何でも書こう


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何でも書こう

1: 名無しさんAA:15/02/21 12:29
雑談しましょ

1601: 名無しさんAA:18/11/08 11:34
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   593   > 

 夫の家康が今川を裏切った為、自分の肉親の両親が処断される、自分は自害を勧めら
れ人質状態……辛い状況である。この時に、息子の信康と共に駿府館で人質だったが、
人質交換の申し出によって無事に家康の元に帰った。しかしながら、無事に家康の元ま
でたどり着いた瀬名でしたが、家督を繋いで生きていた徳川家は姑(しゆうとめ)の於
大の方(おだいのかた)が、この侍の嫁でありながら自害しなかった事は恥として、結局
、岡崎城に入ること許されませんでした。しかも、瀬名は岡崎城の外れにある菅生川の
ほとりの惣持尼寺で幽閉生活を送ることになります。この時少し気がふれていたとも言
えるのだろう。この時に瀬名が幽閉された土地の名前が築山で、これ以降築山殿と呼ば
れた。徳川家は、そもそもが今川家に連なる政略結婚に、特に父親は反対だった。京都
と反対に向かうというのもあるし、今川義元の贅沢が気に入らなかった。こうして瀬名
は徳川家からはあまり歓迎されていない存在だったが、家臣団は今川の融和を願って止
まなかった為だった。しかし、時は過ぎ、家康と瀬名の子供の信康が、織田信長の娘・
徳姫と9歳で結婚し岡崎城で暮らすこととなり、この時も瀬名は幽閉状態のままだった
が、家康が遠江浜松城に拠点を移した時に幽閉が解け、1570年以降は信康と再会し、元
服が済んだ信康は正式に岡崎城主となった。1575年には長篠の戦いでも活躍し岡崎城主
としての信康の戦いぶりは、家康も彼の戦上手に感心するほどのものなっていた。しか
しその凄まじい勢いに家臣や伯母は次男、則ち家康の子孫の保険を求めた。当時の信康
と徳姫の間には2人の娘がいたものの、男児が居なかったからだ。この時に男児を生ま
ない徳姫を案じて信康に複数の側室を持たせる事になる。この行動が信康と徳姫の歯車
を狂わせた。心配になった家康、信長が相次いで岡崎を訪れて、ご機嫌伺いをしている
が、夫婦仲も姑とも相当深刻な不仲であった。つまり「元から築山殿と徳姫の仲が悪く
、その上、頼みの信康までもが築山殿に味方していた。」と徳姫を失望させた関係のま
ま側室が献上されていたのだ。この当時徳川家は領地は小さく、大ざっぱで三河・遠江
(とおとうみ)しかない。その殆どを信康に預けようとしていた。家康の不安は尽きず
、世間にも悪評判の状態になってしまっていた。そして戦国時代である。敵側にしれて
あらぬ画策・陰謀の元になった。当時の徳川家には、家康の子が弟・於義丸(結城秀康
)や、生まれたばかりの長松(徳川秀忠)がいたが、大名の習わしで家臣の養子に出して
長男の嫡子だけを自分の家を継がせていたが、信康は傲慢な家康そっくりであり、家康
の命令に従わないことも多々あった。これに不安な家康に更に拍車をかけ、耳打ちする
者もいた。

1602: 名無しさんAA:18/11/08 11:54
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   594   > 

 徳姫は織田信長の長女であった。全幅の信頼を寄せていた家康と信長は、ある意味竹
馬の友であった。その為幼き頃からの約束や、家康の見張り番としてこれも政略結婚の
一部として嫁いでいた。当然徳姫とすれば、家康も信長も幼き頃から知る中で、伯父や
叔父として申し分なかったが、それは重荷以外何物でもなかった。信康が鼓舞し武勇伝
に、母の築山殿は子供の武功を喜んだが、徳姫は妻としてその行き過ぎに不安だった。
その上に、この信康の側室達は、他ならぬ築山のスパイだったのだ。これに困り果てて
酒井忠次を通じて相談し、信長に悩みを通じようとした。だが、既に信康の親の家康や
築山との不仲は決定的なものとして映っていた。この長男の信康は、全く能天気な気性
が激しく男で、日頃より乱暴な振る舞いが多かった。弟とされた於義丸(結城秀康)は
双子で誕生したとの説があるほど比較された。この事は双子でなく、同時期に生まれた
家康の側室の不義の子と言う事だろう。愛人の浮気の子は当然家康は取り上げない。し
かし、その後、家康が正室・築山殿の悋気を恐れたために、秀康を妊娠した於万は重臣
の本多重次のもとに預けられ産まれたという。父・家康とは満3歳になるまで対面を果
たせず、その対面も、あまりの冷遇により異母弟を不憫に思った兄・信康による取りな
しで実現したものであった。とされる。この時既に武田勝頼との戦いで、家康は秀康を
浜松城に引き取る機会も、対面する機会も持てず窮地であった。こんな時冷遇を不憫に
思った嫡男・松平信康が仲介し、ようやく会ったのだ。その後、松平信康が謀反の疑い
を掛けられて、1579年にに切腹となるのは当然だった。本来であれば次男の結城秀康は
(6歳)が家督を継ぐ立場でこの画策もその取り巻きだったかもしれない。しかし、1584
年の小牧・長久手の戦いの後に、徳川家と羽柴秀吉が和睦した条件は、結城秀康は11
歳の実質的な人質として羽柴秀吉の養子となった。こうして徳川家康の跡継ぎは、異母
弟の長松(後の徳川秀忠)とされた。天正7年に武田との内通疑惑で織田信長の命令で
、信康が切腹させられたが、信康は家康と対立しいて、この窮地は和議を徳姫を返した
がいいとの判断だろう。このために切腹させ、これを利用して家康は信長の信任をとっ
た。次男である秀康は、本来ならば徳川氏の後継者となるはずだが、しかしここでも、
秀吉が助け船を出した。(1584年)天正12年の家康と羽柴秀吉が和睦の条件が、家康の
不義の子秀康の養子(人質)差出しだったのか。結局家康は殺すも生かすも無かったが
かつては、秀吉も不義の子で、家康に助けられたのではなかったか。後継者が異母弟の
長松(後の徳川秀忠)となったのは、側室の母親の身分は秀忠の方が上で、信康切腹前
に生まれた秀忠が当初から後継者にしたかった事が秀吉と通じていた。とも考えられる。

1603: 名無しさんAA:18/11/08 12:02
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   595   > 

 これまでにも信康は評判が悪く、盆踊りにおいて、服装の貧相な者や、踊りの下手な
領民を面白半分に弓矢で射殺し、「殺した者は敵の間者だった」と信康は主張していた
。又、鷹狩りの場で一人の僧侶に縄を付けて縊り殺した。理由は狩の際、僧侶に出会う
と獲物が少なくなるという因習を信じ、狩に行く際にたまたま出会った僧に腹を立てた
。などとされ、これに対して信康は後日、お詫びをしている。こうした事から彼の周り
に諜報者や間者が多数見張っていたと考えられる。それらは見つかり次第殺されていた
。これは諜報がやりにくい利点はあろうが、諜報者を雇った上部者や身内から批判があ
るだろう。ちょっと頼まれ調べに行って殺された。となれば表向きも怒れない。秀吉も
信長も、異母兄弟の本多氏、義父である織田氏、敵である武田や今川氏、この徳川家康
や築山殿すらそうした諜報活動をしていた可能性が高くこの切腹はその代償だったのだ
ろう。その後、徳姫は天正8年(1580年)に家康に見送られ岡崎城を出立、安土へ送帰
えされ、2人の娘は家康の元に育つ事になる。近江八幡市に居住し、化粧料田が近江長
命寺に設定された尼寺に住んだ。天正10年(1582年)に起きた本能寺の変において父・
長兄ともに死去すると、次兄の織田信雄に保護されたが、小牧・長久手の戦い後に信雄
と羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の講和に際して人質として京都に居を構えた。ところが、
天正18年(1590年)に信雄が秀吉によって改易された為、生駒氏の尾張国小折に移り住
む事になった。これは「埴原家文書」に残された秀吉の朱印状から秀吉による処置だっ
たことが明らかで、その後すぐにまた京都に居住するなど、徳姫の処遇は秀吉の支配下
で転々とした事が推測できる。家康が心配で不仲に取り合った頃は、信長も又心配して
いたようで、岡崎に来たことも記されている。信長も娘夫婦の仲を心配してやって来た
可能性から、家康には大いなる圧力があったと言えよう。一時的にせよ夫婦仲がこじれ
た事が彼の命を縮めさせた事は事実であるといえよう。いつまでも嫡子が生まれぬのを
心配した姑の築山殿が、信康に元武田氏家臣の浅原昌時の娘や日向時昌の娘など、部屋
子をしていた女性を側室に迎えさせたのが、諜報活動の一環であったのだろう。この頃
から築山殿に徳姫が不審がり、不和になったのだろう。最も史料に忠実な信長の返答は
「家康のよきに計らえ」と、全く信康を殺すようには支持してはいない。しかし、武田
や今川で頭の痛かった家康は、既に嫁を信長に返す事が一番いい方法と考えていたとし
ても不思議ではない。家康はすぐさま忠次を呼び出し詰め寄り談判したが埒が明かずに
返す方法はこいつの切腹しかない。と踏んだのだろう。大殿の命令とあれば逆らうわけ
にもいかず、止む無く信長の返答に信康を切腹させたて答えた形になったのだろう。

1604: 名無しさんAA:18/11/08 15:35
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   596   > 

こうした魑魅魍魎の徳川氏の側室がいた西郷局は、こうして家康の後継者の異母弟ので
ある長松(後の徳川秀忠)を産んだ母親の身分となった。それが時代のうねりとは言え
悔しいの築山殿だったのだろう。側室の西郷局は美人で人から慕われていて、潔癖な壁
があって、その上賢母であったからだ。明智の知者ぶりからも秀でている一族の出身で
、秀忠の方が上であり、信康切腹前に生まれた秀忠を当初から後継者にしたかったと考
えられる。西郷局の実家の三河西郷氏は土岐氏一族で、室町初期には三河守護代を務め
たこともある名家で、当時も三河国の有力な国人でもあった程だ。乳母の大姥局によっ
て養育されたがこの大姥局さえも今川家を支えた岡部の名家の出であった。同母弟に関
ヶ原の戦いで活躍した松平忠吉がいる。とされる。家康と秀吉の講和条件として秀吉の
妹の朝日姫(旭姫)が家康に嫁がせることになった時に、家康は「朝日姫が家康の子を
産んでも嫡子とはしないこと」「長丸を秀吉の人質としないこと」「万一、家康が死去
しても秀吉は徳川領5か国を長丸に安堵して家督を継がせること」を条件にしたと伝え
られている。これは長丸(秀忠)の存在を徳川は如何に大事にしていたかを物語る。天
正18年、小田原征伐に実質的な人質として上洛を各大名に命じた。しかし秀吉は長丸
の上洛を猶予しているのに対して、家康は長丸を上洛させる希望を述べ、更に上洛後も
秀吉に拝謁し、織田信雄の娘で秀吉の養女・小姫(春昌院)と祝言を挙げた直後に帰国
を秀吉の許して、他諸大名の妻子とは別格の待遇をしている。秀吉に拝謁した長丸は、
元服して秀吉の偏諱を受けて秀忠と名乗ったとされ、秀吉から、豊臣姓も与えられてい
る。秀勝は、豊臣秀吉の姉である瑞龍院日秀と三好一路の次男で、秀次の弟、秀保の兄
であった。豊臣秀勝は秀吉の養子となって、九州征伐の頃、豊前岩石城(巌石城)攻め
の大将となり武功をたてた。しかし、戦後の論功行賞の席で、秀勝は丹波亀山28万石で
は知行が不足である。と秀吉に不平を訴えたため、その怒りを買って勘当され、所領を
没収されて、丹波亀山は豊臣秀長に与えられた。しかし後年、、蜂屋頼隆が子がなく断
絶したため、遺領のうち5万石と私財の全てを秀勝が引き継ぎ、秀吉は敦賀城主の座を
大谷吉継の知行を絶対条件として許した。その後 甲斐信濃23万石を与えようとしたが
、ここでも甲斐は僻地で遠すぎると太閤秀吉に嘆願を続けたため、天正19年(1591年)
に美濃岐阜城へと転封となり、甲斐は替わって加藤光泰に与えられた。体が弱かったの
か、朝鮮征伐の折に、細川忠興らを率い、4月下旬に壱岐島から朝鮮国の巨済島に渡っ
たが、半年ほど病の内に死んだ。しかしこの時細川忠興は切支丹ガラシャ夫人だった事
を思えば細川氏は誰かの司令で秀吉身内を殺して行ったとも考えられる。

1605: 名無しさんAA:18/11/08 15:37
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   597   > 

 細川忠興(ほそかわただおき) こと、長岡忠興(ながおかただおき)は、戦国時代から
江戸時代初期にかけての武将である。丹後国宮津城主を経て、豊前小倉藩の初代藩主。
肥後細川家初代藩主となった波乱の時代に平凡を歩いた数少ない大名だ。足利氏の支流
・細川氏の出身であるとされ、正室は明智光秀の娘・玉子(通称細川ガラシャ)を娶り
。室町幕府将軍・足利義昭追放後は長岡氏を称した。その後は羽柴氏も称したが、大坂
の陣後に細川氏へ復した。足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、時の有力者に
仕えて、現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた。また父の幽斎と同じく、教養人であ
り茶人(細川三斎(さんさい))としても有名で、利休七哲の一人に数えられる。茶道
の流派三斎流の開祖であるともされるが、その生き方は起用である。もともと将軍家に
仕えた細川藤孝(幽斎)の長男として京都で生まれたとされ、そのまま家督を継ぎ将軍
についていた。しかし明智氏と支える頃はいち早く信長氏に仕えた。15歳で紀州征伐に
加わり初陣を飾ると、その後信長から離反した松永久秀の城を僚友・明智光秀と共に落
とし信長直筆の感状を受けている。元服し、織田信忠より、忠興と名を貰い信長の仲介
を受けて、光秀の三女・玉子(ガラシャ)と勝竜寺城で結婚した。天正9年(1581年)
の京都御馬揃えに、若年ながら参加し、この際に信長が着た「蜀紅の錦の小袖」は、こ
の忠興が京で探し求めて信長に献上したものだという。天正10年(1582年)岳父の明智
光秀が本能寺の変を起こし、藤孝・忠興父子を誘ったが細川父子はこれを拒否した上、
妻玉子を娘だからと丹後国の味土野(現在の京丹後市弥栄町須川付近)に幽閉したのだ
。細川父子の協力を断られた事は、光秀の滅亡を決定的にした。光秀は天下人の座を細
川氏に預けていいほど頼りにしていたといわれるが、にべもなく即断拒否で秀吉や家康
すらも疑う事はなかった。その後の論功で秀吉から羽柴姓や豊臣姓を数々貰っている。
秀次事件では、秀吉の甥・豊臣秀次に借金があったため細川は嫌疑をかけられた。主君
・忠興が秀吉から関白・豊臣秀次の謀反連座の疑いを受け、家臣松井康之は秀次からの
借銀の返済や秀次縁者に嫁していた忠興の娘・御長(おちょう)差出要求に対して奔走
し、金を用意し事なきを得た。これに感謝して忠興は、娘・こほ(11歳)を康之の次男
・新太郎(後の興長)の妻とした。この松井康之が奔走し、金子(きんす)を用立てて
秀吉に返納したが、この時に金子用立てに力をかしたのが徳川家康であったという。つ
まり早くから細川氏は徳川の諜報間者だったのである。又この奔走した松井康之(まつ
いやすゆき)は室町将軍の水軍大将の子であった。

1606: 名無しさんAA:18/11/08 15:37
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   598   > 

 つまり、足利将軍の子ガラシャ夫人は既に松井康之を通じて外交貿易の餌である布教
の下で改宗してキリスタンになっていた事になる。これは大きな事だっだ。細川ガラシ
ャは永禄6年(1563年)〜慶長5年7月17日(1600年8月25日)に生きた 戦国時代から安
土桃山時代にかけての女性だ。明智光秀の三女で細川忠興の正室として有名だが信長に
まだ謁見する前にキリスタンになっている事になる。越前国で生まれ、天正6年(1578
年)15歳の時に父の主君・織田信長のすすめによって細川藤孝の嫡男・忠興に嫁いだ
それまでは出家した舅・藤孝とともに<禅宗>を信仰していた珠だったが、忠興が高山
右近から聞いた「カトリック」の話をすると、その教えに心を魅かれていったという。
天正15年(1587年)、夫の忠興が九州征伐に出ると利用して、侍女数人に囲まれて身
を隠しつつ教会に行った。とされる。しかし、そのちょっと後では打ち壊しと禁教令が
出ているので、この話は果たして本当だろうか。それに明智氏が信長を撃つ本能寺の変
では、既に伴天連許可を足利氏が認め、この認めた事にそういう資格はないと足利氏を
京都から追い出している。足利氏としてはキリスト教徒でも石山本願寺の信徒でも助け
を借りられれば誰でも良かったのだろうが。ところで舅「細川藤孝」は、いかなる人物
か。なぜ光秀に味方せず「出家」したのか――。「初め室町幕府13代将軍「足利義輝
」に仕え、その死後、15代将軍「足利義昭」擁立に尽力した。義輝の弟「一乗院覚慶
」は還俗し「足利義昭」になるも興福寺に幽閉される。兄・三淵藤英と協力してこれを
救出、近江国の六角義賢、若狭国の武田義統、越前国の朝倉義景らを頼って義昭の将軍
任官に奔走した。当時は貧窮で灯籠の油にさえ事欠くほど。その後に明智光秀を通じて
、尾張国の織田信長に助力を求め、永禄11年(1568年)、信長が義昭を奉じて入京し、
藤孝もこれに従い入京したという。後に織田信長に従い、長岡藤孝を名乗り丹後宮津11
万石の大名となった。本能寺の変後、主君・信長の死に殉じて剃髪、家督を忠興に譲る
。となっている。この三淵氏は、三淵藤英が弾正左衛門と名乗っている。 顕家、藤之
、宗光と続き。大和守三淵晴員の嫡男とされる。三淵晴員はもともと細川氏の出身で和
泉上守護の元有の子。母方の縁で三淵晴貞の養子となったという。実はこの三淵(みつ
ぶち)氏族はかなりの謎おおき一族である。彼らが掲げた九曜紋は、繁栄や収穫、健康
に大きな影響を与えるとされた。東アジアでは宿曜道や陰陽道などの星による占いで使
う。九曜のうち七曜は実在する天体で、残りの2つも古代インドでは実在すると考えら
れた天体である。

1607: 名無しさんAA:18/11/08 15:38
しかし同じ宿星紋でありながら、太極旗の陰陽道の九星は名前は似ているが、実在に拠
らない抽象概念で、大きく意味は異なる。『見聞諸家紋』では、千葉氏、荒尾氏、宿久
氏、溝杭氏が載る。他に青山氏、戸田氏、三宅氏、佐久間氏、伊達氏、相馬氏、細川氏
、保科氏などが載る。従者松井氏は松井松平家の一族で徳川家康の松平家の本流である
。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは忠興と共に徳川方に与した。これに先立ち、
家康に謀反の疑いをかけられ窮地に陥った忠興を救うため、松井康之は久美浜特産の「
コノシロの麹漬け」(このしろ寿し)を家康に献上させ難を逃れたとされ、その礼状と
思われる文書が如意寺(京丹後市)に保存されている。関が原の戦いでは、康之は忠興の
飛び領であった豊後杵築城に城代・有吉立行と共におり、丹後へ戻るよう忠興より命を
受けるも既に戻れる状況下になかったため、杵築に留まった。そして 攻めてきた大友
吉統の攻撃を防ぎきり、救援に来た黒田如水と合流、石垣原の戦いで勝利した。この功
績により戦後、忠興より2万6,000石の知行と、速見郡の御領所1万7,000石を預けられた
。慶長17年に死去嫡男の長男・興之は朝鮮出兵において戦死していたため、家督は次
男の興長が継いだ。優れた茶人でもあったといわれている。子孫は代々徳川家直参の身
分を持ち、熊本藩の2万8,000石の筆頭家老(別格家老家)であり、さらに代々肥後八代
城主に封じられ一国一城制の例外であった。舅「細川藤孝」は、いかなる人物か。なぜ
光秀に味方せず「出家」したのか――。又不思議なのは。石田三成の家紋も「九曜紋」
なのである。これは当然三成、と言うより石田家はこの九曜紋を家紋としていたからだ
。この九曜紋の意味ですが、月曜、火曜、水曜、木曜、金曜、土曜、日曜、計都、羅と
いう9つの星を指しており、もともとはインドの天文学や占星術で扱われていたものが
中国、そして日本へと伝わり、平安時代以降から貴族、そして武士の間で信仰の対象と
して用いられてきたという。この9つの星が家紋になったのが「九曜紋」であり、伊達
政宗や細川忠興、高山右近など数多の武将の間で用いられ石田家もその中の1家だった
。石田三成の裏家紋には「下がり藤」がある。成が用いていたもう1つの家紋として、
この「下がり藤」が挙げられている。三成とこの「下がり藤」の関係については、江戸
時代に書かれた関ヶ原の戦いの屏風に描かれ、実際に家紋として使われたのかは定かで
ない。この下がり藤という家紋は鷹尾松藤家の家紋である。最後の「藤」という文字に
注目される様に、藤原氏の「藤」を意味しており、藤原氏を待って護衛した者であり、
血縁関係にある者、そして藤原氏に加勢したもの。と伝えられています。石田三成のご
先祖が、藤原氏にあやかってこの家紋を貰った事があったのかもしれません。また三成
は一時期「藤原三成」と名乗っていたため、その影響で使用した時期があったとも考え
られる。

1608: 名無しさんAA:18/11/08 15:38
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   600   > 
 朝鮮出兵で秀忠が中納言になる事で、江戸中納言と呼ばれたのは文禄4年(1595年)
に、この秀勝が死んで、秀吉は養女・江を引き取り、中納言を条件に秀忠と再婚させた
。この年の7月には秀次事件があり、江の姉である淀殿所生のお拾が秀吉後継者と確定
したばかりの時点での婚姻であった。秀吉から、羽柴の名字を与えられるほど気に入ら
れた。天正19年(1591年)頃の秀吉から家康に充てられた書状では秀忠を「侍従」と称
しており近習として仕えていたようだ。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東海
道を進む家康本隊に対して、中山道を進む別働隊を率いる役割を与えられた。進軍途中
、信濃国上田城攻めを行なっていたが、天候不順による進発命令の遅れと、行軍の遅れ
から、9月15日(新暦10月21日)の関ヶ原本戦に間に合わなかった。9月20日に、大津に
到着した秀忠は戦勝祝いと合戦遅参の弁明をすべく家康に面会を求めたが家康は怒って
「気分が優れない」として面会しなかった。3日後になって怒りが静まりやっと面会し
たと言われている。この時に子守役をしていたのが黒田だった関ヶ原の戦い(せきがは
らのたたかい)は、実は重要な戦いが大きく7つもあった。その中で美濃国不破郡関ヶ
原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦はその一つに過ぎなかった。
関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合
戦とも呼ばれる。しかしこの合戦には我々の知らない事が各地で起こっていたといえる
。慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、たった2日で大勢が築かれかに見えるが
そうではない。河内国・和泉国における橋本氏は橘姓と称した楠木氏の一党で、橋本八
郎正員の名が『太平記』巻十六に確認できる。という。和泉国日根郡橋本郷を発祥とす
る。南北朝時代に惣領家の楠木正成に従った一族である。正成の死後は南朝方として、
活躍し、正員をはじめとする多くの一族が戦死した。その中でも九州に移って筑後にも
在住した。橋本関雪はその子孫にあたると言う。そも豊臣家は五大老の筆頭関東の「徳
川家康」なしには成り立たなかった。北陸の盟友「前田利家」中国の覇者「毛利輝元」
秀吉の門番「宇喜多秀家」上杉家の後継者「上杉景勝」の彼らが大きな藩域を持ってい
た。対してそれを操っていたのが「豊臣五奉行」で、筆頭が「石田三成」で「増田長盛
」「浅野長政」「前田玄以」「長束正家」が政務を取り仕切る官僚であった。これまで
各地の大名は家臣として「婚姻(結婚)」「知行(領地)」などは、全て五奉行に相談
する習わしを決めていた。しかし秀吉の死と共に家康は独断で行う。加えて朝鮮征伐で
は大きな諸大名が逃げ加藤清正などは囲まれて居乍ら奮戦し命からがら帰りついても、
恩賞がなく悪口を叩かれていた。こうした事で反三成派を徳川が味方にしていっていた
。これまで仲裁を行っていた重鎮の「前田利家」が死去して徳川が動いた。

1609: 名無しさんAA:18/11/08 15:41
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   601   > 

 領地の知行が思わしくない武将や戦さ武将達は、天下取りは目指さないまでも地域の
覇者として良地が欲しかった。特に武断派Tされた「福島正則」「加藤清正」「黒田長
政」「藤堂高虎」「細川忠興」「加藤嘉明」「浅野幸長」という名の、戦国の名立たる
名将や「池田輝政」「蜂須賀家政」「脇坂安治」などは昔を懐かしむ兵者(つわもの)
でしかなかった。つまり戦場で死ぬことを望んだ武将だったのだ。家康は勝手な婚儀斡
旋や領地交換などを批判されると、黒田長政をけしかけ、加藤清正らの「石田三成暗殺
未遂事件」を発生させる事に成功した。察知した石田三成は、家康の子の「結城秀康」
に駆け込んだが、これが家康に火をつけた。仲裁を頼みで石田奉行の信用は失墜し、尚
かつ仲裁には家康しかいなく、政権政務に食い込んだ。そして、政務干渉に反対してい
た前田利家が死んだ以降、前田家を継いでいた「前田利長」と豊臣五奉行の1人「浅野
長政」が結託し、「徳川家康暗殺計画」を計っていた。と言うでっちあげを公表した。
こうして一角がもろくも崩れさった。結城秀康は先に言った様に家康のいう事を聞かな
い言わば目の上のコブであり、家康の泣き所となっていた。浅野長政はこの発表で失脚
した為いち早く前田家が服従する姿勢を見せたため、沈静化した。こうして最も力を持
つに至り「徳川家康」は、各地の大名家に年賀の挨拶を求めて色分けした。新年の挨拶
の求めに断った武将に「上杉家」がいた。又上杉は挨拶を伝える使者の家臣を謀反の疑
いで処罰しようとした程だった。こうして家臣は上杉家を出奔し、家康に「上杉景勝に
謀反の気配があり。」と言わせた。これに対して、「くだらない噂で謀反を疑うなど、
子供の論、釈明の必要もない。軍備を進めるのは東北大名に対する備え。そちらは京都
で茶器の収集の趣きが似合いだろうが、当方は田舎者ゆえ武具を整えるのが武士だと思
っている。大体自分が勝手に婚姻の斡旋などをして、人に違約違反を言うのはおかしい
。前田家をお仕置きしたらしいが、大層なご威光だ。あらぬ噂を真に受けて汚名を着せ
ようというのなら、兵を率いて出迎えてやるから、いつでもかかってこい。」と直江状
を叩きつけた。これがすでに天下を掌握しつつあった徳川家に対し、堂々と挑戦状を叩
き付けた上杉家の威信だった。徳川家康は「上杉家の謀反の疑いはもはや確実、討伐の
ために出陣する。」と、大軍を率いて大阪城を出発する。これらは双方ともに解ってい
た事だった。

1610: 名無しさんAA:18/11/08 15:42

世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   602   > 
 こうした事ですかさず石田三成は行動を開始した、友人の「大谷吉継」を館に招いて
三成はここで「家康打倒」のこころざしを語った。相談の上、豊臣五奉行の「増田長盛
」や、豊臣家の重臣で友人の「小西行長」、豊臣五大老の大名家「毛利家」の外交僧「
安国寺恵瓊」などを集め徳川軍を打倒する計画を立案する。ここで「内府ちかひの条々
」の激文が飛び交う。(「内府」とは徳川家康の事で、「ちかひ」とは「違い」、つま
り間違っているという意味)その内容は、家康が勝手に婚姻や知行(領地)の斡旋を行
ったり、無実の前田家や上杉家を攻撃しようとしたり、他にも勝手に手紙をやり取りし
たとか、城の一部を無断で改修したとか、大なり小なり様々な家康の罪状を並べたてて
、討伐を訴えた文章(檄文)である。こうして、「毛利輝元(毛利元就の孫)」を総大
将として軍勢を準備し、西側の大名家が徳川軍に参加できないよう関所を封鎖、さらに
大阪城にいる東軍の武将の家族を人質に取って、必勝体制を整え、翌日には京都徳川軍
の駐留部隊がいる京都の城「伏見城」を総攻撃した。徳川家康は京都での戦いの報告を
受けて「小山」と言う場所で「評定(会議)」を開いた。これは「小山評定」と呼ばれ
る、有名な会議とされる。ここで家康は武将達に「人質を取られて困っている者もいる
だろう。 ここで大阪(西軍側)に帰っても構わない。 道中の安全は保証する」と発言
したとされるが、これは後世の作り話で出来過ぎである。恐らく、福島正則や黒田長政
などが「卑怯にも我らが人質を取って内府様の城を焼き討ちした。この上は武士の恥辱
にかけて恥じることなく、石田三成をさらし首にしなければ悪ははびこるばかりだ。」
などと激を飛ばした演説をしたに違いない。この石田三成の挙兵を受け、その軍勢と戦
うことを決意した徳川軍だが、もと上杉家を攻撃のために出発した軍勢ですから、上杉
家をそのまま放置する事は、西軍との戦闘中に背後を襲われる危険があります。取り合
えず関ヶ原 東北の情勢を掴むためここから徳川家康は、関東を中心とする各地の大名
家に協力を要請、関ヶ原のための足場固めを始めた。ここまでは恐らく双方の予定通り
で、わざと東北方向の進軍だったのだろう。上杉家は進軍してくるはずだった徳川軍を
待ち構えていたが、徳川軍は秘密兵器を繰り出した。最上家と伊達家の両家への上杉家
攻撃依頼である。察知した上杉は、直江兼続や前田慶次など派遣し最上家を先制攻撃し
。最上家は追い詰められるがしかし、伊達政宗は最上家の救援し、そのまま戦いは激化
、一進一退の攻防となった。恐らく、伊達のこうした軍備に対応した上杉の軍備だった
のだろう。上杉そのものは領地替えにあって大きさこそ大きいもののかつてはもっと巨
大な藩主で、伊達の進軍の押さえに家康が提案した配置であったのだ。

1611: 名無しさんAA:18/11/08 15:42
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   603   > 

 しかし時がたてば、大阪にも続々と九州大名や四国の諸将が集まって来た。また戦国
の名将「真田昌幸(真田幸村の父)」は、当初は徳川軍に参加していましたが、小山評
定の際に徳川軍から離脱している。これが後になって、徳川軍の行動に響くこととなっ
た。徳川家康も負けじとしばらく各地の武将や大名に協力要請の手紙を書き続けていた
が、1ヶ月ほど経ってついに出陣に乗り出した。東軍の先鋒として「福島正則」の部隊
が進軍を開始し、海沿いの東海道を通り、江戸から三河や尾張(愛知県方面)に一気に
進んで、その周囲を押さえていく。その後を、本隊の軍勢を2つに分け、1つは自分が
率いて東海道から西に向かった。更にもう一方の軍勢を徳川家康の三男、徳川家の後継
者でもあった「徳川秀忠」が率い、「中仙道」という山間部のルートを通って西に進軍
させた。その為「徳川秀忠」の部隊は、結果的に「関ヶ原の戦い」には間に合いません
。なぜなら途中に、徳川軍を離脱し西軍に付いた 真田昌幸・真田幸村 が守る「上田城
」があったからだ。この上田城には 2000人の兵がいましたが、徳川秀忠の軍勢は 3万
8千、圧倒的な差です。一時通り過ぎて関が原に向かう案も出たが、後ろから戦われて
も困る事で、城には降伏しろとの使者をだしたままで時をすごしていた。秀忠軍は楽勝
で城を落とせそうな話で黒田氏は進言し、落城させる事に決定する。しかし名将「真田
昌幸」の防戦の前に大苦戦を強いられたのである。これが戦場に到着しなかったのは、
徳川家康としては大誤算の少人数となった原因となった。しかし、元々西軍より東軍の
方が協力者が多かったこともあり、尾張(名古屋)・美濃(岐阜)と西軍に味方した武
将の城は次々と陥落していきほぼ人数は互角となっていた。ここで西軍の大誤算が露見
する。毛利家も宇喜多家も大大名ではあって当主をした武将だったが、多くが「二代目
」であり戦争を知らなかった、戦国時代を生き抜いた経験豊かな武将がいなかったため
に全く力にならなかった。その上その戦国を勝ち抜いていた小国の兵をうるさいとばか
りに先行して大津城攻めに行かせていたのである。石田三成は徳川軍の京都・大阪への
進軍を止めるべく、関ヶ原の近くの「大垣城」に入った。東軍もこの大垣城に進軍して
いき、舞台は決戦の地「関ヶ原」へと移る。戦場に到着した東軍(徳川側)は、まずは
大垣城の近くに布陣します。1600年、9月14日 のことだ。東軍と西軍はにらみ合いが続
き、そのまま夜になる。その夜は雨で見通しが悪かったため、西軍に参加していた島津
軍や島左近などの西軍の武将たちは「士気も上がっており、見通しも悪いので、城を出
て夜襲で勝負をかけましょう」と石田三成に進言したが、三成に却下された。歴戦の将
の意見を聞かなかったのだ。

1612: 名無しさんAA:18/11/08 15:42
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   604   > 

 関ヶ原という場所は四方を山に囲まれたくぼ地であり、その中に入った東軍を、山の
上に布陣した西軍が完全に包囲している形です。これは誰がどう見ても「西軍有利」で
あった。実際、後世にこの布陣図を見たドイツ軍の将校も、見た瞬間に「西軍必勝」と
叫んだそうです。ですが、戦いはその通りにはなりません。戦いは夜明けと共に始まり
、まずは、先鋒を任された東軍の「福島正則」と、西軍で最も大軍を率いていた豊臣五
大老の1人「宇喜多秀家」の軍勢が戦闘に入ります。福島正則の部隊には、槍の名手「
可児才蔵」などもいて、強力な部隊と思われていたのですが、宇喜多軍にも「明石全登
」という勇将がいました。「キリシタン武将」として知られていて、後の「大阪の陣」
では十字架とキリスト像を掲げた日本版「十字軍」を率いて戦ったという、ちょっと変
わった人です。東軍の主力の1つである福島正則の部隊は、明石全登を擁し、兵力も多
い宇喜多軍に苦戦、一進一退の状況が続きます。その後、石田三成の本隊に、東軍の「
黒田長政」「細川忠興」「加藤嘉明」などの部隊が攻撃を開始します。この人たちは、
石田三成憎しの「暗殺未遂事件」の実行者であり、石田三成に恨みを持っていた人達で
、そのため西軍本隊の正面に配置されていた。石田三成の本陣の前にも「島左近」が立
ち塞がっていた。しかし島左近は、開戦早々に黒田長政の隠し兵の鉄砲隊の銃撃をまと
もに受けて重傷し本陣に担ぎ込まれてしまう。石田三成にとって、最も頼りにしていた
武将の1人である島左近が、開戦直後に戦闘不能になってしまったのは大誤算であった
。ここに不慣れな戦国武将の罪があった。1600年9月15日 の昼、開戦から約半日。様々
な出来事があった日本最大の合戦「関ヶ原の戦い」は、約6時間ほどで決着となった。
じつは、徳川軍が江戸城から行く前に戦いが既に行われていた。「福島正則」の部隊に
対応し進軍の開始と同時に、海沿いの東海道を通り、安濃津城攻防戦や杭瀬川の戦いな
どが起こっていたのだ。特に大津城の戦いは、慶長5年(1600年10月13日)から(10月
21日)まで行われ、近江国大津城を巡って行われた、関ヶ原の戦いの前哨戦と位置付け
られている。徳川家康と石田三成らの対立は、慶長5年の会津征伐を契機として三成は
家康が会津攻めに赴いたことを好機として捉え、大谷吉継や諸大名を糾合して挙兵した
。近江大津城の城主・京極高次は大谷吉継と仲が良く共に西軍についていた。ところが
吉継が北陸から美濃へと、進軍する最中に突如東軍に寝返り、手勢三千名を率いて自城
の大津城に籠城し、防備を固め始めた。大津城は城自体が琵琶湖に面した舟運基地で、
城下には東海道・中山道・西近江路が束ねられる場所だった。

1613: 名無しさんAA:18/11/08 15:43
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   605   > 

 淀殿は西軍支配の大坂城内において中立の立場であったが、妹の「初」が高次の正室
として大津城中にあった。海津殿を使者として遣わして停戦・降伏を求めたが大津側は
その要求を拒否した。そのため西軍側は毛利元康を大将とし、それに立花宗茂、小早川
秀包、筑紫広門ら九州方面の諸大名の軍勢を中心とした総勢1万5千人の軍勢をもって
、慶長5年9月7日より大津城に対して包囲攻撃を開始したが、京極高次は充分に用意し
ていて城攻めは捗らなかった。中でも赤尾伊豆守・山田大炊は兵五百を率いて城外へ討
って出て、戦っては城に引くという戦法と街を野焼きし隠れる場所もないと言う有様で
火と鉄砲隊で攻めあぐねた。立花氏は船で大砲を寄せ13日には大砲を城内に撃ち込んだ
。砲弾は天守にも命中、城内は混乱した。高次も防戦するが、ここに立花勢の先鋒大将
・立花吉右衛門が一隊を率いて城壁に取り付いた。高次をはじめとする京極勢は、木食
応其の仲介により 9月15日に降伏して、大津城を開城し高次は一命を助けられ、高野山
に上って出家することとなったが、そこに関ケ原の負けの一報が届いた。大津城攻防戦
は西軍の勝利に終わったが、大津城が開城した 9月15日は関ヶ原の戦いのまさに当日で
あった。そのため西軍は、本来ならば関ヶ原にあったはずの1万五千人の兵力を欠いた
まま東軍と戦う、という状況に陥った。立花宗茂は大津城を開城させた後、そこで西軍
の壊滅を知って大坂城への退却を余儀なくされ軍勢を率いて草津まで進出し船で帰着し
たが、戦後に改易された。一方、敗軍の将である京極高次に対して徳川家康は、関ヶ原
戦後に高次の弟・京極高知が関ヶ原で東軍の将として功を挙げたとして高野山に派遣し
、大名としての復帰を許し、若狭一国・八万五千石を与えて功に報いた。その翌年には
近江国高島郡から7100石が加増され、あわせて9万二千百石となった。家康は高次が、
宗茂らを大津城に引き付け、関ヶ原へ向かわせなかったことを大いに称賛した。既に城
下には町屋一つない。城下は焼け野原となっている。近江国琵琶湖畔の大津城。東海道
の要衝で、重要視されている城だ。町並みを焼き払い、苅田を実施、瀬田から三井寺の
辺りまで、刈取った。町民たちは、大いに高次を非難した。高次は本丸にいる。共に籠
城する兵は3千人ほどであった。西軍は、毛利元康、立花宗茂などの1万5千人で長等
山に本陣を構え、大津城を湖上も含めてぐるりと包囲していた。開戦当初は、数に任せ
て押していただけに「大筒を手配しました。」と立花氏に報告がはいり本陣に隣接して
大筒を据えつけて、砲撃を開始した。


1614: 名無しさんAA:18/11/08 15:43
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   606   > 

 末次 元康(すえつぐ もとやす)は、安土桃山時代の武将で毛利氏の家臣であった。
毛利元就の八男で末の子で末次氏に出されていた。元就に出雲国末次庄(所領2400貫)
の末次城を与えられたことから名字を末次と称した。居城の末次城は亀田山にあったと
され、現在その地には松江城が建っている。出雲源氏の流れをくむ末次氏の始祖は富田
氏から分流した末次胤清(鎌倉時代前期)であり、建長の頃より出雲国法吉郷の一部が
末次を領して末次氏を称したものとされる。その子、清政・清鎮の兄弟は弘安4年に起
こった蒙古襲来の弘安の役(1281年)で、海辺警護のため九州に出陣し、清鎮の孫佐隆
は、元弘3年(1333年)隠岐に配流されていた後醍醐天皇の帰京に尽力した。一方清鎮
の子隆宗は足利尊氏の下で北朝方に戦功があった。文明10年頃尼子経久が出雲守護代と
なり、この頃末次城は尼子氏の手に渡り、その後、尼子氏と毛利氏との数々の戦の中、
末次城主は次々に変遷することになる。山城の戦いにおいて、尼子経久に従って、毛利
元就と戦うも、毛利元就が攻める石見銀山攻防戦に負けた。その子、定隆は毛利氏に滅
ぼされ尼子氏復興を目指すもかなわなかった。毛利氏が末次城を略奪し、毛利元就の八
男元康が末次元康を名乗ったが、その子孫は厚狭毛利家として毛利姓に戻った。毛利元
康は兄・吉川元春に従い因幡国宮石城を攻め初陣の功名をあげた。天正13年(1585年)
、毛利氏が四国攻めに参加し、南条直秀に伯耆国河原山城を奪われたが、同城を奪還し
戦功を讃えられた。同年、急死した同母兄の毛利元秋の家督を相続して、出雲月山富田
城主となっていた。天正19年(1591年)に豊臣秀吉が吉川氏当主の吉川経言(広家)に
月山富田城への移封を命じたため、元康は備後国の神辺城へと移され毛利に名を戻した
。文禄元年(1592年)から始まる文禄・慶長の役にも主君・毛利輝元の名代として朝鮮
に出陣して、碧蹄館の戦いでは明軍に攻め込み敵兵1000人余りを打ち取って勝利の発端
を作るなど大きな戦功を立てて、豊臣秀吉から感状を送られた。文禄4年(1595年)に
は従五位下に任じられ、豊臣姓を与えられている。しかし、文禄の役後には慶長3年(
1598年)に瀬戸内海に接する小さな半島上に王子山城を築城し、居城を神辺から移した
。嫡男・毛利元宣はこの城で生まれていた。この朝鮮征伐での碧蹄館の戦い以来、立花
氏の勇猛果敢な正義感に、心の友となっていた。先に引き上げた日本軍の為、加藤清正
は明軍に取り囲まれていたのを知って立花宗茂軍は一軍で救出に向かい戦おうとしたの
だ。この時の大将も末次元康であったからだ。これには末次氏も感動していた。

1615: 名無しさんAA:18/11/08 15:44
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   607   > 
定隆の子佐房は天正18年(1590年)、孫の勝重は寛永15年(1638年)に没す。どのよう
に生きたかは不明だが、この頃までは「末次姓」を名乗ることが出来たらしい。その後
、一族は姓を奪われ、野浪(松江市内)に定住し、「野浪姓」を名乗った。そこは日本
海沿岸の地であり、海洋貿易ya海賊のような生活をし、一族は富を蓄えていった。数
世代後、一族は出雲国の隣、伯耆国に移り住み、末次姓を再び名乗り、大地主として定
住した。現在は、本家は関東に移り分家のみが米子に残っているとされる。では毛利氏
以前にいた末次氏族は何処へいったのか。戦国時代に、陶興房は大内義興・大内義隆の
補佐を務めている。出雲国を中心に活動した尼子氏の尼子経久・尼子詮久(後の晴久)
との戦い、筑前国・筑後国での少弐氏との戦いでも多大な功績を挙げて、陶氏の大内氏
における地位を確実なものとした武将だ。この陶氏こそその末次氏の分流だった。陶氏
の本流はもっと古く、福岡の須恵に住み着いた人達とされている。まだ太宰府天満宮に
菅原道真が祀られてはいない時代の話である。須恵町の最古の遺跡は今から約1万2千
年前にさかのぼりかなり古い時代から住み着いた町である事が解る。町北西部の乙植木
山城戸遺跡からは、石器類が出土しています。縄文時代・弥生時代にも遺跡が営まれ、
古墳時代になると遺跡は急増し、若杉山麓には古墳が作られ、乙植木の牛ヶ熊遺跡から
は滑石の原石や未製品が出土していて、玉製品の工房跡であることがわかっている。こ
の若杉山から西に伸びる尾根の頂に高鳥居城が築かれていた。永仁元年(1293年)
に築城されたと伝えられている。室町時代には大内氏の筑前守護代・杉氏の居城となり
、大内氏が陶氏の反乱があった際、城は落城し、守母神社の伝説が成立した。とされて
いる。その後、天正十四年(1586年)、島津氏の北上の際に城に立てこもった星野
兄弟を立花統虎(後の柳川藩主・立花宗茂)が攻め落とし、その後は城として用いられ
ることはありませんでした。高鳥居城主杉弾正忠(豊後守興運)の幼児の乳母、慈照天
眼禅尼、守母大菩薩を祀る。は由緒正しい武門の出身にして、長じて杉氏家臣に嫁つぎ
、一男児をもうけて佐谷に住した。文武両道に秀いで、良妻賢母の名声城下に高く城主
に召出されてその幼児の乳母となり館に上る。幼君の養育に専念して僅か六ヶ月後の、
天文二十年(一五五一)九月初旬、戦いのため、高鳥居城は落城し、幼君を植木村の霊
樹山道林禅寺に託すべく、夜陰に乗じて落延びる途中、この谷間祠の奥の大岩の陰に隠
れて休息して処、抱かれ熟睡していた幼君が突然発した泣き声で岩陰に潜んでいた処で
見つかり捉えられてしまい、首をはねられた。この際、「自分が殺されても世の中の泣
く子の味方となり守り続ける。」と誓ったことにちなみ子守の神が祀られ、高鳥居城落
城の際の悲話を伝えている。

1616: 名無しさんAA:18/11/08 15:44
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   608   > 

 「島津義弘」の島津軍は、関ヶ原から脱出して本国・薩摩(鹿児島)に戻りますが、
九州では東軍の味方を宣言した豊臣秀吉の元軍師「黒田如水(黒田官兵衛)」が西軍に
付いた「立花宗茂」などと合戦を繰り広げていて、島津軍も加わって一触即発の状態と
なった。というのも島津が徳川と対峙して戦って居た時、その傍にいたのは大蔵流高橋
氏を継いだ高橋統増は立花氏の実弟であった、そこへ大砲を送り届けて来た従兄弟の橋
本立花家と三池立花氏が帰ってきた。当初徳川氏は増援かと見ていたが、後ろ脇から切
り付けつけて来るので一時どよめきが起こった。そこのすぐ側に島津は活路を見て前進
を叫んで徳川本陣の裏手に来た数十人の立花氏と合流しそのまま退路として大阪にかけ
抜けて行った。大阪に入るとそのまま隠れ、夜陰の中で知り合いの博多商人末次船を、
用意して乗り込んだ。そのまま淡路に渡ると他の船を用意させ末次船は4艘を関東に向
けて走らせた。立花氏の本体は、当初の計画通りそのまま街道を行き、草津に入ろうか
というほどだった。しかしほどなく追いかけて来た軍が関ヶ原の戦いが終わった。と、
徳川家康からの停戦命令が届いたと早馬が何回かやって来た。この時実は黒船も動いて
いた。戦いこそなかったがこの九州のキリシタン大名たちを淡路で載せたのは黒船であ
った。また「合戦は中止」との御触れを同じ様に伝えるふりを探したのが末次船の高橋
立花家であった。酒見城主小野鎮幸と共に、湯布院の領主由布惟信や剣豪渡辺氏居合い
の達人問注所氏など大勢の中で、追ってきた岡崎兵はとても近寄れなかった。鎌倉を前
にして陣立てしていた立花氏に、5っ日後になってここに秘かに末次船を回したとする
商人がきた。そこで浜名まで戻って4艘に乗り込むが、全てが乗れるはずもなかった。
そこで比較的知られて居なかった富安家がこの地に残る事を決めた。およそ3百人ほど
だったが、それで福岡長崎周りで、筑後に行く事にした。この時周防灘で待ち受けてい
た黒田如水は亀甲船を待機させていた。しかし、黒船の大砲には敵ではなく一発で沈ん
だ、これを見た伊予水軍は道を明けた。立花氏が通過してると知るや、黒田如水はすぐ
さま肥前と肥後に早馬を走らせ柳川領地を奪うよう指示していた。もともと「関ヶ原の
裏で天下を狙っていた第三の男」とも言われていた食えない男だった。関ヶ原が1日で
終わったのは、彼にとっても想定外で九州を盗るつもりでいたのである。立花氏は南北
朝時代に筑前国糟屋郡立花城に拠り立花を称したことより始まる。しかし立花鑑載の時
大友義鎮(宗麟)に背き、大友氏支流の戸次鑑連(立花道雪)により攻められ鑑載の子
・立花親善の代で断絶した家だった。しかしかねてから縁戚であった大友氏は戸次鑑連
に立花道雪と名乗る事を強く望んだ。それは明朝貿易の列席にいたからだ。

1617: 名無しさんAA:18/11/08 15:45
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   609   > 

 立花宗茂の実弟大蔵流高橋氏を継いだ高橋統増は、大友義統改易後に直次と改名し、
豊臣政権下で1万8,000石を領していたが、関ヶ原の戦いで兄と共に西軍側について帰途
につき酒見城に帰って来た時、佐賀から鍋島氏が城島方面から成富茂安の兵と共に江上
氏を囲っていた。直ぐに増援に行きそのまま城島兵と闘い。久留米からの遠征軍が水田
に来たとの報を受けて三池軍を八女に走らせた。既に三池藩は籠城に及び矢部川沿いに
肥後藩の加藤清正の軍が陣取って柳川に向けて座っていた。黒田が久留米から来るが、
三潴から城島八女などにずらりと並び黒田軍をけん制しながら立花氏の柳川を囲ってい
た。この為水田の城は直ぐに取り戻せたが、そうした中で船で立花宗茂は柳川城に入っ
た。それを待ったかの様に荒尾からの使者は、江の浦城から出て柳川に入った。と同時
に榎木津城からの使者が来た。「江上氏が今城島の野上先で鍋島軍と奮戦中で、蓮池の
連中の様だ。」と。そして城内には、西郷・諫早という二人が待っていた。「おうおう
早津江沖ではまことに、有難い。貴殿に世話になった礼を言うぞ。」と謝意を示した。
「はは、有難き幸せ、いまでも早瀬(竹崎内の竹崎氏についてない人々)の連中は戦っ
ているでしょう。」「ああ、もう大詫間に緒方らが何とか追い込んでいるであろう。」
と話した。「では、これで。」「いや残って下座に話を聞くが良い。」と言うと、「今
の状況は。」と言い放った。「はっ江上氏の救援に馬場や神納(後の金納)大坪達を向
かわせております。」「ほう、肥前の方はそれで足りるのか。」「はっ、早馬の話では
そう多くは無いとの事」「して肥後の方は。」「肥後の方は大軍勢で、荒尾から山川を
過ぎ八女安武と三池藩はおろか黒木藩その他ぐるりと取り囲んだ状態でございます。」
「して戦果は。」「それが久留米蒲池と茂安のいる藩境ではいざこざがあったようだが
戦を仕掛けてはいないもの。との報告であります。」「なんとな。戦っていない。」「
はっ。何とか対峙し平穏であるとの報告であります。」「して三潴は。」「水田方面に
黒田勢が入ったが、成敗されたとの事。行基の聖僧(ひじりそう)たちが懲らしめた。
とあります。」「さらに、江の浦からの伝言で、肥後の使いが十数名が居て殿を待って
数名こちらに向かったとの報告が入っています。今は、番所橋で足止めしているが、こ
ちらの指示を待っております。」「そうか、丁重に数人付けて通すよう計らえ。」「は
っ」「それから誰か綿貫一刀斎と小野弦馬を此処に通せ。」当時中山より先には、聖河
があってその中は中州として綿貫氏は立花側の門番であった。またその中の行基寺の、
神門教徒は小野弦馬の通称鐵賤和尚が治めていた。つまり聖僧の僧兵の長だったのだ。


1618: 名無しさんAA:18/11/08 15:46
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   610   > 

 こうして、江の浦からの使者を受け入れ肥前との会議の席が整ったのは1ヶ月も過ぎ
た頃だった。久末の綿貫氏の傍の豪商末次屋敷を使い、大勢の立花勢が久末神社に待ち
かまえる中で、わずか数人の手勢と共に加藤清正はやって来た。それは威風堂々とした
ものだった。「立花殿、お久しぶりで」「ああ加藤殿自ら来たとは。」と旧知の仲であ
った二人は、直ぐに、歓待の家の中に入った。碧蹄館の戦いでは、明軍に取り囲まれた
加藤清正を一人攻め込み敵兵を蹴散らし、救出途中で毛利の末次氏が救出を助けていた
事を充分知っていた加藤は、その後も立花宗茂とは親しかったのだ。というのも朝鮮か
らの帰国後秀吉は、加藤清正の素手で虎を捕まえたの褒めたが、その加藤を救出しに行
った事に大いに喜んで二人に天下一双の武人との称号を与えていた。立花氏は他の武将
にも良く知られた所で、黒田藩が秘密裏に明朝貿易を亀甲船を奪って行っていたが、日
本軍が朝鮮征伐に出た時には、明軍に付き兵站の食糧供給分断に走っていた。これは、
その船の操縦を朝鮮人に任せた事で、既に黒田氏の手が付けられない状態で、この朝鮮
人との話合いをしようとしていたものの、九州武士と同じに朝鮮上陸の先鋒の軍師だと
秀吉に命じられ身動きできなかったのである。この時遅まきに駆け付けた立花氏によっ
て、一艘は崖の側で岩を落とされ沈み、一艘は夜陰に紛れ油を流されて火矢によって、
灰塵に期した。此の事が非常に重荷になっていた黒田氏は、何が何でも立花氏を潰す必
要があった。と言われる。つまり最後の火矢で沈めた折に幾人かのこの事の証人を手に
いれていたからだ。それを知っていたのが、まんまと亀甲船を盗まれた船奉行の小西行
長であり、立花軍勢を朝鮮へ載せる船を調達した有馬晴信であった。この3人は必ずや
没落させねば、と思っていた。彼らに尻尾を掴まれたままでは立ち行かない。ましては
噂でも流されれば黒田藩の命運さえ尽きる可能性があったのだ。そこで博多の地を所望
し、自らは隠居して、大分との境に居たのである。これは目立って動かない仕方のない
措置であったが、とは言え自己の中にある天下取りの夢は老人になるほど、ふつふつと
煮えたぎり、欲望をもって生きていた。この朝鮮貿易の人脈やコツも残り息子とは別に
多くの利益をもって小金を貯めていたのである。しかしここで金で雇った浪人は武士で
はなかった。つまり雑兵であり、命に代えても戦う程の兵士とはならなかったのだ。部
隊こそ大勢ではあるが、高橋氏の敵ではなかったし、逃げても肥後勢に囲まれて切り捨
てごめんの措置では、おいそれと前に出る事は出来なかったのだ。


1619: 名無しさんAA:18/11/08 15:54
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   612   > 

朝鮮で戦端が開かれると釜山の攻略を皮切りに、次々と朝鮮軍を破り(釜山鎮の戦い、
東莱城の戦い、尚州の戦い、忠州の戦い)など戦勝して行き、清正に先んじての漢城の
占領を成し遂げ、さらに北進を続けて平壌の攻略を果たしている。(大同江の戦い)。
この間にも行長は、度々朝鮮側に対して交渉による解決を呼び掛ける余裕もあり、何れ
も朝鮮側が拒絶と黙殺して戦いに至っている。これは明軍の要請と明の意向がなければ
動けない事を意味していた。その後、平壌奪還を図った祖承訓率いる明軍の攻撃を撃退
し、この平壌の戦いでも明軍に対して講和を呼び掛け、50日間の休戦と講和交渉の同意
をしている。次に朝鮮軍が平壌を攻撃したがこれも撃退する。しかし講和交渉の明側の
返答を待ち続ける間に、明では李如松率いる4万余の朝鮮派遣軍を編成し、平壌に向か
って進行し、更に日本軍に撤退の伝令を送った。こうして各武将は翻弄され帰郷する中
で、文禄2年(1593年)1月に明軍による平壌攻撃が行われると、抗しきれず漢城まで
退却するに至った。この時弟・小西与七郎と従兄弟・小西アントニオ、一門の日比谷ア
ゴストの他に著名な者の戦死者を出した。その後、同年5月に島津忠辰が仮病を使って
出陣を拒否し改易され、身柄を預かり、嘘の講和書が図られた際には対馬の宗氏と共に
家康や黒田氏の術中に陥って、国内でも活動が裏目に出ている。この時九州の武将以外
は引き揚げてしまい、碧蹄館の戦いの頃では漢城も明軍に取り囲まれてしまっている。
このとき行長軍は漢城に駐留し、戦意を喪失した明軍と兵糧不足に悩む日本軍との間に
講和交渉が開始された為に、明軍は全てが碧蹄館の方に振り向けられたのだ。これが、
加藤清正の大きな不満だった。つまり講和の勅使を招き、秀吉に合わせる為に休戦する
と言う伝言や通達が、加藤清正にだけ届かなかったのである。これは毛利氏の伝令が、
明軍に殺された事と、行長軍以上に先に先鋒で軍功を競った加藤清正に非があったのだ
が。清正本人は、そうは思っていなかった。明軍の撤退デマもそれで引き揚げた日本軍
の他の2班の本州軍も、加藤清正を陥れる罠に見えていたし、現実に漢城から一歩も外
に撃って出ず、この講和を考えるとした事に不満があったのだ。明軍は少人数でも捕虜
をして、日本との交渉材料としたいので、他を退かせて大将や武将の生け捕りを狙った
作戦だった。しかしかなわず、更に明の降伏国書が朝鮮が作った贋物である事が判明し
直ちに朝鮮人使者は打ち首にされ行長はその後策を練ったのだろう。しかしそれは又、
黒田の知る処でもあった。朝鮮と通じていたのだから仕方はないが。


1620: 名無しさんAA:18/11/08 16:06
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   613   > 

 慶長2年(1597年)慶長の役では、行長に再び出兵を命じた。特に講和交渉における
不忠義の埋め合わせのため、武功を立てて罪を償うよう厳命されての朝鮮進攻だった。
漆川梁海戦で朝鮮水軍を殲滅し、南原の攻略戦(南原城の戦い)に参加後、全州を占領
し全羅道方面を制圧し、順天倭城に在番。翌慶長3年に(1598年)9月末から行われた
順天倭城の戦いでは、戦いに先立って明将・劉から講和が持ちかけられ、行長はこれに
応じて交渉に臨もうと城を出て、行長を捕縛する明側の謀略があったが、明側の不手際
で寸前で窮地を脱し城内に駆け込んで籠城する事件も起こった。続いて明・朝鮮軍によ
る水陸からの攻撃が開始されたが、これを撃退し占領を続けた。その後、秀吉死去によ
る帰国方針が伝えられも、明軍と交渉の円滑な帰国を認める同意を取り付けたが、そこ
を狙って朝鮮水軍の李舜臣の海上封鎖や帰国妨害が行われ続けた。この時、島津義弘等
の救援により無事帰国することができた。もともと行長は強い武将だったが、武士では
なかった。商人として育った武人だった。秀吉も実は朝鮮とは折り合いを付けたかった
。しかし朝鮮王朝は明の意向を汲んで降りる事はなかった。更に日本人と違って戦いに
理由や美学や任侠などは無かった。つまり無茶苦茶でも、村が消えても虐殺されても、
勝てば官軍で生き残れれば良いと言う思想で他はどうでも良かったし、兵がいくら死ん
でも気にしない王朝だった。これに対して優しい行長はキリスタンになる程人間的で、
石田三成と共に明との講和交渉に携わって、明側の講和担当者・沈惟敬らの悲しさにも
愛情を持った。共謀して秀吉には明が降伏すると偽り、明には秀吉が降伏すると偽って
講和を結ぼうとしたといわれるが、それは朝鮮の策略の一端であった。これまでもそう
した偽書で生き残って来たのが朝鮮半島だったのだ。この時、行長家臣の内藤如安は(
明側史料では小西飛騨)が日本側の使者として明の都・北京に向かった。この結果、明
の使者が秀吉を日本国王に封じる旨を記した書と金印を携えて来日する事になった。冊
封の内容はアルタン・ハーンのものを先例とし、順化王の王号と金印を授与するもので
あった。これは明の臣下になることを意味するもので、秀吉が求めていた講和条件は何
ら含まれないものだった。秀吉に報告する段階で行長は、書を読み上げる西笑承兌に対
して内容をごまかすよう依頼したが、承兌は書の内容を正しく秀吉に伝えた。という。
このため講和は破綻し、交渉の主導者だった行長は秀吉の強い怒りを買い死を命じられ
るが、承兌や前田利家、淀殿らのとりなしにより一命を救われている。西笑承兌(せい
しょうじょうたい)は、朝鮮人の幼年帰化の僧で中華承舜を信奉する臨済宗の異端派で
直江兼続の手紙を書かせる程、他人を怒らせる事で政権の顧問となっていた。

1621: 名無しさんAA:18/11/08 16:07
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   614   > 
この臨済宗の異端派こそ、ユダヤの末弟を行く教えを持っていた。細川家紋の八曜紋は
元々八曜に月紋で八曜は仏教曼荼羅を示し中心の月と真上の太陽を除いて6曜を示す。
そして月と太陽、すなわち月星紋はイスラム紋なのである。ユダヤつながりの紋などだ
 この清正と行長は、領地が互いに隣接していたため、常に境界線をめぐって争った為
といわれている。清正が熱心な日蓮宗信者であったのに対し、行長が熱心なキリシタン
であったことも対立の一因を成したという。例えば天正17年(1589年)の天草五人衆
の反乱の際、キリシタンの多い天草衆に対して行長は事態を穏便に済ませようとしたが
、清正の強引な出兵・介入が原因で武力征伐に踏み切らざるを得なくなったという経緯
がある。清正からは文治派のひとりと見なされて、「薬問屋の小倅」と侮られたという
。その反発として行長は、朝鮮出兵のとき、軍旗として当時の薬袋である紙の袋に朱の
丸をつけたものを使用したという。文禄の役の際の京城攻めでは、どちらが先に一番乗
りするかを争い、行長が一日の差で清正を出し抜いたという。李氏朝鮮に配下の要時羅
(家臣・梯七太夫)を派遣して清正軍の上陸時期を密告し、清正を討ち取るよう働きか
け李氏朝鮮は李舜臣に攻撃を命じた。しかし、李は罠だと思い攻撃を躊躇ったために、
陰謀は失敗した。と書いている。しかし、清正の上陸時期の密告は黒田氏以外には出来
ない。先行して上陸したとしても、そう離れた時間ではなく李氏朝鮮に連絡するのは、
不可能であり行長自身も戦う羽目になるからだ。しかし黒田氏の様に元から交易し繋が
りがあれば別だった。この時期行長は既に南蛮貿易であり明朝貿易を直接取引などは、
九州大名では行っていない。出来るのはやはり高知や大阪に近い難波商人達であろう。
文禄・慶長の役を通じて、清正と作戦や講和の方針をめぐっては、武闘派の清正とは、
常に対立していた。既に朝鮮人が卑怯な事を見抜いていたからだ。切って捨てぇーの時
に悠長に講和を論じていた行長を小馬鹿にしていた。しかし、行長は今や南蛮貿易に、
秀吉が疲れていた事を知っていた。つまり朝鮮を我物として、一応そこに溜めて南蛮人
を留め置き、キリスト教やアヘンや黒船や鉄砲を遠ざけた国造りを目指していたのであ
る。言わば出島の拡大版である。現に今までの中国との朝貢貿易はそうした形で、中国
に年一回の贈り物と許可を貰い、どこの港でも開拓し居住し館を作り防衛して行えた。
それが習わしだったのだ。後に武断派と対立する一因を成した明との講和の文書は、出
した際「大将摂津州前司小西秘書少監豊臣行長」と書いている。又秀吉の王冊封以外に
も宇喜多秀家、小西行長、増田長盛、石田三成、大谷吉継ら和平派諸将が大都督、前田
利家、徳川家康、上杉景勝らが地方の都督指揮に任じられてる。これは由々しき問題で
あった。

1622: 名無しさんAA:18/11/08 16:13
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   615   > 

 天正16年(1588),行長は,肥後(球磨郡を除く)の南北半国ずつを加藤清正
と共に豊臣秀吉から与えられた。行長は肥後入国当初は,豊臣秀吉が九州出兵に際して
名和氏から接収した中世宇土城(西岡台)に居住していた。しかし,中世宇土城は山城
的様態、小規模な城下形態であったため、行長は入国後まもなく新城の築造に着手して
いる。新城は中世宇土城(西岡台)の東,約300メートル離れた低丘陵上に築かれ、
近世宇土城(城山)は、「外構」=石ノ瀬城,「町」=宇土町,「城」=宇土城の3つ
で構成されている。石ノ瀬城は近世宇土城を防御する出城の役割を果たしてはいるもの
の、平野の城の中では極めて弱い造りだった。行長は,宇土の町筋を近世宇土城(城山)
に取り込んで、拡大整備して城下町として機能させ、船場川を外堀に見立ててその外側
の薩摩街道の出口の位置に石ノ瀬城を配した。広大な城域を構想した江戸に似た構造だ
った。このような形態を、「惣構」といいます。かつては「惣構」に沿って掘割がめぐ
り、掘割は城の主郭部分(本丸・ニノ丸・三ノ丸)の大手を中心に伸び主郭部分の一角
には瓢箪渕という潮入り・船入りが存在していた。このように 近世宇土城(城山)は
、海・河口部の取り込みを強く意識した城郭でした。近世宇土城(城山)の主郭部分の
北方、塩田地区には100軒以上の家臣屋敷の区画が、南北の6筋の道に沿って整然と
並び、その区画ごとに堀状の溝をめぐらしていました。ここから掘割の河水が家臣屋敷
の区画にまで毛細化していたことが想定される壮大なものだったことが見える。このよ
うな家臣屋敷の区画性は家臣の独立性,小西氏家臣団の組織度の弱さをうかがわせます
が、同時に行長と共に国元を留守がちな家臣団が,留守宅の防禦のためこのような屋敷
形態をとらせたともいえる、いわゆるベネチヤスタイルなのだろう。つまりこの都市の
構造には、何らかの形でイエズス会が関わっていたように見える。惣構(そうがまえ)
の技法は、山城が大砲や鉄砲の出現で交易も籠城も不便な城だと判ったからだ。そこで
すべて水路で包み、武士商人の街造りをしたものだ。山城で人を見下ろし百姓で守った
時代が、兵士や武家と言う専門の武闘軍団を常時置いていく時代に代わったのである。
又キリスト教や黒船ばかりが注視されるが、それ以前にイスラムの交易船が日本にも、
数多く入って来ていた事の事実が抜けている。この当時イスラムジャンク船は中国には
相当数入って来ているし他の日本人街でも商売している。これが大事な事である。日本
の教科書はそうした世界視野を持つべきである。鄭和の大航海時代、博多湾に大船は入
れなかった。座礁を恐れたからだ。しかし並走してきたジャンク船は入港したはずであ
る。

1623: 名無しさんAA:18/11/08 17:59
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   616   > 

 新城築城と同じ頃,天草では天草国人一揆が起った。原因は天草国人衆が新城の普請
への参加を断ったことにある。天草国人衆は、外からの海賊に戦いながら暮らして来た
。天正15年(1587)に起きた肥後国衆一揆は行長・清正以前に肥後領主となった
佐々成政の時代に起きた地元勢力の反乱で、自主性の高い武装集団だったが、肥後人の
山の叛乱には参加していませんでした。あくまでも海族の集団だったのだ。天草五人衆
はその時に秀吉から直接領地を安堵されており、そのため行長に対しては対等な立場に
あった。こうして考えていたことが,行長への税納や築城労夫などの助力を拒んだ理由
だった。五人衆の拒絶を受けて,行長はまず,天正17年(1589)10月23日に
一揆の中心人物・志岐麟泉(鎮経)と交戦し勝利を挙げると,次いで志岐城を攻略した
。志岐勢を本丸に追い詰め、さらに同月28日には渡海してきた加藤清正の軍勢も加わ
り,11月8日に完全制圧を果たした。最後まで敵対行動を取っていたのが天草伊豆守
の本渡城だったが、彼らも11月25日に落城し,天草五人衆といわれ、ここで天草国
人衆の割拠基盤は壊滅しました。行長の天草出兵に際して、一般的には行長自身で一揆
を鎮圧できずに清正に援軍を頼んだように書かれている事は多い。しかし実情は違って
いて行長は、清正の渡海してのチョッカイを思いとどまらせようと説得したが、それで
も天草攻略に強引に割り込んできた為、両人で一揆を制圧することになった。ここにも
黒田官兵衛のチョッカイがあった。天草諸島は,天草国人衆のもとで活動する海上勢力
の地盤であり,「唐入」をひかえていて、海上勢力・海上能力の掌握を課題とする豊臣
政権にとっての天草統治は非常に重要な海賊の要だったからだ。こうして残りの肥後北
半国を領した清正とは次第に確執を深めることになった。大友氏の重鎮・立花道雪(た
ちばなどうせつ)の死により、島津は大友氏の支配が緩んだ筑後の諸国人衆も傘下に収
め、九州統一を目前にしていた。豊後の大友宗麟(おおともそうりん)は、島津氏の圧迫
を回避するため、当時近畿、四国、中国を平定し天下統一の道を歩んでいた羽柴秀吉に
助けを求め、これを受け、関白となった秀吉は、1585年(天正13年)10月島津氏と
大友氏に朝廷権威を以て停戦を命令を発した。しかし島津氏は黙殺し九州統一戦を進め
た為、秀吉は九州攻めに踏み切った。それは当然であった。九州地方は当時は、既に、
日向の伊東氏、肥後の相良氏、阿蘇氏、肥前の有馬氏、龍造寺氏などを下して九州の全
ては島津一色だったのだから、本州の秀吉に何か言われる筋合いはなかったのだ。


1624: 名無しさんAA:18/11/08 17:59
 取り合えず成敗に、豊後国戸次川(現在の大野川)において、仙石秀久を軍監とした
、長宗我部元親・長宗我部信親・十河存保・大友義統らの混合軍で島津軍の島津家久と
戦う。しかし、仙石秀久の失策により、長宗我部信親や十河存保が討ち取られるなどし
て大敗北している。ここで、秀吉は京を空かす事は嫌いだったが、自らが立ち上がり、
弟・秀長と共に20万の大軍を率い、九州に本格的に侵攻し、島津軍を圧倒、島津義久
を降伏させる為の策を練った。この時頼りにしたのが小西行長だった。行長は先発部隊
として乗り込み、清正は後発で秀吉といっしょに攻めた。肥後は、国人と呼ばれる土地
とのつながりの強い武士たちの勢力が強く、秀吉はこの九州の地の平安は保てないとは
思っていた。佐々成正は古くからの友人で前田利家と同じ武人だったが、常に先走りし
敵対する反乱分子の武将だった。この佐々成政に3年間は国人たちの既得権益を守るよ
うに厳命したが恐らくは無理だろうと予測はしていた。案の定、佐々成政は検知を強行
し、旧来の在地勢力である「国衆」が抵抗し、検知反対の一揆を起こした。成政は有力
な国人達を味方に付けることが出来なかったのだ。反発する国人が一斉蜂起し、これを
自力で鎮めることができずに秀吉に援軍要請を行い一揆を鎮圧した。旧来の在地勢力で
ある「国衆」が抵抗し一揆を起こしそうなのは島津の大きさからも解っていた。こうし
て佐々成政は、一揆の原因を作ったことを理由に、摂津国尼崎法園寺において切腹させ
られた。またこれにより一揆に参加した国人たちはことごとく斬殺された。その後秀吉
は、肥後を二分し、肥後北半国を加藤清正に、南半国が小西行長に与えた。佐々成政は
秀吉かから最初に肥後国主に任命されたが、それは人吉以外のすべてだった。これがミ
ソだった。秀吉は人吉を2万石の領主として相良家の存続が許していた。もし佐々成正
が聡明な国主や領主であったなら、この相良家との好みを大きくして治世を行ったであ
ろう。しかし、佐々は相良氏など歯牙にもかけなく独断を進めた。言うならば佐々成政
は都落ちし派遣された中央官僚知事のようなもの。「よそもの」が構造改革をしようと
する行為は、当然地元反発は大きく。地元は秀吉の言うことは聞くが、佐々成政のいう
ことは聞かない。これが一揆の元だった。秀吉は熟知し一揆にならないようにしろ。住
民とは仲良くしろ。性急な改革を慎むように、と言ったがうまくいかない事も解ってい
た。既に素早く鎮圧する手はずも行っていたのだ。それが立花氏の援軍だった。

1625: 名無しさんAA:18/11/08 18:00
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   618   > 

 佐々成政は、馬廻り組の中でも抜きんでて猛将だった。怒れば何をしでかすか解らな
い程強く、又普段は聡明ながら奇策が得意な平和主義者だった。1584年、羽柴秀吉と徳
川家康の間での合戦である小牧・長久手の戦いが起こると、当初、羽柴秀吉に味方する
姿勢であった佐々成政だが、徳川家康・織田信雄の連合軍に応呼し、ひそかに出陣した
。本隊はガラガラ坂を越え、支隊は沢川の山道を越え、前田利家領内である能登・末森
城を奇襲した。しかし、金沢城から前田利家が急行し、挟み撃ちされて敗北を期してい
る。越後の上杉景勝からの圧迫も受けており、苦しい2方面展開であったようだ。だが
織田信雄が羽柴秀吉に降伏し羽柴と徳川が和議となると、佐々成政は徳川家康に再起を
説得する為、厳冬の飛騨山脈(北アルプス)・立山山系を自ら越えると言う、強行手段に
て浜松城に入った。(さらさら越え)しかし、説得に失敗し、織田信雄や滝川一益からも
快い返事は得られなかった。城に戻ると留守中、愛妾(側室)の早百合が、佐々成政近習
侍と密通したとの噂に激怒した佐々成政は、早百合の黒髪をつかんで引きずり走り、こ
の榎の枝に逆さ吊りにして、あんこう斬りめった斬りの惨刑に処したと言う伝承がある
。早百合の一族である呉服村の住民も皆殺しにされたと言う。早百合は断末魔の苦しい
声で「私は無実です。私の恨みで立山に黒百合が咲いたら佐々は滅びますぞ」とのろっ
て息絶えたと言う伝説がある。1585年、羽柴秀吉は、10万の大軍を率いて、自ら越中に
進軍し富山城を大軍で包囲。佐々成政は織田信雄の仲介を受けて降伏した(富山の役)。
一命は助けられたものの、ほぼ全ての領地を没収され、妻子と共に大坂城下に移住して
以後は、羽柴秀吉の御伽衆として仕えていた。豊後の大友宗鱗が島津家から攻められて
、豊臣秀吉に助勢を求めた時、豊臣秀吉は、佐々成政を使者として大友宗鱗のもとに派
遣した。1587年、九州征伐が開始されると、佐々成政は、羽柴秀長軍に属して豊後府内
(大分市)・日向を経て薩摩へ進軍して敗走する秀吉軍を止めた。仙石秀久や長曾我部の
敗走に援軍であったのだが、九州の雄である島津義久は、弟・島津義弘に家督を譲り、
佐々成政らの取りなしで豊臣秀吉に拝謁して降伏した。これらの功により佐々成政は、
肥後一国を与えられて、隈本城(後の古城)の普請を開始するに至ったのだ。秀吉は肥後
は手ごわいと最初から感じていた、一揆のあとの9人の役人を派遣して事故処理にあた
った。その中に清正、行長も 立花も、黒田も入っている。立花氏には、隈部一党の首
領が捕縛され客分扱いになっていた。隈部の処分と首の検分には前田利家がやって来た
ている。

1626: 名無しさんAA:18/11/08 18:00
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   619   > 
 佐々成政は、肥後に入ると早速に太閤検地を開始。すなわち、今までドンブリ勘定で
税を納めていたところ、きっちり計算することになるとより税が重くなると言う事で、
隈部親永(菊池郡・隈府城主)と、隈部親安(鹿本郡・山鹿城主)の親子が反発した。と説
明される。佐々成政は病に侵されていた為、急いだとも言われるが、反発を武力で抑え
込もうとした為、反発した国人が一斉蜂起し、これに農民も一味同心して、天下を揺る
がす肥後国人一揆となったが、佐々成政はこの一揆を単独で鎮圧することができずに、
近隣国への波及を恐れた豊臣秀吉は1587年、付近の武将たち(毛利秀包・小早川隆景・
安国時恵瓊・鍋島直茂・立花宗茂・黒田官兵衛など)に肥後への出陣を命じて 一揆と
交戦させ、ようやく事を収めることができた。だが実はこれはちょっと違っている。既
に九州では、キリスタン布教が広まり、鉄砲や大砲が売れていた。隈部親永は大友傘下
の旧菊池氏家臣団の中心人物で長年の九州騒乱を得て、周りから外れた城主で孤立して
いた。元は肥後北部は、大友氏支配の下で城氏・赤星氏・隈部氏ら旧菊池家臣が統治し
ていたが蒲池氏が龍造寺氏に謀殺され大友氏が敗退し城氏・赤星氏は、同じ大友方の阿
蘇氏を攻めた。こうして隈部氏は龍造寺氏側に頼った。これに対して柳川起点で鍋島の
成富茂安が兵站を担って江上家種率いる龍造寺勢と共同で赤星統家の配下の、星子中務
廉正の長坂城や、赤星統家の合志親賢を破り、龍造寺政家が赤星氏の本拠隈府城を攻略
し、同城の支配をしていた。しかし龍造寺氏は島津・有馬氏の連合軍に沖田畷の戦いで
不覚をとり、急死した。隈部親安もこうした父によって城村城に配され城主となってい
た。当時の所領は 1,900町と推定される。しかし天正12年(1584年)に島津氏が肥後
に侵攻してくると9月14日に城氏を通じて島津方に投降を打診し、まもなく人質を出
してその傘下に入った。天正15年(1587年)6月、九州征伐終了後に豊臣秀吉によっ
て元の所領からは大幅に削られたが 900町を安堵された。こうして人質解放と所領安堵
の朱印状が秀吉から二人には渡されていた。しかし佐々成政これを無視した年貢取り立
てを敢行しようとした。これには領知権の侵害として秀吉の朱印状を盾に拒否し、7月
に隈府城に籠城したものだった。結局これは前田利家らのいい加減な領地分配がもとで
シャキッと決めようとした佐々成政が、意見を聞かず交渉もせず有無を言わさず行おう
とした態度が起こした物だった。これを秀吉も立花氏も解っていた。一揆の報告は今だ
九州瀬高の末広邸で花園氏の接待が行われている中に報告が来た。昨日は船小屋での遊
興に、居合抜きの剣豪渡辺氏と柳生新陰流の真剣白羽取りの余興が終わって船遊びでも
行おうかと言う時だったと伝えられている。この本陣から柳川城までを大将軍通りと呼
ばれている。

1627: 名無しさんAA:18/11/08 18:01
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   620   > 

 前田利家が隈部一党の処刑を「放し打ちにて行う」とした時、多分利家は何のことか
不明のままであったろう。天主閣の欄干まで通され、城から船が黒門橋につけられ、今
の体育館のや城内公民館に一同6人は降り立った。対して城の方からは同じ様に6人の
立花藩の誇る剣豪が松明の下に待ち受けていた。朝日の昇る5時からの始まりである。
当初は日本の果し合いの様な名乗りから始まった。という。この「放し打ちの刑」など
と言うのは、日本広しと言えどもそうそう行った事は藩などは何処にも聞いた事はない
。相手した十時氏や小野氏や渡辺氏など強者には違いなかったが、いずれの相手も真剣
を持った者で城を持ち、そうそう素人武士ではない。城を持ち城を守り佐々氏の家来と
互角に闘った強者達である。立花家臣団が後に「黒門橋の処刑」と呼んだこの出来事は
立花側においても怪我した者が2名、1人の重症者を出すほどの激戦であった。隈部ら
を最後まで武士として丁重に扱った立花武士らは、代表にならなかった肥後武士の生き
残りを歓迎し、秀吉に反抗する勢いも徐々に鎮火した。同じように城内の別の場所から
隈部に見学させていたのである。昼を越し5時過ぎになって勝敗を期して、死体は片づ
けられた。「宗茂はどうして隈部らをそのまま斬首刑に処さなかったのか。」という豊
臣からの使者にこう答えた。「我が立花家には三つの掟がある。国法に背き、節義に欠
け、表裏比興の振る舞いをする者は斬り捨てる。又、国法に背き節義に欠ける者は切腹
ともする。しかし、国法に報い節義を守り、忠節に準じた者は我が藩では罪はあっても
咎人ではない。従って放し討ちとする。隈部殿は関白殿下の国法に背いて一揆を起こし
たが、武士として殿下の裁きを静かに待つ姿は節義の士の鑑である。又関白殿下の朱印
状を持ち裁きを静かに待つ者、裁きが決ったからには打ち首は当然だが、罪はあっても
咎人ではない。故に縄はなく武士のままに処刑の事に至った。よって立花家は勇気ある
士らを放し討ちしたまでのこと。」と挨拶した。そうした話の中にスーと障子が開けら
れ首検分の用意ができました。と言う庭には、今だ死んだばかりの隈部一党の骸(むく
ろ)がむしろの上に首が放たれてあった。そこを一通り歩き通り過ぎた前田氏は、立花
氏「いたくご苦労であった。ここに検分し確認したと太閤様にはご報告致す」と声をか
け、他の者に合図してそこを出て行った。


1628: 名無しさんAA:18/11/08 18:01
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   621   > 

 これには裏がある。隈部親永(菊池郡・隈府城主)と、隈部親安(鹿本郡・山鹿城主)の
二人は、そもそも大友勢で立花氏と同じに戦乱の動向に動かされた城主だった。いわば
立花氏と同じ境遇の中にいた。そも九州騒乱はこの大友氏の野望によって出来た物だっ
た。元寇が来て以来、南北朝以前からも重しとして北九州の領主として君臨した菊池氏
や大内氏の中を下向して来た関東武士団が住み着いてこうした騒乱が起こった。更にそ
こに拍車をかけたのが大砲と鉄砲の伝来だった。西洋かぶれの大友宗麟は次々と神社や
仏閣を破壊し英彦山の修験道などと対立を深めた。博多商人たちはこの山の護り人とは
寄与や富者としての布施を行い上手く行っていたが、大和朝廷の大宰府やら朝廷の争い
やらが九州に流れてきたものだった。高橋家はもともと樽を作る細工職人の伝統を持つ
弥永家の家柄である。自然と生き自然に溶け込み欲も世情も捨てて商売をしていた。が
大友はそうはさせなかった。時の勘合貿易の九州の長として権益を持っていた立花氏を
滅ぼしたのは、その権益を放さなかったからだ。立花氏の持つ博多商人の長としての地
位は相当な力があった。壱岐対馬の宗氏、宗像氏、諫早氏、長崎氏、大賀氏、吉田・占
部・許斐氏ら或いは小野氏柳川氏蒲池氏・・・・他にも古代からの大宮司氏の大神氏の
実務として、大内氏すらも手が打てない権限を隠し持っていた。そもそも立花氏は大和
朝廷に舶来品を朝貢したものを受け取って間の免許を出した橘氏の家系である。言わば
博多の護り神であった家系だ。龍造寺氏が根っからの仏教徒で窮地にあって鍋島氏に乗
っ取られたのも実はここにある。大友氏は強制的に武将をキリスタンとした。言わば、
国教の代わりの藩教とも言えるものでこれを条件に、カピタンの下の宣教師交易を始め
ていたのである。従って大友氏始め有馬氏や大村氏や松浦氏などはそうしたキリスト教
国を夢の国として建設しようとしていたのである。此処に無理があった。立花氏も当然
この仏教徒とキリシタン大名との変遷を得た大名だった。その中で小西行長は切腹が出
来ない。仏教に頭を下げない。として打ち首を辞さなかった。又黒田家も官兵衛は武士
として一向宗徒すら首を切ってきた猛者だが、長政は大奥キリスタンのルーツだった。
この隈部親永と親安の親子も宣教師医者の歩いたとされる豊後肥後筑後のアルメイダ街
道にあるのでキリスタン大名だったのだろうと思われる。その後の小西の領地で南肥後
を治めさせたこともその理由であり、加藤清正と黒田が手を握ったのも仏教徒の危機感
からだったと言える。そしてそれが小西行長の邪魔をする理由だった。


1629: 名無しさんAA:18/11/08 18:01
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   622   > 

 祇園守紋は、京都東山にある八坂神社が発行する牛頭天王の護符のデザインである。
京都八坂神社は、全国にある祇園さんの本家で、京に夏を呼ぶ祇園祭で知られた神社で
ある。祭神は素戔嗚尊(スサノオノミコト)、奇稲田姫命、八柱の御子神でのちに牛頭
天王も祀られるようになった。と言う牛頭天王とは、インドの祇園精舎の守護神であっ
たと伝えられ、日本では薬師如来の化身とされる。神仏混淆(しんぶつこんこう)から
八坂神社の素戔嗚尊と牛頭天王とがゴッチャになって、祇園天王と呼ばれ、八坂神社も
祇園社と呼ばれるようになった。牛頭天王の牛神とはそもそもは豊饒の神であったが、
厄除けの神としても崇められるようになった。そして、平安時代のはじめに京で疫病が
流行したとき、神泉苑に当時の国の数にちなんで六十六本の鉾を立て、祇園の神(スサ
ノオノミコト)を迎えて災厄が取り除かれるよう祈ったことから祇園祭が始まったとさ
れる。そのような神様のお守りだけに、その呪力は大いに畏れられたことであろう。祇
園守紋の由来には、三つの説がある。すなわち祇園社の森の図案化、牛の頭部の図案化
、キリスト教の十字架の図案化だが、いずれも決め手を欠いている。いずれにしろ牛頭
天王や八坂神社への信仰から、家紋として用いられるようになったことは間違いない。
祇園守紋は単に守紋ともいわれ、その図柄はクロスした筒が特徴である。後世筒は巻き
物に変わったが、呪府のシンボルであることは変わらない。柳川家紋はその祇園クルス
紋に銀杏紋を付け足している。この紋を用いる近世大名で有名なのが、豊後の戦国大名
大友氏の一族で柳川藩主立花氏である。祖の立花宗茂は、薩摩島津氏との戦いにおける
潔さ、また、朝鮮の役における碧蹄館の戦での大勝利が知られる。本来、立花氏は杏葉
紋を用いていたが、関が原の合戦後、封を失った宗茂は、数年の流浪の末に棚倉城主に
返り咲くことができた。正月の夜、夢の中に祇園の蘇民将来の守りを捧げた老人があら
われ、この守りをもって本国へ帰り給えといって守りを手渡した。もともと宗茂は本国
の柳川祇園社を深く信仰していたことでもあり、祇園天王の夢のお告げかもしれないと
ありがたくおもっていたところ、将軍家より旧領柳川を返し与えられたのであった。喜
んだ宗茂は祇園天王の加護に感謝して祇園守を家紋とするようになったのだという。柳
河藩立花氏のものは、とくに「柳河守」とよばれ、中心に二つ巴が入っているのが特徴
になっている。


1630: 名無しさんAA:18/11/08 18:01
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   623   > 

 その他、大名家では備前岡山と因幡鳥取の両池田氏が用いている。池田氏は清和源氏
頼光流を称し、本紋には輪蝶を用い、副紋として守を用いた。松浦静山の著した『甲子
夜話』に、ある日、静山が池田家の分家の松平氏に、池田家の祇園守の由緒を尋ね、ヤ
ソ教関係のものではないのかと聞いた。すると松平氏は由緒のことはよく知らないが、
我が家では天王から貰ったものと言い伝えており、天王は祇園だから祇園守というのだ
ろうが、それは世に隠れるものであって実は王の上に一点があったのだろうと答えた。
つまり、天王ではなく天主であったと。これから推せば祇園守紋は、ヤソ教の十字架を
家紋として意匠化したものということになる。立花氏の仕えた大友宗麟はキリシタン大
名として知られ、宗茂も少なからず影響を受けたかもしれない。一方の池田氏はキリシ
タンとして知られた摂津池田氏の一族といい、摂津池田氏は「花形十字紋」を旗印に用
いたことが知られている。加えて、摂津から出たキリシタン大名中川清秀の子孫で豊後
竹田藩に封じられた中川氏は、抱き柏紋とともに中川車あるいは轡崩しと呼ばれる家紋
を用いている。同紋は、別名中川久留守といわれるように十字架を象ったものであった
。同じく、摂津能勢を領した能勢氏の「矢筈十字」紋は「切竹十字」ともいわれ、クル
スを象ったものという。さらに丹波の戦国大名波多野氏は「出轡(丸に出十字)」を用
いたが、これもキリシタンとの関係を秘めたものであろうといわれている。 丸に十字
には中川車(中川クルス) 矢筈十字 出轡(丸に出十字)更に薩摩の島津藩の家紋があ
る。このようにみてくると、祇園守クルス紋は十字架をうまくカモフラージュして家紋
に取り込んだものという説が信憑性を帯びてくる。しかも祇園守紋を用いる大名の場合
、戦国時代にキリシタンと関係を持っていた歴史を有しており、十字架を隠したという
説には説得性が高い。しかし、仮にそうであったとすれば、そのようなまわりくどいこ
とをしなくても、古来ある十字架紋、轡紋を用いた方がストレートで却って自然な気が
するがそれが出来なかった時代だったのである。いずれにしろ、守紋の発祥とキリシタ
ンとの関係は無理に結び付けることもない。が歴史上牛頭天王に天主としてきた歴史は
事実だった。鶴紋を使用する公家としては藤原氏真夏流の日野氏が知られ、一門の広橋
・柳原・烏丸・北小路などの諸家も鶴紋を用いている。武家の紋は『蒙古襲来絵巻』に
描かれた十文字の上に鶴丸が据えられた島津氏の旗紋が古いもので、戦国時代では南部
氏と蒲生氏の鶴紋が有名である。

1631: 名無しさんAA:18/11/08 18:02
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   624   > 
 南部氏は菱鶴とあることから、戦国時代のはじめにに対い鶴に変化したようだ。そし
て、鶴の胸のところに九曜を据えているのが特長的である。その他、清和源氏頼親流の
石川氏、同じく義家流の森氏らが「鶴」紋を用いている。蒲生氏は藤原秀郷の後裔で、
近江国日野郡蒲生庄に住んだことから蒲生を名字とした。『蒲生家系図由緒書』によれ
ば、蒲生氏が鶴紋を用いるようになったのは、嘉吉元年(1421)蒲生秀綱が足利将軍家
に属して合戦に参加したときのことという。秀綱は赤松満祐が将軍義教を攻めたとき、
将軍家に味方して敗戦、敗走の途中で道に迷ってしまった。そのとき、一羽の鶴が蒲生
氏の旗を加えて飛びたった。その鶴の後を追っていくと窮地を無事に脱出することがで
きた。それを吉例として鶴紋を家紋とするようになった。実は向かい鶴の紋はかつての
立花氏の紋であったと聞く。又重臣の巴紋はその証とされる。大体の九州大名は古代か
らの家系は日足紋であり臣下になった者は鷹もしくは鶴など鳥の紋であるのが正しい。
黒田氏は、将軍足利義稙の怒りに触れた黒田高政は近江を退去させられ、備前邑久郡の
福岡村に移り住んだという。この時福岡氏を名乗り高政の子重隆は備前から播磨に移り
住み、持ち前の才覚によって土豪に成長した。そこで石餅紋に変えた。重隆の嫡男満隆
もひとかどの人物で、西播磨の大名小寺氏に客将の礼をもって遇され、やがて家老とな
り名字と一字を許されて小寺職隆と名乗った。ここで小寺氏の紋を貰い、藤巴紋とした
職隆の子が孝高、すなわち黒田官兵衛で、如水の号で知られた武将である。黒田氏が定
紋とした「藤巴」紋は職隆が仕えた小寺氏の家紋であり、室町時代に成立した『見聞諸
家紋』にも 小寺氏の「藤橘巴」が収録されている。「洲浜紋」は柳川の風浪宮神紋と
される。柳川の水門前の水天宮に龍宮紋と甲羅のキリンの鬼瓦を屋根の鬼瓦としていて
国宝級の小瓦を使っていて貴重なものだった。亀甲紋は何処にもあるが桔梗紋や五芒星
紋は珍しい。晴明神社の神紋といえば「五芒星」ですが、桔梗の花の形が似ていること
から「晴明桔梗印」とも呼ばれていて、晴明神社の鳥居や晴明井、お守りなどにも見る
ことができます。この「五芒星」は、この世に存在するあらゆるものを「木・火・土・
金・水」にあてはめる「五行」の考え方を形にしたものです。これは伝習館の明治以前
の紋でもあったらしい。又篭目(カゴメ)紋は、六芒星紋で、これらはいわゆるペンタ
ゴンやヘキサグラムと言われる紋なのだが、柳川不思議な神社は沢山ある。二の宮神社
は狛犬は鶴と亀である。又かつて蒲池氏の4男虎丸が矢留白浜で篭に隠れたが鶏の鳴き
声で捕まったので鶏肉は食わないと言う。更にこのカゴメ紋に意味があるとする。又、
細工町から中心道の突き当りには、祈祷院艮金神(うしとらこんじん)社がある。これ
も珍しい天満宮である。恐らく奈良時代から続いたものだろう。

1632: 名無しさんAA:18/11/11 19:48 ID:J/A
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   625   > 

 艮金神社 社記では、かつては平安時代は瀬高一の宮として在したようだ。すぐ傍に
風浪神社があるので、酒見城が一国一城制で廃止になった時にここの風浪宮の分社とし
て大川に行ったと口伝が残る。しかし大川が鎌倉時代の作りだったらしく酒見城のそば
に分社されたのはもっと古い時代になるのかも知れない。福岡の文化事業は遅く予算も
少なく県民の意識も希薄で 町の進化をより新しいものを作る事と勘違いしている。今
の高島市長の様に、よそから来たものがそれなりの言いたい事を言って壊して回るのだ
。まったくこの県民性には吐き気がする。なぜもっと郷土を誇りとして地元民を愛しな
いのだろうか。黒田官兵衛の叔父は重隆であり、官兵衛の父の黒田職隆(もとたか)は
心優しく、貧しい人を助けていたと伝わります。その性格がどこまで真実であるかはさ
ておき、小寺氏の信任を得て従徒であったことは確かです。重隆は、姫路で牢人生活を
送り、八女の北島氏と出会う。経済的に困窮していたところで、夢のお告げに従って、
この北島氏からの製法で目薬を販売したところ、これが飛ぶように売れて財を成した筋
書きでその後官兵衛が生まれ博多を治めている。一方その北島氏が眼科医者として日本
の名医だった頃八女を治めていた橋本氏族の中の加茂の神職から独立した筑後和泉の守
の高橋氏がいた。立花 直次(たちばな なおつぐ)は江戸時代前期の旗本で、高橋鎮種
(紹運)の次男だった。初め高橋姓を名乗り。筑後柳河藩主立花宗茂の実弟で、幼名は
千若丸で通称は弥七郎、少輔太郎である。柳川矢留の弥次郎町は彼が住した土地だから
と言う説もある。官途は、主膳となり正民部少輔とし、初名は統増(むねます)で、諱
は次に宗一(むねかず)、重種(しげたね)、最後に直次とした。立花姓を家号とした
のは慶長19年(1614年)頃以降であり、高橋統増、高橋直次の名でも知られる。号は宗
卜と言う。統虎は後に立花道雪の養子となったため、統増が筑後高橋氏の嫡男となった
。天正14年(1586年)に島津氏が大友領である筑前国へ侵攻した際、父は岩屋城にい
て、統増は宝満山城をそれぞれ守っていた。しかし紹運は岩屋城の戦いにて自刃して、
宝満山城でも同じく籠城していた筑紫氏家臣は、島津氏に筑紫広門の捕虜となって動揺
の中に守っていた。島津氏から助命を含めた降伏勧告もあり、家臣の提案による「統増
夫妻を立花城へ無事に送り届ける事」の条件により開門する。ところが統増が城を出る
と約束を違え、島津兵によって、妻共々捕虜となり、宝満山城は開城すること羽目にな
った。しかし、同年の豊臣秀吉による九州征伐後は、兄と共に豊臣氏の直臣となって、
天正15年(1587年)6月、筑後国三池郡江浦に1万8,000石の所領を与えられ。江の浦
城主となり、佐々成政の領地での肥後国人一揆が起こった際には兄に従って出陣した。

1633: 名無しさんAA:18/11/11 19:48
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   626   > 

 天正16年(1588年)4月、聚楽第に秀吉が後陽成天皇の行幸を迎えた際には供奉を務
めた。翌天正17年には従五位下・民部少輔に叙された。文禄の役が始まる頃、旧主義統
(吉統)が嫡男義乗に家督を譲ったのを機に兄が宗虎と改名した際に同じく「宗一」と
改名。翌年の大友氏の改易後に「直次」と再度改名していた。戦役では両役に出征して
、碧蹄館の戦い、露梁海戦などで功を挙げた。休戦期間中に国元に帰り、居城を江浦城
から筑後内山城に移している。筑後内山城は大牟田市大字吉野にあり、三池氏が立花氏
の与力となった事で実現した。慶長4年(1599年)、島津義弘の領地で庄内の乱がおこ
ると、8月に五大老筆頭徳川家康より出陣を命じられ、伊集院忠真が立て篭もった日向
国都之城に出陣した。しかし、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで兄と共に石田三成
の西軍に与して、伏見城の戦い、大津城の戦いなどに出陣したので、戦後に改易されて
失領した。浪人して宗卜と号した。しかし兄同様に徳川秀忠に召し抱えられ、慶長18
年(1613年)に家康に拝謁を許されるに至った。慶長19年(1614年)10月に常陸国
筑波郡内の柿岡5千石を与えられて旗本となり、この時に家号を高橋より、立花に改め
た。その後11月から始まった大坂の陣にも出陣して功があった。子の種次は元和7年に
(1621年)に五千石加増されて合わせて一万石となり、筑後国三池郡に移封されて三池
藩が成立した。四男の忠茂は、生まれたその日に伯父宗茂の養嗣子となった。11歳の元
服の時、江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の殿上において加冠し、従五位下・左近将監に叙
され、偏諱を授かって忠茂と改め、左文字の刀を賜った。将軍の相伴衆として江戸に詰
めていた養父に代わり、寛永6年(1629年)頃には事実上藩政を司るようになった。寛
永14年(1637年)4月3日、所領を相続し。11月に島原の乱が勃発すると出陣。12月に
上使板倉重昌の配下で原城攻めの寄せ手に加わった。 2月27日、最後の総攻撃の前日に
また鍋島勢が抜け駆けをして戦闘を開始したので、忠茂もこれに加わり、三の丸を奪取
して本丸に火をかけた。28日の総攻撃では忠茂自ら詰の丸(本丸)に突入して落城させ
た。寛永15年(1638年)宗茂の致仕により正式に家督を継いで柳河藩の第2代藩主とな
り、藩政の安定に努めた。寛永17年(1640年)将軍家光より延寿国時の刀を賜る。寛永
18年(1641年)正月、従四位下に叙される。寛永19年(1642年)、柳川城の改修のため
に特別に暇をもらった。

1634: 名無しさんAA:18/11/11 19:49
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   627   > 

慶長5年(1600年)の、関ヶ原の戦いは、その直前には徳川家康から法外な恩賞を約束
に東軍に付くように何度となく誘われた。熊本の加藤清正からも口上使者が来たのだが
、宗茂は「秀吉公の恩義を忘れて東軍側に付くのなら、命を絶った方が良い」と言い、
拒絶した。家中でも重臣・薦野増時は西軍に勝ち目なしと東軍への味方を進言したが、
「勝敗に拘らず」と増時を留守に残し西軍に参加した。そして石田三成率いる西軍に属
し、伊勢方面に進軍した。その後、毛利元康・毛利秀包(小早川秀包)・宗義智・筑紫
広門などと合流し、共に東軍の京極高次が守る大津城を攻めた(大津城の戦い)。宗茂
は城方の夜襲を予見し、更に家臣の十時連貞が敵将・丸毛萬五郎、箕浦備後、三田村安
右衛門三人を捕縛した。この戦で宗茂は高さ一間の土塁と城からの矢弾を防ぐ竹束を置
いて塹壕を掘り、ここより鉄砲射撃を行わせた。養父・道雪の発案した「早込」を用い
立花勢は他家の鉄砲隊の3倍速で銃撃し、城方は激しい銃撃に耐えられず鉄砲狭間を閉
じた。その機を見た家臣の立花成家や内田統続らが、一番乗りを果たし、三の丸から二
の丸まで突破した。また大砲が届き「立花勢、長等山より城中に大筒を打ち入れ、これ
より防戦難儀におよぶ。」と伝えられている。こうして東軍の京極高次が守る大津城を
攻め落とし、浜松城に向かった。その為9月15日の関ヶ原本戦には、大津城を攻めてい
たために参加できず、本戦での西軍壊滅を知って大坂城に引き返す事になったらしい。
国許に帰っても戦が起こっており、黒田孝高(如水)、加藤清正、鍋島直茂が柳川を攻
める形勢となっていた。このとき、佐賀鍋島藩は、息子の鍋島勝茂が西軍に加担してい
たことを挽回しようと懸命だった。と言われる。直茂率いる鍋島勢32,000は10月14日、
二手に分かれて佐賀を進発した。と伝わる。これに対し立花勢は迎撃のために出陣する
が、家康への恭順を示すため宗茂は城に残った。立花勢13,000のうち、城を出て八院方
面へ出陣したのは家老の小野鎮幸を総大将とする約3,000(一説によると2,000、うち小
野の直卒する中軍は1,000余騎)である。鍋島軍は、10月16日には 筑後川を渡河して、
立花方の海津城を落城させ、続いて10月19日朝には先鋒隊3,000が立花成家勢200の鉄砲
奇襲を受け20余人が討たれたが城島城を攻略、翌10月20日に鍋島軍の先鋒軍3〜5,000と
立花勢の小野鎮幸軍1,300と激突した(江上・八院の戦い)。

1635: 名無しさんAA:18/11/11 19:49
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   628   > 

 この時、立花勢先鋒の安東範久(五郎右衛門)、石松政之(安兵衛)らは鎮幸の与力・
松隈小源の軍令の誤伝のせいで、軍法を破って独断で開戦し、次々と鍋島勢の軍陣の中
へ突入し、先鋒第三隊の立花統次(三太夫、森下釣雲の三男、立花統春の養子)などら
は鍋島軍の陣中深くまで進んで奮戦したのだ。鍋島勢の先鋒・鍋島茂忠は本陣の五反田
へ撤退した。といわれている。しかし、当初から鍋島方は、立花勢を包み込んで包囲し
殲滅する作戦を立てており、立花方は一騎駆けで敵軍に突撃した立花統次の戦死を始め
、先鋒の安東範久、石松政之もたちまち反撃を受けてしまった。救援出陣の為、第二陣
立花鎮実(戸次右衛門大夫、藤北戸次氏の一族)と鎮実の若い次男立花親雄(善次郎17
歳)や新田鎮実(平右衛門、掃部助)は横合から果敢に攻めかけたが、これも後を断た
れて共に戦死した。後陣の矢島重成(勘兵衛、剛庵、宗茂の側室・八千子の弟)と千手喜
雲(六之允、筑紫広門の与力)は、戦を躊躇し接戦していないため、馬廻衆の安東幸貞
(津之助、安東範久の養子)、第三陣の若武者十時惟久(新五郎16歳)、先鋒の安東範久
、石松政之も次々と戦死した。総大将の小野鎮幸は本陣前の橋を堅守して鍋島勢の包囲
を受け勇戦奮戦したが、鍋島軍の反撃を受け、供回りが14〜15人になるまで討ち取られ
た。小野自身も銃創と矢傷を負い、討死寸前となったが、水田方面の黒田如水軍を偵察
していた立花成家(吉右衛門、薦野増時の嫡男)が 別動隊300を率いて敢然と奇襲をか
けて鍋島勢を混乱させた隙に無事撤退した。10月21日立花勢は十時惟由らが率いて、北
の蒲池城の鍋島軍からの挑発に対し、応戦して数人を討ち取った。立花勢は柳川城への
篭城する構えを示したため、鍋島勢はそのまま柳川城を攻め落とそうとしたが、鍋島直
茂がこれを抑え、黒田如水の声に、加藤清正が、宗茂を説得に動き、宗茂は降伏開城し
た。島津義弘は国許へ帰ると、宗茂から受けた恩義に報いるために柳川への援軍を送っ
た。しかし、援軍が柳川へ到着したのは開城から3日も過ぎた後だったという。つまり
関ケ原から10日も過ぎた後だったのである。実は、この立花宗茂は大阪城に逃げたの
はごく少数で岡崎城や浜松城内を行軍して帰って来ていた。実は大砲を用いて大津城を
撃ったのは数日前で合戦は既に勝ち名乗りがあって、京極高次を探すだけであった。こ
の時京極は関ケ原に逃げなかった。その為四日市方面にそのまま追いかけて行っていた
のだ。そして予定通りの岡崎城を目指していた。この関ケ原ももし家康が余裕で勝って
いたなら大津方面へ出て、大阪城攻めに入ったであろう。しかし家康は自分の城が危な
いとの知らせてあったし、たった今島津軍が目の前を過ぎて行ったのである。


1636: 名無しさんAA:18/11/11 19:49
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   629   > 

 此処に家康は3度目の冷や汗を掻いていた。大津城を毛利に任せて、岡崎に入った時
京極高次を取り逃がしたが、そのまま薩摩と合流した。薩摩からのしんがりを務めたい
との伝令に色めき立った。島津の九州制圧の時に死んで行った身内も大勢いたからだ。
しかし、武士は相身互い。今は同じ家康を敵する者同士、仲良く身を守って帰るのが双
方の生き延びる道。と兵を説き伏せ、快く合流した。そのまま清州城を通り過ぎ岡崎の
街を通り過ぎて、吉田城を攻め、吉田氏を人質に城で兵を休め、岡崎に向かって号砲を
鳴らして船を呼び岡崎に回っていた末吉船に乗り込んで、島津の兵も載せたのである。
戦国時代には三河支配の重要拠点の1つとして機能していた。戦国後期や江戸時代には
吉田藩の政庁としての役割を果たした。別の城名としては、築城当初に今橋城と呼ばれ
、明治維新後には、吉田から豊橋の改名に伴い豊橋城とも呼ばれた。かつては、西三河
から松平清康(長親の孫)が進出し吉田城を攻略。戸田氏まで屈服させて、三河支配権
を、ほぼ確立させた。しかし、天文4年(1535年)には清康が横死して松平氏の直臣の
城番が撤退、かわって非直臣の城番の一人牧野成敏がそのまま城主となるが、天文6年
(1537年)には牧野氏を追った戸田宣成が城主となっていた。しかし、秀吉の幕藩体制
の下で東海道の重要な防衛拠点の1つに挙げられ、吉田城に三河吉田藩の藩庁が置かれ
吉田氏が藩主となった。その後、家康は要の城として、江戸幕府の老中・大坂城代・京
都所司代格など有能な譜代大名が城主に選ばれ、出世城などと呼ばれていた。この吉田
氏をつれて、帆船は進んだが、周防灘に着いたころ亀甲船と5艘の船が取り囲もうとし
た。黒田の海賊船だった。それは朝鮮征伐で沈めた2艘とほぼ同じ造りだった。更に、
周りの船は鉄砲を持っていた。「国崩しに玉はあるか。」「はい、まだ充分残っており
ます。」「そうか、ではすぐ用意しろ。いいかあの亀甲船に近づき、沈める事はできる
か。」「はい近づけば船の上でも。」「そうか、黒田の曲者に目にものをみせてやろう
じゃないか。」「島津がいますが。」「なあに構わん。彼らとて、黒田に恩義はないだ
ろう。船が沈められたらどうしようもないはずだ。」「では今すぐ。」「充分間合いを
取って一発で仕留めて必ず打ち沈めよ。いいな。」「はっ、弐砲用意させ必ず仕留めま
しょう。」と言った。近づくと黒田の船は亀甲船から鉄砲を仕掛けて来た。そこで、「
よし飛ばせ」と大音と共に弾が飛んだ。ところが届かなかったようだ。しかし、幸運に
も船の底に当たった様だ。なかなか近づかない内に沈んで行った。

1637: 名無しさんAA:18/11/11 19:50
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   670   > 

松倉 重信(まつくら しげのぶ)は、九州騒乱時代はじめは、筒井順慶に仕えた家老で
あったが、順慶の没後養子の定次が伊賀に転封されると、息子重政は大和に残って豊臣
家の直臣となった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは単身参陣して徳川家康に認
められ、大和の五条二見城主となった。五条では諸役を免除して商業の振興を図るなど
城下町の整備を行った。とされる。ところが筒井順慶は安土桃山時代には茶人としても
知られた大物だった。代々興福寺一乗院の衆徒として勢力をもった土豪の出身で寺領を
侵略して勢力を拡大していたが、松永久秀に敗れた。織田信長に属していての、大和一
国を与えられて、1580年郡山城を築いていた。明智光秀の与力としていたが、この明智
の起こした本能寺の変は前触れのない災難だった。本能寺の変ののち秀吉は急ぎ毛利氏
と和睦(わぼく)し東上して、光秀はこれを山崎で迎え撃つ用意に至った。この時の戦い
は山城国山崎(京都府大山崎町)における物で山崎の合戦と称された。羽柴(豊臣)秀
吉と明智光秀のこの合戦明智軍は敗れ、敗走の途中土民に殺されたとされる。しかし、
筒井氏は山崎の戦いについて、洞ヶ峠(ほらがとうげ)に陣を置き明智光秀・羽柴秀吉両
軍の形勢を眺めて秀吉に向かう中で、松倉は既に実際は合戦の直前に秀吉あての誓紙を
出して殿の筒井を裏切る小さな第二の筒井の変を起こしていたのだ。洞ヶ峠では有名な
「洞ヶ峠の日和見」の献策をしたとも伝えられている。この洞ヶ峠のエピソードは江戸
期の軍記物『和洲諸将軍伝』の作り話ではあるが、本筋は西洋との外交収益の話だった
。まだ織田家が八方塞がりで小さな領藩だった頃、翌永禄8年(1565年)、家臣団の三
好三人衆と松永久通の軍勢は、突如信長の策略にはまり将軍足利義輝を暗殺し、(永禄
の変)を8月に起こしたが、11月には、方針の違いで松永久秀と三好三人衆は決裂し
、収拾を図ろうとした筒井氏は、三好衆に奇襲を仕掛けられ、同11月末には居城・筒井
城を追われる身になった。(筒井城の戦い)。この時、箸尾高春・高田当次郎といった
手下の勢力が順慶を見限り離れて裏切った為だ。居城を追われた順慶は、一族の布施左
京進のいる布施城に逃れ、しばらく雌伏の時を過ごした。しかし信長が衰える事はなか
った。悔いのなかで順慶は没し、後を継いだ筒井定次が伊賀国へ転封となった。この時
、賄賂によって松倉氏は、伊賀名張に8千石余を領した。その後も、豊臣秀吉に接近し
、大和国吉野に8千石余を領したとの記録がある。、



1638: 名無しさんAA:18/11/11 19:56
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   671   > 
 この松倉重信は、高田当次郎をひき連れて居たがが、南北朝時代の南朝方の国人領主
だった当麻高田氏の子孫だった。当麻氏は鎌倉時代過ぎても、興福寺などの荘園束ねた
国人領主で、当麻為清・為信・為祐ら代々当麻一族が在地の豪族の長として、天神社な
どの祭祀に関わっていた。応仁の乱以降は、布施高田氏の当主が死んで、当麻高田氏の
惣領為長のもとに両高田氏は縁故を結び強大な一体化した。かくして高田氏を名乗り、
海上交通交易を握った越智党の有力者として活躍した。一方で、曽我高田氏が筒井方の
家臣として行動していた。応仁の乱以降は畠山氏の後継争いの抗争は大きくなり終息が
つかず大和国衆を巻き込み泥沼化した。明応二年(1493)、将軍足利義稙を奉じて、本
流の曽我高田氏は、河内に出兵、義豊の拠る河内高屋城を攻撃しに加わり終息を試みた
。ところが、政長と義稙が京を留守にした間隙を突いて細川政元がクーデターを敢行し
、義稙は捕えられ、敗れ政長は河内正覚寺で自刃する結果となり、嫡男の高田尚順は紀
州に逃走し政変となった。この細川政元の謀略に一枚加わって謀った越智家栄は、上洛
すると幕政に参画しここに越智氏は海運海賊の頭領として全盛を迎え、高田為長はこの
越智党の中心的存在として活躍した。しかし、明応九年に家栄が死去すると同時に、こ
れまで抑えられていた家臣の筒井党が次第に勢力を回復していった。打ち続く戦乱に疲
れた農民は離れ、国人衆にも和議の気運が高まり永正二年(1505)、筒井・越智・箸尾
・十市・布施の五氏が春日社前において起請文を交し、和睦の誓いが建てられた。つづ
いて「一両一疋衆」とよばれる国衆も連判したことで、大和国人一揆体制が形成された
。翌年、大和国衆は焼落ちた安位寺再建の勧進に応じて、高田当次郎清房が為長として
署名している。当麻高田氏の代々「為」の字を用いていることから、この時又布施高田
氏が台頭して為長は文亀三年(1503)死去したようだ。高田氏は惣領の座をめぐる対立
が常にあり、布施高田清房が惣領になったのだろう。越智家栄の死をきっかけに高田氏
は筒井党内の様相を一変させ、為長の死をきっかけに筒井氏寄りであった布施高田氏の
清房が惣領になったものであろう。こうして大和国では国衆の一揆の協力体制が整い、
国衆は他国からの圧迫に協力して対応する。永正三年、畠山尚順を討ちに来る細川政元
は家臣、赤沢宗益を河内に進攻させようと求めたが、国衆はこれを断ったため、宗益が
大和に侵攻してきた。翌四年にあとを継いだ細川澄元が家臣の赤沢長経を大和に入部さ
せたが、大和国衆は団結して対抗し敗れた。ここに鉄砲が介在した。いま大牟田近郊の
市町村として、その当麻高田氏の名が町名として残る。何故か、それは松倉の過酷な取
り立てに干拓で応じて年貢の責を減らしてくれたからである。また後に三池藩として、
小野氏が守ってくれたからだ。

1639: 名無しさんAA:18/11/13 22:28
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   672   > 

 筒井・十市氏らは高田・万歳両城で体制を調えようとしたが、追っては厳しく宇智郡
に逃走し筒井氏が高田氏をたのみにした。高田氏もそれに応えている。しかしその後も
、細川氏と畠山氏の抗争のなかで大和は他国衆の侵攻が続き、享禄元年(1528)より三
年まで柳本賢治が侵攻、天文元年(1532)には一向一揆、ついで天文五年には畠山氏の
被官であった木沢長政が信貴山・二上山に城を築いて大和経略を開始した。幕府管領で
ある細川晴元を後楯とした木沢長政は、大和守護として、大和国衆にとって大きな脅威
となった。天文十一年、木沢長政が河内において戦死すると、筒井順昭が次第に勢力を
拡大し、再び越智党との間で戦いが繰り返された。こうして大和国衆一揆は瓦解した。
天文十四年には、越智家頼が死去。翌十五年、筒井順昭は越智氏の居城貝吹山城を攻撃
。この陣に高田氏も従軍し筒井党の一員として活躍している。こうして筒井順昭の威勢
は大和一国を覆うようになった。天文十九年、高田氏が万歳氏と争うと、順昭は高田氏
を応援して出陣すると万歳郷を焼き払った。このころの高田氏の惣領は「三界万霊塔」
を建立したとされる為成で、当麻高田氏の出自であった。幕府重臣である畠山氏、細川
氏らが内訌で勢力を失うなかで、細川氏の被官であった三好長慶が権力を掌握、永禄二
年(1559)、松永久秀を大和に入部させて権勢の膠着を謀った。しかし以後今度は、大
和は久秀の侵攻に翻弄される。筒井氏全盛を築き上げた順昭はすでに死去し若年の順慶
が、叔父順政の補佐を受け筒井氏の家督を継いだ。松永久秀は筒井氏を攻め、続いて、
万歳・沢城を攻略した。四年には多聞山城を築き、着々と大和支配体制を確立していた
。永禄七年に堺に逃れていた筒井順政が死去、翌八年、久秀の攻撃を受けた順慶は筒井
城より布施城に出奔しかくして、十市・箸尾・岡氏らが久秀方に走っていく。高田氏も
筒井氏との関係を絶ち松永久秀の配下に入る。その後、長慶が死去すると三好氏は久秀
と三人衆とに分かれて、内紛状態で三人衆は筒井順慶と結び、久秀は畠山氏と結んで、
両者は河内・和泉・大和において長年に渡り戦いを繰り返す。永禄十年、大仏殿に立て
籠った三人衆を攻めた松永久秀は、大仏殿を焼き払うという暴挙を行った。が、その後
、庶民の力を得られず劣勢に追い込まれた久秀は、永禄十一年、足利義昭を奉じて上洛
した織田信長に通じ、信長を後楯として大和の経略を再開した。高田氏と布施氏と抗争
は続き信長はそれを利用した。嫌気が差した松永久秀は武田信玄に通じ、信長に謀叛を
起そうとしたが見つかったが、足利義昭追放で終わり、天正元年(1573)ふたたび信長
の配下で大和支配を任された。

1640: 名無しさんAA:18/11/13 22:29
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   673   > 

 筒井順慶らの大和国衆も、久秀との抗争の中で、信長への接近を図っていた。やがて
高田氏は久秀のもとを離れて筒井氏に接近し、天正二年に何とか高田氏は筒井順慶とと
もに上洛、織田信長に面会をするに至った。しかし、高田氏は、岡・箸尾両氏とともに
信長が要求する人質を出さない事で帰っている。この事でふたたび信長に謀叛を起した
松永久秀は、十月、信長軍に攻められ信貴山城において爆死している。国崩しが京の都
にまで手に入った事による。以来、筒井順慶の大和一円支配が進められた。天正八年、
信長は国衆の城砦の破却と所領高の指し出しを命じ、ここに至って、大和一国は信長の
支配下に入った。これまでの大和の中世の荘園支配は終焉を迎え、同時に高田氏や越智
などの武家の護る朝廷の荘園領主制が消失した。『多聞院日記』によれば、ときの高田
氏の知行高は三千石であった。信長は、戒重・岡・大仏供・高田氏に生害(切腹)を命
じ、高田藤七郎は奈良の中坊において自害した。この後高田氏の在所には筒井順慶が赴
き、所領没収などの始末を行った。ここに高田氏は没落し、残った一族は離散の運命と
なった。それから二年後の天正十年、本能寺の変が起った。明智光秀の謀叛は信長の死
をもたらした。秀吉はこの状況を良く掴んでいてこの高田氏に家臣となるなら所領安堵
の密約をした。翌年、高田三河守は春日社に石灯籠を寄進している。高田氏が旧領に還
り住んだのである。この高田氏はおそらく当麻高田氏の為業と推測されている。同年、
筒井順慶から招かれた為業は、謀計であろうとみて熊野に落ちのびて時期を待とうとし
た。しかし、熊野衆から受け容れられず攻められ、一戦を交えて終わったと伝えられる
。羽柴(豊臣)秀吉と明智光秀のこの合戦明智軍は敗れたのは、明智が弱かったのでは
なく、明智は正義を果たすと諸大名はついて来る。と思っていたからだ。しかし、南蛮
貿易で日本人奴隷500人と火薬一樽の交換の密貿易で潤っていた松倉重信は、当然な
がら筒井順慶の明智への帰順を止めた。かつても、松永久秀は織田信長・足利義昭と誼
を通じたが、対する順慶は久秀の打倒に固執するあまり、情報収集がなく。劣勢の順慶
を見限り、菅田備前守などの家臣は順慶から離反している。つまり稚拙な順慶は家臣に
裏切られる体質なり構造を持っていた。松倉重信は秀吉に帰順し、大和に残って豊臣家
の直臣となったが、天正十三年、高田為政が郡山城主となった時羽柴秀長に召されて、
森・堀江・山本の三人を供として城下に参着したところ「お手討」と伝えられた。この
宣下で、部下と共に4人自害して果てた。これは奴隷貿易での利潤を秀吉が全く許さな
かったからだ。こうして秀吉は九州討伐に乗り出す事にした。

1641: 名無しさんAA:18/11/13 22:29
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   674   > 

この時、松倉重信以下越智氏が持っていた水軍は全てを、浪速に来ていた博多商人の、
小西行長に与えた。その中には洋船2艘、亀甲船2艘、早船14隻、他ジャンク船など
多くの船が、船奉行の小西に与えられ博多に向かった。柳川についた松倉の配下の森・
堀江・山本・岡・荒木・高田・松永・戒重(富重・柴村)・大仏供(大渕・渕上)など
の一族は、そのまま家臣として九州に乗り込み、九州征伐以降居ついてしまった。こう
した人達は、有利な羽柴方についたとされ、日和見(ひよりみ)主義の典型という俗説が
生まれるが、この秀吉はこの明智坂本家の悲運は既に見越していた。というのも宣教師
の暗殺部隊が暗躍していた事を掴んでいたからだ。天正7年徳川氏の悲運は、8月29日
- 徳川家康が妻の築山殿を殺害、9月15日 - 徳川家康の長男信康が自害する羽目に陥っ
た。信長の知略であったが、その裏にはバテレンの助言があったからだ。天正8年の時
(1580年)1月17日 - 羽柴秀吉に三木城を攻められ、別所長治が自刃(三木合戦)した
が、3月5日- 織田信長と本願寺の宗主顕如との和議が成立した。此の事で、石山本願寺
は指導者を失い戦いは失せるかと思われたが、8月2日- 石山本願寺を焼打ちさせて石山
合戦が終わった。こうしてやっと11月17日- 柴田勝家が加賀一向一揆を鎮圧し、翌9年
(1581年)2月28日 - 織田信長が京都で馬揃を行った。3に入り徳川家康は武田家攻略
を命じられ支配下にあった高天神城を奪回(高天神城の戦い)4月には堀秀政が織田信
長に従わなかったとして槇尾寺を焼き討ち、この非情さは、龍造寺隆信が隈府城を攻略
し、7月に羽柴秀吉が鳥取城を包囲し、10月に大友義鎮が彦山を焼き討ちなどを起こ
していた。銀貨金貨が大量に南蛮船に入り、中国向けの鉄砲が日本に持ち込まれ証でも
あった。天正7年(1579年) 5月11日 - 安土城の天主が完成して5月27日-安土城では
安土宗論の完成式典と神学校のセミナリオが行われ、いよいよキリスト教の天下となっ
ていった。8月29日徳川家康が妻の築山殿を殺害、12年(1584年)3月24日、仏教守護を
目指した龍造寺隆信は、島原で島津家久などとの戦いでは念密な攻略で、敗死(沖田畷
の戦い)した。4月9日小牧・長久手の戦いで雌雄を決して、6月28日 堂々とスペイン船
が平戸に初来航した。天正13年に(1585年)大徳寺で大茶会を開いて、つぶさに今ま
でを見て来た現実を振り、海外交易について、話合っている。こうして清州会議以降を
天下治めた秀吉は、キリスタン禁教令を考えながらも茶会でこれからの基礎を固めた。


1642: 名無しさんAA:18/11/13 22:33
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   675   > 

 石川家は古くからの徳川家の家臣であった。家康に近習していたこともあり、戦後に
家康から家老に任じられ、酒井忠次、石川家成らに次いで重用されるようになっていた
。信康が元服するとその後見人となったり。永禄12年(1569年)には、西三河の旗頭
であった叔父後をついで代わって西三河の旗頭となっている。この叔父の家成が遠州の
要であった掛川につくと、多くの合戦に出陣して数々の武功を挙げた。ところが天正7
年(1579年)に信康が切腹すると、岡崎城代となって多くの情報が彼の元に飛び込んで
きた。天正10年(1582年)には、織田信長が死去し、その後に 信長の重臣であった
羽柴秀吉が台頭し、数正は家康の命令で秀吉との交渉を担当する事になった。このため
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも参加。この戦いにおいて家康に秀吉と
の和睦を提言した。ともされる。しかしなかなか折り合いはつかず、天正13年(1585
年)11月13日、突如として家康の下から出奔して、秀吉の下へ逃亡したのである。「三
河物語」や「松平記」は、すでに秀吉に篭絡されつつあった事を書いている。理由は謎
であり、「家康と不仲になった」「秀吉から提案された条件に目が眩んだ」など諸説入
り乱れているが、今でもはっきりした理由は分かっていない。しかし、数正は、多くの
徳川の軍事的機密を知り尽くしており、この出奔は徳川にとって大きな衝撃であった。
以後、徳川軍は機密漏えいに対応するため三河以来の軍制を武田流に改めることになっ
たという。徳川氏にとっては石川氏は首席家老であり、経済の出納の全てを押さえてい
る大切で余人に代え難き者で、幼少の頃今川家に人質として出された頃からの盟友であ
ったのだ。その後、秀吉から河内国内で8万石を与えられ、秀吉の家臣として仕えた。
この時、通称を出雲守に改め、秀吉より偏諱を賜って吉輝と改名し、出雲守吉輝を称し
たと伝わっている。天正18年(1590年)小田原征伐で北条氏が滅亡し、家康が関東に
移ると、秀吉より信濃国松本(筑摩郡と安曇郡)19万石に加増移封された。数正は、
松本に権威と実戦に備えた雄大な松本城の築城と、街道をつなぎ流通機構の経路を掌握
するための城下町の建設、天守閣の造営など政治基盤の整備に尽力した。この出雲守を
自ら称した理由は、この奴隷制度によるものだ。松倉重信以下越智氏が持っていた水軍
の全てを、浪速に来ていた博多商人の、小西行長に与えた時そこには人権主義の秀吉が
いたからだ。秀吉は信長時代の人身売買を決して許さなかった。それは産まれながらに
して武将である地方の殿様の跡取りと、貧乏な百姓出で国民や領民を守るための武士や
武将を目的に這い上がってきた意思の違いが存在していたのである。


1643: 名無しさんAA:18/11/13 22:34
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   676   > 

 別所氏は早くから織田信長に従っており、家督を相続した長治も天正3年(1575年)
には信長に謁見し、翌年も年頭の挨拶に訪れている。天正5年(1577年)に信長が紀州
征伐へ出陣すると、長治もこれに加勢し従軍した。しかし、信長が中国地方の毛利氏を
制圧しようとすると、それに呼応して先鋒の役を務めようとしたが、織田勢による上月
城の虐殺、中国方面総司令官が成り上がりの羽柴秀吉であることに不満を感じていた。
妻の実家である丹波国の波多野秀治と呼応して信長に反逆したのは、奴隷売買が成立し
た為だ。多くの周辺勢力が同調、従わなかった勢力も攻め、東播磨一帯が反織田となり
自害に追い込まれた。信長の命を受けた秀吉の軍勢に攻められ、神吉城や志方城などの
支城も落とされ、毛利氏からの援軍も途絶えて、遂に籠城してから2年後の天正8年に
(1580年)、城兵達の命を助ける事と引き替えに妻子兄弟と共に自害したのである。こ
れまで、日本人は太平洋沿岸にポルトガルやスペイン船が最初に来ていた様に教え込ま
れいる。しかし、現実には、兵庫や鳥取或いは京都や金沢は古くから異人交易がなされ
、西洋の大船は底が深かった為に日本海沿岸に隠れて発着していた。それは同時に瀬戸
内海を海賊で追われていた為でもあった。ここで秀吉は多くの金銀を得て財政基盤とな
したのだ。キリスタンに奴隷を売ることなく、尼子氏の持っていた鉱山から金採掘に海
外知見を足して、効率の良い再開発で鉄砲や火薬を持つ力を得た。弘治3年(1557年)
の時に火薬製法が大内氏の中に伝来された。しかしこれが内紛と混乱をもたらし、この
混乱を制した毛利元就は、安芸から防長を手中にし戦国大名の中国の長となった。やが
て石見東部へ侵攻を始め、1559年、尼子家支配下の備後北部に毛利氏が攻撃を開始し、
大内晴久は突然の攻撃に、美作東部から兵を引き返して、備後へ援軍に駆けつけたが、
備後北部の尼子方国人衆は既に駆逐されており、為す術もないまま、尼子軍は備後より
撤退した。守りのないまま九州攻撃に派兵を掛けた為だ。大内晴久は石見銀山を巡る戦
いでは優勢であったが、永禄3年(1560年)晴久が急死して、将軍・足利義輝に毛利氏
との仲介を依頼し一旦、和睦したものの毛利元就はその後、一方的にこれを破棄して、
永禄5年(1562年)より出雲侵攻を本格化させた処に、秀吉が介入したのだ。本来鎌倉
室町期には金は獲れども辺ぴな月山富田城(現在の安来市広瀬)は尼子郷も含めて出雲
の守護代として同地に下向した宗家京極氏が守護を務める場所だった。出雲と隠岐の守
護代を通して雲伯の国人を掌握し、朝廷との橋渡しをした鉱山師(やまし)大名だった
のである。

1644: 名無しさんAA:18/11/13 22:34
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   677   > 

 15世紀末に守護代を継承した持久の孫・経久は、室町幕府からの税の要求に従わな
かったために 守護職である守護代の地位を剥奪されて、月山富田城を追われた。この
追われた京極政経(きょうごくまさつね)は、室町時代から戦国時代の武将で守護大名
で、室町幕府の相伴衆でもあった。近江・出雲・隠岐・飛騨4ヶ国の守護を兼ねていて
この金の産出が止まらなければ、京極持清の3男で姉妹にいる畠山政長室などに畠山氏
の後継争いもならなかったのだ。すなわちこの日本の戦国時代は日本の小さな流通社会
において金産出の欠乏がもたらした経済恐慌に鉄砲や黒船などの外的要因で出来ていた
。その原因が跡目を巡って次兄の政光及び勝秀の子とも弟ともされる高清と家臣の多賀
清直・宗直父子との間で争った京極騒乱であった。家臣の多賀高忠・六角政堯らの働き
で一時は近江を制圧したが、文明3年に政堯が敗死、文明4年(1472年)に高頼及び美
濃守護代の代理の斎藤妙椿の援軍を得た高清派に大敗、高忠と共に越前に逃れたのだ。
それ以降は尼子氏の金の産出量は大きく減った。硝石や火薬の製法が隠れてしまって、
金鉱を掘り進める技術が消えてしまったからだ。これ以降加賀藩では秘密裏の山奥の隠
れ里で火薬の製法を行っていた。しかし天正13年(1585年)1月13日 - 石川数正が徳川
家康の元から出奔した後11月29日北陸・畿内で大地震(天正地震)越中国木舟城の崩壊
で城主の前田秀継が死去、帰雲山崩壊で帰雲城は埋没し、天正14年(1586年) 6月24日
には木曾川が大洪水となって、日本の経済はますます混乱に拍車をかけたのだ。かくし
てこの秘伝の火薬の製法を握ったのが、越前国を拠点とし、後に発展して戦国大名とな
った越前朝倉氏である。もともと越中ふんどしとされた、白旗丸薬は有名で今でも富山
の薬売りは伝説でも現実にも残っている。すなわち薬剤や科学物の製法に長けていた。
朝倉氏自体が自立したのは越前国守護・斯波氏に仕えて、甲斐氏、織田氏に次ぐ斯波三
守護代の第三席となり守護に任命されるようになって、越前国を支配したからだ。伝説
では、平安時代末期に日下部宗高が但馬国養父郡朝倉に住し、はじめて朝倉氏を称した
とされる。宗高の子・朝倉高清は平家に与したことで鎌倉時代に領地を没収されたが、
関東で誰も退治できなかった白猪を射て退治した功績で、源頼朝より領地の安堵と木瓜
紋を賜ったとされる。その後、朝倉氏は朝倉城を築き、代々この城に拠った。戦国時代
は越前一国を安定支配し、その余勢で隣国の若狭、加賀、近江、美濃にも出兵している
。足利将軍義輝の弟である足利義昭が落ち延びて来ると、当主・朝倉義景はこれを庇護
した。だが義昭を擁しての上洛はせず、代わって それを実行した尾張国の織田信長が
京都の政権を掌握した後にも従うこともしなかった。

1645: 名無しさんAA:18/11/13 23:38
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   678   > 

 第11代朝倉義景は、浅井長政らと同盟して信長と度々戦ったが、1573年(天正元年)
には敗れて一乗谷を焼かれて、義景は自刃し、戦国大名としての朝倉氏は滅んでいる。
しかし分家越前朝倉氏の一族とされる朝倉在重が徳川家に仕え、子の宣正は徳川忠長の
附家老・掛川城主になるが、忠長の改易に連座して宣正も改易となった。宣正の弟の家
は江戸幕府旗本として存続した。元亀元年(1570年)、織田・徳川連合軍と朝倉・浅井
連合軍は姉川で激突する姉川の戦いを行った。しかし朝倉軍の総大将は義景ではなく、
一族の朝倉景健であり、兵力も8,000人(一説に1万5,000人)だったがこれは致命的な、
敗退に終わった。朝倉軍は徳川軍と対戦したが榊原康政に側面を突かれて敗北し、姉川
の戦いは敗戦に終わり『信長公記』によると浅井・朝倉軍は1100余の損害を出したとさ
れる。信長が三好三人衆・石山本願寺討伐のために摂津国に出兵(野田城・福島城の戦
い)している隙をつき、義景は自ら出陣し、浅井軍と共同して織田領の近江坂本に侵攻
する。そして信長の弟・織田信治と信長の重臣・森可成を敗死に追い込んで、さらに大
津で焼き働きし、醍醐・山科に進駐した。直ぐに信長が軍を近江に引き返してきたため
、比叡山に立て籠もって織田軍と対峙した(志賀の陣)。このとき信長は比叡山に自ら
に味方するよう求めたが無視され、また10月20日に織田・朝倉間で小規模な戦闘があり
、信長は義景に日時を定めての決戦を求めたが義景はこれも無視した。信長は義景のも
つ兵站や退路を断つために堅田に別軍を送りながら朝倉・織田間で合戦をした。この合
戦は痛み分けとなり足利義昭・二条晴良らが坂本に下向して和睦の調停を行なう。原因
の足利氏の調停には困惑したが、さらに信長は朝廷工作を行ない足利氏の帰京を許し、
信長と義景は勅命講和することになった。信長は秀吉に命じて越前や近江間の交通には
全てを遮断・妨害した。義景は顕如と和睦し、顕如の子・教如と娘の婚約を成立させ、
六角承禎が京都に侵攻しようとした際には、洛中で放火などしないようにという書状を
送っている。義景は浅井長政と共同して織田領の横山城、箕浦城を攻撃するが、信長に
よって兵站を脅かされて敗退した。この後、信長は前年に朝倉に協力した比叡山を焼き
討ちした。 ここで、六角氏や朝倉のほとんどがこの京都を捨てて九州を目指した。

1646: 名無しさんAA:18/11/13 23:38
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   679   > 

 古伝に建仁三年(1202)に「封を筑前秋月荘に賜る、城を築き、秋月をもって氏とな
す」にある秋月氏は原田氏の流れを持つ家系だ。源平争乱期の原田種直は、平家と結ん
で平重盛の養女を室に迎え、大宰少弐に任じられてその勢力は隆々たるものだったが、
平家が壇ノ浦で滅亡するに及んで、原田氏は領地を没収され、種直は鎌倉に幽閉の身と
なった。秋月氏の祖種雄(種生)は原田種直の子で、「秋月家譜」によれば「種雄賜封
筑前秋月荘乃城而治之、自是以秋月為姓也」とある。すなわち、源頼家の時代に秋月荘
を賜って、地名によって秋月を称したという。平家ながら源氏の鎮西御家人となったが
信頼は薄く、その後守護として赴任してきた新参の少弐氏、島津氏、大友氏などの東国
御家人の傘下に置かれるこの秋月氏も大友の仕掛けた九州騒乱時代には右往左往の変遷
を得て、秋月氏の全盛も長くは続かなかった。天正十四年に始まった秀吉の九州征伐で
は、種実・種長父子は秀吉に対抗して島津氏に属し籠城したが、秀吉は古処山城の支城
で熊井越中守が籠る天然の要害、岩石城を攻撃し成果を上げた。秀吉にとっての、九州
で最初の城攻めで、力を誇示し見せしめのためにも総力をあげて攻めた。豊臣軍は豊臣
秀勝を大将に、大軍で包囲し蒲生氏郷・前田利家らを副将とする五千の兵で、秋月方の
精兵三千騎にてこずっていた。山上からは大木・大石の投げ落しや、矢弾を乱射で防戦
につとめ全く落ちなかった。しかし、近代装備と戦なれした秀吉軍が物量では圧倒し、
策略を弄して大変な被害を出しながら夕刻に落城させた。種実は中間にある益冨城で戦
況を見守っていたが、一ヵ月ぐらいの籠城には耐えると考えていた岩石城がわずか二日
目で落城したことに驚き、益冨城を破壊すると兵をまとめて、古処山城に逃げ帰った。
翌日には、秀吉軍は古処山城を囲んでいっせいに篝火を焚かせ、そのおびただしさに改
めてて秋月氏は驚き、夜が明けると昨日破壊したはずの益冨城が一夜で布張りの白亜の
城を建てた。これは秀吉一流のトリックだったが、これが効を奏しこれを見た秋月方は
戦意を喪失して古処山を降りて降伏した。この後朝倉氏は宮崎高鍋に移封されこの地を
去った。こうして秋月氏は江戸時代を通じて、日向高鍋藩として存続した。古処山はこ
の後一時廃城となり、日田と同じ天領だったが、黒田氏の福岡藩の支藩として元和9年
(1623年)黒田長政の三男・長興が福岡藩より5万石を分知され立藩した。秋月氏は無
城大名ではあったが城主格が与えられ、4代藩主長貞の息女、春姫は高鍋藩秋月氏に嫁
ぎ、次男は名君として名高い上杉鷹山となった。


1647: 名無しさんAA:18/11/13 23:38
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   680   > 

 この朝倉氏や筑前朝倉の秋月氏を一時的に連れ添ったのが何故か立花氏であった事は
余りしられていない。と言うのも立花氏は秀吉は大変気に居られたからだ。柳川につい
た松倉の配下や三好衆の配下森・堀江・山本・岡・荒木・高田・松永・戒重(富重・柴
村)・大仏供(大渕・渕上)などの一族は、そのまま家臣として九州に乗り込み、九州
征伐以降居ついてしまった人々である。岡氏は大川に住し、松永氏は三潴に住んだ。荒
木氏や高田氏などは今でも街などの地名になっている。荒木又右エ門の放浪記では、そ
の剣豪ぶりからも、五輪の書の宮本武蔵でさえも、逆に柳川に近づけなかった事が解る
。それは鍋蓋で柳生を止めた塚原朴伝や柳生宗矩や後藤又兵衛すらも、避けて通ったと
言われている。つまり小野 鎮幸(おの しげゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にか
けての最強の剣豪で、立花氏には更に綿貫氏や渡辺氏や問注所氏や十時氏や由布氏など
、最強の家臣団が、層々たる猛者が居すぎて、あの剣豪佐々木小次郎すら家臣になる事
の為の仕官にあとをついて行った程の器量があったのだ。そこに目を付けた秀吉は、こ
の近畿や関西圏の無法者たちを九州の立花氏に向けたのである。布施氏や六角氏などの
無法者が佐賀の多布施や六角川や或いは八田氏などが、八田川などの近郊にに住んだの
が、柳川立花藩に比べたら、極少数だったのだ。細川藩に迎えられた宮本武蔵も理由は
簡単だった。立花氏と雌雄を決したかったのだ。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで
は父の新免無二が関ヶ原の戦い以前に東軍の黒田家に仕官していた黒田家の文書が存在
するほど弱かった為に仕官の為の大アピールをしてやっと巌流島の決闘に至っている。
つまり浪人集めに乗った無宿浪人の一人だったのである。父と共に当時豊前国を領して
いた黒田如水に従い、この九州の関ヶ原に東軍として九州で戦った可能性が高く、伝承
では柳川を避けて山越えして身を隠してこの期に肥後に入ったと言われているが確証は
ない。又、1612年(慶長17年)に、この「岩流」は剣豪宮本武蔵と決闘したが、武蔵と
九州小倉藩は細川氏の藩で数々の罠を仕掛けていた。最後は「舟島」で決闘し、これに
敗れて死んだのではなく、この決闘時の年齢は、宮本武蔵が20代で佐々木小次郎が60歳
近くだったし、真剣ではなく漕ぎ手の櫓によって殴られ息を吹き返した所を細川の藩士
に切り殺された事が解っている。小野鎮幸は立花氏の家臣で、日本槍柱七本・立花四天
王の一人に数えられている。また和泉守であることから小野 和泉(おの いずみ)とも
呼ばれたが、小野氏は7人兄弟であった。筑後国柳川城の城主となった道雪の子・宗茂
からは家中で最高の5千石の禄高を賜り、次席家老を務め、蒲池城主となった。文禄・
慶長の役にも参加し、数々の武功を立てている。

1648: 名無しさんAA:18/11/13 23:39
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   681   > 

 大蔵氏流秋月氏の「三つ撫子」は少し愛らしく有名な紋である。これは、月に映える
撫子を配した故地の秋の情景を祈念したものだ、といわれている。しかし、大蔵氏の祖
春実が藤原純友の乱に際して、朱雀天皇より錦の御旗および天国の短刀を賜わり、小野
好古らとともに純友を追討したと言う歴史がある。その勲功によって西征将軍となり、
筑前に所領を賜り九州大蔵流諸氏の祖になった。春実は朱雀天皇より賜った御旗に大和
撫子の紋があったことにより、大和撫子をもって家紋とした。その後、大蔵氏は原田氏
を嫡流として、高橋・江上・田尻・天草の諸氏が出てきて鎮西の大族となったのである
。戦国時代、龍造寺氏に仕えた成富氏も大蔵氏流で撫子を紋としており、撫子紋は大蔵
一族の共通の紋であったようだ。秋月氏も大蔵氏流として撫子紋を用いたものを、いつ
の頃か美化したものであろう。その他、清和源氏では源頼季流の井上・山口の諸氏、藤
原秀郷流の柴田氏、穂積氏流の鈴木氏などが撫子紋を用いている。中でも最も関東武士
でありながら柳川近郊で使ったのは田尻氏である。田尻氏は鎌倉時代から山門郡高田町
田尻地区一帯を本拠とする国人領主で、大蔵春実の後裔といわれている。しかし口伝に
拠れば荒尾近郊の山で平家追討者がそのまま居つき大雨災害で高田まで降りて来た。と
言われている。系図では、寿永年間(1182〜84)に大宰大監原田種成の三男原田種実が
、筑前国から筑後国三池庄田尻邑に移り住み、田尻三郎を称し始祖となっている。弘安
四年(1281)の元寇の戦いに、種範の子種重・種光兄弟が出陣して戦死、その功により
種重の子種長が薩摩鹿児島郡の地を与えられた。筑後国の守護は肥後菊池家を本領とし
ていたが、相次いぐ謀略で大友氏が台頭し、田尻氏は左衛門大夫恒種のとき大友氏に属
するようになった。永正年中(1504〜21)に筑後の黒木・蒲池氏らが大友氏に謀叛を企
てたが、遠江守治種はその誘いに応じず、大友氏に忠節を通したという。田尻氏は三池
北部と山門郡南部に知行地を領し、治種のあとを継いだ伯耆守親種の代に山門郡鷹尾城
を築いて居城とした。天文十九年(1550)「二階崩れの変」で、大友義鑑が横死した。
家中の混乱を押えた宗麟が、大友氏の家督を継いだが、大友義鑑に肥後を追われていた
菊池義武が、旧臣を催し、さらに筑後の三池・西牟田・溝口氏らの支援を得て熊本城に
復帰した。この争乱に田尻親種は、大友氏に味方して鷹尾城に立て籠り、三池・西牟田
・溝口氏らと戦った。親種は蒲池氏と結び、一族の山城守鑑乗らの活躍もあって筑後の
反大友勢の討伐に活躍した。

1649: 名無しさんAA:18/11/13 23:42
界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   682   > 

 天文二十年には、大内義隆が重臣の陶隆房(のち晴賢)の謀叛で殺害され、隆房は義
鎮の弟晴英(のちの大内義長)を大内氏の跡継ぎに迎えた。いままでは大内氏の攻勢に
、さらされていたが、大友氏は、ここに反撃し豊前・筑前に勢力を拡大することができ
た。更に、弘治元年(1555)に晴賢が毛利元就と戦って敗れ、さらに内義長も元就によ
って滅ぼされると、北九州の情勢はにわかに急を告げて、筑後・肥後も大友は力を入れ
取った。弘治三年(1557)、筑紫惟門・秋月文種らが毛利氏に通じて、大友氏から離れ
て兵を挙げた。義鎮はただちに兵を送って、死闘の末、筑紫、秋月らを討ち取った。永
禄二年(1559)、毛利に逃げていた息子の筑紫惟門は、博多を襲撃し勢力を盛り返した
。大友軍はただちに討伐軍を出したが、侍島の合戦で大敗を喫して、星野鑑泰・問註所
鑑晴らが討死した。田尻親種も一族を率いて参陣したが、弟の種廉・種増をはじめ多く
の兵を失った。ほどなく、惟門は大友軍に降伏を申し入れたが、それを取次いだのは、
親種であった。筑前の争乱をおさえるため義鑑は、高橋鑑種を筑前代官、太宰府宝満城
督として派遣した。この時の毛利氏の侵攻が矢部川支流の毛利川の地名になった。更に
白鳥の戦いで残った毛利氏勢は、森の姓に変えて田尻氏に仕えた。しかし北九州では、
筑前・豊前を舞台に大友氏と毛利氏の戦いは繰り返され、永禄四年には大友氏は毛利軍
に大敗した。やがて永禄七年、将軍足利義輝の扱いで毛利・大友氏の間に和睦が成立し
た。ところが、永禄九年になると、宝満城督の高橋鑑種が秋月種実、筑紫惟門らに呼応
して、大友氏から離反した。このような筑前の擾乱に業を煮やした義鑑は、戸次鑑連を
大将とする討伐軍を筑前に送った。鑑連は高橋鑑種を降すと、秋月氏の拠る古処山城の
攻略に向かった。この陣には、豊前の長野・麻生・城井の諸将や、筑後から三池親高・
田尻鑑種らが参加していた。そこへ、毛利氏が豊前に渡海したとの噂がたち、豊前の諸
将は兵をひきあげ、鑑連も仕方なく一旦休松まで兵を退いた。それをみた秋月種実は、
夜襲を企て、休松の大友軍を散々に打ち破った。この戦いで、戸次鑑連の弟四人が戦死
し、鑑種も叔父鑑永をはじめ一族六人を失った。この敗戦によって、大友方の立花城将
立花鑑載までが大友氏から離反した。この時龍造寺氏は少弐氏が武藤に変えたように、
家老の鍋島氏によって死亡し廃嫡に及んでいる。ところが叔父で英彦山の僧として秋月
に保護されていた龍造寺氏を、田尻氏は鷹尾で預かっている。これが蒲池氏の大きな禍
いになった


1650: 名無しさんAA:18/11/13 23:42
。やがて、大友義鑑は庇護していた大内輝弘を周防に帰国させ、さらに出雲
の尼子残党に手をまわして毛利氏の後方攪乱をはかったが、毛利氏も水軍を持って出た
。しかし国崩しの大砲合戦では船が弱く、ついに毛利氏は北九州から撤退し、反抗勢力
も大友氏の征圧されていった。その間の争乱に田尻氏は大友方として出陣、多くの犠牲
をはらったのである。



1651: 名無しさんAA:18/11/13 23:42
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   683   > 

 もともと小野氏族は松石氏の家臣だった。小野妹子などが先祖の小野氏は、先行松石
氏の古処山城などに住する人だったからだ。鎮守将軍となり小野春風や追捕凶賊使とし
て藤原純友の乱の鎮圧にあたり小野好古なども出している。武蔵七党の筆頭の横山氏(
猪俣氏)は、小野篁の末裔。横山氏(猪俣氏)の一族で、新田氏と自称した由良氏(横
瀬氏)も小野を本姓としている。そもそも小野家は御乃であり、安曇磯良丸(あずみの
いそらまる)伝説では、弥永氏と同じに武内宿禰(たけのうちすくね)の一族の流れに
ある中で、天皇の御声がかかった者らと言う意味になる。小野和泉守鎮幸(1546〜1609)
は、大友宗麟、立花道雪・宗茂に仕えた重臣である。生涯22の大戦に、小さな戦いでは
数えきれぬほど出陣し、67か所の傷を負い、68枚の感状を受け取った立花家屈指の名将
である。同時期に活躍した由布雪下入道(惟信)と共に「奇正相性」と称され、立花の
両翼と目された。しかし由布惟信(1527〜1612)は、別府氏と共に湯布院を治めた藩主で
あり大神氏の家臣だった。この為立花家再興の前から日子族の家系で、ほぼ立花氏が敵
対敵将の頃から携わりのある武将だった。道雪・宗茂を通じて家に尽くした筆頭家臣で
ある。生涯65の戦に出陣して、65か所の怪我を負い、70枚の感状を賜った。由布惟信は
湯布院に生まれ、その地域を治める一国衆に過ぎなかったが、大友家内で頭角を現すと
、由布家は自然と大友家に仕え由布と戸次は仲良くなった。後で主君である戸次鑑連と
(とつぎあきつら:後の立花道雪)と出会い、彼の戦に感激した惟信は家督を嫡男に譲
ると、自分は領地や知行を捨てて鑑連に随行する。立花道雪は、若き頃に雷に打たれ、
雷神を斬って生還したが、下半身不随というハンデを抱えた、しかし参加した戦は生涯
無敗とされ、神輿の状態でも敵を5人一度に斬殺したという伝説をもつ武将である。い
わばカリスマの知将であった。この道雪のカリスマ性に惚れ込んだ諸将が立花家の門を
叩き、家臣となった例は多く、又担ぎ手は世話方の12人の女子だったという話だった
。小野鎮幸は、大友宗麟の直属家臣で、領主制の筆頭家臣だった立花道雪の目付として
松石城に赴いた。しかし道雪家臣の由布雪下惟信にその武勇を見出され、惟信は自身の
家禄を減らしてまで立花家に鎮幸を引き入れた。立花家の中で鎮幸は頭角を現し、立花
家の陣において由布惟信と共に両翼を担当した。両者とも道雪・宗茂が参加した戦にほ
とんど参加しており、立花軍は戦国でも髄一の強さを見せたのは由布・小野両名の働き
があったからである。とされる。



1652: 名無しさんAA:18/11/13 23:43
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   684   > 

 道雪には手塩にかけて育てた一人娘・ァ千代がいた。56の時にやっと生まれた愛娘
だけに、その溺愛ぶりたるやすごかった。鑑連はァ千代に男子同然の教育を施し、ァ千
代の誕生日に家督や居城をァ千代に譲り、自分は隠居として娘に仕えると言い出して、
当然、次期当主は自分こそが立花の正統な後継者だといってァ千代が引き下がらなかっ
たのだ。流石に、それはいかがなものかと家臣の説得を受けた道雪はァ千代に婿を取ら
せることにした。その婿こそが剛勇鎮西一・立花宗茂であるが、何かと婿養子では肩身
が狭い。事あるごとに惟信は幼い宗茂をいじめたというエピソードがある。宗茂も剛の
者で次第に立花家の家風に慣れていき、「立花の3000は敵兵10000に匹敵する」と
称されるほどの名将に成長し、道雪の死後に、婿養子となった立花宗茂が家督を継いだ
。しかし、一つ問題があった。婿養子の宗茂が継ぐのが普通だったのが、ァ千代は城主
の座を譲らなかったのである。それは当然と言えば当然だった。戦国の中にあって、婿
城主とは言え、離縁し政略結婚したり、覇者から人質として差し出せとなれば、悲しい
運命(さだめ)の下で城の外に放浪する話も多々あった。それよりは城と共に命運をか
け闘う事を望んだのである。これは気性からして譲る事はない話で当然だった。そこで
預かり城主つまり雇われ社長みたいな近代的な形で領主となった。かつて第76代目の
胸方氏は宗像大宮司の宗像正氏とその正室山田夫人との間に一人娘が生まれ菊姫として
可愛がって育てていた。しかし、時の大宰府の宰相として大内氏がなり、筑前、豊前の
守護大名として中国地方の出仕を命じられ、父正氏は大内家への軍役を果たすために、
菊姫親子を宗像の地に残し、山口に三年間ほど住んだ。この期間に大内家家老陶隆房(
陶晴賢)の策略で姪照葉を側室に迎え、菊姫の異母兄弟となる鍋寿丸(氏貞)と色姫を
もうけた。菊姫は14歳の頃に、伯父方の大宮司を務めた氏続の子宗像氏男と結婚し、
正氏の死後は氏男が宗像大宮司の家督を継承した、正氏と同じく山口に出仕しているが
、陶隆房が蜂起した「大寧寺の変」により主君大内義隆に殉じて氏男は死亡した。そこ
で起こったのが家督を巡る争いである。最終的にこの争いは、陶隆房の勢力をバックに
した鍋寿丸側が討っ手を差し向け、千代松及びその父氏続は豊前に逃れるも、千代松は
山口(宮若市)で、氏続は彦山で討たれた。その後も命を受けた家臣により山田局、菊
姫、四人の侍女などが惨殺され乱入した雑兵により財宝を奪われたという。山田事件で
ある。陶氏は大内氏を討つとき、既にこの宗像氏のもつ船積みの権限を奪うのが目的と
していたのである。


1653: 名無しさんAA:18/11/13 23:44
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   685   > 

 この時、晴賢の指示を受けたのが石松典宗(石松又兵衛尚季)であった。天文21年
3月23日白山の麓の山田館において正氏の後室山田局、菊姫、小少将・三日月・小夜
・花尾の侍女4人が次々と惨殺されたが、盗み入った時山田局は菊姫を守り、花尾は自
害した。その後は、邸宅の後ろの山の岸の下に穴を掘り菊姫親子を一緒に埋め、死んだ
女房四人も傍らに埋めたという。千代松の母弁の前は千代松を連れ鞍手の沼口に身を隠
していたが、雇われ浪人の石松を見張って氏貞の家臣がいたが、千代松を生かしておけ
ばいずれ災いとなるに違いないと思った氏貞派は討手を差し向け、宮若市山口村で母子
共に殺害した。討手はその場所に二人の亡骸を埋めて印に松を植えたという。これは、
氏貞の親戚である陶晴賢が宗像地方に影響力を持つために氏貞を周防国から送り込み、
自分にとって邪魔である宗像正氏の影響力を消し去るためにこの事件を行ったとされる
。この、宗像氏の一連の内紛全体のことを宗像騒動といもいう。この事件の後には、宗
像家中で、事件に関わった者たちが次々と怪死や変死をした。数々の怪異が起き、宗像
領内では山田事件の怨霊がささやかれた。事件の七回忌にあたる永禄7年、氏貞の妹色
姫が母と一緒に双六に興じていた際に、突然髪を振り乱し「我は正氏の妻なり」と言っ
て目を怒らせ母を責め立て、自分(山田局)と娘(菊姫)を殺したことを怒り恨んで、
母照葉の喉に食い付き、傍らにいた者達が大勢立ち寄って引き離すも、その外にも後室
に仇なした家人共に今日恨みを晴らそうと怒り責め立て、氏貞派であった家臣がその日
突然死したりしたと言う。色姫の狂気は暫くして癒え、照葉の喉の傷は癒えるも、他の
者も病気にかかり次々と死去した。今では外国船の出入りの為に赤痢や天然痘が流行っ
たのかも知れないと解される。鍋寿丸から名を改め第80代宗像大宮司を相続した氏貞は
、家内や領内で起こる数々の怪異や不幸が、幼少期におきた悲惨な事件が原因だと考え
田島に社を建て、増福院に祭田を寄付して香花を備え多くの僧を呼んで菊姫ら6人の大
法要を営み、領内に56のも寺院を建て6人の鎮魂と慰霊を努めたというが、仇となっ
た者の子孫までその怨霊の祟りは止むことがなかった。とされる。この時この地を離れ
立花氏に仕えた者がいた。それが田島氏と松石氏だった。石松氏は豊後・蕪山城の城主
で石松城と言われ日田郡老の一人だった。大友義鑑より旧大蔵日田氏の一族の中から指
名され日田郡政を治めた。8名がいて八奉行や八郡老とも呼ばれた。財津・羽野・坂本
・堤・佐藤・世戸口・高瀬・松石・諸富・などが、それぞれ世代を繋げなかった時交代
して行い日田諸城。(ひたしょじょう)として郡の地主として代表した。

1654: 名無しさんAA:18/11/13 23:45
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   686   > 

。戦国時代の宗像とは現在の宗像市・福津市・遠賀郡の遠賀川より鞍手郡北西部と古賀
浜を含む新宮海岸である。遠賀川以東の遠賀郡も豪族である麻生氏が宗像氏との戦争後
、宗像氏に従属していたため、支配地域として宗像と呼ぶこともあった。ただし、歴史
上では正確には宗像氏の領土を指すことが多く、最後まで一貫して宗像氏の領土だった
宗像市と西郷の地を除く福津市と旧若宮町・旧宮田町北部・岡垣町・遠賀町のごく一部
である地域を指す。この地域は、古くからの中国大陸や朝鮮半島と繋がりは深く、貿易
が活発だったことも有名である。こうして陶氏が宗像族の古賀氏や麻生氏を従えた頃は
大友氏も、戸次鑑連(とつぎあきつら:後の立花道雪)を立花城に差し向けたのである
。こうして「氏貞」派が陶氏を担ぎ、宗像氏第80代として家督を継いだが、その呪わ
れた世代交代は天文20年(1551)氏貞が僅か六歳の時である。次の年、宗像氏の居城の
「白山城」に入ったのは天文21年に、氏貞七歳の時に元服を行い同時に戴冠式である
城入りを果たし宗像神宣下をした。以後「氏貞」は、陶氏が中国毛利氏に討たれていた
。大内氏の一族で、五代盛政以後、歴代周防守護代を勤めた陶氏は、若山城が居城であ
る。興房は大内義興に仕えて戦国時代を生き抜いた。その子隆房(のち晴賢)も大内氏
の守りとして各地の戦いに活躍したが、天文二十年、鬨の文に流れる大内義隆に叛旗を
翻し主家・大内氏を滅ぼした。しかし、晴賢もまた安芸厳島で毛利元就と戦い敗れて討
たれた。その後、孫鶴寿丸も毛利氏の追撃にあって自殺し、陶氏は滅亡したが豊後大友
氏と対立しながらも 戦国時代の中では、神郡宗像の統治を進めていて、その領地は、
宗像、遠賀、鞍手の三郡落、実に「四千五百町歩」にも及んだ。その為大友氏とは度々
対立、とりわけ立花山との間にある宗像氏の支城「許斐城(このみじょう)」は宗像氏
の要の城で、立花城との間で何度も争奪が行われた。許斐城を立花大友氏に押さえられ
氏貞は白山城を出て大島へ逃れたこともある。これをまた急襲し許斐城を奪回もした。
しかし毛利元就が本国の事情急変で立花城を去り、大友の筑前支配が確立すると、大友
宗像の和睦がなり、その証に立花城督となった立花道雪(戸次鑑連)に氏貞の妹「色姫
」が輿入れしたのである。即ち人質である。この時、氏貞が化粧料として色姫につけた
西郷庄三百町の土地が思わぬ争いの火種となった。石松氏が松石に変えた頃、諸富氏や
堤氏や坂本氏も大川に出た。日田の金鉱山を隠した為だ。永禄九年(1566年)、筑前・
岩屋城と宝満山城を預かっていた高橋鑑種が大友氏に反旗を翻した。この動きに、秋月
種実も呼応した。しかし、大友氏の軍勢も反応し、秋月攻めを行い甘木に火を放った。

1655: 名無しさんAA:18/11/13 23:49
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   687   > 

 福智山は福岡県北部に位置する山で、北九州市、直方市、福智町の最高峰で標高900m
の山である。九州百名山の一つに数えられ、福智山周辺は平尾台や皿倉山同様に北九州
国定公園に含まれている程だ。成人を祝う儀礼を古く行う神霊聖山だった為、男子には
元服・褌祝、女子には裳着・結髪などがあった。こうしたものを通過儀礼(イニシエー
ション)の一つとして扱うその中宮として城は福智山の支峰、鷹取山(標高633m)上に
築かれていた。中世の城郭の中でも屈指の標高を誇り、近世城郭としては他に例の無い
高所に築かれた山城である。近世城郭として、さながらトーチカを思わせる鉄壁の要塞
であった。別名、鷹取山城だが同時代に、肥前筑紫鷹取城(筑紫氏領)とその西の肥前
鷹取山城(少弐氏領)、筑前高鳥居城(杉氏、秋月氏、筑紫氏、星野氏領)、筑後鷹取
城(星野氏領)など読音近いや同名の城があり常に混同された状況があった。鷹取山の
多くは、いわゆる神主の烏帽子を俗に鷹取と称したので、成人報告の産土信仰の山だっ
た事からの名だったと思われる。この高地の神の民は戦乱によって大飢饉に陥っていた
。大友に従っていた戸次方重臣足立氏は城主の筑紫広門要請に答えてで米を送る事にし
た。この時まだ立花氏は生きていて籠城していた。筑前立花氏は、立花山城を元徳2年
(1330年)に豊後国守護の大友貞宗次男大友貞載が築き、この地に拠ったことによって
立花氏を称するようになっていた。港町博多を見下ろす非常に重要な拠点であり、戦国
時代には大内氏や毛利氏と大友氏の激闘地でもあった。今や立花氏は立花宗茂とされる
が宗茂本人は戸次か高橋でしか名乗っていない。永禄8(1565)年永禄11年に立花城主
の立花鑑載が主家の大友家に謀反をおこすと、戸次道雪は臼杵鑑速、吉弘鑑理らと共に
、立花城を攻略し、立花鑑載を敗死させたのである。また元亀元(1570)年には、道雪
は再び臼杵鑑速、吉弘鑑理らとともに、今度は毛利氏の手に落ちていた立花城を攻め、
城方を降伏させた。これらの功により、道雪は2(1571)年に大友宗麟により立花城の
城督に任じられました。その後、道雪の跡を継いだ宗茂が柳川城に移り立花氏と呼ばれ
て、秀吉差配で、立花城には小早川氏が入城し、次いで黒田氏が入城した。筑前立花氏
は、筑紫広門とは縁故にあったし、同盟の徒でもあった。1570年に城と家督が盗ら
れ家絶となっている。そうした中で、鷹取山城の飢饉を救うため。道雪が鷹取山城へ米
の救援運搬しようと言う事が伝わったのである。実は色姫の輿入れに宮司として祓いの
行司をしたのが古族の松石氏だったとされている。宮地嶽の神人とされていたからだ。


1656: 名無しさんAA:18/11/13 23:52
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   688   > 

 元亀2年(1571年)、25歳の色姫は大友家一族で立花山城城主の立花道雪のもとへ輿
入れし、色姫は立花山城の松尾丸を与えられたので「松尾殿」と呼ばれた。平時は立花
山麓の青柳村石瓦(古賀市青柳)で暮らした。鷹取山城の飢饉を救うため。道雪が鷹取
山城へ送ったコメの救援運搬で発生したのは、松尾丸の色姫を慕う若宮郷士(旧西郷党
)による反抗だったとされる。福津市JR福間駅から西郷川の一帯は「西郷庄(さいごう
のしょう)」と云い「津丸村」「久末村」「手光村」と称して、西郷川下流を「下西郷
村」上流部を「上西郷村」の五村三百町程があったとされる。この戸次氏の米輸送隊へ
の襲撃に端を発する戦いは「小金原の戦い」と呼ばれる。道雪は、あらかじめ救援隊の
宗像郡内通過を氏貞に伝え、氏貞も安全に通過させるよう家中にその旨を通達し、支持
も得ていた。しかし、「色姫」の化粧料として「道雪」に送られて、領地を失った旧西
郷庄の郷士達は若宮郷を追われ、道雪に対する土地の恨みは怨念に近かったとされる。
更に幾らかの宣教師達も大友からついて来ていた。アルメイダは1552年に貿易目的で初
来日している。つまり20年も前に日本の肥前肥後豊前豊後で布教を始めていた。既に
南蛮船の奴隷貿易が始まっていたのである。郷士達は隙あらばと狙っていた。ところの
襲撃であった。戦いは終日に及び熾烈を極めた。襲撃した若宮郷士の殆どと、制止に向
かった氏貞の重臣二人、それに秋月氏の応援など宗像勢百数十人が戦死、戸次方も重臣
「足立式部」など三十名近くが戦死した。この宗像勢の背信行為に、戸次道雪は激しく
怒り、直ちに蔦嶽を攻めさせた。氏貞も仔細を述べ陳謝の意向を示すが道雪は収まらず
、やむなく氏貞は、許斐城のの西八並口に兵を配し立花勢を退けた。それでも道雪達は
宗像への攻めを緩めず、遂に許斐城を落して収まった。こうして道雪と氏貞の対立は、
道雪が死ぬまで解消されなかった。道雪と氏貞の狭間にあって 最も心を痛めたのは「
色姫」であったはずだ。わざわざ身売りの婚儀を得ているにも関わらず戦いが起こった
のだ。天正12年3月24日山田地蔵尊の命日に、自ら命を絶った。若くして神郡宗像
の統治を果たしたした青年武将「宗像氏貞」は、天正14年3月4日病にて逝去。享年
42歳、墓所は、宗像市上八(ごうじょう)の海を望む丘に建てられた。「氏貞」に世継
ぎとする「男子」が無かったことで「秀吉」により名門「宗像大宮司家」は取り潰しと
なり「宗像氏貞」は最期の当主となった。そして宮地嶽神社はその力を失ったのである



1657: 名無しさんAA:18/11/13 23:55
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   689   > 

 この西郷の郷士は、島津の九州制覇によって、島津勢に加わった。彼らが祀ったであ
ろう神輿神社は宗像三神を祀る古い神社である。ここで起こっていた定札制度は、後の
国民健康保険制度の参考にされた、札による年金的講保険や制度が、世界初で行われて
いた地域であった。神社縁起では、村の南六町計圃の中に神興(ジンゴ)といふ所あり
。古瓦多し。又礎石も残れり。民老伝へて云。いにしへ宗像三女神鞍手郡室木岳より、
しはらくこゝに遷座し給ひし時の社地なりとそ。神興とは神威此所よりおこり、現れ給
ふ故の名と、宗像宮縁起に見ゆ。其東三十町歩に森あり。中に叢祠あり。宗像三神を祭
れるなるへし。此邊にグハンジツタ(元日田)・ゴグハチデン(五月田)と云田の字残
れり。皆神税の地なりしとそ。と書いている。又「筑前国続風土記拾遺」神興宮址では
村の南六町許、山畠の内に石祠有、此處を古より神興と云う。宗像三女神を祭る。宗像
社記曰く、三女神初室木六岳出現給、其後於神興村而神威輝給、故其所神興村云、其後
三所の霊地在御遷座云々と見えたり。此處のことなり。しかれば宗像三所に鎮座のこと
は、いともいとも上つ世のことにて、既に三所の地名は古事記、日本紀にもしるされた
れば、なほ其前久しき世の事也けられし。其三所に遷給へる後も、此處は宮殿跡にして
、祭祀も盛也しとかや。今旧址を見るに、山谷の間に在て、其景至幽邃也。兵上方二町
計、平坦にして三方に山岡施りて、南一方遙に開て、泉川東より西に流れたり。其平原
の艮の隅に、冬青樹(チノミ)と石段樹(タブ)二三立り。其餘は栗田豆田となりたり
。圃中に古瓦の破たる多し。其南に古瓦を拾ひ捨てし處、塚の如く積めり。此圃中薦敷
と云處、栗生の中より村民善三郎と云ものゝ女、享和元年辛酉六月十二日銅印一顆を得
たり、其形方にて、造字一字鐫たり。冠紐書體古雅にして、古色愛しつべし。宗像社所
藏の勘合印また山田村増福院にある所の氏雄の印に同様なり。また此處に五月田、元日
田など云田字あり。古の祝税の地なりといふ。かくていづれの比なりにしや、兵乱に御
社も回祿せいかば、假に神體を東南の方高宮山の半腹に社を建て祀りしか、寛永十三年
鳥巣村の内に移せり。(此事は畝町の條にいへり。)かの鳥巣高宮に移せし後は、宮殿
門樓の址空しく禾黍の田となりて、其址とも見へざりしが、近比村民土一と云もの、夢
の告有と称して、石檀樹の下に、小祠を営めり、其後旱年に村民等、此祠するに、霊應
ありとて、隣村民等力を戮て、報賽に石祠を建立す。側に手水盥を置り。是は南の圃に
ありしいにしへの礎石なり。經六尺貳寸、横四尺六寸五分、高荷尺寸、正中に柱を彫入
し穴あり。經壹尺九寸、深三寸五分あり。この礎石をみて、上古の殿舎の宏大なりしこ
とを知るべし。

1658: 名無しさんAA:18/11/14 00:01
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   690   > 

 その後、立花氏が柳川に入城する折には、この鳥巣村氏族も古賀村氏族も山田氏族も
豆田氏族も、この時立花氏について行った。つまり博多の奴隷船に恐怖したのである。
そして人の居なくなった場所に黒田氏はやって来た。この福津の人々はかつて南北朝の
時代に足利氏の再興を助けた人達だとされる。又この、福岡県福津市津丸の神興神社は
、神社は、宗像三女神鞍手郡室木岳からと書かれ 鞍手の室木の物を古い時代にここに
移した物だったと書かれている。また大正年間に古瓦発見し、鑑定の結果に延喜十一年
の銘あったとしてる事で、西暦912年の頃の話である。つまりそういった以前から、
室木岳には住民が暮らしていた中で、戦乱と黒船が奴隷貿易と鉄砲持ってやって来たの
である。世界的にインカ帝国はこれによって滅びたが、日本人は戦い抜いたのである。
しかし、この人のいない地に黒田氏は、1601年に福岡城が築く事を決意した。立花城は
その後廃城となり、立花城の石垣は福岡城の城壁に利用され、現在立花山には僅かなが
ら城の石垣跡のみが点在している。又鷹取城も天正14年(1586年)鎮実に代わって筑紫左
馬守広門が城主となっていたが同年六月に島津氏の侵攻により肥前国勝尾城へ逃れた。
慶長6年(1601年)、関ヶ原合戦後に筑前に入封した黒田長政は六端城の一つとして母里
太兵衛友信に一万八千石を与えて城主としたが、同じく六端城の一つの益富城主の後藤
又兵衛基次が逐電した為、友信は益富城に移り、代わって手塚孫大夫光重が城主となっ
た。元和の一国一城令によって廃城となった。この時陶氏一族の一部は末松と名乗って
立花氏に付いた事からその陶氏に雇われて菊姫を惨殺し石松氏も松石と名を替えて仕え
た。もともと石松氏族は豊後の家臣で大友氏から派遣され大内氏に仕えた者だった。豊
後の大蔵氏は古代に九州の日田地方を支配していた日下部氏に代わって日田郡司になっ
た。また擬任郡司ともされる。位は散位であって、検校を称した。大蔵氏の祖とする東
漢姓の阿智使主(あちのおみ)の子孫の説があり、渡来の秦氏の分家系統とされ大蔵日
田氏と名乗った。日田城および大蔵館(鷹城)、現在の慈眼山公園を拠点に栄華を極め
金鉱脈からその資金を得たが、大友氏の配下に下り排除された。先の宮地嶽神社が神輿
神社と名を替え、宮地嶽御宮畑田がゴグハチデン(五月田)とされたのである。


1659: 名無しさんAA:18/11/14 00:08
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   691   > 

享禄3年(1530年)からは九州に出兵し、北九州の覇権を豊後国の大友氏や筑前国の少
弐氏らと争い。家臣の杉興運や陶興房らに軍を預けて少弐氏を攻めた。そして肥前国の
松浦氏を従属させ、さらに北九州沿岸を平定して大陸貿易の利権を掌握したのだった。
しかし杉興運に行なわせた少弐攻めでは、少弐氏の重臣・龍造寺家兼の反攻にあって、
大敗を喫した。室町時代、周防国の大名大内氏と肥前国の太宰府少弐氏は、九州の政治
を大宰府政庁の任官として行っていた。南北朝で建武の新政下で鎌倉将軍府が設けられ
ると新たに鎮西守護職として渋川氏が着任した。足利尊氏・直義兄弟の六波羅探題攻略
に従った曲者で、南朝方の多い九州制圧に差し向けた者だった。こうして設けられた新
たな裁判や検察の九州探題に次々と任命されてやってきては争乱の元となった。菊池氏
を謀殺した後は、大友氏は、覇権を争う二者に任せているのはまだ勢力争いを熊本肥後
に終始しているからだ。大内少弐氏の争いで宿敵同士になった頃大内氏の勢力は周防国
と長門国の2ヶ国に拡大していた。大内義隆は幼少の頃、母方の祖父である内藤弘矩を
父義興が「家督相続に反対し、異母弟の高弘を推している」と讒言されて、本気になり
誅伐した。しかし後日、弘矩の無実が発覚し、責任を取る形で義興は弘矩の娘・東向殿
を正室に迎えた。しかしこれは無理な話である。しかし夫婦仲は良く子沢山ではあった
と伝えられる。女性ばかりで、義隆は男兄弟がおらず(一人いたけど早世した)、姉妹
ばかりだったので、跡継ぎに関するトラブルは無かったようだ。こうして義隆は男色家
として芽生えている。そこには家督争いのかほりがしますが、史実は今や不明のままだ
、大友二階崩れの時、大友義鑑は、正室の子である義鎮を嫡男と決定していたが、側室
の子である三男の塩市丸を後継者としたいと考え、義鎮を廃嫡しようとしていたとされ
る。この時塩市丸派の入田親誠は肥後の阿蘇惟豊を頼って逃亡するが、事件後に阿蘇氏
によって討たれた。義鑑の義鎮廃嫡については、義鎮の生母は大内義興の娘とも言われ
、家中からの大内氏の勢力排除のために計画されたことであるとも考えられている。こ
の時の襲撃で塩市丸と生母、義鑑らの娘2人が死亡し、津久見・田口の両名はその場で
壮絶な最期を遂げた。義鑑も数日後には受けた傷がもとで、領国経営に関する置文を残
して死去。義鑑の死後、大友氏の家督は戸次鑑連ら家臣に擁立され義鎮が継承した。こ
の変が起きなければ、後の大友宗麟は存在していなかったともいえる。この時大友氏の
体制は各藩の幕閣体制で子飼いの直参は数人しか居なかった。だからこそ、この争乱が
起こった。つまり領主の意見に従わざるを得ない城主だったが独断で西洋を受け入れて
墓穴を掘った形が大友家で親子2代続くのである。

1660: 名無しさんAA:18/11/14 00:11
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   692   > 

 この頃の戦国大名は殆どがや、分国法・領国法を持ち、戦国大名が領国内を統治する
ために制定した基本的な法令で、従来からの国衆と領土拡大で得た外様領主を持ってい
た、国衆の中に評定衆(ひょうじょうしゅう)と言う、役職の与えその国の方針を決め
た。幕府や藩の最高政務機関であり、行政・司法・立法のすべてを司っていた為彼らに
意見するのに取次と言う仲介が必要で、この3者でその下の国政が決った。従って領主
は藩主の意向は聞いても従わない事も多々あった。大友氏の様に九州を治めていた菊池
氏を制圧しながらも、「大内氏に同盟までは良いが、今後は嫁いできた側室の子が殿と
なり大内氏の意向の下で動かされる。」此の事には嫡子のいる中で例えうつけ者でも、
それは反対だった。しかし今や「九州の菊池氏を叩き今周防から朝廷からの威光を背に
大きくなるべき時。」に西洋かぶれにうつけ者のままの若殿に、仏教寺院が破壊されて
旧来の盟友達とケンカし藩内が分断されても藩の拡大に走るべきか。恐らく家臣も殿も
思考に思考を重ね思いあぐねたに違いない。西の龍造寺、南の島津という二大勢力との
争いを続ける中で、その勢威も次第に陰りを見せ始めている。しかし依然として藩の中
では、当主となった大友義鎮(宗麟)は、酒色に耽り、キリスト教を重んじて神社仏閣
を破壊するなど、人格や思想において統治者としての資質を欠く面がある中で、正に、
内憂外患状態が溢れていた。そうして跡継ぎ問題での重臣の離反の大友二階崩れが起こ
った。既に家督を譲与していた粗暴で病弱な「義鎮」を廃嫡にして、寵愛する側室の子
「塩市丸」を後継とするため、まず義鎮を別府へ湯治へ向かわせ、その隙に義鑑は4人
の重臣を館へ呼び、塩市丸を後継とすることを申し渡した。これに4人は反発し席を立
ち、激怒した義鑑は、義鎮廃嫡露見を恐れて再び4人を館へ呼ぶ。これに応じ登城した
重臣「斉藤播磨守」、「小佐井大和守」に刺客を送り謀殺する。危険を感じ登城を避け
難を逃れた「津久見美作守」「田口蔵人佐」は、どうせ討たれるならばと2月10日、
変装夜陰に紛れ館に忍び入り、塩市丸、その母、息女らを斬殺、桐の間にいた義鑑を襲
い深手を負わせた。津久見、田口の一党は、駆けつけた近習らと凄まじい切りあいの末
討ち取られたが、深手を負った義鑑は二日後死亡する。湯場でで急報聞いた義鎮は「佐
伯惟教」軍に先導されて府内大友館に戻る。直ちに「戸次鑑連」「斉藤鎮実」らに黒幕
と目される「入田親誠」の誅伐を命ず。親誠は直入郷入田の居城「津賀牟礼城」へ逃亡
、さらに「阿蘇惟豊」のもとへ逃れるが惟豊に討たれる。こうして豊後大友氏21代は
「大友義鎮」が継承する。


1661: 名無しさんAA:18/11/14 00:13
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   693   > 

 しかし、これは八田氏にとっては濡れ衣だったに違いない。確かに八田氏は津賀牟礼
城の主で、西洋かぶれの大友義鎮の目の上のタンコブではあったろう。しかし大内氏の
よしみがあったにせよ菊池氏からの伝来の地で、かつての九州王朝の流れを汲んだ大神
氏の末裔を名乗る一族である。菊池氏や阿蘇氏の復興ならば兎も角大内氏に加担すこと
はあろう筈は無かった。又「津久見美作守」「田口蔵人佐」も「斉藤播磨守」、「小佐
井大和守」も決して積極的に大友義鎮派ではない。それほど人望を無くしたバカ殿だっ
たのだ。天文19年2月10日(1550)である。天文20年(1551年)1月、叔父の相良
武任は自らも隆房との対立による責任逃れに義隆に書状で「陶隆房と内藤興盛が謀反を
企てている。さらに対立の責任は杉重矩にある」と讒訴し、危険を察知した陶氏は9月
に長門大寧寺において義隆を自害に追い込んでいる。全く同じに大友氏の大殿にこれが
起こったと言える。義隆の養子であった大友晴英は、当時の豊後大友氏当主・大友義隆
の異母兄弟、生母は大内義興の娘で義隆宗麟の甥であった。つまり大友義鎮(宗麟)の
父の異母兄弟が、若くして人質として実家に帰った形である。大友氏側では三男以下は
家系が切れた時の保険と同じで意味は無かった。つまり晴英はこの阻害された状況の切
り崩しにかかったのだ。それは今まで男色家で子種がなかった大内義隆に子が出来てし
まい姉の子などは必要ない。と言う状態に陥ったことだった。大内氏に残るには、大内
氏の幼い嫡男を廃子とするしかなく。又大友氏に帰されようとも大友の嫡男を廃子にし
大友の姉の子の塩市丸が後継者となり叔父として後見人となるしかなかったのだ。こう
して、盤石だった大友氏の支配が揺るぐ中で、毛利氏や島津氏のバックアップを受けた
秋月種実が、お家再興を果たしてにわかに台頭してくる。秋月種実は実に頭の好い武将
だった。大内が大友と繋がっているとして毛利についたからだ。更に海外から、大砲の
小型の買い付けを秘密裏に成功していた。大筒と言われる鉄砲より大きな、そして国崩
しより小さなこの小さな釣鐘の形の重い品物は、かなりの威力を持った。鑑種軍に歩調
を合わせ、筑前立花氏もその買い付けには加わっていた。しかしその動きは当然売って
いたイエズス会を通じて大友には筒抜けだったのだ。しかし八田氏の津賀牟礼城を狙っ
たのは青瞳夫人(せいどうふじん)の言いなりだったのだろう。津賀牟礼城こそは、か
つて九州王朝と大和王朝の集まり和解した場所としての伝記が残るぐらい霊祥の場所で
あり、西洋人を拒否していた所だった。つまり宣教師達の策略ではなかったかと思える


1662: 名無しさんAA:18/11/14 00:19
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   694   > 

 かつて南蛮貿易と布教を許可を求めに来て、大きな長持ちを進呈した。これは何じゃ
との問いに「ドール」と答えた。箱を明けると裸体の白い肌で金髪青い目の少女が横た
わって居たのである。更にそこには焼香の壺やキセルが入れられていて、少女を抱き起
すと、眠っていた裸体の身体はぱっちり目を覚まして、ドレスを手に渡したとされる。
以来ドールとされた夫人は常に傍により、阿片を焚き吸わせて乱稚気淫行の城と化した
と言われる。これ以降は大友宗麟となって豊後の家臣も民も地獄であった。天国を説く
切支丹布教の起こした地獄は厳しい現実で、それは九州全域を動かした。しかし信長公
が死んだ本能寺の変以降は、大友宗麟の権威は失墜し藩は瓦解した。豊前大神氏は蛇竜
神婚起源説という独特な祖母山神話を持ち、蛇口一族と言う縄文海人の末裔とされる。
豊前国の宇佐神宮創祀に関わった大神比義に始まりを持つ大神氏は、山を下り同宮の禰
宜職や大宮司職を継ぎ、同じ資格を持つ在来の豪族であったとされる宇佐氏と争ったと
いわれ、敗れたために宮外に土着した。とされる。だが、宇佐神宮こそが大神氏の許可
を受けた大和朝廷用の神社であった説が妥当で、日足紋の日子族伝説の合致する。後に
宇佐氏も749年(天平勝宝元年)に大神姓を賜り。縁戚となり886年に大神良臣が当時の
朝廷官位を貰って筑後国から豊後に赴任した史実がある。その古代筑後国府が久末の元
の百町花園であったと言われる。棚町は、実は他の街、則ち人々の田でなく都に送る棚
と呼ばれた朝廷荘園が起源であると伝えられている。猿田彦束柱はその起源で玉納の、
祀られる息長帯比売命は神功皇后の本名とされる。つまり沖の(海の向こうで)名が垂
らし(有名な)ひめの命(王の姫)と言う訳である。この京都や奈良に出荷する米が集
荷し出港したのが鷹尾神社で、その本宮が玉垂れ宮とされ出張所で蔵とし、糟屋の屯倉
をヤマト王権へ献上し、死罪を免ぜられたとされるがそれよりずっと前に大和町や水田
にあったとされる。豊薩争乱(豊薩合戦)は、応神天皇の玄孫とされる彦主人王の子孫
として、代々大野・基肄・鞠智の三城を繕い治めせしむとされた、彦山座主を護る菊池
氏が謀略で千五百年続いたとされる九州の守護職が、元寇以来その権威から解かれた事
で、関東武士団が台頭してきた事に原因がある。現代の東京都と同じに中央集権により
都が田舎から人材も兵糧も技術も吸い上げて遊興に嵩じて勝手気ままな司令や勅書に振
り回されたからだ。時代の流れとは言え、過去縄文時代からこの地は呪われた様に先駆
的であり、水田水天宮の稲穂起源説は争乱の幕開けを予言した。その水田を黒田長政軍
も或いは島津軍も侵略の本拠地とした。


1663: 名無しさんAA:18/11/14 14:34
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   695   > 

 こうして豊薩争乱(豊薩合戦)は頭角を現した大友氏と新たな薩摩島津で繰り広げら
れた。四百年菊池氏の陰で我慢していた豊後大友氏は、その後勢力を広げたが、慶長5
年9月(1600)「石垣原合戦」で「大友義統」の敗戦により終焉を迎る。これに到るま
では大友氏と島津氏の熾烈な争いがあった。豊薩争乱(豊薩合戦)は広く見れば、大友
宗麟の縣城(延岡松山城)土持親成、鎮綱討伐に始まったと言える。さらに耳川合戦。
そして、岩屋城「高橋紹運」の戦いをへて、戸次川の戦いに終わると言っていい。新た
なキリスタンの布教に乗って、伴天連の夢の国を目指すと吠えて大号令をかけた事は、
秀吉の朝鮮出兵に似ているのは、宣教師が画策の証拠であり、彼らは豊後であれ、日本
あれ、世界でも同じ事をしていた。恐らくアフリカでも東南アジアでもこうした事は、
全く同じに西洋化の波に足元が救われて騒乱が起こって来た歴史があるに違いないのが
現実なのだろう。幸いに日本はいや日本だけは、生き方に美を求め刀の世界に戻る精神
世界であった事が日本を救ったに違いない。多くの仏教徒がキリスタンにならなかった
理由はただ一つ、「罪を懺悔せよ。そすれば報われる。」と因果応報を説き、「世界の
終りに天主様は導いてくれる。」と終末思想を唱えた事だ。その中で「御先祖様も一緒
に救われるか。」と言う問いに「死んだ人は行いを正せない。」と答え、「従って救わ
れない。」とした教えにあった。と言われる。日本の地獄思想は「三途の川も金次第」
と言われるように死人も旅をする。と説く。更に現世の祈りが死者への応援歌であり、
仏僧への布施や祭壇への供え物が、死者の飯だ。と教える。45日さまよい90日経っ
てやっと地獄か天国かの裁判する仁王の門にたどり着くとされるのである。その後に、
125日で多くの者は又次の生き物として天国への修業を積む事を指導され生まれ変わ
る。と言う輪廻を持つ。と脅され、次の生き物が虫なのか人間なのか動物なのか解らな
い。だから今の内に人々に尽くして善行善意善言を行いなさい。と言う。これは武士で
も商人や農民でも変わらない一般的な考え方だった。つまり、この世に妖怪はいても、
悪魔など存在しない。鬼や天狗は、あの世とこの世の間か地獄しかいない物だったのだ
。そして「魔が差す」つまり自分が悪魔にならない様に、自分が可梨帝母の鬼子母神と
ならない様にといわれる。「古来ザクロは天照大神の銅鏡の磨きに使われたのであるが
、子供を食わず鏡として正面から見て育てよ。」と言う教えを説いている。鑑み鏡みは
同じ言葉として捉えられていて、頭を下げる腰を屈むにじり口より少し大きめの頭を下
げる出入り口は鑑み口と言った。自分の死は哀れでも先祖の死は幸福であって欲しいと
していたのだ。

1664: 名無しさんAA:18/11/14 14:34
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   696   > 

 この後、黒田長政は「徳川家康より立花宗茂を討てとの命を受けた。さっさと大軍を
送って攻撃するように。」との伝文を送った。この時鍋島直茂は、龍造寺との確執にお
いて牛込めに成功していた。そこへの伝文だったので、63歳の老体は関が原に参戦し
ていない事の賞罰に佐賀藩が無くなる事を恐れた。黒田藩はこの佐賀藩の内容を充分知
っていた。この頃はまだ龍造寺藩であり鍋島氏そのものは家老格で代理でしかなかった
。蓮池氏諸富氏に早馬を送り、当初は龍造寺は豊臣氏によって自領安泰となったのであ
り、唐津伊万里は、恩顧の長崎奉行であった寺沢広高や弟寺沢半三郎がいた。文禄4年
(1595年)豊臣秀吉の家臣・寺沢広高がこの地に封ぜられた。しかし何故か広高は慶長
5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍方につき、肥後国天草郡4万石を加増され12
万3千石の外様大名となったのである。慶長7年(1602年)より本格的な唐津城の築城
を行い、慶長13年(1608年)に完成した。築城に際し東唐津側と地続きであった満島
山をわざわざ切り離し、松浦川がそこから唐津湾に注ぐよう流路を変更している。隠れ
て夜陰に船が通せるようにしたのだ。それには秀吉の死後、廃城となっていた名護屋城
の遺材を使用し、九州各地の諸大名の助力を得て築城した。柳川堀、佐賀堀、肥後堀、
薩摩堀など普請に協力した大名の領地名が堀の名に残されている。つまり九州の諸大名
が手伝ったのである。板倉勝重(1601年−1619年)は、同年の猪熊事件では京都所司代
として後陽成天皇と家康の意見調整を図って処分を決め、朝廷統制を強化した。ここに
不思議がある。慶長19年(1614年)からの大坂の陣の発端となった方広寺鐘銘事件で
は本多正純らと共に強硬策を上奏している。大坂の陣後に江戸幕府が禁中並公家諸法度
を施行すると、朝廷がその実施を怠りなく行うよう指導と監視に当たっているのだ。元
和6年(1620年)に、長男・重宗に京都所司代の職を譲った。家康が浜松より駿府へ移
った頃の駿府町奉行以来の奉行職専任武士で、優れた手腕と柔軟な判断で多くの事件や
、訴訟を裁定し、敗訴した者すら納得させるほど適った裁きで名奉行と言われた。よく
南町奉行が名奉行としてドラマ化されるがこの大岡裁きは誰もが知っている勝重を元に
江戸の諸本が出来た為と言われている。これ以降唐津中心に神崎までも西洋船と言われ
るイスラムジャンク船の筏船が往来した。関ケ原が一日で終わり黒田長政自身は、その
まま動くな 他を制圧するな。自重して城の中にいろ。と家康から伝令が来ていた。そ
の為否応なく戦さ相手は、鍋島や加藤やその他の小藩の勝手な死闘にさせたかった。つ
まり公けには、成富茂安の立花藩への侵攻でそれを止める為に鍋島も黒田も軍を出した
と言う言い訳である。そしてその証人に加藤清正がいたと言う寸法である。

1665: 名無しさんAA:18/11/14 14:35
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   697   > 

 慶長5年9月(1600)「石垣原合戦」で「大友義統」の敗戦により豊薩争乱によって
終焉を迎えるが、筑後では立花駆逐の黒田の執念が続く。1600年、関ヶ原の戦いの際、
小西行長は西軍にいたため、宇土城の留守役小西行景と連携して、麦島城代・小西若狭
来襲した加藤清正の軍と戦い撃退しますが、本戦敗北し小西行長が処刑されたと伝わる
とキリスト教徒であった小西若狭(小西行重とも)らは、島津忠長や新納忠元、伊集院久
治ら薩摩勢を頼り、城兵を救うために麦島城を開城し、妻子・部下五百人と薩摩へと移
る。筑後では黒田の司令で、伊万里兵勝茂と共に慶長5(1600)年10月14日、
およそ3万人の兵を率いて、佐嘉を出発した。ついで黒田如水も、豊前から5千人の兵
を率いて、久留米および柳河に向かい、10月20日には水田に陣を敷いた。遅れて出
た鍋島直茂・勝茂らは、立花宗茂の居城柳河を討つには、筑後川にある二つの渡(わた
)しのいずれかを渡らねばならなかった。下田の渡しと豆津の渡しである。しかし柳川
に近ければ、敵兵がいる可能性があった。一端はここは安全策を取り、元鍋島氏に仕え
ていた成富茂安のいる茂安に寄り、更に先の宮の陣を渡る事にした。今は北茂安は地名
となったが、実は「着た茂安」で久留米から移封されていた茂安氏が着いた事にちなむ
と言われる。下流にある榎津の渡しや城島は、立花が備えているに違いないと考えた直
茂は、上流にある豆津の渡しを渡れるか決め兼ねていた。それでも更なる安全をみて、
住吉(今の久留米市)の渡しを選んだ。ここは秀包の領地であり、渡る船も筏もなかっ
た。しかし右曲した大きな川幅で浅瀬である事が知られていた。肥前の軍勢は、そこで
そのままかち渡りして大善寺に着いた。毛利秀包の城は留守役しか居なかった、かねて
仲のよい黒田如水(孝高)の陣と合流し助言によって下城した。18日、直茂は城島に
進み、諸隊を大善寺付近や犬塚原(いぬづかばる:犬塚)・早津崎(はやつざき:大善
寺)に進め、また瀬高(せたか:大木)に放火し、使いを柳河城に送って開戦を知らせ
た。立花宗茂はやっと大川についたばかりで、そのまま部隊分け早船で江の浦からのァ
千代の情報を持って柳川城に入った。諸士を集めて、自ら決戦をしよう。と言ったが、
老臣らは大阪で丹親次(にわしんじ:薦野 半右衛門 こものうえもん:成清氏)が家康
に陳謝中であり、また清正と協議中であるから、しばらく戦わず、ただ守備兵を派遣し
て、敵がもし来たなら防御するだけにし、和議を妨害しないようにしたがよい。と忠進
した。

1666: 名無しさんAA:18/11/14 14:35
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   698   > 

 命を賭けた申告であろう、家老の意見を聞き入れ、宗茂はやむを得ずそれに従った。
19日、肥前軍襲来の知らせを受けると、分かれて兵を付けた大川に伝言した。伝えを
聞いた酒見城の城番由布七右衛星門は、直ぐに筑後川の沿岸を警戒させ、またァ千代(
ぎんちよ)姫は軽卒に命じて、江の浦城から有明沿岸を防御させた。かつて龍造寺に一
族が殺された家臣も多くいて、城島城の城番立花吉右衛門(薦野増時の子)は、その領
地の城島の民の安危を気づかって、200人余の兵を率いて城島に向かった。榎津まで
見回りにやって来ると、鍋島の兵が3千人ばかり前面十町にいた。吉右衛門は軽兵(軽
卒)を放って、鍋島の兵を攻撃して20余人を倒した。隊長小野和泉(蒲池城の城番)
、立花右衛門太夫・立花三太夫(統次・千石)にその報は直ぐに伝えられ、新田平右衛
門(足軽頭領)、安東五郎右衛門(足軽頭)、石松安兵衛など、その軍勢千人余が江上
表へ押し出ていった。安東らは、足軽を出して鉄砲を撃たせたが、堀を隔て戦いにはな
らなかった。夕方になり、小野和泉や立花吉右衛門の指図で柳河へ引き上げた。あくる
日の10月20日は、朝早くから、小野和泉・立花右衛門太夫・安東五郎右衛門・安東津之
助・石松安兵衛および千手(せんじゅ)六之允、そのほか立花三太夫・新田平右衛門(
足軽頭領)など軍勢1300余人をつけ、5隊に編成して江上表へ押し出し、薦原(中
木室と下木佐木村境)に陣を敷き肥前軍に当たらせた。対して肥前軍は鍋島平五郎をは
じめとし、1万2千人を12隊に編成して進み、五反田に陣を敷いた。肥前軍は堀を前
に控え鉄砲を撃ちかけ守勢をとった。立花吉右衛門は300余人(数百人ともいう)を
率いて水田口(筑後市)へ駆け向った。これは黒田如水が、水田口から押して来るであ
ろうと言う情報を得たからであった。これが合流した本体であった。柳河城兵が江上表
に駆けつけたところ、小野和泉の与力の松隈小源が、小野和泉の使者と偽って、安東五
郎右衛門の所に行き、「早く合戦を始められよ。もし大敵に恐れるならば後隊と入れ替
えられる」と言った。この言葉を聞くと安東五郎右衛門・石松安兵衛は兵を繰り出し、
敵の先鋒3千人ばかりの中に突っ掛け、肥前勢を追い立てた。この松隈氏は西郷氏と同
じく福岡の菊姫伝説での墓守役の子孫で、弔いに松の木が生えていた事から松の姓を使
った者達だろう。福岡県糸島市志摩松隈(マツグマ)を発祥とし、その後び肥前の吉野
ケ里近郊の土地の鍋島氏の葉境で暮らしていた。江戸時代以降は小城の藩主となってい
る。松に隈をつけている事から松石氏族と熊襲の縁戚かと思われる。

1667: 名無しさんAA:18/11/14 14:36
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   699   > 

この鍋島の企ては当然黒田氏の策略だったろう。つまり海や筑後川べりの戦いが熾烈で
あれば、黒田藩はゆうゆうと熊本の加藤の武士と柳川を攻める事が出来るからだ。第三
隊に将として出陣した立花三太夫はこれを見て出し抜かれ、石松・安東の軍が敗れるの
を見て、真一文字に突っ掛かり、敵の三隊を追い散らし、一ノ橋から二ノ橋、三ノ橋ま
で切り崩した。肥前の第二陣の後藤茂綱の軍勢は、鉄砲300挺でつるべ打ちに撃ちか
け、柳河勢で倒れる者の数がわからぬ程であった。このとき立花三太夫は、馬上に長身
(ながみ)の槍をしごき阿修羅(あしゅら)のように駆け回り、ただ一騎敵軍を突き抜
けて敵味方を驚かせ、鍋島平五郎がいる五反田の本陣へ駆け込み、息もつかせず攻め寄
せた。その激しさは「先鋒鍋島茂忠も危うかった」と鍋島方に記録されているほどであ
った。肥前勢が、立花三太夫を取り巻いているとき鍋島の家来、今泉軍助は鉄砲で三太
夫を撃ち落し、軍助の従卒衛藤藤四郎右衛門が駆け寄って三太夫の首を取った。また、
三太夫は三ノ橋まで進んだところ橋が切り落されていたので、堀を飛び越えようと馬に
一鞭(むち)加えたところ、馬が疲れていたのか、向うの堀岸に踏み掛け、馬もろとも
堀に落ち、敵兵が群がって来て三太夫を討ち取ったともいう。三太夫ときに25歳。死
に臨み、敵をにらみつけて「我は死すとも魂は死せず、必ず肥人を苦しめん」と言った
と伝えられる。関ケ原では、鍋島藩の勝茂公は西軍に味方して徳川方の伏見城を攻めて
いた。家康公からのおとがめを覚悟していたが、父、直茂公は家老として家康公に話し
、龍造寺氏に従った勝茂の軽挙として、詫びて謝った。家康公もとより直茂公を識り、
その使者成富の人柄も知っており、勝茂公の軽挙を強くはとがめず、首尾良く一応は、
円満に解決したかに見えた。しかし家康公は、一筋縄では納まらずその仔細を黒田に問
うた。結局立花宗茂を討つことと言う、黒田が作った条件で罪を許された形となった。
 立花三太夫の名は、立花統春、通称・立花次郎兵衛の通り名だった。次郎兵衛の父・
親行は、戸次鑑連(道雪)の弟であったという。そしてここで活躍するのは3代目の、
立花三太夫なのである。


1668: 名無しさんAA:18/11/14 14:36
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   700   > 

 立花三太夫の名は、立花統春、通称・立花次郎兵衛の通り名だった。次郎兵衛の父・
親行は、戸次鑑連(道雪)の弟であったという。親行が死んだ時、次郎兵衛は僅か2歳
であった為、後見として道雪に引き取られ、厳しく育てられる事になって非常に厳しい
頼もしい優れた人だった。その人となりは、『沈勇かつ剛毅で、礼節を重んじる高義の
人』だったと伝わり、道雪・宗茂2代に仕えて多く戦功をあげた。天正14年(1586)
8月24日、立花城攻略に失敗した島津軍は肥後に撤退を開始し、立花軍は追い討ちを
かけた。翌25日には、返す刀で立花城の抑えとして高鳥居城に篭る筑後の星野吉実・
吉兼を攻めた。僅か300余の小勢ながら、激烈な抵抗をみせる城兵により、立花家の
将・小野和泉も鉄砲で両足を撃たれ地に伏し、当主・統虎(宗茂)の兜に銃弾が当たる
など苦戦している。しかし数で勝る立花軍は、徐々に星野方を追い詰めて場内に侵入し
た。いち早く城将・星野吉実と相対した次郎兵衛は、大将を討つ礼として、恭しく太刀
を額に押し頂いてがら一刀を浴びせ、吉実の鎧の上帯を切った。奥に引こうとする吉実
を立花家の十時伝右衛門が突き倒しその首を挙げた。別の説では「吉実は今は逃れぬと
ころと悟り、数歩退き、石の上に腰掛けて動かず、従容として統春・伝右衛門の白刃を
受けて絶命した」とする。戦後に戦功を記す為、武者奉行の池辺龍右衛門が首を改めた
が、首をあげた伝右衛門は 「統春殿の功である」と言い張り、次郎兵衛も 「某は討ち
損じたのであって、功は首を取った十時伝右衛門のものです。」と言い放つ。伝右衛門
は更に 「戦場は狩場と同じで初手をもって手柄とすべき。」 と互いに譲らず、困り果
てた評定奉行の池辺龍右衛門は、主の統虎にはそのまま報告した。互いに功を譲りあう
奇妙な二人の志を高く賞賛した統虎は、二人に感状を与え功を賞した。この後日の話し
として、十時伝右衛門は、立花次郎兵衛が敵将・吉実を討つ時、まず軍礼をして斬った
のを疑問に思い、谷川立心(大膳)に問うた。そこで谷川は軍礼としての作法を一通り
説き聞かせた為、伝右衛門は大いに軍礼を学ぶようになった。という。秀吉の九州征伐
後に大名に取り立てられ立花統虎に従い、次郎兵衛も筑後国・柳河に移住する。柳河入
り後、隣国肥後に移封してきた佐々成政の不手際により、肥後国人による一揆が勃発し
て、立花家も鎮圧に駆り出された。一揆鎮圧後、秀吉の股肱の臣・加藤清正と小西行長
が肥後を分割する領主となったが、この時も、彼は隈部一党には生きて捕まえている。


1669: 名無しさんAA:18/11/14 14:36
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   701   > 

天正18年(1590)に、加藤清正の家臣で、宮本・山口と他数名が罪を犯して柳河
に逐電してきた。何かしらの縁があったのか、彼等は次郎兵衛の元へやって来て、不憫
に思った次郎兵衛は彼等を匿った。その事を知った清正は、使者として吉田帯刀という
者を立花家に派遣して身柄の引き渡しを迫った。宮本・山口等は事ここに至り観念し、
恩を受けた次郎兵衛に罪が及んではいけないと考えて、大人しく吉田に捕まって肥後に
連行される事となったが、次郎兵衛は吉田帯刀に対して「武士の情けで、肥後への帰路
、彼等に縄目の恥だけは与えないでやって欲しい。」と嘆願し、吉田帯刀に承諾させて
関所通過の書状を渡した。こうして宮本・山口等は次郎兵衛に厚く礼を言って肥後へ連
行されていった。しかし柳河城下を出ると吉田は舌も乾かぬ内に、彼等を直ちに縛りあ
げ護送したのである。たまたま次郎兵衛の家人が瀬高からの帰路にこの一行に出会い、
その憐れな姿を次郎兵衛に告げた。話しを聞いた次郎兵衛は怒気をはらませて「武士の
約束は千金より重いもの。それを破るとは無礼である」というや弓矢を取り、はだか馬
にまたがって吉田等を追った。吉田等に追いついた次郎兵衛は「約束を破った無頼漢め
。」と叫ぶや弓を放つ。矢は見事に吉田の髻を射抜いて 落ちた。ざんばら髪になった
吉田は顔面蒼白になって、宮本・山口達を置いて、肥後に遁走してしまった。次郎兵衛
は宮本達の縄をほどき、「やむを得ずこの様な仕儀になりました。この上はかならず、
清正公がお怒りになり、我が主君に迷惑を掛ける事になりましょう。その時は、それが
しが腹を切り謝罪しなければなりません。貴公等は早々にこの地を去り、お逃げなさい
。」宮本達はかぶりを振って、「貴殿のおかげで今日まで生きる事ができました。その
恩人を見捨てて去ることはできません。」といって、再び頼んで次郎兵衛の邸に行くこ
とにした。幾日かたって、怒り心頭の清正は事の詳細を調べもせず、主君・統虎に使い
をだして談判に及んできた。この当時の清正は、先の領主・佐々成政の失策もあって、
豊臣政権の威信回復の為、九州の緒人に強い態度で望んでいた。例え秀吉に憶えめでた
い統虎でも抗しきれず、断腸の思いで切腹を命じるより他なかった。こうして高義を貫
き、華として散った。検使役として、次郎兵衛の旧知の仲である十時伝右衛門が派遣さ
れた。一説では伝右衛門は次郎兵衛に逐電の復命を伝えたともいわれる。しかし、次郎
兵衛は自らの行いになんら悔やむことなく、ただ主君統虎への詫びを言った後、従容と
して割腹して果てる事となった。

1670: 名無しさんAA:18/11/14 14:37
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   702   > 

 彼の妻は清田氏の出であったが、検使役の伝右衛門を睨み「懐に入った窮鳥は殺さな
いと言います、まして人であれば助けるものでしょう。使者は武士の約束を破り、夫を
侮蔑したばかりではなく、統虎公の威信をも傷つけた事になりましょう。それなのに夫
は切腹させられました。私ひとり、なんの面目があって生きておられましょう。」と言
って、夫の傍へ行き自害して果てた。また次郎兵衛の家の家人たちも、「高義の主人に
切腹を命ぜられ、いま又、夫人も自害なされた。統虎公には何もいう事はない、せめて
冥土までお供しよう」と、その場で殉死する者が11人にもおよんだ。と言う家人思い
の姿がそこにあった。武士として清廉に生きた勇将・道雪の甥・次郎兵衛統春の早過ぎ
る死は、立花家中の誰もが惜しんだという。立花次郎兵衛の死後、その家名が絶えるこ
とを憂いた統虎は、その命を出し森下釣雲の三男・統次にその家名を継がせた。通称・
立花三太夫を称した。この三太夫は次郎兵衛の名を辱めることなく、主君・統虎に従い
多くの功を挙げ勇将として知られる事になるが、惜しくも、関が原の役では大津城攻め
に出かけ、帰ってきてはの対鍋島戦「八の院の戦い」では、壮絶な戦死を遂げている。
黒門橋の決闘では、宗茂は検使役の浅野長政翌日の「放し討ち」を願い出て討手側にも
大きな犠牲を出すかも知れない前代未聞の「放し討ち」を許可を願いでている。この申
し出に長政は驚いたが、武士の信義を貫く宗茂の決意に心動かされ許可している。来柳
した上使が秀吉の正室(ねね殿)の妹婿、長政であった事も立花家に幸いしたという。
開けて天正16(1588)年5月27日の朝、黒門前の広場の「放し討ち」の決闘は
立花家からも隈部一党と同じ数の12人の討手が選ばれた。十時(ととき)摂津、十時
伝右衛門、池邊龍右衛門、安東善右衛門、十時勘解由、池邊彦左衛門、安東五郎右衛門
、石松安兵衛らが黒門に立っている。上使の浅野長政と城主立花宗茂は二の丸の辰巳櫓
から、今まさに始まる決闘を凝視していた。堀を隔てた隅櫓(すみやぐら)に立つ宗茂
の姿を見た隈部親永は、この処遇に対して深く感謝の念を持った。とされる。



1671: 名無しさんAA:18/11/14 14:37
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   703   > 

 隈部館跡は詰城のあった猿返し(さるがえし)山(標高682m)の中腹にある。館
といっても両脇は深い谷で守られ、正面に石垣造りの枡形(ますがた)虎口があり、大
規模な堀切や切岸、空堀、土塁を備えた山城にちかい構造である。隈部氏の勢力の大き
さが窺える。標高350mにある館跡の眼下には肥沃な菊池平野が広がり、遠く有明海
や雲仙まで望むことができる。この雄大な景色を親永は如何なる野心を持って見たので
あろうか。一揆勢による隈本城の包囲を知り、成正が山鹿から急ぎ隈本へ引き返す時に
、佐々軍の勇将佐々与左衛門宗能(むねよし・成正の甥)は、成正のおとりになって、
本道の鹿子木(かなこぎ)を突破しようとして内空閑鎮房に討たれた。その為に鎮房は
成正にいたく憎まれた。一揆後の鎮房の消息はよく解らないが、筑後に隠れているのを
捕らえられて誅されたとの説(佐々伝記)や筑後柳川城で討たれたとの説があるが親永
一行と共に柳川へ送られた可能性もある。柳川で討たれた隈部一族については、山鹿市
菊鹿町にある隈部館跡の奥に、最近柳川から移したという柳川隈部家当主(初代成真か
ら7代真博まで)の墓があり、同所には柳川黒門橋の六地蔵尊にあったという隈部親永
以下12名の霊も分骨して祀ってある。その墓誌碑には「隈部親永、隈部親房、隈部筑
後守正利善良、牧野某、辻某、本荘某、落合某、鶴某、有働某、外2名(不明)」と記
してある。娘婿とされる隈部正利は隈部筑後守正利善良と記す。新田義貞の末裔で法師
武士(新田掃部介の実弟)だった隈部善良と親永の娘婿隈部筑後守正利は同一人物とい
うことになる。筑後善導寺の僧だった善良は肥後で修行中、親永に半ば強制的に還俗さ
せられたと伝えられ、善良の剛勇さはもとよりその血統の貴稀さを請われて親永の娘婿
に迎えられたことは十分考えられる。隈部善良が筑後入道、隈部正利が筑後守と称した
ことも相通じるが蒲池氏3男が逃げ延びようとうした赤司氏赤間氏系であろう。旧柳川
藩志に「肥後の叛将隈部親永某の養子善良以下12人」の記載がありこれを裏付ける。
この2人が同一人物とすると黒門で討たれた隈部一党は丁度12人となり数が合う。や
はり両方12名による決闘だったと考えられる。別の資料を考慮すると墓碑の不明2名
は、内空閑鎮火房と福島某の可能性があるが定はできない。この福島氏は八女福島に名
を残すが、かの氏族は久留米北野の赤司城の城主の一族の末裔と噂が残っている。蒲池
氏は滅亡の頃彼ら一族を頼ったとされる。


1672: 名無しさんAA:18/11/14 14:37
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   704   > 

 三井郡北野の赤司の歴史は古く、2500年前にはじまり。良積遺跡や定格遺跡から、そ
の時代の遺物や遺構がみつかる。2000年前になると、多くの人々が赤司周辺に住みはじ
め良積遺跡が村となり国が出来た。まわりに餅田遺跡や赤司一区公民館遺跡など新しい
村ができはじめる。9世紀後半、この地で筑後国司御酉(みとり)が暗殺されるという
事件が起こったと伝わる。その墓として良積石が残るが詳しくは不明だ。この頃、赤司
の中心は赤司八幡宮が創建されている。縁起では延喜式に出てくる式内社の一つ「豊比
刀iとよひめ)神社」が創建されていたが、ここで年号は924年に筑後国司御酉(み
とり)が暗殺され遺構を弔う事に神社を建て替えその時元の豊姫神社をかえてしまった
。鎌倉時代になって(1192〜1335)、赤司城が築かれ、このころから、赤司の村は現在の
形になりはじめる。完成するのは、田中左馬充が赤司城主になって赤司姓を名乗った。
城は江戸時代になると取り壊され、現在は地名として名残をとどめるだけになっている
。赤司氏はそのまま田中を名乗り田中城に移り住む。九州騒乱時代天文十九年(1550)
菊池義武に加担して筒ヶ嶽城(つつがたけ)の小代氏を攻撃した三池・大津山・辺春・
東郷・大野氏とともに和仁弾正忠の名がみえる。同じ年(天文十九年(1550))に和仁
親続は三池・溝口・西牟田・辺春氏とともに、大内が滅び毛利になった事で毛利氏の意
向にそって、田尻親種の龍造寺を匿っていた大和町の鷲尾城を攻めた。この後和仁氏は
大友氏に属したらしい。弘治二年(1556)五月、肥後南関・大津山城の小原鑑元が大友
義鎮に叛旗を翻した際は、和仁親続は大友に服し攻城側で参戦した。また、耳川の戦い
ののち、龍造寺隆信が筑後の蒲池鑑広を山下城に攻めると、和仁親続は山下城救援のた
め大津山家稜・辺春親運とともに出陣した(肥後古城物語)その後、天正七年(1579)
五月下旬、龍造寺勢が田中城を攻めたが、このときには和仁氏は龍造寺氏に従属したら
しい。ただ、向背はかならずしも一致しなかった。反キリスタンであっただけだった。
田中城家老和仁氏は古代豪族和珥氏の末裔とされるが和仁氏が滅んでしまったため、何
時から肥後に土着したかその歴史は不明である。しかしこの田中城が仁和氏の居城であ
り仁和氏=丹羽氏=赤司=赤間氏=空閑氏=隈氏であった事はかなり高い。それは蒲池
氏の繋がりかららだ。九州征伐後の天正15年(1587年)6月豊臣秀吉により佐々成政
が肥後国主に任じられ検地を行おうとしたが肥後の国人は服さず、翌月には隈部親永が
兵を挙げて肥後国人一揆が始まった。理由はここにある。

1673: 名無しさんAA:18/11/14 14:38
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   705   > 

 菊鹿町の資料には、隈部親永とその一党は柳川で切腹した、自刃した、あるいは抵抗
しないで討たれたと記されたものが多い。郷土の英雄に対する愛情がそういう表現にな
るのだと思う。しかし立花側にも戦死者や多数の手負いが出ているので、やはり激しい
決闘が行われたことは事実であろう。そして隈部一党は勇猛な肥後武士として戦場での
最後を遂げたのであり、立花宗茂もそれを望んだのである。立花家臣で戦死した森又右
衛門の相手をして生き残った隈部側の1人は許され、国境まで送られ肥後へ返されたと
の通説があるが、立花側の12名の討つ手は全員生き残っており、また秀吉の一揆処理
に対する過酷さを考えるとその説は考え難い。肥後の方の資料にもその事実は見当たら
ない。決闘の後、1名が肥後へ返されたとの伝えは後世の創作と思われる。今では関門
海峡となっているが、実は昔は赤間ヶ関との名で水軍交易の関所であった。伊能大図で
は、赤間関として、長府と赤間関を結ぶ道は前田経由の関門海峡沿いの他、住吉神社経
由の内陸の長府道があったとしている。つまり住吉宮は唐船の商売繁盛の神社であった
のである。彦島と竹崎の間に埋立地が出来るが、大正時代から昭和時代にかけて出来上
がるが、大和(ダイワ)と書いてヤマト町と呼ばれた。これは柳川木下氏の関係であった
。木下氏は紀伊の下氏であり、南北朝時代の大塔の宮を護りやって来た人だ。明治時代
には、新地、竹崎、豊前田から細江、入江、岬之町、観音崎、南部、唐戸などの地名が
見られる。観音崎、南部、亀山八幡宮があり中央の入江が唐戸になった。ここでは古く
、1180年から1185年までの源氏と平家の戦いを源平合戦があった中で、落ち延びる平家
のその最期の合戦を壇ノ浦の合戦があった。壇ノ浦の合戦で平家の敗戦が決定的になる
と、安徳天皇の祖母て゛ある二位の尼(平清盛の妻)は、安徳天皇を抱きかかえ壇ノ浦に
御入水する運命となった。当時、安徳天皇はわずか8歳でした。「今ぞ知るみもすそ川
のおんながれ波の下にも都ありとは。」と二位の尼か入水する時に謳ったと伝えられ、
「海の底にも都はありますよ」と安徳天皇に伝えた詩と言われている。この切ない運命
を辿った安徳天皇の霊を慰めるために、建久2年(1911年)に時の後鳥羽天皇の命により
、阿弥陀寺が建立され「赤間神宮」となった。ここで外国の朱印船や勘合貿易の密談が
行われたのは当然だった。飯塚嘉穂劇場と共に山鹿の八千代座は日本の古代木製劇場で
あるが、その建設伝記には双方に赤司氏が海運通商者として絡まっている。


1674: 名無しさんAA:18/11/15 12:31

世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   706   > 

 そこで鍋島直茂公と勝茂公とともに肥前の総力をあげて立花を討つ事に決まった。知
っての通り龍造寺氏の家系を継ぐ諸侯で成り立っていた肥前では、未だ内政がとれずに
いた。従ってこれは決死の覚悟の取りまとめだった。三万二千の大軍を集めて十月十四
日、佐賀を二手に分かれて出陣した。黒田如水(孝高)も、豊前から五千の兵を率いて
、久留米および柳川に向かい、十月二十日には水田(筑後市)に陣していたのである。
鍋島直茂・勝茂らが、立花宗茂の居城柳川を討つには、筑後川にある注ぎ込む川の三つ
の渡しか二の浅瀬のいずれかを渡らねばならなかった。下流にある榎津の浅瀬は、立花
が備えているに違いないと考えた直茂は、上流にある住吉(今の久留米市)を渡ること
に決した。直茂公の軍勢は背振山添を東に向けて進み、夕刻栗城に集結し、近くの大法
寺で法要があつていた。これを吉報とし『これ幸いなり』と言って住職を呼んで、戦勝
祈願をさせたて布陣に及んだと書いてある。つまり、葬式を嫌わず今でいうポジィテブ
に捉えた処置をすると言う極めて能力の高い藩主であった。翌朝十六日、干陸の渡しを
通り毛利の居城の久留米長門石城と笹山城を攻め込んだが、毛利藩は関ケ原の合戦より
まだ帰城しておらず、簡単に落城した。勝茂公の軍勢は佐賀平野の中心部を東に向けて
進出し、筑後との国境の天建寺に集結して、勝茂公は宮村にある矢俣八幡神社に参詣し
て戦勝祈願と同時に徳川と鍋島の和合を祈願し黒田からの、伝令をまった。翌朝十六日
、市場の渡しを通り海津城を攻め落し、翌十七日大善寺にて直茂勢と合流し、宗茂を討
つ為の談合をした。一方、立花宗茂方では、徳川家康の命令で鍋島直茂・勝茂が大軍を
発して攻めてくるとの知らせを受けていた。立花宗茂は柳川城内に全家臣を集めて対策
を協議した。宗茂は天下に並ぶものなき知勇すぐれた名将なので自ら先頭に立ち決戦し
ようと思いを語ったが、上席家老の立花三河守が、『関ケ原の合戦で天下の形勢は決っ
した以上、これ以上家康をおこらせても仕方ない。然しながら、領地に攻め込まれたの
を防がぬは武士の恥である。」と述べた。大阪から丹羽親次(にわしんじ:薦野半右衛
門こものうえもん:成清氏)堀惣右衛門入道(ほりそうえもんにゅうどう:堀江氏)ら
が帰って来るまで待つことを確認した。ァ千代姫が既に使わしていたのである。鍋島氏
はもともとは、少弐氏の下で供として、元寇に出陣した千葉頼胤に九州に下った後に、
鍋島村に居住して鍋島氏となったとされる。馬場氏と共に大宰府高官の龍造寺氏排除に
よって九州騒乱を起こした張本人だった。鍋島村は末次氏の居城の横にあって本庄川と
八田川更に多布施川などの暴れ河で中州があった中に居住してたのだろう。

1675: 名無しさんAA:18/11/15 12:31
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   707   > 

 又続けて、「鍋島勢と の戦いは我々家来に任せて下さい。」と言って止めたので、
宗茂も承知して次席家老小野和泉守を総大将として鍋島軍と決戦する事になった。と言
われる。十六日鍋島直茂の使者成富兵庫が江上八院決戦の申し入れをして来たしたので
、宗茂は早速軍議を開いて、この申し入れを受け入れた。宗茂は、上席家老立花三河守
の意見を入れて、自分は城を出ない事にし、総大将は次席家老小野和泉守一千余騎で第
一陣となり、二陣は一族立花右衝門大夫七百騎、三陣は矢島右助他一千余騎、馬廻り組
安東伊之助他一千余騎、榎津舟手の護りに四千、城の護りに三河守以下四千、その他一
千余、総計一万三千の総力で防備を固めた。十九日朝、鍋島軍は城島城に迫り、一勢に
鉄砲を打ち込み城内に突入した処、城島城の城番立花吉右衛門は、酒見城、筑後川沿岸
警備の為の留守役であったため、簡単に落城した。一方、立花吉右萄門は、城島城危し
との急使がきたので急いで城島へ向ったが、榎津にやってくると、鍋島の兵三千ばかり
が、前面十町の距離にいた。吉右衝門は、軽兵(軽卒)を放って、鍋島の兵を攻撃して
二十余人を倒した。十月二十日の夜が明けた。鍋島軍は三万二千の大軍を十二陣に分け
、犬塚、江上、青木から一気に八院へとおしよせた。立花軍は、二十日の朝早く、小野
和泉、立花右衝門太夫、安東五郎右衛門、安東津之助、石松安兵衝および千手六之允、
そのほか立花三太夫、新田平右萄門(足軽頭)など軍勢一千三百余人をつけ五隊に編成
して江上表へ押し出し、薦原(中木室と下木佐木の村境)に陣して肥前軍に当らせた。
立花吉右衝門は三百余人を率いて水田口(筑後市)へ駈け向つた。これは黒田如水が、
水田口から押してくるということであったからである。柳川城兵が江上表に駈けつけた
ところ、小野和泉の与力の松隈小源が、小野和泉の使者と偽わって、安東五郎右衛門の
所に行き「早く合戦を始められよ。もし大敵に恐れるならば、後隊と入れ替えられる。
」と言った。この言葉を聞くと安東五郎右衛門、石松安兵衛は兵を繰り出し、敵の先鋒
三千人ばかりの中へ突っ掛け、肥前勢を追い立てた。第三陣に将として出陣した立花三
太夫は、これを見て出し抜かれたと思って(石松・安東の軍が敗れるを見てともいう)
真一文字に突っ掛かり、敵の三隊を追い散らし、一ノ橋から二ノ橋、三ノ橋まで切り崩
した。肥前の第二陣の後藤茂綱の軍勢は、鉄砲三百挺でつるべ打ちに撃ちかけ、柳川勢
で倒れる者の数がわからぬ程であった。

1676: 名無しさんAA:18/11/15 12:35
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   708   > 

 このとき立花三太夫は、馬上に長身の槍をしごき阿修羅のように駈け回り、ただ一騎
敵軍を突き抜けて敵味方を驚かせ、鍋島平五郎がいる五反田の本陣へ駈け込み、息をも
つかせず、攻め寄せた。その激しさは「先鋒鍋島茂忠も危うかった。」と、鍋島方にも
記録されている程であったた。肥前勢が立花三太夫を取り巻いているとき鍋島の家来、
今泉軍助は、鉄砲で三太夫を撃ち落し、軍助の従卒衛藤四郎右衛門が駈け寄って三太夫
の首を取った。また、三太夫は三の橋まで進んだところ橋が切り落されていたので、堀
を飛び越えようと馬に一鞭加えたところ、馬が疲れていたのか、向うの堀岸を踏みかけ
、馬もろとも堀に落ち敵兵が群がってきて三太夫を討ち取ったともいう。三太夫ときに
二十五歳であった。小野和泉は、先手(先陣)の戦いのありさまを聞くと、家来を引き
連れて出馬し先手を救おうとしたが、横矢に射られ、小野和泉の家来は進むことができ
ず、立花右衛門(鎮實)・次男善次郎親雄(十七歳)・新田平右衛門らは後陣にひかえ
ていたが、これも先手を救うために、横合から攻めかけ、敵を三町ばかり突き崩した。
しかし、立花右衛門およびその子善次郎も後を断たれて戦死した。勝ち誇った肥前軍は
、小野和泉の陣にどうと攻め寄せ、小野和泉をはじめ、その軍勢は奮戦したが、十四、
五人になるほどに討ち取られた。小野和泉も左の乳の下を鉄砲に撃ち抜かれ、肢にも矢
傷を受けて戦うことができなくなり、戦死はまちがいないと思われた。始めは、優勢に
みえた立花軍だつたが、なに分状況が把握できないままで、関ケ原の帰参のままだった
事が祟った上に多勢に無勢といった所で、三千と三万二千では兵力が違いすぎた。鍋島
軍の壁は厚く安東・石松等、立花軍の勇士は、ばたばたと討死していった。加藤清正は
立花宗茂とは親交が深く、さきの朝鮮の役では宗茂に助けられた恩もあるのでどうにか
して宗茂を助けたいと思っていた。黒田如水と相談して鍋島直茂に柳川城総攻撃をやめ
るように、先に兵すすめてわざわざ止まっていた。そして、柳川城に使いをやって自分
が家康公にとりなしをするから、開城するように申し入れ、家来のゆく末や宗茂の身柄
は、清正がみる。」と申し出て来ていた。更には黒田には内密に。と言う厳命を持って
の話だったのだ。家康は既に戦闘は自分の藩外では御法度である。との急使を出してい
た。


1677: 名無しさんAA:18/11/15 12:36
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   709   > 

 その申し入れは、江の浦城のァ千代にあった時からあった。ァ千代は宗茂に伝えた時
。「庶民も百姓衆も大事だが、もののふというもの、城以て城主藩主である。綺麗に死
してこそ。価値てがあろうよのう。」と相談していて、返事を待たせていた。「かくな
る上は任すのみ。」とァ千代も心に決め、城では「小野氏差配」と部下に任せていたの
である。従って久末会談において綿貫氏の発言は自分の考えで百%独断の返事が任せら
れていた。この交渉では 肥後の家臣団や加藤清正の弁が、真心をもって説得していた
と見えることで、宗茂も承知した。又かかる折に、宗茂がかねて大坂につかわしていた
老臣堀惣右衛門が帰ってきて、家康の内意を伝えたので開城を決意した。この時江上の
八院決戦を申し込んで来ていた事だった。かねてから久留米は4つの城で勢力がひしめ
いていた。一つは長門石城で水天宮山の城で豆津の前にある城だ。今一つは久留米笹山
城で久留米医大前の正式な城だ。更に諏訪神社を出城とした高良山の御井城、更に裏に
控える熊襲八女の出城上津の城である。この四つ城がある理由は簡単で太閤秀吉さえも
何ともしがたかったからだ。諏訪神社を出城とした高良大社は僧兵が籠る城で神域とし
て、先の熊襲の隈部一党と繋がりがあり、呼応すれば英彦山修験者や八女の「仏心宗」
と称する曹洞宗(そうどうしゅう)の門徒すら集まり兼ねない城山だった。更に陸の城
の上津城は全く城とは言えなかったがどうして島津が抑えられなかったほど、布陣に適
した場所だった。昭和の時代に化粧会社が野伏間クリームを販売したが野伏間というの
は釣り野伏間と言う島津の兵法であった。強い者を先陣にたてて、左右に挟む様に待機
軍を敷いて隠れ少しずつ敵の本陣から引き離し兵站を切って落とす事で降伏させ仲間に
する事である。上津城はその重要拠点と言えた。言わば高良台の城とでも言えたのだ。
更に新たに入城した毛利氏の城は正式な久留米城だったとは言え小さかった。対して、
こうした古城である長門石城は水天宮社殿の本宮を据え神領だったのである これから
創るべき城の様に立地にも優れていた。そして柳川城にいた成富茂安は島津軍の追っ手
に江上方面に逃げたが、ちゃっかりこの長門石城と笹山城を抑えて笹山城を明け渡しす
るのを拒んでいたのである。

1678: 名無しさんAA:18/11/15 12:37
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   710   > 

 成富茂安は龍造寺政家の一介の家臣に過ぎなかったが、龍造寺氏の懐刀であった。天
正14年(1586年)いち早く政家の名代として安芸国において小早川隆景に、大坂城に
おいて豊臣秀吉に謁見し、天正15年(1587年)の九州平定の際には、龍造寺軍に属し
て出陣し、その戦いぶりから秀吉を始めとする諸将から一目置かれた。同年、天草の戦
ではトンネルを見つけ頭角を現し、加藤清正、小西行長を援護した功により、清正から
甲冑を賜っている。朝鮮戦争の慶長の役では、龍造寺軍の先鋒を務め、龍造寺氏筆頭家
老の鍋島直茂に仕える様になって、久留米から手を引いた。関ヶ原の戦いの際には、前
哨戦となる、伏見城の戦い、安濃津城の戦いに西軍として出陣する。西軍に与した九鬼
嘉隆の船団や伊賀方面から東に進出してきた光嘉は、信高と合流している事から、九鬼
水軍や伊賀の忍者と何らかの形で懇意の仲でもあったようだ。それが肥前伊賀屋でもあ
る。多分家康は食えぬ男だ。と思っていたであろう。その後、鍋島直茂・勝茂親子が西
軍から東軍に寝返ったのに従い、東軍側となり本領を発揮した。十六日鍋島直茂の使者
成富兵庫が江上八院決戦の申し入れをして来ていた。つまりこの成富氏は堂々と戦線布
告し武士の流儀にすれば、他の者が戦って勝ってもそれは横取りか加勢であり成富の物
であると唾をつけた形である。更に負けてもそれを見守るのは、鍋島であり加藤であり
鍋島なのだ。更にこの三者は徳川から早馬の書状で領地越戦、つまり自分の所領以外の
戦いは理由が無ければしてはならない行えば罰すると固く申し入れがあっていた。では
この成富氏はと言えばいまだ久留米城の引き渡しをごねていて城がなく手紙は届いてい
ない事になっていたのだ。又事実上は鍋島の臣下であって武将の地位で中途半端の位置
にいた。それでも天正14年(1586年)は、政家の名代として安芸国において小早川隆景
に、大坂城において豊臣秀吉に謁見している。天正15年(1587年)、九州平定の際には
龍造寺軍に属して出陣して鍋島氏の家臣ではない事にもなっている。不思議なのは慶長
5年(1600年)、関ヶ原の戦いの際には、伏見城の戦い、安濃津城の戦いに一緒に出陣
し、その後、鍋島直茂・勝茂親子が西軍から東軍に寝返ったのに従い、筑後国柳川城、
久留米城を攻め落とす。この時、直茂に命じられて柳川城主である立花宗茂に降伏を勧
めるために折衝役を務めたのである。仲間なのか敵なのかはたまた裏切者か全く不明の
ままだが、実は立花氏内の柳川土族の旧来の家臣も多くはこの成富の家来だった者も多
く更に鍋島に対して龍造寺が倒れた今は、同格である。と言う意思が強かったのだろう



1679: 名無しさんAA:18/11/15 12:38
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   711   > 

 この関ヶ原の戦いの後、知行高を4000石に加増される。 慶長8年(1603年)、武蔵国
江戸に幕府が開府されると、江戸の町の修復や水路の整備を行う。またこの頃、山城国
二条城、駿河国駿府城、尾張国名古屋城、肥後国熊本城等の築城にも参加、この経験を
肥前国佐賀城の修復に生かした。 慶長19年(1614年)から、大坂の陣に出陣した。 慶
長15年(1610年)から没するまで、水害の防止、新田開発、筑後川の堤防工事、灌漑事
業、上水道の建設など、本格的な内政事業を行っている。茂安の手がけた事績は、細か
い物も入れると100ヶ所を超えるともいわれ、300年以上たった現在でも稼働しているも
のも多くある。治水の天才で民衆や百姓の要望に耳を貸す姿勢は、肥前国佐賀藩の武士
道の教書でもある『葉隠』に紹介されており影響を与えた。寛永11年(1634年)76歳で
死去。家臣7人が殉死するに及んだという逸話の持ち主だった。墓所は佐賀市田代の本
行寺にある。この戦乱の結果、鍋島藩は家康公に領土を認められ、又家康公との和合も
進展していった。その後鍋島藩は、今までの度々の戦の為藩は財政的に窮し、土地は荒
れ藩民もまた窮乏にあえいでいた。そこで成富は直茂公に治山治水、新田開発の必要性
を説き許可を得て事業に着手する。すると第一にたびかさなる筑後川の洪水を防ぐため
、干陸から、浜口まで十二キロメートルに渡る土居を築いた。築くにあたり、さきの、
立花攻めの際戦勝祈願をした矢俣八幡神社が洪水のたびに祠堂が流れて漂没することが
たびたびであったので、干陸士居の東側にあった八幡神社を現在の地点に移した。そし
て、この八幡神社は八院合戦の際の、戦勝祈願したときの文書と成富兵庫茂安の直筆の
文書が現在も残っているという。天正14年(1586)の、堀惣右衛門入道へ与えた知行坪
付の写しでも。差出に並ぶ家老は、由布雪下、十時連秀、堀秀、安東連直、由布惟時、
安東雪貢(連忠)、小野宗珊(鎮幸)であった。これが道雪没後の家老の面々である事
から堀惣右衛門入道が大阪から家康の意向を聞いて戻ってきたことは大きな成果だった
のだろう。代替わりを別にすると、十時連秀と小野宗珊の名が注目される。十時連秀は
、天正期に豊後より道雪に召し出され、天正年間後半から家老に列せられているようで
ある。また、小野宗珊(鎮幸)は、大友家直臣から道雪の家臣となり、この段階では家
老にまで列せられている。



1680: 名無しさんAA:18/11/15 12:38
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   712   > 

 小野鎮幸(おのしげゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将で、立花氏
、加藤氏の家臣であった。日本槍柱七本・立花四天王の一人に数えられ、また和泉守で
あることから小野 和泉(おのいずみ)とも呼ばれた。 豊後国の戦国大名大友氏の家臣
・小野鑑幸の子として誕生し由布惟信に推挙されて大友氏の重臣・立花道雪に仕えた。
「剛勇にして智謀あり」と伝わる智勇兼備の武将で、生涯で22度の大戦、多数の小戦に
参加して全身刀や槍、矢、鉄砲による67ヶ所の傷を受け、大友氏・立花両家から合計68
枚の感状を受けた。家中に由布惟信と共に、道雪から孫子兵法の「奇正相生」を引用し
ての奇と正の両翼として立花双翼と称揚され、鎮幸は奇の将を任じたという。柳川城の
城主となった道雪の子・宗茂からは家中で最高の5千石の禄高を賜り、次席家老を務め
、その後の立花蒲池城の城主となった。文禄・慶長の役にも参加し、数々の武功を立て
ている。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると東軍への参加を主張したが、藩
に従い石田三成の西軍に参加し大津城を攻略した。ところが、西軍が関ヶ原にて敗れる
と、加藤清正、鍋島直茂、黒田孝高(如水)が柳川を攻める形勢となった。同年10月14
日、鍋島勢32,000(『葉隠』12,000、『太宰管内誌』は20,000余、『立斎旧聞記』は10
,000余)は二手に分かれて佐賀を進発、立花勢も迎撃のために八院方面へ出陣した。し
かし、東軍の徳川家康への恭順を示すため主君・宗茂は城に残り、立花勢13,000のうち
出陣したのは家老の鎮幸を総大将とする約3,000(一説2,000、うち鎮幸の直卒する中軍
は1000余騎)であった。鍋島軍は、10月16日には筑後川を渡河して立花方の安武海津城
を落城させ、続いて10月19日朝には先鋒隊3,000が立花成家勢200の鉄砲奇襲を受け20余
人が討たれたが城島城を攻略、翌10月20日に鍋島軍の先鋒軍3〜5,000と鎮幸率いる立花
軍1,300と江上・八院の戦いで激突した。立花勢 先鋒の安東範久(五郎右衛門)、石松政
之(安兵衛)らは鎮幸の与力・松隈小源の軍令誤伝のせいで、軍法を破って独断で開戦
し、次々と鍋島勢の軍陣の中へ突入し、先鋒第三隊の立花統次(三太夫、森下釣雲の三
男、立花統春の養子)は鍋島軍の陣中深くまで進んで奮戦した。鍋島勢の先鋒・鍋島茂
忠は本陣の五反田へ撤退したといわれている。しかし、鍋島方は、立花勢を包み込んで
包囲殲滅する作戦を当初から立てており、立花方は一騎駆けで敵軍に突撃した立花統次
の戦死を始め、先鋒の安東範久、石松政之もたちまち反撃を受けた。

1681: 名無しさんAA:18/11/15 12:39
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   713   > 

 救援出陣の第二陣立花鎮実(戸次右衛門大夫、藤北戸次氏の一族)と鎮実の若い次男
立花親雄(善次郎、17歳)や新田鎮実(平右衛門、掃部助)は横合から果敢に攻めかけ
たが、これも後を断たれて共に戦死した。後陣の矢島重成(勘兵衛、剛庵、宗茂の側室
・八千子の弟)と千手喜雲(六之允、筑紫広門の与力)は戦を躊躇し接戦していないた
め、馬廻衆の安東幸貞(津之助、安東範久の養子)、第三陣の若武者十時惟久(新五郎
16歳)、先鋒の安東範久、石松政之も次々と戦死した。総大将の小野鎮幸は本陣前の橋
を堅守して鍋島勢の包囲を受け勇戦奮戦したが、鍋島軍の反撃を受け、供回りが14,5人
になるまで討ち取られた。小野自身も銃創と矢傷を負い、討死寸前となったが、水田方
面の黒田如水軍を偵察していた立花成家(吉右衛門、薦野増時の嫡男)が別動隊 300を
率いて敢然と奇襲をかけ鍋島勢を混乱させた隙に無事撤退した。ここで松石氏は福岡県
柳川市三橋町五拾町が本拠としてあり。同地の小字に松ノ神あり。福岡県久留米市篠山
町が藩庁の久留米藩士に江戸時代にあった。としてある。白鳥から中山までの領主であ
ったらしい。成富氏のなでしこ紋は秋月氏や田尻氏の縁戚でもあったのだろう事をうか
がわせる。またそれは美濃の斎藤道山などの流れもあったのかもしれない。実は松石家
は今の垂水に高橋家すなわち立花氏が乗り込む前にあった村の中心で垂水の基礎となっ
た桶屋の村人が松の神を祀って居た所か付けられた名である。恐らくは垂見小学校付近
の住民で白鳥神社の氏子であったろう。鷹尾文書には「横手庄200町」とある。村落
の中世を知る史料はほとんど見当たらない。村落内に共同墓地のある元屋敷、西光寺北
側の外屋敷があるが、中世の武士の屋敷跡に似た環濠屋敷(かんごう:外敵の侵入を防
ぐ為に回りを掘のある屋敷)がある。宝満宮の南側の小字名で土居は旧河川の土居があ
った所で、さらに南の中川原、上浜、中浜田、中浜、浜脇の小字名は矢部川が横手、五
十町の村落の東側を蛇行して流れていた頃の名残りで矢部川の河床跡です。寛永15年
(1638)頃、鷹尾・泰仙寺・島堀切と同じく普請方役人の田尻総次による江戸初期
の掘替工事(直進化工事)により、鷹尾文書にも出てくる高柳村の西郷高柳集落が分断
され五十町の領分となった。文禄4年(1595)12月の柳河藩知行目録によれば、五十町の
石高こくだか(1石こく=米150kg)は、 258、54石であったが、万治3年
(1660)には岡田修理充(しゅうりのすけ)の知行地400石となり、安政年間(
1854〜1859)には711.268石となっている。松石氏は福岡県柳川市三橋
町五拾町が本拠としてあり。同地の小字に松ノ神あり。と書かれる。


1682: 名無しさんAA:18/11/15 12:44
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   714   > 

 柳川藩の財政は苦しく、資料では特に五十町村の開拓膨張の様子が解る。(1石=10斗
=100升)柳川藩は藩内の村々を治おめるのに7組、後に9組も大庄屋を置き、その下の
村々に小庄屋を置いた。 五十丁は本郷組に属し、小庄屋は菊池家(旧柳川農協組合長
、菊池藤市氏)が代々、庄屋職しょうやしょくを勤め、なかでも菊次藤七は40年間庄
屋を勤め、時には新村、東百町の庄屋を兼ね、文政2年(1819)苗字帯刀御免、御
役所御支配を仰付おおせつけられている。その子藤助、孫が藤蔵その息子藤助が代々、
庄屋役を勤めていたことが本郷組大庄屋記録にある。文政4年(1821)には本郷村
の沖ノ端川から岩神(いわがみ)水路ができ、中山村を通り五十町の取水口検校堰(け
んぎょうせき)も作られた。五十町村は水利慣行が極めて複雑なこの水路の中で、聖川
を建設整備していたから過去から優越権を持っていた。文政6年(1823)、本郷組
大庄屋覚書によれば、五十町村落庄屋の菊次藤七及び息子の藤助が新村、東百町の庄屋
を兼ね、翌7年(1824)10月に高畑三柱(たかはたけみはしら)神社の造営に当
たって、当集落から2石6斗5升を寄進している。安政4年(1857)12月、五十町開地
の地頭が自営の井樋いびを藩営に組み入られんことを願った為とある。明治37年には
矢部川の大和堰が完成し上庄北部からの水田に水路が整備されなお安定した水利となっ
た。しかし、この頃も水利に対しては行基着任以来の岩神本郷にあった神人達に力があ
った。南筑明覧には「下妻郡本郷村の行基橋は、往古行基僧正諸国巡行の際、橋を渡せ
り。故に、後人呼びて、行基橋というなり。」とあります。実は公式に残る最古の橋は
大牟田にある。 日本で初めての橋とはどんな橋だったのか。 記録にのこる最古の橋は
、「御木のさ小橋(みけのさをばし)」という倒木を利用した橋です。この橋は、福岡
県大牟田市の三毛(三池)の地にあったとされています。(日本書紀 景行天皇18年
)今で言う丸太橋の起源である。また、仁徳天皇の14年(おそらく5世紀頃)には、
「猪甘津(いかいつの)に橋わたす」という記述があります。形や大きさは不明ですが
、人が通る街道に架けられた橋のようです。この橋は、「つるのはし」と呼ばれており
、現在の大阪市生野区猪飼野町に石碑がたてられています。つまり今の吊り橋の原型と
される。記録のない時代にも橋が作られていたことは当然で書類上の事であり、考古学
の発掘調査ではまだ古い橋は明らかになっています。弥生時代の中期末つまり、紀元前
後には、環壕集落が各地で作られ、それを取り巻く壕(ほり)(幅約4m)に架かる橋
の遺構も発掘されている。


1683: 名無しさんAA:18/11/15 12:44
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   715   > 

 相浦專内は柳川市中町衣料品の大商店だった相浦醇氏の祖で、代々衣料品を取り扱っ
た問屋である。という。文化3年(1806)、相浦專内は福厳寺の御用御買入米の他
に、前年度からの受払に大変な働きをしたことで、翌年に藩より褒美ほうびとして上下
(裃がみしも)を頂いた。御用聞をお仰せ付けられ、新たに5人扶持ぶちを賜った。5
人扶持とは15石、実収13石で米40俵の年収となる。文化、文政の時代の藩札の裏
書人となっている。子孫の相浦醇氏は中町で衣料品店を営んで創業200年祭りを催し
、当家の古文書が展示された。古文書には文化6年(1809)7月に物成役(会計方
)の、十時杢助ほか5名の名義で40貫の借用証文があり、その引当てに秋に米200
0俵が渡される約束となっている。また11月にも金500両の借用証文があり、その
引当てに米700石を翌年10月に渡される約束になっている。文化7年(1810)
8月にも40貫の借用書がある。しかし又、年代は不明だが、10月の御用方免職状が
あり、上納金を納めなかった為に、田地、家屋を召上げられ、町方支配を止められ、名
字帯刀(みょうじたいとう)、下駄ばきを差止める御咎め(おとがめ)を受けている。
しかし 精を出して物事を行ったのか 、当年の10月14日の御用方再任状には、相浦
專内、中村次郎右衛門、富安長右衛門、諸藤弥平次、永江九左衛門の5人が再度御用聞
に仰せ付けられ5人扶持を頂いている。專内は嘉永6年(1853)5月17日に没し
ているが、当時の立花藩が、町方と藩の幕閣との混乱があったとも取れる現象だろう。
この中の、富安家は蒲地鎮連(旧柳川城主・天正9年5月27日没)の子孫で蒲地家の
一族で一家老であった。佐賀の鹿ノ子神社で蒲池氏と共に龍造寺の謀り事と戦うも川上
氏に殺され、その後佐嘉神社に祀られたようだ。柳川市内の瀬高町2丁目(現・京町)
に店を構えて両替商を営む豪商で、天保5年(1834)大坂蔵役所が発行した手書き
の「三分(163×50 2 2479)・弐分」の銀札の裏書がある。両替所は細工町の田中惣右
衛門と瀬高町(現・京町)の富安長左衛門である。旧・北原病院(京町通り信号)の角
に広い屋敷と向かい側に蔵があった。地図では城下町図瀬高町・細工町・出来町付近の
今の公園近くにあった。明治時代に郵便局が出来て、藩銀として高椋銀行の窮地で渡辺
氏との繋がりで福岡銀行に変わった時に手放して、玩具や本屋に変わった。中島の庄屋
荒牧氏は、大川に立秋家具店を進出させる頃、柳川軌道が国鉄佐賀線と変わりの跡地に
国道208号線が出来て大川までトミヤ文具店は出店した。政府は松下電器とタイアッ
プしてその頃軍部は木造合板翼を開発しようとしてた。今のメラミン合板の元である。
この時の尿素供給において奔走している。

1684: 名無しさんAA:18/11/15 12:47
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   716   > 

 1871年(明治4年)に東京〜大阪間で官営の郵便事業が開始された。これは前島密氏
(1835年〜1919年)の発議によるものでした。前島氏は、大蔵省や内務省の官僚として
の仕事をしながら、1870年(明治3年)から11年間もの長い間郵政の長として、熱心に
郵政事業の育成に邁進し、その基礎を築きました。そのため「郵政の父」と称えられて
いる。郵政サービスの窓口機関の郵便局については、1871年の創業当初には三府(東京
・京都・大阪)に政府直轄の「郵便役所」が飛脚の反対の中で設置された。東海道の各
宿駅には民間の協力で「郵便取扱所」が置かれ当然昔の飛脚を署員として採用した。そ
の後、明治政府は全国の主要都市に官設の「郵便役所」を設置したものの、財政が極め
て不足していた当時の明治政府にとって、全国に「郵便役所」を設けることは難しかっ
た。そこで政府は民間委託とし、地元の名士(かつての庄屋や名主など)から自分達の
土地と建物の一部を無償で提供してもらい、その代わりに彼らを「郵便取扱役」に任命
して準官吏の資格や身分を与え、「公務」である郵便業務を請け負わせるという施策を
とった。この結果、地域の名士の屋敷を拠点とする「郵便取扱所」が短期間のうちに、
全国津々浦々にまで広がり、わが国の郵便制度は急速な普及を遂げました。当然藩主の
立花公爵までその話は来た。そこで別府氏や富安氏にそれが下命されて柳川にも郵便の
制度が持ち込まれた。創業当初に設置された「郵便役所」は1873年に「一等郵便役所」
に改称され、また「郵便取扱所」についても1874年に「無等郵便役所」となりました。
その翌年には、すべての「郵便役所」は「郵便局」へと改称され、一等から五等に区分
された。その後、1886年に「郵便局」は三等級制(一・二等郵便局は国の直営、三等郵
便局は地域の名士等から局舎の無償提供を受けた局)となり、1941年には等級制が廃止
され、旧「一・二等郵便局」が「普通郵便局」へ、旧「三等郵便局」が「特定郵便局」
へと改称・再編された。その後、1949年には「簡易郵便局」(郵便局で取り扱う事務を
地方公共団体や組合、個人などに委託して開設している郵便局)という制度が創設され
、3種類の郵便局において、長らく郵政三事業(郵便・貯金・保険)の業務運営が行わ
れた。現在は郵便局は、地域の物流・金融の拠点として発展し、郵便局の窓口では、主
に「郵便(ゆうびん)」「貯金(ちょきん)」「保険(ほけん)」の3つの業務(仕事
)を行っている。

1685: 名無しさんAA:18/11/15 12:47
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   717   > 

 紅粉屋べにや(後藤)は藩内最高の富豪であった。後藤七郎左衛門は博多の商人で、
立花宗茂が立花城城主の以来の問屋であった。天正16年(1588)に立花宗茂公が
立花城城から柳川に入城の時に一緒に来て紅粉屋べにや(化粧品店)を開業したとみら
れる。後藤は上納金改役を仰せ付けられ藩納入の金員はすべて紅粉屋の印を必要とし、
そこで紅粉屋はその金額に応じて手数料を受取っていた。今の銀行のような仕事をして
いた。宗茂は関ヶ原の戦いで豊臣軍として戦ったが敗北し浪々の身となり、のちに徳川
に仕え、奥州棚倉の領主となった。しかしこの時紅粉屋は奥州棚倉にいろいろな物を届
けて助けている。これが藩主の田中吉政に知れ商売を止めされた。また井上氏矢加部氏
池末氏竹田氏なども、立花山まで秘かに米を送っていた。此の事が発覚し今の国鉄駅の
公園で打ち首と一家断絶に陥った。しかし再封を果たした立花氏は土地や金を与え子孫
の再興をさせて地蔵を建て幸せ地蔵とされた。又、宗茂再城の元和7年(1621)2
月12日に、紅粉屋に御泊りになり御礼を言う為に立ち寄った。紅粉屋の後藤七郎左衛
門の妻は、すばやく、宗茂公に御祝辞を呈し、熨斗のし(進物)献上した。以来代々の
藩主の入城の節は、小道具町にある御客屋(御使者・迎賓館に当る場所で後の武田氏の
宿になった)に、お迎えして三宝(神饌を載せる台) に熨斗(進物)を差し上げること
が決まりとなった。この儀式が、後に明治維新まで行われたという。元和9年(162
3)紅粉屋は、安南、カンボジアに出かけ帰りに暴風にあい難船しようとしたので、京
信国脇差を沈めたが、波はおさまらず、家宝の太鼓を海中に投じたので無事帰ることが
できた。よって当家には家宝として太鼓が伝わっている。というこれが立花陣太鼓とさ
れてきた。しかし1614年11月23日口之津、ペトロ後藤七郎左衛門、トメ松島、ルドビコ
次右衛門が禁教令で処刑された。いずれも有馬領内の村の庄屋であり、敬虔なロザリオ
会員だったとされる。その後寛永14年(1637)島原出陣に際しては、鉄砲玉5千
斤・ヤリ等の他12両を献上している。立花朝右衛門(年代不詳)御銀急用について銀
千二百十貫余を差し出したので褒美として五人扶持を拝領しているが恐らく子孫の後藤
氏を名を変更させキリスタンから遠ざけたのだろう。天保五年には、後藤弥三右衛門の
記録には。歴代藩主の御書も数多くあったが、明治以降に無くなっている。

1686: 名無しさんAA:18/11/15 12:51
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   718   > 

 紅粉屋は代々、「上納金改方(あらためかた)」を命じられ、いかなる上納金も紅粉
屋に持参して、その封金を持参すれば、一切運上役所にて領収された。その際、紅粉屋
は一件に付、何匁何分とか、何百両に対しては、幾貫何百文の手数料を徴収していた。
紅粉屋はその金員を紙袋に入れ、紅粉屋の印を押し金額を大書きし、納入者に与えた。
役所にては紅粉屋の印さえあれば、たとえ瓦でも千両と書いてあれば千両として領収さ
れる程に信頼され、藩内に通用したという。また藩内最高の富豪であった。元和8年(
1622)に紅粉屋は有明海海岸堤工事を行い、33町の干拓地(紅粉屋開ひらき)を
造成している。現在、有明海に近い筑後川沿いにある広大な土地の大川市紅粉屋べにや
は当時干拓された場所だ。また、高田町江浦にもある紅粉屋開(ひらき)も後藤氏関係
とみられる。後藤氏がペトロ後藤七郎左衛門としたら初期の肥後か薩摩のキリスタンと
いう事になる。紅粉屋が古くから薩摩の貿易船の寄港地であったとすれば末次船の本拠
地がこの筑後や佐賀であり、キリスタンの益田四郎こと天草四郎はこの地の人間かも知
れない。浜田伝右衛門二男が養子に入り、村上甚兵衛義と名乗ったが先祖は伊予国能島
に居住し(所謂村上水軍)、代々毛利家、小早川家へ仕えましたが、小早川中納言秀秋
死亡後遁世浄喜寺良慶と改め、黒田如水・同筑前守に仕えます。その後、黒田家を辞し
て豊前で細川忠興に仕えますが、忠興死亡後、河内国森口へ移り、末子が興長に召出さ
れて与右衛門氏長と名乗ります。二代目が甚兵衛義です。これが村上、浜田の縁です。
近藤家の先祖は、丹波亀山の住人で織田信長の近習を勤めました。八兵衛が景包五男の
弥十郎が丹後久美を訪れて、松井康之に召抱えられます。豊後立石表合戦で働き、軍功
をあげます。その後安岐城、富来城攻めにも働きます。近藤、志水の縁です。竹田氏祖
は武田氏とされる。武田侍従定栄瑞竹軒は足利義晴に仕え、山城国竹田郷を領地してい
ました。瑞竹軒嫡子竹田織部正定雄は足利義晴・義輝に仕え、三好・松永による義輝弑
逆後浪人、梅松軒と称して羽柴秀吉に仕えました。梅松軒の妻は沼田上野介光長の娘で
した。つまり、松井康之の妻の姉です。このことから、梅松軒嫡子竹田藤松は丹後久美
の城で康之に養育されて成長したのです。松井の称号を許され、松井長介定勝と名乗り
ます。子供の成長を見届けた梅松軒は、家督を二男竹田源助長勝に任せて、豊臣秀吉に
仕え、大坂の陣で三男竹田永翁と共に、豊臣秀頼に殉じ切腹して果てている。


1687: 名無しさんAA:18/11/20 17:00 ID:JIo
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   719   > 

肥後の後藤三右衛門の家系は、井上(松井)紀伊守之勝四男久之允が養子に入っている
。慶長十九年頃です。後藤家と井上(松井)家はこれで、井上、橋本<之勝次男>、後
藤<之勝四男>が親戚になりました。しかも、井上、橋本、後藤は兄弟であるとされる
。後藤家は、鎌倉幕府、足利幕府に仕え、天文・永禄年間江州佐々木承禎の家老を務め
ていました。佐々木氏没落後織田信長に仕え、信長没落後丹後国に浪人していたところ
を、久美にて康之に召出された。文禄の役で朝鮮渡海、晋州鎮守城攻めでは、田中理右
衛門他9人と先陣を切って働き、関が原の合戦では立石表の戦いに、松井河内守、同紀
伊守、中川下野守と共に豊後杵築城を守り、豊後のよしみが出来たと言う。元禄九年に
後藤小左衛門真秀の二男が養子に入り、平田長太夫隆豊と名乗ります。後藤助太夫家は
、新兵衛真勝のとき豊後で木下右衛門太夫に仕えますが、身体不足を理由に暇を願い出
ました。しかし、願いは許されなかったが怒って立ち退き、豊前の松井興長を頼り、そ
のまま召抱えられます。木下右衛門太夫からは興長へ新兵衛を帰すように依頼がありま
すが、興長は「我家を頼みにした者を差し返すことは出来ない」と、返しませんでした
。こうして、興長に仕えた新兵衛真勝は、興長の死の当日追い腹を切り殉死した。木下
右衛門太夫から興長へ差し返すように要請し興長は、頼られたからには返すわけにはい
かないと、新兵衛真勝を召抱えたが、木下右衛門太夫は、細川忠興の妹婿である。平田
、後藤がその後は親戚になりました。平田家は江州舟木城主でしたが、没落後は一族の
平田城主平田右京方にて過ごし、後に肥後加藤主計頭清正に仕え、肥後守忠広改易によ
り浪人となり、熊本町に住居した。松井家は田中左角秀定がのちに松井清三盛光と名乗
り住んだ。田中先祖田中山城守源盛重は、織田信長の世に明智光秀に属し丹波国船井郡
大村城主だった。光秀没後一族で羽柴秀吉を討とうと聚楽第襲撃を企てるが、事前に露
見してしまう。一族は、丹波国船井へ退きその後離散して肥後にやって来た。宇野与三
左衛門(源右衛門)治時が慶長の初め頃、松井康之に召抱えられます。関が原で、松井
興長に従って岐阜城攻めに出陣、関が原には、松井市正之勝組で出陣しています。その
子、与三左衛門治久は、有馬陣で、筑後立花家家老十時三弥と細川家家臣とが、口論の
喧嘩の末果し合いになるところを仲裁しています。宇野源七隆久は、瀬戸からの養子で
すから、宇野、瀬戸の縁故が出来ている。

1688: 名無しさんAA:18/11/20 17:00
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   719   > 

 かつて日本では、古代船は宝船のような先が広い四角な船と考えられてきた。しかし
色々な資料では竹船や筏船から発展したと思われやはり舳先は物ぶつかってもよける形
のヨット型であったようだ。中には箱舟や屋形船の様な船上生活船と言われるものも、
あったが流通用の船便は、弁財天が主流であったといえる。なぜ違っていたかと言えば
生活船は魚など取って暮らし重い物が無く 桟橋の浮橋の様な屋根のある家の中の生活
が出来ればよいからだ。つまり流されず転覆しなければ良かったので浜に上げやすく、
ロープが張れれば良かったのである。対して北周り船や、交易船は日本内であっても、
瓦や米、金銀や銅や鉄や瀬戸物と言う重い物が主流で、少なくとも魚の干し物位の重さ
のある物を扱っていた。特に百石船といわれた五百石〜百石ぐらいの小舟が多く、沈む
船も多かったのか小分けして送っていた様だ。彼らの船は小さな水路すら深ければ入っ
て行けるほど流線形で、風を良く掴む様に出来ていた。今のヨットの様な幾つもの帆は
持ち合わせないものの深くある船体と細長さと大きな舵板によって逆風でも進んだと言
われる。弁才船は、船体ほぼ中央に大きな帆を上げていて、これを本帆(もとほ)とい
います。船首には弥帆(やほ)と呼ばれる小さな帆もありますが、弁才船は1本帆柱の
船と見るのが般的です。弁才船の帆は中世以来の伝統的な形式を引き継いでいますが、
下の帆桁(ほげた)を取り去り、帆の下を綱(つな)でとめて十分なふくらみがつくよ
うに改良されました。江戸時代の後期になると帆走性能を少しでも上げようと、船首や
船尾に小さな帆と帆柱をさらに増設した船も現れます。弁才船の帆の取り扱いは、洋式
船のように帆柱や帆桁に人が登る必要がなく、船上で操作した。重い帆桁の上下も帆柱
の先端の蝉(せみ)とよばれる滑車を通して船尾に縄を通し、轆轤(ろくろ)と呼ばれ
る人力の巻き上げ機を使って船内から行いました。帆桁の方向は桁の両端につく手縄(
てなわ)と呼ばれる縄を、帆のふくらみは帆の両脇につけた両方綱(りょうほうづな)
と呼ばれる綱を操作して行い進んだ。これは平安末期から変わらぬ姿だったようだ。も
ともと井上家は柳川では平家の落人(おちゅうど)伝説では、京都から落ち延びて来て
松井姓を井上姓に変えたようだ。


1689: 名無しさんAA:18/11/20 17:13
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   720   > 

天保年間の奉納の船の絵馬などでは、川口を出る弁才船右端に見える水尾木(みおぎ:
船のとおる水路を示す杭)の中を、船は横風を受けても帆走している。帆桁(ほげた)
の端につく手縄(てなわ)や帆の両脇につく両方綱(りょうほうづな)の取り方がよく
わかる図柄もある。弁才船は順風でしか走れないと誤解されている。横風帆走を意味す
る「開(ひら)き走り」や逆風帆走を指す「間切(まぎ)り走り」或いは「波切」は波
切不動尊の代名詞ともなっている位だ。すでに17世紀「日葡辞書」に収録される弁才船
の逆風帆走性能は、ジャンク(中国船)やスクーナー型などの縦帆船(じゅうはんせん
)に比べれば劣った速さだが、風は並行でなく乱気流でもあり、最終的港から港までは
風を読む力で早く日本に着いている。バーク型などの横帆船(ほうはんせん)より優れ
て弁才船の耐航性と航海技術の向上した江戸時代中期では、帆の扱いやすさとあいまっ
て風が変わってもすぐに港で風待ちすることなく、可能な限り逆風帆走を行って切り抜
けるのが常で、足掛け4日も間切り走りを続けた例もあり腕は要るが腕さえあれば速い
というのが定説となっていた。福井県小浜沖では、逆風を受けながら風上一杯に切り上
げて快走する12反帆(たんぽ)(=150石積ぐらい)北前型弁才船の写真すらある。大坂
と江戸を結ぶような長距離輸送(大回し(おおまわし))に対し、近距離輸送(小回し
(こまわし))に活躍したのが、二百石積以下の小型商船で、この写真を見れば、1枚
帆の弁才船は追風でしか走れなかったという通説がいかに誤りだったことかはっきりす
る。江戸時代の航海は、陸上の目印を目当に航海する地乗り(沿岸航海)で航海してい
た為だ。遠く沖あいの直航路をゆく沖乗りも快晴時は行われて、沖乗りは地乗りよりも
航程が短く、航海日数を短くすることができます。 弁才船の耐航性能が向上するにつ
れ、江戸時代中期からは日本海や北方海域でも昼夜連続の徹底した沖乗りが日常化し、
たとえば北海道の松前から大坂に向かう船は、佐渡ケ島の沖を一気に下関まで乗り下っ
て瀬戸内海に入っている。今の漂着する北朝鮮船の原型かもしれない。鎌倉・室町時代
には、突然宝船型の大型船が資料に登場する。恐らく元寇からの漂着船や漂着民の文化
が船を変えたのかも知れない。中国の鄭和の大航海が終わって、東南アジアで交易の力
を持っていたのは、オランダだった。そして、オランダにとって最大のライバルが日本
の朱印船であり、朱印船貿易であった。

1690: 名無しさんAA:18/11/20 17:13
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   721   > 

 当時、東南アジア貿易の主導権を握るには、日本の輸出品目の゛銀゛を独占すること
だった。オランダは、長崎がポルトガルの植民地化されていると注意提言をし、それに
幕府が動いたという感じではないかと思われ、その後1633年に幕府は老中の奉書を持っ
た船以外の海外渡航に禁止令を出し、段階を踏んで、1635年に日本人の海外渡航と帰国
が禁止された。これによって、朱印船は海外で貿易を行なうことが不可能になり、1939
年には、布教と植民地化の問題から、ポルトガル人を日本から追放し、ポルトガル人を
囲い込むために造った長崎の出島には、オランダ人が住み込み、1641年に平戸からオラ
ンダ東インド会社の商館を移った形となった。また、同じ頃平戸にあったイギリスは、
日本に入り込んだのが遅いこともあって、ウィリアム・アダムス(三浦安針)が全面的
にバックアップしたものの経営不振から閉鎖になり、このような流れのなか、オランダ
が、唯一、正式に日本と交易を行なえる国家になった。こうして幕府は出島貿易により
、利益を独占し、オランダは、日本の゛銀゛を手中に収めることで、東南アジアの貿易
を独占することに成功した。その後、 約300年ものに長きにわたり、鎖国が続くことに
なるのである。ただし、中国・朝鮮とは非公式あるが、交易をしていたし、薩摩は琉球
貿易という形で、密かに利益を上げていた。また他の藩も何らかの形で割賦版権や講券
などで利益や交易を行っていた。その意味では江戸は徳川将軍命令でから藩主が家屋敷
を持ちに住み込みをしたが、長崎は藩主命令で経済や交易の為に長崎に出張所を置いた
。徳川幕藩体制前には日本には8個程の船団がいてそれぞれ船造りが違っていたようだ
。その一つが末次船でありもう一つが荒木船である。荒木船はどうも蒙古襲来後に作ら
れた火矢を居る為作られたようで船の上に梁組をした横壁のない造りだった様だ。屋根
になる平地は人が何層にも立てる位で風の影響を受けない軸組みのみに板を敷いたよう
なものだ。別名筑後船で、これが戦国時代後半に鉄で覆いをした亀甲船の元になった。
もう一つは末次船で、大型の西洋の黒船がやって来て半分壁を作り大砲と鉄砲を置いた
。全面と後部は先の荒木船の様な軸組で、浜にロープを付けて碇代わりにした。この梁
組は当然帆を受ける支柱の為の穴がスカイツリースカイツリーの様に中心に穴があって
支えていたようだ。

1691: 名無しさんAA:18/11/20 17:13
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   722   > 

 異国渡海の朱印状は、文禄元年(1592)に、豊臣秀吉が長崎、京都、堺の8人の
豪商に授けたのが最初であるが、その8人の豪商のうちの一人が長崎在住の荒木宗太郎
(〜1636年)がいる。荒木宗太郎は、豊臣秀吉の朱印状を得て以来、シャムや安南
地方に数度貿易船を出した。ちなみに最初に朱印状を授けられた8人の豪商とは、長崎
の荒木宗太郎、末次平蔵、船本弥平次、糸屋隋右衛門、京都の茶屋四郎次郎、角倉与一
、伏見屋、堺の伊勢屋であった。荒木宗太郎は生年月日も不祥であり前半生はよくわか
っていないが、肥後熊本の武士だったと言われている。1588年(天正16年)ころ
、長崎に移り、武士をやめて商人になった。異国交易で賑わう長崎で交易商売に眼をつ
け、船乗りとなり、やがて船主として財を成し、朱印船制度の創設と共に朱印船主に選
ばれるほどの豪商となった。その後も荒木宗太郎は徳川幕府よりたびたび朱印状を受け
、1606年(慶長11)から1632年(寛永9)にかけて、シャム、交趾などの、
各地に6回にわたって朱印船を派遣した。使用人や親族を船に乗り組ませ、自分は資金
を出すだけというのが普通の他の多くの朱印船主だったが、それと異なり、荒木宗太郎
は船主であっただけでなく、船長となり、自らも乗船し、朱印船を率いて渡海したとい
う。この種の事業家は、当時では「直乗り船頭」と呼ばれて船乗りの間で尊敬された。
 当時のヴェトナムは、1428年に明の支配を脱して興った後黎朝のもとにあったが
、混乱が続き、ハノイを中心とした北部は鄭(チン)氏が、フエを中心とした中部は阮(
グエン)氏が実権を握ったが、中華が攻め入った南と逃げた北に分裂し、この鄭和の子
孫の鄭氏と阮氏との対立は約200年にわたって続くことになる。日本では北部ヴェト
ナムの鄭氏政権を東京(トンキン)と呼び、中部ヴェトナムの阮氏政権を交趾または広
南国(クアンナム)と呼んでいたが、荒木宗太郎は、広南国王の阮福源に深く信頼され
ていたとみられる。後に荒木宗太郎は阮氏の親族に加えられることになり、阮太郎と称
したと伝えられている。荒木宗太郎の注目すべき事蹟の一つとして、元和5年(161
9)、阮氏の娘、王加久戸売(オウカクトメ)を嫁に迎え、現地妻として現地に置くの
ではなく、自分の朱印船に乗せて長崎に連れて帰り、自分の長崎の屋敷に住まわせて、
その生涯を正妻として日本で全うさせたということが挙げられる。この女性は、長崎の
人々から本名でなく「アニオーさん」と呼ばれて親しまれ、夫・宗太郎の死後、164
5年(正保2)に長崎で没している。

1692: 名無しさんAA:18/11/20 17:14
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   723   > 

 このアニオーというのはどういう意味なのか、諸説あるようであるが、最も説得力が
あるのは、アインオーイ、もしくはアニョオーイという王加久の口癖が長崎の人々の耳
に残り、語り伝えられて「アニオーさん」になったとする説。アインというのはベトナ
ムで夫や兄、伯叔父などの男性に対して使う敬語であり、オーイというのは呼びかけの
言葉で、これは、『朱印船時代の日本人』(小倉貞男 中公新書、1989年)で紹介されて
いる説。などがある。尚、荒木宗太郎は元和9年(1623年)、再び広南へ渡海した
が、その折に妻アニオーを同乗させてはいない。荒木宗太郎と妻の王加久の間には、一
人娘が生まれ、名は家須(やす)といい、アニオーさんは、長崎・飽の浦の屋敷で一人
娘家須を育てるものの、アニオーさんは一度も故郷に帰ることなく長崎で生涯を終えて
いる。糸屋隋右衛門は、江戸初期の長崎の朱印船の船長。父は宗丹、母は好孝と推定さ
れる。法名を宗覚。長崎本鍛冶屋町(長崎市万屋町)に住んだ。当時の朱印船の貿易家の
長崎の代表的存在のようにいわれているが、朱印船貿易家の公式な資料には見当たらな
い。朱印船の船長を務めたものと推定される。事実、隋右衛門の使用した東亜航海図の
模写が伝わっているし、寛永7(1630)年松倉重政が幕命によって呂宋島偵察船を派遣し
たときには船大将にその名がみえる。元和・寛永期(1615〜44)に長崎から呂宋に渡航し
て活躍した人物であろうと思われる。子孫は孫の代の享保14(1729)年に絶えている。墓
は長崎市長照寺裏山に現存する。(資料:中田易直『近世対外関係史の研究』)松倉氏
は先の荒木氏と共に秀吉が天下取りで大勢を占め九州制圧と朝鮮征伐をした頃にやって
きた御家人集団の一人であった。当時秀吉の様にいい加減の田舎者が、竹中半兵衛など
優秀な人材を雇用し、城持ちとなってからも、さらに出世して行く事は稀であった。こ
のように「人」を動かして自らが出世してゆく裏に交易の商人の利益があった。秀吉は
船や海奉行に、小西行長を据えて事に当たらせたが、豊臣秀吉の場合は、まずは刀狩令
で民衆の武力を奪い、石高制や検地で全国の土地の情報を掌握します。さらにはバテレ
ン追放令を出し、国内にいたキリスト教宣教師を処刑(いわゆる二十六聖人処刑)して、
外来思想の排除も試みた。松倉重政は松倉重信の長男で知っての通り、日野江城に入封
後は苛政と搾取を行い、子の勝家と共に島原の乱の主因を作った非情の武人として有名
だが、糸屋隋右衛門を使ってルソン貿易で失敗したのは案外知られていない。

1693: 名無しさんAA:18/11/20 17:14
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   724   > 

 糸屋隋右衛門は1586年(天正14年)〜1651年(慶安3年)に活躍した人物だ。久留米か
すりで知られる城島や筑後は綿糸の産地ではない。それでもここの機織りの歴史は古く
恐らく竹細工の影響で機械や小道具が揃っていたのであろう。鎌倉時代には既に九州の
全域や山口山陰地方まで輸出している。後で高級織物として博多織りや京都織りなどが
出て来るが、源平合戦のころまでは九州反物(たんもの)は一つの一般的着物であった
。それらが売られた理由は九州櫨とも関連がある。泥染めのルーツは琉球にあるとされ
る。そして和蝋で栄えた柳川立花藩の立花櫨の原木も実は沖縄からの渡来種との掛け合
わせで実がちいさく粒の大きな蝋分の3〜4倍多い和蝋種の生産にこぎつけた。温州み
かんも同じで矢竹も同じに農業生産には、この筑後は独特のうんちくを持っていたよう
だ。小郡・松崎・三潴・筑後地区では今では「櫨」「竹」「松」「楠」「柳」などは殆
どが切り倒されて、当たらしい普通のものすら植生されない痛ましい行政が続きその面
目が保たない福岡県だが、かつて筑後地方は農業大国の木の国だった。「櫨の国」とま
で言われた時期には、隆盛を極めた木蝋の一大産地でした。その基礎を作った「伊吉は
ぜ」小郡の重要な「産業文化遺産」としている。ところがこの伊吉はぜは鎌倉時代から
のこっていた柳川櫨の種の移殖である。この蝋の技術は染めの工程を劇的に変えた、絞
り模様から絵描きにしたのである。糸屋隋右衛門は関ケ原時代までは佐賀の末吉船と同
じに、比較的自由に交易していた。しかし黒田官兵衛や松倉重政などが出て来ると彼ら
は追われ脅迫されこの伴天連追放令で共存し協力するに至っている。田中吉政の庇護を
願って松倉重政は糸屋隋右衛門と共に訪問している。柳川天艘寺と光樹寺の伝説では、
不破氏や丹羽氏が同席している。オランダ東インド会社が出島に進出する前はアルメイ
ダ街道は一大流通基点として存在した。オランダは中国やベンガル、トンキン産の生糸
を日本に売り、日本で目当ての銀、のちに銅を手に入れます。それを用いてインドで綿
織物と交易し、インドネシアなどで目的のスパイスを手に入れ、ヨーロッパへと運んで
いきましたが、その基本通貨が棹金と言われる棹銅(さおどう)や朱銀(朱銀)だった
それが日田にあったからだ。松崎藩は1669年(寛文八年)有馬豊範が19ヶ村一万
石の分知を受け鶴崎に城を築き、名を「松崎」と改めたのが始まりと言われる。松崎藩
の設置で、北は山家宿、南は府中(久留米)至る街道が参勤交代道定められ松崎は宿駅
制度のもとで宿場町として整備された。筑後3宿は府中、松崎、羽犬塚である。当時は
羽犬塚は鉄の名産地であった。府中銀松崎銅羽犬塚の鋳物は仏僧の品の拠り所でもあっ


1694: 名無しさんAA:18/11/20 17:14
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   725   > 

 その後甘木の松崎宿に宿泊した人々は、西郷隆盛、伊能忠敬、高山彦九郎などがいた
といわれている。1866年の文書によると、松崎宿の総戸数は129軒、旅籠26軒
、煮売屋6軒があり、藩主や大名を宿泊させる御茶屋があり、手紙の配達や物資運搬を
行う駅伝もありました。宿場運営には庄屋・町別当らによる合議制で行われていました
。筑後も同じに行っていたようだ。しかし、明治二年(1869年)関所の廃止、明治三年
(1870年)本陣の廃止、そして明治五年(1872年)宿駅制度が廃止(宿駅と助郷制度の
廃止)されると衰退してしまった。オランダ東インド会社はインドや東南アジアの各地
に支店を設けてアジアで活動していきます。日本とオランダとの貿易は17世紀が全盛
期で、オランダの黄金時代とよばれました。オランダが求めたものは本来、香辛料だっ
た。しかしそのスパイスを手にいれるためには、何よりも日本の銀や銅が必要でした。
オランダ東インド会社はこのようにしてグローバルな経済のネットワークをつくりあげ
ていました。各地の特産品がダイナミックに世界的なスケールで動いていた時代、その
一端で、しかも最重要ポイントがここ出島だった。オランダは中国やベンガル、トンキ
ン産の生糸を日本に売って、日本で目当ての銀、のちに銅を手に入れるが、それ以前は
イギリスがトンキン湾でルソンのジャンク船相手に売っていた。糸屋隋右衛門はそれが
ルソンに送られている事を知っていた。イスラムのジャンク船はかつては沖縄や薩摩ま
で来ていた。しかし同じ価格でルソンや香港で売れれば遠く航海する理由は無かった。
綿花をルソンに送り、香辛料をインド迄持って帰る事で船荷の往復運賃を得ていたのだ
。伽羅は古く平安時代からあるがナツメヤシの実も古くからあり、案外昔から中東との
航路は開けていたのかもしれない。糸屋隋右衛門は肥前長崎の商人として、朱印船貿易
家でありなから朱印船の船長としてルソン島(フィリピン)に24回渡航した。とも言わ
れる寛永7(1630)年松倉重政が幕命によって呂宋島偵察船を派遣したときの、船大将に
その名があって元和・寛永期(1615〜44)に長崎から呂宋に渡航して、朱印船の船長を務
めたと推定され、隋右衛門の使用した東亜航海図の模写が伝わっている。この航海図は
羊皮紙1枚に描かれ、全体にわたって胡粉を施し、彩色をし、東は日本、西はインド洋
からアラビア、南はジャワ諸島、北は中国大陸までを図示している。図の全面には緯度
、経度が縦横にひかれ、縮尺を示すスケール標示、緯度を示す度盛、及び方位盤がみえ
て、マカオ、シャム等の主要地、及び主要港を石突としてポルトガル国旗、十字旗、新
月旗が掲げられ、各国沿岸、諸島周辺には大陸棚を示す浅瀬の様子を描いている。


1695: 名無しさんAA:18/11/20 17:15
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   726   > 

 特にルソン、ボルネオ、シャム等の南洋諸島周辺には注記も稠密に施されて、往時の
朱印船通行範囲を窺わせている。日本国の特徴は末吉・角屋図に描かれている蝦夷がな
く、本州の最東北部に「そとのはま」の朱書がみえることで、本図が両図に比して古様
を伝えていることを示し、本図作製の時期を考察する上に注目される。また、末吉・角
屋図と異なり、国名、地名注記の多くはポルトガル語の邦訳名を仮名にて朱書している
。このことから中国もしくは黒船の海図を写したものとも考えられる。本図が作製され
た当初の所用者は未詳であるが、糸屋随右衛門所用とする説が有力である、保存良好で
遺例稀な初期朱印船貿易所用図の原本として、対外交通史、及び交易史研究上に貴重で
ある。本図はもと備前岡山藩主池田家に伝来したもので、本図の概要を伝える「航海古
図考証」(明治43年写)等がある。岡山城を築城したのは人の善い宇喜多秀家である。
宇喜多氏は岡山城を居城にして戦国大名として成長し、豊臣家五大老を務めたのだが、
しかし慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、西軍方の主力となった秀家は改易
となり、西軍から寝返り勝敗の要となった小早川秀秋が入封し備前・美作の51万石を、
所領とし入城した。ただ慶長7年10月18日(1602年12月1日)、秀秋は無嗣子で没したた
め小早川家は廃絶となった。慶長8年(1603年)、姫路藩主・池田輝政の次男・忠継が
28万石で岡山に入封し、ここに江戸期の大名である池田家の治世が始まる。改易で逃れ
た宇喜多氏族はその後九州で喜多氏を名乗ったと言われる。慶長18年(1613年)には約
10万石の加増を受け38万石となった。元和元年(1615年)忠継が無嗣子で没し弟の淡路
国 由良城主・忠雄が31万5,000石で入封した。寛永9年(1632年)忠雄の没後、嫡子
は光仲は幼少だったため山陽筋の重要な拠点である岡山を任せるには荷が重いとして、
鳥取に国替えとなった。池田氏が居た姫路城には、伊予大洲藩として存在し、かつては
伊予海賊の巣窟とされていた。松倉重政は元和2年(1616年)にキリシタン大名として
知られる 有馬晴信の旧領であった肥前日野江に入封後に苛政と搾取を行い、子の勝家
と共に島原の乱の主因を作った肥前島原藩主だ。松倉重政が寛永7年(1631年)に派遣
したルソン偵察船の船大将をつとめた。最初に朱印状を授けられた8人の豪商として知
られる長崎の荒木宗太郎、末次平蔵、船本弥平次、糸屋隋右衛門、京都の茶屋四郎次郎
、角倉与一、伏見屋、堺の伊勢屋だったが、そのひとりとなった。有馬 豊祐(ありま
とよすけ)は、江戸時代前期の大名。筑後久留米藩からの分知により支藩・松崎藩の藩
主となったが、1代で改易された。初名は豊範。幕命によって豊祐に筑後国御原郡に1
万石の所領を分け与えられ、松崎藩が立藩された。

1696: 名無しさんAA:18/11/20 17:15
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   727   > 

 寛文8年(1668年)、頼利が17歳で死去して頼元が久留米藩主に就任した。これに際
して同年8月21日、幕命によって豊祐に 筑後国御原郡に1万石の所領を分け与えられ、
松崎藩が立藩されたのだが。同年12月27日、従五位下伊予守に叙任されているのだが。
寛文8年(1668年)12月、はじめて所領に入った豊祐は、まず御原郡横隈(現:小郡市
横隈)の館に入るが、松崎(現:小郡市松崎)の地を治所と定め、寛文9年(1669年)
春から居館の建設に着手した。4年をかけて寛文12年(1672年)に完成した松崎館(現
三井高等学校周辺)は二重の濠をめぐらせた大規模なもので、地元では「松崎城」とも
称されていた。コスメ・コーゼンの名が、フロイス『日本史』に最初に現われるのは、
一五六五年(永禄八)のことである。興善は四十五歳前後であったと思われる。この時
イルマン・ルイス・デ・アルメイダは病の身を堺の日比屋了慶の屋敷に休めていた。そ
の病も癒え、明日は河内の国、飯盛へ旅立とうという時、了慶は別れの茶会を催すこと
を決めた。フロイス『日本史』は言う。「その翌日九時に、彼(了慶)は、私(アルメ
イダ)と一日本人いる「まん」と、またもう一人、日本で何くれとなく我々の用事を世
話していてくれる男で、コスメ・コーゼンという、富裕で、たいそう善良なキリシタン
に口上を伝えてよこしました。」と書いている。この二年後、即ち一五六七年、フロイ
ス『日本史』はやはり堺においてであるが、コスメ興善が憐れな捨子を野犬から救けた
ことを伝えている。このあと興善に関する記述は途絶え、再びその消息が知れるのは十
一年後、五七八年(天正六)のことである。この助けられた子供こそ村山等安であった
であろう。この年、切支丹大名大友宗麟は島津征討をおこし、耳川決戦におよび惨めな
大敗を喫した。この敗報は宗麟治下の博多にも入り、町は時ならぬ混乱状態に陥った。
博多在住のイエズス会パードレ、ベルショール・デ・モウラ及びバルタザール・ローペ
スは、この混乱を避け秋月へ逃げることを決した。そしてその避難途上「彼等は博多で
彼等の保護者であったコスメ・コーゼンに逢った」のである。秋月に入った宣教師らは
そこでも多大の困難な事になる。秋月種実が大友氏に叛旗を翻したのである。宣教師ら
はたちまちその保護を失い、生命の危険にさえさらされた。そこに彼らの苦難を救う為
に現れたのが、他ならぬ末次興善である。彼は「秋月(殿)に働きかけて、伴天連達を
迎えて保護を加えさせ、これによって彼等は自由を与えられた」のである。と書いてい
る。このコーゼンは新しいキリスタンの街が必要だった。

1697: 名無しさんAA:18/11/20 17:16
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   728   > 

 末次興善はこのあと一五九〇年(天正十八)にもこの秋月に姿を現わしているが。そ
れは恐らくフロイス『日本史』に登場するコスメ興善の最後の姿であろう。この御朱印
状8人の中の末次平蔵はその息子の次男だった。元和4年(1618年)に長崎代官の村山
等安を訴えて翌元和5年(1619年)に等安が処刑され、代わって長崎代官となっている。
 慶長年間が終わり元和5年(1620)に、大坂夏の陣で大坂城が燃え上がり落城。豊臣家
は滅亡し、2代将軍徳川秀忠によって大坂城の再建がはじまっている。支倉常長は伊達
政宗の命をうけ遣欧使節として通商交渉を目的にローマに着きローマ教皇パウルス5世
に謁見しているが、既に出国直後から日本国内でのキリスト教環境は急速に悪化し。帰
国時には日本ではすでに禁教令がだされている。つまり大阪城炎上はキリスト教日本布
教の終焉を物語る始まりだったのである。徳川秀忠のキリスト嫌いは筋金入りだった。
長崎代官の村山東安に、台湾征討の朱印状を与え、一方で幕府の禁教政策により仏寺の
創建が盛んにした、当時禅寺だった東禅寺がキリシタン宗徒の妨害で廃寺になっていた
場所にm僧・浄慶に譲って受け東林山・深崇寺(浄土真宗本願寺派)とすると人別帖を
作らせた。つまり宗徒による戸籍を作らせたのだ。曹洞(そうとう)宗の一庭融頓は天正
15年生まれの佐賀の禅僧で、肥前円通寺(佐賀県)の東甫融菊(とうほゆうきく)の法をつ
いだ。東甫融菊とは「東方の伝書の伝聞を日本語に直す法」つまり今で言う翻訳である
。のち長崎皓台(こうたい)寺の住持となってキリスト教徒の改宗につとめ、天草代官の
鈴木重成(しげなり)にまねかれて国照寺を開き、後に徳川家康より洪泰寺住職に任命さ
れて就僧となった。岩原郷上筑後町から高野平村(寺町)へ移転し船本弥平次、梅野了
安が所有地を寄付、幕府の援助を受けて移転する。岩原郷上筑後町は古くからの商人町
で梅野了安は八女の梅野屋の支店であったし船本弥平次は肥後の船本氏だろうと推測で
きる。元々船本姓は大阪を狙った海賊浪速水軍の名で秀吉が九州に連れて来た。伊予の
水軍の仲間となれば当然淡路島を本拠とし木村・大村氏との繋がりは濃いものだろう。
旧 下町・旧 中町・旧 上町・旧 筑後町は長崎開港後、博多などから多くの商人たちが
続々と長崎に入りし、船は入江のある船津町(瓊の浦公園付近)に入港します。商人の多
くは筑後出身者で、彼らは船津町の対岸に定住するようになり町を形成。町はしだいに
山手まで拡がります。そして海岸沿いを下町、2段目を中町、3段目を上町、そして最
後の4段目を筑後町と命名している。


1698: 名無しさんAA:18/11/20 17:17
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   729   > 

 この地域は内町の次に発展した地域で寺院なども集まっていました。これら4町は寛
文12年(1672)の寛文の改革まで使用されます。柳川の船津電機付近はこうした長崎船本
氏族はそのまま船津の人と呼ばれそのまま名乗ったと言う。興善がいつ長崎へ進出した
かは明らかではない。ただ、長崎が開港したのが1571年であり、秀吉が長崎を収公した
のが1588年、恐らく興善の長崎進出はこの20年たらずの間のこと、しかも、かなり早い
時期のことであったと考えられます。なぜなら秀吉が長崎を天領としたとき、既に市街
を形成している26町に対し地子を免除したが、この中に興善町もまた含まれていたから
だ。金井俊行編「増補長崎略史」第十巻。こうして、久留米が一大キリスタンの避難場
所となった。アルメイダ街道で栄えた海外への輸出品であった綿織物、和蝋、筑後茶、
陶磁器の器、金鉱石の棹、そして入って来る硝石、綿花、ジャガイモ、香辛料、伽羅、
ルソン壺に入った砂糖などそれらは投げ銀の対象でもあった。これはそのまま特産品の
街並になった。江戸末期の頃には、農業技術ブームが起こったが、この先駆は那珂川町
山田の庄屋、高橋善蔵(1708〜1761年)が肥前を回り栽培方法を学「窮民夜光
の珠」(櫨栽培の手引書、後福岡藩が藩内に配布)を発表で始まっている。だがそれは
柳川の立花壱岐守の改革に感心したからだった。だがそれは田主丸秋成の竹下武兵衛の
(生葉郡亀王組大庄屋)が「農人錦の袋」発表し、筑前から買い求め植えています。そ
して「多年の試を積て験を得た」という「松山櫨」を発見します。この2つの農業書を
もとに、「経験を加え書かれている」といわれる小郡町庄屋 池内孫左衛門(1693
〜1771年)によって「孫左衛門の櫨木仕立覚」が書かれました。内山伊吉(173
0〜1814年)は、こうした中で「伊吉櫨」をついに発見します。後に肥前、肥後、
薩摩など九州一円や山口にも植樹されることになります。元々櫨栽培のふる里へ里帰り
することになる「伊吉櫨」の接ぎ木の技術者を松崎から招いています。薩摩の地の殆ど
がこの伊吉櫨に植え替えられたといいます。松崎宿は、薩摩藩の常宿でもありました。
松崎周辺の櫨並木を羨望の目で見ていたからだ。こうして薩摩・秋月街道は、蝋や技術
者が行き交う「木蝋の道」(ジャパンワックスロード)と言われた。しかしそれは又、
筑後茶葉(チッゴティ・ロード)でもあった。しかしこの道は古くは阿蘇から発したと
思われる 御嶽教の道でもあって 七夕道でもあったのである。


1699: 名無しさんAA:18/11/20 17:17
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   730   > 

 この年インド副王使節の資格を以って巡察師バリニャーノ一行が長崎に到着した。彼
らは豊臣秀吉に謁見すべくただちに長崎をあとにしたが、その一行を博多の近く秋月で
出迎えたのがコスメ末次興善だったのである。「(彼らが秋月に)着くと、(一行は)
コスメ・コーゼンという古くからの優れたキリシタンの老人に迎えられた。彼は博多の
町の非常に重立った人で、名望ある多くのキリシタンの息子たちの父である。本来の主
な家は博多にあるが、(その他)諸所にも家を持っている。その多くの家の一つは秋月
にあり、そこで彼は(先に)秋月(種実)殿からはなはだ挙用されたのであった。」今
こうして、フロイス『日本史』の記事中から、末次輿善に直接関係するものを拾い出し
並べてみた。これら一連の記事を読むとき我々は、善良な切支丹としての興善の姿を思
い描く事が出来ると同時に、また未次氏初期の活動範囲をもほぼ推測することが出来る
。それは概ね堺と博多を結ぶルートであり、中世末から近世初頭にかけて、博多は対馬
−朝鮮を結ぶ重要な貿易港であった。しかし博多はその膨大な輸入品を捌く消費都市を
後背地として持たない。そこで京都という一大消費都市を後背地として持つ堺との連繋
が必要となっていた。末次興善の屋敷が「諸所」にあり、その一つが堺に在ったという
のも当然のことかもしれない。ところがこれから約百年後『元禄二年堺大絵図』には、
既に末次氏の名を見付け出す事は出来ない。それどころか、未次興善が堺に居たという
記録は、フロイス『日本史』以外には皆無である。『今井宗久茶湯日記書抜』も、また
『天王寺屋会記』にも興善の名は登場していない。それは末次氏の当時の商業活動を消
したかった様に消えている。それ程大きな影響力を持たない、言いかえれば、京都では
やっと頭をもたげてきたばかりの新興商人だった。という事を物語っているとも言えよ
う。しかし末次家も平蔵の代となり、長崎貿易に携わるようになると、末次氏の名は急
速に当時の商業活動の表面に躍り出てくる。例えば一五九二年(文禄元)、豊臣秀吉は
初めての海外渡航朱印状を発給したが、これには、長崎ヨリ五艘(末次平蔵 二艘  
船本弥平次 一艘  荒木宗太郎 一艘  絲屋随右衛門 一艘)京都ヨリ三般(茶屋
四郎次郎 一艘  角倉 一艘  伏見屋 一艘)堺ヨリ一艘(伊予屋 一艘)以上と
とあって、この年発給された朱印状九通のうち、五通までを長崎在住商人が得ており、
しかも内二通が末次平蔵に宛てられたものであることで。長崎貿易を背景とした末次氏
の台頭ぶりが窺えるというものであろう。

1700: 名無しさんAA:18/11/25 15:04
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   731   > 

 しかし、かといって、この末次氏の隆盛をもたらしたのが、平蔵一人の力に依るとい
うのでは決してない。むしろ、その土台を築きあげたのは、平蔵の父であった興善によ
る活躍によるところが大きかった筈だ。当初、末次氏の発展は対ポルトガル貿易にかか
っており、そしてこれは次の二つの柱に支えられていた。一つはイエズス会との関係で
あり、今一つは新たに開港した貿易都市長崎との関係であったが、これらは秀吉の威光
によって支えられていた。興善は切支丹となることによって対ポルトガル貿易に有利な
地位を占め、更にポルトガル貿易の為に開かれた長崎へ逸早く進出して、その地に興善
町を興すなどして町の発展に寄与し、長崎の町政に少からざる発言力を有するようにな
ったのである。そして、末次平蔵の活躍もこの土台のうえにあってこそ、初めて可能に
なったといえるであろう。因に平蔵の誕生は、長崎開港に遅れ二年、即ち一五七三年(
元亀四)のことであった。以後末次氏は衰退の途を歩む堺を棄て、新興貿易都市長崎の
商人として次第に頭角をあらわしてくるのである。もともと佐賀の八田江は八田河であ
った。そしてそこに末次船はやって来ては宝を積んできた事から与賀町或いは東与賀町
とされた。そもそもが海に近く農地には適さない有明の干潟地だったのである。又北方
や大町と言った所はそもそもの南北朝時代から戦い北朝に加担し勝った事で北方の地名
を得ている。安富氏や六角氏はその頃から住み着いたものと思われる。末次氏が、末次
船で乗り込んでいた事は間違いなく鍋島氏は追われて今の鍋島に落ち着いたと言える。
荒木船の原型は荒木氏が乗っていた船だった。と言うよりは荒木船に乗った人はみんな
荒木氏だった。この大型船の木材は当然山からしか切り出せない。ここに英彦山や日田
林の成育の早さが際立っていて、秀吉時代でさえ久留米と英彦山二日市の間の木々を、
片っ端しから木材原料として、筏で大川まで出している。これが大善寺荒木やこの佐賀
の末次船の発祥の理由である。では何故船がそんなに重要だったのか。じつは戦国時代
まで、流通は米と酒、更に乾物が大体を占めていた。それはほとんどが自給自足の生活
をしていた。それが出来なかったのは都でしかなかったのだ。つまり中央政権時代到来
において、人は集めても家や衣服は近くから集めても、食糧だけは常に集め続けなけれ
ばならなかったのである。勿論綿や反物或いは紙の原料の楮や金銀銅の棹物も流通はし
ただろう。舶来品や仏具も陶磁器や人もいた。しかし主なものはやはり米からみであり
食糧だった。



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