何でも書こう


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何でも書こう

1: 名無しさんAA:15/02/21 12:29
雑談しましょ

1501: 名無しさんAA:18/10/25 07:43
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   493   >

 このため、その取引について「望み通りの生糸を入手出来ない」日本商人達の不満が
常に存在した。さらに、この長崎〜マカオ間貿易の全般に渡り、日本人とポルトガル人
の仲介に、終始パードレや、ジョアン・ロドリゲスは「法外な糸値段」をつけたらしく
、宣教師ですらそのやり方を適切でないと指摘した程であった。加うるにイエズス会は
、等安を利用して長崎町政まで関与しようとしたのである。貿易の内容については詳(
つまび)らかにはわからない。しかしこうした生糸を購入していた事は確かで、生糸は
当時最大の輸入品で中国から入ってきていた。購入する貨幣は銀だった。日本は銀産国
として当時は知られていた。神屋家が石見銀山(いわみぎんざん)を発見し、銀の採掘
に成功したのを皮切りに。石見に限らず、当時の日本は豊富に銀を産出して外国へ放出
していた。途中からそれが海産物や銅に替わり、住友の別子銅山などが出てくるが、そ
れはずっと後で、その頃に住友・三井などが出てくる。小左衛門や末次平蔵らが17世紀
の60−70年代に没落して三井・住友、鴻之池など、いわゆる問屋商人が一世風靡する。
それはキリスタンが居なくなってからだった。等安とロドリゲスの対立は次第に根深い
もの対立になり、遂に1610年マードレ・デ・デウス号事件が起こった。1609年
(慶長十四)夏、長崎に入港したポルトガル船マードレ・デ・デウス号に、長崎奉行の
長谷川左兵衛と代官村山等安はその積荷に厳重な統制を加えた。積荷の目録を呈出させ
、その商品に対し価格の面その他において、日本人官憲の指揮権を発動しようとしたの
である。それは従来のイエズス会主導の貿易介入を排し、ポルトガル貿易の主導権は、
日本人にある、という意志表明だった。この為生糸を中心とする積荷の多くが差し押え
られ、許可なく荷揚げをすることが禁じられた。しかし船長アンドレア・ペッソアは、
あくまでこれに反対し、家康に直訴さえほのめかした。この前年、マカオにおいて有馬
晴信の部下とポルトガル官憲との間に武力衝突がおこっていた、日本人が暴徒として鎮
圧され、その多くが殺され又捕えられるという事件が発生したのだ。この事件の鎮圧に
当たって乱暴したのがほかならぬこのペッソアだったのである。等安らは積荷に関する
種々の統制が拒否されたと知るや、マカオにおける日本人騒擾事件を利用して、ペッソ
アを陥れる事を画策した。ポルトガル側は、マカオにおけるこの事件を長崎入港後に何
より早く家康に報告する筈であった。しかし等安や左兵衛は、あろうことかイエズス会
を使って報告のその中止を説得させたのである。

1502: 名無しさんAA:18/10/25 07:44
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   494   >

「マカオで殺された日本人たちのことを内府の耳に入れるのは適当ではない。この後に
絶対非常な打撃をうけられ苦しまれるに違いないし、内府様を納得させるに足る理由も
弁明もあろう筈がない。」と更にこの事は「決してポルトガル人の利益にはならない」
であろうと。こうしてマカオにおける事件はポルトガル人の口からは家康へは知らされ
ないままだった。それは結果として、ポルトガル人がこの事件を家康に対し、隠そうと
したかのような印象を与えた。イエズス会は等安らに躍らされ同胞破滅の原因をつくり
出してしまった。次に当安らは有馬晴信にゆさぶりをかけた。イエズス会士モレホンは
言う。「この策謀の張本人は左兵衛と等安であった。彼らは有馬殿をこの策謀に引入れ
るために、左兵衛は、もし貴殿が家来の殺されたことを遺憾に思わず同盟に加わらない
ならば、貴殿の家来が日本の外で犯した種々な問題について貴殿を訴えるといって嚇し
た」と。晴信はマカオより逃げ帰った部下を連れ、駿府へ赴き、マカオにおける事件の
一切を報告するに至っていた。ポルトガル側の報告は左兵衛や等安らによって阻止され
ていながら、有馬晴信の報告が一方的に受け入れられ、怒った家康は、ポルトガル船の
捕獲・ペッソアの逮捕を晴信に命じた。事件は既に周知のごとく、デウス号の爆沈とい
う形で結末を見た。しかし等安のイエズス会に対する攻撃は終らなかった。彼は家康の
怒りを背景に、日本からイエズス会の立退きをほのめかしたのである。そこで日本管区
長パシオは、等安や左兵衛に和解工作を講じた。等安らは「ペソア来朝中の行動に関す
る責任をロドリゲスに帰し、ロドリゲスをマカオヘ追放すること、それはイエズス会の
決議の結果によると家康に伝えること。」この二つを条件にパシオの和解工作に応じた
のである。おさまらないのはイエズス会である。等安らにさんざんふりまわされた挙句
、デウス号事件の責任をおしつけられ、ロドリゲスをマカオへ追放しなければならなく
なった。しかもこのデウス号沈没で、イエズス会は一万二〇〇〇ドゥカド相当の生糸を
失い、莫大な負債をかかえこむことになったのである。イエズス会の士は言う。「われ
われは想像も出来ない程みじめな状態に陥った。というのは、維持する財源をもたない
許りか、既に二万ニ〇〇〇タエルの負債を負っており、しかも毎年さらに負債を重ねて
いくことになろう」と。すなわちイエズス会も航海には各管区の投資が必要とされてい
たのである。

1503: 名無しさんAA:18/10/25 07:51
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   495   >

 ところが、デウス号を爆沈させた有馬晴信は、徳川家康からの使者岡本大八に、その
恩賞として「先祖の失った土地、肥前の藤津・彼杵・杵島の三郡」を取り戻せはしない
かと、大八に相談をもちかけた。本多正純の家臣岡本大八はこれに対し、本多正純に取
次ぐとして運動資金を要求し、これを騙しとったのである。一向に事の進展しないのに
業を煮やした晴信は本多正純に報じた。しかし正純はこの事を知らず、晴信は、はじめ
て己が騙されていたことを知ったのである。事は家康の耳に入り、岡本大八は駿河の阿
倍川原で火刑に処せられる事に至った。しかし、大八も逆に晴信を訴えていた。デウス
号焼打のとき、晴信が長谷川左兵衛(長崎奉行)と衝突し「左兵衡を斬り、長崎を火の
海にして自殺する」と洩らした言葉がとがめられたのである。このため晴信も甲斐に流
されたのち死罪となった。問題はこのあとである。家康はこの二人が共に切支丹であっ
た事を知り「日本人には為し得ないようなことを、キリシタンは敢えて行なう。」と、
切支丹への不信を高めた。更に調べるうち、家康をとりまく側近や侍女の中にさえ切支
丹が発見されたのである。オルファネールは言う。「それゆえ、皇帝は大八の死後、キ
リスト教に対する迫害を公然と開始した」と。これらにより1614年(慶長十九)、
即ち切支丹大追放の年が明けた。この年長崎では禁教令に対抗するかのように連日贖罪
の行列が町をねり歩いた。このおりスペイン系修道会とその信徒達の行列は凄惨を極め
、五月十九日には「三千人以上の血の贖罪者の行列が出た。彼らはかつてみたこともな
い程惨たらしく互いに鞭うっていた。」そしてこの行列には長崎代官村山等安が家族ぐ
るみで公然と参加していたのである。これに対しイエズス会の行列は、かなり見劣りの
するものであった。アビラ・ヒロン『日本王国記』は記す。「行列の歩き廻った距離は
極く短いものだったが、それは町の年寄らが、あの悪魔のような敵がこの上怒らないよ
うに、パードレたちに行列を通りへ進ませないでくれと頼んだからであった。」と。つ
まり幕府に気兼ねした内町乙名達がイエズス会に行列を目立たぬようにと依頼し、イエ
ズス会はこれに応じた訳である。二種類の聖行列を見くらべる時、内町=イエズス会と
外町=スペイン系修道会のそれぞれの連繋がそこにあらわれているように思われる。
こうして寛永17年(1640). ポルトガル使節団長崎受難事件が語り継がれるのである。


1504: 名無しさんAA:18/10/27 03:57
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   496   >

 事の真偽の程はともかく、デウス号事件にまつわる「岡本大八一件」が切支丹迫害の
テコとして家康に利用されたのである。時に1614年、諸国の切支丹は長崎に集めら
れ、この地からマカオ・マニラへと追放される事に決した。「彼はおとなしく謙虚で以
前とは別人のようにみうけられたから、我々は感嘆し、かくも力強く憐れみ深くましま
す我等の主に感謝を捧げた。」と書かれている。このような変化がどのようにして現わ
れたのかはわからない。ただ、長男トクアン・アンドレスを始め、彼の家族の切支丹と
しての優れた行ないが確かに等安に影響しているだろう事がほぼ推測されるのみである
。同じ年の十一月、約百名近い宣教師及び日本人信徒がマカオ・マニラへ向けて追放さ
れていった。しかしオルファネールによれば、この内41名の多きが日本残留に成功し
たという。この中には等安の子フランシスコも含まれていた。つまり等安は、このフラ
ンシスコを始め九人の司祭を長崎沖で小舟に収容し、再び日本へ潜入させたのである。
だが事件はこれで終った訳ではなかった。再潜入したフランシスコは、大坂の陣に際し
て秀頼方に与し、切支丹浪人の慰安に当たる事となった。豊臣秀頼はこの時、キリスト
教の自由布教を約束していたのである。このため、当安もその事に関わり、武器・弾薬
を大坂方へ運びこんだといぅ。しかし大坂方はもろくも破れた。等安のこの切支丹とし
ての一連の行動は、徳川幕府への反抗であり、その発覚は村山一族の滅亡を意味した。
等安は幕府への忠節を証明するため、また自らの地位を高めるため、日・中出合貿易の
拠点を確保すべく、自費で台湾遠征を試み、更に遣明使節の派遣を計画したのである。
しかし事はいずれも失敗に帰し、今や徳川幕府への功労者としての面は全くなく、禁制
の切支丹、しかも大坂方に与した反逆者としての事実のみが残されたのであった。松竹
秀雄の「ポルトガル使節団長崎受難事件」はそもそも1610年からその兆しがあった
と説いている。長崎の海外貿易に関し,「長崎叢書」寛永17年(1640)の項に次の三つ
の記事がある。「その1は『薩摩下甑島に潜匿する伴天連5人,異宗徒2人を長崎にて斬
る。さきに一旦帰国し,或は放流せられて阿婿港に在り,本年唐船に托し渡船したる者
らなり。』その2は,「幕府,平戸のオランダ貿易場を長崎に移し,外国交通の事務を
長崎奉行の管掌とす。オランダ船の平戸に貿易するもの30余年,是に至りて之を遷す。
且沿海に令し,唐・蘭・韓の諸船漂着せばその地より挽船を出し,皆長崎に送付せしむ
」と捕獲曳航の事にしていたようだ。

1505: 名無しさんAA:18/10/27 04:02
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   497   >

 その 3は 同年5月 17日,南蛮船 2般来り,戸町浦口に泊し通商を復せんことを請
う。6月 16日その船を焼き乗員を斬る。」とある。ここで完全にポルトガル船のイスパ
ニア船員を処刑し縁を絶つことを決定していた事になる。慶長 14年(1609) の東南アジ
ア海域の我国海運について」という書面に於て、既に我国の大航海時代の中で1609年に
500石積軍船の破壊したという結果を書いている。徳川幕府の突然、の命令によって、
これを契機ににわかに鎖国貿易の途を辿る。その経過は、但しそれは一挙にではなく、
色々と国内事情や国外情勢をはかりながらも幕府は出していた。慶長15年(1610)5月4日
秀忠スペイン人に通商航海免許を与え,慶長 16年(1611) 7月24日〜1月28日家康より、
オランダ平戸商館長スペックスに渡海朱印状を与え,同年に明国商人に長崎での貿易免
許状を下付している。慶長 17年(1612)10月29日 家康はオランダに対し,パタニ及びパ
ンタムより日本への渡船朱印状を与え、又遅まきながらも慶長18年(1613) 8月にイギリ
ス船通商許可朱印状を出している。また幕府は元和元年(1615) 9月20日には長崎の代官
村山等安にも、台湾占領の為の朱印状を出した(1616.5.5)東安は船13般をととのえ、次
を出し、翌元和 2年 3月には3男ジョアン(秋安)を自分の代理として出発させた。これ
らは1616年 2月25日(元和 2年 1月19日)イギリス平戸商館長リチヤード・コックスから
東インド会社に送った書簡によれば、皇帝(家康)は長崎の富人、東安殿に命ずるに自ら
費用を負担して支那の沿海に在るファーモサと称する島に赴き、戦いて之を取ることを
以てせり。その為に彼は今や船その他の必需品を準備しつつあり。然れども或者は逃亡
せる。君主秀頼様をして、琉球その他発見し得べき所に到りて捜し出さんとするなりと
言えり。」とある。また彼の同年 7月7日(元和2年6月4日)の日記に、この東安の船の内
3般は帰着せり。その船はタカサンゲ即ちファーモサ島に赴く筈なりしが、同地に行か
ず、支那沿岸にて掠奪を行かず、小艇或はジヤンク船11般を牟捕し、船員が抗争せしめ
たため 彼等を悉く殺したり。」と書いている。又同日の日記に、東安の家来の船が数
隻で台湾島の入江をさかのぼって、更に奥地を調査するつもりであったところが、不意
に土民から襲われて、所詮逃げられないと分ると敵の手に陥りたくないので切腹した。
という噂である。」とと綴っている。此処に南蛮貿易とキリシタンを受け入れた信長と
貿易=信仰を知らなかった秀吉と 貿易と信仰を切り離して国を開きたい家康の違いが
あった。国をあげて台湾を獲りに行かないしたたかさがあったのだ。


1506: 名無しさんAA:18/10/27 04:02
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   498   >

同じくコックスの 7月12日(元和 2年6月9日)の大坂又は他所のリチャルド・ウィッカム
への書では「寛永17年6月1日」の書簡には「東安がファーモサ島を征服する為めに派遣
したる諸船は、その目的を達せず般の小船とその中に在りし者を悉く失えり。……その
ため他の者も入ることを敢てせず。支那の海岸に赴き、そこにて1200余の支那人を殺し
たり。而してその会せる小舟又はジヤンク船を悉く掌捕し、乗組員を海中に投じたり。
これがため今年は支那ジヤンク船は、1般も日本に来らざるべしと思わる。因て、長崎
の支那人等はこのことにつき、皇帝に申告せんと決心せり。或は東安がその生命とその
有するもの一切を失う動機となり得べしと考えられる。」とある。つまり逐一本国にに
報告しているが此の事は互いに書かないでおこう。と文をしたためているのである。又
「琉球国中明の神宗実録」にもそれらしい記事が1616年 7月14日に記がある。山王尚寧
,遺通事禁墨来言,週間倭冠各島,造戦船五百余隻,欲協取鶏龍山…・…・・倭若得此
,益芳枚東番諸山……又1617年 8月31日の書に…其長岐ー島,被名為肥前川,島首村山
等安,我呼為桃員者,近受武蔵総揺之命,監主市易交関唐人者也,明石道友乃其領,倭
出版準率,而正木矢次衛門実等安,親随典計之僕,其一人柴田勝左衛門則船中頭目也。
因問其何故侵擾鶏龍一淡水,何故謀拠北港,…・…・・家康匪茄狭湾,有窺我南部之心
,市長岐之首,日等安即桃員者,以他事得罪,家康之滅之也……・・因首長等安造其子
秋安,謀犯鶏箆・淡水,屡失利,不敢帰島…・・・」等の記載があるのだ。何れにして
も、幕府は、家康の後を引続いて秀忠は,オランダ・スペイン・イギリス等の諸外国や
国内商人に渡航朱印状を発行しつつ,その反面ではキリシタン禁教令を出している。最
初は幕府天領(直轄領)にその禁令を敷き、すぐ引続いて全国に出し、長崎の教会1ヶ所
を破壊(慶長 19) し、元和2年(1616) に重ねて禁教令を再度強く発布し、キリスト教会
堂を廃し、唐船以外の外国船の入港を平戸・長崎の二港に制限し、寛永 10年(1633) の
奉書船以外の海外渡航を禁ずる第 1次鎖国令を出し,引続いて翌年(1634) 日本人の海
外往来通商まで制限した第2次鎖国令となり、後寛永11年出島築造に着手する。翌寛永
12年(1635) 日本人の海外渡航はもとより、海外居住地からの帰国をも禁止し、500石以
上の大船建造禁止の第3次鎖国を寛永13年(1636) に出島が完成して出して ポルトガル
人の市中散宿を禁じ令を出した。結局幕府は、台湾を通じた交易を等安にさせようと、
占領許可をおろし、ポルトガルから取り戻そうとしたが失敗し、その報復を恐れて出島
を作ったと言う事になる。

1507: 名無しさんAA:18/10/27 04:03
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   499   >

 等安がファーモサ島を征服する為に船団を派遣したのは台湾に他ならない。かつては
琉球王国と仲良くやっていて、日本にも琉球からの特使に紛れていた。しかし西洋諸国
は「フォルモサ」(ポルトガル語: Formosa, 「麗しの島」) として知られ、中国の封建
制度そのままにポルトガルに上陸許可し台湾島に、漢民族が同島に移住し始めた。17
世紀になって大航海時代の初期はオランダ及びスペインの植民地で、台湾原住民が主に
居住していた。ここで本国の戦闘が東南アジアに伝わりマカオにあるポルトガル居留地
をネーデルラント(オランダ)が攻撃したのだ。そしてこの報復を恐れて2年後の1624
年(寛永元年)、ネーデルラント(オランダ)は台湾島を占領、熱蘭遮(ゼーランディ
ア)城を築いて台南の安平をタイオワンと呼び始める。それは正式に清王朝がオランダ
のみの交易と居住区を認めたからだった。タイオワン事件はそうした中で島の経営に税
金の取りたてをやり始めた事による。ではマカオはどうだったか。マカオもベトナムと
同様な認識で朝貢外交さえすれば日本すら自国のものとする感覚だったのだろう。国の
概念が無いのであった。この熱蘭遮(ゼーランディア)城はこうしたスペインの報復を
恐れて作っている以上日本も海外の報復を恐れ出島を作ったのも当然だった。しかし、
寛永11年から着手し完成が13年(1636)年で2年の月日を費やしている。出島が完成した
後はすぐさまポルトガル人の市中散宿を禁じ令を出して布教を止めて、年第4次鎖国令
でここに収容した。こうなって外国人が市中で見かける事は、有無を言わさず捕縛する
事が出来て、すぐさま天草などの貧農な百姓に一揆が起こるのは必然でそれをキリスタ
ンが支援するのも目に見えていたと言える。すぐに翌年から寛永14年(1637)10月に島原
・天草の乱が勃発した。寛永15年(1638)2月末に原城が落ち,乱は終ったが、この一連
の動きは既に幕府が仕組んでいた事だったと言わざるを得ない。又次の一揆を恐れて、
翌寛永 16年(1639) 7月5日幕府はポルトガル人の入国を禁止し、在住していた宣教師や
キリシタンに帰国を命じた第5鎖国令を出した。これによりオランダ・イギリス及び子
女は誰も居られなくなりこれによって鎖国は完成するに至った。これらの経過を閲しつ
つ、1640年の出来事の冒頭に掲げた、オランダ商館の平戸から長崎への移転命令は寛永
18年(1641)になって通達されたものであるが,長崎叢書のこの記事は寛永17年の五ヶ所
商人の請願その他によって,実質的には寛永17年に決定されていたことを示している。
と考えてよい。それがポルトガル使節団を刑死せしめ,そしてその報復を警戒して,後
に長崎警備制度化に進んで行くことを検討したと考えられる。

1508: 名無しさんAA:18/11/01 17:50
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   500   >

 そもそもこの奇妙な、そして悲惨な日本のキリスタンの歴史がどうして産まれたのか
。平戸オランダ商館日記 (1617) によれば,長崎奉行(幕府)は末次平蔵 (二代茂貞) を
して,オランダ人にマニラを攻撃させようとしたという。次の文書をオランダ側から自
発的に提出せよ。と書かれている。「『謹んで言上する。我々は既に長い間,また最近
にも,マニラの人々が皇帝(将軍)の禁令を破り,禁止された宣教師を日本に送っている
と聞いた。そこで彼等は,罪人として貴下に捕えられた。もし最高の閣老が同地を粉砕
しようと考えているなら,オランダ人は毎年よい時期に,かなりの数の船で日本に来る
のだから,この時期と機会にその船と大砲を,役立てるよう提供する用意が常にある。
我々はこの様な機会には,例外なしに常に日本に奉仕する用意があり,そのために貴下
にこのことを申し出ていることを 信じてほしい。』これは,ニコラス・クーケパッケ
ルが書いた日記であるが,末次平蔵に応待したのは平戸商館の上級商務員カロンである
。カロンは,この件を我々が約束するのは難しいと断っているが,度重なる平蔵の説得
の後に,上司に伝えて上司から回答することを約束している。平蔵は次のように言う。
「貴下は何と気が小さいのか。貴下は何を言っているのか。一・・・・・貴下は謙虚に
次のように言うべきである。『我々が長い間待望してきた聖なる幸福の時が来た。我々
がどれ程日本に奉仕したがっているか,皇帝に示すことが出来る。』と、貴下がこれを
拒絶するなら,第一に貴下は不服従な虚言者と思われるだろう。貴下は常に,日本に出
来る限り奉仕する用意がある。といっていたが,これは虚言だと考えられるだろう。こ
れと反対であることがわかるからである。何故なら,私は奉行にも江戸の閣老にも,『
オランダ人は、少しの取引しかしていないが,彼らは信用出来る人々で,彼らの兵力・
船・大砲で常に皇帝に奉仕する用意があることを,私は知っている』と,度々言ってい
たのである。否,『彼らは皇帝の国の領主の1人のように信頼するに足り,正直である
』とも言っていたのである。第二に,貴下は,貴下の不服従,信頼を裏切ったことによ
り,今後ますます困らされ,貴下の要求し,希望していることが、常に反対を受けるの
は(今後)確実である。更に貴下の船はすべて押収され,貴下の貨物や資本を送り返す
ための船は1隻もなくなる。また、貿易或いは当地の状況の報告も,出来なくなる。」
「何故なら,シナジヤンク船やガレオット船は1隻も碇泊させて置かず,すべて人員を
満載したまま押収しようというのが,御奉行の計画だからである。また西国の領主達の
ジヤンク船は1隻も残さず実行するよう命令を受けるだろう。」


1509: 名無しさんAA:18/11/01 17:50
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   501   >

「これについて,非常によい提案を知らせよう。スペイン人を欺くためマニラ湾の艦隊
の前にガレオット船3隻を進ませれば、彼らはマカオからのガレオット船だと考えるだ
ろう。……(つまり日本に船を譲るか、マニラを攻撃するかせよ。)……このように、
すばらしい3隻多くの船を件について,自発的に熱意を示し,今年或いは例年より2門
送ってほしい。そうすれば,貴下には当然、貴下の資本と貿易維持のために45隻の船が
認められるだろう。その上,注意すべきことに,皇帝がこれを確認し,実行することを
命ずるかどうかは確実ではないが奉行がこれに熱心であり,宣教師の執劫さに我慢出来
なくなり,また、マニラの人々が日本に対して、余りにも度々罪を犯すために,彼らの
絶滅しか望んでいないのは事実である。」と。これは正にスペイン・ポルトガル船に困
った日本が、オランダ船に脅迫しているのである。1617年の話である。少し整理した方
がいいだろう。等安がファーモサ島(台湾)を征服する為に船団を派遣したのは寛永元
年である。この時既に朱印船貿易の台湾占領許可を貰っているのだ。そして秀吉の様に
国は応援しないまま船団を送ったが、丁度マカオのスペインをオランダが襲って台湾の
防備を固めている所だった。其の為散々暴れて帰って来たのだが、その理由が防備資金
に入港料や税金徴収だった。日本側も朝鮮戦争で勘合貿易が途絶えて中国との直接貿易
が出来なくなったからだ。この点徳川家康はかなり慎重に真剣に知識を蓄えての事だっ
た。そしてその前まで、1609年(慶長14年)〜1615(元和元年)朱印状乱発し禁教令を
出した。このすじがきから見えるのは、もし信長が死んで直ぐに家康の時代だったら、
もっと上手く中国に撃って出ただろう。まあ負けてはいただろうが。宇喜多秀家は岡山
城主直家の次男だった。父・宇喜多直家が毛利家を見限り、織田家(羽柴秀吉)に臣従す
ると、1581年に宇喜多直家が病死。1582年、僅か10歳で羽柴秀吉仲介により織田信長
に遺領相続を許された。こうして10歳本領を安堵され、宇喜多秀家が家督を継いだのだ
。重臣が補佐し戸川秀安や長船貞親、岡利勝らが動いた結果とはいえ、織田軍の秀吉勢
の、毛利攻めの最終ではなかったらこうは行かなかっただろう。宇喜多家は羽柴勢の傘
下に加わり、中国地方を転戦した。叔父の宇喜多忠家が代理として軍を率いて、清水宗
治の備中高松城攻めにも参戦し、黒田官兵衛の秘策の献上により高松城水攻めで落し、
宇喜多家に与えられ、重臣の花房正成が城主として入城した。この時キリスタンも鉄砲
や大砲を盛んに供給し、火薬一樽が女子供の奴隷50人だった。男で半数が相場だった
ならば、水攻めの方がずっと安上がりだった。


1510: 名無しさんAA:18/11/01 17:50
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   502   >

 1573年(天正元年)信長は足利義昭の追放し、ルイス・フロイトが謁見した。洋化し
自分が神だと思っていた信長は、イタリア出身のイエズス会宣教師であるオルガンティ
ーノに対して,京都や安土での教会堂(南蛮寺)の建設や安土でのセミナリオ(神学校
)の設立を許可しています。1570年の事だ。ここで確実に明智は自分が信長に攻められ
ている事に気づいたのである。信長が明智に求めたのは人望と人徳であった。つまり人
の頂点になる事だった。しかし、石山本願寺で解るように、仏や神を持ち出す信仰には
全く興味も恐れも無かった。そして西洋のイエズス会までもが宗教と考えが一体化して
げんなりした物だった。日本で宣教活動を行ったイタリア人宣教師オルガンティーノは
カトリック司祭のイエズス会員だった。人柄が良く、日本人が好きだった彼は「宇留岸
伴天連(うるがんばてれん)」と多くの日本人から慕われ、30年を京都で過ごす中で
織田信長や豊臣秀吉などの時の権力者とも知己となり、激動の戦国時代の目撃者となっ
た。ルイス・フロイスの記録によれば、パウロ三木は十字架の上で、押しかけた群衆に
向かって「自分は罪状書きにあるようなフィリピン人でなく、れっきとした日本人であ
る。私はキリスト教を信じたというだけで 殺されるのである。この理由のゆえに私は
命をささげることをいとわない。私はキリストの教えに従い、自分の処刑を命じた人(
豊臣秀吉)と処刑にかかわったすべての人を許したい」と叫んだという。このパウロ三
木はオルガンティーノの安土城内に作ったセミナリヨ神学校の一期生だったのである。
1582年6月2日、明智光秀による本能寺の変で、織田信長が死去。羽柴秀吉は安国寺恵瓊
を呼び、毛利輝元と和睦となった事で、宇喜多秀家は備中東部から美作・備前を領有す
る57万4000石の大大名となり、毛利家の監視と抑えを担った。直家の子である宇喜多秀
家は秀吉子飼いの武将ともいえる存在で五大老の一人として、関ヶ原の戦いで西軍につ
いたことから、行長も宇喜多家との縁で西軍についたとする説もあるがこれがキリスタ
ン繋がりだった。石山本願寺で現場で辛酸をなめて悲惨さを知っていた秀吉や家康には
舶来品の技術や交易の利潤は取りたいものの神の下で命を落とす事をいとわない信者と
の争いはまっぴらだった。こうした事で武断派と、関ヶ原の戦いでは東軍についた領地
が隣同士でありながら、仲が悪かったとされる加藤清正は対立し東軍についていた。小
西行長は、信長と同じにキリシタン容認の西軍についた。


1511: 名無しさんAA:18/11/01 17:51
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   504   >

1562年(永禄3年)  足利幕府の イエズス会布教公認
1561年(永禄5年)  横瀬浦開港・西海トルレス教会建設
1563年(永禄6年)  口之津アルメイダ教会学校開校 平戸フロイス教会再建
1564年(永禄7年)  宗麟庇護の大分トルレス教会  3ヶ条の制札布教
1566年(永禄8年)  松永久秀の足利義輝の将軍暗殺 エラ、フロイス京都追放
1568年(永禄11年) 信長の足利義昭の京都入場許可
1569年(永禄12年) 天草領主直種が崎津教会が建設 長崎サントス教会建設
1570年(元亀元年)  天草志岐の司祭イルマン会議  長崎港開港
1573年(天正元年)  信長の足利義昭の追放     フロイトの謁見
1579年(天正7年)  安土城内の教会建立      セミナリヨの盛況
1580年(天正8年)  安土と島原へのセミナリオ誘致 イエズス会の台頭
1581年(天正9年)  本能寺の変
1582年(天正10年) 天正遣欧少年使節団の長崎出港
1583年(天正11年) 島津義久のイエズス会追放
1584年(天正12年) スペイン商船平戸来航
1587年(天正15年) 伴天連追放令 発布     
1588年(天正16年) 秀吉の長崎没収キリスタン追放
1589年(天正17年) 加津佐コレジオ神学校の迫害
1590年(天正18年) 秀吉の北条攻め      天正遣欧少年使節団の長崎帰港
1591年(天正19年) ルソン総督入貢貿易    グーテンブルク印刷機輸入
1596年(慶長元年)  豊臣秀吉の禁教令布告   フェルペ号の土佐漂着
1597年(慶長2年)  島原城築城        日本26聖人処刑   


1512: 名無しさんAA:18/11/01 17:51
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   505   >

1598年(慶長3年)  太閤 豊臣秀吉死去    
1599年(慶長4年)  大村玖島城建設      フランシスコ浅草教会建設  
1600年(慶長5年)  豊臣徳川         関ケ原の戦い
オランダ船豊後漂着、ウイリアム・アダムス徳川謁見、細川ガラシャ・小西行長死亡
1603年(慶長8年)  徳川家康将軍宣下     長崎直轄公領公布    
1604年(慶長9年)  有馬晴信原城完成     等安の謁見長崎代官安堵 
1608年(慶長10年) マカオのポルトガル総督の有馬朱印船乗務員の大虐殺
1609年(慶長14年) ポルトガル船デウス号撃沈 徳川家康謁見等安  
           家康のポルトガル親書 貿易保護の約束
1611年(慶長16年) 京都神学校 創立
1612年(慶長17年) 徳川幕府 領内禁教令布告 京都教会破壊
1613年(慶長18年) イギリスの通商許可    浅草鳥越殉教者36人
1614年(慶長19年) 司祭総払い 38名追放  4名斬首 37名他潜伏
1615年(元和元年)  台湾(高砂国)征討の勅使、次男・村山秋安用意させる。
1616年(元和2年)  徳川幕府  徳川家康死去 外国船長崎港平戸港 入港規制
           キリスタン西国大名の一斉取り締まり
1617年(元和3年)  ペトロ神父処刑   台湾派兵占領失敗  タイオワン事件
1618年(元和4年)          タオオワン事件逃避者発見 捕縛
1619年(元和5年)  禁令強化    末次平蔵の訴えにより   
1620年(元和6年)  ミサ施設破壊
1621年(元和7年)
1622年(元和8年)  元和の大殉教       平山常陳事件
1623年(元和9年)  キリシタン隠避者の同等罪 江戸の東海道大殉教 
1624年(寛永元年)  支倉ソテロ火炙りの刑   キリシタン渡航禁止 
1625年(寛永2年)  キリシタン弾圧開始
1626年(寛永3年)  踏み絵探索の開始     松浦氏の仏教改宗
1627年(寛永4年)  長崎居住禁止       松倉重政の340人処刑



1513: 名無しさんAA:18/11/01 17:51
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   506   >

1628年(寛永5年   長崎奉行水野守信の、キリスタン処刑
1629年(寛永6年)
1630年(寛永7年)  寺請け制度開始       島原で藩主交代
1631年(寛永8年)  長崎奉行竹中重義の、キリスタン雲仙拷問
1632年(寛永9年)
1633年(寛永10年)               (第1次・海外渡航の禁止)
1634年(寛永11年)               (第2次・通商貿易の禁止)
1635年(寛永12年)               (第3次・大船建造の禁止)
1636年(寛永13年) ドミニコ会4聖人磔け     出島の建設開始
1637年(寛永14年) 天草・島原の乱        イタリア人宣教師 捕縛
1638年(寛永15年) 天草・島原の乱原城陥落(春)(第4次・出島外の入国禁止)
1639年(寛永16年) 外国人入国 再禁止 捕縛  (第5次・鎖国令 帰国命令)
1640年(寛永17年)
1641年(寛永18年) オランダ商館の平戸→長崎  (海禁体制の確立)
1642年(寛永19年)
1643年(寛永20年)
1644年(寛永21年) 最後の宣教師マンショ小西の殉教
1646年(生保3年)   筑後守山屋敷をキリシタン収容所(切支丹屋敷)設置 
1657年(明暦3年)  大村郡(こおり)崩れ  608人捕縛 411名の一斉斬首
1658年(万治元年)  平戸
1600年(万治3年)  豊後崩れキリシタン処刑 220名捕縛処分
1661年(寛文元年)  美濃外のキリスタン狩り 7年間3000人処刑
1663年(寛文3年)  肥後崩れキリスタン処刑 33名捕縛処分
1790年(寛政2年)  浦上一番崩れ191名捕縛処分 大村民の五島移住 
1804年(文化2年)  隠れキリスタン調査5,202名の潜伏伴天連が発覚



1514: 名無しさんAA:18/11/01 17:54
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   507   >

『長崎叢書・増補長崎略史』によれば、「嘗て東安の長崎に来るや落魄し未次興善に頼
る。代官となるに及ひ又興善と快からす。元和二年(四年の誤)興善の子平蔵其旧債を
責む。東安顧みす終に官に訴へ皆江戸に召さる對審に及ひ平蔵辞屈す 即ち東安か大坂
に通したる密事を告く 初め東安か子某天主教を修むるに坐し阿媽港(マカオ)に放た
る 東安中途に於て窃に之を奪ふ 又去年之を大坂に篭城せしめ又玉薬を輸送せり 是
を以て東安は江戸に斬せられ一家十三人は長崎常盤崎に磔せられ家亡ふ。」と書いてい
る。つまり興味深いことは、追いつめられた平蔵が、等安が切支丹である事、大坂の陣
で豊臣氏に荷担した事等を訴えて、その巻き返しを計ったことである。平蔵は平戸の中
で木村氏を祖とする、いわばザビエル以来の名門切支丹であり、イエズス会との関係も
深い。しかし、にもかかわらず平蔵は等安を訴えるに、切支丹であることをもってその
主な訴因とした。等安を切支丹として訴える事は己れの背教をも意味し、それはキリス
ト教界に対する裏切りをも意味する。それでも平蔵は、この事件以後、苛酷な迫害者と
してイエズス会をはじめとする日本キリスト教界の前に立ち塞がったのである。ここに
イエズス会=末次平蔵・内町の連繋は断ち切られた。末次平蔵にとっては貿易商人の単
なるアイテムに過ぎないキリスト教に興味はなかったし、仏教すら関係なかった。イエ
ズス会にとってはまさに青天の霹靂、信ずべからざる事であった。現にパードレ・コー
ロスなどは平蔵の背教を信じず、1620年五月、平蔵が自分を捕らえようとした時、
初めて彼の棄教を認めた程であった。ところが等安の場合、逆にキリスト教への肩入れ
が激しくなっていっていた。公然と贖罪行列に加わり、追放切支丹を救出し、挙句はキ
リスト教の自由布教を約束する秀頼(大坂)方に荷担するという有様であったのだ。こ
れは市民レジスタンスで救済の為の抵抗だった。仮にも 長崎を代表する代官が御禁制
の切支丹であり、幕府への反逆者であり、その発覚は一人等安が罰せられるだけでは収
まらない危険はしっていた。だが長崎自体にあたえる影響よりその後の自由が大事であ
ったし、無辜の庶民の信仰は大事な事だった。これを防ぐために道は一つ。幕府に露見
する前に、内町の庄屋や長老の手で等安を訴える事であると平蔵は考えた。彼を切支丹
として、また反逆者として告発する事は、彼らが幕政の忠実な実行者として幕府に迎え
られることであり、対立する外町の行政権を獲得することでもあった。これが島原での
しめ縄飾りにつながった。こうしたキリシタン狩りからの防衛手段として、各家庭は盆
と正月にしめ縄飾りを掲げ替えるがそれでも年中入口に飾る。自分達は日本の神仏を祈
る宗徒であると言う証明として。

1515: 名無しさんAA:18/11/01 17:55
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   508   >

 寛文7年(1667年)、幕府の鎖国政策に反して朝鮮と密貿易を行った罪により、
博多商人伊藤小左衛門とその一族は処刑され満四郎神社は、建立された。父小左衛門に
連座して処刑された、小四郎と万之助兄弟の幼い魂を祭ったと伝えられる。商売繁盛や
子供の健やかな成長祈願にご利益のある神様として信仰されている。別の伝承によれば
、小左衛門に仕えた老狐を稲荷の神として祭ったともいう。伊藤小左衛門や平蔵は、ち
ょうど商人の新旧交替の時期に、華々しく散っていった豪商だった。長崎奉行所の犯科
帳や、外国人宣教師が日本のことについて書いた記録などです。それらをつなぎあわせ
て、かいつまんでお話ししますと、小左衛門は博多の生まれではなかったようで、出生
についても諸説があります。粕屋郡青柳村(古賀町)の出であるとか、鞍手郡木屋瀬(
北九州市植木)や、遠くは尾張名古屋説まであります。2代目小左衛門が、鎖国令に反
して、朝鮮への武器密輸事件をおこし、一家断絶、結局2代しか続かなかった。本拠を
博多浜口町に置き、長崎にも出店した。一説によれば壱岐や木屋瀬にも出店していた。
と言われている。また経営内容も非常に漠然としています。当時の博多商人の営業は、
海外貿易と貿易商人への貨幣の融通が主体でしたから、小左衛門も同様のことをやって
いたでしょう。オランダ商館やポルトガル商人とも取り引きがあったと思うのですが、
不思議なことに、それらの外国人は、小左衛門に関して、あまり多くを語っていません
。ただ、オランダ商館員が「小左衛門は毎年銀10貫を消費できる身分で、通詞や乙名(
おとな)(長崎町役人のこと)の話では、銀7千貫以上の資産を持つ豪商である」(『
オランダ商館の日記』)と書いている。豪商でなく投資家で投銀の鉱山師だったのかも
しれない。巷(ちまた)の噂にのぼるような大商人で当時、だいたい銀千貫ぐらいを金
持ちと言ったようですから、7千貫となると、今で7千億のたいへんな豪商です。噂話
はこのほかにもいろいろあって、長崎の五島町の支店の天井は総ガラス張りで金魚を泳
がせていたとか、外出には駕籠を使っていたので、小左衛門の顔を見知っている者はい
なかったとか言われて不明瞭ではある。しかしこの小左衛門の株が福博商人の中で浮上
したのは、寛永期(1624−1643)以降、少なくとも、正保4年(1647)の長崎黒船来航
事件後の頃だ。寛永の博多糸割符(はかたいとわっぷ)には小左衛門の名前は見あたり
ませんが、承応期(1652−1654)の糸割符では、最高の割付けを獲得している。この、
急激に出現したのはポルトガル船デウス号撃沈後に何らかの形で、この積荷を引き揚げ
処分したのが伊藤では無かったかと思われる。未次興善の後継者となって幕府や国の為
働いたのである。

1516: 名無しさんAA:18/11/04 07:57
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   509   >

 1594年、長崎の町役である乙名たちやルソン壺を扱っていた商人たちが秀吉から
呼び出しを受け、その中に等安がいた。その集団が秀吉と面談することになった際に、
交渉力のある等安が代表に選ばれ、秀吉に気に入られた。等安という名は、秀吉からの
名前を尋ねられ「アントン」と答えると、「ト−アン」とするように命じられたものだ
という。等安は秀吉から、外町(51町)を差配する代官職に任ぜられそれ以降代官と
なっている。その後、長崎の商人として朱印状を受け、貿易船を渡航させ財を貯えて行
ったと考えられている。徳川幕府の支配が開始されると、長崎は幕府の直轄地とされ、
今まで代官の下の奉行は、江戸幕府の奉行職として置かれる事になった。奉行の職務は
主として、港の治安維持と貿易の管理だった。1604年、等安はイエズス会のジョア
ン・ロドリゲスとともに徳川家康に謁見し、引き続き長崎代官として外町の行政にあた
ることを承認されたものの、直轄領には揺らぎが無かったと思われる。多分ここで幕府
は台湾を獲れれば等安に任す事を話したに違いない。というのもそれから充分に攻めれ
れるべき用意をしているからだ。だからこそ息子を行かせている。だがこのスムーズに
行くべき台湾遠征に大きな障害があった。実はこの村山等安の台湾遠征の計画に最も大
きな危機感を持っていたのは、かねてより生糸の転売で大きな利益を上げていたポルト
ガル商人らであり、その背後で経済的繋がりを持つイエズス会そのものであった。本来
ポルトガルはマニラでありルソンである。オランダがいた台湾では敵であったはずだが
、ここにきてイエズス会と敵対する長崎の等安勢力が台湾へ遠征するという情報は、彼
らに少なからぬ驚きをもって受け取られ情報が走った。もしも、この等安の遠征計画が
成功すれば彼らは日本での生糸の独占的市場を失い莫大な経済的損失を被ることになる
わけで、彼らがこれまで独占してきた仲介貿易事業も宣教活動も一気に破たんする要因
にもなりかねない。こうして南蛮貿易の宣教師勢力は結束して直ちに遠征の妨害工作に
出た。実はこうした日本(幕府)と中国(明)との直接の交易の動きは以前より是が非
でも阻止するよう、彼らのバチカンの教会本部の上層部から特別に指示が出されていた
事が判明している。それは、日本の為政者である将軍が、明(中国)との直接の交易を
強く望んでいることを察知していたからでもあった。だが『長崎叢書・増補長崎略史』
既に等安の息子は阿媽港(マカオ)にて貿易が失敗し、イエズス会のお尋ね者となり、
大きな怒りを買っていて、大阪城を味方にせざるしかなかったようだ。「是を以て東安
は江戸に斬せられ一家十三人は長崎常盤崎に磔せられ家亡ふ。」と言う処刑は、キリス
タンの利用が徳川幕府の当初からの狙いだった事を物語る。

1517: 名無しさんAA:18/11/04 07:57
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   510   >

 1610年2月17日付けリスボン発、ポルトガル国王のインディア副王宛書簡「モンスー
ン文書と日本: 十七世紀ポルトガル公文書集」(p173ー175 1610年、文書13)より引用
)では「台湾を獲得し中国貿易を行おうとする日本国王の意図を、策を用いて妨害する
よう」命令を出している。本文では、「現在日本全土を統治している国王(徳川秀忠)
は、彼らが高砂と呼ぶフォルモザという島に遠征する準備をしている。其処は、泉州の
沿岸の近くである。彼ら意図は、そのフォルモザ島を獲得して、其処とシナとの間の貿
易を手に入れることである。(中略) 日本人たちにその「狙い」が 遂げることなど
出来ない旨の偽装工作をすることによって、それが成就しないよう尽力することを依頼
する。」となっている。南蛮がこうした対抗策に出る直前の慶長十三年(1608年)家康
は日本に漂着した台湾のアミ族の者と駿河城で直接引見していた。これ以降には台湾に
興味を持った家康は、その翌年、有馬晴信に台湾探険を命じている。家康の命を受けた
有馬晴信は、部下を台湾に送ってまずは視察をし、原住民を撫順してから通商を試みた
が、結果は失敗に終わった。元和元(1615)年、今度は長崎代官・村山等安が高山国の
朱印状を得る条件にしたのだった。実は、当時の台湾には主権者たる「国王」がおらず
、各地方の代表者といえば各集落の首長であり、国書の受け渡しなどできる状態ではな
かった。これは入貢のことなど話をすることができない状態を意味する。しかし、以前
にも山田長政がシャムへ行く途中に一時台湾に停留していたり、泉州堺の商人・納屋助
左衛門(呂宋助左衛門)が文禄3年に台湾の物を、日本に帰って秀吉に謁見して珍品を
献じたりしていた経過もあり、ポルトガルも充分に蛮行を働いたと推測できる。江戸幕
府は台湾で勢力を持つ高砂族との関係改善を強く要望して、早くから明国や東南アジア
との交易の際の中継基地となる拠点造りを企画していた。それがオランダに先を越され
、それでもこの時代いまだにそれは果たせないままでいた。翌年の慶長十四年(1609年
)、九州大名の有馬晴純は家康の名により、台湾へ朝貢を促すために渡海したが、台湾
の原住民との交渉は成功せずに追い返されてしまっていた。これは、事前に講じた南蛮
勢力側の妨害工作が成功した結果であった。こうした中で改めて長崎代官・村山等安が
、台湾遠征計画に名乗りを上げたわけである。この時建白書が、等安や他から幕府へ奉
じられたのかも知れない。等安を育てた末次氏当たりも過去から知って居た筈だだった
。幕府は、国体主導によって台湾遠征の事業が考えられたが朝鮮の様な失態では明王朝
との大戦争を想定し、避けるしかなかった。それを実施すること自体大変な企てである
が、これ以上の明との交易遮断は避けたかった事は違いはなかった。

1518: 名無しさんAA:18/11/04 07:58
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   511   >

 博多糸割符は博多商人の勢力の分布を象徴している。糸割符というのは、生糸貿易の
入札権利のことだ。博多は伝統的に貿易港だった。糸を売買する商人は非常に沢山いた
。そこへ鎖国令が敷かれ、寛永12年(1635)に海外渡航が禁じられ、明船来航も長崎に
限定された。そうなると生糸貿易量が限られ、活気ある商人は密貿易に走りかねない。
それを先取り、防止策に黒田藩は最初に糸の貿易の権利を藩公認で分けて与えてた。と
いうのが、博多糸割符で手数料での先行貿易の投資金だった。だからその権利は、米問
屋相当の力のある豪商でないと与えられない。保証が居るからだ。鉄や伊万里焼などの
貿易で財を成したと言われている伊藤が、下人からの密告で武器を朝鮮と密貿易をして
いたと発覚し囚われの身となった結果、小左衛門一族は長崎など各地でことごとく処刑
され、博多柳町浜の刑場でも多くの関係者が処刑された。のちにその悲劇的な事件を祀
る祠が造られた際、罪人として処刑された小左衛門を祀るのは、はばかられるとのこと
で、小左衛門の三男小四郎と四男萬之助の名前をあわせた「萬四郎」という名で祀られ
た。また、境内の「白川稲荷大明神」は小左衛門に仕えたとされる狐を祀ったものだと
言われる。萬四郎神社は現在は博多の商人に商売繁盛の神だが、伊藤小左衛門の悲惨な
エピソードを物語る神社であったのだ。大久保氏族はもともと宇都宮氏の一族で宇津と
呼んでいた。三河国に松平氏に仕え大久保氏を名乗った。相模国の小田原藩の大久保家
( 11万3千石)は、天下の御意見番大久保彦左衛門の一族である。忠茂の三男の忠員は十
男二女をもうけ、徳川家康の関東入国で、嫡男の七郎右衛門忠世は、相模国小田原4万
5千石となる。次男の治右衛門忠佐は上総国茂原5千石。忠世の嫡男の相模守忠隣が武
蔵国羽生2万石。大久保忠隣は老中務めた。本多佐渡守正信と対立し大久保長安事件で
改易のうえ蟄居し忠隣の嫡孫の忠職は連座して蟄居させられたが、後に許され武蔵国私
市(騎西)2万石、美濃国の加納藩5万石。子孫は、播磨国の明石藩7万石、肥前国の
唐津藩8万3千石、下総国の佐倉藩9万3千石を経て、相模国の小田原藩10万3千石
となった。分家に、下野国の烏山藩3万石。又、鉱山師の大久保長安の大久保姓は、大
久保忠世からあたえられた姓で、元は大蔵姓だった。天草の乱では鍋島勝茂は割り当て
以上の3万2092人の軍勢を派遣し、原城総攻撃の際には幕府の総指揮を執る松平信綱の
決めた期日を守らず、1日早く攻撃を開始し、軍令違反に問われ、翌寛永15年(1638年)
に評定所に出頭を命じられて逼塞を申し渡される。また、勝茂の代の寛永19年(1642年)
に幕府から長崎御番役を福岡藩と1年交代で行なうように命じられた。

1519: 名無しさんAA:18/11/04 07:58
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   512   >

 ここに大久保氏が絡んでいる。ところが寛文七年(一六六七)、通報する者があり、密
貿易が発覚した。伊藤小左衛門は実は貿易実行していたのは対馬出身の大久保甚右衛門
ら海商で、数年間にわたり朝鮮へ鳥銃・硫黄・鎧・長万・脇差・鉄砲薬ならびに金など
を、大量に密輸していたのである。つまり伊藤は只の投資家でしかなかった。ここに、
徳川幕府の政変がある。つまり、実行部隊は何故か天下の御意見番の大久保彦左衛門や
大久保長安の姓と同じに大久保甚右衛門とされる。対馬出身の大久保は恐らく金山関係
で島流しにあっていた者だった。と考えられる。そして伊藤小左衛門自身も鉱山師の出
身だった。伊藤は太宰少弐武藤氏から貰い姓である。本来大橋家や橋本家を家系の祖と
している種族である。大橋家や橋本家は古代豪族の流れを持ち、奈良において紀元前か
らの住民とされる。元々北畠氏系の農民で、桓武平氏の流れで、平貞能が肥後国山本郡
大橋に下向し、大橋氏を称したことに始まるとされる。宗良親王の時代に下向した親王
を護衛し都造りを受け持った一族である。南北朝時代の事だ。彼らが住み着いたところ
に柳川にもある。大橋氏や石橋氏はかつては大阪の浪波の波止場を作ったとされる海童
とされ、彼らは童顔の特徴を持つ中国人だったとされる。柳川伝播では、明治まで彼ら
は土木の工人として重宝されたと言う。熊本の村上水軍に属したとされ、西洋より早く
ラチス構造を持った細工をしていた。とされる。つまり水道橋の様なアーチ状の石橋造
りの名人であったがその下地となる木枠がアーチ状の木柵ラチスを用いていたとされる
。かつて朝鮮征伐時代に朝鮮での加藤清正の城も築いた。あの重たい石の下地をどう受
けてて眼鏡橋の様なものを作ったのかは不明だが筋交いが大きな役割を持った事は確か
で、日本古来の錦帯橋の様な羽根出しの文鎮型の束構造の社寺構造では無かったと考え
られる。この黒船がやって来た事で蛇骨構造とアスファルト防水が日本にやって来たと
言える。大久保甚右衛門が活躍したであろう江戸中期までは、恐らく日本の中で、一番
貿易商人が虐(いじ)められた時代だった。海外貿易には2つの問題がある、一つは当
然ながら言葉であり慣習である。もう一つは相手国の体制である。特に南蛮貿易に於い
て、キリスト教と英語なりラテン語は必須の物であった。しかしここで通訳たる宣教師
の処刑や弾圧があり、加えて伴天連書物とされた辞書や風物書物は宗教書と共に焚書と
された事で、彼らの本拠地は対馬しかなかったようだ。

1520: 名無しさんAA:18/11/04 07:58
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   513   >  

 初代は末次興善の長男宗得の娘と結婚している。このことから末次家との深い繋がり
をうかがい知ることが出来る。また信心深い所もあり、出身地と言われる木屋瀬にある
八所神社の再建に多額の寄付をしたり、清水寺に梵鐘(現存)を奉納している。江戸時
代の長崎街道の宿場町の木屋瀬宿として栄え、筑前六宿の一つに数えられていたのが、
木瀬屋(こやのせ)である。鞍手郡に属していた村だが、1955年(昭和30年)八幡市へ
編入され町に変わった。一方京都清水寺は真言僧慶順(けいじゅん)が元和9年(1623)
当寺を開創したが、寺観の整備に意を用いて、寛永19年(1642)博多の豪商の伊藤小左
衛門尉(いとうこざえもんじょう)吉次の援資により、京都三条釜座(かまざ)伊豆守
藤原朝臣(ふじわらあそん)真次の鋳造(ちゅうぞう)した梵鐘(ぼんしょう)1口を
得た。戦時中の金属回収も免除された名鐘で、長崎に現存する日本の梵鐘では最古のも
のとなり、また京都の鋳物師(いもじ)の鋳造したものは現在これだけが残った。禁制
品の武具類を朝鮮へ密輸出して抜荷(ぬけに)の罪で捕えられ、寛文7年(1667)11月
一味の首魁(しゅかい)として磔刑(たっけい)に処せられた伊藤小左衛門吉直は、吉
次の子であったが、当時の貿易は大体抜荷と紙一重であったから巨万の財を得た。初代
小左衛門は慶安2年(1649年)に享年は70で死去。妙楽寺に葬られた。そして二
代目が「悲劇の豪商」と呼ばれるのが、この伊藤小左衛門吉直である。小左衛門は黒田
藩の御用商人として藩を支えていた。寛永16年(1639)の鎖国後、キリスト教へ
の弾圧はますます厳しくなると同時に、鎖国政策も強化されていった。その矢先正保4
年(1647)6月、ポルトガル船2隻が長崎港に入港した。イスパニアから独立した
ことから再度通商を求めるための来港であった。幕府は長崎奉行に、福岡、佐賀の両藩
に長崎港を厳重に警備することを命じた。この時期、福岡藩主、黒田忠之は300余艘
の船、1万の兵を率いて出陣した。小左衛門は同じ博多の御用商人大賀宗伯と共に軍に
従った。長崎ではポルトガル船を焼き払う方法を取ることとなった。そのためには大量
の焼き草が必要となる。佐賀藩は領地は近くで薪の確保は迅速に出来たが、福岡藩の領
地は遠く確保もままならない。黒田忠之は頭を抱えてしまった。がしかしここで、小左
衛門と宗伯は素早い行動に出た。稲佐にある家を買い集め、なんと一夜のうちに屋根に
使っている藁や柱などをかき集めて焼き草を調達してしまった。結局、ポルトガル船と
は穏便に話がつき速やかに帰帆することとなった。

1521: 名無しさんAA:18/11/04 07:59
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   514   >  

 この時黒田忠之は窮地を救ってくれたことに感謝し、その功績を讃え、家紋入りの陣
羽織を与えた。その陣羽織には火薬が塗ってあり、万一の場合は自爆する覚悟だったと
言われる。このような事から小左衛門は確かな地位を確立していった。小左衛門は浦五
島町に邸宅を構えていた。その他にも船津町に別宅、水の浦には別荘があったと言う。
天井にはガラスで水槽を作り金魚を泳がせ、その贅を尽した作りに来客など見るものを
驚かせていた。その屋敷では歴代の長崎奉行をもてなし、蔵屋敷としての機能を発揮し
ていたために福岡藩の屋敷が出来るのが他藩より遅かったとも言われる。正保の頃に、
佐賀藩主である、鍋島勝茂はその臣下に「福岡藩の伊藤、大賀という者たちが、黒田家
に代わって長崎屋敷で長崎奉行をもてなしているそうだが、彼らは一体、何者なのだ」
と問いただしている。長崎での深刻な米不足により長崎奉行はその対策を小左衛門に命
じた。小左衛門は東北からの買付けを行い、奉行の信頼も厚いものになる。そしてその
後も糸割賦商人となることにより蓄財を進めていく。しかし、繁栄を誇った小左衛門も
遂にその罪が明るみに出てしまう。小左衛門は、寛文2年(1662)から、寛文6年
(1666)の間に7回の密貿易(朝鮮への武器の輸出)を行っていた事により、寛文
7年(1667)6月25日長崎でとらわれた。この事件で捕らえられた人数は270
名あまりにのぼり西国一帯を股にかけた大密貿易団だった。小左衛門が引き連れられて
いくときに大勢の町人を見て「この中に木屋瀬の者はおらぬか」と大声で問いかけると
一人の町人が出てきた。小左衛門はこの男に身につけていた金のたばこ入れを与えたと
いう。小左衛門の息子甚十郎以下150余人が捕らえられたのは寛文7年(1667)
10月15日であった。この日は甚十郎の婚礼が予定されており祝宴が行われる予定で
あった。(この事件のため戦前までの博多では10月15日に祝言をあげることは避け
た風習があった。)11月19日甚十郎は博多で処刑され、この時博多の町人達は戸を
閉じて商売を止め、仏壇の前で今日を唱え成仏を念じたという。続いて、11月29日
小左衛門一族は西坂で磔となった。博多の妙楽寺には小左衛門の墓、伊藤小左衛門父子
哀悼碑がある。また同時に処刑された幼い二人の息子小四郎・万之助を供養するために
小左衛門の屋敷の裏側に万四郎恵比寿神社が建てられている。が近年の調査からこの子
達はこの時に処刑はされず助命されているようである。この社内では子供が遊んでいて
も怪我をしたことがないと言伝えられる。


1522: 名無しさんAA:18/11/04 07:59
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   515   >  

 伊藤小左衛門について近松門左衛門が書いたものに「博多小女郎波枕」があり、小左
衛門は毛剃九右衛門として描かれている。この演題は市川団十郎によっても取上げられ
ている。団十郎が長崎に来たときに高木代官は5本爪の龍を描いた唐人服を送っている
。江戸に戻った団十郎はこの唐人服を着て毛剃を演じたところ大変好評で有ったという
。団十郎の供養塔は聖福寺に現存する。『博多小女郎波枕』は、人形浄瑠璃世話物で、
3巻の大作を近松門左衛門は作った。1718年(享保3)11月20日,大坂竹本座で初演した
。物語は、京の商人の小町屋惣七が、下関から毛剃(けぞり)九右衛門の率いる海賊船
に乗り合わせた所で発展する。博多へ下る便船に乗り、その船主毛剃九右衛門(けぞり
くえもん)が抜符買(ぬけふかい:密輸)の頭目だったことを知ったため、海中へ投げ
込まれるが、運よく伝馬船(てんません)で逃げ延びる。落ちぶれた姿で知った所の博多
の博多柳町の遊廓(ゆうかく)奥田屋へ恋仲の遊女小女郎を訪ねる。が惣七は、運悪く豪
遊する毛剃一味に出会い、仕返ししようとするが、なだめられ、小女郎の身請けを条件
に、この金欲しさに同意して、仲間に加わるのである。これが前半であり、上の巻「元
船(もとぶね)」と「奥田屋」が舞台としている場面題目だ。後半は、中の巻・下の巻の
、小女郎と京都心清町(しんせいちょう)で所帯をもった惣七が、父の意見によって毛剃
と手を切り、草津へ落ち延びるが、罪状が知れて追い詰められ、自害するまでを描く。
意志の弱い男が女への愛着のため、しだいに破滅に至る過程を描写、父子の愛情もよく
描かれているが、歌舞伎(かぶき)では、毛剃を主役に改訂され、ことに7世市川団十郎
の創始した演出が現代に伝わり、普通、上の巻だけを『恋湊博多諷(こいのみなとはか
たのひとふし)』の名題(なだい)にして、惣七を小松屋宗七の役名で上演することが多
い。巨大な元船を飾って大道具のスペクタクルを示す「元船」と、「奥田屋」の異国趣
味豊かな廓(くるわ)情緒が特色で、通称「毛剃」として呼ばれる。享保三年(1719年)
近松門左衛門の頃は、日本の漁船(韋駄天)が海賊に襲われた。昔から瀬戸内には村上
水軍など名だたる海賊が横行していた事から、海賊を扱ったスケールの大きな作品を発
表したいと思っていたらしい。文献によると享保三年十月、近松が六十六歳のとき、海
上抜荷買い(密貿易)の罪人六十四人を刑に処した事件があって、それに惹かれて丹念
に状況を聞きまわり後世に残そうとこの浄瑠璃が出来た様に言われている。


1523: 名無しさんAA:18/11/04 08:00
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   516   >  

主人公は、毛剃九右衛門。名前からして海賊の頭領だ。歌舞伎だと『元船』の演出で、
月光を背に元船の舳先に立ち、舞台が大きく廻る勇壮な一コマとなる。ところが面白い
ことに、第二の『奥田屋』の場面では、この海賊はいたって小心なところがある。海賊
一味が大勢で遊んでいる博多の廓、奥田屋の中に手入れが入ると聞くと怯えるのである
。「奥田屋の段」の冒頭は、意味の解らない詞から始まる。“いひきにて、いひきにて
、すいちゃえんちゃ、すはひすふいちょうお、ひいたらこはいみ、さいはんや、さんそ
、わうわうわう” 座敷での 按摩の欲市が弾いている歌だ。この曲は「唐人」といい、
詞も「唐人詞」といっている。当時の人々のイメージとしての“唐の言葉=外国語”ら
しきものを使うことによって、博多のエキゾチックな雰囲気を醸し出そうとしている。
これは、イエズス会の聖歌だ。最後の「Wow~ww」などは驚いた時の感嘆符であろうと思
われる。「HeTalrrco hai me 」は返事を私の元に。と意味になる。「Sanhainn ya san
soo」一緒に上海に行こう。ともとれる。「Soo Wie enntr 」君も僕も終わりだ。「 su
o Wer hesu fuu eii How tyou」世界も知らずに馬鹿な事だ。「Ee he kee Neite 」は
東の中心。つまり「東の教会から、東の教会へ、世界も知らずに馬鹿な事だ 上海に一
緒に逃げよう、君も僕もこの国では終わりだ。返事は私にくれ あ〜あ神よ。」となる
。既に処刑が決った伊藤小左衛門か、或いはキリスタン宣教師の話した言葉では無かっ
たか。と推測する。まあいい加減だけど大方は当たって居るだろう。大坂・竹本座初演
で、当時話題になった長崎の密貿易団事件に取材した作とされる。多分近松門左衛門が
見聞に、江戸から大阪に出かけた頃は、東海道で多くのキリシタンが古い木杭の十字架
に、そのまま髑髏になって磔(はりつけ)て居乍ら朽ち果てていている数十人の中を通
り、大阪や京都の関所の前には、踏み絵と首切り坂を越えて行かなければならなかった
はずだ。首切り坂には、それぞれの罪状を書いた立て札の下に顔だけ地面から出ている
中で、竹や木で作った鋸を役人のいる中で引かねばならず、その時は切れもしない鋸の
痛さに うめき声や新たな血が流れて、目を見張るような恐怖を覚えながら関所を越え
て大阪に着いて この浄瑠璃義太夫(じょうるりぎだゆう)節。世話物の演目を書いて、
やっと発表したに違いない。数限りなくお咎めの無いように書き換えての発表だった筈
である。

1524: 名無しさんAA:18/11/04 08:00
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   517   >  

 曲も三下りで異国的で面白い雰囲気を出している。毛剃九右衛門一行の大挙しての廓
への入り込み、大勢の遊女の請出しの賑わいも異国諷できらびやかにしている。金持ち
になったのは「長者経」のおかげと、毛剃が読み上げる滑稽味ある長者経(もちろんイ
ンチキ)なのだが、永代蔵から採ったものと言われる。本当は他の物、例えば沈没船か
らの財宝や宝島の様な隠し財宝としたかったのだろうが、余りに似通った話では具合が
悪いと思ったのではないだろうか。このあとに子分たちが歌う在所唄も楽しい。「おん
らが在所はの、奥山のててうちの、でんぐりでんぐり栗の木の、木の根をまくらに転び
寝、この小女郎恋する山家の品物で、南無阿弥陀仏帯といて、コレござれ、抱いて転び
寝」こんなところにも作者の遊びが感じられるが、「転び寝」とは隠れ切支丹達に呼び
かけたもので、「転びねぇ〜」を短くしたもので、何も死ぬこた無いだろうと言う呼び
かけと思える。つまりこの歌には「おらが在所」=「キリスタンの信仰心」は奥の中に
「ててうち」=「神父」の様に引っ込めて、「でんぐりでんぐり」=子々孫々に伝え聞
かせ、栗の木=長き後で実る物、だから根っこにのみ持っておけば、仏教徒でもいいで
はないか。と言っていると考える。隣座敷の賑わいとは対照的に無一文になった宗七は
、敵の九右衛門の子分になり、小女郎も身請けされる。「七人一度に身請けとは聴きも
及ばぬ大大尽」 亭主が見送り、「男自慢は七人の鼻にあらわれ。」でこの浄瑠璃は終
わっている。享保年間は7代将軍徳川家継死去のため改元された年だ。つまりこの徳川
将軍家が7代目で、南蛮貿易の息の根を止めたと悔やんでいる。そして大大尽=金持ち
=権力者であり、その江戸幕府がキリスタン弾圧で自慢している事を笑っているのであ
る。この歌舞伎「奥田屋」ではそもそも、野沢吉二郎師が改訂作曲されたものである。
義太夫教室初期の段階でこの奥田屋が教材になり、私は掛け合いで小女郎が振り当てら
れた。“この身は廓にいるとても”はカン音なので何十回も稽古された。と言う。京都
心清町(しんせいちょう)で所帯をもった。と言う話は架空の街で「清いこころ」を意味
している。では何故小町屋惣七(こまちやそうしち)が主人公でその船主毛剃九右衛門
(けぞりくえもん)が抜符買(ぬけふかい:密輸)の頭目なのか。それは「困っちゃ、
そうするしかない。」の語呂合わせに見える。そして「七」も七代将軍家の当てつけで
あろう。毛剃九右衛門も、「もう、それは苦労する上(様)も」か「(お上)反り食え
ない。」のダジャレではないだろうか。更に寛永7年に寺請け制度開始され島原で藩主
交代が起こっている。

1525: 名無しさんAA:18/11/04 08:01
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   518   >  

 寛永14年(1637年)の島原の乱は、徳川家への忠誠心発揮の踏み絵の機会だった。松平
信綱が司令官として派遣されたが、何処の藩もあまり動かなかった。理由は交易に投資
していたからだ。更にこの反乱は水田の無い島の百姓一揆だった。更に三潴山門地方で
見るも哀れな取り立てをしていた松倉重政と松倉勝家の島原藩だったからだ。明智光秀
から筒井順慶への要請に対し「洞ヶ峠の日和見」を献策した武将で伊賀者を使う武将と
して知られていた。又奴隷貿易にも加担していた。島原城はみかけも5層の城だが、内
部5層の荷物部屋や娼館部屋の造りの上堅牢な石垣が高い城だった、1618年に島原城を
開始しました。1624年に完成した。とても4万石に不釣り合いな立派な城だった。この
地の半島民は特に漁師に税など払えないのは当然だった。もともと、雲仙の島原半島は
火山灰や溶岩流の地盤であるため、作物が余り育ちません。そのため、領民はタダでさ
え貧しい暮らしを強いられていたため、実質的な島原藩の石高は2万石も満たなかった
。よって、4倍近い重税に苦しみ、更に普請に人手も駆り出され、追い打ちを掛けるよ
うにキリスト教の弾圧と、不満を募らせて行った。また、松倉重政はキリシタンの根拠
地であるルソン攻撃の許可を幕府から取っており、さらなる戦費を領民に課したとされ
ます。しかしそれは徳川幕府でなく秀吉の頃の話であったろうと想像する。アンボイナ
事件(アンボイナじけん)は、1623年にオランダ領東インド(現インドネシア)モルッ
カ諸島のアンボイナ島(アンボン島)にあるイングランド商館をオランダが襲い、商館
員を全員殺害した事件である。これによりイングランドの香辛料貿易は頓挫し、オラン
ダが同島の権益を独占した。東南アジアから撤退したイングランドは、インドへ矛先を
向けることとなった原因だった。この頃は既に多くの奴隷船で、東南アジアに日本人が
多く進出し、アユタヤやプノンペンには日本人町が形成されるほどであった。アンボイ
ナ島にも日本人が居住し、傭兵として勤務する者もいた。1623年2月の夜、イングラン
ド側の日本人傭兵・七蔵がオランダの衛兵らに対し、城壁の構造や兵の数についてしき
りに尋ねていた。これを不審に思ったオランダ当局が、七蔵を拘束して拷問にかけたと
ころ、イングランドが砦の占領を計画していると自白。直ちにイングランド商館長ガブ
リエル・タワーソンら30余名を捕らえた当局は、彼らに火責め、水責め、四肢の切断な
どの凄惨な拷問を加え、これを認めさせた。こうして貿易戦争で疲れた英国とオランダ
は合併共同での東南アジア進出が阻まれたのである。


1526: 名無しさんAA:18/11/04 08:01
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   519   >  

 九州は南蛮貿易の利があるため、当初はキリシタン貿易に暴利を望んだ松倉重政でし
たが、徳川幕府は鎖国政策を取り、改めて禁教令を出し悲惨な結果に陥った。その後、
1625年に、将軍・徳川家光から、キリスト教弾圧が甘いと指摘され、松倉重政は徹底的
な弾圧を開始する。1627年には雲仙地獄の熱湯で、キリシタンの拷問・処刑を行ったと
も記録があります。島原城本丸の北側にある四基のキリシタン墓碑にはその歴史をもつ
。松倉勝家(まつくら-かついえ)は、独自に検地をやり直すと、4万石を10万石と過大
評価した。すなわち、領民は実質的に5倍もの税負担を強いられたと言う事になる。そ
して、島原城を全面白色に塗装するなど改修し、切支丹弾圧も残忍を極め、領民は更に
苦しんだとされています。特に1634年は悪天候で凶作でしたが、松倉勝家は重税を課し
、更には人頭税や住宅税を新設したと、オランダ商館長ニコラス・クーケバッケルの日
記や、鍋島勝茂公譜の記述に見られます。年貢を納められない農民や、村長ある庄屋か
らは妻や娘を人質にも取り、年貢を納めさせました。長崎のポルトガル人ドアルテ・コ
レアは、人質の若い娘や子供に、藁蓑を着せて火をつけ、もがきながら焼死する姿を「
蓑踊り」と呼んでいた記録しています。1637年10月、村の年貢を納められなかった口の
津村の庄屋・与左衛門の妻は、身ごもっていましたが、冷たい水牢に裸で入れられまし
た。庄屋宅に集まった村民は、何とか年貢を捻出する方法を話しましたが、すでに出せ
るものは全くなく、庄屋の妻は水の中で6日間苦しみ、水中で出産した子供と共に絶命
したと言います。そのため、遂にたまりかねた領民は、1637年10月25日に蜂起し、有馬
村の代官所を襲撃して代官・林兵左衛門を殺害したのです。これが日本最大の一揆とな
った「島原の乱」勃発の経緯とされている。こののち天草四郎をたてポルトガルの支援
を待つ事70日に及ぶ原城籠城戦となったのだった。しかし松平信綱はしたたかだった
。当初、板倉重昌と石谷貞清を派遣し、さらに日根野吉明や鍋島勝茂、寺沢堅高、松倉
勝家ら九州の諸大名に鎮圧と加勢を命じた。しかし一揆勢は原城に立て籠もって抗戦し
、戦闘は長期化していた。当初、幕府軍の総大将は板倉重昌で、信綱は戸田氏鉄と共に
一揆鎮圧後の仕置・戦後処理のために派遣されていた。だが寛永15年(1638年)1月1日
に重昌が戦死。石谷貞清も重傷を負ったため、代わって信綱が幕府軍の総大将に就任す
ることになった。信綱は長崎平戸に伝令を差し向け、ポルトガル船から原城向けて大砲
を撃つように要請した。そして出来なければイギリスとの交易と替えると脅迫した。し
ぶしぶ帆船を出して遠くから届かない距離で砲弾が飛んだ。この効き目は強烈だった。

1527: 名無しさんAA:18/11/04 08:01
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   520   >  

 1月11日には篭城する一揆軍に対してオランダ船のデ・ライブ号に要請して援護射
撃をさせた後。1月28日に副将格の戸田氏鉄が負傷するなど一揆の抵抗も激しく、信
綱は立花宗茂、水野勝成、黒田一成ら戦陣経験がある老将達と軍議が行われて兵糧攻め
に持ち込んだ。この結果、2月下旬には一揆の兵糧はほぼ尽きてしまい、2月28日までに
原城を陥落させた。信綱は一揆の総大将である天草四郎の首実検を行い、さらし首とし
た。このとき信綱の家臣6名も戦死し、手負い103名であった。3月には原城を破却して
捕らえた者は斬首してさらした。また松倉勝家・寺沢堅高両名も一揆を招いた責任あり
として処罰を言い渡した。既に1623年にアンポイナ事件を起こしていたポルトガルは、
本国でも英国や仏国に負かされていて国は苦戦の中にいた。つまり今日本の幕府とは、
闘う術を持たなかったが、唐津城主・寺沢堅高を始め抵抗しているキリスタン達は海外
のポルトガル船の援助を心待ちにしていたのである。寛永15年(1638年)乱が破れて後
終結した天草・島原の乱をうけて、この禁教政策を徹底させるために幕府は寛永16年に
はポルトガル船の来航を全面禁止した。ところがその翌年にポルトガル船が通商再開を
求めて再び来航したため、乗組員74名中61名を長崎にて処刑した。その報復に備える為
の長崎警備が寛永18年に福岡藩、寛永19年に佐賀藩に命じられて以後、正保4年(1647)
に初めてポルトガル船が来航した際の長崎港の様子が極めて緊張した。停泊中のポルト
ガル船2隻と対峙するように無数の早船が控えており、神崎・女神間に臨時で作られた
舟橋がポルトガル船の脱出を防いだ。沿岸部には佐賀・福岡両藩に加え、緊急動員され
た熊本藩・柳川藩・小倉藩・唐津藩、さらには松山藩や今治藩など西国各藩の陣幕が、
賑々しい陣を敷いた。正保四年長崎警備の図 (しょうほよねんながさきけいびのず )
が残っている。各陣幕には「人数」と「舟数」が示されており、「松平信濃守」( 初代
佐賀藩主・鍋島勝茂)は11,350人・125艘を送り込んでいるが、数値は 他の諸資料と必ず
しも合致しない。また、各藩(大名家)の家紋にも正確ではないものがある。本図は後世
に描かれたもので、この事件後の承応2年(1653)に出島造営が始まり七ヵ所台場が描か
れている点など注意を要するが、江戸前期の物々しい警備の様子が伝わってくる。


1528: 名無しさんAA:18/11/04 08:02
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   516   >  

 鎖国政策は、徳川幕府の代表政策となったが、実際はオランダや中国の王朝・明とは
、鎖国中も交易が続いていたわけで、必ずしも徹底されていたわけではないことがわか
る。と言うのも、鎖国を進めた理由は国内からのキリスト教の排除と、各大名に交易に
よって力をつけさせないためであるところが大きかった。1637年には島原の乱が発生し
ており、キリスト教の弾圧には幕府も敏感になっていた。キリスト教の教義では、封建
制度を確立するうえでも都合の悪いものだったからだ。おまけに、キリスト教を布教し
ているスペインやポルトガルには日本を植民地にする計画があるとする噂も流れていた
。その事でキリスト教の布教をしないオランダや明とは国交断絶に至らなかったのであ
る。鎖国は、実は複数回の海外船の来航禁止や、日本人の渡航禁止命令が出てやっと完
成に至ったものだった。まず、元和2年(1616)、ヨーロッパ船の寄港地を平戸と長崎
に限定。そして、寛永元年(1624)にスペイン船の来航を禁止し、寛永10年(1633)に
は奉書船以外の日本船の海外渡航禁止。寛永12年(1635)には、日本人すべての海外渡
航と外国にいる日本人の帰国を禁止し、そのうえで、明船の寄港地を長崎に限定した。
ここに1637年の島原の乱があり、寛永16年(1639)ポルトガル船の来航を全面的に禁止
し、一応鎖国が成ったのである。ちなみにこの後、寛永18年(1641)には、平戸にあっ
たオランダ商館を長崎の出島に移して、オランダ人もすべてここに移された。オランダ
人はここを出ることを許されず、長崎奉行が厳しく監視したのである。幕府は段階的に
鎖国を進めていたが、海外渡航中で、帰国を禁じられた者たちは帰国して捕縛されて、
棄教を迫られ、踏み絵によって分けられ、信者のままでは獄中生活を強いられた。なお
鎖国は、よく知られるように、幕末のペリー来航による日米和親条約締結まで続いたか
ら、およそ2世紀の間、日本は世界情勢から取り残されることになった。その分、日本
国内において、元禄文化、化政文化といった独自の文化が花開いたが、幕末の開国後に
そのツケはまわってくる。しかし、明治日本に、偉大な指導者、人物がいたからこそ、
日本は西洋列強の植民地になることなく、近代国家の仲間入りをできたのである。とは
いえ、鎖国中にも、熱心に海外の文化や情報を集めようとする人物はいた。なかでも安
政の大獄では200人以上が入獄したが死んだの病死が数人程度だったが、吉田松陰な
どは別件の暗殺計画を勝手に白状し処刑させられた。そこに朝廷の幕府飛び越えた水戸
藩などへの司令があったとされる。

1529: 名無しさんAA:18/11/04 08:05
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   517   >  

 福岡藩は、2代藩主黒田忠之(くろだただゆき)の治世である寛永18(1641)年、
外国に開かれた幕府直轄の貿易港長崎の警備を命じられた。この長崎港の警備を福岡藩
では「長崎御番(ながさきごばん)」と称して、翌寛永19(1642)年に佐賀藩が、長
崎港の警備を命じられてからは、1年交代で長崎へ警備に行くこととなりました。異国
船の警備を通じて、江戸時代の鎖国(さこく)体制下の貿易港長崎にかかわった福岡藩
の役割については黒田資料を中心に展示されいる。だが肝心のウイリアム・アダムスの
漂着後の博多の話はない。長崎警備の直接の契機は、幕府がポルトガル船の入港を禁じ
、その報復に備えてのものであったが、その原因は彼らの戦争であった事を掴んでいた
。幕府が布教を禁止していたキリスト教を、ポルトガルが日本にもちこむと考えられて
いて、第二の一向一揆の石山本願寺の事件を危惧したからである。しかし交易の綿糸は
日本には大量に入っていて必要だったのである。だが金銀の鉱山からの採掘量も少なく
なり、この後、長崎でオランダと中国の商人のみの貿易を許す事になった。その後正保
4(1647)年にポルトガル船が通商再開を求めて来航しました。あわや一戦という緊迫
した空気が流れましたが、このときは大事に至りませんでした。慶安2(1649)年に、
福岡藩が西泊(にしどまり)番所を、次いで佐賀藩が戸町(とまち)番所を「定小屋」
として整備するまで西泊と戸町にあった長崎警備の藩士の詰番所は仮小屋で、福岡藩と
佐賀藩が警備を交代する度に取壊されていました。このことから、長崎港の警備を担当
した時は、すぐ終わる一時的なものだと考えられていたことが知られます。しかし長崎
警備は恒常化していきました。当初、当番の年には藩士を5回に分けて長崎に派遣して
いましたが、寛文11(1671)年から、1年4回の交代で1回につき 約1,000人を長崎
に派遣するようになります。この1隊は派遣順番に「長崎壱番々(ながさきいちばんば
ん)」「長崎弐番々(にばんばん)」などと称されました。また、藩主も又年に3度、
西泊や戸町の番所や道生田(どうしょうだ)の塩硝(えんしょう)蔵を見回り、石火矢
の台場を船から視察したりしました。以上のように、島原の乱を最後に国内では幕末ま
で戦乱がなくなった中で、福岡藩は長崎警備を通じて常に実戦に備えていた特殊な藩だ
ったと言うことができましょう。特に江戸時代前期(寛永〜元禄)の福岡藩の長崎警備
を中心に事件の記録が残っている。


1530: 名無しさんAA:18/11/04 08:07
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   518   >  

 また肥後細川藩でも中村氏が書き留めている。肥後中村家は、加藤清正に召し抱えら
れ肥後に入るが、慶長十五年(1610)に金春流の奥義を相伝された以後、中村家は師家
としての印可を受けて伝書を授けれた家として能界に大きな権威を持つに至った。加藤
家が改易された二ヶ月後には細川家に召し抱えられている。かつて早川(そうかわ)村
厳島神社は中村家650余石の知行地であったため、宮司という立場で親密な付き合い
をしていたことが日記から伺い知ることができる。また、玄察にとっては、中村伊織は
金春流能の師であり、能舞で行動を共にしていた。家老長岡(米田)監物下屋敷で能を
見物したり、伊織のお供で豊後臼杵稲葉能登守のところへ出掛け御能交流を行ったりし
ている。玄察は寛永九年に生まれて(1632年上益城郡早川村厳島神社宮司)拾集物語(
渡邊玄察日記)の最初に、「十三より内の事は相尋候而書記候其以後は自分見聞之事色
々書出候」と書いている。すなわち13歳までのことは,父親から聞いたことであり、
それ以降は自分で見聞きしたことという。正保4年(1647)15歳の日記に肥前(長崎
)に来航したポルトガル船について詳しく記している。当時世界の海に乗り出していっ
た木製ガレオン船の大きさなどが改めて玄察日記に書かれている。現在の様に情報伝達
手段のない時代に、肥後藩の片田舎(現御船町)での「情報源」については以下のよう
に記している。「禁制の南蛮船が肥前国長崎に着船したので、警備のため九州各藩から
出陣するが、給主(領主に給田を与えられ,年貢課役の納入責任者)である中村伊織(
加藤家、細川藩に仕えた武家役者)も陣立(軍勢の配置)する。伊織の家老である瀬崎
太郎兵衛が長崎で見聞きし、書き留めていたのを見せてもらって、即座に書き写したと
記している。その中に、幕府役人が「二艘のポルトガル船は如何様の船であるのか」と
質問した際の回答内容が書かれている。ポルトガルは60年前の1580年、アヴィシュ家が
断絶するとスペイン王フェリペ2世がポルトガル王となりスペインの支配下に置かれて
しまった。1640年に、ジョアン4世(ブラガンサ王朝)により独立を回復したのを機に
、王の肖像画を持参して、その間の事情を日本に説明し、親交を深めて通商の再開を求
めるため来航した。」と書く。天草・島原の乱以来の断絶状態を解消すべく、新国王の
下での国交回復が目的と言いたかったものと考えられる。

1531: 名無しさんAA:18/11/04 08:07
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   519   >  

 出港して4年目に到着した理由については、去年琉球表まで来たものの大風で天川(
マカオ)にかけ戻り、今年6月にマカオを出港し、24日に長崎に到着したと報告して
いる。(実際の日付は、1647年7月26日(正保4.6.24)である。) 本船は、従船を伴って
来航した。本船の長さは25間(45m)と書かれているが、正保四年長崎警備の図に
は26間(46.8m)と付記されている。横幅は7間(12.6m)、上から底まで
7間と記している。大船には大砲26門、小舟には24門を積んでいてその配置につい
ても書かれている。乗組員数は、それぞれ200人余,150人余である。熊本藩主が
川尻の造船所で建造した御座船(ござぶね)は、長さ18間(32.4m)、横幅は4間(
7.2m )である。来航したポルトガル船が如何に大きかったかが分かる。伊達政宗が建
造したガレオン船、サン・ファン・バウティスタ号の船長は55m,排水量は 500トンで
あった。つまり日本の和船より10〜20m長くその船を2〜3横に並べた大きさで、
造りが違って、高さが7倍もあったのだ。幕府の対応は、船で橋を作り船を堰き止めて
燃やしてしまう。と言う大胆な物だった。と言うのも船の真下には大砲が打てなかった
からだ。ガレオン船はキャラック船に比べて幅と全長の比が1:4と長く、荷が多く積
める、スマートで吃水が浅いためより速度が出るといったメリットがあった反面、安定
性に欠け転覆もしやすくなるデメリットもあったという。この天草・島原の乱の翌年に
来航したポルトガル船の乗組員は、13名を残し61名を処刑したため、幕府は報復を
恐れて諸藩に厳重な警備を求めた。長崎・佐賀両藩では対応できない可能性があるため
福岡藩・熊本藩にも出陣させている。玄察日記には、その陣容も記載されている。日記
には記載されていないが、肥後藩の長岡監物は長崎港の出口に船を繋いだ船橋を作り、
湾を封鎖して封じ込める案を提案して、採用されている。船を繋いだ上に、材木は海辺
の町家を崩して調達して敷き詰めたため、馬でも通れる通路ができたと伝えられている
。この時長崎奉行は、幕府の指示を待つあいだ、ポルトガル使節が下船したり勝手に出
航したりしない様に直ちに厳重な警備にあたった。前回のポルトガル船員処刑の報復を
恐れていて、この非常事態の警備に伊予松山藩・伊予今治藩、細川藩、福岡藩、佐賀藩
、大村藩、小倉藩、柳川藩に指令を出し、軍勢は約48,300人、船は約898艘が この警備
に参加させられた。と記されています。その後は、処罰なしとし、幕府の出航命令に従
って長崎港を8月に去っていった。

1532: 名無しさんAA:18/11/04 08:07
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   520   >  

 今回の幕府の対応は前回の事件とは異なる柔軟なものであった。「今回の使節はポル
トガルの新王から日本の将軍に対して派遣されたので、寛大な処置をとるが、今後来航
すれば(1640年の事件のように)処刑する」と伝えて、入港から40日後に糧米・薪水
を与えられて出港させた。11日後にマカオに着いている。しかし、使節船は11月に
ジャワ海で暴風に遭い、乗組員のほとんどが亡くなっている。「徳川実紀」によれば、
この事件で動員された軍勢は48300余人,船数は898艘の臨戦態勢である。この時の数多
くの船と資金を融通し薪を運んだのが伊藤小左衛門であった。この為長崎奉行は出店を
許した。「正保四年(一六四七)、幕府から長崎警備を任されていた福岡藩が、ポルトガ
ル艦来航危機に立たされたことがある。そのさい、大量の焼草を調達するなど尽力した
博多商人小左衛門と大賀宗伯に、藩主黒田忠之は商人としては破格の五十人扶持を与え
た。」とある。これが小左衛門飛躍の契機となり、福岡・博多町人社会における地位を
不動のものにする。やがて小左衛門は、唐蘭貿易品購入の拠点として長崎に出庖を設け
た。ここが福岡藩の蔵屋敷代わりとして、長崎奉行接待、幕臣宿所にあてられる。内外
貿易商人への利貸し(融資、投資)、出雲や広島の鉄の売買、出雲への伊万里焼の販売、
米穀株相場売買を中心とする福岡藩の御用、糸割符貿易、小判鋳造と多角経営を行い、
莫大な財を築いてゆく。ところが寛文七年(一六六七)、通報する者があり、密貿易が発
覚した。金元は小左衛門、実行犯は対馬出身の大久保甚右衛門ら海商で、数年間にわた
り朝鮮へ鳥銃・硫黄・鎧・長万・脇差・鉄砲薬ならびに金などを、大量に密輸していた
のである。ここに徳川幕府の政変がある。つまり、実行部隊は何故か天下の御意見番の
大久保彦左衛門や大久保長安の姓と同じに大久保甚右衛門とされる。大久保長安事件は
、大久保長安が死んでから起こった弔い騒動での幕府の金奪取の事件ある。これは岡本
大八事件からつながっている。大久保長安事件(おおくぼながやすじけん)は、慶長18
年(1613年)に起こっている。かの大久保氏は全国関所の支配権を持つ言わば日田など
の幕府の持つ全国天領の領主であった。ところが金鉱山も新規開拓が出来ず、じり貧の
中でこのエロ爺さんは家督を譲り子作り遊興にふけっていたとされる。息子や娘は全国
に居て30人とも60人とも言われる中で死んで行った。彼も徳川家康の子飼武士で誰
も触れらず、駿府内府の台所を納めていた本多正純と同じだったのである。だがそもそ
もがアンドレ・ペソアがノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号の自沈事件が発端ではある。


1533: 名無しさんAA:18/11/05 14:29 ID:LUE
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   526   > 

 慶長14年(1609年)、マカオで有馬晴信の朱印船は乗組員がマカオ市民と争いになり
、乗組員と家臣あわせて48人が殺されるという事件が起きた。これに怒った晴信は徳川
家康に仇討ちの許可を求めた。そこへ、マカオにおけるポルトガルのカピタン・モール
(総司令官)であるアンドレ・ペソアがノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号(マードレ・
デ・デウス号)に乗って長崎に入港したため、晴信は船長を捕らえるべく、多数の軍船
でポルトガル船を包囲し、積荷検めを行おうとした。ところが船長は船員を逃がして船
を爆沈させると言う事件が起こる。実は、この時の長崎奉行の長谷川藤広も元は本多の
家臣であり、この取り調べに岡本大八を送ったのも長谷川の家臣だっだからだ。この事
件の後、晴信は鍋島直茂の所領となっている旧領三郡を家康に願い出て回復しようとし
た。これを知った本多正純の家臣の岡本大八が慶長17年に、急速晴信に接近しのであ
る。そのため晴信は、大八に白銀六百枚(金にして六千両)を贈った。しかし、その後
、幕府から旧領回復の沙汰がなく不審に感じた晴信が正純に詰問したため、幕府は晴信
と大八を対決させることとした。晴信は数通の証文を提出し、これに対して大八は全く
弁明ができず、そして事実を白状したため大八は下獄された。ところが、大八は幕府の
獄中から、晴信が長崎奉行の長谷川藤広(左兵衛)を殺害しようとする計画を有してい
ると訴えた。のである。そのため幕府は大八を獄から出し、晴信と対決させたところ、
大八は晴信の陰謀の詳細を述べた。これに晴信は何ら弁明することができなかった。こ
の理由で捕えられた。大八も獄に戻され、江戸に送られ、阿倍川原で火刑に処せられ、
そして晴信は甲斐国に流され自害させられた。と言うしかし、この取り調べに本多正純
は大久保長安屋敷の地下牢でこの岡本大八の入獄させているのである。藩主有馬晴信は
何故か簡単に、このマカオの朱印船貿易事件をもみ消された上に、領土再興を瑕詫(か
た)に六千両の金をまんまとだまし取られた事件を起こしたのか。又、これ以降幕府は
キリスタン禁教令を出し、有馬氏は所領代えとなり、旧有馬領内ではより過酷なキリシ
タンへの弾圧がはじまり、これが島原の乱の遠因となっていった。晴信南蛮貿易に熱心
であり、朱印船派遣の回数は、大名の中では島津氏・松浦氏と並び、九州大名の中でも
最多であった。有馬氏の領内は龍造寺氏の侵攻によって度々戦火に晒され、国人衆らの
反乱も相次いだ為、決して肥沃な土地ではなかったが、南蛮貿易により多大な利益を上
げており、またそれによって多くの宣教師・キリシタンの協力も得ており、沖田畷の戦
いでも大量の鉄砲・兵糧の援助を受けている。


1534: 名無しさんAA:18/11/05 14:29
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   527   > 

 日本のキリシタン教会を決定的な壊滅状態に追い込んだと考えられている1613年
1月の全国的なキリシタン禁教令発布の重要な契機として、この「岡本大八事件」と同
時期の「おたあジュリアの追放」がよく挙げられます。「おたあジュリア」というのは
、江戸城大奥にいたひとりの女性です。朝鮮の貴族の出で、「秀吉の朝鮮侵攻」の先鋒
であった「キリシタン大名」小西行長の軍に捕えられ、日本に連れ帰られて「ジュリア
」の洗礼名で受洗したと言われています。行長が関ケ原で敗れたため、江戸城に仕える
ことになった。人望もあり、その影響をうける大奥女中も少なくなかったということで
す。大奥での「おたあジュリア」の存在に気付いた家康は、ただちに棄教することを求
めたが、おたあは拒否し、初めは伊豆大島、最後は伊豆諸島の神津(こうづ)島に流さ
れ、そこで亡くなったと伝えられる。そもそも、小西行長軍が連れてきたキリシタン女
性が大奥に入ったということが意外だが、どうも家康が惚れ込んで助けたという経緯が
あったらしいが、その記録はないようです。さらに、江戸幕府開府から10年近くが経
ったこの時期まで、大奥の他の女中にも影響を及ぼすようなキリシタン女性がお膝元に
残っていたということも私には意外です。ただ、行長の妻ジェスタが家康の赦免を得て
助かったという話がありますので、その関係でおたあも家康の世話を受けるということ
になったのかも知れません。家康は、「おたあの件」で、キリスト教の幕府内部までの
浸透ぶりを改めて知り衝撃を受けたと言われていますが、上に書きました事情や家康が
非常に用心深かったはずであることなどから、「おたあ」の存在などは既に良く知って
いたと考える方がむしろ自然ではないかと私は思います。大坂の陣を控えたこの時期、
家康が一番恐れたことはキリスト教勢力が豊臣勢と結びつくことだったでしょう。その
ため、全国的な禁教令発布を検討し、既によく承知していた「おたあの件」からキリシ
タン潰(つぶ)しを始めたということだったのではないかと考えられる。つまり弾圧に
利用した事件で、外様大名がこうした資金を持って大きくなるのを抑えたと言う話にな
る。と言う事は消えた六千両は、家康のへそくりになっていたと考えられる。それ程の
貿易利潤が伊藤小左衛門の下で大久保甚右衛門ら海商の手にはいるのが我慢ならなかっ
たのだろう。

1535: 名無しさんAA:18/11/05 14:30

 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   528   > 

 此処に家康と幕府と言う政体との確執もあった様に見える。実は家康は、秀吉よりも
したたかに海外制覇を企んでいたにもみえる。黒田藩で黒田孝高(官兵衛)が未だ天下
盗りをも思っていたが息子長政は平和志向のキリスタン大名で家康恩顧の家来になって
居た様に、どこかに間尺に合わない部分があったように見える。ペソアが長崎で長崎奉
行長谷川藤広に事件の調書を提出して奉行からの報告は握りつぶされても、幕府はこの
キリスタンの連絡網でその事件は明るみに出ていた。、晴信は龍造氏を倒すためには、
島津氏と内通しイエズス会も利用した策略家です。更に、島津氏と手を切って豊臣勢に
加わり、関ケ原の戦では、今度は豊臣勢を裏切って同じ「キリシタン大名」小西行長を
攻撃し生き残った海千山千の存在だったはずです。その晴信が、そんな間抜けなことを
したというのは不自然である。事件の経緯を見ると、有馬晴信が領地奪還の工作の進展
を大八の主家である正純に確認したことによって露見した。ということになっています
が、いくら多額の賄賂を贈ったからといっても、当時家康の側近的な存在である正純に
直接、自分の贈賄の事実を告白するようなことを晴信がするでしょうか。もし、晴信が
そんなことをしたのであれば理由があって、もし理由が無ければ「バカ殿様」である。
又キリスタンの浸透に驚いて云々となってはいるが、それは一部であって禁教令の主要
なものではなないと言える。実は家康も伽羅といわれる香木の趣味を持っていた。これ
を有馬晴信など多くの者に送る事を託している。この香木は金よりも高く小さかった。
藤広は、前年の事件に対する報復を考えていた晴信を教唆し、ペソア捕縛と商船捕獲と
を家康に請願させた。晴信に伽羅木購入を委託していた家康は、当初は報復行為によっ
てポルトガル貿易が断絶することを懸念していたが、マニラ船のスペイン商人がポルト
ガル船積載生糸などを補完することを保証し、またオランダ船の継続的な来航も期待で
きるようになったため、晴信に許可を出したという。つまりそもそも、ポルトガル貿易
船の爆沈事件であるノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件は、家康の香木奪取事件だっ
たと言える。ではその前の、慶長13年(1608年)11月に起こった肥前日野江藩主の、
有馬晴信が占城(チャンパ)に派遣した朱印船がマカオに寄港滞留中に、船員が取引を
めぐっての騒動事件は何だったのか。

1536: 名無しさんAA:18/11/05 14:32
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   529   > 

 マカオのカピタン・モール(総司令官)が日本人60人も殺す程の事件である。その
後もマカオにいてもいい程の者がわざわざ日本に来て船を爆破したのである。簡単な物
の密輸事件では無く。それこそ、高価な伽羅の大木を只の木材として輸入しようとした
からでは無かったか。原住民とは話合いがついた輸入が、ポルトガルに見つかって吹っ
掛けられたのではないだろうか。と思うのである。ではポルトガル使節団長崎受難事件
は何だったのか。平戸商館が閉鎖され全て出島の長崎商館に統一して長崎奉行に当たら
せる。と言う事が幕府で練られたのだろう。本来平戸でも良かったが、ボルトガル船や
イスパニア貿易に宗教色が強く、また博多までもキリスタンが増えだした事で危機感は
秀吉時代からあった。そこで代わって進出してきたオランダ貿易に変えることを模索し
た。その丁度良い時期だったに違いない。朱印船貿易が行われていたのは江戸初期の、
安土桃山時代である。朝鮮戦争によって明(中国)は朱元璋以来冊封された国としか、
貿易を行なっていなかった上に朝鮮の役による影響で、厳しく日本商船を取り締まり、
ほぼ中国本土に寄港することはなかった。そのために中継ぎ貿易として、主な寄港地は
アユタヤ(タイ)やトンキン(ベトナム)などと共に、台湾島南部台南の安平(タイオ
ワン)などが昔から明(中国)や日本の船などが寄航する中継ぎ港であった。ここで、
1628年の台湾のタイオワン(ゼーランディア城)で事件が起こっていた。当時日本
、ポルトガル王国(ポルトガル)、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)、イギリス
第一帝国(イギリス)の商人が日本貿易や東洋の貿易の主導権争いを過熱させる時代で
、1622年(元和8年)には明(中国)のマカオのポルトガル王国居留地をネーデルラン
ト(オランダ)が攻撃し、敗退したネーデルラント(オランダ)は対策として台湾要塞
を築いてポルトガルに備えた。ネーデルラント(オランダ)は台湾島を占領、熱蘭遮(
ゼーランディア)城を築いて台南の安平をタイオワンと呼び始めてここの占領権を中国
から獲得していた。その中に、日本の末次平蔵所有の朱印船とオランダ商館の衝突事件
が起こった。長崎を拠点にした日本の朱印船貿易もタイオワンにも入港し、中国商人か
ら生糸を得ていたので、その地がオランダに占拠され、入港料が請求されたため新たな
紛争となった。有力な朱印船貿易家で長崎代官であった末次平蔵は、配下の浜田弥兵衛
に指揮させた持ち船二隻をタイオワンに入港させたところ、オランダの長官ノイツは、
日本船に課税した上、武器を携行しているとして乗組員を捕らえたのである。交渉のた
めに長官の屋敷に赴いた浜田はいきなりオランダ人二人を殺し、ノイツに飛びかかって
縛りあげて日本船に連れ帰ったのだ。

1537: 名無しさんAA:18/11/05 14:32
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   530   > 

 これは公然と幕府の知る処となった。オランダ側と浜田弥兵衛が交渉し、長官ノイツ
を釈放する代わりに互いに人質を出し合い、幕府の裁定を仰ぐことになった。ところが
幕府では折りから将軍秀忠が亡くなったこともあって、裁定が遅れ、その後5年にわた
って幕府とオランダは絶交状態が続いた。ようやく強硬派であった末次平蔵が死去し、
オランダ側もバタビアの総督スペックスがノイツの責任を認めて損害を賠償する措置を
とったので1632年に事件は解決し、貿易が再開された。貿易の利益で私腹を肥やし
た幕府高官達は困惑していた。とおいうのも、このタイオワン事件については日本では
浜田弥兵衛の冒険談としてしか知られていないが、平戸のオランダ商館に保存されてい
た日記によると、末次平蔵の背後には時の江戸幕府の幕閣にあった土井大炊頭利勝や酒
井雅楽頭忠世らが幕府高官に禁じられていた貿易への出資や、朱印船貿易家への利益誘
導、はては長崎奉行竹中重義、江戸町奉行島田弾正らがオランダ商人に賄賂をねだる。
など、さまざまな形で利害を有していたことが明らかになった。なお、同じくオランダ
商館日記の一部には、末次平蔵は悪事が露見することを恐れるあまり発狂したとか、幕
閣の誰かに暗殺されたなどの噂があったことが記録されている。つまりこの平戸商館の
閉鎖は幕府高官の私腹を増やさない為の方策だったのだ。しかし、事はこれでは収まら
ない。これで末次興善(すえつぐこうぜん)や等安らが力を無くすのである。ノイツの
代わりにウィルレム・ヤンセンを特使として日本に派遣したが、平戸藩主松浦隆信と末
次平蔵はヤンセンが江戸幕府3代将軍徳川家光に会うため江戸へ行くことを許さなかっ
た。1636年(寛永13年)、ニコラス・クーケバッケルの代理として参府したフランソワ
・カロンは、拝謁の際に将軍家光に銅製の灯架を献上。家光はこれを非常に気に入って
返礼として 銀300枚を贈った。この時以前より平戸藩主から、ノイツの釈放に力を貸す
よう頼まれていた老中の酒井忠勝がノイツの釈放を願うとすぐに許可された。このノイ
ツの捕縛で江戸幕府は世界情勢と、オランダとの密約ができたのだろう。こうして3年
後、1639年(寛永16年)に日本への来航を禁じられたポルトガル人は出島から追放され
、同年10月に2隻の船がマカオに帰港し、鎖国の完成が成立した。しかし、これを受け
て、マカオ評議会は、日本との通商が絶えればマカオが荒廃すると考え、通商の再開を
求めるために、翌年(1640年)6月に74人の使節団を派遣した。

1538: 名無しさんAA:18/11/05 14:34
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   531   > 

 使節団を乗せた船は、7月に長崎港外に到着した。使節団の船は日本の船に曳かれて
、出島の前に投錨し、使節団のメンバーは出島へ連れて行かれ、大村藩の兵士の監視の
下に置かれた。翌年には早々ににオランダ商館が平戸から出島へ移された。(1641年)
のことである。使節団は、長崎奉行所へ貿易再開の嘆願書を提出した。嘆願書は直ぐに
江戸に送られ、その後、幕府の特使2人が長崎へやって来た。幕府の特使は使節団74
人全員を呼び寄せた。使節団一行は大いに喜び、着飾って特使の前に現れた。ところが
、使節団には死刑が宣告され、ただちに手足を縛られ牢獄に入れられた。死刑を宣告さ
れたメンバーは、泣いたり訴えたりしたが、翌日、全員は西坂へ連れて行かれた。ただ
、74人は直ちに尋問され、うち13名は命を助けられることになり、残りの61名の
首がはねられた。その後、一行の金鎖、家財、着物などの財産の全ては、ポルトガル船
に積み込まれ、生き残り13名の目の前で火がつけられた。助命された13名には小型
の船3隻が与えられて、全員が無事マカオに帰り着いた。これが今回発見された論文「
寛永17年 (1640) ポルトガル使節団長崎受難事件」である。1637(寛永14)年に勃発
したキリシタンを中心とした島原の乱はその翌年に鎮圧され、徳川幕府はその後、極め
て厳しいキリスト教禁令を発布し、1639(寛永16)年にはポルトガル船の来航を禁じる
措置に出た。それにも拘らず、翌1640(寛永17)年にポルトガル使節が来航して貿易の
再開を求め、幕府はこれを退去させたが、さらにその一ヵ月後にはマカオから使節が訪
れたため、幕府は8月3日 (旧暦6月16日) 長崎に停泊していた船舶を焼き払い、マカオ
出身のポルトガル使節4名と同行者、乗組員57名を斬首の刑に処しこの処置を知らせ
るため数人をマカオに送り返した。本書は難を逃れた人から証言を得て、イエズス会宣
教師アントニオ・フランシスコ・カルディンがこの模様を書き綴っている。このカルデ
ィンの日誌やアルメイダの日誌から、日本に於いての一番のキリスト教信者は筑後の地
であり、又一番の悲惨だったのが、筑後地方であった事が知られる事になる。

1539: 名無しさんAA:18/11/05 14:35
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   532   > 

 草創期に平戸商館にイエズス会は本拠地を構えたが、日本人との交易はトラブル続き
だった。永禄4年(1561)に平戸港で絹の取引上のトラブルが、こじれてポルトガ
ル人の総司令官が応援に駆け付ける騒ぎとなり、領主の松浦氏の家来たちが総司令官、
および13名のポルトガル人を殺害する「宮の前事件」が起こっている。これにより、
領主の松浦氏と不和となってポルトガル人は新しい港を探し始めた。翌年の永禄4年(
1561)、肥前の大村純忠(すみただ)は大村領は弱小ではあったが、肥前佐賀から
の龍造寺隆信による威圧がすさまじく、防御する狙ねらいもあり、南蛮貿易は手放せな
いものだった。そこで、自領にある横瀬浦(現在の長崎県西海市)港を提供する事に決
めた。イエズス会士に対して住居の提供もした。ポルトガル船のもたらす富や武器を手
に入れるという目的があったのだ。この年に宣教師・フロイスが横瀬浦に上陸している
。彼は生涯日本にとどまり、布教の傍ら、信長や秀吉らと謁見し、多くの「日本史」を
書いている。(現在、全12巻、中央公論社出版)大村純忠の兄の有馬義貞(アンドレ
ス)も洗礼を受け島原半島の南端にある口之津港を南蛮貿易港として開港した。永禄6
年(1563)には大村純忠(ドン・バルトロメ)は日本初のキリシタン大名となり、
領民にもキリスト教信仰を強いて僧侶や神官を殺害した。又改宗しない領民も殺害し、
強行にキリスタンを広めた。これに家臣の西郷などや領民の反発を招き、反乱を起こさ
れ横瀬浦が焼き払われた為に、領内の「福田の浦」に港を開いた。元亀元年(1570
)に純忠は福田より港として地形の良い長崎の地に南蛮貿易の港を新たに開き、以来、
長崎は急速に発展してきた。南蛮貿易の輸入品は、生糸や絹織物などが中心だが、貿易
品だけでなく、鉄砲などの武器や医学、天文学、音楽、美術なども伝えられ、日本文化
に大きな影響を残した。天正8年(1580)にキリシタン大名の木村純忠は長崎の地
とその付近の土地をイエズ会の知行地として寄進した。天正10年(1582)島原の
口之津港から大友宗麟、有馬晴信、大村純忠の名代として、伊藤マンショ(宗麟の名代
)、千々石ちぢわミゲル(純忠の甥)、中浦ジュリアン、原マルチノの4人の少年がヨ
ーロッパのローマ教皇のもとに派遣されるに至った。彼らは「天正遣欧使節」と呼ばれ
、日本初の公式西洋への使節だった。一行は、マカオ、ゴア(インド)を経て、喜望峰
(きぼうほう:南アフリカ共和国ケープタウン)を廻り、2年半後にヨーロッパに上陸
した。この使節を繰り出した時に、日本は戦国時代であり、そもそもの間違いがあった
のである。

1540: 名無しさんAA:18/11/05 14:35
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   533   > 

 ポルトガル使節団長崎受難事件は大変不幸で悲惨な事件のに見える。ところがこれら
は徳川幕府に仕込まれた対イエズス会事件だった。と言うのも松倉重政の非情さは噂が
あったとしか思えない。江戸時代の刑法は身分によって大きく分かれていた。武士の身
分の者に適用された死刑は「斬刑」で、一般庶民の死罪と同じ打ち首ですが、庶民の死
体は刀の試し切りなどにされるのに対し、武士はありませんでした。しかも、最も大き
な違いは、武士には切腹があった事です。切腹は江戸時代の刑法典に正式に規定された
ものではない。しかし、武家社会では討ち死と同じく切腹は武士の名誉に配慮した形で
、尊きものとされていた。そこには指導者と言う層のメンツが隠されていたからだ。幕
府や主君から賜わる恩典として一般的には切腹は見なされていたのだ。松の廊下を汚し
た赤穂藩の改易浪士に対しても幕府が下した判決は切腹で、浪士達は非常に喜んだと伝
えられている。もちろん武士で斬刑に処せられた者はいましたが、大名となると、幕府
の役務中に刃傷を起こした内藤忠勝や、江戸城中で刃傷に及んだ浅野内匠頭でさえも、
それぞれ切腹でした。しかし、江戸幕府260余年でただ1人、打ち首になった大名が
いる。それがは、肥前島原4万石の藩主松倉勝家である。松倉勝家は、初代島原藩主の
重政の嫡男として、1597年(慶長2年)に生まれている。重政と共に島原城とその城下
町の新築、参勤交代の費用など種々の口実を設け、また独自に検地を実施して実質4万
石満たない程度の石高を10万石と過大に見積もり、領民に10万石相当の過重な年貢・労
役を課した。島原・天草両地方はともに十分な耕地はなく、古くから漁業・対外貿易・
出稼ぎなど、東シナ海からの収入への依存で高いやっと食いつなぐ中で1616年(元和2
)に新たに領主として移封してきた松倉重政は、前領主の日野江城・原城をともに廃し
、七年の歳月を費やして分不相応といわれた島原城を築き、さらに1630年(寛永7)に
は税率を64%とし、計10万石の草高として領民に課税し、更に幕府に対しても10万石
の軍役を負担した。とにかく、無茶苦茶な重税だったみたいです。1630年(寛永7年)
に重政が急逝した後を受け、藩主となってからは、父をも凌ぐ過酷な収奪を行って領民
を苦しめます。1634年(寛永11年)は悪天候と旱魃による凶作でしたが、勝家は容赦せ
ず重税を取立てます。米や農作物の徴収だけでなく、人頭税や住宅税などありとあらゆ
る税を新設して厳格に取り立てたことが多くの記録に残っている。


1541: 名無しさんAA:18/11/05 14:41
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   534   > 

 聖ビセンテ塩塚は長崎で生まれ、九歳の頃からイエズス会のセミナリオで学んでいる
。彼は芸術的才能に恵まれており、オルガニストとして活躍する一方、絵を描いたり、
聖歌隊の指揮者としての面でも、その豊かな才能を発揮している。セミナリオ終了後、
宣教活動に従事して、一六一四年、マカオに追放された。その後、マニラに渡り、フラ
ンシスコ会のて日本宣教に向かう司祭に、日本語を教えていた。長崎奉行所での本人の
証言によれば、日本潜入の数年前からマニラで司祭となった。1588年のセミナリヨ名簿
には「50番、ルイス塩塚、長崎出身、11歳、健康良好、1578年に入学、予備級で学んで
いる。」と書かれている。1614年にマカオで念願の司祭叙階を受け、1622年にルイス・
カブレラ・イ・ソテロ神父らと日本に戻ろうとしたが、マニラ政府の反対により、ソテ
ロ神父たちだけで密航して日本に行き、ビセンテ塩塚(この時はルイス塩塚)は取り残さ
れた。そこで聖トマス学院学長アントニオ・ゴンザレス神父とフランス生まれのギョー
ム・クルテ神父、スペイン人のアオザラザ神父からなる日本宣教師団に加わり、1636年
、殉教を覚悟の上で日本に向かいました。彼の役割は通訳兼案内者で、出発前に先立っ
てドミニコ会に入会し、この時名前もビセンテ・デ・ラ・クルスに変えました。6月に
、琉球の吐喝喇列島の一つ悪石島に着き、すぐに発見され、長崎に連行された。そこで
水責めの拷問を受け、殉教覚悟で入国したが、耐えられずに棄教してしまう。棄教した
ものの釈放されず、潜伏している宣教師のことなどを、白状させようと水責めを受けて
、更にクルテ神父とアオザラザ神父の2人にした、金針を指と爪の間に押し込む拷問を
を塩塚も受けた。夜になると3人は獄に戻され板越しに話ができたが、その時2人の外
国人神父は塩塚神父を力づけ、祈ってくれた。その祈りと神の恵みに助けられて、塩塚
神父は落ち着きを取り戻し、悔い改めた。1637年、9月21日、ゴンザレス神父と2人の
信徒、京都のラザロとルイス・ロレンソも長崎奉行所に到着し、彼らも又何回も水責め
に会い、同月23日にゴンザレス神父は牢内で死去。ラザロは一旦転ぶと言いましたが取
り消した。こうして同月27日残る5人にとって最後の戦いが始まりました。西坂に連行
され5人は挨拶を交わし、次々と穴吊りにかけられた。そして3日間そのままにされ、
同月29日に引き上げてみたところ、ラザロとロレンソは既に死んでいましたが、3人の
神父は耐えて生きていました。この日に狩りに行こうとしていた長崎奉行は、3人の死
が待ちきれず、斬首にするよう命じ、3人の神父は穴から引き出され、その場で首を斬
られ殉教。遺体は焼かれて海に撒かれました。こうして一六三七年九月二十九日、殉教
の冠を得た。

1542: 名無しさんAA:18/11/05 14:46
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   535   > 

 薩摩の琉球侵攻は島津氏立ち上がる頃からに遡る。もともと島津家の前に薩摩藩は、
開かれた開港を持っていた。種子島や琉球は、当然ながらこの鹿児島の地との交易は盛
んだったのである。16世紀中ごろ、日明貿易(勘合貿易)が途絶えると、堺・博多の商
人が琉球に来航するようになった。彼らは、薩摩の周辺海域を通行するため、島津氏は
海防を名目に、琉球王府に対して、島津氏の印判のないものとの貿易を認めないように
求め税を取った。多くの日本商船との交易を望んでいた琉球としては、島津氏の要求を
すんなりと受け入れるわけにもゆかないため、琉球王府と島津氏との間で対立関係が生
まれていた。17世紀に入ったころになると、薩摩・日向・大隅平定以降、九州平定をめ
ぐる戦いや、朝鮮出兵、関が原の戦いと、出費が相次ぎ、財政は破綻状態であり、これ
を再建する必要や、分散した内部権力を島津家久の元に統合する必要に迫られていた。
こうした問題を解決するためにも、薩摩では奄美出兵が企てられた。幕府は当初、明国
を刺激しないため、琉球への派兵には慎重であったが、1606年に島津家久の要求を受け
入れた。1609年3月初旬、薩摩軍は約3000の兵と100隻の軍船により、琉球に進攻した。
鉄砲隊を中心とした薩摩軍は、奄美大島・徳之島・沖永良部島を次々と攻略し、簡単に
それらを従い、3月25日、沖縄本島北部・運天港に上陸し、27日には 今帰仁城を陥落さ
せた。3月29日、読谷(ヨミタン)に到着した薩摩軍は、陸路と海路から、4月1日には
那覇・首里に到着した。琉球軍も抵抗はしたものの、戦国時代を経験し圧倒的な軍事力
を持つ薩摩軍を相手になす術はなかった。4月5日、琉球国王・尚寧が降伏を申し入れ、
首里城は占拠された。5月15日、尚寧以下 重職にあった者達は薩摩に連行され、翌年の
1610年、島津家久は尚寧をともなって徳川家康・秀忠に謁見した。これより前、琉球王
府では、1606年に謝名利山(じゃな りざん:抗日派)が、久米 村人として初めて三司
官(宰相職)に就任していた。通常、久米村人の最高官職は三司官座敷(政治を司る三
司官の国議の場に列席して、意見を述べる官職)までとなっていたので、謝名利山の三
司官就任は異例の事だった。琉球敗北によって、薩摩に連行された国王・三司官らに対
し、島津氏は忠誠を誓う誓約書を提出させたが、謝名利山ただ一人、連判を拒否して、
薩摩藩により斬首された。なお、謝名利山は薩摩抑留中に、長崎に来航した中国船にひ
そかに救援依頼していたが失敗している。恐らく台湾人だったのだろう。


1543: 名無しさんAA:18/11/05 14:47
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   536   > 

 薩摩藩は奄美諸島を直轄地としたが、沖縄・八重山は薩摩の支配下で国家として存続
することとなった。琉球を支配下に置いた島津氏は、さらに掟15条を定め、支配を強固
なものとした。掟の第1条には、中国との交易を薩摩が支配することが定められている。
1612年、尚寧が琉球に戻ったことを北京に知らせ、対中国貿易の再開を図るが、明国の
解答は、これまで2年に1度だった進貢交易を、今後は十年に一度とするものだった。
このため、琉球を介して対中国貿易を図ろうとした、島津氏の目論見は失敗に終わった
。1623年、明国に冊封を願い出ると、明朝廷は礼官の建議により、暫く五年一貢と定め
た。さらに1633年には二年一貢が認められ、朝貢は元に戻った。薩摩藩の支配を受けて
以降、琉球王は、将軍や琉球王が変わる時には慶賀使・謝恩使を江戸に派遣することが
慣習となった。その際の服装は、琉球が異国であることを強調するため、琉球風・中国
風のものと決められた。琉球侵攻以降、薩摩の支配を受けることになったが、琉球が、
日本の領土になったわけではなく、琉球王府は従前通り継続し、人事権・裁判権等は、
琉球王にあった。また、琉球は、明国を宗主国とする服属国だった慣習で、琉球王就任
は、明国(のち清国)の冊封を受けていた。ただし、琉球王家の収納米の3割近くを、
島津氏へ貢納させられ、1647年からは貢米中に砂糖を含めさせられた。琉球が薩摩藩の
支配を受けていることは、明・清に対して隠蔽されたようだ。薩摩の支配がバレナイた
め、冊封使が来ると、薩摩の役人達は浦添間切城間村(現浦添市城間)に隠れたのだ。
これは当然乍ら、戦乱の地にしたくない琉球王と、交易を続け明からの輸入で利益をは
かった島津との利害が一致していた事によるものだった。琉球が薩摩藩の支配を受けて
いることを隠蔽したのは、明・清に対してだけではなく、19世紀になって欧米列強が
来琉するようになって、欧米に対しても、隠蔽された。こうした事でトカラの悪石島で
もすぐさま捕縛され送られた塩塚氏だった。この塩塚姓は柳川立花藩に多くあったが、
彼らは佐賀藩や長崎に移動していた。私見ではあるが彼らは古くからのイラン人ではな
いかと思う。塩の行商人でその作り方を良く知る者だったと言われる。かつては少し塩
の作り方は違っていた。日本では、外国人の入国やキリスト教の布教は禁止されていた
が、琉球は日本の支配下にないので、日本の法律は適用されなかった。フランス人宣教
師フォルカード神父は、1844(天保15)年に琉球にやってきて2年間 滞在した。また、イ
ギリスの宣教師で医師のベッテルハイムは1846年から8年間琉球に滞在した。

1544: 名無しさんAA:18/11/05 14:50
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   536   > 

 薩摩藩は奄美諸島を直轄地としたが、沖縄・八重山は薩摩の支配下で国家として存続
することとなった。琉球を支配下に置いた島津氏は、さらに掟15条を定め、支配を強固
なものとした。掟の第1条には、中国との交易を薩摩が支配することが定められている。
1612年、尚寧が琉球に戻ったことを北京に知らせ、対中国貿易の再開を図るが、明国の
解答は、これまで2年に1度だった進貢交易を、今後は十年に一度とするものだった。
このため、琉球を介して対中国貿易を図ろうとした、島津氏の目論見は失敗に終わった
。1623年、明国に冊封を願い出ると、明朝廷は礼官の建議により、暫く五年一貢と定め
た。さらに1633年には二年一貢が認められ、朝貢は元に戻った。薩摩藩の支配を受けて
以降、琉球王は、将軍や琉球王が変わる時には慶賀使・謝恩使を江戸に派遣することが
慣習となった。その際の服装は、琉球が異国であることを強調するため、琉球風・中国
風のものと決められた。琉球侵攻以降、薩摩の支配を受けることになったが、琉球が、
日本の領土になったわけではなく、琉球王府は従前通り継続し、人事権・裁判権等は、
琉球王にあった。また、琉球は、明国を宗主国とする服属国だった慣習で、琉球王就任
は、明国(のち清国)の冊封を受けていた。ただし、琉球王家の収納米の3割近くを、
島津氏へ貢納させられ、1647年からは貢米中に砂糖を含めさせられた。琉球が薩摩藩の
支配を受けていることは、明・清に対して隠蔽されたようだ。薩摩の支配がバレナイた
め、冊封使が来ると、薩摩の役人達は浦添間切城間村(現浦添市城間)に隠れたのだ。
これは当然乍ら、戦乱の地にしたくない琉球王と、交易を続け明からの輸入で利益をは
かった島津との利害が一致していた事によるものだった。琉球が薩摩藩の支配を受けて
いることを隠蔽したのは、明・清に対してだけではなく、19世紀になって欧米列強が
来琉するようになって、欧米に対しても、隠蔽された。こうした事でトカラの悪石島で
もすぐさま捕縛され送られた塩塚氏だった。この塩塚姓は柳川立花藩に多くあったが、
彼らは佐賀藩や長崎に移動していた。私見ではあるが彼らは古くからのイラン人ではな
いかと思う。塩の行商人でその作り方を良く知る者だったと言われる。かつて昔は塩田
ではなく、少し塩の作り方は違って素焼き壺に頼っていた。日本では、外国人の入国や
キリスト教の布教は禁止されていたが、琉球は日本の支配下にないので、日本の法律は
適用されなかった。フランス人宣教師フォルカード神父は、1844(天保15)年に琉球にや
ってきて2年間 滞在した。また、イギリスの宣教師で医師のベッテルハイムは1846年
から8年間琉球に滞在した。

1545: 名無しさんAA:18/11/05 14:55
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   537   > 

 琉球王府はキリスト教の布教はもとより、外国人の滞在も嫌がったが、清国の法では
禁止されていなかったので、清国の属国である琉球国が拒否する根拠がなかった。フォ
ルカード神父は琉球王府の意向を受け入れて、おとなしくしていたため布教活動はでき
なかった。ベッテルハイムは琉球の民家を訪ねて、布教活動をしたが、琉球王府にそれ
を止めることはできなかった。当間重陳(伊地知太郎右衛門)は元・薩摩藩士。薩摩藩
の琉球侵攻の翌年ごろ琉球に渡り、その後1628年に、「大和横目」に任ぜられ、交易船
などの監視に当たった。1636年、江戸幕府は寛永通宝を鋳造し唯一の銭貨とした。薩摩
藩は加治木銭と言われる鐚銭の鋳造が盛んだったため、銭貨が寛永通宝に統一されると
、使えなくなった鐚銭が多量に残った。当間重陳は薩摩の鐚銭を改鋳して鳩目銭を作っ
た。このため鳩目銭のことを「当間銭」ともいう。寛永通宝と鳩目銭が使われた。鳩目
銭は貧弱な銭貨のため価値が低く、通常は400枚〜1000枚を紐通しして 結び目に封をし
た形状で使用した。このため「封印銭」ともいう。琉球に寛永通宝が流通してくると、
鳩目銭は使用されなくなっていった。しかし、琉球では、中国に対して、薩摩藩の関係
を秘密にしていたので、中国から冊封使が訪れると、寛永通宝が目に触れないように回
収して、代わりに鳩目銭を流通させた。このため、鳩目銭は廃棄されることなく貯蔵さ
れた。時代は下がって、1945年、日本の敗戦により琉球はアメリカ軍の占領統治となり
、1957年那覇市長選で反米の瀬長亀次郎が当選すると、アメリカ軍当局は瀬長の追い落
としを目論んだ。当時、アメリカ軍により琉球政府行政主席に充てられていた当間重剛
は、那覇市民により選挙された瀬長亀次郎を強制的に排除した。当間重剛は当間重陳の
子孫だった。琉球を支配した薩摩藩は、琉球を介して清国と貿易をすることにより、利
益をあげていた。しかし、第28代当主・島津斉彬の時代になると、琉球を介した交易に
も行き詰まりが見え、さらに、欧米列強の琉球開国圧力は強まり、それがために、薩摩
藩では、かえって経費が必要な事態になってきていた。こうした中、島津斉彬は贋金を
作って藩財政の立て直しを目論んだが、斉彬の時代には、少数の試作品を除いて贋金は
作られていない。琉球王朝は、この布教と贋金の発達には持て余していたが臣下は優れ
て薩摩には台湾を 中国には薩摩を利用していた。これが崩れたのが同じ黒船到来だっ
た。大砲にも宣教師にも敵わなかったのだ。しかし宋やルソンなどの言葉や文化を理解
していた王朝は、協定や条約によって国を守った。


1546: 名無しさんAA:18/11/05 14:56
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   538   > 

 文久2年(1862年)、琉球救済の名目で幕府に申請していた「琉球通宝」の鋳造許可が
おりる。琉球通宝は領内限定で通用が認められたものなので、薩摩藩の利益にはなりに
くかったため、天保通宝を贋造した。薩英戦争で鋳造所が焼失したのちは、場所を移し
て再開し、鋳造量も増大した。贋金は秘密裏に作るものなので、公文書などは残ってお
らず、詳しいことは不明であるが、贋金作りの中心を担った市来四郎の自叙伝によると
、贋 天保通宝の鋳造量は290余万両だったとのことなので、1億枚を超える鋳造枚数だ
ったことになる。贋金つくりに必要な銅材料の調達には、寺の鐘や仏具も使用された。
現在、鹿児島県には古刹がほとんどない。幕末から明治の廃仏毀釈が徹底していたと説
明されることが多いが、贋金つくりに鐘や仏具を没収した歴史が、徹底した廃仏毀釈に
つながっている。琉球通宝は、薩摩で作られた天保通宝は、色や字体の微妙な違いなど
で見分ける必要がある。薩摩は天保通宝の贋金を大量に鋳造したようで、現在、残存数
も多い。琉球通宝は多くない。薩摩藩以上に険しかったのが島原藩だった。秀吉の朝鮮
出兵以降は、幕府の鎖国政策により、重要な副収入でもあった対外貿易を絶たれた島原
藩は、密輸か重税でしか幕府には納められなかった。また1635年(寛永12)からは凶作
が続き。当時日本に居たポルトガル人のドアルテ・コレアや、オランダの平戸商館長の
クーケバッケルの報告記録では、「あらゆる生産物や生活手段に課税し、未納の際の取
立ての厳しさは言語に絶し、この為の一揆であった」という記述がある。勝家は年貢を
納められない農民や、村の責任者である庄屋から、妻や娘を人質に取るようになった。
島原の乱の記録を残した長崎のドアルテ・コレアは、人質の若い娘や子供に藁蓑を着せ
て火をつけ、もがきながら焼死する姿を「蓑踊り」と呼んで見せしめをしていた。と書
いた記録を残す。1637年(寛永14年)に、口の津村の庄屋・与左衛門の妻は身重のまま
人質にとられ、冷たい水牢に裸で入れた。村民は庄屋宅に集まり年貢を納める方法を話
し合ったものの、納める事が出来ず、庄屋の妻は6日間苦しみ、水中で出産した子供と
共に絶命した。たまりかねた領民は蜂起し、代官所を襲撃して代官を殺害した。これが
島原の乱の始まりとなった。乱の鎮圧後、勝家は肥前唐津藩主の寺沢堅高と共に反乱の
責任を問われ、勝家は改易、所領を没収され、美作津山藩主森長継に預けられた。勝家
は悪政を布いたことを否定し、あくまでキリシタンによる反乱と主張し続けた。松倉家
から折檻された農民の遺体が発見され容疑は定まり、1638年(寛永15年)、幕府は正式
に松倉を江戸に召喚して評定を重ねた結果、死罪と決して7月、森家の江戸屋敷で斬首
に処せられた

1547: 名無しさんAA:18/11/05 14:58
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   539   > 

 その遺骸は松倉家の家臣に引き取られ、芝の金地院に葬られた。大名が切腹さえも許
されず一介の罪人として斬首刑に処せられたことは、大反乱を引き起こす原因を作った
勝家の失政を、幕府側が極めて重大な罪と見なしていたことを示している。この少し前
慶長14年(1609)の東南アジア海域の我国の海運」の書面で、大航海時代の中で1609年に
500石積 軍船の破壊したという結果を書いている。多分ポルトガル船デウス号の撃沈の
話だろう。徳川家康謁見等安が死罪にまでなったからそれで終りでは無かったのだ。当
然イスパニア船は大軍では無かったが多くの帆船が出港していた。サン・フェリペ号は
秀吉時代の南蛮船だ。16〜17世紀貿易活動に従事したポルトガルの小型帆船で、バ
テレン追放令が出て無かった頃だ。ガスパル・コエリョが船長のフスタ船を秀吉に見せ
た所、その船の動力源である船漕ぎが全て日本人であり、鎖に繋がれ苦役にあえいでい
る姿を見て驚愕した。秀吉がコエリョに問うと、皆犯罪者だと平気で言い、人間として
扱っていない事に激怒した。コエリョは博多でこの船を乗り回し大砲を秀吉に撃たせて
秀吉も喜んだと言う。早い時期からフィリピンからの艦隊派遣を求めていたし、高山右
近や小西行長がこの行為を懸念したが一向にこの傲慢さは収まらなかった。こうして、
バテレン追放令が出た原因のフスタ船となった。しかし、その後も、貿易をしたかった
秀吉は、バテレン追放令は発令したものの余り厳しくしていなかった。がしかし、土佐
でのサン=フェリペ号の難破漂着事件が起きた。土佐に漂着したサン=フェリペ号の船
員がキリスト教を布教したのは領土を広げる為と言ったことで、キリスト教が禁止され
、キリスト教弾圧が始まった。これが長崎の26聖人殉教の原因となった。サン=フェ
リペ号そのものは壊れたが、秀吉の許可によりサン=フェリペ号の修繕は開始された。
あまり知られてないが、アブラハム・ファン・デン・ブルック、ニコラース・ボイクは
オランタ船隊特使として国書授受し、通商許可朱印状を受領している。朱印状の日付は
慶長14年7月25日である。つまり、この慶長14年1609年にデウス号が沈没が
ある頃に、一方ではタイオワン事件で等安を捕縛する事を決め、オランダ人船長には、
御朱印状を出している幕府だったのだ。


1548: 名無しさんAA:18/11/05 14:58
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   540   > 

 1600年の関が原の戦いの時に、肥前にオランダ船豊後漂着して、ウイリアム・ア
ダムスが徳川家康と謁見した事が大きかった、細川ガラシャや小西行長は関ケ原の西軍
で死んだのだが、小西は宇土の城主だった。宇土は鎌倉時代末期に宇土氏によって築か
れた宇土古城とともにみると、鶴が翼を広げているように見えたことから「鶴の城」の
異名を持っていた。この宇土城普請に従わなかった天草五人衆とは戦になり、天草国人
一揆が起こっている。佐々成正が平定できず、これを加藤清正らとともに平定。天草1
万石あまりも所領とした。秀吉は、後の朝鮮出兵を視野に入れて、水軍を統率する行長
を肥後に封じたという。このころの天草は人口3万の2/3にあたる2万3千がキリシタンで
あり、60人あまりの神父、30の教会が存在したという。志岐氏の所領である志岐には宣
教師の要請によって画家でもあるイタリア人修道士(イルマン)ジョバンニ・ニコラオ
が派遣され、ニコラオの指導下で聖像学校が営まれ、油絵、水彩画、銅版画が教えられ
聖画・聖像の製作、パイプオルガンや時計などの製作が行われていたと言われている。
オランダ東インド会社(VOC)は1602年、バタビアで設立された世界初の株式会
社とされる。植民地経営や外国との条約締結、自衛戦争遂行など準国家的な権限を持ち
、バタビアを拠点に香料貿易を独占、コーヒーの強制栽培などにも乗り出していた。古
来よりヨーロッパで、金銀を豊富に産する「金島」・「銀島」の伝説があった。1635年
(寛永12年)、平戸のオランダ商館の職員であったウィレム・フルステーヘン(後の商
館長)は、オランダ領東インド総督のアントニオ・ヴァン・ディーメンに宛てて、「日
本の東方北緯37度半、海岸からおよそ380〜390マイル」に金銀島があると聞いたと報告
している。すなわち寛永12年には既にオランダ商館は盛んだった。平戸オランダ商館
は、1609年に江戸幕府から貿易を許可された東インド会社が、平戸城主松浦隆信公の導
きによって平戸に設置したとなっている。だが1600年に既に臼杵黒島に漂着した事
を思えば、平戸以外に既にあったと考えられる。当時平戸は東アジアにおける貿易拠点
で、オランダ商館長日記などの記述によると、当初は土蔵の付属した住宅1軒を借りて
始まり、その後、貿易が拡大するに従い、1612、1616、1618、1623、1637、1639年とに
順次施設の拡大整備が行なわれている。タイオワン事件(台湾での中国貿易をめぐるオ
ランダ商館との紛争事件)によって1628年から5年間交易が途絶えた後の1637年と1639
年に建設された倉庫は規模が大きく、充実した貿易体制となった。つまりタイオワンの
事件で日本との交易が無くなった事は、オランダにとっても痛手だったのである。


1549: 名無しさんAA:18/11/05 15:11
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   541   > 
 江戸幕府の鎖国時代に、日本の北方ルートをしつこく探索したのがVOC(オランダ
東インド会社)の測量隊だった。スペインは早くから、日本政府に金銀島を持っている
。との噂が絶えなかったからだ。カストリカム号とプレスケンス号の2隻は1643年
、バタビアを出発。国後島と択捉島の間の海峡を通り、サハリンまで行き、根室の海岸
では2週間停泊した。その時々に船舶修理や食料補給などをした。人なつっこいアイヌ
の人々とシャケや木材などを物々交換したという記録が残る。しかし徳川幕府は、長崎
・出島のみ交易が許された鎖国体制を維持し、当時に、このうち1隻が岩手の陸前高田
近くで一時拘束される事件が起きた。急速出島のオランダ商館が動き、江戸幕府に渡航
目的を説明して釈放された。コロンブスの「新大陸発見」に沸く当時のヨーロッパで、
東方にあるとされた「金銀島」や北方ルート開拓を目的とした探検だったとみられる。
鎖国をするためにはどこまでが国なのかを明確にする必要が生じたが、VOCの測量隊
は幕府を通り越し、北方の島を探検、狩猟民族のアイヌ人と接していた。オランダ人が
捕縛されたという話は、すぐに出島のオランダ商館にも伝えられた。このため、新旧二
人の商館長ピーテル・アントニスゾーン・オーフルトワーテルとヤン・ファン・エルセ
ラックが例年より1ヶ月ほど早く江戸に参府し、宣教師の潜入や日本への領土的野心を
目的とするものではないと釈明した。これが受け入れられ、12月に10人は釈放された
。鎖国で長崎からバタビアへ追放された混血女性「じゃがたらお春」の悲話もあるが、
日本では混血児を哀れむ程も無く、バタビアでは差別意識は持たれず、オランダ人と結
婚して裕福な生活を送ったという。鎖国中のバタビア、長崎、北方のアイヌの人々など
と知り合っている。この事がその後のロシアの南下を誘い込んだ。ウィリアム・アダム
ス(William Adams)は、1564年に生まれたイギリス人で後に帰化し三浦按針となった。
5隻の船団で 1598年6月24日に、ロッテルダムを出港し、南米マゼラン海峡を抜けて、
太平洋に出た。航海は困難を極め、2隻はポルトガルとスペインに拿捕され、1隻は、
はぐれてUターンした。ウイリアム・アダムスが乗船していたホープ号も太平洋で沈没
し、残った僚船リーフデ号1隻が漂着した。そして、1600年4月29日(慶長5年3月16日)
、リーフデ号は九州の東岸となる豊後臼杵の黒島沖に漂着しました。しかし、赤痢など
で次々に船員は倒れ、出港時に110人だったリーフデ号は 24名まで減っており、自力で
歩ける者はウィリアム含めて6名だった。先行したスペイン・ポルトガルは同じキリス
ト教でも「カトリック」で、オランダ・イギリスは「プロテスタント」であり、植民地
・海外進出ではお互いに争っている中で、徳川家康 は5月12日(慶長5年3月30日)にウ
イリアム・アダムス(35歳)らと直接会った

1550: 名無しさんAA:18/11/05 19:34
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   542   > 

 このイギリス人ウィリアム・アダムスと一緒だったのが、後に八重洲口の名の元にな
ったオランダ人ヤン・ヨーステンである。彼らは、海賊ではなく、欧州事情の説明に4
年の歳月がかかってやっと家康と謁見ができたほど困憊を極めて獄門からはなれた。こ
れはイエズス会が、イギリス人は海賊と説明していたからだった。その後は徳川家康に
信任され、江戸城の内堀内に邸を貰い、日本人と結婚した。屋敷のあった場所は現在の
八重洲のあたりだが、この「八重洲」の地名は彼自身の名に由来する。「ヤン=ヨース
テン」が訛った日本名「耶楊子」(やようす)と呼ばれるようになり、これがのちに「
八代洲」(やよす)となり、「八重洲」(やえす)になった。やがて東南アジア方面で
の朱印船貿易を行い、その後に帰国しようとバタヴィア(ジャカルタ)に渡ったが帰国
交渉がはかどらず、結局あきらめ日本へ帰ろうとする途中、乗船していた船がインドシ
ナで座礁して溺死したと言われる。東南アジアの日本人町は、江戸幕府による鎖国政策
の完成(1632年)を受けて日本との往来が途絶えたため、在住日本人が現地住民と同化
する形で徐々に貿易は消滅した。鎖国中にも貿易が許されたのは清と李氏朝鮮およびオ
ランダに限られたが、そのうち朝鮮半島のプサンには、中世の居留地である三浦倭館を
受け継いだ「草梁倭館(そうりょうわかん、チョヤンウェグァン)」が置かれていた。
そこは対馬藩の役人や商人など日本人400〜500人が居住していた。又厳密には日本人町
ではない「琉球人の町」も存在した。アユタヤ日本人町の住民は、傭兵、貿易商、キリ
シタン、あるいは彼らの配偶者やタイ族の奴隷などで構成されて、この時代、江戸時代
初期の国際貿易、キリスト教の布教・禁教など、わが国の対外政策の歴史をしる上で、
平戸商館の繋がりある町の重要性はかなり高い。こうして、東シナ海を制覇していたイ
スパニア・ポルトガルから急速にオランダイギリスの世界に変化した。長崎出島が出来
る前までは恐らくだが、平戸のポルトガルは閉鎖され平戸にオランダ商館があり天草に
ポルトガル商館が移った事があった。その頃薩摩に琉球の出張所出島があってこの3港
が主な輸出入貿易の起点とだったが、実は他にも、壱岐対馬や済州島、或いは種子島や
トカラ列島の島々が一斉に、各藩の抜け荷の一時保管庫として、街を形成していたもの
とも思われる。

1551: 名無しさんAA:18/11/05 19:34
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   543   > 

 抜け荷(ぬけに)とは江戸時代に幕府の禁令を破って行われた密貿易である。主とし
て日本に来航したオランダ人や中国人を相手に行われた。寛永年間以後、日本の貿易は
長崎に限られ、その後相手国は中国、オランダのみとされ、渡来船の数、貿易額などは
制限された。また、貿易は指定される特許商人によって行われ、元禄以後は、長崎会所
に限られた。こうした諸制限の外で貿易を行おうとするために抜け荷が発生したとされ
る。江戸幕府はその防止に努め、正徳4年以来しばしば多くの禁令を発して、禁を犯す
ものは死刑に処した。が後を絶たず、幕末に至るまで根絶はしなかった。享保年間は捕
えた密商を釈放して、逆にこれを抜け荷の監察に用いて効果を上げた時期もあった。多
くは唐船との間で行われ、あらかじめ期を約して所定の航路外の海上で、夜間、取引を
行うのが常とされ、中には唐人と通じて唐人館内で行う者もあり、また外船に漂流を装
わせて、九州あたりの交通の少ない海岸で行う者もあった事が記録されている。後には
唐、オランダ以外の国とも密貿易を行う者も生じた。以上は、外国船との密貿易である
。しかし藩によっては、藩運営の専売品の仕法やもしくはこれに類似した仕法を行って
、特定商品を密かに藩外と売買することも禁じられ、これを犯すことをも、抜け荷と言
った。それが火薬の硝石や金や蝋や綿にも及んだ。一例が会津藩の抜け蝋であり、また
阿波藩の藍の抜け荷でもあった。取り締まるために抜荷制道役を設け処罰したが大きく
は商人の方が強かった。なお、「ぬきに」(抜き荷、抜荷)という言葉もあるが、これ
は、船頭が、回送を委託された荷主の商品を抜き取って私販する汚職を言った。八重山
の抜け荷事件は石垣島で起こった諍いだった。久留米藩は真崎氏を通じて与論島や種子
島や石垣島航路を持っていた。多くは椿油を輸出して綿や硝石を入れていた。また柳川
立花藩も壱岐対馬を通じて明との貿易が古くからあった。米を送り、綿や金銀を入れて
いたと言われる。金銀は日田が天領になって多くの九州大名は困惑し、黒田藩すら公式
には手が付けられなくった。その為北方民族から熊の妙丹、毛皮などの仕入れが閉ざさ
れたとされる。徳川幕府は突然の命令によって鎖国にした。これを契機ににわかに鎖国
貿易の途を辿るが、各藩の財政は殆どが交易で余力を持っていた。その経過は、それは
一挙にではなく、色々と国内事情や国外情勢をはかりながら幕府は出して絞めていた。
慶長15年(1610)秀忠はスペイン人に通商航海免許を与え,慶長 16年(1611) 7月24日〜1
月28日家康より、オランダ平戸商館長スペックスに渡海朱印状を与え,同年に明国商人
に長崎での貿易免許状を下付している。慶長 17年(1612)10月29日 家康はオランダに対
し,パタニア貿易の将来性を問い合わせして、より厳しいキリスタン禁教令を出した。

1552: 名無しさんAA:18/11/05 19:35
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   544   > 

 もともと交易は九州の大宰府政庁の持ち分で、物部麁鹿火時代に九州王朝が白水江の
戦いで負けた大和朝廷に米を送る事でやんわりその権益をもった。と伝説は言う。しか
し蒙古襲来で一変し関東武士が台頭し、その後大内氏がその権益を持ったが、瀬戸内の
水軍が反対しそれを利用した毛利が一世を風靡したが大友がそれに挑んで戦国時代が進
んだと伝説ではされている。その意味では博多は喫水が浅く良港ではなかったらしい。
 長崎出島は狭い町だった。バタビア(現、インドネシアのジャカルタ)を出港したオ
ランダ船は季節風の関係から旧暦の6月、7月(時には5月や8月)に長崎に入港して
くる。その隻数は18世紀半ばからは2隻、或いは1隻であった。(江戸時代にわが国
に来航したオランダ船は、1621年から1847年までの227年間に延べ715隻
を数えたが、これ以外にも、27隻が途中で難破している。)長崎の外港に到着したオ
ランダ船は帆を下ろし、多数の曳船によって長崎港に引き入れられたが、その際、祝砲
を発射しながら入港した。オランダ船が出島の沖に碇を入れると、当時の世界の情勢を
記した阿蘭陀風説書や積荷目録が提出され通詞たちは即翻訳の作業に取りかかった。そ
の他、積荷の検査や人数改めといって船の出航地や乗組員の人数などの取調べが行われ
た。荷役作業は長崎奉行の命令によって開始されたが、それは通常、オランダ船の長崎
入港から2〜3日を経過してからであった。オランダ船の貿易品は、水門側から小舟で
出島の水門に搬入された。水門は2ノ門とも呼ばれ、出島の西側、現在の電停・出島の
付近にあり、オランダ船の出入港の際の荷役作業の時に開かれるだけで、通常は厳重に
閉鎖されていた。出島に陸揚げされた荷物は、検使役が1つ1つ点検し、本方荷物と脇
荷物とに区別され、イの蔵、ロの蔵と呼ばれたそれぞれの倉痺に収納された。本方荷物
は「コンパニヤ」と呼ばれ、東インド会社が取引を行う貿易品で、イの蔵に(レリー:
ゆりと呼ばれた。)収納された。脇荷物は「カンバン」と呼ばれ、東インド会社社員の
私的な荷物で、(その利益は社員達のもの)ロの蔵(ドールン(いばら)と呼ばれた)
に収納された。入港予定のオランダ船がすべて入港したのを見届け、まず生糸の価格の
決定の協議が始められました。生糸の取引が終了すると、それ以外の商品の取引が行わ
れ、全国から訪れた商人たちは、入札によって次々に商品を引き取っていった。入港以
来約2〜3ヶ月たち取引もすむと、オランダ船は旧暦9月20日前後に長崎を出港、バ
タビアへ向った。


1553: 名無しさんAA:18/11/05 19:35
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   545   > 

難破船バタビア号の惨劇はノンフィクションとされている。大航海時代の1628年、オラ
ンダからバタヴィアへオランダ東インド会社の船団が向かった。そのなかの一つ帆船バ
タヴィア号だった。340名の乗員乗客( 水夫、兵士、一般乗客、船員、その家族)を乗
せる大型船だった。航海中、船長と船団長が不仲となり、船内ではナンバー3の地位に
ある副商務員イエロニムスに唆された船長は船団長を殺害し船を乗っ取り海賊となるこ
とを企てるようになった。1629年、船団から離れバタヴィア号一隻となった時、密かに
集めていた仲間を使って計画を実行しようとしたが、オーストラリア沖で珊瑚礁に座礁
した。近くの無人島に生き残った乗員乗客の大半が上陸し、船長と船団長他20名は救助
を求め小型船で脱出したと言う。それからまもなくバタヴィア号は沈没したがその後に
この乗員達は船や食糧を中心に血みどろの戦いが繰り広げられる。船の名簿に記載され
ていた341名のうち、難破で60人が死亡。280人の生存者は無人島であるビーコン島に逃
げのびたと言われている。ところが島でも生存者らは血みどろの争いを続けて、以降ビ
ーコン島は”殺人島や”バタヴィア号の墓場””という異名で呼ばれるようになった。
そうして近年、当時の生存者である5人の遺体が新たに共同墓地から発掘された。この
商船「バタヴィア号」は、オランダ東インド会社の船団の1隻として1628年、オランダ
からインドネシアに向かっていた。とされ、ところが1629年にオーストラリア西海岸沖
60キロの海に浮かぶサンゴ島で座礁し、船内では座礁する前から権力争いが行われてい
た。と言う。バタビア号と言うからには、やはり向かっていたのはバタビア国の港には
違いない。1628年はタイオワン事件から10年後である。この時既に幾つもの南蛮船が
行き交っていた事になる。台湾の熱蘭遮(ゼーランディア)城が完成し、フォルモザ島
の名はタイオワン島に既に変わっていたと思われる。1561年の「宮の前事件」は、更に
50年も遡る事になる。平戸にオランダ商館の出来る前にポルトガルのイエズス会が教
会を築いていたのだ。宮ノ前事件(みやのまえじけん)は、永禄4年(1561年)という
早い時期に、平戸においてポルトガル商人と日本人との間で発生した暴動事件である。
平戸港そばの七郎宮の露店で発生したことから、松浦党や郷土史の研究者の間では、「
宮ノ前事件」「宮前事件」と呼んだ。1561年の南蛮船来航にあわせ、平戸・博多・豊前
の商人達との売買交渉が始まっていた。絹糸(または絹織物)の交渉が決裂し、両者の
間に険悪な空気が生じたものだ。

1554: 名無しさんAA:18/11/05 19:35
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   546   > 

しかし、長崎でも宣教師は強く商人達との売買交渉があったが絹糸など交渉が決裂した
。日本商人が商品を投げつけたことで、これを契機に南蛮商人が殴りかかり、双方入り
乱れての乱闘に発展した。見かねた武士が仲裁に入ったが、南蛮商人は日本側への助太
刀と勘違いし、船に戻って武装し、日本商人や武士団を鉄砲で襲撃した。武士団も抜刀
して応戦し血みどろの戦さ場となった。南蛮商人はフェルナン・デ・ソウサ船長以下14
名の死傷者を出し、平戸港を脱出するに及んだ。この事件は、単なる商取引上のトラブ
ルではなかった。平戸領内でも臼杵同様に、キリシタンと仏教徒の確執が表面化したも
のと解釈される。鹿児島での布教を断念したフランシスコ・ザビエルが次に布教の拠点
としたのが平戸であり、領主松浦隆信も南蛮貿易の利権を獲得するために布教を受容し
たため、生月島と度島だけでも1400人が改宗した。改宗したキリシタンは寺社や墓地の
破壊を行い、入信を拒んだ仏教徒との間に確執が生じていた。永禄2年(1559年)、西
禅寺住職と日本人修道士ロレンソ了斎との宗教論争を契機に、仏教徒による暴動未遂事
件が発覚した。松浦隆信は、キリシタン側の総責任者として平戸で布教活動をしていた
ガスパル・ド・ヴィレラ神父を追放したが、禁教には踏み切らなかった。そのため仏教
徒の不満は解消できず、キリシタンへの不信感はくすぶっていたままだった。これが、
宮前事件の伏線であったと考えられている。豊後で布教活動をしていた日本教区長だっ
たコスメ・デ・トーレスは、この暴動の後に日本人への処罰が行われなかったことから
、平戸での貿易を拒絶することに決めた。1559年の暴動未遂事件以来、ルイス・デ・ア
ルメイダ神父に新貿易港の探索を命じており、ひとまず平戸から撤退することをゴアの
ポルトガル総督に進言している。一方、アルメイダ神父は大村純忠との接触に成功し、
翌永禄5年(1562年)、純忠が提供した横瀬浦を新貿易港として、対日貿易を再開した
。フランシスコ・ザビエルは、カトリック教会の司祭で中央会宣教師として、イエズス
会を創設している。ルイス・デ・アルメイダは、マカオで成功した商人だった。イエズ
ス会の宣教師に出会い、思うところがあり、豊後府内(大分県大分市)にやって来た。
当時の日本で広く行われていた赤子殺しや間引きの現実にショックを受け、私財を投じ
て乳児院を建て、さらに豊後府内の領主であった大友宗麟に願って土地をもらいうけ、
1557年に外科、内科、ハンセン氏病科を備えた総合病院を建てた。これが日本初の病院
であり、西洋医学が初めて導入された場所である。

1555: 名無しさんAA:18/11/05 19:36
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   547   > 

 この病院においては、みずからが外科医療を担当した一方で、元僧侶の日本人キリシ
タンが内科医療や薬のことに携わった。そのほか、聖水や十字架、数珠、祈祷文などを
用いた呪術的な医療も盛んに行われた。実際、この病院で主力だったのは、外科医療よ
りも呪術的な医療であり、アルメイダ自身は、実際のところ、外科医療よりも呪術的な
医療を重視しており、病気治癒の効果がデウスの力あることを強調する発言を残してい
る。こうして豊後で病院の面倒を観ながら、新たな長崎勝浦港に布教拠点を開き、往復
して双方に通った。その道はアルメイダ街道と呼ばれ、後での隠れ切支丹の逃げる街道
となった。こうして勝浦〜佐世保〜島原・天草〜玉名・南関〜荒尾山門〜三潴筑後〜久
留米〜瀬高八女〜浮羽日田〜玖珠などの各所が隠れキリスタンの潜伏所とて被害を受け
るのである。ルイス・デ・アルメイダはカトリックの宣教師ではあったものの、熱心な
イエズス会員でも無かった。父親がユダヤ教からの改宗者だったせいか学識も高く、僧
侶など知識人の欲求によく応え、改宗へと導いた。医師としても貧しい人々を助けたの
で多くの信者を獲得した。神父としての活動を始めてからも、貿易への投資を続け、病
院の資金を調達した。また、慢性的な財政難に苦しんでいた日本の教会へも惜しみなく
私財を寄進した。日本人医師の協力を受けて病院を運営していたアルメイダは1558年に
は医学教育も開始。医師の養成を行った。やがてアルメイダは九州全域をまわって医療
活動を行うようになり、1566年には五島の領主宇久純定の治療を依頼されるほどその名
声は高まっていた。冒険商人から無償奉仕の医師へと転身し、病人と乳児に尽くした波
乱の生涯を送っている。家康はイギリス人アダムスやオランダ人ヨーステンとを分けて
紅毛人とした。これにより南蛮人とは、ポルトガル人とスペイン人を指す事になった。
南蛮貿易は、インドネシア(モルッカ諸島等)や中国(マカオ、マニラ等)から海流と
季節風を利用して、帆船で日本に来るが、帆船は風がないと航海できない。このために
、地理的に九州西岸域(長崎など)が、来やすく、また、帰りやすかった。しかし、こ
のアルメイダが進めた天然痘は八女を中心に莫大な命を救ったとされる。元々大宰府が
牛を祀っていた為に牛の血の注射を許したとされる。その為八女の入口には石工が奉納
した牛が数多く祀られていたが、今や盗難にあってそれがない。かつての久留米藩の宝
とされていたのだが残念である。

1556: 名無しさんAA:18/11/05 19:46
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   548   > 

 南蛮貿易は、帆船で、7〜8月ごろの南方からの季節風にのって長崎に入港し、取引の
後、季節風が逆方向に吹き始める、晩秋・初冬(10月頃)に、マカオに戻って行った。
ポルトガル商人は、自身の信仰のためと、ポルトガル人宣教師の日本での情報網も必要
であったため、宣教師の求めに応じて、キリスト教布教の許可を条件に貿易をしていた
。しかし、ポルトガル人は、鹿児島の薩摩藩でも貿易していたが、藩内の仏教勢力がキ
リスト教布教を妨害し、藩主も布教をあまり好まなかったため、宣教師が鹿児島での布
教をあきらめたので、鹿児島での貿易は無くなった。九州騒乱時代に大友宗麟が蒲池氏
以下層々たる武将に宮崎の飫肥城攻めを決めたのは、切支丹の国造りをそそのかされた
からだった。旧来から伊東氏と島津氏は1485年から1568年の約80年の間、9回に亘って
飫肥城を奪い合い、筑後合戦と同じに南国の川中島状態だった。伊東義祐は飫肥城を手
に入れ日向国内の48の支城を治め伊東氏の最盛期を築き上げていた。ところが1572年に
起きた木崎原の戦いで島津義弘に敗北する。そこに九州制覇を狙う豊後国の大友宗麟は
総力を挙げて奪還しようと、薩摩国の島津義久に挑んだ。これが耳川の戦い(みみかわ
のたたかい)だった。天正6年(1578年)の事だ。元々は、大友氏の加判衆(田原親賢
・臼杵鑑速・志賀親度・佐伯惟教)から島津氏の老中(川上忠克・島津季久・村田経定
・伊集院久信・平田昌宗・伊集院忠金)に充てた連署状には両家の関係を「貴家(島津
氏)当方(大友氏)代々披得御意候」と表現したほどの同盟のあった仲だった。1567年
に、念願かなって飫肥城を奪取した伊東義祐(祐国の孫)は、子の祐兵に飫肥の地を与
えた事で弱くなり、1572年に伊東氏が木崎原の戦いをきっかけに没落し、日向国全土を
島津氏が治めるところとなったのだ、飫肥も再び島津氏の支配となった。実はキリスタ
ンかぶれの大友によって、古来神道の総本山岩牟礼城までも盗られようとしたので島津
が奮闘し奪還したのである。こうして古刹岩牟礼城は島津に帰する事になった。現在の
宮崎県小林市東方の城ヶ迫にあった古城で。築城年数、築城者などは一切不明。小林市
にあった城の中では一番高地にあった城である。こうして逃げ延びた伊藤氏が「天正遣
欧使節団」の伊藤マンショや海商大久保甚右衛門らに祀られた伊藤小左衛門であろう。
岩牟礼城は、古代九州王朝の祖とされた大神氏族の祀り城だった。だが大神氏は移り、
九州戦乱で明朝貿易の通訳だった伊藤氏に譲った形になっていた。伊藤氏は同じ関東武
士で大友氏を引き連れて来た武将だったとされ太宰少弐氏の縁戚であったとも言われる

1557: 名無しさんAA:18/11/05 19:46
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   549   > 

 ポルトガル人達は、貿易については、印度だけでは満足せず、東シナ海域に進出して
、(中国の明は、海禁政策中であったが)中国人とともに貿易を開始していた。ポルト
ガル商人は、中国人も乗船した帆船で、貿易のために中国へ行く途中、嵐に遭遇して、
偶然、種子島へ漂着した。とされる。1543年の種子島の鉄砲伝来とはなっているが
巌流島に、1618年(元和4年)タイオワン事件逃避者が発見され捕縛された事を思えば
多分この関門海峡付近がこうした南蛮船の交易場所だったのだろう。その頃から、ポル
トガル商人は貿易のため、宣教師やキリスト教を連れて、日本へやって来るようになっ
ていた。国崩しと言われた大砲は、大友宗麟と毛利元就の海上封鎖の戦争では既に使わ
れているので、もっと早い時期から鉄砲伝来はあったようだ。当初、ポルトガル人達は
鹿児島で貿易していた。しかし薩摩藩がキリスト教布教に冷淡で途中から禁教令を出し
た。仏教僧との問答に負けたからと言われている。つまり全知全能の神キリストは何故
世界滅亡時にしか助けないのか。と言う事に答えられなかった。これによりキリスト教
宣教師は他に布教ができる地域を探す事になった。当初豊後で居を止めた。しかし、こ
こが戦乱と海賊の多い事で他を探した。平戸の松浦藩の藩主松浦隆信は、貿易での利益
を得るため、中国人の倭寇=海賊の頭目王直らの紹介で平戸へ招へい(1542年)し
、中国と貿易していた。中国人の王直は、1540年に、五島の福江に来て居城として
いた。領主の宇久氏(後の五島氏)から通商許可を得て貿易等(倭寇)をしていたとい
われる。ポルトガル商人は、これらの中国人(王直)に導かれて、貿易のために平戸へ
入港した。(1550年)ポルトガル人は貿易と共にカトリック教の布教を求めたため
に、松浦隆信は、貿易をするため、キリスト教布教を容認して、貿易を開始したのだが
、次第にキリスト教布教に消極的となった。それは諫早氏や西郷氏などとの確執であっ
た。1561年に、ポルトガル商人と日本人との間で、貿易トラブルから、ポルトガル
商人が日本商人を襲撃したため、日本人が応戦しポルトガル商人を10数名死傷した。
先述の宮の前事件である。このためポルトガル人は、犯人を処罰するように藩主の松浦
隆信に執拗に求めたが、隆信は処罰しなかった。このためポルトガル人は藩主の隆信に
不信感を抱き、それ以降、ポルトガル人宣教師が、カトリック教の布教を許可する大名
を探し貿易を打診したところ、大村藩の大村純忠がキリスト教の布教を許可した。


1558: 名無しさんAA:18/11/05 19:47
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   550   > 

 ポルトガル商人は平戸入港を止めて、大村藩の領内の横瀬浦(西彼半島)へ入港して
貿易を開始した。(1562年)しかし、大村藩内や近隣藩のキリスト教布教反対派に
より、横瀬浦港も焼き討ちされ、廃墟となり、貿易ができなくなった。(1563年)
ポルトガル人の宣教師と商人は、大村藩内でのキリスト教布教と貿易を希望したため、
大村藩主の大村純忠は長崎の福田港を開港して、キリスト教布教を認めると共に貿易を
始めた(1565年)。しかし、福田港は、外港に面しており、波が荒く地形的には良
港ではなかったため、ポルトガル商人は地形的な良港を要求した。こうしてポルトガル
人宣教師(フィゲイレド)は自ら、隣接する入り江である長崎港を測量した結果、地形
的には天然の良港であることがわかって要望した。このためポルトガル人宣教師(トー
レス)が大村純忠に長崎港の開港を求め開港した。その当時、長崎は港として認識され
ておらず、海辺には集落はほとんどなかった。と言う。フィゲイレドはイエズス会士だ
がゴアで生まれている。永禄7(1564)年来日し,天正14(1586)年まで島原,豊後,大村,
五島,博多,などで布教した。健康にめぐまれず同12年病気治療のために上京し、当代
随一といわれた医師曲直瀬道三の診察を受け、そのさい彼をキリシタンに導いた。同15
年日本を退去しゴアで死亡した。ト−レスもザビエルや日本人ヤジロウと共に、日本へ
の宣教を志し 1549年8月15日、鹿児島に到着している。ゴアはかつてはインドの最大の
マハラジャ(諸侯王)がいた所だったが、アレキサンダーの大遠征時代に、船便が発達
しその後イスラム教時代に回教徒の国になった場所だった。ゴアはインド西海岸中部の
マンドウィー河の河口にある島に位置し、天然の良港を有し、イスラーム王朝のビジャ
ープル王国の重要都市であったが、1510年、ポルトガル王国のインド総督アフォンソ・
デ・アルブケルケが 1,000人のポルトガル兵を率いて来航し、この都市を降伏させた。
このポルトガルによるゴア占領でポルトガルの占領地になったが、ゴアの要塞が老朽化
しており使えなかったため、同年5月にビジャープル王国のスルターンが50,000の兵を
率いて攻撃してくると一旦引き上げた。アフォンソ・デ・アルブケルケはポルトガル本
国からの増援が到着すると、同年11月2,000の ポルトガル兵によってゴアを再び陥落さ
せて占領した。その後ビジャープルのスルターンは何度もゴアを攻撃したが、奪回でき
なかった。1512年にはゴア要塞へ通じる水路を制するベナステリム要塞を奪取し、ゴア
に病院といくつかの教会を建設し街を建設した。

1559: 名無しさんAA:18/11/05 20:46
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   551   > 

 こうしてアジアの全植民地を統治するポルトガルのインド総督あるいはインド副王が
駐在した。ゴアとリスボンの間には喜望峰経由の定期航路が開かれ、多くのポルトガル
人をアジアに送り出し、アジアの富をポルトガルに持ち帰った。1534年にはローマ教会
の大司教座が設置され、ローマ教会において全アジアを管轄する中心となり、これを機
にサンタ・カタリナ大聖堂が建設された(1562年〜1619年)。17世紀初頭のゴアはモザ
ンビークから長崎に広がるポルトガル海上帝国の首府として「東洋のローマ」と呼ばれ
る黄金時代を迎えた。当時のゴアの人口は20万人に達し、市内には壮麗な教会や修道院
、総督府などの建物が立ち並んで、ヨーロッパの都市にも引けを取らなかったとされる
。この頃、東インド貿易はポルトガルが香料貿易を独占して、とてつもない富をもたら
し繁栄を納めていました。実はこの野蛮なポルトガル人達を、東アジアへの航海心をか
き立てたのは、「黄金の国ジパング」という、日本国の伝説からだったといわれている
。マルコ・ポーロが東方見聞録でヨーロッパにおいて日本のことを、「黄金の国ジパン
グ」と紹介したことで皆が競争して海に出て、東南アジア進出をはかった。日本国に住
んでいる私たちが一番分かっている様に、金など普通の様にない稲穂の国だ。彼らは明
治過ぎても信じていたと言われている。実は鄭和の大航海時代に奥州での金の採掘が行
われており、中尊寺金色堂についての紹介をしたとも言われている。という説がある。
んです。この極東の情報で、黄金の国は実際には存在しないと聞き、ポルトガル人は、
日本への関心は急速になくなってしまいました。つまり、日本はがっかりされた国だっ
た。こうして早くからポルトガル人が日本近海に大航海時代には来ていた。1543年に明
国の船が突然の事故で、鹿児島の大隅半島沖に浮かぶ種子島に漂流した。種子島に辿り
着いた船には、3人のポルトガル商人がたまたま乗り合わせて。これが、ポルトガルと
日本の出会いとされる。この時ポルトガル人が持っていた鉄砲に、大きく興味を示した
のが島津氏と闘っていた種子島島主の種子島時尭(たねがしまときたか)だった。彼は
大金を払いその鉄砲を2丁買いました。これが、有名な日本への鉄砲伝来とされている
。その値段は驚くことに鉄砲2丁で、2000両だったとされる。これがヨーロッパと日本
の最初の公式な交易であった。実は鉄砲は既に中国経由で日本に幾つか伝わっていた。
何故なら大砲すら国崩しで大内氏排除や大友毛利の海上戦では使用されていたからだ。
しかし精度が悪く、音ばかりで 重く火薬さえ貴重で管理出来なかったのだ。


1560: 名無しさんAA:18/11/05 20:47
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   552   > 

 メンデス・ピント著「東洋放浪記」の中に「狩に行って鳩をたくさん取って帰った後
、銃を献上した。時堯は実に貴重な物をくれた、シナ人の全商品よりはるかに価値があ
るといって、銀千両を返礼に与え、さらに火薬を作る方法を教えるように頼んだ。」と
あり。ピントの「廻国記」に、「ゼイモトは好意に報いるために、ある日、鉄砲を贈っ
た。ナウタキン(時尭のこと)は高価の品としてそれを受けとり、このために一〇〇〇
タエルの銀を彼に贈ることを告げた。」と訳している。ポルトガルは、ジャカルタまで
来ると、中国との貿易でも利益を得るため、中国の王直らとの交易を開始していた。ま
た、琉球王国との貿易をしようとしたが断られた。そのような中、1543年に中国人らと
ともに、中国へ交易に向かう途上、嵐に遭遇して、種子島へ漂着した。この船には、ポ
ルトガル人とともに、中国人の王直もいた。と思われる。種子島藩士と、中国人との筆
談で、鉄砲が伝来した。(1543年)ポルトガル船はその前年(1542年)すでに琉球王国
に到着していたが、琉球人はポルトガルがマラッカを攻撃して占拠したことを知ってい
て、交易を拒否した。それ以前に、中国人王直らは、松浦藩の平戸と交易をしていた。
王直は、1540年には日本の五島に来住し、1542年に松浦隆信に招かれて平戸に移った。
地の利を活かした交易活動は九州の諸大名、とりわけ島津氏一族には歓迎されて日本の
商人を後押ししたため、ポルトガル船は頻繁に訪れるようになった。以来、この薩摩領
(現在の鹿児島県西部)内には元亀元年(1570年)までに18隻(倭寇船ジャンク船を含
めればそれ以上)のポルトガル船が侵入していた。1549年にはカトリック布教のために
イエズス会の修道士ザビエルが来日した。彼は実はポルトガルのスパイという説があり
ますが至って不明だ。だがイエズス会そのものが創りたての国際スパイ団という説があ
る。つまり、東インド会社の先発隊としてバチカンの公式諜報員のクラブだったのであ
る。ザビエルは日本で洗礼を授けたベルナルドという名前の青年と2年後にはさっさと
日本を去っている。ベルナルドは単身でリスボンに到達し、始めてヨーロッパに渡った
日本人として名を残している。こうしてポルトガルと交易がはじまったのは、まだザビ
エルが日本にいた頃であった。ポルトガルの商船が平戸に入港し、ザビエルは織田信長
らの庇護のもと南蛮貿易がはじまった。この時彼らは、日本にはまだなかったものをい
っぱい持ち込みました。

1561: 名無しさんAA:18/11/05 20:49
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   553   > 

 1549年8月15日に日本に到来した宣教師のフランシスコ・ザビエルは鹿児島で宣教を
行ったが、ベルナルドはザビエルが最初に洗礼を授けた日本人であった。以降2年間、
ベルナルドはザビエルに同行してその活動を支え続けた。1551年11月5日にザビエルが
日本を離れると、他の4名の日本人の一人として帯同した(他は大友義鎮の家臣といわ
れる上田弦佐なる武士と、日本名不明のマテオ(山口出身)、ジョアン、アントニオと
いう青年)。一行はマラッカからコチンをへて、1552年2月にポルトガルの東洋におけ
る拠点都市ゴアにたどりついた。同年4月、中国入国を目指すザビエルはベルナルドら
と別れてゴアを出帆、上田もこれに同行した。残ったベルナルドとマテオの2人はゴア
でイエズス会学校に学んだが、マテオは病死し、他の2人もその後の消息は不明となっ
た。1553年にベルナルドはリスボアに上陸した。日本では武田信玄と上杉謙信が川中島
で初めて戦った年である。ところでこのザビエルを連れて来たのはヤジローだったが、
フロイスの『日本史』では海賊(“八幡”(ばはん))であったと書かれている。ザビ
エルの導きでゴアに送られたヤジロウは、1548年の聖霊降臨祭にボン・ジェス教会で、
日本人として初めて洗礼を受けた。洗礼により彼は「パウロ・デ・サンタ・フェ(聖信
のパウロ)」の霊名を授かった。その後、彼は同地の聖パウロ学院でキリスト神学を学
んだ。ヤジロウはザビエルから、日本でキリスト教の布教をした場合を問われ、スムー
ズに進むだろうと答え、ヤジロウの人柄と彼の話す日本の様子を聞き、ザビエルは日本
での活動を決意した。と伝えられる。ヤジロウは薩摩国あるいは大隅国(両国とも鹿児
島)の出身である。という。彼自身やザビエルの書簡によれば、彼は若い頃に人を殺し
、薩摩や大隅に来航していたポルトガル船に乗ってマラッカに逃れた。その罪を告白す
るために彼はザビエルを訪ねたという。二人を引き合わせたのは、天文15年(1546年)
に薩摩半島最南部の山川にやって来たポルトガル船船長のジョルジュ・アルヴァレスで
あった。船長はマラッカへ帰る際ヤジロウを乗船させ、ザビエルを紹介した。ヤジロウ
はザビエルに従い ゴアを離れ、1549年8月15日に鹿児島に上陸。ここに日本におけるキ
リスト教布教の第一歩を記した。その後のヤジロウの生涯については不詳である。上記
フロイスの記述によればザビエルの離日後、ヤジロウは布教活動から離れて海賊の生業
に戻り最後は中国近辺で殺害されたという。またフェルナン・メンデス・ピントの『東
洋遍歴記』、ジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』によれば仏僧らの迫害を受けて出
国を余儀なくされ、中国付近で海賊に殺されたという。

1562: 名無しさんAA:18/11/05 20:49
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   554   > 

 1547年12月にマラッカで出会ったヤジロー(アンジローとも)とザビエルは、
1548年11月ゴアで宣教監督となり、1549年4月、イエズス会員の神父、修道
士、マヌエルという中国人、アマドールというインド人、およびゴアで洗礼を受けたヤ
ジロウら3人の日本人と共にゴアを日本を目指して出発した。1549年8月、中国を
経て鹿児島(現在の鹿児島祇園之洲)に上陸し、同年9月には伊集院の一宇治城で薩摩
の領主島津貴久に謁見し、宣教の許可を得ました。ザビエルは鹿児島で布教する日々の
中で、福昌寺の住職で友人の忍室(にんじつ)と宗教論争を行う事を好んだといいます
。ここで後に日本人初のヨーロッパ留学生となる鹿児島のベルナルドなどに出会ている
。かねてから都が目標であったザビエルの一行は、1550年8月に島津貴久のはから
いで平戸へ向かう。平戸への旅立ちは、当時薩摩の重要港であった水引の京泊港を利用
した。ザビエルは平戸でも宣教活動を行っていたが、平戸の信徒の世話のためにトーレ
ス神父を残して、鹿児島のベルナルド、フェルナンデス修道士と共に京都の都を目指し
た。そのころの京都は、11年にわたる応仁(おうにん)の乱で、すっかり荒廃してい
て後奈良天皇は力がなく、幕府の権威は地に堕ち、将軍足利義輝(あしかがよしてる)
は、近江に逃れていた。ザビエルは、内裏から、日本全国で宣教する許可をもらい、都
に聖母マリアを保護者とする教会を建てたいと望んでいました。しかし、天皇との謁見
も、宣教も許されません。夢やぶれたザビエルは、都を去って、平戸にもどり、ふたた
び山口での宣教を試みましたが、思わしくなく中国での布教に方針を切り替えて、2年
2カ月の日本滞在を終え中国へ旅立った。それからおよそ半世紀あとの慶長7年(16
02年)フィリピン・マニラのドミニコ会は、島津家久(忠恒)の招きに応じて、下甑
島の長浜海岸に、フランシスコ・デ・モラレスら4人の宣教師と修道士1人が上陸しま
した。その時の船長は、地元出身のレオン喜左衛門だったといいます。彼らは6月1日
にルソン島のマニラを発ち、7月3日に甑島に到着しました。この数年前、1587年
には豊臣秀吉により、伴天連(バテレン)禁止令が出されていたのですが、一方ではポ
ルトガル船の来航は歓迎していたため、禁教が徹底していなかった。島津氏が、敢えて
キリスト教を禁止していなかったのは宣教師等を通じて東南アジア等との貿易をするの
がひとつの目的であった為といわれています。ドミニコ会の宣教師達が甑島に到着し3
年ほど布教活動をした1605年には島津氏の寄進により、甑島の里村に布教のための
修道院を建てたが、数日後には折からの強い台風により倒壊してしまった。


1563: 名無しさんAA:18/11/05 20:51
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   554   > 

 その後に、1606年(慶長11年)には、許可を得て本土側の水引村京泊の小高い
丘にロザリオの聖母にささげられたロザリオの聖母聖堂(天主堂)が設立された。これ
は日本で最初の教会のひとつであるといわれています。また、同時にハンセン氏病患者
のための療養所が開設された。彼らは当時の厳しい環境下の甑島や京泊に居を構えて布
教に努めるかたわら、島津氏の本拠、鹿児島はいうにおよばす、はるばる京都方面へも
出向いていったようです。モラレス神父などは、慶長12年、駿府において、二代将軍
徳川秀忠に謁見もしているそうです。しかし、慶長14年(1609年)、島津藩主に
よりキリシタン追放令が布告され、さらに1614年には徳川幕府(家康)によっても
禁教令が出され苦境に立たされました。このころ、薩摩川内平佐を治めていた北郷(ほ
んごう)家家臣の税所七右衛門敦朝(あつとも)は、京泊の教会で洗礼を受け「レオン
七右衛門」となっていた。熱心なキリスト教信者であった七右衛門は当主の北郷三久か
らキリスト教を離れるよう促されましたが、従うことはなく、1608年薩摩における
ドミニコ会初の殉教者となったそうです。殉教した七右衛門は、京泊の教会に埋葬され
たとあります。島津の禁教令によって、薩摩からの退去を命じられたドミニコ会の宣教
師たちは、1609年、京泊教会を解体して、その材木とレオン七右衛門の遺体と共に
長崎に移り、その材木を使って、長崎にサント・ドミンゴ教会を建ました。京泊教会に
あったロザリオの聖母像は、その後マニラのサント・ドミンゴ教会に移され、「日本の
マリア様」と呼ばれ大切に保存されているそうです。この頃薩隅日(薩摩・大隅・日向)
では朝廷と独自のパイプを持っていた禰寝氏が領主として守護島津氏に依らない権勢を
持っていた。しかし天文12年(1543年)種子島恵時との戦いで勝ち屋久島を領地とする
が、これは翌年には奪いかえされるという「根占(禰寝)戦争」が起こり、以後種子島
氏との対立が激化疲弊し、禰寝一族の中でも本家と分家の対立が生じて、禰寝重長は琉
球との交易や産業振興で領内の拡充を図る一方、領地の拡大をもめざし、戦国大名とし
て成長していくが、この過程で種子島氏は島津氏を後ろ盾としたため、対抗上、禰寝氏
は対立していた肝付氏と連合を組むこととし、永禄4年(1561年)の廻城の戦いでは、
肝付兼続側に付いている。その後、肝付氏、伊地知氏らと連合し、海軍を率いて鹿児島
を奇襲するが、これは島津氏側の必死の防戦により失敗しおちぶれる。この豪族禰寝氏
庶流池端氏がこの宣教師を連れて来たヤジロー可能性が指摘されている。


1564: 名無しさんAA:18/11/05 20:53
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   555   > 

 つまり、ここに何故、種子島島主の種子島時尭(たねがしまときたか)が2000両もの
大金をもち、又大金を払いその鉄砲を2丁共に買い、倭寇船であるジャンク船の頭領の
王直がいて、ヤジローがマラッカにいたのかの理由があった。種子島は有名な日本への
鉄砲伝来とされているが、ずっーと早くに沖縄琉球王朝は持っていた。持っていたから
こそ、強力な日本の武将たちが攻め入る事が出来なかった。特にフランシスコ・ザビエ
ルにヤジロウを紹介したポルトガル船長ジョルジェ・アルヴァレスは日本について記述
した「日本報告」を情報収集してザビエルに伝えている。天文十五年(1546)春又
は初夏頃に、アルヴァレスは日本に来航し、薩摩の山川に初冬頃まで滞在した。アルヴ
ァレスが得た日本の知見は1547年十二月にアルヴァレスが執筆した「日本報告」か
ら知ることができる。半年に満たない日本滞在期間中に地理や環境、風俗、生活習慣、
宗教などを非常に細やかに観察していたことがうかがえる内容となっている。これは既
に琉球からの諜報者が薩摩や他の藩にいて琉球王朝に常に情報を集めていた事を物語る
。そして日本にそうした者がいる様に海外の中国王朝にも他の日本人街にも当然いた。
それがイギリス商人の日本人傭兵だったり、信者のヤジローだったのだ。禰寝(ねじめ
)氏は、南北朝時代には島津氏とともに足利尊氏に加勢したり、室町期には琉球との貿
易で勢力を拡大したり、一時期は屋久島を領地とするなど、歴史的にも大きな功績を残
してきた一族だった。近代に入ってからも西郷隆盛と親戚関係を結んだ様に、西郷家と
近習関係にあった。西郷家は日本の近代競馬における「最初の日本人馬主」も西郷家の
西郷従道氏ですので、まさに日本の土産馬史に深く関わってきた一族であった。そも、
北海道に道産子と言う馬を指す言葉があるが、鹿はいたが馬はいなかった。寒かったか
らだ。又日本の牛は貴重な家畜だったが、それ以上に馬は貴重だった。よく戦乱の中で
騎馬武者が姿とされるが、実はそういう馬兵で戦うほど日本の馬は大きくないし走れな
い。だが代わりに脚足は力強く木曽林などの荷馬車に使われ木曽馬などと呼ばれた。こ
の日本の馬の原種が宮崎の青馬や岬馬とされる。御崎馬のルーツは、時を遡れば軍馬。
江戸時代に宮崎にあった高鍋藩秋月家は、軍馬を生産するための牧場をここに開いた。
都井岬では当時でも、極めて自然に近い形で放牧が行われ、設備といえば柵や周囲の堀
といったものだけだったという。高鍋藩秋月家は元々筑前甘木の秋月家であった。しか
し、九州征伐の頃早々と島津に恭順しその後も秀吉にも恭順した。というのも佐賀の熊
龍造寺氏との戦い以降は余力や威厳が無かったのだ。黒田藩が秋月藩を納めると秀吉の
求めN応じた島津からこの地を授かり、江戸期の高鍋藩秋月家となった。

1565: 名無しさんAA:18/11/08 01:42
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   556   > 

 ちなみに名君として名高い上杉鷹山は秋月氏の出身で母方祖母の実家である上杉氏へ
の養子縁組によって出羽米沢藩主となった。筑前福岡藩を領有した黒田氏とは縁戚関係
で、血統として現代まで続いている。旧甘木街道の秋月藩は馬頭観音の総本山でもあり
本来は、民間信仰では馬の守護仏としても祀られていたのを仏教が取り込んだのだった
。馬頭とは、文字通り厩屋の主で、牛や馬の管理の指導者だった。牛頭馬頭(ごずめず
)を祀りその集団を指した。「牛頭馬頭」とは、仏教において地獄にいるとされる亡者
達を責め苛む獄卒で、牛の頭に体は人身の姿をした牛頭と、馬の頭に体は人身の姿をし
た馬頭をいう。牛頭馬頭は漢訳語であり、元のサンスクリット名は牛頭は(ゴーシール
シャ)、馬頭は(アシュヴァシールシャ)であるが、日本では牛頭鬼馬頭鬼(ごずきめ
ずき)、牛頭獄卒馬頭羅刹(ごずごくそつ めずらせつ)と表記され、中国は牛頭馬面
(ごず ばめん)とも呼ばれている。地獄の様子を描写した民間の書籍や説明文では、
こちらも広く使われている。牛頭人身の鬼で地獄で亡者を責めさいなむ獄卒のひとつ。
仏典では、地獄にいる「牛頭人手 両脚牛蹄」の獄卒を阿傍という。とある。 近世にな
って牛頭天王信仰がはやると、牛の守護神が牛頭天王と習合して、牛神を祀るとともに
牛頭天王を祀るようになったところもある。これは朝廷に献上する蘇(そ:牛乳やチー
ズ)を生産していたからだ。干支(えと)では午(うま)年があり。馬にも馬の守護神
がいて、それが馬頭明王などと習合したと思われます。もっとも、古代中国の仏教では
「牛頭馬頭」という閻魔大王の眷属が、地獄の役人だった。地獄の役人が、民間の牛・
馬の守護神と習合し、さらに「上級」の神様「天王」「明王」になったということで、
牛馬の価値も高まったと思われます。だが牛馬(きゅうば)を飼うと言う事はそれなり
に病気や虫の対策が必要だった。そこにハエ取り紙の効用がある。かつての農家はどこ
も日本バエがぶんぶん飛んでいた。このハエ取り紙は昔は、あの納豆で作っていた。納
豆のねばねばに引っ付いてしまい蜘蛛が食べるのである。天然無毒の自然の除虫材だ。
ヤジローの略歴は、年齢は35歳くらいであったといられ、何か事情があって人を殺(
あや)め、夜陰に乗じて山川港から海外に逃れようとする。ところが船を間違えたまた
ま、その船の船長がザビエルの友人で、ヤジローの告白を聞き、高徳の神父、ザビエル
に会って相談することを勧められる。ヤジローもその気持ちになり、1546年マラッカに
入るがザビエルは不在で帰国しようとしたが嵐で断念し、再びマラッカに帰った。1547
年やっとザビエルに会い、ザピエルはヤジローにあって大いに喜び、彼をゴアの神学校
に学ばせ、その案内で、上述の通り1549年鹿児島に渡来することになった。

1566: 名無しさんAA:18/11/08 01:43
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   557   > 

 彼は鹿児島城下で海運業をしていたらしくお金持ちでもあり、ポルトガル語もいくら
かはできるインテリ商人だった。と言われる一説では昔薩摩黒住教なるものがあった。
とされる。薩摩では薩摩大嶽柱教(さつまおたけきょう)とも言うべき宗教があったと
される。今の木曽御嶽教(きそおんたけきょう)の前身のような修験道を起源としてい
るが、仏教色は薄く祭祀も神道に準じているようなものと思われる。御嶽教(おんたけ
きょう)は奈良県奈良市に教団本部(御嶽山大和本宮)を置く教派神道で、神道十三派
の一つ。創始者は下山応助とされている。祭神は国常立尊、大己貴命、少彦名命の三柱
の大神を奉斎主神として「御嶽大神」と奉称し、木曽御嶽山の開闢大道彦たる覚明、普
寛の二霊神を崇敬神として「開山霊神」と奉称する。また天神地祇八百万神を配祀神と
している。がたぶんこうしたものより更に古く、桜島や阿蘇山・雲仙などの噴火の恐怖
から生まれた宗教で紀元前の九州の独特なものだったと思える。薩摩赤柱教から阿蘇の
宮地嶽教と変化した。宮地嶽神社の祭神には「勝村神。勝頼神」が祀られて続けている
。言い伝えでは二神は筑紫君葛子の子と伝えています。つまり筑紫君磐井の孫に当たる
。伝説では、昔、神功皇后が新羅を征された時、仲哀天皇の葬儀を行ったのが香椎宮と
され、箱崎宮で船に乗せたと言う。理由は香木があって死臭が取り除かれたからと言わ
れる。この時運んだのが安曇の磯良丸を使った武内宿禰であったと言う。送ったのが、
宮地岳の山上にて宗像三柱大神を祭らせられ、新羅に勝って還幸された宗像大神を奉斎
され、後に神功皇后を配祝した。勝村と勝頼だったとされる。この名は新羅を征し、勝
ちを得たという事からついた名前で社も昔は山上にあったのを、後に移転しているとさ
れる。勝浦村にも勝浦岳神社があるが、ここに八幡神社の帯長垂姫の物語がある。倭寇
とされた八幡船(やはたぶね)は紅白の布が船団の旗だったのである。負ければ白旗、
勝てば赤旗で、戦いはこの旗で退いたり攻めたりして体制を整えて戦ったとされる。こ
の頃の銅鑼の音が銅鐸であったとされる。この伝説の流れに薩摩赤柱教(あかはたきょ
う)があったようだ。ところが伊集院の頃だから平安末期にはこの八幡船よりは中国の
ジャンク船やイスラムのダウ船が増えたのである。つまり日本の四角い帆の八幡船(ば
はん)より蛇折れ帆のジャンク船や三角帆のダウ船の方が薩摩に数多く押し寄せて寄港
したのだ。勿論数が多く追っ払う事は出来なかった。


1567: 名無しさんAA:18/11/08 01:45
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   558   > 

 三浦按針ことウィリアム・アダムスは徳川家康の家来になったイギリス人となった。
アダムスが当時の日本から祖国・イギリスの知人に届くことを期待し、オランダ東イン
ド会社はインドネシアのジャワ島西部にあるバンタム(又はバンテン)の町に新しい拠
点を造った。1524年にジャワ北岸のデマックにイスラムの港があったからだ。ここは、
イスラム教国のバンテン王国内で香辛料交易で栄えていた。当時のムスリム商人達は、
スマトラ島のアチェ王国などと往来し、ポルトガルの進出に対抗していた。16世紀後半
になると、明が海禁解除して、中国船の往来も増加し、16世紀末になると、スペインか
らの独立を図るオランダが、スペインの勢力下にあるマラッカ海峡を回避して、スンダ
海峡沿いのバンテンに寄港した。その為後にこの地にオランダは商館を設けたし、さら
に東方のアンボイナ島にまで進出する拠点になった。こうした事で三浦按針は、イギリ
スの東印度会社や知人宛の何通かの手紙を出し、いまでもそれは保存され残っている。
1609(慶長14)年には平戸にオランダ船が来て商館を建設しているが、当時まだ
ジャワ島のバンタムの町を拠点にしていたオランダ船に依頼し、祖国に宛てた手紙を託
したのだ。そんな手紙の中に、自身の手により日本で建造した2艘の外洋航海ができる
船についての記述がある。この三浦按針ことウィリアム・アダムスが日本で建造した、
80トンと120トンの船の建造については、「1611(慶長16)年10月22日
、日本にて、ウィリアム・アダムス」と結ぶ、未知のイギリス人に宛てた長い手紙の中
に出て来る。いわく、「名前こそわからないがイギリス商人たちがジャワ島に来ている
という事を聞いたので、この好機をとらえ、私のよく知らないこの会社の人々に私の無
作法を許してもらえると期待し、私自身を励まし、次の様な内容を書き送りたい。私が
この手紙を書送る理由は、第一に私の祖国の人々と祖国とを愛する気持ちからである。
」「・・・(徳川家康に救助され保護されて以降)以前から折りに触れ時々皇帝(徳川
家康)から呼び出されていたが、この様にして4、5年が経った時、皇帝から声がかか
った。今回は、皇帝のために1艘の小型の船を造れないかと言われた。私は、船大工で
もないし、造船の知識もありませんと答えた。彼(徳川家康)は、まー出来るだけやっ
てみなさい。よしんば良い船が出来なくても問題はない、と言われた。この皇帝の命に
従い、私は、80トン程度の船を建造した。


1568: 名無しさんAA:18/11/08 01:48
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   559   > 
これは、全て我々のやり方で造ったが、彼は船に乗り込んで見て回り、大変気に入って
くれた。こんなことがあって私はますます皇帝に気に入られ、もっと頻繁に皇帝の前に
出たが、時々プレゼントを貰い、そしてついには1年の俸禄として、およそ金貨70ダ
カット分に相当する、日々2ポンド(筆者注:約6合)の俸禄米を貰うようになった。
………ここで分ってもらいたいことは、最初に建造した船で私自身が乗り組み一、二回
の航海を行ったが、国王がもう一艘の建造を命じたので、120トンの二艘目を造った
。この船でロンドンからリザードあるいはイギリスの島の端までに当たる距離がある、
都(博多又は大阪)から江戸まで航海をした。この船は、西暦1609年に国王がマニ
ラの総督(日本沿岸で遭難したドン・ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコ)に貸し与
え、80人の従者と共にアカプルコまでの航海を行ったものである。1609年に、お
よそ1千トンのサン・フランシスコ号と呼ぶ大型船が、北緯35度50分にある日本の
海岸に漂着した。天候上の危難にかかわり、船のメイン・マストを切り落とし、日本に
針路を向け、何も見えない夜中に船は岸に乗り上げ難破してしまった。そして36人が
溺れ死に、340人から350人が救助された。その中に、新スペイン(メキシコ)に
戻る途中のマニラ総督が乗り組んでいたのだ。そしてこの総督は、1610年に私の造
った大きい方の船でアカプルコに送られた。そして1611年にこの総督は、他の船に
多大な贈り物と同時に皇帝の素晴らしい友誼への感謝のための使節団を乗り組ませ、更
に皇帝から借りた大切な船に対する贈り物と対価の礼金を乗せ送り返した。この皇帝の
船は今、スペイン人がフィリピンで使っている。……さて、この私の成し遂げた貢献と
日々行っている皇帝の命に従う奉公に対し、皇帝は私に英国における貴族に似た領地と
、私に奉公し付き従う八、九十人の農夫とを与えてくれた。ここでのこんな待遇、ある
いは領主のような地位は、かって異国人に与えられた事はなかったものだ。こうして神
は、私の悲惨な境遇の後に、私に与えて下されたのだ。そして神にのみ全ての尊敬と賞
賛と、全能と賛美と、現在未来永劫、終焉なき世界があらんことを。」と綴っている。
 この手紙はまだ長く続くが、こうして徳川家康の命に従い2艘の船を自ら建造した経
緯と、自身が取り立てられ領地を与えられた事を述べている。そしてこの手紙の中の、
「この船は、西暦1609年に国王がマニラの総督に貸し与え・・・」と書いている船
が、アダムスが新造した120トンの船「サン・ブエナ・ベンチュラ号(ベントゥーラ
号)」の事である。また、サン・ブエナ・ベンチュラ号ではないが、このアダムスが最
初に建造した80トンほどの西洋船は、当時、完成後に江戸に回航され浅草川(隅田川
)の入江に係留されていて、江戸で大変有名だったようだ。

1569: 名無しさんAA:18/11/08 01:49
おそらく徳川家康も、ここで
 完成した船を検分しただろう。当時の慶長19(1615)年に三浦浄心により書か
れた『慶長見聞集』と題する随筆集の巻之九に、「唐船作らしめ給ふ事」と題しこの船
の事が書かれている。三浦按針の名前は出てこないが、徳川家康が作らせ浅草川の入江
に繋がせていた唐船の、即ち西洋型船は、アダムスと仲間達が中心になって作ったこの
80トンほどの西洋船に違いない。いわく、「昔見た事があるが。慶長年間に家康公が
唐船(西洋船)を作らせ、浅草川の入江に繋がせていた。こんな大船を作り海に浮かべ
る事は、汀では人力も及ばないだろう。どんな方法で浮かべたか、道理が分からない。
・・・昔、実朝の時代に鎌倉の由井ヶ浜で唐船を作らせた。・・・ようやく唐船が出来
上がり、その船を進水させようと建保5(1217)年4月17日数百人の匹夫を動員
し、その由井の浜に浮かべようとした。実朝公も出掛けて監臨した。信濃守行光が采配
を振るい、全員がこの船を引いて午の刻(正午)から申のななめ(午後4時過ぎ)にな
っても進水できない。・・・将軍も見捨てて帰ってしまった。この船は期待通りになら
ず、砂の上に朽ち果てたという。・・・人々は船を陸上に作る事のみを考え、海に進水
させる事をわきまえなかった事は愚の至りである。・・・先年作らせた浅草川の唐船は
、伊豆の国、伊東という浜辺の田舎に川がある。これこそ唐船を作るべき地形だと言っ
てその浜の砂の上に柱を敷き台として並べ、その上に船の敷きを置き、半作りになった
所で砂を掘り上げ、敷台の柱を少しずつ下げ、堀の中に船を置き、この船を海中に浮か
べる時になって河尻を堰き止め、その川水を船の有る堀へ流し入れ、水の力を持って海
中へ押し出す。この巧みを昔、鎌倉の人は知らなかった様だ。」この様に鎌倉時代の失
敗例と比較し、この造船場所や造船方法を、興味深いタッチで述べている。



1570: 名無しさんAA:18/11/08 01:50
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   560   > 

 田中勝介は慶長15年(1610年)8月1日、徳川家康の命を受け、前フィリピン総督ドン
・ロドリゴの帰郷について、他の21人とともにサン・ブエナ・ベントゥーラに同船し
てヌエバ・エスパーニャ(ノビスパン、現在のメキシコ)のアカプルコへ向かい航海し
ている。3ヶ月後同年11月13日に到着したが、これは、前年にロドリゴがノビスパンへ
の帰任に際し、台風で乗船していたサン・フランシスコ号が遭難して、1609年9月30日
に上総国岩和田村(現御宿町)に漂着して乗組員317人が岩和田村の人達に救助され
たことを契機とした。この為家康側近で財政家の後藤庄三郎(光次)の仲介でノビスパ
ンへの渡航を許されたものであった。帰国にあたって、勝介はヌエバ・エスパーニャ副
王ルイス・デ・ベラスコにより派遣された答礼使セバスティアン・ビスカイノとともに
1611年3月22日に、アカプルコを発ち、同年6月10日相模国浦賀(神奈川県横須賀市)に
到着した。ビスカイノは、エスパーニャ国王フェリペ3世の親書を携えて答礼使と金銀
島探索の使命を帯びて来日しており、現在の全権大使にあたるとされる。ビスカイノに
よれば、勝介は洗礼を受け、洗礼名をフランシスコ・デ・ベラスコといい、太平洋渡海
中は善良な態度で周囲の尊敬を集めていたという。このとき、使節団のうち、アロンソ
・ムニョス神父は家康の使節としてエスパーニャ本国に向かい、3名はヌエバ・エスパ
ーニャに残り、帰朝したのは勝介ほか17名であったとされている。エスパーニャとの
通商を試みての渡航であったが、通商に関しての具体的合意には至らなかった。ただし
、至らなかった理由は、全権大使的立場にあるビスカイノと大御所家康との間で行われ
た協議の結果であり、勝介の責任ではなかった。帰国後の勝介は、家康に葡萄酒と羅紗
を献上したことが『駿府記』慶長16年7月22日条にある。また 将軍徳川秀忠にも五色羅
紗、葡萄酒、ヘレス酒(シェリー酒)を献上したといわれている。1610年、徳川幕府が
成立して間もないころ、徳川家康の命を受け、日本人で初めて太平洋を横断してメキシ
コへと行き帰ってきた人物であった。書には京の商人田中勝介とされ万延元年(1860年
)の咸臨丸による太平洋横断からは、大きく遡ること丁度250年前の事でる。黒船来航
以前に太平洋を横断した人物は他に支倉常長(長経)の慶長遣欧使節団、ジョン万次郎
とその仲間たちを乗せて遭難した漁船、サム・パッチこと仙太郎や後にジョセフ・ヒコ
と呼ばれる浜田彦蔵らを乗せて難破した英力丸船員などが知られるが、この日本人21
人については、あまり明確には解っていない。


1571: 名無しさんAA:18/11/08 01:51
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   561   > 

 この田中勝介と前フィリピン総督ドン・ロドリゴの帰郷について、他の21人ととも
にサン・ブエナ・ベントゥーラに同船しヌエバ・エスパーニャ副王ルイス・デ・ベラス
コにより派遣された答礼使セバスティアン・ビスカイノとともに、 1611年3月22日に、
アカプルコを発って、同年 6月10日相模国浦賀(神奈川県横須賀市)に到着した。ビス
カイノは、エスパーニャ国王フェリペ3世の親書を携えて答礼使と金銀島探索の使命を
帯びて来日しており、現在の全権大使にあたるとされる。ビスカイノによれば、勝介は
洗礼を受け、洗礼名をフランシスコ・デ・ベラスコといい、太平洋渡海中は善良な態度
で周囲の尊敬を集めていたという。実はこの時田中達は奴隷として日本にやって来てい
たのである。実はエスパーニャ国王フェリペ3世は、祖父スペイン帝国を作ったカルロ
ス1世の孫ではあったが、「怠惰王」と呼ばれ続けて23年に及ぶ治世は、スペイン、
ナポリ・シチリア、ポルトガルの王として在位を守る事しかなかった。というのも、オ
ーストリア・ハプスブルク家との間の3親等クラスの近親であり、フランスのプロテス
タント活動が活発で、カトリックの救世主となればポルトガル・ドイツ・イギリスなど
束ねればならない程危機があり、微妙な力関係の一端に居たからだ。先の叔父がやり過
ぎた中の末子で、母もマクシミリアンから嫁いでいたが、次々とプロテスタントに改宗
摩る中でこの時期のポルトガル王家はフェリペ2世が継いでスペイン・ポルトガルの両
王国は合併するしかなかった。結局、選択肢はオーストリア・ハプスブルク家との近親
結婚のみとなった。ポルトガル王としてはフィリペ2世しかない立場だった。この中で
ウルダネータはスペイン・バスク地方のギプスコアにあるオルディシアで生まれた。ラ
テン語と哲学を学んだが、孤児となり、軍隊に入り、イタリア戦線で大尉に昇進した。
スペインに戻ってからは数学、天文学を学んだが、それをきっかけに、海に憧れ1525年
、ガルシア・ホフレ・デ・ロアイサの下で、香料諸島(モルッカ諸島)への苦難に満ち
た遠征に参加した。スペインの貴族で探検家のガルシアはスペイン王の命でマゼランの
帰港後直ぐに世界一周を行い二番目の早さで世界一周を果たし、スペイン回航路を作っ
た。


1572: 名無しさんAA:18/11/08 01:52
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   562   > 

 その後フィリペ2世からメキシコの任命を受けエスパーニャ貴族となり、植民地政治
家になったウルダネータだった。こうしてヌエバ・エスパーニャ副王となり、メキシコ
で植民地政策を推し進め3代にわたって支配し奴隷貿易や虐殺を続けていた。孫が生ま
れ、ヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)で叛乱が起こり、1564年に息子のロドリ
ゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコの下では危険なので、孫のロドリゴ・デ・ビベロはエス
パーニャ本国で成長していたが、伯父のルイス・デ・ベラスコに預けた。こうして勧め
でフェリペ2世の王妃アナ・デ・アウストリアの小姓を勤め、伯父のヌエバ副王は重用
し、ロドリゴを1595年サン・フアン・デ・ウルア要塞守備隊長兼市長、1597年タスコ市
長、1599年ヌエバ・ビスカヤ地方長官兼軍司令官を経て、前総督在任中の死去にともな
い1608年に臨時総督としてフィリピンに派遣され、伯父のルイス・デ・ベラスコの後を
継いだ。こうして江戸時代初期に日本を訪れた人物となった。日本ではドン・ロドリゴ
の呼び名で知られる処となり、村上直次郎訳『ドン・ロドリゴ日本見聞録』をはじめ、
『国史大辞典』や『世界大百科事典』などに書かれた。姓をビベロ・イ・ベラスコとす
る文献が多いが、これは父親のロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコと混同され、誤り
である。とされる。ロドリゴ・デ・ビベロは、フィリピン臨時総督在任中、マニラで起
こった日本人暴動に際し暴徒を日本に送還し貿易量の制限と暴徒の処罰を要求、徳川家
康の外交顧問だったウィリアム・アダムスが訪れた際会見し家康に友好的な書簡を送っ
ている。1609年(慶長14年)、次期総督と交代のため召還命令を受け、ガレオン船3隻
の艦隊でマニラからアカプルコへ向けての航海中台風に遭い、ロドリゴの乗った旗艦「
サン・フランシスコ」は難破した。 9月30日に上総国大多喜藩領の岩和田村(現千葉県
夷隅郡御宿町)田尻の浜に漂着、地元民に救助される。大多喜城の本多忠朝も 300人余
りの家臣を率いてロドリゴのもとを訪れ、幕府への報告を約束し温情ある措置をとった
。なお僚艦の「サンタ・アナ」も、 9月12日豊後の臼杵中津浦に緊急入港し、もう一隻
の「サン・アントニオ」のみヌエバ・エスパーニャへの航海を続けた。地元民に救助さ
れたロドリゴ一行は、本多忠朝の歓待を受け、大多喜城から江戸城に立ち寄り、駿府城
で家康と会見するなど日本滞在の後、家康からウィリアム・アダムスの建造したガレオ
ン船(日本名:安針丸)の提供を受け、「サン・ブエナベントゥーラ」と命名、1610年
(慶長15年)8月1日に日本を出発し、同年11月13日アカプルコに帰還した。この日本滞
在中の見聞録は『ドン・ロドリゴ日本見聞録』として今に残されている。


1573: 名無しさんAA:18/11/08 01:56
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   563   > 

 ドン・ロドリゴの日本見聞録(安藤操)〜スペイン人の見た400年前の日本の姿〜
ロドリゴの日本旅行を追って行くと。ロドリゴという人は、当時の他の宣教師・軍人商
人・冒険野郎とは一線を画し、育ちのいいインテリ、ヨーロッパも新大陸も東アジアも
知っていた。貴族としての視点だ。その観察は鷹揚で公平、鋭く面白く、「日本と日本
人」を語るに落とせない貴重な記録を残していた。時代は家康の晩年1609年、秀頼
や淀君は大坂城に頑としている頃だ。平和の中にも緊張感は続いています。のちの江戸
時代の風景とは全く異なり、非公認ながら伴天連は結構いて日本キリシタンは史上では
、最高数居住し国際貿易も(朝鮮以外)大きく展開し史上最盛期でしょう。他方で、農
夫や武士や土建屋は余剰で江戸や駿府や地方都市がどんどん整備されていく、人々は専
制下で貧しかったにも関わらず、安土桃山の文化が残り、清潔で活動的に思われます。
@ 漂流。1609年7月25日、フィリピン諸島ルソン島からサン・フランシスコ号
でアカプルコ(メキシコ)を目指すが、9月30日、日本の岬33度半の緯度で座礁。
村人に救出され、凍死寸前の者はー火に当て急に体温を上げると心臓への負担で死にか
ねないという海辺の村人の知恵で村の女達が人肌で温めたという話も伝わっている。上
陸地の田尻海岸をはじめ岩和田の浜は殆どが崖のような岩肌の下にあり「岩和田の村人
達の食事は主食の米の他は殆ど大根や茄子等の野菜で、魚は時々だった。この海岸では
漁獲は用意ではない」旨をロドリゴは記している。日本漂着は、既に13年前(慶長元
年8月、1596.10)豊臣政権下のに同じように長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の
治める土佐国浦戸(高知県高知市浦戸)に漂着したスペイン船サン・フェリペ号は元親
に一度は保護されたものの、この時は日本を害するようなキリシタンの弾圧を推し進め
ていた秀吉は、派遣した奉行に積荷を没収し、残留した宣教師が翌年処刑された不幸な
事件があり一行は不安であったが、ロドリゴは今の最高権力者がマニラから公式書簡を
交わした徳川家にあることを頼み思っていた。海岸から粗末な道を通り1レグア(4〜6
Km。古いスペインでは約4.19m) 先の集落を訪れると、乗船員と同じ数程しか住民が居
ない小さな村であったが、村民達は遭難者達に心から同情して惜しみなく食物を差し出
し綿入りの着物を貸し与えた。乗船者373名のうち56名溺死し、生存者317名であった。


1574: 名無しさんAA:18/11/08 01:56
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   564   > 

A 上京。駿府より都まで80レグワ(≒里、4km)、道は平坦で快適だ。途中数本
の水の多い川があったが、一方から他方に曳船で渡った。船は大変大きく旅客の馬も、
自由に乗れる。旅行者は多いが、途中無人の地で野営する必要などなく泊まるところは
必ずあった。前述通り(東海道は)1レグワの1/4とて無住の地はない。これほど広
大で交通が盛んなのに、こうした街路や家屋の清潔な町々は 世界の外のいずれにもな
いことは確実だ。この地の旅行は甚だ快適で至る所飲食物多く、ほとんど無料で提供す
る。旅館にも事前予告して食物の準備を命ずる必要はない、何となれば日中いつでも求
め望むものが得られるからだ。・・私(らの場合加えて)皇帝家康の命令があったので、
途中各地の領主や代官は大いに接待饗応してくれた。・・ある日の午後、都に入った。
都は世界でも有名だが、なるほど道理だ。広大な平野にあって住民はかつて80万を超
えたこともあるが、いまは30万〜40万という。それでも世界最大の都市だ。その周
壁が10レグワ、朝7時から晩6時まで歩いてみたが家並は続いていた。
B 京都。内裏すなわち王(天皇)はここ都に住んでいる。天皇は日本創始から直系継承
するが、日本人は天皇を見ず語ることをしない。以て、威厳ありとなす。常に引籠り、
日本の統治は、権利・理屈としては天皇に属すが、数年前太閤様(秀吉)が武力で諸侯
や領主たちを服従せしめて以降は、ただ名のみの存在となった。天皇は日本の大官、皇
帝(家康)に至るまで称号を授与し任官する、このため毎年決まった日に諸人皆官位は
それを表する身なりで来集する。天皇は、また最高の司祭(神官)で坊主(神仏習合が
行われていた。)という偶像崇拝の統領ゆえに彼らに位階を与える。家康は任官する時
はやむないが、それ以外の時は来て服従する事はない。ただ諸儀式のときは皇帝も内裏
に大いなる尊敬を示し天皇に上席を譲る。これ以外に天皇に与えるものは少なく、生活
していくに足る分(献上米や荘園領)を与えるだけだ。(それでも)その住まいは壮麗
で江戸や駿府の宮廷に匹敵する。天皇は都の政治にさえ関与しない。門内内裏を 支配
するだけだ。都には、皇帝家康の任命する副王(京都所司代板倉伊豆守勝重)がいる。
伏見・堺・大坂など大きな都市が近くにあるがこれらは管轄しない。淀川など運河の範
囲内だが、副王は大国の領主と同じで皇帝と同じ権限で都の政治を行う。ただし所司代
が外に出ることはなく6人の執政を置いてこの地を治めさせている。

1575: 名無しさんAA:18/11/08 01:56
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   565   > 

C 京所司代板倉勝重は大いに私を歓待し、イスパニアについて多くの質問をオウム返
しに次々に質問し答えてくれた、といいます。都には神々の宮5千はある(寺社仏閣の
数、神仏)、当局が指定した特別区域だけで娼婦は5万いる。太閤様(秀吉)の墓所・
その大仏(方広寺)・三十三間堂を案内させたがこの3か所をみるだけで3日間を費や
した。大仏と称する金属の偶像は世界7大奇観といっていい。ことごとく青銅ででき、
予想外に大きかった。同行の最も長身のものに命じ大仏に上らせ掌の上でその右親指を
両腕で抱えさせたがなお2パルモ(40センチ)足りなかった。まだ建設途中で大工以
下10万人が働いており、悪魔(仏教)は皇帝(秀頼の徳川幕府は)の富を消費させて
いる。太閤の墓所は有名でかつ壮麗だが、人の遺骨を崇拝する為とは悲しむべきことだ
。この堂の入り口は坂道で400歩、両側に3歩おきに高さ5パラ(40センチ)石灯
篭をたて燈明をともし夜も明るい。この参道の終端に第一の階段があり上ると堂がある
、堂の手前には女坊主(尼僧:駆け込み寺)の僧院があり彼らも祭司として勤行に参加
するが他とは隔離されている。正門は磨いて金銀を飾り構造は巧みで、内部はそれ以上
だ。堂の中には頗る大きな柱が並び、柱の間には合唱所(祈祷所:前座所)があって格
子や椅子があることは他の大寺院と同じだ。坊主や補助員が一定の時間に読経する。私
は聖教(キリスト教)に反すると思ったから読経は聞かなかったが、所司代の案内役は
私らのことを告げたらしく、補助員4名が私らを出迎えた。彼らの服装は大きな襞があ
る以外トレドの司祭のものと変わらず、上が広がった頭巾をかぶっていた。彼らは活発
に我らと会話し、進んで内部を見せてくれた。多数の灯篭がならびダソダルーベの聖母
と似ているがその灯明は(教会の)3分の一に及ばない。それ以上に驚いたのは、堂内
の多数の人の非常な敬虔と沈黙だ(敬虔と沈黙については、他の箇所で、キリスト教徒
以上、キリスト教徒は見習うべきだとまで言っている。)その奥に、鉄網・銀網・金網
で囲まれた蝋燭台が並び太閤遺骨箱がありこれは何人も見れない。人々はみな平伏した
が、私にはウソの信心にしか見えず 逆に彼らには(私たちは立っており)尊崇の薄さ
を見たに違いない。よって早々に立ち去りそのあと、彼らは墓所付属の寺院(方広寺)
・林・庭園を案内してくれた。これまたアランスエスの離宮庭園に人工の点では劣るが
自然なこと快活なことでは勝っている。


1576: 名無しさんAA:18/11/08 01:57
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   566   > 
 高い廊下から下を眺めたが、人(接待者)が言うには、昼夜人の絶える事はなく、彼
らの聖水や数珠で釈迦ないし阿弥陀を祈るという。日本には神仏35の宗派があり、霊
魂の不滅は信じず、多数の神がある。となし、四元(五元)を尊ぶ、何人もこれ(宗教)
につき強圧はを加える者はない、という。(キリスト教に対しては)坊主らは団結して
伴天連追放を皇帝(家康)に請願し理屈を説いたが、家康は日本に宗派はいくつあるかと
聞き、彼らは35と答えたので、「35あるなら36になっても妨げなかろう。あって
もいいではないか。」と言った、と聞いている。2時間滞在し、さらに1ブロック半隔
てた尼院に案内された。尼は青と白の絹の法衣、青い紗で頭を覆っていた。尼衣という
より晴れ着にふさわしい。長老の尼は大きな部屋にでて、私を引見し食事酒で饗応した
。彼女が先に杯をあげ同席した10〜12人の尼たちも続いた。次いで鈴を持ち舞を披
露し半時間以上に及んだ。私の方から辞退せねばもっと続いたに違いない。この日はこ
れで宿舎に引き上げた。
D 京都の町の様子「この町は、行政が隅々まで行き届いていて、ローマ人の政治と競
えるでしょう。市街は、どこも優劣がなく、道幅は広く長く、まっすぐに延びていて、
イスパニアの市街より優れています。また、街路は清潔で、だれも歩いたことがないよ
うに見えるほどです。」他にも猟獣を売る市場、魚市場がある。「何しろ沢山の種類が
大量にあるばかりか、清潔できちんと陳列されていて買う気持ちを大いにそそられます
。」「遊女のいる場所は常に町外れです。武士や身分の高い人たちは、一般の住民とは
別の場所に住んでいて、職制ごとの区画となっています。・・・」
M 東海道を西へ、「どこへ行っても交通が盛んで、このように街路や家屋の清潔な町
は、世界のどこにもないことは確かです。・・・この国はどこでも物が豊かで自由に飲
食ができるのです。」と書き綴っている。この日誌からすると日本が好きだったようだ
。岩和田を領する大多喜城に異国船漂着の知らせが届くと、城主本多忠朝は、外国人の
無断入国が許されない時世において一行の処遇を慎重に扱うためにまずは岩和田の浜に
家来を視察に出した。豊臣政権時に比べれば キリスト教の弾圧は緩められたものの、
徳川も寛容とは言えない。江戸幕府に睨まれればお家取り潰しも有り得るため城内での
会議では、一行を全て切り捨てる意見が強かった。しかし、忠朝は視察が戻るまでは首
を縦には振らなかった。そしてロドリゴ達は礼儀正しく、財宝一式流され苦境にあると
の報告を受けた忠朝は、速やかに一行を付近の寺に預けさせ、厚遇するようはからう一
方、異国人が無闇に他所へは行かないように命じた。心から温情をよせつつも拙速な行
動に出ず適切な処置をとったのだった。

1577: 名無しさんAA:18/11/08 01:58
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   567   > 

 数日後に忠朝は威儀堂々と300人余りの武装した家臣を率いて大宮寺を訪れた。(この
時の南蛮船検使は柳田平兵衛、小鹿主馬、山本忠右衛門、大原惣右衛門)。領主の忠朝
を村人達は深い土下座で迎えたが、西洋人のロドリゴは立って敬礼した。忠朝は馬から
降りて、自らロドリゴへと近づく。そして、ロドリコの手をとり、接吻をした。村々を
領する城主としてはうら若い28歳の忠朝は、ロドリコも「マドリッド市で最も宮中の
礼に慣れた者がするような返答」と感嘆するほど完璧に洋式の作法を心得ていたのだ。
着席する際も信頼の証にロドリコを左(刀で切りかかりにくい上座)に座らせ細やかな
心配りにを見せた。金糸と絹糸で刺繍を施された見事な緞子(どんす。別色の経糸と緯
糸で模様を織った高級織物)の着物4着、刀一振り、地産果物、日本酒、彼らが好む乳
を出す牛一頭や鶏数羽までもを贈り、そして江戸幕府への報告を約束し、村に滞在中の
乗船員一同の食事も支給された。幕府へは、アントン・ペケニョ少将とファン・セビコ
ス船長に書簡を持たせて派遣し、20日以内で迅速に手続きを済ませ秀忠の使者と共に
戻った。10月13日に江戸へ向かうロドリゴ一行が大多喜の町(『日本見聞録』に人口1
万〜1万2千人と記している)の宿に着くと城主忠朝の使者が訪れ、町よりも高い所にあ
る大多喜城へ招かれた。城は堅固な構えで、城兵は礼儀正しくロドリゴを屋敷に案内し
、忠朝も20人程の家来と共に屋敷の入口で出迎えた。城主の屋敷の金銀と美しい装飾の
部屋の数々を見学し、暖かい歓待を受ける。夕食の時間になると、忠朝は日本で親しい
客人にする風習通りにロドリゴのための初めの一皿を持参した。肉、魚、果物他様々な
美味が供される。そして忠朝は旅立つロドリゴのために、立派な馬を一頭与えた。忠朝
の温情は自分の領地に居る間だけではなく、この先ロドリゴと再会するまでの六ヶ月間
、忠朝は絶えずロドリゴに書簡を送って親しみ続けた。大多喜に逗留して10日目に、
家康の外交顧問である英国人航海士ウィリアム・アダムス(三浦按針/みうらあんじん:
慶長5年リーフデ号漂着時より家康に召抱えられた)から通行証と朱印状を受け取る。
家康と秀吉名義の朱印状は以下のことが命じられていた。@海岸に漂着した積荷は全て
ロドリゴのものとする。Aロドリコは将軍徳川秀忠の江戸城と、大御所家康の住む駿府
城へ行き謁見すること。B城への道中の領主は歓待し旅程に必要な物資を提供すること
。C以上慣例通りに漂着物を将軍のものとする所を、その貯蔵庫の鍵をロドリコ達に渡
して事実上保管物を受取るというはからいとなった。当初の忠朝の指示が家康の意に適
っていた明断であったと知らされたロドリゴは、両者に今後の日本とスペインの友好的
な外交の可能性を見出した。

1578: 名無しさんAA:18/11/08 01:58
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   568   > 

 一方、鍵を渡されたセビコス船長は難破で失った積荷の盗難を疑い、長時間かけての
返却により後のマニラでの売却値が半減したことで、損害を日本側の責任としてスペイ
ン王に訴えることになった。忠朝から馬が送られ、江戸への道中はスペイン国王の使者
として歓迎され快適であった。江戸に着くと地位の高い武士達に招きを受けたが、将軍
が宿を用意していたので断った。夕方5時に宿につくまで交通整理の人員が必要になる
ほど人だかりができて休めず、将軍の側近に頼んで宿の門に衛兵を立たせて無断進入不
可の禁令の札を掲げて貰う。江戸は人口15万、物価が低く小額で愉快な生活が得られ、
市街は美しく清潔で家は木造、二階建ても多く、欧州に比べて外部より内装に美点をお
いている等、詳細に江戸風俗や豪華絢爛な江戸城の様子が記されている。江戸に到着し
て2日後に将軍は海軍司令官(船手方向井兵庫頭正綱)を通して部下が2度訪れる。午
後4時頃に江戸城へ向かい、将軍秀忠に謁見した。ロドリゴが秀忠の手に接吻する間は
同行者は控えさせ、ロゴリゴ一人が部屋に通された。秀忠は色黒だが容姿は良く、微笑
してロドリゴを励まし、日本に居る間の面倒を見るとして安心させ、また航海と帆船に
ついて尋ねた。ロドリゴが駿河行きの許可を願うと、大御所(家康)や道中各所への連
絡のため、出発は4日後とした。駿河までは西洋と同じく村々があり、街道は両側に植
えられた松並木が心地よい日陰をつくり、2本の樹を植えた小山(一里塚)が、正確な
距離を示し、絶えず人が行き交っていた。5日後に駿河に着くまでの道中は将軍の連絡
が行き届き行く先々で手厚いもてなしを受けた。駿河は人口12万で街は江戸並に美しい
とは言えなくても 気候はとても良い。ここでも見物人に囲まれ難儀したが、宿に着く
と家康の家臣が12枚の着物を贈り物を携えて来て、宿泊中も菓子や果物を 提供した。
6日間滞在し、翌日2時にようやくお目通りとなった。(1609.10/29)駿府城では、上
座を勧められ、家臣から謁見についての長い説明を受け、家臣は大御所に伺いに行く。
江戸城ので将軍に謁見した時と違い、ロドリゴは大御所に触れることは許されず、同行
者も大御所の見える場所でひざまずくよう命じられた。家康は60歳程に見え秀忠のよう
に色黒でなく、中背で肥えていて温雅であった。励ましの言葉をかけ帽子を脱ぐよう勧
め、感激したロドリゴは家康の手にキスをし感謝の意を示した。翌日ロドリゴはコウセ
クンドノ(上野介殿。本多正純)の屋敷を訪れ、日本語に訳した嘆願書を進上した。

1579: 名無しさんAA:18/11/08 02:00
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   569   > 

1.日本国内の耶蘇教徒を保護し教会堂の自由使用を妨げないこと
2.日本はスペイン国王ドン・フェリペ(フェリペ3世)との親和を保続すべきこと
3.オランダ人は海賊まがいなことをしフェリペ王の敵なので日本から追放すべきこと
が嘆願であった。翌日10時に上野介殿が贈り物を携え宿に訪れ、嘆願書に対して大御所
は宣教師の迫害はせずスペインとの友好も続けるが、オランダ人には渡来免許を既に与
えてあるので変更はし難いとの返答を伝えた。そしてアダムスに作らせた西洋船の一艘
をロドリゴ達を乗せてヌエバ・エスパーニャに渡航させるので、帰国後にフェリペ王に
折り返し銀山技師50人を日本へ派遣して貰えるよう、ロドリゴに仲介を求めた。ロド
リゴ自身はサン・フランシスコ号と共に遭難し豊後(大分県)に停泊中の随伴船サンタ
・アナ号が乗船出来ない状態なら日本船を利用するとし、西へ向かった。ロドリゴは京
都・大坂を経て九州へ行く事を決めた。大御所の保護のもとで快適な旅をしミアコ(都
。京都)に立ち寄る。ロドリゴは馬で人口は34万人の大都市街を一周し、所司代の板倉
伊賀守勝重の世話になり見聞する。京市中には5千の大きな寺社があり遊里の妓婦の類
が5万人になると聞く。3日間かけて万広寺大仏殿や三十三間堂等の名所を見て歩く。
太閤(豊臣秀吉)を祀る豊国神社では(生前にキリスト教を弾圧し)地獄に落ちている
魂を祀ることに違和感を感じている。11月24日(1609.12/20)付けで大御所からの鉱夫
派遣依頼についての提案された事に、新スペイン副王に許可を伺うにあたり、@銀山を
採掘し精錬した鉱石の半分を鉱夫に与え、残りの更に半分をフェリペ王のものとする。
A各鉱山で聖祭が出来るよう司祭を置く。B大使にスペイン人の司法権を与える。Cオ
ランダ人の日本追放の再検討及びフェリペ王の日本来航時の保護。Dフェリペ王がマニ
ラへ行く際の人員派遣と必要物資の現地価格(関税無し)での提供やそのための事務所
や礼拝所の設置許可、などを条件に、関東にスペイン船用の港を開港、駐在者の日本国
内での歓待の協定案を書状にし、パードレのルイス・ソテロに伝達を託した。こうして
28日(12/24)クリスマスイブに 伏見のフランシスコ会(カトリックの修道会)のパー
ドレ(司祭)ヌエストラ・セニョラ・デ・ロス・アンヘレスの住院に泊まり教徒達とミ
サに参加した。伏見を後にし、淀川を下って1日で人口20万の大坂に到着。ヌエストラ
・セニョラ・デ・ラ・コンセプションの住院に寄宿。大坂からフネア(船)で十数日か
けて豊後へ向かった。

1580: 名無しさんAA:18/11/08 02:08
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   570   > 

12月12日、ロドリゴが豊後滞在中に肥前島原(長崎)のキリシタン大名有馬晴信(2年
前に晴信の朱印船の乗組員が、マカオにおいて、ポルトガル貿易船マードレ・デ・デウ
ス号の船員と起こした騒動を、マカオ総司令官アンドレ・ペソアが鎮圧し、日本側に多
数の死傷者を出していた。)が、今度は長崎に入港した因縁のデウス号を包囲した。乗
船していたペソアは捕われる前にデウス号を爆沈させ自殺に至る。という深刻な事件が
起きた。ここで日本で役目を終えていないとロドリゴは、補修後にすぐマニラへ出航す
るサンタアナ号への同乗を取止めた。日本に批判的なセビコス船長はマニラへ発った。
(1610.5/17 ロドリゴは駿府へ戻り浦賀から帰国する事を決めて、) ロドリゴは再び
駿府に戻り、家康の招きを受けて数ヶ月滞在した。ルイス・ソテロに託した協定案につ
いてはオランダ人追放と銀の報酬以外は家康の承認を得られた。フェリペ王と副王に贈
り物と親書を携えて派遣する使者はロゴリゴがアロンソ・ムニョスを推薦し、彼に出航
の許可証が渡された。慶長15年6月13日 (1610.8/1)ドン・ロドリゴ一行は、アダムス
が建造した和製ガレオン船サン・ブエナ・ベントゥーラ号(按針丸。120t)で浦賀から
ヌエバ・エスパーニャへ向けて出航した。家康からは金貨4千ドゥカドが貸与され、按
針丸はアカプルコで売却し、代金を日本人乗船者の帰国費用にあてるという厚遇を命じ
られた。この船には京都の御用金匠後藤庄三郎の仲介で京商人田中勝助・朱屋隆成・山
田助左衛門他21名の日本人も同乗し、これが日本とメキシコの交通発祥の契機となっ
たと言われている。一行はマタンチェル(現メキシコ西海岸のナヤリット州サンブラス
)を経て(10/27)、アカプルコ港に着いた(11/13)。余話だが、セビコスの日本批判
とビスカイノの来日があった。一方サンフランシスコ号のセビコス船長は、マニラに着
くとすぐさま日本との友好批判を国王に訴える書簡を出している(1610.6/20) 難破船
の漂着物の倉庫の鍵を預かってはいたが、流された財貨は長期間受取れず(ゼビコスは
日本人の盗難に遭ったとも主張。)売った時には価格が下がってしまい、50万ペソの
損害で、日本人が難破したサンフランシスコ号の全ての財貨を略奪したもの。として大
御所に使者を送って訴え、将軍に財貨の返還要求を認められたものの、難破から35日も
返されなかったのは日本人の道徳心の欠如である。と批判した。又日本人は宗教の信仰
が薄く、宗派争いもしない。専制政治で領民は厳しい生活と立場を強いられていること
。日本人は勇敢だが両国で海戦になれば航海・造船技術に勝るスペインが勝つ予想し、
長崎でのポルトガル船焼討事件や、フィリピンでの暴動等日本人の異国に対する悪事等
を書き連ねて手紙を送っていた。

1581: 名無しさんAA:18/11/08 02:15
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   571   > 

 慶長15年11月に使者ムニョスがマドリッドに着き、家康と秀忠の贈り物と書簡を王に
捧げた。この時の会議では毎年一隻の商船アカプルコから浦賀へ渡航させることが決議
れたが、メキシコ総督府は日本貿易に反対し使者を拘留しスペイン本国に再考を求めた
。慶長16年2月上旬(1611.3) 遭難者達の返礼としてセバスチャン・ビスカイノを大使
とする一行がアカプルコを出航し 4月29日(6/10)浦賀に入港。ラシャやビロード、葡
萄酒等を買入れた日本商人たちも帰国した。ビスカイノは将軍と大御所の許可を得て貿
易に先駆け海岸の測量を行い測量図を寄贈した。慶長17年8月21日(1612.9/16)に帰航
するも暴風雨に逢い浦賀に入港する。しかし幕府は直ぐに不信感をもち(オランダ人か
らビスカイノの日本近海の金銀島調査隠匿の密告や、カトリック教圏との取引を危険視
する英国人アダムスの進言を受けた。ともされる。)ビスカイノの新しい船の建造支援
を断っている。この時、ポルトガル・スペインはカトリック、オランダやイングランド
のプロテスタントで戦っていた。またアカプルコに送った使者の半数は留め置かれて、
奴隷商人に売られたのが解ったのかもしれない。更にこの年の3月21日、2年前のポルト
ガル船爆沈事件に関わる有馬晴信の監視役であったキシリタンの岡本大八(おかもとだ
いはち。本多正純の家臣)事件が発覚し、朱印状の偽造の罪で処刑され、晴信の余罪も
発覚していた。大八は晴信のようなキリシタン大名と宣教師による領内寺社の抑圧につ
いて自白し、幕府はキリシタン大名に対しキリスト教の禁教令を発してもいた。こうし
た事で、江戸を離れ、翌年ビスカイノは仙台藩の藩主伊達政宗の新造船要請に応じて、
サン・ファン・バウティスタ号で政宗の家臣支倉常長ら遣欧使節(けんおうしせつ。慶
長18年派遣)と同乗して月ノ浦(現石巻市)を出航(1613.10/28)し、三ヵ月後アカプ
ルコに到着(1614.1)した。元和元年(1615)アカプリコから欧州へ向かう政宗の船に
、ムニョスの件の使節も同乗したが、日本で強まるキリスト教排斥の影響で親書からは
貿易の件は取り消されていた。その後も諸交渉は捗らないまま、日本は鎖国に至った。
その後、1620年 ロドリゴはパナマ総督に任命され、1627年3月29日にはバジェ・デ・オ
リサバ伯爵の称号を授かる。1635年スペイン王により正式に日本との国交断絶が発せら
れた。失意もあってかロドリゴはその翌年の1636年にベラクルス州オリサバにて72歳で
亡くなり、遺書により故郷テカマチャルコの聖フランシスコ修道院に眠っている。日本
との交易協定は叶わなかったが、ロドリゴは日本の様子を『日本見聞録(La Relacion
Japon)』として詳らかに書き残している。

1582: 名無しさんAA:18/11/08 02:19
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   572   > 

 明治時代になって欧米を歴訪した岩倉具視等がスペイン船遭難の話を聞き、それが日
墨交流の契機となったことが日本でも知られるようになった。明治21年(1888)11月30
日、日本とメキシコは日墨修好通商条約を締結。メキシコにとってアジアの国との初め
ての条約であり、日本は欧米列強国(アメリカ、イギリス、ロシア、フランス、オラン
ダ)と不平等条約を結んでいた中でアジア以外の国との初の平等条約となった。明治30
年(1897)3月24日元外務大臣榎本武揚はメキシコに36人の殖民団を送る。しかし 資金
難で数ヵ月で解散となったが、残留した移民は苦心しながら後のメキシコ移住者の基礎
を築いている。御宿日西墨国交通発祥記念碑 大多喜メキシコ通り墨西大統領来町記念
に、御宿の日西墨交通発祥記念碑と大多喜のメキシコ記念塔が建っている。建立は昭和
3年(1928)10月1日に、御宿に日西墨交通発祥記念碑が建立され、平成21年(2009)に
ロドリゴ達の漂着した1609年から400年目の 日墨交流記念にメキシコ政府から抱擁の像
が贈られた。昭和53年(1978)11月1日には 大多喜町にメキシコ大統領が訪問したのを
記念して大多喜城跡までの道を「メキシコ通り」と命名された。イスパニア国王への上
申書を書いたフアン・セビコ資料は残っていて、@,日本国と日本人については、「同
じ村にいろいろな宗派がありますが、人々は争わずに親しく付き合っています。本人の
貧困は神の思し召しであり、裕福にしてくれる神が良いと考えています。キリシタンに
なっても逆境になれば信仰を捨てるでしょう。」「専制政治で、産物はすべて領主が保
有し、生産者は貧しく食べるものしか残りません。」「兵士の数は、とても多く、・・
・彼らは軍事訓練は私たちに劣りますが、生命をかけて戦います。武器も精巧で射撃も
上手です。濠と衛兵所を備えた城を持っていて、大砲がなければ攻め落とせません。」
「彼らは、航海術を知りませんし、強固な船も建造できませんから大砲を積んだ船で、
攻撃すれば、容易に勝てます。」と書き送っている。メキシコのアカプルコには、ヤマ
ダ・カトウ・コンドウ(田中、山田、加藤、近藤、後藤・・・)などの姓の人がいてい
るが、彼ら自身は日本人の末裔だと言っている。カタナ(刀)・カマド(竈)・ワラッ
チェ(わらじ)・ビョンボ(屏風)などの言葉も残る。本書はロドリゴの遭難から40
0年を記念して出版されたもので、2009年と新しいのであるが、すでに絶版となっ
ている。「日本見聞録」の時代背景を「異国船漂着物語」と共に考察する必要がある。


1583: 名無しさんAA:18/11/08 02:29
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   573   > 色々とにわかには信じがたいような記述もある。その信じがたい記述は、たとえば、
徳川秀忠も大多喜城の殿も、スペイン風の手へのキスの挨拶を自ら行うシーンや、既に
日本人の多くがが江戸時代初期に太平洋を何度も航海していた。ということ。それだけ
江戸の初期の方が江戸の鎖国の開放期より藩主は海外を身近に感じていたと考えられる
。面白いのは、江戸城のなかの厩舎の馬の向きを書いていることである。実は、幕末に
来た外国人もこのことを書き残している。ヨーロッパでは逆なのである。つまり、日本
は馬の右に立つが、西洋は左に立つためかもしれない。一つは従者が殿の刀を護る為か
も知れない。対して西洋は従者は刀はなく 馬の脚に当たる事も無かったのだろう。こ
の貴族の国王代理大使の、ロドリゴと、セビコス船長では日本の評価が大きく異なって
いる。ほぼ同じものを見て、同じ行動をしていたはずなのだが、全く違う視点である。
そして、船長は、常に疑心暗鬼で懐疑的であり、日本の植民地とする武力の比較に余念
がない。また2人とも、オランダ人を追放するよう進言しているが、この時代、すでに
スペインは大西洋や地中海で海戦に負けて、斜陽を始めており、植民地先での容赦ない
搾取と奴隷労働を行い、出遅れて後でやってきた英国やオランダなどのヨーロッパ諸国
に糾弾され始めていた。これまで略奪したり奴隷労働で得たであろう財宝が、イギリス
やオランダなどの海賊達に奪われ、神経を尖らせていた。ヌエバ・エスパーニャ国の(
メキシコ)も、もともとジパング伝説から、欧州での伝説化した日本近海にあると言わ
れていた「金銀島」の採掘や搾取の為に、大航海時代に作られた国だった。こうした事
で日本の金や銀に興味があったのは当然だった。こうした事の意図よる問答がされて、
やり取りがあったと言える。徳川幕府の秀忠は、既にキリスト教と貿易が表裏一体であ
り、信長式に全てを飲み込むつもりがあっても、禁教令は出しても、この日本の沿岸全
てを守るのは無理だと考えていた筈だ。しかし家康は石山本願寺の焼き討ち事件なども
意図せず地獄の様な無辜の民が死んだ事の記憶や、信仰による強さが武士にも入って来
て、切腹すら拒否し受け入れない信者が増えてきている事にも悩んでいた。のである。
サン・フランシスコ号の日本漂着は、1608年に未着任の総督府長官ドン・フアン・デ・
シルバに代わり、44歳のドン・ロドリゴが臨時総督府長官となった。ヌエバ・エスパー
ニャのアカプルコを出発 (1608.3/15)し、三ヵ月後には、マニラの南にあるカピテに
入港(6/15着任)し、前年マニラで暴動を起こして捕縛されていた日本人達の処罰につ
いて、ロドリゴは調査の上で 200人の処刑を取下げて追放処分とした。明らかに海賊行
為を行っていた犯人は投獄した。つまりここに日本人300人前後が投獄されていたの
だろう。これは驚きである。

1584: 名無しさんAA:18/11/08 02:53
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   575   > 

 「これゆえに、日本では決して貴地の教えを説き広布してはならない。閣下がもし日
本国および家康と交誼を保ちたいなら、自分家康が欲することをなし、欲さざることは
決してなさぬことだ。」と書いている。更に。「また邪悪な日本人で貴地に何年も滞在
後に帰ってくるものが多いと聞く。これは自分家康の好まないことだ。だから、閣下が
許可派遣するマニラ船にこうした日本人を乗り込ませないようにして欲しい。諸事、思
慮を用い自分家康の嫌悪を受けないよう務めてほしい。」と、切支丹に改宗したものの
出国をさせるな。とも書いている。しかしこれは先の取り締まりの上奴隷になった日本
人の開放を拒否したと取ったかもしれない。マニラ貿易は、キリスト教と抱き合わせだ
ったが、徳川幕府は、朱印状(海外における安全保証)やchapa(国内における外国船の
安全保証)による徳川管制独占を試みたが、既に発行において失敗している。益々、事
はそう簡単ではないように為っていった。日本で渡航禁止をしても、マニラ総督は島津
や平戸他へ伴天連と合わせ交易船派遣を継続していたし、何かあっても朱印船許可を、
盾にとって相手をしなかったのである。こうして拉致し送られるマニラでの日本人奴隷
の数は増える一方で日本人との摩擦も強まった。1603年の支那人騒擾の時には日本
人500人がマニラ総督によって鎮圧したといい、1606年、1607年、1608
年、1609年と毎年のように日本人騒擾が起きその日本人規模は1500人、とされ
る。伴天連の調停で治まったり(1607年)、マニライスパニア軍に鎮圧されたり(1608
年)、支那人と日本人が一緒に暴動を起こしたり(1609年)していた。この間に、日本
人の勢力が増し他方でマニラ総督府は現地人抵抗の高まり(ホロやマラッカテレナテで
の征服戦争継続)は、英蘭との対立を深くし、スペインの力を徐々におとしていく現象
を産んだ。総督アクニヤはこうした中で病死(1606年6月)して、こうして後任のドン
・ロドリコ・デ・ベベーロ・イ・バエルッサが、1608年6月、ノバイスパニアからマニ
ラ臨時総督として転任してきた。そして日本は、1596年(慶長元年)の豊臣秀吉の禁教
令布告から1637年(寛永14年) 天草・島原の乱まで、60年間海外との交易促進の
親交や友好と、布教の禁止や外国船打ち払いと、この間を揺れ動いていた。豊臣秀吉の
唯一のキリスト教徒への直接的迫害である日本二十六聖人殉教のきっかけとなったとさ
れるフェルペ号の土佐漂着も、フィリピンのマニラを出航したスペインのガレオン船が
メキシコを目指して太平洋横断の途についた中の出来事であった。五百〜千五百人が3
年間メキシコに送られた。と言う事は2千人は送られた事になる。

1585: 名無しさんAA:18/11/08 02:55
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   576   > 

 天正15年(1587年)に豊臣秀吉が発したバテレン追放令は、キリスト教の布教禁止は
、南蛮貿易の実利を重視した秀吉の政策上からもあくまで限定的なもので、黙認された
中にあった。1596年7月、メインマストを切り倒し、400個の積荷を海に放棄しながらも
、日本に流れ着くことだけが唯一の希望であった。こうして文禄5年8月28日、船は四国
土佐沖に漂着し、知らせを聞いた長宗我部元親の指示で船は浦戸湾内へ強引に曳航され
、湾内の砂州に座礁してしまった。大量の船荷が流出しの町に留め置かれ、使者は秀吉
に会えず、代わりに奉行の増田長盛が浦戸に派遣され、先立って使者のファン・ポーブ
レがもとに戻り、報告では積荷が没収されること、自分たちは勾留され果ては処刑され
る可能性があることを伝えていた。増田らは、白人船員と同伴の黒人奴隷との区別なく
名簿を作成し、積荷の一覧を作りすべてに太閤の印を押し、船員たちを町内に留め置か
せ、所持品をすべて提出するよう命じた。さらに増田らは「スペイン人たちは海賊であ
り、ペルー、メキシコ(ノビスパニア)、フィリピンを武力制圧したように日本でもそ
れを行うため、測量に来たに違いない。このことは都にいる3名のポルトガル人ほか数
名に聞いた。」という報告を、秀吉への書状で告げた。このとき、水先案内人(航海長
)であったデ・オランディアは憤って長盛に世界地図を示し、「スペインは広大な領土
をもつ国であり、日本がどれだけ小さい国であるか。」を語り、その大きな国をどうし
て持ちえたかは、海賊行為と布教行為であった事を明かしていた。こうして増田らの一
行は、積荷と船員の所持品をすべて没収し、航海日誌などの書類をすべて取り上げて破
棄した。荷物の没収に抵抗した船員たちに対し、増田が世界地図に示された欧州、南北
アメリカ、フィリピンに跨るスペインの領土について「何故スペインがかくも広大な領
土を持つにいたったか」と問うたところ、サン・フェリペ号の水先案内人が「スペイン
国王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服を事業としている。それはまず、そ
の土地の民を教化し、而して後その信徒を内応せしめ、兵力をもってこれを併呑するに
あり」という意味のことを告げた。とされているが証明する証拠や書類は今もってない
。しかし、長盛によって都の秀吉に報告され、直後の12月に天正に続く禁教令が再び出
され、京都や大坂にいたフランシスコ会のペトロ・バウチスタなど宣教師3人と修道士
3人、および日本人信徒20人が捕らえられ、彼らは長崎に送られて慶長元年12月19日
(1597年2月5日)処刑された(日本二十六聖人)。


1586: 名無しさんAA:18/11/08 03:02
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   577   > 

 この事件には、秀吉の対明(みん)外交、イエズス会とフランシスコ会の対立などいく
つかの問題が関係した。日本にいた宣教師ルイス・フロイスもこの事件の顛末を述べて
いるが、そこでは「漂着した船舶は、その土地の領主の所有に帰する。という、古来の
習慣が日本にあったために積荷が没収された。」と述べている。歴史書では、しばしば
「漂着した船の積荷には、その土地へ所有権が移るのがこの時代の海事法(廻船式目)
であったため。」というような記述が見られる。廻船式目とは、日本では既に北廻り船
と言う輸送船団が存在し、鎌倉時代に当時の海上の慣習を文章化した上で、法が存在し
鎌倉幕府の裁可を得て所有した。その地の豪族・大名によって内容の統一が保たれては
いなかったが、豊臣秀吉が海法規定を整理・統一出来る程に人々は慣習化していた。そ
の後に鎌倉時代の廻路式目の中から取捨選択、補足・削除をした「海路諸法度」(1592
年)を制定した。廻路式目からの大きな変更は見られず、領土領海への侵犯や国家間の
衝突時の拿捕に関する記載が特別に設けられた形はない。 サン=フェリペ号事件に関し
ては、しばしば長盛との問答でのスペイン人の船員(デ・オランディアとも)の「積荷
を没収された腹いせ」による発言が秀吉を激怒させたと説明されるが、これは1598年に
長崎でイエズス会員たちが行った「サン・フェリペ号事件」の顛末および「二十六聖人
殉教」の原因調査のための査問会での、証人の言葉として出た。とされる資料であり、
日本側の記録には一切残されてはいない。又変化の無い海事諸法度を改めて公示した意
図も不明のままだが、おそらくは世界に合わせて変えようとしたが中止した。と言う事
かもしれない。この後、徳川家康は豊臣秀吉死後から積極的に対外関係の構築に動いて
た。明・朝鮮に対しては朝鮮出兵後の和平交渉を進めつつ、朱印船貿易を活発化させて
ヨーロッパ・東アジア諸国との関係構築に努めようとした。中でもスペインは、太平洋
横断しうる航海・造船技術と鉱山開発技術に魅力を覚え、交渉・通商相手として最も重
視していた。慶長三年(1598年)十一月、秀吉没後三か月で、秀吉によって追放された
スペインの宣教師ジエズスを保護して「ジエズスを介しスペイン国王に対し、メキシコ
商船の関東誘致と鉱山・造船の両技師並びに航海士の招聘」を依頼している。その後も
スペイン宣教師を保護して関係構築に前向きに取り組んでいるが、スペインは技術協力
に消極的であったため、交渉は難航していた。ここには、イエズス会士の処刑が重く横
たわっていて、それが奴隷船貿易の為だったとはバチカンも公表してはいない。


1587: 名無しさんAA:18/11/08 09:56
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   578   > 

 こうして観ると海外貿易の 日本の形を作ったのは、改めてこの秀吉の時だった事が
解る。その後の徳川家康は、子や孫の代になっても、海外からの侵略には、かなり神経
を使い行動していた。少しまとめてみても、その動きは慎重に慎重を重ね、秀吉と同じ
認識で、人が売られていて、日本人奴隷が拉致され船にとじ込められて送られていた事
を知っていたが、秀吉の様な批判的な行動はしなかった。1598年秀吉死去。天下統一事
業は家康が引き継いだ形になった。フランシスコ会士のヘロニモ・デ・ヘススが、通商
に関心を持っていた家康と会談した。家康はルソンとの友好と通商関係の樹立を望み、
マニラのガレオン船の日本寄港を歓迎すると表明した。一方で日本船のルソンとヌエバ
・エスパーニャでの受け入れ方を要望、その実現のため造船技術者、航海士、また鉱山
開発のための技師の日本への派遣を要請した。ヘロニモ・デ・ヘススはマニラ総督テー
リョに宛てて書簡で家康の要請を報告した。総督はヌエバ・エスパーニャの上司に本件
を伝達するも特段の反応が得られなかった。1600年のこの年の春、2年前に西回りで、
東洋に向けて出発したオランダ東インド会社の船隊の生き残りの一艘リーフデ号が豊後
に漂着した。その航海長であった英人ウイリアム・アダムスはその後家康の顧問となっ
た。ここで日本にとっては一大転機となった。1601年には、家康はまだ三浦按針とは、
会見してはいなかった。再度スペイン植民地との通商関係樹立を図ろうとしてマニラ総
督にペドロ・ブルキーリョ修道士を使者として送り込み、日本人海賊数百人を捕らえて
処刑したので日本近海の制海権が確保されたことを知らせに来た。ヌエバ・エスパーニ
ャに、通商を要請する旨を伝えさせた。また、ヘロニモ・デ・ヘススもマニラ総督に、
回答を促進させるために送り込んだ。家康はルソンとの友好と通商関係の樹立を望み、
マニラのガレオン船の日本寄港を歓迎すると表明していた。日本人のガスパール・フェ
ルナンデスやミゲルやベントゥーラの3人は、いずれも男性だが僅か7ペソで売られた
労働者だったとみられる。ガスパールは豊後(大分県)生まれ。8歳だった1585年
、長崎で日本人商人からポルトガル商人のペレスに、奴隷として3年契約7ペソで売ら
れた。その後の詳細は不明だが、引き続きペレスのもとで、料理などの家事労働をして
いたとみられる。当時のスペインで、高級オリーブオイル1本が8ペソだった時代だ。


1588: 名無しさんAA:18/11/08 10:05
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   579   >
 1602年ペドロ・デ・アクーニャルソン総督は日本との通商関係を結ぶことに好意的な
返信を送り、実際に家康の希望に沿って商品を積んだ商船を関東に送る手配をしたが、
船舶建造等のための技術者派遣は自分の権限外としてヌエバ・エスパーニャ副王とスペ
イン国王宛に報告を送った。家康は総督に対し返信を送り、その中でガレオン船が通商
目的で、あるいは悪天候から避難するために日本の港への入港することを認めることを
伝え、他方日本船のルソン、ヌエバ・エスパニャでの受け入れ方を要請した。ペドロ・
デ・アクーニャ ルソン総督が日本に派遣した商船は家康の支配下の関東でなく、九州
の港に到着した。この年のナオ・デ・チナの一隻エスピリツ・サント号が暴風雨で難船
し土佐清水に入港した際に積み荷の一部没収等当局の不適切な取り扱いがあった。10月
、抗議を受けて家康は没収品の返還を命じた文書を発行し、再度マニラ総督に宛て日本
の港への緊急避難時の入港と船の修理を保証する書状8通 と入港許可書を送付した。
 1603年ペドロ・デ・アクーニャ ルソン総督が日本に派遣した商船サンテイアゴ号で
フランシスコ会士ルイス・ソテーロ等が日本に到着し、ソテーロは、家康から布教する
許可を得た。イエズス会の布教活動開始からは凡そ半世紀遅れたが、フランシスコ会は
関東を中心に本格的布教活動を開始し、京都、大分、大阪、浦賀に聖堂、修道院を建て
た。この年、ヌエバ・エスパーニャ、スペインとの直接交易を望んでいた家康の命を受
けたウイリアム・アダムスがマニラに赴き、家康の直接支配下の地方との通商関係樹立
についてスペイン側に説得を試みたという。1603年の支那人騒擾の時には日本人の
500人がマニラ総督によって鎮圧したという。つまりここで起こったのは、三浦按針
と共に、布教ys奴隷をやめて、幕府と直接取引せよ。と会見したのではなかったのか
と思える。しかし、ここで彼らは捕まり捕縛され三浦按針だけが帰ってきた。と考えら
れる。ここで幕府は長崎直轄領を決め、出島構想を作りその為の方策を考えたのだろう
。等安があわてて家康にそのまま長崎支配を頼むころ、スペインのマニラ支局も1604年
アクーニャ総督は、友好を求める書簡を贈物と共に家康に送っている。これが先ほどの
手紙である。1605年に家康は、アクーニャ総督に書簡の受領と、贈物への謝意を述べた
返信を送った。この中で家康は再度、日本でキリスト教の布教は許されないとの見解を
表明している。ロドリーゴ・デ・ビーベロ総督代理は家康に派遣されてマニラに滞在し
ていたウイリアム・アダムスに託して、家康と秀忠に宛てて書簡を送り、友好関係の継
続を望み、日本船のマニラ入港を歓迎する、また天候によってはスペイン船が徳川幕府
の支配下の日本全土への入港が認められるべきこと、キリスト教布教活動を行う宣教師
への待遇改善等の要請を行っている。

1589: 名無しさんAA:18/11/08 10:06
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   580   > 

 東軍の勝利に終わった関ヶ原の戦いは、18日、三成の居城・佐和山城を落として、近
江国に進出し、21日には戦場から逃亡していた三成を捕縛し、10月には小西行長、安国
寺恵瓊らと共に六条河原で処刑した。その後大坂に入った家康は、西軍に与した諸大名
をことごとく処刑・改易・減封に処し、召し上げた所領を東軍諸将に加増分配する傍ら
自らの領地も250万石から400万石に加増。秀頼、淀殿に対しては「女、子供のあずかり
知らぬところ」として咎めず領地もそのままとしてひとまず息をついた。後は論功行賞
により各大名家の領地に含めていた太閤蔵入地(豊臣氏の直轄地)を諸将に分配する事
だった。結果として、豊臣氏は摂津国・河内国・和泉国の3ヶ国65万石の一大名となり
、家康は天下人としての立場を確立したが、まだ西国大名は新年の挨拶に大坂城に伺候
し豊臣家が西国を支配すると言う二重公儀体制が残っていた。ここで朝廷宮家を動かし
征夷大将軍職を慶長5年(1601年)12月19日、に得た。文禄4年(1595年)に豊臣秀次
が解任されて以来空いたままになっていた関白に九条兼孝が家康の奏上により任じられ
た。このことにより、豊臣氏による関白職世襲を止めて、旧来の五摂家に関白職が戻っ
た事になった。関ヶ原の戦いの戦後処理を終わらせた慶長6年(1601年)3月23日、家康
は大坂城・西の丸を出て伏見城にて政務を執り、征夷大将軍として幕府を開くため徳川
氏の系図の改姓を行い、慶長7年(1602年)、関ヶ原の戦いの戦後処理で唯一処分が決
まってなかった常陸国水戸の佐竹義宣を出羽国久保田に減転封。代わりに佐竹氏と同じ
く源義光の流れをくむ武田氏を継承した五男・武田信吉を水戸に入れた。慶長8年にな
って(1603年)後陽成天皇は参議・勧修寺光豊を勅使として伏見城に派遣した。朝廷よ
り六種八通の宣旨が下り、家康を征夷大将軍、淳和奨学両院別当、右大臣に任命した。
また3月、伏見城から二条城に移り、衣冠束帯を纏い行列を整えて御所に参内し、将軍
拝賀の礼を行い、年頭の祝賀も述べた。27日、二条城に勅使を迎え、重臣や公家衆を招
いて将軍就任の祝賀の儀を行った。また4月4日から3日間も二条城で能楽が行われ諸大
名や公家衆を饗応したのである。この間キリスト教は放って置かれたが秀吉の禁教令は
有効であった。つまり、1587年(天正15年)に伴天連追放令を発布し、1588年(天正
16年)秀吉の長崎没収しキリスタン追放令で宣教師活動の停止は有効に機能して隠れ
た活動しか出来なかったのだ。豊臣秀吉は九州討伐の途上で、当時のイエズス会の布教
責任者であった宣教師ガスパール・コエリョを呼んで人身売買と宣教師の関わりについ
て詰問し、即日奴隷の売買を含む南蛮貿易の禁止とキリスト教の布教を禁じるバテレン
追放令を発布していた。

1590: 名無しさんAA:18/11/08 10:07
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   581   > 

 実は日本はしばしば室町時代から、東南アジアにおける重要な交易相手としてだけで
なく戦略拠点としても重視された。この時代は日本は室町から安土桃山時代の乱世にあ
たり、漂着した外国船の保護を契機として、海に面した各地の諸大名が渡来する外国船
から火薬などを調達し、大量の銀が海外に流出していた(南蛮貿易)。つまり蒙古襲来
以来恒常的に時々火薬と交換に行われていたのである。日本へは、中国産硝石、生糸、
絹織物、奴隷、ミイラ、火薬などが入り、日本からは輸出品:硫黄、銀、海産物、刀、
漆器、そして日本人も奴隷として輸出されていた。古来から日本の戦場では戦利品の一
部として男女を拉致していく「人取り」(乱妨取り)がしばしば行われていたが、これ
は中国の督戦隊の戦場のやり方によって中国国内に人が必要だったからであった。古代
には朝貢外交の贈り物ともなった名残りのままだったかもしれない。又朝鮮ではコリア
カースト制が厳然としてあった為農奴も不足気味だったのである。秀吉は死ぬ間際にお
いてこの日本人拉致や奴隷において対策を講じる事に全力を注いだ。それが朝鮮出兵で
の明の占領だった。そもそも戦国時代既に信長に黒人が送られたり、大友宗麟に長持ち
に青い目の裸体夫人が送られていたりしている。又大内氏時代の大宰府で博多商人に、
火薬の取り寄せに奴隷を許したとして九州大名の反発が起こっている。1597年(慶長2
年)に起こった日本26聖人処刑は、それこそキリスタンには恐怖であったし効果を持
った。この時は安政の大獄の様な一斉探索が発令されたと思われる。大坂と京都でフラ
ンシスコ会員7名と信徒14名、イエズス会関係者3名の合計24名が捕縛された。京
都・堀川通り一条戻り橋で左の耳たぶを切り落とされて、市中引き回しとなった。1597
年1月、長崎で処刑せよという命令を受けて一行は大坂を出発、歩いて長崎へ向かうこ
とになった。また、道中で世話をするよう付き添っていたペトロ助四郎と、同じように
世話をしていた伊勢の大工フランシスコ吉も捕縛された。二人はキリスト教徒として、
己の信仰のために命を捧げることを拒絶しなかった。厳冬期の旅を終えて長崎に到着し
た一行を見た責任者の寺沢半三郎は(当時の長崎奉行であった寺沢広高の弟)、一行の
中にわずか12歳の少年ルドビコ茨木がいるのを見て哀れに思い、「キリシタンの教え
を棄てればお前の命を助けてやる。」とルドビコに持ちかけたが、ルドビコは「(この
世の)つかの間の命と(天国の)永遠の命を取り替えることはできない。」と言い毅然
として寺沢の申し出を断った。

1591: 名無しさんAA:18/11/08 10:24
1560年代鉄砲伝来以降、イエズス会の宣教師たちは、ポルトガル商人による奴隷貿易が
日本におけるキリスト教宣教の妨げになり、宣教師への誤解を招くものと考えていた。
度々、ポルトガル国王に日本での奴隷貿易禁止の法令の発布を求めており、1571年に、
王セバスティアン1世から日本人貧民の海外売買禁止の勅令を発布させることに成功し
ていた。それでも、奴隷貿易は根絶にいたらなかった。1587年(天正15年) 7月24日
に、豊臣秀吉は九州討伐の途上で当時のイエズス会の布教責任者であった宣教師ガスパ
ール・コエリョを呼んで人身売買と宣教師の関わりについて詰問し、即日奴隷の売買を
含む南蛮貿易の禁止とキリスト教の布教を禁じるバテレン追放令を発布した。豊臣秀吉
では、キリシタン禁教令は宣教師達の追放命令が主な目的だった。理由には諸説あるが
、秀吉は国内の政治と宗教のつながりを恐れていたため、特に九州征伐の時に信仰の絆
で強く結ばれているのを見てキリシタンに対する警戒心が危機感があった。とされる。
その当時、キリシタン大名やキリシタン(信者)によって寺社が焼き払われたり僧侶が
迫害されたり、逆に仏教を信仰する大名の元ではキリシタンが迫害されたりする事件が
相次いで起こっていた。さらに秀吉を怒らせたのはポルトガル商人によって、日本人が
奴隷として海外に売られている事例が日本で発覚した為だった。ただし秀吉は南蛮貿易
の実利を重視していた。その為この時に、大規模な迫害は行われなかった。黙認という
形ではあったが宣教師は、隠れて日本で活動を続けることができたし、キリシタンとな
った日本人が公に棄教を迫られる事はなかった。しかし、1596年10月のサン=フェリペ
号事件をきっかけに、秀吉はイエズス会の後に来日したフランシスコ会の宣教活動は、
全く活発で強迫的布教で、禁教令に対して挑発的であった。京都奉行石田三成に命じて
、京都に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛して処刑するよう命じたのは
当然の処置だった。大御所として政治を行う家康は、慶長10年(1605年)将軍職を辞す
ると、朝廷に嫡男・秀忠への将軍宣下を行わせて将軍職は以後「徳川氏世襲」を天下に
示し、表向きは引いた形を築いた。同時に豊臣秀頼に新将軍秀忠と対面するよう要請し
た、しかし秀頼は拒絶し、六男・松平忠輝を大坂城に派遣したことで事は収まった。慶
長12年(1607年)に駿府城に移って、「江戸の将軍」に対して「駿府の大御所」として
実権を掌握し続け幕府の制度作りに努めた。同年 朝鮮通信使と謁見して、文禄・慶長
の役以来断絶していた李氏朝鮮との国交を回復して交易の道に途が開けた。又慶長14年
に(1609年)、オランダ使節と会見し。オランダ総督(使節は国王を自称)マウリッツ
からの親書を受け取り、朱印状による交易と平戸にオランダ東インド会社の商館の開設
を許可した。

1592: 名無しさんAA:18/11/08 10:25
慶長16年ヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)副王ルイス・デ・ベラスコの使者セ
バスティアン・ビスカイノと会見し、スペイン国王フェリペ3世の親書を受け取った。
両国の友好については合意したものの、通商を望んでいた日本側に対し、エスパーニャ
側の前提条件はキリスト教の布教で、家康の経教分離の外交を無視したことが、家康を
して禁教に踏み切らせた真因である。この後も家康の対外交政策に貿易制限の意図が全
くないことから、この禁教令は鎖国に直結するものではない事であったが、イスパニア
やポルトガルは昔と同じ交易を求めてやまなかった。慶長18年(1613年)、イギリス東
インド会社のジョン・セーリスと会見。イングランド国王ジェームズ1世からの親書と
献上品を受け取り、朱印状による交易と平戸にイギリス商館の開設を許可した。武家諸
法度(ぶけしょはっと)は、慶長16年(1611年)4月12日、2代将軍秀忠の頃、徳川幕府
は3カ条の法令を定め、京都に参集している西国の諸大名から「誓詞」を徴する形で、
その順守を命じたことから始まる。関ヶ原の戦いで東軍が勝利し家康の指導力が強まっ
たものの、豊臣家は依然として存在し、豊臣家を内々盟主に仰ぐ大名も存在していた。
そこで、1 鎌倉幕府以来の法令を順守すべき事、またこれを修正して施行する徳川幕
府の法令に従う事。2 法度や上意に背く者の隠匿を禁止する事。3 叛逆人・殺害人
の拘置を禁止する事。この3カ条誓詞には、このときに京都に参集していた主要大名の
22名が連署した。この誓紙を取ったことで、徳川公儀による天下支配が概ね成った。
ともいわれる。フィリッピンでは既に何回も暴動が起こっていた。1606〜08年、マニラ
在住の日本人約1500名が武力蜂起したが、修道士達により慰撫されて事なきを得た。又
日本人の暴動は1607〜08両年にも発生し、武力鎮圧されて日本人はマニラ市外に追放さ
れた。ビーベロ総督代理は日本からの来航船を制限して欲しい旨、家康に要請し、同時
に暴動時に捕らえていた日本人を送還している。1608年この年初めてルソン発の商船の
関東の港(浦賀)への入港が実現した。家康・秀忠はビーベロ総督代理の書簡に対し交易
拡大を望む旨書き送った。1609年フアン・デ・シルバ新総督が着任し、マニラの日本人
の行為について不快であることを家康に書き送り、家康は返信で不穏分子の処罰を促し
た。新総督はまた日本における宣教師の取り扱い、日本のガレオン船受け入れに謝意を
表した。1610年ビーベロ他を送り届けるためウイリアム・アダムスの指導で日本で始め
て(慶長15年)建造された洋式船サン・ブエナベントウーラ号(日本名安針丸)は8月浦賀
を出港、10月27日ナヤリット州マタンチェルに到着し、その後アカプルコへ回航された
。同船には家康の使者としてビーベロとアロンソ・ムニョス神父と通商開始を期待して
京都の商人、田中勝介、朱屋隆成、堺の商人、山田助左右衛門等23人を乗船させた。

1593: 名無しさんAA:18/11/08 10:36
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   585   > 

 メキシコ国立文書館に残る異端審問記録で確認する「日本人奴隷」の実態を示す貴重
な資料の『審問記録』には、名前の後ろには「ハポン(日本)」と明記されている名は
「日本生まれ」の「ガスパール・フェルナンデス」「ミゲル」「ベントゥーラ」の3人
だ。ガスパールは 豊後(大分県)生まれ。8歳だった1585年、長崎で日本人商人から
ポルトガル商人のペレスに、奴隷として3年契約7ペソで売られた。その後の詳細は、
不明だが、引き続きペレスのもとで、料理などの家事労働をしていたとみられる。当時
のスペインで、高級オリーブオイル1本が8ペソだった。ベントゥーラは来歴不明だが
、ミゲルは1594年、ポルトガル奴隷商人がスペイン領マニラで、ペレスに売った。ペレ
スはマニラ在住時の1596年、隠れれユダヤ教徒として当局に逮捕され、有罪判決を受け
た。この異端審問のため一家は、1597年12月、マニラから太平洋航路でスペイン領メキ
シコ・アカプルコに移送された。その審問記録に、ペレスの「奴隷」として3人の名が
ある。このガスパールは審問では、食事内容をはじめとするペレス家の信仰の様子など
を証言。その後の1599年、ベントゥーラと共に、自分たちは奴隷ではないと当局に訴え
、1604年に解放されている。ここに日本人の名はないが、按針丸がベントゥーラ号
であり、この裁判されたのがベントゥーラと名があったのは偶然には思えないのである
。その後1623年にモルッカ諸島のアンボイナ島(アンボン島)にあるイギリス商館を、
オランダが襲い、商館員を全員殺害した事件が起こっている。別名はアンボン事件だ。
これでイギリス香辛料貿易は頓挫し、オランダが同島の権益を独占した。イギリスは東
南アジアから撤退し、インドへ矛先を向けることとなった。」この時殺害された中に、
日本人傭兵9名がいたことが分かっており、海外に様々な人材が出ていたようだ。メキ
シコに日本人奴隷がいたという事実と、今回メキシコ国立文書館に残る異端審問記録で
確認されたことの意義は大きい。1609年(慶長14年)に、太平洋を東航中のサンフランシ
スコ号、サンアントニオ号、サンタアナ号が大暴風雨に遭遇し全三艘が難破し、上総沖
の岩和田(大多喜領、現御宿)で座礁し 317名が救助された。この時にたまたま帰国途次
のロドリーゴ・デ・ビーベロ・イ・ベラスコという前ルソン総督代理が乗船していた。
、日本滞在でビーベロは江戸に出て二代将軍秀忠に謁見し、翌年には駿府の家康を訪問
している。当時日本に居たフランシスコ会士ルイス・ソテロを介して、日本の将軍と、
スペインの高官の対話が実現し、ここに両国間通商交渉が開始された。


1594: 名無しさんAA:18/11/08 10:52
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   586   > 

これに対して、ビーベロはスペイン船の海難への救助協力と宣教師の保護、家康とフェ
リペ三世間の友好関係の維持、及びスペインの敵オランダ人の日本追放を要請していた
。メキシコに帰着後ビーベロは副王に日本各地の見聞について詳細な報告を行うと共に
「ドン・ロドリゴ日本見聞録」を著し、更に、太平洋横断に際して嵐に多く遭遇する。
ロス・ラドローネス諸島(グアム・マリアナ)経由でなく、船の補給、修理に都合良い、
また交易の可能性も高い日本経由航路の開設と鉱山技師の日本派遣について副王、イス
パニア皇帝に意見具申した。これに対しスペイン本国は、日本との通商はイスパニア領
のフィリピンを窓口にするとの意向を示した。つまりメキシコは却下されたのである。
 この頃日本の総人口は2000万人と推定され、内キリシタンの数は凡そ75万に達してい
たとされる。フランシスコ会宣教師の日本でのキリスト教の布教の容認され、日本の港
におけるスペイン船の入港許可と保護、及び商館設置等は認められたが、オランダ人の
日本からの追放は受け入れられなかった。家康はビーベロがヌエバ・エスパーニャに帰
還出来るよう、ウイリアム・アダムスに洋式船の建造を命じ、サン・ブエナベントウラ
号120トンの建造とその艤装に必要な経費4000ドウカート相当を幕府より提供した。とい
う。慶長15年(1610年)に、徳川家康の命を受け、前フィリピン総督ドン・ロドリゴの
帰郷の時他の21人とともにサン・ブエナ・ベントゥーラに同船してヌエバ・エスパーニ
ャ(ノビスパン、現在のメキシコ)のアカプルコへに到着した中の田中勝介(たなかし
ょうすけ)は、江戸時代初期の京都の貿易商人。歴史上初めてアメリカ大陸に渡り、ま
た太平洋を横断・往復した日本人とされるが、彼を紹介したのは、後藤庄三郎とされる
。後藤は代々養子入れの家系で、九州討伐時、筑後から秀吉が連れて来た山咲だった。
実は徳川氏が使う葵紋は、京都賀茂神社の神紋であり、賀茂(加茂)神社の神主・氏子
・信仰者に葵紋が広まったが、いわゆる橋本氏数十人の氏子を持つ神人のみが許された
家紋だった。三河から伊豆には賀茂と言う地名が残り加茂氏を名乗った。神社の勧請や
社領が多くあった瀬高の庄の名残りとされる。三河に居た松平氏・本田氏・伊那氏・島
田氏などは葵紋を使っていた。柳川の島田酒店はその流れを持ち、江戸時代柳川の魚河
岸の魚座の座長だった。徳川家康が天下を取ると、葵紋の独占を計り他家の使用を止め
させた。ただし本田氏のみが賀茂神社神官の出なので、徳川家康の要望に「殿こそ新田
の一引紋に変更されたら」と断った。この為立ち葵の紋を用いた。徳川の葵紋は三つ葉
葵紋で、この家紋だけは徳川の直系でさらに認可を受けた家系のみが使用された。

1595: 名無しさんAA:18/11/08 10:55
 世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   587   > 

桐紋は恩賞の家紋で、功績のあった足利尊氏・太閤秀吉などに賜与(しょ)された。ま
た足利将軍から織田信長・豊臣秀吉にも再度授けた。従って太閤秀吉は2度桐紋を賜っ
た。太閤秀吉が天正大判を後藤家で作らせ始めた時に、桐紋の仕様を許可した。桐紋は
幕末の頃には、約2割の武家(ほとんどが五三の桐)で使用され権威も落ちていたが、
明治になり皇室の裏紋として、内閣総理大臣の紋となり権威が戻ったという。九州征伐
で、筑後を訪れ時御神領となっていた高良山から大牟田までの橋本氏族の所領を各氏の
武将に明け渡しする事にわざわざ秀吉は、橋本氏を立ち合わせたと言われる。今の水田
小学校は豊臣秀吉が九州征伐の頃は金物の一大産地とされていた。加茂神社の神主の修
行金座として古くから在住し、河川の橋の袂に住して橋本家を名乗っていたからだ。後
藤家(ごとうけ)は、室町後期からの、幕末に至る装剣金工家の家系で多くの弟子を持
つ加治屋として大成した。後藤祐乗(ゆうじょう)を祖とし、足利(あしかが)家以来に、
織田、豊臣(とよとみ)、徳川の各将軍家に仕えて16代に及び17代典乗は明治まで続
いた。さらに傍系一門が繁栄してこの世界第一の勢力となった。後藤宗家は10代目廉乗
の1662年(寛文2)に京都から江戸に移ったが、元々代々将軍家の御用を勤めたところ
から、その作を「家彫(いえぼり)」と称し、町職人の「町彫(まちぼり)」と格式を異に
した。作品は鐔(つば)の製作は少なく、小柄(こづか)、笄(こうがい)、目貫(めぬき)な
どを主として、いずれも用いる素材は赤銅、金、銀で、原則的に鉄は使用しなかった。
図柄は、絵師の狩野(かのう)家のごとく、技法とともに一定の規格を守り続けていた。
竜(りゅう)、獅子(しし)、波文、紋散(もんぢらし)、武者、花鳥、草木などの高彫りの
作品を製作した。したがって、立派な家門を持ち伝統ではあるが、町彫のように取題や
技法の自由さと斬新(ざんしん)さに欠けた様式を守っていた。この中で先の桐の紋を授
けられ、下命によって大判を作った後藤家は金座後藤家としてこの傍系の分家筋だった
。この京都大判座後藤で働くうち、橋本庄三郎は、本家筋が家康の下命で江戸に出る事
で後藤姓を許され後藤庄三郎光次を名乗る事になった。当時判金といえば大判のことで
あったが、家康は貨幣としての流通を前提とした一両小判の鋳造を構想していた。初代
庄三郎は、後藤四郎兵衛家の五代目後藤徳乗の名代として江戸に招かれ、江戸本町一丁
目を拝領している。大判は貨幣と言うよりは恩賞に使う勲章の代わりに使われていた。
今でいう記念硬貨である。江戸時代の大判・小判には、真似されない様に、むしろ太閤
から受けついだ桐紋しか用いられなかったのは後藤家の信用からだった。家紋に対して
思い込みの強い時代にこの事象は例外的事柄でもあった。

1596: 名無しさんAA:18/11/08 11:04
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   588   > 

豊臣秀吉に許可を貰い、京都後藤家から弟の後藤長乗光栄と橋本庄三郎が文禄2年に呼
び出しを受けて、文禄4年(1595)に建設中の江戸に下向した。長乗は早々に京都に帰
ったが、橋本庄三郎(手代)が中心になり、武蔵墨書小判を作った事で信用を得た。文
禄4年(1595)の事とされる。この武蔵墨書小判(楕円)は天正大判を参考に約4.4匁
の1/10の定位定量であり、薄く延ばす技術を必要とした。これが橋本庄三郎のアイデア
とされる。関東ではそれまで甲州金が使われていて、金工達は旧武田の流れであった。
つまり、粒銀や金を型にいれた瓢箪型の高額貨幣の大久保長安の世界である。一方徳川
は天正大判を作っている後藤家の様に権威ある判金を作りたかった。橋本庄三郎は大判
の欠点が高額で、貨幣として使用しにくく一両判(即ち小判)を江戸町奉行の板倉勝重
に提案して、徳川家康の許可を得た。当時関東の甲州金は武田氏が滅んで信用性が薄れ
秤量貨幣としてか通用しなくなっていた。武蔵墨書小判は、この庄三郎が京都後藤家の
徳乗の次女、2歳年上になる出戻り娘のお亀の婿養子になる条件で、扇面に五三の桐紋
の極印を打つことを許可された。この扇面桐紋は後藤本家の丸に五三の桐紋が豊臣秀吉
の認可を得た家紋だったことの為であった。こうして養子になった後藤庄三郎光次は、
証人に兄の山崎喜六と共に証文を、本家後藤徳乗・栄乗に慶長元年(1596)出している
。趣旨は(1)大判の墨書き・極印打ちは本家が行うことを守る。(後藤庄三郎は大判に
は手を出さない)(2)小判の桐紋(扇面)は子孫まで守り使う。(3)後藤の苗字は変え
ることなく子孫まで使う。(4)黄金3枚を毎年子孫代々本家に贈る。(5)これらに背けば
小判等製造の収入を残らず本家に差し上げ、役儀も返上する。と言う物で、こうした絶
対服従の誓いの元に暖簾分けが出来た。こうした苦しい職人生活の中に、訪ねて来た者
がいた。慶長3年(1598)後藤庄三郎の理財の才能を見抜いた家康である。家康により
戦争(後の関が原の合戦)の為の軍用金調達を命じられた。光次は、この調達に成功し
て多額を家康に収めた。贋金で米相場に投資し、買占めて徳川に送り、先物も買った為
、人々は時代の変わり目の米相場と勘違いし、高価になった時売り抜けた。これが儲け
元であった。又後年伊能忠敬が全国地図測量に自己資金で歩いたが、彼も又幕府の旗本
のお抱え商人に各地の米の作柄情報を送って米相場で稼せがせていた。関が原の合戦(
慶長5年・1600)後に後藤庄三郎光次は金銀改役(きんぎんあらためやく)に抜擢され
、以後後藤庄三郎の名を代々継がせた。この金や米が大阪城の不穏な動きと家康に糾弾
される元になった。豊臣方は、高値になる米に人の食い扶持の為金を放出するしかなか
ったのだ。米倉も小さくなった大阪城の地下にしか貯蔵出来なかった。

1597: 名無しさんAA:18/11/08 11:16
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   589   > 

 慶長6年(1601)に慶長小判・慶長一分金を発行した。同じに慶長6年(1601)慶長
大判を長乗名で発行、徳乗は石田三成方に味方し家康に睨まれていた。ここで、丸に五
三の桐紋が使われたが、家康は太閤亡き後葵紋の大判を発行したかったが。庄三郎には
本家への証文もあって新貨幣発行は出来なかった。こうして家康の要請の新たな小判の
発行は、呼吸を見計らい断ったと思われる。又、庄三郎が徳乗弟の長乗を名目にして、
本家とは粘り強く掛け合い事をなした。家康の庇護の下となって強い意見も出来ただろ
うがしていない。慶長6年(1601)京都伏見に銀座開局を命じられて、末吉孫左衛門の
差配によって、品位を一定し大黒常是(だいこくじょうぜ)の極印を打った。慶長丁銀
・豆板銀である。この末吉孫左衛門は、例の長崎の大商人の末吉氏の分家筋であった。
元亀2年(1571年)生まれ。本姓橋本は江戸に帰った。家康が用意した家は、現在の日
本銀行本店が建っている処に 屋敷があったとされる。なおこの小判座が金座と呼ばれ
るのは元禄11年以降とされる。家康は、慶長6年(1601年)慶長金銀を制定した折に、
初代庄三郎に判金鋳造を命じている。初代庄三郎はのち拝領地に後藤屋敷を建て屋敷内
で小判の験極印を打つ後藤役所を設けている。慶長8年(1603年)に家康が征夷大将軍
に任ぜられると、庄三郎は小判座の長である「御金銀改役」となって小判座を統括し、
以後、御金改役は後藤庄三郎家が代々世襲することとなって世襲制で受け継がれた。こ
のち銀座設立にも関与し、さらに天領の金山、銀山を支配し、家康の財政、貿易などの
顧問として大久保家の後の権力を誇った。初代は「御金銀改役」であったが、二代目以
降は銀管理の職掌が少なくなり、宝永2年(1705年)には「御金改役」と「銀」が無く
なっている。実はここに問題がある。金も銀も同じ地層から同じ比率で出来上がってい
たはずで、本来は銀が不足と言う事は金も不足だった筈だった。だが東南アジアにおい
て使われていたのは銀貨幣だった。その上欧米の技術は優れていて金の小判から銀を抽
出して金を戻して悪貨にして同等で使っていた。その為ある時期から金の悪貨改造すら
出来ない徳川幕府があった。初代後藤庄三郎は、後藤四郎兵衛(大判座後藤)の職人と
して働く中、五代後藤徳乗に抜擢され別家を起こしたが、御用金匠後藤庄三郎家は、金
座も銀座を支配していたが、文化7年(1810年)に取り潰され、分家の三右衛門方至が
その地位を継いで残っている。この後藤家の勧めで田中勝介はメキシコ留学に行ったの
だった。しかしメキシコの前の、マニラですら、使節団の日本人が売られたのである。
これはもう充分に鎖国や出島の理由になったし、禁教令からキリスタン磔の理由だった


1598: 名無しさんAA:18/11/08 11:28
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   590   > 
 慶長9年(1604)大奥で事件が起こった。大奥女中の子お亀が身ごもったのだ。長男
銀之助を産んだ。慶長9年(1604)家康から側室阿茶の局の連れ子、お岩(大橋の局)
を、庄三郎に下げ与えられた。大橋の局は家康の子供(他説・2代将軍秀忠の子供)を
宿しており、家康の命令で庄三郎に与えられた。また阿茶の局は青山家出身の女傑で後
年将軍秀忠の娘和子は、後水尾天皇に入内する時に付いて行き、難しい朝廷対策を任さ
れた女官であった。大橋の局が生んだ次男がお松で、後に実子の銀之助を差し置いて二
代目金座当主後藤広世であるとされる。また9代金座当主後藤光暢は青山家からの養子
だった。この失態で慶長10年(1605)に、家督を秀忠に譲り征夷大将軍職も譲り、家康
は隠居した。自身への罰だった。しかし、奥の幕府として金鉱山と外交を駿府様として
、隠然と力をもっていた。その力は元和元年(1615)に大阪の夏の陣をして、豊臣氏滅
亡させ徳川幕府の安泰まで及んだ。徳川家康も後藤光次も共にガマン強い慎重居士で、
我身よりは、それぞれ徳川家・後藤家を第一に考える似た性格の持ち主であった。家康
は自分の希望を部下に押し付ける暴君型では無いし、家康は庄三郎に軍資金(カネ)と
大橋の局(女)及び子供(家康の実子or孫)で大きな借りを作ってしまい、葵紋の大判
・小判作りを強制しなかった。と言われている。又、一緒にメキシコに行った山田助左
衛門も恐らく3代目だろう。まだ黒田官兵衛が秀吉と共にある前に黒田半兵衛がいた。
彼も軍師として優れていたので、二人のあわせて両兵衛などと呼ばれていた。しかし、
この二人を合わせた様な、すご者がこの半兵衛の下にいた。それが山田助左衛門とされ
た。1556年、斎藤道三と子の斎藤義龍が戦った長良川の戦いでは、竹中家は斎藤道三に
味方した。父・竹中重元が不在の菩提山城に、西保城主・不破光次が来襲するが、父に
代わり、竹中半兵衛(13歳)は弟・竹中久作とともに不破勢を撃退した。1562年父の重元
が死去すると竹中家の家督を19歳の竹中半兵衛が継いだ。ところがこの機に信長は岐阜
に攻め込んだ。又城主斎藤道三も死去しその後を継いだ斎藤龍興に仕えたものの、彼は
享楽にうつつを抜かしたため、知将として優れた半兵衛は、家督を継ぐと、家臣の山田
助左衛門と共に関ヶ原にて浪人となっていた。これに信長は秀吉を使わし臣下にしよう
と三顧の礼を持ってやっと秀吉は迎えた。しかし、信長の部下であるなら拒否する。と
自ら秀吉の部下となり、家康の下に竹中は山田を使わし断ったという。この時山田は家
康が目をつけ、領主の九門太郎を討って版図を拡大、その勢力は不破郡一帯に及んでい
た領地摂取と至った。江戸時代の石高になおせば、同郡は約三万石だった。その後、近
江国の六角氏から要請されて、坂田郡に兵を出すこともあったが。押さえの援軍で、竹
中遠江守の名で感状を受けている。しかし、半兵衛は生涯官名を用いていない。

1599: 名無しさんAA:18/11/08 11:28
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   591   >

 黒田官兵衛共々秀吉の中国攻めに参加し、宇喜多氏の備前八幡山城の城主を調略成功
によって落城させ、この報告のため京都に赴き 信長に賞賛され銀子100両を授けられて
播磨へと帰陣した。同年、信長に対して謀反を起こした荒木村重に対して(有岡城の戦
い)、秀吉幕僚の黒田孝高(官兵衛)が有岡城へ赴き帰服を呼びかけるが、城内で捕縛
・監禁され外部との連絡を断たれたため、信長は孝高が村重に加担したと思い込み、孝
高の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)の殺害を秀吉に命じた。しかし重治は信長の首実検
に際し、秀吉に偽の首を提出させることで松寿丸の命を助け、松寿丸は自身の領地に引
き取り、家臣の不破矢足の屋敷に匿った。のち、助け出された孝高はこのことを非常に
感謝し、竹中家の家紋を貰い受けている。この時活躍したのも山田助左衛門だったとさ
れる。黒田半兵衛は長篠の戦いで、武田勢の一部が向かって左側に移動した。秀吉は回
りこまれるのではないかと焦ったが、重治は織田勢の陣に穴を開けるための陽動ではな
いかと進言した。秀吉は重治に従わず迎撃のため兵を動かしたが、重治は反対し、挙句
手勢と共に持ち場を離れなかった。まもなく武田勢は元の位置に戻って秀吉が不在の地
点に攻め寄せた。重治が守っている間に秀吉もあわてて帰還し、重治が正しかったこと
が証明された。中国攻めの陣中で病死する際には秀吉は京で養生するように戒めたが、
重治は「陣中で死ぬこそ武士の本望」と断ったとされる。また最後の策として、三木城
の兵糧攻めを秀吉に授け、別所長治を降伏させている。この無血開城戦法は、後の備中
高松城の水攻めにも通じている。徳川の時代になって、秀吉が重治(半兵衛)の功績に
報いるため、加増を約束した書状を渡そうとしたが、「このような物は不用です。もし
私の子が自身の不覚悟を忘れ、『父にはここまで殿は懇意にされていたのに、なぜ私に
は。』と恨みに思うようなことがあっては災いとなります。」と述べて破り捨てたとい
う。こうした逸話を残した半兵衛だったが、いつも頼りにしていたのが山田であった。
ある日、黒田孝高(官兵衛)が秀吉が約束した知行の加増をいつまでたっても実行しな
いことに不満を覚え、秀吉の花押が入った書状を持って秀吉の前に現れて不満を述べた
ことがある。そのとき、秀吉の側にいた重治(半兵衛)が書状を手に取り、破って燃や
してしまった。驚く孝高に対して、「こんな文書があるから不満を感じるのだ。それに
貴殿の身のためにもならない」と述べたとされる。こうした事をつぶさに見ていた山田
助左衛門は、この船でメキシコに行った事を考えるに金鉱山師(やまし)の一面もあっ
たのだろう。

1600: 名無しさんAA:18/11/08 11:30
世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   592   > 

 貧相な馬を買っては、それに乗馬していた。ある時秀吉が「貴殿の身分でその貧相な
馬はなかろう」と言うと、「名馬を買うと、いざ戦おうとする時にその名馬を他人に盗
まれはしないかと惜しんで馬を下りられずに戦機を逃がすことになりますから、馬は乗
り捨てる覚悟なのでこれがいいのです。」と述べたとされる。そうした負け惜しみとも
取れる気風があったとすれば、この山田助左衛門も養子や婿など取り入れた、名を継が
せた家であったのだろう。山田氏は早くからの渡来系の山田連(やまだのむらじ)で、
河内国に住み着いた山田宿祢(やまだのすくね)が一族の発端とされる。こうして命が
救われた松寿丸は秘かに秀吉か遠避ける為にその後家康庇護の元になった。徳川秀忠(
とくがわひでただ)は、安土桃山時代から江戸時代に移って江戸幕府の第2代征夷大将
軍となったが、彼の人生こそ異常な時代のうねりに飲み込まれたものだった。徳川家康
の三男として遠江国浜松に誕生し、母は側室の西郷局。母の実家・三河西郷氏は土岐氏
一族であり、明智光秀の縁戚であった。室町初期には三河守護代を務めたこともある名
家であり、当時も三河国の有力な国人であった。乳母・大姥局によって養育される。同
母弟に関ヶ原の戦いで活躍した松平忠吉がいる。美人で賢かった西郷局は強度の近眼で
あったとされる。今川義元の傘下で命脈を保っている程度の三河西郷氏は今川氏が織田
信長によって絶命すると、三河西郷氏は自らが守る必要に迫られる。駿河国を武田領と
したい武田氏側は、遠江国を徳川領としても良いと言う同盟を再三再四呼びかけ同盟を
呼びかけた。しかし当時信長の下での領地であり勝手な同盟は出来なかった。しびれを
切らした武田氏は永禄11年(1568年)12月に駿河国今川領への侵攻を開始した(駿河
侵攻)。家康は充分に武田と戦えるほど強くない事を熟知しており三河西郷氏族は秋山
善右衛門尉の下に庇護される事になった。しかし、この武田氏も秀吉時代に疲弊し家康
時代には小さく収まり家系が途絶えた。家康は義元配下だった早い頃ころに最初の正室
築山殿を迎えている。出戻りの養女だったらしくかなりの地元の有力者の娘と思われる
。家康は、彼女との子である長男・信康を自害させている。一応は井伊直平の娘・佐名
で、佐名は一度、今川義元の養妹となって関口親永に嫁いでいた。と通説ではなってい
る。この結婚は、松平家を支配しようとする今川義元の意向を大いに汲んだ政略結婚で
あった。1560年、桶狭間で義元が戦死すると家康は独立し今川家を早々と離反し、今川
氏真から怒りを買って自害を命じられる。


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