたのだ。それが立花氏の援軍だった。

1625: 名無しさんAA:18/11/08 18:00
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   618   > 

 佐々成政は、馬廻り組の中でも抜きんでて猛将だった。怒れば何をしでかすか解らな
い程強く、又普段は聡明ながら奇策が得意な平和主義者だった。1584年、羽柴秀吉と徳
川家康の間での合戦である小牧・長久手の戦いが起こると、当初、羽柴秀吉に味方する
姿勢であった佐々成政だが、徳川家康・織田信雄の連合軍に応呼し、ひそかに出陣した
。本隊はガラガラ坂を越え、支隊は沢川の山道を越え、前田利家領内である能登・末森
城を奇襲した。しかし、金沢城から前田利家が急行し、挟み撃ちされて敗北を期してい
る。越後の上杉景勝からの圧迫も受けており、苦しい2方面展開であったようだ。だが
織田信雄が羽柴秀吉に降伏し羽柴と徳川が和議となると、佐々成政は徳川家康に再起を
説得する為、厳冬の飛騨山脈(北アルプス)・立山山系を自ら越えると言う、強行手段に
て浜松城に入った。(さらさら越え)しかし、説得に失敗し、織田信雄や滝川一益からも
快い返事は得られなかった。城に戻ると留守中、愛妾(側室)の早百合が、佐々成政近習
侍と密通したとの噂に激怒した佐々成政は、早百合の黒髪をつかんで引きずり走り、こ
の榎の枝に逆さ吊りにして、あんこう斬りめった斬りの惨刑に処したと言う伝承がある
。早百合の一族である呉服村の住民も皆殺しにされたと言う。早百合は断末魔の苦しい
声で「私は無実です。私の恨みで立山に黒百合が咲いたら佐々は滅びますぞ」とのろっ
て息絶えたと言う伝説がある。1585年、羽柴秀吉は、10万の大軍を率いて、自ら越中に
進軍し富山城を大軍で包囲。佐々成政は織田信雄の仲介を受けて降伏した(富山の役)。
一命は助けられたものの、ほぼ全ての領地を没収され、妻子と共に大坂城下に移住して
以後は、羽柴秀吉の御伽衆として仕えていた。豊後の大友宗鱗が島津家から攻められて
、豊臣秀吉に助勢を求めた時、豊臣秀吉は、佐々成政を使者として大友宗鱗のもとに派
遣した。1587年、九州征伐が開始されると、佐々成政は、羽柴秀長軍に属して豊後府内
(大分市)・日向を経て薩摩へ進軍して敗走する秀吉軍を止めた。仙石秀久や長曾我部の
敗走に援軍であったのだが、九州の雄である島津義久は、弟・島津義弘に家督を譲り、
佐々成政らの取りなしで豊臣秀吉に拝謁して降伏した。これらの功により佐々成政は、
肥後一国を与えられて、隈本城(後の古城)の普請を開始するに至ったのだ。秀吉は肥後
は手ごわいと最初から感じていた、一揆のあとの9人の役人を派遣して事故処理にあた
った。その中に清正、行長も 立花も、黒田も入っている。立花氏には、隈部一党の首
領が捕縛され客分扱いになっていた。隈部の処分と首の検分には前田利家がやって来た
ている。

1626: 名無しさんAA:18/11/08 18:00
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   619   > 
 佐々成政は、肥後に入ると早速に太閤検地を開始。すなわち、今までドンブリ勘定で
税を納めていたところ、きっちり計算することになるとより税が重くなると言う事で、
隈部親永(菊池郡・隈府城主)と、隈部親安(鹿本郡・山鹿城主)の親子が反発した。と説
明される。佐々成政は病に侵されていた為、急いだとも言われるが、反発を武力で抑え
込もうとした為、反発した国人が一斉蜂起し、これに農民も一味同心して、天下を揺る
がす肥後国人一揆となったが、佐々成政はこの一揆を単独で鎮圧することができずに、
近隣国への波及を恐れた豊臣秀吉は1587年、付近の武将たち(毛利秀包・小早川隆景・
安国時恵瓊・鍋島直茂・立花宗茂・黒田官兵衛など)に肥後への出陣を命じて 一揆と
交戦させ、ようやく事を収めることができた。だが実はこれはちょっと違っている。既
に九州では、キリスタン布教が広まり、鉄砲や大砲が売れていた。隈部親永は大友傘下
の旧菊池氏家臣団の中心人物で長年の九州騒乱を得て、周りから外れた城主で孤立して
いた。元は肥後北部は、大友氏支配の下で城氏・赤星氏・隈部氏ら旧菊池家臣が統治し
ていたが蒲池氏が龍造寺氏に謀殺され大友氏が敗退し城氏・赤星氏は、同じ大友方の阿
蘇氏を攻めた。こうして隈部氏は龍造寺氏側に頼った。これに対して柳川起点で鍋島の
成富茂安が兵站を担って江上家種率いる龍造寺勢と共同で赤星統家の配下の、星子中務
廉正の長坂城や、赤星統家の合志親賢を破り、龍造寺政家が赤星氏の本拠隈府城を攻略
し、同城の支配をしていた。しかし龍造寺氏は島津・有馬氏の連合軍に沖田畷の戦いで
不覚をとり、急死した。隈部親安もこうした父によって城村城に配され城主となってい
た。当時の所領は 1,900町と推定される。しかし天正12年(1584年)に島津氏が肥後
に侵攻してくると9月14日に城氏を通じて島津方に投降を打診し、まもなく人質を出
してその傘下に入った。天正15年(1587年)6月、九州征伐終了後に豊臣秀吉によっ
て元の所領からは大幅に削られたが 900町を安堵された。こうして人質解放と所領安堵
の朱印状が秀吉から二人には渡されていた。しかし佐々成政これを無視した年貢取り立
てを敢行しようとした。これには領知権の侵害として秀吉の朱印状を盾に拒否し、7月
に隈府城に籠城したものだった。結局これは前田利家らのいい加減な領地分配がもとで
シャキッと決めようとした佐々成政が、意見を聞かず交渉もせず有無を言わさず行おう
とした態度が起こした物だった。これを秀吉も立花氏も解っていた。一揆の報告は今だ
九州瀬高の末広邸で花園氏の接待が行われている中に報告が来た。昨日は船小屋での遊
興に、居合抜きの剣豪渡辺氏と柳生新陰流の真剣白羽取りの余興が終わって船遊びでも
行おうかと言う時だったと伝えられている。この本陣から柳川城までを大将軍通りと呼
ばれている。

1627: 名無しさんAA:18/11/08 18:01
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   620   > 

 前田利家が隈部一党の処刑を「放し打ちにて行う」とした時、多分利家は何のことか
不明のままであったろう。天主閣の欄干まで通され、城から船が黒門橋につけられ、今
の体育館のや城内公民館に一同6人は降り立った。対して城の方からは同じ様に6人の
立花藩の誇る剣豪が松明の下に待ち受けていた。朝日の昇る5時からの始まりである。
当初は日本の果し合いの様な名乗りから始まった。という。この「放し打ちの刑」など
と言うのは、日本広しと言えどもそうそう行った事は藩などは何処にも聞いた事はない
。相手した十時氏や小野氏や渡辺氏など強者には違いなかったが、いずれの相手も真剣
を持った者で城を持ち、そうそう素人武士ではない。城を持ち城を守り佐々氏の家来と
互角に闘った強者達である。立花家臣団が後に「黒門橋の処刑」と呼んだこの出来事は
立花側においても怪我した者が2名、1人の重症者を出すほどの激戦であった。隈部ら
を最後まで武士として丁重に扱った立花武士らは、代表にならなかった肥後武士の生き
残りを歓迎し、秀吉に反抗する勢いも徐々に鎮火した。同じように城内の別の場所から
隈部に見学させていたのである。昼を越し5時過ぎになって勝敗を期して、死体は片づ
けられた。「宗茂はどうして隈部らをそのまま斬首刑に処さなかったのか。」という豊
臣からの使者にこう答えた。「我が立花家には三つの掟がある。国法に背き、節義に欠
け、表裏比興の振る舞いをする者は斬り捨てる。又、国法に背き節義に欠ける者は切腹
ともする。しかし、国法に報い節義を守り、忠節に準じた者は我が藩では罪はあっても
咎人ではない。従って放し討ちとする。隈部殿は関白殿下の国法に背いて一揆を起こし
たが、武士として殿下の裁きを静かに待つ姿は節義の士の鑑である。又関白殿下の朱印
状を持ち裁きを静かに待つ者、裁きが決ったからには打ち首は当然だが、罪はあっても
咎人ではない。故に縄はなく武士のままに処刑の事に至った。よって立花家は勇気ある
士らを放し討ちしたまでのこと。」と挨拶した。そうした話の中にスーと障子が開けら
れ首検分の用意ができました。と言う庭には、今だ死んだばかりの隈部一党の骸(むく
ろ)がむしろの上に首が放たれてあった。そこを一通り歩き通り過ぎた前田氏は、立花
氏「いたくご苦労であった。ここに検分し確認したと太閤様にはご報告致す」と声をか
け、他の者に合図してそこを出て行った。


1628: 名無しさんAA:18/11/08 18:01
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   621   > 

 これには裏がある。隈部親永(菊池郡・隈府城主)と、隈部親安(鹿本郡・山鹿城主)の
二人は、そもそも大友勢で立花氏と同じに戦乱の動向に動かされた城主だった。いわば
立花氏と同じ境遇の中にいた。そも九州騒乱はこの大友氏の野望によって出来た物だっ
た。元寇が来て以来、南北朝以前からも重しとして北九州の領主として君臨した菊池氏
や大内氏の中を下向して来た関東武士団が住み着いてこうした騒乱が起こった。更にそ
こに拍車をかけたのが大砲と鉄砲の伝来だった。西洋かぶれの大友宗麟は次々と神社や
仏閣を破壊し英彦山の修験道などと対立を深めた。博多商人たちはこの山の護り人とは
寄与や富者としての布施を行い上手く行っていたが、大和朝廷の大宰府やら朝廷の争い
やらが九州に流れてきたものだった。高橋家はもともと樽を作る細工職人の伝統を持つ
弥永家の家柄である。自然と生き自然に溶け込み欲も世情も捨てて商売をしていた。が
大友はそうはさせなかった。時の勘合貿易の九州の長として権益を持っていた立花氏を
滅ぼしたのは、その権益を放さなかったからだ。立花氏の持つ博多商人の長としての地
位は相当な力があった。壱岐対馬の宗氏、宗像氏、諫早氏、長崎氏、大賀氏、吉田・占
部・許斐氏ら或いは小野氏柳川氏蒲池氏・・・・他にも古代からの大宮司氏の大神氏の
実務として、大内氏すらも手が打てない権限を隠し持っていた。そもそも立花氏は大和
朝廷に舶来品を朝貢したものを受け取って間の免許を出した橘氏の家系である。言わば
博多の護り神であった家系だ。龍造寺氏が根っからの仏教徒で窮地にあって鍋島氏に乗
っ取られたのも実はここにある。大友氏は強制的に武将をキリスタンとした。言わば、
国教の代わりの藩教とも言えるものでこれを条件に、カピタンの下の宣教師交易を始め
ていたのである。従って大友氏始め有馬氏や大村氏や松浦氏などはそうしたキリスト教
国を夢の国として建設しようとしていたのである。此処に無理があった。立花氏も当然
この仏教徒とキリシタン大名との変遷を得た大名だった。その中で小西行長は切腹が出
来ない。仏教に頭を下げない。として打ち首を辞さなかった。又黒田家も官兵衛は武士
として一向宗徒すら首を切ってきた猛者だが、長政は大奥キリスタンのルーツだった。
この隈部親永と親安の親子も宣教師医者の歩いたとされる豊後肥後筑後のアルメイダ街
道にあるのでキリスタン大名だったのだろうと思われる。その後の小西の領地で南肥後
を治めさせたこともその理由であり、加藤清正と黒田が手を握ったのも仏教徒の危機感
からだったと言える。そしてそれが小西行長の邪魔をする理由だった。


1629: 名無しさんAA:18/11/08 18:01
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   622   > 

 祇園守紋は、京都東山にある八坂神社が発行する牛頭天王の護符のデザインである。
京都八坂神社は、全国にある祇園さんの本家で、京に夏を呼ぶ祇園祭で知られた神社で
ある。祭神は素戔嗚尊(スサノオノミコト)、奇稲田姫命、八柱の御子神でのちに牛頭
天王も祀られるようになった。と言う牛頭天王とは、インドの祇園精舎の守護神であっ
たと伝えられ、日本では薬師如来の化身とされる。神仏混淆(しんぶつこんこう)から
八坂神社の素戔嗚尊と牛頭天王とがゴッチャになって、祇園天王と呼ばれ、八坂神社も
祇園社と呼ばれるようになった。牛頭天王の牛神とはそもそもは豊饒の神であったが、
厄除けの神としても崇められるようになった。そして、平安時代のはじめに京で疫病が
流行したとき、神泉苑に当時の国の数にちなんで六十六本の鉾を立て、祇園の神(スサ
ノオノミコト)を迎えて災厄が取り除かれるよう祈ったことから祇園祭が始まったとさ
れる。そのような神様のお守りだけに、その呪力は大いに畏れられたことであろう。祇
園守紋の由来には、三つの説がある。すなわち祇園社の森の図案化、牛の頭部の図案化
、キリスト教の十字架の図案化だが、いずれも決め手を欠いている。いずれにしろ牛頭
天王や八坂神社への信仰から、家紋として用いられるようになったことは間違いない。
祇園守紋は単に守紋ともいわれ、その図柄はクロスした筒が特徴である。後世筒は巻き
物に変わったが、呪府のシンボルであることは変わらない。柳川家紋はその祇園クルス
紋に銀杏紋を付け足している。この紋を用いる近世大名で有名なのが、豊後の戦国大名
大友氏の一族で柳川藩主立花氏である。祖の立花宗茂は、薩摩島津氏との戦いにおける
潔さ、また、朝鮮の役における碧蹄館の戦での大勝利が知られる。本来、立花氏は杏葉
紋を用いていたが、関が原の合戦後、封を失った宗茂は、数年の流浪の末に棚倉城主に
返り咲くことができた。正月の夜、夢の中に祇園の蘇民将来の守りを捧げた老人があら
われ、この守りをもって本国へ帰り給えといって守りを手渡した。もともと宗茂は本国
の柳川祇園社を深く信仰していたことでもあり、祇園天王の夢のお告げかもしれないと
ありがたくおもっていたところ、将軍家より旧領柳川を返し与えられたのであった。喜
んだ宗茂は祇園天王の加護に感謝して祇園守を家紋とするようになったのだという。柳
河藩立花氏のものは、とくに「柳河守」とよばれ、中心に二つ巴が入っているのが特徴
になっている。


1630: 名無しさんAA:18/11/08 18:01
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   623   > 

 その他、大名家では備前岡山と因幡鳥取の両池田氏が用いている。池田氏は清和源氏
頼光流を称し、本紋には輪蝶を用い、副紋として守を用いた。松浦静山の著した『甲子
夜話』に、ある日、静山が池田家の分家の松平氏に、池田家の祇園守の由緒を尋ね、ヤ
ソ教関係のものではないのかと聞いた。すると松平氏は由緒のことはよく知らないが、
我が家では天王から貰ったものと言い伝えており、天王は祇園だから祇園守というのだ
ろうが、それは世に隠れるものであって実は王の上に一点があったのだろうと答えた。
つまり、天王ではなく天主であったと。これから推せば祇園守紋は、ヤソ教の十字架を
家紋として意匠化したものということになる。立花氏の仕えた大友宗麟はキリシタン大
名として知られ、宗茂も少なからず影響を受けたかもしれない。一方の池田氏はキリシ
タンとして知られた摂津池田氏の一族といい、摂津池田氏は「花形十字紋」を旗印に用
いたことが知られている。加えて、摂津から出たキリシタン大名中川清秀の子孫で豊後
竹田藩に封じられた中川氏は、抱き柏紋とともに中川車あるいは轡崩しと呼ばれる家紋
を用いている。同紋は、別名中川久留守といわれるように十字架を象ったものであった
。同じく、摂津能勢を領した能勢氏の「矢筈十字」紋は「切竹十字」ともいわれ、クル
スを象ったものという。さらに丹波の戦国大名波多野氏は「出轡(丸に出十字)」を用
いたが、これもキリシタンとの関係を秘めたものであろうといわれている。 丸に十字
には中川車(中川クルス) 矢筈十字 出轡(丸に出十字)更に薩摩の島津藩の家紋があ
る。このようにみてくると、祇園守クルス紋は十字架をうまくカモフラージュして家紋
に取り込んだものという説が信憑性を帯びてくる。しかも祇園守紋を用いる大名の場合
、戦国時代にキリシタンと関係を持っていた歴史を有しており、十字架を隠したという
説には説得性が高い。しかし、仮にそうであったとすれば、そのようなまわりくどいこ
とをしなくても、古来ある十字架紋、轡紋を用いた方がストレートで却って自然な気が
するがそれが出来なかった時代だったのである。いずれにしろ、守紋の発祥とキリシタ
ンとの関係は無理に結び付けることもない。が歴史上牛頭天王に天主としてきた歴史は
事実だった。鶴紋を使用する公家としては藤原氏真夏流の日野氏が知られ、一門の広橋
・柳原・烏丸・北小路などの諸家も鶴紋を用いている。武家の紋は『蒙古襲来絵巻』に
描かれた十文字の上に鶴丸が据えられた島津氏の旗紋が古いもので、戦国時代では南部
氏と蒲生氏の鶴紋が有名である。

1631: 名無しさんAA:18/11/08 18:02
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   624   > 
 南部氏は菱鶴とあることから、戦国時代のはじめにに対い鶴に変化したようだ。そし
て、鶴の胸のところに九曜を据えているのが特長的である。その他、清和源氏頼親流の
石川氏、同じく義家流の森氏らが「鶴」紋を用いている。蒲生氏は藤原秀郷の後裔で、
近江国日野郡蒲生庄に住んだことから蒲生を名字とした。『蒲生家系図由緒書』によれ
ば、蒲生氏が鶴紋を用いるようになったのは、嘉吉元年(1421)蒲生秀綱が足利将軍家
に属して合戦に参加したときのことという。秀綱は赤松満祐が将軍義教を攻めたとき、
将軍家に味方して敗戦、敗走の途中で道に迷ってしまった。そのとき、一羽の鶴が蒲生
氏の旗を加えて飛びたった。その鶴の後を追っていくと窮地を無事に脱出することがで
きた。それを吉例として鶴紋を家紋とするようになった。実は向かい鶴の紋はかつての
立花氏の紋であったと聞く。又重臣の巴紋はその証とされる。大体の九州大名は古代か
らの家系は日足紋であり臣下になった者は鷹もしくは鶴など鳥の紋であるのが正しい。
黒田氏は、将軍足利義稙の怒りに触れた黒田高政は近江を退去させられ、備前邑久郡の
福岡村に移り住んだという。この時福岡氏を名乗り高政の子重隆は備前から播磨に移り
住み、持ち前の才覚によって土豪に成長した。そこで石餅紋に変えた。重隆の嫡男満隆
もひとかどの人物で、西播磨の大名小寺氏に客将の礼をもって遇され、やがて家老とな
り名字と一字を許されて小寺職隆と名乗った。ここで小寺氏の紋を貰い、藤巴紋とした
職隆の子が孝高、すなわち黒田官兵衛で、如水の号で知られた武将である。黒田氏が定
紋とした「藤巴」紋は職隆が仕えた小寺氏の家紋であり、室町時代に成立した『見聞諸
家紋』にも 小寺氏の「藤橘巴」が収録されている。「洲浜紋」は柳川の風浪宮神紋と
される。柳川の水門前の水天宮に龍宮紋と甲羅のキリンの鬼瓦を屋根の鬼瓦としていて
国宝級の小瓦を使っていて貴重なものだった。亀甲紋は何処にもあるが桔梗紋や五芒星
紋は珍しい。晴明神社の神紋といえば「五芒星」ですが、桔梗の花の形が似ていること
から「晴明桔梗印」とも呼ばれていて、晴明神社の鳥居や晴明井、お守りなどにも見る
ことができます。この「五芒星」は、この世に存在するあらゆるものを「木・火・土・
金・水」にあてはめる「五行」の考え方を形にしたものです。これは伝習館の明治以前
の紋でもあったらしい。又篭目(カゴメ)紋は、六芒星紋で、これらはいわゆるペンタ
ゴンやヘキサグラムと言われる紋なのだが、柳川不思議な神社は沢山ある。二の宮神社
は狛犬は鶴と亀である。又かつて蒲池氏の4男虎丸が矢留白浜で篭に隠れたが鶏の鳴き
声で捕まったので鶏肉は食わないと言う。更にこのカゴメ紋に意味があるとする。又、
細工町から中心道の突き当りには、祈祷院艮金神(うしとらこんじん)社がある。これ
も珍しい天満宮である。恐らく奈良時代から続いたものだろう。

1632: 名無しさんAA:18/11/11 19:48 ID:J/A
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   625   > 

 艮金神社 社記では、かつては平安時代は瀬高一の宮として在したようだ。すぐ傍に
風浪神社があるので、酒見城が一国一城制で廃止になった時にここの風浪宮の分社とし
て大川に行ったと口伝が残る。しかし大川が鎌倉時代の作りだったらしく酒見城のそば
に分社されたのはもっと古い時代になるのかも知れない。福岡の文化事業は遅く予算も
少なく県民の意識も希薄で 町の進化をより新しいものを作る事と勘違いしている。今
の高島市長の様に、よそから来たものがそれなりの言いたい事を言って壊して回るのだ
。まったくこの県民性には吐き気がする。なぜもっと郷土を誇りとして地元民を愛しな
いのだろうか。黒田官兵衛の叔父は重隆であり、官兵衛の父の黒田職隆(もとたか)は
心優しく、貧しい人を助けていたと伝わります。その性格がどこまで真実であるかはさ
ておき、小寺氏の信任を得て従徒であったことは確かです。重隆は、姫路で牢人生活を
送り、八女の北島氏と出会う。経済的に困窮していたところで、夢のお告げに従って、
この北島氏からの製法で目薬を販売したところ、これが飛ぶように売れて財を成した筋
書きでその後官兵衛が生まれ博多を治めている。一方その北島氏が眼科医者として日本
の名医だった頃八女を治めていた橋本氏族の中の加茂の神職から独立した筑後和泉の守
の高橋氏がいた。立花 直次(たちばな なおつぐ)は江戸時代前期の旗本で、高橋鎮種
(紹運)の次男だった。初め高橋姓を名乗り。筑後柳河藩主立花宗茂の実弟で、幼名は
千若丸で通称は弥七郎、少輔太郎である。柳川矢留の弥次郎町は彼が住した土地だから
と言う説もある。官途は、主膳となり正民部少輔とし、初名は統増(むねます)で、諱
は次に宗一(むねかず)、重種(しげたね)、最後に直次とした。立花姓を家号とした
のは慶長19年(1614年)頃以降であり、高橋統増、高橋直次の名でも知られる。号は宗
卜と言う。統虎は後に立花道雪の養子となったため、統増が筑後高橋氏の嫡男となった
。天正14年(1586年)に島津氏が大友領である筑前国へ侵攻した際、父は岩屋城にい
て、統増は宝満山城をそれぞれ守っていた。しかし紹運は岩屋城の戦いにて自刃して、
宝満山城でも同じく籠城していた筑紫氏家臣は、島津氏に筑紫広門の捕虜となって動揺
の中に守っていた。島津氏から助命を含めた降伏勧告もあり、家臣の提案による「統増
夫妻を立花城へ無事に送り届ける事」の条件により開門する。ところが統増が城を出る
と約束を違え、島津兵によって、妻共々捕虜となり、宝満山城は開城すること羽目にな
った。しかし、同年の豊臣秀吉による九州征伐後は、兄と共に豊臣氏の直臣となって、
天正15年(1587年)6月、筑後国三池郡江浦に1万8,000石の所領を与えられ。江の浦
城主となり、佐々成政の領地での肥後国人一揆が起こった際には兄に従って出陣した。

1633: 名無しさんAA:18/11/11 19:48
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   626   > 

 天正16年(1588年)4月、聚楽第に秀吉が後陽成天皇の行幸を迎えた際には供奉を務
めた。翌天正17年には従五位下・民部少輔に叙された。文禄の役が始まる頃、旧主義統
(吉統)が嫡男義乗に家督を譲ったのを機に兄が宗虎と改名した際に同じく「宗一」と
改名。翌年の大友氏の改易後に「直次」と再度改名していた。戦役では両役に出征して
、碧蹄館の戦い、露梁海戦などで功を挙げた。休戦期間中に国元に帰り、居城を江浦城
から筑後内山城に移している。筑後内山城は大牟田市大字吉野にあり、三池氏が立花氏
の与力となった事で実現した。慶長4年(1599年)、島津義弘の領地で庄内の乱がおこ
ると、8月に五大老筆頭徳川家康より出陣を命じられ、伊集院忠真が立て篭もった日向
国都之城に出陣した。しかし、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで兄と共に石田三成
の西軍に与して、伏見城の戦い、大津城の戦いなどに出陣したので、戦後に改易されて
失領した。浪人して宗卜と号した。しかし兄同様に徳川秀忠に召し抱えられ、慶長18
年(1613年)に家康に拝謁を許されるに至った。慶長19年(1614年)10月に常陸国
筑波郡内の柿岡5千石を与えられて旗本となり、この時に家号を高橋より、立花に改め
た。その後11月から始まった大坂の陣にも出陣して功があった。子の種次は元和7年に
(1621年)に五千石加増されて合わせて一万石となり、筑後国三池郡に移封されて三池
藩が成立した。四男の忠茂は、生まれたその日に伯父宗茂の養嗣子となった。11歳の元
服の時、江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の殿上において加冠し、従五位下・左近将監に叙
され、偏諱を授かって忠茂と改め、左文字の刀を賜った。将軍の相伴衆として江戸に詰
めていた養父に代わり、寛永6年(1629年)頃には事実上藩政を司るようになった。寛
永14年(1637年)4月3日、所領を相続し。11月に島原の乱が勃発すると出陣。12月に
上使板倉重昌の配下で原城攻めの寄せ手に加わった。 2月27日、最後の総攻撃の前日に
また鍋島勢が抜け駆けをして戦闘を開始したので、忠茂もこれに加わり、三の丸を奪取
して本丸に火をかけた。28日の総攻撃では忠茂自ら詰の丸(本丸)に突入して落城させ
た。寛永15年(1638年)宗茂の致仕により正式に家督を継いで柳河藩の第2代藩主とな
り、藩政の安定に努めた。寛永17年(1640年)将軍家光より延寿国時の刀を賜る。寛永
18年(1641年)正月、従四位下に叙される。寛永19年(1642年)、柳川城の改修のため
に特別に暇をもらった。

1634: 名無しさんAA:18/11/11 19:49
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   627   > 

慶長5年(1600年)の、関ヶ原の戦いは、その直前には徳川家康から法外な恩賞を約束
に東軍に付くように何度となく誘われた。熊本の加藤清正からも口上使者が来たのだが
、宗茂は「秀吉公の恩義を忘れて東軍側に付くのなら、命を絶った方が良い」と言い、
拒絶した。家中でも重臣・薦野増時は西軍に勝ち目なしと東軍への味方を進言したが、
「勝敗に拘らず」と増時を留守に残し西軍に参加した。そして石田三成率いる西軍に属
し、伊勢方面に進軍した。その後、毛利元康・毛利秀包(小早川秀包)・宗義智・筑紫
広門などと合流し、共に東軍の京極高次が守る大津城を攻めた(大津城の戦い)。宗茂
は城方の夜襲を予見し、更に家臣の十時連貞が敵将・丸毛萬五郎、箕浦備後、三田村安
右衛門三人を捕縛した。この戦で宗茂は高さ一間の土塁と城からの矢弾を防ぐ竹束を置
いて塹壕を掘り、ここより鉄砲射撃を行わせた。養父・道雪の発案した「早込」を用い
立花勢は他家の鉄砲隊の3倍速で銃撃し、城方は激しい銃撃に耐えられず鉄砲狭間を閉
じた。その機を見た家臣の立花成家や内田統続らが、一番乗りを果たし、三の丸から二
の丸まで突破した。また大砲が届き「立花勢、長等山より城中に大筒を打ち入れ、これ
より防戦難儀におよぶ。」と伝えられている。こうして東軍の京極高次が守る大津城を
攻め落とし、浜松城に向かった。その為9月15日の関ヶ原本戦には、大津城を攻めてい
たために参加できず、本戦での西軍壊滅を知って大坂城に引き返す事になったらしい。
国許に帰っても戦が起こっており、黒田孝高(如水)、加藤清正、鍋島直茂が柳川を攻
める形勢となっていた。このとき、佐賀鍋島藩は、息子の鍋島勝茂が西軍に加担してい
たことを挽回しようと懸命だった。と言われる。直茂率いる鍋島勢32,000は10月14日、
二手に分かれて佐賀を進発した。と伝わる。これに対し立花勢は迎撃のために出陣する
が、家康への恭順を示すため宗茂は城に残った。立花勢13,000のうち、城を出て八院方
面へ出陣したのは家老の小野鎮幸を総大将とする約3,000(一説によると2,000、うち小
野の直卒する中軍は1,000余騎)である。鍋島軍は、10月16日には 筑後川を渡河して、
立花方の海津城を落城させ、続いて10月19日朝には先鋒隊3,000が立花成家勢200の鉄砲
奇襲を受け20余人が討たれたが城島城を攻略、翌10月20日に鍋島軍の先鋒軍3〜5,000と
立花勢の小野鎮幸軍1,300と激突した(江上・八院の戦い)。

1635: 名無しさんAA:18/11/11 19:49
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   628   > 

 この時、立花勢先鋒の安東範久(五郎右衛門)、石松政之(安兵衛)らは鎮幸の与力・
松隈小源の軍令の誤伝のせいで、軍法を破って独断で開戦し、次々と鍋島勢の軍陣の中
へ突入し、先鋒第三隊の立花統次(三太夫、森下釣雲の三男、立花統春の養子)などら
は鍋島軍の陣中深くまで進んで奮戦したのだ。鍋島勢の先鋒・鍋島茂忠は本陣の五反田
へ撤退した。といわれている。しかし、当初から鍋島方は、立花勢を包み込んで包囲し
殲滅する作戦を立てており、立花方は一騎駆けで敵軍に突撃した立花統次の戦死を始め
、先鋒の安東範久、石松政之もたちまち反撃を受けてしまった。救援出陣の為、第二陣
立花鎮実(戸次右衛門大夫、藤北戸次氏の一族)と鎮実の若い次男立花親雄(善次郎17
歳)や新田鎮実(平右衛門、掃部助)は横合から果敢に攻めかけたが、これも後を断た
れて共に戦死した。後陣の矢島重成(勘兵衛、剛庵、宗茂の側室・八千子の弟)と千手喜
雲(六之允、筑紫広門の与力)は、戦を躊躇し接戦していないため、馬廻衆の安東幸貞
(津之助、安東範久の養子)、第三陣の若武者十時惟久(新五郎16歳)、先鋒の安東範久
、石松政之も次々と戦死した。総大将の小野鎮幸は本陣前の橋を堅守して鍋島勢の包囲
を受け勇戦奮戦したが、鍋島軍の反撃を受け、供回りが14〜15人になるまで討ち取られ
た。小野自身も銃創と矢傷を負い、討死寸前となったが、水田方面の黒田如水軍を偵察
していた立花成家(吉右衛門、薦野増時の嫡男)が 別動隊300を率いて敢然と奇襲をか
けて鍋島勢を混乱させた隙に無事撤退した。10月21日立花勢は十時惟由らが率いて、北
の蒲池城の鍋島軍からの挑発に対し、応戦して数人を討ち取った。立花勢は柳川城への
篭城する構えを示したため、鍋島勢はそのまま柳川城を攻め落とそうとしたが、鍋島直
茂がこれを抑え、黒田如水の声に、加藤清正が、宗茂を説得に動き、宗茂は降伏開城し
た。島津義弘は国許へ帰ると、宗茂から受けた恩義に報いるために柳川への援軍を送っ
た。しかし、援軍が柳川へ到着したのは開城から3日も過ぎた後だったという。つまり
関ケ原から10日も過ぎた後だったのである。実は、この立花宗茂は大阪城に逃げたの
はごく少数で岡崎城や浜松城内を行軍して帰って来ていた。実は大砲を用いて大津城を
撃ったのは数日前で合戦は既に勝ち名乗りがあって、京極高次を探すだけであった。こ
の時京極は関ケ原に逃げなかった。その為四日市方面にそのまま追いかけて行っていた
のだ。そして予定通りの岡崎城を目指していた。この関ケ原ももし家康が余裕で勝って
いたなら大津方面へ出て、大阪城攻めに入ったであろう。しかし家康は自分の城が危な
いとの知らせてあったし、たった今島津軍が目の前を過ぎて行ったのである。


1636: 名無しさんAA:18/11/11 19:49
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   629   > 

 此処に家康は3度目の冷や汗を掻いていた。大津城を毛利に任せて、岡崎に入った時
京極高次を取り逃がしたが、そのまま薩摩と合流した。薩摩からのしんがりを務めたい
との伝令に色めき立った。島津の九州制圧の時に死んで行った身内も大勢いたからだ。
しかし、武士は相身互い。今は同じ家康を敵する者同士、仲良く身を守って帰るのが双
方の生き延びる道。と兵を説き伏せ、快く合流した。そのまま清州城を通り過ぎ岡崎の
街を通り過ぎて、吉田城を攻め、吉田氏を人質に城で兵を休め、岡崎に向かって号砲を
鳴らして船を呼び岡崎に回っていた末吉船に乗り込んで、島津の兵も載せたのである。
戦国時代には三河支配の重要拠点の1つとして機能していた。戦国後期や江戸時代には
吉田藩の政庁としての役割を果たした。別の城名としては、築城当初に今橋城と呼ばれ
、明治維新後には、吉田から豊橋の改名に伴い豊橋城とも呼ばれた。かつては、西三河
から松平清康(長親の孫)が進出し吉田城を攻略。戸田氏まで屈服させて、三河支配権
を、ほぼ確立させた。しかし、天文4年(1535年)には清康が横死して松平氏の直臣の
城番が撤退、かわって非直臣の城番の一人牧野成敏がそのまま城主となるが、天文6年
(1537年)には牧野氏を追った戸田宣成が城主となっていた。しかし、秀吉の幕藩体制
の下で東海道の重要な防衛拠点の1つに挙げられ、吉田城に三河吉田藩の藩庁が置かれ
吉田氏が藩主となった。その後、家康は要の城として、江戸幕府の老中・大坂城代・京
都所司代格など有能な譜代大名が城主に選ばれ、出世城などと呼ばれていた。この吉田
氏をつれて、帆船は進んだが、周防灘に着いたころ亀甲船と5艘の船が取り囲もうとし
た。黒田の海賊船だった。それは朝鮮征伐で沈めた2艘とほぼ同じ造りだった。更に、
周りの船は鉄砲を持っていた。「国崩しに玉はあるか。」「はい、まだ充分残っており
ます。」「そうか、ではすぐ用意しろ。いいかあの亀甲船に近づき、沈める事はできる
か。」「はい近づけば船の上でも。」「そうか、黒田の曲者に目にものをみせてやろう
じゃないか。」「島津がいますが。」「なあに構わん。彼らとて、黒田に恩義はないだ
ろう。船が沈められたらどうしようもないはずだ。」「では今すぐ。」「充分間合いを
取って一発で仕留めて必ず打ち沈めよ。いいな。」「はっ、弐砲用意させ必ず仕留めま
しょう。」と言った。近づくと黒田の船は亀甲船から鉄砲を仕掛けて来た。そこで、「
よし飛ばせ」と大音と共に弾が飛んだ。ところが届かなかったようだ。しかし、幸運に
も船の底に当たった様だ。なかなか近づかない内に沈んで行った。

1637: 名無しさんAA:18/11/11 19:50
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   670   > 

松倉 重信(まつくら しげのぶ)は、九州騒乱時代はじめは、筒井順慶に仕えた家老で
あったが、順慶の没後養子の定次が伊賀に転封されると、息子重政は大和に残って豊臣
家の直臣となった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは単身参陣して徳川家康に認
められ、大和の五条二見城主となった。五条では諸役を免除して商業の振興を図るなど
城下町の整備を行った。とされる。ところが筒井順慶は安土桃山時代には茶人としても
知られた大物だった。代々興福寺一乗院の衆徒として勢力をもった土豪の出身で寺領を
侵略して勢力を拡大していたが、松永久秀に敗れた。織田信長に属していての、大和一
国を与えられて、1580年郡山城を築いていた。明智光秀の与力としていたが、この明智
の起こした本能寺の変は前触れのない災難だった。本能寺の変ののち秀吉は急ぎ毛利氏
と和睦(わぼく)し東上して、光秀はこれを山崎で迎え撃つ用意に至った。この時の戦い
は山城国山崎(京都府大山崎町)における物で山崎の合戦と称された。羽柴(豊臣)秀
吉と明智光秀のこの合戦明智軍は敗れ、敗走の途中土民に殺されたとされる。しかし、
筒井氏は山崎の戦いについて、洞ヶ峠(ほらがとうげ)に陣を置き明智光秀・羽柴秀吉両
軍の形勢を眺めて秀吉に向かう中で、松倉は既に実際は合戦の直前に秀吉あての誓紙を
出して殿の筒井を裏切る小さな第二の筒井の変を起こしていたのだ。洞ヶ峠では有名な
「洞ヶ峠の日和見」の献策をしたとも伝えられている。この洞ヶ峠のエピソードは江戸
期の軍記物『和洲諸将軍伝』の作り話ではあるが、本筋は西洋との外交収益の話だった
。まだ織田家が八方塞がりで小さな領藩だった頃、翌永禄8年(1565年)、家臣団の三
好三人衆と松永久通の軍勢は、突如信長の策略にはまり将軍足利義輝を暗殺し、(永禄
の変)を8月に起こしたが、11月には、方針の違いで松永久秀と三好三人衆は決裂し
、収拾を図ろうとした筒井氏は、三好衆に奇襲を仕掛けられ、同11月末には居城・筒井
城を追われる身になった。(筒井城の戦い)。この時、箸尾高春・高田当次郎といった
手下の勢力が順慶を見限り離れて裏切った為だ。居城を追われた順慶は、一族の布施左
京進のいる布施城に逃れ、しばらく雌伏の時を過ごした。しかし信長が衰える事はなか
った。悔いのなかで順慶は没し、後を継いだ筒井定次が伊賀国へ転封となった。この時
、賄賂によって松倉氏は、伊賀名張に8千石余を領した。その後も、豊臣秀吉に接近し
、大和国吉野に8千石余を領したとの記録がある。、



1638: 名無しさんAA:18/11/11 19:56
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   671   > 
 この松倉重信は、高田当次郎をひき連れて居たがが、南北朝時代の南朝方の国人領主
だった当麻高田氏の子孫だった。当麻氏は鎌倉時代過ぎても、興福寺などの荘園束ねた
国人領主で、当麻為清・為信・為祐ら代々当麻一族が在地の豪族の長として、天神社な
どの祭祀に関わっていた。応仁の乱以降は、布施高田氏の当主が死んで、当麻高田氏の
惣領為長のもとに両高田氏は縁故を結び強大な一体化した。かくして高田氏を名乗り、
海上交通交易を握った越智党の有力者として活躍した。一方で、曽我高田氏が筒井方の
家臣として行動していた。応仁の乱以降は畠山氏の後継争いの抗争は大きくなり終息が
つかず大和国衆を巻き込み泥沼化した。明応二年(1493)、将軍足利義稙を奉じて、本
流の曽我高田氏は、河内に出兵、義豊の拠る河内高屋城を攻撃しに加わり終息を試みた
。ところが、政長と義稙が京を留守にした間隙を突いて細川政元がクーデターを敢行し
、義稙は捕えられ、敗れ政長は河内正覚寺で自刃する結果となり、嫡男の高田尚順は紀
州に逃走し政変となった。この細川政元の謀略に一枚加わって謀った越智家栄は、上洛
すると幕政に参画しここに越智氏は海運海賊の頭領として全盛を迎え、高田為長はこの
越智党の中心的存在として活躍した。しかし、明応九年に家栄が死去すると同時に、こ
れまで抑えられていた家臣の筒井党が次第に勢力を回復していった。打ち続く戦乱に疲
れた農民は離れ、国人衆にも和議の気運が高まり永正二年(1505)、筒井・越智・箸尾
・十市・布施の五氏が春日社前において起請文を交し、和睦の誓いが建てられた。つづ
いて「一両一疋衆」とよばれる国衆も連判したことで、大和国人一揆体制が形成された
。翌年、大和国衆は焼落ちた安位寺再建の勧進に応じて、高田当次郎清房が為長として
署名している。当麻高田氏の代々「為」の字を用いていることから、この時又布施高田
氏が台頭して為長は文亀三年(1503)死去したようだ。高田氏は惣領の座をめぐる対立
が常にあり、布施高田清房が惣領になったのだろう。越智家栄の死をきっかけに高田氏
は筒井党内の様相を一変させ、為長の死をきっかけに筒井氏寄りであった布施高田氏の
清房が惣領になったものであろう。こうして大和国では国衆の一揆の協力体制が整い、
国衆は他国からの圧迫に協力して対応する。永正三年、畠山尚順を討ちに来る細川政元
は家臣、赤沢宗益を河内に進攻させようと求めたが、国衆はこれを断ったため、宗益が
大和に侵攻してきた。翌四年にあとを継いだ細川澄元が家臣の赤沢長経を大和に入部さ
せたが、大和国衆は団結して対抗し敗れた。ここに鉄砲が介在した。いま大牟田近郊の
市町村として、その当麻高田氏の名が町名として残る。何故か、それは松倉の過酷な取
り立てに干拓で応じて年貢の責を減らしてくれたからである。また後に三池藩として、
小野氏が守ってくれたからだ。

1639: 名無しさんAA:18/11/13 22:28
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   672   > 

 筒井・十市氏らは高田・万歳両城で体制を調えようとしたが、追っては厳しく宇智郡
に逃走し筒井氏が高田氏をたのみにした。高田氏もそれに応えている。しかしその後も
、細川氏と畠山氏の抗争のなかで大和は他国衆の侵攻が続き、享禄元年(1528)より三
年まで柳本賢治が侵攻、天文元年(1532)には一向一揆、ついで天文五年には畠山氏の
被官であった木沢長政が信貴山・二上山に城を築いて大和経略を開始した。幕府管領で
ある細川晴元を後楯とした木沢長政は、大和守護として、大和国衆にとって大きな脅威
となった。天文十一年、木沢長政が河内において戦死すると、筒井順昭が次第に勢力を
拡大し、再び越智党との間で戦いが繰り返された。こうして大和国衆一揆は瓦解した。
天文十四年には、越智家頼が死去。翌十五年、筒井順昭は越智氏の居城貝吹山城を攻撃
。この陣に高田氏も従軍し筒井党の一員として活躍している。こうして筒井順昭の威勢
は大和一国を覆うようになった。天文十九年、高田氏が万歳氏と争うと、順昭は高田氏
を応援して出陣すると万歳郷を焼き払った。このころの高田氏の惣領は「三界万霊塔」
を建立したとされる為成で、当麻高田氏の出自であった。幕府重臣である畠山氏、細川
氏らが内訌で勢力を失うなかで、細川氏の被官であった三好長慶が権力を掌握、永禄二
年(1559)、松永久秀を大和に入部させて権勢の膠着を謀った。しかし以後今度は、大
和は久秀の侵攻に翻弄される。筒井氏全盛を築き上げた順昭はすでに死去し若年の順慶
が、叔父順政の補佐を受け筒井氏の家督を継いだ。松永久秀は筒井氏を攻め、続いて、
万歳・沢城を攻略した。四年には多聞山城を築き、着々と大和支配体制を確立していた
。永禄七年に堺に逃れていた筒井順政が死去、翌八年、久秀の攻撃を受けた順慶は筒井
城より布施城に出奔しかくして、十市・箸尾・岡氏らが久秀方に走っていく。高田氏も
筒井氏との関係を絶ち松永久秀の配下に入る。その後、長慶が死去すると三好氏は久秀
と三人衆とに分かれて、内紛状態で三人衆は筒井順慶と結び、久秀は畠山氏と結んで、
両者は河内・和泉・大和において長年に渡り戦いを繰り返す。永禄十年、大仏殿に立て
籠った三人衆を攻めた松永久秀は、大仏殿を焼き払うという暴挙を行った。が、その後
、庶民の力を得られず劣勢に追い込まれた久秀は、永禄十一年、足利義昭を奉じて上洛
した織田信長に通じ、信長を後楯として大和の経略を再開した。高田氏と布施氏と抗争
は続き信長はそれを利用した。嫌気が差した松永久秀は武田信玄に通じ、信長に謀叛を
起そうとしたが見つかったが、足利義昭追放で終わり、天正元年(1573)ふたたび信長
の配下で大和支配を任された。

1640: 名無しさんAA:18/11/13 22:29
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   673   > 

 筒井順慶らの大和国衆も、久秀との抗争の中で、信長への接近を図っていた。やがて
高田氏は久秀のもとを離れて筒井氏に接近し、天正二年に何とか高田氏は筒井順慶とと
もに上洛、織田信長に面会をするに至った。しかし、高田氏は、岡・箸尾両氏とともに
信長が要求する人質を出さない事で帰っている。この事でふたたび信長に謀叛を起した
松永久秀は、十月、信長軍に攻められ信貴山城において爆死している。国崩しが京の都
にまで手に入った事による。以来、筒井順慶の大和一円支配が進められた。天正八年、
信長は国衆の城砦の破却と所領高の指し出しを命じ、ここに至って、大和一国は信長の
支配下に入った。これまでの大和の中世の荘園支配は終焉を迎え、同時に高田氏や越智
などの武家の護る朝廷の荘園領主制が消失した。『多聞院日記』によれば、ときの高田
氏の知行高は三千石であった。信長は、戒重・岡・大仏供・高田氏に生害(切腹)を命
じ、高田藤七郎は奈良の中坊において自害した。この後高田氏の在所には筒井順慶が赴
き、所領没収などの始末を行った。ここに高田氏は没落し、残った一族は離散の運命と
なった。それから二年後の天正十年、本能寺の変が起った。明智光秀の謀叛は信長の死
をもたらした。秀吉はこの状況を良く掴んでいてこの高田氏に家臣となるなら所領安堵
の密約をした。翌年、高田三河守は春日社に石灯籠を寄進している。高田氏が旧領に還
り住んだのである。この高田氏はおそらく当麻高田氏の為業と推測されている。同年、
筒井順慶から招かれた為業は、謀計であろうとみて熊野に落ちのびて時期を待とうとし
た。しかし、熊野衆から受け容れられず攻められ、一戦を交えて終わったと伝えられる
。羽柴(豊臣)秀吉と明智光秀のこの合戦明智軍は敗れたのは、明智が弱かったのでは
なく、明智は正義を果たすと諸大名はついて来る。と思っていたからだ。しかし、南蛮
貿易で日本人奴隷500人と火薬一樽の交換の密貿易で潤っていた松倉重信は、当然な
がら筒井順慶の明智への帰順を止めた。かつても、松永久秀は織田信長・足利義昭と誼
を通じたが、対する順慶は久秀の打倒に固執するあまり、情報収集がなく。劣勢の順慶
を見限り、菅田備前守などの家臣は順慶から離反している。つまり稚拙な順慶は家臣に
裏切られる体質なり構造を持っていた。松倉重信は秀吉に帰順し、大和に残って豊臣家
の直臣となったが、天正十三年、高田為政が郡山城主となった時羽柴秀長に召されて、
森・堀江・山本の三人を供として城下に参着したところ「お手討」と伝えられた。この
宣下で、部下と共に4人自害して果てた。これは奴隷貿易での利潤を秀吉が全く許さな
かったからだ。こうして秀吉は九州討伐に乗り出す事にした。

1641: 名無しさんAA:18/11/13 22:29
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   674   > 

この時、松倉重信以下越智氏が持っていた水軍は全てを、浪速に来ていた博多商人の、
小西行長に与えた。その中には洋船2艘、亀甲船2艘、早船14隻、他ジャンク船など
多くの船が、船奉行の小西に与えられ博多に向かった。柳川についた松倉の配下の森・
堀江・山本・岡・荒木・高田・松永・戒重(富重・柴村)・大仏供(大渕・渕上)など
の一族は、そのまま家臣として九州に乗り込み、九州征伐以降居ついてしまった。こう
した人達は、有利な羽柴方についたとされ、日和見(ひよりみ)主義の典型という俗説が
生まれるが、この秀吉はこの明智坂本家の悲運は既に見越していた。というのも宣教師
の暗殺部隊が暗躍していた事を掴んでいたからだ。天正7年徳川氏の悲運は、8月29日
- 徳川家康が妻の築山殿を殺害、9月15日 - 徳川家康の長男信康が自害する羽目に陥っ
た。信長の知略であったが、その裏にはバテレンの助言があったからだ。天正8年の時
(1580年)1月17日 - 羽柴秀吉に三木城を攻められ、別所長治が自刃(三木合戦)した
が、3月5日- 織田信長と本願寺の宗主顕如との和議が成立した。此の事で、石山本願寺
は指導者を失い戦いは失せるかと思われたが、8月2日- 石山本願寺を焼打ちさせて石山
合戦が終わった。こうしてやっと11月17日- 柴田勝家が加賀一向一揆を鎮圧し、翌9年
(1581年)2月28日 - 織田信長が京都で馬揃を行った。3に入り徳川家康は武田家攻略
を命じられ支配下にあった高天神城を奪回(高天神城の戦い)4月には堀秀政が織田信
長に従わなかったとして槇尾寺を焼き討ち、この非情さは、龍造寺隆信が隈府城を攻略
し、7月に羽柴秀吉が鳥取城を包囲し、10月に大友義鎮が彦山を焼き討ちなどを起こ
していた。銀貨金貨が大量に南蛮船に入り、中国向けの鉄砲が日本に持ち込まれ証でも
あった。天正7年(1579年) 5月11日 - 安土城の天主が完成して5月27日-安土城では
安土宗論の完成式典と神学校のセミナリオが行われ、いよいよキリスト教の天下となっ
ていった。8月29日徳川家康が妻の築山殿を殺害、12年(1584年)3月24日、仏教守護を
目指した龍造寺隆信は、島原で島津家久などとの戦いでは念密な攻略で、敗死(沖田畷
の戦い)した。4月9日小牧・長久手の戦いで雌雄を決して、6月28日 堂々とスペイン船
が平戸に初来航した。天正13年に(1585年)大徳寺で大茶会を開いて、つぶさに今ま
でを見て来た現実を振り、海外交易について、話合っている。こうして清州会議以降を
天下治めた秀吉は、キリスタン禁教令を考えながらも茶会でこれからの基礎を固めた。


1642: 名無しさんAA:18/11/13 22:33
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   675   > 

 石川家は古くからの徳川家の家臣であった。家康に近習していたこともあり、戦後に
家康から家老に任じられ、酒井忠次、石川家成らに次いで重用されるようになっていた
。信康が元服するとその後見人となったり。永禄12年(1569年)には、西三河の旗頭
であった叔父後をついで代わって西三河の旗頭となっている。この叔父の家成が遠州の
要であった掛川につくと、多くの合戦に出陣して数々の武功を挙げた。ところが天正7
年(1579年)に信康が切腹すると、岡崎城代となって多くの情報が彼の元に飛び込んで
きた。天正10年(1582年)には、織田信長が死去し、その後に 信長の重臣であった
羽柴秀吉が台頭し、数正は家康の命令で秀吉との交渉を担当する事になった。このため
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも参加。この戦いにおいて家康に秀吉と
の和睦を提言した。ともされる。しかしなかなか折り合いはつかず、天正13年(1585
年)11月13日、突如として家康の下から出奔して、秀吉の下へ逃亡したのである。「三
河物語」や「松平記」は、すでに秀吉に篭絡されつつあった事を書いている。理由は謎
であり、「家康と不仲になった」「秀吉から提案された条件に目が眩んだ」など諸説入
り乱れているが、今でもはっきりした理由は分かっていない。しかし、数正は、多くの
徳川の軍事的機密を知り尽くしており、この出奔は徳川にとって大きな衝撃であった。
以後、徳川軍は機密漏えいに対応するため三河以来の軍制を武田流に改めることになっ
たという。徳川氏にとっては石川氏は首席家老であり、経済の出納の全てを押さえてい
る大切で余人に代え難き者で、幼少の頃今川家に人質として出された頃からの盟友であ
ったのだ。その後、秀吉から河内国内で8万石を与えられ、秀吉の家臣として仕えた。
この時、通称を出雲守に改め、秀吉より偏諱を賜って吉輝と改名し、出雲守吉輝を称し
たと伝わっている。天正18年(1590年)小田原征伐で北条氏が滅亡し、家康が関東に
移ると、秀吉より信濃国松本(筑摩郡と安曇郡)19万石に加増移封された。数正は、
松本に権威と実戦に備えた雄大な松本城の築城と、街道をつなぎ流通機構の経路を掌握
するための城下町の建設、天守閣の造営など政治基盤の整備に尽力した。この出雲守を
自ら称した理由は、この奴隷制度によるものだ。松倉重信以下越智氏が持っていた水軍
の全てを、浪速に来ていた博多商人の、小西行長に与えた時そこには人権主義の秀吉が
いたからだ。秀吉は信長時代の人身売買を決して許さなかった。それは産まれながらに
して武将である地方の殿様の跡取りと、貧乏な百姓出で国民や領民を守るための武士や
武将を目的に這い上がってきた意思の違いが存在していたのである。


1643: 名無しさんAA:18/11/13 22:34
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   676   > 

 別所氏は早くから織田信長に従っており、家督を相続した長治も天正3年(1575年)
には信長に謁見し、翌年も年頭の挨拶に訪れている。天正5年(1577年)に信長が紀州
征伐へ出陣すると、長治もこれに加勢し従軍した。しかし、信長が中国地方の毛利氏を
制圧しようとすると、それに呼応して先鋒の役を務めようとしたが、織田勢による上月
城の虐殺、中国方面総司令官が成り上がりの羽柴秀吉であることに不満を感じていた。
妻の実家である丹波国の波多野秀治と呼応して信長に反逆したのは、奴隷売買が成立し
た為だ。多くの周辺勢力が同調、従わなかった勢力も攻め、東播磨一帯が反織田となり
自害に追い込まれた。信長の命を受けた秀吉の軍勢に攻められ、神吉城や志方城などの
支城も落とされ、毛利氏からの援軍も途絶えて、遂に籠城してから2年後の天正8年に
(1580年)、城兵達の命を助ける事と引き替えに妻子兄弟と共に自害したのである。こ
れまで、日本人は太平洋沿岸にポルトガルやスペイン船が最初に来ていた様に教え込ま
れいる。しかし、現実には、兵庫や鳥取或いは京都や金沢は古くから異人交易がなされ
、西洋の大船は底が深かった為に日本海沿岸に隠れて発着していた。それは同時に瀬戸
内海を海賊で追われていた為でもあった。ここで秀吉は多くの金銀を得て財政基盤とな
したのだ。キリスタンに奴隷を売ることなく、尼子氏の持っていた鉱山から金採掘に海
外知見を足して、効率の良い再開発で鉄砲や火薬を持つ力を得た。弘治3年(1557年)
の時に火薬製法が大内氏の中に伝来された。しかしこれが内紛と混乱をもたらし、この
混乱を制した毛利元就は、安芸から防長を手中にし戦国大名の中国の長となった。やが
て石見東部へ侵攻を始め、1559年、尼子家支配下の備後北部に毛利氏が攻撃を開始し、
大内晴久は突然の攻撃に、美作東部から兵を引き返して、備後へ援軍に駆けつけたが、
備後北部の尼子方国人衆は既に駆逐されており、為す術もないまま、尼子軍は備後より
撤退した。守りのないまま九州攻撃に派兵を掛けた為だ。大内晴久は石見銀山を巡る戦
いでは優勢であったが、永禄3年(1560年)晴久が急死して、将軍・足利義輝に毛利氏
との仲介を依頼し一旦、和睦したものの毛利元就はその後、一方的にこれを破棄して、
永禄5年(1562年)より出雲侵攻を本格化させた処に、秀吉が介入したのだ。本来鎌倉
室町期には金は獲れども辺ぴな月山富田城(現在の安来市広瀬)は尼子郷も含めて出雲
の守護代として同地に下向した宗家京極氏が守護を務める場所だった。出雲と隠岐の守
護代を通して雲伯の国人を掌握し、朝廷との橋渡しをした鉱山師(やまし)大名だった
のである。

1644: 名無しさんAA:18/11/13 22:34
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   677   > 

 15世紀末に守護代を継承した持久の孫・経久は、室町幕府からの税の要求に従わな
かったために 守護職である守護代の地位を剥奪されて、月山富田城を追われた。この
追われた京極政経(きょうごくまさつね)は、室町時代から戦国時代の武将で守護大名
で、室町幕府の相伴衆でもあった。近江・出雲・隠岐・飛騨4ヶ国の守護を兼ねていて
この金の産出が止まらなければ、京極持清の3男で姉妹にいる畠山政長室などに畠山氏
の後継争いもならなかったのだ。すなわちこの日本の戦国時代は日本の小さな流通社会
において金産出の欠乏がもたらした経済恐慌に鉄砲や黒船などの外的要因で出来ていた
。その原因が跡目を巡って次兄の政光及び勝秀の子とも弟ともされる高清と家臣の多賀
清直・宗直父子との間で争った京極騒乱であった。家臣の多賀高忠・六角政堯らの働き
で一時は近江を制圧したが、文明3年に政堯が敗死、文明4年(1472年)に高頼及び美
濃守護代の代理の斎藤妙椿の援軍を得た高清派に大敗、高忠と共に越前に逃れたのだ。
それ以降は尼子氏の金の産出量は大きく減った。硝石や火薬の製法が隠れてしまって、
金鉱を掘り進める技術が消えてしまったからだ。これ以降加賀藩では秘密裏の山奥の隠
れ里で火薬の製法を行っていた。しかし天正13年(1585年)1月13日 - 石川数正が徳川
家康の元から出奔した後11月29日北陸・畿内で大地震(天正地震)越中国木舟城の崩壊
で城主の前田秀継が死去、帰雲山崩壊で帰雲城は埋没し、天正14年(1586年) 6月24日
には木曾川が大洪水となって、日本の経済はますます混乱に拍車をかけたのだ。かくし
てこの秘伝の火薬の製法を握ったのが、越前国を拠点とし、後に発展して戦国大名とな
った越前朝倉氏である。もともと越中ふんどしとされた、白旗丸薬は有名で今でも富山
の薬売りは伝説でも現実にも残っている。すなわち薬剤や科学物の製法に長けていた。
朝倉氏自体が自立したのは越前国守護・斯波氏に仕えて、甲斐氏、織田氏に次ぐ斯波三
守護代の第三席となり守護に任命されるようになって、越前国を支配したからだ。伝説
では、平安時代末期に日下部宗高が但馬国養父郡朝倉に住し、はじめて朝倉氏を称した
とされる。宗高の子・朝倉高清は平家に与したことで鎌倉時代に領地を没収されたが、
関東で誰も退治できなかった白猪を射て退治した功績で、源頼朝より領地の安堵と木瓜
紋を賜ったとされる。その後、朝倉氏は朝倉城を築き、代々この城に拠った。戦国時代
は越前一国を安定支配し、その余勢で隣国の若狭、加賀、近江、美濃にも出兵している
。足利将軍義輝の弟である足利義昭が落ち延びて来ると、当主・朝倉義景はこれを庇護
した。だが義昭を擁しての上洛はせず、代わって それを実行した尾張国の織田信長が
京都の政権を掌握した後にも従うこともしなかった。

1645: 名無しさんAA:18/11/13 23:38
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   678   > 

 第11代朝倉義景は、浅井長政らと同盟して信長と度々戦ったが、1573年(天正元年)
には敗れて一乗谷を焼かれて、義景は自刃し、戦国大名としての朝倉氏は滅んでいる。
しかし分家越前朝倉氏の一族とされる朝倉在重が徳川家に仕え、子の宣正は徳川忠長の
附家老・掛川城主になるが、忠長の改易に連座して宣正も改易となった。宣正の弟の家
は江戸幕府旗本として存続した。元亀元年(1570年)、織田・徳川連合軍と朝倉・浅井
連合軍は姉川で激突する姉川の戦いを行った。しかし朝倉軍の総大将は義景ではなく、
一族の朝倉景健であり、兵力も8,000人(一説に1万5,000人)だったがこれは致命的な、
敗退に終わった。朝倉軍は徳川軍と対戦したが榊原康政に側面を突かれて敗北し、姉川
の戦いは敗戦に終わり『信長公記』によると浅井・朝倉軍は1100余の損害を出したとさ
れる。信長が三好三人衆・石山本願寺討伐のために摂津国に出兵(野田城・福島城の戦
い)している隙をつき、義景は自ら出陣し、浅井軍と共同して織田領の近江坂本に侵攻
する。そして信長の弟・織田信治と信長の重臣・森可成を敗死に追い込んで、さらに大
津で焼き働きし、醍醐・山科に進駐した。直ぐに信長が軍を近江に引き返してきたため
、比叡山に立て籠もって織田軍と対峙した(志賀の陣)。このとき信長は比叡山に自ら
に味方するよう求めたが無視され、また10月20日に織田・朝倉間で小規模な戦闘があり
、信長は義景に日時を定めての決戦を求めたが義景はこれも無視した。信長は義景のも
つ兵站や退路を断つために堅田に別軍を送りながら朝倉・織田間で合戦をした。この合
戦は痛み分けとなり足利義昭・二条晴良らが坂本に下向して和睦の調停を行なう。原因
の足利氏の調停には困惑したが、さらに信長は朝廷工作を行ない足利氏の帰京を許し、
信長と義景は勅命講和することになった。信長は秀吉に命じて越前や近江間の交通には
全てを遮断・妨害した。義景は顕如と和睦し、顕如の子・教如と娘の婚約を成立させ、
六角承禎が京都に侵攻しようとした際には、洛中で放火などしないようにという書状を
送っている。義景は浅井長政と共同して織田領の横山城、箕浦城を攻撃するが、信長に
よって兵站を脅かされて敗退した。この後、信長は前年に朝倉に協力した比叡山を焼き
討ちした。 ここで、六角氏や朝倉のほとんどがこの京都を捨てて九州を目指した。

1646: 名無しさんAA:18/11/13 23:38
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   679   > 

 古伝に建仁三年(1202)に「封を筑前秋月荘に賜る、城を築き、秋月をもって氏とな
す」にある秋月氏は原田氏の流れを持つ家系だ。源平争乱期の原田種直は、平家と結ん
で平重盛の養女を室に迎え、大宰少弐に任じられてその勢力は隆々たるものだったが、
平家が壇ノ浦で滅亡するに及んで、原田氏は領地を没収され、種直は鎌倉に幽閉の身と
なった。秋月氏の祖種雄(種生)は原田種直の子で、「秋月家譜」によれば「種雄賜封
筑前秋月荘乃城而治之、自是以秋月為姓也」とある。すなわち、源頼家の時代に秋月荘
を賜って、地名によって秋月を称したという。平家ながら源氏の鎮西御家人となったが
信頼は薄く、その後守護として赴任してきた新参の少弐氏、島津氏、大友氏などの東国
御家人の傘下に置かれるこの秋月氏も大友の仕掛けた九州騒乱時代には右往左往の変遷
を得て、秋月氏の全盛も長くは続かなかった。天正十四年に始まった秀吉の九州征伐で
は、種実・種長父子は秀吉に対抗して島津氏に属し籠城したが、秀吉は古処山城の支城
で熊井越中守が籠る天然の要害、岩石城を攻撃し成果を上げた。秀吉にとっての、九州
で最初の城攻めで、力を誇示し見せしめのためにも総力をあげて攻めた。豊臣軍は豊臣
秀勝を大将に、大軍で包囲し蒲生氏郷・前田利家らを副将とする五千の兵で、秋月方の
精兵三千騎にてこずっていた。山上からは大木・大石の投げ落しや、矢弾を乱射で防戦
につとめ全く落ちなかった。しかし、近代装備と戦なれした秀吉軍が物量では圧倒し、
策略を弄して大変な被害を出しながら夕刻に落城させた。種実は中間にある益冨城で戦
況を見守っていたが、一ヵ月ぐらいの籠城には耐えると考えていた岩石城がわずか二日
目で落城したことに驚き、益冨城を破壊すると兵をまとめて、古処山城に逃げ帰った。
翌日には、秀吉軍は古処山城を囲んでいっせいに篝火を焚かせ、そのおびただしさに改
めてて秋月氏は驚き、夜が明けると昨日破壊したはずの益冨城が一夜で布張りの白亜の
城を建てた。これは秀吉一流のトリックだったが、これが効を奏しこれを見た秋月方は
戦意を喪失して古処山を降りて降伏した。この後朝倉氏は宮崎高鍋に移封されこの地を
去った。こうして秋月氏は江戸時代を通じて、日向高鍋藩として存続した。古処山はこ
の後一時廃城となり、日田と同じ天領だったが、黒田氏の福岡藩の支藩として元和9年
(1623年)黒田長政の三男・長興が福岡藩より5万石を分知され立藩した。秋月氏は無
城大名ではあったが城主格が与えられ、4代藩主長貞の息女、春姫は高鍋藩秋月氏に嫁
ぎ、次男は名君として名高い上杉鷹山となった。


1647: 名無しさんAA:18/11/13 23:38
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   680   > 

 この朝倉氏や筑前朝倉の秋月氏を一時的に連れ添ったのが何故か立花氏であった事は
余りしられていない。と言うのも立花氏は秀吉は大変気に居られたからだ。柳川につい
た松倉の配下や三好衆の配下森・堀江・山本・岡・荒木・高田・松永・戒重(富重・柴
村)・大仏供(大渕・渕上)などの一族は、そのまま家臣として九州に乗り込み、九州
征伐以降居ついてしまった人々である。岡氏は大川に住し、松永氏は三潴に住んだ。荒
木氏や高田氏などは今でも街などの地名になっている。荒木又右エ門の放浪記では、そ
の剣豪ぶりからも、五輪の書の宮本武蔵でさえも、逆に柳川に近づけなかった事が解る
。それは鍋蓋で柳生を止めた塚原朴伝や柳生宗矩や後藤又兵衛すらも、避けて通ったと
言われている。つまり小野 鎮幸(おの しげゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にか
けての最強の剣豪で、立花氏には更に綿貫氏や渡辺氏や問注所氏や十時氏や由布氏など
、最強の家臣団が、層々たる猛者が居すぎて、あの剣豪佐々木小次郎すら家臣になる事
の為の仕官にあとをついて行った程の器量があったのだ。そこに目を付けた秀吉は、こ
の近畿や関西圏の無法者たちを九州の立花氏に向けたのである。布施氏や六角氏などの
無法者が佐賀の多布施や六角川や或いは八田氏などが、八田川などの近郊にに住んだの
が、柳川立花藩に比べたら、極少数だったのだ。細川藩に迎えられた宮本武蔵も理由は
簡単だった。立花氏と雌雄を決したかったのだ。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで
は父の新免無二が関ヶ原の戦い以前に東軍の黒田家に仕官していた黒田家の文書が存在
するほど弱かった為に仕官の為の大アピールをしてやっと巌流島の決闘に至っている。
つまり浪人集めに乗った無宿浪人の一人だったのである。父と共に当時豊前国を領して
いた黒田如水に従い、この九州の関ヶ原に東軍として九州で戦った可能性が高く、伝承
では柳川を避けて山越えして身を隠してこの期に肥後に入ったと言われているが確証は
ない。又、1612年(慶長17年)に、この「岩流」は剣豪宮本武蔵と決闘したが、武蔵と
九州小倉藩は細川氏の藩で数々の罠を仕掛けていた。最後は「舟島」で決闘し、これに
敗れて死んだのではなく、この決闘時の年齢は、宮本武蔵が20代で佐々木小次郎が60歳
近くだったし、真剣ではなく漕ぎ手の櫓によって殴られ息を吹き返した所を細川の藩士
に切り殺された事が解っている。小野鎮幸は立花氏の家臣で、日本槍柱七本・立花四天
王の一人に数えられている。また和泉守であることから小野 和泉(おの いずみ)とも
呼ばれたが、小野氏は7人兄弟であった。筑後国柳川城の城主となった道雪の子・宗茂
からは家中で最高の5千石の禄高を賜り、次席家老を務め、蒲池城主となった。文禄・
慶長の役にも参加し、数々の武功を立てている。

1648: 名無しさんAA:18/11/13 23:39
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   681   > 

 大蔵氏流秋月氏の「三つ撫子」は少し愛らしく有名な紋である。これは、月に映える
撫子を配した故地の秋の情景を祈念したものだ、といわれている。しかし、大蔵氏の祖
春実が藤原純友の乱に際して、朱雀天皇より錦の御旗および天国の短刀を賜わり、小野
好古らとともに純友を追討したと言う歴史がある。その勲功によって西征将軍となり、
筑前に所領を賜り九州大蔵流諸氏の祖になった。春実は朱雀天皇より賜った御旗に大和
撫子の紋があったことにより、大和撫子をもって家紋とした。その後、大蔵氏は原田氏
を嫡流として、高橋・江上・田尻・天草の諸氏が出てきて鎮西の大族となったのである
。戦国時代、龍造寺氏に仕えた成富氏も大蔵氏流で撫子を紋としており、撫子紋は大蔵
一族の共通の紋であったようだ。秋月氏も大蔵氏流として撫子紋を用いたものを、いつ
の頃か美化したものであろう。その他、清和源氏では源頼季流の井上・山口の諸氏、藤
原秀郷流の柴田氏、穂積氏流の鈴木氏などが撫子紋を用いている。中でも最も関東武士
でありながら柳川近郊で使ったのは田尻氏である。田尻氏は鎌倉時代から山門郡高田町
田尻地区一帯を本拠とする国人領主で、大蔵春実の後裔といわれている。しかし口伝に
拠れば荒尾近郊の山で平家追討者がそのまま居つき大雨災害で高田まで降りて来た。と
言われている。系図では、寿永年間(1182〜84)に大宰大監原田種成の三男原田種実が
、筑前国から筑後国三池庄田尻邑に移り住み、田尻三郎を称し始祖となっている。弘安
四年(1281)の元寇の戦いに、種範の子種重・種光兄弟が出陣して戦死、その功により
種重の子種長が薩摩鹿児島郡の地を与えられた。筑後国の守護は肥後菊池家を本領とし
ていたが、相次いぐ謀略で大友氏が台頭し、田尻氏は左衛門大夫恒種のとき大友氏に属
するようになった。永正年中(1504〜21)に筑後の黒木・蒲池氏らが大友氏に謀叛を企
てたが、遠江守治種はその誘いに応じず、大友氏に忠節を通したという。田尻氏は三池
北部と山門郡南部に知行地を領し、治種のあとを継いだ伯耆守親種の代に山門郡鷹尾城
を築いて居城とした。天文十九年(1550)「二階崩れの変」で、大友義鑑が横死した。
家中の混乱を押えた宗麟が、大友氏の家督を継いだが、大友義鑑に肥後を追われていた
菊池義武が、旧臣を催し、さらに筑後の三池・西牟田・溝口氏らの支援を得て熊本城に
復帰した。この争乱に田尻親種は、大友氏に味方して鷹尾城に立て籠り、三池・西牟田
・溝口氏らと戦った。親種は蒲池氏と結び、一族の山城守鑑乗らの活躍もあって筑後の
反大友勢の討伐に活躍した。

1649: 名無しさんAA:18/11/13 23:42
界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   682   > 

 天文二十年には、大内義隆が重臣の陶隆房(のち晴賢)の謀叛で殺害され、隆房は義
鎮の弟晴英(のちの大内義長)を大内氏の跡継ぎに迎えた。いままでは大内氏の攻勢に
、さらされていたが、大友氏は、ここに反撃し豊前・筑前に勢力を拡大することができ
た。更に、弘治元年(1555)に晴賢が毛利元就と戦って敗れ、さらに内義長も元就によ
って滅ぼされると、北九州の情勢はにわかに急を告げて、筑後・肥後も大友は力を入れ
取った。弘治三年(1557)、筑紫惟門・秋月文種らが毛利氏に通じて、大友氏から離れ
て兵を挙げた。義鎮はただちに兵を送って、死闘の末、筑紫、秋月らを討ち取った。永
禄二年(1559)、毛利に逃げていた息子の筑紫惟門は、博多を襲撃し勢力を盛り返した
。大友軍はただちに討伐軍を出したが、侍島の合戦で大敗を喫して、星野鑑泰・問註所
鑑晴らが討死した。田尻親種も一族を率いて参陣したが、弟の種廉・種増をはじめ多く
の兵を失った。ほどなく、惟門は大友軍に降伏を申し入れたが、それを取次いだのは、
親種であった。筑前の争乱をおさえるため義鑑は、高橋鑑種を筑前代官、太宰府宝満城
督として派遣した。この時の毛利氏の侵攻が矢部川支流の毛利川の地名になった。更に
白鳥の戦いで残った毛利氏勢は、森の姓に変えて田尻氏に仕えた。しかし北九州では、
筑前・豊前を舞台に大友氏と毛利氏の戦いは繰り返され、永禄四年には大友氏は毛利軍
に大敗した。やがて永禄七年、将軍足利義輝の扱いで毛利・大友氏の間に和睦が成立し
た。ところが、永禄九年になると、宝満城督の高橋鑑種が秋月種実、筑紫惟門らに呼応
して、大友氏から離反した。このような筑前の擾乱に業を煮やした義鑑は、戸次鑑連を
大将とする討伐軍を筑前に送った。鑑連は高橋鑑種を降すと、秋月氏の拠る古処山城の
攻略に向かった。この陣には、豊前の長野・麻生・城井の諸将や、筑後から三池親高・
田尻鑑種らが参加していた。そこへ、毛利氏が豊前に渡海したとの噂がたち、豊前の諸
将は兵をひきあげ、鑑連も仕方なく一旦休松まで兵を退いた。それをみた秋月種実は、
夜襲を企て、休松の大友軍を散々に打ち破った。この戦いで、戸次鑑連の弟四人が戦死
し、鑑種も叔父鑑永をはじめ一族六人を失った。この敗戦によって、大友方の立花城将
立花鑑載までが大友氏から離反した。この時龍造寺氏は少弐氏が武藤に変えたように、
家老の鍋島氏によって死亡し廃嫡に及んでいる。ところが叔父で英彦山の僧として秋月
に保護されていた龍造寺氏を、田尻氏は鷹尾で預かっている。これが蒲池氏の大きな禍
いになった


1650: 名無しさんAA:18/11/13 23:42
。やがて、大友義鑑は庇護していた大内輝弘を周防に帰国させ、さらに出雲
の尼子残党に手をまわして毛利氏の後方攪乱をはかったが、毛利氏も水軍を持って出た
。しかし国崩しの大砲合戦では船が弱く、ついに毛利氏は北九州から撤退し、反抗勢力
も大友氏の征圧されていった。その間の争乱に田尻氏は大友方として出陣、多くの犠牲
をはらったのである。



1651: 名無しさんAA:18/11/13 23:42
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   683   > 

 もともと小野氏族は松石氏の家臣だった。小野妹子などが先祖の小野氏は、先行松石
氏の古処山城などに住する人だったからだ。鎮守将軍となり小野春風や追捕凶賊使とし
て藤原純友の乱の鎮圧にあたり小野好古なども出している。武蔵七党の筆頭の横山氏(
猪俣氏)は、小野篁の末裔。横山氏(猪俣氏)の一族で、新田氏と自称した由良氏(横
瀬氏)も小野を本姓としている。そもそも小野家は御乃であり、安曇磯良丸(あずみの
いそらまる)伝説では、弥永氏と同じに武内宿禰(たけのうちすくね)の一族の流れに
ある中で、天皇の御声がかかった者らと言う意味になる。小野和泉守鎮幸(1546〜1609)
は、大友宗麟、立花道雪・宗茂に仕えた重臣である。生涯22の大戦に、小さな戦いでは
数えきれぬほど出陣し、67か所の傷を負い、68枚の感状を受け取った立花家屈指の名将
である。同時期に活躍した由布雪下入道(惟信)と共に「奇正相性」と称され、立花の
両翼と目された。しかし由布惟信(1527〜1612)は、別府氏と共に湯布院を治めた藩主で
あり大神氏の家臣だった。この為立花家再興の前から日子族の家系で、ほぼ立花氏が敵
対敵将の頃から携わりのある武将だった。道雪・宗茂を通じて家に尽くした筆頭家臣で
ある。生涯65の戦に出陣して、65か所の怪我を負い、70枚の感状を賜った。由布惟信は
湯布院に生まれ、その地域を治める一国衆に過ぎなかったが、大友家内で頭角を現すと
、由布家は自然と大友家に仕え由布と戸次は仲良くなった。後で主君である戸次鑑連と
(とつぎあきつら:後の立花道雪)と出会い、彼の戦に感激した惟信は家督を嫡男に譲
ると、自分は領地や知行を捨てて鑑連に随行する。立花道雪は、若き頃に雷に打たれ、
雷神を斬って生還したが、下半身不随というハンデを抱えた、しかし参加した戦は生涯
無敗とされ、神輿の状態でも敵を5人一度に斬殺したという伝説をもつ武将である。い
わばカリスマの知将であった。この道雪のカリスマ性に惚れ込んだ諸将が立花家の門を
叩き、家臣となった例は多く、又担ぎ手は世話方の12人の女子だったという話だった
。小野鎮幸は、大友宗麟の直属家臣で、領主制の筆頭家臣だった立花道雪の目付として
松石城に赴いた。しかし道雪家臣の由布雪下惟信にその武勇を見出され、惟信は自身の
家禄を減らしてまで立花家に鎮幸を引き入れた。立花家の中で鎮幸は頭角を現し、立花
家の陣において由布惟信と共に両翼を担当した。両者とも道雪・宗茂が参加した戦にほ
とんど参加しており、立花軍は戦国でも髄一の強さを見せたのは由布・小野両名の働き
があったからである。とされる。



1652: 名無しさんAA:18/11/13 23:43
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   684   > 

 道雪には手塩にかけて育てた一人娘・ァ千代がいた。56の時にやっと生まれた愛娘
だけに、その溺愛ぶりたるやすごかった。鑑連はァ千代に男子同然の教育を施し、ァ千
代の誕生日に家督や居城をァ千代に譲り、自分は隠居として娘に仕えると言い出して、
当然、次期当主は自分こそが立花の正統な後継者だといってァ千代が引き下がらなかっ
たのだ。流石に、それはいかがなものかと家臣の説得を受けた道雪はァ千代に婿を取ら
せることにした。その婿こそが剛勇鎮西一・立花宗茂であるが、何かと婿養子では肩身
が狭い。事あるごとに惟信は幼い宗茂をいじめたというエピソードがある。宗茂も剛の
者で次第に立花家の家風に慣れていき、「立花の3000は敵兵10000に匹敵する」と
称されるほどの名将に成長し、道雪の死後に、婿養子となった立花宗茂が家督を継いだ
。しかし、一つ問題があった。婿養子の宗茂が継ぐのが普通だったのが、ァ千代は城主
の座を譲らなかったのである。それは当然と言えば当然だった。戦国の中にあって、婿
城主とは言え、離縁し政略結婚したり、覇者から人質として差し出せとなれば、悲しい
運命(さだめ)の下で城の外に放浪する話も多々あった。それよりは城と共に命運をか
け闘う事を望んだのである。これは気性からして譲る事はない話で当然だった。そこで
預かり城主つまり雇われ社長みたいな近代的な形で領主となった。かつて第76代目の
胸方氏は宗像大宮司の宗像正氏とその正室山田夫人との間に一人娘が生まれ菊姫として
可愛がって育てていた。しかし、時の大宰府の宰相として大内氏がなり、筑前、豊前の
守護大名として中国地方の出仕を命じられ、父正氏は大内家への軍役を果たすために、
菊姫親子を宗像の地に残し、山口に三年間ほど住んだ。この期間に大内家家老陶隆房(
陶晴賢)の策略で姪照葉を側室に迎え、菊姫の異母兄弟となる鍋寿丸(氏貞)と色姫を
もうけた。菊姫は14歳の頃に、伯父方の大宮司を務めた氏続の子宗像氏男と結婚し、
正氏の死後は氏男が宗像大宮司の家督を継承した、正氏と同じく山口に出仕しているが
、陶隆房が蜂起した「大寧寺の変」により主君大内義隆に殉じて氏男は死亡した。そこ
で起こったのが家督を巡る争いである。最終的にこの争いは、陶隆房の勢力をバックに
した鍋寿丸側が討っ手を差し向け、千代松及びその父氏続は豊前に逃れるも、千代松は
山口(宮若市)で、氏続は彦山で討たれた。その後も命を受けた家臣により山田局、菊
姫、四人の侍女などが惨殺され乱入した雑兵により財宝を奪われたという。山田事件で
ある。陶氏は大内氏を討つとき、既にこの宗像氏のもつ船積みの権限を奪うのが目的と
していたのである。


1653: 名無しさんAA:18/11/13 23:44
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   685   > 

 この時、晴賢の指示を受けたのが石松典宗(石松又兵衛尚季)であった。天文21年
3月23日白山の麓の山田館において正氏の後室山田局、菊姫、小少将・三日月・小夜
・花尾の侍女4人が次々と惨殺されたが、盗み入った時山田局は菊姫を守り、花尾は自
害した。その後は、邸宅の後ろの山の岸の下に穴を掘り菊姫親子を一緒に埋め、死んだ
女房四人も傍らに埋めたという。千代松の母弁の前は千代松を連れ鞍手の沼口に身を隠
していたが、雇われ浪人の石松を見張って氏貞の家臣がいたが、千代松を生かしておけ
ばいずれ災いとなるに違いないと思った氏貞派は討手を差し向け、宮若市山口村で母子
共に殺害した。討手はその場所に二人の亡骸を埋めて印に松を植えたという。これは、
氏貞の親戚である陶晴賢が宗像地方に影響力を持つために氏貞を周防国から送り込み、
自分にとって邪魔である宗像正氏の影響力を消し去るためにこの事件を行ったとされる
。この、宗像氏の一連の内紛全体のことを宗像騒動といもいう。この事件の後には、宗
像家中で、事件に関わった者たちが次々と怪死や変死をした。数々の怪異が起き、宗像
領内では山田事件の怨霊がささやかれた。事件の七回忌にあたる永禄7年、氏貞の妹色
姫が母と一緒に双六に興じていた際に、突然髪を振り乱し「我は正氏の妻なり」と言っ
て目を怒らせ母を責め立て、自分(山田局)と娘(菊姫)を殺したことを怒り恨んで、
母照葉の喉に食い付き、傍らにいた者達が大勢立ち寄って引き離すも、その外にも後室
に仇なした家人共に今日恨みを晴らそうと怒り責め立て、氏貞派であった家臣がその日
突然死したりしたと言う。色姫の狂気は暫くして癒え、照葉の喉の傷は癒えるも、他の
者も病気にかかり次々と死去した。今では外国船の出入りの為に赤痢や天然痘が流行っ
たのかも知れないと解される。鍋寿丸から名を改め第80代宗像大宮司を相続した氏貞は
、家内や領内で起こる数々の怪異や不幸が、幼少期におきた悲惨な事件が原因だと考え
田島に社を建て、増福院に祭田を寄付して香花を備え多くの僧を呼んで菊姫ら6人の大
法要を営み、領内に56のも寺院を建て6人の鎮魂と慰霊を努めたというが、仇となっ
た者の子孫までその怨霊の祟りは止むことがなかった。とされる。この時この地を離れ
立花氏に仕えた者がいた。それが田島氏と松石氏だった。石松氏は豊後・蕪山城の城主
で石松城と言われ日田郡老の一人だった。大友義鑑より旧大蔵日田氏の一族の中から指
名され日田郡政を治めた。8名がいて八奉行や八郡老とも呼ばれた。財津・羽野・坂本
・堤・佐藤・世戸口・高瀬・松石・諸富・などが、それぞれ世代を繋げなかった時交代
して行い日田諸城。(ひたしょじょう)として郡の地主として代表した。

1654: 名無しさんAA:18/11/13 23:45
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   686   > 

。戦国時代の宗像とは現在の宗像市・福津市・遠賀郡の遠賀川より鞍手郡北西部と古賀
浜を含む新宮海岸である。遠賀川以東の遠賀郡も豪族である麻生氏が宗像氏との戦争後
、宗像氏に従属していたため、支配地域として宗像と呼ぶこともあった。ただし、歴史
上では正確には宗像氏の領土を指すことが多く、最後まで一貫して宗像氏の領土だった
宗像市と西郷の地を除く福津市と旧若宮町・旧宮田町北部・岡垣町・遠賀町のごく一部
である地域を指す。この地域は、古くからの中国大陸や朝鮮半島と繋がりは深く、貿易
が活発だったことも有名である。こうして陶氏が宗像族の古賀氏や麻生氏を従えた頃は
大友氏も、戸次鑑連(とつぎあきつら:後の立花道雪)を立花城に差し向けたのである
。こうして「氏貞」派が陶氏を担ぎ、宗像氏第80代として家督を継いだが、その呪わ
れた世代交代は天文20年(1551)氏貞が僅か六歳の時である。次の年、宗像氏の居城の
「白山城」に入ったのは天文21年に、氏貞七歳の時に元服を行い同時に戴冠式である
城入りを果たし宗像神宣下をした。以後「氏貞」は、陶氏が中国毛利氏に討たれていた
。大内氏の一族で、五代盛政以後、歴代周防守護代を勤めた陶氏は、若山城が居城であ
る。興房は大内義興に仕えて戦国時代を生き抜いた。その子隆房(のち晴賢)も大内氏
の守りとして各地の戦いに活躍したが、天文二十年、鬨の文に流れる大内義隆に叛旗を
翻し主家・大内氏を滅ぼした。しかし、晴賢もまた安芸厳島で毛利元就と戦い敗れて討
たれた。その後、孫鶴寿丸も毛利氏の追撃にあって自殺し、陶氏は滅亡したが豊後大友
氏と対立しながらも 戦国時代の中では、神郡宗像の統治を進めていて、その領地は、
宗像、遠賀、鞍手の三郡落、実に「四千五百町歩」にも及んだ。その為大友氏とは度々
対立、とりわけ立花山との間にある宗像氏の支城「許斐城(このみじょう)」は宗像氏
の要の城で、立花城との間で何度も争奪が行われた。許斐城を立花大友氏に押さえられ
氏貞は白山城を出て大島へ逃れたこともある。これをまた急襲し許斐城を奪回もした。
しかし毛利元就が本国の事情急変で立花城を去り、大友の筑前支配が確立すると、大友
宗像の和睦がなり、その証に立花城督となった立花道雪(戸次鑑連)に氏貞の妹「色姫
」が輿入れしたのである。即ち人質である。この時、氏貞が化粧料として色姫につけた
西郷庄三百町の土地が思わぬ争いの火種となった。石松氏が松石に変えた頃、諸富氏や
堤氏や坂本氏も大川に出た。日田の金鉱山を隠した為だ。永禄九年(1566年)、筑前・
岩屋城と宝満山城を預かっていた高橋鑑種が大友氏に反旗を翻した。この動きに、秋月
種実も呼応した。しかし、大友氏の軍勢も反応し、秋月攻めを行い甘木に火を放った。

1655: 名無しさんAA:18/11/13 23:49
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   687   > 

 福智山は福岡県北部に位置する山で、北九州市、直方市、福智町の最高峰で標高900m
の山である。九州百名山の一つに数えられ、福智山周辺は平尾台や皿倉山同様に北九州
国定公園に含まれている程だ。成人を祝う儀礼を古く行う神霊聖山だった為、男子には
元服・褌祝、女子には裳着・結髪などがあった。こうしたものを通過儀礼(イニシエー
ション)の一つとして扱うその中宮として城は福智山の支峰、鷹取山(標高633m)上に
築かれていた。中世の城郭の中でも屈指の標高を誇り、近世城郭としては他に例の無い
高所に築かれた山城である。近世城郭として、さながらトーチカを思わせる鉄壁の要塞
であった。別名、鷹取山城だが同時代に、肥前筑紫鷹取城(筑紫氏領)とその西の肥前
鷹取山城(少弐氏領)、筑前高鳥居城(杉氏、秋月氏、筑紫氏、星野氏領)、筑後鷹取
城(星野氏領)など読音近いや同名の城があり常に混同された状況があった。鷹取山の
多くは、いわゆる神主の烏帽子を俗に鷹取と称したので、成人報告の産土信仰の山だっ
た事からの名だったと思われる。この高地の神の民は戦乱によって大飢饉に陥っていた
。大友に従っていた戸次方重臣足立氏は城主の筑紫広門要請に答えてで米を送る事にし
た。この時まだ立花氏は生きていて籠城していた。筑前立花氏は、立花山城を元徳2年
(1330年)に豊後国守護の大友貞宗次男大友貞載が築き、この地に拠ったことによって
立花氏を称するようになっていた。港町博多を見下ろす非常に重要な拠点であり、戦国
時代には大内氏や毛利氏と大友氏の激闘地でもあった。今や立花氏は立花宗茂とされる
が宗茂本人は戸次か高橋でしか名乗っていない。永禄8(1565)年永禄11年に立花城主
の立花鑑載が主家の大友家に謀反をおこすと、戸次道雪は臼杵鑑速、吉弘鑑理らと共に
、立花城を攻略し、立花鑑載を敗死させたのである。また元亀元(1570)年には、道雪
は再び臼杵鑑速、吉弘鑑理らとともに、今度は毛利氏の手に落ちていた立花城を攻め、
城方を降伏させた。これらの功により、道雪は2(1571)年に大友宗麟により立花城の
城督に任じられました。その後、道雪の跡を継いだ宗茂が柳川城に移り立花氏と呼ばれ
て、秀吉差配で、立花城には小早川氏が入城し、次いで黒田氏が入城した。筑前立花氏
は、筑紫広門とは縁故にあったし、同盟の徒でもあった。1570年に城と家督が盗ら
れ家絶となっている。そうした中で、鷹取山城の飢饉を救うため。道雪が鷹取山城へ米
の救援運搬しようと言う事が伝わったのである。実は色姫の輿入れに宮司として祓いの
行司をしたのが古族の松石氏だったとされている。宮地嶽の神人とされていたからだ。


1656: 名無しさんAA:18/11/13 23:52
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   688   > 

 元亀2年(1571年)、25歳の色姫は大友家一族で立花山城城主の立花道雪のもとへ輿
入れし、色姫は立花山城の松尾丸を与えられたので「松尾殿」と呼ばれた。平時は立花
山麓の青柳村石瓦(古賀市青柳)で暮らした。鷹取山城の飢饉を救うため。道雪が鷹取
山城へ送ったコメの救援運搬で発生したのは、松尾丸の色姫を慕う若宮郷士(旧西郷党
)による反抗だったとされる。福津市JR福間駅から西郷川の一帯は「西郷庄(さいごう
のしょう)」と云い「津丸村」「久末村」「手光村」と称して、西郷川下流を「下西郷
村」上流部を「上西郷村」の五村三百町程があったとされる。この戸次氏の米輸送隊へ
の襲撃に端を発する戦いは「小金原の戦い」と呼ばれる。道雪は、あらかじめ救援隊の
宗像郡内通過を氏貞に伝え、氏貞も安全に通過させるよう家中にその旨を通達し、支持
も得ていた。しかし、「色姫」の化粧料として「道雪」に送られて、領地を失った旧西
郷庄の郷士達は若宮郷を追われ、道雪に対する土地の恨みは怨念に近かったとされる。
更に幾らかの宣教師達も大友からついて来ていた。アルメイダは1552年に貿易目的で初
来日している。つまり20年も前に日本の肥前肥後豊前豊後で布教を始めていた。既に
南蛮船の奴隷貿易が始まっていたのである。郷士達は隙あらばと狙っていた。ところの
襲撃であった。戦いは終日に及び熾烈を極めた。襲撃した若宮郷士の殆どと、制止に向
かった氏貞の重臣二人、それに秋月氏の応援など宗像勢百数十人が戦死、戸次方も重臣
「足立式部」など三十名近くが戦死した。この宗像勢の背信行為に、戸次道雪は激しく
怒り、直ちに蔦嶽を攻めさせた。氏貞も仔細を述べ陳謝の意向を示すが道雪は収まらず
、やむなく氏貞は、許斐城のの西八並口に兵を配し立花勢を退けた。それでも道雪達は
宗像への攻めを緩めず、遂に許斐城を落して収まった。こうして道雪と氏貞の対立は、
道雪が死ぬまで解消されなかった。道雪と氏貞の狭間にあって 最も心を痛めたのは「
色姫」であったはずだ。わざわざ身売りの婚儀を得ているにも関わらず戦いが起こった
のだ。天正12年3月24日山田地蔵尊の命日に、自ら命を絶った。若くして神郡宗像
の統治を果たしたした青年武将「宗像氏貞」は、天正14年3月4日病にて逝去。享年
42歳、墓所は、宗像市上八(ごうじょう)の海を望む丘に建てられた。「氏貞」に世継
ぎとする「男子」が無かったことで「秀吉」により名門「宗像大宮司家」は取り潰しと
なり「宗像氏貞」は最期の当主となった。そして宮地嶽神社はその力を失ったのである



1657: 名無しさんAA:18/11/13 23:55
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   689   > 

 この西郷の郷士は、島津の九州制覇によって、島津勢に加わった。彼らが祀ったであ
ろう神輿神社は宗像三神を祀る古い神社である。ここで起こっていた定札制度は、後の
国民健康保険制度の参考にされた、札による年金的講保険や制度が、世界初で行われて
いた地域であった。神社縁起では、村の南六町計圃の中に神興(ジンゴ)といふ所あり
。古瓦多し。又礎石も残れり。民老伝へて云。いにしへ宗像三女神鞍手郡室木岳より、
しはらくこゝに遷座し給ひし時の社地なりとそ。神興とは神威此所よりおこり、現れ給
ふ故の名と、宗像宮縁起に見ゆ。其東三十町歩に森あり。中に叢祠あり。宗像三神を祭
れるなるへし。此邊にグハンジツタ(元日田)・ゴグハチデン(五月田)と云田の字残
れり。皆神税の地なりしとそ。と書いている。又「筑前国続風土記拾遺」神興宮址では
村の南六町許、山畠の内に石祠有、此處を古より神興と云う。宗像三女神を祭る。宗像
社記曰く、三女神初室木六岳出現給、其後於神興村而神威輝給、故其所神興村云、其後
三所の霊地在御遷座云々と見えたり。此處のことなり。しかれば宗像三所に鎮座のこと
は、いともいとも上つ世のことにて、既に三所の地名は古事記、日本紀にもしるされた
れば、なほ其前久しき世の事也けられし。其三所に遷給へる後も、此處は宮殿跡にして
、祭祀も盛也しとかや。今旧址を見るに、山谷の間に在て、其景至幽邃也。兵上方二町
計、平坦にして三方に山岡施りて、南一方遙に開て、泉川東より西に流れたり。其平原
の艮の隅に、冬青樹(チノミ)と石段樹(タブ)二三立り。其餘は栗田豆田となりたり
。圃中に古瓦の破たる多し。其南に古瓦を拾ひ捨てし處、塚の如く積めり。此圃中薦敷
と云處、栗生の中より村民善三郎と云ものゝ女、享和元年辛酉六月十二日銅印一顆を得
たり、其形方にて、造字一字鐫たり。冠紐書體古雅にして、古色愛しつべし。宗像社所
藏の勘合印また山田村増福院にある所の氏雄の印に同様なり。また此處に五月田、元日
田など云田字あり。古の祝税の地なりといふ。かくていづれの比なりにしや、兵乱に御
社も回祿せいかば、假に神體を東南の方高宮山の半腹に社を建て祀りしか、寛永十三年
鳥巣村の内に移せり。(此事は畝町の條にいへり。)かの鳥巣高宮に移せし後は、宮殿
門樓の址空しく禾黍の田となりて、其址とも見へざりしが、近比村民土一と云もの、夢
の告有と称して、石檀樹の下に、小祠を営めり、其後旱年に村民等、此祠するに、霊應
ありとて、隣村民等力を戮て、報賽に石祠を建立す。側に手水盥を置り。是は南の圃に
ありしいにしへの礎石なり。經六尺貳寸、横四尺六寸五分、高荷尺寸、正中に柱を彫入
し穴あり。經壹尺九寸、深三寸五分あり。この礎石をみて、上古の殿舎の宏大なりしこ
とを知るべし。

1658: 名無しさんAA:18/11/14 00:01
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   690   > 

 その後、立花氏が柳川に入城する折には、この鳥巣村氏族も古賀村氏族も山田氏族も
豆田氏族も、この時立花氏について行った。つまり博多の奴隷船に恐怖したのである。
そして人の居なくなった場所に黒田氏はやって来た。この福津の人々はかつて南北朝の
時代に足利氏の再興を助けた人達だとされる。又この、福岡県福津市津丸の神興神社は
、神社は、宗像三女神鞍手郡室木岳からと書かれ 鞍手の室木の物を古い時代にここに
移した物だったと書かれている。また大正年間に古瓦発見し、鑑定の結果に延喜十一年
の銘あったとしてる事で、西暦912年の頃の話である。つまりそういった以前から、
室木岳には住民が暮らしていた中で、戦乱と黒船が奴隷貿易と鉄砲持ってやって来たの
である。世界的にインカ帝国はこれによって滅びたが、日本人は戦い抜いたのである。
しかし、この人のいない地に黒田氏は、1601年に福岡城が築く事を決意した。立花城は
その後廃城となり、立花城の石垣は福岡城の城壁に利用され、現在立花山には僅かなが
ら城の石垣跡のみが点在している。又鷹取城も天正14年(1586年)鎮実に代わって筑紫左
馬守広門が城主となっていたが同年六月に島津氏の侵攻により肥前国勝尾城へ逃れた。
慶長6年(1601年)、関ヶ原合戦後に筑前に入封した黒田長政は六端城の一つとして母里
太兵衛友信に一万八千石を与えて城主としたが、同じく六端城の一つの益富城主の後藤
又兵衛基次が逐電した為、友信は益富城に移り、代わって手塚孫大夫光重が城主となっ
た。元和の一国一城令によって廃城となった。この時陶氏一族の一部は末松と名乗って
立花氏に付いた事からその陶氏に雇われて菊姫を惨殺し石松氏も松石と名を替えて仕え
た。もともと石松氏族は豊後の家臣で大友氏から派遣され大内氏に仕えた者だった。豊
後の大蔵氏は古代に九州の日田地方を支配していた日下部氏に代わって日田郡司になっ
た。また擬任郡司ともされる。位は散位であって、検校を称した。大蔵氏の祖とする東
漢姓の阿智使主(あちのおみ)の子孫の説があり、渡来の秦氏の分家系統とされ大蔵日
田氏と名乗った。日田城および大蔵館(鷹城)、現在の慈眼山公園を拠点に栄華を極め
金鉱脈からその資金を得たが、大友氏の配下に下り排除された。先の宮地嶽神社が神輿
神社と名を替え、宮地嶽御宮畑田がゴグハチデン(五月田)とされたのである。


1659: 名無しさんAA:18/11/14 00:08
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   691   > 

享禄3年(1530年)からは九州に出兵し、北九州の覇権を豊後国の大友氏や筑前国の少
弐氏らと争い。家臣の杉興運や陶興房らに軍を預けて少弐氏を攻めた。そして肥前国の
松浦氏を従属させ、さらに北九州沿岸を平定して大陸貿易の利権を掌握したのだった。
しかし杉興運に行なわせた少弐攻めでは、少弐氏の重臣・龍造寺家兼の反攻にあって、
大敗を喫した。室町時代、周防国の大名大内氏と肥前国の太宰府少弐氏は、九州の政治
を大宰府政庁の任官として行っていた。南北朝で建武の新政下で鎌倉将軍府が設けられ
ると新たに鎮西守護職として渋川氏が着任した。足利尊氏・直義兄弟の六波羅探題攻略
に従った曲者で、南朝方の多い九州制圧に差し向けた者だった。こうして設けられた新
たな裁判や検察の九州探題に次々と任命されてやってきては争乱の元となった。菊池氏
を謀殺した後は、大友氏は、覇権を争う二者に任せているのはまだ勢力争いを熊本肥後
に終始しているからだ。大内少弐氏の争いで宿敵同士になった頃大内氏の勢力は周防国
と長門国の2ヶ国に拡大していた。大内義隆は幼少の頃、母方の祖父である内藤弘矩を
父義興が「家督相続に反対し、異母弟の高弘を推している」と讒言されて、本気になり
誅伐した。しかし後日、弘矩の無実が発覚し、責任を取る形で義興は弘矩の娘・東向殿
を正室に迎えた。しかしこれは無理な話である。しかし夫婦仲は良く子沢山ではあった
と伝えられる。女性ばかりで、義隆は男兄弟がおらず(一人いたけど早世した)、姉妹
ばかりだったので、跡継ぎに関するトラブルは無かったようだ。こうして義隆は男色家
として芽生えている。そこには家督争いのかほりがしますが、史実は今や不明のままだ
、大友二階崩れの時、大友義鑑は、正室の子である義鎮を嫡男と決定していたが、側室
の子である三男の塩市丸を後継者としたいと考え、義鎮を廃嫡しようとしていたとされ
る。この時塩市丸派の入田親誠は肥後の阿蘇惟豊を頼って逃亡するが、事件後に阿蘇氏
によって討たれた。義鑑の義鎮廃嫡については、義鎮の生母は大内義興の娘とも言われ
、家中からの大内氏の勢力排除のために計画されたことであるとも考えられている。こ
の時の襲撃で塩市丸と生母、義鑑らの娘2人が死亡し、津久見・田口の両名はその場で
壮絶な最期を遂げた。義鑑も数日後には受けた傷がもとで、領国経営に関する置文を残
して死去。義鑑の死後、大友氏の家督は戸次鑑連ら家臣に擁立され義鎮が継承した。こ
の変が起きなければ、後の大友宗麟は存在していなかったともいえる。この時大友氏の
体制は各藩の幕閣体制で子飼いの直参は数人しか居なかった。だからこそ、この争乱が
起こった。つまり領主の意見に従わざるを得ない城主だったが独断で西洋を受け入れて
墓穴を掘った形が大友家で親子2代続くのである。

1660: 名無しさんAA:18/11/14 00:11
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   692   > 

 この頃の戦国大名は殆どがや、分国法・領国法を持ち、戦国大名が領国内を統治する
ために制定した基本的な法令で、従来からの国衆と領土拡大で得た外様領主を持ってい
た、国衆の中に評定衆(ひょうじょうしゅう)と言う、役職の与えその国の方針を決め
た。幕府や藩の最高政務機関であり、行政・司法・立法のすべてを司っていた為彼らに
意見するのに取次と言う仲介が必要で、この3者でその下の国政が決った。従って領主
は藩主の意向は聞いても従わない事も多々あった。大友氏の様に九州を治めていた菊池
氏を制圧しながらも、「大内氏に同盟までは良いが、今後は嫁いできた側室の子が殿と
なり大内氏の意向の下で動かされる。」此の事には嫡子のいる中で例えうつけ者でも、
それは反対だった。しかし今や「九州の菊池氏を叩き今周防から朝廷からの威光を背に
大きくなるべき時。」に西洋かぶれにうつけ者のままの若殿に、仏教寺院が破壊されて
旧来の盟友達とケンカし藩内が分断されても藩の拡大に走るべきか。恐らく家臣も殿も
思考に思考を重ね思いあぐねたに違いない。西の龍造寺、南の島津という二大勢力との
争いを続ける中で、その勢威も次第に陰りを見せ始めている。しかし依然として藩の中
では、当主となった大友義鎮(宗麟)は、酒色に耽り、キリスト教を重んじて神社仏閣
を破壊するなど、人格や思想において統治者としての資質を欠く面がある中で、正に、
内憂外患状態が溢れていた。そうして跡継ぎ問題での重臣の離反の大友二階崩れが起こ
った。既に家督を譲与していた粗暴で病弱な「義鎮」を廃嫡にして、寵愛する側室の子
「塩市丸」を後継とするため、まず義鎮を別府へ湯治へ向かわせ、その隙に義鑑は4人
の重臣を館へ呼び、塩市丸を後継とすることを申し渡した。これに4人は反発し席を立
ち、激怒した義鑑は、義鎮廃嫡露見を恐れて再び4人を館へ呼ぶ。これに応じ登城した
重臣「斉藤播磨守」、「小佐井大和守」に刺客を送り謀殺する。危険を感じ登城を避け
難を逃れた「津久見美作守」「田口蔵人佐」は、どうせ討たれるならばと2月10日、
変装夜陰に紛れ館に忍び入り、塩市丸、その母、息女らを斬殺、桐の間にいた義鑑を襲
い深手を負わせた。津久見、田口の一党は、駆けつけた近習らと凄まじい切りあいの末
討ち取られたが、深手を負った義鑑は二日後死亡する。湯場でで急報聞いた義鎮は「佐
伯惟教」軍に先導されて府内大友館に戻る。直ちに「戸次鑑連」「斉藤鎮実」らに黒幕
と目される「入田親誠」の誅伐を命ず。親誠は直入郷入田の居城「津賀牟礼城」へ逃亡
、さらに「阿蘇惟豊」のもとへ逃れるが惟豊に討たれる。こうして豊後大友氏21代は
「大友義鎮」が継承する。


1661: 名無しさんAA:18/11/14 00:13
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   693   > 

 しかし、これは八田氏にとっては濡れ衣だったに違いない。確かに八田氏は津賀牟礼
城の主で、西洋かぶれの大友義鎮の目の上のタンコブではあったろう。しかし大内氏の
よしみがあったにせよ菊池氏からの伝来の地で、かつての九州王朝の流れを汲んだ大神
氏の末裔を名乗る一族である。菊池氏や阿蘇氏の復興ならば兎も角大内氏に加担すこと
はあろう筈は無かった。又「津久見美作守」「田口蔵人佐」も「斉藤播磨守」、「小佐
井大和守」も決して積極的に大友義鎮派ではない。それほど人望を無くしたバカ殿だっ
たのだ。天文19年2月10日(1550)である。天文20年(1551年)1月、叔父の相良
武任は自らも隆房との対立による責任逃れに義隆に書状で「陶隆房と内藤興盛が謀反を
企てている。さらに対立の責任は杉重矩にある」と讒訴し、危険を察知した陶氏は9月
に長門大寧寺において義隆を自害に追い込んでいる。全く同じに大友氏の大殿にこれが
起こったと言える。義隆の養子であった大友晴英は、当時の豊後大友氏当主・大友義隆
の異母兄弟、生母は大内義興の娘で義隆宗麟の甥であった。つまり大友義鎮(宗麟)の
父の異母兄弟が、若くして人質として実家に帰った形である。大友氏側では三男以下は
家系が切れた時の保険と同じで意味は無かった。つまり晴英はこの阻害された状況の切
り崩しにかかったのだ。それは今まで男色家で子種がなかった大内義隆に子が出来てし
まい姉の子などは必要ない。と言う状態に陥ったことだった。大内氏に残るには、大内
氏の幼い嫡男を廃子とするしかなく。又大友氏に帰されようとも大友の嫡男を廃子にし
大友の姉の子の塩市丸が後継者となり叔父として後見人となるしかなかったのだ。こう
して、盤石だった大友氏の支配が揺るぐ中で、毛利氏や島津氏のバックアップを受けた
秋月種実が、お家再興を果たしてにわかに台頭してくる。秋月種実は実に頭の好い武将
だった。大内が大友と繋がっているとして毛利についたからだ。更に海外から、大砲の
小型の買い付けを秘密裏に成功していた。大筒と言われる鉄砲より大きな、そして国崩
しより小さなこの小さな釣鐘の形の重い品物は、かなりの威力を持った。鑑種軍に歩調
を合わせ、筑前立花氏もその買い付けには加わっていた。しかしその動きは当然売って
いたイエズス会を通じて大友には筒抜けだったのだ。しかし八田氏の津賀牟礼城を狙っ
たのは青瞳夫人(せいどうふじん)の言いなりだったのだろう。津賀牟礼城こそは、か
つて九州王朝と大和王朝の集まり和解した場所としての伝記が残るぐらい霊祥の場所で
あり、西洋人を拒否していた所だった。つまり宣教師達の策略ではなかったかと思える


1662: 名無しさんAA:18/11/14 00:19
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   694   > 

 かつて南蛮貿易と布教を許可を求めに来て、大きな長持ちを進呈した。これは何じゃ
との問いに「ドール」と答えた。箱を明けると裸体の白い肌で金髪青い目の少女が横た
わって居たのである。更にそこには焼香の壺やキセルが入れられていて、少女を抱き起
すと、眠っていた裸体の身体はぱっちり目を覚まして、ドレスを手に渡したとされる。
以来ドールとされた夫人は常に傍により、阿片を焚き吸わせて乱稚気淫行の城と化した
と言われる。これ以降は大友宗麟となって豊後の家臣も民も地獄であった。天国を説く
切支丹布教の起こした地獄は厳しい現実で、それは九州全域を動かした。しかし信長公
が死んだ本能寺の変以降は、大友宗麟の権威は失墜し藩は瓦解した。豊前大神氏は蛇竜
神婚起源説という独特な祖母山神話を持ち、蛇口一族と言う縄文海人の末裔とされる。
豊前国の宇佐神宮創祀に関わった大神比義に始まりを持つ大神氏は、山を下り同宮の禰
宜職や大宮司職を継ぎ、同じ資格を持つ在来の豪族であったとされる宇佐氏と争ったと
いわれ、敗れたために宮外に土着した。とされる。だが、宇佐神宮こそが大神氏の許可
を受けた大和朝廷用の神社であった説が妥当で、日足紋の日子族伝説の合致する。後に
宇佐氏も749年(天平勝宝元年)に大神姓を賜り。縁戚となり886年に大神良臣が当時の
朝廷官位を貰って筑後国から豊後に赴任した史実がある。その古代筑後国府が久末の元
の百町花園であったと言われる。棚町は、実は他の街、則ち人々の田でなく都に送る棚
と呼ばれた朝廷荘園が起源であると伝えられている。猿田彦束柱はその起源で玉納の、
祀られる息長帯比売命は神功皇后の本名とされる。つまり沖の(海の向こうで)名が垂
らし(有名な)ひめの命(王の姫)と言う訳である。この京都や奈良に出荷する米が集
荷し出港したのが鷹尾神社で、その本宮が玉垂れ宮とされ出張所で蔵とし、糟屋の屯倉
をヤマト王権へ献上し、死罪を免ぜられたとされるがそれよりずっと前に大和町や水田
にあったとされる。豊薩争乱(豊薩合戦)は、応神天皇の玄孫とされる彦主人王の子孫
として、代々大野・基肄・鞠智の三城を繕い治めせしむとされた、彦山座主を護る菊池
氏が謀略で千五百年続いたとされる九州の守護職が、元寇以来その権威から解かれた事
で、関東武士団が台頭してきた事に原因がある。現代の東京都と同じに中央集権により
都が田舎から人材も兵糧も技術も吸い上げて遊興に嵩じて勝手気ままな司令や勅書に振
り回されたからだ。時代の流れとは言え、過去縄文時代からこの地は呪われた様に先駆
的であり、水田水天宮の稲穂起源説は争乱の幕開けを予言した。その水田を黒田長政軍
も或いは島津軍も侵略の本拠地とした。


1663: 名無しさんAA:18/11/14 14:34
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   695   > 

 こうして豊薩争乱(豊薩合戦)は頭角を現した大友氏と新たな薩摩島津で繰り広げら
れた。四百年菊池氏の陰で我慢していた豊後大友氏は、その後勢力を広げたが、慶長5
年9月(1600)「石垣原合戦」で「大友義統」の敗戦により終焉を迎る。これに到るま
では大友氏と島津氏の熾烈な争いがあった。豊薩争乱(豊薩合戦)は広く見れば、大友
宗麟の縣城(延岡松山城)土持親成、鎮綱討伐に始まったと言える。さらに耳川合戦。
そして、岩屋城「高橋紹運」の戦いをへて、戸次川の戦いに終わると言っていい。新た
なキリスタンの布教に乗って、伴天連の夢の国を目指すと吠えて大号令をかけた事は、
秀吉の朝鮮出兵に似ているのは、宣教師が画策の証拠であり、彼らは豊後であれ、日本
あれ、世界でも同じ事をしていた。恐らくアフリカでも東南アジアでもこうした事は、
全く同じに西洋化の波に足元が救われて騒乱が起こって来た歴史があるに違いないのが
現実なのだろう。幸いに日本はいや日本だけは、生き方に美を求め刀の世界に戻る精神
世界であった事が日本を救ったに違いない。多くの仏教徒がキリスタンにならなかった
理由はただ一つ、「罪を懺悔せよ。そすれば報われる。」と因果応報を説き、「世界の
終りに天主様は導いてくれる。」と終末思想を唱えた事だ。その中で「御先祖様も一緒
に救われるか。」と言う問いに「死んだ人は行いを正せない。」と答え、「従って救わ
れない。」とした教えにあった。と言われる。日本の地獄思想は「三途の川も金次第」
と言われるように死人も旅をする。と説く。更に現世の祈りが死者への応援歌であり、
仏僧への布施や祭壇への供え物が、死者の飯だ。と教える。45日さまよい90日経っ
てやっと地獄か天国かの裁判する仁王の門にたどり着くとされるのである。その後に、
125日で多くの者は又次の生き物として天国への修業を積む事を指導され生まれ変わ
る。と言う輪廻を持つ。と脅され、次の生き物が虫なのか人間なのか動物なのか解らな
い。だから今の内に人々に尽くして善行善意善言を行いなさい。と言う。これは武士で
も商人や農民でも変わらない一般的な考え方だった。つまり、この世に妖怪はいても、
悪魔など存在しない。鬼や天狗は、あの世とこの世の間か地獄しかいない物だったのだ
。そして「魔が差す」つまり自分が悪魔にならない様に、自分が可梨帝母の鬼子母神と
ならない様にといわれる。「古来ザクロは天照大神の銅鏡の磨きに使われたのであるが
、子供を食わず鏡として正面から見て育てよ。」と言う教えを説いている。鑑み鏡みは
同じ言葉として捉えられていて、頭を下げる腰を屈むにじり口より少し大きめの頭を下
げる出入り口は鑑み口と言った。自分の死は哀れでも先祖の死は幸福であって欲しいと
していたのだ。

1664: 名無しさんAA:18/11/14 14:34
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   696   > 

 この後、黒田長政は「徳川家康より立花宗茂を討てとの命を受けた。さっさと大軍を
送って攻撃するように。」との伝文を送った。この時鍋島直茂は、龍造寺との確執にお
いて牛込めに成功していた。そこへの伝文だったので、63歳の老体は関が原に参戦し
ていない事の賞罰に佐賀藩が無くなる事を恐れた。黒田藩はこの佐賀藩の内容を充分知
っていた。この頃はまだ龍造寺藩であり鍋島氏そのものは家老格で代理でしかなかった
。蓮池氏諸富氏に早馬を送り、当初は龍造寺は豊臣氏によって自領安泰となったのであ
り、唐津伊万里は、恩顧の長崎奉行であった寺沢広高や弟寺沢半三郎がいた。文禄4年
(1595年)豊臣秀吉の家臣・寺沢広高がこの地に封ぜられた。しかし何故か広高は慶長
5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍方につき、肥後国天草郡4万石を加増され12
万3千石の外様大名となったのである。慶長7年(1602年)より本格的な唐津城の築城
を行い、慶長13年(1608年)に完成した。築城に際し東唐津側と地続きであった満島
山をわざわざ切り離し、松浦川がそこから唐津湾に注ぐよう流路を変更している。隠れ
て夜陰に船が通せるようにしたのだ。それには秀吉の死後、廃城となっていた名護屋城
の遺材を使用し、九州各地の諸大名の助力を得て築城した。柳川堀、佐賀堀、肥後堀、
薩摩堀など普請に協力した大名の領地名が堀の名に残されている。つまり九州の諸大名
が手伝ったのである。板倉勝重(1601年−1619年)は、同年の猪熊事件では京都所司代
として後陽成天皇と家康の意見調整を図って処分を決め、朝廷統制を強化した。ここに
不思議がある。慶長19年(1614年)からの大坂の陣の発端となった方広寺鐘銘事件で
は本多正純らと共に強硬策を上奏している。大坂の陣後に江戸幕府が禁中並公家諸法度
を施行すると、朝廷がその実施を怠りなく行うよう指導と監視に当たっているのだ。元
和6年(1620年)に、長男・重宗に京都所司代の職を譲った。家康が浜松より駿府へ移
った頃の駿府町奉行以来の奉行職専任武士で、優れた手腕と柔軟な判断で多くの事件や
、訴訟を裁定し、敗訴した者すら納得させるほど適った裁きで名奉行と言われた。よく
南町奉行が名奉行としてドラマ化されるがこの大岡裁きは誰もが知っている勝重を元に
江戸の諸本が出来た為と言われている。これ以降唐津中心に神崎までも西洋船と言われ
るイスラムジャンク船の筏船が往来した。関ケ原が一日で終わり黒田長政自身は、その
まま動くな 他を制圧するな。自重して城の中にいろ。と家康から伝令が来ていた。そ
の為否応なく戦さ相手は、鍋島や加藤やその他の小藩の勝手な死闘にさせたかった。つ
まり公けには、成富茂安の立花藩への侵攻でそれを止める為に鍋島も黒田も軍を出した
と言う言い訳である。そしてその証人に加藤清正がいたと言う寸法である。

1665: 名無しさんAA:18/11/14 14:35
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   697   > 

 慶長5年9月(1600)「石垣原合戦」で「大友義統」の敗戦により豊薩争乱によって
終焉を迎えるが、筑後では立花駆逐の黒田の執念が続く。1600年、関ヶ原の戦いの際、
小西行長は西軍にいたため、宇土城の留守役小西行景と連携して、麦島城代・小西若狭
来襲した加藤清正の軍と戦い撃退しますが、本戦敗北し小西行長が処刑されたと伝わる
とキリスト教徒であった小西若狭(小西行重とも)らは、島津忠長や新納忠元、伊集院久
治ら薩摩勢を頼り、城兵を救うために麦島城を開城し、妻子・部下五百人と薩摩へと移
る。筑後では黒田の司令で、伊万里兵勝茂と共に慶長5(1600)年10月14日、
およそ3万人の兵を率いて、佐嘉を出発した。ついで黒田如水も、豊前から5千人の兵
を率いて、久留米および柳河に向かい、10月20日には水田に陣を敷いた。遅れて出
た鍋島直茂・勝茂らは、立花宗茂の居城柳河を討つには、筑後川にある二つの渡(わた
)しのいずれかを渡らねばならなかった。下田の渡しと豆津の渡しである。しかし柳川
に近ければ、敵兵がいる可能性があった。一端はここは安全策を取り、元鍋島氏に仕え
ていた成富茂安のいる茂安に寄り、更に先の宮の陣を渡る事にした。今は北茂安は地名
となったが、実は「着た茂安」で久留米から移封されていた茂安氏が着いた事にちなむ
と言われる。下流にある榎津の渡しや城島は、立花が備えているに違いないと考えた直
茂は、上流にある豆津の渡しを渡れるか決め兼ねていた。それでも更なる安全をみて、
住吉(今の久留米市)の渡しを選んだ。ここは秀包の領地であり、渡る船も筏もなかっ
た。しかし右曲した大きな川幅で浅瀬である事が知られていた。肥前の軍勢は、そこで
そのままかち渡りして大善寺に着いた。毛利秀包の城は留守役しか居なかった、かねて
仲のよい黒田如水(孝高)の陣と合流し助言によって下城した。18日、直茂は城島に
進み、諸隊を大善寺付近や犬塚原(いぬづかばる:犬塚)・早津崎(はやつざき:大善
寺)に進め、また瀬高(せたか:大木)に放火し、使いを柳河城に送って開戦を知らせ
た。立花宗茂はやっと大川についたばかりで、そのまま部隊分け早船で江の浦からのァ
千代の情報を持って柳川城に入った。諸士を集めて、自ら決戦をしよう。と言ったが、
老臣らは大阪で丹親次(にわしんじ:薦野 半右衛門 こものうえもん:成清氏)が家康
に陳謝中であり、また清正と協議中であるから、しばらく戦わず、ただ守備兵を派遣し
て、敵がもし来たなら防御するだけにし、和議を妨害しないようにしたがよい。と忠進
した。

1666: 名無しさんAA:18/11/14 14:35
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   698   > 

 命を賭けた申告であろう、家老の意見を聞き入れ、宗茂はやむを得ずそれに従った。
19日、肥前軍襲来の知らせを受けると、分かれて兵を付けた大川に伝言した。伝えを
聞いた酒見城の城番由布七右衛星門は、直ぐに筑後川の沿岸を警戒させ、またァ千代(
ぎんちよ)姫は軽卒に命じて、江の浦城から有明沿岸を防御させた。かつて龍造寺に一
族が殺された家臣も多くいて、城島城の城番立花吉右衛門(薦野増時の子)は、その領
地の城島の民の安危を気づかって、200人余の兵を率いて城島に向かった。榎津まで
見回りにやって来ると、鍋島の兵が3千人ばかり前面十町にいた。吉右衛門は軽兵(軽
卒)を放って、鍋島の兵を攻撃して20余人を倒した。隊長小野和泉(蒲池城の城番)
、立花右衛門太夫・立花三太夫(統次・千石)にその報は直ぐに伝えられ、新田平右衛
門(足軽頭領)、安東五郎右衛門(足軽頭)、石松安兵衛など、その軍勢千人余が江上
表へ押し出ていった。安東らは、足軽を出して鉄砲を撃たせたが、堀を隔て戦いにはな
らなかった。夕方になり、小野和泉や立花吉右衛門の指図で柳河へ引き上げた。あくる
日の10月20日は、朝早くから、小野和泉・立花右衛門太夫・安東五郎右衛門・安東津之
助・石松安兵衛および千手(せんじゅ)六之允、そのほか立花三太夫・新田平右衛門(
足軽頭領)など軍勢1300余人をつけ、5隊に編成して江上表へ押し出し、薦原(中
木室と下木佐木村境)に陣を敷き肥前軍に当たらせた。対して肥前軍は鍋島平五郎をは
じめとし、1万2千人を12隊に編成して進み、五反田に陣を敷いた。肥前軍は堀を前
に控え鉄砲を撃ちかけ守勢をとった。立花吉右衛門は300余人(数百人ともいう)を
率いて水田口(筑後市)へ駆け向った。これは黒田如水が、水田口から押して来るであ
ろうと言う情報を得たからであった。これが合流した本体であった。柳河城兵が江上表
に駆けつけたところ、小野和泉の与力の松隈小源が、小野和泉の使者と偽って、安東五
郎右衛門の所に行き、「早く合戦を始められよ。もし大敵に恐れるならば後隊と入れ替
えられる」と言った。この言葉を聞くと安東五郎右衛門・石松安兵衛は兵を繰り出し、
敵の先鋒3千人ばかりの中に突っ掛け、肥前勢を追い立てた。この松隈氏は西郷氏と同
じく福岡の菊姫伝説での墓守役の子孫で、弔いに松の木が生えていた事から松の姓を使
った者達だろう。福岡県糸島市志摩松隈(マツグマ)を発祥とし、その後び肥前の吉野
ケ里近郊の土地の鍋島氏の葉境で暮らしていた。江戸時代以降は小城の藩主となってい
る。松に隈をつけている事から松石氏族と熊襲の縁戚かと思われる。

1667: 名無しさんAA:18/11/14 14:36
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   699   > 

この鍋島の企ては当然黒田氏の策略だったろう。つまり海や筑後川べりの戦いが熾烈で
あれば、黒田藩はゆうゆうと熊本の加藤の武士と柳川を攻める事が出来るからだ。第三
隊に将として出陣した立花三太夫はこれを見て出し抜かれ、石松・安東の軍が敗れるの
を見て、真一文字に突っ掛かり、敵の三隊を追い散らし、一ノ橋から二ノ橋、三ノ橋ま
で切り崩した。肥前の第二陣の後藤茂綱の軍勢は、鉄砲300挺でつるべ打ちに撃ちか
け、柳河勢で倒れる者の数がわからぬ程であった。このとき立花三太夫は、馬上に長身
(ながみ)の槍をしごき阿修羅(あしゅら)のように駆け回り、ただ一騎敵軍を突き抜
けて敵味方を驚かせ、鍋島平五郎がいる五反田の本陣へ駆け込み、息もつかせず攻め寄
せた。その激しさは「先鋒鍋島茂忠も危うかった」と鍋島方に記録されているほどであ
った。肥前勢が、立花三太夫を取り巻いているとき鍋島の家来、今泉軍助は鉄砲で三太
夫を撃ち落し、軍助の従卒衛藤藤四郎右衛門が駆け寄って三太夫の首を取った。また、
三太夫は三ノ橋まで進んだところ橋が切り落されていたので、堀を飛び越えようと馬に
一鞭(むち)加えたところ、馬が疲れていたのか、向うの堀岸に踏み掛け、馬もろとも
堀に落ち、敵兵が群がって来て三太夫を討ち取ったともいう。三太夫ときに25歳。死
に臨み、敵をにらみつけて「我は死すとも魂は死せず、必ず肥人を苦しめん」と言った
と伝えられる。関ケ原では、鍋島藩の勝茂公は西軍に味方して徳川方の伏見城を攻めて
いた。家康公からのおとがめを覚悟していたが、父、直茂公は家老として家康公に話し
、龍造寺氏に従った勝茂の軽挙として、詫びて謝った。家康公もとより直茂公を識り、
その使者成富の人柄も知っており、勝茂公の軽挙を強くはとがめず、首尾良く一応は、
円満に解決したかに見えた。しかし家康公は、一筋縄では納まらずその仔細を黒田に問
うた。結局立花宗茂を討つことと言う、黒田が作った条件で罪を許された形となった。
 立花三太夫の名は、立花統春、通称・立花次郎兵衛の通り名だった。次郎兵衛の父・
親行は、戸次鑑連(道雪)の弟であったという。そしてここで活躍するのは3代目の、
立花三太夫なのである。


1668: 名無しさんAA:18/11/14 14:36
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   700   > 

 立花三太夫の名は、立花統春、通称・立花次郎兵衛の通り名だった。次郎兵衛の父・
親行は、戸次鑑連(道雪)の弟であったという。親行が死んだ時、次郎兵衛は僅か2歳
であった為、後見として道雪に引き取られ、厳しく育てられる事になって非常に厳しい
頼もしい優れた人だった。その人となりは、『沈勇かつ剛毅で、礼節を重んじる高義の
人』だったと伝わり、道雪・宗茂2代に仕えて多く戦功をあげた。天正14年(1586)
8月24日、立花城攻略に失敗した島津軍は肥後に撤退を開始し、立花軍は追い討ちを
かけた。翌25日には、返す刀で立花城の抑えとして高鳥居城に篭る筑後の星野吉実・
吉兼を攻めた。僅か300余の小勢ながら、激烈な抵抗をみせる城兵により、立花家の
将・小野和泉も鉄砲で両足を撃たれ地に伏し、当主・統虎(宗茂)の兜に銃弾が当たる
など苦戦している。しかし数で勝る立花軍は、徐々に星野方を追い詰めて場内に侵入し
た。いち早く城将・星野吉実と相対した次郎兵衛は、大将を討つ礼として、恭しく太刀
を額に押し頂いてがら一刀を浴びせ、吉実の鎧の上帯を切った。奥に引こうとする吉実
を立花家の十時伝右衛門が突き倒しその首を挙げた。別の説では「吉実は今は逃れぬと
ころと悟り、数歩退き、石の上に腰掛けて動かず、従容として統春・伝右衛門の白刃を
受けて絶命した」とする。戦後に戦功を記す為、武者奉行の池辺龍右衛門が首を改めた
が、首をあげた伝右衛門は 「統春殿の功である」と言い張り、次郎兵衛も 「某は討ち
損じたのであって、功は首を取った十時伝右衛門のものです。」と言い放つ。伝右衛門
は更に 「戦場は狩場と同じで初手をもって手柄とすべき。」 と互いに譲らず、困り果
てた評定奉行の池辺龍右衛門は、主の統虎にはそのまま報告した。互いに功を譲りあう
奇妙な二人の志を高く賞賛した統虎は、二人に感状を与え功を賞した。この後日の話し
として、十時伝右衛門は、立花次郎兵衛が敵将・吉実を討つ時、まず軍礼をして斬った
のを疑問に思い、谷川立心(大膳)に問うた。そこで谷川は軍礼としての作法を一通り
説き聞かせた為、伝右衛門は大いに軍礼を学ぶようになった。という。秀吉の九州征伐
後に大名に取り立てられ立花統虎に従い、次郎兵衛も筑後国・柳河に移住する。柳河入
り後、隣国肥後に移封してきた佐々成政の不手際により、肥後国人による一揆が勃発し
て、立花家も鎮圧に駆り出された。一揆鎮圧後、秀吉の股肱の臣・加藤清正と小西行長
が肥後を分割する領主となったが、この時も、彼は隈部一党には生きて捕まえている。


1669: 名無しさんAA:18/11/14 14:36
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   701   > 

天正18年(1590)に、加藤清正の家臣で、宮本・山口と他数名が罪を犯して柳河
に逐電してきた。何かしらの縁があったのか、彼等は次郎兵衛の元へやって来て、不憫
に思った次郎兵衛は彼等を匿った。その事を知った清正は、使者として吉田帯刀という
者を立花家に派遣して身柄の引き渡しを迫った。宮本・山口等は事ここに至り観念し、
恩を受けた次郎兵衛に罪が及んではいけないと考えて、大人しく吉田に捕まって肥後に
連行される事となったが、次郎兵衛は吉田帯刀に対して「武士の情けで、肥後への帰路
、彼等に縄目の恥だけは与えないでやって欲しい。」と嘆願し、吉田帯刀に承諾させて
関所通過の書状を渡した。こうして宮本・山口等は次郎兵衛に厚く礼を言って肥後へ連
行されていった。しかし柳河城下を出ると吉田は舌も乾かぬ内に、彼等を直ちに縛りあ
げ護送したのである。たまたま次郎兵衛の家人が瀬高からの帰路にこの一行に出会い、
その憐れな姿を次郎兵衛に告げた。話しを聞いた次郎兵衛は怒気をはらませて「武士の
約束は千金より重いもの。それを破るとは無礼である」というや弓矢を取り、はだか馬
にまたがって吉田等を追った。吉田等に追いついた次郎兵衛は「約束を破った無頼漢め
。」と叫ぶや弓を放つ。矢は見事に吉田の髻を射抜いて 落ちた。ざんばら髪になった
吉田は顔面蒼白になって、宮本・山口達を置いて、肥後に遁走してしまった。次郎兵衛
は宮本達の縄をほどき、「やむを得ずこの様な仕儀になりました。この上はかならず、
清正公がお怒りになり、我が主君に迷惑を掛ける事になりましょう。その時は、それが
しが腹を切り謝罪しなければなりません。貴公等は早々にこの地を去り、お逃げなさい
。」宮本達はかぶりを振って、「貴殿のおかげで今日まで生きる事ができました。その
恩人を見捨てて去ることはできません。」といって、再び頼んで次郎兵衛の邸に行くこ
とにした。幾日かたって、怒り心頭の清正は事の詳細を調べもせず、主君・統虎に使い
をだして談判に及んできた。この当時の清正は、先の領主・佐々成政の失策もあって、
豊臣政権の威信回復の為、九州の緒人に強い態度で望んでいた。例え秀吉に憶えめでた
い統虎でも抗しきれず、断腸の思いで切腹を命じるより他なかった。こうして高義を貫
き、華として散った。検使役として、次郎兵衛の旧知の仲である十時伝右衛門が派遣さ
れた。一説では伝右衛門は次郎兵衛に逐電の復命を伝えたともいわれる。しかし、次郎
兵衛は自らの行いになんら悔やむことなく、ただ主君統虎への詫びを言った後、従容と
して割腹して果てる事となった。

1670: 名無しさんAA:18/11/14 14:37
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   702   > 

 彼の妻は清田氏の出であったが、検使役の伝右衛門を睨み「懐に入った窮鳥は殺さな
いと言います、まして人であれば助けるものでしょう。使者は武士の約束を破り、夫を
侮蔑したばかりではなく、統虎公の威信をも傷つけた事になりましょう。それなのに夫
は切腹させられました。私ひとり、なんの面目があって生きておられましょう。」と言
って、夫の傍へ行き自害して果てた。また次郎兵衛の家の家人たちも、「高義の主人に
切腹を命ぜられ、いま又、夫人も自害なされた。統虎公には何もいう事はない、せめて
冥土までお供しよう」と、その場で殉死する者が11人にもおよんだ。と言う家人思い
の姿がそこにあった。武士として清廉に生きた勇将・道雪の甥・次郎兵衛統春の早過ぎ
る死は、立花家中の誰もが惜しんだという。立花次郎兵衛の死後、その家名が絶えるこ
とを憂いた統虎は、その命を出し森下釣雲の三男・統次にその家名を継がせた。通称・
立花三太夫を称した。この三太夫は次郎兵衛の名を辱めることなく、主君・統虎に従い
多くの功を挙げ勇将として知られる事になるが、惜しくも、関が原の役では大津城攻め
に出かけ、帰ってきてはの対鍋島戦「八の院の戦い」では、壮絶な戦死を遂げている。
黒門橋の決闘では、宗茂は検使役の浅野長政翌日の「放し討ち」を願い出て討手側にも
大きな犠牲を出すかも知れない前代未聞の「放し討ち」を許可を願いでている。この申
し出に長政は驚いたが、武士の信義を貫く宗茂の決意に心動かされ許可している。来柳
した上使が秀吉の正室(ねね殿)の妹婿、長政であった事も立花家に幸いしたという。
開けて天正16(1588)年5月27日の朝、黒門前の広場の「放し討ち」の決闘は
立花家からも隈部一党と同じ数の12人の討手が選ばれた。十時(ととき)摂津、十時
伝右衛門、池邊龍右衛門、安東善右衛門、十時勘解由、池邊彦左衛門、安東五郎右衛門
、石松安兵衛らが黒門に立っている。上使の浅野長政と城主立花宗茂は二の丸の辰巳櫓
から、今まさに始まる決闘を凝視していた。堀を隔てた隅櫓(すみやぐら)に立つ宗茂
の姿を見た隈部親永は、この処遇に対して深く感謝の念を持った。とされる。



1671: 名無しさんAA:18/11/14 14:37
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   703   > 

 隈部館跡は詰城のあった猿返し(さるがえし)山(標高682m)の中腹にある。館
といっても両脇は深い谷で守られ、正面に石垣造りの枡形(ますがた)虎口があり、大
規模な堀切や切岸、空堀、土塁を備えた山城にちかい構造である。隈部氏の勢力の大き
さが窺える。標高350mにある館跡の眼下には肥沃な菊池平野が広がり、遠く有明海
や雲仙まで望むことができる。この雄大な景色を親永は如何なる野心を持って見たので
あろうか。一揆勢による隈本城の包囲を知り、成正が山鹿から急ぎ隈本へ引き返す時に
、佐々軍の勇将佐々与左衛門宗能(むねよし・成正の甥)は、成正のおとりになって、
本道の鹿子木(かなこぎ)を突破しようとして内空閑鎮房に討たれた。その為に鎮房は
成正にいたく憎まれた。一揆後の鎮房の消息はよく解らないが、筑後に隠れているのを
捕らえられて誅されたとの説(佐々伝記)や筑後柳川城で討たれたとの説があるが親永
一行と共に柳川へ送られた可能性もある。柳川で討たれた隈部一族については、山鹿市
菊鹿町にある隈部館跡の奥に、最近柳川から移したという柳川隈部家当主(初代成真か
ら7代真博まで)の墓があり、同所には柳川黒門橋の六地蔵尊にあったという隈部親永
以下12名の霊も分骨して祀ってある。その墓誌碑には「隈部親永、隈部親房、隈部筑
後守正利善良、牧野某、辻某、本荘某、落合某、鶴某、有働某、外2名(不明)」と記
してある。娘婿とされる隈部正利は隈部筑後守正利善良と記す。新田義貞の末裔で法師
武士(新田掃部介の実弟)だった隈部善良と親永の娘婿隈部筑後守正利は同一人物とい
うことになる。筑後善導寺の僧だった善良は肥後で修行中、親永に半ば強制的に還俗さ
せられたと伝えられ、善良の剛勇さはもとよりその血統の貴稀さを請われて親永の娘婿
に迎えられたことは十分考えられる。隈部善良が筑後入道、隈部正利が筑後守と称した
ことも相通じるが蒲池氏3男が逃げ延びようとうした赤司氏赤間氏系であろう。旧柳川
藩志に「肥後の叛将隈部親永某の養子善良以下12人」の記載がありこれを裏付ける。
この2人が同一人物とすると黒門で討たれた隈部一党は丁度12人となり数が合う。や
はり両方12名による決闘だったと考えられる。別の資料を考慮すると墓碑の不明2名
は、内空閑鎮火房と福島某の可能性があるが定はできない。この福島氏は八女福島に名
を残すが、かの氏族は久留米北野の赤司城の城主の一族の末裔と噂が残っている。蒲池
氏は滅亡の頃彼ら一族を頼ったとされる。


1672: 名無しさんAA:18/11/14 14:37
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   704   > 

 三井郡北野の赤司の歴史は古く、2500年前にはじまり。良積遺跡や定格遺跡から、そ
の時代の遺物や遺構がみつかる。2000年前になると、多くの人々が赤司周辺に住みはじ
め良積遺跡が村となり国が出来た。まわりに餅田遺跡や赤司一区公民館遺跡など新しい
村ができはじめる。9世紀後半、この地で筑後国司御酉(みとり)が暗殺されるという
事件が起こったと伝わる。その墓として良積石が残るが詳しくは不明だ。この頃、赤司
の中心は赤司八幡宮が創建されている。縁起では延喜式に出てくる式内社の一つ「豊比
刀iとよひめ)神社」が創建されていたが、ここで年号は924年に筑後国司御酉(み
とり)が暗殺され遺構を弔う事に神社を建て替えその時元の豊姫神社をかえてしまった
。鎌倉時代になって(1192〜1335)、赤司城が築かれ、このころから、赤司の村は現在の
形になりはじめる。完成するのは、田中左馬充が赤司城主になって赤司姓を名乗った。
城は江戸時代になると取り壊され、現在は地名として名残をとどめるだけになっている
。赤司氏はそのまま田中を名乗り田中城に移り住む。九州騒乱時代天文十九年(1550)
菊池義武に加担して筒ヶ嶽城(つつがたけ)の小代氏を攻撃した三池・大津山・辺春・
東郷・大野氏とともに和仁弾正忠の名がみえる。同じ年(天文十九年(1550))に和仁
親続は三池・溝口・西牟田・辺春氏とともに、大内が滅び毛利になった事で毛利氏の意
向にそって、田尻親種の龍造寺を匿っていた大和町の鷲尾城を攻めた。この後和仁氏は
大友氏に属したらしい。弘治二年(1556)五月、肥後南関・大津山城の小原鑑元が大友
義鎮に叛旗を翻した際は、和仁親続は大友に服し攻城側で参戦した。また、耳川の戦い
ののち、龍造寺隆信が筑後の蒲池鑑広を山下城に攻めると、和仁親続は山下城救援のた
め大津山家稜・辺春親運とともに出陣した(肥後古城物語)その後、天正七年(1579)
五月下旬、龍造寺勢が田中城を攻めたが、このときには和仁氏は龍造寺氏に従属したら
しい。ただ、向背はかならずしも一致しなかった。反キリスタンであっただけだった。
田中城家老和仁氏は古代豪族和珥氏の末裔とされるが和仁氏が滅んでしまったため、何
時から肥後に土着したかその歴史は不明である。しかしこの田中城が仁和氏の居城であ
り仁和氏=丹羽氏=赤司=赤間氏=空閑氏=隈氏であった事はかなり高い。それは蒲池
氏の繋がりかららだ。九州征伐後の天正15年(1587年)6月豊臣秀吉により佐々成政
が肥後国主に任じられ検地を行おうとしたが肥後の国人は服さず、翌月には隈部親永が
兵を挙げて肥後国人一揆が始まった。理由はここにある。

1673: 名無しさんAA:18/11/14 14:38
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   705   > 

 菊鹿町の資料には、隈部親永とその一党は柳川で切腹した、自刃した、あるいは抵抗
しないで討たれたと記されたものが多い。郷土の英雄に対する愛情がそういう表現にな
るのだと思う。しかし立花側にも戦死者や多数の手負いが出ているので、やはり激しい
決闘が行われたことは事実であろう。そして隈部一党は勇猛な肥後武士として戦場での
最後を遂げたのであり、立花宗茂もそれを望んだのである。立花家臣で戦死した森又右
衛門の相手をして生き残った隈部側の1人は許され、国境まで送られ肥後へ返されたと
の通説があるが、立花側の12名の討つ手は全員生き残っており、また秀吉の一揆処理
に対する過酷さを考えるとその説は考え難い。肥後の方の資料にもその事実は見当たら
ない。決闘の後、1名が肥後へ返されたとの伝えは後世の創作と思われる。今では関門
海峡となっているが、実は昔は赤間ヶ関との名で水軍交易の関所であった。伊能大図で
は、赤間関として、長府と赤間関を結ぶ道は前田経由の関門海峡沿いの他、住吉神社経
由の内陸の長府道があったとしている。つまり住吉宮は唐船の商売繁盛の神社であった
のである。彦島と竹崎の間に埋立地が出来るが、大正時代から昭和時代にかけて出来上
がるが、大和(ダイワ)と書いてヤマト町と呼ばれた。これは柳川木下氏の関係であった
。木下氏は紀伊の下氏であり、南北朝時代の大塔の宮を護りやって来た人だ。明治時代
には、新地、竹崎、豊前田から細江、入江、岬之町、観音崎、南部、唐戸などの地名が
見られる。観音崎、南部、亀山八幡宮があり中央の入江が唐戸になった。ここでは古く
、1180年から1185年までの源氏と平家の戦いを源平合戦があった中で、落ち延びる平家
のその最期の合戦を壇ノ浦の合戦があった。壇ノ浦の合戦で平家の敗戦が決定的になる
と、安徳天皇の祖母て゛ある二位の尼(平清盛の妻)は、安徳天皇を抱きかかえ壇ノ浦に
御入水する運命となった。当時、安徳天皇はわずか8歳でした。「今ぞ知るみもすそ川
のおんながれ波の下にも都ありとは。」と二位の尼か入水する時に謳ったと伝えられ、
「海の底にも都はありますよ」と安徳天皇に伝えた詩と言われている。この切ない運命
を辿った安徳天皇の霊を慰めるために、建久2年(1911年)に時の後鳥羽天皇の命により
、阿弥陀寺が建立され「赤間神宮」となった。ここで外国の朱印船や勘合貿易の密談が
行われたのは当然だった。飯塚嘉穂劇場と共に山鹿の八千代座は日本の古代木製劇場で
あるが、その建設伝記には双方に赤司氏が海運通商者として絡まっている。


1674: 名無しさんAA:18/11/15 12:31

世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   706   > 

 そこで鍋島直茂公と勝茂公とともに肥前の総力をあげて立花を討つ事に決まった。知
っての通り龍造寺氏の家系を継ぐ諸侯で成り立っていた肥前では、未だ内政がとれずに
いた。従ってこれは決死の覚悟の取りまとめだった。三万二千の大軍を集めて十月十四
日、佐賀を二手に分かれて出陣した。黒田如水(孝高)も、豊前から五千の兵を率いて
、久留米および柳川に向かい、十月二十日には水田(筑後市)に陣していたのである。
鍋島直茂・勝茂らが、立花宗茂の居城柳川を討つには、筑後川にある注ぎ込む川の三つ
の渡しか二の浅瀬のいずれかを渡らねばならなかった。下流にある榎津の浅瀬は、立花
が備えているに違いないと考えた直茂は、上流にある住吉(今の久留米市)を渡ること
に決した。直茂公の軍勢は背振山添を東に向けて進み、夕刻栗城に集結し、近くの大法
寺で法要があつていた。これを吉報とし『これ幸いなり』と言って住職を呼んで、戦勝
祈願をさせたて布陣に及んだと書いてある。つまり、葬式を嫌わず今でいうポジィテブ
に捉えた処置をすると言う極めて能力の高い藩主であった。翌朝十六日、干陸の渡しを
通り毛利の居城の久留米長門石城と笹山城を攻め込んだが、毛利藩は関ケ原の合戦より
まだ帰城しておらず、簡単に落城した。勝茂公の軍勢は佐賀平野の中心部を東に向けて
進出し、筑後との国境の天建寺に集結して、勝茂公は宮村にある矢俣八幡神社に参詣し
て戦勝祈願と同時に徳川と鍋島の和合を祈願し黒田からの、伝令をまった。翌朝十六日
、市場の渡しを通り海津城を攻め落し、翌十七日大善寺にて直茂勢と合流し、宗茂を討
つ為の談合をした。一方、立花宗茂方では、徳川家康の命令で鍋島直茂・勝茂が大軍を
発して攻めてくるとの知らせを受けていた。立花宗茂は柳川城内に全家臣を集めて対策
を協議した。宗茂は天下に並ぶものなき知勇すぐれた名将なので自ら先頭に立ち決戦し
ようと思いを語ったが、上席家老の立花三河守が、『関ケ原の合戦で天下の形勢は決っ
した以上、これ以上家康をおこらせても仕方ない。然しながら、領地に攻め込まれたの
を防がぬは武士の恥である。」と述べた。大阪から丹羽親次(にわしんじ:薦野半右衛
門こものうえもん:成清氏)堀惣右衛門入道(ほりそうえもんにゅうどう:堀江氏)ら
が帰って来るまで待つことを確認した。ァ千代姫が既に使わしていたのである。鍋島氏
はもともとは、少弐氏の下で供として、元寇に出陣した千葉頼胤に九州に下った後に、
鍋島村に居住して鍋島氏となったとされる。馬場氏と共に大宰府高官の龍造寺氏排除に
よって九州騒乱を起こした張本人だった。鍋島村は末次氏の居城の横にあって本庄川と
八田川更に多布施川などの暴れ河で中州があった中に居住してたのだろう。

1675: 名無しさんAA:18/11/15 12:31
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   707   > 

 又続けて、「鍋島勢と の戦いは我々家来に任せて下さい。」と言って止めたので、
宗茂も承知して次席家老小野和泉守を総大将として鍋島軍と決戦する事になった。と言
われる。十六日鍋島直茂の使者成富兵庫が江上八院決戦の申し入れをして来たしたので
、宗茂は早速軍議を開いて、この申し入れを受け入れた。宗茂は、上席家老立花三河守
の意見を入れて、自分は城を出ない事にし、総大将は次席家老小野和泉守一千余騎で第
一陣となり、二陣は一族立花右衝門大夫七百騎、三陣は矢島右助他一千余騎、馬廻り組
安東伊之助他一千余騎、榎津舟手の護りに四千、城の護りに三河守以下四千、その他一
千余、総計一万三千の総力で防備を固めた。十九日朝、鍋島軍は城島城に迫り、一勢に
鉄砲を打ち込み城内に突入した処、城島城の城番立花吉右衛門は、酒見城、筑後川沿岸
警備の為の留守役であったため、簡単に落城した。一方、立花吉右萄門は、城島城危し
との急使がきたので急いで城島へ向ったが、榎津にやってくると、鍋島の兵三千ばかり
が、前面十町の距離にいた。吉右衝門は、軽兵(軽卒)を放って、鍋島の兵を攻撃して
二十余人を倒した。十月二十日の夜が明けた。鍋島軍は三万二千の大軍を十二陣に分け
、犬塚、江上、青木から一気に八院へとおしよせた。立花軍は、二十日の朝早く、小野
和泉、立花右衝門太夫、安東五郎右衛門、安東津之助、石松安兵衝および千手六之允、
そのほか立花三太夫、新田平右萄門(足軽頭)など軍勢一千三百余人をつけ五隊に編成
して江上表へ押し出し、薦原(中木室と下木佐木の村境)に陣して肥前軍に当らせた。
立花吉右衝門は三百余人を率いて水田口(筑後市)へ駈け向つた。これは黒田如水が、
水田口から押してくるということであったからである。柳川城兵が江上表に駈けつけた
ところ、小野和泉の与力の松隈小源が、小野和泉の使者と偽わって、安東五郎右衛門の
所に行き「早く合戦を始められよ。もし大敵に恐れるならば、後隊と入れ替えられる。
」と言った。この言葉を聞くと安東五郎右衛門、石松安兵衛は兵を繰り出し、敵の先鋒
三千人ばかりの中へ突っ掛け、肥前勢を追い立てた。第三陣に将として出陣した立花三
太夫は、これを見て出し抜かれたと思って(石松・安東の軍が敗れるを見てともいう)
真一文字に突っ掛かり、敵の三隊を追い散らし、一ノ橋から二ノ橋、三ノ橋まで切り崩
した。肥前の第二陣の後藤茂綱の軍勢は、鉄砲三百挺でつるべ打ちに撃ちかけ、柳川勢
で倒れる者の数がわからぬ程であった。

1676: 名無しさんAA:18/11/15 12:35
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   708   > 

 このとき立花三太夫は、馬上に長身の槍をしごき阿修羅のように駈け回り、ただ一騎
敵軍を突き抜けて敵味方を驚かせ、鍋島平五郎がいる五反田の本陣へ駈け込み、息をも
つかせず、攻め寄せた。その激しさは「先鋒鍋島茂忠も危うかった。」と、鍋島方にも
記録されている程であったた。肥前勢が立花三太夫を取り巻いているとき鍋島の家来、
今泉軍助は、鉄砲で三太夫を撃ち落し、軍助の従卒衛藤四郎右衛門が駈け寄って三太夫
の首を取った。また、三太夫は三の橋まで進んだところ橋が切り落されていたので、堀
を飛び越えようと馬に一鞭加えたところ、馬が疲れていたのか、向うの堀岸を踏みかけ
、馬もろとも堀に落ち敵兵が群がってきて三太夫を討ち取ったともいう。三太夫ときに
二十五歳であった。小野和泉は、先手(先陣)の戦いのありさまを聞くと、家来を引き
連れて出馬し先手を救おうとしたが、横矢に射られ、小野和泉の家来は進むことができ
ず、立花右衛門(鎮實)・次男善次郎親雄(十七歳)・新田平右衛門らは後陣にひかえ
ていたが、これも先手を救うために、横合から攻めかけ、敵を三町ばかり突き崩した。
しかし、立花右衛門およびその子善次郎も後を断たれて戦死した。勝ち誇った肥前軍は
、小野和泉の陣にどうと攻め寄せ、小野和泉をはじめ、その軍勢は奮戦したが、十四、
五人になるほどに討ち取られた。小野和泉も左の乳の下を鉄砲に撃ち抜かれ、肢にも矢
傷を受けて戦うことができなくなり、戦死はまちがいないと思われた。始めは、優勢に
みえた立花軍だつたが、なに分状況が把握できないままで、関ケ原の帰参のままだった
事が祟った上に多勢に無勢といった所で、三千と三万二千では兵力が違いすぎた。鍋島
軍の壁は厚く安東・石松等、立花軍の勇士は、ばたばたと討死していった。加藤清正は
立花宗茂とは親交が深く、さきの朝鮮の役では宗茂に助けられた恩もあるのでどうにか
して宗茂を助けたいと思っていた。黒田如水と相談して鍋島直茂に柳川城総攻撃をやめ
るように、先に兵すすめてわざわざ止まっていた。そして、柳川城に使いをやって自分
が家康公にとりなしをするから、開城するように申し入れ、家来のゆく末や宗茂の身柄
は、清正がみる。」と申し出て来ていた。更には黒田には内密に。と言う厳命を持って
の話だったのだ。家康は既に戦闘は自分の藩外では御法度である。との急使を出してい
た。


1677: 名無しさんAA:18/11/15 12:36
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   709   > 

 その申し入れは、江の浦城のァ千代にあった時からあった。ァ千代は宗茂に伝えた時
。「庶民も百姓衆も大事だが、もののふというもの、城以て城主藩主である。綺麗に死
してこそ。価値てがあろうよのう。」と相談していて、返事を待たせていた。「かくな
る上は任すのみ。」とァ千代も心に決め、城では「小野氏差配」と部下に任せていたの
である。従って久末会談において綿貫氏の発言は自分の考えで百%独断の返事が任せら
れていた。この交渉では 肥後の家臣団や加藤清正の弁が、真心をもって説得していた
と見えることで、宗茂も承知した。又かかる折に、宗茂がかねて大坂につかわしていた
老臣堀惣右衛門が帰ってきて、家康の内意を伝えたので開城を決意した。この時江上の
八院決戦を申し込んで来ていた事だった。かねてから久留米は4つの城で勢力がひしめ
いていた。一つは長門石城で水天宮山の城で豆津の前にある城だ。今一つは久留米笹山
城で久留米医大前の正式な城だ。更に諏訪神社を出城とした高良山の御井城、更に裏に
控える熊襲八女の出城上津の城である。この四つ城がある理由は簡単で太閤秀吉さえも
何ともしがたかったからだ。諏訪神社を出城とした高良大社は僧兵が籠る城で神域とし
て、先の熊襲の隈部一党と繋がりがあり、呼応すれば英彦山修験者や八女の「仏心宗」
と称する曹洞宗(そうどうしゅう)の門徒すら集まり兼ねない城山だった。更に陸の城
の上津城は全く城とは言えなかったがどうして島津が抑えられなかったほど、布陣に適
した場所だった。昭和の時代に化粧会社が野伏間クリームを販売したが野伏間というの
は釣り野伏間と言う島津の兵法であった。強い者を先陣にたてて、左右に挟む様に待機
軍を敷いて隠れ少しずつ敵の本陣から引き離し兵站を切って落とす事で降伏させ仲間に
する事である。上津城はその重要拠点と言えた。言わば高良台の城とでも言えたのだ。
更に新たに入城した毛利氏の城は正式な久留米城だったとは言え小さかった。対して、
こうした古城である長門石城は水天宮社殿の本宮を据え神領だったのである これから
創るべき城の様に立地にも優れていた。そして柳川城にいた成富茂安は島津軍の追っ手
に江上方面に逃げたが、ちゃっかりこの長門石城と笹山城を抑えて笹山城を明け渡しす
るのを拒んでいたのである。

1678: 名無しさんAA:18/11/15 12:37
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   710   > 

 成富茂安は龍造寺政家の一介の家臣に過ぎなかったが、龍造寺氏の懐刀であった。天
正14年(1586年)いち早く政家の名代として安芸国において小早川隆景に、大坂城に
おいて豊臣秀吉に謁見し、天正15年(1587年)の九州平定の際には、龍造寺軍に属し
て出陣し、その戦いぶりから秀吉を始めとする諸将から一目置かれた。同年、天草の戦
ではトンネルを見つけ頭角を現し、加藤清正、小西行長を援護した功により、清正から
甲冑を賜っている。朝鮮戦争の慶長の役では、龍造寺軍の先鋒を務め、龍造寺氏筆頭家
老の鍋島直茂に仕える様になって、久留米から手を引いた。関ヶ原の戦いの際には、前
哨戦となる、伏見城の戦い、安濃津城の戦いに西軍として出陣する。西軍に与した九鬼
嘉隆の船団や伊賀方面から東に進出してきた光嘉は、信高と合流している事から、九鬼
水軍や伊賀の忍者と何らかの形で懇意の仲でもあったようだ。それが肥前伊賀屋でもあ
る。多分家康は食えぬ男だ。と思っていたであろう。その後、鍋島直茂・勝茂親子が西
軍から東軍に寝返ったのに従い、東軍側となり本領を発揮した。十六日鍋島直茂の使者
成富兵庫が江上八院決戦の申し入れをして来ていた。つまりこの成富氏は堂々と戦線布
告し武士の流儀にすれば、他の者が戦って勝ってもそれは横取りか加勢であり成富の物
であると唾をつけた形である。更に負けてもそれを見守るのは、鍋島であり加藤であり
鍋島なのだ。更にこの三者は徳川から早馬の書状で領地越戦、つまり自分の所領以外の
戦いは理由が無ければしてはならない行えば罰すると固く申し入れがあっていた。では
この成富氏はと言えばいまだ久留米城の引き渡しをごねていて城がなく手紙は届いてい
ない事になっていたのだ。又事実上は鍋島の臣下であって武将の地位で中途半端の位置
にいた。それでも天正14年(1586年)は、政家の名代として安芸国において小早川隆景
に、大坂城において豊臣秀吉に謁見している。天正15年(1587年)、九州平定の際には
龍造寺軍に属して出陣して鍋島氏の家臣ではない事にもなっている。不思議なのは慶長
5年(1600年)、関ヶ原の戦いの際には、伏見城の戦い、安濃津城の戦いに一緒に出陣
し、その後、鍋島直茂・勝茂親子が西軍から東軍に寝返ったのに従い、筑後国柳川城、
久留米城を攻め落とす。この時、直茂に命じられて柳川城主である立花宗茂に降伏を勧
めるために折衝役を務めたのである。仲間なのか敵なのかはたまた裏切者か全く不明の
ままだが、実は立花氏内の柳川土族の旧来の家臣も多くはこの成富の家来だった者も多
く更に鍋島に対して龍造寺が倒れた今は、同格である。と言う意思が強かったのだろう



1679: 名無しさんAA:18/11/15 12:38
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   711   > 

 この関ヶ原の戦いの後、知行高を4000石に加増される。 慶長8年(1603年)、武蔵国
江戸に幕府が開府されると、江戸の町の修復や水路の整備を行う。またこの頃、山城国
二条城、駿河国駿府城、尾張国名古屋城、肥後国熊本城等の築城にも参加、この経験を
肥前国佐賀城の修復に生かした。 慶長19年(1614年)から、大坂の陣に出陣した。 慶
長15年(1610年)から没するまで、水害の防止、新田開発、筑後川の堤防工事、灌漑事
業、上水道の建設など、本格的な内政事業を行っている。茂安の手がけた事績は、細か
い物も入れると100ヶ所を超えるともいわれ、300年以上たった現在でも稼働しているも
のも多くある。治水の天才で民衆や百姓の要望に耳を貸す姿勢は、肥前国佐賀藩の武士
道の教書でもある『葉隠』に紹介されており影響を与えた。寛永11年(1634年)76歳で
死去。家臣7人が殉死するに及んだという逸話の持ち主だった。墓所は佐賀市田代の本
行寺にある。この戦乱の結果、鍋島藩は家康公に領土を認められ、又家康公との和合も
進展していった。その後鍋島藩は、今までの度々の戦の為藩は財政的に窮し、土地は荒
れ藩民もまた窮乏にあえいでいた。そこで成富は直茂公に治山治水、新田開発の必要性
を説き許可を得て事業に着手する。すると第一にたびかさなる筑後川の洪水を防ぐため
、干陸から、浜口まで十二キロメートルに渡る土居を築いた。築くにあたり、さきの、
立花攻めの際戦勝祈願をした矢俣八幡神社が洪水のたびに祠堂が流れて漂没することが
たびたびであったので、干陸士居の東側にあった八幡神社を現在の地点に移した。そし
て、この八幡神社は八院合戦の際の、戦勝祈願したときの文書と成富兵庫茂安の直筆の
文書が現在も残っているという。天正14年(1586)の、堀惣右衛門入道へ与えた知行坪
付の写しでも。差出に並ぶ家老は、由布雪下、十時連秀、堀秀、安東連直、由布惟時、
安東雪貢(連忠)、小野宗珊(鎮幸)であった。これが道雪没後の家老の面々である事
から堀惣右衛門入道が大阪から家康の意向を聞いて戻ってきたことは大きな成果だった
のだろう。代替わりを別にすると、十時連秀と小野宗珊の名が注目される。十時連秀は
、天正期に豊後より道雪に召し出され、天正年間後半から家老に列せられているようで
ある。また、小野宗珊(鎮幸)は、大友家直臣から道雪の家臣となり、この段階では家
老にまで列せられている。



1680: 名無しさんAA:18/11/15 12:38
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   712   > 

 小野鎮幸(おのしげゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将で、立花氏
、加藤氏の家臣であった。日本槍柱七本・立花四天王の一人に数えられ、また和泉守で
あることから小野 和泉(おのいずみ)とも呼ばれた。 豊後国の戦国大名大友氏の家臣
・小野鑑幸の子として誕生し由布惟信に推挙されて大友氏の重臣・立花道雪に仕えた。
「剛勇にして智謀あり」と伝わる智勇兼備の武将で、生涯で22度の大戦、多数の小戦に
参加して全身刀や槍、矢、鉄砲による67ヶ所の傷を受け、大友氏・立花両家から合計68
枚の感状を受けた。家中に由布惟信と共に、道雪から孫子兵法の「奇正相生」を引用し
ての奇と正の両翼として立花双翼と称揚され、鎮幸は奇の将を任じたという。柳川城の
城主となった道雪の子・宗茂からは家中で最高の5千石の禄高を賜り、次席家老を務め
、その後の立花蒲池城の城主となった。文禄・慶長の役にも参加し、数々の武功を立て
ている。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると東軍への参加を主張したが、藩
に従い石田三成の西軍に参加し大津城を攻略した。ところが、西軍が関ヶ原にて敗れる
と、加藤清正、鍋島直茂、黒田孝高(如水)が柳川を攻める形勢となった。同年10月14
日、鍋島勢32,000(『葉隠』12,000、『太宰管内誌』は20,000余、『立斎旧聞記』は10
,000余)は二手に分かれて佐賀を進発、立花勢も迎撃のために八院方面へ出陣した。し
かし、東軍の徳川家康への恭順を示すため主君・宗茂は城に残り、立花勢13,000のうち
出陣したのは家老の鎮幸を総大将とする約3,000(一説2,000、うち鎮幸の直卒する中軍
は1000余騎)であった。鍋島軍は、10月16日には筑後川を渡河して立花方の安武海津城
を落城させ、続いて10月19日朝には先鋒隊3,000が立花成家勢200の鉄砲奇襲を受け20余
人が討たれたが城島城を攻略、翌10月20日に鍋島軍の先鋒軍3〜5,000と鎮幸率いる立花
軍1,300と江上・八院の戦いで激突した。立花勢 先鋒の安東範久(五郎右衛門)、石松政
之(安兵衛)らは鎮幸の与力・松隈小源の軍令誤伝のせいで、軍法を破って独断で開戦
し、次々と鍋島勢の軍陣の中へ突入し、先鋒第三隊の立花統次(三太夫、森下釣雲の三
男、立花統春の養子)は鍋島軍の陣中深くまで進んで奮戦した。鍋島勢の先鋒・鍋島茂
忠は本陣の五反田へ撤退したといわれている。しかし、鍋島方は、立花勢を包み込んで
包囲殲滅する作戦を当初から立てており、立花方は一騎駆けで敵軍に突撃した立花統次
の戦死を始め、先鋒の安東範久、石松政之もたちまち反撃を受けた。

1681: 名無しさんAA:18/11/15 12:39
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   713   > 

 救援出陣の第二陣立花鎮実(戸次右衛門大夫、藤北戸次氏の一族)と鎮実の若い次男
立花親雄(善次郎、17歳)や新田鎮実(平右衛門、掃部助)は横合から果敢に攻めかけ
たが、これも後を断たれて共に戦死した。後陣の矢島重成(勘兵衛、剛庵、宗茂の側室
・八千子の弟)と千手喜雲(六之允、筑紫広門の与力)は戦を躊躇し接戦していないた
め、馬廻衆の安東幸貞(津之助、安東範久の養子)、第三陣の若武者十時惟久(新五郎
16歳)、先鋒の安東範久、石松政之も次々と戦死した。総大将の小野鎮幸は本陣前の橋
を堅守して鍋島勢の包囲を受け勇戦奮戦したが、鍋島軍の反撃を受け、供回りが14,5人
になるまで討ち取られた。小野自身も銃創と矢傷を負い、討死寸前となったが、水田方
面の黒田如水軍を偵察していた立花成家(吉右衛門、薦野増時の嫡男)が別動隊 300を
率いて敢然と奇襲をかけ鍋島勢を混乱させた隙に無事撤退した。ここで松石氏は福岡県
柳川市三橋町五拾町が本拠としてあり。同地の小字に松ノ神あり。福岡県久留米市篠山
町が藩庁の久留米藩士に江戸時代にあった。としてある。白鳥から中山までの領主であ
ったらしい。成富氏のなでしこ紋は秋月氏や田尻氏の縁戚でもあったのだろう事をうか
がわせる。またそれは美濃の斎藤道山などの流れもあったのかもしれない。実は松石家
は今の垂水に高橋家すなわち立花氏が乗り込む前にあった村の中心で垂水の基礎となっ
た桶屋の村人が松の神を祀って居た所か付けられた名である。恐らくは垂見小学校付近
の住民で白鳥神社の氏子であったろう。鷹尾文書には「横手庄200町」とある。村落
の中世を知る史料はほとんど見当たらない。村落内に共同墓地のある元屋敷、西光寺北
側の外屋敷があるが、中世の武士の屋敷跡に似た環濠屋敷(かんごう:外敵の侵入を防
ぐ為に回りを掘のある屋敷)がある。宝満宮の南側の小字名で土居は旧河川の土居があ
った所で、さらに南の中川原、上浜、中浜田、中浜、浜脇の小字名は矢部川が横手、五
十町の村落の東側を蛇行して流れていた頃の名残りで矢部川の河床跡です。寛永15年
(1638)頃、鷹尾・泰仙寺・島堀切と同じく普請方役人の田尻総次による江戸初期
の掘替工事(直進化工事)により、鷹尾文書にも出てくる高柳村の西郷高柳集落が分断
され五十町の領分となった。文禄4年(1595)12月の柳河藩知行目録によれば、五十町の
石高こくだか(1石こく=米150kg)は、 258、54石であったが、万治3年
(1660)には岡田修理充(しゅうりのすけ)の知行地400石となり、安政年間(
1854〜1859)には711.268石となっている。松石氏は福岡県柳川市三橋
町五拾町が本拠としてあり。同地の小字に松ノ神あり。と書かれる。


1682: 名無しさんAA:18/11/15 12:44
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   714   > 

 柳川藩の財政は苦しく、資料では特に五十町村の開拓膨張の様子が解る。(1石=10斗
=100升)柳川藩は藩内の村々を治おめるのに7組、後に9組も大庄屋を置き、その下の
村々に小庄屋を置いた。 五十丁は本郷組に属し、小庄屋は菊池家(旧柳川農協組合長
、菊池藤市氏)が代々、庄屋職しょうやしょくを勤め、なかでも菊次藤七は40年間庄
屋を勤め、時には新村、東百町の庄屋を兼ね、文政2年(1819)苗字帯刀御免、御
役所御支配を仰付おおせつけられている。その子藤助、孫が藤蔵その息子藤助が代々、
庄屋役を勤めていたことが本郷組大庄屋記録にある。文政4年(1821)には本郷村
の沖ノ端川から岩神(いわがみ)水路ができ、中山村を通り五十町の取水口検校堰(け
んぎょうせき)も作られた。五十町村は水利慣行が極めて複雑なこの水路の中で、聖川
を建設整備していたから過去から優越権を持っていた。文政6年(1823)、本郷組
大庄屋覚書によれば、五十町村落庄屋の菊次藤七及び息子の藤助が新村、東百町の庄屋
を兼ね、翌7年(1824)10月に高畑三柱(たかはたけみはしら)神社の造営に当
たって、当集落から2石6斗5升を寄進している。安政4年(1857)12月、五十町開地
の地頭が自営の井樋いびを藩営に組み入られんことを願った為とある。明治37年には
矢部川の大和堰が完成し上庄北部からの水田に水路が整備されなお安定した水利となっ
た。しかし、この頃も水利に対しては行基着任以来の岩神本郷にあった神人達に力があ
った。南筑明覧には「下妻郡本郷村の行基橋は、往古行基僧正諸国巡行の際、橋を渡せ
り。故に、後人呼びて、行基橋というなり。」とあります。実は公式に残る最古の橋は
大牟田にある。 日本で初めての橋とはどんな橋だったのか。 記録にのこる最古の橋は
、「御木のさ小橋(みけのさをばし)」という倒木を利用した橋です。この橋は、福岡
県大牟田市の三毛(三池)の地にあったとされています。(日本書紀 景行天皇18年
)今で言う丸太橋の起源である。また、仁徳天皇の14年(おそらく5世紀頃)には、
「猪甘津(いかいつの)に橋わたす」という記述があります。形や大きさは不明ですが
、人が通る街道に架けられた橋のようです。この橋は、「つるのはし」と呼ばれており
、現在の大阪市生野区猪飼野町に石碑がたてられています。つまり今の吊り橋の原型と
される。記録のない時代にも橋が作られていたことは当然で書類上の事であり、考古学
の発掘調査ではまだ古い橋は明らかになっています。弥生時代の中期末つまり、紀元前
後には、環壕集落が各地で作られ、それを取り巻く壕(ほり)(幅約4m)に架かる橋
の遺構も発掘されている。


1683: 名無しさんAA:18/11/15 12:44
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   715   > 

 相浦專内は柳川市中町衣料品の大商店だった相浦醇氏の祖で、代々衣料品を取り扱っ
た問屋である。という。文化3年(1806)、相浦專内は福厳寺の御用御買入米の他
に、前年度からの受払に大変な働きをしたことで、翌年に藩より褒美ほうびとして上下
(裃がみしも)を頂いた。御用聞をお仰せ付けられ、新たに5人扶持ぶちを賜った。5
人扶持とは15石、実収13石で米40俵の年収となる。文化、文政の時代の藩札の裏
書人となっている。子孫の相浦醇氏は中町で衣料品店を営んで創業200年祭りを催し
、当家の古文書が展示された。古文書には文化6年(1809)7月に物成役(会計方
)の、十時杢助ほか5名の名義で40貫の借用証文があり、その引当てに秋に米200
0俵が渡される約束となっている。また11月にも金500両の借用証文があり、その
引当てに米700石を翌年10月に渡される約束になっている。文化7年(1810)
8月にも40貫の借用書がある。しかし又、年代は不明だが、10月の御用方免職状が
あり、上納金を納めなかった為に、田地、家屋を召上げられ、町方支配を止められ、名
字帯刀(みょうじたいとう)、下駄ばきを差止める御咎め(おとがめ)を受けている。
しかし 精を出して物事を行ったのか 、当年の10月14日の御用方再任状には、相浦
專内、中村次郎右衛門、富安長右衛門、諸藤弥平次、永江九左衛門の5人が再度御用聞
に仰せ付けられ5人扶持を頂いている。專内は嘉永6年(1853)5月17日に没し
ているが、当時の立花藩が、町方と藩の幕閣との混乱があったとも取れる現象だろう。
この中の、富安家は蒲地鎮連(旧柳川城主・天正9年5月27日没)の子孫で蒲地家の
一族で一家老であった。佐賀の鹿ノ子神社で蒲池氏と共に龍造寺の謀り事と戦うも川上
氏に殺され、その後佐嘉神社に祀られたようだ。柳川市内の瀬高町2丁目(現・京町)
に店を構えて両替商を営む豪商で、天保5年(1834)大坂蔵役所が発行した手書き
の「三分(163×50 2 2479)・弐分」の銀札の裏書がある。両替所は細工町の田中惣右
衛門と瀬高町(現・京町)の富安長左衛門である。旧・北原病院(京町通り信号)の角
に広い屋敷と向かい側に蔵があった。地図では城下町図瀬高町・細工町・出来町付近の
今の公園近くにあった。明治時代に郵便局が出来て、藩銀として高椋銀行の窮地で渡辺
氏との繋がりで福岡銀行に変わった時に手放して、玩具や本屋に変わった。中島の庄屋
荒牧氏は、大川に立秋家具店を進出させる頃、柳川軌道が国鉄佐賀線と変わりの跡地に
国道208号線が出来て大川までトミヤ文具店は出店した。政府は松下電器とタイアッ
プしてその頃軍部は木造合板翼を開発しようとしてた。今のメラミン合板の元である。
この時の尿素供給において奔走している。

1684: 名無しさんAA:18/11/15 12:47
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   716   > 

 1871年(明治4年)に東京〜大阪間で官営の郵便事業が開始された。これは前島密氏
(1835年〜1919年)の発議によるものでした。前島氏は、大蔵省や内務省の官僚として
の仕事をしながら、1870年(明治3年)から11年間もの長い間郵政の長として、熱心に
郵政事業の育成に邁進し、その基礎を築きました。そのため「郵政の父」と称えられて
いる。郵政サービスの窓口機関の郵便局については、1871年の創業当初には三府(東京
・京都・大阪)に政府直轄の「郵便役所」が飛脚の反対の中で設置された。東海道の各
宿駅には民間の協力で「郵便取扱所」が置かれ当然昔の飛脚を署員として採用した。そ
の後、明治政府は全国の主要都市に官設の「郵便役所」を設置したものの、財政が極め
て不足していた当時の明治政府にとって、全国に「郵便役所」を設けることは難しかっ
た。そこで政府は民間委託とし、地元の名士(かつての庄屋や名主など)から自分達の
土地と建物の一部を無償で提供してもらい、その代わりに彼らを「郵便取扱役」に任命
して準官吏の資格や身分を与え、「公務」である郵便業務を請け負わせるという施策を
とった。この結果、地域の名士の屋敷を拠点とする「郵便取扱所」が短期間のうちに、
全国津々浦々にまで広がり、わが国の郵便制度は急速な普及を遂げました。当然藩主の
立花公爵までその話は来た。そこで別府氏や富安氏にそれが下命されて柳川にも郵便の
制度が持ち込まれた。創業当初に設置された「郵便役所」は1873年に「一等郵便役所」
に改称され、また「郵便取扱所」についても1874年に「無等郵便役所」となりました。
その翌年には、すべての「郵便役所」は「郵便局」へと改称され、一等から五等に区分
された。その後、1886年に「郵便局」は三等級制(一・二等郵便局は国の直営、三等郵
便局は地域の名士等から局舎の無償提供を受けた局)となり、1941年には等級制が廃止
され、旧「一・二等郵便局」が「普通郵便局」へ、旧「三等郵便局」が「特定郵便局」
へと改称・再編された。その後、1949年には「簡易郵便局」(郵便局で取り扱う事務を
地方公共団体や組合、個人などに委託して開設している郵便局)という制度が創設され
、3種類の郵便局において、長らく郵政三事業(郵便・貯金・保険)の業務運営が行わ
れた。現在は郵便局は、地域の物流・金融の拠点として発展し、郵便局の窓口では、主
に「郵便(ゆうびん)」「貯金(ちょきん)」「保険(ほけん)」の3つの業務(仕事
)を行っている。

1685: 名無しさんAA:18/11/15 12:47
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   717   > 

 紅粉屋べにや(後藤)は藩内最高の富豪であった。後藤七郎左衛門は博多の商人で、
立花宗茂が立花城城主の以来の問屋であった。天正16年(1588)に立花宗茂公が
立花城城から柳川に入城の時に一緒に来て紅粉屋べにや(化粧品店)を開業したとみら
れる。後藤は上納金改役を仰せ付けられ藩納入の金員はすべて紅粉屋の印を必要とし、
そこで紅粉屋はその金額に応じて手数料を受取っていた。今の銀行のような仕事をして
いた。宗茂は関ヶ原の戦いで豊臣軍として戦ったが敗北し浪々の身となり、のちに徳川
に仕え、奥州棚倉の領主となった。しかしこの時紅粉屋は奥州棚倉にいろいろな物を届
けて助けている。これが藩主の田中吉政に知れ商売を止めされた。また井上氏矢加部氏
池末氏竹田氏なども、立花山まで秘かに米を送っていた。此の事が発覚し今の国鉄駅の
公園で打ち首と一家断絶に陥った。しかし再封を果たした立花氏は土地や金を与え子孫
の再興をさせて地蔵を建て幸せ地蔵とされた。又、宗茂再城の元和7年(1621)2
月12日に、紅粉屋に御泊りになり御礼を言う為に立ち寄った。紅粉屋の後藤七郎左衛
門の妻は、すばやく、宗茂公に御祝辞を呈し、熨斗のし(進物)献上した。以来代々の
藩主の入城の節は、小道具町にある御客屋(御使者・迎賓館に当る場所で後の武田氏の
宿になった)に、お迎えして三宝(神饌を載せる台) に熨斗(進物)を差し上げること
が決まりとなった。この儀式が、後に明治維新まで行われたという。元和9年(162
3)紅粉屋は、安南、カンボジアに出かけ帰りに暴風にあい難船しようとしたので、京
信国脇差を沈めたが、波はおさまらず、家宝の太鼓を海中に投じたので無事帰ることが
できた。よって当家には家宝として太鼓が伝わっている。というこれが立花陣太鼓とさ
れてきた。しかし1614年11月23日口之津、ペトロ後藤七郎左衛門、トメ松島、ルドビコ
次右衛門が禁教令で処刑された。いずれも有馬領内の村の庄屋であり、敬虔なロザリオ
会員だったとされる。その後寛永14年(1637)島原出陣に際しては、鉄砲玉5千
斤・ヤリ等の他12両を献上している。立花朝右衛門(年代不詳)御銀急用について銀
千二百十貫余を差し出したので褒美として五人扶持を拝領しているが恐らく子孫の後藤
氏を名を変更させキリスタンから遠ざけたのだろう。天保五年には、後藤弥三右衛門の
記録には。歴代藩主の御書も数多くあったが、明治以降に無くなっている。

1686: 名無しさんAA:18/11/15 12:51
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   718   > 

 紅粉屋は代々、「上納金改方(あらためかた)」を命じられ、いかなる上納金も紅粉
屋に持参して、その封金を持参すれば、一切運上役所にて領収された。その際、紅粉屋
は一件に付、何匁何分とか、何百両に対しては、幾貫何百文の手数料を徴収していた。
紅粉屋はその金員を紙袋に入れ、紅粉屋の印を押し金額を大書きし、納入者に与えた。
役所にては紅粉屋の印さえあれば、たとえ瓦でも千両と書いてあれば千両として領収さ
れる程に信頼され、藩内に通用したという。また藩内最高の富豪であった。元和8年(
1622)に紅粉屋は有明海海岸堤工事を行い、33町の干拓地(紅粉屋開ひらき)を
造成している。現在、有明海に近い筑後川沿いにある広大な土地の大川市紅粉屋べにや
は当時干拓された場所だ。また、高田町江浦にもある紅粉屋開(ひらき)も後藤氏関係
とみられる。後藤氏がペトロ後藤七郎左衛門としたら初期の肥後か薩摩のキリスタンと
いう事になる。紅粉屋が古くから薩摩の貿易船の寄港地であったとすれば末次船の本拠
地がこの筑後や佐賀であり、キリスタンの益田四郎こと天草四郎はこの地の人間かも知
れない。浜田伝右衛門二男が養子に入り、村上甚兵衛義と名乗ったが先祖は伊予国能島
に居住し(所謂村上水軍)、代々毛利家、小早川家へ仕えましたが、小早川中納言秀秋
死亡後遁世浄喜寺良慶と改め、黒田如水・同筑前守に仕えます。その後、黒田家を辞し
て豊前で細川忠興に仕えますが、忠興死亡後、河内国森口へ移り、末子が興長に召出さ
れて与右衛門氏長と名乗ります。二代目が甚兵衛義です。これが村上、浜田の縁です。
近藤家の先祖は、丹波亀山の住人で織田信長の近習を勤めました。八兵衛が景包五男の
弥十郎が丹後久美を訪れて、松井康之に召抱えられます。豊後立石表合戦で働き、軍功
をあげます。その後安岐城、富来城攻めにも働きます。近藤、志水の縁です。竹田氏祖
は武田氏とされる。武田侍従定栄瑞竹軒は足利義晴に仕え、山城国竹田郷を領地してい
ました。瑞竹軒嫡子竹田織部正定雄は足利義晴・義輝に仕え、三好・松永による義輝弑
逆後浪人、梅松軒と称して羽柴秀吉に仕えました。梅松軒の妻は沼田上野介光長の娘で
した。つまり、松井康之の妻の姉です。このことから、梅松軒嫡子竹田藤松は丹後久美
の城で康之に養育されて成長したのです。松井の称号を許され、松井長介定勝と名乗り
ます。子供の成長を見届けた梅松軒は、家督を二男竹田源助長勝に任せて、豊臣秀吉に
仕え、大坂の陣で三男竹田永翁と共に、豊臣秀頼に殉じ切腹して果てている。


1687: 名無しさんAA:18/11/20 17:00 ID:JIo
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   719   > 

肥後の後藤三右衛門の家系は、井上(松井)紀伊守之勝四男久之允が養子に入っている
。慶長十九年頃です。後藤家と井上(松井)家はこれで、井上、橋本<之勝次男>、後
藤<之勝四男>が親戚になりました。しかも、井上、橋本、後藤は兄弟であるとされる
。後藤家は、鎌倉幕府、足利幕府に仕え、天文・永禄年間江州佐々木承禎の家老を務め
ていました。佐々木氏没落後織田信長に仕え、信長没落後丹後国に浪人していたところ
を、久美にて康之に召出された。文禄の役で朝鮮渡海、晋州鎮守城攻めでは、田中理右
衛門他9人と先陣を切って働き、関が原の合戦では立石表の戦いに、松井河内守、同紀
伊守、中川下野守と共に豊後杵築城を守り、豊後のよしみが出来たと言う。元禄九年に
後藤小左衛門真秀の二男が養子に入り、平田長太夫隆豊と名乗ります。後藤助太夫家は
、新兵衛真勝のとき豊後で木下右衛門太夫に仕えますが、身体不足を理由に暇を願い出
ました。しかし、願いは許されなかったが怒って立ち退き、豊前の松井興長を頼り、そ
のまま召抱えられます。木下右衛門太夫からは興長へ新兵衛を帰すように依頼がありま
すが、興長は「我家を頼みにした者を差し返すことは出来ない」と、返しませんでした
。こうして、興長に仕えた新兵衛真勝は、興長の死の当日追い腹を切り殉死した。木下
右衛門太夫から興長へ差し返すように要請し興長は、頼られたからには返すわけにはい
かないと、新兵衛真勝を召抱えたが、木下右衛門太夫は、細川忠興の妹婿である。平田
、後藤がその後は親戚になりました。平田家は江州舟木城主でしたが、没落後は一族の
平田城主平田右京方にて過ごし、後に肥後加藤主計頭清正に仕え、肥後守忠広改易によ
り浪人となり、熊本町に住居した。松井家は田中左角秀定がのちに松井清三盛光と名乗
り住んだ。田中先祖田中山城守源盛重は、織田信長の世に明智光秀に属し丹波国船井郡
大村城主だった。光秀没後一族で羽柴秀吉を討とうと聚楽第襲撃を企てるが、事前に露
見してしまう。一族は、丹波国船井へ退きその後離散して肥後にやって来た。宇野与三
左衛門(源右衛門)治時が慶長の初め頃、松井康之に召抱えられます。関が原で、松井
興長に従って岐阜城攻めに出陣、関が原には、松井市正之勝組で出陣しています。その
子、与三左衛門治久は、有馬陣で、筑後立花家家老十時三弥と細川家家臣とが、口論の
喧嘩の末果し合いになるところを仲裁しています。宇野源七隆久は、瀬戸からの養子で
すから、宇野、瀬戸の縁故が出来ている。

1688: 名無しさんAA:18/11/20 17:00
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   719   > 

 かつて日本では、古代船は宝船のような先が広い四角な船と考えられてきた。しかし
色々な資料では竹船や筏船から発展したと思われやはり舳先は物ぶつかってもよける形
のヨット型であったようだ。中には箱舟や屋形船の様な船上生活船と言われるものも、
あったが流通用の船便は、弁財天が主流であったといえる。なぜ違っていたかと言えば
生活船は魚など取って暮らし重い物が無く 桟橋の浮橋の様な屋根のある家の中の生活
が出来ればよいからだ。つまり流されず転覆しなければ良かったので浜に上げやすく、
ロープが張れれば良かったのである。対して北周り船や、交易船は日本内であっても、
瓦や米、金銀や銅や鉄や瀬戸物と言う重い物が主流で、少なくとも魚の干し物位の重さ
のある物を扱っていた。特に百石船といわれた五百石〜百石ぐらいの小舟が多く、沈む
船も多かったのか小分けして送っていた様だ。彼らの船は小さな水路すら深ければ入っ
て行けるほど流線形で、風を良く掴む様に出来ていた。今のヨットの様な幾つもの帆は
持ち合わせないものの深くある船体と細長さと大きな舵板によって逆風でも進んだと言
われる。弁才船は、船体ほぼ中央に大きな帆を上げていて、これを本帆(もとほ)とい
います。船首には弥帆(やほ)と呼ばれる小さな帆もありますが、弁才船は1本帆柱の
船と見るのが般的です。弁才船の帆は中世以来の伝統的な形式を引き継いでいますが、
下の帆桁(ほげた)を取り去り、帆の下を綱(つな)でとめて十分なふくらみがつくよ
うに改良されました。江戸時代の後期になると帆走性能を少しでも上げようと、船首や
船尾に小さな帆と帆柱をさらに増設した船も現れます。弁才船の帆の取り扱いは、洋式
船のように帆柱や帆桁に人が登る必要がなく、船上で操作した。重い帆桁の上下も帆柱
の先端の蝉(せみ)とよばれる滑車を通して船尾に縄を通し、轆轤(ろくろ)と呼ばれ
る人力の巻き上げ機を使って船内から行いました。帆桁の方向は桁の両端につく手縄(
てなわ)と呼ばれる縄を、帆のふくらみは帆の両脇につけた両方綱(りょうほうづな)
と呼ばれる綱を操作して行い進んだ。これは平安末期から変わらぬ姿だったようだ。も
ともと井上家は柳川では平家の落人(おちゅうど)伝説では、京都から落ち延びて来て
松井姓を井上姓に変えたようだ。


1689: 名無しさんAA:18/11/20 17:13
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   720   > 

天保年間の奉納の船の絵馬などでは、川口を出る弁才船右端に見える水尾木(みおぎ:
船のとおる水路を示す杭)の中を、船は横風を受けても帆走している。帆桁(ほげた)
の端につく手縄(てなわ)や帆の両脇につく両方綱(りょうほうづな)の取り方がよく
わかる図柄もある。弁才船は順風でしか走れないと誤解されている。横風帆走を意味す
る「開(ひら)き走り」や逆風帆走を指す「間切(まぎ)り走り」或いは「波切」は波
切不動尊の代名詞ともなっている位だ。すでに17世紀「日葡辞書」に収録される弁才船
の逆風帆走性能は、ジャンク(中国船)やスクーナー型などの縦帆船(じゅうはんせん
)に比べれば劣った速さだが、風は並行でなく乱気流でもあり、最終的港から港までは
風を読む力で早く日本に着いている。バーク型などの横帆船(ほうはんせん)より優れ
て弁才船の耐航性と航海技術の向上した江戸時代中期では、帆の扱いやすさとあいまっ
て風が変わってもすぐに港で風待ちすることなく、可能な限り逆風帆走を行って切り抜
けるのが常で、足掛け4日も間切り走りを続けた例もあり腕は要るが腕さえあれば速い
というのが定説となっていた。福井県小浜沖では、逆風を受けながら風上一杯に切り上
げて快走する12反帆(たんぽ)(=150石積ぐらい)北前型弁才船の写真すらある。大坂
と江戸を結ぶような長距離輸送(大回し(おおまわし))に対し、近距離輸送(小回し
(こまわし))に活躍したのが、二百石積以下の小型商船で、この写真を見れば、1枚
帆の弁才船は追風でしか走れなかったという通説がいかに誤りだったことかはっきりす
る。江戸時代の航海は、陸上の目印を目当に航海する地乗り(沿岸航海)で航海してい
た為だ。遠く沖あいの直航路をゆく沖乗りも快晴時は行われて、沖乗りは地乗りよりも
航程が短く、航海日数を短くすることができます。 弁才船の耐航性能が向上するにつ
れ、江戸時代中期からは日本海や北方海域でも昼夜連続の徹底した沖乗りが日常化し、
たとえば北海道の松前から大坂に向かう船は、佐渡ケ島の沖を一気に下関まで乗り下っ
て瀬戸内海に入っている。今の漂着する北朝鮮船の原型かもしれない。鎌倉・室町時代
には、突然宝船型の大型船が資料に登場する。恐らく元寇からの漂着船や漂着民の文化
が船を変えたのかも知れない。中国の鄭和の大航海が終わって、東南アジアで交易の力
を持っていたのは、オランダだった。そして、オランダにとって最大のライバルが日本
の朱印船であり、朱印船貿易であった。

1690: 名無しさんAA:18/11/20 17:13
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   721   > 

 当時、東南アジア貿易の主導権を握るには、日本の輸出品目の゛銀゛を独占すること
だった。オランダは、長崎がポルトガルの植民地化されていると注意提言をし、それに
幕府が動いたという感じではないかと思われ、その後1633年に幕府は老中の奉書を持っ
た船以外の海外渡航に禁止令を出し、段階を踏んで、1635年に日本人の海外渡航と帰国
が禁止された。これによって、朱印船は海外で貿易を行なうことが不可能になり、1939
年には、布教と植民地化の問題から、ポルトガル人を日本から追放し、ポルトガル人を
囲い込むために造った長崎の出島には、オランダ人が住み込み、1641年に平戸からオラ
ンダ東インド会社の商館を移った形となった。また、同じ頃平戸にあったイギリスは、
日本に入り込んだのが遅いこともあって、ウィリアム・アダムス(三浦安針)が全面的
にバックアップしたものの経営不振から閉鎖になり、このような流れのなか、オランダ
が、唯一、正式に日本と交易を行なえる国家になった。こうして幕府は出島貿易により
、利益を独占し、オランダは、日本の゛銀゛を手中に収めることで、東南アジアの貿易
を独占することに成功した。その後、 約300年ものに長きにわたり、鎖国が続くことに
なるのである。ただし、中国・朝鮮とは非公式あるが、交易をしていたし、薩摩は琉球
貿易という形で、密かに利益を上げていた。また他の藩も何らかの形で割賦版権や講券
などで利益や交易を行っていた。その意味では江戸は徳川将軍命令でから藩主が家屋敷
を持ちに住み込みをしたが、長崎は藩主命令で経済や交易の為に長崎に出張所を置いた
。徳川幕藩体制前には日本には8個程の船団がいてそれぞれ船造りが違っていたようだ
。その一つが末次船でありもう一つが荒木船である。荒木船はどうも蒙古襲来後に作ら
れた火矢を居る為作られたようで船の上に梁組をした横壁のない造りだった様だ。屋根
になる平地は人が何層にも立てる位で風の影響を受けない軸組みのみに板を敷いたよう
なものだ。別名筑後船で、これが戦国時代後半に鉄で覆いをした亀甲船の元になった。
もう一つは末次船で、大型の西洋の黒船がやって来て半分壁を作り大砲と鉄砲を置いた
。全面と後部は先の荒木船の様な軸組で、浜にロープを付けて碇代わりにした。この梁
組は当然帆を受ける支柱の為の穴がスカイツリースカイツリーの様に中心に穴があって
支えていたようだ。

1691: 名無しさんAA:18/11/20 17:13
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   722   > 

 異国渡海の朱印状は、文禄元年(1592)に、豊臣秀吉が長崎、京都、堺の8人の
豪商に授けたのが最初であるが、その8人の豪商のうちの一人が長崎在住の荒木宗太郎
(〜1636年)がいる。荒木宗太郎は、豊臣秀吉の朱印状を得て以来、シャムや安南
地方に数度貿易船を出した。ちなみに最初に朱印状を授けられた8人の豪商とは、長崎
の荒木宗太郎、末次平蔵、船本弥平次、糸屋隋右衛門、京都の茶屋四郎次郎、角倉与一
、伏見屋、堺の伊勢屋であった。荒木宗太郎は生年月日も不祥であり前半生はよくわか
っていないが、肥後熊本の武士だったと言われている。1588年(天正16年)ころ
、長崎に移り、武士をやめて商人になった。異国交易で賑わう長崎で交易商売に眼をつ
け、船乗りとなり、やがて船主として財を成し、朱印船制度の創設と共に朱印船主に選
ばれるほどの豪商となった。その後も荒木宗太郎は徳川幕府よりたびたび朱印状を受け
、1606年(慶長11)から1632年(寛永9)にかけて、シャム、交趾などの、
各地に6回にわたって朱印船を派遣した。使用人や親族を船に乗り組ませ、自分は資金
を出すだけというのが普通の他の多くの朱印船主だったが、それと異なり、荒木宗太郎
は船主であっただけでなく、船長となり、自らも乗船し、朱印船を率いて渡海したとい
う。この種の事業家は、当時では「直乗り船頭」と呼ばれて船乗りの間で尊敬された。
 当時のヴェトナムは、1428年に明の支配を脱して興った後黎朝のもとにあったが
、混乱が続き、ハノイを中心とした北部は鄭(チン)氏が、フエを中心とした中部は阮(
グエン)氏が実権を握ったが、中華が攻め入った南と逃げた北に分裂し、この鄭和の子
孫の鄭氏と阮氏との対立は約200年にわたって続くことになる。日本では北部ヴェト
ナムの鄭氏政権を東京(トンキン)と呼び、中部ヴェトナムの阮氏政権を交趾または広
南国(クアンナム)と呼んでいたが、荒木宗太郎は、広南国王の阮福源に深く信頼され
ていたとみられる。後に荒木宗太郎は阮氏の親族に加えられることになり、阮太郎と称
したと伝えられている。荒木宗太郎の注目すべき事蹟の一つとして、元和5年(161
9)、阮氏の娘、王加久戸売(オウカクトメ)を嫁に迎え、現地妻として現地に置くの
ではなく、自分の朱印船に乗せて長崎に連れて帰り、自分の長崎の屋敷に住まわせて、
その生涯を正妻として日本で全うさせたということが挙げられる。この女性は、長崎の
人々から本名でなく「アニオーさん」と呼ばれて親しまれ、夫・宗太郎の死後、164
5年(正保2)に長崎で没している。

1692: 名無しさんAA:18/11/20 17:14
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   723   > 

 このアニオーというのはどういう意味なのか、諸説あるようであるが、最も説得力が
あるのは、アインオーイ、もしくはアニョオーイという王加久の口癖が長崎の人々の耳
に残り、語り伝えられて「アニオーさん」になったとする説。アインというのはベトナ
ムで夫や兄、伯叔父などの男性に対して使う敬語であり、オーイというのは呼びかけの
言葉で、これは、『朱印船時代の日本人』(小倉貞男 中公新書、1989年)で紹介されて
いる説。などがある。尚、荒木宗太郎は元和9年(1623年)、再び広南へ渡海した
が、その折に妻アニオーを同乗させてはいない。荒木宗太郎と妻の王加久の間には、一
人娘が生まれ、名は家須(やす)といい、アニオーさんは、長崎・飽の浦の屋敷で一人
娘家須を育てるものの、アニオーさんは一度も故郷に帰ることなく長崎で生涯を終えて
いる。糸屋隋右衛門は、江戸初期の長崎の朱印船の船長。父は宗丹、母は好孝と推定さ
れる。法名を宗覚。長崎本鍛冶屋町(長崎市万屋町)に住んだ。当時の朱印船の貿易家の
長崎の代表的存在のようにいわれているが、朱印船貿易家の公式な資料には見当たらな
い。朱印船の船長を務めたものと推定される。事実、隋右衛門の使用した東亜航海図の
模写が伝わっているし、寛永7(1630)年松倉重政が幕命によって呂宋島偵察船を派遣し
たときには船大将にその名がみえる。元和・寛永期(1615〜44)に長崎から呂宋に渡航し
て活躍した人物であろうと思われる。子孫は孫の代の享保14(1729)年に絶えている。墓
は長崎市長照寺裏山に現存する。(資料:中田易直『近世対外関係史の研究』)松倉氏
は先の荒木氏と共に秀吉が天下取りで大勢を占め九州制圧と朝鮮征伐をした頃にやって
きた御家人集団の一人であった。当時秀吉の様にいい加減の田舎者が、竹中半兵衛など
優秀な人材を雇用し、城持ちとなってからも、さらに出世して行く事は稀であった。こ
のように「人」を動かして自らが出世してゆく裏に交易の商人の利益があった。秀吉は
船や海奉行に、小西行長を据えて事に当たらせたが、豊臣秀吉の場合は、まずは刀狩令
で民衆の武力を奪い、石高制や検地で全国の土地の情報を掌握します。さらにはバテレ
ン追放令を出し、国内にいたキリスト教宣教師を処刑(いわゆる二十六聖人処刑)して、
外来思想の排除も試みた。松倉重政は松倉重信の長男で知っての通り、日野江城に入封
後は苛政と搾取を行い、子の勝家と共に島原の乱の主因を作った非情の武人として有名
だが、糸屋隋右衛門を使ってルソン貿易で失敗したのは案外知られていない。

1693: 名無しさんAA:18/11/20 17:14
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   724   > 

 糸屋隋右衛門は1586年(天正14年)〜1651年(慶安3年)に活躍した人物だ。久留米か
すりで知られる城島や筑後は綿糸の産地ではない。それでもここの機織りの歴史は古く
恐らく竹細工の影響で機械や小道具が揃っていたのであろう。鎌倉時代には既に九州の
全域や山口山陰地方まで輸出している。後で高級織物として博多織りや京都織りなどが
出て来るが、源平合戦のころまでは九州反物(たんもの)は一つの一般的着物であった
。それらが売られた理由は九州櫨とも関連がある。泥染めのルーツは琉球にあるとされ
る。そして和蝋で栄えた柳川立花藩の立花櫨の原木も実は沖縄からの渡来種との掛け合
わせで実がちいさく粒の大きな蝋分の3〜4倍多い和蝋種の生産にこぎつけた。温州み
かんも同じで矢竹も同じに農業生産には、この筑後は独特のうんちくを持っていたよう
だ。小郡・松崎・三潴・筑後地区では今では「櫨」「竹」「松」「楠」「柳」などは殆
どが切り倒されて、当たらしい普通のものすら植生されない痛ましい行政が続きその面
目が保たない福岡県だが、かつて筑後地方は農業大国の木の国だった。「櫨の国」とま
で言われた時期には、隆盛を極めた木蝋の一大産地でした。その基礎を作った「伊吉は
ぜ」小郡の重要な「産業文化遺産」としている。ところがこの伊吉はぜは鎌倉時代から
のこっていた柳川櫨の種の移殖である。この蝋の技術は染めの工程を劇的に変えた、絞
り模様から絵描きにしたのである。糸屋隋右衛門は関ケ原時代までは佐賀の末吉船と同
じに、比較的自由に交易していた。しかし黒田官兵衛や松倉重政などが出て来ると彼ら
は追われ脅迫されこの伴天連追放令で共存し協力するに至っている。田中吉政の庇護を
願って松倉重政は糸屋隋右衛門と共に訪問している。柳川天艘寺と光樹寺の伝説では、
不破氏や丹羽氏が同席している。オランダ東インド会社が出島に進出する前はアルメイ
ダ街道は一大流通基点として存在した。オランダは中国やベンガル、トンキン産の生糸
を日本に売り、日本で目当ての銀、のちに銅を手に入れます。それを用いてインドで綿
織物と交易し、インドネシアなどで目的のスパイスを手に入れ、ヨーロッパへと運んで
いきましたが、その基本通貨が棹金と言われる棹銅(さおどう)や朱銀(朱銀)だった
それが日田にあったからだ。松崎藩は1669年(寛文八年)有馬豊範が19ヶ村一万
石の分知を受け鶴崎に城を築き、名を「松崎」と改めたのが始まりと言われる。松崎藩
の設置で、北は山家宿、南は府中(久留米)至る街道が参勤交代道定められ松崎は宿駅
制度のもとで宿場町として整備された。筑後3宿は府中、松崎、羽犬塚である。当時は
羽犬塚は鉄の名産地であった。府中銀松崎銅羽犬塚の鋳物は仏僧の品の拠り所でもあっ


1694: 名無しさんAA:18/11/20 17:14
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   725   > 

 その後甘木の松崎宿に宿泊した人々は、西郷隆盛、伊能忠敬、高山彦九郎などがいた
といわれている。1866年の文書によると、松崎宿の総戸数は129軒、旅籠26軒
、煮売屋6軒があり、藩主や大名を宿泊させる御茶屋があり、手紙の配達や物資運搬を
行う駅伝もありました。宿場運営には庄屋・町別当らによる合議制で行われていました
。筑後も同じに行っていたようだ。しかし、明治二年(1869年)関所の廃止、明治三年
(1870年)本陣の廃止、そして明治五年(1872年)宿駅制度が廃止(宿駅と助郷制度の
廃止)されると衰退してしまった。オランダ東インド会社はインドや東南アジアの各地
に支店を設けてアジアで活動していきます。日本とオランダとの貿易は17世紀が全盛
期で、オランダの黄金時代とよばれました。オランダが求めたものは本来、香辛料だっ
た。しかしそのスパイスを手にいれるためには、何よりも日本の銀や銅が必要でした。
オランダ東インド会社はこのようにしてグローバルな経済のネットワークをつくりあげ
ていました。各地の特産品がダイナミックに世界的なスケールで動いていた時代、その
一端で、しかも最重要ポイントがここ出島だった。オランダは中国やベンガル、トンキ
ン産の生糸を日本に売って、日本で目当ての銀、のちに銅を手に入れるが、それ以前は
イギリスがトンキン湾でルソンのジャンク船相手に売っていた。糸屋隋右衛門はそれが
ルソンに送られている事を知っていた。イスラムのジャンク船はかつては沖縄や薩摩ま
で来ていた。しかし同じ価格でルソンや香港で売れれば遠く航海する理由は無かった。
綿花をルソンに送り、香辛料をインド迄持って帰る事で船荷の往復運賃を得ていたのだ
。伽羅は古く平安時代からあるがナツメヤシの実も古くからあり、案外昔から中東との
航路は開けていたのかもしれない。糸屋隋右衛門は肥前長崎の商人として、朱印船貿易
家でありなから朱印船の船長としてルソン島(フィリピン)に24回渡航した。とも言わ
れる寛永7(1630)年松倉重政が幕命によって呂宋島偵察船を派遣したときの、船大将に
その名があって元和・寛永期(1615〜44)に長崎から呂宋に渡航して、朱印船の船長を務
めたと推定され、隋右衛門の使用した東亜航海図の模写が伝わっている。この航海図は
羊皮紙1枚に描かれ、全体にわたって胡粉を施し、彩色をし、東は日本、西はインド洋
からアラビア、南はジャワ諸島、北は中国大陸までを図示している。図の全面には緯度
、経度が縦横にひかれ、縮尺を示すスケール標示、緯度を示す度盛、及び方位盤がみえ
て、マカオ、シャム等の主要地、及び主要港を石突としてポルトガル国旗、十字旗、新
月旗が掲げられ、各国沿岸、諸島周辺には大陸棚を示す浅瀬の様子を描いている。


1695: 名無しさんAA:18/11/20 17:15
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   726   > 

 特にルソン、ボルネオ、シャム等の南洋諸島周辺には注記も稠密に施されて、往時の
朱印船通行範囲を窺わせている。日本国の特徴は末吉・角屋図に描かれている蝦夷がな
く、本州の最東北部に「そとのはま」の朱書がみえることで、本図が両図に比して古様
を伝えていることを示し、本図作製の時期を考察する上に注目される。また、末吉・角
屋図と異なり、国名、地名注記の多くはポルトガル語の邦訳名を仮名にて朱書している
。このことから中国もしくは黒船の海図を写したものとも考えられる。本図が作製され
た当初の所用者は未詳であるが、糸屋随右衛門所用とする説が有力である、保存良好で
遺例稀な初期朱印船貿易所用図の原本として、対外交通史、及び交易史研究上に貴重で
ある。本図はもと備前岡山藩主池田家に伝来したもので、本図の概要を伝える「航海古
図考証」(明治43年写)等がある。岡山城を築城したのは人の善い宇喜多秀家である。
宇喜多氏は岡山城を居城にして戦国大名として成長し、豊臣家五大老を務めたのだが、
しかし慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、西軍方の主力となった秀家は改易
となり、西軍から寝返り勝敗の要となった小早川秀秋が入封し備前・美作の51万石を、
所領とし入城した。ただ慶長7年10月18日(1602年12月1日)、秀秋は無嗣子で没したた
め小早川家は廃絶となった。慶長8年(1603年)、姫路藩主・池田輝政の次男・忠継が
28万石で岡山に入封し、ここに江戸期の大名である池田家の治世が始まる。改易で逃れ
た宇喜多氏族はその後九州で喜多氏を名乗ったと言われる。慶長18年(1613年)には約
10万石の加増を受け38万石となった。元和元年(1615年)忠継が無嗣子で没し弟の淡路
国 由良城主・忠雄が31万5,000石で入封した。寛永9年(1632年)忠雄の没後、嫡子
は光仲は幼少だったため山陽筋の重要な拠点である岡山を任せるには荷が重いとして、
鳥取に国替えとなった。池田氏が居た姫路城には、伊予大洲藩として存在し、かつては
伊予海賊の巣窟とされていた。松倉重政は元和2年(1616年)にキリシタン大名として
知られる 有馬晴信の旧領であった肥前日野江に入封後に苛政と搾取を行い、子の勝家
と共に島原の乱の主因を作った肥前島原藩主だ。松倉重政が寛永7年(1631年)に派遣
したルソン偵察船の船大将をつとめた。最初に朱印状を授けられた8人の豪商として知
られる長崎の荒木宗太郎、末次平蔵、船本弥平次、糸屋隋右衛門、京都の茶屋四郎次郎
、角倉与一、伏見屋、堺の伊勢屋だったが、そのひとりとなった。有馬 豊祐(ありま
とよすけ)は、江戸時代前期の大名。筑後久留米藩からの分知により支藩・松崎藩の藩
主となったが、1代で改易された。初名は豊範。幕命によって豊祐に筑後国御原郡に1
万石の所領を分け与えられ、松崎藩が立藩された。

1696: 名無しさんAA:18/11/20 17:15
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   727   > 

 寛文8年(1668年)、頼利が17歳で死去して頼元が久留米藩主に就任した。これに際
して同年8月21日、幕命によって豊祐に 筑後国御原郡に1万石の所領を分け与えられ、
松崎藩が立藩されたのだが。同年12月27日、従五位下伊予守に叙任されているのだが。
寛文8年(1668年)12月、はじめて所領に入った豊祐は、まず御原郡横隈(現:小郡市
横隈)の館に入るが、松崎(現:小郡市松崎)の地を治所と定め、寛文9年(1669年)
春から居館の建設に着手した。4年をかけて寛文12年(1672年)に完成した松崎館(現
三井高等学校周辺)は二重の濠をめぐらせた大規模なもので、地元では「松崎城」とも
称されていた。コスメ・コーゼンの名が、フロイス『日本史』に最初に現われるのは、
一五六五年(永禄八)のことである。興善は四十五歳前後であったと思われる。この時
イルマン・ルイス・デ・アルメイダは病の身を堺の日比屋了慶の屋敷に休めていた。そ
の病も癒え、明日は河内の国、飯盛へ旅立とうという時、了慶は別れの茶会を催すこと
を決めた。フロイス『日本史』は言う。「その翌日九時に、彼(了慶)は、私(アルメ
イダ)と一日本人いる「まん」と、またもう一人、日本で何くれとなく我々の用事を世
話していてくれる男で、コスメ・コーゼンという、富裕で、たいそう善良なキリシタン
に口上を伝えてよこしました。」と書いている。この二年後、即ち一五六七年、フロイ
ス『日本史』はやはり堺においてであるが、コスメ興善が憐れな捨子を野犬から救けた
ことを伝えている。このあと興善に関する記述は途絶え、再びその消息が知れるのは十
一年後、五七八年(天正六)のことである。この助けられた子供こそ村山等安であった
であろう。この年、切支丹大名大友宗麟は島津征討をおこし、耳川決戦におよび惨めな
大敗を喫した。この敗報は宗麟治下の博多にも入り、町は時ならぬ混乱状態に陥った。
博多在住のイエズス会パードレ、ベルショール・デ・モウラ及びバルタザール・ローペ
スは、この混乱を避け秋月へ逃げることを決した。そしてその避難途上「彼等は博多で
彼等の保護者であったコスメ・コーゼンに逢った」のである。秋月に入った宣教師らは
そこでも多大の困難な事になる。秋月種実が大友氏に叛旗を翻したのである。宣教師ら
はたちまちその保護を失い、生命の危険にさえさらされた。そこに彼らの苦難を救う為
に現れたのが、他ならぬ末次興善である。彼は「秋月(殿)に働きかけて、伴天連達を
迎えて保護を加えさせ、これによって彼等は自由を与えられた」のである。と書いてい
る。このコーゼンは新しいキリスタンの街が必要だった。

1697: 名無しさんAA:18/11/20 17:16
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   728   > 

 末次興善はこのあと一五九〇年(天正十八)にもこの秋月に姿を現わしているが。そ
れは恐らくフロイス『日本史』に登場するコスメ興善の最後の姿であろう。この御朱印
状8人の中の末次平蔵はその息子の次男だった。元和4年(1618年)に長崎代官の村山
等安を訴えて翌元和5年(1619年)に等安が処刑され、代わって長崎代官となっている。
 慶長年間が終わり元和5年(1620)に、大坂夏の陣で大坂城が燃え上がり落城。豊臣家
は滅亡し、2代将軍徳川秀忠によって大坂城の再建がはじまっている。支倉常長は伊達
政宗の命をうけ遣欧使節として通商交渉を目的にローマに着きローマ教皇パウルス5世
に謁見しているが、既に出国直後から日本国内でのキリスト教環境は急速に悪化し。帰
国時には日本ではすでに禁教令がだされている。つまり大阪城炎上はキリスト教日本布
教の終焉を物語る始まりだったのである。徳川秀忠のキリスト嫌いは筋金入りだった。
長崎代官の村山東安に、台湾征討の朱印状を与え、一方で幕府の禁教政策により仏寺の
創建が盛んにした、当時禅寺だった東禅寺がキリシタン宗徒の妨害で廃寺になっていた
場所にm僧・浄慶に譲って受け東林山・深崇寺(浄土真宗本願寺派)とすると人別帖を
作らせた。つまり宗徒による戸籍を作らせたのだ。曹洞(そうとう)宗の一庭融頓は天正
15年生まれの佐賀の禅僧で、肥前円通寺(佐賀県)の東甫融菊(とうほゆうきく)の法をつ
いだ。東甫融菊とは「東方の伝書の伝聞を日本語に直す法」つまり今で言う翻訳である
。のち長崎皓台(こうたい)寺の住持となってキリスト教徒の改宗につとめ、天草代官の
鈴木重成(しげなり)にまねかれて国照寺を開き、後に徳川家康より洪泰寺住職に任命さ
れて就僧となった。岩原郷上筑後町から高野平村(寺町)へ移転し船本弥平次、梅野了
安が所有地を寄付、幕府の援助を受けて移転する。岩原郷上筑後町は古くからの商人町
で梅野了安は八女の梅野屋の支店であったし船本弥平次は肥後の船本氏だろうと推測で
きる。元々船本姓は大阪を狙った海賊浪速水軍の名で秀吉が九州に連れて来た。伊予の
水軍の仲間となれば当然淡路島を本拠とし木村・大村氏との繋がりは濃いものだろう。
旧 下町・旧 中町・旧 上町・旧 筑後町は長崎開港後、博多などから多くの商人たちが
続々と長崎に入りし、船は入江のある船津町(瓊の浦公園付近)に入港します。商人の多
くは筑後出身者で、彼らは船津町の対岸に定住するようになり町を形成。町はしだいに
山手まで拡がります。そして海岸沿いを下町、2段目を中町、3段目を上町、そして最
後の4段目を筑後町と命名している。


1698: 名無しさんAA:18/11/20 17:17
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   729   > 

 この地域は内町の次に発展した地域で寺院なども集まっていました。これら4町は寛
文12年(1672)の寛文の改革まで使用されます。柳川の船津電機付近はこうした長崎船本
氏族はそのまま船津の人と呼ばれそのまま名乗ったと言う。興善がいつ長崎へ進出した
かは明らかではない。ただ、長崎が開港したのが1571年であり、秀吉が長崎を収公した
のが1588年、恐らく興善の長崎進出はこの20年たらずの間のこと、しかも、かなり早い
時期のことであったと考えられます。なぜなら秀吉が長崎を天領としたとき、既に市街
を形成している26町に対し地子を免除したが、この中に興善町もまた含まれていたから
だ。金井俊行編「増補長崎略史」第十巻。こうして、久留米が一大キリスタンの避難場
所となった。アルメイダ街道で栄えた海外への輸出品であった綿織物、和蝋、筑後茶、
陶磁器の器、金鉱石の棹、そして入って来る硝石、綿花、ジャガイモ、香辛料、伽羅、
ルソン壺に入った砂糖などそれらは投げ銀の対象でもあった。これはそのまま特産品の
街並になった。江戸末期の頃には、農業技術ブームが起こったが、この先駆は那珂川町
山田の庄屋、高橋善蔵(1708〜1761年)が肥前を回り栽培方法を学「窮民夜光
の珠」(櫨栽培の手引書、後福岡藩が藩内に配布)を発表で始まっている。だがそれは
柳川の立花壱岐守の改革に感心したからだった。だがそれは田主丸秋成の竹下武兵衛の
(生葉郡亀王組大庄屋)が「農人錦の袋」発表し、筑前から買い求め植えています。そ
して「多年の試を積て験を得た」という「松山櫨」を発見します。この2つの農業書を
もとに、「経験を加え書かれている」といわれる小郡町庄屋 池内孫左衛門(1693
〜1771年)によって「孫左衛門の櫨木仕立覚」が書かれました。内山伊吉(173
0〜1814年)は、こうした中で「伊吉櫨」をついに発見します。後に肥前、肥後、
薩摩など九州一円や山口にも植樹されることになります。元々櫨栽培のふる里へ里帰り
することになる「伊吉櫨」の接ぎ木の技術者を松崎から招いています。薩摩の地の殆ど
がこの伊吉櫨に植え替えられたといいます。松崎宿は、薩摩藩の常宿でもありました。
松崎周辺の櫨並木を羨望の目で見ていたからだ。こうして薩摩・秋月街道は、蝋や技術
者が行き交う「木蝋の道」(ジャパンワックスロード)と言われた。しかしそれは又、
筑後茶葉(チッゴティ・ロード)でもあった。しかしこの道は古くは阿蘇から発したと
思われる 御嶽教の道でもあって 七夕道でもあったのである。


1699: 名無しさんAA:18/11/20 17:17
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   730   > 

 この年インド副王使節の資格を以って巡察師バリニャーノ一行が長崎に到着した。彼
らは豊臣秀吉に謁見すべくただちに長崎をあとにしたが、その一行を博多の近く秋月で
出迎えたのがコスメ末次興善だったのである。「(彼らが秋月に)着くと、(一行は)
コスメ・コーゼンという古くからの優れたキリシタンの老人に迎えられた。彼は博多の
町の非常に重立った人で、名望ある多くのキリシタンの息子たちの父である。本来の主
な家は博多にあるが、(その他)諸所にも家を持っている。その多くの家の一つは秋月
にあり、そこで彼は(先に)秋月(種実)殿からはなはだ挙用されたのであった。」今
こうして、フロイス『日本史』の記事中から、末次輿善に直接関係するものを拾い出し
並べてみた。これら一連の記事を読むとき我々は、善良な切支丹としての興善の姿を思
い描く事が出来ると同時に、また未次氏初期の活動範囲をもほぼ推測することが出来る
。それは概ね堺と博多を結ぶルートであり、中世末から近世初頭にかけて、博多は対馬
−朝鮮を結ぶ重要な貿易港であった。しかし博多はその膨大な輸入品を捌く消費都市を
後背地として持たない。そこで京都という一大消費都市を後背地として持つ堺との連繋
が必要となっていた。末次興善の屋敷が「諸所」にあり、その一つが堺に在ったという
のも当然のことかもしれない。ところがこれから約百年後『元禄二年堺大絵図』には、
既に末次氏の名を見付け出す事は出来ない。それどころか、未次興善が堺に居たという
記録は、フロイス『日本史』以外には皆無である。『今井宗久茶湯日記書抜』も、また
『天王寺屋会記』にも興善の名は登場していない。それは末次氏の当時の商業活動を消
したかった様に消えている。それ程大きな影響力を持たない、言いかえれば、京都では
やっと頭をもたげてきたばかりの新興商人だった。という事を物語っているとも言えよ
う。しかし末次家も平蔵の代となり、長崎貿易に携わるようになると、末次氏の名は急
速に当時の商業活動の表面に躍り出てくる。例えば一五九二年(文禄元)、豊臣秀吉は
初めての海外渡航朱印状を発給したが、これには、長崎ヨリ五艘(末次平蔵 二艘  
船本弥平次 一艘  荒木宗太郎 一艘  絲屋随右衛門 一艘)京都ヨリ三般(茶屋
四郎次郎 一艘  角倉 一艘  伏見屋 一艘)堺ヨリ一艘(伊予屋 一艘)以上と
とあって、この年発給された朱印状九通のうち、五通までを長崎在住商人が得ており、
しかも内二通が末次平蔵に宛てられたものであることで。長崎貿易を背景とした末次氏
の台頭ぶりが窺えるというものであろう。

1700: 名無しさんAA:18/11/25 15:04
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   731   > 

 しかし、かといって、この末次氏の隆盛をもたらしたのが、平蔵一人の力に依るとい
うのでは決してない。むしろ、その土台を築きあげたのは、平蔵の父であった興善によ
る活躍によるところが大きかった筈だ。当初、末次氏の発展は対ポルトガル貿易にかか
っており、そしてこれは次の二つの柱に支えられていた。一つはイエズス会との関係で
あり、今一つは新たに開港した貿易都市長崎との関係であったが、これらは秀吉の威光
によって支えられていた。興善は切支丹となることによって対ポルトガル貿易に有利な
地位を占め、更にポルトガル貿易の為に開かれた長崎へ逸早く進出して、その地に興善
町を興すなどして町の発展に寄与し、長崎の町政に少からざる発言力を有するようにな
ったのである。そして、末次平蔵の活躍もこの土台のうえにあってこそ、初めて可能に
なったといえるであろう。因に平蔵の誕生は、長崎開港に遅れ二年、即ち一五七三年(
元亀四)のことであった。以後末次氏は衰退の途を歩む堺を棄て、新興貿易都市長崎の
商人として次第に頭角をあらわしてくるのである。もともと佐賀の八田江は八田河であ
った。そしてそこに末次船はやって来ては宝を積んできた事から与賀町或いは東与賀町
とされた。そもそもが海に近く農地には適さない有明の干潟地だったのである。又北方
や大町と言った所はそもそもの南北朝時代から戦い北朝に加担し勝った事で北方の地名
を得ている。安富氏や六角氏はその頃から住み着いたものと思われる。末次氏が、末次
船で乗り込んでいた事は間違いなく鍋島氏は追われて今の鍋島に落ち着いたと言える。
荒木船の原型は荒木氏が乗っていた船だった。と言うよりは荒木船に乗った人はみんな
荒木氏だった。この大型船の木材は当然山からしか切り出せない。ここに英彦山や日田
林の成育の早さが際立っていて、秀吉時代でさえ久留米と英彦山二日市の間の木々を、
片っ端しから木材原料として、筏で大川まで出している。これが大善寺荒木やこの佐賀
の末次船の発祥の理由である。では何故船がそんなに重要だったのか。じつは戦国時代
まで、流通は米と酒、更に乾物が大体を占めていた。それはほとんどが自給自足の生活
をしていた。それが出来なかったのは都でしかなかったのだ。つまり中央政権時代到来
において、人は集めても家や衣服は近くから集めても、食糧だけは常に集め続けなけれ
ばならなかったのである。勿論綿や反物或いは紙の原料の楮や金銀銅の棹物も流通はし
ただろう。舶来品や仏具も陶磁器や人もいた。しかし主なものはやはり米からみであり
食糧だった。


1701: 名無しさんAA:18/11/25 15:05
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   732   > 

 鴻池善右衛門は江戸時代の代表的豪商の一つである摂津国大坂の両替商・鴻池家(今
橋鴻池)で代々受け継がれてきた名前だ。家伝によると祖は山中幸盛(鹿介)であると
言われている。その山中鹿之助の子の、摂津国伊丹の酒造業者鴻池直文の子、善右衛門
正成が摂津国大坂で一家を立てたのを初代とされている。当初は酒造業でしたが、1656
年に両替商に転じて事業を拡大、同族とともに鴻池財閥を形成しました。歴代当主から
は茶道の愛好者・庇護者、茶器の収集家を輩出しています。上方落語の「鴻池の犬」や
「はてなの茶碗」にもその名が登場するなど、上方における富豪の代表格として知られ
る存在です。明治維新後は男爵に叙せられて華族に列しました。なお現在まで15代を数
え、今も鴻池新田会所に隣接するビル群の経営などで鴻池家は健在している。旧鴻池本
宅屋敷は、大阪市中央区北浜2丁目にあったとされ、昭和22年(1947)大阪美術倶楽部
に売却され現在に至っている。創業業態を酒造業(のちに両替商・海運業)としている
が起源を調べてみれば、酒は灘の酒と言う透明の酒の出現で、その売れ行きの良さに目
をつけ兵庫と和歌山を海運して財をなし、兵庫に酒造業を興している。だが造ってはみ
たものの大阪ではライバルも多かった為に、名古屋や江戸まで送る事で成功した。現在
も鴻池組と名を同じくする企業が現在ありますが、旧鴻池財閥との関連が明白なものは
ありません。なお旧鴻池銀行は統廃合により現在の三菱UFJグループに統合されてし
まっている。九州でも喜多氏や後藤家田尻や富安家などが酒造として興している。その
意味では鴻池が酒造家として成功したのも頷ける。実は城島郷は地域では酒造地帯で知
られている。円亨2年(1745)創業の富安本家酒造の酒蔵をそのまま展示しているという
、富安本家酒造は、戦国時代の城主・西牟田氏以来の歴史がある。酒づくりの伝統と技
を伝えてきた旧家である。しかし日田薫長酒造の流れであり久留米山川の富の寿の富安
酒造とはそれぞれ縁戚である。田尻氏の松浦酒造は創業三百余年である。伊万里のこの
酒造所は、佐賀県西部に位置し、昔から陶磁器の輸出港として栄えた。三方を山に囲ま
れ、山水画を想わす秘窯の里・大川内山。海のシルクロードとして遠くヨーロッパに通
じ、また、今なお生きた化石といわれるカブトガニが生息する伊万里港があり山里には
梨や葡萄など、豊富な果物がいっぱい獲れる素晴らしい自然に恵まれる地だ。もともと
灘の酒は和歌山の般若湯とどぶろくから発生している。これを清酒にする技法はあった
。しかしそれを分業化し一つ一つ次々に樽を分けて醸造し出して連続出荷が出来る事が
灘の酒つまり今の清酒の強みだった。一樽ずつ仕込み順次仕込む。

1702: 名無しさんAA:18/11/25 15:06
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   733   > 

 比翼鶴酒造は二ノ宮氏が経営する城島郷の酒造会社である。「天にありては願わくば
比翼の鳥となり、地にありては願わくば連理の枝とならん。」長恨歌の名句「比翼連理
」に准える蔵元の家紋「比翼鶴」が代表銘柄です。明治31年、巴里萬國博覧曾に於て有
功金牌受領後、連続6回優等入賞酒にのみ贈られる珠玉の「大名誉賞」を受賞する等、
数々の栄誉に輝く伝統をもつ酒蔵とされる。比翼の鳥とは、雌雄一体となって飛ぶとい
う鳥。連理の枝とは、木の枝同士が連なって木目が通じ合っていることを表わし、どち
らも仲睦まじい様子が表現されています。私たちが目指すのは、味わい深く、飲み飽き
のしない日本酒。いつもそばにそっと寄添うお酒であることを理想の姿だと考え、蔵の
敷地内には浄水場と精米場を持ち、地下二百メートルから汲み上げる筑後川の伏流水と
自家製米で丁寧に研いた地元の酒米を用い、昔ながらの日本酒造りを守っているとされ
る。しかしこの二ノ宮氏は今の柳川沖の端の領主であったとされる。鶴亀伝説からこの
地は鶏肉を食しない。池亀酒造はそうした縁で蒲池氏が代々酒蔵を継ぐ。池亀は久留米
藩の師範代で、剣の達人と言われた初代蒲池源蔵が、明治8年に筑後川のほとりに創業
した。源蔵は、進取の精神に富んだ人物で、筑後川の水を使用した新しい醸造法を考案
、養成した杜氏を派遣して筑後地方の酒造り貢献したと言われる。弊社ではその気風を
受け継ぎ、良き伝統は守りながら常に新しい酒造りに挑戦し、お客様が新鮮な驚きや感
動を感じる商品作りに邁進したいと語っている。菊美人酒造は1735年、江戸期創業とさ
れる。屋号は薩摩屋とされ現社長は八代目で、先々代社長は江崎喜三郎の妻加代は柳川
の詩人「北原白秋」の実姉にあたる(北原酒造場、北原長太郎の長女)。昭和16年、白
秋は妻子、門下の歌人等とともに西下、故郷の柳川及び瀬高町の清水山山頂にて盛大な
歌会を催し、「菊美人」の菰かぶりを飲み干した。なお、白秋は「菊美人」を墨書し、
三幅の扁額を遺した。爾来「菊美人」は白秋の命名と世人は伝える。当社は別に「九州
男児」銘柄で辛口の酒を出荷している。仕込み水は、酒蔵の傍らを流れる矢部川の伏流
水を使用して醸造する。この薩摩屋こそ実は先の櫨の木蝋の交易で財を成した薩摩貿易
から付けられた名だった。 黄櫨(はぜのき)は、別名に「琉球櫨」りゅうきゅうはぜ
又は単に、「櫨(はぜ)」と呼ばれる。筑後平野は江戸期の殖産活動で多くのハゼの木
があった。ハゼの原産地は中国から東南アジア・インド一帯で日本の原種はない。


1703: 名無しさんAA:18/11/25 15:06
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   734   > 

 日本には中国から琉球に渡来し、鹿児島に伝わったといわれ、藩の秘匿品所謂藩抱え
の交易品だった。晩秋の頃に収穫されたハゼの実は砕いて粉にされ、蒸して搾られ生蝋
(きろう)ができる。生蝋を精製し、太陽に晒して、漂白したものを白蝋とか晒蝋(さ
らしろう)と言いその一大産地が柳川だった。これらの蝋を総称して「櫨蝋」(はぜろ
う)または「木蝋」(もくろう)と呼ばれ蝋燭(ろうそく)などの原料だった。当初の
江戸の木蝋は東北地方で漆(うるし)の実から精製されたが高価で手に入りにくいもの
だったが、九州和蝋は安価で使い良かったのだ。立花櫨は鎌倉時代からの原木とされ、
その果肉の多さは突然変異で起こった物だったとされる。インド櫨とタイワン櫨のかけ
合わせとされたが、今や柳川市は保存もしていない。江崎氏は代々船問屋であった。江
戸期に立花氏が藩財政改革には櫨の木を使った殖産で成功したし、戦国期の交易品では
蒲池氏はこの晒蝋の輸出で潤ったとされる。江戸期に武田製蝋店に20数年間雇われた
高田町海津の江崎宗四郎は、地元にかえり木蝋の製造を起業し、優秀ゆうしゅうな白蝋
が談議所の岸から大川の若津港に行き神戸の商店に運ばれた。村周辺の人達は好評を聞
き付け木蝋業を始め18軒にも増え益々発展したといわれる。武田氏は立花氏の御用宿
主であり貸付は、鴻池に裏書きした田中惣右衛門と瀬高町(現・京町)の富安長左衛門
が行ったとされる。熊本藩は享保8年(1723)に薩摩から1石9斗(3,500リ
ットル)の実を仕入れ、本格的に苗を作り櫨の木の栽培を始めている。延享2年(17
45)には財政の危機を救うために本格的な櫨の植え付けを始め、柳川藩に櫨の視察に
訪れ、ハゼを密集させて植えることなどを学び堤防のハゼは生垣のごとく繁殖したとい
う。菊池川流域でとれた櫨の実は、舟で下って運ばれ大浜町(玉名市大浜町)の廻船問
屋大坂屋に集められ精蝋されて大坂に積み出された。藩主細川重賢はさらに財政再建を
目的とした宝暦の改革(1752)をおこない、殖産興業の目玉作物として 水俣をは
じめ、田浦、南関、小田現・玉名郡、大津など県内一円で川や井手の堤防、道沿い、さ
らに畑に10万本を超す櫨の木が植えられ、民間の製蝋所はすべて禁止され櫨方役所の
直営の製蝋施設とし、藩による櫨蝋の専売制がしかれ、熊本の特産品として藩外に売り
出して収入増をはかった。熊本城にはその名残なごりの「櫨方門(はぜかたもん)」が
ある。水俣市侍さむれ地区には当時植えられた「宝暦櫨(ほうれきはぜ)」という大き
な櫨の木が残っている。現在、近くには「侍街道はぜのき館」という櫨蝋はぜろうの資
料館がある。 

1704: 名無しさんAA:18/11/25 15:06
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   735   > 

 ろうそくはかなり高価な物だったが頻繁に使われた。冠婚葬祭や祭りやお祈りに必要
だったからだ。江戸時代の夜の明かりには主おもに行燈あんどんに菜種油なたねあぶら
を燃していましたが、ロウソクは高額な為に主に夜間外出用の提灯や、お城や富裕層、
寺社仏閣のみで使われていました。しかし江戸期では平和になって、早寝せず夜の道具
として必要になった。ハゼの実を砕き蒸して搾しぼると生蝋しょうろうができ、再精製
された白蝋(はくろう)を使ってロウソクが作られました。当時は藩の奨励もあって田
畑や道筋に多くの櫨はぜの木が植えられ、秋の紅葉の時期には筑後平野を赤く染めてい
ました。製造された木蝋もくろうは高価で取引され、柳川藩でも財政を潤すために元禄
16年(1703)には「櫨運上の制」を定め木蝋の製造が促進された。 藩内で早く
から手がけたのは享保2年(1717)創業の瀬高町下庄八幡町の武田蝋屋と言われて
いる。柳河藩の御用商人 となったのは宝暦元年(1756)の頃の武田鹿次郎(寛保
2年1742年生れ)の時代と推測される。善七(安政元年1772年生れ)・平助(
享和2年1802年生れ)・鹿蔵(天保元年1829年生れ)・弟の梅次郎(嘉永元年
1848生れ)、又衛(安政4年1854年生れ)、弟の平太郎(慶応3年1867年
生れ)と製蝋業を継承されている。 製造された生蝋さらに下庄田代の晒業者に委託し
天日に晒し、再精製した上質の白蝋も作られた。これらの櫨蝋はぜろうは柳川藩の統制
下でお蔵の浜(上庄)から帆掛舟ほかけぶねで長崎や大坂などに運ばれ、ロウソクや髪
結いの鬢付(びんつけ)油の原料になった。幕末には大量の櫨蝋を薩摩藩が買い占め、
上海のヨーロッパ人に密貿易して、軍艦輸入や軍備の資金を稼かせぎました。談議所の
港から満潮に乗って長崎港まで運ばれ、ここからシナ辺の海外に輸出され、見返り品と
して、綿花や糸などを輸入したようである。明治期の武田蝋屋は武田平太郎と弟の記一
(明治8年1875年生れ)が木蝋製造を継承し筑後地方では有力な蝋屋となった。明
治34年(1901)に武田蝋屋を本部とする「筑後木蝋同業組合」が創設され久留米
市京町に事務所が、2市6郡には支部が置かれ、販売斡旋・製造研究に努めた。と書か
れる。 櫨の実から搾った木蝋は、燈明とうみょう用として固形のローソクがそれまで
の菜種油なたねあぶらと共に使用されてきた。


1705: 名無しさんAA:18/11/25 15:13
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   736   > 

 薩摩における櫨の木埴栽及び製蝋の起源は種々あるが彌寝家(ねじめけ)の伝承によ
れば、天正年間(1573〜91)頃、大隈半島の南西海岸にある小根占(こねじめ:
南大隅町根占)の領主、彌寝重長(しげなが)が毎年、中国に渡航する商船に托して櫨
苗を取り寄せ所領地に植栽したとある。文禄4年(1595)に薩摩半島の西海岸にあ
る吉利郷(現・日置市吉利)に領地替えされた彌寝家は、元禄(1688〜1703)
頃、彌寝清雄(せいゆう)が家老時代に旧領地の小根占より櫨苗を移植栽培し、「櫨の
強制耕作制度」を設けて薩摩本土の農民に栽培をさせた。この制度は後に農民を苦しめ
る結果となる。元禄(1688〜1704)・宝永(1704〜11)の頃、会津出身
の金山職人が、桜島の櫨の実は製蝋に適していると告げた。製蝋したところ大いに成功
し、薩摩苗の流通とともに、会津出身の金山職人の伝えた蝋絞り技術も伝播していきま
した。しかし、本来、薩摩藩は初めの頃は地場産業として櫨を藩の専売とし、藩外への
流出を厳しく取り締まっていた中の話である。別の資料では「正保2年(1645)異
国船が櫻島に漂着し船修繕の間に、土人に黄櫨の種子を与え小河の地に植えしめ、実を
取り蝋を製することを教へたり。」(草木六部耕種法・佐藤信淵・1832)(鹿児島
県史昭和15年刊)とある。しかしこの説には「桜島には小河なる地名もなく湾口より
遠く桜島まで漂着すること事態に疑問があり漂着したのは小根占村の雄川のことである
と思われる」(根占郷土誌・昭和49年刊)と指摘している、正論と思われ大隈半島の
小根占は櫨の木栽培や精鑞の発祥の地と言えるだろう。別の説では、江戸初期の寛永1
4年(1637)に薩摩の大島代官おおしまだいかんが、中国から琉球持たらされた後
奄美大島にも自生していた櫨苗を持ち帰り指宿いぶすきや山川やまかわに植えて広まっ
たという。薩摩半島の開聞岳の山麓を歩くと、櫨の巨木があちらこちらに見られるが、
その頃のものであるという。琉球櫨の果実は実が大きく別名薩摩の実とも呼ばれ、栽培
された櫨苗は「薩摩苗(さつまなえ)」といって良質であったといわれる。実は推定で
三百年を超える原種は立花櫨として柳川にあった。かつての蒲池氏が居城を建てる前の
話でその頃から大きな櫨の実があったとされている。柳川西の門がそこにあったといい
柳川城の頃は米蔵の前とされた。今の西日本ガス社や、警察寮の部分に5本ほどあった
とされていたのである。代々の口伝では、柳川を守った木とされ、ご神木であったとい
う。しかし今や柳川市民は見向きも伝承もせず 捨て去っている。



1706: 名無しさんAA:18/11/25 15:17
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   737   > 

 そのほかに博多の豪商輸入説がある。豊臣秀吉が天下統一した翌年の天正19年(1
591)に、博多の豪商・貿易商人である嶋井宗室と神屋宗湛(1551〜1635年
)によって精蝋目的で櫨の種子を中国の南方から取り寄せ肥前(佐賀県)の唐津におい
て栽培し、そののちに筑前(福岡県北部)にも広げたといわれている。神屋宗湛は天和
年間(1615〜23)に中国から櫨蝋の製法を伝習し、自ら生産し、福岡藩から専売
権をもらい大阪に出荷して利益を上げていたのが櫨の導入の始まりという。のちの寛永
10年(1633)に鎖国令が発布され博多の貿易港は地位が低下し長崎に移住する商
人が増えている。嶋井、神屋の二人は福岡藩の産業開発に貢献し、鎖国令発令の前後の
年に天寿を全まっとうしている。当初の櫨ろうそくは10匁もんめ(約38g)の大き
さのもので24文もんし、これは職人さんの一日の賃金と同じくらいで、高額でお城や
富裕層、寺社仏閣でしか使われませんでした。のちには蝋ろうから作ったビンツケ油は
、髪結かみゆいに使用されるようになり、次第に木蝋の需要が増し、木蝋製造業や蝋商
人ろうしょうにんが増え続け本格的に盛んになりました。幕末には禁止されていた外国
との密貿易により蝋の利益が莫大な金額となり、各藩は軍艦を購入するなど軍事費にあ
てる程この産業は藩の目玉経済商品だったのだ。事実、島原藩などは、安永4年(17
75)に櫨方役所が設置されて、専売制度を敷き、藩財政の増収策としていた。天明の
大厄害の天明8年(1788)には約170両の益金を生出している。寛政4年(17
92)の「島原大変、肥後迷惑」の雲仙普賢岳の噴火および眉山の崩壊で櫨の木や民家
も倒壊された折、その時の火山灰で埋もれた製蝋所の「ロウ横木式絞り器」が白土湖で
発掘されている。現在、島原城キリシタン史料館に展示されているが、会津資料館所蔵
の蝋絞(ろうしぼり)器と同型である為、会津の蝋絞り技は薩摩から伝播し島原・その
他にも伝わっていたと思考される。寛政8年(1796)には40万斤の木蝋を大坂に
送り1万2千両の収益を出し、翌9年に交かわされた大坂の蔵元油屋彦三郎との覚書で
は、年間5千両から7千両を納金するようになっていた。これらの益金はこの「島原大
変」の災害復興資金に大きな役割を果したといわれる。7千両いまで言えば1両25万
円程度で換算して20億円程度である。この大変な額を毎年産んでいた。



1707: 名無しさんAA:18/11/25 15:18
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   738   > 

 柳川藩(福岡県南部)は、海上交易により櫨の苗も薩摩あるいは島原から移入され元
禄(1688〜1703)の初め頃から櫨を植え生蝋や白蝋の生産をしていたと考えら
れる。精蝋事業が広まった事から元禄16年(1703)に「櫨運上の制」を定めてい
る。柳川藩で早くから木蝋製造を手がけたのは、享保きょうほ2年(1717)に瀬高
町八幡町の武田蝋屋と言われている。また出来た生蝋を瀬高町下庄田代の晒業者により
天日にさらされ加工し白蝋(はくろう:さらし蝋)となり特産物となった(瀬高町誌)
。生蝋や白蝋は柳川藩の統制下で沖ノ端や談義所の浜から帆掛舟ほかけぶねで長崎や大
坂などに運ばれました。製蝋業は後に武田蝋屋に雇われた高田町海津の江崎宗四郎など
によって、益々発展したといわれる。高田町江浦の荒木精鑞の先代の荒木岩太郎や息子
の順治により高田町の山間部で収穫された櫨で蝋を製造していたと推測されている。今
の荒木製蝋の前身だろう。 佐賀藩は天保14年(1843)に筑後から仕入れた苗木
2万5千本を筑後国に隣接した三養基郡や神埼郡などの村々に配布し、生産された佐賀
産の蝋は大阪市場で好評で、早速、藩は大阪の蔵屋敷を通じて売る専売制を敷いた。安
政4年(1857)には外国船来航に備えてオランダの帆船飛雲丸(ひうんまる:木造
外輪蒸気船 150馬力、全長51.8m 船幅9.1m )を銀千貫分(十数億円相当)の蝋で支払
う契約で購入し、翌年にも木造艦電流丸(でんりゅうまる:300トン)を購入してい
る。蝋の需要は増え、この年の櫨の本数は60万本に達した。その4割が植樹間もない
若木だったという。蝋のほかに松浦郡山代炭坑(現:伊万里市)や、高島炭坑(現・長
崎市高島)、杵島郡福母(きしまぐん ふくも)炭坑(杵島郡大町町大字福母)などの
石炭の採掘で、これを輸出して大きな利益も上げ軍事費に当てている。安政6年(18
59)オランダ海軍伝習から伝習生が帰還きかんするや筑後川の支流早津江川の河口、
三重津(みえつ:佐賀市川副町早津江)に海軍学寮と海軍基地「三重津海軍所」が設置
され、慶応元年(1865)には国産初の小型蒸気船凌風丸(りょうふうまる:出力1
0馬力)が建造された。つまり佐賀の軍艦がこの櫨の実の精蝋から支払われている現実
がある。もともとのこの櫨の特産は富安郷や中山行基郷の特産品であった。柳川藩領の
上妻郡北山村国見(現・八女市立花町北山国見)の商人の惣七は天保15年(1844
)11月に甚四郎の船に白蝋37箱(2,775斤)を積み長崎に移出していることが
古文書に見える。その外に弘化2年(1845)正月から5月にかけて、1万1500
斤が移出され、冥加銀(租税)287匁もんめ5分を納めている。


1708: 名無しさんAA:18/11/25 15:22
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   739   > 

 長崎からは薩摩の砂糖を同村の佐兵衛と共同で1,750斤を移入し代金78両6合
を支払っている。この頃の古文書では、蝋・茣蓙(ござ)・茶・和紙を移出し、砂糖(
薩摩産)・魚の干物を移入している。嘉永3(1850)頃の、古文書から江浦町(高
田町)の荒木岩次郎が櫨蝋を生産していた。荒木製蝋で製造された「白蝋」を、江浦の
廻船問屋・角屋(大坪)儀兵衛が買い付け、長崎の山口屋駒之助に出荷していた。高田
町江浦の大坪家には、安政2(1855)年から明治11(1878)年までの「売仕
切覚」などで、江浦の角屋(大坪)儀兵衛が白蝋24箱(正味2019斤・122kg
)を長崎油屋町の山口屋駒之助へ、矢部川河口域の徳永河港から移出し、その代金27
0両を、山口屋が角屋に支払ったという記録が残る。福岡藩での本格的な櫨栽培は、お
そらく少し遅れてのことであろう。嶋井宗室と神屋宗湛が唐津で始めたとされるが、今
唐津にそうした和蝋の伝説はあまり残っていない。しかし、享保15年(1730)に
筑前の那珂郡山田村(現・筑紫郡那珂川町大字山田)の庄屋の高橋善蔵(たかはしぜん
ぞう:1708〜1761)に始まるとされる。善蔵は櫨栽培の薩摩や肥前を訪れ栽培
法を視察し、にぎり飯の中に櫨の実を入れて持ち帰り栽培し研究したという話が受け継
がれる。享保17年(1732)の飢饉で総人口の3割を失ない、福岡藩は農村復興・
荒地復旧に櫨栽培を奨励し、元文5年(1740)頃より郡奉行管轄下の使役で荒地に
櫨を栽培させ、その地を10年間無税とした。高橋善蔵の山田村は模範栽培の見学地と
して藩から指定され、来訪者の質問に応ずるため延享4年(1747)、39才の時に
櫨栽培の手引書『櫨植遺言書』別名『窮民夜光の珠きゅうみんやこうのたま』を書き、
藩の実植奉行の命で郡役所で写して40人の大庄屋に配布し、さらにここで必要部数を
写し庄屋に配布されやっと栽培法が普及したぐらいだ。宝暦元年(1751年)に藩は
、上座郡内現・朝倉市の櫨畑に櫨樹を植えさせて栽培普及にあたった。寛政8年(17
96)には櫨実木蝋奉行を置いて博多、植木、甘木に蝋座(藩営専売所)を設置した。
文政9年(1826)には博多・植木・甘木・黒崎・芦屋などに生蝋会所を設置し、会
所に生蝋を集め、大坂に送って売り捌さばきました。こうした契約をしたのが物産会所
であった。今の柳川辻町の角であり、関屋かまぼこの裏手にあったと言う。後に菊水と
言う小料理屋や簡易旅館が並べて建てられた。しかし高椋銀行の所有であった為に、あ
る時期から無くなった。とされる。そもそも柳川小学校はそうした物産の為の保管倉庫
の場所だったのである。

1709: 名無しさんAA:18/11/25 15:23
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   740   > 

 こうして福岡藩で蝋生産がされる頃になって、久留米藩(福岡県南部)でも享保15
年(1730)に竹野郡亀王村現・田主丸町大字秋成の庄屋・竹下武兵衛周直(たけした
ぶへいしゅうちょく:1704ころ〜1781)が初めて櫨の木を植え始め熱心に取り
組んだとしている。寛保2年(1742)には丹波屋・鞍打の甚四郎・国分村の九郎兵
衛の3名が城下辺りの西久留米村鞍打現・久留米市西町や国分村現・久留米市国分町な
どに櫨を植付した。寛延2年(1749)に藩の家老有馬主膳は山守鑓水九左衛門を、
薩摩に派遣して唐櫨苗1万本を購入して、生葉郡山北村大野原現・浮羽郡三春に植え付
けている(石原家記)。この頃から久留米藩は「櫨方(はぜかた)」をおき、空地や荒
地に櫨栽培を奨励し、のちには藩は川堤や官道かんどうの縁にも植え付け、手入れや収
穫は農民にゆだねて3年ごとに検査し、収穫の3分の1の櫨実代銀を上納させている。
櫨の植付に取組んだ竹下武兵衛は20年にわたる体験によって、寛延3年(1750)
に櫨栽培の技術書「農人錦の嚢(のうみんにしきのふくろ)」を世に出し「櫨の実は袋
の中から金貨をとりだすようにたやすく富を手に入れることができる。」と櫨栽培が多
大なる利益をもたらすと増殖を奨励し、実の良し悪しと種実の選び方、よい苗木の見分
け方、接つぎ木や栽培方法を指導した。武兵衛は宝暦2年(1752)に久留米藩から
検分方下役という士分役をもらい、同4年(1754)、宝暦一揆の責任を負って辞め
された田主丸の石井氏にかわって大庄屋職についている。こうして田主丸から伝わった
櫨栽培の技術が久留米藩内に浸透した。宝暦年間には耳納山麓の松山(現・森部地域)
において櫨の自然変異の一品種を発見し「松山櫨(まつやまはぜ)」と名付けている。
この「松山櫨」は、当時の農学者大蔵永常による大著「農家益」の中で「七種の銘柄め
いがらのうち最上である」と賞される程の逸品で、筑後一円に広く普及ふきゅうした。
竹下武兵衛の郷里に近い農村地帯の吉井町は櫨蝋の製造者や蝋商人も生れて筑後木蝋は
日本で生産高、品質ともに第一位となって櫨の国であった筑後の名声を担った。蝋屋の
益金が金融市場に流れて「吉井銀」を生みだし、繁盛し白壁の土蔵商家の町並みが生れ
たともいう。明治の中頃でも15軒が蝋屋を営み、職人が竹にさした芯に手で蝋を塗り
付ける「蝋燭かけ」の風景があちらこちらで見られたという。耳納連山から北流する川
の曽根にはどこもかしこも植栽され、櫨並木は耳納北麓の景観を彩っていたが、現在は
櫨に生産上の利益がなくなり伐採されて、延寿寺曽根の櫨並木がかろうじて残っている


1710: 名無しさんAA:18/11/25 15:29
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   741   > 

 宿場町であった吉井町の白壁の商家がこうした蝋の利益で出来ていたのである。元禄
(1688〜1704)・宝永(1704〜11)の頃、会津あいず出身の金山職人が
、会津の漆の実から蝋を絞る方法からみて、桜島の櫨の実は精蝋に適していると告げた
。試みに精蝋したところ大いに成功した。のちに薩摩の櫨苗は九州はもとより中国・四
国地方へと伝播されているが、薩摩苗の流通とともに、会津出身の金山職人の伝えた蝋
絞技術も伝播していった。寛政4年(1792)に使用していた会津の蝋絞器と同じ胴
が島原で発掘されてている。しかし薩摩藩は初めの頃は地場産業としての希少価値を守
ろうと櫨を藩の専売とし、重要な産品として藩外に流出することを厳きびしく取り締し
まっていた。福岡藩、博多大浜町の北国某(なにがし)という者が薩摩に行ったとき、
櫨蝋の利益あるのを見て櫨の実を持ち帰えようとしたが、薩摩藩では藩外に出すことを
禁じていた為に、思いをめぐらし弁当箱の底に櫨の実を入れ、その上に飯を盛って持ち
帰り、その種子を蒔まき育てたとも言われる(朝倉町史)。しかし、時代が進むに連れ、
櫨の有益性が他藩にも知られ、薩摩と海上交易が盛んであった肥後・島原・筑後・筑前
などに櫨の種や苗が密ひそかに移入され、櫨栽培が広まったとされている。島原藩(長
崎県南東部)での櫨栽培が始まった時期は『長崎県の歴史』では島原の乱の後の慶安4
年(1651)、藩主に移封された高力忠房の時代から櫨栽培が始まったという。万治
3年(1660)頃には他藩に先駆けて櫨の栽培を奨励したという。宝永6年(170
9)に島原村では櫨苗1反8畝12歩(約60m四方)を営んでいた。藩は全体で精蝋
事業で2万1864斤余(13トン)の生産をあげている(被仰出書)。延享元年(1
744)に領内に5万本を植え、のちには、さらに5万本を増殖している(深溝世紀)
 柳川藩は維新前に薩摩藩からの蝋やお茶の特需にわいた。立花町地域の蝋を扱う商人
は地元だけでは需要に応じきれず、久留米藩内の蝋も仕入れ小舟に乗せて矢部川を下り
、瀬高の浜から河口に近い鷹尾・泰仙寺・島堀切などの海運業者に委だねて長崎に運ん
でいる。出荷が急がれる時には、臨時の保管庫として瀬高の酒蔵を使用している。(大
和町史)この商いに携わったのは上妻郡北山村国見や光友村兼松(立花町)の商人と思
われる。上妻郡光友村の兼松(八女市立花町)は久留米から肥後(熊本)へ抜ける脇街
道の宿場町でした。宿場の柳川藩の御用商人「松屋」(まつや:松延氏)や「芥屋」(
あくたや)は矢部川山間部の産物の木蝋・お茶・紙を長崎のルートを通じて大坂、京都
などに販売していた豪商だった。

1711: 名無しさんAA:18/11/27 16:40
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   742   > 

 大正6年に編纂された「稿本こうほん八女郡史」によると代々商いを営む「芥屋」の
店主の高橋治平の息子善助は17歳にて海外貿易を志したが父の反対にあい、知人から
若干の資金を得て下関 にて地元の木蝋(もくろう)・お茶・百田紙(ももだがみ)な
ど販売して利益をあげる。遂に父に認められ資本を貸してもらい大阪・長崎・鹿児島・
四国の豪商と商いを行い芥屋は益々繁盛した。さらに英仏に開港されていた琉球に秘か
に出向き海外貿易を試さんと活動している。しかし高橋善助は慶応3年(1867)に
46才で病に倒れ亡くなり芥屋も廃業となっている。向え側の商家「松屋」の松延まつ
のぶ家は文政5年(1822)には商いをしており、柳川藩の山間部の特産品である百
田紙(ももたがみ)・茶・櫨などを買集め、瀬高や柳川あるいは長崎の商人に納めてい
ました。国 の重要文化財(建物)に指定されて、当時の商家の面影を残しています。
立花町兼松の国指定重要文化・松延家は、藩はこの特需に対応するため統制をきびしく
して特定業者のみに蝋の取扱いをさせた。榎津(大川市)の大庄屋・吉原家はこれに反
して蝋の販売をした為に藩から厳重な取調べを受けている。柳川市保加町の武松豊氏の
所蔵の文久四年(1864)の武松家「大福日記帳」(武松文書)などの資料からは、
幕末(文久・元治・慶応年間)莫大ばくだいな量の蝋ろうとお茶が貿易品となり長崎の
貿易商・松尾屋伊助に送られていたことがわかる。武松家の長崎の取引は殆んど松尾屋
伊助であり柳川藩から出向いた御用商人で物産の仕入れや薩摩藩などへの売込商人と思
われる。また武松虎吉が、父甚吉に宛てた手紙には蝋を長崎の「グラバー商会」に売込
み高値で売れて、3千両を送った内容がある。外国商人と密貿易(みつぼうえき)まで
して、死を賭けて藩の財政貢献のために働いている事が見える。みやま市高田町江浦で
蝋屋「角屋」を営んでいた大坪富美雄氏所蔵の安政2年(1855)から明治11年(
1878)の「角屋」の角屋儀平・儀平衛(大坪氏)の33通の長崎方面の交易の文書
には生蝋7〜15叺(かます)高砂屋吉平衛へ、白蝋22〜80箱が定期的に長崎の売
込商人である武若屋太七(鍛冶屋町)・山口屋駒之助(油屋町)・福島屋太郎左衛門(
本篭町(もとかごまち:辻町付近)松尾屋伊平(恵美須町)に送られている。移入した
ものには干物の魚類や黒砂糖である。薩摩から長崎に移入された砂糖が各地に売られた
と思われる。柳川と長崎の交易。



1712: 名無しさんAA:18/11/27 16:41
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   743   > 

 安政6年(1859)以来、藩主から藩政改革の全権一任を受けた家老の立花壱岐は
借金の藩財政の建直しに取組み、準備金の無い藩札(空札)を御用商人に買付金として
発行し、御用商人は特定集荷人から藩札で蝋を買い集め、船で長崎の売込商人に納め、
受取った金貨(幕府通貨)は藩の銀会所に上納された。藩札は金貨に変じる循環を繰返
し、しかもインフレのために藩札の発行と金貨の流入は鰻登りに増加して財政が潤い黒
字財政に転じている。家老の立花壱岐は藩の約30万両の借金を改善し2年間で14万
両を蓄そなえた。また輸送艦船「千別丸」を購入している。慶応4年(1868)の戊
辰戦争の越後戦線では兵員輸送と上陸展開の速報連絡役を務めている。立花壱岐は殖産
振興にも力を注ぎ、万延元年(1860)に彼が開発した櫨の新品種は、「壱岐穂いき
ほ」と名付けられ、接木で増殖された苗は藩内で植えられ、農民たちから「生神様いき
がみさま」、「有難い壱岐様」などと慕われた。熊本藩にも「壱岐穂」が広まっている
。肥後布田現・熊本県阿蘇郡西原村布田の横井小楠の弟子・竹崎律次郎は、同じ門弟の
筑後柳川藩の池辺という人から、同藩の立花壱岐が仕立つる櫨のよい事を聞ました。そ
の櫨は壱岐穂と称えて盛に接木されたものです。立花壱岐と横井小楠とは関係が深く、
福井藩の松平春嶽公から招かれる際にも仲介している。招かれた横井小楠は福井藩の改
革とか、幕政改革などに大きな功績を残している。その縁で紹介され、息子の新次郎に
その壱岐穂を貰いに柳川に旅出させ「穂を日にあててはいけぬ、夜道を帰れ」と言いつ
けました。布田ふたから柳川への二十里を旅して貰もらい受けた櫨の苗は植樹され増え
続けられ、現在の布田の山上に残っている櫨の木はそれらの名残りといわれる。久留米
藩は元治元年(1864)1月には、英国から蒸気艦船「雄飛丸」を購入して洋式海軍
を創設、翌年に米国から木造帆船玄鳥丸を購入、英国からは木造蒸気船晨風丸(100
馬力)・木造帆船翔風丸・遼鶴丸・蒸気艦船神雀丸(8馬力)の3隻を購入して兵式も
西洋方式とし、幕府、薩摩藩、佐賀藩に並ぶ強力な海軍力をつくり上げたとされる。久
留米藩の木蝋の生産高は寛政9年(1797)には3千丸程度であったが、幕末の慶応
3年(1876)には4倍の11千丸を生産し全国でも主要な木蝋の生産地となりまし
た。明治3年(1880)の見込高では19千丸と記されている。櫨栽培の進展に伴い
、製蝋業者も増大し、専門的に独立して板場(はんば)班が(製蝋場)を経営する者、
他の商品も扱う大商人で板場(はんば)を経営する者、副業として板場を経営する農民
などが、成長した。特に問屋(とんや)は、小生産者に資金を前貸(まえかし)をして
櫨の実や蝋を独占し、独占的な生産と販売により巨利(きょり)を得たと言われる。

1713: 名無しさんAA:18/11/27 16:42
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   744   > 

 明治36年(1903)に、大阪の天王寺会場を中心に開催された「第五回内国勧業
博覧会」に出品した福岡県の各市町村の櫨実・生蝋・白蝋の業者数の統計図を見ると、
福岡県筑前地方は筑後に隣接した朝倉町3、甘木市6など全部で30の業者にすぎない
が、筑後地方では小郡市13、久留米市11、太刀洗町6、甘木町6、田主丸町5、吉
井町16、杷木町(はきまち)4、浮羽町2、黒木町3、広川町25、八女市17、瀬
高町6、山川町7、高田町6、三橋町12、と139の業者が出品している事から、当
時の櫨蝋に係った業者の分布がおおまか理解できる。伝承された記録の通り、小郡市の
生蝋生産者が多く、吉井町の白蝋生産者が多い。山間部に近く耕作面積の広い広川町や
八女市は生蝋生産者が多いのが目立つ。三橋町は白蝋生産業者が占め日本一の粗製白蝋
の生産を記録している。大正期(1879〜1926)には石油合成品であるパラフィ
ン、西洋ローソク、安価な輸入蝋に押され、石油ランプや電灯の普及によって次第に衰
退し、生蝋の生産量は明治32年と比較すると半分以下に下がっている。博多の商人は
蝋から将来の花形商品である石炭の取扱商人と変っていった。第二次世界大戦(193
9〜1945)の物資不足で生蝋の生産は一時増え価格も暴騰したが、戦時中の食料増
産や終戦後の農地解放により、戦前までは1,339町歩あった櫨の作付面積は櫨の木
は伐採されていった。ここでほとんどの貸り木の製蝋屋はその権利を失い、又小作農令
で伝来の農業土地も失っている。弁護士の資格を持つ由布氏や三池氏の元には、多くの
家老や男爵の家系の子孫がその訴えを裁判所に出しているが、証拠資料となる大牟田が
空襲で焼失している事から裁判に負けて、多くの不埒者が暴れて留置された。留置場の
辻町門牢の跡地は今図書館になっている。図書館の前には、もう一つの特産品となった
煙草の葉が集められた。今では開きと言われる干拓地は、米が獲れ海苔生産が主要だが
当時は塩害で米が獲れず、海苔も竹による栽培で2回ほどしかなく初摘みを秋芽(あき
め)といい年明けの春を春芽(しゅんめ)とされた。年明けの海苔摘みは2番海苔とさ
れ、のち葉竹の撤去で、後は八女の山に登って茶摘みを行うのが習わしだった。つまり
八女の人と海の人は一緒になって、冬は海苔を摘み夏はお茶を摘み、途中は農家で田植
えと稲刈りをして集団で移動する今の人材派遣の様な労働者だったのである。こうして
筑後地方の地場産業として栄えたハゼ蝋(櫨蝋)生産は、昭和30年(1955)頃から
安価な石油製品に押され、さらに時を同じく進められた日本の貿易自由化政策によりミ
ツロウ(蜂の巣)など海外産天然ワックスの流入もハゼ蝋(櫨蝋)産業を圧迫し廃れた。

1714: 名無しさんAA:18/11/27 16:43
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   745   > 
 木蝋の最盛期は幕末から明治時代であったが、明治の初め頃の輸出用木蝋(白蝋)は
主として貿易商社によって取り扱われ、日本特産の「ジャパン・ワックス(Japan Wax
)」として輸出され外貨獲得上かせぎの商品であった。明治6年では生糸きいと(72
0万円)・茶(470万円)・蚕卵紙さんらんし(306万円)・石炭(64万円)・
銅(61万円)・昆布(53万円)・米(53万円)・木蝋(42万円)で木蝋は第8
位であった。明治10年頃は三井物産・三菱商事・浅野物産などの商社が輸出していま
した。明治6年(1873)の蝋価格の大暴落で櫨の木が伐採され久留米県・三池県・
柳川県が合併した三潴県は伐採禁止令を出したが効果はなかった。明治34年(190
1)に瀬高町下庄の武田蝋屋に筑後木蝋同業組合の本部が創設され久留米市京町に事務
所が、2市6郡には支部が置かれ、販売斡旋・ 製造研究に努めた。経営改善と合理化
のため、人力による蝋の搾取に蒸気力利用の機械搾りが取入られ零細業者から大工場に
集約されて行った。明治35年(1902)以後も、櫨裁培、木蝋生産が減少した。以
前は百斤きんにつき15〜16円であったものが、その後、時には40円前後まで高騰
したが、明治44年(1911)には9円に下落している。原因は中国産生蝋の輸入が
激増したのによる。近年は昭和62年の木蝋の生産量は全国で 169 tonで、福岡県 111
ton、佐賀県 24ton、愛媛県 20ton、長崎県 12ton、大分県 1ton、鹿児島県 1 tonであ
る。製蝋業者数は全国で12軒で福岡県6軒、長崎県2軒、愛媛県2軒、佐賀県1軒、
鹿児島県1軒であった。最盛期の明治時代には年間1万3千トン以上も作られていまし
た。平成2年の櫨の実の収穫量は福岡県150ton熊本県150ton長崎県120ton愛媛県100ton
佐賀県90ton鹿児島県32ton宮崎県30ton大分県20tonなどで全国692tonとされる。この頃
まで橋本氏(外立花氏)は地主や神主として水田神社の神領は支配していたと思われる
。再び天日晒された粗製白蝋は製蝋工場に集荷され精製され角型の型に流しマーク入り
のきれいな白蝋に製品化され、神戸・大阪の輸出業者によってアメリカや西欧に送りだ
された。大正時代に木蝋産業は急速に衰退したが昭和10年には町の予算が14万57
17円だったのに対し、生産額はその3倍近い43万2200円。昭和20年代に日本
一の生産量を誇った。白蝋は蝋燭の他鬢付け油や化粧品(ポマード、口紅、クリーム)
文房具(鉛筆の芯、クレヨン、朱肉、カーボン紙)繊維用(ノリ剤、仕上げ用蝋染、光
沢剤)家具類の艶付、医療、石鹸原料、飛行機塗料、靴墨原料として用いられてきた。
当時百町島町の目野賢氏は、蝋に苛性ソーダと水を加えて柔らかい石鹸を製造され晒専
門の業者が多かった。旧三橋町役場の東にあった橋本蝋屋は武田氏と共に江戸期以前か
らの、地場の生蝋の生産業者であった。現在はすべての業者が廃業している。

1715: 名無しさんAA:18/11/27 16:44
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   746   > 

 瀬高地方では湿地のことをドブ・ガタ・ジュツタンボなどと呼びますが、地名として
のフケ呼び名もその一つです。高柳にある不毛・福久・深田の水田はフケに宛てた漢字
の湿地帯の開拓水田の意です。と説明される。ところが実は違っていて「ふけ」とは、
江戸期に「普化宗」となった吹け衆徒のことである。吹け衆とは、実は平安以前からの
陰陽道の祭り宗徒であり、言わば尺八など竹細工の名人の一団の事である。彼らは代々
柳を植え竹を植えそして農地を築いて来た。実はつい最近まではそうしたクリークの淵
に柳の木があり、御幣竹が植栽されていた風景は普通の事であった。9月9日の長幼の
節句では、牡丹餅を奉げ、子供に梵綱と言う相撲や縄引きと言う綱引きが行われていた
ようだ。恐らくは古い鷹尾神社の宮司を司り高柳には宮司町、聖町、大工町などが瀬高
清水の門前町として栄えていたようだ。浜田は字のごとく浜を開拓し田にして土地を得
た所で、浜田城は鷹尾城の支城として、江の浦、津留、堀切、と共に永禄えいろく年間
(1558〜1570)に築城され、鷹尾の本城と共に鷹尾五城と称しょうした。浜田
城は浜田南の天満宮から西に50m行った左側にあり、東西19m、南北39m平地よ
り3m高く周りに小堀がある。現在は浜田の城址に内藤さん宅の2軒がある。堀に沿っ
た道の北側の土地は侍屋敷さむらいやしき呼ばれ、当時の家臣たちの住いがあったとい
われる。実は聖川(ひじりかわ)と矢部川の交差点で行基橋のある本郷は、その陰陽道
の後継普化衆徒の聖地であったようだ。その後保化町に移された僧侶は柳川小学校から
沖の端までにいた。つまり保化町は本来普化町だったがいつの間にか藩政に侵されない
事から「ほかまち」と称されたようだ。対岸の上町には普化宗の駆け込み寺があった。
とされ、不義密通や離縁の寺としていた。又英彦山からの、ほら貝を拭いて布施を貰っ
て旅行く修験道の山法師(やんぼっさん)は必ず立ち寄り上町一泊する場所だったと言
われる。実はこの上町も元は神町だったのではないかと推測される。不思議な事だが大
分の別府は、平安末期に山門郡鷹尾郷の干拓が進み、鷹尾神社が税を取りここに通行証
の別符(べっぷ)を発行してそれを代々行っていた別府氏が、大友氏傘下となって貰っ
た領地が別府なのである。上町が英彦山傘下の宿場町だったならおかしくはない。かつ
て飛鳥時代から板橋氏は中山つたいから五拾町には橋があって、本郷を久末と称してい
たらしいほど古く今の様な、大きな矢部川や沖の端川が明確に無かったという。その当
時は江曲が柳川の名前だったらしい。当時門番だったのが壇氏や板橋氏の起こりと言わ
れる。

1716: 名無しさんAA:18/11/27 16:47
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   747   > 

 柳川の常盤町は、鷹匠なる技術者達(武士)が殿の鷹狩の側近として仕えていた屋敷
のあった町で鷹匠町と言われていた。旧柳川藩の「諸絵図箱」には宝暦9年(1759
)年に描かれた、鷹狩りをやる場所の瀬高町、本郷・上長田・上坂田・有富・大江・下
小川の各村の鳥のねぐら・巣のある藪を示す御塒付絵図が残されている。鷹匠小路は明
治6年に鷹匠町となり後に常盤町に合併している。名残りとして西鉄矢壁駅前の橋は、
鷹匠や殿様が鷹を放した所の橋として御鷹匠橋(おたかんばし)と言われる。この堤防
筋に三柱神社となった高畑天満宮社や御嶽神社が並びその先に日の出橋がある。正式に
は井出の橋らしい。がこの通りに江月院があった。下総国(現・千葉県の一部)小倉の
一月寺に属していた。普化(ふけ)宗 金先(こんせん)派。九州筋同派の蝕頭であっ
た。元来は三池郡大間村(現・大牟田市三池の一部)にあり、初めは却月院と号する。
天和3年(1683)に藩主鑑虎(あきとら)の命令で、城下の脇道町(現・上町)に
移り江月院と改めた。大牟田市三池の却月院跡には小堂と地蔵堂があり残された石塔や
地蔵像が残されて祀られている。寛政2年の絵図によれば、沖端川に面する松並木の土
手下の脇道町通りから南に道が延び、その左手に観音堂があり、突き当りに四方を堀で
めぐららされた江月院がある。本尊は観世音菩薩で行基の作であったという。中興開山
は無限和尚とする。宝暦年中より御蔵米30俵を拝領する。旧藩時代では威勢甚だ強盛
なりとされた。江月院は治外法権を認められた寺で、罪人も寺の門に入れば捕えること
は叶わず、定められた期間仏道の修行をすると罪は消え許された。ただし殺人犯だけは
敵討ちの出願をすれば、寺入り後も断われなかったという。藩の家老や目付役などが、
民情視察の為に尺八を奏で虚無僧(こむそう)の姿の普化宗僧に化けて監視していた事
が知られている。寺の宗制は厳格で主君に罪を犯した者は容赦なく院内で処罰をしてい
たという。普化宗(ふけしゅう)は明治4年(1871)に明治政府により禁宗となり
江月院は3年後に廃寺となり空き地となった。ただし江月院の北隣にあった江月院の旧
地の横に観音堂を建て、元・沖端川岸にあった観音堂の観世音菩薩を移し、堂の前には
「金先派 江月院跡」と刻んだ石碑を建てた。本当の江月院跡は南側の堀割で囲まれて
いる草むらである。昭和35年(1960)に江月院跡の周囲の掘割が埋まっていたの
をきれいに堀り上げ橋をかけ、江月院顕彰祭(献笛祭)が、日本一の尺八の師匠の神如
道大先生をはじめ、福岡の一月寺や熊本。延岡・長崎など九州各県の、もとの普化宗末
寺のたくさんの尺八の同僧に参詣してもらい盛大な尺八供養を挙行している、翌年まで
献笛祭が柳川小学校講堂で行われたようだ。

1717: 名無しさんAA:18/11/27 16:48
 明治以降のその後も佐賀方面から尺八修行の為に、深編笠の虚無僧姿で江月院跡を訪
れ碑前で尺八を吹奏した後、托鉢に各家庭をまわっていたが、今は殆んど見当たらない
。昔は「虚無僧を無下に断ると、逆笛さかふえを吹かれて家が絶える」と恐れられたと
いわれる。虚無僧は布施を受けると、その多少にかかわらず御礼として、更に一曲吹い
て立去ったものである。廃寺後の江月院の秘仏や大般若経は鍛冶屋町の天叟寺に移され
、その後、大般若経は報恩寺に保存さてたと言う。観音堂には昭和30年に江月院南側
の掘割から出土した中国明代の香炉が奉納された。本通りから東の横丁を別当町と呼び
、東へ入る入り口左側二軒目に、もと別当池末氏の子孫の家が在る。町名は別当の家の
ある町を意味する。先祖は池末右馬允宗可(うまのじょうむねよし)で蒲池家の支族で
あった。蒲池氏が滅びた後、浪人となり、町家に住む。立花宗茂公が再城の後、坂巻・
冨安と共に町別当を勤め、帯刀を許されている。行止まりに観音寺あり、これより鷹匠
小路に続く。鷹匠小路とは町人以外の武士や足軽・扶持人たちが住んでいたところです
。西の横丁は蟹町です。町内には稲荷社大神宮社がある。明治6年に脇通町(わくどま
ち:松並木土手下)と別当町(べっとうまち:上町東入横町)を合併して上町とした。
明治17年、74戸・426人。昭和60年、60世帯、233人。明治から100年
の間で人口が半減している。舟運時代は蟹町・魚屋町・八百屋町の筋が主要街であった
が、乗合馬車〜軌道時代に入ると上町通りが栄え、西鉄電車時代になると、京町通りに
移り、昭和後期からは電車駅付近が繁華街となった。しかし旧き川には水多きの喩たと
えで、出橋辻町通り・京町通りには伝統や風格が保持されていたとしている。辻門と井
出橋門(出橋)の中間が、中町と呼ばれた。東側には鳥居が建てられ、参道の先に霊應
山天王院音楽寺があった。柳河明証図会には「音楽寺のうらの流れを柳川と言ふと言え
ども、證あかしとすべき事なし 古来柳川村といふは東は明王院の角より南は水門まで
を境とし 西南は鍛冶屋町、西北は土居町禅門堀(現・糀屋町と筑紫町の境の堀)を境
とす」とある。この水路の名称が「やながわ」という地名の起源とも言われがあったが
、その証拠はないという話である。古来、柳川村は明王院隅(宮地嶽神社付近)から、
城下町をほぼ東西に流れる水路は城下町以前に遡さかのぼる古くからの流れであった。
音楽寺は明治の神仏分離令により、廃寺となり、同所に祭られていた祇園社が残され、
現在の中町八剣神社となっている。この町に西の筑後川の湿地「紅粉屋開」(大川市大
字紅粉屋)を干拓するなど財力をもった豪商「紅粉屋」があった。紅粉屋七郎左衛門は
柳河藩貨幣方だった。外町には宿駅の馬立場があったが旅籠がまったくなく、中町には
旅宿が多かった。出の橋番所の門限の事情で、旅人は城郭内に泊まる必要が生じる場合
が多かったからである。

1718: 名無しさんAA:18/11/27 16:52
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   749  > 

この旅館の並びにには遊郭はなかった。ここが守りの要として出入り口だったからだ。
この出橋横には、代官などが宿泊した「松屋旅館」があった。今や九州歴史資料館に古
文書まである。また祇園社の北を流れる柳川の川添には3階の部屋がある料亭「宰府屋
ざいふや」(創業不明)が営業していた。江戸の頃の柳川は筑後地区の中心都市であり
お接待が多くて太宰府から腕の良い料理人をたびたび招いていたが余りに回数が多いの
で柳川に住み込んだという。現在、椿町の宰府屋旅館が営業している。明治17年45
戸・227人。昭和60年、47世帯・164人。の資料がある。この堤防沿いには、
西覚寺がある。寛永8年(1632)石崎円誓が開祖したとされる。円誓は材木町の明
善寺の住職であったが、本山より別の寺号を頂き、田中吉政の老臣、石崎若狭の下屋敷
を寄付し西覚寺を開山した。石崎若狭とは親族の間柄である。西覚寺の山号の石崎山は
この石崎若狭守にちなんだものとのこと。この所在地を西覚寺小路と称した。その堤防
には日の出橋までにもう一つの寺院があった。本院は三宝院の直末としてあった。開祖
は豊後鵜木領主の斉藤播磨鎮実の子孫の斉藤内記である。大友氏が没落後に浪人となっ
た為、宗茂公の柳川御再城を聞いて仕官を希望したが希望者は多く、願い叶わず蒲船津
に住んだという。後に諦めて剃髪して、文殊院休実法印と号した。元和9年に鋤崎の地
、1反を賜り1院を建立する。寛永14年に休実は息子の実内と忠茂公に従い、島原の
役の出陣し、十時三弥組に加わり陣屋祈祷加持役を勤め、以後も続けた。藩主の陣具、
陣袈裟は代々当院より献上していた。息子の実内は蓮華院と称した。寺院は鳳来寺の跡
にあったが、宝永年間に金剛院の転退につき、稲荷社兼帯にて同所に引移る。享保7年
2月20日に鷹匠小路の天満宮社地の2町を賜り移転する。6代目の蓮華院はこの一派
の蝕頭を勤めた。享保18年の大火で本尊の大日堂が類焼し、小道具小路に移る。院地
は6畝。白米40俵を拝領し、後に32俵となる。本院の本尊の大日像は明暦3年に、
忠茂公の夫人の法雲院殿の守仏であり仙台伊達家の家宝仏を忠茂公の子孫の疱瘡(ほう
そう)安全祈祷として当院に預け1宇を建立された。寺内には天満宮・庚申堂・弁天堂
・稲荷社があったが維新後に廃寺となり今はない。この普化州においては、かなりの力
があって、九州の普化宗の総本山とされ御座主や顕主僧がいた。とされる。したがって
かなりの財力があったらしく、かの昔は大牟田に臥龍梅で有名な二月堂にいた。その頃
まだ宗茂公は健在で柳川を治めていたので弟忠茂公は三池を治めていたのである。その
頃まで唐人町はこの普化宗徒が貿易を行っていた。この好況ぶりから柳川に移させた。


1719: 名無しさんAA:18/11/29 09:36
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   750  > 

 牛嶋三郎左衛門公俊には、船津鑪水(たたらみず)の辺り、教員住宅の上に墓石が一
基ある。墓石に「梵字 忠浄々仙七分金得所・牛嶋三郎左衛門橘公俊(彦五郎三郎左衛
門)元亀2年辛未(かのとひつじ)八月時正敬白」とある。また中川内区に同氏の墓石
とおもわるるのが一基ある。「南無阿弥陀仏釈浄雲(じょううん)、天正元年十月五日
硲川討死(うちじに)」とあり氏名がない。この事について『肥後国誌』には左のとお
り記してある。天正元年(1573)十月五日小代(しょうだい)と三名字と領地を争い遂
に武力によって事を決せんと、互に、日を定めて玉名郡の内、硲川(玉名市玉名町迫間
:ならん)にて三名字の大将三人の中、牛嶋三郎左衛門公俊、田尻上野惟家討死す。右
二箇所の墓碑には、たたらみずのには牛嶋三郎左衛門と氏名があり、場所及び戦死年月
日がないので何れが正しいか疑問として河内小学校勤務中、同僚徳永訓導と研究してい
たが、考証を肥後文教所平野芳洲(ホウシュウ)氏並びに後藤是山氏に依頼したら、た
たらみずの墓は逆修(シュウ)碑であることが分かった。牛嶋下野守(しもつけのかみ
)橘藤七郎公綱の葛山区に阿弥陀堂がある。区民の人達が古い御堂を修復して保存して
おり、中に木像の阿弥陀仏が安置してある。傍らに牛嶋氏一統の墓がある。その中の一
つの墓石の、「表には」、雲生院浄楼大居士、天正十五年十二月七日(1587)と記し、
裏には、牛嶋下野守(しもつけのかみ)橘公秀の次男藤七郎公綱は人皇第百八代後陽成
(ごようぜい)院の御宇、関白秀吉公の、命により、佐佐陸奥守殿の与力たり。天正十
五年(1587)当国に、下着し、玉名郡田中城に於て、朧月七日合戦のみぎりに、「和仁
勘解由親実(ワニカゲユチカザネ)」の臣松尾日向と組み、岩壁より落ち相共に戦死せ
り、「維時」、享保十九年(1734)、「甲寅年(きのえとらどし)」九月七日人皇第百
十六代の、「孝孫(コウソン)」牛嶋衛門公續(キミツグ)謹銘とある。又、潮見城 
武雄市 角川日本地名大辞典、一部武雄市史より武雄市橘町永島《字》アザ潮見にあっ
た城伝では、武雄盆地の南端で西から東に突き出た潮見山(151.7m)の頂上に築かれた
山城。「北肥(ホクヒ)戦誌」巻16に「塩見城主渋江家の祖先を如何にと尋ぬるに橘次
公業といふ。鎌倉頼経将軍の近習にありて薩摩守に受領す。此の公業が時、「嘉禎(カ
テイ)三年丁酉(1237)、初めて予州より肥前に来たり、長島荘に移りて塩見山に城郭
を構へて居住しけり。」と、築城の年代について記している。従って、公業は潮見初代
城主であったと言える。長島荘とは武雄や、伊万里の事だ。


1720: 名無しさんAA:18/11/29 09:37
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   751  > 

 橘次公業(たちばな つぐきみひら)といふは南北朝期には足利氏に属し菊池氏と戦
った。「永和2年」(1376)には今川了俊入道に攻められ落城し、城主は7代渋江公治
(キミハル)。また応永11年(1404)には九州探題の渋川満頼(ミツヨリ)に攻められ
て降伏した。8代公親(キミチカ)から11代公代(キミシロ)にかけて、「支族」牛島
氏との争いもあった。渋江公代については、その後、13代渋江公勢(キンゼイ)は本
城を日鼓城に移して潮見城を支城としたが、この時期が長島荘渋江氏勢力の最盛期であ
った。「公勢(キンゼイ)没後は」武雄の後藤氏が勢力を持ち、天文11年(1542)、14
代公親(キミチカ)の時に後藤純明(スミアキラ:武雄後藤18代)に本領を奪われた。
渋江公親(キミチカ)は佐賀与賀の、龍造寺に身を寄せ、その子、渋江公師・公重(キ
ミモロ、キミシゲ)は肥後山鹿談義所寺、山鹿(赤星)重行に養育されていた。永禄2
年(1559)に、後藤貴明(武雄後藤19代)によって有馬への対抗策として渋江氏は潮見
城にもどされた。この時、渋江の一族郎党は此処彼処に離散していたが、都合 170名が
肥後川尻に馳来たりて渋江公師・公重(キミモロ、キミシゲ)に従い、肥前潮見城をめ
ざしたという。永禄3年(1560)8月有馬氏に攻められて落城,15代渋江公師(キミモ
ロ)は城を脱出したが、弟の公重(キミシゲ9は戦死した。有馬氏の撤退後は後藤氏の
、支城として利用された。更に調べてゆくと、肥後の牛島氏を平氏とするは過ちで、橘
姓渋江氏であることが記載されている。肥後(河内)牛島氏の考証すれば、熊本県河内
町史・昭和62年誌では、牛島刑部助公尚(ギョウブノスケキミナオ)が河内浦に着船
し居住始めが、建久九年(1198)とされているが、阿蘇品氏の研究によれば牛島を平姓
とするのも、紀州中山から移ったとするのも、河内へ移ったのを建久九年とするのも共
に誤りで、橘公業に肥前長島荘が与えられたのは、嘉禎二年(1236)で渋江氏を称する
ようになったのは南北朝期である。牛島は渋江からの分出であるから、牛島の河内移住
は、南北朝期以後ということになる。更に時期を追究すれば、次の、所論から十五世紀
中葉だろう。河内の牛島家の祖を渋江五郎平公尚(タイラのキミナオ)と称し、その三
十四代の末裔牛島公友が、「清田家(せいだけ)祖」としている。三十六代牛島公忠(
キミタダ)が、中島家の祖、三十八代牛島俊正が、中川内の嫡家の祖、と各系図は伝え
ている。

1721: 名無しさんAA:18/11/29 09:39
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   752  > 

 橘姓は飛鳥時代に、橘島田麻呂の男である橘眞主が熊野連多賀志麿の養子となり熊野
国造家を嗣ぎ、その曾孫の熊野廣方が橘良殖の猶子となり橘姓へ復して橘廣方となった
。これが起源とされる。この廣方の子孫が和田庄に移り和田家の祖となる。和田良成の
代に伊都郡橋本庄に住し、その地を本願地とする橋本家がはじまり、後裔は橋本一族や
楠木一族として活躍する。酢屋家は和田良成の子の酢屋二郎兵衛が最初で、その子孫酢
屋与市正高は河内石川郡弘川に拠点を持ち奮戦するも討死し、一時酢屋家は絶えるが、
楠木右近将監正忠の子の蔵人将監正幸が名跡を継ぎ隅屋正幸として存続し楠木一族の筆
頭となる。平安時代に九州に来たのは、刀伊の入寇(といのにゅうこう)があったから
だ。刀伊の入寇(といのにゅうこう)は、寛仁3年(1019年)に、女真族(満洲民族)
の一派とみられる集団を主体にした海賊が壱岐・対馬を襲い、更に筑前に侵攻した事件
とされ、刀伊の来寇ともいう。しかし、記録に残る9世紀から11世紀に掛けてのもの
であり、もっと早くから白水江の戦い以降は、日本はいつでも受けていたとされている
。つまり百済に日本の領地があっ頃から攻撃されていたのである。、記録に残るだけで
も新羅や高麗などの外国の海賊による襲撃・略奪を数十回受けており、特に酷い被害を
被ったのが筑前・筑後・肥前・肥後・薩摩の九州沿岸であった。刀伊に連行された対馬
判官長嶺諸近は賊の隙をうかがい、脱出後に連れ去られた家族の安否を心配してひそか
に高麗に渡り情報を得た。長嶺諸近が聞いたところでは、高麗は刀伊と戦い撃退したこ
と、また日本人捕虜300人を救出したこと、しかし長嶺諸近の家族の多くは殺害され
ていたこと、侵攻の主体は高麗ではなく刀伊であったことなどの情報を得ている。「刀
伊の入寇」の主力は女真族であった。女真族とは、12世紀に金を、後の17世紀には
満洲族として後金を経て清を建国する民族であるが、近年の発掘で、10世紀から13世紀
初頭にかけて、アムール川水系および特に現在のウラジオストクおよびからその北側に
かけての沿海州の日本海沿岸部には女真族が進出していた時期であった。天候不順で、
女真系の人々はアムール川水系と日本海北岸地域からオホーツク海方面への交易に従事
していたものと考えられる。10世紀前後の資料で東丹国や熟女直の母体となった人々で
、当時ウラジオストク方面から日本海へ進出したグループのうち、刀伊の入寇を担った
女真族と思われる集団は、日本海沿岸を朝鮮半島づたいに南下して来たグループであっ
たと考えられている。この橋本一族や楠一族が九州に来て住み着いたのは間違いない。

1722: 名無しさんAA:18/11/29 09:40
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   753  > 

 13世紀初頭に蒲鮮万奴(ほせんまんど)は中国東北部に大真国を建てたが、これら
日本海沿岸部に進出していた女真族たちもこれに加わっており、ウラジオストク周辺や
沿海州周辺の日本海側には多数の山城が建設された。しかし、日本海側沿岸部に進出し
た山城群は1220年代にモンゴル帝国軍によってことごとく陥落したようである。とされ
る。近年の発掘報告によれば13, 14世紀は沿海州での山城跡や住居址などの遺構などは
その後使用された形跡がほとんど確認できない。日本海沿岸部に進出していた女真グル
ープは実質壊滅ないし大幅に減衰したと思われる。としている。が彼らは、居なくなっ
た朝鮮人のに替わって江原道や慶尚北道に移り住んだものと考えられる。何故なら早く
からモンゴル帝国に従属し早期にモンゴル兵にも替っていたぐらいなのだからだ。アム
ール川水系の女真系が明代まで発展し、13世紀半ば以降の北東アジアからオホーツク
海方面の交易ルートの主流は、日本海沿岸部から内陸のアムール川水系へ大きくシフト
した。また、いわゆる元寇(文永・弘安の役)前後に日本側は北方からの蒙古の来襲を
警戒していたことが知られているが、これに反して元朝側には資料でのアムール川以東
の地域の地理概念上に日本は含まれていなかった。したがってモンゴル兵は日本海を東
のはずれと見ていたので日本を知っていたのは女真族と朝鮮族のみだった。後に満洲族
として後金を経て清を建国する民族である事を思えば今の中国人がこの凄惨な事の出来
た女真族なのである。926年に契丹によって渤海が滅ぼされ、さらに985年には渤海の遺
民が鴨緑江流域に建てた定安国も契丹の聖宗に滅ぼされた。当時の東北部にいた靺鞨・
女真系の人々は渤海と共存・共生関係にあり、豹皮などの産品を渤海を通じて宋などに
輸出して糧を得ていた。10世紀前半の契丹の進出と交易相手だった渤海が消失したこと
で女真などが利用していた従来の交易ルートは大幅に縮小を余儀なくされ、さらに 991
年には契丹が鴨緑江流域に三柵を設置し、女真から宋などの西方への交易ルートが閉ざ
されてしまった。女真による高麗沿岸部への襲撃が活発化するのはこの頃からである。
1018年には鬱陵島にあった于山国がこれらの女真集団によって滅ぼされた。1019年には
北九州に到達・襲撃するようになった。これがいわゆる「刀伊の入寇」に至る女真系の
人々の活動である。寛仁3年(1019年5月4日 )刀伊は賊船約50隻(約3,000人)の船団
を組んで突如、対馬に来襲し、島の各地で殺人や放火を繰り返した。国司の対馬守遠晴
は島からの脱出に成功し大宰府に逃れ、報告する。賊徒は続いて、壱岐を襲撃した。


1723: 名無しさんAA:18/11/29 10:55
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   754  > 

 壱岐対馬では、老人・子供を殺害し、壮年の男女を船にさらい、人家を焼いて、牛馬
家畜を食い荒らした。賊徒来襲の急報を受けて、国司の、壱岐守藤原理忠は、ただちに
150人程の兵を率いて賊徒の征伐に向かうが、3,000人という大集団にはとうてい敵わず
玉砕してしまうのだった。実はこの時この瀬高の庄にも早馬の知らせで馬場氏が連絡が
きた。沖海変事として報告は、菊池軍一帯に触れが出た。一方、壱岐で藤原理忠の軍を
打ち破った賊徒は次に壱岐嶋分寺を焼こうとした。これに対し、嶋分寺側は、常覚(島
内の寺の総括責任者)の指揮の元、僧侶や地元住民たちが抵抗、応戦した。そして賊徒
を3度まで撃退するが、その後も続いた賊徒の猛攻に耐えきれず、常覚は1人で島を脱
出し、事の次第を大宰府に報告へと向かった。その後に寺に残った僧侶達は全滅してし
まい嶋分寺は陥落した。この時、嶋分寺は全焼した。とされる。嶋分寺は、その頃朝鮮
で起こっていた漢学の諸文書文献の宝庫として知られていた。その為遣唐使や遣隋使に
なれなかった者の最先端の国外との交流場所とも言えた。『続日本紀』『類聚三代格』
によれば、天平13年( 741年)、聖武天皇から「国分寺建立の詔」が出された。内容は
、各国に七重塔を建て、『金光明最勝王経(金光明経)』と『妙法蓮華経(法華経)』
を写経すること、自らも金字の『金光明最勝王経』を写し、塔ごとに納めること、国ご
とに国分僧寺と国分尼寺を1つずつ設置し、僧寺の名は金光明四天王護国之寺、尼寺の
名は法華滅罪之寺とすることなどである。寺の財源として、僧寺には封戸50戸と水田
10町、尼寺には水田10町を施すこと、僧寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を置
くことも定められた。この国分寺を全国に置き後に護国寺としたのだが、これが対馬に
おいての嶋分寺だった。従って、連絡網も交通路もやっと整えていた頃と言う事である
。その後、刀伊勢は筑前国怡土郡、志麻郡、早良郡を襲い、さらに博多を攻撃しようと
したが、最初の襲撃の後を襲った荒天の間に形勢を立て直した大宰権帥藤原隆家により
撃退された。博多上陸に失敗した刀伊勢は4月13日(5月20日)に肥前国松浦郡を襲ったが
、源知(松浦党の祖)に撃退され、対馬を再襲撃した後に朝鮮半島へ撤退した。その後
藤原隆家らに撃退された刀伊の賊船一団は高麗沿岸にて同様の行為を行っている。『小
右記』には、長嶺諸近と一緒に帰国した女10名のうち、内蔵石女と多治比阿古見などが
大宰府に提出した報告書が記されて、高麗沿岸では、毎日未明に上陸して略奪し、男女
を捕らえて、強壮者を残して老衰者を打ち殺し海に投じた。

1724: 名無しさんAA:18/11/29 10:55
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   755  > 

 しかし高句麗略奪では、賊は高麗の水軍に撃退され逃げるが、この時拉致された日本
人約 300人が高麗に保護され、日本に送還された。虜囚になった内蔵石女と多治比阿古
見は、高麗軍が賊船を撃した時、賊に海に放り込まれ高麗軍に救助される事になった。
金海府で衣服を支給され、銀器で食事を給され、手厚くもてなされて高麗人の厚意で、
帰国した事を述べている。この「刀伊の入寇」は長年続いておりイタチごっこだった。
その為小右記には、「刀伊の攻撃は、高麗の所為ではないと判ったとしても、新羅は元
敵国であり、国号を改めたと雖もなお野心の残っている疑いは残る。たとえ捕虜を送っ
て来てくれたとしても、悦びと為(な)すべきではない。勝戦の勢いを、便を通ずる好
機と偽り(いつわり)、渡航禁止の制が崩れるかも知れない」と、無書無牒による渡航
を戒める大宰府の報告書を引用している。日本は宋との関係を重んじて、日本と契丹(
遼)とはのちのちまでほとんど交流がなくなったし、密航者は厳しく罰せられる事にな
った。壱岐では壱岐守藤原理忠も殺害され、島民の男44人、僧侶16人、子供29人、女59
人の、合計148人が虐殺された。さらに、女性は239人が連行された。壱岐に残った民は
、諸司9人、郡司7人、百姓19人の計35人であった。と記される。この被害は壱岐全体で
なく、壱岐国衙付近の被害とみられる。こうして記録されただけで 殺害された者365名
、拉致された者1,289名、牛馬380匹、家屋45棟以上。女子供の被害が目立ち、壱岐島で
は残りとどまった住民が35名に過ぎなかった。有名な対馬銀山もほとんど焼損し、被害
は対馬で殺害されたものは36人、連行されたもの346人(うち男102人、女 子供244人)
であった。また この時連行された人の内、270人ほどは高麗に救助され、対馬に帰還し
た。この非常事態を朝廷が知ったのは藤原隆家らが刀伊を撃退し、事態が落着した後で
あった。朝廷は何ら具体的な対応を行わず、防人や弩を復活して大規模に警護を固めた
弘仁、貞観、寛平の韓寇の時に比べ、ほとんど再発防止に努めた様子もない。しかも当
初、日本側は何者が攻めてきたのか分からず、賊虜3人がみな高麗人であって、彼らは
「高麗を襲った刀伊に捕らえられていたのだ」と申し立てたが、新羅や高麗からの海賊
が頻繁に九州を襲っていること(新羅の入寇、高麗の入寇)もあってか、大宰府や朝廷は
半信半疑であった。 結局、賊の主体が高麗人でないと判明したのは、7月7日(8月10日)
、高麗に密航していた対馬判官代長嶺諸近が帰国して事情を報じ、9月に高麗虜人送使
の鄭子良が保護した日本人270人を送り届けてきてからである。


1725: 名無しさんAA:18/11/29 10:56
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   756  > 

 高麗使は翌年2月、大宰府から高麗政府の下部機関である安東護府に宛てた返書を持
ち、帰国した。藤原隆家はこの使者の労をねぎらい、黄金三百両を贈ったという。その
上、撃退した藤原隆家らに恩賞を与えようとしなかった。これは平将門の乱、藤原純友
の乱(承平天慶の乱)に続き、朝廷の無策と武士の影響力の増長を示すこととなる。た
だし、追討の勅符の到着前に撃退していたため、勅符の重要性を強調して藤原行成・藤
原公任が恩賞不要の意見を述べたが、藤原実資が反論して恩賞を与えるべきとの結論に
達したとされている。また、後に引退していた藤原道長の口添えによって恩賞が出され
たともされている。もともと藤原隆家は中関白家出身の公卿であり、眼病治療のために
大宰権帥を拝命して大宰府に出向して二日市温泉での治療をしていた。専門の武官では
なく例の役職仕官であった。こうして撃退の総指揮官として活躍したことで武名を挙げ
ることとなった。この時の九州武士団および、東国から派遣された武士団のうち、討伐
に活躍したと記録に見える主な者として、大蔵種材・光弘、藤原明範・助高・友近・致
孝、平致行(致光)、平為賢(為方・大掾為賢)・為忠(為宗)、財部弘近・弘延、紀
重方、文屋恵光(忠光)、多治久明、源知、僧常覚らがいるが、寄せ集めに近いもので
あった。しかし僧の源知は松浦党の1人とみられ、その地で賊を討って最終的に逃亡さ
せる活躍をし、他も平氏や財部氏大蔵氏などは、都落ちはしてるものの強く大きい九州
武士団として集団になりつつあった頃だ。なお、中世の大豪族・菊池氏は藤原隆家の子
孫と伝えていて、在地官人の大宰少弐藤原蔵規という人物が実は先祖となったのだった
ろうとの見解もある。又、有名な対馬銀山は、『日本書紀』によると、天武天皇二年
(674年)に対馬島司忍海造大国(おしみのみやつこのおおくに)が同国で産出した銀
(しろがね)を朝廷に献上したとされる。さらに朝廷は対馬島司に命じ金鉱を開発させ
、文武天皇五年(701年)に対馬から金が献上された。この結果、朝廷は元号「大宝」を
定めた。つまり、大宝律令の頃にはこの九州の金銀が、大和朝廷に運ばれていた事にな
る。実は嶋分寺はこの対馬銀の配送や管理官使としての出張所的役割で、その交通路の
為に国分寺を置いたとも考えられる。しかしこの金の献上については『続日本紀』で、
対馬現地の開発者が捏造をおこなったもので、実際には対馬から金は出なかった。とし
ている。つまり銀を金と見立てたのだ。平安時代になると『延喜式』で対馬の調は銀と
定められ、大宰府に毎年調銀890両を納めるよう命じられた。


1726: 名無しさんAA:18/11/29 10:56
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   757  > 

 対馬銀山の精錬法は、広義の灰吹法とよばれるもので、唯一のまとまった記録である
大江匡房の『対馬貢銀記』によれば、「高山四面に風を受くるの処に置き、松の樹を以
ってこれを焼くこと数十日、水を以ってこれを洗い、解別してその率法(純度)を定め
、その灰を鉛錫と為す。」と書いている。対馬銀山はいまだ詳しい調査がなされていな
いが、黒鉱系で方鉛鉱鉱床に銀が濃厚にふくまれるタイプのものであったらしい。発見
当初は視認しやすい希少な自然銀のつぶが混在していて、これを溶出しようと工夫する
うち、大量の鉛を松樹灰にじっくりと酸化吸着させることで純度の高い銀の分離が可能
になっていったのであろう。このころの坑道は二、三里(約1,500m)ほどで、採掘役、
照明役、運搬役の3人がチームを組み、また排水も3-400人がいっせいに手作業で行なっ
た。官営のため、銀は全量が国税として都に送られ、給与の米は大宰府が支弁した。と
される。運搬中万が一の沈没を避けるため、船には長大な綱(150m余)を備えて引き上
げられるようにしていたという。また、中国の史書『宋史』(1345年成立)では、永観
元年 (983年)に宋へ渡った日本僧「然が皇帝太宗へ日本の国情を説明した上奏文に、
「東奥州産黄金 西別島出白銀 以為貢賦(東の奥州は黄金を産出し、西の対馬は白銀を
産出して租税とする)」とあることが知られる。寛仁三年(1019年)の刀伊の入寇では
、刀伊勢により銀鉱が焼き払われる被害にあってその後は復活するも小さくなった。銀
山は13世紀以降、しだいに記録から姿を消してしまったが、江戸時代になると対馬藩に
より銀山経営が復活し、享保年間以降は藩営から次第に町人主体の経営へと移行した。
幕末期になると再び衰退へと向かい、明治時代には見るべきものがなくなってしまった
。付近では近年まで鉛、亜鉛などの採掘はおこなわれていたが、経年のカドミウム汚染
や採算面などからすべて閉山されている。この日本僧「然が、わざわざ中国の晋の皇帝
太宗へこうした日本の国情を説明した上奏文を送った事で、噂が噂を呼んで色々な忌む
べき攻撃が起こったとも言える。得てして、日本人は海を壁として広大な海や遠い異国
を外に於くが、中国人は大陸の一部言うなれば湖程度の認識しかない。日本の川と違い
、どこかの海や湾に近い川や大きな湖は多々あって、回ればどこかの誰かと陸が続いて
居る筈だと言う認識の違いがある。特に明確に「東奥州産黄金 西別島出白銀 以為貢賦
(東の奥州は黄金を産出し、西の対馬は白銀を産出して租税とする)」とあることが知
ら閉めた事は、後のジパング伝説や元寇の元になったのであろう。と思われる。


1727: 名無しさんAA:18/11/29 13:16
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   758  > 

 高麗使は翌年2月、大宰府から高麗政府の下部機関である安東護府に宛てた返書を持
ち、帰国した。と言う。しかし、刀伊の入寇は、寛仁3年(1019年)である。安東都護
府(あんとうとごふ)は、唐朝が高句麗を滅ぼした(唐の高句麗出兵)後、現在の朝鮮
半島北中部から満洲南部に相当する高句麗旧域の管理を目的に設置した統治機構で、唐
が高句麗と百済を滅ぼした後、旧高句麗領を安東都護府、旧百済領を熊津都督府、新羅
を鶏林州都督府として、半島全域を藩属国に変えて羈縻(きび)州とした為朝鮮半島に
国家がなくなった事で、出来た自治政府である。668年(総章元年)9月、に唐(新羅軍
も参加)軍が高句麗を滅ぼすと平壌に設置され、鴨緑江下流域及び遼東地区を管轄した
。その後、新羅の反乱が発生し新羅が唐の行政地区を侵略した結果、安東都護府は旧高
句麗遺領の約3割を放棄し、676年(上元元年)に遼東城に移転した。697年(神功元年
)。安東都護府の下部に所属する安東都督府の長として、滅亡した高句麗宝蔵王の三子
である高徳武が安東都督に任じられた事もある。 705年(神龍元年)、大祚栄が唐朝の
招安を受けたことにより範囲は拡大したが、安史の乱の混乱により773年(大暦8年)頃
に廃止されているのである。 唐は帰属した異民族の地域に、六つの都護府を置き、都
護には中央から派遣し、その下の都督、州の刺史には現地の族長を任命した。このよう
な現地の異民族に一定の地位を与えて支配する政策を羈縻政策(きびせいさく)という
。唐の六都護府は、太宗の時に安東、安西、安南、安北、単于、北庭の六ヶ所に置かれ
、その下に鎭戎(ちんび)が置かれて辺境防備に当たった。唐中期以降は、府兵制の崩
壊に伴い、辺境の防備は都護府に代わり節度使(藩鎮)が管轄するようになる。なお、
都護府の名称は変更されたことも多く一定ではない。安東都護府は唐の六都護府の一つ
で、朝鮮および東北地方の統治に高句麗を滅ぼした後、平壌に設置された。後に新羅が
自立すると、遼陽に移ったが安史の乱で廃止された。安史の乱(あんしのらん)は安禄
山の乱とも呼ばれ、755年から763年にかけて、唐の節度使・安禄山と史思明およびその
子供達によって引き起こされた大規模な反乱。と説明される。他の唐の六都護府は西域
経営に高昌に置かれ吐蕃に占領された安西都護府、北ベトナムのハノイに置かれ南詔の
占領され大越国で滅んだ安南都護府、外モンゴルの統治の為置かれたがトルコ系の東突
厥がその支配した安北都護府、内モンゴルの統治東突厥に押された実態がなくなった単
于都護府。中国西北部、現在の新疆ウイグルで吐蕃に占領された北庭都護府で、いずれ
も一時は唐に服属したが、唐の皇帝内の内部紛争でそのまま維持できてはいない。ただ
その後も有名無実の地方の中央集権制ができていたとも取れる。

1728: 名無しさんAA:18/11/29 13:16
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   759  > 

 渋江は肥前長島荘の橘一族の惣領家(そうりょうけ)であり、渋江を名乗るのは、橘
公業の孫、即ち、長島橘氏の第3代、「公村(キミムラ)」からで、二代あとの公経が
足利尊氏に属していることからみれば鎌倉後期のことと考えられる。一方、河内の牛島
で年代が明らかなのは嫡家の俊正(俊政)が天文十九年(1550)、「嶽村に於て」菊池
義武を擁して大友勢と戦い討ち死にしている。そのことから、肥前渋江家で言えば、永
禄六年(1563)、有馬勢から塩見城を陥落されて、肥後山鹿へ落ちていく渋江公師と同
世代ということになる。渋江公村(キミムラ)から渋江公師(キミモロ)までは十二代
である。河内牛島では最も古いのは俊正より四代前の公友であるから、渋江と比較する
ために単純に差引けば差は8代もある。ということになる。また、河内の公友の時期は
、肥前の渋江公師(キミモロ)より四代の祖渋江公代(キミシロ)の時期にほぼ近いと
考えられる。牛島房童丸(ボウドウマル)が探題渋川満頼(ミツヨリ)を頼んで本家の
渋江氏と所領について争論しているのが応永十ニ年(1406)で、「小鹿島(オガシマ)
文書」に、その争いについて和解ができたのが書かれ、牛島公代(キミシロ)のころの
、「亨徳(キョウトク)四年(1455)」である事になる。(中村文書)・・・・これは町史
編纂の間違いで、渋江公代(キミシロ)の誤りとされる。牛島氏の分布を調べてみると
、福岡県、佐賀県、熊本県の順であった。この本では、渋江氏は肥前長島荘から肥後に
来たことは記してあるが、牛島氏がどうなったかは書いてない。八女牛嶋家が移って来
たのは田尻氏が、熊本玉名の山から下りて来て、鷹尾に住み着いた時だろう。橘氏の連
れて来た神官渋江氏の或いは子孫で、田尻氏・内田氏・牛嶋氏になった。と言う話であ
る。九ケ村の地は三名字居屋敷分として菊池氏以来佐々の時に至るまで検地せざるを以
て清正時代に至り、「三家(サンケ)共浪人となりて」、初めて検地せしに四千余石あ
りたりと実は隈部討伐はここに意味がある。肥前長島荘は武雄神社を中心として広がっ
た荘園であり、元は武雄神社によって開発されたとみられている。成立時期は不明であ
るものの、承安2年(1172年)には既に成立していたことを示す文献が確認できること
、中世を通じて同荘の荘園領主であった蓮華王院が長寛2年(1164年)創建であること
から、12世紀後半には既に成立したと推定されている。正応5年(1292年)の「河上宮
造営用途支配惣田数注文」によれば、1517丁の田地を有して肥前国内では神埼荘に次ぐ
数を示す大規模な荘園であった。ところが数年しか経ていない正安元年(1299年)には
蓮華王院と地頭橘薩摩氏との間で一部地域の下地中分が実施され、南北朝時代には不知
行の状態となった。それでも戦国時代末期まで長嶋は武雄の地名を果たしていた。

1729: 名無しさんAA:18/11/29 13:17
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   760  > 

 この蓮華王院(れんげおういん)は、蓮華王院本堂が「三十三間堂」と通称されてい
る。この三十三間堂は古代建築物の中で特殊なものである。天台宗妙法院の境外仏堂で
あり、同院が所有・管理している寺院の仏堂である事が一つだ。当時の白河上皇が自身
の離宮内に創建した仏堂で、本尊は千手観音で、蓮華王院は千手観音の別称「蓮華王」
に由来する。かつてこの時代には弘法大師の開いた高野山の真言宗が幅を利かした頃に
改宗が多く起きたが、この仏堂は変わらなかったのである。その分古代からのしきたり
や造りが残っている。この御堂が、東面に建てられ、南北にお堂内陣の柱間が33もあ
るという建築的な特徴により三十三間堂と呼称される。「三十三」という数は観音菩薩
の変化身三十三身にもとづく数を表していると言う。つまり人の性格を33に分けたの
が、経文に残るのである。平安後期に、約30年間、院政を行った後白河上皇が、自身の
職住兼備の「法住寺殿・ほうじゅうじどの」と呼ぶ院御所内に、権勢を誇った平清盛の
資財協力によって創建した。と言われる。ところが、そのお堂自体は建長元年(1249)
、市中火災の大火によって焼失し、鎌倉期・文永3年(1266)に又再建されたのが現存
のものとされる。朱塗りの外装で、堂内は、花や雲文様の極彩色で飾られたといい、今
もわずかにその名残を停めています。地上16m、奥行き22m、南北120mの当時
では巨大で、長大なお堂は、和様、入母屋造り本瓦葺きで、手前からはるか彼方へ一点
透視的に漸減する眺めは、胸のすく壮快さを持つものだ。このお堂の建てられた平安期
には、都には見上げるような大建築が数多くあった。しかしその多くは、地震や火災の
ために、短期間で姿を消している。この反省から、この造営の工人たちは様々な工夫を
凝らし知恵を絞った。まず基礎地盤には、砂と粘土を層状に堆積して地震時の地下震動
を吸収する「版築(はんちく)」の技法を用い、堂内の屋台骨は、柱間を、2本の梁で
つなぐ「二重虹梁(にじゅうこうりょう)」を用いた。外屋の上部も内・外柱に二重の
梁をかけて堅固さを増加し、加えて、構架材の柱や長押、梁は「揺れ」を予測した組み
方を編み出した。土壁面積を極力小さくした上で、溝を切った柱に板壁として横板を落
し込む「羽目板(はめいた)造り」とするなど、お堂は、波に揺れて、浮ぶ筏のように
「揺れ動く」建築としての、今の流行りの免震工法が日本で最初に施こされたのです。
この工法はなかなか気づかないが、秀吉の頃の伏見大地震でもこの家屋のみが無傷であ
ったとされ、その後に石垣や城造りに繁栄されている。つまり石垣下にも3m程の積層
がありずれを吸収する地盤を作ったのである。又堅い物は嵌め殺しで枠に入れて強度を
もち決して一緒にしなかったこれが泥壁竹組を溝内工法に変えた。

1730: 名無しさんAA:18/11/29 13:17
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   761  > 

 三十三間堂の軒の中ほどに、矢を射る競技大会が行われていた。毎年1月に、的矢(
まとや)の弓道の全国大会が行われていますが、この競技の元になっているのが「通し
矢」である。「通し矢」とは、本堂西側の軒下、幅2.5m、高さ5.5m、の中長さ120m
の空間を矢を射通す競技で、種目としては4種類あった。その中でも「大矢数(おおや
かず)」と呼ばれた種目では、なんと暮六つ(午後6時)から一昼夜(24時間)に凡そ
、1万本もの矢を射続け、的に当てた数を競うという、豪快かつ壮絶な競技があった。
「通し矢」は江戸期には盛んに行われ、諸藩が相撲以上に名誉をかけて競い合った。特
に弓矢を得意とした紀州藩と尾州藩は名勝負を繰り広げた。藩の威信を賭けた対決だっ
た為、勝負に切腹を掛けて挑んだ藩もあった。当時、まさに命を賭けた壮絶な競技だっ
たのです。一人が一日中立ち、壮絶な通し矢には記録が残されている。三十三間堂に残
る「矢数帳(やかずちょう)」には、行われた競技の記録(総矢数や命中の数)が記さ
れている。それによると、紀州藩士の和佐範遠(わさのりとお)という人物が、総矢数
13,053本、通し矢(命中)8,133本という大記録を打ち立てています。この矢数を時間
で考えると、1時間に544本、1分間に約9本、6秒に1本の間隔で弓を射っていたこと
になる程の体力だ。1日中ぶっ通しで、120メートルも離れた直径1メートルほどの小さ
な的に、6割以上の確率で矢を命中させたわけですから、和佐範遠の技術と体力、精神
力はまさに超人的である。因みに、この記録が作られたのは、範遠が18歳の頃だった
そうだ。恐るべし古代の武士道といったところか。実は千手観音像たちの前には、横に
ずらりと二十八部衆(にじゅうはちぶしゅう)と呼ばれる仏像が並んでいる。この前部
にいる二十八部衆は千手観音の眷属(けんぞく:使者)であり武士を示している。その
中には、仏法を守る「阿修羅王(あしゅらおう)」や「帝釈天(たいしゃくてん)」、
七福神で知られる「毘沙門天(びしゃもんてん)」など、よく知られている有名な神様
もいる。そして、その左右両端には、国宝の風神像と雷神像が安置されています。風神
、雷神と言えば、俵屋宗達が描いた『風神雷神図屏風』が有名ですが、そのモデルとさ
れるのが、この風神像と雷神像なのである。風袋を持った風神像、太鼓を持った雷神像
の姿を間近で見ると、迫力がありますが、それがこの像が作った創作者の意思だったの
だろう。古代人の意識の一種の大らかな自然を見るユーモラスさが感じられる。古代の
人も袋から風が出て稲光(いなびかり)の音が太鼓とは心から思っては居なかったろう
にそう表現したのだ。さすがに現代の様な光の工夫は出来ないので衣を見立てたのだろ
う。

1731: 名無しさんAA:18/11/29 13:18
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   762  > 
 千葉氏は平良文の後裔で、いわゆる桓武平氏である。良文の曾孫常将がはじめて千葉
介を称し、以後、代々の惣領は千葉介を称することが慣習となった。鎌倉中期の千葉介
頼胤のとき蒙古と日本との間で緊張関係が生じ、幕府は蒙古の来襲に備えるため、九州
に領地を持つ御家人の九州下向を命じた。千葉頼胤も肥前国小城郡周辺に所領を持って
いた形だった為九州に下向した。その後「文永の役」に出陣し、蒙古軍の毒矢をうけて
九州で戦死してしまった。父の死後、子の宗胤は氏神である千葉妙見社において家督を
継承するが間もなく、千葉新介のまま九州へ下向し、肥前国小城郡晴気城に駐屯した。
弘安四年(1281)六月、再び蒙古は大軍をもって博多湾岸に来襲し、文永の役のときと
同じく、時ならぬ台風によって蒙古軍は壊滅した。その後、幕府は博多湾の警備の為に
関東御家人達の帰郷を認めず、宗胤は大隅守護職に任じられ、下総国に帰る事ができな
くなってしまった。一方、下総では宗胤の弟胤宗が、一族・家臣たちから擁立される形
で千葉介に就任した。こうして、千葉氏は下総と九州とに二分され、胤宗の後下総千葉
氏となり、宗胤の子孫は肥前国小城郡晴気庄に定住して九州千葉氏の祖となった。以後
、九州千葉氏は肥前の豪族たちを被官化し勢力を伸ばし、室町期には少弐氏と並ぶ肥前
最大の豪族に成長した。建武二年(1335)、鎌倉にあった足利尊氏が新政に反旗を翻し
て、京都に攻め上った。しかし、翌年一月、北畠顕家・楠木正成らとの戦いに敗れた為
尊氏は京都を放棄、翌二月には追撃してきた楠木正成・新田義貞の軍と摂津打出、豊島
河原で戦って再び敗れ、九州へと落ちていった。この軍中に、千葉胤貞、相馬親胤らが
従軍している。九州に下った尊氏のもとには大友・少弐氏らが参陣し、九州宮方のほう
に菊池武敏・阿蘇惟直らが多々良浜において戦った。このとき、菊池氏ら九州宮方は、
圧倒的な人数を揃え、尊氏はとても勝ち目がないと自刃しようとした。しかし、少弐氏
らの騙し打ちで、結果は尊氏方の勝利に帰し、軍を立て直した足利尊氏はふたたび京都
をめざして西上した。そして、楠木正成を湊川に破り、新田義貞を打ち破って、京都を
制圧すると足利幕府を樹立したのである。尊氏軍に敗れた後醍醐天皇は吉野に走られ、
以後、半世紀にわたる南北朝の動乱が続くことになった。この時少弐が用いた、偽計の
奸計は余りにも国体を無視した謀であった為に、九州は2分した騒乱時代を迎えたので
ある。それには太宰部内の官使の中にも下剋上が起きた事であった。これには日宋貿易
が出来なかった大友氏の策略があった。この頃はまだまだ大内氏が関門海峡を支配して
門司や下関で船便の税収の権限を持っていたのである。少弐氏はその太宰大内氏の排除
をそそのかされたのであった。つまり大宰府から高麗政府の下部機関である安東護府に
宛てた返書は欺く贋物であり、こうした偽の文書が大宰府で横行していた。と言える。

1732: 名無しさんAA:18/11/29 13:39 ID:AHg
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   763  > 
 実は馬鹿げた事に、福岡の出先の文部省は、酒見城遺跡であった風浪宮社の社殿を、
昭和の時代に簡単に壊してしまい、文化遺産を残していない。全く良く調べもせずに壊
してしまっている。京都の仏閣よりは貴重な特殊な「アジモ組み」の3層天井を簡単に
重機で壊して、全くこの建設会社も平然としているのである。日本政府は文化遺跡にも
う少し考えるべきである。無駄な金や悪になる開発が多すぎるのだ。何故この大川にこ
の千葉宗胤の子孫の名があったのかは今だ不明だが、この三十三間堂の軒の進化した造
りからは、船大工集団がここに技を寄せたとしか思えない程だった。特に屋根には通常
とは違って竹組に泥を載せ石灰で表装し更に竹組をして3層を施すのは全国的に珍しい
し、今の塀にしている屋根の下地も板の縦置き2段と言う奇妙な組み方であり、耐震の
強化としか言えない。このやり方が九州では全く地震が少なく作る必要のない工法であ
る。中世の動乱は九州でいち早く起こっていて、九州千葉氏は胤貞のあと、胤泰、胤基
と続いて、胤鎮時代に、小城・佐賀・杵島の三郡を領する肥前の覇者として有力者とな
った。ところが永享九年(1437)、重臣の中村胤宣(公廉)が大内氏に通じ、胤鎮の弟
胤紹を奉じて謀叛を起こし、窮した胤鎮は出奔して没落した。この事件は『鎮西要略』
に「千葉家の家宰中村左衛門五郎、逆心を発し中国の大内氏と通じて千葉胤鎮を廃し云
々」と記されている。胤紹が大内氏の庇護のもとで千葉氏の当主となり、胤紹は胤宣を
小城・佐賀・杵島三郡の郡代に任じた。一躍、千葉家中の実力者となった胤宣は、藤津
の大村氏を籠絡して、大村氏領の大草野村北方の地を搾取するなど、権勢をほしいまま
にした。『九州治乱記』では、幕府は胤紹を千葉氏の嫡流として小城郡を賜い、胤宣も
御家人に列したとある。又、親の胤宣に大内持世と談合して忠節を致すべきを命じて、
出奔した胤鎮を捜索して沙汰すべきを命じている。この胤宣の専横を快く思わない胤鎮
の旧臣らは、文安二年(1445)、兄の胤鎮を擁して胤紹・胤宣追放の兵を挙げた。両軍
は各地で戦いを繰り返したが、胤鎮方の勝利となり、敗れた胤紹・胤宣は国府に退却し
、ともに戦死を遂げる。かくして千葉氏の家督に復活した胤鎮は、小城牛頭山に城を築
いて本拠とし、享徳のころ(1452〜54)には、肥前国主と呼ばれる存在となった。そし
て、小城を国府といい、これまでの国府は府中と称して区別させた。胤鎮は康正元年(
1455)に死去し、嫡子の元胤が家督を継承した。元胤の家宰は中村播磨守であったと『
鎮西要略』にみえ、播磨守はさきに戦死した胤宣の子播磨守公頼に比定されている。中
村氏の復活としては早すぎるようだが、何か千葉氏と中村氏との間には伺い知れない紐
帯があったのかも知れない。千葉氏は元胤の時代が全盛期で、杵島郡、小城郡、佐賀郡
を支配して小城城下はおおいに賑わったと伝えられている。

1733: 名無しさんAA:18/11/30 16:58
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   764  > 

 寛正五年(1464)元胤が早世すると、千葉氏にも暗い蔭が生じ、抗争につぐ抗争が起
こる。元胤のあとは教胤(弟ともいう)が継いだが、十四歳の少年であり、中村越前守
が教胤を補弼した。他方、胤鎮に討たれた胤紹の子胤朝は、若い教胤が千葉氏を継いだ
のをみると、これにとって代わらんとして大内政弘を恃んで九州探題渋川教直に通じた
。これに、与賀・川副を領する今川胤秋が加担した。翌六年教胤の家宰中村胤頼が佐嘉
郡新庄にあった今川館を攻撃、胤秋らはこれを迎え撃ち、激戦の末に双方とも兵を引い
た。翌文正元年(1466)、千葉教胤はふたたび胤秋を攻撃、対する今川勢は探題渋川氏
と結んで、応仁元年(1467)小城に進攻した。これを迎え撃った教胤は探題・今川連合
軍を撃破、今川胤秋、胤弘の兄弟は戦死し、与賀・川副は千葉氏が収めた。その後文明
二年(1470)、胤秋の子義秋が勢力回復を狙って挙兵したが、千葉勢の前に敗れて以来
九州今川氏の嫡流は断絶した。今川氏の手勢は以降深川と名乗った。千葉氏と今川氏が
戦った応仁元年、京都では「応仁の乱」が勃発し、世の中は戦国乱世へと推移していく
。乱の余波は九州全域におよび、大内氏と少弐氏とが筑前で戦いを展開し、少弐氏の当
主教頼が討死した。文明元年、千葉教胤は西郷氏や大村家親を討たんとして藤津郡に出
陣したが、おりからの悪天候によって乗船が転覆して水死を遂げてしまった。その結果
、胤朝が迎えられて千葉氏の家督を取った。ところが、重臣の中村胤明と岩部常楽とが
反目するようになって治められず、ついに胤明は常楽のことを胤朝に讒言、これを信じ
た胤朝は常楽を討とうとしたが、この事態を察した常楽は、僧籍にあった胤朝の弟胤将
を擁立し、少弐教尚を恃み一揆を起こしたのである。一揆は中村胤明を討って出て、小
城城下に入り放火した。このため在家寺院ことごとく焼亡した。しかし、胤朝を屈服さ
せることはできず、ついに将軍の旨が下り、胤朝と胤将兄弟の間に和議が成ったのだ。
ところが、それから十六年後の文明十八年(1486)、胤将が胤朝を襲って殺害した。こ
れをきいた少弐政資は、胤将を討ち取ろうとしたが、将胤は出奔し千葉氏は断絶に直面
した。そこで、政資は胤朝の女に弟を配して千葉氏を相続させ、胤資と名乗らせて晴気
城主とした。ここに、胤朝の弟胤盛の子胤棟(興常)がいた。胤棟は大内氏を頼って育
ち本家に敵対心をいだき、延徳三年(1491)、大内政弘の支援をえて胤資と戦った。そ
して、牛頭山城に拠って東千葉(祗園千葉とも)を称した。こうして、以後、晴気の本
家を西千葉とよび、千葉氏は東西の両千葉家に分かれたのである。


1734: 名無しさんAA:18/11/30 16:59
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   765  > 

 この東与賀の乱は「九州治乱記」によれば、千葉胤紹は中国地方から北九州を勢力下
におさめる太守・大内教弘に属して惣領・千葉介胤鎮と戦い、12月27日、小城郡下
隈の戦いで胤鎮を破って幕府から千葉家惣領と正式に認められ、小城郡が安堵されたも
のの、文安2(1445)年、胤鎮の旧臣の岩部氏・仁戸田氏と挙兵したが、川上村西
山田(佐賀市大和町)の戦いで胤紹に大敗し、8月長男の政胤とともに国府城(佐賀市
大和町尼寺)で殺害された事による。こうして胤鎮が再度惣領となり、小城の北・牛頭
山(祇園山)に新城を築いて本城としたがしこりが残ったままだった。佐嘉郡新庄の今
川伊予守胤秋が探題・渋川教直と組んで小城郡侵攻を企てているとの流言が流れ、寛正
6(1465)年5月、教胤家宰・中村胤頼は千葉家由縁の諸氏に触れ回って、「小城
には岩部播磨守常楽、岩部備中守、中村弾正少弼胤明、仁戸田阿波守胤範、同左馬助、
中村伯耆守、平田将監、山鹿主税助、堀江和泉守、同助三郎、同伊豆守、同常陸介を初
めとして、南里、古川、江口、東郷、粟飯原以下、佐嘉には高木、渋谷、神代等」が、
参戦し、都合二千騎あまりで新庄の今川館を攻撃した。としている。胤秋は、中村弾正
少弼胤明を離反させ、千葉勢を河上まで押し戻しす事に成功したが。翌24日には逆に
中村勢へ攻めかかり、千葉勢の大将の一人、中村越前守を討ち取ると、「子息中村弥六
郎妙胤を初め、同名伯耆守、武雄加賀守、同大蔵丞、堀江伊豆守、同名常陸介、同彦太
郎、同三郎、同三郎、同森太郎、馬郡対馬守、同大膳亮以下」を討ち取った。とされる
しかし近習の味方である今川家側も「今河摂津守、同相模守、同近江守、其外究竟の輩
十四人」が討たれてしまい、日暮れと同時に両軍は陣に戻った。その後、千葉方では、
中村胤頼弟・仁戸田中務少輔と、円城寺淡路守、山口肥前守、石井越後守らが相談して
今川方と和平を整えることとし、互いに兵を引くこととなる。と書いている。しかし、
両者の遺恨は晴れず、早くも翌正元(1466)年には河上で千葉・今川勢が合戦を始
める。さらに翌応仁元(1467)年6月20日、胤秋は探題・渋川教直と結んで小城
郡に攻め込み各地に放火した。しかし、教胤はすぐさま反撃に転じ、翌21日には今川
勢を追い詰め、胤秋を初めとして弟・今川右衛門大夫、今川次郎大夫、江頭摂津守、江
頭又太郎、楢富筑前守、高柳周防守以下の諸将が乱戦の中で討死を遂げた。探題・渋川
教直の加勢も散々に打ち破られ、小城郡から撤退。教胤は今川領(かつて千葉家の依頼
により探題領から今川家に宛がわれた知行)の佐嘉郡与賀庄・川副庄を併合した。こう
して教胤の勢力はますます強大になり、頼みの探題も小城から撤退してしまった。その
為胤朝が兵を挙げる隙はなくなってしまう。

1735: 名無しさんAA:18/11/30 16:59
 こうして朝廷からの千葉勢を敗退させたものの、ところが、文明元(1469)年6
月、教胤が大村日向守家親との戦いで討死を遂げると、執権の中村胤明・岩部常楽の要
請を受けて胤朝は念願の千葉惣領家の座につき「国府」小城に入ったのだった。なお、
この「国府」とは千葉家の本拠地・小城のこととある。つまりここで武雄は旧国府とし
て残っていたが力が無かったのだ。7月なってから、岩部常楽は佐嘉郡統治のため、本
当の「国府」のあった府中尼寺館の武雄方面へやっと移っている。そんなころに、大内
政弘が上洛して留守の間に、大内勢によって対馬へ放逐されていた少弐頼忠(のち政尚
、政資)が旧領奪還の活動をはじめたのである。文明元(1469)年正月、対馬島主
・宗刑部大輔貞国は将軍義政に様々に請いて賄賂が効いて、少弐頼忠に「本府へ帰り入
るべき旨、安堵の御教書」を手に入る事になった。そして7月、「対馬島主宗貞国挙兵
、奉教頼之子頼忠而往、沿路諸酋護送助之、遂至宰府悉復旧境」(『海東諸国記』)と
あるように、少弐頼忠は宗貞国の支援のもと、渡海して筑前国に入り、大内勢を追い払
って太宰府を奪還した。その後に「頼忠既至宰府、令貞国守博多、貞国身留愁未要時、
遣麾下守博多」と、交易の中心であった博多防衛のためと貞国の麾下を派遣させる事を
宣言し触れ回って占領している。一方、千葉家では岩部常楽を妬んで、中村胤明が常楽
を讒言し、胤朝はこれを信じて、常楽の追討を計画する。しかし身に覚えのない常楽は
起請文を出して謝罪し、無実を訴えるが胤朝は信じず、常楽はやむなくこの太宰府の、
少弐頼忠に仲介を頼んだ。これを承諾した頼忠は胤朝を取りなしたため、その場は収ま
った。ところが、胤朝は9月9日、岩部常楽の誅殺を図り、密かに仁戸田近江守の手勢
を府中尼寺館に向かわせた。尼寺館に着いた仁戸田近江守は兵士に鬨の声を揚げさせた
が、ちょうどこのとき日ごろから常楽の善政を慕っていた領民たちが重陽を祝って盛大
な酒盛りを行っており、仁戸田勢の鬨の声を聞いた領民たちは「爰こそ岩部殿の厚恩を
報ずる所よ」と、一万余人がいっせいに咆哮。山河にこだました。これに仁戸田近江守
は大軍勢が集結していると勘違いし、「思ひしに相違」して驚き慌て、一戦もすること
なく小城へと逃げ落ちた。と言う。これに怒った常楽は少弐政尚に胤朝追討を要請する
が、政尚は許さず、常楽はやむなく尼寺館から逐電した。となっている。文明2(14
70)年当時の九州北部は、大内政弘が西軍の主力として上洛中であり、東軍に属する
大友親繁や少弐政尚の勢力が優勢であった。そこへ大内政弘の叔父・大内南栄道頓が、
にわかに東軍に属して挙兵した。2月4日、将軍義政は大友親繁らに対して道頓と協力
して大内政弘を追討するよう命じている(『将軍家御教書』)。明らかな無理強いに、
一応は中村少弐氏側も岩部常楽に対して兵を上げた振りをして大内氏の少弐頼忠をなだ
めたのではなかったのか。と推測する。

1736: 名無しさんAA:18/11/30 17:00
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   767  > 

 江頭氏はもともと滋賀県の近江の士族の一族でつまり農民や商人じゃなく、りっぱな
武士の一族だった。もともと室町時代に時の大名である今川氏に仕えていたが、今川氏
が佐賀県(肥前)に移住したことにより、江頭氏一族も一緒に佐賀県に移住した。佐賀
市鍋島町には「江頭城跡」という場所がある。この城は戦国時代に今川伊予守胤秋に仕
えた家臣「江頭摂津守」という武将が建築したもの。実は、この江頭氏が牛頭観音を、
祀っていた事から牛津の名が生まれた程だ。大川に多い江頭氏は江頭摂津守の一族が先
祖様であることは多い。又、応仁元年(1467)に千葉教胤との戦で、大将今川胤秋と共
に家人江頭摂津守も討ち死にした為、大川まで逃れて来たと言われる。現在には鍋島に
江頭城は跡かたもなくなっていて、一部は住宅地になっている。大将とともに討ち死に
した武将である。実は江頭と言う姓は、エタ頭→えがしら→穢太・卑民の頭、つまり民
衆のリーダー的存在が「江頭」になった、という説も存在する。が、「江頭」姓の発祥
は近江(滋賀県)の野洲郡北里村(現・近江八幡市)で、現在も近江八幡市内に江頭町
がある、古代は「ゑかしら」と平仮名で書かれていた。現在の江頭町は琵琶湖畔から約
3キロほど離れていますが、古くはこの辺りまで入り江があり、その先(頭)にあった
ことから「江(ゑ:入り江)の頭(かしら:先。突き出たところ)」を指し、そういう
ことで「ゑかしら(→江頭)」という地名になって、そこに住んでいた住民と言う事に
なる。いずれにしろ古い姓だ。ここを出発した江頭氏が、おそらく室町時代頃、今川氏
の家臣となり、今川氏の肥前(佐賀県)への移動に従って肥前に来て佐嘉郡新庄郷に定
住し、土着した今川胤秋の家臣である江頭摂津守が八戸溝村(佐賀市鍋島町大字八戸溝
、江頭公民館裏手)に江頭城を築いた。そうして佐賀郡に於ける江頭氏繁栄の基礎を確
立した。その後、江頭氏の一部は戦国期には竜造寺氏、江戸期には鍋島氏の家臣を務め
ている。佐賀江頭村は、江戸期の村名佐賀郡のうち佐賀平野中央部,多布施【たふせ】
川と天祐川の分流点西岸に位置する佐賀本藩領新庄郷に属す村だ。「宝暦郷村帳」では
小村に西八田村・巫【なぎ】町村があり、「天明郷村帳」では小村に西八田・薙町・大
渡・荒巻がある当村西部には今川胤秋の家臣江頭摂津守の居城跡がある江頭城は応仁元
年胤秋と摂津守江頭又太郎が小城【おぎ】境において千葉教胤との戦いで戦死したのち
、竜造寺氏の手に帰したという(鍋島村誌)江頭水天宮には天文4年作の地蔵がある「
明治7年取調帳」「郷村区別帳」ではともに八戸溝(やえみぞ)村の枝村に見える。


1737: 名無しさんAA:18/11/30 17:01
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   768  > 
 ここの佐賀平野は、海の水も川の水も入り込んだ一大穀倉地帯だったのだろう。つま
り大平原の中国の華中に似ていたと言える。華中ではこんな詩(うた)も読んでいる。
「江湖間唯畏大風度。冬月風作有漸、船行可以為備;唯盛夏風起於顧盻間、往往罹難。
曾聞江國賈人有一術、可免此患。大凡夏月風景、須作於午後。欲行船者、五鼓初起、視
星月明潔、四際至地、皆無雲氣、便可行;至於巳時即止。如此、無復與暴風遇矣。國子
博士李元規雲:「平生遊江湖、未嘗遇風、用此術。」と中国ジャンク船を詩っている。
〔訳〕 江湖の間〔華中の水郷地帯〕では大風を専らおそれる。冬の風は前触れがある
ので、船で行く際にも、用意をする間もあるが、盛夏の風はあっという間に起こるので
、遭難することが多い。しかし水郷付近の商人は、うまい方法を心得ていて、この災難
を免れることができるという。それは、だいたい夏の風というものは午後に起こるもの
だから、船旅をする者は、五鼓〔午前4時〕に、起きて、星や月がすっきりと四方の地
平線まで見えて一点の雲も無いとなると、その頃に出発することにし、巳の刻〔午前十
時前後〕には船をとめる。このようにすれば暴風に遭遇することは無いのである。国子
博士の李元規も、「平生江湖に遊んでおるが、いまだかつて風に遇ったことはない。こ
の方法を用いているから」といっている。これは揚子江流域の中国人の旅の心得であっ
たようで、いまでも四川の村々の小さな宿屋の紙燈篭には、「未晩先投宿(日のくれぬ
うちにとまり)、鶏鳴早看天(とりなくこえにそらをみよ)」という追聯が書いてある
という。実はこの詩は末吉船にも書いてあった様で、佐賀や筑後の川も有明海も同じに
航行した様である。つまり航行の掟でもあったようだ。又 こういう事も書いている。
「關中無蟹。元豐中、余在陜西、聞秦州人家收得一乾蟹。土人怖其形、以為怪物。人家
有病虐者、則借去掛門上、往往遂差。不但人不識、鬼亦不識也。」と不思議な事を書く
〔訳〕関中〔陝西省〕にはカニがいない。元豊年間〔宋、神宗の年号。1078〜85年〕に
、わたしは陝西にいたが、こういうことを聞いた。秦州〔甘粛省天水県〕の民家では乾
したカニを手に入れると、土地の者たちがその形をおそれて怪物だと思い込み、瘧(お
こり)を病む者が出たいえではみなこれを借りていって門のとの上に掛けて厄払いをす
る者が多いと。人が知らないだけでなく、病鬼もまたこれを知らないというわけだ。と
書いている。おそらくこれは、蟹は蟹でもカブトガニの事であろう。通常の蟹に比べて
大きく恐ろしく、そして黒ずんでいただろう。最近はめっきり少なくなったが、この異
様な蟹を食べる事は人は最初はしなかった。名前の通りに戦いの時の甲冑として弓をは
じく為に乾燥させ着用したと言われている。このカブトガニの取れる所は限られていて
そうしたところは、以外にも山が豊かで湧き水がきれいな所とされる。

1738: 名無しさんAA:18/11/30 19:37
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   769  > 

 「寛文十年久留米藩社方開基」の四郎村、「坂本大明神、再興」の記事(現代語訳)
で、永禄6年(1563)に氏子百姓「鷲頭大和」が再興した。永禄6年は宣教師ルイス・
フロイスが来日し、織田信長が京都御所で天覧相撲を企画した年だ。この年から葛山氏
元(かつらやまうじもと)が海に出る事を勧め、獅子浜でイルカ漁を奨励し、イルカ漁や
鯨漁をすることを言って、外国船や黒船の見張りを説いた。その後天正13年「立花左
近」様の家臣「十時摂津守」殿が再興したと言い伝えられている。鷲頭(わしがしら)
氏「鷲頭大和(わしがしらやまと)」は何者か。百姓と書いてありますが、永禄6年に
、このような名前を持った百姓などいた筈はない。国侍であることは容易に察せられる
。当時は「鷲頭大和守」と名乗っていた。江戸期に開発された「青木島村」の開村記録
には開発住民として四郎丸村住人、「江島四郎左衛門(藤原正喜)」と共に四郎丸村の
百姓「鷲頭右京」という人物が出てくる。おそらく鷲頭大和守の数代後の子孫かと思わ
れる。鷲頭氏は大内盛房の三男である盛保が周防国都濃郡鷲頭庄(現・山口県下松市の
切戸川流域)を領地として鷲頭氏を称したことから始まる氏族だ。鎌倉期には周防守護
を務めた名門で、かつては大内宗家としばしば勢力争いをするほどの権勢を持った事も
あった。後に大内宗家に従い、室町期には長門国深川(ふかわ:山口県長門市)に代官
として派遣されますが、大内宗家との戦に敗れ衰退していきました。鷲頭庄は瀬戸内海
(周防灘)に近く、また長門国深川は日本海に面した土地で、周防守護を務めたほどだ
つまり、水軍の指揮や船戦(ふないくさ)に長けた氏族で、土木の才もあったと推察さ
れるこの鷲頭氏や江島氏が、何故か海を捨てて、陸に上がったのである。多分に賊船で
あった一般の漁師や交易船などの通行料金の取りたてをやっていたであろうこの人々が
急に陸に上がったのには、この持ち場の特性に何か関係があるように思われます。鷲頭
氏は大内宗家との戦いに敗れてからは各地へ分散しますが、そのうちの一派が筑後江島
氏に仕えたと推察できる。江島氏も一時期龍造寺氏配下で成富茂安について出陣し柳川
を攻めている。この頃には、島原や五島列島或いは天草や長崎の者も大勢一挙に 陸に
上がって来た。この頃あったのが毛利と大友の海峡戦争であった。毛利の水軍は、大内
氏を下関に攻め立てたが、関門海峡を取った後は大友氏から依頼されたスペイン船が、
大砲を3発撃って門司城下航行している。又毛利が大友氏を攻めた時に、大友の城から
は何発もの国崩しと言う大砲が撃たれて毛利氏の水軍は引っ込んでしまった。

1739: 名無しさんAA:18/11/30 19:38
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   770  > 

1559年。北九州勢力の独立支援を大義名分に抱えた毛利家と、北九州の統治を狙う大友
家の戦いが開幕します。毛利家は先手必勝とばかりに最前線・関門海峡に築かれた城で
ある門司城を占拠。毛利元就との密約により毛利家は九州には攻めてこないだろうと思
っていた大友宗麟は完全に出鼻をくじかれている。大内氏からの連絡が遅かったのであ
る。すぐさま大友宗麟も大軍を率いて自ら軍を指揮し、門司城奪還へと向かいます。が
したたかな毛利は罠をはり周防灘で待っていたのは毛利の勇将達を率いる毛利家三本の
矢の一矢、小早川隆景。皿に毛利家自慢の村上水軍とその呼びかけに応じた各地の水軍
であった。これらの攻勢により敗退。門司城の奪還は失敗に終わり、大友軍は退却に追
い込まれる。その上追いうちをかけるように小早川隆景は水軍を率いて大友家の退却路
に先回りして襲撃し、この戦いで大友軍は思わぬ大被害を受ける羽目になりました。こ
の「門司合戦」では、毛利はゆうゆうと軍を進め各地の城を落として行った。と言われ
ている。しかし水軍船との両面作戦で沿岸の城を落とすのが関の山と見られていた。が
日を追う毎に、それは内陸に押し寄せた。毛利が文を送ったのは残った菊池や新参の龍
造寺や島津、更にキリスタンを嫌う長崎の諸将と四国の将である。こうして囲まれてし
まったが、ここに豊後の虎がいた。猛者の三将と言われた、高橋紹運や戸次道雪更に、
蒲池治久である。蒲池氏はあまり知られていないが、広く縁戚を持った坂東武者の九州
下向でいち早く菊池氏と共に生きた士族である。嵯峨源氏の源久直(蒲池久直)を直系
とし、久直は、平安時代後期の平清盛の全盛時代の仁安3年(1168年)には九州の肥前
国の天皇家直轄荘園の神埼荘(鳥羽院領神埼荘)に荘官(荘司)として下向している。
つまり諸将の頭として従五位下の貴族の位を保持した嵯峨源氏の源満末の孫として信望
が厚かったのだ。だから彼の動向には大友と言えども気を使った。当時の陣容も、蒲池
義久嫡子は繁久時代には、次男の大隈は今村氏(今村大隅の子孫は江崎家、内田家が残
る)を、三男の家久(鎮貞)は犬塚氏、四男の泰秀(久種)は酒見氏、五男の親房は城島氏
を名乗ってそれぞれ在地豪族の名跡を継いでいた。更に遠祖の蒲池氏の信任を受け、蒲
池繁久自身は大友氏の意向で、蒲池治久の時代の時に蒲池氏を兄・蒲池鑑久と弟・蒲池
親広の二家に分割し、同格大名分と分け、蒲池氏は柳川の蒲池鑑久の嫡流(下蒲池・家
紋:左三巴)と山下の蒲池親広の分流(上蒲池・家紋:下り藤)に競わせたが、失敗し
逆に家臣が大内氏になびき大友氏勢同志で戦う羽目になる。


1740: 名無しさんAA:18/11/30 19:39
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   771  > 

 もともと周防国を中心に大内氏は筑前守護も兼ねていた。その為筑後国の溝口氏、川
崎氏、星野氏などが大内氏になびいたため大友義鑑は重臣の田北親貞を総大将とする軍
を派遣。筑後からは蒲池鑑久が大友軍の一翼として出陣し、大内氏の影響を一掃する。
しかし大内氏は重臣の陶興房を使って筑後への浸透を諦めず、西牟田氏、溝口氏、三池
氏、大津山氏が大内氏に呼応し、筑後の諸将は反大友方になるが、蒲池鑑久は田尻親種
、草野鑑安と共に少数派ながら大友方につき、蒲池城は反大友方により包囲された。筑
後の黒木氏や三池氏、肥後国の小代氏と連合し大友氏に反旗を翻した時、五条氏、星野
氏、草野氏、問註所氏と共に大友氏側として出陣し、久憲以来の勲功を立てるほどの力
があった。この蒲池城には、池末、成清、山口、富安、矢壁、大木、田尻、中山、本郷
、原、丸野、大谷、池上、高松、藤末、中村などの蒲池累代の家臣たちが守り抜き、反
大友勢を筑後から撃退した。こうして、大友氏が評価するようになり、繁久は、豊後・
筑後の守護の大友親繁から「繁」の字を、その嫡男蒲池親久は、親繁の子・大友政親か
ら「親」の字をそれぞれ下賜され程だ。その後大友氏歴代当主は、蒲池氏の当主に対し
て名前の一字を与えることを通例とするようになり、蒲池氏も大友氏幕下の筑後国領主
として存続して、信任も厚かったのでる。ところが彼は情にも熱かった為の龍造寺氏の
寄客をした田尻氏を諫める事はなく原・成清氏の伴天連の宗教も又認めている。つまり
かの氏はこの200年続く九州治乱時代をバカバカしく思っていたが、「武士は相身互
い。」の精神そのままに生きていたのである。志岐氏はこの時やって来た天草五人衆の
一人であった。坂本大明神がその後再興させた位ですから鷲頭大和は江島氏の重臣であ
り、姻戚関係もあって、名字は違っても親族の一人であったのかもしれません。原文で
「再興仕候」(さいこうしそうろう)「再興した」と言いきっており、伝聞した模様で
はない。伝聞の場合は「申伝候」(申し伝えそうろう)とはっきり言葉を使い分けてい
ます。この表現の違いは、再興した人物が江島姓の者でなかったからでしょう。柳川で
「柳川3年肥後3月肥前筑前お茶の子細々」と言われてほど鉄壁の城だったが、それで
も、毛利氏と龍造寺氏に攻めれた時の大内陶軍の決死の戦いには、花園城、白鳥城、吉
富城、木崎城などの支城は廃城に追い込まれた程のもので、大木氏西牟田氏などは八女
に逃げ込む程だった。と言われる。

1741: 名無しさんAA:18/11/30 19:41
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   772  > 

 神社と江島氏の関係を書きたくない久留米藩の意向が見てとれるが、これは単に徳川
草創期に久留米藩には宗教騒動が起こっていたからであろう。実は江上氏や江島氏成富
氏も、本来柳川の、蒲池氏の配下であった。しかし、家老の鍋島氏に水ケ江城などが盗
られた事で龍造寺氏に兵をつけて3回も戦いに送り出す事を、人の好い蒲池氏は行った
のである。この時送った兵が馬場氏や江上氏江島氏などの元少弐氏側の重臣で肥前の近
くの者達である百武氏も又本来久留米近くの侍だった。その後天正13年「立花左近」
様の家臣「十時摂津守」殿が再興した。という。筑後戦国史には欠かせないこの人物が
立花左近である。立花左近とは柳川藩初代藩主「立花宗茂」の直臣十時摂津守であり、
柳川藩重臣で家老の「十時摂津守連貞(とときつれさだ)」だとされる。隣藩の領主と
家老の名前を公式文書に乗せるのですから、久留米藩としても、如何に言い伝えと逃げ
を打っていても、事実と認めなければできないこと。しかし 天正13年(1585)はまだ
蒲池氏の時代で、立花宗茂はまだ柳川の領主になっておらず、十時連貞と江島氏や江島
村との接点があった可能性は少なく、京でもやっと豊臣秀吉が関白に下賜され秀吉が宣
下を下した頃だ。まず年号からして怪しい訳で謎が残る。羽柴秀吉は、天正13年(1585
年)7月に「関白」へ就任し、続いて翌天正14年(1586年)12月に太政大臣となり、こ
のときに「豊臣」の姓を受けて豊臣秀吉を名乗ることになりました。この3年前、天正
10年(1582年)に織田信長が明智光秀に討たれる本能寺の変が発生し、秀吉が光秀を
討つことで、まず織田家家臣としての自らの地位を引き上げ、以後対立した柴田勝家ら
を破って天下人となった。本能寺の変から「関白」に秀吉が就任までの期間はわずかに
3年程でした。しかも秀吉が官位を初めて得たのは、天正12年(1584年)10月に従五位
下左近衛権少将に叙位任官された時であるから、官位もなかった者が強さのみで天皇が
承認をした事になる。天正二年の正月には信長の残虐性が新たになった年だった。恒例
の祝賀に清州城で、三杯の大きな盃・外側には梅の模様が描かれ、内側に銀色の漆が施
されていた杯が出された。三杯の盃は柴田勝家・丹羽長秀・明智光秀の所に差し出され
、触れてみて何となく手触りが柔らかく、わずかながら生臭い臭いがした。最初に飲ん
だ勝家が、首をかしげながら訪ねると「これは奴らの髑髏で作らせた盃である。遠慮は
いらぬ、もっと飲め」といかにも楽し気に髑髏の盃を回させた。先の「越前一向宗掃討
」で、門徒衆の降伏を許さず「皆殺し」を実施し、この月半ばのわずか五日間だけで1
万2千余人を殺しし、他に降伏して捕らえた者、3〜4万人いたが彼らも手足を縛った
うえで、生きたまま焼き殺し、その中から高僧の骸の頭を盃に作ったものだった。

1742: 名無しさんAA:18/11/30 19:41
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   773  > 

 つまりこれは、そうした過酷な下剋上の時代の一場面に過ぎない事を物語っていた。
このことが後の、秀吉や家康の伴天連追放令、いわゆるキリスト教の禁教令に繋がった
ものだ。信長は宗教は別にキリスト教でも仏教でも構わなかった。彼の目的は天下布武
つまりこの織田信長以外の君臨者つまり治める国の他の王を許さない事にあった。それ
が領民の信仰でも税の帰依でも何でも構わない。兎も角は織田信長と言う新王をあがめ
奉り、いう事を聞け。というものだったのだ。従って家臣にも横柄であった。天正四年
、一月半ばに「安土城築城」の為に現場にきて満足そうに見上げる信長に、光秀の敗報
の知らせが入る。それを聞き「直ちに安土へくる様に伝えよ」と言ったと言われこの頃
から、横暴さは家康さえ目を背ける物があったと言う。信長は柴田勝家に対して「ひげ
くじら」羽柴秀吉の事を「はげざる」光秀の事を「きんかん頭」と言い出した。勝家や
秀吉は「信頼の証」と受け取っていたものの、光秀始め、多分に侮辱的な呼び名には、
常に不快感が漂っていた。「そうか、信長殿にとって、それがしはキンカン頭であるか
」光秀は、重臣達の前でそう呟いたと言われる。1576年、「石山本願寺攻めの為、兵の
過半を割って与力せよ」との信長の命が下る。丹波平定の最中に、一年半も天王寺砦へ
の攻撃をせざるを得なかった。この時黒井城攻略に失敗した光秀は悩み、主君・信長が
耳にすれば激怒し、もしかしたら丹波平定の任務を解かれるばかりか、近江・坂本の城
と領地も召し上げられてしまう。「惟任日向守」は滅びた九州の名族の事をさしていた
為、光秀は自分がいずれ、九州の果てにまで行かせて働かされる。という不安の中での
、光秀は京に呼び寄せられた。そして信長は「大和一国を采配せよ」と言うのである。
固辞した光秀は「筒井順慶」を勧めると、信長はその伝達と仕切りを命じ、光秀は直ち
に兵を率いて奈良に赴き、数日かけて大和の仕置きを終えると、その足で「天王寺砦」
へ帰るという過密なスケジュールをこなした。光秀49歳の時である。光秀の「天王寺砦
」では突如目眩と肩が抜ける様な疲れを感じ激しく倒れた。「先がよく見えない、手足
も言う事をきかぬ」と意識が朦朧となり、胸から腹にかけて絞る様な痛みが奔る。微熱
・悪寒・嘔吐が治まらず、行く先を当初の坂本城から京へ変え、曲直瀬道三の診断を受
ける。「明智殿のお体は凝り固まり、まるで石の様で御座います。このまま働き続けれ
ば、命を捨てる事になる、積年の疲労による全身的な虚脱、長期の安静が必要。」とい
う診断で京の吉田兼見邸で療養することになる。現代医学であれば「神経症」と診断で
きる。


1743: 名無しさんAA:18/11/30 19:42
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   774  > 

 織田軍団の強さは、抜きんでた日産のゴーンの様な非情な首切りの仕上がりにある。
「実力主義に徹し、適材適所の人事抜擢」を成形していた点で抜きんでていた。その反
面、無能と判断した家臣は容赦なく切り捨てていった。「本願寺攻略」を果さなかった
佐久間信盛親子などの、長年仕えた長老クラスでさえ、追放されたのである。10年以上
にも渡り、精一杯尽くしてきた光秀にとっては、自分のプライドを傷つけられた挙句、
領地召し上げなどと考えただけでも「お先真っ暗」になっていく想像が常に頭から離れ
ない状況にあればこそ「不安神経症」の進行=「本能寺の変」と突き進んでいった。「
仕事熱心・凝り性・徹底主義・几帳面・強い義務責任感・対人関係の悩み・居住環境の
変化・地位的状況の変化に競争。」全て明智光秀に当てはまるものと言えるのである。
不安神経症発病の症状が出ない筈はない。しかし「長期の安静」など、信長が認める訳
がない。信長は驚嘆すべきサゾでパワハラリスターだった。信濃国の反武田氏勢力が信
長のもとに集結した際、光秀は「骨を折った甲斐があった」と口に漏らした。しかし、
光秀は実際に戦った訳でも勢力結集の為に働いた訳でもなく、たんに信長のお共として
来て兵站を整えたに過ぎなかった。それをたまたま通りかかった信長が耳にしてしまっ
たのである。「このキンカン頭!お前が、いつどこで骨を折ったというか!」家康始め
諸将の面前で怒鳴りつけ、光秀の襟首を掴んで、今にも素手で殴りつけようとしたのだ
。家康らが慌てて止めに入った為、信長も掴んだ手を離したが何やらブツブツと言いな
がら立ち去ったという逸話がある。『祖父物語』に書き記されたものである。那波直治
は稲葉家を離れて光秀に士官した地侍いだった。怒った一鉄は信長にこの件を訴えた。
光秀は以前にも稲葉家から斎藤利三を士官させており、これで二人目だったがこの一鉄
の訴えを聞いた信長は、光秀に命じ直治を稲葉家に返還させ、斎藤利三には「自害」を
命じていた。しかしこの時は信長配下の猪子高就のとりなしで利三は助命され、光秀に
仕えていた。こうした事で信長は光秀に怒り、頭を二・三度叩いたとある。その時に頭
の薄い光秀は「付け髪」が落ちたという伝説すらある。フロイスに書かれている内容で
は、催し事(家康の饗応)の準備に、信長は密室において明智と語っていたが、元来、
逆上しやすく、自らの命令に対して反対(の意見)を言われる事に堪えられない性質で
あったので、人々が語るところ、彼(信長)の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返す
と、信長は立ち上がり、怒りを込め1度も2度も、明智を足蹴にしたという事である。


1744: 名無しさんAA:18/11/30 19:42
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   775  > 

 当時の文献では、天正十年の信長の振る舞いは病的な程にヒステリックである。物事
を裁量する際の独断と専攻、家臣達に対する短気とわがまま、光秀が「不安神経症」と
診断するならば、信長は「ヒステリー神経症」だったのだろう。これらには西洋丸薬な
どが体を蝕んでいたのかもしれない。ヒステリーは、症状が現れても苦しんでいる様子
がなく、むしろ病気になる事に無意識の満足を感じている様に見える面がある。とされ
る。特にヒステリーになりやすい性格は、虚栄心が強く、自己顕示的で他人の注意を引
きたがり、暗示性に富み、自己中心的・未熟・依存的で感情浅薄で気が変わりやすいと
いった症状が見られる。文献として、フロイスの『日本史』が当時の信長と光秀の関係
を、一番正確に記した物だと思われる。現代医学的説を考慮するとすれば、「不安神経
症」になった明智光秀の耳元で悪魔の様なささやきをしている斎藤利三の影がうっすら
と見えてくるの程である。「手柄の割りには、禄高がすくない」と稲葉家から出奔した
斎藤利三の弁である。ここに明智光秀の人柄と真面目さと信望を巧に操っていた感がぬ
ぐえない何かを見せる。「本能寺の変」とは「不安神経症とヒステリー神経症」を患っ
た二人の患者の争いだったのは事実だろう。問題はその裏に操っていた者らの姿である
。光秀は信長から「近江・丹波」を取り上げられ「岩見・出雲」に移される予定であっ
たという説がある。「岩見・出雲」は中央から遠く離れており、しかも半ば実力で支配
を命じられる有様であったという。この様な仕打ちを『左遷された』と光秀は思い込ん
だのは当然だろう。更に秀吉の時代になっても信長の野望であった九州平定・朝鮮征伐
を行っている。此の事には九州の武将や大名達は、大友氏以外は大反対であったはずだ
が最終的にはそれを行っている。つまり天下布武の武断政治をそのまま行われているの
だ。ここに宣教師たちの働きを見る事が出来る。アルメイダ街道では、その頃流行り病
であった天然痘を受けて命を長らえた子供が2千人ほどいたであろうと推定される。天
然痘ウイルスは病原体感染症の一つで日本では度々発生したが押さえられ撲滅した物だ
。疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)といい、一般に痘瘡の語が用いられた。疱瘡の
語は平安時代、痘瘡の語は室町時代、天然痘の語は1830年の大村藩の医師の文書が初出
である。非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生ずる。致死率が平均で約20%から50%
と高く。仮に治癒しても瘢痕(あばた)を残す。天然痘は世界で初めて撲滅に成功した
感染症であるが、日本では、恐らく古代から外国人が来訪し持って来るものだったろう



1745: 名無しさんAA:18/11/30 19:46
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   777  > 
 ヨーロッパからアメリカに入ったが、ことに天然痘の被害は最大のものでありアメリ
カ・インディアンは天然痘の免疫を持たなかったため全く抵抗力がなく、所によっては
死亡率が9割にも及び、全滅した部族もあった。天然痘は猛威を振るい、圧政や強制労
働、麻疹やチフスなど他の疫病も相まって、征服前の人口が推定2500万人だったのに対
し、16世紀末の人口はおよそ 100万人にまで減少し、中央アメリカの先住民社会は壊
滅的な打撃を受け一割以下の人口になっている。またインカ帝国においては侵攻を受け
る前に、すでにスペイン人の到達していたカリブ海沿岸地域から天然痘が侵入し、現在
のコロンビア南部において1527年ごろに大流行を起こした。この大流行によって当時の
インカでは、皇帝と皇太子がともに死去し、空位となった王位をめぐって二人の王子が
帝国を二分する内戦を起こした。この内戦はアタワルパの勝利に終わったもののインカ
の国力は疲弊し、スペインのピサロによる征服を許す結果となる。さらにインカ帝国お
いて征服後は天然痘をはじめとする疫病が大流行し、先住民人口の激減を招いた。北ア
メリカでは白人によって故意に天然痘がインディアンに広められた例もあると言われる
。フレンチ・インディアン戦争やポンティアック戦争で、イギリス軍が天然痘患者汚染
された、毛布等の物品をインディアンに贈って発病を誘発・殲滅し、19世紀に入っても
なおこの民族浄化の手法は続けられた。との説がある。モンタナ州のブラックフット族
などは、部族のウェブサイトでこの歴史を伝える。しかし、肝心の英国側は作戦を行っ
た証拠の記録は無い。という。天然痘は、日本には元々存在せず、中国・朝鮮半島から
の渡来人の移動が活発になった頃、6世紀半ばに最初の流行が見られる。折しも新羅か
ら弥勒菩薩像が送られ、敏達天皇が仏教の普及を認めた時期と重なった。日本古来の神
をないがしろにした神罰という見方があり、仏教を支持していた蘇我氏の力が低下する
など影響がでたのだ。それ以降度々流行したが、奈良の大仏造営のきっかけの一つが、
この天然痘流行である。ヨーロッパや中国などと同様、日本でも何度も大流行を重ねて
江戸時代には定着し、誰もがかかる病気となった。天皇さえも例外ではなく、東山天皇
は天然痘によって崩御している他、孝明天皇の死因も天然痘との記録が残る。ところが
この三橋の島田天満宮社には、この天然痘から救った牛の記録が残る。昔から子供達の
驚風8きょうふう:ひきつけ)・高熱・安全の神様として古くから信仰されている神社
で、1719(享保4)年に創建されたと言われる。島田天満宮は菅原道真公が祭られてい
ます。、健康祈願に訪れる。祭神には、平安時代に多方面で活躍した菅原道真公が祀ら
れていて、学業成就なども祈願することもある。風疹の神とされ、かつてここで紅毛人
が施しを行って八女と同じに何人もの人が助かったとされる。その為三橋薬品は出来た

1746: 名無しさんAA:18/11/30 19:52
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   778  > 
 立花氏が奇跡の復活をして、徳川政権下で再び柳川領主となった時は、江島も四郎丸
も久留米藩の領地となっていた。隣の藩領に神社を建てるなど、普通はできません。実
は神社再興の時代は江戸期に津村判定で宗茂は柳川領主ながら久留米に仲が良かった。
調べた限りは、江島、四郎丸は十時連貞の知行地ではなかった。では何故連貞は神社を
復興したのか。傍証資料から、江島氏は立花家の家老クラスの重臣の与力として参戦し
ていた。おそらく、秀吉の朝鮮出兵の際に、宗茂と共に朝鮮に渡った連貞の与力として
、江島氏に何らかの功績があり、神社再建はその返礼ではないかと推測できる。連貞は
前述の江島美濃守麟圭とは同時代の人ですから、両者には深い関係があったのかもしれ
ません。ひょっとしたら共に戦った事もあるかも。江島氏が戦禍で失った四郎丸の神社
を再興するにあたり、十時連貞が神社をプレゼントしてくれたか、あるいは立花家内の
根回しと資金的援助を行ってくれたのかもしれません。実は朝鮮征伐はかなりの問題を
含んでいた。朝鮮は1400年頃の壱岐・対馬征伐を行い日本側に大きな負担をした。此の
頃丁度応永の乱が始まり大内義弘が足利義満に叛し堺で挙兵して九州の守りが統率のな
い時代で九州騒乱時代だっただが(1401年)足利義満は馬鹿げた事に遣明使を派遣。日
明貿易への第一歩を踏んでいた。その後後小松天皇が称光天皇に譲位。称光天皇践祚(
せんそ:禅譲)して称光天皇即位したが、天皇の勝手な宣下で日本国中争乱の中だった
。(1416年)上杉禅秀の乱が始まる。(1419年)応永の外寇(李氏朝鮮の対馬侵攻)が
起こったが(1421年)には伊豆大島が噴火した。日朝の取締強化によって前期倭寇は減
退の傾向を見せていたがしかし1419年、太宗上王と世宗が応永の外寇(己亥東征)を、
実施して227隻 1万7千余の大軍勢で、壱岐・対馬を侵攻し、応永の外寇は九州に深刻な
事態に陥っていた。将軍足利義持は明が朝鮮と連合して攻めてきたのかと驚き、京都で
は三度目の蒙古襲来という噂が広がり衝撃が広がっていたものの何も出来ないでいた。
幸い、この外寇はいち早い宗貞盛の機転で、僅かな手勢によって撃退され、台風を恐れ
て撤退させた。結局、これが朝鮮側からの最後の日本侵攻となったと言う。前期倭寇は
、明の海禁、勘合貿易が始まるなどしたことで1444年頃にほぼ終息した。宗貞盛は幼名
都都熊丸。通称は彦六・右馬と言われた。1418年、父の死により、後を継いで当主とな
り少弐氏と一緒に撃退し、翌年、李氏朝鮮の軍勢に対馬を攻められた(応永の外寇)が、
奮戦し、両軍膠着状態になった際にも、貞盛は朝鮮軍の要求を拒絶したうえで朝鮮の使
者に対して暴風雨が近づいている事警告し、停戦修好を求めた。戦後、貞盛は李氏朝鮮
との関係修復・強化に努め1441年には日本人が朝鮮近海で漁ができる権利を獲得(孤革
島釣禁約)した。

1747: 名無しさんAA:18/11/30 19:53
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   779  > 

 その後も宗貞盛は、朝鮮と嘉吉条約を結んで、対馬における所領を安堵されて、交易
による利益を独占していた。ところが同じく朝鮮との交易に目をつけていた大内氏と敵
対し、宗氏の主筋であった少弐氏と共に大内軍と戦ったが敗れて多くの領土を奪われて
しまったのである。また、大内氏によって所領を追われた少弐嘉頼を庇護している。し
かし他方、朝鮮は国内の居留日本人に高い規制を掛けた。その為日朝貿易の増加は規制
が増え、通交統制となって、1510年に恒居倭人(朝鮮居留日本人)の反乱である三浦の
乱を生んだ。これより前,朝鮮王朝 (李朝) は海防を強化して倭寇にそなえ,懐柔や武
力討伐などの倭寇壊滅策をとる一方で、日本には使臣を送り倭寇禁圧を要請した。日本
でも室町幕府の統制が強まって西国の有力守護や豪族などが倭寇禁圧と倭寇に拉致され
た朝鮮人捕虜の送還に努力した。こうして朝鮮王朝と鎌倉幕府、西国領主の封建領主間
に交易関係が結ばれ、使節の相互往来が盛んになった。朝鮮の三浦「薺浦(せいほ)富
山浦(ふざんぽ)塩浦(えんぽ)」に限って交易を認めた。日本側も倭館を設け、三浦
に住む日本人は恒居倭 (こうきょわ) と呼ばれた、世宗18(1436) 年には 60戸の居住
が許されたが、15世紀末には薺浦 347戸,2500名,富山浦 147戸,453名,塩浦 51戸,
152名 の多数に達した。数が次第に増加するにつれ、密貿易など違反者、非行者が続出
した。片貿易や国庫の欠亡に苦しむ朝鮮王朝は、中宗が即位すると改革の一環として、
日本貿易にも厳重統制を加えて、大幅な恒居倭の居住権も制限した。当時自治を持って
いた恒居倭は、当然大反対し対馬からの兵船数百隻の応援を得て反乱を起した。しかし
朝鮮の圧倒的な軍事力の前に敗退しその結果,日朝間の通交貿易関係は断絶したのであ
る。2年後に壬申条約が結ばれ修交関係の復活をみたものの、薺浦1港に限られ歳遣船
歳賜米も減少し、恒居倭は全く認められなかった。これまでは、1443年の正統癸亥約条
嘉吉条約が存在していたが、この1510年の乱で、対馬の宗氏と朝鮮との関係が断絶した
。困った宗氏は有力者の大内氏や室町幕府に援助を求めた。日本から幕府の使節が再度
渡航して懇請し、1512年 (朝鮮,中宗7年。日本,永正9年) に在来の「正統癸亥約定」
を大幅に修正した新約定が成立した。これがすなわち「壬申条約」である。主要内容は
(1) 三浦の居留民を承認しない。(2) 宗氏の渡航する使船の半減。(3)在来朝鮮での特
権の廃止。(4)往来の港を斉浦「乃而浦(ないじほ)」のみに限る。などだ。こうして、
日本の対朝鮮貿易はきびしい制限を受けることになった。

1748: 名無しさんAA:18/11/30 19:53
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   780  > 

 実はこの中に興利倭船(こうりわせん)の廃止があった。興利倭船とは、室町時代、
日本から朝鮮へ交易のみを目的に訪れた商船で別名興利船と言われた。これは古くから
の私設の物々交換の漁民船だったが、朝鮮動乱で壱岐対馬に移民してきた事情か島に米
などの食糧が無く弁も通じた。しかし朝鮮王朝建国期に倭寇が猛威を奮っており、朝鮮
王朝は交易の利を持って倭寇の沈静化を図った。九州探題や守護・国人のような大勢力
に対し外交と公貿易を兼ねた通交が許可され、それら通交使節を派遣する船は使送船と
呼ばれた。一般庶民に対しても朝鮮に来港し自由に交易を行うことが許可され、こうし
て派遣された交易船が興利倭船だった。交易のみを目的として訪れる日本人は興利倭人
もしくは興利倭と呼ばれた。興利倭船の担い手は平常は漁を行なっているような庶民で
あり、使送船のように胡椒・丹木・銅のような高価な物資を取り扱うことは出来ず、塩
や魚をもって米穀に替えていた。興利倭は倭寇の転身したものであり、明で倭寇を働き
その略奪品を持って朝鮮へ交易に訪れる、あるいは船中に武器を携帯し防備の厚い所で
は交易を行う一方、防備の薄い所では倭寇と化す者もあり、朝鮮王朝にとって油断のな
らない相手であった。1400年、朝鮮王朝は興利倭船の入港場を釜山浦・薺浦(慶尚南道
昌原市)に限定するが徹底されず、1407年に居住地領主の行状(渡航証明書)の所持が
義務化されるなど規制を厳しくした。こうした入港場の制限は興利倭の生活を困窮させ
るものであり、1427年に倭寇出身の対馬の実力者早田左衛門太郎が慶尚道全域において
任意に交易出来るよう朝鮮王朝に請願するが拒絶され、代わりに塩浦(蔚山広域市)の
み入港場に追加された。その後も早田氏・宗氏などにより入港場の増設が請願されるが
許可されることはなかった。入港場の制限に伴い、取引相手が付かず長期滞在し、民家
に散入し押し売りを働く興利倭が出現したりする。朝鮮王朝はそうした買い手の付かな
い物については王朝が買い取ることで興利倭船の早期出港を図ったりした。こうした興
利倭船はみな対馬などの島を根拠地としていたと考えられている。朝鮮王朝建国当初に
おいては対馬以外の地域からも興利倭船が派遣されていたが、入港場の制限・行状所持
の義務化・文引制の施行等、通交統制が進み通交経費の増加に伴い、対馬以外の地域か
ら派遣される興利倭船は姿を消すことになる。1510年、三浦の乱において宗氏及び恒居
倭(三浦に定住していた日本人)の蜂起が失敗に終わると、壬申約条において興利倭船
は禁止され、以降姿を消した。47年に「丁未約定」が結ばれ,さらに57年の「嘉靖丁巳
約定」によって多少修正が行われ,豊臣秀吉の出兵まで継続された。

1749: 名無しさんAA:18/12/27 10:49 ID:YYM
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   781  > 

 よく坂東太郎筑紫次郎などと称されるが、これは江戸時代の単なる語呂合わせに過ぎ
ない。大川の風浪宮社伝では、もともとは柳川の安曇磯良丸が元祖であり本家であった
為に、この酒見城の風浪宮を次郎と称したようだ。又酒見城と風浪宮社は今では一帯が
一つとなっているが、まだ酒見城があった頃は小さな社が他にあった様だ。かつて次郎
丸とされたここらの人はこうした海の戦いに連れ出され戦士となった。埴安神社(はに
やすじんじゃ)は次郎丸の氏神様である。この地は南に背振山、東に油山、西に飯盛山
を望み、室見川に接し、早良平野のほぼ中央に位置しているとされる。埴安神社がいつ
ごろから祀られ、今日に至ったかについて、埴安神社明細書には「埴安神はかく鎮座、
年代は不明なれども最初次郎丸字庄ノ町参百九拾番地の一に鎮座したることは棟札によ
り明らか。」とある。この地は今も「古宮跡」といって石碑が残っている。(社より北
西に約三百米)現在のような神社になったのは、今から三百三十五年前、江戸時代寛文
年間に宝殿一宇を建立したことにはじまる。又、天明年間には「拾陸天神社」として祀
られたことは定か。この古額は今も神殿に祀られている。神紋が「梅鉢」であり「牛の
石像」があることからも、うかがい知ることができる。以下由緒について「棟札の写し
」より抜粋しここに記す。拾陸天神(じゅうろくてんじん)は、じつは33間堂と同じ
く16面の2面皮観音を示し、表の顔と裏の顔の世間が16X2=32相をもつ中で、
自分の本願の大日如来の1身を足して33とする世界を示した陰陽道に即した仏願御堂
である。関ケ原の戦いで負けた西軍に、江上八院の戦いが起こる迄は、江島氏は国人領
主として安堵されていた。江島、四郎丸は十時連貞の知行地ではなかったがそれまでは
支配地だったのである。社方開基にある二度目の四郎丸、坂本大明神の再興の時は江島
氏はまだ四郎丸の領主だったのです。十時摂津守と江島村との関係についても何の表記
がありません。江島、四郎丸が以前、立花家の支配下にあった事は、当時誰もが知って
いることだが、十時連貞は永禄12年(1569年)に父と兄・惟則が多々良浜の戦いにおい
て戦死すると家督を継ぎ、筑前国那珂郡板付村のうち30町歩の所領を相続した。その後
天正9年(1581年)、嗣子の無かった道雪が高橋紹運の長男・立花宗茂を養子に迎え、
道雪の命令で宗茂付の家臣となった。天正15年(1587年)に豊臣秀吉の九州征伐が始ま
ると、島津の人質となっていた宗茂の生母・宋雲院と弟の高橋統増を救出している。宗
茂が柳川に入ると筑後山門郡内で三潴分33町歩の所領を与えられ家老となった。


1750: 名無しさんAA:18/12/27 10:50
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   782  > 

 大正十四年発刊の「三潴郡誌」では四郎丸村の坂本神社の祭神が大山咋命だけになっ
ていました。「三潴郡誌」発刊当時の三潴郡に関する内容は驚くほど詳細に紹介されて
います。神社の内容について、取材漏れ、記載漏れがあったとは思えません。四郎丸の
坂本神社の祭神から高良玉垂命が外されたのは、江戸期以降高良山の権威と力が弱まっ
た事。住吉神が外されたのは江島氏が武家でなくなった事。また船や航海に関係のない
一族になった事に関係しているのではないかと思われている。住吉神は航海の神である
とともに戦いの神、軍神でもありました。前回も少し触れましたが、慶長(1596―1615
)年間に四郎丸江島氏の当主と思われる「江島四郎左衛門」が「青木鼻」と呼ばれてい
た湿地を開きます。続いて元和三年(1617)、家臣と思われる「鷲頭右京」と「江頭正
玄」が当地を青木島村と称して新開を計画しました。実はこの「江頭正玄」という人物
も「鷲頭右京」同様に、水軍に関わりの深い人物ではなかったかと思っています。江頭
と言えば佐嘉鍋島村江頭の「江頭摂津守」を思い浮かべられるでしょうが、私は「近江
江頭氏」の出自を持つ人物ではなかったかと考えています。太田亮(著)の「姓氏と家
系大辞典」によると、「元は江州、佐々木氏の臣。故ありて肥前に移り、大村純前公の
恩名を蒙りて臣となり川棚村に住むと云う。近江圀野洲郡江頭邑よりおこりしならむ」
。とあります。江頭村は現在の近江八幡市の江頭町でしょうか。今では琵琶湖から少し
離れていますが、昔は琵琶湖の入り江に位置し、江頭氏は水軍であったと言われていま
す。この後、江島四郎左衛門、鷲頭右京、江頭正玄は青木島村に移り住み、鷲頭、江頭
両名は帰農したようです。また四郎左衛門は藤原正喜と改名しましたが、江島姓を名乗
らない方が都合の良い状況があったのだろう。後に四郎左衛門の子孫は造り酒屋をして
いたとの記録があるようです。「青木鼻」とは筑後川に突き出た青木の岬という意味で
すが、岬の付け根辺りは入り江になっていて江島氏の軍船が何艘も泊まっていたのかも
しれません。四郎丸村から江島氏と家臣達が青木島村に移ってしまうと、四郎丸村は田
畑仕事にいそしむのどかな村へと変わり、江頭氏や江島氏の守護神、住吉神も徐々に忘
れ去られていったのだろう。柳川は浦島太郎伝説のふるさとではないだろうか。と時々
ふと思う事がある。ここ2〜3年で馬鹿げた都市開発で柳川の風情は消えてしまったの
だが、その理由はいまでも柳川の太郎信仰は消えない。つまりいつでも、「早稲物好(
わせもんずき)」のままであるからだ。



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