馬鹿屋朗の頭


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馬鹿屋朗の頭

1: しってらい:11/04/19 22:19 ID:Hs
西から昇ったお日様が 東〜〜〜へ沈む。
それでいいのだ〜〜〜
それでいいのだ   ♪♪♪♪♪♪♪


1801: 名無しさんAA:18/01/30 18:50
 世界新時代−‐‐41   <夏枯れの景気と黄昏の自然------5>

 だがこれに対し、検察側は米軍指導で直ちに最高裁判所へ跳躍上告している。この時
自らに米国で黒人デモ制圧のダグラス・マッカーサー2世にすり寄って意向を問い合わ
せしていた事実が明らかになっている。東京地裁の「米軍駐留は憲法違反」との判決を
受けて当時の駐日大使ダグラス・マッカーサー2世が、同判決の破棄を狙って外務大臣
の藤山愛一郎に最高裁への跳躍上告を促す外交圧力をかけ、最高裁長官・田中と密談し
介入を行なっていた。跳躍上告を促した理由は、通常の控訴では訴訟が長引き、1960年
に予定されていた日米安全保障条約から相互協力の安全保障条約への改定が迫っていた
からだった。社会党などの「非武装中立を唱える左翼勢力を益するだけ」という理由か
ら米軍合憲の判決を出させるよう要求したのである。同事件の元被告人の一人が、これ
に関して日本側における関連情報の開示を最高裁・外務省・内閣府に請求したが、3者
はいずれも「記録が残されていない」などとして非開示決定した為、不服申立した。対
して外務省は「関連文書」の存在を認め、2010年4月2日、藤山外相とマッカーサー大使
が1959年が4月会談について行った故の文書を公開した。ここには田中自身が、マッカ
ーサー大使に「伊達判決は全くの誤り」と一審判決破棄・差し戻しを示唆していたこと
、上告審日程やこの結論方針をアメリカ側に漏らしていたことが明らかになった。又、
末浪靖司がアメリカ国立公文書記録管理局で公文書分析をして得た結論によれば、この
田中判決はジョン・B・ハワード国務長官特別補佐官による「日本国以外によって維持
され使用される軍事基地の存在は、日本国憲法第9条の範囲内であって、日本の軍隊又
は「戦力」の保持にはあたらない。」という理論により導き出されたものだという結論
をだした。当該文書によれば、田中は駐日首席公使ウィリアム・レンハートに対して、
「結審後の評議は、実質的な全員一致を生み出し、世論を揺さぶるもとになる少数意見
を回避するやり方で運ばれることを願っている。」と話し、最高裁大法廷が全員一致で
米軍基地の存在を「合憲」とする判決が出ることを望んでいたアメリカ側の意向に沿う
発言をした。田中は砂川事件上告審判決において、「かりに駐留が違憲であるとしても
、とにかく駐留という事実が現に存在する以上は、その事実を尊重し、これに対し適当
な保護の途を講ずることは、立法政策上十分是認できる」「既定事実を尊重し法的安定
性を保つのが法の建前である」との補足意見を述べている。

1802: 名無しさんAA:18/01/30 18:50
 世界新時代−‐‐41   <夏枯れの景気と黄昏の自然------7>

 竹島に居座り、ウソ情報を吹聴する韓国に向かって、日本は毅然たる態度で挑むべき
で、北朝鮮の前に韓国と対峙して、国交謝絶すべきで五輪参加などあるまじき行為であ
る。「マッカーサー・テレグラム」によれば、竹島が日本領である事、韓国が違法に占
拠している事、米国政府がこれを正常な状態に戻そうと努力していた事が分かる。韓国
を北朝鮮に渡さない為には韓国人が、常識的な道徳のある一般人である事が大事な事だ
そこには、明快に竹島は日本の領土である。といい韓国が違法占拠している形がテロと
同じと指摘し、「独島」なる文字はどこにも書かれず、「李承晩が狂気の振る舞いをし
ており米国が手を焼いている事実」を書いている。又「李承晩が政権に居る以上まとも
な外交交渉ができない上に、李承晩の野蛮な振る舞って、日本の漁船を勝手に公海上で
拿捕している。」と報告している。その数は合計で300隻程度と言われており自らの
漁船として使うための事実上の海賊行為で、その為、日本人の漁師を人質として取って
人質外交を行っていた事実はテロ行為に等しい事なのに日本はなんらアクセスしない。
だから、このまま米国は李承晩以後の新政権に期待するしかない。となっている。この
他の文章も探せばあるだろう。また、それらは、竹島が日本領土である事の裏付けとし
て充分であると思う。韓国ではこの研究で36人の研究者が日本領土の結論を発表した
が、何らかの形で秘密理に暗殺される古文書書類を奪われ焼却されるにいたっている。
日本は、ちゃんと国際法がなんなのか、法の遵守とは何なのかを共産党が裏で暗躍して
いる偽の民主主義の韓国へ北朝鮮の工作員すら退治できない国だ。と思い知らせる好機
である。2012年8月、一国の最高責任者が隣国の最高責任者に出した親書を送り返
す常識では考えられない国だが、こうした日本と日本国民に対する侮辱以外の何もので
もなく「国交を断絶する」という意味でもあるのに、日本国民も韓国民も全くデモして
正義に至っていない。こんな「非礼」「無礼」は聞いたことがない「韓国は愚かだ」と
いうだけだから、その後も慰安婦像など持ち出して 北朝鮮の露払いの国として生きて
いる。北朝鮮は今だに 「韓国だけ戦後補償してもらってこの野郎」とすねているのだ
それに乗っかかって、一緒に犬が吠える様に騒いでいるのだ。


1803: 名無しさんAA:18/01/31 04:46 ID:Ubs
世界新時代−‐‐41   <夏枯れの景気と黄昏の自然------8>

 北朝鮮は、これまでの歴史を見れば、平和攻勢の陰で、常に緊張を高める行動を取っ
てきたという事実がある。1972年に南北共同声明を出し、民族の大同団結、平和統一を
謳っていたとき、38度線を越えて侵略用の地下トンネルを掘っていた。 94年には、
北朝鮮のIAEAからの脱退撤回と、核兵器の開発・凍結・解体に合意する代わりに、
日米韓などは軽水炉型原子力発電所2基と、完工までの間、毎年50万トンの重油の供
給に合意。しかしその間にも、米国の調査で北朝鮮がウラン濃縮による核開発を続行し
ていたことが判明した。今回の合意において、北朝鮮が核ミサイルなどの放棄に応じる
ならばともかく、形ばかりの平和攻勢によって実利を得ようとしていることは、これま
での歴史が示す通りである。今回は特に、核とICBMの完成を間近に迫り、事の完成
を急いでいるだろう。北朝鮮の金正恩委員長は、1月1日に発表した「新年の辞」におい
て「核のボタンが私の机の上にある」と述べる一方で、「平昌オリンピックに代表団を
派遣する用意がある」と呼びかけた。しかし、北朝鮮はどのような目的で、このような
提案を行ったのだろうか。実は文政権は大統領選前から北の共同参加を呼び掛けていて
、このことを呼びかけなければ勝手に自国参加になっていた。此処に北朝鮮の狙いがあ
った。つまり元々この冬季五輪は画策する予定の中なのだ。どうやって北の国内に宣伝
するかの違いだったのだ。文政権が指摘するような平和裏の参加ではない。国内向けの
参加だったのだ。ただ文政権はトランプがあまりにも焚き付けたミサイル開発によって
北からのミサイル発射に怯えて、五輪の平和理の開催をしたかったのだ。北朝鮮は「核
のボタンが机の上にある」というように、核ミサイルの開発・保有という目標は変えな
い。それを実現するための「戦術」を変えてもいない。策中の中なのだ。北朝鮮として
は、「核と、それを米国まで運ぶミサイル、ICBMを保有すれば、米国は北朝鮮の攻
撃を恐れて態度を軟化させるだろう。そして、経済制裁の緩和も勝ち取ることができる
であろう」と考えているのだろう。この動きに合わせて日本は憲法修正する動きである
。つまり、さらに第三項として、日本が攻撃され、国民と領土の安全が脅かされて自衛
に於いて内閣が国軍新設を宣言した場合は一年に限りそれを可とする。などと言った、
条項だ


1804: 名無しさんAA:18/01/31 04:46
 世界新時代−‐‐41   <夏枯れの景気と黄昏の自然------9>

中国の資産運用商品に関する新しい規制が動き始めた。大和総研経済調査部の主席研究
員齋藤尚登氏は1月29日に「理財商品の元本割れは急増するのか。」と題したレポー
トを発表した。2019年7月施行が予定される理財商品等への「剛性兌付」(元金保
証商品)と「資金プール運用」(投機的運用商品)を明確に禁止した新規制に備えて、
中国で起こり得る金融経済の変化に注意を呼びかけた。レポートの要旨は以下の通り。
「中国のシャドーバンキング(影の銀行)は様々なリスクを抱えている。例えば、企業
債の発行主体は、国有企業や地方政府投資会社(融資平台)が中心であり、政府の暗黙
の保証が付与されているとの思惑が、発行体と投資家のモラルハザードを生んでいる。
同様のモラルハザードは、「資産運用商品」にも蔓延している。中国では、基準価格が
開示されるファンド等以外では、元本割れは稀である。と言う。これを「剛性兌付」の
「確実償還」といい、元本+利益保証している。これは「理財商品」がその代表例だ。
「剛性兌付」を可能にしているのが、資産運用商品の資金プール運用であり、それでも
損失が出そうな場合は地方政府や金融機関が補てんする。資金プール運用では、複数の
資産運用商品がどんぶり勘定で一括管理され、一つ一つの商品の収益とリスクが全くの
不明瞭でかつての米国債権と同じだ。資産運用商品の期限は短期のものが多く、運用は
長期債権や中長期の企業債等で行われるため、この資金プールを利用して期限の到来し
た商品から順次償還することが行われる。この為仮に一部の資産が毀損していたとして
も、資金が流入し続ける限り問題は生じない。かつての日本の銀行の不良債権飛ばしと
同じだ。何らかの理由で資産運用商品への資金流入が困難になると、元本割れとなるケ
ースが増大するリスクを抱えているのは当然となる。こうした中、2017年11月に
、中国人民銀行、銀行業監督管理委員会、証券監督管理委員会、保険監督管理委員会、
国家外貨管理局は、「金融機関の資産運用業務の規範化に関する指導意見(意見聴取版
)」を発表した。「指導意見」は「剛性兌付」と「資金プール運用」を明確に禁止した
上に、資産運用商品を予想収益型から基準価格型へ移行し、基準価格管理を行うことを
求めている。従来の主流派である予想収益型では、金融機関には予想収益率を上回った
部分を管理費や仲介業務収入として受け取っていたが、今後、投資収益・損失は全てを
投資家に帰するとし、損失補てんを行った金融機関は処罰される。と変化したつまりは
今後まともな日本の銀行形態に変えると言う物になる。


1805: 名無しさんAA:18/01/31 04:47
 世界新時代−‐‐41   <夏枯れの景気と黄昏の自然------10>

「指導意見」は意見聴取版であり、必要な修正後に正式に発表される見通しだが、施行
は2019年7月1日が予定されており、それまでは過渡期として、既存の資産運用商
品が期限を迎えるのを待ちつつ、新規に発行される資産運用商品は「指導意見」に則っ
たものになっていくことになろう。周小川・人民銀行総裁は2017年10月の第19
回党大会後に、今後一定期間はリスクが発生しやすい時期だとの認識を示し、マクロの
レバレッジの高さ、ミクロレベルの銀行不良債権の増加、債券市場でのデフォルトの増
加、シャドーバンキングの急膨張、違法行為の増加、などのリスクを指摘している。「
指導意見」には資産運用商品の健全化と監督管理強化を通じて、金融リスクの発生を防
ごうとの意図があろう。しかし、「指導意見」が厳密に適用され、特に資金プール運用
が禁止されると、元本割れが急増する可能性が高い。この場合は投資資金の連鎖的な引
き上げにより、企業やプロジェクトが資金調達難に陥り、資金繰りの悪化から企業倒産
が増加する可能性もある。金融システムは不安定化し、突発的な流動性リスクの発生、
さらにはシステミックリスク発生の懸念さえ台頭しかねない状況となろう。当然、中国
政府はこうした状況を傍観するはずはない。現実的には、2019年6月末までの過渡
期を金融機関と投資家の徹底的な啓発のために十分に活用し、監督・管理の強化を段階
的に進め、資産運用商品のリスクを徐々に低下させていくことになろう。と大和総研は
見て居る。つまり今まで証券会社の様な銀行が、日本の郵便貯金の様な普通銀行に変わ
るのだが、その時に利益を目論んで利ざや商品に銀行で投資していた人達や地方政府や
企業がこの先どうなるのか解らない。というのである。今の理財商品つまり銀行外銀行
商品の影の銀行の持っていた資産は2000兆円規模を上回った発行とされ、その中で
600兆円程度が危惧されていたものの、中央政府の支援で何とか450兆円まで赤字
は減ったという。しかしそれでも450兆円の不良資産である。但し地方政府の運用益
が縮まっても、税収の落ち込みが無ければこれまで3〜5年間で150兆円減っている
つまりその4倍の期間を取れば軟着陸する事にはなる。ちなみに中国はGDPは日本を
超えて900兆円政府貸出2100兆円と言われている。これに500兆円足しても、
2600兆円である。日本は2800兆円の債務である。つまりあんまり変わらないと
言う事だ。EU17ヶ国では550兆円の債務であるEUでは1400兆円のGDPで
中国は自称900兆円で日本は530兆円程度だ。ただ日本の対外資産1000兆円は
生きてるらしい。今後中国の5%成長なら日本の1〜2%成長よりいいだろう

1806: 名無しさんAA:18/01/31 04:47
 世界新時代−‐‐41   <夏枯れの景気と黄昏の自然------11>

 しかも、GDP成長率が7%を超えていると中国政府が公表しているにも拘わらず、
ここ数年は一貫して内需が縮小している異常さで、去年は輸出も横ばいで成長してはい
ない、今年は公共事業も建設投資も資金不足で減少してしまうので、GDPは成長不可
能とされる。更にGDPが自称900兆円は、信じ難い数字で、せいぜい500兆円程
度であろうと見られ、国で貸出総額が2100兆円にも成り得ないといわれる。更に今
回AIIB(アジアアフリカインフラ投資銀行)をよびかけ1千憶ドル=100兆円を
譲り受けて 投資あいて国の工事による海外資産を持つ事に乗り出している。足元の中
国経済がモメンタム(勢い)を失っていることは明らかだ。3月5日に開幕した中国人民
代表会議で、経済担当の李克強首相は「中国経済の下振れ圧力は増している」と危機感
を表明している。中国経済の急減速の背景には、従来の輸出と投資に牽引された経済構
造が行き詰まっていることがある。2008年のリーマンショック以降、世界経済は低迷状
況が続いており、中国の輸出の伸び悩みが鮮明化しているのだ。輸出が鈍化し、国内の
個人消費は期待されたほど伸びず、中国経済の中に強力な牽引役がない。それに加えて
、2009年の円換算で70兆円を超える大規模な景気対策の後遺症で、中国経済全体に過剰
な供給能力が残っている。特にGDPの成長率に関しては、主に中国国内の電力消費量
や、鉄道輸送量などを参考にして中国経済の状況を判断する専門家が多い。昨年の電力
消費量の増加率は、前年対比 +3.8%台に低下している。また、鉄道輸送量は前年対比
でマイナスと見られる。それらの数字から浮かび上がる景況感はかなり落ち込んでいる
。一部の専門家は、「中国の成長率は公表数字の半分程度の3%から4%台だろう」との
見方もある。リーマンショック以降に実施した大規模な景気対策の後遺症とも言える。
当時の胡錦濤政権は景気を浮揚するために、総額4兆元(約76兆円)の刺激策を実施し
たが、結果、中国経済は大きく盛り上がり、世界経済の失速を軽減する役割を果たした
。しかし、世界経済も中国経済も現実的損失の穴埋め投資であり、減速は起こる。それ
は世界経済の失速と共に付随した各国の消費低下と中国製品の輸出の低下を招いた。北
朝鮮の常に戦争に備えている国が、核兵器の刃を米国やその同盟国に突き付け、核ミサ
イル開発に執拗に専念しているのは、韓国の景気減速と同じ様に中国景気の影響を受け
ている事にある。彼らも又他の国以上の経済の恩恵を受ける為の脅迫の武器が欲しいの
である。アメリカやロシアと同じ様に。そしてこの苦境に中国はペテンで乗り越えよう
とAIIBを発足し、どこかのマルチ商法の企業の様に一帯一路の説明会を開いたのだ

1807: 名無しさんAA:18/01/31 04:48
 世界新時代−‐‐41   <夏枯れの景気と黄昏の自然------12>

 この流れが、恐らく今後の世界の展望だろう。何があっても何処かの国の対策に頼り
切る社会だ。今出生率の一番低い東京に若者が溢れ、一極集中して地方の7割が関東に
人を送り出している。そして託児所がないなどと騒動している。この馬鹿げた騒ぎを、
田舎に残された老人は、平気で田舎の赤字の市町村の税や行政サービス受けて介護施設
で呆けたまま口を開けて食事を受けて居るのである。国際社会が 今だに大航海時代の
海賊の様に、何処かに我々を金満家にしてくれる金貨や財宝があるのではないかと、血
眼で探している結果が、これまでの911やアフリカ革命やシリア紛争である。これで
何が起こったか。自爆テロと言う宗教観念の無い戦いを覚えたイスラム教集団を作った
だけで、何も変わらない。アメリカはロシア取り囲んでも、中国が先進国の技術を受け
ても、国民は虐げられ共産国が自由主義国家にはならなかったし、自由主義国家の横暴
な作法は止まらない。何処かの国が伸びればそこに乗っかって経済浮揚を求め、その事
でおこぼれがあればハイエナの様に餌に近づくし、紛争や戦争には恐る恐る国際社会を
観ながら兵器を売りつける。自由主義社会では、平和の中で兵器産業は大きくなれない
。と言って国内の兵器製造を止める訳にいかない。と言う訳でトルコのエゴイズムに、
最新戦車をドイツは売ったのである。恐らく今後、百年もせずして地球上に生物は居な
くなる可能性があるAIがはびこるだろう。通貨は仮想マネーであり人々は生活実態と
外れたアメリカ型社会に変化する。日本の風景は稲刈りの終わった風景は、今や東京の
ビルの連立する風景に変わった。アメリカの農村も機械化した大地は今や干ばつで追わ
れている。切り開かれた台地は一戸建てが所狭しと並ぶ。山からのダムの水が飲料水と
なるところだけの街だ。当然である。大型機械で圧縮された土に水を吸う力などない。
完全に文化が農業と都市に分かれた生活だ。だが問題はこうした問題を抱える民主主義
を尻目に軍事政権に巨大な支援を行う中国のやり方だ。中国資本でアメリカの技術をそ
のままにカンボジアやタイ、ベトナム更にミャンマーと次々に何も言わず投資を続けて
いる。つまり日本が支援し発展させた都市を乗っ取りにかかっているのだ。民主主義と
言う枠のない支援は、スリランカの負債トラップの様に各国に容赦ない投資をしている
総債務は6兆4千億円、全政府収入の95%が、借金の返済にあてられている。現状だ
。中国だけで借入8千億円「完済に四百年かかる、非現実的だ。」と財務省は嘆く。ハ
ンバントタ港マッタラ国際空港コロンボ港大型港湾都市と国内の鬼城建設そのままを輸
出しているのである。国内で紛争は困るが、海外では今度は兵器も売れ占領できると解
放軍幹部が笑った。かつての欧米列強のユダヤのやり方を共産主義が真似たのである。

1808: 名無しさんAA:18/01/31 04:48
 世界新時代−‐‐41   <夏枯れの景気と黄昏の自然------13>

 いつでも攻撃できると威嚇する国。多くの人々が北朝鮮と中国が一蓮托生と知ってい
る。ミサイルの発射や核弾頭、大規模な軍事パレード。そして、金正恩朝鮮労働党委員
長の絶対的な権力と同じ中国共産党主席の権力だ。人民抑圧のそうした動きの背景には
、中国の人々が、中国経済の異変と、それに続く社会全体のリスクの高まりを敏感に受
け止めざるを得ない国民性がある。中国企業とは言え国有公社と同じく共産党政府との
繋がりが無ければ何一つできない政府の出先機関なのだ。当然軍の意向がはいる政策だ
。一帯一路は習主席の発案ではない。習政権と言う共産党方針のかき集めたスローガン
である。中国人の留学生が、「中国の歴史は三千年の歴史と言っても、支配者である王
朝の衰退と、それを倒して一から新しい王朝を作る流れでしかない。」と言っていた。
そうした闘争していく野心とそれを逃れるずる賢い知恵が延々と続いてきた国だ。とい
うのである。日本の様に千年も二千年も国内で秩序を築いて来た和の国ではないと言う
事だ。中国は、その流れを四千年以上にもわたって行ってきた民族だ。百年やそこらで
、その歴史の流れが変わることはないだろう。と彼らは言う。だからアメリカ出産ツア
ーは米国の当局が一斉に取り締まりを実施したとのニュースも出る程だと説明する。盛
況で意図するところは、「共産党政権がいつまでも続くとは考えていない。いつかまた
新しい仕組みができる」と考え時の混乱や紛争に備えているというのだ。そうした理由
でオーストラリアやアメリカ・カナダなど多くの住まない住宅地を買っていると言う。
北朝鮮の人々は、朝鮮戦争は米国が始めたものだと教えられる。これは、その逆を主張
する西洋の歴史家の考え方とは対立している。或る時少年がゲームをしていて米国記者
が尋ねた。「ゲームのどんなところが好きか」と、北朝鮮の少年は即座に答えた。「敵
を殺害することだ。」と。記者は「敵」は誰なのかと尋ねると、その答えは、ぞっとす
るものだった。「米国人」と米国人記者に答えたのだ。少年は記者に対し、自分と友人
はいつか朝鮮人民軍に入り、「不倶戴天の敵である米国」と戦いたいと言った。「米国
は無理やり北朝鮮に侵攻してきたし、そして、北朝鮮の人々を殺害した」と少年は述べ
た。少年の友人が言葉をはさみ、「北朝鮮の人々は生きながら埋められた」と述べた。
最初の少年はすぐさま「北朝鮮の人々を生き埋めにして殺した」と言った。中国内での
抗日ドラマをみて「愛国抗日」を叫ぶ青年が日本車を燃やしたのと全く同じなのだ。又
「独島我国」と叫ぶ韓国の年寄りとも同じである。そう呼ばないと暮らしていけない中
で生きて来て 全くの嘘を、疑う事も自分の中で許されない神経ができていたのである

1809: 名無しさんAA:18/01/31 04:49
 世界新時代−‐‐41   <夏枯れの景気と黄昏の自然------14>

 ところが、この中国の詐欺商法はイギリスが香港返還する前からだから既に30年も
前からである。香港返還は、香港人に対して住民投票もなく勝手に返された近代の英国
の横暴である。1997年に、香港の主権がイギリスから中華人民共和国へ返還、再譲渡さ
れた出来事である。99年契約で第1次アヘン戦争で一部割譲された後、第2次アヘン
戦争で(アロー号事件)で北京で講和条約により香港島占領そのままに清王朝から租借
されてイギリスの統治下に置かれた物だった。太平洋戦争が勃発により日本軍が香港を
占領したが敗戦により強制的に英国のものとなった島だ。従って本来は日本政府も返還
するならば台湾に返還せよと言うべき所の筈が日本政府は何もしなかった。イギリス側
は「1997年問題」の重要性を説き続け、1982年は首相マーガレット・サッチャーが訪中
し、ここに英中交渉が開始され、サッチャーは香港の統治を継続できるよう求めていた
が、中国側は「港人治港」を要求してこれに応じず、ケ小平はサッチャーにイギリスが
どうしても応じない場合は、武力行使や水の供給の停止などの実力行使もありうる。と
示唆して動かなかった。当初イギリス側は租借期間が終了する新界のみの返還を検討し
ていたものの、ケ小平が香港島や九龍半島の返還も求めた上で実力行使を示唆してきた
ためイギリス側が折れた恰好となり、1984年12月19日に、両国が署名した中英連合声明
が発表され、イギリスは1997年7月1日に香港の主権を中国に返還し、香港は中国の特別
行政区となることが明らかにされた。中国政府は返還に際して、ケ小平が提示した一国
二制度(一国両制)をもとに、社会主義政策を将来50年(2047年まで)にわたって、
現状維持し香港で実施しないことを約束したが、この発表を信じない香港民は、すぐに
英国に反対声明を出した。この中国共産党の一党独裁国家である中国の支配を受けるこ
とを良しとしない香港住民を不安に陥れ、イギリス連邦内のカナダやオーストラリアへ
の移民ブームがその後に起こった。1963年・東京都生まれの日本人吉田一郎が九龍城砦
に住んでいた。小学4年生の頃に新聞係になって、中学・高校・大学と新聞部に所属し
ジャーナリストを目指し、当時イギリス領の植民地だった香港に興味を持ちへ留学して
いた。香港中文大学に在籍しつつ、日本語学校でアルバイトをしていたが、4分1の家
賃の安さに惹かれて大学卒業後に香港の新聞社に勤務しても九龍城砦に住み続けた。や
がて雑誌の編集長として1997年の香港の返還に絡んで、自治権の拡大や民主化を報道す
るようになったが、返還後には突然排水講を塞がれてしまい水が溢れて住めなくなった

1810: 名無しさんAA:18/01/31 04:49
 世界新時代−‐‐41   <夏枯れの景気と黄昏の自然------15>

 こうして埼玉に住みさいたま市議になっている人なのだが、彼のワークに飛び地であ
る本国と離れた植民地の現状を研究している。中でもホームランド政策をこの頃扱って
いる。ホームランドとは、南アフリカの占領政策に反対され、自由主義の住民投票によ
る運営方法を考えての越境支配政策である。南アフリカにおいて戦後に白人が増えたと
は言え資本の9割を占めながらも1割しか白人は住んではいない。そこで各地に住む部
族認定した自治を認めた小さな国を作った。国連や国際社会では認定されない国だが、
その小さな国の黒人達の住所として、白人で南アフリカを維持しようした植民地代用政
策である。少数派の白人が、圧倒的多数派の黒人を支配するために起こった、アパルト
ヘイト(人種隔離政策)を実施していた南アフリカだが、その究極とも言える手段 が、
外国化のホームランド(バンツースタン)の設置だ。こうした黒人部族ごとに作った国
ホームランドに所属させ、それぞれのホームランドを南アから独立させて「外国」にし
てしまうというもの。こうすれば黒人は「外国人」になるから政治的権利を与えなくて
もよく、南アで働く黒人は外国人の「出稼ぎ労働者」になるから、労働者としての権利
を制限しても、社会福祉を保障しなくても構わないことになる。ホームランド政策は、
もともと白人が土地を奪うために始まった。南アフリカ連邦が1910年に成立した後
、13年に原住民土地法が制定され、黒人の所有できる土地は指定の居留地に限られた
。こうして人口の8割以上を占める黒人は、国土の13%に過ぎない土地しか持てなく
なった。こうして戦後、南アの白人政権は黒人居留地をホームランドに発展させたのだ
った。ホームランドはバンツースタン(バントゥースタン)とも呼ばれたが、これは南
アの黒人はほとんどがバンツー系民族なので、「バンツー人の土地」という意味でバン
ツー政策ともよばれた。元々南アフリカの先住民は、サン族(ブッシュマン)やコイ族
(ホッテントット)でバンツー系民族はもともとナイジェリアやカメルーン周辺の民族
だ、3000年前から南下を開始し、南アフリカには4〜5世紀にやって来たと見られ
る。1951年のバンツー統治機構法で、黒人を南ア政府が認定した「部族」に分類し
、居留地を部族ごとに割り振って、地域統治機構という黒人による行政機関を設置した
。地域統治機構は教育や医療、道路整備や住民サービスなどを管轄して、部族を率いて
いた伝統的な首長たちが委員に任命された。いわば地方自治体を設置して、黒人にも一
定の権限を与え、自分たちが住む地区の行政に参加できるようにするとともに、白人が
支配する前から存在していた首長たちの地位や権限を法的に認める形にもなったのだ。
戦時中、中国人が奴隷として一度送られ返されたが、これを真似たのが自治区である

1811: 名無しさんAA:18/01/31 04:49
 世界新時代−‐‐41   <夏枯れの景気と黄昏の自然------16>

 今中国が目標としているのはこのホームランド政策であり、少数のユダヤがアメリカ
を牛耳って、経済や金融しはいで軍事以外の国民生活を人質にいいように動かして行く
道で日本国憲法の希求する平和な世界とは程遠い理想像だ。南アフリカも59年のバン
ツー自治促進法で、ホームランドの権限を拡大し、ホームランドでは首席大臣が首相相
当で選出され、行政評議会を内閣として置き、立法評議会と言う国会相当が設置された
一応の民主主義体制に置いた。こうして立法評議会議員の一部は黒人住民による選挙で
選ばれ、黒人にホームランドでの参政権を与える形にはなった。しかし日本と同じくに
軍隊も待たず、更に日本より遥かに低い識字率のまま、更に全く経済力も自給力もなく
立っていくことは不可能で、学校などの教育機関の設置や人口密度の高い中インフラす
ら整えられない中で暮らしているのである。どんなに協議を重ねても食糧すらままなら
い国では権利がない移民となるしかないのが現状であろう。これと同じにウイグル支配
を中国は行っていた。ところが突然石油社会に代わり石炭からの移行で重要経由地点に
代わったのだ。この欧米思想はそのまま中国で更に深刻な人類の醜悪として発展した。
それが他人の褌で相撲をとるAIIBの経済強力と言う詐欺で植民地化する外交に結実
しているのだった。スリランカ政策の前に、食糧自給に乏しい中国はオーストラリアを
反対派の乗客を飛行機を落とす工作までしてオーストラリア支配の戦略を行った。そし
て米国が元紙幣を解禁するや否や、美人スパイや賄賂によるオーストラリア議員を作り
支援や縁戚の形で次々と中国寄りの人間を作った。そしてオーストラリアの首相にター
ンブル氏が就任させた事で傀儡政権を作った事で 直ぐに中国の手がオーストラリアに
伸びた。国内から、「中国寄り」と懸念されていたが親族に中国共産党幹部がいる事で
、中国資本を取り寄せ、中国政府のブラックドア政策のサイバー空間支配の網にかかっ
て、豪州国内の情報インフラであるブロードバンド網構築に、中国企業を参入させよう
とした。又北部のノーザンテリトリー政府は2015年10月、中国企業の嵐橋グルー
プに約5億豪ドル(約440億円)でダーウィン港を 99年間リースする契約に調印し中国の
豊富な資金力を活用した、港湾施設を近代化に着手させた。ダーウィン港は西側軍事拠
点で毎年100隻以上のアメリカや友好国の軍艦が寄港し オーストラリア軍との合同訓練
などのために使用している。ここを中国が管理することになった。これにアメリカ海兵
隊やオーストラリア軍からは深刻な警戒の声が上がったぐらいだ。

1812: 名無しさんAA:18/01/31 04:50
 世界新時代−‐‐41   <夏枯れの景気と黄昏の自然------17>

 シンクタンクであるオーストラリア戦略政策研究所(ASPI)によると、契約を果た
した嵐橋グループは、近々の中国共産党と関係が深い組織である。2014年に嵐橋集団の
内部にわざわざ人民解放軍の支援を得た「人民武装民兵部隊」が設立されて日本への、
武闘民間漁船を操り尖閣や八丈島沖に配置させる程だ。オーストラリアの「捕鯨反対」
のシーシェパードが「抗日戦線」を掲げ漁船民兵を持った様な物を統括する集団である
。こうした情報から、ASPIは政府に政策の再検討を求めている。だがこの表明での
後は、ASPI職員は原因不明の事故死を遂げ暗殺されている。他に情報を懇意に教え
ていた書道家や太極拳クラブの乗った飛行機が墜落したり行方不明したりも 頻繁に起
こっている。人民解放軍の工作員の関与がその裏にある事は間違いない事実だろう。そ
の恐ろしい実態の裏こそこうした国策の実行にあったのだろう。国が推し進める「海の
シルクロード」の拠点の一つに、ダーウィン港が組み込まれる可能性が高くなっている
が、組み込まれなくとも兵器仕様や情報通信や極秘資料が易々と見れる事には、日本の
防衛庁幹部の情報リーク事件からも大いに中国の意図するところである。対し安倍晋三
首相はアジア開発銀行(ADB)と連携し、アジアのインフラ整備に今後5年間で、現在
の3割増しの約1100億ドル(約13兆2000億円)を投じることを表明した。馬鹿な日本政府
の「中国を脅威としない」とした親中派の中国発展に寄与したムダ金の至りである。二
階堂を始め小沢などの馬鹿ぞろいの政策で日本は大きく損失している。民主主義を標榜
するのもいいが、自民党の中で「日本政府の未来や孫の世代の日本」をどう描いている
のか、日本の現状をなぜ戦後時代より悲惨な格差社会の出現と思わないのか。政策の大
きな間違いである。まず地方自治体の完全独立負債ゼロを指導すべきが、逆に小泉馬鹿
が広域合併を斡旋したのだ。東京都内で開かれた国際交流会議で首相は、「長い目で見
て質の高いインフラをアジアに広げていきたい」と発言。演説中、「質」という言葉を
7回使用し、アジア投資における質の重要性を強調した。1100億ドルの内訳は、(1)ADB
の融資枠で約 530億ドル(約6兆3600億円) (2)国際協力機構(JICA)の投融資や無償資金
協力で300億ドル超(4兆円超) (3)国際協力銀行(JBIC)などの出融資で約200億ドル(約2
兆4千億円)――と見込んでいる。としている。全く間違えている。まず韓国と中国と手
を切り中国の融資先を離れて共同開発はしない事を明言すべきだ。その上でまだ無人の
地に日本語日本思想日本文化を定着させるべきでそれがロシアや北朝鮮でもいいのであ
る。更に日本国内の不摂生な文化の一掃とちゃんとした官僚指導を行うべきなのだ。

1813: 名無しさんAA:18/01/31 04:50
 世界新時代−‐‐41   <夏枯れの景気と黄昏の自然------18>

 しかしこれまでも、アフリカ諸国をみても中国資本(AIIB)から投融資を受けた
国は、次第に貧困化して中国の植民地と化して紛争の原因になりかねない。現に中国の
進出を許したアフリカでは、中国はアフリカから原油や鉱物、食料などの資源を大量に
購入し、兵器を売りつけその武力をバックに賄賂で傀儡化させ、中国人がインフラ整備
を行い、中国産の工業製品などを売りつけて手際良い日本の数十倍の高利益を得て本国
に送っている。これでは、その国に産業も雇用も生まれない。中国紙・参考消息電子版
によると、中国の工業化は長年にわたって豪州経済を支えたが、その中国は徐々に消費
主体の経済成長へシフトさせ、豪州もその対応を迫られていると指摘している。豪州の
分析より先に行った視感である。オーストラリア準備銀行は、中国の食料品やエネルギ
ーなどへの需要は鉄鉱石の輸出鈍化の一部しか相殺しない。これまで豪州経済を支えて
きた鉄鉱石輸出に代わる経済成長の新たな原動力を必要としているが、中国が阻害する
。と見て居る。先進国の中で最も中国への依存が高い豪州は変化への対応が難しいのだ
。英保険会社は、鉱業投資が減速した際には不動産投資でつないできた。現在直面して
いる問題は、今後どうすればいいのか分からないということだと指摘した。財政縮小し
て、豪州は世界的経済衰退の影響状態にある。豪ノーザンテリトリー州が99年にわたっ
て州都ダーウィンの埠頭使用を認める 約5億オーストラリアドル(約433億円)規模の
契約もその為起こっている契約だ。中国の嵐橋集団は山東省日照市拠点のエネルギー、
インフラ産業の民間企業だが、解放軍繋がりで漁船団にも石油供給を行っている。向う
25年で2億オーストラリアドル(約173億円)をこの港湾に投じ、中国とオーストラリア
間の貿易、観光を促進したいとしているがこの嵐橋集団は解放軍本筋の隠れた中国の実
行部隊だ。アメリカのウェブサイトは、中国のオーストラリアへの投資額が米国に次ぐ
2位になっており、同国で最も人口の多いニューサウスウェールズ州では、中国からの
投資が7割を超えると報じた。この中国人投資家達がオーストラリアで最も有望視して
いる投資先はインフラと事業用地だと伝えている。実は中国では海外の粉ミルクが人気
を集めて海外ブランドが多く中国市場に進出していた。だが「偽物の横行が原因」で、
ニュージーランドの「Karicare」が中国市場から撤退すると発表し、環球時報は「中国
の偽粉ミルクが海外ブランドを追いやる?」と題し伝えている。つまり偽物横行でこの
オースラリア乳製品もあまり良くなく、今や牧場ごとその偽物を煽った集団が爆買いし
てきている状態だ。つまり今や日本人より高い人件費は管理も規格もルーズな企業によ
って占められ、日本のお馬鹿コンビニ群もその毒入り食肉を買い付ける始末なのだ。

1814: 名無しさんAA:18/01/31 04:51
 世界新時代−‐‐41   <夏枯れの景気と黄昏の自然------19>

 契約から過ぎた今も騒ぎが収まらないダーウィン港問題だが、ロシアメディアは米国
の「考えすぎ」と一蹴。中国企業と契約したのはあくまで地方政府であり、国家安全に
関わるようなことは豪政府が許さないはずだと分析している。と伝えている。だがこれ
は単にロシアの三国干渉に過ぎない。日清戦争で日本が勝って、日本と清の間で結ばれ
た下関条約に基づいて、日本は遼東半島を清から割譲された。しかし、その後その交渉
に水を指し、仏英と共清に返還する事をロシアが強く求めた。求めに応じた後はその後
日露戦争が示すような自分達は日本海西岸を割譲してウラジオストックを割譲して西清
鉄道を敷設し旅順港を占領し着々と要塞化を図って日本侵略まで備えようと対馬占領ま
で行っていたのである。西洋の狡猾な嘘つき戦略だ。だがそれを今中国共産党は真似て
逆襲している。 2016年1月25日、英紙フィナンシャル・タイムズでは、中国製の安価な
違法ドラッグが世界各国で蔓延していると報じた。環球時報が伝えている。記事による
と、このドラッグは「フラッカ」という名で、一つ 5ドル(約600円)程度で手に入る
ことから「5ドルの狂気」などと呼ばれる。コカインなどの十数分の一という安い値段
だが、使用者には幻覚や奇行などの強い作用が表れる。この「フラッカ」はネットなど
を通じて簡単に購入でき、中国の違法な製造元から「研究用化学物質」などとして、簡
単に敵国の闇世界に空輸便で送られ、米国や仏国、豪州、英国、日本で出回っている。
フロリダ州での「フラッカ」が絡む刑事事件は、2011年には1件だったが、昨年は同州
の1地域だけで2000件に上った。米国内では、すでに多数の死者も出ている。そして、
米国を介して世界各地にも広まっていると見られる。中国は昨年10月に「フラッカ」の
禁止を正式に発表しているが、事態は収拾していない。記事では、世界にまん延してい
る中国製ドラッグは「フラッカ」だけではなく、豪州では今月に入ってからも中国から
送られた貨物の中から 500キロに及ぶメタンフェタミンやエフェドリンといった薬物が
発見されていると報じている。こうしてまともな国民社会が今や崩壊させて世界戦略を
計画しそれは中国中央政府よりは地方政府が遥かに活発に動いている。ロシア政府は、
その闇社会をも知っていながら こうしたコメントを出している。中国の地方政府のこ
の行動は多分ロシアの望むところで中国の習政権はその危機を察して今や一極集中政権
に変えたのであろう。勿論日本のような愚衆多意見がいいのか、共産圏の持つ独裁国家
がいいかは分かれ、特に日本人は日本がいいと高慢にも思っている。しかし今回の安倍
政権の失政や全く抜けないお友達内閣の論議から言えば 決して良くはない又議員達の
視察旅行に日本の危機感など微塵もみられないのは確かだ。

1815: 名無しさんAA:18/01/31 08:51
 世界新時代−‐‐41   <夏枯れの景気と黄昏の自然------20>

 一方、昨年12月に中豪自由貿易協定(中豪FTA)が発効して、オーストラリアの
農業分野に対しても中国人投資家の熱い視線が注がれるようになっている。先月には25
の酪農場と3万頭の乳牛を擁するオーストラリア最大の酪農企業「Van Diemen’s Land
Co.」(VDL)が中国企業によって買収されることが決まった。さらに中国企業はオー
ストラリア各地の酪農場を買収する動きも見せている。こうした中国人投資家たちによ
る農地の「爆買い」に対し、オーストラリア住民では反発の声も上がっている。ビクト
リア州のある農場主は、外国からの投資に対して厳しい規制をかけるべきだ」と主張し
、「農業の根っこはオーストラリア人の為にに残して置かなきゃ…労働者のことを言っ
ているんだ。それだけじゃない。農地は我々が子どもを育てる良い環境でもあるんだか
ら」と述べている。つまりこれは日本政府がちゃんとオーストラリア政府にFTA批判
を行わなかったからだ。中国がどんなにむくれようが批判しようがちゃんと国際社会に
正義を問い貫く姿勢がなければ他国が疲弊する。我々が核を何故持つに至っているか、
何故戦争を起こし数々の悲劇を歴史に残したか。この理由を基にちゃんと表明すべきで
ある。その為第2次世界大戦後、朝鮮半島はドイツと同じに、旧ソ連が社会主義国家の
北朝鮮を作り、米国が韓国を作った。もし米国が支持した民主国家のが北朝鮮であった
なら随分と違っていた筈だが、韓国とに分断された。それ以降、北朝鮮での生活は以前
とは異なったものとなった。日本が資本投下して一番工業化していたのが北朝鮮であり
民主主義に近かったのだが仕方がない。前近代的な習慣が残る韓国に醜悪な李承晩政権
を打ち立て、以降赤狩りと称した100万人規模の親日家を密かに惨殺処刑した。この
歴史の流れは仕方ない地政学的環境だろうが米国は間違えたのだ。この大国主義こそが
アメリカの過ちでありもっと言えば、日本をわざわざ戦争に巻き込んだ政策こそが、今
の北朝鮮の恨みである。なかでも1950年代以降に生まれた北朝鮮の人々は米国人に
対して憎しみを教育される。教育によって「約300万人が犠牲になった、そしてその
多くは民間人だったとされる、3年間にわたる朝鮮戦争」の紛争によるものだったと教
え込まれる。韓国ではより以上の処刑がなされたのだが。北では日本が置いていた残置
諜者の兵士も世代が代わったはずで、恐らく日本歴史は消え尊厳も尊重もないだろう。
これも又日本政府の馬鹿さである。中国や韓国以上に北朝鮮と早く国交回復すべきだっ
たのだ。ただ馬鹿な米国の作ったとんでもない韓国政権と、共産党ロシアから支援を受
けた金政権を受けた馬鹿な北は、共にに権力に固執して統一しょうと武力で戦った。東
西ドイツ人より遥かに下等な民族であった証しがそこあるのだろう。

1816: 名無しさんAA:18/01/31 08:52
 世界新時代−‐‐41   <夏枯れの景気と黄昏の自然------21>

 日本の歴史では今でも公式に仏教や弥生人たちが朝鮮半島からやって来た。稲作文化
は半島から博多に来たと信じられている。だがこれは全くの嘘であろう。近代の人類学
や遺伝子科学の分析では恐らくベトナムや台湾少なくとも中国の雲南あたりから、熊本
や鹿児島に弥生人はやって来ていた。と言うのが今や色んな科学で証明され定説になり
つつある。事実中国の文明の発祥は黄河文明とされるがそれより早く揚子江文明とも言
える長江文明を築いていたと言うのが定説となるだろう。というのも荒くれる飲めない
黄河の水より豊かな国土を築く長江の方がいきるのに簡単だったからだ。四川省あたり
に産まれたであろう長江文明は彩陶文化とされるがその民族は今まで不明だった。1973
年・1978年の発掘調査で発見された浙江省余姚市の河姆渡遺跡(かぼといせき)により
、これまでの黄河流域発祥説は覆される。河姆渡遺跡は紀元前6000年から紀元前5000年
頃のものと推定され、大量の稲モミなどの稲作の痕跡が発見された。稲作を行っていた
事からその住居は高床式であったのだ。従って筑後地方に紀元前600年頃水田神社の
近くが大きな稲作地帯であった事が証明された形で下妻上妻という對馬国の跡である。
と言う説は大きな意味を持つ。こうして悲劇の民族・イ族が探し出された。河姆渡遺跡
を発端とする長江流域の遺跡群は、従来からの文明の概念の、西欧が築いてきた文明体
系とは全く相容れなくとも、多様で豊かな文明が世界には存在したことを知らしめた。
この長江流域に現れた都市集落は、“稲作”農耕文化を基盤としていた。しかも文字も
金属器も持たなかった。しかし、その構造物は、城壁や稲作儀礼を行ったであろう祭壇
を備えるなど、長江文明と呼ばざるをえない規模を有していた。縄文人は弥生人のから
の水田稲作は受け入れなかった。とされる。だが水陸未分化の粗放稲作(低湿地に種籾
を撒くだけの稲作)や焼畑を含む畑稲作は取り入れていたことが、最近のプラントオパ
ール分析などで明らかとなっている。縄文人には先祖からの知恵のいっぱい詰まってい
て、これまでの伝統的な生業−採集・狩猟・漁撈活動−をして、当時豊かな生活を保障
してくれていた。それをわざわざ捨てるような危険を犯すはずがなかったことは当然で
ある。イ族は南詔王国を建国した烏蛮族が先祖とされ中国西部の古羌の子孫であると言
う。古羌は、チベット族、納西族、羌族の先祖でもあるといわれる。ベトナムラオスな
ども同じと思われる。イ族は南東チベットから四川を通り雲南省に移住してきており、
現在では雲南に最も多く居住している。精霊信仰を行い、ビモという司祭が先導する。
道教や仏教の影響も多く受けた生活を今も行う少数民族のようだ。


1817: 名無しさんAA:18/01/31 08:53
 世界新時代−‐‐41   <夏枯れの景気と黄昏の自然------23>

 イ族のしきたりでは、同族の農奴と奴隷の3階層は、決して外に出る自由や権利を持
たず、貧苦の生活を強いられる。もし逃亡したり反抗すれば、目をくりぬいたり、鼻を
そいだり、生き埋めにするなど、非常に残酷な刑罰を受けた。江戸時代の日本の越境罪
人と同じである。それだけ管理せねばいけない家長制度の時代だった。だが彼らにも、
戦さや、人口減少の時もあった。その為成人過ぎれば女達は共同生活の家に集団生活さ
せられ、未婚の男を自由に出入りさせたり、年一回の乳取り祭りをして出来る限りの、
自由な結婚環境を作った。第二次世界大戦では日本の南下作戦の時、この辺は従軍する
部隊で溢れた。山と山間の部隊行進にわかれ為山間の部隊は、彼らの部落に食糧の供給
を求めて来たと言う。シャン老人の話ではその後の八路軍や日本陸軍のしんがり部隊は
幾つもの村を襲っている。この時根こそぎ日々の食糧を取られた村や虐殺された村もか
なりあったと言う。実は日本が南進路線を取る前から蒋介石と連合国は日本攻撃をして
いた。ドイツの戦術が中国軍に上海攻撃を指導したのは彼が連合国のスパイだったから
だ。既に宣戦布告して真珠湾攻撃する一年も前から、米英仏の連合国は中国に最新鋭の
戦車や戦闘機を送り込んでいたのである。国際法の『中立条約』に違反し、中国軍に2
つの援蒋ルート(南部仏印とビルマ経由)を使って、イギリスと共に戦闘機・戦闘車両・
重火器を含む軍事物資を大量に送り込んだばかりでなく、空軍兵士(フライング・タイ
ガース)までをも送り込み、日本軍機と戦闘を行うなどなど、日本軍とは交戦状態で、
戦争を起こしていたのだ。昭和20年12月、アメリカ上下院合同調査委員会で、陸軍
参謀総長ジョージ・マーシャル大将は、共和党H・ファーガソン上院議員につぎのこと
を認めた。「アメリカ軍人は、日米開戦前、すでにフライングタイガー社の社員に偽装
して中国へ行き、戦闘行動に従事していた。」と証言している。つまり陸軍が南下する
頃は、1941年春、米国防総省の承認のもとに空軍基地から集められた戦闘機パイロ
ット259人による正規の「エリート空軍部隊」をタイガース社の社員として極秘に送
っていた事が、その後生き残りの100人が正規の軍人出ない為身分保証の為の裁判を
起こされて、戦後に軍人だった事が明らかになった事がロサンゼルス・タイムズ紙が報
じていたのだ。、「フライング・タイガースは大統領と米軍中枢の承認を受けている」
との米陸軍航空隊ヘンリー・アーノルド将軍のメモ(1942年)も見つかった。

1818: 名無しさんAA:18/01/31 08:54
 世界新時代−‐‐41   <夏枯れの景気と黄昏の自然------24>

 こうした事の理由が、飛行機を送ったが中国軍に乗れるものが居なかった為と思われ
る。だが、その後も昭和16年年7月23日、ルーズベルト大統領は、陸海軍長官の連
名で(7月18日付)提出された合同委員会の対日攻撃計画書『JB355』にサイン
をして。この350機の戦闘機と150機の長距離爆撃機を中国に供与したものを中心
に、中国基地から神戸、京都、大阪の三角地帯と横浜、東京地区の産業地域を爆撃し、
日本民族殲滅計画の中核にいた事が明らかになっている。表面上は中国空軍にやらせる
計画となっての偽装作戦だったが、中国からの物資輸送の商船は次々と沈没はさせられ
ていたのだ。民間船の攻撃は米国はどんどん戦前からやっていたのである。その中国空
軍の中枢のフライング・タイガーズが実働部隊と決定されており、アメリアからの増強
要員が既に中国軍に送られていたのだ。だが、欧州での活発なドイツ軍の侵攻により見
送られたが、その命令はその後も有効と判断して空襲や原爆がなされたのだ。つまりは
トルーマンがサインしようとしまいと米軍は既に日本攻撃に走っていたのである。よく
教科書やTVは、12月8日の真珠湾攻撃を戦争開始と説明し、油や物資が止まったか
らと説明され、今でもアメリカ人のほとんどは、日本の卑怯な不意打ち攻撃で始まった
と信じている。日本人も、「和平への道を求めていたアメリカへ無謀な戦いを日本軍は
仕掛けた」と信じ続け嘘をつく。しかし、東京裁判でも、時々の米国裁判でも話の違う
真実は常に出て来る。既に2年も前から中国に滑走路を秘密理につくり、一年前から攻
撃を開始し、ドイツとの協定しかない形になっていたのだ。ただそうした背中を切りつ
ける行為が嫌いな日本人の性格が、海軍を始めとする天皇の宣戦布告になっていたので
あり、ハルノートの突き付けは、此処で大統領と平和の握手をしてもらっては困るとい
うアメリカ軍部の工作だったのである。その意味で、1941年7月23日。 了解-ただし、
軍事使節団方式を採るか、アタッシェ方式を採るかについては再検討されたし。FDR
」『「幻」の日本爆撃計画 』アラン・アームストロング著は、真実を語っている。今
だにNHKテレビを始めとする勉強不足で資料すら追わないマスコミ各社が嘘の喧伝し
続けている歴史検証には、少し頭に来る。真実は、その5ヶ月も前に、ルーズベルト大
統領がアメリカ軍による日本本土への攻撃計画に対し、正式なゴーサインを出していた
のだ。同部隊は、民間義勇軍扱いでそれと同じ様に共産党の国際旅団があったのだ。こ
うした民間指導の戦争関与は今でも広く行われ、今だ軍産複合体やユダヤ金融資本を規
制出来ないアメリカ政府や英国政府にロシアのプーチンや北朝鮮は頭に来ているのだ。


1819: 名無しさんAA:18/01/31 18:40
 世界新時代−‐‐41   <夏枯れの景気と黄昏の自然------25>

 よくフィリピンの米軍スーピック基地から離れたから中国軍が南沙諸島を支配したと
言われる。だがそれは真実であっても事実ではない。事実は小沢議員100人が中国に
頭を下げたからだ。中国国内では、日本が米軍支援のインド洋上給油を止めた事を喜ん
で開設し空母「遼寧」を進水させて我々も空母持った、早く米国を退かせて太平洋から
東は昔から中国のものだった、その昔を築け。と言う論調が中国国内で殆どだった。又
その為の政策として南鳥島は島ではない岩礁だ。我々は領土して使う権利がある。と、
国内世論を受けて、海軍は、沿岸防備を行う程度の沿岸海軍であったが、冷戦が終結し
ソ連が崩壊し、ロシアが中国との関係改善に動き国境問題が解決したのだから海洋に出
る。そしてベトナムや朝鮮を台湾を昔の様な柵封国家体制であった清王朝を宗主国とし
た従属国にする。と明言した。これらは盛んに中国国内で唱えられ第二列島線の防衛圏
をわざわざ表明して国際社会から叩かれる程になった。そんな中で頭を下げにいったの
である。そして今だ国家首脳になっていない習氏を無理押しして天皇謁見をさせたのだ
。馬鹿な日本人はそれを許し今だにこの国賊不逞の輩の小沢に議員資格を与えているの
である。それまでは息をひそめていた台湾海峡問題が吹きだし、中国人民解放軍の課題
は台湾問題となり、一方で、第二次天安門事件後国民粛清を繰り返しながら、台湾海峡
危機の結果、中国人民解放軍の第一潜在仮想敵国はロシアから、台湾を支援するアメリ
カ合衆国に変わったのである。その後1993年には、李鵬首相が全国人民代表大会で「防
御の対象に海洋権益を含める」と表明したが。チベット人虐殺やウイグル人弾圧は続き
小沢は全く民主主義や人権弾圧などおくびも出さず帰って来ては、政局に留学生や旅行
代理店の中国権益のままでODAのその枠などを甘くした。今でも新聞社は中国批判の
出来ない体制らしく中国人受付の旅行代理店は日本から置いて居ない。さらに馬鹿もい
い事に、日本人がどんなに中国法を守っていても、スパイとされて拘留されれば国外は
おろか人民裁判ですら日本人弁護士は受け付けない。その為会社閉鎖に於いて機器の国
外移動どころか日本人の出国さえ止められ隠れたまま日本人12人程度の経営者は今だ
行方不明で地方政府が死刑にしたと言われる。つまり言いがかりでも捕まえれば共産党
の方針が法規であり国の憲法なのだ。こんな可笑しな国をそのままに今でも経済界の、
特に某商社や銀行は銀嶺カードや輸出入や技術の供与をしている。日本政府もミサイル
3千発が日本に向いているとかつての中川議員が一生懸命ガス田開発で言っているのに
暗殺されたかのように自殺死を遂げたのである。


1820: 名無しさんAA:18/02/01 01:08
 今でもそうした脅威はそのままで、自民党は取り払っていない。日本の国土を喰いつ
分されている頃すら、美し国を掲げながらも、外国資本が買い漁っている事実は旧聞に
属した古い話だが今も続いている。日本政府が、自民党も民主党政権の時も有効な対策
を全く講じてこなかったのは周知のことだ。外国資本に好き放題の国土買収を許してき
た日本人も日本政府も異常だが、もっと異常なのは沖縄だ。米軍用地の1割を中国人が
買収していると聞けば、心底驚き議会が考えるものだが全く無い。厚生労働省など無能
な喫煙問題である。馬鹿も休み休み言えと言いたい内閣だ。近々の問題は違うだろう。
外国人の勝手な医療費無負担問題であったり、留学生などの就労やら安価な労働力に頼
った労働現状だったり、医療技術が中国で悪用された移植やヒト遺伝子組み換えをやっ
てる事実だったり、輸入毒入り商品の拡大などだろ。今でも奇病な青年ボケが起こり、
不審火や非行があるが原因は食中毒である。更に海外からの未知の感染症問題など全く
山積みの問題は放置してタバコ問題を国会で法律創る話など在り得ないほど政治も行政
もやってない。中田宏元衆院議員が語っt日本国の土台が浸食されている。という氏は
国会議員だった2013年から訴えている。、対馬では自衛隊基地周辺の土地の殆どが韓国
資本に買収され、基地は韓国人の土地に囲まれて今は活動制限すらする程だ。これでは
自衛隊の動きが知られ又阻止されかねない。その危機的状況に全く対処する法案を作ら
ない。土地売買に関して規制する法案を国会に提出しても、廃案にされるくらい議員す
ら工作員だらけなのだ。事態は深刻で沖縄の米軍用地の中国資本に買われて日本の予算
が支払いされ中国は尖閣諸島を自国領だと主張し、沖縄に関しても日本の領有権に異議
を申し立てている。彼らは、いずれ沖縄全体を中国領とすることにある。それでも沖縄
は迫る中国の脅威を実感すらしない。日本は日米同盟を強化すべく努力して米軍の基地
提供にも心を砕いてきた。沖縄の米軍用地は約2万3300ヘクタールこの内公有地が約1万
5700ヘクタール、残りの約7600ヘクタール、約33%の民有地の約3分の1を中国資本が買
い取っている。先に落ちて騒動したヘリコプタードア落下問題も、中国人や北朝鮮技術
者が韓国人になりすましてやった工作だろう。その後米国本土でもヘリコプターも修理
不全で着艦出来ず事故が起こっているのだから大した工作だ。この修理担当の落札した
韓国企業も青息吐息での自転車運転で雇用している。米軍の発表によると、韓国企業は
すでに在日米軍の戦闘機整備事業をいくつか落札して稼働中だ。この嘉手納基地(沖縄
県)のF15戦闘機と三沢基地(青森県)のF16戦闘機の整備事業を請け負っている
のである。韓国の民間航空会社大韓航空だ。大韓航空は米ボーイング社との間で軍用機
整備の協定を結ぶなど韓国の防衛産業ではサムソン・グループやLG・グループと肩を
並べる整備のシェアだが、こんな不良点検の機体や船で何故戦争など出陣できようか。

1821: 名無しさんAA:18/02/01 15:00 ID:mb2
 世界新時代−‐‐42   <恐怖と脅威の嘘の末に------1>

 歴史を探っていくと面白い事に色々な嘘にぶち当たる。細菌兵器部隊とされた731
部隊もその中の一つであろう。731部隊(ななさんいちぶたい)は、第二次世界大戦
期の大日本帝国陸軍に存在した研究機関のひとつとして有名である。正式名称は関東軍
防疫給水部本部で、731部隊の名は、その秘匿名称(通称号)である。満州第七三一
部隊の略。このような通称号は日本陸軍の全部隊に付与されていた。初代部隊長の石井
四郎(陸軍軍医中将)にちなんで石井部隊とも呼ばれている。満州などの拠点をおいて
、防疫給水の名のとおり兵士の感染症予防や、そのための衛生的な給水体制の研究を主
任務とすると同時に、細菌戦に使用する生物兵器の研究・開発機関でもあった。とされ
る。そのために人体実験や、生物兵器の実戦的使用を行っていたとされている。細菌戦
研究機関だったとする論者の中でも、その中核的存在であったとする見方がある一方で
、陸軍軍医学校を中核とし、登戸研究所等の周辺研究機関をネットワーク化した特殊兵
器の研究・開発のための実験・実戦部門の一部であったという見方も存在する。しかし
それは全くのデマでもある事が幾つかの証言記録から見て取れる。軍隊において防疫や
給水は戦力の発揮のために重要な要素である。そのため日本陸軍も、陸軍軍医学校防疫
部を置いて研究を行っていた。1932年(昭和7年)8月に軍医学校防疫部の下に石井四郎
ら軍医5人が属する防疫研究室(別名「三研」)が開設された。それと同時に、日本の
勢力下にあった満州への研究施設の設置も着手された。そして、出先機関として関東軍
防疫班が組織され、翌1933年(昭和8年)秋からハルビン東南70kmの背陰河において
研究開始された。この頃の関東軍防疫班は、石井四郎の変名である 「東郷ハジメ」に
由来して「東郷部隊」と通称されていた。1936年(昭和11年)4月23日 当時の関東軍
参謀長 板垣征四郎によって「在満兵備充実に対する意見」における「第二十三 関東軍
防疫部の新設増強」で関東軍防疫部の新設が提案され、同年8月には、軍令陸甲第7号
により正式発足した。関東軍防疫部は通称「加茂部隊」とも呼ばれており、これは石井
四郎の出身地である千葉県山武郡芝山町加茂部落の出身者が多数いたことに由来する。
この際同時に関東軍軍馬防疫廠(後に通称号:満州第100部隊)も編成されている。
1936年12月時点での関東軍防疫部の所属人員は、軍人65人(うち将校36人)と軍属105
人であった。部隊規模の拡張に応じるため、平房(ハルビン南方24km)に新施設が着工
され、1940年に完成した。

1822: 名無しさんAA:18/02/01 15:00
 世界新時代−‐‐42   <恐怖と脅威の嘘の末に------2>

 1940年(昭和15年)7月、軍令陸甲第14号により、関東軍防疫部は関東軍防疫給水部
(通称号:満州第659部隊)に改編された。そのうちの本部が関東軍防衛給水部本部(
通称号:満州第731部隊)である。他にも支部があった。731部隊を含む関東軍防疫給水
部全体での所属人員は、1940年7月の改編時で軍人1235人(うち将校264人)と軍属2005
人に増加し、東京大学に匹敵する年間200万円(1942年度)の研究費が与えられていた
。厚生労働省の集計によれば、1945年(昭和20年)の終戦直前における所属人員は3560
人(軍人1344人、軍属2208人、不明8人)だった[6]。この間、1942年8月から1945年3月
には関東軍防疫給水部長が石井四郎から北野政次軍医少将に代わっていたが、引き続き
731部隊などは石井の影響下にあったと見られている。1945年(昭和20年)8月、ソ連対
日参戦により、731部隊など関東軍防疫給水部諸部隊は、速やかに日本本土方面への
撤退が図られた。大本営参謀だった朝枝繁春によると、朝枝は8月10日に満州に派遣さ
れ、石井四郎らに速やかな生物兵器研究の証拠隠滅を指示したと言う。この指示により
施設は破壊され、部隊関係者の多くは8月15日までに撤収したが、一部は侵攻してきた
ソ連軍の捕虜となり、ハバロフスク裁判で戦争犯罪人として訴追された。この時の裁判
に於いてソ連側から初めて細菌兵器と言う言葉が出てきたのである。沿革の通り、部隊
は陸軍軍医学校防疫研究室の下部組織としての性格を有していた。従来、731部隊は
旧軍の細菌戦部隊の中核研究機関のように言われてきたがこれを誤りとする者も存在す
る。この主張によるとBC戦の研究組織の中枢は当時新宿にあった陸軍軍医学校防疫研
究室(または陸軍防疫給水部、この組織は陸軍軍医学校と陸軍参謀本部の両方に指揮系
統を有しており、前者による呼称が研究室、後者による呼称が防疫給水部)であった。
ここを中核として、当時の旧軍展開地域各所に設置された各部隊(平房の大陸本部、北
支那防疫給水部(北京の甲1855部隊)、中支那防疫給水部(南京の栄1644部隊)、南支
那防疫給水部(広東の波8604部隊)、南方軍防疫給水部(シンガポールの岡9420部隊な
ど))に指令が出され、さらに国内大学医学部のバックアップの元で広大なネットワー
クを構成してBC戦術の組織的な研究・開発を推進していた。731部隊は、そのうちの
関東軍防疫給水部(満州第659部隊)の主力部隊で、最大級の設備を有してはいたが、
研究全体の中心ではなく実験・検証施設であったにすぎないとする


1823: 名無しさんAA:18/02/01 15:01
 世界新時代−‐‐42   <恐怖と脅威の嘘の末に------3>

表向きの看板とする見方もあるものの、防疫活動は防疫給水部の重要な研究要素であり
、731部隊においても731部隊第三部が担当し成果を挙げている。1939年(昭和14年)に
発生したノモンハン事件では、関東軍防疫部が出動部隊の給水支援を行っている。石井
四郎が開発した石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣
し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。最前線での給水活動・衛生指
導は、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功
績により、第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊と
しては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章と陸軍技術有功章が贈ら
れた。一方で、ノモンハン事件での給水活動に対する表彰は、実際には細菌兵器使用を
行ったことに対するものであったとの見方もある。1940年(昭和15年)11月に満州国の
新京でペストが流行した際には、関東軍も疫病対策に協力することになり、石井防疫給
水部長以下731部隊が中心となって活動し、流行状況の疫学調査や、感染拡大防止のた
めの隔離やネズミ駆除を進めたとされる。しかし、この点についてシェルダン・ハリス
は、ペスト流行自体が謀略や大規模人体実験、あるいは生物兵器の流出事故、といった
731部隊が起こしたものであったと主張している。731部隊による寧波、常徳、浙韓(ズ
イガン)での大規模なペスト菌攻撃の詳細について明らかにしている神奈川大学教授の
常石敬一は、当初は新京や農安で発生したペスト流行について、日本軍による自作自演
説には確かな証拠がなく、疫学調査のデータは自然流行のパターンに一致していること
などから、自然に発生した疫病だったのではないかと指摘していた。しかし2011年にな
って、1940年の新京や農安でのペストの大流行も、731部隊の細菌散布によってもたら
されたことを示す元731部隊の金子順一軍医の論文が発表されている。この論文の出現
により、731部隊による細菌攻撃は、新京からわずか60キロの農安で始まったことが明
らかになったとしている。そして農安から持ち込まれた犬が入院していた新京の日本人
経営の犬猫病院を起点として、新京でのペスト流行が拡大していったとする説が有力に
なった。しかしペストの流行はこの以前に欧州で大流行した物であった。731部隊が欧州
にばらまいたなどとは全く言えない。国際機関では生物兵器の開発に重要な役割を果た
していた。当時、生物兵器の「使用」を禁止する1925年のジュネーヴ議定書が成立して
いたが、日本は同条約を批准していなかった(1970年批准)。また、そもそも同条約で
は、生物兵器の「研究開発」や「生産」「保有」は禁止されていなかったのだ。

1824: 名無しさんAA:18/02/01 15:05 ID:mb2
 世界新時代−‐‐42   <恐怖と脅威の嘘の末に------1>

 歴史を探っていくと面白い事に色々な嘘にぶち当たる。細菌兵器部隊とされた731
部隊もその中の一つであろう。731部隊(ななさんいちぶたい)は、第二次世界大戦
期の大日本帝国陸軍に存在した研究機関のひとつとして有名である。正式名称は関東軍
防疫給水部本部で、731部隊の名は、その秘匿名称(通称号)である。満州第七三一
部隊の略。このような通称号は日本陸軍の全部隊に付与されていた。初代部隊長の石井
四郎(陸軍軍医中将)にちなんで石井部隊とも呼ばれている。満州などの拠点をおいて
、防疫給水の名のとおり兵士の感染症予防や、そのための衛生的な給水体制の研究を主
任務とすると同時に、細菌戦に使用する生物兵器の研究・開発機関でもあった。とされ
る。そのために人体実験や、生物兵器の実戦的使用を行っていたとされている。細菌戦
研究機関だったとする論者の中でも、その中核的存在であったとする見方がある一方で
、陸軍軍医学校を中核とし、登戸研究所等の周辺研究機関をネットワーク化した特殊兵
器の研究・開発のための実験・実戦部門の一部であったという見方も存在する。しかし
それは全くのデマでもある事が幾つかの証言記録から見て取れる。軍隊において防疫や
給水は戦力の発揮のために重要な要素である。そのため日本陸軍も、陸軍軍医学校防疫
部を置いて研究を行っていた。1932年(昭和7年)8月に軍医学校防疫部の下に石井四郎
ら軍医5人が属する防疫研究室(別名「三研」)が開設された。それと同時に、日本の
勢力下にあった満州への研究施設の設置も着手された。そして、出先機関として関東軍
防疫班が組織され、翌1933年(昭和8年)秋からハルビン東南70kmの背陰河において
研究開始された。この頃の関東軍防疫班は、石井四郎の変名である 「東郷ハジメ」に
由来して「東郷部隊」と通称されていた。1936年(昭和11年)4月23日 当時の関東軍
参謀長 板垣征四郎によって「在満兵備充実に対する意見」における「第二十三 関東軍
防疫部の新設増強」で関東軍防疫部の新設が提案され、同年8月には、軍令陸甲第7号
により正式発足した。関東軍防疫部は通称「加茂部隊」とも呼ばれており、これは石井
四郎の出身地である千葉県山武郡芝山町加茂部落の出身者が多数いたことに由来する。
この際同時に関東軍軍馬防疫廠(後に通称号:満州第100部隊)も編成されている。
1936年12月時点での関東軍防疫部の所属人員は、軍人65人(うち将校36人)と軍属105
人であった。部隊規模の拡張に応じるため、平房(ハルビン南方24km)に新施設が着工
され、1940年に完成した。

1825: 名無しさんAA:18/02/01 15:07
世界新時代−‐‐42   <恐怖と脅威の嘘の末に------4>

 日本で生物兵器の利用を真剣に検討し始めたのは、731部隊の部隊長などをつとめた
石井四郎軍医の働きかけによると言われる。石井は、1928年から1930年にかけてドイツ
などヨーロッパ各地やアメリカ合衆国などを視察・研究にまわり、帰国後に生物兵器の
有用性を陸軍上層部に訴えるようになった。石井の主張は、細菌を使った生物兵器は、
資源の乏しい日本にとってコストパフォーマンスに優れた兵器であり、また世界各国も
生物兵器の研究にすでに着手しているというものであった。1932年の陸軍軍医学校への
防疫研究室の設置も、石井の働きかけによるとされる。実際に石井は、戦後のノーバー
ト・フェル博士による尋問で、炭疽菌の効果について次のように語っている。「炭疽菌
についていえば、もっとも有効な菌であると確信しました。量産できるし、抵抗力があ
って猛毒を保持し、致死率は80%〜90%にのぼる。最も有効な伝染病はペスト、媒介節足
動物による最も有効な病気は流行性脳炎であると考えました。」と言っている。後述の
ように、731部隊が生物兵器開発に関与したとする証拠は多く、ペストやチフスなどの
各種の病原体の研究・培養、ノミなど攻撃目標を感染させるための媒介手段の研究が行
われていた。ただし、終戦直後にアメリカ軍が元部隊員に行った尋問の記録とされる
「田中淳雄少佐尋問録」によると、1943年に防疫研究の余暇を使ってノミ増殖の研究を
命ぜられたものの、大量増殖は不可能であるとの結論になっている。それは密閉施設で
は無かったからだ。終戦後による731部隊の解体され、データの多くは元隊員たちが
密かに持ち帰り、最終的には米軍の戦後の生物兵器開発に生かされることになった。と
言われる。当然、人体実験に手を染めた医学者、軍医たちは誰一人居なく戦犯として裁
かれることもなく、大学医学部や国立研究所や各地の病院に職を得た。開業した者や、
製薬会社(のちの「ミドリ十字」)を設立した者もおり、その多くは戦後も日本の医学
界の重鎮として君臨し続けることになる。終戦直後に特別列車で日本に帰った石井ら幹
部は、実験資料を金沢市に保管、千葉の石井の実家にも分散して隠し持っていた。石井
は連合国軍による戦犯追及を恐れ、病死を装い、千葉で偽の葬式まで行い行方をくらま
した。しかし、それは石井のみではない。その頃喰い縁のない人々は 多くは兵隊でさ
え、地下鉄工事やその他の食えるタコ部屋に行くのは当然だったのだ。葬式を行ったと
されるのは全く出鱈目なのだから。ただ進駐軍に「死んだ」との親者の発言はあったろ
が。

1826: 名無しさんAA:18/02/01 15:07
 世界新時代−‐‐42   <恐怖と脅威の嘘の末に------5>

しかし、かねてから731部隊と人体実験データに強い関心を示していたソ連は、部隊
の柄沢(からさわ)班班長を拘留逮捕し、抑留中の柄沢十三夫少佐を厳しく尋問して、
アメリカやイギリスなどが把握していなかった中国での細菌戦と人体実験に関する証言
を聞き出すことに成功したとされ ソ連側から提示された。柄沢は、1946年9月26日から
30日までの間に、731部隊の編成と責任者、研究内容、設備、人体実験の事実、中国
での細菌兵器使用などについて詳細にわたり供述しただけでなく、寧波と常徳で行われ
たペストノミ攻撃の事実を認め、総指揮者が石井四郎であったと証言した。さらに柄沢
の上司だった川島清軍医少将(731部隊第4部長)も、飛行機によるペストノミの散布、
ペストノミの入った陶磁器製爆弾の投下、天皇の命令書、部隊の資金と出資、マルタの
供給と受領の仕組みなどについて供述している。こうした供述を踏まえ、ソ連側検事の
ヴァシリエフ少将は、1月の東京裁判で連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に石井
らの身柄の引渡しを要求した。急遽市ヶ谷の陸軍省で米ソ会談が行われ、ソ連側からは
、731部隊の実験データを米ソだけで独占することを持ちかけた。これを受けてGH
Qは、同年2月10日にワシントンの本国政府に「石井たちをソ連に尋問させるべきか
どうか」について打電した。同年3月20日、アメリカ政府は「アメリカ人の専門家に
石井たちを尋問させ、重要な情報をソ連側に渡してはならない。」と回答し、人体実験
データのアメリカによる独占を図ったものだと推測された。この米ソ間の足並みの乱れ
を見透かし、石井四郎は起死回生の戦犯免責工作に打って出た。1947年、アメリカは、
急遽ノーバート・フェル博士を派遣して石井たちを尋問したが、石井は、「私は技術的
データを渡すわけにはいかない。詳細などは知らん。知っていたことも忘れてしまった
。すべての記録は破棄された。」と語る。一方で、「もし、あなた方が私自身と上官、
部下宛に文書で免責を保証するなら、すべての情報を提供できる。」とフェルに取引を
申し出る。続けて石井は、すっかり米国側になびいた様子で、「細菌戦エキスパートと
してアメリカに雇っていただきたい。ソ連との戦争準備のために、私の20年にわたる
研究と実験の成果をアメリカに提供できる。」とすら語った。と言う



1827: 名無しさんAA:18/02/01 15:07
 世界新時代−‐‐42   <恐怖と脅威の嘘の末に------6>

これを受けてフェルは、人体実験、ノミの大量生産、中国に対する実験については一言
もソ連に漏らさないよう、また米国側から受けた指示についても決して口にしないよう
石井に警告した。結果として、その後のソ連の石井たちへの尋問は何ら大きな成果をあ
げることなく失敗に終わり、戦犯から逃れようとする石井ら731部隊幹部と、ソ連に
いかなる情報も与えまいとするアメリカ側の利害関係は見事に一致するのである。 と
記してある。しかし、こうした大胆な発想は良く事実を押し曲げる。GHQの研究者や
科学者を保護しているのはドイツでも580人からの人間を無罪にし280人程は米国
籍を持たせて移住させている。研究成果ではなく学識経験者として、アメリカに任用を
図ったというのが正しいであろう。密約としてアメリカによるデータ独占したと言われ
るがあまり信用できない。731部隊員は人体実験について固く口を閉ざし、何も発言
しない誓いを立てていた。と言い、その誓いを破らせ、彼らに人体実験に関する報告を
英文で書かせるためには、彼らの安全を保証する条件を提示し、納得してもらう必要が
あった。そのために米国が731部隊員に提示した条件は、以下の9項目からなっていた。
 1. この秘密調査報告書の閲覧はフェル博士、マックェール中佐、および吉橋通訳と
   GHQのアメリカ人、そして石井と約20名の研究者のみに限定されている。
 2. 日本人研究者は戦犯の訴追から絶対的な保護を受けることになる。
 3.  報告はロシア人に対しては全く秘密にされ、アメリカ人のみに提供される。
 4. ソ連の訴追及びそのような(戦犯を問う)行動に対しては、絶対的な保護を受け
   るものである。
 5. 報告書は一般に公表されない。
 6. 研究者はアメリカ合衆国の保護下にあるという事実が明らかにされないよう注意
   が払われる。
 7. 主要な研究者は米国へ行くことを許可される。
 8. 細菌戦実験室が作られ、必要な経費が支給される。しかし、アメリカ人実験室長
   の下に行われる。日本人研究者との共同研究はさらに考慮される。研究に基づく
   特別実験が予定される。
 9. アメリカ人だけによる全面的な共同研究は日本の問題に良い影響を与える。
   アメリカ人とこれらの条件を決定するに当たり、8以外はすべてアメリカ人の
   一般的意図に基づく。

1828: 名無しさんAA:18/02/01 15:08
 世界新時代−‐‐42   <恐怖と脅威の嘘の末に------7>

くられている。ニュースでは「2014年5月 日本の全国保険医団体連合会と全日本
民主医療機関連合会の代表26人は、中国黒龍江省ハルビン市の旧日本軍731部隊の
旧跡を見学し731問題を研究する中国の専門家と座談会を開きました。日本医学界の
代表団は731部隊の犯罪の証拠が陳列された資料館を見学した後、731部隊の人体
実験の犠牲者の名前が壁面に書かれた廊下で献花しました。団員の多くは日本の医師や
大学教師で、すべてが15年戦争と日本の医学医療研究会の会員だということです。代
表団のメンバーの1人日本の京都民医連中央病院の吉中丈志院長によりますと、731
部隊の旧跡を見学した主な目的は、過去の戦争で行われていた医学犯罪の内容を知り、
翌年に開かれる日本医学会総会に提案をすることです。加藤擁一団長の話によりますと
、彼らは医学界での医学倫理を研究すると同時に、戦争中の医学犯罪についての共同研
究しており、日本の医学界の未来に明るい光を投げかけ、日本軍国主義の台頭に断固反
対して、戦争における化学兵器の使用反対を主張しているということです。」と伝えた
。ところがである。この細菌兵器と言うのは全くの妄想で、こうまで言わなかければ、
予算が付かなかったから、と言うのがどうやら真相の様だ。実は東京大震災が1923年に
起こったが、この時井戸に毒薬が流されたと言うデマ事件が発生し、井戸に小瓶を持っ
た男が落とされた事件が発生していた。そうした広報で、民間の自警団などによって少
なくとも233人(司法庁調査)朝鮮総督府官憲調査では813人)の朝鮮人が殺害されたと
されている事件である。その他に朝鮮人に間違えられて内地人58人、中国人3人が少な
くとも殺害されている。また、その後検挙され軍によって殺害された人数は少なくとも
朝鮮人39人、中国人200人、内地人27人である。と言う。つまり誤報か真実か震災以外で
600人が日本の報告ではその井戸水の毒薬事件で死んでいるのである。当時日本は、
当初非常に衛生状態良かった中で、日韓併合で渡って来た渡来人の勝手に住み着いた所
から大きな伝染病が発生していた。その為に野口英世や北里柴三郎などを産んで、その
撲滅に研究していた、北里は福澤諭吉・森村市左衛門等の援助を受け私立伝染病研究所
(現・東京大学医科学研究所)を設立し初代所長として、細菌学の研究と指導にまで当
たっている。1893年に北里柴三郎が結核治療のための土筆ヶ岡養生園(現・北里研究所
病院)を設立し、1914年に私立伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)が内務省か
ら文部省に移管され東京大学に合併された為辞表を提出し、この時、志賀潔を始めとす
る研究所の職員全員も一斉に辞表を提出し、私費を投じて北里研究所を設立した。いわ
ゆる。伝研騒動といわれるものだ。

1829: 名無しさんAA:18/02/01 15:08
 世界新時代−‐‐42   <恐怖と脅威の嘘の末に------8>

 この時使われたのが殺鼠剤やうじ殺しであると言われる。治安当局は「朝鮮人暴動」
の可能性を危惧していたため、混乱の収拾と秩序回復の理由として自警団の殺人行為を
袖手傍観し、一部は加担したり助長したりした。それらは日本の国民性全く残虐性はな
く、多くが火事場の泥棒検挙であり又無政府主義者らが殺された甘粕事件や、社会主義
者10名が犠牲となった亀戸事件などである。関東大震災では凡そ190万人が被災し
10万5千人が行方不明となっているのだ。つまり彼らが嘘をついても或いは真実には
反して訴えられても全く真相は解らないのが実情だ。がそれでも日本の歴史上は井戸の
毒薬は検出されても、それが故意なのか地震による混入なのか不明な為デマだとされた
。問題なのは此処で日本側の正確な233人の混乱の中の殺人事件を813人と根拠も
なく数字を作った戦後の朝鮮総督府官憲調査である。これらは米国主導で朝鮮独立の為
多くの朝鮮人を雇って日本人の所業の悪さを掴む為と調査して何も出なかった事で作ら
れた数字だったと言う事である。正に石井部隊の資料やソ連共産党の柄沢十三夫少佐の
証言もそこにある。そもそもこうした戦争兵器について有利性を求めるなら密かにその
証拠を基に資料探しをするのがソ連のやり方の筈である。わざわざ米国に提示し持って
行かれるなどとしなくともソ連は特殊警察は充分にいたのである。郡司陽子の「【真相
】石井細菌戦部隊」や青木冨貴子「731石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く』 新潮社
などでは、生々しくこうした嘘が平気で書かれている。だがこうした嘘はプロパガンダ
として大いに力をもった。中でも事実の事をちりばめた嘘であるのはかなり巧妙につい
ていたからだ。人体解剖や隠れたままの隔離養生は行われていたのは当然である。又、
軍部の支援で作った施設で軍の意向での殺人まがいの実験も当然あったであろう。が、
しかし細菌兵器や蚤や虱を使った細菌兵器を外回りはコンクリート作りでも内部は木造
のこう言った簡易の施設や研究所で 炭疽菌やペスト菌或いはペストノミの培養生産、
ペストノミの入った陶磁器製爆弾の投下、天皇の命令書、部隊の資金と出資、マルタの
供給と受領の仕組みなどについては 当時の毒ガス弾さえも作り得て、原爆実験に成功
している中であろうはずもない。全く出鱈目もいいところなのだ。それ以上に石井部隊
は、看板通りに、防疫活動は防疫給水部の重要な研究要素で日本の南下作戦によって、
三千人規模の各所派遣がなされ、人員がなく少年隊をも連絡係に駆り出して施設運営を
していた。何故か。それは赤痢・マラリア・天然痘・腸チフスと多くの南下する兵隊に
は そうした爆弾を作らなくとも熱帯の伝染病が襲って、幾つかの小部隊は全滅してい
たからだ。

1830: 名無しさんAA:18/02/01 15:10
 世界新時代−‐‐42   <恐怖と脅威の嘘の末に------9>

 その為パラチオンや抗生物質などの開発が急がれていたし、ペニシリンなどの培養技
術の確立もまだ必要だったからだ。その必要は日米開戦以前に共産党からの攻撃でも、
或いはアメリカからの空爆でも必要だった。援蒋ルートからのパラシュートで降ろされ
る薬品の正体も又必要だったからだ。そうして中国のみならず日本でも薬品は拾われた
。アメリカは、ナチスドイツを裁いたニュルンベルク国際軍事法廷で、残虐な人体実験
を行ったかどでナチスの医師たちを追及する一方で、731部隊の医師たちも同じと見
ていた。対しては、生物兵器のデータを得るために秘かに戦犯免責を与えたのである。
GHQは、こうした二枚舌ともいえる姿勢が国際社会から厳しく糾弾される危惧につい
て本国政府と何度も話し合ったが、米国政府は最終的に次のように結論する。日本の生
物戦研究の情報はアメリカの細菌研究プログラムにとって大きな価値があるだろう。ア
メリカにとって日本の細菌データの価値は国家の安全にとって非常に重要で、「戦犯」
訴追よりはるかに重要である。国家の安全のためには、日本の生物戦専門家を「戦犯」
裁判にかけて、その情報を他国が入手できるようにすることは、得策ではない。日本人
から得られた生物戦の情報は情報チャンネルに留め置くべきであり、「戦犯」の証拠と
して使用すべきではない。とそうした思惑の下に取り急いで作られたのが、731部隊
の医学者を集め、免責条件をのむことと引き換えに、鎌倉で書かせたと言う60ページ
に及ぶ英文の人体実験リポート「19人の医者による実験リポート」である。さらに、フ
ェル博士が発見し、石川太刀雄丸が解説をつけた病理標本8000枚が、米国のメリーラン
ド州フレデリックのキャンプ・デトリックに送られた。とされる。だが英文で書かれて
いるしその時集められた731部隊の医学者というのも随分実態とは離れている。もと
もと終戦間際まであった731部隊の医学者は逃げ遅れて日本に早々とは帰っていない
し、その研究所はその後中国の小学校として使われる程の汚染のない家屋である。逆に
戦後のフレデリックの名誉や予算取りに資料をかき集めに来日したと言うのが正解だ。
エドウィン・V・ヒル博士(化学戦部隊基礎科学部主任)は最終報告書において「今回
の調査で集められた事実はこの分野におけるこれまでの見通しを大いに補いまた補強す
るものである。このデータは日本人科学者たちが巨額の費用と長い年月をかけて得たも
のである。情報は、人間について各病原体毎の感染に必要な各細菌の量に関するもので
ある。こうした情報は人体実験に対するためらいがあり、われわれの研究室で得ること
はできない。これらデータを入手するのに今日まで要した費用は総額25万円である。

1831: 名無しさんAA:18/02/01 15:10

この費用はこれらの研究の価値と比べれば些細な額にすぎない。」と記している。この
様な、元731部隊員とアメリカ政府との取引の結果、東京裁判においても731部隊
の関係者は誰1人として裁かれていない。それでもソ連によるハバロフスク裁判では、
訴追が行われている。という悪意に満ちた書き方であるしNHKすらも信じ切っている




1832: 名無しさんAA:18/02/01 15:12

 世界新時代−‐‐42   <恐怖と脅威の嘘の末に------10>

 蒋介石は、既に戦争以前に共産軍から送られた細菌兵器により日本軍に既に攻撃して
いる。その分析調査に石井部隊は多くの従軍について行って飲料検査をする為に使われ
衛生兵と別に兵員駆り出しされた。日本軍に対して行った細菌や猛毒での攻撃について
の証拠写真は当時の新聞や雑誌には、盛んに掲載されている。蒋介石との戦いは、こう
した熾烈な戦いがあったものの、おおむね、日本軍の圧勝だったが、ダムや堰が破壊さ
れたり空爆などで日本軍より地元の民が叩かれたゲリラ戦であった。共産軍や蒋介石は
、常に、追い詰められ、撤退を繰り返していました。その際、後から追ってきた日本軍
に対して、各地の井戸に猛毒や毒性の細菌を混入させて、水を絶つ策略をしていた。常
に日本軍は、井戸や湧き水などは、使用前に、必ず毒が入っていないかどうか試薬を使
って検査をするしか手は無くその為に必要だった。また、中国人に対しては、漢字で、
毒入りである旨を記した看板を立てていました。当然、日本軍が通過しない場所の井戸
などにも毒が入れられた可能性は高く、この井戸や湧き水を飲んでしまった中国人の方
や子供達に、多数の犠牲者が出た話は多い。又貧困での伝染病患者も多くいた。いくら
戦況が不利であったからとはいえ、いくら日本軍を殺すための策だったとはいえ、卑怯
極まりなく、それ以上に、同じ中国人が死ぬかも知れないにも関わらず、毛沢東も蒋介
石もよくもこうした悪魔の様な真似が出来たものだと思うが、そうした薬品を送ってい
たのがフランスやドイツやアメリカだった。ビルマやタイ或いはベトナムなどで空輸し
たとして日本軍に接収された倉庫には唖然とするほどの物資とそうした薬品生物兵器が
あった事は事実である。関東軍731部隊(3000名)は、1933年関東軍管轄区域内の各種
流行性伝染病予防と、兵員用の飲料水の水質浄化を目的として、旧満州国の平房に設置
されたのはその為だった。衛兵では手に負えない程だったのだ。初代部隊長は石井四郎

1833: 名無しさんAA:18/02/01 15:13
たのがフランスやドイツやアメリカだった。ビルマやタイ或いはベトナムなどで空輸し
たとして日本軍に接収された倉庫には唖然とするほどの物資とそうした薬品生物兵器が
あった事は事実である。関東軍731部隊(3000名)は、1933年関東軍管轄区域内の各種
流行性伝染病予防と、兵員用の飲料水の水質浄化を目的として、旧満州国の平房に設置
されたのはその為だった。衛兵では手に負えない程だったのだ。初代部隊長は石井四郎
陸軍軍医中将なので石井部隊とも呼ばれが、1945年8月ソ連の満州侵攻と共に 撤収作戦
が実施され731部隊はその施設のほとんどを破壊して徹底的な証拠隠滅が図られたと
いう話が多いが、完全に建物の大半は残っており、部隊棟は最近まで小学校として使用
されていた事実がある。壊したのは日本の中曽根が中国支援したと同時に731部隊の
悪評を振りまく作為に共産党指導で行われた。又被害者の証拠として使っている写真は
、1910年に満州でペストが大流行した時の写真で、日本で手に入れたもので、人体実験
や虐殺とは全く無関係なものだ。そもそも、人体実験と言う偽情報は、ハバロフスク裁
判(1949年12月から行われた対日軍事裁判)での証言からだが、余りにも荒唐無稽なので
、裁判でも証拠採用されなかった事を殊更煽る為に、先の日本人共産党記者に与えた、
情報だったのだ。東京裁判の時の様に。そうしてプロパガンダ工作は成功したのである



1835: 名無しさんAA:18/03/03 11:16 ID:6IE
 世界新時代−‐‐43   <日本は何をしたいのか------12>

 台湾では、第4代・児玉源太郎総督のもとで民政長官として後藤が辣腕をふるってい
た時期に、アヘンの追放を行った。李登輝総統がまだ生まれていない頃なのだが。後藤
は1857年生まれで。1923年生まれの李が生きてきた時代とは大きな開きがある。だがこ
の地台湾への愛情は後藤と李登輝との間に差が無い。空間的なつながりはあってもお互
いを結びつける交差点はないが、しかしながら、後藤の生い立ちや、その後の台湾にお
ける輝かしい業績を辿ることにより、計り知れない人間的な偉大さを感じ、李登輝自身
に深く滲みこんでいるものを感じれる。1895年の日清戦争後の下関条約で台湾は清朝か
ら日本へ割譲された。初代総督の樺山資紀から第3代の乃木希典までは、台湾の開発は
民族融和に明け暮れ端緒についたばかりであった。1898年、第4代台湾総督として児玉
が発令を受けると、児玉は後藤をナンバー2の地位にあたる民政局長(後の民政長官)
に起用する。後藤はもともと医師出身の内務官僚だったが、日清戦争後の大量の帰還兵
士23万人の検疫を見事にやり遂げ、その行政手腕が児玉の目に留まったのである。そ
の後、民政長官として在任した9年あまりの間、後藤は指導者としての力量を遺憾なく
発揮し、台湾は未開発社会から近代社会へと、「一世紀にも等しい」と言われるほどの
開発と発展を遂げることになる。当時の台湾は匪賊が跳梁跋扈して治安が悪く、マラリ
アをはじめとする疫病が蔓延する危険な地であった。のみならず、アヘン吸引者も多く
、産業にみるべきものもなく、まさに未開発の状態だった。朝鮮より劣っていた島だっ
た。そこでまず後藤が着手したのが人事刷新の断行であった。着任するや否や高等官以
下1080名の禄を食むばかりで仕事をしない官吏を更迭し、日本内地へ送り返すとともに
、新渡戸稲造をはじめとする優秀な人材を幅広く台湾へ呼び寄せたのである。続けて、

1836: 名無しさんAA:18/03/03 11:17
、新渡戸稲造をはじめとする優秀な人材を幅広く台湾へ呼び寄せたのである。続けて、
台湾の産業発展の基礎となる公共衛生の改善を指導し、台湾経営の財源確保のための事
業公債を発行した。台湾北部の基隆と南部の高雄を結ぶ縦貫鉄道の建設、基隆港の築港
を進めた。そしてこれらのインフラ整備を完成させると、砂糖、樟脳などに代表される
具体的な産業開発と奨励をしたことで、台湾の経済発展の軌道を定めたのである。李登
輝がが幼いころ、彼の家は地主で、父は組合長も務めていた。祖父はお茶畑を持ってお
茶を作りながら、同時に自治会長にあたる「保正」でもあった。清朝時代から続いてき
た集落の自治制度である保甲制度は、後藤がそのまま存続させた。台湾が日本の領土と
なっても、台湾の人々に無理のない「生物学的見地」からの統治を考えた人でもあった
ともいえるだろう。保甲制度は、10戸で1甲、10甲で1保とした自治組織で役員として
、甲には「甲長」、保には「保正」が置かれていたのである。





1837: 名無しさんAA:18/03/03 11:17
 今日の台湾の繁栄はこうして後藤が築いた基礎の上にあるといえる。この基礎の上に
新しい台湾を築き、民主化を促進した李登輝は、後藤とも無縁ではないと思っている。
つまり、時間的な交差点はなくとも、空間的には強いつながりを持っているだけでなく
、後藤新平と私個人の間には精神的な深いつながりがあるのである。政治家には二種類
の人間がいると言われる。まずは権力掌握を目的とする者、そして、仕事を目的とする
者だ。権力にとらわれない政治家は堕落しない。私は総統時代に指導者の条件として、
「いつでも権力を放棄すべし」を自らに課し自制していた。普通の人が権力を持った時
、非常に幸福であり、快楽であると思うことが多い。それはやりたい放題で、なんでも
できるからだ。しかし、後藤は明らかに後者、つまり、仕事のために権力を持った人で
あった。後藤に共通するのは「信念」であったといえる。李はクリスチャンで、信仰を
通じて最終的に見出した私自身のあり方が「我是不是我的我」、つまり「私は私でない
私」であった。この言葉は、新約聖書のなかにある「ガラテヤの信徒への手紙」の「生
きているのは、もはや、私ではない。キリストが、私のうちに生きておられるのである
(後略)」という一節からきている。つまり私、李登輝のなかに神が息づいていて、自
分のためだけでなく公のために生きなくてはならない、ということである。一方で後藤
の信仰は何だったかというと私は寡聞にして知らない。しかし、おそらく「天皇」もし
くは「国家」という公のために尽くすという「信念」があったのだろうと推察する。だ
からこそ、第4代台湾総督の児玉源太郎から片腕として信頼され、台湾の近代化をやっ
てのけたのである。そうした意味で、私はクリスチャンではあるものの、強い信仰心、
信念を持って事に当たっていくという意味では、後藤は私の先生であると言えるのであ
る。国家の浮沈は、ひとえに指導者にかかっている。社会や個人の成功が経済や富であ
ると考える風潮が蔓延している。だが今こそ、指導者は「公」に尽くすことに一生を捧
げた後藤の精神を学び、徳ある生活の出来る喜びこそ富である事を学ぶべきであろう。
大東亜戦争に出征して散華し、靖国神社に祀られている台湾人の英霊は2万8000柱。現
在、このことを多くの日本人が知らないのは残念である。




1838: 名無しさんAA:18/03/03 11:18
 李登輝は1923年に台湾生まれた。旧制台北高校を出て、京都帝国大学農学部で学び、
戦中は志願兵として高射砲部隊に配属された。終戦後、台湾大学に編入し卒業。台北市
長を経て、台湾省主席、副総統を経て1988年に総統就任。1996年に台湾初の総統直接選
挙で当選し、2000年まで務めた。著書に『熱誠憂国 日本人へ伝えたいこと』を発刊し
ている。親日家で彼はこうつぶやいている。新渡戸は『武士道』のなかで、「義」「勇
」「仁」「礼」「誠」「名誉」「忠義」を武士の徳目として挙げている。しかし『武士
道』でなにより重要な点は、それらの実践躬行を強調していることであろう。一回しか
ない人生をいかに意義あるものとして肯定するか。そのために「私」のためではなく、
「公」のために働くことの大切さや、尊さについて『衣裳哲学』や『武士道』から学び
、若き日の私は救われたのである。と。これが李登輝(り・とうき)台湾元総統の言葉
である。ところがこの台湾も終戦時 1947年2月28日に台北市で台湾二二八事件発生して
いる。日本の属国として敗戦の憂き目にあったのである。米国の無知な世界大戦で日本
の傍には2つの分割された国がある。それが朝鮮と中国だ。いずれも日本と敵対してい
た為に連合国の支援が間違った国に行われた事が大きな原因である。ちなみに、過去に
起きた出来事などの現実のストーリーが事実に基づき今に残っている。本当の歴史の轍
を踏めば合理的かつ論理的に説明出来て人々は理解出来る様になる。戦前戦中は終戦に
変わるまでの台湾は、教育も政治体制も、すべて、日本本土と同じ体制を敷いていた。
当時の台湾の人々は日本人そのものであったし、実際、自分たちは日本人と思っていま
した。終戦後、台湾に、蒋介石率いる国民党軍が占領軍として進駐してきたのは、日本
が敗戦国として米国に台湾放棄を認めたからだ。しかし、この国民党軍が台湾にやって
来た事は台湾人の災難でしか無かった。事実米軍の日本空襲は硫黄島や沖縄からやって
きたので、台湾には無傷のままで終戦に至っていたのである。台湾出身の楊素秋(よう
そしゅう)さんがはじめてやってきた日のことを、その著書に書いていますのでご紹介
しよう。

1839: 名無しさんAA:18/03/03 11:18

 李登輝は1923年に台湾生まれた。旧制台北高校を出て、京都帝国大学農学部で学び、
戦中は志願兵として高射砲部隊に配属された。終戦後、台湾大学に編入し卒業。台北市
長を経て、台湾省主席、副総統を経て1988年に総統就任。1996年に台湾初の総統直接選
挙で当選し、2000年まで務めた。著書に『熱誠憂国 日本人へ伝えたいこと』を発刊し
ている。親日家で彼はこうつぶやいている。新渡戸は『武士道』のなかで、「義」「勇
」「仁」「礼」「誠」「名誉」「忠義」を武士の徳目として挙げている。しかし『武士
道』でなにより重要な点は、それらの実践躬行を強調していることであろう。一回しか
ない人生をいかに意義あるものとして肯定するか。そのために「私」のためではなく、
「公」のために働くことの大切さや、尊さについて『衣裳哲学』や『武士道』から学び
、若き日の私は救われたのである。と。これが李登輝(り・とうき)台湾元総統の言葉
である。ところがこの台湾も終戦時 1947年2月28日に台北市で台湾二二八事件発生して
いる。日本の属国として敗戦の憂き目にあったのである。米国の無知な世界大戦で日本
の傍には2つの分割された国がある。それが朝鮮と中国だ。いずれも日本と敵対してい
た為に連合国の支援が間違った国に行われた事が大きな原因である。ちなみに、過去に
起きた出来事などの現実のストーリーが事実に基づき今に残っている。本当の歴史の轍
を踏めば合理的かつ論理的に説明出来て人々は理解出来る様になる。戦前戦中は終戦に
変わるまでの台湾は、教育も政治体制も、すべて、日本本土と同じ体制を敷いていた。
当時の台湾の人々は日本人そのものであったし、実際、自分たちは日本人と思っていま
した。終戦後、台湾に、蒋介石率いる国民党軍が占領軍として進駐してきたのは、日本
が敗戦国として米国に台湾放棄を認めたからだ。しかし、この国民党軍が台湾にやって
来た事は台湾人の災難でしか無かった。事実米軍の日本空襲は硫黄島や沖縄からやって
きたので、台湾には無傷のままで終戦に至っていたのである。台湾出身の楊素秋(よう
そしゅう)女史がはじめてやってきた日のことを、その著書に書いていますのでご紹介
しよう。


1840: 名無しさんAA:18/03/03 11:18
「中学校二年生のとき、中国から蒋介石の国軍(国府軍、国民党軍)が来るというので
、早速歓迎のための中国語の歌を無理矢理練習させられました。しかし、先生も生徒も
中国語が全然分からないので、どんな意味の歌を歌っているのか、ちんぷんかんぷんで
全く分かりませんでした。ただ先生の発音を真似して 歌っているだけでしたので、私
はずいぶん年をとった後も、その歌の内容が分かりませんでした。 国軍歓迎の式典の
日、朝八時に駅に集合と言われて行きました。しかし国軍は、いつまで経っても来ませ
んでした。それで午後一時に来るから、十時に再度集合ということになりました。とこ
ろが、十時に行ってみたのですがまだ来ません。そこで昼食を食べに戻って また三時
に行きましたが、全然来る様子はありません。更に待つこと二時間、結局 来た時には
時計の針は五時を指していました。日本時代は 時間厳守は 誰に習ったわけでもなく
社会全体の雰囲気でした。その当たり前の生活習慣に慣れていた私たちにとって、これ
が初めての「中国時間」の洗礼でした。(ここで中国時間という言葉が使われています
が、いまなお、待ち合わせの際にお互いが「中国時間?、それとも日本時間?」と確認
しあいます。待ち合わせが中国時間なら、前後二時間(都合四時間)の幅があります。
日本時間なら、待ち合わせの五分前には全員集合なのだそうです。)敗戦で China兵(
中国の兵隊)が来ると聞いた時は、もちろん不安でした。私たちは『キング』や『少年
クラブ』、『幼年クラブ』といった雑誌に出て来る China兵のイメージがものすごく強
かったのです。
China兵はまず汚い、風紀が乱れている、ボンボロ担いで、こうもり傘を背中に差して
裸足、というのを見ていましたから、頭の中で色々と想像を巡らせていました。不安な
気持ちで一杯でした。そういう China兵が潜在意識に植え込まれてはいました。が本当
に見た途端に、もうガックリしました。これはヒドイ!と思ったのです。出迎えに来て
いた みんながみんな「うわー」と言ったのです。恐ろしい光景に見えました。それま
で日本兵しか見たことのなかった私は、兵隊というものは銃を担いでゲートルを巻いて
ピシッとしているものだと思っていました。それが China兵は裸足でボロボロの服を着
て、天秤棒にドロ靴と鍋と七輪をぶら下げて、こうもり傘を担いでだらだらと歩いてい
ました。中には手で鼻をかんでいる人や痰を吐いている人もいるし、私は呆れてものが
言えませんでした。まるで乞食の行列でした。そんな兵隊を自国の兵隊として認められ
ますか。今、その時のシーンを読者の皆さんの前に展開したらきっと気絶すると思いま
す。

1841: 名無しさんAA:18/03/03 11:19
 女学校の先生方も口をあんぐり開けていました。台湾人全部が同じ思いだったと言っ
ても過言ではないでしょう。」(楊素秋著「日本人はとても素敵だった」)(この気絶
するような姿というのは、彼の国の軍隊の伝統に由来します。彼の国では古来、ヤクザ
と暴徒と軍隊は同じものです。また、日本に帰化した Chineseにも、この特徴は残って
いて、出かけるときに両手や背中に手荷物を嫌というほど持参する人が多いようです。
もっとも最近の若い Chineseは、この限りではないようですが。) ところが、彼らの
問題は、身なりだけではありませんでした。それ以上に、彼らの腐敗の凄まじさに、台
湾の人々は驚いたのです。軍人や官僚による、強姦・強盗・殺人、しかも犯人がわかっ
ていても、彼らは絶対に罰せられません。凶悪犯で罰せられる場合でも、犯人の省籍を
マスコミ等で報じることは禁じられました。今の日本で在日半島人や大陸人が重大犯罪
を犯しても報道は日本人名で行われるのと同じです。公共の資材が国民党官僚によって
接収・横領されました。横領された物資は、上海の国際市場で競売にかけられました。
そのため台湾の物価は高騰し、インフレによって企業の倒産が相次ぎました。短期間の
うちに失業も深刻化しました。不正の少なかった日本の統治を体験した台湾人にとって
、治安の悪化や役人の著しい腐敗は到底受け入れがたく、人々の不満が、いやが上にも
高まっていったのです。昭和22(1947)年2月27日、台北市の街頭に、ひとりの女性
がいました。闇タバコを販売していたのです。戦後の台湾では、酒・タバコ・砂糖・塩
は、大陸から来た国民党が強制的に専売にしていました。同じ時期でも支那大陸では、
国民党はそれらの自由販売を認めていました。つまり強制専売は、台湾の人々から少し
でも財産を巻き上げようとするものであったわけです。その女性は40歳で、2人の子
がいました。この女性を、国民党の官憲が捕まえました。女性は土下座して許しを懇願
しました。けれど取締官ら(取締官6名、警察官4名の計10名)は、よってたかって
女性を銃剣の柄で殴打し、商品および所持金を全部没収しました。同じ中国人というの
に、なぜ台湾だけが専売なんだ?と、多くの台湾人がこの措置を差別的と考え、不満を
持っていたところに、この殴打事件です。ふだんからたまっている不満に加え、あまり
の仕打ちに、タバコ売りの女性に同情が集まりました。その場に多くの台湾人が集まっ
てきました。すると取締官らは、今度は集まった民衆に向かって発砲しました。無関係
な野次馬に向かって発砲し、数名を射殺したうえで、取締官らは走って逃げたのです。


1842: 名無しさんAA:18/03/03 11:19

事件をきっかけに、市民の怒りが爆発しました。翌28日には、自然発生した抗議のデ
モ隊が、市庁舎へ押しかけました。あたりまえのことだと思います。ところが国民党は
、市庁舎の屋上に機関銃を据え、武装もしていない市民に向けて、予告も警告もなしに
、いきなり無差別な機関銃掃射を行ないました。次々と倒れる市民たち。掃射で「たく
さん」の台湾市民が命を失いました。たくさんに「」を付けたのには理由があります。
このとき機関銃掃射によって殺害されたり、傷を負ったりした人たちの数が、いまだに
はっきりとわかっていないのです。公表もされていません。これが何を意味するかとい
うと、殺された市民たちは、新たな支配者となった国民党にとって、「人でなかった」
ということです。人でないから数をかぞえる必要もない。知ろうともしない。事件が発
端となって、政府関連の諸施設への抗議行動や、日本語と台湾語を解しない国民党要人
に対する襲撃事件が、台湾全島で頻発しました。市民たちはラジオ放送局を占拠し、軍
艦マーチと共に日本語で「台湾人よ立ち上がれ!」と放送しました。怒りというより、
いいようのない 悲しみからの行動です。涙が出ます。市民の圧力の前に劣勢となった
国民党は、市民に対話を呼びかけました。こう書くと、「政治の冷静な対応」と思われ
るかもしれません。けれど、そういう期待が生まれるのは、日本人だからです。世界は
そんなに甘くありません。国民党は、対話を呼びかけたその一方で、在台湾行政長官兼
警備総司令の陳儀(ちんぎ)から、当時支那本土にいた蒋介石に対して、次の電文を打
っているのです。「政治的な野望を持っている市民が、大台湾主義を唱え、台湾人によ
る台湾自治を訴えている」「市民が反乱を起こした」「組織的な反乱」「独立を企てた
反逆行為」「奸黨亂徒に対し、武力をもって殲滅すべし」そして、陳儀は援軍の要請を
しました。蒋介石は、陳儀の電報をなんの検証もなしに鵜呑みにしました。そして翌3
月、第21師団と憲兵隊を大陸から派遣しました。台湾の市民たちは、日本の法治政治
に慣れ親しんでいました。それを「あたりまえのもの」と考えていました。だから陳儀
の対話姿勢に、何の疑問も持たずに素直に応じました。ところが対話姿勢というのは、
ただの時間稼ぎでしかなかったのです。大陸から援軍が来ると陳儀は、武器を持たない
市民に向けて、容赦なく発砲をくり返しました。これにも多数の証言が残っています。



1843: 名無しさんAA:18/03/03 11:20
こうして裁判官・医師・役人など、日本統治下で高等教育を受けたエリート層を、片端
から逮捕投獄し、大陸流の酷い拷問を行いました。拷問を受けた 多くの知識人たちが
獄死しました。さらに街頭には検問所が設けられました。そして北京語が上手に話せな
い台湾人は、全て逮捕されました。逮捕された台湾人は、手足に針金を刺し込んで縛っ
て束ねられました。これを「粽(チマキ)」と称してトラックに乗せ、そのまま基隆港
に投げ込んで溺死させました。これは実話です。この事件によって、約2万8000人
の台湾人が殺害されました。それだけではありません。殺害された台湾人たちの財産は
、すべて国民党の高官たちが個人的に摂取しました。いま台湾では、元国民党員たちが
、台湾のお金持ちになっています。その原点がここにあります。さらに、表向き事件が
収束した後も、日本統治時代を高く評価しようとする者に対して、容赦のない粛正が行
われました。その後、支那本土を中共によって追われ蒋介石は、台湾にやってきて、台
湾全土に戒厳令を発動しました。この戒厳令は、その後なんと40年間も続きました。
戒厳令が解除された後も、国家安全法によって言論の自由は制限されました。台湾に「
民主化」が実現したのは、台湾が日本になって産まれた親日家である台湾の李登輝氏が
総統に就任後のことです。平成4(1992)年です。このときになって、ようやく刑法が改
正され、台湾に言論の自由が戻ってきたのです。ほんのつい最近の出来事です。日本は
昭和27年に占領統治から外れました。すくなくとも形の上では独立国になりました。
ところが、元日本であった台湾は、戦後73年経った現在においても、いまだに連合国
(国民党)による占領統治が続いています。国民党が、大陸を追われた政党であって、
帰るところがなくなっているということが、事態をより一層困難にしているのです。そ
れでも根っからの台湾人は大陸人を信用してはいなかったし、日本人の優秀さを知って
いた。李登輝氏は1923年、台湾・台北州淡水生まれて台北市長、台湾省政府主席、台湾
副総統などを経て、1988年、総統に就任。1990年の総統選挙、1996年の台湾初の総統直
接選挙で選出され、総統を12年務めた。「二・二八事件」後、台湾に監視と摘発の網
を張り巡らせた国民党政権は、改革要求や強権政治の批判、反体制運動に対し、「中国
共産党に通じた」「中共のスパイをかくまった」「政府転覆を陰謀した」などの罪名で
、容赦無く弾圧した。それだけでなく、批判や抵抗をする異議分子抹殺のために、罪の
捏造も行った。


1844: 名無しさんAA:18/03/03 11:20
1943年のカイロ会談で、日本の敗戦後は中華民国が台湾を統治することが決定されたこ
とを受け、1944年4月、中華民国行政院に台湾調査委員会が設置され、陳儀はその主任
委員に任命された。その為調査委員は日本統治下の台湾の経済、政治、民生、軍事など
の各内容について詳細な調査を行い『台湾接管計画綱要』を答申、政府認可を獲得した
。日本の敗戦後、1945年8月29日、陳儀は台湾省行政長官、後に警備総司令兼任に任
命された。大多数の台湾人と同様福建閥の中心人物であったこと、日本留学の経験から
適当な人物とみなされたとされる。10月24日、陳儀は上海より台北に移動、翌日、台北
公会堂において中華民国政府及び連合国代表として台湾総督兼第10方面軍(台湾軍の後
身)司令官であった安藤利吉との間で降伏文書調印が行われた。しかし、もともとこの
国民党蒋介石政権は全く無能な政権で共産党との共闘内紛の政権であった。陳儀は政府
より台湾出張を命じられて視察した時、日本統治の下での台湾の急速な発展と中国大陸
の長期戦乱に起因する停滞との差異を目の当たりにしていて、台湾政治が日本軍のまま
の方が良い事を知っていた。中国大陸では共産党と国民党の内戦は、国民党の形勢不利
が明らかで、国民党政権は台湾への移転に向けて本格的な準備を始めていた。こうして
1948年12月、蒋介石の腹心、陳誠が魏道明に代わって台湾省政府主席に任じられ蒋介石
の長男、蒋経国が中国国民党台湾省委員会主任委員に就任した。また、次男の蒋緯国が
率いる陸軍精鋭舞台も台湾に移動した。陳誠は警備総司令官も兼任し、港と河口を封鎖
、海岸線を管制下に置き、軍人、官吏、商人などの台湾上陸を制限し台湾への難民移入
を止めた。1949年5月20日、戒厳令を施工。この戒厳令は1987年7月15日に解除されるま
で、40年の間実施された世界で最も長いものとなった。日本統治下の教育の影響で、
中国語の理解力不足があり、また 優秀な人材は国共内戦の影響により大陸に集中し、
劣悪な人材に限定されてしまったためその能力や品行に少なからず問題があり、住民と
の衝突がたびたび発生していた。素行も悪く同時に経済上では極度のインフレが発生し
、生活が困窮した住民の間で不満が募っている状況下で 1947年2月28日、二二八事件が
発生している。蒋介石は大陸より叛乱鎮圧のために大軍を投入、一説には18000〜28000
名の台湾市民が逮捕後殺害されたとも言われている。 3月22日、事件の責任を取って陳
儀は国民党三中全会により職務を解任された。5月陳儀は大陸に渡り国民政府顧問に就
任している。

1845: 名無しさんAA:18/03/03 11:20
 もともと大陸南京の国民党政権は日本軍が無ければ存立不可能の筈の政府だったが、
不思議な事に日本軍に対立し、上海空爆、軍舎奇襲、人民掃討、堤防爆破などを共産党
員と共に行い日本軍のせいにしていた。特に張学良を入れて後は夜盗同然だった。彼ら
は村や生活を守ると言う事は無く、常に敵を作りに攻撃する。と言う姿勢だった。従っ
て日本が敗戦で引き揚げると、民衆の殆どが毛沢東が政府なのか蒋介石が政府なのかは
解らなかった。絶大な知名度と潔癖さを誇る周恩来が毛沢東の話し合いたいと言う罠に
かかって国民党に帰れなくなった時、既に国民党には存続する理由が無かった。蒋介石
政権に国民はそっぽを向いたからだ。蒋介石の腹心、陳誠が台湾省政府主席に任じられ
蒋介石の長男、蒋経国が中国国民党台湾省委員会主任委員に就任した時その横暴ぶりは
目を背けるほどだった。1947年4月22日 陳儀行政長官を罷免し、長官公署を廃止したが
、形ばかりの「台湾省政府」を設置し過去の皇帝や北朝鮮同様の血族血統政治に走った
。 5月17に米国に受けの良い 魏道明が台湾省政府主席に就任し、就任翌日、戒厳令を
解除し、「二・二八事件」関係者逮捕の中止を声明した。しかし、実際は事件関係者の
逮捕と処刑は暫く続く事になる。魏道明主席は台湾人懐柔策として台湾省政府委員や省
政府高官の半数に台湾人を起用したが、結局は彼らの部下である外省人が実権を掌握し
ていたからだ。国民党の形勢がますます不利になった 1949年8月、台湾に渡った蒋介石
は台北市北部の陽明山を本拠にして、国民党総裁として命令を下すようになった。陽明
山は旧称は草山で日本人が見つけた温泉地だった。当然火山地帯で景勝地で日本の統治
時代に大屯山国立公園となっていた。10月共産党が「中華人民共和国」の建国を宣言し
、国民党の敗北は決定的なものとなった。更に1950年6月の朝鮮戦争勃発に際し 米国の
トルーマン大統領は「台湾海峡の中立化」を宣言し、台湾海峡に米国艦隊を派遣して、
中国が台湾に武力侵攻すること、また反対に台湾が中国に武力侵攻することを阻止した
。形の上は、台湾は米国の軍事保護下に置かれ、西側陣営の一角となった。朝鮮戦争前
は、米国が台湾海峡不介入を表明していただけに、朝鮮戦争の勃発は 台湾のその後の
運命を決定付ける大きな出来事だった。1979年の米中国交正常化の後も、米国国内法の
「台湾関係法」で 台湾を政治的な実体とみなし、実質的関係を保持して台湾が防衛に
必要な軍事物資を有償で提供しつづけた。こうして国民党政権は米国の保護下で、台湾
で生き延びる事が出来たのである。


1846: 名無しさんAA:18/03/03 11:21
 中華人民共和国成立後、周恩来首相の下で副首相を務めた郭沫若(かくまつじゃく)
という人がいます。日本との縁が深く、支那事変が起こるまで日本に長く住んでいまし
た。支那事変が始まってのちは、国民党軍事委員会政治部第三庁の長官として文化宣伝
に従事しました。その郭沫若が、昭和34年に日本で翻訳出版した『抗日戦回想録(原題
『洪波曲』)』に、こう記しています。「話だけでも胸の痛むことだ。あんなふうに、
われわれは、やれ動員だ、やれ抗戦だといって、しかも 毎日毎日「最後の勝利は必ず
われらのもの」などと繰り返していたが、抗戦八年の間に、いわゆる壮丁(そうてい)
から弱丁へ、弱丁から病丁へ、病丁から死丁へというふうにして踏みにじられた同胞の
数は、戦死したり日本の侵略者に虐殺されたりしたものの少なくとも百倍以上はあった
だろう。私はそう言い切ることができる。」と書いている。「中国信息中心」の分析に
このような一文がある「中国人は中国人自身にも残酷で、情け容赦ない攻撃を加える。
ましてや外国人に対しては説明するまでもないだろう。」 支那人は外国人に対しては
もちろん、自国民をも攻撃する。彼らの歴史を見ればそういう事例はたくさんある。又
戦後は中国共産党による文化大革命や天安門事件などは顕著な例だろう。資料も沢山残
されて、たとえば支那事変の際、当時現場にいた外国人が支那軍の残酷性について多く
の記録を残しているし、中には支那人自身がそれを述べているケースもある。支那事変
初期に起きた「黄河決壊事件」がある。蒋介石が実行した、一種の自国民大量虐殺だ。
この事件の一つでも、記録を見れば、戦死したり日本軍に「虐殺」された同胞(支那人
)の数よりも、自国軍に殺された同胞の数の方が百倍以上も多かったという、郭沫若の
主張が嘘ではないことが分かります。1938年すでに河南省の開封(かいほう)を占領し
ていた日本の北支那方面軍は、一部がさらに西の鄭州(ていしゅう)南方の平漢鉄路ま
で進出してきた。慌てた蒋介石は日本軍を食い止めるため、中牟県というところで黄河
の堤防を破壊させた。このため、濁流が東南の平原に流れ込み、周辺の村々だけでなく
、安徽(あんき)省、江蘇(こうそ)省の一部を水浸しにしました。国民党政府では、
日本軍の不意を突くため、大多数の住民に対しては事前に堤防の破壊を伝えない方針を
決定して行っていた。そのため住民らは逃げる時間もなく、たくさんの被害者が出た。
水死者は 32万人とも100万人ともいわれ、餓死者も多く含まれていると思われる。被害
の程度については諸説あって不明だが、いずれにせよ その後も水死は免れたものの、
土地が水没したままで3日も浸水したままだった。

1847: 名無しさんAA:18/03/03 11:21
 この為離郷を余儀なくされた住民も多数おり、この数も 60数万人とも110万人以上と
もいわれている。国民党側は「黄河決壊事件は日本軍の砲撃で引き起こされたものであ
る」「日本兵の被害は五千人」などと 嘘の公式発表をし、自作自演しておいて、それ
を敵の仕業だと内外に宣伝する、支那の伝統手法であった。実際は日本側の被害は軽微
で、水に囲まれて孤立した第十四師団でも洪水による死者は3名のみだった。国民党の
説明にあまりにも無理があったため、各国メディアがそれをそのまま報道することはあ
りませんでした。既に上海空爆でも米戦闘機を持つ中国軍の空爆だったが日本軍がして
いる。と声明をだしたが、その発表の速さと写真による機体の判別で中国軍と解ってし
まう出鱈目ぶりは露呈されていたのだ。ちなみにこの時、日本軍側は住民の救助活動や
堤防修理をして足止めして行っている。 蒋介石軍に従軍し、黄河堤破壊現場を目撃し
たアメリカ人記者のジャック・ベルデンという人がいます。ベルデンは3年後の1941年
の夏から秋にかけ、再びこの地方を訪れ、復興が進んでいるかどうか確かめようとしま
した。しかし、復興どころではありませんでした。その時の姿をベルデンは記述する。
「来る日も来る日も、荒れ果てた土地、休閑状態の畑、朽ちて倒れかかった人の住まぬ
家が並んでいるのを、道を歩きながら見ていると、気が滅入る思いがした。まだひどい
旱魃(かんばつ)が起っていないところが少なくなかったので、なぜ畑が見捨てられて
いるのかわからなくて困って眺めていた。そのとき百姓達には、国民党の徴税吏(ちょ
うぜいり)と蒋介石軍の徴発吏たちが収穫以上の穀物を要求するために、祖先の田地を
立ち去ったのだとわたしに話してくれた。労働の果実がことごとく取り上げられてしま
うだけでなく、要求された税に収穫が追いつかないために殴られたり牢屋にぶちこまれ
るのでは、どうして働くことができようか。」と国民党は支援どころか、災害に苦しむ
農民から苛酷な税を取り立てようとしたのです。それも政府と軍と2重にである。その
ため、農民は畑を放棄して逃げたのでした。しかもベルデンが立ち去った翌年、1942年
には大干魃が襲いました。これではだれも国民政府も国民党も支持はしなかっただろう
。その為隠れていた共産党軍の方が利口であったのだ。


1848: 名無しさんAA:18/03/03 11:21

 そしてその翌年、1943年の2月末から3月にかけて、今度はアメリカの雑誌『タイム』
記者のセオドア・ホワイトが現地にやってきました。「死体があった。洛陽(らくよう
)を出てから1時間も経たぬうちに、雪の中に横たわる死体があった。死後1、2日だろ
うか。その顔は頭蓋のまわりに萎(しぼ)んでいた。たぶん若い女性だったにちがいな
い。雪はその眼の上にも降り積っていた。埋葬もされぬまま、ついには鳥や犬が骨まで
しゃぶるだろう。犬どもも道端にたむろしていたが、狼の天性に戻ったか、毛並も艶や
かでよく肥えていた。われわれは、砂の山から死体を掘り出している犬どもの写真を撮
ろうと馬を止めた。なかには半分食べかけのもあったが、犬は、はっきりそれとわかる
頭蓋骨をきれいにつっつき終わっていた。」このような残酷な場面を生んだ原因は、先
にベルデンが聞き知ったのと同じでした。「ちょうど近頃の世論調査員がやるように、
毎晩私は土地の官吏と話したあと、克明に記録をつけた。そして私が得た結論は、中国
政府がその人民を死にいたらしめた、あるいは愚かにも人民を餓死させたという一点に
尽きた。政府は抗日戦を戦っていた。そのために情け容赦なく税を取り立てた。それも
、政府が自国の紙幣を借用せず、戦地の政府軍は穀物などで税を取り立てて軍を維持す
るよう指示されていたのだ。ある将校は私にこういった。たとえ民衆が死んでも土地は
中国のものだ。だが兵士が飢え死にしたら土地は日本軍に奪われてしまう。と」更に、
ホワイトはこう続けている。「河南省では、軍隊は土地の収穫高を上回る穀物税を取り
立てた。文字通り田畑を空にしたのである。軍隊は、穀物が余っている地域から穀物を
運んでこようとはしなかった。つまり人びとの食生活を完全に無視したのだ。」



1849: 名無しさんAA:18/03/03 11:22

さらにホワイトは、身の毛もよだつ恐ろしい噂を耳にしました。「このような悲惨を私
は見てきたが、耳にした最悪の話は人喰いの事実があるということだった。人間が人間
を殺して食べるなど、見たこともなかったし、ましては人肉を味わったことなどない。
だがこれは、論駁(ろんばく)の余地ない真実と見えた。今までたいていの場合、人肉
を(死んだから)死体からとるというのが、言い訳になっていた。われわれが(今まで
)記事にしようとした件はどれもこれも、それが弁解の手であった。(だがここは違う
。)ある村では、母親が2歳になる実の子を茹(ゆ)でてその肉を食べたことが発覚し
た。2人の息子を絞殺して食べたために告発されたという件もある。また、貧しい子を
預かるようにと軍に命令されて、ある農夫が8歳の少年を預かった。ところがいつの問
にか少年の姿が見えない。調べてみると、農夫の小屋の傍の大きな甕(かめ)の中から
少年の骨が出てきた。(ここでの)問題は、少年が死んでから食べられたのか、殺され
たのちに食べられたのかという点だった。」と書いている。ホワイトの当時の推定によ
ると、黄河堤の破壊のあと、洪水被害を受けた県には依然 800万人が生存していると思
われた。しかし、彼の最終的な計算では、「既に 500万人が死んだか、死につつある」
と記されています。その時の様子をホワイトは後年に出した『歴史の探求』でこう述べ
ていたのである。



1850: 名無しさんAA:18/03/03 11:22

 先述のベルデンは、実は第二次世界大戦終結後にも支那を訪れています。蒋介石の国
民党軍と毛沢東の共産軍の間で始まった国共内戦の初期の頃のことでした。河南を訪れ
たベルデンは、蒋介石が民衆を騙し討ちにかけた事実に驚きました。共産軍が撤退して
ほとんど全県を国民党に明け渡した時、住民は地元にとどまって国民党軍を歓迎しまし
た。紅軍(共産軍)から村を引き継ぐと、地主もしくは国民党の将校は民衆大会を招集
し、大赦を宣告するのだった。「どの村でも共産党の土地政策はとても良かった。」と
言われると国民党はいつもこういうのだった。「われわれは何ひとつ変更しようとは思
わない。われわれは、この村の村長、民兵の隊長、共産党のキャップをのぞいては、す
べての人をゆるすつもりだ。だれでも、われわれをおそれる必要は少しもない。しかし
、諸君のなかの一部の者は、共産党の宣伝によってまどわされている。諸君が村役場ま
で出頭して、悔恨(かいこん)状に署名しさえすれば、万事それでよいわけだ。」と。
そこで、農民たちは出頭した。これ以上良いことはないと思ったので、かれらは村役場
へ行って、自分が婦女会あるいは民兵に参加したことを認めた。そういうことをしても
、何も悪いことが起こらなかったので、愚直な農民は罠(わな)にかかった。女房たち
は亭主を説きふせて、山のかくれ場所から帰ってこさせた。そして、活動的な農民達が
すべてふたたび村内に入ったと見たときに、国民党は悔恨状の署名者全部をしばりあげ
て、公然と処刑した。蒋介石は、抗日や反共に名をかりて、ヒトラーによるユダヤ人大
量虐殺さえ顔負けの 皆殺し(ホロコースト)を、自国民に対して働いていたのだ。」
蒋介石の特に残虐なところは、こうして人々をいったん安心させ、警戒心を緩めておい
て騙し討ちにかける手法を繰り返し用いたことです。いくつもの例が記録されています
が、ここでは話を支那事変に戻します。日本に戦争を仕掛けるに当たって蒋介石が採用
した戦術は、いくつかの柱″から成り立っていました。まず、奥地(重慶)への退却
と退却に際しての焦土作戦です。蒋介石は戦後、自著でこれをためらうことなく採用し
たと自慢しています。焦土作戦とは侵入してきた敵に利用させないよう、味方の人家や
建物、各種施設に火を放ち破壊することです。したがって、住民は、家や生活手段を奪
われ、焼け死んだり餓死したりし、自国民が最大の被害者になりますが、支那では伝統
的な戦法でした。しかし、蒋介石の焦土作戦は常軌を逸し、たいていは無意味でもあり
自らの首を絞めた。

1851: 名無しさんAA:18/03/03 11:22

 1938年11月中旬、漢口を南に下った湖南省の大都市・長沙(ちょうさ)で、省長の張
治中が強行したのは、無意味な放火の典型でした。日本軍が攻め込んでくるとの噂に怯
え、事前の警告もなく、兵士を市街のあちこちに派遣してガソリンをまかせ、着火させ
たのです。この時、危うく焼死を免れたのが冒頭に紹介した郭沫若です。一時、長沙に
滞在し、間もなく離れる準備を整えている最中に火の海に囲まれました。郭沫若はこの
時に体験し、目撃した大火の模様、逃げ惑う群衆の哀れな様子を詳しく書き残していま
す。「長沙に火をつけて焼き払ったのは、張治中とか藩公展とかいった人々の大いなる
功労者達だった。彼らは一度奇功をたててみたい一心で、モスクワを焼いたクトゥーゾ
フを真似た結果が長沙市の大火になったのだ。だが、残念ながら、日本人は笑いものに
するばかりで、ナポレオンを演じに登場してくれなかった。百万戸以上の人家を焼き、
さらに統計にもれた傷病兵や病人や年寄りの市民を焼死させた責任は誰が負うのか。」
この失態の責任を取らされ、警備司令の豊悌(ほうてい)ら3人が銃殺されました。ち
なみに、最高責任者の張治中は、周恩来が蒋介石をとりなしたので死刑を免れています
。実は周恩来もこのとき長沙に居て火に囲まれ、間一髪で脱出し、直後は腹を立ててい
たのですが、自分が国民党に潜り込ませた隠れ共産党員の張治中を殺すわけにはいかな
かったのです。張治中は回想録の中で、周恩来に中国共産党への入党を申請したが、周
恩来からは国民党にとどまり「ひそかに」中国共産党と合作することを求められた、と
書き残しています。つまりもともと周恩来は共産党と国民党の間の人間だったのである
。蒋介石は、自慢の焦土作戦を上海から南京に至るまでの戦場でも実行させました。し
かも、支那兵は単に放火をしただけではありませんでした。日本軍が南京の近くまで押
し寄せてから占領までの模様を、南京に居残っていたミニー・ヴォートリンという女性
が記録しています。南京の金陵女子文理学院の教師(後に同学院校長)をしていた人で
す。


1852: 名無しさんAA:18/03/03 11:23

彼女が『南京事件の日々』に記したところによれば、支那軍は周辺の村々から住民を連
れ出したあと、村を焼き払いました。そして 12月7日、何千人という支那人が安全区に
入って来ましたが、彼らの話によれば、5時までに立ち退くよう警察から命令され、そ
れに従わなければ家は焼き払われ、スパイとみなされるというのでした。ヴォートリン
は家から離れざるをえなかった大勢の支那人が、空腹を抱え、寒さに震えている様子を
、話を聞けた人たちの実名も挙げながら記しています。そして、「こうした作戦が仮に
日本軍の入城を半日か1日遅らせるとしても、人々にこれほどまでの苦難を与えてまで
もする価値があるのか疑問だ。」と述べています。 12月8日、日本軍の中支那方面軍は
南京を包囲した。 12月9日、同軍司令官の松井石根は、支那軍に対し無血開城を勧告し
ました。しかし、支那軍が開城勧告に応じなかったため、12月10日に進撃を開始し、12
月13日に南京城に入城します。日本軍が入城する前日、12月12日のヴォートリンの記述
にはこうあります。
「防衛司令長官の唐[生智]には、麾下(きか)の部隊にたいする統率力が不足してい
るために、場内のほとんどの場所で掠奪がおこなわれているそうだ。(中略)いまや、
日本軍機は意のままに飛来しては爆弾をごっそり投下しているが、高射砲や中国軍機に
よる反撃は何もない。犠牲がほとんど効果をあげていないとすれば、城壁外側のすべて
の家屋、それに内側の多くの家屋をも焼き払ったことは、とんでもない誤算であったと
確信する。中国の貧しい民衆のほかにいったいだれが、このような破壊によって苦難を
こうむるというのだろうか。破壊しないまま南京を引き渡したほうがよかったのではな
いだろうか。」と。「夜9時から10時にかけて陳さんと二人でキャンパスを巡回した
。洗濯夫の胡さんと、彼の近所に住んでいる農民の朱さんは二人とも、まだ寝ていなか
った。今夜彼らは、撤退して行く中国兵を怖がっている。というのも、家族のなかに若
い娘がいるからだ。日本軍が入城した翌日の12月14日にはこういう記述がある。夜明け
前にふたたび城壁に激しい砲撃が浴びせられているようだった。おそらく、きょう主力
部隊が進入するさいに、邪魔になる城門のバリケードを壊しているのだろう。ときおり
銃声も聞こえた。たぶん、掠奪を働いている中国兵グループを日本軍衛兵が狙撃してい
るのだろう。


1853: 名無しさんAA:18/03/03 11:23
 カメラマンの佐藤振寿氏が南京占領の2日後の12月15日に現地の南京安全区にて撮影
した写真がある。佐藤氏曰く「中国人は日本人カメラマンが行くと、積極的に子供をか
かえて撮影に協力してくれる。日本兵や日本人を恐れていなかった。」と話してくれる
支那兵が去ったあと、今度は支那の民間人による略奪が多発しました。ヴォートリンは
、金陵女子文理学院理事会に提出したレポートの中でこう記しています。「より貧しい
人々は寝具や小銭さえも盗まれ、安全区にあって とても安全だった裕福な家の敷物や
ラジオや家具も盗まれつつある。私達は、12月17日頃から 1月17日迄(この日に私は最
後の火事を見た)のような大規模な焼却は見ない。現在の最も大きな悩み事は、「老百
姓」即ち普通の人々による略奪が続いていることである。法も秩序も無いこの市のなか
で、貧しい無法者は、どの家に入って欲しい物を持ってきても全く自由だと思っている
。旧安全区の外では、多くの家が戸や窓や床までもすべてが盗まれている。ここ数日間
、私は良質の戸と窓が売られているのを見たが、それは破壊が進んでいることを意味し
ている。当然、私の中国人の友人はこの件に心を痛めているが、どうすることも出来な
い。」ちなみにヴォートリンが教鞭を執っていた金陵女子文理学院に関しては、12月17
日に日本兵が侵入して避難していた難民女性を多数強姦したと支那側が主張しており、
南京事件の映画では必ずこの描写を盛り込みますが、それが事実ではないことはヴォー
トリンのレポートの別の箇所に示されています。南京で放火、破壊、略奪、強姦を繰り
広げたのは、はたして支那人か。日本人か。はヴォートリンの記録をご覧になった皆さ
んは直ぐにわかり得る。国民党軍による破壊行為は単に民家や建物の放火に留らず、農
・工業生産施設、水運・海運、鉄道網などにも及びました。具体的内容が、1940年 3月
に南京特別市行政院宣伝局が発行した『中華民國維新政府概史』に掲載されています。
それによると、蒋介石軍が南京陥落までに焦土作戦を強行した場所がわかり、主なもの
だけで、8つの郷村(鎮や県)が被害に遭っています。これにヴォートリンが述べた、
南京とその周辺を含めると、被害地域は上海から南京までおよそ三百キロ、日本で言え
ば東京から豊橋までぐらいの区間に散在していました。日本語の『中華民國維新政府概
史』は国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで誰でも見ることができます。



1854: 名無しさんAA:18/03/03 11:24
「殊に蒋介石軍の兵車(へいしゃ)通過地域又はその駐屯地は、放火・掠奪・暴行・破
壊と悪虐の限りを極められ、……農家は悉(ことごと)く被害を蒙(こうむ)り、甚だ
しきものは家屋農具は焼失、家畜・食料・種子は徴発され、農業生産に必要な一切のも
のを喪失するに至った。」各地で狼藉を尽くした蒋介石軍が逃げ去ると、住民たちは安
堵して隠れ場所から出てきました。そして、野蛮な蒋介石軍を退治した日本軍を歓迎し
たのです。それは南京でも同じでした。フリーアナウンサーの 鈴木史朗さん(1938年2
月生まれ)は3〜4歳の頃、お父さんに連れられて南京に行った時、南京の人々が好意的
に接してくれたという話を紹介しています。また、昨年、南京事件をめぐる発言で物議
を醸した河村たかし名古屋市長も、南京で終戦を迎えたお父さんが南京の人々から温か
いもてなしを受け、お礼に桜の木をプレゼントしたと話していました。どちらの体験も
、「大虐殺」が虚構であり、日本軍の南京占領が住民にとっては解放だったからこそ、
あり得た話ではないでしょうか。ここで間違えてならないのは、盧溝橋事件とされる、
日中戦争が起こった時には蒋介石の正規の国民政府軍は北伐の時に共産党に捕らえられ
共産党の八路軍と合同になっていて、日本が「蒋介石を相手にせず」と声明を出した頃
は夜盗の徒党だった為、日本軍の駐留や進軍を望む声がわざわざ寄せられていた事だ。
つまり中国国内はまずは清の軍閥に徘徊され、次は共産党に更に国民党にその後又共産
党に蹂躙されていたことだ。日本軍がやって来たのはほんの一部の都市部に他ならない
。もともと歴代の中国王朝は漢民族が押し寄せて来た為に、騎馬民族や馬賊が侵略しな
い様に乗っ取った王朝だった。その為明や清などは、訪来王朝で臣下として朝貢制度に
組み入れらればそれで良かったのである。その為満州国は至って簡単に日本のものとな
りそのころ漢民族の侵略に悩んでいた満州族に受け入れられたのである。そうして満州
から追い出された無頼の徒党がロシアやソ連で共産党となり朝鮮や中国に帰ってきて、
食糧が無いためにテロや狼藉で喰い詰め浪人の様な形で共産党に入りながら国民党軍に
入っていたのである。蒋介石が立ち上げた国民政府には主席がいたが「蒋介石軍の駐屯
地は、放火・掠奪・暴行・破壊と悪虐の限りを極められ農家は悉(ことごと)く被害を
蒙(こうむ)り、甚だしきものは家屋農具は焼失、家畜・食料・種子は徴発され、農業
生産の一切のものを喪失するに至った事から全く税収どころか発行紙幣の価値さえない
有様だったのである。中国漢民族は、悠久の昔から、イナゴやバッタの如く食い尽くす
のみで国家国民国土の保持を考える事は無かったのである。


1855: 名無しさんAA:18/03/03 11:24
国民党初代総統に就任した当時「動員戡乱時期臨時条款」という、臨時に憲法に優越す
る法律が制定された。(1948年5月)これは反乱団体である中国共産党を平定(戡乱)する
までの国家騒動員の時期を指し、2年間の戦時の時限立法とされた。しかし国民党が台
湾に移った後の1950年5月に満了となったが、「反乱」の平定が実現していないことを
口実に延長され、1991年5月まで43年間にわたり施行されることとなった。つまり、
国民党政権は、米国の保護下の台湾を非常時の「国民戡乱時期」体制に置き、「動員戡
乱時期臨時条款」で統治したのである。こうした事は国民にとっては「共産党政権」で
も「国民党政権」でも変わらなかったのである。「動員戡乱時期臨時条款」を補強する
のが戒厳令だったり、「動員戡乱時期臨時条款」のもとに制定された160もの法律が
ある。国民党政権は中国共産党の「反乱」を口実にも台湾での強権政治を正当化した。
これにより、蒋介石総統、また後の蒋経国総統を頂点とした一党独裁体制が築かれて行
なわれた。この蒋介石独裁での非情さは大韓民国の李承晩と全くおなじだった。1953年
5月の「呉国驛Aメリカ亡命」が、その最も古い代表的な例だ。外省人である呉国驍ヘ
アメリカの信任が篤く、1949年12月に台湾省政府主席に起用されたが、蒋経国とうまく
いかず、暗殺の危機を察知して台湾省政府主席を1953年3月に離任、5月にアメリカへ亡
命している。亡命後は国民党政権の独裁強権政治を強く批判した。又1955年8月「孫立
人事件」も同じだ。外省人である孫立人もまた、アメリカの信任篤い将軍で、戦前はビ
ルマ戦線で日本軍と戦い、成果をあげ戦後は国民党軍の司令官を歴任したが、蒋経国と
うまくいかず、総統府参軍長在任中に、部下の中国共産党スパイ事件で解任され、軟禁
された。1988年になって33年ぶりに軟禁を解かれた。父の孫熙沢は、清末の挙人であり
、山東省や安徽省で地方官僚を務めている。孫立人は幼い頃から学問に勤しみ、1914年
には北京清華学校(後の清華大学)土木工程系(土木工学部)に入学している。学問だ
けでなく体育活動でもバスケットボールの選手として活躍し、1921年の第5回極東選手
権競技大会で中国代表に選出、優勝に貢献している。1923年に清華学校を卒業し、官費
でアメリカに留学、インディアナ州のパデュー大学で引き続き土木工学を学んだ。同大
学では理学学士を取得し、1925年にはバージニア士官学校に進学している。同校を卒業
後、欧米や日本を歴訪し、各国の軍事事情を視察した。

1856: 名無しさんAA:18/03/05 14:25 ID:LUE
 世界新時代−‐‐45   <幻の漢民族とは------1>

 我々は漢民族と言うのは 漢字を作り隋や唐を打ち立ててた人々と勘違いしている。
実は歴史を紐解けば以外にも、世界大戦前も今も中国と言う物を誤解している。中国の
政府が打ち立てている民族は風習や言語によって分けているが、実は最も現実的DNA
の解析では全く違った部分が見えて来る。顔尚強によれば、「漢民族はその昔、漢民族
とは称されておらず、華夏族と称されていた。漢民族という名称は漢王朝(BC 206〜AD
220)の時代から今日まで使われてきてはいるが、今でも本土の中国人は中国のことを
華夏、中華文明を華夏文明と呼ぶことがある。学者によると、周王朝(BC 1066〜BC 25
6)の創立者である周武王が商王朝(殷王朝ともいわれる。 BC 16世紀〜BC 1066)の末
代の商紂王を討ち取った後中原に定住し、その一族を中国の伝説上の先聖王である神農
・黄帝・堯・舜をちなんで「華族」と称した。また夏王朝(BC 21世紀〜BC 16世紀)の
創立者の大禹の末裔が「夏族」と称されていたことから、中原に居住していた族群を、
「華夏族」と称するようになったと言われている。」という。ありていに言えば夏王朝
があったが周武王が殷をたて周の時代に 昔の「華夏族」をして名乗ったと言う事だ。
  この「華夏族」を名乗った訳は周辺の部族が従わなかった為だ。紀元前 221年、秦
の始皇帝が中国を統一し、ばらばらとなっていた華夏族が統一となり、その後に 漢の
時代が訪れ文明が高度に発達した。そこで漢民族と改めて他国の人々が呼び始め日本で
は漢民族が定着した。漢の時代は前漢及び後漢合わせて408年間にも及び、影響地域
は拡大し、文化も高度に発達した。この時期の華夏族は周辺民族から「漢人」と呼ばれ
始めた。これは漢族の由来とされ漢民族は漢の時代に形成し、その後幾度の民族融合及
び異民族の漢化を経て現在の漢民族を形成した。とされる。林惠祥は著書の中国民族史
で漢民族は華夏族を中心として東夷系、荊呉系、百越系及び東胡系、匈奴系などの民族
を吸収し形成した民族であると論じている。黄河の上・中流を中心に居住していた華夏
系は黄河の下流の東夷系、長江の中流の荊呉系及び珠江を中心とした百越系と融合及び
統合のプロセスを通して漢民族に生まれ変わったわけである。


1857: 名無しさんAA:18/03/05 14:26
 世界新時代−‐‐45   <幻の漢民族とは------2>

 だが現実にはちょっと違う様だ。実はそれはチベットと仏教に大きく関わり合いがあ
る。その話の前に漢民族という言葉の下敷きとなった漢朝(前漢・後漢)では最盛期に
は人口が6000万人を数えたが、黄巾の乱や三国鼎立の時代、さらには八王の乱・永嘉の
乱など後漢末からの社会的混乱や天候不順で、中原の戸籍に登録されている者は五百万
人を切った。この後は、次段落にあるように北族の時代を迎え、この時点でオリジナル
な漢民族は滅亡したと主張している学者もいる。4世紀頃から北方の鮮卑などの北方遊
牧民族に華北平原を支配され五胡十六国時代が訪れ、この結果中原に居住していた民族
の一部は南方に移動し客家になった。最終的には北方民族は漢語をはじめとした漢風の
諸習俗を受け入れ隋唐時代の初期に出来た運河によってその文化や言葉が一様になった
。後にの遼や金、元や或いは後金やその後身の清などといった征服王朝期が出来るが、
中華文化は北方の草原文化を取り込む理由は、そもそもが夏の時代から征服されて王朝
が出来ていたからだ。明・清王朝は長らく海禁政策を採用した。加えて、異民族王朝で
ある清朝は満州(現在の中国東北部)・内モンゴル・新疆などへの漢族の移動まで禁じ
、意識して漢民族の膨張を抑止しようとした。結果として、後に民族間の軋轢を生んだ
のだがこれは伝統的な封柵主義である。今でも漢民族と言うのは宗教みたいなものだが
異民族の出身であっても漢族の文化伝統を受け入れれば、漢族とみなされ、逆に他国に
出ても漢民族の伝統を守る仲間意識でそれぞれに集団化して住み着き他とのコミニュテ
ーをなかなか取らない。漢族には遺伝的血統があるわけではなく、その実体は黄河文明
を生み出した中原と周辺の多民族との間で繰り返された混血で、異民族でも文化伝統を
受け入れれば、漢族とみなされたとされ、漢民族は現代に至るまでの長い歴史の間に、
五胡、契丹、満州、モンゴルなど、多くの民族との混淆の歴史を経て成り立っている。
と言われる。だが歴史上中央アジアを駆け巡った 北アジアの遊牧騎馬民族はゲルマン
民族大移動まで誘発させ、西ローマ帝国崩壊の遠因ともなったのに、このフン族と言わ
れ、民族自体の出自についてはかなり以前より「フン」=「匈奴」説などがあるものの
、いまだ定説はない。


1858: 名無しさんAA:18/03/05 14:26
 世界新時代−‐‐45   <幻の漢民族とは------3>

 万里の長城は匈奴のような北方の異民族が侵攻してくるのを迎撃するために、秦代の
紀元前214年に始皇帝によって建設された。とされた。しかし近代の研究では長城は
始皇帝によって建設されたと一般には考えられているが、実際にはその後の王朝によっ
て修築と移転が繰り返され、現存の「万里の長城」の大部分は明代に作られたものであ
る事がわかり現存する明代の長城線は秦代に比べて遥かに南へ後退している。と言う。
よく「農耕民族と遊牧民族の境界線」と言われるが、秦・漢代の長城は草原の中に建っ
ている為、両王朝が遊牧民族に対し優位に立ち、勢力圏を可能な限り北方へと広げよう
としたためである。とさえ言われる。それに対し明代の長城は防衛を容易にするために
中国本土に近いところに建設されており、とくに首都北京付近においてその傾向が強く
、北京付近の長城は北京から百qも離れていない稜線上に設けられている。つまりこの
万里の長城は南北両勢力の境界線として機能したのだが、北方の遊牧民族も、南方の農
耕民族もお互いの物産を必要としており、長城沿いの交易所がいくつも設けられ、盛ん
に物流が行われていた事を示している。言わば道であり目印だったのだ。交易はいつも
うまくいっていたわけではなく、北方民族側の思うとおりにいかない場合もあった。そ
の交易を有利にするための威嚇として利用したのだろう。事実、明の力が弱い時期には
北方民族は長城をなんなく越えて侵入を繰り返していた。不思議にも始皇帝による建設
以後においては、秦・前漢・北魏・北斉・隋・金・明は大規模な長城建設を行ったのに
対し、後漢・魏・晋・五胡十六国の諸王朝・唐・五代の各王朝・宋・元・清は長城防衛
をほとんど、あるいはまったく行わなかった。又長城の建設位置に関しても、秦・前漢
・金は中原から遠く離れた草原地帯に長城を建設したのに対し、北魏・北斉・明は中原
に近い山岳地帯を中心に長城を建設した。つまり古来からの定住民はないほうが良く、
征服王朝は壁を作り監視したのである。まるで収容所の様に。ここで面白い事に現代で
は似た様な発言がある。トランプが「メキシコ国境に壁を造る。そしてそれはメキシコ
に出させる。」と言い放っている。まさしく征服王朝元の子孫がした事がそうだったの
である。八旗は、清の始祖であるヌルハチが、満洲人の前身である女真族を統一する過
程で、女真固有の社会組織を「旗」と呼ばれる軍事集団として編成、掌握したことに始
まる。とされる。つまり長城と同じく漢民族を守る為でなく漢民族から守る為に作った
のだったのだ。

1859: 名無しさんAA:18/03/05 14:27
 世界新時代−‐‐45   <幻の漢民族とは------4>

 フン族には、アッティラの指導の元で複合弓と優れた馬術による伝統的な騎乗弓射戦
術を用いて対抗勢力に対する覇権を確立した。とされる。フン族はローマ諸都市からの
略奪と貢納金によって富を蓄えて、ゲピド族、スキール族、ルギイ族、サルマタイ族、
東ゴート族といった従属部族の忠誠を維持していた。フン族の状況に関する唯一の長文
の直接的な文書は、アッティラへの使節の一員だったプリスクスによるものである。と
言う。高度に水のある沼地のベニスを作ったとされるが、文字を持たなかったとされる
からだ。紀元前1世紀にユリウス・カエサルがガリアを征服して以来、400年以上も
の歴史がある。だが、これまでローマ帝国はその試みを悉く打ち砕いて来たし、侵入し
てきたゲルマン人達も、略奪した後は本拠地に引き返して行くという一過性のものに過
ぎなかった。ところが5世紀前半、ゲルマニア(ドイツ)に居住するゲルマン諸部族が
、大挙としてライン河を越え、西ローマ帝国の領域であるガリア(フランス)に侵攻を
開始した。世に言う、ゲルマン民族大移動である。実のところ、ゲルマン人によるガリ
ア侵略はさほど珍しい光景ではなく、ほとんど日常茶飯事と言ってもよいものだった。
今回だけは事態は違っていた。ゲルマン人には明らかに動揺が見られたし、何としても
西ローマ帝国内に生存権を確保しようと必死になっていたのだ。これまでゲルマン人は
、ローマ人に幾度と無く手痛い目に遭わされてきたが、決して恐れてはいなかった。そ
の大柄な体格と命知らずの蛮勇は、時に精鋭ローマ軍すら恐れさせる程のものだったか
らだ。だが、そんな彼らが恐怖に青ざめ、何かに急き立てられるように、大挙として西
ローマ帝国内に押し寄せて来るのである。この頃のローマ帝国は衰弱して東西に分裂し
て、ゲルマン人を追い払う力も無くしていた。ガリアはたちまちのうちに、難民と化し
たゲルマン人諸部族の占有する土地となった。何が、彼らをそこまで追い詰めていたの
か。その原因が東の果てからやってきた遊牧民、フン族の脅威であった。彼らの特徴に
付いて述べてみる。フン族の男達は幼い頃から馬に慣れ親しみ、狩猟の腕を磨きながら
成長していくので、言わば生まれついての騎馬戦士であった。何をするにもどこに行く
にも馬に乗り、戦場でも馬から下りて戦うのを極度に嫌った民族だった。


1860: 名無しさんAA:18/03/05 14:27
 世界新時代−‐‐45   <幻の漢民族とは------5>

彼らは牛、馬、羊の群れを引き連れて移動し、狩猟や牧畜によって生計を立てていた。
衣服は動物の皮で作られたもので、擦り切れるまで着ていた。住まいは二輪の牛車で、
その中で食事や睡眠、男女の混交もこなしていた。フン族には人間行動を律する法律は
存在せず、族長の命令が絶対だった。土地や蓄財の収集には関心が無かったが、黄金は
好んだ。黄金に限らず、光り輝く物は何でも好んだ。耕作し、食料を確保しておくとい
う考えが無かったので、機会さえあればまず奪う事を考えた。目的地も無く、定住にも
関心が無かったので、各地を移動しつつ、略奪を繰り広げた。彼らの軍団は神出鬼没の
機動力を誇り、その騎乗戦闘能力も極めて高かった。この記述と同じ記述が中国の書に
出て来る「柔然可汗国」の記述だ。5世紀から6世紀にかけてモンゴル高原を支配した
遊牧国家。『魏書』,『北史』,『南史』などでは蠕蠕(ぜんぜん)、『宋書』,『南斉
書』,『梁書』などでは筒筒(ぜいぜい)、『周書』,『隋書』などでは茹茹(じょじょ
)、『晋書』では柔蠕と表記される。柔然の始祖は木骨閭といい、故にその王族は郁久
閭(いくきゅうりょ)氏と言った。3世紀ごろには鮮卑拓跋部に従属していたが、鮮卑
が華北へ移住した後のモンゴル高原で勢力を拡大し、5世紀初めの社崙の時代に高車を
服属させてタリム盆地一帯を支配し、拓跋部によって建てられた華北の北魏と対立した
。また社崙は可汗(かがん、Qaγan:後のハーンの元)の君主号を使った。社崙は北魏
の明元帝の軍に敗れて逃走中に死去した。北魏との対立を深めた柔然は南朝宋,夏,北
涼,北燕,高句麗,吐谷渾と結んで北魏包囲網を形成した。夏,北涼,北燕はやがて北
魏により滅ぼされるが、柔然は勢力を保ち続け、吐谷渾を介在して宋と連絡を取り合っ
ていた。とされる。柔然が本格的に弱体化するのが485年,486年に配下の高車が自立し
てからである。高車の反乱は治めたもののそれに乗じて、鍛鉄奴隷とされていた従属部
族の突厥が隆盛し、552年、突厥の伊利可汗との戦闘に敗れて可汗の阿那?が自殺し、残
党は拓跋系の懐朔鎮軍閥の主導する華北東部の北斉に援助を求めたが突厥の要請により
殺され、柔然は完全に滅亡した。なお、アヴァール族は柔然の一派ではないかとの説が
ある

1861: 名無しさんAA:18/03/05 14:28
 世界新時代−‐‐45   <幻の漢民族とは------6>

 社崙は後秦の姚興と和親を結び、天興4年(401年)12月、道武帝が材官将軍の和突を
派遣して後秦の属国である黜弗・素古延部を襲った。その時救援の軍を出して北魏軍を
撃破している。漠北へ退いた社崙は高車を侵略、その諸部をことごとく征服し、初めて
軍法を立てた。その後、それより西北に匈奴の余種がおり、そこの部帥の拔也稽は反旗
を翻して社崙を攻撃したが、領根河(オルホン川)において 社崙に破られことごとく
征服された。このころの柔然は極めて強盛となり、西は焉耆の地(カラシャール地方)
、東は朝鮮の地、北は沙漠を渡って瀚海(バイカル湖)にまでおよび、南は大磧(陰山
山脈北麓の砂礫地帯)に臨んだ。これが柔然帝国の前身になった。社崙は(376年)に
、代国が前秦に攻められ、代王の拓跋什が殺されると、西部柔然の温吃提は匈奴鉄弗部
の劉衛辰に従属して代国に背いた。これが原因で、登国6年(391年)10月、北魏となっ
て復興した代国は温吃提を討伐し、逃げる柔然部を追撃してその半数を捕虜とした。こ
のとき社崙は兄弟とともに北魏に捕えられた。代国は中国の五胡十六国時代に建てられ
た鮮卑拓跋部の国。315年から376年まで主を擁し、およそ61年続いた。鮮卑拓跋部の国
は 286年、兄の拓跋悉鹿が死ぬと、拓跋綽が後を継いで大人となった。雄武で智略があ
り、威徳を複数挙げた。 293年、匈奴の宇文部大人宇文莫槐がその配下に殺され、弟の
宇文普撥が大人として立つと、拓跋綽は宇文普撥の子の宇文丘不勤に娘を嫁がせた。同
年、拓跋綽は死去した。拓跋部を7年間統治した。拓跋沙漠汗の子拓跋弗が継いで大人
となった。神元帝(しんげんてい)は、中国の皇帝の諡号なのだがいずれも追尊皇帝で
あるが北魏の始祖の名でもあり、鮮卑拓跋部の大人拓跋力微への追号で元の烈祖の名と
もなっている。烈祖神元帝はチンギス・カンの父イェスゲイへの追号となっているのだ
。この事からも元は漢民族の封じ込めに動いた事が解る。フン族には「行く先々で荒れ
狂い、略奪の限りを尽くした。彼らは多数の人間も連れ去ったが、役立たない人間と見
なせば容赦なく殺戮していった。」と言う激しい侵略の記録が残る。東ローマ帝国のキ
リスト教徒は、フン族に神の鞭(むち)との綽名(あだな)を付け、彼らの通った後に
は犬の鳴き声すらしないと恐れ慄いた。フン族は、東ローマ帝国の首都であるコンスタ
ンティノーブルの目の前まで接近すると、そこから東ローマ皇帝に凄まじいばかりの要
求を突きつけた。まず2250キロの黄金の差し出しに加えて、更に毎年、約780キ
ロもの黄金の支払い、それにフン族から脱走した兵士の返還と、捕虜としたローマ人を
解放するに当たって金貨を支払うよう求めるものだった。と言う


1862: 名無しさんAA:18/03/05 14:28
 世界新時代−‐‐45   <幻の漢民族とは------7>

 韓国人18人のDNA、RNAを分析した結果、 220万個以上の新しいゲノム変異が
見つかったと、ソウル大学医科大学遺伝体医学研究所とマクローゼン生命科学研究所が
、世界的な学術誌ネイチャー(電子版)で発表したと、複数の韓国メディアが報じた。
研究グループは2008年から「アジア人の遺伝体多様性プロジェクト」を実施しており、
今回の研究は3番目の研究として、遺伝疾患のない韓国人 18人(男性11人、女性7人)
のゲノム(全遺伝情報)を分析した。報道によると、既存の研究ではDNA配列の分析
を通じ、特定の病気の発見や、人間の特性や疾患などを特定してきたが、今回の研究で
はDNA配列とRNA配列を同時に分析。DNAに存在しない変異がRNAに存在して
いたり、その逆のケースがあることを明らかにした。 韓国人18人からは、950万個以上
の変異(遺伝子を構成する塩基配列の違い)が確認され、内 220万個は今回始めて発見
された。更にこのうちの約 120万個は、韓国人の10%以上が有していることが分かった
。 ソウル大学医科大学遺伝体医学研究所のソ・ジョンソン(Jeong-Sun Seo)教授は、「
民族はそれぞれ生きてきた環境に適応するため、固有の遺伝子変異を持っている」とし
、「今回の論文はヨーロッパ人とは違う韓民族の遺伝体変異を体系的に整理し、ヨーロ
ッパ人が中心だったこれまでの遺伝子研究の限界を指摘した点で意味がある」と話した
。韓国メディアは、韓国人のゲノム分析を通じ、人種間の多様性が予想よりも大きいこ
とが分かったとし、韓国人をはじめとするアジア人のゲノム情報を集め、アジア人に的
を絞った医学研究が必要との見方を示した。朝鮮民族の「近親相姦癖」は、支那の各王
朝に美女を大勢貢いだ為の女性不足によるものと言われるが、普通の人間は女性人口が
不足したからといって「近親相姦」などに奔るものではない。西部開拓時代の米国でも
著しく女性人口は不足していたが、米国人は「近親相姦」などせずに「女性を大切に扱
う文化」を育んだ。「レディファースト」の習慣である。男たちはモテようと、道を譲
り、階段では手を取り、水溜りに自分の上着を敷いて女性の靴が汚れないようにさえし
た。自然界の生き物には「近親相姦」を避けるよう「天の采配」が各所に見られる。そ
の為動物のオスは血縁の異なるメスの気を惹こうと健気に、必死に生きる。雄ライオン
は立派な立て髪を備え、雄の像は大きな象牙を持ち、孔雀は派手な尾羽を誇示する。そ
れは欠陥DNAが病気を起こす事を知っていたからだ。普通に近親相姦の集団には狂者
と病人に溢れて自然淘汰されて生き残れないからだ。


1863: 名無しさんAA:18/03/05 14:29
 世界新時代−‐‐45   <幻の漢民族とは------8>
 庭師鳥などは必死でメスを迎える巣を飾り立てる。そうしないと血縁の異なる数少な
いメスを獲得して正常でまともな子孫を残せないからだ。それでも動物は所詮動物であ
るから「近親相姦」をする。犬猫などは環境によっては兄妹でも交わる。併し、人間は
決して「近親相姦」をしない。ところが中国や朝鮮に至ってはちょっと違っているよう
だ。「黒い山葡萄原人」の末裔である朝鮮系民族だけは古来から「近親相姦」をしてき
た。韓国では現在も性風俗が著しく乱れている。女は好んで買春をし、男は暴力で女を
捻じ伏せるというのが韓国文化である。家庭内暴力は韓国男の専売特許である。北では
もっと悲惨だという。こんなのは「黒い山葡萄原人」の血を引く朝鮮民族だけに見られ
る特性としか言いようがない。又中国の烈王や武王とされる妊婦の腹を割いて楽しんだ
とか、生の男の一物がそのまま宮廷料理とされた。とか、人肉料理の歴史は事欠かず、
屠刹場の肉屋のおやじにその娘を料理させたという権力者の誇示の為に異様な酒池肉林
の話は多い。その為僅か数十年前まで公開裁判と公開処刑の人肉宴会まで行われて来た
風習からか、いまでも臓器売買は勿論人買いや幼児誘拐には事欠かない世界なのである
。中央アジアの崑崙山脈までチベット仏教の教えが行き渡ったのにはそうした背景があ
る。つまり砂漠の民は必死に生きて食糧を得て食い繋いだ暮らしをしていたが一度北京
や長安から暴徒の群れが来れば村の全てが無くなってしまうのだ。その為乗り込んでは
民を制して都を作り征服王朝をたてたのである。当然そうした事で新しい王朝から追わ
れた暴漢たちは南か北に逃げた。北に逃げてきた子孫が朝鮮半島に住み着いたのである
。基本的に、日本の大和朝廷は、朝鮮半島に対しての外交政策は、百済とは親密な友好
関係を結び、高句麗、新羅とは敵対していた。日本と朝鮮半島は先史時代から古代に亘
って深い関わりを持ってはいた。朝鮮半島南部に住む倭人(日本人)と親密な関係にあ
った百済は新羅により660年に滅亡させられたが、3年後の663年に倭国の人質になって
いた百済の王子を担いで百済の遺臣たちが各地で百済復興の兵を挙げた事が解っている
。それに倭国が援助して、元百済・倭国の連合軍が唐・新羅の連合軍に挑んだ。それが
歴史に残る大戦争「白村江(はくすきのえ)の戦い」で、この戦いで「元百済・倭国軍
」は完敗した。百済復興の目は無くなり百済は完全に滅亡した。これは、『日本書紀第
三十巻持統天皇紀』に記されている「筑紫君薩夜麻(ちくしのきみ・さちやま)が67
1年に唐から帰国した」との記述で確認できる。倭国の王は戦犯として唐に8年間も囚
えられていたのである。その間、高句麗も668年に滅亡した。倭国、百済、高句麗を
滅亡させた新羅も935年に滅亡した。この時朝鮮半島での百済、倭国、高句麗、新羅
と、現在 朝鮮民族と呼ばれている者たちは全くの別人であった。と言われる。

1864: 名無しさんAA:18/03/05 14:29
 世界新時代−‐‐45   <幻の漢民族とは------9>

 またこの「白村江(はくすきのえ)の戦い」以前でも、全く同じに神功皇后の朝鮮征
伐が神話の時代にあったとされ日本武尊時代にも海を越えて日本を平定した。と言う伝
説が九州各所に残る。香椎の宮や筑紫の君神社や宗像三神はその海童一族の流れとされ
る。こうして倭国は白村江の戦いに敗れると朝鮮半島から完全撤退した。先述した『日
本書紀』の記述からもこの時代に朝鮮半島の倭国が滅亡した事が確認できる。日系百済
は文字通り殲滅された。男は皆殺しに遭い若い女たちだけが辛うじて少数生き残ったと
考えられる。一部の女性を除いて百済人は皆殺しに遭い、文字通り消滅したのである。
日本には朝鮮民族の血は入らなかったが、宮崎の山にはその時の百済人が大勢やって来
て祖母山に移り住んだとされる。つまり百済人の母方の里だったとされる言い伝えが残
っている。朝鮮民族には日本人のY染色体が僅かに残っているのは生き残った日系人の
女奴隷が強姦されて受け継がれたものと考えるのが合理的である。高句麗と新羅の民は
全滅する事はなかったが、彼等を待ち構えていたのは恐ろしい運命であった。ロシアの
アムール川流域近くの「地獄門」と呼ばれた洞窟に潜んで生き延びていたホモ・サピエ
ンス以前の原人である「黒い山葡萄原人」が南下してきて「当時の朝鮮民族に背乗り」
したのである。現在の朝鮮民族とは本来朝鮮半島に住んでいた、「高句麗・新羅の民に
背乗り」した「地獄門」洞窟にいた「黒い山葡萄原人」の末裔なのであると近年解った
。 パク・チョンファ蔚山科学技術院ゲノム研究所長が率いる 国際共同研究チームは
「中朝国境・豆満江(中国名:図們江)の北にあるロシア・アムール川流域の『悪魔の
門の洞窟』で発見された7700年前の人類のゲノムを解読した」と明らかにした。「悪魔
の門の洞窟人」の遺伝子は、現地に住むウルチ族と最も似ており、近くの先住民を除く
現代人の中では韓国人が最も近いことが分かった。この研究結果は国際学術誌「サイエ
ンス」に掲載された。韓国・ロシア・イギリス・アイルランド・ドイツの科学者たちが
参加した国際研究チームは、悪魔の門の洞窟で発見された20代と40代の女性の頭蓋(ず
がい)骨からデオキシリボ核酸(DNA)を抽出して解読した。ゲノム研究所のチョン
・ソンウォン研究員は「細胞核DNAだけでなく、母系にのみ遺伝する細胞核以外のミ
トコンドリアDNAも主に韓国人が持っているものと同じだった。遺伝子で見ると、悪
魔の門の洞窟人は韓国人の祖先とほぼ同じだと言える。」と説明した。


1865: 名無しさんAA:18/03/05 14:30
 世界新時代−‐‐45   <幻の漢民族とは------10>

 2017年2月2日の韓国・中央日報による報道によると、蔚山(ウルサン)科学技術院の
(UNIST)ゲノム研究所は国際学術誌 「Science Advances」で、韓民族(=朝鮮民族)
は、34万年前に東南アジアから中国東部の海岸を経て極東地方に流れ込み、北方人とな
った南方系の狩猟採集民と、新石器時代が始まった1万年前に同じ経路で入ってきた南
方系の農耕民族の血が混ざって形成されたと発表した。これまで人類・考古学界の一部
では、言語・風習・容姿などの共通点が多いことから、朝鮮民族がアルタイ山脈に始ま
り、モンゴルと満州の原野を越えて朝鮮半島に入ってきた北方民族であると推定されて
きた。しかし科学界の判断は違っており、2009年、UNISTは国際学術誌「Science」に「
朝鮮民族が東南アジアから北東へ移動した南方系の巨大な流れに属している」と発表、
今回の発表はこれをさらに具体化したことになる。その手がかりは、ロシア・ウラジオ
ストクの上方にある沿海地方の「悪魔の門」という名の洞窟で発見された7700年前の20
代と40代の女性の頭蓋骨にあった。ここは韓国の歴史上、かつての高句麗・東夫余(ふ
よ)・沃沮(よくそ)の地と言われている。ゲノム研究所がスーパーコンピュータを利
用してこの頭がい骨のゲノムを解読・分析したところ、悪魔の門の洞窟人は34万年前に
現地に定着した南方系人で、韓国人のように茶色い目とシャベル型切歯の遺伝子を持っ
ていたことが明らかになった。また彼らは、牛乳を消化できない遺伝変異や、高血圧に
弱い遺伝子、体臭が少ない遺伝子、耳たぶの薄い遺伝子など、現代の東アジア人の典型
的な遺伝特性も持っていたという。悪魔の門の洞窟人は近くに住む「ウルチ」族の先祖
とされており、近くの原住民を除く現代人の中では韓国人がこれと近いことが判明した
。UNISTゲノム研究所のパク・ジョンファ所長は「ミトコンドリアDNAの種類が同じであ
るということは、母系が同じであるということを意味する。長い時間差を考慮しても2
つの人類の遺伝子は非常に近く、悪魔の洞窟人は韓国人の祖先とほぼ同じだと言える」
と話している。これがフン族のDNAだとすればここが起原と言う事になる。


1866: 名無しさんAA:18/03/05 15:08
 世界新時代−‐‐45   <幻の漢民族とは------11>

 約8000年前の新石器時代に生きていた韓国人の祖先のゲノム(ある生物種を規定する
遺伝情報全体)が初めて解読されて、洞窟人は現在の韓国人の祖先だ。8000年前の
ゲノムを解読して「韓国人のルーツ」を発見した。と言うニュースは実はあまり韓国人
にとっては良くないニュースだろう。褐色の瞳と凹型の前歯を作る遺伝子を持って牛乳
を消化できず、高血圧に弱く、乾いた耳あかが出るという遺伝的特徴もあって。どれも
東アジア人の典型的な特徴だ。と自慢しても、その洞窟は 糞尿の中で暮らし、人食い
で生き延びた原始人とすれば、あまりいい話ではない。ソ・ジョンソン・ソウル大学医
学部教授の「二重起源説を立証するには北方系の人々のDNA分析結果という裏付けが
更に必要だ」としながらも「古代人の遺伝子を通じて韓国人の遺伝的ルーツを明らかに
した成果だ」と語ったが、そこが「悪魔の洞窟で暮らした新石器人」で韓国人のルーツ
とされるのは科学的であっても信じがたいのだろう。「地獄門の洞窟」の由来は、その
洞窟に近づくヒトが皆姿を消してしまう事から恐れられて付けられた呼び名であった。
ネアンデルタール人、ジャワ原人、北京原人、アウストラルピテクス・アフリカヌスな
どの原人はホモ・サピエンスが現れると悉く滅亡していったとされる。しかし、北方の
寒くて暗い洞窟に隠れ、密かに人肉や山葡萄などを採取狩猟して生き延びていた雑食性
の「黒い山葡萄原人」だけはしぶとく生き延びていたという証になる。彼等が「山葡萄
原人」に黒いと称されるのは、日本では時々沿岸で奈良平安の頃から「刀伊の入寇(と
いのにゅうこう)」と言う女真族の海賊 元寇が度々襲われていたからだ。賊徒来襲の
話は英彦山神社の前からあって、相当古い話さえある。穴ぐらに近ずいてきたヒトを引
き摺り込んではその人肉を喰らい、近親相姦を繰り返して生き延びていてヒトに姿を見
られないよう、洞窟の外に出てくるのは稀であった。だが、洞窟内は人骨や糞尿に塗れ
悪臭が立ち込めていたが暖かだったと言われる。今、朝鮮民族と呼ばれている者たちが
「近親相姦」を好み、現代の韓国人も密かに、人糞を原料とする酒「トンスル」を飲む
のも、ガンギエイ(エイの仲間)の刺身、或いは切り身を壷などに入れて人糞に漬け込
んで発酵させた「ホンオフェ」或いは「ホンタク」を好んで食すのも、皆「黒い山葡萄
原人」の習性の名残である。と言う。しかし日本のカッパ伝説でも、昔の江戸城物語で
も糞尿は大事な肥料であり、高価な銀で年間報酬を払って運び出されて畑に布っていた
のである。


1867: 名無しさんAA:18/03/05 15:09
 世界新時代−‐‐45   <幻の漢民族とは------12>

 1308年にはアイヌの玉善奴・瓦英(イウシャンヌ・ウァイン)らが、ニヴフの多伸奴
・亦吉奴らを仲介として、毛皮の朝貢を条件に元朝への服属を申し入れた。14世紀前半
に熊夢祥によって書かれたと思われる大都(北京)の地誌『析津志』には、銀鼠(オコ
ジョ)に関する記事中に「遼東の骨嵬に之が多く、野人が海上の山藪に店舗を設け、中
国の物産と交易する」と記されており、アイヌと野人女真との間で沈黙交易が行われて
いたことが伺える。この史料中の「海上」は当時「海島」と呼ばれた樺太である可能性
が高い。逆に中国からアイヌへもたらされた蝦夷錦は、津軽安藤氏を通じて日本へも流
通していく。黒竜江(アムール川)下流域に関しても残存史料が少なく、どのような民
族が支配していたか不明瞭な部分が多いが、契丹(遼)や金などの王朝が支配を伸ばし
ていたと思われる。元代の地誌である『元一統志』によれば、前代の王朝によって奴児
干(ヌルカン)城が築かれた址が残っていたことが記されている。『高麗史』に忠烈王
13年(1287年)9月に「東真の骨嵬」に駐在していたモンゴルの将軍がいたことが記さ
れている。東真は東夏または大真国とも書かれる金朝の派生国家であり、わずか18年し
か存続しなかったが、骨嵬が金の構成民族である女真(ツングース系)の影響下にあっ
たことが伺える。その後、モンゴル帝国もこの地域に勢力を広げ、1260年に大カアンと
して即位したクビライ(世祖)の時代に入ると、アムール川下流域へのモンゴル勢力の
伸張が行われ、黒竜江(アムール川)下流域に勢力を伸ばし、河口部附近に「東征元帥
府」を設置した。東征元帥府の機能は、先住民(ニヴフ)の支配、流刑囚の管理、屯田
の経営などと考えられる。アムール川下流域から樺太にかけての地域に居住していた「
吉里迷」(ギレミ、吉烈滅)は、モンゴル建国の功臣ムカリ(木華黎)の子孫であるシ
デ(碩徳)の遠征により1263年(中統4年)にモンゴルに服従した。翌1264年(至元元
年)に吉里迷の民は、「骨嵬」(クイ)や「亦里于」(イリウ)が毎年のように侵入し
てくるとの訴えをクビライに対して報告した。ここで言う吉里迷はギリヤーク(ニヴフ
)族、骨嵬(苦夷とも)はアイヌ族を指しているとされる。(亦里于に関しては不明、
もしくはウィルタか)。この訴えを受け、元朝は骨嵬を攻撃した。これがいわゆる「北
からの蒙古襲来」の初めであり、鎌倉幕府への侵攻(文永の役、1274年(至元11年))
より10年早かった。こうした人達は決して交わる事のない思想や文化の持主だった事に
なる。

1868: 名無しさんAA:18/03/05 15:09
 世界新時代−‐‐45   <幻の漢民族とは------13>

 高句麗、新羅の人々は「背乗り」されてしまったから、今の朝鮮民族は、本来の朝鮮
半島に住んでいた本来の朝鮮民族とは全くの別モノになってしまった。と考えている人
がいる。だが近年まで日本が日韓併合した時朝鮮人は誰も朝鮮語は話さず、朝鮮半島は
大方に分けて7つの種族と6つの言語があって、日本語を教えるのが難しいかった。と
言語博士は言っている。つまり教育の無い地方では全く言葉が通じなく文字さえ無かっ
たとされる。実は豊臣秀吉の朝鮮征伐ででも、朝鮮人と言うのは少なく中国人と闘った
と言うのが解っている。特に秀吉が朝鮮に行った理由は亀甲船が盗まれてしまった事が
問題だったのである。歴史には現れていないが、織田信長は1台の亀甲船を尾張で作っ
ていた。本体は既に完成していたが、後は鉄板を張り付けるのみだった。織田信長がこ
の本能寺で夜襲を受けなければ、銀山からの銀と金箔で驚かすつもりだった。だが中国
からの大返しの騒動でその船はいつの間にか奪われてしまったのである。鎌倉時代に起
こった2度にわたるモンゴル帝国による日本侵攻(元寇)遥か昔の様だったがまだ終わ
っていなかった。更に今や洋風の大型帆船が日本の方々で難破して来ていたのである。
また、博多商人には既に元からの相談も来ていた。モンゴルの建てた元朝は14世紀に
入ると帝位の相続争いが起こり、さらに疫災が相次いだため、、統治能力が低下してい
た。そこに白蓮教徒が1351年に紅巾の乱を起こすと反乱は瞬く間に広がった。こうして
貧農出身の朱元璋(太祖・洪武帝)は南京を根拠に長江流域の統一に成功し、1368年に
明を建国していた。その後も中国は末裔に支配された1402年、燕王は首都南京を占領し
て建文帝から帝位を簒奪し自ら皇帝に即位した(靖難の変)。これが永楽帝である。し
かし永楽帝が北京に遷都し洪武帝の慎重策を改めて盛んに勢力を広げ、北に退いた元朝
の余党(韃靼)の1388年にトゴン・テムル・ハーンの王統が断絶して、永楽帝は遠征に
より制圧した。満洲では女真族を服属させて衛所制に組み込むことに成功した。南方で
はベトナムを陳朝・胡朝の内乱に乗じて征服した。こうした事で地域を広く栄えたが、
16世紀に入ると倭寇が中国人の密貿易商人と結びついて活動を始め、沿岸部を脅かす
ようになっていた。(後期倭寇)そこでモンゴルではクビライの子孫とされるダヤン・
ハーンが即位し、オイラトに対抗してモンゴルの再統一を成し遂げて双方か明を倒すと
いう相談が倭寇に来ていたのである。オルドス地方に分封されたダヤン・ハーンの孫の
アルタン・ハーンは頻繁に中国に侵入し、1550年には北京を攻囲していた(庚戌の変)



1869: 名無しさんAA:18/03/05 15:10
 世界新時代−‐‐45   <幻の漢民族とは------14>

 実は中国王朝の中で「江南」からの王朝と言うのは、この朱元璋(太祖・洪武帝)が
初めてと言われている。江南の地は長江の下流域で、蘇州、無錫、嘉興などの南岸地域
を指している。つまり都市国家の興隆した青銅器時代から、呉や越、楚などが興ってい
て、我々が知る殷・周以来文明の中心の華北の黄河やその支流の渭水や汾水、洛水流域
の諸国とは、昔から仲が悪く対峙していた。この華北諸国からは、彼らの文明とは異質
な後進地域とみなされていた異質のものだったのである。ここに依った大国の君主達は
周王の宗主権を認めず、周王を盟主とする華北諸国に対抗していち早く自ら王と名乗っ
ていたからだ。秦による中華世界統一以降は華北に都した諸王朝の支配下に入ったが、
それでも覇権争いで、華北とは戦いの中でしか無かった。特にモンゴル高原から南下し
た遊牧民の王朝の支配下になると、南下した華北人による亡命政権がたびたび樹立され
た。東晋や南朝諸王朝、南宋などがそれにあたる。江南の稲作地帯は南朝以降穀倉地帯
として台頭し、やがて華北の農業生産を凌駕するようになった。長江デルタ地域に上海
、蘇州、杭州、南京といった大都市が並び立ち、昔も今もの中国においては、経済的に
一大中心地となっていたからだ。この時排除された人達が朝鮮にも移り住んだ。もしも
このDNA結果が正しいのであれば、この地域が人類が大発展を遂げた時代にも、朝鮮
半島だけは文化文明が停滞し発展しなかった理由が理解できる。今でも戦前から一歩も
前進しない他国援助や強請り集りの類の思想から抜け出せない国と言う理由でもある。
東欧のギリシャ・ローマ帝国の興亡、宗教戦いに長を取り合った中東、革命を繰り返し
た支那の各王朝の滅亡と勃興の時代、眩ゆい西欧ルネッサンス時代、大航海時代という
白人の略奪による隆盛の時代、産業革命による飛躍的進歩、日本では邪馬台国の時代か
ら積み上げた豊かな室町・奈良文化の精神文化や江戸文化の爛熟期、明治維新、等々…
人類の弛(たゆ)まなく努力して進み進歩発展を続けてきた都市文化の派生時代のその
中にあっても、千年以上に渡って一切の文化文明が停滞していた田舎をそのままにして
作り挙げた政権基盤が「李氏朝鮮」の時代であった。常に蹂躙されてしまった朝鮮半島
の「亜人種」だけは時間が止まってしまっていたかのように一切の進歩を拒否していた
。彼等には都市文明は必要なかったからである。それを知らずに我々の先人は朝鮮半島
との関わりを深めてしまった過去を持つ。自分たちの余りの惨めさに気づいた朝鮮民族
は当時の大強国であった大日本帝國に国の併合を求めてきて、断って無視しても、伊藤
を暗殺してでも執拗に併合を懇願してきた。これはロシアの南下を食い止めたい欧米列
強に、体良く押し付けられたという側面も強かった。

1870: 名無しさんAA:18/03/05 15:10
 世界新時代−‐‐45   <幻の漢民族とは------15>

 江戸時代に開国して飛躍的な発展を遂げていた明治時代の大日本帝國は、博愛精神を
以ってとうとう大韓帝国との併合を受け容れてしまった。しかし大韓帝国などと名乗っ
ても有史以来朝鮮半島全体を主権国家として治めた事が在った時は一度もなかった。事
実今と同じ様に李氏朝鮮は常に短期間に方針や理(ことわり)を変え約束も条約も破っ
た。清国から属国としてのやり方の模倣ではあったろうが、事は国際化時代の入り口で
清国からの完全独立する自主政権すらも大日本帝国の指導であったが、何回もふいにし
ロシアに権利をくれた。実は日本が江戸に入る頃に何回も朝鮮半島にポルトガル船もイ
スパニア船もやって来ている。しかし日本みたいに町がなく更に反発も無かった為商売
をあきらめたのである。壱岐対馬の宗家の文書は博多商人を通じて柳川氏まで届けられ
たが、その中には長崎大村氏が南蛮人を招き六角氏と組んだ為紅毛人を招いていた大友
宗麟が激怒し佐賀竜造寺氏をして戦いになった。とある。享禄3年(1530年) 田手畷の
戦いで赤熊とされた百姓のお祭りに扮した鍋島氏が打ち取ったのは、実は蒙古襲来から
の北九州の覇権をめぐる周防国の大名大内氏と肥前国の大名少弐氏との間で起きた紛争
で城や地位を盗られた怨念からであった。実はこうした九州の紛争は朝鮮でも起こって
いた。中国の属国として明に習っていた。明王朝は元で発行されていた紙幣にならって
明でも宝鈔紙幣を発行した。だがこの紙幣の価値を保つ政策がなく、価値は下がり続け
、代わってメキシコや日本から大量に流入した銀が通貨として使われるようになってい
た。これに対して政府は何度も使用禁止令を出されたが、一条鞭法の採用によって事実
上、銀が通貨となっていた。永楽通宝などの銅銭も発行されたが、銅銭の流通は禁止さ
れて日本に送られ利用は限られ、日本の銀と中国の銅が交換され銀に押されて海外への
輸出専用に回されることが多かった。しかし、銅の生産が乏しくなると、銅銭の生産も
ごく稀にしか行われなくなって、銀が東アジアにおける国際通貨となり、ここに欧州の
貿易商が東アジア交易網の形成に乗り入れて来たのだった。

1871: 名無しさんAA:18/03/05 15:10
世界新時代−‐‐45   <幻の漢民族とは------16>

 十字軍の遠征は皇帝アレクシオスがローマ教皇ウルバヌス2世に救援を依頼したこと
が発端で1095年から行われた。とされる。このとき、大義名分として異教徒イスラム教
国からの聖地エルサレムの奪還を訴えて皇帝は東ローマ帝国への傭兵の提供を申し出て
その後の十字軍のような独自の軍団ではなかった。と言われている。クレルモン公会議
と言われる宗教集会で、フランス人に「乳と蜜の流れる土地カナン」という聖書由来の
表現をひいて軍隊の派遣を訴えた。それは単に聖地巡礼が安全に行われないからだった
。クレルモン公会議の決定を受けてヨーロッパ各地の諸侯や騎士は遠征の準備を始めて
、十字軍の熱狂は民衆にも伝染し、1096年、彼らの出発する数ヶ月前には、フランスで
説教師のアミアンの隠者ピエールに率いられた民衆や、下級騎士の軍勢4万人がエルサ
レムを目指して出発した。これが民衆十字軍と呼ばれるものであった。民衆十字軍は東
上の途中でユダヤ人を各地で虐殺し、ハンガリー王国やビザンツ帝国内で衝突を繰り返
しながら小アジアに上陸したものの、統制の取れていない上に軍事力も弱い民衆十字軍
はルーム・セルジューク朝のクルチ・アルスラーン1世によって蹴散らされ、多くのも
のは殺されるか奴隷となり、なんら軍事的成果を上げることもなく崩壊した。しかし、
生き残った者やその怨念に燃えたものなどで更に募集が行われ、結局は間が空いても、
1291年には最後の拠点アッコンを失ってエルサレム王国も滅亡し、全てのパレスチナが
イスラム勢力下に入るまで行われた。その後も小規模な遠征が、十字軍の名が冠されて
行われ、1308年のロドス十字軍、1344年のキプロス十字軍、1365年のサヴォイ伯十字軍
、1440年ヴァルナ十字軍など小規模で行われた。本来の十字軍とは区別されているもの
の船の需要が高く この間に大きな帆船の技術が進んだ。1453年にオスマン帝国の台頭
によって東ローマ帝国が滅ぼされて終了となるが、ローマ教皇ピウス2世は熱心に十字
軍を提唱し(1459年・1463年)、1464年には教皇自ら十字軍の出発地とされたアンコー
ナに赴いた。だが老齢でこの地で教皇が逝去したため、直ちに遠征は中止された。だが
この大型船の技術の蓄積が大航海時代を開いた。欧州において鯨油は、主に灯火用とし
て盛んに用いられていた。この他にはヒゲが甲冑、帽子、コルセットの骨などの装飾品
に利用されている。1570年代には既に50隻余りの捕鯨船が北大西洋で活動し、捕鯨業
に関わる人々は4千人にものぼったと推定されている。しかし鯨の群れが発見されない
場合の経済的リスクが大きく、捕鯨船の船主、販売を担当する商人、船長や乗組員の三
者でコストも利益を三等分する仕組みが取られていた。さらに一航海ごとに保険が掛け
られて、その保険率は15%程度に定められていた。

1872: 名無しさんAA:18/03/05 15:11
 世界新時代−‐‐45   <幻の漢民族とは------17>

近年デラノ家に対する研究は活発になっており、これまで分かっていなかったいくつか
の事実が判明している。 それらの中でも特に注目に値するのは、ゲルフ家 との関係で
ある。ゲルフ派の分野でのデラノ家の重要性は周知の通りだが、この範囲に収まらない
重要性が現在指摘されている。この時期、デラノ家に関しては多くの言説がなされた。
その中でも代表的なものは「また、現在のイギリス王室ウィンザー家はベニスの繋がり
」である。そして又、デラノ家及びルーズヴヱルト家の家系から出た歴代米國大統領は
、計十三人にも上るとされる事だ。第2代ジヨンアダムズ、第4代ジェームズマデイス
ン、。また、迫害されたプロテスタントが、新大陸アメリカに移住し、本当のキリスト
の教えに基づく国をつくろうとした時、英国のゲルフ派たちも移住した。デラノ家、カ
ボティ家、ルーズベルト家、パーキンス家、ベアリング家、リヴィングストン家、など
米国の有力なファミリーとして存在している。スペインでガレオン船が、3本マストを
搭載し、船体は五百トンほどで作られだした時。この船は性能よりも派手さを意識して
いた。船の性能は悪くスピードもあまり出なかったため、ガレオン船は、よりスピード
の出るスループ船を使用していた海賊の襲撃に弱かった。この事から西欧各国でこぞっ
て軍艦や大型商船として運用される時には大砲を載せた。スペインはこれを大型化して
新大陸の植民地の富を本国に護送するために使った。フランシス・ドレークが世界一周
に使用したゴールデン・ハインド号(305トン)などは有名なガレオン船である。この背
景で英国に「東インド会社」がつくられた。だがこの「イギリス東インド会社」は厳密
には単一の組織ではなく、ロンドン東インド会社(旧会社)、イングランド東インド会
社(新会社)、合同東インド会社(合同会社)という三つの会社の総称だったのである
。初期には東インド(インドネシア)の香辛料貿易をめざして、ジャワ島のバンテンや
インドのスーラトに拠点を置き、マレー半島のパタニ王国やタイのアユタヤ、日本の平
戸、台湾の安平にも商館を設けた。アジアの海域の覇権をめぐるスペイン、オランダ、
イギリス3国の争いの中で、アンボイナ事件後、活動の重心を東南アジアからインドに
移した。中継地を各地に置いたが、インドにおける会社の大拠点はベンガルのカルカッ
タ、東海岸のマドラス、西海岸のボンベイである。フランス東インド会社と抗争して、
1757年にプラッシーの戦いで、同社の軍隊がフランス東インド会社軍を撃破し、インド
の覇権を確立した。


1873: 名無しさんAA:18/03/05 15:12
 こうした時代の変遷を受けていた時中国では何も無かったのか。実は違う。中国も又
大型船を見て作っていた。永楽帝は漢人皇帝としては唯一モンゴル方面への親征を行い
、5度にわたる出征でタタール部・オイラト部を威圧した。また南方では陳朝滅亡後の
ベトナムに出兵し胡朝を滅ぼし、交趾布政司による直接支配を実現、東北方面でも女真
族の勢力圏、黒竜江河口まで領土を拡大して奴児干郡司を設置、西方でもティムール帝
国と国境を接しティムール没後の帝国と国交をもち、チベットの間接統治も実現した。
さらに李氏朝鮮、琉球王国を服従させ日本に対しても足利義満を日本国王に封じ朝貢貿
易を許可、また宦官鄭和をして7度にわたり大艦隊を南海方面に派遣し(1405年 - 1433
年)、東南アジアからアフリカ東海岸に及ぶ30以上の国々に朝貢させ、明朝の威信をア
ジア中に及ぼしていたのである。1400年、安南を支配していた陳氏(陳朝)が胡に簒奪
され(胡朝)、胡氏がさらに南方の占城(チャンパ王国)を攻撃した。占城の巴的吏が
明に援軍を求めてきたため、ベトナム地方の安南に永楽4年(1406年)に遠征し(明胡
戦争(英語版)、明・大虞戦争)、直轄領とした(第四次北属期(英語版)、1407年 -
1427年)。直接の動機とされた「安南国王の孫」を名乗る 陳天平の永楽帝による突然
の安南王擁立と、それを安南に送り返して胡氏に殺害されるという事件が起こっている
。宦官の鄭和(ていわ)は、中国明代の最も働いた武将だった。だが早い時期12歳の
時に永楽帝に、男根を落として宦官として仕えている、軍功をあげて重用され、1405年
から1433年までの南海への7度の大航海の指揮を委ねられたと言う。鄭和の船団は東南
アジア、インドからアラビア半島、アフリカにまで航海し、最も遠い地点ではアフリカ
東海岸のマリンディ(現ケニアのマリンディ)まで到達した。とされる。本姓は馬、初
名は三保で、宦官の最高位である太監だったことから、中国では三保太監あるいは三宝
太監の通称で知られる。馬三保、すなわち鄭和の本名は、馬哈只の子として雲南省昆陽
鎮で産まれている事を示す。姓の「馬」はムスリム(イスラム教徒)として生まれて、
預言者ムハンマドの子孫であることを示している。日本の馬頭観音も実はイスラムから
来ていて、馬場の姓や馬にまつわる物は案外とイスラムからの馬の輸入に関している。
父親の「哈只(ハッジ)」はイスラム教の聖地メッカへの巡礼者の尊称ハッジに由来す
るとされ先祖は、チンギス・ハーンの中央アジア遠征のときモンゴルに帰順し雲南の開
発に尽力したイスラム教徒だったと思われる。色目人の政治家サイイド・アジャッルに
つながる。色目人の語は、「諸色目人」の略で、支配階級である遊牧民出身のモンゴル
人の下に、支配された村を焼かれた色目人が置かれた。この中で2つの階級が金の遺民
である華北の漢人と、南宋の遺民である江南の南人の階級を支配していた。とされる。
言わば中国を治める為連れて来た頭の良い奴隷を次の支配した国の長にしたのである。

1874: 名無しさんAA:18/03/05 15:13
 世界新時代−‐‐45   <幻の漢民族とは------19>

 従って馬三保はそれなりの地位があり、元王朝の大臣として著名なサイイド・アジャ
ッルから数えて6代目の直系の子孫に当たる。鄭和がイスラム教徒の出身だったことは
、のちに永楽帝が鄭和を航海の長として使おうと考えた理由の一つだと考えられ、当時
の東洋の海がイスラム貿易商によって行われていた証でもある。鄭和が生まれた1371年
には、雲南はいまだ元王朝系の梁王国の支配下に置かれていたものの、すでに中国本土
は朱元璋の建てた明の支配下にあり、元の勢力は雲南など数か所で余喘を保っているの
みであった。1381年、鄭和10歳の時に明は雲南攻略の軍を起こし、翌1382年に雲南は
滅亡。鄭和は捕らえられて去勢され、1383年ごろに宦官として当時燕王だった朱棣のち
の永楽帝に献上された貢ぎの者で日本で言う塙であり土師氏の家系であった。朱元璋の
死後、1399年から1402年にかけての靖難の変において馬三保は功績を挙げ、帝位を奪取
した永楽帝より宦官の最高職である太監に任じられた。さらに1404年には鄭の姓を下賜
され、以後彼は鄭和と名乗るようになった。と伝えられる。既に宋や元時代から中国の
商人たちは東南アジア、南アジアの諸都市で活発な交易を行っていたが、明を建国した
洪武帝は1371年に「海禁令」を出し、外洋船の建造と民間船舶による外国との通商の一
切を禁じた。日本での江戸の鎖国や大船禁止令のような物で一方で鄭和に南海船団の指
揮をとることを命じていた。鄭和の指揮した船団の中で、最大の船は宝船(ほうせん)
と呼ばれ 『明史』によれば長さ44丈(約137m)、幅18丈(約56m)、重量8000t、マス
ト9本であり、小さいものでも、長さは約61.2m、重量1170t、マスト6本という巨艦と
言われる。出土品や現代の検証から、全長50メートル前後という説もある。またこのほ
か、給水艦や食糧艦、輸送艦も艦隊に加わっていたと推測されている。艦隊の参加人員
はどの航海においてもほぼ27000人前後となっており、正使、副使 など使節団を中心と
して、航海士や操舵手、水夫などの乗組員、指揮官を筆頭とした兵員、事務官や通訳な
どの実務官僚、医官などさまざまな職種からなっていた大艦隊だったと言われている。
朝貢貿易と拡大主義を取っていた明は、ベトナム、チベット、ネパール、ベンガルとい
った諸国には侯顕が繰り返し派遣され、その派遣においては一部は海路が取られている
。李達は東チャガタイ・ハン国やトルキスタンにも4回派遣され、西域諸国との折衝に
あたっていた。李興はシャムへと派遣され、女真人の亦失哈(イシハ)は軍とともに、
アムール川地方へと派遣されてこの広大な地方を明の支配下に組み込んだ。言わば日本
の参勤交代を幕府側が朝貢を進め代理の王や君臣を押し付けた形で元のやり方を模倣し
ていた。

1875: 名無しさんAA:18/03/05 15:13
 世界新時代−‐‐45   <幻の漢民族とは------20>

 鄭和が海軍大臣として 海外に出たのは、他国からの朝貢外交団を増やす事が目的と
されたが、実は風習として既に元の下の旧臣達を遠ざける事を明の建国時代から行われ
ていたからだ。明の建国時に鄭和が宦官になったのはイスラムの指導者としての運動に
釘をさし、更に人質とされたのである。ムスリムにはコーランを読む指導者が必要で、
仏教の僧侶と同じだ。だが元と違って明ではその入信者を集める布教活動を許さなかっ
た。ここに鄭和の身分があった。邪魔でも不都合でも無かったものの宮廷にはおいては
置けなかった。こうして海外に出た鄭和は、蘇州から出発した船団は泉州→クイニョン
(チャンパ王国、現在のベトナム南部)→スラバヤ(マジャパヒト王国、ジャワ島)→
パレンバン→マラッカ→アル(英語版)(現北スマトラ州)→サムドラ・パサイ王国(
現アチェ州)→セイロンという航路をたどり、1407年初めにカリカット(コーリコード
)へと到達して行ったと言う。彼らは行き先々で食糧と水を調達し朝貢を強要するのが
仕事だった。明の皇帝にしてみればかつて秦の始皇帝が船団をして日本に送って帰って
来なかったように、倭寇に会って帰らないものとおもっていた。しかし彼には既に何人
かの海路を知る者をこの船団に引き入れていたようだ。事実今でもイスラム教徒のネッ
トワークは強く広い昔からの信用に於ける人脈は的確な情報源でもあったのだ。実はそ
の頃中東でも十字軍を蹴散らしペルシャ帝国がオスマン帝国として名を馳せていたが、
戦争に疲弊していた。オスマン帝国は、後世の歴史伝承において始祖オスマン1世がア
ナトリア(小アジア)西北部に勢力を確立し新政権の王位についたとされる1299年を、
建国年とするのが通例であり、帝制が廃止されてメフメト6世が廃位された1922年が滅
亡年とされている。600年もの永い間である。その末裔がトルコとされる。しかも、
この間にはキリスト教徒と常に闘っていた。ポルトガルがこの東南アジアに進出した時
ポルトガル・マムルーク海戦(1505年 - 1517年)が起こった。この海戦で、1507年に
ポルトガル海上帝国がホルムズ国の占領に成功。1509年にディーウでインド洋の制海権
を巡るディーウ沖海戦でグジャラート・スルターン朝、マムルーク朝、カリカット領主
ザモリンなどのオスマン帝国の連合艦隊を破った。これで一挙にポルトガルが進出して
いたのである。実はこの事は中国明王朝の海外進出がきっかけで起こった事でもあった
。元々オスマン軍が騎馬民族の系統が仏教からイスラム教に転じた事で出来た帝国だ。
陸路の商売ルートを確保したいが為に起こった帝国である。そして万里の長城は漢民族
を封じ込める為に作った物だった。それがこの船団によって解放されたのだ。

1876: 名無しさんAA:18/03/05 15:14
 世界新時代−‐‐45   <幻の漢民族とは------21>

 しかし鄭和は随分と頭が良かった。永楽帝の命を受けた時、200隻の大艦隊を所望
して、第1回の南海遠征の出発を延ばしにのばした。更に鄭和は最初に訪れたのは、中
国国内の泉州である。つまり沿岸を静かに進み、まずは情報を取り入れたのである。こ
の泉州は台湾の直ぐ真向いで第一次世界大戦までは中国の中で最も外洋の中継地となっ
ていた所である。ここで通訳や鉄砲を仕入れたと思われる。また第2回の航海は帰国後
すぐに再出発の命令が出され、年末には出発ジャワ島のマジャパヒト王国に着いていて
滞在中には、宮廷は東王宮と西王宮に別れ内戦(パルグルグ戦争)を起こしている。こ
れは第一回の航海でスラバヤ(マジャパヒト王国、ジャワ島)に立ち寄り朝貢を求めて
いたにも関わらす朝貢使が来なかったからと思われる。朝貢賛成派の東王宮の所に滞在
していた鄭和の部下が反対派の西王宮を襲撃し王を死亡させた為に起こった紛争だった
。鄭和が抗議し、西王宮に賠償金の支払いを約束させた。マラッカ海峡に近いスマトラ
島のパレンバン寄港中には、同地における華僑間の勢力争いに巻き込まれたが、これも
元王朝時代の商人と今回の派遣された広州人との違いからだった。当時パレンバンには
梁道明およびその後継者である施進卿と陳祖義の2派の華僑がいたとされるが、それは
理由ではない。中国王朝は昔からチベットの今の様に権威をもつしっかりした物を排除
しどうでも良い者属国として支配出来る者を力ずくで建て従わせて来たのである。この
ジャワの西宮と東宮との争いとパレンバンの征服はかなりの意味を持っていた。この地
はインドの様な族長制を敷いていたからだ。インドでもマハラジャを置いて地域をまと
めてその代表が集まって方針を決めて居る今の国連に似た会議制で運用していた。ここ
でマラッカ海峡を通すか通さないかを決めて居たし、香辛料の市場の掟も決めていたか
らだ。200隻の2500人の大艦隊である。抗争を続けていた。施進卿派は鄭和と協
力関係を結び、陳祖義を牽制したが、これに対し陳祖義は鄭和艦隊を攻撃したものの、
大敗し、陳祖義は捕らえられて南京まで連行され、その地で斬首された。一方、施進卿
は朝貢を約して明によって官位を与えられ、パレンバンは明の影響下に置かれることと
なった。所謂元寇方式で砲艦外交の先駆けを行っていたのだ。この航海により、それま
で明と交流がなかった東南アジアの諸国が続々と明へと朝貢へやってくるようになった。中でも朝貢に積極的だったのが建国間もないマラッカ王国であった。

1877: 名無しさんAA:18/03/05 15:14
 世界新時代−‐‐45   <幻の漢民族とは------22>

 このマラッカはこの後も鄭和の艦隊がやってくるたびに朝貢を行い、北のアユタヤ王
朝の南進を阻んだ。こうしてマラッカは鄭和の保護下で力を蓄え、鄭和艦隊が派遣され
なくなるころには地域強国として自立を果たし、東西貿易の中継港として成立していた
。アユタヤは仏教の守護の国として東南アジアの最首長国だった。カンボジアの中の藪
に埋もれたアンコールワットなど石の仏塔文化などは全てこの文化の下に育っていた。
だが中国のこの大航海は、一瞬にしてスペインがインカを滅ぼした様に滅ぼしたのであ
る。明王朝で靖難の役に勝利した永楽帝が即位した時期は、朝鮮半島では李成桂が朝鮮
王朝(李氏朝鮮)を建国し(1392)、日本では室町幕府3代将軍・足利義満が南北朝の
合一(統一)を実現(1392)した直後の時代であった。永楽帝は、洪武帝が目指した鎖
国主義の海禁と、朝貢貿易を基礎にした中華帝国による秩序の再編の意図を継承し、拡
大した形で推進した。朝鮮と日本は、明の冊封を受けることで内乱になったが、北朝が
これに加わった。これ以後、倭寇は次第に禁圧された。永楽帝による鄭和ていわの南海
遠征も海洋を通じての秩序再編と、その維持のためのものであった。この時朝貢国の使
節であることを確認するために発給されたのが勘合符であった。板を刻印を入れ二つに
割ってこの刻印を合わせて証文としたのだ。これを勘合貿易と呼んでいる。勘合符は明
から50余国に発給されている。日本では諸大名、寺社、境や博多の商人が個々に実質
的勘合貿易を担った。南海遠征終了後も継続された海禁政策で、一応は中国の海上進出
は停滞した。この間に、東シナ海交易圏と南シナ海交易圏の接点に位置する琉球王国が
、明との朝貢関係を利用した中継貿易に目覚めていた。琉球は明に入貢した回数は17
1回におよぶ程多かった。入貢回数2位の安南(ベトナム)は89回であり、朝鮮でも
30回、日本は博多商人などで19回あった。首里城を中心とする琉球王国は、沖縄本
島が北山・中山・南山にわかれて勢力を争っていた。この中の中山王・尚巴志(しょう
はし)により1422年に統一を成し得た。以後、琉球船は東南アジア各地で活発な貿易活
動を進め、港の那覇を中心として交易品を東アジアにもたらした。那覇には福建から多
くの中国人が移り住んで交易活動を支えた。とされる。



1878: 名無しさんAA:18/03/05 15:15
 世界新時代−‐‐45   <幻の漢民族とは------23>

 6回目の航海は、鄭和50歳の最後の航海だった。1421年2月になる。それまでとは
異なり、朝貢にやってきていた各国の使節を送ることが主目的となっていた。この頃は
既にアフリカの大陸側までも航海をして柵封国を増やしていた。航海には船の往復だ
けでこのため期間も短かった。今度もほぼ同じ航路を取って、帰国は1422年8月だった
。ただし、この航海で鄭和がどこまで行ったかについては論争がある。サムドラ・パセ
ーまで鄭和本人が向かったことはほぼ確実ではあるが、そこで鄭和本人は途中引き返し
たとの説と、従来通りホルムズまで向かったとの説がある。しかしいずれにせよ、前回
同様に船団そのものは分遣隊がスマトラから別れ、モルディブ、アフリカ東岸、アデン
を経由し、1423年に中国へと帰着したコースを取ったと言われる。またこの時、鄭和艦
隊の一部はベンガルを訪れている記録がある。こうして漢民族が解放されて世界中で、
反乱が起こった。インドネシアのアチェ王国マジャパヒト王国(ジャワの現スラバヤ)
マラッカ海峡ジョホール王国カリカットおよびコーチン。ライガマ王国(セイロン島の
ガレ)ブラバ、ジューブのスワヒリ都市を経由してマリンディ(現ケニア)ラスール朝
の統治下にあったアラビア半島南部のサムドラ・パサイ王国(アデン)インドネシアの
サマトラ、(現アチェ州)などすべてが朝貢を求められ内乱の原因となり在る所は二つ
の国に分裂させられたのである。鄭和は既に、元代以前から確立していたアジア、イン
ド洋の航路をそれまでの常識にない巨大な艦隊で、端から端まで、航海した。航路自体
はイスラム商人が日常的に行き来していたもので。大船 62隻、乗組員は2万7800名余り
という大船団を率いて、東南アジアからインドに航海し、最終的には、アラビア半島や
ソマリアまで行って、メッカに代参もさせているらしい。一説ではマダガスカル島まで
到達しているとされ、アラビア商人の交易範囲を武力と威圧と強権で押さえたのである
。この大遠征の背景には、大型ジャンク船や羅針盤など元や宋時代以降に、中国の造船
や航海技術のめざましい発展がありました。イギリスの科学史家ジョセフ・ニーダムに
よれば明初の中国の造船能力は世界一で、1420年頃に明が所有した船の総数はヨー
ロッパ諸国の合計に勝ると言う。事実日本の豊臣秀吉が朝鮮征伐に出る頃までは明の海
軍は世界に誇れるものであったろう。このころ「鉄砲」とは「砲」を投げるもので元々
「石を包む」ことから丸い石を飛ばす弩弓で火薬を詰めた陶器玉の事を意味していた。
つまりこの場合は丸い炸裂する鉄玉や陶器玉を飛ばしていた戦いをしたとおもわれる。

1879: 名無しさんAA:18/03/05 15:15
 世界新時代−‐‐45   <幻の漢民族とは------23>

 通常の歴史の教科書では、人類で初めて世界一周の航海をしたのは1522年、マゼ
ランのスペイン艦隊だったということになっている。しかし最近、マゼランよりも百年
ほど前の1423年ごろの、この中国人の艦隊が世界一周していたという調査結果を、
イギリス人の研究者が発表し、論争を巻き起こしている。新説によると、世界初の世界
一周をしたといわれているのは、中国の明朝時代の朝廷に使えていた大臣級の有力者だ
った鄭和に率いられた艦隊だった為だ。この艦隊は1405―33年に7回の遠征を行
い、最盛期には300隻以上の大編成で航海していたと伝えられている。これらの遠征
中、艦隊は中国からインド洋を通ってアフリカ東海岸までは行ったものの、そこから引
き返したため、世界一周はしていないとされていた。だが、イギリスの退役海軍将校で
歴史学者でもあるガビン・メンジース( Gavin Menzies)氏が、現存する鄭和の航海記
録を調べなおしたところ、艦隊は1421年3月から1423年10月にかけては世界
一周の航海を行い、艦隊の一部はアフリカ南端から北上してカリブ海沿岸、今のカリフ
ォルニア沖などにまで達していることが分かったという。この鄭和の艦隊には、天体の
角度を測定する装置である六分儀を使って自らの船の位置を記録しながら航海していた
からだが、現在のコンピューターによるシミュレーションで当時の南十字星の位置など
を再現し、鄭和の航海記録と照らし合わせたところ、オーストラリアや南極、南北アメ
リカの沿岸などの場所が浮かび上がった。又、メンジースは、カリブ海やオーストラリ
アの周辺で巨大な古い中国の難破船が発見されているが、これらは鄭和の艦隊の一部だ
った可能性がある、と指摘している。又彼は、イタリアのベネチアでは1428年に、
アフリカや南北アメリカ、オーストラリアを含めた正確な世界地図が存在していた事実
から、この地図は鄭和の航海記録をもとに中国で作られ、シルクロードの交易を経て、
ベネチアに運ばれたに違いないと主張している。そしてその後「この地図を見たコロン
ブスやマゼランらは、自分たちも航海をして貿易で大儲けしようと考えたのではないか
」そうして旅にでた。という理論を展開している。銃の歴史は、火薬の発見により始ま
る。これも古代中国の4大発明とされ、羅針盤、火薬、紙、印刷と言われている。紀元
317年頃、中国の道教研究家・著述家の、葛洪(かつこう)が煉丹術(れんたんじゅつ)
の理論書の『抱朴子(ほうぼくし)』に、硝石・松脂・木炭を一緒に加熱したときに生じ
る化学反応を記録している。火器は火薬の燃焼性を利用するものから火薬の爆発性を利
用するものへと移行していき、こうして火薬が作られ爆発火器が大量に使用された。


1880: 名無しさんAA:18/03/05 15:16

 世界新時代−‐‐45   <幻の漢民族とは------24>

 銃の発達には朝鮮半島が絡む。1232年、金の開興元年に、金軍が蒙古軍に対して抵抗
したが、その時「飛火槍(ひかそう)」と呼ばれた火器を使用している。これは、敕横紙
(ちょくおうし)と呼ばれる紙を16枚重ねて作った、長さ約60cmの筒に、発火用の柳灰、
鉄滓(てっさい)、磁末、硫黄、砒霜(ひそう)など詰めた槍を入れ、穴の中に入れて端に
付けた導火線に点火するものだった。兵士はそれぞれ火種の入った小さな鉄の缶をもち
、戦時に点火すると火炎を遠くまで噴射しました。つまり今の飛ばし花火の原型である
。その鼻先に火薬を詰めた槍先を仕込んでいたのである。1259年には、紙筒を竹に変え
、弾丸式の火薬を詰めた「突火槍(とっかそう)」が開発された。竹筒に火薬を装填し、
小石も装填します。点火すると敵に向かって小石を飛ばす物で、火薬のエネルギーを利
用して物体を発射する筒型火器の原点と言われています。1300年頃には木筒製の「マド
ファ(madfa)」と呼ばれた火器が 中近東から広がり、かつてのロシア皇帝ピョートル大
帝が1703年に収集し、べテルスブルクの図書館に納めていた『シェムス・エディン・モ
ハメネッド文書(Schems Eddin Mohamened)』という文献のなかにマドファを紹介する項
目がある。それには「柄の付いた木筒に粉状の火薬を装填し、それを小孔より導火線に
よって点火するようになっています。口部には球状のもの、弾丸または焼夷物を置き、
柄をとって発射する」と記されているそうです。1350年頃には、青銅や銅製の筒型火器
が開発された。現存する世界最古の金属製筒型火器は、中国で作られた青銅製の「手把
鋼銃」と言われている。日本では、中国製筒型火器は、室町末期には実戦に使われてい
て、「石火矢」と呼ばれていた。青銅の鋳物でできた筒になり、木の柄を取り付けての
使用だが、戦乱期使用されるようになると「銃筒」「銅銃」「手銃」と呼ばれるように
なった。青銅製の筒で石を飛ばす兵器は、反動を地面で受けるため斜めに立てて発射し
たり、肩にかついで射撃したりしていたようだ。その後改良され騎兵用の銃筒は小型で
柄も短く、装甲した胸でしっかりと反動を受け止めて発射しました。現存する1332年の
モンゴル軍の銅銃は、口径が約11mm、銃身の長さ35cm、重量約4キロの青銅製が見つか
っている。ここで一番考えられるのは、火薬を発見した中国人は朝鮮半島に移住してい
て火薬を売っていただろうと言う事だ。更にこの火薬作りに紀元前に煉丹術が作られて
その後発達したであろうと思われる。近代まであった糞尿と硫黄を燃やして硝石を作り
出す金沢方式が、多分既に編み出されて、門外不出として朝鮮半島に穴倉で暮らしてい
たのではないか。と言うことである。

1881: 名無しさんAA:18/03/05 15:17
 この鄭和の航海は、当時の明朝の国家的な大事業だったであろう。第1回の航海前の
2年前から、皇帝からの命令で福建省や江蘇省などの港に造船所が作られて、福建では
137隻、江蘇では200隻の造船が命じられたはずだからだ。この航海が始まった後
3年間には、さらに1700隻の建造が進められたと言う。これらの船は大きく、最大
で長さ140メートル、3000トンの大型船で宝船と呼ばれた。マゼラン艦隊でただ
一隻、途中で沈まず世界一周に成功したビクトリア号はわずか80トン、コロンブスが
アメリカ「発見」の航海で使ったサンタ・マリア号でも80トン(長さ24メートル)
だったから、この中国勢の船がその頃のヨーロッパ勢より30倍以上大きな船を作れた
ことになる。これは当時の中国が、造船技術そのものまでヨーロッパよりは、かなりに
進んでいた事を示す。大きな船の造船や修繕には当然ドックを使う必要があるが、中国
では10世紀にドックが作られていた。これに対し、ヨーロッパでは15世紀になって
初めてイギリスで作られたとされる。造船技術だけでなく技術や制度の多くの面での、
その頃の中国ではヨーロッパよりかなり進んでいた事が伺える。ところが、そんな明朝
の大国家事業だったにもかかわらず、鄭和の大航海が終わってしばらくすると、大航海
によって蓄積された海図や国際情勢に関する資料などのほとんどが朝廷内の紛争で焼か
れてしまっている。又それだけでなく、明の朝廷は大航海の期間中にはさかんに造船を
奨励していたが、航海が終わった1436年ごろから造船や海上貿易に対して消極的に
なった。それは日本の様な植林や造営林を置かず闇雲に大木を切って行ったからだ。1
500年にはその災害の多さによって財政負担と使用木が無くなり、2本マスト以上の
船を作ることが禁じられ、1525年には海外渡航できる外洋船を取り壊すよう命令が
下った。中国は、鄭和の遠征からわずか100年で「鎖国」と「海上貿易禁止」の国に
転じてしまっていた。この頃既に朝廷より華僑の商人の方が金持ちになっていたからだ
った。各地の華僑は集団で一つの村を形成し、各地の時の王朝と繋がって行った。本国
と離れても自活し名声や富を得ていたのである。ヨーロッパの中で現存する最古の大砲
的な物の記録図は、丁度14世紀(1326年)の物だ。球形の弾ではなく、矢のようなもの
を打ち出す構造である。これが実際に作られたかどうかは不明だが、これが鄭和の遠征
時に船に置いた物だと想像する。その後所謂大砲がヨーロッパで作られるようになった
15世紀初頭となる。この時代の大砲は射石砲またはボンバード砲と呼ばれ、石の砲丸
を発射するものとして発達した。こうして東方から新しい大砲技術が伝来し高い破壊力
の重砲の発達によって、それまで投石機だった戦いが、城砦を短時間のうちに陥落させ
ることが可能な大砲に代わった。この時防衛側と攻撃側の力関係が変化し城の壁が、高
さよりも厚さを優先するようになった。

1882: 名無しさんAA:18/03/05 15:17
 世界新時代−‐‐45   <幻の漢民族とは------26>

 また鄭和が「色目人」(しきもくじん)の「宦官」(かんがん)だったことも理由で
あろう。元は100年続いた王朝だったが、チンギス・ハンがユーラシアを征服して、
以東ヨーロッパ、中東、東南アジアにまたがる世界帝国の中心とはなった、陸上・海上
の貿易を通じて富を蓄えた王国だったが、元朝には国内運営をする意志が無く、国内に
おいての経営に失敗して反乱によって滅びた。この反乱を率いていた農民出身の朱元璋
が初代の洪武帝を皇帝とする明王朝だった。洪武帝では、貿易よりも農業など国内運営
を重視した体制をとった。しかし3代目の皇帝となった永楽帝の時代は、貿易と外交を
重視する政策に代わったし、元の子孫の家臣達が大勢いた事を利用した。永楽帝は甥に
当たる先代の皇帝を内乱で倒して皇位についた為、内乱が成功した時宮廷内の宦官たち
を永楽帝に味方した者とそうでない者を分ける必要があった。その為の大航海を命じた
。色目人はペルシャ・トルコ系のイスラム教徒の中国人を指す言葉で、明王朝の一つ前
の王朝である元時代の特権階級だったモンゴル人に次いで高位の人々だった。中国人の
圧倒的多数を占める漢人などは、その下の階級に押し込まれていたのを解放する責務が
あったのだ。宦官は、元々は一夫多妻制の皇帝の家族がいる後宮に勤めるために去勢さ
れた役人のことで、明の時代には色目人の頭目が宦官になることは常識だった。外国系
の中国人であり、貿易帝国だった前の元王朝では、高位にあった家系を受け継ぐ宦官を
輩出しなければならなかったのだ。こうして永楽帝の時代は宮廷内の強い政治勢力とな
っていて問題だったのだ。彼らは貿易の拡大を目指し、永楽帝自身が遠征の得意な人だ
ったこともあり、この時代の明は領土と貿易の拡大をさかんに行った。こうして時代の
宦官の頂点にあった人が鄭和だったと言える。中国は冊封した周辺国の内政には干渉せ
ず朝貢のみに固執した。しかも相手には、財宝や中国産の絹製品、陶磁器など、当時の
世界では最高級品とされた品々を贈った。周辺国としては、中国皇帝の家臣になるとい
う窮屈さはあったが、それを上回る物質的な恩恵を受けることができたのである。宦官
が海外貿易を通じて富の蓄積を図る一方で、村を預かる儒家は「海外貿易の拡大は国家
財政の浪費になる」として反対していた。こうしてシルクロード商人の長としての宦官
と、中国の伝統的生活重視の儒家は 内政重視と外交重視で対立した。ところが対立は
中国では腐敗を産んでいた。朝廷でも賄賂が横行し宦官試験も甘くなって書類上の物と
なり去勢されていない者まで登用されるようになっていた。そうして秀吉が朝鮮に来た
のである。

1883: 名無しさんAA:18/03/05 15:18
 世界新時代−‐‐45   <幻の漢民族とは------27>

 日本での鉄砲伝来は1543年の、火縄銃インドのゴアを出発して中国の寧波(ニン
ポー)に向かうポルトガル南蛮船が嵐で遭難して、8月25日に種子島南端の門倉岬(かど
くらみさき)に漂着した事が起原とされる。これが日本にやって来た最初のヨーロッパ
人だとさえ言われる。島津氏の家臣で種子島の領主の、「種子島 時尭」(たねがしまと
きたか)は、鉄砲2丁を2000両で購入。鍛冶職人「八板金兵衛」により複製が製造されま
す。1丁は島津氏を通して、将軍足利義晴に献上されました。これより、鉄砲は種子島
銃とも呼ばれることになります。16世紀中頃のものには「南蛮筒(なんばんづつ)」と
よばれる外国から伝来した鉄炮や、それを真似て日本で作られた「異風筒(いふうづつ)
」とよばれる鉄炮が現在も数多く残されています。それらの形は千差万別であることか
ら、いろいろな場所に様々な形状の鉄炮がほぼ同時期に伝来したと言う説もある。戦国
期に、特に徳川時代に日本の鉄砲製造工場としての役目を担っていたのは「国友鉄砲鍛
冶」だった。(長浜市国友地区)この鍛冶屋は、室町末期から江戸幕府の終末まで一貫
して鉄砲鍛冶の町として栄えた。規模・歴史においては国内随一とされ最盛期には鉄砲
鍛冶が八十戸も存在していた。国友における鉄砲の歴史を記す唯一の資料「国友鉄砲記
」によって、種子島に鉄砲が伝来した鉄砲が鹿児島藩主の島津家に贈られ、島津家は、
それを室町将軍足利家に贈り、そしてその鉄砲をモデルに同じものを作るよう命じられ
たのが国友鍛冶であり、その仕掛けを見極め、伝来の翌年には国産鉄砲を完成させた。
 国友と戦国武将との関係は織田信長が早くから鉄砲に関心を寄せ、また合戦武器とし
て着目して、鉄砲伝来わずか6年後には国友鉄砲鍛冶は、信長から鉄砲五百挺の注文を
受け、さらにこの注文により国友は鉄砲による生活・生産の基礎ができ大いに繁盛した
。そのような関係から、国友は、はじめ京極家、次いで浅井家の支配地だったが、経済
的には織田信長と深く結びついていった。しかし、国友鉄砲鍛冶が量産体制を整えるの
は徳川家康との関係が密接になって以後のことで、大阪の両陣がその契機になった。と
いうのは、家康は大阪方に対する戦備から、国友鉄砲鍛冶の集団を直接支配下において
、銃砲製造専門工場としての役目を担わせ、大量の大砲などを発注した本格的に量産体
制を整えさせた宿場としたからである。

1884: 名無しさんAA:18/03/05 15:18
 世界新時代−‐‐45   <幻の漢民族とは------28>

ところが一方で何故か大砲は捨てられた。1576年(天正4年)に、日本で最初の大砲が使
われ、キリシタン大名の大友宗麟が、日本に布教に来たポルトガル人宣教師達から火縄
銃や硝石等と共にフランキ砲を輸入したとされ、日本で最初の大砲といわれるこの砲の
真似は出来なかった。輸入された二挺のフランキ砲はその大きな威力から「国崩し」と
名づけられ、宗麟の臼杵城篭城の際は、その巨大な砲弾と威力で敵の島津軍を驚かせ、
食い止めるのに役立った。その為現在の臼杵城跡地にフランキ砲の複製が置かれている
。だがこの中国で発達した火薬文化や造船文化は、西洋で発展を遂げ中国ではその大砲
によって砲艦外交の下で植民地の様な賠償金を払わされてしまったのが歴史である。又
日本も一度は取り入れた鉄砲や大砲は江戸期は打ち捨てられ、新たに刀剣の文化に戻り
剣に精神文化を花開かせるのである。しかし江戸中期文化5年8月(1808年10月)に、
鎖国体制下の日本の長崎港でフェートン号事件が起こる。もはやイスパニアやポルトガ
ルの時代がイギリスやアメリカに移る頃追って来たイギリス軍艦が食糧や水を求めて、
偽の旗を振り長崎出島港に侵入してきたのがこの事件である。ヨーロッパにおけるナポ
レオン戦争の余波が極東の日本にまで及びアンポナ事件同様に影響していた。先進国の
覇権の争いをし、英国東インド会社はナポレオン戦争後になって再び東南アジアに進出
して海峡植民地を設立、ビルマとも戦っていたのだった。18世紀以降、中国の広東貿易
にも参入してアヘン戦争を引き起こし、香港を獲得した。しかし同社は統治の失敗から
インド大反乱を引き起こし、会社や国軍は反乱をようやく鎮圧したものの、インドの行
政権をヴィクトリア女王に譲渡し、1874年に解散した。この事がアメリカの独立や日本
の開国と大きく関わってくるのである。とりもなおさずとりもなおさず、フェートン号
が長崎出島で 空砲を打ち乱入し死者こそ出なかったものの全く鎖国していた日本では
、由々しき事態となってしまっていた。オランダ商館員や通詞を人質に牛肉と水の補給
を迫り、その要求を呑んで事なきに至ったものの、手持ちの兵力もなく、侵入船の要求
にむざむざと応じざるを得なかった長崎奉行の松平康英は、国威を辱めたとして自ら切
腹し、勝手に兵力を減らしていた鍋島藩家老等数人も責任を取って切腹した。さらに幕
府は、鍋島藩が長崎警備の任を怠っていたとして、11月には藩主鍋島斉直に百ッ日の
閉門・蟄居謹慎が命じられた。臨検体制の改革を行い、秘密信号旗を用いるなど外国船
の入国手続きが強化されたが、その後もイギリス船の出現が相次ぎ、幕府は1825年に異
国船打払令を発令した。

1885: 名無しさんAA:18/03/05 15:19
 世界新時代−‐‐45   <幻の漢民族とは------29>

 この時輪番で防衛を任せられていた佐賀藩主は幕府に要求するも許可が降りらぬまま
にも、佐賀藩は防衛強化に取り組み、独自に連続鋳鉄生産する西洋式製鉄の道を探り反
射炉や大砲や軍船の製造にかかり、かろうじて日本は植民地化されずに済んだのである
。この頃英国に譲った東インド会社は、実は中国にその移転を決めて居た。既に奴隷船
貿易やアヘン貿易が軌道に乗ってきたからだ。それがゲルフ派のデラノ家であった。も
ともとアロー号事件は違法性が無ければ起きない事件だった。当初の茶や綿花や陶磁器
の貿易ならば中国との戦争も起きなかった。もともと清は1757年以来広東港でのみ
ヨーロッパ諸国と交易を行い、公行という北京政府の特許を得た商人にしかヨーロッパ
商人との交易を認めてこなかった。しかし、アメリカの独立戦争やインドの反乱は大き
く英国の財政を圧迫してきた。産業革命の綿栽培では布は余り、中国も日本も大砲鉄砲
は買わず自国の米国に用立てする始末だった。更に中国から買い取る陶磁器は高く、北
欧から買い取る鉄鉱石や石炭は、ナポレオン戦争やオスマントルコでの戦いで高値のま
ま下がらなかった。ヨーロッパ側で中国貿易の大半を握っているのはイギリス東インド
会社であったが、同社は現地に「管貨人委員会」という代表機関を設置していたが、し
かし清朝政府はヨーロッパとの交易を一貫して「朝貢」としか認識していなく、直接の
貿易交渉には応じてはいなかった。その関係は管貨人委員会さえも公行を通じて「稟」
という請願書を広東地方当局に提出できるだけであった。つまり政府も地方も取り締ま
るだけで相手しなかった。ところが一つだけ高価でお茶と等価交換出来る物があった。
それがアヘンだった。アヘンは基本的には麻酔用の痛み止めで万能薬として栽培されて
西洋医学は古くから用いられていた。修道院などでは十字軍の遠征以来、解剖切開医学
が用いられ、イタリア、サレルノ近くにあるベネディクト修道院にある文献に、催眠海
綿に関する記載では、手術を受ける患者を眠らせて、切開の際の痛みを感じさせない眠
り薬の処方としてアヘンを書いている。「アヘン半オンス、葉から搾ったマンドレーク
の液8オンス、新鮮な毒ニンジン液、ヒヨス3オンスを 充分な水に混ぜて溶液とし、
きれいな乾燥海綿に含ませて注意深く乾燥させる。手術前には、海綿を温水に浸し、患
者の鼻の上に置いて、眠りにつくまで深呼吸させる。手術が終わると海綿をはずして、
覚醒させる。」と。この医療が十字軍遠征やナポレオン戦争や米国独立戦争に多数必要
とされた。これを担ったのがゲルフ派のデラノ家だった。10世紀頃教皇派と皇帝派に
分かれイタリアに覇権争いが起こった。医学の知識まで及ぶ教会の教皇派はゲルフ派と
よばれ、薬草も独自に密命で調達していたのだった。

1886: 名無しさんAA:18/03/05 15:19
 世界新時代−‐‐45   <幻の漢民族とは------30>

 当然ながら宣教師達は、西洋のそうした医学や博物学を駆使して乗り込んできていた
。日本と違って、管理の届かない所でこの布教活動は正に魔術の如くに功を奏していた
。貧困の飢えた信者に日本のお香の如くに、魔法の聖水と魔法の煙は良く効いた。満足
感にあふれ官能美に充実させる道具としては、宣教師自らも毒牙にかかるような事もあ
った。9世紀の中世時代に、手術の際の鎮痛薬として、アルコール蒸気の利用が試みら
れていたが。中世に書かれた多くの文献にアヘンを混ぜて簡単に出来る方法が取られた
。伝統的なアラビア医学に、中国・インド・西洋の知恵を取り入れて、イスラムの医学
書「医学の規範」を確立した。この本は、それから16世紀に至るまで西洋医学の聖典
となったが、そこには15種類の痛みと炎症について記述している。又アヘンを下痢や
眼病の治療に推奨していた。アヘンの使用はアラブに普及し、著者自身も、アヘンを飲
み過ぎて死亡したと言われている。この頃、アラブの商人により、アヘンは西へ伝えら
れた。イスラムの世界ではワインは禁止されていたので、アヘンの常習者が増えていた
。これに財を成したのがゲルフ派の筆頭ヴェルフ家でヴァチカン御用達でゲルフ家はそ
うした由緒ある女衒の家柄だった。家の女衒の商売を代々うけついで有名な13代ムァ
ンクォ・ゲルフはヴィクトリア女王の母方の祖父に当たる。こうしてイスラム・サンヘ
ドリンと欧州貴族の混血であるこの家系を、カナンの黒い貴族と人々は呼んだ。だが、
新天地アメリカでは、イギリスの産業革命による職工供給やアメリカ独立戦争の戦費貸
出などで大きくなっていた。イギリスが銀の国外流出を抑制する政策を採る頃はインド
で栽培したアヘンを清に密輸出する事で超過分を相殺して更に財を成す三角貿易を整え
てしまっていた。ところが日本の江藤新平は台湾でこの利益のあるアヘン貿易を、一掃
させてしまったのである。対抗アヘン販売を軍部直轄とし販売して。すでに宮廷ユダヤ
人からユダヤ金融資本と代わり、欧州の貴族階級に同化して英國王室(ウヰンザー家)
すらも手にいれていた彼らは、ヴヱスの「黒い貴族」の最古のデラノ家を筆頭に米国の
大統領の地位を手に入れて日本やドイツに手を打つ事を決めていた。デラノ家及びルー

1887: 名無しさんAA:18/03/05 15:20
で栽培したアヘンを清に密輸出する事で超過分を相殺して更に財を成す三角貿易を整え
てしまっていた。ところが日本の江藤新平は台湾でこの利益のあるアヘン貿易を、一掃
させてしまったのである。対抗アヘン販売を軍部直轄とし販売して。すでに宮廷ユダヤ
人からユダヤ金融資本と代わり、欧州の貴族階級に同化して英國王室(ウヰンザー家)
すらも手にいれていた彼らは、ヴヱスの「黒い貴族」の最古のデラノ家を筆頭に米国の
大統領の地位を手に入れて日本やドイツに手を打つ事を決めていた。デラノ家及びルー
ズヴヱルト家の家系から出た歴代米國大統領は、計十三人にも上るとされる(第2代ジ
ヨン・アダムズ、第4代ジェームズ・マデイスン、第6代ジョン・Q・アダムズ、第8
代マーテイン・V・ビユーレン、第9代ウヰリアム・H・ハリソン、第12代ザカリー・
テイラー、第17代アンドリユー・ジヨンソン、第18代ユリシーズ・S・グラント、
第23代ベンジヤミン・ハリソン、第26代セオドア(“テディ”)・ルーズヴヱト、
第27代ウヰリアム・H・タフト、第33代フランクリン・D・ルーズヴヱト)などであ
る。よく満州経営を日本がハリマンの申し出を断ったからと言われるが、全く違うので
ある。黒い貴族は既に死の商人と共に、アメリカで徘徊して、どうやっても米国との開
戦させる工夫をしたのである。ジョン・F・ケネディが暗殺されたように。


1888: 名無しさんAA:18/03/08 09:11
 世界新時代−‐‐48   <消えたフン族の謎------ 1>

 歴史を考えるとき少し立ち止まって異様さに驚く事がある。フン族の伝説もその一つ
だ。フン族�ア奴、という説は定説ではなく、実は証拠はほとんどない、曖昧な話であ
るようだ。匈奴は、主に中国の漢の時代に名をはせ、一時は首都にも迫るほどの勢いを
持っていた遊牧民だ。それがちょうどフン族が東西ローマ帝国を追い詰め、ローマの町
まで迫っていたのと同じように中央アジアで勢いを持っていた時期に、周囲の少数民族
を従え、一大帝国を築いたものの、短期間で崩壊し四散していく仮定もそっくりだ。し
かし、それは同じ騎馬民族だからという類似点に過ぎないのかもしれない。フン族が、
東のどこかからヨーロッパにやって来たアジア系の民族だというのは間違いない。しか
し、それ以上のことは分かっていない。フン族自身、自分たちの歴史を知らなかったし
、定住地を持たず、特徴的な文明も持たない人々の痕跡は、遺跡としては残るものでは
ないから、足取りは辿りにくい。それはたとえばスキタイなんかだと、特徴的なデザイ
ンのアクセサリーや墓で、ある程度足取りを追える事はあるが、ことフン族に至っては
ないとされる。匈奴の一部が、漢との接触を断って西へ消えて、その後フン族が突然現
れるまで、約二百年間の空白がある。漢と駆け引きをし、堂々たる国を築いた匈奴は高
い文化水準を誇ったはずだが、嵐の如く東ゴートの国に押し寄せたフン族には、それが
無かった。もしも匈奴=フン であるならば、空白の期間に、彼らは一度手にした文明
を「失わなくては」ならない。はたしてそういう事が在り得るのだろうか。匈奴の一部
が「西へ」消えたこと、消えた時代は確かにフン族の到来より前のこと、同じ騎馬民族
ということもあり、フン族とイコールで結ぶ線がある事はあるし、結びつけたい学説も
分からなくも無いが、それはあくまで状況証拠。具体的に匈奴とフン族の間に共通する
文化が何も見つからないのでは、今の段階では別物と言うしかない。アッティラ時代で
は、西暦453年春、冬が過ぎ去って再びフン族が暴れだす季節となり、周辺の人々が
戦々恐々になっていた頃、突如としてアッティラは倒れた。宴の最中、突然、大量の血
を吐いて倒れ、あえなく息を引き取ったのだった。蛮族の中の蛮族たるフン族王の葬儀
は、傘下のゲルマン諸部族の族長も大勢参列する盛大なものとなった。遺骸は金、銀、
鉄の3重の棺に納められ、河を塞き止めたその底に豪華な埋葬品と共に埋められたが、
それを掘らされた奴隷は墓の秘匿の為、全員殺されたと云う。このアッティラの死後、
息子達による後継争いが勃発して、部族は内紛状態に陥りフン族は四分五裂して急速に
求心力を失い、これを好機と見た傘下の蛮族達は次々にその支配を離れていった。その
後消える事になる。

1889: 名無しさんAA:18/03/08 09:12
 世界新時代−‐‐48   <消えたフン族の謎------ 2>

 フン族の獰猛さは、勇猛で鳴るゲルマン人すら悪魔と呼ぶほどであり、蛮族の中の蛮
族と恐れられた。ゲルマン人の方が遥かに人数が多く、優秀な騎兵も有していたのだが
、それでもフン族の騎兵には歯が立たなかった。そして、フン族は強力な騎兵団にもの
を言わせて、多数のゲルマン人諸部族を支配下に組み入れていった。西暦444年に、
フン族の族長に、アッティラと呼ばれる優れた統率者が就任すると、その獰猛さに拍車
が掛かる。この頃、フン族は現在のハンガリー平原一帯に本拠を置いていたが、アッテ
ィラに率いられてドナウ河を渡り、東ローマ帝国に侵攻を開始した。東ローマ帝国は、
この要求に対して、脱走兵の返還だけでお茶を濁そうとして、彼らをアッティラの元へ
と送り届けた。これらの脱走兵はフン族に組み敷かれたゲルマン系の兵士がほとんどで
、フン族の生活行動に馴染めず、東ローマ帝国に投降した者達だった。アッティラは、
これら脱走兵全員を地に伏せさせて天幕用の布をかぶせると、フン族騎兵の集団に何度
もその上を往復させて、悉く轢き殺したのだった。東ローマ帝国の人々はこの蛮行に震
え上がったが、雇っていたゲルマン人兵士の中では敵愾心が高まった。そして、ゲルマ
ン人庸兵を中心とするローマ軍が主体となって、フン族を殲滅せんとして出撃して行っ
たが、戦場を縦横に駆け巡って雨あられの如く弓矢を浴びせかけるフン族騎兵の前に大
敗を喫してしまう。この結果、東ローマ帝国はフン族の脅迫に屈して、大量の黄金供出
を余儀なくされたのだった。西暦449年、アッティラは更に注文を付けて、身分の高
い使者を送って確実に協約を実行せよと迫ってきたので、東ローマ帝国は然るべき高位
の人物をアッティラの下へと送った。その使者の1人である、プリスクスが書き残した
記録が残っている。449年、東ローマ皇帝テオドシウス2世はアッティラの元へ使節を送
り、その中に歴史家プリスクスがいた。プリスクスは使節をもてなす豪華な饗宴の中で
、アッティラの食器だけが非常に質素で彼の振る舞いが清廉だったことを記録している
。テオドシウス帝は使節の中に刺客を潜ませていたが暗殺は失敗に終わった。アッティ
ラは東ローマの使節を罰することなく、丁重に送り返した。こうして物語は始まる。


1890: 名無しさんAA:18/03/08 09:12
 世界新時代−‐‐48   <消えたフン族の謎------ 3>

 フン族は強力な騎馬部隊を率いる蛮族としてその名を轟かせており、東進の過程でア
ラン族やゴート族の王国を滅ぼして住民を虐殺し、生き残った者たちも配下の兵士とし
て従えるなど、多くの部族を従えていた。4世紀末から度々東西ローマの領内に入り込
んでは、撤退する代償として莫大な賠償金を獲得していた。410年頃にフン族はドナ
ウ川中流域を制圧し、433年に西ローマ帝国の将軍アエティウスとの取り引きによっ
てパンノニアとイリュリクムの一部の支配権を認められた。434年、フン族・ルーア
王が死去し、息子のアッティラと甥のブレダが共同王位に就き、ローマ側に逃亡者(ロ
ーマ側に雇われていたフン族兵士など)の送還、ルーア王に納めていた貢税を倍額の金
、市場のフン族商人への開放、ローマ人捕虜の身代金の支払に同意する有利な条約を結
び、東ローマ領から撤退し、ハンガリー平原へ戻った。テオドシウス2世はこの機会を
利用してコンスタンティノープルの城壁の強化す、最初の海上城壁の建設そしてドナウ
川沿いの国境陣地を構築した。しかし 436年にはブルグント王国に侵攻し、グンダハー
ル率いるブルグント軍を壊滅した。その後数年間フン族はササーン朝へ侵略ていたが、
アルメニアでサーサーン朝に敗退したため、ササーン朝侵略を放棄して関心をヨーロッ
パへ戻した。 440年、マルゴスの司教がフン族の王族の墓を暴いて財宝を奪ったとして
ブレダとアッティラは罪人の引き渡しを求め、これを口実にフン族は再びローマ国境に
現れ、条約によってつくられたドナウ川北岸の市場の商人たちを攻撃した。フン族は、
ドナウ川を渡って川沿いのイリュリア諸都市や砦を略奪し、モエシア(現セルビア・ブ
ルガリア)のウィミナキウム(現コシュトラッツ)は完全に破壊した。フン族がマルゴ
スを攻めた時、侵攻の口実をつくり引き渡しを求められていた司教が密かにフン族から
助命の約束を受けて城門を開き、町は陥落した。フン族がドナウ川の防衛線を制圧した
頃、ガイセリックに率いられたヴァンダル族が 440年に西ローマ帝国アフリカ属州の首
都カルタゴを占領した。 441年にはサーサーン朝のシャー・ヤズデギルド2世がアルメ
ニアを侵略した。ローマ帝国の最も豊かな州であり主要な食糧供給地であったアフリカ
属州をヴァンダル族から奪い返すためにバルカン半島の軍隊は剥ぎ取られ、これにより
アッティラとブレダにイリュリアを経てバルカンへ入る道が開かれ、441年に侵攻した。

1891: 名無しさんAA:18/03/08 09:12
 世界新時代−‐‐48   <消えたフン族の謎------ 4>

 こうしてたったの30年で東欧一帯はフン族の下に生活する羽目におちいっていた。
マルゴスとウィミナキウムを略奪したフン族はシンギドゥヌム(現ベオグラード)と、
シルミウムを奪取した。騒乱は 442年にも続き、テオドシウス帝はシチリアから軍隊を
呼び寄せ、フン族との戦争の財源として新貨幣を大規模に発行する。これらの準備を行
った上で、彼はフン族の要求を拒否しても安全だと考えた。ブレダとアッティラは 443
年の戦役でこれに応えた。フン族はドナウ川沿いを攻撃してラチアリア(現アルカール
)の軍事拠点を蹂躙し、破城槌と攻城塔を用いて(フン族にとっては最新の軍事技術だ
った)ナイスス(現ニシュ)の包囲を成功させた。それからニシャバ川沿いを進軍して
セルディカ(現ソフィア)、フィリッポポリス(現プロヴディフ)そしてアルカディオ
ポリスを占領した。フン族はコンスタンティノープル城外で東ローマ軍と遭遇してこれ
を撃破し、コンスタンティノープルの城壁の前でようやく止まった。別の東ローマ軍も
カリポリス(現ゲリボル)で敗北し、もはや対処すべき軍隊を持たないテオドシウス帝
は敗北を認め、廷臣アナトリウスを送り講和条件を交渉した。条件は以前の条約よりも
厳しいものになり、皇帝は、侵略時の条約不遵守の賠償として金6,000ローマ・ポンド
(2000 kg) の支払いを認めた。貢税の年額は3倍にされ金2,100ローマ・ポンド という
(700 kg) の莫大な金とされた。更にローマ人捕虜の身代金は一人 12ソリドゥス金貨に
引き上げられた。フン族の要求は当分の間満たされ、二人のフン族の王は彼らの帝国内
へ引き上げた。フン族が 東ローマ帝国から引き揚げた和平期間(445年頃)にはブレダ
が死に、アッティラがフン族の単独統治者となった。15年でイタリア半島はフン族の
手に落ちたのだ。 447年、アッティラは南下しモエシアを通って東ローマ帝国領へ再び
侵攻した。ゴート族の軍司令官(マギステル・ミリトゥム)アレネギスクロスに率いら
れたローマ軍はウトゥスでアッティラと戦うが敗北した。フン族は抵抗を受けずにトラ
キアまでのバルカン半島を略奪した。コンスタンティノープルは総督フラウィオス・コ
ンスタンティヌスによって城壁が再建されて(地震により損傷していた)、また幾つか
の箇所で新たな防御線が築かれており助かった。

1892: 名無しさんAA:18/03/08 09:13
 世界新時代−‐‐48   <消えたフン族の謎------ 5>

449年、東ローマ皇帝テオドシウス2世はアッティラの元へ使節を送り、その中に歴史
家プリスクスがいた。テオドシウス帝は使節の中に刺客を潜ませていたが暗殺は失敗に
終わったが、アッティラは東ローマの使節を罰することなく、丁重に送り返した。 450
年7月、東ローマ皇帝テオドシウス2世が崩御し、マルキアヌスが後を継いだ。軍人出身
の新帝は強硬策に出て貢税の支払いを停止した。 451年、アッティラの率いるフン族は
ライン川を渡り、ガリアに侵攻し、オルレアンを包囲した。西ローマ帝国の将軍アエテ
ィウスはゲルマン諸族の軍と共にこれを討ちカタラウヌムの野(今の北フランス、シャ
ロン=アン=シャンパーニュ付近)で決戦した。激戦の末、アッティラは大打撃を受け
て本拠のハンガリー平原に退き、西欧はフン族の征服を免れることができたが、フン族
の勢力は維持された。ローマ軍側も追撃不可能なほどの被害を受けたことで、西ローマ
の勢力は弱まり、ガリアへのフランク族の侵入が始まることとなった。この決戦は世界
史上の東西両民族の大衝突の一つとしても名高い。 450年、アッティラはトゥールーズ
の強力な西ゴート王国を攻撃する意図を宣言し、その為に西ローマ帝国皇帝ウァレンテ
ィニアヌス3世と同盟を結んだ。彼は以前から西ローマ帝国及び、その実質的支配者の
フラウィウス・アエティウス将軍と良好な関係を持っていた。アエティウスは少年時代
に人質としてフン族へ送られて、彼らの中で生活を送っており、フン族騎兵は西ローマ
軍とゴート族やバガウダエ(ガリアの農民反乱軍)などとの戦いに参加してアエティウ
スを助けている。西ゴートと敵対し脅威を感じているヴァンダル王ガイセリックの贈物
と外交努力もまた、おそらくアッティラの計画に影響を与えた。だが、アッティラに西
ローマ帝国侵略の絶好の口実ができた。愛人とともに謀反を企てていたとされ愛人の家
令を殺されるのである。ローマ元老院議員との強制的な婚約をさせられたウァレンティ
ニアヌス帝の姉ホノリアがアッティラへ助けを求める書状に指輪を添えて送って来た。
これが巷間言われるように求婚を意図していたか否かは諸説あるが、アッティラはこれ
を求婚と解釈することを選んだ。彼はこの「求婚」を受け入れ、西ローマ帝国の半分を
持参金として要求した。ウァレンティニアヌス帝はこの企てを知ると、母のガッラ・プ
ラキディアの説得でホノリアを殺さず幽閉させた。彼はまたこの求婚の合法性を頑強に
否定する書状をアッティラへ書き送った。アッティラはホノリアは無実であり、求婚は
合法で自らのものを手にするために赴くであろうと宣言する使者をラヴェンナへ送った

1893: 名無しさんAA:18/03/08 09:13
 世界新時代−‐‐48   <消えたフン族の謎------ 6>

 アッティラはフランク族長死後の後継者争いに介入した。アッティラは長男を支援し
、一方、アエティウスは次男を支援していた。アッティラは従属諸族であるゲピード族
、東ゴート族、ルギイ族、スキール族、ヘルール族、テューリンゲン族、アラン族、ブ
ルグント族その他を集めて進軍を開始した。 451年、アッティラは、歴史家ヨルダネス
による大げさな数字によれば、50万人を率いてガリア・ベルギカに侵入した。歴史家の
J・B・ベリーはアッティラが西方へ進軍した時、既に大陸で最も強力な勢力であった彼
の王国はガリアから大西洋にまで及んだと述べている。4月7日、アッティラはメスを占
領した。その他の町の状況は司教を称えた聖人伝によって知ることができる。ランス司
教ニカシウスは教会の祭壇で虐殺された。セレヴァティウスはトンヘレンで信者ととも
に助かったと推測され、同様に聖女ジュヌヴィエーヴもパリで助かっている。トロワ司
教ループスはアッティラと会見をして町を救ったと賞賛されている。6月前半にアッテ
ィラはオルレアンを包囲した。アエティウスはフランク族、ブルグント族そしてケルト
人からなる軍勢を集めてアッティラに対するべく動いた。元老院議員アウィトゥスから
の使者が西ゴート王テオドリクス1世にローマとの同盟を説得した。6月14日、アッティ
ラはオルレアンの包囲を解いて後退を開始した。アエティウスのローマ=西ゴート連合
軍がフン族を捕捉した場所は一般にカタラウヌム(シャロン=アン=シャンパーニュ)
と推定される。6月20日、カタラウヌムの戦いの結果は ローマ=西ゴート連合のピュロ
スの勝利(損害の多い勝利)であった。アッティラは自殺を覚悟する程の敗北を喫して
撤退したが、ローマ=西ゴート連合もテオドリクスは戦死し、アエティウスには追撃す
る余力がなかった。歴史家エドワード・ギボンとエドワード・クリーシーによれば、ア
エティウスは西ゴートの大勝利となることを敗北するのと同じくらい恐れており、彼の
立場からはテオドリクスが戦死し、アッティラは潰走して撤退しローマが勝利の利益を
得ることが最良の結果だった。452年、体勢を立て直して皇女ホノリアとの結婚を 改め
て主張したアッティラは北イタリアに侵攻して道々で掠奪を行った。ヴェネツィア市は
これらの攻撃のために人々がヴェネタ潟の小さな島へ避難したことによりつくられた。
アッティラの軍隊は数多くの都市を略奪し、アクイレイアは跡形もなく完全に破壊され
た。

1894: 名無しさんAA:18/03/08 09:14
 世界新時代−‐‐48   <消えたフン族の謎------ 8>

 事件の80年後の年代記編者カウント・マルケリヌスの記録によれば「フン族王であり
、ヨーロッパ各地の破壊者であるアッティラは彼の妻によって刺殺された」ともある。
ヴォルスンガ・サガと古エッダもまた彼の妻グズルーンの手によって死んだと述べてい
る。多くの学者はこれらの記録を風評に過ぎないと否定し、アッティラと同時代の歴史
家プリスクスの記録を採る。だが、プリスクスの記録は近年マイケル・A・バブコック
による新たな検証を受けている。詳細な文献学的検証によって、バブコックはプリスク
スによる自然死という記録は教会による「でっち上げ」であり、東ローマ皇帝マルキア
ヌスが彼の死の背後にあると結論付けている。歴史家ヨルダネスは云う「最も偉大な戦
士は女々しい哀歌や涙ではなく、男たちの血によって悼まれるべきである」。ヨルダネ
スやカッシオドルスによれば騎士たちがアッティラの眠るテントの周りを駆け回って、
「誰一人も、復讐を要求しない時の死を、これを死とみなせようか」と葬送歌を詠った
と云う。それから彼らは盛大な宴会とともに彼の埋葬地で哀歌を詠った。伝説によれば
、アッティラの遺体は征服で得た戦利品とともに金、銀、鉄の三重の棺に安置された。
男たちが川の一部の流れを変えて棺を川底へ埋めて流れを元に戻し、そして彼らは埋葬
地の正確な場所の秘密を守るために殺されたという。アッティラの息子たちエラク、デ
ンキジックそしてイルナックは遺産を巡って争った。その結果、彼らは分裂し、翌年、
生前アッティラが最も重んじた族長アルダリック率いる東ゴート族とゲピート族にネダ
オ川の戦いで敗れて潰走した。アッティラの死の翌 454年、アエティウスは皇帝ウァレ
ンティニアヌス3世に殺され、自ら帝国の支柱となる将軍を殺したウァレンティニアヌ
ス3世自身もその翌年の 455年にアエティウスの元部下によって暗殺されている。アッ
ティラの子や親族の名と何人かは動向も分かっているが、やがて確かな系譜は消え失せ
、アッティラの子孫を辿る確証しうる手だてはない。このことは多くの系図学者たちが
中世の統治者たちのために正統な系図を再現しようとする試みを止めることにはならな
かった。最も有望な主張はブルガリア・ハーンやブルガリア君主一覧では伝説上の君主
にアッティラの名がある。最も有名な壁画によるものである。だが最終的には確認され
ていない、その試みはアッティラとカール大帝とを結びつけるものであった。と言う

1895: 名無しさんAA:18/03/08 09:14
 世界新時代−‐‐48   <消えたフン族の謎------ 7>

 アッティラはアクイレイアの市街が燃える様を見るために丘の上に城を築き、これが
ウーディネの街の基になったという伝説があり、城跡は今なお見い出すことができる。
ミラノには町を占領したアッティラが宮殿にあった皇帝が蛮族を踏みつける壁画を東西
の皇帝がアッティラに黄金の袋をふりまく絵に描き変えさせたという伝説がある。ガリ
アのアエティウスは来援せず、近衛司令官アエティウス(フラウィウス・アエティウス
とは同名異人)が少ない兵力で繰り返し急襲をかけてなんとかアッティラの進軍を遅ら
せていた。アッティラは最終的にポー川で停止した。おそらく、この地点で疫病と飢餓
がアッティラの陣営で発生し、これが侵攻を止めさせた。こうしてフン族 アッティラ
とレオ1世のカタラウヌムの戦いは推移し、フランスやスペインそしてバイキング達の
西ゴート連合にしてやっと互角の戦いだったのである。ウァレンティニアヌス帝の望み
により、ローマ教皇レオ1世が元執政官アヴィエヌス、地方総督トリゲティウスととも
にマントヴァ近郊のミンチョ川沿いの陣営でアッティラと会見し、イタリアから退去し
て皇帝と和平を結ぶ約束をとりつけた。アキテーヌのプロスペルがこの歴史的会見につ
いての短く信頼できる描写を残している。後年の作者不明の記録、敬虔な「ラファエロ
の筆やアルガルディの彫刻で表された寓話」(とキボンは述べる)、は聖ペトロと聖パ
ウロの助けを受けた教皇が町から彼を引き返させたと述べている。中世ハンガリーの年
代記によると、教皇はアッティラへ、もしも平和裏にローマから去るならば、彼の後継
者の一人が聖なる王冠を受け取るであろうと約束している。 410年にローマを略奪して
程なく死んだアラリック1世の運命への迷信的な恐怖が彼を躊躇させたと歴史家プリス
クスは述べている。イタリアを去った後、アッティラはドナウ川を越えて彼の宮殿へ帰
り、再度のコンスタンティノープル攻撃を計画し、東ローマ皇帝マルキアヌスが止めた
貢税を再び要求した。だが、アッティラは既に 453年前半に死去してしまっていた。歴
史家プリスクスによる同時代の記録によると美しく若いイルディコ(もしも発音が濁っ
ていなければ、ゴート族出身を思わせる)との結婚式の宴会の最中にアッティラは大量
の鼻血を出し、意識を失って窒息死したとある。他の見方として、彼は大量の飲酒か食
道静脈瘤によって内出血を起こして倒れたと考えられるが、毒殺かもしれない。




1896: 名無しさんAA:18/03/08 09:15
 世界新時代−‐‐48   <消えたフン族の謎------ 9>

「我々一行はナイッスス(ニシュ)の街に入った。ここは、コンスタンティヌス大帝の
生地であり、基幹道路も走っているが、フン族の襲撃を受けて破壊し尽され、廃墟と化
した教会で雨露をしのぐ僅かな人数以外には、無人の街と化していた。この街道の周辺
も無人地帯が続き、川辺にはフン族に殺された多くの人々が白骨化して横たわり、殺さ
れたままの状態で放置されていた。我々はドナウ河を渡り、アッティラの本拠地に入っ
た。天幕の中のアッティラは、何人もの蛮族の高官や武将に囲まれていた。アッティラ
が身に付けている衣服の質素さには驚かされた。今やライン河からドナウ河にかけての
広大な地域を支配している首長の天幕だと言うのに、その内部には煌びやかな調度品や
、芸術品は何一つ置かれていなかった。寝台は見当たらず、これだけは高価そうな毛皮
が床に置かれ、その他にあるのは木製の粗末な椅子と、アッティラの傍らに立て掛けて
ある弓と斧だけだった。アッティラの背は低かったが、頑丈そうな体格をしていた。顔
の色はくすんだ黄色で、髭(ひげ)はほとんど無く、顔の造りは奇妙な程に平面的だっ
た。両眼とも斜視で黒い窪んだ眼をしており、珍しいものでも眺める様に我々に視線を
注いでいた。」と、これが唯一プリスクスが残したフン族の記述だ。アッティラは常々
、北部ヨーロッパに一大帝国を創設すると公言していたが、国家統治に欠かせない政治
機構を創設した形跡は伺えない。アッティラは大胆な行動力、優れた統率力、好機を生
かす判断力、騎兵を縦横に操る戦術能力を有していたが、明確な軍事戦略や、国家構想
を持っていたとは言い難い。ただひたすら獲物を求めて追いかけていく、肉食獣の様な
本能だけが彼の行動原理だった様に見える。このアッティラを始めとするフン族は、自
分達についての記録を何一つ残しておらず、その起源も今だ明らかになっていない。分
かっているのは、彼らがカスピ海の東方からやってきた事だけである。アッティラと会
見したプリスクスによれば、彼は黄色い肌に平面系の顔をしていたとあるので、これは
モンゴル系の遊牧民であるとの印象を強くする。フン族は、かつてモンゴル平原に勢力
を振るった匈奴の末裔ではないかと見る向きは多い。それを裏付ける資料は無いが、そ
の生活様式、戦闘行動に共通点が多いのも確かである。



1897: 名無しさんAA:18/03/08 09:15
 世界新時代−‐‐48   <消えたフン族の謎------ 10>

 この匈奴もまた文字を持たない民族であるため、彼らを知ろうと思えば、敵として戦
った中国の帝国、漢の記述に頼る他は無い。匈奴は遊牧と狩猟を生業としている民族で
、その衣服も動物の毛皮をなめしたものだった。子供の頃から馬や羊に慣れ親しみ、鳥
や鼠を射抜いては弓術を磨いた。青年になる頃には強い弓を引く様になり、革の鎧を身
にまとった。全匈奴氏族を合わせても100〜200万人でしかなかったが、成年男性
の全てが軽装騎兵であるので、戦時の動員力は極めて高かった。全部族が結束していた
なら、優に10〜20万人は動員できたと思われる程小さな塊でしかなかった。匈奴達
はその神出鬼没の騎兵団をもって、6千万人の人口を擁する前漢と互角に渡り合った。
しかし、匈奴内で内紛が度重なった事に加えて、それを好機と見た前漢の武帝(在位 
紀元前141〜87年)による激しい攻撃を受けて弱体化してしまい、匈奴の部族は、
次々と漢への服属を余儀なくされたり、北辺に逃れたりした。その部族の一派が数百年
の歳月をかけてユーラシア大陸を横断し、やがてフン族としてヨーロッパに姿を現した
のではなかろうか。と多くの学者は推測している。戦い方も似ている。西暦451年4
月、は一度は征服していた所を、再びアッティラ率いるフン族はハンガリー平原から出
立している。再び大規模な征服活動に取り掛かり、まずゲルマニア(ドイツ)を横断し
ライン河に至ると、その中流に位置するマインツ付近から渡河して、ガリア(フランス
)に攻め入ったのである。フン族はガリアに侵入すると軍を三つに分け、パリの南西に
あるオルレアンを目指して侵攻を開始する。このオルレアンはフランス中央部に位置す
る要衝であってここが落ちれば、ゲルマニアに続いてガリアまでもフン族に支配下にな
りかねない。このガリアにはフン族の脅威から逃れて、生存権を獲得しようと必死にな
っていたゲルマン人諸部族が存在していた。それに地中海に面したガリア南部には、ま
だ西ローマ帝国の勢力も残っていた。もし、ガリアまでフン族の支配する所となれば、
ゲルマン人には行き場が無くなり、ただでさえ衰亡している西ローマ帝国も止めを刺さ
れかねない。この存亡の危機を受けて、かつては宿敵同士だったゲルマン人諸部族と西
ローマ帝国が結託してフン族に当たる事となった。そして、フン族撃滅を目指して、ロ
ーマ・ゲルマン連合軍を結成する。その頃、フン族の3軍団はそれぞれ略奪、虐殺を繰
り広げながらガリア中央部を目指して侵攻中で、オルレアン近郊に達すると合流して都
市の攻囲を開始した。となる。

1898: 名無しさんAA:18/03/08 09:19
世界新時代−‐‐48   <消えたフン族の謎------ 11>

 このフン族は、砂漠の民が、交通の自由と食糧や水の採取の自由を主張して従順な町
では支配層を置き、反抗し閉鎖される町では、女を奪い男を殺し子供を奴隷とし家屋は
焼き払った。そうして次々とオアシス都市国家を傘下に収めていった 匈奴と同じだ。
治めた都市も行政機能や宗教或いは言葉や文化には気にかけない。中国と同じく唯一に
年一回の金貨や朝貢の様な、臣下とされる証の貢物が送られれば事足りていたようだ。
逆に言えば、彼らは暮らす所食べる物があればそれで充分な質素な暮らしだった。事実
砂漠の中で崑崙をしてモンゴルもチベットも仏教の質素な信心社会であり、回教徒とな
っているウイグルさえも、そう贅沢を好んだ社会ではない。そこに匈奴=フン族説があ
る。事実一大遊牧帝国を作った彼らは、その後どうなったのか忽然と姿を消す。もちろ
ん長い漢との戦いのあと、匈奴は大分衰弱して仲間割れを起こし、その一部は漢に降伏
して、中国内部で暮らしただろう。しかし仲間割れを起こしたもう一方のグループは、
忽然と歴史の舞台から姿を消している。いったい匈奴の主力は何だったのか。どこに行
ったのか。少なく見積もっても何億人の民のはずだ。当時としては異常に多い数である
。ただそれは他の都市まで集めた数で血統的にはどれくらいなのかはさっぱり分からな
い。しかし匈奴の主力グループが中国史の舞台から姿を消す頃4世紀から5世紀の頃に
今度はヨーロッパ史の舞台にフン族という騎馬民族が登場したのは事実だ。それが今、
「ゲルマン民族の大移動」と言われる大異変を起こした。そのきっかけをつくった民族
で、逃げるゲルマン人たちが大挙してローマ帝国の内部に移動してきた。東からやって
来たフン族という騎馬民族に追われて、その玉突き現象によるものだ。ローマ帝国はこ
のフン族の侵略がきっかけで滅んだ。日本の朝鮮征伐で明王朝が滅びた様に。基本的に
中央アジアは羊や牛、馬などの家畜を放牧しながら、内陸アジア各地を移動した遊牧民
はスキタイ族と呼ばれる。次第に部族単位でかたまり、さまざまな遊牧国家を建国した
とされ、その内騎馬戦術を獲得したスキタイ・匈奴・突厥・モンゴルなどの騎馬遊牧民
は、周辺各地を征服・略奪しながら国家を運営していった。と言うのが定説だ。スキタ
イは紀元前8世紀〜紀元前3世紀も昔に、ウクライナを中心に活動していたイラン系遊
牧騎馬民族や遊牧国家だ、古代ギリシア人によって全く異邦のこの西側地域の諸部族を
まとめて指して呼んだ名だ。従って彼らが匈奴と同じくどう分けたのかは解らない。


1899: 名無しさんAA:18/03/08 09:25
 世界新時代−‐‐48   <消えたフン族の謎------ 12>

 スキタイ族はスキュタイと表し古代ギリシャでスキタイの居住地をスキティア(スキ
ュティア)と呼んだ事から出た名称だ。広義ではギリシャ人の知らない東の世界だが、
狭義の意味では古代ギリシアでの対象された未知の東側の隣の国と言う事になっている
。隣国としてのスキタイは、紀元前6世紀から紀元前4世紀ころに、ロシア南部の草原
地帯に住んでいた騎馬遊牧民で、イランからなど影響を受け、動物模様や黄金を使用し
たスキタイ文化をのこしている。古代ギリシアの歴史家ヘロドトスは著書『歴史』にお
いて、スキタイの起源に関する説はギリシャ神話として幾つかを挙げている。スキタイ
伝説では「当初無人の地に最初に降り立ったのは、タルギタオスという名の男であった
。彼の両親はゼウスとドニエプル川)の娘とであった。タルギタオスからはリポクサイ
ス、アルポクサイス、コラクサイスの3子が生まれた。この3人が支配していた時代に
、天から黄金の器物がスキティアの地に落ちてきて、長兄が一番にこれを見つけ、それ
を取ろうとして近づいたところ、その黄金が燃えだした。長兄が離れた後、次兄が近づ
くと、黄金はまた燃えだした。最後に末弟のコラクサイスが近づくと火は消え、持ち帰
ることができた。これによって長兄と次兄はコラクサイスを王に推戴することにした。
」と言う物だ。つまり神話のゼウスの子が末悌のコラクサイスが黄金の盃を手に取る事
が出来たので王になる事を許した。と言う類の物だ。対してヘロドトスの説はスキタイ
はもともとアジアの遊牧民であったが、マッサゲタイ(ソグド人)に攻め悩まされた結
果、アラクセス河(ボルガ川)を渡り、当時のキンメリア地方(カスピ海東岸)に移っ
たという。話である。つまりスキタイそのものは欧州地方から流れついた。とされる。
では他のスキタイ族はどうか。そこに匈奴がいる。匈奴は、紀元前4世紀頃にモンゴル
高原を支配した騎馬遊牧民でトルコもしくはモンゴル系とされ、スキタイから騎馬文化
を継承し、周辺民族を支配し、大国家を建設した。冒頓単于(紀元前200年頃)とい
う君主の時代に最盛期となり、東胡・月氏を破り、中国前漢の高祖を平城で包囲し、中
国側と講和を結んだ。といいその後紀元前60年頃に、匈奴は東匈奴と西匈奴に分裂し
た。東匈奴は漢に服属し、漢軍とともに紀元前36年に西匈奴を滅ぼした。とされる。




1900: 名無しさんAA:18/03/08 09:26
 世界新時代−‐‐48   <消えたフン族の謎------ 14>

 この風習の地域では、こうなることがこの国で幸せな死に方とされており、病死した
場合は食わずに地中に埋めて、殺されずに生き延びられて死んだ事が不幸であった。と
気の毒がる。神として崇拝しているのは太陽(ヘリオス)だけで、馬を犠牲に供える。
神々の中で最も足の速い神(太陽神)には、生きとし生けるものの中で最も足の速いも
のを供えなければならないらしい。騎兵、歩兵ともに優秀で、弓・短剣・胴鎧・両刃の
戦斧を使う。彼らは万事に金と青銅を用いる。槍の穂先・矢じり・戦斧には専ら青銅を
用い、頭巾・帯・コルセットなどの装飾には金を使う。馬についても同様に馬の胸当て
は青銅の物を用いるが、轡・馬銜(ばみ)・額飾りなどは金を用いる。この地方では銀
がとれず、鉄もわずかしか産出しないが、銅と金は豊富である。これはマッサ(大の意
)とゲタイとに分解し、大月氏すなわち月氏に結び付けて、大月氏の祖先と言う説を説
く者もいる。先に述べた「悪魔の門の洞窟人」=「朝鮮人」であると言うDNAが正確
ならば、「朝鮮人」=「ウイグル・モンゴル人」=「漢民族」=「マッサゲタイ」とも
言える。実は言語学では文字だけ見れば、セム系の言語の表記に使われたもののヘブラ
イ文字、パルミラ文字、ナバテア文字、マンダ文字、シリア文字、アラビア文字がある
が、以外にもこの文字は似ている。カン・トクス教授によれば「韓国語の起源がツング
ース語だという学説を後押しできる実体的証拠が発見された、さらに多い研究が必要だ
」とも言っている。「こんな蛮族が韓国人のルーツなのか」と落胆したがるが。だから
と言って自分達のルーツは変わらない。又韓国人と言っても全部が同じルーツにはなら
ない。韓国にも前方後円墳があるのですが、日本風に見えるものは全て壊してしまい、
全て無かった事にしてしまう活動も取られお墓も戦後に活発に壊された。また韓国人や
、漢民族の衛生観念がない事はひどく最悪で、フランスの民族と競う位であった。この
エベンキ族と韓国人の言語はそっくりでもある。エベンキ語のデョルは韓国語のドルで
「石」を指す。「デュル:ドゥル(2)」「デュル-レ:ドゥル-レ(周り)」「ム:ム
ルで(水)」「アミ:アビ(父)」「エニ:エミ(母)」「アシ:アッシ(若い女性)
」「アキ:アチで(おじさん)」「べイェ:べ(輩)「〜ンイ:〜ウイ(〜の)」を意
味するといった具合だ。これらの特徴が中国の史書にみられる穢族(わいぞく)の記述
に一致するところが多いので、穢族説が見受けられるようになってきている。


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