何でも書こう


@3ch掲示板 > 何でも書こう
全部1- 101- 201- 301- 401- 501- 601- 701- 801- 901- 1001- 1101- 1201- 1301- 1401- 1501- 1601- 1701- 最新50

何でも書こう

1: 名無しさんAA:15/02/21 12:29
雑談しましょ

901: 名無しさんAA:18/06/20 17:02
 韓国の指摘された数値は、ODCEでは「上位17ヵ国に対する労働の時間当たりの
生産性ランキングで、韓国は35カ国中33位と言う。これは、近年経済危機を迎えた
ギリシャよりも低く、生産性は加盟国平均の半分にも達していない状態だという話だ。
これは一つの構造不況であり、解決策のない思想の現実化現象で展化現象とされる話だ
。忠告・助言した報告書は「デジタル化:韓国の次世代生産革命の動力」を指すもので
、OECDが特定の国家を対象にこうして報告書を出すのは異例だという。原因に指摘
されたのが、アメリカナイズされた資本家主義である。これは資本主義とは異なる考え
方だ。資本主義は自由貿易の下の平等な社会資本の整備を公平に求める物だが、資本家
主義はすきあらば、政治的でも法治を外れても資本家としての利益を出そうと言うもの
だ。そこに国家に貢献したい、税によって人々に幸福の分配をしてもらおう。と言う意
志はない。公益福祉の増進はあくまで建前であり、更に自国ナンバー1は自社や資本の
利益拡大の為であり他国が割りが良いとあればタックスヘブンも簡単に行う。この思想
の極限が韓国事情である。大企業偏重・輸出主導型の韓国の産業構造で成り立ち。輸出
製造業を支配する大手企業の利益は資本家のみが享受し国民には行き渡らない。又優秀
な人材の集まりも生産性が高めても自社のみで、一方で人材不足の零細中小企業中心の
産業で生産性はないどころか買い叩く。所得格差は広がる一方で政府すら税収のみに、
視点が行き現状把握や経済発展を行おうとしない。実際、1988年韓国内の中小企業にお
いての生産性は大企業の半分はあった。しかし2014年には3分の1にまで落ち込んでい
て先が見えない。又、国内に貧民層が溢れる事で政府予算は常に不満の政策しか取れず
多くの経済難民とする自立できない生活者がたむろする社会に変化する。こうなっては
福祉や医療の金額はウナギのぼりでアフリカの未開地より住みにくい所に変化する。未
開地なら泥水をすすり草を食べても生きて行こうが、文化国家では水も下水道も電気も
ガスも食料も経済活動の一部とされて、共生や自立どころか学習すらおぼつかないので
ある。政府の中小ベンチャー企業部が提示した資料によると、昨年の韓国中小企業の月
平均税引き前賃金は322万7904ウォン(約32万5500円)であり、大企業513万569ウォン
(約51万7300円)の63%ほどにとどまっていたが、日本の一般アルバイターよりかなり
高い賃金なのだが、それでも生きていけないと自殺志願者は後を絶たない。それは親が
更に学力以上の学校の肩書をもって楽な暮らしを求め借金してでも塾通いを強いるから
だ。大・中小企業間の両極化と所得格差の拡大という「社会的悪循環」が国民生活全般
に影響を及ぼし、韓国経済の限界を示唆していると厳しい指摘をしている。日本も他山
の石ではない。

902: 名無しさんAA:18/06/23 02:54 ID:oxM
     世界閲覧 30−1  小日本と中国人

 近頃インターネットを見ていると、中国人が欧米の中で我儘な主張する難民の様な、
中東人に見えて来た。サーチナが報じる記事は最も的確に、この白人優位主義を強く訴
える姿と重なる思考がある事に気付く。中国メディア・東方網で「どうして一部の日本
人は、日本が中国文化を継承していると認めないのか。」とする記事を掲載して「韓国
人やベトナム人に比べると、日本人は中国文化をリスペクトし続けてきた。なかには、
『今の日本は、中国よりも中国らしい』と言う人もいるくらいだ。しかし一方で、日本
人は中国人が思っているように、日本が中国文化を継承しているとは考えていないので
ある」とした。一部の日本のネットユーザーからは「日本文化は独自のもので、中国文
化は異なる」との声が常々聞かれると紹介している。と言う。しかしそれはちょっとし
た言語障害である。独自の起源説を唱えている訳では無く、中国様式をそのまま伝統と
して受け継いではいない。と言う客観的意見である。その為、中国にいる日本人留学生
に話を聞いても、やはり「日本の文化は中国文化を継承したものではない」との見方が
多く見られたとし、「どうしてそのように考える日本人がいるのだろうか」と、疑問を
提起した。と書かれる。だが逆だ。なぜそんな疑問を持つのだろう。紙にしろ電算機に
しろ或いは算盤にしろ発明した国が中国であろうとなかろうと、人々は好いと思えば採
用するしまずいとすれば改良する。それは日本だけではない。中国文化も単に「吸収」
し、改善し生活に溶け込んだに過ぎない。古代、日本人は中国が先進的だと認識して、
中国の文化や制度を採用してきた。しかし、文化全体を見れば、日本の文化は中国文化
からのみ枝分かれしたものではない。日本人は、中国文化を採用してそれを改良した。
欧州人がローマ文化を吸収したのと同じだ」と語ったとしている。しばしば京都や奈良
について、中国の西安や長安の都を「盗んだもの」という表現が中国のネット上では見
られるらしい。これは悪意ある表現でしかない。何故なら日本人はこの古都をわざわざ
残しその改善し、時の日本社会に溶け込ませた努力を称賛し又敬拝しその時々に守る為
に散ったであろう命を尊び祀っているのである。それは単なる物まねや贋物主義の中国
思想とは大きく異なる部分だ。それは、まず本物を見て、苦難の上に身を挺して体験し
覚えて、許可や認可の上に僧正となって広める役職に就き位を付けて帰ってきて日本に
広めて行き更に、それが不可能ならばわざわざ中国から召喚してまで奈良や京都を作り
、日本人の都や国民の安寧を祈願したのである。

903: 名無しさんAA:18/06/23 02:55
     世界閲覧 30−2  小日本と中国人

 総じて中国人は、力が無ければ卑屈になり力があれば威張り散らす。朝鮮人はその上
に身の保全に嘘さえつく。と日本人は思っている。実は歴史がそう言う形で残っている
からだ。恐らく中国人も朝鮮人も自分は違うと思っている人も多いだろうし、またこう
したレッテルを貼った評価というものは間違いを起こしやすい。しかし竹島問題でも、
或いは尖閣問題でも、政府主導の不正義で嘘の教育と歴史評価に立ち上がる術もない人
達の国民は、どう転んでも、個人を評価せよなどとは反論できない。国内に個人の権利
がどれほどあるのか。中国国内では失われてしまった当時の様子を、よりよい形で残し
ていることに対する評価は中国人は評価していないと言える。京都や奈良が古の面影を
残したまま現代に到るのは、いわゆる「完コピ」ではなく、時代を重ねる中で少しずつ
だったろうが大きな努力が強いられる。かつての世界大戦時代、在米の日本人や中国人
も大きく運動して来たし、戦後も、街並み保護の調節、工夫してきた結果の産物なのだ
という事を、大きく考えてもらう必要があるだろう。自国の伝統文化は、やはり自分達
の手で守ってこそではないだろうか。「確かに4世紀頃、日本人達は中国の物質文化を
自国に持ち帰った。持ち帰った。しかし芸術品や建築、ファッション、食器など、時間
の経過とともに次々と改良と調整を重ね、日本独特の状況に適応させてきた。インド産
のカレーや中国産ラーメンの進化と同じだ。日本人の精神は決して簡単な模倣や継承で
はなく、本物に接して、実際に使っていく中で自分に合う形で発展させていくというも
のがたりを演じる。総じて、日本は中国の文化を継承している訳ではなく、中国を始め
とする外国とは異なる独自の文化精神を持っているのだ。」と留学生は論じた。しかし
中国人は何故こんなにも、日本にやって来るのか。何故自国の文化継承を止めてしまい
他国を評価したがるのだろうか。かつて東洋のベニスと称された川辺の商業都市は、こ
こ30年間で次々と破壊尽くされ、町中に奇妙な洋風ビルが建ち 空き室の多い事務所
貸出しのオフィス街に変貌してしまった。やたら幅の広い道路を一直線に通して、風情
も景観も文化も生活もない、投機マネーで踊る洋風ファッションの躍る小娘街と変わっ
ている。それは田舎の地方都市まで進出し、地方共産党の財源にすらなっている。こう
した破壊された環境に応じてない街が、金は産んでも生活を支えない事解っているのだ
ろうか。先進国に追いつけ追い越せの意気込みだろうが、それは鬼城を産んだゴースト
タウン政策と全く同じであり 服造れど主人は居らずと同じである。

904: 名無しさんAA:18/06/23 02:55
     世界閲覧 30−3  小日本と中国人

中国のネット上で常々「小日本」と揶揄されている日本と書かれる記事は多い。だが確
かな事だ。あまりに広大な国土面積を誇る中国から見れば、日本は「非常に狭い国」で
あり、巨大な12億からの民のいる国に比べれば、今や1億さえ切るかもしれない人口
の島国は小国以下であろう。しかし、世界的に見るとそうした小さな国は多く日本以下
の国も多数存在する。記事に、「日本はわが中国に比べると、まるで小さな芋虫のよう
なサイズだ。しかも、中国に加えてロシアという広大な国があることで、日本がますま
す小さく見えてしまう。しかし、実際のところ日本を「小さな国」と呼べる国はそう多
くないのである。」「日本の国土面積は約37万8000平方キロだが、これはヨーロ
ッパで考えるとフランスよりもやや小さい一方で、ドイツや英国よりも広い。欧州の中
では上位の広さになるのだ。国土面積の世界ランキングでは、上位3分の1には入る」
と説明している。いやいや小さな国で結構であるあまり分析しないでくれ。さらには、
「日本にとって不足しているのは資源だ。しかし、鉄鋼の生産量は欧州全体の生産量の
65%を占め、米国よりも20%も多い。もし、日本がロシアや中国の隣というポジシ
ョンでなく、欧州にあったとすれば間違いなく『大きな国』だったのだ」としている。
また、「領海と排他的経済水域を合わせると約450万平方キロと、中国の陸地面積の
半分にも及ぶ。そして、中国の海域面積は日本の半分程度だ」と指摘。海洋部分を含め
て考えると、日本はますます「小さな国」ではないとの見方を示した。記事は最後に、
「厳しい生存環境や不足する資源も日本という国を作ってきた要素になっている。生き
ていくために必死に工夫したり改善したりしてきたのだ。歴史問題など感情的には複雑
ではあるが、日本は間違いなく強力で、かつ、リスペクトに値するライバルなのである
」と締めくくっていると言う。正しく日本は江戸時代以降、死にもの狂いで、なんとか
西洋列強に舐められまい、潰されまい、と先人達は働いて来た。広大な土地と、強大な
皇帝を頂いく歴史を持った中国でさえも植民地化され、土地を切り売りし帝位を無くし
内乱や動乱に陥っているのを見て、朝鮮半島の自立化に走った。朝鮮半島の人の多くは
日韓併合当時は大きく喜んだ事だった。しかしソ連は思想教育の輩を送り込んで、社会
主義化闘争を江戸時代以前から始めていた。それが伊藤博文暗殺であり、親日家暗殺で
あり、朴政権暗殺である。それは今でも消えてない。僅か10年で100倍の所得に、
変化した戦前ですら反日を増やし、戦後の貧困を救った漢江の奇跡で200倍になった
経済政策でも、反日をぶり返した。つまり棄てられた北朝鮮の生活の方が良かったと、
言っているような行動をとる韓国民なのである。

905: 名無しさんAA:18/06/23 02:56
     世界閲覧 30−4  小日本と中国人

 この韓国と同じような中国民が傍にいる。東方網は、「日本はいつごろからこんなに
清潔になったのか。」とする記事を掲載した。作者の見立てによれば、日本に現在のよ
うな公衆衛生が定着し、国民のモラルが高まったのは「だいたい21世紀に入ってから
」とのことである。と書く。全く間違いも甚だしい。江戸期に来日した欧米人は、その
つつましやかで、ゴミを出さない生活と、笑顔が絶やさない文明に惚れこんで 日本を
助けたのである。明治になって、日韓併合が起こると、途端に江戸の町は不穏になり、
ゴミが増えたのである。勿論文明や文化の発達もあろうかと思う。しかし渋谷焼き討ち
事件の真相は、不貞なその朝鮮人達の生活態度であったのだ。記事では、戦後の日本が
食糧危機や困窮を乗り越え、1950年の朝鮮戦争特需以降目覚ましい経済発展を遂げ
たとする一方で、経済発展に社会環境の進歩が追いつかない状態だったと紹介して。「
当時の日本の公共環境は極めてひどく、トイレは汚く悪臭が鼻をつき、街や川にはゴミ
があふれ、立ち小便は日常茶飯事だった。列車を乗るにも整列せず、車内もゴミだらけ
だった。公務員の態度も横柄だった」などとしている。こうした状況はあった。空襲で
日本が焼野原になり、本当の日本人と言うのは半数にも満たない人口で、単に国籍だけ
で日本人として生活したからだ。だが幸いな事に日本文化も日本言語も日本の習慣も、
残っていた事で日本は天皇陛下を掲げた体制を再興できた。日本人の万感胸にある誇り
は、江戸時代に幕府があったにも関わらず、明治天皇の死んだ時は160人の自殺した
人がいた事だ。冥土の御伴として割腹した人も40人程判明している。つまり時代の中
で同期を生きる共生感を多々有していて、共に良くしようと言う力は、そうした無料の
奉仕で街を綺麗するところまで出てきている。ところが在日と呼ばれる人はそれを嫌っ
た。まず税を払うのを嫌い、日本人になる事を拒否したのだ。そして「我々は戦勝国の
人間で日本政府の言う事を聞く義務は無い。」と言いだしたのである。その為朝鮮半島
への帰還運動は盛んになった。またそうした戦勝国人として暴行・殺害・脅迫・無銭飲
食・追剥・盗賊が起こった。この事に警察は無力であった。ここに自警の暴力団として
ヤクザが形成されたのである。かれらは勇敢に戦い闇市場や商店街を守ったと言われる
だが時代と共に金銭による収拾が行われ、物言う株主として総会屋と称される右翼と変
化した。飲食街の首領よりは旨味が大きかったのである。その後経済ヤクザと変わった


906: 名無しさんAA:18/06/23 02:56
     世界閲覧 30−5  小日本と中国人

「日本人が初めてこのようなゴミ問題を意識するきっかけになったのは、1964年の
東京五輪だった。外国人の前で恥をかかぬように、東京都が、大規模な環境整備運動を
展開したのだ。行政が街の清掃、ゴミ箱の設置、たんやつば、立小便の禁止などに取り
組んだが、人の習慣は一朝一夕には改まらない。東京五輪後も、日本人のモラルはあま
り大きく改善されなかった」と論じているがこれも又間違っている。さらに、「経済成
長により裕福になった日本人が海外旅行に出ると、陋習を海外に持ち込むことで欧州を
はじめとする国外から様々な批判が寄せられた。これを恥とした日本人は、モラルを高
めることを意識し始めた。政府と民間団体、企業が協力しての取り組みにより、日本人
のモラルは少しずつ高まり続け、旧来の陋習も徐々に改善された」と伝えている。記事
はそのうえで、「われわれが現在見ている、かくも清潔で整然とした、民度の高い日本
は、だいたい21世紀に入って出来上がったものであり、その歴史は長くない。日本が
明治維新の頃から清潔好きだったとする人が多いが、それはまさに、専門家にとっての
笑い話なのである」と結んでいる。だが全くデタラメである。まず徳川家康が江戸の街
を作った時、他国と同じように上水道を完備させている。ロンドン・パリのような地下
に下水道用の暗渠こそ作らなかったものの、肥料となる肥樽を運ぶ運河を走らせ江戸城
からも搬出して、田舎の野菜作りに活用している。これは奈良時代の遺跡からも出土し
た竹の導水管の技術で古来より日本人の考え方は現代だから綺麗と言う訳ではない。そ
の為中国国内でも、数多くの街作りは戦時前の日本人が作った町も多くある。特に満州
や鉄道駅舎はその面影を持つ。従来は中国は全てに泥作りでセメントや鉄筋或いは石と
言った物は、皇帝が禁じていた。城のみが石で作られ外敵に対応した。その為西洋式で
日本とは違って市民も外周の城壁内に住まわせた文化をもっていて、それらは煉瓦作り
で造作された。明治38年〜1945(昭和20年)日本統治時代には、日本が蓄積してきた都市
計画の理念と社会資本整備の技術を一気に投入し大日本帝国が威信をかけ建設した街が
ある。大滿洲帝國、満州國新京特別市である。無電柱化道路をして、早くも地中に電線
上下水道とガス管埋設し、住居は水洗トイレ ガス炊飯 ペチカ壁暖房とスチーム暖房
システムが採用で一年中、熱いお湯とガス炊飯 電話が完備されていた。満州時代には
左側通行でしたが現在は右側通行になっています。終戦して進駐米国将軍が来た時に、
「後世に誇るべき傑作」と評価した先進的な都市だった。その日本の街並みの痕跡は少
しだが現在もみる事が出来る。

907: 名無しさんAA:18/06/23 02:56
     世界閲覧 30−6  小日本と中国人

 こうした環境衛生や景観科学の考え方は、少しずつだが中国社会に受け入れられては
来ている。ある中国人は「一番強く感じたのは“清潔”の2文字だ。日本の清潔さは大
都市や大通りだけでなく、田舎や細い路地にまで行き届いている。私たちは箱根の農村
部を訪れ、日本式の旅館に宿泊した。旅館の前には畑が広がっていた。流れる小川の水
は澄んでおり、道路はきれいに整備されている。日本国では、中国のような「都市部は
欧州、農村はアフリカ」といった、発展の不均衡を感じることはない。」と話している
。長春駅前は、満州時代に道路の幅が70メートルから100メートルもある大同大街
を作っていて、現在は、人民大街として知られる。地下埋設による配管でさながら公園
のように街路樹が美しかった。と米軍は言っている。長春は、日本が満州国を作った時
、1932年から1945年まで首都になり「新京」と改名されていた町です。1944年当時は、
人口が86万人で、そのうち日本人が15万人だった。だが、現在は、長春の市の区人口は
358万人、都市圏人口は750万人、と言うことなので、そこらに負けない地方の大都会に
なっている。中国自体も、僅か25年前に一人当たりGDPは日本人の 1/100でしかな
かったという経済状態から急激に生活を向上させている。社会の変化が肌で感じられる
この都市はなかなか日本人観光客も多い。ある記事ではゴミ管理の中国人の差について
、「重視度の不足であるとともに、管理レベルの不足だ」と指摘した記事が載る。ゴミ
収集車や処理工場のにおいを減らし、清潔に処理するには、高いレベルの管理が必要に
なる。細やかな管理が、ゴミ処理の各セクションにおいて実施されなければならないの
だ。言う。近年習主席はトイレの改善を発動したが、記事では、「トイレは社会モラル
の表れであり、ゴミ分別はその複雑さゆえに、都市のモラルと管理レベルが総合的に試
される。上海は中国国内で管理レベルが高い地域。率先して行動する条件も責任もある
。管理を強化し、制度を充実させ、全市民を参加させ、強制的なゴミ分別制度を作り、
全国に先駆けて難題を解決しようではないか」と結んでいた。「しばしば超大都市では
共通の問題に直面する。例えばゴミの分別だ。隣国の日本は、われわれが想像するほど
の先端技術を駆使した設備がたくさんあるわけではない。しかし、ゴミの分別レベルは
多くの人を敬服させる。われわれに欠けているのは、先進の設備ではなく、この考え方
や管理の部分なのだ」とも指摘している。

908: 名無しさんAA:18/06/23 02:57
     世界閲覧 30−7  小日本と中国人

今日頭条は、「人類の進歩に影響を与えた日本の発明」として、20世紀に日本企業が
世界に先駆けて発明、ないしは、実用化したものを列挙する記事を掲載した。記事では
まず、1950年代から70年代にかけて発明したものとして、インスタントラーメン
、電気炊飯器、カラオケ、家庭用ビデオシステム、新幹線、ポケット電卓、ウォークマ
ン、モーターボートなどを紹介し、続いて1980年代から90年代にかけての発明品
として、自撮り棒、自動車ナビゲーションシステム、3Dプリント技術、LED照明を
挙げている。3Dプリント技術は本格的な実用化こそここ数年の話だが、80年代の最
も早い時期に日本人の小玉秀男氏が3Dプリント技術の原型ともいえる「光造形法」を
発明し、日本では新聞の像判印刷に利用されていた。これまで取り上げられてきたのは
、戦後の日本が高度成長を遂げ、成熟した技術を持つに至るまでの間に発明、開発され
て、人びとの生活をポジティブなものに変えたものがほとんどだが、その一方で、日本
が最初に作ったが、結果的に日本を敗北に導く要因になったものも挙げている。それは
、1922年に日本で誕生した世界初の正規空母「鳳翔」だ。記事は「これは世界初の
正規空母だが、その後米国海軍が広く空母を用いて軍事力を強化し、反ファシズム戦争
への勝利を促す結果となった」と説明している。しかし他にもある。伊型潜水空母であ
る。伊七型潜水艦は、伊型潜水艦を改造したものだったが、1937年に1番艦の伊号第七
潜水艦、翌年に2番艦の伊号第八潜水艦が就役。水上偵察機搭載のために格納庫とカタ
パルトを備えている。1番艦の伊号第七潜水艦は真珠湾攻撃前の1941年11月17日、搭載
した九六式小型偵察機によるオアフ島の航空偵察を行うなど実戦での水上機運用を行っ
た。その後伊九型潜水艦1941年に就役開始。伊七型潜水艦の発展型として3隻が建造さ
れ、零式小型水上偵察機1機を搭載。大戦初期には航続力と水上機運用能力を生かして
各地の偵察任務に従事した。その後、伊四百型潜水艦1944年から1945年にかけて3隻が
就役した。アメリカ本土攻撃を目的として開発され、攻撃機晴嵐3機の搭載に加えて、
地球1周半にも及ぶ航続距離を持っていた。1939年 8月26日から10月20日双発の三菱は
G3M2モデル21を輸送機に改造したニッポン号による世界一周 52867kmを飛行時間194
時間で56日間掛けて無着陸飛行を成功している。その為、中島飛行機創設者の中島知
久平氏は開戦直後から「アメリカとの戦争は、技術力と資源量の差から長期化すれば必
ず負ける」と考え「必勝防空計画」として晴嵐と共に爆撃機のZ機計画「富嶽」を設計
し開発したが終戦となった。この時に中村良夫も開発に加わり後にホンダ四輪車の開発
責任者となっている。そして本田は世界に先駆けてCVCCエンジンを造った。

909: 名無しさんAA:18/06/23 03:08
 戦時前には、北朝鮮の日本海側である実験が成功していた。小規模な原爆実験である
。戦前に行いその為に陸軍はこぞって戦勝すると思っていた。しかし、昭和天皇は大き
く反対してすぐさま研究や実験の即時中止を命令した。陸軍は表向き皇民を集めた皇軍
としての誇りを持って戦っていた。その中で天皇曰く「日本がそうした残酷極まりない
兵器を、率先して造り広めてはまかりならん。」との公示を行ったのである。そうして
その研究成果や設計仕様はドイツに送られた。ドイツでもそれは作られた。だが実験で
の痛ましさを知っていたノンメル将軍はチェコ輸送時にトンネルに列車ごと隠し入口を
爆破したと伝えられる。こうした原爆完成の情報を得て米国は原子爆弾を開発した。と
されている。そして敗戦が決まった8月16日にそれらは処分された。そしてそれは、
大きくアメリカの新聞に謎のキノコ雲として大きく取り上げられた。こうして朝鮮半島
は平和裏の戦争終結だった筈だが、それでも朝鮮人は欲深く争いを繰り広げた。北朝鮮
は当時としては世界最高の産業施設を持ち韓国では世界一の発電量を持って市民生活を
していたのである。しかし第二次世界大戦後、朝鮮戦争を作り分裂させ、なおかつ日本
漁業の経済水域をマッカーサー・ラインによって大きく制限されたものであった。その
後に、1951年9月8日に調印されたサンフランシスコ講和条約により撤廃された。翌1952
年4月28日の日本主権の回復後 この制限撤廃予定が決まった時、この主権回復前の間隙
を縫って韓国は漁船拉致を始めた。1951年7月19日 そうして韓国政府は、サンフランシ
スコ講和条約草案を起草中の米国政府に対し反対の要望書を提出し、竹島、波浪島など
を韓国領とすること、マッカーサー・ラインの継続を要求したのである。これに対し、
アメリカは 1951年8月10日に「ラスク書簡」にて回答し、この韓国政府の要求を正式拒
否回答を行った。「ラスク書簡」の約1ヶ月後の1951年9月8日にサンフランシスコ講和
条約は調印されたが、講和条約発効の約3か月前 1952年1月18日には、日本の山陰への
亡命政府を打診しながら、朝鮮戦争下に韓国政府は、突如としてマッカーサー・ライン
に代わる李承晩ラインという軍事境界線の宣言を行った。1965年の日韓基本条約によっ
てラインが廃止されるまでの13年間に、韓国による日本人抑留者は3929人、拿捕された
船舶数は328隻、死傷者は44人を数えた。拉致もさることながら、抑留者は6畳ほどの板
の間に30人も押し込まれ、僅かな食料と30人が桶の1杯の水で1日を過ごさなければな
らないなどの劣悪な非人道の抑留生活を強いられた。このような国際法上違法であり、
かつ非人道的侵略行為に対し、当時我が国政府のみならず米国も抗議していたが、米国
は直接的な利害関係国ではないため積極的な介入は行なわず、それがために韓国による
竹島侵略が固定化されてしまったのである。戦後に味方の国に、である。


910: 名無しさんAA:18/06/23 03:09
     世界閲覧 30−9  小日本と中国人

 日本人は至って真面目で優しい性格の大和民族であろう。こうした事が起こっても尚
隣国の人間としてまっとうに付き合おうとしている。それはシベリア出兵時も白ロシア
人は満州鉄道に乗り込んで、赤化した野蛮な民衆から逃れる為に舞鶴や横浜経由で米国
に送り届けている。そして第二次世界大戦中ですら同じである。それはシベリア開発に
多くユダヤ人が送られて来ていたからだ。ピロジャンの収容所は街が出来る程だったと
言われる。そして日本人が逃がした避難民は500万人を超えるとさえ言われる。もち
ろんその中には白ロシア人も満州人も韓国人も中国人もユダヤ人も入る。ところが、そ
うした事をしても、中国や韓国から或いはソ連から 感謝の声と尊敬した行為は行われ
てはいない。あまつさえしっぺ返しの様に敗戦時には、満州の多くの一般市民が50万
単位でシベリアの強制収容所に送り出され、強制労働の下で命を落としたのである。帰
還を果たした多くの人は言った。「風の入る丸太小屋で、ウオッカ一瓶が一か月で与え
られ、毎日はパン一切れの一食しかなかった。一週間に一人は死んでいった。人が減る
と何処からか連れてきて小屋は常に5・6人いて線路の敷き込みが仕事だった。しかし
、凍り付いた大地にはとても鶴嘴(ツルハシ)は効かなかった。これはいつか死ぬとし
て闇夜に南に逃げて3年かかって日本に着いた。」と。勿論こうした話はここだけの話
ではない。アメリカやオースラリアやカナダさえも、戦争前から日本人を収容所送りに
している。ただ米国などの場合は、体よく3つに分けられ、兵士としてアメリカ軍につ
いて戦う者と、あくまで反対し残る者、更に反抗し犯罪者の刑務所に送られる者とが、
その運命が分かれた。しかし、戦争に行った者は華々しい成果を持っても止めさせられ
ず1割程度の生き残りしかいない。又刑務所では優生学の医療処置までされた。収容所
内でも、これまで家畜小屋と使われていた小屋が多く、食事や待遇も決してドイツの国
の収容所と変わりなかった。いやもっと悪かったのだ。だが日本人たちは自らに床屋や
食堂や教室を開き野菜作りや鳥を飼ったりなどして、環境を整えて行った。そして終戦
時には、一般の兵士たちすら此処に食事に来る程評判の美味さを提供していたのである
。ロシアでも、スペインの独裁に憤慨した日本人留学生がカタルーニャの友人の誘いで
、兵士として志願した。共和国側義勇兵の日本人として知られる函館出身ジャック白井
は、その料理の美味さから与えられた任務は炊事兵でしかなかった。国際旅団エイブラ
ハム・リンカーン大隊の兵卒だが、外航船やNYのレストランのコックだった経歴を買
われた配属で、実際に彼は戦場でも、「美味く、早く、大量に」食事を作る達人で兵士
達に評判だった。と言われている。まるで人の好いアンパンマンの現実である。

911: 名無しさんAA:18/06/23 03:10
     世界閲覧 30−10  小日本と中国人

この結果、皇帝側は敗けフランコ政権は勝って完全なファシスト体制への転換を目指し
たものの、ドイツのファシスト軍団であるヒットラーとは一線を引いて大きな国内戦乱
を起こさずに第二次世界大戦を終結させて国を保った。だが毛沢東は全く逆で、既に同
じ中国人の蒋介石は、国際的にも国内的にも正統政府として中国を治めていた。にも拘
わらず、国内で派手に爆破活動や暗殺やテロを行い、隠れてゲリラ活動をして逃げ回っ
ていた。この為正式な国民党軍の要請に、日本軍は当惑の中に進軍していた。もともと
日本軍は中国などは必要なかった。何故なら満州鉄道を経営出来れば、食料や鉱物資源
は充分間に合っていて、要は石油調達のみが頭を抱える問題だったからである。しかし
蒋介石総統は何処までも共産党追撃に走り罠にはまり、毛沢東は共産党でありながらも
米国と英国の支援を受けるのだ。あげく終戦時には、話し合いと称して周恩来将軍を拉
致しデマを流し自軍に取り込み、仕方なく国民党政権は台湾まで退いて日本に支援を求
める結果になった。国民党政府が台湾に来た時、多くの台湾人は反対した。しかし日本
はその声を受けることなどできなかった。又その時やって来た国民党軍はまるで野蛮で
盗賊であった。漁船を燃やしたり、言葉の通じない原住民を虐殺したりしたので、政権
はすぐさま人気を落し、その後和解を得て台湾総統李登輝が選出されて民主化の道を歩
いた。もともと台湾は日本で最初に植民地化した場所で、阿片の巣窟を一掃する為に、
多くの金と時間をかけインフラ整備を進めて、日本以上の教育施設が整っている土地だ
った。従って日本的文化や西洋的思考も生活様式も日本に近い。中国人が不思議がる様
な日本人の食習慣の「何を食べるにしても、必ず白飯を添える」ことも台湾では当然で
もある。ステーキに白飯かと奇妙に思うかもしれないが、これが日本人の特徴の1つと
いうが台湾も普通だ。冷たい麺料理にもライスを付ける」「調味料の味が薄い」点も、
又同じである。「日本は料理の味が薄いだけではなく、調味料の味自体も薄い。自分は
辛い食べ物が好きで、唐辛子味噌を料理に投入しなければ気が済まないが、多分日本で
は生きていけないと思う」と紹介した記事もあるが、実際は本当の中国人漢人は菜食系
で河魚を食べて米を食べていた。肉食系なのは、騎馬民族系のウイグルの血が入って、
祖先にモンゴル人を持つからだ。山岳地帯でも台湾でも質素であり「調味料」というの
は主に味噌醤油で魚醤でありトビウオなのだ。辛さを出すための調味料が必要なのは、
潮の無い砂漠の民の土地の血を引いているからだ。

912: 名無しさんAA:18/06/23 08:21
     世界閲覧 30−11  小日本と中国人

 中国は、公害の様にどうしようもなく不幸は突然振って来る場合が多いが、韓国に至
っては、それに加えて数年前から良いと思ってやったことが かえって人の命を奪うと
いう皮肉な事件が増えている。例えば健康では、健康器具が健康を害する加湿器問題な
どがある。この事件は、加湿器自体に問題はなく、加湿器をきれいに使おうと洗浄剤を
入れたことから悪質物質を発生させ、原因不明の死者がたくさん出てしまった事件だっ
た。この原因が加湿器ではなく中に入れた洗浄剤のせいだと証明されるまで長い年月が
かかった。今度はラドンベッドが問題になっている。又、業者や研究所がラドン検出を
明らかにしたのではなく、ある主婦が偶然ラドン測定器を買って家のモノを調べている
うちに分かったことだった。主婦がラドン検出器を買っていなければ、まだ韓国民には
ラドンベッドのことを知らずにいたかもしれないという恐怖付きだ。SBSの報道を受
けて他のマスコミでもラドンベッドが報道されるようになると、発売元テジンベッド側
はラドンが検出されたマットレス4種に対する回収とリコール措置を直ぐに取った。し
かし別に被害者たちは、「テジン・ラドンベッド事件集団訴訟のための公式サイト」を
立ち上げ、集団訴訟への動きを見せた。政府も関心を示して、原子力安全委員会が自ら
ラドンベッドに関する中間調査結果を報告したりした。が発表が、室内空気質や人体に
該当ベッドのラドンが及ぼす影響は少ないとしながらも、日量10時間睡眠で0.5mSv
(マイクロシーベルト)ほどの内部被曝が起こるが「放射能が基準値以下」という文言
が入った発表をした。ところが、これがネットではさらに炎上し、ラドンベッドではダ
メージがまだはっきりとは分からず、ラドンが検出されたというだけで風評被害になっ
た。又「マイナスイオンパウダーをコーティングしたのは、実はテジンだけではないら
しい。他の韓国のブランドのベッドも怪しいものだ」といったものもでて、テジン以外
のベッド製造会社も、ラドン測定を済ませ、検出されなかったということを必死に宣伝
する騒動になった。被害が無いにも関わらず2日間で2万以上のマットレスを回収した
が、突然で、回収が間に合わずさらに回収したマットレスの置き場にも困っている。こ
うして遅々と進まないので、大統領も「郵便局の流通網を使って回収を早めよ」という
異例の命令が下され回収が進み、16〜17日の両日で全国から2万2298本を回収した。が
、その回収に携わった郵便局員が死亡するという事件も起きた。実際には、ラドンを運
んだからか、過労死なのかはまだはっきりしないものの、こうした騒動は多い。過去も
空調機移動でビル崩壊、輸送量オーバーで船転覆、野外ステージに観客が転落死などが
あったが、いずれも二重三重に法や規制を破った利益習得を目指した事件であった。

913: 名無しさんAA:18/06/23 10:30
 中国人の話を書こうとするが、どうしても朝鮮の話になる。どう見ても一緒の人種の
様に見えるからだろうか。歴史的に大日本帝國は、1945年8月15日、大東亜戦争
(1941〜45年)敗戦を国民に知らせ、戦争の終結をみた。無政府状態を憂う朝鮮
総督府は、直ぐに「朝鮮建国準備委員会」を設置させ、比較的冷静・公平に対処できる
者を選び朝鮮人指導者に要請した。その後にソ聯軍侵攻→朝鮮人政治・思想犯の釈放・
流出→朝鮮共産化→日本人への掠奪・暴行などが想定され為、朝鮮人釈放や治安維持へ
の協力を取り付ける必要性があった。だが、自治組織に過ぎぬ委員会は45年9月6日
そのまま亡命臨時政府を騙っていた李承晩は「朝鮮人民共和国」を樹立し「独立」を宣
言した。このの流れで、朝鮮総督の阿部信行・陸軍大将や朝鮮軍管区司令官の上月良夫
・陸軍中将は、総督府はじめ主要な建物から日章旗を降ろし、太極旗(現韓国国旗)を
掲揚させて、政務総監の遠藤柳作によって呂運亨らに独立に向けて朝鮮建国準備委員会
の組織化が瓦解していた事を知った。つまりその後を総督府の行政を継続させる話し合
いに李承晩は金九を代理としたが彼の暗殺指令によって変死に至るのだ。朝鮮は台湾総
督府などの外地政庁とは全く異なり、朝鮮総督府は今の大韓帝国政府の機構をほとんど
そのままもっていた。最初から多くの朝鮮人官僚を抱えて、朝鮮の郡守、面長(内地の
郡長、村長に相当)などは朝鮮人が原則として任命されていた。その為に知人を通じて
容易にテロ行為が出来たのだった。道知事は概ね半数程度は朝鮮人だった。多くは旧李
氏朝鮮王朝、その前の衛氏朝鮮王朝、更に王朝開放の閔妃一派の頃の両班貴族で、柵封
国家時代に権勢をほしいままで甘い汁を吸っていた人達だった。彼らに亡命政府として
乗り込んだ留学難民の李承晩の横やりで、話合いはもつれて国民の統率ができずにいた
のである。そして突然に建国宣言された。今や旧朝鮮総督府庁舎は撤去されてしまった
が、大韓民国政府の樹立にともない、旧総督府の庁舎は政府庁舎として利用され、中央
庁と呼ばれ大韓民国の成立宣言は、ここでおこなわれた。それは早々と話合いを離れて
独自の独立を果たそうとしたソ連属国の金日成政権に対抗した米軍のいい加減さだった
。街は電気が通り、旧ソウル駅舎(旧京城駅)や韓国銀行本店(旧朝鮮銀行)なども残
され、西大門刑務所もあった。今は博物館となり周囲は独立公園となったが米軍が使わ
なかった。治安維持を放棄していたのだ。日韓併合時朝鮮総督府は、当初は武断政治と
批判はされたが、大日本帝国政府は、朝鮮を内地と同様の経済水準に引き上げるため、
莫大な日本の国家予算で投下を行い、鉄道、道路、上下水道、電気、病院、学校、工場
などのインフラの整備を行っていた。糞尿の大地と米英すらなげた地が敗戦時は世界一
の先進国だった。

914: 名無しさんAA:18/06/23 10:39
 教育制度や医療制度の整備などは日本以上の精力的に建設を行い、朝鮮半島の近代化
にインフラへの莫大な投資を行い世界一の先進工業地帯にしていたがダムを初め多くは
北朝鮮だった。日本以上に電源開発した土地だったが、総督府長官が朝鮮防備の軍事権
を米国に移管して韓国が出来るとすぐに北朝鮮との戦いで、内乱状態のまま侵攻された
。朝鮮総督は天皇によって勅任され、委任の範囲内における朝鮮防備のための軍事権を
行使し、内閣総理大臣を経由して、立法権、行政権、司法権や王公族及び朝鮮貴族に関
する多岐な権限を持っていた。朝鮮総督府には政務総監、総督官房と5部(総務、内務
、度支、農商工、司法)が設置され、中枢院、警務総監部、裁判所、鉄道局(朝鮮総督
府鉄道)、専売局、地方行政区画である道、府、郡などの朝鮮の統治機構全体を包含し
ての議会決済の近代政治が行われていた。しかし結果は、かつての王朝役人の両班貴族
が赤化して抗日に走らせ、敗戦で放棄させられると言う散々なものだったが、日本人は
悔やむ事はなかった。何故なら平和の為にやった事だったからだ。


915: 名無しさんAA:18/06/24 07:05 ID:uH.
     世界閲覧 30−13  小日本と中国人
 しかし何故だか“独立宣言”直後には、進駐した米軍はわざわざ太極旗を降ろさせ、
日章旗を再び掲揚させた上で、米軍の軍政が本格的に始まるや、日章旗が星条旗へと付
け替えさせたのである。米国は日章旗掲揚で朝鮮=日本だと公認させ、星条旗=開放と
軍政に正当性を持たせたたかったし、報道によって母国にそうアピールさせた。朝鮮が
独立国家ならば植民地解放をした事にならず、解放し統治を朝鮮に任せる過程を生ませ
たかったのだ。従って終戦直後、米軍上陸前の統治を総督府に密命し、治安も朝鮮軍管
区や日本の官憲に担わせて指導した。上陸後には、日本人官吏は相当期間軍政を支援、
治安も軌道に乗るまでは日本側が協力した。日本側の統治能力や軍紀を大いに評価して
いた背景も在ったが、その連絡係が李承晩であった事が禍いだった。米国は当初から、
朝鮮人を軍政より徹底的に遠ざけた。朝鮮人の軍政登用は牛歩で進められ、先行してい
た朝鮮建国準備委員会の組織化した呂運亨は、それを知っていたがまとめられなかった
。李承晩は金日成の暗殺失敗していたからだ。そして米国指導部も知っていた節がある
。朝鮮民族の、統治能力欠落や、度を超した自己主張、激高しやすい民族性に加えて、
偏狭な民族主義者や共産主義者が入り乱れ、一致団結して建国に邁進すると言うまとま
りに欠けている国民性を理解していたのだろう。こと朝鮮人に関し米国側の学習分析は
アメリカ国内では高かったのだ。45年秋には、30もの朝鮮人軍閥が警察署や新聞社
、企業・工場・商店を勝手に接収。米軍は武装解除を強制した。が効果は限られた強い
抵抗と無法があったからだ。政党や政治結社も200近くにのぼり、指導者は内部抗争
を繰り返し暗殺・テロが横行した。会議には金日成も呂運亨も李承晩も重要人物は全て
が入っていた。そも朝鮮人民共和国ですらも、中華民国に建てた韓国臨時政府と対立し
ていた。2つの“政府”でそれぞれの内部の抗争に明け暮れた。米国は朝鮮人の政党も
政治活動も全く認めなかった。収拾のない有り様だった中で、この混乱では、38度線
の北側に陣取るソ聯軍に対する力の均衡維持は覚束ない事が、米国の最重要課題だった
。ソ聯の半島全支配を阻止する事だったが、決して南朝鮮独立に最新兵器や戦車供与を
行わなかった。米国は、曲がりなりにも内閣・政府を通じて権力を行使していた日本と
は同じ統治形態を取らず、韓国に直接軍政を敷いておいてその正解を噛み締めたのだ。
朝鮮人は戦前〜戦中〜戦後と、日本に向けまともなゲリラ抗戦も、民族蜂起も起こして
いない。むしろ帝國陸軍内の朝鮮人高級軍人の武勇は目覚ましく、触発された朝鮮人達
には志願兵募集に殺到していた。42年と43年の場合、募集各4000/6000名
に25万5000/30万人超が受験。競争倍率63/50倍となっていた。朝鮮人の
戦意に推され日本が戦争した形で、日本=朝鮮を確信する米国専門家もいた程だった。

916: 名無しさんAA:18/06/24 07:06
     世界閲覧 30−14  小日本と中国人

 米国の連絡係の李承晩が勝手に政権を取った声明を出した時、声明は、「韓国は日帝
を打ち負かして独立を勝ち取った」と強弁した。しかし、独立は日本敗戦3年後。米国
の聯合国による長期の半島信託統治を描いた夢が、北朝鮮に統一国家を建設する動きを
見せソ聯に対抗して破れた時、やっと韓国の独立実施を大きく前倒した形で認めたのだ
。呂運亨らの朝鮮建国準備委員会を結成し、日本との提携及び宋鎮禹、゙晩植、金性洙
、安在鴻、張徳秀など、日本留学を経験している知日派の力をいれて、既に朴憲永を代
表とした独立後の体制作りを考えていた。又、その中には日本の資本を借りて全羅地方
の湖南財閥からの宋鎮禹や金性洙やパルチザンの金日成も会議に加わっていた。しかし
かつての李氏朝鮮の両班だった李承晩は、アメリカで活動し金九ら左派を重慶で活動さ
せて別個の韓国臨時政府を作っていた。その後に行政が米国軍に引き渡された時も、総
督府の行政は継続されて、平和的に朝鮮総督は天皇勅任から占領軍指名になって機能し
ていた。しかし委任の範囲内における朝鮮防備のための軍事権を行使出来ず、治安維持
の金九がテロに走っていた。大韓民国臨時政府の警察本部長で臨時政府最後の指導者で
あった金九は独立した大韓民国の初代大統領こそならなかったが、アメリカ軍軍政庁統
治下の第一人者であり続けた。信託統治が韓民党の党首・宋鎮禹に決定しようとした時
暗殺を企て、信託統治反対暴力デモによりアメリカ軍政庁に召喚された。現実に韓民党
の党首・宋鎮禹暗殺示唆の容疑で軍司令官に再召喚されている。南北朝鮮・左右両翼か
ら比較的尊敬されている人物として稀有な存在で、米軍の単独選挙実施に反対し、あく
まで南北統一を進めるべきという立場の活動した。上海で呂運亨、李裕弼、孫貞道など
と韓国労労兵会を組織するが、金九は刺客とした呉冕稙と盧鍾均に韓国人の共産主義者
・金立を上海で狙撃殺害させたり韓人愛国団での天皇暗殺未遂や爆弾未遂を指令してい
る。韓国独立党結党を経て、韓人愛国党を組織し、李承晩率いる独立促成中央協議会と
統合し、大韓独立促成国民会を結成、副総裁に就任している、韓民党の党首・張徳秀を
暗殺した疑いで米軍の法廷に召喚されるが、あくまで武闘闘争を止めない抗日パルチザ
ンの一生を過ごした。南北交渉を要請する書簡を北朝鮮に発送して、金奎植、金昌淑、
趙素ミとともに南朝鮮の単独総選挙反対声明を発表したが、極右反共団体の西北青年会
の元会員で、思想的には李承晩に近い安斗煕によって暗殺される。安斗煕は、金九の暗
殺は李承晩の部下の金昌龍の指示であったとする証言を出版したが、金九熱愛者朴g
によって自宅で殺害された。一連の事件が李承晩の仕事だと金日成は語っている。

917: 名無しさんAA:18/06/24 07:06
     世界閲覧 30−15  小日本と中国人

 朝鮮半島が一時的でも中国を抜き、日本以上の先進工業国となったのは精力的に日本
が建設や投資を行った事による。教育制度や医療制度の整備などは日本以上の努力して
建設を行い、朝鮮半島の近代化にインフラへの莫大な投資を行い世界一の先進工業地帯
にしていたが、それは日産コンチェルンの野口遵がダム建設を背負った事による。その
為工場の多くは北朝鮮にあった。日本以上に電源開発した土地で敗戦時に、話し合いが
もつれた時金日成はダムからの電源を切って混乱させている。総督府長官が朝鮮防備の
軍事権を米国に移管して韓国が出来ると、すぐにこのダムを権利の北朝鮮との戦いが行
われ、一夜にして朝鮮半島の進軍は行われて占領された。内乱状態のまま侵攻された韓
国だったが、旧王朝皇族を殺し、大臣を経由しての、立法権、行政権、司法権や王公族
及び朝鮮貴族に関する多岐な権限を破壊つくした李承晩に、米軍は朝鮮総督が持ってい
た朝鮮防備のための軍事権を決して与えなかった。その為に、当時は中古になっていた
エブラハムの無敵戦車すら貸出ししなかった。朝鮮総督府には政務・官房・総務、内務
、度支、農商工、司法が設置され、中枢院、警務総監部、裁判所、朝鮮総督府鉄道、専
売局、地方行政区画である道、府、郡などの朝鮮の統治機構全体を包含しての議会決済
の近代政治が行われていた。しかし、結果は、かつての王朝役人の両班貴族が赤化し、
抗日に走らせ、敗戦で放棄させられると言う散々なものだった。それでも、日本人は 
悔やむ事はなかった。何故なら平和の為にやった事だったからだ。わざわざ終戦前に、
コンタクトをとって、上海で呂運亨、李裕弼、孫貞道などに韓国労労兵会を組織させ、
共産主義者・金立まで立てたが、しかし金九が放った呉冕稙と盧鍾均などの刺客により
、金立は上海で狙撃され自ら民族自立の建国は瓦解したのである。その後韓国民主党(
韓民党)が組織され、呂が期待していた議会制正当政府を無くした時国内では、李承晩
の命令で、金九らが暗殺に明け暮れた。こうして李承晩は朴憲永・金性洙・呂運亨など
を秘かに排除し続けて、治安維持の警察長官の金九すら殺して実権を握ったのである。
この歴史は日本の日韓併合だけではなく、日本に勝った米国に、内部抗争をしながらも
敗戦後は棚ぼた式で譲ってもらう卑しい国民性の持つ政権を意味していた。安昌浩は、
「クァン・ジャク」、金九は「ドク・グベ」、李東輝(イ・ドンフィ)は「イ・ベク」
、申圭植は「キム・ジェグァル」という仮名を使って、自ら暗殺集団となっていた。と
言われる。わざわざ戦前や戦中にインフラへの莫大な投資の結果、朝鮮半島で流行して
いた伝染病が予防され、その恩恵で生まれ助かった子供らは、抗日パルチザンのなれの
果ての暗殺集団だったのである。

918: 名無しさんAA:18/06/24 07:06
     世界閲覧 30−16  小日本と中国人

 こうした話にならないどんでん返しは、共産党社会は常にある。日清戦争で、多大な
労力や命を捧げて日本防衛に清から朝鮮半島を得た時も、三国干渉で朝鮮に返したが、
全くそうした血も流さず得た自分の地を朝鮮王朝はロシアに預けた為、更に日露戦争が
勃発する。日露戦争で勝った時も日本は何の賠償金も貰わず、アメリカはしたたかに、
交渉の中立を嘯いた。シベリア出兵時も本来アメリカがやるべきシベリア鉄道防衛や、
チェコ人保護は日本人が行って多大な犠牲と負債を背負った。米国はロシア皇帝に財宝
探しに行く数人の将校に大隊の軍隊の防衛が欲しかっただけだったのだ。朝鮮半島には
ロシアの南下しか弊害がなく米英が仕掛けなかったのは、全く国家の機能も食料の生産
も無かった上に汚かったからだ。第二次世界大戦後に中国建国も全く同じで、毛沢東は
全く国民など眼中に無かったし日清戦争後に日本が作った羊毛工場や繊維工場やリンゴ
農園などは、共産党はわざわざストライキを呼びかけ、破壊工作に及んだ。朝鮮半島で
は日韓併合後は欧州人は目を見張るほどの進歩に驚いた記述は数々ある。日本の農地開
発などにより食糧生産が増加して、併合当初米の生産量が約1千万石であったものが、
20年後には2千万石へと倍増したことにより、朝鮮半島の人口は、併合前の1906年(明
治39年)には、国勢調査で1600万人程度だったものが1940年(昭和15年)には 2,400万
人程となって、併合時(1910年)に平均寿命が24歳に満たなかったが、1942年(昭和
17年)には45歳へ伸びたという正式な健康調査結果が歴史に刻まれている。南京はも
ともと古い都だ明建国で、この地に大都城を築いて京師と称し都とした。北京遷都して
からも副都となり、南京と言われる。かつては金陵→建業→建康→江寧→南京と地名は
変化した。南京付近の農村では綿織物業が盛んで南京木綿は諸外国の大陸進出の足場産
業として中国の主要な輸出品工場地帯だった。江南地方の中央都市の一つと重要都市で
アヘン戦争では、この地が講和条約の締結地となり南京条約が締結された。その後天京
と言われ辛亥革命が起きると中華民国は南京に首都が置かれた。国共合作で蒋介石軍の
北伐が迫って、南京ではアメリカ・イギリス・フランスの領事館などは次々に襲撃され
る南京事件がおこった。米英は報復として南京を砲撃、中国側に多数の死傷者が出て、
蒋介石はこの共産党排除に上海クーデターを起こした。その後権力を握り南京国民政府
を樹立した。日中戦争が勃発すると、1937年に軍は日本軍に見せかけた首都の南京
攻撃を画策した。これが南京虐殺を起こし国際的な非難を浴びる。

919: 名無しさんAA:18/06/24 07:09
     世界閲覧 30−17  小日本と中国人

 南京事件は、捕虜の殺害、民間人を含む無差別殺戮、強姦、略奪、暴行、放火などの
両軍が行った 大小様々な戦争犯罪の総称である。そこには当然、南京大虐殺あるいは
南京虐殺と呼ばれる殺害事件も非道な行為としてその中に含まれている。盧溝橋事件前
に無駄な北伐を数回繰り返した蒋介石は、既にゲリラ活動して共産化を進めてる毛沢東
に側近であった何人もの幹部を国民党内に入れてしまい首根っこを掴まれた状態だった
。そうした中で大陸運営は日本は国民党軍と共に国民党政府として運営していた。だが
盧溝橋事件はそうした日中共同の軍事作戦を阻む決定的なものだった。今では日中戦争
と呼ばれる一連の戦闘なのだが、当時は上海クーデターは政府が政府の転覆をはかると
言う奇妙なもので、表向きは共産党排除の為の戦闘だったが、裏は米英と日本との対立
を煽る為の工作に溢れていて、国民党が共産党の手玉に取られたゲリラ活動に悩んでい
たのが実情だった。当然である12月12日、張学良と楊虎城は西安事件を起こして蒋介石
を拘束し、生殺与奪を握っり第二次国共合作を認めさせていたのだ。その為に当時既に
周恩来以外は政府要人達は対日で共産党に通じていたと言われるからだ。1937年(昭和
12年)こうして対日抗戦の上海戦の戦線が拡大していたが、多くの日本軍は事件鎮圧と
して国内事変を蒋介石の要請で鎮圧する形で中華民国の首都南京で展開していた。日本
軍は中国軍を追撃し、南京を陥落させ、日本軍からは南京攻略戦。しかし中国側からみ
て、上海戦と南京戦を併せて上海南京保衛戰で、国民党軍と日本軍を戦わせる絶好のゲ
リラ戦だったのである。これに輪をかけたのが朝鮮半島からの志願兵達である。日本の
上層部は対国家運営が先で石油供給路の確保だったが、侵攻した軍部は、この戦闘の最
中に南京事件(南京大虐殺)を発生させて、軍部の暴走が始まっていたのである。南京の
日本軍司令部は、南京城内で一万五〇〇〇人以上の捕虜を得たと発表したが、市内には
、このほか軍服を捨て、武器を隠し、平服を着た兵士二万五千人がいると信じられた。
「本報告の報じる南京における査問会議は、難民キャンプおよび非軍事化されたはずの
安全区に中国人将校23名下士官54名、兵士1498名が隠れていた。その内の一部
は掠奪の件で処刑されたということを明らかにした。これらの高級将校の一部は、大使
館、領事館、その他中立国旗を掲げた建物に避難している事が、特に強調された。これ
ら平服の中国軍将校及び副官は、明らかに多くの場合大量の軍需物資を隠匿していた。
某国大使館近くと特に曖昧に言及された。防空壕内の捜索では、軽砲1、機関銃34、
小銃弾42.000、手榴弾7000、砲弾500、迫撃砲2.000が発見された。記者側に日本の報道
官は中国軍は全大使館員が退去した後に構内に入りったものであることを認めた。

920: 名無しさんAA:18/06/24 07:12
     世界閲覧 30−18  小日本と中国人

声明は「いずれかの非中立的な外国が紛糾を起こしたと示唆しようというのではない」
、と国際社会を気を使った言動だった。その大使館の国名を挙げるように強く求められ
たが、「この問題については皆さん自身の回答にお任せしましょう。」と報道官はこう
言って返答を避けた。その報告書の主張するところによれば、彼らの中には、南京平和
防衛軍司令官王信労(ワンシンロウ音訳)がいた。かれは陳弥(チェンミー音訳)と名
乗って、国際難民地域の第四部門のグループを指揮していた。また、前第八八師の副師
長馬保香(マーポーシャン音訳)中将や、南京警察の高官密信喜(ミシンキ音訳)もい
るといわれている。馬中将は安全地帯内で反日撹乱工作の扇動を続けていた、と言われ
る。また、安全地帯には黄安(フワンアン音訳)大尉のほか17人が、機関銃1丁ライフ
ル17丁をもってかくまわれ、王信労と3人の元部下は掠奪、扇動、強姦に携わったと
いう。此処で不思議なのはジョン・ラーベの存在だ。日本軍は北へ向かうので、ジョン
・ラーベはあわててまわれ右をして追い越して、中国軍の三部隊を見つけて武装解除し
、助けることができた。全部で六百人。武器を投げ捨てよとの命令にすぐには従おうと
しない兵士もいたが、日本軍が侵入してくるのをみて決心した。我々は、これらの人々
を外交部と最高法院へ収容した。私ともう一人の仲間はそのまま車に乗っていき、鉄道
部のあたりでもう一部隊、四百人の中国軍部隊に出くわした。同じく武器を捨てるよう
に指示した。と書く。つまり先の武器にしろこの兵隊にしろ、それを指導していたのは
ドイツのこのラーベだった事は日本軍に報告されていた。中独合作から中共合作に変化
しその後アメリカからさえ支援を受けた蒋介石将軍だったが、実はそれが過去の援助が
消えた事では無かった。ここが中国のしたたかな戦略と性格である。「大陸報(チャイ
ナプレス」は中国の記録であるが、後に、毛沢東自身が「持久戦論」を決め込み延安で
ゲリラ活動を指令しながら自らはこの地に閉じこもリ「日本侵略者一年来の暴行」を大
きくアピールして来た事を告白している。曰く「日本軍がいたから我々は建国出来た」
というのである。延安は漢口から約1,000km、上海からは1,500kmも離れた山間の奥地で
あり、交通は不便でラジオ放送がそのまま受信できる環境ではなかった。南京で行われ
たことは時間を過ぎて新聞により伝わっていた。その新聞記事をジョン・ラーベ達が書
いていたのである。その意味でラーベ日記には共産党視点で書かれ、毛沢東軍が住民を
襲い食料を空にした事は書かれていない。実はそこにからくりがあって、国民党軍も又
食糧を持たなかった。さらにゲリラ活動は堤防爆破を行い、多くの川の氾濫を起こして
災害を作っていた。この共産党軍の司令所が第八八師団だったのである。

921: 名無しさんAA:18/06/24 07:15
     世界閲覧 30−19  小日本と中国人

 この南京大虐殺の南京事件の衝撃は、日本人はあまり解っていなかったと言える。実
はその日本人と中国人の受け取り方の違いこそが大きな違いである。日本の軍部も又、
こうした力に頼った支配からの脱却を強く望んでいた。日本では日中戦争などと言う言
葉はない。あくまで日華事変か支那事変なのである。盧溝橋事件(1937年7月7日)は、
突然の抗日宣言だったが、4日後の松井ー秦徳純協定では、共産党員のやった事として
報告を受け事態は収拾している筈だった。だがその後も中国共産党の国共合作によって
国民党軍内でも徹底抗戦の呼びかけ (7月15日)が始まり、又蒋介石までも「最後の関
頭」談話における徹底抗戦の決意の表明 (7月17日)を手のひら返しに行った。この為
に、中国軍は、日本軍及び外国人居留民に対する攻撃が行われた。この時卑怯にも多く
を日本軍の行為として事件前から新聞報道がなされていた事が解っている。こうして第
二次上海事変が連続して起こり、戦闘が本格化した。したがってこの行為の端緒を、盧
溝橋事件と考えた日中戦争などと言うのはこの時の実体ではない。また、少なくとも、
日本軍は3つの失態や失策の上にあった。一つは思わぬ攻撃を受けていた事だ。実は、
日本軍の中国駐留は味方として国民党応援部隊として駐留しの大日本帝国兵士は、この
突然の変節には対応していなかった。もともと中国大陸など必要なかった。満州国も、
樹立する必要はなかったが、山本五十六のメキシコ油田の権益がアメリカの領土購入で
うまく行かなかった上に、陸軍からの満州の油田開発を強く押されての樹立だったのだ
。国内では2・26事件まで起こして石原莞爾はそれを勧めていたのである。二つ目は
食糧供給問題だった。この必要もないと中国大陸だった。と言う理由は各国の租界と言
う領事館施設の様な外国人居留地の存在であった。国際的に日本は開国時から既に孤立
していた。国際社会の中にアジア人と言うのは居なかったに等しく、もし頼るならそれ
こそソ連ぐらいだったが、そのソ連の南下作戦で英国と共同歩調を取っていたのである
。西洋と東洋の違いは生活様式に限らず、思想や哲学或いは国や国際社会が求める物も
違っていたのだ。インド人に見る様に、神を信じなくても正義を求めた東洋に比べて、
契約社会の西洋は、一神教で絶対神を説きながら 他の神には不正義でも嘘でも構わな
い主義であったのだ。だから日本はその考えについていけなかった。第一次大戦後に、
ベルサユ宮殿の話合いで 植民地政策の撤回や有色人種の人権を持ち出し煙たがられた
が、充分にアジア社会の自立自尊を憂いての発言だったからだ。この八路軍が八八師団
として国民党軍に組み込まれている事を日本は全く重く見ていない。それどころかまだ
中国国民党軍は共産党ゲリラ部隊と戦っていると信じて止まなかったのである。

922: 名無しさんAA:18/06/24 07:16
 全く大陸の権益より石油権益がほしい大日本帝国の軍部だったが、足元の大陸のその
中国大陸の国民は実は飢えていたのである。度重なる共産党のゲリラ行動に悩まされ、
追剥盗賊の類の行動に蒋介石率いる国民党軍の正統政府は全く打つ手が無かったのであ
る。田舎から共産党討伐を求められ大部隊を移動し、その移動した兵士が次々と共産党
になり又国民党に戻ってくると言う国内事情に目がまわり、自給自足や国家建設がなさ
れなかったのである。当初は工場デモや都市破壊だったが、毛沢東が田舎に逃げると、
田舎の食料を奪い、国は税の徴収すら計れなかった。1937年(昭和12年)の日本と中華
民国(支那)の間で始まった、長期間かつ大規模な戦闘はそうした中での一方的な中国
の隠れた宣戦布告だった。南京事件はその中のエポック的な象徴された事件で、日本軍
が南京で相当規模の虐殺事件を含む数々の戦争犯罪を行った。というのは日本軍の戦闘
詳報や陣中日記から明らかな歴史的事実だろう。しかしその主張の先にはまるで日本の
みが、平和の中でそうした事が起こったような言い分である。他国のアメリカやドイツ
やソ連はもっと多くの虐待した死者が出て居る。にも拘わらず 中国の誇大宣伝による
そこに居留する人民の数十倍の死者と言うのが大きな嘘になっている。勿論南京事件は
日本軍が出征先で行ったことであり、日本側の記録も多数ある日本史である。だがそこ
に真実はない。もしそうした悲劇の反省があるなら中国に天安門事件など起こらない。
当時中国国民は八路軍によって、強姦、略奪、暴行、殺人、放火などあらゆる事が起こ
っていた。日本軍も又末端部隊における不法行為の実態は似たようなものだった。ただ
それには理由があった。私が聞いた幾人かのご老人の話は「いや〜ともかくひどかった
。死体も行為も。戦争なんてするもんじゃない。」と言う事だった。つまり極限状態で
食事すらままならない中の進軍だった。と言うもので、よくある南京入城写真は、その
前の戦う部隊とその後の入城部隊とは全く違う者達で、関東軍と言う現地部隊は全くの
ならず者達で、後からやって来て支那人も朝鮮人も多数いた。と言う事である。この、
中国の変節に対応していなかった。と言う事と食料自給などできなかった。と言う事の
二つの失敗は更にもう一つの大失敗を起こした。つまり中国軍も革命を目指す毛沢東軍
も食料を持たなかった。と言う事である。の戦略は、華北の日本軍を南下させる為に、
毛沢東は中国軍が華北まで後退し、主戦場を上海から華北へ華東へと誘致し「日本軍に
上海戦場を開かせ、「持久消耗戦略」を行い、アメリカやイギリス、ソ連などを日中戦
争に巻き込め。と蒋介石始め共産党ゲリラに命じて、自らは延安にこもり新聞を取り寄
せていたのである。これに日本軍のみならず中国軍も乗って兵士は餓死を逃れる為投降
してきたのだった。自軍をも餓死させる。これが戦後もとった毛沢東の戦略であり、今
までの北朝鮮の戦略だった。日本人には考えもつかない乞食物乞い戦法である。

923: 名無しさんAA:18/06/24 07:23
     世界閲覧 30―21  小日本と中国人
 韓国でも中国でも国民を欺く為に粛清の嵐が吹いて、人々は洗脳教育の中に埋没した
。「国民保導連盟事件」も反日名の下で、政府の粛清した事件で、埋没させたい超弩級
の韓国の傷だろう。会見で「馬山」の名もでた事件の舞台だ。保導連盟とは共産主義者
が転向し、韓国に忠誠を誓う人々と家族を再教育・統制すべく立ち上げられたと言う、
思想保護観察組織である。ところが、朝鮮戦争(1950〜53年休戦)勃発によって
連盟加入者名簿は虐殺リストにすり変わって粛清が行われた。北朝鮮軍がソウルに迫る
や初代大統領・李承晩(イ・スンマン:1875〜1965年)は、国民や韓国軍将兵
を見捨てて僅か数名で大統領府を捨てて逃亡し釜山に臨時政府を構えた。その際、日本
の山陰に米軍を通じて臨時政府を置く事を打診している。同時に連盟登録者や親日派を
「危険分子」として処刑するよう軍・官憲に命じた。北朝鮮側間諜が紛れた可能性は有
るが、大多数は無辜の民。食料の優先受給目的での登録した人も大勢いた。それ程食料
自給は圧迫していた。日韓併合で日本の力で二倍の農業生産が戦争で2割に落ち込み、
生きたままの猿やイノシシの、脳みそすら食べる習慣が流行る始末だった。政治犯らの
政権に目障りな人々の抹殺の為に米国の好きな「赤狩り」の言葉を利用したのだ。韓国
紙によれば60万〜120万人、政府も「子供を含む最低10万人以上」の国民を虐殺
し、排水溝や海に遺棄した暴挙を認めている。馬山でも廃坑や労働刑務所内での殺戮が
行われた。こうしておびただしい数の韓国人が難を逃れ、日本に密入国し、大半が居座
った。つまり戦争よりは政治犯としての殺戮に逃げたのである。南北朝鮮とイスラム国
の最大の共通項は凶暴で残忍である事だが、大量の死者・棄民を輩出しても 心痛まぬ
思考回路はその後のベトナム戦争でも発揮される。米軍の肩書でベトナム戦争で傍若無
人の殺人狂レイプ犯として韓国軍は名が知れ渡ってしまう。ベトナムでの聞き取り取材
ではこのような証言を得ている。「韓国兵はベトナム人を蔑み、人前で平気でビンタを
とる。ベトナム人には美人が多いので、女は皆、慰安婦にさせられた。韓国との混血児
は名乗り出ないので、はっきりとした数は分からないが、1万人以上いるはずだ。」と
韓国の有力左系新聞社の週刊誌『ハンギョレ21』によれば、「女性を強姦した後は、
殺害して、妊産婦の腹を胎児が破れ出るまで軍靴で踏み潰す」といった行為があたかも
鼻歌まじりに行われていたという。さらには、「強姦の被害者は判明している数の数倍
はいるだろう。なぜなら、韓国兵は犯した後に殺すからだ」という声もあったという。
この戦争では韓国軍兵士は「きれいに殺し/きれいに燃やし/きれいに破壊する」という
スローガンの下、各地で掃討作戦を展開したと伝えられている。こうして出来たの子は
ライダンハンで韓国人とベトナム人の混血とされる。

924: 名無しさんAA:18/06/24 07:43
 かつて戦後世界中の人は、中国や朝鮮は、このままではいずれ国として滅ぶであろう
。と予想した。今のイエメンの様に放っておくのが一番と決め込んでいた。ところが、
多くの日本人も自らが生活するのに必死であったのに、どこの血潮がうずいたのか隣国
の同世紀を生きる人間として冷たく放って置くのを潔しとはしなかった。何故か援助を
申し出たのである。勿論この正義のまともな人間的愛情行動に、裏切られる一抹の不安
はあっただろう。しかし臆することなく、隣国の人間として手を差し伸べたのである。
が、その不安は見事に的中する。つきまとって離さぬ韓国は日本を歴史捏造でいたぶり
、日本人を拉致・誘拐までして体制維持に終始する北朝鮮。自国を後進国と自認しては
援助を恐喝し、軍備拡張と威圧で国内外に、徹底した独裁の中国、「北朝鮮解放は核ミ
サイルの開発放棄」でじらす外道ぶりは、三国共通である。常に「我が国は国際法を順
守し法を破る者を制圧の為に軍増強をしている。平和を愛する我が国は他国に侵略に行
った事はない。」と、どの顔で言えたものか。海軍増強に東シナ海でフィリピン漁民を
機銃掃射で殺してまで無人島に軍港を整備し、歴史的にも朝鮮にベトナムにインドに隙
あらば戦い、今でも尖閣諸島は自分のものだ。と、いちゃもんをつける。この品格の無
さはかつての名門の中華の国とはとても信じられない。この哀れな中国・韓国は「歴史
の不完全燃焼」に身悶え、制御不能な嫉妬の炎は、贋物作りが名物になった「歴史の改
竄」も「歴史の新作」何処にこのエネルギー源があるのか。取り憑かれた国になった。
情念で日本を「口撃」している間は、不都合な史実は目立たないと思っているのだろう
世界中が知っている事実なのだが、韓国の為政者の反日カードは国家戦略であり続ける
。自分達が送り出した娼婦達の像は次々に飾られる。日本にも娼婦はいたし、米国にも
いた。しかし、慰安婦の様に現地の将軍の50倍もの給与のある人は慰安婦ぐらいだろ
う。中国の抗日ドラマでも、これほどあからさまな嘘には、恥ずかしくて出せないのが
普通だ。日本軍と戦った。全くのデタラメで日本軍は共産党とは戦っていない。南方の
スマトラ、ボルネオの油田を目指したのであって、勝手にゲリラ活動し中国を破綻させ
建国したのであって、そもそも江戸幕府の開港すら欧米列強の強制ではじまっている。
日清日露の戦争は清王朝が弱く、日本がロシアの暴力的南下作戦の壁となった話だ。日
韓併合はその欧米の借金特にロシアの取り立てに危機感から仕方なし李氏朝鮮の王朝に
応じたものだった。又満州国も満鉄の経営権で充分足りていたが、愛新覚羅の王朝復活
の熱に折れての事だ。南京大虐殺などする理由もない。南京入城は北京の国民党政府の
呼びかけで行って結局は起こった。戦時体制で軍部だから仕方ない。が上海爆撃を日本
に見せかけ、ゲリラ活動の堤防爆破被害よりには比べようもないくらい小さな事件で、
大々的見せつけて 今も抗日戦線を今も演じている事を我々は知らなければならない。

925: 名無しさんAA:18/06/24 19:17
 かつて戦後世界中の人は、中国や朝鮮は、このままではいずれ国として滅ぶであろう
。と予想した。今のイエメンの様に放っておくのが一番と決め込んでいた。ところが、
多くの日本人も自らが生活するのに必死であったのに、どこの血潮がうずいたのか隣国
の同世紀を生きる人間として冷たく放って置くのを潔しとはしなかった。何故か援助を
申し出たのである。勿論この正義のまともな人間的愛情行動に、裏切られる一抹の不安
はあっただろう。しかし臆することなく、隣国の人間として手を差し伸べたのである。
が、その不安は見事に的中する。つきまとって離さぬ韓国は日本を歴史捏造でいたぶり
、日本人を拉致・誘拐までして体制維持に終始する北朝鮮。自国を後進国と自認しては
援助を恐喝し、軍備拡張と威圧で国内外に、徹底した独裁の中国、「北朝鮮解放は核ミ
サイルの開発放棄」でじらす外道ぶりは、三国共通である。常に「我が国は国際法を順
守し法を破る者を制圧の為に軍増強をしている。平和を愛する我が国は他国に侵略に行
った事はない。」と、どの顔で言えたものか。海軍増強に東シナ海でフィリピン漁民を
機銃掃射で殺してまで無人島に軍港を整備し、歴史的にも朝鮮にベトナムにインドに隙
あらば戦い、今でも尖閣諸島は自分のものだ。と、いちゃもんをつける。この品格の無
さはかつての名門の中華の国とはとても信じられない。この哀れな中国・韓国は「歴史
の不完全燃焼」に身悶え、制御不能な嫉妬の炎は、贋物作りが名物になった「歴史の改
竄」も「歴史の新作」何処にこのエネルギー源があるのか。取り憑かれた国になった。
情念で日本を「口撃」している間は、不都合な史実は目立たないと思っているのだろう
世界中が知っている事実なのだが、韓国の為政者の反日カードは国家戦略であり続ける
。自分達が送り出した娼婦達の像は次々に飾られる。日本にも娼婦はいたし、米国にも
いた。しかし、慰安婦の様に現地の将軍の50倍もの給与のある人は慰安婦ぐらいだろ
う。中国の抗日ドラマでも、これほどあからさまな嘘には、恥ずかしくて出せないのが
普通だ。日本軍と戦った。全くのデタラメで日本軍は共産党とは戦っていない。南方の
スマトラ、ボルネオの油田を目指したのであって、勝手にゲリラ活動し中国を破綻させ
建国したのであって、そもそも江戸幕府の開港すら欧米列強の強制ではじまっている。
日清日露の戦争は清王朝が弱く、日本がロシアの暴力的南下作戦の壁となった話だ。日
韓併合はその欧米の借金特にロシアの取り立てに危機感から仕方なし李氏朝鮮の王朝に
応じたものだった。又満州国も満鉄の経営権で充分足りていたが、愛新覚羅の王朝復活
の熱に折れての事だ。南京大虐殺などする理由もない。南京入城は北京の国民党政府の
呼びかけで行って結局は起こった。戦時体制で軍部だから仕方ない。が上海爆撃を日本
に見せかけ、ゲリラ活動の堤防爆破被害よりには比べようもないくらい小さな事件で、
大々的見せつけて 今も抗日戦線を今も演じている事を我々は知らなければならない。

926: 名無しさんAA:18/06/24 19:18
     世界閲覧 30−23  小日本と中国人

 今度の日朝会談前には、金正恩を「指導者として頭が良く優れているから国を率いて
いる。彼なりの優秀さがある。」とトランプが褒めた事がある。これを聞いて中曽根が
中国への追加支援を決めた時の事を思い出す人も多いだろう。彼は「中国の友人の胡耀
邦が困っている。是非手助けしたい。」といい「国を治めるのは大変なんだ。」と言っ
た。同感である。中国を治めるというのは容易なことではない。当時、住民は生活物資
を供給してもらわないと暮らせないから、それを供給する側につきたがる。物資の供給
をしなかったら、絶対に住民の支持が得られない。それが中国の人民だった。だが日本
は占領地から鉄鉱石・石炭・綿花・塩とかを確保し供給していたにも関わらず、共産党
のゲリラ作戦でその分断が続いていたのだ。当然その供給も分断されていた。もし北京
政府の蒋介石がそれを放置し北伐に走らなかったら共産党に負ける事は無かったろう。
しかし地方の困窮や泣訴に追撃に立ち上がり、西安にまで出てあっけなく張学良・楊虎
城らに拉致監禁され西安事変を起こされてしまった。その後軍事委員会高等軍法会議に
までかけられたが張学良は特赦を受け軟禁状態に捨て置かれたまま反日を指示していた
。それは北京政府は共産党員に乗っ取られ抗日でまとまってしまったからだった。当然
蒋介石軍は内戦に備えて対日戦を手控えるようになって、戦争は共産党軍の散発的な、
ゲリラ戦が主なものとなっていった。戦争は続いたけれども、他方で日本の占領下中国
各地では日常生活が回復しつつあったのである。この時代の戦争は、戦闘だけをやって
それで勝てればいいというのではなかった。今の先進国の近代戦争とは様相が全く違う
。まことに変な戦争だった。鉱山を開発し、炭鉱を整備しなければならない。占領地の
経済の運営をやって、住民を食わせなくてはならない。国民党軍と共産党軍の敵対意識
は、日本軍に対する意識よりもはるかに強く対抗していたが、上層指導部は違っていた
のである。それを形だけ抑えて国共合作と称して日本を戦っているわけだから。日本軍
の前で国民党軍と共産党軍が戦闘を始めることは多々あったのだ。そうすると日本軍は
この南京虐殺の様に入っていかないで、黙って見ているわけである。馮玉祥(ふうぎょ
くしょう)・閻錫山(えんしゃくざん)なども日本軍の間では、お互いに攻撃しないと
いう一種の約束も出来ていた。それどころか、山西軍のある部隊で、給料が払えなくな
ったので、二百人くらいの兵隊を日本軍で引き取ってくれと密偵が言って来たこともあ
る。そんな戦争だったのである。中国人達は近代的インフラを整備する土台を日本人が
作ったという事実は、きちんと評価しなければならない。

927: 名無しさんAA:18/06/24 19:21
この中国人大陸には近代的インフラを整備する。その為に労働兵士の日本軍は進軍した
。又、日本の占領軍は、梅蘭芳・斉白石・周作人など文化人を尊重し、彼らに公職への
就任を打診し、たとえ拒否されても危害を加えるようなことはなかった。しかし、この
大日本帝国陸軍がいかに大部隊で、中国都市を制圧しても、広大な中国では所詮点と線
しか制圧できなかったのである。日中戦争時、日本は鉄道建設に情熱を注ぎ、1千キロ
の新線を中国に増設している。また速度も向上した。この鉄道は、日中両国に経済的に
驚異的利益をもたらした。日中8年戦争においても、日本はその占領地域において内戦
を停止させ、中国の統一・社会の安定と発展に相当な努力を払っている。当時日本は、
中国で鉄道・港湾(築港)・電力・医療・インフラ・金融・財政・経済発展・民政の安
定について、実に想像以上に大きく寄与している。しかしこれらの事実は無視されるど
ころか、むしろ歪曲・否定されて中国人は認識している。この産業や鉄道をはじめとす
る近代的施設に対する破壊・略奪を行ったのは、日本軍ではなく他ならぬ馬賊出身など
軍閥争いをしたの各政府・各武装勢力の中国人だった。そして住民の多数もそれに従っ
た。毛沢東は山奥でそれを眺めているだけで、ゲリラに発破かけていた。共産党中国が
日本の敗戦まで命脈を保ちえたのは、隠れて国際法違反の米ソの軍事・経済的支援があ
ったからで、決して「長期戦」「持久戦」などの勝利ではない。日本軍の進撃に対して
、中国軍はひたすら逃走・撤退を重ねるというのがこの戦争の通常パターンだったため
、日米戦争のような激戦は少なく、犠牲者もそれほど多く出てはいない。中国側犠牲者
も軍人が中心であり、国共内戦や共産党の階級闘争のように住民を巻き込んでの、逃げ
場のないような凄惨な殺し合いは、基本的に行われなかった。日本政府の推計によると
、1938〜45年までにおける日本の対中国投資の累計は、46億8千万円に達している。
( 華北蒙彊含む地域33.3億 華中10.4億 華南3.1)億円更に軍費の諸費に数
十億を調達している。当時の日本の国家予算は約20億円程度だから、どれだけ巨額か
投資されたかがわかるだろう。実に現地での食料増産を望んで仕事をしていたか。それ
は兵站線の確保がもともと困難としていたからだ。更に伝統的に日本軍の戦略の中には
「糧秣は現地で調達すべし」というのがあって、この戦争も同じだった。軍票を預かり
発行し経営する。それはシベリア出兵以来一貫した日本陸軍のやり方だった。現地調達
は日清戦争の時に清国兵があまりに弱く、清国は平壌に糧秣を山にように積んで陣をた
て「さあ、来い」構えたのだ、そこに山県有朋の第一軍が攻めていくと、その糧秣を置
いてすぐさま逃げてしまい、第一軍はその食糧を食べて新たな補給なしでやっていけた
経験からだ。同じことが旅順でも起き、そうしたことで「現地調達」となっていた。

928: 名無しさんAA:18/06/24 19:22
     世界閲覧 30−25  小日本と中国人

 戦後になって、マッカサーは余生の中で、元アメリカ大統領ハーバート・フーヴァー
と連合国軍最高司令官マッカーサーは「太平洋戦争とはいったい何だったのか」を3日
間にも渡って話し合ったと言う談話がある。そのとき、日本人なら誰も思いもしないよ
うなことをフーヴァーは口にしたと言う。「太平洋戦争は、日本が始めた戦争じゃない
。あのアメリカの『狂人・ルーズベルト』が、日米戦争を起こさせた。気が狂っている
と言っても精神異常なんかじゃない、ほんとうに戦争をやりたくてしょうがなかったの
だ。その欲望の結果が日米戦争になったんだ。」とその言葉を聞いて、マッカーサーは
はっきりと同意した。私たち日本人は、小さい頃から「日本が真珠湾を宣戦布告もなし
に攻めて戦争を起こした。」「日本は残虐な悪い国だ。」ということを新聞でも、テレ
ビでも繰り返し教わる。だが真実は、今から数年前、我々が耳にしてきた太平洋戦争の
常識とは真逆とも言える証言が沢山出てきてそれが表にでない。47年公開を禁じられ
たフーヴァー元大統領の回顧録は、そうした真実を次々と浮かび上がらせる。ハル・ノ
ートから始まる真珠湾攻撃、原爆投下、終戦に、アメリカでは今はこの証言をもとに、
歴史の見方が、世界の見方が少しずつ変わり始めている。しかし日本の大手メディアは
一向に取り上げないし、日本人ににこの事実を大きく受け止める世論も育たない。太平
洋戦争に隠されたその大嘘の数々は、歴史的転換点が如何に白人優位主義の下に行われ
たかが解る。この太平洋戦争と言われる第二次世界大戦も、公式に天皇陛下は各国大使
館大使を呼び寄せて公式に声明まで出していて、その時に米英やドイツの記者さえいた
。しかしいまでも奇襲作戦だったからと真珠湾奇襲攻撃と称される。米国は当然のごと
くおとしいれた事は明白であり、ハルノートがあっても無くても戦争に追い込んだのだ
。終戦直後の中国国防部発表は、日中戦争での死者は175万人(軍人のみ)だった。
中国が言う「日中戦争で3千五百万人が日本軍に殺された」なら、日本兵全員が「百人
斬り」をしなければならない。対して日本人は朝鮮や台湾人も日本国籍を持っていた為
700万人が動員され230万人が戦死か行方不明になっているのだ。勿論国内被災者
も大勢いよう。この正確な数字に負けない数字を中国でもと言う腹積もりの盛った数字
だろうが、中国自体戦争は、無かったに等しい物だった。日中戦争中ででも蒋介石でも
基本的には反日ではなく、占領各地の自治政府や汪兆銘政権の樹立を見ても、親日派が
多数存在したことが事実である。これが共産党には気に入らない。だが共産党員は支持
されていなかったし、殆どの死者がこのゲリラ工作の死者なのである。


929: 名無しさんAA:18/06/24 19:22
     世界閲覧 30−26  小日本と中国人

 良くなぜ東南アジアは戦争で弱かったの。何で日本自体は戦争に敗けたの。と言う質
問が若い人から聞く。しかし、その答にインフラ整備に重きを置いたから。とは誰も言
わない。実は弱かった理由に福沢諭吉の声の中にある。同じアジア主義者だった福沢諭
吉は、のちの頭山満ら玄洋社系の志士たちと異なり、早々にアジア主義を捨て脱亜を唱
えるにいたった。なぜか。諭吉が誰よりも朝鮮と朝鮮人に大きな期待をかけていたから
ではある。また中国人に大きな未来があると期待していたからだ。だが期待大きければ
失望も又大きいものであった。国民の民族性とは文化に現れるものである。かつて鎖国
で国際化しなかった日本に於いて、市民から選ばれる議会や大統領選を素晴らしいもの
として開国し、アジアが列強の牙にかかりアジアの長としての中国と隣国としての朝鮮
に大いなる自主独立の尊厳を求めたのは当然だった。だが あまりにも発達発展のない
国土と思想に諦めたのは別に福沢諭吉のみではなく、多くの日本人の当時の見識だった
。モラルが白人中世の以下ものであるというのは、じつのは中国兵を非難する際には、
しばしば使われた形容である。「フン族のように」とはドイツ皇帝が言ったものだが、
実際、当時の中国兵のふるまいはまさに中世のそれ以下というほかにない。中国共産党
のシンパであったかのアグネス・スメドレーでさえ当時、中国で一般的に行われていた
刑罰を指して「これは中世よ!」とヒステリックに非難している。その中枢が共産党の
社会だったのである。1934年10月、蒋介石軍に敗れた毛沢東の共産党軍は根拠地
の中国南部を脱出し、北西部へと逃れた。いわゆる大長征である。1936年秋、2年
にわたる逃避行の末、共産党軍はやっとソ連国境に近い延安に到着した。しかし、そこ
は不毛な黄土台地にある中国でも最も貧しいとされる地域であった。加えて、その兵力
は出発時の十分の一まで激減していた。兵隊はいないし、武器もない。これでどうやっ
て戦うか。いや戦いどころではない。今いる兵隊たちをどうやって食わせていけばよい
のか。毛沢東は頭を抱えた。しかし彼は巧みに張学良・楊虎城を抱き込み兵を預けて、
影で指令する事を決め込んだ。領民への略奪などで全く協力が得られなかったからだ。
兵士を預かったものの楊虎城は兵の食料すらおぼつかず、先の密偵による日本軍で引き
取ってくれと言う懇願だ。しかし張学良は頭が良くそれを行わず、共産党が暴れて困る
討伐に兵を挙げてくれ。と被害者の振りを装ったのである。こうして日本軍が止める事
を聞かず自軍を西安に向けた。1936年12月、こうして張学良が突然蒋介石を監禁
し、「共産党への協力と一致抗日」を迫ったのである。いわゆる西安事件である。

930: 名無しさんAA:18/06/24 19:23
 これによって一気に共産党員は生気を得た。ここまで残った者は殆どが毛沢東の子飼
いのシンパであり妄信する熱狂的な共産党員であった。この殆どを国民党に迎え入れて
蒋介石軍は北京政府に帰ってくるのである。これは、降って湧いたような天佑がであっ
た。ゲリラ部隊が中央政府の役職に次々と着任したのだ。崩壊寸前の共産党にとっては
文字通り最後の命綱であった国共合作が出来たのである。これは蒋介石の甘さであった
し、同族国民としての温情でもあったのだが、それらは次々と羽を広げた悪業を成した
。1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋で謎の発砲事件が発生。日中の小ぜり合いが
発生したのである。世に言う盧溝橋事件である。戦後にこれが新しく国民党軍に入った
劉少奇の部隊の抗日活動だった事を毛沢東自身が誇らしげに言っている。その後劉少奇
は第二国家主席として数々の汚ない活動をする。国共内戦・チベット侵攻・ウイグル侵
攻・朝鮮戦争・中ソ対立・大躍進政策・中印戦争・文化大革命・林彪事件・四五天安門
事件・中越戦争・中越国境紛争・改革開放・一人っ子政策・六四天安門事件と数々の多
く歴史の裏に居る。毛沢東・周恩来・劉少奇・朱徳・華国鋒・林彪・江青・ケ小平まで
いずれも現代の独裁共産党の指導部の面々だ。胡耀邦や趙紫陽が困って日本に行く事に
その援助資金で抗日記念館を建てさせたぐらいの大物となっていた。事件発生前からそ
の電文は打たれ、全国民に向けて一致抗戦を訴えた。事件を事前に打ち合わせて異例の
段取りが組まれていたのだ。あわや全面衝突かと危惧されたが、日本政府は不拡大方針
を堅持し、直後に結ばれた現地停戦協定によって小ぜり合いはいったん収束に向かった
。共産党は落胆しただろう。日中が衝突すれば内戦より抗日を求める世論が高まり、そ
れだけ国共合作の気焔を上げて共産党にとって追い風となるはずだった。停戦協定が結
ばれたその直後からは、日本人をねらった殺害事件や挑発事件を執拗に中国各地で頻発
させて停戦協定を事実上無効にした。7月13日 大紅門事件(爆殺により日本兵4名
が死亡)7月25日 廊坊事件(日本軍が銃撃を受ける)7月26日 広安門事件(日
本軍が銃撃を受ける)7月29日 通州事件(日本人居留民223名が辱貶惨殺される
)8月9日 大山事件(大山勇夫海軍中尉が殺害される)などだ。特に大山事件は当日
に元外交官船津振一郎を介した和平交渉(船津和平工作)が予定されていた。この会談
では日本側は、満州事変以後、日本が得た権益のほとんどを放棄するつもりでいた。そ
こまでして紛争を終結させようと思っていたのである。こうした中でも外国人軍事顧問
の教唆を受けた蒋介石は8月13日、上海の日本人租界に向けて突然攻撃を開始した。
日本軍のふりをして第二次上海事変の勃発である。一連の動きから蒋介石が強固な開戦
意志を持っていると判断した日本政府は、それまでの不拡大方針を撤回。8月15日、
「南京政府の反省と懲罰」のためとして日本軍の上海派遣を決定した。

931: 名無しさんAA:18/06/24 19:24
     世界閲覧 30−28  小日本と中国人

 第二次世界大戦中の日本軍がいかに残虐であったかという言説が一人歩きしている。
もちろん日本軍残虐説はただのプロパガンダだ。だが、一部にはそう思われても仕方の
ない行為があった可能性は否定できない。しかし、ではなぜそのような残虐な日本兵が
いたのか、といえばおそらく中国共産党戦線での経験がそうさせたのではあるまいか。
この戦争で漁父の利を得た毛沢東は、幸運なだけで無能な指導者だったのは戦後中国の
国内事情が示している。この戦争は日本がしかけた侵略戦争だったという人は社会党の
挨拶と同じに無知すぎる。この支那事変の発生後、何十回と中国政府との接触をし、更
に公式にも和平交渉を何度も試みたという事実がある。しかもそれは戦線が拡大した後
でさえ複数回にわたって試みられている。以下はそうした和平交渉の主なリストである。 1、現地停戦協定(松井-秦徳純協定)1937年7月11日
 2、宮崎竜介和平工作 1937年7月19日
 3、船津和平工作 1937年8月9日←
   同日午前、大山大尉殺害事件が発生し中断
 4、トラウトマン和平工作 1937年11月5日
 5、汪兆銘和平工作 1939年?1940年
 6、桐工作 1939年〜1940年
これらは国民の心境も日本の意向も既に充分国民党政府に伝わっていた事を示すものだ
。しかし哀れにも、共産党ゲリラ部隊はネズミが母屋をかじって壊すように破壊活動に
勤しんだのだ。戦後に中国共産党が発行した『初級事務戦士政治課本』というパンフレ
ットには、大きく「盧溝橋での発砲事件は党中央の指令を劉少奇同志が実行に移したも
の」と称賛の記事が記されている。又、1964年、訪中した日本社会党の委員長は、
素直な気持ちで過去の戦争への謝罪を述べたのだが、それに対し、毛沢東はこう答えた
。「何も申し訳なく思うことはありません。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたら
し、中国人民に権力を奪取させてくれました。みなさんの皇軍なしには、われわれが権
力を奪取することは不可能だったのです。」と言って周恩来などの他のものに「ありが
とうと言って余りある。そうだろう皆んな。」と呼びかけた。日中国交が目の前にぶら
下がっていたとは言え、この現実を把握しての姿勢は、日本も当然知っていると思って
言ったものだった。と言われている。


932: 名無しさんAA:18/06/25 10:51 ID:sFs
     世界閲覧 30−28  小日本と中国人

 第二次世界大戦中の日本軍がいかに残虐であったかという言説が一人歩きしている。
もちろん日本軍残虐説はただのプロパガンダだ。だが、一部にはそう思われても仕方の
ない行為があった可能性は否定できない。しかし、ではなぜそのような残虐な日本兵が
いたのか、といえばおそらく中国共産党戦線での経験がそうさせたのではあるまいか。
この戦争で漁父の利を得た毛沢東は、幸運なだけで無能な指導者だったのは戦後中国の
国内事情が示している。この戦争は日本がしかけた侵略戦争だったという人は社会党の
挨拶と同じに無知すぎる。この支那事変の発生後、何十回と中国政府との接触をし、更
に公式にも和平交渉を何度も試みたという事実がある。しかもそれは戦線が拡大した後
でさえ複数回にわたって試みられている。以下はそうした和平交渉の主なリストである

 1、現地停戦協定(松井-秦徳純協定)1937年7月11日
 2、宮崎竜介和平工作 1937年7月19日
 3、船津和平工作 1937年8月9日←
   同日午前、大山大尉殺害事件が発生し中断
 4、トラウトマン和平工作 1937年11月5日
 5、汪兆銘和平工作 1939年?1940年
 6、桐工作 1939年〜1940年
これらは国民の心境も日本の意向も既に充分国民党政府に伝わっていた事を示すものだ
。しかし哀れにも、共産党ゲリラ部隊はネズミが母屋をかじって壊すように破壊活動に
勤しんだのだ。戦後に中国共産党が発行した『初級事務戦士政治課本』というパンフレ
ットには、大きく「盧溝橋での発砲事件は党中央の指令を劉少奇同志が実行に移したも
の」と称賛の記事が記されている。又、1964年、訪中した日本社会党の委員長は、
素直な気持ちで過去の戦争への謝罪を述べたのだが、それに対し、毛沢東はこう答えた
。「何も申し訳なく思うことはありません。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたら
し、中国人民に権力を奪取させてくれました。みなさんの皇軍なしには、われわれが権
力を奪取することは不可能だったのです。」と言って周恩来などの他のものに「ありが
とうと言って余りある。そうだろう皆んな。」と呼びかけた。日中国交が目の前にぶら
下がっていたとは言え、この現実を把握しての姿勢は、日本も当然知っていると思って
言ったものだった。と言われている。


933: 名無しさんAA:18/06/25 10:51
     世界閲覧 30−29  小日本と中国人

 不思議な事に戦時中に、「中華民国を創設した革命の指導者たちは、偉大なアメリカ
の政治思想家たちの啓発を受けました。また数千の中国人学生がアメリカに留学し、ア
メリカの思想と理想を持ち帰っています。中国は、アメリカの人民が我々のために戦っ
てくれるのを望むものでは決してありません。」「しかし、中国が精神的支持と物質的
援助を必要としているのは確かです。偉大な(ルーズベルト)大統領の指導下に中国を
全力で支持し、国際関係における法律と秩序を回復し、永く太平洋の平和を保たんこと
を心から希望します。」とカイロ会談に応じた蒋介石は声明を発している。今又全く同
じ声明文が出た。法と秩序を破っているのは中国でありながら、昔も今も恬(てん)と
して恥じない中国である。ルーズベルトは大統領になる前、選挙公約で戦争には中立を
維持し、アメリカ人を戦場に送ることはしないと約束している。しかし、その後に彼は
戦争を欲し日本を扇動した。戦争の口実を得るためにルーズベルトはアメリカに対する
敵国からの攻撃を必要としたのである。ルーズベルトはあらゆる手段を使ってドイツを
挑発した。しかしもちろんドイツはその手に乗らなかった。第二次世界大戦に参戦する
以前からアメリカ海軍は大西洋でドイツの潜水艦に攻撃を加えていた。しかしヒトラー
は反撃しなかった。それが囮だとわかっていたからだ。アメリカにはドイツに圧力をか
ける手段がかぎられていた。というよりすでに考えられる限り最大級の圧力を受けてい
た当時のドイツにはそれ以上の圧力をかけても効果がなかったのだ。ユダヤ集会では、
スチムソンもマーシャルも、アメリカを参戦させないでは勝つ事は出来ないが、どうし
て参戦させるかについては知恵が出なかった。ルーズベルトは、彼らに可能なギリギリ
の対ドイツ戦争挑発を行ったがヒトラーは乗らなかった。彼にはもうトリックの種は残
されていなかった。「言葉を換えて言えば、チャーチルは初めてルーズベルトに会って
大西洋憲章を書いた時、アメリカは日本が我々を攻撃しようとしまいと対日開戦すると
云えたという。これはチャーチルに明らかに満足のいくある種の保証を得たのだと喜ば
せた。更に言葉を換えれば、我々はパールハーバー以前に、大統領によってこの戦争に
立候補していたのだ。」アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領はどういうわけ
か日本に深く関与していくことになる。大統領は突然、日本が中国を侵略している。と
非難しはじめたのだ。当時、日本は既に10年に渡り、中国と戦い続けていた。それも
前回説明したようにそれは日本が先にしかけた戦争ではなかった。日本はたんに巻き込
まれた事変であった。また、日本はアメリカに対して侵略的な行動を執っていた訳でも
なかった。にも関わらずアメリカは日本と中国との争いに突然、口をはさみ始めたのだ。

934: 名無しさんAA:18/06/25 10:52
     世界閲覧 30−30  小日本と中国人

 このようにして真珠湾攻撃は、戦争に向かって微妙な政治的罠を、ルーズベルトに成
功させたのです。この破局の一ヶ月後チャーチルは議会でこう語っています。「アメリ
カは自身が攻撃されなくてさえも、極東の戦争に加わり、かくて最後の勝利が保証され
る、と云う可能性は、私がルーズベルト大統領とこれらの問題を語り合った大西洋会談
(1941年8月14日)以来のものである。」と高らかに議会で自画自賛している。
しかし、日本だけは、真面目に必死で中国国内建設していた。米国は日本に圧力をかけ
る余地があった。島国で資源が絶対的に不足していた日本は、産業に必要な資源の多く
を輸入に頼っていたからだ。かねてからのユダヤの世界征服計画通り、ルーズベルトは
日本に圧力をかけた。そして最後通牒になる処置を何回も送りつけた。それを呑まなけ
れば禁輸措置を課すぞと脅し続けたのである。その条件には中国本土および満州からの
撤退も含まれていた。このうち満州についてや満州鉄道利権などは本来中国の主権が及
ばない地域だった。この条件を呑まなければ日本が必要としていたくず鉄も、そして、
もっとも不可欠な石油も日本には売らないと通告していたのだ。よく理由にインドシナ
に日本軍による侵略したから。などと飛んでもない嘘が聞こえる。まったく事実でない
。日本はインドシナを侵略などしていない。日本はインドシナ(今のラオス、カンボジ
ア、ベトナムだが)宗主国であるフランス政府の許可を得て、いくつかの拠点に軍隊を
進駐させただけだ。背景にあったのは英米による国民党政府への軍事援助だ。日本はそ
れをやめさせるためインドシナに進駐したのだ。その時国際法違反の物資が援蒋ルート
上の倉庫から見つかった。戦前の話である。この処分に関して紛糾したが一つも記事に
はなっていない。その頃フランス政府はビシー政府であり、ビシー政府は当然米英を含
む連合国から正統なフランス政府としては承認されていなかったが、一次戦後は米国の
農産品を英国の船で輸入していた。正統かどうかは別にして日本は、当時フランスを実
質的に統治していたとしてフランス政府の許可を得た上でそうしたことはやっていた。
アメリカは連合国側は、ドイツがフランス領土に攻撃をしかけるまでにはビシー政府を
承認してスペイン経由で兵を送っている。りルーズベルトはどうしても介入したかった
のだ。ルーズベルトは選挙の際、外国との戦争にアメリカは参戦しないという公約を掲
げて当選した。彼はその後、それに修正を加えた。アメリカ合衆国への攻撃は外国との
戦争ではなく自国に対する戦争だからその場合、公約違反にはあたらないとしたのだ。
このあたりを裏付けるマッカラムメモが資料としてある。そこにはどうしたら日本を、
挑発し、アメリカに対して最初の一撃を打たせるか、そのための策略が記されている。

935: 名無しさんAA:18/06/25 10:52
     世界閲覧 30−31  小日本と中国人

 アジアの「植民地支配からの解放」「自立自尊の独立」は日本の悲願だった。この萌
芽でアフリカより三十年独立が早かったし、その他の国も自衛の自国独立を果たした。
当時、独立のために立ち上がり戦った人は多い。しかし中国韓国などは自らに王朝を壊
し国を作ったと叫ぶ。そして今は「侵略された」「植民地になった」「搾取された」と
都合の良い声をあげる。辛亥革命は、世界史的にみれば、きわめて異常な革命である。
元々は「滅満興漢」「駆除韃虜」というスローガンが示すように、辛亥革命の元は本来
、満州族が支配する清朝からの分離をめざした漢民族による独立運動だった。ところが
孫文が逃げて来て、革命後に樹立された中華民国は、それらをいつのまにか「五族共和
」というスローガンにすりかえた上、満州、内蒙古、チベット、ウイグルなども領土の
その版図に組み込んでしまった。革命のどさくさにまぎれて旧清朝領土までもちゃっか
り自分のものにしてしまったのである。此処に馬賊張作霖が日本に頼った理由がある。
この正悪逆転思想は中国にはちょいちょい出て来る。普通文化の進歩に逆転はない。戦
後、長い間植民地支配を受けていたインドは宗主国であるイギリスから独立したわけだ
が、仮に、イギリス本土はもちろんのこと、その旧植民地であったマレーや中東、さら
にアフリカ諸国や北アメリカ大陸までも含めすべて自分たちの領土だ。などとインド政
府が主張するだろうか。当然ながら、馬鹿なことをいうなとインド政府は世界中から袋
だたきにあうだろう。ところが、中華民国や朝鮮にかぎっては、どういうわけか、そう
はならなかった。独立した新国家が、かつての宗主国の領土をそっくり受け継ぐという
異常事態が国際社会でそのまま認められてしまったのである。新政府での重鎮となった
袁世凱将軍は、清朝時代から満州に利権をもっていた。袁世凱にしてみれば、満州が他
人のものになってしまうのは不都合なことだった。またのちに満州に覇を唱えることに
なる張作霖もその当時、すでに満州に地盤を築いていた。こうした状況であれば、満州
の利権を失うことをおそれた当時の実力者たちが裏で満州併合を画策していたとしても
不思議ではない。何より過去の騎馬民族の王朝はそうした慣習があったのだ。そして、
これがおそらく中華中心主義思想の主体である。こうした騎馬民族思考の最大の理由で
中国や朝鮮は冊封国家を経営して来たのである。すでにユーラシア大陸の半分ともいえ
る広大な領土をもちながらも、尚チベットやウイグル、さらに尖閣諸島までも自分達の
領土だといってはばからない程貪欲な怪物国家の、現在の中国は、清朝の版図を継承す
ることを望んだ政府よりも、むしろどん欲国民である。つまり中国人自身の姿なのだ。
その強欲さは世界を見回しても類がない。これが統一朝鮮の思想と重なっている。

936: 名無しさんAA:18/06/25 18:08
 まず満州人が独立を望んで日本に来ていたことは、辛亥革命前にも後にも、数度にわ
たって発生した満州独立または清朝復活をめざす武装蜂起やクーデター事件に、多数の
日本の放浪浪人がいた事で解る。その熱望は並々ならぬものであったのは明らかである
。宗社党という満州人グループによって1912年と16年の二度にわたって引き起こ
された武装蜂起事件はいずれも失敗に終わった。とはいえ、その当時、満州人が抱いて
いた中華民国への反発と独立国家樹立への強い願望があったことを示している。仏教徒
として宗門あげて援助したり、日本に写本や仏像など送って保護を求めたりもしている
。一方、新たな支配者となった中華民国政府が廃帝となった溥儀を北京から放逐せず、
紫禁城に幽閉し続けたのは、そうした満州人の独立運動をけん制する為と言われる。仮
に溥儀が故地である満州に戻ってしまったら、満州人による満州独立運動に大義名分を
与えることになってしまう事で大きく中国新政府は反対したのである。当時の権力者達
がおそれ、北京から出られないよう事実上の軟禁状態においた理由である。弟愛新覚羅
溥傑(あいしんかくら ふけつ)、は溥儀を常に支えていた。紫禁城を追い出されたの
は1924年10月の馮玉祥と孫岳が起こした第二次奉直戦争に伴うクーデター(北京
政変)が発生しての事だった。直隷派の曹混が監禁され馮玉祥と孫岳が北京を支配する
こととなった為だった。馮玉祥と孫岳は政変後に、帝号を廃し清室優待条件の一方的な
清算を通達し、紫禁城に軍隊を送り溥儀とその側近らを紫禁城から強制的に退去させた
。これを受けて日本政府は北京政変で追われた彼らを、天津の日本租界での庇護した。
その後関東軍の主導で建国された満洲国の執政に就任、満州国軍大元帥や満州国協和会
名誉総裁などを兼任し、帝政移行後の大満洲帝国で皇帝に即位した。満州国皇帝として
は元号から康徳帝と称した。ところが残念な事に、1945年のヤルタ会談でのイギリスや
アメリカとの密約により、突如ソビエト連邦政府は、モスクワの駐ソ連日本国特命大使
に日ソ中立条約の破棄を通告し、同時にソ連軍が北西の外蒙古(現在のモンゴル国)及
び北東の沿海州の2方向からソ満国境を越えて満洲国に侵攻したのである。それは悲惨
なものだった。阿鼻叫喚の中を潜り抜け、兵力を南方諸島にとられて駆けつける事が出
来なかった関東軍は一方的に敗け、溥傑やその家族、満洲国の閣僚や関東軍の上層部達
は、ソ連進撃に首都の新京を放棄して、朝鮮に程近い通化省臨江県の大栗子に避難した
。しかし太平洋戦争(大東亜戦争)に日本が敗北し、その2日後の8月17日に国務院
会議が満洲国の解体を上奏、8月18日には大栗子で溥儀が満洲国解体を自ら宣言し、
皇帝を退位した。その後は日本軍機が、経由地の奉天の飛行場で赤軍空挺部隊に捕らえ
られた。その後ソ連領内に移送され、ソ連極東部のチタとハバロフスクの強制収容所に
収監された。

937: 名無しさんAA:18/06/25 18:14
     世界閲覧 30−33  小日本と中国人

 よく中国人の反日感情の原点は、第一次世界大戦中、日本が中国におしつけた「21
か条の要求」であるなどと言われる。しかしながら、その21か条の要求の多くもこの
満州問題にからむものであった事は知られていない。しかし、この21か条の要求など
が日本の帝国主義的体質の露骨な現れであった。という実しやかな批判や虚実の説が、
流布されて続けてきた。自虐史観の擦り付けで真っ赤な嘘である。実際にはこの要求は
、政敵を説得する口実にするためできるだけ強硬なポーズをとるよう袁世凱側が日本側
に頼んだものであり、いわば自作自演の芝居であったことが、最近の研究によって明ら
かにされている。袁世凱将軍は中国清朝末期に兵となり、義和団の乱では袁世凱は自ら
の治下での反乱を逸早く鎮圧し、新建陸軍の強さを証明した。西太后を戴く朝廷は各省
の指導者に義和団と結んで欧米列国軍を攻撃する命令を下すが、袁世凱は、両広総督・
李鴻章、両江総督・劉坤一、湖広総督・張之洞らと協調し、諸外国と東南互保の盟約を
結び、朝廷の命令には従わず領土と軍隊を保全した。こうして結局義和団の乱は列国軍
によって鎮圧され、西太后に動員された北京周辺の清軍はほとんど壊滅し、袁世凱の力
は相対的に強まることとなって清王朝は終焉を迎えた。軍内の洋式化を推し進めていた
袁世凱にとって、変法派の主張は好ましく思えるもので彼自身、梁啓超の学習サークル
である強学会に所属していたこともある。その為海外の大きな兵力差は既に知っていた
のである。海軍総帥李鴻章は光緒27年(1901年)、没するに当たって袁世凱に北洋通商
大臣兼直隷総督を引き継ぎ、北洋軍が誕生する。従来の新建陸軍事務に加え、直隷総督
と北洋大臣を得たことで政治的な立場も上がった。その後、栄禄ら有力者が没していく
中で権勢を強めた。日本軍にも近づき、日露戦争時、清は表面上は厳正中立を表明して
いた、しかし袁世凱は諜報や馬賊隊編成などで日本に協力し、諜報将校を日本軍の特別
任務班を仕立てて派遣した。光緒29年(1903年)11月中旬、袁世凱は青木宣純と天津で
会見して、「情報は入り次第日本側に渡す。馬賊の使用に関しては、その蜂起を直隷省
以外で行うのなら支障ないので、秘密裏に援助しよう。」と返答した。袁世凱は選りぬ
きの将校らを満洲・蒙古の奥深く、露清国境付近まで潜入させた。当時ロシアの南下に
よる馬賊の侵入は長年の中国の脛となっていたのだ。この地の混乱や侵入は清王朝にと
っても甘んじて受けがたい屈辱だったのである。中国初の軍人政治家で北洋軍閥の総帥
となった。大清帝国第2代内閣総理大臣を務め、清朝崩壊後は第2代中華民国臨時総統
、初代中華民国大総統に就任。一時期中華帝国皇帝として即位し、その際に使用された
元号より洪憲皇帝と呼ばれる。悪しき軍閥の元を作った人でもあった。

938: 名無しさんAA:18/06/25 18:15
 北朝鮮核開発に限らず、欧米は常にこのアジア政策特にこの極東政策は失敗している
。それは欧州社会が遠い場所だからかも知れないが西洋文化と違いがあるかも知れない
。東洋には「敗けの美学」と言う「負けや失敗を恐れない」と言う思想がある。つまり
正統派や王道覇道の正義感がそこに漂っているのだ。一つの滅びても正統や清流を重き
に於いた美学美意識である。だからこうした皇帝や過去の英霊には畏怖をするのである
。この中華民国建国時に満州併合は、国際社会にとっても歴史的な誤りであった。なぜ
なら、満州が辛亥革命後、ただちに独立国となっていたならば、その後に発生しただろ
う東半球全域を覆う大規模な世界戦争は、避けることができた可能性さえあるからだ。
そもそもが、満州事変から支那事変、そして太平洋戦争へと続く日中の、さらには米国
をも巻き込んだ一連の戦争の原因は、突き詰めてていえばみなこの満州問題に帰着する
。すなわち、これらの戦争の背景にはすべて満州の権益問題が関係しているのだ。もち
ろん、現実は欧米の欲望とロシアの南下があってそう単純ではないのだが、ここで概略
的に言い切ってしまえば、問題の根底にあったのは第一に満州をめぐる日米の主導権争
いであり、第二にそれをいたずらに複雑化させた中国共産党の存在でしかない戦争だ。
20世紀はじめ開放宣言以来、遅れて来た米国が中国市場への進出を画策していた事は
よく知られた事実だ。日露戦争の後、アメリカの鉄道王・ハリマンが日本に南満州鉄道
の共同経営を提案したことなどは、アメリカの野心が満州へ向けられていたことを如実
に示している。また日本がそれを突っぱね日米対立の遠因となった事が戦後、研究者に
よって明らかにされている。既に当時日本にとって莫大な資金投下して満州が死活的に
重要な地域で、それが簡単には解決できる問題でなかった。だが、日米両国だけの争い
であったなら、同じ近代国家としての理念を共有する先進国同士、もしかしたらもっと
スマートな解決策を見つけ出していた可能性もあった。しかし当時、日米両国だけでも
外交交渉は上手く行ってなく、太平洋戦争は取りつくしまも無く、最悪の事態に陥った
。いうまでもなく中国共産党が、共産主義を旗印にかかげる政党で中国人の多くの文盲
に、難しい理屈を言っても誰も理解してくれない。そこで中国共産党は、簡単に「日本
による中国侵略」という命題に「抗日運動」と言う民族主義的な危機感をあおることを
最大限に利用し、それによって勢力を拡げ、中国人に反日感情を浸透させたのである。
日露戦争で、侵略を前になすすべもなく傍観していた清朝政府は、代わってロシア人を
追い出してくれと日本に要請した。その後、日本は満州を清朝に返してやると同時に、
将来同様のことが起こらないよう睨みを利かし遼東半島に軍隊を駐留させ、満鉄線沿線
を租借し、その警備を肩代わりしたのである。従って国民党政府が充分機能すれば返還
するまでなっていたのだ。が、一部の中国人は今になって、日本による侵略だと言う。

939: 名無しさんAA:18/06/25 19:35
     世界閲覧 30−35  小日本と中国人

中国の古老は話す。「中国大同から少し離れた山中で、八路軍と国民軍の丁度真ん中に
谷川が流れていて、水が欲しいと思ってもそこしかないのよ。(中略)でも翌日からは
水汲みにいってもまず大丈夫と思って安心していったよな。むこうも大体同じ時間にき
てタバコ交換したり、大してうまくなかったけど、饅頭もらったこともあったな。こっ
ちも慰問袋のキャラメル、人数分だけ一粒ずつやったこともあったな。しまいにはすっ
かり仲よくなって身ぶり、手ぶりでわかるんだ。でも夕方だけで、昼間はばんばん撃ち
あう。ところが終戦にここに良く赤ん坊が捨ててあるんだ。よく見ると日本人たちが、
乳飲み子を置いて逃げて行った事が解る。そこでおいらたちは手分けして里親を探した
んだ。[坪田理基男]「戦争が終わると、海軍の兵隊だったわたくしは、すぐ両親の疎開
先の信州にいき、ときどき長野や東京に出ました。そして町や地下道や公衆便所などで
、ぼろをまといまっ黒によごれた子たちが、うずくまり、うろついているのをたくさん
みました。当時そういう子を浮浪児といいました。ある時、長野駅のプラットホームで
、両親を思い出してでもいるように、みしらぬ夫婦の足もとで、絵をかいている浮浪児
にあいました。わたくしは、その子のすがたをわすれることができませんでした。どの
子でも戦争さえなければ、両親のそろった幸福な家庭でそだてられたはずでした。しか
し、第二次大戦中、戦場になった国や、いまなお戦いのさなかにあるベトナムなどにも
、こうじのような子が、おおぜいいるにちがいありません。そう思うと、胸がいたみま
す。」その少年の名前はこうじと言う名だった。彼は一人で焼けた家から離れません。
「でも そのとき、こうじという ひとりの 男の子のことを 思い出すものは だれ
も おりませんでした。」 廃墟というのも、当事者にとっては、ただの物質ではない。
「こうじは、やけくずれた おうちの まえで ないていました。おとうさんのじてん
車も、おあかさんの ミシンもやけただれて ころがっていました。やけたとたんが 
ばたばた なっていました。むかし、おとうさんが うえた あかしやの 木が黒こげ
て、かれ木のように なっていました。−略−」そして、終戦。やさしい人そうでない
人もいたという。−−しかし、この少年の不幸の そのもっとも大きな原因である戦争
をすすめた人は、いくらその後にやさしくしたところで、やさしい人ではないだろう…
。罪の償いにしかすぎない。今も、戦争をすすめる人たち、支持する人たちは、世の中
に不幸をまいている。これは、日本だけに限ったことではありません。


940: 名無しさんAA:18/06/25 19:36
     世界閲覧 30−36  小日本と中国人
 日本人は何故原爆まで落とされた敵国米国を憎まないのか。と中国人は不思議だと2
chで盛んだ。日本人の多くが戦後アメリカを恨まなくなったのは、アメリカの占領政
策が奏功した部分が大きいと考えているがそうではない。勿論戦後食うや食わずの日本
人に真摯になって食糧援助、技術援助をしてくれた。朝鮮戦争があり自衛隊を再興し、
その後の日本製品をたくさん買ってくれた。原爆投下だけを思うならその根には日本・
日本人に対するアメリカ人の差別意識があって落とされたのは明白だ。、今も怒っては
いる。戦後にも日本の大多数者は アメリカを恨んでいたし、天皇廃止も又叫んでいた
。広島、長崎で身内の殺された遺族は、特に恨んでいる人が沢山いたし、核廃絶支援も
大きかった。社会党と共産党更に民主党がもし一つだったら、大きな社会主義国家とし
て育ったであろう。米ソ冷戦時代に、アメリカの日本の重要性が強くなり、日本に対し
てそれなりの影響をしている。確かに占領政策の効果が上手く行って自分たちの民族の
誇り、アイデンティティが希薄になっている事はある。しかし本当は違う。映画や歌と
いった米国の文化が日本になだれ込み、日本人は米国文化に親しむようになったことで
、「恨み」など持たないようになった、この背景が日本人は米国を恨まないのだという
のも違う。もともと、日本人は平和主義者であり、過去を振り返った憎しみの連鎖など
嫌いなのだ。米英の凄さが大きさだけでなく、技術も経済力も装備していて、戦いを挑
む愚かは、戦前から既に開国以来の知っている事だ。明治維新が西風を取り入れ成功し
たが、日本の長所は こうした相手の優れた点を正当に評価し、正しく取り入れる懐の
深さだ。これが、日本人の性格だ。この長所の故に日本は明治維新を経ても、アジアで
唯一欧米の植民地にならずに済んだ。ただこの一点にある。米国はペリーが黒船に乗っ
て日本を訪れて、開国を強要し、不平等条約を押し付け、第2次世界大戦で東京を空襲
し、広島と長崎に原爆を投下した。しかも、米国は戦後に日本の憲法を作り、今尚日本
に軍隊を常駐させ、日本は米軍の駐留経費まで負担させている。中国人から見れば、今
日本に対して行ってきたことは「恨みを抱いても自然なこと」であると主張。それなの
に日本人は米国を恨むどころか、米国や米国人を尊崇する傾向すらあると伝え、「日本
人はなぜ米国を恨まないのだろうか」と疑問を投げかけていると言う。実は日本は終戦
前から経済危機に直面し、中国や朝鮮半島支援で多大な犠牲を国内では行ってきたのだ
。人びとは苦しい生活を強いられていたが、終戦後に米国は日本の経済再建と民主化を
支援され、軍部が無くなり中国に抜かれるまで米国に次ぐ世界第2位の経済大国になっ
た。つまり、日本人は忙しかったので恨みや憎しみの教育などしなかっし、それでいい
とおもったのだ。

941: 名無しさんAA:18/06/25 19:37
     世界閲覧 30−37  小日本と中国人
 結局は結論として、駐留米軍も、憲法擁護も それでいいと思っていたからに過ぎな
い。我を忘れた「憎しみ」「恨み」「怨み」が嫌いな民族で、真面目に正確に物事を見
る。そうした性格なだけだ。そして時代に流され易い 呑気な平和主義者なのである。
 日本人の多くは、中国人も朝鮮人も或いはイラン人もアラブ人も対して変わらない。
と思っている。戦争やその他の差別は、それは平等主義の下で教育がなく、教える者の
偏見から起こっている事を知っているからだ。共産主義や社会主義を悪いとは思ってい
ない。更に言えば民主主義や資本主義或いは自由主義が良いとも思ってない。今はどう
か判らないがかつてはそうだった。戦争や喧嘩や事件が起こる事が悪い事と思っていた
。紛争や権威主義も、それによって食べれない人がいる事や格差社会が産まれる事を、
悪態としていたのである。そして天皇崇拝はしながらも、そうした軍部の情けない差別
や抑圧を悪としていた。よく中国人は戦争でも「弾は正面からだけではない。」という
事を言う。即ち、敵・味方関係なく彼らは我が道を行くのが主流である。その現実は、
いまでも例えば横断歩道を横断しない。人の子をさらって売って商売する。などと現れ
る。最近は、そうした中華主義がアフリカを中心に批判され、「シノフォビア(Sin
ophobia)」という英語の言葉が目に付くようになっている。と伝えられている
。シノフォビアとは「Sino=中国」「Phobia=嫌悪」で「中国嫌悪」という
意味でだそうだだ。そもそもは世界に進出する中国人や中国文化に対する嫌悪感を表現
する言葉である。最近シノフォビアが急激に広がっているのは、アフリカでの中国によ
る進出が顕著であるからだと言う。中国はすざましい勢いでアフリカに入り込んでおり
欧米ではこうした動きを「新植民地主義」と非難する。貧しいアフリカ諸国はカネを落
としてくれる中国を当局政府は歓迎している。例え軍事政権でも独裁政権でも出資する
。その貪欲さは桁外れである。そして結局は中国人に対する反発がどんどん高まってい
るのが現状である。アフリカでの反中意識の背景にあるのは、中国からの輸出である。
アフリカ諸国は中国に天然資源などを輸出しているが、逆に衣料品や電化製品など安価
な贋物商品を中国から輸入している。そのため、国内の産業が成長しない上廃品が溢れ
る状況が生まれている。南アフリカでは、ここ10年で8万人ほどの製造業の雇用が、
安価な中国製品によって奪われた。こうした輸入は年々増加しており、近い将来には、
アフリカ人と中国人の大規模な衝突が起こる可能性が予想されている。こうした強気に
出る中国の対外政策に、恐怖心や不快感を示す形で、日本、アメリカ、欧州、東南アジ
ア、アフリカでシノフォビアが広がっている。そこにトランプの貿易戦争がのしかかる
。日本語的には、支那火々悪とでもいうところか。

942: 名無しさんAA:18/06/30 14:32 ID:gyk
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  1 >

 日本の思想信条は海外ではなかなか解り辛いであろう。およそ平安時代から武家社会
武士文化が流れている。多くは主君の荘園の防備であり今の警察か門番の思考が強く、
そもそもが平和主義、されど事戦いになれば一番先に矢面に立って戦う。と言う気概と
共有地を守り通す覚悟と意地が脈々とある国なのだ。武士は喰わねど爪楊枝。といわれ
る程決して人の物を欲しがらない。と言う庶民感覚がある。更に同じ頃の仏教文化広が
りは、多神教で多くの宗派を内包し、神仏は尊し、されどこれを頼まず。という考え方
が固定化した。祈りや祀りは行う。奉納も寄進も多々しても、これを頼って試す事は、
全くない。平安以前の呪術も呪いも残る。しかし西洋の様な魔術や占星術などは行わな
い。何故なら兵法などをを重くみて、単なる家の方位学の慣習や暦紀(こよみ)の気象
学や季節を読むだけでも多くの習わしがあったからだ。旱魃や大雨はどこにもあっても
日本にはその他に地震と火山と台風がある。こうした天災の多さは特殊であろう。この
為の習慣も違う。つまり相互扶助の精神が異常に高い歴史をつないできた。従って他の
国より小さな箱庭で四季を愛でて小さな長家で生活するか、大勢の大家族のまま生きる
かしかなかったのである。又神道も紀元前からの拝火教の流れを組むものだ。仏教伝来
での「天上天下唯我独尊」(てんじょうてんがゆいがどくそん)という自分というもの
は世の中に一人しかいない。過去にも未来の世でもいない。ので大事にする。と言うも
のである。それが受け入れられたのはこの神道での、天孫降臨の岩戸開放での御祭りに
ある。即ち天照大神は、その神々しいくも光り輝く未来を自らに捨て自身で引き籠りに
なるが、神々全員が集まって酒を飲み歌い踊り相撲をして御祭りによって引き出すので
ある。ここに八百神の幾多の御蔭様の存在を感じて、泉の精霊で禊(みそぎ:無垢の誓
い)によって再度国造りに長となる決心をするのである。これが神輿を担ぐ。という、
日本独特の文化や相撲がその為の神事、つまり祀り上げる人を奮起させて、協力を惜し
まない事の証の行事として、それが根付き、田植えや稲刈り或いは節分お盆酒宴を共に
する集団行事の村社会文化を形成したのだ。ここに大和魂とされる和の尊重が形成され
る。こうした信仰でのこの独特な日本文化は、多分他の国にはなく又他の民族に理解は
不能であろう。ちなみに、天照大神(あまてらすおおみかみ)が八百神(やおろずのか
み)に助けられるが、その穴籠りのきっかけは弟である素佐男(すさのおう)の行動で
機織娘が死んだ事による。即ちここには家族の罪は一族が取る事が故事として物語られ
ているのである。つまり物も他人も神が宿る。そうした文化が流れているのである。

943: 名無しさんAA:18/06/30 14:33
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  2 >
 玄洋社では1901年(明治34年)に、内田良平らが黒龍会(玄洋社の海外工作を担う)
を設立してからは、より多彩な活動が展開されるようになる。孫文らの辛亥革命を支援
するために、多くの浪人たちが清朝政府軍やその後の軍閥政府軍と戦っている。頭山満
は玄洋社総帥として愛国主義団体や右翼団体に道を開いたとされる。明治から昭和前期
にかけて活動し、アジア主義者の巨頭と目された。玄洋社は、日本における民間の国家
主義運動の草分け的存在であり、教え子の内田良平の奨めで黒龍会顧問となると、大陸
浪人にも影響力を及ぼす右翼の巨頭・黒幕的存在と見られた。一方、中江兆民や吉野作
造などの民権運動家や、遠縁のアナキストの伊藤野枝や大杉栄とも交流があった。この
大陸浪人として宮崎滔天も動いている。大陸浪人(たいりくろうにん)とは、明治初期
から欧米列強の支配を目にして、第二次世界大戦終結までの間に中国大陸・ユーラシア
大陸・シベリア・東南アジアを中心とした地域に居住・放浪して各種の政治活動を行っ
ていた日本人の一群がいたのである。それが良かったかどうかは別にして、そうまでし
て憂国の士としてアジアを守ろうと多くの日本人が動いていたのである。KKKは今や
白人優越団体の代名詞だが、本来はフィリピン独立運動のKKKをもじって始めた共産
主義団体だった。KKKはカティプナンという名前で、タガログ語の正式名(カタアス
タアーサン、カガランガランガン、カティプナン・ナン・マガ・アナック・ナン・バー
ヤン)」(母なる大地の息子たちと娘たちによるもっとも高貴にして敬愛されるべき会
)の短縮形であるが、長すぎて白人社会に誰にも受け入れられなかった為「kkk」と
いうシンボルマークを作ったと言われている。早くから奴隷として米国社会に組み入れ
られてきた人達で、黒人社会のみが人種差別の代表の様に言われるがフィリピーナも又
ていよい安価な住み込み奴隷として扱われていた。今のドテルテ大統領の憤慨は今だに
その歴史の傷跡が心にあるからだろう。その前身団体として「ラ・リガ・フィリピナ」
(フィリピン連盟)が知識階級が中心に非暴力改革を志向した団体が作られた。だが、
主要メンバーたちの逮捕などスペイン官憲の徹底的な弾圧を受けた。こうして国内には
武力闘争路線のもと1896年にカティプナンによるフィリピン独立闘争(フィリピン独立
革命)が始まった。しかし、粛清に次ぐ粛清が行われ、又、連盟も多く志士の分裂があ
った為アギナルド将軍はスペイン政府と休戦協定結び、メンバーは香港へ去った。しか
しその後も騒乱状態になり米西戦争の勃発を受けて多くの仲間が再びフィリピンへ戻っ
た。米西戦争の終結に米国はスペインには賠償金を払い、メキシコ・フィリピンには、
独立を約束して乗り込んできた。しかしこれは先進国の勝手な植民地取引での言い訳で
あざといアジア進出の足場つくりの独立のないものであった。

944: 名無しさんAA:18/06/30 14:33
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  3 >

 この時カティプナンを率いていたのは、エミリオ・アギナルドでスペイン領東インド
のカウイト(現フィリピン共和国カヴィテ州)で、中国系イスラム人メスティーソ家の
弁護士にしてカウイト町長を務めていてビナヤカン地区のバランガイの首長を引き継い
だ首長だった。しかしゲリラ活動を一旦収めて和平協定を調印して、スペイン側からの
補償金を得て海外亡命を申請し、アギナルドと他26人の首長達のカティプナン会員は
香港に到着し、新生活にいた頃だったと言う。ここで多くの革命文士との接触を得て、
アギナルドは新たに米西戦争の勃発後フィリピン独立戦争の再開を宣言して、再編成し
たフィリピン革命軍を率いて5月に帰郷し、スペイン海軍陸戦隊270名を打倒して、
フィリピン旗を掲げてスペイン軍への攻撃に大戦闘を行った。6月にスペイン軍を打倒
したフィリピン革命軍は1898年6月12日にカウイトの自宅にて各国代表やジャー
ナリストを招き、フィリピンの独立を宣言したのである。このアメリカ対スペイン戦争
においてアギナルドは独立支援を約束されていた。この戦争勃発後、香港に駐留してい
たアメリカ海軍アジア艦隊がマニラ湾海戦でスペイン海軍艦隊を全滅させ、アメリカ合
衆国マッキンリー大統領はは提督の要請の3倍に当たる15,000人のアメリカ陸軍部隊を
派兵し、フィリピンの制圧に向かわせた。しかし、アメリカとスペインの密約により、
マニラ入城を果たせなかった。フィリピン革命軍と新たな支配者となったアメリカ合衆
国との関係は悪化して、新たな派兵しやって来た米軍の大量殺戮時代が続きアメリカの
植民地時代が幕開けするのである。フィリピン革命政府とアメリカ合衆国との間に新た
な戦争が勃発し、アギナルドは囚われの身となってしまったものの、米比戦争敗北後、
1901年4月にマッカーサーから釈放されたアギナルドは 郷里のカウイトに帰還し引退の
生活を送ってた。日露戦争最中の1905年に、特使としてアメリカ合衆国のウィリアム・
タフト陸軍長官の「桂・タフト協定」が結ばれて、日英同盟を背景にフィリピンに於け
るアメリカ合衆国の優先権と朝鮮に於ける大日本帝国の優先権が相互に承認されたが、
フィリピンに於けるアメリカ帝国主義と朝鮮に於ける日本帝国主義が日米両国によって
保障は、。かつて1898年に日本にマリアン・ポンセの訪日で、大隈重信、山縣有朋や、
犬養毅ら政府要人と親交を結び、アメリカ合衆国との関係悪化を望まない青木外務大臣
の反対を押し切って、川上操六や犬養毅の支持によって平山周、宮崎滔天、中村弥六ら
の働きで、日本陸軍が日清戦争で鹵獲した旧式のモーゼル銃と弾薬をドイツ系ユダヤ人
商人ワインベルゲルを通じ、布引丸でフィリピン革命政府に送ろうとした友情は、途中
で布引丸が沈没しにフィリピン革命軍支援失敗(布引丸事件)と共に消えたのである。

945: 名無しさんAA:18/06/30 14:34
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  4 >

 布引丸事件は、フィリピン大統領エミリオ・アギナルドの独立宣言によって、初めて
の外交官としてフィリピン政府要人が訪日した事件だった。日本に派遣されたマリアノ
・ポンセは、宮崎滔天や中村弥六衆議院議員の支援を受けて、米比戦争のための武器弾
薬(中古の村田銃)と、それらを運搬する布引丸を購入した。 1899年7月19日に布引丸
は長崎を出航したが、フィリピンへの航海中の7月21日午前、東シナ海 寧波沖で暴風雨
のため沈没した。とされている。一説では英国艦による爆沈。布引丸には、フィリピン
独立革命に参加するために日本人志士も同乗していたが、石川傅船長以下19名が犠牲
となった。その後、布引丸事件は公けになり、日本人によるフィリピン革命参加の企て
を知ったアメリカは日本に厳重に抗議し、日米両国による監視が厳重になった。これに
加えフィリピン独立派による資金も枯渇したこともあって、日本からの武器購入・輸送
計画は頓挫した。ポンセによって購入され、フィリピンに輸送されることなく大倉組の
倉庫に眠っていた残余の銃器は、その後、ポンセの承諾を得て彼と親交のあった孫文の
恵州事件の兵力として流用されることになっていたが、輸送の段になって中村弥六が既
故人の弔いに無断で売り払い、かつ私消していたことが判明し、一大スキャンダルとな
った。この時宮崎滔天は浪花師となったと言われる。1910年代に農園経営の為の日本人
労働者がダバオに大量に移民し、1916年には町の日本人人口が1万人を越え日本人街が
形成された。日本人学校や神社仏閣なども建設され発展したが、しかし太平洋戦争が始
まると日本人は強制収容された。日本軍のフィリピン占領によって日本人は解放される
が、更に又1944年にフィリピンをアメリカが再奪回した際に街は激戦地となり壊滅した
。こうした間にも1913年フィリピン第一共和国が崩壊した時は、アルテミオ・リカルテ
将軍らの政治亡命を快く受け入れたりしていた。又アギナルドを養ったとされる中国系
イスラム人メスティーソ家は恐らく首長の家だったのだろう。スペインではコンキスタ
ドール(征服者)がインディオ(先住民)の首長の娘と結婚し、その息子が父の後継者
になることも可能な地では、混血を意味しする言葉がメスティーソである。現代におい
ては形質的・血脈的特徴でなくスペイン語を母語とする者をメスティソ、インディオの
言語を母語とする者をインディオ(先住民)とする文化的側面が多い。


946: 名無しさんAA:18/06/30 14:34
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  5 >

 ところで、このフィリピン問題が何故中国人と関係あるのだろうかと、不思議がる人
もいるかも知れない。しかしこの日本の開国の頃、イギリスの海軍やスペイン人航海で
多くのフィリピン人が、自由に或いは束縛されて香港で生活していたので、深い繋がり
を持っていたのである。出稼ぎにしろ米国渡航にせよ海外亡命にせよ欧米社会の入口の
都市として香港が欠かせなかったのだ。木庵先生のブログを借用してもう少し歴史をみ
てみよう。この独立宣言後の1899年、8万の大軍を率いてフィリピンに乗り込んだ
軍政長官はアーサー・マッカーサーで、その副官が息子のダグラス・マッカーサーであっ
た。革命政権のリカルテ独立軍司令官は、弾薬が欠乏したので、大胆不敵にも、蛮刀で
武装した特殊工作隊を指揮してアメリカ軍の本陣に斬り込んだが、1900年6月武運
尽きて、囚われの身となった。勿論アギナルドも捕虜された。アギナルドは「アメリカ
国家に忠誠を誓うなら釈放され、その上、邸宅、年金を与える」というアメリカの取引
に、日本人の様な具現の意地は無かった。誘いにすぐに乗り、その後豪邸で優雅な生活
を送るようになった。同志の土民の頑なに独立運動を続けようとする仲間がグアム島に
流され次々に窮死している時でも、アギナルドは仕方なし優雅に暮らして過ごしている
。このあたりが、南洋流の「今が大事だ。明日ではない」と言う考え方なのであろう。
この中にフィリピン指導者にある二つの極端な傾向を見る。しかしグアム島の悲惨な状
況は時を経て大きくなり、アメリカ本国でも非難さえるようになった。すると、例によ
って「アメリカに忠誠を誓うなら、身柄を自由にする」という条件を提示した取引がな
される。そうすると、28人の内26人がこの条件を呑んで自由の身となった。これは
驚きである。自国の自立を馬鹿らしくて捨てたとしか見えない。幾多の南洋の日本兵と
の違いは、皮肉な事に大いにアメリカ兵をひるませるに充分であった事を証明している
。ここでアメリカに最後まで忠誠を拒否したのは、リカルテ将軍とマビニ元首相だけで
あった。マビニはリカルテと一緒にグアムからマニラの監獄に移されたが、この年には
コレラにかかり、39歳の生涯を閉じている。現在、1ペソ紙幣にその肖像が印刷され
たり、マニラ市に「マビニ通り」という道路があることで遺徳を示している。


947: 名無しさんAA:18/06/30 14:34
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  6 >

 一方のリカルテはどうしてもアメリカに服従しないということで、アメリカ側は彼を
香港に追放した。香港で機関誌「現代の声」を印刷発行して密かに、フィリピンに送り
続けた。そうするとフィリピンの古い同志や学生たちは、世界情勢に目を開きだした。
特に、日本と帝政ロシアの関係が注目を集めた。リカルテは日露の開戦は必然と見てい
ただけに予想した。「日本が勝てば、アジアの民族意識は欧米帝国主義に抵抗して、独
立・解放の気運が高まるだろう。そのためには日本に勝たせたい。」と念じて、1903
年のクリスマスが近い頃、カトリック僧に変装して、祖国フィリピンに潜入し再度の蜂
起をたてようとした。その為まず、旧友アギナルドの豪邸を訪ねた。が、もはや腰抜け
となったアギナルドに期待ができないと、憤然として宮殿を後にした。リカルテは日露
戦争を契機に再び対米独立戦争を決意して止まなかった。そして、その根拠地をバター
ン半島に決め移り住んだ。リカルテがフィリピンのバターン半島を占有していることは
直ぐにアメリカの官憲は探知していて、リカルテの首には500ペソそして1500ペ
ソに増額された。この時点で裏切り者が当局に密告し捕縛された。リカルテは日露戦争
に日本が勝つことを祈りつつ反米闘争を行なったていたが、東郷艦隊がロシアのバルチ
ック艦隊を全滅させた3日前、1905年(明治38年)5月24日、アメリカ官憲に
よって逮捕されている。禁錮6年の刑に服し、香港の東北方向にある無人島に流された
。これより少し前には、インド独立運動の志士、ラス・ビハリ・ボーズが日本に亡命し
、頭山満や犬養毅に保護されていたが、リカルテの救出を両雄に頼み、リカルテを脱獄
させることに成功した。そして、愛知県、瀬戸町においてリカルテを引き取り住まわせ
た。その後1923年(大正12年)から横浜に移り住んだ。リカルテが横浜に住むよ
うになってから間もなく、関東大震災がおきて日本に外人記者が押し寄せた。リカルテ
が日本に亡命していることが国際ニュースになり、「独立革命の英雄を祖国に迎えよ!
」という一般国民やジャーナリズムの声が紙面を踊り、「米比間の平和を脅かせた無法
者、帰国は許さぬ」という政府筋の論説の声もあった。その内誘いもきたが、リカルテ
は本国の誘いにはのらなかった。それから10年経った後、1934年、「1944年
に完全に独立が許可される。」ことを前提として、フィリピン連邦政府憲法が制定され
て、ケソンが大統領に就任した。アメリカ主権の代表には、総督に代わって高等弁務官
が置かれ、軍司令下の独立と言う形を取り、フィリピンは半独立国になった。ケソンは
かつてのリカルテの部下であった。

948: 名無しさんAA:18/06/30 14:35
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  7 >

 ケソン大統領は就任するや直ぐに、横浜のリカルテ宛に丁寧な帰国を促す手紙を送っ
たが、リカルテはきっぱり断った。更に、6年後の1940年、太平洋戦争の開戦の前
年、ケソン大統領は訪米の帰途、横浜にリカルテを訪ね帰国を懇請した。それでも、「
フィリピンに星条旗が翻っている限り祖国には、絶対帰らない。」とリカルテは言って
固辞している。ところが直ぐに太平洋戦争が始まって、ケソンは、戦争時には、マッカ
ーサーと将軍と共にほうほうの体でバターン半島を脱出し、アメリカに亡命したが、す
ぐに病死している。1941(昭和16年)太平洋戦争が勃発した時、リカルテは陸軍
参謀本部に呼ばれ、日本軍のフィリピン作戦に協力を求められ、「日本がフィリピンの
独立を認めてくれるのであれば、協力をおしまない。」と答えたという。こうしてフィ
リピンに戻ったリカルテはフィリピン国民には歓呼で迎えられた。日本軍も連戦連勝で
、首都マニラに迫ろうとしていた。リカルテ将軍は独立戦争の経験から「バターン半島
の制圧が先決だ。」と強く意見を具申したが、軍当局は聞き入れられなかった。これで
マッカーサーはバターン半島に陣とって、日本軍へのフェイクニュースやプロパバンダ
を横行させて苦しめることになった。このために、リカルテの日本軍への信頼は一時に
冷却してしまった。これが日本軍の最初も間違いであった。こうして戦利勲功を急いで
首都マニラに軍政を敷き始めた日本は、次に二つ目の間違いをした。すべてのフィリピ
ン人が親日と思いあがっていたのだ。政府高官をそのまま起用して親米派の組織を作ら
れてしまっていたのである。更に、リカルテの人脈のフィリピン独立に命がけで戦った
リカルテやラモスなどの親日派を全く起用しなかった。「日本人は口と腹が違う」と、
心あるフィリピン民衆には、対日不信感を強く植え付けてしまう結果を残した。ここに
大本営のフィリピン研究不足が露呈した一つの例が見える。当時のフィリピンの日本人
界の世話人であった人は次のように言っている。「日本の将兵は、フィリピンの風俗と
習慣と宗教をまったく知らない。人様の目の前でフィリピン人の頬を殴ったり、道路の
真ん中で大声で最敬礼をさせたり、怒鳴ったりしたので、多くの人はその日から親日か
ら反日になってしまった。物質あふれる国だったフィリピンを、戦争で物資の欠乏する
国にしてしまった。‥‥最も悪いことは、戦争末期、マニラを平和都市に宣言しないで
、この地で死闘し、瓦礫の街にしてしまったことだ。そのうえ、マニラ市民をアメリ
カ軍のスパイと見なして、掃蕩作戦を敢行して多く死傷させたことだ。」と語る


949: 名無しさんAA:18/06/30 14:35
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  8 >

 既に時遅くして、1943年(昭和18年)5月、東条英機首相はマニラにやってき
ては、リサール公園で、数万の民衆の前でフィリピンの独立を公約した宣言をした。こ
の年の10月、日本軍制が廃止され、フィリピンが独立し、ラウレル初代大統領が就任
した。ラウレルは親日家ではあったが、信望の厚いリカルテが大統領にならなかった事
は大衆の不満とする所であり、日本軍への不審感と疑惑が残った。日本側の指導部達は
リカルテを年齢75歳の高齢の老人で、風采が上がらず、力量不足と見た故であるだろ
うが、これもまたフィリピン人の心が分からず、間違いを犯したことであった。東条は
太平洋戦争開戦早々、何故この時フィリピンの独立を承認しなかったのだろうか。作戦
遂行が第一義で、独立援助は第二義であった為と見られている。独立を認めてやると、
フィリピン人は感激して日本軍に見方していただろう。フィリピン人に銃を持たせれば
銃口を日本軍に向けるとでも思ったのだろうか。実の所は多分にフィリピンを日本人は
良く知らなかったしフィリピン人と言う、土地も人種も異国で解らなかった。と言うの
が素直な所だろう。そうした研究成果がなかった事は大東亜共栄圏、大東亜戦争への理
念が、本当のところ大本営にはなかったということでもあるのだろう。このフィリピン
の大統領として最適人であるリカルテをないがしろにした、日本の指導者の能力のなさ
は当時なら糾弾されるべきものである。これが日本を狂わしたのだから。当時も今も、
フィリピン占領は中国以上に難しいものであろう。広い領地の中国でも幾多の民族がい
るが、日本軍はこの地の人間を突然の占領で掌握すると思っていたのだろうか。最後に
は中国戦線の数多くの部隊を引き連れて戦っているが、米軍すらも管理統治はあきらめ
た国である。海に魚野にバナナと食料は豊富で誰もが部族となれる地だったのだ。その
後残置日本兵の小野田氏が生き延びて来られたのもそうした理由からだ。時に、日本軍
の若手将校とフィリピン独立運動家が、2回程、ラウエル政権を打倒して、リカルテ将
軍を首班とするクーデター計画を練ったことがある。ところが、2回ともリカルテ将軍
の「敵前で分裂騒ぎを起こすのは危険である」と反対され、計画は中止された。リカル
テ将軍は山下総司令官たちと逃避行を続け、1945年4月、アゲタ婦人は赤痢で死去
し、将軍は3ヶ月後、山岳の原住民の部落で、80歳の生涯を閉じた。彼の遺言は「わ
しの墓は第二の故郷である日本に建てて欲しい」であった。私の父はマラニアでついて
行けなかったのだが。


950: 名無しさんAA:18/06/30 14:35
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  9 >

 和辻哲郎の“風土と人間学的考察”では、我々は、南洋的人間が何ゆえに文化的発展
を示さなかったかを理解し得るであろう。南洋の風土は人間に対して豊かに食物を恵む
。人間は単純に自然に抱かれておれぱよい。しかも人と自然との関係は、あらゆる移り
行きを含まないものである。人間はその受容的・忍従的な関係において固定する。……
そこでは生産力を発展せしむぺき何らの機縁も存せぬのである。…南洋は文化を産まな
かった。そうして文芸復興期以後のヨーロッパ人に易々として征服され、その奴隷に化
したのである。…和辻の言うところのこの南洋人<比人>の無感動性は、致命的である
。と書いている。この風土論は、全く粗雑にも南洋では文明が発達しないかの誤解を受
ける。少し現代の時代に合わせて説明が必要があるだろう。フィリピンは確かに猛暑の
国で労働に向かない国だ。豊かな食物を恵み、受容、忍従の固定に縛られ、既に生活を
支えていて、生産力や文化を生む土壌がない。それに多くの島から成り立ち、国家とし
ての統一性に欠ける。確かに、和辻の指摘する要因は、フィリピンの未来の羽ばたきを
阻止して来たことは間違いない。しかし、このような国に、未来はないのであろうか。
過酷な環境なら、イスラエルもロサンジェルスも同じである。夏は砂漠のように一滴の
雨も降らない。このような所に当初は白人は住もうとはしなかった。が、ゴールドラッ
シュの波で、北カリフォルニアへの移住が流行。共に北カリフォルニアからの水の移送
の成功。これで、砂漠の町が大都市になった。風土的にはどうしょうもない所が、人間
の力によって人が住める最適な環境に改造し多くの人が住み着いた。アメリカにおいて
、東海岸出身人と西海岸出身人との勤勉さを比較することがある。一概に四季があり、
寒さを経験した人間が勤勉かというとそうでもない。究極の創造力では風土的な要因が
大いに影響する。しかし、物質文明を起こす、維持する知性を育てるのに風土はそれほ
ど関係はない事が知られている。問題は政治であり統治なのだ。フィリピンの場合に、
スペイン統治時代に一部はスペインで教育を受け、高い知性を具えた人が幾らかいた。
また、アメリカ統治時代も相当数のインテリが誕生した。しかしフィリピン人に任せて
花を開く事は無かった。当時は、フィリピン人に任せるから駄目だったのである。ただ
己の利益だけを追求しているので、フィリピンは前へ進まない。一般大衆が酷暑の中で
生活し、怠け者で、どうしょうもないというのは偏見である。この人たちに、教育さえ
与えれば何とかなるものである。その意味で日本がもし戦争に勝っていれば、今のよう
なフィリピンではなかったろう。それが明治期の沖縄の進化にある。


951: 名無しさんAA:18/06/30 14:36
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  10 >

 つい最近までは、中国も北朝鮮同様に 全く文明進化の無い国として存在していた。
フィリピンを通して見える事は、中国も北朝鮮も日本が捨てた途端に進化が途絶えたの
だろう。日本の軍隊式教鞭は、ある意味時間がない中の強制的泳ぎの訓練みたいな物で
あった。それは否応なくやって来た欧米列強の外圧に、とにかく真似しなさい水に飛び
込めいずれ泳げる。といった類のものだったろう。こうした教え方の問題で戦争が終れ
ば学校が残り、道が出来ていた。ぐらいで、中国ではその施設の本当の価値を知らぬま
まに粛清の公開処刑場として使われていた。勿論日本統治は、西洋列強の放任搾取主義
からは遥かに良かったのは間違いない。日本が統治した朝鮮では新しい文字まで考え、
台湾でははびこる阿片窟の一掃から始めなければならなかった。そしてフィリピンでも
校舎や道路つくりから始まっていた。日本が彼らに良い教育を施したので現在の豊かな
国になったのは間違いない。欧米の植民地政策と日本の植民地政策の違いは日本は現地
の人に教育を与えたという結果はある。しかし、西洋が宗教から入り物質的利益の還元
を求めたのに対して、何とつつましやかな事か。教育し反抗に及び敵対心の抗日記念館
やら嘘の歴史の塗り替えやらされてまでも、何ら日本政府は声明を上げない。それどこ
ろか米国に教わった自虐史観のままに謝罪すら受けている。これほど蛮行に抗言もしな
いような躾のない国民政府もない。ロス在住で、亡くなられた、徳川慶喜のひ孫三の話
をが残る。彼女は徳川慶のひ孫さんで、実は慶喜(七郎丸)の義兄一郎丸(水戸家の家
長)徳川御三卿の一つである清水家の家督を継いだ人のひ孫である。この末裔の彼女か
ら漏れ出た彼女の幼少時代の話に、子供の時から、たとえ人形でも赤い色のリボンさえ
つけさせてもらえなかった。ある時、下女に無礼なことを言った。その時母親は即座に
座敷牢に彼女を閉じ込めた。「おかあさま、もうそのような生意気な言い方をしません
」と薄暗い座敷牢から許しを懇願したが、「あなたは、今ただ外に出たいために言って
いるだけ」と、一晩中、食事もなく閉じ込められた。たとえ、徳川時代は終わっても、
武士の棟梁の末裔である。人様を見下してはならない。その家訓が徳川時代が250年
続いた理由で、彼女の話からそれが如何なるものかが知れる。質実剛健、質素倹約、そ
れぞれの使いや下僕への気遣いが、彼女の話から伺えた。これぞ、躾の最たるものだろ
う。

952: 名無しさんAA:18/07/01 19:56 ID:mb2
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  11 >

 日清戦争後の賠償交渉の三国干渉に憤慨した玄洋社の一部は、大陸での活動をする為
に、1901年、平岡浩太郎の甥に当たる内田良平を中心として葛生修吉らが黒龍会を設立
した。黒龍会(こくりゅうかい)は1901年(明治34年)1月に設立されて国粋国家主義
を打ち出し、明快に右翼団体化した物だった。中国・満州・ロシア国境を流れる黒龍江
の建設を提言し勧めたのは他ならぬ明治天皇の父孝明天皇のブレーン達である。実は、
歴史的に天皇家が表に出た江戸後期のこの時期は、初めて天皇家が意見を言った 初の
ケースであった。平安時代から明治維新まで、幕府が勝手に色々行う或いは家系争いで
部下を付けて戦うと言う事は多々あっても、やおら幕府が行う政治に直接外国との調印
に文句を付けたは初めてであった。ま最も、海外との文書交換条約の発効などは遣唐使
以来の事だったに違いない。日本では正統とする家系や屋号や錦旗を重んじる。それは
江戸の将軍家が京都の弱小天皇家を重んじた事でも解る。そういう秩序や文化を築いた
のである。海外の脅威は何も明治期だけじゃない。宣教師がやって来た戦国時代・元寇
の鎌倉時代も、室町時代の鄭和(ていわ)の大航海でも、常に日本は危機にあり幕府は
その都度に無能ながらも必死に方策を建てて、戦ったのである。大政奉還時代徳川家定
の将軍宣下の勅使は三条実万と阿部正弘であった。形式上は朝廷が将軍を認可した形だ
がわざわざ下向して宣下をしているように幕府の権力の方がずっと強力だった。しかし
黒船来航以来大地震が続き、海外の黒船を見ない朝廷の内裏は関心は極端に高かった。
元号を安政と改元した後も、大地震と続き国内不安は増え続けた。嘉永7年3月、日米
和親条約が締結されると、宮中の内裏は直ぐに炎上した。既に朝廷の国家安寧の祈りに
打つ手がなかったからだ。日本人の中の御祭り血気がそのまま終末思想の地獄図になっ
た様な形だった。しかし、改元後も安政大地震の群発地震は終わらなかった事は大きな
問題だったのである。日本列島に於いて治安は大きな問題だったが、それを守る為にこ
そ朝廷がありその頂点の天皇は現人神(あらひとがみ)と言う現生に生きる神だったか
らだ。呪術師の祈祷であれ、武家の防衛武力であれ、人の生活の不安をさせない事が、
日本の中の領主たる長の暗黙の了解事項として存在していたのである。不思議にも祈り
ながら見えない神には頼らないがこの見える神や人には頼るべき。と言うのは日本人の
様式の中で最も大事な要素であった。仏教布教でもそれらは実践された。


953: 名無しさんAA:18/07/01 19:56
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  12 >

 要するに、自然を畏怖し尊敬するあまり、自然現象をして悪い事は人の悪さが引き起
こしたものとされたのだ。仏教やキリスト教伝来まではそうした事はなかったが、平安
期にそうした災害とそれによる飢餓が襲い日本人の中に仏教の因果応報の思想と交差し
天然自然の現象も神の怒りに似た天罰と言う考え方で、官使はおろか天皇や朝廷さえも
忌み嫌われた。この事とその後元寇などを神風が吹いたとの江戸の御伽噺として流布さ
れていたからだ。今では海底発掘などで日本の武将達が一週間以上戦った事によって、
一回目の文永の役(ぶんえいのえき)は寒さと兵糧において退散し、二度目の弘安の役
(こうあんのえき)は文字通りの台風で宋からの急造船が破壊され、蒙古襲来が避けら
れと解っている。日米修好通商条約の調印に勅許を得る為、堀田正睦が上京したが、こ
の時近衛忠煕、鷹司輔煕、三条実万の三大臣および議奏、武家伝奏へ開国か鎖国か下問
をしたが、大勢は開国に賛成とも反対とも決められず、大納言以下蔵人頭以上に範囲を
広げ下問をしても、結果は公武一和にて決める「定見なし」で決意は成立しなかった。
江戸から太閤鷹司政通と関白九条尚忠は、ともに内覧政務の補佐にあたっていて、徳川
斉昭の義兄であった鷹司太閤は開国論を主張し提言するが、孝明天皇は容れなかった。
宸翰には「我代にこの儀に相成り候ては、後々までの恥の恥に候わん、それに付いては
、伊勢始めところは恐縮少なからず、先代の御方々に対し不孝、私一身置くところ無き
に至り候あいだ、誠に心配仕り候」とある。詰まるところ自分の代では変化は恥になる
。伊勢参りに先代に不幸を報告したくない。と言う言葉だった。堀田老中が上京し演説
し海外との開市開港を願うが、全く認めないし、ましてや畿内近国ではいうまでもない
と述べている。後日堀田老中に対して改めて衆論一和の上で勅許を求めるように沙汰を
し、堀田は幕府が保証するため勅許を貰いたいという答書を出している。この時これま
で開国派だった鷹司関白と九条関白は開国反対に回り、宮家は臣籍降下の縁戚の宮家達
をして、反対運動を起こさせた。皇室は平安時代から、跡継ぎ争いを未然に防ぐために
、後を継がせない皇子たちをどんどん出家させて皇位継承権を剥奪し子孫を残させない
ということを延々行ってきていた。臣籍降下は皇太子になる前に籍を外し宮家除名にし
一部の時期を除いて常に皇族の人数を最小限に留めて来ていたのだ。こうして潜在的に
継承問題の存在を消してきた。幕府は全国に隠密や忍びの者で国々を見回って草の者を
配していたが、公家である宮家は、この廃籍で地方やその他に神人や巫女として配して
いた。実は菅原道真公も、実はそうした事で下向を賜わった形だったのだ。


954: 名無しさんAA:18/07/01 20:17
 黒龍会は玄洋社の海外工作センターといわれた。海外では日本の壮士集団として恐れ
られ1931年に大日本生産党を結成。1946年、GHQ当局によって、最も危険な影響力の
ある国家主義団体として解散させられた。南北朝時代に南朝の正統皇位は渡さなかった
。そこで北朝は、臣籍降下も出家もしていなかった伏見宮を天皇に即位させた。その後
即位した天皇は伏見宮家を存続させて、正統天皇家をスペアとしてをそのまま存続させ
た。そのまま江戸時代になり、皇位継承問題が起こるのを防ぐために伏見宮家3親王家
(近衛家、鷹司家、三条家、)を天皇の臣下として、分家し、伏見宮家とあわせて四つ
を世襲親王家とし影の第二天皇家とした。この流れは、徳川家と同じである。明治以降
も続いたが、武家制度が崩壊し困窮したように、明治政府も公家社会の頂点である宮家
の生活も貧窮して取り合えず帝国陸軍の軍人将校として生活の糧を得ていた。しかし、
その面倒は、足手まといの煙たい存在だったのである。明治天皇の近親は正統な手当て
を持っていたが縁戚のみの三大親王家は従者も多く難儀を極めてた。ここに堀川氏がい
た。金光教はもともとは陰陽道の艮金神賽の神社の祭りの帳簿を受け持つ神としていた
。呼んで字のごとく銀行の様な講の貸付の取り者で、諸場とされる博打場の用心棒神主
だった。艮(うしとら)とはいわゆる家の方位では悪鬼が守る場所、禍いの方角とされ
る。陰陽道は政治の体制が神仏習合と神仏分離の波で形骸化し江戸時代には殆どかき消
され、山岳宗教に名残りを残すのみとなっていた。明治・大正・昭和の時代を超え殆ど
が無くなるその中で、新興宗教として一部を捉え成功したのものもある。その一つが、
金光教であった。救済神を唱え、口伝仏教で門徒制を新たに取り入れ、陰陽道での救済
は聖(ひじり)の指導による開墾や土木技術や医療などだけだが、宗教に特化した形で
金光教は非公認のまま布教を続た。明治に「信心の徳」「愛の神、恵みの神」を天地金
乃神(てんちかねのかみ)として立ち現れると言う伝説から、祟(たた)り神を金神(こん
じん)にしてキリストのエホバの神の様に扱った。この考え方は 幕末維新の日本の社会
の今までの禁忌(タブー)や呪術(じゅじゅつ)宗教的信仰儀礼、人間中心の肩書文化に
変革を起こした。神への「無礼(ぶれい)」な事には拒む力を産み、さまざまの価値を
転倒した。こうして個人化・内面化して西洋化を進めた一因として新しい宗教的統合を
もたらした。信者が唱える「国家社会を越え、聖と俗、此岸(しがん)と彼岸(ひがん)の
境界を越え、天地に遍満する親神、天地金乃神が与える「おかげ」を「受ける」こと、
「天地の道理」に基づく実践、「人が人を助ける所」すなわち「神国」の建設を説き、
人がみな等しく神の子で、心の内なる神を実現して生神になること」は西洋科学の合理
主義の論理と実践であり、因習を除いて人類愛や神の国を説くのは、キリスト教の終末
思想と全く同じだった。

955: 名無しさんAA:18/07/01 20:18
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  14 >
 内村鑑三は、明治11年(1878年)6月2日には、アメリカ・メソジスト教会のハリスか
ら国内で洗礼を受けている。後に日本のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者
として活動し、福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を
唱えた。「代表的日本人」の著者をしている。札幌農学校への入学を決意するが、札幌
へ旅立つ前に、東京の芝で1ヶ月の合宿をした。その時、東京大学予備門時代の同級・
新渡戸稲造、宮部金吾、岩崎行親らと立行社というグループを結成した。東京英語学校
はその頃は花形授業だった。札幌農学校を在学中、内村は水産学を専攻し明治14年に
札幌農学校を農学士として首席で卒業した。卒業の際、新渡戸、宮部、内村の3人は、
札幌の公園で将来を二つのJのために捧げることを誓い合った。二つのJ(ふたつのジ
ェー)は、内村鑑三の思想のひとつであり、内村が信仰する 「Jesus」すなわちイエス
・キリストと 「Japan」すなわち日本の二つのことを指す。キリスト教の無教会主義は
結果大陸浪人の気概ともなった。堀川辰吉郎が自説する孝明天皇の世に隠れた直系なの
か、否かは定かではないが、後で日本政府は南進に転じたが、それまで北進路線は開国
日本の、大きな悲願だった。数多くのロシア人が帰化し日本人になったのは、長年大陸
特有のキリスト教ユダヤ差別の多くが行われていたからだ。キリスト教がローマの国教
となったとき、それは加熱され、反ユダヤ主義は、受肉した神をユダヤ人たちが十字架
にかけて殺したとして正当化されてきた。イエスを十字架にかけたのは実際にはユダヤ
人ではなくローマ人であるという事実は福音書によっても隠蔽されてきた。マルチン・
ルターの焚書は宗教改革運動の象徴だが、だが彼は反ユダヤ主義の旗手で盲目的信者で
シナゴーグを徹底的に焼き払い、ユダヤ人家は打ち壊し、田舎に住まわせ宗教書を取り
上げよ。と叫び、ラビの伝道を禁じ、従わな者は処刑し、ユダヤ人撲滅の方途を実行す
べしと訴えて、高利貸しを禁じ、金銀を没収し、ユダヤ人を農奴として働かせるべし。
と意見している。つまり教会の行っていた経営手法はユダヤ人のせいにされて、貧困の
原因とされていたのである。そもそも聖書からの宗教はキリスト教もユダヤ教も科学的
検証から既に終焉すべき時で、教会に不満を持つ宗教改革要望者はカルヴァン始め数多
くいた。こうして神政政治の離脱は、神父のいないミサが出来る。カルヴァン派は福音
主義と予定説を唱え蓄財を容認したため、新興市民階級の支持が拡大した。これまでは
金を貯め込む事は悪とされユダヤ教のみに利子などが許されていたのである。カルヴァ
ン派は長老制度によって運営され、ヨーロッパ各地に広まった。イギリスではピューリ
タン、スコットランドではプレスビテリアン、フランスではユグノー、ネーデルラント
ではゴイセンと呼ばれた。

956: 名無しさんAA:18/07/01 20:54
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  15 > 
 ゴイセンは、ドイツ語でゴイゼン、オランダ語でフーゼン、フランス語でグー、と呼
ばれ、一般にユグノーとされスペインによる迫害に抗して結成されたネーデルラントの
貴族の同盟であった。われらが知る「フーテンの寅さん」はこのフーゼンと言う貧乏を
意味する言葉から来ている。乞食は物貰いであるが、山伏、虚無僧、坊主を指し、後に
万歳、鳥追い、獅子舞(ししまい)、人形回しなどの門付(かどづけ)芸人などが、この名
が言われ風転とされた。又それ以外に赤貧武士がいたが、彼らは転落武士ルンペンとさ
れ布切れやボロ服を意味するドイツ語「Lumpen」が語源であるとされる。大陸浪人達は
その志の高さからルンペンで通っていた。五位賤もしくは乞銭は雇われ武士で黒龍会は
その糧を求めて満州族の義勇武士となった。頭山満は玄洋社総帥として内田良平も黒龍
会結成に資金提供していたが、実は他に同じ様に金子堅太郎の知遇を得て第一勧業銀行
を設立した杉山茂丸に頭山満は同じ玄洋社内に白龍会を作らせていた。いわゆる銀行の
取り立て屋や情報屋として使われたものだった。阿片売買や石油など闇の出資には表沙
汰に出来ない物が多々あったからだ。そんな中で上原 勇作(うえはら ゆうさく)は山
縣有朋から飛んでもない話が持ち掛けられていた。陸軍大臣や教育総監又参謀総長など
歴任していた上原は信認厚く、日本の鉄道利権で強力な軍閥を築き上げていた。いまで
言う不動産屋の買い占めと同じに二束三文の土地を政府に買い上げさせていたのだが、
それでも良心的であった為開通後の住民は喜んでいた。日向国都城(現宮崎県都城市)
出身で、山縣有朋、桂太郎ら長州閥の元老凋落の後に陸軍に君臨し、強力な軍閥(上原
閥)を築き上げた頃は、満州経営の野口遵とも知り合いになっていた。上原閥に属する
者に荒木貞夫、真崎甚三郎、柳川平助、小畑敏四郎らがいた。山縣有朋の相談は徳川家
や宮家の財務であった。明治の頃軍閥競争が激しく、九州薩摩を初め長州藩土佐藩佐賀
藩と大きくその系統があった中抜きんでて長州藩は郷土愛に自藩の官使を取り入れてい
た。そこで出て来たのが大陸運営で、日韓併合後には線路建設での大陸物資の供給が、
日本国中で画策された。1890年に久邇宮朝彦親王を総裁に中山忠英を会長として組織さ
れた皇道会は、その後中山忠英が1911年大日本皇道立教会を設立して初代会長に就任し
、大隈重信、一木喜徳郎、牧口常三郎、戸田城聖、数名の華族や陸海軍人により構成さ
れた。後には児玉誉士夫も加入。後に、大日本皇道立教会の会員のうち、創価教育学会
の創立に貢献していた。一方仏教界では対立し、「我日本の柱とならん」という請願か
ら智学によって「日蓮主義」という表現された運動を起こし、国柱会が作られた。戦前
の日本「八紘一宇」を最初に標榜したのは国柱会であった。こうして天皇の法華経帰依
による広宣流布、宗教革命を目指した。

957: 名無しさんAA:18/07/01 20:54
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  16 >

 同会は新体制運動や大政翼賛会には批判的であったため、1942年3月17日結社不許可
処分を受け、解散に追い込まれた。1926年(大正15年)には明治節制定の請願運動を契
機に外郭団体「明治会」が創設され、愛国主義運動を宣揚、1927年(昭和2年)に請願
が実り明治節が制定された。また、宮沢賢治と同じ著名な会員であった帝国陸軍・石原
莞爾中将の「東亜連盟」構想や「世界最終戦論」、更には石原が参謀であった満州国建
国の思想的バックボーンとして、国柱会の思想は多大な影響を及ぼした。特に満州国に
は皇軍慰安隊を国柱会より派遣し、関東軍軍人を支援している。この時期が国柱会の歴
史上もっとも活況だった時代であり、日蓮系諸教団の中でもエリート主義集団と目され
るほど、有数な著名人が会員であったことで知られる。黄龍会総長中山忠英は、家系上
中山忠英の神道研究に努め、その門下には大本教の開祖・出口王仁三郎、PL教団開祖
・御木徳近、陽明学の大家・安岡正篤、そして山蔭神道宗家の山陰基央らの昭和の偉人
らが門下にいた。彼らは後の翼賛会になった皇道会を出て黄龍会を組織し国柱会と対抗
した。緑龍会総長上田吉松は真田幸村で知られる信州上田を出自とし、生糸貿易の西陣
織を輸出していた。オランダからの輸入雑貨を扱う「尾張屋」を京に出店して宮中にも
出入りしていて、上田家は江戸時代末期は繁盛していた。当主は、神主も行い上田吉松
はケシを用いた御祓いを看板に全国を徘徊し、公家の密偵を務めていた。放浪する画家
の身分は宮廷の諜報者として重宝だった。幽霊画で知られる丸山応挙は本名上田主水と
言われ吉松の五代前の先祖とされる。しかし上田吉松の子は育てられず次々と名を変え
て、時の愛人と暮らしていた。創価学会の初代会長の牧口常三郎、北朝鮮残置者の畑中
理(金策)、日本財団の笹川良一であり、孫になって大本の上田鬼三郎(出口王仁三郎
)、創価学会二代目会長の戸田城聖でという。明治25年いとこで愛人の渡辺ウメノと
、愛人の出口ナオと3人で東北で大本教を開教したとされる。上田吉松は青森県下北郡
に流れて槇玄範を名乗った。その後、長男・鬼一郎に下北郡の医師・槇玄範を継がせ、
自らは死去を偽装し氏家省一郎と称した。鬼一郎の子が笹川良一と陸軍中野学校出身で
北朝鮮残置謀者となった畑中理(金策)だった。新潟県柏崎市の漁師・渡邊長松とイ子
(いね)の間にはで双子の兄弟が誕生している。それは戸籍上であり、渡邊長松が海で
行方不明になってからイ子は双子を生み、離婚している。

958: 名無しさんAA:18/07/01 20:54
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  17 >

 この、イ子に接近していたのが上田音吉だった。その頃の東北では食いつなぐだけで
大変だった。特に家の無い放浪者は、宗教か芸事でしか食って行けなかったのである。
双子はそれぞれ「父親知らず」としてと逸見家と牧口家に養子に出されたという。兄が
逸見十郎太(戸田城聖の父)で弟の方が創価学会の初代会長の牧口常三郎。初代の上田
吉松と妻の宇能(中村孝道の姪)との間に生まれたのが世祢(よね)。「初代吉松」は
当時の慣習で娘の世祢19歳の時、兄弟(世祢にとっては叔父)の経営する伏見の船宿
に養女に出した。その船宿は有栖川宮熾人親王のお忍びでの定宿していた。ところが、
何故か世祢は突然上田家に戻り、二代目吉松(船井郡川辺村船岡の紺屋、佐野清六の次
男)を婿に迎え、鬼三郎(出口王仁三郎)を産んだ。穴太村を本拠とする上田家の家伝
では、上田の本姓は海部で、丹後一宮の籠神社の神官から出た旧家であると自伝する。
海部・上田家は、古代に渡来したイスラエル族の子孫で、なかでもアヤタチと呼ばれた
特殊の家系という。これは、戦前の皇国史観や戦後の弥生史観に泥んだ耳には荒唐無稽
なものだが、他の伝承などを良く聞くと、充分首肯しうるものであるようになっている
。古くからオランダ取引をしてきた上田本家には、夙にオランダ人の血が入り、吉松の
五代前の先祖で画名を丸山応挙として知られる上田主水も、オランダ血統であったとい
う。一抹のオランダ人の落とし子の家系なのだ。幕末の当主上田吉松は、「言霊呼び」
という御祓いをしながら、全国を巡ってケシ薬を売り、裏では代々の朝廷の諜者として
働いていた。 その子が上田鬼三郎で、大本教(皇道大本)の聖師出口王仁三郎である。
渡辺家に嫁いだ吉松のオバはウメノを生むが、そのオバがケシ薬の秘伝を渡辺家にもた
らしたもので、いとこのウメノを愛人としていた吉松は、同じような関係にあった出口
ナオと図って、明治二五年に皇道大本を立ち上げている。この阿片を使った消炎軟膏に
目をつけたのが徳川家だった。大航海時代、ヨーロッパ人のアジア進出を阻んだ大きな
壁は、蚊が媒介する感染症マラリアだった。それまで南米ペルーに自生するキナという
植物がマラリアに効くことは早くから知られていましたが、成分を薬にまで精製する技
術はなく、ようやく19世紀の初頭、キニーネというアルカロイド成分の分離に成功、こ
れがマラリアの特効薬となったことを受け、東南アジアの植民地化が進んだ。

959: 名無しさんAA:18/07/01 20:55
 星 一(ほし はじめ)は、1873年(明治6年)産まれの義眼の博士だった。子供の頃
に悪戯っ子からのいじめで片目を失っていた。大変な努力家で、杉山茂丸の知遇を得て
岡倉覚三(天心)の勧めで国家主義の高橋 健三(たかはし けんぞう)などが支援した
と言う。東京商業学校(現・東京学園高校)を卒業後渡米し、苦労の末にコロンビア大
学を卒業して帰国した。写真植字機を開発した石井茂吉や森澤信夫と出会い星製薬を築
いた。また、最盛期には、野口英世やフリッツ・ハーバーなどを応援していた。星薬科
大学の創立者なりSF作家星新一の父親として有名になった。星製薬はチェーンストア
という販売方式を日本で初めて確立した。なお、彼が発案した『三十年後』はSF小説
であるため、それが長男の親一(新一)と関連付けて語られることがある。杉山茂丸は
明治・大正・昭和・政界実力者と結び、経済や外交、内政などにさまざまな献策を行っ
た人物である。自らは官職も議席も持たない在野の浪人で、山縣有朋・松方正義・井上
馨・桂太郎・児玉源太郎・後藤新平・寺内正毅らの参謀役を務め、政界の黒幕などと呼
ばれた。実は戦国大名・龍造寺隆信の末裔で、長男は作家の夢野久作となった。孫は、
インド緑化の父と言われる杉山龍丸である。詩人の杉山参緑。杉山研究会の杉山満丸は
曾孫。戯号として其日庵(そのひあん)。杉山は明治13年(1880年)、諸国巡遊に旅立
ち、初めて東京へ来て、山岡鉄舟の門人となり、また後藤象二郎や大井憲太郎と知遇を
得た。滞京一年半で帰郷するが、明治17年(1884年)、熊本の佐々友房から旅費を借り
て上京、伊藤博文を悪政の根源、脱亜入欧、藩閥の巨魁と目してその暗殺を企てた実行
に移る。山岡鉄舟の紹介状を持って面会に成功するが、逆に、お互い国家のために身を
大事にと説伏されて断念した。その後その暗殺失敗が漏れ官憲の追及を避けて北海道に
渡るなどして、八重野範三郎の紹介で同郷の頭山満に出会い頭山の番頭となった。杉山
は、玄洋社の経済基盤確立のため、頭山に筑豊炭田の取得を勧め、自らその資金調達に
奔走、そのために当時元老院議官であった安場保和を福岡県知事に就任させた。その後
明治21年(1888年)九州鉄道を創立し列車を走らせた。杉山元は太平洋戦争開戦時の
参謀総長で、元帥陸軍大将、陸軍大臣、教育総監など務めた軍人だった。杉山貞はおそ
らく杉山茂丸の縁戚だったと思われる。こうして宗教界を緑龍会総長の上田吉松が宮家
を赤龍会総長の上原勇作が薬学会を黄龍会総長の中山忠英が言論界を白龍会総長杉山茂
丸が金融経済界を黒龍会総長の永野重雄が君臨した。ところが突如八咫烏の総長として
堀川辰吉郎が満州の日産コンチェルンの用心棒として仕えた。大アジア主義者と称する
奇怪な大陸浪人である。世界救世教元最高顧問。善隣会最高顧問で、出口王仁三郎の黒
幕とも呼ばれた。1912年当時、活動写真(無声映画)の九州全域への配給会社を経営し
ていた。

960: 名無しさんAA:18/07/01 20:56
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  18 >

 ペルー原産のキナは、その後、オランダ領ジャワに移植され、20世紀初頭にはジャ
ワ産が世界市場を席巻し欧米で独占していた。どうしてペルー原産の植物がジャワ島に
移ったかというと、あるイギリス人がペルーの山中でもっとも医薬品に向いたキナ種を
探し出し、これをイギリス政府に献上したものの、政府はまったく関心を示さない。そ
こで、この人物はオランダ政府にこの種を買ってもらったのです。キナの将来性に気づ
いたオランダ政府が、ジャワに移植し、特産品として育てたからだった。第1次世界大
戦が起きると、解熱・消化剤としても価値があるキナを押さえるため、イギリス・アメ
リカ・フランス・イタリアの4カ国が購入連盟(シンジケート)を作り、オランダから
独占的に買い始め、大勢の奴隷をジャワに送った勿論フィリピンの原住民も送られた。
 ところが、戦争の進展とともにヨーロッパでは船舶が不足し、キナの輸送が止まって
しまったのだ。困ったのはジャワ島の栽培農業の業者で、収入が途絶えたうえ、大量の
在庫に悩まされた。既にハワイ王国は米国に飲み込まれて、東南アジアは欧米世界の独
壇場と化していた。この状況の中で、1916年、ジャワ島の領事館から日本の内務省に報
告が届きます。「いまだったら、この4カ国連盟に割り込めるチャンスだ。」と。当時
の内務大臣は後藤新平で、後藤と親交のあった星一(ほしはじめ)がこの話に白羽の矢
が放たれ、星氏も乗っかります。星一は、当時湿布薬で破竹の勢いだった星製薬の社長
で、作家・星新一の実の父でもあります。しかし、オランダの言う取引条件は厳しいも
のでした。3年分の信用状を先に出すのと、少なくとも200トン、できるなら300トンの
在庫の売り払いの一括引き取りでした。当時、星製薬はキニーネの精製に成功したばか
りであり、まだ産業精製はしていなかった。もし大量生産に失敗したら、経営危機にな
るのは確実だった。だが、この機会を逃せば、キニーネの国産化はおそらく2度とでき
なくなる。材料仕入れがなくなるからだ。星一は決断し条件を呑み、キナ取引に参入し
た。台湾銀行の協力で信用状を発行してもらい、百坪の倉庫を急造して、大量のキナを
ここに保存し、キニーネの製造に入った。元々キニーネの製造技術は星製薬しか持って
いない最先端技術で、この話に他社は最初から参入できなかったのですが、世界相手に
は不明だった。しかしこれを管轄の内務省衛生局は苦々しく思っていました。星製薬は
自分たちの言うことを聞かず、いつも勝手な行動ばかり取っている。と見たからです。

961: 名無しさんAA:18/07/01 20:56
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  19 >

 キニーネの製造が始まると、シンジケートの幹事国であるイギリスからは、外務省
に圧力がかかり連絡が来ます。「シンジケートへの日本の加入を認めるので、輸入業者
を1社決め、年間の所要量を決めてほしい」というものです。「内務省衛生局は、星製
薬への嫌がらせのため、キニーネの独占輸入会社に三井物産を指名した。外務省は既に
阿片の栽培で三井との合弁を徳川財閥と軍部の三者の甘い汁をなめている仲間であった
。驚いたのは星一です。衛生局の案だと、星製薬は自分たちが原料を押さえているのに
、輸入に際して三井物産に手数料を払うことになります。いくらなんでもそれはひどい
と内務省に掛け合いますが、内務省は一歩も譲りません。結局、何度も足を運び星一は
外務省を巻き込む形で内務省を説得し、なんとか独占輸入社の立場を確保します。しか
し、メンツを潰された内務省衛生局や軍部や三井は、星製薬への恨みを募らせます。星
製薬は、アメリカ帰りの星一が、1910年(明治43年)に創業した比較的新しい会社だっ
た。直ぐに翌年、アメリカで普及している湿布薬「イヒチオール」の製造を開始し、そ
の後、「ホシ胃腸薬」などの家庭薬で成長していきます。日本国内では、富山の薬売り
などや暖簾販売の江戸からの伝統販売を、初めて投資家によるチェーン店の仕組みを作
り上げた画期的人だった。最盛期で全国に3万5千店を組織。圧倒的な販売網と大宣伝
によって、一気に業績を拡大していった事で三井の都市店舗販売からも敵対されていた
。第1次世界大戦の始まった翌1915年(大正4年)、星製薬は日本で初めてモルヒネの
抽出製造に成功します。このキニーネ買収の話はその次の年である。欧州では1817年に
ドイツでモルヒネが単離されるが、それにさきがけた2年も前に成功していたのだ。医
薬品としての最重要品であるモルヒネは、阿片(アヘン)から精製していた。アヘンは
ケシの実から出る液汁を固めたもので、当時、日本政府は専売品として政府管理として
いた。国内では大阪府三島郡を中心に栽培されていましたが、量が足りないため、輸入
でまかなっていた。アヘンを専売しているのは東京衛生試験所ですが、ここの卸値は外
国産の3〜4倍もあり更に品質も海外より悪かった。これを精製してモルヒネを作って
も割に合わない。しかし、星一は、台湾建設していた後藤新平の依頼でアヘンを大量に
使用していた、台湾専売局の為に品種改良を研究していた。当時、台湾にはアヘン中毒
患者が多数残っており、台湾総督府は「現在の患者にはアヘン吸引を認めるが、新規吸
引は認めない」という、後藤新平以来の漸禁政策をとっていました。

962: 名無しさんAA:18/07/01 20:57
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  20 >

 そのため、台湾ではインドから大量のアヘンを輸入していたのです。星一は、インド
産アヘンのモルヒネ含有量が6%だと知ります。しかし、ペルシャ産は6%、トルコ産
では14%、ものによっては16%のもありました。それなのに、植物の種なので値段
は一様で1斤あたりインド産もペルシャ産も12円、トルコ産は12.5円と言う輸送の
コストで金額は決まっていた。つまり、台湾専売局はインド産を減らし、ペルシャ産か
トルコ産に変えるだけで、余剰モルヒネが大量に生まれたのだ。この事を当時の後藤に
報告した。その余剰分を払い下げれば、専売局には膨大な収入が生まれます。星一はそ
のことを専売局に提案し、みごと払い下げを受けることに成功したが、しかし、その後
三井は軍部を通じて、中国と満州国の間の中間地帯に、台湾専売局の為に品種改良した
ケシを栽培しして熱河地方の産物とした。こうして海外からの阿片の値段を操作した。
それまで台湾での阿片は、中国での阿片戦争以来大英帝国の植民地の香港に本社をもっ
た中国語名を従来から「渣甸洋行」(ジャーディン・マセソン商会)の独壇場であった
。日本のお茶や陶器の輸出で後に武器商人となったグラバー商会も1859年に上海へ渡っ
てきて「ジャーディン・マセソン商会」に入社して長崎支店として独立した商人だった
。香港に本社を移しして「怡和洋行」に変更しジャーディン・マセソンは更に中国経営
を強化しようとしていた。このマセソン商会も又インドの英国東インド会社の中国支店
のようなものだった。明治新政府も又開国当時から、長州五傑、五代友厚(薩摩)、坂
本龍馬(海援隊)、岩崎弥太郎(三菱財閥)等を支援した事を知っていたからこそ中国
に三菱商会を派遣しなかったのだろう。児玉源太郎が推薦した後藤新平も又表立っては
何も取り締まらなかった。現場調査に力を入れ、星のキニーネを充分に活用した。後藤
新平は、緻密な計画で土地改革を行いつつ、電気水道供給施設・交通施設情報施設など
を整備した。更に学校教育の普及、製糖業などの産業育成を図り、アヘン中毒患者の撲
滅に向かった。台湾の近代化を推進し、一方で統治に対する叛逆者には取り締まりをす
るという法治国家の持つ「飴と鞭」の政策を有効に用いることで統治体制を確立した。
それは鮮やかだったと言えるだろう。アヘンは麻薬だがキニーネはモルヒネに存在する
鎮痛剤である。つまり病院建設をして痛み止めでアヘン中毒患者を抑えたのだ。しかし
それでも軍部は三井と共に台頭した。


963: 名無しさんAA:18/07/01 21:05
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  21 >

 軍部において経済は死活問題となっていた。石原莞爾は満州を領地とした事を自慢し
、満州国樹立に及んだが、既に満鉄経営は順調であったし、北朝鮮に於いては資本投下
が日本を潤していた。今の尖閣問題でわざわざ石原知事が国際社会に一石投じた事と、
全く同じに日本の権益にとっては意味のないものでもあった。更に満州経営に2つの壁
がでてきた。それは今まで満鉄の社用地が日本の領地となって満州国の税収が必要にな
った事だ。軍部はその取り立てに入り、これまで税替わりに払っていた関東軍の運営資
金である紙幣の発行の軍票の清算が満州国家で行われなければならなくなったのだ。こ
の問題に朝鮮銀行の利益が持ち出され、税問題は2年間の猶予で話し合いがなされた。
もう一つの壁がシベリヤ出兵からのユダヤの議定書問題だった。ロシア帝国が共産党革
命に及び民主主義化するかに見えたが、更に赤化した軍の内部粛清で共産党化しユダヤ
批判ユダヤ差別や弾圧や虐殺などポグロムは消えなかった。ポグロムとはユダヤ人に対
し行なわれる集団的迫害行為で「殺戮・略奪・破壊・差別」を言うもので、チェコ語に
は同系のポフロマという言葉があり、不時の災難を意味するように、永年の迫害は続い
ていた。それが日本では理解不能だったし又そのユダヤの世界征服が何を指すかが日本
国内では不明のまま、不幸にも共産党思想の拡散に使われたのである。帝政ロシア政府
が社会的な不満の解決をユダヤ人排斥主義に誘導し助長されることになっての、1903年
から1906年にかけての度重なるユダヤ人襲撃はユダヤ人の国外脱出の引きがねとなり、
シオニズム運動を招くことになった。この頃シオニズムによってアメリカに流れたユダ
ヤ民衆はアメリカの中枢の政治経済を牛耳って、アメリカをテコに世界を動かしだした
。日本を経由して独立後からアメリカに移住して行ったのだ。中継地ハワイは早くから
独立はしていた。しかし日本から艦船派遣はしたものの、ホノルルでハワイ人による反
対集会が繰り返される中で、1894年7月4日、臨時政府はサンフォード・ドールを大統領
として共和国の独立宣言が行なわれて争乱となった。翌1895年1月6日、王政派が反乱を
起こすも、数日の銃撃戦の後に新政府軍に鎮圧された。リリウオカラニ女王は捕縛され
、私邸、あるいはイオラニ宮殿の庭からたくさんの銃器が見つかったとして、リリウオ
カラニは反乱の首謀者の容疑で逮捕されて、イオラニ宮殿内に幽閉された。1月22日
、反乱で捕らえられた約200人の命と引き換えに、アメリカはリリウオカラニは女王
廃位の署名を強制し、こうして独立のハワイ王国は滅亡させられ、太平洋などの日本の
軍艦などによる米国牽制が、既に米国からは横やり覇権国家に映っていたのである。

964: 名無しさんAA:18/07/02 00:46
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  22 >

 こうした動きに影響を与えていたのが東インド会社だ、ジャーディン・マセソン商会
だ。ジャーディン・マセソン商会は早くからの東インド会社での東南アジア部門であっ
た。貿易商社として既に名を馳せていた「ジャーディン・マセソン商会」は東インド会
社として英国議会までも動かし得る力をもっていた。英国海軍すらも指導する商人であ
ってその力は中国のアロー号事件では、それはいかんなく発揮された。1832年、スコッ
トランド出身のイギリス東インド会社元船医で貿易商人のウィリアム・ジャーディンと
ジェームス・マセソンによって作られた。この会社は、中国の広州(沙面島)に設立さ
れた時は、簡単な小さな英国インド会社の貿易出張所であり、単に取次店であった。し
かし中国語名は「怡和洋行」に変え。当時では、ヨーロッパ商人に唯一開かれた貿易港
であった広州で、直ぐに大きくなり広東システム体制下でのかなりの実力を持つに至っ
た。1842年に、広州から香港に本社を移すと、中国語名を従来の「渣甸洋行」(渣甸は
ジャーディン船医の意)からの「怡和洋行」に変更した。由来は、広東十三行のひとつ
となり、西洋にも有名だったからだ。「怡和行」から取った。広東十三行といっても必
ずしも13人の商人団ではないという。1685年に康熙帝によって、海外貿易が許可され
た時、貨物の集散、関税の徴収等に粤海関監督のもとで13の牙行(仲買商)である者
を貢物を差し出す広東十三行を許可指定したことによる。この行商制度は、当時の広州
に於いては、この許可制限によって数十家の牙行(仲買商)の倉が、珠江の沿岸に店舗
等を張って立ち並んでいた。これがそのまま十三行と呼ぶ習わしとなった。その後少し
緩くして。1720年、海関監督は数十家の牙行(仲買商)のうち有力な16家を選んで許可
し、5行に対しては貿易額の全額を、6行に対しては貿易額の半額を、残りの6行に対
しては、貿易額の4分の1の責任と貢物負わせた。こうして新たに加入しようとするも
のに対しては1千両を権利金として第三の6行に加えようとした。当然この制度は多く
の牙行の反対にあい、翌年にはあっけなく解散した。この時の貿易管理体制を「カント
ン体制」「広東貿易体制」などと言われ、ヨーロッパ商人は交易を広東(広州)1港の
みに限定されたものとして、清国の独占的商人の貿易体制である。と認識されていた。
一方ジャーディン・マセソン商会は、東インド会社の船医でマニアック商会の共同出資
者であるスコットランド出身のユダヤ人ウィリアム・ジャーディンが、サッスーン財閥
と争っていた事で同じスコットランド出身のユダヤ人で、カルカッタ貿易商として独立
しマニアック商会の共同出資者であったジェームズ・マセソンに中国貿易を呼びかけた
ものだった。

965: 名無しさんAA:18/07/02 00:46
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  23 >

 ジャーディン・マセソン商会は、元東インド会社の船医でマニアック商会の共同出資
者であるスコットランド出身のユダヤ人ウィリアム・ジャーディンと、同じくスコット
ランド出身のユダヤ人で、カルカッタで貿易商として独立していた、マニアック商会の
共同出資者であったジェームズ・マセソンにより、1832年に中国のマカオに設立された
貿易商社で、主なビジネスはアヘンと紅茶で重なるものがあった。東インド会社後期の
利権をめぐって、サッスーン財閥と激しく争っていて、その後、アヘン戦争が終わると
、1941年に本社を香港に移しています。明治維新の功労者で、フリーメーソンでもある
トーマス・グラバーが長崎に設立した。「グラバー商会」 は、このジャーディン・マ
セソン商会の代理店であった。サッスーン財閥と激しく争ったジャーディン・マセソン
商会ですが、1877年に、ジャーディン一族と結婚したファミリーとしてとケズウィック
という人物が現れ、サッスーン=ロスチャイルド連合との和解を申し出てこれが実り、
このアヘンにまみれ、悪いことばかりしている2つの会社は手を組むことになりました
。そうして、このジャーディン一族のウィリアム・ケズウィックはサッスーン一族(ロ
スチャイルドと親戚)が最大株主であるHSBC(香港上海銀行)の取締役として迎えられ
た。そうして、ジャーディン家・マセソン家・ケズウィック家・ロスチャイルド家・サ
ッスーン家は複雑に婚姻関係で結ばれていきました。大英帝国のヴィクトリア女王の時
代に、アヘン戦争は起こりましたが、その莫大な利益により、その富を取り扱う銀行が
必要になりました。1864年、太平天国が滅亡し、メーソン・ロッジが上海に林立した年
、ロンドンで植民地協会が設立され、その4年後、同協会は、英国王室の後ろ盾によっ
て、王立直轄植民地協会と名を改め、この王立直轄植民地協会によって創立された金融
機関が、HSBC(香港上海銀行)であった。出資者のデビッド・E・サッスーン商会
は他の、エヴリン・ベアリングのベアリング商会、ウィリアム・ジャーディンとジェー
ムズ・マセソンのジャーディンマセソン商会、そしてロスチャイルド人脈の役員によっ
て作られたバークレイズ銀行で、全員が高位フリーメーソンのメンバーで構成された。
 東インド会社の蛮行が知れ渡り世界の非難を浴び、正式に東インド会社は消滅するが
、それでも名を変えてその利権は、HSBC(香港上海銀行)、サッスーン財閥、ロスチャ
イルド財閥、ジャーディン・マセソン商会などが、ほぼ同じ様に引き継いでいった。話
は飛ぶが、アメリカ大統領は以前はハーバード大学出身者で占められていました。最近
ではブッシュ大統領はじめエール大学のスカル&ボーンズ出身者が幅を利かせている。


966: 名無しさんAA:18/07/02 00:46
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  24 >

このスカル&ボーンズを創設したのが、エール大卒業生のウィリアム・ラッセルとアル
フォンゾ・タフトである。このウィリアム・ラッセルのいとこが、中国のアヘン戦争の
引きがねとなる世界最大のアヘン密輸企業のジャーディン・マセソン社と手を組んでい
て大きく資産を積み上げたラッセル・アンド・カンパニーの経営者であります。あの名
門エール大学も、その資金は中国のアヘンの利益から得ていたのです。ジャーディン・
マセソン商会は、超高級コニャック「ヘネシー」を販売し、日本では「ホワイトホース
」の輸入業者として知られていますが、あのマンダリン・ホテルGrもジャーディン・
マセソン商会が運営しているものだ。1963年に、香港に拠点を置くイギリス系の大手総
合商社・ジャーディン・マセソン商会のヘンリー・ケズウィック会長の指導の元、当時
イギリスの植民地であった香港のセントラルにオープンした「マンダリン香港(現在の
マンダリン・オリエンタル香港)」が始まり、その後社名をマンダリン・インターナシ
ョナル・ホテルズと改名し、1974年には、タイのバンコクにある有名ホテル、「ザ・オ
リエンタル・バンコク」を買収し、1985年に現在のマンダリン・オリエンタルホテルグ
ループの社名に改名しました。現在、13カ国に21(約 8,000室)のホテルを展開し、
シャングリ・ラ・ホテルズ&リゾーツや香港&上海ホテルズと並び、アジアを代表する高
級ホテルチェーンとして欧米でもその名が知られており、2005年12月2日には 日本初進
出となるマンダリン・オリエンタル東京が日本橋にオープンしています。ロスチャイル
ドグループであるLVMH(ルイ・ヴィトン・モエ・ヘネシ−)の洋酒販売部門は、元ジャ
ーディン・マセソンと ダルモア蒸留所の合弁洋酒会社(ジャーディン・ワインズ&スピ
リッツ)からジャーディンが合弁から離脱し、LVMH傘下となり、MHDディアジオ
・モエ・ヘネシーという会社になったものです。(LVMH:ルイ・ヴィトン・モエ・
ヘネシー) 明治維新で伊藤博文、井上馨ら長州5傑が、グラバーの仲介で、イギリスに
密航しロンドン大学に留学に行きましたが、そのときの船はジャーディン・マセソンの
もので、彼らを迎えたのはジェームス・マセソンの甥であったヒュー・マセソンでした
。このように、明治維新はフリーメーソン、ジャーディン・マセソン商会、サッスーン
財閥、ロスチャイルド財閥と深く関わっているのです。明治維新では、ジャーディン・
マセソン商会は、アメリカ南北戦争が終わり売れ残った武器を上海で取扱い、維新軍は
「グラバー商会」 を通じて、銃や軍艦なども輸入しています。その取引のダミー商社
が坂本龍馬が長崎に設立した「亀山社中」だった。この「亀山社中」が、発展し「海援
隊」と改称された。

967: 名無しさんAA:18/07/02 00:47
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  25 >

 もともと清は1757年以来広東港でのみヨーロッパ諸国と交易を行い、「公行」という
北京政府の特許を得た商人にしかヨーロッパ商人との交易を認めてこなかった。日本で
の長崎出島と同じ様な広東貿易制度である。欧州で広東システムと言われるものだ。一
方でヨーロッパ側で中国貿易の大半を握っているのはイギリス東インド会社であった。
同社は現地に「管貨人委員会」(セレクトコミュニティオブスーパーカーゴ=選任監督官
Select Commitee of Supercargoes)という代表機関を設置していた。しかし北京政府は
ヨーロッパとの交易を一貫して「朝貢」と認識していたため、直接の商人貿易交渉には
応じようとしなかった。そのため管貨人委員会さえも公行を通じて「稟」という請願書
を広東地方当局に提出できるだけであった。これはあくまで稟議つまり申し立て書願い
である。このような広東貿易制度は中国市場開拓を目指すイギリスにとっては全く満足
のいくものではなかった。広東貿易制度の廃止、すなわち北京政府による貿易や居住の
制限や北京政府の朝貢意識を是正することによって英中自由貿易を確立することが課題
になっていった。この頃イギリス東インド会社は1773年にベンガル阿片の専売権を獲得
しており、ついで1797年にはその製造権も獲得した。これ以降同社は中国への組織的な
阿片の生産・製造・販売をして中国への売り込みを開始していた。北京政府は阿片貿易
を禁止していたが、地方の中国人アヘン商人が官憲を買収して取り締まりを免れて、密
貿易に応じたため、阿片貿易は拡大していく一方だった。1823年には阿片がインド綿花
に代わって中国向け輸出の最大の商品となっていくのに時間はかからなかった。広東貿
易の枠外に広がりゆく阿片貿易は広東貿易制度を崩壊させるきっかけとなっていく。 
当時のイギリスは、茶、陶磁器、絹などを大量に清から輸入していた。が一方で、イギ
リスから清へ輸出されるものは、時計や望遠鏡のような富裕層向けの物品はあったもの
の、大量に輸出可能な製品が存在しなかった、又本国ではイギリスの大幅な輸入超過で
あり、スペインに入ってくる金銀などで。相対的にイギリスは産業革命による資本蓄積
やアメリカ独立戦争の戦費確保が出来なくなり、銀の国外流出を抑制する政策をとった
。この事でイギリスは植民地のインドで栽培した麻薬であるアヘンを清に密輸出する事
で超過分を相殺しようと、三角貿易を整える事になった。こうした大きな世界的狂いは
結局は中国商人の清王朝の管理の目を盗んで、自己の営利に走った事が引き金だった。
その意味で中華中心主義を押し通した清代の王朝は、只の威厳でしかなかった。


968: 名無しさんAA:18/07/02 00:47
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  26 >

 こうして前身は東インド会社で、元は貿易商社のジャーディン・マセソン社だったが
1832年、麻薬王のサッスーン財閥と繋がれた事で更なる高見を目指した。中国の広州の
(沙面島)に設立された事務所を香港占領と共に移し、銀行を作り、日本を目指したの
である。幕末・明治期の日本における歴史では、よくまあ日本は占領されなかったなあ
。とつくづく日本人の几帳面さによる運の良さを感じてしまう。かねてより沖縄や台湾
、長崎の中国人商人を通じて日本の物品を密貿易していた同社は、江戸幕府の1853年の
日米和親条約を皮切りに、1854, 1855, 1856年と立て続けに日英、日露、日蘭和親条約
を締結し、長崎港と函館港を開港する事に目を見張る。1859年(安政6年)には、上海
支店にいたイギリス人ウィリアム・ケズィック(ウィリアム・ジャーディンの姉の子)
を日本に派遣した。ケズィックは西洋の織物、材木、薬などを持ち込み、日本からは、
柳川藩を通じて、出島経由で、石炭、干し魚、鮫皮、海藻、米などを購入、ビジネス的
にはとても成功とは言えなかったが利益は出て居た。日本製絹の品質の高さに将来性を
抱き、グラバーを外れて、1860年初頭に、横浜居留地の1番地(旧山下町居留地1番館、
現山下町一番地)に「ジャーディン・マセソン商会」横浜支店を設立した。同商会では
日本に進出した外資第1号としても知られる。後には吉田茂の養父・吉田健三が一時期
、同社横浜支店長を務めてさせていた事でも有名だ。岸もこの事務所と関りがあった。
鹿島によって建設された横浜初の外国商館である社屋は、地元民から「英一番館」と呼
ばれた。跡地には現在シルクセンター(国際貿易観光会館)が建っている。長崎でも、
1859年9月19日(安政6年8月23日)に 幕末・明治期の最重要人物であるトーマス・ブレ
ーク・グラバーが「ジャーディン・マセソン商会」長崎代理店として「グラバー商会」
を設立して大きくなっていた。グラバーは、長州五傑、五代友厚(薩摩)、坂本龍馬(
海援隊)、岩崎弥太郎(三菱財閥)等を影で支援していた事で知られる。長州藩は1965
年、同商会から軍艦ユニオン号を購入し、戊辰戦争を率いた。商会の跡地は長崎でグラ
バー園として公開されている。1863年(文久3年)の井上聞多、遠藤謹助、山尾庸三、
野村弥吉、伊藤博文の長州五傑の留学の際にはマセソン商会ゴーワー支店長が出航の手
配をし、英国滞在は、甥にあたるロンドン社長が世話した。しかし、馬関戦争を聞いて
長州藩士伊藤俊輔と井上聞多は四国連合による下関攻撃が近いことを知らされ、戦争を
止めさせるべく急ぎ帰国の途についた。マセソン商会はその他、神戸・大阪・函館にも
代理店を置いた。この事で競合した「グラバー商会」は大きく売り上げを損なった。

969: 名無しさんAA:18/07/02 00:47
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  27 >

 中国の明代末期からは、民衆にアヘン吸引の習慣が広まり、清代の1796年(嘉慶元年
)に大きくアヘン輸入禁止処置を取った。以降こうして危機感を募らせる政府は、19
世紀に入ってからも何度となく禁止令が発したが、アヘンの密輸入は止まず、国内産の
アヘンの取り締まりも効果がなかったので、清国内にアヘン吸引の悪弊が広まっていき
、健康を害する者が多くなり、風紀も退廃していった。中国の人口が18世紀以降急増
したことに伴い、民度が低下し、自暴自棄の下層民が増えたこともそれを助長させた。
。アヘンの代金は銀で決済したことから、アヘンの輸入量増加により貿易収支が逆転、
清国内の銀保有量が激減し後述のとおり銀の高騰を招いた。この事態に至って、清では
官僚の許乃済から「アヘンを取り締まる事は無理だから輸入を認めて関税を徴収したほ
うが良い。」というものが上奏された。だが、宮廷ではこの論はほとんどの宦官からは
反対を受け一蹴され、帝に届く事はなかった。その後、アヘンを吸引した者は死刑に処
すべきだと言う意見が出て、道光帝は1838年に欽差大臣(特命全権大臣のこと)をたて
林則徐を任命し広東に派遣して、アヘン密輸の取り締まりに当たらせた。林則徐は真面
目で、今までの欽差大臣と違った。アヘンを扱う商人からの贈賄にも応じず、非常に厳
しいアヘン密輸に対する取り締まりを行った。1839年(道光十九年)には、アヘン商人
たちに「今後、一切アヘンを清国国内に持ち込まない。」という旨の念書である誓約書
の提出を要求し、「持ち込んだら死刑」と通告した。さらにイギリス商人が持っていた
在庫のアヘンを没収し、夷館も閉鎖した。同年6月6日には没収したアヘンをまとめて
焼却処分したが、燃え残りが出た灰すらも、阿片塊を海水に浸した上で塩と石灰を投入
し、化学反応によって無毒化させるほどの念をいれた。この時に処分したアヘンの総量
は1、400トンを超えたという。その後も誓約書を出さないアヘン商人たちを港から
退去させた。この確固たる取り締まりは上手く行くものの様にみえた。しかしこの大胆
で急激な変化は英国には伝わっていない変化だった。1836年に、英国外相パーマストン
子爵は現地イギリス人の保護のため、植民地勤務経験が豊富な外交官チャールズ・エリ
オットを清国貿易監察官として広東に派遣した。パーマストン子爵は強硬派で海軍省を
通じて東インド艦隊に対し、清に対する軍事行動の規制を大幅に緩めるのでエリオット
に協力するよう通達したが、36年の段階では阿片取り締まりが始まっていないで、直
接の武力圧力をかけることは禁じていた。しかし1839年に着任した林則徐による急激な
一連の阿片取り締まりがはじまると、エリオットは狼狽した。


970: 名無しさんAA:18/07/02 00:48
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  28 >

 エリオットはイギリス商人の所持する阿片の引き渡しの要求には応じたが、誓約書の
提出は強く拒否し、イギリス商人と相談の上5月には広東在住の全英国人を牽き連れて
一旦はマカオに退去する処置を取った。この急速な事態の進展に東インド艦隊も事態を
掴んでおらず、軍艦を派遣してこなかったのだ。砲艦外交の弱さであった。エリオット
の元に武力がなかった事は中国官使をのぼせさせた。絶好のチャンスと見た林則徐は、
九竜半島でのイギリス水兵による原住民殺害を口実に、8月にはマカオを武力封鎖して
市内の食料を断ち、さらに井戸に毒を撒いてイギリス人を毒殺しようと企んだのである
。これによりエリオットはマカオすらも放棄して船上へ避難することになった。しかし
避難の手筈の中たまたま迎えに来たのが東インド艦隊のフリゲート艦「ボレージ」と「
ヒヤシンス」が2隻だけ到着した。エリオットと清国の揉め事を察知したわけではなく
、パーマストン子爵の方針にしたがってたまたま6等艦という英海軍の最下等の軍艦を
差し向けていたのである。エリオットはこの2隻をよって早速に反撃に打って出る。当
然ながら砲撃を持たない中国軍には軍事力など無いに等しいものだった。9月に九竜沖
砲撃戦、11月に川鼻海戦に及んで清国船団を壊滅させた。この報告が伝わるとイギリ
スの本国も外相パーマストン子爵の主導で対清開戦に傾き、貴族院内閣の閣議において
遠征軍派遣が決定した。「阿片の密輸支持」は開戦理由に対して、人々からの反発が強
く出た。イギリス議会の庶民院でも、野党保守党のウィリアム・グラッドストンは後に
自由党首相になったが、「不義の戦争」とする批判を繰り返した。しかし、清に対する
出兵予算案は9票の僅差で可決承認され、議決を受けたイギリス海軍は、イギリス東洋
艦隊を編成して派遣に出た。1840年8月までに軍艦16隻、輸送船27隻、東インド会社 所
有の武装汽船4隻、陸軍兵士4,000人が中国に到着した。英国艦隊の40隻が突然中国の
港の沖合いに来たのだ。現れたのは林則徐が大量の兵力を集めてたった2隻と戦ってい
た広州ではなく、兵力が手薄な北方の沿岸地域だったを占領しながら北上し、大沽砲台
を陥落させて首都北京に近い天津沖へ入った。高見していたさしもの道光帝も、天津に
軍艦が現れたことに驚き、強硬派の林則徐を開戦の責を負わせて新疆イリへ左遷した。
和平派のキシャンを後任に任じてイギリスに交渉しかけ、イギリス軍側もモンスーンの
接近を警戒しており、また舟山諸島占領軍の間に病が流行していたため、これに応じて
9月に一時撤収したのである。

971: 名無しさんAA:18/07/02 00:48
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  29 >

 この時の中国は英国議会の仕組みを知らなかった。それは日本軍が米合衆国を知らな
かったように無知であった。また米英も同じに極東を知らなかった。1841年1月20日に
キシャンとエリオットの間で川鼻条約が結ばれた。広東貿易早期再開、香港割譲、賠償
金600万ドル支払い、公行廃止、両国官憲の対等交渉。などだ。比較的に 後の南京条約
と比べると清に好意的な取り決めだった。ところが、宦官で占める城廷の会議は異様な
怒りが溢れていた。まずこれまで朝貢しか扱っていなかった貿易に香港割譲でまたアヘ
ン取引がなされる。と言う危惧だ。更に中国中心の中華主義の権威が崩れた事の怒りだ
土地はおろか賠償金まで付けられて負けましたと言わんばかりの屈服である。これを広
く国民に知らしめ税を取り立てるのは不可能に近かった。帝の武力が負けた事はそうし
たこれまで地方の役人の言わば各州の太守への用心棒的課税徴収が出来ない事を意味し
此処に組織だった反感があった。こうして条約を決め英軍が撤収するや否や清政府内で
強硬派が盛り返し、道光帝はキシャンを罷免して川鼻条約の正式な締結も拒否するに至
った。日本と中国の違いは此処にあった。日本では江戸の草創期の安土桃山時代に一時
織田信長は天皇制廃止に向かったが江戸期の徳川氏は曲りなりに保護し残した。従って
藩主を束ねたのは徳川幕府であり、明治新政府でも、国内での権威の失墜が起こっても
裏にもう一つの権威を残して外交決定をしたのである。しかし中国は征服王朝であり、
今の共産党独裁でも国外への権勢と国内への権威は表裏一体で、一つでしかなかった。
この破棄の連絡を受けて、イギリス軍は早速軍事行動を再開した。英国艦隊は、廈門、
舟山諸島、寧波など揚子江以南の沿岸地域を次々と制圧しく。三元里事件での現地民間
人の奮戦や、虎門の戦いでの関天培らが奮戦もあったが、完全に制海権を握り、火力に
もはるかに優るイギリス側が自由に上陸地点は選択し、戦争は一方的に進み防御する清
側正規軍は撃破の様相された。特に「ネメシス」号をはじめとした東インド会社汽走砲
艦の活躍は目覚ましく、水深の浅い内陸水路に容易に侵入し、近くから清軍のジャンク
船を次々と一発で沈めて行った、その為後続の艦隊の進入を用意にし成功に導いていた
。英国艦隊はモンスーンに備えて冬の間は停止したが、春にはインド兵を増強し 6,700
人、本国からの援軍2,000人、新たな汽走砲艦などを受けて北航を再開し、5月に清が誇
る勇猛果敢な満洲八旗軍が駐屯する乍浦をを陥落させた。こうして揚子江へ進入を開始
し汽走砲艦が活躍する中、7月には鎮江を陥落させ英軍が鎮江を抑えたことにより京杭
大運河は止められ、北京は補給を断たれ北京政府は破滅的状況を目にした。


972: 名無しさんAA:18/07/02 00:49
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  30 >

、道光帝らは戦意は完全に失われ1842年8月、両国は南京条約に調印し、第一次阿片戦
争は終結した。阿片戦争以前に、清国は広東(広州)、福建(厦門)、浙江(寧波)に
海関を置き、外国との海上貿易の拠点として管理貿易(公行制度)を実施していたが、
南京条約では公行制度を完全廃止し、自由貿易制に改め、従来の3港に福州、上海を加
えた5港の開港と自由貿易港と定めた。加えて本条約では英国への多額の賠償金の支払
と香港の割譲が定められた。また、翌年の虎門寨追加条約では治外法権、関税自主権放
棄、最恵国待遇条項承認などが定められた。この取り決めが標準化し、日本でも適用さ
れて明治政府を苦しめた。こうして中国人の貿易商の地位も失われた。この英国と清国
との不平等条約の他に、アメリカ合衆国との望厦条約、フランスとの黄埔条約などが結
ばれている。この戦争を英国が引き起こした目的は大きく2つあった。一つは東アジア
で支配的存在であった中国を中心とする朝貢体制の打破と、厳しい貿易制限を撤廃して
自国の商品をもっと中国側に買わせることだった。しかし、結果として中英間における
外交体制に大きな風穴を開けることには成功したものの、もう一つの経済的目的は達成
されなかった。逆に中国製の綿製品が英国製品の輸入を阻害したからである。これを良
しとしなかった英国は次の機会をうかがうようになり、これが第二次阿片戦争とも言わ
れるアロー戦争へとつながっていく。もう一つは対外的に欧州社会での英国の地位の為
だった。早くから南方貿易で東インド会社を設立したものの、ネーデルランドのドイツ
のロシアを巻き込んだハンザ同盟のオランダ貿易には勝てず、ポルトガル・イスパニア
に戦争で勝つぐらいでしかなかった。そして後ろにアメリカ大陸の独立運動が控えてい
たのである。つまり経済的国民生活と財政的国家運営と両方が植民地主義で壁になって
いて、貿易拡大と国家収入に飢えていたのだ。この打破に中国はいけにえの牛にされた
のである。阿片戦争の清側の敗戦が深刻な衝撃になった人々は王朝と兵士と貿易商人に
限られていた。一つは北京から遠く離れた広東が主戦場であった事、一つは中華が夷狄
(いてき)に敗れる事はしばしばあって驚きではなかった事だ。そもそも、清という国
自体が、漢民族は夷狄の満州族が支配する帝国であった。広東システムの管理貿易は廃
止させられたものの、清は、依然として華夷秩序は捨てておらず、イギリスをその後も
「英夷」と呼び続けた。まあ英国にしても議会は商人だらけで、そのままでもアヘンの
商売は続けていたであろう。となるともっと悪い結果も出て居たかもしれない日本は。


973: 名無しさんAA:18/07/02 04:19
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  31 >
 この清朝の敗戦は長崎に入港するオランダや清の商人を通じて幕末の日本にも伝えら
れた。西洋諸国の軍事力が東洋に比して圧倒的に優勢であることがいよいよ明白になっ
のである。それまで異国の船は見つけ次第砲撃するという異国船打払令で強硬な態度を
採っていた江戸幕府首脳達も、この戦争結果には驚愕した。同時期に、日本人漂流民を
送り届けてくれた船を追い返すというモリソン号事件が発生したこともあり、天保13年
(1842年)には、方針を転換して、異国船に薪や水の便宜を図る薪水給与令を新たに打
ち出すなど欧米列強への態度を軟化させた。大きな衝撃をもって迎えられたこの情報は
、かつて強国であったはずの清の壁の決壊であり、さらにその先の東アジアへ進出する
者らが西洋の旗印となる危機的な懸念があり、速やかな国体の変革が急務であることを
日本に募らせた。こうして幕府の対外軟化が進んだが、それがやがて開国の大きな要因
の一つとなり、ペリー来航、明治維新を経て、日本の近代化へとつながることになった
。こうした歴史は、全く米国TVドラマのごとく流転する歴史だ。まるでFOX映画の
西部劇の様に、米国はNO1を狙って生活や人間などは、どうでもいいというはた迷惑
なならず者のガンマン世界を見せる。大戦時代において日本はこの欧州文化について行
く事ができなかった。秩序も道徳もこだわりもなく 日本の船は中国機に似せた米兵は
戦前から攻撃していたし、開戦以降は民間船でも撃沈させられ石油輸送にはつながらな
かった。その後の焼夷弾による都市攻撃も原爆投下でも、全く躊躇なく日本人を殺し続
けた。それは何故か。実は中国国民も日本国民も見分けがつかなかったし、人殺しが好
きだったからだ。歴史は最終的に米国は中国に上陸する事無く日本を攻めたが、その頃
の大陸に上陸していれば、中国民は国民でなく農奴であり、牛や豚と同じだった。と言
う理由で結構な死人が出ただろう。というのも中国王朝がそういう体制で保持して来て
いたからだ。教育や読み書きも兵士には必要なかった。ちなみに日華事変は不思議な話
は溢れている。例えば兵士の話だ。古老は語る「ある日夕食を終えると,突然大騒ぎす
る人声が聞こえた。さらに,家の屋根の上を歩く足音が聞こえた。突然,一人の男が、
わらぶき屋根を踏み破って部屋に落ちて来た。そして声を出さないようにと,大慌てで
懇願した。彼が言うには,自分は十七歳で,わら紙の職人だが,集金に出たところへ軍
隊に捕まってしまって,服とお金は没収され灰色の軍服を着せられたのだった。当時に
中国兵の補充は、勝手に通行人を拉致するか、人買い組織から壮年男子を買い入れて、
充足すればよいのが普通だった。」こうして、中国の兵士はほとんど全員が文盲であり
、軍事訓練を受けたものは少なく、強制的に連れてこられた農民たちがほとんどで軍隊
を作っていて、彼らが銃の撃ち方を学んだのは、戦場であったのだ。と言われる。

974: 名無しさんAA:18/07/02 04:19
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  32 >

 1851年に開催された第1回ロンドン万博は、世界で最初の万国博覧会である。ナポレ
オンのフランス産業博覧会を真似て、ロンドンのハイドパークに建てられた会場は、そ
の外見からクリスタルパレス(水晶宮)と呼ばれ、この建物自体が最大の目玉展示物であ
った。この万博を中心となって推進したのは、ヴィクトリア女王の夫であり王立技芸協
会会長のアルバート公であった。当時ロンドンの公文書館で館長補佐をしていたコール
は、1849年にパリで開かれた産業博覧会を参観し、フランスでは万博開催を果たせなか
ったことを知って、予定していた国内博覧会を国際博覧会に拡大することをアルバート
公に進言し、アルバート公はこれを受け入れた。当時のイギリスは18世紀末から始ま
った産業革命により農業中心の伝統的な産業が後退し、代わって工場生産業が幅をきか
せるようになっていた。進歩の一途をたどった世界の工場イギリスの繁栄は明らかであ
り、イギリスはこの万博を開催することで、その圧倒的な工業力を世界に知らしめるこ
とになったのである。参加国は34カ国で、141日間の会期で一日の平均入場者数は約4
万3,000人、10月7日には約11万人の最高入場者数を記録した。会期中の延べ入場者数は
約604万人で、この数は当時のイギリスの総人口の約3割、ロンドンの人口の3倍に
当たる人が来場した。これだけの人々が入場した背景には、国内的には印刷技術の進歩
による宣伝効果や、会場までの交通手段が鉄道網の発達により格段に進歩したことが考
えられる。また国外についても同様で、この頃海上帝国のイギリスは定期蒸気船航路で
南・北アメリカ、アジア、アフリカに、分散する植民地を結び付けており、ロンドンは
文字通り世界の中心として君臨していたからだ。出品者は1万3,937人、うち半数以上を
大英帝国からの出品が占めた。出展品は、鉱物・化学薬品などの原料部門、機械・土木
などの機械部門、ガラス・陶器などの製品部門、美術部門(絵画を除く)のように分類さ
れていた。この万博は大成功を収めた。約52万ポンドの収入があり、利益は約18万
ポンドにものぼった。そしてその利益をもとにしてできたのが、150年以上たった今
も尚ケンジントン一帯に残る、ヴィクトリア・アンド・アルバート・ミュージアムや科
学博物館、ロイヤル・アルバート・ホールなどの文化施設である。この時日本は出品し
無かったが日本製品は公爵などの趣味で集められた磁器・絵画が展示されている。更に
人気が高かった為に機関車などがこの後中国で展示された。


975: 名無しさんAA:18/07/02 04:20
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  33 >  

 この万国博覧会は、大成功に終わった為に、その後ニューヨーク・パリと行われた。
その後1865年(慶応元年)に上海博覧会が行われた。そしてアメリカのカーネギー財団
日本では、トーマス・グラバーが、1865年(慶応元年)に上海博覧会に出品されていた
英国製の蒸気機関車「アイアン・デューク号」を買い取り、客車2両計3両を長崎出島
で走らせている。長崎(現在の市民病院前)〜大浦海岸(現在の大浦川)までの約600mの
線路をわざわざ敷設して、売り込みに走らせた。大きさとしては、「アイアン・デュー
ク号は、思ったよりも小さなもので。遊園地の汽車を少し大きくしたぐらいだ。しかし
、長崎の町民も藩主も、はじめて黒煙を吐いて走る蒸気機関車を目の前で見たときは、
さぞや驚いたはずだ。この時に佐賀の藩主で肥前の妖怪とされた鍋島直正は何回も見学
に来たはずだ。既に反射炉を研究し鉄を作り出し、大砲の作り方を薩摩藩に譲った後の
頃で三重津海軍所(みえつかいぐんしょ)は佐賀県佐賀市川副町大字早津江字元海軍所
に所在し、佐賀藩が1858年(安政5年)に既に設立し蒸気船の造船に取り掛かっていたか
らだ。三重津海軍所はその後東芝の前身東京芝浦製作所を作った、からくり人形の田中
義衛門を呼んで開発させた。その後は船の修理・造船施設。西洋船運用のための教育・
訓練機関も兼ね備えていた。その興味はそれは出島などの長崎の番回りの奉行としても
見たに違いない。当時この「アイアン・デューク号」の名前は、当時の英国の将軍のウ
ェリントン公爵のニックネームで「英国艦隊のアイアン・デューク号」もあるほどボイ
ラーの圧力タンクとしては優れていた。当時は、「陸蒸気」と呼ばれていたこの機関車
を売ろうとしたのは。既にグラバーは武器商人となって財は得ていたが、1860年か
ら、ジャーディン・マセソン商会が横浜他各地に出張所や支社を置いたからだった。こ
の時多分グラバーには日本国内に危険を冒してもアヘンや麻薬を売って利益を得る事も
考えた筈だ。だが彼はその後に小森氏として帰化したように、日本をこよなく愛したよ
うで、その後は知古をお客とする細々と商売する道を選んだ。それは日本を好きになっ
たからだ。八女茶から嬉野茶に変わり伊万里焼や唐津焼から有田焼に変わったが横浜の
売り上げが伸びると次第に廃れていった。お茶も清水の静岡茶がチッゴティとして輸出
された。その後外国人技術者を紹介する人材派遣業みたいな事をして食いつないだ。だ
がそれもオランダ人や英国人米国人から、ドイツ人に移行して行って尻すぼみになった


976: 名無しさんAA:18/07/02 04:26
「ゴー宣」にこんな話があった。日本の敗戦で日本人が台湾から退去すると,入れ替わ
りに国民党軍の兵士が上陸してきた。その風体は浮浪者同然であった。ある兵士は水道
を知ると,蛇口の金具を買い,壁にぶち込んだ。蛇口をひねっても水が出ないので,腹
を立てた。「飲み水で苦労した,未開人の姿である。」と書いている。教育の無さは、
戦いにもあった「広西からの部隊が前線に到着したが,日本の飛行機が爆弾を投下して
くるのを見ても,身を隠したり伏せようともしなかった。突っ立ったままで,飛行機を
指さしてののしる者までおり,多くの人間が戦場に赴く前に,むざむざと命を落とした
(『李宗仁回想録』)」「日本軍は食料の供給を長老を介して求めて来て、村を守った
が、八路軍が盛り返してくると、それはもう盗賊だった。村の娘は犯され、家は焼かれ
明日の食料も種米も無かった。彼らには食糧を造ると言う意識はなく、そこにあるもの
を奪って貯めると言う智慧のみが働いていた。必死に生きて居たのだろうが水ガメの池
すら破壊して行った。」と言う。中国軍と、日本軍の行軍の間には、大きな質的差異が
あった。それは、中国軍は特に八路軍では討伐に逃げている軍だったからだ。同胞であ
あろう中国民衆を行く先々で強奪し、また大量殺害したのはロシア赤軍と同じだった。
それに対し、日本軍は行く先々で彼らを救済しようとした。あくまで討伐応援だったか
らだ。中国では伝統的に、民衆とは、戦乱で虫けらのように殺される存在であり、少な
くとも権力者から愛護を受ける対象とはなっていない。梁啓超は、中国の民衆を「戮民
」(りくみん 殺戮される民)とも呼んでいた。たとえば、「国共合作」により共産軍
と組んで日本との戦いを始めた蒋介石の軍隊は、一九三八年、日本軍の進撃の道をはば
もうと、黄河の堤防を爆破した。このとき、大雨が降ったこともあって一一の都市と、
四千の村が水没し、水死者一〇〇万人、その他の被害者六〇〇万人という大惨事となり
った。しかも、それだけでは終わってはいない。この人為的水害の結果、黄河の水路が
変わり、周辺に大飢饉が広がった。そして、被災地で食糧不足に悩んだ中国軍部隊は、
民衆から食糧の強奪を始めたため、飢饉はさらに深刻化しました。その惨状をみた当時
のアメリカ人記者は、「道ばたには凍死者と餓死者があふれ、飢えた人々は屍肉を食べ
ていた。」と記している。中国側はまた、事件直後から、堤防決壊を日本軍のしわざと
して宣伝もしていました。しかし中国側のこの自作自演は、外国人記者に見破られてい
る。この堤防決壊のとき、日本軍兵士は一人も死にませんでした。それはただ、中国人
を大量殺戮しただけで終わったのだ。堤防決壊の直後、日本軍は堤防の修復作業を行な
っただけでなく、被災した民衆の救助と、防疫作業を行ない進んだ。日本軍は、中国軍
から虫けらのように扱われた中国民衆を、必死になって救済していたのです。それは軍
の食料調達は現地自給が基本だったからだ。

977: 名無しさんAA:18/07/02 04:34
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  36 >

こうした中国軍の性格は、蒋介石の軍だけでなく、毛沢東の共産軍でも同様だった。い
や、共産軍はもっとひどいものだった。共産軍は、民衆から「共匪」(きょうひ)すな
わち共産主義の匪賊と呼ばれていました。それは彼らが行く先々で、民衆に略奪、殺人
、強姦を厭わず働いたからだ。中国の軍隊は、共産軍でも国民党軍でも、基本的に軍隊
というより、ルンペンを寄せ集めたような集団にすぎなかった。彼らが軍隊に入ったの
は、占領地区で略奪が出来るため、食いっぱぐれがなかったからだったし、人が減れば
捕まえて来て縄でつないで兵を動かし戦地で銃を持たせた。そうしたならず者集団だっ
た為に、中国の司令官は、ある土地を占領すると、最低一週間は兵士たちの好きなよう
に略奪や強姦をさせた。それは、そうしないと司令官が殺されてしまう危険から行って
いた。南京城入城の祭も多くは愚衆の群れだった。従来の民衆が次々と潜入者を告白し
それらを日本軍が捕まえたと言われる。日中戦争における戦闘は、たいていの場合、日
本軍が攻めると中国軍が撤退し敗走する、という形で進みました。ですから、激戦地を
除けば、中国側が宣伝するほど日本軍に殺された中国兵の死者は多くはありませんでし
た。むしろ中国兵の死者の多くは、中国人が中国人を殺したものでした。中国の軍隊と
いうのは、兵士たちの後ろに「督戦隊」(とくせんたい)がいたのです。督戦隊とは、
後ろで「敵を殺せ、殺せ」と叫びながら兵士たちを戦わせ、逃げる兵士がいると、その
兵士を撃ち殺す中国兵です。つまり正規の中国兵は後ろにいて中国兵を殺したのです。
これはドイツ式の戦闘方法だった。中国史家・黄文雄氏によれば、日中戦争時の死傷者
は、日本軍によって殺された中国兵よりも、そうやって督戦隊に殺された中国兵たちの
ほうが多かったくらいだといいます。また、中国兵は負傷すると、置き去りにされまし
た。ある戦場で、中国兵の一団が塹壕(ざんごう)の中で戦死していました。それを発
見した日本兵たちは、思わず涙を流したといいます。なぜなら彼らの足には、逃亡防止
のための鉄の鎖がつけられていたからです。日本軍と中国軍とでは、質の上でそれほど
の差があったのです。南京大虐殺はそうした中で日本軍でなく日本軍と共にいた中国兵
が自ら決めた処置だったと言われる。つまり志願した彼らは中国語を理解していたし、
行き先々の古老の悲話を聞いていたのである。又正規の日本軍もこの当時南京を落した
後は、他に進軍しているのである。南京に残った中国軍の中の朝鮮人や中国兵は自らに
この民間に潜入を試みた便衣兵がよほど憎かったに違いなかった。と言うのも日本の中
国兵は恐らく志願して多くの教育機関で学習した将校として存在していたからだ。

978: 名無しさんAA:18/07/02 04:43
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  37 >

 昭和12(1937)年12月13日、南京事件が起きたとされる時期である南京城陥落以降
に撮影された写真には多くが笑顔にある。陥落当時には120名をこえる報道陣が南京
に滞在して、外国人記者達を含めて多くが記録を取っている。彼らの多くは戦争が終わ
りほっとしていたのである。何故なら匪賊の蛮行に悩まされていたからだ。1937年
ドイツ軍事顧問を得ていた蒋介石は、国際都市上海にて日本軍をおびき寄せて殲滅する
作戦を立てた。対して暴支膺懲(乱暴な中国をこらしめる)スローガンの下、対決姿勢
をとった。日本陸軍は上海派遣軍を送り、上海において、日中両軍の激しい戦闘が起こ
った(第二次上海事変)。日本海軍は8月より日本海軍機による首都南京への空襲(渡洋
爆撃)を開始し、国際社会より非難された。しかしそれは作られた史実であり真実では
ない。それは既に1931年〔昭和六年〕、日本が満州を侵略した直後、中国政府は、
中国本土にたいする日本の攻撃に備えて、色々なな手を打っていたからだ。ベルサイユ
条約によって日本は権益確保していたのだが、敗戦国ドイツは中国から引かなかった。
ドイツ陸軍を退役した将校たちが、中国陸軍部隊を訓練するために募集されたのである
。同時にそれを了承したのが、アメリカ軍事使節団であった。あくまで日本を退ける為
の工作を開始したのである。こうして中国空軍の再編と拡充のために招かれ、外国依存
の中国空軍強化策を秘密裏に中国国民党は進めていた。ビル・ミッチェル将軍の元参謀
であったジョン・ジュエット大佐を団長とする米航空ミッションは、中国空軍を、日本
の侵略を阻止できるほど強力な部隊に仕立てあげることを、引受け調印した。1932
年から1934年までに、ジュエット大佐と彼についてきた五人のパイロットたちは、
強力な防御部隊にするための基幹部隊を編成した。ジュエット大佐が中国に到着した時
、中国空軍は、全く混沌とした状態であった。飛行場や航空基地が少なく、飛べるよう
な飛行機もほとんどなく、そのうえ、わずかばかりの飛行機をうまく操縦できるパイロ
ットさえ、ろくにいなかった。この状況を建直す仕事に着手した直後、ジュエット大佐
と彼のアシスタントたちは、杭州〔ハンチョウ〕に中国空軍中央訓練学校を設立した。
ここで、ジュエット大佐らは、ヨーロッパやアメリカから中国政府が購入させて、新た
に民間パイロットを母国から寄せた。250機の新しい飛行機を飛ばすために、約35
0人のパイロットを訓練したのだが、いずれも思わしくなかった。それでも国民党軍の
援蒋ルートは確保され続け、共産党軍の飛行場作りは拡大して行ったのである。この時
既に日本軍は石油不足から大きくは動けない状態で戦艦大和などの威圧に頼っていた。


979: 名無しさんAA:18/07/02 14:14
 私には、羽生選手が国民栄誉賞を貰う事に、反対ではない。だが本来 国民栄誉とは
、指導者として部下が偉くなった事で貰うのが筋だ。つまり国家建設に明るい灯をとも
した功績である。未だうら若きものがオリンピック連勝と言う華々しい成果をもつもの
の、その功績を生かした事績はいまだ歩いていない。こんな時にはたして国民栄誉賞が
必要なら、指導者こそ与えられてしかるべきではないだろうか


980: 名無しさんAA:18/07/03 06:02
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  38 >

 ジュエット大佐の米航空ミッションは、短期間にたくさんの仕事をしたが、不幸にも
、日本の圧迫が強くなったことと、中国とアメリカの政策上の食い違いなどがあって、
突然、この仕事を終らせなければならなくなった。この米航空ミッションが1934年
に帰国して後は、イタリアの軍事顧問団が、アメリカのミッションにとってかわった。
蒋介石総統の招きに応えて、ムソリーニは、1935年に、パイロット40人、整備工
および技師100人からなる公式のミッションを、中国に派遣した。こうして彼らは、
洛陽〔ルオヤン〕に飛行学校を、またフィアット飛行機の組立工場を南昌〔ナンチャン
〕に新設した。アメリカの民間人たちは、その後もしばらくは、杭州の訓練学校を運営
し続けたが、彼らも、しだいにイタリア人にとってかわられ、早々に引揚げていった。
イタリア人たちは、中国空軍の生徒を数多く訓練するだけではなく、中国政府の数百万
ドルにのぼる飛行機購入費からも、多くの利益を得ていた。1937年、日本が本格的
に中国侵略を開始した直前には、既にイタリアは、完全に中国空軍を支配していたのだ
。蘆溝橋〔ろこうきょう〕事件がおこる3ヵ月ほど前の1937月、中国政府は、中国
空軍の調査を3ヵ月でやってくれるように、クレア・シェンノートに依頼した。航空戦
至上主義をとなえる理論家のシェンノートは、機康上の理由で米空軍を退役していたが
、蒋介石夫人からの強い要請で、この重要な任務を引受けた。中国空軍強化の面倒をみ
るように蒋介石総統から命じられていた蒋介石夫人は、アメリカ人の友人から、シェン
ノートの彼の理論について耳にしていたので、イタリア軍に訓練されている中国空軍の
戦闘即応能力についての公正な調査を、彼に依頼すべきであるという提案を、すぐさま
受入れたのであった。シェンノートは、1937年5月1日、中国にむけて出発した。
そして、1945年戦争終結のときまで、中国において仕事を続けた――このとき、彼
には想像もつかなかったのだが調査をはじめた。このときは彼は、調査が終りしだい、
アメリカに帰る予定であった。37年5月〜6月にかけて、シェンノートは、中国空軍
の諸施設や訓練所などを点検したが、この期間の調査に基いて、中国空軍が、日本軍の
進攻にたいして中国を効果的に防衛するためには、どうしようもないほど準備不足であ
る、という結論に達し提言した。日華事変以降、蒋介石は日本との徹底抗戦の構えを崩
せなかった、日本の首相近衛文麿も「爾後國民政府ヲ對手トセズ」と声明を出し、和平
の道は閉ざされた。

981: 名無しさんAA:18/07/03 06:03
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  39 >

日本は蒋介石に代わる新たな交渉相手を、汪兆銘に選び和平工作を行っていた。汪兆銘
は日本の軍事力を背景に、北京の革命分子の作った中華民国臨時政府や南京の中華民国
維新政府などを結集し、南京正統政府を立ち上げた。こうして日本が中国で保持してい
た専管租界の返還と、治外法権の撤廃に関する協定を締結し、不平等条約の中核である
「治外法権の撤廃」と「租界の回収」が実現した。ところが連合国側のみ承認は得られ
ず1941年11月の提示されたハル・ノートでは、「蒋介石政権以外のいかなる政府も認め
ない」という形で汪兆銘政権の否認が盛られ、翌12月に日英及び日米間で開戦となった
。この汪兆銘の正統政権として南京政府を立ち上げるが、連合国は逃げ延びた蒋介石の
武漢政府を何故だか離さなかった。それはユダヤコミンテルンの大きな貸付にあった。
元々蒋介石政権はおかしな政権だった。袁世凱が興した北洋軍閥は彼の死後それぞれに
軍閥に移ったがその中に蒋介石はいない。と言うのも袁世凱の思想的支柱は孫文にあっ
た。その孫文は日本に学んでいる。革命を後押しした南方軍閥は最も力を持った集団だ
った。その為、中華民国の設立後、袁世凱の皇帝即位に反旗を翻した。湖南省と広東省
を支配し、陸栄廷は雲南派と共に護国戦争を起こしたが、成立後はすぐに孫と意見が対
立し両広戦争が勃発した。この広西派はその後広東国民政府と共同して、桂軍は第7軍
を改編して蒋介石をたて国民革命軍を作った。第7軍は江南に転戦して大きくなり「鋼
の7軍」や「鉄の4軍」としてそのまま国民党軍になっていた。一番問題だったのは、
中華民国の蒋介石は、ドイツ軍事顧問にゼークトを選んだ事だ。中国国民党政権は、相
次ぐ内戦の中で、ドイツの軍事技術と兵器を求めていた。ゼークトは1920年代から中華
民国側と交渉において接触しており、中国側もゼークトに信頼感を抱いていた。1931年
9月18日の満州事変後、国際連盟が事件の調査団を派遣しようとしていた際にも、ド
イツ代表としてゼークトが候補の一人となったが、蒋介石は強くドイツ代表としてゼー
クトを熱望するほどだった。代わりに蒋介石の個人顧問としてはアレクサンダー・フォ
ン・ファルケンハウゼン、軍事問題の再編担当顧問としてヴィルヘルム・ファウペルを
推薦した。しかし蒋介石は断念せず、ヴェッツェルの倍額の報酬を提示し、非正規の外
交ルートをも使ってでもゼークトの就任を要請した。ここにいたって外務省も2〜3ヶ
月の視察旅行としてのゼークト訪中を許可するに至った。


982: 名無しさんAA:18/07/03 06:03
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  40 >

ゼークトは「狂った大地作戦(殲滅計画)」と「黒い国防軍計画」で知られた人だった
。狂った大地作戦では他民族殲滅作戦を取り黒い国防計画では革命期のロシア(ソビエ
ト連邦)と提携して再武装を行い、条約が禁じる戦車・化学兵器・航空機などの兵器を
ロシア奥地でドイツ人が開発研究する事だった。これはラパッロ条約の締結となって実
を結びドイツに帰ってきたが同時に、その後のロシア侵攻を不可能にしていた。この危
険な思想は蔓延した。陸軍統帥部長官すなわち陸軍総司令官に就任すると。ゼークトは
10万人の陸軍を、エリート化して将来拡大する国民軍の中核とする構想を抱いており
、これがドイツの中のナチスの親衛隊につながった。事実上のピラミッド構造の確保を
目指したのだ。そして「指令はトリクルダウン」と今の経済学の見習う軍隊組織論を、
展開していた。事実上の督戦隊(とくせんたい)の自軍部隊を後方より監視し、戦闘続
行の強制は、軍隊においての最も有効なものだ。と、ドイツ人軍事顧問は思っていた。
しかし驚いた事に、代わりに蒋介石の個人顧問としてアレクサンダー・フォン・ファル
ケンハウゼンや、再編担当顧問としてヴィルヘルム・ファウペルなどを送り出したが、
彼らは訪日したり留学した親日家で、時の政府の要人もまた親日家達であった事だ。も
し、ヴァイマル共和国軍最大の実力者として「国家の中の国家」であるハンス・フォン
・ゼークトを中国に入れなかったら、或いは宋美玲が中華民国の指導者蒋介石の妻でな
かったら、日本軍は中国にてこずらなかったろうしアメリカと戦争する事も無かったろ
う。となるとナチスドイツが勝っていたかも知れない。ところが、チャーリー宋はメソ
ジスト教会の宣教師で、印刷業から財を成した浙江財閥の一人で孫文の支援者で金庫番
だったし、ゼークトも又有能であった。私旅行の軍事顧問で旅行者で蒋介石の信任も厚
く状態を一瞬で把握していた。1927年4月に蒋介石らの右派が反共クーデターを起こし
(上海クーデター)、南京国民政府を樹立して共産党を弾圧した時、汪兆銘の武漢政府
も共産党を弾圧して合流していた。こうして反共方針を明確化(国共分離)・分裂した
かに見えた毛沢東は、江西省瑞金に「中華ソヴィエト共和国臨時政府」を打ち立てて、
包囲されると江西省瑞金の根拠地を逃げて、陝西省北部延安に盗賊、殺人、略奪しなが
ら、共産党思想をまき散らして逃げ延びていた。実は1927年に井崗山を革命根拠地とし
て最初に選んだ毛沢東は、地主・富農を殺して土地・財産を没収して貧しい農民に分配
するという「土地革命」を実施した。実はこの時集会所の床の血を拭いて洗っても赤い
布は赤いまま干された為に、それが紅軍とされ今の中国の赤旗となっている。


983: 名無しさんAA:18/07/03 06:04
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  41 >

毛沢東の紅軍長征は、イナゴのごとく食い散らして進んだ。江西省からスタートして、
貴州省、雲南省、四川省、陜西省、山西省と、中国の奥をぐるっと回って、内モンゴル
のすぐ近くの黄土丘陵地帯を目指している。ソ連からの援助物資を貰う為の飛行場を作
りながら逃避行は行われた。日本が支援した汪兆銘政権(おうちょうめいせいけん)は
1940年から1945年にかけて存在したが、国際社会の承認はその意味で弱かった。つまり
毛沢東政権をソ連が後ろ盾になり、蒋介石政権を米英が後押ししていた中で、この南京
政府の為に南京皇軍が行われ、太平洋戦争を行ったと言っても過言ではなかったのだ。
汪兆銘はマレーシア華僑の子で日本の留学生だった。孫文の来日を機に同年8月中国同
盟会が結成され、汪兆銘は機関紙『民報』の編集スタッフを務め「精衛」という号を用
いて論説を書いた。1906年、法政大学を卒業し官費留学の期限は切れたが、汪はそ
のまま法政大学の専門部へ進み、革命運動を続けた。イギリス領マレーのペナン島の有
力華僑の出であり、のちに汪の妻となる陳璧君も運動に参加していた。孫文の下で、汪
は広東軍政府の最高顧問を務め「革命尚未成功、同志仍須努力(革命なお未だ成功せず
、同志よって須く努力すべし)」との一節がある孫文の遺言を起草した。汪は国民政府
常務委員会主席で軍事主席を兼任し、毛沢東ら共産党メンバーとも同席して政権を担っ
た。しかし、共産ゲリラに耐えかねた蒋介石が中国共産党員らの弾圧を開始し、中山艦
事件により蒋介石との行き違いが生じ、汪は自発的に職責を辞任し、フランスに亡命し
た。蒋介石の召喚に応じ、再度帰国し、「中国国民党の同志、およそ中国共産党理論や
中国国民党の真実の態度を解する人々は、だれも孫総理の連共政策を疑う事はできない
。」と発表し蒋介石の上海クーデターの共産党弾圧に呼応した。蒋介石は共産党の影響
が強い武漢政府から離反したが汪は武漢政府に残った。「反共産」で一致し武漢政府と
南京政府の再統一が図られ武漢政府内にて清党工作を行い、その責任をとって政界引退
をし、再びフランスへ外遊した。しかし蒋は独裁に動き、反発する反蒋派との対立が生
じて汪は反蒋派から出馬を請われ、北京にて国民政府を樹立したが、北京国民政府主席
は戦局から直ぐに瓦解した。汪は国民党から除名処分を受け香港に蟄居していたが南京
国民政府が成立して蒋は汪と共に政府をまとめ上げ汪は関東軍と交渉し実質的に満州国
の存在を黙認する塘沽停戦協定の締結を行った。汪の「一面抵抗、一面交渉」思想で、
「日本と戦うべからず」を前提とした対日政策を進め、結果的に反対派を作った。国民
党六中全会の開会式の記念撮影の時、汪兆銘は狙撃された。汪は3発の弾を受け、弾は
急所を外れていたが、後の骨髄腫の原因となり、汪の命を奪うこととなった。

984: 名無しさんAA:18/07/03 06:05
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  42 >

民国27年(1938年)3月頃から、日中の和平派が水面下での交渉を重ねるようになった
が、この動きはやがて、中国側和平派の中心人物である汪をパートナーに担ぎ出して「
和平」を図ろうとする、いわゆる「汪兆銘工作」に発展していく。10月12日には汪は、
ロイター記者のインタービューに対して日本との和平の可能性を示唆した。さらにその
のち長沙の焦土戦術に対して明確な批判の意を表明したことから、蒋介石は毛沢東との
間が嫌煙になるのを恐れて、汪との対立は決定的なものとなった。今井武夫によれば、
汪は11月16日の汪と蒋との話し合いで、蒋との訣別を決心したと伝えられる。汪政権と
日本軍の両者は「中国側の満州国の承認」「日本軍の2年以内の撤兵」などを内容とす
る「日華協議記録」を署名調印した。そしてその合意の実現のため、汪側は、「汪政権
は重慶を脱出する。日本は和平解決条件を公表し、汪はそれに呼応する形で時局収拾の
声明を発表し、昆明、四川などの日本未占領地域に新政府を樹立する」という計画を策
定し発表した。しかしこれに大反対したのがソ連と米国の連合国だった。12月18日、汪
は計画通り重慶脱出を決行した。12月20日、ハノイに着いて、陳公博、陶希聖、梅思平
らの汪グループも次々と重慶から脱出した。しかし、汪の期待に反して、昆明の竜雲、
四川の潘文華、広東・広西の司令官張発奎将軍などの軍事実力者たちは、汪に同調する
ことはなかった。武器調達をした連合国が反対し手を回したからだ。さらに汪にとって
12月22日、汪の脱出に応えた近衛声明は、汪と日本側の事前密約の柱であった「日本軍
の撤兵」には全く触れておらず、汪グループに強い疑念と失望を持たせる結果となった
。12月29日、汪は通電で広く「和平反共救国」を訴えた。蒋政権はただちに汪を国民党
から永久除名とし、刺客を送った。一方近衛文麿は突然首相を辞任し、汪の構想は完全
に頓挫する。しばらくハノイに滞在する汪に、3月21日、国民党の刺客が汪の家に乱
入し、汪の腹心であった曽仲鳴を射殺した。刺客は汪を狙ったが、たまたま当日は汪と
曽が寝室を取り替えていたため、曽が身代わりに犠牲になったものだった。こうして、
日本側は、ハノイが危険であることを察知し、汪をハノイから脱出させることにした。
影佐禎昭、犬養健らがこの工作に携わり、 4月25日、汪はハノイを離れ5月6日、上海に
到着し、「日本占領地域内での新政府樹立」を承認した。上海で「第六次国民党全国大
会」を開催、自ら党中央執行委員会主席に就任した。こうして日本占領地内の傀儡行政
の長であった王克敏、梁鴻志と協議を行い、 9月21日、中央政務委員の配分を「国民党
(汪派)三分の一、臨時維新両政府(王、梁政府)三分の一、その他三分の一 」とする
ことで合意に達し、彼らと合同して新政府を樹立した。

985: 名無しさんAA:18/07/03 06:06
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  43 >
1944年の戦時中に入ると、狙撃の際に受けた傷が激しく痛み始め、まもなく下半身
不随の重体となった。汪は若い頃から体質的な糖尿病を病んでおり、この糖尿病が傷の
症状をさらに悪化させた。3月3日には渡日して名古屋帝国大学医学部附属病院に入院。
多発性骨髄腫と診断された。汪は身体の激痛に耐えながら闘病生活を続けたが、11月10
日、そのまま名古屋にて客死した。汪は晩年には家族に対して、日本人に本当の友人は
いないと嘆いていたとも伝えられる。遺体を小牧飛行場から飛行機に乗せて送り出す際
には、小磯国昭・重光葵ら当時の政府閣僚、近衛文麿・東条英機ら重臣などが見送りに
訪れた。南京郊外の梅花山に埋葬されたが、墓を暴かれる恐れから、棺はコンクリート
で覆いがされた。終戦後の民国35年には(1946年) 1月15日、国民党第七四軍は、墓の
コンクリートの外壁を爆破、汪の棺を取り出した。遺体はまもなく火葬場で灰にされた
後、野原に捨てられたという。その人望の厚さから、「漢奸」の墓を残すわけにはいか
ない、との考えからだった。新政権は誕生させたものの、結局は汪の意図したような、
「中国人の集結」や「重慶政府との和平」は実現せず、戦争は継続されることとなった
。民国30年(1941年)12月8日から、太平洋戦争が始まったが、汪には事前に 日本の開
戦決意を知らされておらず、「和平」の実現がますます遠のいたことに衝撃を受けた。
という話が伝わっている。しかし汪は、日本の国力では英米に対抗できないとの判断か
ら開戦には反対していたが、結局は開戦するだろうと見ていた。朝鮮や台湾政府と同じ
に、汪兆銘政府も参戦することになり、民国32年(1943年)1月には、英米に対し宣戦
布告をするに至った。同11月には東京で開かれた大東亜会議に、汪は南京国民政府代表
として出席した。他のアジア諸国の首脳とともに大東亜共栄圏の中の賛意を発表した。
島本真によると同時に中華民国滑空士指導者講習会も行ったという。しかし、ポツダム
宣言受諾が公表された翌日には、米軍指導で1945年 8月16日に解散された形になった。
大東亜会議(だいとうあかいぎ、旧字体: 大東亞會議)は、1943年(昭和18年)11月
にアジア地域の首脳会議として東京で開催された。同年5月31日に御前会議で決定さ
れた大東亜政略指導大綱に基づき開催されたが、これがもう少し早い時期に開催されて
いれば日米開戦の反対の声も大きかったであろう。当時の日本の同盟国や、旧宗主国を
放逐したことにより独立したとされたアジア諸国の国政最高責任者を招請して行われた
。そこでは、大東亜共栄圏の綱領ともいうべき大東亜共同宣言が採択された。その当時
日本は第2回目の大東亜会議を開催する計画を持っていたが、戦局の悪化に伴って開催
困難となり、昭和20年(1945年)5月には代替として駐日特命全権大使や駐日代表によ
る「大使会議」が開催された。しかし、それは結局は連合国会議の対抗とみられた。

986: 名無しさんAA:18/07/03 06:06
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  44 >
「中国空軍は、イタリア軍の指導によって、数量的にはめざましく成長したが、シェン
ノートが見た通り、空軍将兵の質と使用中の機材には、改善の余地がかなりあったし、
イタリア人運営の洛陽飛行学校については、特に批判的であった。この学校は、飛行機
を正しく操縦することができるできないにかかわらず、入校生徒全員を卒業させていた
のだった。この学校の入校生徒のほとんどが、国民党を支持する金持ちの家庭の出身で
あり、上流社会を形成して、賄賂によって入校生徒を“みそもくそも”一緒に卒業させ
ていた。このイタリア人のやり方は、蒋介石をよろこばせた。総統は、多くの中国空軍
将兵たちが、どんなに貧弱な訓練をうけていたかに気づかず、卒業生たちは皆、有能な
パイロットであると思いこんでいた。日本軍の侵略が開始された直後に中国空軍の行動
の異常さは、洛陽飛行学校卒業生の無能ぶりと訓練の欠陥を、痛ましいほど暴露した。
日本軍が、1937年7月の蘆溝橋事件を、中国侵略の口実としていろいろ工作してい
た時は、シェンノートは、中国空軍に関する報告を作成中であった。日本軍攻勢は迅速
で、しかも決定的であった。ある地域においては、中国軍の英雄的抗戦にもかかわらず
、日本軍は、中国沿岸部の都市を次々に占領し、中国政府が西方に退くにつれて揚子江
に沿って、どんどん西進していった。日中戦争開始の当初は、両軍間の空中戦はあまり
みられなかった。中国空軍には、揚子江にそって西進する日本軍の進撃を鈍らせる能力
が無いばかりでなく、日本軍の空からの攻撃にたいして、国土を防衛する力の全くない
事が、はっきりと知れた。戦争勃発当初、中国は約500機の飛行機をもっていたが、
そのうち飛行可能なのは91機で、パイロットも、空中戦適格者はほんの僅かに過ぎず
太刀打ち出来なかった。戦争の始めの数年間、中国は基地または航空母艦から飛びたつ
日本軍パイロットたちの訓練場として使われた。」と回顧している。しかしそれは、全
く違って、日本軍はそう簡単に飛ばせなかった。日本の社会主義政党で「社会民主党」
の設立に関わった K・カール・カワカミ(日本名河上清)は、1873年生まれのジャー
ナリストだが、彼は上海空爆他色々な自国民に空爆を中国空軍は行ったて成功した事を
記述している。「カール」の名は「カール・マルクス」からとった事で社会主義シンパ
とされ、渡米中のアジア専門のジャーナリストとして、日本への国際的非難が集中した
「対中国二十一か条要求」「満州事変」問題などで日本側の支持に回ったことなどから
、米国では日本帝国主義のシンパ。と批判され、太平洋戦争中には、「日本は負けなけ
ればならない」と主張するので米国シンパと見られた。さらに戦後は再び立場を転じて
「革新」の側にシンパシィを示し、帰国後49年には、自署の印税の中から10万円を
日本社会党に寄付し、社会党幹部に対して、「非武装中立」政策を提言してている。

987: 名無しさんAA:18/07/03 06:07
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  45 >
 日本は自分から攻撃に出るのを厳しく抑えているのに、中国では国際租界を自分自身
で攻撃することによって日本に対する国際干渉を引き起こそうと目論んでいた、という
のは実際、ニューヨークタイムズの特派員が八月二七日付で報じたように、黄浦江上の
アメリカ、イギリス、フランスの戦艦に精密機器を携えて乗船していた外国の陸海軍の
観察者たちは次のように証言している。「日本軍は上海の避難区域の上空に爆撃機を飛
ばせたりはしない。という自らの誓いを固く守っているのに対し、中国軍はそのような
誓いを打破して波風を立てるのを目論んでいる」と。つまり防空権に日本が無力な事は
、日本軍野蛮説の公布の大きく前進し、国際的支援も国際的批判も中国国民にとっては
良い事だ。と上層部は判断したのだ。
八月一四日:中国軍の爆撃機が国際租界のパレスホテル及びキャセイホテルの近くに爆
      弾を投下した。この付近は極東で最も有名な簡易宿泊街であり、百名以上
      が死んだ。
八月一六日:中国軍は別の爆弾を租界の大通りに落とし、数名の外国人と中国人を死亡
      させた。
八月二三日:中国軍の飛行機は再び国際租界を爆撃したが、この時は上海で最大の中国
      人の商業施設であるシンシアー及びウイン.オンデパートを直撃し、二百
      人以上を死亡させその他に二百人を負傷させた。ニューヨークタイムズの
      二人の特派員がこの負傷者の中に入っていた。
八月三〇日:中国軍爆撃機の飛行大隊がアメリカの大型定期船プレジデント・フーバー
      号を攻撃し、五人の水夫と二人の乗客を負傷させ、その中の一人が数日後
      亡くなった。
このような中国軍の爆撃の及ぼす影響があまりにも深刻であったので、ニューヨークタ
イムズの上海特派員が八月二七日付で次のような声明を発した程であった。「中国軍が
無責任な空爆を行って上海の国際租界とフランス特権区域の無力な民間人を殺すのを防
ぐための、武力手段あるいは他の抑制措置をとることに、外国の領事館員及び陸海軍の
軍人が合意するならば、何らかの国際的措置をとることを決議しなければならない。」
八月十四日敵の爆撃機来る。この日の上海は夜来暴風雨に襲はれた。その中でこの日、
海陸空にわたる激しい戦闘が行はれた。午前二時といふのに敵の攻撃は始まつたのであ
る。と記されている。つまり全くの奇襲攻撃を自国民に何回もしている事が記録で解る
。日中戦争が華北から華中へ飛び火した1937年昭和一二年八月第二次上海事変時の
事だった。

988: 名無しさんAA:18/07/03 06:11
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  46 >

かくて壮烈な地上戦が展開されてゐるさ中に、突如敵の空襲ははじまつたのである。午
前九時五十分支那の爆撃機は一機我が陸戦隊本部上空に飛来して爆弾を投下しはじめた
のでわが陸戦隊は高射砲をもつて応射した。同時刻、爆撃機四機はわが軍艦に爆弾二個
、また商業学校地区、楊樹浦紡績工場地帯、英人経営ジャーデン・マジソン会社上海埠
頭に命中、倉庫粉砕、多数の死傷者を出し、逓信省ケーブル修理船沖縄丸にも爆弾を投
下し、死傷四名を出した。敵機の爆撃開始と共に、支那人群集は雪崩を打って租界商業
中心区(旧イギリス租界)方面に逃込み、同地一帯は混乱不安の極に達するに至つたの
で、江岸通一帯の外国銀行業者は一斉に門戸を閉し、完全に営業を休止するに至つた。
又江岸通南京路方面の電車、バスは車掌、運転手が逃げ出したため、道路上にそのまま
立往生となつて居り、電線は所々で切断され、名状すべからざる混乱に陥つた。烈風を
衝(つ)いて上海上空を飛行中だつた支那飛行機(アメリカより購入のマーチン爆撃機
およびノースロップ爆撃機)は、十四日午後四時半八機編隊をもつて上海上空に来襲、
猛烈なる爆撃を開始した。しかも血迷へる敵機は照準を定めず高層建築とみればところ
きらはず爆弾を投下したため、上海全市は全く敵機の蹂躙下に陥り、大混乱をきはめ、
なかでも共同租界、フランス租界の外人たちはホテルを空襲されたため 色を失ひ、右
往左往し、阿鼻叫喚の巷と化し去つた。無謀言語に絶した空爆の洗礼は支那人、外人問
はず死者の山を築くに至つた。(P194)午後四時半にはバンド北京路に落ち、支那避難民
多数を傷け、西京路に落ちたものはカセイ・ホテル玄関前に命中し、死傷者外人に多く
数百名、東洋一といはれる数多のツーリストを呑吐したホテルのロビイは凄惨な血の海
と化し、パレス・ホテルは屋根から地階まで滅茶々々に破壊され、外人八名惨死した。
同四十五分には歓楽街大世界に落下支那人二百名死傷、その他浦東アジア石油のタンク
に命中し、米艦オーガスタ附近にも落下し、又租界も多大の被害を蒙つたため、英米仏
各国の激怒を買つた。しかし不思議にも紙面は違った。
(A)支那紙:十四日の不測の惨事を惹起したるは、日本の高射砲が、支那爆撃機の爆
弾保持機を破壊せる為めなり(上海英字紙南京ロイテル電報)つまり事故としたのだ。
(B)米国紙:十四、共同租界空爆は日本側の射撃により、機体の自由を失ひたる結果
余儀なくせられたるものにして、右は蒋介石の命令に基くものに非す (十六日、A・P
電報、蒋介石夫人より「シオドル・ルーズヴェルト」夫人宛弁明電報)


989: 名無しさんAA:18/07/03 06:12
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  47 >

第三艦隊司令部声明:二十三日南京路、先施、永安公司に投下された爆弾につき第三艦
隊司令部は次の談話を発表した
一、二十三日南京路に投下されたる爆弾につきて工部局本部において当隊司令部附爆弾
  専門家の鑑定せる所によれば本品は弾径四〇乃至四五インチ、弾長一メートルの厚
  壁の球式鉄鋼タイプの爆弾にして後部には軽合金を使用しあり、白色の炸薬を填充
  しある二百五十キロ程度のものと想像され、 弾筒及び弾の後半部に信管その儘等、
  現存し本爆弾は炸裂しあらざるもその破損状況より見て高度より投下せられたるも
  のと鑑定される
一、爆弾形式 弾底背の文字及び塗色等よりして全然帝国のものにあらざることを確信
  す
「上海の国際租界及びフランス特権区域に居住する無力な一般市民を、中国軍が無責任
に空爆したり殺害したりするのを防ぐために、武力手段または他の抑止策をとることに
ついて何らかの国際的な合意が必要であるということは、上海在住の外国の領事館員や
陸海軍スタッフたちの一致した見解となっている。」
 「中国の検閲官は、発信された外電やラジオ通信から前述の事実や意見を削除した。
そして場合によっては 外電のニュースそのものを変えてしまいさえもした。その目的
は、現地の外国人たちがあたかも心の中で、この爆弾は恐らく日本軍の飛行機から投下
されたものかも知れない、と疑っているかのように見せかけるためだったのである。だ
がしかしこれは明らかに真実ではない」
(C)「中国軍は、この爆弾は日本軍の飛行機から投下されたものである、と宣言する
ことによって責任を拒否した。しかしながら今や、これらの爆弾は両方ともが、中国が
イタリアから購入したイタリア製のものであることが判明している。この判明した事実
について、アメリカとイギリスの現地の海軍調査官の意見は一致している。そして、イ
タリア当局もこの爆弾が自国製であることを認めている。これは決定的な証拠であるよ
うに思える。何故ならばイタリアは、日本がイタリアからそのような軍需物資を購入し
たことは一度もない、と証言しているからだ。」(九月六日付香港発信のニューヨーク
タイムス特電)


990: 名無しさんAA:18/07/03 06:16
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  48 >

 今次の上海に於ける日支衝突により、外国人の生命財産は危険に瀕し、各国領事は、
日本軍艦の黄浦碇泊は支那側の砲撃不正確なる為、附近の外国船其他に脅威を与へ、日
本が作為的に起せる北支事変の不同情的傍観者たる、西洋諸国は大影響を受けつつあり
。若し、在留民の保護か目的なりとき、日本側の主張か真実ならは、日本海軍は他に有
効なる方法ありしに拘らす、虹口に不充分なる兵を上陸せしめ、支那軍の砲火を租界に
集中せしめんは奇怪なり。窮極の責任は勿論日本に在り。然れとも大軍を上海に接近せ
しめ日本海軍に虹口を根拠とする口実を与へしことは不可解なり。(十四日、紐育ヘラ
ルド・トリビューン」論説)
一、支那側は前後三回に亘り日本軍艦を空襲せるも、目的を達せす、却て共同租界内の
  外支人に五百の死者九百の負傷者を出し右死者中に数名の英人を含む
二、海軍省十四日発表に依れは支那飛行機は在呉淞支那艦隊旗艦「カンバーランド」号
  を爆撃せるも命中せす 右は日本軍艦と誤認せられたるものならし
三、西蔵路と「アベニュー・エドワード七世」との交叉点に投下せられたる支那爆弾は
  死者四五六傷者八二九(仏租界警察調)を生せるか右地点は、程近い日本軍艦より
  の距離 実に一里半 
四、上海市長は出雲の近傍にある英軍艦の即時撤退を求めたり
五、日本機は支那機一機を射落せり。尚工部局は支那側爆撃に鑑み出雲の移動慫慂方を
  決定又英艦デネー艦隊は右同様の「サジエスシヨン」為せるも日本司令官拒否せり
六、英米仏は支那側に共同租界爆撃方抗議せり
ーーーーーーーーーーーーー(十五日英国ルーター及B・U・P・電)‐‐‐‐‐‐又仏国紙では
一、両軍の飛行機か交戦中のことで何れのものか見分け難い(上海アヴアス電報)
三、支那空軍の上海共同租界爆撃は支那軍指揮官の報告通り、爆弾投下装置の破損に依
  るか、夫れとも支那飛行士の過失に依るか判らぬか後者か尤もらしい(十五日上海
   アヴアス電報)
四、支那飛行機か再ひ租界上空を飛行した場合は直ちに発砲せよ、(同上、各国指揮官
  の命令)

991: 名無しさんAA:18/07/03 06:17
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  49 >
そんな訳で日本軍は、戦争開始第一週に、中国の制空権を完全に握り、日本軍のパイロ
ットたちは、中国を空中実験場として、貴重な戦闘経験を積んだようなものだったと言
うのは全く違っていて、中国軍に対抗のみで高射砲の注ぐ中を爆撃したのは中国軍だっ
た。「結果、パールハーバー〔真珠湾〕攻撃のときまでに、日本軍パイロットたちは、
世界中でいちばん戦闘経験を積んだ者となっており、ドイツやイタリアの枢軸軍パイロ
ットをはるかにしのいでいた。中国空軍が、日本軍の攻撃にたいして、国土防衛能力の
ないことが明らかになると、多くの中国要人は、国土を防衛するため、国際航空志願兵
部隊を編成すべきであると提案した。これは、新しい考えではなかった。かつて日本軍
が満州を侵略したあとの1930年に、蒋介石の義弟であり、国民党の重要人物であっ
た群が、この案を提出したことがあった。ところが、この群の提案は、当時、米航空の
ミッションの団長であったジュエット大佐の「このような計画は、中国空軍の拡張を阻
害するだろう」という意見に従って、蒋介石がにぎりつぶしてしまったのである。しか
し、1937年の九月には、情勢は日本との条約の拘束により、イタリア軍の顧問団は
、中国を引き払って、前述空襲後に上海〔シャンハイ〕戦の後は、わずかに12機だけ
が作戦飛行機として残っているだけで、中国空軍は、日本軍にたいしてほとんど抵抗で
きない状態だった。そこで、国土防衛のための国際飛行中隊が、大急ぎで編成される事
になった。この時イタリアは2つの事で離れた。まず自分達の飛行機の整備士や味方の
市民が居住している所を、戦争でもなく、平和な時にとつぜん空襲している状態が全く
理解出来なかった事だ。事前連絡もなく、更にその予兆もなく この空爆は蒋介石政権
は行っていた。二つ目は国際批判である。この飛行機が写真に写っていたにも関わらず
、数回の空爆を行う間も中国軍は日本軍の飛行機がやった事と通していた。「十四日午
後四時少し過ぎ、私が「同盟」支社にいると、空軍の編隊が上手から黄浦江上空に進ん
で来て、旗艦「出雲」の高射砲や機関銃が反撃しているようだと、記者の一人が急いで
駈けよって、知らせてくれた。すぐ窓側に行き、黄浦江の上空を眺めると、マルチン爆
撃機の五機編隊で、「出雲」めがけて進んでいるではないか。私の肉眼で、編隊の高度
はだいたい六、七百メートルとみた。「出雲」その他の高射砲がパーン、パパーンと鳴
り響いている。ふと見ると、五機のうち一機の急所に高射砲の弾が命中した。その一機
が隊伍を乱すかと見ると、中国空軍の射手らしいものが、真っ逆さまに降って黄浦江に
沈む。すると、編隊は「出雲」の方向からやや左旋回し始めたと思うと、一つ、二つ、
三つと大型の爆弾を落しつつ、 租界上空を通って飛び去った。」つまり飛行機同士よ
り高射砲で撃墜されていた。こうして撃ち落とされて直ぐに中国軍と判明したのだ。

992: 名無しさんAA:18/07/03 06:27
この部隊はたった15機だった。そして前線に12試艦戦が送られた直後の7月末、この試作
機は「零式艦上戦闘機」として制式化された。ただ、配備されたからといって、すぐに
戦闘に参加できるわけではなかった。実戦機として採用するには、無線機、兵装、又は
機体細部に改修を施さなければならない。漢口に着いてからは連日のように実験飛行が
行われ、Gがかかると脚が出てしまうトラブルや、急に20mm機銃が出なくなったり、空
中戦の最中にシリンダーの温度が上がりエンジンが焼き付くおそれがあったりと、改修
すべき点が数々浮上してきた。技術陣は、零戦のこれらのトラブルを解決していった。
さらにそれをチェックするためと操縦技術向上のための訓練をしなければならない。こ
うして訓練に明け暮れ、一向に出撃しない横山大尉に、艦隊の司令官は「命が惜しいの
か。」とまで言われ怒鳴られた。だがテストを繰り返しついに8月19日になって零戦
12機が96式陸攻54機とともに出撃した。中国軍も新鋭戦闘機の情報を察している
のか、この日の巡回に重慶には敵の戦闘機の姿は見えなかった。零戦の初陣は空振りだ
った。2度目の出撃は翌日の20日だったが、またもや敵戦闘機の姿は見えず、無駄に
終わった。3度目の出撃で、零戦隊が重慶を去って20分後に中国軍機が重慶に戻ってく
るのを偵察機が発見した。そして4度目の出撃となる9月13日に、新藤大尉が率いた
13機の零戦は重慶爆撃を終えいったん帰途についたが50kmほど行ったところで重慶に
再突入。そこに安心して上空に上がっていた中国軍機を発見。初の空中戦となった。敵
機はソ連製の旧式戦闘機ポリカルポフ「イ−15」「イ−16」計27機。たちまち交戦に入
り30分で全機撃墜。零戦隊は被弾4機で損害ゼロという、すばらしい戦果を上げた。
20mm機銃の威力はすさまじく、最初の命中弾で敵機の主翼付け根に大穴をあけ、続く
命中弾で機体が吹き飛び墜落していった。これを機に日本軍は重慶から成都の制空権を
確保、12空零戦隊は目覚ましい活躍を見せ、増漕装備時には3500kmに及ぶ長い航続距
離を持ち これを生かし、遠くゴビ砂漠、ヒマラヤを望む大陸奥地にまで進出した。こ
うして、一方的に勝利をおさめ、再び大陸の制空権を掌握することになった。しかし、
この初陣からの神話的良さは不幸であった。大東亜戦争開戦前までの中国戦線における
零戦の戦果は、初陣から撃墜270機。さらに昭和16年に入ると中国軍は零戦にかなわ
ないことを悟り、戦闘機を飛ばさなくなってしまう程になり。おかげで零戦隊は出撃し
ても敵機を発見できないまま帰還することが多くなり、米国に新たな飛行機を創造させ
た。全体でも中国戦線における零戦の被害は地上砲火による2機のみという圧倒的なも
のであり、むろん空中戦による被害はゼロ。ここに「無敵零戦」の神話はスタートする
のであった。

993: 名無しさんAA:18/07/03 06:28
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  52 >
 この零戦隊の活躍を知ったシェンノートは、その高い空戦能力、長い航続距離に驚き
、ただちにイギリスやオーストラリア、アメリカ本国に零戦に関する情報を送った。し
かも、零戦は米英の戦闘機と遜色がないどころか時には圧倒されることもある。と素直
な警告まで発している。アメリカはこの警告を信じなかった。日本は、近年まで欧米の
模倣でしか戦闘機が作れず、そのような高性能な戦闘機など作れるはずがないとタカを
くくっていたのである。当時のアメリカの情報では、日本の空軍力は日華事変では中国
軍にも劣り、パイロットの数も年間1000人以下しか育成できないため、大規模な作戦は
できないということで、空軍を送れば日本軍は大陸から出て行くと言われていた。第2
次世界大戦直前の戦力分析でも、日本には空母が4隻しかなく、艦載機も200機程度
しかないという誤った見方をしていた。実際は正規空母が6隻、小型空母3隻、艦載機
は零戦だけで590機あった。しかしこの後、中国在住の米陸軍武官補も、零戦に関す
る機密文書を日米開戦前に盛んに本国に送っている。が、注意は去れず無視されている
。シェンノートに至ってはその報告は、錯覚かあるいは中国軍パイロットの未熟さをご
まかすためのねつ造だと決めつけられた。日本を航空後進国と見下すアメリカの先入観
は根強くあった。しかし、その先入観は下の将校までで、大東亜戦争開戦初頭における
真珠湾奇襲、フィリピン・クラークフィールド基地空襲での大損害の頃は、ち密にひた
隠しして日本分析と兵力分析の為の暗号電文の解読を行っていた。中国戦線、大東亜戦
争開戦初頭において活躍した零戦11型。熟練搭乗員との組み合わせによって無敵の強
さを見せた。その後零戦は12空零戦隊の運用結果をもとに11型以降、細部にわたる
さらなる改修を進めていくことになる。その後中国空軍用として飛行機400機がソ連
からおくられたが、見送られて漢口基地から出撃する第12航空隊の零戦11型には、
敵では無かった。中国戦線で零戦の相手になった戦闘機はほとんどがソ連製I-16、I-15
、I-153であり、これらは2級戦闘機と言われ、当然の ごとく零戦の敵ではなかった。
当時の日本海軍が、主力戦闘機を代替わりさせるサイクルは3年であった。世界全体で
も平時では4年、戦時では2年で次期主力戦闘機が開発される、そうした日進月歩の時
代だったが日本は出来なかった。敵地に侵攻して制空権を確保する「制空戦闘機」を、
甲戦と呼ぶ戦闘機戦で勝つことが要求される。対して侵入し敵爆撃機を撃墜する14試
局地戦闘機「雷電」や局地戦闘機「紫電改」などは乙戦と呼んだ。乙戦というのは迎撃
戦闘機のことを指す。零戦の正統な後継機が17試艦上戦闘機「烈風」なのは言うまでも
ない。烈風は、零戦が制式採用された昭和15年末に「16試艦上戦闘機」として海軍か
ら三菱に開発が内示された。

994: 名無しさんAA:18/07/03 06:29
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  53 >

 しかし、雷電の開発さえも零戦の改造に技術者が取られて思うように進まず、1号機
の完成は昭和17年2月と言う遅さであった。しかも振動などのトラブルが解決せず、
雷電11型として正式採用になったのは昭和19年1月だった。この間雷電は堀越技師
は休養し、高橋己治郎技師が設計主務者を務めたこともある程忙しかったのだ。烈風の
性能要求は堀越技師の予想をはるかに超えており、最高速度は 零戦21型を100km/h以上
上回る639km/h。空戦性能を重視するため翼面荷重130ku。加えて、零戦21型以上の
航続距離と全備重量で200kgを越す20mm、13mm機銃の搭載を要求された。しかも 上昇能
力は6000mまで6分以下。防弾装備もつけるなど、要するに零戦の登場で欲の出た海軍が
全てに零戦を超える性能を要求したのだ。烈風開発の着手は開戦後の昭和17年4月に
ずれこんだ。エンジンの候補は2種類あった。サイズが小さく公称出力1860hp(離昇出
力2000hp)の中島製「誉21型」(ハ−45)エンジンと、少し大きいが公称出力1900hp
(離昇出力2200hp)の三菱製「MK9A」(ハ−43)堀越技師は実用化できるまで3年
後を予想して米英戦闘機に対抗すべく、厳しい性能要求に応えられる自社製2200馬力級
エンジンのハ−43の搭載を考えていたが、エンジンの種類が増えることにより生産効率
が落ちることを恐れた海軍は、出力の劣る中島製ハ−45エンジンを強要した。もちろん
発注側の意向には逆らえず、昭和19年4月に烈風の試作1号機「試製烈風」が完成した。
しかし、これは大きなお世話だった。全長11m、全幅14mという99式艦爆なみに大きな機
体で、全備重量が零戦より2トンも重い4.4トンでは、この低出力エンジンでは明らかに
馬力不足を産んだ。最高時速は550km/h程度、高度6000mまで10分近くもかかり、零戦52
型にすら及ばないというさんさんたる結果となった。当然実戦機として使える代物では
全くなかった。戦況の悪化もあったために、海軍は開発に見切りをつけて、19年8月
にはこの開発中止と紫電改の生産を三菱に命じた。こうした屈辱的命令にも挫折する事
なく、自分の設計に自信を持っていた堀越はあきらめなかった。その為三菱の設計チー
ムは許可を得て独自で2200hpの「ハ−43」エンジンに換装した烈風を作り続け、昭和19
年10月にはハ−43に換装してテスト飛行を行った。その結果、同一機種とは思えないほ
どの性能の向上を見せた。最高速度は70km/hも速い628km/h。高度6000mまでの上昇時間
6分7秒と、海軍側の要求をほぼ満たす機体となった。しかも重量はハ−45搭載型から、
自重で100kg、全備で300kg増加したにもかかわらずである。

995: 名無しさんAA:18/07/03 06:29
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  54 >

 すると海軍側は態度を一変した。昭和20年6月に「烈風11型」として制式採用され
た。だが開発の遅れは致命的だった。既に時遅しであった。よく言われるのは航空本部
のエンジン選定ミスだが、ハ−43が試運転で予定出力に達したのは昭和18年秋になっ
てからであり、また敗戦時までこのエンジンを搭載した日本軍量産機は陸海軍を通じて
ゼロだった。しかも昭和119年12月に起こった東南海大地震は 「カミカゼ」どころ
か完全な「バチカブリ人柱」の地震だった。更に戦局の悪化による三菱の主力工場のあ
る名古屋爆撃が大打撃となってしまい、烈風はわずか試作機8機のみ完成という、実戦
参加から遥か遠い状態で終戦を迎えた。「烈風(れっぷう)は、日本海軍の艦上戦闘機
。設計生産は三菱航空機。略符号はA7M。連合国のコードネームは「Sam」。1943年8
月以前の試作名は「十七試艦上戦闘機」。零式艦上戦闘機の後継機として試作されて、
試作機8機が完成し、制式後の量産機は未完成のまま終戦を迎えた。」と説明される。
三菱が実践機を設計する中で、日本軍による初のアメリカ本土空襲が想定するに至り、
中島飛行機の創始者である中島知久平に「必勝防空計画」がもたらされた。アメリカの
本土空襲後にそのままヨーロッパまで飛行し、ドイツまたはその占領地に着陸すること
求められる大型長距離戦略爆撃機である。「Z飛行機計画」である、これがのちの富嶽
の試作機だった。 1942年8月15日、大本営陸軍部は各部局に「世界戦争完遂ノ為ノ決戦
兵器ノ考案」を要望した。その中に陸軍省に「超遠距離飛行機」「特殊気球(フ号装置
)ノ能力増大」という項目が取り上げられたのだ。日本を飛び立ち太平洋を横断してア
メリカ本土を爆撃、そのまま大西洋を横断してドイツで補給を受け、再び逆のコースで
アメリカを再攻撃しながら戻ってくるか、またはソ連を爆撃しつつ世界を一周すると言
う壮大な計画であった。全長45m(ボーイングB-29の1.5倍)、全幅65m(B-29の1.5倍)
、爆弾搭載量20トン(B-29の2.2倍)、航続距離は19,400km(B-29の3倍)、6発エンジ
ンを目指した。こうして中島飛行機が設計にかかり、軍部の説得に取り掛かった。陸海
軍共同計画委員会で承認され、これに軍需省も加わり開発体制が出来た。しかし陸海軍
の要求性能が異なり調整に時間を費やし、軍需省は独自に川西航空機に設計案を作らせ
た。陸海軍にはや他社も中島内部にも反対論が存在し、開発体制に問題があった。第一
次案では54×6基であったが、空冷四重星型の新形式の開発に手間取り、応急案に ハ44
やハ50の二重星型エンジン6基装備で暫定的に計画を進め爆弾搭載量も20tから15tに減
らし進んだ。しかしこの空前のスケールの機体もサイパン陥落により、「この戦争に間
に合わない」と判断された富嶽開発は中止となった。

996: 名無しさんAA:18/07/03 06:30
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  55 >

大川工業高等学校は、高校の男女分離から男子の木工者養成として分離独立高校となっ
た。ここでは科学技術も磨かれ、尿素系接着剤も開発された。三菱の帝国海軍が佐世保
や長崎造船所など権勢を誇っていたが、ある企業の委託を受けて、ここの高校生が作っ
た翼を付けた飛行機が飛ばされた。今の筑後川の堤の河川敷で飛んだ時は喜びであった
。その飛行機は明星と呼ばれた。軍を通じ、高校に土地を提供した石井氏の紹介だった
。明星(みょうじょう)は、大日本帝国海軍(以下、海軍)の航空技術廠(以下、空技
廠)が試作した木製爆撃機。型式名D3Y1−K。その時の宮部青年はその後、この高
校で教鞭を取って熱く語った。木製双発高速機「デ・ハビランド モスキート」の活躍
に刺激を受けた海軍が、習作として九九式艦上爆撃機の木製化を企図し、空技廠でほぼ
全面的に改設計したもの。松下飛行機株式会社の松下幸之助が軍の要請で設立した木製
機専用工場で太平洋戦争末期に4機が完成し、試験中に終戦を迎えた。幻の飛行機と呼
ばれた。空技廠が旧態化著しい九九式艦上爆撃機を基にした爆撃機の木製化に着手し、
原型機をそのまま木製化することは不可能だったため、強度の確保と工作性の向上を主
眼に大幅に改造設計された。主翼と尾翼は楕円テーパー翼から直線テーパー翼に改めら
れ、面積が縮小された。また胴体が約1.3m延長され、併せて風防も延伸された。この他
細部の構造・形状も、木製化に合わせて単純化されていたが、エンジンやプロペラは原
型機を踏襲した。本機は松・ヒノキ材をボルト留めした骨格に バルサ積層材の表皮を
尿素樹脂で貼り付け、旧来の羽布張りも多用された。モスキートに多用されたエポキシ
樹脂は、当時の日本では工業化以前の段階だったため、接着剤の強度調整には、きな粉
が用いられた。治工具類は空技廠で準備し、組立は木造船の量産で実績のあった松下造
船に委託され、同社社長で幸之助の義弟・井植歳男(三洋電機を創業)は1943年10月、
盾津飛行場そば大阪府住道に専用工場(松下飛行機)を新設した。1944年春より実機製
作に着手したが、松下飛行機は家電等の木工部品については実績を持っていたものの、
航空機に求められる絶対的な高品質と信頼性に対する認識・経験・人材が不足し、翼を
ここに委託したものだった。1910年に初めてモータージェットを搭載した航空機がルー
マニアでコアンダ=1910が作られた。その後モータージェット推進の航空機として最も
著名なのは1940年に初飛行したイタリアのカプロニ・カンピニN.1であった。当時のフ
ァシスト政権により「世界で最初に飛んだジェット機」と宣伝された。実際にはその一
年前にHe 178が初飛行に成功していた。このジェットエンジンの設計図を中島飛行機は
見れると思っていたが期待に反して、イタリアもドイツも手放す事をしなかった。

997: 名無しさんAA:18/07/04 02:56
    世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  56 >

 中国の航空兵や士官候補生達に、機材の使用法を教育するため、いくつかの飛行学校
や砲兵学校も設立された。これらの学校の卒業生達は、直ぐに中国空軍のもっとも有能
な将兵になって行った。従って、戦争中、中国空軍の指導者は、ほとんどがソ連空軍に
訓練された人たちであった。それでも、中国でのソ連部隊による航空防御にも、限度が
あった。というのは、彼らの操作や作戦はすぐれていたが、数的には、日本軍よりはる
かに劣勢であった。日本軍は、華北地区にあるソ連軍を“打つ手なし”の状況に追い込
んだうえ、四川〔スーチョワン〕省や雲南〔ユンナン〕省内にある中国の、各種施設を
攻撃するために、新しい部隊を追加派遣していた。1939年1月、日本軍は中国の南
西部にたいする大々的な航空攻撃を行い、中国の戦時首都であった重慶〔チュンチン〕
に、はじめての航空攻撃を開始した。この攻撃は、中国国民党との軍事的“ゆきづまり
”を打開して、彼らに降伏をおしつけるために、一ヵ月にわたって、弱まることなく続
けられた。中国では、この攻撃にたいする適切な防御手段をもっていなかったし日本軍
機に、思いのままに爆撃させる結果だったが、中国空軍は隠れた飛行場が日本軍の攻撃
目標となる防御はできて 残っていた。国際飛行中隊や、その残留部隊は無能であり、
ソ連部隊は華北に隠れて飛ばないでいた。要するに、戦況は緊迫していた。この状況に
即応するため、アメリカ志願兵部隊の必要性が認識され、ついに部隊が編成されること
になった。重慶〔チュンチン〕にたいして、日本空軍の情容赦ない攻撃がつづいたので
、当時中国空軍大佐だったシェンノートと中国空軍作戦部長の毛邦初少将は、1940
年〔昭和十五年〕九月、蒋介石総統に重慶までよびつけられた。蒋介石は、シェンノー
トと毛邦初にたいし、アメリカ製飛行機の購入と、アメリカ人パイロットの雇い入れの
為、特使としてアメリカにいくことを、要請した。最新型飛行機の購入については楽観
的であったが、志願兵部隊の能力については、国際飛行中隊の経験から、疑わしい点が
ないではなかった。だが、毛邦初とシェンノートの二人は、その任務を引受けて、直ち
にアメリカにむけて出発した。しかしこれは実は本来国際法違反の最たるものであった
。ベルサユ条約他で中国への兵器売りつけは禁じていたからだ。しかし米国のユダヤの
金融家は喜んで勧めた。1940年11月、アメリカに到着するとすぐ、11月25日
には、毛邦初とシェンノートの二人は、蒋介石の申入れを大統領連絡委員会に提出した
。この委員会は、合衆国内における外国の武器購入を調整している民間機関であった。



998: 名無しさんAA:18/07/04 02:58
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  57 >
シェンノートと毛邦初の協力で作成された蒋介石の申入れは、660機の飛行機(戦闘
機500機、練習機150機、輸送機10機)と、14ヵ所の主要航空基地の整備、及
び122本の滑走路を建設するのに必要な資材、それに一年間の作戦行動に必要な弾薬
と部品を要求していた。これらの機材の要求に追加して、蒋介石は、飛行機を操縦した
り、整備したり、また中国空軍パイロットを訓練するために、合衆国内で志願兵を募集
する許可も求めていた。ワシントンのアメリカ政府官僚たちは、蒋介石の申入れを、条
約違反の武器購入と兵士派遣などとんでもない要求だと思ってはいた。しかしアメリカ
駐在中国大使・宋子文は、援助計両の実現につとめ、強力な政治交渉を続けてた独力で
ナチに対抗して戦っているイギリスに、各種機材を補給しなければならないばかりか、
米陸海軍の拡張も行われているのに、蒋介石に援助を与える事など、ペンタゴン〔国防
総省〕は、初めから考えようとしなかった。だが、シェンノートと毛邦初の二人には、
重要な支持者を、ホワイトハウス内で知故としていた。大統領顧問のローチリン・キュ
リー、トーマス・コーコラン、海軍長官のフランク・ノックス、財務長官のへンリー・
モーゲンソーなどである。彼らはユダヤ機関派遣将校達だった。彼らは、駐米大使宋子
文とともに、フランクリン・ルーズベルト大統領の気持ちを、この計画に有利な方向に
かえることに成功した。そして、アメリカ志願兵部隊を創設する道に立ちふさがってい
た多くの障害を、取り除くことができた。ホワイトハウスの承認をえたシェンノートは
、志願兵部隊用の飛行機を購入するという、やっかいな仕事にとりかかった。1940
〜41年の冬、シェンノートは、アメリカ国内をひろく旅行して飛行機製造工場や軍事
施設を見てまわった。アメリカ志願兵部隊が使用した標準戦闘機は、カーチス「ホーク
」81A−3(カーチスP40C)であった。もともとこれらの戦闘機は、英空軍むけP40Cの内
の100機であって、ヨーロッパで`ドイツ空軍戦闘機と対抗するに十分な性能をもっ
ていなかったため、中国空軍にゆずられたものである。そして中国空軍は、さらにそれ
を中国・ビノシマ戦域のアメリカ志願兵部隊に与えたのであった。この機は1941年12月
、はじめて作戦に使用された。頑丈で、アメリカ製戦闘機のすぐれた飛行特性である、
強度、装甲防護力、急降下性能などをもっていた。これらの特性により、パイロットは
絶体絶命のピンチから、逃れる事ができたのである。だがその三つの特性をのぞけば、
日本軍が中国に投入した近代的な戦闘機には劣っていた。日本軍の旧式戦闘機や爆撃機
には、優位に立ったこの機体だったが、しかしアメリカ志願兵部隊は成功した、飛行機
の性能よりもむしろ、パイロットの熟練とエネルギーによるものとされたのだった。
実は開発時に大きく飛行時間のある熟練のパイロットをつけて輸出したのである。

999: 名無しさんAA:18/07/04 02:58
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  58 >

 志願兵部隊用の飛行機を購入することは、非常にむずかしい仕事だった。英空軍は、
アメリカ製飛行機の購入に最優先権を与えたられ、一方、航空部隊を急速に増強してい
た米陸海軍の要求は、飛行機メーカーの生産能力をはるかに上まわる発注を行っていた
。そのため、シェンノートが飛行機を購入できる可能性は、極めて少なかった。やっと
、カーチス・ライト飛行機製造会社の副社長ブールデット・ライトおよび同社の中国代
理店主のウィリアム・D・ポーレーの助力で、たまたま英軍に引き渡す予定だった機が
、英軍が受領を拒否したP40戦闘機100機が納入待ちになり購入できる商談が成立し
た。カーチス・ライト社は、英空軍にP40を購入する権利を放棄してもらうかわりに、
さらにすぐれた戦闘機を提供すると約束した。英軍では操作が欧州型と違っていたのだ
。英軍がこの取決めに同意したので、1941年一月に、この飛行機は、中国に890
万$で売りわたされた。P40戦闘機は、中国でつかうのにいちばん適した飛行機とはい
えなかったが、この飛行機しか手にはいらなかったのだから、仕方がなかった。さらに
中型爆撃機などを追加しようとしたが、成功しなかった。中国政府は、P40の装備が、
完全でなく、戦闘即応の状態ではなかったが、大急ぎで飛行機を入手したかったので、
当初の買主である英軍から、武器や弾薬、そのほかの装備品を提供してもらえるという
条件のもとに、受領することにした。これが後の援蒋ルート開拓に功を奏した。だが、
まもなく、中国政府が購入した一〇〇機のP40用の装備品を、英軍から提供してもらえ
ないことがわかった。アメリカにおける中国政府の調達補給のおもな代理店である中国
防衛補給会社は、英空軍がP40を装備することができなければ、米陸軍省がそれを行う
責任がある、と主張した。陸軍省の官僚たちは、この圭張を認めず、中国政府が購入し
た飛行機の装備を、米陸軍省がやらなければならない理由はない、という意見をもって
いた。だが、陸軍長官ヘンリー・L・スチムソンは、これら官僚たちの意見に同意しな
かった。アメリカ志願兵部隊は、米陸軍省または米政府の責任ではなかったが、弾薬や
正規の武装なしに飛行機を中国におくれば、とうぜん国際問題を引き起しかねない、と
思っていた。メーカーが送ったアメリカ志願兵部隊は言わば人質同然だったのだ。スチ
ムソンが、この考えをルーズベルト大統領に報告すると、大統領はすぐさま、陸軍省に
たいして、P40完全装備用の装備品を放出するよう、命令した。こうして周囲の反対を
おし切リ、陸軍長官ヘンリー・L・スチムソンは、P40 完全武装用の武器、弾薬の放出
を認めさせた。

1000: 名無しさんAA:18/07/04 02:59
     世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士  59 >
 かくて飛行機は、1941年二月一日までにラングーンに向けて発送する為、ニュー
ヨークの埠頭に梱包集積された。ところが、カーチス・ライト社と同社の中国代理店主
ウィリアム・ポーレーとの間で、売り渡しにともなう手数料についての話し合いがこじ
れたため、飛行機の受け渡しが遅れてしまった。この話しあいがつくのに、二ヵ月を費
やしたのだ。この間、飛行機は、裁判所命令で、ニューヨークに留め置かれた。財務長
官ヘンリー・モーゲンソーの仲介で、やっと一九四一年四月一日、この“ゆきづまり”
が打開された。紛争中の両者が、モーゲンソーの妥協案を受入れたので、飛行機発送に
関する法的処分が取り除かれ、飛行機は、ビルマに向うノルウエー貨物船に積込まれた
。こうした、アメリカ志願兵部隊用飛行機の購入が、非常に困難な仕事であった事から
も、その飛行機を飛ばし、整備する志願兵を募集することが、それに増して難しかった
事は、容易に解るだろう。二つの要素がからんでいたために、この募集は、ややこしい
ものになってしまったのである。第一の問題は、陸海軍の指揮官たちが、彼らの基地で
、将来性のある要員を志願兵として募集することを、許したがらなかったことである。
この頃、陸軍航空部隊、海軍航空部隊ともに、その戦力拡大につとめている最中だった
為、志願兵の募集は、その拡大計画にたいする脅威とみられた。しかし1941年四月
十五日、ルーズベルトが大統領訓令をだしたことで、やっと、陸海軍部隊が協力的とな
り、志願兵の募集を行えるようになった。第二の問題は、そのとき、日米両国間にあっ
た中立的立場の申し合わせである、パイロットや整備要員を募集することを、合法化す
る必要があった。しかも、日米関係は、徴妙にゆれうごいていた。そのためアメリ力人
志願兵の募集は、極秘で行わなければならなかった。中国の戦争に、アメリカが中立の
立場をとっているかぎり、軍需品および軍事援助を与える事は、中国政府とアメリカ政
府が直接交渉を行うことはできない筈だった。そこでこの問題は、国務省および陸軍省
の援助をうけて活動していた民間グループが、取り扱わなければならなかった。中国と
アメリカとのあいだの取り引きの責任者は、中央飛行機製造会社(カムコ)と中国防衛
補給社であった。中国防衛補給社は、カムコが要員の募集をおこなっているあいだに、
飛行機購入に活躍した。アメリカ人志願兵は、表向きは、カムコの社員として採用され
た。従ってシェンノートも、カムコの「監督者」という、軍隊式でない職名をもらった
。このように、カムコとの雇用契約という形をとった事は、いわば“逃げ道”であった
。どんな理由にしろ、アメリカ志願兵部隊が公然と戦闘部隊になることは、一般から認
められるものではなかった。志願兵たちは、飛行機を“製作、修理、運用するため”に
、カムコと一年間の契約をむすんだのである。


続きを読む
掲示板に戻る 全部次100 最新50
名前: E-mail(省略可): ID非表示