指導改善研修の実態 横浜市


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指導改善研修の実態 横浜市

1: 横浜人権侵害都市:13/12/16 16:56
年明けの2013年1月24日 分会長のU教諭と共にいる前で。NH校長の不適切且つ違法な言動について。
○文部科学省、横浜市の指導改善研修の規定によると、元来指導力不足教員に該当しないにもかかわらず私を「指導力不足教員として申請書をすでに出すことにした」と暴言を吐いた。  
療休の診断書を2月の半ばに出しますから異動対象者名簿から私の名前を取り下げてくださいとお願いすると。校長はこれを2度拒否。東部学校事務所のOさんの指示に従って校長に事前にお願いしようとしたが拒否をする。校長としては本来診断書を受理する義務がある。「異動対象者名簿から取り下げない」などと無謀で一方的な発言を繰り返した。
仮に、「指導力不足教員として認定されなくとも、私はあなたを、教育委員会預かりにしてやるつもりだ」などと暴言を繰り返したものである。これらの発言は全て裁判上の証拠となる音声記録にも保存されているもので、事実である。NH校長が私を何としても異動させてK校から追い出そうとしていた、つまりパワーハラスメントを繰り返していたことは事実である。
○以降私は、疲弊しきっていたため、精神科で受診し、適応障害との診断を下された。寝付けない日々の中、なんとか学年末までやり終えることができた。午前中2時間年休を取得したり、休んだりすることが多い中での勤務で相当大変な思いをしたが、指導力不足教員の認定審査会では、H課長から、「すぐに休む」という点を指摘された。NH校長は心配するどころか、私に不利になり得るものは、療休であろうが構わず、悪いニュアンスで「すぐに休んでしまう職員」という言い方をしていたのである。前日に断裂症で休んだり、適応障害のために精神的に疲弊して午後から病院に行ったり休んだりした職員を捕まえて「すぐに休むダメな職員」という評価をして、教育委員会育成課に書類を提出し、強制的に指導改善研修に送り込んだのである。
当該NH小学校校長は、公務員に関わる諸規則、倫理規定、職務規定に該当し、自治会長から金銭を授受し、飲み食い等に充てるなど不適切に浪費した件に関して教育委員会から指導を受けている。2013年4月1日以降、強制的に指導改善研修に行かされている。

2013年9月18日(水)下校時の児童指導に立って児童に挨拶等をしていたが、不当にも、明日からは立たなくていいと発言。職員である者にこうした制限を設けるのは合理的理由がなく、パワーハラスメントである。

2013年9月、所属校研修ということでK小学校で勤務していたが、該当する場面がなく、学校長からの具体的な指摘もない事項について、不当に評価を低くつけられた。例えば、「採点ミスが多い」「市販テストで安易な評価をする」という場面そのものがなかったにもかかわらず、評価は「時々見られる」となっているのである。該当しない事柄までも、評価されているのであり、不実記載である。18項目中7項目(全体の38%)も本来該当することがないにもかかわらず、時々あるとされたのである。パワーハラスメントである。
 11月7日(木)に、学校長によるパワハラに関する訴えを労災として申請。本日付にて学校のメール便で送付。翌週11日(月)には届いているはずである。


2: 横浜人権侵害都市:13/12/16 16:56
指導改善研修における問題点
@ 課題が明確されていないにもかかわらず、指導力不足教員として申請されたこと。
A 研修対象外である精神疾患であったにもかかわらず、(適応障害)申請されたこと。2013年1月3   0日には適応障害と診断されていたし、4月3日付において、2か月の加療を要するという診断もあった。
B 指導力不足教員として申請するまでには主として3段階あるが、全ての段階で欠落している。
1、 指導を要すると思われる課題が見られる。(指導力不足教員としての課題は無い)
2、 校長によって課題が指摘され、改善のための指導がなされ一定期間改善が見られるか様子を見る。
3、 改善が見られない場合は指導改善研修へ。改善された場合には、継続して現場で職務にあたる。
C 研修においては、課題が明確に示されているわけではなく、隠されている状況である。
D 各自の課題に応じて研修計画を立てるべきであるのに、課題が明示されないばかりか、研修計画は各自に従って立てられておらず、一律に他の研修員と全く同じ内容の研修だけが行われている。
E 所属校研修において校長より評価が提示された。18項目の中で7項目わたり、「3」の評価であった。「4」が通常の教員のレベルである。この7項目については、10月末以降、直接校長に対し、あるいは育成課を通して再三評価の根拠を具体的に文書において出すように求めているにもかかわらず、11月21日現在に名手も出されていない。評価の正当性が全くないのである。
F 11月26日(火)午後。25日(月)の午後の休憩時間にコーヒーを飲みに行ったことを責めてこられた。休憩時間に学校の外に出て休憩を取ることは、労働基準法上労働者の権利であるのに、批判してきたのである。休憩時間は自由利用、非拘束時間であり、教育委員会育成課の木村指導主事も、厚生課に確認したら「あなたの言うとおりだった、申し訳ない」と謝罪していた。この事実をNH校長に述べたが、頑として聞き入れなかった。
職場を離れるにしてもNH校長の許可は不要であるということであった。後日、12月5日(木)午後16時すぎには、育成課のK指導主事から、「○○さん、すいませんでした。厚生課に確認取ると、休憩時間は校長の許可をえることなく、職場離脱しても問題ないです」と言われた。
よって、休憩時間にも断ってから行け(許可を取れ)、という服織信雄校長の言動はパワーハラスメントであり、不適切である。               
2013年11月25日(月)休憩時間の自由利用の原則、非拘束性違反の事案K小学校での勤務中、休憩時間は15時30分〜16時15分であった。この時間に児童はすでに下校している状況であった。この日、私は休憩時間に近くのコーヒーショップでコーヒーを飲んでも職場に戻った。翌日の放課後、「休憩時間に学校の外に出る場合は、断ってください。学校から無断で出たので無断での職場離脱だ。」と発言されたものである。今後は休憩時間でも、学校の外に出る場合は、断る、つまり、許可を得るようにと主張してきたものである。そして、教育委員会の育成課にも、報告されたものである。
 横浜市教職員組合書記長のYUさんにも確認したが、休憩時間中は自由利用、非拘束時間であることが 2013年11月25日(月)休憩時間の自由利用の原則、非拘束性違反の事案K小学校での勤務中、休憩時間は15時30分〜16時15分であった。この時間に児童はすでに下校している状況であった。この日、私は休憩時間に近くのコーヒーショップでコーヒーを飲んでも職場に戻った。翌日の放課後、「休憩時間に学校の外に出る場合は、断ってください。学校から無断で出たので無断での職場離脱だ。」と発言されたものである。今後は休憩時間でも、学校の外に出る場合は、断る、つまり、許可を得るようにと主張してきたものである。そして、教育委員会の育成課にも、報告されたものである。
 横浜市教職員組合書記長のYUさんにも確認したが、休憩時間中は自由利用、非拘束時間であることが確認取れているし、職場を離れるにしてもNH校長の許可は不要であるということであった。後日、12月5日(木)午後16時すぎには、育成課のK指導主事から、「○○さん、すいませんでした。厚生課に確認取ると、休憩時間は校長の許可をえることなく、職場離脱しても問題ないです」と言われた。
 よって、休憩時間にも断ってから行け(許可を取れ)、というNH校長の言動はパワーハラスメントであり、不適切である。               以上



3: 横浜市人権侵害都市:13/12/16 17:29
 原則以下のように規定されているが、現実はこうである。校長のパワーハラスメント対する抗議を徹底的に行ったがために強制的に指導改善研修送りにされたのである。研修送りにしてやるといわれる直前には、校長が次のように語っていた。「教育委員会に授業見てもらったけど、この授業では、指導改善研修にはおくれないよ」苦情もほぼ皆無である教員であり、児童の学力を、学力テストからの客観的データから見ても向上させているにもかかわらず、認定させてしまっている。これが、横浜市教育委員のやり方なのである。以下、規定である。

(認定の方法)
 「指導が不適切である」状態にあるか否かは,例えば指導が不適切であると認められる行為の数のみによって機械的に判断できるものではない。公正かつ適正な判定のためには,申請書に示された様々な情報から総合的に判断することが必要である。子どもたちの授業における理解の程度や反応等を含め,多様な観点から判断し,客観性を高めるようにしなければならない。

  校長による度重なる酷いパワハラから心身の故障を患い、適応障害となった職員を、以下の規定を無視して(指導力不足教員に認定)指導改善研修送りにしたのである。以下に規定。


(指導が不適切である原因が心身の故障による場合の扱い)
 「指導が不適切である」教諭等と認定する時点において,その原因が,明らかに精神疾患等心身の故障による場合は,指導改善研修によらず,病気の治療に専念させることが必要である。
 「指導が不適切である」教諭等の認定に当たっては,当該教諭等から,かかりつけの医師等の診断書が出された場合であっても,状況によっては,服務監督権者である教育委員会の判断により,例えば,指定医の診断を別途受けるよう受診命令を発するなど,客観的な判断を行うための措置を講ずることも考えられる。

4: 横浜市人権侵害都市:13/12/16 17:33
2013年1月下旬、校長のパワーハラスメントへの抗議を浜教祖分会長と共に行う席上、いきなり恋を荒げながらお前を指導改善研修送りにすると暴言を吐く校長。こういう校長が横浜市には、多く存在するのである。

5: 横浜市人権侵害都市:13/12/16 17:43
校長が気に入らない職員をターゲットに指導改善研修送りにする場合、まず行うことは、アラ探しである。校長はお前を指導改善研修送りにしてやると豪語する。しかし元来指導改善研修対象外の教員にとってみると、そのようなことは不可能であると感じるものである。もともと不適格教員に該当しないからである。そこでこう尋ねる。認定審査会に上げても指導力不足教員には認定されませんよ。するとこう答えてきたのである。申請すれば100%通る。つまり横浜市では、校長が気に入らない職員がいたら、100%認定されるのである。そこには、人権というものは存在しないのである。

6: 横浜市人権侵害都市:13/12/16 17:47
続き
認定審査会に上げても指導力不足教員には認定されませんよ。するとこう答えてきたのである。申請すれば100%通る。つまり横浜市では、校長が気に入らない職員がいたら、100%認定されるのである。そこには、人権というものは存在しないのである。
仮に認定されなければどうなるのですか?と訪ねるとこう答えた。教育委員会送りにするよ。横浜市の校長はこんなレベルなのである。

7: 横浜市人権侵害都市:13/12/16 17:48
教育委員会送り
つまり教育委員会預かりというのである。

9: この際全ちゃんを御仏前にも守ってもらおう:13/12/19 09:05 ID:hZI
別に俺の事じゃないんだからさあみんなで守るということで

あいわかったじゃこの天皇家がその使命を承る
いや将軍家が守ろう



10: 仏教それを早くいえっちゅうに:13/12/19 09:09
それではこの天皇家がっ
いやいやそれは将軍家が

11: 横浜市人権侵害都市:13/12/22 16:34
横浜市教育委員会人事課には、人権侵害が根強く残されている。

12: 横浜市人権侵害都市:13/12/22 16:35
横浜市教育委員会のやり方は、全国民の恥さらしである。

13: 横浜市人権侵害都市:13/12/26 12:25
横浜市で指導改善研修に送られる教員のほとんどが、ベテランと言われる40代、50代の教員である。これはつまり、校長へ楯突くのがこの年代に多いからであろうことをも示唆しているのであろう。繰り返すが、横浜市では、指導改善研修送りにするのは、その多くが校長が気に入らない職員なのである。

14: 人権侵害都市横浜:14/01/30 17:29
研修の場が委員会からしょぞくこうNH校長は、所属校へ移ったが、そこでは、日々、通常の担任以上に厳しい目で見てくる。授業をするたびにアラ探しである。そしてメモをいつもとっている。所属校の職員みんなもできていないよね、と言いながら研修員には、その上を求めてくるのである。通常の担任レベルが評価4であるが、1つでもできて来ないの評価3となる。しかし3は、時々そのような状態が見られる場合につく。バカ校長にかかると、1回で即アウト、3になる。今日もバカ校長は、アラ探しをして歩き回る。天誅が下されることも知らずに。

15: 名無しさんAA:14/02/11 00:34 ID:SfQ
柳川ナフコの企業ぐるみの 詐欺師なのには驚きだ。
朝ぼーーーとして買い物したせいでもあるが財布から1000の品物と一緒にお金を出した
。1000札を手渡し百円金を探した。だが店員は簡単に残りの財布の金をカウンターに乗
せた金を何気なく取る。。その金をすーと抜き取り2000としていつまでもレジを開けな
い。そしてカードを出してくれと言う。その上今日はポイントカード10倍デーです。
などと言う。カードをだすとカウンター上の金は消えていて合計7千円はレジの横に挟
んだまま金を待っている私はお釣りを合わせようと小銭を探していた中で財布の中に金
がないので慌てて7−11で降ろしに行ったが 良く考えたら今朝がた煙草の為に自宅
前のファミマで降ろしたばっかりではないか。戻って来て店員に噛みついたら 上司ら
しいおばさんがレジを計算し直すという。で直すマイナスが8千円消えないが最後にな
って銀行からの最初の入金金額でも変えたのだろう。数字は簡単に0になった。そして
私の間違いであるという。文句言っても仕方がないと帰って行ったがどう考えてもファ
ミマの銀行の残高証明があるのだ。電話して店長におかしいと言った更にビデオがある
だろうからそれを見せろと言ったが 事務所に一般は入れないと頑として聞き入れない
。そして電話していて解った。考えてみれば今回で同じ電話を3回目である。つまり既
に3回も店頭カウンターで窃盗レジ打ちからあっていると言う事だ。まるで中国人であ
る。カードの暗号抜き取りと同様なのだ。全く許せない。レジの上に小銭皿を置かない
し店員がまだ出していない。金を手に取る事も更にレジでこれまでの売り上げから計算
する事に店長が立ち合う事や防犯ビデオを客に見せる事も直さないのだ。つまりナフコ
という会社その物が 詐欺師集団なのだ。全くお客の声を反映しないしこの大型店舗の
地場商店を圧迫していることも気にとめないし こうした詐欺師を養成した形となって
いるのだ。全くゆるせない企業もあったものだ。上司が問題ありませんでしたと店長ま
でも言うのである。



16: 名無しさんAA:14/02/11 03:18
私は盗まれる或いは金が無くなる事は痛い話だがそういう事には腹をたててはいない。
問題なのは それらの悪事が平然と日常的に行われている事に腹が立つのである。この
前の尼崎連続殺人事件でも 殺人事件その物はどこかで起きている事だろう。だが問題
なのは長い間人目に触れながら おかしい事が多発していたにも関わらず警察も無力で
あったし隣人すらも何ら関与がなかった事に腹が立つのだ。国際化や近代化などと言っ
て見た所で 世界のすう勢はまだまだ未開の地で文盲のままだ。隣国中国が尖閣諸島は
自分のものといいはり 独島を或いは北方領土を日本は侵略されたままだが その事よ
りはそうした事を強く言う国際社会とそうした悪行をそのままにして 彼の地に やれ
ビジネスだODAだと寄与している日本人に腹が立つのである。およそ日本以外でも、
多くの地は移住者のみの群れと言っても過言ではない。日本においてはやってきたのが
縄文時代なのか弥生時代か はたまたその後の色々な鎌倉時代か明治か 戦前か戦後か
そうした古くからか新しいかだけの違いであり 人種的にも文化や言語は違えど殆どが
人間と言う種であり 勝手に黒人白人などと区別しているにすぎない。問題はそうした
文化や風習や言語の中でどれが優れたものかは甲乙つけられない程 その土地で生まれ
たその土地に住む為の知恵であった。と言う事である。最近まで中国が発展しなかった
理由は一つただただそこが貧しい暮らしに向いていたからであって 日本人は先の戦争
で西洋文化を受け入れられない土地柄である事を理解すべきである。日本人の持つ礼儀
作法は海外ではルールと見なされるがそれは大きく違う。更に靖国問題を戦前の日本の
軍国主義を作った国家神道と混同されるが それは宗教でなく文化である事を知るべき
である。何故そこに神社が必要だったか。何故礼儀作法が必要だったか。それは人類が
堕ち伸びて来て理想郷を作る事を思いばかったからの風習であり その姿は今だ未完成
ながらも 他の国の追随を許さない程高度な文明の位置にある。それはアメリカに希望
みて渡ってきた清教徒と同様に崇高な夢の下に国造りをしてきたのだ。その意味でJF
ケネディは日本人に人気が高いのだが。今度の都知事選には失望である。改革者として
の或いは先導者としての東京の地位はこれで大きく下がったと言える。政治は日常を決
定するものであり 発言し問いかけるものだ。その答えが夢ではなくうだうだした言い
訳論者のアピールとしたら 鳩山首相だけで十分なのだ。つまり日本は五輪や国際化な
どにこだわるべきではない。もっと先ずっと先の理想国家を目指すべきでまちがっても
隣国のような狂人だらけの国にすべきではない。



17: 名無しさんAA:14/02/11 06:41
 今流行りのサイバー空間も 今やセキュリティがいたちごっこになったようだ。この
時に考え方 即ち今世紀を 同時期に生きる地球人という共感がある人達が作る協同の
理想郷建設を 横から国家を上げて荒らしまくる国がある事は脅威の他なにものでもな
い。言葉巧みに平和を謳いながら軍事予算獲得に熱を上げては 隣国の領土を攻め落と
してる様は全くシリアの内戦よりも見苦しいものだが さりとて国家国民あげてのそう
した文化教養のない社会は 早々に高速鉄道事故や新築のゴーストタウンを作り上げて
今や 食品・地下水・川・空気・海・と至るところを汚染しては 人の住む所をゴミ化
させている。誰かが言った様に万里の長城が遺跡と言えば聞こえがいいが ようは今や
粗大ごみとなった中国の境界柵なのだ ピラミッドのような神秘的価値も或いは学術的
魅力も無いものがただただ大きさのみで世界の三大遺跡とされるのは不思議で仕方ない
。そうした汚染される土地柄は 実は思想が汚染されていて 自らの国という身体を自
ら汚染して自由には動かせないという 何んともしまりのない体制をそのままにして、
近代化したのだから驚きとしか言いようがない。更に先の遺跡の様に 巨大さのみを求
めて領土拡大をするというまるで紀元前の映画の中の話のようなシステムは正に代えら
れそうにはないところは 中国人民のみならず世界人類にとっても大きな痛手である。
ロシアがいまだ かつての社会主義時代の影をひきずるように 多分百年以上の年月を
使わないと 近代欧州の人徳的利益はこの国民は享受出来そうにもない。やっと平和が
安定した兆しが表れた途端にアフリカではジャスミン革命などと呼ばれて後戻りした 
アフリカ大陸を引きずっては 先進国の経済は立ちいかないであろう。人類はまたもや
世界経済の落とし穴や地獄の釜に堕ちていこうというのだろうか


18: 名無しさんAA:14/02/11 06:41



 そもそも何故人は社会活動をして生活の糧を得ているのか。という話なのだ。もし金
儲けだけならば 仕事何ぞする必要はなく 強盗殺人放火などもあり得るだろう。だが
人は 法人という集団を作ってまで人を社会を良くしよう言う運動をして人生という道
を 先祖伝来やってきたのである。だからこそ狩猟や漁業から抜け出して 養殖や農業
或いは工業や商業をして 草木を育て人を育て社会を育て文化を育ててきたのである。
その努力の下に 金銭の価値を定めて商業の基本としたのだ。金持ちの道楽としての家
や泥棒の成果としての金などはもっとも下品なものとして 城が焼かれる事はしばしば
多くにあったのだ。もし上記のような浮遊銭上のもの儲けだけの話なら 商工会議所や
経済同友会或いは経済連合会のような馬鹿な話もあり得るだろう。すなわち中国のよう
に「われわれは今だ貧民である 資源を欲している。」と人以上に物を取り領土を攻撃
しては海外に行って蛮行も辞せずと言う まるで経済ヤクザのような考え方である。だ
がそうした海外生産や海外競争は 実は本当の海外進出にはならない。よく馬鹿な言い
方に「国際競争に価格で負ける。」と口癖のように言っては給与を下げ雇用条件を下げ
る経営者やオピニオンがいる。これは愚かな話であって 例えばシャープ或いは松下又
はソニーが何をしたか 結局は自ら進んで技術を信用も出来ない他社に売って合弁会社
を金出してまで損を出すという愚策を重ねたではないか。そんな馬鹿が社長や会長であ
る。スズキはかつてインド進出で泣き泣き工場の運営をした。だが今や収益がよく安定
をしている。かつて三洋電機の白物家電は今や海外に売られは 日本を圧倒している。
何の事は無い 文化を伝えず技術を売った為に起こった海外進出勢の馬鹿さは今や豊田
さえもオーストラリアから撤退しようと言うのだ。アメリカで起こったデトロイト現象
が今や日本にも押し寄せて来たのである。この国産空洞化はそのまま人間空洞化を起こ
し更にはゲーム規制が無い為に国の衰退に拍車をかける。韓国はその最先端の奇人国に
なってしまった感がある。


19: 名無しさんAA:14/03/15 06:25


私の番組評138


 朝から 嫌なテレビをみた ごりパラ見聞録である。福岡ならでわの全くいけすない
映像が続く 知性のかけらのない ごりさんはともかく 映像にならない矢野さん更に
最悪な斉藤ちびがいたずらしながら車で小旅行をするのだが 構成はともかく 流して
いい映像や流すべき映像はあるだろうに バラエティだとなにをしてもいいかのような
映像が続く。全く少しは考えろといいたい。デレクターは何を考えているのやら。しょんな
いTVやら蛭子さんのバス旅行までとはいかないまでも 料理の値段や味ぐらいは見せ
て良さそうなのだが 更に車内で言うべき人生論は 酒を飲まねば言えないという最低
最悪の期末の悪さ である 観光地に行くに外の映像やら曲がり角の風景も少なく全く
手抜きのこの番組は 朝早いからかどうも長寿番組に変わりそうである。がこのしょん
ないTVやタモリクラブでは地震速報すら出ない体たらくである。日本人がこうも馬鹿
になってきたのは 放送業界の会長が老齢化してはいはい学校のような政財界クラブに
いそしんでいるからに他ならない。もっと希望あるTV界に生まれ変わらなければいけ
ない。これは放送業界に限らない。今だ全国の原発のあり方の大枠すら右往左往してい
る原子力規制庁やら 何ら政府に発表を求めないメディア 或いは分析にも多々異論は
あっても勉強不足や資料不足が多い研究者など 全く近頃はおかしい。教育界の廃頽が
今に及んでいると思われるのである。事件も異様なものが続くしスタップ細胞発表の中
においてはこのいい加減さは何だ。あえて発表するほどのものではないだろう。全くの
画像や論文が盗作という情けなさと 今だ再現性の全容が掴めない細胞つくりには ど
うしようもない。



20: 名無しさんAA:14/03/22 03:01

 私の番組評152

 これはニュースである。今回の相撲の角番戦である。勝ち越すか負け越しか決まると
言うこの終盤戦は 思った以上に面白い取り組みである。大砂嵐や「ががまる」が負け
て ちおたいりゅうの奮戦などかなりの迫力がみえる。最短の昇進を行く曲げも結えて
ない遠藤に三役も果たした高安が意地を見せて勝ったし これほどの各個の均衡場面の
勝敗を決した場面の多い映像は少ない。今場所は鶴龍が一敗を守り 日の出の勢いの春
間富士に豪栄道が止めた。更に不動の白鴎も人気の琴将菊に負けた。技法の少ない痛々
しい程の絆創膏男が光った一番で負け越せば相撲人生も危うくなりそうな崖っぷちで見
せた意地であった。これで「はくほう」も「かくりゅう」と並んだ一敗同士となった。
 おもえば この角界もなかなか不祥事続きの上に平和ぼけか日本人力士が目立たなく
なって行く中にあった。ところがどうだ今回のかど番の面白さは。NHKなりの放送で
淡々とした番組だが老若男女ファンは多い。だが惜しいのは民法の姿勢である。野球や
サッカーはワールドカップやオリンピックで競争しては放映権を得ようとするのにこの
相撲や歌舞伎などの伝統芸能の分野はNHKに任せて国技とは名ばかりになった風潮に
は相手もせずに 馬鹿なお笑いや架空の殺人物の刑事や探偵物語に徹している。なぜに
こうも万人受けのスポーツをかど番だけでも 面白い司会者ややくみつるなどの解説を
入れて再放送しようなどと言う企画がないのだろうか。海外発祥の新しい競技に挑む事
に映像化してる事も大事だが こうした文化の一面としての相撲普及に勤しむことも又
大事ではなかろうかと思う。ところでピエール瀧のしょんないTVで缶詰め会社対抗の
素人カーリングをやっていたが これも又面白い企画である。まあカーリングできる場
というのは特殊だろうが この企画はかなりの良いいい加減さがありみものである。
だいたいへたくそなお笑い企画の自我自賛に酔っているようなTVがあまりにも多い。
謎なのがタモリと安倍氏の対談である。この笑っていともに出演する首相というのは、
少し冗談がきついともとれ 考えさせられる。もっと国民に言いたい事があってよかろ
うにとの 辛口は私ぐらいだろうか。


21: 名無しさんAA:14/03/22 03:01

 私の番組評152

 これはニュースである。今回の相撲の角番戦である。勝ち越すか負け越しか決まると
言うこの終盤戦は 思った以上に面白い取り組みである。大砂嵐や「ががまる」が負け
て ちおたいりゅうの奮戦などかなりの迫力がみえる。最短の昇進を行く曲げも結えて
ない遠藤に三役も果たした高安が意地を見せて勝ったし これほどの各個の均衡場面の
勝敗を決した場面の多い映像は少ない。今場所は鶴龍が一敗を守り 日の出の勢いの春
間富士に豪栄道が止めた。更に不動の白鴎も人気の琴将菊に負けた。技法の少ない痛々
しい程の絆創膏男が光った一番で負け越せば相撲人生も危うくなりそうな崖っぷちで見
せた意地であった。これで「はくほう」も「かくりゅう」と並んだ一敗同士となった。
 おもえば この角界もなかなか不祥事続きの上に平和ぼけか日本人力士が目立たなく
なって行く中にあった。ところがどうだ今回のかど番の面白さは。NHKなりの放送で
淡々とした番組だが老若男女ファンは多い。だが惜しいのは民法の姿勢である。野球や
サッカーはワールドカップやオリンピックで競争しては放映権を得ようとするのにこの
相撲や歌舞伎などの伝統芸能の分野はNHKに任せて国技とは名ばかりになった風潮に
は相手もせずに 馬鹿なお笑いや架空の殺人物の刑事や探偵物語に徹している。なぜに
こうも万人受けのスポーツをかど番だけでも 面白い司会者ややくみつるなどの解説を
入れて再放送しようなどと言う企画がないのだろうか。海外発祥の新しい競技に挑む事
に映像化してる事も大事だが こうした文化の一面としての相撲普及に勤しむことも又
大事ではなかろうかと思う。ところでピエール瀧のしょんないTVで缶詰め会社対抗の
素人カーリングをやっていたが これも又面白い企画である。まあカーリングできる場
というのは特殊だろうが この企画はかなりの良いいい加減さがありみものである。
だいたいへたくそなお笑い企画の自我自賛に酔っているようなTVがあまりにも多い。
謎なのがタモリと安倍氏の対談である。この笑っていともに出演する首相というのは、
少し冗談がきついともとれ 考えさせられる。もっと国民に言いたい事があってよかろ
うにとの 辛口は私ぐらいだろうか。


22: 名無しさんAA:14/03/30 12:01 ID:wtI
希望と光の間 55

 静岡市清水区で1966年、みそ製造会社専務=当時(41)=の一家4人が殺害さ
れた「袴田事件」で、別棟に寝ていて唯一助かった長女が28日、同区の自宅で死亡し
ているのが見つかった。清水署によると、事件性はないとみられる。と2CHで報じら
れた。事件当時19歳だった長女は、親きょうだいを一度に失った。以後48年間、苦
しみの中を生きてきた“もう1人の被害者”ともいえる。と伝えられる。静岡の袴田事
件はやっと無罪判決を受けた。一審の熊本裁判官は涙してやった。と老いた顔から涙を
流した。あの時自分がもっと強く無実を説いたらと想い「ゴメン。」とTV取材に語っ
た。ねつ造されたとされる味噌ツケからの衣類は 袴田さんにはとても着れないサイズ
であった。がひょっとしたらこれは 本当の物的証拠かもしれない。更に刺したとされ
る両刃の小刀は普通は持ち歩かない昔型のヤクザ組織の持つ小刀で更に四人もの刺され
たとされながら刃こぼれがないと言う異常な状態だった。これに対して2CHは明確に
犯人を特定している。「橋本藤作商店」の当時の現金資産が預かっていた「従業員名義
の預金」が相当あり、新聞紙上でよく見られる長者番付の金額に匹敵するものであった
ようである。ところが、事件後それがなくなっている処から無限責任社員の橋本藤作さ
んが経理課長の I R さんに,「いっちゃん金がもっとあったはずじゃないか」といって
いるのが調書に見える。としている。当時の会社関係者は専務一家4人+橋本藤作社長
(専務の父)+無限責任社員のM T+友人の H Y+ 元製造課長のM T+離れで用心棒をし
ていた S+専務の長女されているが これを発端として関係者の不可解な死の軌跡があ
る。二代目の無限責任社員のM Tさん、友人の H Y さん、元製造課長のM Tさん、など
である。とりわけ、離れで用心棒をしていた S さんは事件発生以降どこへ行ってしま
った。大花であった H Yさんは、何故元プロボクサー袴田巌さんを救う会・東京救援会
が事件現地清水で「高杉晋吾著作・地獄のゴングが鳴った」出版記念集会の後 翌月1
2月29日に納屋で首つり死体で発見されたのか。わたしたちの取材に快く応じてくれ
た元製造課長のM Tさんは、「いまでも当時の工場関係者は集まって勇気づけあってい
るよ」といっていたのに数ヶ月後亡くなった。不可解な闇が静岡に或る事を覗わせる。



23: 名無しさんAA:14/03/30 12:02

 この静岡は 大都市大阪に隣接する兵庫や愛知などの不祥事の多い全国最低警察ラン
キングに常に独走してるように 大都市東京がある隣接した府県とも言える。清水の次
郎長に代表されるように常に移り変わる世情の最先端の現代にあえぎながらも そこは
それで息ついた心意気のある任侠道の根強く残って居て ひょっとするとこの頑なな、
県民癖がこの事件を紐解くものかも知れない。静岡県内でいままで露見している冤罪事
件の多くは、発端となる事件の犯人と警察関係者それも管理職クラスとの 人的交流が
日常にあり、且つ親戚関係にある場合がある。しかも、冤罪事件に捜査方針を誘導する
のにはリスクが大きく、金もかかるのである。したがって、必ず「発端となる事件の犯
人」がその金を融通できるほどの資産家である事がはっきりしている。任侠道も経済に
はかなわないと言った所かもしれない。しかし警察検察共に 自浄作用のない組織には
閉口させられる。又県民の大らかさが無ければ事件は解決しない。大体警察官にヤクザ
や暴力団に交友や縁故関係があると言うのは不思議だが結構多い話だが これが異常で
或る事は間違いない。更に人事に際して平等や能力を不可分にしている事には全く問題
な事だ。大阪の市職員よろしく 同和や刺青の者を職につかせて堂々としてる困った事
である。そも明治時代から 刺青者はそれそのものが威嚇行為と認定し公衆浴場などの
入浴制限を全く公認し 公共施設の出入り禁止措置をして来た事は道徳上の観念からの
既成事実であり習慣法である。いまでこそ人権問題だなどとしているが この事は威嚇
行為そのものが違法行為ということからも 全く全大阪市長になった橋本氏によって、
初めて全国に知らしめられた実体でもある。が福岡のように 賭博行為の用心棒となり
情報屋となり警察との密偵役を更に警察が捕まえて裁判をかけるなどという行為は更に
暴力団を暗躍させている気味悪い話が続く。


24: 名無しさんAA:14/04/06 10:19
私の番組評 外伝

 さあてさて増税による安倍不況が始まった。9月まで待てばこうはならなかったもの
を 人々の準備期間もないままに8%に移行したのだ。およそ6ヵ月違う給与水準の間
違いは大企業がベースアップをしなかった途端にデフレ景気に陥ったのだが 法人税を
下げ銀行に低利融資を進め各種事業補填に補助金を支出したのだが現実は全く意味がな
かった上に民主党になって更に事業費を削って 直接支給に変えた事で泥沼になった。
およそ1.2%の物価上昇とおよそ2%減の給与所得はそのまま3.2%が事業縮小に
関わるのだ。大体TPPの妥結も宙に浮いた形でNHKはこの増税に甘利氏を日曜討論
にだしたが この人の発言や発想の馬鹿さは随分見えてこれでは日本人所得は増えない
のがまざまざに見える。まず価格転嫁にGメンを配置するとしているがこれはこれで結
構な話だがそれは景気には全く関係ない話で 消費者が金を払い買うかどうかの問題で
売上が伸びるか社員への給与アップにつながるかの問題でしかないのだ。つまり価格転
嫁しようがしまいがそれは問題の論点ではない。又法人税を下げる事に対して 端的に
法人税を払える儲かり企業と社会保障費に汲々とする中小零細企業との話に個人と企業
は対立する構図では無いとしているが 現実的にはこの企業利益の家庭への還元にこの
2000年つまり竹中大臣時代から無くなった事が大きな問題なのだ。事実既得権益な
どと称して無理やりこじ開けた民営化は結局は国を疲弊させた形で終わり 人々は全く
嘘の法人税表に鵜呑みに解説してる。まず中国や韓国は法人税その物は低い25%とし
ているが其れは見せかけ上の話だ中国の地方共産党はその他の強制寄付を押しつけ党費
捻出があるし韓国では他に大企業優遇の為の策が中小企業の弊害を大きくしているし又
又国の経済収支などは全く無責任のままIMF資金や国際銀行借り入れに頼っている状
態である。更にシンガポールの法人税は現実的には全くもって生産部分を持たない特殊
形態で人件費のみで設備費や農業事情などは全く無い国なのだ。従ってこうした優遇策
に頼らざるを得ない国なのだ。更にヨーロッパや米国の法人税の低さも戦略的もので、
彼らの国際貢献度では日本の10分の1程度の出費(国費)で寄付金などと共に国際機
関の実行費用を多くのNPOなどを使い活動している。つまり現状を見れば全く嘘を報
道機関は平気で言って来たのである。更に国民負担率も全く同じで日本が半分のように
グラフは書かれるが全く出鱈目であって ネット計算率換算ではおよそ平均のままであ
る。NHKは経済の話か政治の話か財政の話かを分けて討論すべきである。


25: 名無しさんAA:14/04/06 11:54
私の番組評

 どうもSTAP細胞事件は妙な方向に進んでいる。小保方女史の発言によると 裏に
何かの陰謀が渦巻いていてどこかで何かが動いていると言う発言である。そして この
STAP現象は消える事は無いと確信持って話しているという。彼女が妄想家なのか、
こうした発表につきものの捏造事件なのか知るよしもないが この細胞分裂においては
3箇所で成功しているらしく一つは日本の研究所の別のチーム更にアメリカのハーバー
ド大学のチームのようだが 肝心の小保方チームの後の遺伝子検査ではマウスの中身が
IPS細胞で扱われる細胞だったとして疑問を呈した。この事で不正疑惑を受けての、
実験の正当性に関する調査に乗り出していた理化学研究所は実験に使用されたDNA断片
の結果や画像などを小保方晴子ユニットリーダーが改ざんしたのは事実だと発表した。
が論文共同執筆者であるハーヴァード大学医学大学院のチャールズ・ヴァカンティ教授
は3月20日、STAP細胞の手法の別のプロトコル(実験手順)をオンラインで公開してい
る。理化学研究所もその手法がネイチャー発表の手法ではない事で一般発表したがその
手続きで香港の中文大学で再現実験が成功しているニュースがはいった。この中で李氏
はこう述べている「実験開始後ほどなくして、実験で使われた肺繊維芽細胞のなかに、
過剰なストレスによって急死するものが多数あることを発見した。」といい李氏は3月
28日付けで次のように書いている。「われわれは、細胞の数が50%減少したと推定した
。『Nature』に発表された元の論文では、このような細胞数の減少は2日目に報告され
ており、われわれの現在の実験と一致する。3日目は非常に重要だ。この日にSTAP細胞
のOct4-GFPの発現が報告されているからだ」といい4月1日に、「衝撃的」な定量PCR
の結果が、グラフとともに公開された。「3日目の対照培養物と、STAP培養物の定量PCR
の結果は衝撃的で驚いた」と李氏は述べている。「言葉が出ないほどの驚きだ!」李氏
はこの結果から、STAP細胞の作製に重要であったのは、酸に浸すことではなく、研和
(微細なガラス管に細胞と溶液の混合物を通すことで、細胞の塊のサイズを小さくする
工程)による極度のストレスである可能性があると推論している。と言い発表している
即ち 実験の成功してその理由がはるか違う理由による成功だった事を示唆している。


26: 名無しさんAA:14/04/06 11:55
(微細なガラス管に細胞と溶液の混合物を通すことで、細胞の塊のサイズを小さくする
工程)による極度のストレスである可能性があると推論している。と言い発表している
即ち 実験の成功してその理由がはるか違う理由による成功だった事を示唆している。
即ちこの事は光や混合物によって得られる写真の形態が図らずも出来ない事を示し そ
の為に作った代理写真が捏造とされたと理解出来る。恐らく成功の解明は今だ出来ない
し 海外の多くの秘密の機関が暗躍している事は大いに想像できる。そんな中一度は成
功していただろうヒトクローン胚(はい)からの胚性幹細胞(ES細胞)作成に関する論
文について、ねつ造し研究支援金を騙し取ったとした、れたソウル大の 黄禹錫(ファ
ン・ウソク)元教授に対する判決公判が26日詐欺や業務上横領などの罪に問わ、ソウル
中央地裁で開かれ、黄元教授に懲役2年、執行猶予3年を言い渡している。つまり生物
科学の気まぐれさは実験者が成功はしても その成功の本当の原因を掴めない事には次
の成功がない事で再現性が否定され犯罪者のレッテルが張られる事を示唆している。


27: 名無しさんAA:14/04/08 22:07 ID:rdQ
私の番組評 163

 ”ハンゲキ”この名はふさわしくない程 正義の力を放ったTV番組だ。反撃という
よりも正義の勇者とも言うべきものだ。今日本は自由主義の中にいる。法治国家と言え
ども 犯罪と言う物は多発する。その背景には被害者が被害を受けてのみ犯罪になるか
らだ。つまり犯罪者たちの心理は犯罪すれすれもしくは犯罪としては立証が必要な証を
たてさせない事に終始した犯罪を犯す事である。これに真っ向が挑むのが現代の技術で
ある映像であり音声であり記録である。これを番組として切り込む手法は なかなかに
いろいろと試されては来ていた。が番組として成立する 視聴率や現実世界の暗さから
かなかなかに醜いものがあった。だが警察24時にスタジオとコメンテーターまでを揃
え 少しでも負担や不安を無くそうとした構成で 更に顔をぼかした加害者でも驚く程
の大きな加害手口を持ってきた事で 興味をそそる形を使っている。不思議な事に加藤
の司会がバラエティから一歩踏み出した威圧感が出ている。いやこれは称賛に値する。
 なかなかに隠れてしまっている被害を掘り起こし こうした理にあった鉄拳を振るう
事は大事な事だが 簡単に出来そうだが其処は人権やら他の法律やらで出来そうに出来
るものではない。更に相手が通常の人間ではなく 殊更犯罪となれば民事であろうが、
後めたさか後味の悪さが終わりにくるものだが この番組は幾つかの解決をみて胸のつ
まりを解放させている。この事は非常に大事だがなかなか出来ない手腕であろう。かの
NHKですら 犯罪にスパッと切り込みが出来る程の逸材は揃えていない。がこの日本
TV系の”ハンゲキ”は何んとかその苦悩をみせながらも 切り込みを見せている。
がんばれ 悪者退治者よ よりよい日本を作る為に と声援を送りたい。




28: 名無しさんAA:14/04/27 15:12
私の番組評177

 サンデーロードショー 「続荒野の7人」を見た。もう何回見ただろうか。だが最近
は見ていなかったので 非常に新鮮に見えた。やはり名作だ。各所に名言が散りばめら
れいる。「はやりたつな。人生は往々にして出たとこ勝負だ。」「ルイス お前は 
これまで人の役に立ったことはあるか。」「素直に従った方がいいあんただから生かさ
れているんだ。―――いやこれは人間の問題だ。」「俺は何でここにいるんだ。―――
友達と言っても本名すら知らないのだ。俺も知らない。それでいいじゃないかみんなを
助ける理由には充分じゃないか」「資格がない。―――失敗は誰にでもある。くじけち
ゃいけない。でないとみんなが挫けてしまう。」「俺ら住民に必要ではないが 貴方は
住民が必要としている。力になってくれないか。」「なあ逃げるのか。な〜に俺も同じ
昔は腰抜けだった。この農民もおなじだ。」「わしら闘ったことなどねぇ腰抜けだ。い
や闘っているじゃないか 干ばつにも雨の日もおんなじだ。」などと どう考えても今
の映画にはないうんちくがここに語られている。ストーリーも又大地主の極悪人が他の
村々の男を労働力をとして襲撃して連れて来て 教会や集落を作ると言う極めてオース
トドックスなストーリの中で銃撃が繰り広げられる。雄大な大自然風景の中のカーボー
イ姿という中で映像が組まれているが 何故だか日本人好みのカメラアングルやフレー
ムで展開されている。荒野の七人が黒沢明の七人の侍をしてウエスタンに仕立てた映画
であった事を考えれば 当然といえば当然なのかも知れないが。改めて世界経済の中で
みれば 今の地球の現状がこの奴隷制度を模擬した設定と全く同じ構図である事に驚く
。不思議にも極悪非道の大地主が かつては請負ガンマンのかつてお客としてその子供
が父親を殺す事を依頼した相手であったと言う設定には 少し無理があるが日本中国韓
国ソ連と言う現状はそれぞれに似通っていてガンマン帝国米国は同盟国日本などを引き
つれて大地主中国と闘うのだが祈る農民韓国は 馬鹿なロシアの牧師の祈りに引き寄せ
られては 人を殺ししませんなど言いながらダイナマイトで敵と闘っているのである。



29: 名無しさんAA:14/05/10 04:05

a rara09

 さすがプーチンである。今回公けに独立しようという親ロシア派の勧める住民投票を
先に延ばす提案を発表した。混迷に走るウクライナをこれ以上紛争の火種にしたくない
との意識があるからだろう。だが当事者であるEU派とされるウクライナ暫定政権は、
当事者であるにも関わらずこれを蹴ってしまい又親ロシア派の代表とされる者も引っ込
みがつかないのかその選挙を実行する事で団結の紐を保解ない様にしているようだ。
この声明は ロシア批判を繰り返すアメリカに一旦ボールを投げ返して来た事になる。
 大体そもそものこの混乱の原因は今の暫定議会の強硬な武器を持って乱入しては解放
を叫んだ事にある。前政権の大統領は職務であって国王ではない。にも関わらず脅しと
威嚇で大統領を逃避させるまで追い込んだ。勿論前政権の至らなさはあっただろう。が
しかしEU派親ロシア派ともどもに原理主張や過激派を取り締まる事は大事な国家運営
である。正に今のイスラムやキリストの原理主義者の闘争劇の縮図である。この白黒を
はっきりさせようと言う選挙や投票ははっきり言って多数決の原理からは外れている。
つまりまだら模様のこの国に黒と白をはっきりさせても全く意味はない。ロシアに寄る
事もEUに寄る事もこの国の政権にとっては大事な事だからだ。現実に中央政府の出先
とされる出張行政府の官舎を乗っ取ったとされる親ロシア側にウクライナ軍は丸一日の
計画と三時間銃撃戦で奪還を試み一応は成功を見た。だがその事で住民避難が起きて 
その一時間後には政府軍が引き上げ又ロシア派の占拠となった。つまりは現政権には、
全く歩み寄りがない妥協の無い政治を目指している事に住民は反対してるのである。こ
れは今の中国と全く同じでいい加減で強硬態度を崩さない考え方は全くの軍事政権であ
る。少なくともアメリカはこうした現政権を存続させるべきではない。この国の支援に
65憶ドルの資金援助というが全くこれはドブに金を捨てる行為と言えよう。EUやら
米国はロシアと手をつなぎ 現政権と親ロシア派を同じテーブルの席に早く着かせる事
が大事である。オバマは今この現政権の動きを止めさせて偏った考えを改めさせては、
憲法改正して 親ロシア派EU派の共存の社会を築く基いを直ぐ模索すべきである。こ
の事を声明で発してならず者の独裁主義の現政権を”そのまま”維持させてはならない
。人々はこのまだら模様の中で暮らしているのであってイスラエルの様な排除主義は、
全く人類の為にならないのである。



30: 名無しさんAA:14/05/11 04:21
a rara10

 日本の憲法前文を貫く精神は、世界が善意と公正さに満ちた国々で構成され、この国
日本さえ悪いことをしなければ、他の国も対応してくれる。という考えだ。我々は憲法
で手足を縛って軍備を持たず、二度と悪いことをしませんというのが、この中に込めら
れたメッセージだと思う。世界でもこんな変な憲法を持つのは我が国だけだ。こうした
戦勝国が善意と見せかけた悪意 即ち戦闘力を奪い去る或いは兵力を無くす事によって
敵を跪かせるという まるで聖書の戒めからでた奴隷のような考え方を地でいく法律を
我が国は大事に使ってきた。こんな法を受け入れながら進歩の道を歩いて来る民族など
は地球上にそうそう居ないであろう。そして今又自衛権問題を論議しようというのであ
る。この導かれる流浪のユダヤや奴隷の様に傅いた文化の中に 不思議にもアメリカの
持つ苦悩や矛盾である個人主義も盛り込まれた。「国民の権利及び義務」を規定した第
3章だ。個人の権利や自由ばかりが強調され、日本人の伝統と文化を守りぬいて来たで
あろうこれまでの習慣がもつ価値観とまったく違う。かつては家庭で「自分勝手なこと
を言っちゃいけません」とすくなくとも戦前は子供を叱り、育てていた。未来を背負う
子供のしつけがきちんとされなくなったのも、家族の役割までをも憲法で位置付けて 
いなければならない程にその法はアンバランスな社会を作った。かつてのような帝国法
のような家族の規定があった為に、今までは女子力を頼りに扶養控除のような行政の匙
加減で平和を守ってきた。今後は3世代家族や老齢者同居家族の税金を少し安くする。
とか、家族の役割を重視する政策も打ち出せるだろう。と桜井よしこ女史は言ってる。
 そうした日本人では問題のような憲法も 世界では重宝なものであるのだろう。今又
この法にロシアから熱い視線がある。それはプーチン以降のロシアを強権でいくか民主
主義でいくかの瀬戸際にいるからだ。2CHではこの現状に”個人主義と全体主義の狭
間に答えがあるってことを憲法の中に書いてあったら面白いかもね”という意見が先頭
に載った。更に”お花畑憲法だから””まずは銃を持つ権利だな。キチガイ政府に対抗
するには武装するしかない。”と言う意見だ。が江戸の武士が素浪人でも刀を指しては
自由に歩いていた事や交通事故死を思えば 武器を持とうがもつまいが 人間教育とし
ての尊重人間の成功社会を築く事であろう。つまり合理的な馬鹿やキチガイの排除しか
ない。武器を持つ市民のシリアやウクライナ武器さえ手に入れられない中国。いずれも
正しさは人の心の中にある。


31: 名無しさんAA:14/05/22 01:08 ID:irY
私の番組評177

 NHKのクローズアップ現代に無戸籍人なる人達いて 無戸籍人支援の会が特集され
た。その実体はなんと在日と言われる人や保護家庭と呼ばれる底辺の最低生活者よりも
酷いものだった。一体行政はどうしたというのだろうか。原因は家庭内外の怒りっぽい
男性による無法だった。つまり妻となった女が 二度と会いたくないとして別れても、
一度結婚し離婚届けが受理されていない異常な状態での子供は日本国籍すら与えていな
い。という話である。その後の新たな内縁者の子供であっても その存在は先の恐怖の
夫の認可が無ければ その夫の子とするも次の夫の子とする事も出来ないからというの
である。これは子供にとっては恐怖以外の何物でもない。教育については学校側の計ら
いで何とか義務教育をうけるものの 出生届を受理しない行政では 次からの行政恩恵
は何一つ受けられていない。普通に持つ車の免許や正社員としての登録など各種資格審
査の為の書類が必要なものは何一つ出来ないようだ。そして最終的には日本人としての
最低基準の生活の場すらないのが現状らしい。なんてこった。こういう世界があるなど
とは露ほども我々しらなかった。が思えば女々しい男の独りよがりの気分屋はかなりに
多い。直ぐにわめき散らし大声をあげ 女や子供の弱々しいものには強く向かい強い者
にはへりくだるとされる者達だ。公務員が部落解放や在日朝鮮人或いはヤクザや暴力団
に弱い理由と同じだ。そして曰く私も命が惜しい生活がある。というものだが愚連隊や
徒党を組んで暴走する若者が女を幸せに出来る筈はないのが現状だろう。そうした者の
起こしたストーカ殺人や止めに入った親すらも殺す殺人者は後を絶たない。問題はその
ヒステリック社会を作っているのシステム社会であり 杓子定規にこれは規定ですから
とか法律ですからと個人情報保護法などの乱用する公務員なりなのだ。近年麻薬事件で
捕まった公務員やらハラスメントでの先生などが多いのも 親やPTAが強く指導出来
ないでいて 義務教育の学校を簡単に卒業させている事にも問題がある。私立は私立で
逆にそうしたはじかれる子供は引き取らない。つまりは問題児や問題者の放置で新たな
自分達の世界を築いてしまう事に問題がある。とは言えそうした者に嫁ぐ親のせいでは
あっても子供達に罪はない。つまり親にいる大人達の問題であり女々しいヒステリック
男を作る回り大人達のせいでもある。



32: 名無しさんAA:14/05/24 05:10 ID:k7.
a rara 12


 このところ 韓国の客船事故のせいで マレーシア発の消息を絶った飛行機事故のニ
ュースがあまり報道されない。そういう中でかつての歴任したマハテール前首相が発言
し稀代の人物の発言で物議を醸しているという。内容は2CHに載っているが重複すれ
ば「370便はボーイング社の777型旅客機で、すべての通信やGPS(衛星利用測
位システム)機器はボーイング社によって備え付けられている。ボーイング社は不具合
の原因に加え、簡単に通信不能に陥らないことも分かっているはずだ」と説明。
 さらに、航空や軍事の英専門サイトを引用し、CIAの関与を示唆。「ボーイングと
CIAによる遠隔自動操縦によって操縦士はどうすることもできなくなった」結果とし
て、「370便は恐らくどこかに存在している。航空会社のロゴなどは消されているだ
ろう。破片やフライトレコーダーの捜索など時間と金の無駄だ」と断言した。 さらに
「誰かが何かを隠している。マレーシア航空や政府が非難されるのは不公平だ」と述べ
、 「いくつかの理由から、メディアはボーイング社とCIAの関与を報じない。みな
さんがこのブログを読んでくれることを望む」と締めくくった。としている。どうも
自国の首相を歴任した自負があるだけに 自国の非難され続ける事に憤りがあったらし
い。


33: 名無しさんAA:14/05/24 05:11
 事実 777と言えば 小型とは言え そうそう悪い飛行機ではない。比較的新しい
もので767−xとしての767の拡大開発をキャンセルしてまで新たに開発された、
最新の設計思想を盛り込んだ飛行機でGPS他 管制誘導の外部操作による飛行も可能
な飛行機である。つまり一人のパイロットが何らかの線やスイッチを切ったとしても、
燃料がある限り安全飛行が出来る代物である。コックピットの座席の両横に置かれてい
る。このFMC(航行自動装置)への入力情報を基に飛行ルートをナビゲーションして
、センサー類を基に慣性航法装置・GPSを利用した自動操縦を行ったりするはずだ。又
、悪天候やハイジャックなど着陸コースから大きくそれた場合などには 計器着陸装置
のローラカイザ、グライドパスの誘導電波を受信して自動的に着陸させたり、エンジン
出力をコントロールしたりする事も可能であり、旅客機では最早当たり前のシステムと
を備えつけている。ただこれらのコンピューター操作はAda(エイダ)という高級言語
を使っていて、ALGOLやPascalに類似した文法と、高度な型の体系をもつもので 軍用の
飛行機と同じものを使っている。今のベトナム沖油田掘削装置からの電波誘導があった
としても不思議ではない。中国側があえて中国客の飛行機を戦争時の模擬試験的利用し
た可能性も又捨てきれない。



34: 名無しさんAA:14/05/24 05:33

 もし仮にCIA関係やアメリカ軍が裏に動いているとして考えるなら 既に中国との
米中戦争が サイバー空間と共に起こっていると考えた方がいいのかも知れない。この
事は相当な人類の試練である。自由主義国家群は この新たに発達した電脳機器にこの
所大いに依存している。クラウド処理ビックデーターとかなりの膨大な計算処理の恩恵
は色々な所に発揮されているからだ。経済では金融や株取引や仮想通貨や投資更に移転
し振り込み発行される預金など全てである。普通の国民生活でも保険や健康管理やら、
普通の書類審査や自分の証明処理に紙同様と言うよりは紙以上の信頼で処理されている
。これらが個々であった物が今や通信と一体型で発達し カードマネーや連絡網や動向
調査までポイントを釣り餌に集計を行っている。が今 捕まった他人になりすました、
他人のパソコンを使った遠隔操作事件で解る様に 頭の良い個人が簡単にウイルスとは
呼べないプログラムでIDやパスワード或いはその他の自動認証の書き換えが可能であ
る事で違法な行為が簡単に出来る事が証明されているが これが国家や国家権力として
行われたとすれば大きな混乱が既に起こっていると考えられる。更に原発事故池田発言
が漏れ出たとして躍起になっている政府を考えれば 国際社会ではスノーデン事件で見
る様に 殆どがあのオホーツクでの大韓機墜落事件のように 巨大組織の勝手な操作に
既に翻弄されかかっている様に見える。つまり技術発達が社会低迷や進化の後退を起こ
し始めたようで 要は人々の救い上げ 敵大国弱小国最貧国問わずに国民を良く指導し
てより良い社会を目指させる事が大事のようだ。


35: 名無しさんAA:14/05/24 06:02
 そもそもこの事件には いくつもの大きな不可解な点がある。一つは報道管制を敷く
中国政府より早く中国軍が一番にこの行方不明機が出た事を知って居た事だ。更には、
パイロットによる人質や自殺説がハイジャック説が出て マレーシアは機長宅の家宅の
捜索を行った点である。政敵副首相の後援者とは言え 中国客との心中に至るだろうか
。機長職を得る様な高等教育を受けた者がそんな危険な行為を考えるとは思えない。更
に地球上を網羅したGPSを使って飛んでいる飛行機が行くえ不明であるとする事だ。
大体GPSそのものは軍事衛星利用の進化したもので立体三角形で位置決めには3点の
位置が必要だ 仮に電波からの距離が解ったとしても2つの静止衛星の電波が必要であ
る。飛行機と言う最新鋭の電脳機器の詰まったドでかい機体のその追跡が出来ないとし
たのは不思議でしかない。例え航空機が発信電波を止めても 軍事衛星での追跡は可能
であろうと思われる。それを一様に口をつぐんで位置を示さなかったのは その情報で
の今後の戦略的データー利用や解析を恐れたと考えられる。更に気がかりなのはこの客
の集団に3つの中国内で活動していた平和団体が乗り合わせていた事だ。一つは華僑の
中で比較的成功していたマレーシア華僑商工集団である。もう一つは日本で言う習字の
大家で知られた知名度の高い国際的達筆者である人だ。更に中国のスポーツ平和の集団
である。いずれも商用か観光旅行と目されるが 中国政府ではかなり気にかかる存在だ
ったと聞こえる。そして今回のCIA疑惑である。ウクライナで消えそうな情報だが、
どう考えてもベトナム沖での油田開発は双方共に許容するには難しいし この位置は、
他の13ヵ国にはお荷物で邪魔な存在のはずである。特に北やロシアにとって原潜通過
は不可能となるだろうし 他の平和国家群である比国を始めとする近隣の今後の平和は
消えたと言える。



36: 名無しさんAA:14/05/25 05:14

a rara 13


 新緑に映える山は美しく この山に魅力を感じるのは何も山を神として崇める日本人
だけではないらしい。山登りから登山というスポーツに変えたのは欧米文化の影響だが
こうした山も より高い山の峰の頂きに辿りつくには 麓の里山では考えられない様な
過酷な景色の中で活動をする事になる。又最高峰のエベレストともなれば 雪から氷に
変わった大地の峰々がクレパスという裂け目を持った氷河を抱えて横たわっていて人類
は長い間その山頂に登れなかったし 今でもそう多くの人達が簡単に登れる山でない。
 こうした風景の変化は高度によって温度が変わり 気候や天気が過酷になるからだが
、人類の生活状態も又新たな高度化社会を建設する時期に来てしまったようだ。教育、
文化、政治、軍事、外交、経済、と色々な道具も又正統で理にかなったものを持ち合わ
せて乗り込まなければ 登山家がクレパスに落ちて命を落とす様に人類の崩壊の危機も
又大きく孕んでいる。アメリカ司法省は、ハッカー攻撃によって企業秘密を盗んだとし
て、中国解放軍の将校5人を起訴した。既に7年遅い処置であろう。一方、中共当局は
中国こそアメリカのハッカー攻撃の被害者で ここ3ヶ月でアメリカのサーバー2077台
が中国国内のコンピューター 118万台を直接、操作していた。と反論している。確かに
2〜3千人の頭の良い人が百万台位のコンピューターを覗く事は可能であろうが、操作
し乗っ取った行為即ち片山被告の様な遠隔操作となれば 日本国内でも2〜3人だろう
しアメリカにもそういるとは思えない。なぜなら その能力を持っていたとしても全く
使うメリットがないからだ。その意味では中国に対しては そうした盗むような最新の
テクノロジー理論を持って アメリカに持ち帰るような技術情報があるだろうか。私は
全く零と言って好い程ないだろう。軍事情報や金融情報であれば 覗き見はする可能性
は大いにあるが 事民正データーにある筈はない。では軍事データーも盗む程に集中化
して電子化したシステムを持っているだろうか。私はないと思う。つまり中国国内の特
に電子部隊とされる61398部隊のハッカー攻撃は異常であるし こうした解放軍が
もつ最新鋭パソコンも そうしたデータよりは報道情報監視や電脳攻撃やプログラムの
開発に追われていて 自分達のスピリッツで新しい物を作るという思想はない。


37: 名無しさんAA:14/06/15 14:25 ID:J7A
 私の番組評 165

 ザックジャパンのW杯にTV局は 話題騒然だったが サッカーではい無名の小さな
国コートジボワ−ルとの大戦が初戦の相手である。かつて奴隷海岸とも称された この
地域は石油メジャーを育てた原油掘削地帯でもある。だがその醜悪な現状を全く報道し
ないままに 欧州のサッカーイベントのみに執着してお祭り騒ぎである。今回2:1で
初戦を舐めたが 日本人の集団的戦略からもザック監督が固い防戦しながら得点を入れ
た雰前半の囲気を壊し長谷部を廃して遠藤を投入したのは ほぼ間違いであろう。黒人
の身体的特徴であろう 背が高く体力がありリズムがある足が速く疲れがない。唯一の
個人技が稚拙というのも この歴史的に欧州に交易を重ねて来たこの地には欧州チーム
に在籍した者も日本人と同じくらいいて少なくはない。つまりは力では断然劣っている
中で善戦していたのである。が 前半で大量得点を狙ったのかあまりにもベストメンバ
ーが最初から名を連ねた形である。まだまだ先は長く 更に今だ欧州式のファンタジス
タサッカーやらチームプレーサッカーを行わない相手では ラフプレーに入りやすい事
で少し 固いメンバーとしたのかも知れない。いずれにしてもトスよりはドリブルでの
突破と若いタフなメンバーを、思いっきり シュートさせる工夫をすべきであろう。
又 マリでの日本人サラリーマンの死から日本人のアフリカへ勉強不足は富に言われて
いる。このフランス語圏であるこの国も又歴史や今の情勢が現状認識においては日本人
は私も含めて無知である。TV局は今そうした教育するニュースなり番組をなぜ流さな
いのか かなり不満である。



38: 名無しさんAA:14/06/15 18:54
 各新聞社は 党首討論の核心部分として「野党第一党の党首として、安倍首相に何と
か切り込みたい。との意思で民主党の海江田代表の意気込みは空振りに終わったとしか
いいようがない。」との見解が統一した意見として揃った。がこれは奇妙な意見である
。日本は今どうしょうとしているのか。と言う事は野党よりは自民党に委ねられている
。確かに海江田氏は民主党としての見解を持ち合わせていない。だがしかし中国の今の
現状と韓国の声を重んじた民主党と公明党の意見は護憲派である旧社会党つまり民社党
の意見と同じでこのままの法律で国際社会に対応しようと言う事に決まっているのであ
る。この常識を考えれば 新聞の論評は改憲論議を深めよそして戦争の出来る普通の国
にせよ。と言う意見に統一された意見としか考えられない。つまり茂木健一郎氏の言う
子供を兵員として差し出す世界を容認しているとしか言いようのない論評といえるだろ
う。もし各新聞社が戦争しろとか赤紙や徴兵制を容認していない。と言うのであれば、
それは詭弁である今日の論評から言えば およそ10倍の国土と国民のいる国から今や
紛争や戦争しようとつつかれ状態の中にある。そうした中でアメリカ自体はこの消費大
国中国に相対しての戦争は紛争止まりでの小さな小競り合いや代理戦争までで止めても
らいたい思惑は見え隠れしている。更にブッシュJrが間違えた政策は今やイスラム教
内の混乱に乗じて アメリカ国内に核兵器を打ちこむ意気込みの原理主義よりも過激な
思想目には目をの意見が台頭しイランやイラクの現政権さえも危惧する中にある。つま
り良識派とされたカダフィやフセイン或いはエジプトムバラク政権のという重しが無く
なった今では イスラエルと闘うムスリム同胞団すら穏健派でありイスラム原理教すら
幼いのである。マリにおける女子生徒を売りさばくとした声明をみても これらが発狂
集団であることは間違いなく彼らが単にイスラム教の名のもとに人を集めていて教義が
あるのではない事は明らかだ。こうしたテロリストのような意思もない彼らに相対した
外交や話し合いが出来るとは到底思えない。その意味では今シリアから抜け出てイラク
に流れて来たとされるこの集団は国際社会の元凶とも成り得る存在だが 中国の口だけ
大佐のごとく人々の人心を買うだけのこうした無責任な論評を日本の新聞社が真似てい
ては とても安倍氏のいう改憲を賛成出来る環境にはないのだろう。


39: 名無しさんAA:14/06/15 22:38
2chでは 平和論者が意見を連ねる。どこぞの国の支援をうけているのか鳩山氏は、
大きく安倍氏を批判し 生活の党小沢氏は すり寄る公明党に批判を浴びせている。が
日本が独立国である以上 防衛力は必要だし 日本の銀行家や経営者が間違えた判断で
中国や韓国を政冷経熱などと揶揄されながら大国にさせて反日抗日主義者を増長させた
以上この混乱は子孫として今の日本国民は 戦争出来る国として腹をくくるしかない。
今まで行って来た 原爆投下後の日米安保の背後で自衛力を阻害してでも平和の下の経
済発展に邁進してきた日本人の知恵は こうした中国脅威論を取らなかった間違えた政
治家や経済界の要人によって強固な大国として 反日抗日人間を育てた 中国や韓国と
いう隣国を産んだことはまさしく失敗であっても 我々子孫が受け継ぐしかないのであ
る。この事は今までの知恵の結晶として平和の外交政策に多きに苦難を乗り越えた先人
には申し訳ないが いかんせんかの社会党人のようには口先だけの平和外交のみでは、
今後の日本は立ちいかない事がありありと見えるのだ。この日米安保の影にも米国はこ


40: 名無しさんAA:14/06/15 22:39
今まで行って来た 原爆投下後の日米安保の背後で自衛力を阻害してでも平和の下の経
済発展に邁進してきた日本人の知恵は こうした中国脅威論を取らなかった間違えた政
治家や経済界の要人によって強固な大国として 反日抗日人間を育てた 中国や韓国と
いう隣国を産んだことはまさしく失敗であっても 我々子孫が受け継ぐしかないのであ
る。この事は今までの知恵の結晶として平和の外交政策に多きに苦難を乗り越えた先人
には申し訳ないが いかんせんかの社会党人のようには口先だけの平和外交のみでは、
今後の日本は立ちいかない事がありありと見えるのだ。この日米安保の影にも米国はこ
うした大国化した中国との正面対決の回避はありありと見え紛争や戦争においても部分
紛争や代理戦争で納めたいとする意向が見て取れる。事実今後起こるだろう中東変化が
最大の国際問題であり 中国などという極東アジアには 日本以下同盟国に任せてしま
おうというのが本音のようである。その意味で今回の日本の自衛権問題の浮上であるが
それは正に仕方のない流れであって その意味では今では隣国を変える正念場である。
 「戦争っていうのは、いかに残酷で悲惨であるか。私のように体験した人には分かる
んだけど、それを言葉で正確に伝えられないのがね…」「昭和の初めから10年代の日
本の指導者は、政治家でも軍人でも官僚でも、日露戦争の悲惨さを知らず、(戦勝の)
栄光だけを背負っていた人ばかり。今の日本のトップも、太平洋戦争の悲惨を知らず、
日本は優秀だったという栄光を取り戻そうとしている。そうなった時に、国家というの
は大国主義でぐんぐん動くんですよ」「だからといって、絶望しちゃいかんのであって
ね。70年間も平和国家であったのは日本人のすごい努力。それに対する国際的信頼と
いうのは、日本の最大の国益ですよ。どこの国に行っても、日本人は殴られもしなけれ
ば、標的としてテロに巻き込まれることもない。それなのに、人のけんかを買って出る
権利(集団的自衛権)を持って、アメリカの手先になって、その国益を捨てることはな
い。そう私は思いますね」と平和論者はいう。まさに子を戦場に送る勇気や悲しみを超
え狂人となる気もなければ このまま平和国家として孤立する法律の方が無難かもしれ
ない。又武器を手にとったとしても 米国自由主義者の手先である事には変わらないで
あろうし その分日本の信頼が損なわれる危険は大きい。そもこの自衛権論議は国民向
けでしかない。


41: 名無しさんAA:14/06/16 04:19
 私の番組評 165-2

 こうしたFIFAの開幕に日本の放送業界はどうしたものか おかしな放送関係にな
っている。まずこの日本の初戦をNHKが放送していたが 他の局ではニュース映像す
ら流せないのか写真に留めていて 動画を流していない。更に今後の放送をどういう訳
か民間放送でそのままLIVE放送するとしている。全く馬鹿な話であって本来なら、
NHKの放送権落札と各民間にの無料配布であろう。何故なら放送協会でありBS番組
同様に国民財産権がこの電波の中にあるからだ。民間放送のプライドなのかNHK放送
の増長した考えなのかはわからないが 公共放送というのであればその辺の事情が納得
いくような形でなければ 国民徴収の権限はない。更に民間も又NHKと張り合った形
をして 自らの経営基盤を弱めインターネットにも劣る放送ばかりでは 電波を使う権
利は放棄すべきである。まずは国民や視聴者を考えるべきで 更に公序良俗のシステム
或いは常識を植え付け教育する事が大事で その後に視聴率がある。番組が人気のみの
第一主義をつき通すから世界や世間はおかしな風潮が流行り経済が立ちいかないのだ。
殺人も射殺も 法律が無ければ出来ると言うのは門外漢であるし行われて良い筈は無い
。そうした非人道や不良公俗或いは非常識や無道徳というのは 中国や韓国国内では通
る話でも 日本では止めるべきものである。


42: 名無しさんAA:14/06/22 14:12
 私の番組評 169

 日曜の討論番組 新報道2001年の討論には参った。セオール号沈没によって事件
の深層が韓国の文化や宗教観にあるという意見に の金慶珠氏は全くそういう事でなく
国の進歩や進化の過程での一事件でしかないと言う意見だ。 この中に興味深いものが
あった。かつて江戸期の晩期であろうか静岡沖で日本船が沈んだ時 丁度いたイギリス
船がそうした遭難者を助けに来た。だが幾人もの人がこの外国船の救助を拒否し乗らな
くて死んでいったというのである。それは外国船打ち払い令が幕府から出ていて 外国
船に乗船しただけで死刑である法があった為としている。歴史家であろう磯田道史氏は
涙がでるくらい日本人は法を厳しく守っていた事が 今の韓国の汚職や特権構造やらの
ない日本を築いているのであろう。と語る更に こうした違法行為で沈没すれすれの船
がバラスト水を捨ててでも過積載して一年以上も運行している事が 日本では信じられ
ないし全くあり得ない話だ。としてこうした韓国が金氏の言う様にいつになったら韓国
が変わるのかと小倉紀蔵氏に聞けば、「全く変わってないだろうし これからもる事は
全くない。」と断言した。それは「韓国は長い間かけて儒教社会を作った。儒教社会と
言うのは法というものを蔑視した 例巡霊隷社会であり長老やら権威を持った人の意見
に従順する社会であって強い者に弱くひがみの強い縄張り社会だからだ。というのであ
る。がこれに金女史は「そうじゃない一過程のただの大事故だ。」と反論するが その
論拠は全く無い。事実多くの事件や事故或いは戦争は 多くの文化素養や文明慣習ある
いは民族性格からしか起こっている。殆どの人間が完全でない故にその不完全さをどう
補い補完して準備し人生を歩くかと苦心苦慮して教育を行っている。すなわち集団とし
てチームとして良くあるようにより良き環境を作る様にあったりする事で 文明文化を
高めようと人類はしている。通常のこうした中にあって この儒教の中から見られた、
法も宗教も度外視した自らの判断での自由のみが許されると言う考え方は反日抗日思想
をつくり他人や他国を信用しないまま貿易や外交する 最も野蛮な思想である。


43: 名無しさんAA:14/06/23 06:29 ID:j7o
 私の番組評 170

 ルーズベルトゲームが終わった。真面目で努力すればチャンスはやってくる。チャン
スをものにする。それは真面目さに行う日々の努力という構図なのだが こうした感動
はおよそ現実的にはなかなか難しいものではあろうが こうしたその希望に向かう大事
さはおよそ人生や倫理においては みんな同じだろう。そこにこの感動があるのだが。
 がこの楽天的でありながら 努力の日本流のドラマではあるが どういうわけかこの
ドラマの青島製作所は国際社会の日本の姿にダブってしまうのだ。今回のサッカーW杯
も又同じにみえてしまう。一縷の望みにささやかな成功を夢見て努力して惜しまない。
そこで成功ではないものの 一つの光明を見つけてそこに向かうそしてやがて実を結ぶ
 実はこの事には大事な経済指標が潜んでいる。今や世界経済の動向は間違えれば直ぐ
に自国の滅亡をもたらす。その事はアメリカすら同じでイエメン議長はやきもちしてい
る。移民の動向次第でアメリカが変わるのだ。それは今やカナダ・オーストラリアは即
危機的状況にある。結局は中国移民と彼らの行う投資資金の影響だろうが たった5年
でオーストラリア不動産は2倍に近くそれに合わせて物価がインフレ気味であり労働者
の単価は高くなって海外からの工場は撤退を計画している。tvドラマでもこの野球の
物語であるかのような中で一番の苦労は 生活苦と首切りの中の選択である。会社に残
るか家族の糧を守るかと言う中で 野球という自らの贅沢なり遊び或いは趣味と揶揄さ
れるものを捨てるのかと迷う部分だ。更にこの野球部の行く末と共に 会社の存続とい
う大きな決断の中でのこの会社への大きな力や資本の横槍なのである。当初は一銀行員
の不適切な秘密違反から漏れた社内事情なのだが それが好い様に経営効率主義の禿鷹
に攻撃されて 技術を保守するに大きな努力が必要なのだという世界は全く現実社会の
ままである。国際社会も又中国というならず者のいい加減な参入で国際平和は今や壊れ
ようとしている。其れはグローバーリズムの今までの歴史が繰り返された様にである。



44: 名無しさんAA:14/06/23 06:45
そして この天に唾吐く行為は 日本人経営者自身がやってきたのである。


45: 名無しさんAA:14/06/27 03:24 ID:Ia.
 kankoku kannkoku 28

 日本の自衛権問題で公明党が折れてもはや可決するのも時間の問題となったようだ。
ここに来て韓国が更に酷な立場になるであろう。そも韓国人感覚と言う物は世界中での
最も卑しい考え方で人が未来に向かって葬り去ろうして努力している考え方である。と
いうのも 韓国政府が慰安婦問題を再び取り上げるように韓国憲法裁判所が「具体的な
措置を取ってこなかったのは違憲」とする判決を下し、韓国政府は問題を提起し続けな
ければならなくなった。自民党幹事長、石破茂は当時、この事に党の会合でこう嘆いた
。「これは未来永劫(えいごう)続くんでしょう。(韓国としては問題提起を)やめち
ゃったらダメなんでしょ。」と この法を預かる国府としての資格を完全に無くしたこ
の国の裁判所は 常に世界の常識や法を犯してそそのかす。他国で盗みを働いた犯人を
或るいは盗品を返さなくてよい。とか他所の国で放火魔を犯した者を 放火した国では
なく問題の無い中国に送ったりと 条約や協定無視は日常である。彼の国に信用とか、
国の威信や威厳とかの意識があれば見たいものだ。もっとも竹島を盗んで歴史を変える
事すら何んとも思わない盗人根性では たかが知れた治乱者思想しかないのではあろう
が。対して外務省東北アジア局長、趙世暎(チョセヨン)は、それは誤解だとしていい
訳をした。「判決は日本に補償や誠意ある措置を求めたものではない。そうではなく 
『論争しろ』というものだ。」とこうした言い訳が韓国らしい。慰安婦問題でも竹島の
問題でも或いは南北問題でもかつての日韓併合でも 全くこの時々の勝手な言い分をし
自ら作った嘘で破滅する自国の歴史を何千回繰り返せば済むのであろうか。蒙古襲来時
も秀吉の日朝貿易交渉でも 何回となくそうした話が出てくる。蒙古襲来では火薬の無
い倭国など赤子同然と言いだし、亀甲船を作り日本襲撃に及んだ時も 今や天下無敵で
海洋は自分の物だとヨーロッパからの漂流者には豪語した。こうした隠れた秘話は恐ら
く韓国には全く残っていないだろう。又残せないから同じ過ちを繰り返すのであろう。


46: 名無しさんAA:14/06/27 03:25
 なるほど 歴史は代わり世界は変わる 人々の生活も便利で豊かになり変貌を遂げる
。だが本当に人々は昔とは変わった生活をしているのか。それは見かけだけで本質から
言えば何も変わっていない。文化も歴史も残されるし その残したものを大事に採って
いない国々では 常に又新しいものと作りだした古い物が台頭し進化を遂げない。それ
が中国であり アフリカ大陸でありイスラムの布教である。東アジアの文明は、ほぼ全
てが中国発=儒教的思想・習慣にもとづいていると見られている。がそれは間違った見
方であり中国、韓国は、いまもその儒教精神と闘い共産国思想の色彩が色濃い、日本を
始めとする普通のアジアはそうした共産国のような 勝手な教えを排除して自国の伝統
を重んじてこうした勝手な共産思想は薄いと考えられる。今回日本の自衛権問題は米国
の対共政策の一環であろう。米国が韓国にミサイル防衛(MD)の分野などで同盟強化を
持ちかけたが韓国人は「日本が過去を反省していないので、結果的に日本とも組むこと
になる同盟強化には応じられない」と答えたのだ。つまり経済と共に中華寄り姿勢を築
く為に「嘘も方便」を貫いたのである。米国もし朴槿恵大統領が語った屁理屈があまり
に奇妙なものでも日本に対し「韓国との協調」を盛んに唱えた。しかし、あくまでも「
MDには参加しない」「隣の大国との友好」を貫き韓国は米国との同盟強化に応じない
のである。「中国が支配する世界」に韓国人が警戒心を持たず結果、地政学的にも防衛
義務は絶対に果たさないことに 米国のいらだちがある。 そして歴史的にも中華帝国
の属国としての文化であり伝統であり植民地魂である民族だと気づくのである。そして
今や米国の外交関係者が、韓国の奇妙な行動は少し前まで中華帝国を構成していた歴史
の民族である事は自明の理として認識されたようである。すなわち韓国は 常に中国の
持つ非人道な道徳性のない拡大ペテン主義の発案者たる地位にありたいと願う国民性で
あると言う事で どうどうと中国の属国として演出を朴大統領は恥も外聞もなく行うの
である。この品位も品格も人権も常識もない行動が 韓国人の最も得意とする技でもあ
る。


47: 名無しさんAA:14/06/29 07:06
 私の番組評 171

 韓国の国境沿いで 痩せて国境警備不可の人間が配置され 彼は2ヶ月後の兵役任務
終了を待たず いじめの上司同僚を殺して逃げた。日々執拗に虐めがあり骸骨とあだ名
された彼はそもそもが そうした世界と無縁のこもり人種であったらしい。だがこれが
朝鮮人気性というものであろう。日本とて全く同じではないにしろ こうした人を馬鹿
にして全人格を否定するような行為は蔓延している。特にTV業界は何を考えているの
かバラエティという中身では何をしてもいいと勘違いしている。いわゆるTV業界内に
は法律や規制が存在しないかのような独自の世界観を公共の電波で放送しているのだ。
それを面白がる視聴者を育て視聴率が高いからというのだ。馬鹿も休み休み言えという
程いい加減な感覚だ。たけしや99などは昔なら・・と今の規制や指導に不満らしいが
お笑いの芸人がまるで人間では無い様な感覚で馬鹿をやる事がただただ許されていただ
けで 近ごろの脱法ハーブの世界と同じで違法なそして人類や社会に無用の悪を売って
金銭や生活の糧を得る行為は そもそもが其処に存在する資格や社会に生きる資格すら
ない世界なのだ。何故だか今や歌手やお笑い芸人がTVに花盛りである。だがそうした
事は今や必要のない中にあるはずだ。お笑いならばお笑いの究極を追求すべく新ネタを
月一ペースで発表すべきだし、職業感覚で普通の生活や社会との隔離をされるものでは
ない。この韓国の徴兵制に基づく境界兵役での世界も又同じく 無法が通る別世界との
勘違いする輩が かの若き者を殺人犯に仕立てあげたのだろう。こうした馬鹿者を作り
上げる社会を作るべきではない。そして現代社会と別世界などと思う経営者や権威者は
即除名すべきである。社会や世界はどうやって来たか何故人類は繁栄したか。それは単
に発明発展で支えられているのでなく それを支えている常識が其処にあるからだ。そ
こに文化包丁がわざわざ文化包丁と銘振った理由がある。人が生活に危険は彼の昔から
つきものなのだ。それを互いに呼びかけ合い問いかけ合い励まし合いそうして作ってき
てやっと現代の幸福を得たのだ。いい加減男所ジョージなどを多用してはTVの損失で
ある。最も所以下の人間がかなり多く映しだされているがそれだTV業界が駄目業界に
変わったのだろう。


48: 名無しさんAA:14/06/29 09:56
 私の番組評 172

 FIFAのワールドサッカーで日本は大敗を喫した。残念な結果だがTV的には良か
った。あれだけ大騒ぎして右も左もサッカーとは全く人々の生活を軽視したTV番組と
言えるだろう。朝日放送系は女子ゴルフを流していたが それでもたかが趣味であるだ
ろうスポーツ番組がニュースやバラエティ以上である筈はない。この価値観には全く同
じ日本人ながらげんなりする。オリンピックやこのワールドサッカーは一つのイベント
に過ぎない。それを終始報道する事は使命でもあろう。がしかし 視聴率が取れるとし
て他力本願で全ての局が同じ時間にというのは全く生活度外視の電波管理者の傲慢であ
る。現にFIFA自体も全く世界の常識からいえば頂けないような 差別的審判員やら
全く批判される判断は多い。まず最初の日本の審判があれだけ公平な審判をしたという
のに彼は全く言われの無い姿勢に飛行場のバス乗り場では災難に合おうとしていた。そ
れはブラジルの地元紙の「有利に判断した」という馬鹿な報道である。更に負けたクロ
アチア人のアメリカ団体は抗議をし 世界的にミスとしている。が誰がどう見ても公平
で正しい判断である。こうした審判の有様が公平でなく偏りがあって当然という考え方
は FIFAの白人社会の審判団への批判やその審判への判断が軽い事による。つまり
今までのやり方が商業的かつ不平等なルール裁きだった結果である。現にコロンビアー
コートジボアール戦は 全く不平等な審判の采配である。コロンビアのハメス・ロドリ
ゲスの手は異様に人の肩を掴むし 更に 噛みつきスアレスは今だ健在で中心選手であ
る。やっと重い腰を上げて処分が出たが軽すぎる。この世界サッカーは 全くスポーツ
ではない世界なのである。本来のスポーツの祭典に戻る努力はしているものの オリン
ピックと同じく 国が財団に媚びて 更に 開催が商業主義の採算にと 全く今だ世界
平和には貢献していないのである。今流行りのレーザーポインター事件にもなんら対処
していないし そうした未だ未整備の不公平なFIFAに優勝するなんていうのは全く
遠い希望だ。今でも人種差別の審判を前にしては日本人アジア人は有色人種なのだ。



49: 名無しさんAA:14/07/01 15:30 ID:YgI
 盗泉の水は飲まず!

 「愛知県三河地方にある公立小学校3年の教室内で、いじめられている同級生をかば
おうとした女子児童が別の同級生3人から暴行を受け、1週間のけがを負っていた。
20代の男性担任教諭はその場にいたが 制止できず、学校はすぐに保護者に連絡して
いなかった。」 全くこの学校は 学校の資格を体していない。この異常な担任と学校
は生徒の行動と教師の仕事を軽くみているとしか言いようがない 教師の氏名や年齢は
勿論、出身学校。顔写真。今後の行動全て情報開示。解雇。という厳しい意見が2ch
に載っている。「高校三年生のならわからないでもないが 小学3年生を止められない
ってのが しかも授業始まってたんでしょ。」との意見があるが 多分いじめの親は町の
有力者なのだろう。通常状態であっても 目の前で犯罪行為が行われてたら一般人にも
逮捕権が発生する。そしてその逮捕権は勿論義務行為であり 見過ごす事は犯人隠匿に
なる。それが日本の法の常識である。この件に関しては明らかに目の前で暴行が行われ
てるわけだから体罰とか関係なしに取り押さえて警察に突き出せる理由になる。更に監
督権や職業優位性から確実に指導すべき立場である。にも関わらず学校側は「目に見え
る傷や出血が無いから。」と医者が診断したかのような言いわけである。これは教育関
係の常識を度外視した言い分である。基本的には「目に見える出血だけじゃなくて、内
出血や骨折或いは神経障害や意識障害を起こしている場合もある、更にとび蹴りくらっ
て、当たり所悪ければ内出血起こして死に至る危ない場合もある。そして一番その傷害
や危険が高いものそうした見えない怪我である。心理的影響や学級や学校という集団行
動意識やそうした影響も又見逃せない。そうしたものは放射能よりも長く高い検査や資
料や分析があって知見がでるものだ。ただ日本人の多くは そうしたものの悪影響とそ
の度合いを良く知って居て この学校という特殊環境は通常の社会環境より良くなけれ
ば学校ではないとして 教育基本法を定めている。ここの学校長と担任の降格もしくは
教育権はく奪は当然ながら こうした環境を作り出している教育委員会の首のすげ替え
及び村長やら市長などの退任も当然であろう。それが日本の当然の社会というものだ。



50: 名無しさんAA:14/07/01 16:25
 盗泉の水は飲まず!02

 米『Fox News』が伝えているところによれば、パキスタン・パンジャーブ州のサトラ
村で27日、新婚1か月も経っていないサジャド・アフメドさん(30)とムアフィア・ビ
ビさん(17)のカップルが、ナイフで体を切り刻まれて殺されるという大変痛ましい事
件が起きた。2人を襲ったのはビビさんの祖父、両親とおじ。駆け落ちしていた2人に
「君たちの結婚を祝福したいから戻ってこい」と嘘をついておびき寄せたのであった。
親族がこのような暴挙に出たことについて、父親は警察当局に「娘は親の承諾も得ずに
アフメドのような男と結婚した。アフメドはこれが3度目の結婚で、2人目の妻との結婚
期間中に娘に手を出した。これは親族の名誉をかけた制裁だ」と話したという。
子供の結婚は家同士で決めることを善しとしてきたこの国では、年間あたり数百人が、
「親の同意なしに結婚して我々の名誉を汚した」との理由で親族の手によって殺害され
ている。これはパキスタンに限った事では無い。日本でも敗戦前では 多くの事柄が親
の承認なしに行われる事は無かった。更に近年まで 区長などの同意なしに移住する事
は出来なかった。これは犯罪や青少年育成に大きく貢献した制度であったと思われる。
ニュースでは「住民の安全を守り、地域発展に貢献するはずの民生委員が、実は暴力団
幹部だった−。こんな前代未聞の事実が大阪府枚方市で発覚した。」などとも伝えられ
る。更に「暴力からストーカーへ… 元交際相手の24歳女性の遺体を捨てた容疑で逮
捕された男のゆがんだ愛情」と東京都の事件を伝え「熊本県人吉市の県立高3年、荒川
真侑子さん(17)の遺体が市内の高塚山山中で見つかった事件で、熊本県警は1日、
殺人と死体遺棄の疑いで再逮捕した。」と九州の事件を伝える。立ち帰って民生委員が
暴力団員だった事件では竹内脩市長も翌5日の定例会見で「ショックだった」と表情を
曇らせた。などとあるが知らない筈は無い話である。男性は地元小学生の野球チームで
コーチを務め、指導もしていた。男性は平成21年度に、地元小学校のPTAの副会長
を務めたほか、24年4月からは地元の自治会長も務めていた。また、25年5月から
は市の青少年育成指導員も担当。青少年相談や地域パトロールのほか、コンビニエンス
ストアなどで陳列されている有害図書の報告といった「社会環境整備活動」にも積極的
に参加していたのだ。加えて彼は立候補で成れない職種で推薦する者がいたという事だ
この朝鮮人のような責任の無いいい加減な推薦人に 今や日本人全員が成ろうとしてい
る風潮にかなりの問題がある。人は悪い事をしないから善人ではない悪い事をさせない
行為が善人なのだ。その善人である誇りで日本人は国際社会を背負ってきたのである。


51: 名無しさんAA:14/07/03 21:33
盗泉の水は飲まず!03

 日本人はいつからこんなに馬鹿になったのだろうか。「盗泉の水を飲まず」とした、
かつての知恵をまるで忘れたかのような国内事情に全く戸惑いを禁じ得ない。TVであ
る「初めてのお使い。」が日本ならではの行為とされるが それはおかしい話で誰であ
れ初めてや第一回というの在るものだ。そして子供であれ大人であれ危ない中にあるの
は確かだし 他の国でも我が国でも同じ様に 凶悪犯人も悪人もいる。その範囲なり、
割合は違うだろうが 殺人犯や盗人や詐欺師がいない訳ではない。ただ日本人は互いに
そうした犯人を作るだろう環境や言葉やそそのかしを行わない事を主眼としてきた。そ
れが馬鹿な楽天社長三木谷君やあの経済の血流であるお金の資本の流れをを止めた馬鹿
教授竹中氏の為に日本が変わってしまったのだ。そもそも盗人の持ってくる品物がこの
今の中古品売買の証書や資格も持たないままに全国のオークションにかけている事自体
大きな違法行為そのものではないか。その行為が明るみになっている今でも平然と運営
している事自体ブラック企業そのものでありながら 社内を英語で統一するなんて馬鹿
な方針をちゃらちゃら報道界がおべっか使いニュースで垂れ流すこの有様が全く日本と
は思えないのである。この「盗泉の水を飲まない」意思や意識は、生死に変えられない
と言う言い訳すらも聞かないものだ。良く背に腹は代えられないとして 平然と利用し
利用される事を望む この竹中氏のような輩もいるがそれがあの三木谷氏のような盗人
の生きる場所を提供する事に繋がっている事になりかねないのである。今度福岡である
暴力団が広域指定暴力団の指定からはずれるなどと発表しているが、この茶番劇は一体
なんなんだ。とも思う。暴力団は指定しようがしまいが暴力団には違いない。ではその
対象を公表してるのかというと全くしていない。我々素人にはそうした暴力団の団員の
氏名すらも公表されて居ない。つまり地下に潜った広域指定暴力団と地下にない暴力団
の違いすら不明なままであるのだ。一体我々の日本の正義は何処にいったのか。



52: 名無しさんAA:14/07/06 20:49
私の番組評 174

 コロンビアがブラジルに負けた。審判団が異常にブラジルびいきだ。その為か試合の
全体が無法のままの いわばラフプレーの連続だった。ブラジル・ワールドカップのそ
の熱はコロンビア国内でトーナメント出場の祝砲で死んだ女性事件からも日本とはその
熱の入れようの違いが見えてはいたが。それに憶したのか主審がゆるゆるの上ラインズ
マン副審はオフサイドに厳しかったとも言える。この決勝トーナメント準々決勝は4日
に行われたのだが、ブラジルとコロンビアの対戦は国境を接した国の為かちょっと過激
なもので、それを冷静にする為にもFIFAはもう少し厳しい審判団が必要だったはず
だが、それを怠った。前半にチアゴ・シウヴァ、後半にダヴィド・ルイスと2人のセン
ターバックで得点したブラジルだったが、それも一般的には非常に不満な試合内容とい
うよりは試合運びである。つまり見られてない映像からはミスジャッジが多すぎたのだ
。コロンビアの反撃を終盤のハメス・ロドリゲスのPKのみに抑え、2対1で大勝利。
3大会ぶりの準決勝進出を決めたブラジルだがネイマールはこのの終盤、DFフアン・
スニガに後方からチャージを受けて負傷。大会の残り試合を欠場することになった。次
の準決勝では、ドイツと対戦することになったブラジルだが、 主将のT・シウヴァが
累積警告で欠くことになったし 得点砲の彼は実はゲームリーダーでもあった筈だ。こ
の時の負傷にも主審はペナルティを与えてはいない。つまりこうした試合は日本人しか
主審にふさわしくないとの現れであろう。成程 飛行場やバス乗り場で負けたチームの
サポーターの危害の恐れもあったろうし アメリカのクロアチア人が抗議をしたとの報
もある。だが今やビデオもあればTVの解説者も居る時代だ 放送権販売時もジャッジ
の正確さに批判するべきではない事と感情を高ぶるサポーターの排除は当然行うべきで
ある。まあ麻薬栽培が国内産業の国も或る中ではなかなか難しい事ではあるが。 この
ネイマールにしろハメスにしろ華麗な足捌きがあって 見事なシュートの様は魅了する
のだが 一方でチームのルール無用のラフプレーにはがっかりだった。当然ながらFI
FAは今までも工夫して改善はして来ただろうが もっと審判の仕方や誤審に対しては
もっともっと考え工夫すべきであろう。そしてそれはTV局の在り方に対してでもだ。


53: 名無しさんAA:14/07/07 02:10
私の番組評 175

 ミヤネヤと称するミスターサンデイは 数少ない男性キャスターと男性コメンティタ
ーで進行する放送を今回行っている。女性ばかりのキィキィ声で常識はずれの発言での
賑沸かしやら食べ物やら芸能界やらアクセサリーなどのニュースでないニュースが流れ
る中で至極当然な話題を取り上げる貴重な存在だろうが いかんせん司会の宮根氏は全
く不勉強も多くおふざけも多すぎる。が今も健在であるニュースの重鎮木村氏がその幅
の広い知識からでる言葉はそうした宮根氏始め視聴者の大多数の意見すら否定する力を
持っている程の良識が番組を魅了する。その木村氏が吐いた言葉が 「日本サッカー協
会は今回のワールドカップの反省もなしに新しい監督を決めようとしている。これで好
いのか疑問だ。」と苦言を呈した。まさしく 我々日本人の多くのもやもや感がそこに
ある。ザックジャパンを踊らせては視聴率に勤しんだTV業界は 全くザックの無能さ
に苦言を言わなかった。少なくとも今回の日本のチームは世界のサッカーに見劣りする
ようなチームでは無かったはずだ。だが木村氏が言う様に今のベスト8の闘いぶりと、
日本のトーナメントでは 全く違うスポーツと思えるほど全く振るわない試合内容だっ
たと言える。少なくともザックの前のトルシエ・ジーコ・オシムと育てて来た日本サッ
カーの集大成としての選手層であったにも関わらず 10対11ですら点を取れない程
まとまりがない内容だった。これは大きく監督の采配ミスは避けられないはずだし、こ
の監督を高い金を出してまで呼びよせた協会の責任でもある。恐らく岡田氏はオシムの
作った選手の上にその実力が出せたとするならば その後は選手達の評価は科学的かつ
論理的な視野で選出すべきであろう。が あのトーナメント第一試合で既に人選の間違
いに気付かねばならない。今回のW杯でのキーパーの防御を見れば川島の能力や身体で
国際的ハードルが果たせるのか疑問である。更にこれからと言うシーンで動きの無い遠
藤の投入は無いだろう。国際舞台にいる他の長谷部や本田も起用の仕方に問題がある。
折角の岡崎などの動きも 他がついて行ってこその動きである。そもそも体力不足では
ないかという疑問の上に 保養を入れたのは2試合通過して後が無い時である。これで
は判断ミスとしか言いようがない。勿論日本人特有の国際音痴な部分は外人監督がいい
とは思うだが日本人選手を動かすのにその体力リズムの違いは恐らく克服出来ない。又
日本チームにネイマールやハメス・ロドリゲスのようなシュートストライカー選手が、
育っていない訳でもないのに選択していない事も致命的である。


54: 名無しさんAA:14/07/07 03:11
 私の番組評 176

 NHKの深夜番組にスーパープレゼンティーションがある。「中国は今や新興経済国
の憧れの的なのか」と題してエコノミスト ダンビザ・モヨなる人が 現状の資本主義
自由経済のアメリカ型と新興国中国の拡大する発展形態について話している。がこうし
た個人の発想に基ずいた主張には NHKは適切な助言や批判はあってしかるべきと思
う。とういのもこのプレゼンティーションには私達は疑問符をつけてしかるべきだから
だ。彼女が如何に、ゴールドマン・サックスに勤務。債権市場、ヘッジファンド・カバ
レージを担当した後、グローバルマクロ経済のエコノミストとして活躍中だとしても。
また、ハーバード大学で修士号、オックスフォード大学で博士号(経済学)を取得した
権威あるアメリカ人だとしても 間違った考え方には間違えているかもしれない事を、
堂々と論じるべきだ。その適切な助言をNHKは加えるべきである。例え物議をかもし
ても。彼女は言っている「結局のところ、私たち、そして全人類にとってのテーマは「
どうすれば繁栄できるか」なのです。人々は政治・経済の形を合理的に選びます。最も
短期間で生活水準が上がる形を選ぶのです。」と。勿論「1980年代後半に「ワシントン
・コンセンサス」という考え方、ポリシーがありました。「アメリカが世界中に援助し
ます。そのかわり各国はアメリカ型のちゃんとした民主主義を取り入れなさい」という
国際援助の考え方でした。その考え方で南米やアフリカに対して援助を行ったのですが
、各国にちゃんとした民主主義はなかなか立ち上がらず、あまりうまくいかなかったと
いう経緯があります。その後2004年に、中国の発展形態をモデルにした、経済成長中心
型の国際援助の考え方「北京コンセンサス」が提案されました。そういう意味で、ダン
ビサ・モヨの主張は、すごく新しい考え方というわけではではありません。」 という
解説はあるものの 彼女の言っている米国の持つ資本主義自由社会の思想が今や中国流
の独裁的発展主義に負かされて 北京コンセンサスが上手く行っている。という主張に
はかなりの危険性を感じる。その危険性こそが先の「人類がどうすれば繁栄できるか。
」という事が「自分達がどうすれば短期的に繁栄するか。」にすり替わっている事だ。


55: 名無しさんAA:14/07/08 18:56
私の番組評 177

 7月にはいって韓国が揺れているとの速報がはいった。朴槿恵大統領が次期首相候補
にとして中央日報顧問の文昌克氏を氏名していながら、「日本による朝鮮半島の植民地
支配と南北分断を”神の意思だ”と話したとかあるいは”怠け者で自立心が足りず、他
人の世話になることが、わが民族のDNA2とも発言していた。」などと言う事を論じ
て 彼は親日家であると世論を急速に悪化させ辞退したのだが、今や一変して。『お前
たちは、無為な歳月を送った民族だ。試練が必要だ』としてその後努力し、韓国人は今
試練を乗り越えた」という趣旨で、朴氏の父、朴元大統領(1917〜79年)らの時
経済建設に邁進し経済大国の地位を得たとする韓国人の多くの共通認識が 揚げ足取り
での報道だったとの報道批判が産まれたからだ。当初は「聴聞会で説明する」と冷静に
対応していた文氏だったが、元慰安婦が「安倍(晋三首相)の手先か」「恥知らずで破
廉恥だ」などと批判が伝えられ、一転して慰安婦に謝罪。以後、テレビは連日、自己批
判する文氏をさらし者のように伝えてきたのだが 今やそうしたメディアが批判に晒さ
れているという。事実セオール号沈没以降地下鉄他数々の韓国人らしい不祥事事故がた
て続き起こっても尚 朴氏が首相人事で国政の一新を示すと強調していたが 魔女狩り
的世論と報道に、身動き出来ず「大統領が明言した国家改造の約束は最初から虚言とな
った。」とまで論じられる始末だ。この高飛車な世論の論調をリードしてきたメディア
は その論旨からも自らの反省の色は覗えないという馬鹿国民の恥がにじむのである。
全くこの考え方は「寄らば大樹の蔭」という感謝よりは「虎の衣を着た狐」どころか、
「天に唾吐く姿勢」を変えないという 天の邪鬼精神のままで時を過ごしたいらしい。
ホークスの選手を見ても 今だ日本語の記者会見しないし 日本で働いているという意
志や意識がないままだ。全く日本のTV局も同じ様に傲慢な放送のままで日本TVも又
原発ニュースを日本語で放送しない馬鹿をやっている。一体何処の国の放送局か今報道
は誰に向かって問うべきか。の視点は全く無い。朝鮮の傲慢な生活する社会を持つ国と
言う視点が無いのと同じである。



56: 名無しさんAA:14/07/10 00:56
ちょろっと福岡


 カブスへ移籍していた 試練の男がやっと3年ぶりにTVに登場した。朴凸なパイレ
ーツ桑田と同じく 海外での故障は非情な日本人の意識からはかなり遠ざかる位置に来
る。だが当地全米では かなりの愛情ある方針らしく スピリッツ野茂と同じく一芸に
秀でた努力家に惜しみない拍手が送られるのは 現代日本の馬鹿ないい加減さと違い、
人権すらもちゃんとした契約事項とする綺麗さがある。このストレート男和田は待って
くれてたファンがいるか解らないが やっとマウンドに復帰した事で一安心していたが
これからが 激闘の野球人生であろう。試合が勝敗こそ負けに終わったが 内容のいい
試合運びに ファンとしてはこれからを期待するに充分であった。ただ無理は禁物だが
 頑張ってカブスから日本への優勝報道が届く事を待っている。と思って元気で頑張っ
て欲しいと切に願うのである。


57: 名無しさんAA:14/07/10 14:58
a rara 16

 このところ イスラエルの報復が止まらない。従ってガザからのロケット弾も又同じ
に止まらない。イスラエルが和平交渉を拒んでいるとの情報だ。かつてロビン首相さえ
暗殺したイスラエルの秘密警察が首を盾に振らないのだ。彼らの存在はかつてのドイツ
帝国ゲシュタポよりも緻密で モサド率いるシャバックは首相直属とはされるものの、
アメリカの国家保安部同等にあまり世間に知られる所に居ない為に 首相交代と共には
内部変革は全く無い。言わば国家の白狐の存在であろう。が今後こうした報復劇を激化
させれば 恐らくはこのイスラエルと言う国が地図上から消えゆく可能性すらある。つ
まりイランの核開発をしきりにアメリカは止めようとしていたがこれを止める事は至難
の技である。イスラム宗教界そのものが800年の派閥争いの中にある。イラクの地が
今後どんな形になるのかは不透明だが、ISILと呼ばれる過激活動家は予言者ムハン
マドの地位であるカリフの空位を自ら宣言しイスラム国建国を宣言している。イラク・
シリア・イスラム戦線と呼ばれていたシリアの反体制民兵の「アラブの春」などと西側
諸国のメディアにもてはやされてアサド政権の非民主的な体制に「非暴力の市民による
民主化運動」の枠組みを持ってきて、大多数のイスラム教徒「サラフィー主義者」をも
参加させ結局は武装化させ武器を用いた暴力的手段での体制打倒を掲げる社会運動にと
って変わった。武器を取る戦いがもたらす効果は外部に対して武力の行使をも厭わない
との意志を示し、運動の内部に対しては参加者・支持者に命を賭した大きな覚悟と犠牲
を強いる。更にもう一つの利点が当初から閉塞感に陥っている改革からの脱却もしくは
政権への全面対決への移行に多くの希望や期待あるいはカッコよさが付きまとい、市民
の多くが運動参加と強固な教義主義に陥らせる効果があることだ。



58: 名無しさんAA:14/07/10 14:59

                              当然「サラフィー主
義者」と呼ばれる初期型信者がカルカイダと呼ばれるイスラム原理主義者集団より更に
過酷で冷酷で惨忍な集団となる事は当然である。「カリフに忠誠を誓うのはイスラム教
徒の義務だ。」とした声明をもって 今まで打倒アサド政権として支援していて多大な
資金を与えていた西側諸国は驚いたし、、全イスラム教徒にイスラム国家拡大のための
ジハード(聖戦)への参加を要求し、「イスラム国」と名乗ると発表した事で混迷する
この地が今後大きな火種になる事が判明した。現にこの過激なスンニ派の拡大にイラク
のシーア派最高権威シスタニ師が先月、イスラム国と戦うため軍への志願を国民に呼び
掛けたことに対し、サルヒ師が批判する声明を発表。治安部隊がサルヒ師を拘束しよう
として、衝突に発展した。又支援していたサウジも3日、サウジアラビア軍がイラクと
の国境地帯に兵士3万人の部隊を配置したと報じた。イスラム過激派「イスラム国」の
勢力拡大を警戒した対応とみられる。と報じられる。間に挟まったクルド人は3千人以
上の死人が出たとされイラク国内でも主要な官僚や役人兵士の役に就いていた良識人が
現地処刑の憂き目にあっている。シリア人権監視団(英国)によると、イスラム国は3
日には、シリア最大のオマル油田を制圧した。今まで油田を制圧していた国際テロ組織
アルカイダ系の「ヌスラ戦線」すら撤退したというので そのすごさは怒涛のごとくあ
り 今やイラク現政権のマリキ氏の暗殺も公然と予言するに至っている。



59: 名無しさんAA:14/07/11 20:41
私の番組評 178

7月11日発売の週刊フライデー7月25日号に「安倍官邸がNHKを土下座させた」
という見出しの、衝撃的スクープ記事が掲載されている。その要旨は7月3日に生放送
されたNHKの「クローズアップ現代」に、菅義偉官房長官が出演して集団的自衛権の
行使容認の閣議決定について宣伝しようとしたところ、キャスターが、「他国の戦争に
巻き込まれるのではないか」、「憲法の解釈を変えていいのか」と質問した。それに対
して、番組が終わった後で、進行の打ち合わせに無かった質問として「誰が中心になっ
てこんな番組をつくったのか」、「誰が国谷にこんな質問をさせたのか」、と安倍官邸
が恫喝し、犯人さがしをしたと言うのだ。安倍官邸の恫喝には驚かされるが、もっとも
驚いたのは対するNHKの対応で、籾井会長以下の上層部は平身低頭し、国谷キャスタ
ーは「すみません」と泣き出したという。こうしたこんな恥ずべき恫喝をいまだ安倍官
邸はNHKに対して行っていたとする記事だ。暴力団より性質が悪いというしかない。
 これは聞き捨てならない問題である。NHKが強制受信料を取って行く事に 国会議
員が音頭取って法律を制定したし その後もこの憲法改正問題に国会議員自らPRする
事は法律上は違法であると かつては闘っていた公共放送が国民放送になりさがり更に
政府の国営放送に堕落したのである。これの危機は聞き捨てならない話でBPOは早速
その現状の真相解明に向かうべきだし 国会議員に対する懲罰規定をメディア界として
考えるべきだ。この菅官房長官の出演した放送は 私は真剣さが伝わり珍しく張りつめ
た空気の放送として好評価をしていたのだが こうした裏話が漏れ出るほど議員体質が
腐れているとは 日本も危うい話ではないか。管氏のみならずもう少し大志大局の士と
しての議員や議会体質を作れないのだうか。一般常識と離れた人が多すぎる。野次問題
出張問題付け届け問題 情けない話だがこれらは議員自ら良識に任せて条文規定を緩く
して自ら首を絞めているのだ。


60: 名無しさんAA:14/07/13 08:41 ID:mk.
 これらは全てアメリカ政府の失敗である。まずこうした事態を招いたのは良くも悪く
も米国軍産企業の甘さである。核兵器特に廃棄核を使った兵器の試験運用としてイラク
攻撃を仕掛けた。米軍のこれが911を起こしたと言われる。多くの諸事情から この
貿易センタービルはアルカイダではなく米国内の軍部で行われたとする証拠が上がって
いる。すなわち全ての悪業を一心に背負ってブッシュが選挙応援してくれた軍産企業の
為に行ったものであったのだ。勿論ブッシュJr自身も又 十字軍になぞらえた自身の
ネオコンの首領としての英雄視点があった事もある。更に中国スパイがメディア王マー
デックの妻となりそうした混乱での自身の国の浮上を目指した事も重要な要因である。
ともあれ、こうして起こった混乱は、そのまま次の政権である今のオバマ大統領が事態
収拾に政権が追われ反動で反戦主義に落ち着くであろうことが予測されていた。これに
又軍産複合産業を牛耳ているイスラエル系ネオコンは待ちわびていた。何かにつけては
インテファーダーという石投げ作戦のパレスチナ人に機関銃で対抗する処置を取って居
たのだが批判が多い為日本の資金を使って高い塀を築いて隔離した。この事でより多く
の事件をパレスチナ人の犯罪に仕立て上げる事が可能になった。今回のイスラエル人の
子供の行くえ不明も又パレスチナの仕業と断定して空爆を行ったのは イスラエルの勝
手な宣戦布告とも取れる。これに対してパレスチナは果敢にロケット弾を撃ち込んでは
いるもののこれは空かの電子機器の付いた攻撃には全く歯の立たない、目標物には当ら
ない只の威圧的砲弾にしかならないものだ。ここにオバマはイスラエル支持を声明した
。これは逆に和平交渉を困難にさせ イスラエル空爆を追加是認する物になる。この馬
鹿げた方針にパンギブン国連事務総長はまたもや 何の批判も出さないという不手際をし
て笑われている。いやはや世界はどうなるのだろうか。こうした米国の弱腰声明は逆に
SISAイスラム国建設武装テロ集団を活気つかせている。つまり次はイスラエルへの
中国製の隠している核攻撃を行う事だと思っている。中国も又この部品供給にドイツを
選び北朝鮮製にして 米国を揺さぶる事を画策しこの事で太平洋を獲れると踏んだのだ



61: 名無しさんAA:14/07/13 09:24

 事実今やイスラエルは世界の疫病神に変わってしまったようだ。今 北朝鮮が盛んに
日本海に弾道ミサイルを撃ち込んでいる。日本政府や日本のメディアは米国や韓国への
反発との解説だが全く違う。これらは全て売り込みの為のデモストレーションである。
家電製品や食品売り場の試食みたいなものだ。この打ち上げ毎にどこかへと売却された
と考えられる。そうした売り先が紛争国である事には間違いない。アメリカにつく日本
やイスラエル或いは先進国には米国からの武器もあり自国開発もしている為買おう筈も
ない。米国になぜ北朝鮮を「ならず者国家」と言わせたのか。それがこの米国武器商人
の商売敵だからであると言える。中東で行われる兵器プレゼンスショーは全くこうした
先進国の独壇場で終わっている。がプレゼンスはそうであっても 実際の売買ともなれ
ばそれは安く簡単で手っ取り早く寄せられる物のほうがより流通する。それはS&Wの
涎がでそうな高級銃や威力の強い48マグナムよりは ロシア製カラフニコフの模造品
が全世界に出回っている事から解る。つまり北朝鮮にとっては原子爆弾の爆発力や威力
よりはより安全に取り扱う事の出来る一応爆発する核の方が売れるのである。それは、
科学兵器でも同じである。今回シリア内戦で見つかったのは米国製に似せた中国製科学
兵器でおよそ一発で300人は殺せるとしたものだ。かつて知らない内にクルド人地区
に売りつけられ試験的に使われ何らかの理由で誤爆したとされていたのだが、その残り
物がアルカイダ系の反体制派に売りつけられた。だがこの偽物は専用のロケットランチ
ャーでなければいけなかったらしく 反体制派は自爆によって大勢の仲間がその科学兵
器の餌食になった。国連調査団が派遣されたがその中身は発表されていない。が情報で
はサウジの王子がヨルダンのアルカイダに売りつけた物だろうと推測された。こうした
事が大陸では日常茶飯時に行われているのである。



62: 名無しさんAA:14/07/17 22:59 ID:GG6
私の番組評 179

 近ごろ報道ステーションが少しおかしい。あの司会者古舘の意見がピンとはずれであ
る。今回ベネッセの個人情報漏えい事故が起きたが この記者会見での新しい社長であ
る原田泳幸会長兼社長らが行った記者会見のやりとりに異様さを感じないのだろうか。
彼は「社員であろうが派遣社員であろうが セキュリティに対する責任は同じ」と言っ
た。だがそれこそがおかしな話である。下請けや派遣社員が本業社主の社員と同じであ
ろうはずはない。例えば給与形態や労働環境一つとっても全く違っている。いま流行り
のディズニーのオリエンタル産業の悪質な営業形態やかつてのキャノンのグローバルな
発言でも或いはオリックスの貸金状態でも全く異質で不気味なほど違法性に富んだやり
方を報道は報道していない。それは今流行りのヤフーやらヤフオクや楽天市場などは、
殆ど日本の法律から言えば管理のないまま盗品までを扱うと言う違法そのものではない
か。それを放置しながら何をおかしな話をしているのだ。と言うことになる。例えば今
のIT業界でのゲーム配信にしても昔の様なセキュリティチェックを行うコードは存在
しない。つまりスマホの便利さは世界共通でスパイ活動出来る中で運用している事にな
る。自分の事が知られてやっとその便利さが扱われる。その知る為の情報を、わざわざ
こちらからIDなり暗号なり発信して扱われるという代物ばかりである。インターネッ
トの本分である便利さとセキュリティとは両立しえない事は第二次世界大戦時に 既に
理解されていた事だ。その為に暗号化技術ができたのであってその暗号化技術こそが、
そのまま電脳変換機すなわちこのコンピューターなのだから。この矛盾するおかしな話
は何故か嘘にまみれていても公然の常識でコンピューターは安全で完全と誤解されたま
まで社会や報道機関はその訂正をしようとしない。それはこの経営者がそうした責任や
給与や権利を下げて行う事で 経営効率を高めているのに関わらず こうした原田氏の
発言がもっともの様に扱っているように ・・・である。分業化し契約化して高給化を
した下請け制度と言うのであれば別だが コンビニ店員が客の財布やお金を盗むように
強制的安価競争を仕掛けては 意見を言えば誰でも直ぐにでも補充する程単純化しては
人を奴隷にしている働き方を公然と主張し強制しながらである。おかしな話である。



63: 名無しさんAA:14/07/20 10:01
私の番組評 180

 今日曜討論をやっている。NHKはなぜこんな馬鹿な安保論者を呼んだのだろう。
NHKは 基本的には国民放送である。こんな折角小野寺長官が出演してる中で腐れた
ような意見は府に落ちない。世論の多くは反対なのかもしれないがNHKは反対論者し
か呼ばない報道では全く議論は進まない。問題は歯止めをどうかけるかは国民が発案す
べきものである。まず普通の国になる事にNHKは反対かどうかであるし その普通の
常識的戦争のできる国になる事に反対というのは理解は出来ても 理性的論理的ではな
い。普通の国でないままに経済大国或いは先進国としての 今の日本の維持をする事は
不可能に近い こうした政府の苦悩を国民としてもっと知るべきである。そしてそうし
た物や現実が根底や基本にあっての議論をすべきものである。そうした意味からはこの
植村氏や木村氏は全くすり替えた馬鹿げた意見だ。この国民が憂う国民の意見での「我
が国は専守防衛で平和を維持して来た。」とする意見である事の意味をしっかり考えて
議論が先に進み 明確に国民が安全となる現実をどう担保できるかを聴きたいのである
。実は安倍首相が今回決めた事もこの専守防衛のままである事には変わりない。実態的
に例えば北朝鮮の日本に向けて発射され準備されるミサイルを空爆できるかという話は
昔からあった話だ。更にこうした 何でも反対の鳥の餌をつつくるような中国風の意見
をそのまま報道するからおかしくなるのだ。もっとこうした番組の地位は高く貴重で、
NHKが考えているほど下等ではなく 尊重される議論の場のはずである。それは朝の
テレビ体操や昼時日本列島も又同じであり 番組の視聴率とか予算などで簡単に終了し
改訂出来るほどの小さな番組ではなく意義のあった番組であかったはずだ。それを簡単
に切ったこれがNHKの馬鹿さである。木村氏も植村氏は何故最後に言った言葉を最初
に言わなかったのか。疑問は疑問として議題が見えない。はたして生放送にする意義が
あったのだろうか



64: 名無しさんAA:14/08/02 19:42 ID:tyE
私の番組評 181

 NHKは馬鹿じゃないのか。8月の時論公論は 小保方氏の博士学位の問題の意味と
して取り上げた。大体今理研が再現実験している最中にNHKはこの「スタッフ細胞」
を取り扱う意味があるのか。色々述べている事は勿論真実ではあろうがこの執拗な放送
は人権法に違反した措置といえる。信頼回復の首案としての定義を述べているがまさに
NHKこそが 国民の持つ意思や日本人としての感覚に違和感なく溶け込むべきである
。その意味では 弱者を追いつめ今だ不正と決まって居ない物を 他の論文からの記載
したとして勝手に不正と決めつけている。ここに問題がある。勿論報道内容や取材内容
が違っているとは言わない。が時期時節というものがあろう。更に闇雲に生番組だけが
いいなどと言う主張も又呆れかえる。只単に放送用の費用捻出の為かいやらしい食欲の
旅番組や世界には通じないだろうお笑いにもほとほと困る。又人気があるからと言って
どんなアニメでも良いとする風潮も又同じだ。全く食べ物と言えばお笑い芸人がうまい
と言う事が大事の一言に尽きる旅番組 つるべの家族乾杯やちい散歩やえびすのバス旅
行が好評と言えば 各TV揃ってのそうした街発見と言わんばかりである。全くTVの
番組を作り上げる事は 色々あっていいのではないか タモリの笑ってもいいともが、
視聴率の無さで消えたが実は当然のごとくある番組は視聴率とは下降線になるのは当然
なのだが それでもそれは1年位の短期的現象のはずである。それを何故耐えられない
のか。不思議な話である。全くこの番組作る裏方の怠慢や 中身や内容や作り方の怠慢
や慣れに従った努力不足であろう。これに進行や流行を時代の芸人に任せている風潮が
あって 全く面白くないのである。まずは人間発掘 街並み発掘 自然や地球の発掘で
あるそして企画がありドラマがあるのだ。何も無いものや日常と違う芸人や偉い人達の
底の薄い番組はご免こうむりたいものだ。



65: 名無しさんAA:14/08/15 00:48
私の番組評 182

 久しぶりにニュースを見たくなかったので ウルトラマンを見た。新たなゴジラが今
ヒットしていると聞き及んで 特撮の世界を垣間見たいと思ったのだ。だがなんじゃろ
か。全く面白くないそしてウルトラマンではない。脚本やストーリが悪すぎる。孤高の
高貴さはまったく微塵も無い。更に果敢に攻撃する地球防衛隊も全く春日部防衛隊の方
がましと思われる程だ。確執のあった五レンジャーなどの合体ロボ系となんら変わらず
人気を博した仮面ライダーにすり寄った物だった。全くなんて事だ。特撮もまた高度に
現実世界にすり寄ったものであって 国際的ものもない。あくまでも日本国内である。
そして私は番組を変えた29年前8月12日御巣鷹の峰に日航機が墜落した。254名
の乗客から4名の生存者が発見されるという 壮絶な災難から奇跡的に救助された事件
を今に又発表されると言う ドラマ仕立ての報道だった。8・12おすたか連絡会は、
105回の会報を発刊していた。この御巣鷹は不思議な事件である。安全の守り神とし
て今や聖地化している。が実際は今なお垂直尾翼60%の破壊の謎が残っている。とい
うのも彼のパイロットや副操縦士や機関士らは かの日航の中でも精鋭の人達いわゆる
指導や教官にまでなっているビックチ−ムスペシャルチームであったからだ。なんら落
ち度のない整備と運行状況によって引き起こされた戦後最大の謎の事故は今でも解明さ
れたとは言い難い。というのもこの747通称ジャンボジェットのボーイング社はこの
機体に問題があったとはしていない。更に日航も又一度修理し整備した事による事故だ
とは言っては居るがその修理法が間違えていたとはしていない。従ってその機体に弾頭
やロケット砲が当った説も全く消えた訳では無いとしている。不思議な事は こうした
日航や政府共に原因究明をしない中で法廷では過失は無かったと決定し被害者の裁判を
検察は却下している。だがそれでも この御巣鷹の峰は安全祈願の地としてどの神社よ
りも有名で有効な聖地になろうとしている。それは日本的かつ現代的な物解りのいい民
度のせいでうやむやのままに 事が推移しているように見える。




66: 名無しさんAA:14/08/15 08:01
私の番組評 183

 武井壮なるお笑い芸人が 俳優歌手などをやる哀川翔との対談がNHKであったが、
まあ大したことは無いだろうと思っていたが 他に見る番組も見当たらずみていたら、
なんと少し感銘である。哀川翔は見た目と違って 100%芸人は視聴者の物と決めて
いて公私を分けている。更に彼曰く仕事を選ばない 来たもの順で仕事をこなすと言う
。即ち奢らず迷わずを地で行く人生らしい。対する武井も又相当な頭の良さがある。彼
曰く「自分の頭が自分の身体を充分に支配していない事に問題がある」と言う事を発見
して私は自分のイメージ通りに自分の身体を動かす事を常に意識している。などと話す
。実は今日本と言わず世界が直面しているのは、理想の独り歩きである。それは丁度、
我々人間が解って居る様にして解って居ないにも係わらず解った振りや解ったつもりで
動いている事にある。教育現場から例えば小中学校の試験を我々大人に出して100点
を獲れる人は何人いようか。或いはラジオ体操をやって真面目に点数つけてうなるほど
の姿勢の良い体操が出来る大人は何人いようか。本来であれば簡単な事だが其れを行わ
ない。いや行えないと言う事が多々ある。それがかなり多くなってしまったのだろう。
タイからニューハーフの日本に帰化した人が男から女になって稼ぎ今や子供が欲しくな
ったのか10人以上の子供を産ませたようだ。今や女に変わったこの男は子供を物の様
に扱う。実はローマが滅びた理由がここにある。武井壮が自分の身体を自分力で支配し
て初めて自分のものとなるように 世界人類は今の今までの歴史を作って来ていながら
それらを理解していない。更に社会があるべき姿も又把握していない。欧州文化は特に
その相対する敗戦国の歴史を気にしない。が日本に20年前にやって来て文化大合流を
唱えた学者は 他の国との違いに日本は欧米文化の消化にあるといい 日本の独自性が
捨てられてない事に大きく驚嘆し そこに魅力をみたし進歩や進化の系統を見たと言う
いわゆる常識や良心或いは行動論理や経済や政治或いは教育や生活が今一度原点の理解
が必要な時期に来たのだろう。



67: 名無しさんAA:14/08/16 12:30
私の番組評 184

 今日はお盆なので腹いっぱいTV三昧である。TVQの週刊ニュースが通常は経済的
視点が多い中 なんとあのヒット曲を数々手がけた都倉俊一がゲストに出ていた。この
中に都倉氏がどんな思いをして作ったのか ピンクベービーズなるうら若き乙女チーム
が出ていた。これはなんとヒットの予感がする。ただ彼女らはピンクレディのリバイバ
ルを持ち歌としている。これではつまらない。もしヒットさせるつもりなら 英語版の
歌詞で歌って欲しいものだ。というのも勿論日本語で悪い訳ではないがこれだけ国際化
した中では 日本の言葉を知ってもらうためにも一般公用語となっている英語圏に狙い
を定めて外貨獲得に乗り出して 日本のいわゆるジャパン歌謡をより高い地位に持って
いって欲しい。確かに今や日本のCD売上は少なく自己所有の歌元という形態は少なく
なっているかもしれない。がかつてテープ全盛時代でもレコードが売れなかった訳では
ない。つまりラジオから流れるヒットソングをダビングしても尚レコードを買っていた
のである。今買わない理由は歌が曲になってしまった感にある。つまりリズムコードで
しかなく歌詞とのハーモニーのないヒップポップ系のいわゆるバックミュージックにも
ならない意味の無い程良い騒音と言う物がヒットしているせいでもある。もともと日本
のポピュラーミュージックというものはフォークシンガーがすたれてからソウルミュー
ジックが出た頃からJ−POPの方向に向いてはいた。それは演歌や童謡が日本流の日
本的情緒の風情は国際化の中では普遍価値はあるものの一般的ではなかったのだ。落語
や歌舞伎或いは相撲と同じ様に 歌の中ではこの日本のポピュラーミュージックという
ものは海外に向けて一番アピールしやすく すべき 物であろう。



68: 名無しさんAA:14/08/16 18:39
私の番組評 184


 近ごろ報道がおかしな言い方を改めようとしていない。それは報道特集での教科書問
題にもある。例えば簡単にユダヤ人と言う言い方をしているが 実は違っていてユダヤ
教徒であってユダヤ民族などと言う民族はいない。自らが勝手にユダヤ民族と言ってい
るだけなのだ。更にどういう訳かこの教育の教科書問題に憲法も様式も違うドイツを比
較に持ってきて取材している全く視聴者を馬鹿にしている。もしホロコーストを例とし
て取り上げるなら民族の根絶やし政策の意味から米国の原爆や無差別攻撃を取り上げる
べきで日本において迫害があった訳ではない。更に義務教育の関係からは教科書選定に
おいては 学校関係者や生徒が選ぶべきものでなく参考書もしくは副読本を選定すべき
である。又ミヤネヤでも例えば簡単に日韓併合を植民地化したと報道している。これは
大きな間違いだ。植民地とは入植地ではない。奴隷がいて人を売買して使用人を置いた
生活をしている実態があって植民地と言える。更に従軍慰安婦問題でも制奴隷などと言
う過激な言葉をそのまま言ってはおかしい話だ。又今回の終戦の言葉に「過去の戦争が
アジアの人々に多大な苦しみを残した。」と言う陳謝の言葉が無かったとしているが、
これは不思議な報道だ。日本がさも加害者であるような言い方である。歴史上第2次世
界大戦が各国の独立をさせた事は周知の事実である。この行為のそのものが西欧列強の
アジア侵攻であり植民地支配の防波堤としての闘いであった一面を削った言い方は全く
間違っているとしか言いようがない。近年ですら東西冷戦があって対共産圏としての、
ハートランド構想(共産国側では産業交流貿易の最低流通ルート自由国圏からは共産主
義の封じこみ圏域)があったではないか。つまり日本人の話した「多大な苦痛を与えた
。」と言うのは加害者としてでも被害者としてでもなく 戦争と言う歴史の悲惨さとし
ての言葉なのだ。それが陳謝や謝罪の言葉がなかったと報道したのだ。この一方的自虐
史観からの加害者とする言葉のこれは誤りである。BPOはそうした事はちゃんとTV
報道の在り方として指導すべきである


69: 名無しさんAA:14/08/19 03:20 ID:zOQ
私の番組評 185


 うーんと唸ってしまった。NHKの作曲家 吉田 正のいつでも夢を。の話である。
 シベリア風に・・・云々・・どこかで聞いたメロディどこかで聞いた歌詞・・・・・
 小さい頃酒の席で 満蒙開拓団から帰れずシベリア抑留に合い 収容所生活してその
 後を木の伐採と共に逃げて帰還を果たした 叔父さんがたった一度か歌った歌だった
 。そしてまさしく彼の叔父貴が一斉に逃げた時一緒の連れだったという。あまり歌な
 んて興味も無くましては作曲家吉田と言われても知らなかったので気にしてはいなか
 かったが改めてその時話してくれた凄まじい収容所の生活実態を思い出した。色々と
 戦争談話は聞かされて育った我々の時代は 例えば水木しげるの様に南方戦線の様な
 悲惨ながらも病気や餓死そして虐めや武器弾薬の無い中派手に死んでいったとする話
 が多い。だが父フィリッピンのルソン島で最後の闘いをしたが既に1945年の9月
 の狂気のペリリュー戦以降 そうした自ら死んでいく攻撃は避けられていて 米軍は
 より深刻に悲惨さや無情のを奏でる最新兵器を開発していた。高度な飛行士脱出椅子
 を備え背後の機銃掃射で貫通しない対ゼロ戦仕様対空掃射が届かない高度飛行のB29
 何者も近づかせない程最大300mもの先を燃やす火炎放射砲を持つ戦車。対日本戦
 の木造家屋専用の水では消せない焼夷弾 対ベルリンの地下壕に近寄れないぐらいの
 原子爆弾などだが そうした一種の科学や技術の戦略に対して以外にも日本人の多く
 は負けて当然の仕方ない戦争をしたと思って戦後の現代史を綴って来た。だが対ソ連
 認識は全くそうした現在系の戦争常識のない世界だった。前近代的で嘘と噂で 数と
 立場でしか連行されて居ない。その上私の父が米軍捕虜として病院で手当てしてもら
 った事に対して軍人でなかった叔父は日本行きと騙された船で夏着のままー40℃の
 極寒の地の線路の敷設の為の木こり穴掘り 製材レール運びの強制労働がまっていた
 のである。毎日30〜50人が餓死凍死栄養不足体力不足で死んでいく様だったろう
 と言われた。その中で叔父や吉田氏は歩いて逃げて生きて帰って来たのである。時に
 人は歌の存在を軽く見る。だが帰還した彼らを救ったのは他ならぬ歌の力であったろ
 う。そしてその確信が戦後の歌謡曲の繁栄でもある。今リバイバルとなる力は其処に
 ある。


70: 名無しさんAA:14/08/21 23:56
私の番組評 185

 放送局は又馬鹿な事を言っている。今度の広島豪雨災害について 土砂危険情報は、
既に3日も前にあったはずだ。それが気象庁の避難勧告の夜の3時になって出たから、
その時出せるか。などと解説者は言っている。既に降り続く雨の中 どこかに避難所を
開設して 自主避難を前日からでも出来る対応をしていなかった事が 大きな問題なの
だ。視点論点をすり替えてはいけない。平成11年に31人に土砂崩れがおこった場所
で 警戒区域 特別警戒区域を設定し 普段から危険設定しておけ と決めたはずだ。
これが こうした事に調査がなされていないと言う理由や 宅地の価値判断で目減りの
為の反対があると言う理由は 全く危ない事や法律まで作った意味がないのである事を
全く解っていない。放送局は行政と癒着したような住民と烏合したような意見を言うな
。あくまでも正しい記録正しい数値 正しい価値をして 正しい意見と正しい行動言動
を伝えよ。


71: 名無しさんAA:14/08/30 04:20 ID:LQ6
私の番組評 188

 なんて馬鹿な人間を集めて議論をしているのだ。朝まで生TVの顔ぶれである。日本
を駄目にした口だけ男竹中平蔵 常識も何も無い宋文洲 西洋かぶれの勝又和代 ナン
センスジャーナリスト長谷川洋一 無能派代表議員伊東ゆかり 舌足らずの森永卓郎 
と いった面々である まともな顔は桜井 充ぐらいなのだが アベノミクスで雇用が
進むかと言う話かと言えばそうでもなかった。まず宋氏だが こんな人間をTVに出し
てはいけない。思想が中国なのだ。全く人の意見を聞かずいつでも意見する粗野で野暮
な規律の無い発言はそもそもこうしたテーブルについてはいけない人間だ。まず竹中氏
の言う海外より数値が低い 新陳代謝がない経済と言うのは全くの誤解した話であり、
勝又和代の おべっかでごますりの西洋流の社会を否定いているのはおかしい話だ。彼
のシティ銀行でさえ中国の共産党幹部の息子を揃えたり 雇われ社長が短期契約で資産
売却に走り企業業績よりは企業利益をはかったりとか実績主義が今やアメリカの憂鬱と
して横たわっている事を知らないらしい。今世界に出ている製品の多くの製品安定度は
殆どが日本発想のやり方で基本にある。勿論斬新な発想はアメリカ発が多いが其れをし
て成功させている。少子化には女性の働き方と保育と自論を張る竹中論は間違いでそも
そも結婚出来ないとする山口氏の意見が妥当な認識だろう古市氏や雨宮氏がワーキング
プア対策を叫び白川桃子がフランスに比べて個人の人権無視の社会システムが問題とし
て意見している。そもそも論で言えば桜井氏が言う様に東京の一極集中が人を摩耗させ
子供を産まない社会にしている。更に竹中氏の言う政治力で都会の金を田舎にジャブジ
ャブ注ぎ込んでいいのかと言う意見には呆れた。今の広島の土砂災害をみてわかるよう
に官僚は特に広島県は其処に災害が起こる事は認識していたはずだ。災害部分は住宅を
申し訳程度に開けている公営住宅や わざわざカーブで切った道路をみてもわかる。こ
の今や山間部の廃村となる部分は幾ら金をつぎ込んでもいいはずだ。東京都などの都市
部の人買いのごとく若者を吸い上げている罪が其処にあるのは一目瞭然ではないか。
問題は注ぎ込まれた金が 本当にまともに効率よく使われているかの筈だ。国会議員や
市町村の有力者の権力や都合で 勝手に変えられる これが今回の広島災害にも 住宅
地の広がり方からは見てとれるようだ。無策のままの広がりである。




72: 名無しさんAA:14/08/31 10:02 ID:hDU
私の番組評 189

 NHKの日曜討論(広島土砂災害を問う)は 全く不毛の卓上論で怒りさえ覚える。
大体自民党はこんなボケ老人大田氏をして何故国家の基軸である国土交通省の大臣に、
任命しているのか大きな不可解のあるの所である。まず藤井氏は法律をあまりに知らな
いらしい。大体住宅の確認申請は県知事や政令指定都市における市長には、それなりの
権限が与えられている。だからこそ其処に事業費が発生し道や造成や計画をさせている
のだ。つまり今回の結果は県職員や市職員の人事課が馬鹿を集めて教育しなかった結果
なのだ。彼らが土砂崩れでの死人が出たのだ。土砂崩れその物は予算執行やら結果的な
気候予報が出来なかった事実においてはしかたないであろう。だが死人若しくは怪我人
が出た事は行政に怠慢があるのだ。事実各種地層データーは県や国に見せて基礎工事が
行われたり強度計算がされている。だがこれらの資料は5年もすれば捨てられるのであ
る。ここが日本の大きな馬鹿さである。実はこうした整理も蔵書もされないこの記録の
資料の開府が何処にも無いのが日本だ。欧米では王室が持つ様々な文化事業である博物
館図書館植物園や美術館動物園を持って分析研究機関して把握に努めては発表している
。更にそれらに競争して 国や自治体が保管と研究開示に努めていてそれらが 人々の
中にも基本的情報として色んな方面に活用されている。今盛んに就労問題特に少子高齢
化や若者の就業更には賃金などが色々取りざさされているが 実はそれらの文化事業こ
そ日本の遅れている部分である。更にその意識が少ないのがおかしいのである。片山氏
は小さな災害を無くすと大きな災害のみで経験値が無くなって脆弱になるなどと言って
いるがそんな事はない。問題はコンクリート工事に過去にある森林や竹藪或いは河川の
川岸の柳や竹或いは雑木が切られては捨てられ管理しようとしない事だ。今回の山でも
全く放置された幼木林である為にこうした災害を起こしている。又蔵治氏が各省庁にあ
る基本台帳つまり土地や森林などの記録が統一していなく又その活用性には全く新しい
記録が無いとしているがまさしく全くその通りである。大田氏の言う脆弱な国土という
のは当らない。脆弱にした開発や滅茶苦茶な国の行政や管理に問題があるのだ。それを
この広島が教えている


73: 名無しさんAA:14/08/31 13:25
 そもそも今回の水害には東京からの報道の仕方が非常に悪意のあるやり方をしている
。と言わざるを得ない。梅雨前線による大水が東京を襲ったのだが 報道各社は大きく
報じた。だがその後台風による大水はそう関係が無い様にある。だが現実的には四国や
長野或いは京都などをみても明らかな様に 梅雨前線の雨量よりはこの台風による雨量
や雨の降り方の方が遥かに被害が大きくまた多雨である。にも関わらず 全国自治体で
その避難先や避難所開設は圧倒的に少なかった。更に今回の秋雨前線の豪雨災害時には
雲の影響からは長崎・佐賀・福岡・大分・山口・広島に明らかに移動する影響で在る筈
なのだが 四国や京都の水量の異常さで 東京災害であった強い非難指示報道は全くみ
られなかった。もし仮にでも 市町村に対しての早めの避難所開設を指導する政府見解
ないしTV局の報道などがあったのなら四国や京都の大水時期に既に対応が出来ていて
当然なのだ。ただ個人的には 今後も充分注意して身を守る命を守る行動を行って下さ
い。との報道はあっていたので この点ではそうした個人への注意喚起はあっていても
公的機関がそこそこの情報を出さないかぎり 何にもならなかった事がここに起こって
いると考えてもいいかもしれない。すなわち多くの市民活動や日常の活動の制限と危険
箇所の指摘である。これらの正確な迅速な報道がなされていたかといえば それらは、
無かったに等しいのだ。今までとおりに馬鹿騒ぎ芸人の番組とあられも無いTVCMの
垂れ流しだし電話回線はオンラインTVゲームのパレードだったのだろう。今後には、
雨の被害のみならず 今や地震が南海沖の火山宮崎地震と北海道地震と小さな地震が起
こっている。こうした地震ににも大きな注意喚起が必要だろ。大体雨台風というに宮崎
やら和歌山などの空模様や風速なんぞを報道しては悦に逝っているところがおかしい。
全く偽りの報道と言える。


74: 名無しさんAA:14/09/17 20:59
私の番組評 190

 最近のTV番組は 見るに耐えない程面白くない。お笑い芸人の食べ歩きが先行して
よくまあ TV局も恥ずかしくないものだ。と常々思う。そうした中で一段と視聴率が
低下しそうな新番組が目白押し状態のようだ。昔ならTV同士か映画ぐらいが競争相手
であったろうが 今やイベントやゲーム更には海外番組にインターネットが競争相手と
なり更に知恵を絞ったもの 教育的なものが必要となろう。そうした中で先駆的に息の
長い楽しい番組がNHKの”ためしてガッテン”や民放の”所さんの学校で教えない・
・・」などであろう。TV界と裏腹に科学界は今や興味深い真実が目白押し状態で発見
され検証されている。これらはそうした最新情報を解りやすく庶民用に解説したものだ
。あの池上氏や林修氏の番組も結局は 時節の情報だったり教育の情報だったりの情報
番組とすれば、これからも多分にそうした視聴率では情報番組しか生き残れないであろ
う事が言える。つまり人は興味では千差万別だが 今が知りたいとすればこの番組を見
たり聞いたりするのが義務のように遅れを取るだろうからだ。その意味ではクローズ・
UP現代が時節が早すぎて今一の気迫と検証が不足しがちである。がそのためして合点
なのだが 今度の放送は今年からの始まったアジア人向けの「サルコペニア研究」を報
じている。サルコペニアとは日本語で言うところの筋肉減少現象の事だが、これが意外
にも多くの蔓延する病気のもととなっている事は意外に知られて居ない。筋肉の衰えは
その分脂肪分によるメタボや糖分調整機能の減少などが起きその後の病原菌へのリンパ
による攻撃が持続しないなどが起きるこの事は今の介護施設が如何に老人達の自立阻害
に向かっているかを示している。即ちあるべきスポーツジム的施設や筋肉関連や血液の
分析などの科学療法的措置を全く行っていないのである。政府もそうした指導をせずに
一様に料金配分や医者の提言による介護度決定をしていて全く府に落ちないが 今後は
多分に科学的見地からの是正に変わるであろうと思われる。


75: 名無しさんAA:14/09/22 22:07 ID:fD2
 日本バトミントン協会は何を馬鹿な事を言っているのか。会長が「不利な風にも対処
しなければならない。」などと言うのは バトミントンをしらな過ぎる。即時会長辞任
すべきである。一般的球技や屋外競技であるならばいざ知らず 「故意にやった事はな
い。」などと自ら説明する事が故意にやった証左である。更にバトミントンの競技中に
風力調整を行うなんて事は 許される事では無い。特に韓国である。ちゃんと抗議すべ
きは抗議する。これが国際大会のルールである。通らない抗議であってもバトミントン
を愛する者で 更なる良好な大会運営を望むならば この試合が無効である事を主張す
るべきである。これがスポーツマンシップであるはずだ。ちゃんと運営舞台の不備の指
摘は非難するべきである。それは政治的に朝鮮とのこじれがあっても関係ない事だ。
もし大会運営委員会ないしこの国際バトミントン協会が受理しないのであれば それは
それでそういう姿勢である事も大きく発表すべきである これがスポーツの正道である
事なかれ主義という邪道を行くな。選手ないし大会運営関係者はより好い大会にする為
頑張っているんだ。事無かれ主義で波乱を作らないと言う事はこれを無駄にする行為で
大会に対する背信行為である。


76: 名無しさんAA:14/09/27 02:08
私の番組評 191

 TV局は いつまでたっても御笑い芸人達の出演を止めさせない。まったくあきれた
ものだ。これではBPOでも開いた口が塞がらないであろう。先日のゴリパラ見聞録と
マサカメTVを見た どういう事でこうした仕方のない人道のない者らを登場させるの
か不思議である。ゴリパラでは普通にいたずらして仲間での虐め行為である。いま流行
のユウチューブの投稿録画ならまだしも 不特定多数に放送し広告主がいる世界である
全く呆れてしまう。マサカメTVでも同じである 何ゆえにこうした映像を取るべきな
のか わざわざ料理研究家を路上に器持たせ立たせて そしてレポーターが通り過ぎる
というのである。民法でもNHKでも こうして人の不道徳を広め人を小馬鹿にした様
なつきあいを常識化させては 少年少女を過酷なつながりの日常にもっていっているの
である。お笑いのお笑いでのステージでの話では当然必要なのだろうが 一般番組の中
でレポーターが 或いは普通の情報番組でコメンティターがわざわざおかしな行動と非
常識な行為をさせる必要がどこにあるのだろうか とても子供に見せれる番組ではない
更には家族で見るべき番組ではない。 この普通の番組であるこの番組でしてこうであ
る。ましてはバラエティやら 深夜特選番組では とてもとても見てられないぐらい醜
くあって 人を間違わせて止まないものだかりだ。ディレクターの非常識が年々増加し
ては止まないが TV局の上層部は全く危機観や自浄能力はないのだろうか。




77: 名無しさんAA:14/09/30 02:29
私の番組評 192

 クローズアップ現代は 数少ない良く解説した番組だが 今回の木曽の御嶽山噴火に
対する解説には物足りない気がする。問題の視点が少しずれていて もし仮に事前に、
自治体に 異常活動情報がなされていたとすれば 今の入山規制をまだ細かくすべきで
10段階ぐらいまで増やす必要があるのではないだろうか。仮に今のままの5段階評価
レベルでいけば 1の通常から2の入山規制という踏み段の高い物になってしまいがち
で 例えば1.5の 酸素タンクや防護マスクやヘルメット持参の人のみ入山許可する
とか 夏や冬では規制するとか そうした方法が出来ないのではないか。というのが一
般的意見ではないだろうか。行政にしてもそうした専門家にしても こうした事故或い
は突然の噴火若しくは大噴火は かなり予知は難しいし責任論からも起きると発表して
起きないとの意見を言っても責任が持てないのではないのではないかと思われるのだ。
その意味でも その階段を低くしたレベルの段階発表が必要と思われる。それは結果的
に今の行政が行う判断の手助けとなるであろう。常に公務員の保身は付きまとい人々を
危険に誘う。だがそうした事は常であり 人はそれを非難する事は出来ない。なぜなら
ば 自然現象の特に病気や死或いは老いる事に関わる事は 誰もが予想だにつかない事
で突然やって来るものだからだ 例え知識はあっても体力や気力或いは環境が想い通り
である事はまずない。今回もこの噴火する噴煙に火山弾が飛んでいく事までは誰でもが
想像できていたであろう。だがその後其れがすぐ傍に無数に落ちて来て 周りを暗闇に
するほど覆う中 走り行く自分より早くまとわりつき 一瞬のうちに硫黄ガスが充満し
死に至らしめる事を そう簡単に解り得る人は一人も居なかったはずだ。危険だから、
とりあえず非難しよう。危険だから頭を防護しよう そうしたとりあえず逃げて離れた
人が生きて下山したのみであり その時は多分誰でもが自然の大きさに圧倒されていて
 周りに危険が無くなって我に返って初めて その逃げ遅れた時の状況が解るぐらいで
あろう。人間とはそうしたもので 先が見えている様で見えていないのである。よく人
や他をあざ笑う人が近年増えているが 実はそうした人ほど見えているふりした無明の
人達なのである。悲しい事に其れが現実なのである。この火山の5段階評価もその意味
では よく出来たアジテートに見えるが 案外粗野でもっと考慮すべきものなのだろう




78: 名無しさんAA:14/09/30 03:54
私の番組評 193

 近ごろTV界に不思議な現象が起こっている。素人芸人のてんこ盛りと言った状況で
ある。何故素人芸人と言えるのか。例えばトータルテンボスなる芸人が今や髪を切った
状況でTVに出ている。これは不思議な事だ。本来TV界でも映画界でも芸名と言う物
を使う以上 芸人を見ているのであって個人を見ているのではない。歌手であっても、
俳優であっても其れは同じで その芸人の個性は全く見せないし見ていない。つまりは
作られた形作り上げられる環境の姿を 視聴者は見ていると言うのが一般的常識である
。つまり矢沢栄吉がその名前やサインや姿にゆるい商標登録して特許を取っているとい
う事と同じでその撮影されたポスターでさえ 本来コピーしてはいけない物なのである
。ところが不思議なのは御笑い芸人達がそうしたレポーターやTvキャストとして活躍
しながらも 例えば激辛を喰わされたり 髪を切らされたりしている。これは人権無視
であり こうした芸能活動を許している会社は潰されるべきである。もし必要以上の、
TV局の散発の強要としたらそれは恐喝であり暴力である事を認識させるべきなのだ。
この素人芸人達が 飯を喰うつまり商売として従うしかないと言うのは全く解せない話
でそうした低俗なTV局は公表されるべきであるし そうした印象なりイメージすらも
大事にしない行為には巨額の慰謝料なり賠償金を背負わせるべきである。なぜメイクさ
んやスタイリストさんや衣裳係や小道具係のいるスタジオが必要か。それはTV映りの
為である。このTV映りはその行動やイメージにも特権と制約があってしかるべき権利
であり それを自らにないがしろにしたゲームや虐め似た表現はTV局自ら慎む行為で
ありその規制は当然のはずなのだ。誰も無法者のイスラム国のような衝撃映像を求めて
はいないのである。



79: 名無しさんAA:14/10/17 22:39 ID:C.w
いざ酔い いざ並み いざ晒場 30

 又韓国で事故が起きた。韓国人らしい韓国での韓国ならではの事故である。韓国人の
26人ほどが30mほど落下したらしい。 ニュースには ソウル近郊、京畿道城南市
の野外公演場でガールズグループの公演中、会場にあった換気口の蓋がはずれ崩落し、
乗っていた観客が転落した事故で、消防当局によると現在16人の死亡が確認された。
重傷者は10人。と伝えている。 重傷者は近くの病院に搬送され治療を受けているが、
けがの状態が深刻なため死者はさらに増える可能性がある。事故当時、ガールズグルー
プのフォーミニッツが公演中で、会場では約700人が観覧していた。観客の一部がやや
高い位置にあった換気口のふたに乗って観覧していたところ蓋が崩落したとみられる。
と言う。映像では地下駐車場の排気孔らしいものが1mぐらいの壁に囲まれてある中に
立っていたものと思われる。更にこの会場が野外コンサート会場でなく特設会場であっ
たらしい。このやや高い位置にあるやや危険性の高い。といういい加減さで良くも悪く
もない作りの会場に、良くも悪くもないコンサートが開かれ、良くも悪くもない立ち見
客が落ちて死亡したのである。まるで日本の田舎のお祭りと同じである。この事故の死
者は自己責任と言や自己責任であるし 開催主催者の不手際といや不手際でもある。更
にこの上向きの通風口で人が昇り降り出来るもので下に何メートルも落下の危険のある
所に只の歩行用グレーチングである。こんな簡易な馬鹿な施設を作ると言うのも設計の
思想いい加減さが韓国人らしいのである。金の亡者としての危険性の認識の少ない常識
。これが通用する社会システムであり 今までそれを強要し更に金の居るような最悪の
事態を作る。一連の事故や大事故とこの事故は全く同質のものであり 其処に今や検察
や裁判所すら 全く考えられない国際的に通用しない常識や思想がある発言や行動を起
こしている事と まったく同じものであり これは韓国人が何人死のうが仕方のない事
であろう。竹島占拠・仏像返還拒否・セール号事故・地下鉄事故・慰安婦像問題・日経
特派員の告訴・etc・・・全く同質の全く世界とは異質の世界観のなせる技である。


80: 名無しさんAA:14/11/02 11:44 ID:Fks
 争乱を焚きつける05

 この頃の政府の甘えは一体何だろうか。北朝鮮の拉致被害者問題では 何のために、
一体どういう日本の思惑が在って 北朝鮮まで行って会談してきたのだろうか。全くも
って何ら成果がない。この日本人と言う真面目で律義な性格の民族に対して 北の政府
は舐めた真似をしてこのまま済むとでも思っているのだろうか。分析力も国際協調の力
もない物とは思っていたが 今後北に襲いかかるであろうと予測される数々の困難には
恐らくまず日本は支援する必要がないだろう。真面目に考えて今年の冬場は北朝鮮には
豪雪が襲いかかるであろう。それは中国の大気汚染問題が解決するまで続く。更には、

81: 名無しさんAA:14/11/02 11:45
 北の政府
は舐めた真似をしてこのまま済むとでも思っているのだろうか。分析力も国際協調の力
もない物とは思っていたが 今後北に襲いかかるであろうと予測される数々の困難には
恐らくまず日本は支援する必要がないだろう。真面目に考えて今年の冬場は北朝鮮には
豪雪が襲いかかるであろう。それは中国の大気汚染問題が解決するまで続く。更には、
今のアフリカからやってきたエボラウイルスは中国では蔓延して止まないだろう。勿論
中国政府も必死になって封鎖と殺人を行うだろうが エボラに特効薬はない。いまでも
ウイルスは進化しているだろうし危険性は高まっている。今のところ中国政府やWHO
のアジア地域全体監視でも、エボラ出血熱の感染は確認されていない。しかし中国政府
は既にエボラの流行が深刻な脅威を与えていることを認めている。これを受けて中国自
らアフリカに実験ワクチンJK-05を数千回分送ることを決めている。JK-05は、中国軍向
けに中国の軍事医学アカデミーで開発されたものとされ、エボラ出血熱の治療薬として
の臨床試験は完了していないものだが 今回中国の広東省衛生・計画生育委員会の陳元
勝主任の発言でも、エボラ出血熱の流行地域から戻った人を対象に検査を行った結果、
既に43人が陽性だった。と発表している事は かなり深刻な問題で43人がどういう
接触がはかられて 何処まで感染して隔離されているかは不明のままだがこの臨床試験
に回されたらしいが 日本さえ完全隔離の診察室が無くて臨床試験が不可能なのにそれ
が行えるとはとても考えられない。更にロシア発表の「広東省では今も3000人以上
が、エボラ出血熱に感染している疑いが持たれている。」と予想は当らずとも遠からず
の中にあり 隠れて渡航している者と接触感染した村では封鎖は簡単でも封鎖した軍部
ないし死体処理班すらも感染する事になるであろう。つまり既に水際での対策に失敗し
ている事を示している。更に食肉の流通過程でも胡散臭いものがある。加工において、
一旦入り込めば日本でも流行らないとは限らない。恐らく日本の前に韓国で死者多発と
なるであろうが 流通関係或いは食肉加工場の繋がり更に旅行や観光客の出入量や習慣
としての食肉の食べ方を考えれば 日本にもやって来るだろうがその前に周辺国に現れ
るだろう。


82: 名無しさんAA:14/11/02 11:46
 また 今回年金機構に対して日経新聞はGPIFが国内株の目標値を20%台半ばへと
大幅に引き上げる方向で調整に入ったと報じた。今月下旬にも運用委員会で決める新た
な資産構成で、外債と外株も合計23%から30%程度まで高める一方、国内債は60%から
40%台に下げる方向だと伝えた。年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)は近く
公表する資産構成見直しで、日本株式の目標値を倍増させ、国内債券は40%に引き下げ
ると、市場関係者は予想する。5月の予想調査と比べ、日本株は4ポイント上方修正さ
れたが国内債は同水準だった。又ブルームバーグ・ニュースが22日−28日に運用担当者
やアナリストら12人に聞いたところ、現在12%となっている国内株の目標値は24%(中
央値)と予想。5月の調査では20%だった。両方の調査に答えた6人中、5人が予測値
を上方修正した。クレディ・アグリコル証券やバークレイズ証券は市場の期待が高まっ
ている分、発表後は短期的には日本株売りが膨らみやすいと読んでいた。実は米国では
FRBが量的金融緩和策の打ち切りを10月終了と決定した事で ドルの利上げを見越
したドル還流が一段と速くなる見方があった。資金需要に対してマーケットは強いドル
を望んではいるが 景気指数は改善はしてるもののほぼ横ばいの状態のままで米国株が
既に高値取引の中伸びる理由がないのに最高値を記録している。一方日本株はあまりに
安い。だがここに来て一機に日銀の追加金融緩和策を発表した事で好感を得て寄り付き
から大幅高となり、優良株で構成するNYダウ工業株30種平均は一時、前日終値比200.
12ドル高の1万7395.54ドルと、約1カ月半ぶりに取引時間中の最高値を更新した。この
事でロンドンも又銀行株が急伸し、バークレイズが18.25ペンス(8.20%)高の240.
80ペンス。業績改善が伝えられたロイヤル・バンク・オブ・スコットランド(RBS)が
22.70ペンス(6.21%)高の388.00ペンスと値を飛ばした。と伝えられる。外国為替
市場も又米欧に対して円相場が下落し、2008年1月以来、約6年10カ月ぶりに1ドル=112
円台を付けた。エコノミストは「米国が利上げを探る時期に入ったタイミングで日銀が
緩和に踏み切ったことで、安心感がある。低金利を背景に今後も住宅や自動車の購入が
期待され、米景気は押し上げられるだろう」との見方を報告している。



83: 名無しさんAA:14/11/02 11:46
 だがノーベル賞経済学者のポール・クルーグマン教授は、ニューヨーク・タイムズ紙
上で「欧米は日本以上に深刻なスランプに陥った」と悲観的な発言をしたばかりである
。 現在のヨーロッパ経済について、エコノミスト誌は「この6年間で3度も不況に陥
る瀬戸際にいる。」といい、既にユーロ圏の8ヶ国で物価が下がっており、地域全体の
インフレ率は0.3%に落ち込み、今後マイナスに転じる恐れもあるという。この確実
に「スタグネーションとデフレに向かっている」と言う話は深刻である。これもでも、
日本批判でうつつを抜かしていた同誌は、日本のデフレに対して批判と叱咤を方便とし
ての論評に終始していたが、日本のデフレは世界経済に与えた影響を「良くないものだ
が、終末的というほどではなかった。といい今後にユーロ圏がデフレに陥れば、日本経
済の様に「孤立した限定されるケースではなく、世経済界にずっと大きな悪影響を与え
るだろう。」と予測している。更に「均質でストイックな日本社会とは違い、欧米諸国
は手をたずさえて経済の停滞と物価の下落に耐えることはできないだろうとも論じてい
てかなり薄気味わるい。「我々は今、日本に謝らなければならない」と心情を告白しな
がらも、今後デフレによって需要が落ち込めば債務不履行が増え、1930年代の世界大恐
慌と同様の危機が襲うだろう。と具体的な注意を喚起している。ここに近代経済学の嘘
が暴かれ 宇沢氏が唱えた理論経済学の正解だった事が歴史として証明された形が出来
上がったのである。所謂今の経済学は欧米で唱えられた等価原則に基づいた新古典派的
経済学やケインズ経済学、或いはマルクス経済学を近代経済学としてきた。日本の大学
ではマルクス経済学の勢力は強く、国際的アカデミズムの場においてはケインズ経済学
者がほとんどで近代経済学の遺物をもって 新たな現代経済学を数式化してしまう。こ
れは科学や化学の世界と同じで 誤差や許容値をあらかじめ決めつけておいて 現場の
状態やら時間的タイムラグを外し 純粋にそのもののみを見た視点でしか物事を掴まな
いでそれをそのまま費用対効果としている経済学である。対して宇沢氏の唱えた反経済
学とされたものの本質は総合経済学であり 4次元空間に位置している複数の糸を前後
の位置を決めて複眼化した視点でしか考えない事を強要し 普通の欧米人には無理のあ
る数式が羅列された経済学である。



84: 名無しさんAA:14/11/02 11:47
 ミルトン・フリードマンのなどの唱えたマネタリズムなどは足元に及ばない程正確で
あり人々を示唆している。かつて昔江戸時代にあった米相場をして市場とした鼎足の法
からの進化であろうがそれらの方法は日本に於いてはおよそ飛鳥時代以前からの物とも
とれる。まずは今の近代経済学が人の生活において経済成長至上主義という効率化第一
を至上命題とする弊害を宿している事が 逆に人の生活に呪縛霊のごとく取りついてい
る事がその全容を隠している一番の要因でああろう。例えば 効率というものを取った
時 基本的には人が一番効率的仕事と言う物は何かと言えば自然界のままに生きる事に
なる事である事に注目しなければならない。つまり例えば「配達」と言う限定された中
での経済的と言えば車で自由に走り より早くより的確により遠い所まで安く、安全に
早くと言う事が唱えられる。だがそれは本当に効率的かと言えば全く非効率である事は
現代社会が示している。つまり車を設計し造り走らせ保険をかけ燃料を入れ運転技術を
覚え更に道路を造り其れを管理運営して初めてその荷物は届けられるのである。これが
分業化して見えなくなっている事が現代流の特徴でもある。ある計算式を取り入れれば
効率化した最大効率運搬は 一番大きい距離で一番速く一番高い価格の更に最大の利益
その独占的地位を持つ物となる。と、当然国家が行うロケットとなるが これが大きな
大赤字の国家事業で在り更にスペースシャトルが無くなった事からもその要因の高さも
知れよう。つまりこのロケットで得たものが 一体どんな経済的利益を与えたかと言え
ば何ら与えてはいない。通信であれ映像であれロケットそのものは運搬のみで衛星機器
が果たしている役割なのだ。ここに近代経済学と現代経済学の垣根があり宇沢経済理論
の秀逸した現場主義経済の卓越した視点がある。即ち滔々と市場原理主義という市場に
任せれば何でも均衡してうまくいくと言う非常識理論がまかり通る。この哲学において
人は欲望のままに投資しても市場が作る経済体制が上手くかのような錯覚を起こさせる
。これがリーマンショックで解る様に全くデタラメ理論である事は立証されている。基
本的に、欧米流の経済学では一定量の絹の生産に10人の労働者が必要で綿に5人とす
れば同等の布地で綿が2倍の効率とされる。更に金融資本でも希少価値のあるダイヤと
そこいらの石ころではダイヤの方が価値が高いとされる。だがこの基準そのものがまず
間違いである。その意味では人は希少価値どころか同じ人はいない。それでも評価され
区別され順位が付けられる。


85: 名無しさんAA:14/11/02 11:47
 人間を物の価値として見るなんて・・などと言う声が挙がるのかも知れない。だが実
際はこの欧米型経済理論や経済学者は実は古い奴隷制度の中で 人を物とした奴隷を見
てその労働力を如何に発揮させて自国を守るかと言う形から生まれている。その中から
より利益を上げる為に貸付制度や株式制度更に貿易制度などを決めて行った経緯がある
。一方日本での経済学はそうした狩猟的罠や餌の感性は少なく、農耕民族の為か共済と
布施や観測からの天候や状況に応じた施策などから経済学が成り立っている。実際的に
は欧米型あるいはバベル型の経済理論の方が特殊でエジプトでもマヤでも黄河であって
も其処にある経済学は殆どが地域特性を如何に掴むかによって 国を守ろうとしている
。又市場の流動性価格も米相場にしても 価格変動を避ける為作られたものであり今の
投機的心理と不可分の経済学などは全く異質で市民生活の環境としては成り立ってはい
ない。これが現場経済学の意義にある。即ち人の生活を良識に導けなければ経済学とは
ならない。と言う事だ。良く品質管理のやり方に色んな方法が産まれている。抜き打ち
検査としての管理やロット事の定量検査あるいは 各個全てを調べばらつきを知る方法
などだがいずれにしても その検査や数値に間違いがあればそれが用を足さない。そこ
で上下最先端の数値を外して割った平均値を品質としたり偏差値を取って今の位置を確
かめると言う方法だ。だがしかし今の経済論で 利益優先主義を取れば メラミン入り
原料で粉ミルクを売る。或いはクズ肉に残飯入れて地溝油で揚げて食品とする。又は究
極の薬として排泄物を利用する。などは 確実に西洋的錬金術であり最高のものだろう
。こうした思想これがリーマンショックを起こした事は間違いない事実である。そこに
人の許される筈が無い行為や道義的責任論が ぽっかり穴があいている事実だ。これが
フリードマンと宇沢の理論の違いである。「経済発展の欠陥をひと言にしていえば、経
済活動と環境との相克をなしている中で 狭義の経済的規範によって処理し、環境の果
たしている文化的、社会的な機能について無配慮である事は 経済学の基本をなしてい
ない。」と言う言葉通り 竹中大臣が行った日本を狂乱させ銀行は殆ど失笑に値する悪
政でしかなく 経済を論じる基本も無い戯言だったのだ。



86: 名無しさんAA:14/11/02 11:48
 投資で言えば 例えば人が子供を産み育てる。あらゆる意味でその子供達は唯一無二
の存在であり価値ある物であるはずだ。又人は他人と家族の違いを認識しているし、人
それぞれの能力や性格或いは環境と言語などでコミュニケーションの変えて付き合って
している。だがこの価値に於いて 経済学者はどんな数式と価値を提言しただろうか。
全く行っていない。唯一哲学者が「子供は人類の宝。」とした意見を言っていたのみだ
。だが現実的に 少子高齢化の波と現在から未来への負荷に多く意見がある。だが本来
子供が多い少ないは経済理論にはならない。問題はその子供への環境が未来社会へ貢献
するか 生活がやさしい豊かな社会になるか向上した暮らしとは何かが問題であり、仮
に貸し剥がしした銀行団が下町の三ちゃん工場を潰しに潰した事の方が大きな経済理論
となるものなのである。つまり個々の現場で何処までが人々の欲望が許されるかの範囲
が基本的に経済理論の本質なのである。その意味では大きく逸脱した行為や技術的解消
が成されるかどうかで変わるのである。これは車が排気ガスを出す事と同じで 車種に
よる環境負荷と社会生産には、複雑にして単純数値化出来ないものを示している。が今
では燃料電池車まで登場した。だからと言って天然のアマゾンの熱帯雨林が全て伐採さ
れて商用化していいのだろうか。世界の肺とするこの地はこのところ開発が急激に進む
。原子炉問題でも同じで 原子炉が人類の進化の過程で出て来たものなら我々は克服す
べき努力義務が当然あるのだ。かといってかつての日本列島に53基も稼働していたと
言う危険を顧みない欲望の淵ではあまりにもむごい物だ。時間軸から勘案しても3基程
の稼働で止めおくべきで発展するべきだろう。更に国債発行でも日本の今後を考えては
既に発行を止めるべき所だろう。基本的に人の欲望は経済の原動力である。だが未来の
子孫までも考えての経済こそが経済の柱である。となればその教育によっては変わる事
になる。一般的に商取引に強要や威嚇更に傷害や殺人などが許されるならば其れは経済
ではない。つまり今のイスラム国問題が経済に及ぼす影響はあっても世界経済の一つと
はならないのが基本なのだ。同じ様に竹中改革が日本の大きな失敗であった事は 今の
黒田総裁の景気浮揚の金融政策でも景気が取り戻せない現実が証明している。


87: 名無しさんAA:14/11/02 11:48
 北朝鮮との協議でも 何故あんな学者肌の野生の感性のないような伊原氏を送ったの
だろうか。大体窓口となるべき北朝鮮の特別調査委員会の序列1000番以下とされる
徐大河委員長らと協議を行った事自体が全く間違いである。訪朝は果たすべきであろう
が 訪朝する以上は全権代理大使をたてて 机を蹴って物別れに終わっても責任を取る
ぐらいの気迫と度量のある人物を起用すべきであったろうし 中国側がロシアガス協議
と共に北に原油供給を再開した事位は知っての訪朝であるべきである。全く操り人形に
もならない 決断して提言や話し合いの出来ない者と会ってどうする。伊原氏はこの日
本国民の期待を担っていながら今回の成果のない結果において辞職覚悟があったのだろ
うか。もし無くての訪朝ならば安倍内閣は解体すべきである。任命責任において幼稚す
ぎるのだ。それは消費税問題でも同じだ。海外において国内論議を尽くさずと言うより
煙さえたたないものに火をつけての発表は全く違法でしかない。GPIFという政府系
保証年金機構問題も 未だ年金記録問題は解決していないし 記録是正に受け付けた係
員がその不正に受け取った職員その人であった事には絶句するばかりだ。何故社会保険
のこの職員達の総解雇しなかったのか。何故過去の記録問題に対して発表がないのか。
全くいい加減である。経済とは生き物であるなどと言うが 生き物ではなく如何に発展
に寄与する人間を育て創出するかである。日本に於いては起業家は少なすぎるし、国内
で違法な外国人労働者が多すぎる。TVで宝石や金を買うインド人や旅行案内する中国
人などが映るが 彼らは旅行業の許可や古物商の許可のないままに働いている。全く、
この国の官僚たちは 日本人向けには厳しく天下り先を作っては規制するが 海外の人
には甘い。例えばあのアイホ−ン販売に関して中国人バイヤーが駆け付ける事位わかる
はずだろう。だが警察指導もなく警察警備の配置もなく更には馬鹿な日本人がその片棒
をかついで働く事まで起こっている。経済力と言うのは原資の力関係でしかなく、その
為に日本ではトラスト解体財閥解体をしたのである。盛んに価格合意に対しての闇カル
テルとして啓発告発し検挙してる割には全く統一した政府見解が全く無い。更に議員の
小渕氏の今度の記載ミスの問題でも 全く襟を正していない証拠である全議員の責任で
あり公費の無駄遣いの象徴である。献金をやめるべきであり給与他は全て支出入の公示
は義務つけるべきなのだ。



88: 名無しさんAA:14/11/02 20:57
 クルーグマン教授が指摘するとおり、リーマンショック後の欧州や米国の状況は、「
日本の失敗が霞むほど酷いもの」となったと伝えられる。だが敢て言うならクルーグマ
ン教授の云う欧米の当局が日本以上に「起きるはずではなかった数々の失敗を積み重ね
たからだ。」としているが、少なくともリーマンショック直後の世間の評価や経済学者
の多くの意見はそれと真逆であった。特に欧米の金融当局は「日銀の失敗」を教訓にし
て積極的な金融緩和で「日本のようになるのを防いだ。」として、一部というより大勢
の人々には「日本化を防ぐ有用な手段。」賞賛されたし、インフレターゲットの政策を
取り上げては「日銀は今からでもこの世界標準の政策を見習うべきだ。」などと言う記
事が踊っていた。がしかし今では、そういった声が変わる程欧米の状況が「日本の失敗
が霞むほど」酷いものだと明らかになって来たのだ。それにより逆に欧米の当局が日本
以上の数々の失敗をしたという声に取って代わられる事になったのである。が当初から
グルーグマン教授達が「出来るはずのなかった」政策を期待していたにすぎない、とい
うほうが当てはまっていて 欧米共に自由主義資本経済国家であり議会制民主主義制度
を取っている。従って金融当局の決済のみで出来る事は限られているしば「効果が出る
まで緩和し続ければ絶対に効果があったはずだから、それが不十分になってしまったこ
とが失敗だ。」などと言う意見も「ある程度の規模の金融緩和なら実施可能であり、そ
れで足りるはずだったが、実際にやってみると期待していたほどの効果が出なかった。
しかしながら効果が出るまで無制限に緩和し続ける、みたいな政策は反対の声が強すぎ
て実施できなかった。失敗したのは反対した人間のせいだ。」と言う意見も一つの見方
に過ぎない。結果思う様に好転しない経済が今も尚続いているが それは天が決められ
たレールとも取れる。もともと二律背反での中の人間の生活状態である。出来る限りの
自然との調和や自然の法則に影響の少ない方向性につかなければならないのは原則であ
る。その為には労働時間の短縮と開発行為の減少化更に通貨価値の物の価値の上昇化を
図る必要性がある。対して大店法の撤回や技術の革新グローバル化となどと言う西洋化
はその妨げでしかない。それによる温暖化が今やエボラの流行にも影響している。


89: 名無しさんAA:14/11/11 02:47
私の番組評 194

 今回冨田選手のカメラ問題で バラエティがコメントを出している。いい加減にしろ
といいたい。記事には『お笑いコンビ・ダウンタウンの松本人志(51)は9日放送の
「ワイドナショー」(フジテレビ系)で、「○×の札を上げるとしたら、残念ながら×
ですかね。非常にクロに近いかなと思ってしまいますね」とばっさり。カメラをカバン
に入れた“真犯人A”がいるという主張には「どこのだれが何のために入れたんや」と
突っ込んだ。』とある。 この松本はまずTV業界から引っ込めるべきであろう。全く
職業と遊びを間違えて人生をすごさせた悪意が このTVの中にある。知りもしないし
知ろうともしない自らの知識で 馬鹿な映画や馬鹿なコメントの連発更に虐めに特化し
たお笑いなんぞ 違法どころではない公共の電波の汚れそのものではないか。芸能界や
TV局は 町での演芸場の御笑いと一緒にするな。一つの部屋でやって来る観客と共に
カラオケのように共感すればいい舞台はそれはそれで結構だろう。だがひとたびプロの
登竜門として 映画やTVあるいは芸能界人と名をはせたからには 其れなりの良識や
見識更に常識は問われて当然だろうし 一芸に秀でているとして世に出すからには そ
の偽るさる所を見せるのが筋であろう。全く上から目線のコメントと横柄な態度さらに
は殴る蹴る罵倒する嘲笑するがお笑いなどと思っている吉本興業なんぞ出すべきではな
い 世の風潮を悪くするのみではないか。一般大衆への影響の大きさを少しは考えよ。
TV局も 自らその映像特権の地位を落とす行為は慎むべきである。今やその堕ちて自
堕落な映像に誰も見向きもしなくなってきてるではないか。そこいらを少しは見極めよ
 更に言えば この仁川大会の この時の行為と状況は一部始終tvカメラに収められ
放送してるではないか その映像を確かめよ。冨田選手のいう男が近寄ってきている姿
はちゃんと映っている。



90: 名無しさんAA:14/11/11 03:05
私の番組評 195

 韓国歌手RUI(イ・スンチョル)が、羽田空港で抑留された心情をニュース番組で明
らかにした。(提供:OSEN)  イ・スンチョルは10日に放送されたJTBC「ニュースル
ーム」で電話インタビューをおこなった。
 抑留の理由について「急に別室に連れて行かれた。理由を聞いたら『最近メディアに
出ていた件で』と 言われた。急に話を変えて23年前にあったことを言い立てた。理解
できない。私が思うには独島 (竹島の韓国名)のことだろう」と明らかにした。
 またこれからの日本での活動について「元々、日本での活動をそんなにたくさんして
はいなかった。大韓民国の国民として独島問題を見つめてきた。これから国民参加を督
励する独島行事に積極的に参加していこうと思う」と決心を語った。
 さらに「これはとても深刻な問題だと思っている。一体、韓国をどう思っているんだ。本当に 憤慨した」と心情を吐露した。
 イ・スンチョルは9日午前、日本の知人から招待を受け、アシアナ便に乗って羽田空
港に到着 した。到着後、釈然としない理由で入国管理局に4時間ほど抑留された。
これは最近、独島に上陸して統一ソングを発表しており、それが多くのメディアに報道
されたことに対する報復及び標的性入国拒否とみられ、批判されている。

と伝えられている。何故逮捕拘留起訴しないのだろうか。赤サンゴの密漁問題でも或い
は尖閣の漁船衝突の問題でもそうだが 日本人日本国特に東京や大阪は勘違いしている
。日本の法に乗っ取れば 極めて重い重罪のはずだ。例え日中間に交わした密約により
東アジア海域の漁船の通行を犯罪者としない扱いを結んでいたとしても 拿捕し裁判し
その行為が正しいかどうかを明らかにする事は 国際法に触れる行為ではない。外交が
下手だから 刺激しないでくれなどと言う官僚の声で押されては国民は治められられな
い。なぜ国民に厳しく外国人にこんなに甘いのかふしぎである。環境保護法も国家基本
法もない無法国家と同じではないか。

91: レミー:14/11/12 14:17
貴方に幸運を与えます。
0155-25-1284まで
お電話お待ちしてます。

92: 名無しさんAA:14/11/30 18:22
  人一人

大塚ホールディングス会長の大塚明彦氏が、2014年11月28日死去した。77歳。
1937年徳島県生まれ。60年に父・正士氏の経営する大塚製薬工場に入社、以後「ボンカレー」(1969年発売)、「ポカリスエット」(80年)、「カロリーメイト」(83年)などのヒット商品を手掛ける。1976年に大塚製薬社長に就任(98年退任)、2008年から大塚ホールディングス会長を務めていた。後日、お別れの会を開く予定。


 ウスクダラトルコの田舎街 街中美人が歩いている 
一人の女がやって来た 噂の翡翠の指環を目指し

 酒にも酔えない寂しい晩に 愛する女が扉をたたく 
誰にも言えない打ち明け話 男はびっくり驚いた

その夜の出来事噂とおり  女の正体摩訶不思議
町中のみんなに頼まれて 男は事件に乗り出した

ウスクダラ恋など出来ぬ町 情けを知らないトルコの風よ
愛する女のアリバイ崩し いやいやそれは御勘弁 男は町から逃げ出すつもり

Uskudara giderken aldida bir yagmur
Uskudara giderken aldida bir yagmur
Katrbimin setresi uzun e tegi camur
Katrbimin setresi uzun e tegi camur


93: 名無しさんAA:14/11/30 20:42
 黒田如水

 老子曰く

 上善は水の若(ごと)し。
 水は善(よ)く万物を利して争わず、
 衆人の悪(にく)む所に処(お)る、
 故に道に幾(ちか)し。

(最上の善なるあり方は水のようなものだ。
  水は、あらゆる物に恵みを与えながら、争うことがなく、
 誰もがみな厭(いや)だと思う低いところに落ち着く。
 だから道に近いのだ。)

94: 名無しさんAA:14/11/30 20:56
踊る大捜査線での名セリフ「事件は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きてるんだ
!」とは 青島刑事が言った名言です。これは犯人確保のチャンスなのに上層部が自分
達の手柄にしようと「本庁の捜査員が行くまで待て」と青島に命令したからです。なか
なか確保させない上層部がいる会議室で起きているのではなく 事件は今、現場で起き
ているということです。

その後のドラマでは これがキャリアの間でも噂になった事で。 シリーズ2では管理
官となった沖田が青島とすれ違いざまに「事件は現場で起きているんじゃない、会議室
で起きているのよ」と鋭く放った。会議室で命令したことだけを現場にいる捜査員は
すればいいという 上層部の管理官沖田の考えを言ったのでしょう

これを古話に例えれば 『上膳は水の如し』となる つまり一番下の現場 政治で言え
ば庶民や労働者の場所に 真意があり其処が善くならなければ世界は良くならない。そ
して其処に人の道 道理があると言う話である。


95: 名無しさんAA:14/11/30 21:06
事実 日本経済を語る上で数値や世界経済を話しても 全く経済対策にならない。下々
の庶民の生活・庶民の経済学が解らないでは 政治にならない。従って今回の日本経済
の予想が外れたGDPショックは 如何に日本の各種予想センターが庶民の生活に無知
でかけ離れた生活の中にいるかを教えている。われわれ 田舎の更にどん底の生活者から
は このGDPショックはそのまま この知らない間に広がった格差社会ショックで
あった。


96: 名無しさんAA:14/11/30 22:27
夏の火鉢 日照りの傘 23

 NHKの日曜特集では危険薬物を取り上げた。全国500万人がいると言われる使用
者にかつては脱法ドラックと言われ 合法と盛んに宣伝した業者がネットに溢れていた
。人を不幸に導く物に 合法も違法もあるもんか。と一人思っていたが警察も又 この
厄介な麻薬に逮捕出来ずにいた。しかし遅すぎる国会の反応である。全国にこれ程の常
用者が蔓延っていては 業者が言う様にいたちごっこのゲリラ戦で取り締まっても地下
に潜るばかりで殆ど成果がでないであろう。事実警察発表では めぼしき工場や売人の
半数を摘発したとしたグラフをして成果があったとしているが 業者内では全く影響な
く使用者が膨れているとしている。事実中国の元の薬品加工者は 倍々ゲームで売り上
げが上がっているとしているし、彼らは既に産業となり地元はその金で潤っているのだ
と豪語している。すなわち本当に20年近く遅すぎたという事になる。横浜に自動販売
機が設置されてからそれが問題になるまで5年テレビ報道して政治家が対処するまで5
年更に警察が合法ながらも摘発に取り組んで5年更に次々に新しく化学組織を変えては
合法化していたちごっこして5年やっと取り締まりながら交通事故や不審死が増えては
映像に涎垂らした意味不明の犯人の犯罪が多発しだし 本格的に総くくりで取り締まる
状況になったが 如何にせん 中国国内で製造される基本物質には何ら手を下す事は出
来ないままで、あの赤サンゴ礁事件と同じく 全く中共政府の動向を見守っているだけ
になっている。本当に日本政府は一体何処に国民を守る知恵を持っているのか。又今回
のTVで解った事は同じ年代で 一方は高い志を元にレンジャーなり消防士なりを努力
を重ね入隊しやっと念願の困った人を救う活動が出来る組織に入ったのに 方や一方で
は鬱憤ばらしに友人の誘いにのって吸ったこの危険薬物で交通事故を起こし人を殺して
は人生を誤った若者がいる。と言う現実である。死んだ人が皆が皆良い人とは言わない
までも 常識ある普通の人が異常な好奇心のゲームオタクのような不労者に殺されると
言う話は 非常に多くあり 日本の将来を暗くしている。本当に自治省は遅すぎた反応
であるし その為に遅すぎた対応に追われる現場である。


97: 名無しさんAA:14/12/11 01:37
マネーマネーものまねー 05

 やはりというか 当然というか やっぱりというべきか またもと落胆すべきか。・
 今やギリシャは内乱寸前の治安部隊と緊縮財政の反対デモが頻発して景気停滞の上に
政治混乱まで起こっている。2012年6月、ギリシャの総選挙が各国が固唾を飲んで
見守る中行われた。国家財政が事実上破綻したギリシャは、それこそEUの未来という
欧州のみならず、世界の経済さえも揺るがし兼ねないとされた選挙は、大規模な公費や
歳出カットと引き換えに欧州各国から支援を受ける計画は練られたものの、年金生活者
の切り詰めや公務員の人員カットされるなどを抱えギリシャ国民は大いに不満し、問題
が噴出して大いに混乱を起こした。その後やり直し総選挙でその是非を問うことになり
出直し選挙となった。総選挙の結果によっては、ギリシャ国債が暴落して金融市場が大

98: 名無しさんAA:14/12/11 01:38
 今やギリシャは内乱寸前の治安部隊と緊縮財政の反対デモが頻発して景気停滞の上に
政治混乱まで起こっている。2012年6月、ギリシャの総選挙が各国が固唾を飲んで
見守る中行われた。国家財政が事実上破綻したギリシャは、それこそEUの未来という
欧州のみならず、世界の経済さえも揺るがし兼ねないとされた選挙は、大規模な公費や
歳出カットと引き換えに欧州各国から支援を受ける計画は練られたものの、年金生活者
の切り詰めや公務員の人員カットされるなどを抱えギリシャ国民は大いに不満し、問題
が噴出して大いに混乱を起こした。その後やり直し総選挙でその是非を問うことになり
出直し選挙となった。総選挙の結果によっては、ギリシャ国債が暴落して金融市場が大
混乱に陥り、ギリシャのユーロ離脱といった事態もあり得ただけに、世界の金融関係者
はその行く末を案じていただけに最終的に財政緊縮派が辛くも勝利した時、最悪のシナ
リオが崩れて安堵する結果となった。「失われた20年」に苦しんだ日本、リーマン・
ショックを長く引きずった米国、そして欧州の債務危機。いずれも世界の重荷として記
憶されている近年の経済的な出来事とされるが、その要因の探っていくと、今も昔も全
く変わらない、貪欲を背景とした営みが見え隠れする。いわゆるバブルの形成と崩壊だ
。見せかけの価値に踊らされて投機に走り、最後には大損するという金融家の 懲りな
い姿勢は、何百年も前からの欧米文化の象徴だが。がしかし、これまでの経験や教訓は
生かされているのか無視されているのか解らない程バブルに踊るのは人間の性が見える
。もともとこの欧州危機の発端のギリシャ債務は国家ぐるみの不正会計であったが、そ
の理由がEU連合への参加への条件である 財政赤字の国内総生産(GDP)に対する
比率に関して3%以内という規定からはずれる事を隠した為に始まったとされる。09
年の新政権は行き詰まりに根をあげたのか08年の実績が公表されていた数値は5・0
%ではなく、7・7%だったと発表しさらに、09年の見通しについても3・7%から
12・5%へと大幅に膨らむことが分かった事で世界に発表して、公式統計の嘘をばら
して震撼させたのである。だがこの状態から世界経済が抜け出したのか。と言えば全く
変わらない。と言うより中国のバブル破綻とシリアISIS問題ウクライナやイスラエ
ルの紛争と却って悪い状況が続いている。にも関わらず世界の中枢たるアメリカ株価は
能天気に上昇していたのである。農業大国でありながら穀物生産も牛肉輸出も振るわな
い中で シェールガス人気で金融業界の分析は金融緩和時期に終始して活況であったの
だ。全く不思議な事で この欧州危機による円高基調は変わらないのに相当な円安なの
だ。


99: 名無しさんAA:14/12/11 02:18
実はこの頃 いわゆる「日本化現象」と言われる デフレにもインフレにも動かせな
い状況が日本を覆っていた。ギリシア危機に時の民主党仙石氏は「これを他山の石とし
ない。日本の未来への教訓となす。」と宣言していた。が それでも少し前には 既に
国際社会の円高歓迎の囲い込みに野田金融相は盛んに円安を仕掛けても 国際社会から
の圧力に非難を受けるばかりだったと言う皮肉な状況が続いたのである。その為ファン
ドからの横流し加担していた福井総裁から頭の良い白川総裁に変わって金融緩和策を講
じたのだが 声明のないその行為は無音の鉄砲で黒田バズーカと言われる様な大砲には
なり得なかった。が一番呑気だったのは 国会議員達である 赤字国債発行を増やしは
人に物にと給付し続けたし 今でも国家危機 国家の存亡とされ あの格付け機関から
も格下げされた国力とされるのに呑気に 人事院給与や行政予算はてんこ盛り状態なの
だ。だが全くこの予算は入札管理の自由化談合禁止で赤字覚悟の受注競争でなんら景気
を上向きにはさせなかったのである。更にそうした円高に経済界はさっさと海外移転を
決めては 利益を中国投資に向けて落としては失敗すると言う事を銀行の勧めで行って
いたのだ。日本での雇用者は半減し 給与は時の経団連会長発言のごとく国際競争力な
どと馬鹿丸出し発言をしては 日本の国力をどんどん削いで行ったのである。おかげで
中国では軍事力は経済力と共に貿易額年5倍と言う異常さで 国力を蓄え日本で言う、
億万長者である万元戸は 2億人に達するとされたのだ。この2億人の中で殆どが日本
に対して 抗日戦線反日世論の教育を受けた人々であったのは当然だったし 政令経熱
などと馬鹿な進出は 汚職ばかりのヤクザ社会のような中国で作られた官製反日デモや
裏工作資金での不法建設など殆どの企業の日本資産が勝手に消えて行ったのは他でも無
い。中でも長年教育し最新設備を投資して自分の顧客までをも現地の合弁会社ごと乗っ
取られると言った行為は今でも続けれ更にその進退に裁判することの無駄金すら払って
いる。つまり勝手な退却は中国では違法であり 中国人が代表とならない会社は中国に
は存在しないのである。更に共同代表であっても外国人の差し替えが効かないのである
要するに会社ごと盗み乗っ取りは 国の政策なのだがそれを知らない日本人馬鹿経営者
がかなり多く お人好しの安倍政権と同じくらい間違っている。今回の選挙の2週間で
日本経済は完全に停滞したのである。災害で休んで政治で休む国に何の未来があろうか


100: 名無しさんAA:15/01/02 08:14 ID:Z0I
私の番組評 200

 TV局も落ちたものだ。全く祝い目出度い粛々とした元旦気分が出せない放映ばかり
流している。紅白歌合戦すら朝の連ドラを持ってきての人気取りだ。代わって海外番組
は異常に日本的雰囲気の番組に仕上げてあり 祝いや旧来からの慣習を大切にしたもの
が多く感心する。日本以上に神式や格式を重んじているのである。BBCやCNN共に
インドネシアに落ちたアジアンエアーのニュースでもちきりだが ナシジオは自然の営
みを据えデスカバリーは宇宙の成り立ちや仕組みを据えた。不思議なのは日本の民間放
送にそれが無い事だ。更に日本の庭園の歴史や解説までするヒューマンプラネットがあ
ったりしているが 日本のTV局は歌やお笑い一辺倒の上珍毛なお笑いの品格のない語
りを正月から流すすさまじさで まったくついていけない。これで視聴率などと言う事
がおかしく視聴率以前の常識的問題だ。とんねるずやダウンタウンなどが今だTVに映
る。彼らがどれだけTV界を駄目にしたかが解らない業界関係者はいないだろうと思っ
ていたがそうでもないらしい。その意味ではめちゃ2はその2の舞になろうとしている
。大体自分達が面白いと他も面白いものだと勘違いしているし そうした下等な人間を
少なくすべくTVがあると言う理由と合致していない。 この自民党の選挙と同じく、
受け皿を作りきれない業界 と言う問題だらけで放置したまま拡大主義に走っていると
言う例は多い。今の殺人事件も経済停滞も実は携帯ゲーム業界の放置に問題がある。何
故強く規制をしなかったのか。危険薬物と同じく規制が遅すぎるし その捜査は弱すぎ
る。既成事実や流通形態が確立された後では話にならない程地下にもぐり込むのである
。TV局の派遣問題であれ オオムの宗教問題であれ ゲームの倫理問題であれ 選挙
の正常票問題であれ もっと裁判所は違法である事を表明すべきだし 選挙の票数が合
わないという事実は全く違法その物である。


101: 名無しさんAA:15/01/04 07:32

今日のニュースから 45
ロンドンBBCは 今や中東では悲観的な事しか起こらない。として来年の世界予想を
発てた。そうした中に中国軍部が予告したとおりに アジアンエアーの旅客機が行く末
不明になって海に沈んだ。どうもサイバー空間ではイスラムと中国共産党も闘っている
様子でもある。この飛行機には一体中国にとってどんな都合の悪い重要人物が乗ってい
たのだろうか。先のインドネシア航空では人権擁護の特に法倫光信者の支援団体の大き
な資金提供者や友人と目される人が中国に帰る途中で在ったとされている。更には国際
的書道家も又一緒に乗っていたらしい。こうした中国の上海でも新年のカウントダウン
に集まった群衆の中で35人の死者が出たとしている。どこかのドル札に似せた金券か
サービス券かが空か降ってきた為と言われている。この群衆にそうしたものをばら撒く
と言う行為は全く危険性を認識しないという教育されない中国国民ならではの事件だが
この雑沓の民衆をお客と考えているならこうした事に起こる死亡事件の危険を お客に
そそのかした形になっている。全くの中国流の相手の立場など考えないと言う我儘流の
チャンピオン中華中心主義の象徴的事件だ。この協調精神どころか公共良識すらない国
の未来は暗く 今年は全く平和のぶっ飛んだ年になるようだ。脱法赤サンゴ漁でも同じ
だが今が良ければいい仕事上司の命令が最善の仕事とでも思っているのだろう。悪行極
まりないこの行為は今や官僚や軍の腐敗と言う形で現れているが 習近平はこの行政や
国造りの障害であろう壁に取り組み「虎も蠅も叩く」と明言しているが根が深く奥深い
もので今だ核心にまでは至っていない。周永康の前妻殺し、谷開来のヘイウッド氏殺害
と大物2人を捕えたがまだまだ真相を解くに程遠い。6月に失脚した徐才厚は、前年の
3月、7月、9月の期間、4回も殺し屋を雇い、自分の汚職を暴露した劉源を殺害しよ
うとした。車の燃料タンクが突然炎上、休暇中に泊まった部屋に焼夷弾を投げ込まれ炎
上。視察の際に何度も不意打ちに遭い、浴室でガス爆破が起きるなどの被害に遭っても
やっと告発に至った状況だ。だが徐才厚を上回る「大トラ」が大勢おり、軍用費まで流
用していると暴露される幹部は多い。その一人とされる郭伯雄は既に、香港と台湾のメ
ディアが財産は2010年の時点で100億元を超えていると伝えている。


102: 名無しさんAA:15/01/06 01:48 ID:V5Q
今日のニュースから 46

 NHKの時論公論を見たが 今だNHKは俗世的視野でしかない。基本的に「日本が
」と言った時には 主語は日本国民であっても日本という国であっても或いは日本政府
であってもそう変わりはない。だが米国があるいは中国がとかロシアがと言った時には
大きく異なる事を我々は気付かねばならないし、発言も注意しなければならない。基本
的にこの3つの国の他アフリカ・インド・ブラジル・オーストラリアも又同じであるが
この国々は大きく多民族国家で在る事を少し注意して発言しなければならない。特に、
中国は米国の二主流一亜形態より多く 三主流五亜と思って良い。つまり中国政府には
太子党派と共青党派があると良く言われるがそれは中央政府の中での事でその他に軍閥
或いは地方閥とも思える各省という日本で言う都道府県アメリカで言う州の単位の半ば
独立したような勝手な共産党社会がある。これは単一民族と呼ばれ易い日本では信じら
れない事だが その地の民族種でかなりの感じ方ややり方習慣的視野が違う事を認識し
なければならない。アメリカでは共和党と民主党と簡単に言われるが基本的にはプロテ
スタントと言う凡庸なキリスト教徒とカトリック或いは原理主義派とするユダヤ教など
の2つの考え方が主流ではあるがその他に人種の坩堝としての黒人種メキシカンやイン
デアンなどの原住民或いは中国や韓国などからの流入勢力と言われる第三種的正義が存
在しそこに先の二つの考えを左右させる力が存在している。これと同じに中国にあるこ
の中華人としての在来からの有力者や富裕層である留学経験者が多い太子党と今度の共
産党軍内での参加によって抜擢された地元からの青年共産党を出た人と共に、他に常に
この漢民族や中華思想で振り回されて敵対している地方部族的人達とその種にも入れな
いインドのカーストよりも酷い地位に甘んじて生活させられる農民層と更にその地域に
根ざしたウイグル族チベット族など独自の自治の出来る族がいる。ただいずれもそれら
が国家経営なり軍なりと対抗できる力はない。が今度のイラクの崩壊で同じイスラムで
シーア派とスンニ派が敵対しその中にそれを利用したシーア派原理教団とクルド人更に
クルドが守るヤズィード教を見てもその複雑さは予想出来る筈だ。クルド人でもトルコ
の地のトルコ派旧イラク派シリア派イラン派と分断された土地土地の事情で宗派がある
ごときに違う。中でも米軍が一番期待していた旧イラクの自治州のペシャメルガがあて
にならず米軍支援のトルコが公然と敵対するコバーニーのクルド人が今や果敢に守って
いるのだ。それぞれの中央政府に党を置く多くのクルド人が如何に変質していたかが解



103: 名無しさんAA:15/01/06 20:15
今日のニュースから 47

 世の中不思議な事が起こるものだ。まず日々同じ店で同じ材料同じ飯を買うのだが、
今年に入って50円も高いほぼ800円を超えた事が無かったのに今や810円なのだ。
物が上がるのは仕方ない。だが小麦は上がったとしても百姓の米価売値は下がっている
にも拘らず、不思議にもこの100円の海苔巻が110円以上になったし一緒に買う野菜の
ジュースが20円も上がっている。給与は減っていると言うのにである。税金も水道の
料金やバス代もタクシーも同じだ。今や原油輸入はかつて1バレル120ドルから50
ドルに下がったと言うのに高いままで今になってやっと下がって来たが それでも流通
のトラック事情は運賃が高止まりのままなのだ。政府があと6ヶ月待って増税すれば、
其れなりに好景気の影響が出たのかも知れないが またなかったせいで国民負担は2倍
になっている。馬鹿な政治である。更に我々の原油輸入が上がらなかった事は幸いであ
る正に神風であろう。中国のこれまでの闇雲な資源アサリがストップしたから金も金属
の鉄鉱石も軒並み安値に拍車がかかっている。需要に合わせた生産が過剰になった形で
ある。その上中国国内事情が連動している。周泳康だったかエネルギー部門の大物汚職
が逮捕されたようだからだ。良くも悪くも中国に振り回される世界経済のようだ。一部
この石油に対してはかなりの噂がある。中国は今やすでに米国を抜いて世界最大の石油
輸入国になったという。2013年1〜9月期には、中国は1600万トンの石油をイランから輸
入し、その額は123億ドル(約1兆2000億円)に上っている金が未払いらしい。この途中
米国のイランへの経済制裁により、イラン側は中国からの現金支払いができなかった為
、仕方なくバーター取引である物々交換がイランの収入らしい。それでも中国の商品購
入に関して輸入する措置を取っているものの偽物や贋物危険物更には毒物で大変らしく
どうやら原子力発電を諦めて国内消費に向かう方向に近づいたと言う噂だ。が中国側は
その減少輸入に関して代替え輸出国を模索してロシアの天然ガスやメキシコ原油などを
契約したが早急な入荷や精製比率などが問題であると言う。がそこにISISなる物が
暗躍しだしたと言う話だが あくまで噂なので事実はどうだか。が、この原油安はこの
どうも中国国内の企業が買い付けに対した国の要人や銀行保証が得られない事が裏にあ
るようだ。更にアメリカのシェール石油の存在である。メジャーはどうせ一時的混乱で
世界需要と特に中国需要は鈍化はしても確実に伸びていると楽観視してはいるが、市場
は 中国も輸出の無い産油国であるとの見方をしていて 更に下がるだろうと予測して
いるようだ。なんとも不思議な噂話である。

104: 名無しさんAA:15/01/07 01:51 ID:7kw
今日のニュースから 48

 安倍首相は また日本国民を困らせようとしている。やっと中国の勢いが消えて日本
が落ち着くかと言う時期に 村山談話を含めたこれまでの日本の声明にならない謝罪を
踏襲した声明を発すると ニュースは伝えている。基本的に今を解らない人間達が昔の
戦争の真実の話をしてもとても理解しないであろう事は 馬鹿でも解る話である。安倍
内閣が今置かれた日本の状況や世界の意識に憤慨している事は予想出来る。今日本の中
で観光客が増え 日本と日本の文化或いは日本人の心と言う物の理解が相当世界に広ま
りつつあり 今を置いて過去からの間違いを正す事は日本人の悲痛の願いではある。が
しかし 欧米列強の植民地文化が押し寄せ 呼応するようにアジアで日本以外は侵略さ
れてアジアの殆どの国が かろうじて国際社会に政府や国家と言う形態をもってロシア
との交渉や戦争に勝って 独立国とした行政を持った国として 高い望みや独立の支援
を求められ その後その解放に第二次世界大戦に挑んだ事は例えドイツと組んで敗戦と
なり悲しい結果とその歴史に勝者の論理の歴史が結ばれた事が真実であっても それを
名実ともに歴史の真実として声明しても其れに反論と批判しかない事は 全く論を待た
ずして解り得る。中国ではより大きな謝罪を求め 韓国ではその誠意としての資金要求
があり その理由である先進各国の人種差別主義に基づいた非情な原爆投下やスマート
ではあっても、国際法違反の無差別爆弾攻撃があったとしても それらの批判は全く受
け付けるはずはない。なぜならドイツ人が同じ白人で奴隷とならなかった事で日本人も
又奴隷とならなかっただけであり それほどの闇の中の文盲の文化の中にあったのが、
今誰が想像できようか。今イスラム国やらボスハラムやらイスラム原理主義や過激派と
されるアルカイダやアルカイーダなどが同じ様に宗教の前に命は軽いものとし自爆テロ
や殺戮や人身売買をして非難されているが つい50年や100年前までは主流となっ
ていた考え方で 何処の国も娼婦宿や人買いの女衒などがいたのである。更に今や平和
賞を得てマララさんがそうした事に戦う姿勢に称賛を受けてはいるものの そうした人
つまりそれらを反対している本当の文化人知識人良識派は日本でも少なく 今だポルノ
は溢れ 宗教に身を頼む考え方 或いは過去の怨念取りつかれる政治取引は多く 多分
かの首相が思い描く『美し国 日本』の姿は遠いものなのである。もう少し身の回りを
整理しなければ 安倍内閣或いは自民党議員は 民主党以下になるぞと国民は不安である。



105: 名無しさんAA:15/01/09 02:01 ID:aBc
今日のニュースから 49

 BBCニュースでは 今や欧州の日本化に心配していると言う。つまり今回の原油安
が市中の価格を安くしていくデフレ化現象を引き起こすと懸念していると言うのである
。そこに、経済学者や心理学者が言う買い控え現象に拍車が掛るとしている。つまりま
だ後で安くなると言う消費者心理で流通減少が起こり生産過剰になり更にデフレ化して
過去の日本で起こったデフレスパイラルに陥ると言うのである。事実このところEUの
消費者物価指数が落ち込んでいる。がこの話に「ちょっと待てよ。」と考える。我々は
現代において売れない製品に高付加価値をつけての技術進歩をしてより利益を出そうと
いう試みを常に行うシステムの中にいる。店ではサービスを製品には品質を高くし、そ
して人には低賃金で利益を出そうと言った具合だ。この原理は消費型経済と競争社会で
は当然の常識と思っていた。がそうした中でも日本は至って能天気である。政府発表や
エコノミスト発言では、原油安はエネルギー支出を行う消費者の懐を温かくしより余っ
た金が他の購買需要を喚起してGDPを押し上げるはずだ。などと言っている。こんな
あほな論理は一体日本の何処から出て来るのだろうか。だがアメリカでは更に発展した
考え方をしている。つまり今や3兆ドルほどの不足するハイウェー用の資金需要にこの
安い原油時期に税金をかけてカバーしようと言うのである。この三つの考え方でははた
と気付く事がある。日本化の本当の理由である。まずこの日本化に対して@心配して、
金融緩和政策を行うA楽観視して人々に消費をPRする。Bこの際皆んなでそのまま

106: 名無しさんAA:15/01/09 02:01
と気付く事がある。日本化の本当の理由である。まずこの日本化に対して@心配して、
金融緩和政策を行うA楽観視して人々に消費をPRする。Bこの際皆んなでそのままの
値段を享受して余金を他に回す。というこの3つの選択肢は一体どれが正しいか。それ
はBしかないと言う事だ。@の金融緩和政策の痛手はそもそものデフレのスパイラル化
に繋がる事は日本の過去の政策と今の現状が答えている。そしてAのCM効果は必要で
はあるが実質的には政府よりは国民の方が遥かに早く判断している。そして Bこそは
必要不可欠な公共投資の資金を最終的には負担すべき事になるのに早めに手当出来るし
その障害の壁が低い方がスムーズなのは当然の政治決断の重要な要素である。そも日本
化はモンキーゲームの確率論を無視した日本の政治家の失敗でしかない。即ち竹下内閣
時代に国債償還をしなかった事が後の宮沢政権で増発を容易にして今の赤字を抱えてい
る。更に日本化の本当の理由は頑なな政策変更をしなかった事だ。3つのドアではずれ
たドアをはずれとして確認しても 人は最初に決めた物や直感で感じた選択肢を変えな
い。残ったドアが2つなら半分の確立と勘違いし更に変えてからのはずれの心理的影響
を排除しようと考えるからだ。橋下氏小渕氏小泉氏安倍氏或いは民主党政権という過去
の日本の政権は太平洋戦争時代のように初志貫徹を狙い時代の流れ実情の違いを取り入
れてたり変更や改良をしていない。そこに今のデフレスパイラルの主な理由がある。




107: 名無しさんAA:15/01/10 01:52
今日のニュースから 50

 時にTVでは皮肉な事が起こる。NHK教育では パリ白熱教室として富の分配論が
討論されていた映像を流していた。労働所得と資本の遺産所得との差が多すぎる事が、
所得格差を産み社会を不平等にしていると指摘している。更に一般国民と言われる9割
の所得階層は今やヲォール街でデモを起こしている。即ち国民の税金で高い報酬を貰う
働かない金融業者を救った事に金融関係者は全く感謝していない。と言う事だと言う。
更にそのデモが他のどの国でも無い最先端のアメリカで起きている事が問題の大きさを
示していると言うのである。こうした富の再分配のシステムの崩壊が示した事件が同時
にパリで起こっている。イエメン系アルカイダを名乗る者が フランスの風刺週刊紙の
シャルリー・エブドの本社で銃撃して、編集者ら12人を死亡させた事件である。内務
省は、セーヌエマルヌ県ダマルタンアンゴエルなどに犯人を追いつめたらしいが 恐ら
く実行犯と目されるシェリフ・クアシ、サイド・クアシ兄弟やこのつながりがあるとさ
れる他の人質立て篭もり容疑者はその場で射殺されるであろう。だがフランス人の大半
は寛容で「イスラム教とイスラム過激派を一緒にしてはいけない。」などと言っている
。これはこれで不思議な話である。日本でもかつては宗教が国の政権と連動したり新た
な信者発掘の為聖戦と称して武力闘争を繰り返し日蓮などはその悲惨な考えの張本人で
あった為その後石山本願寺や比叡山などは信長からの焼き討ち事件が起こったし明治期
であっても吉田神道が国家神道として軍国主義を後押しさせた歴史がある。そも聖書は
宗教本ではなく歴史書であった筈だがローマ帝国の利用によって宗教書として書き換え
られイエスは好いように利用された。十字軍の遠征でも同じだ。だが近年キリスト教も
進化を遂げて政教分離の中での布教と信心に徹していてかなり俗世に迫っている。だが
イスラム教自体が旧態依然として予言者モハンマドの戯言に真剣に命を賭けてシーア派
とスンニ派が戦争している。中国のような宗教否定の共産主義と同じに彼らの心の中は
イスラム一色での安堵感で一杯なのだろう。不思議な事だが経済学での統計資料がこの
地域では出来ない。つまりは今だ経済活動や民主主義と言うのは根付かない中にある。
日本の瓦版にあったイラストや浮世絵の隠れた批判がフランスで風刺画となり明治の頃
更に逆輸入されポンチ画となり物語のある漫画と代わり映像や音声のあるアニメに変化
したと言う。この民主主義文化の最先端を取り入れながら 北朝鮮の様に偶像崇拝禁止
や宗教支配を試みている。そうした国は人口増加も高く所得格差も高く地球の悲劇である。

108: 名無しさんAA:15/01/10 02:08 ID:/Js
自治体による便乗値上げが相次いでいる。5%以上の水道料金値上げなど全く違反も
はなはだしい。更に市民からの公共用地の転売や不法な形態移行も多い。かつての
学校用地が市民の寄付であったのに今や廃校で勝手に公園にされたり 墓所や墓地
が更地になったり 川や公有水面の埋め立てや江戸期からの強制植栽も雑木林として
伐採したり本でも何でもその用途不明の焼却などが相次ぎ 市民活動家はこうした
民族歴史資料の散逸に手を焼いている。更に自治体の全く闇雲な予算の分捕り合戦
で全く未来予想のない 計画性のない仕組みで料金値上げである。今の企業の値上げ
も同じで 原料値上げだから円安だからというのは値上げの言い訳にならない。円高
でも 利益還元せずに企業業績のみに集中しては国際競争力などと言っていたでは
ないか。自らの招いた円安や円高更に市場改革或いは中国進出などが今を作っていて
それを 仕方ないとは言い訳にならない。日本建設国家保全に無頓着すぎる。



109: 名無しさんAA:15/01/11 03:45 ID:ODs
今日のニュースから 51

 パリのテロ攻撃事件は かなりのインパクトのある事件のようだ。多くの一般的イス
ラム教徒は大いなる迷惑な事件と思っているようで ムスリム同胞団などは「我々こそ
が一番の被害者だ。」などと声明を発している。フランスの人口はおよそ6千6百万人
としている。その中で9%がイスラム教徒であり4%がユダヤ教徒としている。ここに
オランド首相が「我々はイスラム過激派とイスラム教を混同してはならない。」という
声明の意味がある。即ちどの宗教どの民族でも狂気市民がいて事件を起こす。こうした
事件に感化された市民が1個以上の集団行動をして 国を混乱させる事は何よりも仏国
の嫌う所だろう。自由博愛平等を謳う仏国も歴史上はその宣言をしながらベトナムの地
での植民地を手放さなかった。即ち日本人が思うほどに寛容でも豊かな精神でもない。
自由には、常に専制への革新と言う闘いをしなければならない。とする信条がある国な
のだ。だからこそ人種の坩堝であり最初の奴隷廃止の国として名乗りを上げた国なのだ
ろう。風刷漫画ポンチ絵はそうした批判的精神の継続や国の形成とかなり関係を持って
進化してきたしこの国に根付いていたのだ。北朝鮮のパロディ映画に日本のある種のイ
ンテリは時の国の代表をコケにして映画とは言え殺すのは賛成できない。などとコメン
トする馬鹿がTVで言っていたが それはあまりにも世間ずれした平和ボケ論者である
。常に着眼や発言がなければ 工場内の改善すらない。社会正義を求めるならばTVは
その為の一面でしかなく 雨傘デモもこの封殺漫画やコメディも意見の為の道具であり
今までの人類の文化の進化の為の数少ない道具なのだ。それを賛成出来ないなどと言う
メディア関係者が居るとしたら直ぐに職業を変えるべきだ。意見があって初めて相手に
解り得るからだ。この思想対立が意見も声明もなく単に武装闘争となっているのが今の
アルカイダやイスラム国なのである。一般にはシーア派もスンニ派も関係はない。もっ
と言えば 今のバチカンの権威は聖書やイエスや歴史にあるのではない。今の法王の発
言に宗教内の人類愛に人が共感してその権威があるのであって 今や聖書が歴史書であ
りイエスが人の子で最初のユダヤ教からの宗派変えをした教徒である事は誰もが知る中
にある。日本が人間天皇を宣言したように イスラムもキリストもユダヤも1神教排他
主義からは離れなければならない。

110: 名無しさんAA:15/01/11 10:23
今日のニュースから 52

 今や漆取り職人は一人だそうだ。更にその漆取り職人が使う漆掻き道具を作る職人も
高齢者一人である。報道2001はその危機を伝える為に漆に魅せられてやって来た、
外人さんを登場させた。この人が日本人が忘れた日本の和心に戻って「価値を知れ。」
「贅沢を知れ。」「道具を知れ。」と言う意見は 全く日本人には耳が痛い話である。
この伝承技術の崩壊 文化崩壊 3世代住居の崩壊こそは日本の崩壊であると言える。
いま民主党の首長選で討論されているが 細野氏は100年早い位いい加減な顔作りの
お粗末な発言が多く 長妻氏では全く30年も40年も遅れた考え方のままである。細
野氏の云う様に過去の事は建設的では無いなどと言うのは間違っていて過去から積み上
げたものの重さを知る事こそ大事で 烏合の衆の数頼みの民主党で今までの自民党や与
党の成果を瓦解させた政策だったから民主党が支持されなかったのであって野党再編を
急いだ彼の失策は永遠に消えないだろう。長妻氏の云う原発問題や自衛権問題をもっと
論議して整理して決めたが良いというのはナンセンスそのものである。今や朝鮮有事や
対テロ政策或いは日本の軍事力増強には待ったなしの状況にある。更に原発に至っては
こうも物価指数が高くなれば格差拡大社会が訪れる事は必須であろう。ならばこそ電気
ガス水道交通食料の安価は必要最低限の国民生活となる。特に海外との円の是正は国策
と共に貿易黒字こそが大事な政策である。韓国が寄らば大樹の陰で円レートで円高のま
まで連動相場に国を発展させる事無く外貨受注に精を出した事で解る様に 自国通貨を
動かせない政治は政治では無い。大体一応の国力を持ってしてその上に伝統文化をない
がしろにした発展に自民党反対を声だしている国民に まるで酔っ払いの逆走運転のよ
うな沖縄問題や外交問題を論じたのである。大体普天間が危ないなら沖縄県や那覇市が
行うべき移転であり 飛行場が先行してある中に住宅地を作っておいて何をや言わんや
である。つまりは今の沖縄に多くの韓国人や中国人が移住しては反対しそれに呼応して
の当選したいまの県知事はクズ以下の人間でそういう人を当選させた沖縄に未来はない




111: 名無しさんAA:15/04/05 16:01
【 路心要憂 】83

 不思議な事に今になって 武田氏と池田氏がそこまで言って委員会に出て原子炉再開
の賛否を言っている。だが一応は世間が鎮まり冷静な議論が出来そうなこの時期におい
て国策足る原子力政策を論じる事は大変良い事である。だがその大事な議論に武田氏
の云う国民の75%が原子炉再開を不安がっているから再開を止めたが良い。などとい
う詭弁は使うべきではない。又同じ様にCO2 の温暖化に対しても「温暖化しても良い
」と言う主張は 全人類のおよそ9割以上がCO2 排出や地球温暖化を危惧して政府間
調整もやっている中では 今の地球環境の維持を考慮して行動している現実からも武田
氏の云う主張「温暖化は気にするべきではない。」と言う事は 既にあらぬ卓上論と化
している。一方池田氏の言う原子力が高く石炭火力が安いと言うのも又おかしな話であ
って原子力廃材が管理されて地下貯蔵されて新たな技術革新を待っている事に比べて、
石油石炭の粗悪な製品は全く管理されずに簡単な取り扱いから 中国社会のスモッグま
で日本国土が覆われは 肺がんや肺疾患で次々と日本国民が罹患している事実もあり、
汚染程度やそうした患者数も、実は全くよく把握されずに 大気汚染が深刻な進行をし
ている事は かなりの問題なのだ。一説によると渡り鳥減少や海洋汚染はそうした中国
の大気汚染物質がかなりひどくて年間減少数は2割ほど打撃受けているのではないかと
心配される学説もある。問題はこの原子力に対しては放射能汚染の実態よりは、放射能
そのものの除去なり原子核による爆弾製造の安易さの方がかなり危険であり 国策とし
ての原子炉や原子力研究の廃棄の方がかなり恐ろしいと考えられるのである。イランと
の原子炉協議も遠心分離機によるウラン濃縮の削減で手打ちを示しているが国際情勢は
この闘争して止まないイスラム社会の核開発参入は決して許さないであろう。その為に
もイスラエルの核兵器も又許してはならないし中国や北朝鮮の核廃棄も進めるべき問題
である。


112: 名無しさんAA:15/05/10 09:51
いざ酔い いざ並み いざ晒場 34

2015年5月7日、米紙ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)などは、欧米などの
歴史学者187人が、安倍晋三首相に、日本が過去の戦争での過ちを認めるべきだ と呼び
掛ける声明を発表したと報じた。これは最低の声明である。戦後70周年を過去の過ち
に悔いあらためる日を かつて原爆の御用学者が日本の一般市民に原爆を落とした事に
「戦争終結を早めて人々を救った。」などと言うのと全く同じに 世界の権威ある学者
達が韓国や中国の作った卓上のフィクションストーリに同意したのだ。全く権威の失墜
もここまで来たかと思えば 涙が出るほど嘆きたい悲しい 嘘つきの台頭しだした世界
に変わっている。そんな根拠の無い声明を発表するという馬鹿げた行為を学者がやるか
らロシアの戦史記念に 国威発揚よ愛国主義と軍国主義が用いられるのだ。すなわち嘘
も公式化すればいいとする国家権力の横暴である。カチンの森事件黒い霧の森事件皇帝
家族失踪事件と数々の今だ謎とされたロシアの事件はこうした嘘の声明に飛び付いた時
のジャーナリズムや学者が起こした国家群衆主義の一端である。今やウクライナロシア
中国韓国などは国家主義で報道の自由は全く無い。それに対して ネットは冷やかに答
えている。
「もうやめろ。うんざりだ。毎日毎日、過去の歴史の話ばかりだ」
「米国は原爆おとした日本に謝罪しない。韓国はベトナムで起こったことについては
謝罪しない。中国は毛沢東の時代にたくさんの国民を死なせたことを謝罪しない。ドイ
ツもヒトラーの時代のことをもっともっと謝罪しなければいけないだろう。ではロシア
のプーチン大統領はどうだ?さあ、みんな謝罪しよう。そんなことをしてもか解決する
のか。」
「何度も言うが、慰安婦がいたことを否定はしていない。ところが、20万人いたとか
、強制だったとか、奴隷だったとか等々…話がフィクション化されていることを問題と
している」
「権威ある御用学者がたくさん。同じようなレベル学者は、歴史の分野にも大勢いる
のですね。事実を歪曲して都合のいいように伝えるのが多くの学者様のお仕事のようで
すね。残念です」


113: 名無しさんAA:15/11/06 02:14
【 路心要憂 】84

 どうせ馬鹿な規制員会が あんな真下に断層域を持つ伊方原発をよくまあ承認したも
んだ。と呆れていたが 今度は果敢にも高速増殖炉もんじゅに対して 今まで不祥事の
続く中 新たな保守管理の不備問題で運営主体として日本原子力研究開発機構は「全く
不適当」と断じた。規制委は所管する文部科学相に対し、別の運営主体を明示するよう
勧告する方針を発表した。大感激である。もともとこの原子力発電は基本的には国家の
衰退すら作用する運用計画なのだ。こまめな改善は自動車工場以上に必要だし組織改革
は常に発展的継続や大きな変更も大きく必要としている。それは現代の経済変化以上に
大胆にかつ的確に更に躍進を遂げなければ到底未来は無い。大体この「もんじゅ」は今
だ完成していない原子炉と言えるだろう。高速増殖炉とは言え本来の原子炉より早くに
開発されどの国でも研究されて来たが今だ実用化した国はない。それを日本だけが実証
炉をいち早く立ち上げたのだがこれは大きな過ちであろう。まず中性子線が高速である
事が絶対条件だがその為に水での減速を無くそうと 猛毒であるナトリュウムがその熱
の循環システムに使っている。これが大きな問題だ。ナトリュウムは水分や空気に触れ
て爆発するとしているからだ。基本的に放射線をだす放射能だけでも大きな危険な毒物
である中にそれが放射線が低くても通常で扱う事が出来ないナトリュウムを使用してい
るのである。これでは安心して使用出来ないはずだ。ではどうすればいいのか。実は通
常の原子炉でもウランの再分裂でウランが出来ている。すなわち外周域に配置された使
用済み燃料によってそれが起こると言うのである。であるならば放射線反射を外につけ
ると良い事になる。日本ではカミオカンデで宇宙線の探知をしている。つまり圧力容器
内に劣化のないステンレスに似た材料での凹凸でのレンズ球面反射加工をすれば効率良
く中性子線反射を持てる事になる。つまりガラスで覆う反射面である。こうした技術を
追求すれば別に超純水での核分裂でも高速増殖炉が出来る筈である。一般原子炉と早々
変わり無い仕組みであれば毒性と危険性の強い物質を使う事は極めて除く事の方が大事
でもっと小さな実験炉をして研究して実証炉を作るべきなのである。

114: 名無しさんAA:16/02/25 03:06
幸運を呼びます。
0155251284まで電話下さい。

115: 名無しさんAA:16/03/12 12:37
テストや採点すらしてないのに採点ミスが多いという評価をする服部の馬鹿は痴呆症かよ

116: 名無しさんAA:16/03/13 09:06 ID:iMM
 酔い奴彼(よいどれ)の舟歌 68

 これだけ国会の失態が続けば恐らく誰も国会議員と言う者を信じなく為るだろうし、
国際社会でも相当の痛手を受ける事になるだろう。北朝鮮情勢は全く変わらず与党野党
問わず拉致被害者には希望の「き」の字すら与えられていない。ふがいないのは大震災
が終わって5年も経つのに今だ一向に街並みが復旧復興出来たという町が一つも無く、
更に予算案を見ても特段の今こそが予算の大入り満額での使用を何故だか何処でか削っ
たような予算である。奇々怪々と言わざるを得ない。日本の国の復興なのだこれは与党
野党を超えてやるべき課題だが国会議員削減や予算の正常化と同じに権力闘争や領域確
保に終始していて全く不愉快な議員達だ。更に不愉快なのはこれだけ保育士や託児所の
問題が噴出し赤ちゃんの死亡事故までニュースに上がる社会問題なのに あの「保育所
落ちた」メール問題の指摘に これを検証する術がないとか。匿名であり議論の範疇か
ら伏せるとの発言が殆どだった事だ。馬鹿揃いの議員連合なのだろうか有名な議員すら
野党の意見として野次を飛ばしている。全く30年も前からの少子高齢化の国内問題と
して整備すべき問題だとの答申があるにもかかわらず今だ放置しては問題化している事
が認めれられないのだろうか全く進化の遅いというか無い国会である。かつての角栄時
代の方がよっぽど前衛的先進的思考である。更に問題なのはこの30年間後退に後退を
している日本経済の行方である。馬鹿竹中大臣でGDPなどの数値のみにこだわり究極
の「国民生活」に安全や平和や幸福度と言うものの本来の日本の原動力を捨てて何を持
って経済学とするのか捨てた行為で 今や7割の国民が一般的生活自給力を失った生活
つまり非正規社員や母子家庭や低所得保護で暮らしている。これは税を払わない赤字の
零細企業を抱えて勝手に海外からの企業を呼び込むとした法人税低減と同じ考え方で全
く馬鹿げた話である。ちゃんと仕事をし税金を払い裕福と言わないまでも満足した生活
をさせるのが国の仕事でありそれを進めるのが議員の役目なのだ。公務員天国など批判
される自らの贅沢三昧の生活を少しは考えるべきだ。原子力の代替仕様も今だ決めず、
中国との外交決着もつかず アメリカの協調防衛もトランプなどの暴言に晒され一体外
務省は何を活動して国民に寄与しているのだろうか。


117: 名無しさんAA:16/03/13 15:58
酔い奴彼(よいどれ)の舟歌 69

 大体国会議員は国の健全経営をどう思っているのか。今や国際化時代で情報TIの波
が押し寄せ 他国の不安定な状況や戦闘風景が映像で流れたり金融のいい加減さが露出
しては日本はましな方だ。などと言われる様に仕向ける報道が多いが今の日本の現状は
教育環境に於いては北欧や韓国以下生活実態ではどこかのアフリカ以下女性人権自由の
報道でも結構下なのだ。勿論そうした順位づけは雑誌社の主観的要素もあって正しくは
ないのだがそれでも漁獲量が規制され貿易においての黒字化が批判され更にエネルギー
事情が大きく国外に依存し資源に乏しい国の経済をこんな国債浸けのまま放置した政治
と今だデフレ経済の悪さが無金利を指しているとの理解をしていない日銀や黒田総裁の
金融政策には全く呆れてしまう。もしインフレ状態或いは2%物価高を唱えるならばそ
の中身である格差社会の是正に物言うべきであろう。今日の保育所問題でも政治寄付金
企業献金問題でも企業の悪さが表に出ている。まず企業の正当な税金納集がないままに
献金だの2%物価だの論じてる様が無様である。又企業の非正規雇用などとブラック企
業よりの政策はただちに止めて然るべきだが政府はそれを発表する機運もない。そもそ
も国際人権委員会では当然の同時間同程度勤労に賃金査定の内容を求めている。更には
同一企業に働く仲間に福祉政策や手当助成の違いがある事自体が違法であり同一現場や
同一機関の同一事業に給与以外の就業時間や過労働や単価違いの狂騒入札が取り入られ
ている事自体が可笑しな事で違法なのだ。これを政府総出で進めていながら、介護職員
が集まらないのは給与と仕事内容が一致しないとか保育所も保育士が足りないとか言い
訳や綺麗ごとしか述べていないのは一体何なのだ。まずは国会議員地方議員の給与半額
は総額で無く各個の給与査定を人事院勧告でやれば事足りるし 衆議院は人口格差にそ
のまま増比例増分を基本人員を2乗として計算すればアダムズ方式などと言う馬鹿げた
配分は無くしてよい。参議院は土地面積で割ればそうそう議員数が変わる事もない。だ
いたいこうした計算方式は裁判所が下すべきで政治家が勝手に政治で人員や給与を決定
する権限はないのだ。そんな馬鹿をやるから原子力もうやむやな被審者審査一体という
なんとも可笑しな構造をして事を収めようとしている。あの汚職の社会保険庁と同じで
民間審査団体を消費者庁がちゃんと指定してそれなりの判断を下せば健全社会になるの
をわざわざ阻止している状態なのである。

118: 名無しさんAA:16/03/13 17:38
 老境の至り 52

 安倍首相は方向は良いとしてもあまりにも坂道を急いだり蛇行しすぎるきらいがある
。その意味ではかなりの失政のままだ。今後ロシアや中国は金融や経済に於いて随分と
落ち込むだろう。そこでどんな事が起こるかはシリアやウクライナ或いは南沙諸島や西
沙諸島の軍事施設化で解るように恐らく国内問題の噴出と同時に国外に戦争や紛争を起
こし目を背かせる方策を取る用意をしているものと思われる。米国でさえベトナム戦争
や911テロ事件は戦争はアメリカの公共事業と言ってはばからないなかったのだから
。今急速にロシアと中国は接近し蜜月の約束を取り付けようとしている。こんな中での
日本や韓国の位置は親米と協調しかない。だがそれはとりもなおさず今後戦争が起こる
と思われる東南アジアのイスラム教国と共闘共産国の紛争である。そこに北朝鮮がある
。北朝鮮の気になる動きは日本人にとっては気に障るところだが北朝鮮自体は平和安定
独裁を求めての行為でロシアや中国のやっている事とそう大して変わらないと言える。
国際社会での核拡散違反でもインドパキスタンは行っていたし 貧困や格差の中の人民
生活を放り投げて専軍政治に勤しんではミサイルを飛ばすのは ちょっと前の中国ソ連
のやり方だ。更に報道規制や自由がない秘密警察が大手を振って国内政治を牛耳ってい
るのは今も或る姿である。そして人民が居なくなれば奴隷のごとく人をかっさらい拉致
被害者が産まれでるとすれば これを止める事は恒久平和を望む人類の絶対条件である
。その意味では韓国は北朝鮮のこの過激な思想を止める役割を果たさなければ国として
の意味が無い。大体慰安婦像などは早々に撤去して問題処理をしなければ自由のない嘘
つき共産国と国際社会から避難されても仕方ないだろう。韓国のやるべきは資本主義自
由化社会の陣営に北を引きずり込み如何にこの世界が自由平等博愛に満ちた社会かを見
せつける事にあるのに 何故だか共産国の持つ猜疑心と陰謀の中に居る様な国内事情だ
。裁判所が国際法違反をし 国内政治に朝鮮感情論の「恨」の精神を持ちこんでは反日
教育を後押しして 竹島を独島などと無理した勝手な言い分をして 歴史的な検証をし
正しい発表をした学者達を次々と拉致拷問に暗殺にと手にかけている。先の慰安婦問題
も日本軍が行った行為やシステムが悲劇でも慰安婦の徴用は無かったとした学者は今や
社会批判の影に行くえ不明のままだ。自分に都合の悪い発表を正しくとも受け入れない
とする卑しい姿勢は北を批判する資格はない。


119: 名無しさんAA:16/03/13 19:05
 酔い奴彼(よいどれ)の舟歌 70

 加藤 勝信議員は 一億総活躍担当 女性活躍担当 再チャレンジ担当 拉致問題担当 
国土強靱化担当 内閣 府特命担当大臣 (少子化対策 男女共同参画)東京都; 衆議院議
員: 岡山5区、当選5回と言う極めて稀な肩書を持つ。だが一体何をやっているのだか
。東京都内での男女参画育児のイベントを訪問したと言うが こんなイベントよりは今
起きている男女の意識格差を良く考えてみる事だ。福岡では予備校生が女子生徒に勝手
に憧れて殺人に及んでいる。すぐ切れる若者という短絡性格の少年少女を作りだしては
世に送り出すこの教育システムを深く批判すべきである。今や学校格差がかなりあって
岐阜の映画見て英語の単位や音楽の単位を与えると言うのはあまりにも奇抜であるが実
は本来の常識的生活基盤の整理こそが重要な時に来ている。ドラゴンクエストという、
誘拐や殺人や放火や詐欺を奨励したTVゲーム放置から人体シューティングゲームが大
流行しては何故だかこれがリアルゲームに移行している。こうしたゲーム時間の損失は
そのまま人間としての常識や恋愛処方や人間模様人間観察を省いた結果論重視の人道空
隙を作り更なる世代格差や貧困格差或いは非人道社会の建設の総合意思を強くさせてい
るのが現状だ。これを打開すべく活動すべきだがそうした姿が全く見受けられない。一
度でもこうした凶悪な理由不明の短絡犯罪や荒れた学校教育現場を隠密視察して現状と
対策更に検証を試みているのだろうか。もし今の日本の在り方と未来を考えるなら今の
現状分析力に乏しくその為対策の指針もなく正しく検証する術もないまま政府は大型予
算の取り合いに明け暮れ日本国民を漂流させていると言える。国家戦略はエネルギーの
需要と供給に一体どんな見識を持ってこんなつまらない安倍発言をさせているのか。又
世界情勢或いはISILの今の情勢と東南アジアの特にイスラム教社会に、一体どんな
情報網や諜報職員をもって日本の安全を図ろうとしているのか。中国や韓国の世論形成
にどんな有効な手段を思っているのか。ロシアや北朝鮮の政府や議会に一体どんな圧力
をかけうるのか。今や全く持って無能のままではないか。そこいらからまずよく考える
べきだ。金融政策でも経済政策でも或いは人事交流でも技術隠匿でも何らかの手段を持
った日本国で在り続けるべきである。田中真紀子議員の様にペラペラで臭い物に蓋やや
こしいものには逃げて掛るではかなわない。


120: 名無しさんAA:16/03/18 22:14
ナチュラル 41

 今日本は大きな壁にぶつかってしまったのかも知れない。つまり世界経済が技術の面
で進化を止めたのである。例えば車で言えば問題が起きたフォルクスワーゲンであるが
日本では既にいすゞのOB会社は再爆発転換での触媒の作用が少なくできる無害化エン
ジンの開発に成功はしていたのである。だがこのやり方を研究も特許を全くしなかった
。ただただ高効率エンジンのコンピュータープログラムの改造によってクリーンエンジ
ンと称して売りだしたのである。更に今や水素による燃料電池車が市場でやすくなり走
っていてもいい程だが今だ日常化したエンジンシステムとはなっていない。それどころ
かスバルの障害物探知のアイサイトから進んで今やグーグルが無人化操作のシステムを
組むにあたり日産を始め各社がその方向のシステムを組もうとし国土交通省までもがそ
の後押しをしだした。これは奇異な事だ。例えば今回起きたトンネル事故でも渋滞の中
その殆どが徐行運転に切り替えていた中で1台のダンプが無謀な運転で火災事故を起こ
したのである。車の全てに同じ種類のシステムを組み込んだ中ではきっと怪しいシステ
ムが組みこまれ今のサイバーゲームの様な社会不安が繰り広げられるだろう事は簡単に
予想される。それでなくても今のプログラムはAIと言う昔の操作プログラムと違って
人工知能をして認識度合いによる予想確率のプログラムに切り替わっている。すなわち
既にどんな危険であろうと止まらないで考え続け過去のデーターから取り出す方式でそ
の中には暴走しようが中止しようが人間では出来ない事だろうが関係ない中にあるのだ
。更に今やISILで自爆テロなどと言う前代未聞の行動すら国際的に発展している中
でそんな馬鹿なシステムを考えるのは狭い国土の日本ぐらいだろう。今回やっと勝てた
囲碁のプログラムも今までの本因坊戦などの歴戦の見本や定石などはその理由はなく何
百と言う手の一つであるに過ぎず優先権は与えられていない。あくまでも優先度は過去
の中の自分の戦歴と見本との使用度であり予測可能の中の最良度からの検出で学習した
結果なのだ。気象シュミレーションでは結果が違っていてもフィードバックと共に予想
する用法だが事無人運転では無理があるし不可能が残る。其処に法整備が必要との声が
あるがそれは人権無視の踏切同様の交通システムであるといえる。今回碁の過程も常道
に無い部分ではミスの連発である。相手を見るのではなくあくまで次の予想を何万何千
と言う中から選び出す言わば頭のいい碁の素人の子供が勝ったと言う様なものなのだ。


121: 名無しさんAA:16/03/20 14:51 ID:Lrw
 酔い奴彼(よいどれ)の舟歌 72

 そこまで言って委員会の辛抱次郎は全く社会常識に欠けたままMCをやっている。そ
の言動たるや全く可笑しな意見が多く更にTVを個人見解の場としているのか本のCM
から人の意見の押しきり自分の意見の押し通しで全く面白くない。聞きたい物をそばで
発言させないという司会者などいない方がいい。全く視聴者を馬鹿にしている。自分の
面白いと思った空想を話して他の人が面白いと思っていると言うのははなはだしい勘違
い以上に思い上がりである。なるほどこの討論会もバラエティの範疇なのかもしれない
。それにしても民主党改名に賛成する人が居ないのは当たり前だしわざわざ賛成者を募
る必要はないし、野球賭博の円陣が博打場になってしまい「ゴチになります。」などと
言う番組が違法性の高い番組である事には昔も今も変わりない。賭博が人は好きなんだ
と言うのは当然だとしても、昔なら少々の事など認められていた。などと言うのは嘘も
はなはだしい。飲酒運転も賭博も全く認められていないし 少額でのゲン担ぎだなどと
いうのは嘘もはなはだしい話でただ警察が手が回らないままにそうした軽犯罪に対して
の重罪が無かっただけで、その当時でも今でもその体質とその法的根源は全く変わらな
い。オリンピックの話もソチオリンピックでの聖火や木のドームでは消防法が通らない
事など決められない前の候補段階で皆んな知っていた話であって今頃に問題視してる事
をそう簡単に何とかなるなどと言うのは放送すべき言葉ではない。ロボットでも同じだ
プログラムを変えれば勝たない様に出来るなどと笑い話にもならない知識の無い話は無
用だ。勝たない為のプログラムは出来ても勝負して勝たない様にするプログラムは無い
。更に現代のAIの認識プログラムは既にそうしたロボット感情論の未来の話の中に片
足を突っ込んでいるのにも関わらずそれらを認識していない御老体ばかりがコンメント
している事を少し考えて言うべきである。原発問題も同じで竹田氏が言う様に危険だと
しての差し止めはやっていない。安全の説明が出し尽くされていない事で停止している
のだ。つまり裁判官の思想の是非はともかく国の役割と危険度の認識と公表と説明には
何処に国民の納得があるかをこの辛抱は馬鹿なのか自分の意見でまとめてしまっている
こんな小さな視界の彼は司会業はさっさと辞めるべきだ

 

122: 名無しさんAA:16/03/20 20:58
 酔い奴彼(よいどれ)の舟歌 73

 この番組の構成もかなり異質化してきている。国連問題などはこの番組での時間を全
部使っても話すべき問題だし 坊さんでもこれの内部である古里を出た人々の都会人の
わがままさを諌めるべきなのである。大体国会答弁見ても、政策や増税論議でもTVの
内容でも都会の理屈や詭弁が多すぎる。先の保育士や託児所問題でも基本は3世帯暮ら
しが出来ない都会の街づくりにある。老人は放り投げて老人ホームに預け子供は保育園
に預け自分は自由にスキルを磨くなどと言う身勝手な家庭を顧みない生き方を推奨して
国家が成り立っていくと言う方がおかしいのである。東京が便利になればなるほど人口
が増えて託児所や保育所が不足すると言う声は当然の現象を言い当てたものだ。が今の
消費者庁などが高知の山奥になんたらかんたらと言うのは全く馬鹿げていてもっと現実
を見れと言いたい。要は東京在住の本社機能の企業に高税をすれば済む話であるのだ。
人を減らすのではなく寄り集まって来る人を他の街での住みやすくする方法を考えるべ
きで東京を不便にすると言う話は論外だ。大体消費者庁も今の携帯電話勧誘のCMの内
容位見ているだろう。学生割りや初心者割など悪質そのもので麻薬の様な価格体系をし
全く平等や慣例習法の原則を犯していて違法も違法で警察が取り締まらない事の方がお
かしいくらいのCMである。これは消費者庁が全く仕事をしない給与泥棒のままで税金
を無駄に貰っている証に他ならない。消費者庁にしてそうであるから自民党部会の数々
の研究部会が全く寄せ集めの大臣の資格無い大臣ばかりの寄せ集めである事を露呈して
いるのは当然であろう。松島みどりを見てもHNK審議会では居眠りばかりではないか
。もちろんその審議内容も視聴するに耐えないぐらい幼稚すぎる内容なのだがまったく
呆れる程の言葉あそびで食っているとしか言いようがない。もっと真面目に日本国民は
そうした権限者に目を当てた方がいい。NHKが経済番組を週に何回放映しているのか
は問うてはいないし、国会審議も与党の放漫経営する日本社会に野党は克を入れる事も
なしに党名変更など馬鹿な意見を言っている。選挙の為に主義主張の無い烏合の集合す
る野党に責任政党は負ける事は出来ないなどと言う安倍氏に何故右派で保守本流自民党
が最大左派共産党より宗教色の強い違法政党公明党とくっ付いて政権政党なのか批判を
しないのか。これでは野党も与党も隠れて国民を詐欺た共闘を打っていると飽きられて
も仕方ない。


123: 名無しさんAA:16/05/15 09:42 ID:Nu6
いざ酔い いざ並み いざ晒場 68

 「トランプ氏が大統領選に出るとしたら わたしゃ自分の書いた記事の載る新聞を食
べる。」と米国民が賢者である事に期待した。が意に反し共和党指名を勝ちとり候補者
としての名のりを挙げた為に、当の記者は新聞紙ふりかけのサラダを前にし 新聞紙濾
しのコーヒーを飲んで、新聞紙入りのバーガーを口に入れた。その姿は我々から見れば
まるでヒットラーの到来でありナチス政権時の成果のごとき様相である。日本でもある
。サリンを作り、人々に対して地下鉄で撒いたオウム真理教の教徒の惨状の様相である
。かつて日本では70年代に吹き荒れた学生闘争に疲れたのか社会は、80年代にして
無関心時代とされ90年代一憶総白雉化時代とされた。まさしくオウム信者は何も考え
ない何も感じない何も知らされない只々命令に添って動くそして食を得る狂人と化した
。ヒットラーの仕組んだ反響心政策の具現化であった。共産党を闘う相手として共感を
得て票を伸ばし、鬱憤をユダヤ教徒排除や虐めに政策の重きを置く。と言う、かつての
ローマ帝国の建設や福祉のない市民の奴隷化に先鞭をつけたのである。事実政権を担う
価値のないナチス党は、人のみ多用し采配も技術も国策も何もかも出鱈目で建国は経ち
行かず 他国の侵略において人々の目を削ぐしかなかった。第一次の敗戦結果から厳し
く軍備制限が課せられていたが 軍備増強を公然とし軍縮会議脱退と徴兵制を施行。単
独でイギリスと英独海軍協定締結し再軍備を容認して第二次世界大戦に突入した。間違
えてならないのはヒットラーは合法的民主的手続きで首相に就任し、政権についたので
あり軍需産業への雇い入れによって経済学の理論には反していても、社会保障と福祉を
中心に生産力の拡大と完全雇用をめざし経済復興がなされ、国際連盟の管理下にあった
ザール地方は住民投票で91%の賛成を得てドイツに復帰し、ラインラントの無血占領
に成功しオーストリア国民の圧倒的支持を受けてのオーストリア合併に成功。その後に
ズデーテン地方を併合したのである。さらにオーストリア国民はナチスを支持していた
わけではなかったが、99%の国民がドイツ・オーストリアの合併に賛成したとされる
。つまりは愚民政策で人々が逝かれている程熱狂する市民が増え人気が揚がるのである
そしてタックスヘブンで言われる1%の人間が99%の犠牲の上に大富豪として租税す
らも払わない事を常識として 荒んだ優越人生を歩こうとするのである。


124: 名無しさんAA:16/05/15 11:18
いざ酔い いざ並み いざ晒場 68‐U

 大体本来の 賢い米国民であったなら、クルーズなんぞの馬鹿者は早々と撤退させて
ケーシックかルビオとかとの一騎打ちになるのが本当だろう。が恐らくブッシュJrの
起こした世界滅亡計画の中で 米国内には南米他中国やイスラムの中東系更にアフリカ
系の移民がかなりいるのだろう。この威勢の好い威嚇的暴言に国民は魅了されている形
である。基本的に人間は仁徳を積まない限りこうした威圧的行動や言動しか取らない。
つまり教育の無い姿が 許容力を持たない単純行動を支えその為押しの強い言動になる
。これは野獣の掟と同じである。生物は生き残りの策として自分の脳の錯覚をそのまま
受け入れるのである。つまり「こうだ。こうあるべきだ。」と予想してしまうと、その
予想以外を認めないし気を使わないで見落とすのである。ナチス党はそこを巧みに戦略
としたのである。つまり夕日の中の感傷的情景に自分を奮起させる演説と雰囲気を高め
る音楽や行進などの連帯感と安堵感を同時に人々に与え、都合の悪い疑問符を捨てさせ
たのだ。この嘘つきトランプも同じ手腕で米国民の喝さいを攫ったのである。自叙伝に
あるように《私の取引のやり方は単純明快だ。ねらいを高く定め、求めるものを手に入
れるまで、押して押して押しまくる》《何かにかりたてられるようにある目的に向かっ
て進み、時には異常とも思えるほどの執念を燃やす》を実践して来て まるでスリ師が
盗みの手口を研究したように腕を磨いたのだろう。日本で言うストーカ―や殺人犯と全
く同じなのだ。そも過去4回も破産申請した経験をもち米国の税金の後押しで会社再生
をしながら「巨額の税金を払うのは本当の愚か者だ」などと発言しており、今の納税な
どの公表に全く消極的なやり方をし、今でも、納税報告書が米内国歳入庁(IRS)の
監査を受けているとして公表を拒否しており、今以って14年には3億6200万ドル
の収入があったと発表しているのだが、「IRSに対してはもっと少ない収入を申請し
て、巨額の税還付を受けているのではないか。」「納税額がゼロの可能性もある。」な
どの指摘が検証されてない。日本人にとっては「不届き者」「たわけ者」の種だが、米
国では反国家主義の先達者で強権や国家権力と戦う勇士になっているのである。不思議
にもクリントン候補に対して「既成権力者」や「既成金満家」からの支援を受けている
と批判しながら、自らはその「既成金満家」つまり1%の富裕層の中にいて選挙資金を
自由に使っているのである。

125: 名無しさんAA:16/05/15 17:18
希望と光の間 61

 人とはかなり危うい中で 良くも悪くも自分を形成している要素と言う物が結構解ら
ないものなのだろう。自分が産まれて世話して来てくれた母や父について子供が草々に
100%解る物ではないにしても 今世界では、歴史も文化も現実科学も言語さえも解
らなすぎるままで、我儘過ぎる程消費生活にどっぷり浸かっているものだと思われる。
現実にだからこそ非情な世界になっているし 不可解事件が多く離婚自殺いじめが か
つての10倍に膨れ上がっている。たった30年の間で人の社会が10倍以上生き辛く
なってしまったのである。こんな政治が許されようか。政治家や経済界は言うだろう。
仕方ないと。更に政治が或いは経営者が努力したからこれくらいで済んだのだ。と。が
それが虚言なのか本当なのか、それを検証すべきを常に請求されている。現実世界の中
では勿体ない程の贅沢三昧の中で暮らしている。まず周りを見て身障者や治療が必要な
老人が生活苦の中にある。更には教育なされていないに等しい人々が安価な時間労働力
で仕事を余儀なくしている。成人過ぎた団塊世代は全くいい加減な事を言っている事に
気付いていない。まず日本は戦争に負けたのである。その相手国連合国は今でも戦争に
どっぷり浸かり軍事産業を流行らせいるのである。その対象国や仮想敵国を造らなけれ
ば国民に不満が溜まるのである。この国民性こそが変えなければいけない人間の本質な
のである。人は自分で自分を規制しそれを共同で監視しなければ羽目を外すのである。
この闘争本能や探求機能或いは刺激を求める欲望こそが 教育する意義なのである。欲
とは無くてはいけないしあってはならない物で どうにも善行教育しなければ全くの、
狼に育てられた青年と同じなのである。これが敗戦に際して堅く誓った国民の心だった
と言えよう。つまり戦後どんなに苦しくとも或いは厳しくとも生活苦であっても 保身
はしまい弱音は吐くまい子の教育をすたれさせない。世界を又変えて行く。と言う気概
が日本に溢れていたのである。今日我々の世代はそんな中に育てられて来たのである。
今の東京都知事の様に 都知事と言う政党すら入れない役職にありながら選挙対策会議
などと言う選挙違反を堂々とやられ 金を返せば目を盗んで使っても好いだろうなんて
いうのは 朝鮮人発想であり日本人の大和魂にはない。それは犯罪者の言葉や行為とし
て教育しているのである。



126: 名無しさんAA:16/05/20 06:33 ID:Lrw
 この国は不思議な国だ。熊本震災からもう1ヶ月になると言うのに 今だ仮設住宅が
出来て安心して暮らす家族が一軒もない状態にある。更に官と民の協定である14ヶ日
以内の書類審査終了と言うのはもはや幽霊ごとき絵空事で 今だ罹災証明すら発行され
ずに家屋解体すら手つかずと言う事らしい。更に水道水は通っていても飲めない水であ
り今だ飲料水に事欠く場所もある。こんな状態なのに国会討論では衆参同時解散がある
かどうか消費税を行うかどうかという議論なのである。悪い訳ではないがどうも気が進
まない。丁度中国の膨張した軍隊やら北朝鮮の核開発などの中での国防軍のいない日本
での自衛権論議の様でやるせない。そもそも自衛軍と国防軍とは役割が違う。国防とは
勿論どんな手段をも検討していいだろうが自衛団というのはより強固な平和や安全や生
活などしか求めるものがないつまり国土国家よりは国民重視の考慮しかないのである。
自治権と国家的権利の違いであろう。その史上最大の国家権を持つ米国では利上げを辞
さない。今だ6月無いと言うのは時期尚早と発表する。不思議だ。そのアメリカは今に
も利上げをしたい様な気構えなのだがはたして出来るのか。日本も今だまだ利下げ出来
ると信じている様だ。大体アメリカの株価やドルは正常ではない。日本も又これだけ地
震や津波被害が会っているのに円高なのである。とわ言え100円を切っての高さでは
無い事で堅調でもあろう。120円前後より10円高いと言った所だ。ロシアの動きが
少し怖い。安倍氏がアセアン諸国の動きをけん制するのかとも思われたが 露払いのご
とくにプーチンとの非公式会談を行った。アセアンロシア会議が終わった後にすればい
い物を外務省は馬鹿が多いのだろう。フランス発エジプト行きの飛行機が又落ちた。飛
行機墜落と言えば ロシア製対空ミサイルである。戦闘中のウクライナ領内でマレーシ
アのボーイング機を地対空ミサイル・システム「ブーク」による墜落事故を起こし原因
とされた事件だ。地対空ミサイル・システム「ブーク」は最新鋭兵器と言われている。
つまり通常弾頭と違い 発射後瞬時に熱源を追いかけ更に熱源の移動速度や方向を計算
してその動力源若しくは近くで爆発し小型弾を拡散させ機首を攻撃するものだからだ。
この事件はヨーロッパ航空安全委員会が機体引き揚げと検証を行い事実決定をしている
。だがロシアは公式に否定している。だがロシアはこの地対空システム「ブーク」の形
は、ウクライナのほかに、フィンランド、キプロス、エジプト、ヴェネズエラ、シリア
北方4島に配備され、そして今、中国に尖閣用に大きく売り込みをしている。かつての
事ある度に日本の上空を視察機が領空侵犯する形で飛び回ったのは その情報処理用の
地形撮影の為だったと言われているのである。


127: 名無しさんAA:16/05/21 05:29
 御馬鹿の八景 18

 エルドアンが雇ったテロリストは エルドワンの言うう通りにやった。国粋主義者は
トルコの混乱をつくり テロリストをつくり そして自作自演の爆破をPKKとした。
今や敵無し状態である。文句言う新聞社を潰し 文句言う住民は抹殺し 議員の不逮捕
特権まで剥奪したのである。ロシア軍機には警告より撃墜 クルドには証拠のいる逮捕
より殺して PKKと名指しして他のイラク人やアフガン人の見せしめとする。これが
一番好いのである。首相はそうした意見に同意出来なかった。其処で止めた。現代のヒ
ットラーである。国際社会が何んと云おうとも今やるのだ 自分の地位の為に。




128: 名無しさんAA:16/05/22 08:50 ID:dPI
 御馬鹿の八景 18

 エルドアンが雇ったテロリストは エルドワンの言うう通りにやった。国粋主義者は
トルコの混乱をつくり テロリストをつくり そして自作自演の爆破をPKKとした。
今や敵無し状態である。文句言う新聞社を潰し 文句言う住民は抹殺し 議員の不逮捕
特権まで剥奪したのである。ロシア軍機には警告より撃墜 クルドには証拠のいる逮捕
より殺して PKKと名指しして他のイラク人やアフガン人の見せしめとする。これが
一番好いのである。首相はそうした意見に同意出来なかった。其処で止めた。現代のヒ
ットラーである。国際社会が何んと云おうとも今やるのだ 自分の地位の為に。こう言
う強い意思が伝わる。そもそもこのエルドワン大統領に大統領の資格は無い。選挙で負
け穏健派とクルド同盟派が圧勝したのである。そこで愛国者党は現状議会の空転を恐れ
再選挙を強行したのである。この選挙が違法性が高く又選挙監視や選挙権の公明正大な
運用があったかがまだ確認されていないのである。この公明正大さの無さでは都知事も
負けていない。今回説明会見では「第三者の厳しい目で・・・」と44回も呪文のよう
に唱えたのである。馬鹿げた話である。法律は政治資金規正法だけが法律だと思ってい
るのだろう。政治資金管理において党の持つ規制からのがれ政治団体に移す事は何も違
法ではない。舛添知事の豪華出張や公用車の温泉通い、さらに国会議員時代の政治資金
問題はよくある話である。舛添氏が独自にやり始めたというより、他の政治家も多くが
やっている事で見習い、それを真似しながらやり始めたことらしいが それはつまりは
今の沖縄事件やスピード違反と同じで 捕まらなければ事件でなく違反ではない犯罪で
はない。と勘違いしている節がある。パナマ文書問題と同じでヤクザやマフィア暴力団
しか使わない手を公けに社会性を無視して法律の網目をかいくぐって行うと言う荒業で
ある。政党交付金ネコババ疑惑 政党支部の解散直前、自身の資金管理団体に寄付など
都知事や首相などの行政が無党派として公平平等の立場でしかも信任を得て行う役職と
の認識がなく今だ一介の議員と勘違いしているらしい。「東京維新の会」は「もはや、
あきれるしかない。都民の不信はますます深まっている。都政が混乱する前に自ら辞職
すべきだ」最大会派・自民党「まだ逃げ切れると思っているようだが、都民の心はます
ます離れていく」と言うが その前にそうした人格や品格の仁徳のない彼の氏の行動を
知らずその応援をした罪は大きい。まずは公人としての資格がない事を知るべきだ。事
が公けにならなければ人は裁けない。がそれでも真実が民法の、公序良俗を犯した罪は
そこにある。


129: 名無しさんAA:16/05/22 10:16
 ディノン・ディノン 10

 沖縄では軍属が又犯罪を犯した。東京では都知事の桁はずれの奇行に都民は呆れてい
る。裁判所では野球スターが野球が遠ざかり麻薬に走ったと言い訳している。世界では
経済の減速に会議を開き対応を覗っているがしめしが付かない。アメリカでは強気にま
だまだ消費経済が成り立つと勘違いしイギリスは他のEU諸国はお荷物だと勘違いして
離脱をほのめかす。大体経済学者は世界経済を見ていない。多くのエコノミストは政治
が人間で動いている事を知らないらしく事件や会議で動いていると大間違いしている。
本来人間は個の生き物である。消費社会は蔓延した依存症の人間を造り出す事に専念し
その集団への依存症故に 多くの事件事故が起こる。まるでバクテリアである。地球の
大事を解っていないまま技術や消費活動は拡大される。依存症の克服は簡単な事で解決
できる。そのキーワードが「清貧」である。清く正しく美しくあれ。と言う生き方は、
言うは易しするは難しである。よく学校では学業成績が問われる。社会生活では利益や
時間などが問われる。だがそれは基本的には間違いである。人は人を豊かに幸せにする
事を生業としている。つまり理解度や社会の完成度の高さが問題であり 真人間をいか
に多く作ってきたか或いは真人間形成に関係してきたかが問われる事で決して魔人間を
輩出してはならないのである。それは現代社会でも古代社会でも如何に子孫が増え幸せ
な人生に送ってやったかの答えと同じだ。少子高齢化は日本の出した一つの間違った答
えなのだ。生き方を清貧への依存症であれば 何も媚びる物はない。生きる事に物は単
に付属物であり 酒煙草女麻薬ギャンブルなど殆どの物質依存に「耐性」や「離脱」に
よる禁断症状が出ても他の解決策が見つかる。それは簡単な四季や食物などへの自然崇
拝である音楽や絵画や農耕や書道など日本的なものの大事さ豊かさが解ってくるのだ。
消費社会で物質に依存していて満たされた気持ちになったとしても生きている価値を見
出す事は不可能であり、事と次第では交通事故や職場事故或いは日常的健康被害などの
大きな影響がでる。それは金満症で金依存でのサービスで結果的にそれによりオレオレ
詐欺などにも会う結果となる。本当の意味で自分のために、自分の感性でのお金を使う
ことは昔人より今の人間がやってるだろう。がゲームやスマホなどでは本当の幸せな者
幸せな気持ちになれない。それから離脱して余った時間で考えるからこそが貴方を幸せ
にする物でしょう。熱中症と依存症は共に脳内の異常なのである。それがナチスを産ん
だのである。


130: 名無しさんAA:16/05/25 18:47 ID:XsA
いざ酔い いざ並み いざ晒場 69

 トランプ氏は、「監査は報告内容に不備があるかどうかを確認するもので、監査が終
われば喜んで公開する」とのたもうた。東京都知事も「第三者を入れてしっかり調査し
て公表したい。」とのたもうた。こんな政治家の嘘が今や世界中で通用するから米軍の
不埒な行動が沖縄少女の命を奪うのだ。大体この東京都知事は一体何を調査する必要が
あるのか。「第三者の弁護士に厳しい目で調査してもらう」との回答を繰り返したのみ
でその後「今のところは全身全霊を傾けて仕事し、都民のために信頼を回復したいその
一念です」と続投を示したが 大体都知事という立場を解っていない。信頼が瓦解して
いる以上それが政策でなく 私個人の公私混同な考え方なのであるからそれは辞任する
発表かちゃんとした理由のある言い訳若しくはその行為の正当性の方向づけや弁明が本
来の会見であるべきである。一連の疑惑について「ご迷惑、ご心配をかけた」と疑惑が
疑惑でしかなく会計は違っていたというのならともかく迷惑をかけた。返金した。など
と悪い行為があった非があり間違えていたというのと違って幾つもの選挙違反が見つか
り公私混同があったのだからこれはちょっと話が違っている筈だ。記者もちゃんとそこ
を何故質問しないのか不思議だ。政治家は「詐欺ない。逃げない。隠さない」と言う事
で信用出来るものである。最初の詐欺ない。というのは誤魔化さない事であって嘘をつ
かない事だけではない。逃げない事や隠さない事更に嘘をつかない事が公務員としては
求められるし、更に全く間違いのない常識が知事職には必要である。その意味で猪瀬氏
の場合信用からの選挙費用の貸し出しであり応援の寄付行為と考えられ全く問題が無い
のにも関わらず都議会は百条委員会の設置や公開質問状の提示すら考えていて辞職に至
った。この事を考えれば一体都議会は何をしているのか。今まで何故この公私混同して
いる舛添都知事などが存在しえていたのか話にならない程ではないか。正に都議会内の
不正としか言いようがない状態だ。そして今警視庁においてミスが目立つ。今回歌手に
なりたがっていたアイドルのひよ子さんの殺人事件が起きたが 全く東京都と言う日本
の中心地をどうしたのか。どう管理して行こうとしているのか。全く不明のまま人間が
腑抜けになって行っている様に見える。体制に重んじ大勢に弱くあるのはいいことでは
ない。気骨に真面目に行動指針が無ければ日本の将来が危うい様だ。犯罪発生率と検挙
件数就学率や就職率と対価税収率と住民サービス環状線などのインフラの最整備など、
これらが伸び悩んでいるのはおかしい話である。

131: 名無しさんAA:16/05/27 19:37 ID:RGo
 いざ酔い いざ並み いざ晒場 70

 嘘つきトランプが攻勢に出た。メール問題では国務長官まで辞めて禊ぎをやったのに
米国民は揚げ足盗りが上手く その禊ぎを終わったなどとは思っていない性格のようだ
。更に公式失業率10%は間違いで実体を反映していない。などとほざいて20%ある
などと言っている。こんなに苦戦して世界経済を引っ張る米政府を批判のまま具体的な
政策を打ち出さないトランプに各国のエコノミスト達は嫌気がさしているようだ。G7
の首脳達は世界的経済危機を認識しなくなりセレモニー化に徹しているようだが、中東
とアフリカの今後の動向と共産国の傾向が全く見えて来ない中中南米危機が起こりそう
だ。というのも今市場を賑わしているアリババ決算が相当に中国的不透明感に覆われて
いて急落傾向にあるからだ。文字道り「開け誤魔。」で誤魔化師経済で資本主義的経済
成長を創ったのだからその真実である「質的価値の創造」が無く「大衆生活の向上」も
其処に無い。そうした中経済が潤う事はない。中国政権が成長経済で安定するという話
はもっぱらだが 実は中国政権だけでは無い。質なり価値なり考え方なりが向上し成長
しない限り何処の国でも政権基盤はない。今米国内で起こっている不動産売買の堅調と
株式の推移は中国投資家や産油国投資家の動きで安定していると言える。が中国国内で
の不動産投資は日銀のマイナス金利政策でかなりの加熱しているのである。一時期バブ
ルと騒がれ金融引き締めによって国家銀行の商工銀行も農業銀行も全て破産に向かうと
考えられ一気に地価下落に向かったのである。もともと中国には何ら価値は無く大きな
土地もその効用となれば飲み水どころか空気にも事欠く有様だ。が政府は経済的理由で
この当然の引き締めを緩め銀行のブラック融資の利財商品の販売を大幅に認め再び加熱
し株下落から土地やマンションなどの投機に傾いたのである。裏には一般需要者であろ
う低所得者への高利の全額貸し付けでの販売である。米国サブプライムローンと同等の
の危険の上その10倍もの資金貸付とされる。さてこうした中で中国人は中国という国
を認めていない。つまり母国に住みたがらない。理由は幾つかある。大きな要因は民主
主義が無い事に起因して食品公害と粗悪習慣更に狂暴政府と交通事故の多さと公明正大
でない国柄であるが そこで米国・中国流で美国に投資するのである。これが今の経済
を支え更に先の暴落に売り逃げした資本家も雪崩を打って米国や欧州に資金調達してい
る。これにアリババは呼応して資本を移したのだが やはり独善的勝手な帳簿のようで
この不透明さが日本のソフトバンク株まで波及しているが恐らく透明化された帳簿には
なる事はない。となればこれはまだまだ下がる様相であると言える。


132: 名無しさんAA:16/05/28 00:18
 いざ酔い いざ並み いざ晒場 70

 今年は結構大きな年かも知れない。更に今回の志摩サミットは人類の歴史上の中では
変革機運の最初の年となるであろう。お粗末ながらG7は成功とも失敗とも言えないと
言う何んとも奇妙な結果になった。EU委員長が居ながら相も変わらず英国とドイツの
ボケ突っ込みで世界の経済政策の道筋には声明が出せなかったからだ。堅調な財政支出
に重きを置くドイツは歴史的にも国民的にも異常な国債は発行しない国柄だ。難民支援
の策の支出さえもドイツ国民はデモを起こして居る位で戦前の恐慌時の窮屈な暮らしが
ナチスドイツを産みヒットラーを創った過去が教訓にあるからだ。一方安倍氏は、今の
世界の経済状態を書面で説明したが 英国の馬鹿息子は能天気にも大仰に悲観的すぎる
と高笑いしている。これが英国病の患者足る所以だ。実際世界経済は既に地獄の縁まで
見えるかのように悪化している。それもこれも英国に第一の責任がある。中東の紛争が
止まらない事も又拡大してる事も中国が世界を混乱させている事も、そもそもの原因は
英国のこの楽観的な馬鹿外交で混乱させていて、それは世界大戦の一次も二次も同じに
かの英国は不勉強な指導者を選びいい加減な議会決定で政治が行われている事にあるの
だ。事実今の時期にEU離脱などと掲げる英国市民が3〜4割も居る事自体が不思議だ
。今後イギリス経済はかなり悪化する中で加速させるというのだから驚きだ。BP石油
はアングロ・ペルシアン石油会社から一大エネルギー商社に変身した古参の石油会社だ
が、世界中で千九百社の頂点にいるこの会社がメキシコ湾の原油掘削失敗から建て続け
に悪く赤字を余儀なくしている。ブラジルでは政変で掘削がいき詰り、原子力再生事業
も日本の地震で浜岡原子力発電所の停止で中部電力の廃棄物再生でのウラン取り出しも
御破算になっている。かの鉄の女とされたサッチャー氏の功績はエネルギー分野の電力
事業を発電、送電、配電の3 部門に分割し民営化したのを先頭に、交通、通信、郵便、
金融、労働などの分野でも徹底的な規制緩和を行った事が、イギリスの活性化に大きな
役割を果たしたとされる。がこのエネルギー部門も原油下落と共に沈み鉄鋼業は世界の
需要を持てる程の中国製鉄生産でダンピングの中にいる。中でもEU圏内販売を目論ん
だ企業の多くは英国にいるが鉄鋼生産で第2位を占めるタタは撤退を決め 鉄鋼は供給
過剰で、安価な輸入品が流入し生産コストが高くついて事業の業績は「急速に悪化」し
たと説明している。更に中国が買い付けた英国企業も今後中国の混乱でEU撤退どころ
ではなく、フランスでさえ今後の企業誘致の為に労働法の改正にストが起こっているの
にはたして 英国はこんな無頓着で無能な首相を輩出したままでいいのだろうか。


133: 名無しさんAA:16/05/29 06:48 ID:Fhw
 いざ酔い いざ並み いざ晒場 72

 そして一番大きな問題は この粗鋼が粗悪品である事だ。中国製品が中国国内で使用
される分には全く問題は無いだろう。だが一度加工品として日本や英国に輸出されれば
それはこれまでの品質が確保されてなければ大きな問題が生じる。実はこの事で大きな
問題が生じている。事食品であれば衛生管理の届いた商品でなければ人が食べて病気や
死亡者が出ても案外わからない様に 鉄鋼であればその品質が他の物例えば電子製品や
自動車ボディなどに使用された場合全く個体振動数や強度不足による変形であっても、
気付かない大きな事故が起こっている可能性がある。かつて自転車の世界大会が欧州で
あったのだが そこでは3台の予備自転車を持って参加した優勝候補がスポークが折れ
たりサドルパイプや色んな事で壊れ参加不可能に陥ったのである。本来の強度や耐力が
なく摩耗が激しいものに今まで国内で研究された許容値は反映されない。つまりより重
くより厚くより強固に仕上げなければ素材そのものが硬くないのである。久留米では、
クレーンの後方横転事故が起きた。自重が前部にある為に運転手の死亡事故にはつなが
ることにはならず前の国道筋に倒れ 国道にも人が居なかった為に大きなニュースには
ならなかったがそれでも支えを止める大きなピンが折れると言う主要部の事故だった事
でその原因が今だ解明されて明らかになって無い。だが噂ではこれらの精密加工鉄製品
に韓国製鋼鉄が使用されていた為とされる。インドの鉄橋吊り揚げにもろくも崩れ去っ
て大事故になったがこれは中国製の安い鋼鉄の使用だったとされるしインドネシアやマ
レーシアやフィリピンなどでも同様の事故が起こっている。イギリスのタクシー部品や
韓国軍の軍艦や戦闘機或いは民間航空機内のアメリカ製品などで安価な為使用されてい
て田中のエアーバック以上に深刻な問題であるが米国の運輸安全委員会は意図的に捜査
や調査拒否をしている。というのも紛れ込んだ部品の規格外は外見様相製品元素まで同
じだが極少量の秘密の成分や製造過程での精錬やしごき加工での研磨などの不備であり
そうそう見つかる可能性がないからだ。つまり恣意的に日本製品叩きになってしまうの
である。他を探せないから探しやすい管理された日本製を叩くのだがその為中国製韓国
製の模造は莫大な利益と広範囲な危険をだす。食品に味や品質見た目やパッケージなど
変わらなく病原菌の入った従業員教育のなされていない工場で作られ消費者が患者にな
る事と同じだ。



134: 名無しさんAA:16/05/29 18:54
 いざ酔い いざ並み いざ晒場 73

 安倍首相は麻生財務大臣に増税引き延ばしを打診したらしい。対して麻生氏は先送り
なら解散総選挙をして信を問うのが筋であろうと言ったらしい。麻生氏は あまりにも
非礼な言い方である。財務大臣在りながら、およそ600億円以上の無駄使いとされる
選挙を 軽々とやれなどと言うのである。キチガイ発言である。選挙で使う金を景気の
為の消費だとでも考え違いしているのだろう。生産のない只の投票行動の為に使う経費
で消費ではない上その補助として議員にお金が配られ全国の多くの後援会組織の業者が
ほとんどの組合命令一下産業活動を止めるのである。こんな迷惑な停滞活動はないのだ
。およそ下級議員の発想で大臣にあるまじき発言だ。谷垣氏も同席したようだが「行く
も地獄退くも地獄」などと言っているが全く間違えていて それは自民党公明党の勝手
な思惑の話である。今回の舛添東京都知事の不祥事もうんざりで、都知事選でも「1年
で猪瀬直樹知事が辞職したことを受け、3年間で3回目の都知事選が行われることにな
る。有権者数1千万人超の巨大都市では人件費や啓発費が膨大となり、選挙経費は平成
23年の大阪府知事選(約18億円)の3倍近い約50億円と試算される。この3年間
で都知事選に費やされる都民の税金は、総額約130億円に上る見込みだ。」と記事は
書いている。そもそも日本の消費活動を管理や分析や解明をしていない事が問題である
。この島国は農家の組合団体農協の力を見て解る様に百姓と漁民の国家である。が戦後
の経済成長を機に人々がサラリーマンとして工場労働者として職を得て発展したのだ。
その中でサラリーマンは会社法の中での経営基盤である経理を得て給与所得となってい
てまず間違っても給与を多く貰う事はない。つまり兼業農家や零細漁民は既に糧を得る
本業には居ないのだ。そうした中でこの税金を多く払っているのは会社経営者ではない
。現実的にサラリーマン所帯こそがこの日本政府を支えている形である。パナマ文書で
解る様にずる賢く大きくなった所得者は逃げ隠ししていて赤字企業など法人税すら徴収
に応じていないのが現状なのだ。ではその中で消費税増税はどうすればいいのか。食費
を5%にして他を10%とすれば事足りるのだ。どんな人であれ胃腸は一つなのだ。更
に口に含む飲料まで全てが5%であれば貧乏人の消費傾向からしてエンゲル係数低下の
寄与がある。酒を除いて口に含む全てを対象とすれば配達だろうが直売りだろうが同じ
に5%と減税すれば減税効果も又出て来る。これが日本経済に最も好い方法なのだ。が
本質は実はこうした議員出費の削減や五現業などの国費捻出が最も大事な事で国債返済
も又同じに大事な要素であり 結局はこの政治家の倫理の無さを矯正させる事が一番で
あるようだ。

135: 名無しさんAA:16/06/02 06:45 ID:UQM
 御馬鹿の八景 19

 ゴッタルドベーストンネル通称ミラノトンネルが完成した。かつて鉄道戦用トンネル
青函トンネルは世界一の長さだった。その後イギリス〜フランス間のドーバ海峡を行く
ドーバトンネルが予定より5年遅れて完成したが 今回の新トンネルはスイスのモンブ
ランのあるアルプス山脈を抜けて走る鉄道である。ニュースでは、開通式にはメルケル
独首相、オランド仏大統領、レンツィ伊首相らが出席する予定と言われる。今後は数か
月間をかけて試験走行が行われ年末から本格的な運用が開始されるという。建設の話が
持ち上がったは1947年の事と言われ東京オリンピックの頃だが、着工されたのは17年前
。総工費は推定120億ドル (約1兆3100億円)と言うからすごい。たった一時間の短縮す
る鉄道が最新鋭機器が出来て通称モンスターシールドマシンであるモグラカ―が出来て
これまで約2820万トンの岩石が取り除かれてきたと言われるがそれでも17年間掛って
掘ったのである。たった1時間短縮の鉄道を作る為に。欧州人の気性がどれだけ地中海
とりわけアドリア海を熱望して止まないのかわかるというものだ。このアドリア海が今
避難するアフリカ人に悲劇くぉ産んでここ3カ月でも8千人が海難事故で死んでいる。
そうまでしてもやってくる人にイギリスは簡単に拒否権発動の為のEU離脱を投げかけ
る。全く馬鹿げている。とある30年間芝の管理をしたイギリス人は言う。我々が最も
気に掛けている情報は離脱に伴う正確なメリットとデメリットが全く情報としては無い
と嘆く。賛成派が言う様に離脱して難民がこの国にやって来なと言う事は全くないだろ
うし反対派が言う様にEUの中でその良き方策が見つからないのも困りものだ。問題は
EU離脱で多くの企業が撤退し難民問題以上の失業問題や財政問題が出来たり、或いは
留まる事でEUからの言われなき難民受け入れの無理な強要を強いられ文化の喪失が産
まれる事だ。いずれにしても今はまだ判断出来る程の情報や真実は入って来ない。なの
に投票が迫る事は困りものだ。と話す。この英国民の気の状況と同じに世界情勢は50
の景気でもない不況でも無い中に落ち着いた経済だ。がここは我慢の年だろう。インド
の熱波は弾薬を発火させドイツバイエルンでは大洪水だ。この異常洪水はトンネルから
の空気穴の影響が多少あったのだろうが 今後も続くかが見守るべき所だろう。このア
ルプス越えしてイタリアとドイツの物流の加速は一体何をもたらすのかが今だ不明だ。


136: 名無しさんAA:16/06/05 09:18 ID:ubA
閑話休題(国際経済問題)

 いざ酔い いざ並み いざ晒場 74

 安倍氏は馬鹿な事をわざわざ発表した。財政健全化を掲げていながらも多大な出費に
傾いた民主党はその時沖縄の新空港問題までこじれさせた。これで日本の防衛が10年
他国に遅れを取ったと言われ 更に中国への頭を下げに行った小沢氏の行動で更に遅れ
を取ったのだ。これを見て韓国が日本を馬鹿にしアジアバランスを壊し更に民主党で決
めたインド洋給油の取りやめは中国南沙諸島や西沙諸島の不法占拠を許す結果を生んだ
。国内政治でもコンクリートから人へと言うインパクトあるスローガンだったが、これ
まで精力的に築き上げた国土保全の政策が、何故か一転して悪者扱いにされた事でその
後の政策に行き詰まりが生じ官僚が働かなくなってしまったのである。が ここに来て
日本の政治家は総員怠け者になった上、官僚も同時に動けなくなっているのである。大
体国会改革が全くされてない。副大臣を議員から選出している事は大きな問題であり、
閣僚を勉強させ現実を見せる教育係が全くいない話である。これでは日本は立ち往かな
い。それが今回の大きな汚職問題である。TPP交渉に大きく寄与したと言われる甘利
氏は完全な「あっせん利得法」違反と「政治資金規正法」違反とを犯している。明確に
(「公職にある者」が、国若しくは地方公共団体が締結する売買、貸借、請負 その他
の契約又は特定の者に対する行政庁の処分に関し、請託を受けて、その権限に基づく 
影響力を行使して公務員にその職務上の行為をさせるように、又はさせないように斡旋
をすること又はしたことにつき、その報酬として財産上の利益を収受したときは、三年
以下の懲役に処する。)という規定に合致しているにも関わらず、東京地検の特捜部は
不起訴処分(嫌疑不十分)とした。これは安倍政権の大きな失点であり自民党不要論の
合図となるだろう。更に自民党の擁立した舛添都知事は今だ都知事の座を辞職するに至
っていない。更に公開条例に基づく情報請求には何故か理由の無い黒塗りペーパーでの
開示である。全く公費による海外出張に何の秘密にする理由があるのか。これはこの係
員の公務員法違反行為である。つまり都知事と共に処罰されるべきものだ。

137: 名無しさんAA:16/06/05 09:19
員の公務員法違反行為である。つまり都知事と共に処罰されるべきものだ。大体何故か
検察や東京地検などはおかしな解釈を使っている。甘利大臣は甘利氏と言う個人ではな
く「甘利明」という選挙集団であり政策の為の議員事務所なのだ。それは舛添氏も同じ
であり その個人で行うべき政策会議や選挙対策を公費で行っていたのだ。こんな馬鹿
な行為を全く許してはならない。と国民が義憤に駆られている中に増税延期の声明なの
だ。全くこの考え方が自民党を押してはならない理由である。民進党も海とも山ともわ
からない中だが少なくとも岡田氏は信頼できるように見える。既存を壊さず動かすこれ
が民進党がやるべき改革である。

138: 名無しさんAA:16/06/13 23:36
 本末転倒 27

 NHKは今でも権威に盲従主義を取っているのであろう。東京医科歯科大学の学長を
して歯の健康を解説しているが 全くこの非科学的な論者の研究成果は一般社会の中に
はどこにもない。研究室の中だけの理論に過ぎない。事実 カナダと米国をまたがった
調査を歯科医師のNPOがした調査では歯垢除去に通う89%が虫歯治療を行い、金属
治療した6割がその傷で虫歯の原因になった可能性があるとしている。日本でも岐阜県
や長野での子供の検診時に金属器具から木製器具に替えて虫歯検診して2割の低下がみ
られている。更に興味深いのは歯並びを良くする治療だけで4割が虫歯の進行を止め2
割が自然完治していると思っている。つまり殺菌と噛みあわせのみで歯茎が強くなり虫
歯の痛みが治まっているのである。そもそも歯垢と歯石を分けた日本の歯科医師学界は
世界の異端者かもしれない。つまり傷をつけ虫歯を増やしながら高い治療費を取ってい
く詐欺集団でありその隠れ蓑に歯科医師会は政治献金を積み多くの違法な献金をしては
本来の歯科の道を誤らせているのである。旧態依然として削り傷つけては歯垢が虫歯菌
の巣窟としている。だがそれはちょっと違う。人の排泄物つまり汗や垢あるいは尿など
は黴菌があると言えばあるが そもそもの菌は人々全ての生体活動で生まれたものであ
りそれが善玉であろうが悪玉であろうが環境でそうなっているだけである。基本的には
虫歯菌などと言うのは居なくて虫歯にしやすい菌が居て繁殖するその環境があるかどう
かであり東京医科歯科大学大学長は間違った説明をしていると言える。更に今ではやっ
とだがドックセメントが使われ出したが20年も経って居ながら今だ日本では薬事法の
認可を受けていなく保険適用がなされていない。厚生労働省の怠慢の結果である。この
事で多くの患者が長いく高い治療費を払わされ歯科医が生活を得ている事はわかるが、
そうした事を放っていながら医療関係者は診療費値上げを叫ぶのである。更に名古屋で
造られたドライアイスから作るオゾン殺菌水はかなりのうがい殺菌の効果があるとされ
ながらももう5年以上も経っていながら全国の歯科に普及してないどころか奨励もして
いなく 前近代的放漫治療や生活経営のまま医師会は進んでいる。これが大学病院など
の医療事故や生体追跡のないいい加減な移植治療や過剰な抗生物質添加に繋がっている
のは当然である。

139: 名無しさんAA:16/06/15 20:06 ID:Nu6
(国会・政治批判)

 老境の至り 61

 今回枡添都知事がやっと辞任の意思を固めたようだが これには腹立たしさが大きく
至って参るのだが。この腹だしさは舛添氏に対してではない。自民党都議連や政府自民
党に対してである。そもそも石原都知事の後継者として猪瀬知事は順調に都政を行いな
がらも突然に徳州会疑惑の中で選挙資金融資が表に出たのである。個人が有力な応援者
に会いに行き使いもしない大金を借りた事がそんなに辞めさせるべき大きな悪い事か。
と国民は大いに疑問をもったに違いない。勿論 選挙法による公平で平等な地位の中か
ら選挙で選ぶと言う崇高な行為が 一部の権力者に加担し選挙に勝って独裁するという
危惧があってあまりいい事ではない。が個人が個人から応援されて金を頂く或いは借り
るという行為はすごく今の世の常套手段ではあるし いくら平等とは言ってみても個人
の経済格差や時間や見識或いは知名度の差はどうしようもなく大きいものである。でそ
うした都政に悪い事をしていない人を追い落として自民党はこの枡添氏を担いだのであ
る。担いだ本人には恐らく悪気はなく この選挙資金法や議員などの公式な政治資金の
管理には適法を持って行っていたとウシロメタイ気持ちは全くなかったのだろう。この
原因が問題だ。脱税のごとく法に触れなければ悪い事じゃないなどと言う子供じみた考
え方が通っている事が大きく問題で、そうした考え方や行動や行為や言動の者を押した
責任がそこにある。更に最も悪いのはそうした疑惑の人間が辞職したり死んだりすれば
何も無かったかのように次に進むと言う事の危うさだ。当然ながら今回の集中審議が何
故か連日ではなかった。更に百条委員会を作る作業も無しに不信任要求している。そし
て都議と都知事の話が全く見えず 都知事が悪い事をしていないとして今まで帳簿をつ
け処理しているはずなのに 批判があれば返金する都知事の給与を返上するそして辞職
する。と言うのは全く進歩を否定した話だ。まずこの人を陥れ自殺者までだす当惑させ
る政治資金規正法や高額な選挙資金を考えるべきで 全く進歩が無い上こうした偽りの
帳簿まで出させるような法のぬけ道を作ったようなザル法を何とか協議してもらいたい
ものである。枡添氏も何故こうした公式に名の出せないような者との会議領収書が不備
となるような会合に湯河原別荘を使わなかったのかが全くばかげていると言える。


140: 名無しさんAA:16/06/17 07:05 ID:wTY
(国会・政治批判)

 老境の至り 61

 今度の都知事選は大阪維新の会が活躍しなければならない。つまり橋下さんの考え方
が大きく関わりを持つと思われる。只大阪維新に限らず政党の責任として擁立した本人
をスクリーニングしてトレーニングをどう行うのかが今の日本の問題である。今取りだ
さされている 丸川氏小池氏などはとても駄目な話で知名度先行で実力がなさすぎるの
だ。桜井氏など現役官僚ではないか全く進めてならない話である。東国原宮崎前知事な
ど全く宮崎を駄目にしたようなお笑いタレントでは話にならない。更に野党では連蓬氏
が名が出ているようだが彼女も又役不足で駄目だろう。それは小泉氏を立てるようなも
のであろう。多分強い要望があっても辞退するだろうが恐らく都知事になる事は一時的
席であり最終的には国会議員で内閣の一員というのが希望であり結局はこの官僚機構の
しっかりした都政であれば官僚の使い方を勉強するぐらいで都民には何にもならない。
というのが相場であろう。日本人の姿としては古舘氏や古賀茂明氏あたりが知名度の点
で有利な話であろう。更に今では懐かしい久米宏などもいいかも知れない。特に古賀氏
辺りは官僚機構などには精通していようから かなり都政の進歩に有力視されるのだが
。問題は都政というよりは都議会の機構である。都議会が都知事のせこい問題に揺れる
中富山県富山市議会は15日の本会議で、市議の議員報酬を増額して月額70万円とす
る最高議員報酬条例改正案を可決した。こんな片田舎の何の仕事もしないで議論に委ね
る席に選挙によってつくだけで議長は巨額の報酬をもらい使い方を知らないの政務活動
費と発展には寄与していない視察旅行に明け暮れて税金の無駄使いをするのである。こ
の日可決された議員定数削減は40議席からたった2名引いた38議席である。人口比
でも面積比でも非常に非効率な議員数である。富山市の面積 1,242 km2で人口:42万
人 (およそ)であるが155万の福岡で62人これでも多すぎるのだが単位議席は5万
に2人だと考えれば10議席で事足りるのである。又東京の130人の都議席も135
0万人とされ10万に一人だが区議団を見れば世田谷区議50人も90万の人口である
。こうした議会自体の異様な姿の改革や正常化を出来 それを政府に突き上げる都知事
を今日本は求めている。


141: 名無しさんAA:16/06/18 06:41
希望と光の間 64

 イスラム社会がこのところ異常な世界に変わって来ているようだ。トルコでは世界の
コーラン大会がありエルドワン大統領が出席して 人々にもっとイスラム教が知れ渡る
ようにと言ったが このコーランの教えこそ曲者である。中国上海で全くデズニー氏が
生きていたら怒る位のいい加減なテーマパークが開園した。中国政府や共産党有力者に
折れた形だ。この折れた形はそのままデズニーの希望した厳しい躾ある人間達の著作権
の確保される社会をないがしろにしてしまっていて堕落した人間模様を作り上げている
。その証拠に本家本元ではイベントプール内で幼児がワニにさらわれて行末不明である
。そうした混沌とした壁のない偽物のまがいもん主義は中国世界だけではなくトルコの
事情にも反映していて 一方でEUやNATOに近づき一方でこうした腐れてしまった
イスラムに近づき又一方で今だ過去のソ連邦の夢を引きずったままのロシアに近づいて
優柔不断な八方美人を貫き国内的にはクルド人撲滅の旗をまだ降ろしていない。これは
ロシアのオリンピックのドーピング疑惑と全く同じ構図である。プーチンは国家として
のドーピング支持はしていなだろう。だが強権での国家発揚を掲げた時そう悪くはない
とした薬による体力増強には既に走っていたに違いない。だが問題はそうした国家の中
の体育委員会やオリンピックの国内代表委員会の会長などのその時の事情を知る中枢の
代表幹部が5人ほど事故死や不審死などを遂げていて「死人に口なし」の行為や価値観
がそのまま復活しているのである。こうした危険な独裁国家ロシアにイタリアは急速に
近づいている。これはEUから止めるべきものだが 不思議な事にロシアに近い英国で
でも普通の孤独な青年が精神に病んでいたのか EU離脱反対の女性議員を殺している
。多分にロンドン市長派に闇の中を行くロシア諜報部や共産党秘密警察が付いている事
を暗に示唆している。つまり今やイギリス国内では中国やロシアの暗躍する国で危うい
中にあるといえるのだ。誰がどう考えてもEU離脱などあり得ない話だが ロシア側は
今や境界線の国境沿いに西側の自由主義や資本主義の価値観が押し寄せNATOの戦車
が駐留する事は 許せない話なのだろう。プーチンの間違いはそのままロシア国民の間
違いでもある。ウクライナの様に世界が又狂犬のごとく領土紛争に明け暮れる危惧を掘
り起こして軍産複合体を復活させてはならない。


142: 名無しさんAA:16/07/06 06:47
  希望と光の間 70-2

 今度日本では参議院選挙がある。国の形というのは 今回のイギリスでのEU離脱の
国民投票を見て民主主義や自由な産業資本の形態の形骸化など見 多くを考えさせられ
た形となった。原因と結果は英国民特有のものでありEU内の特殊事情も重なり日本の
状況とはいささか異なってはいる。が かの国民投票で 14歳の少女が 「これから
この国を動かす私達より死んでいく80歳のお年寄りの意見が通ると言うのはおかしい
。」といった言葉は意味深だ。長寿国日本でも同じ事が言える。中福祉中課税とは言え
企業や老人を大事にした政策の中第三の矢が何たるか解らずアベノミスクのエンジンを
噴かすと言う。これは病人に与えた公共事業と言う投薬を増やすとしか聞こえない。今
でさえ後世の世代に大きな負債を残していると言うのに財源の無い出費を増やすという
のである。こうした政策論争にも投票にも若人は関われないのである。だとしてもこの
異常さをそのまま世界が放置しながら民主主義や一票の格差などと言うのはおかしい。
つまり私の意見は それが実効票でなくとも投票させるべきなのだ。つまり有効な票と
しないまでも今後の参考や市民のアンケート同様の動態調査であってもいいからサーチ
票の投票はすべきでは無いだろうか。更に今の日本の憲法改正問題にしろ増税問題でも
我々は首相を直接投票はしていない。が今首相や政権政党が行う結果を良くも悪くも受
けるのは次世代だ。戦争の結果を現代人が受けてきた様に。これは国際社会がどう変わ
ろうとも変わらない現実である。よく今の憲法が押しつけられた憲法と言う声が挙がる
。が現実は全く違っていて日本政府側がお願いし押しつけてもらった憲法であり、この
憲法のおかげで日本は平和理に経済成長を成し遂げたのだ。更に日本は戦争や武力防衛
の出来る普通の国になりたい。と言う声も上がる。が普通の国とは一体何を指すのか。
アメリカは世界の警察官としての兵器開発し、対する共産国の長としてロシアは一歩も
引かない軍事産業と秘密警察を持つ。更に後を追い駆ける英国と中国がいる。フランス
やドイツもその国なりの歴史と地政学的状況を持ち更に普通の国ではないのである。今
日本はリハビリする用意をするべきだ。今後敵対するだろう共産国に今だ援助をしてい
るなどというのは全く馬鹿げている。選挙と人権の無い国を捨てる事が日本のやるべき
事だ。普通の国になる事はそうした明確な戦略と方針を打ち出し国民の総意が解る事が
普通の国であって アメリカなどは決して普通の国ではない。



143: 名無しさんAA:16/07/07 19:48
  希望と光の間 71-2

 一極集中や格差是正或いは少子高齢化などと弊害の声は高い。が首都の地方移転の声
や具体策は全く燃えない。東京が地方交付税のない唯一の優良都市であるというのは認
めるが、それでも東京の政策がいいのではなく 単に日本の首都であって企業の本社が
集中しているからに他ならない。では何故東京に集中するのか。それが今の交付金や優
遇される税から降りる金「アベノミクス」の本体である補助金である。これが遠い過去
の中国でもうまくいってないで戦に明け暮れた歴史を政治家はもっと知るべきである。
つまり企業も政治家も或いは私人も旅行者さえも情報過多の中首都依存によって 早い
正確な流行を見極めて動こうとしているのである。がその東京や首都の機能は田舎から
人材を吸い揚げ更に安い単価を求めた田舎の資材を高付加の商品で売ろうとした世界で
田舎の資材も人材も物流も電気も無ければ水も食料も 全く住めない程の中にあるのだ
。この現実を直視すれば 東京はもはや首都離脱を叫ぶべきである。更に今の状態のま
ま直下地震の被害を考えるにどうしようもなく人は多すぎているのだ。国を改めて考え
その行政を考えれば アンケートになっても若年層の選挙時の投票は必要だ。そうすれ
ば一票の格差などない事が解るはずだ。大体裁判所はアダムズ方式の怪を良く知るべき
だ。日本人は多数決の間違い 大勢という偽物品を見定めなくては裁判の正しさは貫ぬ
かねられない。英国の独立調査委員会通称チルコット委員会は3年間の調査結果を発表
したそれによると「時の政権ブレア首相は外交努力をせず、又 国連の調査報告による
大量破壊兵器は今は存在せず現在のままの経済封鎖では核兵器の開発はできない。とい
う忠告を無視して国連を貶めて米国追従してイラク戦争を行い年間200万人の避難民
を産みだした。」と言った。これを受けて英国兵士の遺族達はブレアに殺された。との
声明をだした。この事は日本も又同じだが 日本にはこの独立した政権すらも違法だっ
た間違いだった。と指摘する仕組みすらも持たない。つまり「普通の国」としたいなら
そのちゃんとした解析と分析が出来て、批判と意見が通りそれが説明される仕組みの国
にする事が先決であろう。更に軍事力を誇っても米国の言いなりでは英国さえ間違える
この危うさを 日本国民も知るべきである。

144: 名無しさんAA:17/01/22 15:31 ID:nTo
追憶の彼方から 37

 もうどうでもいいじゃないか。韓国政府など相手せず 韓国国民がこんなに馬鹿だっ
た事が解ったからには 韓国との国交を遮断して北朝鮮に宣戦布告をすれば。トランプ
もその事を期待しているのだから。そして日韓併合後に敗戦になったが 日本は北方4
島と共に竹島や済州島を日本以外の領土と認めていない。敗戦規定或いは条約でも日本
はその時国にもなってない韓国や今の中国に負けた訳ではないし戦争起こした訳でない
。逆に国内平定の為の援助として帝国陸軍を送ったが 現実的にも形の上でもその理由
と経過があるだけだ。今の当面の日本の課題はアメリカでも韓国でもない。中国と北の
核ミサイルだ。捏造された経済成長と実情の差は既に中国の経済崩壊の中にある。この
事での影響はスモッグが今の南京大虐殺の捏造事件にもある20万人にも満たなかった
とされる市民と海外の地籍外人員を含めてもでも30万人虐殺とされた事は共産党員の
デマである。元々中国共産党は朝鮮人とのデマによる攪乱作戦で作ったソ連の組織であ
る。裏には当時の中国政権である国民党軍と日本の帝国陸軍による協定に於いて自分達
に出番がない南下政策が劣勢のままだった事がある。ウラジオストックは元々過疎地で
ある。中国清朝時代に外満州とされ 下手には手出しの出来ない所だった。だが日本が
朝鮮と併合し満州国を設立しソ連やロシアは対日政策と南下政策によって勝手に支配し
た。その為自国の労働人口が居無い中での大陸横断鉄道は皮肉にも日本の京都の舞鶴港
に行く船によって終結する。日本軍が中国に軍を送ったのは盧溝橋事件によってである
。そも日本にとって中国大陸など必要のない土地だった。必要なのは南下したソ連との
直接本土との国境を持たない事即ち「共産党南下阻止」の為の朝鮮国や満州国の自立と
石油の出るマレー海峡付近の石油掘削権利と更にそこからの安全な海運の航路であった
。だが中国共産党にはそのまま国民党軍が自治政府である事は我慢のならない事だった
。そこで起こしたのが「盧溝橋事件」である。中国人は不思議な人種である。清王朝も
今の漢民族も「朝鮮半島」やウラジオストックのある外満州や満州のあったモンゴルや
北朝鮮やベトナムや沖縄でさえ 自分の領土と言っては勝手に他の国と契約を結ぶのだ
。台湾マカオ香港島或いはチベットやウイグルそうした自国民が行った事すらない土地
でも見聞した隣国は自分のものと言ってはばからない。そうした土地認識が韓国の竹島
盗取を産んだのである。自分の物は自分の物人の物も自分の物と言う訳だ。


145: 名無しさんAA:17/01/22 15:32
追憶の彼方から 37-2

 この盧溝橋事件は 日中国交になってからはこれが共産党の起こした事件だった事が
知れ渡った。それは毛沢東語録や党機関紙そして周恩来の記者会見などで自慢したので
、各種歴史学者によって証明までなされたのだ。「盧溝橋事件」とは1937年7月7
日夜の日本軍の七夕集会に数発の鉄砲が闇夜を引き裂き国民党軍日本軍共に死傷者が出
た事で日本軍と冀察政権 第 29軍との衝突に発展した事件だ。日本では、中国北京の
南西郊外の盧溝橋付近での演習中の時となっていて 華北駐屯日本軍一木大隊の中隊に
対しての被弾だった。がこの時双方共に兵に銃剣に弾は持ち合わせが無く高官しか撃て
る事の出来ない状態だったと言われている。遡る事1917年日本の宮崎滔天は中国の
革命家孫文を応援し 同志だったアジア主義者として湖南省を訪れ、講演を行ったのだ
がこの地が毛沢東の故郷であり 多感な毛沢東を共産党員に仕立てた。辛亥革命は初の
中国の民主化革命とされ 清が打倒されて古代より続いた君主制が廃止されて共和制の
国家を樹立し中華民国と命名されたのだ。毛一族はこの清に仕えながらも「洋務運動」
と呼ばれる清朝末期の官僚の第一次改革運動で一体化しなかった中国王朝は後で西洋化
した日本の明治新政府に日清戦争で負けて清王朝はもろくも崩れ去ったのである。この
時講和条約を結ばざるを得なかった清王朝はこれまでも英国のお茶とアヘンの交換貿易
を密貿易していた事で起こったアヘン戦争とイギリス船籍の中国船を取り締った事で起
こったアロー号事件での戦争で一方的な賠償金と不平等条約を前に国政を行っていたの
だ。この時清王朝が財政危機を乗り越える為に打ち出したのが 鉄道事業の国有化した
融資だった当然反対する革命運動が全国へ広がった。14省が清王朝からの独立を宣言
し孫文が臨時大総統となった。それに対抗して実力者であった軍人政治家の袁世凱を立
て革命政府に挑もうとしたが自身が臨時大総統になる条件で寝返ったのだ。これが第二
革命とされる。清王朝はどうにもならなくなり皇帝溥儀の退位するで決着し、清王朝の
長い歴史に幕を閉じた。だがその為皇帝溥儀は自家清国の復興を夢見ていて西洋列強に
相対する満州国建国に日本陸軍の後押しの上に再度皇位に着いた。



146: 名無しさんAA:17/01/22 15:32
追憶の彼方から 37-3

 元々清王朝中国は漢民族の建てた王朝ではない。日本にも海賊としてやって来たとさ
れるツングース系の騎馬民族「女真族」が建てた王朝でその意味では 北朝鮮や満州は
故郷の様なものだったろう。北京が北の寒い所に首都としてあるのはその為である。こ
の後よく日本は賠償金によって八幡製鉄所が建てられたと言われるが ちょっと違って
いる。まず日清戦争は朝鮮で起こっている。朝鮮の宗教組織の東学党が不満分子を集め
減税や日本の進出を拒もうと運動を起した。やがて農民達にも広がり民衆の声援で朝鮮
全土に広がった事から時の李氏朝鮮は清国にその鎮圧と西洋列強からの保護を頼んだ。
当時は清国は「朝鮮は我が国の管理下にある」と主張していた為に英国との土地の交渉
権を持ってるとして賠償などを行っていた為清国としても頼まなくとも兵を出さざるを
得なかった環境だった。それはちょっと前のベトナムでも同じだった。当時はフランス
とベトナムを巡って覇権争う清仏戦争最中で、この時にも朝鮮でクーデター未遂の朝鮮
事変が起こっている。この頃は同時期に二方面に派兵する事(二正面戦争)はできない
だろうという予測で日本に保護が頼まれている。実際に当時は同戦争のため朝鮮駐留の
清軍の兵数も通常時の約半数ということで計画されていたのである。朝鮮で中国より一
足早く起こった民主化革命は「このままでは朝鮮の近代化はおぼつかない。」と感じた
開化派の性急な所から来ている。李氏朝鮮王朝の四男が清王朝に人質にされていた事で
日本に防衛を求めていながら閔妃は清国に密使を送り、自国の王宮を守る日本軍からの
国王と閔妃の救出を要請したのだ。それを受けた袁世凱率いる清軍1500人が王宮を守る
日本軍150人に攻め寄り、銃撃戦となった。この自国の自分の王宮からの人質救出に
日本軍と清王朝軍が銃撃戦が出た。この後、朝鮮に拘泥するのは双方の為にならないと
考えた日本と清国との間で、天津条約が結ばれ、双方とも軍事顧問の派遣中止、軍隊駐
留の禁止、止むを得ず朝鮮に派兵する場合の事前通告義務などを取り決めをしていた。
その10年後には この事前通告に基づき清に続いて日本が朝鮮に派兵し、日清戦争の
火蓋が切られることになった。これはこの清の乱入によって新政府を立ち上げた親日派
が親族郎党ことごとく300人以上が三親等までの近親者が残忍な方法で処刑されたの
だった。



147: 名無しさんAA:17/01/22 15:33
追憶の彼方から 37-4

 もともとこのアジアでの戦争の多くは この中国人の「我を張った威張り」と朝鮮人
の「風見鶏精神」で多くの不幸が起こっている。そもそも江戸時代に 木造船しか持た
なかった清国が 西洋列強の大砲を載せた鉄で作った蒸気船団より強いとして 海戦を
したのが可笑しい事だが 戦った清国海軍は本気で強いと思っていたのである。そして
その賠償にはベトナムの権益や朝鮮半島の割譲と勝手に他の国を自国の領土として交渉
し切り売りしたのだ。そのやり方は今のアメリカとの会談でハワイと日本の間で太平洋
を割譲して使おうと言った言葉と全く同じ考え方で 江戸時代から300年も過ぎても
一向に変わらない進化しない思考なのだ。それは竹島を突然自国領として漁船を拿捕し
更に自国の領土で無かった事が証明された歴史学者を次々と殺してしまった韓国と同じ
である。この冀察は「盧溝橋事件」で一躍政権を担う事になった。日本側がどんなに国
内の治安維持を頼んでも日本側が悪い。としか返事が来ない国民党軍に日本政府はこの
蒋介石を相手にせず。との措置を取った為だ。この時共産党軍は首尾よく双方を離反さ
せて国を盗る方針を立てたばかりであったのだ。この知識人蒋介石と卑怯者毛沢東との
人生は正に中国の歴史そのものだったのである。蒋介石の年表を下に記述してみる。
1926年夏、中国国民党・北洋軍閥等に対し北伐を開始。
1927年、上海クーデターで中国共産党を弾圧。党および政府の実権を掌握する。
1927年、日本の田中義一首相と会談、中国大陸統一・対共戦に対する支援と満州の日本
    の政治、経済的な権益に関する地位を確約。
1928年、政府主席となる(南京国民政府)。基本政策は反共、対日、対英米善隣外交。
1931年、柳条湖事件で満州事変が勃発。1932年、満州国建国。中国は国際連盟に提訴。
1933年、柳条湖事件の収拾に塘沽停戦協定締結。
1936年.9月 上海共同租界内で日本人水兵射殺事件
1936年10月、西安事変
1936年12月、西安事件で軟禁される。



148: 名無しさんAA:17/01/22 15:34
追憶の彼方から 37-5

 蒋介石は軍人政治家として大きく教育を受けていた。浙江省生まれの彼は、日本陸軍
士官学校を卒業し孫文によりモスクワに派遣されてその後黄埔軍官学校を創設し校長と
なった。後の中国国民党総統となり、国共連合による北伐軍事行動に成功させたとされ
る。だがこの時からこの中国の思想の内部矛盾が出ている。1924年に孫文を総裁、
蒋介石を校長として設立された中国国民党の陸軍軍官学校であったが、ソ連の援助の下
に日本の軍隊制度を参考にしたものだった。黄埔で開校しこの名となったが、教鞭を取
ったのが多くの共産党員であったのだ。馬賊などの征伐の北伐軍の幹部養成をめざして
自国軍を創る為 政治教育と軍事訓練を施したとされる。一方毛沢東は孫文の辛亥革命
時無職だった為湖南の革命志願軍に入隊し、教鞭をとる教師の職を得た。1917年に
、孫文の同志だったアジア主義者の宮崎滔天が講演を行いにったが、日本が欧米白人の
アジア支配を打破したことを聞いてそれに感銘を受け政治活動にのめり込んだ。もとも
と孫文にとっては愛想の良い後発の毛沢東は窓口の案内係に過ぎなかった。だが6男坊
の生い立ちからも彼は利発な努力家で共産党との資金の窓口まで上り詰めた。1912
の第1回中国共産党全国代表大会に出席するのを皮切りに。1923年第3回党大会で
はスターリン指導下の中央執行委員会の委員5人のうちの1人に選ばれ「国共合作方針
」の決議を声明としてだした。いずれも張作霖やその息子張学良の縁故で得た地位だっ
た。知っての通り、日露大戦時にインフラの整備を要望されて日本は既に満州鉄道会社
を設立し鉄道経営をしていた。ところが馬賊の張作霖はロシアの後ろ盾に於いて新鉄道
の画策や満州鉄道の脱線計画など色々な抗日作戦を繰り返していた。柳条湖事件で満州
事変が勃発し満州国樹立となった理由は旧日本陸軍の治安安定に向けた布石でしかなか
った。と言うのもこの馬賊こそが曲者食わせ者の類で今の共産党の根幹でもある。つま
り本来土地を持たない匈奴と言う外敵から守る自警団だった。だがその内他村との連携
を持ち馬賊組織を形成し馬賊の中には軍閥に成長したりした。次第に暴力団化し暴徒化
しだしたゲリラ部隊となった。時の政権に雇われた馬賊が「正規軍・政府軍」であり他
は勝手な組織体だった。清王朝が崩れて行く時この各地の有力諸侯の持つ鉄道運営の国
有化でこの馬賊が大暴れし国の経済が経ちいかなくなったのが共産党の付け入る隙間で
あった。当初鉄道建設時には日本軍やドイツ軍に友好的だったが建設が終われば仕事が
なくソ連に資金を求めてこれが毛沢東共産党の上海クーデターを起こし盧溝橋事件を起
こしたのである。


149: 名無しさんAA:17/01/22 15:34
追憶の彼方から 37-6

 そもこの中国人には中国人と言う概念はない。国家としての認識は無いのである。あ
るとしたら華人としての繋がり人脈の枠であり 現在の西洋型境界線や領海、国家構造
のある日本のような構造型社会や政府保証の認識が全く無い社会で いわば境界線のな
い国家像なのだ。言わばかつての紀元前の西洋社会と考えればよく説明出来るだろう。
この清国崩壊で蛮勇割拠の時代に出たのが張作霖の有力馬賊と孫文を総裁とした革命に
成功した孫文の国民党軍だったろう。しかし張学良や毛沢東はこの国民党軍にいても、
自分には地位が来ない事を見越していた。つまり頭のいい黄埔軍官学校を出た善き政治
家が周恩来や紅玉他多数在籍していたからだ。塘沽停戦協定によって満州国建国される
と接する北支那の河北省内に非戦地区が設けられた。そこで他の地区では独立を望む動
きが生まれたがこの北の地域に住む人たちは北方民族であり、蒋介石や孫文など南支那
の人とは民族的にかなり違う。北支那の人々はこうした不満によって自治を求める運動
が盛んになりそこでそれを利用する事にした。国民政府行政院長蒋介石は当時首相で、
紅軍(中国共産党軍)の根拠地に対する総攻撃を命じていた。が、共産党と接触してい
た張学良と楊虎城は共産党への攻撃を控えていた。1936年12月にその視察にきた
蒋介石を西安事件を起こしこの蒋介石を軟禁した。スターリン毛沢東の指示だったとい
う。彼の殺害を要望したがコミンテルン指導者はそれを却下した。ドイツ軍事顧問団の
中将は直ちに 戦車旅団、訓練を受けた第83師、第87師を西安に派遣し反乱軍への奇襲
攻撃と共産軍への空爆を行い、蒋介石釈放交渉を行うとする作戦を行った。政府軍進撃
と爆撃が行われると、張学良は蒋介石に一週間以内に南京に送還する予定であったが、
政府軍の攻撃のために出来なくなったと言ったと言う。事情を知った一般世論からも、
張学良は強い批判を浴びることとなったが 自ら軍事裁判を受けて懲役になった。胡適
はこの時の事を「西安事変がなければ共産党はほどなく消滅していたであろう。・・・
西安事変が我々の国家に与えた損失は取り返しのつかないものだった。」と述べている
。翌1937年2月の三中全会では西安事件をきっかけに国民政府の態度が硬化し中国
共産党の完全掃滅を決議し、その後も妥協を行わず中共を追詰めたが 適わなかった。



150: 名無しさんAA:17/01/22 15:34
追憶の彼方から 37-7

 この1937年起きたのが通州事件である。先んじて起きた盧溝橋事件は「我が優秀
なる劉少奇同志の指示によって行われたものである」とはっきりと記述されていました
し。又、1949年10月の「中華人民共和国」成立にその日の周恩来首相の声明は、
「あの盧溝橋事件の際、我々の共産党軍が、日本軍・国民党軍双方に、夜陰に乗じて 
発砲し、日華両軍の相互不信を煽って停戦協定を妨害し、我々(共産党)に今日の栄光
をもたらしたのだ。」 と発言して、共産党自らが「自白」している。これによって、
日本軍駐留部隊を増やしたの苦肉の策だった。先にも言ったように日本に中国領土占領
の意志はなく、あくまでも南方戦線の石油などの天然資源の供給が本分だったのだから
だが。それでもこれ以上の日本の成長を良しとしないのは米国のみならず 殆どの国の
羨望したまなざしだった。このまなざしは実は満州国建立後の近隣の他の中国の民族に
独立の機運をもたらした。実は毛沢東以下周恩来も蒋介石もこの独立の羨望が革命情熱
を持たせている。スターリンは「蒋介石を釈放しなければコミンテルンを除名する」と
恫喝して蒋介石を周恩来に帰したと言われ、蒋介石と和睦することで共産党勢力を温存
し、国民党と手を組んで抗日戦を継続することで日本を中国に釘付けにして 対ソ戦を
回避させるスターリンの策略や思惑が有効に働いたと言う。だが時の有力馬賊にとって
も共産党軍や国民党軍にしても 敵でもない味方でもないこの処置は混乱をもたらした
。当然活動は独立より抗日のみに絞った形にならざるを得なかったのだ。冀東・冀察の
両政権はいずれも反共を唱え、日本にとっても満洲帝国の南に反共の独立国ができる事
は好都合で、これらに対して好意的であった。このように北支那では独立を志向する自
治地区が誕生するという状況があった。この時敗走しゲリラ戦の共産党員は そうした
圧力下であのおぞましい大虐殺・通州事件を起こした。そしてそのほとんどは冀東政府
の保安隊であったのだ。通州にはその政府があり、冀東政府は1万人以上の保安隊を有
して活動していた。1937年7月29日、主力が出払って百人くらいしか残っていな
い隙を狙って 通州の日本守備隊や日本人居留民(韓国合後の朝鮮人も含む)を、冀東
政府の保安隊千数百人が襲撃し、共産党指導の凄惨な日本人虐殺が 繰り広げられた。
判明した人員だけで在留日本人380名中、惨殺された者は260名、残忍極まりない
生きたままの処刑と言う 殺され方をした。

151: 名無しさんAA:17/01/22 15:35
追憶の彼方から 37-8

通州事件の目撃者による口述書の一部を引用すると、
「守備隊の東門を出ると、数間ごとに居留民男女の死体が横たわっていた。某飲食店で
は、一家ことごとく首と両手を切断され、婦人は14、5歳以上は全部強姦されていた
。旭軒という飲食店に入ると、7、8名の女が全部裸体にされ、強姦射刺殺され、陰部に
ほうきを押しこんである者、口中に砂を入れてある者、腹部を縦に断ち割ってある者な
ど見るに堪えなかった。東門の近くの池では、首を電線で縛り両手を合わせて、それに
八番線を通し、一家6名数珠つなぎにして引き回した形跡歴然たる死体が浮かんでおり
、池の水は真っ赤になっていた。夜半まで生存者の収容に当たり、『日本人はいないか
』と叫んで各戸ごとに調査すると、鼻に牛のごとく針金を通された子供、片腕を切られ
た老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦などが、そこそこの ちり箱の中やら塀の陰から出
てきた。」とある。ところがこれはこの時既に通州保安隊の二人の隊長(張慶餘と張硯
田)は宋哲元の第29軍とかねてから接触を持っていて、そして既に前年頃には通州の
保安隊の内部に支那共産党の支部ができていたのである。通州特務機関長の細木中佐は
張慶餘と張硯田と、第29軍の通州攻撃を防ぐための軍事会議を開いた。そこで張慶餘
と張硯田は、分散していた配下の保安隊を通州に終結させるよう提案した。この共産党
員諜報員の両隊長を信頼していた細木中佐は賛成し、散在していた日本居留民を保護す
るために通州に集合させた。そして1937年に策にはまり、通州の保安隊は突然この
通州城門を閉鎖し、一切の交通、通信を遮断し、日本人の大虐殺を実行されたのである
。この年に南京事件が起こったとされている。だが南京戦において日本軍が中華民国の
首都南京市を占領した際は無血開城に近く写真や映像まである。最大で2か月以内にわ
たって、当時の日本軍が中国軍の捕虜、敗残兵、便衣兵、そして南京城内や周辺地域の
一般市民などに対して殺傷や暴行を行ったとされる事件だが、南京市の人口は、日本軍
の南京への攻撃開始前に約20万人でだった。20万人しかいない所で、30万人を殺
したと言うのだ。しかも日本軍の南京占領後、南京市民の多くは平和が回復した南京に
戻ってきて、1ヶ月後には更に5万人に増えている

152: 名無しさんAA:17/01/22 15:35
追憶の彼方から 37-9

 実はこれにはからくりがある。当時の南京で攻防戦があり更に殺傷事件はあっただろ
う。しかし他の都市と変わらず軽微なものだったと推定できる。だが戦後南京軍事法廷
や極東国際軍事裁判では 米国は自分たちの東京大空襲や原爆投下など一般人大虐殺で
ドイツの収容所以上の殺戮をしている。このため日本軍が如何に蛮行軍かを広め米国が
正義の味方として成敗した形を取らない限り国際世論や米国民に反感を買う恐れがあっ
たのだ。従って1年半おおよそ2年間南洋の孤島まで大部隊を派遣して粗捜しを行った
が出て来たのは 捕虜の行進とこの中国都市占領における粛清だった。そこで仕方なし
に告訴された。南京大虐殺、南京虐殺事件など多様な呼称があるが、その多くの証言は
この通州事件で日本人が殺された事件の目撃者だったとされる。更にこの事件の異様さ
は共産党のデマの誇張にある。事件の二日前から執拗に多くの嘘ニュースを放送した。
国民政府の御用放送として 人々に抗日を呼びかけ共産党が正義のような放送していた
。盧溝橋で日本軍は支那軍(第29軍)に惨敗し、支那軍は華北に兵を進め、日本軍の
壊滅は近い。 蒋介石はこの第29軍によって冀東(通州)を襲い、殷汝耕を血祭りに
する。と このデマ放送を聞いた通州の保安隊は、当然、自分達は皆殺しにされると考
えたであろうことは容易に想像できる。支那の軍隊が略奪、強姦、虐殺を当たり前とす
る集団からの発足で 更に南支那と北方民の反発も当然ながら深くあったからである。
当たり前のことだが、この事件のあまりの残虐さに日本の世論は沸騰した。明治以来、
支那人による日本人虐殺は無数に行なわれてきたが、日本は報復するようなことは一切
しなかった。だがこれは当時、極めて深刻な影響を及ぼした事件だった。日本人の支那
への感情はこの恐るべき虐殺で取り返しの付かないほど悪化してしまい、又共産党もこ
うした悪影響を誇大宣伝して人心を翻弄させて 今の地位を得たのである。



153: 名無しさんAA:17/03/13 18:16
そうだ みんなで アフリカへ行こう 14

 モロッコには西サハラの境界がある。西サハラはかつてのタルタル人の住み着き部落
を作ったところが点々と存在する。モロッコは早いうちから欧州人に蹂躙されている。
そういう意味で大航海時代に黒人が奴隷化される以前から戦っていたイスラムアラブ人
とのつながりが深い上に 対抗したイスラム対キリスト対決時に第二の砦と言われる程
の攻防の中に居た。こうした事でアラブ連合の中にある。それでも場所はアフリカ内の
ジブラルタルを挟んでスペインと対峙した場所だ。アフリカ連合が人種差別に陥った時
スペインとの闘いの最中だったが第二次世界大戦以降は植民地化から立ち上がり、この
アフリカの各地は自主独立の旗を掲げて共和国を立ち上げた。これには早くから天然の
資源に目をつけていた欧州やソ連の後押しからだった為に内戦が絶えなかった。その分
掘削プラントが必要で輸送や買い手の必要な石油のあるアラブ諸国の方が安定して独立
を果たしている。そういう意味でモロッコはアラブ資本と仲が良く アフリカ連合とは
一線を画していた。モロッコでも大西洋沖に海底資源として石油が探査された時隣国の
モーリタニアとの戦いが起きたらしい。内容は スペインの了承の下、西サハラ北部を
モロッコ、南部をモーリタニアが分割統治をする秘密協定が結ばれ両国が領有すると、
モロッコに追従しなかった土着民達は 独立を目指すポリサリオ戦線を作る。サハラ・
アラブ民主共和国の樹立を宣言して、アルジェリアやリビアの支援を受けて1976年
から武力闘争を開始した。知っての通りリビアではカダフィ大佐が政権掌握し 今やア
ラブの春で倒れて各部族の闘争の中にある地の指導者だ。砂漠の狂犬とされた彼も晩年
にはリビアの発展に武力の放棄を願っていたようだ。この砂漠の地もイスラムの過激な
思想が入る可能性があり戦闘があったが モロッコ政府の圧倒的近代兵力で西サハラを
支配している状態に陥った。ポリサリオ戦線を西サハラ住民の代表者として認めている
がモロッコ政府は西サハラの領有権を主張している。それでもモロッコの主張する領有
権を認める国家は現在存在していない。今でもモロッコとの武装闘争が続いているが、
1991年の国際連合の仲介によって、ポリサリオ戦線とモロッコは停戦合意した。そ
の後にモロッコに帰属するかか独立するかを問う住民投票を実施する事まで合意し、国
連平和維持活動(PKO)として国連西サハラ住民投票監視団(MINURSO)が創設され現在も在
住しているが、この地域には遊牧民が多く有権者の認定が困難を極めるため、今や投票
は無期延期の状態となっているのである。


154: 名無しさんAA:17/03/13 18:17
 そうだ みんなで アフリカへ行こう 14-2


 このモロッコに帰属するかか独立するかを問う住民投票を実施する事には幾つかの問
題が指摘される。一つは先に言ったように砂漠地域で住民が少ないと見られ特定できな
い事。更に二つ目は部族が点々と存在しリビアの如く内乱状態を引き起こしかねない事
。三つ目はイスラム教圏内で過激派組織が出来上がりかねず 軍事国家となる可能性が
高い事である。この三つの事はモロッコ王国が最も危険視するもので サウジアラビア
が宗教上は自由度の低いイスラム教スンニ派でありながらサウジアラビアは石油資源に
恵まれ安定した国家経営をしている。が相対したシーア派のイランは英国のプラントを
国営化し敵対視した為比較的自由度が高いシーア派でも米国の支援はない。中でも隣国
イエメンの様にシーア派内武闘派であるフーシ派や急進派のザイド派などはテロ組織の
イスラム原理主義派として見られていて国際社会から疎外された中にある。モロッコも
そうした十字軍の古代からの組織があるのかマグダラのマリアで知られる場所はマグレ
ブでありこのモロッコ地方であザイド派などの危険な組織が存在する場所でもしられる
。イエメンはオスマン・トルコ帝国から独立した北イエメンとイギリスの植民地だった
南イエメンが1990年に統一され成立した政府なのだが再独立を求め、イエメン内戦
が勃発して今も北と南の勢力争いでもめる。シリアやイラクと違いかつてはシーア派と
スンニ派が同じモスクで礼拝し、平和的に共存してきた歴史があった。がそんなイエメ
ンでさえ政治の悪さで内乱が起きて 片方にシーア派がついた事でサウジが叩いたのだ
。2014年9月にフーシ派が首都サヌアに侵攻して、2015年1月にはハディ暫定
大統領が辞任して又も政権が崩壊。2月にはフーシ派が政権掌握を宣言したが、ハディ
暫定大統領も辞意を撤回、フーシ派との対立しサウジが、ハディを擁護した形である。




155: 名無しさんAA:17/03/13 18:18
 そうだ みんなで アフリカへ行こう 14-3

 モロッコはこれまでAUがサハラ・アラブ民主共和国を承認している限り、AUには
復帰しないとの立場を取っていた。だが又加盟を求め今年の第28回アフリカ連合(A
U)首脳会合で、モロッコの再加盟申請が加盟国の賛成多数で承認された。AUの前身
・アフリカ統一機構は1982年、西サハラ地域の独立を目指す「サハラ・アラブ民主
共和国」を主権国家と認め加盟を承認したため、モロッコはこれに抗議して同組織を脱
退していた。したがって、33年ぶりの再加盟となる。AU加盟国には承認している国と
承認していない国があり、前者にはアルジェリアや南アフリカなどがいるがモロッコが
加盟した以上、西サハラ住民の民族自決に向けて、延期され続けている国連の西サハラ
住民投票ミッションによる住民投票を実施すべき声がたかまるであろう。今度のモロッ
コの加盟によって、戦線と西サハラ問題をめぐる国家間対立の場となる可能性は高い。
ポリサリオ戦線の闘争を支持しこの亡命政府を国内に引き受けるアルジェリアは、モロ
ッコが加盟申請をした時から、モロッコが亡命政府をアフリカ連合から除名しようとす
るならばそれは受け入れられないと 既に警告を発している。
 だが このアフリカの地の繁栄を願うならば 人の住まない西アフリカは一番開発に
向いている地でもある。天然資源が豊富で海と山があるからだ。ただイエメンの様には
しない事が肝要であろう。つまり国内統一が何よりも基本であると言える。今までは投
票権を持つ「西サハラ住民」の定義をめぐる問題で、幾度となく投票が延期されたし、
膠着状態は今なお続きながら実質的に管理下に置いているモロッコは 西サハラの中で
インフラ整備を推進し定住者を増やすなど、投票が行われた際の併合可決に向けた動き
を加速させている。長い歴史を有するモロッコには伝統的な取水施設が数多く存在し、
この場所にとってはこの水の確保が最重要な場所でもある。基本的に、雨水を貯水する
ためのマトフィーアと呼ばれる貯め井戸が存在し、地下水路や手堀の井戸、セガリアと
呼ばれる灌漑水路や水車等が、水源に恵まれていない山岳部の村落へ生活用水を供給す
ることに貢献してきた。マトフィーアの起源は古代ローマ時代まで遡るとされているが
それでもこれらを生活用水の水源としている住民は多く山岳部に住むが山岳部に住み、


156: 名無しさんAA:17/03/13 18:19
それでもこれらを生活用水の水源としている住民は多く山岳部に住むが水を確保している。



157: 名無しさんAA:17/03/15 10:24 ID:1E.
希望と光の間 77

 日本にサウジ国王がやって来た。原油取引の中でじり貧になる財政に向き合い今後の
国民の就業を図る為だとの見方である。今や世界でのトップの資産家のこの国は発展し
た自由化の波をどう受け止めるべきか迷う羽目になっている。彼らには元々金など要ら
なかった砂漠の民で彼らが必要としていたのは安定した暮らしで「水」と「食糧」と「
土地の権利」だったのだ。だが先進国はこの砂漠の民に取りあえず金を出し黙らせた。
日本でアラビア石油を築いた山下太郎は 戦後にイランと石油売買した出光石油創始者
出光佐三より大胆な人間だったと言える。大正年間日本鋼管社長をしていた白石元三郎
の後援を得てキャラメルの包み紙のオブラートの特許会社を興して富を得たが海外貿易
の為に売却したと言う。第一次世界大戦ロシア革命南満州鉄道建設と戦後になるまで色
々事業が浮き沈みしたが戦後の日本の復興は石油資源の獲得だと主張し奔走した。昭和
1956年、日本輸出石油株式会社を創立し、翌年にペルシャ湾海底油田の開発利権を
獲得してその翌年「アラビア石油株式会社」を創立しこの石油会社を興している。この
事は欧米が石油資本で日本抑圧を掲げる中敗戦しても日本政府は主導でのメジャーから
の買い入れを進めたが反骨精神で挑んで原油が取れそうな世界を回ってこの地を決めて
い取引を開始してる。だが貰った権利はクエート国境沿いの分離精製に困難な原油筋の
場所だったと言われる。だが日本では日の丸原油として重宝された。がその後馬鹿首相
で有名な小渕氏の時代には 高速鉄道の建設と共の権利契約に変更してきた。だがこの
建設投資をこの国は断ったのである。元々天然真珠の交易が最大の産業だったが日本の
真珠の人工養殖技術開発に成功して宝石市場でのクエート産真珠が売れなくなって、経
済危機に陥った。この時米英の石油資本に採掘権を売りブルガン油田となる巨大油田を
掘り当てた事で大きく問題になった。元々遊牧の民の地のオアシスでクエート王などは
存在せずイランイラクの中立地帯としての存在だった。がドイツが負けた事で世界大戦
後に米英によって国境線が勝手に線引きされた国境だったのだ。フセインはしつこくも
イラク領として宣言していたがこの油田の存在で再燃し湾岸戦争に陥ったのである。本
来首長国連邦やカタールなどと同じ様に今回のサウジ国王の庇護にあるべきところだが
イランとの紛争国境の地と宗教派閥の違いで クエートは庇護されず米国が押し入った
という所だろう。


158: 名無しさんAA:17/03/15 12:30
希望と光の間 77-2

 このサウジの国王の訪問は日本に限った訪問ではない。今注目のマレーシアに寄って
インドネシア・ブルネイ・モルディブ・日本・中国・などアジア6カ国を1カ月ほどか
けて訪問中だ。つまり韓国を除く主要な輸出入国を家族旅行的な大人数で東南アジアを
回っている形になる。日本ではFTA交渉も進める合意し、世界最大のサウジ石油会社
アラムコの新規株式公開を日本株式市場でも上場しようとしている。フィリピンや韓国
を除いたのはやはり暗殺を恐れたからであろう。日本ではそれ以上に籠池理事長問題や
市場移転問題という ニュースと言うより事件ネタやゴシップネタに近い汚職や黒い影
問題に終始している。政治経済に目を向けようとは言わないまでも 今世界的に覆うこ
のイスラムのゴリ押し宗教問題は今まで人類が大きく世界大戦などの負の歴史をしょい
込みながらも 世界経済と自由社会を標榜して平和を築いてきた。だが隣の韓国の弾劾
裁判を見るように 全く正常でも正義でもない判断がまかり通ってしまっている。だが
この間違えたポピュリズムという独断政治に一番虐げられ、更に自由市場と平和を一番
恩恵を受けた日本で この米国のトランプの吹聴主義や英国のバカリズムの流れは批判
すべきで 更にトルコの独裁に近い強権化やロシアの裏工作資金や中国の暗黒政治こそ
一番報道すべき事のはずである。欧州で起こったスカーフ着用の有無で雇用を失った事
は欧米の自由な選択もイスラムの家からの対面散歩も許さぬ教えとも いずれにも反し
ていて 個々にこの判断を担う避難民のアイデンティティを揺さぶり続けている。もし
真に日本が平和を希求する国民ならば 嫌われても お隣のフーシ派勢力との戦いを納
めてイエメン建設の合意を取り付け シリアに送った化学兵器やシーア派をニムル師と
共に47人死刑執行している事を批判すべきである。今回やっと人を殺した王子が法に
従いトゥルキ・ビン・サウド・カビル王子が法に準じて死刑とされたが 多くは権力下
で外国人が今のISの処刑法と同じく剣による首の切り落としの公開処刑がなされてい
た。サウジがイスラム法下の「厳格国家」を捨てて日本のような「寛容国家」に変わる
ならまだしも このままの発展は中国や北朝鮮と同じ人情の無い独裁化に陥る可能性は
高い。サウジはすでに人権理事会で影響力を持ち始め2015年には、イエメン内戦で
の人権侵害の国際調査に反対しオランダ発議の国連理事会決議案を断念させている。


159: 名無しさんAA:17/03/17 02:55 ID:mog
 魔法使い あららとおろろ 27

 近畿地方整備局は法律違反の上又違反しようとしている。もともと この森友学園の
園児指導方法は 大きく犯罪者のやり方である。「漏らした汚物をパンツにくるんで、
かばんに入れて持ち帰らせる」籠池理事長の妻が「園児らを部屋に閉じ込めて殴る蹴る
」「臭いとする園児を拒否」「思想信条で入学者を選ぶ」などの極めて悪質な対応であ
り一般企業より優しくあるべき学校運営が一般企業より極悪非道であった事が解る事例
が多々ある。が 国交省のこの土地の売買に対しての学校建設の制限を設けている事は
、これは至って普通であろうが違法行為である。つまりこれが規約規定ではなく条件規
定であれば別だが 契約に際しての買い取るにしても建設費を含めた金額の買い取りで
なくては 平等の権利の上で発効する契約とはならない。これは更地にして返せば良い
と言う契約だろうが 一方的契約違反との認識ではあろうが これだけ建設し土砂の中
の塵芥まで選別し排出していて開校にはおぼつかないまでも契約違反に当たるかどうか
は微妙な所だろう。少なくとも彼はそこをスーパーマーケットとか集合住宅とか土地の
転売とかような逸脱した契約違反はしてないのである。確かに資金繰りは難しい面があ
り私文書偽造は免れないだろうが それでもそれは審査は当事者が行う事であり これ
が直ちに契約違反にはならないはずだ。審査が通り売っているのだから。つまり売った
以上は国会答弁通り個々の審査は学校を作っているかどうかでありその他は問題外のは
ずである。こうした事が起きるのは 他ならぬ籠池夫妻自身の幼児の時の教育にある。
そもそも幼児教育は3つの事が主要である。一つは自由で健康な心身を育む事。それは
よく遊ばせる事とよく管理し監視する事にある。二つ目は集団の規律を教える事それは
愛である。親を想い愛を育む事は言葉ではない。臭くても悪い事をしても丁寧に丁重に
怒らないでちゃんとした世話をしてやる事にある。三っつ目は危険や怖い物を解らせる
事。この三つめこそ大事でかつての童話が恐ろしかった話は幼児であれば恐ろしくない
からである。誰でもが知らない事解らない事は恐ろしくもないし怖くもない。だが本来
その怖さや恐ろしさを本能的でも理論的でも具体的でも知らねば 本人に悪と善の区別
が解らないのである。大人になっても愛玩動物を簡単に手放す者はその悲しさが別れと
しか感じていない。本来その手放された動物の食に飢える悲しさこそ知るべきなのだ。
よく戦争のある国で幼児が銃を持ち平気で親を殺せるのはその理解がない為だ。この事
を裏にとったこの教育はもっと大きくなってからなされるべきもので悪態教育としか言
いようがない。

160: 名無しさんAA:17/03/17 10:39
ベガウシュタルン
迷うことなく惑う事無く情熱を持ってやり抜きなさい

 闘うマエストロ 近衛 秀麿

 僕らは民族を人を憎まない 戦争を憎む



161: 名無しさんAA:17/03/18 10:56 ID:XP.
 魔法使い あららとおろろ 28

 近頃日本も韓国も狂っているとしか言いようがない。WBCで盛り上がっている中で
言うのもおかしいが 何故TV局のニュースとしてこうしたスポーツイベントや芸能な
らぬ政治ゴシップがネタとして最前線で報道されるのだろうか。全くニュースでもなく
イベントなのだからいずれかが優勝するだろうし 基本的に籠池氏がどうあろうが東京
の市場が豊洲だろうが築地だろうが あまり国民生活には関係ない。もし関係あるなら
ペルーの大水害の発生やトランプの政策やオランダなどの選挙の行方の方が よっぽど
影響が大きいし アラブの行末や中国の動向の方が北朝鮮も含めて日本には大切な事だ
ろう。事実今 中国と韓国は米軍の最新鋭迎撃システム「高高度防衛ミサイル(THA
AD)防衛」の韓国配備のみならず色んな衝突が起こっている。中国は後進国と言いな
がらも世界最大の生産工場と消費市場として機能を充実して世界からの金や技術は受け
付けても品物は破棄し組み立て工場から設計開発資源生産能力更に輸出販売出来る企業
を内包して国力をつけている。一方韓国は日本とも慰安婦問題をめぐる日韓合意の見直
しや竹島問題を延長し今や国際的無効な証拠に基づき大統領弾劾裁判までやっている。
かつて台湾の群創の負債は2010年には3300億台湾ドル(約1.2兆円)にまで膨らんでいた
。これがシャープを飲み込んだ鴻海グループの芯だったのである。そして今も負債が減
ったとは言え負債のままだ。それでも強気の郭会長の鴻海GPは、中国、日本、米国へ
と着々と拡大し挑戦を続けている。そして今、広州市の白雲国際空港からわずか1時間
の所に世界最大の10.5世代液晶パネル工場を建設する。投資総額約1兆円の資本投下だ
米ペンシルベニア州の新工場、堺ディスプレイプロダクト、台湾の群創光電と4つ目の
液晶工場がこの鳴海のグループに揃ったのだ。シャープは主力取引銀行のみずほ銀行、
三菱東京UFJ銀行との間で、合計約2千億円の債務を優先株に振り替えるというDE
S合意よって資本支援を受けるスキームだったはずだ。12年には9千億の負債が数々
の追い風で7千億も負債を減らした企業であるに関わらず日本政府は手放したのである
。これは今回韓国でのサムスングループの李在鎔サムスン電子副会長の逮捕劇と同じで
ある。よく「怨」の思想と言われる朝鮮社会だが全く「盗泉の水を好む」馬鹿げた国民
にはなりたくないものだ。


162: 名無しさんAA:17/03/18 12:08
 魔法使い あららとおろろ 29

 金慶珠は嘘ばかりつく。日本の嫌韓とアメリカなどのナショナリズムと韓国のポピュ
リズムを全く違うのに 一緒雑芥煮にして論じている。日本人の嫌韓は正義からであり
倫理に基づいている。そもそも存在しなかった慰安婦像を作っている事を正当化してい
るし 元々日本領だった竹島を今や同じ韓国人歴史学者を2人も暗殺しても独島として
国策化している。「盗人猛々しく聖人威風堂々」と言われるように 犬の遠吠えの如く
自国の教育は放棄して告げ口外交に徹した政権など明日が無い事は目に見えているが、
それでも韓国世論や新聞TVはそうした仏像盗んだ盗賊団を英雄視したり暗殺した安氏
を英雄としている。今後韓国は100年位出れない暗黒時代にはいるだろう。事実これ
だけ韓国製品が一世を風靡した中でも韓国内で起こった事は自らの改革でなく奴隷化し
人を裏切る事に徹した社会の創造でしかなかったのだ。が中国が台頭した以上 今後に
韓国が出る場面は相当ない。国民的には国際社会で違法であろう行為を平然と行う国民
性は世界から受け入れられることは無い。原子力発電の造りっぱなしや軍事技術の盗用
民生品の財産権侵害 日本の退職技術者によるハゲタカハンテングと研究部門の切り捨
てなどは韓国社会が大統領弾劾や北朝鮮の正男暗殺などに通じた全く同じ思想なのであ
る。この泥棒思想は全く世界に蔓延させても自分は悪くないと言っている国民性をこの
金氏は体現している。元々従軍派遣に際して遊郭経営者が参加型で行っていたのは日本
だけで他の国々こそが遊女ではなく連行情婦を持っていたのだ。特に韓国こそが行った
奇襲残虐はベトナムやフィリピンカンボジアマレーシアと東南アジアにかなりある。又
近年では中国軍がアフリカで日本人と偽って悪行を働いたニュースが多数でて来ている
。セウォール号沈没事故に見るように、韓国社会は国民が悪すぎて改革出来る風習にな
い。一時期日本が中国進出の前に出店や工場を作ったがその工場長や社長は便所も行け
ない拉致監禁の憂き目に遭っている。それは最近の話で近年でも金大中事件の頃までは
共産党狩りと称した親日家虐待は数多く暗殺さえあった。全く芯のないこの民族に明日
があるとは思えない。海運だけでも韓進海運や現代商船は世界有数の海運会社である。
にも拘わらずこのセウォール号のような全く違法そのものの船の運航をさせる国家なの
だ。

163: 名無しさんAA:17/03/18 20:26
 魔法使い あららとおろろ 29-2

 この際言わせてもらえば海運関係には辛いが 今後も暗い見通ししか立たない。事実
韓国の海運同盟(アライアンス)から韓進海運や現代商船、STXパンオーシャンなど既に
離脱が決定し 破産法の適用まで申請している。電気業界もサムスンが倒れそうで今や
小売り業界の長ロッテも中国から叩かれ観光業界も中国路線からの撤退が相次ぐ。とは
言っても元々中国人の観光は中国の旅行代理店しか取り扱い出来ない仕組みなのだが、
大韓航空やアシアナ航空などもそうそういい景気ではない。が これは日本も他山の石
ではない。東京都知事は馬鹿な事に 都民の税支出を移転せず無駄にだすのだが この
支出は丸々日本の田舎から吸い上げた大企業の利潤からブラックロスとして排出される
。逆に言えば東京都民や東京都には痛くもかゆくもないが地方から市場を借りている支
所が負担するのである。東京五輪も又同じである。多分に国も日銀もいや銀行も 全く
痛まない。それは東芝の幹部やシャープの幹部が痛まないように 首を切られ干される
のは労働を担当している季節労働者や古い採算性に重視しなかった会社のツケを今まで
払わされた工場なり地方なのだ。これは都市経済の一端と同じである。東京においての
出産率はそうそう高い訳ではない。が田舎からも他の地方都市からも次々と流れてくる
のだ。更に生産もしない集荷出荷もしない販売員を動かす首脳部が 生産性のないまま
の無能のままで高給で集まっているのである。その結果が今の政治模様であり東京時事
であり東京電力の馬鹿さ加減と同じなのだ。かつて 東京に原子力発電所を作る映画が
あったが 本来政治力で発電所のそばを本社にする。と法令明記していればこんな問題
は起きなかったのだ。つまり日本も今や権力を傘にした朝鮮半島のような馬鹿の集合体
と化する中にあると考えられる。今後朝鮮半島有事や経済不況になれば更に在日ならず
帰化する朝鮮人が増えると考えられるがこれは止められない。問題は篭池氏の様な強硬
で攻撃的精神で騙合い技術は国際的には常套手段となっていてイスラム教徒同様或いは
中国人やトルコ人と同様こうした朝鮮人達同士の事件であり反対である。今の沖縄知事
や東京都知事を見て解るように 一体何をどうしたいのかは見えない。結局は都民第一
や改革や行政透明化と言いながら自らの保身の為の独裁環境を高めているだけで 全く
石原氏の言うように徒党を組んでは 混乱する悪政のレールを敷こうとしてるに過ぎな
い。それは軍政のエジプト環境や 大陸支配の香港ルール ロンドン二枚舌 ワシント
ン誤報の米国 と全く同じ姿である。日本がそれをやったら東南アジアに居られない位
打撃を受ける。


164: 名無しさんAA:17/03/19 00:14
 魔法使い あららとおろろ 29-3

 そもそも日本が軍国主義に走ったのは 海外からの圧力である。この海外からの圧力
に屈したのは 国産技術が木にしかなかったからだ。そこで江戸幕府は西洋文化という
よりは鉄の技術を取り入れた。その後明治政府は鉄の技術で得た製鉄や造船や大砲の国
内生産は勝手に果たしていたので海外視察では国内産業よりは輸出入の産業を見て回っ
た。そこにあるのは文化芸術の高さと植民地生産品の輸出製品としての産業だったのだ
。以降繊維に着目し蚕毛と殖産にそれに鉄の加工にして「殖産興業」を「富国強兵」と
共に自国防衛の要にした。その後第一次大戦に嵌るのだが その頃は既に「科学技術」
の時代に入り肥料や原油更に鉄鉱石や石炭などの資源原料の確保こそが急務であった。
つまり「自由貿易」こそが日本の目指すものだったがドイツ侵攻によって第一次第二次
と戦争時代に入り先進国の仲間であった為に米国に翻弄されては敗戦の憂き目にあった
。この資源の無い大国は「貿易立国」と言う新たな地位を目指し ドイツで失敗した国
ぐるみの下請けを甘んじて受け入れて国造りをした。そして高度成長期には石油精製も
電子技術も自国開発に繊維産業を切り捨ててでも「技術立国」の地位を進んできた。こ
の国防の元に今まで国民は国家政策に虐げられてきても 甘んじて受け入れてきたのだ
。よく日本での赤軍派の動きがテロや革命の如く騒がれる時があるが それはオウムの
サリン事件も沖縄の新空港問題も その国家意志に背く事にしか導かれない人生にある
人々の集まりに過ぎない。事実ナショナル松下幸之助に中国進出を進めたのは他ならぬ
政府である。1972年のニクソン大統領の中国訪問では「周恩来外交」として注目を
集め日本も追従して周恩来との日中国交からケ小平の日中平和友好条約の批准書交換ま
で持って行くに至った。老獪な毛沢東は文革で仲間だったケ小平や4人組を失脚させ幽
閉していながらその人気の高さに再度ここに登場させた。このケ小平は胡耀邦を起用し
彼は江沢民、李鵬、胡錦濤などを輩出させた。その後勝手な独裁から深刻な食糧不足を
引き起こし親が子を殺して食べる行為まで大陸では発生していた。が領土問題からソ連
の援助はなく日本からの支援に 父親が日本軍の教育を受けていた江沢民を送った。つ

165: 名無しさんAA:17/03/19 00:14
の援助はなく日本からの支援に 父親が日本軍の教育を受けていた江沢民を送った。つ
まり一方で抗日で政権を保ちながら一方で日本に泣きついた形の中で失敗にしろ成功に
しろ江沢民を捨て駒としたのだ。時の中曽根は胡耀邦との友好から快諾し支援した。、
それが毛沢東の罠であった。その後の発展で民主化運動が高まると胡耀邦は天安門事件
ともに失脚し、その後異様な日本叩きが加熱しTVでは46時中抗日ドラマが放映され
抗日にならないものは規制された。歴史は書き換えられ「中国人は井戸を掘った人の感
謝は忘れない。」などと嘘を言い 領海侵犯され挙句の果ては官製デモが起こされた。
福田や中曽根のお坊ちゃま外交の技術を売った外交政策の失敗がそこにあったのだ。


166: 名無しさんAA:17/03/19 12:23 ID:iPk
 魔法使い あららとおろろ 29-3

 そもそも日本が軍国主義に走ったのは 海外からの圧力である。この海外からの圧力
に屈したのは 国産技術が木にしかなかったからだ。そこで江戸幕府は西洋文化という
よりは鉄の技術を取り入れた。その後明治政府は鉄の技術で得た製鉄や造船や大砲の国
内生産は勝手に果たしていたので海外視察では国内産業よりは輸出入の産業を見て回っ
た。そこにあるのは文化芸術の高さと植民地生産品の輸出製品としての産業だったのだ
。以降繊維に着目し蚕毛と殖産にそれに鉄の加工にして「殖産興業」を「富国強兵」と
共に自国防衛の要にした。その後第一次大戦に嵌るのだが その頃は既に「科学技術」
の時代に入り肥料や原油更に鉄鉱石や石炭などの資源原料の確保こそが急務であった。
つまり「自由貿易」こそが日本の目指すものだったがドイツ侵攻によって第一次第二次
と戦争時代に入り先進国の仲間であった為に米国に翻弄されては敗戦の憂き目にあった
。この資源の無い大国は「貿易立国」と言う新たな地位を目指し ドイツで失敗した国
ぐるみの下請けを甘んじて受け入れて国造りをした。そして高度成長期には石油精製も
電子技術も自国開発に繊維産業を切り捨ててでも「技術立国」の地位を進んできた。こ
の国防の元に今まで国民は国家政策に虐げられてきても 甘んじて受け入れてきたのだ
。よく日本での赤軍派の動きがテロや革命の如く騒がれる時があるが それはオウムの
サリン事件も沖縄の新空港問題も その国家意志に背く事にしか導かれない人生にある
人々の集まりに過ぎない。事実ナショナル松下幸之助に中国進出を進めたのは他ならぬ
政府である。1972年のニクソン大統領の中国訪問では「周恩来外交」として注目を
集め日本も追従して周恩来との日中国交からケ小平の日中平和友好条約の批准書交換ま
で持って行くに至った。老獪な毛沢東は文革で仲間だったケ小平や4人組を失脚させ幽
閉していながらその人気の高さに再度ここに登場させた。このケ小平は胡耀邦を起用し
彼は江沢民、李鵬、胡錦濤などを輩出させた。その後勝手な独裁から深刻な食糧不足を
引き起こし親が子を殺して食べる行為まで大陸では発生していた。が領土問題からソ連
の援助はなく日本からの支援に 父親が日本軍の教育を受けていた江沢民を送った。つ
まり一方で抗日で政権を保ちながら一方で日本に泣きついた形の中で失敗にしろ成功に
しろ江沢民を捨て駒としたのだ。時の中曽根は胡耀邦との友好から快諾し支援した。


167: 名無しさんAA:17/03/19 12:24
 魔法使い あららとおろろ 29-4


それが毛沢東の罠であった。その後の発展で民主化運動が高まると胡耀邦は天安門事件
ともに失脚し、その後異様な日本叩きが加熱しTVでは46時中抗日ドラマが放映され
抗日にならないものは規制された。歴史は書き換えられ「中国人は井戸を掘った人の感
謝は忘れない。」などと嘘を言い 領海侵犯され挙句の果ては官製デモが起こされた。
福田や中曽根のお坊ちゃま外交の技術を売った外交政策の失敗がそこにあったのだ。そ
して日本は「加工貿易立国」は双子の赤字の米国に引きずり降ろされ、その後の「技術
立国」は韓国中国の二大勢力が日本の銀行団を騙して殆どの下町の技術屋集団が消えた
。その時日本は幾つかの岐路があった。一つは東西冷戦も融けた為に共産国までカバー
した全世界に販路を広げて生き残りを図ると言う事。だがそれは不可能だった。民生品
を含めて日本の加工技術は高く更にその工作機械でさえ軍用転化されるとの危機が米国
にあって 実際に東芝や日立は共産国輸出協定違反によって高額な裁判費用と罰金を払
う羽目に陥った。一つは山一証券やソニーの様に物に拠らない金融や芸術或いは観光や
特許などの知的資本の形成を目指す事だった。だがゴールドカラーを数多く有した米国
の進んだ金融構造に直ぐに喰われたしソニーのビデオ裁判に他の日本企業が応援する事
は無かったしビルを買っただけで米国世論は米国を買ったと批判され 特許的物であっ
ても京セラの画期的タイルの情報は製品を納めただけで国家機密扱いの上門外不出とな
ったしまだ企画段階だったOSソフトは只命令系統に順番つけたのみで 高速に動いた
。この日本製トロンはスーパー301条まで発動させた。それは米国の電話機会社との
契約上の商売の危機で 孫正義が自ら買って出た日本語OS潰しだった。それは成功し
NTTすらも詐欺た。つまり米国に睨まれては日本政府すらも企業を支援どころか保護
すらしなかったのだ。今はCPUを動かすアンドロイドが主流だがガラケーで 有名な
トロンは家電から産業用更に通信や自動運転というMPUである変化型頭脳の当時の最
先端で動かす自由度の高いOSだったのだ。既存のマックやウィンドウズが脅威とした
のは当然だった。この全世界販路も芯になる物の所有権政策も出来ない中でも集積回路
設計は電子化に不可欠だった。そこでは既に「電子立国論」が実績されていたのだ。


168: 名無しさんAA:17/03/19 12:24
 魔法使い あららとおろろ 29-5

 米国の双子の赤字を解消するに 米国は日本のみをターゲットに輸出規制金融規制を
日本に敷いたが 日本をゆするネタがなくなるぐらい日本は大デフレに陥った。それは
吸い尽くされた人体の血の様に バブルショック以来市中に金が回らない状態に陥った
からだ。つまり欧米型馬鹿な「付加価値税方式」とする消費税を入れて更に金融開放な
ど称した偽りの政策をして 少子高齢化状態を更に深刻にしたからだ。山は人里から人
がいなくなり 町は奴隷の様な着せ替え従業員が年越し派遣村に通いフリーターの若者
で溢れて国民生活はままならなかったのだ。当時の状況は何とかしてくれと言う声で民
主党政権を望んだが 民主党は馬鹿な事に金の無いままに変化を起こそうとし更に財政
悪化をさせては米国との信頼関係まで無くそうとしていた。地震が起こり事の重大さは
米国に届きやっと野田政権でまともになるとした時自民党政権に変わった。だが日本化
とされる消費経済の中の成熟化は どこの国でも似た様に深刻だった。だが日本は幸い
な事に隣国3ヶ国からは羨望されそこ以外からは希望の友好国と思われていてオバマ氏
の包括的世界縦断で少し注目され理解されだした。国民レベルでは欧米からは東洋文化
の他にない奇譚美国としてミラクル小国家としている。対立の多いイスラム圏からでも
双方からも観光に来る国でロシアからも中古車輸入の貿易国として友好を求めている。
この包括的協定国として軍事でも経済でも文化でも解放されている事は 日本ででも、
四季を取り入れた芸能文化や風光明美でお祭り観光でも日本伝統食の食材ででも大いに
日本を救っている。が日本はドバイやイタリアみたいな観光立国や移住桃源郷にはなり
得ない。更に民生転用の軍事技術販売やODAやPKOをどんなにしても日本は世界で
「軍事立国」は程遠い思想の中にある。更に電脳文化はまだまだ拡大する。これを思え
ば、集積回路、標準メモリー規格、液晶パネルなどは その主要部品である。この技術
をシャープや東芝を通して捨てる事は日本の未来を更に潰す事なのである。これを 又
日本の国策として官僚が見過ごすのであれば 政府なんぞない方が良いぐらいだろう。




169: 名無しさんAA:17/03/20 14:18 ID:JIo
 私の番組評179

 近頃TV番組は可笑しな内容に又逸脱している。ひるおびの石原前知事の議会証人に
いろいろコメントしているが 唯一正しいのは片山氏の議会の自らの姿勢を正すべき。
と言う発言以外は違法的である。真相解明などと言うが かつての石原都知事の判断に
対して「石綿材が使ってある、老朽化している。同じゴミの蓄積した土壌である。その
為青島都知事時代からの懸案に決断を下した。と言う事に異論なのだろうか。TV番組
的には波乱を望んでいただろうが 都議会の質問に対して伊藤氏の「先の自民党の質問
は要らない。」などと言うのは全く倫理違反も甚だしい議論だ。かつて原子力事故の時
も2重3重の安全措置があり 不安な市民に炉心溶融や水素爆発など起こりえない。な
どと気休めをいい 自家発電設備の浸水に対して大きな事ではないかと言う意見も聞か
なかった。勿論安易な発言で国民を惑わし逆に危機的状況と叫ぶのは良くない。がしか
し 本人確認の無い東京電力の福島第一にこれだけ不安定要素をいとも簡単に一蹴して
安全だと言い張ったのである。今回も同じで 東京都民は別にして 一般的に自治体の
行政は議会の法整備とそのその執行行政を図って行政指導を行っている。つまり独裁的
色彩の強い判断でも国民や市民や都民の良識的常識での特権を認めているに過ぎない。
確かに議会と知事が意見の対立があって喧嘩する独断専行する。そうした行為も大事な
公正要素ではあるだろうが 彼の質問が公式に言動する言葉と今までの記者会見の言葉
が同じだとして失望しているのは許せない行政への冒涜である。逆に違うような人間を
知事に選ぶ都民こそ異常でありそれを煽るTV局は放送中止をすべきである。さらには
ヤジを飛ばす傍聴人の退場を映した映像に これはいかんでしょうというのもおかしい
。暴走行為でも顔の映像をぼかす事があるが それは個人情報保護でぼかしているなら
放送法違反である。真実に足りる報道であれば顔は堂々と映すべきで それを知る者が
わざわざ傍聴から逸脱した行為を行っているのであって 正々堂々と退場を言った以上
その不法な議会蹂躙者を映す事は当然の秩序である。それが正解か不正解かは視聴者に
委ねられた事で生放送なら正確な情報を人に与える中ある事で当然である。NHKの様
にかつてのブッシュ来日の際の皇居の晩餐会に日本では隠した報道され米国には流され
たかこれはNHKの違法行為で こんな違法をそのままにして今だ視聴料徴収をしてい
る。本来なら放送法違反でBPOは10年以上の放送中止命令を行うべきで公益違反も
甚だしい行為が 今だまかり通るのは許せない国民的不平等なのだ。


170: 名無しさんAA:17/03/20 14:25
つまり 暗に今の現小池知事が法令違反をしているとでも


171: 名無しさんAA:17/03/20 14:29
当然な話である。築地の地下水汚染調査や岩綿調査をしないで 今の新市場の汚点ばか
り環境基準値問題を言っている。これはおかしな片手落ち。


172: 名無しさんAA:17/03/20 17:05
とは言え 安全基準以上の水質では 都民が納得しないのでは。

173: 名無しさんAA:17/03/20 17:06
それは 水質検査の採取に問題がある事は既に明白で 地下水でない憑依水を検体とし
ても 検査要領に乗っ取りと言っている。大きな間違いで あくまで新たな水の検体で
調査すべきで これは東京都職員の 都知事用の作為であるといえる。


174: 名無しさんAA:17/03/20 17:08
だからこそ 都庁改革で オープンな改革が断行して透明化した都政が必要なのでは

175: 名無しさんAA:17/03/20 17:11
透明化などと偽りを言ってはいけない。ではこの小池氏を支持していたとしても人気取
り投票での支持率に何の意味がある。重税やこの無駄使いの税金を誰が払う。重税では
人気も何もなかろう。簡単に移転撤回宣言したが この法的根拠はない。更に今回の言
えば百条委員会の設置にも根拠はない。何故なら移転そのものが議会が票決した事案の
はずだからだ。逆に違法をこの議会が行っているのである。沖縄と全く同じだ。人気で
なった者が独裁し議論を風化させて 人々を混乱に貶めると言うのは全く人権侵害だ


176: 名無しさんAA:17/03/20 19:47
 だが 彼女の人気は本物で 都庁改革の為に今議会改革の為に準備しているのでは
そして それは都民が望んでいるのでは。


177: 名無しさんAA:17/03/20 19:48
 それは形が違う 勿論自民党の悪さの象徴の集団論理の議決権である徒党を組んでの
数の論理で行く田中方式である。これでは議会能力が劣るのは当然で 本来の議会は2
択方式ではない。人間は万能ではない。だからこそ今のオランダの様なギルド方式つま
り小さな職人を集団化した組合の話し合い方式でよりよい道を探る議会が産まれている
。つまり各々の派閥に埋もれて拮抗しての色んな意見が出なかった事が今度の汚染水の
問題の原因である。つまり小池氏の多数派工作は何より議論を潰した自民党姿勢と同じ
で民主主義の敗退である。国の許容力の問題もあるが 石原氏時代は財政健全化で統一
意志が求められた時代で良かっただろうが 今の東京五輪もまとめられない小池氏には
力量は 紛糾ばかり望んでいて 先見性がなさすぎる。






178: 名無しさんAA:17/03/21 04:39
 つまり 大衆合議制の多数決は否定すべきだと ポピュリズムは違法だとでも

179: 名無しさんAA:17/03/21 04:43
 いや違う 大衆合議制と大衆合理性を勘違いしてはいけない。更にポピュリズムは、
あくまで個人尊重の上に成り立つもので人間崇拝の中での動きであって 韓国や米国の
今の動きは大衆烏合主義そのものでナチスの統制主義と同じで 全くポピュリズムに値
しない。小池氏も数の支配を念頭だろうが 正統派の王道こそが政務であり、安全を問
う事も五輪費用を問う事も 現状と予定を同じ土俵に乗せなくては分析にならない筈。
地球市民の民衆主権は日本の「主権在民」として根づいているが こうした少数意見も
同じ土俵の上に立たせなければ意味はない。


180: 名無しさんAA:17/03/21 04:44
 今度の百条員会が 全く違法だとでも

181: 名無しさんAA:17/03/21 04:44
 そう違法も違法 tv局の違法報道と同じに断罪している。


182: 名無しさんAA:17/03/21 04:45
 TVも違法


183: 名無しさんAA:17/03/21 04:46
 そう 汚染場所に移転 などと勝手に築地が綺麗な所の様に言っているし、まるで
都民が納得しなければいけない様に煽っている。地下水検査も築地の検査結果と一緒
でなければ 安全基準に達していないなどとは言ってはならない筈だ。BPOはその
趣旨を直ぐに指導すべきである。そもそも苦渋の決断の判断であり ミスだったか違
法だったかが問題であり 移転を止めるほどの違法な疑惑は無い。群がった議員こそ
高額な建設費を調べて百条委員に処するべきで そもそも地下の空洞問題が技術的な
効果の決断だったと解決した時点でこの問題は消えている。ことさら扇いだTV新聞
こそ異常だ。


184: 名無しさんAA:17/03/25 10:42
 【 路心要憂 】89

 今回 前橋地裁において、東北大震災の津波によって東京電力福島第1原発が事故に
あい福島から群馬県に避難した住民らが東電と国を相手取り損害賠償を求めた訴訟を起
こしている。内容は東電から一定額の慰謝料を受け取っているが、「古里を奪われた被
害の実態に見合っていない」として、1人一律1100万円を求めているとしている。
裁判の主な争点は、(1)東電や国は津波を予見し、事故を回避できたか (2)国が
東電に安全対策を取らせる規制権限があったか(3)国の指針に基づく東電から避難者
への賠償額は妥当か−−の3点だと言われる。だがこれは裁判するまでもなく 東電の
安全への不作為での事故であり 国の国策公共事業に対する指導の甘さでしかないのは
誰の目にも当然で 賠償額は算出の仕方の問題であり言える立場にないが予見の賛否に
関わらず 行うべきを行わなかった。と言う現実の結果である。こうした危険な物には
作らせる権限があるなら当然ながら安全を指導する権限がある。つまり逆に稼働を止め
る権限も又あるのが妥当であろう。がこの原子力規制委員会は全く意味を成していない
。これを何故国民は問わないのだろう。籠池問題なんぞ全く意味のない話である。仮に
百万円安倍夫人が寄付したとして個人の寄付行為が刑事罰になる事はない。野党はこの
事より福島の避難民の事で特別国会を行うべきだ。今だに廃炉作業も汚染水処理も全く
解決のめどは立っていない。なのに仮設住宅に移動した避難民は、何ら自らの落度もな
いままに放射能地域だから土地を離れ 古巣のコミニュティが破られ 更に帰れる現状
でないにも関わらず 国が災害救助法の適用として追い出しを進めようとしている。
 大体災害救助法は自然災害に対した法律だ。基本的抜本的放射能災害の対策法案を作
成し国や県に求めるべきだ。更に九州電力など免震構造の指令本部など今だ整っていな
い中である。更に避難度の数値やスピーディなどの連絡調整が避難訓練に示されないま
ま更に非難した場所に大量の避難民を抱える用地すら確定していない状態で稼働しよう
としている。少なくともこの汚染水問題炉心デブリの排除が出来てから帰還させるのが
本来の姿だ。経済難民どころかこれでは原子力難民や放射帯貧民である。全く国や国民
を上げて救う事が当然である。一日3億ものムダ金を東京都知事が地下水問題で移転拒
否している事と比べれば 東京都はこの福島からの電力供給の管理を怠った罪を償う事
の責任をを到底やっていない。



185: 名無しさんAA:17/04/06 15:47
na na
nannto nagirakenniti ga nhk kyouikuni deteiru bannzai bannzai

186: 名無しさんAA:17/04/07 00:13

TV局は 余りにも人 人間と言う者や人生と言う物を馬鹿ににしていないか
 アメトークなど さっさとやめよ 吉本芸人なんぞ出すな 人類の恥だ。


187: 名無しさんAA:17/04/07 18:19 ID:2Hw
 魔法使い あららとおろろ 31

 これまでロシア支援のアサド政権は 次々と病院を攻撃して来た。これにはロシアと
トルコが反体制派をテロリストと決めつけてしまったからだ。基本的にクルドとの連携
でモスルがISILが逃げ出すとこのアレッポに逃げ込んでしまった。そしてその兵士
は当然ながら政府軍につくのである。何故なら一時期ISILの原油は共にトルコやこ
の政府軍が購入していたからだ。当然ロシアはそのローリーを爆破したし アメリカは
原油施設を爆破した。日本人の間違いは一律にシリアをロシアが応援しクルド人イラク
人をアメリカが支援していると決めつけている事だ。戦争はそんな単純な事でではない
。「アサド政権が化学兵器を使用したロシアは何時になったら真剣に取り組みのか。」
とアメリカ国連代表は非難した。それに対し「反政府軍の持っている工場に化学兵器が
あったのだ。たまたま爆撃した場所が化学兵器の貯蔵庫だっただけだ。」と応酬した。
ただプーチン時代ラブロフ外相は何度も訪露して「人道主義に基づいて@病院は叩かな
いA核や生物化学兵器は使わないA化学兵器が有れば一掃し処分する」との確約は得て
いたと思われる。このトマホーク発射に関して2つの事が留意されたのだろうと思われ
る。一つは出来るだけセンセーショナルでありながらも批判されない時期と、もう一つ
はスティーブ・バノン氏に対する忖度である。どうも白人優位主義者で戦争擁護者であ
りながらも彼は中東に入り込む事を反対していたように見える。つまり平和主義者やら
同じモンロー主義の批判をかわしたい。との意識である。更に今回中国の習主席の訪米
は北朝鮮の問題も擁している。この事から恐らく中東問題を早く畳みかけてアジア問題
の解決に移行すると言う戦略上の意志が見え隠れしている。バノンの解任と同時に今ま
での戦略官を又再登用している。それは一連のロシア内通疑惑で、NSCを率いるマク
マスター氏が大統領補佐官に任命されたからだ。物言う軍人と評されたこの人は 陸軍
エリート養成の陸軍士官学校「ウエストポイント」卒業である。日本での中野陸軍学校
みたいな所だ。イラク侵攻に従軍し反乱勢力を鎮圧する作戦などでは相当成功に導いた
とされる。それはトランプ政権が信用を得るにふさわしい起用と評される。補佐官代行
を務めたケロッグ退役陸軍中将をNSCの首席補佐官に充てると明らかにした事でより
その具体的戦略が見直され実現に向いた形だ。

188: 名無しさんAA:17/04/07 18:23
 魔法使い あららとおろろ 31-2

 この事は、軍部はより具体的で実務的な強固な指導部が出来上がった事を意味してい
る。これは日本もやばい事に手を染める事になりそうだ。との認識を日本人は持つべき
であろう。このNSCを率いたマクマスター大統領補佐官は、米タイム誌の「最も影響
力のある百人」に選ばれたが 今後はもっと影響力が強まると見通しがされている。米
国の防総省のデービス報道官は、米軍がシリア空軍基地への攻撃について事前にロシア
軍に通知し、ロシア軍が駐留しているとされる場所を攻撃しなかったことを明らかにし
ている。つまりこれでシリア情勢は大きく混乱から米国支配へと傾くであろう。トラン
プ氏は大統領令として入国制限にイラン、イラク、リビア、ソマリア、スーダン、シリ
ア、イエメンなどを発表したが 具体的はこの大統領令で 新しく国名が挙げられたの
はシリアだけである。その事はシリアがこれから難民以外に多くのテロ予備群が国を出
ると予測されたからに違いない。。専門家以外はNSC常任委員にしない不文律を犯し
てまで側近としてスティーブ・バノン首席戦略官・上級顧問に入れたがこれを外した事
は今後の中国との親中国派と言われるイバンカ氏の意見も通らないであろう。その試金
石としての今度の習近平訪問は、わずか二カ月半での方針変換を知る上で重要である。
予想では中国に対しての四ツの意見であろうと思われる。一つは当然ながら貿易赤字の
問題である。突出して約半分を占める中国の輸入超過は頭が痛い事でこの輸入に関税を
掛ける腹つもりはあるだろう。二つ目は南沙諸島の軍事化問題である。自由航行の権利
はそのままだろうが問題はそこが中国領土と主張している事である。レーダーも航空管
制も米国は受ける理由も根拠も無いと思っている事だ。そして三つめが北朝鮮問題であ
る。一応は国際機関 特に国連の決議に対しては北への制裁はしているとしているが、
それが充分でない事はこれまでの北の技術の進歩が物語っている。特に技術者派遣物資
の搬入更に車両等の提供石油の供給に関して中国側は当然拡大して行っているのである
。四っつ目がこのシリア問題に付随するが人権問題である。数多くの人権団体や報道の
関係者が自由取材の中に居ない。自由往来すら中国国内に於いては保証していない。今
香港問題で揺れる中国共産党は指導部である中央委員会の管理下から外れて行動してい
る。つまりその監視が行き届いていない事で多くの文人や一般人は拉致監禁されそれら
には多くの米国人がいるのである。それらの情報取りに韓国人権団体を保護していたが
その韓国人権団体は馬鹿な事に慰安婦像や竹島問題などと言うばか騒ぎに走ったのであ
って全く香港支援とか共産党の拉致暴行情報とかに繋がらなかったのである

189: 名無しさんAA:17/04/08 12:48
 魔法使い あららとおろろ 31-3

かつて 韓国に亡命した北朝鮮のテ・ヨンホ元駐英公使が会見した時 米新政権に対し
た北朝鮮の姿勢に「米韓合同軍事演習がリトマス試験紙だ。」といい、敵視や演習が続
けば金政権が「核実験や大陸間弾道ミサイルのカードを切る」と言及した。その言葉は
的中した。又国務長官もトランプも、国連が拒否権等で動けないときには、北朝鮮であ
れ中東であれ 米国の不利益が予想されれば米国が単独で行動することもありうる。と
発言してはばからなかった。そしてトマホークは打ち上げられた。が此処で不思議な事
が幾つもある。発射弾数と着弾数が合わない事だ。米国軍は駆逐艦2隻から巡航ミサイ
ル「トマホーク」59発をシリアシャイラト基地に向けて発射した。と言い 政府筋は
60発と言う。更にロシア発の情報ではシリア国内の着弾では23発の着弾といい残り
36はシリアの何処なのかは不明だがロシア発では海に15発は落ちたと言う。更に不
思議なのは公式命中精度は6m〜10mの範囲なのだが、滑走路は損害を受けていない
し2台のミサイル迎撃用のロシアの3台の車両は全く無傷の上発射もされていないらし
く弾頭が入ったままだし レーダー機器も損傷していない。米軍の攻撃が非効率だった
と強調する内容で放送されているのである。通常こうした巡航ミサイルの打ち込みには
多くの手順が必要である。まず目標物の確認と飛行経路の確認である。そしてそれに準
じた暗号コードや座標コードの植え付けと入力である。更に天候など発射時の点検であ
る。発射時の船の位置が間違えば万が一にも電磁波影響で自国の船や自分の船に帰って
来る危険性があり得るからだ。更に国際関係に対する連絡だ。今回もロシアには事前に
通告したというのだが。こうした確認作業に凡そ7〜10日の日程を擁しその弾の数の
作業が必要でそう簡単ではない。化学兵器の攻撃について、シャイラト基地を飛び立っ
た航空機が実行したのは確実だと言いながら 戦闘機14機と基地内の複数の施設が破
壊され、基地は機能停止した模様とは言え ダメージは殆どない映像だ。つまりロシア
に対する忠告程度の攻撃でそろそろロシアはシリアから退場しなさい。程度なのである
。中国の訪米に合わせてと解説者は言うが一連の動きを見ているとかなり違う印象だ。
まず市街地でサリン被害が出て 最後の病院に連れられて行った所で更に攻撃している
。これを米国の国連大使はかなりロシア批判したが擁護のみで中国やロシアは反応して
ない。日本の馬鹿が調査してからでもと言うが その調査すらさせない中である事すら
認識してないようだ。なぜ日本のTV局は元知事とか元市長とかの馬鹿をコメティター
に選ぶのか不思議でしょうがない。ニュースは現実社会でバラエティドラマではない。


190: 名無しさんAA:17/04/13 12:50 ID:1BM
 ついに北朝鮮は 人間の盾作戦に出た。過去にも、敗戦不況の日本に「夢の国」作戦
で大量の日本人をおびき出し、妻帯を連れ出す「日本人妻」作戦で北朝鮮を維持して来
た。更には「日本人拉致」は今でも解決していない。又最近ではマレーシア外交官でさ
え出国拒否で人質作戦をしたばかりだ。これにメディアが応じるとなるととても危険だ


191: 名無しさんAA:17/04/13 17:29

 こうした国家情勢を見ていると 恐らく国家経営に壁が起きていると言える。米国に
反自由を掲げるほど国民不安があり欧州で自国第一主義を掲げた愛国主義者が台頭する
ロシアでは権益維持を中国では管理主義を捨てない。これらは全て夢想する住民を創っ
ている電子機器にある。ロシアが30年前の「東西冷戦時代」のソ連を夢想し 米国は
かつての「パックスアメリカーナ」の50年前を夢想している。英国は200年も前の
大英帝国時代を中国は500年も前の「中華大展」の清朝時代なのだ。もっと言えば今
のアラブ社会もISILの言う王制打倒とカリフ制の樹立はオスマントルコ時代の象徴
なのだ。馬鹿げた事だが これらの事が人々の夢や希望の中介在しているのだ。こうし
た馬鹿げた過去の栄光と勘違いした夢は現在の苦悩に連鎖している。そしてその最初が
イスラエルであろう。なんと二千年も前の話で移住しだし 英国にして共存可能と謳わ
せたのに今だPLOを攻撃しているのである。こうした過去が無くなる事は、北朝鮮も
まったく同じで「敵はやがて崩壊する」と主張している。「資本主義の韓国では貧しい
民衆の権利は守られず、迫害された大衆はやがて革命を成功させ、我々に合流するであ
ろう」と喧伝しているのだが、恐らくこのまま時間つぶしで核ミサイルは秘密裡に作る
であろう。この事に中国にはためらいはあるものの国内政策で手一杯でわざと北を見過
ごした政策を決め込んでいた。だが米国トランプはそこにくさびを打った。元国防省高
官は北朝鮮について語っている。「北朝鮮の問題は本当に深刻だと見ている。まず中国
の隣国であるということではなく、北朝鮮が今や韓国の首都ソウルを砲撃できる十分な
射程圏内にある。北朝鮮はその事実を元にゲームを進めている危険な国家だ。北朝鮮は
猟奇的な政権で 直ぐに核を付けたICBMを造るであろう。」と。これは中国の戦略
上の中の最も好む展開である。韓国中国間に北朝鮮があるより中国日本間に北朝鮮があ
る方が最も好まれるのである。その地理的条件で北の核開発があるのだ。北朝鮮が崩壊
していないのは、崩壊する理由がないからである。という事は核ミサイルを持つ前に、
米国が崩壊する理由をつけなければ北はこのゲームを止めないだろう。と憶測できる。
仮に北朝鮮という国家が崩壊したとしても、戦乱が起きなければ難民は全く発生しない
。韓国との間に戦争が勃発すれば難民は発生するだろうが、そのほとんどは国境を接す
る中国に向かうだろう。つまりは中国が国境警備を行えば 難民は出ないのである。「
北朝鮮で軍事クーデターが起き、金正恩政権が倒れる。」と予測する人もいるが、その
可能性は全くない。北朝鮮には党に逆らわないための安全装置が幾つも付いているのだ
。つまりは今の金体制がそのまま自由主義に移行するしか今後の世界はないのである。


192: 名無しさんAA:17/04/13 23:21
 こうしたゲーム理論の推移は 今度のシリア攻撃にも当てはまる。ロシアはプーチン
大統領が7日、主要閣僚らを集めて安全保障会議を開いて、「攻撃は国際法に違反した
侵略行為」と結論づけた発表をしペスコフ露大統領報道官が明らかにした。又露外務省
は、シリアでの偶発的衝突を避ける米露軍の連絡体制停止を明言。今回の攻撃を協議す
るため、国連安全保障理事会の緊急会合開催を求める考えを示した。シリア大統領府も
「無法で無責任な行為」だと批判するがロシアのガチロフ外務次官は12日、シリアで
の化学兵器使用を非難してアサド政権に調査受け入れを迫る米英仏3カ国の修正決議案
に対しては、国連安全保障理事会で拒否権を行使する意向を示した。その上で決議案は
米国のシリア攻撃を正当化するのが狙いだと批判。仮に決議案について話し合うなら、
米国の攻撃を国際法違反の侵略行為として非難すべきだと主張した。また、化学兵器禁
止機関(OPCW)が13日に特別会合を開き、ロシアが求めた化学兵器の実地調査
などについて協議する予定だと述べたという。米国は シリア北部イドリブ県ハンシャ
イフンでアサド政権が4日に化学兵器を使い自国民を空爆したと断定。シャイラット基
地が空爆機の発進地だとして攻撃を命じたと述べた。アサド政権が化学兵器禁止条約を
破り安保理も無視したと批判し、「化学兵器の使用と拡散の阻止は米国の安全保障上の
利益だ」と述べ攻撃の必要性を強調した。 このロ米の応酬にはロシアの言い分に嘘があ
る。即ち町中で化学兵器が使われそのまま病院まで連れて行き 更にそこで大掛かりな
化学兵器が使われているからだ。その場所は3D化されたレーダーでスキャンされ発進
した空爆機が帰行したところにトマホークが打ち込まれたと考えられるからだ。シリア
軍や国営メディアによると、基地で兵士6人が死亡し、周辺で子ども4人を含む市民9
人が犠牲になったという事も見逃せない。ロシア国防省によると、基地に駐機していた
シリアの戦闘機6機とレーダー施設も破壊された。一方、発射された米ミサイルのうち
基地に達したのは23発だといい、同省は「攻撃の精度は低い」と主張していて 基地
の傍に家があったとは考えにくい。つまり出撃に備えた化学兵器が漏れた可能性もある
つまりは この化学兵器の調査団を躊躇する理由がロシアには全くないにも関わらず、
拒否権を発動しているのである。又北との戦争自体は瞬殺でしょ?なんて言ってる輩は
馬鹿だ。ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)紙が一昨日(4月22日)の記
事は「北朝鮮が現在核弾頭を20発保有していると中国の核専門家らが推定している」
と報じたことが日韓のメディアで大きく取り上げられている。この核弾頭がどこを向い
ているのかは不明のままだ。

193: 名無しさんAA:17/04/14 12:33
 魔法使い あららとおろろ 31-4

 今度の化学兵器が分析されたようだ。今回ソ連は大きな失敗と米国は大きな見せかけ
を見せた。かつてアサド大統領はこう言った。「シリアのテロリストを堂々と支援した
国もあります。これはカタールとトルコです。カタールはテロリストのスポンサーで、
トルコはテロリストの訓練を行い、シリアに送りこんでいます。サウジアラビアは現在
、カタールに代わって我が国のテロリストに資金援助をするようになりました。」対し
て近頃トルコに不穏な動きがあった。中国はトルコに国産MDシステムを販売すること
を確認したといのである。ザ・チャイナ・デイリーより全中国輸出入精密機械建設企業
の代表がCCTVの火曜の放送で述べたのである。マレーシアのランカヴィで行われて
いる国際海洋・航空展示会からの中継放送で同社の代表によれば、トルコには中国MD
システムの輸出版であるFD-2000-HQ-9が提供される。と言った中国のMDシステムがこ
のNATO加盟国に供給されるのは初のケースとして取り沙汰された。この時化学兵器
についても密約されたと推測される。それはかつてトルコは、米国防総省とロシア軍の
電話は有志連合のシリア軍への空爆を制止したの受けた時、エルドアン大統領はトルコ
は「アサド政権による国家テロ」に終止符を打つためにシリアでの軍事作戦を開始した
とする声明を表していたのである。更にエルドアン大統領はイスタンブールでのエルサ
レムについてのシンポジウムで演説した際に、「シリアでは60万人が死亡したといわ
れているが、私は100万人近くが死んだのではないかと考えている。国連はどこで何
をしているのか? 我々は長い間我慢してきたが、とうとう『自由シリア軍』と共に、
シリアに出て行かざるをえなくなった」と語り、「われわれはそこ(シリア)にいるの
は正義を復活させ、国家テロを巻き起こした残酷なアサド専制支配に終止符を打つため
だ。」とトルコ軍の作戦目的を説明した。つまりエルドアンは、自由主義化に移行する
シリアを見過ごせなかったのだ。その為対クルド作戦をして偽の自爆テロを国内に起こ
し自由取材を規制し北朝鮮から中国経由で購入した化学兵器をシリア軍内に持ち込み、
空爆させた。これは直ぐにでも終戦する兆しとアサドの延命が見えて来たからだ。米国
とロシアの動向を手の内に立ちまわった。と言える。この自由シリア軍とヌスラ戦線と
シリア軍民兵シーア派民兵組織連合「人民動員隊」も戦線にいる中で区別がつかないの
である。又クルド人部隊「人民防衛隊」の攻撃にあっさり引き払ったISとアルカイダ
がここにいる。トルコはそれを掌握して「ファタハ軍」を利用していたのである。


194: 名無しさんAA:17/04/15 23:41 ID:1E.
 魔法使い あららとおろろ 31-5

 考えてみれば、トルコ軍が化学兵器を持ったとすれば 理解出来るだろう事が多々あ
る。まずヌスラ戦線や自由シリア軍などと対決するシリア軍民兵シーア派民兵組織連合
の結集である。トルコ側のファタハ軍シリア側の人民防衛隊がいずれもがISとの繋が
りを持ち共に対クルド思想を持ちクルド人独立を阻む組織としてISILの中にいる。
オスマン帝国時代、クルド人の居住地は中世から近世にかけての広大な版図を誇った、
オスマンの領内にあった。そして第一次世界大戦でオスマン帝国が敗れると、サイクス
・ピコ協定でフランスとイギリスとロシアによって恣意的な国境線を引かれ、トルコ・
イラク・イラン・シリア・アルメニアなどに分れた。その後現在のイラン北西部の土地
に、クルディスタン共和国が、ソビエト共和国の後押しによって一時的に樹立された。
それはロシア革命のどさくさでの中での承認であり、ロシアの影響力の強いウクライナ
共和国、白ロシア共和国、ザカフカース連邦共和国、グルジア共和国、アゼルバイジャ
ン共和国、アルメニア共和国及び極東共和国がソビエト共和国に対するソヴィエト連邦
として形づくるとドイツとの関係え、ラパッロ条約や拡大する補足条約が出来ると再び
イランの中に入っていった。そして混乱の内に直ぐに第二次世界大戦が起きてこの国は
跡形も無く消滅するのである。その後パーレビ国王はイランの近代化を目指したのだが
イランでは1979年にシーア派によるイスラム革命があり、親米のパーレビー政権が倒れ
、ホメイニーの指導下、異種の政治体制「イスラム共和制」を敷き、イランイラク戦争
に突入しホメイニー師や、ラフサンジャーニ議長などが戦争をイランの勝利で終わらせ
ると発言し長い戦争時代に入るのである。両国の狭間のシャトル・アラブ川は使用権を
めぐる紛争と共に、イスラム教内のシーア派とスンナ派の歴史的対立があり長年の間の
、衝突の原因場所だった。シャトル・アラブ川はペルシア湾に注ぎ込むチグリス川・ユ
ーフラテス川の下流域で、両国の国境にあたる。同河川沿いの都市バスラはイラク第二
の都市で、石油積み出し場として重要な港でもあったのだ。このイランのイスラム革命
に介入し、米国や欧州、ソ連などはイラクを支援した。特にシーア派はイラクを積極的
に支援していてクウェートはペルシア湾の対岸にイランを臨むことから、資金援助の他
、軍港を提供するなどした。ソ連の護衛によるイラクの輸出にイランは手を出せなかっ
たが、革命の際のテヘランのアメリカ大使館占拠事件において、人質の解放をめぐる取
引の一環として、双方に米国は取引していた。


195: 名無しさんAA:17/04/15 23:44
魔法使い あららとおろろ 31-6


 その戦いは1980年9月22日未明に始まったとされる。イラク軍が突然全面攻撃
を仕掛け、イランの10の空軍基地を爆撃、イラン軍がそれを迎撃するという形で戦争は
始まった。元々このイラクの地バクダットなどは古代メソポタミア時代からの都市国家
である。1922年クルディスタン王国が樹立した時大きな事が幾つも起こった。そも
この地方はペルシャ地方としてオスマン帝国の枠の中イギリス統治が続いてた土地柄だ
った。この奇妙な関係に終止符を打つべく独立運動に於いてイギリスが多くの植民地を
捨てて行く時代だったのだ。そこではアラブ人ペルシャ人エジプト人とそれぞれが分断
していた土地を取り戻す闘争をしていたのだ。その中でトルコが最初にイギリスとの線
引きを確定したのである。ローザンヌ条約でケリを付けたイギリスが最初にキルクーク
油田を発見した。この条約で国境が確定し、北クルディスタンが切り離された。更には
イギリスがイラク石油会社を設立するとイラク石油会社の石油利権によって反英暴動が
勃発する。批准こそされなかっが イギリスはセーヴル条約によりモースル (クルディ
スタン)の土地を放棄させようとした。そしてカイロ会議匂いて今日のクルド人問題が
形成された。アルジェ協定は1975年にシャトル・アラブ川について国境を川の中心
とし 航行には安全を保障し 今後はホルムズ海峡の3島の、アラブ側への返還する。
と言う物だった。実は境界線はかつてのイギリスが東インド会社としてオスマン帝国と
戦っていた時の協定ではトルコ側の所領としイランの川岸が境界線だったのである。そ
の後ロシアが来てもイギリスが来てもその境界は踏襲された。がこのアルジェ協定では
陸地に於ける境界線は又新たに策定すると言う物だった。此処に又クルドを入れないま
まの境界策定がおこなわれるのである。だが宗教革命によってパーレビ国王を追い出し
た事でイランは殆どの海外からの支援国を失い逆にイラクのフセイン国王はこの機に乗
じた統一ペルシャを目論んでいた。が此処で起きたイーイ戦争はアルジェ協定の一方的
破棄を宣言するものであった。ここでも少数民族クルドは 国境近郊の生活地であり、
またも振り回されるのである。


196: 名無しさんAA:17/04/17 12:36 ID:mog
 魔法使い あららとおろろ 31-7

 ところが此処で奇妙な事が起こるのである。完全に孤立したように見えたイランであ
ったが、アラブ全てを敵に回しているイスラエルが援助を始めた、米国製部品を代わり
に調達するなどしてイランを支えたのだ。更に、他のアラブ諸国と異なって少数派の、
アラウィー派が国家元首のアサド一族が政権を担っていたシリアが、反欧米の旗を掲げ
るリビアと共にイランに味方したのである。更にイラクの予想よりも遥かに多くイラン
民衆の抵抗は強く20万を越える義勇兵がアフガン方面からも前線に加わって戦ったの
である。奇しくもイスラエルと、アラブ諸国の中で 対イスラエル強硬派の一番筆頭の
シリアとリビアがそれぞれの思惑で共闘しイランを支援することとなった形である。こ
うして予想外の抵抗に発展したまま、1988年8月に国際連合安全保障理事会の決議
を受け入れる形で停戦を迎えるのであった。この長期化した戦争をイラン・イラクの国
名にちなんで皮肉った「イライラ戦争」と揶揄されるが中東では「第一次湾岸戦争」と
呼ばれた。その後「第二次湾岸戦争」がイラクのクウェート侵攻に機に起こったが、こ
こではクルド人殺害への「化学兵器使用」が叫ばれ米国の「廃棄核による通常兵器」が
使用された。劣化ウラン弾は廃棄の為に作られた訳ではない。比重が鉄の2,5倍の物
で鉛より重たい。その為合金にして3倍近く近づけて徹甲弾や装甲材として用いられて
いるというのが現状のようだ。だがこれが戦地の原住民に相当数の放射能障害の患者を
創った。その上公式には語られないが帰還兵士すらも9割近くが放射能汚染によっての
健康障害が現れているとされる。この第二次湾岸戦争はかなりのイラクのフセイン体制
を揺らした。そこにトルコ政府が出て来ている。この戦争は、アメリカ合衆国が主体と
なり奇妙な事に、イギリス、オーストラリアと、工兵部隊を派遣したポーランド等が加
わる有志連合によって、国連のイラク武装解除問題の義務違反を理由とする介入した。
『イラクの自由作戦』の名の下に、イラクへ侵攻したことで始まった軍事介入である。
ハーシム王家はイギリスの支援のもとで中央集権化を進め、スンナ派を中心とする国家
運営を始め、1932年にはイラク王国として独立を達成した王国でもある。



197: 名無しさんAA:17/04/17 12:36
 魔法使い あららとおろろ 31-8

 トルコのエルドワン大統領は先の公正発展党所属のトルコ共和国の政治家の、アブド
ゥラー・ギュルの指名で首相になった。ギュルは2007年の憲法改正以前、議会によ
って選出された最後の大統領である。サウジアラビアのジッダに拠点を置く、イスラム
開発銀行にて経済専門家として勤務していたが、イスラーム復興勢力である福祉党から
のリクルートを受けて、トルコ大国民議会議員に立候補して当選した。福祉党党首のエ
ルバカンに重用され、1993年には外交問題担当副党首として党幹部会のメンバーとなっ
た。1997年6月に軍部の圧力でエルバカン首相が退陣し、翌1998年2月に福祉党が非合法
化されると、後継政党である美徳党に移籍。各種メディアに積極的に出演し、福祉党政
権時代の急進的なイスラーム復興政策を自己批判し、世俗主義派を含む国民全体からの
信頼回復を訴えた。2001年に美徳党が非合法化されると、前イスタンブール市長のエル
ドアンと共に公正発展党を旗揚げし、2002年の総選挙で公正発展党が議会第1党に
なると、トルコ憲政史上初のイスラーム政党による単独政権が発足した。党首のエルド
アンが被選挙権を剥奪されていたため、公正発展党政権の初代首班として同年から首相
を務めた。翌2003年に、エルドアンが被選挙権を回復し、補欠選挙で当選すると、首相
職をエルドアンに譲り、自らは外相に就いた。2007年の大統領選挙では、公正発展
党の大統領候補として出馬したが、イスラーム系政党である公正発展党が大統領ポスト
を握ることに、共和人民党をはじめとする野党勢力や、軍部などの世俗主義勢力が反発
し、政局の混乱を招いた。その後2008年にクルド人武装組織クルド労働者党(PKK)
の掃討では空爆を指示しそれを行った。公正発展党では「穏健派」と言われるギュルを
大統領候補に擁立し、ギュルの擁立に対しても世俗主義者の反発は収まらず、行われた
大統領選の第一回投票では野党で議会第2党の共和人民党が投票をボイコットし、憲法
裁判所に出席者不足による投票の無効を訴えた後の事である。公正発展党は欧州連合加
盟に向けて国内改革を推し進め、経済政策でも実績をあげるが、イスラーム主義を基調
とする政策は逆にイスラムISの知るところで世俗主義者の警戒を呼ぶことになった。
2002年のトルコ憲政史上初のイスラーム政党による単独政権が発足した時から、こ
のイスラム過激派の影は表に裏に出ている。


198: 名無しさんAA:17/04/17 12:36
 魔法使い あららとおろろ 31-9

 それは湾岸戦争(中東における第二次湾岸戦争)でも如実に現れている。世俗主義が
否定されて混乱期ではあっても 冷静にトルコは大きくは参戦していない。国連議決が
あっての正統な多国籍軍なのだが。だがこのアメリカの湾岸戦争参戦にもかなりの部分
に嘘がある。イラクがクウェートに侵攻した直後に世界中である映像が繰り返し放送さ
れた映像がある。一つはクウェート脱出の難民少女がアメリカの下院議会にて「イラク
兵はクウェートの病院まで攻めてきて赤ちゃんを保育器から出し殺すところを見ました
」と涙ながらにクウェートでの現状を訴える映像だ。更にもう一つはイラク軍がペルシ
ャ湾に原油を流出させたためにこのような状態になっていると説明される油まみれにな
った水鳥の映像だ。これらは、世界中に繰り返し放送され、訴えかけられた。しか〜し
彼女は本当のところクウェート駐米大使の娘で完全なる「やらせ」であったことが発覚
しクウェートに一度も行ったことすらなくずっとアメリカに住んでいた事が判明する。
更に水鳥の映像も又アメリカ軍が誘導爆弾にてゲッティ・オイル・カンパニーの原油貯
蔵施設から流出させたことが明らかになったのだが、そこで一月二十九日、米国防総省
は、水鳥を襲った油はイラクが開戦直後にミサイルで破壊したカフジ油田から流出した
もの、と嘘を発表した。やはり「犯人」はイラクなのだ。この事件では、はるかに影響
が大きいはずの大手マスコミは全く疑義も騒ぎもなく経過した。理由の第一は非常に簡
単で、今度の早トチリが「赤信号、皆で渡れば怖くない」という、大手マスコミの共同
責任問題だからである。と言う思考である第二は非常に重大で、九十億ドルもの大金が
懸かっている国会の開会中だったからに他ならない。ところが、シーアイランドからは
、シャープ記者が黒い水鳥を発見したサウジアラビアとクウェイトの国境までは、海上
の直線距離でも八〇キロある。沖合の最大速度が二〇キロ。海岸線に近づくと五、六キ
ロに減速される。全く到達出来ないはずなのだ。こうした嘘で アメリカは湾岸戦争を
始めていたのである。そしてその年が1990年なのである。イラク軍 兵力42万5000人 作戦
機316機 戦車2600両に対して アメリカ軍 兵力28万人 作戦機600機 空母5隻
              イギリス軍 兵力2万6000人 オーストラリア軍 兵力2000人
が 相対したのである。


199: 名無しさんAA:17/04/17 12:37
 魔法使い あららとおろろ 31-10

 その後2001年9月11日にアメリカ合衆国内で、ボストン発ロサンゼルス行きの
アメリカン航空11便が世界貿易センタービル北棟に突っ込みました。その17分後の
午前9時3分には、ボストン発ロサンゼルス行きのユナイテッド航空175便がビルの南
棟に突っ込んだのです。その後すぐにアメリカのブッシュ大統領は、事件後、テロの首
謀者をオサマ・ビンラディンと断定し、彼が指導者をつとめているアル・カイダという
テロ組織が行った犯行であると発表しました。このTVを使った声明には数々の疑惑が
かかっている。この時ブッシュは幼稚園にいてまず見たはずは無かったはずだが、本人
は生のTVを執務室で見ている話をしている事だ。二つ目は幾つものTVクルーが指示
されて貿易センタービルで待っていた事だ。三っつ目は犯人が見つからないままに特定
された事だ。更に彼はその犯人が特定される前に我々は現代の十字軍を結成して戦わな
ければならない。と発している。貿易センタービルも又可笑しな事になっていた。まず
ここ3ヶ月持ち主が代わってから常に工事が行われる音がしていた。と言うのである。
更にこのビルは2日目にしてやっと上から真下に倒壊した。又この倒壊にフセインは、
弔電を打っている事が一度は発表されたがその後は無かったとしている。又日本からの
救援の飛行機が用意されたが援助や捜索は拒否された。そして生き延びた人の証言は、
いずれもが 飛行機燃料の匂いよりは火薬の匂いが強かった事を証言している。力学的
に不思議な現象が三っつある。一つは最初に倒壊しなかったビルが何故その重みを持て
なかったか。と言う疑問だ。直線的に建っているビルは梁を除いては壁にしろ柱にしろ
上の物を支えている。如何に壊れているとは言え上部の荷重は変わらないのに崩壊した
のである。更に飛行機の衝撃は横からでその衝撃に耐えたビルが真下に他のビルに影響
ない状態で壊れたのだ。まるで爆破解体の様に。その上全く関係のない離れた中古ビル
が同じ会社の所有だったが壊れたのである。荘厳なゴシック建築やイスラム建築を思わ
せるような趣をかもし出すことに成功したこのビルは、全体のプロポーションも余計な
装飾なくすっきりとまとまっており、洗練されたモダニズム建築の代表でもあった。


200: 名無しさんAA:17/04/17 12:37
 この敷地は、かつて戦前は「ラジオ・ロウ(ラジオ横丁)」といわれた 日本で言え
ば秋葉原の様な 電気部品街・倉庫街や「リトル・シリア」と呼ばれるアラブ人移民街
で成り立っていた地域である。というのも、ハドソン川横断鉄道のターミナルビルがあ
って偶然にもこれも双子のタワーで、22階建てで2ブロックを占める程の大きさがあ
り、時のアメリカの電気部品を展示するにふさわしかったのだ。1908年の戦後の頃
建設当時は世界で最大のオフィスビルとなっていた。地下にハドソン川を渡るニュージ
ャージー州からの通勤鉄道の終着駅があったが、その経営は第二次世界大戦後に発達し
たモータリゼーションによって 電車駅としての役割は少なく破産状態になったのだ。
 だが増大する海外貿易のための大規模な商業・取引センターをニューヨークのどこか
に作るという案は第二次世界大戦直後からの夢であり、ニューヨーク市によって企画や
設立され、ワールドトレード社がいくつかの建設案を作成したものの、資金不足などで
計画倒れとなっていた。戦後まもなくの計画に関わっていたデイヴィッド・ロックフェ
ラーは、マンハッタン各地で数十ブロックを丸ごと刷新する都市再開発計画(リンカー
ン・センターなど)を進めていたが、同じ時期、此処に再度ワールドトレードセンター
を作る計画を始めた。1930年にニューヨーク・ニュージャージー両州に及ぶ港湾地域の
開発を目的とした公団を設立されていた、ニューヨーク港湾公社のオースティン・トー
ビン総裁に1960に新たに提案した。こうして設計にはコンペの結果日系アメリカ人
建築家のミノル・ヤマサキの案が選ばれ、敷地の大部分を低層ビルや公共の広場とし、
隅に二棟の直方体 (63.4m × 63.4m × 415m) の超高層ビルを建てるという建設計画案
が1964年に発表された。こうしてロックフェラー一族が掲げる理想(貿易を通じての世
界平和)から、ワールドトレードセンター通称WTCが命名された。


201: 名無しさんAA:17/04/17 12:37
 日本語での訳語は「世界貿易センター」とされたが建設および経営にはニューヨーク
・ニュージャージー港湾公社があたっていた。多いオフィススペースを必要としていた
施工主に合わせて、ビルの中央にエレベーターやライフラインを集中させ、それらの周
りを支柱で囲み、さらには外壁全体に鉄骨の支柱を配して重さを支える、いわば鳥かご
の中に鳥かごがあるよう構造で賃貸収入を上げるため、フロア内には一本の柱もない、
大空間を可能とさせた。ヤマサキのチューブ構造と言われ、現代建築の基本となった。
ニューヨーク港に面したローワー・マンハッタンは風が強く、超高層ビルへの影響が懸
念されたが、チューブ構造の柔軟性はタワーの中心部(55階付近)を最大振幅させるた
め、暴風時期でも最上階付近ではほとんど揺れを感じないという 優れた設計だった。
さらにエレベーターの効率的な運行のため、44階と78階に乗換階「スカイロビー」を設
け、高速エレベーターをスカイロビーに直行させ、ここからさらに各階行のエレベータ
ーに乗り換えさせるという方式にした。これはオフィス面積をエレベーターで犠牲にし
ないため、限られたエレベーターシャフトを超高層ビルで最大限有効に利用する画期的
方法であり、このような運行システムを採用したのはツインタワーが世界初だった。
 こうした設計意図の貿易の振興を願って1966年からはじまった建設作業は、難工事で
あった。まずラジオ・ロウの低層建築やターミナルビルの立ち退きに時間を要し、更に
た。ハドソン川からの地下水浸水を避けるために敷地全体に、地下7階の深さまでの「
バスタブ(浴槽)」と呼ばれる防水を施した巨大な基礎構を掘る作業が必要となり 行
われた。こうして1972年に1WTC(ノースタワー)が、1973年に2WTC(サウスタワー)が
完成し出来たが、当初の評判は良くなかった。実際に近くで見るツインタワーはかなり
威圧感があり、当時の市民の評判も決して良いものではなかった。建築評論家からも悪
評が多く、モダニズムの悪い見本のように語られることさえもあった。世界一の座はそ
の後1974年に完成したシカゴのシアーズ・タワーにすぐに奪われたものの、展望デッキ
や展望レストランが1975年以降完成してニューヨークの新しい観光名所となり、以後多
くの映画やテレビドラマにツインタワーが登場するようになった。建設に反対していた
団体でさえ「展望レストランだけは」とその眺望を絶賛したこともあった。


202: 名無しさんAA:17/04/17 12:42
ところがいざオープンしてみると、当初想定していた貿易会社などの入居は数少なく、
国際貿易の拠点としてのワールドトレードセンター計画は全く当てが外れた物だった。
完成時のキーテナントは港湾公社ほか、市や州、連邦政府などの機関が多く、あたかも
官庁舎のような状態で時が過ぎた。だがウォール街が世界の金融の中心として活況に満
ちた1980年代には、モルガン・スタンレーやソロモン・ブラザーズの本社を始め、世界
の銀行・証券・金融会社の多くがウォール街に隣接するWTCが便利になって、ここに
こぞって入居するようになって活況を呈してくるようになった。ところが2000年代
にはオフィス革命が始まっていて ビジネススタイルが通信機器と莫大な電気器具に囲
まれた世界に代わって このビルからの撤退が始まってしまっていた。まずはファクス
通信での連絡からコピー機の台頭で膨大な紙と印字が必要になった。簡単に整理された
書類が出来上がる様になると 家具類の設置さえも不便になった。更に省力化した需要
は人員削減をもおこした。設備に関しても衛生陶器も古く水回りの配管も交換するべき
時に来ていた。コンピューター備品も数多く出ていて家庭用の発達したパソコンが今の
様な小型ではなく業務用となればもっと大きかった。複写機プリンターフロッピーと、
かなりの供給も廃棄もかなりの量がこのビルから出ていて苦情さえあった。そこに転売
の知らせと新オーナーの解体方針があったと噂されていた。つまり改修工事が高くある
中でオーナーには 苦情が山の様に寄せられていたのを 買い取り新オーナーは政治力
で解決しようと考えたのである。この時のクラブ仲間がネオコンそのものであって、こ
のクラブそのものも軍需産業の停滞に悩んでいて 新兵器の実験場所を求めていた状態
にあったのだ。そこには親イスラエル派も名を連ね新聞王もいたのである。


203: 名無しさんAA:17/04/17 12:42
とそこにこの911テロの
事件なのだが。取りあえずはその撤去が終わった頃鉄骨のがれきに大きな不審感があっ
た。一つは崩壊事故であるにも関わらず全員の遺体収容が行われなかった事や鉄骨など
の破壊状況の検証の申し込みは全て排除され民間のボランティアの検証さえ却下された
のだ。ともあれ こうして起きた事件でアフガンはウサマ・ビンラディンを匿ったとし
て国連決議もないまま戦争になりイラクににも侵攻するアメリカの姿があったのだ。こ
こに第三次湾岸戦争日本語のイラク戦争が起こった。アメリカ合衆国が主体となり2003
年3月から、イギリス、オーストラリアと、工兵部隊を派遣したポーランド等が加わる
有志連合によって、イラク武装解除問題の進展義務違反を理由とする勝手な『イラクの
自由作戦』の名の下に、イラクへ侵攻し軍事介入が始まったである。この時不思議にも
イラク派兵国と派兵数は 1位米国 130000人 2位英国 11000人 3位トルコ1万
人規模と他16ヵ国と言うものだった。ところがこの世界を揺るがす戦争でありながら
何一つ統合的指標も国連の指導もなく 戦後の敗戦処理の工程の検討も無く、ただただ
ひたすらに私怨のままに叫ぶブッシュの掛け声に操られた戦いだったのだ。米国の単独
行動と追従する有志連合で行軍し空爆で蹴散らして終わったのである。その後銅像を倒
し血眼底になってフセインを探し捕まえて拘留し裁判を起こしたが この裁判も又米国
の違法行為のままであり、国連の指導する国際裁判でもなく只のブッシュのお遊び裁判
で死刑宣告し、事実認証や現場確認或いは罪状認否すらうやむやに死刑執行がなされた
と言う 前代未聞の出鱈目な裁判だったのだ。こうした行為で先進諸国の信用失墜を起
こした事は間違いない。その上こうした行為を許した米英の国民をイスラム教徒が許す
筈も無く、米英の文化社会に溶け込んだ自国民の若者にすら反発したテロ予備群を創っ
たのである。この人としての信用が無い行為こそ悪の根源であり その意味ではブッシ
ュ家の裁判で財産没収でも起こさない限り アメリカイギリスにはテロは無くならない


204: 名無しさんAA:17/04/20 09:14
魔法使い あららとおろろ 33-1 (行儀よく振舞え)

 此処で言いたいのは 何も国際社会や人類の愚かしさのみではない。如何に海外の者
が馬鹿げた安価な感覚で生きているか。という事を知ってもらいたいが為だ。今日本で
は絆とか国際感覚とか或いは観光客に万歳とか思っている様な風潮の流行(はやり)だ
が全く間違っている。大体表示板や案内板に英語や韓国語や中国語を表記するなんて、
考えられない阿保政策だ。もっと日本人を大事にし日本を豊かな国にしなければ 全く
のナンセンスである。奴隷の如き会社の仕組みをそのままにして更に貧困化させるよう
な派遣制度までオッケーしては議員や政府など不必要と言われても当然である。今回の
トルコで言う「強い権力の大統領で安定した国内を望む。」と同じに馬鹿げた事だ。実
際国際社会でトルコが内乱の起きなかったのは弱いと言うよりは象徴的権力者としての
大統領と内政を仕切る強い首相がいた二枚看板だったからこそ シリアの様な事になら
ないで済んでいるのである。これは国内安定の一つの賢い方策なのであり日本の天皇制
と同じなのだ。これを捨てて世俗主義のイスラムを純潔の排他主義のイスラム原理主義
国に近づけるというのだから エルドアンが如何に自分だけしか見ない馬鹿か解ろうと
いうものだがそれでも国民の半分が支持するのだから驚きだ。これだけ愚鈍の愚衆とも
なれば戦争や紛争が起こっても仕方がない。これが今中国や北朝鮮にもいえるのである
。もし北朝鮮がこのトルコの様に右に左に切れる馬鹿さがあれば 自らの主張する米国
寄りにもロシアよりにも或いは中国にもいい顔の出来る八方美人の国にあっただろう。
だがこの「儒教国」の真面目さは韓国と言う同族すら相いれない矛盾社会のままである
のだ。実はこれが問題なのだ。イスラムでも馬鹿げた事に解釈の違いに宗派間闘争にあ
ふれ今日を築いている。イギリス人の様に全くそうした文化の違いを気にしない民族も
いるだろうが、そのいい加減さのそれが又世界の混乱の素にもなっている。それが今回
の北朝鮮問題だ

205: 名無しさんAA:17/04/20 09:15
魔法使い あららとおろろ 33-2  (行儀よく振舞え)

 では今後 北朝鮮と米国はどうするのか。一つは中国の仲介案であろう。しかしこの
仲介案は例えどんな約束があっても 共産党の独裁政権の中では履行されない。鶴の一
声で秘密裏に核開発も弾道弾ミサイルも開発されるはずだ。という事はどんな約束を取
り付けても今までと何も変わらない。と言う結果が待っている。これは米国にも残念だ
が中国にはもっと深刻な結果が待っていることになる。それは北の敗北と中国国内紛争
である。北との境界線はそのまま中国との争いの場所とならざるを得ない。ミサイル開
発や核開発が終わった後なら生死を分けた北朝鮮軍と中国軍は共に避難民とて攻防戦を
強いられるしかないのだ。如何にアメリカや韓国との戦いでも 核やミサイルだけでは
戦いにならないからだ。更に今後なら革命的反乱軍が組織される恐れすらあるのだ。遠
い米国や勝つはずのない韓国とより より知れた中国と戦った方が大きな利点がある。
それは食糧と建物と気候である。更に中共政府に不満を持つ人の群れと関係の近い地域
だからだ。今や中国は朝鮮に影響力を持つのは石油供給のみである。これを止める事は
北の首根っこを取る様なものだが 金氏は今だ中国の習主席には会ってはいない。だが
中国の国家利益からすれば金融封鎖も石油の供給停止も国境封鎖も少しはやれても全面
的には行えないはずだ。それはロケット技術も核開発も中国との共同開発みたいなもの
だからだ。空輸や陸輸或いは海輸全てに中国無しには行えない。そうした地理的要因と
輸入のダミー会社の金融も又中国経由だからだ。では外交交渉が出来ないなら軍事行動
が出来るだろうか。もし軍事行動が取れるとした来年であろう。米国筋が言うように、
韓国内の反対が無い事が必要である。対防衛網の完全な運用がなければミサイルを撃ち
漏らす可能性があるからだ。今だ完成してはいないものの数発の核と北極星の新型エン
ジンの幾つかは完成しているものと推測される。又新型でなくとも韓国に打ち込む弾頭
は通常であればノドンやテポドンで充分な数を保有しているのである。


206: 名無しさんAA:17/04/20 09:17
魔法使い あららとおろろ 33-3  (行儀よく振舞え)

 この2つの選択は韓国にとっては悲惨なものだ。外交で口裏合わせで中国が北朝鮮へ
制裁を行ったと言っても その後に秘密裏の新型ミサイルや核弾頭があれば又も緊張が
走るし、そうした意向が北朝鮮で削がれるはずは全くない。危険な火遊びする主席を、
将軍様と崇める事が無くならない限りに安心出来る筈はない。かと言って今回今だに、
国内に対ミサイル政策に中国から反対される中では急襲しても完全に制圧できそうにも
ないのである。だが米国副大統領ペンス氏は「すべてのオプションがテーブルの上にあ
る。我々は、通常兵器や核兵器などいかなる攻撃にも圧倒的に対処する」と指摘して、
「戦略的忍耐」の政策は「終わった」と語った。ではどういった対策が可能なのだろう
か。ニュースでは経済制裁、秘密工作、外交交渉、軍事力の4つに分かれると言うのだ
だが 残っているのは秘密工作しかない。この秘密工作がもし[Decapitation Attack]
の、日本での「斬首作戦」と言う物なら全く秘密でもない話になってしまう。だがもし
これこそが秘密工作としたら彼を捕まえることは出来るのだろうか。実は恐らく不可能
だろうと思う。一つは噂される様に彼には影武者が複数人居るものと思われるからだ。
 穿った見方だが私の推測ではもう居ないのでは無いかと思われるのだ。これは友人の
推測なのだが何故今になって金一族の金正男が殺されたのか。と言うは理由があると言
うのだ。かつて31歳の金正恩の健康について国営メディアが「不調」と報道した事が
ある。英国新聞では金正恩が指導者になってから数ポンド体重を増やしたことは明確。
要因の一つはチーズ好きでヘビースモーカーだからだ。と言う。重要会議欠席のために
金正恩は痛風を患っているとの憶測が流れているが、翌金曜日に、北朝鮮の権威筋から
は健康状態が好ましくないことを認めた。木曜日、金正恩が足を引きずり工場見学をす
るドキュメンタリーを放映された。韓国新聞では金正恩は痛風、糖尿病、高血圧に苦し
んだとされた。これは「2014/07/09 ・ 北朝鮮の金正恩第1書記に異変が起きている。」
彼の最後の公の場は9月3日女性グループのコンサートに妻を伴い出席と書かれている


207: 名無しさんAA:17/04/20 09:19
魔法使い あららとおろろ 33-3  (行儀よく振舞え)

 この友人によれば痛風や糖尿病は治っても その症状は治らないとされる。つまり体
の負担が同じなら歩けないと言う訳なのだ。更に彼の体は太ったままだ。完治はあり得
ない。という事になる。そこで推理すれば当然ながら今映像に出ている者は影武者であ
る。と言える。が本人がいつまでも病身でベッドの上だったと仮定すればこの影武者に
更に影武者が必要となる。でもし影武者が2人以上であればこの影武者を動かしていた
政府筋はこの影武者より弱くなる。特に本人に暗殺が掛けられ恐怖に怯えたり、病気が
進行し動けないとすれば 公式に発表しない限り影武者に頼らざるを得ないはずだ。が
此処で一つの事件が起こった。ロシアも中国も北朝鮮の三世代の統治を許さなかった事
だ。この事で張成沢(チャンソンテク)氏が中国との外交に失敗したとされる。つまり
「中国政府は三代もの世俗後継を認めない。」と言う言葉だ。これに対して「解りまし
た。」と張成沢は答えたと言うのである。もし影武者が頭が良かったらこの情報に驚い
て手を打つであろう。政府筋がここで二つの筋書きを考える事を想像するだろう事を考
えて。つまり自分が不要になる前に張成沢を殺すか、病気として金正恩と共に去るか。
いずれにしても闇で葬り去られる。と言う危機感があったはずだ。もともと北朝鮮の中
で金正日(キムジョンイル)総書記が死去してから、遺体が安置されて錦繍山太陽宮殿
に集まった市民や兵士数万人の前の宣言でしか後継者、金正恩第1書記の正統性はない
。この事を理由にすれば 粛清に次ぐ粛清で本人を知る者を遠ざけ本人を暗殺して入れ
替わる事は他の金一族にとっても大事な事だったはずだ。つまり一番問題なのが近親者
である。という事になる。都合よく第1書記の叔母、金敬姫(キムギョンヒ)氏は、夫
の張成沢(チャンソンテク)氏の処刑について電話で金第1書記と言い争っている時に
致命的な心臓まひをおこした。と言われる。となれば後は兄弟と姉と夫人でしかない。
国内では李雪主(リソルチュ)夫人『表』妹・与正氏『裏』姉・雪松氏が本人を知る人
である。が本人が死んだとき恐らくは影武者を応援するであろう。夫人は子供の為に、
残る2人は権力の為に、いずれもが女性である事を考えれば国内では味方となってくれ
る。としたら正男と正哲が問題となる。そこで帰還命令で監禁するか 海外で暗殺する
かとなるのだ。と友人はしたり顔で話すのだが 影武者がいる事位は本当だろう。


208: 名無しさんAA:17/04/20 09:20
魔法使い あららとおろろ 33-4 (行儀よく振舞え)

 とここまで 空想論を述べて来ているが ついでにこの先の推論も述べようと思う。
つまり この苛酷な北朝鮮の平民として勝手に拉致され この国の代表の影武者になり
体すら作られたのだろう。で この影武者達は一体何人いるのか。恐らくは4人位であ
ろうと考えられる。更にこの男達は恐らく合議に於いて政策を考えていると思われる。
更に訪中を成し得て居ないままに ロケットやミサイル開発に中国の商社や機材なども
使われている所から この中の全員が北朝鮮内で見つかった似た者ではないのだろう。
つまり中国から韓国から日本から探し回って似た者を連れてきたのではないかと推測す
る。主席の死後数年間は儒教思想に従い控えめな立場を守った正日氏に対し、正恩氏は
積極的に公の場に登場していると指摘され、前から準備を進めていた主席の生誕100
周年がやってきた時には、ロケット発射を強行した。長距離弾道ミサイルの発射実験だ
とする国際社会の非難を無視し、人工衛星の打ち上げだと主張する姿勢は、正日氏と共
通していたのだ。発射は失敗に終わったが、臆せず正恩氏は100周年の祝賀行事を続
け、就任後初の演説も行った。同氏の肉声が北朝鮮内外に初めて伝えられた。ところが
今年の記念式典では 黎明街の竣工式も生誕記念祭の軍事パレードにも 一言も発して
いないのである。これは一体何を意味するのだろうか。察するに影武者である事が国民
に気付かれたくなかった。とも考えられるのである。ではそうした傾向の将軍様に対し
今の金正男の長男、金漢率(キム・ハンソル)を頭首に置くことは出来るだろうか。私
は出来ないと思う。何故なら白人からは北朝鮮に潜入する工作員はなかなか出来ないだ
ろうし朝鮮人であってもこれだけまばらな人口で結束の強い国での活動は不可能に近い
。更にもしこの将軍様が 国を守る為としたら恐らくはこうした独裁国家を求めてはい
ないのではないか。とすら思える。かと言って今の自分の地位や権力を手放す気もない
だろう。「君臨すれども統治(とうち)せず」と言う言葉があるが 北の幹部達はそう
いうつもりでいたが この金正恩政権は 次々と幹部の首を切り落とした恐怖政治の中
に覆われたのである。

209: 名無しさんAA:17/04/20 09:21
魔法使い あららとおろろ 33-6  (行儀よく振舞え)

 イギリス王室では「君臨すれども統治せず。」を文字通りいち早く始めた国である。
国王は君主として君臨しているが,統治権は議会を通じて国民が行使する。イギリスの
政体をいう言葉とされるが、日本の天皇制も戦後からこれを保って平和な経済国家とし
て繁栄している中にある。この北朝鮮社会も実はそうではないかと思われる事もある。
それは 日本では天皇制を支えているのは国民であるが、北朝鮮で正恩を支えているの
は、国家安全保衛部と党の組織指導部。であると言われている部分だ。国家安全保衛部
と言うのは秘密警察で、党組織指導部というのは権力中枢にある組織だ。と説明される
「現在、この組織に属している人間は粛清していません。国家安全保衛部の金元弘部長
は、正恩の母・高英姫に信頼されていた人物。金元弘同様、正恩は母親と近かった部下
達は殺していないんです。正日の北朝鮮の体制を支えたのも又日成から引き継いだ幹部
ではなく、実際には正日の母・金正淑が育てたブレーンだったのである。正恩もまた、
正日が育てた幹部ではなく、母親のブレーンたちに支えられている。と言ってよく国家
という名の、その屋台骨を支えてきたのは権力者ではなく、結局はその妻たちだったと
いうこと。皮肉にも、それが正恩体制を崩壊させない最大の理由なのかもしれません」
と話す北の専門家がいる。正恩氏はまた、メディアとのかかわり方でも正日氏とは大き
な違いを示している。生放送やテレビ演説も珍しいことではなくなった。市民と交流し
たり笑顔を見せたりする場面も多く、訪問先に夫人が同行するなど、正日氏の時代には
観なかったソフトな側面を見せている。それでも、市民の困窮ぶりには変わりはないと
され、国際支援団体などによれば、「栄養失調」や「強制収容所」「脱出計画者厳罰」
など、市民は依然として厳しい現実に直面している。こうした批判に対したのか今回に
メディアを招待して案内したのは 川ふぐと日本が言っているナマズの養殖場と新しい
街の建設の竣工式であったのである。これらの理論が女性じみた事なのは彼がそのまま
傀儡の人間の証なのかもしれない。その為に冷酷非情な政策と全くナンセンスな核開発
やミサイル技術を進めて 食糧や住まいを海外に見せる行為をしているのかも知れない


210: 名無しさんAA:17/04/20 09:28
魔法使い あららとおろろ 33-7 (行儀よく振舞え)

 だがこの傀儡政権の影武者視察団も幾つかの危機もあったようだ。金正恩第一書記が
「暗殺!」のクーデター騒ぎが起きていた記事だ。今月上旬、北朝鮮の平壌市内に完成
したローラースケート場の視察の正恩氏の周辺に、自動小銃で武装した兵士らが厳重警
護という異様な光景が目撃された。と言う。「戦闘用兜と防弾服を着用した武装警護兵
は、正恩氏の警護を担当する護衛司令部所属の兵士で、アミューズメントパークに武装
兵士が現れるのはPSでなく異例のこと。正恩氏暗殺のクーデター未遂事件があったん
でしょう。」と平壌情勢に詳しい関係者が話したのだ。又、あるニュースに急遽出演し
た、飯島勲内閣官房参与も民間番組で「安倍内閣の誕生が(昨年)12月の26日。丁度、
この日に平壤で金正恩の暗殺未遂事件が起きた。しかも、ダウンタウンというんですか
、商業ビジネス地域で、東京だったらですね。そういうところで軍と軍のたいへんな、
銃撃戦があった。はい。」と話している。結果首謀者は正恩氏の側近である義理の叔父
、張成沢(チャン・ソンテク)氏とみられる。 昨年12月、金正日総書記の死去後、
正恩氏をトップに担ぎ上げた人物だが、急ごしらえの体制に内部から不平不満が爆発。
クーデターを計画したもよう。と伝えられた。それは2013年12月12日の、張成沢氏に「
死んでも祖国に埋まる所がない。」と判決文が下されたその僅か後であった。映像では
「取り調べ」の過程で、激しい暴力を受けた跡が黒い内出血した顔を映し出していた。
もちろん金正恩の命令以外にはありえない事だ。その話は、「処刑人」役を買って出た
の実兄・金正哲氏だったといわれる。30歳以上も年下の「甥」たちからの拷問の末、
張氏は、「長年にわたり国家転覆を目論んでいた」という罪状を着せられ、処刑される
。金正恩は、処刑に先立っては、張成澤の部下であった2人の男を機関砲による銃殺と
と言う残忍なやり方だったらしい。側に張成沢を座らせて、部下に向かって重機関銃を
連射し彼らの身体は一瞬で肉片となり、それが張成沢に降りかかって、直ぐに恐怖と嫌
悪感で、その場で気絶したと言う。その後他の側近とともに服をはぎ取られ、巨大な檻
の中に放り込まれ、3日間何も食べていない百匹以上の獰猛な猟犬達に襲わせたのだ。
6人は逃げまどいながらも、1時間ほどの間に肉も残さず「食い尽くされて」しまった
。その様子を、金第1書記、そして李雪主夫人ら高官たちがじっと眺めていたという。


211: 名無しさんAA:17/04/20 09:29
魔法使い あららとおろろ 33-8  (行儀よく振舞え)

 韓国の聯合ニュースは9日、正恩氏の乗った車が何らかの事故に巻き込まれた可能性
があると伝えた。「交通事故にみせかけた暗殺計画の一環」(韓国国防省関係者)との
見方もある。と発表された。北朝鮮で女性警察官(22)に「共和国英雄」の称号が授
与され、さまざまな憶測を呼んでいる。若い警官に最高クラスの称号が贈られるのは極
めて異例。金正恩第1書記の乗った車が事故に巻き込まれ、事故は暗殺計画の一環だっ
たとの見方もある。警官は正恩氏を救って表彰されたわけだが、専門家はこうした極端
な表彰は「国家崩壊の前兆」との見解を示す。だが情報分析に携わった軍事ジャーナリ
ストは「最優先で通される正恩氏の車が事故に遭遇するなどあり得ない」と指摘する。
 この斬首作戦と言われる米韓合同演習は、かなりに北朝鮮をいらだたせたようだが、
その衝撃は作戦コードにあると言われる。「今回、米軍の『作戦行動計画5015』が
採用されている。このコードの『50』は『朝鮮半島』を意味する。これまでに『5027』
という作戦行動計画がありましたが、これは北朝鮮軍の南進に対する対応作戦だった。
今回の『15』は『核承認者の排除』を意味します。すなわち、核爆弾のスイッチを押せ
る金正恩を抹殺する、という暗殺決行のサインにほかなりません。これまでにも『コー
ド15』はウサマ・ビン・ラディンやジハーディ・ジョンと呼ばれた男に対して使用され
、成功している。イラクのフセイン元大統領の時は成功には至らず、全面戦争に持ち込
んでいます。」と説明される。つまりは核開発を捨てるか若しくは暗殺されるか。であ
りこの2つに失敗すれば全面戦争も辞さない。という命令コードになっているのだ。こ
れは発令されている以上 金正男の暗殺同様に決行されて処理されるまで生き続ける。
とおもわれる。つまりは失敗は米国の沽券に関わるからだ。この為の準備が今回の空母
の接近航行なのである。とこうした経過を見るに、日本人にとってはかなりの緊急事態
とも言える。決して煽る訳ではないが この核放棄か首の挿げ替えか民主化への変化か
三つのいずれか無ければ全面戦争に陥る可能性が高いと言わざるを得ない。


212: 名無しさんAA:17/04/20 09:32
知っての通り 国家的財務管理問題であるマネーロンダリング対策で北の銀行が閉じら
れた。これ自体は北でなく南米麻薬の問題だったのだが北の使っていた麻薬資金ルート
や偽札Kのルートも閉じられたのだ。これに何故だか北は激怒した。国内に大きな経済
危機が走り、以降デノミ敢行まで行くのである。更にこれらの口座が中国の銀行であっ
たことから 中国とはこれ以降仲は冷え切った。この冷え切っていた中朝関係を修復さ
せるべく、北朝鮮労働党創設70年記念日の祝賀の席に 中国共産党中央委員会政治局
常務委員会委員の序列ナンバー5の劉雲山が来た。金正恩は狂喜し、ともに謁見台に立
った劉雲山とハグしただけでなく万歳の形に振りあげ、国民に中国の最高指導者の一人
が来たことをアピールした。そしてモランボン楽団での中国の宴席を設けたといわれる


213: 名無しさんAA:17/04/20 09:32
魔法使い あららとおろろ 33-10  (行儀よく振舞え)


 ところが 当初は習近平国家主席をはじめとしたチャイナ・セブンの一部が観覧する
ことになっていた宴席が、チャイナ・セブンどころか、中共中央政治局委員さえも観覧
しないことになった。モランボン楽団の舞台背景の巨大スクリーンには長距離ミサイル
の発射場面を映すことを知った中国側は、観客のレベルを下げることを決めたのだった
。それを知った金正恩は激怒し、即刻モランボン楽団を北朝鮮に帰国させた。こうして
双方のメンツが立つ事ないまま 不義理のスパイラルは果てしも無く続き、今も北との
繋がりは、人道的石油供給と勝手な民間交流のみに絞った付き合いが続いているだけの
状態のままだ。がそれでも中国とは「血の同盟」とされる 朝鮮戦争以来の軍事同盟が
ある事は確かで それをいい事に核開発やミサイル発射を続けたのである。条約は
第一条  両国は全世界の平和並びに各国人民の安全を守るため努力を払う。
第二条  両国は共同でいずれかが戦争状態に陥つたとき直ちに全力をあげて援助する
第三条  いずれの締約国も,他方の締約国に対するいかなる同盟をも結ばず,行動又
     は措置にも参加しない
第四条  両国は,共通の利害関係があるすべての重大な国際問題に互いに協議する
第五条  両国は,両国間の経済上,文化上,科学上及び技術上の協力をし強化発展
     させる。
第六条  両国は,朝鮮の統一は平和民主の基礎の上に実現され極東における平和の
     擁護の目的の合致することを認める。
第七条  この条約は,批准され両国が改正又は終了について合意しない限り,引き続
     き効力を有する。 となっていた。
 つまり 朝鮮戦争が始まれば 自動的に中国は北朝鮮に加担するしかなく又この協定
によって、北朝鮮には経済理由如何に関わらず 北を助けなければならない宿命にある
中で石油供給を削る事はあっても 供給停止や中止は出来ないのである。



214: 名無しさんAA:17/04/20 09:33
魔法使い あららとおろろ 33-11  (行儀よく振舞え)


 この軍事同盟の条約は 略文化しているが 頭に社会主義建設を謳っている事を了承
してもらいたいが 実はこの条約は中国とのみではない。そうソ連とも同じ様な条約を
持って軍事同盟を行っているのである。つまり北朝鮮は如何に貧乏でも仲間は助ける事
が条件の筈で社会主義建設に邁進しているのであって、北朝鮮において水爆実験やミサ
イル開発しても社会主義を進めた中国に反対される言われはない。と言うのが心情だろ
う。「北のメンツを立てながら核を放棄させられる可能性はゼロだ」こんな意見を中国
の安全保障問題を考える国際関係研究院長は言っている。中国は北朝鮮(朝鮮民主主義
人民共和国)建国以来、かなりに軍事的にも経済的にも支援してきている。朝鮮戦争に
おいては軍事支援し、中韓国交正常化以来は経済的支援を加速させた。韓国と北朝鮮は
「まだ戦争が終わっていない最大の敵国」である。その韓国と中国は国交正常化をした
。「それなら台湾と国交正常化してやる!」と北朝鮮が激怒した事実は有名だ。その結
果は中国が折れ、経済支援を増やし今もなお石油や食料など、北の生活を支え続けてい
る。この事実に中国国民は「あのならず者が! 中国が油と食糧をストップさせれば、
北朝鮮など2日もしないで餓死してしまうだろう。一瞬で崩壊するくせに」といまいま
しく吐き捨てていると言うのが 今回の実情だろう。がそれでも唇亡歯寒(唇が無けれ
ば、歯は寒し「唇」は北朝鮮のことで、「歯」は中国大陸のこと)と言われる程直接的
な民主主義の境界線を持ちたくないと言われる。多分このトランプ大統領の出て来るま
では と言うよりシリアにトマホーク発射がされるまでは これ以上、悪のスパイラル
を何とか止めたいとは思っていても、そのままの推移として。国連決議と制裁のゆくえ
を先ずは見守り、中米の距離を近づけて先を見ようと思っていたに違いない。とは言え
中国も又こうした水爆実験とミサイル発射実験をして来て 北朝鮮との条約後の事であ
り 条約による「地域の安全義務違反」を問う事は出来ずにいるのである。更に中国の
研究者の一部はこのロケットや核爆発の北のデーター蓄積に一役買っているのである。


215: 名無しさんAA:17/04/20 09:33
魔法使い あららとおろろ 33-12  (行儀よく振舞え)


 日本人から見て 今の北朝鮮の現状を「かつての1960年代の中国と同じだ」と思
うと同じに 戦前の日本とそっくりではないか。と感じる者は多いだろう。かつて昔に
幾多の日本人が渡米してやっとの事成功を成し遂げんとする頃 米国内では敵国ドイツ
と言いながらも 人種差別のあるこの国は日本へのクズ鉄や石油輸出を国策で止めた。
民間取引を止めたのである。多くの経済人は戦争は兵士や国がやる物 宣戦布告が無い
限り民間の輸出入は大丈夫と観ていたのである。日本の首脳部も天皇始めこの戦争の中
皇国日本を今のまま維持するのに精一杯の筈だったし余分な戦争をする気は全く無かっ
たと言える。がそれでも米国の特にユダヤ資本の経済界は満州国樹立に全く噛まなかっ
た事で日本を許さなかった。特にロシアに対して行って来た終戦合意がロシアにも日本
にも仲介した英米にも不満のままだったののである。そして日本は南方進出に傾いたの
である。1960年、日本での昭和35年は恐らく世界が平和に導かれた分岐点の年で
あろう。というのもこの年米国英国ソ連に続きフランスも又サハラ砂漠で核実験をやり
第4の核保有国になった年であったのだ。日本での初めてのカラー放送が始まり米国で
はニクソンVSケネディのテレビ討論が全米に放映された。今だ黒人差別があって公共
施設も又ホワイトとカラードに別けていて裁判では分離されていても平等との判決に、
全米の学生がナッシュビルで非暴力の座り込みをし、市内の飲食店に対して人種差別の
撤廃を叫んでいた頃なのだ。日本では社会党の浅沼稲次郎委員長が学生に刺され、米国
の学生運動を見てもらいたいとしたダッコちゃん人形が流行った。当の韓国では李承晩
独裁政権が行った選挙が今まで通りの不正選挙をしたが糾弾され鎮圧の催涙弾で高校生
が殺される馬山事件が起きて学生革命に朴正煕が持ち上げられ政権闘争に入る頃だった
のである。西欧列強の植民地はこの人種差別撤廃の波に各地の植民地が独立を果たした
年で、特にアフリカ地域ではそうした暴動事件共に多数が独立を達成した年で、アフリ
カの年と呼ばれる。

216: 名無しさんAA:17/04/20 09:34
魔法使い あららとおろろ 33-13  (行儀よく振舞え)

 ところが中国では、朝鮮戦争で中国人民志願軍を組織して北朝鮮を応援し、アメリカ
を中心とした連合国軍相手に敗戦とは行かないまでも苦戦を強いられてた。このときの
アメリカが日本に落としたのと同じように、中国にも原爆を落とすかもしれないという
分析や情報も取りざたされていた。その頃の中国はアメリカにより対中包囲網があり、
日韓および当時の中華民国がそろって自由主義陣営としてアメリカと緊密な関係にある
中、北の旧ソ連邦とも対立していたのだ。1956年ソ連共産党第20回党大会でのフ
ルシチョフ書記長がスターリン批判をして、平和共存路線採択した事で中国とソ連の間
でイデオロギー闘争が起こったとされる。各国がまだスターリンを信奉して社会主義の
地球規模の革命に邁進するとしていた衛星国的周辺各国で本家がそれを批判したのだ。
東欧各地で動揺が走り、北朝鮮も中国もこれを契機に仲たがいする原因を創ったのだ。
毛沢東の2度目の訪ソでモスクワ大学で講演し「東風は西風を圧す」として東欧をたて
たがその為に軍事協定の数々が破棄された。その中にソ連が原爆供与に関する中ソ間の
国防用新技術協定や共同艦隊の提案などが破棄された。そうした中1962年10月に
インド国境の諍いが紛争に広がりが出た。中印国境紛争が発生したのだ。この時ソ連が
インドに武器援助を行った事で攻勢に出た事が解ったのである。その後は西側でも伝え
られるほどの公然と批判合戦が繰り広げられ、キューバ危機には ソ連の行為を「冒険
主義」「敗北主義」「大国主義」「社会帝国主義」として公然と中国は非難している。
まさに中国を応援してくれる国はなく四面楚歌であった。そこで建国の父、毛沢東が思
いついたのは原子爆弾の実験である。ソ連科学者は一斉に引き上げていたものの東欧の
科学者を引き抜いて来て秘密裏に開発実験研究を行った。そして1964年にはとうと
う新疆ウイグル地区で初の核実験に成功し、その後67年には初の水爆実験にも成功し
ている。

217: 名無しさんAA:17/04/20 09:34
魔法使い あららとおろろ 33-14  (行儀よく振舞え)

 この核開発を受けて国境問題の表面化した。中国人の強気とウイグル人の迫害が表面
に出たのである。ダマンスキー島で大規模な軍事衝突が発生し中ソ国境紛争が勃発する
。珍宝島事件である。その後は新疆ウイグル自治区で再衝突し8月にはソ連が中国の核
施設を攻撃した。ソ連もこの時ホットラインでアメリカが取る対応について非公式に打
診してきたと言われる。ワルシャワ条約機構のソ連軍がチェコスロバキアに侵攻してき
たプラハの春では、周恩来は「ソ連の裏切り者たちは、強盗集団になりはてた」とソ連
共産党を非難し、ホーチミンの葬儀でコスイギン首相と周恩来総理と会談するまで武力
衝突は続いた。この時中国国内には 大きな飢饉が起こっていた。毛の起こした文革の
嘘が一気に出て来たのである。外交部長の陳毅は周恩来総理に、米ソ対立を利用したこ
の矛盾に米中関係を打開することを提案した。つまり米国は既にソ連と仲は良かったの
だが 米ソの代理戦争としてベトナム戦争最中にあったのだ。北ベトナムを応援するソ
連と南ベトナムで進駐している米国だったが 此処に中国が更に北から挟み撃ちにして
良いとの考えである。毛沢東はこの提案を受け入れ、ベトナム戦争をてこにした米中関
係の正常化が秘密裏に会談や折衝が図られた。1970年日本が平和の祭典に没頭して
いた頃、65年に米国のベトナム戦争介入して後真っ只中で枯れ葉作戦実行中だったの
である。グエン・シン・サックの子ホー・チ・ミンは非常に優れた自由主義者で反体制
派であった。フランス領植民地から日本帝国に領土を奪われた後もにバオ・ダイ帝がい
たが日本政府が敗戦宣言すると共に退位し、ベトナム独立宣言を発表し、ベトナム民主
共和国を建国して国家主席兼首相に就任した。しかし自由主義陣営では宗主国フランス
が領有権を主張し認めないままだった。又共産圏では中国共産党の勢いはあったが建国
を謳いながら田舎では中国国民党の地方軍閥政治がなされていた。地方自治とも無法地
帯とも言える中にあったのだ。更に中国共産党は抗日戦線を組織した各地に銃砲提供を
していながら日本が敗戦を迎えたため「クメール王国」などは国家元首シハヌーク殿下
を追放するクーデターなどでロン・ノル将軍などが台頭していた。この時中国の核開発
で餓死者や我が乳児すら喰う事件が起こっている中打開策がこの南部の戦争にあったの
である。


218: 名無しさんAA:17/04/20 09:35
魔法使い あららとおろろ 33-15  (行儀よく振舞え)

 こうした歴史的事実を見るに この北朝鮮に対して日本が一体何が出来るのか。どう
考えるべきか 今一度よーく考えるべきだろう。一つは我々日本人は米国を信じれるか
という事である。これはEU離脱の中のスコットランドに似ている。今後の社会の発展
が寛容と鍛錬の世界である事は論を待たない。大英帝国と言う栄冠はかなり血に塗られ
た歴史を持っている。がそれでもそれは変えられない歴史でありスコットランドはこの
イングランドとの戦争や併合に納得して今に至っている。が今回の離脱劇の国民投票は
余りにも予備的説明も無い唐突な政治行為で違法広報のままに進んだものだ。にも関わ
らずイギリス議会はそれを恥や違法としていない矛盾や可笑しさがある。そしてそれは
今のトランプ政権にもある。では先のオバマ政権には無かったか、と言えば見えなかっ
ただけなのだが その基本は今の豊洲問題と全く同じ処にある。つまり現代人の贅沢さ
や思い上がりが基本にあるようだ。移転停止を命じた小池知事が思い上がっているのは
間違いないが、それ以前に都議会が全く仕事していない馬鹿揃いを都民が選択した事実
は見逃せない。そしてそれ以上に日本国民に安泰の中で全く非情にも前を向いてない様
な人間形成をしている社会現象は全く可笑しい異常さがある。教育に個性を伸ばすとか
集団に絆とか謳わせる議員や教師は全く嘘者である。個が建って集団が建つのである。
各個の自立で国家が自立するのだ。スコットランドの苦悩は正にそこにある。そして、
米国のTPP離脱も又同じで「帝国主義」「大国の欺瞞」の出た象徴なのだ。そうした
横暴に日本が付いていける筈はない。ロシアさえも付いていけないのである。では対抗
して日本は軍事力強化を行うのか。そうした考えは日本人には全くないであろう。それ
どころかその検討の議論のにすら反対がある。それは先の悲惨さを知る故の声だ。だが
現実世界が悲惨な北朝鮮では 常にどうでもよい国民感情なのだ。とすれば核開発が唯
一の開かれた物と思っていても不思議でもない。銃社会を持つアメリカの権利論である
。事実日本国民は「核の傘」など何にも思っていなく「米国の下僕」で安全快適な暮ら
しならそれでいいとしていた筈だ。これに盛んに「核の傘」を言ったのは海外とメディ
アと議員であって 全く関知していない社会生活の中に人は暮らしてたのだ。

219: 名無しさんAA:17/04/20 09:35
魔法使い あららとおろろ 33-16  (行儀よく振舞え)

 ロシアのクリミア併合は暴力的野蛮な軍事行動である。がロシアにとってウクライナ
が西側陣営に入る事はかなりの抵抗だったはずだ。もし仮に西側のG8の中に入り、そ
の後西側の経済流通の中に共にロシアが入ってしまった後の追随だったのなら問題はな
かったろう。日本も同じでもし米国が中国を治めその後の反乱に於いて満州国樹立があ
ったならそうそう大戦に引きづりこまれる事は無かったはずだ。そして逆に日本赤軍が
中東などのアラビア世界が大きくなる前でベトナム戦争の頃だったから 日本の左翼は
潰れ日本の平和は保たれたのだろう。基本的に人は学ぶにゴールは無い。今の安倍首相
はもとより各大臣や鳩山など見る限り全く勉強しているとは思えない。せめて時の宮川
中曽根時代の様な真摯さが必要だろう。とても法務大臣や復興大臣にその資格があると
は言えない。北の粛清もそうした不満の中にあったのだろう。我々のメディア報道では
とても貧しい生活の国民で自由がないとされる。だが米国の貧民と北朝鮮の貧しい人民
とに何の違いがあろうか。そして日本も中国もそうした人達或いは一般家庭の貧困に対
してそういう「常識」は通用するのだろうか。少なくとも我らの基盤は戦後の先祖達の
努力によるものであって今の現代人が作ったものではない。では北の人々或いは中国や
韓国の人は努力しなかったか。そうではない努力はしたのである。だがこの共産化思想
や日々の生活に於いて日本の様にならなかっただけなのだ。良く日本は自由陣営の敗戦
から抜け出た優等生に言われる。だがこれは買いかぶりである。それは優等生ではなく
他の国々が壁が高かっただけなのだ。今日本に於いて少子高齢化問題が盛んに言われる
。だが東南アジアの発展を見る限りそうした心配は一切ない。問題はそうした先人の持
たせてくれた意志や遺産を壊したり食いつぶしたりしないことであろう。この偉人の知
恵の中に軍事教訓がある。山本五十六の言葉に「軍の争いを避けたいから同盟を結んだ
というが、内乱では国は滅びない。戦争では国が滅びる。内乱を避けるために、戦争に
賭けるとは、主客転倒もはなはだしい。」と言う言葉がある。今正に北朝鮮中国ロシア
の状態だろう。


220: 名無しさんAA:17/04/20 09:35
  魔法使い あららとおろろ 33-16  (行儀よく振舞え)

 日本人のみならず思考停止状態は多くの民族にある。国策や思想を信じてスキームの
中で生きたがる事は幸せの一環として 人類の永遠の謎かも知れない。敗戦で日本人は
「アメリカに守られてればいい。」とした思考停止が働き「経済至上主義」での国策に
声を上げたのは図らずも赤軍派であったろう。しかしこの過激さは支持されてはいない
。三島由紀夫の割腹自殺も又早すぎた革命論者の登場だったのだろう。がこれが日本を
今の繁栄をもたらしたと言うのは他でもない。もし中国に同じ様な若者が毛沢東に向か
う程の過激さがあった民主化だったなら中国も良く在ったはずだ。先の山本五十六の言
葉に「人は神ではない。誤りをするというところに人間味がある。」と言っている。が
私は違う。「人こそ神であり その神も完全ではない。」と思っている。つまり山本は
「人が間違えて当然だ」と言っているが 私は「神は人より間違える。」と思っている
。まず世界中の宗教は神を作り上げたに過ぎず そしてその神に拠り所を求めて宗教が
成り立っている事を知るべきである。従って共産主義社会も又神こそ居ないまでも過去
の偉人としてレーニンやラスプーチンや毛沢東を信じるか崇める事でその宗教は成り立
っている。この間違いが大きな問題でキリスト教ではイエスの言葉を信じ、イスラム世
界でも ムハンマドの言葉を勝手な解釈をつけ その解釈の違いで血みどろの宗教戦争
を起こしているのである。そして今エルドアンなどはその神にでも為りたいかの如くに
人々を苦しみの底に落としている。こうした宗教の世界は占いの世界と同じである。ま
ずIQ知能では知能のある人はこの占いを信じられない。所謂話術テクニックを駆使し
ている事が知れるからだ。代わりに人を信じるのである。この差を利用したのがナチス
の啓蒙主義である。今の映像に繋がるありったけの技法を用いて人を高揚させ自らの意
志によって従わせるのだ。そして従わないとする有能な知能の高い者はユダヤのレッテ
ルを貼って追放する。そうして人は思考停止に陥り国策兵士になったのである。


221: 名無しさんAA:17/04/20 09:40
  魔法使い あららとおろろ 33-17  (行儀よく振舞え)

 かつて玉音放送で敗戦を天皇が決めた時、ホー・チ・ミンはベトナム八月革命を起こ
した。それはベトナム全土に広がった。ポツダム宣言受諾の頃には 日本の傀儡国家と
なっていたベトナム帝国の阮(グェン)王朝のバオ・ダイ帝は退位し国が失われた。そ
の後大日本帝国政府が停戦に署名して第二次世界大戦が終わったが その時起こったの
はかつて植民地経営をしていた仏国の権利主張であり、新たな戦いであった。ホー・チ
・ミンはハノイにおいて ベトナム民主共和国の独立宣言したものの交渉妥結に至らな
かった。フランスとの戦いはその後アメリカ資本の擁する米国軍との戦いに移ったのだ
。フランスが撤退した後にベトナム進出を意図していたアメリカ合衆国は、ジュネーブ
協定に調印しなかったからだ。理由はこの朝鮮半島の南北戦争にあった。戦後になって
の火事場泥棒的共産党の猛進である。ホー・チ・ミンは共産党員であった。フランスと
の戦いは困難を極めた第一次インドシナ戦争は只々独立せんが為の戦いだったがバオ・
ダイ帝の中に軍隊は全く近衛兵で親衛隊程度も無かった。日本の保護下であり傀儡国家
だったからだ。そこで頼ったのはソ連からの武器供給だった。米国の不信感はそこにあ
った。南部に親米的なベトナム共和国を作りベトナム戦争が起こったのである。現代で
は このインドシナの地即ち南支那海の地を 中国は南沙諸島を占領する事で新たな支
配を得ようとしている。当時のアメリカが思いもつかなかった方法であろう。と言うよ
り人の居ない土地を植民地に出来なかったと考えるべきかも知れない。帝国日本に対し
ては無人島だろうが小さな島であろうが徹底して叩いたのだが それは対ドイツとの戦
いがあったためとも考えられる。朝鮮半島に中国のジレンマがあれば米国には南シナ海
のジレンマが存在する。ドテルテなどの言う戦後処理をしなかった「戦場の使い捨て」
である。自由主義の旗手として華々しい戦果は地元では戦禍に他ならない。アフガンで
もイラクでもリビアでも或いは今のシリアでさえ独裁者政権を打倒しても尚戦後処理が
上手くなければ 結局はより強力な独裁者がより残忍な政治を行うのである。



222: 名無しさんAA:17/04/20 13:13
  魔法使い あららとおろろ 33-18  (行儀よく振舞え)

 世の中の経済学で 計画経済と自由社会或いは自由交換と管理社会と言う問題は永遠
の課題とも言える。日本が自由陣営の中で最も成功した事例として称賛されるが、それ
は間違っている。日本は自由社会でありながら管理社会なのである。又、ソ連邦が計画
経済が共産主義だったので失敗した社会と思われているが それも間違っている。公式
な経済学の中では計画経済の社会としての位置づけだろうが現実的には野放図な経済の
中の生産システムであった、即ち自由な経済だったと言える。パレート効率などで言え
ば市場社会ではより平均的な情報の有利な最大利益の者が勝者となり格差社会を産み落
とし他の敗者に分配されないが原則として最大の集団利益が産まれるとされる。が現実
では市場社会より共産社会の方がより格差が産まれ一部の利益が多大である事が解って
いる。それは結局は貧困を多く抱える後進国に共産化システムが受け入れられる理由で
もある。それはつまり国の政策やシステムを独裁によって大きく勝手に作る事が容易で
、共産社会の建国と言う妄想に取り入れ易いからだ。よく自由社会を自由な交換社会と
され管理社会を平等な分配社会とされる。が、かつてのソ連や中国でも同じで腐敗した
精神構造と汚職の蔓延した社会構造を進むのみで生産活動にはつながらない事が解って
いる。毛沢東の不作指導やソ連の原子力政策を見て解るように失敗続きで 中国の餓死
対策もソ連の原潜解体もチェルノブイリの始末も西側の援助無しでは出来なかったので
ある。この富の再分配問題は実は自由社会も又模索の途中ではある。が図らずも西側の
自由社会は形だけでも自由取材による公然公平を原則に一般市民の批判を受け入れて、
常に自由監視の状態で法治国家を成している。この事が法規内自由による生産性向上と
法規外規制による道徳的生産活動を産んでいる。海洋規制についても共産国ロシアでは
北海漁場は守られて居ながら韓国・北朝鮮・中国は資源枯渇になる程いい加減な密魚社
会を形成している。日本では法よりは自主規制で守られそれだけ海を理解している形だ
。こうした事はアフリカ社会よりも悪い結果を産んでいる事を示している。

223: 名無しさんAA:17/04/20 13:13
  魔法使い あららとおろろ 33-19  (行儀よく振舞え)

 北朝鮮へ集結してのアメリカ海軍の威圧は 北朝鮮の混乱を引き起こす事は充分予想
される。がこの集結は過去の例に見ない物となるだろう。それは一つは北朝鮮の主張に
ある。かつては「米国との対話」を条件に核開発とミサイル開発をしていた点が今では
「核保有国」を条件にした事だ。この事は「核を持たせろ」という事に他ならない。更
に二つ目は米国の事情である。かつては自由陣営の旗手としての世界の警察官を自負し
て東西冷戦の代理戦争に明け暮れて来たのだが、今は中国の台頭で既に自由陣営ではな
く真の世界平和を目指すしか無くなった事だ。アフガンやイラクの戦争は大乗仏教徒の
ベトナム戦争と違って諸矛盾を宗教的な堕落によるとする根本主義と言う過激派を産ん
だ事だ。国内にはキリスト原理主義者団体が軍産複合企業として跋扈しイスラム教徒も
また同じ様に世界聖戦を呼びかけたアルカイダやISILなどの原理主義団体を産んだ
。このイスラム国とアメリカの戦争は、もはや現地の戦場だけのことではなく、世界中
に影響を与えている。各国でイスラム国を支持する若者が生まれ、実際に義勇兵として
イスラム国に合流しようとしたり、あるいはイスラム国と敵対する国でテロを起こそう
とし、世界80ヶ国の若者が外国人義勇兵としてイスラム国に参加や賛同しているのだ
。およそ2万人の海外居住者がシリア紛争に加担し更に4百万の戦争難民が欧州に押し
寄せている。その中で今や欧州では極右極左が台頭し中道路線が無くなって来ているの
が現状なのだ。これはイランと北朝鮮の繋がりを必ず断ち核拡散の防止は必須事項であ
る事になる。特にテロやミサイルに核が利用されることは米中露共に 共同の意識の筈
だ。この事は北朝鮮も四面楚歌状態である事を示すが 米国ロシアも難民二世テロには
対処して核保有を止めさせる事は中国の境界問題以上の価値があるのである。恐らくは
この平和を脅かす米朝のチキンゲームでは、トランプも金正恩もゲームを降りる事は、
「弱い指導者」として権威を失墜するから、簡単には譲歩できない。又 米原子力空母
カールビンソンはまもなく、朝鮮半島に接近しゲームは一層緊迫する。あえて関係者に
問う事があっても 「北のメンツを立てる方策は無いに等しい。」との答えだろう。

224: 名無しさんAA:17/04/21 08:13 ID:YHg
 二階堂氏は何を馬鹿な事を言っているんだ。 中川氏の辞任問題で
「もう少し模様観て・・・しかし こういうことは本人の問題で党がどうのこうのと
言う問題じゃないんですよ。」とのたもうた。馬鹿を言うのではない。こうした本人
の品位の検査もしないまま 友人だから2世だから家柄だからと 党費や税金を使い
党ぐるみ幹事長が応援して当選させてきたから こんな人間が議員になって国を亡ぼ
すのだ。 正に戦前の議員と同じに無能や視野の狭い議員に囲まれた内閣になるのだ
。そうした縁故の組織感が 軍部を太らせ 戦争に突っ走った過去の歴史を 学んで
いないのか。人間を見ない見切れない人間に議員になる資格はない。特に今の内閣の
情けなさはなんだ。副大臣政務官まで議員でまとめながら 国債を発行し続けて全く
景気浮揚などと馬鹿げた政策のみならず 国会答弁すら出来ない無知無能さは。街並
みを見て見よ 国の税金補償している企業や店しか残っていないじゃないか。
民業圧迫の 大型予算での競争ばかりで どこに国民の食扶ちがある



225: 名無しさんAA:17/04/21 11:49
  魔法使い あららとおろろ 33-20  (行儀よく振舞え)

 中国はペンス氏の言った「オバマ前政権が採った(戦略的忍耐)の政策は終わった」
と言う言葉は真摯に受け取らねばならない。韓国配備の米軍の高高度迎撃ミサイルシス
テム(THAAD)について、中国の配備に反対している事での韓国に対する経済報復
措置は大問題であって 自国では同じMD計画をトルコに売りつけて於いて隣国は駄目
だとする処置は国際ルールに逸脱している。トランプが「中国が北朝鮮に対応できなけ
れば、米国と同盟国が対応する」と述べた事は 当然の帰結である。そして日本・韓国
同様に中国も又この北朝鮮のミサイル被害は避ける事は出来ない。この事を充分覚悟し
て交渉すべきであろう。つまり中国も又北朝鮮同様に 自由主義の下の貿易を享受する
とするなら 同じ条件の不平等な人権無視の国内での制約を早く解く必要がある。今の
自由社会は中国のみならず米国さえも 大統領が思うような勝手な事で制約出来る程の
小さな経済ではない事を認めるべきだ。成程軍事では米国も中国も大国だろう。だが、
それは国内の国民に対しての事であって 人類の死活問題の気候変動や光化学スモッグ
や資源枯渇の世界相手では 何とも無力であろうし そうした技術開発は海外の頭脳さ
えも結集しなければ 核汚染と等しく解決できない。そしてそれは経済問題と緊密な繋
がりをも持っている。富の再分配の問題は 当然ながら各国の国内の貧困対策もあろう
が先進国と後進国の問題でもある。基本的には北朝鮮はこの世界の富の再配分の中に入
りたいとダダをこねている様なものなのだが こうした幼児が拳銃持つ様な事は国際社
会は許さないだろう。事実この核開発やミサイル開発問題は 独裁三世代同様に隣国の
全ての国が反対している。それは日本は元より韓国中国とも紛争における 経済損失が
著しい物となれば極東地域が沈んでしまう可能性が高いからだ。そしてそれはロシアの
経済まで響くのは確かだろう。万が一にも北朝鮮の難民が押し寄せてきた場合のロシア
との国境争いが出た場合反体制中国人民のテロにウラジオストクを死守しなければなら
ない可能性もある。軍隊組織のまま亡命政府が来るとなればチェチェンの小学校立て篭
もり事件より厄介かも知れない。又北朝鮮が核を持つに至れば今まで中対露の軍事解決
も中対露対北と三つ巴となり ある意味寝首を掻かれないとも限らないからだ。

226: 名無しさんAA:17/04/21 11:49
  魔法使い あららとおろろ 33-21  (行儀よく振舞え)

 ところが厄介な事に 北朝鮮からすればこのまま国際社会の片隅で見捨てられた経済
のような貧困国でいたくはない事情がある。強気の対米闘争の様な宣言が多いがロシア
に守られた中に居るとは思っていない程 昔から中国や西側の支援を求めている。そし
て今は さびれていくまま若者が減って人口減の極東の貿易交流は韓国日本と共にこの
北朝鮮も活発である。更にモスクワなどの最下層労働者はかつてのドイツにいるトルコ
人の様に北朝鮮人が多いのだ。北朝鮮人も又自国で仕事も無い食うや食わずの生活より
は寄宿舎に近い集団生活で出稼ぎ労働者である事の方が楽なのだ。もし北の本国が豊か
な暮らしであれば こうした姿も無くなるであろう。勿論脱北者も少なくなるだろう。
が、金正恩は或いはその影武者を含む首脳部は 催眠術を掛けられた様に夢を見る。も
っといい明日が この核開発やミサイル開発で出来るはずだ。とそれが悪夢だとも理解
せずに。かつて日本の広島と長崎に人類史上初めての核爆弾が投下された。としてその
悲惨さや残酷さに世界中が目を見張った。だがそれは違っていた。ロスアラモス研究所
とのみならず秘密研究所で行われた数々の実験過程でおよそ数百人に放射線障害がでて
いて更に砂漠での実験にも不完全爆発による放射線の身体障害は目に余る物があった。
アメリカでニューメキシコ州アラモゴード北の砂漠で、ガジェットと名付けられた原爆
を用いてトリニティ実験というのが人類最初の核実験として核爆発が実施された。これ
が最初の原爆だったのだ。これは当時までに使用されたあらゆる兵器の威力を上回るも
のであった。この実験成功を受けて戦後も又より多くの核開発の為の実験がなされ未知
な部分もあって プルトニューム抽出から一連の実験したとされる15万人に放射線の
何らかの影響があったとされる。が当然戦後はスパイの技術盗作でソ連でも秘密裏にこ
の実験が始められた。ロシアの「籠の中の檻」とされるチェリャビンスク州オジョルス
ク近郊の森の中にその採掘場は作られた。更に優秀な物理学者が何人も集められた。そ
の中には強制収容所から送られた日本人も当然いたとされる。今では8万人程の核関連
の仕事につく労働者の都市だが あの物不足の中でもここのスーパーには沢山の食糧が
売られている隠れた選ばれた街だったが その街では一歩も外には出られない環境だっ
たと言う。だがそこも又放射線障害で早死にする人は続出していたのである。

227: 名無しさんAA:17/04/21 11:50
  魔法使い あららとおろろ 33-22  (行儀よく振舞え)

 恐らくは同じ様に中国でも同じ様な手探り状態の開発なら10万人規模の患者が出た
に違いない。米国の指導の下のイギリスやフランスでも多少なりともそうした事は起こ
っているであろう。此処に被爆者団体が「こうした自国民すらも脅かす馬鹿な兵器に一
体何を求めようというのだ。」と呼ぶ理由がある。日本では「人を呪わば穴2つ。」と
言う言葉がある。「人を殺める者我がを身を殺す。」と同じである。この核兵器の悲惨
さは「チェルノブイリ事故」で解るように人を選ばない。そして全く土地もつかえない
核戦争が起こるだけであって原発事故すらも既にその土地が永遠に使う事の出来ない地
に代わっている。そして最も大事な事はこれで世界経済が疲弊する。という事だ。米国
が解ってないのは経済論の本質である。かつて昔どこの国でも貸付の利子と言う物を悪
としていた。実はそれが今解放されてまるで善き物ように思っている節がある。欲望を
満たす通貨の世界で 利子と言うのは空間や時間の差額である。これを日本人は知って
いた。だからかつて貧困にあえぐ北朝鮮に人道支援として米や資材などを送り援助した
。これは世界経済に最もふさわしい行為でもあった。と言うのもそもそも経済とは流通
や生活文化であって通貨ではない。かつてアダムスミスは国冨論で需要と供給で満たす
経済を説いた。だがアダムスミスはその前に道徳的感情論と言う本を出している。この
人間の本質から今の経済論を導いたのである。「社会の糊は共感と利己主義」と言う事
を説いた後その利己主義にケインズが国策を説いた。「価値は幻想の欲望と満足感」で
ある。従って「経済も科学も数学の物語」であり物語を創る事で経済は復活する、と。
計算し予想できるのがリスクであり不確実性が無い限り計算し回避できるはずだ。とい
った。がそれは不確実性はクライシスを産み 欲望の民主主義が宝くじ経済であり常に
創造的破壊をし「富の蓄積を欲望の論理が破壊する」事を知っていたからこそ言った事
であったのだ。その頃「市場の調整機能は万能」とさえ謳われたが 日本人の殆どが、
利益拡大は社会利潤の拡大ではない事を悟っていた。世界のゼロサム論理である。現実
にマクロ経済で数万年前から「生産性の向上は何処にもない」結果と「サービスの正当
な単価は零である。」事がリーマン クライシスで判明している。モデルCの時代であ
る。需要の不足や供給の過剰は技術の進歩で経済成長は出来る。だが中国モデルでも、
日本でも米国でも2倍の資本投下でやっと成長利潤が半分が起こるのだ。既に これは
研究調査で実証されている。今や天然資源を食い尽くした中で 果たしてこれからも、
過去の遺産と未来の価値を更に喰らう事が出来るのか疑問だ。

228: 名無しさんAA:17/04/21 11:50
  魔法使い あららとおろろ 33-23  (行儀よく振舞え)

 日本が都合よく戦後復興が出来たのは教育資産と伝統的仏教思想によるものだ。道徳
的精神は武士道を重んじて 火薬伝来でも花火にしか進化しなかった事でもその民族性
が解る。それは明治の文明開化時代でも第一次世界大戦でも全く同じでガラパゴス的な
思想と言われればそれまでだが それが日本の国を守り日本の国を進化させている源流
である。経済が上手くいくのはそこに「市場ルール」を遵守する事にある。市場ルール
とは人の道徳性である。元々富の蓄積は社会公平性にある。資本主義的物質な価値は「
幻想の欲望と満足感」によってマーケットデザインをしている。地球資源が「成長率2
.5〜3」しかない中で どんなに技術成長や広域拡大しても偏在化するだけであり、
「成長率2.5〜3%」は変化しないのである。つまりこれからは「マーケットデザイ
ンとコーポレートデザイン」であり その成長が維持できるかは 人々の教育や思想の
問題であり 決して需要不足ではないのである。現実にかつてのパックスアメリカーナ
の時代には アフリカや南米では文化崩壊でマイナス成長だったし 戦時中に食べたで
あろう中東の平和が今の紛争の素なのだ。平和裏に自由社会に行かない限り成長は困難
を極める事は今のテロの経費でも解るはずだ。これは簡単な事だ。例えば家を造るに、
我々は木を伐り出し造るしかない。ではその木はその年月を積み上げたものだ。更に、
家が出来た。新しいものに変える。それには同じ様に壊し更に新たに建てると言う行為
が必要となる。どんなにもがいても経年劣化はあるのだ。ではその新たな物と古い物を
捨てると言う行為に労働力は当然必要である。火をつけて簡単に処分出来るというのは
安くはつくがそれだけ出来た木の本物の価値を捨てているに過ぎない。手をかけ再利用
して柱から小さな板を造るとしたらそれはそれで正当な単価が必要なはずだ。保護貿易
の高まりは自由貿易を阻害するのは当然だ。が創造的破壊の下新規事業で自国の就業者
の教育を捨てて来たのが 今までの「欲望の資本主義」と言われる由縁だ。本来なら国
に納めるべき巨額の税をこのメジャー資本が国に還元しなかったからだ。それは政府が
後押しした同じ謀略者の「弱み」である。この大博打経済が成長資本主義として大手を
振っていたが これからは安定資本主義と言う再分配国際社会に入らざるを得ないのだ
。モデルCは資源枯渇・世界的温暖化・希少生物絶滅・未知感染菌や病気と巨大恐慌・
地震や産業とあらゆる所に後押しする経済学である。この継続社会の資本主義は公益資
本主義とも言われ 近代資本の最終的出口対策と言える。経済が紙幣や通貨でなく人の
希望的価値観念である以上 物質社会が既に飽和なら摂舎選別は当然で日本での断捨離
ブームと身近なものの無利子委譲やサービス無料は今後世界的なものとなるだろう。

229: 名無しさんAA:17/04/21 12:50
  魔法使い あららとおろろ 33-24  (行儀よく振舞え)

 元々経済活動と言う物は 人の信用で成り立っている。それは国家間でも同じである
。ソ連と米国で起きた「キューバ危機回避」は 戦略上の事ではない。逆に戦略上での
配備がこの危機を起こした。ソ連のフルシチョフ書記長が米国のジョン・F・ケネディ
大統領の方を革命家カストロ将軍の要望より信じた事だ。国家間の取引にしても多くの
経済活動はそうした「公共の道徳心」から成り立っていて「マーケットデザインとコー
ポレートデザイン」で大きく変化する。今まで米国の覇権主義はそうした国際ルールを
イギリス同様勝手に変えていった事が混乱を引き起こし他国の成長を奪って行った。が
多分今度のイギリスのEU離脱同様国際社会はそれを許さない。それは状況も心情も法
もゆる筈がない理由がある。今後ポンド下落は底なしでイギリスの名門足る教育は果て
しなく下がりアイルランド抗争が又勃発するのはやむをえない。どこの会社も爆破事件
が多発するところで経済活動はしないだろう。拡大EUでやっと保っていた教育水準は
アメリカを見て解るように今や大国でさえ喘いでいるのである。「貧すれば鈍す」であ
る。この「人間の欲望と幻想」での経済社会は馬鹿げた事に生産性のないゴールドカラ
ーを産んだ。日本でも熊本の融資女王が捕まったが基本的にサービス業が高い賃金での
小癪な高速売買利益などはうつろな現実社会に起こった見せかけ経済なのだ。生産性が
一定であるのは太陽が一定であるのに基づいている。日本の仏教の般若心経の様な原理
である。先に「日本の伝統的仏教思想」と言ったが実は本来の仏教思想とは少し違って
いて末法思想ではなく先に伝播した拝火教(ゾロアスター教)の教義に基ずくものが多
い。紀元前6世紀に発生し紀元前に日本の土着信仰と共に始まり紀元1世紀にはキリス
ト教伝来と共に神教として根付いていたとされる。この信仰は善悪二元論から成り立ち
。一神教では善の存在である神と悪の存在である悪魔の存在が信じられ、善に生きるこ
とで天国への扉が開かれるとされているが、日本では多神教であり悪も善も勝たない。
だが善に行こうと悪と戦う事こそ正しい事。と言う理念だ。此処で言う悪こそ人の欲望
でありこの悪によって行った行為が悪行である。ただ悪いと思っていなくて起きた悪い
事には「禊」によって人は救われる。と言う信仰だ。これが「仏の顔も三度迄」などと
言う許容を産んでいる。鳥居に門松更に五節供の暦法と風習の重用や感謝の祭りは結局
は経済格差を無くす経済活動だったのである。この儀礼や祭礼は邪気を払う行事として
祈る事だが この時奉納したのが相撲や餞別や御花料で布施の習慣が付いたのである。


230: 名無しさんAA:17/04/21 15:02
  魔法使い あららとおろろ 33-25  (行儀よく振舞え)

 国連の会議で米ソの話し合いの上 北朝鮮非難決議の文面が協議の上合意してやっと
ロシアが出て来た。共産党の親方の登場である。ロシアのクリミヤの軍事進攻以来西側
に干され続けている中で 北朝鮮をてこに経済成長したいと日々願っているプーチンの
筈である。北朝鮮の工作員団体仕様の万景峰(マンギョンボン)号の羅先と裏路追洲特区
の定期航路としての就航である。実は日本に於いて今や歓楽街はロシア女性の吹溜まり
と化していると言われる程ロシア経済は悪い。更に日本からの中古自動車に位置情報の
GPS記録を今回義務付けて監視社会を強めようとしている。ロシアは慢性的な暴力社
会である。中国でも共産党の独壇場だがロシアは暗殺さえ厭わない国である。文化の違
いとは言えアフリカ並みの体制批判や自由民権運動が出来ない社会である。こうした国
に自由交易が出来る筈はなく 貧困化すれば強盗や夜盗や人身売買が横行する事で経済
が回る。極東に於いては特に貧困化率が高いとされる。更にロシアでも中国同様に汚職
や賄賂や闇社会が横行している。プーチンが大統領になっている理由である。プーチン
にしてみれば外貨さえ獲得できれば 広大な土地を提供し、安価な労働力を北朝鮮から
安価な資材は中国から必要な技術力を日本からと思っている。日本海トライアングルが
出来れば エネルギーの提供で牛耳る事が出来ると思っている。それはロシア近郊の地
が今や消費文化の波でゴミや放射能で汚染され続けているからだ。その意味でも北朝鮮
を今回なだめて行く事は大事な戦略であろう。が先に述べた様に経済は信用である。今
だ日本は突然の不可侵条約破棄して日本侵攻し北方領土を奪取された事や満州国開拓団
が一般人や幼児に至るまで勝手に拉致され収容所送りになった恨みは癒されてはいない
。更にソ連や中国或いはこの北朝鮮の馬鹿さは共産主義と言う野蛮な神も居ない宗教に
於いて火事場泥棒と同じく卑しく追い立てた国だった事だ。例え不幸にも戦争し虐殺の
憂き目を見たとしても、米国の様な紳士的態度での対等な国である事で日本人の誇りが
ある。戦前に植民地支配と日本を叫ぶが 日本人の中には野蛮な者もいたかもしれない
しかしして例え文明の低かった国であったとしても時の地元の帝をして政権樹立をして
いたのであって 傀儡と言えども共産ゲリラや今の米国の様な新しい人間で建てた国は
無かったのである。それは日本が皇国としての誇りがあった帝国だったからだ。


231: 名無しさんAA:17/04/21 21:07
  魔法使い あららとおろろ 33-26  (行儀よく振舞え)

 此処に経済論がある。西洋各国が植民地支配で潤っていた頃 ロマノフ王朝は「ツァ
ーリ」の称号を得た。ナポレオン以前の時代である。ピョートル大帝はドイツ公国の子
ではあったがロシア皇帝の位が空いた中縁戚であった事からロシア皇帝になった。その
後ロシアの西洋化・近代化を急速に押し進めるとしてロシア第二の都市サンクトペテル
ブルクを創った。この時同時に作ったのが投資による株式会社だったとされ大英帝国よ
り早くオランダ東インド会社(Vereenigde Oostindische Compagnie、略称VOC)を設立
に投資して財を成していた。アムステルダムに本拠を置くこの会社は軍隊を持ち統治権
や交渉権を持っていた。(条約の締結権・軍隊の交戦権・植民地経営権)それはポルト
ガルスペイン戦争で海洋貿易が断たれた反動だった。元々の中東極東の貿易はハクスブ
ルク家が地中海貿易を同じ形でベネチアの商人に委ねて中東貿易を行い財を成していた
からだがそれこそが 東ローマ帝国とイスラム王朝との長きに渡る宗教戦争からだった
。この間に他の王侯がそうであるようにハクスブルク家も政略結婚で多くの王家と縁戚
状態となっていたのである。ドイツ全域を統べる神聖ローマ帝国の末裔としてのロシア
皇帝は江戸時代にこの日本へアメリカの黒船より遥かに早く使者をやって来ている。「
レザノフ事件」や「ゴローニン事件(ディアナ号事件)」や「モリソン号事件」は江戸
時代である。当時日本では海岸に於いて西洋船が盛んに測量したり水や食料を求めたり
或いは漁船襲撃事件など出ていて外国船内払い令により「夷狄懲罰主義」の思想がほぼ
日本人の思想だったのだろう。生麦事件や薩英戦争或いは下関事件や馬関戦争は その
思想の継承である。その後明治新政府に代わっても人々の意識はそう代わっていない。
その中にロシアとの不幸がある。大津事件は日露友好の使節ではなくこうした中の皇帝
の訪日視察の中にあった。だがこれで日露戦争の後始末のこじれがそのまま第二次世界
大戦まで続くのだ。そもそもこのニコライ皇帝を退位させてまで起きた革命に 意味が
あったのか。近代化と積極的な対外進出を目指し農奴制を解放したにも関わらず、その
財政基盤がないまま日露戦争では日本に敗れロシア革命で絶対君主制から立憲君主制に
移行しながら食糧生産がおぼつかず更に第二のロシア革命となりソ連邦革命に続いた。
この国の武力による威圧と肩ひじ張った面子の張り合いは 今の北朝鮮情勢に同じだ。



232: 名無しさんAA:17/04/21 21:14
  魔法使い あららとおろろ 33-27  (行儀よく振舞え)

 この日清戦争と日露戦争の痛手は清もロシアも日本も 相当な痛手を負った。それは
漁夫の利の中にあった英米仏の戦略の中にあったのだろう。勿論戦場になった朝鮮半島
の住民も大きな痛手はあったろう。だがこの戦争に勝者は居なかったと言って良いだろ
う。形の上では日本はこの戦いに潰れなかった事で先進国の仲間入りを果たしたのだが
それは 小さな島国だったから良かっただけの話だ。というのも当時の若い働き盛りの
若者を失った故郷元(くにもと)に残ったのは 若い幼い子供と老いて行く親しかいな
かったからだ。これでは 食糧調達どころか工業増産など不可能だった。だからこそ、
政府は軍国主義や統制経済に走るし 民衆は餓えに苦しんではテロや密売に走る。この
時起こった事は 軍事に取り入った商人達の懐肥しと各国の保護主義の中の抜け穴商売
の旨味であった。市民や住民は抵抗運動に走り 自暴自棄の暴れ者として鬱憤晴らしを
行い経済と共に教育は廃れて 米国の禁酒時代や中国の毛改革時代と同じに その国の
中は 大国であればあるほど三国志時代の様に身売りや人身売買 賄賂政治 権力者の
派閥争いなどが蔓延し 結果、政権の追い出しと憎しみ合う争い しか残らないのだ。
。勿論頂点の権力者が強い間はそれでもいいだろう。だがいずれ死んで行くのである。
法体系がそこに無ければ内部闘争に明け暮れるのだ。経済学は生産性と消費活動の対比
で利潤追求の学問だ。だが人の生産性はマクロもミクロ変化の波の中にいる。消費も又
同じだ。そして利潤とは価値観の偏移でしかない。つまり金が値が付くのは絵画と同じ
に古代の鉄の様な単純な性能からではない。人が美しい欲しいと言う所に価値がある。
だがこれは「資本主義の妄想に過ぎない。」新規資本家は創造的破壊を持ち出すが、現
実の中の経済はそれはありない革命である。食事に美食を持ち出したブルジョア主義だ
。「資本主義は富の蓄積」を可能にしたが 同じに「富の生産を欲望の論理が破壊」す
る事も可能にした。それは日本の縄文時代から稲作文化伝来で弥生時代になって戦争が
起こった事でも解る。新しい文化創造はあっても新しい生活や新しい経済は産まない。
結局は人は病老死は付きまとい 生きる為の衣食住は欠かせないのだ。市場の見えない
手は人々の 欲望の悪魔の手であって市場調整機能は 人間的良心の結果に過ぎない。
日本の「盆栽」に詰め込まれた 自然への崇拝と慈しみで出来がった歴史こそ 経済で
あり美の発展の持つ力なのだ。それを敢えて変えても人類発展は無い。


233: 名無しさんAA:17/04/21 22:47
  魔法使い あららとおろろ 33-27  (行儀よく振舞え)

 元々人類が追い求めてきた「共産主義 計画経済社会」や「資本主義 自由経済社会
」は 変化を求めた冒険の上に出来た理念ではない。一次的な将来のへの負債を利子を
つけて返す事を約束に借りたり 過去からの資源の搾取権限を売って今を食い繋ぐ事を
可能にしていたのは、安定する社会を作る事を念願に欧米文化の中で育った観念である
。その返済に共産主義では大型化した計画経済とより多い自然搾取で返済しようとし、
資本主義では空間と時間の差額で資本流通を行う事による利潤で返済しようとしたのだ
。その為ソ連は多くの国に拡大供給して食糧や軍事物資や大型技術の貸付を行った。一
方資本主義も又同じ需要拡大の広域化と拡大消費の為の人の欲望の即応に技術革新をし
て利子の返済に充てた。それは計画経済も拡大計画をたてたし 自由経済も拡大資本主
義で理論固めをした。が実質経済はバクー油田でも解る様に需要に答えた成長主義は、
直ぐに資源枯渇を呼んだし 綿花栽培の失敗はアラル海をダメにし原子炉事故は付近を
住めなくした。資本主義も又拡大貿易の末出来たのはアマゾン伐採からなる天然資源の
縮小だった。漁獲量低下に希少生物の乱獲など 消費経済の拡大と言う 欲望に訴えた
需要喚起に必死なマクロ経済の衰退だった。成長資本主義と呼ばれた戦争需要は特需で
あり他を見ない数値上の拡大主義で 一人一人の発明発見がそこにあって技術革新がや
っと経済を支えている状態なのである。そして行き着いたものは格差社会の拡大しかな
かったのだ。今モデルCの時代時代は 日本オリジナルと思われる寛容の時代なのだが
こうした思想の発展は「経済も科学も数学の物語」であり物語は思想によって創られる
事がリーマンショック以降リーマンクライシスとして証明されたからだ。イデア主義で
は「理念は現実を超えて君臨する」と言う市場ルールがリーマンショックを創ったし、
結果「経済欠損は自然界でしか復元できない。」と言う証明もなされた。又ゲーム理論
からマクロ経済は世界的には 全く動いていない収支の中にある事も証明されている。
つまり球を欲しがって二つに切り落としては球にならない。これが人間社会の道徳であ
るという事だ。球は球として貸し借りして使う。地球資源は自国の物では無く人類の財
産なのである。このルールの中に北朝鮮も中国もロシアも米国も日本も入るのだ。核の
ミサイルを使って良いと言う理由はそこにはない。


234: 名無しさんAA:17/04/22 11:08 ID:njI
 魔法使い あららとおろろ 33-29  (行儀よく振舞え)

 トランプ米政権は空母カール・ビンソンを朝鮮半島近海へ向かわせるなど 対北朝鮮
圧力を強めている中、ペンス米副大統領は訪韓し「米国の決意を読み誤ってはならない
」と強く北朝鮮を牽制(けんせい)した。これに対して「水爆から大陸間弾道ミサイル
 (ICBM)に至るまで持つべきものは全て持っている。我々の首脳部を狙う敵対勢
力は、南朝鮮(韓国)が灰となり日本列島が沈没し、米本土に核が降り注いだとしても
後悔してはならない。」と威嚇した。ほとんどの日本人は、この可哀想で哀れな金正恩
に 過去の朝鮮人の姿を此処に見るであろう。時代遅れの狂犬の様な遠吠えの声明と、
 裏で国民を指導するに強いるしかない治世の異常さで 強きを吠えるしかなく 馬鹿
な事に愛国主義で「朝鮮民主主義人民共和国」を立ち上げたが為に、こうして 昔の帝
の建てた「朝鮮国」の豊かさすら味わえない民族になってしまった。中国の共産軍が為
に人民が八路軍の襲撃を受けた様な全く幸せになれない人民と同じだ。この将軍様は、
一体何に怯えて こうした悲しい暮らしの中にいるのだろうか。と。かつて日本の平凡
なサラリーマンは「ウサギ小屋の住民」と揶揄されアパートを「鶏小屋」と称された。
確かにと思ったが 公開処刑を路上で行い 身内まで犬に喰わせるほどの人生をして 
母親が違うとは言え 血の同じ兄弟をも暗殺しての権力保全はまるで映画の世界である
何千何万の人の恨みを買うであろう核ボタンを玩具にした体制指導者は 自らも糖尿病
や痛風で 豚にしか見えない程の体形と白雉さしか見せない人格はとても可哀想だと。
韓国人も又同じだ。こんなに危機に煽られながら北のミサイル容認主義者の文氏支持を
し、更に安氏すらも又米軍の北への攻撃を「要請しない」主義で 正義の無い不埒さだ
。トランプが政権を取った時プーチンは「事業での会社の重みと国を持つ事の重みの違
いに その決断の重圧におののくであろう。」と言ったが トランプの方が遥かに重み
を知りながらちゃんとした決断をしている。結局国民をより強く思っている米国と保身
しかないロシア更に保身すらない遊びの中にいる朝鮮人という事なのだろう。日本では
かの昔ですら将軍様は大政奉還したし「勝・西郷会談」で百万都市の市民を救う為に、
江戸城すら無血開城をしたのだ。プーチンのクリミア執着や朝鮮人のどうしようもない
駄駄こねは 視野の狭い今のシリアと同じなのだろう。軍事バランスを壊してしか国が
建たないと言うのは 最も情けない思想だ。核もミサイルも持つ理由は全くないのに、
自ら 貧困の国を目指している姿は 哀れでも 理解不能だ。

235: 名無しさんAA:17/04/22 13:33
  魔法使い あららとおろろ 33-29  (行儀よく振舞え)

 日本語に「飛んで火に入る夏の虫」と言う言葉がある。この自分から「貧困の国」を
目指している姿はとても哀れでも 理解不能だ。と言うのは外から見ての姿で北の市民
には見えないのかも知れない。実はこれは金正男氏も時々そうした話があったと言う。
「自分は幸せだ。こうして外国から自分の国を見る事が出来る価値観が出来て感謝して
いる。」といい 金正恩も又スイスに留学し、ベルンの国際学校で「パク・ウン」とい
う偽名を使用しながら教育を受けた。とされる。が 早くに公立中学校を退学して帰国
させられている。留学の経験から母国語の朝鮮語以外に英語、中国語、ロシア語、ドイ
ツ語、フランス語など数ヶ国語を話せるとする報道もあるが 正男氏の話では「可哀想
」と言っていた。「井の中の蛙」で育ち 今や「裸の王様」である彼は全く海外視察も
ままならないであろう。ロシアのプーチンさえも「下着の王様」の様に見える。仲間の
諜報員すらも暗殺し自由の声を抹殺するしかない部下に支えられると言う悲運である。
恥ずかしくて外に見せられない。とする内情は中国も又同じかも知れない。習氏も又同
じ事を思っているかも知れない。御馬鹿のエルドワンの様に権力が集まれば集まる程良
いと思っているかもしれない姿は 永遠の精神患者であろう。基本的に究極のイスラム
は自分を許していないしキリストは罪人としている。聖戦や自爆テロはそこにあるし、
他人を拒むのは罪深く隣人を愛せない本人を示している。その点日本の神道や拝火教は
海外に比べていい加減なものだ。「人間賛歌」を謳い 天照大神は弟の暴行事件に退位
して引籠るのだが、周りの者は裸踊りの宴会で再度の君臨を願うのだから。更に「禊」
を終えて反省したものを許すとした甘さは 「死んだ者は悪人さえ仏」の優しさがある
。これは 常に感謝せよ。どんな事でも戦いを挑んででも相手を敬え。山の岩さえ感謝
せよ。と言う修行を人に与える。この無言の重圧は「人間性の行使」を要求する。武道
によって「礼に始まり礼に終わる」「単なる型や儀式を重んじる」「祈りの要求・郷里
への還元・節目の公開」「全体の平和」などは どう考えても海外には理解されない事
に見える。「無防備の精神」だが それらが社会や人間性を造る仕掛けとして作用する
。そして日本仏教は「死後の楽園」が「生前の精進」で決まる事を布教のもととした。
更に「地獄の七つ釜」まで用意したのである。


236: 名無しさんAA:17/04/22 22:09
  魔法使い あららとおろろ 33-31  (行儀よく振舞え)

 こうした国造りの話をすると 如何に国が人によって成り立っているかが解るのだが
シリアのアサド政権若しくはアサド政権幹部は いとも簡単に化学兵器を使い反体制側
を殺したものだと思うし 逆にこの反体制派のアラブの春を熱望する者らの無知さ残忍
さは イスラム教徒特有のものなのだろうか。と考えてしまう。国造りは神話の形で残
される事もこの人の社会を意識した結果であろう。聖典では神は最初に世界を作ったと
される。その時世界は空間に漂う意識のみの存在だったと言う。最初に天から降りる為
の大地を造り、暗闇に光を創った。更にあまりにもまぶしいままなので夜を造り寒いの
で火を起こし癒しの水の溜まる海を創った。その後その持続のとして木を創り休んだ。
これは金曜日を安息日とした土日月火水木金の一週間でこの事で13日の金曜日を神の
休む 悪魔の忍び寄る危険な日と言われるのだ。が日本の陰暦は7日ではない。日本で
は天地開闢において天から地上を見てまずは沼に杖を刺して地上を確かめる所から始ま
る。それが先に確かめる日として先勝である。そして降りれないと島を引くのである。
だが遠くの島は引き寄せられなかった。そして疲れて休むのである。その後乾いて陸に
降りる事が出来て安心する。だが喜んで確かめている内に他の者が降り立ち戦になった
のである。かつては即吉→共引→周吉→虚亡→泰安→赤口らしく仏教的にて先勝→友引
→先負→仏滅→大安→赤口となった。この繰り返しを人生に見立てているという説があ
り誕生→引率→旅立→立世→婚姻→扶養でこれは魚を取る事に潮の満ち欠けが六日周期
で丁度よかったとされる。月も又13月で睦月(むつき)如月(きさらぎ)弥生(やよ
い)卯月(うづき)皐月(さつき)水無月(みなづき)文月(ふみづき・ふづき)葉月
(はづき)長月(ながつき)神無月(かんなづき)霜月(しもつき)師走(しわす)の
順番にどこかを2ヵ月していた。その方が日々の生活に都合が良かったのである。なぜ
此処に月日の話題を出すのか。実は時間の重みである。海外では時間に重さが無いと考
えている。又今の日本人も欧米化し無いとした政策が多い。だが事実は時間こそが真実
を知る者であるし時間こそが人が相対して手綱を取るべき物なのだ。そして一番の重き
物なのだ。人の命よりも。金正恩はロシアからの評価が下がったか上がったかが問題だ
もし下がったなら暗殺される。上がったなら今までの貸付とウランの返却を求められる


237: 名無しさんAA:17/04/23 14:47
  魔法使い あららとおろろ 33-31  (行儀よく振舞え)

 このロシアのウランの貸付は 意外な事を暗示している。シリア同様の傀儡政権の示
唆である。此処に北朝鮮の危険がある。つまり今後ミサイル発射や核実験で米国を怒ら
せたら即座に戦争は発生するだろう。勿論それ相応の韓国や日本に打撃は加わるだろう
。だが深刻なのはその後のロシアの侵略で今のシリアと同じにアサドには全く発言権の
無い政府軍があるように奇妙な支配がロシアからもたらされる事だろう。これこそが今
のシリアの現状でありウクライナの怒りなのだ。これは金正恩の閉じ込めに値しよう。
シリアのアサド政権の存続が出来ない理由はそこにある。ロシアは今だソ連邦時代の夢
を追い続け軍事力や科学力を経済力以上に重きを於いてアメリカを凌駕したいと願って
いる。この罠に北朝鮮は又乗りかかるとしたら第一次大戦前と全く同じであろう。だっ
たら 平和裏に民主化に進める手段として 逆に米国が新たな宮殿を用意して そこに
近衛兵で守られた傀儡政権をたてたがいいかも知れない。つまり昔の帝国陸軍方式であ
る。基本的に議会しか権力は持たない日本は 敗戦後日本を統治した米国の採用の前に
、最も効率のよい統治として大戦前からあってその轍の上に乘ったまでだったのだ。こ
れをよしとしなかったのが共産党だったのだ。この歴史的事実は一つの示唆をしている
。朝鮮半島と中国大陸は、今でもそうした日本の事を「植民地支配」として 抗日戦線
の謳い文句にしている手前「失敗政策」のものと「羨望」と共にその証拠案件を消し回
っている。韓国では殆ど無くなったが台湾では 今そうした偉業の胴像が次々壊されて
日本型祠は燃やされてしまった。が 大戦後日本がこうして経済成長を果たして存続し
ている以上 アイデンティティーに基づいた伝統的王室を残し 一方で近代化した議会
や法律を施行すると言うのは 全く正道なものであろう。それを自らに壊した共産党に
明日がある筈はない。ロシア皇帝も清皇帝も朝鮮帝も 自国民に捨てられたのであって
日本軍はそれを拾い 国民を想う事を進めたのだ。


238: 名無しさんAA:17/04/23 21:28
  魔法使い あららとおろろ 33-31  (行儀よく振舞え)

 この帝国方式や陸軍方式は、第一次世界大戦から日本で使われていたので、植民地主
義を取っていた 欧米社会では全く受け入れるべき物ではなかった。それでもパラオな
ど南洋諸島フィリピンやベトナムなど 数々のインフラ整備や学校教育などを進めて、
キリスト布教から百年費やした土地に何十年で日本派に変化している住民に脅威を持っ
たのだ。更に欧米の進めていた植民地政策に公然と反対し 自由民権反差別を唱えた。
これにより 満州国が日本独自で進める事を希望した 既に台湾や中国大陸も朝鮮半島
もある程度他の国に比べて成功していた治安だった。が 米国の経済封鎖と裏での策謀
の下に共産党のゲリラ活動を支援と更に大規模な機械兵力に於いて圧倒的に弱かった。
 これが大戦で大きく変わった。共産党ゲリラ即ちテロを仕掛けていた者が国民党に勝
ったのである。今後はこのねじれた共産党支配をロシアがどう直すのかが大きい。何故
なら今ロシアは気候変動による災難に恐らく暴動の一歩手前であり 盛んに国外に目を
そらそうと躍起になっている。プーチンが亡き後はメドベージェフが大統領になるであ
ろう。だが彼にはロシアは納められない。つまり軍部の言いなりであろう。事実クリミ
ヤ問題は彼が かつての政権にちゃんとした押さえを持たせる事が出来ずに軍部を出す
始末になったのだ。北方領土も領土視察したり、ミサイル配備したり 全く可笑しな事
をして日本と友好になりたいとは思っていない。領土は暴力や戦争でしか取れないとし
か論理はないのだ。この思想は今の西側とは相いれない。自国に食糧危機や災害があっ
た場合中国の様に手助けが出来ないのだ。これは国民に取って不幸である。このまま北
朝鮮が生き続ければこのロシアの政権交代時は恐らく大陸弾道と核はロシアの手助けで
出来上がっているだろう。今でも新たに万景峰号を新たに物資輸出入に航路を受け入れ
たぐらいだ。つまり高速の揺れの大きい鉄道で運べないものを運ぶつもりなのだ。日本
や米国或いは韓国にとっては確実に交戦するか 先の方式で金王朝を囲うかしなければ
核弾頭がやって来る事を覚悟しなければならない。そしてそれは後ろ盾のロシア中国に
も核が落ちる事だろうと理解すべきだ。ロシアがクリミアに核を覚悟したように米国は
北朝鮮が今後の開発が可能となれば モスクワ消滅は覚悟すべきである。

239: 名無しさんAA:17/04/23 22:51
 魔法使い あららとおろろ 33-31  (行儀よく振舞え)

 ロシアからすれば モスクワは今後色々な事でさらされる。まず汚染問題である。更
に移民問題である。そして災害問題と軍事問題だ。民主化が出来ない環境はそれらを隠
す。だがEUは今年から どうしても保守的意見つまり難民排除の意見が通る。機械化
でおよそ3割が就業出来ないとなればなおさらだ。これまで軍隊や核は大きな優遇措置
で保たれてきた。これが負担になった時人々はアフリカの後進国同様になる。モスクワ
は常にそうした危険が孕んでいる。それはメドベージェフ大統領の失敗でもある。人気
も必要だが思い切った共産党解体の改革も必要だ。ロシアも同様なのだが もし北朝鮮
が世界的人道的に朝鮮半島の戦争有事も 自らの囲われた王様生活も嫌だとしたら双方
即ち 韓国も北朝鮮もそれぞれの国として成り立つのか。それは不可能であろう。それ
は歴史上ドイツもベトナムも今のイスラエルも違う意識下では二つの政権では無理なの
だ。つまり宗教じみたイデオロギー観念がある限りそれは失敗する。ユダヤ教も共産党
もイスラム教も そうした経済学を無視した共同体は 民族の拡大縮小に耐えられない
。そこにはみ出した者は確実に事件を起こし それが戦争になる危険をはらんでいる。
それは人々が 人類の歴史上常に貧困との戦いでしかないからだ。つまり文化と言う水
が、湯船であれば綺麗であろうが汚い水であろうが人は選ばれる。もしどうしてもなら
無宗教という入浴さえ拒否した姿勢も出来る。だがその水が一端経済と言う料理の飲み
水ともなれば、生活そのものを支える政治と言う器に乘った食糧となるのだ。だがこの
食糧としての水は 綺麗な飲める水 即ちデモクラシーと言う民主主義でなくてはなら
ない。かつてイギリスがスペイン艦隊に攻められる時 イギリスに議会制民主主義が産
まれた。国土を守る国王と国民を守る議会が 敵が攻める事で一致したのである。そも
アメリカが産まれた時 人はその自由さ故に憧れた新天地とした。が防衛のコミニュテ
ィは必要だった。銃社会の誕生である。この銃が持つ矛盾は そのまま今の大衆主義と
民主主義の違いである。議会議員が給与を貰った時からその民主主義は大衆烏合主義に
変化した。つまり独裁政権の持つ民主主義の誕生である。

240: 名無しさんAA:17/04/24 01:04
 魔法使い あららとおろろ 33-31  (行儀よく振舞え)

 もし本来の民主主義である個の利益のない議員の群れでの議会であれば 権力の象徴
である国家元首も独裁には走れない。そこには国土を守る国王と国民を守る内閣が拮抗
しているからだ。その原則の上に立った法治は大衆烏合には走らない。議員は一夜にし
て乞食になっても良い仕組みが存在しなければならないからだ。すなわち最低の暮らし
でも生きていける備えがあって初めて民主主義が存在する事が古代国家で示されている
。この古代国家の民主主義を受け継いだのがフランスである。王国支配に覆われていた
時諸侯が人頭税まで取入れられ民衆は立ち上がった。此処にルソーによって哲学的視野
が広められ道徳を求めた。「自由・平等・博愛」の精神である。これによってフランス
は生まれ変わった。共存社会である。だがそれでも共同社会には至らなかった。セーヌ
河では今でも右岸と左岸は共同社会とならず共存社会のままで労働者層と支配者層にあ
ると言う。右岸は伝統で生き左岸は知恵で生きる。と揶揄されると言う。だがこれは、
フランスだけではない。日本でも福岡は博多商人の街博多と城のある福岡とに分かれて
いた。が黒田氏がやって来た時大きな事が起こった。城造りである。河童の城造りとし
て有名で、夜の博多商人の苦役の奉仕活動と言われる。これが櫛田神社の山笠になった
と言う。資本主義で「人間は人間にとってオオカミである」と言うホッブスの言葉は、
額面通りに受け取れば敵対する欲望を言う。が博多商人は教育こそが人間を創ると思っ
ていて 若者の熱い思いの欲望をこの山笠と言う祭りの取り込みで昇華しようとした。
これは成功したと言える。古来より日本では「政り」は「祭り」と通じていて先の古典
の日本神話の世界から「祈り」と「四季の歳時」と「催事」は「祭事」と重ねて生きて
来た。北朝鮮も又若者の情熱や欲望を、欧州の様な「マスゲーム」や「テーマパーク」
方式の遊戯場でなく、日本の様な御祭り型のイベント様式であればちょっと違っていた
であろう。今EUが揺れているがホップスが掲げた 民衆の横の広がりや対立から縦の
世代間に広げた視野は正解だろう。だが日本のこの若者の不満や鬱憤を 更に神事など
によって変えて昇華する方法は習慣つく事は無かったようだ 芸術と呼ばれる驚嘆の美
で教育に触れさせてはいるが より発展した相撲や祭りに日本人の知恵は過去の記録で
はなく博愛精神と言う 今の連帯や共感を結びつける事は 現代の移民問題にも適用で
きるのではないだろうか。と思うのである。自由は個だが集団なしに生きれない個なの
だ。そして平等の権利は 自然との調和の中でしか発揮も解消もされない。

241: 名無しさんAA:17/04/24 01:51
 魔法使い あららとおろろ 33-31  (行儀よく振舞え)

 この抑揚した若者を掴む集団行動を利用したのが ナチスである。そのナチスと同じ
に韓国は 馬鹿な事に今回の退陣要求に利用したのである。これは最も卑しむべき行為
である。又西洋ではこれを スポーツやデモに利用している。この文化はもう一歩先に
進むべきであろう。敵味方を分け 例えばサッカーなどでゴールが決まればストライカ
ーに全員が近づき勝利を鼓舞する。それは土人の祭りと同じ 人間の本質なのだろう。
この西洋式の文化を悪い事とは思わないが それでもそれはコロッセムの闘技場の殺し
合いを見て喜んだ 血みどろの野蛮なカサエルと同じである事は知っておかねばならな
い。日本人のすばらしさは その勝敗を全く無視して 戦う事にすばらしさを置いた点
だ。相撲がスポーツでなく神事として奉納相撲としている点はそこにある。よく柔道や
剣道茶道華道など「道が好きな民族」と揶揄されるが 武術と武道の違いを知らない者
の観方である。道とは人生でありそれで食っている事を示している。だからそこには、
食べる為に商売としての家があり弟子がいて下々を養っている自負と責任と社会的寄与
がある。よく会社が国家福祉に寄与する。と言う社会の中の道義的責任として社員教育
が叫ばれるが それと同じである。ここにその相撲なり何なりと興業師としての暮らし
を捨てない覚悟があるのである。会社は国家なり社会なりに奉仕するが この興行師は
神に奉仕して道を究めんとしたのである。そしてその神こそは 人の良心だったのであ
る。ここが西洋と東洋の違いと言えよう。闘技場の争いを敵・味方の二つの世界と観ず
闘技場の観客を含めての共同社会としての存立なのだ。相互扶助や共生社会はそこにあ
る。よく「欲望の資本主義」と「監視の管理社会」が二極で議論されるが 日本人の持
つ二元論は善悪であり 常に悪があるから善を施すと言う「勧善懲悪が善である。」と
言う正義の上に成り立っている。敵味方ではなく、戦いをする同じ人間同士である。と
言うブロレス巡業みたいな世界観だ。自由主義や資本主義そのものには値打ちも何もな
い。だがしかし そこに価値観や世界観の違いを自由に論じる事が大事だと言う価値だ
。従ってそこにあるルールは「同じ人間である事」の許容や寛容が最低基準としてある
。だから核廃絶を言い 江戸時代鉄砲から刀に変えたのだ。現代の消費社会が物質に恵
まれた世界と言う人がいる。だがそうじゃない。それは贅沢出来る位置にあり 捨てる
覚悟の無い弱虫だからだ。近年の非情さはそこにある。その地位や位置を捨てた人をも
育てる温情がない。まるで地獄の釜の様に何かしら履かなければその底に立たれないの
が可笑しいのだ。

242: 名無しさんAA:17/04/24 02:43
そこが韓国の今まで治めただろう大統領を敬いもせず死罪にする馬鹿さがある

243: 名無しさんAA:17/04/27 09:53
 魔法使い あららとおろろ 33-37  (行儀よく振舞え)

 フェイクニュースが駆け巡る中 最高のフェイントとして トランプはキティホーク
がインド洋から朝鮮半島に駈けつけている。と言った。更に原子力潜水艦も付いて行っ
て向かっていると脅したのである。昔の日本では「火のない所に煙は立たぬ」として、
ニュースになった時点で人はいぶかしさと批判がうごめいている。この最高のフェイク
ニュースに対して北朝鮮も答えている。「もし敵が我々の度重なる警告にも関わらず、
最後まで軍事的冒険に出ようとすれば、我々の革命武力はすでに宣言した通り、強力な
先制核攻撃で侵略の牙城を地球上から消し去る」と言ったのである。これは(米国よ。
お願いだから武力を使わないで欲しい。)との懇願に聞こえる。一方米国も又「米国は
先制攻撃の様々な選択肢がある」と述べるもののけん制を強めるだけで「我々も日韓も
決して全面戦争を望んでいる訳ではない。」と言うだけだ。軍事アナリストの軍事力評
価では「米韓軍が海軍では60倍、空軍では10倍の戦力を保有する」と言うが「斬首
作戦」などが達成されないと、指令された攻撃で標的ソウルに300門以上配備された
新型ロケット砲から30〜40個の発射管から 9000発以上の同時発射を受けて、
一瞬にして「火の海」になる事態が想定されると言う。勿論日本にも被害が出て「米韓
軍は反撃にはでるだろうが、数千人の被害が生じてもおかしくないとされる。日本韓国
の平和主義者はこの事で戦争に至らないとの楽観主義だが だからこそ戦争すべきであ
るのが現実だ。これを見る中国は慌てて造りかけの新造空母の進水式を行った。中国の
武大偉特別代表は日中協議後は「政治的、外交的手段により、平和的に解決することが
とても重要だという共通認識に達した」と語ったが母国には 平和なぞと言う観念はな
い。「韓国と米国は、北朝鮮の核・ミサイル脅威の高まりに対応し、THAADの初期
運用能力確保に向け作業を行っている」との観方に「米軍が韓国で新型迎撃ミサイルの
THAAD(サード)配備予定地への移動を始めた動きは極めて遺憾だ。」と中国外務
省の耿爽報道官は会見でも、米韓に配備を取りやめるよう要求したと述べている。その
中国の軍事予算は米国以上の効率を持つ。日本も空母打撃群に最新鋭イージス艦などの
護衛艦2隻を派遣し、発令されている「破壊措置命令」に基づき、海上配備型迎撃ミサ
イル(SM3)や航空自衛隊の地対空誘導弾パトリオット(PAC3)の迎撃態勢も整
えて北朝鮮を牽制いるものの あまり効果はない。


244: 名無しさんAA:17/04/27 09:54
 魔法使い あららとおろろ 33-38  (行儀よく振舞え)

 恐らく問題は軍事的チキンレースよりも、経済的チキンレースであろう。中国は米国
の威圧を受けて北の石油輸送を絞り込んだようで 北のガソリンスタンドは軍用若しく
は高官にしか給油出来ないと言う状況が出ている。又中国の臨時教員の韓国系米国人が
逮捕されて監禁されたらしい。米国との協議を模索する動きだとみられるが どこまで
解説は平和主義者なのか驚く。この所ロシアのプーチンもトランプの動きを見てハタと
気付いたのか国内向けに発破をかける。「国内市場で自国品の使用を強制しているのは
単に外国製品の排除ではなく 国外に向けての輸出攻勢に出る為だ。」とニュースに出
て言っている。つまりはロシアの今回の経済制裁を糧に国内産業育成に力を入れたので
ある。これは正解であろう。万景峰号を又就航を許したのは この国内向けの就業者の
問題かも知れない。列車が北と繋がっていて意味がない。と日本の評論家が言うが今回
テロ容疑者がロシア極東ユジノサハリンスクで、のイスラム教スンニ派のロシア人と中
央アジア出身者のISIL支持者2人を拘束したと発表した。つまりシリア紛争の避難
民は恐らくロシア国内にも来ていると考えられ 鉄道爆破でもされたら列車は動けない
。そこに北の動乱が起きれば連絡さえ出来ない。その心配をしたと考えられる。逆に言
えばロシアは着々と 北の労働者の収容を決め込んでいるとも言える。北朝鮮内でこの
経済封鎖が起これば 誰も国内に残ろうとしないかも知れない。つまり不平等と圧政が
どれだけ続き 現政権が耐えられるのかはロシアすら不明と観れる。中国が本格的に、
エネルギーを閉めてもロシアの天然ガスの供給があるかも知れないが 食糧自給につい
ては恐らくもたないと考えられる。その時の暴発がどういう形になるのかが 中国米国
共に不明であると見えるのだ。だがどうもロシアや韓国は楽観視している。ロシアの高
見は当然だろうが韓国のこのいい加減さは解せない。とは言っても 今だ交戦中の休戦
だろうに大統領退陣デモ起こす摩訶不思議な国だから仕方はないが。



245: 名無しさんAA:17/04/27 12:45
 魔法使い あららとおろろ 33-39  (行儀よく振舞え)

 いよいよもって空母打撃軍が朝鮮半島に近づくに至った。シリアのトマホーク発射で
中国に「北朝鮮問題を傍観することは許さない」という中国への警告し、空母派遣では
「ここまでやって、なお核実験をしたら、ただでは済まさない」という北朝鮮への警告
を発した形だ。古今東西を問わずこうした軍事力誇示と言う物は 内政に陰りがある時
に国民に外への視点を向けさせる時に使われる手である。事実この「北朝鮮の安全保障
ネタ」は、安倍政権の支持率が下がってくると行われたミサイル発射や核実験の延長上
にある中で トランプ氏の支持率も上がらない事で重なって起きた色合いが濃い。そも
北朝鮮はずっーと経済改革と核保有を同時に進める「並進路線」を進めて来たし、独裁
そのものが今始まった訳ではない。が「もし北朝鮮が核兵器(保有の)目標を達成すれ
ば、大勢の韓国人や日本人も犠牲になる。」と言う事実と「北朝鮮が本格的な核保有国
になれば更に横暴な行為に出る。」可能性はあり その前に叩くべきだというのは当然
だろう。だが中国は核開発も武力行使も一貫して反対なのだ。それは国境線が北朝鮮で
ある方が遥かにいいからだ。元々ここには北朝鮮と言う国は無い。日本で満州国建国の
頃、抗日満州遊撃隊がそのまま日本の撤退と共にソ連の後押しされて出来た共産国だ。
そして朝鮮状況も知らぬ米国が 日本の降伏でまるで戦争が終わったかのように勘違い
し撤退するかの様な声明が出たのを機に南北戦争に発展したのである。核の放射能汚染
 地域の不安定化 更に日本の国防強化 の3つの理由で大反対だが38度線の現国境
をいじらない事で米国容認している。もともと米韓両軍が恐れる様な兵器は北朝鮮には
あまりない。従って今回の長距離砲やミサイル保有と VXや核などの大量虐殺兵器の
完成を目指すのみなのだ。先のミサイルや長距離砲は米軍の技術が遥かに高く 又大量
虐殺兵器も打ち上げ前では自国に拡散する可能性すらある。そして残りは20万人に及
ぶとされる「特殊部隊」や在韓在日の「陽動要員」なのである。ここに今の「テロ等準
備罪」の問題がある。中国の王毅外相は「戦争になれば、深刻で想像を絶する結果がも
たらされる」と強い危機感を表明したが アメリカは韓国のTHAADシステムの配備
完了と共に 日本の法的支援の完了を待っている状況なのだろう。


246: 名無しさんAA:17/04/27 15:18
 魔法使い あららとおろろ 33-40  (行儀よく振舞え)

 今や米国も北朝鮮も強硬姿勢を見せ、緊張が高まっているが、現時点では両者ともに
決定的な局面に突入するつもりはないように思える。しかし、それで北朝鮮クライシス
は終わらない。負の連鎖を断ち切るために必要なのは 金正恩の公開処刑しかない。し
かし残念な事に 米国がいまやっている事はまだまだ準備段階にも入ってはいない。と
見られ今後3年位後の終末戦争での話であろう。と私は見ている。「影のCIA」と呼
ばれる米国の民間シンクタンク「ストラトフォー・レポート」による地政学的分析は、
既に世界的には他の国の追随を許さない程米国優位は揺るぎがない。と結論しているか
らだ。この「ストラトフォー」は湾岸戦争やシリア内戦まで言い当てたと言われ、今や
「アノニマス」や「ロシア」などの攻撃で 多くの資料が盗み見られたとはしているが
分析に於いては間違いないだろう。中国メディアは、「北朝鮮の現在の動きは持続可能
ではなく、金王朝の存続を危険にさらしている。北朝鮮が核開発を終えないならば、金
王朝の終焉は不可避である。そして、今回、たとえ米国が北朝鮮を攻撃しないとしても
、結局、すべての制裁が北朝鮮国内を麻痺させることになる」と強く警告している。こ
の忠告は全く正しいだろう。MOAB投下を行い脅しながら、朝鮮半島は戦時体制に入
ろうとしている。この投下されたアフガニスタンのナンガルハル州アチン地区は、ソ連
占領下のおけるムジャヒディンの拠点だった場所で、テロ活動を行っているのが この
ブランチを拠点と見られている。HSBC(香港上海銀行)などはこのアヘンビジネスで
英国王室によって設立された。つまり今後はテロの供給資金源が無くなった事になる。
ペンタゴンによるフォールス・フラッグ・オペレーション(false flag operation)、つ
まり「偽旗作戦」が開始されたと考えられる。これは暗示的な宣戦布告であり、同時に
、ロシアのプーチンに対するトランプの威嚇かすり寄りかの意志が見え隠れしている。
実はクリミア併合以来のロシアの拡張主義批判でNATOとロシアはヨーロッパの国境
付近で軍備増強を進めて挑発的行動状態にある。ロシアの軍事的圧力の高まりに対抗し
てNATOの防衛力を強化の形だが イギリスの防衛相がロシアに対する核兵器の先制
使用も選択肢になると示唆し 核兵器使用に躊躇はしないと明言しているのである。


247: 名無しさんAA:17/04/27 15:58
 魔法使い あららとおろろ 33-41  (行儀よく振舞え)

 この事は「ストラトフォー・レポート」と全く一致する。自由貿易と西側諸国の同盟
ネットワークを、我々特に西側では史上最大の平和と繁栄を保障する枠組みだと考えて
いて、これを支持している社会である。しかし地理の研究においては、どちらもやがて
放棄され 縮小経済に陥るという結論を出している。それは自由貿易体制の終焉を意味
している。世界的な人口減少、ヨーロッパや中国の経済損失と没落は、すべて移行期に
起きる一時的な現象とされ 既にその出来事が起こっているとされる。2015〜2030年ま
での間に、古い東西冷戦体制は最終的に一掃されると言い 各国は貧困にあえぐ事で、
資源や市場を獲得するための競争の激化し海洋国間の競争の再発するさまざまな困難が
起こると言うのである。つまり第三次世界大戦が起きようが起こるめいが 構い無しに
世界を不況が起こると暗示しているのである。イギリスのEU離脱はそこにある。この
レポートには 米国のみが自国のエネルギーと食糧供給能力があり余分な移民の労働力
と軍事力を擁しているからだ。と結論づけている。英国がEUを離脱する事で北海油田
は海外に売りつけないで自国でのエネルギー供給できるし 海洋権益の確保で漁獲量の
確保が出来ると踏んだのである。王立アカデミーは何ら公表はしてはいないが 原子力
分野での原発を捨てない理由もそこにあると言える。核兵器保有国9カ国に含また英国
は、保有する核弾頭数は推定200発余り。対して世界最大の核兵器保有国とロシアは
、推定7300発の核弾頭を保有、核戦力の増強も計画中にある。最も危険な大国同士
の喧嘩なのだが その英国は中国に原子炉建設を委ね ロシア国内での廃棄物管理はあ
まりなされておらず放射能汚染が心配されている。こうした事で経済的消耗する国は、
少なくない。米国人が競争相手と見なすすべての勢力の ロシア、中国、中東 南米 
ヨーロッパ共同体などは思いがけない脆弱さを露呈するだろうと観ている。つまり世界
で争いが起これば起こるほど 米国は参加する戦いを選ぶこともできれば、世界からの
完全に引きこもることも 全く可能の位置にあり その唯一の弱点が大陸弾道弾なのだ
。陸続きではない強みがそこにあり だからこそ陸続きの国境線を守ろうとしている。



248: 名無しさんAA:17/04/27 18:16
 魔法使い あららとおろろ 33-42  (行儀よく振舞え)

 では中国や欧州ではどうか。実は欧州でも中国でも既にそうした地政学的優位論は、
既に織り込み済みである。EUの結合した通貨統合は失敗ではあったものの その価値
観の共有は対ロシア政策の一環ではあったのだ。ソ連崩壊に対してロシアも含めたEU
圏の形成が目的でもある。というのもドイツの公害やチェルノブイリ原子力発電所事故
はその一端であって その他にもスペインやドイツでも事故は起こっているし、原子力
潜水艦放棄と言う 経済理由で様々な困難が国境を越えてやって来る事が予想される為
その対処として国境の自由化自由往来をして 共同社会構築を目指したのだ。それが、
シェンゲン協定であり、ヨーロッパの国家間において国境検査なしで国境を越えること
を許可した。実際この事で落ち込んでいたEU経済は3割吹き返したとされる。がこの
事に水を差したのがお馬鹿ブッシュJrのイラクアフガン攻撃だったのは歴史のしる所
だ。多少の難民であるならパイの大きさでカバーできるが これだけ多く来れば異種の
言語や宗教や習慣をもつ教徒を受け入れられないのは当然なのである。対してロシアも
このEUの傘下での行政を行うつもりは全くなく その上の自由主義社会のG9すら外
れた形で国内の自由市場形成に余儀なくされている。中国はその織り込みした世相には
自らを海洋覇権国の勢いを持とうとしているが 歴史的に管理能力や自浄能力のない国
や社会習慣では殆ど不可能に近い。海洋資源どころか地中資源や森林などの既存資源や
観光資源すら愛せない国に どんなに拡大国家論を敷いても没落するのが目に見えてい
る。それを見越してか サイバー空間・宇宙空間・金融流通空間を盛んに攻撃して獲得
を目指している。ヨーロッパでの食肉や機械流通、豪州の放牧や不動産、米国のIT企
業や小売り流通更にアリババなどの電子購買と広域に買収し手の中に納めている。この
事は最終的にAIIB(アジアインフラ投資銀行)に帰結し一帯一路の方針を決めた。
参加国は57カ国にのぼったにも関わらずこの機構にはガバナンス統治監理権のない、
言わば傘下国止まりなのだ。中国外貨準備高は2014年に約4兆ドルとしているが、
他の国の様な明快で明確な会計処理ではなく推定なのだ。更に腐敗幹部によって海外に
持ち出されているとされて既に3兆ドルが見られないとしている。更にこのAIIBの
決定には常に中国の承認や許可を必要とし 公式な会議は何処にもないのである。逆に
言えば 使いすぎた国の債権代わりの預金収集で どこかの個人投資詐欺師と同じなの
である。

249: 名無しさんAA:17/04/28 04:04 ID:keA
 シェンゲン協定であり、ヨーロッパの国家間においての国境検査なしで国境を越える
ことを許可した理由が こうした困難に立ち向かうべく起こった協定ではあったのだが
それが今 無に帰してしまうのは情けない話である。畏怖心から教育を試みた宗教から
 ロシア皇帝が驚きを教育に変えて二百年を過ぎ だが尚教育を宗教から切離して世界
の全人類を世俗宗教に落ち着かせる事が出来ないでいる。ストラトフォー・レポートで
はないが国家の凋落は一重に人にかかっている。更に人の教育こそが国家財源であり、
地下資源でも鉱物資源でもない。勿論地政学的には 住民の衣服、食物、抵当資源の有
用性、人の寿命、扶養子孫数、仕事の安定性、政治形態 とその生活システム、戦争と
防衛の種類、究極的文化の耐久性。川、山、海、平原、砂漠、ジャングルなどの相互バ
ランス、などの住民生活と、国家の共同社会のなどが加味されての研究なのだろうが、
大きな資源や問題は子供の教育なのである。例えば中国支援の時 殆どの学者は 技術
が生産力を高めて 国が豊かになれば体制を転換させ、民主主義国家になるはずだ。と
予想したし 中国国内の学者も常に今は過度期で直ぐに中国人民は自由を憧れて変わる
と説明した。だが多くの先進国が期待した中国が逆の道を歩き始め 今や覇権国家とし
て北朝鮮以上の人権侵害や独裁政治に陥り 法治国家を捨てた軍事国家となっている。
北朝鮮のアキレス腱として「経済と人権」があげられ、北朝鮮の国家主導の独立経済が
行かず、大飢饉の中で市民たちは闇市などで市民経済を創り出している。そして、この
市民経済は、もう国がコントロールできない規模だろうが 結局は自由経済市場になっ
ている。このアキレス腱としての「経済と人権」は 知っての通り 中国でもロシアで
も同じようだ。恐らくそうした意味では今のトランプ同様に 争いには勝つだろうが、
戦争には勝たない。つまり指揮する軍人や戦略上の優秀な兵器は多くあるだろうが、し
かし一端戦争が終わることは無い。終了の仕方も解らないだろうし 国家としての戦略
が欠け 更に他国の建国という国の建設に寄与する設計図を試案する事すら出来ないか
らだ。この北の政治も又垂簾聴政の古来の王朝国家の統治しかしてない。暖簾の向こう
の談義で決まる政治で庶民に見えない政治だ。かつて「パンがなければケーキ(お菓子)を食べればいいじゃない」とマリーアントワネットが言ったとか。パンは一等麦が使わ
れ御菓子には安い二等麦が使われていたからだが ロシア革命でも同じ様な事があり、
王室と庶民には隔離の差があり 意見や知識の差が多く二度も革命が起こった。庶民や
諸侯に政治能力がある訳がなく 又王侯貴族に庶民の苦しさが解らなかったからだ。そ
こを助けているだろうと目されるのが正恩の妹・金与正と、姉・金雪松 妻・李雪主だ
と言われている。

250: 名無しさんAA:17/04/28 12:36
 魔法使い あららとおろろ 33-41  (行儀よく振舞え)

 かつて「パンがなければケーキ(お菓子)を食べればいいじゃない」と言った事は、
幾つかの示唆がある。パンは一等麦が使われ御菓子には安い二等麦が使われている事情
を知っていた王室の発言だったという事だが それは曲りなりにも庶民の事を考えては
いたと言う証左である。だがそれでもロシア革命でも同じ様に庶民は怒り狂った。何故
か、王室と庶民には隔離の差があり王室はそれ以上にその調理に砂糖や卵や火や手間が
多く掛り高価であった事を知らなかった事なのだ。今日のシリア問題はアサドが流入し
てきた過激派イスラム教徒に相対出来なかった事にある。その意味では米国やロシアは
シリアの国内にいち早く派兵すべきであったし国境線の封鎖を敷くべきだったのかも知
れない。がそれでも多くの直接的問題はこの難民たちの食糧供給や仕事など無い中に、
韓国や中国が携帯電話を売り込んだ事である。第二次世界大戦終了時に米国は莫大な金
をつぎ込んで兵器開発を行った。それは米国兵士とりわけ若者を守ると言う名目で政府
と一体になって行った。これはアイゼンハワーが大統領米国内の軍産複合体の企業群に
コンツェルン規制法を曲げて公認した結果の成果であり、この時に核開発も出来たとい
う経緯がある。カルテルやトラストとは異なるものの持ち合い株での財閥であり反トラ
スト法にそれまで抵触していたのだ。これにより新保守主義と訳されるネオコンにイス
ラエルロビーと言う政府活動の窓口が開かれた。つまり「資本主義の武力覇権で平和に
なる。」とりわけ強力な軍事力でイスラエルに平和が訪れると言う思想である。その結
果米のシンクタンク、外交問題評議会(通称CFR)などの意見は この維持するべき
最先端の軍事力には常に戦争が必要であって「米国の戦争は公共事業」と言われる程の
投資がなされて 紛争を餌に肥大化した。勿論この軍需産業の巨大コンツェルンを牛耳
るのは、世界的な大富豪のロックフェラー家やロスチャイルド家などなのは言うまでも
ない。


251: 名無しさんAA:17/04/28 12:36
 魔法使い あららとおろろ 33-42  (行儀よく振舞え)

 だが、彼らが仕組んだこの構造は 彼ら自身を苦しめている事実がある。アラブ産油
国は一応はこの自由主義資本主義に入ってはいるが 基本独裁政権である。中国国内で
は共産党は自由主義に解放する気配はない。ロシアに至ってはソ連崩壊が起こったもの
の今だプーチンの裁量に手を焼いている。南米は麻薬ルートの源だが手放したしアフリ
カでは 多くの差別主義反対闘争で欧米が憎まれ中華人の天下となった。勿論彼らの計
画にはまった国は 日本を始め数多くある。更に彼らは米国の政府予算以上に株価売り
上げによる貨幣価値を持っている。ベトナム戦争で3割石油ショックでは10割、イラ
ク戦争4割、アフガニスタン戦争で9割の株高なのだ。「戦争は特需を呼ぶ。」とされ
ている。だがここ北朝鮮に至っては動けない公算が強い。というのも まず朝鮮戦争の
歴史的事実である。今だ停戦合意のままで休戦協定の中にある事実である。この軍事休
戦に関する協定は 北の朝鮮人民軍と中国人民軍と国際連合司令軍の司令官で起草され
ている。つまり中国・北朝鮮・多国籍国連との契約なのだ。これを国連側の米国によっ
破棄する事は不可能だろうからだ。更に時の韓国大統領の李承晩は逃げ回ってこの席に
はつかなかったのである。その後突如竹島占有を勝手に決めたのだ。従って韓国はこの
協定には入っていない。これらの事件は結局は兵器で屈服はさせられないと言う事実と
 その後の国内の混乱や紛争がより多くの米国の危険を助長する現実だ。更にこの協定
が「双方の武力を退避させる。」と言う条文が入っている事にある。つまり此処で攻撃
すれば シリアなどの紛争におけるテロ集団の 協定違反で攻撃する「不埒者」と同じ
である。と言う真実をさらけ出し国際批判を浴びる事にある。つまり金政権が倒れて尚
米国が安定にはならず 逆に倒れたらその後ミサイルが打ち込まれる可能性が高いのだ
。それはプーチンが高齢であるからだ。ここにCFRの思い違いがある。



252: 名無しさんAA:17/04/28 19:55
 魔法使い あららとおろろ 33-43  (行儀よく振舞え)

 この休戦協定にある韓国が入っていない奇妙な事実は韓国民は悟らればならない。つ
まり如何に自分の国を捨てた国民であったか如何に 日本を含めた多国籍軍に守られた
国であったかを。この歴史的卑劣な現実社会を直視せず竹島占領したり中国に取り入っ
たり自国の大統領に罪を被せたり歴史を捻じ曲げたりしていては 韓国社会が建ち行く
筈はない。メッキの仕上がりが良くともメッキはメッキなのだ。もし北の脅威を取り除
くとするなら韓国国民自らがこの38度線を撤去しなければならない。それが外交手段
であれ武力衝突であれ 多国籍軍はその後ろ盾でしかない。つまり逆に休戦協定に入ら
なかった強みである。シリアの国民ですら自由意志を求めるのに韓国では国際法すらも
守らない裁判所がある事自体おかしいと気付くべきだ。それは北からの数多くの工作員
の侵入にある。今や法治国際主義の中でどうあるべきかを探る時代に入った。先の軍需
産業の巨大コンツェルンでも独裁主義者の国でも 恐らく建ち行かない。この処の原油
安が南米不安を煽っているからだ。サウジ国王の訪問は暗に今後の国の立て直しを示唆
したものだ。ベネズエラは石油依存98%の国だったが正式に独裁政権に入った。38
年間も住んでいた小谷氏は帰国したのである。ヨーロッパで深刻な経済危機や移民問題
にはEUやECB或いはIMF世銀などが協力して支えている。がブラジルを始め今の
南米を支えているのは今や中国のみなのである。この事は世界の米国覇権はウズラ卵の
様な斑点であり 自由主義や資本主義の旗手ではあるが自ら選んだ世界地図であり、今
のロシアの不満とする所の勝手な覇権主義の下の統制権者の顔が見え隠れしているのが
解る。事実朝鮮人は自分たちの権利は言うが その為の国家建設と国民形成を考えない
し行わない。現実に歴史上彼ら自身が起こした文化や産業や政治や社会はない。戦前で
も台湾は強制的に清国が日本に委譲した島だったが原住民である台湾人は建設をし社会
を開き街を築いた。が朝鮮は自らの皇帝が日韓併合を申し出たにも関わらず伊藤博文は
暗殺され戦後も同じ様に北朝鮮の建国を阻止する事無く朝鮮戦争に至っては合議の席に
双方出席しなく非難声明に終始し戦中は日本や米国に乞い戦後は日本の補償に財閥を造
って立ち上がった国だったのだ。その政治も暗殺が相次ぎ財閥も又今や糾弾される社会
なのである。卑屈な精神社会と言われても仕方ないであろう。自らに切り開く事を捨て
た社会なのだ。

253: 名無しさんAA:17/04/29 03:33
 魔法使い あららとおろろ 33-44  (行儀よく振舞え)

 こうした卑屈な社会の連鎖が今の韓国内に蔓延している。日本がもし今後も自立の道
を模索するなら 朝鮮半島が火の海になったとしても捨て去るべきだ。自ら戦おうとも
しないで国を捨てるぐらいの民族に足を引っ張られても日本に取って一つもいいことは
ない。もしアメリカ国内に北の核容認論が出始めたら 日本が核武装も進めるしかない
。この事を日本人は自覚するべきなのだ。韓国政府は既に米軍が配備した 最新鋭迎撃
システム 「THAAD」について、韓国側に10億ドルの負担を求める ドナルド・
トランプ米大統領の発言を一蹴し、支払いを拒否する姿勢を表明した。更に韓国の大統
領選挙で「共に民主党」の文在寅と、「国民の党」の安哲秀のほぼ一騎打ちとなったが
文在寅の方に傾いたのである。彼は「THAAD」撤去を謳い、米韓会談より朝韓外交
を先に行い 平和外交での終始を目論んでいるのだ。今までにも休戦協定を行わないま
まに北朝鮮の開城工業団地の操業が行ったり、その後も閉鎖したり開業したりして何百
人もの韓国人労働者を境界線(国境)を越えて同工業団地通勤をさせている。この事は
韓国民はソウルが火の海になっても北朝鮮を叩く。と言う覚悟を持たないで このまま
米国まで届く核弾頭付き長距離爆弾を造った方がいいと思っている方向に向いた事を示
すのものだ。だが ここで軍事オプションを使わない限りは 確実に北朝鮮核弾頭を付
けたミサイルの実験を起こす事を示している。つまり放射能汚染が隠れて行われる事が
確実である事だ。こうした事を認めるのかという事だ。ロシアの原潜廃棄事件と同じに
対岸で行うミサイル実験は確実に中止させえないし文句言えないだろう。日本の憲法9
条は勿論革新は平和憲法として守れ守れの大合唱だろうが 保守も又アメリカとの交渉
に於いてこの平和憲法に逃げて来たのである。これまで対米従属と揶揄されても自衛の
為の方針や国体保持の武力は当然あって然るべきだが「自衛隊は軍隊ではない」「武力
による威嚇の永遠の放棄」などの論理で 北朝鮮の様な自覚ある国の武力の保持を捨て
たのである。だが中曽根時代の「不沈空母説」で解る様にこの朝鮮民族の馬鹿さや共産
化した こうした北の暴発や大陸内の独裁共産党政権の戦乱化の 最前線基地としての
地政学的位置は仕方ないのである。


254: 名無しさんAA:17/04/29 05:46 ID:AHg
 魔法使い あららとおろろ 33-45  (行儀よく振舞え)

 今度のこの北朝鮮問題で大きくまざまざと見せたのは「平和の矛盾」である。つまり
「交戦も辞さない姿勢こそが威圧であり平和を守る」と言う現実である。又その力を持
とうとする北朝鮮の「我々は 民族の誇りに賭けて 独立を守る」と言う姿勢である。
これは子供の教育にも似ている。親の強さや信頼が無ければいう事は聞かず却って非行
に走り不良になるのである。これが今の中国と北朝鮮の関係だろう。中国は既に軍事力
も経済力も持ってその上に核を持ちミサイルを持ち国連の理事国になりながら独裁体制
を維持している。北朝鮮が何故それをしていけないのか。更に米韓軍事演習は部隊を引
き威嚇しないとの休戦協定違反ではないか。と言う訳である。つまり国連はおろか中国
さえも二枚舌外交であると批判しているのだ。中国にしてみれば厄介な問題である。一
つはこのまま戦争ともなれば確実に北朝鮮も中国経済も破綻する。米国に勝とうが負け
ようが圧倒的軍事力の米国との戦争に巻き込まれたくないのが現状だ。だが軍事協定で
はどちらかが交戦すれば駆けつけ協力は約束しているのだ。更にもし戦って北が負けれ
ば西側自由陣営との境界になりクッションである独裁や共産党の緩衝国が無くなるのだ
。この変化は国内の治安すら影響があり予断を許ない事なのだ。がこのままでは核ミサ
イルを持つのは時間の問題なのである。米国が今では無いにしろ2〜3年内の戦争は起
こり得るだろうと思われる。少なくともトランプ政権内での戦争は準備が整えば起こる
はずだ。それは大陸間弾道弾が北朝鮮に手に入れれば韓国や日本相手ではなく米国への
威嚇や挑発に出る事は当然だからだ。つまり前は核開発はカードだったが今や核保有国
を認めよと言う条件なのだ。これは自制があろうがなかろうが核弾頭の公式な増産を意
味している。更に周辺の韓国日本台湾の核保有を促す事は当然だ。核抑止力においては
保有数量と共に他国の保有と言う広がりも又大事な戦力だからだ。当然これは反対して
も内政干渉は出来ないのだ。当然これは今の嫌われる中国の国力を削ぐ形になるからだ
。更に今の東南アジア諸国にも米主導で核配備されれば 南沙諸島の領有など意味のな
いものとなる。日本の核廃絶の壁が無ければ 核実験すらされかねないのである。こう
した内憂外患が起これば中国経済も疲弊し共産党体制の崩壊しかねないのである。この
どう転んでもリスクのある中では 今しか叩くチャンスはない事実は 米国の政府内の
承認と国際社会の同意とがいつ出来るかにある。つまり当面は6ヶ国協議で取り繕うし
かない。と言うのが現状なのだ。

255: 名無しさんAA:17/04/29 13:47
 魔法使い あららとおろろ 33-46  (行儀よく振舞え)

 韓国軍の合同参謀本部は、「北朝鮮がきょう(29日)午前5時半、平安南道 北倉
付近からミサイルを発射したが、失敗したものとみられる」と発表した。この報告を受
けてか トランプ米大統領はツイッターしている。「、北朝鮮は今日、失敗に終わった
が、中国は高く尊敬されている。習近平国家主席の願いを軽視してミサイルを発射した
。悪いことだ!」と。以外にも軽い。又北朝鮮は今月16日にも平安北道新浦付近から
弾道ミサイルを発射して失敗している。この「THAAD」なるものは10億ドルの代
物だがどうも弾道弾迎撃の中でXXレーダーが心臓部のように見える。太平洋軍司令官
のハリスは、韓国配備される最新鋭迎撃システムを日本にも配備する必要性を訴えた。
と言われ「朝鮮半島の危機は本物で、今まで見た中で最悪だ」と述べたと言う。これが
何を示すのかと言う事だろう。かねてから米国は、これまでスターウォーズ計画などを
通じてLWS(レーザー兵器システム」を構築すると言う途方もない夢の様な野望を持
っていた。日本の工業用高出力レーザーが確立するとこぞって米軍は技術を転用した。
そして今ロッキード・マーティンは光ファイバーモジュールの生産を開始しボーイング
社のクローン社長はMDA(ミサイル防衛本部)に売り込みをかけ実証実験実証実験を
促しレーザー砲に成功している。米軍側も中国が量産型ステルス戦闘機が成功して海洋
空母を持っている以上 ミサイルの要らない迎撃兵器は必要不可欠である。さらには、
この日本の電気民間技術は軽量高性能燃料電池にも成功している。問題は100W級で
の攻撃で有効であるのに対して30Wしか出来ていない事だ。それは集高熱問題と冷却
問題で 電気ロス80%と言われていた。多分そうした物をクリアできる技術も日本に
はあったんだろう。だが兵器に繋がる技術は売れなかった。それが近年安倍政権で売る
事も大学で研究する事も出来るようになった。もし完成していたとすればこの単体での
ミサイル発射は電磁空気砲と同じく全く米国では何とかできるものだろう。がそれだけ
技術があるなら日本は早く監視衛星を打ち上げるべきだ。宇宙空間からのレーザーなら
比較的大容量の蓄電も可能で高高度静止衛星なら日本への標準したミサイルは簡単に位
置検知し打ち落とせるはずだ。

256: 名無しさんAA:17/04/29 23:36
 魔法使い あららとおろろ 33-46  (行儀よく振舞え)

 同じ日に 訪問先の英国ロンドンで 安倍氏は記者会見し、「北朝鮮の弾道ミサイル
発射については断じて容認できない」と強く非難し、「日米や日米韓3カ国の連携強化
の重要性」を指摘し、「北朝鮮への圧力を一致結束して高めていく必要がある」と訴え
た。さらに中ソが唱える 北朝鮮の核問題を巡る6カ国協議に関し「直ちに再開できる
状況にはない」と述べ、早期再開に否定的な考えを示した。実際の所、既に北朝鮮には
核を手放しミサイル防衛を無くせば 何一つ残る所はないであろう。表だって手放した
と公表しても 一戦も交えずに日本の天皇家の様に国民が崇めて了承しその方向に行く
筈はない。今回のミサイル発射は中国のメンツは相当壊された。残るはプーチンのみだ
が果たしてシリアと北朝鮮両方に軍事展開が出来るだろうか。又日本には フランスか
ら強襲揚陸艦「ミストラル」が長崎県の海上自衛隊佐世保基地に入港した。このあとは
日本、英国、米国の部隊を乗せてグアムに向かうと言う。。折しも北朝鮮が弾道ミサイ
ルを新たに発射し、東アジア情勢が緊迫化した数時間後の入港となった。乗っているの
は英軍の部隊約60人とヘリコプター2機という小部隊で、2月末にフランスを出港し
ベトナムなどに寄港した後、29日朝に佐世保基地に到着し4カ国で共同訓練を太平洋
で展開する為なのだが、朝鮮半島問題は「アジア太平洋地域の緊張」を意味し、日米だ
けでなく、欧州諸国もこの地域に強い関心があることには違いない。。新たに 日米の
水陸両用部隊と、自衛隊のヘリコプター1機が乗り込む。海上自衛隊の輸送艦「くにさ
き」が途中まで同行し、日本周辺の海域で共同訓練を実施する。さらにはグアムに到着
後、陸上に部隊を送り込む能力を持つこのミストラルを中心に、自衛隊の水陸両用部隊
、米英の海兵隊、日英のヘリコプターが共同で上陸訓練を実施する。としている。この
4カ国の共同訓練は初めてだが、総勢700人の精鋭が参加すると言うので大掛かりだ
。日米英仏が揃い組だ。更にこうなれば東南アジア10ヶ国の東南アジア諸国連合も又
欧米に対抗して有事にはやって来る。昨年4月に行われた多国間共同訓練の「コモド2
016」にアジアから17カ国 日本はこの時ひゅうが型護衛艦「伊勢」を派遣したが
ロシアも参加している。これでも北朝鮮は無理をするのだろうか。


257: 名無しさんAA:17/04/30 03:17
 魔法使い あららとおろろ 33-47  (行儀よく振舞え)

 今後 このままいけば北朝鮮は核を手放さない。従って韓国も日本も台湾も核を持つ
となると当然東南アジア全体が核の乱立になる。これはアメリカも中国もロシアも全く
望んでいない事だろう。がこの朝鮮半島は日本が満州国を建てる前に戻った状態である
。今でも韓国の大統領選挙や議員選挙は地域に分断した形状をなす。それに北朝鮮があ
る形なのだ。かつての明治に伊藤博文が暗殺された時と全くおなじなのだ。となれば、
やはり地政学的に日本による満州国建設しか平和は訪れないのだ。ロシアや中国がまず
手放さないだろうし 更に日本が統治したにしても多分足手まといで 結果として日本
の負担が増えるだろう。今でも韓国はこれだけ支援されていても 恩義も義理もない。
時流を探す乞食同然の風見鶏で始末に負えない民族ではないか。日本国内が又混乱する
のがおちだろう。がしかし 多分この北朝鮮の前近代的な生産性の無さは 今後も中国
やロシアの足を引っ張り続け韓国との諍いと同族意識は絶えないだろう。これでは核や
ミサイルを持てば 今は西側の言う事を聞かないだけだが 今後は中国やロシアにさえ
聞く耳を持たないだろう。これまでもロシアの支援金およそ5兆円程度か中国への未払
い5億円程度はそのまま帳消しになっている状態だろう。まあ物資援助だから金銭的な
価値は又計算が違うだろうが 国内の赤字団体のような支援しなければたたない国だ。
結局この国が豊かになろうとすれば 今の独裁や宗教の様な共産主義を自らの力で捨て
る事しかない。更に中国やロシアは自国内すらも舵取りできない中で見守る事は不可能
だろう。米国もろしあや中国同様今しか北を変えるチャンスはない 今後は南米始め、
中東 アフリカ 欧州などの危機で 恐らくアジアを振り向く余裕が無くなるからだ。
ロシア国内も気候変動でかなり痛手を負うはずだ。中国も災害はそのまま不漁不作での
国内不幸は続くだろう。これらは西側の支援は不可欠なのだ。さてさて困ったものだ。


258: 名無しさんAA:17/06/23 22:05
  新ー私の番組評  01

 ニュースでは 加計学園の獣医学部新設をめぐり論説委員は華やかに解説する。が、
全く的が外れていて 全く面白くもない。BPOは一体なにをしているのか。わざわざ
前川氏は外国特派員用の会場で会見している。これは日本のTVや新聞社の恥だろう。
曰く
「行政がねじまげられた」などと告発した文部科学省の前川喜平・前事務次官が23日
、再び記者会見を開き、特区の決定のキーパーソンは「和泉総理補佐官だ」と話した。
 前川前事務次官「和泉総理補佐官が一番キーパーソン。私に直接働きかけがあったの
は和泉総理補佐官。萩生田副長官は和泉補佐官と話した結果として、その結果を文科省
に伝えています。」文科省が今週新たに明らかにした「萩生田副長官ご発言概要」とす
る文書について、前川氏は「自分は見たことはない」としながら、「書かれている内容
は事実ではないかと思う。書いた課長補佐は優秀な人物で、あえて虚偽の事実を盛り込
むことはありえない」と述べた。 また、「官邸の最高レベルが言っている」などと書
かれた文書の内容を内閣府が否定していることについて、「内閣府や総理官邸は真相解
明から逃げようとしている」と批判した。

これに対して日本のメディアは目を覚ますべきだ。例えば田崎史郎解説委員の様な説は
ちゃんと馬鹿と言うべきだ。前川前事務次官が事務官を辞めて告発している事がまるで
違反の様な事を言っている。「何故事務次官の時告発しなかったか。」と。こんな常識
もない人間はいない。通常の組織の人間で仕事が単一である事はない。特に内閣に於い
て色々のプロジェクトの中の一つで「一人労働組合」みたいな形の記者会見など出来る
はずもない。更に「普通の役所はその時の政権なり内閣の為に動くが 文部省は我々は
国民の税金で雇われた官僚だからその時の内閣が悪ければ正すと本気で言う。こんな馬
鹿な官僚は居ないでしょう。普通はそこの内閣に民主党内閣でも自民党内閣で従うでし
ょう。」といった。


259: 名無しさんAA:17/06/23 22:06
これに対して日本のメディアは目を覚ますべきだ。例えば田崎史郎解説委員の様な説は
ちゃんと馬鹿と言うべきだ。前川前事務次官が事務官を辞めて告発している事がまるで
違反の様な事を言っている。「何故事務次官の時告発しなかったか。」と。こんな常識
もない人間はいない。通常の組織の人間で仕事が単一である事はない。特に内閣に於い
て色々のプロジェクトの中の一つで「一人労働組合」みたいな形の記者会見など出来る
はずもない。更に「普通の役所はその時の政権なり内閣の為に動くが 文部省は我々は
国民の税金で雇われた官僚だからその時の内閣が悪ければ正すと本気で言う。こんな馬
鹿な官僚は居ないでしょう。普通はそこの内閣に民主党内閣でも自民党内閣で従うでし
ょう。」といった。この時なぜ日本は法治国家でそう明記している。泥棒も殺人も内閣
に為ったらできると言う国にはさせない。と他の解説者や司会は反論しないのか。更に
元文科省の間違えたゆとり教育をさせた者とか。津波で原発の予備電源があるし何重も
安全対策があって事故にならない。と言った嘘つきばかりをTVに出すのか。大体今回
河村氏は22日、「彼女がかわいそうでもある。あんな男の代議士なんていっぱいいる
」などと述べていた事は本当の事ではないか。それを何故ニュースにしないで 死んだ
フリーアナウンサーの小林麻央さんがニュースなのだ。夫が歌舞伎俳優の市川海老蔵で
あったのは確かだが 芸能ニュースであって本当に国民に知らせるべきニュースは他に
あるはずだろう。


260: 名無しさんAA:17/06/24 09:01
  新ー私の番組評  02

 安倍首相は「深い反省」をわざわざ表明した。だがその態度は反省した様子はない。
これだけ問題ある国会審議に 言い訳のつかない官房長官の言い訳 判断と言えない都
知事の判断 これでは全く自民党は信用ならない徒党である。その上都民ファーストな
ど全く寓にもつかない理論である。計画があるから豊洲建設したのに計画を立てたから
方針を決めた。と堂々と嘘を言う。更に「築地ブランドを残す。築地を守る」などとは
笑い話にもならない。基本的に築地ブランドなんてものは存在しない。あるのはそうし
たハードパワーでなくソフトパワー人的資産マンパワーで出来たブランドである。なら
当然移転すれば新しい衛生的豊洲ブランドが上回るに違いないのだ。そもそもパリでは
すでに 2024に向けたオリンピックリーハーサルイベントを興しているのにその前
の大会である日本は 今だ市場さえ移動していないどころか この決断を正しいとさえ
欺瞞している小池知事である。思い上がりもはなはだしい。こんな馬鹿を誰が応援する
のだ。国恥世界も甚だしい。大きな迷惑な人間である。大都市東京を進める為の統治能
力も決まったイベントの遂行能力も 更に規定された法治能力や法守精神もないなら、
何故にこうした都知事に立候補したのだろうか。それは安倍首相も同じに なんら東京
や日本の為にならない。国民受けしろなどとは言わない。だが国民に解る答弁をすべき
だし 嘘が丸見えで自分の失敗を 前期の職員や議員が悪いと覆い被せて築地をすら知
らない癖に 豊洲が有害だ危険だと叫んでは扇動し 全く的外れな移転中止した責任は
重いはずだ。これでは東京オリンピック何ぞ出来る都知事ではない。もともと舛添氏で
も能力不足と都民は思っていたのに まだ遥かに低知能の厚化粧婦人が都知事になって
何を遅間遅間と五輪協議をやりだすかと思ったら過去の出来た結論のぶり返しのみとい
うのは 全く情けない話だ。TV局はなぜこう言う態度の都知事を違法行為と糾弾しな
いのか。


261: 名無しさんAA:17/06/27 21:58
トランプ発言より悪い安倍発言は一体なんなんだ。
国家戦略会議とはなんだったんだ。今までの一校規制は何なんだ
まるで国家方針がないではないか 首相は何でもやれると勘違いか


262: 名無しさんAA:17/06/29 11:44 ID:AHg
 民進党は 何を言っているんだ。何故安倍内閣の解体や総選挙を目指さないのだ。
政府要人 つまり要職を司る者は 自民党の選挙運動をしてはならないはずだ。
すなわち 総理は勿論大臣・副大臣・政務官 政府を形作る肩書を持つ者は、
一定の選挙運動ないし 一定の党の運動はしてはならない。事は憲法に記載している。
今や国会答弁も 選挙応援も 安倍内閣はこれを違反している。そこに党公認と党推薦
の違いがある。全くそうした法律を理解していない人間が内閣にうじゃうじゃいるでは
ないか。



263: 名無しさんAA:17/07/14 23:53 ID:LEM
 憧れのピーターラビットに捧ぐ  02

 収因の革命家とされた劉暁波氏が末期がんで死んだと伝えられた。哀悼の意を捧げた
い。我々は一体どんな時代に住んでいるのかを改めて突き付ける事件だろう。中国政府
は何の犯罪を犯していない[ 劉 暁波 ]氏個人を国家反逆罪として捕えて獄中に入れた
。形ばかりの裁判をして死刑囚としたのだ。この国家反逆罪が 今だ世界の中の国々に
あるのだ。これほど世界の国境が無くなった形の物流戦争が起きてる中で国家の法律が
証拠も無しに無碍の民を勝手に捕えて死刑にするのだ。まるでISILの公開処刑の様
に中国は行うのだ。これは凡そ国連安保理の席にいる国のする事ではない。直ちに国連
は中国への経済封鎖を米国やロシアにけしかけるべきだ。安保理の反対があろうが多国
籍軍であれば問題はないはずだ。そもそも 劉 暁波 氏の主張は2つだけだったはずだ
。一つはガンジー以来の「抵抗も非暴力で行う。」と言う事の徹底だ。そしてもう一つ
は「少数意見であっても意見を言う権利は認められるべき。」と言う主張である。この
二つに何故中国は国家反逆罪をつけるのか。この 劉 暁波 氏がノーベル賞を受賞した
時中国では 大きな嘲笑行為が起こった。一つは「彼は中国では犯罪者である。国際的
賞を与えるのに相応しくないし、与えるならば中国国家の承認が必要だ。」と言う表明
が公式に行われた事だ。つまり中国共産党の人民は自国の所有物であり奴隷であると宣
言したに等しい表明をしたのだ。二つ目は中国のノーベル賞として孔子平和賞なるもの
が何故か出来た。そしてノーベル賞より権威ある賞と自画自賛したのだ。これは嘲笑さ
れるべきものだった。劉暁波は天安門事件の時、学生と政府との交渉を主導した学生側
の一人だった。経済自由化が10年間行われた後の1989年に起きた天安門事件は、
自由化の過程で経済を私物化した共産党の役人たちの腐敗に人々が怒り、その思いを拾
い学生が集約して運動にすることで天安門事件が発生した。劉暁波らが08憲章での、
「共産党独裁をやめて多党制に移行すべきだ。」主張したのは、共産党独裁をやめない
限り中国の役人腐敗はなくならないと考えた結果と。


264: 名無しさんAA:17/07/15 03:34
 劉暁波氏について言えば「運が悪い」と他人事の様に言う事は出来ない。中国は凡そ
これまで3億の民を守る為として年間1千万人をも人を殺す事を目標として来た国だ。
それは1600年代の共産党スローガンにさえ現れている。そして公開処刑を数多く行
えと共産党幹部に訓示さえしている。その国が餓える事は当然だった。建設的生産活動
の出来る知識人を全て残虐に殺して来たのだから。そして日本はその国に手を差し伸べ
た。田中や中曽根の馬鹿首相である。その頃人道的見地からとか人の命は地球より尊い
とか言う大臣が多く輩出された。そうした人権尊重の戦前の戦中派すら手を出さなかっ
た事を分析や国情も考えずに行ったのである。2008年12月9日に中華人民共和国
の作家劉暁波らが 303名連名でインターネット上で発表した、08憲章提言をした
それには 中国の政治・社会体制について、中国共産党の一党独裁の終結、三権分立、
民主化推進、人権状況の改善などを求めた宣言文の形の提言書だったのである。それに
は 近代中国で大きな勢力は共産党と国民党の現台湾政府なのだが、いずれも党が政府
や軍隊を支配し「国家」という容器の中に「党」という容器が入っている重箱型の権力
構造としている。だが本来は国民党がある間は共産党は国家テロ集団であり正統性は歴
史上は全く無い。従って共産党は独裁でしか存立し得ない宿命にある。共産党も国民党
も社会主義政党である。アヘン戦争以来100年続いた混乱期に、多様で分裂し、貧農
が圧倒的多数だった中国を手っ取り早く国家統一するには、この社会主義的秘密結社の
党が独裁的に国家を支配する二重構造がやりやすかったからだ。


265: 名無しさんAA:17/07/17 06:32 ID:mog
 劉暁波氏について言えば「運が悪い」と他人事の様に言う事は出来ない。中国は凡そ
これまで3億の民を守る為として年間1千万人をも人を殺す事を目標として来た国だ。
それは1600年代の共産党スローガンにさえ現れている。そして公開処刑を数多く行
えと共産党幹部に訓示さえしている。その国が餓える事は当然だった。建設的生産活動
の出来る知識人を全て残虐に殺して来たのだから。そして日本はその国に手を差し伸べ
た。田中や中曽根の馬鹿首相である。その頃人道的見地からとか人の命は地球より尊い
とか言う大臣が多く輩出された。そうした人権尊重の戦前の戦中派すら手を出さなかっ
た事を分析や国情も考えずに行ったのである。2008年12月9日に中華人民共和国
の作家劉暁波らが 303名連名でインターネット上で発表し、08憲章提言をした。
それには 中国の政治・社会体制について、中国共産党の一党独裁の終結、三権分立、
民主化推進、人権状況の改善などを求めた宣言文の形の提言書だったのである。それに
は 近代中国で大きな勢力は共産党と国民党の現台湾政府なのだが、いずれも党が政府
や軍隊を支配し「国家」という容器の中に「党」という容器が入っている重箱型の権力
構造としている。だが本来は国民党がある間は共産党は国家テロ集団であり正統性は歴
史上は全く無い。従って共産党は独裁でしか存立し得ない宿命にある。共産党も国民党
も社会主義政党である。アヘン戦争以来100年続いた混乱期に、多様で分裂し、貧農
が圧倒的多数だった中国を手っ取り早く国家統一するには、この社会主義的秘密結社の
党が独裁的に国家を支配する二重構造がやりやすかったからだが、そうした時代が既に
終わっているにも関わらず かつての汚職や賄賂での甘い汁を吸った悪党には これを
手放す豪気さは全く無いずる賢い民族なのだ。これを隣国に置く韓国や日本、越国など
には 大きな迷惑国家である。盛んに内政干渉などと吠えるが自らの今まで行為をよく
考えて 本来の国家形成の政治である 奴隷国家から民衆のいる国に変わって貰いたい
ものだ。


266: 名無しさんAA:17/07/17 07:06
 憧れのピーターラビットに捧ぐ  03

 NHKの文化破壊は止まらない。およそ海外ではないにしても競馬やゴルフや野球の
中継を朝から見る馬鹿国民がこの日本に何%いようか。恐らく皆無のはずだ。逆に言え
ば本来皆無で無ければならない筈だ。日本はそんなに仕事の無い人や 余裕のある人が
居るとは思えない。なのに休みだ観光だと馬鹿げた政策の中に しれっと受信料を入れ
法案化した。だが庶民のTVを放送するに 逆に観光だ旅行だとしているからこそ労働
する人の為の放送をすべきであろう。さんざんオリンピックだサッカーだと放映権値上
げをしていながら 金が足りませんと言いながら8K開発など何と下らない事に金を使
っているのか。勿論8K開発は大事な事だ。であれば政府が全面支援した開発を行うべ
きで それこそ産業界挙げて東芝やシャープなどに下請けさせるべきであろう。日本で
の企業努力は涙苦ましい程だが2千年超えた当たりから全く何を考えているのか不明な
ほどかつての意志や自信のない方向に進んでいる。昨今の著作権にしても同じだ。何故
保存記録となる映像がインターネット売買に違法とするのか解らない。かつてビデオや
音楽テープを製作販売し同一メディアを目指しながら規格統一さえ成し得なかった政府
はいつからこんな社会主義的独裁方針に変わったのか。かつてソニーは米国で起きた、
この著作権の問題やプライバシー保護の問題で裁判でかなりの闘いがあった。日本では
全くこの争いをニュースにしなかったが ホームビデオの問題は音楽同様に個人の趣味
とする所では企業で無い限り自由な人権に処する。となった。これが世界共通の認識だ
。特別に悪質でない限り或いは最新の開催に妨害にならない限りに著作権は放映報道し
た途端に公益化すると判断したのだ。公衆の面前で布下した限り映画と同じく原版のみ
の著作権とそのキャラクターに限定されるのだ。勿論そこには相当の作品を尊重はされ
るべきとしている。つまり個々に判断される事案が一網打尽に違法とした違法を行って
いる。こんな馬鹿げた事を言うから日々木々や自然は失われるのである。証拠や遺品と
なる貴重な物を映像の形で残す事は大事な行為だ。それは国や企業だけでは出来ない。
国民のそれを大事にする意識が大事なのだ。民間TVも自分達の宴会芸でお笑い番組に
したり自らの後継者も育てないで芸人ぶったり有力俳優であったりしたらそれは亡国民
のやる事だ。


267: 名無しさんAA:17/07/17 08:02
 そもそも音楽でも映像でも著作権には相当の疑義と制約と責任がある。例えばグーグ
ルの映像でも裁判になったが その背景に誰が許可を得たか。の問題だ。ドラマが家具
を使ったとして その家具の職人から許可を取ったのかと言う事だ。美術館では写真を
禁止する程にその映像に著作権を言う。だが一般の例えば額に飾られた一般の絵には、
それが無いのか。それはある筈だろう。道を行く家々の映す風景にプライバシーの侵害
を言うなら 全ての家にそれがあろう。福岡の裁判でサクラ会の左翼ビルがゼンリン地
図に載せないと言う裁判で日本の馬鹿裁判長はその権利を認めた。国防を担う自衛隊す
ら地図に載せれるものを載せさせない権利があると判定したのだ。全く常識違いである
。これらは国民の平等負担の原理に違反する。何故裁判が出来る金持ちのみが優遇され
る事が出来るのか。貧困や格差是正を謳いながらまったくおかしな話だ。今労務改正を
しようとしている。だがこの安倍政権の不都合を隠し続け 都合のいい事ばかり発言す
る姿は 今や国民誰もが疑問視している。これは労働環境でも同じだ。あっちこっちと
ひねくりまわして これはイイあれはダメなどとしても結局は法逃れの違法行為の是認
である。正義から遠のいた世界を造りだすだけで 社会を何一つ解決させず却って世界
を混乱させている。一律の今までの法でさえ この労働厚生省は守って来なかった企業
を統制できないでいて 組合や国策企業内に政党の政治結社がある始末だ。全く能力の
ない省庁が更に悪さするだけで一向に日本の為にならないのは確実だ。もう少し法案を
止めてスッとした規制と助成の仕組みを作るべきだ。今の菅官房長官の発言は全くおか
しく、「出所や書き手の解らない怪文書」とされたものが 文科省から出てきただけで
公文書であろう。特に公官庁の公務員が 公務で使う公費で得た機械や紙に書かれた物
は 一律国文書ではなくとも公文書であろう。勝手に動き勝手に書いたから私文書とい
う事は出来ない。何故なら先の幼稚園問題でも参考の3つの契約書すら偽造行為とした
犯罪なのだ。省内文通が格段にその公文性を持つ事は間違いない事実だ。こうした権利
関係を全く間違え居るのが日本の現実だ。公務員や首相の権利は国民が持ってる権利で
あり公務員や首相にはその地位はあっても権利はない。更に音楽や映像でも文字でも、
似た様な表現があったとしても同じ記述や映像がコピーされてもそこには権利でなく、
責任のみが発生するのである。




268: 名無しさんAA:17/07/17 09:43
  自立主義を貫け  23    「何だ 癇だ 韓国。」011

 考えて見れば日本はいつの間にか金さえあれば何で出来る時代から 金を横暴に使う
時代に入ったようだ。それは国が進めた国際化の波によって中国から輸入された考え方
なのだろうが これは悲しいかな米国が興しただろう消費文明の側面で草木を愛でる眼
を変えてしまっている。今日本が観光客に人気なのはそうした自然を愛でる文化なのだ
が 日本人の方が全く無頓着に 土地改良や区画整理やインフラ事業など言っては全く
自然に似合わない 道路や家を頻繁に整備した。その結果がこの朝倉の洪水事件だろう
。全く自然に敬服しない姿勢の人間の社会行動が多くの自然災害を大被害にしている。
だがそうした被害でも命に関わる事にはドクターヘリを飛ばしフライトドクターを育て
10年20年と培ってたった一人の命を粗末にしないようリモートと言う映像共有まで
システム化した社会を作った。だがお隣の中国では逆に、留置所監視がありながら劉暁
波氏は病気に至り、危険思想などと言っては病院は治療どころか病状を悪化させ、死に
至らしめた。それらの姿は韓国でもセウォール号事故や地下鉄事故。公園事故やデパー
ト崩壊事故などを見れば、全く人の安全に配慮しない姿勢が見える。船を違法改造し、
運行に違法にバラスト水を捨て喫水線を上げ 過積載の荷物は固定しないままに出港し
、更にには救命ボートはワイヤーで止めて使えず、救急体制も避難訓練もないアルバイ
ター任せの運航で救難連絡も完備していなかったこの事故が 殺人運航であったのは、
間違いない事実であろう。更に救難に駆けつけた海洋警察や海軍の海難救助部隊が誰も
泳げなく近づかない中で民間船が幾人かの学生を助けたと言うずさんさだった。これは
日本にとっては衝撃的過ぎた。だが日本も笑っていられない。JR西日本の福知山線の
脱線事故では、先頭車は1階ピロティ部の駐車場へ突入。2両目はマンション外壁へ横
から激突しさらに脱線逸脱してきた34両目と挟まれて圧壊し、死者107名 負傷者
562名の大変な事故が起こっている。住民の機転で緊急押釦が押され接近中だった下
り線の特急「北近畿3号」が、僅か100mの手前で停止出来たのは不幸中の幸いだっ
たと言えよう。だがこの事故に関しても5つの営業違反がある。一つは工事して曲線で
ある曲率半径を小さくしたにも関わらず制限速度を変えていなかった点である。更に、
過密化する乗客に対して運転本数を増やす事で対応し時間遅れを厳しくし安全運行より
利益重視であった点だ更にこの運転手を奴隷の如く教習と称した罰則を設けていた点だ
。これらは確実に違法行為だが裁判ではその責任者をつまびらかにしては居ない。更に
問題なのはこうした安全軽視姿勢に一向に労働基準局は対処しなかった事だ。これでは
国民には理解出来ない政府としか言いようがない。韓国のいい加減主義と同じなのだ

269: 名無しさんAA:17/07/18 12:14 ID:XP.
所沢市は 何を馬鹿な事を言っているのだ。教師に対して
教師の権利や公民権剥奪など処罰をまだやってないのに
どうして子供が癒えるのか


270: 名無しさんAA:17/07/20 01:24
内村が座卓に乗って遊んでTVにしてる。こいつももうだめだ。
うっちゃんなんちゃんで品位あったのになあ TV干されて当然
PBOのイエローカードだろう

271: 名無しさんAA:17/07/20 12:46
  日本の現状10

 森喜朗(もり・よしろう)氏が口を開いた。相変わらず気楽なものだ。日本をこんな
債権国家にした自民党を担っていたとは思えない発言だ。この所こうした人間が実に多
い。全く人を育てない。タモリがNHKに出てるが まるで自分が赤塚不二夫先生や、
或いは立川談志の様な人達から可愛がられてTV出演に人を育てるというのが他人事の
様なそぶりだ。それはたけしでもさんまでも同じだ。大学の教授なんて言う人寄せパン
ダ役を昔なら殴ってでも帰らせただろう事を今は名誉の如くTV局は言う。大体肩書に
コリ過ぎだ。その分人物を見る眼がない。ショーンKなる川上伸一郎が多少の学歴ミス
があっても議員でも公務員でもないのでTVから干す事件じゃないがTVに出ない。こ
の変わった日本社会を変えるべきが 逆に今や加計学園問題の様に2代目3代目を重宝
して使用する。これこそが可笑しな話である。それだけ繋がっているなら周りに諫める
者がいて当然だが重石がないのでやり放題である。これだけ嘘つき人材を集めるのは、
一体いかなる理由かを政治は考えなければいけない。と昔からの難問のはずが全く他人
事の様に森氏は言うのだ。これは自らに原子力行政を進め、更に陸上に発電機置いてる
不備にも問題ないと突っぱねた小泉純一郎が今に至って間違いだったと懺悔の様に原発
反対の狼煙を揚げている様なものだ。「大事なのは政策の継承だ。今の政治家に迫力が
なくなった。かつては派閥をまとめるために派内で切磋琢磨し、他の人を支えながら、
自分がポストにつけば自ら光を放たなければならなかった。今は(親分がトップになれ
ば自分がいい思いができる)という人ばかり。だから(お友だち内閣)になってしまう
。」と言っているが全く違う。昔から派閥は親分を持ち上げる為の人材で、更に他人を
支えながら--などと頓珍漢の様な話をしてはいけない。議員が支えるべきは「国体」で
あり「国会の在り方」なのだ。この国会の運営方法や議事録の開示や人の人権保護に対
して全く改革や党規制をせずに 逆に国会より選挙制度で議員の数や党の勢力争いに、
終始して改革したのが 今の「お友達内閣」なのだ。その原因を創っておいてなにを今
更言うのか。更に言えばあのこすからい小沢氏などが 国会の良心的慣習規制を勝手に
法律がないからと 違法行為すれすれをして誰もが真似をし こうしてそうした権力の
持つ役得を貪欲に「票集め」「金集め」「支援者集め」に特化するからこうした嘘も又
良しとする政治になったのだ。基本的に国会がCMの場に変わった様な 審議で本質を
突かない様な討議は止めるべきだ。特に自民党の内閣称賛は一体国民の苦労は何処にあ
る。少しは森氏も考え 政治家とした行動を取るべきだ。TV局も議員OBをどんどん
tVに出演させればいいのだ。最も舛添要一の様な品位のない馬鹿では困るが

272: 名無しさんAA:17/07/20 14:34
NHKはちょっとおかしい。普通の民放TVなら 松居一代の夫船越英一郎が出てても
不思議ではない。だが公平公正を主張し 国民から視聴料を貰う国民TVが見たくもな
夫婦の痴話騒動がこれだけ長きに渡り ニュースになっていながらキャスターとして、
朝の放送を放映している。これは前代未聞の事ではないか。夫婦は今だ離婚していない
。つまり一体なのだ。これはこのニュースを終息させるか キャストとしての一時措置
を行うのが常識だろう。それはNHKからの排除でなくNHKの配慮として問題だ。も
しこれが配慮として出演させているとしたら もっと大きな問題だ。それならそれで、
ちゃんとした釈明会見が必要だろう。一方的離婚請求が認めないのは法律上でなく人道
上の問題である。日本での夫婦一所帯と言うのは 一夫一婦制と同じ常識である。日本
は米国ではない。NHKは、あくまで日本の放送局で日本の国民の為の放送局なのだ。



273: 名無しさんAA:17/07/23 05:20 ID:oxM
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実)

 この度アメリカ「アルファ・ベイ」を摘発した--ニュースでは- 米司法省は20日、
世界の当局と連携し、闇サイト「アルファベイ」を閉鎖したと発表した。同サイトでは
、違法薬物、銃器、ハッキングツールなどが売買されていたとされる。セッションズ米
司法長官はワシントンで会見を行い、アルファベイでは違法薬物の売買が可能で、米国
の麻薬問題の拡大につながったと指摘。史上最大の闇サイトを閉鎖したとし、「今年で
最も重要な犯罪捜査の一つとなる可能性がある」と語った。ジョージ・ワシントン大学
のサイバー・国土安全保障センターのディレクター、Frank Cilluffo氏は「アルファベ
イの摘発は重要な意味を持つが、モグラたたきのような状態だ」と語った。 犯罪者は
今後、他のサイトを利用するとの見方を示した。米司法省によると、オランダ当局は別
の闇サイト「ハンザ・マーケット」を摘発した。欧州警察機関(ユーロポール)のトッ
プ、ロブ・ウェインライト氏は、アルファベイとハンザ・マーケットは世界3大犯罪市
場サイトのうちの2つだと述べた。アルファベイの摘発にはタイ、リトアニア、カナダ
、英国、フランスの当局も関与した。7月5日には、アルファベイの創設者とされる、
カナダ国籍の男(25)がタイで拘束された。米司法省は、男が拘束から1週間後にタ
イで拘留中に自殺したとみられると明らかにした。同サイトは匿名化ソフト「Tor(
トーア)」を通じてアクセスされ、決済には仮想通貨ビットコインが使われた。------
 とニュースは流れた。が果たしてこれは一体何なのか。この所用無しとまで揶揄され
たセッションズ司法長官の久方ぶりのTVでの顔見せである。TVコメンティター達は
こぞってトランプの「お前はクビだ。」の発言が「ロシア疑惑調査には関わらない。」
と一線を退けた形でトランプの防御壁ににもならなかった為何時辞めるのだろう。との
声が高かった中の会見であった。「アルファ・ベイ」が匿名ウェブサイトで店を開いて
何でも市場になっていたのは確かだろう。だがタイで拘束中に自殺だとは不可解な事だ
。それに店が出ていて麻薬から、違法毒物、偽造身分証明書、銃器と言ったあらゆる物
を扱っていた悪者ではあったとしても米国に身柄引き渡しもないままに死亡というのは
よっぽど米国も、真相解明する気が無かったのだろうか。彼は言わば売人でる仕入れて
来る或いは資本を提供する。と言った黒幕がいたに違いないのだが今や解らずじまいの
ままで終わった。これは司法長官のミスではないだろうか。


274: 名無しさんAA:17/07/23 10:58
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 02

 聖路加病院の日野病院の日野原重明さんが逝った。105歳で夢のぴんぴんころりで
ある。多感な時代に戦争を経験した彼は 「戦争は報復から産まれる。」と言い切った
し、平和とは「命を守る事」として「平和を守る事」は「命の本質」と言った。「命」
とは「人に与えられた時間」と明快な答えを持っていた。そうした人生を生き抜いた人
の一人であろう。同じ新聞に一方では神戸市で、住民3人が殺害され2人重傷の事件が
起こった犯人が記事に載る。同居の祖父に殺人をした容疑者が逮捕される事件だ。竹島
容疑者は「できる子だった」と言われる。地元の小中学校を卒業し難関の工業高専に、
合格しものの中退し、物流の仕事に就いた後も、神戸市内の専門学校でコンピューター
のプログラミングなどを学び、同校ホームページに検定試験の表彰状を掲げる程の努力
家だった事が伺える。だが、卒業後に就職したIT関連企業では長続きせず退職し無職
の時期が半年続き、事件を起こした。とされる。よく人類は何処から来て、何処に向か
い進んで行くのか。と言う問いがある。この言葉はかつては意識をして言っていたもの
が今や物理的次元になり、縮小された感覚に変わったようだ。この所の事件として格安
飛行機の乗務員批判事件が多発している。日本でもバニラエアーでの障害者対応の問題
が出て来ていて考えさせられる。「陰謀論の世界」を考える事は流行を考える事と同じ
で、流行は結局大衆烏合の極致であり それは今の独裁政権や軍国主義或いは民主主義
に於いての支持率でもある。かつてと言うより今でもではあるが「ネオコン」が暗躍し
色々なジャーナリストや学者がブッシュ時代不審死した。ロシアでもプーチンが再度の
大統領に返り咲いて新聞記者や退役スパイが盛んに行方不明になった。陰謀論を信じる
人たちが指摘するのが、米国では、「アメリカ新世紀プロジェクト」と言うアメリカの
国際的な指導力向上を目標とした保守系シンクタンクの行動だった。その主要メンバー
に、ラムズフェルド国防長官、アーミテージ国務副長官、そしてチェイニー副大統領な
どの、「ネオコン」と呼ばれるタカ派がズラリと顔を並べる。このシンクタンクが出し
た提言が、「新しい真珠湾攻撃のような壊滅的で触媒的な役割を果たす出来事」で国民
世論を味方につけることができる。という戦略である。ロシアでも中国でも少なからず
自国の戦略には強硬論による国民の締め上げと強い待望論での支持の持ち直しを模索す
る。がこれこそが戦争のもとであり、日野氏が言う様に「復讐しない。許してやる事」
こそが人の生きるべき道だと言う。では陰謀とは何か、人はいずれ死ぬのである。では
その復讐心を試す事。その機会が陰謀なのか。そこには死をどう思うかが関わっている

275: 名無しさんAA:17/07/23 11:37
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 03

 「米共和党は、内政に関して、ばかげたことを言う人物を大統領候補に指名しようと
している」とグーグルマンは その選挙中からも発言していた。「最近はどこをとって
も呪術経済学とネオコンの幻想ばかりだ。それでも既成勢力はうわべを保ちて、それに
一役買うのを拒む人物が指名候補になれば、難しくなるだろう。重要なのは、トランプ
現象は共和党の既成勢力が支持基盤に対して働いていたペテンに脅威となることだ。私
が言うのは、「あの連中」のせいにして白人有権者一団が大きな政府を嫌うように導く
ものの実際の政策はどれも献金層に報いるものばかりだという「おとり商法」のことだ
。」とトランプが共和党のトリックスターである事を賞賛し「将来の歴史家は2015
年12月に世界で起きた最も重要な出来事は、パリの気候会議だと語るだろう。確かに
、パリでの合意だけでは、地球温暖化問題を解決するうえで、まったく十分ではないだ
ろう。だが、この会議が転換点となり、大惨事の回避に必要な国際的行動が始まってい
く可能性がある。また、そうならない可能性も残ってはいるが。だが我々は悲運に陥る
かもしれない。そうなったらだれが責任を負うか、おわかりだろう。共和党である。」
と述べた。「たいていの国、正確には米国とオーストラリアを除く全ての国の保守政党
は、排出量を抑制する措置を支持している。問題があることさえ認めようとしないのは
、米国共和党だけだ。」と強く批判している。だがこのトリックスターも金権に敗けた
ようだ。国連のグテーレス事務総長は、「持続的開発が紛争予防や平和維持にも貢献す
る。気候変動が、食糧不足や水不足、急激な砂漠化などを加速させている」と警告し、
各国にパリ協定を求めたし、顧問を務めるジェフリー・サックス氏は、脱炭素社会への
動きを、石炭・石油の化石燃料業界の「世界の最強ロビー」が阻んでおり、「21世紀
に生き残れない業界が生存をかけて抵抗中」「生き残れば、地球は殺される」と訴え、
彼らが「1億ドルを選挙に献金」して政界が共和党優位になったため、パリ協定離脱が
決まった。と社名列挙しながら「解説」した。「私はピッツバーグ市民を代表して選ば
れたのであり、パリ市民を代表していない。」と、ピッツバーグの労働者に寄添う姿勢
を強調してみせたが、ピッツバーグのペドゥート市長は市民を代表して決断したかの様
な演説に反発、「ピッツバーグは世界とパリ協定を支持する」と切り捨てた。地球の死
か、人類の死か。いずれにしても温暖化は現実に起こっている。人はこの急速な気候の
変動が緩やかにならなければ太刀打ち出来ない程の被害を被るだろう。これが人類滅亡
の陰謀だとしたら 彼らは宇宙人でなくてはならない。

276: 名無しさんAA:17/07/24 09:07
獣医学部であれば厚生大臣の出席を求めるのが筋だ。先の五輪の労働環境問題も、
何故建設業界だけこうした奴隷の様な環境の労働者でならなきゃいけないのだ。
大臣の資質がないか安倍氏の独断が強すぎて こうした国民の平等の権利を憲法違反の
まま違法行動しているのではないか。


277: 名無しさんAA:17/07/24 18:20
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 04

 不都合な真実の「神の見えざる手」やシオニスト連合の「世界政府論」やコミンテル
ンの「国際旅団の世界革命」やらが この陰謀論を支えている。何故だか地球温暖化は
捏造だ。と叫ぶ人は米英国では少なくない。米国では冬場には異常な寒波がやって来て
夏の異常な熱波は山火事や台風に追われて忘れてしまうからだ。更に「地球温暖化とは
陰謀論」と初めて伝えたのは、90年にイギリスで放映されたドキュメンタリー番組が
伝えからだった。「もしかしたら陰謀にもならないかもしれないが、温暖化に利害を持
つ者たちがこの説(温暖化)を広めているのは確かだ。科学者は研究費用確保のため、
メディアはストーリーがほしいため、政府は課税のもっともらしい口実を必要とする為
だ」と当時は伝えている。その裏には原子力政策があった。産業革命後の人間社会は、
エネルギー資源を必要とした消費社会で成り立っていい。その多くを化石燃料に頼って
いる。その為進歩する程化石燃料を使う。これで温暖化が進み、人間社会にとって害が
あるとすれば、それを防ぐ緩和策で、エネルギー資源を別のものに頼ることは、一つの
筋の通った理屈ではある。がしかし今日ではその原料の調達に二酸化炭素の発生があり
太陽光発電は最も効率が悪いとされている。その意味では利用できる電力当りの二酸化
炭素排出量が、原子力は化石燃料よりもだいぶ小さいことは確かだろう。それだからと
いって、地球温暖化に関する科学的知見が、原子力発電を推進したいという意志に依存
しているわけでもない。ハリケーン予知の先駆者グレイ博士は、地球温暖化はウソだと
一蹴している。「自然のサイクルを通じて再び地球は冷却化する」と言うのだ。博士は
、地球温暖化論は政府指導者・共産主義者・環境論者たちによる政治的プロパガンダと
主張している。此処に「ホッケースティック論争」の遺恨がある。古代気候学者の第一
人者マイケル・マンは、木の年輪から過去千年以上の気温変化を見積もった結果を発表
した。その気温変化が19世紀以降の急激なカーブを示していたため、その気温変化の
曲線が「ホッケースティック曲線」と呼ばれるようになった。この見解はセンセーショ
ナルな事だ。あらゆる分野でメジャーや国際金融などがこの論文を叩いた。それは現代
の進歩に急ブレーキを課す恐れすらあったからだ。この時著名な科学者は雇われ学者と
して多くが そのデーターが改竄されていたという疑惑をめぐり論争を引き起こした。
結果多くの批判者からの指摘を受けて訂正したが その大局は変わらなかった。結果的
に誰の言うことも正しく、更に客観的データの検証からは1900年を境に極端に温度
や二酸化炭素の排出が多くなっている事実は変わらなかった。

278: 名無しさんAA:17/07/24 18:21
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 05

 この陰謀論の元は紀元前からの「アルカディアの船の生き残り論」である。カニバリ
ズムと言う人体食趣は究極のタブーであるが、かつて食人慣習は、社会的風習として、
宗教的儀式として、あるいは薬効として、その地域の文化と密接に関係し、根付いてい
たとされる。現代において食人は、究極の犯罪とされているが、その現代でも広義的意
味でのカニバリズムを行った事例がいくつもある。人間が人間の肉を食べる行為や行動
、食人性格はカニバリズムとも呼ばれ、その起源は相当古い。後期旧石器時代に多くの
洞窟壁画が描かれるよりもずっと以前、すでに先史時代から、さまざまな場所で食人が
行われていた可能性のあることが明らかになっている。進化論を扱う研究者のルイス・
ペトリノビッチによれば、人間は飢餓状態にあるときカニバリズムを行うが、これは生
き残るために備わった適応形態なのだという。生存的カニバリズムと呼ばれるこの行為
は、大規模な飢饉においてよく見られ、通常は有している食人に対する嫌悪感を克服し
て生き残るための基本的な本能である。と判断している。今のLIBTの走りであろう
。性倒覚者はLIBT又はGLBTと呼ばれ、女性同性愛者(レズビアン)男性同性愛
者(ゲイ)両性愛者(バイセクシュアル)、性質混同者(トランスジェンダー)の各語
の頭文字をとった表現とされる。この言葉は性の多様性と性のアイデンティティからな
る文化を強調するものであり、性的少数者と同一視されることも多いが、LGBTであ
れ性障碍者であれ性の末法概念である。この限定的かつ肯定的な非産出概念である中に
は理性の無い極めて不遜な社会行動と自己の人間的自戒概念が少ない事にある。およそ
人の持つ攻撃性と防御して共有共和の社会の建設には二律背反の思想位置にある。攻撃
や敵を創る行為は種の保存行為であり又共有し共和の共生社会の譲り合うのも又種の保
存で成り立つ欲質行動なのだ。だがこの二つは二者択一の中には入らない。人は狭間で
しか生きて来ていないからだ。ここに「自己の人間的自戒概念」の必要性がある。人が
人を愛する仲間になる。これは近代社会の素とはなっている。だが汚職や身内重視或い
はお友達内閣、親族の経営や国家経営など政治的となれば別だ。これが今何処の国でも
起こっている。此処に「敵対行為の同志思想」と言うナチス主義がある。「不逞の絆」
と言われる敵創りは、一番安易な国内統一法であった。この古典的な手法は人類の敵と
されていたのだが、ところがそれでも今北朝鮮はおろか先進各国の軍事パワーの源とな
って息づいているままだ。つまりアテネの民主政治が起こった時代から全く進化がない
と言う訳である。

279: 名無しさんAA:17/07/24 18:21
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 06

 紀元前492年の頃、ペルシア支配下になったギリシア人が反乱をおこした。イオニ
ア地方のミレトスという一地方都市ポリスがペルシア帝国に制圧されてはいたが反乱を
をしてアテネ側に着こうとしたのだ。時のペルシア大王はダレイオス一世は激怒しすぐ
に鎮圧された。これはペルシア王朝の絶頂期だった。アテナの支援で細々と生きていた
ミレトスはかなりアテネに近く更にアテナは第二の民主政治に入っていたからだ。断続
的に幾つもの戦闘があったが最初の大きな戦いが オリンピックの元になったマラトン
の闘いである。エーゲ海に突き出たアッティカ半島の、アテネとは山を越えた反対側の
海岸にペルシア軍3万人が上陸してきたのだ。対してアテネ軍は他のポリスからの応援
もあってギリシア連合軍として合計1万の重装歩兵で迎え撃ったのである。アテネ軍の
死者は192名、ペルシア軍は死者6400名と痛手の中でこの上陸した兵を追っ払っ
た。そして船に逃げた兵がマラソンに着く前にアルプスの山越えしてアテネまで戻って
防備した。と言われる。この時スパルタは、満月以前に出陣してはいけないという掟に
従って出て出陣はしていなかったと言われる。こうしてマラトンの戦いに勝利を得て、
この結果をアテネに伝令が走ったのがマラソンのルーツとされる。こうして負けたペル
シャでは少人数での陸上戦は勝てないと知り大軍の船による攻撃を計画する。ペルシア
軍は、このあと船の輸送の増強にかかって10年かけて多くの造船をした。ギリシャの
方は出陣しなかったスパルタに強い期待がかかった。その上デルフォイ神殿の巫女さん
に次の闘いにお伺いをたてている程の神頼みであった。その時の神託は「町も神殿も焼
け落ちるだろう。しかし、木の壁に頼る限り、難攻不落である。」とのお告げでアテナ
側もアクロポリスの丘を木で砦を築き、この日に備えて大量の軍船を建造していった。
こうしてギリシャの大木は無くなっていった。当時の軍船は舳先に鉄をつけ櫓を漕いで
ぶつけて沈めるか火矢で囲うかしか無かったと言われる。従って櫂の漕ぎ手が多い程早
く大きい船だった。アテネは一艘に3階式の180人の漕ぎ手が必要な船で200隻の
軍船を用意したと記録される。船の漕ぎ手だけで4万人である。こうして 10年後に
サラミスの海でペルシアと対峙したのである。テッサリアに侵入したペルシア軍に対し
、ギリシア軍はアルテミシオン沖に海軍を、この地にスパルタ王レオニダスが配下の約
7000人のギリシア連合陸軍を指揮して防衛線を敷いた。


280: 名無しさんAA:17/07/24 18:22
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 07

 こうして、テルモピレーの戦いとアルテミシオン海戦が同時に行われた。それは兵員
輸送と共に行われたからだった。場所はトラキアと言うペルシャとギリシャの境界だが
今の地図ではトルコの対岸ブルジア沖とされる。先の戦いに出陣しなかったスパルタに
強い期待がかかった。30万の陸軍に海軍1000隻の兵力に、ギリシア軍7000に
200隻が迎え撃った。圧倒的な戦力差にも関わらずギリシア軍は果敢に戦い優勢であ
った。が、陸上では最終的に背後に回り込まれて敗退した。テルモピレーは「熱い門」
を意味していて、細い坂道の街で峻険な岩山が海に迫る間に通じた隘路であったので、
数列の縦隊しか行進できない場所だったからだ。だが内通者が間道を教えたため、王を
始めスパルタ人は無残にも「玉砕」し、他は退却したという。それでもよく戦ったとい
う。スパルタ軍とテスピアイ軍は全滅するまで戦い、ペルシア軍を3日間に渡って食い
止め、猛将クセルクセス兄弟を二人戦死させたからだ。この、スパルタ軍の勇猛さと、
地形をうまく利用した戦術は後々まで称賛された。その後テルモピレーの防衛線を突破
したペルシア軍はギリシア本土に怒濤のごとく進撃をし、都市国家はどんどんと攻略さ
れていった。しかし海の戦いでは勝手知りたるアテネ側はまんまとペルシア海軍を狭い
サラミス湾に誘い込み勝利した。アテネのすぐ沖の海で、海流や暗礁がどこにあるかを
知って利用したからと言われる。こうして最後にこのサラミスの海戦でペルシアは負け
まい兵糧運搬が出来なくなって、結局はアテネは勝ってしまい、兵士が足りずこの船の
漕ぎ手として農奴平民を船に乗せたことから融和は進んだ。この戦争を通じて、兵士を
祀りながらも、武具を買えない貧乏平民も政治参加できるような民主主義を確立した。
その後はこの民主主義の確立と共に4つの問題が起こっていた。一つは漂流した船で、
カニバリズムで食を得て助かった事例だ。この船がついた処が今のアルカディアの地で
理想郷と言われたと言う。この時生きてた者は、戦争から何ヶ月後に助けられた兵士だ
ったが、仲間の人肉を食して生き延びていたのだ。これが「アルカディアの船論争」で
あった。つまり「極限状態でも人は人を食べて生き永らえても罪となるか。」である。
更にこの船作りを進めてアテネを救ったとされるオストラキスモスが英雄として名声が
上がったが、ペルシャと通じて勝手に手心を加えていたと言う裁判が始まり、一般市民
が帝王なり国王になれるかと言う、「治世能力ある者の僭主の出現問題」である。そし
て階級闘争に明け暮れた「集団討議の陶片追放問題」(村八分による国外追放問題)で
ある。これは都市国家がそれぞれ独立していたから連携して犯罪者を捨てれるかと言う
問題だ。

281: 名無しさんAA:17/07/24 18:23

 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 08

 この三つの問題は 紀元前のものだが現代の問題と全く同じである。つまり1つは、
何処までも違う世界に行っても「人道の道徳論」は不偏である筈で、罪人は何処までが
罪なのか。の問いである。人の持つ生理と社会の両立こそは道徳の織りなす環境である

282: 名無しさんAA:17/07/24 18:24
。では極限状態でもそれは可能かと言う事で8つの答えが用意されたと言われる。二つ
目や三つ目の問題の答えはアテネで起こっていた社会変革である。それは今でいう革命
だった。多くの都市国家はこれまでの都市国家間の戦争から自ずと階級が出来ていた。
王が居てその下に国家市民がいて下層市民がいて奴隷が居る制度だ。スパルタでは市民
と言われるのは市民権を得た者で当然国民以外は認めて居なかった。そして女性は子供
を産む奴隷で権限は無かった。市民でも子供が産まればその時から管理が始まる。男も
女も集められ集団生活の中に鍛えられる。13歳になれば成人として奴隷の中に一人出
されて、食を得る為には奴隷(と言っても農奴であるが)を殺してもいいと言う制度で
生き残る事でこれらが30歳で家庭を持つ事が許され兵士となる。それでも食事だけは
男同士の食卓が規制され、ある意味男同士の集団生活が市民権の条件であったのである
。こうした制度は奴隷からすれば短剣を持った下層市民がウロウロしている生活で抵抗
すれば殺されても良い状態だったし、下層市民に落とされた少年兵も又、いつ抵抗され
てもいい中での暮らしだったのだ。下層市民は国外からの移民も多くいたと思われ女性
は奴隷のままだった。こうして30歳を過ぎてやっとスパルタ人と証明されると市民権
である選挙権や発言権を得ていた。だがこの戦いでスパルタ人兵士は壊滅した。アテネ
では既に王はいない状態であったがこの戦いにこの貧民が18万奴隷11万が活躍し、
兵士としての陸上戦に活躍した多くの者は死んでしまったのだ。こうして第二の革命と
言える貧民も入れた直接民主政治が出来上がった。こうして市民18万人の中で、この
民会に参加できる成年男子人口は4万人に増えたのだった。奴隷も入れて全人約30万
人中では4万だけが参政権を持つ市民が集まり年間40回ほど開かれた。その中で英雄
オストラキスモスが名声を得る事に討論が行われたのだ。もう一つが、アテネの政治の
特徴であるのが、公職担当者を抽選で選んだとされる点である。今で言う 総理大臣も
裁判官も役人もくじで選んでいたと言われる。くじに当たったら誰でもそれをやる事に
なっていた。だが無能な者が将軍になって戦争に負けたら取り返しがつかない。だから
将軍職のみは選挙で選んだ。ペリクレスはこの将軍職に15年連続して選ばれたのだが
このオストラキスモスの名声は政治闘争に発展したと思われるのである。アゴラという
広場に集まって「陶片追放」「僭主の出現」と言う「国外追放についての意義」や僭主
と言う「血筋の無い身分を超えて君主となる者。」僭帝、僭王による政治「僭主政治」
に正当性があるかとされたのだ。


283: 名無しさんAA:17/07/24 18:25
 こうして民主主義が出来て、専制君主制を経て立憲君主制が出来上がる歴史が出来る
のだが、此処にあるのは人の持つ生存権である。専制君主制は都市国家は君主の専断に
ゆだねられていた中で市民生活が行われる事が常識化常態化していたのだ。君主は主に
三つの理由で専制化していた。一つは日本の様な国民の家長としての伝統や血統からの
地位として収まる形だ。二つ目は神の意志運命としての支配である。予言者や中国王朝
などがこれだった。三つ目は実力として英雄や国民の熱望での支配である。そして支配
は領土および臣民が君主の世襲財産であるとする考え方でナポレオンや北朝鮮に垣間見
える。この中に最も問題とするのがそうした事に囚われないユダヤ教の大胆な主張であ
る。かつてユダヤ教徒やユダヤ人は一夫多妻で多産奨励、教徒内婚姻を維持してきた。
ユダヤ人はユダヤ教徒だがユダヤ教徒がユダヤ人とは限らない。日本の天皇は父系父子
で継がれたものだがユダヤ教徒は改宗者の受け入れや奴隷との婚姻を認めていた。だが
ユダヤ人とは母系母子の伝統を受け継ぐものがユダヤ人であった。つまり割礼を受けた
男女のみの子供だけがユダヤ人だったのである。そして女子の場合には12歳、男子の
場合13歳になると成人式「バットミルバ」「バル・ミツバ」(義務を負う人)の儀式
が信者内で行われる。そして最低10人の成人男子の出席が必要とされる。更に死者に
ついて、人間の創造の物語が「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き
いれられた。そこで人は生きた者となった。」(ちりは時に「風」や「霊」とも訳され
る。)そして「ちりは、もとのようにちりに帰り、霊はこれを授けた神に帰る」(伝道
の書)と創世記を約している。又この宗教が「メシア(救済者又はキリスト)が地上に
現れ、地上が、メシアの国になる日を祈っている」宗教で、未来になってこの世におい
て実現すると考えているのである。唯一神ヤハウェを神とし、選民思想やメシア(救世
主)信仰などを特色を持つユダヤ教だが多かれ少なかれキリストもイスラムも同じ経典
を使っている以上似た様な解約に基づいている信仰である。この現実に生きる世界の中
に理想の国をつくることを願って、そのために地上での生き方を教えています。メシア
が地上に現れ、地上がメシアの国になる日を祈っていますが、時間的に未来の事であっ
て、あくまでこの世において実現するとしている祈りだ。此処に「シオニストの陰謀論
」の原型がある。自ら世界と隔離し選民であるとして人と繋がらない姿勢でいながらも
、現実には生活も布教も利益もその人生の全てが 外の世界に依存した世界観である。
先の都市国家が自らの兵士を作り育てる際に行った 仲間を監視社会に入れた「理想郷
の建設倶楽部」を造り倶楽部員以外は奴隷であり言葉をしゃべる家畜である。と言う考
え方だ。従って騙しても殺しても食べてもどうしても良いと言う宗教観は 近代国家の
法と対立し現代に至っている。

284: 名無しさんAA:17/07/24 18:25
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 10

 この宗教観に「シオニストの陰謀論」がある。更に此処には深い人と集団の関わり合
いを示す歴史がある。この宗教と一体化する事で差別社会を産み 差別の下位層に若者
を入れて強くする行為は教育とみなされるが、現実は詐欺や殺しも良いISのやり方で
結局は古典的ナチス主義の再来である。では宗教と国家の対立はどうか。日本では今や
腐った僧侶の勝手な布教で日本人が腐った中にいる。これがユダヤの世界支配戦略―「
見えざる世界政府」の脅威であるとも言える。経済活動にカマ掛けてつい非人間的行動
に賛意する形だ。よく言い回されるのは、「世界貿易センター(WTC)で働いていた
4千人のユダヤ人は、前もって警告を受けていて当日出勤していなかった。」というも
のです。「911のときに、ユダヤ人はWTCビルにいなかった。これこそ陰謀の証拠
である。」というのだそうです。ユダヤ人だけいなかった。911自作自演説は、最も
妥当な結果である。何処の国でも触れているが、イスラエルないしユダヤの陰謀である
とされる事件の最もな例の事件である。これは、ちょっと考えれば、ありえない。とも
思うかも知れない。だが現実にアメリカ合衆国に在住する、ユダヤ人達は、最終的には
一つのコミュニティ集団を作っている。ユダヤ人だけが使いうる情報伝達手段などは、
ある種我々が作る友達コミュニティと同じで、ある種PTAの会合や何処かのクラブと
全く同じだ。仮に、とあるユダヤ系住人が、テロの情報を知りえたとしたら、まっさき
に教える相手は、家族や親戚とか、ふだん親しくしている、友人や知人でしょう。単に
、祖先がたまたま同じ宗教を奉じていた以外に、何ら共通点のない、見ず知らずの他人
を優先して助ける理由など、どこにもないことだ。こうして「アルマナーテレビ」とい
うレバノンの衛星放送局は、堂々と同志が無事であることを放送している。こうも大き
く犯罪が行われるとさすがの米国も手も足も出ないらしい。ましては日本では選民思想
の凶悪化を目にしないし、教徒と民族と国民と国家の違いを理解するのは難しい中にあ
る。アメリカ社会に凶悪犯人のジャック・ポソビエクというのがいる。ピザゲートの真
の犯罪者でトランプ選挙で「クリントンの慈善団体がピザ屋で麻薬を販売している。」
とフェイクニュースを流し 善良なピザ屋が熱心なトランプ支持者に鉄砲で撃たれ死亡
した事件だ。これが陰謀論の本質でもある。つまり「ユダヤ教徒は何も悪くない悪いの
はナチスでありヒットラーなどの戦争した凶暴な者達だ。」と言う理論だ。原爆を創っ
た物理学者じゃなく落とした政府に責任がある。と果たして言えるのか最初から進んで
殺人兵器開発に手を貸していて、それは呆れたいい訳だろう。

285: 名無しさんAA:17/07/24 21:44
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 11

 よく陰謀や策略には理由や目的があるとされる。この陰謀論には何の目的や意図或い
は未来はあるのだろうか。実は無いと言える。そも核兵器問題でも言える。米国科学者
が核爆弾を造るのに「ナチスが先行して作っている」と言うデマで造られた。だが米国
のこのデマも又米国が「唯一の核所有国」としての地位を得る為だった。つまり日本は
単なる実験場だったのである。だがこれらの一連の作業は一体誰が何故行ったか。米国
の年間予算の6億ドルの予算とその十倍の借金で作られたのだがこの膨大な予算の結果
此処で起こった「覇権国家主義」は10年間の強腰外交で終了したのみだ。その後は皮
肉にもその結果からソ連英国仏国中国と次々に実験成功にこぎ着けた最終兵器のツァリ
ーボンバーまで産まれたのだ。この時に科学者に産まれたのは母国に対する不信感であ
る。凡そ人間的でないその開発に多くの人々は日本兵以上に、事故や病気や強制労働に
悩まされていたのである。原爆の実験は日本に勝ってからも続けられより確実な強力に
なってロシアで最大の物が作られ、実験でさえ持ち運びや取り扱いが危険とされ終わっ
た。この時ゲーム理論が破たんした。ゲーム理論によれば、「核戦争を始める事は破滅
的な行為なので、理性を持った国の指導者は、わざわざ核戦争に突入するような事は、
しない。と考えられる。しかしながら、もしある国が初期攻撃で敵国の報復能力を完全
に破壊することができるのであれば、そのとき両国のパワーバランスは崩れ、核戦争は
安全に遂行できることになってしまう。」と言う物だった。MAD理論はこうして軍事
に「有効な脅迫論」から「諫元化モデル」とされ「核抑止論」としてもてはやされた。
だが実際は「使えない核攻撃」はその管理の費用に於いて膨大な人類の資源ロスと赤字
損出を産み無用の長物化していた。それはその廃棄核にしても同様だったのである。そ
れでも能天気に、イギリスの首相チャーチルは、核戦争についての明白なパラドックス
を称して「物事が悪くなればなるほど、もっと良くなる」と言ったのである。つまりは
相互破壊の危機が大きくなればなるほど、それを使用することができないために、世界
はより安全になるという訳である。そしてそれは軍産体の宣伝文句の「初期攻撃能力を
得よう」というスローガンで「我々はそれを何としてでも防がなければならない。」と
さかんに議論され「ミサイルギャップ」や「爆撃機ギャップ」などの論拠を得て各国は
数千発もの核兵器を生産したのである。こうして ロシア八千発、米国で七千発 中国
二千五百発、英国三百発、仏国二百発の核兵器の保有と思われているのである。だが、
それは まともな指導者がいると想定した話に過ぎなかったのである。

286: 名無しさんAA:17/07/25 00:44
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 12

 こうして陰謀論とは結局は国家を潰し、人類を破滅させる方法として編み出された物
であり、その中で自分だけを何とか人の情や欲望に抜け道を見出そうともがいている事
に過ぎない中、今だ見つけ出せないで時間が2千年もたってしまったと言う話である。
面白いのは日本人がこうした事でアニメ漫画を発展させた事である。手塚治虫も石森章
太郎もその後の日本の漫画界はその殆どはこの戦争と原発の衝撃とを受け止めた漫画を
色んな視点から見てヒットさせている。この漫画の世界の分析の一つにヒーローと悪の
組織の比較論がある。笑えるほど悲惨な人間の性が見えるので此処に書き留めた。

TVヒーロー分析による 正義の味方−−−−と悪の組織   の違い

自分自身の具体的な目標が無い   −−−−大きな夢、野望を抱いている
相手の夢を阻止するのが生き甲斐  −−−−目標達成のため研究開発を怠らない
常に何かが起こってから行動する  −−−−日々努力を重ね夢に向かって手を尽くす
 受け身の姿勢          −−−−失敗してもへこたれない
 単独 少人数で行動       −−−−良く連絡し組織で行動する
 いつも怒って戦いに出る     −−−−余裕と高笑いで退場する
自由にいつでも正義感で戦える   −−−−上司の命令で動く規律正しい行動する

 今我々が悪の組織に属するのかと言う程 軍隊的社会の裾野にいる事が伺える。現実
に即して言えば、我々はこうした弱者への配慮によって 仕事を無くす事を行えるだろ
うか。世界はフェイクニュースに溢れている。木村太郎が言う様に、幾つもの新聞を見
てその自分の正しい判断を行う事が出来るだろうか。それは出来ない相談だ。コンピュ
ータープログラムの年金記載のやり替え問題に色々原因を言っている。それは仲介者の
イベント掌握者が居ないからだ。と結論づける。だがそれは政治家も、プログラマーも
意識不足である。TVキャスターも世界や自分の足元を見ていない。それが今の日本だ
。破壊に突き進む陰謀に敗けているのである。フランスのマクロン選挙では そういう
意味では、莫大な労力と努力でこの間違った情報を正そうとする人達の姿があった。こ
の姿が日本にあるだろうか。かつかつで経営し 放送電波すらCM垂れ流しを良しとし
て人を奴隷の如く扱う日本社会に 果たして未来はあるのだろうか。


287: 名無しさんAA:17/07/29 11:07 ID:AHg
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 13

 今世界中で一番注目しているのはトランプ大統領の動向であろう。成程世界中の中で
最強の軍事力や影響力を持った国の大統領である。これだけ問題行動しすれば注目しな
い訳には行かないだろう。だがこの大統領は数々の国内の道徳的アメリカの基準を破っ
て共和党の中枢まで入り込んだ上に 更に今では政権前のロシアとのコンタクトで諮問
委員会の調査を受けている。ロシアにしてみれば予定が崩れた格好だろう。だがよくよ
く考えて見れば、米国もロシアも一体その覇権国家或いは大国として何がしたいのか。
相変わらず米国はゴリ押し外交を同盟国にまで迫り、ロシアは苦手な外交努力は怠って
身内のクリミアを強襲して手に入れた。これらの事は自らの国内での人気取りに過ぎな
いものだ。本来今両国とも一番心配するべきものは中国の台頭の他にはないはずだ。今
まで守って来た世界秩序や情勢は中国無視の中発展して来た。が今や天然資源を食い尽
くし、厚顔無恥にも今だ公衆道徳の教育を施さず、一党独裁軍事拡大の元に経済政策で
は旧態依然とした他国に対する高利貸で生き抜こうとしているのだ。が これを批判が
できる程ロシアも米国もまともな事業や歴史を重ねてはいない。そして今や米国の乗っ
取った大陸での自由主義国家のスローガンを捨てて、多民族社会を止めようと もがく
結果を産んでいる。今やグローバルファイナンスを独自に行おうとまでしている。この
中国に一体どれだけ世界が持ちこたえるかは気がかりだ。恐らく他の国に取って中国は
イナゴの大群と同じである。かつてのアフリカや南米に於いての西欧列強の位置である
。これは非常に危ない話である。16世紀なら兎も角これだけ発展し核兵器さえも備え
た世界で 前近代的な考え方はかなりの崖っぷちの話である。かつてのブッシュJrが
中東に戦争を仕掛けた様に いつどこで何が起こるか解らない。そして中国自身もその
その原因さえ分析出来ない組織では収拾を行う手立てを持たない国なのである。米国も
又今だ民主主義に収斂した国家ではない。その経済的繁栄の前に 貿易も外交政策にも
自由解放を進めた世界政府を目指すのか、孤立化した小さな政府の大国と変わるのかを
決めかねているのだ。そうした中で資本主義投資社会の消費文明を中国に与えたのだ。




288: 名無しさんAA:17/07/29 16:52
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 14

 陰謀論の世界では一体何を以って「正義」であるかが非常に大きな主眼問題となる。
 かつて昔のソクラテスからプラトンから今のはルパート・クロスやマイケル・サンデ
ルやアマルティア・センなどと言う哲学の流れの中でも 常に永遠のテーマとなる存在
だ。今や発展し変貌する中国に於いてトッラク運転手は激走暴走をくり返す彼らは生き
る為生活の為の運送業だが配送発注者は競争利潤を追い求める。そしてトラック運転手
は「俺達は美味い匂いに誘われる 何処までも彷徨う野良犬だ。」と言った。ここでの
問題は人は通貨経済を作り上げたが人は通貨経済では生きてはいないと言う現実だ。各
自にその現実と向き合った生活しか出来ないのだ。それは貯め込む事の出来る通貨は、
価値基準であり商品ではない事を示す。それは商品が如何様にも低下もし高価になる事
を示していた。だが人は服も家も食事も一定以下には出来ない。ましては通貨の元とな
る道具に至ってはその価値は変化するには乏しい高価なものだった。その為日本人は、
その道具を大事にしたし、その食卓を大事にして来て今日の進展を見せていた。だが今
独特の社会変革に戸惑う庶民を尻目に金満家は競争して集めた金により常識のない格安
の品物を提供しだしたのだ。人々の勘違いはここから始まった。安い品物が幸せを産む
安い生活をさせると信じたのだ。だがそれには不幸にも安売りの労働コストの存在だっ
たし過当競争の過激化に他ならなかった。つまりそこに正義は無かったのである。では
何が正義なのか。自然界の中には「弱肉強食」はある。だが例え小鹿や牝牛でもライオ
ンや虎を殺すこともある。そこにあるのは「正義は正義を産む物である。」と言う事実
である。「笛吹けど踊らず物語」がある。笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。(マタイの福音書11章17節)一人の
笛を作った職人から笛を仕入れて売ろうとした男がいた。一本しかない笛に笛吹きが買
いに来た。だがその時に金の足りない子供に、これは売らないと言う商売人が争ってい
る最中だったのだ。能力ある笛を吹ける人に売る事を「効率主義者」と呼び 先行した
金の足りない貧乏人に売る事は最も常識的な「平等主義者」とし、もう売らないとした
業者は「利己主義者」とされた。日本の断捨離主義者ならシェアリングするとでも言い
たげだが、問題はその使い方の方法ではない。その笛を造った者の意志なのだ。ヨハネ
は荒野でイナゴと野密を食しながら生活するという世捨て人暮らしをしていた。ヨハネ
は彼を慕ってくる人々に荒野で神のメッセージとしてユダヤ人にイエスの事をこの言葉
をして語った事なのである。

289: 名無しさんAA:17/07/29 17:55
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 15
「驕慢、無責任、出世主義、一匹狼の年若い職業軍人の充満する満洲国への出向三年の
宮仕えが、ホトホト厭」これは 戦時中ユダヤを救い 今や5万人の子孫がいるとされ
た、南京のシンドラーこと杉原千畝氏が満州国外交部を辞任した時の気持ちだ。当時の
大東亜戦争の最中にあってこうした気持ちは彼一人ではない。更に言えばユダヤ人を助
けた事も彼一人の成果ではない。だが彼が居なかったら助ける事は出来なかっただろう
。彼が満州鉄道の利権交渉の成果を得て辞めたのは日本は二・二六事件、軍の政治介入
が続いた事はその時の世情を変えられない為だった。かつて、アジアが白人諸国に侵略
される中、異国船打払令を出して開国を拒否し続けていた日本も、度重なる非武装船へ
の発砲事件や、かつての強国清(中国)がアヘン戦争で負けたのを目にし、アメリカに
よって強制的に開国させられ、不平等条約を締結した。アジア諸国の殆どは、白人種が
搾取するだけの植民地となった。国力もない日本が他のアジア諸国のように植民地にな
るのは時間の問題で必至だった。同等の国力を付けて欧米列強と対等に渡り合う道を選
んだ日本は、国力=経済力を付けるため国民一丸となって富国強兵・殖産産業で大国化
を推し進めたのは間違いない。この結果、現代と同じく、安い日本商品は不公正競争と
非難を浴びながら、欧米列強の世界市場のシェアを奪うようになって、自由経済を白人
以外に認めたくない欧米は、日本の製品に対する高い関税障壁、輸入割当制限など日本
製品の締め出しと規制を強行しながら、一方ではアメリカ製品などには無関税などして
不公正経済を展開していった。そもそも植民地の存在すらしなかったアジア諸国に、一
同に自由経済を共栄圏として多大なインフラを整備し、欧米列強と共存しようとしたそ
の政策は途中の欧米列強の介入があるまではまともだった。この日本のやり方には、今
までに欧米列強から教わった国際関係の規則を、実に細かいところまで几帳面に守って
いたと、戦後の欧米の研究者は賞賛している。がこの杉原千畝が辞任する頃には国民を
教育せず戦場まで引き入れ日露戦争以来の軍閥の横暴が日本のその切迫した国情で蔓延
してしまっていた。19世紀前半にヨーロッパで独立した欧州の小国群の例でも分かる
通り、当時に小国独立にとっては、列強の勢力均衡が重要な鍵だった。日本への列強の
外圧は中国に比べてかなり弱く、列強の関心は日本の10倍の人口20倍の国土がある
市場として大きな中国大陸に集中していた。その大陸の東方の小さな島国が、北方の露
、海側の英・仏、太平洋の米から、それぞれの占領を狙っていた。その中で日本は、奇
しくも列強の勢力均衡という地勢上の条件を備えていて一応は軍事経済の不介入の立場
を取られ、その機を逃さない事で発展した。英国は表向き不介入としたが兵器を売りつ
け米国はアヘンより高利な小判やお茶を貿易にして巨万の富を得ていた。

290: 名無しさんAA:17/07/29 23:41
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 16

 この中国が地政学的には兎も角 巨大な国土と人口を持つ国である事は間違いない。
その市場の解放はアフリカの解放と同じくらい大事な人類の夢だろう。ところが中国の
西側経済圏での活躍と見るべきか横暴と言うべきか地位の向上は 全くロシアや北朝鮮
に最後通告を突き出した形になった。つまり共産主義では経済失敗したが市場経済での
発展した。と言う証になった事だ。これはロシアにとっては異常事態とも言える。それ
はかつてソ連時代に従えていた東側諸国の離反を意味しそのままロシアの食卓に農産物
が乗らない事を意味する事だからだ。だがこの事でもロシアは躊躇なく強気でクリミア
の強襲に出た。安全保障上の重要な海軍基地が法外の地借権を要求されるのを避ける為
だったのだが、それは米国や欧州にいい訳出来ない問題だったと言える。ところがこの
時を境に欧州と米国は交易を閉鎖するに至った。経済制裁である。だがロシアにとって
は資源や産物によって鷹をくくっていたのだがその後原油安は資源安を産んだし中国の
経済悪化とシェール石油や中東のイラン問題解決などで安値維持に推移した。更には、
日本などの省資源化の成果すら出て太陽熱などの技術も進んだ。この事でロシアは失政
のそしりを民衆から起きてもおかしくない中に 更に温暖化が襲う。トランプが吐いた
「温暖化は嘘だ」と言う言葉は人類の生存権を脅かす言葉であろう。現に今年の異常な
気象は来年はもっとひどくなる。空気中の湿度は高く大雨はドイツロシア中国ベトナム
日本南米アメリカ豪州と各国を悲惨にさせる。台風被害も山火事もこの異種微成分超過
で空気中の湿度を集める為戦争が起こる度に増える。これらは自然現象の一般的現象だ
だが、より以上の問題が作物の不作である。出来高の飽和状態は安値を産み不作は高価
を呼ぶ。だがその状態はまだ市場に作物が並ぶ状態だ。洪水と天候不順が作り出す不作
は栄養不足だけではない。菌や害虫までも発生させるのである。此処に今までの歴史上
の飢饉がある。人は泥を漉して食を得る事になった過去がある。まるでアフリカ難民の
世界だ。海においても不漁事態は続く。いや逆に海に於いて流されてきた公害などでの
有機分の毒性こそが問題で異常気象が起こっているとも言える。これが中国問題の本質
である。放射能廃棄物と同じに自然に帰る為には大きな力と長い時間が居るのである。



291: 名無しさんAA:17/07/30 08:43
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 17

 だが残念だが他の国は助けられても中国やロシア米国など助ける事は不可能に近い。
つまり出来ない話である。更に北朝鮮など支援をないがしろに拒否する国も同じだ。目
の前の韓国のセォール号の事故でも日本の海上保安庁や海自の助けを求めたなら、ほぼ
全員が生きて救助されていたはずである。少なくとも大勢の遺体が未確認のまま船が沈
む事はなかったろう。だが泳げないロープさえ持たないで駆け付けた海上警察に任せた
のである。全く馬鹿げた事に自国民の命を他国の応援救助だからと見捨てたのである。
こんな非情な指導者群や国民を作っている国家とは 世界平和の邪魔でしかない。それ
は911の救助にも起こっているのである。こうした隠蔽は最も秘密主義の得意とする
ところだが 一体何を秘密にする必要があったのか。そこには何もなくあるのは悪事の
みなのだ。つまり国家の危機や国家の保護でなく大統領個人の秘密保護であり悪事隠蔽
でしかないのだ。この事で一般市民の生活が犯され死人が多く出ると言う事はなんとも
情けない国体なのだが。だがその迫りくる災害は現実に多くの行政のゆがみの上に弱者
を死亡に至らせる。全くこれまで国土保全に力を注がなかった中国やロシアは災害その
ものは天然の災害だろうが 死者の出る様はその社会構造と行政のゆるさにある。特に
汚職や賄賂や金満家や行政のゆがみはそのまま自然災害に弱い事は今回の東北大震災で
様々に検証されてきた。過去からの伝承や口伝を一笑に付して来て歴史と共に葬り去っ
た報いや 自然災害さえも気にしなかった原子力災害の恐ろしさは今もなお復旧復興の
見込みさえ立たない廃炉に色濃く反映している。こうした事は今の時代を反映している
。現実逃避というしかない心情は、隠れた人間の本質だろう。そしてこの心情こそが、
今の米国はじめとする暗殺集団はいとわないで雇い実行している話であろう。ロシアの
旧KGBがロンドンまで行ってわざわざゴマ粒程の放射性物質を食べさせる事件が公け
に行われた。潜水艦が沈んだ時も騒ぎ立てる家族に注射針が刺された。チェチェン人の
立て篭もり事件では裸にされた人質は 突入部隊の乱射で殺された。これらの非道は、
今の政権で行われても 腐敗した国に批判は起こらないのだ。だがそうした事で費やし
た時間や人は河川や道路の保全に行かない。つまり災害には全く対処しないで、自然が
人を見殺しにするにままに手をつけないのだ。これが人をダメにしているのである。



292: 名無しさんAA:17/07/30 10:05
  日本の現状11 「 こんな人達の国日本。」006

 津久井やまゆり園事件は凄まじい事件だ。「障害者が悪の元凶」とする犯人が19人
が死亡し25人が負傷する事件だ。ほぼ一年になる為各所で慰霊の論評が掲げられる。
この現代が益々生きるのに複雑怪奇になりゆく中で 人は一体どこを向いて進化し続け
ているのが問われる事件だ。植松容疑者と言う悲しい人間が今や増えてきている状態だ
ろう。そもそも自然界の中に我々が必要としない生態があるのだろうか。人は水が無け
れば生きられない。が金満家や権力者達はその対象が 虫だったり木々だったりしても
一向に気を向けずに開発を行う。その振り返らない人生は町中の人間を冒しているのも
関わらず 一向に山で生きる人を助けない。その為今の東北の津波にしても朝倉の豪雨
にしても全く生活に便利で災害に弱い国土に改造して止まない。三陸沖の街並みでは、
そこらにあった土蔵の家はほとんどが新しい 新築模様の家だったが全く水を吸わない
為土蔵3軒だけ残った現状がある。又津波でやられた田畑は沼も小さな河川も土地改良
の名の下に林も柳や竹藪も松林も至って切って 広い一元的稲畑に変えた事が大きくさ
せた原因であった。又朝倉にしても戦前の植林指令の森ばかりに変えた現状がそこには
ある。根をはらず草の出ない木の葉の重なる中で間引きも枝落ちも作業の負担を無くし
た育成法である。こうして災害は後の世での孫に死者を増やすのである。人は木々が暑
さを和らげ地中の水分を保水して更に酸素を供給し燃料や道具や肥料として使われる事
を学んでいる。それでも山に住む事はしない。人間社会でもこうした障害者をいたわる
生活こそが人の充実した生活であり それを改めて気付かせる存在であり親族の宝であ
る事を知っていながら こうした現代風の非情な効率主義に傾いた生活が自らを滅ぼす
中国風の無責任主義と言う事を教えられないでいる。恐らく日本だけでなくモンゴルの
遊牧民でもシベリアの森林でもアマゾンの暮らしでも「過ぐるは足りるに及ばず」とい
う中で生活して来たはずだ。つまりは魚も草も木々も開発が過ぎれば全く為にならない
いにしえからの教えだ。ここの犯人植松容疑者とこの障害者の果たした役割は、遥かに
障害者が社会貢献している事実を人々は知らねばならない。ともすれば優しさや愛や形
の無い物を無視したがるが 経済理論であろうが技術進展だろうが そこに実情に即し
た愛の形を形成して進化しブレーキの調整役を果たしている。そこで見つめ直す時間や
費用を今の政治が与えていない非情さは もっと日本人は考えるべきであろう。オバマ
ケアより深刻でより未来の世界の話である事を日本の政治家は良く知るべきだ


293: 名無しさんAA:17/07/30 10:57
  日本の現状11 「 こんな人達の国日本。」007

 実はこの「津久井やまゆり園事件」は日本の隠された素性である。北朝鮮問題ロシア
問題中国問題でも こうした心の豊かさや知恵の豊富さが無いゆえに よこしまな力を
発揮すると言う事態はかなり長きに渡って続いている。例えば今沸騰の話題の稲田氏の
自衛隊問題や森友学園の格安売却問題でも加計学園問題でも質問はいいのだが政権奪還
ではなく国会正常化を本願とすべしで その意味では趣旨逸脱している。国会の野党は
もっと厳しく言うべきなのだが、いくら総理夫人が公人ではない加計学園園長との会食
が大臣規範に違反してないと菅官房長官が釈明しても それは通らない。国際的にも、
ファーストレディの立場であり、親友で供応接待が無くても大臣規範は違反してる事は
明らかでいい訳でしかない。稲田大臣発言にしても「戦闘状態」であるにも関わらず、
駆け付け警護法案を通す為に、日報記載を見せず撤退を決めなかった責任は安倍首相に
ある。勿論インド洋上給油の停止で笑われた日本が このスーダンPKOを戦闘になっ
たから撤退では余りにも腰抜け過ぎる。と笑われようが インド洋の給油停止は自らの
国体生死問題のエネルギーラインのシーレーン防衛を放棄した事では 「全く不可解」
と嘲笑以外の何者でも無い声が国際社会に漏れていることを かつての民主党は行った
のである。勿論意味不明のブッシュの私恨戦争である911事件やアフガンやイラクの
戦争に馬鹿の如くくっついた小泉政権への国民の怒りも大きく世界でも異様に見える。
 此処に哀れにも この植松容疑者と同じように それだけ視野の狭い中で頭が一杯で
世界全体を見られない不器用な偏見性が 日本の政権や全体の状態にも見える。そこに
各所に起こる殺人事件や拉致事件と同じ状態がある。国は馬鹿な事にこれだけ大きな資
産や予算がありながら、債券発行までして食いつぶし 更に企業に震災用の特別税を捨
てたのだ。こんな馬鹿やきちがいみたいな安倍政権に何故人は正義があるというのか。
異常な知見なのである。


294: 名無しさんAA:17/07/31 20:52
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 13

 裏切られた世界と裏切った韓国には何の約束も無かった。だが中国人や朝鮮人のやり
方は人間として論外だったばかりでなくソ連の勝手な不可侵条約の破棄や米国の無差別
攻撃は本来叩かれ国際的処罰を受けるべきもののはずが 朝鮮人は声を上げず戦勝国側
と言い張り、嘘にならない誰もが知ってる嘘を隠し通して国造りをした。欧米の戦争に
巻き込まれた日本は 他国より厳しい兵則や激戦であった訳ではない。敗戦においては
取り分け厳しい処置がなされ、朝鮮半島の南北戦争では今だそうした東京裁判のような
次元までいっていない。その中での慰安婦問題や徴兵や懲役工も又調査されたが国際法
違反でも無ければ軍の司令でもない事は明らかだった、他の各国の 特に後の韓国軍の
様な民事事件とした婦女暴行や痴乱の上に一つの部隊で意味もなく3千人を殺した。と
いう事は起こってない。殆どが共産党員のゲリラ活動でありそれを支援した米ソ英国の
仕組んだ中で行われた事に補給や貧困が蔓延し業を煮やしての事だ。この事に戦勝国の
広報者が盛んに東南アジアを主に38ヶ所も回って調べつくしている。その一部さえも
ない事に韓国は新たな放言で嘘をでっち上げた。その仕方を中国が学んだ事は他でもな
い。それが竹島であり尖閣問題だった。過去ではそうした過ちから何か学んだかと言え
ば、現代でも全く同じに姑息な活動で右往左往して西側か東側か解らない動きをしてい
る。既に北朝鮮との会話の時代は遠の昔に終わっている。にも関わらず文政権は負け犬
の遠吠えの如くに対話と圧力を口にすると言う最も危険な兆候を見せている。北にすれ
ば南の何も出来ない様は漫画みたいに面白がっているだろう。米国の北の制圧懇願には
日本からは911前からの要望だ。だがブッシュは中東アフガンに目を向け間違った。
やるべきをやらない米国はその後クリミヤやテロなど苦境に冒されたのは当然だろう。
今後展開は中国への圧力しか残っていないのは当然だが中国やロシアが反対するのは、
米国にとっては痛い事であろう。更に韓国の経済体制や司法当局が今だ卑屈な事も大き
なマイナス要因だ。となれば頼るのは 台湾と日本とフィリピンと言う事になるが、こ
こでフィリピンはドテルテがどう転ぶか不明だ。欧州カナダ豪州と共に合同軍事演習し
か威圧が無い。だが1年もすれば核ミサイルを持つに至ってからは 米国は極東アジア
を捨てるか 各国に核ミサイル基地を置くかに迫られる。頭越しにロシアと協議は出来
たとしても危機の大きい中国とは出来ないだろう。それは経済危機の始まりでしかない
からだ。韓国以上に司法も軍部も経済も無茶苦茶である事はここ30年で解ってる事だ


295: 名無しさんAA:17/08/01 13:06 ID:mb2
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 20

 しかし 今度の一連のミサイル防衛実験の重ねて行う北朝鮮の一連の行為に、何故か
違和感が大きくある。これまで続いた金一族の支配の仕方や考え方が 従来を踏襲した
やり方と異なっているからだ。金日成や金正日と張成沢が殺されるまでと後では、全く
違っていると思えるのは私だけだろうか。勿論行為其の物はこうした事しか考えつかな
い馬鹿ではあろうが、これまで事あるごとにその途中途中に何某らの意向みたいな物が
あったがここ2・3年そうした物乞いや要求が全くないのだ。あまりにも先に進め過ぎ
ていてこれまでの様な 交渉テーブルを持たない姿勢が色濃くある。更に今回米国にも
届くICBMが開発出来たと言う事がどういう事かがどうも理解していない様に見える
。これはロシアのモスクワは当然ながら欧州はフランスまでアメリカはアラスカサンフ
ランシスコ一帯まで東南アジアは殆ど中国インド大陸を半分以上ニューギニア豪州まで
とかなり地球の半円の全域を核攻撃出来る事になる。この事を国際社会は許すだろうか
。それとも国際社会を甘く見ているのだろうか。この威力ある核兵器によって韓国日本
は勿論ロシアや中国でも又自分の首を絞める行為と言えるだろう。プーチンや習氏では
解っていても首脳部としては「血の同盟」をもつ国にそうそう対立は出来ないのが現状
のようだ。今だ西側の自由主義や法治国家の確定出来ない中では更に最も悪い時期でも
ある。今後も説得を続ければロシアも中国も北の制裁には傾くだろう。それは何よりも
、この極東の核配備がロシア・中国の危機につながる事も強く説明すべきであろう。そ
して 問題の本質はこの金正恩の人となりであろう。話し合いが出来るかどうかである
。だが個人的予想では既にこの映像の人間は影武者ではないか。と思える部分がある。


296: 名無しさんAA:17/08/01 13:06
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 21

日本で日中戦争と呼ばれている戦争は、中国では抗日戦争と呼ばれている。太平洋戦争
で日本が敗戦したことによって中国側における抗日戦争も終結することになったとされ
る。だが敗戦時 日本が中国や北朝鮮に投資してきた額は莫大で 当時の金で4.5兆
円以上では無かったかとされる。勿論戦時中の事で好くは解らないが 華圏国内の需要
と供給で満鉄は当時の日本の国家予算の4〜5倍くらいの予算とされ経済効果は10以
上あっただろうから45兆の資本が動いていたと考えられる。その意味では当時の中国
は国民党政権による中華民国と呼ばれており、当時の国内総生産(GDP)は日本を大
きく上回っていたという見方が一般的だ。第一次大戦後は国民総所得は37年で米680億
ドル、英220億ドル、仏100億ドル、独170億ドル、伊60億ドル、ソ連190億ドルである。
日本は僅か40億〜45億ドル程度だった。GNPの記録によると。日清戦争時のGN
Pは13.4億円 、戦費は2.3億円。日露戦争時のGNPは30.1億円、戦費は18億円。国家
予算に占める軍費は45〜55%とされる。つまり日本は国家予算の半分以上を戦費として
中国や朝鮮半島に投資していたのである。ところが軍部が台頭すると一変する。日中戦
争時代は、対米英蘭戦開戦時の日本のGNPは228億円しかないのに 戦費は1900億円。
なのだ。昭和15年で50%を越え敗戦濃厚となる昭和19年は実に85%にもなっています。
米国のGNPは920億ドルに対し戦費は3000億ドルで年間を通じて国家予算の30%程度
に収まって戦争している中で 日本は国家予算をGNPの7倍近く戦費に費やしたのだ
。これは米国とのGNP比は概ね日本:1に対し米国:10〜15であった事が主な要因だ。
昭和14年当時のGNPは日本1180億円に対し米国は約8000億円、それでもこの数値は低
めであり 米国の潜在的購買力は表向きの金額に対して2倍以上を有していたのである。
つまり正確に言えば1:25程度の経済格差の中に中国朝鮮に投資し戦費調達していた
のである。これは日本の物資補給から言えば仕方ない事だった。中国で「抗日戦争前、
わが国のGDPは日本の3倍もあった」とするのは当然で 恐らく5倍程のGNPがあ
ってその物資によって日本の軍需工場が回っていたのだ。それだけ中国朝鮮に投資して
生産しないかぎり 日本は立ち行かなかったのだ。そしてそうした中国朝鮮あるいは、
満州国の経済向上でやっと名目上の 1:10くらいの経済格差で戦いに挑めたのであ
る。

297: 名無しさんAA:17/08/01 13:07
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 22

 ところが戦争が敗戦になった途端に 中国は国民党軍を台湾に追い出したし 当時の
工場を運営していた 多くの人々を虐殺した。そしてそれは韓国でも同じだった。その
事から 北朝鮮が産まれたしソ連軍の非道を真似て 略奪強姦殺傷稚児喰いは日常化し
たと言われる。よく当時の中国のGDPは農業や外資によるものだったことを挙げられ
、また、GDPという数値だけで経済の質を把握しきるのは難しいとされる。だが当時
の中国の工業生産額は国際的に最高だったし日本のほうが中国より圧倒的に劣っていた
。軍事力は工業力に左右されるが、工業力という点で当時の中国は日本に大きく勝って
いたのではあるが、生産の主要部分は多くの日本人が行っていた。その為共産党のデモ
や叩き壊しが勃発する度その生産が落ちて行き、その後敗戦に至ってはほぼ皆無に近か
った。だがそれでも幾つかの工場では稼働可能だった事で 毛沢東は人民服や靴あるい
は自転車が製造出来たし 戦争の為の銃や戦車も細々と生産できた。列車に至っても、
長年運行していた鉄道の線路や車両もほとんどが日帝時代に作られた工場での補修保線
であったと言われる。「中国は敗退に敗退を重ね、危うく日本に滅ぼされるところだっ
た」という見方を中国共産党は言うがそれは違っている。黄巾党の様に彼らは仕事もせ
ず扇動し食を得る為に略奪強盗殺戮をして逃げ回っている内に そうした貧困者が集ま
って出来た党だったのである。そういう形で国民党は政権基盤にたいして 時の集落の
長老の征伐の乞いに答えるしかなく そこに罠を仕込んで今の政権を得ているのである
。当然その昔の盗賊時代を知る 学者や長老と言った文化人は戦後に50万人を人民裁
判で殺して行ったというのだ。ポルポト以上の悲惨さが今もなお「抗日」を表に出した
裏で自らの歴史を隠しているのである。そうして産業はすべてに滞ったのである。世界
的にはソ連以上の産業が敗戦と共に消えたそれも毛沢東の人為的作戦によって。その中
の歴史は今も闇である。 そしてこうした馬鹿な歴史こそが陰謀の世界なのだ。そして
日本が引き揚げた後の中国国民党との戦争こそが抗日戦線だったのである。

298: 名無しさんAA:17/08/01 19:34
  おひょろさん  07

 そもそも安倍内閣は あの能無しの石原伸晃(のぶてる)を入閣させている所からし
ておかしいのである。公に「政治結社を認めて居る」などと言う危険思想の人間を何故
政権に入れるのか。彼の様な考え方の為自由民主党衆議院議員の殆どがおかしく東京都
の都議選でもそこをやられているではないか。国民はいつまでも平和でいたい。いつま
でも自由主義で生きたいと思っているし 後世にもこうした恵まれた環境と言う宝珠を
残していきたいと思っている。ところがどうか近年は金に飽かせた色んな事業を政府主
導で行い 今だ年金問題が終わってないままにあの馬鹿公明党が「年金100年プラン
」など言って受給制限を突如上げた。年金による記載漏れ問題や全国のグリーンピアの
問題も解体移譲したのみで何ら解決していない。本来のサービスを行わないままに何故
解体解散したら解決になるのか。第一次安倍内閣も全く同じであったはずだ。今回も、
全くその中のうずくまる反吐を排出せずに更に国民の要望とする自由闊達な政治作りを
せずに 内閣再編で事を終わろうと与野党もやってることが 全く間違っている。そも
首相夫人は何故国会証人に出てこないのか。憲法15条には「全ての公務員は、全体の
奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。」と明確に規定している。NHKと総務省や
学校法人と文部科学省 更に今治市と山本大臣と安倍氏と加計氏の問題は深刻な国会や
地方議員の憲法違反問題である。かつて東京都知事の舛添氏が自宅兼事務所が政党補助
の対象事務所と言う事で問題だったが この加計氏も又集金したとなれば問題である。
大学に属し国庫から予算支給を受ける純然たる「準公務員」であるからだ。又、一部の
国会議員や官僚や公務員の利益を「忖度」してそれに奉仕し「記録も記憶」も無いとす
ることは、一般人と違って許される事ではない。紛れもなく「憲法15条違反」であり
、これが安倍氏にかけて行ったと言えば退官退職は免れないが これを強要した政権な
ら早期に解散すべしである。また又退官退職したとしても公務員は奉仕者であるから、
この公務執行において違反者であり、票拡大や有権者利益増大なら「議員利益」を得る
ことは奉仕ではなく営利となって、これも憲法15条違反であるはずだ。


299: 名無しさんAA:17/08/02 01:29
  おひょろさん  08

 何をどう考えてこんな法案が通るのか。今度、少なくとも25年払わないと1円もも
らえなかったが、10年以上払っていればもらえることになった。とする法案だ。勿論
無年金者問題はかなり問題なことだ。だが 10年も払って1万6千円である。それな
ら20〜30までに既に無払い者にも支払いしたが好い。40年払っていながらたった
の6万である更に私は昭和32年で62からしか払えないと言う。ちょっと可笑しな話
である。そも保護家庭や母子家庭を面倒見ているのである。そしてその他失業保険やら
軍人恩給やらとは一緒に払えないとしている筈だ。だったら議員年金など廃止して一元
化してスリムな年金を払う事が先行すべきであろう。色々な枠を設けて更に その為の
色んな法律と計算式を設け事務経費を大きくし 税を多くとるなんて言う様は今やこの
貧困産業まで産んでいるではないか。それなら簡単に公式な貧困産業を作って保育園の
ごとく管理すればいいではないか。普通の家庭が 制約を受け電気電話ガス水道と値上
げして 更に柳川では全く水害があってもなすび農家は勝手な農協の判断で保証もなく
潰れてしまったのである。つまり地方自治体がちゃんとやらないのだ。今回の世界遺産
でも県知事は阿保じゃないのか なぜその沖ノ島を宣伝する必要があるのだ。何故他の
神殿に対しても世界遺産にする必要があるのか。もっとやる事があるだろう柳川の木々
に柳川を守った木として立花はぜの原木があった。古来縄文時代からの木だが公共事業
で切られた。縁の行者の木も同じだ。更に吉開の門とされた木や千年柳の大塔の宮の森
と言われた数十の柳の木もない。呪文の木すらない。大川に行けば他の様式でないとし
て説明されていた風浪宮の作りも今や普通の作り方に変わっている。技量見識の無い学
芸員や研究者の無駄金学者のせいだ。柳城中の幻の本とされた小野文庫の本も又無い。
そこには筑紫風土紀筑後風土記南商居黄紀など ほとんどお目にかかれない古書があっ
た。渡辺銀行舎も日本で最初の公式教会とされたペンテコステ教会もない。更にいまや
福厳寺の瀬高庄口前門神像は 愚僧の馬鹿が手入れも出来ない癖に国宝にもしない有様
。一体何を福岡県は考えているのだか。麻生氏は財政外交の専門家ではなかったのか。



300: 名無しさんAA:17/08/02 02:13
 そもそも一般労働者層を一体どう考えるかの時期に来ている。日本の中でTPPやら
EPAなど海外との無関税取引に資する方向であれば、海外産品との価格差はもっとも
頭の痛い話のはずだ。つまり安い労働市場で産まれた物を、高い賃金の学齢社会でイン
フラの整った狭い国土の日本産品と並べて価格差がつくのは当然である。であるならば
当然一般の日本商品が売れない市場であるのは当然だ。対して逆に一般労働賃金を世界
の中で統一するなどと「国際市場に出す為」と企業倫理の無い低価格に合わせている様
な不当な労働市場が起こっている程賃金は低く 低価格商品で食べて行くことは一般的
には食べる事暮らして行く事には ありがたい話の筈だ。更に言えばそうした余裕であ
るエンゲル係数が低く抑えられない限りは文明的暮らしは保証されないし次世代につな
ぐ出生率出生数共に増加しない。と言う腐れた世界になる。特に今の様に店子としての
パート払いの社員教育や明日の世界すら見せない職業観の中では全く起業すらないだろ
う。安い賃金で豊かな世界を自国に保証すると言うには こうした福祉や手当をする事
が大事な政策となる。今まで企業に保証していたが それが企業の貯金留保担保金とし
て労働者に還元できていない。そういう事であるなら 当然保険と年金問題を手厚くし
て産業の機械化し自動化して行くしかないのだ。つまり今の成年人口を減らしても簡単
な作業で息の長い労働者として雇用してもらうしかないのである。となれば生活補助の
手厚さと産業の幅の広さを今から求められるだろう。つまり農業補助や工業産業の補助
は撤廃し アメリカ流に年間の企画請負での産業に特化すべきである。道にしろ橋にし
ろ鉄道にしろ最も安全で必要な所を考える所に来ている。そして関税や民泊や食品や害
虫などの取り締まりを強化する人員を増やし 法律を整えるしかないだろうと言える。


301: 名無しさんAA:17/08/02 14:02 ID:zmw
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 23

 おそらく 今の日本人は 歴史観に於いて全く間違っている。特に河野大臣なんかは
腑抜けの上に当時の中国や朝鮮をなんにも知らない。第二次世界大戦中の1943年に
カイロ宣言が行われたがこれが勝手に日本にも伝わったとするのは米国人のいい加減さ
にある。連合国の対日方針などが定められた「カイロ宣言」はカイロ会議の決意表明で
あり日時や署名がなく、公文書にならない連合国内の同意書のようなものである。この
宣言は同月初めに日本の東条英機内閣が、大東亜共栄圏に組み込んだアジア諸国の代表
を東京に招集して大東亜会議を開催し、11月6日には「大東亜共同宣言」を発表して
、戦争目的を「アジア解放」に置いたことに対抗する意図で行われたものだったのだ。
中華民国国民政府:汪兆銘行政院長 満州国:張景恵国務総理大臣フィリピン共和国:
ホセ・ラウレル大統領 ビルマ国:バー・モウ内閣総理大臣 タイ王国:ワンワイタヤ
ーコーン親王(首相代理) インド:インド自由国民党主席が この会議に出席した。
1 東亜諸国は、協同して安定を確保し、道義に基づく共存共栄の秩序を建設する。
2 東亜諸国は、相互に自主独立を尊重し、助け合い、東亜諸国の親睦を確立する。
3 東亜諸国は、その伝統を尊重し、民族の創造性を伸ばし、東亜諸国文化を高め合う
4 東亜は、相互連携を緊密に図り、各国国家の経済発展を遂げ諸国の繁栄を推進する
5 東亜諸国は、世界との交流を深め、人種差別を撤廃し、互いに文化を交流し、
  すすんで資源を解放して、世界の発展に貢献していきます。
と言う「共同安定圏の確立」「自主独立の尊重」「各国独自の多様性文化の尊重」「植
民地支配と奴隷制度の撤廃」「自由貿易の拡大」を謳ったものに対抗したものだった。
だが中国国民党はこの中で、王兆銘をこの会議に出席させて居ながらも蒋介石はカイロ
会議に出席し25年に孫文が死去した以降35念に第7回コミンテル世界大会に毛沢東
を出席させて人民戦線方針承認させ、人民軍を入党させた後は8・1宣言での抗日人民
戦線の創設を提唱させて暗躍させたままでいるのである。つまり41年に日本は真珠湾
攻撃において日米開戦したのだが43年のこの時既にスターリングラードのドイツ軍が
ソ連軍に降伏して行く中でソ連ではコミンテルン執行委員会幹部会はコミンテルン及び
共産主義青年インタナショナルの解散を決定し全機関廃止して中国共産党のみに集結さ
せる直前だったのである。

302: 名無しさんAA:17/08/02 14:04
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 24

 この東条英機が戦争終結に於いて何の役割を果たして居ないと言わないまでも、この
カイロ会談時期においては 何も出来ない無力の政権であった。東京裁判でも同じだ。
2つの宣言の裏には毛沢東の共産党八路軍が 全く国の事を考えずにコミンテルン活動
に於いて婦女を犯し子供を食べ集落の暴動を煽って「社会主義平等革命」の名の下で生
きていた事は、中国国内がまるっきり統制のない姿であり、それをソ連や米英が応援し
ていた事がわかる。この時の西洋列強の大国達はこの中国の国内事情などはどうでも良
かったし欧州での原爆投下を何処にしようかと言う中でアメリカ大統領F=ローズヴェ
ルトが居て、イギリス首相チャーチル、中国国民党蒋介石が出席していたのである。こ
うして馬鹿な蒋介石はインドやビルマの植民地権益の維持に急ぐチャーチルと中国大陸
での領土の返還、朝鮮の独立を急ぐF・ルーズベルトの話し合いの中にいたのだ。その
後も次々と原爆製造が形になっていく中でこの会議の終了後直ちに場所をテヘランに移
し、スターリンを加わえてヨーロッパ戦線における欧州西部戦線問題とポーランド問題
を話し合うテヘラン会談を続けてた。こうして国境線策定の会談が終わった後、カイロ
会談に引き続き、ビルマ奪回作戦、フランス上陸作戦、地中海作戦といった連合国側の
諸作戦における各国間の調整事項やポーランド国境の確定、ドイツ降伏後のソ連の対日
参戦などについて話し合われた。ここに米国の間違いがあった。既にドイツには力はな
くあったし日本に対しても同じだったが、敵視していた国に無条件降伏を促す事もなく
、本来コミンテルンの共産化の緩衝地域としてのドイツと日本であった為にこの戦争が
起こったのに、植民地権益の為に自ら進み出て無差別殺人ゲームに加わっての共産党の
地域と手を結んだ事だ。この陰謀こそ共産党を動かすユダヤ金融の思うツボであったし
この共産党が中国人民解放軍を動かす元だったのだ。ユダヤが国際旅団を支援し国際旅
団は中国解放軍を支援し解放軍は北朝鮮を満州国の様に樹立宣言させた。そして自らに
ユダヤはアメリカに落ち延びたのである。この姿は今のこじれたイスラエルと同じだ。


303: 名無しさんAA:17/08/02 14:05
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 25

 日本人が間違えてはいけないのは アメリカは無知のまま日本との開戦に動いたのだ
。わざわざ色んな仕掛けを行い 理想建設の日本国を私利私欲で国家を動かして来た国
だった。と言う歴史である。そしてそれを動かしたのが無恥なユダヤの金融支配であり
、それを利用したのがソ連だったし そのソ連を利用したのが盗賊生活していた毛沢東
だった。そういう時代が第二次世界大戦の時代だったと言う事だ。よく歴史評論家達は
日本軍が「アジア解放」を叫んだ戦争だと言うのは勝手な戦争の美唱と言う馬鹿がいる
。確かに戦争は悲惨な現象を生んだし帝国陸軍の中でも異常な光景はあったろう。だが
アメリカの無差別空襲や原爆投下或いは中国の婦女暴行や工場破壊工作或いはドイツや
ソ連の収容所政策又はイギリスやフランス軍の現地人の奴隷化よりはかなりの常識的も
のであり 特にポルポトの老兵士の小さい頃の話は、あの自由平等を叫ぶフランス人さ
えも「物言う家畜として我々を扱った。鞭で打たれそれでも不満顔では鉄砲で撃たれた
」という事実は衝撃的話である。インドネシア人ジャーナリストのイドリスノ・マジッ
トさんは日本人に聞く「原爆投下は日本人が悪いからですか。」と悪いのは「決定した
トルーマンであり、それを許した米国議会でしょう。」と。更に「原爆投下を反省すべ
きはアメリカです。日本ではありません。アメリカはデモクラシーの国なのに、広島、
長崎で子供たちまで殺してなぜ謝らないのか。私たちアジアは、疑問に思っているので
す。また、反省すべきは、核兵器を開発している国々です。それはアメリカであり、ロ
シアであり、中国です。これらの国こそ反省して核兵器を廃棄してほしいと熱願してい
ます。」と自虐史観に基づいた「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」の
様な声がTVを始め良く大日本帝国軍の非道を「先の戦争は侵略戦争で日本はアジアを
侵略したのです。日本軍将兵は残虐だから、アメリカが原爆を投下したのです。日本人
は反省しなくてはなりません。アメリカ軍の原爆投下なくして、日本民族は反省しなか
ったと思います。アメリカは日本人を真面目にしてくれた恩人です。」などと言うが、
もっと現実を見据えるべきだ。朝鮮民族は今だ協調のない嘘つきを繰り返し中華民族は
強者こそ誇りを変えて居なく詐欺た行為を繰り返す。挟まれてミサイルを飛ばす北朝鮮
に米国は何も出来ないし、裏工作に専念するロシアには国際金融が又戦争を喜ぶ様な仕
草をしているのである。


304: 名無しさんAA:17/08/02 15:49
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 26

 では一体この先見性のある日本の意志日本の立場日本の意向をわざわざこうした国家
の首脳を招いて宣言したのか。これこそが日本人の「和心」である。馬鹿な盗賊毛沢東
に中国の非情を辞めさせ蒋介石の八方美人政策を止めて国民政府:汪兆銘行政院長との
話し合いを進めたものであったろう。会議後彼は演説をし この中でこう言っている、
「大東亜戦争勃発するに至り、米英は………益々重慶を利用して日本を牽制する方途を
強化せることは、すでに世人の知る事実でありますが、我々は敢えて米英のかかる計画
が間もなく失敗に帰すべきことを断定する次第であります。何故ならば、重慶側の将士
及び民衆は悉く国父孫先生の遺教に帰依しているのでありまして、本年1月9日以来、
日本は中国に対し早くも租界を還付し、治外法権を撤廃し、最近に至り日華条約を以っ
て日華基本条約に代え、同時に各種付属文書を一切破棄せられたのであります。」日本
が中国を侵略していたなどという俗説をここで否定し、孫文の後継者汪兆銘の演説は木
っ端微塵に粉砕していることがお分かりいただけるでしょう。 更にタイ王国 ワンワイ
タヤーコーン殿下は「特に一世紀前より英国と米国は大東亜地域に進出したり、あるい
は植民地として、あるいは原料獲得の独占的地域としあるいは自己の製品の市場として
、領土を獲得したのであります。したがって大東亜民族はあるいは独立と主権を失い、
あるいは治外法権と不平等条約によってその独立および主権に種々の制限を受け、しか
も国際法上の相互的取り扱いを得ることがなかったのであります。 かくしてアジアは
政治的に結合せる大陸としての性質を喪失して単なる地域的名称に堕したのであります
。かかる事情により生まれた苦悩は広く大東亜諸国民の感情と記憶とに永く留まってい
るのであります。」と言っている。更に自由インド仮政府:チャンドラ・ボース首班は
「本会議は戦勝者間の戦利品分割の会議ではないのであります。それは弱小国家を犠牲
に併せんとする陰謀、謀略の会議でもなく、又弱小なる隣国を瞞着(まんちゃく 騙す
こと)せんとする会議でもないのでありまして、この会議こそは解放せられたる諸国民
の会議であります。」と言う真面目な会議であった事が此処に解る。この後中国は建国
を果たしその後日本の支援で市場経済まで取り入れたが この醜態はそのままメディア
の報道規制の制約が日本の各社と行っていて 全く時の日本政府の無知さがわかる。こ
の醜悪なる自己政権の最もな醜態を無くす努力をさせる事こそが日本の役目の筈である
事は 歴史的教訓でもわかるはずだ。公害防止の為のプラント供給がが役に立たなくし
た中国共産党に 同じように自由主義の根幹を悪魔の共産主義思想に牛耳られたのだ。


305: 名無しさんAA:17/08/02 15:50
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 27

 此処で問題にすべきは今のNHKの姿である。今や国民は「NHKの聴取料を支払い
義務」とすしている。その根拠にBBCとの比較がある。 曰く、公共放送の支払いを
義務化する例は欧州にもある。BBCがその典型であるというわけだ。しかし残念だが
、議論すべきはNHKがBBCに匹敵するだけの公正性、メディアとしての主張を持っ
ているかという点である。私に言わせれば、とても「比較するに値しない」状況である
。と言う事だ。欧州では古くから自由や平等は戦い続けて掴み得る物としているが、こ
のわが国にそうした気勢の良い企業はかつてのソニーぐらいで今や戦後世代の台頭で消
えてしまっている。かつて英国軍のイラク参戦を巡って、BBCが政府と対立し、最後
には総裁が辞任した事件がある。これはBBCにとって、真実を国民に伝えることのそ
の使命は絶対であり、例え政府とぶつかったとしてもそれをすべきという信念がある。
このような行動や姿勢がNHKには絶対にありえない。かつて晩餐会で米国大統領が倒
れ時も日本では放送されなかったし、CNNが911の飛行機が現れなかった映像もす
ぐさま取り消した。裁判沙汰になったあの慰安婦問題を取り扱った戦争番組の報道を巡
っても、NHKの経営陣は事前に自民党の政治家に話をしたが、それはNHKの業務の
一環として行ったものであるといういい訳の趣旨の発言を行っている。悲しいかなこの
NHKの経営体質には、与党の政治家と戦ってまでも報道の中立性を守るなどという気
概はとても見受けられないし 更にこの度の公共電波の差し止めさえ発言した高市早苗
氏を糾弾する姿勢すら論陣を張らない。放送協会であり民間とタッグを組んでも連日の
会議を放送すべきなのだ。そして今度公共放送BBCはNHKとの番組交換を中止した
と発表されている。この理由が同じ公共放送とは考えられないという理由である。これ
は民間放送も大々的に「知識の狭道」として論議すべきであろう。なし崩し的にNHK
の公共放送の役割をすでに放棄した。などとさせてはこの放送業界の恥辱のはずである
民衆がNHKから離れたと考えれば期待感もなくなるというトンチンカンな意見もある
が田舎特に電波の入らない地域にまで届くNHKの役割はそう違っていない。それどこ
ろか一般常識がNHKから発されている現状を民放各社も危惧するべき大事態のはずだ
。こうしたままBBCまでの公平平等努力を失くせば戦時の大本営と変わらない一般の
大衆が偏狭思考にとどまる事になる事実がある。この事をよく考えるべきだ行動を起こ
せ、政治に丸め込まれるな。日本の未来の為に。

306: 名無しさんAA:17/08/03 11:23
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 28

 今のNHKがかつての戦前の新聞社みたいにはなって欲しくはない。と言う強い意志
は恐らく多くの日本人は思っている。と言うのも日本人がモンゴル班を持った黄色人種
である事は紛れもない事実だ。例え漢民族や韓民族がいかに面妖な面持ちで見られよう
共それが他国だから、と単に見捨てた行為は出来ない弱さが日本人にはある。明治以降
に孫文を匿い支援しても裏切られ朝鮮の面倒をみろと言われて日韓併合しても裏切られ
蒋介石を育てても愛新覚羅国王を帝位につかせてもラストエンペラーの様な嘘史実を映
画にされ南北戦争に勇士を送っても朴政権に周恩来にと金を送って技術を援助しても、
何をやっても隣国からは裏切られている。これらはもし日本人だったり西洋人だったり
していたならきっと大きく感謝して止まない事であったろう。だが日本人はアジア人で
あり黄色人種の白い眼から逃れる事は無い事を悟っている国民だ。欧米に白人優位主義
が今も尚残っていて、世界大戦時には 遥かにドイツとの戦いだったり共産主義との戦
いだったりしても、何故だか日本人は利用されたしその人の良さから収容所送りになり
その勇猛さから最前線に送られた歴史を知っているし、同じアジア人のインド人だった
りベトナム人が鞭で打たれしゃべる家畜として奴隷として扱われている様を目の前にし
ながら明治新政府や昭和の時代を作って来たのである。1867年と言えばまだ清王朝
の時代で李斯朝鮮が属国として貢物を差し出し徳川慶喜が第15代征夷大将軍に就任し
最後の徳川幕府として腕を振るう前で後の明治天皇が産まれた年である。この年に帝政
ロシアはフランス、オスマン帝国およびイギリスを中心とした同盟軍に対して戦いを挑
み大きな疲弊を産んでいた。クリミヤ戦争である。その戦闘地域はドナウ川周辺から、
クリミア半島、さらにはカムチャツカ半島にまで及んでいた、近代史上稀にみる大規模
な戦争であったが、この戦争により大きく技術の後進性が露呈したロシアで大敗に陥っ
た。戦争はロシアに加担したイタリア勢と戦中に工業化を推進させたプロイセンとの戦
いが主になったが、これによりイギリスフランスプロイセンがヨーロッパ社会に大きく
影響力を持つようになったと言われ、また英仏艦隊によるバルト海侵攻にまで至った。
この戦争によってイギリスとフランスの国際的な発言力は中国や日本にまで波及した。



307: 名無しさんAA:17/08/03 11:29
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 29

 このクリミヤ戦争は大きな戦争で北欧も東欧もロシアもペルシャを擁していたオスマ
ン帝国も大きく関わっていた。更にロシアを始め何処の国も関わりたくない戦争回避の
心理であったがバルカンの独立志向にロシア帝国とオスマン帝国は手を焼いていた。こ
の時に産業革命を終えたばかりのフランスやイギリスはかなりのやる気の無い中にいた
。だがそれは国内混乱からであり、同じようにどの国も過度期の中で指令系統は統一も
秩序も威厳も落ちていた。現場で起こる次々の事件で仲裁するはずのイギリスさえもが
国民の声や議会の混乱で連合国軍に加わって戦う事になったのだ。この戦いが世界大戦
の様相をしてきた中でロシアはプチャーチンを派遣して開戦前にロシアと日本との開港
の条約に向かって長崎に着いていた。長引く交渉で東に向かう途中に安政東海地震によ
り乗艦ディアナ号を沈没させたが、東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフとも協議し
粘り強い交渉の上1855年に日露和親条約の締結に成功して米国の次に開港する約束
を取り付けた。又このロシア船を追って英国東インド・中国艦隊が長崎に到着したが、
時にはすでにロシア艦隊は長崎にはいなかった。だが英国とロシアが戦争中であること
、ロシアがサハリンおよび千島列島への領土的野心があることを警告された為長崎奉行
水野忠徳は条約締結を提案し、1854年10月14日に双方独断で日英和親条約が調印された
。英国ではロシア海軍との交戦を行うためには、日本での補給を可能にすることには大
きなメリットがあり、本国も追認したし、日本は既にペリー提督を派遣して日本に対し
ての砲艦外交を展開していてあまり知らないロシアや米国よりは 既に紅毛人としての
交易の信用を体していた英国人の方が心強い味方になる可能性が高いと判断していた。
各国ともなし崩し的に起きたこの戦争は、開戦当初にはポーランドの解放やバルカン諸
国の安全保障などで起こったが、各国とも戦費調達が滞りなし崩し的に和平交渉の為の
ロビー活動が行われ、結局は大国の縄張りのままで 完全に無視された形でハプスブル
ク家の批判に終始し1856年にオーストリア帝国とプロイセン王国の立会いの下で、
パリ条約が成立して終了した。この時起こったのがフェイクニュースの氾濫と大衆烏合
で動いた報道と議会であったとされる。何処の国も戦争したくなかった。のに起こった
のだ。引下れない国の欺瞞と国内民衆の怠慢と扇動されて動く上級兵士達によって。

308: 名無しさんAA:17/08/03 12:34
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 30

 この 東欧の一連の動きは極東とは関係ない様に思えたが、誰も知らないところでの
ユダヤ資本は動きは1842年に、香港島は南京条約により清からイギリスに割譲され
、イギリスの永久領土となった事からも解る様に、公式な鎖国主義の日本には伝わらな
いものの、坂本龍馬が長崎からの出港船を引き返した様にオランダ学者が知る所ではあ
ったとも言える。その頃世界では、中国からは奴隷船が出ていてアヘンが流通し筑後茶
が米国で飲まれる独立戦争時代であり、1869年のロシアからのアラスカ購入は現地
の住民はお構いなしの交渉だったと言える。この交渉はスワードと言う有名なアブラハ
ム・リンカーン時代の国務長官が交渉に当たった。当時はアラスカを買った事を「馬鹿
な事に巨大な冷蔵庫を買ったものだ。」と批判されたが、アメリカの歴史上はその戦略
上も地下資源の自国化にも航空機輸送にも大いに活躍する場所であった。大津事件では
日本人でも殆どそうした動きは知られず明治政府に移行して来ていたが、アメリカ大陸
は仏国系カトリック宣教師達がカナダで連邦政府を作り、英国の植民地の地位を脱して
独立戦争をしていた時代で、このスワードは既にニューヨークのフロリダ生まれで黒人
の奴隷の家畜化した制度と戦う人だった。英国からの移民も王党派と反王党派がいて、
真に新天地としての独立した自由平等の国の建設の為に戦っていたが ロンドン金融の
ユダヤ資本はそこに貸付を行って、その借金の肩代わりに紙幣発行権利を捨てていた。
リンカーンも何度か交渉したがカナダより遅れて連邦政府を創る過程であって全く強気
の交渉には至らなかったのが現実だろう。スワードは若い時から奴隷制に激しく反対し
た若者で、奴隷制の拡張に反対し、南部の州が逃亡奴隷を逃がすようにした者達を引き
渡すよう要求していたことにも抵抗していた。弁護士を目指しアフリカ系アメリカ人が
殺人で告発されている事件の弁護を引き受けりしていた。29歳のときに、反王党派の
ホイッグ党からニューヨーク州上院に反メイソンの立場で立候補し、当選したので、こ
の時から政治家になるために法律実務は中断した。さらに1838年、ニューヨーク州
知事に選ばれ2期務め、その間刑務所改善、教育予算増額、移民の為の母国語教育など
多くの先進的改革を成した。反メイソンとは 少なくなるイギリスからの王党派の流れ
から神秘主義において作った政治結社フリーメイソンを、危険な扇動政治家として強く
批判してる運動であった。

309: 名無しさんAA:17/08/03 16:24
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 31

 この陰謀論には 様々な集団催眠がかかっている。日本でいう呪術師の世界である。
日本ではあまり見ないが「黒魔術」や「白魔術」の世界である。日本での宗教学の体系
の中では呪う者と呪われる者がいる。だがその二人だけではそうした魔術は存在しない
。此処で呪術師が登場する。つまり専門の詐欺師である。どんな者でもその成果は知る
。それは人間が動物だからだ。栄養不足、プラシーボ効果、感情の高ぶりなどで悪意に
染まれば 人は簡単に病気になる。病気は死因の一歩前で 痛みでも感染でも酸素不足
でも落下などの物理的衝撃でも多量出血でも 何であっても人は死ぬのである。そして
その一歩手前が怪我や病気であり呪いの真実なのだ。人は例えば緊張すれば失敗する。
と言う経験則もある。これが不幸の現実である。これが呪いの正体だ。がこれを逆手に
取ったのが「幸福の科学」である。これらには根拠のない真実が隠されている。人の体
は昨今では筋肉にも頭脳と同じものがある事が解っている。その中に胃や心臓や足など
を第二の神像や第二の頭脳などと小さな代用を行っている。日本語には以心伝心と言う
言葉がある。更に「人を呪わば穴二つ」と言う言葉もある。実はこの二つの穴と言うの
が科学的真実だ。つまり現代科学では同じ匂いや風や暑さ或いは味であっても不快の中
と爽快感の中で味合う中では人の意識や感覚に異常が起こるとされる。体感そのもので
も20度から18度に来る体と10度から18度を体感する体では大きく差がある。又
プラシーボ効果と言う思い込み効果は以外にも麻酔効果や催眠効果がある。良く裁判で
実質殺人者がやってない事を主張してうそ発見器に通らないのはその為で個人差はある
ものの誰もが恐怖心や冒険心或いは催眠にかかりやすい懇願心帰依心などあり体調不良
者や疲労者はすぐにでも興奮の上に我を忘れる事は出来得る。そもそも健康というのは
人は動いていて何処に根拠があるとは言えないのが実情だ。そこに宗教が入り込む。親
兄弟の殺人にでも出会えば誰でもが 憎しみや恨みや怨恨など憎悪が溢れるのは当然だ
。これを抑える事が出来るか解放させるかは人の心持ちなのである。この心持ちこそが
宗教の修行とするもので 黒魔術の呪文であり白魔術のサインなのだ。米国の大統領も
西洋の結婚式もこの宣言文から人はその制約された空間意識を持つのである。フェイク
ニュースも実は全く信じない人はなかなか呪文にかからない。だが幾度となく見聞した
りあるのではないかと言う疑問はその人に信用を与える。「市虎三伝」である。


310: 名無しさんAA:17/08/03 22:01
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 32

 かつて都市間の攻防が続いた中で 男達の共同生活によって兵士を養う必要性があっ
た。そこには当然「強い肉体」と「明晰な頭脳」と「国を裏切らない行動」が求められ
「秘教的知識」の存続法が求められた。そうした秘密裡の儀式で男たちを奮い立たせ、
更に勇猛な奴隷化した兵隊作りには 何処の原住民も行ったものであろう。この神秘主
義を「グノーシス派」と定義された。他を寄せ付けない中の宗教儀式は各地方での統一
した宗教とは別の国とした組織も又必要となった。ここにイルミナティが必要になった
。男色家さえ容認する国は宗教的には子孫を残さない弄びには常に秘密に迫られていた
。その為より以上の刺激的かつ恐怖心を煽る魔法が必要だった。それが呪術の効果とし
て受け入れられた。血の宣誓である。こうして国家とも宗教とも繋がらない秘密結社が
その土地の為に数々と産まれた。イルミナティ(秘密結社)の中には今でも変遷して続
く組織もある。プロビデンスの目(神の透視眼)のデザインを入れたり、選民思想の、
ピラミッドを入れたり幾何学を駆使した技術を意味するコンパスや定規、富を意味する
四角い箱や平等を意味するてんぴん豊醇を意味するブドウなど数々のモチーフデザイン
が産まれた。それらは紀元前に於いては店屋の看板であったか 次第に戦いの中地下組
織化すると合言葉の様な意味合いを持って中世にはびこった。友愛結社と略されるこの
組織にはやテンプル騎士団やシオン修道会、アサシン、フリーメイソン、薔薇十字団と
の関連等を疑わせる事実もある。アメリカ大陸発見時には数々の結社が出来て他の集団
との区別にフリーメイソンはロッジと言う階級社会をその中に独自に作りピラミッド型
をそのシンボルとした。この頃の奴隷制度は欧州の君主制度が終わりを遂げようとして
いたように奴隷の人権の回復に白人社会が目覚めた頃だった。独立戦争前南部の4家族
に1軒が奴隷を所有していたとされ 最初は4年から7年の間で続く「年季奉公」と呼
ばれる労働契約の仕組みで白人の移民も又労働者であったが 次第にアフリカ生まれの
者は生まれつきイギリスの市民ではないので、イギリスの慣習法で必ずしも保護されな
い中に下層市民の奉公人すら使われる奴隷制に移行していったとされる。この時こうし
た秘密結社コミニュティが数多く産まれた。それは仲間を守る手立てであったし、横暴
な公権力との戦いの為でもあった。そうして異常者が多発してKKKなども産まれた。
ポルノもゲイも幼児虐待も暴力も殺人ゲームも異常症もそれは科学の幕開けと人の欲情
の解放でもあったが その為に銃や強い意志や正義感は必要不可欠でそれが米国だった


311: 名無しさんAA:17/08/04 11:45
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 33

 陰謀論では陰謀が無いとは思わない。がしかし人は何に対して策を練るのか。何が人
をそそのかし陰謀を働かせるのか。又何が陰謀であって何が陰謀でないのか。地球上に
極寒の地は北極でも南極でもない。「オイヤコン」と言うシベリアの東である。−72
度と言う土地に住む人の生活はつつましい暮らしで人も又誰もが仲むつましい。それは
日本でも田舎の者ほど平等であり助け合い人の温かさがある。オイミャコンはロシア・
サハ共和国の北東のオイミャコン地区のインディギルカ川の約2km西、北極圏のわずか
に南に位置する村。「世界で最も寒い定住地」とされ、一年の半分以上が冬である。人
口500人弱。標高740m。周囲にはインディギルカ川の準平原が広がり、川自体の
流路も網の目状に迷走している。川から数km離れると浸食が進み老年期に達したなだら
かな山地(丘陵地帯)が広がる。チュルク人(突厥)の流れでかつてバビロニア帝国の
進撃でイラン方面から逃げて来た遊牧民と言われる。チュルク人はトルコ人とも介され
今のトルコ人は狭義の人種でありチュルク人はまだ広域的人種とされる。ホムス口琴の
持つ技は恐らく虎も鳥も話せたであろう。彼らは贅沢ではない。至って質素だがそれで
も年中の4人家族が食べる食事は冷凍肉として保管している。古い中国資料に「狄」や
「狗」とされる彼らは紀元前のローマ時代から名が残る。殷、周の時代に「狄」は中国
の北方(河北地方: 山西省、河北省)に割拠する、中原的都市を共有しない遊牧民をそ
う呼んだ呼称であるとされる。狄には北に位置する赤狄と南に位置する白狄が居たが、
時代が起こす戦争と共に北に逃げて暮らしたと言われる。その後北狄、戎狄と総称され
る異民族として中国の周辺で遊牧を続けていた。バイカル湖あたりから天山山脈にまで
多くのオアシス国家や定住遊牧民と草原争いの遊牧民雪上遊牧民が溢れかえっていて、
4世紀ともなると五胡十六国時代となり次第に自立した国が出来た。その多くが弥勒や
阿修羅の様な仏教名に似た名前が付き日本への仏教伝来に関わった国だろうとされる。
だが中央アジア各地で略奪をはたらき、土地を荒廃させていったトゥグリル族でトゥグ
リル・ベクがバグダードに入城し、アッバース朝のカリフから正式にスルターンの称号
を授与されるとスンナ派の擁護者としての地位を確立してイスラム教を広めていった。
此処に原理主義集団の原始がある。

312: 名無しさんAA:17/08/04 11:46

 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 34

 イスラム世界ではカリフとは「神の使徒の代理人」であり神の使いではない。そして
最高位の予言者とした。使いの代理人とした事はそれが人間であり、キリストの様に、
神の使いであれば不思議を示せ。と言われない措置を施したものだろう。更にスルタン
とは国王とされるが 日本語的に言えば皇帝や天皇であり自ら名乗った最高権威者とい
う事になる。此処に陰謀の理由がある。人は集団をして人を求めたのだ。略奪や暴行の
行為はあっても 現実的にはこのイスラムの布教は方々のまとまらない人々に 共通の
言葉や共通の習慣共通の考え方を求めたに過ぎない。その人々の心がさみしかったのだ
。満たされないままに食も得ず戦いに入ったし、満たされず自らの権力を誇示したのだ
。しかしまとまらない人々はその土地の自然と向き合い必死に食を得る労働にコミュテ
ィを作りささやかな暮らしで満足に生きていたのである。これは良く子供のいじめ調査
や交友でも同じパターンはかなりある。つまり「朱に交われば赤くなる。」で貧乏でも
例え物質が不足しても満足でささやかな幸福に満ちた暮らしも 一人の我儘や放蕩三昧
の中贅沢を一度味染めてはもう元に戻らないのである。古今の世界がそこに見える。ア
マゾンの少数原住民もそこに生活の防衛はしているものの、開発の魔の手は止まらない
。EU世界もロシアもかつての覇権国家時代に野望をかける。アメリカのトランプ政権
も意気地なしの如くに「オバマ政策」に相対する事に執着している。日本も又同じよう
に原子力政策に危機感はあっても、消費社会にさようならは言えずいる。今でも田舎で
は合理的な作りの古い家屋が何故かしら 車もTVも冷蔵庫も電話もガス水道も文明品
が無くては暮らしていけない貧相な近代家屋に変わって行く。手のかかる経費のいると
言う今の生活に何処にも人間性がないにも関わらずである。魅力はあってもFOX映画
と同じく幻想の興奮である。これが人の社会の秩序も週刊も常識も壊し戦争に行く準備
である事は確かな事だ。大木を切り殺虫剤を撒き除草剤で農作物を生産し経費の高さで
人を惑わし「高付加価値」などの幻想を広告する。これが更にマスデーターで分析され
て人を攻撃しAIで骨抜きにする。これがまかり通る政府ができているのである。大衆
烏合主義の中で。これが神に国土を終われたユダヤ人の本質でありキリストもイスラム
もそれを追いかけたのだ。エルサレムの攻防はその証で 不道徳な不快人の巣窟と化し
それを恥じないのである。


313: 名無しさんAA:17/08/04 19:16 ID:cjA
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 35

 このシェアコミニュティ論がかなり大きく人に押し寄せている。だが歴史上この時程
人の鬱憤が戦争になりやすい時期はない。かつてキリスト教も最初は厳粛なカトリック
だったのが威厳と共に厳格な規定を持ち出した。そこで新しいプロテスタントが出来た
。それでも宗教戦争で重税と強制布施は止まらず人は共生生活を始めだし共産思想が産
まれ社会正義を宗教廃棄の革命によってフランスは自由平等博愛を得た。この貧困格差
に基づいたこうした思想は和平への熱望と共に広がり共産主義者を作り得た。そも物欲
と言うのは独占欲でしかない。集団の中の個の確立が無い故の独占欲であり協同謀議の
果ての集団の独占欲でもある。個の拡張では個の尊重の上で共同生活は成り立たない。
そこで組合や会社などの目標に応じた規制や法を作った生活が起こる。日本の幕末期の
混乱はこのピラミッド型の支配層から下層市民に至るまでの意識改革である。戦国時代
にも起こった独裁不要のこの意志は道徳心に満ちていた。明智光秀が織田信長を殺して
天下を取った時も恐らくは下剋上の上の話であり、信長の恐怖の独裁に対する正義行使
の末とは取らなかった。石山本願寺抗争は今の大阪城を中心とした鍛冶の町で2万人は
いて戦いに3万人が10年間無補給で戦い焼き討ちで一向一揆と共に信長が3万人規模
の殺戮をした事件だった。怨霊を嫌う一般的武将に対し信長は人の頭から作った髑髏の
盃をこよなく愛して 他の武将の胆を確かめながら酒盛りしたと言う有様だったのだ。
世界で共生共済の独自社会の建設を願う頃 何故か日本でもこうした石山本願寺の様に
宗門が門徒衆と独自経済を成り立たたせて外界との遮断があっても暮らす仕組みが整い
各所に市場を作っていた。その理由は天候不順の災害にあった。自然災害に苦労するの
は何も人だけの世界ではない。虫も動物も鳥も魚もやはりその異変の前には汲々として
いただろう。そしてそれは植物の世界も細菌の世界も同じであって 人は寄り添い知恵
を出し合うしか手立てはなかったのかもしれない。紀元前の中央アジアはそうした中に
オアシス国家が並び立っていたのだろう。その中にイナゴの軍勢の如く食い尽くす部族
が鮮卑族である。紀元前3世紀から6世紀にかけて中国北部に存在した遊牧騎馬民族で、
五胡十六国時代,南北朝時代には南下して中国に北魏などの王朝を建てたが その後追
われ一部が朝鮮半島に住み着いたとされる。匈奴の冒頓単于が東胡を滅ぼした際、その
生き残りが烏丸山と鮮卑山に逃れ、それぞれが烏丸と鮮卑になった。幽州叛服である

314: 名無しさんAA:17/08/04 19:17
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 36

 今の大きな陰謀問題は極めて危険な問題に変わってきている。ブッシュJrが叫んだ
「テロとの戦い」の呼びかけは 全く道理を逸した言葉なのだが陰謀策略家や金融資本
に取って大きな人類滅亡に寄与した案だった。そもそもテロなどと言う民衆や一個人対
国家の軍隊と言う構図など取れるはずはない。飛行機一つ取ってもこのあってもない9
11に「自爆テロだ」と演出した為に大きな困難に陥った。飛行機搭乗には危険として
ライター類が取り上げられ、液体爆弾があるからとペットボトルをとりあげ、紐爆弾が
あるからと靴まで脱がされ 今度は有毒ガスがあるからと対象を広げまくるのである。
基本金正男さんの様に危害を及ぼす殺人すると言う意志を持ち策を練る者に太刀打ちは
出来ない。米国でもベネゼエラでも 問題は格差でしかない。民衆の攻撃は生存権であ
り宗教に入るのも生存権からの意志である。この破壊的活動が政府であれ個人であれ、
そうさせた環境が悪いのである。北のミサイル開発もそれを許したロシアと中国そして
火の海を恐れた韓国と米国に非があるのだ。ベネゼエラでも経済がこうなった理由は、
キャベスを選出した民衆が悪いしその後を継いだ政府に非があり それを進めた米中英
の石油掘削の支援に問題がある。この思考は他人や一般大衆の総家畜視点がある。AI
の管理社会ではマスメモリーでビックデーターを扱うところまで来た。飛行機搭乗に示
される様に「危険人物」の特定の為に「超管理国家」と言う危険社会を産もうとしてい
る。既にTVの有料化と共にカード社会にして今やカード決済に埋め込みチップ社会を
作り便利に差別する格差家畜化社会を創出しようとしている。ブッシュJr時代BBC
は彼の言葉や行動を盛んに茶化した記事で売り上げを伸ばした。その裏でネオコン軍団
は911を画策しアフガン侵攻してブッシュ家の過去の罪をしるビンラディン暗殺に手
をこまねいて軍隊まで上陸させ戦争し捜索した。タリバーンを追い出しながらもその後
八千人の治安維持隊の要求にビンラディンが見つからない事を理由に即座にラムズフェ
ルドは却下し断った。戦争理由がアフガンの自由主義化では無かったのだ。そしてすぐ
にイラク攻撃に変わった。まるでブッシュ家の警備兵が家の庭を捜索するように。これ
が陰謀の本質だった。世界は大きく迷惑する形で米国が作ったフセインが倒れ、ここで
イスラエルモサドが指導するアブ・ウマル・アル・バグダディがISを受継ぎISIL
が出来上がった。そして過去を消すために報道記者を次々に殺した。


315: 名無しさんAA:17/08/05 01:03
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 37

 陰謀術数の世界では 広報はプロパガンダと略され 映像文化は大事な道具で武器で
今でいうアイテムであった。昭和天皇が崩御召された時明治天皇の様には割腹自殺して
まで後追いする者は居なかったが、それでもデフレスパイラルに陥るかと言う瀬戸際で
必死に耐えていた者には 悲しみだった。古今のアニメが面白くないのはこの昭和の心
である「平和を守る強い意志力」や「戦争を起こさせない大きな思考」が無い事に尽き
る。昭和の終期とされる最後の年代は90年代と言われ今またリバイバルブームが来た
感じがする。戦後復興の集大成として80年代とするなら90年代の日本のそれは未来
に向けて何をなすかの時代だった。55年体制と言われる1955年戦後の昭和30年
に出来た与党第1党の自由民主党と野党第1党の日本社会党の議会体制が、東西冷戦の
中で今の対米措置に見直したい意志が出来た頃だった。各自の小さな小党も大同団結を
叫び国民は細川政権に夢を乗せた。がもろくも崩れ去りその後の民主党も小沢氏の能無
し政策で無駄な鳩山政権を作って終わった。又70年代万博で未来を予想した会場は、
そのほとんどを的中に導いている。「アポロ計画は巨大な予算でいずれ中止される」と
したメタポリズムの提言は「従来の固定した形態や機能を支える 自然支配や機械原理
はもはや有効的でない。」と新進気鋭の人気作家創造家達は万博をそれぞれ飾り未来の
準備として「人類の進歩と調和」をテーマに掲げて会場を飾った。この後に続いた経済
成長は残念ながら迷走し90年にその惰性の結実を満たしていた。古い細胞が新しい細
胞に入れ替わるように、古くなったり機能が合わなくなったりした部屋などのユニット
をまるごと新しいユニットと取り替える考えは 機械の故障が基盤事取り換える形を既
に作り上げた。この第二次世界大戦以来の規模となる芸術家らの国家イベントへの動員
は文化・芸術界内部で批判や「人類の辛抱と長蛇」や「残酷博」と揶揄されたことがあ
ったが、国際博覧会史上初めて黒字となった。この時未来を予見したテーマパークは、
その殆どが漫画家やSF作家であった。

316: 名無しさんAA:17/08/05 01:04
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 37

 当初万博協会会の長理事石坂泰三は、事務総長の理事を新井真一にしてEXPO70
をメインプロデューサーに岡本太郎を指名していた。が、太郎は万博のテーマ「人類の
進歩と調和」に猛然と噛みついた。「何が進歩と調和だ。!縄文土器のすごさを見ろ!
今の人間にあれが作れるか」、「皆が妥協しあって60点で満足する調和なんて、卑し
い。」といい「万博は世界の祭であるべきはずなのに、先進国だけが持つ技術力をもっ
て、人類全体があたかも進歩したように称する・・・その安易さが、許せない。」と事
あるごとに混乱させた。通産省にこの話が伝わり事務総長を鈴木俊一にすげ変え大会を
成功させた。メインパビリオンが黒川紀章の建物より太陽の塔が頭が出てる事でも、そ
の偏屈さは解る。今の多くの経済学者や政治学者などパラバイムラーのパラダイムシフ
トと言う既成概念を飛び越えた新境地が見いだせないのは、この自由主義を維持する力
が多様性社会の許容であり寛容である事を 単なる意見の集約技法としか見てない事だ
。そこには遥かな大きいエネルギーコストと膨大なタイムランを以って挑まなければ、
成立しない合意の世界のはずだ。だがそれでもその合意は遥かに大きい力を持つものだ
。70’代にトーマス・クーンが発表した時、単にパラダイムと言う既成概念は二つの
特徴を持って業績を成功させた分類上の事であった。その業績とは、「他の対立競争す
る科学研究活動を棄てて、それを支持しようとする特に熱心なグループを集めるほど、
前例のないユニークさ特異さを持っている。」性格の上に「その業績を中心としての再
構成された研究グループには、解決すべきあらゆる種類の問題を提示してくれている。
」と言う2つの性質の実証であった。だがこのパラダイムの言葉は“時代の思考を決め
る大きな枠組み”などと解されていることが多く、それらはその後の拡大改訳された事
であったが今ではビジネス書にすら登場するほど一般的な言葉として認識されている。
よく日本人は単一民族だからだから、ゼロサム社会だから進歩したと勘違いする人がい
る。だがそれは間違いでこのパラダイムと言う既成概念を持っていたから進歩したので
あり、その既成概念こそイメージで漫画やアニメはその概念の視覚化にほかならない。
スタジオジブリにドワンゴプログラムを持ち込んだ時宮崎駿はその映像に席を断った。
人間の芋虫の様な動きのモデリングだったが その映像より その映像を作った神経や
常識の無さに怒ったのだと思う。今の国会や社会現象は実にその具現化であり 我々は
この奇妙な社会にしてしまっている人間にもっと怒るべきであろう。パラダイムを壊す
事は優しい事だし楽しい事だろう。それが戦争だ。だがコストと時間をかけ作られた事
に表敬し敬愛し先人の想いをつなげて 改革や改善して本当の人間社会がある事を知る

317: 名無しさんAA:17/08/05 01:48
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 38

 7月22日ロシア通信は トルコのエルドワンがロシアの罠にかかった事を報道した
。メディアが報じた説によれば、シリアのフメイミム基地を拠点とするロシアの軍事諜
報機関は、軍部の無線通信を傍受し解読することができた。クーデターの首謀者らは、
エルドアン大統領を拘束するか暗殺するために同氏が滞在するマルマリスのホテルへ数
機のヘリコプターを差し向けようとしていた。ロシア国防省は、彼らのそうした計画に
関する情報をトルコ国家情報機構 (MIT)へ伝え、エルドアン氏はそのおかげで難を逃
れて主導権を握ることができた、という。アラブのマスコミ、スーダンのアルスーダン
・アルヨウムの情報に依拠するイランの大手通信社ファルス(Fars)の情報を引用して
いる。アラブのメディアは、情報源として匿名のトルコの外交官らを挙げているが、こ
のロシアの関与に関する報道とほぼ同時に、トルコの大統領は、カタールのテレビ局の
アルジャジーラへのインタビューで、異なる説を唱えた。同大統領によれば、クーデタ
ーの企てについて同氏に最初に伝えたのは、娘婿であった。同氏は、その情報を俄かに
は信じられなかったが、MITの長官との話し合いの後、策を講じることに決め、同氏
は、ヘリコプターで家族とともにマルマリスを後にしてイスタンブールへ向かった。先
に、トルコ軍の報道係は、計画されていた軍事クーデターについてはMITの特務機関
が7月15日クーデターの試みが始まる5時間ほど前に把握した、と発表した。情報源
については、何も伝えられず、トルコ当局は、クーデーター鎮圧へのロシアの関与に関
する説をコメントしなかった。この報道に対してロシアのドミトリー・ペスコフ大統領
報道官は、ロシア諜報機関がエルドアン大統領にクーデター計画について警告したとの
情報は、自分の手元にはないと述べた。だが新聞は「政治的ゲームが行われており、そ
うした報道もゲームの一部であることは十分に考えられる。そうした噂の流布は、両国
の関係が改善しており本格的な協力がすでに行われていることを示すための好い一歩で
ある」と述べ、「エルドアン氏は、ロシアの2015年11月24日にシリア上空で撃墜された
[Su-24戦闘爆撃機]を撃墜した二人のパイロットに関する調査が行われている、とすで
に声明した。これは、示威的な一歩である。現在、エルドアン氏は、西側から孤立して
おり、ロシアとの協力を必要としている」と語り、クーデターにロシアの Su-24を撃墜
したパイロットが参加しそれを追いかけて行くうちに見つかった様な事を示唆している
つまりは ロシアの現地諜報機関が戦闘機のパイロットに我慢がならなかったのだろう


318: 名無しさんAA:17/08/05 13:08
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 39

 こうした近況から 今世界では このパラダイムシフトに揺れている。だがこれまで
積み上げられてきた人類の幸福の化学式を勝手に変えようとしだしている事は危険極ま
る事なのだ。又新たに今やAIなどの人類を凌駕する技術機器が又一つ遥かに猛威を振
るう。しかしして地球上の自然界もこの人工物の氾濫に黙っているはずはない。シベリ
アツングースの森や東南アジアの熱帯雨林アマゾンのジャングルカナダ・東欧と至る所
の森林の自然は 凡そ半数以下に変わり生態系どころか気候変動まで起こしている。又
、トランプ始め多くの政界での右派と左派の我儘は世界を混乱させ中国アフリカと言っ
た後進国の急成長は その地球疲弊の加担しながら先進国の資源確保に競争や戦争を隠
れてやられ 中東での混乱に拍車をかける。現代人類が抱えるテーマは戦後の反主流の
平和主義者であった漫画家達の描いたテーマと殆ど変わっていない。一つは今だ中東の
石油に頼った経済構造であり、中東は得体も知れない紛争地域だと言う事だ。手塚治虫
も石森章太郎も平井和正も吉田竜夫もちばてつやも水木しげるも先の時代の戦争がその
石油資源の争奪にあった事を知っていたのである。 望月三起也や ちばてつや や つの
だじろうや赤塚不二夫や永井豪などもジャンルはちがえども この戦争の持つテーマを
抱えていたに違いない。あのアンパンマンでさえも戦争は食べる事を分け合えば戦うと
言う必要性はない。と言う主張のもと母親が子に分け与える様に食べる事の幸せを漫画
に託していたのである。しかしして人の残酷さは絶える事がない。既に最先端の原爆の
憂き目にあった日本で未来科学のエネルギーとして原子力は鉄腕アトム・8マン他多く
に使われて期待を語る一方で放射能の危険性に仮面ライダーやゴジラを産み、その裏の
組織の巨大さに戦隊漫画が出来る。正義の使者としての彼らも答えは出ないでおそ松君
やアンパンマンに受け継がれた。一方でその悲惨さから帰ってきた帰還兵はその生きた
証が地獄絵の中であった事からゲゲゲの鬼太郎や後ろの百太郎はだしのゲンなどの鎮魂
の歌を書き上げたと言える。これらは決して唐突に表れたキャラクターではない。そこ
に受け入れられた素地は大衆のもつ漠然とした正義への夢なのだった。だが今やその形
が社会性の中にうずもれてしまい 究極の子供に託す夢は描かれてはいない。


319: 名無しさんAA:17/08/05 19:51 ID:LUE
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 40

 オーストラリアはかつて白豪主義で悪名を馳せていた。有色人種の移民などを厳しく
制限し、差別していた国柄は、アジアの人々を積極的に受け容れる現在の姿とは全く異
る。オーストラリアの地方裁判所の判事だったウェッブは、ニューギニアでの日本兵に
よる“捕虜虐待”を調査した人物で、東京裁判に至る過程では、検察官の役割も果たし
ていた。この東京裁判に大きく関わったのがピッツバーグソサエティである。ピッツバ
ーグ社交界と言ったが解りやすいかもしれない。会員制社交界で米国でのモルガン財閥
、ロックフェラー財閥、メロン財閥などの意見交換会とでも言える。かつて米国植民地
時代にイギリスの領土として金融機関が本国との連絡用のクラブだったと考えられる。
だがメロン財閥ののれん分け会社にヘリテージ財団がある。米政策研究機関「ヘリテー
ジ財団」が主催したシンポジウムで講演し、その米国で沖縄県石垣市の尖閣諸島の一部
を都が買い取る意向を石原都知事が示した事は有名な話だ。この財団はハゲタカの様に
日本を狙う。現在世界各国に核ミサイルを販売する「窓口となっている」とされる。戦
前に日本に貸付のみで旋盤機械など入れてくれたし、戦後もいち早く朝鮮戦争の原料を
いれた。死の商人の最先端を行くビジネス商社だ。ロスチャイルドの銀行ゴールドマン
・サックスの子会社ノーザントラストである。「日本人を始めとした有色人種は、人種
として劣っているので、皆殺しにし、地球を白人だけの天国にする」と強硬に主張する
熱血の白人優位主義者で、キリスト教原理主義教会の創立資金を出したウィリアム・ラ
ンドルフ・ハーストを従えてその「後継者」が、黒船ペリーの末裔ウィリアム・ペリー
がディロン社長と噂される。そして彼らが作ったのがブラックストーン社であり、現在
ブラックストーン社の「共同経営者」が、中国共産党政府であるとされる。つまり両方
に危機感を募り武器輸出をして稼ぐ方法だ。1926年第一次敗戦下のドイツに工業化
資金を融通しヒトラーのナチス・ドイツが行う戦争のための「ドイツ鉄鋼トラスト」が
結成されがその時奔走したのがサム・ブッシュとクラレンス・ディロンでこの時財を成
したとされ白人優位主義を押したと言われる。ヒットラーにしてみれば白人と黄色混血
との見分けなどつかない。そこでアーリア人を作り上げユダヤを殺したと言われる。ロ
シア・ロマノフ王朝直営のノーザントラスト銀行、イスラエルの軍事産業アイゼンベル
グ社の顧問弁護士ローレンス・ティッシュの「資金援助」を受けて立ち直ったのだが、
現在ブラックストーン社は、カーライル社と並び、「企業乗っ取り屋」として勇名を馳
せている。ここに同じ原子力でも三菱でなく東芝が狙われた理由がある。

320: 名無しさんAA:17/08/06 05:31
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 41

 マハトマ・ガンジィーは1925年「七つの社会的罪」として次の7つを指摘した。
理念なき政治 (Politics without Principle) 労働なき富 (Wealth without Work)良心
なき快楽 (Pleasure without Conscience)人格なき学識 (Knowledge without Characte
r)道徳なき商業 (Commerce without Morality)人間性なき科学 (Science without Huma
nity)犠牲なき信仰 (Worship without Sacrifice) を人類の罪として掲げた。これらは
今の迷走する世界や日本の状況はこの中にある。安倍首相が発言した「押しつけ憲法」
論は既に自滅し黒社会のリーダーたるブラックストーン社を作ったヘリテージ財団の関
係者石原氏をその政権に入れた事はまず間違いであるし「理念なき政治」の最たるもの
だ。原子力発電の売り込みに際してもロシアや英国こそが売り込み先であり核ミサイル
のない国にはまず売り込めない。中東に行った事自体全く「人格なき学識」と言える。
米国や中国の生き詰まりは「道徳無き商業」と「人間性なき科学」の行きついた末であ
り、各国の自由化も犠牲の無い信仰の上に成り立たない。だが今欧州社会は移民と共存
の痛みを避けた方策に走っている。日本では戦国時代に「天下布武」を目指した織田氏
は「下剋上」ともされる主君殺しで明智光秀が三日天下を果たしたが儒教のせいか豊臣
秀吉がその後にちゃっかり天下統一の頂点に立つ事に違和感が無かった。だがその後に
は石橋を叩いて渡る性格の徳川家康は数々の策を用いてすり替わった。天下を取った後
も日本国が動乱により徳川氏が滑り落ちない策を練り上げて死んでいった。その方策の
一つは数々の法令である。武家諸法度を始め外国船打ち払い令やキリスタン禁止令など
の数多くある二つ目は参勤交代や江戸屋敷での人質などの仕組みである。隠密目付など
の諸国の情報集めの体系も整え、お家御取り潰しもさせた。三つ目にはこうした絶対的
権限の確立と共に自らは大権現や東照神君として日光東照宮として神に納まったのであ
る。この思想改革に四つ目の儒教の奨励を行った。儒教の一派である朱子学を奨励した
。儒教は自己確立の「修己治人」の学とされ一般的には、五常「仁、義、礼、智、信」
の5つの徳性を養う事で、五倫「夫婦、父子、朋友、長幼、君臣」関係性を説いた。中
でも朱子学は身分秩序を重んじ理気二元論といった相対しての考え方を重視した。上下
に上下関係は「礼」を重視し、主君に忠義を求め、家族に忠孝を求めた考え方である。

321: 名無しさんAA:17/08/06 06:06
 こうして江戸時代は幕開けその後二百年続いた。礼節を重んじ君臣に忠義を尽くして
親に孝行を建てる。この事は日本文化を支えた。だが同じようにこの朱子学は士農工商
を確定し士の身分を高くしたが同時に商業の発展を妨げた。田沼意次は、江戸時代中期
の旗本の家に生まれた。父の意行は紀州藩の足軽だったが、部屋住み時代の徳川吉宗の
側近に登用され、その後8代将軍になるに紀州家臣を大勢取り入れ幕臣としたため勘定
方になり9代将軍徳川家重の西丸小姓として抜擢される。紀州系幕臣の二世代目として
将軍に仕えた。御側御用取次から1万石の大名に取り立てられ、その後家重が死去した
後も、世子の第10代将軍徳川家治の信任は厚く、破竹の勢いで昇進し財政改革に取り
組む事になった。老中首座である松平武元など意次を中心とした幕府の閣僚は、数々の
幕政改革を手がけ、田沼時代と呼ばれる権勢を握る事になる。悪化する幕府の財政赤字
を食い止めるべく力を発揮した。この頃江戸社会はこの朱子学に基づき商業と言う物を
作りださずにいた。右から左に動かす事での利潤は悪徳と考えていた事から それを視
点に入れた財政健全策は異端派として白い眼で見られてしまっていた。重商政策を採り
、株仲間の結成、銅座など市場の専売制の実施、鉱山の開発、蝦夷地の開発計画、俵物
などの専売による外国との貿易の拡大、下総国印旛沼の干拓に着手する等を実施した。
そしてそれなりの効果を得て、幕府の財政は改善に向かいはじめていた。景気もよくな
りかけた。が新しい社会の資本主義化は、町人・役人の生活が金銭中心のものにし、結
果に贈収賄が横行したと言う。海外貿易をし黒字化させて国内の金保有量を高め、さら
には北方においてロシア帝国との貿易も行おうとしていたほか、平賀源内などと親交を
持ち、蘭学を手厚く保護し、士農工商の別にとらわれない実力主義に基づく人材登用も
試みた。これらの急激な改革は身分制度や朱子学を重視する保守的な幕府閣僚の反発を
買った。又不幸にも都市部が発展すると、格差により農民の田畑放棄で荒廃する現象や
都市人口の流入による犯罪や職業の縄張りが出たり、移民差別など混乱が生じた。又更
に印旛沼運河工事は大工事になり失敗とされたり、明和の大火や浅間山の大噴火などの
天変地異が襲い、天明の飢饉と呼ばれる食糧難や疫病は人々に恐怖と疑念を生じさせた
。それはこの自然現象が 田村政治の天誅だとする天誅派とも言える喰い詰め浪人が増
えだした事だ。息子の若年寄の田沼意知が江戸城内で佐野政言に暗殺され権勢が衰え始
めると、天明6年の将軍家治が死去して批判を受けて失脚した。今までに無い重い処罰
が待っていた。それ程実情と思考にかけ離れが生じていた。世間は「田や沼やよごれた
御世を改めて 清くぞ透める白河の水。」と謳い白河出身の新しい老中松平定信らの改
革に希望を託したが、それはかつての厳しい質素倹約でしかなかった。その為すぐに世
人は「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき。」と歌を詠んだ。

322: 名無しさんAA:17/08/06 06:08
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 43

 今我々はこの時の町民文化の上に立って繁栄を築いている。この後に黒船来航により
開国し、西洋諸国の文化を取り入れる中で明治政府を建てて、富国強兵・殖産興業で、
日露戦争から第二次世界大戦に至っても尚、こうして小さな島国が世界の中で注目ある
立場にいるのだが、これは小栗上野介やこの田村意次などの先人達の努力の下にある。
TVドラマでもこの時代を脚本しチャンバラ物としているし現実にも食文化・着物共に
圧倒的に独創的な日本文化を形成した時代でもある。だがこの時代に起こった事や苦悩
は今の時代と全く同じであってかつての日本国内で起こした矛盾はそのまま今世界に起
こっている矛盾と同じだ。かつて日本は米を通貨価値として人の生活基盤とした。そし
て田園開発によって潤うと思っていた。が食糧増産にはつながったが貧困は変わらなか
った。いやそれどころか米相場の下落によって大きく給与である俸禄の価値は下がって
しまったのだ。そして黒船到来になった。現代はエネルギーコストを基準に言わば石油
に我々は価値を見出した社会を築いてきた。つまり電力なりガスなり石油に価値がある
とした。そこで人はエネルギーの需要と高まりに合わせた供給に掘削機を入れ原油産出
を行ってきた。だがおかげてシェール石油や太陽光発電原子力発電と凡そ世界を変える
までのものを手に入れた。では人々の暮らしは良くなったか。江戸時代と全く同じに、
或る時まで発展の礎となったっが今や異常な程の格差を生んだ社会を創出したのである
。そして江戸の黒船の様に今や電脳通信機がAIを連れて登場した。江戸では朱子学を
離れ士農工商に別れを告げようとしたが、それはそれに馴れた大衆の固い意志に挫折し
た。原油生産に於いて独裁政権に平等平和主義に変化を起こそうとした革命もイスラム
を捨てない人々によって阻まれたし、この人権弾圧に不偏的価値の世界政府を希求する
ものの、便利で急進的消費生活は各国の協調体制に返って危うい物になったといえる。
誰もが後戻りしたくない贅沢に溶け込んだからだ。その意味でベネゼエラなどの後進国
の対立やBRICSの自然破壊に等しい開発や産油国のかたくなに捨てない宗教色は、
ある意味破壊に向かう人類そのものの危機を露呈してる。



323: 名無しさんAA:17/08/06 19:27
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 44

 宮城県のPR動画が物議を博していると言う。賛同する意見はPR動画は話題になっ
て価値がある。と言う考え方だ。これは殆どISILの首切り処刑の動画と同じである
。ある意味此処に二律背反がある。どんな良い商品も意見も呼びかけも伝わらねばいけ
ない。と運動する人がいる一方で、どんな悪質で邪悪の動議で陰湿な状況を生み出す物
で危険であっても、人類の持つ生物としての本能に呼びかけられては人は持たない。今
米国では隕石でも核でも或いは異常気象でも文化衝突でもシェルターへの避難発想が、
盛んになりつつある。それはツイッターであれ動画であれ自分を隠しての行動で解放を
望むと言う「安易発言」である。大統領が国民に呼びかけない。首相が記者会見しない
。などの隔離されたお友達の井戸端会議での閣議決定である。こうしたマナー違反問題
はこの大きな事や小さな事に関わらずコスト問題としてかなりの問題だ。江戸期に関所
問題と同じで人の個性の幅を非人道な者を除外する目的に民主主義は多様性の中の合意
に欧米各国はコストと時間を費やして来た。日本はその費用を持たない代わりに、単一
民族の合意として義務教育にその集団の公衆道徳を求めその成功を得た。だが近年にな
って不用意な法律上の穴に食い入る経営者を作ってはそれを賞賛し変更し馬鹿な提言ま
で中曽根は行った。ガロア群論から言えばこの2つの認知される行為とその為に認知し
にくい映像や正常の運動が二律背反で相対するのは当然の事だが、中曽根首相以下自民
がこの行為によって政府の正義を失くした事はかなりの国民に対する詐欺である。この
詐欺行為を今も続ける自民党を推す勢力は全く世界や経済を解っていないと言える。例
えば浜辺の打ち上げ花火や酔っ払いやゴミが増えるととすれば付近住民が砂浜への入場
に規制ないし管理の為の入場料を課す形なるであろう事は必至であろう。それは必要な
人件費などの補填の為だ。だがこの為に今まで何の影響を与えなかった一般人特に道徳
や公衆道徳に厳しくある普通の日本人がその負担を被るのである。それを止めるのは人
が少ない限りににはマナーの順守や警告取り締まりに他ならない。中曽根も同じように
米国の悪さにはちゃんと裁判なり反対などの声明を出すべき時だったのだ。米国主導の
関税障壁に折れ本来の広島長崎の原爆や主要都市の空襲に対して裁判しても日本の国体
を守るべきだったのである。それを逆になついた小猫の如くに 日本列島不沈空母節を
衛星テレビでぶちまけたのだ。全く世界の恥さらしになり下がった日本にしたのだ。


324: 名無しさんAA:17/08/07 00:27 ID:2Hw
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 44

 一方で靖国神社に英霊を弔い祀り続け、一方で日本の国体をなし崩し的に経済破綻に
導くと言う 何とも国民を詐欺る姿は自民党の得意とするものだが、それは昨今の現状
が行わせている訳ではない。自由民主党が自ら二律背反を作り 日本人にPRしている
に他ならない。そもそも満州国を新に作りながらこの国が中国のもの或いは日本が手放
す事に調印したなどと言うのは可笑しな話なのだ。あくまでも愛新覚羅国王の国であり
中国の領土ではない。ただ米国がこの満州国の後ろ盾にならなかっただけであり、中国
国民党も又中国の共産党との台湾まで含めた国土引き渡しなど認めて居ない。北朝鮮の
ミサイル開発で解った事は 北朝鮮の核ミサイル開発を我々に止める権限があるのか。
と言う問いだ。仮に持ったとしてもある意味内政干渉であり日本の憲法改正に満州占領
を勝手に泥棒の如くやっている中国が勝手に文句言っている様なものであろう。広島の
原爆投下に日本は今年も追悼式典を行うだろう。だが今だ米国の核の傘から抜け出せな
い日本は、国際NGOの核兵器の廃絶を求める各国の法律家、科学者、軍縮の専門家、
医師及び活動家らの構成されるコンソーシアムによって起草された核廃絶法案に条約の
参加すら見送った。1.開発(development)2.実験(testing)3.製造(production)と
4.備蓄(stockpiling)5.移譲(transfer)6.戦争使用(use)7.威嚇としての使用(th
reat of use)などを規定してまずは禁止し、禁止出来ない国に申告を促し、保障措置
を講じて核兵器の全廃に向けて行こうと声を上げたのである。国家の履行に対しては、
被害者支援と環境改善の保証を約束させ、その検証に国際協力と支援と国家補償を入れ
た条約だ。元々この条約に対して先進各国は反対しているが反対する理由が国にはない
。戦争をどの国も反対しているのであれば戦争の要因である事と核の持つ悲惨さを天秤
にかけて核抑止力としている。が本当に抑止力とするなら、使った時のこの懲罰効果の
の方が遥かにいい。戦争の惨状が一般には見えないから行うが 指導者も一般市民も、
その惨状は見るべきだし惨状の中でも生きる人の苦労は助けるべきなのだ。そこに責任
論を設けるのは 欧米流文化では当然の話のはずなのだ。特に日本は核の抑止があろう
が無かろうが全く戦争して勝つ見込みはない。永世中立国スイスと同じように他国の持
つ軍事力の支援で成り立つ防衛だからだ。そこを中曽根は理解していなかったのだ。


325: 名無しさんAA:17/08/09 00:08
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 47

 先に言った様に今や一国で防衛出来る世界ではない。それはアメリカやロシアすらも
一国で国を守る事は出来ない。だがそれでも中国や北朝鮮は軍備拡張を止めない。それ
は馬鹿と言う物である。「足るを知る」と言う事の大事さは日本人の古来より大事にし
てきた。こうした中でも 世界銀行などの国際金融機関やウォールストリート、政治家
や富裕層といった経済界における支配者層は、今まで通りの既得権益を守る事に拘って
、彼らにとって都合のいい経済学だけが幅を利かせている。そこで経済成長を続けない
と国が存続できないとか、人々が幸せになれないといったウソを吹聴している。その為
、企業はイノベーションと称して次から次へと新しい商品をバージョンアップさせての
無駄なもの取り入れた製品を作り、広告代理店は暴力的でセンセーショナルなコマーシ
ャルによって人を煽り、無駄なものでも商品化し売ろうと過剰消費にのめり込んだ世界
を作り上げる。そうやって私たち一般消費者は、知らず知らずのうちに「自然資本」を
食いつぶす加害者になることに荷担させられているのである。何の罪の意識もないまま
、人類の破滅に一役買っている先進国などの消費国国民がいる。もし天然資源が自国に
ないと言う事は、企業で言えば資本が底をついた状態であり。本来なら破産なのである
。今や、人口爆発は大きな問題とならざるを得ない。世界の総人口は現在74億人を超
えた。2045年には恐らく90億人に達するだろうと予測される。ある一説によれば
、それ以上の人口増加には、地球の生態系全体を急速に変化させる閾値を超えてしまう
と言う。閾値(しきいち)とは人が超えては戻れない値である。それでなくても、今で
さえ世界の資源消費量は産業に年間640億トンのやみくもな消費を行っている。資源
や環境は有限の中では、このまま人口が増大しても経済成長を続けられるはずはない。
この無理じいをすればどうなるかは明らかだ。だが中国や東南アジアなどの強硬な姿勢
を更に強固に軍事力に頼ってでも開発を続けようとしている。更にこの姿を批判すべき
英国や仏国などが なぜだかAIIBや一帯一路と言う詭弁に乗って参加しているのだ
。「人類の進歩と調和」の大阪万博の心は 欧州からの提言のはずなのだが、何故解ら
ないのだろうか。日本人は不思議に見つめている。今や一国でどうにもでも出来る社会
は悪そのものである。

326: 名無しさんAA:17/08/09 22:07
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 48

 「エルンスト・フリードリッヒ・シューマッハー」と言う人を読者は知っているだろ
うか1911年戦前のドイツに産まれたユダヤ人である。ドイツのボンに、ボン大学の
政治経済学の教授で、アシュケナジムユダヤ系のヘルマン・シューマッハーの次男とし
て生まれた。祖父はコロンビア大使で、家柄は14世紀以来ブレーメン市長も務めた。
1929年、ボン大学に入学し、11月にイギリスに渡り、ケインズに師事したのだ。
翌1930年に奨学金を得てオックスフォード大学ニュー・カレッジに転学し、さらに
1932年には、アメリカのコロンビア大学に転学して 金融学のパーカー・ウィリス
教授に師事し、経済学を修め、同大助講に抜擢された。その後、ドイツに帰国したが、
或る時溺れかけたナチスの高官を救助して、人命救助勲章を得て、アンナ・マリア・ペ
ーターゼンと結婚した。戦火が広がる中、同胞のユダヤ人が大量に離独するのを受け、
自らもイギリスへの移住を実行した。そしてドイツ生まれのイギリスの経済学者として
ジョン・メイナード・ケインズに師事し、イギリス石炭公社の経済顧問となった。自ら
経済顧問でありながら疑問を託し、長年の石炭公社の勤務経験と経済学者としての分析
から、石炭及び、その代替燃料としての石油の枯渇を予測し、原子力の利用についても
警鐘を鳴らした。いかに経済が原子力で繁栄するからといって、今だ「安全性」を確保
する方法もわからないまま、何千年、何万年の間、ありとあらゆる地球上の生物に測り
知れぬ危険をもたらすような、毒性の強い物質を大量にためこんでよい。というもので
あってはならない。そんなことは、地球生命そのものに対する冒涜であり、その罪は、
かつて人間のおかしたどんな罪よりも格段に重いものである。文明がそのような罪の上
に成り立つと考えるのは浅はかで、倫理的にも精神的にも、また形而上学的にいっても
、化け物じみて非人道のままである。国のエネルギーはどんな場合にもコントロール下
に置かなくてはならないし、また決して悪しき手- 強請者、テロリスト、政治的ならず
者ないし自殺狂などに渡るようなことがあってはならない。技術と自由の連関は明らか
であり、自由の代価、あるいは少なくともその代価の一部が暴力的な技術を割けること
であるのを見抜くのは困難である。と嘆いている。これが野望や陰謀の本質であろう。


327: 名無しさんAA:17/08/09 22:07
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 49

どんな優れたものでも「安全対策」「病因となることの恐怖」「悪用されないこと」な
どが当たり前に産業に根づかせねばならない。とも言っている。早くから原子核エネル
ギーの、いわゆる無限の可能性が指摘されている中からその誇大妄想に似た宣伝に警告
を発し。放射線を安全に処理する方法がないかぎり、核分裂エネルギーを大規模に発展
させるのはほとんど自殺的である。と言い又そのような大規模の開発は、増殖炉を基礎
にして初めて可能だということで問題がある。とし、この安全に処理する方法がない原
子力に発展はほとんど自殺的だと警告した。イギリス石炭公社の経済顧問であった著者
は『スモールイズビューティフル』を73年に出版して、石炭及び、その代替燃料とし
ての石油の枯渇を予測し、原子力の利用についても警鐘を鳴らした。それは来るエネル
ギー危機を本書で予言していたものとされ、そしてそれは図らずも日本ではその年の終
わりに、第一次石油危機として現実化した。またそれは大量消費を幸福度の指標とする
現代経済学と、科学万能主義に疑問を投げかけた内容で、自由主義経済下での完全雇用
を提唱した日本型社会の賛美するものでもあった。経済顧問として招かれたビルマで見
た仏教徒の生き方に感銘を受け、仏教経済学を提唱した。これからの先進国から途上国
への技術支援のあり方として中間技術(省資源化技術)を提案している。それは小さい事
、簡素なこと、安い資本でできること、更に非暴力的であることの4っつを提唱して、
提言しているのである。これらの提言がありながら日本の首相達は次々と中国に大型資
本供与と言う馬鹿をやったのである。本書の「小さいことの素晴らしさ」について述べ
れば それは今や断捨離生活や物に囚われないシェアの共有共生学に挑む現代を示唆し
てもいる。更に今や個人の生活以上に国の在り方も又小さい国こそが生き延びる可能性
が高い事を示している。今般の諸事情を考えればベトナムに負けた米国やアフガンやら
イラクさえも包括的平和国家が出来ない事もその意味では当然でもある。又北朝鮮にし
ても恐らくどうしようもなく、今後は中国よりも遥かに北朝鮮の方が良くなる可能性は
強い。なのにである。どうした事か北は意固地になって使えない核ミサイルに執着して
いるのである。近代では一度戦争になったら止まらない。この危険を回避すべきである
。既に十分武力衝突が起こっても不思議でない危険度なのだ。


328: 名無しさんAA:17/08/09 22:08
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 50

 不思議なのは日本がこんなに自由だと声をあげなくとも 世界が認めている事だ。そ
んなに日本はいい所ではない。地震も台風も干害も風水害も他の国より多いはずだ。が
そこに生きる努力が人の温かさを産んでいる。だがこの日本を何故だか米国は目の敵に
戦争に道連れにした。終戦時の悲惨さはかなりの物で、大都市30がほぼ焼夷弾で焼き
尽くされた。東京名古屋など大都市は10万人規模である。「ああ何故無辜の者が惨状
を得るのか。この無辜の人が何の罪を犯したか。」と言うくだりがある。殆ど100万
〜300万が全国では死んだであろう。原爆も又大勢の一般市民を殺した。」その意味
ではドイツの次に断罪されるのは連合国であろう。更に中国大陸で敗けた国民党軍は、
大勢の日本兵に化けた共産党軍を見ているとも言う。今や詳細は闇だが殆どの日本兵は
戦うより守りであったと言われ、ゲリラ戦で今のシリアの惨状を見れば紛争だろうが、
戦争だろうが、悲しい事実があったろうが日本国内の惨状程では全く無かったと言える
。それはその後の共産党躍進や文化大革命などの方がもっと多くの人間が死んでいるか
らだ。江戸城開場時に歌人太田垣蓮月は「うつ人も うたるる人も心せよ 同じ御国の
御民ならずや あだみかた勝つも負くるも哀なり 同じ御国の人と思へば」と言ってい
て無血開城になった。陰謀論の世界では勝ち負けを話し合いで解決した事で大きく日本
は生き残る事になる。有名な無血開城である。世界的に戦争が終わっても尚国民党軍を
叩き続けた中国共産党の醜い争いとの違いがここにある。もし親兄弟家族や友人縁故が
大事であるなら戦争を止めたであろう。だが中国共産党はその無能さ故に殺戮を続けて
国民党軍は台湾に退いた。で今の孫達では台湾人の方が格段に幸せであろう。北朝鮮も
又同じだ。例え核ミサイルを持ったとして ロシアと同じく政権も常にその非情さの中
で国民人気を支え国民も大らかな政権批判すら出来ず自然の猛威に各個人が対応する形
となる。北方領土がクリミア半島が例えロシアの物となろうが兵士達は人殺しに明け暮
れる形で住民には大きな迷惑だろう。人が人を救う。これほど大事な事が人生にあるだ
ろうか。我々は生きてる感謝をともすれば忘れる。だが本当は生きてる意味は親を助け
子を助け支え合って生きているのである。


329: 名無しさんAA:17/08/11 15:18 ID:J/A
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 51

 現実の価値観は大統領すら金で買う時代に入った。大富豪の税率を下げたブッシュは
それまで100%の税率が70−60−50と下がってはいたが僅か25%にまで下げ
た。これは政府をオークションで買う事の予行演習であった。1960年代から30年
間人は景気を支えてきた。ビルクリントン時代に既にサブプライムローン問題や金融資
本家のLTCM問題やリーマンショックの金融危機を予見していたロバート・ライシュ
が語るのは税制崩壊である。2013年「回復の足取りは、きわめて遅い。中間所得層
が失われつつあることが大きい。米国の経済の7割は、個人消費に依存しているが、そ
の担い手である中間層が、もはや経済を持続的に回していくだけの購買力を持ちえてい
ない。」と話している。所謂中間所得者層は70年代に貧困を止める為に女性を家庭か
ら外に働きに出した。それまで少なくて良かった女性達の進出は更に男性サラリーマン
の給与を労働競争により少なくした。それは購買力低下と共に商品デフレである低価格
競争を起こした。この時日本はオイルショックにめけず技術革新でアメリカをしのいだ
。そして90年代にはこの価格競争は既に販売シャアの獲得に寝ない夜を出現させ残業
時間の過当労働を産んだ。これによって共働きと 残業代による生活維持が図られた。
この頃に企業トップは労働者の奴隷化にこぎつけて 会社命令で人が動かされる世の中
に変わっていった。所謂社命である。単身赴任や海外出張や社会モラルの崩壊を望んだ
。年功序列を廃止し、トップ給与を10倍から100倍にした。そして税制優遇は会社
がトップの持ち物として機能した。その後金融界は価値の無い紙幣を手形に貸付による
高利潤の金融財産を持ち込んだ。つまりゴールドカラー・ラッシュである。最後に国に
好景気を支える為の物価上昇のインフレターゲット論を持ち込んでまで債権発行を促し
た。所謂資本脅迫である。実労働人口のブルーカラーの大挙解雇を盾にして 国の援助
や補助や低利貸付けを経済政策として迫ったのだ。こうした事は既にトルーマン時代に
FRB委員長になっていたマリナー・エクルズは予言しており、大恐慌についての「大
きな経済力を手にした人間達が、経済ゲームのルール形成に過度に影響力を持っている
。」と警告し、「経済ゲームが公平なものではなく、富と権力が集中した一握りの人々
を利するものになっている。」と指摘している。


330: 名無しさんAA:17/08/11 15:19
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 52

マリナー・エクルズはアメリカの実業家で1929年の大恐慌を経験した。エクルズの
経済政策は、デフレ期には財政赤字を拡大させ、インフレ期に均衡財政を目指すという
もので、これを「弾力的予算の原則」と呼んだ。戦争時に人命を守るため無制限に政府
債務が使われるのと同じように、恐慌時にも失意と絶望から人命を守るために無制限に
財政出動をおこなうべきだと考えた。エクルズの主張はケインズの代表作「雇用・利子
および貨幣の一般理論」が出される前であり、エクルズ本人はケインズの本を読んだ事
はないと発言している。エクルズは自らの経験から、ケインズと同じ考えに到ったとい
われていて 今ではケインズがエクルズを研究したのではないかと言われる。エクルズ
は、これまでの経済学はもはや役に立たず、「抑制のない個人主義と、それに伴う自由
競争から成り立つ正統派の資本主義制は、われわれの目的を実現するものではなくなる
。」と発言した、「新たな経済哲学、新たな経営の視点そして社会システムの根本的な
変化」が必要だと考えていた。インフレ期に過度の膨張を抑えるために金融政策を実施
するのは非常に効果的だが、不況時に低金利政策などの金融政策で景気を回復させよう
としても効果はほとんどないと発言していて デフレ期の経済政策が無い事に「糸を押
すことはできない」という言い方している。つまり、デフレ期の金融政策については、
財政赤字を拡大させて大資本家に課税を促すしかないとしている。エクルズが世界恐慌
について分析した内容は、2007年からの世界金融危機にもそのまま当てはまると言
われ、問題は資本家への課税を引いた事にある。インフレ時に庶民の課税を充実させる
行為は行われるが、デフレ期の課税はインフレに移る施策として十分な効力を持ってい
るにも関わらず 国際貿易や従業員解雇や下請け連鎖倒産などの恐怖から その課税は
強化どころか免税になりやすいのである。これが、富と権力が集中した一握りの人々を
利するものになっている事はピケティの提言などでも証明される。アダムスミス経済学
では古典的に、「市場は自律的に調整されるもので、最終的あるいは長期的には失業は
存在しない」とされていた。しかし、現実には世界恐慌を引き起こし、大量失業発生が
あり、この古典派経済学理論と現実との乖離があった。ケインズは「需要によって生産
水準が決定され、それが失業を発生させる。」と証明し、経済状況改善施策は、単なる
失業解消する為の方策ではなく、政府による財政政策・金融政策・技術革新など様々な
政策課題であり、その理論的根拠で行われるものとした。


331: 名無しさんAA:17/08/11 15:19
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 53

 だが格差社会がここまで来ると ケインズ経済学にも 理論的価値がなくなった事が
示された。いわゆる人間の欲望が「利潤のトリプルダウン」を妨げ「ボールの二分割」
に拍車をかけ「消費社会の破たん」を招く事が AI計算などで明らかになった事だ。
その意味では日本の「公衆道徳理論」は今後脚光を浴びるが 国際的「干渉度合の策定
」に野望と良心が闘って行く可能性を示唆した。「元気な消費者がいなければ 企業の
資しない。世界経済が、再び力強い成長の軌道にのるには、中間層の復活こそがカギに
なる。それ以外に方法はない。格差をそのままにすれば、いずれ政治的な不満として噴
き出す。」と言い「私が主張し続けたいのは、経済は何処かの誰かの利益が増えると、
その分、別の人の損失が増える様なゼロサム・ゲームではないということだ。経済を形
つける民衆の新しい仕事をうまく見つけられる再雇用制度や、所得階層が低い人たちへ
の教育の充実、公的医療保険の対象を広げるなどの格差是正の方策のコストが払われた
ら 経済潤滑がうまく進み、いまは富が集まっている富裕層にとっても もっとよいは
ずの社会が産まれる。」と言われ「格差拡大の傾向は、既に多くの国でみられる。中国
やロシア、インドなど新興国でも富が富裕層に集まる傾向がみられ、実際、こうした国
の経済成長も法則通り今や鈍くなっている。米国ほどひどくはないが、私は、日本でも
格差の広がりは無視できないと考えている。」と発言する。「中間層を復活させるには
富裕層への増税などが望ましい事が現実には証明されている。戦争や紛争のシグナルも
又同じだ。こうした格差が広がっている事で教育が廃れ公衆道徳がなくなる事は、経済
ロスや危険回避コストの上昇は議会が問う税負担以上であり遥かに凌ぐ。その意味でも
富裕層の最高税率の大幅引き上げなどは 大きく理にかなっている。」と言う。断捨離
世界の構築に向かい多くの人々が消費を捨てた社会が築き上げられた場合の損失や強制
の不合理暴力からの怒れる民衆を取りまとめるものは いつの時代でもテロ的集団であ
る。そうなれば富裕層は大きな損失で済まない危機が訪れる。そうなれば第一次世界大
戦後のフランスのユダヤが求めた過度な賠償でヒットラーが出来た事や第二次世界大戦
後にベトナム利権を捨てなかった米国金融が結果的に国内若者を死なせた様な 悲しい
現実しか歴史は残さない。

332: 名無しさんAA:17/08/16 12:21 ID:Svw
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 54

 此処に来て面白い話が出てきた。細胞頭脳論である。「人類は進化の過程で出てきた
最終形態ではない。」と言う考え方である。植物行動学の中で我々は植物に言葉も知恵
もましては耳や目や動作も無い様に誤解してしまう。だが現実には多くの植物が言葉を
持ち考え行動し耳や目や鼻や口を持っていると、今では考えられる。虫の生態系からは
これまで虫が世界を席巻できなかったのは、植物の戦いに敗けたからだ。とされ多くの
虫達は植物に飼いならされて動いている。と言われる。それは生態系の頂点として霊長
類の人間こそが産まれた理由とされたが、人間も又植物が作った一つの傑作作品でしか
ない。と変わったのである。現実に植物世界は人間の創造を超える時間を持ち更にその
進化を止めない形は驚異に値する。もし人間が植物の奴隷或いは植物の家畜として動い
ている。と言う主張を認めて検証すれば、確かに色々な問題は植物無しには起こり得な
いどころか生存すら出来ない中にいるのは確かだ。最近の研究では植物が持つ言葉など
は人間では聞き取れない電磁波であると言う結果を持ち10ないし20の言葉を持つと
される。それは音楽でありリズムとされる。又耳や口には食虫植物がありそれらは虫を
誘い出し食べると言う行為がそこにある。匂いを出し他を誘い利用し移動する様はその
行為をする為に努力してその形態を持ったと考えるのが妥当だ。我々のこの利用される
中に種の改良があるとすれば 今だ進化を求めて変化してる植物こそが地球の支配者と
も考えられる。ある植物学者によればAI以上に計算されたずる賢さが樹木には備わっ
て居ると言う。現実にある芋虫に樹木の葉がやられればその天敵とする蜂や鳥が欲しが
る匂いを出し除去するし アブラムシに取りつかれた草が枯れる事は決してないと言う
。つまりテントウムシを寄せ付け害虫が増えれば天敵をも増やしその分自分達の子孫も
又増やす事で他の草との差別化を図るそうだ。事実虫と植物の長年の共存関係は人間の
持つ危険な薬物治療よりかなりの合理性であり花粉自救から根っこ抗生物質生産に至る
までかなり行き渡るものだ。では何故脳の無い動かない物を最高生物とするのか、又我
々人類がわざわざ脳を持ち知能をもってしても 低級生物として位置づけされるのか。


333: 名無しさんAA:17/08/16 12:22
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 55

 現代CPIセンスは ビジコンの嶋博士の標準化モジュールの構築から始まった。
コンラットツーゼは1935年から1936年にかけてZ1を設計しベルリン工科大学の大学院生
だった1937年、シュレイヤーは真空管を使った論理回路や今でいうフリップフロップの
実装をして条件分岐命令を備えていない完全プログラム化マシンを作った。プログラム
とデータはセルロイド製のフィルムに穴を開けることで記憶され2200個のリレーは
計算が出来た。そうして改良が進められZ3が出来たのは1941年である。世界初と
されるEDSACの1949年より8年も前の話であった。フォン・ノイマンが論文で
示した様にプログラム内蔵方式のコンピュータとして希代の費用で米国が作り上げたこ
のコンピュータービルを、小型化し民間に変化させたのがLSIパソコンだろう。  
この頃の日本は 万博に向かって高度成長期に入り 事務的要因の中では人員不足に見
舞われていた。その頃一反の300坪の田舎の田んぼと庶民の車としての普通車更には
事務所の真空管式の計算機が それぞれ50万円代に突入した時代だった。それはどの
分野でも画期的に安値になった事であった。1970年代は激動の時代だったに違いな
い。シャープはこれまで無かった計算機を考えた。これまで機械式計算機は手動で歯車
を回して計算する、それをモーターで歯車を回すのが電気式計算機である。しかしなが
ら大型で動作音も大きく価格も高い。そこでリレーを使った電気式計算機をカシオ計算
機が開発した。それを追随する形でリレー回路からトランジスタ回路に変えた世界初の
商品をシャープが発売した。オールトランジスタ・ダイオードによる電卓「CS-10A」で
ある。価格は当時の1,300CCの乗用車日産ブルーバード(54万円)とほぼ同じの53万5
千円だった。初めての電子式の未来が見えた物だった。だがこの時トランジスタ回路の
発注を海外に求めたので国賊と罵られた。それでも爆発的に売れた。ビジコン社は更に
安価で軽量化を進めた電卓用のLSIの開発においてインテル社と契約を結び、LSI
の共同開発を進めた。この時契約上の見解の違いが出て、インテルは単なるアドバイザ
ー契約の形だったので嶋氏がそのロジックの回路設計に回されたのだ。


334: 名無しさんAA:17/08/16 12:22
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 56

こうして派遣社員の筈が
中心に座らされた形だがこの時専用LSI設計からインテルアドバイスで凡庸LSI開
発を行い命令仕様の凡庸LSI「Intel 4004」の開発に成功する。これにより1971年10
月に「Intel 4004」を搭載した電卓「141PF」を発売した。此処に その後を飾るマイク
ロプロセッサが誕生し、その搭載でROMによるプログラムの追加だけで新しい機能を
次々に付加する計算機ができた。更にその後モステック社との間でもワンチップ電卓用
LSIの共同開発を進めていた。この若い技術者達のスピンアウト小会社は、イオン注入法
という最新技術を持っていた。そして技術者たちの努力によりワンチップ 電卓用LSIの
開発はわずか半年で実現し超小型のワンチップLSI電卓「LE-120A」を発表し発売した。
この シャープがトランジスタによる計算機を開発しその後ビジコンがワンチップ電卓
用 LSIをイオン蒸着に開発した事は衝撃的であったが ソニーが1960年に不安定な
がらもトランジスタ回路によるTV開発をしてからは当然の帰結ではあった。最初のプ
ロセッサーである「i4004」については 聞き覚えのある方も多いだろう。当時ビジコン
社から出向の形でインテルに出向いた嶋 正利 氏が設計に携わった、ということで有名
である。1971年に登場したインテルi4004は4bitのCPUで、アドレス12bit/データ
8bitながら外部バスは4bit幅で、これを時分割多重で出力するという、ものすごい設計
になっている。 このi4004をベースに、命令数やレジスターなどを増やして性能改善し
「i4040」を発表、製造は1974年からとなっている。周辺回路はi4004のものをそのまま
使えるように配慮し4040で新規に追加されたチップもあるが、外部バスは4bitのままで
使えた。その後はインテルのCEOになったロバート・ノイスが嶋をスカウトして更に
進めて設計し「Intel 8008」を作った。CTC発注だったが最終的にi8008は 製品には
利用されなかった。その為インテルは外販することにした。使いにくさは i4004によく
似ていたが、外部バスは8bitとなり、性能もi4004のほぼ倍となっている。その後改良
した「i8080」を出し。命令セットのi8008の上位互換に位置付けした。この頃に多くの
命令系統の統一が図られx86の元になる命令セットはここで規定された。今まではPMOS
プロセスで製造されたi8080だが、1976年にはNMOSプロセスに切り替わった「i8080A」
が登場し 段々と高速動作が可能になっていった。このPMOSとNMOSの違いはパソコン
内部の回路に大きな違いがあって オンオフを完全に電流を切るか基底電流を流すかの
違いが出てそのLSIの電源設定を大きく変え省電力化を可能にした。1978年には後継
機i8080/8085の上位互換である16bit CPU「i8086A」が登場する。

335: 名無しさんAA:17/08/16 12:23
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 57

そしてこの8086こそが二千年まで使用される確定プロセッサとして君臨するのである。
この型にはNMOSとHMOS、CMOSの3種類の製造プロセスによる製品が混在していたのだが、
NMOS版では動作クロックが4MHzどまりであったのに対して、HMOS版では10MHz、CMOS版
では最終的に12MHzに達する性能があった。こうして出来たX86タイプは民生用では
一般化し拡大し多くの互換機が出た。NECからは「μPD8080」として発売され、米ザイ
ログでは「Z80」などが出たのである。このワンチップマイクロプロセッサーは軍事製
品にも大きく変化を与えた。民生CPUが軍事ミサイルのCPUより格段に安く格段に
精度が良く早く計算したのである。これを受け米国の日本製CPU制限を持ち掛けられ
コンピューターCPUは日本国内では基本的非生産になり機械部品のMPUの生産のみ
に変わった。こうしてビジコン革命であるワンチップコンピューター時代は日本では終
了を遂げ次の舞台に移ったのであった。この時日本では、新たな製品を作り上げるスパ
イラル構造を定着させていた。シャープを例に取れば、当時シャープの町田勝彦社長は
「電卓は、その事業の成功だけでなく、その後の波及効果が大きく、様々なエレクトロ
ニクス事業の発展に大きく寄与した。電卓は初めて民生用に半導体を利用し、IC産業を
大きく発展させた。また、電卓の消費電力を下げるために液晶を採用し、その液晶部門
は液晶TVという、最もホットな事業へとつながっている。さらに、その後の電卓での
採用したソーラーパワーは、太陽電池事業へとつながっている。そして新たなものを作
るという創意工夫の遺伝子を作り上げ、キーデバイスを生み、それがまた新たな製品を
作り上げるというスパイラル構造を定着させた。」と電卓が果たした役割の大きさを語
っている。この後i8086/88の後に、インテルは大きく4つの製品ラインを作っていた。
8086の後継としてより性能をもつ「i80286」部門。更に周辺機器回路まで統合環境を組
んで便利な構成とした「i80186/80188」部門。更に16bit 指令を8bitの組み込みに特化
した「i8051(MCS51)」そして「メインフレームクラスの性能を持つ」と言われた32bit系
の「i432」(iAPX432)である。だがi80286はIBMが「PC/AT」での採用を受けて爆発的に
ヒットしたのに比べて 当初は「i8800」でオブジェクト指向命令セットを搭載しての
ヒットを狙ったものの、マルチタスクやプロセス間通信をマイクロコードで実装すると
いう、独自のプロセッサーに進化して重装備で高速動作は難しく、結局早々と消えてし
まっていった。

336: 名無しさんAA:17/08/16 12:23
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 58

 こうしてインテルプロセッサーは 286から386.486と進化していく過程で
286の命令仕様を変えた革新プロセッサー8800仕様をつくりだしたのだ 860
タイプは大幅な予算で大がかりに開発されて 何でも出来る画期的仕様でありながらも
互換性と高速性能がない為に消えた。286の売り上げに支えられた開発費で支えられ
日の目を見たが 浪費の黒歴史文化として消えたのだ。こうした規格の攻防の歴史は、
純粋な消費者には受け入れがたい物であったのだが、そのままビデオムービーまで家電
業界は引きずって行ったが仕方がなかった。これがそのまま陰謀論に巻き込まれるので
ある。つまり技術革新と軍事利用は現代社会の国家論を形成する。このLSIが軍事の
利用で産まれた秘密回路であり コンピューターが行っているのは暗号化テクノロジー
の一つに過ぎない。プログラムの中に出て来るアルゴリズムとは要は機械の為の言語措
置であり、公明正大な どの機械でも行える計算式の話である。当然B+Cと言う代数
であれば 2つが解れば1つのAと言う答えが導かれる。このB+Cが機械性能であり
Bがプログラムと解釈すれば当然CがアプリでありAは結果と言う事になる。だが暗号
化は結局は他人を欺く為の物として人が開発した物だが、それが機械の為の司令語とし
て有用だったのである。ところがこの仕様の規格が秘密では連絡の意味をなさず公示し
公表の中では秘密連絡にもならない。メーカー規格の位置も同じで 他業と同じでは、
魅力ある地位につけず独立独歩の規格では先行しない限り全く世界普及には入れない。
つまりこの暗号化も又 この2律背反の中での鍵と錠前のを作る作業だったのである。
だがこのコンピューターの進化は植物の進化に似ている。かつて海の中に二種の原生動
物がいた細胞原種とされるものだ。本質は4つの分子糖質・脂質・タンパク質(アミノ
酸)・核酸で作られた最小生命体とされる。種の起源は今だ謎は多いが無機質から有機
体となり或る時地球海面温度が下がる頃に 自然発生的にストロマトライト構造という
体の温度保持機能が光合成を産んだとされる。金属化合を含めた異種有機体は偶然にも
自らの体の再生を持つ機能を持った。DNAと言う同系連鎖反応を記憶する形なのだが
これが保護膜を持って分裂増加する者を誕生させたとされる。その後環境変化に対して
動き回る事で生き永らえる者と分裂増加を効率良くして生きようとする者に進化した。



337: 名無しさんAA:17/08/18 10:06
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 59

 コンピュター進化と人間への生物の進化は全く同じであろう。本来ならばこのコンピ
ューターの進化で文化が高まる筈だった。だがIT業界はこのウインドズにしても や
っていけない非人間的行為でのし上がった。まずビルゲイツそのものが人々持ちよった
知識そのものを盗んで商売した。避難が集まると新たに新DOS開発を行ったがうまく
行かなかった。その為に彼の商売はバグをして新たなOSに買い揃えさせる事だった。
ビルゲイツが成功したのアメリカの小曽汚い精神であったが それを採用したNECに
よって成功したのだがそのNECを支えたのは他ならなぬ熱狂的ホビー信者達だった。
今でもオタク文化がある種の世界の技術を高める事は多い。だがこうして出来上がった
秩序の無い違法文化は拡大して 今や日本も食いちぎられた一端にある。だがその悪さ
は留まらない。人のこれまで盗まれる事の無かった風景や行動範囲やプライバシーなど
はTVに映る指紋からも見える様になった。かつて海の中の二つ行動体酸素を嫌わない
体と、光をしてエネルギーに変え分裂し増殖する体は、組織と言う一つの細胞になった
。そしてこの組織は集団化して捕食までするようになった。それまでは科学反応はあっ
ただろうが劣化と言う現象が始まった最初であろう。こうして植物は捕食の根と光合成
の葉を持つようになった。こうして植物達は繁栄を遂げる中それを食べる虫たちも出来
上がった。これが動物の元になった。元来植物と捕食者である虫達は共生の中にいた。
最初水中の中にいたそうした生物達は体を殻で守る事に専念した。植物で作られる酸素
の殺菌作用で多くは水中でも穏やかな暮らしであったろう。又海中で腐敗していく体は
酸素濃度と共にPH値も高くそう素早い活動は出来なかった。初期のCPUと同じであ
る。だがその内大胆にも同じ殻を食べる大型の虫や進化した魚が出てきた。植物も又、
生きやすい地上へと生活圏を変えた。高濃度の塩酸中の水中生活で得た防御は地上での
生活にも応用された。植物は膜を張り動物は殻のまま地をはった。大量に食い尽くされ
る中でも植物は繁栄したし それらを餌にした動物にも繁栄を与えた。更にそうした、
小動物に対しての捕食者にもそのおこぼれはやって来ていた。こうして地上でも楽園が
形成された。酸性雨もやがては普通の雨に変わった。日差しの強い光も二酸化炭素が少
なくなり、植物の持つ日陰や吸い上げる水分で適切な環境が 生物全体に与えられてい
たのだ。


338: 名無しさんAA:17/08/18 10:07
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 60

 この生体としての活動は植物は常にリードして指導していた。受粉に蜂がそそのかさ
れるのは、受粉する為の植物の罠であるし 草食獣が草をはむのも自分が遠くに根を張
る為のものだ。かつて日本の牛のエサに南米の雑草の種子が混入していた事件が相次い
だ。だがどんなにその種を培養しても芽を出さない。と言うのも飼料用に殺菌加工して
いたからだ。だがその後解った事は火に強いこの種子は牛の胃液で溶かされた膜が無く
なって発芽する仕組みがあり大量の糞尿によって栄養を取り発芽する仕組みだった。こ
うした事は多くキツツキの穴も近くの害虫を取る行為だろうと言われる。つまり植物は
何処にも脳を持っていないがそれなりの考査の中で移動しているのは確実である。又植
物ほど長い間地球上に君臨しその活動を地球の生命体に崇められる存在はない。CPU
も今や自動認識を持ってAIと言う人工知能を持っている。この判断力は過去の記憶か
らの存在確率からであろうがこれらが今やIOTと言う流れで危険な事になっている。
恐らくはいずれ人間こそが非生産的な物体で除外すべきものとの判断が下される可能性
は強い。かつてグーグルやマイクロソフトが作った人工知能は結局は「ナチス」や「大
量破壊兵器」は正しいとした判断を下した。これは既にこの凶悪な思考に馴染んでAI
設計が可能になった事を示している。つまり「勝つ」「駆逐する」事の命令による阻害
要因の排除連鎖である。植物の場合でもこうした事は多々ある。だが多くの植物はその
一部を生命維持に与えている。酸素であれ樹木の幹であれ食物であれ人には必要な物だ
。だが電子機械では全く人には必要ない部分で、それが「便利」な「道具」と言うキー
ワードで人を惹きつけている。更に問題なのは生産性の無い機械に必要な物は「電気」
でありそれは今や太陽光発電で補えるし、問題なのは人を動かす機能として「電波」と
「経済」を支配してしまった事だ。これにより生産性の無いアフリカや中東が欲望にか
られ動き今や戦争が終わらないのは周知の通りだ。こうした事を見て我々は学ぶべき事
は、コンピューターと共生社会は築けないと言う事と、植物との共生を図らねば人類は
幸せにならない。と言う事だ。つまりコンピューターはあくまで人の道具であり重機や
TVでしかない。事を認識すべきであろう。


339: 名無しさんAA:17/08/18 10:07
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 61

 馬鹿げた事にこのCPUの発展の中の攻防の歴史は 地球上の生物の進化と同じ型の
ストーリーの中にある。コンピューターチップがそれそのもので動いても プリンター
だったりTV画面だったり或いは記憶装置であったり付属の設備が必要なのは当然だが
その進化の方がコンピューター技術には欠かせない要素である。この全体の進化こそが
大きな進歩となる。ところがこの進化に取り残される世界がある。それは家庭用だけの
コンピューターだったりそこだけやその機械だけでで使われるCPUだったりする。又
特殊な環境のこうした物はあっても無くても差支えが無い事で進化と無縁で影響は持た
ない。地球上も同じにジャングルの生態系は影響が少なく古代昆虫などが生息するとい
われる。又深海生物も同じで3〜6億年前に産まれた生物が進化せず泳いでいて10億
年前の生物環境さえあるとされる熱水鉱床近くの細菌は相当に古く新たな発見がある。
此処に多様性の姿がある。今やウインドウズやアンドロイドは必然のOS環境なのだが
かつての86マイコンチップやDOSプログラムは多くの支持者を得て貴重な資料書き
込みなどがあって進化出来ない姿がある。かつて統合メディアとしてMO光ディスクが
出来た。だがこれは大きくなってPD小さくなってMDとされた世界に変わった。だが
その技術はそのままCDに利用されブルーレイに変わりDVDに利用された。こうして
全く混沌とした中、品質や使いよさよりも価格でCDに取って変わった。ところが今や
これがメモリーチップに変化していこうとしているのだ。席巻する東芝メモリーの世界
だがその東芝が今度は取って食われて中国企業と米国政府に足元を救われている。それ
はCDとメモリーの違い特性からだ。つまり駆動が無い記憶媒体で軍事に多大利用が予
測出来るからだ。今や北朝鮮のミサイルは有名だがそれを動かす物は何も製品のみでは
ない。そこに差し込まれるプログラムも重要な要素なのだ。勿論迎え撃ち発射される対
抗ミサイルはその無力化に重要なものだが ロケットに限らず弾頭がどう動かすかどこ
で爆発させるかは戦力の大きな力になる。この世界にそれを自分達で確保や管理して、
世界を牛耳ようとする陰謀の世界があるのだ。だがそれそのものは核の様な危険なもの
ではない為国際会議の席には一辺の議題にもならないのである。そこに日本の東芝社長
は馬鹿げた原子力提言に安倍首相と共に蟻地獄の落とし穴に罠にかけられたのだ。


340: 名無しさんAA:17/08/18 11:30
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 62

 フランスではミツバチの大量死が大きく問題になって、結果フィプロニルが農薬とし
て有効だがその猛毒性と連鎖性ゆえに使用禁止措置が取られた。だがその後もミツバチ
の大量死は増え続けた。日本ではミツバチの大量死は多発しているが行方不明事件とし
て勝手な解釈で本格的調査は皆無である。だが実際に温室でも巣箱に帰ってこない例は
多発してミツバチの値段は下がる気配はない。動物学者は勝手に「いないいない病」と
か、蜂群崩壊症候群と言った名前をつけているが、これがフィプロニルが原因だとする
現実例は多数日本にも存在する。私の近くではトマトハウス農家・なすび農家・キュウ
リ農家のいずれもがハウス栽培内でその現象を目撃している。結果的に、フィプロニル
は猛毒の農薬だ。それを犬の皮膚に塗りつけてノミやダニを駆除するとは科学的医学的
常識を喪失した詐欺師の蛮行だ。カネの亡者と化した商売上手の悪魔の考えたことだ。
ノミはいかに沢山いても愛犬は死ぬ事はない。なのに、そのノミを駆除すると言って、
愛犬が死ぬ農薬をだまし売りしている会社は悪徳会社であり詐欺会社だろう。事実獣医
は、マイフリーガードやフロントラインは安全だと口からでまかせのウソを言ってノミ
のいない愛犬すら予防措置として行う。悪質な詐欺行為である。当の犬は影響は少なく
ても 他人の飼い犬がその副作用で健康を害したり、死んでいたりしている。だがこの
現実を調査もしないし補償もしない。こうした行為は所有権の侵害の憲法違反の犯罪だ
ろう。横着横柄な恥知らずの商売のまま放ったらかししている行政も又同じだ。全く、
議員も行政職員もまともな勉強をしない知識不足の上人間のすることではない事を勧め
る。金儲けに狂奔して集団結果の間違った決まり事を広げているいる腐りきった世界だ
ろう。社会良識を喪失したカネの亡者の悪徳集団を増やす行政はいつ止まるのかと思っ
ていたら、何のことはない国会の中枢すらも汚職同然のお友達内閣をつくり、お友達の
優遇融資や優遇助成をしては 国会で厚顔無恥もはなはだしく「私は関係ありませんよ
。」などと叫び「印象操作だ」と訴えて止まない。汚職とは金銭の受け渡しのみで汚職
ではない。権利に関わる調整も汚職であり 当該学校と当局との接触が公式であっても
利害関係があれば汚職なのである。そこを日本は何故徹底しないのだろうか。意志があ
ろうがなかろうが その形態は犯罪者なのである。選挙応援が国の予算を使った入札に
参加している組織や団体であっただけでもそれは犯罪なのだ。「フィプロニルは水での
300倍に希釈した低濃度でも長期残効性があります。」と強調しフィプロニルが如何
に猛毒な農薬であるかを公表している。そして今や開発したバイエル科学の前身である
ローヌ・プーランの母国フランスではその卵への汚染問題が出て来て大騒ぎである。

341: 名無しさんAA:17/08/19 03:32 ID:iPk
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 63

 本来なら国家戦略という部門はそうした国民生活を国際的問題や環境など国を超えた
広がり部分で日本は何をなすべきかと言う石橋湛山的視野で見つめ政策を作る所だろう
。国家戦略特区で日本で余る獣医師学校をを作るなどと言うのは文部科学省のほんの小
さな部分でしかないのが何故国家戦略なのか。馬鹿らしいにも程がある。言葉だけ仰々
しくいいながら結局は資本提携の民間団体付与の第三セクターとしての便宜供与のもの
でしかないなら全く偽りの政治であろう。今話題のトランプの人権発言より卑しい言葉
である。そも今の格差社会を何とかするのが先であろう。先代の例えば戦後キャノンは
7人で会社を作った。皆が協力し努力して会社を発展させた。だが企業として名を馳せ
ていい暮らしをして坊ちゃん育ちの、御手洗社長はそんな歴史を考えず社員を奴隷化し
て止まなかった。国際競争に負けるとまで明言して派遣労働者法に賛成したのだ。馬鹿
である。自らの存在が何処から来ているのか不教育も甚だしい結末だ。それは東芝も、
松下にもシャープにも言える。全く呆れた経営陣の為に日本は浮上しない。その呆れた
元凶が政治の在り方である。議会制民主主義は正しい物ではないが悪いものでもない。
自由主義も同じだ。兵器や殺人も盗みや強盗や詐欺も自由とはならない仕組みこそが、
自由主義社会の本質でありそこに道徳があり 不道徳な節税と称した脱税企業を作りだ
す政策を次々に仕掛けるのは本末転倒の政策である。こうした既成階級に鐘を鳴らすの
がトランプ政権だった筈が 今や白人優位主義者にも愛情を示し嫌われてしまった。そ
の裏にはネオコン軍団とUKAなどのkKK分派の白人優位主義団体とブライトニュー
スで煽られたオルタナティヴ派(代替希望者)の人々が支援しているのだ。もともとこ
のアメリカ社会の創設は英国の宗教弾圧によってブラッディー(血まみれ)・メアリー
から逃れプロテスタントが作った清教徒国で反知性主義者と訳される平等主義者の世界
を理想社会として作った国だったのだ。反知性主義は既成の階級者や一部の権力者によ
って塞がれ囲われた情報や教育を 大反対し広く公明正大に万民祭司で誰でもが指導者
や教師に選ばれると言う思想に根ざしている。つまり日本の様な隠し立てやら黒塗りの
情報開示などを犯罪とみなした共生社会である。これが今の大統領選挙や個人主義での
銃砲携帯などに繋がっている底辺思想である。


342: 名無しさんAA:17/08/19 03:32
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 64

 ここで一番問題なのはオルタナティヴ派(代替希望派)と言われる主義主張のない中
の大同団結の意識である。日本での分権主義は地方分権でとらえられるが米国の分権主
義は個人主義以上のグループを指し家庭第一主義やある種の会員団体の権利主義である
。これは地方行政の種類とは全く異なる物だ。その根本が今の日本の民主党や民進党の
様な同床異夢の中での団結でしかないからだ。これがオルタナティブ論者の曲物で、方
々の良い所取りで「アメリカ第一主義」を叫んだのだがその中身の多くは異質の物が多
く多くのこの支持者が統一した意識や見解の中には無い。今度のシャーロッツビルでの
集会事件は、奴隷制には反対していた南部連合の指揮官ロバート・E・リー将軍の像が
勝手に奴隷制賛成者とされ、白人優位守護者団体のシンボルになった事だ。リー将軍は
確かに当時随分の奴隷を雇っていた。だが契約と平等を叫んで奴隷制を反対した一人だ
。このシンボル化してしまった像の撤去計画に反対する運動そのものを歴史シンボルと
しようとしたものだったこの事件では、当局は既に集会には厳戒令を敷いていたにも関
わらず白人至上主義者団体は指導層もなく無抵抗の抗議するデモ隊に木棒や鉄拳を持ち
過激に突っ込み更に車を走らせの白人女性を殺し、19人を負傷させる暴行を警官の目
の前で果たしたのである。これほどの非道はない。トランプは、この白人至上主義者ら
の開いた集会で起きた衝突について、反優位主義を掲げた人権派デモ隊側にも、同様の
責任があると発言し、民主・共和両党からの激しい批判を浴びており、そうした批判を
一蹴した形を取った。トランプは、バノン氏について「人種差別主義者ではない」と答
え、バノン氏当人は「左派には人種問題をずっと議論していてほしい。我々は経済ナシ
ョナリズムに集中し、勝利できる。」と述べ、人種問題よりも、労働者や産業界の懸念
に配慮することが政権維持につながるとの見方を示し、問題を反らした形だ。映画の「
ペイン&ゲイン 史上最低の一攫千金」のブラックコメディドラマを知っている人は、
最後に探偵が一言「最も重い罪は問われなかった。それはバカだったことだ・」という
名言で締められた「アメリカ人だからこそのバカ」として、笑ええない現実を知らせる
。中東発祥のキリスト教、イスラム教、ユダヤ教の三つの世界宗教はそれぞれが一神教
なのだが、同じ旧約聖書を最高聖典としているわけだが、この物語の始めに出てくる、
神が1週間で宇宙、地球、そして人類などの生物を創ったとする「創世記」の中での、
神が第7日目に休んで安息日としたという解約がそれぞれに違うがそうしたのみならず
この神の言葉が今の末法思想の様に穏やかではない。


343: 名無しさんAA:17/08/19 03:33
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 65

 だが残念ながら馬鹿なのはアメリカ人のみではない。1日目 神は天と地をつくった
(つまり、宇宙と地球を最初に創造した)。暗闇がある中、神は光をつくり、昼と夜が
できた。2日目 神は空(天)をつくった。3日目 神は大地を作り、海が生まれ、地
に植物をはえさせた。4日目 神は太陽と月と星をつくった。5日目 神は魚と鳥をつ
くった。6日目 神は獣と家畜をつくり、神に似せた人をつくった。7日目神は休んだ
。とされる創世記は日曜日月曜日で光と夜を作ったとされる。だが実は火曜日というの
はこの創世記には出てこない。火曜日は実は聖書より古い拝火教の祈りの日を意味して
いる。この日に大地のが産まれ水曜日に海の恵みが産まれたとしているのである。そし
て木曜日に大地の中にも海の中にも生命を溢れさせ土曜日に日干し煉瓦の家を作り安息
を得たと考えたのだ。だがこの拝火教を中心として日月火水木を神が守る日で金曜日を
仕事である家を作る焼き煉瓦や経済や工作の日として土曜日を安息日のままの昔の風習
の中にあるのがユダヤ教である。拝火教そのままに金曜日を神の居ない日として魔の金
曜日が産まれた。これは金貨と言う経済の戒めでもあったがそれが強く出たのがイスラ
ムの金曜日安息日なのだろう。それぞれの論拠については他にもあるが昔の風習として
一般化されたのはユリウス暦などが広められてからである。こうした暦にも人間が宗教
や信仰に頼った生き方をして生活を繋いできたことが解る。そこに人類の迷信や妄想が
現実にある。かつて日本人は6日1週間の生活をしていたし仕事は10時から3時まで
を基本にしていた。食糧は日に2食制で豊かな暮らしが出来ていたと言われる。が中国
よろしく我々は幼い頃からの教育で江戸時代や戦国や室町時代は貧しい悲惨な暮らしと
嘘を教わっても素直にそれを認めるのである。だがそれは間違いである事は資料を読む
機会さえあれば勉強不足が直ぐに理解できる。米国のオルタナティヴ派も又同じように
米国歴史の間違いを正すまで勉強していない人は多い。その中で人種偏見を是認した米
国大統領は「われわれの美しい像や記念碑が撤去され、われわれの偉大な国の歴史と文
化が引き裂かれていくのを目にするのは悲しい。」などと言い多くの優秀な頭脳を持つ
CEO達の成長促進策を着実に進める期待をされながらも惜しくも愛想をつかされて、
政府役員を辞退した。「製造業諮問委員会を抜けるCEOがいても代わりは大勢いる。
スタンドプレーをするだけの人は残ってくれなくて結構だ。仕事だ!」と書き込んでは
いるものの 担当部局の上層役員や職員が不足の中で各国は大わらわな所に更に悲惨な
状況になったものだ。

344: 名無しさんAA:17/08/19 03:33
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 66

 このある種の選別主義の分権派は自分たちに有利条件を持ちたいと言う身勝手で権利
や権力或いは階級を欲している事はたしかだ。日本でも日本会議などと言う ふざけた
政治結社があるのは知っての通りだが 彼ら自体が自らの権力欲の集中化を図る団体化
している。これは米国トランプ以上に危険な事だがマスメディアは何ら批判しない。こ
れが政治結社の類である事は 研究機関の様な調査の発表なり分析の公表がなく、宗教
の様な崇める対象の神が居なく 又営利目的も慈善運動の募金もなく只々スローガンに
基づいて活動する団体であると言うことだ。主要な目的もなく啓蒙活動などとは在り得
ないし財団の様な年次活動報告も会員公表や財政報告も一般に向けて居ないのである。
そしてそれはアメリカ型の暗黒社会の持ち込みである事は容易に想像がつく。米国では
個人の自由を尊びながらも掛け声だけで 国益の前には最先端科学は秘密理に国家管理
の中にあり、又大手ビックスリーや金融業界が 利益は自分の物として資産を積み上げ
破産になれば 多くの失業者が出るとして米国政府を脅迫して援助をたかり取っている
事実は 先のリーマンショックでの自動車業界も今の金融業界でもわかり得る。である
ならば、最初から格差社会の是正に向けての福祉政策への寄与を契約させればいいのに
自由に株式売買をしているのである。誰もが利益は自分の物破産に直面すれば政府保証
と補填となればどんな商売も成り立ち格差社会の上層部のままの資産で生きていける。
そんな虫の良い権力階級社会を捨てて新天地を作ったのが米国だった筈で、子供に対し
て同じスタートラインに立たせる習慣を自由平等社会として作り、反トラスト法や巨大
資本の独占禁止法を作ったのだが 害虫と薬剤の様にイタチごっこのロビー活動が続け
られ今や自由主義資本社会も言葉のみとなった。それは余りにも博打商売社会を推奨し
援助して来たからだ。だが今やオバマの様な思慮は今のトランプにはない。選挙時公約
に振り回され、世界的局翼化で一方的な愛国主義偏見社会を更に盛り上げているのであ
る。これがロシアとうまくいかず北朝鮮にミサイルを作らせ中東でイラク戦争をさせて
いる理由だ。言葉が美化されていたとしても理想に突き進む大事さを抜かしたのだ。こ
この世界の警官アメリカをどんなに抜け出そうとしても、このシステムを作った責任の
上の秩序が現在を形作っていて、それが崩れ取って変えられた新秩序が出来ればその時
の米国斜陽は目に見えている。今が余りにも醜くすぎるからだ。




345: 名無しさんAA:17/08/19 03:33
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 67

 スティーブ・バノンは今だドナルド・トランプ米大統領の側近として、首席戦略官・
上級顧問として健在のようである。米メディアとの電話インタビューでは、米国は中国
との「経済戦争の最中」であり、北朝鮮の核開発をめぐる対立は「一つの前座に過ぎな
い」と述べたという。この左派系の経済の覇権主義者は米国第一を掲げた張本人だが、
ひとまず白人至上主義者たちを「道化者の集まり」とこき下ろしたがその真意は不明だ
。「民族主義的なナショナリズムは負け犬だ。非主流派にすぎない。メディアが大きく
取り上げすぎているのだと思う。もっと叩き潰す手助けをし、粉砕してしまわなければ
ならない。」と一応は述べているがこれは過激な反社会勢力を人種差別主義者から除い
ての団結を訴えたのかも知れない。更に北朝鮮に対し、「米国への脅しを続けるのであ
れば「炎と怒り」で報いを受けることになる。」とトランプ氏が警告したことについて
「北朝鮮の核の脅威に対する軍事的な解決策はない。忘れていい」ときっぱり否定した
。がこれは今回のみの事であろう。この後の進展がもし平和を約束されていたとしたら
日本に陸上イージスの売り込みの為の狂言と言えるがそこまでの話し合いはない物と思
う。そうした他国の詮索を尻目に、米政権内では「対中貿易における強硬路線を主張す
る自身の闘い」にバノン氏は言及し、「北朝鮮問題での誠実な仲介役を中国に期待する
というわなに陥ってはならない。」とも述べている。「我々は中国と経済戦争の最中だ
。」「われわれのどちらかが25〜30年後に覇権を握る。このまま行けば彼らの勝ちだ」
などと持論を展開していると言われる。「北朝鮮問題も彼ら中国が ついでに我々を 
つついているだけで、この危機は一つの前座に過ぎない。」と語った。考えれば人々に
必要なのは平和を守る勇気と執念であり諦めこそ戦争の受け入れであり、欲望はゴミに
過ぎない。「禍福はあざなえる縄のごとし」での人生を如何に歩むかは人それぞれであ
ろうが、しかし国家はそういう事であってはならない。その為には国家を背負う国民は
特に厳粛に国民を指導し幸せの秘話に導かねばならないい。そこに人種偏見も差別も、
格差社会も起こさせてはならないのである。特にこのバノンの言う経済戦争を言うので
あれば そこにいささかの危惧も危険も顧みない姿を許されない事を覚悟した信頼が 
なければ、貿易はしてはならないのだ。「心でみなくちゃ みんな良く見えないって事
だよ。特に肝心な大事な事はね。」と星の王子様は話しかける。星の王子様こそ運命の
神だろう。

346: 名無しさんAA:17/08/21 16:18 ID:YHg
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 68

 8月18日米ホワイトハウスは、ドナルド・トランプ大統領の首席戦略官・上級顧問
で、極右思想で批判を集めていたスティーブ・バノン氏が、同日付で退任したと発表し
た。現地メディア各社はバノン氏が解任されたと報じている。が次の日インタビューで
「取り違えがあるならば説明しておきたい。私はホワイトハウスを去り、トランプの為
に、議会やメディア、経済界にいる彼の対抗勢力と闘っていく」と述べた。これは一体
何がそうさせているのか。 経済覇権国家としての米国の第一を主張するバノン氏は、
左派系インターネットメディア「アメリカン・プロスペクト」のロバート・カトナー氏
に対し、「私にとっては中国との経済戦争が全てだ。われわれはそれに全身全霊を傾け
なければならない」と語っていた所に突然の辞任だ。バノン氏がこのところ、トランプ
大統領との関係がぎくしゃくしていると報じられていてはいた。率直で自由奔放な発言
をインタビューでは行い、バージニア州での白人至上主義者らと反対派の衝突をめぐる
トランプ大統領の発言に揺れる政権の内紛にも言及したのだが。米メディアに「私は豚
に口紅を塗ってしまった。」とランプ氏を誇大に宣伝することに加担した自責の念を抱
いているシュワルツ氏は、トランプ氏の自叙伝を出しベストセラーになったゴーストラ
イターとされる。彼はツイッターへの投稿で、大統領選におけるロシアとトランプ陣営
の共謀疑惑への捜査が進んで「選択の余地がなくなる」前に、トランプ氏は自ら辞職す
るとの予測を述べて「特別検察官と議会に追い詰められて選択の余地がなくなる前に辞
めるだろう。その包囲網は急速に狭まっている。」と指摘し「トランプ大統領の任期は
事実上終わった」とツイートして「今年いっぱい続けられたら驚きだ。遅くとも秋まで
に辞任する可能性が高い」との認識を示している。まだハネムーン期間が終わって間も
ない中で崩れかける政権から誰もがおさらばしている状態なのだろうか。だがもしそう
なら米国は台湾承認に動いて欲しいものだ。中国一国主義の確約は何も条約で決められ
た物で無く古い口約束に過ぎない。台湾政権が公式に国連加盟を果たしていたのにすげ
替わり今台湾を貶めている行為は国際社会の公式ルール違反のままだ。これでは南沙の
海が中国の物と言っている様なもので英国も香港返還は変換相手を間違っていた公式に
言うべきである。そして香港マカオを台湾編入を国際裁判所が決めるのが筋であろう。


347: 名無しさんAA:17/08/21 16:18
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 69

 宇宙真理学の立場によれば 「宇宙は起こるべくして起こった偶然でなるべくして成
った。」これが宇宙起源説の冒頭である。では生物の進化はどうだろうか。これも又全
く同じに「生き残れる種が生き残り、進化出来る種が進化を遂げた。」と言う事になる
。そうして人間が社会を作り今や繁栄を極めたとするが 本当に霊長類が地球生物の長
(おさ)であり最高の進化した生物だろうか。先に言った様に我々は本当は木々に守ら
れ樹木や草に操られて生きて居るのではなかろうか。と思える。人は兎角潔さを忘れる
。現実社会では許されないだろうこの潔さは清らかさと共に日本人が追い求めて止まな
い世界でもある。中でも清く正しく美しくあれと言うのは生き方のその本質に尽きる。
私は戦争を美化するつもりも礼賛し奨励するつもりもない。だが今の北朝鮮の行き詰ま
りには少し塞ぎ込む部分がある。ありていに言えば恐らく国家論としては北朝鮮の自立
に最もな意見があろう。だがそれでも北朝鮮の様に核ミサイルによる自国防衛に走れば
世界は又収拾のつかない世界大戦になるのは目に見えている。今度の辞任に至りバノン
氏は「我々が闘い求め、勝ち取った『トランプ大統領』は終わった。別のものになって
いくだろう。」とコメントしている。「アメリカ第一主義」のシンボルとも言える存在
が政権を去ることで、支持層の離反を招く可能性もある。とニュースは伝えているが、
この世界情勢の混乱は全く昔のままであろうしこれからも誰が米大統領になったとして
も恐らく中国やロシアと言った旧東側の共産党体制との戦いは終わることはないだろう
。今多くの学者が言う地政学的見地は 平和時こそこの戦いは激化せざるを得ない筈だ
という。人々が勘違いしているのはロシアや中国が同じような法治国家で自由社会にな
ったかのように見えるが共和国の独裁制度は何も変わっていない事を知るべきだと警告
を発している。バノンは電話インタビューでは「北朝鮮問題は余興に過ぎない。軍事的
解決などあり得ない。」と言っているがトランプは軍事的解決も辞さないと構えている
。実はこの差こそが大統領認識と政治顧問認識の違いだろう。核が米国本土に降ったと
しても軍事顧問はまだ先と読んでいるし平和的解決を模索すべきと思っているだろう。
だが幾度となく嘘をつかれて今やICBMを持つまで成長させた米国の責任の前では、
同盟国の武力による新機軸は当然考えてしかるべきで正男の長男と共に極東を支配して
自由社会を模索する事は大事な事だろう。

348: 名無しさんAA:17/08/21 16:19
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 70

 さてさて 影の大統領などと囁かれたフィクサーバノンが政権から消えたのだが今後
の展開がアメリカを非常に困難にさせる事であろう。この困難さを破る為に北朝鮮情勢
は戦争に向かう羽目になるかも知れない。これも金正雲が危険な遊びに転じた開発の為
の罪であろう。得てして瀬戸際外交とはそうした物だ。危険から遠ざけた世界でなら、
瀬戸際外交にならないが敵を見誤る事は何処の戦争も何処の紛争も起こった原因である
。今後の展開予測は三つある。基本的に北朝鮮の言いなりか 米国の言いなりか 他の
国の調整で折り合いがつくかの三つであろう。@は北朝鮮の言う様に米韓合同演習やら
韓国内の米軍基地撤退をして北の言いなりに韓国を侵略させる事だ。今でも朝鮮半島の
統一は北の喜ぶ所と言っている。つまり韓国の半数の国会議員は既に北の工作員であり
もし仮に半数ずつの民主主義的議員定数をして国会運営であれば4分の3は北朝鮮より
の政策が進むはずと読んでいるのである。結論から言えば今の慰安婦問題や徴工問題で
韓国最高裁を国際法を順守しないのは結局この北の工作は今まで順調に中枢部を侵略し
てきて成功しているからだ。今回の文政権も北の手先として発足しているのは間違いの
無い事実だしそう言う事を旧態依然として行える気質がこの民族にあるから大統領退任
では犯罪人になってしまうのである。話を戻せばAは一切の北の主張を無視する事だろ
う。この場合は当然北朝鮮が行うだろう核開発とミサイル発射を阻止し、完全な後顧の
憂いを取り除く方策を検討する事になる。ここで問題なのは2つで一つは宣戦布告して
ちゃんと制圧できるか。韓国や中国或いはロシアや日本の同意が取れるか。と言う問題
の解決である。当然そこには核を確立した北朝鮮のある社会とそれを武力行使で叩いた
後の北朝鮮のある社会との比較検討であるメリットデメリットが判断される。だがそこ
には韓国の同意以上に極東地域の平和の方が重要視されるはずだ。韓国は火の粉は自ら
払わなければならないと言う原則だ。いまのままの慰安婦像を飾るような協調性のない
国民思想では例え高射砲で進撃されても仕方がないと言う事になるだろう。B番目は、
この共産党兄弟国がどこまでこの北朝鮮をのさばらせるつもりか、或いは米国の誠意を
どこまで信じるかである。勿論基本は現状維持であろう。しかし核を持って民主化など
したら脅威はそのまま中国ロシアにも降りかかる。

349: 名無しさんAA:17/08/21 16:19
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 71

 二つ目の突入破壊は紛争や戦争になるとは限らない。それはロシアや中国でも散々今
でも秘密警察や暗殺部隊や国際旅団でやって来ている話だからだ。そこに反対があるか
否かで物事は変わる。中国やロシアも自身が今だ至らぬ国である事は解っている。米国
も又この2国と闘う事はあっても戦う気はない。そこには自由主義を平等社会を標榜し
ていく崇高な使命感と全世界での富を自国に集め その祭賀の頂点に君臨し続け支配を
可能る邪悪な意志とに突き動かされて止まないままだ。例えトランプであろうとオバマ
であろうと銃社会を牛耳って人を殺す楽しみは植え付けて行くと言う軍産複合体の野望
は強く又軍部もその奨励はあっても阻止することはない。何故なら兵士を育てる事には
何より必要だからだ。だがその中でもその人殺しの楽しみに犯されない兵士こそが大事
な要素となる。つまり兵士の中にはとんでもない規格外の粗悪品が産まれる事もある。
その排除に一定周期の戦争が産まれる原因でもある。この考えはキリスト教の末法思想
によって維持されている。一神教では産まれた事が罪であり贖罪をして世界の終末に神
の選別で救済される。と言う幻想に立っている。これがロシアまで浸透はしているもの
の中国は今だ神を持たない国なのだ。ロシアや中国は北朝鮮を見捨てる事はしない。が
戦争に参戦しないもののその核破壊やミサイル開発阻止には当然反対出来ない位置にあ
る。かつて第一次世界大戦では戦争による植民地主義に反対したのは国連では日本だけ
であった。従ってうるさい日本の代わりに台湾を極東代表団として入れたがいつのまに
か今の中国にすり替わって拒否権を持つ代表部にまでなった。よってロシアと中国は今
までは潜在的な対立で済んだが今からはかなりの現実的対立となるのは目に見えている
。当然各国とも今では協調体制の窓口や枠組みの設置を強く求めているものと思われる
。つまり少々危険すぎるがロシアがクリミアを奪った様に米国が北を挑発し戦争し今の
体制のまま戦争できる可能性も多々ある。シリアの内戦状態の様に韓国参戦に於いての
北朝鮮国内の戦後復興にロシアや中国の内政干渉を認めた時だ。先に言った様に、例え
韓国が勝って統一朝鮮になったとしても 恐ろしく共産党よりの政権となるであろう。
と予想されるが故に 逆にロシアや中国が黙って爆撃を認める可能性もあるのだ。

350: 名無しさんAA:17/08/21 16:20
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 72

 三つ目はその中間線の判断だ。文政権が北の工作員達に支えられた集団である以上、
彼らの言い分は 今まで核開発やミサイル開発を成功させた6者協議の再開であろう。
取りあえずこうした開発の休止と合同軍事演習の休止を交換条件で後はTAHHD配備
の撤去の要望だ。これは中国の要望でもある。万年属国の宗主国に韓国はこの撤退条件
にいくらかの色がつけば中国に又近寄れるとして喜ぶだろうし 又TAHHD配備など
高価で物騒な物が無い方が戦争にならない標的にならないと簡単に考えているかも知れ
ない。今やそうした重装備しなくても常に恫喝され荒らされて来た大地の住民だと言う
居直りさえある。。この狂気の居直りの理由は各所に浮上し慰安婦像もそこにある。つ
まり北朝鮮と同じ立場に居ながらどっちの国が幸せかとの問いは捨てて、経済奴隷の中
又中国・北朝鮮・韓国で米国をそそのかし日本を標的に更に金を貰おうよ。と呼びかけ
るのである。そしてこれには米国の合意さえ取れればロシアは合意するのである。先の
6者会談でも日本の戦後補償が北朝鮮に転がり込む事で核開発の中止が決まるだろう。
と思われた。が唯一日本でのカードである拉致問題の解決を持ちだしこれに北朝鮮は、
一応の対応で済まそうとしたが それは形だけの調査で終わり更に隠れての核開発が見
つかり公けのミサイル開発に打って出た経緯がある。この間ロシアは胸をなでおろし、
中国は経済を加速させ五輪後も万博、空母買い取りASEAN入りと大きくなり得た。
つまり西側から目隠ししてくれた北朝鮮はかみさまほとけさまだったのだ。此処に会議
の場を設け軍事的解決を否定した形は言わば今まで形骸化し失敗した北朝鮮圧力の延長
ではあるが それでもこの席を設ける事は 北朝鮮に借りを作れ現状維持を延長する事
には中露韓が賛成する話でその間北は又巨大になって核開発の時間が取れて歓迎する話
になる。つまり米国にとってはいずれの話でも 最もな裏切者の韓国がそのまま北朝鮮
に喰われてしまう話だ。であるならば今のまま韓国に米軍駐留延長と中露威圧の足場作
りに専念したが得策となる。ここに「反エスタブリッシュメント(既得権層)」を信条
にしたバノン首席戦略官の退場や「軍事的解決などあり得ない。忘れて良い。」と言う
発言があり、それに反論する相次ぐ政権幹部の解任がある。


351: 名無しさんAA:17/08/24 15:13 ID:uH.
 だが もし今後人類の新世界が開けるとしたら、それは日本の思想と言語と技術であ
ろう。韓国の聯合ニュースは、韓国の康京和外相が日韓外相会談で、「日韓両国間には
難しい問題があるが、互いに知恵を集め協議しながら解決していくことを望む」と述べ
るた。それは馬鹿な話だ。一度公式に契約し表明し二度と戦時問題は口に出さないとの
約束はこれで7度目だ。戦後の敗戦時更に特別警察官を作り沖縄まで住所移転させ米国
人に仕立て上げてまで南北戦争に派遣させられた時もその後も 全斗換 李承晩 朴正煕
金大中 金泳三 李明博 朴槿恵 とそれぞれに 皆んな国家間契約として条約調印と基金
を受け取って居ながら 常に契約不履行の憂き目にあっている。つまり信用度零国家の
地位にある国に何故そんなに相手するのか。この馬鹿さを政府は無くしてもっと国内の
市町村指導や国債償還に傾けるべきだ。これが未来への道筋である。今や西側諸国が揺
れている。英国はEU離脱でポンド安の観光収入のあるうちに 離脱の自由権と今ある
EU加盟利権を同じ様に獲ようと話し合いを進めたいとしている。アメリカは人種差別
主義をトランプ政権は復活させる始末だ。中東もこのテロリストの根絶やしには出来ず
サウジは国内鬱憤をイエメンに向けて居る。この馬鹿げた一神教はキリスト教と共に人
が消し去る程強くない。元々人の誕生が罪を背負って産まれその贖罪としてキリストが
死んだなど言うのは 人の命が尊く地球より重いとするルカによる福音書からは思いの
外日本人にはショックだった筈だ。山岡鉄斎は幼少から神陰流、樫原流槍術北辰一刀流
を学び、武術に天賦の才能を示す人だったが尊王攘夷が成功し江戸城明け渡しとなった
時には 官軍が警備する中を「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で
堂々と歩いて西郷隆盛に会った。益満休之助に案内され、駿府で西郷に会った鉄舟は、
海舟の手紙を渡し、徳川慶喜の意向を述べ、朝廷に取り計らうよう頼んだのだが。この
際官軍側西郷からの条件が5つ提示された。一、江戸城を明け渡し。一、城中兵の退去
。一、全兵器の差し出し。一、軍艦の引き渡す。一、将軍慶喜様の備前藩にあずかり。
である。この時最後の条件を鉄舟は拒んだ。西郷はこれは朝命であると凄んだ。これに
対し、鉄舟は、もし島津侯が(将軍慶喜と)同じ立場であったなら、あなたはこの条件
を受け入れないはずであると反論した。西郷は、江戸百万の民と主君の命を守るため、
死を覚悟して単身敵陣に乗り込み、最後まで主君への忠義を貫かんとする鉄舟の赤誠に
触れて心を動かされ、その主張をもっともだとして認め、将軍慶喜の身の安全を保証し
た。これによって奇跡的な江戸無血開城への道が開かれることとなった。この時もしも
徳川慶喜が蟄居謹慎になったなら、今だ体制のない明治官軍では命さえ危ない物だった
と解っていた。これが命は体制や地球より重いとされる明治意識だったと言われる。


352: 名無しさんAA:17/08/25 03:39
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 75

 近頃鶴太郎がヨガを始めて話題になっている。確かに人は産まれながらにして、他の
生物を食み生き永らえると言うシュールな世界にしか存在しない。植物にしろ動物にし
ろ魚や草木にしろ我々の殺傷与奪の権利を持って生を得る。だがだからこそ知恵の輪を
孫悟空の様に子供らにかけ 秩序と道徳の元に生への賛歌を謳わせ正義の執行が必要で
はないのか。ニュースは伝える。2017年春、英ウィルトシャー農場で60トンの干し草が
燃える火事が起こり、現場から20匹の豚が地元のピュージー消防署員によって助け出
された。この中の子豚たちは、食肉用として育てられてきた。農場主であるレイチェル
さんは消防士たちに「救出された子豚から作られたソーセージをお礼にプレゼントする
」と約束していたという。それから6カ月後、約束を守り、救出された豚の肉で作られ
たソーセージを消防士たちに送った。消防士たち「素晴らしい味だった」とソーセージ
を絶賛しインターネットに載せられた。すると写真を見た人々から「助けてくれたこと
はありがたいけれど、食べてしまったのは本当にヒドい」「恥を知れ」など怒りの声が
寄せられる。「救出されたのが人間や犬なら?」「恥を知れ」などの非難が殺到した。
動物擁護団体『PETA(動物の倫理的扱いを求める人々の会)』も、「かわいそうな豚達
はせっかく助かったのに、6カ月後に食肉処理場で恐ろしい目にあいました」「もしも
“救出”されたのが人間の子供や犬だったらどうでしょうか? 豚だって私たちと同じ
ように恐怖や痛みを感じます」と声明を発表するに至った。此処に人間の劣化した心が
読み取れる。通常仕事と言うのは生活を建てる尊い物だ。中でもその中核の製品には、
日本では誇りと伝統と技術によって高い品質をして売るものだ。日本の食肉や品物の中
に供養祭や祈願祭が行われるのはその為だ。簡単に安上がりの贈り物と考えているのは
この農場主や消防士の欺瞞であり消費者への詐欺である。これが生き物でなくとも日本
なら顰蹙を買う行為だ。だから日本人は値切りもしないし、必要外を買い貯めない。又
その高い品質や安く作る苦労やその為の設備投資を厭わない。それが生活であり他の物
への感謝であり、高価を維持させる消費でいる事が社会の掟であるとされて来たからだ
。だがこれを馬鹿中曽根は簡単に崩した。国鉄解体はその意味で2重も3重もの悪態だ
日本のこれが政治家が政治を捨てた瞬間でもあった。

353: 名無しさんAA:17/08/25 03:40
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 76

 よく経済の世界では生産性や効率主義や合理性が問われる。だが これらは西洋型の
殺人さえ厭わない手法でありかつてのメジャーが考えてた自分の所に来る様に仕向けた
富の変遷手法でしかない。例えば砂漠では水が高価なのは言うまでもない。だがオアシ
スがそこいらの部族長で仕切られて制限された水しか供給出来なかった過去がある。と
そこで行ったのは騙し詐欺し戦争しそこいら中のオアシスを独占した。勿論違法ではな
い。何故なら成文の法律がなかったからだ。だがそこに住んでいた者は自然発生的慣習
と人々と共にあった人情味のある質素な協同生活での掟はあったのだ。その後大量の水
は売られその会社は大儲けし更に見かけ上は奉仕活動もし一見人々の暮らしは良くなっ
たかの様な暮らしに変わった。がこの事が4つの事を招いた。この独占の美味い汁を人
々に味合わせた事で誰もが独占欲に満ちた石油資本鉄道資本農作物資本などに変わり、
労働者を奴隷に変えた。二つ目はこの事で戦争が起き更にこのオアシスは有名になりす
ぎていて戦闘に巻き込まれた。三つ目はそれでも欲垂れ金持ちは戦争でも資本家として
財を築いたがそこの労働者や街の者は兵士に変わり人々は殆どが戦死した。四っつ目は
更に成長しようとして水をより多く汲み取りそこらの井戸は殆どが枯れた。当然オアシ
スとならず砂漠に埋もれる事になった。これらは第二次大戦前の中東でも中近東でも米
国内でもアフリカでも起こった事だ。一見生産性や効率がいいように見えたこの水商売
も実は汲み取りが多くなるにつれ深くなり人の手では時間かかり又軍部などの買い占め
まで起き高価になり人々は貧困に陥り枯渇した暮らしは草木さえ育たない街に変えた。
この現実は今の日本の商店街と全く同じである。戦前の小売店は強く財閥も又海外との
競争さえ出来る財産を持ち人を教育して育てた成功者は数多くいた。これが日本だった
。同じ様に早くから西洋化の波にあった中国やベトナムやフィリピンは大資本の効率化
をこぞって行い西洋から重宝がられ香料栽培や綿織物などは生産性はかなり高かった。
がそれが足を掬ってしまい 次世代の若者を育てられなかったのだ。これがトリプルダ
ウン理論の真実である。資本主義でも共産主義でも生産を上げる事は人口を増やしダメ
人間を増やす。それが今のアラル海やフィリピンバナナの正体であり 豊かさと貧乏は
対比出来ないものであり生活経済に全く関係ものなのだ。要は税収を上げる馬鹿さであ
る。


354: 名無しさんAA:17/08/25 16:51 ID:sFs
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 77

 今や日本は三洋電機の倒産に於いて追いつかれシャープさえ解体至っては海外メーカ
ーに完全に敗けた世界と言えるだろう。北朝鮮のロケット発射に及んでは これが日本
企業の馬鹿さが決定的要因だろう。こうした事態を引き起こしたのは他ならぬ竹中平蔵
経済・金融大臣の引き起こした狭い視野の金融改革銀行潰しである。そもそも柳沢大臣
において既に不良債権処理は終了したと言う宣言すらあった中でわざわざ金融破綻を起
こす企画を行ったのだ。これにより銀行は多くの零細企業を打ち切りにさせ貸し剥がし
に専念させたのである。日本はもうダメと言わんばかりに銀行は地獄の中国進出を進め
現在の価値一千兆円程の資材のドブに捨てる進出が図られた。こんなバカ政策はない。
そもそも 高付加で 経済合理性 とは単純明快に商品の単一化である。例えば家を作
る中で一番高付加なのは 鉄筋コンクリートの素建ち商品である。冷蔵庫やTVにして
も一番簡単に色々な面倒なシステムを取り入れない商品こそが転用も効き売れるのであ
る。対して日本企業はこの逆をやり高価な品物として海外に挑み殆どに失敗していたの
である。問題はその転用が効く品物になるかと言う点だ。クーラーに空気清浄器や除虫
機能が付くもの或いは冷蔵庫に錠前やタイマーなどが出来る物がオプションでも出来れ
ばそれが売れたのだ。こうした発想は特別ではない。当然の物だと考えない日本人こそ
おかしいのである。家でも木造で内装するなら外装も本体も木造で行う。これが自然な
発想で一番効率の良い建設なのだ。これらを考えるにミクロ経済科学論が一番ふさわし
い物だろう。そも竹中大臣の失敗は日本を軽く見て常に「今行革を推進中でこの経済改
革が進めば……。」とキチガイの言う妄想を広めた事だ。経済がこの毒薬で死ぬのにい
い訳が通るわけがない。それは人が死ぬのに薬が効けば治る。」と毒薬を盛るやぶ医者
で人は例え健康が害されても正しい処方を知らなければ今の状態だけの検査で薬などは
必要ないし、妄想じみた希望的観測など必要ないのと同じだ。もし日本が再生するとす
れば観光収入ではない。昔からの伝統的価値観と歴史に基づいた生産である。そしてそ
れは地産地消であり地域の活性化である。決して都市化や物真似産業や議員特権の税金
の地方に落としたインフラ整備ではない。そういう物は文化の公害でしかない。子供と
共に快適に過ごせる環境空間でありあくまでも自然とのうまい共生での経済回環状況な
のだ。観光を否定はしない。だがその非効率性はかなり高いし市町村自治体の不道徳さ
は目に余るほどだ。これを直さない限り亡国であるのは間違いない。


355: 名無しさんAA:17/08/25 16:51
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 78

 恐らくはこのままいけば 百年や千年も過ぎれば 世界政府が出来るか世界大戦が起
こるかしかない。というのもアメリカで7地方ロシアで8ないし10程度中国で15の
分割が起こらなければ 今のトランプみたいな無能な指導者が闊歩する。彼らと言うよ
り自分も含めて まずこの電子化技術の中で統制など全く出来ないのは当然の帰結であ
る。今はまだ統合環境ではない。だがAIの台頭は人の職業を奪うだけでは済まされな
い。人々から仕事を奪えば豊かさの中で凶暴な人に暇を与えた社会を作りだすのは今の
911事件のJrブッシュで立証済みだ。今はまだ プーチンや習氏など巨大な権力の
王座の下圧政と独裁で統治されてはいるが 今後はより強い力なしに人民統制は出来な
い。が逆に人民側では 既にもう度を越した人権侵害とナチスの収容所に匹敵する虐殺
は隠れて行われておりこれが表面化するだけで穏やかな国造りは出来ない。だが民主化
や自由化はそうした事が包み隠さず白日の下曝されてこそ出来る物だ。そこに現代の中
の悩みがある。中国で或いはロシアで汚職や贈賄更に目利きや忖度がこれ以上増えなけ
れば事は進まない。が一方でそうした悪事が暴露する程のコミュニティの報道機関やら
言論の自由化はなされていない。これらが発達しないままでは北朝鮮の様な経済封鎖の
中で生きている様に発展性の無い暴力の傘での集団活動と変化する。ロシアも同じ様に
今の地位である経済発展はソ連邦から解放されてからの技術革新が今を作っているのだ
。その意味でもロシアの発展はウクライナと共にある。ウクライナを取れば自立しての
交流のない軍事大国としてのロシアへの道。ウクライナを捨てれば対外協力の中での貿
易を促進した大国ロシアへの道でその両方を取る事は人間の集団化思想上不可能である
。つまり二者択一問題でしかない。安倍氏の間違いはそこにある。北方領土は帰らない
と解っているからロシアは協力を取り付ける度に軍事基地化する。アメリカのトランプ
も米国の大統領と胸を張りたいのなら 米国の姿に変わるべきであろう。独裁の北朝鮮
と同じ土俵に立っては何も出来ない。真意の無いツイッターで自己の感想で世界を罵る
ばかりでは同盟国は中心を失う。ならば自ら米国解体して小さな自分の支持者だけの国
を作れば良い。それはベネゼエラのチャベス大統領の様な失敗を隠した失政でしかない
トランプの今行っている事はこのチャベスより始末が悪い。これでは FRBが急速に
ドルを畳んだ理由がわかろうと言う物だ。これでは戦費もおぼつかない。


356: 名無しさんAA:17/08/25 16:52
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 79

 また この北朝鮮のミサイル問題もイラクシリア問題もアフガン問題も過去の歴史の
特に西洋史の事例から言えば解決は不可能だろう。それは戦争や紛争しているそれぞれ
が不寛容社会の代表的国だからだ。もし今のチュニュジアが革命に成功していると言う
ならそれはチュニジア人は早くから西洋化して 宗教のイスラム教を絶対視していない
世俗化に成功していた国家だったからだろう。逆にトルコが今イスラムの世俗化を捨て
強硬路線の独裁化している理由はそれだけ戦争が迫っている恐怖感が国民全体に本能的
にあるから贖えない人の弱さがでているのだと言える。これらは本質的に人の欲望であ
る。EUが揺れて英国での移民や難民が騒がれなくなっているのは ポンド安で観光化
した消費者が増えた事によって目隠し状態になったと言う事があげられる。人はそうし
た目隠しに疎い。トランプ問題の本質もそこにある。北朝鮮問題そのものはオバマ政権
以前の問題だし中東の難民問題もブッシュ政権が考え抜いて置くべき問題だった筈だ。
それが今頃になってオルタナティヴ手法を串裂きしてオルタナショックを話す大統領に
大いに賛同するとはちょっと可笑しな話だ。時間は後戻りはしない。なのに慰安婦像の
受け入れの様に体の良いいい訳で繕うと言うのは悪魔でしかない。原爆投下がいかなる
理由も認められないのと同じだ。これを反省しなかった者は核開発を進め反省した者は
原子力発電すら反対した。だが事の本質は放射能と言う人が管理できない問題のみでは
ない。東京大空襲と共に日本の7大都市では一般市民は大勢死んでいった。無差別大量
殺人である。それは収容所のガス室の殺人より多い人数の筈だ。この悲劇に韓国は全く
が解っていない民族だった。だからこそその後朝鮮戦争が起こったのである。多くの韓
民族も日本で空襲にもあったと言うのにである。情報の共有も無かったが日本に来なか
った朝鮮人の多くは貧乏な奴隷身分だった事もあって怨恨思想しかなかった事が主な訳
でもあった。この不寛容世代でも古典派経済学が覗えない。本来市場は自律的に調整さ
れるため、最終的あるいは長期的には失業は存在しない。と言うのが古典的経済学だ。
つまり国と国でも友好や信頼が無ければ渡航禁止であり交易停止が普通の政策なのだ。
この原則が近年は経済過多によって間違った中にある。日本の政冷経熱とされた裏打ち
のない日本の銀行の中国進出へのそそのかしがそれだ。ろくに共産党社会主義も知らな
い若い行員や支店長が老舗の工場長や家長を説得して融資したのだ。これで零細企業の
殆どが死に絶えて日本は大きな損失に陥った。その上貸し剥がしを竹中は行ったのだ。


357: 名無しさんAA:17/08/25 18:27
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 80

 元々韓国の歴史は北朝鮮が李氏朝鮮の跡地であるに対してその農奴と商家しかない地
で歴史や文化などない土地に等しい。逆に言えば歴史的エポックは秀吉時代の海賊退治
に行った朝鮮征伐と戦前の日韓併合しかないのだ。従って韓国軍がありながら北朝鮮が
攻めて来た時は、一目散に逃げて逃げて逃げ回ったと言う朝鮮戦争の歴史的事実はひた
隠し、更にその奴隷だった事実や独島竹島が日本の土地だった事も隠すしかない状態だ
。もし米国が冷静にこの極東情勢を見ていたなら 日本に輸出入制限などかけず日本が
日米決戦などする必要もなかっただろう。だが政治首脳である彼らは故郷ヨーロッパで
のドイツの起こした戦争しか眼中になかったし、一般人はその日の食糧調達しか無かっ
た。と言うのが実情だろう。この時起こっていた米国内の視線も日本への羨望だった。
 この朝鮮戦争時は李承晩政府だったが、日本に対して亡命政府の打診を米国を通じて
行っている。既に在日朝鮮人で日本では混乱が方々に起きて居る中ではこの亡命政府の
樹立は不可能として断ったが この事で逃げ道として竹島を自領とした李承晩ラインを
勝手に国境線として決めたのだ。この北朝鮮に対して侵攻を受けた韓国側で戦ったのは
進駐していたアメリカ軍を中心に、イギリスやフィリピン、オーストラリア、ベルギー
やタイ王国などの国連加盟国で構成された国連軍(正式には「国連派遣軍」)が参戦し
多くの犠牲の上やっと38度線まで押し上げたのだ、この時北朝鮮側は中国人民義勇軍
が「抗美援朝軍」や「北朝鮮志願軍」として中国人民解放軍が加わり、直接参戦しない
としたソ連は諜報活動と武器調達や訓練などで支援した。これが戦後の最初のアメリカ
とソ連による代理戦争でありその様相に高みの見物していたのが他ならぬ韓国政府だっ
た。又卑怯にも自国領土でありながら何処までも保身の他力本願の韓国政府はその後の
38度線の休戦協定すら出席せず まだ戦うべきとの意志を伝えたのである。武器も人
も攻撃する気力もないのに 対北朝鮮占領を鼓舞したのだ。こんなおかしな話はない。
だからこそ その後の台風や水害や冷害の北の飢餓に対して国連や日本は救援物資を送
ったし 発電所建設に動いたのだ。最初ダム建設が企画されたが放流時洪水が起こると
韓国側は猛反対され仕方なく軽水炉発電で協定が交わされたが、廃棄物問題で原爆開発
の兆しが見えて基礎工事のみで国際的道義から却下された。此処に韓国より北朝鮮の方
に信頼度が高かった事実が如実にある。がしかし西側は韓国を捨てなかった。それは朴
氏の起こした外交政策の賜物であり日本の支援金による漢江の奇跡と言われる発展だっ
た事は間違いない事実だ。

360: 名無しさんAA:17/08/26 11:33
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 83

 この復興を遂げ経済の成長期に入る頃の日本人は、高度成長期に入る前に多く課題に
直面し こうした球団の混乱と同じ事が どの業界でもどの世界でも起こってしまって
いた。外交安全面では憎き米国にいつまで付き合うのかと言う批判からベトナム平和運
動=べ平連活動が凄まじく日本を覆った。財界では財閥解体による瀕死の産業を復活さ
せるべく石炭産業の拡大に多くの鉱内爆発などで命の粗末さを問いかけ全労働対全産業
と言う三池争議が起こっていた。他にも殆どが財務と産業と国家と個人の矛盾に闘って
いた。正力松太郎のメディア業界も又日本の未来を憂いていた。この時漫画に代表され
るように近未来ヒーローストーリーが盛んに開拓され、それぞれにその危険性を学んで
怪獣ものや宇宙ものが連載された。そしてTVは米国映像の憧れ洋風暮らしを映し出し
電化製品は画期的に加工産業の労働人口を増やした。この時の夢の世界が今日本を支え
ている。日本式の「年功序列」の「終身雇用」はこの時確立しオイルショックを耐え抜
き技術革新を創りだし新たな日本の未来を映し出した。それがロボット化したオートメ
ーション工場の稼働であり人の安価な生活費での田舎暮らしだった。殆どの漫画での悪
役は怪獣でも宇宙人でも超能力者でも秩序を壊す者であったし、ヒーローは人が自然か
ら離れて暮らしてはいけない事を謳い戦う物だった、そして人とは宇宙でもジャングル
でも孤島でも、そうした未開地でも生活に奮闘する住民であり それらの人を助ける事
が物語であった。巨大技術や先端技術の危険性とまやかしに地球の異物としてゴジラも
仮面ライダーもサイボーグも産まれたものだった。ウルトラマンでさえも同じだった。
歌謡界も多くの世界の音楽を集めた流行歌を産みだし歌謡ショーを華やかにしていた。
そこに混在する思想は学生運動の教育界から政治経済財界産業界と幅広く受け入れられ
独鈷主義の連帯とテーマになっていた。正義の使者たるグループつまり小集団の結成が
楽しまれたのである。



361: 名無しさんAA:17/08/26 11:34
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 83

 この成長期になる思想は現代日本を支えた原動力であり続けるだろう。今日本での多
く課題である少子高齢化を問題としているのは政治局のみである。既に50年も前から
団塊世代の多さに疫癖している頃に人の理想が少人数であるし人口減少こそ平和の礎と
考えていたのだ。近頃日本の風景として中国記事サーチナはこう書いている。(記事は
「東京の近くにあるアサヒビールの大型工場では、何全何万という缶にビールが詰めら
れ、6本で一まとめにされ、どんどん箱に詰められていく。1分間に1500箱できる
とのことだ。そして、見渡す限り人っ子一人いない。日本のオートメーション化のイメ
ージが見事に体現されているのである。ロボットが重労働を担当し、人間はロボットの
正常な動きを確保し、センサーなどの検査をするだけだ。工場のマネジャーによれば、
ロボットによる生産ラインで96%の作業が完了するとのことである」と伝えた。)と
。海外の経済学者は別にして 日本の多くのアナリストは急激な現象無い限り、結果の
自動生産の推進は仕方がないとしているし 世界中でのAIや機械化が取り上げる労働
は別に人を不幸にしないし職業が奪われるのみの話だと考えるのが妥当である。既に物
量生産性に於いては機械化や自動化が生み出した品物は圧倒的シェアの中にある。問題
は政治の効率化が図れていない事にある。日本の政治は馬鹿げた事に小さな政府や行政
や議員の給与削減を求めずにいる事に大問題がある。今一番高いリスクはこの管理しな
い行政と言う管理者の無秩序にある。人の政治能力が50代で切れている事は既に歴史
は証明している。かくて過去の二度も起こった世界大戦は 年寄りの凝り固まった自己
保身の政策によるものだった事は数々の資料で見える事だ。ドイツが兵士上がりの者の
政治で領土拡大要求が強く 日本が日露大戦の立役者を軍神の様に扱い 昭和天皇すら
この拡大した軍部の台頭に意見できなかったし 年寄りの反体制派が手なずける若者を
指導でなかったのだ。日本の数多くの問題は年金支給の年限引き揚げ弊害でしかない。
何故なら企業家が40〜50で失敗しても食べれない程の下等給金を許した国には全く
明日の無い状態が続く事は判明しているからだ。既存企業を補佐するな。新基軸を介護
するな。

363: 名無しさんAA:17/08/29 13:00
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 85

 この東京大震災のときの朝鮮人虐殺と言われる事件はかなりの異常さがある事件だ。
後で関東大震災と命名された地震は、1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒頃に
発生した大地震だった。南関東および隣接地で大きな被害をもたらした直下型地震であ
ったとされる。その後直ぐに10億円を超える震災善後処理公債を発行し、その額は当
時の日本の年度別の国家予算の6割を超えるものであった。引受にはモルガンやロスチ
ャイルドが参加した。この頃の政治状態として1909年10月には、韓国統監を曾禰
荒助に譲って、当時枢密院議長として伊藤博文自ら満州・朝鮮問題に関してロシア蔵相
ウラジーミル・ココツェフと会談するために、外交団を連れてハルビン市に赴いていた
。朝9時、哈爾浜駅に到着した時、ロシアからの暗殺指令と情報で安重根は待ち受けて
いた。旅順の関東都督府地方法院で裁判されたが、産まれが北朝鮮にある黄海道の道都
海州府首陽山の両班の家に三男一女の長男として生まれた事が判明している。北満州の
ロシアが権益を持つハルビン駅構内での襲撃には、この殺害した暗殺者に案内者がいた
と思われ、彼だけがロシア官憲に逮捕されて日本の関東都督府に引き渡されて裁判され
ている。ソ連のスパイ組織が日本国内で諜報活動および謀略活動を行っていたとしてこ
の後1941年にリヒャルト・ゾルゲ事件が起こるのだが、ラムゼイ機関として上海か
ら赤軍参謀本部第4局の指令は既に動いていた。今やSIGINT、偵察衛星やソ連特殊部隊
スペツナズの運用も管轄しており、ゾルゲ事件ではナチスから「ワルシャワの屠殺人」
の異名を取ったドイツ国の親衛隊のヨーゼフ駐日大使が中止要請を行っている。ワルシ
ャワで既に大量虐殺をおこない、その後駐日ドイツ大使館に赴任し、ユダヤ人迫害拒否
を続ける日本政府にホロコーストへの加担を要求したのだ。つまりドイツ国内でも赤軍
派共産党の諜報活動がナチスの奥深い所に既に安住を得てヒットラーを動かしていたの
である。この上海指令と言うのが曲者で 多くの朝鮮人がハルピンやウラジオストック
或いはモスクワで教育され日本に送り込まれ 日本の警察はこれに日々悩んでいたのだ
。又朝鮮半島人から言えば夢の文句で引き抜かれ、渡航費や日々の生活費が簡単に貰え
るソ連の仕事は、朝鮮人には重宝なものだった。その事実はこの安重根の捜索と共に、
軍部まで及ぶ大きなソ連諜報部の活動が明らかになっていったのだ。その後もゾルゲ事
件など多くの事件が出たが 結局日本が米国と戦ったいきさつはドイツ・ソ連・米国な
どのこうしたエージェントの成果であったのだ。それだけ日本は諸外国の国内工作や情
報操作に弱かった軍部だったんである。

364: 名無しさんAA:17/08/29 13:00
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 86

 こうした中で起こった大震災であった。そして混乱のなかで流れたデマによって人々
が自警団を結成し、軍や警察も関与する形で、朝鮮人を無差別に虐殺するという事件が
関東各地で起こったとしている。司法省の文書「震災後に於ける刑事事犯及之に関連す
る事項調査書」には「鮮人を殺傷したる事犯」というリストがあり日時、場所、犯人と
被害者の名前、そして「棍棒または割木にて乱打し殺害す」「日本刀をもって斬り付け
殺害す」と、簡単な内容が記された53件の事件が掲載されている。この立件された5
3の殺傷事件の被殺者数を合計しただけで233人である。司法大臣、田健治郎には、
震災から5日後の日記に、朝鮮人虐殺について「震災激甚、人心危惧の結果、流言蜚語
盛んに起こり、なかんづく、朝鮮人に対する虚構的反感、大いに人心を動揺させ、所在
鮮人を殺戮しすでに三百人に上り、その勢いの頭趨、無辜(むこ)の鮮人まさに挙げて
俎上の肉となす。」と書いている。つまり5日後でも盛んに暴動が起こっていたのであ
る。湊七良証言では九月一日は本所区向島小梅町の焼跡に転っている空箪笥などを拾っ
て来てそれを寝台に横になりながら、雷門の神谷バーの窓々から紅蓮の燃が生きものの
ように乱舞しているさまや、観音様や、五重の塔がいまにも落ちるのではなろうかと眺
めていた。闇夜に火事のあかりで五重の塔、観音堂がくっきりと浮きぼりにされ、火の
子が、恰も画面に朱の班点をまぶしたように色彩づけている。と書き二日には、夜半だ
。俄かに半鐘が鳴る 火事かな、もう沢山だと思っていたら、津波だという声がある。
津波ではない朝鮮人の襲撃だ、という。私のまわりには朝鮮服の男女が大勢いた。つづ
いて、ご丁寧にも東京襲撃しつつある朝鮮人は、横浜刑務所を脱獄して、社会主義者と
合流し、東京をあらしまわっているというわけで、かような想定の下に流言蜚語を流し
たわけだった。三日から大島三丁目の古い友人の二階を仮の宿にした。近くの大島製鋼
所方面でピストルの射撃する音が聞えてくる。朝鮮人さわぎではないかと直観した。と
にかく出て見た。大島製鋼所の周辺に葦の生えた湿地帯があった。その附近で、憲兵が
ピストルをかまえてなにかを探し、追及している構えであったので、私はその憲兵に何
を探しているか問うたところ、飲料水に毒を投げた鮮人がこのアシの中に逃げ込んだと
いうのである。 とうとう憲兵と自警団(在郷軍人団)に追い詰められて二五・六歳の
青年が、頭をうちぬかれて無惨に殺されてしまった。と書いている。

365: 名無しさんAA:17/08/29 13:29
 又、当時の戒厳司令部の参謀だった森五六が語ったという回想談話の内容は、「当時
の戒厳司令部参謀森五六氏は、正力松太郎警視庁官房主事が、司令部を訪れて「こうな
ったらやりましょう」といきまき、正力は気がちがったのではないか。といわしめた。
非常に早い時点での治安の悪さに戒厳司令部設置し、警察と軍隊は震災発生の直後から
、「保護」と称する事実上の取り締まりを開始して治安維持を図っていた。その作業が
その後の大量虐殺行動につながったとされる。軍部の執拗な引き渡し要請からである。
正式な設置は午前中「裁可」を受け翌日のことになる。だが震災発生直後からも暴動は
起きて居て実質的な戒厳体制が取られている。本来の指示通りであれば、3日間は全く
動けなかったに違いない。だが多数の証言ではその日に既に暴動は起きて流言雑語があ
ふれ流布して残虐事件は起こっているのだ。殆どの一般人含めて追想記や日記原文には
「九月一日夜から数日間の帝都およびその付近においては、未曾有の大震災とそれに伴
って伝わったでたらめな流言飛語のために、すっかり度を失った民衆によって、まこと
に恥ずべきところの不祥なる出来事、戦慄すべき残虐事が至るところに現出された。す
なわち鮮人暴動の流言に血迷った自警団の鮮人および鮮人と誤った内地人に対する虐殺
事件である。」と書いている。よく朝鮮人擁護者は「法にしばられる警察は、戒厳令下
で異常な使命感と功名心に燃え狂っている中下級軍人を、ちょっと唆すだけで、目的を
遂げることができた。」などと軽く官警の悪さを言う。が現実的には戦争中の話と同じ
で混乱の中で諜報員が暗躍し 手を焼きその為各自の不審者狩りが横行していて、その
場での判断で射殺などで事件を未然に防いでいた部分はあったのだ。確証がないままに
「流言に血迷った自警団の鮮人および鮮人と誤った内地人に対する虐殺事件である。」
と決めつけたのはそこに既に証人も犯人も居なかった為の事なのだ。四日夜の「第一次
亀戸事件」は、川合義虎ら八名の社会主義者の虐殺と扱われ、「亀戸事件」への導火線
になったのではないか。と言われるが1日目の夜から彼らは行動し、逮捕されている。
不審者は横行していたのだ。そして捕まえた反抗的な自警団員四名の引き渡しは、留置
場内は「前にもまして騒然となった。」と書かれている。震災当時既に朝鮮独立運動派
の地下活動や抗議を浴びていて実質的テロ事件が起こり、その後もソ連共産党での洗脳
教育された者やスパイが横行していた。社会主義者対策に当たって古森氏は、三日午後
4時、首都警備の頂点に立つ一人として、第一師団司令官石光真臣の名で「訓令」を発
し、「鮮人ハ、必ズシモ不逞者ノミニアラズ、之ヲ悪用セントスル日本人アルヲ忘ルベ
カラズ」とした。つまり朝鮮人を不逞の者と決めつけるな。日本人に多くがそれを利用
しようとしている事を頭に入れて事に当たれ。としているのだ。

366: 名無しさんAA:17/08/30 03:29
 正力松太郎の証言によると「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞
の目的を遂行せんとし、現に東京市内において、爆弾を所持し、石油を注ぎて、放火す
者のあり、すでに東京府下には、一部戒厳令を施行したるが故に、各地において、充分
周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし。」との司令
部の通達によって取り締まり「僕としては、軍隊と協力、暴行者を留置場外に引き出し
たことは事実であるが、刺殺には絶対関与していないと信ずる」と語っている。世界の
年表では1905年には、既に血の日曜日事件としてロシア第一革命があり1912年
はボリシェヴィキを結成しコミンテルンの諜報活動や紛争への世界攪乱構想を進めてい
た。世界中に国際旅団を配置し世界の社会主義革命を宣伝し1918年にロシア共産党
を組織してその後は1918年オーストラリア1919年ポ−ランドやデンマーク北欧
東欧に1920年トルコやスペイン1921ニュージランドにカナダ1922年中国の
各地に大連やチリやブラジル1923日本と米国にとその足場を固め、第二インターナ
ショナルの国際合法組織から第三インターナショナル非合法組織として活動しだしてい
た。


368: 名無しさんAA:17/08/30 12:11
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 89

 私は今でも 第二次世界大戦である太平洋戦争は 日本において石油争奪戦だったと
思っている。石油は戦争をもたらし、北米のシェールガスは掘削による地震や水の汚染
リスクが指摘され、中国の石炭の健康被害も明らかだ。そういった問題を踏まえた上で
、原発事故の起こった福島は貴重な教訓を生かして 世界と対話していかなければなら
ない問題である。当時は、世界中のタブロイド紙面でインチキメディア、エセ科学者や
トンデモ系ジャーナリストが、あることないこと書きたてて盛り上がっていたのだが、
海外のメディアや情報発信者を無条件に礼賛する人もいるが、今やフェイクニュースで
海外だって色々である事が解っただろう。それこそあのトランプさえもインチキ大統領
で北朝鮮や極東支配をどう片づけるのか全く声明を出さない。今だに原発では「日本が
滅亡する巨大施設」と思っている人は少なくない。そうした説が広がってしまった影響
は今の反原発運動に色濃く残っている。それは日本の国土が狭い事と資源が乏しい事に
事情がある。そもそも原子力は、CIAが正力(しょうりき)松太郎をエージェントと
して使って普及させたもので、原発には「核兵器に転用できるプルトニウムの貯蔵庫」
という役割があってそれが極東の平和の一端を担っている。気づいた頃には、左翼活動
の歴史観みたいなものが重なり合っている中で今度の地震で原発事故が起こったのだが
放射の危険さと ウラン燃料採掘を勝手に炭素量が多いと言い放つ活動家がいるのには
辟易する。ドイツでは今や国策を自然エネルギーの供給が足りずフランスの原発に頼る
かロシアの天然ガスに頼るかを迫られる中にある。イタリアへのロシアのパイプライン
をEU自立を損なうと反対した為に立ち往生の様だ。ロシアは先のソ連解体時の自由主
義の冷たい洗礼に今後独裁から自由主義に転化するとは思えない中、一方でその富を得
たいとも思っているのが透けて見える。世界のリアリティを複眼的に見越せば、中国は
これからの覇権国家を目指している事が解る。習氏自体はそうした欲望は無いだろう。
しかし中国の習政権としてはやらざるを得ないのだろう。海では根こそぎ採り尽くし、
国内では何処までも自然破壊、先進国には巨大市場を餌に金を吸い、後進国にはこの金
をぶら下げて中国人を派遣し今までの秩序を破壊した無法地帯化を進める。北朝鮮の核
ミサイルはロシアとの合作によるこの中国の最初の試験国家であるに違いない。それは
どんな言い訳をしても歴史が証明している。北朝鮮の建国も朝鮮戦争も原子力発電でも
ミサイル技術でもこの二つの国の協力があってこその成果であろう。


369: 名無しさんAA:17/08/30 12:16
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 90

 只忘れてならないのは 北朝鮮が中国とソ連が造った国であると同時にその責任も又
この2国にあると言う事だ。更に朝鮮戦争での終結に於いて米軍駐留部隊が日本の様に
あるとしても ここに居る米軍は国連軍であり多国籍軍で米国一国の判断では動いては
いけない。と言う現実だ。先の国連事務総長潘基文が、如何に勉強しない何も知らない
馬鹿な愚か者だったかがこのミサイル発射でわかり得よう。自国の安全確保に動くべき
地位にありながら、北朝鮮に訪朝せずに中国の軍事パレードに出席したのだから本末転
倒な話である。北が核ミサイルを確立しこの朝鮮半島に君臨すれば 当然韓国は東側の
共産主義に飲み込まれドイツ以上の独裁政権が生まれるのは火を見るよりも明らかな話
で、そうなれば中国と北朝鮮は兄弟国として手を取り合い東シナ海南シナ海の自由航行
は規制するだろう。又この東南アジアの国はオーストラリアを除き全てが中国にたなび
く事になる。結果は目に見えて居る。中東の石油は売れず、フィリピンやインドネシア
マレーシアは高い失業に見舞われ 今でさえロヒンギャの宗教対立が起こっているのに
タイ・ビルマ・ベトナムとの対立の構図を中国が起こし「漁夫の利」を模索し航行課税
を創る筈だ。こうなれば第三次世界大戦の勃発は必然である。もともと第二次世界大戦
をドイツが欧州で領土拡大したからと勘違いしている学者が大勢いるが それは違って
いて中東やこの東南アジアの権益争いでドイツが足場を築いた事にある。米国も植民地
経営をやってはいたがフィリピン農園だけで石油に関しては欧州勢よりかなり遅かった
。殆どを英国仏国阿蘭陀で占めていたのが現実だったのである。この状況を又北朝鮮や
中国が作りだそうとしてる事は明らかで、口では平和と秩序を発しながら裏では物騒な
一帯一路計画と中華の夢を掲げているのが現実だ。今回のインドとの国境超えの道路の
建設や南沙諸島の建設はその最たるものだ。人の土地を奪って平和利用などと言うのは
おこがましい泥棒の言い分でこの内容は韓国の竹島自領説とおなじである。戦後の混乱
期に三国人として強盗や暴行を働き追われた 武器を持った犯罪者達が山陰から竹島を
目印に済州島を越え自国に帰り、朝鮮戦争で逃げる道としてそれを領海とした話は有名
な事実である。更にこの頃日本の引き揚げ船の殆どがこの朝鮮人グループに乗っ取られ
嘘をつき日本行と称して日本人をシベリアの収容所送りにした事も数多くの証人がいた
。その為本土に帰って来たのは多くが次の年の米国船によってであったと言われている。

370: 名無しさんAA:17/08/30 20:42
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 91

 既に北朝鮮への「斬首作戦」へのデッドラインは大きく超えた。いつでも平壌空爆を
行っても 誰も文句は言わないだろう。何故なら北朝鮮は核保有国として認めることを
決して手放さないからだ。「北朝鮮を核保有国家として認めたうえで、北朝鮮と交渉す
るべきだ」と説く者がいるがそれは愚の骨頂だろう。まず核を手放さない理由は米国に
ある。リビアはアメリカの甘言に騙されて、核開発を放棄した後に、欧米によって軍事
攻撃を加えられて、崩壊したし、ウクライナは国内の核兵器をロシアへ渡すかわりに、
侵略を蒙ったら、ロシア、アメリカ、イギリスが共同して守ることを約束したが、約束
したロシアがクリミア地方を奪い、アメリカとイギリスは傍観したのである。つまりは
国際社会は全く信じられない事を身に染みて解っているのだ。日本も日米同盟が切れた
途端に戦場化する位の小国でありその悩みが北朝鮮にあるからだ。これはウクライナと
同様に西側社会に入らない限り解消しない。では核をの代わり経済援助の外交交渉をす
ればいいではないか。との意見もある。極東では「金と武器のどちらかを選べと言えば
、武器を選ぶ。金で武力は買えないが、武力があれば金を巻き上げられるから」という
。これは北朝鮮の指導者も公言している。金をやっても核は手放さない。北朝鮮の狙い
は金ではなく韓国や日本の占領と併合だ。朝鮮は中国と共に一致して「小よく大を飲む
」と豪語する。だから米国との話合いでも日本人は日本から出て行けということになる
。そして前段階として米韓合同演習の中止であり、日米安保の破棄だ。北や中国の問題
が援助や外交で解決と考えるのは視点が低い危険な甘い考えだ。ではトランプ政権での
宝刀を抜いて、北朝鮮を斬りつけることは出来るだろうか。戦闘が始まって数十万人が
死ぬ事を覚悟しても、耐えられるだろうか。もし、トランプ政権が北朝鮮に目標を限定
した攻撃であっても、北朝鮮は体制の威信を賭けて、韓国、日本に対して反撃を加える
だろう。韓国の総人口の3分の1以上が、南北軍事境界線から100キロ以内に住んで
おり、日本も北朝鮮の火砲・ロケットの射程内にある。ミサイルを迎撃しても、かなり
の被害を蒙ることは免れない。只、北朝鮮は国家的自殺を図るつもりはないから、全面
戦争は望んではいないだろう。だが国際世論が「即時停戦」を求めてもすぐに停戦に持
ち込むことは中国やロシアの出方次第で泥沼になる可能性も数%ある。

371: 名無しさんAA:17/08/30 20:43
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 92

 では、そのままの北朝鮮の挑発のままの推移だろうか。西側では挑発だが北朝鮮側で
はこれは実験と検証であり 核ミサイルの完成の為の工程でしかない。つまり話し合う
そぶりはしても、その気は全くないのだ。良ければ日本からの援助をせびり、資金を出
してもらえば「しめしめ」位であろう。それを韓国も全く同じ思想なので情けないのだ
が仕方がない。そしてその予想すらしない韓国は御馬鹿外交政策の大統領を選んで世界
から笑われている事は間違いないだろう。がこれに日本は指を咥えて見ている訳には行
かないだろう。こうした状況での日本の取れる行動は、特例法による再軍備、米国支援
による早期核兵器による自衛だろう。核ミサイル原潜10隻体制で絶対国防力を確保す
る為に又米国から大量買いする羽目になる。又現行の危機に対応出来ない占領憲法は棚
上げし国会紛糾は避けられない。政府は現行法規が時期尚早と言うしかない。時間が無
い中でそれらは直ぐに国会承認されるだろう。では「アメリカは、先制攻撃しても韓国
での何万人もの死者が出る事から、先制攻撃はありえない。」と言う専門家の見方は当
たっているだろうか。それは在り得ない。アメリカは戦争は公共事業の一つである仕組
みになっている。第二次世界大戦では国家予算を超えた開発で、意味の無い原爆投下を
広島や長崎に行い、何万名もの民間人が亡くなっているし、国際法違反の焼夷弾投下で
無差別大量攻撃をしている。そしてそれは自国の兵士を守る為であり、今でも彼らは、
「もし原爆を落とさなければ 戦争が長引きもっと多くの米国人将兵がなくなっていた
」と言う理由つけをしている。これと全く同様の論理で「今北に対して武力行使しなけ
れば将来に於いて ロスアンジェルスのような都市ではもっと悲劇的なことが起きてし
まうだろう。」と予想出来る中で、彼等が核攻撃を控えるだろうか。否核を控えて通常
兵器に変えての攻撃を考える事はあるかもしれない。こうした武力攻撃は全く不思議で
はない。と言うより実際には多くの米国議会人がこのミサイルの進歩に脅威としてこの
発言している。とどのつまりこの不良息子的北朝鮮と言う国家を中国ロシアがまだ甘や
かすなら戦争は起こるだろう。もし規制し彼の国が普通の国家に変われば戦争を逃れら
れるかも知れない。だが解放もしくは核開発を捨てない限り極東は核弾頭の競争になる
。そうなればソ連や中国は又貧しい国に後戻りするだろう。


372: 名無しさんAA:17/09/01 14:19
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 93

 かつて中国 春秋時代、呉王の闔呂(こうりょ)は越王の勾践(こうせん)と戦い、
敗れて死んだ。闔呂の息子である夫差(ふさ)は、父の仇を討つために固い薪の上に寝
て、その痛みで復讐の志を忘れないようにし、三年後に会稽山で勾践を降伏させた。又
敗れた勾践は、今度は室内に苦い熊の胆を掛けて嘗め、その苦さで会稽の恥を忘れない
ようにし、十数年後に夫差を滅ぼして、会稽の恥を雪いだ。これが臥薪嘗胆の故事であ
る。臥薪嘗胆の「臥薪」は、薪(たきぎ)の上に寝ること。臥薪嘗胆の「嘗胆」は、苦
い胆(肝)を嘗めることで、共に自身を苦しめることで復讐の志を奮い立たせることを
表す。転じて、目的を達成するために苦心し、努力を重ねる意味で用いられるようにな
ったとされ、臥薪嘗胆の成語は、『十八史略』の「春秋戦略」に見える次の故事に由来
する。この呉国と越国の仲の悪さは歴史に抜きんでていた。ところが『孫子』第十一篇
「九地」に、「中国の春秋時代、呉と越の国は戦争を繰り返すほど仲が悪いが、もしも
両国の人が同じ舟に乗り合わせていた時、暴風に襲われ舟が転覆しそうになれば、呉の
人も越の人も普段の遺恨を忘れ、舟が沈まないよう互いに助け合ったに違いない。」と
書き記し話題になった。この話から、お互いの利害が一致する際は、敵同士であっても
同じ目的のために協力することを「呉越同舟」というようになった。だがこれは書物の
中の諺で憎悪の素が降り掛けられた人々がその憎悪を消す事が出来るだろうか。これが
中国を救った恩人の国日本への手段として持ちいれられた。資金援助を引き出しと共に
抗日記念館を造り、そのまま嘘の歴史を振りまく事だ。それはポ−ランドに帰って来た
ユダヤ人に嘘を付いたキエルテの事件と全く同じ処置だった。「愚民には法螺を吹け」
毛沢東は周恩来に言った。周恩来自身もこの法螺によって、共産党が終戦協定を示して
話し合いに立ち寄った所で それ以降が法螺を吹かれて国民党軍に帰れなくなってしま
い、仕方なしに共産党軍に入った人間の一人だったのだ。こうした戦略の立役者こそが
囚人にまでなったケ小平だった。彼は戦前はフランス留学までしていた文人だったのだ
が フランスの共産主義者によって中国共産党ヨーロッパ支部の指導者となったため、
パリを離れ東方勤労者共産大学・通称モスクワ中山大学で共産主義を学ぶ事になった。
ケ小平がパリを出発したが、その数日後危険因子として捜査され、2ヶ月後国外追放令
を受けたのだった。1927年に帰国し、ゲリラ活動を開始し紅七軍を政治委員として指揮
する事になったが、冒険的で無計画な共産党の中で振り回されて終わっている。

373: 名無しさんAA:17/09/01 14:19
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 94

ところが周恩来が入ると彼の助力で中央秘書長に復帰し 力をつけた。それまで嫌われ
追われていた毛沢東率いる江西ソヴィエト軍はこの2人の合流によって 人民の支援を
得て自力の共産党軍に変化し 進軍できるようになったのだった。勿論この名声をすぐ
に毛沢東は恐れ嫌っていた。こうして周の助力で中央秘書長に復帰し、長征に参加して
の八路軍一二九師団政治委員となると、華北方面での抗日ゲリラ戦を戦い成果を上げた
。1946年以降に国民党と戦った国共内戦では、淮海戦役・揚子江渡河作戦で第2野戦軍
政治委員など重要部署をつとめ、更に大きな戦果を収めて毛沢東も虐めるに値しない恐
れる程の人心を治めていた。こうして1949年の中華人民共和国の成立後も西南部の解放
戦を指導し、解放地域の復興に努めた。このケ小平氏や周恩来の生き様を見ると2度も
拘置されながら3度の復活を果たし中国を治めたものの 彼らの心の中は日本人の持つ
情愛などは無い。そうした教育以上に先に言った臥薪嘗胆の憎しみを忘れない教育が施
される。そこに欧米のノーベル賞すら認めない日本の島国根性より醜い田舎気質がある
。だがそれは国際社会が許しても地球が許さない。高速鉄道事故と同じだ。鉄道会社が
素人運転手採用し国家がそれを許しても、鉄道その物はそうした安易は運転を許さない
。今中国が北朝鮮に目配せ配慮した政策で大きくした。だがそれ其の物の悪質すぎる行
為は結果が核ミサイルの開発だった。同じ様に米国の双子の赤字の解消に中国共産党を
許しその社会や通貨を開いた。だがこれも結果が許さない。今だ人権侵害と独裁政治を
止められないシステムは地球を滅ぼす程の混乱であろう。人は空気も水も食糧も必要な
のである。逆に言えばその三つ以外には経済も権力も本来は人の生き様には必要ない物
なのだ。だが中国社会の根強いこの権力形態の体系汚職は止まない。胡耀邦は第3代の
中国共産党中央委員会主席で初代の中国共産党中央委員会総書記である。党主席は政治
の最高権力者であり総書記は軍隊の財政すら管理する総帥となる。だがその最高権力者
権限者の地位にあっても。ケ小平も胡耀邦も第一次天安門事件では失脚の憂き目にあっ
ている。彼らを支えたのは恨みでも憎しみでもなく社会への復讐だったのだろう。今の
トランプが前回の選挙で惨敗し今回当選の為のあらゆる手を打ったそれが汚い言葉でも
。これと同じに見える。




374: 名無しさんAA:17/09/01 14:20
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 95

 人は空気も水も食糧も必要なのである。逆に言えばその三つ以外には経済も権力も本
来は人の生き様には必要ない物であったが それに固執した独裁政治と醜い集団化政治
が行われる理由は 共産党と言う論理矛盾し人的破壊した思想にある。では何故捨てら
れないのか。それは彼の国が戦勝国と名乗ったからだ。フィリピンやマレーシア或いは
シンガポール或いはベトナムは日本と同じように戦争に敗けたが国家は独立を目指すと
声を挙げた。フィリピンに至ってはアメリカは日本軍から解放したと盛んに宣伝したが
ダバオ共和国や台湾原住民と同じに「日本は近代化した教育やインフラを整備してくれ
た。米国の様な植民地主義での侵略と搾取はやっていない。」と村長は明快に言った。
それは一つ二つの酋長に限らなかった。そこでこの東京裁判への資料作りは断念された
と言う。戦後のジャーナリストの多くは中国でも奥地に行けば八路軍の非道は聞いても
日本軍の非道は聞かれなかった。だからといって残虐行為が日本軍には無かったなどと
は言えないだろうが 少なくとも共産党軍のやった様な追剥強盗詐欺は行われなかった
。こうした中では共産党は内外に「戦勝国」としての勝利宣言をせざるを得なかった。
と言うのがそもそもの原因である。そして今の北朝鮮も又全く同じに国内掌握に戦争や
戦いのカードは捨てられないでいるのである。つまりこれからも核ミサイル研究や進化
は全く止められないのだ。中国が共産党解体を叫べない様に。では西側はどうするのか
。それは短期決戦の空爆での韓国進軍しか残されたカードはない。では中国・ロシア・
韓国・日本は影響はあるのか。これはなってみなければわからない。と言うのが正解で
はあろう。だがロシアは大量の労働者がやって来る事は、極東開発において願っても無
い事だろう。人口過疎化で今後の高齢者や極東経営に暗雲があるからだ。土地と家さえ
あれば彼らは自前で農地を作り食糧生産するだろうし、インフラ整備も格安ででき今の
政府への不満解消になるからだ。一方中国はどうか。これも韓国が西側の自由社会が国
境きわに出来る事は「唇なくば歯は涼し」などと極端嫌っているが果たしてどうだろう
か。多分逆に民主化政策に移行し中国の先進国化法治国家化に大いに寄与して首脳部に
はかなりの恩恵があるだろう。問題は難民の群れの処理であろう。


375: 名無しさんAA:17/09/01 14:20
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 96

 だが難民の移入はそう対した弊害とはならない。そもそも韓国は今でも民主化しては
いない国だし 中国との交易にはそう壁があるわけではない。今でも中国北朝鮮韓国は
ある部分で大きく国境沿線の産業は依存している。ひょっとしたら韓国産TVモニター
で中国部品の核ミサイルかも知れないのである。又北朝鮮人はそう頭は悪くないし集団
は至って真面目な集団が多い。言語や習慣的には韓国に逃避するだろうし中国に逃げて
きても今の中国は近代化していて、逆にオルドスなどの鬼城マンションが売れる様にな
るかも知れない程勤勉な北朝鮮人を欲している。歴史的にも中国の属国として補完的役
割にそう反対する事はないだろう。問題は逆に西側各国に出来る。まず韓国は少なから
ず幾らかの戦禍は免れない。長期的には仮想敵国や同族統一の夢はスローガンには上が
らない結果を産む。この事は政治的求心力が無くなる事を意味している。更に米国には
中国とは貿易戦争にはなっても本格的戦争は起こさない。相対的に韓国の国際的地位は
下がってしまい今の北朝鮮の様に相手にされない。つまり今以上に中国に媚て阿る事に
なる。この不愉快さは西側での地位を更に下げロシア・中国には笑いが止まらない富を
産む。つまり資源国として経費の掛からない消費国に変わるのだから更に統一朝鮮国は
北の領土拡大に付随する人口増加やインフラ整備に今以上の資本需要が国家貧態を起こ
す西ドイツがそうであるようにかなりの混乱と支出が必要だろう。では米国はどうか。
米国では人権派団体も勢いがあり欧州とも近い関係で批判は殺到する。ただ今後ロスで
核ミサイルが撃ち込まれていいのか。と問われれば誰もが批判や反対には回れない理由
になる。原爆が今でも戦争終結論として述べられる中 キューバ危機と同じ米国危機に
及んでいる今では米国の先制攻撃による自国防衛はそうそう大きな反対にはならない。
却って日本の方が反対が強く大きな影響を及ぼす。対抗核ミサイルの設置か先制防衛か
を聞いても 敗戦で戦争放棄した日本と言う国の中でその議論はなかなか無理な話であ
る。更に戦争そのものが連合国軍としての北朝鮮攻撃ならば 日本がその議論の遡上に
ある筈もない事で相当混乱する。更にロシアや中国に北の負担が無くなり、勢力が大き
くなる事は覚悟していても 今以上に日本は苦しくなるし韓国もそっぽを向く、又韓国
同様に北の攻撃や怨念を 韓国以上に受ける可能性は高く今でも在日問題での強力な力
が更に大きくなりゆく事は知っておかなければならない。

376: 名無しさんAA:17/09/01 21:18 ID:mb2
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 97

 ハリケーン「ハービー」は雨を止める事は無い。テキサス州は水浸しである。特にヒ
ューストンの周りボーモントなどの放送では2m以上の水量ですごいものだ。がこれは
中国の開発と同じに乱開発によるものの様だ。まず河川の蛇行はそのままで底下げされ
ないのまま何十年もそのままで流れている中でダムなどで水流の勢いを止めどうも土が
堆積しているようだ。更にはかつての西部劇時代の様な砂漠の荒れ地は見当たらない。
住宅地と農地の開発である。テクノロジーは今や疲れ切った中にある。地下水を汲み揚
げ円形のタワースプリングクラーで農場生産の真っただ中で 食糧供給は不法移民を惹
きつけて止まない。こうして資材や道具さえ与えられれば、貧民層は仕事にありつけ、
山を削り木を切り倒し農業生産品を運び住宅を建てて賃金を得て 生活をする。これが
人の満足の様だ。だが自然はそうした人類の作業を許さない様だ。この豪雨は一挙に何
万人もの被害者を産み、即座に生活を貧困に陥れるのだ。が人の馬鹿さはそうした事を
よそに自動運転や生産性向上などとして おかしな展開を目指したAIを発展させてい
る。今後は人の仕事は人との対話に変わり自動化した機械の作業が7割の生産を受け持
つと予想される。人の持てない程の品物を人が出来ない速さと正確さで機械は行うから
だ。だがその開発の為の莫大な資金とエネルギーを欲して止まないらしい。かつて戦後
御菓子の爆撃機は、ベルリン封鎖を行った東側のスターリンによる ソ連独裁を強いる
行動に抵抗しての ドイツ人を助ける為の作戦だった。米国は僅か3年前までベルリン
陥落を叫び戦争し 今度はマーシャルプランそって食糧供給作戦を行い人道主義を行う
。それは貧民になった欧州復興を後押していたのだが ソ連では東欧諸国に何と暗殺と
デモの扇動によってその阻止を図ったのである。影響力強化と言われたが、それは悪辣
だった。ベルリン封鎖が終わったのは原爆開発を確立させて強国の地位を復活させて、
スターリンが自国の安心に着いた時だった。此処に原爆開発が如何に血に塗られた歴史
の宿命を持つかが解る。独裁と言う過ちには強固な最終兵器まで掴む欲望が潜む。そし
て暗殺さえも辞さない馬鹿さが付きまとう。1948年、マーシャル・プラン受け入れ
拒絶を強要する事にソ連共産党は圧力を増大させた。その受け入れ希望を背に受けなが
らチェコスロバキアの外交官はモスクワに行ったが、帰ったきた外相ヤン・マサリクは
「赤軍の使い走りになって帰ってきた。」と悔やんだのである。チャーチルはこの貪欲
なソ連や共産党に早くから危険性を指摘し「人は全てを求めてはならない。」と警告し
ている。その頃ソ連は、世界的な覇権を求め、西側は、必死に延命に努めていた。


377: 名無しさんAA:17/09/03 16:46
 日本の現状16

 あちゃ〜〜とうとう北朝鮮はやっちまった。〜〜〜〜。トランプはどうして こうも
馬鹿なんだろう。まるで子供の喧嘩状態だ。北朝鮮の人民が虐げられ こうして軍用品
に国家予算が取られている現状に何ら悲哀の視点はなく ツイッターに話し合いは解決
ではない。などと書き込んだ。確かにそうだが物には限度と言う物があり 外交には表
向きと言う物があろうに。全くの馬鹿だ。この挑発に乗って更に核実験など狂気の沙汰
だ。馬鹿と阿呆の絡み合いについていく日本や韓国は更に過酷な支払いが生じてまるで
話し合ったかのような脅迫活動だ。恐らく日本は遅々として進まない沖縄の米軍空港の
建設はさておき 有明海沿岸に巨大な軍事施設が必要になる。そして早急にである。こ
の基地は恐らく佐賀空港の10倍程の面積と地中に埋め込まれ込まれた陸上イージスの
運用基地となる。地元住民としては大反対だが原爆が落ちるとなれば別だろう、玄海の
原子力発電所防衛と佐賀空港と別の空港となれば強制収用も可能となるのだ。この基地
の運用と共に佐世保基地長崎港は大幅に拡張される。これは当然である。北海道に向か
うミサイルに直角に発射出来日本海で撃ち落とす事が可能になる上に戦略上北朝鮮には
最も近い運用基地となり長距離爆撃の基地として地理的優位性は 極めて高く他にない
好条件になるからだ。元々沖縄基地は北朝鮮向けではない。勿論沖縄の新空港を捨てる
訳ではない。いずれ開港するだろう。だがこの北朝鮮対策に間に合わないのである。こ
の北九州の憂鬱は天草沖に巨大空港が出来ない限り取っ払う事は出来ない。かつて知覧
飛行場が甘木本部飛行場の支所であった事を考えれば、佐賀本部沖縄支所は当然の成り
行きかも知れない。多分これまで日本や韓国或いはマティス国防長官やティラーソンの
防衛長官は この北朝鮮攻撃派に「ちょっと待ってくれ 中東も今や佳境の時だ。」な
どと阻止していただろう。よしんば外交努力で沈静化に図る事を心がけしていただろう
。だが今度の核実験はそうした強硬派を止める事が事実上不可能であり この核実験を
デットラインとして明言していた中国さえ国際社会の怒りへの調停は不可能だろう。仮
に通りの 双方頭冷やせと言う声明は核を持つ大国として馬鹿にされるだけだろう。

378: 名無しさんAA:17/09/03 23:05 ID:6IE
 日本の現状17

 ニュース解説者は戦争と言う物をよくわかっていない。そして文韓国政権も国際情勢
と言う物を理解していないのではないか。今回の核実験で恐らく来年の夏後秋口までの
タイムリミットが出てきただろう。日本政府は動けない。米国が武力衝突する事は避け
られない。核不拡散条約 即ち現核保有5ヶ国制限がこれで無効になる可能性がでて来
た。ロシアや米国でも大きな天災が出て来る中あらゆる面で国際協調が必要となってい
るはずだ。米国ロシア共に今後の国際協調の方向性を確かめるに大きな試練であろう。
ロシア、中国が今の国際社会が持つ経済や金融の秩序を守る為に連合国多国籍軍として
北朝鮮攻撃に参加するかどうかである。国連そのものは公式会議で既に北朝鮮制裁を決
めていて重大な決議違反は明快であり、既に日本の東京裁判やニュルンベルク裁判では
A平和に対する罪 B通例の戦争犯罪 C人道に対する罪の三つの3等級の裁判凡例が
行われている。Aの平和に対する罪にはミサイルがロケットと呼んで発射通告義務を犯
さない間は違法にならないが 突然のミサイル発射や核実験は明らかな国際法違反であ
る。BやCでは既に戦時国際法における交戦法規違反行為は規定があり「国家もしくは
集団によって一般の国民に対してなされた謀殺、絶滅を目的とした大量殺人、奴隷化、
捕虜の虐待、追放などその他の非人道的行為」と定義された中での、B級は指揮・監督
にあたった士官・部隊長、C級は直接捕虜の取り扱いにあたった者、主として下士官、
兵士、軍属であるという主旨の説明をしている。つまり中国の労働刑務所やイラクなど
の国民虐殺などであるが ここで中国がそのままなのはどことも戦争になっていない。
と言う事にある。既に米国に対しての青年旅行者の強制移送でも死んでいるし、日本に
対しては拉致問題があり、自国の民衆には公開処刑や餓死事件や虐殺事件が公けにある
。更にもう一つは韓国や東南アジアでの爆破事件や天安船沈没や延坪島砲撃事件が起こ
っているが いずれも突然の事で違法行為とされれ、これらは北朝鮮のみならず不法国
家やならず者国家なら 国際舞台で何でもやっていい理由の一つの例になる可能性に、
大きな不安があるのだ。法治国家群がロシアのクリミア奪還行為と共に非難としている
理由であり 韓国が如何に愚民国家であろうともそれらの批判の声を無視する事は許さ
れない。その道理を国際社会は求めているし ロシアがこれに答えるかどうかは西東を
問わず現代人類の 平和への固持と飽くなき挑戦なのである。

379: 名無しさんAA:17/09/04 00:11
 日本の現状18

 恐らくここ北朝鮮は 直ぐに決着つく戦争が来年には起こる。だがその後のこの地の
活用が問題になる。一番いいのは無政府的中立地帯構想だろう。だが無政府とはいかな
い。そこで更に進めた37度線や36度線ぐらいの境界までを韓国領としその他の土地
を世界政府領とされる案が出よう。つまり中国やロシアが この多国籍軍に参加した時
直ぐに韓国との境界線になる事を避けるだろうからだ。一定量は韓国領としても他の部
分では国際都市共同管理領としての場所になる。これは仕方のない措置であろう。金氏
正男の息子が統治する事も一案ではあろうが 知名度の無い中では強権独裁国家になる
可能性もあり血縁での政権交代を反対する中では矛盾もするので認められないだろう。
こうして 共同管理の状態になれば ロシアも北方四島の日本返還の可能性が産まれる
かも知れない。それは満州国と強制収容所問題の解消と言う中での交渉は成立の可能性
は高くプーチンも国民に返還の理由付けにはなるだろう。なんせロシアの長年の南下作
戦に北朝鮮が入るのだから。更にわざわざカムチャッカ沖での米国との対峙も無くなる
。だが本当の問題はこれからだ。極東の平和をどう維持していくのかだ。幸いにも今の
ロシアがもしこの北朝鮮攻撃の多国籍軍に編入され 連合国の戦勝国として話し合いが
取れるならプーチンも習主席も頭の良い政権であるならば この平和維持メカニズムを
当然理解するであろう。つまり今の中国漁民や韓国漁民たちの乱獲と自国軍隊の野放図
な拡大の阻止を戦争や軍拡で止める事は不可能である事を理解できない政権ではない。
と言う事だ。今の米国にマティス長官マティス長官やティラーソン代表みたいな人で、
アメリカの愚衆の代表であるトランプ大統領の言動や行動を制限しているように、巨大
化し暗躍化しかねない軍を統率しながら制限する事こそが平和や自身の地位保全や権力
維持に繋がっている事を認めるはずだからだ。問題はその決着をどう国民に納得させる
かである。だがその納得させる力は当然ながら西側の方が遥かに大きな力がいる。東側
のような独裁が無い事もさりながら 多様なニーズの意見の集約は出来ないからだ。最
も妥当とする事で成長して来た自由主義で その意味では世界政府もしくは極東政府と
してのこの地の役割は大きな未来保護の可能性があるだろう。北朝鮮もいち早く世界の
平和の一つの歯車になれば核開発やミサイルなど要らないの事に気づくべきだろう。


380: 名無しさんAA:17/09/04 19:08
日本の現状20   北朝鮮に対しての特別構文 1

 だが 北朝鮮は既に遅きに失したと言うべきであろう。あの優秀な瀬戸際外交を誇っ
た金一族の姿勢が何処にもない。昔の様なもやもや感がなく 一か八かの子供の戦争で
ある。これは一体何を示すのだろうか。張成沢氏が猛犬食糧になってから金正男氏暗殺
と一体過去の清貧な北の姿がない。勿論赤十字社などの援助も少なくはなったがこうも
国際社会に反発してた国でなく どちらかと言えば止むに止まれずの国だったような姿
が今では消えている。思えばトランプのツイッターも又今までの米国大統領の姿ではな
い。4月の国連総会での北朝鮮制裁に中国も一票を投じた。この時点で北朝鮮は行ける
所まで行く覚悟を決めたのかも知れない・・・・・。だがそれが何故北の為になるのか
ただの体面保持なのか 威嚇なのか。核保有国になったからと言って何が変わるのだろ
うか。これが昔の北には見えていた物が今は見えて来ない。解説者も分析は解るが何故
かがしっくりこない。4月中旬に入り、北朝鮮が6回目の核実験を実行することを知っ
た中国は激怒し、「もし実行したら、直ちに中朝国境線を陸路、空路、海路ともに完全
封鎖する」と北朝鮮に警告した。それを受けて、北朝鮮は核実験は控えてきたが、その
事実はCNNにリークされてしまった。金正恩はメンツを無くした事でそこで習近平の
中国政策で最も大きな国際サミットと位置付けた会議の「一帯一路国際協力サミット」
の開会の晴れの舞台の直前に、ミサイルを発射して習近平の顔に思い切り泥を塗った。
その後、核実験に関しては中国に脅されたので暫時実行していないが、ミサイルに関し
ては威嚇されてなかったので、発射し続けた。そこで中国は、北朝鮮にとって一番きつ
い「中朝軍事同盟の破棄」を示唆し、核実験実行を延期したと考えられていた。が今回
トランプ大統領は、まるで火に油を注ぐように「北朝鮮がこれ以上アメリカを脅かせば
、世界がかつて見たことのないような炎と怒りに直面するだろう」と発言していた。こ
れが恐らく北海道上空を通過し、3つに分離して太平洋上に落下したとみられるミサイ
ル発射の真相だろう。その後英国アジア太平洋担当大臣は声明で、「本日、大使を召喚
し、北朝鮮が中距離弾道ミサイルを日本上空に発射したことに対する強い非難を明確に
した」と強調。北朝鮮に対し、核・弾道ミサイル開発を停止し、国際社会との対話を
再開するよう求めた。


381: 名無しさんAA:17/09/04 19:10
 日本の現状20   北朝鮮に対しての特別構文 1

 だが 北朝鮮は既に遅きに失したと言うべきであろう。あの優秀な瀬戸際外交を誇っ
た金一族の姿勢が何処にもない。昔の様なもやもや感がなく 一か八かの子供の戦争で
ある。これは一体何を示すのだろうか。張成沢氏が猛犬食糧になってから金正男氏暗殺
と一体過去の清貧な北の姿がない。勿論赤十字社などの援助も少なくはなったがこうも
国際社会に反発してた国でなく どちらかと言えば止むに止まれずの国だったような姿
が今では消えている。思えばトランプのツイッターも又今までの米国大統領の姿ではな
い。4月の国連総会での北朝鮮制裁に中国も一票を投じた。この時点で北朝鮮は行ける
所まで行く覚悟を決めたのかも知れない・・・・・。だがそれが何故北の為になるのか
ただの体面保持なのか 威嚇なのか。核保有国になったからと言って何が変わるのだろ
うか。これが昔の北には見えていた物が今は見えて来ない。解説者も分析は解るが何故
かがしっくりこない。4月中旬に入り、北朝鮮が6回目の核実験を実行することを知っ
た中国は激怒し、「もし実行したら、直ちに中朝国境線を陸路、空路、海路ともに完全
封鎖する」と北朝鮮に警告した。それを受けて、北朝鮮は核実験は控えてきたが、その
事実はCNNにリークされてしまった。金正恩はメンツを無くした事でそこで習近平の
中国政策で最も大きな国際サミットと位置付けた会議の「一帯一路国際協力サミット」
の開会の晴れの舞台の直前に、ミサイルを発射して習近平の顔に思い切り泥を塗った。
その後、核実験に関しては中国に脅されたので暫時実行していないが、ミサイルに関し
ては威嚇されてなかったので、発射し続けた。そこで中国は、北朝鮮にとって一番きつ
い「中朝軍事同盟の破棄」を示唆し、核実験実行を延期したと考えられていた。が今回
トランプ大統領は、まるで火に油を注ぐように「北朝鮮がこれ以上アメリカを脅かせば
、世界がかつて見たことのないような炎と怒りに直面するだろう」と発言していた。こ
れが恐らく北海道上空を通過し、3つに分離して太平洋上に落下したとみられるミサイ
ル発射の真相だろう。その後英国アジア太平洋担当大臣は声明で、「本日、大使を召喚
し、北朝鮮が中距離弾道ミサイルを日本上空に発射したことに対する強い非難を明確に
した」と強調。北朝鮮に対し、核・弾道ミサイル開発を停止し、国際社会との対話を
再開するよう求めた。

382: 名無しさんAA:17/09/07 20:17 ID:2Hw
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 97


 中国のインターネット掲示板にこのほど、「中国を侵略した国は多いが、なぜ中国人
は日本に対してだけ恨みを晴らそうという心理が働くのか」中国人が反日感情をむき出
しにする一つの理由として、「中国を侵略した」という歴史があるが、歴史をたどれば
中国を侵略したのは日本だけではない。と言うより、日本とその他の国を比較すれば他
の国はほとんどが中国の領土も要求してきたが、日本は自衛や経済上の理由だったのだ
。西欧列強の目的は中国をのみ込み植民地とし、国を潰す事だった。だが日本が来た時
それは殆どが成功裏に終わろうとしていた頃だった。清王朝は崩壊しアヘンで国内混乱
は極めていて監視する香港島は既に大英帝国のものと化していた。だが日本は1895年に
日清戦争以来、西欧列強の欺瞞する態度に真正面から戦争を挑んで奪還した。そこで、
この後からやって来た日本に 列強は中国国内にプロパガンダ作戦で挑んだ。大規模な
侵略を行い、植民地化して地主となっていた欧州諸侯は その蛮行による害は現在に至
るまで日本だと言う誇大広告し、現実に向き合わず、罪を認めない。過去に傷つけられ
、現在でも傷つけようとする日本に安心できるだろうかと言い放ち 兵器や食糧を次々
と無償で送って飼いならしたのである。そして盛んに「ほかの国による侵略も憎むべき
だが、日本ほど無恥で残忍だった国はない。彼らは 非人道的な毒ガスや実験を行い、
少女をレイプし、南京大虐殺を起こした。」との論陣をはって大陸内の空爆や事件から
目をそらさせたのだ。「実際事実はあまり知られていない。8カ国連合軍が北京に入っ
てきた時、日本兵はロシア兵のように残虐ではなかった。日清戦争では中国人は中立だ
った為やっとの事勝ったものだったし、日露戦争も実際には日本寄りだった為勝ったの
だ。第2次世界大戦後の賠償は、その日本への背信行為の実情から中国自らが放棄した
。よく言われる731部隊の細菌実験は 犯罪者である政治犯を対象に行われ、庶民の
中では延脳料理と言う生の猿の脳みそ料理が出される時代や風潮の中での行為である。


383: 名無しさんAA:17/09/07 20:17
日本の統治の下で満州国建国はアジア一の経済体となり、秩序があった。改革開放初期
にも 日本ほど中国への援助が最も多かったの事はない。だが今でもかつてでも日本の
この好意的な信頼は 中国国内の体制には不都合な真実であった。そこで共産党中国政
府、日本事件や大虐殺を記念する活動を行い、毎日テレビドラマを流し、徹底した洗脳
と虚実の抗日戦線を歴史に盛り込んだ。「抗日戦争期に日本は「三光政策(殺し尽くす
、奪い尽くす、焼き尽くす」を行い 細菌実験、南京大虐殺などを行った。こんな国は
ほかにない。そして、現在でも日本はドイツのように反省していない。政治家は靖国神
社に参拝し、軍隊をつくろうとしている。」と言う声だ。仇日感情をあおっては、多く
の中国人が殺されたと言う南京大虐殺を作りだされた。この時殺されたのは日本人がか
なりいて事件の規模も中身ですら歴史的事実と違うものを作った。韓国方式である。が
日本人は世界一の礼節のある人種で生真面目であった。日本人観は今でも勧善懲悪であ
り「弱ければたたかれるため、自分が強くなるしかない」強いとは自分を制する事やさ
しさを失わない事として生きて居る。更に「日本と中国は一衣帯水で同じ文化圏にあり
、共に手を携えて進むべき」との意識や「日本は中国の近代化に貢献し続ける。」と言
う姿勢はありつづけ、「中国政府が反日を宣伝するのは自国を弱くする」ということだ
との認識から 全く内政干渉はおろか 反論や意見すら出さないのだ。中国が今韓国の
最新鋭ミサイル防衛システム「最終段階高高度地域防衛(THAAD)」の設置を反対
するなどと言う行為は日本では起こらない。元々原子爆弾すら馬鹿が造った大量殺りく
兵器でしか考えて居ない日本人観の精神がそこにあり 正義を貫く事こそ人生の王道と
する生きる事の本位であり快楽と言う考えがある。つまり人の体や命は次世代の為に神
からの借り物である。と言う考え方だ。そして権力や地位でさえ そうした未来の為の
子孫への贈り物を作る道具とした考え方である。


384: 名無しさんAA:17/09/11 23:06 ID:J/A
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 101

 しかしこの世界お騒がせの北朝鮮を作ったのは 韓国民のいい加減さであろう。元々
酔っ払いのロシア叔父さん、不良の暴漢民族 学習しない朝鮮幼児と見られていた歴史
がそのままここまで来たというのが正解であろう。つまり芯の無い朝鮮族に何を言って
も無駄と、明治の日本人は見ていた歴史からも その後全く民族的発展も文化的学習も
無かった事が証明されただけの事なのだ。マッカーサー将軍もこの話にならない戦争に
母国で相当原爆投下を叫んだのだが既にトルーマン大統領には戦争後の使用を考える隙
は無かった。各国の人道家や国内の保守派から必要の無かった原爆として批判が集まっ
ていてこれ以上の軍部の走りは抑制すべしの意見で議会が固まっていたからとされる。
がこの他にも5回程武力による統一朝鮮のチャンスがあった筈だし、3回は確実に韓国
に問われた筈だしそれを断った筈だ。平和ボケした日本は米国の意のままだったろうが
、韓国はその度に火の海を恐れて断っている。口では統一朝鮮を叫び態度は武力統一で
ありながら行動は常にこんなもので逃げ回るばかりだ。北朝鮮の要求も又異常だ。前に
拉致家族を日本に送った時は最終的には友好条約が目的とされ、その後の拉致被害者の
捜索に対しては日本からの経済支援だとされた。もし経済支援だとしたら既にミサイル
すら作れる巨大な産業を持っている国にそうした支援の手を差し伸べる必要があるだろ
うか。更に言えばアメリカにロシアに核保有国と認められてのち 一体何が必要なのか
。石油を貰い石炭や鉄鉱石を掘って売る。偽札を作る技術を持ちながら産業や食糧がな
い。全く不思議な国だ。石油も又安いシベリア原油を買い付け精製機器の技術を持って
いながらそれよりもミサイルを作る。又多分戦後の極東に於いての最先端の工業地帯は
ここ北朝鮮であった筈だ。恐らくソ連やアメリカを除いては 最高最大の重工業地帯で
、時の最新鋭の工場を日本は手放して本国に戻ったのである。一体そうした以後進歩せ
ず退化のみを繰り返す歴史とはなんなのだ。そこに朝鮮民族の性癖があるのではないか
。そう思わずにいられない。



385: 名無しさんAA:17/09/11 23:09
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 103

 こうしてドイツが日本とロシア双方に貸付した事で足踏みする中で第一次大戦は起こ
った1914年当時、日本は日英同盟によりイギリスと同盟関係にあった。開戦に際し
ては、イギリス政府からの要請を受け連合国側として仕方なしにドイツ帝国へ宣戦布告
をして連合国の一員として第一次世界大戦に参戦したが それは戦費調達が米英にしか
残されていなかった為だ。内閣総理大臣大隈重信は、イギリスからの派兵要請を受ける
と、御前会議にもかけず、議会における承認も軍統帥部との折衝も行わないまま、緊急
会議において要請から36時間後には参戦の方針を決定した。これは大隈の前例無視と
軍部軽視は後に政府と軍部の関係悪化を招くことになったが 他に日本の行く道は無く
今の日米同盟と同じであった。日本政府は8月15日、ドイツに対し最後通牒というべ
き勧告を行った。日本政府が参戦に慎重だったことから異例の1週間の期限が置かれた
が、結局ドイツが無回答の意志を示したため、日本政府は23日に対ドイツ宣戦を布告
した。1914年の開戦時、直前に発生したバルカン戦争を除けば普仏戦争以来戦争は
短期間でしょっちゅう起こっていた為 ヨーロッパでは約40年ぶりとなるこの大規模
な戦争も、騎士道精神に教育された若者は ロマンチックな姿を想像し、両陣営の首脳
部も国民も戦争の先行きを楽観していた。その為多くの若者たちが、戦争の興奮によっ
て「この戦争は短期決戦で終わるだろう」「クリスマスまでには家に帰れるだろう」と
想定し、国家宣伝と愛国心の熱情に押されて軍隊へと志願していた。だが両軍はフラン
スで塹壕を構築し持久戦へと移行させ、陰鬱な塹壕戦はその後4年間続いた。その結果
迫撃砲・火炎放射器・毒ガス・戦車・戦闘機など新兵器が次々に登場させた。が、それ
らはいずれも戦局を変える決定的要因にはならず、西部戦線での戦闘は長期消耗戦にな
ってしまった。ヴェルダンの戦い、夏のソンムの戦い、などあったがこれらが英仏軍の
失敗であったのは間違いない。仏国陸軍は崩壊の瀬戸際まで追い詰められた。春のニヴ
ェル攻撃では、これを打破したいと言う欲望で無益な正面攻撃を行ったが、この時仏兵
の歩兵部隊が大損害を受けた。この戦闘は死者より重傷者が多く兵士が次々と命令拒否
する事態を起こした。この反乱事件を、「ヴェルダンの英雄」ペタン大佐がねじふせた
。事件は大規模であったが機械じかけの戦争に反対していた彼は人を駆使し人を重んじ
てその制圧と戦争の大勝に導いたと言える

386: 名無しさんAA:17/09/13 00:44 ID:1BM
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 104

 かつて1812年、ナポレオンはモスクワだけ焼いて帰った。従って1817年の、
アシグナト銀行本体と割引事務所が母体となり、国立商業銀行が誕生した後はロシアの
金融の中枢であった。その後も1819年サンクトペテルブルク大学創設。1825年
デカブリストの乱が鎮圧され1837年にはペテルブルクとツァール間にロシア初の鉄
道建設などロシアの最先端街だった。又この鉄道事業には、英国女王銀行と言われる、
ベアリングス銀行とホープ商会が投資していた。1851年にモスクワとサンクトペテ
ルブルク間の鉄道が完成した開通している。その結果1860年、政府は国立商業銀行
などを統合して、国立銀行を設置したがこの中央銀行に庶民がデモを起こした。189
4年ロシアがドイツ帝国と通商条約を結んだ事で英国と敵対した形となったのである。
此処に1914年当時に、日本は日英同盟を行った理由と第一次大戦の戦勝国になった
理由がある。1897年、国立銀行が中央銀行となり、このときロスチャイルドは、こ
のロシア投資を仲介する友人アレクサンドル・スティグリッツが初代総裁に就任した。
。だが、1898年、国立銀行が露清銀行の新株を全部引き受けて、パリ中央銀行(パ
リバ)の支配力に対抗した金融戦争が起こっていたのである。この時この時ロシアでは
聖イサアク大聖堂や救世主教会など、サンクトペテルブルクの名所の建築物が相次いで
建設されて資金供給を欲し、また他の国の投資で民間の経済力も向上し、鉄や石炭での
産業革命が起き ネフスキー大通りを中心に豪壮な建築物が立ち並ぶようになっていた
のだ。だが突然の供給停止に給与が払われなくなった。1905年、サンクトペテルブ
ルクでゼネスト。1907年、英露協商。1910年、人口は190万人に達していた
。結果ロシア革命では二月革命・十月革命の2つの革命の中心地となり、武装蜂起によ
るボリシェヴィキの政権奪取やレーニンによる憲法制定会議の解散が起こった。その後
、ソヴィエト政権は外国からの干渉を恐れ、首都をより国境から遠いモスクワに移転、
1922年に正式に定められたことで、この町は政治の中心地から外れた。露亜銀行が
誕生したこのころ、株式商業銀行をふくめたペテルブルクの銀行群がロシアの金融界で
支配力を急速に増した。これらは露仏同盟などをきっかけに都市開発が進んだ結果であ
るがそれが国民を貧困化させたのだ。1914年、ロシアの大銀行がパリ・ロンドンな
どの国際金融市場へ支店・持株会社を設立し資金供給したが、既に1913年にはサン
クトペテルブルクでゼネストが起きていたのである。

387: 名無しさんAA:17/09/13 00:45
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 105

 こうしてロシアへの金融界の投資競争はソビエト革命で終わったが 同時にロシアの
金融を飲み込んでいたドイツは、英国や仏国相手に戦争しロシアや旧東欧諸国の金融で
の供給だったので 第一次大戦には大きく技術革新は出来なかった。代わりにロシアは
ソ連邦への移行から ロシアのエアカテリーナ宮殿やらの贅沢批判を続け 全てを時の
ロシアのニコライ一家の借金だとして 国家の借財はチャラにした。つまりドイツ一国
の負債として敗戦国ドイツは連合国の一斉の負担を背負う事になった。が現実的にもこ
のソ連には返す事の出来る力は無く 国民はパンさえも手に取る事が出来ない貧困の中
にあったのだ。パリ中央銀行(パリバ)は日露戦争時代の吐出した大金融であった。実
はアメリカの自由の女神はそのシンボルでもあるパリ倶楽部とスイス銀行をバックに、
自由・平和・博愛を世界に輸出すると言う闘志はそのまま投資世界を導いている。19
12年、資本金は1億フランに達した。1900年代初頭パリバのあげた総収益では、
国債発行と企業創設における金融仲介によるものが7割を占め19世紀の世界中の国債
を引受けていた。本国とベルギーの植民地債は勿論、ロシア帝国債、バルカン半島にお
けるスカンジナビア半島諸国債、ラテンアメリカ諸国債など数々の当時の国債の引き受
け手である。パリバは工業会社と公共事業にも利権を獲得している。スペインとロシア
の鉄道、ベルギー・フランス・エジプト・モロッコ・オスマン帝国の路面電車や電力事
業、フランス・ロシアの鉄鋼業、そして最先端アルミ会社ノルスク・ハイドロなどであ
る。こうした事から世界金融投資においてはフランスのパリ中央銀行は欠かせない存在
感を持っていた。第二次世界大戦中のインフレでもパリバの資本金はふくれあがった。
1941年で4.5億フランだったのが、たった2年で6.7億となった。その分不況には、
リストラを断行する処置に浮いた資金を工業特許の囲い込みと天然ガス・オイルシェー
ル開発に振り向ける措置をとった。1982年に社会党政権のピエール・モロワ内閣に
よって一旦国有化されたが、1988年に保守政権のジャック・シラク内閣によって、
又民営化された。世界中の支店網を活用した国際決済システムを構築しJPモルガンや
クレディ・スイスなど13行とロングターム・キャピタル・マネジメントの救済融資など
に参加している。


388: 名無しさんAA:17/09/13 03:17
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 106

 1917年に起こった二月革命でのニコライ2世の退位によってロシア帝国は終焉す
るのだが ソ連邦になってもこのロシア人の荒野のバッタの様な群衆殺戮心理は変わら
なかった。元々中国の清朝の北洋通商大臣に袁世凱を就任させ、西洋式の新しい北洋軍
(新軍)を設立してこれを拡大させて、北洋だけではなく中央や各地方にも鎮守する事
に力を入れていた。だが1911年から起こった辛亥革命により、袁世凱は革命軍に寝
返り協力して、清朝を打倒する側についた。こうして 中華民国の樹立に協力して彼は
中華民国の臨時大総統に就任したのである。だが1916年に袁世凱が死ぬと巨大化し
ていた北洋軍閥は根拠地とする地方と背景勢力の違いにより、直系(直隷派)、皖系(
安徽派)、東北の奉系(奉天派)、晋系(山西派)、馮系(西北派)の各分派に分裂し
た。そして分派間や同一派内の有力者間で抗争を繰り返して北京政府の政権を争った。
これが、清朝末期の姿である。つまり中国国旗の赤はこの 血祭りに奔走した記録の赤
なのである。この混迷する北京政府に日本は外交交渉を推し測りかねていたのが実情だ
った。当初実権を握ったのは段祺瑞の皖系だったが安直戦争で直系奉系連合軍に敗れた
が、直・奉の連合も又長くは続かず、張作霖の率いる奉系が2年戦争で勝利を収めた。
そうした事で張政権を交渉相手とした。張は直系から寝返った馮玉祥との争いにも勝ち
、1924年に政権の実権を握った。勢力を失っていた段祺瑞が張の支持を受けて臨時
執政に就任した。つまり最初の政権が傀儡政権として中枢に戻ったのである。1925
年に革命軍闘志の孫文が没する。次の年には蒋介石を中心とする国民革命軍達は北伐を
開始した。これを受けて張作霖は海陸軍の元帥に就任し非常大権を握ったのである。が
北伐で直系が滅ぼされ、さらに北進した国民革命軍に張作霖を破り北京を占領した。張
は奉天へ向かう途中関東軍により爆殺された。その為奉系政府は消滅し、袁没後13年
悪態をついた北洋軍閥の北京政府支配は終わりを告げて、蒋介石の国民政府が中華民国
唯一の政府になったのである。こうした中に中村大尉事件と万宝山事件が起こったのだ
った。長春の北万宝山集落の農業用水をめぐる朝鮮人農民と中国人農民との対立に端を
発しており、ここに水路を造ろうとした朝鮮人と、それに反対する中国人が衝突した。
中国人農民に中国側の警察官、朝鮮人には日本領事館がそれぞれ支援にまわったが、中
国人農民が実力で水路を破壊、日本人警官隊と衝突する事態へと発展し双方発砲事件も
起こったが幸いどちらも死傷者は出なかった。

389: 名無しさんAA:17/09/13 03:17
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 107

 元々この張作霖は馬賊出身でアヘンや朝鮮ニンジンなどの密売し張景恵などとロシア
のスパイとして生計を得ていた者だった。1904年に日露戦争が勃発した時、東三省
の地は戦場となった。この時張はロシア側のスパイとして活動し、日本軍に捕縛された
。が、張に見所を認めた陸軍参謀次長・児玉源太郎の計らいで処刑を免れた経緯がある
。こうして、児玉の指示を受けて張の助命を伝令したのが、後に首相となり張と大きく
関わることとなる田中義一少佐であった。その後は日本側のスパイとしてロシアの駐屯
地に浸透し、多くの情報を伝えたとされる。その子が張学良である。作霖に可愛がられ
、大勢の教師が付き高い教養を身につけた。16歳からは英会話も習得し、後に中国の
軍閥の頭領としてはただ一人の英語の使い手となったが、リットン調査団の一員である
ドイツ人によると、「英語は少し話せるが、複雑な問題は交渉できなかったので 必ず
通訳を付けていた」とされる16歳の時に最初の結婚をさせられ、17歳の時に第一子
が誕生、19歳の時には、父によって陸軍少将に任じられた。20歳の時訪日したが、
同年生まれで当時皇太子だった昭和天皇と容姿が似ていると周囲に驚かれたという。
張作霖爆殺事件ソ連特務機関犯行説によれば、日本の支援での満州を支配していたが、
ソ連政府は新たに張作霖と1924年9月に「中国東北鉄道条約」を締結しソ連との友
好関係を結んで中国鉄道網の建設をしていた。日本側はこれが満州鉄道の無力化に映り
殺したとされるが ソ連側にも鉄道代金未納が1400万ルーブルに及んだ為に鉄道使
用禁止を通達したところ、鉄道管理官を逮捕し、実効支配し反ソ政策に及んだ為に既に
ソ連の特務機関GRUは張作霖排除を決定し、幾つかの決行をしている。その一つは、
張作霖の自宅宮殿に地雷を敷設して爆殺する計画を立てたが、ブルラコフらが逮捕され
たため失敗している。だがこの事で張作霖は1928年に反ソ反共の満州共和国創設を
日本政府に持ち掛け協議したことから、ソ連特務機関は再度暗殺計画を立案し実行した
。この事でプロホロフは極東国際軍事裁判で関東軍元幹部が犯行を認める証言をしたこ
とについて「その幹部は戦後、ソ連に抑留され、ソ連国家保安省が準備した内容の証言
をさせられ、又日本軍が張作霖を殺す理由がない。」とし実行犯の名指しこそしていな
いものの、「日本軍の仕業に見せかけるために日本軍に属していたエージェントが、サ
ルヌインの指令を受けて、爆弾を仕掛けたと考えられます。」と主張している。事実と
してソ連の満州進出・開拓計画を知り在北京ソ連大使館襲撃など、張作霖は万里の長城
の内外でソ連に最も強硬に反抗している。


390: 名無しさんAA:17/09/13 03:18
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 108

 ソ連は張作霖と日本を反目させ、間接的にソ連自身の計画を進展させたいと願ってい
た。その張作霖の強い個性と 中国での権利を守ろうとする決意が、ソ連側の満州での
南下策を実現する上での一番の障害であった。そして、もっともあり得るシナリオは、
ソ連がこの不法行為のお膳立てをし、日本に疑いが向くような場所を選び、更に張作霖
に敵意を持つような人物を使った、ということだろう、と言われる。そしてその後も又
ソ連の工作は続く。つまり、父・作霖が関東軍の河本大作による張作霖爆殺事件により
死亡させたとの情報で、張学良は側近達の支持を取り付け奉天軍閥を掌握して、亡父の
支配地域・満州を継承する事に成功したのである。当時、蒋介石率いる北伐軍が北京に
駐留し奉天軍閥との間に緊張が走っていたが、易幟(青天白日旗を掲げ、国民政府への
服属を表明すること)することを条件に満州への軍事・政治への不干渉を認めさせて、
独立状態を保つことに成功するのだが、これは張学良は側近達の方針に沿っただけだっ
た言える。その後日本は林権助を派遣して張の翻意を試みたが失敗した。張は日本との
決定的な対立を避け、日本を軟化させた。当時奉天軍は楊宇霆ら馬賊時代からの側近か
らなる派閥と、もう一つの彼ら、郭松齢などの東三省講武学堂を卒業した若手の派閥で
両者は対日政策などをめぐり対立していたが、1929年楊宇霆ら旧臣たちを反逆者と
して処刑し、権力と地位を不動のものとした。その後は富国強兵策を採り軍事、金融、
教育などの近代化を進め、彼は次第に自信を深め、ソビエト連邦が持っていた中東鉄路
を接収したことで武力衝突を起こし中ソ紛争で失敗する。だが国民党系軍閥らの争いに
介入して 勢力を伸張し河北省を制圧、蒋介石に次ぐ実力者と目されるようになった。
だがこのソ連に敗退した事が 左派勢力に煽られた抗日運動が活発化する結果を産み、
関東軍や在満邦人の強い反発をかっていた。関東軍が満州への武力侵攻を決め、軍を続
々と集結させた原因となった。満州事変が勃発した時、彼は北京にいたが、日本軍侵攻
の報告を受けると日本軍への不抵抗を指示した。応戦すれば日本の挑発に乗ることにな
ると判断したことや平和解決を望んだということ、日本にとって国際的な非難を浴びる
など好ましくない結果をもたらすだろうと考えたと後に述べている。これは国民党軍の
方針でもあったし、国民政府の方針でもあった。既に毛沢東の無茶苦茶な賊行為が多発
し治安遠征にゲリラ叩きの国共内戦が全土で起きて対日戦に兵を割く余裕など無かった
上に 形の上は共産党共闘の抗日だったが治安維持には日本帝国軍を借りると言う、迷
走状態の政府だったのだ。

391: 名無しさんAA:17/09/13 03:19
 この張作霖の後を継いだ息子の張学良は、蒋介石の南京国民政府への合流を決行して
(易幟)、満洲の外交権と外交事務は南京政府外交部の管轄となった事は毛沢東の思う
ツボでもあった。日本と積極的に戦わず退いたこと自体は国民政府の方針通りであった
。この時期には 既に蒋介石は下野していたが、蒋の意向も同じであった。これは国共
内戦のため対日戦に兵を割く余裕が無かったことと、日本が全面戦争に踏み切るとは全
く予期していなかった為である事で満州国樹立の準備がなされた。ところが張は、日本
の満州全域占領は無い物と思い、抗戦を主張していた汪兆銘は熾烈に批判した。「不抵
抗将軍」と蔑まれ1937年に日中戦争勃発すると、国民党軍は前線で日本軍と対峙せざる
を得なくなり、八路軍は便衣兵としてテロやゲリラ戦で、主に日本軍の輸送部隊や小部
隊を攻撃し、鉄道などの輸送網の破壊も行う手先となった。ソ連が与えた毛沢東の戦略
だった。元々 国民党に合流した張学良は、革命外交を行い排日運動を実施した事で名
声を得ていのでまず満鉄包囲線を敷設し、葫蘆島に築港して満鉄枯渇政策を行いながら
更に明治42年の「間島に関する日清条約」に違反しても 間島居住の朝鮮民族を迫害
し続けていたのだ。これが昭和5年春の間島暴動となったが、彼には朝鮮民族に対する
虐殺、暴行、略奪が行う口実となった、同年秋には朝鮮民族15名の銃殺事件と、中国
官憲による日本警官2名の射殺事件が発生し、満州のいたるところで朝鮮人農民への迫
害がおこなわれた。このソ連の裏での介入の朝鮮族と中国漢民族の内乱は日本政府の悩
みの種であり大陸経営の足枷であった。表向きソ連は条約によって大陸への進出は出来
なかったが その分中国農民や朝鮮漁民などを使い更に日本軍にまで侵入させた共産党
員により破壊工作を推し進めていたのである。こうして昭和6年7月に万宝山事件が引
き起こされた。またこの年事件が起こる前 この地の経営の為に測量にやって来た中村
大尉を殺害し中村大尉事件を起こしている。満州において、朝鮮人が共産党に加わり、
日本から武器を持ち込み、匪賊となって事件を起こすことが頻繁に起きていた。新潟県
蒲原郡出身の陸軍参謀中村震太郎は大尉となったが他3名と共に軍用地質調査の命を受
け、大興安嶺の東側一帯(興安嶺地区立入禁止区域に指定)に農業技師を派遣する下見
に農業技師と身分を詐称して調査旅行に出かけた。中国張学良は既に知っていて配下の
関玉衛の指揮する屯墾軍に拘束させ、銃殺後に証拠隠滅のため遺体を焼き棄てさせた。
結局、関玉衛は死刑に処せられたがこれは中国満州が日本人により農産物が出来る様に
なる事を妬んでの事だった。

392: 名無しさんAA:17/09/13 03:20
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 110

 ハリケーン「ハービー」は雨を止める事は無い。テキサス州は水浸しである。特にヒ
ューストンの周りボーモントなどの放送では2m以上の水量ですごいものだ。がこれは
中国の開発と同じに乱開発によるものの様だ。まず河川の蛇行はそのままで底下げされ
ないのまま何十年もそのままで流れている中でダムなどで水流の勢いを止めどうも土が
堆積しているようだ。更にはかつての西部劇時代の様な砂漠の荒れ地は見当たらない。
住宅地と農地の開発である。テクノロジーは今や疲れ切った中にある。地下水を汲み揚
げ円形のタワースプリングクラーで農場生産の真っただ中で 食糧供給は不法移民を惹
きつけて止まない。こうして資材や道具さえ与えられれば、貧民層は仕事にありつけ、
山を削り木を切り倒し農業生産品を運び住宅を建てて賃金を得て 生活をする。これが
人の満足の様だ。だが自然はそうした人類の作業を許さない様だ。この豪雨は一挙に何
万人もの被害者を産み、即座に生活を貧困に陥れるのだ。が人の馬鹿さはそうした事を
よそに自動運転や生産性向上などとして おかしな展開を目指したAIを発展させてい
る。今後は人の仕事は人との対話に変わり自動化した機械の作業が7割の生産を受け持
つと予想される。人の持てない程の品物を人が出来ない速さと正確さで機械は行うから
だ。だがその開発の為の莫大な資金とエネルギーを欲して止まないらしい。かつて戦後
御菓子の爆撃機は、ベルリン封鎖を行った東側のスターリンによる ソ連独裁を強いる
行動に抵抗しての ドイツ人を助ける為の作戦だった。米国は僅か3年前までベルリン
陥落を叫び戦争し 今度はマーシャルプランそって食糧供給作戦を行い人道主義を行う
。それは貧民になった欧州復興を後押していたのだが ソ連では東欧諸国に何と暗殺と
デモの扇動によってその阻止を図ったのである。影響力強化と言われたが、それは悪辣
だった。ベルリン封鎖が終わったのは原爆開発を確立させて強国の地位を復活させて、
スターリンが自国の安心に着いた時だった。此処に原爆開発が如何に血に塗られた歴史
の宿命を持つかが解る。独裁と言う過ちには強固な最終兵器まで掴む欲望が潜む。そし
て暗殺さえも辞さない馬鹿さが付きまとう。1948年、マーシャル・プラン受け入れ
拒絶を強要する事にソ連共産党は圧力を増大させた。その受け入れ希望を背に受けなが
らチェコスロバキアの外交官はモスクワに行ったが、帰ったきた外相ヤン・マサリクは
「赤軍の使い走りになって帰ってきた。」と悔やんだのである。チャーチルはこの貪欲
なソ連や共産党に早くから危険性を指摘し「人は全てを求めてはならない。」と警告し
ている。その頃ソ連は、世界的な覇権を求め、西側は、必死に延命に努めていた。

393: 名無しさんAA:17/09/13 03:20
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 111

 そもそも陰謀とは何か。何の為に行うのか。個人主義が無い集合体の共産党が共同管
理の中で指導者層が得ようとした権力のトリックとも言える。元来自由社会の中で競争
が出来るのは、逆にそうした特権やトリックが無いからだ。それを皮肉にも裏仕掛けと
権力を駆使した、共産主義が取り入れては、どっぷりと民主主義と言い張り自由主義の
中の資本主義を浸した味付けをして国民を喜ばせて海外では他国を騙して大国化しては
他の国を威嚇している。北朝鮮が米国を威嚇して止まないのには恐らく日本の技術発展
の地である事が起因しているのかも知れない。満鉄が今だ稼働していない頃「野口遵(
のぐちしたがう)」という人物がいた。日露戦争が始まると、巨額の戦費をまかなう為
、日銀副総裁の高橋是清はロンドンで国債販売に走り回っていたのだが。同じドイツに
、電球メーカーの依頼で、社債販売に汗をかく男がいました。野口遵がいた。小さな会
社の社債を買う酔狂な人物はなかなか見つからず、販売は難航しますが、日本海海戦の
大勝利が伝わると、日本国が知られあっという間に話がまとまりました。こうして野口
は意気揚々と帰国しますが、「もう社債は完売した」と言われ、話はご破算になった。
日露戦争は1904年(明治37年から明治38年)に起こった大日本帝国とロシア帝
国との間での戦争なのだが、アメリカではその少し前にエジソンが産まれ電気戦争が起
こっていたのである。1864年、17歳の頃は 教育を受けてなかったエジソンは、
カナダの駅まで行って夜間電信係として働いていた。だがその時電気の面白さから勉強
し1868年、21歳に初めて特許を取得する。それは電気投票による記録機に関する
もので議会の賛成反対の総数を瞬時に解り記録する物だったが、議会戦術が使えない。
との事で不採用になった。だがその翌年、22歳の時にそれを利用した特許を取得した
。株式相場表示機である。業界から大いに歓迎され、その特許権を譲ってもらいたいと
の申し出にそれを手放した。最初エジソン自身は5千ドルほどで特許権を売るつもりで
あったが、実際には4万ドル(現在の日本円だと約2億円相当)で買い取られエジソン
は当初の予想より8倍も高い金で売れ、これを元に会社を作った。その後も蓄音機の実
用化(商品化)で名声を獲得。研究所で電話、蓄音器(つまり録音・再生装置)、電気
鉄道、鉱石分離装置、電灯照明などを研究し売り出していた。

394: 名無しさんAA:17/09/13 03:21
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 111

 こうした中で主力商品にしたのは白熱電球であり、数多い先行の白熱電球を実用的に
改良する為に多くの実験をした。この白熱電球の改良にあたり、高熱でも溶けないフィ
ラメントを作るために、考えつくあらゆる材料を集めて実験を繰り返した。様々な金属
、動物の皮や毛からはじまり、植物にいたっては6000種類近い素材を試し、それらの克
明な実験メモを残している。こうして3万回の研究から、ある日、偶然机の上にあった
竹の扇子を見つけて実験してみた。その竹は東洋に行った友人の贈り物だったと言う。
これをフイラメントに使ってみると、なんと2百時間も灯ったのだった。実はこれまで
は綿棒に不燃液体を漬けたもので電球がつくられていたので3ヶ間も保てれば良い方で
更にガラスは真空の為ではなくこの灰が他を燃やさぬ工夫だった。彼はこれを白熱電球
の名称を「マズダ」と名をつけ売り出した。ゾロアスター教の光と英知の神、アフラ・
マズダーから引用し、付けている。だがこの特許の有効性について訴訟が起こり、裁判
で特許(番号223, 898)が有効と判定されるまでに時間がかかった。が一方では白熱電
球の売り込みのための合弁会社を成立させ、直流の電力を供給するシステムを確立させ
る事に成功した。白熱電球を一般には「発明者はエジソンである」という間違いが広ま
っているが、実際に白熱電球を発明したのはジョゼフ・スワンである。エジソンはただ
フィラメントに京都八幡の竹を使った功績だけを主張して特許としたのだ。竹は後では
タングステンに取って代わられるが、エジソンは「電球の発明者」ではなく電球を改良
して「電灯の事業化に成功した人」となった。その後エジソンは配電システムを構築し
、トースターや電気アイロンなどの電気製品を発明した。このために広く家庭に電気が
普及した。1880年、エジソンの助手のウイリアム・H・ムーアーが日本に来日した
。この時の首相伊藤博文、山県外務大臣と会い、「竹なら京都へ」とのアドバイスをも
ら京都にやってきた。ムーアは、初代京都府知事槙村正直から「竹なら八幡か嵯峨野が
いい」といわれ、鉄分が豊かな土質のもと、柔軟で堅固な竹を産していた事を確かめて
送り八幡男山付近の竹が約2450時間も灯り、最もよい成績であることを発見した。こう
してエジソンは、肥料の施していない8年から10年の真竹を、10月から 12月に収穫させ
、根から1メートル上の12節で外皮を1センチ幅にして 100本に束ねて納めるようにと、
細かい指示を出して輸出させていた。こうして、八幡の竹は1894年の特許が切れるまで
エジソン電灯会社に輸出され、何百万個の馬蹄型フィラメントの白熱電球が作られ、全
世界に明かりを灯し続けたのです。日本でも戦時需要からこの電球の国産品が必要にな
ったのである。

395: 名無しさんAA:17/09/13 03:22
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 112

 だがエジソンは、自分が選択・採用した直流送電にこだわるあまりに交流送電の優位
を受け入れられず、交流を採用したニコラ・テスラおよびウェスティングハウスとの間
で電流戦争に陥り、結局、敗北してしまった。また、飛行機(厳密にはヘリコプター)
を作ることを考えながらも安全面の問題から断念せざるを得ず、ライト兄弟に先を越さ
れた。ゼネラル・エレクトロニクス社はこうした流れを汲む会社であった。この米国の
技術を真似た会社が乱立しようと言う時代であった。ドイツから帰った野口は、1万円
ほどの慰労金をもらい、新橋でヤケ酒を飲んでいると、となりでどんちゃん騒ぎをやっ
ている者と出くわした。宴会の主は、鹿児島県の代議士と鹿児島にある牛尾金山の持ち
主だった。 一行は意気投合し、いつしか水力発電で金山の開発を進めようという話が
まとまります。1906年に曽木発電所を作り 電気に詳しい野口は責任者になってい
た。鹿児島県大口市に流れる川内川には、東洋のナイアガラとも言われる「曽木の滝」
がある。高さは12mほどだが幅は200m以上にもなり、水量も多く迫力のある瀑布を
見ることができる場所だが、今や鹿児島県大口市にある鶴田ダムに沈んでしまっている
。曽木発電所遺構は、九州の数ある産業遺構の中でも非常に古くこの地での日本窒素の
素となった曽木発電所を物語る。こうしてダムでの発電所と共に曽木電気という発電会
社が誕生させると、3つの金山に送電しても電気は大幅に余ったため、野口は余剰電力
を使ってカーバイド工場を作ったのである。カーバイドは炭化カルシウムのことで、水
と反応させるとアセチレンガスが発生する。これが夜店で使うアセチレンランプの燃料
として販売した。野口は東大で電気を学び、その後、仙台で日本初のカーバイド事業を
既に興していたのだ。そして、そのカーバイドは日露戦争の塹壕戦で大量に使われる事
のになり、価格が高騰し、野口は大儲けして同じ光続きの電球制作所を立ち上げようと
していたのだった。野口は、発電所から近い沿岸部の水俣にカーバイド工場を設立した
。カーバイドは、生石灰と石炭を高温で焼いて製造しますが、その際、膨大な電気を消
費する。自家発電できないと参入は困難で、つまり、競合が少ないのがビジネス上の大
きな利点だった。揖斐川電気(イビデン)のカーバイド工場の電気炉を築いたが戦時の
需要は既に過ぎていた。



396: 名無しさんAA:17/09/13 11:33
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 113

ちょうどその頃、ドイツではカーバイドを原料に、空気中の窒素を固着させる技術(フ
ランク・カロー法)が開発されました。これが「石灰窒素」である。平時は肥料になり
、戦時は火薬になるという優れものだった。1908年、野口はドイツに渡り、特許権の交
渉を重ねた。このとき、三井財閥も古河財閥も交渉に来ていて、野口は「三井は確かに
カネがある。でも三井がやるんだったら、今から発電所から作らないといけない。」と
言って、特許の獲得に成功します。特許権は獲得できましたが、三井の資本が入るとい
う条件付きでした。そこで、帰国後、三井家に交渉に行きますが、資本比率で意見が合
わず決裂。やむをえず三菱と交渉し、資本が半々ということで決着します。こうして、
1908年8月、水俣に日本窒素肥料が設立されました。もちろん、この会社が後に水俣病
を引き起こすチッソである。石灰窒素は農薬にも肥料にもなりますが、毒性が強くて、
植物にそのまま与えると枯死してしまう。そのためには、使いやすいよう、「硫安」に
変成する必要があった。硫安(硫酸アンモニウム)は、1896年、初めてオーストラリア
から輸入された。その後、輸入量は増えますが、国内ではガス会社が副産物として製造
する程度で、量産はできなかった。しかし、これも1914年、野口が初めて大量生産
に成功した。そして、第1次世界大戦で肥料の輸入が止まった事で、1916年にトン
200円以下だった硫安は、次年に360円、その次の年には410円と高騰し、野口
は再び戦争で大儲けするが、戦争終結で価格は暴落し、会社は危機に瀕した。野口遵は
このフランク・カロー法の特許が切れることから、交渉のため3度目の訪欧をした。こ
のとき、新しいアンモニア合成法を研究しているイタリア人のカザレーと出会う。カザ
レーの技術は、石灰窒素からアンモニアを作るのではなく、750 気圧という高圧下での
アンモニアを直接合成するものだった(カザレー法)。野口はいち早く宮崎県の延岡に
工場を作り、1923年、工業化に成功した。この時、ヨーロッパで、もうひとつ別の技術
も手に入れてきました。それが合成繊維ベンベルグです。ベンベルグは繊維が強く、手
触りがいいため、ほかの人絹に勝る品質でしたが、アンモニア製造が難しかったことで
普及しませんでした。しかし、野口のアンモニア合成の成功で、量産化が実現するのだ
った。

397: 名無しさんAA:17/09/13 11:34
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 114

 その後、延岡工場はベンベルグやレーヨンなど繊維生産に力を入れていきます。1943
年、旭ベンベルグ絹絲は、ダイナマイトを製造していた日本窒素火薬と合併し、「日窒
化学工業」と改称します。戦後、この会社が旭化成となった。こうして野口は、電気を
膨大に使う化学産業の分野で、矢継ぎ早の工場建設して圧倒的な勝利を収めたのです。
旭ベンベルグ絹絲の薬品工場は延岡にあった。さて、ここで、化学肥料について簡単に
まとめておきます。肥料の3要素は、窒素、リン酸、カリウムですが、日本でカリウム
が取れずに、これは長く輸入頼みで移行していた。また、リン酸は、高峰譲吉が1884年
にアメリカからリン鉱石を持ち帰ったのが皮切りに、1887年、渋沢栄一、益田孝、大倉
喜八郎など財界の大物が集まって東京人造肥料を設立し後に、大日本人造肥料と改称し
、それ以来、鉱石輸入からの精製はこの会社が圧倒的な地位に君臨していました。大日
本人造肥料は、現在の日産化学工業(旧日産コンツェルン)である。結局、国内の肥料
産業としては、残る窒素をどうするか、というテーマはずっとあったわけである。ここ
に野口遵は切り口を入れたのだ。彼のライバルとしてあげられるのが、森矗昶(もりの
ぶてる)がいた。森の会社は、海藻のカジメからヨードを製造していましたが、第1次
世界大戦終結後、東信電気に吸収合併された。この東信電気は、東京電燈(現在の東京
電力)と組んで、余剰電力を使った硫安製造に乗り出して成功する。これが昭和肥料で
、現在の昭和電工となりました。昭和肥料の硫安工場は川崎にあった。他にも、アンモ
ニアの合成は、旭化成(1923年)を皮切りに、三井化学(1924年)、日産化学(1928年
)、住友化学(1931年)、昭和電工(1931年)、東亞合成化学(1933年)、三菱化学(
1937年)と続いていきます。いずれも違う合成法で作っている。日本の化学産業の裾野
の広さがうかがえます。ちなみに、昭和電工の製造方法は、東京工業試験所が開発した
国産技術によるもので、これが「日本初の国家プロジェクト」とされています。そして
、三菱化学が採用したハーバー・ボッシュ法の開発元であるドイツのBASFは、現在世界
最大の総合化学メーカーとなっているのである。


398: 名無しさんAA:17/09/13 11:35
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 115

 こうして、野口遵は、日本で肥料産業を完成させると、次に朝鮮半島に進出します。
しかし、朝鮮半島は水力発電には適さない大地でした。西側は平坦で、河の傾斜はゆる
やかで一方、東側は大山脈があるものの、急峻すぎていきなり水が海に落ちてしまう。
しかも、降水量が少なく、特に夏以外はほとんど雨が降らない土地柄だったからです。
 唯一、適地として認められるのは、現在の北朝鮮の興南エリアであった。ここは赴戦
江をせき止め、その水を引けば発電できる様に見えた。こうして此処で肥料製造を目指
す事を決めたのだった。こうして1931年、朝鮮肥料が設立。1935年には、平壌への送電
が始まった。朝鮮の興南工場を建設し材料を満鉄が運んだ。この事で陸軍の火薬製造も
担った。実は、肥料と火薬はかなり製造工程が近く、野口は朝鮮でも火薬製造に乗り出
している。ダイナマイトの主原料は硫酸、硝酸、グリセリンですが、硫酸と硝酸は日本
の延岡工場と朝鮮の興南工場で製造できた。また、朝鮮半島北部はイワシの漁獲量が多
く、これが硬化油となってグリセリンに変わった。港では、アメリカからの大量の硝石
を運ぶ運搬船が、いつも横付けされて輸入していました。化学産業には、豊富な電気さ
えあれば、次々に事業を拡大していけるメリットがあった。たとえば、石炭→コークス
→メタノール→ホルマリン→人造樹脂……といった具合です。野口は大学で、金属精錬
、水銀製造、合成宝石にまで習得し事業を拡大していった。こうして日本と朝鮮にまた
がる巨大な「日窒コンツェルン」を完成させた。その「何でも屋」ぶりを本人がこう語
っています。《アミノ酸・醤油等の調味料、窒素石鹸、バター、扇風機、筆箱等の学用
品、ラジオ機械、不燃性フィルム、靴べらから下駄の鼻緒まで作っている。こんな風で
あるから、「野口の通った跡には、ペンペン草も生えない」と悪口を云っていると聞く
が、これは1つの木に沢山の枝が生ずる様に、1つの本(もと)からいろいろな工業が
、つぎつぎに生れているのである。何れもそれぞれ有機的な関係をもち、甲の事業の生
産の副産物は、乙の会社の原料となり、乙の事業は又丙の事業と切っても切れぬ関係に
あるといった工合(ぐあい)になっているのだ。》(『今日を築くまで』より)


399: 名無しさんAA:17/09/13 11:35
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 116

 だが野口は、コンツェルン確立後の1940年に、ソウルで脳溢血に倒れます。 1941年
の正月には「三十年の夢からさめて初日の出」と詠み、1944年に死去しました。日窒は
、満州と朝鮮の国境で、巨大な水豊ダムの他の建設もおこなっていたが、完成前に終戦
となった。こうして終戦により、朝鮮および東南アジア各地で行っていた事業すべてを
喪失した。一説には全資産の8割〜9割だった。こうしてコンツェルンは崩壊した。戦
後の財閥解体の中で、日本窒素肥料は解散し、水俣工場がチッソ、延岡工場が旭化成、
新潟工場が信越化学工業、そしてプラスチック事業が積水化学になった。だがこの苦労
はこの「日窒コンツェルン」だけではなかった。三井も三菱も住友も安田も、敗戦では
殆どの財閥が9割の財産を没収され 消失し他に転用された。ただこの「日窒コンツェ
ルン」が残した工場が北朝鮮に於いての問題を数多く起こしてしまったのである。この
頃理研グループが大河内 正敏 を擁して大きくなっていた。大河内は、物理学者であり
ながら実業家でもあった。その頃同じ新興勢力として日本を支える一大財閥となろうと
している新進気鋭の研究者だった。東京府出身で子爵を受け。理化学研究所(理研)の
三代目所長となっていた。、貴族院議員で大河内信古の娘を妻にしていた子は、大河内
信定、大河内信敬。孫は女優の河内桃子であったが。無名時代の田中角栄を引き立てた
ことでも良く知られる人だった。1945年(昭和20年)2月に、理化学興業の工場を大田
(たいでん、テジョン)に移設する工事の為朝鮮半島に田中角栄は渡朝していた。軍の
特命で高圧ピストンリングの制作が待っていた。理研グループは世界を制したこのリン
グで名を馳せ、理研産業団を新興財閥の一角を占めるまでに成長させていたのである。
だが ソ連対日参戦で状況が変わったのを察して、降伏受諾の玉音放送前に朝鮮にある
全資産の目録を「新生朝鮮に寄付する」と現地職員に渡しさっさと帰国用意をしていた
。敗戦後の8月下旬には既に朝鮮半島から引き揚げ田中土建工業は戦災を免れたのだ。
この時「新生朝鮮に寄付する」と現地職員に渡した相手が実は日本陸軍の決めた残置諜
者であった。今やフィリピンで埋蔵金伝説として丸福金貨だが当時から山下財宝として
、山下奉文大将率いる日本軍によって、終戦時にフィリピンに埋められたとされる莫大
な埋蔵金の都市伝説がついて回った。その総数は金貨二万五千枚と言われ、そのサイズ
・品位は、直径:30.54mm 重量:31.0g 品位:24K とされており、受取った相手も贋
物を警戒して鋳潰すか、圧延してしまうと予想されたため、極めてシンプルなデザイン
だった。とされる。


400: 名無しさんAA:17/09/13 11:36
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 117

 山下奉文山下はシンガポール攻略という大きな戦績をあげマレーの虎として有名では
あったが、その後は満州の第1方面軍司令官となりしばらく大きな作戦を任される事は
なく この残置諜者の育成の会議が連日続けられたのである。というのも、大本営には
報告されないまでも、牟田口廉也のインパール攻撃が失敗とみるや 続々と部下であっ
た南方司令官の堕落や敵前逃亡が特務班から連絡が来ていた。フィリピン戦線では富永
恭次中将による指揮下部隊を置き去りにしての敵前逃亡しウィスキーと芸者連れで逃亡
の後温泉療養 ビルマの木村兵太郎は、イギリス軍の侵攻が開始されると、防衛は危機
に瀕して、木村は幕僚とともに飛行機でラングーンを脱出、タイとの国境に近いモール
メインへ撤退した。南方軍へは無断の首都放棄であった。前線で苦戦する隷下部隊や、
日本が支援したビルマ政府のバー・モウ首相、自由インド仮政府のチャンドラ・ボース
主席、自由インド仮政府初代公使の蜂谷輝夫、石射猪太郎駐ビルマ大使以下日本大使館
員及び民間の在留邦人、傷病兵などは置き捨てられ取り残された人々は、陸路で脱出を
試みた羽目になった。寺内寿一は南方軍総司令官として昭和十九年の十月のフィリピン
決戦の時に、自分はマニラを逃げ出し、サイゴンの旧フランス提督の大豪邸に日本本土
から軍用機で軍属扱いで呼び寄せた愛人の赤坂芸者を侍らせて、悠々と飲み食いしてい
た有様だったのだ。こうして着任したフィリピン方面司令官の山下泰文大将の作戦にも
いらぬ口出しをし、三七万人という犠牲者をだした。こうして大戦末期である1944
年(昭和19年)9月、フィリピン防衛のため再編成された第14方面軍司令官としての
起用をされ、フィリピンの戦い (1944-1945年)を指揮することとなった。なお参謀長に
は山下の希望により近衛第2師団長であった武藤章陸軍中将が任ぜられている。武藤は
陸軍中将で唯一中将として絞首刑判決を受けた人間だった。対米戦争を断固反対の立場
を取っており、和平交渉を必死に継続する東條内閣は、その意志の強さを買い、武藤を
軍務局長に登用していた。東條や武藤の努力は実らず、対米交渉は決裂します。武藤は
アメリカが最初から和平に関心がなく交渉は時間稼ぎだったと知り「アメリカに一杯食
わされた気分だ。」と日記に書いています。熊本県白水村(現熊本県菊陽町)の地主の家
に生まれ、済々黌中学、熊本陸軍地方幼年学校を経て、大正2年陸軍士官学校(25期)
を卒業して上司の作戦部長石原莞爾とは反対に対中国強硬政策を主張して中支那方面軍
参謀副長となっていた。陸軍では軍票を乱発し戦地での流通価値がなくなっていた。そ
こで彼にこの金貨の運搬を預けたのである。


402: 名無しさんAA:17/09/13 11:44

 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 120

 では当時既に日本人だった金英柱や金国泰や金敬姫が金日成として北朝鮮を建国した
のだろうか。此処に山下財宝との関連がある。九州での小さな企業団を作っていた野口
遵 (のぐち したがう)が戦争特需で儲けたとは言え朝鮮での投資を成功させたのだろ
うか。野口は、豊富な水資源がある鴨緑江とその支流の長津江、赴戦江に着目して工事
を行った。この三大河川流をせき止めて大ダムを建設し,このダムから上流に30キロ
の大送水トンネルを掘り,大水流を日本海側に逆流落下させて発電するという稀有壮大
な計画である。この壮大な計画を野口は迅速に実行していった。野口のこの大計画には
豊富な資金力が必要だった。全面協力したのは、勿論要請した日本陸軍 (宇垣一成)
と実は朝鮮銀行だったと言う。結果短期間で野口の計画どおりにダムと大発電所群が陸
続と完成し,稼動し始めた。その総発電能力は驚くなかれ,なんと100万キロワット
である。当時の世界一は,ソヴィエト連邦・ドニエプル発電所だったが31万kwであ
りその3倍の発電量であった。ここで日本は、断トツ世界一の発電能力をもつ巨大ダム
群を北朝鮮内に築造したのだ。こうして同時に,この巨大電力をフルに利用する大工業
地帯も北鮮域につくっていった。これが満州国を豊かにした。朝鮮半島が日本の統治下
であった1937年に満州国と朝鮮の電力確保の為、建設が開始され1944年には完
成していた。建設されたのは鴨緑江下流の平安北道新義州府から80km地点の日満国境と
され(現在は中朝国境)であった。湛水面積は日本の琵琶湖(670.33平方キロメートル
)のほぼ半分に相当し、総工費は約5億円である。なお、この金額は同時代に構想され
ていた「東京・下関間新幹線」に匹敵する巨額であり、その費用は当時朝鮮半島でも一
大重化学企業であった朝鮮窒素肥料(朝鮮窒素)(現在のチッソ)が負担したという。
太平洋戦争の泥沼化の中に完成し、3月に水豊水力発電所(発電能力:60万kW)と共に
竣工している。この発電規模が当時の世界最大級であり、当時の日本国内の水力発電の
規模280万kW と比較してもその大きさは巨大なのは容易に比較できる。7基の発電機は
各々約10万kWの発電能力を持っていたが、当時世界最大級の能力であり、この製造を受
注した東京芝浦電気(現在の東芝)では製造のためにわざわざ新工場を建設したという
代物だった。だが終戦時1945年8月9日、ソ連軍侵攻により、7基の発電機のうち5基を
略奪され、奪われた発電機は、カザフスタン共和国、イリティッシュ川(エルティシ川
)の上流のダムで確認されている。

403: 名無しさんAA:17/09/13 12:15
 日朝間の最大の懸案である拉致問題だが 日本にとっては、拉致問題の解決がない限
り北朝鮮との国交正常化もあり得ない。20年以上前、日朝国交正常化が目前に迫った
ときがあったがこの時大きなミスを両党は犯したのであった。 平成2(1990)年
9月26日。北朝鮮有数の景勝地、妙香山の招待所で自民党の元副総理・金丸信、社会
党副委員長の田辺誠、北朝鮮主席の金日成(キム・イルソン)が顔を合わせた。金丸、
田辺の2人が日朝の友好を進めるため、双方に「連絡事務所」の設置を持ちかけると、
金はこう返して2人を驚かせた。「いや、そんなのをつくる必要ないでしょう。(日朝
の)外交関係をつくればいいんですから。日本と仲良くしたい」予期せぬ発言に動揺を
隠せない金丸。田辺に「どうする」と目をやった。田辺も「いいんじゃないですか」と
即答した。金丸は金に向かって「社会党もいいと言っている。私たち自民党も責任を持
つ」と応じた。この瞬間、北朝鮮に拘束されていた第18富士山丸の船長、紅粉勇らの
日本人2人の釈放と、日朝友好親善が主目的だった訪朝が、政府間の国交正常化を前提
とした外交交渉に転換した。とも思えた。世論やマスコミは訪朝団の功績を軒並みたた
え、国交正常化を支持する声が多かったという。しかし、訪朝団は後に大きな批判にさ
らされることになる。9月28日に調印された自民党、社会党、朝鮮労働党の3党共同
宣言の中に記された「戦後45年間の謝罪、十分な償い」が、北朝鮮への戦後賠償の表
明とみなされたからだ。共同宣言は、金丸訪朝団事務総長の石井一(79)、同団事務
局長の武村正義、社会党訪朝団副団長の久保亘らが中心となった起草委員会で議論され
た。武村ら日本側は「交戦もしていない国の戦後賠償には応じられない」と突っぱねた
が、北朝鮮はなかなか折れない。16時間にわたる協議の末、最後は金丸の鶴の一声で
「償い」の文言を入れることが決まったのだという。だが彼ら戦後の状況を理解しては
居なかった。残置諜者の育成の会議が開かれ戦後の課題に触れていた事や 野口遵氏が
一代で築いた「日本の電気化学工業の父」とも「朝鮮半島の事業主」とも言われている
実業家が残した日窒コンツェルンの膨大な遺産がこの地に残されていた事などを戦後の
内閣は伝えては来なかった。時のGHQすら知っていた現実や共産党諜報者の存在結果
などを調査もしなかったのだ。この馬鹿とも言える3つの罪「即時連絡事務所を作らず
国民総意を取り付けなかった事。」「他の拉致被害者を言及しなかった事。」「現代の
価値20兆円規模の日本陸軍資産を敗戦供与してながらも戦後補償や謝罪声明などをし
て来た事。」は日中国交と同じ非道であった。田中角栄の日中国交時も尖閣問題を棚上
げし 台湾問題で折れて正義を貫いていない。こうした弱腰外交は 未来の日本の足枷
でしかなかったが、戦後の日本には今だ母国の土を踏めない帰参不能者がいる という
現状に人々は心を痛めていた事に折れたのである。

404: 名無しさんAA:17/09/13 12:15
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 125

 この野口遵(したがう)氏はこの時ダム群の権利をして、日窒コンツェルンを一代で
築た「日本の電気化学工業の父」とも「朝鮮半島の事業主」ともされる実業家だった。
1940年(昭和15年)正にドイツが欧州侵攻をする頃 朝鮮半島に於いて脳溢血で
倒れて逝くのだが 彼の残したダム群は全ての完成は見てないとは言え膨大だった。病
に倒れた時、野口は側近にこう語った。「古い考えかもしれんが、報徳とか報恩という
ことが、おれの最終の目的だよ・・化学工業で今日を成したのだから、化学方面に財産
を寄付したい。それと、朝鮮で成功したから、朝鮮の奨学資金のようなものに役立てた
い。」と言って息を引き取った。その後遺言通り、全財産の3千万円を寄付し、2千5
百万円で(財)野口研究所を設立し、化学工業の発展に寄与している。残りの5百万円
は朝鮮人子弟の教育のために朝鮮総督府に寄付され、朝鮮奨学会として朝鮮の地から4
万人の奨学生を巣立たせている。当時の1円は今の二千円位と言われる。つまり6千万
円を今で換算して1兆二千億円程度を寄付し更にこの金を産むダムをそのまま置いたの
だ。91式航空魚雷:2万円 (豊田穣の著書に記載)97式艦攻:18万円 (同上)89
式潜水艦魚雷:2万円 (「海軍の科学」昭和16年刊行に記載)1式陸攻:25万円 (「
空翔ける神兵」昭和18年刊行に記載) 当時の戦艦大和の実際の建造費ですら:1億6千
三百万円である。対してこのダムに投資した金額は5億円なのだ。そしてその支出管理
をしていた当時のシベリア出兵で赤字だった朝鮮銀行も一気に資産2兆円を持つに至っ
たがそのままにして 敗戦によってその地に寄付しているのだ。これは戦火を直接受け
なかった朝鮮半島で、景気が上向いて朝鮮銀行の経営状態も改善されて1943年には
不良債権を一掃した程だった。これがその後に日本人妻や北朝鮮渡航労働者を詐欺する
常套句である「産業がある豊かな夢の国北朝鮮」を産んだのだった。だが児玉機関では
この北朝鮮の白頭山の近郊の金鉱山は 爆破による封鎖が行われたと言われている。が
金丸訪朝団の後 金丸氏が逮捕される事件が起こった。金丸信・元自民党副総裁の5億
円ヤミ献金事件だ。1992年に発覚したが、公判に付されず20万円の罰金で処理されたた
め、捜査資料が法廷で開示されず多くの謎が残されている。この時大量の金塊がでた。
つまり ダム一個でも1兆円であり朝鮮銀行の資産と工場や鉱山権利やその資材はどう
考えても世界最大規模の投資した地で シベリア支所南方支所南洋支所まで金貨を送る
銀行資産は20兆円は下らない規模だったのだ。更に新産業のその最新鋭機器の設置を
田中角栄は請け負う工事をしながら 彼らは途中で売って日本に帰ってきたのである。


405: 名無しさんAA:17/09/13 12:16
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 126

 この野口遵の業績を知るにつけ、台湾発展の基を作った 明石元二郎大佐や八田与一
土木技師や後藤新平などを思い起こす人も多い。明石と八田は嘉南平野を肥沃な大農地
とする大灌漑事業を完遂し、八田与一の「八田ダム」は当時の記録世界一となっている
。また後藤新平は、台湾のインフラを整備して今も慕われ、上下水道を整備し衛生管理
を広めている事を知る人も多い。彼らは今も台湾の人たちに敬愛され、明石も八田も、
死後台湾の地に手厚く葬られ、台湾の人たちは銅像やお墓まで立てて祀っているという
。だがしかし、朝鮮では、どうであろうか。朝鮮では、朝鮮の近代化のために学校建設
に邁進した初代統監の伊藤博文はハルピンで暴徒に殺されたが、その暴徒を英雄として
いるし 初代朝鮮総督として寺内正毅はハングルを広めたが、墓参する朝鮮人はいない
。又目賀田種太郎は朝鮮の財政と貨幣の整理や近代的土地調査を実施し、農業をはじめ
朝鮮近代化の基礎を作り、第7代朝鮮総督となった宇垣一成は農村振興運動を展開し、
朝鮮を飢餓から救い近代化へと導いている。が知る人もいない。そして朝鮮産業革命の
祖といわれる野口遵は朝鮮北部に水力発電所を沢山作り興南の地に重化学コンビナート
を作っている。がその功績は日本でしか語られない。又朝鮮王朝の妻として高宗の妻は
有名な閔妃(明成皇后)ですが、彼女は高宗が朝鮮王から大韓帝国皇帝に即位する前に
殺害されている上に、高宗自身からは死後平民におとされている。高宗の後をついだ嫡
男の純宗は最初、純明孝皇后を立てたが両方とも閔氏尹氏で朝鮮人名門の出身で全く国
が発展しなかった。純宗には子供が出来なかったので、弟の英親王垠(李垠)が皇太子
となり日本との縁戚を希望した。大日本帝国政府は、この英親王に日本の皇室から梨本
宮方子女王を強制的に嫁がせました。方子女王は第二次世界大戦後も韓国にいる事を要
望したが残れず、夫妻は王公族制度廃止により一般の在日韓国人扱いとなってしまった
。その後も韓国政府は帰国を中々認めなかったので、英親王垠の帰国は彼が病に倒れた
後の1963年となった。1970年にソウルで李垠が亡くなった後も方子夫人は韓国
に永住し障害者福祉に勤め、1989年に亡くなりました。韓国内で恵まれない人々の
為に多くの施設を運営していた。

406: 名無しさんAA:17/09/13 12:56
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 119

 噂ではニュースの金国泰氏(北朝鮮労働党検閲委員長)も仲間だったと言う。金国泰
氏の朝鮮中央通信によると、13日、急性心不全と呼吸困難のため死去した。89歳。
故金正日総書記の側近の1人だった。北朝鮮の発表や韓国統一省の資料によると、現在
の咸鏡北道金策市生まれで、父は金日成主席とともに抗日パルチザン活動を行った金策
元副首相。1960年代後半に党宣伝扇動部部長に就任。92年に幹部担当の党書記と
なり、2010年9月の党代表者会で政治局員に選ばれ、党検閲委員長に就いたとされ
る。又北朝鮮で13日に処刑された張成沢(チャンソンテク)・前国防委員会副委員長
の妻で、故金正日(キムジョンイル)総書記の妹の金敬姫(キムギョンヒ)書記が健在
であることが、14日の朝鮮中央通信の報道で明らかになった。同通信によると、13
日に病死した金国泰(キムグクテ)・朝鮮労働党政治局員の国家葬儀委員会の名簿に、
敬姫氏も含まれていた。と発表された。死んだ張成沢も気がかりな名だ。若い頃容姿端
麗かつ性格も開放的で酒にも強く、大学では性別問わず人気者であった。頭の回転が速
く、機敏で気の利く遊び人だった性分を、当時上級生だった金正日に気に入られ、幼少
時に事故で死去していた弟の代わりの様に可愛がられる。とある抗日パルチザンとして
彼らが乗り込んだのは当然、中華民国の北洋軍閥の馬賊奉天派(ほうてんは)の末裔の
動向だったと言える。中国東北部を基盤として日本の支援を受けていた総帥は張作霖と
息子の張学良は、国民党軍に帰順して馬賊、匪賊討伐、帰順工作をして勢力を拡大し新
建陸軍から派遣されてきた部隊と統合され指揮下に入ったまま 台湾に逃げた蒋介石の
下で終戦を迎えていたが彼の一族が裏にいたとも思えるからだ。張学良は西安事件で罠
をはり蒋介石を捕らたが蒋介石の日記で対日戦略のために臥薪嘗胆の計を取っているこ
とを知り驚愕して蒋介石を助けていた。金英柱は、関東軍の通訳として働いていたが、
朝鮮の咸鏡南道で匪賊に襲撃される事件が起きた。満州国の朝鮮人治安関係者が調査を
した結果、「襲撃事件の首謀者金日成は、諱を金成柱といい、関東軍の通訳として働い
ている金英柱の実兄である」との証言を得た。金英柱は協力を求められ、祖母の李寶益
と共に、日本・満州国側に投降するよう金日成に呼びかけている。金英柱も又最高人民
会議常任委員会の名誉副委員長となったが仲間だったと思われる。2003年の第11期最高
人民会議第1回会議でも代議員として選出され、最高人民会議常任委員会名誉副委員長
に再任されている。

407: 名無しさんAA:17/09/13 12:57
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 121

 この後南北戦争で北朝鮮を叩く為に、雷撃を含むアメリカ軍機の攻撃を受けたが、こ
のダム構造が堅牢であったため決壊を免れたという。戦後に北朝鮮は発電能力を増強し
て復興した。竣工から60年以上経過した現在もダム本体は大きな改修工事が行われず
現役であると思われ、現在も北朝鮮の重要なエネルギー源の一つである。なおダム湖は
中朝国境となっており、北側は中国領となっている。実は中国が朝鮮戦争に合意したの
はこのダム周辺を中国領域としたかったからだと言われている。つまりダムの発電機は
ソ連軍に取られたのだが その頃の電力の貴重さは中国北朝鮮双方が知る所だったのだ
。この巨大ダム群の一つが,朝鮮戦争時に話題になった 「水豊 (スプン)ダム」で米
軍が幾度も爆撃し破壊を試みたがついに堤防を破れなかったダムであった事は充分理由
があった。双方共に死守したのである。こうして,大電力を確保した日本帝国は,化学
繊維,窒素火薬,アルミ,石油精製,やがて,タングステンからウランの製造までをも
開始した。そしてついには“核”の研究と開発も大日本帝国の大敗戦以降積極的に開始
する。この “ダム資産”と“技術の蓄積” の全てを引き継いだのが,ソ連と北朝鮮だ
ったのである。アメリカ合衆国には先進国として債務過超過の超破産国家の道を歩いた
。いっぽう,北朝鮮は独裁体制を敷き恐怖政治を行った。秘密警察があり貧困がある。
飢えも脱北者の弾圧収容所もテロ機関もある世界になった。拉致機関も謀略機関もある
中で超貧国として世界一の偽ドルの印刷所や世界一の舞踊団を作った。だが地下資源は
最も宝庫な国でコバルト,石灰石,黒鉛,ルビジウム,マグネサイト,磁鉄鉱,ウラン
,ジルコニウム,オバマ,マンガン,ヒラリー,ニッケル,タングステン,チタン,パ
ラジウム,モリブデン,ニッケル,金剛石,ハフニウム,ニオブ.更に金や白金がある
まさしく北朝鮮は,希少金属資源の標本室,レアメタルの宝庫とされる。とくに凄いの
は,タングステンとウランでは埋蔵量世界一で無尽蔵と言われる。この世界一の“財産
”を生かしきれば,北朝鮮は世界の最強国家になる。その為にNPT核不拡散条約から
撤退した。その後北朝鮮の電力事情にソ連から黒鉛炉の設置申し出に同時にIAEAの
規定保障から離脱しウランの自主濃縮を決めた。この為米国は一時期朝鮮半島エネルギ
ー開発機構KDDOが作られ、これを受けてIAEA加入とウラン供給による軽水炉建
設を約束したが IAEA違反が見つかった為に軽水炉計画のその約束は反故されてし
まったのである。


408: 名無しさんAA:17/09/15 15:39 ID:1E.
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 127

こうした朝鮮の発展には、多くの日本人が関与している。李氏朝鮮では到底近代化は叶
わなかったし事実それらが現れた事件も多数ある。しかし、日本は隣国として朝鮮に関
わり、朝鮮はわずか36年で、それを成し遂げている。その裏には数多くに日本人が居
たし戦後の援助も膨大なものである。しかし朝鮮人は、このことを一切無視している。
そればかりか、恩人であるべき日本政府や日本人の功績を、韓国政府は、いまだに歴史
を捏造し隠し続けて教えている。これらが如何に世界愚劣な卑小民族に属することをや
る民族かが判るであろう。例えば李斯朝鮮時代に既に経済が破たんしていたにも関わら
ず、船や鉄道或いは文明の産物や諸外国との交易での高級調度品を購入した。結果権利
の殆どを失くして李氏朝鮮末期を迎えて居た、売れる権利はほとんど諸外国に売り払い
経済が破綻していて。高宗と閔妃が外国に売り払った利権は、日本側が戻す事に容易な
ものではなかった。
1896年 ・ロシアへ慶南・馬山浦の栗九味租借権 咸北・慶源・鐘城の金鉱採掘権
       鐘城の石炭採掘権 豆満江・鴨緑江上流地域と鬱陵島の森林伐採権
      ・アメリカには京仁鉄道敷設権  雲山金鉱(平北)採掘権
      ・イギリスには財閥顧問の派遣と海関管理権
      ・フランスには京義鉄道敷設権
1897年 ・ロシアへ財政顧問の派遣と海関管理権、軍隊の教育訓練権
      ・ドイツに江原・金城、金鉱採掘権
1898年 ・アメリカにソウルの電車・電灯・水道経営権
      ・日本へ京釜鉄道敷設権
      ・イギリスに平南・殷山金鉱採掘権
1899年 ・ロシアへ東海岸における捕鯨権
1900年 ・ロシアへ慶南・馬山浦の栗九味租借忠北・稷山金鉱採掘権
      ・日本に京畿道沿海の漁業権
1901年 ・フランスに平北・昌城金鉱採掘権
1903年5月 ついにロシアは朝鮮北部の龍岩浦に軍港を建設
       シベリア鉄道の完成も近づき極東アジアの情勢は著しく悪化した
ロシアの極東南下 (既に満州の一部は侵略支配されロシア沿海州になっている)

409: 名無しさんAA:17/09/15 15:40
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 128

こうして結局、権利の無い物まで全てを売り払い破綻した李斯朝鮮は、日露戦争の直接
的な原因を引き起こした後、日本に外交権を没収され保護国となって出直すことを要望
した。それは産業が無く支払えないから仕方のない方策だった。だが朝鮮国内では併合
賛成派と反対派の対立の声が高まり朝鮮の指導者たちは日本に併合を要請することにな
ったが伊藤博文は国難と財政を理由に依然として反対していた。だが大日本帝国内閣で
は賛成多数で、朝鮮が欧米列強に売り渡した利権を日本が全て買い戻して、併合する事
にしたのである。 こうして1903年小村寿太郎外相と駐日ロシア公使ローゼンとの間
で朝鮮満州をめぐる交渉開始したが1904年談判決裂し対露宣戦布告し日露戦争が起
こった。ロシア皇帝ニコライ2世は大津事件後日本との交渉を良しとしなかったのだ。
 方針が決定されれば日本は自由行動の為の日韓議定書を締結した。露と戦うため韓国
内で日本軍が自由に行動する権利だった。第一次日韓協約で韓国政府の財政・外交顧問
に日本政府の推薦者をいれた。その後仲裁により1905年アメリカの斡旋でポーツマ
ス条約締結し小村寿太郎全権大使が任命された。日露戦争終結し日本側の大勝利となっ
たが、日本兵士の死傷者数は日本の大きな負担で終わった。元々韓国側は日露どちらと
も疲弊してからの清の介入を望んでいた。直ぐに第二次日韓協約を結び韓国統監府を設
置して韓国を中国属国から独立政府との地位を与え外交権を取り上げた。1907年に
ハーグ密使事件を機に、韓国の皇帝を退位させる。第三次日韓協約。内政権を剥奪。軍
隊解散にともない近衛歩兵隊及び近衛騎兵隊が置かれる。1909年日韓併合反対派の
伊藤博文は、ハルビン駅頭で朝鮮人安重根に射殺される。閣議は韓国併合方針を決定。
1910年日韓併合。朝鮮総督府設置、初代総督に寺内正毅を任命した。この時日本は
大きく窮地であった事は間違いない事実だ。日清戦争の戦後賠償で八幡製鉄所を築く事
にはなっても中国が直接資金や技術を渡した訳ではない。日露戦争では特にそうだった
のである。元々先に言った様にロシアも朝鮮にも中国にも貸した金投資した金は戻って
来なかった事で領土の割譲して植民地経営に力を注ごうとしていた。だが古来ロシアの
経営が成功した国はない。自立経営の国に共産思想を埋め込み戦乱地にして潰すのみの
共和国政治でそこに欧米が対抗武器を売って経営する事がパターンだった。破壊しかし
ていない国では経営が不可能でソ連邦に於いても母国経営が出来ず衛星国の技術資源や
食糧供給に頼っているからこそ南下政策を行っていたのである。


410: 名無しさんAA:17/09/15 15:40
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 129

 この日本の明治以降の苦悩は正に この朝鮮半島や中国大陸の運営であった。ソ連が
運営できず南下政策や欧州進出を図り、第一次世界大戦は起きた。そしてその後消費の
爆発的拡大革命が金融資本や産業革命で起こって流通戦争が起こった。此処に権益戦争
として第二次世界大戦が起こっていた。勿論此処に地政学的要素や連合主義的同盟やら
イデオロギーとしての自由や技術流出やら伝統的人種差別など色々はあっただろう。が
日本は結局は海外からは 良く知られていない東洋の魔物として見られ有色人種蔑視の
中での植民地支配の撤廃闘争でしか無かったのである。もし韓国や中国がロシアや英国
との取引も貿易も無かったならば 白人からの魅力的な南洋の夢の島スパイスアイラン
ドなどへの要求もなかっただろう。明治からの日本の努力はこの弊害から脱却であり、
キリストなどの一神教の刹那の思いを断ち切る役割でしかないのであろう。こうして、
朝鮮半島の李氏朝鮮政府の負債を日本が買い取る事に 世界は大きく喜んだ。日韓併合
は欧米主導の政策でもあったのだ。そしてそこはドイツに掛けた様な 共産主義南下の
防波堤を望んだ思惑もあった。それは当然日本も又受け入れていたのである。こうして
日韓併合は喜んで向かい入れられたが この後の共産主義ロシアのチョッカイは止まな
かったし匪賊としての中国国民を時の中国政府は統制出来ないでいた。終戦時国民党軍
が台湾に逃げ込んだのも新しく出来た韓国政府が北朝鮮を融合できなかったのも 実は
この政府には正義や道義に於いて国民人民庶民の人気がなく支援者が居なかったからだ
もともと日本軍が来るまでは階級社会が存在し 過激な革命的変化を望む輩が暴力によ
っての政府しか作れなかった能力がそうさせていたのだろう。諸外国はこの日韓併合で
大日本帝国の国体も潰れると見ていた節もある。それは 二分された国内世論に慎重な
日本政府は併合の正当性について列国に打診して、アメリカとイギリスは、このまま韓
国を放置することは地域に混乱与えると考え、韓国併合に賛成し、他の、清国、ロシア
、イタリア、フランス、ドイツといった当時の主要国からの反対も全くなく、各国の賛
成を得て、日本は韓国併合に乗り出したのに対して、孫文らの辛亥革命(1911年10月)
以降の『国民党と中国共産党の激しい内戦・軍閥の割拠』で北閥の袁世凱が西欧列強と
協調した独裁政治をしても 一向に介さなかったのだ。更に満州国樹立や蒋介石政府の
治安維持にも手を貸すどころか 逆に謀反者を多数入れて軍事顧問団を入れ武器供与を
反乱者に手を貸しているのである。

411: 名無しさんAA:17/09/15 15:44
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 130

 日中戦争は 盧溝橋事件から始まった一連の戦争を言う。とある。1937年(昭和
12年)に日本と中華民国の間で始まった長期間かつ大規模な戦闘であるとされる。が
それは日本は支那事変としている。そしてそもそも盧溝橋事件(1937年7月7日)は、4
日後の松井-秦徳純協定により 事は収拾している状態なのだ。此処に蒋介石の嘘があっ
た。既に蒋介石は匪賊鎮圧に広げるなと言う日本軍の言う事を聞かず 西安にて張学良
に囚われて 手足を握られていたのだ。こうしてゲリラ作戦で中国共産党の国共合作に
よる徹底抗戦の呼びかけで西安事件で罠を張られ捕らた蒋介石は ソ連と米国から支援
を取り付ける事になる。遥か以前から起こっていた満蒙独立運動は満蒙地域を独立させ
るいう試みで、常に何度も起こり、満蒙独立運動が成功して満州国樹立と蒋介石国民政
府が出来上がると蒋介石の方から それまで江戸時代から応援して来た日本政府側を、
裏切って西欧列強に寝返った形になっていた。日本側もロシアを表向きは遠ざけるが、
却って共産党員がはびこり、西洋諸国を取り入れたフグ計画も現地視察の派遣ユダヤ人
が寒さと不毛にNOを突き付けながら大陸経営を申し出ると言う有様で、馬賊匪賊には
手を焼いていた状態だった。それは蒋介石が今までの信頼ある孫文や袁世凱の様な人間
ではなかったからだ。盧溝橋事件により始まった華北(北支)での戦闘は、いったんは
停戦協定が結ばれたものの、25日の廊坊事件で停戦が破られると、26日の広安門事件で
日本人に犠牲者が発生し、29日 の通州事件では民間人を含む230名が虐殺されたことに
より、武藤章や田中新一ら拡大派が、石原莞爾や河辺虎四郎ら不拡大派を押し切った。
この事件以後中華事変において交戦が拡大した。中華民国に駐在していた、ドイツ軍事
顧問団団長ファルケンハウゼンは、「中国の敵は日本が第一、共産党を第二」と明言し
、1935年10月1日、漢口と上海にある租界の日本軍に対する奇襲を提案、1936年4月1日,
「今こそ対日戦に踏み切るべきだ」と蒋介石に進言して、北海事件後の9月12日には河
北の日本軍を攻撃するよう進めた。1935年冬、国民政府は、南京・上海方面の「抗戦工
事」(陣地)の準備を張治中に密かに命令し、優勢なる兵力をもって奇襲し上海の日本軍
を殲滅しこれを占領し、日本の増援を不可能にしようと企図した。この上海爆撃は日本
艇を模した空襲艇で行われたがイギリスのジャーナリストによって写真が撮られ 自国
軍機が自国を攻めた事が明らかになり 更に蒋介石政府は力の無いものになっていった


412: 名無しさんAA:17/09/15 15:45
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 130
 日中戦争は 盧溝橋事件から始まった一連の戦争を言う。とある。1937年(昭和
12年)に日本と中華民国の間で始まった長期間かつ大規模な戦闘であるとされる。が
それは日本は支那事変としている。そしてそもそも盧溝橋事件(1937年7月7日)は、4
日後の松井-秦徳純協定により 事は収拾している状態なのだ。此処に蒋介石の嘘があっ
た。既に蒋介石は匪賊鎮圧に広げるなと言う日本軍の言う事を聞かず 西安にて張学良
に囚われて 手足を握られていたのだ。こうしてゲリラ作戦で中国共産党の国共合作に
よる徹底抗戦の呼びかけで西安事件で罠を張られ捕らた蒋介石は ソ連と米国から支援
を取り付ける事になる。遥か以前から起こっていた満蒙独立運動は満蒙地域を独立させ
るいう試みで、常に何度も起こり、満蒙独立運動が成功して満州国樹立と蒋介石国民政
府が出来上がると蒋介石の方から それまで江戸時代から応援して来た日本政府側を、
裏切って西欧列強に寝返った形になっていた。日本側もロシアを表向きは遠ざけるが、
却って共産党員がはびこり、西洋諸国を取り入れたフグ計画も現地視察の派遣ユダヤ人
が寒さと不毛にNOを突き付けながら大陸経営を申し出ると言う有様で、馬賊匪賊には
手を焼いていた状態だった。それは蒋介石が今までの信頼ある孫文や袁世凱の様な人間
ではなかったからだ。盧溝橋事件により始まった華北(北支)での戦闘は、いったんは
停戦協定が結ばれたものの、25日の廊坊事件で停戦が破られると、26日の広安門事件で
日本人に犠牲者が発生し、29日 の通州事件では民間人を含む230名が虐殺されたことに
より、武藤章や田中新一ら拡大派が、石原莞爾や河辺虎四郎ら不拡大派を押し切った。
この事件以後中華事変において交戦が拡大した。中華民国に駐在していた、ドイツ軍事
顧問団団長ファルケンハウゼンは、「中国の敵は日本が第一、共産党を第二」と明言し
、1935年10月1日、漢口と上海にある租界の日本軍に対する奇襲を提案、1936年4月1日,
「今こそ対日戦に踏み切るべきだ」と蒋介石に進言して、北海事件後の9月12日には河
北の日本軍を攻撃するよう進めた。1935年冬、国民政府は、南京・上海方面の「抗戦工
事」(陣地)の準備を張治中に密かに命令し、優勢なる兵力をもって奇襲し上海の日本軍
を殲滅しこれを占領し、日本の増援を不可能にしようと企図した。この上海爆撃は日本
艇を模した空襲艇で行われたがイギリスのジャーナリストによって写真が撮られ 自国
軍機が自国を攻めた事が明らかになり 更に蒋介石政府は力の無いものになっていった


413: 名無しさんAA:17/09/15 15:47
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 132

 何故この時同時に華川ダムも日本人は作っているのか。江原道華川郡の北漢江にある
このダムも野口の技術集団が作っている。それには野口の経歴にある。当時出来たばか
りの東京帝国大学電気工学科の卒業生は1人から4人と言うかなり門の狭い学問だった
。野口の年次に初めて10人を越す在籍者となった位だ。1896年に卒業しているが
電気そのものが今だ都市のほんの一部しかない時代である。先にも言った様にエジソン
の助手のウイリアム・H・ムーアーが日本に来日し、首相伊藤博文、山県外務大臣と会
い、「竹なら京都へ」とのアドバイスを貰い京都で竹探しをしたのが1880年である
。まだ白熱電球が何時間も切れずに明かりを灯す前で1885年頃に海外でもやっと出
たのだ。今だ直流か交流かをアメリカで裁判していて200Vか100Vかを揉めてい
る時代なのだ。ただ都市交通の運行に対してはエンジン系と電力系で競争していたので
かなり動力機関が進展していただろう。その後のシーメンス入社も興味深い話である。
当時ドイツがどれくらい認識されていたか解らないが医学科学共にドイツの学問は最先
端であった事は間違いない。金融や交易すら今だロッテルダムはロンドンと競っていた
時代であろう。1861年、ドイツ外交使節が徳川将軍家へ拝謁シーメンス製電信機を
献上し、ここに初めてシーメンス製品が日本に持ち込まれた。1887年にシーメンス
東京事務所が開設され、以降日本で大きな納入実績を残した。足尾銅山への電力輸送設
備設置、九州鉄道株式会社へのモールス電信機据付、京都水利事務所など多数の発電機
供給、江ノ島電気鉄道株式会社への発電機を含む電車制御機および電車設備一式の供給
、小石川の陸軍砲兵工廠への発電機供給、などだが売り上げが伸びた事で1901年に
はシーメンス・ウント・ハルスケ日本支社が創立された。その後は一気にも発電・通信
設備を中心とした製品供給が続き、八幡製鐵所、小野田セメント、伊勢電気鉄道、古河
家日光発電所、曽木電気(のちの日本窒素肥料)等へ発電設備を供給した。また、逓信
省へ、電話関係機器の多量かつ連続的な供給を行なう事になったのだ。この草分け社員
であったのだ。軍需関係では、陸軍へ口径60センチシーメンス式探照灯、シーメンス・
レントゲン装置、各種無線電信機、海軍へ無線装置・信号装置・操舵制御装置等を納入
している。ところが1914年には海軍省の注文に千葉県船橋に80〜100 キロワット級
テレフンケン式無線電信局を建築したが、この無線電信局の納入をめぐるリベートが、
「シーメンス事件」として政界を揺るがす事件が起こることになる。


414: 名無しさんAA:17/09/15 15:48
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 133

 シーメンス社はかなりの先駆け的企業で ヴェルナー・フォン・ジーメンスは小作農
家の14人兄弟の4番目だったと言われるがドイツ期っての電気工学博士だった。兄弟
にウィリアム・ジーメンスが鉄鋼用のシーメンス平炉を発明し、フリードリヒ・ジーメ
ンスが蓄熱式加熱法を用いたガラス用のシーメンス炉を発明したとされる。陸軍に入隊
して工学を学び兵士としての間に、技術将校としての勤務中に電磁式指針電信機という
モールス符号を使わずに、電気の強弱を針による文字盤の文字を指す電文伝達装置、を
作ったり地下ケーブルを発明した。この事で戦争から戻ると除隊し、それまでの発明を
元にして事業を起こしてやがて国際企業になった。ジーメンスは電磁式指針電信機以外
にも電気工学分野でその後にも様々な発明・開発を行っており、ドイツにおける電気工
学の父と呼ばれている。自励式自動発電機(ダイナモの改良種)を発明、電流を振動に
変換するコイルの特許を取得。1920年代にアメリカでこの発明を利用してダイナミック
型スピーカーを発明、電気機関車を実用化、世界初の電気式エレベーターを開発、トロ
リバスの試験走行を行っている。又ヴィルヘルム・レントゲンがX線研究に使った放電
管もシーメンス社製だった。逆に人の発明にも研究が盛んだったのだろう。白熱電球が
エジソンの特許が切れてから日本で会社を興そうとしてこの野口遵を入社させてドイツ
での資本提供者を探そうとしていたのだから面白い。シーメンス事件とは1914年1
月にロイター通信で発表された海軍の購入に際した手数料の収賄事件だ。言わば明治版
ロッキード事件と言えるだろう。明治政府には当初からイギリスの金融と投資家が後押
しして艦船や装備品を購入していた。だが、新艦船の造船まで出来る様になるとドイツ
やフランス・アメリカなどからもその購入を行う様になった。それは性能と品不足の為
もあったが販売を日本人が代理する様になると外国の造船会社相互間の競争は激しくな
って、海軍の高級技術将校や監督官などは、その立場上各造船会社や軍需品を取り扱う
企業の日本代理店との交渉や手数料をめぐって問題を起こしやすかった。本当の問題は
陸軍にあったが、海軍は政府高官に近く議員達もそれぞれに藩閥を成して厄介な関係が
起こっていたのである。


415: 名無しさんAA:17/09/15 15:51
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 135

 山縣有朋は長州藩の足軽より低い中間と言う身分の子に産まれている。相当な貧乏だ
ったらしく彼の生活は 多くの勲章を得ても清貧そのものだったと伝えられる。死んだ
時も1か月前に病没した大隈重信の葬儀が「国民葬」として、多数の民衆が集まり華々
しかったが、山縣の葬儀は国葬とされ閑散としたものだったと言われる。東京日日新聞
は、「大隈候は国民葬。今日は〈民〉抜きの〈国葬〉で幄舎の中はガランドウの寂しさ
」と報じたと言う。東洋経済新報社記者の、戦後総理大臣となる石橋湛山は、コラムに
「死もまた社会奉仕」と発表し、山縣の政治権力を「国を憂うる至誠の結果」と評した
、宮中某重大事件は湛山は至誠から出た行為と評して、「世の中は停滞せざる新陳代謝
があって、初めて社会は健全たる発達をする」と批評するも、「人は適当の時期に去り
行くのもの、死もまた一の意義ある社会奉仕でなければならぬ。」と評している。山形
の治世で大戦景気に沸いた第一次大戦後には債務国から債権国へ、輸入超過国から輸出
超過国へと転換した。さらに戦勝国として南洋諸島のドイツ権益を引き継ぐなど、日本
の国際的地位も上昇したが、山縣はむしろこの日本の急成長によって大戦を契機に急成
長を遂げたアメリカ合衆国の様に国民に黄禍論を強めていることに不安に感じなが死ん
でいったと言う。山縣の生活は規則正しく、質素倹約なものであった。午前6時の起床
後はタオルで体を拭き、食後には槍を振るった。外見としては痩せた長身であり、上前
歯が突出していた。部下たちは密かに「反歯伯」と呼んだ。「黄禍論」とは当時米国や
豪州で増えて来た東洋人に対した嫌悪感の論文で、白人国家において現れた大きく公言
される「黄色人種脅威論。」であった。この人種差別一種で肌の色と社会関係を批判し
ていたのである。19世紀半ばからヨーロッパ・北アメリカ・オーストラリアなど白人
国家において現れ、フランスでは1896年の時点でこの言葉の使用が確認されており
、ドイツ帝国の皇帝ヴィルヘルム2世は『ヨーロッパの諸国民よ、諸君らの最も神聖な
宝を守れ(ドイツ語版)』の寓意画によって広め世界に流布した。日清戦争に勝利した
日本に対して、欧州各国は特にロシア・ドイツ・フランスが自らの三国干渉を正当化す
るために浴びせた人種差別政策で、続く日露戦争の日本勝利で欧州全体に広まった。こ
れによって「日本脅威論」が根深く無意識のうちに西洋社会に取り入れられたという。

416: 名無しさんAA:17/09/15 15:52
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 136

 そもそも「黄禍論」は昔から欧州にはあった。ただ相手はイスラム教徒だったりイン
ド人だったり或いはスキタイのモンゴル人だったりオスマン帝国のトルコ人だったり、
兎も角は南から攻めて来る怖い者の話で 当面はフランス人が攻めて来る「白禍論」の
方がドイツではより危険視され叫ばれていた。古来白人は、モンゴル帝国をはじめとし
た東方系民族による侵攻に苦しめられてきた歴史からの寓話であった。キタイと言う言
葉の直接の意味は、10世紀頃に華北にて遼朝を建国した遊牧民族「契丹」を指すが、
ロシア語においては(現在も含めた)「中国」を意味し、北方への対外侵略を常として
きた契丹と同一視する事で警戒心・畏怖の意味も込められている。そのため黄色人種は
、モスクワ大公国(後のロシア帝国)においては「タタールのくびき」として、また、
西ヨーロッパではアンチキリストがアジアから現れると信じられ、共に恐れられてきた
。だがこうした「黄禍論」が込められた寓意画『ヨーロッパの諸国民よ、諸君らの最も
神聖な宝を守れ(ドイツ語版)』をわざわざ各国にドイツ帝国の皇帝ヴィルヘルム2世
が送り広めたのである。ロシアのニコライ皇太子の殺傷事件である大津事件が背景にあ
るのかもしれない。というのも彼らはロマノフ家の末裔だからだ。日本が日清戦争やら
日露戦争で勝利すると「黄禍」という言葉が生まれ黄禍思想は日清戦争の講和条約に際
してロシア、ドイツ、フランスの行った三国干渉の会議で、人種理論の影響を受けたと
いうドイツ帝国の皇帝ヴィルヘルム2世は「黄禍」を説くことによって、それまでの汎
スラヴ主義や汎ゲルマン主義の対立によってドイツと敵対していたロシアを極東に釘付
ける為に、盛んに説いたと言われる。こうして黄禍論は広がり、近代で対象とされる民
は、主に中国人、日本人とされた。特にアメリカ合衆国では1882年に制定された排華移
民法、1924年に制定された排日移民法など露骨に反中、反日的な立法を建てられ、影響
が出ていた。明治21年よりヨーロッパ各地へ視察旅行に出て宮中での大日本帝国憲法
発布式典にも出て居なかった山形有朋は伊藤博文と共にその内容を把握していたのだろ
う。当時「シュタイン詣出」とさえ言われるほど日本政府要人らのウィーンの憲法学者
ローレンツ・フォン・シュタインを訪れていたが、山縣も訪問している。ほかグナイス
ト、クルメツキ、ビスマルク、ヴィルヘルム2世らのもとを訪問して帰国している。


417: 名無しさんAA:17/09/15 15:55
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 137

 早くからそのその才能があった山縣有朋は友人・杉山松助らに松下村塾への入塾を勧
められるも、「吾は文学の士ならず」として辞退し槍の稽古に励んで少年時代を過ぎた
。安政5年に長州藩が京都へ諜報活動要員を派遣する時その真面目さに6人中に選ばれ
、杉山松助・伊藤俊輔らとともに上京して、尊皇攘夷派の久坂玄瑞・梁川星巌・梅田雲
浜らなどと出会った。彼らの立志に感化を受け帰藩後には久坂の紹介で吉田松陰の松下
村塾に入塾した。しかし山縣が入塾したとされる時期は数か月で後に松陰は獄に下り刑
死することになっている。だが生涯「松陰先生門下生」と称し続けた事はその影響は大
きかったと言える。高杉晋作の奇兵隊創設とともにこれに参加し、武芸や兵法の素養を
活かして頭角を現し、高杉は身分にとらわれずに有能な人材を登用したため、高杉軍艦
時代に法教寺事件の責で身を引いた時奇兵隊軍監に就任して長州征討で高杉と共に活躍
しそのまま戊辰戦争では北陸道鎮撫総督・会津征討総督の参謀となった。長州奇兵隊や
新政府軍の中枢を任された山縣は軍政家であり続け、兵を率いて前線に立ち軍功を上げ
るということはそれほどはなかったが、日清戦争で元首相でありながら第一線に立った
者は居ない。日露戦争でも満洲軍総司令官就任を希望していたが叶わなかったという。
明治政府を立ち上げ明治2年に渡欧し、各国の軍事制度を視察し、帰国すれば直ぐに、
大村益次郎の実質的な後継者として西郷隆盛の協力を得ることで軍制改革を断行して、
徴兵制を取り入れた。その後、陸軍出入りの政商・山城屋和助に陸軍公金を無担保融資
して焦げ付かせたが山城屋の証拠隠滅工作によって、山縣に司法の追及は及ばなかった
が責任を取る形で明治6年に陸軍大輔を辞任した。しかし内閣において山縣に代わりう
る人材がなく、藩閥を嫌う採用に伊藤博文などの信任は厚く同年6月に陸軍卿で復職し
た。参謀本部の設置、軍人勅諭の制定に携わった。だが皮肉にも彼が陸軍だった為に、
西南戦争では官軍の事実上の総指揮を執ったため、さながら薩摩閥と長州閥の直接対決
の様相を呈した。士気の高い薩軍に対し、装備と物量・兵力で対抗し、積み上がる死人
に西郷は「もういいだろう。」と降伏にでたと言う。官僚制度の確立にも精力を傾け、
門閥や情実だけで官僚文官官吏が登用されることのないように文官試験制度を創設し、
後進を育成。山縣が軍部・政官界に築いた幅広い人脈は「山県系」「山県閥」などと称
された。

418: 名無しさんAA:17/09/15 16:00
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 138

 伊藤博文の欧米視察後、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎らは憲法起草に参画して、
明治22年(1889年)2月11日に大日本帝国憲法(明治憲法)を公布することに至ったが
、当初の日本ではまだ法典整備されておらず、民間が成熟しきっていない無法地帯の国
家である。指摘とされていた。こうして欧州からの指摘で日本の憲法制定に大きく携わ
ることとなったのが、ルドルフ・フォン・グナイスト、ローレンツ・フォン・シュタイ
ンである。彼の言及に「その頭脳の中には黄色人には憲法は不適当なり、寧ろ生意気な
る所業なりとの観念を有したるが如し」との言葉があった。明治15年に当人について
学んだ伊東巳代治の意見でもある。「憲法とは国民本位に託されたものであり、憲法が
国民の権利を決める(保障する)ものではない。」との意味を示したとしている。ここ
に山田顕義が、岩倉使節団の一員として欧米視察から帰国後の、「兵は凶器なり」と指
摘した上申書(理事官功程)提出し、自身が遊学中に施行された徴兵令の延期を求めた
理由があった、その後山田は東京鎮台司令長官に任命されるが、11月には同職を解かれ
清国特命全権公使に任命されたが山田本人に渡清の意思はなく、佐賀に於いて明治政府
に対する士族反乱が起きてその任を解かれた。明治18年に内閣制度が発足し、山田は
第1次伊藤博文内閣初の司法大臣に就任する。明治20年には外務省が一時所管した、
法律取調委員会を再び司法省に戻し委員長に就任する。民法はフランス人ボアソナード
に、商法はドイツ人ロエスレルに原案の起草をさせ、法律取調委員会では民法・商法・
民事訴訟法、裁判所構成法などの草案が審議され、山田が議事を整理して事業に明け暮
れた。明治21年、引き続き黒田内閣の司法大臣に留任して12月に民法、商法の各法
案を黒田首相及び内閣に提出した。司法大臣として法典整備を進め、日本の人種・習慣
・風俗・言語など国家成立の要因、すなわち国体を明らかにし、その基礎となる国典の
研究の重要性を認識したことで、明治22年、皇典講究所所長に就任し皇典講究所の改
革を進めた。同所内に日本古来の法と外国の法を研究する教育機関として、日本大学の
前身である日本法律学校を創設し、その後も引き続き第1次山縣内閣の司法大臣に留任
し法の要を成文化した。明治24年、司法大臣に復職し直後にロシア帝国の皇太子・ニ
コライ2世が襲われて負傷する大津事件が発生した時は、犯人・津田三蔵への死刑適用
に奔走したと言われる。動乱の中で西欧列強の持つ2面性に日本があたふた事を物語る
。一方で人権尊重し 一方で内政干渉・領土侵害も辞さない姿勢は人間の本性のままだ

419: 名無しさんAA:17/09/15 16:06
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 139

 明治5年の、陸軍出入りの政商・山城屋和助の陸軍公金の無担保融資事件は山縣有朋
には相当のショックがあった。山城屋和助は政府要人と同じ長州藩出身という縁故での
兵部省御用商人だった。軍需品の納入などで、陸軍省の公金15万ドルを借用して買い
付けを行っていた。ところが日本からの銀の流出で陸軍省保管の現銀は価格低落を被っ
ていて買い付けできなくなっていた。そこで生糸相場に手を出したが、ヨーロッパでの
生糸相場も日本の参入で暴落にあっていた。こうして投機は失敗し。山城屋は陸軍省か
ら更に金を借り出し、フランスの商人と直接取引をしようとフランスに渡っていた。が
此処に一人の日本人がフランスで豪遊しているという情報が、フランス駐在中弁務使の
鮫島尚信やイギリス駐在大弁務使寺島宗則の耳に入り、日本政府本国の外務省副島種臣
外務卿へ連絡されたのである。陸軍省会計監督・種田政明が密かに調査を始め、「一品
の抵当もなしに」多額の陸軍省公金が貸し付けられていたことが発覚して、薩摩系陸軍
人と長州系陸軍の対立のある中で激しく追及するところとなる。山縣は陸軍中将・近衛
都督を自ら辞任することにした。翌年の明治5年、江藤新平率いる司法省による本格的
な調査が始まろうとしたが、山縣から至急の返済を求められた山城屋は公金返済が不可
能であった為、陸軍省内で割腹自殺を図りその際関係する帳簿と長州系軍人の借金証文
類も焼き払われていたため、事件の真相は解明されることなく、陸軍省会計監督の長船
越衛の処分をもって終わったのだった。こうして日露戦争前の混乱は数少ない海外取引
を担う有能な武士が 戦乱や派閥に埋もれて行く時代の中だった。野口遵(したがう)
がシーメンスから用済みになり曾木電気株式会社創立したのは1906年で丁度 日露
戦争の前夜であったと言える。シーメンス事件もシーメンス社員のカール・リヒテルが
シークレットペーパーを会社から盗み出し、買い取るよう東京支店長宛に脅迫文書を送
ったところに始まる。要求金額は25000ポンド今の日本円で5千万円程度だったらしい。
脅迫は拒否され失敗した。カール・リヒテルはこの書類をロイター通信特派員に売って
ドイツへ帰国した。こうした事件の背景にあるのが 当時のドイツ人にある「黄禍」の
思想であろう。つまり日本人は敵であり(黒人と同じ様に)植民地の奴隷であるべきだ
と言う思考である。この勝手に自分の優位に刷り替える思考は今の朝鮮民族まで伝授さ
れたのだろう。盗み信用を無くす行為に日本人は混乱して良い正義だと言う欺瞞だ。


420: 名無しさんAA:17/09/15 16:14
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 140

 この後その脅迫された連絡を受けてすぐさまシーメンス重役陣は動き、同社の信用失
墜と関係海軍将校への影響を怖れてもみ消しを図り、公表を阻止した。これを知らされ
た当時海軍大臣の斎藤実は「わが海軍部内にかかる醜事に関係する武官あるべからず、
秘密書類の公表はむしろ望むところなり」と回答し、内情調査をするよう連絡したが、
議会運営が始まり 政局重大の折でもあり海軍当局の正式な連絡後に司法活動を開始す
ることとし一応静観の態度を取った。その後シーメンスとプーレーの間で妥協が成立し
、1913年にシーメンスが秘密書類を50,000円(1憶)で買い取り横浜領事館で焼却
、一度事件は終結を見た。ところがドイツの秘密機関がこの経過を全て把握しており、
ドイツ官憲はシベリア鉄道で帰国するリヒテルがドイツへ入国した瞬間にこれを逮捕、
恐喝未遂罪で起訴したのである。判決は贈収賄があったと認定し、贈収賄が犯罪を誘発
したとして情状酌量を認め、カール・リヒテルは2年に減刑された懲役刑に処された。
公正中立をもって知られるドイツ司法裁判所ではあったがこの事件に限っては国際儀礼
に反して一審判決から日本海軍将校の実名をも進んで通信社に公表した。そこには対共
政策に悩みながら日本に商売するドイツの姿があった。と言うのも最先端の軍事物資を
扱うシーメンスはドイツでも重大な機密であったが国としての優位保持も大事だった。
山縣有朋はしたたかに交友関係を保っていた。国王ヴィルヘルム2世としては日本との
商売はしても 日本に技術は売りたくはなかったのだ。更に既に日露戦争で勝って貰っ
たが今となれば山縣の政界での権力は潰したかったのである。こうした利害関係一致に
よっての陰謀が図られたのだ。シーメンス事件当時検事総長だった平沼騏一郎も 後に
回顧録でこの説を容認している。山縣有朋は薩摩閥・海軍と対立していた長州閥・陸軍
の代表的存在に変化していたからであった。更にこの少し前に日本海軍の活躍によって
日露戦争に勝利、「日本海軍育ての親」と称される山本権兵衛が首相となり山本権兵衛
は陸軍の主張であった軍部大臣現役武官制を一部廃止、陸軍の二個師団増設案を拒否、
山縣有朋が議長を務め天皇のブレーンとなっていた枢密院の定員削減などの行政改革を
していながら八八艦隊建設計画予算を計上していた。ヴィルヘルム2世は日英同盟から
の対抗の海軍拡張を進めており、イギリス海軍の分身とみなす日本海軍の金剛型戦艦4
隻を「ドイツ東洋艦隊を無力化する」としての脅威に感じてもいたのである。こうして
日本は注目を集め スパイ天国の国になり折角の国際的進出も道を誤らせられるのであ
る。陸軍軍閥を潰したい。海軍勢力は抑えたい。日本そのものを潰したい。ドイツの思
惑であった。それは同時に国際社会の誤りにもなり 現代までその禍根を残す。

421: 名無しさんAA:17/09/17 18:56 ID:mog
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 141

 こうして欧州戦乱の 米国英国Vs仏国蘭国がいつの間にか米国英国仏国Vs蘭国独
国伊国になり更に露国が入ってトルコなどの植民地が入り 東洋は奇妙な位置づけが、
があったが、日本がロシアに勝った事で更に奇妙な地位に降り立つ事になったのだった
。日本が開国し経済的には恵まれて1$1円時代に突入する頃、正にジパングで大量の
金の放出時期であった。正式に日本政府の発行券が流通する時代に到来するのだが、こ
れが先の海外製品や株が暴落した原因でもあったと言う。この通貨乱高下に伊藤博文さ
えも、奴隷商人によって米国内で売られそうになった事もあった。この後八幡製鉄所の
構想で九州電気軌道の軌道敷設計画が起こるのだが。これに日本政府は多くのドイツ人
イギリス人を雇った。最先端機器を必要とした時、基本的システムはイギリスに学んで
いたが 電化技術や軌道運搬や化学産品はドイツに学ぶ機器しか存在しなかったのだ。
明治の移行期に柳川近郊の足踏みの水車を作った者がいたがそこに一人の弟子が居た。
田中久重である。佐賀に反射炉が出来たのは江戸期でありアームストロング砲の改良型
が既に出来ていた。更に長崎のグラバーは既に多くの筑後茶で商売をしていた。この街
道沿いが現在の大木町や筑後市である。明治期では此処は多くの海外からの物が頻繁に
大川港を介して動いていた。浮羽から大川までは古くからの筏船が動いていた流通経路
が存在していた。水沼回廊と言う水路運搬も次々に出来て行った。運河計画もあった。
此処に当時の貯木場が今の八丁牟田近郊にあったとされる。八女金山をして金を納めて
いた逸話のある荒くれの金納氏がいたが此処に言う天才細工師が居たのだ。彼が作った
足踏み水車は少年さえ抱えるほど軽く高い3m程の段差さえも水を揚げた。と言われ更
に足で回転させる事も摩擦が少なく簡単に回ったのであった。彼は田中義右衛門の師匠
の様な人だったと言われる。田中久重は江戸時代後期から明治にかけての発明家で佐賀
藩の反射炉で作業をしている。その後「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」と呼ば
れて、芝浦製作所を設立し後の東芝の重電部門の創業者となったが、筑後国久留米の鼈
甲細工師・田中弥右衛門の長男だった。蘭学狂いの鍋島直正が治め佐賀藩の精煉方に着
任していたのは佐野常民が幕府注文の蒸気鑵(ボイラー)を製作する任を受けていたか
らだったと言う。空気圧で灯油を補給する無尽灯を売り出した田中に、白羽の矢をたて
てボイラーの試作を行う事にしたのである。佐賀藩が鉄砲やアームストロング改良砲を
売って財政立て直しに、成功した頃の話である。

422: 名無しさんAA:17/09/17 19:11
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 142

。“からくり儀右衛門”久重と“肥前の妖怪”鍋島閑叟の出会いを生み出したものは、
先代の佐賀藩の汚名であった。久重は高い志を持ち、創造のためには自らに妥協を許さ
なかった。芝浦製作所を作る時久重は、「知識は失敗より学ぶ。事を成就するには、志
があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、その後に、成就があるのである」との
言葉を残している。これは鍋島閑叟の意志でもあったのだろう。フェートン号事件以来
長崎警備等の負担が重く、更にはシーボルト台風など佐賀藩は悲惨な状況であった。借
財返済を申し立てた商人に、斉正の大名行列は進行を停止せざるを得ない屈辱的な経験
をもしているぐらい財政破綻に陥っていた。かつて1808年に、オランダ船拿捕を目
的としてイギリス海軍の戦艦フェートン号が、偽りのオランダ国旗を掲げて長崎入港し
た。通常業務として阿蘭陀館長や通訳が船に近づくとすぐさま人質にし、英国国旗を掲
げた。要求は水や食糧や燃料を求めた事だが、これは長崎警備の佐賀藩にとって寝耳に
水の厄難であった。2日に渡り停泊し食糧や水の補給すれば人質を解放して終わった。
終われば日本側に人的・物的な被害はなく、人質のオランダ人も無事に解放されて事件
は平穏に解決していたのだが、幕府は許さなかった。勝手に兵力を減らしていたからだ
。長崎奉行松平康英は、国威を辱めたとして自ら切腹して果て、鍋島藩家老等も責任を
取って切腹した。さらに幕府は、鍋島藩が長崎警備の任を怠っていたとして藩主の鍋島
斉直に百ヵ日蟄居閉門を命じた。しかし38門艦フェートン号には片方の側砲に16門
の大砲が備えられた戦闘艦であった。。対して日本にはそうした軍艦は一つも無く上申
するも幕府は備える事が出来なかったのである。その為にグラバーを通じて佐賀藩は大
きく商売に出た。既に細々と陶磁器やお茶が売れていたが借財して土地を売り嬉野茶を
育てり川内に今まで職人芸だった焼き物を分業し集団制作に変えたりはしていた。この
空砲を打つ軍艦ではあったが相当な衝撃だったはずだ。阿蘭陀人の指導を得て反射炉を
作り隠れて大砲や軍艦制作まで行う事にしたのである。当時武器輸入は長崎のこのトー
マス・ブレーク・グラバーを通じて行われていた。スコットランド出身の武器商人とし
て、幕末の日本で活躍した者だ。彼は明治維新後も造幣寮の機械輸入に関わるなどした
が、武器が売れくなり諸藩の資金回収が滞りグラバー商会は破産してしまった。大森氏
となって帰化し、高島炭鉱の実質的な経営者として喰いつないだ。帰れなかったのだ。
官営事業払い下げで三菱の岩崎弥太郎が高島炭鉱を買収した時、所長として経営する。
明治18年1885年以後は三菱財閥の相談役になり、経営危機のS・B・ブルワリー
の再建参画を岩崎に勧めて麒麟麦酒の基礎を築いた。

423: 名無しさんAA:17/09/17 19:11
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 143

トーマスグラバーは日本初の商業鉄道が開始されるよりも前に蒸気機関車の試走を行い
、長崎に西洋式ドックを建設し造船の街としての礎を築くなど日本の近代化に大きな役
割を果たしたと言われる。1830年隠居の後を受け17歳で第10代藩主になるが、
先代藩主・斉直はいち早く海軍時代を予想し阿蘭陀から軍船を買っていた。この電流丸
(でんりゅうまる)は佐賀藩所有の軍艦。排水量およそ3百トンの木製コルベット艦だ
った。購入金10万ドルは安くなかったはずだ。安政の大地震が東北に起きた頃だった
為、米相場の米輸送で儲ける為と言える。この大川の対岸の八重津と呼ばれる早津江港
に着いた時は大老井伊直弼が就任した時であった。電流丸はコルベット艦で一層の砲甲
板しか持たず、大きさはフリゲートよりも小さかった。それでも大砲を何門か備えてい
た。江戸時代にこの藩が買ったのは脅威であった。父親の斉直でも受け継いだ時佐賀藩
では1万5千貫の借金があり、財政が破綻寸前となっていた。この為斉直は財政再建の
藩政改革に取りかかっている。まず、経費節減政策を考えている。支藩の肥前鹿島藩の
廃藩、次に長崎警備の任務の返上である。長崎警備には莫大な費用がかかり内密で熊本
藩に引き継いでもらおうとしたのだが幕府に見つかるのだ。鹿島廃藩も小城藩や蓮池藩
の反対でとん挫しその中でフェートン号事件が起こったのである。その後も江戸藩邸が
焼失しシーボルト台風の襲来で財政はさらに悪化し、借金は13万両に膨れ上がるので
ある。この中で電流丸を買い付けしているのだ。斉直に百ヵ日蟄居閉門を命じられた時
多分色々と考えたに違いない。大坂船場に移り住み折りたたみ式の「懐中燭台」、灯油
を自動補給する灯明の「無尽灯」考案し京都へ移ったが、天文学を学ぶために土御門家
に入門している。この土御門家は薩摩藩お抱えの公家のはずだ。土御門家は、安倍清明
以来続く陰陽道の家柄で代々、幸徳井家とともに暦の制作にたずさわっていた家柄だ。
又嘉永6年(1853年)佐野常民の薦めで蘭学狂いといわれた鍋島直正が治める肥前
国佐賀藩の精煉方に着任し、国産では日本初の蒸気機関車及び蒸気船の模型を製造する
のだが この佐野の産まれた所が肥前国佐賀郡早津江村で佐賀藩の三重津海軍所である
。東芝の創業者であり、“東洋のエジソン”と呼ばれた奇才な発明家、田中久重がここ
に来るのに多分に薩摩藩の土御門家を通じた援助があり佐賀藩自体は長崎出島まで密輸
を行う起点として三重津海軍所を作ったと言える。幕府の目を盗んで。幕府としても、
この長崎奉行の警護には佐賀藩が欠かせない存在で大目に見たのだろう。

424: 名無しさんAA:17/09/17 19:13
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 144

 トーマス・ブレーク・グラバーは1859年に上海へ渡り「ジャーディン・マセソン
商会」に入社。「グラバー商会」を設立し、貿易業を営む。とある。当初は生糸や茶の
輸出を中心として扱ったが八月十八日の政変後には政治的混乱に着目して討幕派の藩、
佐幕派の藩、幕府問わず、武器や弾薬を販売した。又亀山社中とも取引を行ったし薩摩
藩の五代友厚・森有礼・寺島宗則、長澤鼎らの海外留学や、長州五傑のイギリス渡航の
手引きもしている。だがこの「ジャーディン・マセソン商会」こそ中国にアヘン売人と
して上陸し、襲われてイギリス海軍出動戦争をして恨みをはらそうとした東インド会社
の、香港貿易商社だった。中国の広州(沙面島)に設立された中国語名は「怡和洋行」
は当時、広州は広東システム体制下、ヨーロッパ商人に唯一開かれた貿易港であった。
設立当初の主な業務は、アヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出をして、香港上海銀行を
通じて本国に送金する事だった。HSBCはその為に設立された銀行で、ウィリアム・
ジャーディンとジェームス・マセソンは香港で稼いだ資金を運用する権限を持っていた
。この時この行為を知った清は取り締まりをして、船長以下捕らえた。此処に清とイギ
リスとの間で1840年から2年間にわたってのアヘン戦争が起こる。イギリスでは、
インドで栽培し製造したアヘンを、清に密輸して広く組織的に販売し収益を得ていたが
、当初はアヘンの流通販売や摂取を禁止していた清との間では綿花の輸出入が貿易だっ
た。だがイギリスに産業革命が起こると送る綿花はなかった。機械化し国内重要が代わ
り出来たからだ。他に胡椒や香辛料もインドで栽培しようとしたが、東南アジアからの
品質や量に叶わなかった。そこで登場したのがアヘンである。当初アフリカの奴隷貿易
で屈強な奴隷たちを服従させるために酒の様に使われたが、これは中国では有効な手段
としてもてはやされた。アヘンは高地でも手軽に栽培されインドの名産としてベンガル
阿片として広く流通した。当初明時代に朝貢物として阿片が輸入され広く出回ったが、
日本に攻撃された李氏朝鮮の救援(文禄・慶長の役)などの出費がかさみ、財政が破綻
していた明王朝はその取り締まりは出来なかった。その後清王朝が取り締まりをしたが
阿片需要は止まらない中での銀の決済ができなかったのだ。元々はビルマから中国に入
り銀と交換し阿片がアフリカで使われる循環だった。だがベンガル阿片の登場と産業革
命はそれを変えた。更に日本から入ってきた銀は江戸期には中国に来なくなっていた。
銅の鉱山や銅の精錬が出来たからだ。そしてイギリスは三角貿易が出来ていた


425: 名無しさんAA:17/09/17 19:14
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 145

 かつて日本は長い間 銀を送って銅銭を手に入れる事で貿易を行っていた。それには
理由が2つあった。つまり銅鉱山はかなり危険な成分を含んだ鉱石と存在した鉱山だっ
たからだ。日本での銅鉱石は多くは黄銅鉱や硫化鉄で少量の有害な物質と半分程の不要
鉱物だった。今でこそ精錬法が電気精錬などが出来てそう危険では無くなったが明治の
時代までその精錬には 有害なガスと有害な水溶液と危険な作業が重なり合った場所で
あった。精錬に要する火力は鉄に匹敵し更にガスの対処するには屋外同様の環境で作業
するしかなかったし 掘り揚げる鉱山も炭鉱の危険さと同じ上に触る石が有害だった。
 国内の銅の存在は鉄より古い。銅鉱石を初めて産出したのは西暦698年(文武2年
)には、因幡国(鳥取県)から銅鉱を朝廷に献じたと伝えられて記載されている。また
708年(慶雲5年)には武蔵国秩父から献上された銅を用いて貨幣(和同開珎)が作
られ、年号も和銅と改められたとなってその通貨価値も古い。最近7世紀後半の飛鳥池
の遺跡から発見された「富本銭」も、鋳造は700年以前に遡ることが確認された。又
、遺跡からの溶銅の大量出土はその当時の産銅量が既に一定の水準に達していたことを
物語っている。それでも平家の時代わざわざ貨幣改めをする程に一般に流通していない
。銅を中国に求めたほど発達しない物だった。精錬技術が危険でそのまま伝わらなかっ
たし銀の生産の方が効率的だったからだ。その昔中国では、金・銀・銅のいずれも「金
」と総称していた。必要ならば金を黄金、銀を白金、銅を赤金と区別していた。それが
「銅」の文字の語源である。だが銅は合金であってその不純物との化合具合から、発色
が違っていた。日本の場合銅金(あかがね)と呼ばれた。黄銅や青銅はさび付きやすい
古代銅であった為だ。江戸時代には精錬技術が発展し、純度の高い銅を素銅(すあか)
、不純物を多く含む銅を山銅(やまがね)と呼び、区別した。中国の字典には赤銅の記
述がされ 赤銅(しゃくどう)は金を数パーセント混ぜた銅合金を示すとされる。対し
て金銀は灰吹法が導入されて簡単に純度をあげられた。つまり粉末の金銀が鉛と化合し
熱によって素皿に鉛を吸わせる事で簡単に抽出できたからだ。鉛中毒の恐れはあるもの
の鉱山の外でのフイゴによる容易な火力で出来たのだ。


426: 名無しさんAA:17/09/17 19:38
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 146
 だが室町時代には 既に町場鍛冶が起こっていてこの銅が鉄に含む化合物として大き
く必要となり、日本人は画期的な精錬法を編み出した。それは不純物を燃した後の銅を
高熱のまま百度のお湯で冷やすのである。爆発の恐れはあるものの先の銀と鉛の化合物
を素焼きの皿に吸わして金や銀を抽出するように、沸騰したお湯につけて精錬する方法
は逆転の発想であろう。全国各地で各種の鉱物が続々と発見され、奈良朝および平安朝
時代にかけては青銅の仏像や仏具・工芸品などが盛んに作られ、749年(天平21年
)聖武天皇発願である東大寺大仏の建立で、銅の精錬・鋳造加工技術は著しい進歩を示
した。ところが銅の精錬は秘密裡に行われたのだ。室町時代にはいると中国・スペイン
・ポルトガル・オランダなどとも貿易が開かれましたが、そこは鉄の世界だった。鉄砲
その他の武器・貨幣・日常生活の器具等に銅に関する需要が内外ともに旺盛となったも
のの量そのものは増えない。と言うの銅の展延性は特に金属加工において重要であるが
銅鉱石の不純物の鉄の方が利用されたし、銅の細工は早々大きくも多くもない。ことに
江戸時代の寛文、元禄の頃銅は金銀にかわって長崎貿易の主力となり流通は藩財政の中
の財源だった為特に秘密裡に行われた。世界的に見て、それでも新大陸(米国)の銅山
がいまだ多く開発されていなかった頃の1697年(元禄10年)の銅の生産高は世界
一の約1000万斤(6,000トン)で、長崎貿易の輸出量はその半分にも達する状
況になっていた。銅製品が戦国時代の武将の鎧兜で多く必要とされていたのだが その
原料は精錬はそう必要が無かったが 海外まで有用な品物となった時その精錬法は見直
されたと思われる。江戸時代末期の1853年に、ロシアのエフィム・プチャーチンが
来航し、蒸気で走る模型を披露したり1854年、アメリカのマシュー・ペリーが江戸
幕府の役人の前で模型蒸気機関車の走行を実演した記録があるが、その後いち早く18
65年の元治2年に、このグラバーは大浦海岸において蒸気機関車(アイアン・デュー
ク号)を走らせている。アイアンデュークは圧力タンクと蒸気機関の名称で、その汽船
や機関車が当時では最先端の速さを持っていた。大きさは小さいがアメリカ西部では、
数多く使われ ゴールドラッシュ時の移動から第二次世界大戦のアメリカ産業を支えた
。恐らくは、イギリス本国にこの日本との交易の危機を訴えてすぐさまその対策として
汽車を取り寄せ、それに合わせた線路を敷いたと思われる。この汽車は、1865年(
慶応元年)に上海博覧会に出品されていた英国製の蒸気機関車をグラバーが買い取って
、客車2両を引かせて、石炭が無く木炭で走らせたらしい。長崎(現在の市民病院前)
〜大浦海岸(現在の大浦川)までの約600mの線路を敷設して走らせたのである。この
購入額はかなり高かかったといえる。

427: 名無しさんAA:17/09/17 19:39
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 147

1851年イギリスから始まった、万国博覧会は異様な盛り上がりと国際的祭りとして
斬新な物で、イギリスの産業革命を強く彩る祭典だった。これを機に1853年アメリ
カニューヨークでも開かれ日本にも知らされた。この事はフランスを刺激し、1855
年にパリ万国博覧会ナポレオン指導で行われた。この時正式な日本の参加は無かったも
のの中国やインドと一緒に陶磁器が飾られたとされる。その後も英国は精力的に第4回
を1862年にロンドン万国博覧会として200日開催している。その後1867年に
第二回パリ万国博覧会が 幕府および薩摩藩と佐賀藩が参加した形で行われた博覧会で
有名であるが、既にその前の英国のロンドン博覧会でも正式参加ではないが、駐日英国
公使のラザフォード・オールコックが、自身で収集した漆器や刀剣、版画といった日本
の美術品のほか、蓑笠や提灯、草履なども展示された。また、開会式には文久遣欧使節
の一行が参加し、日本が万博に関与した最初の事例となった。このコレクションに対す
るロンドンでの評価は、日本の国民性をみごとに表現したものとして高く評価され、ヨ
ーロッパにおけるジャポニズム流行の契機にもなった。こうして日本の展示品は現地で
は絶賛されたが、日本の使節団の見た視線は淵辺徳蔵『欧行日記』に「全く骨董品の如
く雑具」、「かくの如き粗物のみを出せしなり」と不満を書き残していて、使節団の一
員だった福沢諭吉が Exhibitionを「博覧会」と訳したと言われている。 この中国での
上海博覧会に佐賀藩のみが招待されて隠れて見学に行っているのである。もともとは、
英国の東インド会社では麻薬ではなく香辛料の運搬が主だった。高く売れたからだ。が
バグダッド人がインドのボンベイに「ディビッド・サッスーン商会」を設立してこれが
英国東インド会社による阿片の専売権を受け持つ事で 大きな東南アジアの三角貿易が
始まっていた。産業革命の結果、イギリスは陶器や絹織物を輸入して、綿織物を輸出し
たがそれが鉄に変わった。綿織物が高く売れなかったのだ。それは日本へ流れた綿花の
まま布団になったのだ。急速な革命的変化はインド、中国のあいだでと銀の交換が必要
だったがその対抗産物が無かった事で麻薬が三角貿易の対象となった。中国の税は銀貨
で納める事が決められていたからだ。イギリスからの綿工業製品が日本へ、インドから
の阿片が中国へ、中国から銀、日本から茶や陶磁器が輸出された。この商品の流れと逆
方向に銀が移動する。イギリスが買う茶よりも、中国が買うアヘンの金額が大きくなれ
ば、イギリスの貿易は銀が貯まる。こうしてアヘン貿易が中国の高い茶や陶磁器の貿易
を逆転して安い日本のお茶や陶磁器に変化してこれに佐賀藩は財政転化を図ったのだ。

428: 名無しさんAA:17/09/17 19:46
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 148

 1830年に佐賀藩を受け継いだ時藩の財政は既に火の車で多くの負債を返す宛はな
かった。唯一の産業は有田焼だったとおもわれる。これまで一人の者の成型加工絵付け
を分業化して 有田の町から川内町に移して大量生産体制を敷いた。1835年二の丸
焼失事件を機に佐賀藩を大きくする事を決断した。密貿易である。当時当番で長崎奉行
をしていた関係から 外国商人との関係は深かった。当時清国では阿片は悩みの種だっ
たが広く出回って居た為「弛禁論」と言う認めて関税をかけよ。と言う声まで現れてい
た。その後「吸引した者は死刑に処すべき」と言う声に林則徐を特命全権大臣に任命し
広東に派遣し、アヘン密輸を厳しく取締まった。1839年には阿片商人たちに「今後
、一切アヘンを国内に持ち込まない。」という誓約書提出させ、「持ち込んだら死刑」
と通告した。さらにイギリス商人が持っていたアヘンを没収、商館である夷館も閉鎖し
た。没収した阿片塊は海水に浸し塩と石灰で無毒化させ灰からも精製出来ない処分をし
1400トンを没収してそれを行い誓約書のない阿片商人を町から退去させた。この展
開にイギリス商人は阿片の引き渡しの要求には応じたが、誓約書の提出は拒否し、更に
英国人保護の為広東在住の全英国人を連れてマカオに退去した。だが九竜事件での船員
による現地民殺害を口実にマカオを武力封鎖して市内の食料を断ち、さらに井戸に毒を
撒いてイギリス人を毒殺しようと企んだ。ここで事態が飲み込めないまま東インド艦隊
のフリゲート艦が2隻だけ到着し 英国商人達は反撃にでるのである。これにたいして
英国議会は「不義の戦争」とする批判がある中、清に対する出兵予算案は賛成271票
、反対262票の僅か9票差で承認され、イギリス海軍はイギリス東洋艦隊を編成して
対清国開戦に及んだのだ。この艦隊出現で道光帝は驚き、強硬派の林則徐を開戦の責を
負わせて新疆へ左遷し、代わりの者に川鼻条約を結ばせた。ところが艦隊が撤収すると
強硬派の台頭によってその条約は破棄された。こうして南京条約が結ばれるまで戦争の
アヘン戦争が起きるのだが 中国のジャンク船はイギリスの火力の前には全く歯がたた
なかったのである。こうして1842年南京のイギリス海軍戦列艦で、イギリス全権代
表清国全権代表での南京条約が締結されるまで続いた。1. 香港島割譲  2. 賠償金
2,100万$を四年の分割で支払う  3. 広州、福州、廈門、寧波、上海の5港の開港
 4. 公行の廃止による貿易完全自由化などを認めさせた。この戦闘によって代用品と
して日本の陶磁器やお茶や刀や木製品を浮世絵など包み送り日本産品の名声を得たのだ
った。

429: 名無しさんAA:17/09/17 19:54
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 149

 この1865年(慶応元年)に上海博覧会において 出品されていた英国製の蒸気機
関車「アイアン・デューク号」を買い取り、客車2両を引かせてたが、この博覧会が、
清とイギリスとの間で1840年から2年間にわたって行われたアヘン戦争のしこりを
のぞき 日本などとの商取引を大きくしようとした英国の催し物であった事は間違いな
い。加えて武器取引や阿片商売更に奴隷交易といった暗いイメージで敵対される視線を
そらす為の重要な布石であった。国際的欧州社会は大きな転換期を迎え、米国すらも、
国内経営に切り替え 他国との競争時代になったのだ。幕末の文久2年西暦1862年
9月14日に、武蔵国橘樹郡生麦村において、降って沸いたような突然の事件が起こっ
た。薩摩藩主の島津茂久の父・島津久光の行列に、乗馬のままの乱入したイギリス人達
がいた。当然供回りの藩士たちは防備の任に当たり1名死亡 2名重傷した。有名な、
生麦事件である。4人はこの日、東海道で乗馬を楽しんでいたとあるが、観光で川崎大
師に向かっていたともいわれる。この時死亡したのが上海で長年商売をしていて、見物
のため来日していたチャールズ・レノックス・リチャードソンだった。外務大臣ラッセ
ル伯爵の文書では、騎士道ならざる抑制されないプロ・ボクサーにみられるような本能
の男で蛮勇の持ち主である。と書いている。つまり「大名というものは子供の時から、
周囲から敬意を表されて育つ。もしリチャードソン氏が敬意を表することに反対ならば
、何故に彼よりも分別のある同行の人々から強く、引き返すか、道路のわきに避けるな
どしなかったのであろうか。」つまり生意気なイギリス青年が大名行列に出くわした。
と言う事件だったのだ。ところが殺されたリチャードソンは一人息子で、彼の父親が 
事件発生を知ったのは、2か月後の新聞報道で、詳細がつかめない旨の返事で報道後の
20日後にやっと日本のニール代理公使から事件概要を掴み、薩摩に対し犯人の処刑と
賠償金10ドルの支払いを要求し、もし薩摩がそれを拒み、又は引き延ばした場合は相
応の措置をとるとの確約を 英国高官と行ったのだ。事件直後から日本国内では、各国
公使、領事、各国海軍士官、横浜居留民が集まって対策会議が開かれた。中には「島津
久光、又は高官を捕虜とする。」という議題まで挙がっていて、下手をすれば大戦争に
直結しかねないだけに、幕府もイギリス公使館も対処の仕方に苦慮を重ねる事になった
。又水面下でも色々な問題が議論された。がニール代理公使は本国指令を待って 年明
けて改めて幕府に対して謝罪と賠償金の10万ポンド要求と犯人の受け渡しを望んだ。
こうしてこの年には幕府統制の一括海外貿易が崩れた原因になった。

430: 名無しさんAA:17/09/17 19:57
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 150

 英国側では幕府と藩との関係に弁明を受け さらには、薩摩藩には幕府の統制が及ん
でいないとして、艦隊を薩摩に派遣して直接同藩と交渉し、犯人の処罰及び賠償金2万
5千ポンドを要求することを通告した。幕府に圧力を加えるため、イギリス・フランス
・オランダ・アメリカの四カ国艦隊が順次横浜に入港した。老中や幕府が支払い決定や
支払い拒否を繰り返す中で、緊迫した空気に小笠原長行は海路横浜に赴き、独断で賠償
金交付を命じた。翌日、賠償金全額がイギリス公使館に輸送された。小笠原長行は罷免
なったがこれにより幕府との交渉は一応の決着がついた。だがイギリスは薩摩藩と直接
交渉するため、6月27日に軍艦7隻を鹿児島湾に入港させた。交渉は不調であり、7月2日
、イギリス艦による薩摩藩船の拿捕をきっかけに 薩摩藩がイギリス艦隊を砲撃して、
薩英戦争が勃発した。薩摩側は鹿児島市街が焼失するなど大きな被害を受けるが、英国
艦隊側にも損傷が大きく、4日には艦隊は鹿児島湾を去り、戦闘は収束したのである。
 事件後には「この事件が起こる前に島津の行列に遭遇したアメリカ人商人のユージン
・ヴァン・リードは、すぐさま下馬した上で馬を道端に寄せて行列を乱さないように道
を譲り、脱帽して行列に礼を示しており、薩摩藩士側も外国人が行列に対して敬意を示
していると了解し、特に問題も起こらなかったという。ヴァン・リードは日本の文化を
熟知しており、大名行列を乱す行為がいかに無礼なことであるか、礼を失すればどうい
うことになるかを理解しており、「彼らは傲慢にふるまった。自らまねいた災難である
」とイギリス人4名を非難する意見を述べ、当時の『ニューヨーク・タイムズ』は「こ
の事件の非はリチャードソンにある。日本の最も主要な通りである東海道で日本の主要
な貴族に対する無礼な行動をとることは、外国人どころか日本臣民でさえ許されていな
かった。条約は彼に在居と貿易の自由を与えたが、日本の法や慣習を犯す権利を与えた
わけではない。」と評している。だが国内では、「国内法との整合性がつかない治外法
権を含んだ条約は、朝廷の許しも得ず幕府が勝手に結んだもの。」との批判に溢れた。
そしてその後の日本国は、肝心な点の、日英修好通商条約による治外法権の規定の、「
日本の側にはイギリス人を裁く権利は存在しなかった。」ことの修正とイギリス側から
言う、「イギリス人が日本の法律に従ういわれはなく、たとえ日本の国内法で無礼討ち
が認められていようとも、当然のことながらそれはイギリス側からは認められるもので
はない。」と言う矛盾の訂正に走りまわる事になったのである。前者は通商交渉の訂正
ややり直しであり後者は日本の仕組みや法律の改定で意識改革であった。

431: 名無しさんAA:17/09/17 20:06
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 151

 本来佐賀藩が狙っていたのは どうも砂糖だったようだ。砂糖は日本では高級品で、
庶民に売るには少量で高価だったからだ。だがフェートン号事件以降は鉄の恐ろしさを
知る。更に船便で多少の麻薬の阿片との積荷の差が無く厄介なものであり、砂糖その物
が他の藩が南洋上の奄美などからやって来て利権を持っていた上に、中国向けの麻薬は
南蛮船の得意とするもので 交易をひたすら鉄に変えた様だ。当時の日本では鉄は鉄砲
や兵器以外には釘や刀位で必要は無かった。各藩では古来より砂鉄から刀や馬具などを
生産する方法があったからだ。だが蒸気船や大砲の身近な到来は 大量の鉄文化が西洋
の主流で、船・機関車・大砲・線路と佐賀藩には大きな衝撃があったと言えるだろう。
多分この頃から 南蛮商人の入用のお茶や陶磁器に力を入れて、ひたすら欧州の技術を
学んだ様だ。博多のビードロや薩摩切子は有名だが 多分ガラス機器も佐賀が最初であ
ったろうと思われる。それは火や窯に対する情熱の高さからだ。ただガラスコップは、
陶磁器作品の商売敵である。だから禁令を出して隣の福岡や縁戚の薩摩に移ったと考え
られる。更にサトウキビは薩摩では取れるここでも薩摩とは競り合わない配慮をした。
と考えられる。薩摩には仙巌園内に残る反射炉跡がある。安政4年(1857年)、28
代薩摩藩主島津斉彬が佐賀藩に次いで反射炉を完成させた。この反射炉は縁戚の佐賀藩
に助力を求め佐賀から江川氏を派遣して出来たと言われる。この炉で鉄を大量に生産し
、大砲鋳造を始め様々な武器も製作した。つまり1862年の生麦事件の時既に佐賀藩
の指導のもとこの反射炉は完成し佐賀藩が作っていたアームストロング砲改良版が出来
ていたのだ。更には英国の技術者さえも接触していた可能性すらある。そうした中でも
英国は10万ポンド(40万ドル)の賠償金を要求し先の通訳官斬殺事件1万ドル合計
11万ドルもの大金を小笠原長行の独断とは言え 幕府からせしめていた上に薩摩への
襲来を図ったのである。11万ドルの受け渡しにイギリス公使館内では、中国人の貨幣
検定人を方々から借り集め、貨幣の検定と勘定を進め、全部やり終えるのに3日間かか
ったという。皮肉なことにイギリス側に賠償金を支払った日の翌日、5月10日は幕府
が攘夷実行期限として、朝廷に約束した日付であった。この事から 英国側は既に尊王
攘夷で公武合体の機運があり日本が内乱を起こすと予想をしていたと考えられ、それが
無くなってまずは南の辺地から内乱を起こすきっかけを模索していたとも見て取れる。

432: 名無しさんAA:17/09/17 20:09
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 152

 1860年当時アメリカ公使館の通訳官・ヒュースケンが斬殺された事件での賠償金
が1万ドルであり、同じ様に薩摩藩がヨーロッパから購入した最新鋭の蒸気船が一隻、
約10万ドルである事から、恵まれた藩が奮発して買う軍艦が、4隻も買えると言う莫
大な金額であったと言える。つまりそれだけ吹っ掛けた金額だった。それだけに40万
ドルという金額は幕府が今まで支払った賠償金額をはるかに超える途方もない金額であ
ったと言える。だがこのイギリスの目的が賠償金である筈がない。一般的に戦争するに
も出費というものがある。出費しても欲しいとしたのは日本そのものだったと言える。
イギリスの戦争目的が、薩摩のイギリス人無礼討ちに難癖をつけて日本侵略の足掛かり
を築く事であったのだろう。更にこの戦艦を錦江湾に集結させた理由はかつてのアヘン
戦争で香港やマカオを足掛かりに中国大陸を窃取したやり方と全く同じで、中国のジャ
ンク船の戦艦を平らげた様に日本もやれると思っていたと思われる。ところが錦江湾に
は、旗艦では無かったものの蒸気船が3隻停留していたのだ。緊迫したムードが錦江湾
を覆う中、英国艦隊は、宣戦布告もないままに停泊していた薩摩の船、天佑丸(英製)
、青鷹丸(独製)、白鳳丸(米製)の3隻を拿捕した。多分にこの戦艦が無ければ無力
と思えたのであろう。ここで英語の通じる寺島宗則と五代友厚の2名は、乗組員を安全
に下船させることを条件に人質となった。彼らは旗艦を爆破し、英国の提督と差し違え
る覚悟で日本側の乗組員が全て下船すると 2層式片側16門の旗艦は直ぐに撃破され
た。このような形で開戦し、始めのうちは薩摩の海岸沿いの大砲が威力を発揮した。が
、英国艦隊が大砲の射程外に出ると、艦砲により磯の工業地帯を壊滅させました。前の
藩主の斉彬の頃までの薩摩の大砲は外国製で射程距離が長かったが、和製大砲には螺旋
を切る技術がまだ無く、射程が短くなっていたのであった。更には薩摩藩側は物的被害
が大きく出た、鹿児島城内の櫓、門等損壊、集成館、鋳銭局、民家350余戸、藩士屋
敷160余戸、藩汽船3隻、民間船5隻が焼失したのである。だが英軍側の方も戦死者
、負傷者を多く出し、旗艦は大破。旗艦艦長も死亡している。現在の鹿児島市街の一割
は完全に焼き払われ、イギリス艦隊も旗艦艦長と副長が戦死するなど、多大な犠牲を払
う中で英国艦隊が離れて行った事でこの戦争は終わった。こうして英国のその目論見は
、薩摩が屈服しなかった事によって失敗に終わったと言える。

433: 名無しさんAA:17/09/17 20:17
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 153
 薩英戦争の時には 既に台風が近づいていた。また、英国艦隊も旗艦の艦長以外は、
初めからから戦争をするつもりではなかった中で招集されていた。資材も食料もそれほ
ど積んでいなかったのだ。この後英国軍は神戸に向かい人質を解放した。航海の途中で
人質にした寺島と五代に「上陸して戦闘した場合に、勝ち目があるか」を尋ねたところ
、薩摩人の勇敢さについてとくと語られ、横浜に帰ることになったと記録される。拿捕
した3隻の薩摩の戦艦は足手まといになり、途中沈めてたと言う。英国艦隊が横浜に着
いたときに、人質となっていた寺島と五代は釈放されました。しかし、二人はこの時、
英国と内通者とみなされ、幕府と薩摩の両方から指名手配される。つまり、スパイ容疑
をかけられたのです。寺島は武蔵の羽生村に五代は長崎のグラバーのところに落ち延び
た。これは横浜から何処にも行けない状態だったのだろう。多分人質になった時既に我
が身の命は無い物と思っての行動がそこにはあったのだろう。しかし、薩摩内において
二人に同情的な意見が多く、しばらくして二人は免罪された。この時、五代は藩あてに
注進書を書きます。英国と薩摩の国力の差は計り知れない、そしてそれを見習うために
留学生を派遣すべきである、と。そして、この計画は実現し、19名の留学生を幕府に
秘密で英国に派遣する事になる。又再度の講和が持ちあがった時、薩摩藩内には英国と
引き続き交戦すべきだという意見も多々あった。が結局船はなく、磯の工業地帯を壊滅
させられ被害の復旧の資金などの事態を考えれば英国と講和する事の方が得だった。こ
うして生麦事件の犯人捜査に全力を尽くすことと、賠償金を支払うことを約束しました
。賠償金は幕府が立て替えたのですが、数年後に明治維新になり、薩摩は幕府にはこの
お金を返さずじまいで終わっている。薩摩藩は攻撃を開始する前に既に避難を命じてい
た為人的被害は少なく、又斉彬公が他藩に比べ近代武装化ができていた事でイギリスは
阿片戦争の様に脅せば落ちると思っていた様には行かず、又弱腰の幕府から賠償金を得
られていたために面目は取りあえず図れていた事が、西洋を相手にしようとした大層な
この戦争に決着をつけたといえる。結果として、薩摩藩側が賠償金を支払い和解となっ
たため、負けた形の薩英戦争ですが、世界最強と言われたイギリス海軍が事実上敗けて
戦いをあきらめ、途中撤退したという事に西洋は驚いた。ニューヨーク・タイムズ紙は
「この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということだ。
彼らは勇敢であり西欧式の武器や戦術にも予想外に長けていて、降伏させるのは難しい
。英国は増援を送ったにもかかわらず、日本軍の勇猛さをくじくことはできなかった」
とし、さらに、「西欧が戦争によって日本に汚い条約に従わせようとするのはうまくい
かないだろう」とも評した。

434: 名無しさんAA:17/09/17 20:54
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 154

 イギリス本国では、「薩摩は九州島の西南の端」との情報程度しかなく、居城の砲撃
か、又は港の封鎖かを提督らの判断に任せるとの指示を出していた。当時はまだ山川湊
の海図しかなく、鹿児島湾内の水深を測りながらの航行であった。測量専門技師をわざ
わざ上海から呼び寄せ、さらに薩摩に来たことのある日本人水先案内人を横浜で雇いま
した。案内人から、谷山沖に「七ツ島」があると聞き、そのどこかの島に7隻の軍艦が
停泊できると思っていましたが、七つの小さな岩が海中から突き出ているだけだったこ
とに驚いています。「沖小島」を「ニール島」、桜島の小池海岸周辺を「ユーリアラス
湾」、鹿児島湾の「神瀬」を測量技師パーカーの名から「パーカー瀬」と名付けていま
す。すぐ様、戦争の結果はイギリス本国に報告された。ビクトリア女王は交戦になるの
ではないかと懸念していたことを話し それが現実となって英国議会の開会挨拶の中で
は、鹿児島市民に多大な被害を与えたことに対し遺憾の意を表明した。イギリス国内に
おいては、この英国艦隊の行動を批難した住民の抗議集会など大きな反動があり、各地
で批難の決議や書簡が政府や報道機関に寄せられている。交戦時に砲台を壊滅する必要
はあっても、市街地を焼き払い、一般市民に多大な被害を与える行為は許せないとの声
が多く、市民からは人道的な立場からの深い同情の念が示されたものでした。イギリス
艦隊が、再び鹿児島砲撃に向かわなかったのは、こうしたイギリス本国の事情があった
からだといえる。だが日本では幕府の中に大事件が多数起こっていて、斉彬公の逃げ得
は当然であった。既に孝明天皇の強い要望により将軍徳川家茂が、文久3年5月10日
(1863年6月25日)をもって 攘夷実行するとの約束をしていて その期限が近々だった
のだ。又こうした動きは既に西洋諸国の公使館員は殆ど知っていて、清国と同じに今度
は英国だけに交易権利を渡さないと虎視眈々と狙っていたし、各藩も多小はあっても、
自藩の領地を守るための武器は取り寄せていた為、逆にこの居留している貿易商の危惧
があった。先のアヘン戦争後の清国の様に混乱に命の安全が脅かされる事だ。だか公使
は戦争による経済の拡大に動いていたのである。今の経営者と社員の関係の初期状態だ
。この攘夷が幕府は外国船打ち払いの軍事行動と海外からの独立とはおもっていないか
った。が裏で糸を引いていた長州藩は、馬関海峡の閉鎖と通過する外国船への砲撃可能
を意味していた。従って、馬関戦争とされるこの戦争は通過する外国船の打ち払いから
始まる。

435: 名無しさんAA:17/09/17 20:55
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 155

対して、英国駐日公使ラザフォード・オールコックは下関海峡封鎖を強く問題視した、
更に この横浜の停滞と長州藩の攘夷を継続で幕府に鎖国政策を提言し、今後の開港の
封鎖を恐れ、この危機を他国との共同作戦に持って行った。「長州のとった条約国船舶
に対する下関海峡の砲撃封鎖は明白な条約違反で、海峡の自由航行が守られねばならな
い。」と呼びかけて、日本に来ていた敵対している4国に共同制圧を呼び掛けたのだ。
 これには伏線がある。歴史的には、1864年の戦闘を馬関戦争(ばかんせんそう)
と呼び、1863年の戦闘はその「原因となった事件」として扱われることが多いが、
それには理由がある。当時ペリー提督のアメリカ艦隊が浦賀沖に来航し強い圧力で幕府
に開国を迫ったのが1853年だが、次の年のペリー来航で幕府は日米和親条約を締結
した。ところが現実的にはロシアからの船も当初長崎に来航し更に弘前藩などに来ては
直ぐに捕縛されて囚牢にされている。今だ国民の声は「外国船打ち払い令」のままだっ
たのだ。既にロシア帝国のニコライ・レザノフをはじめ、外国船が日本に通商を求めて
来航するようになっていたのだ。寛政4年(1792年)9月にエカテリーナ号で北の
オホーツクを出発し、漂流民と共に根室に到着した。根室に駐在していた藩士は直ちに
松前藩に報告し藩は幕府に伺った。幕府にラクスマンの、江戸に船で出向いての、漂流
民を引き渡し、通商交渉をおこなう意思が強いことを知らされたのだ。が老中松平定信
は、漂流民は受け取るが、総督ピールの信書は受理せず、もしどうしても通商を望むな
らば長崎に廻航させる。と言う回答をした。ラクスマンは、長崎への入港許可証(信牌
)が交付された。ところが濃霧などで根室で足止めを喰らい、松前藩で越冬し帰国して
代わって文化元年1804年、改めて信牌を持参したレザノフが長崎に来航し交渉に出
た。半年間にわたって停留し江戸幕府に交渉を求めたが、結局幕府は通商を拒絶し続け
たままで、レザノフは幽閉に近い状態を余儀なくされ、交渉そのものも全く進展しなか
った。そこで「日本に対しては武力をもって開国を要求する以外に道はない」という意
見を持つに至り日本への報復を計画し、樺太や択捉島など北方における日本側の拠点を
部下に攻撃させた。これを受けて津軽藩、南部藩、庄内藩、久保田藩(秋田藩)から約
三千名の武士が徴集され、宗谷や斜里など蝦夷地の要所の警護に当たった。これにより
方々で襲撃事件が北方の樺太や紗那の幕府会所利尻島など二年間続いた。これらの軍事
行動はロシア皇帝の許可を得ておらず、不快感を示したロシア皇帝は、1808年全軍
に撤退を命令をだした。これに伴い、蝦夷地の諸藩の警護藩士も撤収を開始し終息した
。これらの事は既に北方ではペリー来航や薩英戦争の様な事件は起こっていたのである。

436: 名無しさんAA:17/09/17 21:08
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 156

 こうして 多くの知らない国の入港の長崎奉行の申し出に徳川家斉時代に、幕府方は
文化3年(1806年)に「文化の薪水給与令」を出し、諸外国との穏便な出入国させ
る方向性を打出す事になっていた。ところが、この幕府の対応の遅さに対したロシアの
軍船の方針によって日本は大きく変化した。この同じ年に起こった襲撃事件(文化露寇
)を受けて翌年にはロシア船打払令が出され、わずか1年で撤回された形になったのだ
。更に文政8年(1825年)には、反動的な異国船打払令が打ち出されるものの、今
度は非武装のアメリカの商船 「モリソン号 」がマカオで保護されていた日本人漂流民
の音吉・庄蔵・寿三郎ら7人を乗せて、日本人漂流民の送還と通商・布教のために来航
した。モリソン号は鹿児島湾、浦賀沖に現れたが 接岸出来ず、薩摩藩と浦賀奉行太田
資統は異国船打払令に基づき砲撃を行ったのである。一年後モリソン号はこの日本人漂
流民の送還と通商・布教のために来航していた事が判明し、異国船打払令に対する批判
が大きく強まった。こうして開国にも鎖国の上の攻撃にも転じる幕府の姿勢は、各国の
批判ではあっても多くの国で起こる事で、この英国公使は解っていたのである。更には
、先の安政5年1858年の、アメリカの強い威嚇により、幕府は日米通商修好条約を
締結した事も理解し、その後のオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約
を結んで幕府の鎖国体制は完全に崩れていた事も知っていたのだ。そしてそれが公式な
ものであっても 現実の日本の国王たる人間は天皇であり、今孝明天皇が 和親条約は
ともかく通商条約には反対であり、安政条約に対する勅許を与えなかった事も、十分に
に知っていたと言える。又、幕府に不満を持つ攘夷派尊皇思想から 朝廷の攘夷派公卿
たちと結び付き方針転覆の可能性すら知っていたかも知れない。何故なら今の長州から
の砲撃の通行禁止策を諸外国で話し合う中でも話された筈だからだ。情報をかき集めて
分析し、こうして研究尽くされた中で、先の薩英戦争も大きく分析されて本国から批判
されない様に 民間に影響のない形の戦争を行っている。更に議会対応に英国のみでな
く他の4ヶ国にも戦争の賛同を呼びかけ合同艦隊にした、したたかさである。こうして
国内通行の禁止を求めた1863年の砲撃事件を下関事件、1864年の4ヵ国艦隊が
国内に反撃出た戦争活動を、四国下関砲撃事件と呼んで区別している。こうして両者を
併せた総称として「下関戦争」が起こっていた。が当然オールコックは本国にも下関を
攻撃する旨の書簡を送っている。がこれも当時に 返書にも2ヶ月はかかるものだった
事を熟知しての行動だろう。


437: 名無しさんAA:17/09/17 21:29
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 157

 英国本国は依然として日本との全面戦争につながりかねない武力行使には否定的であ
ってこれを否認する旨の訓示を日本へ送っている。が 現実にはそれは事後策を練る為
の時間稼ぎの様なもので、当時の公使はオールコックの「攘夷不可能を思い知らすため
(文明国)の武力を示す必要を感じて長州藩へ懲罰攻撃する。」などの決意には、何ら
影響のないものであった。現地公使の裁量で戦争が進められる国は既に多くあった。
「兵庫の開港、大阪の開市も近々行われる約束だから、全条約国にとっては この海峡
と内海の封鎖は明らかな条約違反だ。」という勝手な論理で「条約国海軍が長州による
下関海峡封鎖を軍事力で開放して見せれば、日本が例え横浜を鎖港しても先進条約国の
軍事力でたちまち開放するぞという、一大デモンストレーションになる。」と言う指摘
をし、「これはまた、更なる貿易関税の引き下げや、今横浜での供給が激減した生糸等
の供給増加へ向けた日本側の規制撤廃をさせる圧力にもなる。」とエサをちらつかせて
軍事力による制裁の賛同を呼びかけた。各国は戦争には同意しないものの、取り合えあ
ず威嚇の為に4ヶ国はこのコックの行う軍事作戦に、共同で乗る事にはした。アメリカ
は母国で南北戦争が起こって軍船はなく、仏英蘭はお互い敵対していた国だった。この
時幸いにも 大きく日本に反感を持っていた露国が 今だ貿易に大きな実績がなかった
為に、横浜の公使館には入ってなかった と思われる。これには先に出された「ロシア
船打払令。」の影響があったのかもしれない。この頃には既にグラバーの好意的手配で
イギリス留学生を送り出ししていた。英国の長州藩士の伊藤と井上は 四国連合による
下関攻撃が近いことを知り、戦争を止めるべく急ぎ帰国の途についた。三ヶ月もかけて
やっと横浜に到着し、すぐさまオールコックに面会の上「藩主を説得すること」を約束
し離れた。中止を承知させた。オールコックは通訳のアーネスト・サトウを伴わせて、
豊後国姫島まで送り、長州へ帰させた。二人は藩庁に入り藩主毛利敬親と藩首脳部に、
「イギリスの国力と機械技術は日本より遙かに優れている事」や「戦争をしても絶対に
勝てない事。」などで止戦論を説いただろうが、長州藩では強硬論が中心であり、徒労
に終わった。又幕府内でも フランスから外交使節団が帰国していて、フランスと取り
交わしたパリ約定を提示していたが拒否されていた。それには「関門海峡の通行可能に
する条項」も含んでいて、苦労して談判を交わした横浜鎖港談判使節団だった。が名前
と違って中身は開港使節団になった様な そんな約定の内容を提出していたからだ。当
然不満として批准は行なわれかった。結果、攻撃は予定通り実施されることとなった、
こうしてイギリス軍のオールコック中将を総司令官とする四国連合艦隊は横浜を出港し

438: 名無しさんAA:17/09/17 21:31
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 158

 艦隊は17隻で、イギリス軍艦9隻、フランス軍艦3隻、オランダ軍艦4隻、アメリ
カなどは仮装軍艦1隻で戦列に立って、総員約5千名の兵力が船出した。それでも横浜
にはイギリス軍艦1隻、アメリカ軍艦1隻と香港からの陸軍分遣隊1350人が待機し
て戦乱に備えていたのである。この時既に先に述べた人種差別的「黄禍論」の思想がそ
こにあった事は間違いない。この「下関事件」「薩英戦争」ロシアの襲撃による「幽因
事件」の3事件は、恐らく日本を決定づけ更にこの欧米不審感は大津事件の素だろう。
 8月4日になって、四国連合艦隊の来襲が近いことを知った藩庁は、ようやく海峡の
通航を保障する止戦方針を決めて、伊藤を漁船に乗せて交渉のため艦隊に向かわせた。
が、艦隊は既に戦闘態勢に入っており既に手遅れであったし、幕府も、長州が勝つ見込
みも賠償金を支払う能力もない事で、これで更なる出費が嵩む事が危惧されたが遅かっ
た。戦闘で惨敗を喫した長州藩は入牢していたに高杉晋作を偽名を使い、講和使節の使
者として立てた。通訳のアーネスト・サトウがこれに立ち会った。こうして下関海峡の
外国船の通航の自由、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し、悪天候時の船員
の下関上陸の許可、下関砲台の撤去、賠償金300万ドルの支払いなど5条件を受け入
れて講和が成立した。この談判に高杉は全て飲んだと言う。ただ彦島の租借だけは断固
拒否し、香港のような外国領土になるのを防いだという逸話が残っている。後で賠償金
については長州藩ではなく幕府に請求することになったのは幕府にしか金が無かった為
だが、幕府の朝廷との約束で諸藩通達に従ったまでという名目で長州藩も又返さなかっ
た。この後幕府は150万ドルを支払い、明治維新後に新政府が残額を明治7年までに
分割で支払った。と言う。こうした過去の事件を追っていると 現代の北朝鮮がいまに
ある理由になっている。不思議なのは日本の徳川幕府が先に払った30万ドルあるいは
300万ドルと言う通貨を交換して払えた事だ。又その後の満鉄建設でも北朝鮮近郊の
朝鮮建設にもほんの僅かな年で 長年で築いた香港銀行の資産を超えた朝鮮銀行を発足
させて 恐慌や通貨危機も切り抜いた事だ。欧米列強の搾取型の植民地主義を取らなか
った為とか諸外国の様な暴力的革命で明治政府が興きなかった為とか色々あろうが、基
本には 独立独歩を慈しむ風土がこうした力であったと思える。


439: 名無しさんAA:17/09/18 08:06
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 159

 明治政府が出来た頃ドイツの進出が始まるのである。ドイツ帝国はしばしばプロイセ
ンと呼ばれる。古プルーセン人が語源であると言う。ロシアがしばしばプロシアと呼ば
れスラブ系民族の地域名称の特徴と言われる。プルーセン人はしばしば襲われ事は多く
プルセン十字軍を結成し戦い守ったとされる。だが1100年頃ゲルマン民族ドイツ騎
士団により征服され、ドイツ騎士団国家と代わりこの地に混乱が産まれた。凡スラブ主
義はそうした多民族国家多様主義に反対しスラブ民族の考えで統一した大社会を作ると
言う言葉でチェコソロバキアなどが対立したのでハプスブルク君主国のハンガリー側で
盛んにした言葉としている。従ってナチスはその逆の凡ゲルマン主義を唱えた事になる
。1890年代のヴィルヘルム2世はこのドイツとオーストリア(=ハンガリー帝国)
という二つの民族のドイツ人国家を統合し、さらに中世以来のドイツ人の東方植民によ
って東ヨーロッパからバルカン方面に広がったドイツ人の居住地域もドイツ国家に併合
しようと主張した。これが世界政策の展開の背景となった思想である。が近くのスラヴ
系諸国、その背後にあるロシアのパン=スラヴ主義と厳しく対立しするようになる。こ
こにロシアの南下政策の素がある。ハクスブルク家は神聖ローマ帝国の一領主だったが
古代バビロン帝国モンゴル帝国オスマン帝国などとの交渉や政治に於いて卓越した才能
があったのだろう。強大な縁戚を持って支配していた。後にフランスとなるフランク王
国はその為に領土を変えて存在して来た。ハクスブルク家の皇位継承者フェルディナン
ト大公夫妻がボスニアの州都サラエヴォでセルビア人青年に暗殺される事件が起こった
。通称サラエヴォ事件だが凡ゲルマン主義を掲げたドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はこの
スローガンを掲げバルカン地方へ進出しようと大公の金魚の糞の様につきまとっていた
。こうして緩衝材としてのフェルディナント大公が死んだ時第一次大戦の火がついた。
汎スラヴ主義と対立し、南下政策を続けるロシアとの軋轢を招いた。後にバルカン半島
をヨーロッパの火薬庫と呼ばれるまでに民族の対立を激しくした要因の1つである。こ
の結果、列強間による帝国主義化、軍備拡大は避けられず、第一次世界大戦を引き起こ
すこととなった。これは、ドイツ統一を牽引し、周辺諸国との勢力均衡を望んでいた帝
国宰相ビスマルクの理念からはかけ離れたものとなった。


440: 名無しさんAA:17/09/18 08:27
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 160

 ヴィルヘルム2世の治世は恐らく間違ってはいなかったのだろう地政学的には。だが
彼が求めた国内統一や意志の統一が国外への拡大戦争と少数民族排除にその集結を求め
た事はナチスドイツの手口と全く同じであった事から 全く間違った観念の元に政策を
進めた事は確かであろう。この何処の国の指導者も陥るだろう手法は、人間の欲求なの
だろうか。それともこの地域特有の伝承や風習であるのか。と言うのも、ドイツの正式
名称ドイツ連邦共和国と言う様に、かつては多くの君主国が存在していて、それの集ま
りでもあったからだ。それを無理をしてでも「大きく」「強く」「広く」まとめる為に
強者強国が併合しながら国家連合を作ってきた歴史がある。古くは「神聖ローマ帝国」
として纏まっていたが、しかし、神聖ローマ帝国はフランス皇帝ナポレオン一世によっ
て蹴散らされ、今度はフランスを盟主とする「ライン同盟」という国家連合で纏まりま
った。この時阿蘭陀やプロセインなどが、イスパニアや英国など海運争いで、仲違いし
たのだ。しかしながら、フランス皇帝のナポレオン一世が失脚すると、枢軸となる強国
がなくなりライン同盟は解体されてしまう。そこで新しく作られたのが国家連合体が「
ドイツ連邦」をつくった。「ドイツ連邦」は、1815年「ウィーン会議」なる調整の
会議が発足しEUみたいに統合して大国オーストリア帝国を盟主として作られた組織と
なったのだがこれがドイツの国家連合の素だ。だが混沌としていた過去の旧神聖ローマ
帝国末裔達と対抗する諸侯国群と新しい自由都市群によって構成されていて、そこには
元々は主権国家同士の連合体なので、民族や宗教や考え方や言語の違いが存在していた
。従ってこの連合体は「ドイツ同盟」と呼ばれる事もしばしばあったのだ。ドイツ連邦
の構成国群は、中心に帝国としての兵力の勝るオーストリア帝国があったのだが、他に
7王国 (プロイセン王国 ザクセン王国 バイエルン王国 ハノーファー王国 ヴュル
テンベルク王国 ヘッセン=カッセル選帝侯国)17公国(バーデン大公国 ヘッセン
=ダルムシュタット大公国 ルクセンブルク大公国 メクレンブルク=シュヴェリン大
公国 メクレンブルク=シュトレーリッツ大公国 ザクセン=ヴァイマル大公国 オル
デンブルク大公国 シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国 ブラウンシュヴァイク公
国 ナッサウ公国 ザクセン=ゴータ公国 ザクセン=コーブルク公国 ザクセン=マ
イニンゲン公国 ザクセン=ヒルトブルクハウゼン公国 アンハルト=デッサウ公国
アンハルト=ベルンブルク公国 アンハルト=ケーテン公国 )そして4都市 (リュー
ベック フランクフルト・アム・マイン ブレーメン ハンブルク の集まりだった。


441: 名無しさんAA:17/09/18 09:41
こうして「ドイツ連邦」として纏まったが、ドイツ連邦の盟主であるオーストリア帝国
とプロイセン王国がドイツ統一の在り方を巡って対立し、1866年�メ戦争が勃発。
この戦争でオーストリア帝国は戦略に勝るプロイセン王国に敗北した。勝利したプロイ
セン王国がこの後のドイツ統一の主導権を握りった。オーストリア帝国が盟主であった
「ドイツ連邦」はすぐさま解体され、更に翌年には新たなプロイセン王国を中心とした
国家連合「北ドイツ連邦」が作られ、これが今のの「ドイツ帝国」の母体となったので
ある。 だがこの時の戦いの遺恨は国民には長く残った。こうした国内事情を抱えてい
た為に、他の諸国が海に出て大航海時代を行く事に遅れを取り、民主化は国王が存在し
て渋り、残るは産業革命を追い求めての、経済立て直しの道しか残っていなかった。が
逆にこの人種の坩堝的国家の隣が、感覚の自由さも求めるフランスで海を渡ればイギリ
スと言う最新技術をもった産業が傍にあると言う地理的要因があった。この国の厳格な
法を求め数値科学の持つ理論や金融資本の持つ多民族の中の風土は、実験的投資を産ん
で大国家となり得たのである。ところがこの国は常にこうした諍いで起こる体制からの
疎外者が出来て集団化していた。ロマの人々ユダヤの人々ボヘミアンの人々その他の多
くの移民や浮浪者の整理が必要だった。厄介な事にイタリアから来た職人集団会議のマ
エストロを産んだギルドさえ、それぞれの職ごとに或いは言語や宗教ごとに二百〜三百
の集団や組合の形で存在していた。徒弟制度と称される厳格な身分制度が存在し、その
頂点に立つ親方は職人・徒弟を指導して労働に従事させた。ギルドに参加できるものは
親方資格をもつものに限られてはいたものの その職によっては地下組織に近かった集
団さえ存在した。だがその仕組みが逆に移民を受け入れ 浮浪者さえ職につかせ 国を
豊かにする仕組みでもあったのだ。そして今のEU内は、多かれ少なかれ そうした多
民族の存在と、うんざりする様な多様化社会を大戦後に受け入れ 今やっと会社組織や
銀行組織や人権を含めた法治国家として固める中になったのが実情だった。このドイツ
統一の主導権を握ったヴィルヘルム2世の統治はしかし 排斥主義を持ち込み人種差別
の意志を強く出し「黄禍」という死にかけの言葉を復活させ「黄禍思想」を努力してま
でも拡大させたのである。これは世界の不幸であった。その姿はそのままアメリカ大陸
に流れ込んだ。イギリスの中の新しい平等社会の楽天地を求めた清教徒が移り住むのに
このドイツは金融や科学技術と共にそれを後押しする事で国を潤したがその思想もまた
持ち込んだからだ。かつてナポレオン時代に、大航海時代の先駆けとしていたスペイン
が英仏海戦で負けに敗けて 大西洋航海もままならぬ事になったが、その事は東洋社会
では恒久的搾取を意味しかなりの不幸な事だったとも言えよう。それがオランダやロシ
アの国家感を変え航海を変えた。

442: 名無しさんAA:17/09/18 09:50
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 162

それまでは公募の様な航海でその都度資金を募り人を集め航海し、国王と共に持ちよっ
た財宝を分け前としていた。そうしたスペインポルトガルにイギリスオランダは常駐の
事務所と株式投資と言うパトロンを見つけ運輸とした輸送体系を整えたのだ。そして、
それには奴隷時代の世相と相成って、契約した投資で運用する保険や銀行機構がついて
来た。当然パトロンにも掛け金や投資損失に「子や孫の時代でも債権は返済する。勿論
国家であっても。」と言う非情さでの投資の取り立てが運用されたのである。がそれは
資源枯渇に拍車をかけ 投資理財の拡大を強制した。つまり利益や搾取の拡大を意味し
ている。世界が不幸に見舞われる事は、更にその発展の遅い東南アジアの不幸になった
。大英艦隊や阿蘭陀に敗けてスペインが次に目を付けたのが太平洋航海であった。これ
はフィリピンにとっては不幸な事だった。マニラガレオンは、そうしたスペイン貿易船
の呼称だが「インドの富をスペインに運ぶ」、「東に行くために西進する」という、欧
州のコロンブスの夢を現実にした象徴貿易の事で「ガレオン貿易」「アカプルコ貿易」
と人は言った。この不幸はフィリピンの永遠戦いを物語る言葉でもある。メキシコ独立
戦争とナポレオン戦争の終焉を持って終わるかに見えたが新たな第一次世界大戦の序章
であり取って変わった米国ドイツがその利権を受け継いだ。フィリピン人にとって不幸
続きでもあった。エミリオ・アギナルド・イ・ファミイが革命家として独立運動に走る
のはそうした中に既に独立革命を課題にした秘密結社「カティプナン」の集団が存在し
ていたからだった。多数の民族がそれぞれに独立して存在していたこの国がスペインが
やって来て植民地とすると 当局による重税と重労働で虐げられた国に変わりその支配
が終わっても領主が代わるだけだった。欧米列強の火力の前に手がなかったからだ。そ
の意味では近年までも戦い続けて、ついに独立を果たした「ベトナム」は最強の戦士達
の国とも言える。こうして遅れてやって来たドイツやアメリカがやった事は、英国とフ
ランスの搾取より酷い恫喝外交と実力行使であった。フランスには 少なくとも人権と
騎士道を持って現地に降り立った。又英国に於いては法の順守と紳士の習慣を与えた。
がドイツはヒットラー時代を築いたように差別と偏見の統制があり、日本はいきがかり
の国家観で仕方なしなし崩しに大戦に突入した。だが、米国とソ連は違っていた。大国
の論理であり物量や消費など 巨大圧力による国家戦略としての思想での制圧であった
からだ。これが今の中国と北朝鮮に伝播して間違えた進歩に踏み出している事は間違い
ない。

443: 名無しさんAA:17/09/18 10:21
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 163

 ナポレオン時代には 大航海時代の先駆けとしていたガレオン船が英仏海戦で負けに
敗けて大西洋航海もままならぬ事になって、目を付けたのが太平洋航海であったが、そ
れでも母国との往復に2年近くかかるマニラガレオンは、スペインの貿易船が如何にも
非効率なままだった。「インドの富をスペインに運ぶ」、「東に行くために西進する」
というコロンブスの夢を現実のものとしたこの貿易も実際は交易の為の船員の食事など
や利益のない分け前に苦労していた。南北戦争やメキシコ独立戦争と起こったのは当然
ながらこの運んで来る富が無いために 近くの中南米や米国の原住民からの強奪や搾取
に走ったからであり歴史的には当然の流れだろう。ファミイが革命家の道に走った生き
方をしたのは 既にそこに独立革命には国際旅団が力を貸す。武器を供給する集団とし
て存在していたからだ。フィリピン諸島は欧米列強が来島して来て以来、風を読んで走
る帆船にとって貿易風でスペイン航路に一番良く 他の国に先駆けて植民地化された。
だが この共産革命を世界に打ち出し世界革命にしようと言う機運がロシア革命以前に
既にあったのは興味深い話だ。それはフィリピン先住民達が既に村々を形成して生計を
立てていたのであり 更に交易のガレー船がイスラム教を持ち込んできていた事で成立
していたと言えるだろう。スペインが植民地として 当局による重税と重労働で虐げら
れ始めた時、1892年にアンドレス・ボニファシオらが立ち上がり秘密結社「カティ
プナン」を創って以来 ずっーと休む事無く1世紀に渡り闘い続けているのは、中東や
アフガニスタンなどの長い戦争でソ連すら苦戦する徹底抗戦を行う姿と同じであろう。
 明治になってから、アメリカはこの独立支援を約束した。やっとスペイン軍を追撃し
、総督を含めての植民地政府の撃破が出来たと彼らは喜んだ。だがフィリッピン革命軍
へのてこ入れは、只の米軍の華持たせに過ぎなかったのだった。ウィリアム・マッキン
リーは「フィリピン群諸島は合衆国の自由なる旗のもとに置かれなければならない。」
とする声明を発しはしたが、独立建国より米国下の自治運営が良い。と言い代わった。
ジュリアン・フェリペは「ラ・マルセイエーズ」を念頭に「フィリピン行進曲」を作曲
までして、解放宣言に際しての喜びを新たにフィリピンの国旗と共にフィリピンの国歌
を作って待ち望んだが この米国の包囲網の中のスペイン排除は既にフィリピン購入を
した後の6月12日をフィリピンの独立としての記念日としての行事でしかなかった。
その必死になって大量の死者まで出して追撃した答えの独立とは程遠いものだった。


444: 名無しさんAA:17/09/18 10:48
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 164
 こうしてフィリピン第一共和国の樹立を宣言し、議会投票によりにエミリオ・アギナ
ルドは初代大統領に就任した。これを以ってアギナルドは1898年代表として日本に
マリアン・ポンセを派遣し、アメリカ合衆国にはフェリペ・アゴンシリョを革命政府の
代表として派遣した。当時のウィリアム大統領と会談出来たものの、海軍から情報を得
ていた米国は全く色よい返事はなかった。それどころかアメリカ軍はアーサー・マッカ
ーサー2世軍政長官を頂点に 米国の南北戦争において虐殺に手を染めたと問題にされ
る者達や狂人とされる将軍を次々と軍事顧問として送り込んだのである。裏では密かに
アメリカが中南米諸国の統治権とフィリピンの統治権を交換する。と言う裏取引が行わ
れスペインと手を結んでいたのである。こうして、パリ条約を結んだ時スペインからの
アメリカに譲渡されて来る時 アメリカはこの譲渡に戦勝国でありながらも、アメリカ
合衆国は2千万ドルを払わさせられる事で合意を飲んでいた。そして米政府はその理由
をフィリピンを購入した事の代償と嘘をついたのだ。そこにはフィリピン経営で今後の
支払いの利益は出るだろうと言うしたたかな計算があったが、実はアメリカの裏庭での
スペイン支援のキューバ国家を 絶対認めさせたくない為の戦争賠償金だった事を隠し
す為だった。従ってカリブ海および太平洋の スペインの旧植民地に対する管理権を、
アメリカが獲得する為パリ条約を話し合いながら、現地政府には国家を認め植民地経営
の安定を求めながら、片方で国民や議会にの説明には、矛盾を叩かれ糾弾が無い様に 
自治国家でなく米国の中の自治領であるから 安い買い物である。といい訳した取引を
行っていたのである。こうした二枚舌外交は当時米英では盛んではあった。日本政府で
は今後の欧米との関係悪化を恐れて、日本政府としての否定した反対も公式な賛意も、
出せない苛立ちの中にあった。そうした中に代表団は派遣されて日本に滞在した。ポン
セは独立承認を求めて回った。賛意を持つ 大隈重信、山縣有朋、犬養毅ら政府要人と
親交を結び川上操六参謀総長と犬養毅の支持によって平山周、宮崎滔天、中村弥六らが
中心になり、日本陸軍が日清戦争で使い古した旧式のモーゼル銃と弾薬を譲り受ける事
に成功した。だがドイツ系ユダヤ人商人ワインベルゲルを通じて布引丸でフィリピンに
届ける用意をすると、すぐさまその話が漏れたのか 布引丸はあえなく渡航時に沈没し
てしまいフィリピン革命政府への 自衛の為の兵器引き渡しは出来ずに終わったのであ
る。こうしてすぐさま フィリッピン統治において、大統領でありながらアギナルドは
拘留監禁され 率いていた独立政府要人や独立軍2万人は一斉掃討をされ始めたのだ。
結果この対米戦争で69万人のフィリピン人がアメリカ軍により殺された。こうして、
この島の島民は又遥かに高い独立の壁に人命を賭して登る事になったのである。

445: 名無しさんAA:17/09/18 11:57
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 165

 このドイツのと言うより 人種の坩堝で擦れた人間の教育されない道徳観は朝鮮半島
の持つ混乱と同じであった。更に日本人がこの間違えたドイツ商会に運ばせた銃剣類が
フィリピンに届かなかった不幸は そのままアジア解放日本の進出の不幸でもあった。
 だがそれは島国日本の開国が遅れた事で仕方ない事実でもあった。同時に基本的には
ドイツ人達が侵略戦争に取った戦いが、第一次世界大戦前を踏襲して戦っている事と同
じで、ドイツの特にシュリーフェン・ラインでの戦線は 大戦前の皇帝ライン或いは、
第一次の塹壕戦に明け暮れたソンムの戦いと全く同じ戦線ラインだった。それは又、国
家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)党首アドルフ・ヒトラーの「我が闘争」の言及し
ている様に脅迫観念からの「生存権ライン」の戦いでもあった、「ゲルマン民族には、
十分な生活空間が与えら得て居ない」とする不満は一次世界大戦より遥か以前からあっ
た思想でもある。「東方生存圏」と言うドイツ独自の生存圏思想は、ドイツが東部獲得
するべきとした思想であるが、驚くべき事はイスラエルが建国が遥か2千年も前の話を
する様に ドイツはフン族がゲルマン民族襲い民族大移動を起こさせた事を語り継ぎ、
いる事だ。西ゴートの国々が次々と匈奴が襲い、西ゴートに東ゴートの人々が襲って来
たと言う歴史である。フン族襲撃の記憶はゲルマン民族の中で口伝物語として伝承され
、数多くの物語や音楽や詩や絵の重要な題材で構成要素ではある。これらは千数百年前
の民族移動時代の事だが、それでもなお語り継がれて 更にフン族とは何者かは不明の
まま受け継がれる伝承だ。その後ドイツ皇帝ウィルヘルム2世は、ヒットラーと同じ様
に凡ゲルマン主義の思想を掲げ、中でも差別主義の源の様な「黄禍論」を展開させた。
正に選民思想から排斥思想に変えた瞬間である。サライェヴォ事件は衝撃的な事件では
あったものの、これが世界大戦を引き起こすとは思っていなかった。たが、ボヘミアン
やロマ族の一部は見越していたらしくフランスに向かって移住した。ヨーロッパ各国は
、セルビアの行為をこの他民排斥論で大いに非難し、セルビアの謝罪と一定の賠償は必
要との声が上がる。だがセルビア批判には「凡スラブ主義」があり、スラブ民族の後ろ
盾としてロシアが控えていて各国の首脳は言い出せてはいない。当然の如くこのドイツ
皇帝ウィルヘルム2世は、「ドイツは同盟義務と旧来の友好関係に忠実にオーストリア
を支持する」とゲルマン支持を確約した声明を行った。この無条件支持は「ドイツの白
紙小切手」と呼ばれた。今の無知なる大統領が中東に行ってアラブ人を支持し、イラン
批判を行った事と全く同じなのである。当然北朝鮮と同じく「草を喰ってでも生きる」
イスラム教徒のオスマン人には耐えがたき屈辱であったはずだ。

446: 名無しさんAA:17/09/18 12:10
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 166

 皇太子を殺さたままでは国体がなくオーストリアは、セルビアに最後通牒を突きつけ
難癖をつけた。当然セルビアは一定の譲歩をしたが、不満解消には至らずオーストリア
は、宣戦布告に走った。恐れられるバルカン紛争と言う導火線に火がついたのだ。この
宣戦布告後、セルビアとオーストリアの間では第三次バルカン戦争が始まったが、仮に
ロシアにもドイツにも「領土拡張主義」とする「南下政策」や「生存圏」の思考がなく
単純な支持であれば和解は可能だったかもしれない。オーストリアとセルビアとでは、
本来国力差があり、単純に戦えばオーストリアが大国であり勝つ筈だった。ドイツはそ
の「生存圏思想」の中で、オーストリアが勝って同盟国領域を広げる事は正義だった。
、又この時期の対抗したフランスの市民革命にドイツの誇りを見せるチャンスでもあっ
た。一気に勢力をのばそうと意気軒昂に後押しした。だが小国でもセルビアが負ける事
は、バルカン半島のスラブ系民族の地位が無くなる事を意味し、勢力衰退は同時にスラ
ブの盟主ロシアの地位が弱くなることを意味していて、北方民族の影響力の南下を止め
ればそれこそ南下政策の失敗であり死活問題であった。ロシアは黙ってこれを見ている
わけにはいかなかったのだ。現代のウクライナ問題とするクリミア半島と同じであった
訳だ。だが懸念は的中したのである。強国の紛争ドミノと言う最悪の形で起こったのだ
。ロシアはセルビア支持に乗出し総動員をかけた。ドイツは総動員撤回を求め応じられ
ない為総動員令を発し、ロシアに宣戦布告する。隣国フランスも露仏同盟により総動員
を開始し、これを見たドイツは、フランスにも宣戦布告。「栄光ある孤立」のイギリス
でも不干渉方針を翻し、ドイツの大陸支配阻止をするためにドイツに対し宣戦布告した
。又ドイツの宣戦布告は総動員令を掛けた時点で既に戦争回避の道はなかった。と言う
のも小国の四方囲まれた中の連立国家の集まりは、議事運用でドイツ陸軍のシステムを
決めていたからだ。動員令は戦時中を意味しドイツ国内で、張り紙だけで国民は総員兵
士となり、軍隊となり平時編制から戦時編制が開通する。そしてマニュアルで決まった
作戦が決行され、各所で集権する一気通貫するシステムだった。その連動の精緻さに、
一度発動されてしまった後では 例え君主でも首相であっても止める事は不可能だった
体制になっていた。それは、「動員の開始」がそのまま「戦争の開始」を意味していた
と言える。他国に移住した者さえスパイと兵隊になる危険は フランス・イギリスの持
つ危惧でもあった。こうしてまさに負の連鎖が起こり列強各国が次々と疑心暗鬼に陥り
、戦争体制に突入していき 第一次世界大戦となってしまったのである。


447: 名無しさんAA:17/09/18 12:29
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 167

 その姿は、かつてのサラエボ紛争にも見え隠れする。平和な村が民族主義の枠で包ま
れた小集団に囲まれていて、その民族も又民族主義を批判する国家の中にあり、その国
も又その周りを反対する国家群が囲むと言う、至って複雑明快なマトリョーシカ状態の
世界地図や地政学なのである。だがそもそもどうしてこうドイツは囲まれていたのか。
それは偏屈な皇帝ウィルヘルム2世やナチスを産んだ素地の「ゲルマン思想」であろう
。元々ゲルマン人もスラブ人も同一民族でキリスト教やユダヤ教など要らない民族であ
った。所謂都市国家時代の多神教で遠くバビロン帝国の時代からギリシャ神話の世界観
が漂っていた。ところが遠いバビロニアに於いて この都市国家の「国家神」としての
中心にされた神の中にエホバを唯一神と掲げる女系女子の集団が現れた。「ユダヤ教」
と言う一人の神しか認めない集団の誕生である。「唯一神信仰」であるこのユダヤ教は
早い時期にヨーロッパ社会に蔓延した。本来の多神教群の中で改訳変遷をしたのだ。日
本での「創価学会」の作りと同じで、既存の日蓮宗の端単派で集金システムに特化した
ものを作り上げ、やがて本家総本山に破門されても会員や集金し独自の改訳を進めて、
尚拡大するシステムで一定以上の規模になった革命集団である。この一つの宗教観のみ
と言う原理教思想を最初に持ち込んで「原始ユダヤ教」ができた事がそもそもの凶事で
あったのだ。その後の変遷で今やキリスト教やロシア正教イスラム教など多く派生宗教
が起り世界を巡ったが、この選民主義思想でしか生き残れなかった人々は、融和もせず
移民として欧州にやって来て混沌とした社会を作った事にドイツの苦悩がある。「中独
合作」は蒋介石将軍の目指した中国建国策だったが、それ以前からドイツや欧州社会に
は「黄禍論」に基づいての選民思想や白人優位主義は根強く進出していた。正に寓意画
『ヨーロッパの諸国民よ、諸君らの最も神聖な宝を守れ』を合言葉にして生きていたの
だ。中独合作は蒋介石将軍の中国建国策だったろうが それは大きな間違いだった。既
に清朝が出来る頃から中国には国外に出て新天地で生きる者が多くいた。マルコポーロ
が帰途につく頃は、船便が整備された状況だったからだ。その後イギリスを始めとする
西洋諸国によって半植民地の状態におかれた中国では、安定した生活を求め海外移住者
華僑は更に増え始めた。「黄禍論」はそうした中で西洋社会に一般化した。特に日本人
の場合は違う国と説明しても「東洋人種」として華僑と間違われたし、日本人移住者が
多くなれば華僑やドイツがやっていた商売が日本人と競合した。これによって白人さえ
も金鉱の鉱夫や鉄道工事の工夫として多くの最下層の肉体労働者として受け入れられた。

448: 名無しさんAA:17/09/18 13:16
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 168

 1898年正に野口遵がシーメンスに入社した時代は明治30年の発布による最初の
、政党内閣成立させ大隈重信が憲政党内閣の首相として組閣した時だった。日本では、
やっと江戸末期から送り出していた留学生が各々に欧米の技術や文化を持ち帰り花を咲
かそうと奮戦していた時代だ。 中国朝鮮でも静かにドイツ帝国やユダヤ資本がその資
産の投資先として東洋に禿鷹ファンドの建設に乗る時期だった。19世紀後半では、極
東の地の中国貿易の主導権は、殆どがイギリスが握っていた。プロイセン王国の宰相の
ビスマルクは、衰退する阿蘭陀貿易に活路を開く為 イギリスに対抗できる貿易機構を
熱望した。1885年、明治13年ビスマルクは、清への直行汽船に補助金を出す法案
を議会通過させた。これにより仏国は直ぐにベトナム阮王朝に対して東南アジアの足場
強化に乗りだし、強制的な武力併合をした。それまで間接的に阮朝が南部に設置してい
た行政区がフランス式の軍港となったのだ。このフランスの領土的野心は、コーチシナ
戦争を起こした。フランスはを武力併合し仏領コーチシナを形成して、文字通り東南ア
ジア進出の拠点と変えた。阮朝は元々は宗主国である清朝の庇護国であった。清朝に支
援を要請しフランス進出に対抗する黒旗軍に武器や資金を援助し、トンキンでの反仏国
の戦いを支援し続けていた。こうしてフランスの進出を阻み続けてはいた。1884年
に清仏戦争に先駆けて宣戦布告も無しに フランス軍は再びトンキンに侵攻し清国軍の
兵は一挙に敗退する。各都市の陥落は続き これがフランスの植民地になったのだ。こ
の東洋を視察に、ビスマルクは出向いて清にドイツ第一銀行と産業調査団を送り込む事
を決定し、1890年ドイツ・アジア銀行その後の徳華銀行を設立して足掛かりを得た
のである。こうした努力により、中国の1896年の貿易量はイギリスに次いで2番目
の量を交易した。ヒトラーは「東方から押し寄せてくるアジア内陸の人間、その背後の
国際ユダヤ人に対抗するためには、ドイツが一定の生存圏を得て、指導的大国にならね
ばならない」と説いている。これは「ドイツの土地で養える人間には限りがあり、輸入
によってまかなうのであれば代価を支払わねばならない。その代価となる工業製品を製
造できる見込もないこの国が、これから逃れる為には 産児制限や海外植民もあるが、
それは民族を衰退させる愚の政策であり、民族が発展・存続するためには人口の増加が
不可欠である為 他国支配や領地拡大や貢物輸入しかない。」と指導力や技術の対価の
収入を得る事を勧めている。これが東方生存圏の骨子であった。即ち極東では敵味方は
関係なく技術を売ればドイツは儲かり彼らは互いに戦争し崩壊する。これが黄色い人種
の「殲滅作戦」に繋がるもので「黄禍論」にも適合するやり方でもあったのだ。

449: 名無しさんAA:17/09/18 13:17
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 169
 日本政府の支援を受けて中国は欧米列強への賠償金を払い、1912年に中華民国が
日本軍の力を借りて独立宣言した。が、それでも中国国内では、共産党がゲリラ戦を行
い軍閥が跋扈し、列強の相次ぐ諜報合戦で権利や侵略に苛まれていた。それでも徐々に
租界など平和に豊かになっていた。1928年の国民党は北伐の深追いを止めなかった
これにより指導部の蒋介石は共産党の罠に陥って寝首をつかまれた状態であった事は、
全く日本は解ず関知しなかった。、一応ながらも国内統一がなされたからだ。しかし、
その後ゲリラ的襲撃は収まらず「満州事変」などで更に日本の進出がなされた。「中華
民国による国家統一」は統一政府として傀儡政権となる形骸化恐れてるようになった。
 既にドイツは東南アジアやアメリカ大陸が他の国々の下での植民地経営があった事を
知り尽くしていた。従って清国に於いても露骨な英国や仏国の様な帝国主義や威圧交渉
は全くしなかった。それは日本に於いても同じだった。それは清国政府にとっては有難
くドイツとの協力関係を基にして近代化を進めよう。との誘いに傾く事は当然だった。
 こうした背景において軍隊と国防産業の近代化を必要とする中華民国と、資源の安定
供給を必要としていたドイツの思惑が一致し、1900年代に入ると盛んに死の商人的
意味合いの強い「軍事顧問団」を派遣したり「年間契約の雇用技術者」で代価を稼いで
来た。日本で言う「雇われ外人」である。だが日本の場合その多くが日本国籍を取り、
帰化して帰国する事はしなかった。明治政府が英国の香港銀行やフランスのBNP(バ
リ国立銀行)などの資本家から貸付を貰った様に、このドイツ・アジア銀行は日本の中
の民間企業に貸付を行った。これらが野口や満鉄などに貸付を行った事は間違いない。
だが そうしたスイス銀行からの流れである各国の中央銀行とは無縁である為に しば
しばこの重要な金融や経済の国際的枠組みからは外されてきた歴史を持つ。この事は、
一つは共産主義的搾取の考え方が今だある現状だろう。フランス革命で得た「平等主義
」はドイツが周りを敵や異国に囲まれて出来た「優位主義」とされるこの人種偏見とは
相容れない思想だった。「殲滅作戦」はその戦争に際しての心得だった。「プロイセン
は地理的にヨーロッパの中心に位置して、四方を敵軍に露出している。イギリスのよう
な島国は持久戦に持ち込むことが出来る。また、ロシアは自国内部に戦略的退却するこ
とも出来る。だがプロイセンは、後顧の憂いなく敵軍を完膚なきまでに打ち破らなけれ
ばならない。つまり敵軍を殲滅することである。」これがドイツの昔からの掲げている
プロイセン軍の戦術論である殲滅戦理論なのである。もう一つは既にユダヤの資本下だ
った事だろう。それは米国で敵対するドイツでさえ「日本人収容所」のような物は無か
った事が証明している。

450: 名無しさんAA:17/09/18 13:31
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 170

 こうした曰くつきの主義主張が、人種の坩堝となる中では極めて大きな主張となる。
もっともらしい説明で理論付けされるのはそうした「マッキンダー理論」である。世界
の陸地の 3分の2を占めているユーラシア大陸を「世界島」とし、世界島の中央部で
シーパワーの影響外にある地域を「ハートランド」と名づけ、ランドパワーの中心地は
ハートランドを基盤に戦争は世界島へ展開されると考えた理論だ。こうして国際情勢を
ドイツ大陸国家の海洋国家群を突き抜けて世界島への拡張を警戒し、「東欧を制するも
のはハートランドを制し、ハートランドを制するものは世界島を制し、世界島を制する
ものは世界を制す」という有名な言葉を第一次世界大戦後の講和会議に英国の委員に対
して述べた学者の2極論である。だがこれらの殆どは間違っている。特に近年の近代兵
器の前にして囲い込み出来る陸国家と言う枠組みは不可能で歴史上もない。ロシアが、
自国内に戦略的退却が出来ると言う論法も狂ってる。第一次世界大戦にて塹壕戦に及ん
だがそこで死んだのは多くは塹壕の劣悪な環境による凍傷や病気や餓死だ。独軍がモス
クワで止まったのも極寒の地で兵糧が尽きた為だ。爆薬が無かったこ事ではない。第二
次世界大戦も全く同じでドイツの行った収容所の死はガス室や銃殺と同様に 過酷な環
境で死因が多い。又その後敗戦後はもっと大きな残虐行為が戦勝国内で行われたが、全
く隠している。更に民衆の怒りの前には力も無かった。日本でも米軍との対戦で多く死
んだが、最も過酷だったのは現地調達の食糧であり南方では病気や飢えで死ぬ仲間の死
骸を、跨いで通る事だった。つまり戦争で一番大きい事は死との対面ではあるが、より
以上に上司からの苦役や病死や飢餓であった。バーターンの死の行進でもビルマ後退で
の骸骨街道でもそれは見て取れる。硫黄島も同じだった。中国国内で日本軍より共産軍
が怖い八路軍や方面路隊が怖いと言う中国人民多く、共産党ゲリラが食糧を持たず完全
に野蛮な盗賊だったからだ。袁世凱は中国清末期の軍人で欧米に対応した海軍(北洋軍
閥)総帥となったが。貧国国が近代化の改革を求める孫文らの辛亥革命の混乱中では、
朝廷と孫文らの間で渡り歩くのは仕方なかった。大清帝国第2代内閣総理大臣を務めた
が人望はなく、清朝崩壊後は第2代中華民国臨時大総統、初代中華民国大総統に就任し
た。中華帝国皇帝として即位して旧体制に戻したのは、冷徹、果断にみえるが、元首と
しては醜悪さ、生臭さに転じて器ではなかった人物だった。と言われる。日露戦争当時
は、清は表面上は厳正中立であったが、裏では日本に刷りより情報を流し、馬賊を紹介
し 選りぬきの将校らを満洲・蒙古の奥深く、露清国境付近まで潜入させて援助した。
が日本が勝って、友好国とした途端に米国やドイツと手を組んで 内乱に手を染めた。

451: 名無しさんAA:17/09/18 14:04
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 171

 清王朝時代に袁世凱将軍を取り立てたのは海軍大臣役であった李鴻章である。北洋軍
閥の創設者で 北洋通商大臣兼直隷総督となり司令官を提督丁汝昌に決めた。日清戦争
において大日本帝国海軍連合艦隊と交戦しが、その時戦った艦艇は1880年代ドイツ
の艦艇だ。フルカン株式会社シュテッティン造船所で出来たザクセン級装甲艦で、当時
最新鋭旗艦としたザクセンと同じ仕様や武装の船だった。この造船所で建造された定遠
と鎮遠は清国の北洋艦隊の中心であった。定遠は日清戦争の艦艇として参加した。主砲
による砲撃中、艦橋が崩壊、司令官丁汝昌も負傷し指揮能力を失いながら、159発の
命中弾を受ける。これによって死者17人負傷者38人を出したが人員交代し作戦能力
は健在であった。後に水雷艇の夜襲を受け雷撃で擱座する。砲台として戦闘を継続した
が日本の陸上からの攻撃を受け不能になった。こうしてその後日本軍による鹵獲を避け
る自沈を果たした。一方鎮遠も同じ「定遠級」の甲鉄砲塔艦の1隻であるが、東洋一の
堅艦と呼ばれていたこの型は使いづらい物だった。同じ日清戦争において早々と鹵獲さ
れて、戦後に戦利艦として日本海軍に編入された。この日清戦争の敗北により、袁世凱
はこれまでの洋務運動が兵装のみで間違っていたと悟る。自強軍及び新建陸軍建設の為
の支援をドイツに求めた。さらなる軍備と産業や技術面と軍事顧問である。ところが、
ドイツ国内で普仏戦争の対フランスに勝ってもそのしこりは大きく 先に言った様に、
国内でもフランス解放軍の思想や人が新しい国作りを求めていた人々がいる議会運営だ
ったのだ。この頃のドイツは、対外的にはヨーロッパの覇権調整の要として機能してい
たし、一方でイギリスとの親善外交、三帝同盟や三国同盟、再保障条約など対仏包囲網
を形成し、強い牽制を行っていた為にパリ包囲が出来てやっと勝っていた戦争だった。
それに今後の新銀行や同盟国による戦争予防が完成し、ビスマルク体制には出費が重ん
でいてウィルヘルム2世もハプスブルク家の君主フェルディナント大公を頼っていた。
。それでもビスマルク体制下では軍拡が行われやすく、第一次世界大戦の遠因にもなっ
たといわれる。袁世凱の要請の時は、そうした中で拡大した自国の立て直しで とても
東洋の国に援助や軍艦を用意する余裕など無かったのである。そして条約により日本に
しぶしぶではあるが この要求を日本に行ったのだ。ドイツの顧問が居る中でこうして
公使館付武官の青木宣純が軍事顧問として新建陸軍を指導育成した。が袁世凱は青木を
「最も信頼できる日本人」と高く評していたという。こうして出来た新しい海軍こそ後
で日本を悩まし国民党軍の陸軍以上の力を持つ「北洋軍閥」であった。

452: 名無しさんAA:17/09/18 14:50
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 172

 だが問題は袁世凱ではなく 既に清時代から今だドイツになっていなかったプロセイ
ン王国とのつながりがあって後で日清戦争で活躍する北洋艦隊の旗艦「定遠」「鎮遠」
を発注し造船している事だ。中独合作は遥か以前から模索されていて1880年代後半
だが、ドイツの兵器関連企業クルップは、旅順の要塞化にまで、協力している事実だ。
そう1898年正に野口遵がシーメンスに入社した年よりも遥か前に既につてがあった
のである。1894年(明治27年)日清戦争1904年(明治37年)日露戦争は、
共に大日本帝国はロシアや中国との間で朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部と、日本海
を主戦場として発生した戦争ではあったが その裏にいたのはドイツであったのだ。そ
れは仏国も英国も解っていたのである。ある意味ユダヤ資本同士が戦争に賭けていたの
である。国防産業の近代化を必要とする中華民国と、資源の安定供給を必要としていた
ドイツの思惑が一致し、1920年代の終わりから1930年代の終わりにかけて両国
の蜜月関係は最高潮に達した。ナチスがドイツを支配するとさらに関係が強化されたが
日独防共協定が締結されると関係は弱められた。と言うのが一般的見解だが「華僑」は
1800年代初頭から大陸や欧州で広がった黒人奴隷がアメリカ建国に関わる頃中国人
達も又渡米や渡欧州をして一緒に汗を流し洋務運動の為の人材を連れてきていたのであ
る。そしてそれは朝鮮半島も同じであった。シベリア鉄道は、1850年にモスクワ〜
サンクトペテルブルク鉄道が完成した時既に立案されていた。シベリアに鉄道を建設す
る計画はその後も持続的な活動がありそれぞれにその引き込み路線を検討し時の政府に
発案している。だが計画、請願は多数に登ったものの、いずれも実行に移されることは
なかった中1880年、ロシア帝国のアレクサンドル2世の就任記念で突如ボルガ大鉄
橋が完成され、またエカテリンブルグ・チュメニ間の工事が着工された。エアテリンブ
ルク〜チュメニ間の鉄道はボルガ川とオビ川の水運を連結させるこの工事の完成をみて
大事業は方々で行われる事になった。これに従事した労工に朝鮮半島の苦夫が多数いて
朝鮮半島でも近代化の思想や中国の洋務運動の流れがあった。だが李氏朝鮮の政権内で
は清の冊封国としての立場の維持が大事とする守旧派(事大党)と朝鮮の近代化を目指
す開化派に分かれていた。そして近代化路線にはすでに危機に瀕した清朝に頼るか、宗
属関係に依拠するよりは、むしろロシアや日本に頼り独立近代国家の形成をはからなけ
ればならないのではと言う急進開化派(独立党)と、より穏健で中間派ともいうべき者
はあくまで親清による開化派になっていて 穏健な昔のままの王朝維持派と事大党との
大きな溝を産んでいたのだ。清時代のアヘン輸入禁止は1796年なのだ

453: 名無しさんAA:17/09/18 14:58
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 173

 だがこの頃の清国は先の世界最先端の旗艦を要した北洋艦隊を持って その兵員も又
極東最大であったのだ。既にロシアすらも極東の清の海軍を脅威とみなし、そこに朝鮮
とつなぐシベリア鉄道建設と旅順要塞の奪取を決定しているのである。これは又仏国や
独国の極東進出を脅威とした中にロシアはあったのである。独国が仏国に勝った事も又
大きな問題だったのだ。そしてそのロシアと清国が対峙している中にベトナムでの清仏
戦争が起こったのである。当然阮朝は清朝の庇護国であった為宗主国である清朝はこの
朝鮮に派兵してた軍隊の半数と海軍を投入した。此処に日本の近代化に寄り添うべし、
とする開国派の金玉均・朴泳孝・徐載弼ら独立党の人士が他の派閥を排除し李斯朝鮮の
玉座を守備し建国宣言に至ったものだった。だが朝鮮国も又清朝の庇護国であってこの
宣言に即座に清国軍は派兵した。大量の清軍が反撃に出て、袁世凱の率いる部隊はクー
デタ部隊を攻撃し、日本軍は撤退した為、開化派政権は三日で崩壊した。金玉均・朴泳
孝等は日本に亡命し翌年、日清両国は天津条約を締結、朝鮮出兵の際の相互事前通告な
どを取り決めた。このクーデターは1884年(明治17年)の甲申政変と呼ばれるも
ので、この三日で終わった事変は今だ朝鮮出兵していないで王宮警備もままならない時
期に起こった悲劇だった。だがこの清の冊封国としての立場の維持は、勝手な清国の用
いた地位であって、既に朝鮮国を英国に売り渡してドイツから戦艦を買った状態だった
のである。この後1886年にも、清国の北洋艦隊は朝鮮東岸からの帰路に長崎によっ
ている。これは朝鮮半島東岸の元山に出動したのは 朝鮮問題で対峙していたロシアを
威嚇する為であった。この出動の帰路に艦隊は長崎に寄港するのだが、長崎寄港の目的
自体は、燃料の補給及び北洋艦隊の主力である定遠級戦艦の修理にあった。特に定遠級
はこの時修理が必要な段階に来ていたが、当時の東アジアには、巨大な定遠級を受け
入れられるドックが長崎にしかなかったのである。また当時の日本の開港地では海外の
不平等条約によって治外法権があったため、中国人でも上陸が止められずにいたのだ。
こうして一挙に上陸しては遊廓で登楼の順番をめぐる行き違いから、備品を壊し暴行を
働くなどのトラブルが起こり、長崎市内をのし回り、商店に押し入っては金品を強奪。
泥酔の上、市内で暴れまわり婦女子を追いかけまわすなど乱暴狼藉の限りを尽くすので
ある。長崎県警察部が鎮圧に向かったものの、警察官と清国水兵は抜刀して市街戦に発
展、斬り合いの結果、双方とも80数人の死傷者を出し、やっと水兵達は逮捕された。
まさに いまの尖閣問題同様の 無礼で恥で野蛮で傲慢な抑圧姿勢での強要なのである


454: 名無しさんAA:17/09/18 15:03
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 174

 この時に水兵は骨董店などで購入した日本刀を武器として用いたと言う。こうして、
長崎に来航した清国北洋艦隊水兵が起こした暴動事件に謝罪はなく、又一方的に清国は
日本政府に対して補償を要求した。事件後、日清両国は長崎にて英仏人弁護士の立ち会
う中会弁委員会を開き、また東京では井上馨外相と徐承祖駐日公使により交渉が行われ
た。最終的には英独の斡旋を経て妥結し、その内容は事件の当事者については所属国の
法律により処分する。また撫恤料として日本からは52500円、清国から15500円を支出す
る。という事に落ち着いた。また当時の日本の開港地では治外法権があったため、長崎
事件の再発を防ぐために日清両国は相互の軍艦往来について規則を定め、両国の軍艦が
相手国を訪問する際は相手国側の規則に従う事、また上陸する士卒の制限を定めた。更
に日本の警察官が今後帯刀を禁ずべしという要求を突き付け、飲ませる事に成功した。
と中国側は報告している。が事件当時帯刀が許されず警棒であった為一端引き揚げての
帯刀して事態を鎮圧した事から この機によって警官に限り帯刀を許す事に変わった。
 この事は当時は如何に日本は諸外国に弱かったか 或いは清国海軍がロシアさえ威嚇
し極東の最大艦隊として日本海や東シナ海で制海権を取って行動していたかが解る事件
であろう。更にこの仲介に 日本側は英国大使に求め 中国側はドイツ大使に求めた事
は世界の中で極東の勢力状態 或いは時の政府が何処を頼りにしていたかが解るもので
ある。ロシアも仏国も英国も中国には敵対した国家であり、そこにドイツは歩みよって
来ていたのだ。更に大事な事は日本にもこの頃は充分すぎるほどの輸出をし民間企業に
取り入っていては巨大投資や技術提供をしている事実だ。そこには少しも先の「黄禍論
」的強圧な外交をしていなかったのである。少なくとも表向きは。ところが一方では、
極東へのドイツの対中国政策はヴィルヘルム2世が即位すると急変し、帝国主義政策を
推進した。例えば日清戦争後の1897年、ドイツ人宣教師殺害を口実にして膠州湾に
軍を出し、1898年には山東省膠州湾の99年間の租借を認めさせた。中独関係が最も
冷え込んだのは1900年の義和団の乱の際で、ドイツ公使を殺された時は怒って、こ
の制圧に向かっている遠征軍司令官に対して、「反乱軍をフン族の如く容赦ない攻撃を
加えよ。」と命令した。この事件後は国内で公に第一次世界大戦、第二次世界大戦の声
明や命令に軍内でははしばしば「フン族」の蔑称が呼ばれていくのである。



455: 名無しさんAA:17/09/18 15:26
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 175

 中独合作はその後その後中共合作と共産党化していく。というのも本来ドイツ帝国は
この第一次大戦前から第二次大戦後の今でも 先のドイツ連邦国家を作るに当たっての
大国オーストリアを入れた国家か入れないでの協調国家かで国論は割れていた。が、常
にその結果は同じで、オーストリアと言う大きな国に動かされる事を恐れた小国の集ま
り「純ドイツ主義」と言う特異的な「小ドイツ主義」のまとまりを望んだのである。が
更に国内の「大ドイツ主義」の意見を抑える為に オーストリアを武力による吸収拡大
を基本方針に約束するのである。これは先のマトリョーシカ的つながりからドイツ国民
の一部がオーストリアに在住していたからだが それと同時にフランスが起こした市民
革命や自由主義の持つ資本主義を嫌う封建的保守体質からもそういう結果に常になった
といえる。この封建的保守的と言うのは、正にソ連共産党の体質でその共産党派が多数
を占める事を意味している。それはヒットラー台頭時代も同じで そもそもナチスとは
日本語的には「国家社会主義ドイツ労働者党」であり社会共産党を意味するものであっ
たのだ。ここに日本政府はかつても今も大きな間違いを犯している この中独合作は、
ナチスが台頭して来る頃は 既に思想的には中共合作と同じになっていたのである。つ
まりドイツのソ連侵攻は北朝鮮がソ連なり中国なりに乗り込んで行った様な感覚なのだ
。この社会主義派と自由主義派の分裂はサラエボ事件ででも起こっているしヒットラー
時代の侵攻作戦でも大戦後の東西分割時もそれは全く同じであり ドイツ国民のもって
いるだろう独特の脅迫観念の素となっている。従って1930年代の終わりにかけては
、両国の蜜月関係は最高潮に達し、ナチスがドイツを支配するとさらに関係が強化され
た。日独防共協定が締結されると表向きは関係は弱められが、現実はロシア包囲に応援
していたのである。その中で共産党に米・英・仏・露が又共産党軍を応援して来たのだ
が 日本は馬鹿な事に共産党支部であるドイツには対ロ防共を唱えた条約を結び、本部
共産党のソ連にはには不可侵とする日ソ中立条約、を結ぶと言うおかしな事を真面目に
行っているのである。更にはどういう勘違いなのか この防共協定を結ぶに当たって、
イギリスフランスに合同調印を呼びかけている。これは如何に巧妙にナチスが共産党の
配下である事を隠したかが解る事例の一つであろう。又中国を日・独・米・英・仏全て
に応援した武器や兵員供与があった事は 第一次大戦後の条約違反を大国が堂々と独国
の進出を理由にやっていた事になる。国際連盟を脱退した理由でベルサユ条約と共にあ
ったベルサユ体制の日本の権利は無視されていたのである。これが今の混乱の素だった

456: 名無しさんAA:17/09/18 16:23
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 176

 こうして ナチス党は表向き共産党を非難しても、裏では共産党と手をつなぎ、共産
党の 排斥活動なりユダヤの様な、共産主義者の取り締まりはしていない。それどころ
かナチス党そのものが共産主義の中の愛国者を集めた形で人材登用し 政権運営してい
てソ連の供給で日本の様な石油枯渇すら起こっていないのである。この共産党進出には
国際旅団などの暴走した武装革命をイギリスもフランスも見抜いてはいたに違いない。
だがドイツの間で調印された共産党防止の「インターナショナル・コミンテル活動阻止
」の協定などをした日本を笑っていた。同じ共産党同志の領地争いで支部に本部の暴走
を止めようと呼びかけ 本部にこちらに来ないで下さい。との約束をした行為に過ぎな
いと。それは当然だった米国共和党も英国資本もこのユダヤと言う隠れ蓑の下の共産主
義支援者だったからだ。お粗末なもので この事でより日本が共産主義の仲間だと思わ
れたに過ぎない条約だったろう。チャーチルは既にこの共産主義が世界の最大の問題と
なる。と予見したが そもそもが日本とドイツはその防波堤としての砦に先進国は利用
して来ていたのだ。がナチス侵攻で英仏共当面の問題はドイツ拡大でありロシアではな
かった。更に米国にはロシア系ユダヤも多くいて 金融資本の繋がりからは ドイツの
戦争による債権返済や償還拒否やフィリピン購入の代価が支払われない問題が重大であ
ったはずだ。この中独合作は中国の近代化に大きな影響を与え、第二次上海事変で成果
を発揮した。とあるのは歴史的大きな事実を日本人はまともに教えて来ていない事にあ
る。というのもよく盧溝橋事件から世界大戦に走ったと記載されるが全く間違いでこの
第二次上海事件こそが 日本の本当に太平洋戦争所謂世界大戦に突入した理由であるか
らだ。共産党軍がゲリラ活動をして中共合作を目論み 世界が日本の大戦参加を目論ん
でいた。その意味ではドイツも英国も同じだった。英国は米国の参戦を希望していたか
らだ。中華民国に駐在していたドイツ軍事顧問団団長ファルケンハウゼンは、「中国の
敵は日本が第一、共産党を第二」と指導し、国民党軍に漢口と上海にある租界の日本軍
に対する奇襲を提案した。その後も「今こそ対日戦に踏み切るべきだ」と蒋介石に進言
し、北海事件後には河北の日本軍を攻撃するよう進言した。こうした執拗な進言は独国
が如何に東洋の国の同士討ちを願っていたかが解るし「黄禍論」が存在したかが見える


457: 名無しさんAA:17/09/18 16:23
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 177

既に共産党との裏約束がある国民党軍は1935年冬、国民政府軍は、ドイツの緻密な
策定の後押しで、南京・上海方面の「抗戦工事」(陣地)の準備を張治中に密かに命令し
ていた。優勢なる兵力をもって奇襲し上海の日本軍を殲滅しこれを占領し、日本の増援
を不可能にしようと企図し行動した。この頃既に悪態の限りの中国軍と治安維持を行う
日本軍の関係はかなり険悪であった。中19路軍の支援を受けて日本の勢力を利用して
の現蒋介石政権の打倒を図ろうと活動していた共産党は、海外援助により一気にテロ活
動を活発にした。こうして中山水兵射殺事件や上海日本人水兵狙撃事件が次々に引き起
こされていた。宮崎貞夫一等水兵事件は 中国人に拉致されたと在留邦人から報告され
た事で発覚する。日本側の対応は早く、上海特別陸戦隊は警備配置につき、調査を開始
したが、これに対し 中国保安隊は既に日本側に抗する為要所ごとに土のうを積上げ、
鉄条網を張り巡らし待ち構えた。上海市長である兪鴻鈞が直ちに岡本季正上海総領事に
連絡を取った。第一次上海事変後停戦協定により、中国軍は上海中心地への駐留が禁止
され、3200人ほどの保安隊だけが認められていたが、先制攻撃の道を考えていた中国軍
は、保安隊や憲兵隊に変装した兵隊を閘北に入りこませ、一帯に土嚢を積み、戦闘準備
を進めていたのである。この為自国の保安隊の動きに不安を煽られた上海市民は既に第
一次上海事変を想起し、共同租界地やフランス租界地などへ避難して、その数は一日に
二万人とも五万人ともいわれた移動が行われていた。日本側はこの事件に即応したが、
宮崎の逃亡の可能性を疑い、いたずらに危機を煽らない為警戒配備をのみとし、中国側
も防備を撤収した。大山事件の現場でも早期の時局収拾を目指した日本は船津辰一郎元
上海総領事を上海へ派遣したが、その後夕刻、上海海軍特別陸戦隊 西部派遣中隊長の
大山勇夫海軍中尉と斎藤與蔵一等水兵が支那兵に射殺される事件が起こった。大山事件
である。両軍は一触即発の状態となり、情勢が緊迫した。こうした事で 8月10日、上海
のノルウェー総領事アールは、在上海各国領事に対し領事団会議を開催する事を求めた
。当初、日本総領事岡本は固辞したものの、再三の要請により出席することになった。
英米仏伊代表は上海付近に戦禍を波及しないように日中両国に希望することで決議をし
、上海市長へも伝達するとした。


458: 名無しさんAA:17/09/18 16:23
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 178

 こうして同日に、閣議では海軍側より陸軍に派兵要請を行い、4相会議で派兵が決定
した。だがこれを受けた海軍の長谷川清中将は、国際租界内の海軍司令部に対し、平静
を保つように命令を出した。またこの日には、海軍陸戦隊には上陸命令は出さない事に
決定した。ところが翌8月11日、上海市長は日本領事に電話をかけ、「自分は無力で
何もできない」と通報してきた。先の会談合意が守れない事だった為。危機を感じた日
本側は急遽夜、陸戦隊1支隊を予防のために上陸させた。こうして戦闘予定の配備を怠
りなく防備してはいたが 突然に戦闘が開始された。上海海軍特別陸戦隊本部は、8月
12日未明、中国正規軍本隊を上海まで前進させ、中国軍屈指の精鋭部隊第87師、第
88師などの約3万人を超えて 国際共同租界の日本人区域を包囲したのである。日本
軍の支援上陸に備えて揚子江の呉淞鎮と宝山にも約1千名を配置した。対する日本軍は
は、上海陸戦隊2千2百、漢口から引き揚げてきた特別陸戦隊3百、呉と佐世保から送
られた特別陸戦隊千2百、出雲の陸戦隊二百、常駐部隊3百2十の計4千人あまりで、
全く少ない中にあった。3万対4千である。この為に、日本領事は 国際委員会を再び
招集し、中国軍の撤退を要求した。しかし上海市長は中国は既に侵略をうけている。と
の声明を繰り返すのみで、最後に喩市長は、中国軍は攻撃されない限りは攻撃しない。
、中国政府として認められるのはせいぜいそれぐらいだと断言した。一方、日本は上海
近辺での中国の派兵の全ての責任は中国側にあるとしにらみ合いが続いた。午後5時5
0分、日本海軍の第3艦隊が軍令部に、陸軍派兵を要請する電報を打った。午後8時4
0分、本部からは「動員が下されても到着まで2週間かかる。なるべく戦闘正面を拡大
しないように」という電報が返ってきた。こうして本部屋上で待機する海軍特別陸戦隊
は待つ事になった。8月13日午前10時半頃、商務印書館付近の中国軍は日本軍陣地
に向かって機関銃による射撃を突然開始した。日本の陸戦隊は応戦したが不拡大方針に
基づいて可能な限りの交戦回避の努力を行い、また戦闘区域が国際区域に拡大しないよ
う、防衛的戦術に限定した、中国軍機が低空を飛行したが陸戦隊は対空砲火を行わなか
った。列強各国の調停の申し出を期待したのである。午後4時54分には、八字橋方面
の中国軍が西八字橋、済陽橋、柳営路橋を爆破、砲撃を開始し、日本軍は応戦した。午
後5時には大川内上海特別陸戦隊司令官が全軍の戦闘配置を命令し、戦闘が開始された
この日、英米仏の各領事は日中双方に申し入れを行い、上海での敵対行動を回避する為
に直接交渉を行うことを勧めた。


459: 名無しさんAA:17/09/18 16:24
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 179

此処から中国側の襲撃事件そして上海租界の爆撃などが起こり 延々と日本人襲撃が起
こるのである。時々これを日中戦争とか言う。がそれは違い今で言うならテロなのだ。
 当時の中国では、蒋介石を中心とする国民党と毛沢東率いる共産党が政権争いをして
いた。しかし既に、2つの派閥は国の一大事の前に手を組み日本軍に対抗する事を決め
ていた。そして他国の諜報部はそれを見守っていた。それはドイツさえ共産主義でこの
極東に手を伸ばし西側もこの「野蛮な国の同士の戦い」を予定した国策を行っていたか
らだ。当時の派閥争いでは国民党が有利だったので蒋介石は手を組む事は嫌だったろう
。だが、変節の多い中国人は張学良を国民党に入れ蒋介石を軟禁した後も常に監視して
国民党の司令部を共産党が乗取った形の作戦を行っていたのだ。日本軍としては、この
国民党政府の治安に任せて南部戦線を発していたので、痛かった。日本軍は、初め中国
の首都、南京を奪還目標と定め1937年12月10日、20万の兵で総攻撃。13日
には南京占領。その後は、戦線を拡大。武昌、漢口、広州と中国の主要都市を占領。そ
れらを結ぶ鉄道も支配下におき粛清と治安維持確保を行った。しかしながら、中国軍も
首都を重慶に移し抗戦。ゲリラ戦を展開し、こうして日本は苦戦を強いられ日中戦争は
長期戦へともつれ込んでいく。こうして拡大する戦火に1938年には、日本でも対応
する為に国家総動員法を制定した。国民男子を政府が強制的召集令状で勝手に戦線に送
り込むものだ。更に国民の財産も政府の自由没収利用出来る法律でもあった。極東のこ
の混乱の成功を見てドイツは、1939年にポ−ランド侵攻に走った。こうして第一次
世界大戦の敗戦で、縮小し監視され周りの小国からも囲われていた国外での地位や権利
と国内での不況に近い経済の打開にドイツ軍は突然に隣国に迫り領土拡大した。この時
1941年に 日本は既に共産党の罠にかかっていた。贋の国際情勢と米国始め同盟国
としてしての鉄や石油などの重要物資の供給を ドイツロシアとの条約で止められたの
である。本来ドイツも石油はない。ところが中東原油のルートの確保を行っていたのだ
1939年に第二次世界大戦は勃発したがナチスはソ連と不可侵条約、翌年にはドイツ
・ソ連通商協定を結び、ヒトラーは「賎しいユダヤ人」「呪うべき共産主義者」と攻撃
していながら共産主義ソ連と手を組んで、石油・貴金属・穀物の供給を受けていたので
ある


460: 名無しさんAA:17/09/18 16:29
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 180

 本当にドイツに戦争をやめさせたければ石油の供給を止めればよいのである。しかし
、ドイツにソ連のバクー油田から石油を供給して戦争を継続させたのは、英国ユダヤ資
本ロスチャイルドやノーベル財閥の石油会社シェルの裁断であった。共産ドイツの奇妙
な関係は、これだけではない。ナチスにユダヤ人を迫害させたのはシオニストだという
証言は多い。ユダヤ人を中心にその後の戦争終結時は収容所以上のドイツ人捕虜を沢山
ソ連に送り込み収容所で働かせ虐殺した。これに米軍は加担したのである。ドイツ人の
「黄禍論」は中国で正しく伝わり「夷国をもって夷国を制す」と中国政治家の考え方を
蒋介石も毛沢東も受け入れて戦略をたて、日本を中国の内戦に引き込み、中独合作・中
共合作などと言いながら 自国民に政府による官製テロを行い国際社会アピールを促し
たのだ。上海空爆はその最も著しい物で、上海租界の外国人に政府は「空爆は日本軍の
横暴な行為で断固反対する。」との抗議声明をだした。だが写真を撮った記者は現像し
中国政府軍の航空機である証拠を突き付け「目標を間違えた事故であった。」と訂正し
た。それでも最初に大きな記者会見の場でこの大きな嘘のプロカバンダは成功し人民に
は特に日本人の行為と映った。、1938年、日本軍の進撃の道をはばもうと、黄河の
堤防を爆破した。この時は、折しも大雨が降ったこともあって11の都市と、4千の村
が水没し死者100万人、その他の被害者600万人という大惨事になり死者は川に溢
れかえった。しかもそれだけでは終わらない。この突然の人造水害の結果、黄河の水路
の流れは変わり、周辺に水枯れが大飢饉を起こした。被災地で食糧不足に悩み中国軍部
隊は民衆からの食糧の強奪を始めたのだ。飢饉は深刻化し、その惨状を当時のアメリカ
人記者は、「道ばたには凍死者と餓死者があふれ、飢えた人々は屍肉を食べていた。」
と報じた。この時中国側は又事件直後から、堤防決壊を日本軍のしわざとして宣伝して
いる。しかし中国側のこの自作自演は、証言や写真で外国人記者に見破られてしまう。
 この堤防決壊の時も、日本軍兵士は1人も死んでない追いついていないからだ。それ
はただ中国人を大量殺戮しただけの行為だったのだ。堤防決壊の直後、追いついた日本
軍は堤防の修復作業を行なっただけでなく、被災した民衆の救助と、防疫作業を行ない
ました。日本軍は、中国軍から虫けらのように扱われた中国民衆を、必死になって救済
した。こうした事は多々ある。今でも中国政府は自国民制裁を行い、全てを外国悪者に
見立てる。更にその論拠が崩れるとすぐさま内政干渉するなと隠してしまうのである。


461: 名無しさんAA:17/09/18 16:57
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 181

 では何故こうした事が起こるのか。実はユダヤ教など1神教と日本との戦争視点の違
いがある。日本でもこうした自国民を虐げる行為がない訳ではない。だが極端に他国の
者もいて国籍のみが日本人と言う海外の人間は比較的少ない。ところが国境をまたぐ今
の移民の群れの様な集団には日本の様な「治安」の観念はなく中国国内でも「漢民族」
がウイグル人を日本人の様な自国民と言う意識はないのだ。又共産党や自由主義と言う
観念も植え付けられたものであり「自由資本主義」は金の兌換をしないニクソンショッ
クで既に終わっている。又「共産社会主義」の経営も又ソ連崩壊や日本の中国支援など
既に崩壊していた事は事実である。つまりこれらの国家経営の手法は全く間違えていて
貧富の格差などどうでもよかったのである。先の英国ユダヤ資本ロスチャイルドとは言
え彼らの基はこのドイツからの移民でありドイツに巨大貸付していた金融家であった為
と言えばうなずけるだろう。つまりナチスのユダヤ狩りそのものがヒットラーの考えに
矛盾していたのである。中国の蒋介石も又自分の命と人民の治安では自分の命が大事で
あったのだ。日本人の様な「世の為、人の為、尽くしてこそ命の価値がある。」と言う
道徳心は植え付けられず ただただ同族同業者でさえ蹴落として競争社会に生きる主義
を貫いているのである。つまり鼻から「共産社会主義」を巧みにペテンで覆い指導者層
の席を狙い、攻撃は最大の防御で対策し自己防衛の正当性に「武器さえ自由の競争社会
」の演出を主張して 共和国を作らせてやまないのである。それが原爆の傘理論であり
株式の運用理論なのである。ドイツで起こった「ホロコースト」という言葉は、ナチス
によるユダヤ人大虐殺と同義に使われるが、本来は「神に捧げる犠牲」という意味であ
る。つまりユダヤ人同志が仲間を神に捧げた行為だったのだ。ユダヤ人600万人がナ
チスに殺されたというのは大誇張がある。なぜなら、戦前のユダヤ人の人口は約160
0万人、戦後は約1470万人と解っている。人口を比べると130万人ほどしか減っ
ていないのだ。その上、ソ連領内で100万人のユダヤ人が減っていることがヨハネス
・ロスクランツの調査によって確認されている。他国への移住者も数多くいた時なので
、せいぜい数万人数十万人でなければ計算が全く合わない。更に強制収容所内での飢え
や病気が原因の死亡者も多くいたと思われる。ただユダヤ人が迫害を受けていた歴史は
事実で、シオニズムに反対したユダヤ人と呼ばれた人はイスラエル建国の為のに、正し
く「神に捧げる犠牲」とされた。それはロマ人でありロシア人でありボヘミアンと国籍
の無い人達であり 移住して来た人も土着民もいただろう。敢えて整理したのである。


462: 名無しさんAA:17/09/18 17:00
 今や北朝鮮は核を持ちミサイルを飛ばす。これを危険だ恐ろしいと叫ぶのは大和民族
の性分であるだろうが 本当に恐ろしいのはそうした平和ボケしたような教育の廃れで
もあろう。即ち先の「世の為人の為の命」とする道徳教育と「夷を以て夷を制す」と言
う覇業観念の違いこそが 最も恐ろしい事に筈なのだ。この日本流の「他人の褌で相撲
を取る」と言う離れ技は 全く陰謀論そのままである。「黄禍論」は正に留学して得た
張学良の「傀儡指導者となった蒋介石」そのものの姿であったが、この姿こそ 共産党
コミンテルンもユダヤ教シオニストも 最も求めている姿であろうが地球が持たない。
そうしたことで虐げられるのはいつも下層の庶民であり、更に敵としているのは同じ指
導者としての地位を持つ良識者であった事が この上海租界事件に見える。だが現実に
起こった事は日本人妊婦を暴行し八つ裂きにして、手足や頭それぞれを晒すなどの真に
おぞましい事が毎日の様に繰り返し人々に狂気を誘った事だ。その姿ややり方は今でも
中国やロシアでは起こっている。これこそはユダヤ人の想いと同じであったのだ。北の
真面目な核実験やミサイルは全く怖い事ではない。それ以上に怖いのは、既に日本との
在置諜報員としての繋がりが消えて、張成沢を犬に噛ましたぐらいの狂気と、その狂気
を持った指導者が核を利用する狂気である。1944年に今だ戦争も終わらない中では
不思議な会議が開かれた。ブレントン・ウッズ会議である。英国代表には経済学者のジ
ョン・メイナード・ケインズ「フェビアン社会主義者」で、一方米国代表はハル・ノー
トの作成者、財務次官のハリー・デクスター・ホワイト「国際共産党主義者」である。
社会主義者と共産主義者が協議して今後の戦後の“資本主義体制”を、決定するという
 不可解で実に不思議な会議が開かれたのである。7月夏のアメリカ合衆国のニューハ
ンプシャー州ブレトン・ウッズで開かれた連合国通貨金融会議で45ヵ国が参加した。
締結されたのは 1945年に発効した国際金融機構についての協定である。この会議
を取り仕切ったのが、米国財務長官のヘンリー・モーゲンソーJr.  である。父親は、
ロスチャイルド一族の銀行家ゴールドスミス家、母親は、ロスチャイルド一族の鉱山王
グッゲンハイム財閥の出身という人物でこの鉱山は戦時には鉄で戦後はウランで稼いだ
とされる。「アメリカ合衆国のドルを基軸とした固定為替相場制」であり、1オンス35
USドルと金兌換によってアメリカのドルと各国の通貨の交換比率(為替相場)を一定に
保つことによって自由貿易を発展させ、世界経済を安定させる仕組みである。が この
会議の不可解なのは今だドル札発行は米国政府の権限ではない。つまり国際会議であり
ながらも政府間会議でもないのだ。国際通貨基金(IMF)、国際復興開発銀行(IBRD)、
の設立を決定し、これらの組織を中心とする通貨体制である。


463: 名無しさんAA:17/09/18 19:08 ID:XP.
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 183

 勿論、この協定が1929年の世界大恐慌により1930年代に各国がブロック経済
圏をつくって恐慌を起こした経験則から二度もの世界大戦をまねいた反省によっている
事は明らかだ。今回の戦争で疲弊・混乱した世界経済を安定化させる目的と共に、通貨
の乱高下による投機筋の動きを抑える目的もあった。だがこの不可解な会議は共産党の
社会主義学派によって固められた知恵だった事だ。この事には2つの事実がある。一つ
は国家予算以上の歳費で核ミサイルが既に製作段階に入っていた事だ。二つ目は共産党
の流れを組む共和党の施政でハーバート・クラーク・フーヴァーがアメリカ合衆国の第
31代大統領に就任した事だ。彼はオーストラリアの鉱山で鉱山技師として働き始め、
その後中国で鉱山の開発に従事した。1900年には天津租界で義和団事件によって、
1ヶ月もの間包囲され、攻撃を受けている。妻が慈善施設で働いている時、彼はバリケ
ードの建設を指揮し、時には中国の子どもを命がけで救っている。彼はドイツ人鉱山師
アグリーコラをこよなく愛して翻訳さえ手掛け、その正確な翻訳には定評がある。アグ
リーコラは、実際に鉱山で働く人々の、今までの知見や経験、発見や発明を科学の言葉
に替え、新しい体系を創出した鉱山師だった。自然や実業に密着していたため、錬金術
など頭から否定し、軽蔑していた。又フーヴァーはヘンリー・カボット・ロッジと共に
、他の上院の共和党員の大きな反対にもかかわらず、商務長官在任中の1921年に、
ロシア革命により混乱をうけ飢饉で苦しだソ連や、大戦後のドイツの人々など食糧支援
を提供した。その行為に評論家は批判的で「共産主義ロシア」を助けていなかったか。
との問い合わせを受けた。フーヴァーの答えは、明快に「2千万の人が飢えているのだ
。彼らの政治が何であっても彼らを食べさせるべきである。」と真っ向から反論した。
ニューヨーク・タイムズはこのあと「10人の最も重要な生きているアメリカ人」に、
フーヴァーを選んだほどだ。この事は共産主義などと言うしっかりしたものはこの世に
は存在しなかったと明確にしている。共生社会を夢見る社会が共産党の本流や国民党や
共和党などの分流の中にあると言う現実現実でも かなり冷たい中 一般でもその思想
の一端を持っている筈だと言う現実だ。加えて言うならより非情な自由主義の存在がそ
の援助や通貨枠組みをしたと言う現実だ。共産主義が非現実であり幻想であって そも
そも人の持つ道徳に守られている事だ。自由主義すらも道徳により運営される。此処に
今のルールなき格差社会を是認した冷たい資本主義の破滅の馬鹿さや嘘がある。



464: 名無しさんAA:17/09/18 19:25
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 184

 この「黄禍論」のルーツは「選民主義」であり、そのルーツはユダヤ人と言う事だ。
だがユダヤ人は、その定義さえはっきりしない不思議な人たちである。一般的には古代
イスラエルの十二氏族のうちユダ族だった人たちがユダヤ人ということになっている。
だが、実際にはかなり複雑なことになっている。「スファラディ系のユダヤ人」とは、
「聖書の民」であるユダヤ人でイスラエルからスペイン方面に逃げてきた有色人種だ。
我々は白色人種の中ユダヤ人を見るが 本来の正当なユダヤ人は有色人種と言われる。
「マラーノ」はキリスト教に改宗させられたり、改宗したふりをした隠れユダヤ人で、
ある意味ユダヤの中のユダと言われ キリスト自体が、ユダヤ教からの改宗者である。
「ミズラヒ」は先のユダヤ人の中で「ユダヤ教布教徒」として存在し布教で同じアジア
人に溶け込んだとされる。本流ユダヤ人の中のユダヤ教徒で日本の男系男子の様にこの
家族は女系女子である。東人と言う意味で更に古くは男性をユダヤ教徒としなかった。
「ホフ・ユーゲン(宮廷ユダヤ人)」ユダヤ系の中でユダヤ教徒の指導者であり、仲間
の6人以上の証人もしくは認知者でユダヤ教徒加入を認める職者。欧州宮廷の中で貴族
階級に同化してゆき、特権を享受してユダヤ人加入者を振分け決定する権限を持った。
「アシュケナージ系ユダヤ人」7世紀から10世紀にかけてカスピ海の北で栄えた遊牧
国家ハザール汗国という国があった。8世紀半ば頃、イスラム軍がこのハザール汗国に
侵攻してきて、改宗を迫る。ハザールの隣はキリスト教の大国、東ローマ帝国である。
東ローマ帝国と友好関係にあったハザール汗国の皇帝は、悩んだ末にキリスト教とイス
ラム教の元になったユダヤ教を国教とし宣言した、それ以降、国民全員がユダヤ教徒に
なる施策をとって国民をユダヤ教徒にした。この国民のユダヤ教徒に改宗したハザール
人達だが、のちに隣国まで教徒は増えた。アシュケナージはドイツ系と言われる。白人
のユダヤ人になった人という説もある。現在においては、イスラエルにいる「スファラ
ディ系ユダヤ人」は少数派で、90%以上の殆どが「アシュケナージ系ユダヤ人」であ
り「改宗派ユダヤ教徒」である。肌が浅黒い「スファラディ系ユダヤ人」という「真性
ユダヤ人」ではなく、白人のアシュケナージは、血統的に全く無関係な民族達である。
したがって、アシュケナージが「神の約束の地へ帰る」ことを口実にパレスチナの地に
ユダヤ人国家を建設することは、まったく正当性がない。しかしながら、世界の主要な
マスコミの株主を慮っており、ドルショック同様このことはタブーとされ、決して追求
さる事はない。

465: 名無しさんAA:17/09/18 19:38
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 185

 このブレントン・ウッズ会議で、ドルが世界の基軸通貨と定められた。これはユダヤ
の「シオニストの世界戦略」と言われた。と言うのも本来の少数の「真性ユダヤ人」は
シオニスト会議を行わないしシオニスト連合に参加していない。シオニズムそのものが
旧約聖書に書き込みにある様に 違法なのだ。それはユダヤ王は真の世界の法王、世界
に跨る教会の総大司教である。(全人類の王)とされかの王の権限でしか会議は出来な
いからだ。だがイスラエルが建国された様に迫害を盾に取って、自らの自衛の為の生存
圏として 世界戦略を考える選民思想や白人優位主義がこの会議を産んだ。今まで貯め
た貨幣価値の温存の為にである。こうした帝国は「古いユダヤ教」を取入れた。「教義
を利用」し「宗教を利用」し「人を利用」し「国を利用」し「経済を利用」したのだ。
このブレントン・ウッズ会議で出来た、国際通貨基金「IMF」と「世界銀行」の創設
は、他ならぬ戦勝国が持つ今までの資産価値の温存であった。この両機関が、WTOと
共に今後の国際関係を決める大枠として働く事で グローバリゼーションを推進しなが
ら自分達が中心勢力であり続け、同時に途上国を支配し頭を押さえた機関でもある事は
事実だ。それは「核保有5大国」が自国の核を増やし続け、他国に「核開発禁止」する
事と全く同じ仕組みの不平等性に証明される。かつての植民地は、戦後、次々と独立を
果たし、工業発展途上国と呼ばれるまでなった。名前の通り、途上国は元々資源供給地
にされ、工業技術力では相手にならない。その上に、輸送手段と販路を既に握られてい
る中にあった。先進国のように世界各地へ売りさばくことが出来ない上に、貿易で豊か
になろうと思えば一次産品の輸出を続けるしかない状態である。百数カ国の途上国が、
たった30品目程度の生産品目しかない一次産品を争って輸出し、60年代以降に価格
が暴落する事は目に見えていた。慢性的な赤字を抱えるようになった途上国が、IMF
や世界銀行から借金をするのだが、その際、構造調整プログラムというものを受け入れ
ることを条件とされ、それは先進各国の産品を安値にしない事や先進国の持つ消費社会
を文明社会と受け入れる事が必須の条件だった。その上地下資源など開発するインフラ
でも債務国は自国の経営権を失う程の契約に於いて投資対象者となったのだ。この姿は
オリンピック開催と似ている。事務局の権限は最大で勝手な開催は出来ない。だが開催
となれば莫大なPR費と観客動員が出来、それを頼りに公共投資での不況対策が出来る
のである。そしてその価値は文化でも食糧でもなく「ドル」と言う通貨価値なのだ。

466: 名無しさんAA:17/09/19 04:12
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 186

 古来よりユダヤ教の聖典は『旧約聖書』だが、冒頭の5書、「創世記」「出エジプト
記」「レビ記」「民数記」「申命記」は特に重要とされている。「モーセ 五書」又は
「トーラー」(律法)と呼ばれる神聖な律法として崇められてきた。さらに、モーセが
神から授けられた法として、成文化されずに口伝で伝えられたものがある。この口伝は
3世紀頃に文書化され「ミシュナ」と呼ばれている。この ミシュナと、ミシュナからの
ラビが解釈した「ゲマラ」から作成された日常生活の規範と、時代時代に対応した生き
ざまを記した「タルムード」の素である。タルムードは、6部構成、63編から成ると
される文書群で、現代のユダヤ教の主要教派のほとんどが聖典として認めており、この
ユダヤ教徒の生活、信仰の基となっ ていると言われるものである。その膨大な文書の
中に民族的排他性と独善的選民思想が含まれた問題箇所があり、ユダヤ人が排斥される
原因となってきた。その一部を抜粋するがこれが愚民作りに大いに役立った事が解る。
まず天孫降臨に及んでユダヤの為に神は降り立ったとし他の民族は人ではない獣だとい
う視点がある。更にキリスト教の全てを違法でも何でも奪って良いとしているのだ。更
にキリスト以外の異教徒は「ゴイム」として、異教徒にはどんな事もも許されるとして
イスラエル人は相手がイスラエル人で無ければ殺しても構わず又異教徒にユダヤ教を教
える者は殺しても構わず異教徒が我々の教説を知ったならば、彼らは公然と我々を殺す
だろう。と予見し、異教徒ががわれらの書物には何か害することが書いてあるのではな
いかと聞いたら嘘を宣誓せよ。と教えているのだ。此処に言うイスラエル人とはユダヤ
人でありユダヤ人以外は奴隷以下の獣として扱って良いとされ唯一キリスト教のみ盗み
や搾取の対象としている。これでは嫌われて然るべきでとても協調社会など築けないで
あろう。このような“選民思想”と共に、もう一つの特徴が「終末にあたって救世主が
再臨し、正義と平和が支配する理想世界が訪れる」とする“救世主(メシア)思 想”
である、言い換えれば“終末思想”である。これではヒットラーが産んだナチス思想で
ある。共産思想で言う世界革命である。秘密結社の殺人犯の言い分である。ただこれは
理由がある。そうあのアテネなど都市国家間が戦争の兵士の養成に作られた文章なのだ
つまりこのタルムードは聖職者の勝手な改訳を兵士作りの為に編み出したものだったの
だ。それは古来からのしきたりに絡んでいて今のイスラム教にも利用されている。この
ユダヤ教がローマの兵士を産む元になったとも言えるし十字軍やイスラム軍の戦いでの
洗礼を受けて今にあるのかもしれない。このユダヤ教が忌み嫌われたのは間違いない。


467: 名無しさんAA:17/09/19 04:13
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 187

 ここで我々が知るべきは 決して核兵器やミサイルを恐れてはいけない事だ。恐れる
べきはこうした事を作りたがるまやかしであり その思想と嗜好である。正にユダヤ教
のこの全人類から財産を没収せよ殺してでも良いと言った考え方はナチスの言う言葉と
同じであったのだ。そこにユダヤの恐怖があった。だが蓋をあければ同じ白人のユダヤ
教徒であっただけだった。ではユダヤは何処にいるか。それは割礼に秘密がある。この
割礼は一体何んの為にするのか。起源は何処にあるのか。それはバビロニアにある。こ
の地の多神教がある都市で一神教の都市国家が一神教を作った事は解っている紀元前6
00年ぐらいの話と言われている。この都市国家群の中に国家群を守る為の都市国家が
あったとしてもおかしくない。ユダヤ教では、割礼はブリットと呼ばれ、ヘブライ語で
「契約」を意味する言葉である。ユダヤ教徒の家庭に生まれた乳児および改宗者は、割
礼を行わなくてはならない。とされる。これはブリット・ミラー「契約の証明」と呼ば
れ、モーヘール「割礼師」と呼ばれる専門家が行う。つまりユダヤ教の入会式である。
創世記では「またその家の人々は家に生れた者も、銀で異邦人から買い取った者も皆、
彼と共に割礼を受けた。」即ちここで既に 母系母子の関係や正統とされる血縁のみの
宗教から一般化された布教する宗教に変化をしている。更に変化し現代では割礼に反対
するユダヤ人もおり、その場合はブリット・シャーローム(命名式に相当)をもって、
割礼の代わりとする ただしブリット・シャーロームは律法(旧約聖書)に反するとし
て否定する者も多く、今では一般的な儀式としては広まってはいない。男性の陰茎包皮
の切除をするこの割礼儀式は 今は入宗者や改宗者としているが、本来は兵士になるか
どうかであったと思われる。そして割礼が陰茎の包皮切除ではなく切断で、形を残した
機能の消失儀式だったと思われる。権力者への忠誠と兵士の子孫を絶つ行為だったのだ
。と言うのもこの考え方は以外に世界に広い風習だ。中国では宦官制度で皇帝の世話係
である。インドでは犯罪者の刑として、アフリカでは女性の淫乱防止にと風習がある。
あったのだ。日本での宦官の風習がなかったのは諸外国お如く淫乱に明け暮れる暇が無
かったからと言える。今でも一夫多妻や人口増加に悩む国は多い。だが日本の場合台風
・地震・お祭りと暇はない権力者が多い。その上水害や病気を含めれば 一夫多妻での
子孫を増やす事は必要な家系の存続行為だったが、より以上に今生きてる者を守る事に
祈りを捧げて国事とした。更に言えば 戦いは人よりは災害であり兵士は不要だった。

468: 名無しさんAA:17/09/19 04:17
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 188

 日本では周りに攻めて来る他国が少なかった。だが世界では都市国家間は交易もあっ
たが 災害で他の土地へ移る事はあっても攻める事はなかった。同じ部族存続も砂漠や
アフリカでは一夫多妻で子供を産んで多産を奨励する。だが一方で人口増加や過密都市
でのは食糧需要には危機が襲う。大陸ではまるでイナゴか鹿が若芽を食む様に人間も又
緑を食い尽くし移動する。中国が匈奴の侵入に悩んで来たのは 匈奴との交易が断たれ
国内では権力争いに明け暮れたからでである。つまり格差是正に取り組まなかったから
文化の隔壁が襲撃を起こさせたのだ。こうした事例は歴史上多いギリシャ時代ローマ時
代或いはインドやペルシャやアフリカでも多いし日本でもある。一般的には競争社会こ
そが社会進歩を遂げると言われるが間違った見方だが、それは事実ではない。殆どの場
合小さな「いさかい」はあっても平和な生活で発見も発明も発展も文化も産まれている
。問題は権力者の施政にある。どこの地域でも人口増加に悩んで領地外にそれを求め、
結局は戦い消滅した民族は多い。隔離された中では進化がないからだ。中国の様に政策
として子供一人とするのは難しいし気宇な例だ。通常は周りを攻めて緑を失い災害によ
って危機が押し寄せ飢餓と共に離散する。こうして古代都市国家の消失や戦争が起こっ
た事が証明されている。これは人口抑制と国家拡大は二律背反であり模索した事だろう
。となれば女性は人口拡大の為に置いといても、人口抑制に男性機能は失わせるのが手
っ取り早い人口調整だった。男は多ければ闘って命を失し忙しければ性交の出会いがな
い。又多民族に生殖させる訳に行かない。又少なければ兵士として雇う事も少なくなる
。つまり増加を減らす最も効率良い事だった。一方女性は一年に一回しか子供は産めず
産んだ後もその成長には欠かせない世話が必要だ。従って一夫多妻の制度が必要になる
。こうして人口調整の方法として 公式の兵士養成所を作りその忠誠の証としての断根
が女性側に伝承者として受け継がれユダヤ教の素が作られたと研究成果は言っている。
。それが「人は産まれながらにして罪を持っている」とし、「行いや生き方で終末に当
たり救済の主 救世主が現れる」、「正義と平和が支配する理想世界が訪れる。」とす
る“救世主思想”言わば「末法思想」を植えつけて置きながら 忠誠に陰部不能を提出
させた兵士に「君らは選ばれた民だ聖戦士だ」と言うのである。こうして古代は生き延
びて来たと考えられる。ところが現代になって日本やインカの現状からそれは不要であ
り 又より以上の移住でも生き残れないと言う 深刻な地球的問題になったのだ。


469: 名無しさんAA:17/09/19 22:41 ID:iPk
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 120

 ロヒンギャ問題は深刻な問題だ。本来バングラデシュにもビルマにもイスラム教徒は
全くいなかった。それはフィリピンやマレーシアでもいなかった。だがガレー船交易が
盛んになる10世紀頃に船の着く所に数人のそうしたイスラムの布教が始まった。世界
大戦時のアフガンでは盛んに傭兵がインドに出て行った。インドの東インド会社が盛ん
に集めたからだ。大戦以前から日本が南方の進出が成功すると欧米は植民地解体の危機
が自らが納めていたインドの傭兵を守備兵として雇ったからだ。その頃のインドネシア
でもマレーシアでもここミャンマーでも原住民と違って生活していた。イスラム教を捨
てなかったし言語体系も違っていたのだ。マレー戦線が拡大し日本が初戦に勝ったのは
同じ仏教徒だったからとも言える。だが陸に海に空に この中国の蒋介石援助のルート
を様々に構築した。そこにイスラム傭兵を契約で投入したのだ。彼らはひるむことない
強い兵士だった。クメールルージュと言われるビルマの血旗隊である。彼らの参戦で、
今まで案内して食糧す支援すらしていた原住民は殺され 砦の維持すら出来なかった。
そこに起こった悲惨さは日本軍の夜盗化である。広大な土地に取り残された日本軍は、
当初は南方でも南洋でもフィリピンでもビルマでもベトナムでも戦争よりはインフラの
整備を重きにしていた。学校を作り日本語を教え 道路を作り兵隊を送り出し 鉄道を
作り物流を整備しようとした。これは満州の成功からだ。だがそうした事を恐れた英国
は最前線に傭兵を送り物資は空輸して次々と援蒋ルートを作り中国に送り続けた。今の
中国の海洋政策として九段線がある。大陸の舌構想だ。だがこれはフランスとの戦いを
避ける為の香港での中国を自分の領地としてイギリスの香港領事館が引いたものだもの
だ。その後日本軍の南方政策が加わり更に戦後の共産軍政策が加わった。だがイスラム
はそうした事に関係なく方々に殺戮と領地確保をしていった。東チモールでも集落が奇
襲を受けて多くの民家が全員いなくなった事件でチモールのPKOが組織されたのだ。



470: 名無しさんAA:17/09/19 22:54
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 120

 ロヒンギャ問題は深刻な問題だ。本来バングラデシュにもビルマにもイスラム教徒は
全くいなかった。それはフィリピンやマレーシアでもいなかった。だがガレー船交易が
盛んになる10世紀頃に船の着く所に数人のそうしたイスラムの布教が始まった。世界
大戦時のアフガンでは盛んに傭兵がインドに出て行った。インドの東インド会社が盛ん
に集めたからだ。大戦以前から日本が南方の進出が成功すると欧米は植民地解体の危機
が自らが納めていたインドの傭兵を守備兵として雇ったからだ。その頃のインドネシア
でもマレーシアでもここミャンマーでも原住民と違って生活していた。イスラム教を捨
てなかったし言語体系も違っていたのだ。マレー戦線が拡大し日本が初戦に勝ったのは
同じ仏教徒だったからとも言える。だが陸に海に空に この中国の蒋介石援助のルート
を様々に構築した。そこにイスラム傭兵を契約で投入したのだ。彼らはひるむことない
強い兵士だった。クメールルージュと言われるビルマの血旗隊である。彼らの参戦で、
今まで案内して食糧す支援すらしていた原住民は殺され 砦の維持すら出来なかった。
そこに起こった悲惨さは日本軍の夜盗化である。広大な土地に取り残された日本軍は、
当初は南方でも南洋でもフィリピンでもビルマでもベトナムでも戦争よりはインフラの
整備を重きにしていた。学校を作り日本語を教え 道路を作り兵隊を送り出し 鉄道を
作り物流を整備しようとした。これは満州の成功からだ。だがそうした事を恐れた英国
は最前線に傭兵を送り物資は空輸して次々と援蒋ルートを作り中国に送り続けた。今の
中国の海洋政策として九段線がある。大陸の舌構想だ。だがこれはフランスとの戦いを
避ける為の香港での中国を自分の領地としてイギリスの香港領事館が引いたものだもの
だ。その後日本軍の南方政策が加わり更に戦後の共産軍政策が加わった。だがイスラム
はそうした事に関係なく方々に殺戮と領地確保をしていった。東チモールでも集落が奇
襲を受けて多くの民家が全員いなくなった事件でチモールのPKOが組織されたのだ。
ここに人の馬鹿さがある。つまり共産主義も自由主義もちゃんとした道徳教育がなけれ
ば成り立たないのだ。核廃絶と同じく合意しこの合意を守る事で平和と人口減少が起こ
るのであり食糧危機も防げるのだ。中国の様な乱獲乱開発欧米の様な利益主義格差やら
ロシアの防衛の為の攻撃論では世の中は良くならない。ここに教育があるのだ

471: 名無しさんAA:17/09/21 16:55 ID:YHg
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 121

 大東亜共栄圏構想は「東亜新秩序圏」や「東亜安定圏」と同一であるとした、日本・
満州・中国に加え、マレーシア(フランス領インドシナ)、インドネシア(オランダ領
東インド)をも含めた範囲であると決定していた。と言うのも、チェンバレン製油所の
石油輸入が日本に止められたのだ。太平洋戦争(大東亜戦争)開戦を控えた1941年
11月6日には第25軍司令官山下はアメリカ領ハワイへの真珠湾攻撃に先立つこと約
1時間前にE作戦(マレー作戦)を行った。マレー作戦は日本軍による一連の南方作戦
の最重要項目で第一発目となった。まともとハワイへの真珠湾攻撃は防備戦であり本来
はこの東南アジアからの石油輸送が目的だった。つまり太平洋戦争はこのマレー作戦を
行う為に開始されたのだ。シンガポールの戦いもインパール作戦の初戦として同時期に
行われ帝国陸軍第25軍がマレー半島に上陸した時、英インド軍第3軍団豪第27旅団
英本国軍大隊がこれに立ち向かった。が海上の物資補給船が既に撃沈されており孤立し
ていた。又イギリス軍は日本の様な無計画では無かった。新着のイギリス軍第18師団
と約7万人の戦闘部隊を抱えてその補給が無い事に悲観的であった。北部マレー半島で
の日本軍は数量的にはわずかに優勢にすぎなかったが、制空権・戦車・歩兵戦術・戦闘
経験において優越してはいたものの2倍を超える兵力差を覆して、当時難攻不落と謳わ
れたシンガポール要塞を日本が10日足らずで攻略した。英国としては歴史上最大規模
の将兵が降参し、。チャーチルは「英国軍の歴史上最悪の惨事であり、最大の降伏」と
評した。だがパーシヴァル中将の判断は英国として当然の事だった。敗けた要因には、
一つは戦車が通れないとされた湿地を日本軍の軽い小型戦車が通り抜けた事二つ目には
突然の攻撃に自軍の防衛で他への応援を駆け付けなかった事三っつ目が肝心の通行する
橋を防備に爆破していた事で本部は完全に孤立しその上新人部隊を上陸させたばかりだ
った。これがパーシバルを会談に持ち込んだ要因だった。裕福な混合戦隊での食糧不足
の反乱を恐れたのだ。その上山下奉文はそうした国際的な捕虜の扱いや会談には似合わ
ない人間だったのである。これがシンガポールやコタバルの悲劇であった。こうして東
南アジアが解放され この地の奴隷的国家群の形成が無くなり旧来からの日本への物流
が出来ると思っていた。支配的植民地経営から自立する日本との共存共栄の外交である

472: 名無しさんAA:17/09/21 17:01
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 122
 明けて翌年の1942年(昭和17年)に日本も又食糧自給と物量運搬に迫られた。日
本国そのものが国体保持と致命的な敗北を避ける為に、鉄道輸送を必要としていたのだ
。泰緬鉄道はその必要性に迫られた。それは、ちょうど連合軍が最後の勝利を得るため
の、ノルマンジー作戦の様な日本の必要不可欠の作戦だった。この戦争に日本の配員は
大本営は戦争を早めの停戦と調印で終戦が迎えられると考えていた。だが世界情勢でソ
連を相手にドイツは戦い日本もアメリカさえも戦争に入れてソ連が停戦調停してくれる
と甘い期待のまま戦争していた。戦争はどんどん過酷になり日本兵は誰ひとりとして、
最後の瞬間まで、敗戦を信じようとはしなかった。しかも、1945年(昭和20年)8
月15日の、天皇の玉音放送後さえ敗戦と思わず、いぜん戦争を続行するのだという気
迫に燃えていた。先の存置諜者の命令と同じである「再び進軍するまで領地を死守せよ
。」なのだ。この真面目な日本人気質が、泰緬鉄道建設において、信じられないほどの
短期間での完成遂行に、捕虜達を急き立てたのだった。彼らにとっては、マラリアなど
どこ吹く風であった。此処に悲劇があった。キンビグ少佐は言う――泰緬鉄道の必要性
を感じ、これを建設することのできた人種は、いかなる西欧人種ともまったく質の異な
った人種である、と。ニューサウスウェールズ州にあるノウラで、ニューギェアで捕虜
になった数百人の日本兵は、復員という不名誉を潔しとせず、集団脱走して、死を求め
た。サイパンにおいて、日本軍兵士だけでなく、女、子どもにいたるまでが、降伏より
も死を選んだ。日本人が 戦争中つねに身につけていた教訓は、彼らにいかなる行動を
とったかをわれわれが知り、新しい教訓としなければならない。我々が学ばなければな
らない教訓は、「神風」特攻隊においても、「沖縄玉砕」においても、また同じである
。彼らが抱いていた死の観念は、われわれ西欧人の考えている死の観念とは、まったく
次元を異にしたものだったのである。とそして『ミズリー号の道程』を書いた加瀬俊一
は、その中でいう 「日本の敗北は米、英、オランダ、オーストラリアのせいではなく
、まったく無益に、長期にわたって戦った中国のせいである。」としている。そして、
そのようなことは二度とおきてはならないと警告している。「アメリカの日本に対する
鉄および鋼の輸出を禁止した事や、オランダの、長期にわたる石油契約について、日本
の要求を拒否した事。また1941年、イギリスはマレーのゴム輸出禁止命令を出して
最後に、日本にたいする石油輸出を禁止し、在米日本資産を凍結したアメリカが決定的
制裁は、外交がもはや手遅れであり、太平洋戦争を避け難いものとして戦争突入したの
だ。


473: 名無しさんAA:17/09/21 17:04
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 123

日本軍のビルマ攻勢はチンドウィン川堤防の線にまで達し、ようやく停止した。その時
、日本軍の補結線は伸び過ぎ、兵士たちは疲れきってしまい、戦力を使い果たしていた
。スリム将軍のビルマ軍団が、インパールの聖域をめざして、北西に向けて退却してい
た間、ビルマ戦線では、スチルウェル将軍の中国部隊が、サルウィン川を越えて、雲南
に進出していた。中国は今や、完全に孤立してしまっていたからだ。ビルマの首都ラン
グーンから、雲南山脈を越えて重慶に至るビルマ公路は、中国に残された唯一の補給路
だったが、いまや日本軍の手中にあった。日本軍も中国国内の度重なるテロに支援路の
遮断が有効だとしていた。特に中国国民党までもが日本軍に対抗して来た今を変える為
にも。 この大勢力圏は、インドシナからビルマを経てマレー半島に至り、無数に散在
するオランダ領東インド諸島およびフィリピンを含み、これらを越えて西部ニューギュ
ア、月形をしたニューブリテン島、飛び石のようなソロモン群島、小さなギルバート諸
島にわたり、最後には、中部太平洋を北上して、アリューシャン列島のアッツ、キスカ
の孤島にも及ぶものであった。日本のこれまで開国を迫られ、資源のない国がソ連の脅
威から泣く泣く朝鮮経営に手をかけ領土を拡大してきた理由の帰結でもあった。日清戦
争に、日露戦争に、多大な犠牲と資本をつぎ込みそれぞれ領土を獲得し、また、第一次
大戦の平和会議において、ドイツの太平洋の領土を譲り受けた。これらの拡大してきた
領土に、さらに今度の大征服によって、新たな領土を追加し、本格的な帝国建設に乗り
出したのだ。1941年(昭和16年)の頃は、日本が足場を築く 絶好のチャンスにも
見えた。オランダ他は実にあっけなく、日本の同盟国ドイツに揉順されてしまったし、
イギリスもヨーロッパ本土の戦闘にまき込まれ、中東基地の随所に専念していた。 一
方、フランスは枢軸国に占領され、ビシー政権は弱体で、抵抗の力はなかった。さらに
重要なことは、日本の昔からの敵国であったソ連が、ドイツ軍電撃戦部隊と生か死かの
闘争を行なって、ソ連の南部地域に突進し、日本の北は安全になるものと期待されてい
た事だ。こうして、アメリカが今までどおり孤立主義を固持して譲歩をみせなないとみ
て、その年の瀬に、南方に向って攻撃を加えることを決定している。これらの戦略的な
考慮は、多くの日本人が信じていた社会的、政治的、経済的主張によって支持された。



474: 名無しさんAA:17/09/21 17:14
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 124

つまり、「大東亜共栄圏」が名実共に安定した自立圏が出来ると信じていたのだ。日本
は東南アジアおよび太平洋からヨーロッパ諸国の軍隊を駆逐することによって、この圏
を繁栄の礎に創造できるだろうと信じていた。この「大東亜共栄圈」構想によって占領
された白人地域は、搾取から解放され、日本の指導の下に、豊かな繁栄を保証される。
特に人口増加と共に食糧や資源のない日本の危機が これによって無くなると期待した
この政策は、東南アジアの独立を望む少数の民族主義者にとって大へん魅力的だったし
、敗戦後もこの地域の共存共栄の思想は変わらずにいる。だが敗戦後日本人は口を閉じ
てしまい、この夢がなかったかのように振る舞った。それは欧米から持ち込まれた高い
理想や共産国の持つ信頼が この裏切り行為と言う結果で惨々足る結末になり身を持っ
て欧米の持つ二枚舌や三枚舌の醜さとその結果の非情さの現実に驚いていたからだった
。その傷は長らく癒えなかったが、近頃は逆に忘れたように騒いでいる。住むだけの住
まいや決して贅沢では無かった生きる為の食事で平等では無いにしても周りさえ配慮の
ある人情社会を築いていた。だが今や贅沢で豪奢(ごうしゃ)な考えの中で過去の歴史の
の積んだ家や時を眺めていた大木は行政の名の下で何の意味もなく打ち払われ、趣を凝
らした食事の食材を世界中から取り入れている。これは現代病とも言える奇妙な進歩で
あろう。かつて幣原が外交官の時代1920年代の自由主義体制における国際協調路線
は「幣原外交」とも称されたが、それは軍部の軍拡自主路線「田中外交」と対立した。
ワシントン体制に基づき、対米英に対しては列強協調を勧めた。共産テロが頻発する大
陸中国において、あくまで条約上の権益擁護のみの追求で、東アジアに特別な地位を占
める日本が中心となって安定した秩序を形成していくべきとの方針である。これがこの
共栄圏の骨子であった。これに米英は賛同し3ケ国条約を申し込んでいる。が幣原は何
故かフランスを入れて4ケ国条約にして改めさせて結んでいる。これには不思議が付き
まとう。世界は金融恐慌の煽りを受けた。若槻内閣倒閣は経済の立て直しの諸外国の方
針にあわせた。1926年(大正15年)の蒋介石の国民革命軍率いて 勝手に行った
北伐の頃である。これに対し、内政不干渉の方針に基づき、アメリカとともにイギリス
による派兵の要請を幣原は拒絶した。この事で幣原はロンドン軍縮条約を結び兵力制限
に同意して軍は出せないとした。軍からは軟弱外交と強い批判を受けてしまっていた。
こうして折角の有能な若槻内閣は倒閣されてしまった。

475: 名無しさんAA:17/09/21 17:38
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 125

 田中儀一はロシア通であった。1927年(昭和2年)第1次若槻内閣のもとで全国
各地の銀行で取り付け騒ぎが起こった昭和金融恐慌である。若槻内閣は総辞職し、代わ
って立憲政友会総裁の田中が内閣を組閣した。田中内閣には 元総理や次の総理を狙う
大物政治家そして将来の総理や枢密院議長などが肩を寄せ合い、大物揃い内閣となった
。ロシア留学時代は正教に入信し、日曜毎に知り合いのロシア人と教会へ礼拝に行く。
徹底したロシア研究者であった。又、地元の連隊に入隊して内部からロシア軍を調査し
、日露戦争前は陸軍屈指のロシア通と自負していた。長州閥の一人だが、軍人として有
能で、同時期ロシアに留学していた海軍広瀬武夫と酒を汲み交わし強硬な開戦論を叫ぶ
などあった。日露戦争では満州軍参謀として総参謀長児玉源太郎のスタッフを務めた。
戦後の1906年『随感雑録』が山縣有朋に評価され、当時陸軍中佐ながら帝国国防方
針の草案を作成し名声を得ていた。その頃の大陸事情は朝鮮の発電所の完成を見て中国
にも多くの電気事情が良くなっていた。そうした背景に 日系企業が上海・青島などの
中華企業を買い上げて更なる改善などで紡績工業など相次いで進出していた。17社程
の大手企業の中で在華紡は日本式経営で中国の4割の百万錘規模の生産を果たしていた
。だが中国国内にも販路を求めていた為この金融恐慌によりこれまでの摩擦が一気に噴
出してデモや日貨排斥運動など標的となった。この事に共産毛沢東がいる事を田中は知
っていたのか日本軍を出さず 中国人ストライキに対して奉天軍閥の張作霖に要請して
武力鎮圧するなど、権益の擁護に後ろ盾の第三者として制圧をはかっている。中国初頭
の袁世凱将軍が創った北洋軍閥は互いに直系(直隷派)、皖系(安徽派)、東北の奉系
(奉天派)、晋系(山西派)、馮系(西北派)で北京政府の政権を争っていた。が19
26年に一応は蒋介石を中心とする政府体制が国民革命軍は北伐を開始し、取りあえず
国民党政府を樹立した状態だった。だが共産党勢力の浸透は深く、蒋介石安泰とは行か
ず上海クーデターを起こして共産党勢力や労働組合の粛清を図り、やっと南京国民政府
を樹立した。更に反対する武漢国民政府を倒し軍閥政府の根拠地である北京を陥落させ
た。全国統一し政府主席に就任し「訓政綱領」「国民政府組織法」を定め「以党治国」
(国民党による国民政府の指導)と行政・司法・立法・考試・監察の5院制を定めたが
反対する保守派が集まり清国残党と共に広州国民政府が成立して蒋介石を脅かした。


476: 名無しさんAA:17/09/21 17:39
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 126

 1931年夏、同じ分派の台湾の広東政府の外交部長陳友仁が訪日し、張学良を満洲
から排除し満洲を日本が任命する政権の下において統治させ、中国は間接的な宗主権の
みを保持することを提案したが、幣原外相は一蹴した。その後、関東軍の独走で勃発し
た満州事変の収拾に失敗し、政界を退いた。幣原外交の終焉は官僚外交の終焉であり、
その後は軍部が独断する時代が終戦まで続いたのである。ここで、幣原は2つのミスを
したのである。いわゆる軍部の軍拡自主路線「田中外交」と対立した事だ。ソ連から出
資された英国企業アルコスはソ連諜報部の隠れ家だった。ソ連から金製品や亜麻・毛皮
・マンガン鉱を輸出し、その売り上げで食料・繊維・石炭などを輸入。外国為替銀行と
してアルコス銀行を設置し、貿易関連の資金決済や訪ソ旅行者のための外貨両替にあた
った。この表向きは正当で合法でロンドンの国内法にも合致してた。1927年突然の
服の捜査員50名がアルコス本部事務所に殺到し、外部との往来も接触も一切遮断した
、押収文書は2万におよび、ピストル6丁も共に応酬した。これによって共産党の宣伝
工作や広報活動が南京事件にまで及び今までのイギリス政府の収集した証拠を覆す材料
を電報で取り寄せまでに至った。ソ連が「大英帝国と南北アメリカのいたる場所におい
ての軍事的スパイ活動および破壊活動」のためにアルコスを使ったとして非難して、こ
のアルコス事件以降はソ連と英国間の外交関係と貿易協定は、直後に解消されて、19
27年に英ソの国交断絶となった。従って上海クーデターまでの党内の中国共産党員の
粛清を行った第一次北伐までは米英も賛同して援助していた。だが中国国民党内がまた
混乱状態に陥った時、蒋介石が事態の収拾に成功し権力を掌握すると、国民政府は第二
の北伐を再開した(第2次北伐)。この時の北伐は英米からの不参加である為ソ連に支
援を求めヴァシーリー・ブリュヘルの下で計画された。この時日本軍の後ろ盾の奉天派
の首領である張作霖が北京を撤退し北伐軍が北京を占領したのである。当時日本の首相
・田中義一はなおも張の利用価値を認め、東三省で再起させることを考えていたが、既
に満州国の建国計画を進めていた関東軍は張の東三省復帰をこれを望まなかったという
。1927年に起こったアルコスと同時期に国民革命軍が南京・上海を占領した事で行
った捜索だった。南京事件が発生し、欧米勢力の目にも 国民革命軍の背後に明らかに
ソ連が暗躍する姿が映り、国民革命軍を嫌って支持せず、張に好意的な姿勢を取るよう
になった。張も日本よりも欧米勢力に追随する風を見せた。

477: 名無しさんAA:17/09/21 17:45
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 126

 1931年夏、同じ分派の台湾の広東政府の外交部長陳友仁が訪日し、張学良を満洲
から排除し満洲を日本が任命する政権の下において統治させ、中国は間接的な宗主権の
みを保持することを提案したが、幣原外相は一蹴した。その後、関東軍の独走で勃発し
た満州事変の収拾に失敗し、政界を退いた。幣原外交の終焉は官僚外交の終焉であり、
その後は軍部が独断する時代が終戦まで続いたのである。ここで、幣原は2つのミスを
したのである。いわゆる軍部の軍拡自主路線「田中外交」と対立した事だ。ソ連から出
資された英国企業アルコスはソ連諜報部の隠れ家だった。ソ連から金製品や亜麻・毛皮
・マンガン鉱を輸出し、その売り上げで食料・繊維・石炭などを輸入。外国為替銀行と
してアルコス銀行を設置し、貿易関連の資金決済や訪ソ旅行者のための外貨両替にあた
った。この表向きは正当で合法でロンドンの国内法にも合致してた。1927年突然の
服の捜査員50名がアルコス本部事務所に殺到し、外部との往来も接触も一切遮断した
、押収文書は2万におよび、ピストル6丁も共に応酬した。これによって共産党の宣伝
工作や広報活動が南京事件にまで及び今までのイギリス政府の収集した証拠を覆す材料
を電報で取寄せるまでに至った。ソ連が「大英帝国と南北アメリカのいたる場所におい
ての軍事的スパイ活動および破壊活動」のためにアルコスを使ったとして非難して、こ
のアルコス事件以降はソ連と英国間の外交関係と貿易協定は、直後に解消されて、19
27年に英ソの国交断絶となった。従って上海クーデターまでの党内の中国共産党員の
粛清を行った第一次北伐までは米英も賛同して援助していた。だが中国国民党内がまた
混乱状態に陥った時、蒋介石が事態の収拾に成功し権力を掌握すると、国民政府は第二
の北伐を再開した(第2次北伐)。この時の北伐は英米からの不参加である為ソ連に支
援を求めヴァシーリー・ブリュヘルの下で計画された。この時日本軍の後ろ盾の奉天派
の首領である張作霖が北京を撤退し北伐軍が北京を占領したのである。当時日本の首相
・田中義一はなおも張の利用価値を認め、東三省で再起させることを考えていたが、既
に満州国の建国計画を進めていた関東軍は張の東三省復帰をこれを望まなかったという
。1927年に起こったアルコスと同時期に国民革命軍が南京・上海を占領した事で行
った捜索だった。南京事件が発生し、欧米勢力の目にも 国民革命軍の背後に明らかに
ソ連が暗躍する姿が映り、国民革命軍を嫌って支持せず、張に好意的な姿勢を取るよう
になった。張も日本よりも欧米勢力に追随する風を見せていた。今だ英米も日本も中国
の支援方針が中国の混乱に見定め出来なかったのだ。取りあえず 混乱さえあれば良い
ソ連は積極的に支援した。

478: 名無しさんAA:17/09/21 17:56
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 127

 こうして張作霖は日本支援を執るべく北京のソ連大使館捜索した。それは突然に行わ
れソ連大使館官舎奉天軍として乗り込み、ロシア人・中国人80名以上を検挙、武器及
び宣伝ビラ多数などを押収した。これは奉天にも国民党軍からの共産主義者が浸透し、
それによる満洲の共産化運動を防ぐための処置でもあった。張がソ連大使館官舎を家宅
捜索したことについては、日本を含む列強各国から事前に国際法上の問題がないことの
承認を得ていた。また南京事件は共産主義者が起こしたとされ、各国の共産主義に対す
る警戒心は高まっていた中だったのである。こうして南京事件で追われて満州の本拠地
に帰る事になったが、日本の関東軍は色よい返事はなかった。それは張作霖政権でソ連
の満州鉄道と並行した路線の開拓を進めていたからだ。1928年(昭和3年)早朝、
蒋介石の率いる北伐軍との決戦を断念して満洲へ引き上げる途上にいた張作霖は 乗車
した特別列車が奉天(瀋陽) 近郊、皇姑屯(こうことん)の京奉線(けいほうせん)との
満鉄連長線の立体交差地点を時速10km程で通過中、上方を通る満鉄線の橋脚に仕掛け
られていた黄色火薬推定300キロが爆発した。列車は大破炎上し、交差していた鉄橋
も崩落し、張作霖は両手両足を吹き飛ばされた。現場で虫の息ながら「日本軍がやった
」と言い遺したという。奉天城内の統帥府にかつぎこまれたときには絶命していたが、
関東軍に新政府を作らせまいとした日本軍の暴挙と奉天軍は発表した。2週間後6月2
1日である。しかしまた日本軍も警備、側近ら17名が死亡していた。証言では同列車
には張作霖の元に日本から派遣された軍事顧問の儀我誠也少佐も同乗していた。がかす
り傷程度で難を逃れた。又その声明で事件直後に張作霖配下の荒木五郎奉天警備司令に
激怒した話が伝わっている。張作霖の私的軍事顧問で予備役大佐の町野武馬は張作霖に
要請されて同道したが、天津で下車した事も不審の証明となった。更には、山東省督軍
の張宗昌将軍も天津で下車した。常蔭槐は先行列車に乗り換えた。車両に乗車していた
奉天軍側警備と線路を守っていた奉天軍兵士は爆発の直後やたらと発砲し始めたが日本
人将校の指示によって落ち着き、射撃を中止した。この爆発で解る事は恐らくソ連大使
館の家宅捜査で大量の日本軍内の諜報者がこの張作霖は掴んでいただろうと思える事だ
。又曲がりなりにも田中義一はロシア通でそれは解っていたが「満州国樹立計画」を、
止められなかった事だ。

479: 名無しさんAA:17/09/21 18:04
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 128

 こうして「満州国樹立宣言」に至るのだが この時の欧米のマスコミにも共産党員は
数多く配置されて日本非難を繰り返した。更に日本軍の中にも又 誇張とデマと威嚇を
吹聴する者もいた。更にこの奉天軍の「日本軍がやった。」と言う張作霖の言葉も信じ
られる筈はない。何故なら爆薬が仕掛けられていると知っていたのなら そこにいる筈
はないからだ。ソ連コミンテルン陰謀説の大きな証拠は東清鉄道の建設と共に3回の、
暗殺未遂が起きている事だ。鉄道建設前には関東軍からピストルでその後は自宅の出入
りの門に前に2回とも地雷であったとされる。犯人が見つからず事は大きくならない事
になったが日本軍が仕掛けたと本人は言っているが日本軍が撤去している事から日本製
の地雷でもそんな高くつくやり方を日本軍がするとは思えない。更にそこで見つかった
理由はお抱えの日本人の運転手が盛り上がった土を見て と言うのだからまず違うだろ
う。リットン調査団でも恐らく断定出来なかっただろう。ただ欧米は日本軍の仕業にし
たかった。欧米共にロシア人はこうした巧妙な事件を仕掛けるのは得意の民族であるよ
うだ。近年では飛行機事故やオリンピックの薬物事件ではその証拠が現れても違うとの
政府見解を発表する。昭和天皇が言う通りである。欧米は冷たいだがロシア人はもっと
寒い国だ。ノモンハン事件はその後の1939年(昭和14年)に起きる。当時建国し
た満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した紛争の事とされる。が
これは少し違って見える。大日本帝国とソビエト連邦の間で断続的に発生した日ソ国境
紛争で、満州国軍とモンゴル人民共和国軍の衝突に端を発し、両国の後ろ盾となってい
た大日本帝国陸軍とソビエト労農赤軍が戦闘を展開し、一連の日ソ国境紛争のなかでも
最大規模の軍事衝突となった。と言う事件だが 既にソ連は貧困の中で粛清を繰り返し
労農赤軍を組織していた事が原因である。当時日本の租借地関東州、ソ連は1924年
に成立させたモンゴル人民共和国の勢力圏内の事件だ。日本軍とソ連軍が兵力を派遣し
大規模な戦闘に発展した。結果は、日本軍側が航空戦では数に劣りながらも常に優勢で
あったが「地上戦闘は戦車火砲の力の差が甚だしく敗戦に近い結果に終わり、モンゴル
共和国とソ連の主張する国境線はほぼ維持された。この時ポーランド侵攻直前のモスク
ワ主導部は「日ソ両軍の現在地を停戦ラインとし、国境線の画定は後日設立の国境確定
委員で交渉する。」とのクレムリンの決定で事件の停戦の合意が、9月15日深夜にて
成立した。ソ連の南下作戦は事実上稼働しドイツの侵攻作戦で止められたのである。


480: 名無しさんAA:17/09/21 18:09
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 129

 日本が本格的に国際会議で連合国の一員として派兵したのは1918年シベリア出兵
が初めてだろう。この時大日本帝国・イギリス帝国・アメリカ合衆国・フランス・イタ
リアなどと一緒に連合国として 「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」と
いう大義名分でシベリアに出兵した。ロシアでは革命が起こって社会共産主義を封じ込
めると言う提言であったが 現実的にはロシア帝国時代の外債と、露亜銀行などの様々
な外資を保全つまり借金の取り立てであったと言われる。だが日本からは兵力7万3千
人、約9億円の国家予算(当時)という巨額の戦費を投入して3千人〜5千人の死者を
出し撤退した。ロシアでは元々経済は破綻して近代化の遅れで戦いに敗走を重ねていた
。1917年に2月革命、11月にはレーニンのボリシェヴィキ社会主義革命を経て翌
年帝国は崩壊した。仏英と戦争を起こしていたドイツは単独で講和条約を結び仏英と向
かいあったのだ。仏・英はこれにより大攻勢をかけられて苦戦し、連合国としてドイツ
と共に、同時にロシアの革命政権を打倒する道を叫んだ。こうして干渉戦争を開始し、
ロシア極東のウラジヴォストークに「チェコ軍捕囚の救出」を大義名分に出兵した。日
本でも出兵論が大勢を占め出兵を決定した。海外の知識層はレオナード・ハンフリーズ
意見も同じ分析をしている。「当時の日本側の事情として、領土獲得への野心、日露戦
争後に失った利権の奪還、地政学的な理由であるロシアと地理的に近い事や、さらには
日本の利権が絡んだ満州、日本統治下の朝鮮半島は直接ロシアと国境を接していた等の
みならず、政治的・イデオロギー的な理由もあった。すなわち、日本の政体(国体)で
ある天皇制と革命政権のイデオロギーは相容れない以上、共産主義が日本を含めた同地
域に波及することをなんとしても阻止する必要があったのであろう。」としている。が
これは他の内情もあった。陸軍と海軍の勢力争いと張作霖や朝鮮半島の策動である。こ
の事で張作霖は完全に日本軍の下を決意したし、逆に共産党員が地下活動、即ち諜報戦
に移ったのは間違いなかった。政府としては日露戦争の賠償に国民が不満であった事の
解消材料としても利用した。当初のウラジヴォストークより先に進軍しないという規約
を無視し、ボリシェヴィキが組織した赤軍や労働者・農民から組織された非正規軍たる
パルチザンと戦闘を繰り返し、北樺太、沿海州や満州を鉄道沿いに侵攻。シベリア奥地
のバイカル湖東部までを占領し進軍した。だが張作霖の決意を幣原外交はくじいた。


481: 名無しさんAA:17/09/21 18:14
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 130

 こうして、最終的にバイカル湖西部のイルクーツクにまで占領地を拡大した。各国よ
りも数十倍多い兵士を派遣し、各国が撤退した後もシベリア駐留を続けた。又この時に
占領地に傀儡国家の建設を画策。日本はロシアのみならず、イギリスやアメリカ、フラ
ンスなどの連合国からも領土的野心を疑われた。だが北方からの憂いを取り除き撤退し
たかったのは当然であった。このシベリア駐留は1918年のドイツの帝国革命が起こ
って停戦協定を結び、連合国各国が引き揚げても駐留した。既にシベリア介入の目的を
失い1920年には相次いで撤兵したが、日本軍は更に単独で駐留を続行した。翌年の
ワシントン会議開催時点で出兵を続けていたのは日本だけであった。こうしてロシア側
も境界の防備の必要性を学んだのだ。その時 ロシア帝国は清の間で結ばれた北京条約
(およびその後の補助的な国境に関する合意)に基づき、国境線は満州と中華との国境
を「張鼓峰頂上」を通過していると考えていた。一方、日本側の方は「張鼓峰頂上一帯
」は満洲領であるとの見解を持っており、ソ連側は国境線を曲解して、国境線の標識は
改竄させたものだと日本は主張していた。いずれにしても、この丘の防衛を担当してい
た朝鮮軍第19師団は国境不確定地帯として張鼓峰頂上に兵力を配置していなかった。
この国境問題がノモンハン事件として噴出した。基本的にこの地区を守っていたのは、
元々張作霖の奉天軍であった。ところが張作霖が爆死し関東軍になると手薄と見てか、
ソビエト国境警備隊の小部隊がハサン湖の西側高地の領域に入り、山に砲床、観測壕、
鉄条網、通信施設などを建設するなど、築城をはじめた。更にこれを監視中の松島伍長
を不法に殺害した。その地域の防衛を割り当てられていた日本の朝鮮軍は当初はソビエ
ト軍の前進を無視していた。しかし、管轄地域が張鼓峰で重なっている関東軍は、ソビ
エト軍の企図に疑惑があるとして、もっと対応するよう朝鮮軍を後押しした。これを受
けて朝鮮軍はこの件を東京に知らせ、ソ連に対して正式に抗議するよう助言した。この
国境の曖昧だった地帯は、長年スパイ戦に使われてスパイの巣窟だったのである。この
シベリア出兵に時、日本軍が撤退しなかったのには政治的理由よりは日本人気質、人情
がそこにあった。と言われる。1918年から1922年までの間、連合国が勝手に、
「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分で内政干渉して行っ
たシベリアに出兵であったが、真面目にそれを受けて行ったのは日本だけだった。この
オールド・ボリシェヴィキが指揮して起こした十月革命者は特に政治犯とポーランド人
をナチスのユダヤ人迫害の様に次々にシベリア抑留して収容所に送った事から始まる。

482: 名無しさんAA:17/09/21 18:28
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 131
ロシア皇帝退位時のロシア革命時には「パン・土地・平和」をスローガンとして掲げた
を目の前にして「平和を求める大衆の意見を尊重すべき」とのトロツキーの意見が反映
されたものとしいる。その市民革命は「パンが無ければお菓子を食べればいい」との声
に集約される。ボリシェヴィキはメンシェヴィキや社会革命党に比べ少数派であったが
、人事と要職を握って「多数派」を名乗り粛清し押さえた。政権取ったその後も粛清を
繰り返し暴力革命を主張した。こうして徹底した中央集権による組織統制が特徴とする
共産党体制が産まれて、そのまま後身である ソビエト連邦共産党へと引き継がれた。
ボルシェヴィズムスは第一義的にロシアの共産主義者を指し、過激なロシア第一主義に
過ぎなかったが、それを隠して共生社会を掲げた。帝政ドイツやナチス時代にはドイツ
の中の社会民主主義より最もに急進的な過激思想を指した。つまり日本語的にはゆるい
共済社会を社会主義とし 過激なヤクザの様な過激な殺人を厭わない共済社会を共産主
義と呼んだが その通りの暴力的世界革命を平和な共生社会の経過であると国際旅団を
作って諜報活動に暗躍していた。ロシアのサンクトペテルブルクモスクワ鉄道の開通を
受けてこの便利さが支持され、サンクトペテルブルクワルシャワ鉄道、モスクワニジニ
・ノヴゴロド鉄道などが次々と予定され、その反対には国際旅団は活躍した。こうして
早くもこの鉄道輸送網の完成を見て発達は極東地域との格差を産んでいた。1860年
代には既に鉄道事業および鉄道監督行政を所管する官庁を整備し1865年、皇帝アレ
クサンドル2世は勅令を出し、内務省と逓信庁電信部門を統合したロシア帝国運輸通信
省を発足させていたがとん挫していた。こうして1867年には運輸通信省建設総局が
出来て鉄道網整備が急務である事になって、この時此処に労働者や技術者の必要性が出
た。此処に強制労働者としてポーランド人を送り込んでいた。当時ロシア帝国は この
ポーランド人政治犯などを多数シベリアに流刑し、ロシア革命当時のシベリアには相当
数のポーランド人がいた。その後、ロシア革命の混乱と1918年のポーランドの独立
によって、多数のポーランド人の孤児(シベリア孤児)がシベリアに取り残され、その
保護のために力を貸す国は殆どなかった。シベリア出兵中にポーランド孤児を救出し、
彼等を祖国に帰還させる事業で陸軍は動いていた。1920年に第1次ポーランド孤児
救済が、1922年に第2次ポーランド孤児救済がそれぞれ行われたのである。こうし
て約815名の孤児が帰還を果たした。このシベリア出兵に従事し孤児を救った51名
の日本軍将校に対し、ポーランド政府はヴィルトゥティ・ミリターリ勲章を授与して、
その功績に報いた。


483: 名無しさんAA:17/09/21 18:45
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 132

 幣原外相は米英が同盟を求めた形でも仏国まで入れた同盟にした。つまりこれにより
米英の対共産党対策の諜報活動の情報は途絶えた。又田中義一や台湾政府の声を聞かな
い事で 現場の緊張には無知のままの外交活動をつづけた。こうして日本は誇張した力
の情報にドイツに引きずられた戦争となった。この戦争時においても「共栄圏構想」は
西はバイカル湖から一直線にビルマまで東はアリューシャン列島からガダルカナルまで
と言う途方もない範囲を自由勢力圏と想定していた。戦後の幣原内閣は1945年の東
久邇内閣の総辞職を受け、昭和天皇の依頼を受けた内大臣木戸幸一が中心となり、平沼
騏一郎、吉田茂らの協力により幣原喜重郎が首相候補となり出来た内閣だ。組閣の大命
が幣原に下り10月9日に内閣が成立した。当時の日本ではアメリカ合衆国ら連合国の
占領下にあり、幣原の訪問を受けたダグラス・マッカーサーにより五大改革と憲法の自
由主義化が示唆されるなど、連合国軍最高司令官総司令部の強い影響下にあった。幣原
内閣は憲法改正や社会立法に取り組む一方衆議院を解散し戦時色の一掃を図ったものと
みなされているが、GHQは幣原内閣の改革の取り組みが消極的だとして、同年のうち
に財閥解体などの急進的な改革や戦犯逮捕、総選挙期日の延期などを指示した。翌年に
公職追放令が発布され、これにより内閣自体の総辞職の危機を迎えたが、内閣改造によ
り存続し、総選挙の時期も3月以降の実施許可をGHQより得た。この間に内大臣府が
廃止され、また陸軍省と海軍省もともに廃止されて、これを改組した第一復員省と第二
復員省が新たに設置されたのだった。陸軍省は明治5年に兵部省から分離し、海軍省と
ともに設置されたものだ。太政大臣の統制下に軍政、軍令を一元的に統轄するフランス
型の陸軍組織として発足したが、後では軍令機関を独立させプロシア式に改められる。
1878年(明治11年)に参謀本部が設立されると、1900年(明治11年)には
専門教育重視のために教育機関として教育総監部を独立させて純粋な軍政機関となった
。解体され改組される時は旧陸軍省の資財は大蔵省に一括移管された。陸軍省の資料の
一部は、防衛省、厚生労働省に引き継がれている。また陸軍軍人の兵歴は当時の連隊区
司令部から都道府県に引き継がれてた。ところが海軍省は内閣の省であり、海軍大臣は
、天皇によって任命された。海軍大臣の職務は海軍軍人の監督など海軍軍政の管理であ
り軍令権は持たなかった。また大臣は現役の海軍大将又は中将が任命されていた。この
時幣原内閣は初めて 自分の間違いに気づいた筈だ。如何に多くの英霊で歴史があった
かと。それを全権大使で米英に引きずられた事で 日本に地獄を招いた事を知る。

484: 名無しさんAA:17/09/21 18:45
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 133

 こうした体制が田中派が外交の中心に往かず 更に陸軍の戦争の開戦派を産む結果と
なった。又国際会議の軍縮会議などで海軍大臣が長期間日本国内にいない場合は内閣総
理大臣による兼任や、臨時の海軍大臣を設けたが これらの出席も海軍の役務であった
為 現地の事情と国際会議なり国際情勢との乖離が進んだ事も 日本の悲劇の要因の一
つになっていた。幣原外交は1922年やっとワシントン体制を作り上げワシントン会
議で締結された九カ国条約、四カ国条約、ワシントン海軍軍縮条約を基礎とするアジア
・太平洋地域の国際秩序を維持する平和体制の礎を見た事の成功を日本政府が生かせな
かった事にある。又国際社会はこの条約によって守られるべきものを守り切れなかった
。先に言った様にソ連の武力による世界共産革命を叫び諜報活動やテロ活動は止められ
なかった。それどころかこの条約はこの赤隊とされる潜入コミンテルンを切り落とす時
の足枷にすらなった。そして中国では毛沢東以下こうした国際的約束は全く関知せずに
ソ連の支援をうけて 誤報拡散や中心部爆破など攪乱と動乱焚き付けを数多く起こして
いた。それには理由があった。一つは中国人の野心だ中国政府は政府内でも多くの競争
があったし誰も統一中国など望んでなかった事だ。一つはロマノフ王朝が集めていた、
金銀財宝の金を持っていて資金は豊富だった。更に一つは食糧基地が国内に無かった事
だ。国民を雇う豊富な食糧は全て周辺の諸外国に頼る事しか無かった。トナカイの肉で
さえ言葉の通じない放牧民から買っていたのである。つまりはロシアでもソ連でも自国
民の胃袋を満たす為には 自給自足は出来ず常に周辺国の離反を止める事が仕事であっ
た。これが南下政策のもとであり戦争の要因であった。周辺国も自国民の食糧を失くし
までは輸出しないのだ。この開発にも強制収容の強圧的侵略が北欧や東欧になされて、
この極東開発に収容者を労働力として移送していたのである。幣原は大正から昭和にか
けての、第二次護憲運動で成立した加藤高明内閣の外相に就任した。加藤は第一次大戦
中に大隈内閣の外相として中国に対華21カ条要求を突き付けたことで知られる。この
年代は所謂大正デモクラシーの申し子だった。護憲三派運動を通じて協調外交路線に転
換していたというは日本に欧米文化が浸透した証でもあった。だが幣原や加藤はその中
でも代表するお坊ちゃまだったのだ。共に岩崎弥太郎の女婿で権勢も財力もあり格差の
是正に取り組まず 軍部財界一般庶民などの隔壁が産まれていたのである。これが確執
を産み誤情報と国策の判断ミスに繋がっている。戦後はその間違いにGHQは怒り修正
に追われたと言う。憲法草案でも幣原は理解していたが「松本案」が出てきた事にその
乖離が証明できる。

485: 名無しさんAA:17/09/21 18:59
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 134

 幣原外交は失敗の連続で これが今の日本を決定づけた。「国際協調主義」が特徴と
されるが、幣原の友好外交は、ひどく現状を無視するものであった。後の松岡外交同様
、日本を害する物でしかなかった。支那に甘い与えて舐められ。支那に関する現状を知
らされても、思い込んだ平和外交主張を変えなかった。日本とイギリスは支那における
利益が一致する為平和外交路線が英国寄りならまだよかったが、米国の言いなりだった
。既に米国で排日移民法が可決されていた。当時米国に行ける者は満州に行く必要はな
い感情が国民の間にあった。だが、一方的に絶対的な排日移民法を作ったので、外交に
対する国民拒否が出来た。イギリス租界奪取事件の時でも、イギリスは2万3千人の軍
隊で共に列国に同調を求めている。清朝から支那騒乱が起こり外国人居留民の安全が脅
かされた場合は、列国は出兵するのは北清事変同様 決まり事だった。ところが、幣原
は断固として出兵を拒否してしまったのだ。シベリア出兵以来の信頼が疑心に変わった
瞬間である。この日本の平和的というより意味不明な軟弱な態度は、逆に支那人の侮日
感情高め、幣原外交の継続を拒否する事件を起こし続ける。それが南京事件や漢口事件
であった。日本は英国や米国などと同じように大被害を受けていた。だが、日本だけは
報復せずに、居留民の一方的な引き揚げを決めてしまった。これは、支那共産党運動の
過激化する支那ナショナリズムや中国に暗躍する共産党の思うつぼで、弱腰に映った姿
は。「暴れれば日本人は逃げる」と支那革命運動の拡大と矛先の集中を促したのだ。こ
の幣原の軟弱外交はその頃の、大正天皇の崩御(1926年12月)と昭和天皇の即位で国内
の注目は釘付けとなって「南京事件」と平行して「昭和2年の金融恐慌」が起こって、
うやむやになったからだ。この政治の大混乱が落ち着くと幣原への大非難が起こるが、
時すでに過ぎて次のステージに移ってしまう、このことが日本に大きな悲劇をもたらす
。これはまるで頭の良い大学生がオウムに入信する様に 幣原は留学時代に秘密結社の
平和主義者団体に入り込んでいた事を物語るのだ。正に秘密結社ユダヤのシオニストの
ロッジ経営の面妖で醜悪な核心である。ロシアの南下と地域の自立更にイスラムユダヤ
などの原理主義集団の策謀と難民移民の移動は大きな国際問題である。ここに選民主義
の主張の破綻がある。知識や人格のない者の歴史的委譲である。破壊される世俗主義は
破綻でしかない。責任のない権限や財力は悲惨な欲望に果てる。此処に日本の戦前教育
の大事さと価値がある

486: 名無しさんAA:17/09/21 19:00
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 135

弊害がすでにあった「幣原外交」がこの親からの権勢と財力で又再開されてしまう。
このため満州の日本人はさらに我慢に我慢を強いられることになった。そして我慢に何
らかの展望も失われた外交方針が出る。幣原の満州問題対策は、「被害に遭うのが嫌な
ら、引き揚げて来い」という方針だ。明治の昔に政府の政策に従って満州に赴き、何十
年も営々と努力して築いた財産や生活基盤を、少し情勢が悪いからと放棄して帰国せよ
、と言われても納得できるものではない。更に当時の日本経済がほとんど崩壊しては、
国内政治の安定は 朝鮮工業地帯と満州鉄道経営から出来ていた。政局が大波乱を呼ぶ
ことは目に見えていた。幣原が再び外相をやった時「日支関税協定」を結んで支那での
関税自主権を認めた。これは日本の「抜け駆け」として非常に他の列強から嫌がられた
。だがそうした恩恵を支那に与えながら、帰ってきたのは「満州赤化拡大」と「排日暴
動熾烈化」だけだった。こうして日支関係が好転するかに見えたその時期、幣原外交の
間違いで満州は赤化され、支那中央政府の支配の及ばぬ間島地方の反日暴動となって既
に中国大陸は混乱の極地で後戻り出来ない重大化をした。お坊ちゃま外相の英国式ブル
ジョアの所謂西洋列強に合わせた鹿鳴館外交の延長であり 不平等な通商条約締結と同
じに身分を自己保全する姿勢のままだったのだ。そこには俯瞰視野も将来展望も過去の
英霊達の意志や歴史は微塵もなかった。ただの共産党秘密結社ロッジの性格そのものだ
った。ハーディングは共和党のオハイオ州知事候補指名運動を始めたが、共和党大会で
指名を勝ち取るものの、党内進歩主義派と保守派の分裂によって、民主党の現職ジャド
ソン・ハーモンに敗れている。この当時共産党支援の共和党で第一次世界大戦後にアメ
リカ合衆国大統領になったウォレン・ハーディングの提唱で開かれた国際軍縮会議にて
、ワシントン会議においては全権委員をつとめたのである。これは北朝鮮の6ヶ国協議
に似ていて生粋の平和主義者のふりで柔和な物腰、そして『敵を作らないでください』
という選挙戦略で立っていたが裏では賄賂の収受と違法な融資に国有油田を取引して貸
し出し「黒い血のハーディング一家」の一員であったし「オハイオギャング」の一角で
もあった。彼らが中国経営にも共産テロにも深く情報を持っていたのは確かなようだ。
陰謀の末に敗戦を期した日本の苦悩はそのまま世界の苦悩でもある。人の心の隅にある
悪の論理や鬼の業呈を今も尚残して 現代の豊穣を破壊するであろう予測が出来る。


487: 名無しさんAA:17/09/25 15:16
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 136

 そもそも「黄禍論」は昔から欧州にはあった。ただ相手はイスラム教徒だったりイン
ド人だったり或いはスキタイのモンゴル人だったりオスマン帝国のトルコ人だったり、
兎も角は南から攻めて来る怖い者の話で 当面はフランス人が攻めて来る「白禍論」の
方がドイツではより危険視され叫ばれていた。古来白人は、モンゴル帝国をはじめとし
た東方系民族による侵攻に苦しめられてきた歴史からの寓話であった。キタイと言う言
葉の直接の意味は、10世紀頃に華北にて遼朝を建国した遊牧民族「契丹」を指すが、
ロシア語においては(現在も含めた)「中国」を意味し、北方への対外侵略を常として
きた契丹と同一視する事で警戒心・畏怖の意味も込められている。そのため黄色人種は
、モスクワ大公国(後のロシア帝国)においては「タタールのくびき」として、また、
西ヨーロッパではアンチキリストがアジアから現れると信じられ、共に恐れられてきた
。だがこうした「黄禍論」が込められた寓意画『ヨーロッパの諸国民よ、諸君らの最も
神聖な宝を守れ(ドイツ語版)』をわざわざ各国にドイツ帝国の皇帝ヴィルヘルム2世
が送り広めたのである。ロシアのニコライ皇太子の殺傷事件である大津事件が背景にあ
るのかもしれない。というのも彼らはロマノフ家の末裔だからだ。日本が日清戦争やら
日露戦争で勝利すると「黄禍」という言葉が生まれ黄禍思想は日清戦争の講和条約に際
してロシア、ドイツ、フランスの行った三国干渉の会議で、人種理論の影響を受けたと
いうドイツ帝国の皇帝ヴィルヘルム2世は「黄禍」を説くことによって、それまでの汎
スラヴ主義や汎ゲルマン主義の対立によってドイツと敵対していたロシアを極東に釘付
ける為に、盛んに説いたと言われる。こうして黄禍論は広がり、近代で対象とされる民
は、主に中国人、日本人とされた。特にアメリカ合衆国では1882年に制定された排華移
民法、1924年に制定された排日移民法など露骨に反中、反日的な立法を建てられ、影響
が出ていた。明治21年よりヨーロッパ各地へ視察旅行に出て宮中での大日本帝国憲法
発布式典にも出て居なかった山形有朋は伊藤博文と共にその内容を把握していたのだろ
う。当時「シュタイン詣出」とさえ言われるほど日本政府要人らのウィーンの憲法学者
ローレンツ・フォン・シュタインを訪れていたが、山縣も訪問している。ほかグナイス
ト、クルメツキ、ビスマルク、ヴィルヘルム2世らのもとを訪問して帰国している。



488: 名無しさんAA:17/09/25 15:16
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 137

 早くからそのその才能があった山縣有朋は友人・杉山松助らに松下村塾への入塾を勧
められるも、「吾は文学の士ならず」として辞退し槍の稽古に励んで少年時代を過ぎた
。安政5年に長州藩が京都へ諜報活動要員を派遣する時その真面目さに6人中に選ばれ
、杉山松助・伊藤俊輔らとともに上京して、尊皇攘夷派の久坂玄瑞・梁川星巌・梅田雲
浜らなどと出会った。彼らの立志に感化を受け帰藩後には久坂の紹介で吉田松陰の松下
村塾に入塾した。しかし山縣が入塾したとされる時期は数か月で後に松陰は獄に下り刑
死することになっている。だが生涯「松陰先生門下生」と称し続けた事はその影響は大
きかったと言える。高杉晋作の奇兵隊創設とともにこれに参加し、武芸や兵法の素養を
活かして頭角を現し、高杉は身分にとらわれずに有能な人材を登用したため、高杉軍艦
時代に法教寺事件の責で身を引いた時奇兵隊軍監に就任して長州征討で高杉と共に活躍
しそのまま戊辰戦争では北陸道鎮撫総督・会津征討総督の参謀となった。長州奇兵隊や
新政府軍の中枢を任された山縣は軍政家であり続け、兵を率いて前線に立ち軍功を上げ
るということはそれほどはなかったが、日清戦争で元首相でありながら第一線に立った
者は居ない。日露戦争でも満洲軍総司令官就任を希望していたが叶わなかったという。
明治政府を立ち上げ明治2年に渡欧し、各国の軍事制度を視察し、帰国すれば直ぐに、
大村益次郎の実質的な後継者として西郷隆盛の協力を得ることで軍制改革を断行して、
徴兵制を取り入れた。その後、陸軍出入りの政商・山城屋和助に陸軍公金を無担保融資
して焦げ付かせたが山城屋の証拠隠滅工作によって、山縣に司法の追及は及ばなかった
が責任を取る形で明治6年に陸軍大輔を辞任した。しかし内閣において山縣に代わりう
る人材がなく、藩閥を嫌う採用に伊藤博文などの信任は厚く同年6月に陸軍卿で復職し
た。参謀本部の設置、軍人勅諭の制定に携わった。だが皮肉にも彼が陸軍だった為に、
西南戦争では官軍の事実上の総指揮を執ったため、さながら薩摩閥と長州閥の直接対決
の様相を呈した。士気の高い薩軍に対し、装備と物量・兵力で対抗し、積み上がる死人
に西郷は「もういいだろう。」と降伏にでたと言う。官僚制度の確立にも精力を傾け、
門閥や情実だけで官僚文官官吏が登用されることのないように文官試験制度を創設し、
後進を育成。山縣が軍部・政官界に築いた幅広い人脈は「山県系」「山県閥」などと称
された。


489: 名無しさんAA:17/09/25 15:16

 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 138

 伊藤博文の欧米視察後、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎らは憲法起草に参画して、
明治22年(1889年)2月11日に大日本帝国憲法(明治憲法)を公布することに至ったが
、当初の日本ではまだ法典整備されておらず、民間が成熟しきっていない無法地帯の国
家である。指摘とされていた。こうして欧州からの指摘で日本の憲法制定に大きく携わ
ることとなったのが、ルドルフ・フォン・グナイスト、ローレンツ・フォン・シュタイ
ンである。彼の言及に「その頭脳の中には黄色人には憲法は不適当なり、寧ろ生意気な
る所業なりとの観念を有したるが如し」との言葉があった。明治15年に当人について
学んだ伊東巳代治の意見でもある。「憲法とは国民本位に託されたものであり、憲法が
国民の権利を決める(保障する)ものではない。」との意味を示したとしている。ここ
に山田顕義が、岩倉使節団の一員として欧米視察から帰国後の、「兵は凶器なり」と指
摘した上申書(理事官功程)提出し、自身が遊学中に施行された徴兵令の延期を求めた
理由があった、その後山田は東京鎮台司令長官に任命されるが、11月には同職を解かれ
清国特命全権公使に任命されたが山田本人に渡清の意思はなく、佐賀に於いて明治政府
に対する士族反乱が起きてその任を解かれた。明治18年に内閣制度が発足し、山田は
第1次伊藤博文内閣初の司法大臣に就任する。明治20年には外務省が一時所管した、
法律取調委員会を再び司法省に戻し委員長に就任する。民法はフランス人ボアソナード
に、商法はドイツ人ロエスレルに原案の起草をさせ、法律取調委員会では民法・商法・
民事訴訟法、裁判所構成法などの草案が審議され、山田が議事を整理して事業に明け暮
れた。明治21年、引き続き黒田内閣の司法大臣に留任して12月に民法、商法の各法
案を黒田首相及び内閣に提出した。司法大臣として法典整備を進め、日本の人種・習慣
・風俗・言語など国家成立の要因、すなわち国体を明らかにし、その基礎となる国典の
研究の重要性を認識したことで、明治22年、皇典講究所所長に就任し皇典講究所の改
革を進めた。同所内に日本古来の法と外国の法を研究する教育機関として、日本大学の
前身である日本法律学校を創設し、その後も引き続き第1次山縣内閣の司法大臣に留任
し法の要を成文化した。明治24年、司法大臣に復職し直後にロシア帝国の皇太子・ニ
コライ2世が襲われて負傷する大津事件が発生した時は、犯人・津田三蔵への死刑適用
に奔走したと言われる。動乱の中で西欧列強の持つ2面性に日本があたふた事を物語る
。一方で人権尊重し 一方で内政干渉・領土侵害も辞さない姿勢は人間の本性のままだ

490: 名無しさんAA:17/09/25 15:17
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 139

 明治5年の、陸軍出入りの政商・山城屋和助の陸軍公金の無担保融資事件は山縣有朋
には相当のショックがあった。山城屋和助は政府要人と同じ長州藩出身という縁故での
兵部省御用商人だった。軍需品の納入などで、陸軍省の公金15万ドルを借用して買い
付けを行っていた。ところが日本からの銀の流出で陸軍省保管の現銀は価格低落を被っ
ていて買い付けできなくなっていた。そこで生糸相場に手を出したが、ヨーロッパでの
生糸相場も日本の参入で暴落にあっていた。こうして投機は失敗し。山城屋は陸軍省か
ら更に金を借り出し、フランスの商人と直接取引をしようとフランスに渡っていた。が
此処に一人の日本人がフランスで豪遊しているという情報が、フランス駐在中弁務使の
鮫島尚信やイギリス駐在大弁務使寺島宗則の耳に入り、日本政府本国の外務省副島種臣
外務卿へ連絡されたのである。陸軍省会計監督・種田政明が密かに調査を始め、「一品
の抵当もなしに」多額の陸軍省公金が貸し付けられていたことが発覚して、薩摩系陸軍
人と長州系陸軍の対立のある中で激しく追及するところとなる。山縣は陸軍中将・近衛
都督を自ら辞任することにした。翌年の明治5年、江藤新平率いる司法省による本格的
な調査が始まろうとしたが、山縣から至急の返済を求められた山城屋は公金返済が不可
能であった為、陸軍省内で割腹自殺を図りその際関係する帳簿と長州系軍人の借金証文
類も焼き払われていたため、事件の真相は解明されることなく、陸軍省会計監督の長船
越衛の処分をもって終わったのだった。こうして日露戦争前の混乱は数少ない海外取引
を担う有能な武士が 戦乱や派閥に埋もれて行く時代の中だった。野口遵(したがう)
がシーメンスから用済みになり曾木電気株式会社創立したのは1906年で丁度 日露
戦争の前夜であったと言える。シーメンス事件もシーメンス社員のカール・リヒテルが
シークレットペーパーを会社から盗み出し、買い取るよう東京支店長宛に脅迫文書を送
ったところに始まる。要求金額は25000ポンド今の日本円で5千万円程度だったらしい。
脅迫は拒否され失敗した。カール・リヒテルはこの書類をロイター通信特派員に売って
ドイツへ帰国した。こうした事件の背景にあるのが 当時のドイツ人にある「黄禍」の
思想であろう。つまり日本人は敵であり(黒人と同じ様に)植民地の奴隷であるべきだ
と言う思考である。この勝手に自分の優位に刷り替える思考は今の朝鮮民族まで伝授さ
れたのだろう。盗み信用を無くす行為に日本人は混乱して良い正義だと言う欺瞞だ。


491: 名無しさんAA:17/09/25 15:18
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 140

 この後その脅迫された連絡を受けてすぐさまシーメンス重役陣は動き、同社の信用失
墜と関係海軍将校への影響を怖れてもみ消しを図り、公表を阻止した。これを知らされ
た当時海軍大臣の斎藤実は「わが海軍部内にかかる醜事に関係する武官あるべからず、
秘密書類の公表はむしろ望むところなり」と回答し、内情調査をするよう連絡したが、
議会運営が始まり 政局重大の折でもあり海軍当局の正式な連絡後に司法活動を開始す
ることとし一応静観の態度を取った。その後シーメンスとプーレーの間で妥協が成立し
、1913年にシーメンスが秘密書類を50,000円(1憶)で買い取り横浜領事館で焼却
、一度事件は終結を見た。ところがドイツの秘密機関がこの経過を全て把握しており、
ドイツ官憲はシベリア鉄道で帰国するリヒテルがドイツへ入国した瞬間にこれを逮捕、
恐喝未遂罪で起訴したのである。判決は贈収賄があったと認定し、贈収賄が犯罪を誘発
したとして情状酌量を認め、カール・リヒテルは2年に減刑された懲役刑に処された。
公正中立をもって知られるドイツ司法裁判所ではあったがこの事件に限っては国際儀礼
に反して一審判決から日本海軍将校の実名をも進んで通信社に公表した。そこには対共
政策に悩みながら日本に商売するドイツの姿があった。と言うのも最先端の軍事物資を
扱うシーメンスはドイツでも重大な機密であったが国としての優位保持も大事だった。
山縣有朋はしたたかに交友関係を保っていた。国王ヴィルヘルム2世としては日本との
商売はしても 日本に技術は売りたくはなかったのだ。更に既に日露戦争で勝って貰っ
たが今となれば山縣の政界での権力は潰したかったのである。こうした利害関係一致に
よっての陰謀が図られたのだ。シーメンス事件当時検事総長だった平沼騏一郎も 後に
回顧録でこの説を容認している。山縣有朋は薩摩閥・海軍と対立していた長州閥・陸軍
の代表的存在に変化していたからであった。更にこの少し前に日本海軍の活躍によって
日露戦争に勝利、「日本海軍育ての親」と称される山本権兵衛が首相となり山本権兵衛
は陸軍の主張であった軍部大臣現役武官制を一部廃止、陸軍の二個師団増設案を拒否、
山縣有朋が議長を務め天皇のブレーンとなっていた枢密院の定員削減などの行政改革を
していながら八八艦隊建設計画予算を計上していた。ヴィルヘルム2世は日英同盟から
の対抗の海軍拡張を進めており、イギリス海軍の分身とみなす日本海軍の金剛型戦艦4
隻を「ドイツ東洋艦隊を無力化する」としての脅威に感じてもいたのである。こうして
日本は注目を集め スパイ天国の国になり折角の国際的進出も道を誤らせられるのであ
る。陸軍軍閥を潰したい。海軍勢力は抑えたい。日本そのものを潰したい。ドイツの思
惑であった。それは同時に国際社会の誤りにもなり 現代までその禍根を残す。

492: 名無しさんAA:17/09/25 15:19
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 141

 こうして欧州戦乱の 米国英国Vs仏国蘭国がいつの間にか米国英国仏国Vs蘭国独
国伊国になり更に露国が入ってトルコなどの植民地が入り 東洋は奇妙な位置づけが、
があったが、日本がロシアに勝った事で更に奇妙な地位に降り立つ事になったのだった
。日本が開国し経済的には恵まれて1$1円時代に突入する頃、正にジパングで大量の
金の放出時期であった。正式に日本政府の発行券が流通する時代に到来するのだが、こ
れが先の海外製品や株が暴落した原因でもあったと言う。この通貨乱高下に伊藤博文さ
えも、奴隷商人によって米国内で売られそうになった事もあった。この後八幡製鉄所の
構想で九州電気軌道の軌道敷設計画が起こるのだが。これに日本政府は多くのドイツ人
イギリス人を雇った。最先端機器を必要とした時、基本的システムはイギリスに学んで
いたが 電化技術や軌道運搬や化学産品はドイツに学ぶ機器しか存在しなかったのだ。
明治の移行期に柳川近郊の足踏みの水車を作った者がいたがそこに一人の弟子が居た。
田中久重である。佐賀に反射炉が出来たのは江戸期でありアームストロング砲の改良型
が既に出来ていた。更に長崎のグラバーは既に多くの筑後茶で商売をしていた。この街
道沿いが現在の大木町や筑後市である。明治期では此処は多くの海外からの物が頻繁に
大川港を介して動いていた。浮羽から大川までは古くからの筏船が動いていた流通経路
が存在していた。水沼回廊と言う水路運搬も次々に出来て行った。運河計画もあった。
此処に当時の貯木場が今の八丁牟田近郊にあったとされる。八女金山をして金を納めて
いた逸話のある荒くれの金納氏がいたが此処に言う天才細工師が居たのだ。彼が作った
足踏み水車は少年さえ抱えるほど軽く高い3m程の段差さえも水を揚げた。と言われ更
に足で回転させる事も摩擦が少なく簡単に回ったのであった。彼は田中義右衛門の師匠
の様な人だったと言われる。田中久重は江戸時代後期から明治にかけての発明家で佐賀
藩の反射炉で作業をしている。その後「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」と呼ば
れて、芝浦製作所を設立し後の東芝の重電部門の創業者となったが、筑後国久留米の鼈
甲細工師・田中弥右衛門の長男だった。蘭学狂いの鍋島直正が治め佐賀藩の精煉方に着
任していたのは佐野常民が幕府注文の蒸気鑵(ボイラー)を製作する任を受けていたか
らだったと言う。空気圧で灯油を補給する無尽灯を売り出した田中に、白羽の矢をたて
てボイラーの試作を行う事にしたのである。佐賀藩が鉄砲やアームストロング改良砲を
売って財政立て直しに、成功した頃の話である。


493: 名無しさんAA:17/09/25 15:20
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 142

。“からくり儀右衛門”久重と“肥前の妖怪”鍋島閑叟の出会いを生み出したものは、
先代の佐賀藩の汚名であった。久重は高い志を持ち、創造のためには自らに妥協を許さ
なかった。芝浦製作所を作る時久重は、「知識は失敗より学ぶ。事を成就するには、志
があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、その後に、成就があるのである」との
言葉を残している。これは鍋島閑叟の意志でもあったのだろう。フェートン号事件以来
長崎警備等の負担が重く、更にはシーボルト台風など佐賀藩は悲惨な状況であった。借
財返済を申し立てた商人に、斉正の大名行列は進行を停止せざるを得ない屈辱的な経験
をもしているぐらい財政破綻に陥っていた。かつて1808年に、オランダ船拿捕を目
的としてイギリス海軍の戦艦フェートン号が、偽りのオランダ国旗を掲げて長崎入港し
た。通常業務として阿蘭陀館長や通訳が船に近づくとすぐさま人質にし、英国国旗を掲
げた。要求は水や食糧や燃料を求めた事だが、これは長崎警備の佐賀藩にとって寝耳に
水の厄難であった。2日に渡り停泊し食糧や水の補給すれば人質を解放して終わった。
終われば日本側に人的・物的な被害はなく、人質のオランダ人も無事に解放されて事件
は平穏に解決していたのだが、幕府は許さなかった。勝手に兵力を減らしていたからだ
。長崎奉行松平康英は、国威を辱めたとして自ら切腹して果て、鍋島藩家老等も責任を
取って切腹した。さらに幕府は、鍋島藩が長崎警備の任を怠っていたとして藩主の鍋島
斉直に百ヵ日蟄居閉門を命じた。しかし38門艦フェートン号には片方の側砲に16門
の大砲が備えられた戦闘艦であった。。対して日本にはそうした軍艦は一つも無く上申
するも幕府は備える事が出来なかったのである。その為にグラバーを通じて佐賀藩は大
きく商売に出た。既に細々と陶磁器やお茶が売れていたが借財して土地を売り嬉野茶を
育てり川内に今まで職人芸だった焼き物を分業し集団制作に変えたりはしていた。この
空砲を打つ軍艦ではあったが相当な衝撃だったはずだ。阿蘭陀人の指導を得て反射炉を
作り隠れて大砲や軍艦制作まで行う事にしたのである。当時武器輸入は長崎のこのトー
マス・ブレーク・グラバーを通じて行われていた。スコットランド出身の武器商人とし
て、幕末の日本で活躍した者だ。彼は明治維新後も造幣寮の機械輸入に関わるなどした
が、武器が売れくなり諸藩の資金回収が滞りグラバー商会は破産してしまった。大森氏
となって帰化し、高島炭鉱の実質的な経営者として喰いつないだ。帰れなかったのだ。
官営事業払い下げで三菱の岩崎弥太郎が高島炭鉱を買収した時、所長として経営する。
明治18年1885年以後は三菱財閥の相談役になり、経営危機のS・B・ブルワリー
の再建参画を岩崎に勧めて麒麟麦酒の基礎を築いた。

494: 名無しさんAA:17/09/25 15:21
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 143

トーマスグラバーは日本初の商業鉄道が開始されるよりも前に蒸気機関車の試走を行い
、長崎に西洋式ドックを建設し造船の街としての礎を築くなど日本の近代化に大きな役
割を果たしたと言われる。1830年隠居の後を受け17歳で第10代藩主になるが、
先代藩主・斉直はいち早く海軍時代を予想し阿蘭陀から軍船を買っていた。この電流丸
(でんりゅうまる)は佐賀藩所有の軍艦。排水量およそ3百トンの木製コルベット艦だ
った。購入金10万ドルは安くなかったはずだ。安政の大地震が東北に起きた頃だった
為、米相場の米輸送で儲ける為と言える。この大川の対岸の八重津と呼ばれる早津江港
に着いた時は大老井伊直弼が就任した時であった。電流丸はコルベット艦で一層の砲甲
板しか持たず、大きさはフリゲートよりも小さかった。それでも大砲を何門か備えてい
た。江戸時代にこの藩が買ったのは脅威であった。父親の斉直でも受け継いだ時佐賀藩
では1万5千貫の借金があり、財政が破綻寸前となっていた。この為斉直は財政再建の
藩政改革に取りかかっている。まず、経費節減政策を考えている。支藩の肥前鹿島藩の
廃藩、次に長崎警備の任務の返上である。長崎警備には莫大な費用がかかり内密で熊本
藩に引き継いでもらおうとしたのだが幕府に見つかるのだ。鹿島廃藩も小城藩や蓮池藩
の反対でとん挫しその中でフェートン号事件が起こったのである。その後も江戸藩邸が
焼失しシーボルト台風の襲来で財政はさらに悪化し、借金は13万両に膨れ上がるので
ある。この中で電流丸を買い付けしているのだ。斉直に百ヵ日蟄居閉門を命じられた時
多分色々と考えたに違いない。大坂船場に移り住み折りたたみ式の「懐中燭台」、灯油
を自動補給する灯明の「無尽灯」考案し京都へ移ったが、天文学を学ぶために土御門家
に入門している。この土御門家は薩摩藩お抱えの公家のはずだ。土御門家は、安倍清明
以来続く陰陽道の家柄で代々、幸徳井家とともに暦の制作にたずさわっていた家柄だ。
又嘉永6年(1853年)佐野常民の薦めで蘭学狂いといわれた鍋島直正が治める肥前
国佐賀藩の精煉方に着任し、国産では日本初の蒸気機関車及び蒸気船の模型を製造する
のだが この佐野の産まれた所が肥前国佐賀郡早津江村で佐賀藩の三重津海軍所である
。東芝の創業者であり、“東洋のエジソン”と呼ばれた奇才な発明家、田中久重がここ
に来るのに多分に薩摩藩の土御門家を通じた援助があり佐賀藩自体は長崎出島まで密輸
を行う起点として三重津海軍所を作ったと言える。幕府の目を盗んで。幕府としても、
この長崎奉行の警護には佐賀藩が欠かせない存在で大目に見たのだろう。


495: 名無しさんAA:17/09/25 15:23
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 145

 かつて日本は長い間 銀を送って銅銭を手に入れる事で貿易を行っていた。それには
理由が2つあった。つまり銅鉱山はかなり危険な成分を含んだ鉱石と存在した鉱山だっ
たからだ。日本での銅鉱石は多くは黄銅鉱や硫化鉄で少量の有害な物質と半分程の不要
鉱物だった。今でこそ精錬法が電気精錬などが出来てそう危険では無くなったが明治の
時代までその精錬には 有害なガスと有害な水溶液と危険な作業が重なり合った場所で
あった。精錬に要する火力は鉄に匹敵し更にガスの対処するには屋外同様の環境で作業
するしかなかったし 掘り揚げる鉱山も炭鉱の危険さと同じ上に触る石が有害だった。
 国内の銅の存在は鉄より古い。銅鉱石を初めて産出したのは西暦698年(文武2年
)には、因幡国(鳥取県)から銅鉱を朝廷に献じたと伝えられて記載されている。また
708年(慶雲5年)には武蔵国秩父から献上された銅を用いて貨幣(和同開珎)が作
られ、年号も和銅と改められたとなってその通貨価値も古い。最近7世紀後半の飛鳥池
の遺跡から発見された「富本銭」も、鋳造は700年以前に遡ることが確認された。又
、遺跡からの溶銅の大量出土はその当時の産銅量が既に一定の水準に達していたことを
物語っている。それでも平家の時代わざわざ貨幣改めをする程に一般に流通していない
。銅を中国に求めたほど発達しない物だった。精錬技術が危険でそのまま伝わらなかっ
たし銀の生産の方が効率的だったからだ。その昔中国では、金・銀・銅のいずれも「金
」と総称していた。必要ならば金を黄金、銀を白金、銅を赤金と区別していた。それが
「銅」の文字の語源である。だが銅は合金であってその不純物との化合具合から、発色
が違っていた。日本の場合銅金(あかがね)と呼ばれた。黄銅や青銅はさび付きやすい
古代銅であった為だ。江戸時代には精錬技術が発展し、純度の高い銅を素銅(すあか)
、不純物を多く含む銅を山銅(やまがね)と呼び、区別した。中国の字典には赤銅の記
述がされ 赤銅(しゃくどう)は金を数パーセント混ぜた銅合金を示すとされる。対し
て金銀は灰吹法が導入されて簡単に純度をあげられた。つまり粉末の金銀が鉛と化合し
熱によって素皿に鉛を吸わせる事で簡単に抽出できたからだ。鉛中毒の恐れはあるもの
の鉱山の外でのフイゴによる容易な火力で出来たのだ。



496: 名無しさんAA:17/09/26 20:26
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 146
 だが室町時代には 既に町場鍛冶が起こっていてこの銅が鉄に含む化合物として大き
く必要となり、日本人は画期的な精錬法を編み出した。それは不純物を燃した後の銅を
高熱のまま高熱のお湯で冷やすのである。爆発の恐れはあるものの先の銀と鉛の化合物
を素焼きの皿に吸わして金や銀を抽出するように、沸騰したお湯につけて精錬する方法
は逆転の発想であろう。全国各地で各種の鉱物が続々と発見され、奈良朝および平安朝
時代にかけては青銅の仏像や仏具・工芸品などが盛んに作られ、749年(天平21年
)聖武天皇発願である東大寺大仏の建立で、銅の精錬・鋳造加工技術は著しい進歩を示
した。ところが銅の精錬は秘密裡に行われたのだ。室町時代にはいると中国・スペイン
・ポルトガル・オランダなどとも貿易が開かれましたが、そこは鉄の世界だった。鉄砲
その他の武器・貨幣・日常生活の器具等に銅に関する需要が内外ともに旺盛となったも
のの量そのものは増えない。と言うの銅の展延性は特に金属加工において重要であるが
銅鉱石の不純物の鉄の方が利用されたし、銅の細工は早々大きくも多くもない。ことに
江戸時代の寛文、元禄の頃銅は金銀にかわって長崎貿易の主力となり流通は藩財政の中
の財源だった為特に秘密裡に行われた。世界的に見て、それでも新大陸(米国)の銅山
がいまだ多く開発されていなかった頃の1697年(元禄10年)の銅の生産高は世界
一の約1000万斤(6,000トン)で、長崎貿易の輸出量はその半分にも達する状
況になっていた。銅製品が戦国時代の武将の鎧兜で多く必要とされていたのだが その
原料は精錬はそう必要が無かったが 海外まで有用な品物となった時その精錬法は見直
されたと思われる。江戸時代末期の1853年に、ロシアのエフィム・プチャーチンが
来航し、蒸気で走る模型を披露したり1854年、アメリカのマシュー・ペリーが江戸
幕府の役人の前で模型蒸気機関車の走行を実演した記録があるが、その後いち早く18
65年の元治2年に、このグラバーは大浦海岸において蒸気機関車(アイアン・デュー
ク号)を走らせている。アイアンデュークは圧力タンクと蒸気機関の名称で、その汽船
や機関車が当時では最先端の速さを持っていた。大きさは小さいがアメリカ西部では、
数多く使われ ゴールドラッシュ時の移動から第二次世界大戦のアメリカ産業を支えた
。恐らくは、イギリス本国にこの日本との交易の危機を訴えてすぐさまその対策として
汽車を取り寄せ、それに合わせた線路を敷いたと思われる。この汽車は、1865年(
慶応元年)に上海博覧会に出品されていた英国製の蒸気機関車をグラバーが買い取って
、客車2両を引かせて、石炭が無く木炭で走らせたらしい。長崎(現在の市民病院前)
〜大浦海岸(現在の大浦川)までの約600mの線路を敷設して走らせたのである。この
購入額はかなり高かかったといえる。

497: 名無しさんAA:17/09/26 20:26
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 147

1851年イギリスから始まった、万国博覧会は異様な盛り上がりと国際的祭りとして
斬新な物で、イギリスの産業革命を強く彩る祭典だった。これを機に1853年アメリ
カニューヨークでも開かれ日本にも知らされた。この事はフランスを刺激し、1855
年にパリ万国博覧会ナポレオン指導で行われた。この時正式な日本の参加は無かったも
のの中国やインドと一緒に陶磁器が飾られたとされる。その後も英国は精力的に第4回
を1862年にロンドン万国博覧会として200日開催している。その後1867年に
第二回パリ万国博覧会が 幕府および薩摩藩と佐賀藩が参加した形で行われた博覧会で
有名であるが、既にその前の英国のロンドン博覧会でも正式参加ではないが、駐日英国
公使のラザフォード・オールコックが、自身で収集した漆器や刀剣、版画といった日本
の美術品のほか、蓑笠や提灯、草履なども展示された。また、開会式には文久遣欧使節
の一行が参加し、日本が万博に関与した最初の事例となった。このコレクションに対す
るロンドンでの評価は、日本の国民性をみごとに表現したものとして高く評価され、ヨ
ーロッパにおけるジャポニズム流行の契機にもなった。こうして日本の展示品は現地で
は絶賛されたが、日本の使節団の見た視線は淵辺徳蔵『欧行日記』に「全く骨董品の如
く雑具」、「かくの如き粗物のみを出せしなり」と不満を書き残していて、使節団の一
員だった福沢諭吉が Exhibitionを「博覧会」と訳したと言われている。 この中国での
上海博覧会に佐賀藩のみが招待されて隠れて見学に行っているのである。もともとは、
英国の東インド会社では麻薬ではなく香辛料の運搬が主だった。高く売れたからだ。が
バグダッド人がインドのボンベイに「ディビッド・サッスーン商会」を設立してこれが
英国東インド会社による阿片の専売権を受け持つ事で 大きな東南アジアの三角貿易が
始まっていた。産業革命の結果、イギリスは陶器や絹織物を輸入して、綿織物を輸出し
たがそれが鉄に変わった。綿織物が高く売れなかったのだ。それは日本へ流れた綿花の
まま布団になったのだ。急速な革命的変化はインド、中国のあいだでと銀の交換が必要
だったがその対抗産物が無かった事で麻薬が三角貿易の対象となった。中国の税は銀貨
で納める事が決められていたからだ。イギリスからの綿工業製品が日本へ、インドから
の阿片が中国へ、中国から銀、日本から茶や陶磁器が輸出された。この商品の流れと逆
方向に銀が移動する。イギリスが買う茶よりも、中国が買うアヘンの金額が大きくなれ
ば、イギリスの貿易は銀が貯まる。こうしてアヘン貿易が中国の高い茶や陶磁器の貿易
を逆転して安い日本のお茶や陶磁器に変化してこれに佐賀藩は財政転化を図ったのだ。


498: 名無しさんAA:17/09/26 20:26
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 148

 1830年に佐賀藩を受け継いだ時藩の財政は既に火の車で多くの負債を返す宛はな
かった。唯一の産業は有田焼だったとおもわれる。これまで一人の者の成型加工絵付け
を分業化して 有田の町から川内町に移して大量生産体制を敷いた。1835年二の丸
焼失事件を機に佐賀藩を大きくする事を決断した。密貿易である。当時当番で長崎奉行
をしていた関係から 外国商人との関係は深かった。当時清国では阿片は悩みの種だっ
たが広く出回って居た為「弛禁論」と言う認めて関税をかけよ。と言う声まで現れてい
た。その後「吸引した者は死刑に処すべき」と言う声に林則徐を特命全権大臣に任命し
広東に派遣し、アヘン密輸を厳しく取締まった。1839年には阿片商人たちに「今後
、一切アヘンを国内に持ち込まない。」という誓約書提出させ、「持ち込んだら死刑」
と通告した。さらにイギリス商人が持っていたアヘンを没収、商館である夷館も閉鎖し
た。没収した阿片塊は海水に浸し塩と石灰で無毒化させ灰からも精製出来ない処分をし
1400トンを没収してそれを行い誓約書のない阿片商人を町から退去させた。この展
開にイギリス商人は阿片の引き渡しの要求には応じたが、誓約書の提出は拒否し、更に
英国人保護の為広東在住の全英国人を連れてマカオに退去した。だが九竜事件での船員
による現地民殺害を口実にマカオを武力封鎖して市内の食料を断ち、さらに井戸に毒を
撒いてイギリス人を毒殺しようと企んだ。ここで事態が飲み込めないまま東インド艦隊
のフリゲート艦が2隻だけ到着し 英国商人達は反撃にでるのである。これにたいして
英国議会は「不義の戦争」とする批判がある中、清に対する出兵予算案は賛成271票
、反対262票の僅か9票差で承認され、イギリス海軍はイギリス東洋艦隊を編成して
対清国開戦に及んだのだ。この艦隊出現で道光帝は驚き、強硬派の林則徐を開戦の責を
負わせて新疆へ左遷し、代わりの者に川鼻条約を結ばせた。ところが艦隊が撤収すると
強硬派の台頭によってその条約は破棄された。こうして南京条約が結ばれるまで戦争の
アヘン戦争が起きるのだが 中国のジャンク船はイギリスの火力の前には全く歯がたた
なかったのである。こうして1842年南京のイギリス海軍戦列艦で、イギリス全権代
表清国全権代表での南京条約が締結されるまで続いた。1. 香港島割譲  2. 賠償金
2,100万$を四年の分割で支払う  3. 広州、福州、廈門、寧波、上海の5港の開港
 4. 公行の廃止による貿易完全自由化などを認めさせた。この戦闘によって代用品と
して日本の陶磁器やお茶や刀や木製品を浮世絵など包み送り日本産品の名声を得たのだ
った。

499: 名無しさんAA:17/09/26 20:27
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 149

 この1865年(慶応元年)に上海博覧会において 出品されていた英国製の蒸気機
関車「アイアン・デューク号」を買い取り、客車2両を引かせてたが、この博覧会が、
清とイギリスとの間で1840年から2年間にわたって行われたアヘン戦争のしこりを
のぞき 日本などとの商取引を大きくしようとした英国の催し物であった事は間違いな
い。加えて武器取引や阿片商売更に奴隷交易といった暗いイメージで敵対される視線を
そらす為の重要な布石であった。国際的欧州社会は大きな転換期を迎え、米国すらも、
国内経営に切り替え 他国との競争時代になったのだ。幕末の文久2年西暦1862年
9月14日に、武蔵国橘樹郡生麦村において、降って沸いたような突然の事件が起こっ
た。薩摩藩主の島津茂久の父・島津久光の行列に、乗馬のままの乱入したイギリス人達
がいた。当然供回りの藩士たちは防備の任に当たり1名死亡 2名重傷した。有名な、
生麦事件である。4人はこの日、東海道で乗馬を楽しんでいたとあるが、観光で川崎大
師に向かっていたともいわれる。この時死亡したのが上海で長年商売をしていて、見物
のため来日していたチャールズ・レノックス・リチャードソンだった。外務大臣ラッセ
ル伯爵の文書では、騎士道ならざる抑制されないプロ・ボクサーにみられるような本能
の男で蛮勇の持ち主である。と書いている。つまり「大名というものは子供の時から、
周囲から敬意を表されて育つ。もしリチャードソン氏が敬意を表することに反対ならば
、何故に彼よりも分別のある同行の人々から強く、引き返すか、道路のわきに避けるな
どしなかったのであろうか。」つまり生意気なイギリス青年が大名行列に出くわした。
と言う事件だったのだ。ところが殺されたリチャードソンは一人息子で、彼の父親が 
事件発生を知ったのは、2か月後の新聞報道で、詳細がつかめない旨の返事で報道後の
20日後にやっと日本のニール代理公使から事件概要を掴み、薩摩に対し犯人の処刑と
賠償金10ドルの支払いを要求し、もし薩摩がそれを拒み、又は引き延ばした場合は相
応の措置をとるとの確約を 英国高官と行ったのだ。事件直後から日本国内では、各国
公使、領事、各国海軍士官、横浜居留民が集まって対策会議が開かれた。中には「島津
久光、又は高官を捕虜とする。」という議題まで挙がっていて、下手をすれば大戦争に
直結しかねないだけに、幕府もイギリス公使館も対処の仕方に苦慮を重ねる事になった
。又水面下でも色々な問題が議論された。がニール代理公使は本国指令を待って 年明
けて改めて幕府に対して謝罪と賠償金の10万ポンド要求と犯人の受け渡しを望んだ。
こうしてこの年には幕府統制の一括海外貿易が崩れた原因になった。

500: 名無しさんAA:17/09/26 20:27
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 150

 英国側では幕府と藩との関係に弁明を受け さらには、薩摩藩には幕府の統制が及ん
でいないとして、艦隊を薩摩に派遣して直接同藩と交渉し、犯人の処罰及び賠償金2万
5千ポンドを要求することを通告した。幕府に圧力を加えるため、イギリス・フランス
・オランダ・アメリカの四カ国艦隊が順次横浜に入港した。老中や幕府が支払い決定や
支払い拒否を繰り返す中で、緊迫した空気に小笠原長行は海路横浜に赴き、独断で賠償
金交付を命じた。翌日、賠償金全額がイギリス公使館に輸送された。小笠原長行は罷免
なったがこれにより幕府との交渉は一応の決着がついた。だがイギリスは薩摩藩と直接
交渉するため、6月27日に軍艦7隻を鹿児島湾に入港させた。交渉は不調であり、7月2日
、イギリス艦による薩摩藩船の拿捕をきっかけに 薩摩藩がイギリス艦隊を砲撃して、
薩英戦争が勃発した。薩摩側は鹿児島市街が焼失するなど大きな被害を受けるが、英国
艦隊側にも損傷が大きく、4日には艦隊は鹿児島湾を去り、戦闘は収束したのである。
 事件後には「この事件が起こる前に島津の行列に遭遇したアメリカ人商人のユージン
・ヴァン・リードは、すぐさま下馬した上で馬を道端に寄せて行列を乱さないように道
を譲り、脱帽して行列に礼を示しており、薩摩藩士側も外国人が行列に対して敬意を示
していると了解し、特に問題も起こらなかったという。ヴァン・リードは日本の文化を
熟知しており、大名行列を乱す行為がいかに無礼なことであるか、礼を失すればどうい
うことになるかを理解しており、「彼らは傲慢にふるまった。自らまねいた災難である
」とイギリス人4名を非難する意見を述べ、当時の『ニューヨーク・タイムズ』は「こ
の事件の非はリチャードソンにある。日本の最も主要な通りである東海道で日本の主要
な貴族に対する無礼な行動をとることは、外国人どころか日本臣民でさえ許されていな
かった。条約は彼に在居と貿易の自由を与えたが、日本の法や慣習を犯す権利を与えた
わけではない。」と評している。だが国内では、「国内法との整合性がつかない治外法
権を含んだ条約は、朝廷の許しも得ず幕府が勝手に結んだもの。」との批判に溢れた。
そしてその後の日本国は、肝心な点の、日英修好通商条約による治外法権の規定の、「
日本の側にはイギリス人を裁く権利は存在しなかった。」ことの修正とイギリス側から
言う、「イギリス人が日本の法律に従ういわれはなく、たとえ日本の国内法で無礼討ち
が認められていようとも、当然のことながらそれはイギリス側からは認められるもので
はない。」と言う矛盾の訂正に走りまわる事になったのである。前者は通商交渉の訂正
ややり直しであり後者は日本の仕組みや法律の改定で意識改革であった。


501: 名無しさんAA:17/09/26 20:29
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 151

 本来佐賀藩が狙っていたのは どうも砂糖だったようだ。砂糖は日本では高級品で、
庶民に売るには少量で高価だったからだ。だがフェートン号事件以降は鉄の恐ろしさを
知る。更に船便で多少の麻薬の阿片との積荷の差が無く厄介なものであり、砂糖その物
が他の藩が南洋上の奄美などからやって来て利権を持っていた上に、中国向けの麻薬は
南蛮船の得意とするもので 交易をひたすら鉄に変えた様だ。当時の日本では鉄は鉄砲
や兵器以外には釘や刀位で必要は無かった。各藩では古来より砂鉄から刀や馬具などを
生産する方法があったからだ。だが蒸気船や大砲の身近な到来は 大量の鉄文化が西洋
の主流で、船・機関車・大砲・線路と佐賀藩には大きな衝撃があったと言えるだろう。
多分この頃から 南蛮商人の入用のお茶や陶磁器に力を入れて、ひたすら欧州の技術を
学んだ様だ。博多のビードロや薩摩切子は有名だが 多分ガラス機器も佐賀が最初であ
ったろうと思われる。それは火や窯に対する情熱の高さからだ。ただガラスコップは、
陶磁器作品の商売敵である。だから禁令を出して隣の福岡や縁戚の薩摩に移ったと考え
られる。更にサトウキビは薩摩では取れるここでも薩摩とは競り合わない配慮をした。
と考えられる。薩摩には仙巌園内に残る反射炉跡がある。安政4年(1857年)、28
代薩摩藩主島津斉彬が佐賀藩に次いで反射炉を完成させた。この反射炉は縁戚の佐賀藩
に助力を求め佐賀から江川氏を派遣して出来たと言われる。この炉で鉄を大量に生産し
、大砲鋳造を始め様々な武器も製作した。つまり1862年の生麦事件の時既に佐賀藩
の指導のもとこの反射炉は完成し佐賀藩が作っていたアームストロング砲改良版が出来
ていたのだ。更には英国の技術者さえも接触していた可能性すらある。そうした中でも
英国は10万ポンド(40万ドル)の賠償金を要求し先の通訳官斬殺事件1万ドル合計
11万ドルもの大金を小笠原長行の独断とは言え 幕府からせしめていた上に薩摩への
襲来を図ったのである。11万ドルの受け渡しにイギリス公使館内では、中国人の貨幣
検定人を方々から借り集め、貨幣の検定と勘定を進め、全部やり終えるのに3日間かか
ったという。皮肉なことにイギリス側に賠償金を支払った日の翌日、5月10日は幕府
が攘夷実行期限として、朝廷に約束した日付であった。この事から 英国側は既に尊王
攘夷で公武合体の機運があり日本が内乱を起こすと予想をしていたと考えられ、それが
無くなってまずは南の辺地から内乱を起こすきっかけを模索していたとも見て取れる。

502: 名無しさんAA:17/09/26 20:29
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 152

 1860年当時アメリカ公使館の通訳官・ヒュースケンが斬殺された事件での賠償金
が1万ドルであり、同じ様に薩摩藩がヨーロッパから購入した最新鋭の蒸気船が一隻、
約10万ドルである事から、恵まれた藩が奮発して買う軍艦が、4隻も買えると言う莫
大な金額であったと言える。つまりそれだけ吹っ掛けた金額だった。それだけに40万
ドルという金額は幕府が今まで支払った賠償金額をはるかに超える途方もない金額であ
ったと言える。だがこのイギリスの目的が賠償金である筈がない。一般的に戦争するに
も出費というものがある。出費しても欲しいとしたのは日本そのものだったと言える。
イギリスの戦争目的が、薩摩のイギリス人無礼討ちに難癖をつけて日本侵略の足掛かり
を築く事であったのだろう。更にこの戦艦を錦江湾に集結させた理由はかつてのアヘン
戦争で香港やマカオを足掛かりに中国大陸を窃取したやり方と全く同じで、中国のジャ
ンク船の戦艦を平らげた様に日本もやれると思っていたと思われる。ところが錦江湾に
は、旗艦では無かったものの蒸気船が3隻停留していたのだ。緊迫したムードが錦江湾
を覆う中、英国艦隊は、宣戦布告もないままに停泊していた薩摩の船、天佑丸(英製)
、青鷹丸(独製)、白鳳丸(米製)の3隻を拿捕した。多分にこの戦艦が無ければ無力
と思えたのであろう。ここで英語の通じる寺島宗則と五代友厚の2名は、乗組員を安全
に下船させることを条件に人質となった。彼らは旗艦を爆破し、英国の提督と差し違え
る覚悟で日本側の乗組員が全て下船すると 2層式片側16門の旗艦は直ぐに撃破され
た。このような形で開戦し、始めのうちは薩摩の海岸沿いの大砲が威力を発揮した。が
、英国艦隊が大砲の射程外に出ると、艦砲により磯の工業地帯を壊滅させました。前の
藩主の斉彬の頃までの薩摩の大砲は外国製で射程距離が長かったが、和製大砲には螺旋
を切る技術がまだ無く、射程が短くなっていたのであった。更には薩摩藩側は物的被害
が大きく出た、鹿児島城内の櫓、門等損壊、集成館、鋳銭局、民家350余戸、藩士屋
敷160余戸、藩汽船3隻、民間船5隻が焼失したのである。だが英軍側の方も戦死者
、負傷者を多く出し、旗艦は大破。旗艦艦長も死亡している。現在の鹿児島市街の一割
は完全に焼き払われ、イギリス艦隊も旗艦艦長と副長が戦死するなど、多大な犠牲を払
う中で英国艦隊が離れて行った事でこの戦争は終わった。こうして英国のその目論見は
、薩摩が屈服しなかった事によって失敗に終わったと言える。


503: 名無しさんAA:17/09/26 20:30
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 153
 薩英戦争の時には 既に台風が近づいていた。また、英国艦隊も旗艦の艦長以外は、
初めからから戦争をするつもりではなかった中で招集されていた。資材も食料もそれほ
ど積んでいなかったのだ。この後英国軍は神戸に向かい人質を解放した。航海の途中で
人質にした寺島と五代に「上陸して戦闘した場合に、勝ち目があるか」を尋ねたところ
、薩摩人の勇敢さについてとくと語られ、横浜に帰ることになったと記録される。拿捕
した3隻の薩摩の戦艦は足手まといになり、途中沈めてたと言う。英国艦隊が横浜に着
いたときに、人質となっていた寺島と五代は釈放されました。しかし、二人はこの時、
英国と内通者とみなされ、幕府と薩摩の両方から指名手配される。つまり、スパイ容疑
をかけられたのです。寺島は武蔵の羽生村に五代は長崎のグラバーのところに落ち延び
た。これは横浜から何処にも行けない状態だったのだろう。多分人質になった時既に我
が身の命は無い物と思っての行動がそこにはあったのだろう。しかし、薩摩内において
二人に同情的な意見が多く、しばらくして二人は免罪された。この時、五代は藩あてに
注進書を書きます。英国と薩摩の国力の差は計り知れない、そしてそれを見習うために
留学生を派遣すべきである、と。そして、この計画は実現し、19名の留学生を幕府に
秘密で英国に派遣する事になる。又再度の講和が持ちあがった時、薩摩藩内には英国と
引き続き交戦すべきだという意見も多々あった。が結局船はなく、磯の工業地帯を壊滅
させられ被害の復旧の資金などの事態を考えれば英国と講和する事の方が得だった。こ
うして生麦事件の犯人捜査に全力を尽くすことと、賠償金を支払うことを約束しました
。賠償金は幕府が立て替えたのですが、数年後に明治維新になり、薩摩は幕府にはこの
お金を返さずじまいで終わっている。薩摩藩は攻撃を開始する前に既に避難を命じてい
た為人的被害は少なく、又斉彬公が他藩に比べ近代武装化ができていた事でイギリスは
阿片戦争の様に脅せば落ちると思っていた様には行かず、又弱腰の幕府から賠償金を得
られていたために面目は取りあえず図れていた事が、西洋を相手にしようとした大層な
この戦争に決着をつけたといえる。結果として、薩摩藩側が賠償金を支払い和解となっ
たため、負けた形の薩英戦争ですが、世界最強と言われたイギリス海軍が事実上敗けて
戦いをあきらめ、途中撤退したという事に西洋は驚いた。ニューヨーク・タイムズ紙は
「この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということだ。
彼らは勇敢であり西欧式の武器や戦術にも予想外に長けていて、降伏させるのは難しい
。英国は増援を送ったにもかかわらず、日本軍の勇猛さをくじくことはできなかった」
とし、さらに、「西欧が戦争によって日本に汚い条約に従わせようとするのはうまくい
かないだろう」とも評した。

504: 名無しさんAA:17/09/26 20:30
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 154

 イギリス本国では、「薩摩は九州島の西南の端」との情報程度しかなく、居城の砲撃
か、又は港の封鎖かを提督らの判断に任せるとの指示を出していた。当時はまだ山川湊
の海図しかなく、鹿児島湾内の水深を測りながらの航行であった。測量専門技師をわざ
わざ上海から呼び寄せ、さらに薩摩に来たことのある日本人水先案内人を横浜で雇いま
した。案内人から、谷山沖に「七ツ島」があると聞き、そのどこかの島に7隻の軍艦が
停泊できると思っていましたが、七つの小さな岩が海中から突き出ているだけだったこ
とに驚いています。「沖小島」を「ニール島」、桜島の小池海岸周辺を「ユーリアラス
湾」、鹿児島湾の「神瀬」を測量技師パーカーの名から「パーカー瀬」と名付けていま
す。すぐ様、戦争の結果はイギリス本国に報告された。ビクトリア女王は交戦になるの
ではないかと懸念していたことを話し それが現実となって英国議会の開会挨拶の中で
は、鹿児島市民に多大な被害を与えたことに対し遺憾の意を表明した。イギリス国内に
おいては、この英国艦隊の行動を批難した住民の抗議集会など大きな反動があり、各地
で批難の決議や書簡が政府や報道機関に寄せられている。交戦時に砲台を壊滅する必要
はあっても、市街地を焼き払い、一般市民に多大な被害を与える行為は許せないとの声
が多く、市民からは人道的な立場からの深い同情の念が示されたものでした。イギリス
艦隊が、再び鹿児島砲撃に向かわなかったのは、こうしたイギリス本国の事情があった
からだといえる。だが日本では幕府の中に大事件が多数起こっていて、斉彬公の逃げ得
は当然であった。既に孝明天皇の強い要望により将軍徳川家茂が、文久3年5月10日
(1863年6月25日)をもって 攘夷実行するとの約束をしていて その期限が近々だった
のだ。又こうした動きは既に西洋諸国の公使館員は殆ど知っていて、清国と同じに今度
は英国だけに交易権利を渡さないと虎視眈々と狙っていたし、各藩も多小はあっても、
自藩の領地を守るための武器は取り寄せていた為、逆にこの居留している貿易商の危惧
があった。先のアヘン戦争後の清国の様に混乱に命の安全が脅かされる事だ。だか公使
は戦争による経済の拡大に動いていたのである。今の経営者と社員の関係の初期状態だ
。この攘夷が幕府は外国船打ち払いの軍事行動と海外からの独立とはおもっていないか
った。が裏で糸を引いていた長州藩は、馬関海峡の閉鎖と通過する外国船への砲撃可能
を意味していた。従って、馬関戦争とされるこの戦争は通過する外国船の打ち払いから
始まる。

505: 名無しさんAA:17/09/26 20:30
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 155

対して、英国駐日公使ラザフォード・オールコックは下関海峡封鎖を強く問題視した、
更に この横浜の停滞と長州藩の攘夷を継続で幕府に鎖国政策を提言し、今後の開港の
封鎖を恐れ、この危機を他国との共同作戦に持って行った。「長州のとった条約国船舶
に対する下関海峡の砲撃封鎖は明白な条約違反で、海峡の自由航行が守られねばならな
い。」と呼びかけて、日本に来ていた敵対している4国に共同制圧を呼び掛けたのだ。
 これには伏線がある。歴史的には、1864年の戦闘を馬関戦争(ばかんせんそう)
と呼び、1863年の戦闘はその「原因となった事件」として扱われることが多いが、
それには理由がある。当時ペリー提督のアメリカ艦隊が浦賀沖に来航し強い圧力で幕府
に開国を迫ったのが1853年だが、次の年のペリー来航で幕府は日米和親条約を締結
した。ところが現実的にはロシアからの船も当初長崎に来航し更に弘前藩などに来ては
直ぐに捕縛されて囚牢にされている。今だ国民の声は「外国船打ち払い令」のままだっ
たのだ。既にロシア帝国のニコライ・レザノフをはじめ、外国船が日本に通商を求めて
来航するようになっていたのだ。寛政4年(1792年)9月にエカテリーナ号で北の
オホーツクを出発し、漂流民と共に根室に到着した。根室に駐在していた藩士は直ちに
松前藩に報告し藩は幕府に伺った。幕府にラクスマンの、江戸に船で出向いての、漂流
民を引き渡し、通商交渉をおこなう意思が強いことを知らされたのだ。が老中松平定信
は、漂流民は受け取るが、総督ピールの信書は受理せず、もしどうしても通商を望むな
らば長崎に廻航させる。と言う回答をした。ラクスマンは、長崎への入港許可証(信牌
)が交付された。ところが濃霧などで根室で足止めを喰らい、松前藩で越冬し帰国して
代わって文化元年1804年、改めて信牌を持参したレザノフが長崎に来航し交渉に出
た。半年間にわたって停留し江戸幕府に交渉を求めたが、結局幕府は通商を拒絶し続け
たままで、レザノフは幽閉に近い状態を余儀なくされ、交渉そのものも全く進展しなか
った。そこで「日本に対しては武力をもって開国を要求する以外に道はない」という意
見を持つに至り日本への報復を計画し、樺太や択捉島など北方における日本側の拠点を
部下に攻撃させた。これを受けて津軽藩、南部藩、庄内藩、久保田藩(秋田藩)から約
三千名の武士が徴集され、宗谷や斜里など蝦夷地の要所の警護に当たった。これにより
方々で襲撃事件が北方の樺太や紗那の幕府会所利尻島など二年間続いた。これらの軍事
行動はロシア皇帝の許可を得ておらず、不快感を示したロシア皇帝は、1808年全軍
に撤退を命令をだした。これに伴い、蝦夷地の諸藩の警護藩士も撤収を開始し終息した
。これらの事は既に北方ではペリー来航や薩英戦争の様な事件は起こっていたのである。

506: 名無しさんAA:17/09/26 20:31
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 156

 こうして 多くの知らない国の入港の長崎奉行の申し出に徳川家斉時代に、幕府方は
文化3年(1806年)に「文化の薪水給与令」を出し、諸外国との穏便な出入国させ
る方向性を打出す事になっていた。ところが、この幕府の対応の遅さに対したロシアの
軍船の方針によって日本は大きく変化した。この同じ年に起こった襲撃事件(文化露寇
)を受けて翌年にはロシア船打払令が出され、わずか1年で撤回された形になったのだ
。更に文政8年(1825年)には、反動的な異国船打払令が打ち出されるものの、今
度は非武装のアメリカの商船 「モリソン号 」がマカオで保護されていた日本人漂流民
の音吉・庄蔵・寿三郎ら7人を乗せて、日本人漂流民の送還と通商・布教のために来航
した。モリソン号は鹿児島湾、浦賀沖に現れたが 接岸出来ず、薩摩藩と浦賀奉行太田
資統は異国船打払令に基づき砲撃を行ったのである。一年後モリソン号はこの日本人漂
流民の送還と通商・布教のために来航していた事が判明し、異国船打払令に対する批判
が大きく強まった。こうして開国にも鎖国の上の攻撃にも転じる幕府の姿勢は、各国の
批判ではあっても多くの国で起こる事で、この英国公使は解っていたのである。更には
、先の安政5年1858年の、アメリカの強い威嚇により、幕府は日米通商修好条約を
締結した事も理解し、その後のオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約
を結んで幕府の鎖国体制は完全に崩れていた事も知っていたのだ。そしてそれが公式な
ものであっても 現実の日本の国王たる人間は天皇であり、今孝明天皇が 和親条約は
ともかく通商条約には反対であり、安政条約に対する勅許を与えなかった事も、十分に
に知っていたと言える。又、幕府に不満を持つ攘夷派尊皇思想から 朝廷の攘夷派公卿
たちと結び付き方針転覆の可能性すら知っていたかも知れない。何故なら今の長州から
の砲撃の通行禁止策を諸外国で話し合う中でも話された筈だからだ。情報をかき集めて
分析し、こうして研究尽くされた中で、先の薩英戦争も大きく分析されて本国から批判
されない様に 民間に影響のない形の戦争を行っている。更に議会対応に英国のみでな
く他の4ヶ国にも戦争の賛同を呼びかけ合同艦隊にした、したたかさである。こうして
国内通行の禁止を求めた1863年の砲撃事件を下関事件、1864年の4ヵ国艦隊が
国内に反撃出た戦争活動を、四国下関砲撃事件と呼んで区別している。こうして両者を
併せた総称として「下関戦争」が起こっていた。が当然オールコックは本国にも下関を
攻撃する旨の書簡を送っている。がこれも当時に 返書にも2ヶ月はかかるものだった
事を熟知しての行動だろう。

507: 名無しさんAA:17/09/26 20:32
 英国本国は依然として日本との全面戦争につながりかねない武力行使には否定的であ
ってこれを否認する旨の訓示を日本へ送っている。が 現実にはそれは事後策を練る為
の時間稼ぎの様なもので、当時の公使はオールコックの「攘夷不可能を思い知らすため
(文明国)の武力を示す必要を感じて長州藩へ懲罰攻撃する。」などの決意には、何ら
影響のないものであった。現地公使の裁量で戦争が進められる国は既に多くあった。
「兵庫の開港、大阪の開市も近々行われる約束だから、全条約国にとっては この海峡
と内海の封鎖は明らかな条約違反だ。」という勝手な論理で「条約国海軍が長州による
下関海峡封鎖を軍事力で開放して見せれば、日本が例え横浜を鎖港しても先進条約国の
軍事力でたちまち開放するぞという、一大デモンストレーションになる。」と言う指摘
をし、「これはまた、更なる貿易関税の引き下げや、今横浜での供給が激減した生糸等
の供給増加へ向けた日本側の規制撤廃をさせる圧力にもなる。」とエサをちらつかせて
軍事力による制裁の賛同を呼びかけた。各国は戦争には同意しないものの、取り合えあ
ず威嚇の為に4ヶ国はこのコックの行う軍事作戦に、共同で乗る事にはした。アメリカ
は母国で南北戦争が起こって軍船はなく、仏英蘭はお互い敵対していた国だった。この
時幸いにも 大きく日本に反感を持っていた露国が 今だ貿易に大きな実績がなかった
為に、横浜の公使館には入ってなかった と思われる。これには先に出された「ロシア
船打払令。」の影響があったのかもしれない。この頃には既にグラバーの好意的手配で
イギリス留学生を送り出ししていた。英国の長州藩士の伊藤と井上は 四国連合による
下関攻撃が近いことを知り、戦争を止めるべく急ぎ帰国の途についた。三ヶ月もかけて
やっと横浜に到着し、すぐさまオールコックに面会の上「藩主を説得すること」を約束
し離れた。中止を承知させた。オールコックは通訳のアーネスト・サトウを伴わせて、
豊後国姫島まで送り、長州へ帰させた。二人は藩庁に入り藩主毛利敬親と藩首脳部に、
「イギリスの国力と機械技術は日本より遙かに優れている事」や「戦争をしても絶対に
勝てない事。」などで止戦論を説いただろうが、長州藩では強硬論が中心であり、徒労
に終わった。又幕府内でも フランスから外交使節団が帰国していて、フランスと取り
交わしたパリ約定を提示していたが拒否されていた。それには「関門海峡の通行可能に
する条項」も含んでいて、苦労して談判を交わした横浜鎖港談判使節団だった。が名前
と違って中身は開港使節団になった様な そんな約定の内容を提出していたからだ。当
然不満として批准は行なわれかった。結果、攻撃は予定通り実施されることとなった、
こうしてイギリス軍のオールコック中将を総司令官とする四国連合艦隊は横浜を出港し

508: 名無しさんAA:17/09/26 20:32
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 158

 艦隊は17隻で、イギリス軍艦9隻、フランス軍艦3隻、オランダ軍艦4隻、アメリ
カなどは仮装軍艦1隻で戦列に立って、総員約5千名の兵力が船出した。それでも横浜
にはイギリス軍艦1隻、アメリカ軍艦1隻と香港からの陸軍分遣隊1350人が待機し
て戦乱に備えていたのである。この時既に先に述べた人種差別的「黄禍論」の思想がそ
こにあった事は間違いない。この「下関事件」「薩英戦争」ロシアの襲撃による「幽因
事件」の3事件は、恐らく日本を決定づけ更にこの欧米不審感は大津事件の素だろう。
 8月4日になって、四国連合艦隊の来襲が近いことを知った藩庁は、ようやく海峡の
通航を保障する止戦方針を決めて、伊藤を漁船に乗せて交渉のため艦隊に向かわせた。
が、艦隊は既に戦闘態勢に入っており既に手遅れであったし、幕府も、長州が勝つ見込
みも賠償金を支払う能力もない事で、これで更なる出費が嵩む事が危惧されたが遅かっ
た。戦闘で惨敗を喫した長州藩は入牢していたに高杉晋作を偽名を使い、講和使節の使
者として立てた。通訳のアーネスト・サトウがこれに立ち会った。こうして下関海峡の
外国船の通航の自由、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し、悪天候時の船員
の下関上陸の許可、下関砲台の撤去、賠償金300万ドルの支払いなど5条件を受け入
れて講和が成立した。この談判に高杉は全て飲んだと言う。ただ彦島の租借だけは断固
拒否し、香港のような外国領土になるのを防いだという逸話が残っている。後で賠償金
については長州藩ではなく幕府に請求することになったのは幕府にしか金が無かった為
だが、幕府の朝廷との約束で諸藩通達に従ったまでという名目で長州藩も又返さなかっ
た。この後幕府は150万ドルを支払い、明治維新後に新政府が残額を明治7年までに
分割で支払った。と言う。こうした過去の事件を追っていると 現代の北朝鮮がいまに
ある理由になっている。不思議なのは日本の徳川幕府が先に払った30万ドルあるいは
300万ドルと言う通貨を交換して払えた事だ。又その後の満鉄建設でも北朝鮮近郊の
朝鮮建設にもほんの僅かな年で 長年で築いた香港銀行の資産を超えた朝鮮銀行を発足
させて 恐慌や通貨危機も切り抜いた事だ。欧米列強の搾取型の植民地主義を取らなか
った為とか諸外国の様な暴力的革命で明治政府が興きなかった為とか色々あろうが、基
本には 独立独歩を慈しむ風土がこうした力であったと思える。こうした威圧による、
(1)軍事的対応 (2)追加制裁による圧力強化 (3)現状の受け入れ の姿は今の北朝鮮
対応にそっくりなのだが、これこそが我々が最も考えるべき事かも知れない。


509: 名無しさんAA:17/09/26 20:33
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 159

 明治政府が出来た頃ドイツの進出が始まるのである。ドイツ帝国はしばしばプロイセ
ンと呼ばれる。古プルーセン人が語源であると言う。ロシアがしばしばプロシアと呼ば
れスラブ系民族の地域名称の特徴と言われる。プルーセン人はしばしば襲われ事は多く
プルセン十字軍を結成し戦い守ったとされる。だが1100年頃ゲルマン民族ドイツ騎
士団により征服され、ドイツ騎士団国家と代わりこの地に混乱が産まれた。凡スラブ主
義はそうした多民族国家多様主義に反対しスラブ民族の考えで統一した大社会を作ると
言う言葉でチェコソロバキアなどが対立したのでハプスブルク君主国のハンガリー側で
盛んにした言葉としている。従ってナチスはその逆の凡ゲルマン主義を唱えた事になる
。1890年代のヴィルヘルム2世はこのドイツとオーストリア(=ハンガリー帝国)
という二つの民族のドイツ人国家を統合し、さらに中世以来のドイツ人の東方植民によ
って東ヨーロッパからバルカン方面に広がったドイツ人の居住地域もドイツ国家に併合
しようと主張した。これが世界政策の展開の背景となった思想である。が近くのスラヴ
系諸国、その背後にあるロシアのパン=スラヴ主義と厳しく対立しするようになる。こ
こにロシアの南下政策の素がある。ハクスブルク家は神聖ローマ帝国の一領主だったが
古代バビロン帝国モンゴル帝国オスマン帝国などとの交渉や政治に於いて卓越した才能
があったのだろう。強大な縁戚を持って支配していた。後にフランスとなるフランク王
国はその為に領土を変えて存在して来た。ハクスブルク家の皇位継承者フェルディナン
ト大公夫妻がボスニアの州都サラエヴォでセルビア人青年に暗殺される事件が起こった
。通称サラエヴォ事件だが凡ゲルマン主義を掲げたドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はこの
スローガンを掲げバルカン地方へ進出しようと大公の金魚の糞の様につきまとっていた
。こうして緩衝材としてのフェルディナント大公が死んだ時第一次大戦の火がついた。
汎スラヴ主義と対立し、南下政策を続けるロシアとの軋轢を招いた。後にバルカン半島
をヨーロッパの火薬庫と呼ばれるまでに民族の対立を激しくした要因の1つである。こ
の結果、列強間による帝国主義化、軍備拡大は避けられず、第一次世界大戦を引き起こ
すこととなった。これは、ドイツ統一を牽引し、周辺諸国との勢力均衡を望んでいた帝
国宰相ビスマルクの理念からはかけ離れたものとなった。

510: 名無しさんAA:17/09/26 20:33
 ヴィルヘルム2世の治世は恐らく間違ってはいなかったのだろう地政学的には。だが
彼が求めた国内統一や意志の統一が国外への拡大戦争と少数民族排除にその集結を求め
た事はナチスドイツの手口と全く同じであった事から 全く間違った観念の元に政策を
進めた事は確かであろう。この何処の国の指導者も陥るだろう手法は、人間の欲求なの
だろうか。それともこの地域特有の伝承や風習であるのか。と言うのも、ドイツの正式
名称ドイツ連邦共和国と言う様に、かつては多くの君主国が存在していて、それの集ま
りでもあったからだ。それを無理をしてでも「大きく」「強く」「広く」まとめる為に
強者強国が併合しながら国家連合を作ってきた歴史がある。古くは「神聖ローマ帝国」
として纏まっていたが、しかし、神聖ローマ帝国はフランス皇帝ナポレオン一世によっ
て蹴散らされ、今度はフランスを盟主とする「ライン同盟」という国家連合で纏まりま
った。この時阿蘭陀やプロセインなどが、イスパニアや英国など海運争いで、仲違いし
たのだ。しかしながら、フランス皇帝のナポレオン一世が失脚すると、枢軸となる強国
がなくなりライン同盟は解体されてしまう。そこで新しく作られたのが国家連合体が「
ドイツ連邦」をつくった。「ドイツ連邦」は、1815年「ウィーン会議」なる調整の
会議が発足しEUみたいに統合して大国オーストリア帝国を盟主として作られた組織と
なったのだがこれがドイツの国家連合の素だ。だが混沌としていた過去の旧神聖ローマ
帝国末裔達と対抗する諸侯国群と新しい自由都市群によって構成されていて、そこには
元々は主権国家同士の連合体なので、民族や宗教や考え方や言語の違いが存在していた
。従ってこの連合体は「ドイツ同盟」と呼ばれる事もしばしばあったのだ。ドイツ連邦
の構成国群は、中心に帝国としての兵力の勝るオーストリア帝国があったのだが、他に
7王国 (プロイセン王国 ザクセン王国 バイエルン王国 ハノーファー王国 ヴュル
テンベルク王国 ヘッセン=カッセル選帝侯国)17公国(バーデン大公国 ヘッセン
=ダルムシュタット大公国 ルクセンブルク大公国 メクレンブルク=シュヴェリン大
公国 メクレンブルク=シュトレーリッツ大公国 ザクセン=ヴァイマル大公国 オル
デンブルク大公国 シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国 ブラウンシュヴァイク公
国 ナッサウ公国 ザクセン=ゴータ公国 ザクセン=コーブルク公国 ザクセン=マ
イニンゲン公国 ザクセン=ヒルトブルクハウゼン公国 アンハルト=デッサウ公国
アンハルト=ベルンブルク公国 アンハルト=ケーテン公国 )そして4都市 (リュー
ベック フランクフルト・アム・マイン ブレーメン ハンブルク の集まりだった。


511: 名無しさんAA:17/09/26 20:34
こうして「ドイツ連邦」として纏まったが、ドイツ連邦の盟主であるオーストリア帝国
とプロイセン王国がドイツ統一の在り方を巡って対立し、1866年�メ戦争が勃発。
この戦争でオーストリア帝国は戦略に勝るプロイセン王国に敗北した。勝利したプロイ
セン王国がこの後のドイツ統一の主導権を握りった。オーストリア帝国が盟主であった
「ドイツ連邦」はすぐさま解体され、更に翌年には新たなプロイセン王国を中心とした
国家連合「北ドイツ連邦」が作られ、これが今のの「ドイツ帝国」の母体となったので
ある。 だがこの時の戦いの遺恨は国民には長く残った。こうした国内事情を抱えてい
た為に、他の諸国が海に出て大航海時代を行く事に遅れを取り、民主化は国王が存在し
て渋り、残るは産業革命を追い求めての、経済立て直しの道しか残っていなかった。が
逆にこの人種の坩堝的国家の隣が、感覚の自由さも求めるフランスで海を渡ればイギリ
スと言う最新技術をもった産業が傍にあると言う地理的要因があった。この国の厳格な
法を求め数値科学の持つ理論や金融資本の持つ多民族の中の風土は、実験的投資を産ん
で大国家となり得たのである。ところがこの国は常にこうした諍いで起こる体制からの
疎外者が出来て集団化していた。ロマの人々ユダヤの人々ボヘミアンの人々その他の多
くの移民や浮浪者の整理が必要だった。厄介な事にイタリアから来た職人集団会議のマ
エストロを産んだギルドさえ、それぞれの職ごとに或いは言語や宗教ごとに二百〜三百
の集団や組合の形で存在していた。徒弟制度と称される厳格な身分制度が存在し、その
頂点に立つ親方は職人・徒弟を指導して労働に従事させた。ギルドに参加できるものは
親方資格をもつものに限られてはいたものの その職によっては地下組織に近かった集
団さえ存在した。だがその仕組みが逆に移民を受け入れ 浮浪者さえ職につかせ 国を
豊かにする仕組みでもあったのだ。そして今のEU内は、多かれ少なかれ そうした多
民族の存在と、うんざりする様な多様化社会を大戦後に受け入れ 今やっと会社組織や
銀行組織や人権を含めた法治国家として固める中になったのが実情だった。このドイツ
統一の主導権を握ったヴィルヘルム2世の統治はしかし 排斥主義を持ち込み人種差別
の意志を強く出し「黄禍」という死にかけの言葉を復活させ「黄禍思想」を努力してま
でも拡大させたのである。これは世界の不幸であった。その姿はそのままアメリカ大陸
に流れ込んだ。イギリスの中の新しい平等社会の楽天地を求めた清教徒が移り住むのに
このドイツは金融や科学技術と共にそれを後押しする事で国を潤したがその思想もまた
持ち込んだからだ。かつてナポレオン時代に、大航海時代の先駆けとしていたスペイン
が英仏海戦で負けに敗けて 大西洋航海もままならぬ事になったが、その事は東洋社会
では恒久的搾取を意味しかなりの不幸な事だったとも言えよう。それがオランダやロシ
アの国家感を変え航海を変えた。

512: 名無しさんAA:17/09/26 20:34
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 162

それまでは公募の様な航海でその都度資金を募り人を集め航海し、国王と共に持ちよっ
た財宝を分け前としていた。そうしたスペインポルトガルにイギリスオランダは常駐の
事務所と株式投資と言うパトロンを見つけ運輸とした輸送体系を整えたのだ。そして、
それには奴隷時代の世相と相成って、契約した投資で運用する保険や銀行機構がついて
来た。当然パトロンにも掛け金や投資損失に「子や孫の時代でも債権は返済する。勿論
国家であっても。」と言う非情さでの投資の取り立てが運用されたのである。がそれは
資源枯渇に拍車をかけ 投資理財の拡大を強制した。つまり利益や搾取の拡大を意味し
ている。世界が不幸に見舞われる事は、更にその発展の遅い東南アジアの不幸になった
。大英艦隊や阿蘭陀に敗けてスペインが次に目を付けたのが太平洋航海であった。これ
はフィリピンにとっては不幸な事だった。マニラガレオンは、そうしたスペイン貿易船
の呼称だが「インドの富をスペインに運ぶ」、「東に行くために西進する」という、欧
州のコロンブスの夢を現実にした象徴貿易の事で「ガレオン貿易」「アカプルコ貿易」
と人は言った。この不幸はフィリピンの永遠戦いを物語る言葉でもある。メキシコ独立
戦争とナポレオン戦争の終焉を持って終わるかに見えたが新たな第一次世界大戦の序章
であり取って変わった米国ドイツがその利権を受け継いだ。フィリピン人にとって不幸
続きでもあった。エミリオ・アギナルド・イ・ファミイが革命家として独立運動に走る
のはそうした中に既に独立革命を課題にした秘密結社「カティプナン」の集団が存在し
ていたからだった。多数の民族がそれぞれに独立して存在していたこの国がスペインが
やって来て植民地とすると 当局による重税と重労働で虐げられた国に変わりその支配
が終わっても領主が代わるだけだった。欧米列強の火力の前に手がなかったからだ。そ
の意味では近年までも戦い続けて、ついに独立を果たした「ベトナム」は最強の戦士達
の国とも言える。こうして遅れてやって来たドイツやアメリカがやった事は、英国とフ
ランスの搾取より酷い恫喝外交と実力行使であった。フランスには 少なくとも人権と
騎士道を持って現地に降り立った。又英国に於いては法の順守と紳士の習慣を与えた。
がドイツはヒットラー時代を築いたように差別と偏見の統制があり、日本はいきがかり
の国家観で仕方なしなし崩しに大戦に突入した。だが、米国とソ連は違っていた。大国
の論理であり物量や消費など 巨大圧力による国家戦略としての思想での制圧であった
からだ。これが今の中国と北朝鮮に伝播して間違えた進歩に踏み出している事は間違い
ない。


513: 名無しさんAA:17/09/28 19:58 ID:keA
 ナポレオン時代に 大航海時代の先駆けだったガレオン船も、英仏海戦で負けに敗け
て大西洋航海さえもままならぬ事になった。目を付けたのが太平洋航海であった。が、
母国往復に2年近くかかるマニラガレオンでは、スペインの貿易船では如何にも効率な
ままだったと言える。「インドの富をスペインに」、「東に行くために西進する」とい
うコロンブスの発想は夢を現実のものになった。実際はこの交易も船員の食事などや利
益の少ないない分け前に苦労していたという。南北戦争メキシコ独立戦争と起こったの
は当然ながらこの遠い僻地から運んで来る富より 近くの中南米や米国の原住民からの
強奪や搾取が楽であり歴史的には必然だったのだろう。初代大統領エミリオ・アギナル
ド・イ・ファミイが革命家の道に走った生き方をしたのは 既にそこに独立革命に走り
国際旅団が力を貸して武器を供給する集団として存在していたからだ。フィリピン諸島
は欧米列強が来島して来て以来、貿易風で走るスペイン航路に一番早く 他の国に先駆
けて東南アジア諸国の中では早々と植民地化された場所だった。だから武力によるこの
共産革命を世界に打ち出し世界革命にしようと言う機運はロシア革命以前に此処から始
まったが、そうした意識が既にこの地にあったのは興味深い話だ。それはフィリピン先
住民達が既に村々を形成して生計を立てていたのであり 更に交易のガレー船がイスラ
ム教を持ち込んできていた事で成立していた。スペインの植民地として当局による重税
と重労働で虐げられ始めた時、イスラムからの支援の手があったのだ。十字軍で戦った
戦士によって。1892年アンドレス・ボニファシオらが立ち上がり秘密結社「カティ
プナン」を創って以来 ずっーと休む事無く1世紀に渡り闘い続けているのは、中東や
アフガニスタンなどの長い戦争でソ連すら苦戦する徹底抗戦を行う姿と同じであろう。
明治になってからは、アメリカがこの独立支援を約束した。こうしてやっとスペイン軍
を追撃し、総督を含めての植民地政府の撃破が出来た時、現地の彼らは大いに喜んだ。
だがそのフィリッピン革命軍へのてこ入れは、只の米軍のふりに過ぎず、最後の追撃は
華持たせに過ぎなかったのだった。こうして見せかけの建国にウィリアム・マッキンリ
ーは「フィリピン群諸島は合衆国の自由なる旗のもとに置かれなければならない。」と
するとんでもない声明を発した。フィリピンが独立し建国より米国下の自治運営が良い
。と言い代わったのだ。ジュリアン・フェリペはわざわざ「ラ・マルセイエーズ」を念
頭に「フィリピン行進曲」を作曲までして祝い、解放宣言に際しての喜びを新たにフィ
リピンの国旗と共にフィリピンの国歌を作って待ち望んだ独立が この米国の包囲網の
中のスペイン排除は、裏では既にフィリピン購入をした米国の植民地としての6月12
日をフィリピンの独立としての記念日の行事でしかなかった。これまで必死になって、
大量の死者まで出して先人の戦い追撃した答えが独立とは程遠いものだったのである。

514: 名無しさんAA:17/09/28 20:03
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 164
 こうしてフィリピン第一共和国の樹立を宣言し、議会投票によりにエミリオ・アギナ
ルドは初代大統領に就任した。これを以ってアギナルドは1898年代表として日本に
マリアン・ポンセを派遣し、アメリカ合衆国にはフェリペ・アゴンシリョを革命政府の
代表として派遣した。当時のウィリアム大統領と会談出来たものの、海軍から情報を得
ていた米国は全く色よい返事はなかった。それどころかアメリカ軍はアーサー・マッカ
ーサー2世軍政長官を頂点に 米国の南北戦争において虐殺に手を染めたと問題にされ
る者達や狂人とされる将軍を次々と軍事顧問として送り込んだのである。裏では密かに
アメリカが中南米諸国の統治権とフィリピンの統治権を交換する。と言う裏取引が行わ
れスペインと手を結んでいたのである。こうして、パリ条約を結んだ時スペインからの
アメリカに譲渡されて来る時 アメリカはこの譲渡に戦勝国でありながらも、アメリカ
合衆国は2千万ドルを払わさせられる事で合意を飲んでいた。そして米政府はその理由
をフィリピンを購入した事の代償と嘘をついたのだ。そこにはフィリピン経営で今後の
支払いの利益は出るだろうと言うしたたかな計算があったが、実はアメリカの裏庭での
スペイン支援のキューバ国家を 絶対認めさせたくない為の戦争賠償金だった事を隠し
す為だった。従ってカリブ海および太平洋の スペインの旧植民地に対する管理権を、
アメリカが獲得する為パリ条約を話し合いながら、現地政府には国家を認め植民地経営
の安定を求めながら、片方で国民や議会にの説明には、矛盾を叩かれ糾弾が無い様に 
自治国家でなく米国の中の自治領であるから 安い買い物である。といい訳した取引を
行っていたのである。こうした二枚舌外交は当時米英では盛んではあった。日本政府で
は今後の欧米との関係悪化を恐れて、日本政府としての否定した反対も公式な賛意も、
出せない苛立ちの中にあった。そうした中に代表団は派遣されて日本に滞在した。ポン
セは独立承認を求めて回った。賛意を持つ 大隈重信、山縣有朋、犬養毅ら政府要人と
親交を結び川上操六参謀総長と犬養毅の支持によって平山周、宮崎滔天、中村弥六らが
中心になり、日本陸軍が日清戦争で使い古した旧式のモーゼル銃と弾薬を譲り受ける事
に成功した。だがドイツ系ユダヤ人商人ワインベルゲルを通じて布引丸でフィリピンに
届ける用意をすると、すぐさまその話が漏れたのか 布引丸はあえなく渡航時に沈没し
てしまいフィリピン革命政府への 自衛の為の兵器引き渡しは出来ずに終わったのであ
る。こうしてすぐさま フィリッピン統治において、大統領でありながらアギナルドは
拘留監禁され 率いていた独立政府要人や独立軍2万人は一斉掃討をされ始めたのだ。
結果この対米戦争で69万人のフィリピン人がアメリカ軍により殺された。こうして、
この島の島民は又遥かに高い独立の壁に人命を賭して登る事になったのである。

515: 名無しさんAA:17/09/28 20:45
165


516: 名無しさんAA:17/09/28 20:46
アシュケナジムとセファルディムは、今日のユダヤ社会の二大勢力である。「アシュケ
ナージ」は、ヘブライ語でドイツを意味する言葉とされる。イスラエルでは一般に、前
者が白系ユダヤ人、後者のセファルディムはアジア人を指し、南欧系及び中東系ユダヤ
人を指す語として大雑把に使われる場合がある。これはオスマン朝からイギリス委任統
治期を経てイスラエル共和国建国後に至るユダヤ教の宗教行政において「オリエントの
ユダヤ教徒」がセファルディムの主席ラビの管轄下に置かれていたという歴史に起因す
る。しかし、それ以前の歴史や人種的にはっきりしたことは不詳で、現在も論争がたえ
ない。「ディアスポラ」と言われる分散飛翔後も、ユダヤ人のほとんどは地中海の世界
に住んでいたと言うのが趨勢となっている。それがイスラム世界であるとされる。それ
に対し、アルプス以北におけるユダヤ人の起源ははっきりしない。7世紀に中央アジア
西部のコーカサスからカスピ海北岸にいたハザール王国の住民とされ、ヨーロッパには
西進し移住したのは、わずかのコーカソイドの一派のユダヤ教徒の子孫だとする説、又
はローマ時代イスラム世界から商人としてヨーロッパを訪れたとする説、イタリアから
アルプスを越えてやって来たとする説などある。又一部に、9世紀頃に民衆がユダヤ教
に集団改宗した黒海北岸のハザール汗国の子孫だとする主張が見られる。しかしハザー
ルの使用言語はテュルク諸語であった点など歴史的な状況を考えると色々無理があるが
それでも欧州スラブ民族社会の中にユダヤ教徒が現実氾濫した。ポーランド王国は当初
彼らを、騎士団として強いドイツ人移民に代わる専門職移民として歓迎した。彼らの中
に、リトアニア共和国で成功し、金融業や商人、地主や貴族階級になった者やヨーロッ
パに来て初めて農業を営んだ者もいたが、その点が西欧に住み続けたユダヤ人たちと異
なっていた。中世末期の欧州でも、諸国の王がその時々の利得をはかって、ユダヤ人に
しばしば保護を与えては、予告なく撤回されると言う事を繰り返していた。アシュケナ
ジム(東欧系ユダヤ人)のポーランド移住の初期における身分は、そのような政策の特
徴をよく示している。このポーランド王国にやってきたユダヤ人は、祖国で享受してい
たものと同等とされる特典をいくつか与えられた為この制度のもと、ユダヤ人社会は、
その宗教と民族的出自ゆえに、特殊な社会集団としてコミューンを組織し、内部自治を
行うことにしていた。こうしてユダヤ人の生命財産は君主の所有物であるとされ、農奴
のボヘミアンやロマ人と区別されこれを害するものは君主の財産を害するものと見なさ
れたが。長い年月で変化する19世紀には既に王侯貴族の金庫番や国の経営に関わり、
その後ロシア帝国の占領ではポグロム(虐待)や反ユダヤ政策(差別)が行われ、欧州
諸国での反ユダヤ主義が湧き出ていたのである。


517: 名無しさんAA:17/09/28 20:47
こうしてユダヤ人自身の国民国家を約
束の地に建国することを求めるシオニズムが生まれ、ポーランドやロシアや東欧などに
攻めて来る大国に移住したり応援したり建国運動などをしだしたのである。

518: 名無しさんAA:17/09/28 21:05
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 165

 このドイツのと言うより 人種の坩堝で擦れた人間の教育されない道徳観は朝鮮半島
の持つ混乱と同じであった。更に日本人がこの間違えたドイツ商会に運ばせた銃剣類が
フィリピンに届かなかった不幸は そのままアジア解放日本の進出の不幸でもあった。
 だがそれは島国日本の開国が遅れた事で仕方ない事実でもあった。同時に基本的には
ドイツ人達が侵略戦争に取った戦いが、第一次世界大戦前を踏襲して戦っている事と同
じで、ドイツの特にシュリーフェン・ラインでの戦線は 大戦前の皇帝ライン或いは、
第一次の塹壕戦に明け暮れたソンムの戦いと全く同じ戦線ラインだった。それは又、国
家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)党首アドルフ・ヒトラーの「我が闘争」の言及し
ている様に脅迫観念からの「生存権ライン」の戦いでもあった、「ゲルマン民族には、
十分な生活空間が与えら得て居ない」とする不満は一次世界大戦より遥か以前からあっ
た思想でもある。「東方生存圏」と言うドイツ独自の生存圏思想は、ドイツが東部獲得
するべきとした思想であるが、驚くべき事はイスラエルが建国が遥か2千年も前の話を
する様に ドイツはフン族がゲルマン民族襲い民族大移動を起こさせた事を語り継ぎ、
いる事だ。西ゴートの国々が次々と匈奴が襲い、西ゴートに東ゴートの人々が襲って来
たと言う歴史である。フン族襲撃の記憶はゲルマン民族の中で口伝物語として伝承され
、数多くの物語や音楽や詩や絵の重要な題材で構成要素ではある。これらは千数百年前
の民族移動時代の事だが、それでもなお語り継がれて 更にフン族とは何者かは不明の
まま受け継がれる伝承だ。その後ドイツ皇帝ウィルヘルム2世は、ヒットラーと同じ様
に凡ゲルマン主義の思想を掲げ、中でも差別主義の源の様な「黄禍論」を展開させた。
正に選民思想から排斥思想に変えた瞬間である。サライェヴォ事件は衝撃的な事件では
あったものの、これが世界大戦を引き起こすとは思っていなかった。たが、ボヘミアン
やロマ族の一部は見越していたらしくフランスに向かって移住した。ヨーロッパ各国は
、セルビアの行為をこの他民排斥論で大いに非難し、セルビアの謝罪と一定の賠償は必
要との声が上がる。だがセルビア批判には「凡スラブ主義」があり、スラブ民族の後ろ
盾としてロシアが控えていて各国の首脳は言い出せてはいない。当然の如くこのドイツ
皇帝ウィルヘルム2世は、「ドイツは同盟義務と旧来の友好関係に忠実にオーストリア
を支持する」とゲルマン支持を確約した声明を行った。この無条件支持は「ドイツの白
紙小切手」と呼ばれた。今の無知なる大統領が中東に行ってアラブ人を支持し、イラン
批判を行った事と全く同じなのである。当然北朝鮮と同じく「草を喰ってでも生きる」
イスラム教徒のオスマン人には耐えがたき屈辱であったはずだ。

519: 名無しさんAA:17/09/28 21:05
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 166

 皇太子を殺さたままでは国体がなくオーストリアは、セルビアに最後通牒を突きつけ
難癖をつけた。当然セルビアは一定の譲歩をしたが、不満解消には至らずオーストリア
は、宣戦布告に走った。恐れられるバルカン紛争と言う導火線に火がついたのだ。この
宣戦布告後、セルビアとオーストリアの間では第三次バルカン戦争が始まったが、仮に
ロシアにもドイツにも「領土拡張主義」とする「南下政策」や「生存圏」の思考がなく
単純な支持であれば和解は可能だったかもしれない。オーストリアとセルビアとでは、
本来国力差があり、単純に戦えばオーストリアが大国であり勝つ筈だった。ドイツはそ
の「生存圏思想」の中で、オーストリアが勝って同盟国領域を広げる事は正義だった。
、又この時期の対抗したフランスの市民革命にドイツの誇りを見せるチャンスでもあっ
た。一気に勢力をのばそうと意気軒昂に後押しした。だが小国でもセルビアが負ける事
は、バルカン半島のスラブ系民族の地位が無くなる事を意味し、勢力衰退は同時にスラ
ブの盟主ロシアの地位が弱くなることを意味していて、北方民族の影響力の南下を止め
ればそれこそ南下政策の失敗であり死活問題であった。ロシアは黙ってこれを見ている
わけにはいかなかったのだ。現代のウクライナ問題とするクリミア半島と同じであった
訳だ。だが懸念は的中したのである。強国の紛争ドミノと言う最悪の形で起こったのだ
。ロシアはセルビア支持に乗出し総動員をかけた。ドイツは総動員撤回を求め応じられ
ない為総動員令を発し、ロシアに宣戦布告する。隣国フランスも露仏同盟により総動員
を開始し、これを見たドイツは、フランスにも宣戦布告。「栄光ある孤立」のイギリス
でも不干渉方針を翻し、ドイツの大陸支配阻止をするためにドイツに対し宣戦布告した
。又ドイツの宣戦布告は総動員令を掛けた時点で既に戦争回避の道はなかった。と言う
のも小国の四方囲まれた中の連立国家の集まりは、議事運用でドイツ陸軍のシステムを
決めていたからだ。動員令は戦時中を意味しドイツ国内で、張り紙だけで国民は総員兵
士となり、軍隊となり平時編制から戦時編制が開通する。そしてマニュアルで決まった
作戦が決行され、各所で集権する一気通貫するシステムだった。その連動の精緻さに、
一度発動されてしまった後では 例え君主でも首相であっても止める事は不可能だった
体制になっていた。それは、「動員の開始」がそのまま「戦争の開始」を意味していた
と言える。他国に移住した者さえスパイと兵隊になる危険は フランス・イギリスの持
つ危惧でもあった。こうしてまさに負の連鎖が起こり列強各国が次々と疑心暗鬼に陥り
、戦争体制に突入していき 第一次世界大戦となってしまったのである。

520: 名無しさんAA:17/09/28 21:06
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 167

 その姿は、かつてのサラエボ紛争にも見え隠れする。平和な村が民族主義の枠で包ま
れた小集団に囲まれていて、その民族も又民族主義を批判する国家の中にあり、その国
も又その周りを反対する国家群が囲むと言う、至って複雑明快なマトリョーシカ状態の
世界地図や地政学なのである。だがそもそもどうしてこうドイツは囲まれていたのか。
それは偏屈な皇帝ウィルヘルム2世やナチスを産んだ素地の「ゲルマン思想」であろう
。元々ゲルマン人もスラブ人も同一民族でキリスト教やユダヤ教など要らない民族であ
った。所謂都市国家時代の多神教で遠くバビロン帝国の時代からギリシャ神話の世界観
が漂っていた。ところが遠いバビロニアに於いて この都市国家の「国家神」としての
中心にされた神の中にエホバを唯一神と掲げる女系女子の集団が現れた。「ユダヤ教」
と言う一人の神しか認めない集団の誕生である。「唯一神信仰」であるこのユダヤ教は
早い時期にヨーロッパ社会に蔓延した。本来の多神教群の中で改訳変遷をしたのだ。日
本での「創価学会」の作りと同じで、既存の日蓮宗の端単派で集金システムに特化した
ものを作り上げ、やがて本家総本山に破門されても会員や集金し独自の改訳を進めて、
尚拡大するシステムで一定以上の規模になった革命集団である。この一つの宗教観のみ
と言う原理教思想を最初に持ち込んで「原始ユダヤ教」ができた事がそもそもの凶事で
あったのだ。その後の変遷で今やキリスト教やロシア正教イスラム教など多く派生宗教
が起り世界を巡ったが、この選民主義思想でしか生き残れなかった人々は、融和もせず
移民として欧州にやって来て混沌とした社会を作った事にドイツの苦悩がある。「中独
合作」は蒋介石将軍の目指した中国建国策だったが、それ以前からドイツや欧州社会に
は「黄禍論」に基づいての選民思想や白人優位主義は根強く進出していた。正に寓意画
『ヨーロッパの諸国民よ、諸君らの最も神聖な宝を守れ』を合言葉にして生きていたの
だ。中独合作は蒋介石将軍の中国建国策だったろうが それは大きな間違いだった。既
に清朝が出来る頃から中国には国外に出て新天地で生きる者が多くいた。マルコポーロ
が帰途につく頃は、船便が整備された状況だったからだ。その後イギリスを始めとする
西洋諸国によって半植民地の状態におかれた中国では、安定した生活を求め海外移住者
華僑は更に増え始めた。「黄禍論」はそうした中で西洋社会に一般化した。特に日本人
の場合は違う国と説明しても「東洋人種」として華僑と間違われたし、日本人移住者が
多くなれば華僑やドイツがやっていた商売が日本人と競合した。これによって白人さえ
も金鉱の鉱夫や鉄道工事の工夫として多くの最下層の肉体労働者として受け入れられた。


521: 名無しさんAA:17/09/28 21:08
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 169
 日本政府の支援を受けて中国は欧米列強への賠償金を払い、1912年に中華民国が
日本軍の力を借りて独立宣言した。が、それでも中国国内では、共産党がゲリラ戦を行
い軍閥が跋扈し、列強の相次ぐ諜報合戦で権利や侵略に苛まれていた。それでも徐々に
租界など平和に豊かになっていた。1928年の国民党は北伐の深追いを止めなかった
これにより指導部の蒋介石は共産党の罠に陥って寝首をつかまれた状態であった事は、
全く日本は解ず関知しなかった。、一応ながらも国内統一がなされたからだ。しかし、
その後ゲリラ的襲撃は収まらず「満州事変」などで更に日本の進出がなされた。「中華
民国による国家統一」は統一政府として傀儡政権となる形骸化恐れてるようになった。
 既にドイツは東南アジアやアメリカ大陸が他の国々の下での植民地経営があった事を
知り尽くしていた。従って清国に於いても露骨な英国や仏国の様な帝国主義や威圧交渉
は全くしなかった。それは日本に於いても同じだった。それは清国政府にとっては有難
くドイツとの協力関係を基にして近代化を進めよう。との誘いに傾く事は当然だった。
 こうした背景において軍隊と国防産業の近代化を必要とする中華民国と、資源の安定
供給を必要としていたドイツの思惑が一致し、1900年代に入ると盛んに死の商人的
意味合いの強い「軍事顧問団」を派遣したり「年間契約の雇用技術者」で代価を稼いで
来た。日本で言う「雇われ外人」である。だが日本の場合その多くが日本国籍を取り、
帰化して帰国する事はしなかった。明治政府が英国の香港銀行やフランスのBNP(バ
リ国立銀行)などの資本家から貸付を貰った様に、このドイツ・アジア銀行は日本の中
の民間企業に貸付を行った。これらが野口や満鉄などに貸付を行った事は間違いない。
だが そうしたスイス銀行からの流れである各国の中央銀行とは無縁である為に しば
しばこの重要な金融や経済の国際的枠組みからは外されてきた歴史を持つ。この事は、
一つは共産主義的搾取の考え方が今だある現状だろう。フランス革命で得た「平等主義
」はドイツが周りを敵や異国に囲まれて出来た「優位主義」とされるこの人種偏見とは
相容れない思想だった。「殲滅作戦」はその戦争に際しての心得だった。「プロイセン
は地理的にヨーロッパの中心に位置して、四方を敵軍に露出している。イギリスのよう
な島国は持久戦に持ち込むことが出来る。また、ロシアは自国内部に戦略的退却するこ
とも出来る。だがプロイセンは、後顧の憂いなく敵軍を完膚なきまでに打ち破らなけれ
ばならない。つまり敵軍を殲滅することである。」これがドイツの昔からの掲げている
プロイセン軍の戦術論である殲滅戦理論なのである。もう一つは既にユダヤの資本下だ
った事だろう。それは米国で敵対するドイツでさえ「日本人収容所」のような物は無か
った事が証明している。

522: 名無しさんAA:17/09/29 18:17
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 170

 こうした曰くつきの主義主張が、人種の坩堝となる中では極めて大きな主張となる。
もっともらしい説明で理論付けされるのはそうした「マッキンダー理論」である。世界
の陸地の 3分の2を占めているユーラシア大陸を「世界島」とし、世界島の中央部で
シーパワーの影響外にある地域を「ハートランド」と名づけ、ランドパワーの中心地は
ハートランドを基盤に戦争は世界島へ展開されると考えた理論だ。こうして国際情勢を
ドイツ大陸国家の海洋国家群を突き抜けて世界島への拡張を警戒し、「東欧を制するも
のはハートランドを制し、ハートランドを制するものは世界島を制し、世界島を制する
ものは世界を制す」という有名な言葉を第一次世界大戦後の講和会議に英国の委員に対
して述べた学者の2極論である。だがこれらの殆どは間違っている。特に近年の近代兵
器の前にして囲い込み出来る陸国家と言う枠組みは不可能で歴史上もない。ロシアが、
自国内に戦略的退却が出来ると言う論法も狂ってる。第一次世界大戦にて塹壕戦に及ん
だがそこで死んだのは多くは塹壕の劣悪な環境による凍傷や病気や餓死だ。独軍がモス
クワで止まったのも極寒の地で兵糧が尽きた為だ。爆薬が無かったこ事ではない。第二
次世界大戦も全く同じでドイツの行った収容所の死はガス室や銃殺と同様に 過酷な環
境で死因が多い。又その後敗戦後はもっと大きな残虐行為が戦勝国内で行われたが、全
く隠している。更に民衆の怒りの前には力も無かった。日本でも米軍との対戦で多く死
んだが、最も過酷だったのは現地調達の食糧であり南方では病気や飢えで死ぬ仲間の死
骸を、跨いで通る事だった。つまり戦争で一番大きい事は死との対面ではあるが、より
以上に上司からの苦役や病死や飢餓であった。バーターンの死の行進でもビルマ後退で
の骸骨街道でもそれは見て取れる。硫黄島も同じだった。中国国内で日本軍より共産軍
が怖い八路軍や方面路隊が怖いと言う中国人民多く、共産党ゲリラが食糧を持たず完全
に野蛮な盗賊だったからだ。袁世凱は中国清末期の軍人で欧米に対応した海軍(北洋軍
閥)総帥となったが。貧国国が近代化の改革を求める孫文らの辛亥革命の混乱中では、
朝廷と孫文らの間で渡り歩くのは仕方なかった。大清帝国第2代内閣総理大臣を務めた
が人望はなく、清朝崩壊後は第2代中華民国臨時大総統、初代中華民国大総統に就任し
た。中華帝国皇帝として即位して旧体制に戻したのは、冷徹、果断にみえるが、元首と
しては醜悪さ、生臭さに転じて器ではなかった人物だった。と言われる。日露戦争当時
は、清は表面上は厳正中立であったが、裏では日本に刷りより情報を流し、馬賊を紹介
し 選りぬきの将校らを満洲・蒙古の奥深く、露清国境付近まで潜入させて援助した。
が日本が勝って、友好国とした途端に米国やドイツと手を組んで 内乱に手を染めた。

523: 名無しさんAA:17/09/29 18:17
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 171

 清王朝時代に袁世凱将軍を取り立てたのは海軍大臣役であった李鴻章である。北洋軍
閥の創設者で 北洋通商大臣兼直隷総督となり司令官を提督丁汝昌に決めた。日清戦争
において大日本帝国海軍連合艦隊と交戦しが、その時戦った艦艇は1880年代ドイツ
の艦艇だ。フルカン株式会社シュテッティン造船所で出来たザクセン級装甲艦で、当時
最新鋭旗艦としたザクセンと同じ仕様や武装の船だった。この造船所で建造された定遠
と鎮遠は清国の北洋艦隊の中心であった。定遠は日清戦争の艦艇として参加した。主砲
による砲撃中、艦橋が崩壊、司令官丁汝昌も負傷し指揮能力を失いながら、159発の
命中弾を受ける。これによって死者17人負傷者38人を出したが人員交代し作戦能力
は健在であった。後に水雷艇の夜襲を受け雷撃で擱座する。砲台として戦闘を継続した
が日本の陸上からの攻撃を受け不能になった。こうしてその後日本軍による鹵獲を避け
る自沈を果たした。一方鎮遠も同じ「定遠級」の甲鉄砲塔艦の1隻であるが、東洋一の
堅艦と呼ばれていたこの型は使いづらい物だった。同じ日清戦争において早々と鹵獲さ
れて、戦後に戦利艦として日本海軍に編入された。この日清戦争の敗北により、袁世凱
はこれまでの洋務運動が兵装のみで間違っていたと悟る。自強軍及び新建陸軍建設の為
の支援をドイツに求めた。さらなる軍備と産業や技術面と軍事顧問である。ところが、
ドイツ国内で普仏戦争の対フランスに勝ってもそのしこりは大きく 先に言った様に、
国内でもフランス解放軍の思想や人が新しい国作りを求めていた人々がいる議会運営だ
ったのだ。この頃のドイツは、対外的にはヨーロッパの覇権調整の要として機能してい
たし、一方でイギリスとの親善外交、三帝同盟や三国同盟、再保障条約など対仏包囲網
を形成し、強い牽制を行っていた為にパリ包囲が出来てやっと勝っていた戦争だった。
それに今後の新銀行や同盟国による戦争予防が完成し、ビスマルク体制には出費が重ん
でいてウィルヘルム2世もハプスブルク家の君主フェルディナント大公を頼っていた。
。それでもビスマルク体制下では軍拡が行われやすく、第一次世界大戦の遠因にもなっ
たといわれる。袁世凱の要請の時は、そうした中で拡大した自国の立て直しで とても
東洋の国に援助や軍艦を用意する余裕など無かったのである。そして条約により日本に
しぶしぶではあるが この要求を日本に行ったのだ。ドイツの顧問が居る中でこうして
公使館付武官の青木宣純が軍事顧問として新建陸軍を指導育成した。が袁世凱は青木を
「最も信頼できる日本人」と高く評していたという。こうして出来た新しい海軍こそ後
で日本を悩まし国民党軍の陸軍以上の力を持つ「北洋軍閥」であった。

524: 名無しさんAA:17/09/29 18:18
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 172

 だが問題は袁世凱ではなく 既に清時代から今だドイツになっていなかったプロセイ
ン王国とのつながりがあって後で日清戦争で活躍する北洋艦隊の旗艦「定遠」「鎮遠」
を発注し造船している事だ。中独合作は遥か以前から模索されていて1880年代後半
だが、ドイツの兵器関連企業クルップは、旅順の要塞化にまで、協力している事実だ。
そう1898年正に野口遵がシーメンスに入社した年よりも遥か前に既につてがあった
のである。1894年(明治27年)日清戦争1904年(明治37年)日露戦争は、
共に大日本帝国はロシアや中国との間で朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部と、日本海
を主戦場として発生した戦争ではあったが その裏にいたのはドイツであったのだ。そ
れは仏国も英国も解っていたのである。ある意味ユダヤ資本同士が戦争に賭けていたの
である。国防産業の近代化を必要とする中華民国と、資源の安定供給を必要としていた
ドイツの思惑が一致し、1920年代の終わりから1930年代の終わりにかけて両国
の蜜月関係は最高潮に達した。ナチスがドイツを支配するとさらに関係が強化されたが
日独防共協定が締結されると関係は弱められた。と言うのが一般的見解だが「華僑」は
1800年代初頭から大陸や欧州で広がった黒人奴隷がアメリカ建国に関わる頃中国人
達も又渡米や渡欧州をして一緒に汗を流し洋務運動の為の人材を連れてきていたのであ
る。そしてそれは朝鮮半島も同じであった。シベリア鉄道は、1850年にモスクワ〜
サンクトペテルブルク鉄道が完成した時既に立案されていた。シベリアに鉄道を建設す
る計画はその後も持続的な活動がありそれぞれにその引き込み路線を検討し時の政府に
発案している。だが計画、請願は多数に登ったものの、いずれも実行に移されることは
なかった中1880年、ロシア帝国のアレクサンドル2世の就任記念で突如ボルガ大鉄
橋が完成され、またエカテリンブルグ・チュメニ間の工事が着工された。エアテリンブ
ルク〜チュメニ間の鉄道はボルガ川とオビ川の水運を連結させるこの工事の完成をみて
大事業は方々で行われる事になった。これに従事した労工に朝鮮半島の苦夫が多数いて
朝鮮半島でも近代化の思想や中国の洋務運動の流れがあった。だが李氏朝鮮の政権内で
は清の冊封国としての立場の維持が大事とする守旧派(事大党)と朝鮮の近代化を目指
す開化派に分かれていた。そして近代化路線にはすでに危機に瀕した清朝に頼るか、宗
属関係に依拠するよりは、むしろロシアや日本に頼り独立近代国家の形成をはからなけ
ればならないのではと言う急進開化派(独立党)と、より穏健で中間派ともいうべき者
はあくまで親清による開化派になっていて 穏健な昔のままの王朝維持派と事大党との
大きな溝を産んでいたのだ。清時代のアヘン輸入禁止は1796年なのだ

525: 名無しさんAA:17/09/29 18:18
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 173

 だがこの頃の清国は先の世界最先端の旗艦を要した北洋艦隊を持って その兵員も又
極東最大であったのだ。既にロシアすらも極東の清の海軍を脅威とみなし、そこに朝鮮
とつなぐシベリア鉄道建設と旅順要塞の奪取を決定しているのである。これは又仏国や
独国の極東進出を脅威とした中にロシアはあったのである。独国が仏国に勝った事も又
大きな問題だったのだ。そしてそのロシアと清国が対峙している中にベトナムでの清仏
戦争が起こったのである。当然阮朝は清朝の庇護国であった為宗主国である清朝はこの
朝鮮に派兵してた軍隊の半数と海軍を投入した。此処に日本の近代化に寄り添うべし、
とする開国派の金玉均・朴泳孝・徐載弼ら独立党の人士が他の派閥を排除し李斯朝鮮の
玉座を守備し建国宣言に至ったものだった。だが朝鮮国も又清朝の庇護国であってこの
宣言に即座に清国軍は派兵した。大量の清軍が反撃に出て、袁世凱の率いる部隊はクー
デタ部隊を攻撃し、日本軍は撤退した為、開化派政権は三日で崩壊した。金玉均・朴泳
孝等は日本に亡命し翌年、日清両国は天津条約を締結、朝鮮出兵の際の相互事前通告な
どを取り決めた。このクーデターは1884年(明治17年)の甲申政変と呼ばれるも
ので、この三日で終わった事変は今だ朝鮮出兵していないで王宮警備もままならない時
期に起こった悲劇だった。だがこの清の冊封国としての立場の維持は、勝手な清国の用
いた地位であって、既に朝鮮国を英国に売り渡してドイツから戦艦を買った状態だった
のである。この後1886年にも、清国の北洋艦隊は朝鮮東岸からの帰路に長崎によっ
ている。これは朝鮮半島東岸の元山に出動したのは 朝鮮問題で対峙していたロシアを
威嚇する為であった。この出動の帰路に艦隊は長崎に寄港するのだが、長崎寄港の目的
自体は、燃料の補給及び北洋艦隊の主力である定遠級戦艦の修理にあった。特に定遠級
はこの時修理が必要な段階に来ていたが、当時の東アジアには、巨大な定遠級を受け
入れられるドックが長崎にしかなかったのである。また当時の日本の開港地では海外の
不平等条約によって治外法権があったため、中国人でも上陸が止められずにいたのだ。
こうして一挙に上陸しては遊廓で登楼の順番をめぐる行き違いから、備品を壊し暴行を
働くなどのトラブルが起こり、長崎市内をのし回り、商店に押し入っては金品を強奪。
泥酔の上、市内で暴れまわり婦女子を追いかけまわすなど乱暴狼藉の限りを尽くすので
ある。長崎県警察部が鎮圧に向かったものの、警察官と清国水兵は抜刀して市街戦に発
展、斬り合いの結果、双方とも80数人の死傷者を出し、やっと水兵達は逮捕された。
まさに いまの尖閣問題同様の 無礼で恥で野蛮で傲慢な抑圧姿勢での強要なのである


526: 名無しさんAA:17/09/29 18:19
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 174

 この時に水兵は骨董店などで購入した日本刀を武器として用いたと言う。こうして、
長崎に来航した清国北洋艦隊水兵が起こした暴動事件に謝罪はなく、又一方的に清国は
日本政府に対して補償を要求した。事件後、日清両国は長崎にて英仏人弁護士の立ち会
う中会弁委員会を開き、また東京では井上馨外相と徐承祖駐日公使により交渉が行われ
た。最終的には英独の斡旋を経て妥結し、その内容は事件の当事者については所属国の
法律により処分する。また撫恤料として日本からは52500円、清国から15500円を支出す
る。という事に落ち着いた。また当時の日本の開港地では治外法権があったため、長崎
事件の再発を防ぐために日清両国は相互の軍艦往来について規則を定め、両国の軍艦が
相手国を訪問する際は相手国側の規則に従う事、また上陸する士卒の制限を定めた。更
に日本の警察官が今後帯刀を禁ずべしという要求を突き付け、飲ませる事に成功した。
と中国側は報告している。が事件当時帯刀が許されず警棒であった為一端引き揚げての
帯刀して事態を鎮圧した事から この機によって警官に限り帯刀を許す事に変わった。
 この事は当時は如何に日本は諸外国に弱かったか 或いは清国海軍がロシアさえ威嚇
し極東の最大艦隊として日本海や東シナ海で制海権を取って行動していたかが解る事件
であろう。更にこの仲介に 日本側は英国大使に求め 中国側はドイツ大使に求めた事
は世界の中で極東の勢力状態 或いは時の政府が何処を頼りにしていたかが解るもので
ある。ロシアも仏国も英国も中国には敵対した国家であり、そこにドイツは歩みよって
来ていたのだ。更に大事な事は日本にもこの頃は充分すぎるほどの輸出をし民間企業に
取り入っていては巨大投資や技術提供をしている事実だ。そこには少しも先の「黄禍論
」的強圧な外交をしていなかったのである。少なくとも表向きは。ところが一方では、
極東へのドイツの対中国政策はヴィルヘルム2世が即位すると急変し、帝国主義政策を
推進した。例えば日清戦争後の1897年、ドイツ人宣教師殺害を口実にして膠州湾に
軍を出し、1898年には山東省膠州湾の99年間の租借を認めさせた。中独関係が最も
冷え込んだのは1900年の義和団の乱の際で、ドイツ公使を殺された時は怒って、こ
の制圧に向かっている遠征軍司令官に対して、「反乱軍をフン族の如く容赦ない攻撃を
加えよ。」と命令した。この事件後は国内で公に第一次世界大戦、第二次世界大戦の声
明や命令に軍内でははしばしば「フン族」の蔑称が呼ばれていくのである。


527: 名無しさんAA:17/09/29 18:19
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 175

 中独合作はその後その後中共合作と共産党化していく。というのも本来ドイツ帝国は
この第一次大戦前から第二次大戦後の今でも 先のドイツ連邦国家を作るに当たっての
大国オーストリアを入れた国家か入れないでの協調国家かで国論は割れていた。が、常
にその結果は同じで、オーストリアと言う大きな国に動かされる事を恐れた小国の集ま
り「純ドイツ主義」と言う特異的な「小ドイツ主義」のまとまりを望んだのである。が
更に国内の「大ドイツ主義」の意見を抑える為に オーストリアを武力による吸収拡大
を基本方針に約束するのである。これは先のマトリョーシカ的つながりからドイツ国民
の一部がオーストリアに在住していたからだが それと同時にフランスが起こした市民
革命や自由主義の持つ資本主義を嫌う封建的保守体質からもそういう結果に常になった
といえる。この封建的保守的と言うのは、正にソ連共産党の体質でその共産党派が多数
を占める事を意味している。それはヒットラー台頭時代も同じで そもそもナチスとは
日本語的には「国家社会主義ドイツ労働者党」であり社会共産党を意味するものであっ
たのだ。ここに日本政府はかつても今も大きな間違いを犯している この中独合作は、
ナチスが台頭して来る頃は 既に思想的には中共合作と同じになっていたのである。つ
まりドイツのソ連侵攻は北朝鮮がソ連なり中国なりに乗り込んで行った様な感覚なのだ
。この社会主義派と自由主義派の分裂はサラエボ事件ででも起こっているしヒットラー
時代の侵攻作戦でも大戦後の東西分割時もそれは全く同じであり ドイツ国民のもって
いるだろう独特の脅迫観念の素となっている。従って1930年代の終わりにかけては
、両国の蜜月関係は最高潮に達し、ナチスがドイツを支配するとさらに関係が強化され
た。日独防共協定が締結されると表向きは関係は弱められが、現実はロシア包囲に応援
していたのである。その中で共産党に米・英・仏・露が又共産党軍を応援して来たのだ
が 日本は馬鹿な事に共産党支部であるドイツには対ロ防共を唱えた条約を結び、本部
共産党のソ連にはには不可侵とする日ソ中立条約、を結ぶと言うおかしな事を真面目に
行っているのである。更にはどういう勘違いなのか この防共協定を結ぶに当たって、
イギリスフランスに合同調印を呼びかけている。これは如何に巧妙にナチスが共産党の
配下である事を隠したかが解る事例の一つであろう。又中国を日・独・米・英・仏全て
に応援した武器や兵員供与があった事は 第一次大戦後の条約違反を大国が堂々と独国
の進出を理由にやっていた事になる。国際連盟を脱退した理由でベルサユ条約と共にあ
ったベルサユ体制の日本の権利は無視されていたのである。これが今の混乱の素だった


528: 名無しさんAA:17/09/29 18:20
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 176

 こうして ナチス党は表向き共産党を非難しても、裏では共産党と手をつなぎ、共産
党の 排斥活動なりユダヤの様な、共産主義者の取り締まりはしていない。それどころ
かナチス党そのものが共産主義の中の愛国者を集めた形で人材登用し 政権運営してい
てソ連の供給で日本の様な石油枯渇すら起こっていないのである。この共産党進出には
国際旅団などの暴走した武装革命をイギリスもフランスも見抜いてはいたに違いない。
だがドイツの間で調印された共産党防止の「インターナショナル・コミンテル活動阻止
」の協定などをした日本を笑っていた。同じ共産党同志の領地争いで支部に本部の暴走
を止めようと呼びかけ 本部にこちらに来ないで下さい。との約束をした行為に過ぎな
いと。それは当然だった米国共和党も英国資本もこのユダヤと言う隠れ蓑の下の共産主
義支援者だったからだ。お粗末なもので この事でより日本が共産主義の仲間だと思わ
れたに過ぎない条約だったろう。チャーチルは既にこの共産主義が世界の最大の問題と
なる。と予見したが そもそもが日本とドイツはその防波堤としての砦に先進国は利用
して来ていたのだ。がナチス侵攻で英仏共当面の問題はドイツ拡大でありロシアではな
かった。更に米国にはロシア系ユダヤも多くいて 金融資本の繋がりからは ドイツの
戦争による債権返済や償還拒否やフィリピン購入の代価が支払われない問題が重大であ
ったはずだ。この中独合作は中国の近代化に大きな影響を与え、第二次上海事変で成果
を発揮した。とあるのは歴史的大きな事実を日本人はまともに教えて来ていない事にあ
る。というのもよく盧溝橋事件から世界大戦に走ったと記載されるが全く間違いでこの
第二次上海事件こそが 日本の本当に太平洋戦争所謂世界大戦に突入した理由であるか
らだ。共産党軍がゲリラ活動をして中共合作を目論み 世界が日本の大戦参加を目論ん
でいた。その意味ではドイツも英国も同じだった。英国は米国の参戦を希望していたか
らだ。中華民国に駐在していたドイツ軍事顧問団団長ファルケンハウゼンは、「中国の
敵は日本が第一、共産党を第二」と指導し、国民党軍に漢口と上海にある租界の日本軍
に対する奇襲を提案した。その後も「今こそ対日戦に踏み切るべきだ」と蒋介石に進言
し、北海事件後には河北の日本軍を攻撃するよう進言した。こうした執拗な進言は独国
が如何に東洋の国の同士討ちを願っていたかが解るし「黄禍論」が存在したかが見える


529: 名無しさんAA:17/09/29 18:26
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 177

既に共産党との裏約束がある国民党軍は1935年冬、国民政府軍は、ドイツの緻密な
策定の後押しで、南京・上海方面の「抗戦工事」(陣地)の準備を張治中に密かに命令し
ていた。優勢なる兵力をもって奇襲し上海の日本軍を殲滅しこれを占領し、日本の増援
を不可能にしようと企図し行動した。この頃既に悪態の限りの中国軍と治安維持を行う
日本軍の関係はかなり険悪であった。中19路軍の支援を受けて日本の勢力を利用して
の現蒋介石政権の打倒を図ろうと活動していた共産党は、海外援助により一気にテロ活
動を活発にした。こうして中山水兵射殺事件や上海日本人水兵狙撃事件が次々に引き起
こされていた。宮崎貞夫一等水兵事件は 中国人に拉致されたと在留邦人から報告され
た事で発覚する。日本側の対応は早く、上海特別陸戦隊は警備配置につき、調査を開始
したが、これに対し 中国保安隊は既に日本側に抗する為要所ごとに土のうを積上げ、
鉄条網を張り巡らし待ち構えた。上海市長である兪鴻鈞が直ちに岡本季正上海総領事に
連絡を取った。第一次上海事変後停戦協定により、中国軍は上海中心地への駐留が禁止
され、3200人ほどの保安隊だけが認められていたが、先制攻撃の道を考えていた中国軍
は、保安隊や憲兵隊に変装した兵隊を閘北に入りこませ、一帯に土嚢を積み、戦闘準備
を進めていたのである。この為自国の保安隊の動きに不安を煽られた上海市民は既に第
一次上海事変を想起し、共同租界地やフランス租界地などへ避難して、その数は一日に
二万人とも五万人ともいわれた移動が行われていた。日本側はこの事件に即応したが、
宮崎の逃亡の可能性を疑い、いたずらに危機を煽らない為警戒配備をのみとし、中国側
も防備を撤収した。大山事件の現場でも早期の時局収拾を目指した日本は船津辰一郎元
上海総領事を上海へ派遣したが、その後夕刻、上海海軍特別陸戦隊 西部派遣中隊長の
大山勇夫海軍中尉と斎藤與蔵一等水兵が支那兵に射殺される事件が起こった。大山事件
である。両軍は一触即発の状態となり、情勢が緊迫した。こうした事で 8月10日、上海
のノルウェー総領事アールは、在上海各国領事に対し領事団会議を開催する事を求めた
。当初、日本総領事岡本は固辞したものの、再三の要請により出席することになった。
英米仏伊代表は上海付近に戦禍を波及しないように日中両国に希望することで決議をし
、上海市長へも伝達するとした。この時共産党パルチザンまで飲み込み自軍が収拾のつ
かない状態であった事は明らかで 朝鮮パルチザンの不適格人格者は多数いた。という
のも中国軍のアヘンの購入量が一時期にかなり増えたのである。

530: 名無しさんAA:17/09/29 18:37
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 178

 こうして同日に、閣議では海軍側より陸軍に派兵要請を行い、4相会議で派兵が決定
した。だがこれを受けた海軍の長谷川清中将は、国際租界内の海軍司令部に対し、平静
を保つように命令を出した。またこの日には、海軍陸戦隊には上陸命令は出さない事に
決定した。ところが翌8月11日、上海市長は日本領事に電話をかけ、「自分は無力で
何もできない」と通報してきた。先の会談合意が守れない事だった為。危機を感じた日
本側は急遽夜、陸戦隊1支隊を予防のために上陸させた。こうして戦闘予定の配備を怠
りなく防備してはいたが 突然に戦闘が開始された。上海海軍特別陸戦隊本部は、8月
12日未明、中国正規軍本隊を上海まで前進させ、中国軍屈指の精鋭部隊第87師、第
88師などの約3万人を超えて 国際共同租界の日本人区域を包囲したのである。日本
軍の支援上陸に備えて揚子江の呉淞鎮と宝山にも約1千名を配置した。対する日本軍は
は、上海陸戦隊2千2百、漢口から引き揚げてきた特別陸戦隊3百、呉と佐世保から送
られた特別陸戦隊千2百、出雲の陸戦隊二百、常駐部隊3百2十の計4千人あまりで、
全く少ない中にあった。3万対4千である。この為に、日本領事は 国際委員会を再び
招集し、中国軍の撤退を要求した。しかし上海市長は中国は既に侵略をうけている。と
の声明を繰り返すのみで、最後に喩市長は、中国軍は攻撃されない限りは攻撃しない。
、中国政府として認められるのはせいぜいそれぐらいだと断言した。一方、日本は上海
近辺での中国の派兵の全ての責任は中国側にあるとしにらみ合いが続いた。午後5時5
0分、日本海軍の第3艦隊が軍令部に、陸軍派兵を要請する電報を打った。午後8時4
0分、本部からは「動員が下されても到着まで2週間かかる。なるべく戦闘正面を拡大
しないように」という電報が返ってきた。こうして本部屋上で待機する海軍特別陸戦隊
は待つ事になった。8月13日午前10時半頃、商務印書館付近の中国軍は日本軍陣地
に向かって機関銃による射撃を突然開始した。日本の陸戦隊は応戦したが不拡大方針に
基づいて可能な限りの交戦回避の努力を行い、また戦闘区域が国際区域に拡大しないよ
う、防衛的戦術に限定した、中国軍機が低空を飛行したが陸戦隊は対空砲火を行わなか
った。列強各国の調停の申し出を期待したのである。午後4時54分には、八字橋方面
の中国軍が西八字橋、済陽橋、柳営路橋を爆破、砲撃を開始し、日本軍は応戦した。午
後5時には大川内上海特別陸戦隊司令官が全軍の戦闘配置を命令し、戦闘が開始された
この日、英米仏の各領事は日中双方に申し入れを行い、上海での敵対行動を回避する為
に直接交渉を行うことを勧めた。


531: 名無しさんAA:17/09/29 18:38
また、回避案として以下を提案した。この提案原文が
東京に届いたのはこの日の深夜であった。
1.中国軍は国際共同租界とフランス特権区域から撤退する。
2.日本軍は国際租界から撤退する。
3.中国軍撤退地域は多国籍軍が治安維持を行う。
大世界近くのチベット通りとモンティニー大通りの交差点付近への中国軍機の爆撃に
よる民間人被害者がでた。中国軍機の爆撃による大世界前の惨状が起こった



532: 名無しさんAA:17/09/29 18:38
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 179

此処から中国側の襲撃事件そして上海租界の爆撃などが起こり 延々と日本人襲撃が起
こるのである。時々これを日中戦争とか言う。がそれは違い今で言うならテロなのだ。
 当時の中国では、蒋介石を中心とする国民党と毛沢東率いる共産党が政権争いをして
いた。しかし既に、2つの派閥は国の一大事の前に手を組み日本軍に対抗する事を決め
ていた。そして他国の諜報部はそれを見守っていた。それはドイツさえ共産主義でこの
極東に手を伸ばし西側もこの「野蛮な国の同士の戦い」を予定した国策を行っていたか
らだ。当時の派閥争いでは国民党が有利だったので蒋介石は手を組む事は嫌だったろう
。だが、変節の多い中国人は張学良を国民党に入れ蒋介石を軟禁した後も常に監視して
国民党の司令部を共産党が乗取った形の作戦を行っていたのだ。日本軍としては、この
国民党政府の治安に任せて南部戦線を発していたので、痛かった。日本軍は、初め中国
の首都、南京を奪還目標と定め1937年12月10日、20万の兵で総攻撃。13日
には南京占領。その後は、戦線を拡大。武昌、漢口、広州と中国の主要都市を占領。そ
れらを結ぶ鉄道も支配下におき粛清と治安維持確保を行った。しかしながら、中国軍も
首都を重慶に移し抗戦。ゲリラ戦を展開し、こうして日本は苦戦を強いられ日中戦争は
長期戦へともつれ込んでいく。こうして拡大する戦火に1938年には、日本でも対応
する為に国家総動員法を制定した。国民男子を政府が強制的召集令状で勝手に戦線に送
り込むものだ。更に国民の財産も政府の自由没収利用出来る法律でもあった。極東のこ
の混乱の成功を見てドイツは、1939年にポ−ランド侵攻に走った。こうして第一次
世界大戦の敗戦で、縮小し監視され周りの小国からも囲われていた国外での地位や権利
と国内での不況に近い経済の打開にドイツ軍は突然に隣国に迫り領土拡大した。この時
1941年に 日本は既に共産党の罠にかかっていた。贋の国際情勢と米国始め同盟国
としてしての鉄や石油などの重要物資の供給を ドイツロシアとの条約で止められたの
である。本来ドイツも石油はない。ところが中東原油のルートの確保を行っていたのだ
1939年に第二次世界大戦は勃発したがナチスはソ連と不可侵条約、翌年にはドイツ
・ソ連通商協定を結び、ヒトラーは「賎しいユダヤ人」「呪うべき共産主義者」と攻撃
していながら共産主義ソ連と手を組んで、石油・貴金属・穀物の供給を受けていたので
ある

533: 名無しさんAA:17/09/29 18:38
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 180

 本当にドイツに戦争をやめさせたければ石油の供給を止めればよいのである。しかし
、ドイツにソ連のバクー油田から石油を供給して戦争を継続させたのは、英国ユダヤ資
本ロスチャイルドやノーベル財閥の石油会社シェルの裁断であった。共産ドイツの奇妙
な関係は、これだけではない。ナチスにユダヤ人を迫害させたのはシオニストだという
証言は多い。ユダヤ人を中心にその後の戦争終結時は収容所以上のドイツ人捕虜を沢山
ソ連に送り込み収容所で働かせ虐殺した。これに米軍は加担したのである。ドイツ人の
「黄禍論」は中国で正しく伝わり「夷国をもって夷国を制す」と中国政治家の考え方を
蒋介石も毛沢東も受け入れて戦略をたて、日本を中国の内戦に引き込み、中独合作・中
共合作などと言いながら 自国民に政府による官製テロを行い国際社会アピールを促し
たのだ。上海空爆はその最も著しい物で、上海租界の外国人に政府は「空爆は日本軍の
横暴な行為で断固反対する。」との抗議声明をだした。だが写真を撮った記者は現像し
中国政府軍の航空機である証拠を突き付け「目標を間違えた事故であった。」と訂正し
た。それでも最初に大きな記者会見の場でこの大きな嘘のプロカバンダは成功し人民に
は特に日本人の行為と映った。、1938年、日本軍の進撃の道をはばもうと、黄河の
堤防を爆破した。この時は、折しも大雨が降ったこともあって11の都市と、4千の村
が水没し死者100万人、その他の被害者600万人という大惨事になり死者は川に溢
れかえった。しかもそれだけでは終わらない。この突然の人造水害の結果、黄河の水路
の流れは変わり、周辺に水枯れが大飢饉を起こした。被災地で食糧不足に悩み中国軍部
隊は民衆からの食糧の強奪を始めたのだ。飢饉は深刻化し、その惨状を当時のアメリカ
人記者は、「道ばたには凍死者と餓死者があふれ、飢えた人々は屍肉を食べていた。」
と報じた。この時中国側は又事件直後から、堤防決壊を日本軍のしわざとして宣伝して
いる。しかし中国側のこの自作自演は、証言や写真で外国人記者に見破られてしまう。
 この堤防決壊の時も、日本軍兵士は1人も死んでない追いついていないからだ。それ
はただ中国人を大量殺戮しただけの行為だったのだ。堤防決壊の直後、追いついた日本
軍は堤防の修復作業を行なっただけでなく、被災した民衆の救助と、防疫作業を行ない
ました。日本軍は、中国軍から虫けらのように扱われた中国民衆を、必死になって救済
した。こうした事は多々ある。今でも中国政府は自国民制裁を行い、全てを外国悪者に
見立てる。更にその論拠が崩れるとすぐさま内政干渉するなと隠してしまうのである。



534: 名無しさんAA:17/09/30 12:14 ID:gyk
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 181

 では何故こうした事が起こるのか。実はユダヤ教など1神教と日本との戦争視点の違
いがある。日本でもこうした自国民を虐げる行為がない訳ではない。だが極端に他国の
者もいて国籍のみが日本人と言う海外の人間は比較的少ない。ところが国境をまたぐ今
の移民の群れの様な集団には日本の様な「治安」の観念はなく中国国内でも「漢民族」
がウイグル人を日本人の様な自国民と言う意識はないのだ。又共産党や自由主義と言う
観念も植え付けられたものであり「自由資本主義」は金の兌換をしないニクソンショッ
クで既に終わっている。又「共産社会主義」の経営も又ソ連崩壊や日本の中国支援など
既に崩壊していた事は事実である。つまりこれらの国家経営の手法は全く間違えていて
貧富の格差などどうでもよかったのである。先の英国ユダヤ資本ロスチャイルドとは言
え彼らの基はこのドイツからの移民でありドイツに巨大貸付していた金融家であった為
と言えばうなずけるだろう。つまりナチスのユダヤ狩りそのものがヒットラーの考えに
矛盾していたのである。中国の蒋介石も又自分の命と人民の治安では自分の命が大事で
あったのだ。日本人の様な「世の為、人の為、尽くしてこそ命の価値がある。」と言う
道徳心は植え付けられず ただただ同族同業者でさえ蹴落として競争社会に生きる主義
を貫いているのである。つまり鼻から「共産社会主義」を巧みにペテンで覆い指導者層
の席を狙い、攻撃は最大の防御で対策し自己防衛の正当性に「武器さえ自由の競争社会
」の演出を主張して 共和国を作らせてやまないのである。それが原爆の傘理論であり
株式の運用理論なのである。ドイツで起こった「ホロコースト」という言葉は、ナチス
によるユダヤ人大虐殺と同義に使われるが、本来は「神に捧げる犠牲」という意味であ
る。つまりユダヤ人同志が仲間を神に捧げた行為だったのだ。ユダヤ人600万人がナ
チスに殺されたというのは大誇張がある。なぜなら、戦前のユダヤ人の人口は約160
0万人、戦後は約1470万人と解っている。人口を比べると130万人ほどしか減っ
ていないのだ。その上、ソ連領内で100万人のユダヤ人が減っていることがヨハネス
・ロスクランツの調査によって確認されている。他国への移住者も数多くいた時なので
、せいぜい数万人数十万人でなければ計算が全く合わない。更に強制収容所内での飢え
や病気が原因の死亡者も多くいたと思われる。ただユダヤ人が迫害を受けていた歴史は
事実で、シオニズムに反対したユダヤ人と呼ばれた人はイスラエル建国の為のに、正し
く「神に捧げる犠牲」とされた。それはロマ人でありロシア人でありボヘミアンと国籍
の無い人達であり 移住して来た人も土着民もいただろう。敢えて整理したのである。


535: 名無しさんAA:17/09/30 12:15
 今や北朝鮮は核を持ちミサイルを飛ばす。これを危険だ恐ろしいと叫ぶのは大和民族
の性分であるだろうが 本当に恐ろしいのはそうした平和ボケしたような教育の廃れで
もあろう。即ち先の「世の為人の為の命」とする道徳教育と「夷を以て夷を制す」と言
う覇業観念の違いこそが 最も恐ろしい事の筈なのだ。この日本流の「他人の褌で相撲
を取る」と言う離れ技は 全く陰謀論そのままである。「黄禍論」は正に留学して得た
張学良の「傀儡指導者となった蒋介石」そのものの姿であったが、この姿こそ 共産党
コミンテルンもユダヤ教シオニストも 最も求めている姿であろうが地球が持たない。
そうしたことで虐げられるのはいつも下層の庶民であり、更に敵としているのは同じ指
導者としての地位を持つ良識者であった事が この上海租界事件に見える。だが現実に
起こった事は日本人妊婦を暴行し八つ裂きにして、手足や頭それぞれを晒すなどの真に
おぞましい事が毎日の様に繰り返し人々に狂気を誘った事だ。その姿ややり方は今でも
中国やロシアでは起こっている。これこそはユダヤ人の想いと同じであったのだ。北の
真面目な核実験やミサイルは全く怖い事ではない。それ以上に怖いのは、既に日本との
在置諜報員としての繋がりが消えて、張成沢を犬に噛ましたぐらいの狂気と、その狂気
を持った指導者が核を利用する狂気である。1944年に今だ戦争も終わらない中で、
不思議な会議が開かれた。ブレントン・ウッズ会議である。英国代表には経済学者のジ
ョン・メイナード・ケインズ「フェビアン社会主義者」で、一方米国代表はハル・ノー
トの作成者、財務次官のハリー・デクスター・ホワイト「国際共産党主義者」である。
社会主義者と共産主義者が協議して今後の戦後の“資本主義体制”を、決定するという
 不可解で実に不思議な会議が開かれたのである。7月夏のアメリカ合衆国のニューハ
ンプシャー州ブレトン・ウッズで開かれた連合国通貨金融会議で45ヵ国が参加した。
締結されたのは 1945年に発効した国際金融機構についての協定である。この会議
を取り仕切ったのが、米国財務長官のヘンリー・モーゲンソーJr.  である。父親は、
ロスチャイルド一族の銀行家ゴールドスミス家、母親は、ロスチャイルド一族の鉱山王
グッゲンハイム財閥の出身という人物でこの鉱山は戦時には鉄で戦後はウランで稼いだ
とされる。「アメリカ合衆国のドルを基軸とした固定為替相場制」であり、1オンス35
USドルと金兌換によってアメリカのドルと各国の通貨の交換比率(為替相場)を一定に
保つことによって自由貿易を発展させ、世界経済を安定させる仕組みである。が この
会議の不可解なのは今だドル札発行は米国政府の権限ではない。つまり国際会議であり
ながらも政府間会議でもないのだ。国際通貨基金(IMF)、国際復興開発銀行(IBRD)、
の設立を決定し、これらの組織を中心とする通貨体制である。

536: 名無しさんAA:17/09/30 12:16
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 183

 勿論、この協定が1929年の世界大恐慌により1930年代に各国がブロック経済
圏をつくって恐慌を起こした経験則から二度もの世界大戦をまねいた反省によっている
事は明らかだ。今回の戦争で疲弊・混乱した世界経済を安定化させる目的と共に、通貨
の乱高下による投機筋の動きを抑える目的もあった。だがこの不可解な会議は共産党の
社会主義学派によって固められた知恵だった事だ。この事には2つの事実がある。一つ
は国家予算以上の歳費で核ミサイルが既に製作段階に入っていた事だ。二つ目は共産党
の流れを組む共和党の施政でハーバート・クラーク・フーヴァーがアメリカ合衆国の第
31代大統領に就任した事だ。彼はオーストラリアの鉱山で鉱山技師として働き始め、
その後中国で鉱山の開発に従事した。1900年には天津租界で義和団事件によって、
1ヶ月もの間包囲され、攻撃を受けている。妻が慈善施設で働いている時、彼はバリケ
ードの建設を指揮し、時には中国の子どもを命がけで救っている。彼はドイツ人鉱山師
アグリーコラをこよなく愛して翻訳さえ手掛け、その正確な翻訳には定評がある。アグ
リーコラは、実際に鉱山で働く人々の、今までの知見や経験、発見や発明を科学の言葉
に替え、新しい体系を創出した鉱山師だった。自然や実業に密着していたため、錬金術
など頭から否定し、軽蔑していた。又フーヴァーはヘンリー・カボット・ロッジと共に
、他の上院の共和党員の大きな反対にもかかわらず、商務長官在任中の1921年に、
ロシア革命により混乱をうけ飢饉で苦しだソ連や、大戦後のドイツの人々など食糧支援
を提供した。その行為に評論家は批判的で「共産主義ロシア」を助けていなかったか。
との問い合わせを受けた。フーヴァーの答えは、明快に「2千万の人が飢えているのだ
。彼らの政治が何であっても彼らを食べさせるべきである。」と真っ向から反論した。
ニューヨーク・タイムズはこのあと「10人の最も重要な生きているアメリカ人」に、
フーヴァーを選んだほどだ。この事は共産主義などと言うしっかりしたものはこの世に
は存在しなかったと明確にしている。共生社会を夢見る社会が共産党の本流や国民党や
共和党などの分流の中にあると言う現実現実でも かなり冷たい中 一般でもその思想
の一端を持っている筈だと言う現実だ。加えて言うならより非情な自由主義の存在がそ
の援助や通貨枠組みをしたと言う現実だ。共産主義が非現実であり幻想であって そも
そも人の持つ道徳に守られている事だ。自由主義すらも道徳により運営される。此処に
今のルールなき格差社会を是認した冷たい資本主義の破滅の馬鹿さや嘘がある。


537: 名無しさんAA:17/09/30 12:22
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 184

 この「黄禍論」のルーツは「選民主義」であり、そのルーツはユダヤ人と言う事だ。
だがユダヤ人は、その定義さえはっきりしない不思議な人たちである。一般的には古代
イスラエルの十二氏族のうちユダ族だった人たちがユダヤ人ということになっている。
だが、実際にはかなり複雑なことになっている。「スファラディ系のユダヤ人」とは、
「聖書の民」であるユダヤ人でイスラエルからスペイン方面に逃げてきた有色人種だ。
我々は白色人種の中ユダヤ人を見るが 本来の正当なユダヤ人は有色人種と言われる。
「マラーノ」はキリスト教に改宗させられたり、改宗したふりをした隠れユダヤ人で、
ある意味ユダヤの中のユダと言われ キリスト自体が、ユダヤ教からの改宗者である。
「ミズラヒ(東人行者)」は先のユダヤ人の中で「ユダヤ教布教徒」として存在し布教
で同じアジア人に溶け込んだ人達とされる。本流ユダヤ人の中のユダヤ教徒で日本の男
系男子の様に 元々はこの家族は女系女子である。東人と言う意味で更に古くは男性を
ユダヤ教徒としなかった経緯があった。とされる東人とは東に行った人行者は行う者。
「ホフ・ユーゲン(宮廷ユダヤ人)」ユダヤ系の中でユダヤ教徒の指導者であり、仲間
の6人以上の証人もしくは認知者でユダヤ教徒加入を認める職者。欧州宮廷の中で貴族
階級に同化してゆき、特権を享受してユダヤ人加入者を振分け決定する権限を持った。
「アシュケナージ系ユダヤ人」7世紀から10世紀にかけてカスピ海の北で栄えた遊牧
国家ハザール汗国という国があった。8世紀半ば頃、イスラム軍がこのハザール汗国に
侵攻してきて、改宗を迫る。ハザールの隣はキリスト教の大国、東ローマ帝国である。
東ローマ帝国と友好関係にあったハザール汗国の皇帝は、悩んだ末にキリスト教とイス
ラム教の元になったユダヤ教を国教とし宣言した、それ以降、国民全員がユダヤ教徒に
なる施策をとって国民をユダヤ教徒にした。この国民のユダヤ教徒に改宗したハザール
人達だが、のちに隣国まで教徒は増えた。アシュケナージはドイツ系と言われる。白人
のユダヤ人になった人という説もある。現在においては、イスラエルにいる「スファラ
ディ系ユダヤ人」は少数派で、90%以上の殆どが「アシュケナージ系ユダヤ人」であ
り「改宗派ユダヤ教徒」である。肌が浅黒い「スファラディ系ユダヤ人」という「真性
ユダヤ人」ではなく、白人のアシュケナージは、血統的に全く無関係な民族達である。
したがって、アシュケナージが「神の約束の地へ帰る」ことを口実にパレスチナの地に
ユダヤ人国家を建設することは、まったく正当性がない。しかしながら、世界の主要な
マスコミの株主を慮っており、ドルショック同様このことはタブーとされ、決して追求
さる事はない。

538: 名無しさんAA:17/09/30 12:23
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 185

 このブレントン・ウッズ会議で、ドルが世界の基軸通貨と定められた。これはユダヤ
の「シオニストの世界戦略」と言われた。と言うのも本来の少数の「真性ユダヤ人」は
シオニスト会議を行わないしシオニスト連合に参加していない。シオニズムそのものが
旧約聖書に書き込みにある様に 違法なのだ。それはユダヤ王は真の世界の法王、世界
に跨る教会の総大司教である。(全人類の王)とされかの王の権限でしか会議は出来な
いからだ。だがイスラエルが建国された様に迫害を盾に取って、自らの自衛の為の生存
圏として 世界戦略を考える選民思想や白人優位主義がこの会議を産んだ。今まで貯め
た貨幣価値の温存の為にである。こうした帝国は「古いユダヤ教」を取入れた。「教義
を利用」し「宗教を利用」し「人を利用」し「国を利用」し「経済を利用」したのだ。
このブレントン・ウッズ会議で出来た、国際通貨基金「IMF」と「世界銀行」の創設
は、他ならぬ戦勝国が持つ今までの資産価値の温存であった。この両機関が、WTOと
共に今後の国際関係を決める大枠として働く事で グローバリゼーションを推進しなが
ら自分達が中心勢力であり続け、同時に途上国を支配し頭を押さえた機関でもある事は
事実だ。それは「核保有5大国」が自国の核を増やし続け、他国に「核開発禁止」する
事と全く同じ仕組みの不平等性に証明される。かつての植民地は、戦後、次々と独立を
果たし、工業発展途上国と呼ばれるまでなった。名前の通り、途上国は元々資源供給地
にされ、工業技術力では相手にならない。その上に、輸送手段と販路を既に握られてい
る中にあった。先進国のように世界各地へ売りさばくことが出来ない上に、貿易で豊か
になろうと思えば一次産品の輸出を続けるしかない状態である。百数カ国の途上国が、
たった30品目程度の生産品目しかない一次産品を争って輸出し、60年代以降に価格
が暴落する事は目に見えていた。慢性的な赤字を抱えるようになった途上国が、IMF
や世界銀行から借金をするのだが、その際、構造調整プログラムというものを受け入れ
ることを条件とされ、それは先進各国の産品を安値にしない事や先進国の持つ消費社会
を文明社会と受け入れる事が必須の条件だった。その上地下資源など開発するインフラ
でも債務国は自国の経営権を失う程の契約に於いて投資対象者となったのだ。この姿は
オリンピック開催と似ている。事務局の権限は最大で勝手な開催は出来ない。だが開催
となれば莫大なPR費と観客動員が出来、それを頼りに公共投資での不況対策が出来る
のである。そしてその価値は文化でも食糧でもなく「ドル」と言う通貨価値なのだ。


539: 名無しさんAA:17/09/30 12:23
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 186

 古来よりユダヤ教の聖典は『旧約聖書』だが、冒頭の5書、「創世記」「出エジプト
記」「レビ記」「民数記」「申命記」は特に重要とされている。「モーセ 五書」又は
「トーラー」(律法)と呼ばれる神聖な律法として崇められてきた。さらに、モーセが
神から授けられた法として、成文化されずに口伝で伝えられたものがある。この口伝は
3世紀頃に文書化され「ミシュナ」と呼ばれている。この ミシュナと、ミシュナからの
ラビが解釈した「ゲマラ」から作成された日常生活の規範と、時代時代に対応した生き
ざまを記した「タルムード」の素である。タルムードは、6部構成、63編から成ると
される文書群で、現代のユダヤ教の主要教派のほとんどが聖典として認めており、この
ユダヤ教徒の生活、信仰の基となっ ていると言われるものである。その膨大な文書の
中に民族的排他性と独善的選民思想が含まれた問題箇所があり、ユダヤ人が排斥される
原因となってきた。その一部を抜粋するがこれが愚民作りに大いに役立った事が解る。
まず天孫降臨に及んでユダヤの為に神は降り立ったとし他の民族は人ではない獣だとい
う視点がある。更にキリスト教の全てを違法でも何でも奪って良いとしているのだ。更
にキリスト以外の異教徒は「ゴイム」として、異教徒にはどんな事もも許されるとして
イスラエル人は相手がイスラエル人で無ければ殺しても構わず又異教徒にユダヤ教を教
える者は殺しても構わず異教徒が我々の教説を知ったならば、彼らは公然と我々を殺す
だろう。と予見し、異教徒ががわれらの書物には何か害することが書いてあるのではな
いかと聞いたら嘘を宣誓せよ。と教えているのだ。此処に言うイスラエル人とはユダヤ
人でありユダヤ人以外は奴隷以下の獣として扱って良いとされ唯一キリスト教のみ盗み
や搾取の対象としている。これでは嫌われて然るべきでとても協調社会など築けないで
あろう。このような“選民思想”と共に、もう一つの特徴が「終末にあたって救世主が
再臨し、正義と平和が支配する理想世界が訪れる」とする“救世主(メシア)思 想”
である、言い換えれば“終末思想”である。これではヒットラーが産んだナチス思想で
ある。共産思想で言う世界革命である。秘密結社の殺人犯の言い分である。ただこれは
理由がある。そうあのアテネなど都市国家間が戦争の兵士の養成に作られた文章なのだ
つまりこのタルムードは聖職者の勝手な改訳を兵士作りの為に編み出したものだったの
だ。それは古来からのしきたりに絡んでいて今のイスラム教にも利用されている。この
ユダヤ教がローマの兵士を産む元になったとも言えるし十字軍やイスラム軍の戦いでの
洗礼を受けて今にあるのかもしれない。このユダヤ教が忌み嫌われたのは間違いない。


540: 名無しさんAA:17/09/30 12:24
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 187

 ここで我々が知るべきは 決して核兵器やミサイルを恐れてはいけない事だ。恐れる
べきはこうした事を作りたがるまやかしであり その思想と嗜好である。正にユダヤ教
のこの全人類から財産を没収せよ殺してでも良いと言った考え方はナチスの言う言葉と
同じであったのだ。そこにユダヤの恐怖があった。だが蓋をあければ同じ白人のユダヤ
教徒であっただけだった。ではユダヤは何処にいるか。それは割礼に秘密がある。この
割礼は一体何んの為にするのか。起源は何処にあるのか。それはバビロニアにある。こ
の地の多神教がある都市で多神教の都市国家が一神教を作った事は解っている紀元前6
00年ぐらいの話と言われている。この都市国家群の中に国家群を守る為の都市国家が
あったとしてもおかしくない。ユダヤ教では、割礼はブリットと呼ばれ、ヘブライ語で
「契約」を意味する言葉である。ユダヤ教徒の家庭に生まれた乳児および改宗者は、割
礼を行わなくてはならない。とされる。これはブリット・ミラー「契約の証明」と呼ば
れ、モーヘール「割礼師」と呼ばれる専門家が行う。つまりユダヤ教の入会式である。
創世記では「またその家の人々は家に生れた者も、銀で異邦人から買い取った者も皆、
彼と共に割礼を受けた。」即ちここで既に 母系母子の関係や正統とされる血縁のみの
宗教から一般化された布教する宗教に変化をしている。更に変化し現代では割礼に反対
するユダヤ人もおり、その場合はブリット・シャーローム(命名式に相当)をもって、
割礼の代わりとする ただしブリット・シャーロームは律法(旧約聖書)に反するとし
て否定する者も多く、今では一般的な儀式としては広まってはいない。男性の陰茎包皮
の切除をするこの割礼儀式は 今は入宗者や改宗者としているが、本来は兵士になるか
どうかであったと思われる。そして割礼が陰茎の包皮切除ではなく切断で、形を残した
機能の消失儀式だったと思われる。権力者への忠誠と兵士の子孫を絶つ行為だったのだ
。と言うのもこの考え方は以外に世界に広い風習だ。中国では宦官制度で皇帝の世話係
である。インドでは犯罪者の刑として、アフリカでは女性の淫乱防止にと風習がある。
あったのだ。日本での宦官の風習がなかったのは諸外国お如く淫乱に明け暮れる暇が無
かったからと言える。今でも一夫多妻や人口増加に悩む国は多い。だが日本の場合台風
・地震・お祭りと暇はない権力者が多い。その上水害や病気を含めれば 一夫多妻での
子孫を増やす事は必要な家系の存続行為だったが、より以上に今生きてる者を守る事に
祈りを捧げて国事とした。更に言えば 戦いは人よりは災害であり兵士は不要だった。

541: 名無しさんAA:17/09/30 12:34
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 188

 日本では周りに攻めて来る他国が少なかった。だが世界では都市国家間は交易もあっ
たが 災害では他の土地へ移る事はあって攻める事も又あった。同じ部族存続も砂漠や
アフリカでは一夫多妻で子供を産んで多産を奨励する。だが一方で人口増加や過密都市
でのは食糧需要には危機が襲う。大陸ではまるでイナゴか鹿が若芽を食む様に人間も又
緑を食い尽くし移動する。中国が匈奴の侵入に悩んで来たのは 匈奴との交易が断たれ
国内では権力争いに明け暮れたからでである。つまり格差是正に取り組まなかったから
文化の隔壁が襲撃を起こさせたのだ。こうした事例は歴史上多いギリシャ時代ローマ時
代或いはインドやペルシャやアフリカでも多いし日本でもある。一般的には競争社会こ
そが社会進歩を遂げると言われるが間違った見方だし、それは事実ではない。殆どの場
合小さな「いさかい」はあっても平和な生活で発見も発明も発展も文化も産まれている
。問題は権力者の施政にある。どこの地域でも人口増加に悩んで領地外にそれを求め、
結局は戦い消滅した民族は多い。隔離された中では進化がないからだ。中国の様に政策
として子供一人とするのは難しいし気宇な例だ。通常は周りを攻めて緑を失い災害によ
って危機が押し寄せ飢餓と共に離散する。こうして古代都市国家の消失や戦争が起こっ
た事が証明されている。これは人口抑制と国家拡大は二律背反であり模索した事だろう
。となれば女性は人口拡大の為に置いといても、人口抑制に男性機能は失わせるのが手
っ取り早い人口調整だった。男は多ければ闘って命を失し忙しければ性交の出会いがな
い。その中では他民族に生殖させ増やし勢力に入れる訳に出来ない。又兵士が少なけれ
ば兵士として雇う喰いぶちも少なくなるが温存は必要だ。つまり自己の民族増加を減ら
す最も効率良い作業が男を少数にする事だった。一方女性は一年に一回しか子供は産め
ず産んだ後もその子の成長には欠かせない世話係だ。従って一夫多妻制度が必要になる
。こうして人口調整の方法として 公式の兵士養成所を作りその忠誠の証としての断根
が女性側に伝承者として受け継がれユダヤ教の素が作られたと研究成果は言っている。
。それが「人は産まれながらにして罪を持っている」とし、「行いや生き方で終末に当
たり救済の主 救世主が現れる」、「正義と平和が支配する理想世界が訪れる。」とす
る“救世主思想”言わば「末法思想」を植えつけて置きながら 忠誠に陰部不能を提出
させた兵士に「君らは選ばれた民だ聖戦士だ」と言うのである。こうして古代は生き延
びて来たと考えられる。ところが現代になって日本やインカの現状からそれは不要であ
り又、より以上の移住でも全体が生き残れないと言う 深刻な地球的問題になったのだ。

542: 名無しさんAA:17/09/30 12:49
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 189

 この日本で言えば地獄の閻魔様のの話やおばすて山の西洋版の話であるこれらの仕組
みは スムーズな人口調整役を兵士にさせた話である。この部族が都市国家群に参加す
る事によって、先の様に他の軍隊の侵入を止め、中国の宦官の様に去勢に近い何らかの
手術によって その常態の兵隊を置いた形で人口を増やさない工夫になっていた。人口
増加と食糧不足のその苦悩は今も同じで、古代の小さな世界であった国家群でも 同じ
様にまとまる集団に活動していたのだろう。そしてこの伝承の女性に受け継がれた宗教
は権力者によって神の如く「諜報活動や暗殺活動や権力集中活動」に無心していた。ま
るで今後世界の滅亡が始まると言わんばかりに布教した。この方式は別に紀元前の時代
は多く用いられて来た手法で、中国やアフリカや南米北方アボリジニなど方々に その
風習の痕跡がある。奴隷としてや多民族の労力を使う手立てとして或いは官史登用とし
て宦官など忠誠の証と反抗の阻止の為に使われた方法だった。ところがその手法が今や
危機を作る。まず殆どの近代都市国家では 戦争が無い限りそうした断種を行わないで
も人口減少に陥っているのである。生物学的にも危機感があるほど種の保存行為が高く
、戦ではより人口は増えた。突然増えるアフリカバッタはその典型的例で生物学的には
合致する。又こうして戦った事での損失が更に食糧逼迫を招いている事実は多々ある。
地中海や砂漠の緑の損出は今も残るし、アフリカの天災はその典型であろう。ある学者
の調査では平和期は動物の生息数は変わらないが大戦や内乱などの戦争で極端に減った
と言う。それは戦争が起こると木を切って船で魚を取る漁業が増える。だが切られた木
は野生動物を減らし、魚が不漁になると野に食を求め野獣食に変わる事で更に一般的な
獣などいなくなるが よりずる賢い猿や鳥が増えて今度は農作物が荒される被害が増え
更に密漁や密猟が増えて 悪循環の末に食糧不足が深刻化して世界的伝染病が蔓延する
と提言しそれは歴史でも証明されている。つまりここで大事な事は、戦争での死者は多
いものの人口は一向に減らなかったと言う事実と、その後病気で減ったと言う現実だ。
更に自然再生能力が無くなるまで緑が無くなり豊かさが消滅した事実だ。この「国家の
安泰を望んで他国から守る」という論理は「自国安泰の為に他国を攻める」と言う行為
に変わり、これまで積み上げてきた「外交」と言う手法が消えた時、結果的になし崩し
的に自然災害要因を作り 自国の破壊から逃れられない運命にある。歴史と言う結果は
その不幸を産む事実を教え その結果がある事に人類が気付いたのである。地球温暖化
は、実はほんの少しの一部分の現象でしかない。だがそれだけでも大型台風や水害や食
糧生産の低下や山火事などで、数多くの連鎖的被害が出ている

543: 名無しさんAA:17/09/30 21:57
 ロヒンギャ問題は深刻な問題だ。本来バングラデシュにもビルマにもイスラム教徒は
全くいなかった。それはフィリピンやマレーシアでもいなかった。だがガレー船交易が
盛んになる10世紀頃に船の着く所に数人のそうしたイスラムの布教が始まった。世界
大戦時のアフガンなどでは盛んに傭兵がインドに出て行った。インドの東インド会社が
盛んに集めたからだ。インドのカースト制はある意味貧民層は幾らでも受け入れたのだ
。世界大戦以前から日本が南方の進出が成功すると、欧米は植民地解体の危機が自らが
治めていたインドでの傭兵を守備兵として雇った。その頃のインドネシアでもマレーシ
アでもここミャンマーでも仏教によって原住民は生活していた。だがイスラム教徒はそ
の生活を捨てなかったし言語体系も違っていたのだ。マレー戦線が拡大し日本が初戦に
勝ったのは同じ仏教徒だったからとも言える。だが陸に海に空に中国の蒋介石援助ルー
トを様々に構築し、そこにイスラム傭兵を契約で投入したのだ。彼らはひるむことない
強い兵士だった。クメールルージュと言われるビルマの血旗隊である。彼らの参戦で、
今まで案内して食糧す支援すらしていた原住民は殺され 砦の維持すら出来なかった。
そこに起こった悲惨さは日本軍を夜盗化させるまで至った。広大な土地に取り残された
日本軍は、当初は南方でも南洋でもフィリピンでもビルマでもベトナムでも戦争よりは
インフラの整備を重きにしていた。原住民に学校を開き日本語を教え 道路を作り兵隊
を送り出し 鉄道を作り物流を整備しようとした。これは満州の成功からの知恵だった
。だがそうした事を恐れた英国は最前線にこの不毛の傭兵を送りこんだ。物資は空輸し
てでも次々と援蒋ルートを作り中国に送り続けた。今の中国の海洋政策として九段線が
ある。「大陸の舌構想」だが、これは日本軍が当初フランスとの戦いを避ける為の香港
での中国を自分の領地としての計画で、イギリスの香港領事館から引き継いだものだっ
たものだ。その後には米英の積極参入によって日本軍は南方政策に変わり更に戦後の共
産軍政策が加わった。だがイスラムはそうした事に関係なく方々に殺戮と領地確保をし
ていった。ポルポト軍などはその生き残りでもあった。近年でも東チモールでも集落が
突然の奇襲を受けて多くの民家が全員いなくなった事件がある。イスラムの不当上陸だ
すぐさまチモールのPKOが組織された。ここに人の馬鹿さがある。つまり共産主義も
自由主義もちゃんとした道徳教育がなければ社会は成り立たないのだ。核廃絶と同じく
合意しこの合意を守る事で平和と人口減少が起こるのであり食糧危機も防げる。中国の
様な教育も道徳も無い巨大国家では乱獲乱開発を起こし、米国の様な宗教的利益主義で
は格差やら資本争いが醜悪な社会を産み、或いは食べれないロシアの様に自国防衛の為
の攻撃論が闊歩すれば世の中は全く良くならない。ここに教育があるのだ。小国主義が
人を豊かにする。問題は大国を制する力が無い事だけだ。

544: 名無しさんAA:17/09/30 21:57
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 191

 アジア大陸で、日本が手掛けて最大のものは、ロシア南下の対抗としての満州の建設
であった。つまり満州国建国はその一歩に過ぎなかった。その先の求めていた 日本の
安泰と周辺諸国との共生であった。これは日本人の本質だろう。五族共和の夢を求めて
いたのだ。世界はこれを、満州国という傀儡国家につくり変え軍政の拡大と見た。又、
満州国に連接してた朝鮮半島の経営に 海岸地帯から黄河の上流500kmにわたる東部
中国のベルト地帯を作りあげた事は このユダヤ金融の指図する企業群や国家群の脅威
に映った。日本は「日華事変の解決」と呼んだが、結果的に、中国民の権益の奪取や日
本圏拡大に見え戦争に繋がった。この戦争が、蒋介石国民党よりも、もっと恐ろしい、
ロシアが根回しした 西洋列強が待っている太平洋戦争へ、日本を導くことになった。
 アメリカは、関心を高め、日本を眺めていたが、共産党の策謀は米国国民を欺くまで
巨大だった、日本の中国大陸における軍事行動にたいして、怒りをこめて非難するまで
になっていったのだ。日本の戦争を終えさせるとの言い訳についに1940年アメリカ
政府はこれまで使っていなかった外交的手段、日本と中国との戦争を終わらせるために
、いわゆる経済制裁を加えることを決定した。この決定は、世界各国が喜んだ。アメリ
カが同盟諸国としてヨーロッパ戦争に参加するものとの期待が現実になって支持した。
それは既に去年からドイツがドイツ・ポーランド不可侵条約破棄を宣言しチェコスロバ
キアのボヘミア占領、ハンガリー王国がカルパト・ウクライナを攻撃し北欧侵攻も果た
しドイツ軍がパリに無血入城していたからだ。日本も米国も、第二次世界大戦への不介
入を昨年に表明していた矢先の事件だった。モノンハン事件でソ連は窮地のままの結果
だった。だがこのソ連の南下に対して1936年に、日本はドイツと日独防共協定を結
んでいた。「共に共産主義拡大を阻止しよう」目の前の仮想敵国の、スターリン率いる
ソ連に恐怖があったのだ。よく連合国対枢軸国と言われ日独伊三国同盟などと言われる
がこの時米国方針が無ければ日独伊三国条約はなかった筈だ。なぜならこの条約は軍事
同盟でなく資源の流通条約だからだ。だが七月、ルーズベルトは側近に国際共産主義者
H・D・ホワイトが居た。こうしてアメリカは日米通商航海条約廃棄通告をしてきた。
のである。つまり世界の対ソ体制がナチス侵攻で米国の内側から崩れ去ったのだ。防共
を国際社会から任せられたと思っていた日本にとっては驚きだったのだ。その意味では
全く時の西洋列強の指導者は自国の利益しか眼中になく 未来の事などなかった。


545: 名無しさんAA:17/09/30 21:58
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 192

 大東亜共栄圏構想は「東亜新秩序圏」や「東亜安定圏」と同一であるとした、日本・
満州・中国に加え、マレーシア(フランス領インドシナ)、インドネシア(オランダ領
東インド)をも含めた範囲であると決定していた。と言うのも、チェンバレン製油所の
石油輸入が日本に止められたのだ。太平洋戦争(大東亜戦争)開戦を控えた1941年
11月6日には第25軍司令官山下はアメリカ領ハワイへの真珠湾攻撃に先立つこと約
1時間前にE作戦(マレー作戦)を行った。マレー作戦は日本軍による一連の南方作戦
の最重要項目で第一発目となった。まともとハワイへの真珠湾攻撃は防備戦であり本来
はこの東南アジアからの石油輸送が目的だった。つまり太平洋戦争はこのマレー作戦を
行う為に開始されたのだ。シンガポールの戦いもインパール作戦の初戦として同時期に
行われ帝国陸軍第25軍がマレー半島に上陸した時、英インド軍第3軍団豪第27旅団
英本国軍大隊がこれに立ち向かった。が海上の物資補給船が既に撃沈されており孤立し
ていた。又イギリス軍は日本の様な無計画では無かった。新着のイギリス軍第18師団
と約7万人の戦闘部隊を抱えてその補給が無い事に悲観的であった。北部マレー半島で
の日本軍は数量的にはわずかに優勢にすぎなかったが、制空権・戦車・歩兵戦術・戦闘
経験において優越してはいたものの2倍を超える兵力差を覆して、当時難攻不落と謳わ
れたシンガポール要塞を日本が10日足らずで攻略した。英国としては歴史上最大規模
の将兵が降参し、。チャーチルは「英国軍の歴史上最悪の惨事であり、最大の降伏」と
評した。だがパーシヴァル中将の判断は英国として当然の事だった。敗けた要因には、
一つは戦車が通れないとされた湿地を日本軍の軽い小型戦車が通り抜けた事二つ目には
突然の攻撃に自軍の防衛で他への応援を駆け付けなかった事三っつ目が肝心の通行する
橋を防備に爆破していた事で本部は完全に孤立しその上新人部隊を上陸させたばかりだ
った。これがパーシバルを会談に持ち込んだ要因だった。裕福な混合戦隊での食糧不足
の反乱を恐れたのだ。その上山下奉文はそうした国際的な捕虜の扱いや会談には似合わ
ない人間だったのである。これがシンガポールやコタバルの悲劇であった。こうして東
南アジアが解放され この地の奴隷的国家群の形成が無くなり旧来からの日本への物流
が出来ると思っていた。支配的植民地経営から自立する日本との共存共栄の外交である
が本来「大東亜共栄圏構想」や「東亜新秩序圏」や「東亜安定圏」と言う論議は、全く
異質で違うものだった。東亜安定圏は北方の日本海周辺の権益であり新秩序は共防政策
であったからだ。「大東亜共栄圏構想」が如何に無謀で捕虜を苦しめたかは想像に難く
ない。それはそれまで無かった戦いに身を投じたからだ。

546: 名無しさんAA:17/09/30 21:59
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 193

 明けて翌年の1942年(昭和17年)に日本も又食糧自給と物量運搬に迫られた。日
本国そのものが国体保持と致命的な敗北を避ける為に、鉄道輸送を必要としていたのだ
。泰緬鉄道はその必要性に迫られた。それは、ちょうど連合軍が最後の勝利を得るため
の、ノルマンジー作戦の様な日本の必要不可欠の作戦だった。この戦争に日本の配員は
大本営は戦争を早めの停戦と調印で終戦が迎えられると考えていた。だが世界情勢でソ
連を相手にドイツは戦い日本もアメリカさえも戦争に入れてソ連が停戦調停してくれる
と甘い期待のまま戦争していた。戦争はどんどん過酷になり日本兵は誰ひとりとして、
最後の瞬間まで、敗戦を信じようとはしなかった。しかも、1945年(昭和20年)8
月15日の、天皇の玉音放送後さえ敗戦と思わず、いぜん戦争を続行するのだという気
迫に燃えていた。先の存置諜者の命令と同じである「再び進軍するまで領地を死守せよ
。」なのだ。この真面目な日本人気質が、泰緬鉄道建設において、信じられないほどの
短期間での完成遂行に、捕虜達を急き立てたのだった。彼らにとっては、マラリアなど
どこ吹く風であった。此処に悲劇があった。キンビグ少佐は言う――泰緬鉄道の必要性
を感じ、これを建設することのできた人種は、いかなる西欧人種ともまったく質の異な
った人種である、と。ニューサウスウェールズ州にあるノウラで、ニューギェアで捕虜
になった数百人の日本兵は、復員という不名誉を潔しとせず、集団脱走して、死を求め
た。サイパンにおいて、日本軍兵士だけでなく、女、子どもにいたるまでが、降伏より
も死を選んだ。日本人が 戦争中つねに身につけていた教訓は、彼らにいかなる行動を
とったかをわれわれが知り、新しい教訓としなければならない。我々が学ばなければな
らない教訓は、「神風」特攻隊においても、「沖縄玉砕」においても、また同じである
。彼らが抱いていた死の観念は、われわれ西欧人の考えている死の観念とは、まったく
次元を異にしたものだったのである。とそして『ミズリー号の道程』を書いた加瀬俊一
は、その中でいう 「日本の敗北は米、英、オランダ、オーストラリアのせいではなく
、まったく無益に、長期にわたって戦った中国のせいである。」としている。そして、
そのようなことは二度とおきてはならないと警告している。「アメリカの日本に対する
鉄および鋼の輸出を禁止した事や、オランダの、長期にわたる石油契約について、日本
の要求を拒否した事。また1941年、イギリスはマレーのゴム輸出禁止命令を出して
最後に、日本にたいする石油輸出を禁止し、在米日本資産を凍結したアメリカが決定的
制裁は、外交がもはや手遅れであり、太平洋戦争を避け難いものとして戦争突入した。


547: 名無しさんAA:17/09/30 21:59
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 194

日本軍のビルマ攻勢はチンドウィン川堤防の線にまで達し、ようやく停止した。その時
、日本軍の補結線は伸び過ぎ、兵士たちは疲れきってしまい、戦力を使い果たしていた
。スリム将軍のビルマ軍団が、インパールの聖域をめざして、北西に向けて退却してい
た間、ビルマ戦線では、スチルウェル将軍の中国部隊が、サルウィン川を越えて、雲南
に進出していた。中国は今や、完全に孤立してしまっていたからだ。ビルマの首都ラン
グーンから、雲南山脈を越えて重慶に至るビルマ公路は、中国に残された唯一の補給路
だったが、いまや日本軍の手中にあった。日本軍も中国国内の度重なるテロに支援路の
遮断が有効だとしていた。特に中国国民党までもが日本軍に対抗して来た今を変える為
にも。 この大勢力圏は、インドシナからビルマを経てマレー半島に至り、無数に散在
するオランダ領東インド諸島およびフィリピンを含み、これらを越えて西部ニューギュ
ア、月形をしたニューブリテン島、飛び石のようなソロモン群島、小さなギルバート諸
島にわたり、最後には、中部太平洋を北上して、アリューシャン列島のアッツ、キスカ
の孤島にも及ぶものであった。日本のこれまで開国を迫られ、資源のない国がソ連の脅
威から泣く泣く朝鮮経営に手をかけ領土を拡大してきた理由の帰結でもあった。日清戦
争に、日露戦争に、多大な犠牲と資本をつぎ込みそれぞれ領土を獲得し、また、第一次
大戦の平和会議において、ドイツの太平洋の領土を譲り受けた。これらの拡大してきた
領土に、さらに今度の大征服によって、新たな領土を追加し、本格的な帝国建設に乗り
出したのだ。1941年(昭和16年)の頃は、日本が足場を築く 絶好のチャンスにも
見えた。オランダ他は実にあっけなく、日本の同盟国ドイツに揉順されてしまったし、
イギリスもヨーロッパ本土の戦闘にまき込まれ、中東基地の随所に専念していた。 一
方、フランスは枢軸国に占領され、ビシー政権は弱体で、抵抗の力はなかった。さらに
重要なことは、日本の昔からの敵国であったソ連が、ドイツ軍電撃戦部隊と生か死かの
闘争を行なって、ソ連の南部地域に突進し、日本の北は安全になるものと期待されてい
た事だ。こうして、アメリカが今までどおり孤立主義を固持して譲歩をみせなないとみ
て、その年の瀬に、南方に向って攻撃を加えることを決定している。これらの戦略的な
考慮は、多くの日本人が信じていた社会的、政治的、経済的主張によって支持された。

548: 名無しさんAA:17/09/30 22:00
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 195

つまり、「大東亜共栄圏」が名実共に安定した自立圏が出来ると信じていたのだ。日本
は東南アジアおよび太平洋からヨーロッパ諸国の軍隊を駆逐することによって、この圏
を繁栄の礎に創造できるだろうと信じていた。この「大東亜共栄圈」構想によって占領
された白人地域は、搾取から解放され、日本の指導の下に、豊かな繁栄を保証される。
特に人口増加と共に食糧や資源のない日本の危機が これによって無くなると期待した
この政策は、東南アジアの独立を望む少数の民族主義者にとって大へん魅力的だったし
、敗戦後もこの地域の共存共栄の思想は変わらずにいる。だが敗戦後日本人は口を閉じ
てしまい、この夢がなかったかのように振る舞った。それは欧米から持ち込まれた高い
理想や共産国の持つ信頼が この裏切り行為と言う結果で惨々足る結末になり身を持っ
て欧米の持つ二枚舌や三枚舌の醜さとその結果の非情さの現実に驚いていたからだった
。その傷は長らく癒えなかったが、近頃は逆に忘れたように騒いでいる。住むだけの住
まいや決して贅沢では無かった生きる為の食事で平等では無いにしても周りさえ配慮の
ある人情社会を築いていた。だが今や贅沢で豪奢(ごうしゃ)な考えの中で過去の歴史の
の積んだ家や時を眺めていた大木は行政の名の下で何の意味もなく打ち払われ、趣を凝
らした食事の食材を世界中から取り入れている。これは現代病とも言える奇妙な進歩で
あろう。かつて幣原が外交官の時代1920年代の自由主義体制における国際協調路線
は「幣原外交」とも称されたが、それは軍部の軍拡自主路線「田中外交」と対立した。
ワシントン体制に基づき、対米英に対しては列強協調を勧めた。共産テロが頻発する大
陸中国において、あくまで条約上の権益擁護のみの追求で、東アジアに特別な地位を占
める日本が中心となって安定した秩序を形成していくべきとの方針である。これがこの
共栄圏の骨子であった。これに米英は賛同し3ケ国条約を申し込んでいる。が幣原は何
故かフランスを入れて4ケ国条約にして改めさせて結んでいる。これには不思議が付き
まとう。世界は金融恐慌の煽りを受けた。若槻内閣倒閣は経済の立て直しの諸外国の方
針にあわせた。1926年(大正15年)の蒋介石の国民革命軍率いて 勝手に行った
北伐の頃である。これに対し、内政不干渉の方針に基づき、アメリカとともにイギリス
による派兵の要請を幣原は拒絶した。この事で幣原はロンドン軍縮条約を結び兵力制限
に同意して軍は出せないとした。軍からは軟弱外交と強い批判を受けてしまっていた。
こうして折角の有能な若槻内閣は倒閣されてしまった。

549: 名無しさんAA:17/09/30 23:48
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 196
 田中儀一はロシア通であった。1927年(昭和2年)第1次若槻内閣のもとで全国
各地の銀行で取り付け騒ぎが起こった昭和金融恐慌である。若槻内閣は総辞職し、代わ
って立憲政友会総裁の田中が内閣を組閣した。田中内閣には 元総理や次の総理を狙う
大物政治家そして将来の総理や枢密院議長などが肩を寄せ合い、大物揃い内閣となった
。ロシア留学時代に正教に入信し、日曜毎に知り合いのロシア人と教会へ礼拝に行く程
徹底したロシア研究者であった。又、地元の連隊に入隊して内部からロシア軍を調査し
、日露戦争前は陸軍屈指のロシア通と自負していた。長州閥の一人だが、軍人として有
能で、同時期ロシアに留学していた海軍広瀬武夫と酒を汲み交わし強硬な開戦論を叫ぶ
などあった。日露戦争では満州軍参謀として総参謀長児玉源太郎のスタッフを務めた。
戦後の1906年『随感雑録』が山縣有朋に評価され、当時陸軍中佐ながら帝国国防方
針の草案を作成し名声を得ていた。その頃の大陸事情は朝鮮の発電所の完成を見て中国
にも多くの電気事情が良くなっていた。そうした背景に 日系企業が上海・青島などの
中華企業を買い上げて更なる改善などで紡績工業など相次いで進出していた。17社程
の大手企業の中で在華紡は日本式経営で中国の4割の百万錘規模の生産を果たしていた
。だが中国国内にも販路を求めていた為この金融恐慌によりこれまでの摩擦が一気に噴
出してデモや日貨排斥運動など標的となった。この事に共産毛沢東がいる事を田中は知
っていたのか日本軍を出さず 中国人ストライキに対して奉天軍閥の張作霖に要請して
武力鎮圧するなど、権益の擁護の後ろ盾に第三者による制圧をはかっている。中国初頭
の袁世凱将軍が創った北洋軍閥は互いに直系(直隷派)、皖系(安徽派)、東北の奉系
(奉天派)、晋系(山西派)、馮系(西北派)で北京政府の政権を争っていた。が19
26年に一応は蒋介石を中心とする政府体制が出来て国民革命軍は北伐を開始した。こ
の頃は、中国国内は取りあえず国民党政府を樹立した状態だった。だが共産党勢力の浸
透は根深く、蒋介石安泰とは全く行かず、上海クーデターなどを起こして共産党勢力や
労働組合の粛清を図る事でやっとだった。やっと南京国民政府を制圧樹立し、更に反対
する武漢国民政府を倒し軍閥政府の根拠地である北京を陥落させた。こうして全国統一
し政府主席に就任し「訓政綱領」「国民政府組織法」を定め「以党治国」(国民党によ
る国民政府の指導)と行政・司法・立法・考試・監察の5院制を定めたが、思う様には
行かず 反対する保守派が集まり清国残党と共に広州国民政府が成立して蒋介石を脅か
していた。田中はその大陸事情をよく知り尽くしていた。だがこの時既に軍部も西園寺
以下対共産化のフリーメイソンの主催するロッジ経営がなされ、政府内にも吉田茂以下
奉天総領事として赴任していた。正にJPモルガンの戦略恐るべしだった。

550: 名無しさんAA:17/09/30 23:50
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 197

 1931年夏、同じ分派の台湾の広東政府の外交部長陳友仁が訪日し、張学良を満洲
から排除し満洲を日本が任命する政権の下において統治させ、中国は間接的な宗主権の
みを保持することを提案したが、幣原外相は一蹴した。その後、関東軍の独走で勃発し
た満州事変の収拾に失敗し、政界を退いた。幣原外交の終焉は官僚外交の終焉であり、
その後は軍部が独断する時代が終戦まで続いたのである。ここで、幣原は2つのミスを
したのである。いわゆる軍部の軍拡自主路線「田中外交」と対立した事だ。ソ連から出
資された英国企業アルコスはソ連諜報部の隠れ家だった。ソ連から金製品や亜麻・毛皮
・マンガン鉱を輸出し、その売り上げで食料・繊維・石炭などを輸入。外国為替銀行と
してアルコス銀行を設置し、貿易関連の資金決済や訪ソ旅行者のための外貨両替にあた
った。この表向きは正当で合法でロンドンの国内法にも合致してた。1927年突然の
服の捜査員50名がアルコス本部事務所に殺到し、外部との往来も接触も一切遮断した
、押収文書は2万におよび、ピストル6丁も共に応酬した。これによって共産党の宣伝
工作や広報活動が南京事件にまで及び今までのイギリス政府の収集した証拠を覆す材料
を電報で取寄せるまでに至った。ソ連が「大英帝国と南北アメリカのいたる場所におい
ての軍事的スパイ活動および破壊活動」のためにアルコスを使ったとして非難して、こ
のアルコス事件以降はソ連と英国間の外交関係と貿易協定は、直後に解消されて、19
27年に英ソの国交断絶となった。従って上海クーデターまでの党内の中国共産党員の
粛清を行った第一次北伐までは米英も賛同して援助していた。だが中国国民党内がまた
混乱状態に陥った時、蒋介石が事態の収拾に成功し権力を掌握すると、国民政府は第二
の北伐を再開した(第2次北伐)。この時の北伐は英米からの不参加である為ソ連に支
援を求めヴァシーリー・ブリュヘルの下で計画された。この時日本軍の後ろ盾の奉天派
の首領である張作霖が北京を撤退し北伐軍が北京を占領したのである。当時日本の首相
・田中義一はなおも張の利用価値を認め、東三省で再起させることを考えていたが、既
に満州国の建国計画を進めていた関東軍は張の東三省復帰をこれを望まなかったという
。1927年に起こったアルコスと同時期に国民革命軍が南京・上海を占領した事で行
った捜索だった。南京事件が発生し、欧米勢力の目にも 国民革命軍の背後に明らかに
ソ連が暗躍する姿が映り、国民革命軍を嫌って支持せず、張に好意的な姿勢を取るよう
になった。張も日本よりも欧米勢力に追随する風を見せていた。今だ英米も日本も中国
の支援方針が中国の混乱に見定め出来なかったのだ。取りあえず 混乱さえあれば良い
そう思ったソ連は積極的に支援した。

551: 名無しさんAA:17/09/30 23:52
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 198

 こうして張作霖は日本支援を執るべく北京のソ連大使館捜索した。それは突然に行わ
れソ連大使館官舎奉天軍として乗り込み、ロシア人・中国人80名以上を検挙、武器及
び宣伝ビラ多数などを押収した。これは奉天にも国民党軍からの共産主義者が浸透し、
それによる満洲の共産化運動を防ぐための処置でもあった。張がソ連大使館官舎を家宅
捜索したことについては、日本を含む列強各国から事前に国際法上の問題がないことの
承認を得ていた。また南京事件は共産主義者が起こしたとされ、各国の共産主義に対す
る警戒心は高まっていた中だったのである。こうして南京事件で追われて満州の本拠地
に帰る事になったが、日本の関東軍は色よい返事はなかった。それは張作霖政権でソ連
の満州鉄道と並行した路線の開拓を進めていたからだ。1928年(昭和3年)早朝、
蒋介石の率いる北伐軍との決戦を断念して満洲へ引き上げる途上にいた張作霖は 乗車
した特別列車が奉天(瀋陽) 近郊、皇姑屯(こうことん)の京奉線(けいほうせん)との
満鉄連長線の立体交差地点を時速10km程で通過中、上方を通る満鉄線の橋脚に仕掛け
られていた黄色火薬推定300キロが爆発した。列車は大破炎上し、交差していた鉄橋
も崩落し、張作霖は両手両足を吹き飛ばされた。現場で虫の息ながら「日本軍がやった
」と言い遺したという。奉天城内の統帥府にかつぎこまれたときには絶命していたが、
関東軍に新政府を作らせまいとした日本軍の暴挙と奉天軍は発表した。2週間後6月2
1日である。しかしまた日本軍も警備、側近ら17名が死亡していた。証言では同列車
には張作霖の元に日本から派遣された軍事顧問の儀我誠也少佐も同乗していた。がかす
り傷程度で難を逃れた。又その声明で事件直後に張作霖配下の荒木五郎奉天警備司令に
激怒した話が伝わっている。張作霖の私的軍事顧問で予備役大佐の町野武馬は張作霖に
要請されて同道したが、天津で下車した事も不審の証明となった。更には、山東省督軍
の張宗昌将軍も天津で下車した。常蔭槐は先行列車に乗り換えた。車両に乗車していた
奉天軍側警備と線路を守っていた奉天軍兵士は爆発の直後やたらと発砲し始めたが日本
人将校の指示によって落ち着き、射撃を中止した。この爆発で解る事は恐らくソ連大使
館の家宅捜査で大量の日本軍内の諜報者がこの張作霖は掴んでいただろうと思える事だ
。又曲がりなりにも田中義一はロシア通でそれは解っていたが「満州国樹立計画」を、
止められなかった事だ。時は昭和恐慌に振り回され、この事で張作霖爆破事件が起こり
、田中内閣は総辞職に入る。田中は天皇に説明がつかなかったのだ。

552: 名無しさんAA:17/09/30 23:53
 こうして「満州国樹立宣言」に至るのだが この時の欧米のマスコミにも共産党員は
数多く配置されて日本非難を繰り返した。更に日本軍の中にも又 誇張とデマと威嚇を
吹聴する者もいた。更にこの奉天軍の「日本軍がやった。」と言う張作霖の言葉も信じ
られる筈はない。好く石原莞爾の陰謀説が語られるがこの時の田中内閣であった事から
ほぼ石原の計画は田中に伝わっていたとも考えられる。更にロシアの諜報員若しくはド
イツ人がいたと考えられる。何故なら爆薬が仕掛けられていると知っていたのなら、ま
ずは張作霖がそこにいる筈はないからだ。ソ連コミンテルン陰謀説の大きな証拠は東清
鉄道の建設と共に3回の、暗殺未遂が起きている事だ。鉄道建設前には関東軍からピス
トルで、その後は自宅の出入りの門に前に2回とも地雷であったとされる。犯人が見つ
からず事は大きくならない事になったが、張作霖自身は日本軍が仕掛けたと言っている
。がその後日本軍が撤去している事から日本製の地雷ではあってもそんな高くつくやり
方を日本軍がするとは思えない。ただそうした事を掴んでいた事はあり得る。更にそこ
で見つかった理由はお抱えの日本人の運転手が盛り上がった土を見て判明した。と言う
のだからまず違うだろう。このロシア情報を元に関東軍はこの地の制圧が出来たのだろ
う。リットン調査団でも恐らく断定出来なかっただろう。ただ欧米は日本軍の仕業にし
たかった。欧米共にロシア人はこうした巧妙な事件を仕掛けるのは得意の民族であるよ
うだ。近年では飛行機事故やオリンピックの薬物事件ではその証拠が現れても違うとの
政府見解を発表する。昭和天皇が言う通りである。欧米は冷たいだがロシア人はもっと
寒い国だ。ノモンハン事件はその後の1939年(昭和14年)に起きる。当時建国し
た満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した紛争の事とされる。が
これは少し違って見える。大日本帝国とソビエト連邦の間で断続的に発生した日ソ国境
紛争で、満州国軍とモンゴル人民共和国軍の衝突に端を発し、両国の後ろ盾となってい
た大日本帝国陸軍とソビエト労農赤軍が戦闘を展開し、一連の日ソ国境紛争のなかでも
最大規模の軍事衝突となった。と言う事件だが 既にソ連は貧困の中で粛清を繰り返し
労農赤軍を組織していた事が原因である。当時日本の租借地関東州、ソ連は1924年
に成立させたモンゴル人民共和国の勢力圏内の事件だ。日本軍とソ連軍が兵力を派遣し
大規模な戦闘に発展した。結果は、日本軍側が航空戦では数に劣りながらも常に優勢で
あったが「地上戦闘は戦車火砲の力の差が甚だしく敗戦に近い結果に終わり、モンゴル
共和国とソ連の主張する国境線はほぼ維持された。この時ポーランド侵攻直前のモスク
ワ主導部は「日ソ両軍の現在地を停戦ラインとし、国境線の画定は後日設立の国境確定
委員で交渉する。」とのクレムリンの決定で事件の停戦の合意が、9月15日深夜にて
成立した。ソ連の南下作戦は事実上稼働しドイツの侵攻作戦で止められたのである。

553: 名無しさんAA:17/10/02 17:41
労農赤軍を組織していた事が原因である。当時日本の租借地関東州、ソ連は1924年
に成立させたモンゴル人民共和国の勢力圏内の事件だ。日本軍とソ連軍が兵力を派遣し
大規模な戦闘に発展した。結果は、日本軍側が航空戦では数に劣りながらも常に優勢で
あったが「地上戦闘は戦車火砲の力の差が甚だしく敗戦に近い結果に終わり、モンゴル
共和国とソ連の主張する国境線はほぼ維持された。この時ポーランド侵攻直前のモスク
ワ主導部は「日ソ両軍の現在地を停戦ラインとし、国境線の画定は後日設立の国境確定
委員で交渉する。」とのクレムリンの決定で事件の停戦の合意が、9月15日深夜にて
成立した。ソ連の南下作戦は事実上稼働しドイツの侵攻作戦で止められたのである。


554: 名無しさんAA:17/10/02 17:41
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 200----

 日本が本格的に国際会議で連合国の一員として派兵したのは1918年シベリア出兵
が初めてだろう。この時大日本帝国・イギリス帝国・アメリカ合衆国・フランス・イタ
リアなどと一緒に連合国として 「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」と
いう大義名分でシベリアに出兵した。ロシアでは革命が起こって社会共産主義を封じ込
めると言う提言であったが 現実的にはロシア帝国時代の外債と、露亜銀行などの様々
な外資を保全つまり借金の取り立てであったと言われる。だが日本からは兵力7万3千
人、約9億円の国家予算(当時)という巨額の戦費を投入して3千人〜5千人の死者を
出し撤退した。ロシアでは元々経済は破綻して近代化の遅れで戦いに敗走を重ねていた
。1917年に2月革命、11月にはレーニンのボリシェヴィキ社会主義革命を経て翌
年帝国は崩壊した。仏英と戦争を起こしていたドイツは単独で講和条約を結び仏英と向
かいあったのだ。仏・英はこれにより大攻勢をかけられて苦戦し、連合国としてドイツ
と共に、同時にロシアの革命政権を打倒する道を叫んだ。こうして干渉戦争を開始し、
ロシア極東のウラジヴォストークに「チェコ軍捕囚の救出」を大義名分に出兵した。日
本でも出兵論が大勢を占め出兵を決定した。海外の知識層はレオナード・ハンフリーズ
意見も同じ分析をしている。「当時の日本側の事情として、領土獲得への野心、日露戦
争後に失った利権の奪還、地政学的な理由であるロシアと地理的に近い事や、さらには
日本の利権が絡んだ満州、日本統治下の朝鮮半島は直接ロシアと国境を接していた等の
みならず、政治的・イデオロギー的な理由もあった。すなわち、日本の政体(国体)で
ある天皇制と革命政権のイデオロギーは相容れない以上、共産主義が日本を含めた同地
域に波及することをなんとしても阻止する必要があったのであろう。」としている。が
これは他の内情もあった。陸軍と海軍の勢力争いと張作霖や朝鮮半島の策動である。こ
の事で張作霖は完全に日本軍の下を決意したし、逆に共産党員が地下活動、即ち諜報戦
に移ったのは間違いなかった。政府としては日露戦争の賠償に国民が不満であった事の
解消材料としても利用した。当初のウラジヴォストークより先に進軍しないという規約
を無視し、ボリシェヴィキが組織した赤軍や労働者・農民から組織された非正規軍たる
パルチザンと戦闘を繰り返し、北樺太、沿海州や満州を鉄道沿いに侵攻。シベリア奥地
のバイカル湖東部までを占領し進軍した。だが張作霖の共闘決意によって幣原外交は魔
境の様なとめどない兵士の死者と莫大な遠征浪費によって平和がくじかれた。


555: 名無しさんAA:17/10/02 17:42
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 201----

 こうして、最終的にバイカル湖西部のイルクーツクにまで占領地を拡大した。各国よ
りも数十倍多い兵士を派遣し、各国が撤退した後もシベリア駐留を続けた。又この時に
占領地に傀儡国家の建設を画策。日本はロシアのみならず、イギリスやアメリカ、フラ
ンスなどの連合国からも領土的野心を疑われた。だが北方からの憂いを取り除き撤退し
たかったのは当然であった。このシベリア駐留は1918年のドイツの帝国革命が起こ
って停戦協定を結び、連合国各国が引き揚げても駐留した。既にシベリア介入の目的を
失い1920年には相次いで撤兵したが、日本軍は更に単独で駐留を続行した。翌年の
ワシントン会議開催時点で出兵を続けていたのは日本だけであった。こうしてロシア側
も境界の防備の必要性を学んだのだ。その時 ロシア帝国は清の間で結ばれた北京条約
(およびその後の補助的な国境に関する合意)に基づき、国境線は満州と中華との国境
を「張鼓峰頂上」を通過していると考えていた。一方、日本側の方は「張鼓峰頂上一帯
」は満洲領であるとの見解を持っており、ソ連側は国境線を曲解して、国境線の標識は
改竄させたものだと日本は主張していた。いずれにしても、この丘の防衛を担当してい
た朝鮮軍第19師団は国境不確定地帯として張鼓峰頂上に兵力を配置していなかった。
この国境問題がノモンハン事件として噴出した。基本的にこの地区を守っていたのは、
元々張作霖の奉天軍であった。ところが張作霖が爆死し関東軍になると手薄と見てか、
ソビエト国境警備隊の小部隊がハサン湖の西側高地の領域に入り、山に砲床、観測壕、
鉄条網、通信施設などを建設するなど、築城をはじめた。更にこれを監視中の松島伍長
を不法に殺害した。その地域の防衛を割り当てられていた日本の朝鮮軍は当初はソビエ
ト軍の前進を無視していた。しかし、管轄地域が張鼓峰で重なっている関東軍は、ソビ
エト軍の企図に疑惑があるとして、もっと対応するよう朝鮮軍を後押しした。これを受
けて朝鮮軍はこの件を東京に知らせ、ソ連に対して正式に抗議するよう助言した。この
国境の曖昧だった地帯は、長年スパイ戦に使われてスパイの巣窟だったのである。この
シベリア出兵に時、日本軍が撤退しなかったのには政治的理由よりは日本人気質、人情
がそこにあった。と言われる。1918年から1922年までの間、連合国が勝手に、
「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分で内政干渉して行っ
たシベリアに出兵であったが、真面目にそれを受けて行ったのは日本だけだった。この
オールド・ボリシェヴィキが指揮して起こした十月革命者は特に政治犯とポーランド人
をナチスのユダヤ人迫害の様に次々にシベリア抑留して収容所に送った事から始まる。

556: 名無しさんAA:17/10/02 17:43
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 202---

ロシア皇帝退位時のロシア革命時には「パン・土地・平和」をスローガンとして掲げた
を目の前にして「平和を求める大衆の意見を尊重すべき」とのトロツキーの意見が反映
されたものとしいる。その市民革命は「パンが無ければお菓子を食べればいい」との声
に集約される。ボリシェヴィキはメンシェヴィキや社会革命党に比べ少数派であったが
、人事と要職を握って「多数派」を名乗り粛清し押さえた。政権取ったその後も粛清を
繰り返し暴力革命を主張した。こうして徹底した中央集権による組織統制が特徴とする
共産党体制が産まれて、そのまま後身である ソビエト連邦共産党へと引き継がれた。
ボルシェヴィズムスは第一義的にロシアの共産主義者を指し、過激なロシア第一主義に
過ぎなかったが、それを隠して共生社会を掲げた。帝政ドイツやナチス時代にはドイツ
の中の社会民主主義より最もに急進的な過激思想を指した。つまり日本語的にはゆるい
共済社会を社会主義とし 過激なヤクザの様な過激な殺人を厭わない共済社会を共産主
義と呼んだが その通りの暴力的世界革命を平和な共生社会の経過であると国際旅団を
作って諜報活動に暗躍していた。ロシアのサンクトペテルブルクモスクワ鉄道の開通を
受けてこの便利さが支持され、サンクトペテルブルクワルシャワ鉄道、モスクワニジニ
・ノヴゴロド鉄道などが次々と予定され、その反対には国際旅団は活躍した。こうして
早くもこの鉄道輸送網の完成を見て発達は極東地域との格差を産んでいた。1860年
代には既に鉄道事業および鉄道監督行政を所管する官庁を整備し1865年、皇帝アレ
クサンドル2世は勅令を出し、内務省と逓信庁電信部門を統合したロシア帝国運輸通信
省を発足させていたがとん挫していた。こうして1867年には運輸通信省建設総局が
出来て鉄道網整備が急務である事になって、この時此処に労働者や技術者の必要性が出
た。此処に強制労働者としてポーランド人を送り込んでいた。当時ロシア帝国は この
ポーランド人政治犯などを多数シベリアに流刑し、ロシア革命当時のシベリアには相当
数のポーランド人がいた。その後、ロシア革命の混乱と1918年のポーランドの独立
によって、多数のポーランド人の孤児(シベリア孤児)がシベリアに取り残され、その
保護のために力を貸す国は殆どなかった。シベリア出兵中にポーランド孤児を救出し、
彼等を祖国に帰還させる事業で陸軍は動いていた。1920年に第1次ポーランド孤児
救済が、1922年に第2次ポーランド孤児救済がそれぞれ行われたのである。こうし
て約815名の孤児が帰還を果たした。このシベリア出兵に従事し孤児を救った51名
の日本軍将校に対し、ポーランド政府はヴィルトゥティ・ミリターリ勲章を授与して、
その功績に報いた。

557: 名無しさんAA:17/10/03 14:26
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 203----

 幣原外相は米英が同盟を求めた形でも仏国まで入れた同盟にした。つまりこれにより
米英の対共産党対策の諜報活動の情報は途絶えた。又田中義一や台湾政府の声を聞かな
い事で 現場の緊張には無知のままの外交活動をつづけた。こうして日本は誇張した力
の情報にドイツに引きずられた戦争となった。この戦争時においても「共栄圏構想」は
西はバイカル湖から一直線にビルマまで東はアリューシャン列島からガダルカナルまで
と言う途方もない範囲を自由勢力圏と想定していた。戦後の幣原内閣は1945年の東
久邇内閣の総辞職を受け、昭和天皇の依頼を受けた内大臣木戸幸一が中心となり、平沼
騏一郎、吉田茂らの協力により幣原喜重郎が首相候補となり出来た内閣だ。組閣の大命
が幣原に下り10月9日に内閣が成立した。当時の日本ではアメリカ合衆国ら連合国の
占領下にあり、幣原の訪問を受けたダグラス・マッカーサーにより五大改革と憲法の自
由主義化が示唆されるなど、連合国軍最高司令官総司令部の強い影響下にあった。幣原
内閣は憲法改正や社会立法に取り組む一方衆議院を解散し戦時色の一掃を図ったものと
みなされているが、GHQは幣原内閣の改革の取り組みが消極的だとして、同年のうち
に財閥解体などの急進的な改革や戦犯逮捕、総選挙期日の延期などを指示した。翌年に
公職追放令が発布され、これにより内閣自体の総辞職の危機を迎えたが、内閣改造によ
り存続し、総選挙の時期も3月以降の実施許可をGHQより得た。この間に内大臣府が
廃止され、また陸軍省と海軍省もともに廃止されて、これを改組した第一復員省と第二
復員省が新たに設置されたのだった。陸軍省は明治5年に兵部省から分離し、海軍省と
ともに設置されたものだ。太政大臣の統制下に軍政、軍令を一元的に統轄するフランス
型の陸軍組織として発足したが、後では軍令機関を独立させプロシア式に改められる。
1878年(明治11年)に参謀本部が設立されると、1900年(明治11年)には
専門教育重視のために教育機関として教育総監部を独立させて純粋な軍政機関となった
。解体され改組される時は旧陸軍省の資財は大蔵省に一括移管された。陸軍省の資料の
一部は、防衛省、厚生労働省に引き継がれている。また陸軍軍人の兵歴は当時の連隊区
司令部から都道府県に引き継がれてた。ところが海軍省は内閣の省であり、海軍大臣は
、天皇によって任命された。海軍大臣の職務は海軍軍人の監督など海軍軍政の管理であ
り軍令権は持たなかった。また大臣は現役の海軍大将又は中将が任命されていた。この
時幣原内閣は初めて 自分の間違いに気づいた筈だ。如何に多くの英霊で歴史があった
かと。それを全権大使で米英に引きずられた事で 日本に地獄を招いた事を知る。

558: 名無しさんAA:17/10/03 14:26
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 204----

 こうした体制が田中派が外交の中心に往かず 更に陸軍の戦争の開戦派を産む結果と
なった。又国際会議の軍縮会議などで海軍大臣が長期間日本国内にいない場合は内閣総
理大臣による兼任や、臨時の海軍大臣を設けたが これらの出席も海軍の役務であった
為 現地の事情と国際会議なり国際情勢との乖離が進んだ事も 日本の悲劇の要因の一
つになっていた。幣原外交は1922年やっとワシントン体制を作り上げワシントン会
議で締結された九カ国条約、四カ国条約、ワシントン海軍軍縮条約を基礎とするアジア
・太平洋地域の国際秩序を維持する平和体制の礎を見た事の成功を日本政府が生かせな
かった事にある。又国際社会はこの条約によって守られるべきものを守り切れなかった
。先に言った様にソ連の武力による世界共産革命を叫び諜報活動やテロ活動は止められ
なかった。それどころかこの条約はこの赤隊とされる潜入コミンテルンを切り落とす時
の足枷にすらなった。そして中国では毛沢東以下こうした国際的約束は全く関知せずに
ソ連の支援をうけて 誤報拡散や中心部爆破など攪乱と動乱焚き付けを数多く起こして
いた。それには理由があった。一つは中国人の野心だ中国政府は政府内でも多くの競争
があったし誰も統一中国など望んでなかった事だ。一つはロマノフ王朝が集めていた、
金銀財宝の金を持っていて資金は豊富だった。更に一つは食糧基地が国内に無かった事
だ。国民を雇う豊富な食糧は全て周辺の諸外国に頼る事しか無かった。トナカイの肉で
さえ言葉の通じない放牧民から買っていたのである。つまりはロシアでもソ連でも自国
民の胃袋を満たす為には 自給自足は出来ず常に周辺国の離反を止める事が仕事であっ
た。これが南下政策のもとであり戦争の要因であった。周辺国も自国民の食糧を失くし
までは輸出しないのだ。この開発にも強制収容の強圧的侵略が北欧や東欧になされて、
この極東開発に収容者を労働力として移送していたのである。幣原は大正から昭和にか
けての、第二次護憲運動で成立した加藤高明内閣の外相に就任した。加藤は第一次大戦
中に大隈内閣の外相として中国に対華21カ条要求を突き付けたことで知られる。この
年代は所謂大正デモクラシーの申し子だった。護憲三派運動を通じて協調外交路線に転
換していたというは日本に欧米文化が浸透した証でもあった。だが幣原や加藤はその中
でも代表するお坊ちゃまだったのだ。共に岩崎弥太郎の女婿で権勢も財力もあり格差の
是正に取り組まず 軍部財界一般庶民などの隔壁が産まれていたのである。これが確執
を産み誤情報と国策の判断ミスに繋がっている。戦後はその間違いにGHQは怒り修正
に追われたと言う。憲法草案でも幣原は理解していたが「松本案」が出てきた事にその
乖離が証明できる。

559: 名無しさんAA:17/10/03 14:30
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 205-----

 幣原外交は失敗の連続で これが今の日本を決定づけた。「国際協調主義」が特徴と
されるが、幣原の友好外交は、ひどく現状を無視するものであった。後の松岡外交同様
、日本を害する物でしかなかった。支那に甘く与えて舐められ、支那に関する現状を知
らされても、思い込んだ平和外交主張を変えなかった。日本とイギリスは支那における
利益が一致する為平和外交路線が英国寄りならまだよかったが、米国の言いなりだった
。既に米国で排日移民法が可決されていた。当時米国に行ける者は満州に行く必要はな
い感情が国民の間にあった。だが、一方的に絶対的な排日移民法を作ったので、外交に
対する国民拒否が出来た。イギリス租界奪取事件の時でも、イギリスは2万3千人の軍
隊で共に列国に同調を求めている。清朝から支那騒乱が起こり外国人居留民の安全が脅
かされた場合は、列国は出兵するのは北清事変同様 決まり事だった。ところが、幣原
は断固として出兵を拒否してしまったのだ。シベリア出兵以来の信頼が疑心に変わった
瞬間である。この日本の平和的というより意味不明な軟弱な態度は、逆に支那人の侮日
感情高め、幣原外交の継続を拒否する事件を起こし続ける。それが南京事件や漢口事件
であった。日本は英国や米国などと同じように大被害を受けていた。だが、日本だけは
報復せずに、居留民の一方的な引き揚げを決めてしまった。これは、支那共産党運動の
過激化する支那ナショナリズムや中国に暗躍する共産党の思うつぼで、弱腰に映った姿
は。「暴れれば日本人は逃げる」と支那革命運動の拡大と矛先の集中を促したのだ。こ
の幣原の軟弱外交はその頃の、大正天皇の崩御(1926年12月)と昭和天皇の即位で国内
の注目は釘付けとなって「南京事件」と平行して「昭和2年の金融恐慌」が起こって、
うやむやになったからだ。この政治の大混乱が落ち着くと幣原への大非難が起こるが、
時すでに過ぎて次のステージに移ってしまう、このことが日本に大きな悲劇をもたらす
。これはまるで頭の良い大学生がオウムに入信する様に 幣原は留学時代に秘密結社の
平和主義者団体に入り込んでいた事を物語るのだ。正に秘密結社ユダヤのシオニストの
ロッジ経営の面妖で醜悪な核心である。ロシアの南下と地域の自立更にイスラムユダヤ
などの原理主義集団の策謀と難民移民の移動は大きな国際問題である。ここに選民主義
の主張の破綻がある。知識や人格のない者の歴史的委譲である。破壊される世俗主義は
破綻でしかない。責任のない権限や財力は悲惨な欲望に果てる。此処に日本の戦前教育
の大事さと価値がある


560: 名無しさんAA:17/10/03 14:31
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 206-----------

弊害がすでにあった「幣原外交」がこの親からの権勢と財力で又再開されてしまう。
このため満州の日本人はさらに我慢に我慢を強いられることになった。そして我慢に何
らかの展望も失われた外交方針が出る。幣原の満州問題対策は、「被害に遭うのが嫌な
ら、引き揚げて来い」という方針だ。明治の昔に政府の政策に従って満州に赴き、何十
年も営々と努力して築いた財産や生活基盤を、少し情勢が悪いからと放棄して帰国せよ
、と言われても納得できるものではない。更に当時の日本経済がほとんど崩壊しては、
国内政治の安定は 朝鮮工業地帯と満州鉄道経営から出来ていた。政局が大波乱を呼ぶ
ことは目に見えていた。幣原が再び外相をやった時「日支関税協定」を結んで支那での
関税自主権を認めた。これは日本の「抜け駆け」として非常に他の列強から嫌がられた
。だがそうした恩恵を支那に与えながら、帰ってきたのは「満州赤化拡大」と「排日暴
動熾烈化」だけだった。こうして日支関係が好転するかに見えたその時期、幣原外交の
間違いで満州は赤化され、支那中央政府の支配の及ばぬ間島地方の反日暴動となって既
に中国大陸は混乱の極地で後戻り出来ない重大化をした。お坊ちゃま外相の英国式ブル
ジョアの所謂西洋列強に合わせた鹿鳴館外交の延長であり 不平等な通商条約締結と同
じに身分を自己保全する姿勢のままだったのだ。そこには俯瞰視野も将来展望も過去の
英霊達の意志や歴史は微塵もなかった。ただの共産党秘密結社ロッジの性格そのものだ
った。ハーディングは共和党のオハイオ州知事候補指名運動を始めたが、共和党大会で
指名を勝ち取るものの、党内進歩主義派と保守派の分裂によって、民主党の現職ジャド
ソン・ハーモンに敗れている。この当時共産党支援の共和党で第一次世界大戦後にアメ
リカ合衆国大統領になったウォレン・ハーディングの提唱で開かれた国際軍縮会議にて
、ワシントン会議においては全権委員をつとめたのである。これは北朝鮮の6ヶ国協議
に似ていて生粋の平和主義者のふりで柔和な物腰、そして『敵を作らないでください』
という選挙戦略で立っていたが裏では賄賂の収受と違法な融資に国有油田を取引して貸
し出し「黒い血のハーディング一家」の一員であったし「オハイオギャング」の一角で
もあった。彼らが中国経営にも共産テロにも深く情報を持っていたのは確かなようだ。
陰謀の末に敗戦を期した日本の苦悩はそのまま世界の苦悩でもある。人の心の隅にある
悪の論理や鬼の業呈を今も尚残して 現代の豊穣を破壊するであろう予測が出来る。


561: 名無しさんAA:17/10/03 14:46
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 208-----------
これまで述べた歴史の要旨は 如何に欧米文明が石の擁壁で構えた街づくりをするし
かない歴史だったか。と言う事だ。つまり何処かで何らかの異変があれば、「黄禍論」
の如く、イスラムから東欧のトルコから或いは北のロシアから容赦なく食糧を求めて、
彷徨い出てくる人々がいた。と言う歴史である。或る時は浮浪者として或る時は兵士と
して或る時は孤児として押し寄せてきた中で国家を維持してきた。そのそもそもの要因
は中華や中東の拡大した帝国主義の罪であろう。だが人類はこの帝国主義のこの悪態を
今だ是正するに至っていない。此処に核兵器の憂鬱がある。北朝鮮が今如何に日本との
外交を求め活動していたかは色々な資料で判明するが、それは在置諜者としての取り組
みと共に対米戦略だったのだろう。日本は明治政府が出来た時すでに大きな憂いを抱え
ていた。それは政府内の軍閥である。当初のこの軍閥競争は日本を支える為には大きく
貢献した。だが、大正・昭和になって海軍と陸軍の競争が覇権しあい その後は海外か
らの秘密結社や国際旅団などのスパイの餌食になっていた。それは「陸軍と海軍が全力
で戦い、その余った力で米軍と戦う。」と言う当時公然と訓示して来た軍人姿勢でも現
れいる。敵である米軍と戦う以前に、日本の陸軍と海軍は仲が悪く、統一した動きが全
くできず更に陸軍には共産党内通者、海軍にはユダヤ金融のフリーメイソンの会員が、
それぞれ深く入り込み跋扈していた事実がある。海軍が政府機関を牛耳り陸軍が戦略を
牛耳っていたからだ。もちろん、元を辿れば「陸軍は長州で海軍は薩摩」という背景か
らそれは出来上がったと言う歴史はある。だが南洋の孤島や南方の兵站に物資輸送する
海軍はその任を果たさなかったと言われている。つまり陸軍を干しにかかり、その為軍
の進撃には現地調達の命令に切り替わっている。これは国内に混乱を果たしていたのは
中国国内だけではなかったのだ。最初は、英米派(鹿鳴館派)の井上馨、欧州派(ドイ
ツ派)の伊藤博文らに対し、軍閥代表で反英米志向の山県有朋の3人が、均衡を図りな
がら国家運営を行っていたのだが、シーメンス事件以来山縣有朋が陸軍大臣になる頃は
、井上、伊藤が死去し山県が権力を独占した形で陸軍には豊富な資材力が資金源になっ
た。それでも児玉源太郎らの活躍により国家運営は安定していた。海軍は元々反戦主流
でハワイ奇襲にも精油施設を攻撃しなかった。既に国際舞台がどう動いているか知って
いてユダヤの情報も高かった。更に数々の兵站補給任務を投げ出し 山本五十六も古賀
峯一も完全な遺体はでてない。フィリピンのダバオとパラオ間で消息を絶っている。こ
れは無線傍受で暗号解読が終わっていたからだと言われる。だが逆に米英の罠に自ら入
っていったとも考えられる。一説ではオースラリアで余生を暮らしたとも囁かれる。


562: 名無しさんAA:17/10/03 14:47
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 209-----------

 日本の太閤秀吉が朝鮮征伐をしたのは 各地の沿岸で襲撃事件が多数起こっていた為
でもあった。日本を度々悩ましていた女真族の入寇とされ紀元前から続いていたと言わ
れる。また十世紀後後半頃から掛けて頻発した高麗軍の入寇のうち、1019年の刀伊
の入寇において対馬、九州の大宰府を襲った「刀伊」(朝鮮語で外様を意味する)とい
う海賊集団は、女真系の一部族が主体だったと考えられている。刀伊の構成員について
は高麗人や契丹人なども混じっていたと言われるが詳細は不明である。室町末期にこの
海賊を調べた所では奥満州の部族の一部と言う報告がなされた。歴史に現れて以来、遼
(契丹)に従っており、中国化の度合いによって熟女真と生女真の2大集団に分かれて
いたとされるが実はそれが違っていた事が明るみに出て来ている。清時代の建立と共に
部族制圧にこの種族を利用したのだ。つまり仏教徒イスラムのウイグルが仲良く暮らし
た為にその又北方のツングース系民族の一つの、最も凶暴とされるエヴェンキに満州族
の軍隊である八旗隊を作らせたのだ。この民族は肉食で寒い地方になれた生活をし、そ
の寒さから目が細い小太りである。正に「匈奴」とされる騎馬族で恐れられる「黄禍論
の元になった民族だった。この民族をチベット周辺国の征伐に多用した。そして清が終
焉を遂げる頃はこの北洋軍閥の直隷派(馮国璋)・安徽派(段祺瑞)・奉天派(張作霖)に吸
収されていたと思われる。直隷派の首魁として湖北督軍王占元や江西督軍李純と組んで
、北洋政府の中心となっていた安徽派の段祺瑞に対抗した事から恐らく直隷派(馮国璋)
にいたのだろう。長崎事件では清国の北洋艦隊は朝鮮東岸の元山に出動した事から朝鮮
元山に本拠を変えたとも取れる。元山は北朝鮮江原道元山市に位置する。朝鮮民主主義
人民共和国鉄道庁江原線の駅である。日本統治時代は平元線の終点駅で咸鏡線の起点駅
であったとされ、平羅線は間里〜高原〜咸興〜金策〜清津〜羅津を結ぶ。平壌から朝鮮
半島を横断して日本海側に出、咸鏡南道・咸鏡北道の沿岸部の大都市を結ぶ線で、ロシ
ア国境に至る重要な鉄道路線である。近くにラソン港がある。またこの満州族の軍隊で
ある八旗軍こそが八路軍の元とも取れ、漢軍八旗は満洲八旗・蒙古八旗とともに清朝初
期の軍隊の主力をなしたと言う。十全武功(じゅうぜんぶこう)では連戦負けなしとし
八旗軍そのものが女真族統一によって出来た軍隊だったとしている。


563: 名無しさんAA:17/10/03 14:51
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 210-----------

 実際エヴェンキ族とされる人は点在する。ツングース系民族の一つで、主にロシア国
内のクラスノヤルスク地方にある旧エヴェンキ自治管区地域に居住する。ほか、ロシア
国内ではサハ共和国などにも居住し、中国国内でも興安嶺山脈周辺の内モンゴル自治区
エヴェンキ族自治旗・黒竜江省などに居住している。エベンキとも表記される。同系統
にオロチョン族とテュルク系のヤクート族とウラル系のサモエード人(ユラツ人)と複
雑に混血を繰り返して、生活を営んでいる。日本では黒水部・粟末部など様々な部族が
在り、長く統一される事がなかった。と記載される。基本的に放牧と糞尿での暖を取る
モンゴル族と同じだが 特筆なのはー40℃の極寒の地に耐えうる生活が出来る事だ。
彼らはゲルよりかなり小さい雪の重みに耐える即席の板で家にしている。更に飼ってい
るのはトナカイである。更に糞尿と共にねぐらとする。極寒の地では細菌は繁殖せず、
外では氷ついて燃料にならないしその腐敗熱でも部屋に暖が取れるからだ。更に匂いは
熊などから襲われない力になっている。昼はトナカイ集団の最前線で熊などの猟をして
その肉の捌き具合は血さえ残さない程独特だ。だがこの末裔が朝鮮民族として言葉や文
化が類似しており、朝鮮民族の祖先という主張がある。2005年に韓国のイ・ホンギ
ュ(ソウル大医大教授)は「韓-ロシア ユーラシア文化フォーラム」において、エヴェ
ンキと韓国人の人種的類似性と関連して「韓国人は北方モンゴロイドのエヴェンキと南
方原住民の血が混ざって形成された民族」という見解を唱えた。その話によると、「何
年か前にDNA検査のためにエヴェンキの髪の毛をソウル大学に渡したことがあるが、
まだ研究結果は聞けなかった。エヴェンキも私たち(韓国人)のようにモンゴル斑点が
あり、顔付きも似ている」という。また、エヴェンキは現在まで「アリラン」と「スリ
ラン」という単語を使用しており、その後シベリア原住民の遺伝子と韓国人の遺伝子型
を分析した結果、約70%が典型的なモンゴロイドの遺伝型を見せており、父系の祖先
のY染色体の場合、シベリア原住民は主にO型、南アジア原住民はC・D型であるが、
韓国人はO型とC・D型が混ざっているという。これについて「韓国語の起源がツング
ース語だという学説を後押しできる実体的証拠が発見された、さらに多い研究が必要だ
」と説明した。獰猛果敢な蛮族の夷狄と同族であった韓国人とは納得できる話だ。また
これには欠損DNAの遺伝子がみつかり それが韓国を形作っている。


564: 名無しさんAA:17/10/03 17:41
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 216-----------

 日本は、満洲国の国づくりを支える決断に陸軍は多くの兵を労働者として使った。こ
の足掛かりになったのがダムの建設であった。大規模なダムを次々と建設して行く中で
陸軍がであったのが「野口遵(のぐちしたがう)」であった。中でも彼が造ったとされ
る「豊満ダム」は、高さ90M、長さ1100M、東洋一のアジア最初にして最大級の
ダムであった。 ダム建設によって、まず満洲の水害が激減したのだ。 治水可能になっ
てこれにより、農業振興が出来上がった。加えてダムは、満洲やその周辺の電力を賄っ
て有り余る供給をしたことで映画配給に及んだのだ。この豊満ダムが完成した時、世界
中から多くの人が見学に来ている。1934年着工、1942年に発電所として稼働開
始した豊満ダム。松花江をせき止めてつくられた堤防は、建設当時はアジアで最も高い
と言われた。その後、中国国内や朝鮮半島の各水力発電所のモデルにもなったこのダム
の設備容量は約100万kW。発電用途以外に治水、灌漑、生活・工業用水の供給に一役
買い大いに潤った。その後1944年に完成した朝鮮半島38度の国境沿いの水豊水力
発電所発電能力:60万kWも又同じ様に竣工させている。この発電規模が当時の世界最
大級であり、当時の日本国内の水力発電の総電力規模280万kWと比較してもその大き
さは巨大なのは容易に比較できる。建設当時、“東洋最高のダム”と呼ばれた中国・吉
林省の豊満ダムは満州国の要になった。フィリピンはスペイン植民地として350年、
アメリカの支配下で40年が経過してもそうしたダムやインフラ整備はしていない。又
ソ連と取り合ったベトナムもフランス植民地すらもわずかに港を建設した程度で英国に
至っては建造物と言えば教会すら倉庫の後に作っている。「住民の生活向上に役立つも
の」と言う意識が植民地思想には無かったのである。対して満洲は建国わずか10年に
してこのような建設をしていた。当時アメリカでもグランドクーリーダムが、同時期に
砂漠地帯であったコロンビア盆地へのかんがい用水供給を目的とした公共事業の一環と
して建設計画が立案された。もとより発電のためというわけではなかったが、途中では
核開発の電力として電源ダムに変更されたが、1933年12月に始まり、第二次世界大戦の
初期に完成した。当初、ダムの高さは現在よりも低いものと計画され、後でかさ上げが
できるものとしたが建設中に現在の高さとするよう変更された。これにより地元の先住
民達はサケマスの溯上や産卵がなくなって問題が起きたが、日本のダムは逆に地元民の
為に作ったと言うこの違いが西洋と東洋の違いであろう。又基本である鉄道輸送にも、
幾度も改良を重ねた。日本の新幹線構想の元になった高速輸送網計画である。日本が開
発した蒸気機関車は夢の超特急でもあった。

565: 名無しさんAA:17/10/03 17:48
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 217-----------

そうした中「あじあ号」は、当時の蒸気機関の最高水準70kをはるかに上回る最高時
速120km/hで走行する仕様であった。しかも、当時の機関車でありながらも、冷暖房
完備で運行した。鉄道敷は、年間600kmも延長され、新京、奉天、ハルビン、吉林、
チチハル等の新都市が建設され始めた。首都・新京では、百万人都市となるべく計画が
進められ、電気、上下水道が完備し、東洋初の水洗便所が整備された。新京放送局は、
百キロワットという東洋一の出力規模の放送局としてスタートした。おかげで、当初は
ラジオに馴染みのなかった満洲人が、昭和15年頃には日本人以上にラジオを聴く人が
増えた。満洲電信電話株式会社は、電話を敷設し、電話加入者は昭和15年には10万
人を超えた。又現地の教育にも力を注ぎ昭和9年には国立新京法制大学、昭和12年に
は建国大学が建立されました。こうして、銀行が生まれ、小中高の学校が設立され、重
工業地帯が整備され、農地は整備されかつ拡大し、病院ができ、道路ができ、空港や港
がで来たことで。満洲国では、治外法権もなくした。満洲人であれ、支那人であれ、日
本人であれ、満洲国法の下で等しく裁かれるようになった。これが13年の成果だった
。大東亜戦争の最中でも止むことのなかった満洲国の国家的インフラ整備事業は、昭和
20年8月9日、米国が広島に原爆を落とした3日後のソ連による宣戦布告で破られた。
南方戦線に戦闘用物資を送り、ほとんど丸裸状態だった満洲の関東軍17万人に、ソ連陸
軍 175万人が襲いかかります。日本軍の将兵には、弾も残されていない。あるのは、終
戦直前まで工事進行のために用意されていたダイナマイトだけです。彼らは、そのダイ
ナマイトを抱え、肉弾突撃で、ソ連軍の戦車の来襲を食い止めようとした。なぜか。日
本の婦女子や老人たちを、内地に逃すためです。しかし、男たちがソ連軍に肉弾突撃を
して戦い死んで行ったことをよいことにして、難民となった日本人の婦女子や老人に、
支那人や朝鮮人が襲いかかります。ようやく北朝鮮との国境の町、通化にたどりついた
とき、女たちは、衣類さえも奪われ、身にまとっているものといえば、大陸の寒空の中
で、むしろ1枚にされていた。そしてソ連は、戦後、日本の軍人、民間人、60万人〜70
万人と、様々な機械設備等をシベリアに連行し、ソ連の理想とする、有産階級(労働者
)が働かなくても、国家によって給料が支給され、みなが平等に暮らせるという「理想
」の実現のために、奴隷的労働を課せられた。その設備の一部はイランまで送っている


566: 名無しさんAA:17/10/03 17:59
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 218-----------

わずか13年で満洲国一国を建設した、その技術とノウハウと、設備一式のすべてを、
盗賊の如く持ち去り。その後ソ連は民間人までもなぶり殺しし連行した。収容所では、
無給のみならず一日一食パン一切れで彼らを働かせ、ソ連国内のインフラ整備をさせた
。近所の脱因の人からは毎日10人に一人は死んで言ったと証言がそこにあった。アメ
リカのボーレー調査団の報告によれば、ソ連が満洲から連行した資産は、約9億ドルに
相当する資産だったといわれる。当時大蔵省から抜擢され満洲国総務長官を務めた星野
直樹氏の言葉があります。建国わずか13年。満洲国の建設は遂に見果てぬ夢に終わっ
た。しかしこの間、日本の若き人々の費やした努力と苦心とは永久に日本民族の誇りと
するに足るものであると確信する。満洲国建設の仕事に参画することができたことを、
いまに幸福と考えているのは、決して私一人ではないと思う。満洲はその後、支那共産
党が、摂取し、自国の領土とした。この時毛沢東はこれを狂喜し、「東北省(満洲)を
手に入れたことは、支那すべての富を入手したことに等しい」と述べています。しかし
、支那共産党は、日本と満洲国が作った鉄道路線を、戦後の60年間、ただの1Mも伸
ばすことなく、日本と満洲国が築いた高速道路も、ようやく近年、日本の経済と技術援
助で完成させたとされていて、庶民の為の整備の気持ちはない。五族協和と王道楽土を
夢見た満洲国の姿は、いまはもう既にない。そして、支那共産党の民族同化政策により
、かつて 一国を築いた女真族も、すでにありません。満洲国の物語は、私達に色々な
事を教えて止まない。大切なことは、国家というものは、大国の意志で消えてなくなる
こともある、ということです。それも合意でも対立でもその頃の様な大戦状態はかなり
国は消える可能性が出て来る。と言う事。更にその状態は今でも出来る素地がある。と
言う事そのことを、わたしたち日本人は、もういちどよくかみしめてみるべき時がきて
いる。王道楽土を夢見た大陸浪人たちが創った「満州国」はいまはもうありません。
甘粕正彦の辞世の句を最後に紹介します 「大博打 身ぐるみ脱いで すってんてん」
彼が果たした役割が大きいとも言われています。甘粕正彦は東映の元となった人材を育
成した満州映画の社長でもあった。我々は生活も大事だが 政治を監視する事はもっと
大事だと事を知らねばならない。死ぬ間際には「満州国は満州人達のものでなくてはな
らない。」とも言って息を引き取ったとされる。

567: 名無しさんAA:17/10/03 18:02
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 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 219-----------

 このとき同じ陸軍でもかなりに異色の「帝国陸軍の異端児」の渾名が付くほど組織内
では変わり者の石原 莞爾(いしわら かんじ)が関東軍作戦参謀として就任してきた。
、乃木希典や大隈重信の私邸を訪ね、教えを乞うている程の勉学家でもあったがそれは
独学での事だった。色々と問題児として扱われながらも陸軍士官学校を卒業した卒業後
は、歩兵第65連隊に復帰して、見習士官の教官として非常に厳しい教育訓練を行った
とされる。ドイツへ留学(南部氏ドイツ別邸宿泊)する。ナポレオンやフリードリヒ大
王らの伝記を読みあさった。陸大30期卒業生。石原は前列中央連隊長命令で、不本意
ながら陸軍大学校を受験することになった。受験科目は、初級戦術学、築城学、兵器学
、地形学、交通学、軍制学、語学、数学、歴史などであり、各科目三時間または三時間
半で解答するというものであった。受かる気もなかった為全く勉強しなかった。しかし
、その試験に合格し、大正4年(1915年)に入学することになる。ここでは、戦術学、
戦略、軍事史などの教育を施されたが、独学してきた石原にとっては膨大な宿題も楽に
こなし、残った時間を思想や宗教の勉強に充てていた。その戦術知能は高く、研究討論
でも教官を言い負かすこともあった。また、日蓮宗系の新宗教国柱会の熱心な信者と言
う。軍事雑誌に掲載された戦術問題に解答を投稿するなどして学習していたが、『西洋
史講話』や『古神道大義』など、軍事学以外の哲学や歴史の勉学にも励んでいる。盛岡
藩家老で明治新政府の外交官だった南部次郎(東 政図(ひがし まさみち)よりアジア
主義の薫陶を受けていた為孫文大勝の報を聞いた時は、部下にその意義を説き、共に「
支那革命万歳」と叫んだという。石原が書いた『現在及び将来に於ける日本の国防』に
は、既に満蒙領有論が構想されている。また、『関東軍満蒙領有計画』には、帝国陸軍
による満蒙の占領が日本の国内問題を解決するという構想が描かれていた。こうして昭
和3年に関東軍作戦主任参謀として満州に赴任した。自身の最終戦争論を基にして、関
東軍による満蒙領有計画を立案する。昭和6年(1931年)に板垣征四郎らと満州事変を
実行し、23万の張学良軍を相手に、わずか1万数千の関東軍で、日本本土の3倍もの
面積を持つ満州の占領を実現したのは驚異でもあった。



568: 名無しさんAA:17/10/03 18:06
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 220-----------

 昭和11年(1936年)の二・二六事件の際、石原は参謀本部作戦課長だったが、東京
警備司令部参謀兼務であり反乱軍の鎮圧の先頭に立った。この時の石原の態度について
、昭和天皇は「一体石原といふ人間はどんな人間なのか、よく分からない、満洲事件の
張本人であり乍ら この時の態度は正当なものであった」と述懐している。この時、ほ
とんどの軍中枢部の将校は、反乱軍に阻止されて登庁出来なかったが、統制派にも皇道
派にも属さず、自称「満州派」の石原は、反乱軍から見て敵か味方か判らなかったため
登庁することができた。安藤輝三大尉は、部下に銃を構えさせて、石原の登庁を陸軍省
入口で阻止しようとしたが、石原は逆に「何が維新だ。陛下の軍隊を私するな。この石
原を殺したければ直接貴様の手で殺せ」と怒鳴りつけて、参謀本部に入った。反乱軍は
、石原のあまりの剣幕と尊大な態度におされて、何もすることができなかった。昭和12
年(1937年)に廣田内閣が総辞職した。これにより、次期首相にはかつて軍縮に成功し
、軍部ファシズムの流れに批判的であり、また中国や英米などの外国にも穏健な姿勢を
取る宇垣一成大将が俄然有力視され、ついに大命降下される運びとなった。石原莞爾は
参謀本部第一部長心得を中心とする陸軍中堅層と共に、軍部主導で政治を行うことを目
論んでおり、宇垣の組閣が成れば軍部に対しての強力な抑止力となることは明白であっ
たので、なんとしてもこの宇垣の組閣を阻止しようと動いた。だがこの宇垣一成も努力
の人でドイツに留学した経験を持つ。宇垣一成は、大正末期から昭和初期にかけて長州
出身者に代わって陸軍の実権を握り、宇垣閥と称される勢力を築いた人で、陸軍大臣と
して宇垣軍縮を断行したほか、クーデター未遂計画である三月事件に関与したと言われ
た。彼が予備役入り後に組閣の大命が下った時陸軍の反対で頓挫し、以後も幾度か首相
に擬せられたがいずれも実現しなかった。短期間外相を務めた後公職から引退し、戦後
になり参議院議員となったが在職中に死去した。この宇垣一成と対立した事には正義が
なかったが石原莞爾はそれを実行している。長州閥の権限強化に嫌気があったのだろう
だが、石原は後年、宇垣の組閣を流産させたこのときの自分の行動を人生最大級の間違
いだった。として反省している。石原の反省は、宇垣の組閣流産の後の政治の流れが、
石原が最も嫌う日本と中国の全面戦争、石原が時期尚早と考えていた対米戦争への突入
へと動いていったことによるものである。と言う


569: 名無しさんAA:17/10/03 18:12
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 221-----------

 満州時代の甘粕は、日本政府の意を受けて満州国を陰で支配していたとも言われる。
しかし甘粕はその硬骨漢ぶりと言動故に関東軍には煙たがられ、甘粕事件のイメージも
あり、士官学校の恩師である東條英機という例外を除いては、むしろ冷遇されいた。そ
の影響力はあくまで日本人官僚グループとの個人的な付き合いや、士官学校時代の同期
の学友達との人脈が源泉となっていたという。また、根岸の証言によれば、謀略の資金
源の大半は満映から出ていたという。1945年(昭和20年)8月8日ソ連は日ソ不
可侵条約を破棄し日本に宣戦布告。翌9日満洲に侵攻。ソ連軍が新京に迫りくる中で、
日本が降伏した翌日の8月16日甘粕は満映の社員を全員集めて「必ず死ぬ」と言った
上で、中国人社員に「満映は中国人社員が中心になるべき」と述べ、最後に「皆さんの
お世話になったことを深く厚く御礼申し上げます」と挨拶した。そのあとに身の回り品
を形見として一人一人に配り、社内の預金を退職金として全額引き出した。自殺を心配
し監視される中、その目を盗んで青酸カリの服毒自殺を図ったとされる。また石原莞爾
は「俺が理想郷を心に描いて着手した満州国が、心なき日本人によって根底からふみに
じられたのである。在満中国人に対する約束を裏切る結果となってしまった。その意味
において、俺は立派な戦争犯罪人である。独立に協力した中国人に対してまことにすま
なかった、と思っている。」と述べた。 1937年7月、盧溝橋事件を機に日中戦争
が勃発するが、日本・満州国・中国の連帯を唱える石原にとって日中戦争はあってはな
らない戦争であり、実際、「支那事変」が拡大に向かってはずみ始めたとき、当時にお
いて作戦部長であった石原は、近衛首相に「蒋介石と頂上会談を行い決着をつける以外
に術はない、石原が中国までお供する」と提案します。結局、近衛首相は決断に踏み切
れず戦争は拡大・泥沼化し、それが結果的に太平洋戦争へとつながっていった経緯があ
る。そして日米戦争もまた、石原にとっては何十年か早く始まってしまった戦争であり
、彼の戦略理論上、決して勝てない戦争であることを早くから認識していました。戦後
、石原は通信社の記者に対し、次のように語っています。「もし日本が真にサイパンの
防備に万全を期していたなら、米軍の侵入は防ぐことはできた。(中略)米軍はサイパ
ンを奪取できなければ、日本本土爆撃は困難であった。(中略)蒋介石がその態度を明
確にしたのは、サイパンが陥落してからである。サイパンさえ守り得たなら、日本政府
は東亜の内乱を政治的に解決し、中国に心から謝罪して支那事変を解決し、次に民族の
結合力を利用して東亜一丸となる事が出来たであろう。」と懐述している。

570: 名無しさんAA:17/10/03 18:26
 彼は『世界最終戦論』を唱え、東亜連盟として 日本、満州、中国の政治の独立に力
をつくし朝鮮は自治政府として、経済の一体化、国防の共同化の実現を目指した構想を
提案し、戦後の右翼思想にも影響を与えていた。その一方で、熱心な日蓮主義者でもあ
り、最終戦論では戦争を正法流布の戦争と捉えていたことはあまり知られていない。最
終戦争論とは、戦争自身が進化して戦争形態や武器等などが巨大化してやがて絶滅する
。と言う物で絶対平和が到来するという説である。その前提条件としていたのが、今の
核兵器クラスの「一発で都市を壊滅させられる」武器と地球を無着陸で何回も周れるよ
うな兵器の存在を想定していた。といわれる。比喩として挙げられているのは織田信長
で、鉄砲の存在が、日本を統一に導いたとしている論法だ。ドイツへの留学中の南部氏
のドイツ別邸宿泊してナポレオンやフリードリヒ大王伝記を読みあさった結果の推論だ
ろう。また、日蓮宗系の新宗教国柱会の熱心な信者となった為末法思想の上の平和論と
も言える。これらが欧州文化の持つ異文化や有色人種に嫌悪する思考と人種差別には、
ぴったり納まった未来像であったとも考えられる。石原が昭和2年(1927年)に書
いた『現在及び将来に於ける日本の国防』には、既に満蒙領有論が構想されている。又
『関東軍満蒙領有計画』には、帝国陸軍による満蒙の占領が日本の国内問題を解決する
という構想が描かれている。翌年に関東軍作戦主任参謀として満州に赴任すると。自身
の最終戦争論を基にして、関東軍による満蒙領有計画を立案し実行する。昭和6年での
板垣征四郎らと満州事変を実行し、23万の張学良軍を相手に、わずか1万数千の関東
軍で日本本土の3倍もの面積を持つ満州の占領を実現し建国に至ったとする、この満州
国の建国は、「王道楽土」「五族協和」をスローガンを必要としたが、それは日本自衛
の方法論の究極でもあった。これにより満蒙領有論(植民地支配論)から満蒙独立論(
経済生活共有防衛論)へ転向させ日本人も国籍を離脱して満州人になるべきだと語って
いる。だが軍部は日本及び中国を父母とした独立国と東洋の自立の布石としてとらえた
のであった。しかしそれは当然ながら、石原も又独自の構想である最終戦争たる日米決
戦に備えるための第一段階であり、それを実現するための民族協和であったとも指摘さ
れる。基本的にベルリンで戦争論を学んだ時殲滅戦略と消耗戦略の類型を学び取り、戦
争を決戦戦争と持久戦争に分類される手法を学んでいる。最終的に決戦戦争では武力の
重要性が高く、その経過は期間は短期となる。一方で持久戦争では武力以外の手段が他
の手段に対して相対化され、戦争は静的でその期間は長期戦となる。と知っていて、そ
の防御戦闘の技術的優位性や経済優位性が圧倒的に高まってから行うものとし、将来の
戦争は決戦戦争の形態に移行し大量破壊兵器で戦国時代が終了すると予見していた。

571: 名無しさんAA:17/10/03 21:49
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 223----------

 日本では、戦略という言葉の意味に主に最も次元の高い大戦略である国家レベル、に
おける、外交や経済戦略がなかった。「国家の政治的な目的を達成するための行動の指
針」について陸軍局と海軍局には各自あったがそれは決して交わっていない。不用意に
発刊された石原のこの発刊は多分にアメリカの戦略に大いに脅威を与えたであろう。こ
の後日本が対日制裁での物資補給が滞ると、御前会議では日本が対米英蘭開戦を正式に
決定した。南部仏印進駐後に対外関係、日米関係が決定的に悪化し「ハル・ノート」を
突きつけられた後の1941年に開かれた御前会議においての決定はそれまでを踏襲し
た決定ではあったが「12月1日午前零時までに日米交渉が成立した場合は武力発動を
中止する」という留保付きの明文でその危機に心理的負担を軽くしている。それまでに
も、9月6日の御前会議で第三次近衛内閣が決定し、11月6日の御前会議においての
東条内閣が再度決定し承認された「帝国国策遂行要領」で、すでに12月初旬の開戦が
決定されていた。 とはいえ、11月5日の決定を受けた陸海軍の現場では、直ちに、
フィリピン、マレーなどに対する南方作戦やハワイ攻撃をはじめとする作戦準備を発動
した。 無論、当時の軍事・政治エリートの中にも、米内光政海相や山本五十六連合艦
隊司令長官、井上成美第四艦隊司令長官など開戦に消極的であったし、日米の物的基盤
比較に関する報告書、並びに図上演習・兵棋演習等を通じ、たとえ 南方作戦が順当に
いったところで対米戦争に勝ち目のないことは予想出来ていた筈だった。この対米戦争
の愚を知り、アメリカに対して勝ち目はないことを悟っていた にも拘らず、国家の政
治的な決定に殉じ、真珠湾奇襲作戦を策定・実施した山本は、いわば軍人の鑑であり、
一組織人としてあるべき姿を体現した人物であるように言われる。だがそれにも拘らず
、なぜ当時の日本は「自滅軌道」ともいうべき敗戦必至の対米戦争へと向かい、未曾有
の惨劇を招いてしまったのかは今だ闇の中である。真珠湾攻撃を考案した山本連合艦隊



572: 名無しさんAA:17/10/03 21:50

司令長官は、1936年12月から39年8月にかけて務めた海軍次官時代、対米戦争への傾斜
とみられるあらゆる国策に対し断固として反対していたし、三国同盟締結を画する政府
に憤りを覚え、「日米正面衝突を回避」すべく「絶対に日独同盟を締結す可からざる」
との意見書を海軍省に送っている。この山本に対して 石原は大局的な戦略を何よりも
重視し、山本は与えられた状況の下、作戦・戦術のレベルでより良く戦うことを追求し
たと見ることができる。その長期的にも短期的にも開戦反対の2人でも止められない動
きは、当時の新聞やメディアの策略としか言いようがない。ロッジ経営フリーメイソン
も国際旅団経営のコミンテルンもドイツシオニストも英国にコミンテルンも全てが日本
の開戦を望んでいた。しかしミッドウェー以降の史実を見てもわかるように、開戦での
戦略の不備を作戦・戦術で補うことは到底不可能であることは否めない。それどころか
海軍には殲滅作戦の意識も陸軍との協調作戦には極めて否定的で、来迎礼賛は一つも無
かったし、孤島の陸軍の兵糧攻めに加担までしていたと言える。


573: 名無しさんAA:17/10/03 21:50
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 224-----------

『石原莞爾 マッカーサーが一番恐れた日本人』(双葉新書、二〇一三年二月一七日)
には、石原莞爾がジャーナリストの マーク・ゲインに、日本の敗因など吐露している
『ニッポン日記』(筑摩書房 一九五一)ので、そのまま紹介する。昭和二十一年四月
は、講和条約締結前で、まだ交戦状況下にある。他の軍人たちは自殺・自決したりして
自ら「心の法廷」に決別したが、石原は連合軍最高司令官マッカーサーや米大統領トル
ーマン、アメリカ国民に向って堂々と反論した。それがマーク・ゲインの『ニッポン日
記』に、こう書かれている、「私が現役に止まっていたら、あなた方アメリカ人にもっ
と金を使わせたでしょう。戦線を縮少し、アメリカの補給路を延長させ、日華事変を解
決すればもっとうまくやれたと思う(中略)。日本の指導者たちがミッドウェーの敗戦
の意義を埋解し、ソロモン群島の防衛線を強化していたら、太平洋の広さが日本に味方
していたにちがいない。山本五十六大将らは誤りを犯した。どこに根拠地を求めるかを
知らなかったからだ。サイパン失陥を聞いたとき、私は敗戦を覚悟した。」「私は支那
とは和平できたと思っている。われわれは東亜連盟に非常に確信を持っていた。その精
神を中国民衆に浸透させることができたら、戦いを終えることはできた。東亜連盟は、
終始非侵略主義だった。国際連盟が、中国が満州国を承認さえすれば、日本軍隊は中国
からの撤退しうると論じていた。蒋介石は相互に結末をつける段どりとなっていたから
満州国を承認しただろう。私は終始、中国本土から撤退し、満州国をソ連との緩衝地帯
にせよ、との意見だった。勿論我々はソ連と戦う意志などはなかった。」そして石原は
、東條については「無能な男」と語る。「対中国政策に関しては、東條と私との間に別
に意見の相違はなかった。なぜなら、東條という男は、およそプラン(作戦)など立て
る男ではないからだ。彼は細かい事務的なことはよくできる。しかし中国政策というよ
うな国策や大問題に関しては全く無能だった。彼は臆病者で私を逮捕するだけの勇気も
なかった。東條のような男やその一派が政権を握りえたという事実が、すでに日本没落
の一因でもあった。」と述べた。さらに東條に迫害され続けた東亜同盟会員とマッカー
サーについても語っている。「不幸なことは、東亜連盟は貴国の命令で解散させられた
。東條も連盟を弾圧しようと試みたが連盟は朝鮮でも満州でも、また支那においても、
力強い勢力を維持し(続けたなら平和維持)出来ただろう。マッカーサーが東亜連盟を
解散させたとき、我々は旧日本の軍国主義とアメリカの軍国主義者とは何の違いもない
ことを知った。東亜連盟こそ、共産主義思想と対等の条件で戦える唯一の組織だった」

574: 名無しさんAA:17/10/03 21:52
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 225-----------

【中略】最後に、「日本の敗因は何ですか」と聞かれたときは、はっきりとこう話した
。「日本の真の敗因は、民主主義でなかったことだ。特高警察と憲兵隊のおかげで、国
民はいつも怯えていた。しかしこれらの警察力が、今除去されたということが、ただち
に日本の民主化を意味するものではない。が秘密警察が破壊された以上、マッカーサー
は日本人の手で追放を行わせるべきである。総司令部のやり方を見ていると、どうも信
用できない人たちの情報に頼っている、というのが現状だ。新聞関係のあなた方などが
総司令部が真実を知りうるように、大いに助力されることを、私はお勧めする。」と。
早瀬氏の『石原莞爾 マッカーサーが一番恐れた日本人』には、興味深い記述だ。
戦前、皇室には予算として年額450万円が国家予算から計上されていたが、一説によ
れば天皇の総資産は少なく見積もっても約16億円であるという。だが、宮内庁のこの
数字は嘘で、本当の資産総額は、海外へ隠した資産を含めれば、信じ難いような天文学
的金額であるともいわれている。皇室予算だけではこのような金額を貯蓄することは不
可能であったが、当時皇室は横浜正金(後の東京銀行)、興銀、三井、三菱ほか、満鉄
、台湾銀行、東洋拓殖、王子製紙、台湾製糖、関東電気、日本郵船等、大銀行、大企業
の大株主であり、その配当総計は莫大なものであった。すなわち、これら企業・銀行の
盛衰は、そのまま皇室に影響を及ぼすわけである。こうなると戦争で、財界が植民地か
ら搾りとるほどに皇室は豊かになるということになる。」戦前の天皇家と国家、あるい
は天皇家と資本家の関係がこれで言い尽くされているであろう。天皇は決して操り人形
では無かった。彼の侍従の話では、彼は、強力な独裁制の主唱者として登場してきたと
いう。彼は、卓越した知性の持ち主とも言われている。1945年までは、彼は、政府
のあらゆる詳細に明るく、すべての分野の官吏と逐一協議しており、常時、世界情勢に
ついての全体的視野を保持していたという。彼の、民事、軍事、宗教上の力は、絶対的
なものと受け止められておりながら、彼はそれをただ儀礼的に、かつ国務大臣の推奨を
追認するのみで執行していたとも言われている。だがそれは間違いだ。また、どの話の
中でも、彼は常に大臣の構想に遅れを取らずに助言を与え、そして、彼が受け入れられ
るような推奨案へと舵取りしていたことが次々と語られている。また、時には、反対す
る見解をも採用し、少数意見も受け入れ、あるいは、ひとつの推薦案を丸々無視したと
すらも認められていた。調べた確証から浮かび上がる天皇の姿は、公式の伝記にあらわ
れるような姿とは、まるで嘘のように異なっている。


575: 名無しさんAA:17/10/05 13:51
 昭和天皇に対して 軍人だった人の多くの見方では、裕仁は、献身的で、衰えを知ら
ず、利巧かつ細心で、そして忍耐力を備えた、卓越した戦争指導者だった。と言われる
。ただ、彼も又、アジアから白人を追放するというその使命を帯びた盟友の誉れ足らん
とした大祖父から その座を引き継いで来たアジアの指導者の一人だった。それでも、
国民はそうした事はもっと無関心で後進的であった。その為に、人々をそうした役務に
かりだすため、戦争の20年前から、心理的、軍事的に準備を重ね、巧みに操っていっ
た中の一人と言える。只石原莞爾が天皇の国際的裏事情に皆無であった様に、昭和天皇
も又身近な所に松岡洋右や木戸幸一の様な国家神道の平和や和平の本意に反した洋蒙派
を側近としてつけた事が、大きな間違いではあったろう。後のGHQの調書取りに「隠
すところなく、恐るるところなく」、いかに自分が軍国主義者と戦い、政治的には非力
であったかを述べ、当時の政府や軍部の内情を暴露して天皇免訴に動いたと言う。しか
し、結果的には連合国との開戦に対して明確に反対しなかったことから、イギリス代表
検事であるアーサー・S・コミンズ・カーからは、「“天皇の秘書”であるなら、親英
米派であった天皇の意向に沿って行動するのが道徳であろう。」として、「不忠の人間
」であると強く批判されが、正に政治や軍部の宮家派を作り翻弄させた中心人物達であ
った。結局、木戸の日記や証言は天皇免訴の決定的証拠にはならず、東條の証言によっ
て天皇の免訴は最終的に決定することになったが、天皇や東条を調査し指導する力もな
かった。将来陸軍を担うだろうとされる永田鉄山が駐スイス大使館付駐在武官となった
時永田とロシア公使館付武官小畑敏四郎少佐と欧州出張中の岡村寧次少佐の同僚三者は
ドイツのバーデン・バーデンで会合を行い、翌日にはここに東條英機も合流した。この
会合にて、陸軍における長州閥支配の打破、人事刷新、軍制改革、総動員体制の構築を
目指すことが合意され、陸軍の中に統制派とされる面々が第一次世界大戦時の欧州の総
力戦体制の構築を日本においてもおこなうことを目的として中堅将校を集めた一夕会が
結成された。此処に「ソ連の緩衝地帯」としての支那の安定を説き、天皇の下の結集を
図る皇道派と「日本の属国」として機能する為には支那を叩いて日本の力を示す必要が
ある。とした統制派の視点の違いがあった。これにより相沢三郎陸軍中佐による永田斬
殺事件が起きた。「支那と戦争すれば英米は黙っていないし必ず世界を敵とする大変な
戦争になる」と反駁した。だが総力戦計画に心酔していた陸軍は「国家総動員に関する
意見」などが認められて1926年(大正15年)に国家総動員機関設置準備委員会幹事
となり、内閣の資源局、陸軍省の動員課と統制課の設置に導き、初代動員課長となる。
その為この事件以降東条英機がこの課長となった。

576: 名無しさんAA:17/10/05 13:52
 昭和天皇は若い頃には、宮中の書斎にナポレオンの胸像を飾った中で過ごしていた。
有名な話で、パリを訪問した時の土産として自分で買ったもので、珍重していたと言う
。彼の持論はイギリスの分析したフランスの話とされる。「ナポレオンの軍隊は安上が
りの徴集兵で、この軍隊を愛国心に燃える兵隊の群れに仕上げた軍隊だった。」「日本
の軍隊も又 葉書一枚で徴兵された“民草”といわれる安上がりの軍隊で、ナポレオン
の軍隊以上に愛国心に燃えていた。」と比較され「ナポレオンは 補給のほとんどを現
地補給とした。天皇の軍隊はこれを真似た。」「ナポレオンは参謀部をつくり、機動力
にまかせて、波状攻撃を仕掛けた。天皇は大本営を宮中に置き、参謀部の連中と連日会
議を開き、ナポレオンと同様の波状攻撃を仕掛けた。」「真珠湾攻撃や、南方での戦争
は、ナポレオンの戦争とそっくりである。」と鬼塚氏は書いている。そう言われれば確
かにそうなのだ。つまり、昭和裕仁天皇はナポレオン崇拝で、それをならって大戦争を
仕掛けるという壮大な火遊びをやった。と見られる。真珠湾攻撃が「成功した」と聞く
と、狂喜乱舞したとされ、2・26事件の当時の侍従武官の本庄繁の日記には、天皇が
、ナポレオンの研究に専念した様子が具体的に描かれていると言う。敗戦で戦争指導の
責任を全部、東条ら軍人らに(それも陸軍ばかり)に押し付けた。大東亜戦争で米英と
戦った主力は帝国海軍である。陸軍の主任務地は支那およびビルマやインドであり、わ
ざわざ太平洋を主任務地としたのは海軍の主張であった。あの太平洋での拙劣きわまる
作戦で惨敗につぐ惨敗を喫し、国家を惨めな敗北に導いた直接の責任は、海軍の筈だっ
た。ところが、戦後には何故だか「海軍善玉論」がマスコミや出版界を席巻した。あの
戦争は全部陸軍が悪かったという風潮が数多く醸成された。何故か多くの作家がそのお
先棒を担いだ。海軍の作戦を宮中の大本営で指導したのが、昭和天皇だったし、陸軍の
満州占領に海軍を炊きつかせた天皇としては、どうしても敗戦の責任を海軍に負わせる
わけにはいかなかったようだ。そこから「海軍善玉論」を意図的に展開させたのではな
いか。と、多くの歴史家や佐藤氏は見ていた。だが私は裏にモルガンがいた。と思う。
太平洋作戦の全般を大本営の服部卓四郎や瀬島龍三らは「下僚参謀が勝手に指揮した。
」などとと書いているが、さすがに本当は昭和天皇が指導したとは書けなかったのだろ
。東京裁判で収監された東条英機は尋問に答えた。「我々(日本人)は、陛下のご意志
に、逆らうことはありえない。」と言ったが、これは当時としては真実である。しかし
東条のこの発言が宮中に伝えられると天皇は焦った。責任が全部自分に来てしまうと。
自分が絞首刑にされる。と意を決してそれで天皇は部下を遣わして、GHQに会いに行
ったし 周りは東条と軍部に戦争責任を負わせるべく木戸をして工作をした。

577: 名無しさんAA:17/10/05 13:52
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 229-----------

 そもそも江戸時代 天皇家が生き残るののは幕府にへつらう藩主達と同じ立場であっ
た。地位こそ高かったものの 外交に内政にタッチする事は無かった。それは幕末にあ
って外国船が沿岸に現れてもそれを指令する権限も資金も資材も無かった。宮中を守る
独自の軍隊すら徳川が指名した薩摩や長州や会津などの外様に守られての住居だったか
らだ。正に現人神であったのだ。この中で尊王攘夷が外様が焚き付けられた事は間違い
ない。そこには生活する庶民や日本の国体など言う視野はない。守る物も攻撃する力も
海外との話し合いする知識も無かったからだ。つまりTVのコメンターよろしく国内の
解説か判断の批判かしか無かったのだ。佐賀藩で大砲が造られ薩摩で反射炉で鉄の製造
に至った時クーデターを画策した。そしてその後ろ盾はイギリスであったと言える。明
治政府になって長州薩摩の軍閥が出来ても尚 明治政府には力は無かった。潰れたとは
言えグラバー商会他の借金は残っていたからだ。新政府や朝廷の両者ともにロスチャイ
ルドの資金力に支えられて債権の取り立てに悩まされていた筈だ。天皇家が返済し蓄財
に転じたのは日清戦争の時であろう。清国からの賠償金は3億65百万円程度であり、
その内そのまま2千万円が皇室の財宝になった。勿論この振込や運用は、皇室管理する
宮内庁の中ではあったろうが天皇の耳に入ったはずだ。これに図に乗って、その後には
経済戦略を取り次々と戦争を仕掛けていく趨勢を止められなかった「戦前の皇室予算は
年額450万円が国家予算計上がなされていた。一説によれば天皇の総資産は少なくみ
て約16億円である。」と宮内庁ははじいている。この数字は嘘で、本当の資産総額は
、海外へ隠した資産を含めれば、信じ難いような天文学的金額であるともいわれている
。皇室予算でこのような金額を貯蓄することは不可能であるが、当時の皇室は横浜正金
(後の東京銀行)、興銀、三井、三菱ほか、満鉄、台湾銀行、東洋拓殖、王子製紙、台
湾製糖、関東電気、日本郵船等、大銀行、大企業の大株主であり続けた、その配当総計
は莫大なものであった。数々の資本家は彼らの投資を受けて存続していた。中島知久平
「中島飛行機」津田信吾「鐘紡」藤原銀治郎「王子製紙」藤山愛一郎「大日本製糖」な
どそれは数限り沢山ある。彼らは中国との全面戦争とともに、イギリスとの戦争を説い
た高利益の基礎に外地会社の多角経営があり、これを積極的に中国領内に拡大する希望
を持ったことで、邦人会社の優位を保とうとしていたからだ。これら企業・銀行の盛衰
は、そのまま皇室に影響を及ぼしたわけで、こうなると戦争で、財界が植民地から搾り
とるほどに皇室は豊かになるという構図だと言うことになる。

578: 名無しさんAA:17/10/05 13:53
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 230-----------

天皇家は封建時代の末期、慶応三年全資産の現金評価金額がわずか10万2268円でした。
この頃天皇家では、出入りの豆腐屋さんに「今日の支払いはちょっと待って下さい」と
言ったことがあるほど貧乏していたという話が、京都には伝わっています。ところが、
明治になって、日本が資本主義的発展を始めてからは、表にみられるように、鰻登りに
資産が増え続けています。最初の頃は伊藤博文たちが、当時の権力者の象徴天皇に資産
力をつけて、海外資本からの買収に危険を感じたからだ。知っての通り伊藤は人身売買
の罠にかかった経験があった。更に天皇の尊いその力を利用して、日本を資本主義的に
発展させようと考え、「金は力なり」と言って、明治維新のときに地方の大名から取り
上げた。これも国内の対抗する兵力を減らす為に模索された。国の資産を次々に天皇家
の資産にした結果代わりに株資本の形態を整えた。各藩に銀行が出来上がりその銀行の
融通で藩主運営をさせ契約社会にした。その後憲法が制定され、国会が開設されてから
では、やりにくくなるからと、国会開設以前に駆け込むように天皇に資本投下を行なっ
ている。その後は日本が、アジアに侵略を開始してからは、雪だるま式に資産を増やし
て行く。経済学者の報告では、1917年ロシア革命でロシアの皇帝が倒されてからは
、天皇が世界一の大富豪になったとのことです。大正、昭和にはその1千万弱の資産が
終戦時37億円に膨れ上がっていた。国体とは実はこの資本の事であった。戦場で散っ
て行く若者たちを盾にして支配層が守ろうとしたものはこの「神聖な財閥」を頂点とす
る金融資本の塊だったのである。天皇家の資産は、戦後GHQによって財産税33億4268
万円が課税され、そのほとんどは物納された。その後に残された金融資産は1500万円。
この1500万円が、昭和天皇が亡くなった時には、20億円にも膨らんでいました。天皇家
に経済顧問として投資のアドバイスをしていたのは、元経団連会長の石坂泰三氏や元三
菱銀行頭取の加藤武男氏、元日銀総裁の森永貞一氏だった。明治維新以来、最高の財政
ブレーンが皇室の富を極限まで増やすために働いてきた。賄賂がきかないくらいに天皇
を金持ちにせよというビスマルクの助言に沿って、日本の一流企業や銀行の株式と年間
収益の10パーセントが天皇に譲渡されたのである

579: 名無しさんAA:17/10/05 13:54
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 231-----------

元々松岡洋右は11歳の時、父親が事業に失敗し破産し、親戚がを頼って既に渡米して
いた。18983年(明治26年)その父を頼り留学のため渡米した。アメリカでの生
活は厳しくキリスト教の影響を受け、入信に至った。来日経験のあるアメリカ・メソジ
スト監督教会牧師メリマン・ハリスのあたたかい信仰に見守られつつ、紹介された日本
自由メソヂスト教会の指導者となる河辺貞吉と親しくなり影響を受け、洗礼を受けた。
がそれでもアメリカでの生活は苦しいままで、最初の寄宿先に到着した早々薪割りを命
じられるなど、使用人としてのノルマをこなしながら学校へ通わなくてはならなかった
。という。また、度々人種差別の被害にあいこの体験が「アメリカ人には、たとえ脅さ
れたとしても、自分が正しい場合は道を譲ってはならない。対等の立場を欲するものは
、対等の立場で臨まなければならない。力に力で対抗する事によってはじめて真の親友
となれる。」を信条とする彼の対米意識を育んでいった。母親の健康悪化などで190
2(明治35年)、9年振りに帰国した。東京麹町に山口県人会の寮で独学での外交官
試験に挑み合格した。こうして外務省に入り中華民国上海、関東都督府などに赴任した
。その頃、満鉄総裁だった後藤新平や三井物産の山本条太郎の知遇を得て外交官になっ
た。明治13年に山口県熊毛郡の田舎町の廻船問屋の四男として生まれた彼が入信して
覚醒宗教派メソジズムの終末思想の「確証の教理」や「信仰の確証」をするメソジスト
とは誰も思っていなかったともいえる。「聖霊の証し」の強調は狂信主義で運動を特徴
づけるものでもあったからだ。それほど青年の頃のアメリカ留学は辛かったのであろう
。短期間のロシア、アメリカ勤務の後、寺内内閣のとき総理大臣秘書官兼外務書記官と
して両大臣をサポート、特にシベリア出兵に深く関与した。この時馬鹿げた事に日本政
府はあれほど諜報活動をしながらも樺太原油の情報を得て居ない。又1919年(大正
8年)からのパリ講和会議には随員(報道係主任)として派遣され、日本政府のスポー
クスマンとして英語の力を発揮、また同じく随員であった近衛文麿とも出会う。帰国後
は総領事として再び中華民国勤務となるが、1921年(大正10年)外務省を41歳
の若さで退官した。退官後はすぐに、上海時代に交友を結んだ山本条太郎の引き抜きに
より、南満州鉄道(満鉄)に理事として着任、1927年(昭和2年)には副総裁とな
る(総裁は山本)。松岡本人も撫順炭鉱での石炭液化プラント拡充などを指導していた


580: 名無しさんAA:17/10/05 13:55
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 231-----------

元々松岡洋右は11歳の時、父親が事業に失敗し破産し、親戚がを頼って既に渡米して
いた。18983年(明治26年)その父を頼り留学のため渡米した。アメリカでの生
活は厳しくキリスト教の影響を受け、入信に至った。来日経験のあるアメリカ・メソジ
スト監督教会牧師メリマン・ハリスのあたたかい信仰に見守られつつ、紹介された日本
自由メソヂスト教会の指導者となる河辺貞吉と親しくなり影響を受け、洗礼を受けた。
がそれでもアメリカでの生活は苦しいままで、最初の寄宿先に到着した早々薪割りを命
じられるなど、使用人としてのノルマをこなしながら学校へ通わなくてはならなかった
。という。また、度々人種差別の被害にあいこの体験が「アメリカ人には、たとえ脅さ
れたとしても、自分が正しい場合は道を譲ってはならない。対等の立場を欲するものは
、対等の立場で臨まなければならない。力に力で対抗する事によってはじめて真の親友
となれる。」を信条とする彼の対米意識を育んでいった。母親の健康悪化などで190
2(明治35年)、9年振りに帰国した。東京麹町に山口県人会の寮で独学での外交官
試験に挑み合格した。こうして外務省に入り中華民国上海、関東都督府などに赴任した
。その頃、満鉄総裁だった後藤新平や三井物産の山本条太郎の知遇を得て外交官になっ
た。明治13年に山口県熊毛郡の田舎町の廻船問屋の四男として生まれた彼が入信して
覚醒宗教派メソジズムの終末思想の「確証の教理」や「信仰の確証」をするメソジスト
とは誰も思っていなかったともいえる。「聖霊の証し」の強調は狂信主義で運動を特徴
づけるものでもあったからだ。それほど青年の頃のアメリカ留学は辛かったのであろう
。短期間のロシア、アメリカ勤務の後、寺内内閣のとき総理大臣秘書官兼外務書記官と
して両大臣をサポート、特にシベリア出兵に深く関与した。この時馬鹿げた事に日本政
府はあれほど諜報活動をしながらも樺太原油の情報を得て居ない。又1919年(大正
8年)からのパリ講和会議には随員(報道係主任)として派遣され、日本政府のスポー
クスマンとして英語の力を発揮、また同じく随員であった近衛文麿とも出会う。帰国後
は総領事として再び中華民国勤務となるが、1921年(大正10年)外務省を41歳
の若さで退官した。退官後はすぐに、上海時代に交友を結んだ山本条太郎の引き抜きに
より、南満州鉄道(満鉄)に理事として着任、1927年(昭和2年)には副総裁とな
る(総裁は山本)。松岡本人も撫順炭鉱での石炭液化プラント拡充などを指導していた


581: 名無しさんAA:17/10/05 13:55
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 232-----------

 だがこの松岡洋右も幣原内閣も 日本に「黄禍論」の禍い即ち諜報員の暗躍があって
大きく政治まで及ぼしている事が解らなかった。政友会は日本最初の本格的政党政治を
行った政党で戦前の帝国議会において幾度も内閣を作って日本を動かした。1900年
に超然主義の破綻と 政党政治の必要性を感じた伊藤博文が自らの与党として組織した
がその運営は帝国ホテルに事務所を設置するぐらい経済界との癒着があった。政党政治
に明治天皇は反対したものの天皇守護の政党も必要との説明で折れた。日露戦争以降の
交渉に西園寺などが欧米の「エリート・アングロサクソン・クラブ」に入会出来たから
とされる。英国ロンドン倶楽部 仏国パリ倶楽部 米国ボヘミアン倶楽部やフリーメー
ソンやイルミナティの世界だが、これは結局の所戦争時の個人的な外交会議に過ぎない
。だがそこでの同意や意向は強く政治の世界に反映された。こうして提言に基づき19
06年成立の第1次西園寺内閣には2大臣を送り、年来の主張であった鉄道国有化を実
現した。つづく第2次桂内閣にも与党、第2次西園寺内閣のもとでは原敬・松田正久を
中心に党勢を拡大する。第3次桂内閣に対しては護憲運動を組織して倒閣に追い込み、
1913年成立の第1次山本内閣の与党となった。なお、西園寺と桂が交代で政権を担
当したこの時代は桂園時代と呼ばれた。こうして激しく共産化を避けて資本主義作りを
行った。1930年に松岡が引き抜かれ、満鉄を退職して第17回衆議院議員総選挙に
郷里山口2区から立候補して当選する時は。議会内では対米英協調・対中内政不干渉方
針で固まろうとしていた。この幣原外交を厳しく批判し、国民から喝采を浴びる事にな
り1931年(昭和6年)の満州事変をうけて、1932年(昭和7年)、国際連盟はリットン調
査団を派遣、その報告書(対日勧告案)が9月に提出され、その後ジュネーブ特別総会
での採択を待つ状況だった。此処に松岡は全権大使として入った。連盟総会は日本に対
して厳しい雰囲気の中、開催される。到着早々の松岡は1時間20分にわたる原稿なし
の大演説を総会で行う。それは「十字架上の日本」とでも題すべきもので、「欧米諸国
は20世紀の日本を十字架上に磔刑に処しようとしているが、イエスが後世においてよ
うやく理解された如く、日本の正当性は必ず後に明らかになるだろう」、との趣旨のも
のだった。しかし、日本国内では喝采を浴びたし 会場もこの英語力にこの演説に拍手
だった。軍縮分館で行われた連盟総会で報告書は予想通り賛成42票、反対1票(日本
)、棄権1票(シャム)の圧倒的多数で可決・採択された。松岡はあらかじめ準備して
いた宣言書を朗読して総会から退場した。だがこの時脱会を決めたのは松岡ではない。
後日の外務省方針だったのである。それは世論に押されたからだ。此処に策謀がある。

582: 名無しさんAA:17/10/05 13:56
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 233-----------

 この演説は全く書類で配布はしていない。つまり公式文書としての声明をしていない
。又途中退席したが それは採決があった後だったのだ。更に言えば採決前の対談やら
根回しをやってないし この反論は宗教じみたキリストの話であり 反論に値しなかっ
たし この総会に例え演説が受けたとしても 本国の意向を無視した採決にはならなか
ったであろう。松岡はそこで脱会宣言した訳ではない。だが日本の新聞始め当時の報道
は「松岡が来てから日本はサイレント版からトーキーになった」と会衆は口々に世辞を
言い「国連よさらば。」などと銘打った新聞の論説が出され、帰国では英雄であった。
 実際は松岡の「十字架上の日本」の演説の後、「リットン卿一行の満州視察」という
満鉄広報課の作成した映画が上映され、各国代表を含め約600人程が観覧したが、併
合した朝鮮や台湾と同じく 多大な開発と生活文化振興を目標とする日本の満州開発姿
勢に、日本反対の急先鋒であったチェコ代表ベネシュも絶賛したが共に日本の対外宣伝
の不足を感じ、松岡にその感想を伝える程であった。つまり放映は遅かったのである。
事前に各国に配布し鑑賞してもらい その開発の為の努力の数値を示した方が良かった
はずだ。だがそれには裏がある日露戦争は、日英同盟による支援のほかに、アメリカの
ユダヤ資本の支援を受けて戦った戦争だった。日英同盟は、バルチック艦隊のアジア帰
還をさまざまの形で妨害し、アメリカユダヤ資本は、戦費を調達した。そして、日露戦
争直後、ポーツマス条約締結の最中、アメリカの鉄道王ハリマンが来日し、満州におけ
る共同の鉄道経営を提案し、日本政府内の大方の合意を取り付け、帰国した。その帰国
後、ポーツマス条約交渉から帰ってきた、小村寿太郎は、「桂・ハリマン覚書」の破棄
を強硬に主張し、覚書は破棄されることとなった。さらに、ハリマンの商売敵のモルガ
ン系銀行団からの資金提供の申し出も拒否したのである。日本がこの覚書を破棄したこ
と知ったハリマンは、烈火のごとくに怒り、ただちに翌年の8月に腹心のウィラード・
ストレイトを奉天領事に送りこみ、徹底して日本の利権とアメリカ人の利権とを衝突さ
せていったのである。この時、ハリマンは次のような言葉を言い放った。「日本は十年
後に後悔することになるだろう」又当時、セオドア・ルーズベルト大統領は、次のよう
な言葉(書簡)を残している。「私は従来日本びいきであったが、ポーツマス会議開催
以来、日本びいきでなくなった……」 と こうしてアメリカ議会に反日抗戦の機運が
高まっていったのである。

583: 名無しさんAA:17/10/05 13:58
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 234-----------

 この緩衝地帯の満州鉄道経営に米国を入れる事がロシアに備えるとともに共同経営で
日米友好をもたらし一石二鳥になったのではないか。これを蹴った小村寿太郎は歴史を
変えたとの批判は多い。一見この意見は正しいように思われる。だが小村寿太郎は外交
の天才で彼がミスを犯すことなど在り得ない話だ。第1回目の文部省海外留学生に選ば
れていてハーバード大学へ留学し、法律を学んだ天才で。帰国後は司法省に入省し、大
審院判事を経て、1884年に乞われて外務省へ転出する。陸奥宗光に認められてから
は、1893年に清国代理公使を務めていた。従って彼は欧米の二枚舌の醜さを十分に
知っていたし「黄禍論」で理論や経済的には同じ白人国家が対立しても感情や本能的に
は有色人種を裏切る事を知っていた。更に彼の頃のフグ計画であるユダヤ人入植地計画
がロシア国境沿いで御破算になっていた事も知っていたと言える。もともとユダヤ人と
呼ばれる実体には20〜30の団体がある。この大部分の本部がかつてはオランダにあ
った。オランダは大航海時代制約が少なく、ユダヤ人達は培った商才をいかんなく発揮
できる場所だった。17世紀のオランダ黄金時代になると、東インド会社経営にも大き
く関わるようになった。前に述べた様に航海はその時資本家を募集して一回ずつの航海
への投資とその見返りで資本が出来ていた。本来の直系有色人種の母系母子ユダヤは今
ではつかめない程小さく今のクルドとも言われる程だ。逆にこの白人ユダヤを創った元
がイタリアやベニスの商人達でユダヤ人でないユダヤ教徒を創ったとされ彼らがボヘミ
アンとしてポーランドやロシアにいたとされる。所謂白人ユダヤの系統であこの系統は
職人組合ギルドから発達していてユダヤ教徒である事を隠していたと思われる集団だっ
た。こうしてこの人達がオランダやドイツやイギリスで成功し又スイスやイタリアの富
との間で金融家として介在し中世を過ごしていた。こうして早く渡ったユダヤ人と今で
も迫害を受けてる地元のユダヤ人といたのである。勿論この時のユダヤ人とはユダヤ教
徒の事だ。こうしてスピノザなどユダヤの知識人倶楽部とユダヤ人の間で「新エルサレ
ム」と呼ばれるユダヤコミュニティがシオニスト協会とメシアによるイスラエルの再建
というヤハウェの約束を信じてきた観点からシオニズムに反対しているフリーメイソン
などが出来た。フリーメイソンなどは字の如く本来石工組合なのである。アメリカでは
大半は中欧・東欧から移民してきたアシュケナージとその子孫である。セファルディム
、ミズラヒムなどユダヤのマイノリティ民族も少なからず存在すると言う。


584: 名無しさんAA:17/10/05 13:58

 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 235-----------

 当時における鉄道の経営と言えば、国家を経営するの同じ意味であった。米国型経営
の中には、主要都市とそれを結ぶ周辺の領土の治安を守り牛耳る事だった。共同経営と
聞こえはいいが、ある意味で紛争の火種を付ける行為だった。アメリカは当時から今も
巨大市場の中国大陸に、幻想の期待を抱いている。ハリマンの挫折後も、米国務長官ノ
ックスによる満鉄中立化の提案など、たびたび満州進出を目指していたことからも伺え
満州に足がかりを得れば、日本を締め出す事は明らかだった。現実に戦争が起こった理
由は英国との付き合いで出来た欧米との信頼が米国やドイツなどで裏切られた結果だ。
 ハリマンの満鉄共同経営案は、明治維新から日米開戦に至るターニングポイントとし
てよく語られる。しかし、それを受け入れたからといって日米開戦回避の可能性が高ま
ったとは到底いえず、むしろ危険を増しただけかもしれない。既に植民地の野望はハワ
イやフィリピン購入で解っていたし、JPモルガンなどの作ったフリーメイソンを通じ
た野望は整いつつあり、下手すれば日米戦争を回避できるどころか、開戦をより早めた
り大和民族の離散と言う惨々たる結果になった装いがあった事がゾルゲ事件でもわかる
。その意味で小村寿太郎の決断は評価されるべきであろう。鎖国時代の19世紀末に、
ロシアではポグロム(ユダヤ人迫害)の嵐が吹き荒れて日本出資を応援したと見たのは
日本人の人の良さでしかない。欧州ポグロムはあまり教科書に出てこない。が国民権の
ない彼らすら奴隷だった。サンクトペテルブルクのあの広大で綺麗な宮殿や公園を創っ
たのは奴隷としてのユダヤ人がユダヤの金とロマ族やボヘミアン労働者でロシア政権の
迫害による税の取り立てで出来た。農奴以下の身分が国を潰され増えていたのが現状だ
った。その為に1894年に政権を握った皇帝ニコライ2世は、彼の政権を脅かすほど
の民衆の不信感に直面していた。その打開策として、彼は民衆の怒りを「内の敵(ユダ
ヤ人)」と「外の敵(有色人種若しくは日本人)」に向けようとした現実は知らなけれ
ばならない。



585: 名無しさんAA:17/10/05 13:58

こうしてまずは弱き日本を叩いて 大津事件の鬱憤と朝鮮半島の権益を我
が物にと言う戦いが始まったのだ。1904年、日露戦争が勃発すると、ヨーロッパの
ユダヤ資産家は、ユダヤ人を敵視していた帝政ロシアへの援助を拒否した。この資産家
たちの中には、今まで『シベリア鉄道』へ多額の援助をしたフランスのロスチャイルド
卿も含まれていた。ロスチャイルド卿がロシアのために働いたのは、戦争で負傷したロ
シア人を援助する機関に寄付することにとどまった。ロシアに対する態度とは対照的に
、他のユダヤ人資本家たちはみな日本を援助した。その中でも注目すべきは、ニューヨ
ークの『クーン・ローブ商会』の経営者であるヤコブ・シフであるが、日露戦争は、ユ
ダヤ人が農奴だった頃、兵士としてまた様々な関係の生みの親として大いに動いた近代
における最初の大戦であった。それまで国を失ったユダヤ民族は、戦闘経験はなかった
し国民ではなかった。が帝国ロシアとドイツ帝国のみがユダヤ人を労務とし『シベリア
鉄道』の建設に携わらせ、更に雇用兵でなく自国徴兵として戦闘態勢を整えた。こうし
てロシアに大きく貢献し、また自らロシア軍兵士として戦った。ポーランドやウクライ
ナ兵という最初の自衛の志願兵でも金による雇用兵でもない徴兵の兵隊制度であった。


586: 名無しさんAA:17/10/05 13:59
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 236-----------

 日露戦争に動員されたユダヤ人は3万3000人で、これは満州におけるロシア軍の
約6.6%、このうち約3000人が戦死した。と 記録される。しかしその一方で、戦
争でロシアを負かすために日本に援助を送り、日本の勝利を喜んだのもユダヤ人であっ
た。そして、戦時中に起きた革命の過程とその結末の中で随所に登場し、それと並行し
て同じ頃、ロシアからパレスチナへ移住するための重要な役割を担ったのも、またロシ
ア系ユダヤ人であった」「『シベリア鉄道』はロシアの軍事・経済の拡大に大きな弾み
をつけ、日本との対立を早める要因となった。この鉄道は、国外から巨額の資金調達に
よってまかなわれたが、その中の一つがフランスの『ロスチャイルド銀行』であった。
ロシア政府の奨励により、ユダヤ人事業家は『シベリア鉄道』の沿線に居住した。東欧
地域の開拓につとめ、ロシア権益の存在を強めるためである。又中国の北東に位置する
満州に、ロシアの町ハルビンが建設されたとき、ロシア政府は『シベリア鉄道』の中国
部分と呼ばれる東清鉄道の地域と、その南部に当たる南満州鉄道の付近へ、在ヨーロッ
パユダヤ人の移住を促した。その場所に『ヨーロッパ人口』を増援するのが目的であっ
た。1903年、ハルビンのユダヤ人コミュニティで、請負業や商業に携わったユダヤ
人の数は500人を数えており、その地でもユダヤ人は町の発展に大いに貢献していた
。」「日露戦争で負けたロシアは、ヤコブ・シフが日本を援助したことを許さなかった
。1911年、ロシアの大蔵大臣はアメリカの報道機関に対して、次のように述べてい
る『ロシア政府は、あのユダヤ人シフが私たちにもたらしたことを決して許さず、また
忘れることはないであろう……彼は一個人でありながらも、日本のアメリカからの資金
調達を可能にした。彼(ヤコブ・シフ)は、我々に立ち向かった最も危険な人物の一人
である!』」だがこの後も強制連行での強制労働は止まらなかった。農奴と農奴を使う
者を兵隊として戦場に送った為食糧自給がままならず不満者が多かったからだ。食糧の
元々連年の戦いの為に財宝はあっても食糧はなかった。革命が起き打ち捨てられた孤児
がこの鉄道沿いに産まれた。その後のシベリア出兵時の保護はこうしてうまれたのだ。


587: 名無しさんAA:17/10/05 13:59
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 237-----------

 ヤコブ・シフが日本を援助したのと同時に、戦後の満州経営について、日本政府とユ
ダヤ財閥との間に秘密の取引きが行われていた。東郷平八郎率いる日本連合艦隊が当時
、海軍力世界2位のロシアのバルチック艦隊を破って以来、203高地は捕れてたもの
のその後の伸びた戦線のための補給にも苦しくなっていたところ、アメリカのセオドア
・ルーズベルト大統領の仲介で1905年8月10日、ポーツマスで講和会議が開かれ
た。小村寿太郎は全権大使として第26代アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトに合
いそして、秘密取引きの内容を具体化するために、ポーツマスで日露の講和会議が開か
れてた。この最中に、このヤコブ・シフに共同経営の資本を投資していたロックフェラ
ー家と関係の深いアメリカの鉄道王エドワード・ハリマンが、クーン・ローブ・グルー
プの代表として来日したのである。それは当然、南満州鉄道の日米共同経営についての
話し合いが目的だった。アメリカの鉄道王エドワード・ハリマンは裸一貫からアメリカ
を横断する鉄道網を作り上げ、当時最も高かった石油や鉄鉱石の輸送で巨万の富があっ
た。1905年8月、クーン・ローブ・グループの代表として来日した時、当時は既に
電信の最初の商業化がウィリアム・クックで始まっていた。クックは1837年にチャ
ールズ・ホイートストンと共に警報機としての一般化した電信機の特許を取得してロン
ドンのユーストンとカムデン・タウン間での実演を成功していた。そのシステムはアメ
リカにも伝わりパディントン駅からウェスト・ドレイトンまでの間、約21kmにわたっ
てグレート・ウェスタン鉄道の線路を利用してその中に敷設された。つまり鉄道敷設は
同時に電信電話の情報の敷設でもあったのだ。「ポーツマス講和会議」では、ロシアの
代表ウィッテの巧みな外交戦術により、日本の代表小村寿太郎は、赤子が手をひねられ
るように屈し、戦勝国でありながらも日本は、領地をほとんど手に入れることが出来ず
、賠償も権益も得るところわずかであった。さらにそれに米英は口をはさみ手を出す事
はなかった。この交渉はかなりの労力が必要だった。裏にロスチャイルドがロシアに貸
付して鉄道や樺太事業を狙っていたからだ。交渉結果の知らせを聞いた国内では、「国
賊小村」の声すらも上がっていた。つまりハリマンはこの結果を予想し反対される前に
この満鉄の経営についての話し合いしを日本政府に打診して来ていたのであり思いの外
簡単に契約取り付けして大喜びだった筈だった。その為小村と会わなかったと言える。




588: 名無しさんAA:17/10/05 14:00
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 238-----------

日露戦争後の「ポーツマス講和会議」(1905年)の結果は、日本に大きな混乱を起
こした。軍部の不満と共に民衆のデモも起こった。当時の日本も又同じ様に苦しい中の
戦争だったのだ。この時代の日本国民の生活は増税につぐ増税で苦しいものだったし、
戦死者の遺族の生活はどん底だった。働き手を失くし娘を女衒に売る事も多かったのだ
。ポーツマスの日露講和条約に不満を持つ人々は、1905年9月5日、東京の日比谷
公園で大集会を開いた。群衆は集会を解散させようとする警官と衝突し、政府高官の家
や新聞社、交番、電車を焼き打ちにしたので、日本政府は軍隊の力を借りてこれを鎮め
た。日露講和反対の大集会は大きくなり推定約3万人に増えていた日比谷焼き打ち後に
東京の各地で焼き打ちがある無政府状態を危惧して東京にには戒厳令が敷かれた。この
騒動により、死者は17名、負傷者は500名以上、検挙者は2000名以上にも上っ
た。戒厳令は11月29日まで続いた。こうした中で、ハリマンは、小村寿太郎が「ポ
ーツマス講和会議」で留守中に、桂太郎首相と南満州鉄道の日米協同経営の予備協定を
10月12日に結んだで 上機嫌のうちにサンフランシスコへ向かう船上の人となった
が、その後、10月15日に帰国した小村寿太郎は、桂内閣の予備協定の決定を聞くに
及んで、烈火のごとくに怒った。「日本が2年間に渡る大戦で、血を流し財を尽くして
獲得した報償は、まことに貧弱である。講和条約を不満とする愛国の至誠が、暴動とさ
えなっている。その上また、この貧弱な戦果の半ば以上の価値がある満鉄をアメリカ人
に売り渡してしまい、満州そのものを外国商業との自由競争の場に委ねてしまおうとい
うのは、とうてい忍ぶことができない。」元老院の桂太郎内閣はこの小村寿太郎の要望
を入れて10月23日、アメリカ側に予備協定の「破棄」を通告した。ハリマンがサン
フランシスコに着いたときに、彼を待っていたのは「破棄」を通告する日本政府からの
電報であった。今度はハリマンが烈火のごとくに怒り、ただちに 翌年の8月に腹心の
ウィラード・ストレイトを奉天領事に送りこみ、徹底して日本の利権と アメリカ人の
利権とを衝突させていったのである。この時、ハリマンは次のような言葉を言い放った
。「日本は十年後に後悔することになるだろう!」これが有名な「ハリマン事件」であ
る。

589: 名無しさんAA:17/10/05 14:00
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 239-----------

 屈辱外交官として、いったんは政治生命を絶たれた小村寿太郎は、この事件後、「南
満州鉄道を救った男」として名誉を回復した。しかし、歴史はハリマンの予告通りに動
いていく。これ以後は、満鉄を中心として日本とアメリカの対立が深まり、その関係が
こじれていった。そして1921年の「日英同盟」破棄以降、両者の対立は決定的なも
のとなり、やがて日本は英米との関係を断ち切り、ドイツとの協定にのめりこんでいっ
たのだった。このように、日米関係は「日露戦争」を境に一変したのであるが。しかし
この時大勢のユダヤ人も闘っているが 現実には一割でしかない。つまり他の兵士達は
ロシア人やウクライナ人やロマ人やトルク人など他のロシア人達だった。又日本にして
も日清戦争以来大きな負担と死傷者で この両方が消耗し負担となる中当の朝鮮人やら
投資したユダヤ人資本は返済や権益はそのまま双方に求めているのだ。此処に「黄禍論
」の極みがある。つまり国境線はあっても国境の壁のない中での通行で国内に住み着い
た異教徒なり異人なりの排除である。今の中国がやっている弾圧である。歴史的に見て
ナチスがやった虐殺がなかった訳ではない。フランスが起こした魔女狩りもナポレオン
戦争時に起こしたライヒ宣言のプロイセン王国やバイエルン王国でのドイツ帝国も同じ
で管理や統制の名の元に体制の形作りと体制に従わない者の排除であった。ペチェネグ
は、10世紀頃のカスピ海北から黒海北に広がるキプチャク草原に住んだ人達の名称だ
ここで形成された遊牧民の部族は互いの連絡に同盟を結んだ。遊牧民のハザール人やら
オグズ人の圧迫によって移住したとされ、フィン・ウゴル系の遊牧民マジャル人などで
後のハンガリー人となったとされる。豊かな草原ではスラヴ系とされる先住民族の農耕
民ウールィチ人,やティーヴェルツィ人を追い出したという。こうしてキエフ・ルーシ
,ブルガリア,ハンガリー王国,ビザンツ帝国などの隣国との母国帰参の抗争に明け暮
れた。遊牧民のポロヴェツやクマン、キプチャクに圧迫されてドナウ川を越え、この人
達がビザンツ帝国領内へ移住した。残った人々は、ポロヴェツに同化した。ペチェネグ
人の系統に最も近い現存する民族はガガウズ人であるとされる。日本語的に弥勒とされ
るこの人達はブルガリア帝国を作り南の東ローマ帝国と敵対し、ビザンチン帝国とされ
る東ローマ帝国の文化様式を作りながらも個々の自由を認めて居た為方々に離散した。


590: 名無しさんAA:17/10/05 14:02
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 240-----------

「ハリマン事件」について岡崎久彦氏は、次のように語っている。「あの時に日本がハ
リマンの提案を受けていたならば、20世紀の歴史はまるで変わっていただろう。アメ
リカの極東外交は、単なる領土保全、機会均等というお経だけでなく、日本をパートナ
ーとして共同で満州経営を行う形をとり、また日本では、伊藤博文が健在だった時でも
あり、第一次世界大戦の国際情勢の中で、対露、対支政策について、日米英の協調路線
ができていた可能性は小さくない。」としている1905年10月、アメリカの鉄道王
ハリマンが来日し、日本がポーツマス講和条約によって 獲得した南満州鉄道の経営に
参加したいという申し出をした。このとき会った首相・桂太郎、元老・井上馨、同じく
伊藤博文、財界の渋沢栄一らであったが、彼らはみな『ハリマン構想』に賛成し、合意
の覚え書まで作られた。日本側が『ハリマン構想』に同意したのは、今日から見ても正
しい判断であった。」と意見は多い。「そもそも戦争でロシアに勝ったとはいえ、シナ
大陸からロシアの勢力が消え失せたわけではない。ロシア軍はなお北満州に展開し、南
下の機会を狙っている。そのような状況下において、日本一国が南満州鉄道を維持する
のは、軍事的に見ても、また財政的に見ても非常な負担であったから、日米合弁で鉄道
経営をするということは、日本にとって一種の安全保障にもなるからである。もしも、
ロシアが南満州を狙って南下しようとすれば、アメリカ政府はただちにロシアに圧力を
かけるに違いないからだ。また、日米外交という面から見ても、『ハリマン構想』には
意義あるものだった。当時、シナ大陸に進出していたのはイギリス、フランス、ドイツ
、日本といった国々であり、シナに利権を有していなかったアメリカは切歯扼腕してい
たからである。ここで日本が南満州鉄道の利権を半分譲れば、アメリカも満足を覚え、
日本との友好関係を重視するであろう。」こうした点を踏まえて、日本のトップ・リー
ダーたちは挙げて『ハリマン構想』に賛成したのであった。ところが、そこにただ一人
の、そして頑強なる反対者が現われた。


591: 名無しさんAA:17/10/05 14:03
                  それはポーツマス講和条約を無事締結し、意気
揚々と帰国した外務大臣・小村寿太郎である。小村は『わが国の将兵が血を以て獲得し
た南満州利権をアメリカに譲り渡すとは何事か』と唱え、ついにハリマンとの覚え書を
破棄させるに至った。もし、『ハリマン構想』がそのまま実現していたら、その後の日
本の運命は大きく変わっていたであろう。戦前の世界において日米間に緊張が高まり、
ついに大東亜戦争に至ったのは、結局はシナ利権問題であった。西部地方の大開拓時代
が終わり、その膨張欲を満たす対象を失ったアメリカにとって、広大なシナ大陸の利権
はひじょうに魅力的に映った。だが、そのシナ大陸の主要な利権は、他の国々に握られ
、アメリカが新たに獲得できる可能性はない。そこで彼らは『ハリマン構想』を日本に
持ちかけ、シナ大陸進出の橋頭堡(きょうとうほ)にしようとしたのである。だが、そ
の『ハリマン構想』は土壇場で覆された。この事件は、その後の日米関係に決定的な亀
裂をもたらすことになった。というのもアメリカは自分たちの欲求不満を『日本叩き』
に向けたからである。彼らはアメリカがシナ大陸に進出できないのは、すべて日本人の
せいだと考えるようになった。戦前のアメリカ人が抱いていた日本に対する憎悪は、今
考えてもぞっとするほどである。まず標的にされたのは在米の日本人移民であった。日
本人移民を徹底的に迫害する法律が諸州で作られたばかりか、『絶対的排日移民法』と
呼ばれる連邦法までが成立し、日本人がアメリカの市民権を得ることはできなくなった
のである。 〈中略〉歴史に『イフ』を持ち出すのは慎重でなければならないが、『ハ
リマン構想』が実現していれば、アメリカは日本移民をあれほどまでに敵視することは
なかったろうし、それどころか満州国建国をもアメリカは支持したと考えられるのであ
る。」(渡部昇一著『まさしく歴史は繰りかえす 〜今こそ「歴史の鉄則」に学ぶとき〜
』クレスト社より)日露戦争に勝った日本だったが、戦後処理にはアメリカに仲裁を頼
んでいた。そのアメリカはセオドア・ルーズベルトが大統領だったのだが、有色人種が
白人種に勝ったことに恐怖すら感じていたのだ。ルーズベルトはロシアと結託して日本
には賠償金を要求させなかった。外交の天才と云われていた小村寿太郎も体もなく騙さ
れたのだった。はたしてそうだろうか



592: 名無しさんAA:17/10/05 14:06
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 241-----------

 ところが である。アメリカは「日露戦争」(1904年)の数年前に、突然ハワイ
に海兵隊を奇襲上陸させている。当時、独立国であった「ハワイ王国」を占領して滅ぼ
し、アメリカの領土としていた。当時ハワイでは、日本人が人口の半分(2万2000
人)を占めていたので、ハワイ王国最後の女王リリウオカラニ女王は明治天皇に援助を
依頼してきた。当時の日本にはアメリカと戦う力はなく、みすみす事態を見過ごすしか
なかった。それはフィリピン革命同志も辛亥革命の孫文も李斯朝鮮の通信使も全く同じ
で、出来たばかりの明治政府はこの西洋の圧力に踏まれた雑草の様に旧体制を壊され揺
らぎ漂って日本にかなりやって来たが 国力も諸外国の事情も無理解のままの政府だっ
た。ハワイ王国最後の女王リリウオカラニは、音楽を愛好したことでも知られ、ハワイ
民謡として有名な「アロハ・オエ」は彼女の作である。ハワイはカメハメハ大王を始祖
として統治する民族で1795年に始まった西洋認知の「ハワイ王国」とされていたが
、アジア進出の足掛かりに、アメリカは武力で併合した(1898年)。こうして宮殿
に掲げられていた「ハワイ王国」の国旗は下げられ、アメリカ合衆国の国旗が揚げられ
たのである。有無を言わさぬ殺戮と強襲によって蹴散らされたハワイ住民らはこのとき
、悲しみの声をあげたが 当時の日系移民らにその多くの声は届いたという。この手の
出ない義憤に多くの日本人も「鬼畜米英」の姿を見ていたのである。大事な事は日本の
政府は此処に2つの教訓を得ていた。1つは米英のやり方が 最初は交易であり次には
布教と言語で最後に乗っ取りである。と言う事だった。ハワイ王国は決して米国に反抗
した国では無かった。当時の渡航に寄港させて、移民さえも受け入れている事からもそ
れは解る。2つ目は西洋列強に並ぶ資本と軍事力を持たなければ 直ぐに占領されて、
国民は奴隷となり、国土は植民地化する。と言う現実だった。これが日本が黒船来航以
来眠りをさまさせた蒸気船が見せた世界だったのである。だが米国側からすれば、既に
先鞭をつけていたこの太平洋の権益をスペインと賠償金によって手を付け太平洋の覇権
フィリピンと共に手にしていると言う独裁者気取りの国権を武力によって持っていた。
これに対抗する為に 各地に共産主義暴力革命による共和国が出来たの当然であった。
こうして 知識のある日本人は欧米列強の国々の外交に疑心暗鬼の中に陥っている。



593: 名無しさんAA:17/10/05 14:07
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 242-----------

 既に王国との承認済みのこの国は、彼女の兄であるカラカウアが前国王はとして治め
ていて、明治政府が出来た時、世界で初めて日本を訪れた外国の国家元首だった。彼は
ハワイ王国の安泰のため、明治天皇の甥に縁談を申し込んだことで知られている。18
81年の事だ。もし、この縁談が実現していたら、「ハワイ王国」はもっと長く存続し
ていたかもしれない。このカラカウアはカメハメハ5世が後継者を指名せずに世を去っ
た為に選挙でルナリロを選出したがその対抗馬だった。ルナリロも又後継者を指名せず
死んでいる。その為留学し洋風化を取り入れた4世のエンマ女王と選挙で戦う事になっ
たカメハメハ4世の未亡人であるエンマに勝って国王に選出されたものの。この選挙で
エンマ女王の支持者が暴動を起こし死者を出す混乱が起こった。旧体制派の洋風時代に
進む事を危惧したのだろう。カラカウアはアメリカとイギリスの海軍の力を借りてこの
暴動を鎮圧した。こうしてカラカウア王は弟のウィリアム・ピット・レレイオホクを跡
継ぎに指名したため、選挙によって国王を選出する時代は終わりを告げた。カラカウア
前国王はアメリカのハワイへの進出を阻むため、同じような状況にあったアジア諸国と
連合を組み、立ち向かうための構想を持っていた。そして、それを実現するためアジア
諸国を回り、日本をその一番最初の訪問国として絶対同盟を組みたいと思っていた国だ
った。この構想は日本に「大東亜共栄圏」構想の出る前の先駆的なプランだった。しか
し、このプランは、維新して日が浅い国力増強優先の日本が取り組めるほどには余裕が
なかった事もあり、実現しなかった。「ハワイ王国」滅亡後、ここにアメリカの大軍事
基地が築かれ、「太平洋艦隊」の根拠地として発展した。それが「パールハーバー」で
ある。そして、イギリスのシンガポール、ロシアのウラジオストク(ロシア語で「極東
を征服せよ」の意)と呼応して、三大軍港が日本を三方から牽制するように取り囲む体
制が次第に整っていくのである。そしてこのフィリピンと共にハワイの軍事基地化計画
は既に外務大臣・小村寿太郎の時代には 小村に詳細に移民からの報告が伝わっていた
のである。幕末時に琉球政府がもし薩摩に吸収されず離れていたとしたら 恐らくは、
全く同じ結果になって米国にもっと早く蹂躙されていただろう。事実として戦前も戦後
も沖縄の歴史は日本の政治的歴史ではなく 沖縄と言う地政学的歴史であって駐留軍が
いるのは 沖縄の先人にとっては仕方ない事実と受け止められていたのである。




594: 名無しさんAA:17/10/05 14:08

 この時代の国々といえば、「帝国主義」が全盛期だった。当時の世界は「帝国そのも
のを果たすか、属国になり植民地となった国かに分かれる、まさに混乱の時代だった。
南北戦争から1912年までに、アメリカが獲得した主要な新領土およびその植民地は
、中国の利権をめざして、アメリカは西へ西へとそのエネルギーを伸張させていたこと
が分かる。膨張し拡大するアメリカは、西へのフロンティアの開拓の夢と、その情熱的
エネルギーが、ついに北米大陸を離れて海上へ溢れ出した姿として理解できる。当時作
られたこの風刺画は、列強諸国がパイにみたてた中国を分割しているところを描いたも
のである。左からイギリスのヴィクトリア女王、ドイツのヴィルヘルム2世、ロシアの
ニコライ2世。ななめ後ろがフランスで、右端の武士が日本である。背後で両手をあげ
ている男性は清の大臣で、「やめてくれ!」と悲鳴をあげている。開国維新後の日本に
とって、最大の脅威はロシア帝国であった。ロシアは軍事力を傘に東アジア南下戦略を
目指していた。日本にとって「日露戦争」は、国家予算の6倍以上の戦費をつぎ込み、
継戦不可能というギリギリで掴んだ“薄氷の勝利”であった。その戦費は 約40%を
調達したのが、第3章で紹介したユダヤ人金融業者ヤコブ・シフだった。この男の助け
がなければ日本は「日露戦争」に勝てなかった、と言っても過言ではなかった。アメリ
カ・ユダヤ人の中心的存在だったユダヤ人金融業者ヤコブ・シフは1847年ドイツの
フランクフルトで生まれる。1870年にアメリカに帰化した。シフ家の祖先は、ドイ
ツのフランクフルトの旧ユダヤ人街区にある一軒の家をロスチャイルド家と共有して住
んでいた。シフ(schiff)家の側には「船(schiff)」が、ロスチャイルド(Rothschi
ld)家の側には「赤い盾(roter Schild)が描かれてあり、本来縁戚のようである。両
家の姓は、そこに由来しているという。ヤコブ・シフの「クーン・ローブ商会」とエド
ワード・ハリマンについては「クーン・ローブ商会」の創業者エイブラハム・クーンが
、他のドイツ系ユダヤ人同様、行商人から身を起こし10年後、インディアナ州で衣類
の卸売業を経営していた時に、遠縁のソロモン・ローブを呼び寄せた。ソロモンは、エ
イブラハムの妹と結婚し、すぐに共同経営者となった。こうして「クーン・ローブ商会
」を立ち上げJPモルガンと競う位の地位と資産を持つに至った。JPモルガンが鉄道
事業に先鞭をつけた為 シフがパートナーとしてハリマンと提携し起こった交渉だった。

595: 名無しさんAA:17/10/06 13:05
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 244-----------

1999年にシフの伝記を書いたナオミ・コーエンによれば、1904年2月上旬、ニ
ューヨークの五番街にあったシフ邸で ユダヤ人指導者達の会合が開かれた。シフは、
「72時間以内に日露間で戦争が勃発する。日本の公債引受の問題が提起されているの
だが、私が引き受けることでロシアの同胞にどんな影響が及ぶか、諸君の見解を聞きた
い」と語った。シフは日露開戦の情報を事前につかんでおり、公債引受の打診さえ受け
ていたのだ。この場の全員が一致して、シフが日本の公債を引き受けることに賛成した
。当時、大統領のセオドア・ルーズベルトもアメリカの国内世論も日本支持に傾いてお
り、シフが日本公債を引き受ける結果、ロシアに与える打撃に良心の呵責をおぼえる必
要はなかった。と書いている。政治と距離を置いたJ・P・モルガンと違って、ヤコブ
・シフはアメリカの政府部内に味方を増やす必要があった。日露戦争の直前にもシフは
ロシアとルーマニアでのユダヤ人迫害に対してアメリカ政府が公式に抗議するよう嘆願
していた。ところがこの頃日本は1898年に、台湾に後藤新平を派遣し、台湾総督と
してアヘン対策に成果が出た頃だった。台湾でも建設途中で北洋軍閥は米国を盛んに取
り込もうし、又米国の内政干渉的妨害も数多く出ていた。日本側から見てロシアも米国
も同じだったのである。又米国から見れば今だ規制のない未開地の一部であったのだ。
日本がロシアに勝とうとも米英には敵わないはずだとみていたのだ。その点英国は薩摩
と下関でその士気のすさまじさを知っていての対応だったのである。更にアヘン取り締
まりに業を煮やしてアヘン取引を管理する事に決めた政府はペルシャアヘンの買い占め
に転じた。その処理に星製薬のモルヒネ開発に投資していたのだった。こうしてアヘン
の取引市場は高値になって多くの海外財閥はその貸付した商会の貸し倒れに転じていた
のである。そして三井が造った会社でこの買い付け転売を特務機関が請負っていたのだ
ろう。関係者の一人である星野直樹は満州国のアヘン専売局の儲けを抵当にして、日本
の複数の銀行から多額のローンを取り決めた。と米軍は報告している。だがこれは既に
日本軍がアヘンからモルヒネ抽出技術に軍が窃取した後の話と考えられる。別の当局者
の報告によれば、満州国の分も含め中国全体の麻薬の収入は日本軍によって年間3億円
と評価されている。

596: 名無しさんAA:17/10/06 13:44
 後藤新平は藩境争いにあった胆沢県に大参事として安場保和がまたま赴任して来てい
た事で、人生を変える。安場は後で初代福岡県令となるが 肥後細川藩出身で薩摩・長
州の藩閥政府と微妙な距離を保ちながらも海外視察団にも同行している。彼に認められ
県庁勤務になったが、後藤本人は政治家を志していた。政変上の弾圧等の影響もあって
医者を勧められ愛知県医学校に入り医者になった。岐阜での遊説中に暴漢に刺され負傷
した板垣退助を診察している際後藤は「閣下、御本懐でございましょう」と言ったとい
う。後藤の診察を受けた後、板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と口にした。
明治31年(1898)陸軍次官兼軍務局長の児玉源太郎の下で働いていたが、その児
玉が推挙され台湾総督になった時、自らの補佐役である民政局長に 後藤を抜擢した。
後藤新平は恐らくこのアヘンの効能も社会毒も解っていたのだろう。アヘン売買には一
気に捜索・逮捕しても撲滅に繋がらないだろう。と考えた。更にこれには米国金融投資
が関わっている。と睨んでいたしその証拠も掴んでいた。歴史的にも東インド会社の持
つ特権販売でもあったからだ。こうした物は流通ルートの遮断に限ると考えた彼は、星
製薬と共にアヘンの分析から始め、台湾の土地柄を分析すると言う地道な作業を行った
。東京震災の復興計画に際し、その規模の大きさから「大風呂敷」とあだ名されたが、
植民地経営者であり、都市計画家としては日本屈指の逸材であったろう。台湾総督府の
民政長官、満鉄総裁を歴任し、日本の大陸進出を支えた。鉄道院総裁として国内の鉄道
網を整備した。関東大震災後にも内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の帝都復興計画
を立案し多くの批判を受けた。当時京都帝国大学法科大学教授に就任していた松岡参太
郎をわざわざ呼びつけ 最初は後藤が民政長官を務めていた台湾総督府で臨時の台湾旧
慣調査会に参加させて同地の法慣行を調査させている。アメリカからも、乞いて新渡戸
稲造も招いた。米軍報告書には「軍隊は兵士によるアヘンと麻薬の使用を禁止し、これ
を破れば、日本の市民権を剥奪される規制を敷いたが、劣等種族の士気をくじくために
使用することには許可を与えた。」とある。1932年には組織化されたアヘンの専売
があり、三井財閥がこれに関与し、国内麻薬の多量の消費を抑える目的のためと称して
、アヘンを栽培していた。場所は固定され熱河省と吉林省の北西に設定されていた。「
1934年から1年の間に、栽培面積は480平方km、1 平方km当たり 1.1トン
を生産していた。」と評価されていた。また、多くの非合法の栽培もされ、非常によく
儲かるため、この危険な麻薬を効果的に抑制することに障害となった。「秘密の日本人
の商人のグループである “Nikisansuke” が関与した。」と 報告している。この栽培
には当然星製薬がモルヒネ分の多い栽培品種の特定に成功した事が大きく関わっている

597: 名無しさんAA:17/10/06 13:54
 この“Nikisansuke”=にきさんすけ=弐キ参スケである。このグループこそ後藤の作
った「里見機関」と言うアヘン撲滅チームだったと言える。秘密倶楽部の如く東条英機
、星野直樹、鮎川義介、岸信介、松岡洋右の長州閥の下に、里見甫(さとみはじめ)を
選んだのだ。里見は福岡県立中学修猷館を卒業して、玄洋社第二代社長進藤喜平太に可
愛がられ、福岡市からの留学生として上海の東亜同文書院に入学している。中華独立の
革命家を支援する玄洋社につてがあったのだろう。東亜同文書院を卒業後、青島の貿易
会社に一時期勤務するが退社し、帰国して東京で日雇い労働者となった。独立運動の関
係があったのか橘樸が主筆を務める天津の京津日日新聞の記者となってジャーナリスト
となった。その為幅広く知乎となり取材を進めていた。堪能な中国語が幅を利かしたの
だろう。国民党軍さえもインタビューをしている。そうした幅広い人脈に特務機関長の
土肥原賢二大佐の指揮下で、甘粕正彦と共に諜報・宣伝・宣撫活動を担当する事になっ
たのだった。こうして後藤新平は 先にアヘンを買い占めて高く購入してまずは中毒者
を増やさない対策をした。更にその買い占めたアヘンはモルヒネ抽出に使い残りは循環
資金に売った。又一方でこうして患者となるものを日本人国籍や中国人国籍の剥奪の法
を作った。一方で中国の奥地にアヘン栽培を行って国外からの輸入に対抗させようとし
た。またこうして出て来る浮浪者は労働者としてダム建設などに安価な労働力として提
供した。又モルヒネは負傷した兵隊には大事な薬品となった。こうして高価で売れると
踏んだ海外からの輸入品は一挙に大量にのせて中国に向けて輸送した。東インド会社は
大儲けと思ったのだ。だが港に着いて待っていたのは品質の良い新鮮で安価な麻薬が出
回っていたのである。こうして麻薬の乱高下が陸軍の下で始まった。何回か繰り返すと
陸軍も三井もそれが巨万の富を産む事を知った。だが安値でも買い付けてやった海外の
アヘンが処分できなかった。そこでこの星製薬に安価なアヘンの使用を強制しようとし
た。外国品の処分である。もし全然買い付け無ければ不審がられるし、だぶついたまま
では更に安値で仲介役が懐にいれ日本の中国産が売れなくなるからだ。こうして星製薬
は品質の悪い阿片の使用を断っている。だが陸軍は大胆にもこの星製薬にアヘン供給を
止め強制摂取を行おうとした。この事で裁判したが星製薬は敗けて 三井の呼んだ三共
製薬に吸収されて軍の事業が行なわれたのである。この事で東条英機の軍隊は、危険な
中毒患者を支配出来た。鮎川の日産コンツェルは安い労働力を手にした。松岡洋右の会
計帳簿は潤い、満州建設がスムーズに行くことで満州鉄道は資源調達が上手く出来る様
にになり これまでのテロや飛び込みが減っていった。そしてそうした情報は全て三井
の里見の情報によって操作されて 撲滅が進んだ。甘粕機関はその中で軍部や政治家を
見張る民間機関でもあり里見に情報を流す機関でもあった。 

598: 名無しさんAA:17/10/06 14:03
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 247-----------

 当然のことながら西洋列強には隠れての仕事だった。里見は上海に移り、参謀本部第
8課(謀略課)課長影佐禎昭に、中国の地下組織や関東軍との太い人脈と、抜群の中国
語力を見込まれ、陸軍特務部の楠本実隆大佐を通じて特務資金調達のための阿片売買を
依頼される。この松岡のシステムの後継者であった。1938年、阿片売買のため三井
物産および興亜院主導で設置された宏済善堂の副董事長(事実上の社長)に就任する。
ここで、三井物産・三菱商事・大倉商事が共同出資して設立された商社であったが実態
は陸軍の特務機関であった昭和通商や、中国の地下組織青幇や紅幇などとも連携してい
た。こうして正式に1939年、上海でのアヘン密売を取り仕切る里見機関を設立した
。「里見機関」が完全に日本政府の統制の下に出来上がり、日本政府のためのみの組織
であることが文書で裏付けられる。この興亜院の他にも、陸軍が指導・監督し、三井・
三菱・大倉が出資して昭和通商という企業が設立されている。この企業は、武器輸出や
阿片の取扱から、戦地での物資調達までを行っていた。要は、国として表だってする事
の出来ない最もダーティーな部分を、民間企業等を設立して役目を果たさせ、終戦の折
には 歴史と共に消滅させる結果を作っていた。こうした隠れた国内の諜報に明け暮れ
た事で 本来の海外の情報は得られない結果を日本は招いていた。そこで映画スターを
作って、巡業や映写会などでの 派遣する代理人を作る計画を甘粕は敷いた。この民・
官混在の作戦は花開いたばかりだったが これにより汚職と利権の争いが起こっていた
。そしてその事が大きな禍をもって 本来の海外動向の情報がおろそかにされた事に、
甘粕機関の持つ組織は危機感を持っていた。アヘンの動向に翻弄されて本来の海外事情
に手を付ける事が可能にする行動だったのだ。とこが同じ年の1939年にドイツ軍は
その同盟軍であるスロバキア軍と共に、突然ポーランド侵攻を行った。更に秋にはソビ
エト連邦軍がポーランド領内に侵攻した。ポーランドの同盟国であったイギリスとフラ
ンスが相互援助条約を元に9月3日にドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まった
のである。緊張はあったもののこれは大きく計画にずれたものだった。更に日本軍の中
の共産党退治もこれによって不可能になったし、甘粕の渡米戦略も事実上消えた。


599: 名無しさんAA:17/10/06 14:09
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 248-----------

 だがこの戦争はユダヤ資本にも突然だったらしく大きく対応が遅れた。上海屈指の豪
商サッスーン一族は、18世紀初頭イラクのバグダッドに出現したスファラディ系ユダ
ヤ人である。当時の大英帝国の東方進出に協力して、まずインドのボンベイに拠点をか
まえた。やがて東インド会社が支那にアヘンの密輸を開始すると、その取引に荷担して
莫大な富を蓄積した。19世紀半ばアヘン戦争に破れた清朝が上海に租界の設置を認め
ると、時を移さず上海に進出し、アヘンを含む物資の売買を開始した。そして、わずか
1世紀足らずの間に、金融、不動産、交通、食品、重機械製造などを傘下に擁する、一
大コンツェルンに成長した。支那四大家族の向こうをはって、ジャーディン・マセソン
、バターフィルド・スワイヤ、カドーリなどとともに『上海ユダヤ四大財閥』と呼ばれ
た。この老舗の豪商にアヘン商人達は共同に対応しようとスクラム組んだばかりだった
。当主のビクター・サッスーンは、ようやく五十路に手がとどいたばかりの、独身の伊
達男で、「彼の顔写真が新聞に登場しない日はない」と言ってよかった。」この「ジャ
ーディン・マセソン商会」こそは、日本では、幕末・明治期の重要人物であるトーマス
・グラバーが長崎代理店「グラバー商会」の設立した後ろ盾だった。横浜の英国公邸の
脇に、英商ウィリアム・ケスウィックが支店を設立し地元民から「英一番館」と呼ばれ
ていた。戦後もジャーディン・マセソン・グループは、今でも「マンダリン・オリエン
タルホテル」を経営し、14ヶ国に26の高級ホテルを展開しており、現在もアジアを
基盤に世界最大級の貿易商社として影響力を持っている。この上海のユダヤ系の4大財
閥の、サッスーン、カドーリ、ハードン、エズラは上海経済のパイオニア的存在だった
。廃業はしたものの中国大陸において「サッスーン商会」と並んで二大商社の名を馳せ
たのは、グラバーの「ジャーディン・マセソン商会」で、この5つで経済帝国を築き上
げていた。その影響力は、市当局が武装した『商人部隊』の編成を外国人に認めたこと
でも分かり、これは1928年にイギリスをモデルとした1400人の上海自衛団に改
組されていた。此処にドイツ・オーストリア系ユダヤ人が避難民として大量流入した。
ナチスがオーストリアを合併するとイタリア商船ビオレ号から上海に吐き出されたのを
皮切りにとめどもなく人が溢れた。その後もドイツの軍靴がチェコ、ポーランドと進む
につれて、数百万のユダヤ人が世界各地に逃げ出さざるを得ない状態になったのだ。が
、目指すアメリカや中南米、パレスチナなどは、入国査証の発給を制限した為、足止め
状態のまま移行していた。英統治領パレスチナなどは、海岸に着いたユダヤ難民船に、
陸上から英軍が機関銃の一斉射撃を加えるという非人道的行為まであったと言われる。

600: 名無しさんAA:17/10/06 14:13
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 249-----------

アラブの妨害とされたが 現実は英国がアラブとの対立を恐れて混成部隊の発砲を許し
ていた。パレスチナに行けないイタリア乗船避難民ははこうして上海にやって来たのだ
。そうした中で日本は満州経営が一応の成功を見た経過から、入国ビザなしに上陸でき
るようになっていた。世界で唯一上海の共同租界の日本海軍の警備する虹口(ホンキュ
ー)地区は上陸出来たのだ。海軍大佐の犬塚惟重は、日本人学校校舎をユダヤ難民の宿
舎にあてるなど、ユダヤ人の保護に奔走した。この緊急事態に日本政府の有田外相は、
ハルビンのユダヤ人指導者アブラハム・カウフマン博士を東京に呼び相談した結果。「
日本政府は今後ともユダヤ人を差別しない。他の外国人と同じに自由だ」と明言した。
こうして1939年夏までに、約2万人のユダヤ難民が上海の「日本租界」にあふれる
に至ったのだ。「1941年時点で、上海のユダヤ人社会はよく組織されていた。スフ
ァラディ系社会とアシュケナジー系社会があったが、前者は、バグダッドから移住して
きたユダヤ人たちで、なかにはイギリス国籍を取得している人すらあった。代表格が、
いろいろな事業を経営するサッスーン家だった。そのほかハルドン家やアブラハムズ家
も有名で、助けが必要なイラク出身のユダヤ人移民に、支援の手を差し伸べていた。」
「サッスーン家の家長のユダヤ人は、上海の大立者であり、極東で一、二を競う大富豪
であった。経済、政治力の影響力は相当なものであったようだ。ビクター・サッスーン
は、家の伝統に従って同胞のために尽くした。しかし、上海の中国住民に対する貢献は
もっと大きかった。売春婦の収容施設に多額の金を使ったし、市街電車の路線延長も彼
の功績である。 〈中略〉 こうして革命やポグロムが発生するたびに、ユダヤ人達が
満洲へ流出し、そこから国際都市上海へ向かった。ロシア系ユダヤ難民は上海に根をお
ろし、貿易商となった。 〈中略〉 当時にはドイツ系ユダヤ人社会もあった。かなり
大きく、その数約1万5000人。上海へは入国ビザの必要がないのでその後、ユダヤ
人が続々と流れてきた。上海は1939年の中頃までユダヤ人を無制限に受け入れた。
しかしその後は、居留が厳しく制限されるようになった。 〈中略〉 スファラディ系
とアシュケナジー系で構成された『上海ユダヤ人委員会』は、アメリカを本拠地とする
ジョイントの資金援助を受けながら、日本租界の虹口(ホンキュー)地区を中心とする
ホステルへ難民を収容した。」と言われる


601: 名無しさんAA:17/10/06 14:19
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 250-----------

 だが 戦闘が大きくなり日本軍の参戦があると 本拠地はアメリカやカナダに移され
た。当時上海には数多くのユダヤ組織があった。E・ニッシムが会長する英国系「上海
ユダヤ人協会」は英国籍のスファラディ系ユダヤ人で共同租界の北京路に「大商事会社
」を経営していた。「上海ユダヤ人協会」の会員は約800人ほぼ全員がスファラディ
系ユダヤ人として雇っていた。日本がロシアの孤児救済に入った時P・トーパス会長は
「上海シオニスト協会」として発足させた。シベリア出身のアシュケナジー系ユダヤ人
で貿易会社を経営した。この「上海シオニスト協会」は1903年に設立され、会員は
約3000人で、パレスチナ移住を掲げ移住者を募集していた。機関紙『イスラエルズ
・メッセンジャー』は、約1000部が購読され、海外にも発送され、東アジアのシオ
ニズム運動の貴重な声として世界にその存在を誇示するとともに、イギリスと東アジア
を結ぶ架け橋としての役割を果たした。又アメリカに移ってからは軍事産業の中枢にも
潜り込んだ。ドイツの科学者の移住を助けたからだ。「ブナイ・ブリス」カムメルリン
グ会長ルーマニア出身のアシュケナジー系ユダヤ人。「香港・上海ホテル」の株主だが
彼はシオニスト右派に属していた。「ブリス・トランペルダー」R・ビトカー会長は、
ポーランド出身のアシュケナジー系ユダヤ人。この組織は、青年を対象にした民族主義
的シオニスト・グループだった。「上海ヘブライ救援協会」はI・ローゼンツヴァイク
博士が会長し比較的保守で日本政府とも繋がりロシア系ユダヤ人で、アシュケナジー系
ユダヤ難民への救援を目的としていた。「ヘブライ・エンバンクメント・ハウス」テー
ク夫人が幹事していて有力ブローカーであるスファラディ系ユダヤ人テークの妻だった
。貧しいユダヤ難民に宿舎を提供していた。こうした中 「ヨーロッパ移民委員会」と
「ドイツ移民委員会」はアメリカ要人との交渉を重ねていた。両者とも同じ委員会に属
していて、委員はM・スピールマン議長、D・アブラハム、J・ホルツェル、エリス・
ハイムなどがいる。こうして古くからのユダヤ協会が左派と右派に分かれ新しくやって
来た移民が各国ごとに更に迫害される移民を助ける救援のシオニストが各個に出来てい
た。それぞれに資金力がありアヘンなど法に頼らずユダヤの戒律による商売をしていた
。こうして日本を飛びこし米国に新天地を求めたのである。つまりドイツの進軍におい
て既に日本が敗けて、ロシアが侵攻し満州が無くなる事を予測していたのだ。この事は
極めてこのユダヤ人達は動きを察知し或いは加担して 世界を方向づけしていた事にな
る。

602: 名無しさんAA:17/10/06 14:22
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 251-----------

M・スピールマンはオランダ市民であるが、実際はロシア生まれのユダヤ人で若い時に
オランダ領インドに移り、そこで市民権を得て、1917年には上海に移住していた。
この委員会に属する秘匿団体として「政治運営委員会」があり、コミンテルンおよび国
民党当局と密接な連絡を保っていた。この部の責任者はレーヴェンベルク博士(ドイツ
系ユダヤ人)で、弁護士を職とし、共産党に属していたが、ドイツで3年間収容所に入
れられ、脱走してオランダへ、さらに上海に移った。「上海ユダヤ人クラブ」(米国デ
ラウェア州法人)1923年に設立され、何回か解散したが日華事変開始直後、当地の
合衆国総領事館に登録した。会員は約400人。名誉会長ブロック、会長ポリャコフ他
役員の多くはロシア系ユダヤ人で、このクラブはソ連の木材公社とも取り引きがあった
。ちなみに、上海のスファラディ系ユダヤ人たちの中は、金のない貧乏なアシュケナジ
ー系ユダヤ難民の受け入れを嫌がる者が多くいたという。「世界ユダヤ人会議」のユダ
ヤ問題研究所副所長を務めたゾラフ・バルハフティク。ワルシャワ生まれのユダヤ人で
 リトアニアと日本でユダヤ難民の救出に尽力した。戦後はイスラエル国会議員として
国政に参加し、1962年から1974年まで宗教大臣を務めた。彼は後『日本に来た
ユダヤ難民』の著書を発刊している。(原書房)ちなみに戦後産まれの人間に昭和天皇
を冷たい冷酷人間と評する人はいないだろう。又戦前の教育された者に天皇を卑怯者と
言う人も居ないと思われる。だが敢えて言うならば私はかのヒットラーより冷酷であっ
たろうと思う。決して残忍ではなかったろうが 彼が他の国の国王と同等に貴族の火遊
びの中の仲間入りして世界大戦に引き込まれたと今でも思っている。そしてそれは他の
国の国王でも独裁者でも同じだと言える。そこに人民や国民を守ると言う役割や意識が
仕事として無ければ必ず陥る罠であろう。だが皇祖大海の皇子以来日本は平和を守る術
として 人柱や裏切りを忍んだ国民ではあったのだろう。それが小国の生き延びて人情
の国平和の国を作ってきた。この事で長い間1千年もの月日で平和回路しか持たない国
や国民になっていたとも言える。DNAの堆積である。ユダヤ人を救ったのは杉原千畝
が有名だが彼だけでは ここ上海では日本海軍の大佐で「ユダヤ問題研究家」としても
知られる犬塚惟重(いぬづかこれしげ)大佐や、陸軍所属ユダヤ問題の研究家でもある
安江仙弘(やすえのりひろ)大佐が、世界中で酷い扱いを受けていたユダヤ人の保護活
動を続けている。


603: 名無しさんAA:17/10/06 15:35
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 252-----------

 シベリア出兵は1918年に行われた。日本はロシア革命の鎮圧のためシベリア出兵
要請されそれを行い、赤軍と敵対していた白軍を援護した。しかしながら10万人の兵
と9億円の戦費を投入したものの、3千人の死者を出した上に目立った成果もなく、国
際機関の撤退要請で1922年に撤退を余儀なくされた。奥深くまで進軍した兵員はそ
の各所で住民に触れて その中にロシア系ユダヤ人の存在がある事を知った。ロシア正
教会でロシア全土が日本の仏教の様にあると信じていた日本人には不可解な事だった。
その中に「シオン賢者の議定書」が出回りユダヤ教は悪しき宗教である。との触れ込み
であった。1897年にスイスのバーゼルで開催された、第1回シオニスト会議の秘密
議事録とされ流布した同書は、「世界の政治経済の支配を目論む、国際的なユダヤ人の
陰謀の存在を示す証拠。」とされ、度々世間で論議を起こし偽作の見解があったにも拘
らず、世界中に影響を与えた。日本の公債を受け入れたシフの、帝政ロシア打倒工作は
徹底して、第一次世界大戦の前後を通じてその為のほとんどの国々に融資を拡大してい
た。その上帝政ロシアへの資金提供は妨害した。1917年にレーニン、トロツキーに
対してそれぞれ2千万ドルの資金を提供してロシア革命を支援した。経営者一族にシフ
の縁戚となっていたファースト・ナショナル銀行ニューヨークは、ロックフェラーのチ
ェース・マンハッタン、J・P・モルガン・アンド・カンパニーと協調して、新生ソビエ
トに対する融資をしていた。ロシア国内にはユダヤ人が600万人移住して迫害を受け
ていた。シフにいわせればロシア帝政歴史はそのままユダヤ人虐殺史であるという。そ
う説明されたとき、日本の高橋是清の秘書役の深井英五にはよくわからなかった。そっ
と「人種問題というのは、それほど深刻なものでしょうか。」と、あとで高橋にいった
位だ。日本人の概念ではユダヤ人は拝金主義者で、何よりも大切な金を、勝つか負ける
か不明な日本のために投ずるというのは理解しづらい。単一民族である日本人にとって
は、人種問題ほど実感の起こりにくい課題はなかった。その後松方の世話で明治34年
(1901年)に日本銀行に入行し。1904年(明治37年)から1907年(同4
0年)まで、数度の帰国を挟みながら、副総裁・高橋是清の外債募集のための海外出張
に同行した時の話である。この時明石元二郎はフランス公使館付陸軍武官となって裏工
作の特命を受け明石機関を作った。その後ロシア帝国公使館付陸軍武官に転任したが、
サンクトペテルブルクのロシア公使館に着任後、日英同盟に基づいた情報協力により、
イギリス秘密情報部のスパイであるシドニー・ライリーと知り合い、友人となった。


604: 名無しさんAA:17/10/06 15:37
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 253-----------

深井英五は、ジャーナリストとして活躍した後に日本銀行に入行するという異色の経歴
を持つ総裁である。大分の貧困な家庭に産まれたが新島襄が外遊中にブラウン夫人から
託された奨学金の受給者に選ばれ同志社に入学出来た。卒業後、明治の大ジャーナリス
ト徳富蘇峰が主宰する国民新聞社に入社し、明治33年、外報部長の時、蘇峰の推薦で当
時の大蔵大臣松方正義の秘書官に転じたが、しかし、3か月後、松方蔵相の辞職にとも
なって職を失し、1年間の浪人生活の後、松方の推薦により日本銀行に入行し、当時副
総裁だった高橋是清に英語力を買われ是清の外債募集のための海外出張に同行した。妻
はるは北信政財界の第一人者として知られた小坂善之助の次女にあたる。甥にあたる小
坂徳三郎は三井十一家の一つである本村町家2代目・三井弁蔵の長女と結婚したので、
深井家は小坂家を通じて三井財閥の創業者一族である三井家と姻戚関係で結ばれている
彼の能力は大いに認められ総裁にまでなった。特に営業局長時代以降は、第1次世界大
戦、関東大震災、昭和金融恐慌といった歴史的大事件に相次いで遭遇して円滑な金融の
確保に努めたこの間に、第一次世界大戦後の世界恐慌下の金融調整、浜口幸雄内閣のも
とでの金輸出解禁、翌年の犬養毅内閣成立直後の金輸出再禁止に伴う経済激動下の、2
つの通貨制度の下での金融政策の舵取りに円滑な金融政策の実行に尽力した。昭和10
年に総裁に就任しました。一方、パリ国際経済会議をはじめ、多くの国際会議に出席活
躍し、1935年には第13代日銀総裁に就任した。時正に戦時経済であった。勃発し
た二・二六事件では、後ろ盾の高橋是清を失いましたが、事件後の金融界の動揺も巧み
なかじ取りで抑え込み、歴代日銀総裁で最も経済理論に精通した名総裁といわれました
。だが昭和11年に起こった2・26事件には金融界の動揺を押えましたが、その後の
軍事費増大による赤字国債の発行増には抗し得ず、昭和12年に総裁職を辞任したのだ
が、明石機関が明治政府を作った時国際機関も世界的戦争の仕組みも余り解ってはいな
かった。ただ日本は欧米との銀行としての付き合いも又薩摩藩ないし幕府の勘定方との
付き合いしか無かった。かつての下関戦争や薩英戦争の賠償金返済問題があったからだ
。闇雲に世界の中に朝鮮半島の権益に日本人は疑問があるまま戦争に陥ってしまったの
だ。


605: 名無しさんAA:17/10/06 15:40
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 254-----------

 こうしてシフの公債引き受けと国際資本との繋がりが取れて明石機関は、日露戦争が
開戦すると中立国スウェーデンに移り、以後この地を本拠として活動する。明石(当時
の階級は大佐)は日露戦争中に、当時の国家予算は2億3千万円程であった中、山縣有
朋の英断により参謀本部から当時の金額で100万円(今の価値では400億円以上)を工作
資金として支給されロシア革命支援工作を画策した。明石の依頼により、ライリーらは
明治36年(1903年)から建築用木材の貿易商に偽装して戦略的要衝である旅順に移住し
材木会社を開業、ロシア軍司令部の信頼を得て、ロシア軍の動向に関する情報や、旅順
要塞の図面などをイギリスおよび日本にもたらしていた。明石の工作の目的は、当時革
命運動の主導権を握っていたコンニ・シリヤクス率いるフィンランド革命党などのロシ
アの侵略を受けていた国の反乱分子などを糾合し、ロシア国内の革命政党であるエスエ
ル(社会革命党)を率いるエヴノ・アゼフなどに資金援助するなどして、ロシア国内の
反戦、反政府運動の火に油を注ぎ、ロシアの対日戦争継続の意図を挫折させようとした
ものであった。満州軍においては、欧州の明石工作をロシア将兵に檄文等で知らせて戦
意を喪失させようと計ったり、また欧州情勢を受けてロシア軍の後方攪乱活動を盛んに
行ったりした(満州義軍)。成果やレーニンとの会見の有無は別として、この点につい
ては研究者の間でもほぼ見解は一致している。このように、明石は日露戦争中全般にわ
たり、ロシア国内の政情不安を画策してロシアの継戦を困難にし、日本の勝利に貢献す
ることを意図したものであった。陸軍参謀本部参謀次長・長岡外史は、「明石の活躍は
陸軍10個師団に相当する」と評し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、「明石元二郎一人
で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている。」と言って称えたと紹介する
文献もある。日本国内においては、日露戦争での明石の活動ばかりが注目されているが
、対戦国であったロシア側の明石に対する反応はロシアでの啓蒙(警戒)を呼び起こす
ことに繋がっていた。ロシアの月刊誌『ロージナ』『祖国』は平成16年日露戦争特集号
で日本の参謀本部や外務省が満州において中国人やモンゴル人を使って強力な情報網を
構築した件を引き合いにし、このことがソ連時代に対日情報工作の強化一部はゾルゲ事
件のように明るみに出る物に繋がったことや、日本自身の防諜体制の甘さを指摘してい
る。日本側もフランス人記者を使ったロシアからの諜報工作に晒されていたのである。


606: 名無しさんAA:17/10/06 15:49
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 255-----------

帝国在郷軍人会本部の依頼で書かれた『猶太の人々』(1934)の結論には、帰国後の安
江のユダヤ観がこう披瀝されている。「猶太人の一人々々を観れば、数千萬の猶太人が
一人残らず、革命運動に参画して居るのでもなく、又皆一様に大財閥である訳でもない
。多くの猶太人の中には、之を分類すると色々の種類がある。例へば、繪で見る基督の
やうな、昔ながらの服装をして、『猶太の泣壁』に朝夕集り、救世主の降臨を祈り、全
く現代とかけ離れて、猶太教のみに没頭して居る宗教的猶太人がある。又一方にシオニ
ストとして、パーレスタインの猶太國建設のみに熱中して居る猶太人があるかと思へば
、又他方には國境を超越して、世界を舞臺として活躍するインターナシヨナルな猶太人
もある。更にシオニズムによつて一般に覚醒されたとはいひながら、シオン運動には無
関心に自己の商売のみに熱中している猶太人もある。即ち猶太人であるからといふて、
誰も彼も危険視すべきではない。我が國に取つて有害な人物もあれば、無害な善良な人
もある」とある。ここに陸軍と海軍の亀裂の元が透けて見える。即ち陸軍は陸上兵が多
くこのシベリア出兵に於いて「共産化思想」いわゆる赤軍思想に犯されて来た。ここで
その対局としてユダヤを探らせた所このシオニズムにはまってしまったしまった。特に
海軍に於いては 戦艦乗務が多かった為にこの「世界金融を握って世界征服」は「共産
主義で世界革命」の思想よりはショックだったと言える。こうして改めて日本語になっ
たユダヤ人世界の本や書物や記述が一般にも出回り始めてこうした事が視野を広めたし
この記述を信じた多数の人がいた。更に日露戦争がユダヤ金融の融資によって勝利した
事実は外務省役人に対し、ユダヤ人への関心を持たせることに成功している。以後日本
の各所の大使館及び領事館の職員は、彼らの駐在する国々のユダヤ社会の動向を外務省
に伝え続けることを要求された。こうして改めて外務省本局に膨大な報告書が上げられ
たが、いずれも「国際的陰謀」の存在を決定的に証明するには至らなかった。それでも
政府中枢に、ユダヤ人の経済力や政治力、及びユダヤ人が世界中に四散したことによる
国際的情報網を過大評価した者はかなりいた。そしてユダヤがドイツやソビエト連邦を
はじめとするヨーロッパ諸国で迫害を受けてはいるものの、日本とは比較的友好的関係
にあった為に、ユダヤ人を救出することで、今後日本に対する在米ユダヤ人からの確実
で永続的な好意を獲得できると考えた「ユダヤ難民満洲移住計画」通称「河豚計画」が
策定された。が この河豚の名通り、その移住に自由度が必要な上にその計画における
居留地への投資と移民の送致は、世界各国はユダヤ社会任せとされていた。更に「自治
権」を認めさせて 共産国の様な君主打倒を叫ばれる事も危惧された。

607: 名無しさんAA:17/10/06 15:56
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 256-----------

 「シオン賢者の議定書」によれば、諸外国でユダヤ人が支配権の掌握を行った。とさ
れ「居留地は一見自治国のように見えるが、ユダヤ人を認めれば 密かに監視下に置く
ための統制が必要である」との意見が大勢を占めた。又計画者は、ユダヤ人が支配権を
掌握して、日本の政治経済の主流への道を進むのではないかと懸念したのである。こう
して 本部事務局では一回は却下されれていた事案だったのであるが、日々に日本も又
諜報工作に晒されていたのである。こうしてもたらされたが「第1回シオニスト会議の
秘密議事録とされ流布した同書で、「世界の政治経済の支配を目論む、国際的なユダヤ
人の陰謀の存在を示す証拠。」としての「シオン賢者の議定書」であった。だがその後
この会議は陸軍中佐石原莞爾の目に止まり。調査団の陸軍の安江仙弘と海軍の犬塚惟重
の両名はユダヤ人専門家となり長州閥の知遇を得て鮎川の私的懇談会の中に組み込まれ
る。このユダヤ専門家達はその後「大陸派」とある程度まで協力した。陸軍大佐板垣征
四郎及び陸軍中佐石原莞爾率いる「大陸派」は、日本からの開拓者や資本を満州に誘致
しようとしたが、難航していた。これが、改めて本格的計画者の胸中に河豚計画の最初
の種が蒔かれた瞬間であるとみられる。1931年、満州事変の直前のことであった。
こうして、陸軍大佐の安江仙弘と海軍大佐の犬塚惟重の両名を始めとする「猶太民族調
査団」が秘密理に出来た。驚く事にそれは陸軍に金が優遇出来たからであった。「新国
土に於ける満蒙開拓猶太移住計画の可能性」から又改めて「猶太移住計画」が出て「河
豚計画」が改めて出来るのに時間はかからなかった。1927年ユダヤ研究を命じられ
、酒井勝軍を英語通訳として伴い、パレスチナやエジプトから欧州を視察し、このとき
反ユダヤ文書による観念的なユダヤ人理解の誤りを悟った。酒井勝軍は「ユダヤ問題座
談会」で、「包荒子はパレスチナを見てから思想に変化を生じ、『世界革命之裏面』の
如き書物はもう古くてだめだと言い漏らした」としている。こうして日本政府の最高意
思決定機関であった五相会議で、「猶太人対策要綱」が策定されたのも、安江が当時の
陸軍大臣・板垣征四郎に働きかけがあったためである。この要綱の成立過程に関する、
安江の役割については、これまで長男・弘夫の証言だけで資料的裏付けがなかったが、
関根真保が京都大学に提出した学位請求論文の公開『日本占領下の上海ユダヤ人ゲット
ー』のなかで、「満鉄外國経済調査係ニ課スル研究問題」(1938年10月27日)という 
資料のなかに、満鉄側のメモ「本件ハ安江氏ノ私案ナリ」という記述を発見したことが
報告され、この資料のなかに「猶太人対策要綱」の内容が網羅されていることから、
安江弘夫の証言の正しさが立証された。

608: 名無しさんAA:17/10/06 16:01
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 257-----------

だがユダヤ専門家にとって不運なことに、1933年8月、満州の都市ハルビンでユダ
ヤ系ピアニストのシモン・カスペの誘拐・殺害事件が発生した。シモン・カスペ殺害事
件である。この時の日本側の対応がハルビン在住のユダヤ人に不信感を抱かせた。彼は
ロシア系ユダヤ人で大富豪のヨゼフ・カスペの息子であった。シモンは、たまたまハル
ビンに帰省した際に何者かに誘拐され、同年12月、遺体で発見された。両手の生爪を剥
がされ、耳を削がれた上、頭部に銃弾を撃ち込まれるという凄惨なものであった。10
月3日、反ユダヤ主義の新聞ナシ・プーチ(ロシア語版)がロシアファシスト党の機関
紙として出版された。1935年に日本総領事森島守人はこのユダヤ人を中傷するこの
機関紙を批難した。満州国政府の要請によって1938年2月1日に一度停止するが、
1941年までハルビンで出版されつづけ、その後上海に移動した。河豚計画(ふぐけ
いかく)とは、1930年代に日本で進められた、ユダヤ難民の移住計画である。19
34年に鮎川義介が提唱した計画に始まるとされ、その年の五相会議で政府の方針とし
て定まった。実務面では、陸軍大佐安江仙弘、海軍大佐犬塚惟重らが主導した。ヨーロ
ッパでの迫害から逃れたユダヤ人を満州国に招き入れ、自治区を建設する計画であった
が、ユダヤ人迫害を推進するドイツのナチ党との友好を深めるにつれて形骸化し、日独
伊三国軍事同盟の締結や日独ともに対外戦争を開始したことによって実現性が無くなり
頓挫した。鮎川は1934年、「ドイツ系ユダヤ人五万人の満洲移住計画について」と
題する論文を発表した。彼は、5万人のドイツ系ユダヤ人を満州に受け入れ、同時にユ
ダヤ系アメリカ資本の誘致を行うことにより、満州の開発を促進させると共に、同地を
ソ連に対する防壁とする構想を立案した。関東軍の後ろ盾を得た彼は1937年、日本
産業を改組して満州重工業開発を設立。満州への本格的進出を果たした。日露戦争時の
ジェイコブ・シフは、そのユダヤの経済力の象徴として政府首脳の脳裏に刻み込まれた
満州国にユダヤ人を呼び寄せるという彼らの構想は、ユダヤ人が多くの資金や政治権力
、及びそれらを獲得する超自然的ともいうべき能力を有するという確信から来ていた。
彼らは、ドイツ系ユダヤ人でアメリカ人銀行家のジェイコブ・シフの名を記憶していた
。30年前、クーン・ローブ商会を率いるシフが日本政府に提示した巨額の投資があっ
たればこそ、日本は日露戦争に勝利できたのである。この時の戦費の約4割を、日本政
府へシフが協力し調達したといわれる。後年のジェイコブ・シフが又新興勢力のロスチ
ャイルド達の資本と勢力争いに戦っていた時であった。

609: 名無しさんAA:17/10/06 17:42
 だがこうして日本にドイツの先兵と白目向かれ 対日制裁を受けた後でも 日本陸軍
には 全く外交の動きは解らなかった。これは海軍報告や政府内のフリーメイソンなど
が増えて 嘘の報告や無理な作戦がたたっていたからだった。そもそも太平洋戦争にし
ても海軍には米国と対峙する度胸はなかった。単に山本五十六は気宇の天才戦略家であ
る石原莞爾が起こした満州国樹立に対抗して何ら策を持たず真珠湾攻撃をしたのである
。本来ならば真珠湾を攻撃する事は 当然ハワイ島の襲撃でありこの島の占領のはずだ
がその試案などなかったし ただ焚き付けれられた陸軍に対抗して言っただけだったの
である。更に本当の奇襲作戦なら宣戦布告などする必要もなく、ハワイ王国との婚姻で
あっても独立すれば済む事だったのだ。では何故こうした手を抜いた戦争に陥ったのか
。この事でなぜこうも不幸な戦死者を出したのか。それが天皇の狂気であったと言える
今では天皇行幸がTVに映っているが当時の昭和天皇は大正天皇と同じくお飾りと命の
危険があったのだ。つまり今の北朝鮮の指導者と同じに軍部掌握に粛清するか言われた
事に同意するかしか無かったのだ。戦前の天皇は国内を出てはいなく唯一留学した英国
位でこうした南方洋や中国大陸を見る様は無かった。いや天皇だけではない。石原莞爾
は日中首脳会談を近衞に提案したが、広田弘毅が同意せず、最後のところで決断できな
かった。この状況を憂慮し 杉山元に意見具申し、「このまま日中戦争に突入すれば、
その結果はあたかもスペイン戦争でのナポレオン同様、底無し沼にはまることになる。
この際、思いきって北支にある日本軍全体を一挙に山海関の満支国境まで引き下げる。
近衛首相が自ら南京に飛び蒋介石と膝詰めで談判する」という提案をした。同席した陸
軍次官・梅津美治郎は、「そうしたいが、近衛首相の自信は確かめてあるのか」と聞き
、杉山も「近衛首相にはその気迫はあるまい」と述べた。実際、風見によれば、近衞は
陸軍が和平で一本化するかどうか自信がなく、せっかくの首脳会談構想を断念したと言
われている。当初、近衞は首脳会談に大変乗り気になり、南京行きを決意して飛行機ま
で手配したが、直前になり心変わりし蒋介石との首脳会談を取り消した。石原は激怒し
「二千年にも及ぶ皇恩を辱うして、この危機に優柔不断では、日本を滅ぼす者は近衛で
ある」と叫んだと言う。だが 近衞 文麿は本来こうした弱い人間ではなかった。近衛内
閣では盧溝橋事件にトラウマン工作を行い、陸軍の参謀本部のトップである参謀次長多
田駿中将以下が終始停戦・交渉・和平を強く主張し、政府と海軍および陸軍省らがそれ
を阻止し和平を打ち切るという、戦後の一般的なイメージ(陸軍悪玉論・海軍善玉論)
とは逆の構造となっている。つまり日中戦争は満州事変での関東軍の暴走と違い、政府
と海軍が後押ししており、こうした海軍の中華領土拡大の先走りが日本を危うくしたの
である。

610: 名無しさんAA:17/10/06 17:49
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 260-----------

石原莞爾は戦略家ではあったが八代六郎と同じく 結構情報が少なかったと言える。八
代は海軍を政府直属としたかった。さらに、陸軍が朝鮮総督の職を独占しようとする活
動に対抗して 台湾総督を海軍将官に歴任させようと画策した。片岡七郎に相談しが「
河童の海軍が陸に上がれば必ずや失敗するだろう」と猛反対され断念にいたっている。
こうした裏に昭和天皇と徳川 義親がいるものと思われる。彼は松平 春嶽の子で春嶽は
、幕末から明治時代初期にかけての大名で、政治家となった第16代越前福井藩主だ。
嘉永6年(1853年)、アメリカのマシュー・ペリー率いる艦隊が来航して通商を求めた
際には、水戸徳川家の徳川斉昭や薩摩藩主の島津斉彬と共に海防強化や攘夷を主張する
が、老中の阿部正弘らと交流して開国派に転じて 世間からは批判された。幕府が朝廷
の勅許なしでアメリカとの日米修好通商条約を調印すると春嶽は徳川斉昭らとともに登
城をして抗議し不時登城の罪を問われて強制的に隠居させられ、謹慎の処罰を受けた。
井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されると幕府の政策方針も転換し、春嶽は文久2年に幕
政への参加を許される。彼はは熊本藩出身の横井小楠を政治顧問に迎え、藩政改革や幕
政改革にあたって彼の意見を重視した。京都では長州藩など尊王攘夷派の勢力が強く、
春嶽や慶喜らの活動は制限された。慶喜が尊王攘夷派と妥協しようとすると春嶽はこれ
に反対して帰国した。その後王政復古の声は高く小松帯刀の説得を受け、この四者で四
侯会議が開かれた。この合議制により、幕府の権威を縮小し、朝廷および雄藩連合によ
る合議をもってこれに代えようと久光は画策していた慶喜に対しギリギリのタイミング
で大政奉還を建白し、春嶽もまたこれに賛同している。その後尊王攘夷が火を噴き紆余
曲折の後江戸城開城となったが王政復古後の薩摩・長州の討幕運動には賛成しなかった
。維新後の新政府では内国事務総督、民部官知事、民部卿、大蔵卿などを歴任したが、
明治3年に政務を退いた。その子徳川 義親 は、尾張徳川家第19代当主として、政治家
になり、植物学者、狩猟家を趣味としていた。戦前の侯爵・貴族院議員で、第25軍軍政
顧問となっていた。戦後は社会党を支援して党顧問となるが、公職追放を受けたのであ
る。平和主義者として日ソ交流協会会長を務めたが、戦前はマレー半島で虎狩りをした
ことから虎狩りの殿様として有名になった。自伝に「最後の殿様」がある。越前松平家
・松平慶永(春嶽)の子に生まれ、1908年に尾張徳川家の養子となり、家督を相続。同
家の東京移転に際し、愛知県下の土地等の財産の処分を指揮し、1931年に財団法人徳川
黎明会を設立して同家伝来の什宝・書籍を同財団付属の徳川美術館・蓬左文庫で保存・
公開し他家の家政整理にも携わり、「投出しの尾張侯」「理財の天才」と称された。

611: 名無しさんAA:17/10/06 18:03
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 261-----------

1930年9月、橋本欣五郎を中心に、中堅将校の秘密結社桜会が結成された。彼はト
ルコ公使館付武官になったが、この時トルコ建立の革命家ムスタファ・ケマル・パシャ
の革命思想に接したことが、その後の遍歴に影響する。そのときから趣味は「革命」と
なった。と言われる。この桜会に板垣征四郎に親しい大川周明などが集まって来た。大
川は大学卒業後、インドの独立運動を支援していた。ラース・ビハーリー・ボースや、
ヘーラムバ・グプタを一時期自宅に匿うなど、インド独立運動に関わり、『印度に於け
る國民的運動の現状及び其の由来』(1916年)を執筆している。既に宮家やこうした外
国人との交流のある者を特高警察はマークしていた。それは日本が日英同盟を重視して
、イギリス側に立つことを批判し、インドの現状を日本人に伝えるべく尽力したからだ
。1918年(大正7年)に南満州鉄道に入社する。これは、初代満鉄総裁の後藤新平
に、植民地インドに関する研究論文が評価されたことで入社となったが此処にも玄洋社
の息が見える。アジア独立の革命支援だ。のち、満鉄東亜経済調査局の編集課長を務め
た。こうしてクーデター未遂事件が次々と起こる。三月事件は清水行之助らと計画とさ
れ清水が主催する右翼団体・大行社が警視庁を襲撃、東京各所で擬砲弾を炸裂させて騒
擾を起こし、社会民衆党の亀井貫一郎、赤松克麿らが大衆を動員して第59回帝国議会に
おける労働法案上提の予定日である 3月20日に開催中の議会へ群衆を押しかけさせ、陸
軍将校が議会を封鎖して議会の保護を理由に浜口内閣(浜口は襲撃事件で重傷を負い、
幣原喜重郎が代理を務めていた)を辞任させ、宇垣一成陸相を首班指名させる計画だっ
た。陸軍省の中でも永田鉄山や岡村寧次らが計画に反対し、2月に予行された大衆動員
の成果が小規模だったことなどから桜会の中でも反対者が出て、宇垣が消極姿勢に転じ
たことから計画は中止となった。結果計画の途中で「変心した」とされた宇垣は、陸軍
内部での信用を失ってしまった。小磯からの依頼で計画の立案者となりながら計画には
反対した永田は、のち計画案が皇道派の手に渡り、事件の首謀者と見なされ斬殺される
結果を産んだ。この三月事件は1931年柳条湖事件を発生させ十月事件を起こした。
柳条湖事件を端緒として満州事変が勃発したが、この当時外務大臣であった幣原喜重郎
の中心とした政府の働きにより、不拡大・局地解決の方針が9月24日の閣議にて決定
されている。しかし、陸軍急進派はこの決定を不服とし、三月事件にも関わった桜会が
中心となり、大川周明・北一輝らの一派と共にこの動きに呼応するクーデターを計画し
たのであった。-------------------------

612: 名無しさんAA:17/10/06 18:08
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 263-----------

十月事件では三月事件と違っていて幹部の計画だという形跡がありありとある。具体的
には桜会の構成員など将校120名、近衛師団の歩兵10個中隊、機関銃1個中隊、第
1師団歩兵第3連隊、海軍爆撃機13機、陸軍偵察機、抜刀隊10名を出動させ、首相
官邸・警視庁・陸軍省・参謀本部を襲撃、若槻禮次郎首相以下閣僚を斬殺および捕縛。
その後閑院宮載仁親王や東郷平八郎・西園寺公望らに急使を派遣し、組閣の大命降下を
上奏させ、荒木貞夫陸軍中将を首相に、さらに大川周明を蔵相に、橋本欣五郎中佐を内
相に、建川美次少将を外相に、北一輝を法相に、長勇少佐を警視総監に、小林省三郎少
将を海相にそれぞれ就任させ、軍事政権を樹立する、という流れが計画の骨子となる。
これらが漏れたのは先の荒木の談話に寄れば 軍部の恫喝として行われたようだ。西田
が東郷へ出馬を促しに行き、その連絡を荒木にしたことから発覚したとされている。大
内力は、この計画ははじめから実行に移す予定はなく、それをネタに政界や陸軍の中央
部を脅迫することで政局の転換を図ることが目的であったと推測しており、事実、荒木
を含めこの計画を知った軍の首脳部は事態の収拾に率先して動き、次第に政権の主導権
を獲得していくこととなった。『橋本大佐の手記』によれば、東郷平八郎 自身もこの
計画を知っており、参内・奏上に同意していた。とあるが、荒木貞夫の談話では東郷は
知らなかったとされ、荒木自身も計画には加わっていなかったと話したことから、計画
に挙がっていた新内閣の構想は単なる目標に過ぎず、その先の日本の政治や経済につい
てどのようにするかについては無計画であった。この後十月事件首謀者に対する責任の
追及は、永田鉄山らによる極刑論も一部にあったものの、同志の助命を橋本に嘆願され
た杉山茂丸が、西園寺公望に口添えを行ったり、橋本の盟友である石原莞爾が陸軍首脳
部に圧力をかけたりすることで、結果的には曖昧なままにされることとなった。橋本は
重謹慎20日、長・田中は同10日といった軽い物で処分の後、地方や満州に転勤とい
うものであった。これは軍部において桜会の勢力が依然強大であったことを示している
。しかし、この事件をきっかけとして桜会は事実上の解体を余儀なくされ、佐官級の動
きも次第に鎮静化へと向かっていった。三月事件でテロ思考を簡単にし十月事件がうや
むやになって文民統制が無くなった事が挙げられる。一つは若槻内閣の倒閣、二つ目に
陸軍内部の勢力の拡大変化、そして三つ目に民間右翼の活動に刺激を与えたことなどの
影響がでている。これは大きな問題だった。軍部の中で民生部門が干され政局が軍指導
に切り替わった瞬間だったのである。-----------------------------------


613: 名無しさんAA:17/10/06 18:28
昭和12年(1937年)に廣田内閣が総辞職した。これにより、次期首相にはかつて
軍縮に成功し、軍部ファシズムの流れに批判的であり、また中国や英米などの外国にも
穏健な姿勢を取る宇垣一成大将が有力視されて、天皇の大命降下される運びとなった。
此処に石原莞爾の馬鹿さがある。彼が軍の為に妨害した宇垣内閣は日本の救世主だった
かも知れないのである。この時海軍に戦争回避の秘策として3度目のユダヤ入植計画が
司令部に上奏されていたのである。この頃恐らく軍閥は5つ以上にあって収拾つかない
状態だった。長州閥とされる陸軍と薩摩閥とされる海軍から 他に宮家を中心とした皇
軍閥と 更に遺族会を中心とした地方閥である。このクーデター未遂や2・26事件に
よって更に海外閥とも言える朝鮮人や中国人の軍閥も出来上がったと言える。というの
も先の「五属共和」の名の元に幾らかの企業群が悪さを始めたからだ。「冀東防共自治
政府(きとうぼうきょうじちせいふ)」は、1935年から1938年まで中国河北省に存在し
た政権とされる。当時の日本側の認識によると、地方自治を求める民衆を背景に殷汝耕
の指導により成立した。とされるが、中国側からは当時から現代に至るまで認めていな
い。「日本側の特務機関の工作活動により設立された傀儡政権である」と主張されてお
り、また日本や米国にも中国側と同様の認識で傀儡政権であったとする研究がある。又
国旗には中華民国が最初に定めた五色旗を使用した。殷汝耕は孫文の頃からの革命志士
であった。彼らが日本留学が長く日本に人脈がある事から、中国革命政府の外交官的立
場の代表だったが、相次ぐ中国の分裂に 日本政府は彼を中心にした自治区を新たに作
り自治政府とした。と言うのが本当であろう。当然此処に、国民党軍との話し合いが行
われたと思われる。認めるか認めないかである。1933年5月31日 直ぐに日本と中国との
間で塘沽協定が締結され、中国側に非武装地帯を設定し、治安は中国側警察が担当する
こととされた。その範囲は 延慶、昌平、高麗、順義、通州、香河、寶牴、林亭鎮、寧
河、蘆台を結んだ線を境界としてその以北、以東と決められた。この地を支配していた
湯玉麟が此処に出席していた。かつては張学良の部下だったが、満州国の建国宣言に署
名し、熱河省長に就任していた人物だ。湯は正規・不正規軍の両方を併せて2万を越え
る軍を率いていたが、南と西からは張学良の軍事力、北と東からは日本軍の軍事力と言
うの脅威の狭間にあった。蒋介石は 湯玉麟の関心は地盤としての熱河省 とアヘンの
販路としての東北地域の確保と見ていた。張学良はこの地から産出され、天津と北京に
流れるアヘンをさばくためにアヘン販売局を設けて莫大な利益を上げ、自身の満州国に
おける工作活動資金としていた。この地を支配していた湯玉麟は張学良の金庫番だった
。万里の長城に迫りつつあった日本と中国の間を渡り歩いて資金を得ていた。


614: 名無しさんAA:17/10/06 18:28
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 265-----------

湯は正規・不正規軍の両方を併せて2万を越える軍を率いていたが、南と西からの張学
良の軍事力と衝突する。蒋介石は湯玉麟の関心は地盤としての熱河省とアヘンの販路と
しての東北地域の確保と見抜いていたからだ。張学良はこの地から産出され、天津と北
京に流れるアヘンをさばくためにアヘン販売局を設けての莫大な利益を上げて、自身の
満州国における工作活動資金としていた事が許せなかった。満洲国は建国にあたって自
らを満洲民族と漢民族、蒙古民族からなる「満洲人、満人」による民族自決の原則に基
づく国民国家であるとし、日本は建国理念として日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古
人による五族協和と王道楽土を掲げた。満洲国は建国以降日本の、特に関東軍の強い影
響下にあり、「大日本帝国と不可分的関係を有する独立国家」と位置付けられていた。
当時の国際連盟加盟国の多くは満洲地域は法的には中華民国の主権下にあるべきとした
が、このことが1933年(昭和8年)に日本が国際連盟から脱退する主要な原因となると
は思いもしなかった。防共の砦を作って称賛されるはずだった。その後、ドイツやイタ
リア、タイ王国など多くの日本の同盟国や友好国、そしてスペインなどの枢軸寄りの、
中立国も満洲国を承認し、国境紛争を引き起こしていたソビエト連邦をも領土不可侵を
約束して公館を設置するに至っている。当時の独立国の3分の1以上と国交を結んで独
立国として安定した状態に置かれた。アメリカ合衆国やイギリス、フランスなど国交を
結んでいなかった国も国営企業や大企業の支店を構えるなど、人的交流や交易を行い、
そこはプロパガンダ作戦の無さであった。我々が間違えやすいのは 満州国が傀儡政権
と言われ かつて昔は無かった国が出来た様に誤解する事だ。少数の原住民が暮らし 
それを取り入れて円満な社会の上に満州国を宣言しただけだったのだ。このことについ
て昔からの女真族の鳴霞さんの満州国の概要を此処に記述したい。{今、支那の東北省
となっているところは、かつての満州帝国でした。その満州のご出身の方に、鳴霞(め
いか)さんとおっしゃる方がいます。「月刊中国」の日本語版の主編をしておいでの方
です。彼女は、女真族の出身です。つまり、生粋の満州人です。そして彼女の親は彼女
に「ここが満州国だった時代、家に鍵なんてかけたことなんてなかったんだよ」と何度
も話してくれたそうです。満州国は、日本と同じだったのです。犯罪がない。もう少し
詳しく言うと、支那の清王朝時代、清國は満州を「聖地」として、漢民族の立ち入りを
禁じていました。そこは決して豊かな土地ではなく、人々は決して豊かとはいえなかっ
たけれど、泥棒も強盗もいない安全で安心な暮らしができた土地でした。}と。


615: 名無しさんAA:17/10/06 18:32
ところがそこが安全であることから、清朝末期、清國の統制力が弱まると、満州に漢人
たちが次々と入植を始めました。漢族の土地は、強盗団が跋扈して、安心して暮らせな
かったのです。おかげで満州の治安も酷い状態になりました。そして日本がバックアッ
プして満州国が出来上がりました。その満州国は、五族の暮らす土地でしたけれど、満
州が満州国であった時代は、そこは鳴霞さんがおっしゃるとおり、日本と同じく、家に
鍵をかける必要もないほど、安全で安心に暮らせる国に戻ったのです。だから街が発展
しました。満州国は、日本陸軍の傀儡政権であったという人がいます。成程 東京裁判
では、そのように定義づけられています。けれど、満州国の皇帝は、もともと清國の皇
帝であった人です。もともと女真族が支那大陸に攻め込み、北京に清王朝を開いたのは
、度重なる漢族による満州の地への進出が、彼らにとって大迷惑だったことによります
。そのため満州にいた女真族は団結し、漢族の住むエリアに攻め込み、その地を統治す
るために北京に紫禁城を築いています。そして清王朝時代を通じて、紫禁城内は漢族の
立ち入りは禁止でした。中に入ることが許されたのは、科挙の試験に合格したなど、き
わめて特殊なケースに限られました。そして漢族が、何かの事情で紫禁城内に侵入すれ
ば、理由の如何を問わず、逮捕され、城外で漢族たちが居並ぶ町中において刑が執行さ
れました。そのときに行われた刑が「凌遅刑」です。人間を裸にして柱にくくりつけ、
両方の乳房、二の腕の肉、腿の肉などを順番に削いでいく。そして三日三晩かけて苦し
ませながら殺害するというきわめて残酷な刑です。さらに紫禁城内で話されてた言語は
、漢族の話す支那語(北京語)ではありません。城内での会話も、筆記も、すべて女真
語(満州語)が用いられました。ですから、ものすごく簡単に要約すると、清王朝時代
というのは、漢族の土地や人民が、女真族によって植民地にされた時代、ということが
できます。外来王朝なのです。その清王朝の末期、明治44(1911)年に辛亥革命が起
こりました。教科書によっては、これによって清王朝が滅んで中華民国が成立したと誤
認するようなことを書いているものがありますが、全然違います。なるほど中華民国史
からみれば、大正元(1919)年、清國宣統帝は退位し、袁世凱が組織する共和政府に権
限移譲が行われています。つまり、支那を代表する政権としては、清王朝から中華民国
に、政権は交替したわけです。交替はしましたが、だからといって清王朝がこの時点で
消滅したわけではなく、この年以降も、毎年の恒例行事となっているチベット族や、モ
ンゴル族、あるいはウイグル族など周辺国による朝貢は、毎年継続しています。つまり
、清王朝は、そのまま存続していたわけです。単に、政権が変わっただけであったわけ
です。

616: 名無しさんAA:17/10/06 18:40
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 267-----------

ところが中華民国政権は、その後、支那共産党と二つに分裂し、互いに軍事力を駆使し
て、支那全土で凄惨な殺し合いをするようになってしまいました。そこで、内乱で危険
の多い北京から、本来の清王朝の故郷である満州を切り離し、そこに清國皇帝を招いて
満州帝国を日本が援助することで建国したわけです。新たに建国された満州国における
皇帝と、清王朝(大清帝国)では、名称は同じ「皇帝」でも、皇帝の位置づけは全く異
なるものでした。清王朝(大清帝国)の皇帝は、政治の三権(行政権、司法権、立法権
、国家緊急権(軍事権))のすべての権限を保持していました。けれど、満州国皇帝は
、人物は同じ愛新覚羅溥儀ですけれど、日本の天皇と同じく、政治の大権は保持しませ
ん。国家の最高権威として存在し、政治権力は内閣に委ねるという形がとられました。
そして満州国の住民は、満州国皇帝によって「おおみたから」とされました。つまり、
満州国は、日本と同じ統治の方法を取り入れたのです。これによって満州に住む全ての
民衆は、政治権力者と人として対等な存在となりました。つまり、人間としての尊厳を
誰もが認められるという体制になったのです。そして高いレベルの教育、高度に成長し
た経済によって、人々は、家に鍵などかけなくても、誰も泥棒になんて入らない、日本
と同じように安心し、安全に暮らせる国家を築いたのです。ところがこれを妬んだのが
支那やロシアの共産主義者たちでした。彼らの思考では、共産主義革命によってのみ、
人類の至高の幸福と安全で安心な生活が短期間に築かれるはずでした。けれど、共産主
義者たちが百年経っても築けず、混乱と人殺しが相次ぐ殺戮が繰り返されるばかりの共
産主義圏に対し、満州は、またたくまに都市インフラが整い、人々が安心して安全に暮
らせる社会を築いてしまったのです。つまり、共産主義者たちにとっては、満州国の平
和と安定は、すなわち共産主義の誤りを見事に証明するものとなってしまったのです。

617: 名無しさんAA:17/10/06 18:40
ですから共産主義者たちは、満州にスパイを送り込み、内部統治の撹乱工作を始めまし
た。満州国内をアメーバのように走る満州鉄道は、こうした共産主義者達による線路妨
害工作が、年間30万件です。そして尼港事件が起こりました。およそ人類社会におい
て、人類が希求し続けていることは、平和であり安全に安心して暮らせる社会です。け
れど、そういう社会であればあるほど、それを壊し、奪い、意図して混乱を誘う連中が
いるのです。それが共産主義者です。そしていま、その共産主義国である中共が、軍事
力を拡張させ、露骨に近隣諸国の領土や領海を奪いに来ているわけです。南シナ海、尖
閣諸島、小笠原諸島の珊瑚、あるいは日本国内における用地の買収など、彼らの工作は
、ひたすら近隣諸国の平和と安定を脅かすものです。



(ねずさんの ひとりごと より転載)


618: 名無しさんAA:17/10/06 22:25
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 268-----------

 つまり冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)」は女真族の為に作られた
満州と中国の言わば中立地帯で 国際連合からも認められた国だったのだ。特に秦皇島
界隈は古くからのアヘンの昔からの密輸入港で勝手な自治政府があった。1933年の
日本と中国との間での塘沽協定が締結で、中国側に非武装地帯を設定し、治安は中国側
警察が担当することとされれ、その範囲は延慶、昌平、高麗、順義、通州、香河、寶牴
、林亭鎮、寧河、蘆台を結んだ線を境界としてその以北、以東と決められていた。こう
した陸軍の弱気が又も波乱の元になった。中国ロシア境界は常に動乱の地だったのだ。
何故なら 本来この地は空白地であり更に権力の中枢部であったからだ。現実的に今の
中国であれば華南の中央広州市が中心でありアヘン戦争の以前も従来の広東(広州)に
加え厦門、福州、寧波、上海の計5港を開港させ、それぞれに領事を置き、香港の割譲
で決着している。この地を支配していた湯玉麟は、かつては張学良の部下で、奉天軍と
しても実力者である。満州国の建国宣言にも署名し、熱河省長に就任していた。又その
為張学良の資金源がこの地からのものが殆どだった事から、多くは湯玉麟が金庫番をし
ていたものと思われる。ところが中国と言う国はそもそもの国の観念が日本の様な建国
主義「国を建てる」と意識はない。あくまで自分の居所としての場所であり他人に対し
て威嚇する道具。としての意識しかない。つまりその場所や人民などは眼中にはないの
だ。あくまで兵力であり財の貢民の意識しか無かった。そこに自治運動が河北の民衆運
動として発生した。最初の運動は香河県の有力者・武宜亭を指導者とし、減税と自治を
要求し、ライフルとショットガンで武装しており、この事件は中国側で香河事件と呼ば
れた。日本人の「浪人」が参加していたため、日本の憲兵隊がその中の6人を逮捕して
取調べを行い、監視の下、天津に移送した。ところがそもそもがこの国が中国の一部で
あり、この湯玉麟なり張学良への税の支払いがあれば、その後の輸入税は支払わないで
も良い仕組みだった為 国民党政府蒋介石将軍との軋轢又は誤解があったと言える。日
本軍は不拡大政策であった為軍は縮小していた。元々中華と言うのは平原の祖としての
西安が首都としてあるべきものだった。ところが 余りにも戦乱が多くまたこの戦乱で
の醜さ故に人々は戻らなかったのだ。その後復興を遂げると長安と名前まで変えたのだ
が、この理由は支配者の意識に人民があるかないかである。日本の一所懸命の言葉の、
「ー所」は所帯を構えるとか所得とか集団と場所を指す。更に懸命とは懸賞とか懸案と
いう賭けた行為を指す。つまり命を懸けて一つ所を守る事を意味する。だがこの言葉が
中国にはない。生活と言うより自分自身の保身や、自分の命の方が大事なのだ。

619: 名無しさんAA:17/10/06 22:27
 こうした戦乱に明け暮れて 中華政府は全くインフラ整備の視点は無かった。次々と
減っていく税収と 国民の買うものが海外製品となって行った。隣の満州では生産拡大
が続いていた。こうして産物もとれない 生産向上の努力もない愚民のままに通貨政策
は破綻の様相を示した。此処にきて中華民国では継続していた輸入超過のため対外決済
としての アメリカの銀買入政策に起因する銀の海外流出の為に政府系銀行の準備銀が
急激に減少した。つまり銀の在庫が無くなったのだ。金融破綻を恐れた国民政府はすぐ
さま1935年11月4日突如として以下のような銀国有化と紙幣の強制運用の布告を
出した。
 1.1935年11月4日より、中央、中国、交通三銀行発行の銀行券は完全なる法定通貨
  たるべく、租税の徴収、公私債務の支払いは一切法定通貨を以って決済せらるる
  ものとす。
 2.銀弗、銀塊を通貨の目的に使用することは一切之を禁止す。本条項に違反する場合
  は当該通貨全部を差押え没収するものとす。
 3.何人たるを問わず故意に銀弗、銀塊を隠匿又は不法に所有流通するものあるときは
  、緊急治罪法を以って処断す
 4.三銀行以外の発行銀行券にして、すべて財政部の承認を経たるものはそのまま流通
  せしむ。但し各銀行の発券額は十月三日現在を超ゆることを得ず。
つまり今まで使われた銀貨の使用はやめよ 銀行券のお札で行えというものだった。こ
れは国内流通には問題無かったが 外国から 資材は何ら買えないかお札のレートでの
購入しか出来ない事を意味していた。だが相次ぐ戦乱と辛亥革命以来の軍閥諸勢力興亡
の度に地方政権により発行された紙幣は、あるものは暴落し、あるものは廃棄されたと
いう歴史を持ち、中国民衆にとって紙幣の信用は低く、また特に金融知識に疎い農民層
における売買取引は従来殆どが現銀交易のみであった。国民政府の銀国有と紙幣の強制
運用の実施は中国北部農民に極度の不安と恐慌をもたらした。一方、中央銀行を除き、
全ての銀行も反対した。その理由は単純にこの政策で直ちに所有する銀が没収され、兌
換不能による紙幣価値の下落と通貨不安による物価高騰、中国北部における経済停滞か
であった。農民と都市の経済関係の断絶を考慮すれば経済恐慌不可避との判断もあった
。この銀国有化の政策は中国北部の自治要求運動に新たな論拠を与え、運動の再活性化
と進展を促すことになる。翌12月には、この政策に関する銀引渡しに外人銀行団が反対
し、広東が銀国有制度から離脱する事態となり、翌年5月には新通貨政策として新銀貨
発行が決められた。

620: 名無しさんAA:17/10/06 22:30
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 270-----------

通州事件は こうした時起こった。冀東保安隊は、国民革命軍第二十九軍首脳部によっ
て買収され、あるいは使嗾され、またあるいはその宣伝に判断を誤り、通州の日本部隊
が僅かであることに乗じて、1937年7月29日未明を期して冀東保安第一総隊(2,000名)、
第二総隊(2,000名)、教導総隊(1,300名)及び警衛大隊(500名)からなる5,800名による反
乱を起こした。警衛大隊の隊長は反乱に反対したため、第一総隊隊長張慶余に銃撃され
たが、一命をとりとめた。反乱した保安隊は先ず冀東防共自治政府を襲撃して日本人顧
問を殺害、殷汝耕長官を拉致し、他の一隊は通州城内の日本守備隊、特務機関、領事館
、警察署を襲撃し、特務機関は細木機関長以下殆ど殉職、領警署員全滅、城内の日本人
居留民は守備隊に避難収容された135名以外の250名余りの老若男女が残虐に殺害された
。暴徒は日本関連施設のみならず冀東政府、冀東銀行などから掠奪を行った。殷汝耕は
冀東保安隊に拘束され、宋哲元に引き渡されるために北平へと護送されたが、宋はすで
に北平を離れており、殷の護送部隊は日本軍により粉砕されたが、殷は逃亡し、北平城
内に潜伏した。他の冀東防共自治政府の官吏も、反乱の勃発と同時に潜伏するか逃亡し
た。日本軍が29日夕方に反乱を掃蕩するまで政府は反乱保安隊によって占拠され、従来
の組織による政府は消滅した[47]。日本軍支那駐屯軍司令官香月清司中将は、治安体制
の欠如した状態を憂慮し、翌30日要務連絡のため天津に来ていた池宗墨秘書長に政務長
官の任を求めた。この通州事件による日本官民の被害に関しては、冀東防共自治政府が
損害賠償をすることになり、同年12月24日池宗墨長官自ら北京日本大使館に森島参事官
を訪問の上、賠償金120万円を手交し、事件の解決とした。また事件後には、政府所
在地も通県(通州)から唐山へと遷されている。元々この地での貿易は「冀東特殊貿易
」と言われていた神聖な地だった。冀東防共自治政府は正規の関税の四分の一程度の査
験料を徴収することで、海面からの物資の輸入を認める措置を実施した。これは塘沽協
定以来増加していた密輸の公認であり、日本軍の山海関特務機関の指示によるものであ
った。すでに関東軍は戦区海面への中国税関の武装監視船の配置を停戦協定違反として
排除しており、中国側はこの密輸を阻止する手段を持たなかった。この政策は傀儡政府
の経費を確保することを直接の目的としており、しかも低額査験料は、日本商品だけに
適用され、日本商品に不当の利益をもたらすという二重の経済侵略の性格をもつもので
あった。日本の商品は大連に陸上げされると、鉄道で満州を通って冀東政権の「領土」
にはいる。その時、その商品はごく安い税がかけられるが 冀東政権は中国のなかにあ
る地方政権ということになっているから後は税がかけられることは無かった。

621: 名無しさんAA:17/10/06 22:50
通州事件は 極めて残忍な暴徒の事件とされる。勢い勝手に襲われた日本人達は、暴漢
に襲われ男は張り付けの上手足をもぎ取りながら殺され 女は犯されながらころされた
妊婦は腹を出されて 幾日間も晒しものにした。今でも中国に官製デモがあるが この
仕組みは極めて単純で僅かな金を払って好き放題させると言う物だった。中国人には国
と言う物の認識がないから、何処の土地でも何処の民でも破壊し盗み殺す事が出来る民
族で感化されれば我が親さえ食べる残忍さをもつ民族である。それ故に諜落作戦は多く
中国国民党軍のこうした夜盗ぶりは、この事件だけでは無かった。アムール川の河口に
あるニコラエフスク(尼港、現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)で発生した、俗に
言われる尼港事件は全く意味の無い事件でもあったろう。このニコラエフスクは樺太の
横にあるかなりの緯度の高い所の港だが 日本地図を描いた伊能忠敬や民俗研究者にも
知れ渡った存在だから異民族の物々交換拠点としてはかなり古い場所であったと言える
。ところがロシアが日露戦争で敗けた頃か此処の開発が始まった。ロマノフ王朝は帝政
の基盤固めと西洋化を図り専制君主として君臨したピョートル大帝の時代にロシアの西
洋化・近代化を真似て大航海に出た。急速に押し進めヨーロッパの列強に加わり、その
後勢力を拡大しヨーロッパから沿海州までを支配し帝政の基礎はこの時代に安定した。
この時の戦いがバルト海を中心にした大北方戦争であったが 此処で艦隊を増強しカム
チャッカ制圧に挑んでいた。東ローマ帝国は自らを単に「ローマ帝国」と称していた。
そして、「ローマ帝国」は「文明世界全てを支配する帝国」であり「キリストによる最
後の審判まで続く、地上最後の帝国」だと考えられ自らを、キリスト教的 意味での「
世界史的に位置づける強い意識」は、世界創造や紀元の使用にも現れる程だ。このイデ
オロギーは一千年にわたって貫かれる一方で、政治体制は周囲や国内の状況に合わせて
柔軟に変えられていた。強固なイデオロギーと、変化に対応する柔軟性を併せ持ってい
た。東ローマ帝国の住民の中心はギリシア人であり、7世紀以降はギリシア語が公用語
であったが、12世紀まではセルビア人・ブルガリア人といったスラヴ諸民族やアルメ
ニア人などを内包する多民族国家であった。この人達を内包したままオスマン帝国が勢
力下に起きそれに対抗する様にロシア帝国があった。アレクサンドル2世の時代に露土
戦争でオスマン帝国に勝利して西アジアに勢力を拡大した。だが、クリミア戦争敗北後
のロシアは東アジアへの勢力拡張に積極的になり、アロー戦争では英仏に味方して清と
アイグン条約を締結してアムール川一帯など大規模な領土を獲得した。日本とも江戸幕
府と日露和親条約を締結して国交を結んだ。

622: 名無しさんAA:17/10/06 22:50
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 272-----------

ロシア皇帝は2月革命によって退位が迫られた。この時ニコライ2世は、帝位継承法(
英語版、ロシア語版)の規定で本来ならば後継者として予定されていた皇太子アレクセ
イであったが幼かったので、弟のミハイル・アレクサンドロヴィチ大公に皇位を譲った
。ところが、ミハイル大公は即位を拒否したため、ここに 300年続いたロマノフ朝は幕
を閉じ、ロマノフ家の人々は一市民になって臨時政府が立てられ多くの財宝などが政府
に移った。こうして武力によってユリウス暦3月7日には臨時政府によって自由を剥奪
され、ツァールスコエ・セローに監禁された。英国君主とも血縁関係が強い元ロシア皇
帝一家を同盟国でもあるイギリスに亡命させる計画もあったが、ペトログラードのソヴ
ィエトを中心として反対論があり、同年8月、妻や5人の子供とともにシベリア西部の
トボリスクに流された。その後もロシアの政情は悪く治安も経済も復活しなかった。そ
の為各国に不満者をめをそらす必要と粛清の必要に追われた。ボリシェヴィキによる十
月革命がおこってケレンスキー政権が倒されると、一家はウラル地方のエカテリンブル
クへ移され、イパチェフ館に監禁(資産家イパチェフの家を接収して使用)された。イ
パチェフ館は高い塀と鉄柵で覆われ、全ての窓がペンキで白塗りされ、一家は外部との
接触を禁じられて厳しく監視されていたが、互いに協力しあって生活を送った。ニコラ
イ2世は死の4日前まで日記を書き続けた。イパチェフ館の警備兵を務めたアナトーリ
・ヤキモフは当時のニコライ2世の様子について後年に「私は彼が親切で、単純素直で
、気の置けない人柄だと思った。私に話しかけようとしているように思える時もあった
。本当に、私達に話しかけたがっているようだった。」と書き記している。しかし、チ
ェコ軍団の決起によって白軍がエカテリンブルクに近づくと、ソヴィエト権力は元皇帝
が白軍により奪回されることを恐れ、1918年7月17日午前2時33分、ウラジーミル・レー
ニンよりロマノフ一族全員の殺害命令を受けた、元軍医でチェーカー次席のユダヤ人の
ヤコフ・ユロフスキー率いる、ロシア帝政下で抑圧され続けた少数民族のユダヤ人・ハ
ンガリー人・ラトビア人で構成された処刑隊が元皇帝一家7人(ニコライ、アレクサン
ドラ、オリガ、タチアナ、マリア、アナスタシア、アレクセイ)、ニコライ2世の専属
医(エフゲニー・ボトキン)、アレクサンドラの女中(アンナ・デミドヴァ)、一家の
料理人(イヴァン・ハリトーノフ)、従僕(アレクセイ・トルップ)の合わせて11人
をイパチェフ館の地下で銃殺した。

623: 名無しさんAA:17/10/06 22:51
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 273-----------

ノーベルと言えばノーベル賞なのだろうがノーベル賞は、ダイナマイトの発明者として
知られたアルフレッド・ノーベルの遺言に従って1901年から始まった世界的な賞で
ある。物理学、化学、生理学・医学、文学、平和および経済学のでの顕著な功績を残し
た人物に贈られるのだが。経済学賞だけはノーベルの遺言にはなく、スウェーデン国立
銀行の設立300周年祝賀の一環としてノーベルの死後70年後にあたる1968年 に設立さ
れた。従ってノーベル財団は「ノーベル賞ではない」としているが、一般にはノーベル
賞の一部門として扱われることが多い。では 何故 わざわざ 経済学賞をノーベル賞
ではないと言いだしたのか。スウェーデンの発明家・企業家であり、ダイナマイトをは
じめとする様々な爆薬の開発・生産によって巨万の富を築いた。しかし爆薬や兵器をも
とに富を築いたノーベルには一部から批判の声が上がっていた。1888年、兄のリュドビ
ックがカンヌにて死去するが、この時フランスのある新聞がアルフレッドが死去したと
取り違え、「死の商人、死す」との見出しとともに報道。自分の死亡記事を読む羽目に
なったノーベルは困惑し、死後自分がどのように記憶されるかを考えるようになった。
こうして1896年12月10日に63歳でノーベルは死去するが、遺言は死の1年以上前の1895
年11月27日にパリのスウェーデン人・ノルウェー人クラブにおいて署名されていた。こ
の遺言においてノーベルは、「私のすべての換金可能な財は、次の方法で処理されなく
てはならない。私の遺言執行者が安全な有価証券に投資し継続される基金を設立し、そ
の毎年の利子について、前年に人類のために最大たる貢献をした人々に分配されるもの
とする」と残している。実はこの物語の中心はこの彼の兄はロバート・ノーベル、であ
る。現在、一般的な油井掘削に使われているロータリー式掘削法は当初、水井戸掘りと
して1841年(または1845年)にフランス人のフォーベルによって発明され、フランス人
の土木技師レショットが実用化した。こうして19世紀から20世紀にかけてそれまで
の衝撃式掘削方式がロータリー式に取って代わられた。1901年にアメリカ人キャプ
テン・ルーカスがテキサスのスピンドルトップで初めて油田の掘削に使用し、大量の原
油を得た後にアメリカを始め世界各国で使用されるようになった。


624: 名無しさんAA:17/10/06 23:00
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実)274 -----------

 元々 ロシア帝国南部カスピ海沿岸の小さな町バクーは古くから知られた産油地帯で
知られていた。はるか紀元前600年の前から“永劫の火の柱“の奇跡として拝火教の
発祥の地とされた聖地であった。既に住み着いた住民は9世紀以来は、手掘りで採油し
て商売しており使用されており、16世紀から商売が始まっていて、19世紀初期まで
は小規模ながら石油産業が育っていました。現在につながる石油の歴史は、ペンシルベ
ニア州北部のタイタスビルで最初の石油鉱床を発見したエドウィン・ローテレンティン
・ドレーク通称・ドレーク大佐に始まると言われる。ニューヨークの弁護士ビセルが事
業を企画し、ニューヘブン銀行の頭取だったタウンゼント等がパートナーとなってこの
プロジェクトは立ち上げられ、ドレーク大佐はそのプロジェクトマネジャーとして登用
されたのでした。現地入りしてから約2年間、具体的な成果は現れませんでした。それ
まで必要な資金を捻出してきたタウンゼントが事業の撤退を決めようとしていた185
9年8月27日、ついにドレークは石油鉱床にたどり着いたのでした。日本は今だ幕末
であり1858年に日米修好通商条約が結ばれて外国人が横浜に住み着いた頃なのだ。
このドレークの成功の影響を受け、1870年年代初め、ロシア政府はこの地域の個人
の競争企業を認めました。そして、1973年までに小規模な製油所が続々誕生します
。後にノーベル賞を作ることになるアルフレッド・ノーベルの父で発明家のイマヌエル
・ノーベルは爆薬製造の軍事工場を作るため、スウェーデンからロシアに移住します。
アルフレッドは兄2人、弟1人の4人兄弟でしたが、弟はここで工場爆発で死んでしま
ったのだ。父は失敗しますが、次男ルドヴィッヒはこの軍事工場を跡継ぎたてなおしま
す。アルフレッドは化学と経営の才能があり、ニトログリセリン爆薬からダイナマイト
を発明し、世界的な企業を築きます。1973年長男ロバート・ノーベルがバクーにや
ってきて、たちまち石油熱に取り付かれ、小さい製油所を買いました。化学者の血を引
く彼らは原油から不純物を取り除く方法を発明して純度の高い石油を売り出した。こう
して他社からも引き合いが出来て原油を買い取り拡大し、コーカサス地方で最も利益の
上げる企業になっていった。会社はロシアの灯油の半分を生産することになり、アメリ
カの灯油すなわちスタンダードオイルの灯油をロシアの市場から完全に追い出すことに
なりました。19世紀の終わり、フランスのロスチャイルド家がロシアの油田を買い、
バクーから黒海の港町バツームまでの鉄道建設に投資します。ロスチャイルド家は戦争
にも、政府にも、企業にも資金を出す世界で最も有名なユダヤ人でした。


625: 名無しさんAA:17/10/06 23:02
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 275-----------

 ノーベルが来る前では カスピ海西岸に突き出たアフヘシェロン半島には太古の時代
から屋根の四隅で燃え盛る炎の拝火教(ゾロアステー教)の寺院が多くありました。最も
名高いものはバクー近郊スーランヌイにあるアテクガ寺院です。信者にとっては、何故
そこで、永遠の炎がもえてるのか謎でした。その秘密は竹で作られた筒により地下から
屋根まで石油ガスが導かれていたのです。この寺院は625年に破壊されてしましすが
、その後修復され、現在でもゾロスター教の聖火としてトーチの先端でえんえんと燃え
続けています。宗教に"火"ガ取り入れられた事と、その地域に石油が豊富に存在すると
いうことは、密接な関係があるのでしょう。カスピ海沿岸は、ほとんどどこでも石油が
滲み出ていました。原油による沼地のようなものが多数あるようでした。原油はカスピ
海に流れ出て悪臭が立ち込めていて住める土地ではなかったそうです。が今やカスピ海
一帯は石油資源の宝庫として、沿岸の5ケ国が領海占有権、海底占有権の解釈で争って
います。そのどちらで占有権を決定するかにより石油の取り分が大きく違う。ニューヨ
ークの同時多発テロに端を発したアフガン戦争もカスピ海の石油ガス輸送のパイプライ
ンをアフガニスタンからバキスタンに敷設しようとする アメリカ石油資本というより
ブッシュ大統領の関わる石油利権に繋がる複雑な相関関係が見え隠れしているのです。



626: 名無しさんAA:17/10/06 23:03

こうしてバクーにアメリカ ・ペンシルバニアのドレーク油田に続いて本格的な石油産
業が誕生しました。19世紀のバクー油田はカスピ海の沿岸に石油掘削ヤグラが乱立し
て沿岸都市バクーとなっていました。こうして更にカスピ海には原油が流れ込み悪臭ガ
スが立ち込め環境は悪くなっていったといいます。小規模鉱区が多く、約415の手掘
り油井があったといわれています。1873年に最初の油井が噴出しました。石油によ
って都市は近代化していきました。石油に夢をみて人びとが群がり街になっていった。
1873年ノーベル3兄弟のスエーデンの発明家イマヌエル・ノーベルの息子ロバート
・ノーベルがバクーを訪れた時はこんなバクーの初期だった。イマヌエルには3人の息
子がいました。長男のロバートは次男のルドブィッヒの仕事を手伝っていました。次男
は父の仕事を受け継ぎ軍事産業を営んでいました。その関係で ライフルの銃床となる
木材や艤装品の買い付けにバクーを訪れた。そのころ、バクーは既に規模は小さいもの
の石油産業が芽ばえていて、街は栄えて派生した商売流通も中心になっていた。彼は、
たちまち石油の虜になった。懐には、弟から預かった木材買い付けの資金があります。
その資金を流用し1875年にバラハニーに利権を取得小さな製油所を手に入れた。そ
の後、次弟からの資金援助もありバクーでも強力な精製業者となりました。次弟のルド
ブィッヒは、アメリカでの石油産業の急成長を知り、自ら石油産業に乗り出します。発
明家という素養を備えており連続蒸留装置の技術改良など、たちまち製油所を効率的に
改造しました。掘削業者、包装業者、輸送業者を傘下にいれ一大石油産業を確立します



627: 名無しさんAA:17/10/06 23:03
 さらに、油井と製油所との間にパイプラインを敷設しました。『ロベルト・ノーベル
製油所』を設立し国際石油会社としての地位を築きます。長男ロバートは、弟ルドブィ
ッヒが自分の領分を犯したことに反発スェーデンに帰ってしまいます。しかし、187
9年に『ノーベル兄弟石油生産会社』を設立しました。ノーベル一家はこの頃乗り出し
てきたロスチャイルド家と競争することになります。ロバートが弟に出資させて、バク
ーに定住したとあります。しかし、ノーベル基金の設立者が末弟のアルフレッドであり
資金調達の役目がアルフレッドであるのが定説です。このアルフレッドがダイナマイト
の発明者1867年であるとしている。産業発展の為には、安全な爆薬が必要であると
いうことで研究を重ねました。その爆薬とは、ニトログリセリンで、僅かなショックで
爆発するこの液体を安全なものにしたいとの研究でした。その結果、1866年に安全
に取り扱えるダイナマイトを発明しました。彼のダイナマイト発明の目的は、鉄道のト
ンネルを掘る平和産業に貢献することでした。この石油産業に於いては、当時輸送手段
としては木製の樽を使用し、カスピ海を600マイル北上していました。そこから小船
に積み替えてボルカ川を遡り運んでいました。破損、漏洩等効率が悪く悩みの種でした
。石油をバラで運搬する船の船倉にタンクを作り石油を入れる船もありました。しかし
、今で云うタンカーではあるものの"油と水"の関係から船の安定が悪くこれもバクー産
の石油のヨーロッパ諸国への販売拡大を妨げる要因となっていました。持ち前の技術革
新のルドブィッヒは、水と油の密度差による不安定要因をクリアした スェーデンで特
別製のタンカーを作らせ1878年にカスピ海に就航さすことに成功しました。ゾロス
ター号です。ほどなく、カスピ海からボルカ河、バルト海をタンカー船隊が航行しまし
た。こうしてノーベル三兄弟の果たした貢献は大きな利益を産んだ。バクーの石油産業
はロバートが先鞭をつけ、次男が製油所の技術革新により近代化そして末弟がダイナマ
イト発明による特許料により莫大な資金の蓄積により、石油産業への資金提供という図
式で登りつきノーベル賞を作っている。ロスチャイルド家はカスピ海・黒海石油会社を
設立し、アドリア海沿岸の自分の製油所に石油を送り込みます。これにより、ノーベル
兄弟とロスチャイルドのロシアの石油がヨーロッパ市場に流れ、スタンダード・オイル
のシェアは78%から71%に下がりました。1888年ノーベル石油の総指揮官のル
ドヴィッヒ・ノーベルが57歳で急死しました。ヨーロッパの新聞がノーベル兄弟を混
同して、ダイナマイトキング、死の商人の死去と報道しました。生きているアルフレッ
ドは自分に対する「人を殺し、傷つける新方法を編み出し、莫大な財産を築いた」とい
う記事に考え込み、遺書を書き換える決心をします。こうして財産で、ノーベル賞を設
立し、人類に尽くした功績を讃える自分の名前を永久に残そうと考えたのでした。

628: 名無しさんAA:17/10/06 23:06
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 278-----------

このノーベル家、ロスチャイルド家は育て上げたロシアの石油産業からの追放運動こそ
共産主義革命運動の骨格でもあった。此処にサミュエル商会も加わってしまったのだ。
イギリスに、下層階級の上くらいに属する生活をしていた、ユダヤ人の一家があった。
この一家は、東ヨーロッパのポグロム(ユダヤ人迫害)を逃れて移住してきた。両親は
、車に雑貨品を積んで売って歩く、引き売りの街頭商人として暮しを立てていた。子供
が11人おり、その10番目の息子は、大変頭がよく活力に満ちあふれていた。しかし
、学校では成績が非常に悪く、どの学校に行っても、悪い点ばかりとっていた。といっ
て、彼は頭が悪いというわけではなく、学校の授業にうまく合わなかったからであった
。この息子が高校を卒業したとき、父親は彼に、極東へ行く船の三等船室の片道切符を
一枚、お祝いとして贈った。そのとき父親は、息子に2つの条件をつけた。1つは、金
曜日のサバス(安息日)が始まる前に、必ず母親に手紙を書くことだった。というのは
、母親を安心させるためである。2つ目は、父親自身、年をとってきたし、また10人
の兄弟姉妹がいるのだから、一家のビジネスに役立つことを、旅行中に考えてほしいと
いうことだったと言う。こうしてこの息子は、1871年、18歳でロンドンからひと
り船に乗り、インド、シャム、シンガポールを通って、極東に向かった。彼は途中、ど
こにも降りず、船の終点である横浜まで、まっすぐやってきた。彼は、懐(ふところ)
に入れた5ポンド以外には、何も持っていなかった。5ポンドといえば、およそ今日の
5万円かそこらのカネである。日本には、もちろん知人もいないし、住む家もなかった
。また、この時代には、日本にいる外国人といっても、おそらく横浜、東京あたりでも
数百人にすぎなかった時代だ。彼は湘南の海岸に行き、つぶれそうな無人小屋にもぐり
込んで、初めの数日を過ごした。そこで彼が不思議に思ったのは、毎日、日本の漁師達
がやってきて、波打ち際で砂を掘っている姿だった。


629: 名無しさんAA:17/10/06 23:06

                        よく観察していると、彼らは砂の
中から貝を集めていた。手に取ってみるとその貝は大変美しかった。彼は、こうした貝
をいろいろに細工したり加工すれば、ボタンやタバコのケースなど、美しい商品ができ
るのではないかと考えた。そこで彼は、自分でもせっせと貝を拾い始めた。その貝を加
工して父親のもとに送ると、父親は手押し車に乗せて、ロンドンの町を売り歩いた。当
時のロンドンでは、これは大変珍しがられ、飛ぶように売れた。貝がらは美しく父親も
又ボタンなどの作品はロンドンでは、これは大変珍しがられ、飛ぶように売れた。やが
て父親は手押し車の引き売りをやめて、小さな一軒の商店を開くことができた。この商
店が2階建てになり、次には3階建てになり、そして最初はロンドンの下町であるイー
ストエンドにあった店舗を、ウエストエンドへ移すなど、この貝がらをもとにした商売
は、どんどん発展していった。そのあいだにも日本にいた彼の息子は、かなりのカネを
ためることができた。この青年の名前はマーカス・サミュエル、ヘブライ語の名前が、
モルデカイであった。


630: 名無しさんAA:17/10/06 23:16
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 279-----------

 こうしてマーカス・サミュエルは日本の海岸で拾った貝がらの商売で大成功をおさめ
サミュエルは1876年(23歳の時)に、横浜で「マーカス・サミュエル商会」を創
業し、日本の雑貨類をイギリスへ輸出した。この時は輸出だけでなく、日本に工業製品
を輸入したり、日本の石炭をマレー半島へ、日本の米をインドへ売るなどを、アジアを
相手にして、商売を大きく広げていった。ところで、この時代、世界中のビジネスマン
のあいだで一番話題になっていたのが、石油だった。ちょうど内燃機関が登場し、石油
の需要が急増しつつあった。ロックフェラーが石油王となったきっかけも、この時代だ
ったし、ロシアの皇帝もシベリアで石油を探させていた。貝がらの商売で大成功をおさ
めたサミュエルも、この石油の採掘に目をつけ、1万ポンドを充てる計画を立てた。彼
自身、石油についての知識は何もなかったが、人にいろいろ相談したりして、インドネ
シアあたりだったら石油が出るのではないかと考え、インドネシアで石油を探させた。
これが、勘がよかったのか、幸運であったのか、とにかくうまく石油を掘り当てること
ができた。当時のインドネシアでは、石油を暖房のために使う必要もないし、また暗く
なってからも活動するといった生活を送っていたわけではなかったので、石油の売り先
はどこか他に求めなければならなかった。そこで彼は、「ライジング・サン石油株式会
社」をつくって、日本に石油を売り込み始めた。このころ日本において、ケロシン油で
暖房したり、あるいは照明したりすることは革命的なことだった。この商売もまた非常
に成功した。石油をインドネシアから日本までどのように運ぶかということは、頭の痛
い問題だった。初めのうちは2ガロン缶で運んでいたが、原油を運ぶと船を汚すために
、後で洗うのが大変だった。それに火も出やすいということで、船会社が運ぶのをいや
がったし、運賃がべらぼうに高かった。そこでサミュエルは造船の専門家を招いて、世
界で初めてのタンカー船をデザインした。そして彼は、世界初の「タンカー王」となっ
た。サミュエルの新造タンカー「ミュレックス号」がスエズ運河を通過し、シンガポー
ルに航路をとったのは、1892年8月23日のことであった。(「ミュレックス」は
「アッキ貝」の意)。彼は自分のタンカーの一隻一隻に、日本の海岸で自分が拾った貝
の名前をつけた。彼自身、このことについては、次のように書き残している。「自分は
貧しいユダヤ人少年として、日本の海岸で一人貝を拾っていた過去を、けっして忘れな
い。あのおかげで、今日億万長者になることができた」


631: 名無しさんAA:17/10/06 23:20
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 280-----------

1892年に石油業界に参入したマーカス・サミュエルは、世界で初めてのタンカー船
を生み出した。当時の世界で最大のタンカー船隊の持ち主となり、世界初の「タンカー
王」になった。1894年に「日清戦争」が勃発すると、サミュエルは日本軍に、食糧
や、石油や、兵器や、軍需物質を供給して助けた。そして戦後、日本が清国から台湾を
割譲されて、台湾を領有するようになると、日本政府の求めに応じて、台湾の樟脳の開
発を引き受けるかたわら、「アヘン公社」の経営に携わった。日本が領有した台湾には
、中国本土と同じように、アヘン中毒者が多かった。日本の総督府はアヘンを吸うこと
をすぐに禁じても、かえって密売市場が栄えて、治安が乱れると判断して、アヘンを販
売する公社をつくって、徐々に中毒患者を減らすという現実的な施策をとった。サミュ
エルは、これらの大きな功績によって、明治天皇から「勲一等旭日大綬章」という勲章
を授けられた。ところが、彼の石油の仕事が成功すればするほど、イギリス人の間から
、ユダヤ人が石油業界で君臨していることに対して反発が強まり、ついにこの会社を売
らなければならなくなった。というのは、当時イギリスは大海軍を擁していたが、その
艦隊に、サミュエルが石油を供給していたからだ。サミュエルは、会社を売らなければ
ならなくなったとき、いくつかの条件を出した。その一つは少数株主たりといえども、
必ず彼の血をひいた者が、役員として会社に入ること。さらに、この会社が続く限り、
貝を商標とすることであった。というのも、彼は常に自分の過去を記念したかったから
である。この貝のマークをつけた石油会社こそ、今日、日本の津々浦々でもよく見られ
る「シェル石油」であった。1897年、サミュエルは「シェル運輸交易会社」を設立
し、本社を横浜の元町に置いた。彼は湘南海岸で自ら「貝(シェル)」を拾った日々の
原点に戻って、「シェル」と称したのだった。こうして横浜が「シェル石油会社」の発
祥の地となった。1907年には、オランダの「ロイヤル・ダッチ石油会社」とイギリ
ス資本の「シェル石油会社」が合併して、「ロイヤル・ダッチ・シェル」が誕生した。
このイギリス・オランダの2社の合併を推進したのはイギリスのロスチャイルド財閥だ
った。ちなみに、このイギリス=オランダ連合の「ロイヤル・ダッチ・シェル」の子会
社的存在が、イギリスの「ブリティッシュ・ペトロリアム」(英国石油:略称BP)で
ある。現在の、シェルグループは傘下企業145の国に広がり、全体で12万人以上の
従業員がいる 巨大国際メジャー企業となっている。


632: 名無しさんAA:17/10/07 00:59
 武昌米は朝鮮人が作った米だって。馬鹿も休み休みいいなさい。
黒竜江省で米が出来たのは、日本人がダムを作って米を送ったから。
ダムは日本軍が作ったんンダヨ。それまでコーリャンかアワやヒエしか無かった
だから 長い間不毛の地だったんだよ。馬鹿垂れ韓国人嘘もたいがいにしろ。
 DNA解析すればすぐにわかる 秋田か新潟のコシヒカリの元になった品種
福島の旧系米のはずだ。
江戸時代の何とかと言う易学者の品種改良が成功しての東北版だ。



633: 名無しさんAA:17/10/09 04:06
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 281-----------

サミュエルは、イギリスに戻ると名士となった。そして1902年に、ロンドン市長に
なった。ユダヤ人として、5人目のロンドン市長である。彼は就任式に、日本の林董(
はやし ただす )駐英公使を招いて、パレードの馬車に同乗させた。この年1月に「日
英同盟」が結ばれたというものの、外国の外交官をたった一人だけ同乗させたのは、実
に異例なことだった。この事実は、彼がいかに親日家だったかを示している。(ちなみ
に、2台目の馬車には、サミュエルのファニー夫人と、林公使夫人が乗った)明治期の
外交官、政治家林董(はやし ただす)は 駐英公使としてロンドンで「日英同盟」に調
印した。「日英同盟」は、1902年1月30日に結ばれた日本とイギリスとの間の軍
事同盟である。林董(はやし ただす)駐英公使 とイギリスのアーサー・ラウズダウン
外相により調印された。「日英同盟」は、戦前日本にとって最高の同盟関係だったとい
える。この同盟関係を守りきれなかったことが戦前日本の犯した最大の失敗だろう。と
まで言われるほどだ。サミュエルは1921年に男爵の爵位を授けられて、貴族に列し
た。その4年後には、子爵になった。サミュエルは「どうして、それほどまでに、日本
が好きなのか?」という質問に対して、次のように答えている。「中国人には表裏があ
るが、日本人は正直だ。日本は安定しているが、中国は腐りきっている。日本人は約束
を必ず守る。中国人はいつも変節を繰り返している。したがって日本には未来があるが
、中国にはない。」そう言い切った。その後、ロンドンに、サミュエルの寄付によって
「ベアステッド記念病院」が作られ、彼は気前のよい慈善家としても知られるようにな
ったが、1927年に、74歳で生涯を閉じた。現在、「ロイヤル・ダッチ・シェル」
はロスチャイルド系列企業群の中心になっている。1870年代のノーベルのバクー油
田開発から100年有余カスピ海での油田開発競争が再燃しました。「海」か「湖」か
の論争は他に願うとして、ソ連のペレストロイカを切っ掛けに当時大半がソ連領内だっ
たカスピ海での油田開発は石油各社が先駆けを狙っていました。バクー周辺での新規埋
蔵地域の発見に加えて、カザフスタン領土内にあるテンギス油田で、現在北カスピ海を
代表する大油田となっている。1894年に「日清戦争」が勃発すると、サミュエルは
日本軍に、食糧や、石油や、兵器や、軍需物質を供給して助けた関係から1897年に
軍の依頼で樺太油田の調査に技術者を参加させている。1905年日本鉱業の創立者で
ある久原房之助は、日立の銅鉱山を買収し、非鉄金属鉱業のビジネスを開始しました。


634: 名無しさんAA:17/10/09 04:08
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 282-----------

1914年国内各地の石油開発事業に進出。すぐさまその事業をテキサス(米国)、サ
ハリン(ロシア)、ボルネオ(イギリス植民地:当時)、台湾、ビルマそしてジャワに
拡大して行きました。台湾におけるガス田の開発やサハリンにおける石油の権益(これ
は後に三井、三菱そして日本石油との合弁による、北サハリンにおける油田の発見に繋
がります。)を獲得するなどの大きな成功を収めました。1933年北日本において油
田の探鉱井の掘削を開始し、1935年には原油の日産量が6,000バレル、ガスの 日産量が
30百万立方フィートに達する雄物川油田の発見に至りました。その際に、最新の地震探
鉱技術を用いて、日本最大の陸上油田となったこの地域一帯の構造を明らかにしました
。雄物川における大油田の発見を受け、近傍の船川に立地する製油所を買収しました。
これがその後のジャパンエナジーの下流部門の源流である船川製油所です。1949年
戦後、ジャパンエナジーは北日本で石油・ガス上流部門の事業を再開し、新潟県の中条
においてガス田の発見に至りました。中条ガス田は現在まで、約半世紀にわたり生産を
継続している。また同社は、1914年以降5年間に亘り中国・ボルネオ・シベリア・マレ
ー・インドシナ・フィリピン・朝鮮・樺太・台湾において資源調査を行った。1916年2
月には、資源調査の前進基地としてシンガポールに事務所を設け、各地の鉄鉱石等の資
源の有望性を見出し、その開発と事業化を図った。なお、この南方開発には大正政界に
隠然たる勢力を有していた田健治郎が関わっていたとされる。田は1916年に寺内正毅内
閣の逓信大臣に就任し、久原は彼に大正末年まで政治資金を援助した。このように、久
原のアジア進出は、各地での利権獲得等のみならず、数多くの内外要人との親交を深め
ることとなり、それがのちの政界転身への基盤となる。1916年8月、 房之助は、アメリ
カのUSスチール社長ジャッジ・ゲーリーを住吉にある本邸に招き、日米合弁の製鉄事業
計画を進めようともちかけた。この計画は、翌々年の房之助の渡米によって具体的にな
る。またこのころ房之助は、上記合併事業とは別に、山口県下松において、一大工業都
市を建設しようとする計画を秘めていた。住吉本邸でのゲーリーらとの会談において、
合併事業とあわせて、下松での計画を説明している。この「下松計画」は、一口でいえ
ば世界的大工業都市の建設である。その内容は、都濃郡下松町と太華村(現在の周南市
櫛浜)の両町村にわたる沿岸を利用して、各地の工場の計画を統一し、一大工場を設け
、職工および家族その他18万人を収容すべき土地を開くという大計画であった。その規
模は、5カ町村・約160万坪に亘っていた。

635: 名無しさんAA:17/10/09 04:09
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 283-----------
久原房之助の構想は壮大だった。具体的には、第一期工事において下松町東南部約30万
坪に造船工場を建設し、次いで第二期工事において、下松町東部から栗屋川に至る約60
万坪に船渠及び製鉄工場、さらには社宅・娯楽場・学校などを建設し、その用地確保等
のために海岸の埋め立てを行う、という計画であった。その後2ヶ月ほどして実際に買
収された用地は約220万坪に 及んだ。房之助はこの構想の実現のためにアメリカにも技
術者や専門家を多数派遣し、工業用電力を確保するため電力会社を買収し、土地買収代
金の支払いにあてる地方金融の中心となるであろう銀行の買収も行った。これがのちの
山口銀行である。ところがこの計画は、アメリカの対外鉄鋼輸出禁止措置により資材不
足となって、中止を余儀なくされることとなった。また房之助は、1919年(大正8年)5
月には共保生命保険の経営にも関わることとなる。同社はその創業当初、西本願寺の信
徒が株式を保有していたが、1914年には経営権は本山に移った。ところが、本山の財政
が逼迫したため内紛が起こり、かねてから母・文子の影響で浄土真宗への信仰が厚かっ
た房之助に経営が委ねられた。同社はのちに東京生命保険相互会社となる。また生保事
業ばかりでなく商事部門へも進出し、久原鉱業の売買部を分離独立させて久原商事株式
会社(のち日鉱商事株式会社、現JX金属商事株式会社)も設立した。久原王国の苦境は
1918年(大正7年)11月1日、第一次世界大戦は終結であった。 房之助はこの報をハワ
イで知った。この大戦が終われば商売の方針を一変しなければならないと考えていた。
一時的に景気は活況を呈したが、1920年(大正9年)3月15日、東京株式市場は大暴落、
世界経済恐慌のあおりをうけ銀行の取り付け、会社の倒産があいつぎ、房之助も大恐慌
の直撃をうける。久原鉱業は、大戦を契機に1920年下期から1922年(大正11年)下期ま
で連続無配、事業規模の縮小に追い込まれた。このときの合理化で休山は7鉱山におよ
び3製錬所は休止になった。さらに1923年(大正12年)9月1日、関東大震災がおこりさ
らに追い討ちをかけた。久原房之助は、1917年(大正6年)に腸チフスにかかり、生死を
さまよったが、その大病以来、「自分の仕事は49歳で終わった」と言い、「自己的な欲
も得ない、儲けや損に何の関心もなくなり、人生観が一変してしまった。後の余生はも
っと貴いものの究明にささげたい」と1928年(昭和3年)2月、久原鉱業の経営を、義兄
鮎川義介にゆだね、いっさいの関係事業との絶縁を声明、実業界から引退し政界に出る
ことを決意した。初当選した久原は田中義一首相によって新人議員ながら逓信大臣に抜
擢され順調なスタートを切った。一方、久原鉱業は日本産業と改称した。翌1929年、そ
の鉱山部門が日本鉱業株式会社(後に新日鉱ホールディングス、現在のJXTGホールディ
ングス)となった。これらは、後の日産コンツェルンへと発展していくことになる。

636: 名無しさんAA:17/10/09 04:09
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 284-----------

 よくロシア皇帝もシベリア開発していた。と言われる。だがそもそもこの樺太には、
少なくとも当時は全くロシアは占領していない。何故ならアイヌの反抗があったからだ
。またロシアとの領土協定は現場に即した協定でもなかった。日露戦争でも解る様に、
ロシアの軍艦は南シナ海を渡ってしか着ていなく 更にロシア人其の物は満州付近しか
住み着けずにいたのである。此処に先の久原房之助の資本投下があった。マーカス・サ
ミュエルが南方洋でのみ成功した様に見えるが この久原房之助のシベリアでの掘削に
も資本投下しようとしていた。北海道の小樽市は、樺太、シベリア方面への物資積み出
し港であり、ニコラエフスクとも縁が深かった。1924年(大正13年)になって、小樽市
民の総意で軍部に請願し、遭難者の遺灰払い下げの運動を起こされたが。ニコラエフス
クで焼却された遺骨は、アレクサンドロフスクの慰霊碑に保管されていた為だ、これを
小樽で永久保存しようということになったのである。基本的には九州人が多く娼婦など
は天草出身ばかりだろう。此処は港だったからだ。江戸時代初期に北海道は薄荷(ハッ
カ)草が中国から移入して中国人が諫早(長崎)に持ち込んだのち 僧侶が山城(京都
)に持ち込んだという この地での栽培が盛んになったのは明治17年 北海道で初め
て日高門別で薄荷(ハッカ)の栽培が行われるが消滅した。それでも江戸時代文化14
年岡山県から薄荷(ハッカ)の本格栽培は始まっており 安政元年広島県でも薄荷(ハ
ッカ)栽培開始。山形県でも栽培がはじまり、その後最盛となっていた。その後も明治
18年八雲の徳川農場で薄荷(ハッカ)栽培が行われたが数年後に消滅。明治24年永
山(旭川)の石山伝右衛門が山形県から薄荷(ハッカ)を移入、栽培。明治29年湧別
の渡邊精司が永山から種根を取り寄せ栽培。と続く。明治30年北見に夜明けが来る。
北光社移民団・屯田兵入植である。この時鴻之舞鉱山は明治に出来きる。既にアイヌの
神の地だったが、この地を含めてオホーツク海側、特に北オホーツク枝幸のパンケナイ
、ウソタンナイなどの川では、明治30年代頃に砂金が発見され、砂金掘りたちが集まり
、日本の「ゴールドラッシュ」となっていた。枝幸より南に位置する紋別の鴻之舞・藻
鼈川沿いの元山付近で、1915年 (大正4年)に鉱床が発見されると、鉱区設定を巡る紛
争が起きた。結果的に有志による組合により鉱区設定が許され操業が開始されるが、
1917年(大正6年)に住友(のちの住友金属鉱山)が90万円で[1]経営権を得て、以降
1973年(昭和48年)に至るまで操業を続けた。後の日本鉱業株式会社がシベリア探査や
樺太油田を掘った事はかなり早かった。

637: 名無しさんAA:17/10/09 04:11
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 285-----------

アイグン条約は、ロシア帝国と中国の清帝国が、 1858年5月28日に中国北東部、アムー
ル川中流のアイグン(現黒竜江省黒河市)において結んだ条約だと言う。条約によって
、1689年のネルチンスク条約以来、清国領とされてきたアムール川左岸をロシアが獲得
し、ウスリー川以東の外満州(現在の沿海州)は両国の共同管理地とされた。また、清
はロシアにアムール川の航行権を認めた。19世紀から20世紀初頭にかけて、清が列強と
結ぶことを余儀なくされた不平等条約の一つである。太平天国の乱やアロー戦争(第二
次アヘン戦争)による清国内の混乱に乗じたロシア帝国東シベリア総督ニコライ・ムラ
ヴィヨフ=アムールスキーが、停泊中のロシア軍艦から銃砲を乱射して、調印しなけれ
ば武力をもって黒竜江左岸の満洲人を追い払うと脅迫し、清国全権・奕山(中国語版、
英語版)に認めさせた。現在のロシア連邦と中国の極東部での国境線は、このアイグン
条約と1860年の北京条約で確定されたものが基本となっているが、その後の河川の流路
の変化により、中ソ国境紛争など両国の対立の原因の一つとなっていた。しかし、2004
年にようやく国境全部の画定が完了したと言う。この協約確定は結局はソ連の権利の及
ぶ所であるだけでロシア人が居る場所を示して無かった。尼港はの此処では誰もが同じ
権利で同じ様に住む事が出来たのである。従って日本人が北樺太まで開発しだすとすぐ
にその船便による生活物資によって住民が増えて行った。ニコラエフスクにおける漁業
を事業として成立させたのは日本人だったが、1901年に日本人の漁業は禁止され、1907
年に調印された日露漁業協約においてもニコラエフスク近辺は対象からはずされたため
、ロシア人と共同経営をしていた島田商会などを除き 漁業関係者は撤退した。しかし
海産物の交易は続き、第一次世界大戦による食糧不足でロシアの国内需要が急増するま
で、ニコラエフスクの主要海産物であった鮭の主な輸出先は日本であり、居留邦人の数
が多かったため領事館が設けられていた。ところがこの頃の中国艦隊は大きく訓練のな
い兵士だったが より集めのパルチザンはもっとひどかったのだ。日本人で唯一ニコラ
エフスク市商業会議所の議員であった島田元太郎は別格として、他に大きな商店を営む
日本人としては、米、小間物、木材などを扱う川口力太郎、雑貨商の川内多市、溝上乙
吉、菓子パン製造業の百合野熊次郎などがいた

638: 名無しさんAA:17/10/09 04:33
歴史に「もしも」は無いのは無論だが、もしも日本統治下の満州でこの大油田が発見さ
れ、日本が十分なエネルギー源を得ていれば、アメリカへの開戦という無謀な戦争をし
かける必要はなかったのかもしれない。と言う話は多い。実際石油の為に無謀な戦争に
走った面はある。だがそれ以上に多様な人種のいる日本になってしまい、対応が出来な
かったから戦争に走った。と言った方が正しい言い方だ。例えば悲惨な尼港事件も全く
同じ理由で在り、旧皇帝軍派の白軍と社会民主労働党の革命赤軍とは かなり違った人
間達だったにも関わらず、それを見抜けなかったのだ。日本でさえマルクスレーニン主
義を信奉し その基幹「一国社会主義論」というテーゼに掲げそれに沿った暴力革命論
である「国内革命と国際的の世界革命の結合なくして資本家の搾取を廃絶する社会主義
体制の建設と確立は不可能である。」とする世界革命論を 共通認識にし賛同する者が
いたのである。がこの馬鹿げた主張には 軍部も政府もその認識は戦後ですら皆無であ
って 組合やら財閥や結社などを許した。この前提のそれは第一インターナショナルと
してのマルクス主義の初歩の原則であった。革命軍のボリシェヴィキ(ロシア社会民主
労働党主流派)が一般的には少数であり、ロシア革命時の大多数は「パン・土地・平和
」をスローガンとして掲げた大衆だったのだ この意見を尊重すべきとトロツキーの意
見が反映されての革命だった為ユートピア社会主義的な緩やかな革命や絶対権力や資本
家排除を掲げたが、一般の大多数は政治的なな意見など思っていないメンシェヴィキ派
で現実はパンが欲しいだけのそんな高尚な事でなく活動をしていた人が多かった。だが
ボリシェヴィキはメンシェヴィキや社会革命党に比べ少数派であったても、人事と要職
を握って「多数派」「主流派」を名乗り誇大広告によって「暴力革命を主張し、徹底し
た中央集権による組織統制」を特徴として行ったのである。日本語では、これらを意味
するものは「過激派」と訳して報道した。このボリシェヴィキ派には、驚く事にアメリ
カン・インターナショナル・コーポレーションから支援を受けていたのである。当社は
1915年、フランク・A・バンダーリップが会長としてニューヨークに設立されたも
ので、出資者はジョン・モルガン、ロックフェラー、ジェームズ・スティルマンなどの
層々たる金融メンバーだった。その上い配下には1917年12月にウォール街の代表
として、JPモルガンがパートナーのトーマス・ラモントが一緒にロンドンを訪れて、
ロイド・ジョージ内閣にも会っていたりする。中でも、ボルシェヴェィキを支援するよ
うに意見し圧力をかけ、米英の意思統一を図っていた事は驚きだ。とアントニー・サッ
トンは、既にこの事実を指摘していたが。こうした行為はイギリス側の公式資料から採
った事実だが、全く日本には知らないで近年までいたのである。

639: 名無しさんAA:17/10/09 04:43
イギリス首相を裏で操っていたのは、有名なミルナー卿であったという。ウォール街で
革命支援の司令塔となったのは、アメリカの総合商社であったのだ。アメリカン・イン
ターナショナル・コーポレーションはモルガン財閥系のギャランティ・トラストという
金融会社で、巨大銀行の重役たちが理事を務めるニューヨーク連邦準備銀行であった。
このAICにはロックフェラー系のナショナル・シティバンクの人間の大多数が重役会
メンバーとして参加し、ギャランティ・トラストはモルガン財閥の人間が多かった。こ
の事実には日本は当然知らないままに 第二次世界大戦まで進んでいったのだろう。こ
の早い時期から融資し関わり合いを持ったのは、彼らが選民主義に染まり共産党ドイツ
のマルクス修正主義者のイギリス版で、ユートピア社会主義の末裔傍流として「フェビ
アン協会」が1884年に、「木の幹の様にある種の資本家が柱となり支配し管理し、
木の葉の様な愚民や庶民の社会を指導なければならない。」と言った。産業革命の過酷
な労働批判をかわす為の理論で大勢を偽る為の言い訳に起因するものと思われる。そも
20世紀初頭は、世界は白人たちによる『 白人至上主義 』『 有色人種支配 』が蔓延
(まんえん)していた頃だ。白人による有色人種への扱いは、強奪のための植民地支配
であり、有色人種は人間ではなく家畜であった。16世紀初頭から始まった、欧州列強
による5大大陸の侵略という時代は続き、有色人種(アジア・アメリカ・オーストラリ
ア・アフリカ・中近東諸国)は白人により土地を巻き上げられ、農作物は収奪され、奴
隷として支配され、資源を強奪され続けていた。 有色人種が持つすべては強奪の対象
であり、有色人種の女たちは老婆から少女に至るまで犯され、嬲(なぶ)り殺され、気
骨のある男たちは殴られ拷問を受け、虐殺(ぎゃくさつ)されて行く運命にあった。私
たちが普段使っている「原住民」という言葉は、その土地に暮らしてきた『人間』をイ
メージさせない「土民」であり、その地に生息する獣のごとき表現であり、白人による
侵略を正当化させるために編み出された米国版幻語なのである。それらは私たちが何気
なく使っている「土着民」という言葉と同じく、有色人種に対してのみ使われ、白人種
に対して使われた言葉では無い。こうした中「有色人種国家」で完全なる独立を保て
ていたのは、世界で唯一、日本のみだった。かろうじて独立国の体面を保てていたのは
、国土を割譲させられ、英仏侵略勢力の緩衝(かんしょう)地帯としてギリギリのとこ
ろで生き残っているタイ王国、そして、大半の領土を割譲させられた瀕死(ひんし)の
オスマン帝国と、欧米列強の分割支配に悦びを感じていた支那(SINA:中国共産党
政権が認めている中国の国際的な正式呼称)の3ヵ国のみだったのである。ほとんどの
有色人種の国々は、すべて白人国家により侵略され、植民地支配され、人々は奴隷とな
り、何もかもが強奪され、家畜同然の扱いに、あえぎ苦しんでいた時代だった。

640: 名無しさんAA:17/10/09 10:46
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 288-----------

1月12日の日本艦隊のヴラジヴォストーク入港に際して,ヴラジヴォストーク市長は
日本人居留民の保護は,ロシア官憲の責任の下で自らの手で行うことを明言したが,当
時のロシアの治安は革命の混乱によって悪化の一途をたどっており,現実には警察機構
は機能停止の状態にあった。ヴラジヴォストークでも強盗・窃盗は後を絶たず,2月4
日にはヴェルサーリ・ホテルに強盗団が押し入り,外国人多数を含む宿泊客の金品を強
奪して逃走する事件が起こった。この事件は,後に現地ソヴィエトの調査によってフラ
ンス総領事館に出入りしていたロシア軍人の犯行であることが判明し,白衛派に組する
連合国側の陰謀であると考えられたが,これが事実であるかは不明となっていた。いず
れにせよ,この事件はヴラジヴォストークのソヴィエト当局の治安維持能力の低さを露
呈することとなった。このような治安の悪化に対して,ヴラジヴォストーク駐在の各国
総領事はそろって市当局に対して治安改善の要求を突きつけていた。ヴェルサーリ強盗
事件を機に若干の改善は認められるようになったが,3月3日のブレスト・リトフスク
講和条約締結後,この地域の権力闘争が激しさを増してきたため,再び不穏な情勢が高
まってきていた。治安への不安が広がっていくなかで,4月4日にとうとう日本人が殺
害されるという事件が起こった。被害者は貿易業等を営む石戸商会の経営者の弟で,そ
の他に2名が重症を負った。現地当局が捜査のために駆けつけたときには日本総領事館
から派遣された吏員(軍人も含まれていたらしい)によって現場は封鎖され,捜査当局
の関与を拒絶したところから,この後日本の軍事干渉の口実として謀殺された可能性が
指摘された事件だった。浦塩派遣艦隊司令官の加藤少将は,機を逸せず翌5日早朝から
6日早朝にかけて陸戦隊4個中隊5百名を上陸させ,日本人居留区の警備にあたらせた
。英艦サッフォークからも5日午後に海兵隊50名が上陸したが,米艦ブルックリンは同
調せずに事態を静観する構えを見せた。ヴラジヴォストーク・ソヴィエトからは,日本
軍の侵略的行為を非難しながらも事態を楽観視する報告がレーニンの元にもたらされた
。日本軍の行動を連合国同士が示し合わせた措置だと見ていたレーニンは,「幻想を抱
いてはならない。日本軍はきっと攻撃してくるであろう。…例外なくすべての同盟国が
彼らを支援するだろう」と,この後の干渉の拡大を予見する回答を返信した。こうして
日本の意図は,ヴラジヴォストークから9千3百km弱離れたモスクワにいるレーニンで
すら見通せるほどあからさまに見えた。

641: 名無しさんAA:17/10/09 10:47
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 289-----------

尼港事件はグートマンによれば、トリャピーツィンは年齢25ほどで、ペトログラード
の工場労働者だった。(1920年の処刑の判決書には、23歳で、レーニンと同じ シンビルスク 県
の出身とある)離職して、ボルシェビキの地下活動に従っていたが、1919年春にイルク
ーツクへ行き、同年夏にはハバロフスクにいたという。強制動員され、パルチザン軍司
令部で働かされていた。E・エーメリアノフは、トリャピーツィンについて次のように
述べていた。強い意志を持った男で、不遜といえるほど断固としていた。ロシア国民の
無学な階層の心理をよく知っており、目的のためには手段を選ばなかった。トリャピー
ツィンと直接話したことはないが、知人から聞いた話から判断すると、彼の話は常に脅
しが得意であった。(中略)トリャピーツィンを見た他の人たちは『感情のない怪物』
と表現した。彼の演説は、恐ろしいほどの怒りに満ちており、無教養な群衆を、磁石の
ように引きつけていった。彼自身が同じような階層の出であり、彼らに対する演説の仕
方とか、復讐のためにその動物的本能を呼び覚ますすべを熟知していた (2月の初め)
サソフが、私ともう一人漁場監視員ラズモフを呼び、こう言った。『今後、公式監視員
は不要である。全ての者が、人民の敵と闘うパルチザン軍に参加する義務がある。これ
を拒否する者は、生命の保障はされない』その少し前、70人ほどのサハリンの農民パル
チザンが、ワッセに向かう途中に、通りかかったことがあった。最初は、総動員が発せ
られたが、その後、彼らは43から45歳までの砲兵、特殊技能者を選別し始めた。それ以
外の動員者は、全員が35歳以下であった。トリャピーツィンはニコラエフスク住民の大
量殺戮と街の破壊を、事件の大分前に計画していたという。彼は、「町の代わりに、血
溜まりと灰の山を残すだろう」と宣言し、その通りに実行した。大量虐殺と破壊の跡が
残っただけだった。監獄の壁に書かれた 尼港事件犠牲者の遺書とも言える落書きは、
「大正九年五月弐拾四日午后12時 忘ルナ」と書かれてあったと言うニコラエフスク
では、日本軍決起に続く市民虐殺の後、一時、手続きのない殺人は行われなくなってい
た。3月16日には、第1回サハリン州ソビエト大会が開催された。大会で、ハバロフスク
における革命委員会とゼムストヴォ自治政府の妥協主義が非難され、トリャピーツィン
の独裁的な革命体制が確立されようとしていた。配給制度が推し進められ、徴発は日常
茶飯事となり、恣意的な逮捕、投獄は続いた。そんな中で、かつてパルチザン鉱山連隊
の司令官を務めていたブードリンがトリャピーツィンを批判し、ブードリンは逮捕され
た。しかしブードリンには、解散させられた鉱山連隊を中心に支持者が多く、死刑には
ならなかったが、後に大虐殺の最中に殺された。

642: 名無しさんAA:17/10/09 10:48
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 290-----------

「満州で日本が油田を発見できなかったのは不運だった」とこれまで片付けられてきた
が 現実にはタールの様な存在は確認されていた。このシベリア出兵の際も北樺太での
オハ油田は 北樺太のオホーツク海側で最初に開発された油田であるが、日本が占領中
に生産を開始し、施政権がソビエト連邦に返還された後も日本が採掘権を維持していた
。しかしソ連側が人員や物資の出入りを制限するなどの操業妨害をしばしば行ったこと
から、日本にとっての経済価値や戦略価値はあまり大きくなかったとして1941年に
日ソ中立条約締結の条件としてソ連に返還されたのだ。つまり日ソ中立条約には 何ら
死守する気持ちが政府にはなかったのである。それがこの尼港事件での悲惨さだった。
更に 既に資源開発の実務経験ある者が南方に駆り出され、当時満州での油田探査で使
用されていた機器や作業内容は時代遅れの物で アメリカのロータリー式の機械は1台
しか日本にはなかった。時代遅れの機材や中途半端な作業など、時の最先端とはほど遠
いずさんな探査活動の内容だった。陸軍には今だやるべき事は国内統一と領土の保全で
あったが 海軍にはこの石油の確保が一番だった。と言うのが戦争の実態だった。サミ
エル商会など民間企業は当時から欧米の最新鋭機器や最先端技術を取り入れて資源開発
を推進していた一方、日本軍は、欧米で一般に使われていた機材・技術の活用を拒み、
精神論で油田を発見しようとしていた。十分な機材・技術なしには、いくら優秀な技術
者でも油田を見つけることはできない。エネルギー開発の基礎中の基礎をも把握してい
なかった日本政府・軍による明らかな失策であると言える。更にはこの上意下達の風透
しのなさ は情けない失策に開いた口が塞がらない程で 石油実務を知らない素人によ
るソ連との権益交渉、荒唐無稽なエネルギー需給分析に基づいて判断された開戦の意思
決定、松の切り株を原料として戦闘機を飛ばそうとする日本軍の計画など、いかに当時
の日本の中枢がエネルギー音痴であったかがこれでもかと言う程大きな事件が起こる。
当時の政府関係者・軍・民間人たちは必死に日本の石油不足に取り組んだのだろうが、
エネルギーリテラシーが欠けていたために、ついに日本を焦土へと化してしまった。こ
の惨状は今の私たちが歴史の教訓を持たない社会に変質している事と同じだ。同じ過ち
を繰り返さないためにも日本は国体リテラシーを高める必要がある。

643: 名無しさんAA:17/10/09 11:08
アメリカが昭和16年夏に石油を全面禁輸したことが日本を対米戦に駆り立てた決定的要
因であったことはよく知られている。昭和天皇独白録でもこのことに触れている。だが
アメリカの石油禁輸と日本の対米開戦決断の関係については誤解している人が多い。日
本はアメリカが石油を全面禁輸したのに逆上して開戦決意したわけではないし、テキサ
スの油田を取るために開戦決意したわけでもない。言わば天皇派のそそのかしで海軍派
が勝手に日米開戦を行ったのである。戦前日本の石油自給率は低く産地は僅かに新潟と
北樺太(ソ連領であったが日本は石油採掘利権をもっていた)だけであったし、比較的
近い石油産地と言えば蘭印(インドネシア)しかなかった。しかも宗主国オランダは前
年5月ドイツに占領されたので蘭印は半分空き家というのが日本の認識であった。そも
そも日本が前年9月三国同盟を締結したのは、東南アジア植民地の宗主国フランス、オ
ランダは既にドイツ占領下にあり、いずれイギリスもドイツに降伏するであろう。そう
なればこの三国が支配する東南アジアは所有者がいなくなる。無主の地であれば誰が獲
ってもいいようなものだが、「この三国が蹂躙しこの時点でイギリス降伏は可能性でし
かなかったが 報告では敗けそうでフランスのあと英国を屈服させた後ドイツの了解を
得ずに獲るのはまずいので、ドイツに東南アジアは日本の縄張りだと認めさせたい。」
、これが日本が三国同盟を締結した動機の一つであったろう。当時流行った「バスに乗
り遅れるな」は、ドイツの勝利に便乗しようという意味であった。「白人支配から東ア
ジアを開放し大東亜共栄圏を確立する」のは アジアの中の名分に過ぎない。半分無主
とは言っても日本が東南アジアを取りに行くのをアメリカが座視するわけがない。現に
フランスの降伏によって無主となった南部仏印(ベトナム)進駐に対してさえ石油全面
禁輸、在米日本資産凍結によって報いたのであった。対米戦が避けられないものならこ
っちから仕掛けようというわけで石油禁輸と日本の開戦決意との関係はやや迂遠であっ
た。この点ドイツがソ連を攻撃したのが資源欲しさという極めて直截な動機から発した
のとは事情を異にする。従ってもし傀儡国家満洲国と植民地を含む日本のテリトリー内
で石油があったなら東南アジアを侵略する必要はなかったし、対米戦争もしなくても済
んだという仮説はあり得るがそれは間違っている。どっちみちアメリカの底流にある、
日本の進出など許さないと言う意識や思惑を払拭しない限りいずれ起こる物だった。ア
ジアの崇高な独立意識と国内整備の必要性から 東南アジアは取りに行くしか無かった
日本と言うのが現実だろう。ただ歴史が早すぎて体制が整わない中で、終始中国や朝鮮
の民族が余りにも馬鹿過ぎてて聞き分けなく反抗した姿に米国が載ったと言うのが正解
だろう。

644: 名無しさんAA:17/10/09 11:31
 ちなみにアラスカ油田は 1923年アメリカ海軍はアラスカの北極海沿岸に艦船の
石油補給地を作ったのがきっかけで人がアラスカを訪れるようになり、山師たちも石油
を求めてアラスカに来ましたが発見できずいつしか忘れさられました。33年後の19
56年のスエズ危機の時、シェルとニュージャージ・スタンダードがアラスカで石油の
探鉱を行ったが 59年には石油を発見できずに手を引いてしまうアングロイラニアン
は1951年イランのモサデクに接収され、その後、改名したブリティッシュ・ペトロ
リウム(BP)は1957年、中東依存度を減らすため、北海やアラスカの石油探査に
目を向けていた。1958年BPとアメリカのシンクレア石油は共同でアラスカのノー
ス・スロープで試掘をしたが、6本の井戸はすべて失敗していた。又ガルフ石油など多
くの石油会社は 中東の石油価格約1バレル1〜2ドルに対し、発見見つかったとして
も1バレル5ドルもする値段に開発に乗り出すつもりはなかった。それでもカリフォル
ニアにある独立系石油会社リッチフィールドは近さ故探鉱を続けていました。1964
年ニュージャージーはリッチフィールドと合弁で再びアラスカの石油探鉱に乗り出した
。1965年合弁会社はBPとシンクレア石油などをパートナーを引き連れアラスカの
ノース・スロープ地域を対象に再度、石油探鉱を開始する。リッチフィールドはアトラ
ンティク・リファイニングと合併しアトランティック・リッチフィールドとなった。そ
の後ARCOとなりましたがリッチフィールド時代とBPと合弁してからも掘り続けた
井戸は、全く空で当たらなかった。そして、1966年の冬、これが最後とARCOは
アラスカ北岸の土地を試掘しましたが空井戸でした。ARCOがこれまで試掘した6本
の井戸すべて失敗に終わり最後に残ったノース・スロープのブルドー・ベイを試掘する
か否かで首脳陣は割れて揺れた。決定は社長のロバート・アンダーソンの手にのった。
当然彼は石油が必ずあると信じて続行を宣言し、1967年の春、掘削作業が開始され
た。1967年12月26日ブルドー・ベイ・ステイト1号と名付けられたこの最後の
試掘井戸は、突然大きな地鳴りと天然ガスが吹きあがりパイプから気温零下30度C、
強風をものともせず炎が垂直に100メートル燃え上がった。1968年夏にはこのブ
ルドー・ベイ油田は埋蔵量100億バレルという北アメリカで発見された油田の最大で
世界でも有数の油田であることが確認された。シンクレアを買収し、巨大合併したAR
COはノースロープではニュージャージーやBPとともにビッグスリーになり、アメリ
カでは第7位の石油会社になりました。こうして操業が開始されれば日量200万バー
レルでサウジのガワール油田、クウェートのブルガン油田に次ぐ世界第3位の油田にな
るはずでした。


645: 名無しさんAA:17/10/09 11:42
 この頃日本人には、本当に平和お望む声が大きかったのだろう。スープラナショナリ
ズムとは、国家の上位となる国際組織が権限を行うという概念だが。具体例は欧州連合
や、またフィクションではあるが地球連邦の様な思想である。白系ロシア人のグートマ
ンは間違えた事に、日本の北樺太占領を日本人の領土欲と見ていた、そして「ロシア国
民は侵略を受け入れることは決してない」と非難している。だがそれは大きく違う。こ
の北樺太占領に関しては樺太アイヌがロシアの襲撃にあい3千人以上が避難して日本で
生活しだしていたのだ。この赤軍や中国軍艦の襲来によってである。撤兵反対論者で、
対外強硬論者といわれる五百木良三も、「サガレン(サハリン)占領のごときは大道商
人のそれにも比すべき最もケチ臭い現金取引きで、あらずもがなのことだ」と反対して
いるが、『国辱記』で尼港事件を詳報した溝口白羊も、「人道の名を借りて侵略を行う
連中といっしょにされることはお断りだ。」とし、「尼港事件への寄付金には応じない
富豪が、サガレンの漁業、林業、鉱業の利権獲得に夢中になっている」と批判する。ア
メリカ人や共産党のプロパガンダが氾濫していた。此処に先のエネルギーリテラシーが
全く無かった姿が見える。1922年に尼港事件被害者とオホーツク事件被害者のため
の「露国政変及西比利亞事変ノ為損害ヲ被リタル者ノ救恤ニ関スル法律」が施行されて
救恤金が支払われた。しかし、救恤金額が少ないことや申請が出来なかったものなどが
多かった。尼港事件時に内地にいたため難を逃れることができた島田商会の島田元太郎
は、東京に事務所を設け全国の被害者の中心となって再度の救恤金運動を行い続けた。
1925年、日本はソビエト・ロシアと国交を回復し、やっと保障占領していた北樺太
を返還した。しかし、その交渉の過程で、尼港事件は政治的に棚上げされて、北樺太の
オハ油田を中心とする石油長期利権と引きかえに、賠償は求めないことになったのだ。
それほどソ連の領土欲が強かった。日本はこの行為にウンザリしていたのだ。それは裏
に日本を助けた アメリカユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフやN・M・ロスチャイルド
&サンズとロチルド・フレールとは知っていたが、彼らと対抗して死の商人JPモルガ
ンのパートナーだったトーマス・ラモントなどは新興勢力でロシア進出を手助けしてい
た。その頃はロックフェラー系のナショナル・シティバンク、ギャランティ・トラスト
のモルガン財閥の人間が一挙に対抗しウォール街の長となっていたからだ。彼らに良心
は無かった。血生臭い軍政政権でも大量破壊兵器でも儲かるとなれば、何処にも誰にも
投資した。更にその取り立てや利権奪取は凄惨を極めていた。その中にこの尼港事件が
あった。新機材は売らなかったし奪取する情報でソ連をそそのかした。そして革命政府
に投資している事を捨てなかった。そして親日家のシェル石油が日本に送れなくなった
訳もこのロックフェラーの権力だった。

646: 名無しさんAA:17/10/09 11:48
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 294-----------

「日露戦争における米国の立場の決定は、米国自身の国益を冷厳に計算した結果なので
ある。すなわち、米国にとってまず阻止すべきは、世界の列強ロシアが満州を独占する
ことだった。ロシアが日本に勝った場合、満州が完全にロシア領になり、米国の介入の
余地がなくなることは明らかであったからである。米国の立場からすれば、ポーツマス
講和会議において仲介の労をとったことは、米国自身の満州介入のためのワンステップ
だったのである。それゆえ従来から満州に対して強い関心を持っていた米国の鉄道王ハ
リマンが、日露戦争直後、早速日本に南満州鉄道を合弁事業とするよう申し入れている
。このハリマンは、またさらに日本政府が日露戦争での軍費のために行った外国借款 
(しゃっかん)の返済に苦慮するであろうことを見越して、その買収を申し込んだりし
た 勿論(もちろん)満州を再び列強角逐(かくちく)の地にしたのでは、多大の犠牲
を払って日露戦争を戦ったことが無意味となるため、日本政府は最終的にこれを拒否し
、米国の介入意図は失敗に終わったのである。明治42(1909)年には、ノックス国務長
官が、満州における日露協調体制を壊すために、満州諸鉄道の中立化を提案している。
この提案の狙いは、日露両国によって独占されていた満州における鉄道権益を喪失させ
、米国も含めた国際管理に移行させようとしたものである。またそれが無理な場合には
、清朝発祥の地である満州で日本が勢力を伸ばすことを好まない清国をたきつけて日本
側に対抗しての米資本による満鉄併行線の建設を計画した。しかしながらいずれも、米
国の主張より日本の立場を認めた列国の反対で失敗に終わったのである。更に大正7年
(1918)年10月には、米国は、米国資本の大規模な中国進出の条件づくりを目ざして、
中国政府に対する借款事業の独占を主目的とする新たな国際組織(銀行団の結集)を提
唱したが、これもやはり失敗している。米国によるわが国の満州権益の攻勢は、こうし
た直接介入以外にも、日本の満州権益を認め守る条約の否定・否認という形でも現れた
。例えば、ブライアン国務長官は、21箇条条約に対して不承認を宣言している。そし
てその一方では、日本権益を弱体化するための逆攻勢をかけてきたのである。その最初
の結実が、大正11(1921)年のワシントン会議の招集であった。このワシントン会議
の狙いは、明らかに日露戦争及び第1次大戦によって日本が築き上げた成果を米中連携
のもとに否定してしまうことにあったと言ってよい。」それはひとえにアジア独立から
だった。欧米列強の介入による魑魅魍魎の徘徊する運営を嫌ったのだった。それは不平
等な通商友好条約で 日本が充分わかり得たことであったのだ。

647: 名無しさんAA:17/10/09 11:54
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 295-----------

 昭和天皇は「この戦争は誠に石油に始まって、石油に終わった。」とつぶやいた。
 開戦と共に陸軍は進駐地サイゴンにおいて南方燃料廠を設立し、東南アジアの産油地
域のうち、海軍が優先的に提示した蘭印ボルネオ(山田清一中将証言)および、ビルマ
・英領ボルネオ・南北中スマトラの産油地に支廠を設置する編成であった。ジャワ油田
については、日石資料で開発以来60余年にして老朽したと考えられていたことと、兵站
が長大であることから除外されていた。シンガポールの占領なるや昭和15年5月 本部
を昭南市ハブロックの移民局の豪壮な建物に進駐した。やがてジャワ油田が第16軍が
自活のため軍直の工兵隊によって占領復旧され、南方油田中第4位の新興油田の存在が
明かとなったため、17年に至りジャワ支廠を新設して6支廠となった。19年春には
本部庁舎は博物館裏丘陵、フォートカニング要塞の元英国極東軍司令部(パーシバル将
軍)庁舎に移転し活動した。昭和19年南方燃料廠は南方燃料本部、や支廠は工廠と改
称され、その機構は(ビルマ・ボルネオ・スマトラ3ヶ所ジャワ)などに創設された。
陸軍南方燃料廠編成人員は、昭和19年9月現在で軍人軍属の合計8,307名、現地人工員と
臨時工102,000名の計11万307名に達した。(『帝石50年史』)その編成は、東部85
部隊の第21野戦兵器廠(永幡節誕中佐)、さく井中隊4、電気中隊1を中核とする軍人
と新任の技術将校328名が配属された。 また軍属には内務省・商工省・工業技術院・台
湾総督府・陸軍燃料廠の技官や東大・京大・東北大・北大の地質学・有孔虫化石・地球
物理学の教授が嘱託として採用された。尚久留米医専は南スマトラ、ジャンビに病院を
開設して現地人従業員の治療を実施した。主力は国民総動員令によって帝石・日石・満
石・丸善・三菱各社の採油・精油技術者と新潟鉄工・大阪機械・神戸製鋼・ダイハツな
どの機械メーカーおよび利根ボーリング・日鉄鉱業などから徴用された5,302名で 、破
壊油田の復旧 と精油所の再建並びに生産に従事した。(18年9月現在)ただ不思議なの
は日本鉱業がそこに入っていない事だ。実は此処に東条英機や石原莞爾の知らない世界
が動いているのである。それが朝鮮や中国を占領した急進ユダヤ原理主義者である彼ら
が、日本政府も地方自治も手玉に取ってアヘンによる膨大な利益をむさぼっていたのだ
。ドイツ資本の銀行家とされるが 表向きは慈善事業団体でありそれを引き込んだのが
ハリマンの兄弟奉天総領事官であった。それは円卓会議であり赤十字で欧米の謀略の一
形態だったのである。


648: 名無しさんAA:17/10/09 12:05
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 296-----------

 樺太は日本とロシアの間で永く激しく揺れ動いた島だった。江戸時代の後半にはまさ
に日本(徳川幕府)とロシアが樺太の占有をめぐり競った時代でした。日本では17世
紀から樺太を支配しはじめてましたが、18世紀に入ってロシアの圧力が樺太にも強ま
り、ロシアの樺太やその周辺への相次ぐ襲撃事件が起こった。松前藩の報告に危機感を
嗅ぎとった幕府は、樺太を松前藩から幕府の直轄地とし秋田藩・弘前藩・仙台藩・会津
藩の藩兵を蝦夷地に差し向けた事件も起こった。こうした緊張の高まった時代もあった
。日本とロシアとの国境は安政元年(1855年)の 日露和親条約において千島列島
(クリル列島)の択捉島と得撫島との間に定められたが、樺太については国境を定める
ことができず、日露混住の地とされた。1856年にクリミア戦争が終結すると、ロシ
アの樺太開発が本格化し、日露の紛争が頻発するようになった。こうして危機感から「
樺太・千島交換条約」が結ばれ樺太は全てロシアが領有することとなりました。開国し
て明治政府が 富国強兵 殖産興業を強くし 国家経営を始めた明治期に入り1875
年(明治8年)5月「樺太・千島交換条約」が結ばれ樺太は全てロシアが領有する事に
なった。しかし北樺太では、既にその5年前の1870年には東海岸の地上に湧き出る
石油が日本人の手で発見されていた。その後の日露戦争では 日本は米国大統領の助言
から海軍陸戦隊で樺太を一度は保障占領しますが、賠償金も支払われなかったポーツマ
ス条約で石油の出ない南樺太の領有で良しとしてしまった。もつれる会談は代表が米国
の本部に操られている事が見つかったからだ。それでも当時から海軍には情報が足りず
又日本自体石油の価値や将来性を 見抜けなかったと言える。しかし日本にはその後も
樺太の石油を手にする好機は訪れてはいた。1918年今度はロシア革命後のシベリア
出兵である。出兵時に陸軍は樺太北部を占領して樺太全島を領有していた。だがこの時
も40年以上前に北樺太で日本人が見つけた石油の存在は日本国内には詳しくは知らせ
なかったのだった。それでも出資していたサミエル商会を通じて秘密は漏れていた。こ
の時は、ロシア皇帝側の亡命臨時政権相手に 国家予算以上の経費と人命をかけてシベ
リア出兵したのだが石油も石炭も鉄鉱石も得るものの報告はなく ただひたすら闇雲に
前進し、孤児救出などの人道支援措置に力を注いだのである。この時既に壮大な「大東
和共栄圏構想」は息づいていて 広大な土地に行きながら すぐ傍の樺太では1925
年の協定での撤退要請に日本は石油利権をソビエトを国家に承認してしまったのである
。これも海軍が内閣と言うミスであったが、同時にロスチャイルドの強い意志だった。

649: 名無しさんAA:17/10/09 12:13
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 297-----------

この後も石油の出る樺太北部から撤兵し、国境は日露戦争終結時点の北緯50度以下の
線に戻る。ソ連を国家承認した「日ソ基本条約」でオハ油田などの 北樺太の油田地帯
の経済的利権を手にした日本は、莫大な日本国内の資金を注ぎ込んで 事業化し一応の
成功したようにも思えたのだが、日独伊3国同盟、支那事変、ノモンハン事変等でソ連
の心象を悪くし、現地ロシア人工員のサボタージュやパイプラインの使用差し止め等の
数々のソ連側の嫌がらせを受けた。日本への石油の還送料は減り続け、戦前日本は、シ
ベリアや満州に手をだし泥沼の日中戦争に嵌り込むより 多少問題のある手段を使って
でも北樺太と北樺太油田を占有し領土化すべきだったが その気概を既に失くしていた
。昭和16年になるとスタンドプレイヤーの馬鹿げた松岡外相が登場し1941年(昭
和16年)に結んだ日ソ不可侵条約の見返りに 何としたことかさっさと「北樺太油田
」の利権を日本はあっさりと手放してしまった。しかも米国からはこれを機にモラルエ
ンバーゴ(道義的禁輸)発動で日本への石油輸出は極端に減った。その後も、日本は北
樺太の利権は消滅しても何とかソ連側から石油を買い求める事はできましたが 徐々に
ソ連側は供給量を減らし続け1944年(昭和19年以降)は両国の関係も悪化してし
まい 終戦前は一滴も北樺太の石油は日本に入ってくることはありませんでした。19
44年北樺太利権移譲議定書での話である。又、戦時中昭和18年後半からはせっかく
占領した南方の蘭印からの日本へ石油を運ぶタンカーは違法な米潜水艦に次々と沈めら
れました。そういう訳で一番北樺太油田の重要性が高まった昭和19年後半〜20年日
本はソ連に石油交渉の復活もめざしてソ連と様々な交渉を続けますがソ連が日本への石
油輸出に傾く事はなく周知のように昭和20年8月のソ連側から「日ソ不可侵条約」を
一方的に破った開戦となりました。北樺太のオハ油田を中心とする北樺太の石油採掘量
だけでは戦前の日本といえども石油の全消費を賄うことは無理でした。しかし昭和前半
には毎年日本に国内消費量の15%から2割近い年間70万kl前後の石油を日本に合
法的に持たらしていたのです。この時(昭和12年前後)の日本の国内消費量は 年間
500万キロリットルでしたが北樺太のオハ油田は戦後の1960〜70年代には年間
200万kl以上の石油生産実積あった事を考えるとアッサリと昭和18年までに利権
を手放した事は日本にとって松岡の行為は国賊行為で誠残念だったと言えてきます。


650: 名無しさんAA:17/10/09 12:13
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 298-----------

 実は現代科学の粋であるDNA解析によると 日本人は昔から平和主義者であった事
が解っている。日本人の多くは北方系と南方系の遺伝時情報を半々持っている。よく日
本人の特徴を縄文人と弥生人とに分けたがる。だが現実では母系と男系の遺伝子をほぼ
半数ずつ持っていると言う事は奇跡に近い平和共存国家が生まれていたと言う事に他な
らない。更に朝鮮半島から渡って来たと言う仏教伝来や稲作文化や鉄器や瓦などの伝播
など諸説が通説となっているがどれもが大戦後に作られたGHQの意志に基づく歴史で
ある。何故ならその殆どが今の科学的裏付けから日本の方が先行して行っているからだ
。日本では、3万年前の磨製石器が発見されている。これは世界最古とも言える。1万
6500年前には、やはり世界最古の土器が作られていたことが確認されている。そし
てこれが縄文時代のはじまりで、その後、土器や土偶などはどんどん工夫されて行き、
縄文時代の後期には、ハート形土偶などの美しい造形物も制作されるようになっている
。さらに稲作文化に至っては約6500年前の朝寝鼻貝塚を始め、他にも大量のプラン
トオパールが見つかっているが。朝鮮半島には石化したオパールどころかその痕跡さえ
見つかっていない。山が多く沼地のない寒い朝鮮半島では稲作は出来なかったというの
が今の常識であるまさに最先端ともいえる文化的生活が営まれていた日本であったこと
が、考古学的に実証されている。では、同じ時代の朝鮮半島はどうだったかというと、
いまから1万年前から5千年前までの5千年間(一説には一万2千年前から5千年前の
7千年間)もの間、人類の痕跡が全くない。遺跡がないということは、そこに人が住ん
でいなかった。住めなかった。ということだ原因は2つある。一つは寒さであり一つは
火山活動であると考えられる。こうして半々の女系系若しくは男系のDNAがあるが、
通常どちらかに偏って存在する。それは男系社会に戦いがあるからだ。そして他の周辺
国とのDNAとの比較で殆どの歴史が解明される。ところが韓国に至っては異常がある
。DNA、RNAを分析した結果、220万個以上の新しいゲノム変異が見つかったと
、ソウル大学医科大学遺伝体医学研究所とマクローゼン生命科学研究所が、世界的な学
術誌ネイチャージェネティクスで発表しているのだ。今回の研究は遺伝疾患のない韓国
人18人(男性11人、女性7人)のゲノム(全遺伝情報)を分析した。韓国人18人
からは、950万個以上の変異(遺伝子を構成する塩基配列の違い)が確認され、うち
220万個は今回始めて発見された。更にこのうちの約120万個は、韓国人の10%
以上が有していることが分かった。このDNA・RNA配列異常は歴史には合致する。

651: 名無しさんAA:17/10/09 12:14
 ソウル大学医科大学遺伝体医学研究所のソ・ジョンソン教授は、「民族はそれぞれ生
きてきた環境に適応するため、固有の遺伝子変異を持っている」とし、「今回の論文は
ヨーロッパ人とは違う韓民族の遺伝体変異を体系的に整理し、ヨーロッパ人が中心だっ
たこれまでの遺伝子研究の限界を指摘した点で意味がある」と話した。韓国メディアは
、韓国人のゲノム分析を通じ、人種間の多様性が予想よりも大きいことが分かったとし
、韓国人をはじめとするアジア人のゲノム情報を集め、アジア人に的を絞った医学研究
が必要との見方を示した。がこの理由がフン族にある事は誰も思っていないだろう。そ
もそも漢民族と言うのは中国全土を覆う程の民族では無かった。だがユダヤと同じ様に
漢字を使い中国語を使えば誰でも漢人となれた。つまり日本国内でも、東京に産まれれ
東京人、九州や北海道のご出身では九州人と言う位の事だ。陸続きの頻繁な往来のある
で中では地域や人種とはそういう者だった。更に支那と言う言葉は差別でも何でもない
自ら言った中華の言葉が英名チャイナの日本名的語源に他ならない。歴代の支那の王朝
は、紀元前に成立した前漢以外は、すべて外来王朝である。最初に支那を統一した隋は
、鮮卑(せんぴ)系の遊牧騎馬民族が建てた王朝で、隋という国号の文字は「祭りの肉
の余り」という意味の漢字である、即ち食い尽くした残りの骨と言ういかにも肉食の遊
牧民らしい国名なのだ。骨の髄と言うのに似ているがある意味合っている。唐(とう)
も「大きな口」という意味で、大人口の食堂とされ朝貢は口に捧げた食物であった。こ
れも鮮卑系民族だった。宋(そう)も皇帝は趙氏の一族で、これまた遊牧民族系です。
元(げん)が、モンゴルの遊牧民王朝であることは、承知の事実であろう。明(みん)
は、初めて漢族である安徽省の貧農の末子、朱元璋(しゅげんしょう、漢族)が建国し
た国だったが、この時代には、国の北は北元(モンゴル族)と後金(ツングース)によ
って征圧され、度重なる遊牧民族の侵入で常に国が危機状態に置かれていたわけで、こ
れにより紫禁城の北京はある意味南と北の往来を一方的に管理して摩擦を避ける関所の
役割の街だった。それはとても統一支那王朝とは言い難く、実際、国土の中枢部を遊牧
民族に奪われていた中だから辛亥革命や世界大戦が起こったのだ。こうして常に外来の
皇帝が君臨した中国は、支那の土着民である漢族や、チベットウイグルなどの周辺諸族
を、平等に下に従えていた王朝だった。がこの中華の並びに異を唱えたのが他ならぬ漢
民族に同化帰化した漢人だった。だが彼らが力がない為に政変ごとに北に追いやられた
。ついに既存の女真族(満州族)が建てた王朝を建てると、更に追いやられて女真族>
漢族>それ以外の諸族と言う序列を作った。こうして本家漢民族の抵抗や反抗に会いな
がらも清王朝は建てられた。

652: 名無しさんAA:17/10/09 12:15
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 300-----------

こうして建てられた王朝はインドに倣った差別主義を用い更に共産化の波も受けていた
。古代の支那では朝鮮を「糞族(わいぞく)」と呼ぶ。日本は倭で、これは背の低い人
という意味の漢字で、朝鮮族を糞尿を意味する「糞」という漢字を当てられたのは、古
代の朝鮮半島の中部から北部に住む人々だけです。「汚」という漢字と結びついている
理由はその生活形態にあったからだ。今でもツングース族は殆どがモンゴル族の風習や
その動物解体・尿糞燃料・節水飲血の習慣そのままにもっと北に住み着いている。それ
は本来平和で戦いから逃げ延びて来た人々の群れだったのだ。尼港事件の尼港は185
0年に(ニコラエフスク港)建設され、ロシアの極東開港場として最古のものである.
とされる。1850年は日本では海賊が日本列島周辺に現れ 佐賀藩で反射炉が築かれ
る時代だ。江戸時代末期の黒船来航3年前である。つまりそれまではロシア皇帝はロシ
アが何処まであるのかは知らなかった。というのもそれこそが「フン族」の地域だった
からだ。「黄禍論」で言う黄色人種の禍はこの人種によってもたらされていた。この糞
族は −40℃の寒さ故に糞尿を外に出さない。家の中で行う。−40℃では雑菌も繁
殖しにくく 乳酸菌のつく干し肉が食事の殆どだった。しかしロシア国内に異変が起き
た。森林が荒されトナカイの食べるコケが無くなったのだ。その上に大陸横断鉄道建設
には多くの人の肉さえ供与された。この人達は管理がないまま帝政ロシアでトナカイを
ロシア内の軍隊に強制供給させられていた。だが帝政ロシアまでは良かったもののその
後のトロッキー革命の白ロシア軍や共産革命の赤軍更にパルチザンと没収の上追われる
と言う悲惨さがあった。その中に革命によって政権による政治犯の解放に囚人の獄中人
解放が行われ多くの死刑囚や労役因などが解放され自ずとパルチザンとなった。191
8年に尼港事件が起こる頃は、ニコラエフスクにも赤軍が進駐し、ソビエト政権が成立
していた。しかし赤軍は、当時ニコラエフスクはサハリン州に含まれていたがこの町で
全体は300人ほどの少数にすぎず、日本軍の上陸によって追われ、やがてロシア海軍
提督アレクサンドル・コルチャークによる臨時全ロシア政府に代わった経緯があった。
此処にいた先住民族からのニコラエフスクの支配階層市民102名が日本軍を呼んでい
た。それは江戸時代伊能忠敬の樺太探検でも樺太アイヌと違うイヌイット族に松前藩な
どは、古くから鹿の皮や熊の胆など物々交換の場所として数軒の家がある村ではあった


653: 名無しさんAA:17/10/09 12:35

陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 301-----------

ロシア地方政府は港発展策としてユダヤ人にロシア人と同様に土地家屋の私有権を与え
たことから有産階級の大部分はユダヤ人によって構成されていた。ロシア革命の進展に
より、ニコラエフスクは治安が悪くなり白昼でも強盗が行われ、少しでも金を持ってい
そうな者はピストルで射殺されたり、銀行も金品を強奪されることから、イギリス、ア
メリカ、日本の銀行に依頼して預金替がされたり、島田商会が預金依頼されるほどであ
った。漁業を営んでいたユダヤ人の資産家たちは革命によって購買組合や労働者に業を
奪われるようになりウラジオストクに逃れる者も少なくなかった。とされる。日本側に
も信頼があり「尼港市民と内外居留民(イギリス人などもいた)が日本海軍陸戦隊の上
陸を請願した」と記されている。尼港とその周辺地域では、白衛軍系の守備隊が治安維
持にあたっていた。1919年の夏には将校以下350人ほどの人数がおり、日本軍と
協力していた。とある。中国艦隊のニコラエフスク入港までには、紆余曲折があった。
入港直前の8月には内満州において日中両軍が衝突する寛城子事件が起きていた。当時
、日本は北京政府と日支共同防敵軍事協定を結んでおり、中国は連合国の一員として、
巡洋艦海容をウラジオストクに派遣していた。北京政府は、ロシア側が日本の艦船のア
ムール川航行を黙認しているにもかかわらず、中国船の航行を認めないことはアイグン
条約に反するとして交渉していたが、ロシア側は認めず、中国側は、日本がロシアにそ
うさせているのではないか、と疑っていた。北京政府は、日、米、英、仏各国に、ロシ
ア側との仲介を依頼したが、アメリカをのぞく各国の反応は冷淡であり、中国側は、日
本がこの問題のイニシャティブをとっているとの確信を強めた。一方、ウラジオストク
の日本全権は、この問題に日本が関係する意志がないことを中国側に明言し、中国艦隊
のニコラエフスクでの越冬について、コルチャーク政権にとりなした。しかし、中国の
新聞は日本の航行妨害を書き立てているとして、10月1日、北京の小幡酉吉公使は、
北京政府に抗議している。ところがこの凄惨で陰湿で悪質な事件は前後して80件以上
も繰り返される。又本国ソ連国内でも大きく事件は起こっていた。そこで国際旅団がで
きた。要は武器や資金を提供するから暴れるなら外でやってくれ。と言う政策だ


654: 名無しさんAA:17/10/09 12:35

。こう
して日露戦争前後から近年までこの欠損遺伝子の末裔達の犯罪は続く。彼ら達の中に、
ユダヤ教から派生した共産主義そしてそれから派生した大国啓蒙がでて更に差別や格差
や貧困をより大きくしている事実は 隠しようがない。こうして日露戦争の頃まで暴徒
が中国からの義勇兵がロシア軍として大陸で暴れていたのが 日韓併合以降は日本軍と
して暴れ始めていた。第二次世界大戦時代に入ると中国軍として暴れ始めた。つまり、
朝鮮半島を或いは朝鮮人を組み込んだ国は 次々に汚名の中に戦争に入るのだった。




655: 名無しさんAA:17/10/09 12:36
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 302-----------

太平洋戦争には 殆ど無視されていたが 天皇ははっきりと宣戦布告の詔書を出した。
それは国際間条約の上の正しく戦争をしたいと言う気持ちからで米国では日本大使とは
会わなかったとされるが日本では米英加豪4ヵ国の駐日大使と会見し手渡ししているの
だった。

宣戦の詔書(現代語訳)

 天の助けにより万世一系の皇位を受け継いできた大日本帝国の天皇が、忠誠にして武勇である国民に示す。
 私はここに米国及び英国に対し、戦いを宣言する。陸海の将兵は全力をふるって戦いに当たり、武官や役人たちはその職務に励みつとめ、国民もそれぞれの本分をつくし心を一つにし、国家の総力を挙げて、間違いなく戦いの目的を達成するよう期してほしい。
 そもそも、東アジアの安定を確保し、世界の平和に寄与することは、明治天皇から大正天皇へと受け継がれてきた将来への配慮であり、私が常に心に留めてきたことである。そして、各国との友好を大切にし、すべての国がともに栄える喜びを共有することもまた、日本が常に外交の要諦(ようてい)としてきたことである。今、不幸にして米英両国と戦いを始めるに至ったことは、実にやむを得ぬことであり、私の意志であろうはずがない。
 中華民国の政府が先に、日本の真意を理解せず、みだりに事を構え、東亜の平和をかき乱し、ついに日本に戦いを始めさせてから4年余りがたった。幸い、国民政府は新たに生まれ変わり、日本はこれ(汪兆銘政府)と善隣友好の関係を結び、ともに提携するようになった。ところが、重慶に残存する政権(蒋介石政府)は米国、英国の庇護(ひご)に期待して仲間内の争いをやめようとしない。



656: 名無しさんAA:17/10/09 12:40


。こう
して日露戦争前後から近年までこの欠損遺伝子の末裔達の犯罪は続く。彼ら達の中に、
ユダヤ教から派生した共産主義そしてそれから派生した大国啓蒙がでて更に差別や格差
や貧困をより大きくしている事実は 隠しようがない。こうして日露戦争の頃まで暴徒
が中国からの義勇兵がロシア軍として大陸で暴れていたのが 日韓併合以降は日本軍と
して暴れ始めていた。第二次世界大戦時代に入ると中国軍として暴れ始めた。つまり、
朝鮮半島を或いは朝鮮人を組み込んだ国は 次々に汚名の中に戦争に入るのだった。





657: 名無しさんAA:17/10/09 12:40
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 302-----------

太平洋戦争には 殆ど無視されていたが 天皇ははっきりと宣戦布告の詔書を出した。
それは国際間条約の上の正しく戦争をしたいと言う気持ちからで米国では日本大使とは
会わなかったとされるが日本では米英加豪4ヵ国の駐日大使と会見し手渡ししているの
だった。

宣戦の詔書(現代語訳)

 天の助けにより万世一系の皇位を受け継いできた大日本帝国の天皇が、忠誠にして武
勇である国民に示す。 私はここに米国及び英国に対し、戦いを宣言する。陸海の将兵
は全力をふるって戦いに当たり、武官や役人たちはその職務に励みつとめ、国民もそれ
ぞれの本分をつくし心を一つにし、国家の総力を挙げて、間違いなく戦いの目的を達成
するよう期してほしい。
 そもそも、東アジアの安定を確保し、世界の平和に寄与することは、明治天皇から大
正天皇へと受け継がれてきた将来への配慮であり、私が常に心に留めてきたことである
。そして、各国との友好を大切にし、すべての国がともに栄える喜びを共有することも
また、日本が常に外交の要諦(ようてい)としてきたことである。今、不幸にして米英両
国と戦いを始めるに至ったことは、実にやむを得ぬことであり、私の意志であろうはず
がない。
 中華民国の政府が先に、日本の真意を理解せず、みだりに事を構え、東亜の平和をか
き乱し、ついに日本に戦いを始めさせてから4年余りがたった。幸い、国民政府は新た
に生まれ変わり、日本はこれ(汪兆銘政府)と善隣友好の関係を結び、ともに提携する
ようになった。ところが、重慶に残存する政権(蒋介石政府)は米国、英国の庇護(ひご
)に期待して仲間内の争いをやめようとしない。


658: 名無しさんAA:17/10/09 12:41


 米英両国はこの残存政権を支援し、東亜の乱を助長し、平和の美名にかくれて東洋を
制覇しようという誤った望みを持とうとしている。そればかりか、その同盟国に働きか
けて日本の周辺に軍備を増強して我々に挑戦し、さらには日本の平和的な通商にあらゆ
る妨害を加え、ついに経済断交まで行い、日本の生存に重大な脅威を与えている。
 私は政府に事態を平和裏に解決させようとし、長く耐えてきたが、彼らはまったく互
譲の精神はなく、いたずらに解決を延ばそうとし、経済上や軍事上の脅威を一段と増し
、日本を屈服させようとしている。事態がこのまま推移すると、東亜の安定についての
日本の長年の努力はことごとく水泡に帰し、日本の存立も危機に瀕してくる。ここに至
って、日本は自らの存立と自衛のために蹶然(けつぜん)と起ち、すべての障害を打ち破
るほかないのである。
 皇室の祖先や歴代の天皇が、天から見守ってくださるであろう。私は国民の忠誠や武
勇を信じ、歴代の天皇の遺業をおし広め、速やかに禍根を取り除き、東亜に永遠の平和
を確立し、日本の光栄を守ることを期そうとするのである。
御 名 御 璽
 昭和十六年十二月八日              各国務大臣副書



日本時間の12月8日11時45分、日本政府は、米英加豪4ヵ国の駐日大使を呼び 「 宣戦
布告書 」 を手交した。
肝心のアメリカは、第2次世界大戦以降、21回もの戦争もしくは武力行使を仕掛けま
したが、戦争開始前に宣戦布告書を手交したなどとは、ついぞ聞いたことがありません
。日本はこの頃すら「卑怯」「不義」を嫌う まともな果し合い民族だったのだ。




659: 名無しさんAA:17/10/09 12:47


 米英両国はこの残存政権を支援し、東亜の乱を助長し、平和の美名にかくれて東洋を
制覇しようという誤った望みを持とうとしている。そればかりか、その同盟国に働きか
けて日本の周辺に軍備を増強して我々に挑戦し、さらには日本の平和的な通商にあらゆ
る妨害を加え、ついに経済断交まで行い、日本の生存に重大な脅威を与えている。
 私は政府に事態を平和裏に解決させようとし、長く耐えてきたが、彼らはまったく互
譲の精神はなく、いたずらに解決を延ばそうとし、経済上や軍事上の脅威を一段と増し
、日本を屈服させようとしている。事態がこのまま推移すると、東亜の安定についての
日本の長年の努力はことごとく水泡に帰し、日本の存立も危機に瀕してくる。ここに至
って、日本は自らの存立と自衛のために蹶然(けつぜん)と起ち、すべての障害を打ち破
るほかないのである。
 皇室の祖先や歴代の天皇が、天から見守ってくださるであろう。私は国民の忠誠や武
勇を信じ、歴代の天皇の遺業をおし広め、速やかに禍根を取り除き、東亜に永遠の平和
を確立し、日本の光栄を守ることを期そうとするのである。
御 名 御 璽
 昭和十六年十二月八日              各国務大臣副書



日本時間の12月8日11時45分、日本政府は、米英加豪4ヵ国の駐日大使を呼び 「 宣戦
布告書 」 を手交した。
肝心のアメリカは、第2次世界大戦以降、21回もの戦争もしくは武力行使を仕掛けま
したが、戦争開始前に宣戦布告書を手交したなどとは、ついぞ聞いたことがありません
。日本はこの頃すら「卑怯」「不義」を嫌う まともな果し合い民族だったのだ。




660: 名無しさんAA:17/10/09 12:47
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 303-----------

 この戦争に関して間違えたのは 軍部に経済を任せた経営者達にあった。そも後藤も
台湾総督府民政長官ののち満鉄初代総裁になったが かれは兵士や藩閥の政治家では無
かった為にその権力の執着についての認識が少なかった。後藤の阿片政策には、後藤自
身が、杉山茂丸らをパートナーとして阿片利権・裏社会との関わりを深めていったとい
う側面はあった。さらに後藤はまた、台湾総督府の阿片吸食者に売る阿片煙膏のモルヒ
ネ含有量を極秘裡に減らして患者を減らす事が、阿片専売収入増加を図るために行った
と誤解された。より高い阿片煙膏を売り付けることを行い、その秘密を守り通すため、
総督府専売局が、後藤と癒着した星製薬以外の粗製モルヒネの分割払い下げ運動を強硬
に拒んだ。この事で、星製薬をめぐる疑獄事件である台湾阿片事件が発生した。星一は
星新一の父親だが杉山茂丸の書生の出身である。杉山茂丸は戦国大名・龍造寺隆信の末
裔とされる。長男は作家の夢野久作。孫はインド緑化の父と言われる杉山龍丸である。


661: 名無しさんAA:17/10/09 12:47

詩人の杉山参緑。「夢野久作と杉山三代研究会」の杉山満丸は曾孫。戯号として其日庵
(そのひあん)として余生を送った。自らは官職も議席も持たない在野の浪人であった
が、山縣有朋・松方正義・井上馨・桂太郎・児玉源太郎・後藤新平・寺内正毅らの参謀
役務めて、政界の黒幕などと呼ばれた。元々天神近くに産まれたが早くから黒田藩が西
洋化した為土地を追われ一家は芦屋村で農業を営む生活を始めたがうまくいかず貧困生
活を送る事になった。その後も筑紫郡山家や朝倉郡夜須村などを転住し父と共に寺子屋
を開き貧困の中で平民に学問を授ける奉仕活動と共に生活してきた。四書五経をもとに
明治11年(1878年)敬止義塾を筑前町にひらき定住が終わる頃民約論や仏蘭西革命史な
どで政治に目覚め、明治13年(1880年)、諸国巡遊に旅立ち、初めて東京へ行き、山岡
鉄舟の門をくぐる。この事で後藤象二郎や大井憲太郎などと知遇を得た。滞京一年半で
帰郷するが、明治17年、熊本の佐々友房から旅費を借りて上京、伊藤博文を悪政の根源
、「脱亜入欧」、「藩閥の巨魁」と目してその暗殺を企て、山岡鉄舟の紹介状を持って
面会に成功するが、逆に、お互い国家のために身を大事にと説伏されて断念した経緯を
持つ。この時の「反脱亜入欧思想」の運動こそが世間の中の流行っていた思想であった
。こうして伊藤暗殺を果たせなかった杉山は、官憲の追及を避けて北海道に渡るなど、
各地を転々としていたが同郷の頭山満に出会い、心服して以後行動を共にした。頭山と
ともに福岡に戻った杉山は、玄洋社の経済基盤確立のため、頭山に筑豊炭田の取得を勧
め、自らその資金調達に奔走、そのために当時元老院議官であった安場保和を福岡県知
事に就任させた。こうして明治21年(1888年)九州鉄道を創立した。


662: 名無しさんAA:17/10/09 12:49
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 304-----------

 九州鉄道を創立したが、この時杉山は同郷の先輩である金子堅太郎の知遇を得て初代
社長に英学者の高橋新吉を招いている。またこれにより、東京日日新聞主筆の朝比奈知
泉と知り合い「暢気倶楽部」と呼ばれる会合を持つようになって伊藤博文・桂太郎・児
玉源太郎・後藤新平と人脈を広げた。渡米して、世界の金融王J・P・モルガンと単独面
会し、かつ巨額の借款を約定することに成功した。この事が日本を狂わせる。モルガン
はシフとの競争の中にあった。その頃玄洋社は日本のメディア界の長ではあった。そし
て蔓延する「反脱亜入欧思想」から「脱亜入欧思想」に果敢に取り組んだとも言える。
こうして後藤新平が台湾時代にアメリカから新渡戸稲造を招き、生涯の腹心中村是公と
交じり杉山茂丸の資本で大いに活躍した。中村是公は満州時代も本社の造営、埠頭制度
、港湾土木、倉庫施設、大連市街その他付属地の経営、ホテル事業、病院設備、学校創
立、満鉄本線改修、安奉鉄道敷設、上海・営口・安東の各埠頭造営、海運事業創始、電
鉄・瓦斯の施設、中央と各地の試験所開始、公所・地方事務所の設置、各種工場、公園
、図書館、満蒙産業調査機関、その他いろいろの施設を是公の敏腕によつて作りだされ
た。が関東大震災が彼らを一変させた。昭和に入り後藤は赤い男爵と呼ばれ名声を得て
いた。ソ連を訪問しスターリンと会見、国賓待遇を受ける。少年団日本連盟会長として
渡航したのだが、その際、少年達1人々が1粒を送った米による握り飯を泣きながら食
べ渡航したという。日本ボーイスカウトの面々がソ連との仲介を欲しての声だったのだ
。後の満鉄総裁・松岡洋右が日ソ中立条約締結に訪ソした際その後藤新平の名声を利用
したと言われる。貴族院勅選議員となり、終生在籍した。晩年は「政治の倫理化」を唱
え各地を遊説した。後藤が倒れる日に三島に残した言葉は「よく聞け、金を残して死ぬ
者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」で
あったという。日露戦争後、日本が満州を獲得して、三井物産が大きく業績を発展させ
た部門は鉱物資源よりは農作物大豆であった。“満州”は、世界的な大豆の産地でそれ
を三井物産がほとんど独占的に買い占め、その油からマーガリンを造ってヨーロッパ諸
国に輸出し、油粕は国内で肥料として売ることで大いに儲かっていました。だが張作霖
が買い付けに横やりを入れソ連経由の売り場を開いた。そこに政変の満州国建国があっ
たのだ。




663: 名無しさんAA:17/10/10 10:32 ID:SB6
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 305-----------

 こうして満州国土は関東軍の物となった事に悲劇があった。遼東半島・山東半島・満
州そして上海租界地では、大日本陸軍の特務部が、治外法権の特権を利用して阿片の密
売を公然と進めた。医薬品や中毒是正の目的とは無関係となり、中国人相手の阿片・麻
薬販売の利益を得ることと、中国民衆の阿片中毒による弱体化が主目的となったのであ
る。このとき陸海軍の手先として活躍したのが笹川良一、児玉誉士夫たちだ。戦後右派
の黒幕となり日本を動かしていく曲者たちは阿片で莫大な財産を手中にする。「自民湯
なんぞ阿片の金の魔厄党」と言われたのである。現実に1939、陸軍省軍事課長、岩
畔豪雄を中心に、三井、三菱、大倉財閥の出資で満州に「昭和通商」という商社が作ら
れ、主な業務はアヘン密売で世界を席巻した。実働部隊として岸信介、佐藤栄作、池田
勇人、吉田茂がアヘン密売に関与し、満州国の運営資金をアヘン売買で調達した。又小
泉総理の父、祖父が、第二次大戦中、中国侵略を進めた 大政翼賛会の政治家であり、
安倍晋三官房長官の祖父が、中国侵略の中心人物、岸信介であり、麻生太郎外務大臣の
祖父が、中国侵略軍の中核に居た吉田茂である。という家系の繋がりもあった。基本は
岸信介が1936年10月に「満州国国務院実業部総務司長」と言う満州国の、国政の
最高機関に就任した事だった。満州時代に関東軍参謀長の東条英機や日産コンツェルン
の総帥鮎川義介ら軍部や財界要人と関係を結んでいった事で、42年前の1894年の
日清戦争で勝利した日本の内務省衛生局長だった後藤新平が、「満州経営の資金調達の
ため、アヘンを国策として売買すべし」と主張して日本の国策としてモルヒネ生産した
言葉が裏目に出た結果だった。後藤は、後に満鉄初代総裁になって終了に向けて活動を
起こそうとしたが東京大震災はそれを止めさせた。こうして日本政府による阿片販売の
実態は国際問題とされ、国際連盟の議題となってしまったのだ。



664: 名無しさんAA:17/10/10 10:33

「天津の日本人居留地
は、今や世界のヘロイン製造、及び阿片喫煙の神経中枢として知られている。洋行ある
いは外国商会名で経営される阿片あるいはヘロイン魔窟の数はまさしく千を超えている
。隠れた穴場のみならず、白色麻薬を公然販売するホテル店舗、その他の建物が数百あ
る。……中国人・ロシア人及び外国人が汚れた板の上に横たわっており……魔窟の第1
室には朝鮮人の女が。ヘロインと不純物とを混合する仕事に忙しい。……注射は、汚い
注射器で、時には自製の物でなされる。針は決して洗ったり、消毒したり、取り替える
ことはない。梅毒が自由に針を介して一人の阿片常用者から他の者へ蔓延する。私は、
胸一面が腐って壊疽のような肉塊をなしており、拳全部を差し込むことができるような
穴が体にある阿片常用者を幾人も見たことがある。こんな腐敗しつつある辛うじて生命
を保っている死体に、麻酔剤の注射器を次から次へと差し込むのである。(国際連盟、
阿片諮問委員会議事録よりエジプト代表ラッセル・パッシャの陳述記録)』まさに、列
車(列者)の五等(後藤)はしんぺい(新平)でなんねい。と言われた様になった。こ
うしてその後戦後に阿片による莫大な金が岸に動いたことは容易に想像できる。



665: 名無しさんAA:17/10/10 10:34
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 306-----------

 こうして久原房之助が作った資産は 人脈だったのかも知れない。樺太開発で得た様
々知恵や機材はそのまま、アメリカの策略に乗ったまま 小村寿太郎のロシア側の全権
ウィッテと交渉しポーツマス条約を調印したもののソ連は全く折れてなかった。この交
渉に際しても出かける時も、中立国アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領に向けて
「直接かつ全然一己の発意により」日露両国間の講和を斡旋するよう求め、命を受けた
高平は翌日「中立の友誼的斡旋」を大統領に申し入れていた。だが米国の国内は複雑だ
った。中国の門戸開放を願うとアメリカしては、日本とロシアの双方が圧倒的な勝利を
収めて満州を独占する事を避ける為の調停であり、このアメリカの立場と、同じ白人国
家の国内の革命運動抑圧のため戦争終結を望むロシアの要望に答えただけで、戦力限界
と解っていてこれ超えて勝利を確実にしたい日本の希望が一致しただけの話のであった
。ルーズベルトは交渉を有利に進めるためには日本は樺太(サハリン)に軍を派遣して
同地を占領すべきだと意見を示唆しているがそれは油田の発見を知っていたからだった
。小村はまた、明らかにマスメディアの重要性を認識していなかった。ポースマスとい
う異様な場所を会議場所とされた事もあるが、小村自身もマスメディアに対し秘密主義
を貫いていた。現地の新聞にはロシア側が次々と提供した情報が憶測とともに掲載され
それは由々しき問題ともなっている事も解らなかった。モルガン系白人のルーズベルト
のモンロー主義を貫こうとする話にならない姿だった。こうして賠償金問題は棚上げと
なってしまったのだ。そもそもポースマスでの会議そのものがパン・アメリカン主義に
国民は騒ぎ、先のマッキンリー大統領が無政府社会主義者の暗殺があったため副大統領
の彼が大統領になっていたのだ。マッキンリー時代には1893年恐慌後のあおりを受けて
回復に向けて国を指導する中にあった。その中でキューバでの米西戦争が勃発した。こ
の収拾にフィリピンを絡めて賠償金を払い1898年のパリ協定を結ぶ事になった。1898年
にハワイ共和国を併合したが、この時の1893年の暴動では、日本の巡洋艦の浪速と
金剛がホノルルに入り、アメリカのハワイ王朝乗っ取りの際のアメリカの横暴を、牽制
した。この事でアメリカはハワイ併合を断念し、ハワイ共和国とした。また翌年寄港し
、同共和国の一周年を祝う礼砲要請には、艦長の東郷平八郎は断り、他国の艦船もそれ
に倣ったと言う経緯があった。その模様を1897年「できることなら今すぐにハワイ
を併合し、ニカラグア運河(パナマ運河)を完成させ、日本を凌ぐ軍艦を建造したい。
私は日本の脅威をひしひしと感じている」と友人に書き送っている。


666: 名無しさんAA:17/10/10 10:34
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 307-----------

 元々日露戦争宣戦布告と共にハーバード時代にルーズベルトと面識がある金子堅太郎
を伊藤博文は説得をして同月末出帆の船で渡米させていた。ルーズベルト大統領に常に
接触し、戦争遂行を有利に進めるべく日本の広報外交を展開していた。と言われている
。1905年の、ポーツマス会議も第7回本会議においての、償金問題と樺太割譲問題
で日露双方の意見が対立して交渉が暗礁に乗り上げた。そのときに、外相の小村壽太郎
全権より依頼を受けて、金子堅太郎の助力でルーズベルト大統領と会見して、やっとの
事講和の成立がなったのだった。ルーズベルトは共和党を「進歩」の方向に動かそうと
し、当時野放しに拡大し鉄道を支配していたモルガンを反トラストで規制し、独禁法の
制定や企業規制を増やした。彼は国内の課題を説明するため「スクエア・ディール」と
いう句を作り出した。それは日本語的に「公平な扱い」と言う言葉で公共の利益を擁護
する立場から政府の社会的機能や権限を大幅に増大させる。と言う意味だった。そして
、一般市民がその政策の下で正当な分け前を得ることができると強調した。この事で、
労働争議や独占企業や運賃規制や薬品規制を指導した。又ルーズベルトは自然保護運動
を支援しながらもパナマ運河の完成の後ろ盾となったりしている。こうしてルーズベル
トはその性格からも日本の脅威を日増しに募っていたと言える。従って、樺太権益での
油田の権益に並びに海産物の権益に大きな問題がある事も解っていた。ロシア側には、
食糧不足でありバクー油田の抗争がアメリカと起こっていたからだ。そして失意の合議
によって、こうして久原房之助が作った資産はロシアの囲む中での権益となった。勿論
その後早速にソ連領内に於いてアメリカ資本によって早速ソ連が石油を掘り当てた事は
当然だった。だが第二次世界大戦でシェル石油を日本側に送らない理由となった。それ
はJPモルガンもソ連も当初石油タンカーを持ち合わせて居なかった為だった。この海
の波は凄まじくその上冬場には動けなかった。元々久原は江戸後期日本で番付6番目の
藤田財閥の共同投資家の兄の子として生まれていた。藤田組は小坂鉱山の払い下げを受
けてこの鉱山開発に乗り出し銀の生産高が日本一の鉱山となった。実は南部盛岡藩は、
幕府側だったとして13万石に落とされたので70万両の課金によって元の20万石の
藩を保っていた。が既に財政は破綻しいち早く廃藩置県に手をあげ減免してもらってい
た。つまり銀生産は鉱山になく藩の疲弊に要因があった。が此処は商人も多く外国との
接点も頻繁だった。やがて製錬技術が向上すると黒鉱から採れる銅や亜鉛、鉛の生産が
主体となった。その金でインフラ整備を行っていた。


667: 名無しさんAA:17/10/10 10:35
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 308-----------

久原房之助は「ドイツ滞在中の井上馨と組んで、現地で贋札を製造して秘かに持ち込ん
で会社の資金にしようと企てた」と言う藤田組贋札事件が起こっている。当時偽札は絵
を描いても死罪であった。だが少し前の長州閥の山縣有朋が、政商・山城屋和助の汚職
事件に連座した時の様に 薩閥長州閥の争いの中薩摩側は西郷隆盛の戦死や大久保利通
の暗殺と次々に有力者を失い薩摩方に政治力がなかった為か薩摩の謀略か罪は免れてい
る。だがその後彼は、第一次大戦での軍需で鉱山経営を足がかりにして企業を拡大して
、造船業・肥料生産・商社・生命保険を傘下とする久原財閥を形成する。日立製作所、
日産自動車、日立造船、日本鉱業創立の基盤となった久原鉱業所(後の日立銅山)や久
原財閥の総帥として「鉱山王」の異名を取った。第一次世界大戦後の恐慌を機に政界へ
進出。「政界の黒幕・フィクサー」と呼ばれ、右翼に資金を提供して二・二六事件に深
く関与した。戦後はA級戦犯容疑者となり、公職追放となった。
 作家 松本清張は「昭和史発掘」で面白い記述をしている。久原房之助は山口県の資
産家に生れた。その親戚には大阪藤田組の藤田伝三郎がいた。久原の妻の兄は日産の鮎
川義介である。三菱の木村久寿弥太も親戚筋の一人だという。めぐまれた環境である。
久原は若いとき、親戚の藤田組に入り、小坂銅山にやらされた。よく働き、相当な出来
で同僚を圧していた。藤田組をやめ、当時下火だった日立銅山を買ったのが出世のはじ
まりで、日露戦争につづく欧州戦争で、銅で儲ける大当りをした久原商事をつくったま
ではよかったが、そこに欧州戦争後の恐慌が訪れ、たださえ杜撰な経理の彼の会社はあ
えなく崩壊した。それが大正十二年の震災で決定的となった。財界を「食いつめた」後
久原は、成金時代に得意になって貢いでいた同郷の田中義一を頼って政界入りした。「
財界からの夜逃げ同然」とは和田日出吉の表現である。同郷でもあり、旧恩を忘れない
田中は久原を身ぐるみ引きうけ、 いきなり田中内閣の逓信大臣のイスにつけた。 久原
は外務大臣を熱望していたが、さすがに党内幹部が反対したのである。支柱の田中が死
ぬと、久原の人気は下落した。人気が落ちた理由の一つに、彼は数千万円の借財を震災
手形にして政府の肩替りにしたことがあげられている。つまり自分の借金を国民の血税
に肩替りした上、一文も払わなかったのだ。




668: 名無しさんAA:17/10/10 10:36
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 310----------


                 この時久原は政界入りと同時に日立鉱山と久原鉱
業とを義兄の鮎川義介に譲った。それが鮎川の日産財閥の中に日立製作所と日本鉱業と
なって残る。久原の手には資本金一千万円の久原商店と同じく一千万円の久原地所部と
があるが、この全財産二千万円も資産だが負債だかわからなかったという。「彼はそれ
が負債であろが無かろうが問題ではない。いか程の負債も一時にして資産にする力をも
っている彼。株をやる彼。政治と株を結託することによって金をつくり出す彼」(和田
日出吉「二・二六以後」昭和十二年刊)株をやる以外に久原の金儲けの道はない。相場
は世間が安定しているとウマ味がない。物情騒然としたほうが変動を大きくさせ儲けの
機会が多い。久原はわずかな手兵で乱をつくってゆく。「乱世の人物」といわれる所以
である。かつて久原商事には一癖も二癖もある社員ばかりを集めて、結局彼らが会社を
食い倒したと同じように、政治家久原の周囲には奇態な子分ばかりが集った。代議士と
しては津雲国利、西方利馬な七、八名がいる。森恪に死なれて行きどころのなくなった
岡本一巳という放浪代議士もくる。久原は岡本を使い、反対派の鈴木総裁の片腕鳩山一
郎が樺太工業から五万円もらった一件を議会で暴露させ、鳩山を追い落した。乱を好む
久原が、政治に介入してきた軍部に近づくのは当然の行動だった。彼は、「ファッショ
排撃」の声をあげる政界とは逆に軍に結合して行った。久原が得意になってぶっていた
「皇道経済」とは神武天皇以来の精神を経済に生かすという神がかったもので、いかに
も軍部に気にいられそうな題目だった。----と書いている。
ここで注目すべきは、「反対派の鈴木総裁の片腕鳩山一郎が樺太工業から五万円もらっ
た一件を議会で暴露させ、鳩山を追い落した。」と言う一面である。1913年に国内
に幾つも手掛けていた小規模の製紙会社が大手三井資本で国内針葉樹が手に入らない為
さらなる事業拡大を目的に樺太への進出を目指し作った製紙会社だった。このころには
王子製紙・富士製紙の大手2社は北海道に進出し、豊富な針葉樹資源を基とする洋紙の
量産体制を敷いていて既にこれまでの製紙会社を圧迫していたのだ。鈴木内閣は犬養毅
の暗殺で後継としての暫定総理だった。その時の鳩山は恐らく既に「友愛会」である、
コミンテルや国際旅団との繋がりがあって樺太のソ連とは繋がりがあったのだろう。更
にこの樺太には因縁があったと言える。

669: 名無しさんAA:17/10/10 10:38
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 311-----------

久春古丹(クシュンコタン)は、江戸時代から明治初期にかけて用いられた樺太の地名
である。アイヌ語のkus-un-kotan(対岸・にある・村)に由来するとされる。九春古丹
とも当て字された。後の大泊町楠渓町。市街地中央にある台地・神楽岡の北に位置する
。江戸時代には松前藩の穴陣屋があった。また、交易の拠点で北前船も寄港し、松前藩
の出先機関として運上屋も置かれていた。樺太アイヌと日本との交流港であり、樺太の
この南の千歳湾の奥では寒い冬でも寄港出来た唯一の港と言える。江戸時代末期では、
ロシアも極東経営に乗り出し度々ロシア人の襲撃に遭っていた。明治時代に入ってから
は江戸時代の幕府がロシア政府と結んだ日露和親条約で日露混住の地とされ、王政復古
の後は箱館裁判所と箱館府の支配を経て、開拓使の管轄となった。開拓使とは政府の出
先機関の官庁を指し、樺太に政庁を作った状態で推移していた。裁判所時代から現地の
行政は幕府直轄の岡本監輔(けんすけ)が執り、明治政府になり明治2年(1869年)か
ら移住した日本人入植者約5百人を指導していた。岡本は、樺太移住者に無税の条件と
当面の食糧供給などの厚遇を用意したが、定住は容易に進まなかった。だがロシア側は
違っていた何千人単位の入植者を入れたのだった。それも不法者が多かった。というの
もウラジオストックなどにトルコやチェコ人を労務者として政治犯を入植させ、この地
にはそこにいて反対するイルーツク人やシベリアアイヌを入植させたからだ。この循環
政策は以外にも好循環でウラジオストックの港湾建設にはうまくいった。ユダヤ人であ
る為の貴重な技術者が大量にいたし又樺太も寒さに耐えた民族の知恵があったからだ。
このシベリアアイヌは租税の意識が無かっただけで事件は起こっていたが比較的平穏で
あった。終戦後も約4年、戦後の樺太に残っていた人の話ではロシア人の入植者は家こ
そ無かったが彼らのの毛皮の防寒衣のその防寒性能は当時の日本人の持っていた毛布の
様な防寒着とは比較にならなかったと言う。この間ロシア側の移住と開発の速度は日本
側をかなり上回り、さらに日本人との紛争も頻発した。これには、現地の岡本が日露和
親条約の効力を否定し、樺太を日本固有の領土とみなして、ロシア側の開発を原則拒否
する態度を取っていたことにも原因があったという。岡本の考えは、日露和親条約は条
約締結権のない徳川家の家臣が結んだもので、天皇親政の時代には改めて国境を決定し
なければならないという考えもあった。この見解は、幕府時代の条約を引き継いだとい
う認識に立つ日本政府と異なってはいる。しかしこの異常な入植者の流入に驚きすぐさ
ま北海道の函館に伝えた。


670: 名無しさんAA:17/10/10 10:40
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 312-----------

 コタンは日本語の当て字は古丹とつけているが意味合いから言えば戸単と書くべきで
あろう。つまりコタンはアイヌ語で集落を意味し彼らの集落は10戸以上は並ばない。
一般に、狩猟や漁撈など採集により生活している民族は、採集に移動の必要があるため
一箇所に定住しない。しかしアイヌの場合、採集民族ではあるが魚への依存が強かった
ため、一箇所に定住し、なおかつ立地もそれによって決められていた。例えば、サケの
産卵地などの河川沿いに一箇所に移住するなどしていた。コタンの集落は間は大体8km
ほどの間隔で存在して、縄張りを持っていた。コタンの構成要員は、1つまたは複数の
エカシ・イモロと呼ばれる父系の集団の成員であり、その長はコタンコロクル(村を持
つ者)と呼ばれていた。所謂長老である。コタンはそれぞれある一定の地域における、
資源をそのコタン内で平等に共有する権利を持っており、他のコタンの者が別のコタン
の領域を侵すと懲罰に処せられたという。コタンは茅葺の家屋(チセ)、小熊を飼うた
めの檻(ヘペレセッ)、食糧を貯蔵する高床式倉庫(プー)に共同の厠(男用のものが
アシンル、女用のものがメノコル)、さらにイナウを捧げる祭壇(ヌサ)で構成されて
いる。また、コタンの附近にはチャシ(砦のようなもの)があることもあった。とされ
る。そしてこの樺太は言葉こそ通じにくいがやはりアイヌ族だったと言える。ただ冬場
幾人かは氷を伝ってこのツングース族とされる狩猟民がやって来ては居る状態だった。
松前藩では、地勢的に米の収穫が望めないため、藩主が家臣に与える俸禄は石高に基づ
く地方知行の土地の収穫ではなく、いわゆる商場(場所)知行と言う各地の交換市場を
もって主従関係を結んでいた。この制度は、蔵入地以外の蝦夷地及び和人地においての
給地に相当するものとして漁場およびアイヌとの交易地域である商場(場所)を設け、
そこでの交易権を知行として家臣に分与する制度として場所請制を行っていた。家臣の
大半の給地は蝦夷地にあり、その給地内においても採金、鷹待、鮭鱒漁、伐木等の権利
は全て藩主にあった。家臣の知行主に認められていたのは、年1回の自腹で船を仕立て
て交易することのみであった。当然そこに資本力を持つ商人などが松前に出店を置いて
本格的に進出してその商品を買い受けた。知行を持つ家臣は、最初は商人から交易用の
物資や生活費を借りて交易に従事したが、上手く行かずその結果得た商品を商人に渡し
償還するようになり江戸末期はそのまま権利を貸した形となった。だが松前藩預かりと
幕府直轄との間で変遷があるままロシアの襲来を防げないでいた。こうしてそのアイヌ
交易の場所を運上屋と呼ばれ蝦夷地の函館奉行預かりで明治に移行していた。


671: 名無しさんAA:17/10/11 23:27
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 313-----------

当時函館府預かりの岡本監輔だが元は幕末維新期の北方政策に関与した探検家であった
。阿波(徳島県)の医薬家に生まれ、文久3(1863)年から慶応1(1865)年に樺太と蝦夷地を
踏査し樺太北部の状況をはじめて明らかにした人物である。明治1(1868)年2月に侍従
に清水谷公考らを説き,蝦夷地経営の急務を説く建議を朝廷に提出させた。4月,箱館の
裁判所の内国事務局権判事となり官吏となって箱館に在勤する。同年閏4月箱館府権の
判事となり樺太全島の事務を委任され事になった。移民を連れクシュンコタンに至る。
明治2年には開拓判官となるが、政府の樺太政策に不満を持ち辞任した。その後東大の
予備門御用掛、一高講師、台湾総督府国語学校教授などを歴任し京都で没した。明治2
年着任早々に彼は報告する。だが明治政府になって、旧幕時代から北方の重要性を説い
ていた佐賀藩主鍋島直正が函館に就任したが直ぐに次官だった東久世通禧が後を引き継
いで、部下の判官とともに明治2年(1869年)9月に北海道に向かった。箱館府が置か
れていた箱館(函館)は旧・蝦夷地の人口・産業の中心であったが、位置が南に偏りす
ぎているため、その後は北海道の中央部に本庁を設けることになっていた。開拓使の発
足当時、中央政府の財政基盤は弱く、北海道の全域を統治する余力はなかった。その為
諸藩や団体・個人に呼びかけて北海道を分領し開拓させた。樺太では、箱館府の時代か
ら岡本監輔が統治の任にあたっていた。報告により兵士と移民を送りこむロシアに対し
、日本が劣勢に立たされていることに強い危機感を抱いた政府は、明治3年(1870年)
に樺太開拓使を設置し、黒田清隆を開拓使次官にして樺太専務を命じた。樺太を視察し
た黒田は「現状では樺太は3年はもたない」という深刻な報告を行ない、対抗する国力
を充実させるために北海道の開拓に力を入れるべきだと論じた。「北海道開拓振興会」
は樺太を入れ「北振会」としてその寄付資金から油井堀に鉄道にと資材を送った。その
中には新政府の出来たばかりの商社達がいた。玄洋社の杉山茂丸、頭山満、などが山縣
有朋の紹介で動いてくれたからだった。そこに後で福岡県知事になった安場保和がいた



672: 名無しさんAA:17/10/11 23:27
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 314-----------

 彼の建議に従い、明治4年(1871年)8月に10年間一千万円をもって総額とすると
いう大規模予算計画、いわゆる開拓使十年計画が決定された。開拓使は潤沢な予算を用
いて様々な開拓事業を推進したが、広大な範囲でなおも全てを完遂するには不足であり
、測量・道路などの基礎事業を早々に切り上げ、産業育成に重点をおいた。黒田は、北
海道の開拓に難渋する現状では自然条件がいっそう不利な樺太まで手が回らないという
考えを抱いていた。この方針に反対した岡本の辞任もあって、樺太の開拓は進展しなか
った。ところがこの予算によって新たな樺太調査団をして測量や現地調査は細々と行わ
れてはいた。この時石油情報が函館にもたらされてた。黒田清隆が薩摩閥で山縣有朋と
の繋がりからホーレス・ケプロン位しか呼べなかった。ところが同郷の岩崎弥太郎は、
この時三菱の海運事業を興し北海産の海産物にも目をつけていた。三菱の起源は187
0年(明治3年)土佐藩出身の岩崎彌太郎が政府の海援隊の跡を継ぎ海運事業を興した
ことに始まります。以降、四代の岩崎家の社長が三菱グループの基礎を築いた。北海道
開発の呼びかけに「北海道開拓振興会」が発足はしていた。岩崎彌太郎は藩の出張商社
開成館長崎出張所(長崎商会)の主任として、金策に奔走ししながら腕を振るった。蒸
気船や武器を買いまくり、樟脳など土佐の物産を売った。だが神奈川(現在の横浜港)
や兵庫(現在の神戸港)が開港したことにより長崎は独占的な対外窓口ではなくなった
。明治では彌太郎は政府に士官も出来ず藩営の長崎商会や海援隊の残務整理の毎日を過
ごしていた。明治政府は藩営事業を禁止しようとしていた。足を中央に抑えられては、
これから飛躍しようとしている土佐人の立場は脆弱なものになる。藩の事業が禁止され
る前に私商社を立ち上げ海運事業を引き継がせてしまおう。そうすれば少なくとも高知
や神戸航路は引き続き確保出来る。と藩の多くは考えていた。こうして九十九(つくも
)商会が設立された。九十九は土佐湾の別名であった。海援隊で操船経験のある土居市
太郎と、長崎商会で貿易実務を経験している中川亀之助の二人が代表になった。藩の立
場から事業を監督するのが彌太郎だった。藩船3隻も九十九商会に払い下げられた。



673: 名無しさんAA:17/10/11 23:35
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 315-----------

主たる事業は汽船廻漕(かいそう業であり海運だった。高知神戸間に加え、東京大阪間
の貨客輸送も担うかたわらに 外国商館や大阪商人との物産の売買、それに紀州藩から
、取得した炭坑の経営も行った。石川七財(いしかわしちざい)が内偵のために派遣さ
れてきたが彌太郎は即座にこれを見抜くと、石川に帳簿など一切を見せ、「これからの
日本は海運と貿易だ。これを強化せずして日本の将来はない。お前もわしと一緒にやら
んか。」と持ち掛けた。石川は熱く語る彌太郎の世界観に共鳴し、九十九商会に入るこ
とになった。石川は大局を誤らない豪胆な男で、のちに、数字などに強い 川田小一郎
(かわだこいちろう)と共に、彌太郎の事業を支える二本柱となった。明治4(1871)
年、廃藩置県で岩崎彌太郎は土佐藩少参事の地位を失った。この時彌太郎は後藤象二郎
や板垣退助に説得されて、九十九(つくも)商会の経営を引き受けた。実業家岩崎彌太
郎の誕生である。仕官の道はあきらめ、新しい時代の生き方を決意する。三菱の事業の
源流は九十九商会にある。したがって、三菱の創業の年は九十九商会発足の明治3年で
ある。しかし、彌太郎はその時は藩の責任者として監督する立場にあった。今度は実業
家として自ら経営に参画する。こうして九十九商会は明治5年に三川(みつかわ)商会
と社名変更した。岩崎とは名乗らず、あえて経営幹部である川田、石川、中川亀之助の
川の字にちなんで命名したという。これが商社三菱の前身であった。この時岩崎は鉱山
の方が上手く行かない事に腐心していた。新たな人材を米相場の相場師に任せる事にし
ている。無数あったとされる鉱山はこの4つのグループに分かれた。一つは同じ薩摩閥
からの引き抜いた五代友厚の起用であった。五代友厚は、薩摩藩士からの実業家であっ
た。鹿児島城下長田町城ヶ谷に生まれ大阪経済界の重鎮の一人となった人だ。当時、「
まさに瓦解に及ばんとする萌し」の大阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用
秩序の再構築を図った。五代は幕末ころより富国策として鉱山業を掲げ、明治政府御用
の銀鉱脈発見に先駆け、長く放置された鉱山から再度銀、銅などを採り出す製錬技術を
海外から導入して再開発していた。1803(享和3)年幕府は兵庫県朝来市の神子畑鉱
山などの再開発を進めて新鉱脈を掘り当てて成功していた。こうして初めて奈良県吉野
郡天川郷に天和鉱山や、幕末から明治初期にかけ五代が姫路の神子畑に採鉱跡があるの
を知り、部下の加藤正矩に探鉱を命じたと記されている。又神子畑の主要鉱脈を擁する
加盛山の名は加藤正矩にちなんだとされる。この天和鉱山の再開発を要請したのである


674: 名無しさんAA:17/10/11 23:43
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 316-----------

 もともと五代友厚は地銀業者だった。三井・三菱が両替商として 紙幣発行に伴って
金貨銀貨を回収し 精錬してより以上の価値として海外の商人に売りつけていたのを知
っていた。開国派だった彼は長崎海軍伝習所へ藩伝習生として派遣され、オランダ士官
から航海術を学び薩摩藩遣英使節団にも同行している。そこで米相場と共にすぐさまに
貨幣回収業に転じていた。こうして上手く這い上がったのである。大阪の造幣局も彼の
誘致で大阪に出来たと言う。相場師の世界は異様だ。浜野茂は根っからの相場師だった
が彼も兵庫出身だった。「白銅将軍」の異名を取ったが。相場のやり方が、たとい5銭
でも利が乗れば、手仕舞う短期勝負を得意とした相場師だったと言われる。郷土誌では
「浜野は単に自利一偏の相場師に非ず。時に国家社会のために己を忘れ戦い、いわゆる
国家的相場師をもって任ずるところありき」と書いている。日清戦争で米価が暴騰する
と、時の農商務相、後藤象二郎から土佐なまりで、「浜野君米価を抑え込んでくれんか
よ。新宿将軍の誉れ高い浜野君なら朝飯前のことじゃろう」と肩をたたかれた時、浜野
の義狭心に火がついてそれを行った。「すわっ、新宿将軍が売りに回ったぞ」との噂が
立つと相場の流れは一変し、一石当たり8円44銭という、後藤と浜野の間で暗黙のう
ちに交わされていた目標値以上に騰貴することはなかったとされる逸話も残る。いとも
簡単に米価抑圧に成功したかのように映るが、実際は剛腕で鳴る杉島伝兵衛や松沢与七
など買い方に陣取る猛者達を相手に悪戦苦闘して、買い付けで北陸で集めた米を決済日
までに東京まで運ばなければならなかったが 戦争の最中で船が無い。門司港で石炭を
満載して戦場に向け出港間際の土佐丸を富山港に回航させ、石炭を米に積み替え東京に
ぶつける水際作戦で成功したと言う。後に「あの時はめちゃめちゃ積み込ませた」と自
身は回想で語っている。過剰積載でも納会ぎりぎりに間に合ったらしい。その10年後
の日露戦争後では不況が深刻化し、米が暴落、農家は窮状を呈した時も、桂太郎内閣が
農村の救済を唱えると、浜野は「今日自分があるのは米相場のおかげ、今の農村の窮乏
を放置しできるものか。」とまたまた、もろ肌脱いだ。浜野は常平倉(米価を調整する
倉庫)の建築を提唱するが役人たちは受け入れない。すると、「役人ども目に見せてく
れん」と買いまくり米価は奔騰し、農民たちは「神様、仏様、浜野様。」と崇めたとさ
れる。彼の信念は「国あって臣あり、臣ありて民あり。」であった。


675: 名無しさんAA:17/10/12 00:00
相場師には籾山吉次郎なるものがいた。かれは船乗りだったが磯貝和助らなど船乗りか
ら相場師になった面々は多い。昔の廻船問屋で米を運んだが大型汽船に取って変わられ
ての転業だったのかもしれない。明治39年(1906)松村辰次郎と松谷元三郎が連合して
米相場の売り崩しを図ったとき、松沢は敢然と買い向かい、四十万石の渡し米のうちの
二十万石を受け切って世人を驚かせた。これが相場師松沢与七の棹尾を飾る一戦となる
が、天明以来といわれる大豪雨が襲来して松沢は巨利を掴んだ。こうして松沢与七は、
米相場で楼上将軍と呼ばれた相場師となった。彼の相場運用は、売買方針を決めたなら
そう簡単に変更しないことで有名だった。一度買いと決めれば、「思惑三年」として買
い方に陣取って攻めていくというスタイルで大勝利を収めていた人物だった。「売りか
、買いか、一方にこり固まることも必要である。雷火主義はおれの本領ではない。」は
彼の言葉であり、その考え方がよくでている買い方が多かった。この言葉のなかで雷火
(いなずま)主義とは短期で売買を繰り返すやり方をいうが、彼の運用スタイルは、そ
の流れには乗らずどっしりと構えて 長く待ち大きく利益を狙うものだった。この松沢
与七の投資信念は、人々に惚れられたと言われる。名古屋の相場で松沢与七の買いに向
かって売ったことがある。籾山は当時、大隈重信放漫財政のあとを受けた松方正義蔵相
によるデフレだった。緊縮財政下で諸物価は低落傾向にあったから、利乗せ、利乗せで
売りまくり当時10万円の大儲けした。名将松沢与七に勝利した勢いで東京に出てきた
。この時「一緒に大いに仕事をしようとして出てきておって、小さな2.3の仲買店か
ら注文を出しながら、実は大有力者の1人であった。」と周りから嫌われ者になった。
彼にそうした損を被った松沢与七も紀州藩鉱山を引き取った一人だった。「少年時代か
ら勝負事を好み塩町の米相場に出入りし、相場を研究した。30歳頃、米相場で身を立
てようと江戸に出た。と言われる松沢与七が 三菱が託されて鉱山主になった事で松沢
鉱山と呼ばれたこの炭鉱は日本で一番長く経営された鉱山だった。「思惑三年」と称し
て、いったん決めた方針は容易に変えず「絶対的自信の上に立って堂々と押し切り、動
かざること山の如し。」その風格をほれ込んだのは三菱の重鎮豊川良平であった。何く
れとなく支援したが、その進言によって時の首相・桂太郎公等の知遇も得て、公からよ
く「米のことは松沢に聞くんだね」と言われていた。」豊川良平はわざわざ本名はを改
名していた。本名は小野 春彌(おの はるや)だが、豊臣の豊、徳川の川、張良の良、
陳平の平をそれぞれ一字ずつ取って改名していると言う。荘田平五郎や近藤廉平などの
三菱財閥に多くの人材を紹介し、このいとこの岩崎弥太郎を支えた。豊川良平は三菱商
業学校が設立されると会計監督に就き、事実上の校主を務めた。1881年(明治14年)に
は同校が廃されて明治義塾が設立され、その塾長となった。

676: 名無しさんAA:17/10/12 00:02
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 318-----------

玄洋社は元々福岡黒田藩の俸禄が無くなって作った喰い詰め浪人の共済会だった。対し
て北振会も又細川熊本藩の俸禄の無い武家の共済会だった。だがその後北振会は 先の
北海道の蝦夷地開拓団や商工業者に変わりパン屋や商会として変化した。だが 一方の
玄洋社は新聞社や鉄道などで政界に深く入り込んで行く危険な政治結社化していた。そ
の理由は博多港がアジアの玄関口で様々な大陸の革命家がやって来たのと熊本より大き
な金が動いた九州の中心的土地柄にもあった。この危険な政治結社玄洋社の社則の条項
は「皇室を敬戴すべし」、「本国を愛重すべし」、「人民の権利を固守すべし」という
ものであった。当時、薩長藩閥政府による有司専制を打破するために、議会の開設を要
求した有力な政治勢力の一つは、今日「右翼」と称される玄洋社などの民間結社であっ
た。しかし、これらの勢力が議会開設後に一転して政府と一体になって選挙干渉に転じ
た。その理由は、当時の議会が「民力休養」を掲げ、軍事予算の削減を要求しながら清
国との戦争を躊躇していた為であった。玄洋社は、テロも含めた激しい選挙干渉を実行
している。此処には征韓論を唱える西南戦争の生き残りもいた。兎も角政治的に過激だ
ったと言える。玄洋社が関わった有名な事件としては、1889年(明治22年)の大隈
重信爆殺未遂事件がある。当時外務大臣だった大隈は、日本が幕末に結んだ不平等条約
の改正をはかったが、その改正案は関係各国にかなり妥協的であり、国民的反対運動が
たちまち全国を覆った。しかし、剛毅な大隈は決して自案を曲げなかったため、玄洋社
社員の来島恒喜が大隈に爆弾を投擲し、自身もその場で咽喉を斬って自決したのである
。来島の投げた爆弾は過激自由民権運動家の大井憲太郎から提供されたものと言われて
いる。事件で大隈は右足を失いながらも、尚自説を貫く決意であったが、政府は方針を
急転し、大隈は辞職したため、この妥協的改正案は見送られることとなった。玄洋社の
社員らが掲げた有名なスローガンには「大アジア主義」や「アジア自立主義」であった。
宮崎滔天が孫文送った言葉である。彼らは、朝鮮の親日開花運動家金玉均や朴泳孝、イ
ンドの独立運動家ラース・ビハーリー・ボースらを庇護し、アメリカと独立戦争を戦う
フィリピンのアギナルドへは武器と義兵を送ろうとした。社長の来島が死亡して後更に
大きくなって1901年(明治34年)に、内田良平らが参加し黒龍会が海外工作を担う
事で設立され、より多彩な活動が展開された。孫文らの辛亥革命を支援するために、多
くの浪人たちが清朝政府軍やその後の軍閥政府軍と戦っている。


677: 名無しさんAA:17/10/12 00:53
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 319-----------

こうして 玄洋社は長州閥と薩摩閥と言う海軍と陸軍の中で宮家閥と言うべき諜報軍の
位置に近づいてしまったのである。日露戦争中全般にわたり、ロシア国内の政情不安を
画策してロシアの継戦を困難にし、日本の勝利に大きく貢献した明石元二郎も玄洋社の
社中(社員)であった。陸軍参謀本部参謀次長長岡外史は、「明石の活躍は陸軍10個師
団に相当する」と何故か高く評した。また、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、「明石元
二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている。」といって称えた。が
実は華々しい成果は揚げたが それはドイツユダヤ資本が米国に移籍し始めた為だった
。アメリカ連邦政府は1787年、連合規約に代えてさらに中央集権的な合衆国憲法が
激論の末に制定され、翌年発効され、同年に初代大統領としてこれまでの大陸軍司令官
であったジョージ・ワシントンが就任した。この時アメリカが、自由と民主主義を掲げ
げて、当時最新の民主主義国家であった。が、アフリカから連れてこられた奴隷や先住
民の権利はその中には無かった。結果、奴隷制度と人種差別が独立後にもアメリカ国内
に長く残った。もともと北米大陸がヨーロッパ諸国の植民地支配を受けていた。イギリ
スと13の植民地との間で経済や律法や租税をめぐり、対立が生じたまま大きくなって
いた。1775年に独立戦争が勃発すると1776年に既に独立宣言を発表はしていた
。しかしそれはイギリス優位を崩すためにフランスと同盟を締結する為だった。13の
植民地が勝利してやっと1783年にパリ条約が結ばれ「アメリカ合衆国」として正式
に独立し、13州に加えてミシシッピ川以東と五大湖以南をイギリスから割譲された。
この後も北西インディアン戦争勝利により、1795年に北西部を手に入れ、未開の地
西部の勢力拡大を目指し、1803年のフランス領ルイジアナ買収を行なった。この後
もイギリスが西部開拓を阻んだ為、1812年に米英戦争が勃発した。1814年に、
ガン条約を締結してやっと事態は収拾した。そこにはナポレオン戦争で疲弊した英国の
妥協があった。可愛そうなのはそこにいた原住民日本語的に土着民である。インディオ
達は命を張って守った土地も右はフランス左はイギリスと言った形で南へ南へと移住せ
ざるを得なかった。幾ら話し合いをして時の大将と和平を保っても無駄だった。つまり
米英戦争に双方に貸し付けていた資産がロシアに今度は向けられたがユダヤは革命軍を
応援しだしたのである。更にこの時スペインに賠償金を必要としたアメリカには投資が
出来なかったのだ。そこでドル紙幣の発行券を掴んでいた。更に賠償金で得たこのフィ
リピン独立には玄洋社も関わっていて 多くの素浪人が渡航の際の沈没で死んだと言うのである。

678: 名無しさんAA:17/10/12 01:07
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 320-----------

アメリカインデアン達は凡そ500万人が死んだと言われている。この悲惨さは異常だ
国が変われば襲われ、司令官が変われば又襲われ、そうした条約からは蚊帳の外だった
。南も又スペインの植民地だった。こうして入植者達も、先住民との戦争を続けながら
も南下が止まらなかった。1819年のスペイン領フロリダ買収、1830年のインディアン移
住法によりインディアンを西部に移住させると、1836年のメキシコ領テキサスでのテキ
サス共和国樹立と1845年のアメリカへの併合、1846年のオレゴン条約、および米墨戦争
によるメキシコ割譲により、領土は西海岸にまで達した。現在のアメリカ本土と呼ばれ
る北米大陸エリアを確立したのである。この頃から遠洋捕鯨が盛んになり、太平洋にも
進出を始めた。1850年代、鎖国状態だった日本へ食料や燃料調達のために開国させるこ
とを目的に米軍艦を派遣。二つの不平等条約を締結し、開国させた。以後、アジア外交
にも力を入れるようになって ハワイやフィリピンの占領を始めた。こうした流れを見
ても、当時如何に親日派や東洋通なる人物がいたとしても 米国そのものの動きは結局
は植民地拡大は国としての欲望だけで動き、それは止まる事の無い流れだったと言える
。小村寿太郎の日露の条約失敗も、その後ハリマンの満州鉄道の経営に参加していたと
しても より巧妙に手早く植民地になっただけで中国経営だけでは止まらず、植民地の
欲望は止まっていた筈はない。そうしたIF論は、頭の弱い、人の良い日本人の妄想論
でしかない。下手すればより早く大和民族に虐殺や抹消が公的宣言されて、もっと悲痛
な世界になり虐げられたであろう可能性も少なくない。現実に焼夷弾空襲はその為に行
われ原爆実験もドイツ崩壊後も手放す事無く、国際条約に反しての民間攻撃から大量虐
殺の嵐で日本には対応していた。そうした中での敗戦だったのである。比国では白旗の
人も撃たれ、南方では怪我人は捨てられた。都市部空襲や原爆は、それは米国国民全員
が賛成ではなかったにせよ、少なくとも戦争の開戦もこの原爆投下も 時の指導者では
結果的に行われた現実だったのである。アジア人民が今の様な平等とまでは言えなくと
も 少なくとも対等に「我らは戦争には敗けたが奴隷となった訳ではない。」とまで言
える白洲次郎を産むまでになったのはこの戦争のおかげだろう。これが唯一日本が第二
次世界大戦をやった大義と、その成果であろう。

679: 名無しさんAA:17/10/12 01:08

それでも戦後シベリア抑留者や収容所
においては、まだまだ日本人はまさしく人種偏見の中の奴隷のままであった姿がある。
1970年代まで公然と例えばベトナム戦争ですら 原住民を白人は人間として扱われ
ては居なかった。そこらの森に棲む獣と同じと思ってた。だから枯葉剤が撒かれたし、
火炎放射で勝手に家の中に人がいても燃やされたのだった。ポルポトはその真似をした
。征服者はそうあるべきと勉強したのだろう。ロバートキャパはそうした人間を警告し
た意味で大きな役割を果たしたのだったのである。日本人よ目を覚ませ、昔そう遠くな
い昔 私たちは奴隷になろうとしたのである。人類は今だに格差を求めているのである
。神の教えに刃向う様に。

680: 名無しさんAA:17/10/12 01:08
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 321-----------

林 有造(はやし ゆうぞう)は先の九十九商会を設立を推した一人だ。元は土佐の武士
で自由民権運動家から政治家になり逓信大臣、農商務大臣などを歴任した。戊辰戦争で
板垣退助の配下として勤め、越後国に転戦した。明治維新後は、初代の高知県令(参事
)をつとめるが板垣と共に辞任した。その後西南戦争に呼応しようとしたが捕縛された
。大正3年(1914年)、日本の飛行機製作のパイオニアである同郷の伊賀氏広の世話の
もと、予土水産株式会社を設立、真珠養殖業を起こす。また、林新田、片島港を開発す
るなど故郷の発展に尽力した。1911年(明治44年)同郷の山内容堂の弟の山内豊盈
の子伊賀氏広は飛行機同年国産第1号の飛行機「伊賀式舞鶴号」を完成させたが、3気
筒発動機の1気筒が動かず、馬力不足で滑走のみとなり、飛行には至らなかったという
。この伊賀氏は広日本ヂイゼル株式会社の設立に参加し、設立後は営業部長を務めたが
これが日産ディーゼルの前身となった。この時彼はドイツのクルップュンカースと提携
して、我が国の自動車開発につとめ大いに敏腕を振ったと言う。初代アルフレート・ク
ループは水車工房に籠って、鋳鋼の製造法の解明を試みた事が最初だと言う。ところが
彼の地道な努力で切り開いた鋳鋼の技術は優れていて機関車の車輪や砲台では後に世界
一とされアルフレートのクルップ社はナポレオン3世が主催するパリ万国博覧会には化
け物のような大きさの巨砲を出品し人々を驚かせた。こうしてそれまでイギリスが独占
していた鋳鋼に至る技術は世界で必要とされフランスではかなりの需要があった。オラ
ンダに留学中の榎本武揚は 初代アルフレート・クループを訪れ、当時建造中の軍艦開
陽丸に搭載する大砲を注文し、最終的に18門が搭載されたと言う。其の後は中国にも
クルップの火砲は供与され、中国に工場を置くまでになった。ギネスブックにも載る程
の胡里山砲台(中国語版)は日中戦争の際に日本の軍艦を砲撃したと伝えられてる。こ
の鉄がどうしてもこの伊賀氏広は必要としていたのだ。このクルップ社はその後もT型
戦車タイガーの初期版を政策するまでに至っていた。このエンジンが日本に大きく寄与
した事は造船に生かされた事で判明する。(但し小型の潜水艦で失敗している。)当時
のクルップ社はシーメンスと双璧を成すと言われるほどのドイツの国策を握る会社だっ
た。又 南京カルロヴィッツ商会がクルップ社などドイツ有力企業のクルップ社の正式
な代理店であり、南京国民政府を相手に様々な物資を売り込んで、ドイツと中国を結ん
でいたのだった。


681: 名無しさんAA:17/10/12 01:11
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 322-----------

 中国の戦艦定遠は1880年の李鴻章の提案により、1881年にドイツのフルカン造船所に
発注・起工された船だ。アロー号事件以来中国は列強先進国に歯がたたなかった。特に
ベトナム沖での清仏戦争は今だ続いていた。中立期間を清朝に作らせ1885年10月に天津
に到着し、清国海軍に就役した。このヴルカン造船所としてシュテッティンに1851年に
設立された。1945年に廃止されるまでドイツの主要な造船所として客船・戦艦・駆逐艦
など大型船の開発に大きな役割を果たした。ドイツの造船会社として最大でドイツ海軍
向けのUボートと軍艦を建造した事で有名な場所だ、大戦後には会社・造船所共に解体
廃止がポーランド政府によってなされた。この出資企業がクルップ社だった。砲身を主
に作って軍に納めプロイセン国王の依頼で一回パリ万博出展では金賞を貰い、大砲献上
し大いにドイツ軍部に納品した。先王のこうしたことからその後もクルップへ三百門も
の大砲を発注もあった。又フランスのナポレオンに売った車輪は継ぎ目がないとして、
多くの馬車や兵車に利用された。そうした意味ではイギリスのアームストロング砲はこ
のクルップ式火砲により過去の物として劣勢にあった。その為英国の商社はシーメンス
との取引を重視し日本ではシーメンス清国にクルップの流れがあった。シーメンス社は
発電・通信設備を中心とした製品供給が続き、八幡製鐵所、小野田セメント、伊勢電気
鉄道、古河家日光発電所、曽木電気(のちの日本窒素肥料)等へ発電設備を供給した。
また、逓信省へ、電話関係機器の多量かつ連続的な供給を行なった。第一次世界大戦中
は日独が交戦状態に入ったため営業を停止したが、1920年頃から営業を再開した。1923
年には古河電気工業と合弁して富士電機製造株式会社設立、1925年電話部門を富士電機
に譲渡と続いた。又、日本全国の都市水道局へのシーメンス量水器の納入、逓信省への
東京大阪間電話ケーブルに依る高周波多重式搬送電話装置の供給などが続いた。関東大
震災後には、シーメンスの電話交換機が各都市の官庁、ビル・商社に多数設置された。
1929年には、大連逓信局に軽量物搬送装置を供給。以降、1936年に満州国電信電話会社
がシーメンス式ベルトコンベアを採用するなど、日本、台湾、満洲の電信局・郵便局の
ほとんどがこの様式を採用することとなった。ジョン・ハインリヒ・デトレフ・ラーベ
は、シーメンス社の中国駐在員(のち中国支社総責任者)として約30年に渡って中国
に滞在したドイツ人商社マンだった。

682: 名無しさんAA:17/10/12 01:11
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 324-----------

 中共軍の「戦士政治課本」に、事件は「劉少奇の指揮を受けた一隊が決死的に中国共
産党中央の指令に基づいて実行した」と記入してあるのを自身の著作(新資料・盧溝橋
事件)に記している。これが「中国共産党陰謀説」の有力な根拠としてあげられている
。実は本当の話であろう理由が幾つかある。それがこの中独合作にある。もともとこの
中独合作は明治以前からの話だから相当古い。その後その味をしめて中共合作を作る。
更には中米・中英の合作まで至るのである。これを仕掛けたのが劉少奇の持つ一団だっ
た。1937年の盧溝橋事件とされるがこれは直ぐに7月には停戦協定が締結された。
ところがそれから一連のテロが次々に起こっていた。直ぐに近衛文麿は増派声明を出し
たが。その2日後は、北京の大紅門で日本軍のトラックが中国軍第38師に爆破され日本
兵4名が死亡する事件が起きた。又その数日後、日本軍騎兵1名が惨殺される。その後
もたて続けに中国側の事件が起きた。その為7月日本軍は北京周辺で占領行動を開始。
翌日、親日政権(冀東防共自治政府)の一部保安隊が寝返り、通州事件を起こす。8月は
日本軍は北部で勢力拡大するチャハル作戦を認可。中国軍は上海租界駐留の日本軍を攻
撃を開始した。つまりこれまで日本軍の意志と同じだった寄せ集めの国民党軍が寝返り
に打って出て日本軍を攻撃したり惨殺したりしだしたのである。大紅門事件は、193
7年中華民国北平南苑区(現豊台区)の大紅門で中国軍第38師に日本兵が襲撃された
事件だった。これらは全てパルチザンやテロとして準備され計画された事件であった。
この後日本が11月に出したトラウトマン工作は「華北の行政権は南京政府に委ねる」
が記載されている非併合・非賠償の条件であった。これは船津工作を踏襲した物であり
、他の各将領から「これだけの条件でなぜ戦争するのか!?」と言われるほどの条件だ
った。「戦争が継続すれば条件は加重される」と警告していたにも関わらず、蒋介石は
「事変前の状態に復帰するのでない限りどんな要求も受諾できない」と和平条件を一旦
拒絶した。ブリュッセル会議の対日制裁に期待して和平条件を1ヶ月引き伸ばし、19
37年12月に南京陥落して日本政府はトラウトマン工作を賠償を含む厳しい条件に、
近衛文麿は「国民政府を対手とせず」と述べ、日本側はトラウトマン工作を打ち切った
のである。この状況はなぜ出来たのか。これがドイツ軍事顧問の戦略である、共産党の
行動だったのだ。虐殺は当然あった。しかしそれは一般人ではなく 中国国民党と日本
の朝鮮混成部隊更に共産党ゲリラ隊の中で起こった事で 一般市民は逃げ出していた中
の出来事だった。


683: 名無しさんAA:17/10/12 01:12
 つまり1937年、日中戦争が勃発し、日本軍による南京攻略戦の際に、他の十数人
の外国人と共同で組織した南京安全区国際委員会の委員長となって、中国民間人の保護
に努めた。そのほか自分の所有する土地にハーケンクロイツ旗を掲げ、602人といわ
れる避難してきた民間人を戦禍から守ろうとした。南京陥落後は、約20万人ともされ
る中国人避難民が殺到した安全区(南京城内の北西部に設置された、外国人の施設や邸
宅が多くある地区)の代表として、非人道的行為の防止に尽力した。と言う記述そのも
のがまず間違っている。602人と言われる避難してきた者と言うのは当然逃げなかっ
たゲリラ兵士であり自分達が使っていた諜報員だった筈だ。フレデリック・ヴィンセン
ト・ウィリアムズが著した『中国の戦争宣伝の内幕』という本ではこう書かれている。
「蒋介石はドイツ軍事顧問たちから干渉を引き起こすよう耳にささやかれて、上海に着
目した。そこには上海租界があった。外国人がいて、外国の銀行があって、会社があっ
て、外国人住宅があった。ここで事を起こせばもっと簡単ではないのか。そう思った。
町は日本人の避難者でごった返していた。 日本の水兵と陸戦隊は彼ら達を乗船させ、
国外に出そうとして忙しかった。上海での戦いは結果として日本人を外国人区域に閉じ
込め、そして外国人が殺害されることは、外国の干渉と日本に対抗する強力な同盟形成
を意味することになる。(『中国の戦争宣伝の内幕』p.41)ドイツ軍事顧問たちは、この
蒋介石の案に大賛成し、戦いを決して長引かせず、「一撃して去る」ことをアドバイス
したという。蒋介石は上海の混雑した地域に、十万を超える部下を集めて軍服を着せず
に苦力のような格好で潜り込ませた。当時上海にいた日本の 水兵と陸戦隊はわずかに
二千名であったという。圧倒的な数的有利な状態で、蒋介石軍は攻撃を開始する。攻撃
を仕掛けたのは蒋介石軍なのだ。戦いは始まった。しかし、最初の銃撃が始まる前に、
モスクワとヨーロッパのプロパガンダ機関、中国の報道機関が動き報道始めていた。世
界では戦争前に、統一されて目覚めた中国が侵略者に直面しているのだと報道されてい
たのである。日本と武力衝突があったのは、国民党(蒋介石)ですが、両国とも正式な
宣戦布告をしておらず、正確には戦争ではなく「支那(シナ)事変」と呼称している。
蒋介石には、ドイツの軍事顧問団は、明確にアドバイスしている。「日本を相手に、君
達国民党(蒋介石)だけの単独では勝てない。ゆえに、外国に干渉させるのが良い、干
渉させる国は「アメリカ」が最適である。そして、「日本が世界の侵略を企んでいる」
とデマ(情報)を流せば、アメリカも「世界から民主主義を救え」との理由で動き出す
であろう。」これがアドバイスだったのだ。中華民国に駐在していたドイツ軍事顧問団
団長ファルケンハウゼンの指導の下上海空爆も又日本軍がやったと偽装されての空爆が
次々と行われた事が証明されている。

684: 名無しさんAA:17/10/12 01:14
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 326-----------

 中華民国に駐在していたドイツ軍事顧問団団長ファルケンハウゼンは、「中国の敵は
日本が第一、共産党を第二」と考え、1935年10月、漢口と上海にある租界の日本
軍に対する奇襲を提案し、1936年4月、「今こそ対日戦に踏み切るべきだ」と蒋介
石に進言し、北海事件後の9月には河北の日本軍を攻撃するよう進言した。つまりドイ
ツは、何が何でも日本を叩け防共政策も大事だが共産党軍より日本軍だ。と言ったのだ
った。正に「黄禍論」の世界であった。なぜこうもドイツは中国に日本を戦わせたかっ
たか。それは中国領土が欲しかったのだ。ドイツにとって一番の敵は大国ロシアである
。世界戦略にはどう考えてもロシアの前に立つしかない。と考えていた。友好とするも
敵対するも一番陸地て繋がった隣国だった。一つは中国人も日本人もドイツ人からは、
同じ言葉をしゃべる黄色い猿でしかなかった。共に同士討ちして滅びても良い存在だっ
た。これは西洋一般の思想である。二つ目はそれでも日本は国家としても人としても同
等の地位を得ていた。薩英戦争以来英国は只ならぬ国として見ていたし ロシアは日露
戦争以来の、いや大津事件以来かも知れないが、列強文明国に劣らぬ強者としてみてい
た。又米国であってもアジア戦略の唯一の意志の通じるお客様に見ていたのである。こ
の事で日本のみ人種差別の中「優良有色人種」なり「特権許可国」として西洋に唯一の
国際会議出席者と認められていた時代だった。それは租界地でも同じだった。優遇され
た西洋人と同じ様に振る舞う日本人に、この中国人達は不満がありドイツ人も不満があ
ったのである。そして朝鮮人達は喜んで暴れまくったのである。三つ目は先の地政学的
意味である。つまりドイツヒットラーもヴィルヘルム2世或いは父プロイセン王子とし
てのフリードリヒ3世すらも ロシア叩きを、フランスの様に双方二面から波状攻撃を
画策していた。それはピカソのゲルマ国際旅団でスペイン内戦でも国際旅団が働いた事
でそれは垣間見える。つまり西洋式の攻撃は常に二方向の作戦を立てそれが殲滅作戦の
勝利の裏付けであり、その為に極東はドイツに必要だったのだ。アメリカが太平洋戦争
終結に向かった時も 或いはノルマンディ作戦で兵員や兵器を大量投入したのもその中
にあった。ヤルタ会談でも不可侵条約を破棄するお膳立てをして アメリカは会談に及
んだ。つまり 日本の開戦前から開戦時の戦略を立てていたのである。それは南北戦争
からも全く同じ戦略思考である。そしてその数は弐千人も満たないとされた。それが今
や南京大虐殺は10万とか15万にんとかの数字である。呆れて物が言えない位だ。

685: 名無しさんAA:17/10/12 21:33
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 326-----------

 中華民国に駐在していたドイツ軍事顧問団団長ファルケンハウゼンは、「中国の敵は
日本が第一、共産党を第二」と考え、1935年10月、漢口と上海にある租界の日本
軍に対する奇襲を提案し、1936年4月、「今こそ対日戦に踏み切るべきだ」と蒋介
石に進言し、北海事件後の9月には河北の日本軍を攻撃するよう進言した。つまりドイ
ツは、何が何でも日本を叩け防共政策も大事だが共産党軍より日本軍だ。と言ったのだ
った。正に「黄禍論」の世界であった。なぜこうもドイツは中国に日本を戦わせたかっ
たか。それは中国領土が欲しかったのだ。ドイツにとって一番の敵は大国ロシアである
。世界戦略にはどう考えてもロシアの前に立つしかない。と考えていた。友好とするも
敵対するも一番陸地て繋がった隣国だった。一つは中国人も日本人もドイツ人からは、
同じ言葉をしゃべる黄色い猿でしかなかった。共に同士討ちして滅びても良い存在だっ
た。これは西洋一般の思想である。二つ目はそれでも日本は国家としても人としても同
等の地位を得ていた。薩英戦争以来英国は只ならぬ国として見ていたし ロシアは日露
戦争以来の、いや大津事件以来かも知れないが、列強文明国に劣らぬ強者としてみてい
た。又米国であってもアジア戦略の唯一の意志の通じるお客様に見ていたのである。こ
の事で日本のみ人種差別の中「優良有色人種」なり「特権許可国」として西洋に唯一の
国際会議出席者と認められていた時代だった。それは租界地でも同じだった。優遇され
た西洋人と同じ様に振る舞う日本人に、この中国人達は不満がありドイツ人も不満があ
ったのである。そして朝鮮人達は喜んで暴れまくったのである。三つ目は先の地政学的
意味である。つまりドイツヒットラーもヴィルヘルム2世或いは父プロイセン王子とし
てのフリードリヒ3世すらも ロシア叩きを、フランスの様に双方二面から波状攻撃を
画策していた。それはピカソのゲルニカの絵になったスペイン内戦に国際旅団が働いた
事でも垣間見えるのだ。西洋式の攻撃は常に二面方向の作戦を立ててそれが殲滅作戦の
勝利の裏付けであり、その為に極東はドイツに必要だったのだ。アメリカが太平洋戦争
終結に向かった時も 或いはノルマンディ作戦で兵員や兵器を大量投入したのもその中
にあった。ヤルタ会談でも不可侵条約を破棄するお膳立てをして アメリカは会談に及
んだ。つまり 日本の開戦前から開戦時の戦略を立てていたのである。それは南北戦争
からも全く同じ戦略思考である。そしてその数は弐千人も満たないとされた。それが今
や南京大虐殺は10万とか15万にんとかの数字である。呆れて物が言えない位だが、
日本人は相撲の様に対峙して勝ち進む 正義の武士スタイルしか望まない民族だった。
それは「卑怯者」と言われる事が 大嫌いな恥の文化圏を作っていたからだ。

686: 名無しさんAA:17/10/12 21:47
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 327-----------

 この様に日中関係は最悪の状態になる前のこの時期にはロシアさえ武器供与を止めて
いる。理由は鉄道建設負債が未払いだったからだったが米英も国際連盟の合議に基づい
て、この中国大陸から一時離れて日本の動きを一端見守ろうと言う中で、ドイツが違っ
てどんどん武器輸出し軍事応援していたのは、白人諸国の中で大戦で敗れた劣等感と日
本に対する恨みや羨望であったといえる。日中戦争(支那事変)中の1937年(昭和12年
)12月に遂行された南京戦において発生したとされる南京事件における虐殺の存否や規
模などを論点とした論争である。当時のオスカー・トラウトマン駐華ドイツ大使の名を
取って、こう呼称されるトラウトマン工作と言う最高の譲歩であった協定も前述の通り
で何故だか承知していない。これは世界大戦時の終了協議工作をロシアに頼んだ様に、
全く裏を知らない日本政府がドイツにその和平協議を頼んだ為だった。全く裏の一番の
反対者にその仲介を頼んで そうした交渉が出来る筈はなかったのだ。こうして努力も
虚しく日本は戦争に突入していくのだが南京大虐殺が起こったのには訳がある。日本の
靖国神社には、現在で日清、日露、第二次世界大戦などの戦争で犠牲になった軍人らの
約247万人予の英霊の御霊が祀られている。その中に台湾人の英霊が2万7000人
朝鮮人も2万1000人祀られている。そしてその中には支那事変や日中戦争で活躍し
た「金錫源」(きんしゃくげん)という人もいます。陸軍幼年学校から士官学校へ進み
最終的には陸軍大佐となっています。中国との戦いで朝鮮人として初の功三等金鵄勲章
を受けています。ちなみに息子さんも陸軍に入隊しておりフィリピンで戦死され靖国神
社に祀られています。大日本帝国陸軍の韓国隊の少佐にもなっているのですが、現代の
韓国では「売国奴」のような酷い扱いを受けている。事実は此の様に日韓併合以前から
以後は特に韓国人や朝鮮人も軍部では 多少は不平等もあったかも知れないが志願兵や
招集兵でも日本人同等の扱いを受けていた。ところが2・26事件の原因であった統制
派の活躍で皇道派は大衆動員令を止める事は出来なかった。つまり此処に現場に意味の
解らない統率出来ない朝鮮人の兵士が紛れ込んでいたのだ。日本人として送り込まれて
来たので当然勝者側ではある。この祀られた人達の様な志願兵や日本の留学しての士官
候補生ないし兵士なら当然教育されて日本語が理解出来たのだろうが、一般招集兵なら
全てに規律は求める事は不可能でありそれが出来ない事情がここにあったのだ。中国側
も同じに共産党兵は只の戦乱に乗じた盗賊団であったのだ。日中友好時日本に最大の賛
美を言った。「日本が戦争してくれたおかげで我々の党がある。」とまるで平和を好ん
でいなかったのだ。

687: 名無しさんAA:17/10/12 21:47
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 328-----------

元ニューヨーク・タイムズ記者、ティルマン・ダーティン氏は語った。
 ――『安全地区』には何人くらいが集まっていたのでしょうか。――
「私の当時の推定では約10万人だったと思います。しかしここにも日本軍が入ってき
ました。中国兵が多数まぎれこんで民間人を装っていたことが原因だといえばいえます
。そのために日本軍に『安全地区』に入って捜査をする口実を与えてしまった。兵隊な
らば衣類を脱ぐと、銃や背嚢(はいのう)をかついでいた跡が半分タコのようになって
体に残っているのがわかるとというのです。」「12月15日に南京市内を広範にみてまわ
った外国人たちは、民間人の死体があちこちにあるのを目撃した。犠牲者のなかには老
人や子供もいた。警官や消防夫がとくに攻撃の標的となった」(1937年12月18日付報道
)「興奮や恐怖に駆られて日本軍の近くを突っ走った中国人はすぐに狙撃された。明か
に背中から射たれた老人の死体などが、うつ伏せになって歩道によく横たわっていた」
(1938年1月9日付報道) 「日本軍は上海周辺など他の戦闘ではその種の虐殺などまる
でしていなかったからです。上海付近では日本軍の戦いを何度もみたけれども、民間人
をやたらに殺すということはなかった。漢口市内でも日本軍は中国人を処刑したが、そ
れでも規模はごく小さかった。南京はそれまでの日本軍の行動パターンとは違っていた
のです。南京市民にとっても、それはまったく予期せぬ事態でした。」
――南京の中国民間人は虐殺があるとは思っていなかったということですか。―― 
「南京の市民や周辺の住民は中国軍にすべてを焼き払われ、戦闘が長く続き、日本軍が
南京を制圧したときには一種の安堵感をおぼえていた人も多かったのです。日本軍の占
領をあきらめからにせよ、歓迎しようとする市民たちもいたのです。それまでの2、3
0年間も中国の軍閥に支配され、搾取(さくしゅ)され、軍閥同士の戦いで被害を受け
、という状態で、別に支配者が日本軍になってもそう変わりはしない。日本軍でさえ、
またやがては去って行く。戦闘を終了させたことだけでも日本軍を歓迎してもよいでは
ないかという、そんな受け止め方が多かったのです。まさか日本軍が民間人を虐殺する
などとはまったく考えていなかったのです。もしそんな心配が前からあったなら、民間
人はみな市内から逃げていたでしょう。」ダーティン記者は12月18日付記事では「数千
人にのぼった」と報じている。


688: 名無しさんAA:17/10/12 21:57
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 329-----------

 米国スタンフォード大学歴史学部長のデビッド・M・ケネディは7月に北京郊外で発生
した盧溝橋事件での衝突から上海戦にいたる経緯について、
「中国の国府軍の将軍たちや中国共産主義者たちの圧力下にあった蒋介石は、日本の侵
略者たちと対決して決着をつける機会を待ち兼ねていた。しかし蒋総統は、北京周辺で
日本軍の主力と戦うよりも1932年のシナリオ(第一次上海事変)を再現させることによっ
て戦闘の舞台を中国南部に移すことをもくろんだのである。蒋介石は、上海の約3万人
の在留邦人に脅威を与えることによって、北支の日本軍を、蒋介石の主たる政治基盤で
あり最も安全と考えられていた揚子江下流の地域におびき出せると読んだのである。そ
して この囮作戦は成功した。」と評している。研究者東中野修道は、日中戦争は日本
が土足で侵略したのでなく、第二次上海事変で「中国が先に日本人居住の租界地を襲撃
した事で全面戦争となった事。」についてあまり知られていない事を批判した。自衛隊
の航空幕僚長だった田母神俊雄は演説でこの事件を触れていない風潮を批判しており、
蒋介石軍の攻撃を「米軍基地に自衛隊が攻撃を仕掛け、アメリカ兵及びその家族などを
暴行、惨殺するようもの」と述べている。北村稔は中独合作でドイツは国民党に多くの
軍事顧問を入れ中国は自国のタングステンなど、希少金属を提供しているような緊密な
中独武器貿易があった事があまり知られていない事実を指摘している。日中両国ともに
歴史教育では多くが戦争の発端を盧溝橋事件と教えており、中国では抗日記念館の中で
盧溝橋事件であると強調し、第2次世界大戦の際の無差別爆撃でもこの事件を触れては
いない事もある。(これは中国共産党の意図して隠してきた事だった。)また、現在の
国民党政府が支配する台湾でも、盧溝橋事件を強調している。参謀本部第二部の欧米班
にいた杉田一次少佐は、「ドイツが早くより有力な軍事顧問団を中国に派遣し、長期に
亙って軍事援助を行い、日本を相手とする国防充実に手を貸していたことに日本は全く
無知であった。」と述べている。これは言い過ぎかも知れないが強いて言えば「知って
はいたが 過激なテロを繰り返す人民に一般紛れた共産党員にどうする事も出来なかっ
た。」と言うのが正しいだろう。何故なら先の、ティルマン・ダーティン氏が言う様に
欧米の新聞記者はそうした人々を匿いながら治外法権の外交官事務所に多くが出入りし
日本軍には地元紙は愚か遠い欧米の主要な新聞紙面で叩かれ続けたていたからだ。彼ら
は日本の新聞以上に「面白可笑しく 更に過激に書く事が義務付けてられていたからだ
。正しく報道する事以上に紙面が売れる事で給与が与えられていた限界だった。それは
国際連盟を脱退宣言をしていない中で「国際連盟いざさらば。」と表題が付いた様に。

689: 名無しさんAA:17/10/12 22:04
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 330-----------

シーメンスの中国支社トップとして南京にいたラーベは、ナチス南京支部副支部長に就
任していた。1937年、日中戦争が勃発し、日本軍による南京攻略戦の際に、他の十
数人の外国人と共同で組織した南京安全区国際委員会の委員長となって、中国民間人の
保護に努めた。自分の所有する土地にハーケンクロイツ旗を掲げ、602人といわれる
避難してきた民間人を戦禍から守ろうとした。南京陥落後は、約20万人ともされる中
国人避難民が殺到した安全区(南京城内の北西部に設置された、外国人の施設や邸宅が
多くある地区)の代表として、非人道的行為の防止に尽力した。とされるが これは逆
に大使館や中国軍事顧問団からの要請の共産党をパルチザン応援をした形だったのだ。
ダーティン記者のインタービューに戻ると
 ――さてまず中国軍の捕虜に関してですが、南京を守っていた軍隊の人数はそもそも
   どのくらいだったのでしょうか。
 「唐生智将軍の指揮下に約5万人だったと思います。日本軍の南京総攻撃が始まる直
前、私は市内をあちこち走りまわって防衛軍の状況を調べました。 市内には軍隊があ
ふれていた。唐生智司令官にインタビューして「城壁内にこれだけの部隊を入れて守る
作戦はわかったが、日本軍は当然、城壁を包囲するから、もし負けた場合にはどうやっ
て撤退するのか」と質問したのものです。唐将軍は「われわれは死ぬまで戦う決意だ。
撤退は天に向かってのルートだけだ」と豪語していました。しかし実際には将軍は日本
軍の一部が城壁を越えてすぐ、部下には何も告げず、市外へと逃げたわけです。」
 ダーティン記者は1938年1月9日付の記事でも、中国の南京防衛について、合計
16個師団だが、1師団の兵力は2千から3千人程度に減っているので総計約5万人と
推定している。同記者にはその同じ記事のなかで、中国軍の死者数について 日本軍が
南京への本格的攻撃を開始した12月上旬から市内を占領して3日目の12月15日ま
でに3万3千人が死んだと伝え、そのうちの2万人が処刑されたとみられる、と報道し
ている。当時進軍に参加した北九州の朝鮮系の老人でも言っていた。我々は先頭に近か
ったが入場した時幾らかの中国軍は撃たれて死んでいたが 殆ど無血入場に近かった。
と私は聞いていた証言と全く同じである。つまり場内の兵士達は将軍に連れられ場内ま
で来ていたが 唐将軍が逃げ出した時既に一緒にちりじりに逃げたり隠れたりして民間
人に変わったのだ。


690: 名無しさんAA:17/10/12 22:15
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 331-----------

 その意味ではラーベの日記は醜悪な改竄された日記であり、第二のシオニスト底本で
ある。事実でもない事が真実の様に 現代で語られて居る事は全く現代の「黄禍論」の
世界が今だ作ろうとしている。としか考えられない。ラーベはシーメンス社として何を
売っているのかはよく知らなかったとは考えにくい。更にドイツ軍事顧問の下の筈で、
命令で動き自動的にナチス党員になっている事で思想教育はされている筈だ。ドイツの
持つ総動員令は海外でも発動されるからだ。第二次世界大戦の間、クルップ社は軍艦・
潜水艦・戦車・軍用トラック・重砲などをあらゆる兵器を製造していた。クルップ社が
建造した80cm列車砲「シュベーレ・グスタフ」は会長であった彼の名に由来する。又
この労働力に、被占領国国民や強制収容所の収容者に強制労働をさせ、情け容赦なくこ
れを行った。そしてシーメンス社の販売窓口と共にクルップ社の窓口でもあったのが、
彼のいた南京カルロヴィッツ商会であった筈だ。
「メトロポリタン・ホテルはまず中国兵に、その後日本兵によって根こそぎ略奪された
。米国領事館の前では中国人市民が四名、長江ブリッジ・ホテルの前ではおよそ二〇名
が日本兵に射殺された。福呂ホテル(オーナーはカルロヴィッツ商会の買弁)の前に爆
弾が落ち、それで一二月一二日朝に一〇名の中国人が命を失った。シュペアリンク氏は
、榴弾の破片で手に軽傷を負った。一二月一五日、外国の記者団は、日本軍艦に乗って
南京から上海へ移動する許可を日本軍より得た。その後、英国軍艦が同じ航路をとるこ
とになった。われわれは、桟橋付近に集合せよとの指示を受けた。出発までに予想以上
に時間がかかったので、われわれは調査をかねて少しあたりを歩くことにした。そこで
われわれが見たものは、日本軍が広場で一千人の中国人を縛り上げ、立たせている光景
だった。そのなかから順次、小集団が引きたてられ、銃殺された。脆かせ、後頭部を撃
ち抜くのである。その場を指揮していた日本人将校がわれわれに気づくと、すぐに立ち
去るように命じた。それまでに、われわれはこのやり方での処刑を百回近く観察した。
他の中国人がどうなったのかはわからない。
 このインタビューで解るのは 彼らは憶測で数字を書いている事だ。更に少ない数が
新聞本社で更に先に出された情報に合わせて記事作りされた事である。もっと言えば、
彼がインタビューした唐生智将軍の指揮下に約5万人いたが日本軍との戦闘がそうなく
南京入場し その時の残虐行為部隊が本当に帝国陸軍の部隊だったのか。と言う事だ。
何故なら そこに司令官や軍曹が居なかったと言っているからだ。


691: 名無しさんAA:17/10/12 22:18
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 332-----------

 イギリスがフランス奪還をを果たしたノルマンディ上陸作戦は熾烈な戦いだったろう
。だがその裏に 国家規模の騙し作戦を知る者は少ない。少し前にあったディエップ上
陸作戦は、1942年8月に行なわれた連合軍のフランスへの奇襲上陸作戦だった。正
式な作戦名は「オープン・ジュビリー作戦」はイギリスに近いフランスのカレー半島に
上陸の突破口を開こうとする物だった。不充分な兵力と作戦のため最初から勝算は薄か
ったと言われるが、最大の失敗は事前に作戦実行の秘密がドイツ側に漏れていたため、
連合軍は大損害を受け、完全な敗退と失敗に終わったのだった。この事を受けて英国は
諜報部MI5に創設されたB1A〜B5Bという組織を幾つも作った。エニグマ解読に
先鞭をつけたポーランドの暗号局「ビュロ・シフルフ」の手元には、すでに市場に出回
っていた商業用のエニグマがあった。また、フランスがスパイを通じて入手していたエ
ニグマの説明書も入手していたものをイギリスは独自に取り寄せていた。更に捕獲した
潜水艦から本物のエグニマを摂取していた。後は、暗号化の際に使われた鍵(スクラン
ブラーの位置)をどう割り出すかであった。エニグマ導入直後のドイツ軍は、毎日のエ
ニグマの初期設定を指定した「日鍵」を設定して運用していた。英国は天才数学者アラ
ンチューリングにコンピューターを作らせた。最初は機械式だったが終戦前には電気式
で80分あれば全ての暗号が解読されていたと言う。1944年に完成したコンピュー
タの先駆け「コロッサス2」を開発し、真空管を使用した電気回路によって鍵の設定を
はじき出させていた。ブレッチェリーパークに作られたMI1もルーム40とした政府
の通信本部だがこれも多くのこのMI5の再編から生まれている。この時WX(ダブル
クロス)作戦を敷いた。そこにBIAと言う民間組織を作ったとされる。英国二重スパ
イ・システムであった。「アプヴェーア」は第一次世界大戦前から国際的戦後契約に対
しての情報収集の為に作られていたドイツの諜報機関だった。中でもヒューミントは、
人間を媒介とした諜報活動のことだが駐在武官としての実行部隊だった。ドイツに対し
て英国はホーチチュード作戦を創った。この二重スパイシステム(ダブルクロスシステ
ム)の運営を任されていたのがMI5に創設されたB1Aという組織。責任者はター・
ロバートソン。30歳という若さで、魑魅魍魎が蠢く二重スパイシステムの管理者に抜
擢された。彼自身が選んだ、チームメンバーは軍や、諜報機関という観点からみると、
実に風変りな面々だ。サーカスの興行主、タイムズ紙の所有者アスター卿の息子、弁護
士に大学の教授、美術史の専門家など、どのメンバーを見てもスパイの素人なのだ。


692: 名無しさんAA:17/10/12 23:04
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 333-----------

 だが英国はスパイに対してのダブルクロスシステムの運営は 驚くほど効果を得てい
た。それはまずナチスのスパイはその地位で安全な暮らしを得る為に従事しているので
あって別にドイツに忠誠を建てていた訳では無かったからだ。そして忠誠のあるスパイ
は英国スパイになる事を承知しなかった為次々に殺していた。更にエグニマ解読の成功
によりそれが二重スパイなのかどういう活動と地位であるかは手に取る様に解っていた
。領土拡大と新たなスパイ勧誘によってナチスは惨憺たる情報に振り回された。そして
その給与となる資金繰りに苦慮している。ベン・マッキンタイアー『ナチが愛した二重
スパイ 李国諜報員「ジグザグ」の戦争は、その悲哀を描いている。大戦初期、英国で
金庫強盗団に加わり、フランス沖の英国領の小島の刑務所に入れられ、保釈されるが、
ドイツ軍に占領されると今度は破壊容疑で逮捕され、パリの要塞に収容され、逃げたい
一心でドイツのスパイになることを申し出て、スパイを欲していたドイツ諜報機関に拾
われ、スパイ教育を受けて、英国本土に飛行機で送られるやいなや英国官権に名乗り出
て、二重スパイとなって、今度はポルトガル経由、パリ、ベルリン、オスロと動き、再
びパリから英国に戻り、活動するという信じがたい冒険を描いている。英国の犯罪者が
、英国のもっとも優秀な二重スパイに変身した物語である。孫子の具申の「聡明な君主
や智謀に優れた将軍だけが、非凡な知恵者を間諜として敵国の中枢に送り込んで、必ず
偉大な功業を成し遂げることができる。こうした間諜こそは、軍事戦隊の枢機であり、
全軍がそれを頼りに行動する道標なのである。」とほめている。このスパイにプジョル
がいた。彼はスペイン内戦で共産党を憎み英国にスパイの申し出をして断られていた。
だがイギリススパイがよっぽど憧れだったのか、ドイツのスパイになってイギリスに行
く事になる。だが驚く事にイギリスには全く行けずにスペインの田舎でイギリスに行っ
た事にした嘘の情報をまことしやかに流し続けた。彼の作った諜報機関こそイギリスに
網羅された妄想の架空の諜報機関だった。つまり勝手に新聞や書物をあさりドイツ諜報
機関を創り上げて暗号で報告していたのである。70年前の1944年6月6日、ナチ
スを打倒するために米英カナダを中心にした連合軍が敢行したノルマンディ上陸作戦は
史上最大の作戦と呼ばれる。アイゼンハワー最高司令官のもとに、17万6000の兵
員、5000隻の艦船と輸送船の大船団、9000機の爆撃機と輸送機が投入された。


693: 名無しさんAA:17/10/13 07:40
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 334-----------
 アイゼンハワー将軍は欧州戦線で300万人からなる連合軍を指揮していた。米軍の
みでも170万、英軍とカナダ軍100万、その他フランス、ポーランド、チェッコ、
ベルギー、ノルウェー、オランダの派遣軍から構成された中、ノルマンディ作戦には、
その半数が投入された。陸揚げされた装備と物資も巨大だったー戦車、トラック、装甲
車、ジープなどの総数5万台、タンカーと貨車2万台、鉄道機関車1000台である。
この作戦は、その圧倒的な物量ではじめから連合軍の勝利は確実だった、と多くの人々
は考えている。しかし、それは後知恵だろう。当時成功20%さえいう者もいたのだ。
ホーチチュード作戦(不屈の闘志作戦)はそのまま運用された。あの日、連合軍の気象
専門家の予測がはずれ英仏海峡が暴風雨になっていたら、英国情報部MI5の二重スパ
イの超弩級の偽情報がベルリンに探知されていたら、歴史の流れは変わっていたかもし
れなかった。そうした状況に英国は必至に贋作戦を撃ってでていた。まずロンドンに送
りこんだ敏腕スパイ・アラベルとは何者か。何処にいるかを掴みロンドンへは行かず、
ポルトガルのリスボンから情報を送る男を掴んだ。図書館で、英国の観光ガイドブック
、英海軍に関する刊行物、新聞・雑誌を読んで、詳細なレポートを送り続けた。ヒット
ラーの側近がこの情報の信憑性を疑っていた可能性はある。が、彼をヘッドハンテング
した中継支部のカナリスハも又同じナチスを嫌う者で自分の地位や安全を保つ必要があ
った。そうしてしだいに、彼はマドリッドのドイツ情報部の信頼を得るようになるのだ
が。途中コンタクトを取り情報の内容を、事実と虚偽のカクテルに変えた。幾つかの正
確な情報を与えたのである。こうして1942年、プジョル(本名)はMI5に再び、
コンタクトをとり、英国のスパイになりロンドンで活動することになる。晴れて希望の
二重スパイとなったガルボは、彼の工作指揮官のトマス・ハリスと組んで、幻のナチス
・スパイ網をつくる。二人は想像力で実在していない英国に点在する27人のスパイを
創りあげ、“彼らが集めた情報”をマドリッドのドイツ情報部支局に送り続けた。画家
のハリスの芸術性とガルボの燃えるような創意工夫の組み合わせで書かれた、この報告
や手紙はドイツ情報部へ1500通以上だった。膨大な情報に翻弄されながら大西洋の
壁建設は進んでいた。ヒットラーの司令でロンメルの指導の下に沿岸の1300キロの
大西洋岸をコンクリートの壁とトーチカと地雷原で守りを固めていった。1943年末
、大西洋の壁を強化し難攻不落にするその任務に全力をつくしたのだ。「壁」の建設に
は何百万トンのセメントと鉄鋼が使われ50万人(ノルマンディ地方の人々など)が動
員され、機雷を付けた海中障害物を50万、あらゆる種類の地雷500万個を設置し連
合軍の侵攻に備えていた。

694: 名無しさんAA:17/10/13 07:45
「大西洋の壁」は連合軍の攻撃をはじき返すための強力な防御施設であるとされ「ドイ
ツの背後を突こうとする連合軍を、大西洋に叩き返す」と、内外にプロパガンダされて
いた。それを現実のものにするため、ドイツが注いだ力は凄まじいものだった。ドイツ
の拡大占領政策は1941年バルバロッサ作戦開始の号令にドイツ軍東部戦線配備には
兵員300万人,戦車3580両、火砲7184門、車両60万台、騎馬75万頭。更
に航空機1830機を投入していた。対峙するソ連軍は、兵員450万人、10個軍だ
ったが、湿地帯の攻略にてこずり極寒の冬を迎えてモスクワ・レニングラードは陥落せ
ずバルバロッサ作戦のレニングラード包囲は失敗した。体制を立て直して、南方に重き
をなすブラウ作戦を立案し、石油や鉄道のロシア基地のスターリングラード攻防戦を目
標にし、5個軍、89個師団と言う実にドイツの7割の120万の兵と4千両の戦車3
千機の飛行機火砲1万問を投入しするに至った。当初スターリングラードは2、3日で
陥落するとの見込みであったが、既にロシアは新型T−3戦車を投入し、ドイツの3.7
センチ対戦車砲では、重装甲戦車を貫通することは出来ず「聴診器」と揶揄されるごと
く全く早期攻略どころか、戦闘は激しくなる一方で敗走の危機に瀕する中にあったのだ
。こうした中のイタリア防衛にも1944年初めに22個師団、フランス、低地諸国を
含む西部戦線に60個師団を送っていた。それは南アフリカからの退却をそこで砦とし
たからだ。こうして兵力が無い中にスカンジナビア半島からドーバーの海を超えスペイ
ンの角まで凡そ5〜6q置きにトーチカを築き機銃、対戦車砲、軽野砲が収納された。
海岸部には地雷原および対戦車障害物「チェコの針鼠」が設置され海にも機雷が置かれ
た。対してノルマンディー上陸を支えた欺瞞作戦は4年もかけて積み上げられた上に、
作戦が練られていた。今だ米軍が届かぬ中で統合連合国第一大隊司令部が置かれ英国の
国策としての嘘を大々的に行う方針が取られた。だがドイツで鉄やコンクリート資材が
整わず居る中で、イギリスでは偽造のハリボテの戦車を作る木材すら供給できなかった
1942年のアフリカ戦線の第二次エル・アラメイン会戦での成功からイギリス軍のダ
ッドレー・クラークが指揮し、彼によって数々の諜報や情報によって陽動作戦が取られ
た。戦火の無いチャンネル諸島のフランスに最も近いオルダニー島の防御が特に強化さ
れ大西洋の壁に使用される鉄鋼およびコンクリートの一割をチャンネル諸島に使用し、
沿岸防御砲が配置されたが、10門中7門がノルウェーに配置され、連合軍が上陸した
フランスに配置されたのは3門しかなかった事は、その諜報戦の成果であったが、なぜ
人々はこうまでして ユダヤ金融資本を助けるのか。それが英国の無知であった。融和
や話し合い 世界の共通常識の「正義」が英国に無かったのだ。今のEC離脱と全く同
じだ。

695: 名無しさんAA:17/10/13 07:49
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 336-----------

このノルマンディ上陸作戦は史上最大の作戦と呼ばれる。ドワイト・アイゼンハワーを
最高司令官にして、17万6000の兵員、5000隻の艦船と輸送船の大船団、90
00機の爆撃機と輸送機が投入された。この作戦に連合国軍の4割の軍を投入していた
。地中海に2割太平洋に3割とされる兵員からすれば、如何にこの上陸に賭けていたか
が解る。この作戦を引き受けた連合国軍のアイゼンハウワーの戦闘司令部は、サザンプ
トン郊外のトレーラーハウス(移動住宅)に設置された。参謀たちとの会議は隣のテン
トで行われあくまでも欺瞞作戦での本部より小さく見えさせた。彼は5月の段階で上陸
作戦は6月5,6,7日の3日間のうちに敢行すると決めていた。パラシュート部隊と
グライダーで空輸される歩兵部隊が奇襲を成功させる為の遅い月の出と、早朝で、海上
から上陸する部隊が敷設された障害物が見える干潮時が満たされる日と言う二つの条件
を叶えるのはこの3日間しかなかったからだ。対してドイツは上陸される事は解っては
いた。問題は何時何処で行われるかを作戦本部は丹念に知らせる事を要求していた。が
ヒットラーの独り相撲に既に上層部は愚か末端の部下まで厭戦気分が蔓延していた為に
正確な情報や有益な情報は採られる事はなかった。ヒットラー自身暗殺に追われていた
為正常な判断も出来ない状態だった。6月4日の朝は嵐だった。アイゼンハワーは作戦
の24時間延期を決定する。6日、7日に決行できないとすると、7月まで待たなくて
はならない。それまで、作戦のブリーフィングを受けている20万人が秘密を保てるの
か。ドイツの偵察機とスパイがこの作戦を嗅ぎつけるにちがいない。その日は高ぶった
神経を抑えるためにキャメルの煙草を4箱も吸った。嵐が続くその夜、アイゼンハワー
は司令官と参謀長とともに気象専門家の報告を聴いた。天候は一時的に好転し風はおさ
まり、5日は晴れ6日の朝まで続くが午後には再び悪化する、という。アイゼンハワー
は司令官一人ひとりの意見を聴いた。英軍総司令官バーナード・モントゴメリーは6日
上陸に賛成したが、成功の確率は20%良くて50%と言う者もいた。全員が発言した
あと、長い沈黙があった。アイゼンハワーは「断行すべきだ思う。もう待てないのだ。
選択の余地はない」と言い6月6日のDデーが決定された。Dデーの前夜、プレス・リ
リース用の声明を手書きで綴った。ポケットから取り出した紙に「上陸作戦は失敗し、
部隊を引き上げた。わたしの攻撃決定は、入手できる最上の情報によってなされた。陸
、海、空軍は勇敢かつ献身的にその任務をはたした。この作戦に関する責任はすべては
わたしにある。」と書かれていた。が幸いにも使用される事はなかった。


696: 名無しさんAA:17/10/13 07:56
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 337-----------

 こうした人を騙す国を騙す作戦は、戦争では常套手段の様に思われがちだが、それは
違う。戦争が勃発する前から平和の時代に於いても 常にプロパガンダ作戦と仮想敵国
の消滅作戦を行っている。それは今まで休む事無く殺戮を繰り広げた歴史からの警告が
欧州社会にあったからだ。だがドイツや日本はそれには及ばなかった。平和の意識や意
志が高かったからだ。そもドイツでの改革の遅れは そこに集まって来た民族の調和に
時間がかかったからとも言える。特にベルギー以下ルクセンブルクなどは古民族と言え
る逃げ延びてきた現地人と言われるほど風雅な人達で 音楽や建築或いは芸術に長けた
人が商売していたと言われる。ケルトと混血になったゲルマンとされるガリア人の子孫
で日本にやって来たポルトガル人とされる。言葉は各々違うがフランス人に近く比較的
大らかな民族で真面目であった。日本も又同じで鎖国時代に培った文化は遠い飛鳥時代
から引き継いだ「和を以て貴しとなす」と言う意識が強く 戦争となれば真面目に戦略
を説き悲痛な結果を産んだ。というのも、日本陸軍でも、逆に米国の暗号を殆ど解読し
ていた事実がある。それは第1次大戦後の1922にはポーランドの暗号専門家であっ
たコワレフスキー陸軍大尉を日本へ招いて研究させ、両国将校の交流を行うなどして、
暗号技術水準も高かったと言われる。米国の暗号解読も積極的に行っており、帝国陸軍
は太平洋戦争前の米国国務省暗号のほとんどを解読していたことが戦後判明している。
ただ イギリスやドイツの様な機械化はしていなく多分手作業で2・3日間はかかって
いたであろう。更に国際条約の制定でも 欧米列強では簡単に解約できるその場の約束
事と言う認識が強いが 日本人は国際関係を保つ未来永劫の礎と捉えている。この認識
の違いは大きく今も尚変わっていない。よくドイツは何回も憲法を変え兵力を盛り返す
に至っているのに日本は今だ自衛隊で軍隊を持たない中にいる。と批判されるが、それ
がこの国民性であろう。欧州では独立投票の様に、全員が賛成すればそれは憲法でも、
変えていいと思いあがる。だが日本人はそれが例え全員の賛成でも過去の英霊や今後の
子孫に悪い物であれば例え賛成があっても変えてはならない物との意識をもっている。
それは子孫にまで制約を果たす奴隷契約と産れた子に罪は無いとする無条件主義の違い
でもある。此処に戦争の敗因がある。更にこれが海軍の離反を招いたとも言える。つま
り米英に騙されていた多くの海軍将校がいた事実である。人は戦うべきだが大義を知る
人間であるべきだ 今も昔も欧米に大義があるとは思えない不信感が私にはある。

697: 名無しさんAA:17/10/13 08:10
 それらの違いは かつても今も 日本が世界には出て行けない事を示唆している。か
つて日本が国連の常任委員会の主要5ヶ国から7ヶ国に拡大に打診された事があった。
ドイツと日本を含めた国連運営が期待されたのだ。だがその要望を入口で小泉氏が切っ
て放り捨てた。「軍隊が無い日本が出来る筈はない。軍隊を新たに作る気か。」という
趣旨だった。その馬鹿男が後で首相となってイラク侵攻をいち早く賛成し、PKOとし
てイラク派兵を推し進めたのである。笑止千万彼には真摯に恥を知る知恵が無い。それ
は又今の日米防衛委員会がこの国を治めて居る姿の現実でもある。英国は昔から諜報戦
には長けていた事で知られている。二枚舌の外交もしかりである。かねてからアメリカ
の独立戦争はこの矛盾に遭遇しても解決していないままだ。ベンジャミン・フランクリ
ンは落雷が電気である事を発見した科学者で雷鳴轟く中の凧揚げは有名な話だが、これ
は彼の親の話だ。独立憲章を起草した一人で彼は「幸せは自由にか存在せず 自由は独
立の中にしか存在しない。」との考えの人だった。その為にイギリスからの独立に情熱
を注いでいた。その時この自由を守る二つの条件を説いた。一つは自衛の武器を持つ権
利と二つめは国に軍隊を持たせない権利だった。それは他国から攻められた時は国民が
武器を手に取り、自由に参戦すると言う趣旨だった。そもそも独立宣言は茶会事件から
始まる。1763年、フレンチ・インディアン戦争が終結しイギリス国王ジョージ3世
とグレンビル内閣は、本格的に植民地アメリカへの課税と支配を強化した。時の財務大
臣チャールズ・タウンゼンドは、ユダヤからの借りた金の返済に追われたからだ。日本
の国債の予算と同じに議会の英国放漫経営の末の結果だった。植民地に輸入された茶、
紙、塗料、鉛、ガラスといった品々に税金を課す案を練った。いわゆるタウンゼンド関
税である。この税はアメリカに限った税ではなかった。だが これらの品々は、北米で
生産されておらず、植民地はイギリス本土以外から購入することを認められていなかっ
た。JA全農の様に。この本国政府による圧迫策は、次第に植民地住民の本国に対する
不満を鬱積させていた。「耐え難き諸法」「世紀の悪法」などとと言われたこの税は、
これまでのインディアン戦争による虐殺戦争の支出に基ずく 財政上のものだった。が
やがて1770年のボストン虐殺事件に単を欲して労働者の不満は発展した。関税の一
部撤廃の動議を諮り新しい導入税のほとんどは撤廃されたが、茶への課税は継続された
。1773年の茶法によって東インド会社のお茶が安く植民地に流入することになると
植民地商人の怒りは頂点に達し、年末にはボストン港停泊中の東インド会社船に暴徒が
乱入し、積載されていた茶を海に投棄した。この結果この弁済をイギリス本土が求めた
のである。この時も裏にユダヤ資本が暴動を動かしていた。

698: 名無しさんAA:17/10/13 08:26
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 339-----------

 元々各地の植民地やアメリカ国内とタウンゼンド諸法のような法律を通したイギリス
帝国議会とには意識の乖離があった。当然と言えば当然だが。大英帝国は植民地を維持
するための費用について 植民地に対する税は公平な負担分を払わせる法的手段である
と考えていた。植民地の抗議によって、印紙法やタウンゼンド諸法の悪法は撤廃された
が、議会は1766年の宣言法において「どのようなものであれ」植民地に対して本国
は立法する権利がある。という立場に固執して声明も出していた。少し前までは人頭税
すら国王の承認のもと諸侯が行う事や 魔女狩りや人民裁判の行われた程の思想社会だ
。しかし、植民地側にはイギリス帝国とは異なる考え方が反発を形成していた。イギリ
スの憲法議会の下でイギリス臣民の税という形の負担を、植民地人が議会に代表を送る
形での同意もなくての税の徴集はできない。という論である。それゆえに議会への直接
代表の議員派遣が植民地に認められない以上は、議会も植民地に税を課す権利はないと
の主張が植民地に生じていた。この見解は「代表なくして課税なし」というスローガン
に表された。白人社会にしてこうした弱肉強食が産まれた中にあった。タウンゼンド諸
法の後で何人かの植民地論客がこの考え方をさらに進めて、議会が植民地における法的
司法権を そもそも持っているのかを問題にし始めたのだ。これが黒船の日本の不幸と
も繋がっている。植民地における議会の主権にまで及んだこの疑問はアメリカ独立とな
るものの伏線となる問題だった。この論理はすごく正しく思われた。だが一方ではこの
後起こった独立戦争で独立を成し得た後は 同じように米国と言う国は、南米やアジア
諸国に対して頭越しの外交取引と原住民虐待がなされ、次々と植民地化政策を進めた。
独立宣言は、リチャード・ヘンリー・リーが提案し「これらの米国内の個々の植民地は
自由で独立した国であり、そうなるべき権利がある。」と宣言した。独立決議案をアダ
ムズは支持し、大陸会議によって採択されるまで推進し、各連携を得た。アダムズはト
ーマス・ジェファーソン、ベンジャミン・フランクリン、ロバート・リビングストンお
よび ロジャー・シャーマンらと共に5人委員会に指名され、アメリカ独立宣言を起草
した。この宣言は主にジェファーソンによって書かれたものではあるが、その採択に関
する議論ではアダムズが前面に立った。長い年月の後にジェファーソンはアダムズの事
を「会議場における(独立宣言)支持者の柱であり、その最も有能な提案者かつそれが
遭遇した多種多様の攻撃に対する守護者だった」と称賛した。

699: 名無しさんAA:17/10/13 08:31
ベンジャミン・フランクリンは当時としては珍しい「道徳的完全に到達する大胆で難儀
な計画」を思いついた。この理想を実行するため、自らの信念を十三の徳目にまとめ毎
週、一週間を徳目の一つに捧げて、年に4回この過程を繰り返し自分の行動を戒めた。
1.節制  飽くほど食うなかれ。酔うまで飲むなかれ。
2.沈黙  自他に益なきことを語るなかれ。駄弁を弄するなかれ。
3.規律  物はすべて所を定めて置くべし。仕事はすべて時を定めてなすべし。
4.決断  なすべきをなさんと決心すべし。決心したることは必ず実行すべし。
5.節約  自他に益なきことに金銭を費やすなかれ。すなわち、浪費するなかれ。
6.勤勉  時間を空費するなかれ。つねに何か益あることに従うべし。
     無用の行いはすべて断つべし。
7.誠実 詐りを用いて人を害するなかれ。心事は無邪気に公正に保つべし。
口に出だすこともまた然るべし。
8.正義 他人の利益を傷つけ、あるいは与うべきを与えずして
人に損害を及ぼすべからず。
9.中庸 極端を避くべし。たとえ不法を受け、憤りに値すと思うとも、
激怒を慎むべし。
10.清潔 身体、衣服、住居に不潔を黙認すべからず。
11.平静  小事、日常茶飯事、または避けがたき出来事に平静を失うなかれ。
12.純潔  性交はもっぱら健康ないし子孫のためにのみ行い、これにふけりて頭脳を
     鈍らせ、身体を弱め、または自他の平安ないし信用を傷つけるがごとき
     ことあるべからず。
13.謙譲  イエスおよびソクラテスに見習うべし。
とわざわざ書いて 自らを諫めて 生活している。そこには今の米国のねじれた思想が
浮かび上がる。自由の権利として銃器拡大し 個人に銃を持たせ その上国家としても
世界最大の軍隊を保持していなければ、不安で仕方ない。がそれによる事件事故は日夜
起こる。アメリカ国内において銃器による死亡者は3万1千人交通事故死亡者3万5千
人より少し少ない位だ。一方日本では4千6百人の交通事故死があり銃器による死亡者
8人である。1日単位にした場合、毎日約85人が銃で死んでいる中、53人は自殺で
あり、未成年の子供も含まれている。銃の無い日本と比べて当然と言えば当然だが米国
の勧める文明国家像が銃社会や車社会で見える。この悲劇の数は 未開地の人の死亡よ
りも、多くの不道理に満ちているがその社会悪を、それを今各国に輸出している。

700: 名無しさんAA:17/10/13 08:42

陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 341-----------

 アメリカ合衆国が理想である「自由・平等・博愛」の白赤青の国旗を掲げているのは
フランスと同じに個人尊重を掲げたからだ。ベンジャミン・フランクリンの国家の軍隊
を持たない。と言う思想が具現化できなかった事で米国はねじれたまま発展した。元々
ロバート・リビングストンやロジャー・シャーマンと言った実業家は船会社や鉄道運転
での先進技術で儲けていた人々で彼らが軍船などを必要と叫んだのは想像できる。当時
は民間船に砲台のある貨物船や客船があった時代だったからだ。鉄道にしろ色々な妨害
で現金輸送が襲われたりし そうそう簡単には発展しなかった。石原莞爾はインタビュ
ーで「私が現役に止まっていたら、あなた方アメリカ人にもっと金を使わせたでしょう
。戦線を縮少し、アメリカの補給路を延長させ、日華事変を解決すればもっとうまくや
れたと思う(中略)。日本の指導者たちがミッドウェーの敗戦の意義を埋解し、ソロモ
ン群島の防衛線を強化していたら、太平洋の広さが日本に味方していたにちがいない。
山本五十六大将らは誤りを犯した。どこに根拠地を求めるかを知らなかったからだ。サ
イパン失陥を聞いたとき、私は敗戦を覚悟した。」と言うのは思いであって現実ではな
い。何故ならそこに陸上と海上の違いがあった。が本国に帰ってマーカス・サミュエル
ロンドン市長になったのは1902年(明治35年)である。サミュエルが市長になっ
てその年1月に「日英同盟」が結ばれた。彼は就任式に、日本の林董駐英公使を招いて
、パレードの馬車に同乗させる程の親日家だったからだが この日英同盟の堅持を貫く
事の大事さが失われた事が大きな要因なのである。日英友好によって昭和天皇の留学が
行われる信頼が産まれた。Uボートとされるドイツ海軍の保有する潜水艦は第一次世界
大戦では既に建造されていた。第一次大戦で、約300隻が建造され、商船約5300
隻を撃沈し、第二次大戦では、1131隻が建造され終戦までに商船を約3000隻、
空母2隻、戦艦2隻を撃沈する戦果をあげて、引き換えに850隻のUボートの損失を
出した。と書かれる。第一次世界大戦は1914年からとされるが、1915年ドイツ
はイギリスに向かう商船に対する無制限潜水艦作戦を開始した。その為に3ヶ月後の5
月に戦時禁制品の火薬類運送を行う英国船籍の、豪華客船ルシタニア号を無警告で、こ
のU20で撃沈すると言う行動を取った。1198人の犠牲者を出したがこれが潜水艦
の最初の攻撃であった。つまり、英国封鎖にドイツは隠密行動によって 隠れて民間や
戦艦構わず撃沈する事を目的に出来た代物だったのだ。北朝鮮の潜水艦造船はその踏襲
をしている

701: 名無しさんAA:17/10/13 08:58
 日本での潜水艦の歴史も他国に漏れず早く 明治期の水雷艇から始まる。大型汽船に
載せた救助ボートの様な小さな船に水雷をぶら下げて敵艦艇に飛び込むと言う物で魚雷
と言う自走式の水中機雷が出来るまで砲を載せた戦艦を作るより安価な敵艦攻撃の要で
もあった。この水雷艇の活躍に対して、水雷艇から戦艦など主力艦を守るため水雷艇駆
逐艦(後の駆逐艦)が開発されたため、水雷艇の有効性はほとんど失われて建造は止ま
った。Uボート攻撃が明るみに出て米国はエレクトリック・ボート社に突貫作業で建造
せた。日本はその中でホーランド型潜水艇を買い取り、一度解体し日本に運ばせ 明治
37年に横浜まで運ばせ、続いて機材など全部品が12月上旬には揃えられて、組み立
てを横須賀において行われた。これが潜水艦開発の初期である。翌年に始まった日露戦
争は、わが国有利のうちに講和条約が締結され、戦闘に参加する機会を得る事はなかっ
たが、出来た潜水艦は年末の凱旋観艦式で、御召艦の目前での披露潜行や、航行など戦
技を演じる栄誉を得ることができた。海軍は早々に同じものを発注し1号艇から5号艇
により「第一潜水艇隊」を編成し、その後国産の「第二潜水艇隊」まで編成した。後の
潜水空母ともいえる大型潜水艦を造り、米英に戦いを挑んだ日本海軍潜水艦隊の誕生で
あった。と言われている。これはサミュエルが英国に石油タンカーの船団を売って市長
になった2年後だった。1905年である。この頃から海外流行に合わせた軍備拡張が
自由に交流して行われたのだ。ジェネラル・ダイナミクス・エレクトリック・ボート社
は日本海軍の依頼を受けて特別水雷艇(ホランド型艇)5隻を建造してくれた後、続い
て翌年には、ホーランド型の新型設計図を入手した川崎造船所では、これを機会に日本
人だけの手で建造を試み、異常な熱意で見事に6号艇と7号艇の国産潜水艇を完成させ
、明治39年3月、その第6、7潜水艇で「第二潜水艇隊」を編成した。日本海軍は早
くも二個の潜水艇隊をもつことになったのである。ところが日本が完成した頃には、早
くも世界は高速潜水艇の時代に移っていた。ハンブルクのドイチェ・ヴェルフト307
番ヤードは大型潜水艦の建造に長けていた造船所だった。1871年に帝国海軍キール
造船所と改名して以来ドイツの主要造船所群だった。基本的に国家戦略としてドイツは
歴史上十分な制海権艦能力を持たない。制海権は絶えず英国側にあった。その為に、海
上封鎖は行えず、敵の強力な水上艦隊の勢力下でも作戦行動が可能な潜水艦がこの任に
最適だと考え開発たのである。隠密行動による通商破壊を目的として使用される事が主
な任務であったのだが、この悪さが更にドイツ国民を各国が嫌う理由ともなった。この
無差別殺戮の罪を見つからなければ犯罪ではないとするずる賢さに 他の国は悩んだ。
この結果が あくまで紳士的な戦争を願う日本の太平洋戦に持ち込まれた悲惨さである

702: 名無しさんAA:17/10/13 09:34
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 343-----------

 イギリス人の間から、ユダヤ人が石油業界で君臨していることに対して反発が強まり
、ついにこの会社を売らなければならなくなった。というのは、表向きの話であろう。
当時イギリスは大海軍を擁していたが、その艦隊に、サミュエルが石油を供給していた
から批判はあったが、タンカーが予想以上にこのUボートからの標的になる事を恐れた
からだった。と言える。元々バクー油田を抑えたロスチャイルド卿はスエズ運河も、こ
の、石油タンカーで供給していたサミュエル商会の船団もボルネオの油井も彼の出資だ
。さらにはその後イランの石油会社「アングロ・イラニアン石油」の重役室に「シェル
石油」を立ち上げたサミュエルが入った、という事実がある。この「アングロ・イラニ
アン石油」がその後のBP(ブリテイッシュ石油)社の前身であったのである。石原莞爾

703: 名無しさんAA:17/10/13 09:34
さらにはその後イランの石油会社「アングロ・イラニアン石油」の重役室に「シェル
石油」を立ち上げたサミュエルが入った、という事実がある。この「アングロ・イラニ
アン石油」がその後のBP(ブリテイッシュ石油)社の前身であったのである。石原莞爾
が理解していなかったのは陸軍に皇道派と言う保守の天皇尊重の武闘派と統制派と言う
戦略重視の国の経営を問う二つが議論しお互い競った様に、海軍にも飛行部隊を中心と
した航空派と陸戦部隊を中心とした斬減作戦派更には戦艦中心の艦隊派と言われる三つ
がそれぞれ司令官が手を焼いていた状態だった事だ。中でも米国艦隊の様な無差別商船
攻撃での敵中攻撃は司令官以下の戦略派は極めて強く諫めていた事だ。この為日本の中
での潜水艦は元々隠密行動の為の設計思想が全く無く 米国のソナーで探知されてまと
もな攻撃が出来る物ではなかった。深夜の敵前上陸が主だった。一方の米軍側最新設備
も次々と出来上がりがあったものの色々な不都合もつきまとっていた。一つは本体強度
の高すぎた為に魚雷が制約受け潜水艦が大型化した事だった。ところが日本の海中探査
は機械化されていなかった上に幼稚なレーダで音信が主だった。米国は次次と不合理を
直した新型ないし改良型の潜水艦を投入して来た。その為ミッドウェーの開戦以降は全
く日本の潜水艦も艦船も戦闘機も威力は無かった。戦争初期の米軍の潜水艦が使ってい
た魚雷は不具合だらけでまともに使えたものでは無い。第一次世界大戦時のインド洋が
主戦場だった為日本ではあまり知られていない。精度が低く狙った方向に向かわない。
命中しても爆発しない、ひどいものは魚雷が円を描いて走り出し、自分の艦に命中しか
ねない代物だった。実際に避けられずに二隻沈んでいる潜水艦も報告がなされている。
その後に改良はなされたが、開戦当初は当の魚雷の設計・製造を取り仕切っていた海軍
兵器局は全く意に介さなかった。というのも民間商船の撃沈後に救助する余裕が潜水艦
に備わっていなく日本の客船や貨物船にもオーストラリア人など自国民も大勢乗ってい
たから概ね潜水艦攻撃に反対だったのだ。ところがアジア艦隊の雷撃失敗の報告が山と
積み上がって来るとその失敗の調査が本国の海軍省から入る。そして魚雷の命中確率が
1%も無かった事で開発が進んだ。

704: 名無しさんAA:17/10/13 09:37
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 344-----------

 この1%〜5%の命中率は不幸にも日本の軍艦ないし商船が大型化した事で撃沈して
いたのである。クルーの訓練が足りないのだろうという言い訳に、潜水艦部隊の指揮官
を務めていたチャールズ・A・ロックウッドは、現場からの声を重く受け止め 実験を
開始した。漁網を使った実験で魚雷は設定深度より3メートルほど深くを走っている事
が確認され改良するに至った。開戦時 こうした事で喫水線の深い大型船のみやられた
のである。だが深度調節の問題は解消されても魚雷の不発や早期爆発は起こり、海軍兵
器局には不満の声が溢れた。地球磁気で設定される磁気起爆装置が場所の違いで働かな
かったのである。日本軍の様な接触起爆は命中して爆破するが磁気起動は通過時に爆発
すると言う効率の良いもだった。こうして開戦後1年も経てば秘密理にアメリカ太平洋
艦隊司令長官チェスター・ニミッツが指揮下では 潜水艦と駆逐艦に対して魚雷の接触
信管だけを使うよう命令を下していた。ところが太平洋戦争開戦から1年半を優に過ぎ
た1943年7月24日、アメリカ潜水艦隊の使っていたMark-14 魚雷の信頼性の高い
接触信管だけを使ったにも関わらず船を沈める事が出来なかった。真珠湾から出撃した
米潜水艦ティノサがトラック諸島西方沖で日本のタンカー、第三図南丸を発見した。9
時23分に行われた一斉発射を皮切りに、計15発に及ぶ雷撃を加えた。命中弾13発
の内、爆発したのはたったの2発。ティノサが使ったのは接触信管で、爆発はしなくて
も舷側に魚雷がぶつかる音で命中はわかった。特に7発目以降の雷撃は全弾命中しても
全てが不発で、哨戒記録には「Hit. No effect」(命中するも変化なし)の文字が躍っ
た。磁気信管の使用が中止され、ようやく魚雷の問題がすべて解決されたと思われた矢
先の出来事だった。


705: 名無しさんAA:17/10/13 09:38
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 345-----------

この不発魚雷の為に 多くの南洋の人々の特に先行して帰還する婦女子の命が救われた
と言われている。ちなみに、魚雷攻撃を受けた「第三図南丸」は、航行不能になるもの
のなんとか生き延び、トラック泊地で暫く石油タンク代わりに使われる事になった。又
、その大量の魚雷が船に突き刺さった姿がまるで「かんざしを差した花魁」の様である
ことから、工作艦明石に修理を受けるまで一時期「花魁丸」と呼ばれていた程だった。
つまり、米潜水艦から「かんざし」をもらった花魁の様な船という扱いになっていた。
というなんとも皮肉な話である。だがこの事が大日本帝国海軍の視点を甘くし逆に米国
の兵器改良のサイクルを機敏にした。Mark-14魚雷の接触信管は、旧型のMark-10魚雷に
使われていた物をそのまま転用された物だった。設計に問題はなかったがMark-14 魚雷
は旧式と比べて遥かに高速であり激突時の衝撃も大きかった。その為起爆装置がそれに
耐えられず、爆発が起きる前に部品が壊れて不発になってしまっていた。当時2つの事
で対応は早かった。一つは Mark-14魚雷の様な最先端技術の塊である開発信管で無く、
他国に情報が漏れないようにしなければならない措置は要らなかった。2つ目は原因が
究明されて設計の大幅な見直しをせずとも部品の強度を増しただけで正常に作動するよ
う出来た事だ、こうして1943年 Mark-14魚雷のすべての問題は解決した。太平洋戦
争開戦から21ヶ月が経過していたがこれにより潜水艦隊は力を発揮できるようになり
、以後の戦果は目覚ましい向上を見せた。こうして、日本軍船舶が被った潜水艦による
被害があっても渡航できた船も、この時期より確実に沈められ倍増被害はしていった。
だが この潜水艇の無差別攻撃は全くその時の国際機関の準じた戦争法の違反であった
。イギリスはUボートにより当時隠れて「戦時禁制品の火薬類」を運送中の英国船籍の
豪華客船ルシタニア号を無警告で撃沈され、1198人の犠牲者を出して以来民間人の
保護を強く求めた活動をしてドイツ避難を繰り返したからだ。この犯罪的米国行動こそ
大日本帝国海軍の最も危惧するところだった。アメリカにすれば既にドイツとの海戦で
の死闘を繰り広げて「国際法違反」などないものであり国際法順守であれば原爆さえも
作り得なかった。こうした事は日本の海軍には戦争前から大いなる憂いであった。戦争
で「人が勝つための獣になる」道理の無い攻撃をする。太平洋戦争下のアメリカ海軍で
起きた数々事件はその好例だろう。

706: 名無しさんAA:17/10/13 09:46
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 346-----------

 第一次世界犬戦中にイギリス支援のためインド洋から地中海にわたるまで艦隊を運用
し、油槽船の払底により原油不足に悩んだ海軍は、あらゆる日本の組織のなかで、石油
問題についてもっとも鋭敏で最初の戦略を引きずった組織であった。大正七(一九一八)
年、海軍省は、「軍事上の必要に基づく石油政策」を起草した。日本においてはじめて
の石油政策の提言であったが、閣議決定にはいたらなかった。海軍は、この政策案では
石油会社の官営化、国内石油会社の統合による国策会社化を提案しているが、実施には
至らなかった。勿論石油の確保に関して海軍は、シェル傘下のライジングサン石油との
長期契約によりポルネオ石油の購入権を獲得し、ロシア時代から久原鉱業が保持してい
た北樺太油田開発権に、六十万円の資金を提供し、鈴木商店、三井鉱山などの参加を仰
いで、オハ油田の試掘に成功している。こうした石油確保には努力していた。また自前
の石油精製設備を持ち、海軍煉炭製造所を海軍燃料廠に改組した。海軍としては相応に
、取り組んでいるのだが、イギリスに較べると真剣さ、切実さに著しく欠けているよう
に見えてしまう。陸軍の大方がチャーチルが笑った、「国際市場」なるものを信じ、あ
るいは甘えていたように見えないでもない。無論、それは現在も社会全体のこととして
同じにエネルギーは、金さえだせぱいつでも買えるといったような意識がある。六十年
前、大和民族は痛切な思いで この資源の無さを味わったはずだが「油の一滴血の一滴
」は今や生かされているとは思えない。石油問題について、山本五十六も、盲目だった
わけではない。むしろ海軍の将校のなかでは、一番に鋭敏だったといっていいだろう。
反町栄一は『人間・山本五十六』において、山本は語学将校としてのハーバード大学に
留学中に、テキサスをはじめとする、アメリカ各地の油田や精製施設を視察しただけで
なく、「石油に関するあらゆる文献著書を読破し、毎日米国新聞四十幾種類を閲読し、
睡眠時間は一日平均三時間であったといわれてる程石油を知っていた。こうして読破し
てのアメリカの石油事情に通暁していた山本は、メキシコ旅行を志す。山本はメキシコ
旅行に対しては、旅費がないために水とパンとバナナだけですごした。余りにも貧しい
暮しぶりなので、メキシコ政府からは日本大使館に問い合わせが来た、というエピソー
ドがある。当時のメキシコの状況は、この時期、メキシコの石油産業の大転換期であっ
た。二十世紀初めから、本格的な油田開発がはじまったメキシコは、アメリカ企業の参
入により大発展を遂げ、第一次世界大戦中にアメリカからの需要が爆発的に増えたため
もあって、世界第二位の原油産出国になっていたのである。

707: 名無しさんAA:17/10/13 09:55
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 347-----------

バイウオーターは真珠湾攻撃の約一年前にロンドンにおいて亡くなった。死因は不明と
される1921の著書『太平洋におけるシーパワー:米日の海洋問題の研究』1925
年の書籍『太平洋戦争:日米関係未来記』はアメリカでも海兵隊を中心に盛んに読まれ
た。日本でも1923年(大正12年)水野広徳が「新国防方針の解剖」を書き、19
32年(昭和7年)同じ様に日米戦争仮想物語『興亡の此一戦』を出版し発禁となった
。双方共に「次の日米戦争は空軍が主体となり、空襲によって、東京全市は一夜にして
灰じんに帰す。戦争は長期戦と化し、国力、経済力の総力戦となるため、日本は国家破
産し、敗北する以外にない。当局者が発狂せざる限り、英米両国を同時に仮想敵として
国防方針を策立することはあるまい」と指摘した。太平洋戦争が始まる十八年前にすで
に敗北を見通していたのである。又物語では東京大空襲の惨状、被害をリアルに措き、
日本の敗北をにおわせた内容であったため「左傾的記事があり」という理由で、直ちに
発禁となってしまった。通常の知識人さえも日米開戦を危惧し敗戦を予想し海外からも
警告されていた。それは西洋歴史や日本の国情や世界の国々を知る者であれば推測出来
る話ではある。19世紀後からインディオとの闘争が終わればアメリカの世界進出は解
っていた話だったからだ。いや米国が英国の植民地として進出した時から既に世界進出
は米国民になった白人が独立を果たさずとも決まっていた意志とも言える。そも黒船来
航自体がその一環であったのだから全く世界大戦を希望していたと言える。当然、日本
とアメリカが、互いに帝国主義国として中国市場進出を狙う目的で双方戦争に突入する
ことは、十分あり得たし、当時も研究された重要戦略のはずだ。アメリカのアジア進出
においては、ハワイや南洋は軍事戦略上、要衝の地として手に入れたアメリカは米西戦
争の最中でも、ハワイを併呑している。日本がアメリカと衝突するとすれば、まずその
境界として騒がれるハワイだったことは誰でもわかる話だ。移民問題や海洋航路であっ
て当時の状況は、アメリカと日本はハワイで競争していた。しかしその実権はアメリカ
が握っていた数々の事件がある。日露戦争後の1905年、日本は朝鮮を保護国とする
が、同時に、日露戦争の仲介者としてアメリカはフィリピンを獲得する。これには日本
が秘密条約でアメリカに桂・タフト協定で承認していることが理由だ。だが日露戦争で
、アメリカはロシアとの間に立つ仲介者の国ではあるが、大統領はその労を渋々受けて
いたし 裏では活用して日本を最大限に国益確保に利用した。日本のより以上の国力を
上げる事を認めなかったのである。既に此処に黒い罠は作っていたのだ。


708: 名無しさんAA:17/10/13 10:12
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 349-----------

 この事件から1900年代には ドイツ・ロシアに加えて米国から日本が敵視される
様になった。この大倉組は大倉財閥の鉱山用建設会社で後の大成建設の前身であったが
、事実は長崎グラバーの代わりになった英国企業の製品輸入で財を成していた。191
7年、再編し土木建設部門を大倉組土木に、石炭採掘、鉄鋼販売を大倉鉱業に、残りの
主力商事部門を大倉商事として再編した。戦後、財閥解体により、内外通商と改称して
出発し大倉商事は世界各地に事務所網を張り巡らし、RCAやキャタピラー等欧米の一
流会社の日本代理店に指名された。1915年第一次世界大戦中のアイルランド沖を航
行していた英国籍の客船ルシタニア号がドイツ海軍のUボートの魚雷によって沈没した
、ルシタニア号事件は米国人128人を含む1198人が犠牲となった悲劇だがところ
がルシタニア号の積み荷には173トンの弾薬が有り、当時の国際法に照らし合わせる
と、ルシタニア号は攻撃を受けても仕方がない事件だった。ドイツ大使館も事前に米国
民へ「船に乗るな」と警告を発していたが事件は起こった。しかし、ウィルソン大統領
は弾薬の積載を決して認めず、積み荷の目録を開封禁止にした。当時の米ハウス大佐と
英国外交官エドワード・グレイ卿の会話記録が残っている。グレイが「もしドイツ軍が
米国旅客船を沈めたらどう反応するだろう。」と言うとハウスは「怒りの炎が米国中に
広がり、我々を着実に戦争へ導くだろう。」と答えている。ドイツの野蛮な攻撃に対し
てアメリカの世論は沸騰。これによって、それまでモンロー主義で中立であった米国議
会も反ドイツの雰囲気が強まり、アメリカも参戦するきっかけとなった。この事が次の
日米開戦での参考になって円卓会議でアメリカの方針が決まって第二次世界大戦になっ
た。日露戦争で一向に進まない話し合いに、日本は朝鮮を保護国とするが、同時に日露
戦争の仲介者、アメリカはフィリピンを獲得する。これが日本が持った桂・タフト協定
と呼ばれる秘密条約でアメリカは承認したとしている。1905年の事だ。その後政局
は西園寺公望と交代で首相を務め、「桂園時代」と呼ばれた。桂太郎がどこまで西洋を
理解していたかは不明だ。だが1900年に、拓殖大学の前身、台湾協会学校を創立し
ている。また、現在の獨協中学校・高等学校の前身である獨逸学協会学校の二代校長を
明治20年からつとめていた事から 陸軍が英国よりドイツに傾いた元を作ったとも、
考えられる。日本人好みの秩序ある社会性の維持に重きがあったのだろう。第2次桂内
閣時には韓国併合も行ったが1900年年末に児玉源太郎と交代した。もちろんすべて
山縣の意向だったがこの時期の最大の案件は「ロシアと戦うことになるのか否か、戦う
とすれば誰に首相の大任を委ねるか」であったと言う。対ロで悩む両国が見える事実だ

709: 名無しさんAA:17/10/13 10:22
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 350-----------

 この1904年(明治37年)の日露戦争までは 日本は小さな島国で見向きもされ
ないものだった。それは目の前に中国大陸と言う巨大な市場や土地や土俵があったから
だ。が中国市場に食い込んでいた欧州までもが多分この年を境に1941年(昭和16
年)の真珠湾攻撃までに、念入りに日本占領を考えて来たはずで その結果の日米開戦
を迎えたと考えていいのだろう。つまりハリマンを断ろうとも共同経営しようとも結果
は同じだったのだ。既に外相の小村寿太郎がポーツマス条約で賠償金を取れなかった事
とこのハリマンの訪日は最初から計画された物だった。そもそもハリマン自身円卓会議
の一員だったのだ。日本としても米国に賠償金要求に賛同されなかった事で、経済の面
から考えても、当時の日本としては満州国独立経営は必要であった。昭和の初期当時は
日本への原料供給地として、あるいは輸出製品の市場として満州は不可欠であった。「
満蒙は日本の生命線」と言った松岡洋右の言葉はあながちうそではない。当時ブロック
化する経済の中で一次産品の6割を担い二次産品への供給が無かったら8割が経済停止
状態だったと目されるからだ。土地のない日本が恐慌の後米国のニューデール政策に似
た雇用吸収と食糧増産が出来たのはこの独自の新天地のおかげであった。円卓会議その
ものが先の白人優位主義の中で如何に優位を保ち奴隷を活かすかの会議であった。原資
をロスチャイルドの融資を受けて、セシル・ローズのデビアス社が全世界のダイヤモン
ドをほぼ独占的に支配した時、ロンドンは宝石商のメッカとなった。南アフリカではこ
のローズが鉄道・電信・新聞業を支配下に入れ、1890年にはケープ植民地の首相と
なり、南アフリカの政治・経済の実験を一手に握りアパルトヘイト政策を推し進めてい
た。セシル・ローズは、白人を結集して世界中の全居住地を支配下に置き英語圏にする
という野望を持って秘密ネットワークを組織した。それが円卓会議グループであった。
創始者グループの幹部は、ロスチャイルド卿、バルフォア卿、グレイ卿、イッシャー卿
、ミルナー卿であった。ローズの死後は、アルフレッド・ミルナー卿が遺志を継いで、
「イルミナティの秘密ネットワークを担う人材を育成した。この頃彼らの中心議題は、
石油資本の独占であったが その戦略は大きく成功し各国の放漫な紙幣の流通と自然の
浪費は今の潮流である。物質多過の文明を築き欲望をそそのかし徳の無い世界は今後に
人類の最大の過ちである核を作ったが 西洋は兎も角東洋は果たして幸せになったのか
大きな疑問だ。この今の中国などと同じ嘘で固めた歴史で 人々は現代良優信仰にある

710: 名無しさんAA:17/10/13 10:31
 サミエル商会が開発運搬していたシェル石油が、英国政府の主導でロスチャイルドの
手に落ちた時は、バクー油田がソ連の革命によって国有化され、1878年秋、ロシア
初の石油パイプライン建設を計画し、資本参加を求めた時期だ。1904年の日露決戦
で負けたもののユダヤ資本はその後の貸付金の回収に米国と英国を捉え、ロシアも2回
の革命を終えて国家経営しだし、自国のみの石油消費は金を産まない事を知っていた。
賠償金が無かったのはソ連新政府がより多くの投資や融資を求めたからに他ならなかっ
た。1930年代には同国の石油産出量は世界の大半を占めていた。バクー油田を管理
したアレクサンドル・セレブロフスキーは「ソ連のロックフェラー」と呼ばれたが、投
資した資金返済でもロックフェラーは莫大な利益を出したが 安売りでアメリカを席巻
し日本にまで売って行った石油は不足に陥ってしまった。こうして1907年 ロイヤ
ル・ダッチとシェルが合併してはロイヤル・ダッチ・シェルが誕生する。ロイヤル・ダ
ッチとはオランダ皇室のことである。オランダは産油国のインドネシアを植民地にして
いた。サミエル自身は日本を好意的に見ていたが、この「円卓会議」の世論誘導と国家
主義的動向には逆らえなかった。実際日露開戦で日本支援していた事が布引丸事件で、
英国人の脳裏に悪い印象を与えていた。1909年 今のイランにアングロ・ペルシャ
石油が設立されるとこれは後にブリティッシュ・ペトリアムとなり、今はBPとなった
。その後出光石油の日章丸事件が起こるのだがその前にアメリカの石油資本にも大きな
動きがあっていた。山本五十六がメキシコに旅行したこの時期、メキシコの石油産業は
、大転換期にさしかかっていた。二十世紀はじめから、本格的な油田開発がはじまった
メキシコだが、大半はアメリカ企業の参入により大発展を遂げ、第一次世界大戦による
アメリカからの需要が爆発的に増えた為の潤いだった。それは当時世界第二位の原油産
出国になった事でも表される。だが、大正六(1917)年、メキシコ革命憲法が制定さ
れ、天然資源の国有化が宣言された。当然のごとく、。国際資本の石油会社は猛烈抗議
し、それをアメリカ、イギリスの両政府が後押しするという展開になった。当初のメキ
シコ政府は柔軟であった。所有権をとりあえず名目上確保し、操業は国際資本の好きに
させて、一定の税金を納めるだけで良いとした。だが、国際資本は、その状態に満足せ
ず、アメリカはメキシコ政府に強く抗議をし、軍事介入も辞さない構えを示す。この間
、石油会社が撤退し、ついに昭和十二(1937)年に、石油産業の完全国有化が強行さ
れた。メキシコ革命による石油産業の国有化である。だがこれは、第二次世界大戦後の
、中東諸国の油田国有化のモデル・ケースともなった。ロスチャイルドはバクーで産出
より販売が大事な事を心得ていた。戦後の出光は独占するその戦略に剣を入れた。

711: 名無しさんAA:17/10/13 10:44
 だがロスチャイルドは、バクー油田の権利を持っているので、これでロシア、インド
ネシア、イランと大産油国の石油を掌中に収めたことになった。現在でもシェルやBP
、あるいはロックフェラーのエクソンモービルなど、国際石油資本がもつ油田の埋蔵量
は世界の全埋蔵量の10%を超えていて、残りは産油国の国有石油会社が持っている中
、商品取引所による価格形成メカニズムを用いて、その影響力を堅持している。日本が
八八艦隊計画や戦艦大和の造船にかかった時既にアメリカはその動力となる石油資源が
枯渇する事を見越していた。そしてそれがハワイを通じたこのメキシコを目指すか、又
はマレーシアを目指すしかない。と思っていた。当時マレーシアは英国が国有化しこの
メキシコしか残ってない。との読みだったろう。この間世界は既に大艦巨砲主義が過去
の戦略になった事を知らなかったとは言えない。だが艦隊建設のピーク時の軍事予算が
、国家予算の6割も占めて作った艦隊計画であった事も山本五十六は充分承知していた
。実は日露戦争前の日清戦争の時でも下関条約で遼東半島の割譲を日本が要求している
ことを知った列強の、特に英仏に遅れてやって来たロシア・ドイツなどは衝撃を受けて
た。それはこれまで清国に接近はしているものの、今だ割譲を迫る露骨な要求するには
及んでいなく清国の情勢を見極めている状態だったからだ。此処に三国干渉の結果せっ
かく清に返還した遼東半島は、みすみす清がロシアに与え占有された。ロシアはシベリ
ア鉄道を整備し、旅順を軍港として大拡張し、そこを拠点とする太平洋艦隊を充実させ
、この結果、その脅威は到底往年の清の比ではなくなった。つまり日清戦争の死闘の戦
果は清国のおかげで御破算になって 更に日露戦争で奪う事に陥ってしまったのだ。こ
の事で賠償金の使途やロシアの南下政策などを背景に、江戸時代に後戻りたアジアにな
った。フィリピンやベトナム共に日本はアジア最大海軍大国清国を恨んだ。政府内では
この戦後経営が大きく試された。自立の中国政策は大誤算だったのだ。そこで打ち出さ
れたのが海軍増強の六六艦隊計画だった。その後は 海軍はそれを拡大した戦艦8隻、
巡洋艦8隻の常備を中心に、多数の補助艦艇を整備する悲願の大建艦計画である八八艦
隊計画を作った。しかしながら、当時の財政からはあまりに負担の大きいものであり、
米英との海軍軍縮条約(ワシントン条約)によってでも中止が勧告された。その為この
計画で実際に戦力化されたのは、長門型戦艦2隻のほか、球磨型軽巡洋艦〜夕張型軽巡
洋艦14隻などであった。山本が南米視察時メキシコの石油産業は、この国際大資本か
ら離脱し国有化をはかる、大混乱期にあった。もし、日本政府なり帝国海軍なりが長期
的な視野をもって取り組んでいれば、既存のメキシコ油田を入手できる可能性がないと
はいえない状態だったのであるが そこには米英との資本が絡んでいたから諦めたのだ
ろう。ここに山本の悲願は打ちのめされた。

712: 名無しさんAA:17/10/13 11:26
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 353----------

 実はフィリピンはかなり古い時代から日本と交流している。文献上は不明のままだが
ヨーロッパの白人社会が来る前だろう。戦国時代の織田信長の時代にさえ4、5つの、
日本人街が確認されている。と言うより日本にポルトガル船を連れて来たのさえ日本人
がインドに渡り教えての事だったとされる。既に伝説では鎌倉時代元寇が襲う前にも、
蛮人として黒い南洋人やカースト制を持つインド系の使節めいた人が流れついて居る。
そうした事もあってか明治政府が出来ると同時に大量の入植者が居て世界大戦前には、
何と資料で30位無許可では凡そ50位の日本人の所属する農場が出来て居る。多くは
バナナ農場だろうがその他ににもに鶏や卵や牛や稲作農場や干し魚なんかも出来ていた
ようだ。更に多くの経営者は別にスペイン人やらイギリス人などがいたらしいから奴隷
を指導する中間層だったといえるかもしれない。第一次世界大戦の帰趨は、石油が決め
ることになった。海路で石油を輸入していたイギリスは、Uポートによる攻撃にあって
、燃料枯渇の危機にあったが何とかしのぎきった。連合軍は、自動車を多用して前線へ
の兵員、物資の輸送を行い、鉄道への依存度が高いドイツを圧倒した。一九一四年八月
、高名なパリ防衛に、タクシーが一役買ったというエピソードは、燃料のパラダイム転
換を象徴するものである。戦車(もちろんガソリンで動く)の前線への投入も、イギリ
スが主導したものである。「ガソリンの一滴は血の一滴」という言葉は、第二次世界大
戦下、日本でもスローガンとして流布したが、もともとこの言葉は、石油の供給を求め
て、フランスのクレマンソー首相が、ウィルソン米大統領にたいして語ったものであっ
た。こうしてフランスもイギリスも頼りとするアメリカがこのフィリピンを手にしよう
としてスペインと戦った。そして日本は独自にスペインにもアメリカにも加担せず、地
元の原住民に手を貸そうとした。第一次大戦は1918年三月、ソビエトロシアとの講
和によって、入手可能だったパクー油田からの石油が、イギリス軍部隊の占領によって
途絶えてしまった事からドイツは降伏を決定した戦争だった。戦闘は勿論国内産業も麻
痺したのだった。この事は時の政府や海軍や陸軍の指導部が知らなかったとは到底思え
ない。第一次世界大戦から真珠湾攻撃まであったにもかかわらず、なぜ、帝国海軍は燃
料供給の確保ができなかったのか、その結果として、望まぬ戦いに何故踏み切らなけれ
ばならなくなったのか不思議である。特に日本に失望したとは言えハワイ攻撃はしなく
ともいいはずの急襲であった。

713: 名無しさんAA:17/10/13 11:28
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 354-----------

帝国海軍省は、大正七(1918)年、「軍事上の必要に基づく石油政策」を起草した。
日本においてのはじめての石油政策の提言であったが、閣議決定にはいたらなかった。
、こうした石油政策程度の提言すら通らない状態では、到底国策化は難しかったろう。
更に当時一留学生にすぎない、山本五十六には、どうにもできないことだったろう。山
本が、兄季八に宛てた絵葉書には、新潟の石油業者がメキシコまで試掘に訪れていたこ
とが記されている。「石油視察の為めタンピコ市に参り候。一日一井の産額五百余石と
云ふ井戸あり。噴出十三年継続と云ふもあり一石の原油一円転出税一円と伝う相場なり
。越後あたりでは、本当とは受取れぬ話に候。日本石油、宝田石油技師の来ると云ふ太
平洋沿岸の地は有望なるも未試掘の地。肝っ玉の太き人に来て貰はずば物に相成まじく
国家的見地から微力ながら推奨申し上候。」としている。米の1石は下位単位では10
斗にあたり、同じく100升、千合に相当する。100X1,8Lつまり50000x1.8lで
凡そ900ton/日の噴出量なのだ。これに驚嘆し日本では考えられぬ事に13年も吹
き出している。と言っている更に出れば一つの油井に500石で一日千円が相場だとま
で口添えしている。日本石油は石油の精製・販売会社で1888年有限責任日本石油会
社として創立した会社だった。戦前94年改組して日本石油と社名変更。1921年に
宝田石油,41年小倉石油を合併。 戦時42年鉱業部門を帝国石油に譲渡して後 同年
愛国石油を合併。アメリカのカリフォルニア・テキサス・オイル (現カルテックス・ペ
トロリアム ) との合弁による日本石油精製のほか 日本石油瓦斯となる。日本石油化学
,日本石油基地,日石観光,日石海外石油開発など多くの関係会社をもったが99年の
4月三菱石油と合併,日石三菱となったその後「日石三菱」から新日本石油に改称した
後に興亜石油、東北石油と合併「新日本石油精製」として統合された、日鉱金属とジャ
パンエナジーの共同持株会社「新日鉱ホールディングス」と経営統合し、新日本石油と
なった。その昔アメリカの石油会社「CALTEX」(カルテックス)社と提携関係にあった。
そのためコウモリをモチーフにした昔のブランドマークにはカルテックスの星のマーク
が隣にあった。彼らが石油掘削して掘り当てたのは確かだが メキシコ石油国有化で、
アメリカの石油企業と運命を共にし 更に山本との密接なつながりがあったのは証明は
出来る。ただ日本政府がこれを利用出来なかったのが不思議である。 

714: 名無しさんAA:17/10/13 13:42
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 355-----------

 かつて 蝙蝠男爵と呼ばれる男がいた。コウモリはかつては日本国中至る所にいたと
される。活動は夕闇から明け方まで 突然暗闇から出て来ては昆虫類を捕食し 良い米
が育つ所には蝙蝠がいる。とされた。更にカメムシや蚊などを食べるので益鳥?の仲間
にされ 江戸時代の食糧難の時代には食糧にもなったと言う。更に殆ど昼間は暗い所で
人の目に触れない場所にいて 影の如く悪い虫を食べてくれると言う事で神様の使いと
まで言われていた所もある。又そうしたご神木のある神社の祠や洞窟に居て 時々の浮
浪者を穴に入れない事からも番犬や神社の生きた狛犬の如く扱われたりもした。こうし
た事で黒く覆われた神の世界のイメージがあったかも知れない。彼らが落とした糞で、
火の玉が見える事もあろうし 彼らが食糧となり得る事で一緒に住んだ浪人が鞍馬天狗
の如く不正を正す事もあったかも知れない。筑後羽犬塚は羽犬を使う何某かの忍者がい
た様で、その大きな犬にも見える蝙蝠を縁起のいいものとして太閤秀吉が愛でたとする
言い伝えすらある。神になれないあくまでも神の使いの天狗同様神社はないが獣でも鳥
でも無き事から幅広い商売の縁起物とされた事もある。従って蝙蝠の字が福に似て縁起
がいいものとしたのでなく 縁起がいいから蝙蝠の字をつけたと言う方が正解だろう。
江戸後期の桜田門の変時分から日本人の多くは 人の繋がりが大きく広くなり又暗殺な
どが頻繁に起きる様になった。この時人々は今の暮らしが「お陰様で」成り立っている
と感じた様だ。無事明治政府が出来て、中国の様な政情不安が少なくなると こぞって
勧善懲悪の出版や話が増える。言わば水戸黄門や鞍馬天狗や赤胴鈴之助の世界だがその
中に黒蝙蝠と言う物語もあったと言う。どうもルパンの様な物語らしく、これが戦後に
大人気になったらしくこの最後に昇華して善行しか行わない黄金頭巾や黄金の蝙蝠にな
たと言う。これが黄金バット伝説である。がこれは古いらしくこの黄金の蝙蝠が日本の
字を形作ったマークにされた。それは米相場のとある人のマークでもあったらしい。
関西か四国の成金で家紋が撃ち手の小槌か何かであったが 兄弟喧嘩か親からの勘当か
されていて、親類縁者が解るから使えないので似た様な柄から蝙蝠を図案化したという
話だった。だがその前に江戸期の欧州に暗闇の男なる物語があったかに記憶している。
それは武器商人にの話だったと記憶している。所謂ブレーメンの音楽隊の話である。


715: 名無しさんAA:17/10/13 13:43

 ブレーメンの音楽隊の話のあらすじは 年取ったロバ日本語的に駄馬から始まる。
「かつて働き者だったロバは年を取ってしまい、仕事が出来なくなってしまったので、
飼い主から虐待されるようになった。これはかなわんと脱走し、ブレーメンに行って音
楽隊に入ろうと考える。その旅の途中で同じような境遇のイヌ、ネコ、ニワトリに次々
に出会い、彼らはロバの提案に賛成し、ブレーメンへと足を進めた。
ブレーメンへの道のりは遠く、日も暮れてしまったので動物たちは森の中で休憩をする
事にした。すると、明かりが灯る家に気づいたので、その家に近づいてみると、中では
泥棒たちがごちそうを食べながら金貨を分けている。ごちそうを食べたい動物たちは、
泥棒を追い出すために一計を案じた。窓の所でロバの上にイヌが乗り、イヌの上にネコ
が乗り、ネコの上にニワトリが乗り、一斉に大声で鳴いたのである。泥棒たちはその声
に驚き、窓に映った動物たちの影を見て、お化けが出たと叫んで逃げ出して行った。動
物たちは家の中に入ってごちそうをたらふく食べる事ができ、腹一杯になると明かりを
落として眠りについた。
森に逃げた泥棒たちは、落ち着きを取り戻すと家に帰ろうとした。そして一人が偵察の
ために真っ暗な家の中に恐る恐る踏み込む。動物たちは家に入ってくる泥棒に、襲い掛
かった。ネコは引っかき、イヌが噛みつき、ロバが蹴とばし、ニワトリは突っつく。闇
の中で散々な目にあって逃げ帰った泥棒は、本当にお化けに襲われたと思って仲間に報
告したので、泥棒たちは家を取り戻す事を諦めて退散してしまった。
動物たちはその家がすっかり気に入り、音楽を奏でながら仲良く暮らしました。」


716: 名無しさんAA:17/10/13 13:43

と言う話である。つまりロバはスラブ民族でありイヌはゲルマンであり猫はギリシャで
あった。で結局ニワトリはスペインやポルトガルの船乗りなのだ。でその泥棒の住処と
あるのは海賊とされた北方民族バイキングであり 占領されたのはイギリスやアイスラ
ンドでそれをブレーメンの音楽隊にもじったとしている。この話は裏に3匹の熊の物語
と似ている。 三匹の熊の物語は次のようなものだった。
 ある日女の子は家の裏の森で道に迷ってしまった。迷って迷ってどんどんと森の奥に
来た。女の子が森でクマの家を見つける。誰もいないので入ってみると、テーブルの上
にお粥が置いてあった。1つ目のお粥は「熱すぎる」。2つ目のは「冷たすぎる」。3
つ目のは「ちょうどいい」ので、全部飲んでしまう。
女の子は疲れていたので椅子に座ろうとした。1つ目の椅子は「大きすぎる」。2つ目
のは「もっと大きすぎる」。3つ目のは「ちょうどいい」ので座ったが、椅子は壊れて
しまった。
眠たくなったので寝室に行ってみると3つのベッドがあった。1つ目のベッドは「固す
ぎる」。2つ目のは「柔らかすぎる」。3つ目のは「ちょうどいい」ので、そこで寝て
しまう。クマ達が戻って来て、お粥は食べられ、椅子には座った痕があり、1つは壊さ
れていて、ベッドには寝た痕があり、子グマのベッドには女の子が寝ているのを発見す
る。目を覚めた女の子はクマに驚き、慌てて家から逃げていったのであった。
と言う物語である。これは元々のロシア人とされるツングース族の犯された森の話を
トルストイが翻訳したとされる。


717: 名無しさんAA:17/10/13 13:48
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 356-----------

又明治末期から 海外作品を翻訳して人々の読み物となっていたが、その内日本人には
ちょっと似つかない名前や風景で もっと日本に近づけ馴染みの話にしたい事で蝙蝠男
が出来たり 蝙蝠男爵が出来た と言う話も伝わっている。
≪ストーリー≫第一話『ロンドンの黒い霧』
1926年のロンドン。“こうもり男爵”と呼ばれる盗賊が世間を騒がせていました。
金持ちから金品を奪っては、貧しい人々に分け与えている義賊です。スコットランドヤ
ードの、ハウス警視は彼を追ってアイザック・アシモフ教授が怪しいと睨んでいますが
、証拠がありません。そして、ハウス警視の姪、新聞記者のベティはアイザックと特別
な親友(ここは当時のこととて、はっきり書いてない)でことごとく叔父の邪魔をしま
す。(こう書くと、やたらシリアスに思えるけど完璧コメディ)アシモフ教授とベティ
がレストランに行くと、そこでベティの親友私立探偵のハニーと遭遇。三人一緒に仲良
く食事をしていたら、そこへ“こうもり男爵”登場!?持っている金品を奪われた上、
腕に怪我をした教授とベティは“こうもり男爵”退治をすることに!。。
奪われた指輪ケースに入っていたのは放射能物質で、ガイガーカウンターで突き止めた
先は汚職大臣のメイスン宅(ここは、かなりご都合主義)でも、相手は現職大臣。尻尾
を出しません。しかし、大臣宅からの帰り道、二人は“こうもり男爵”に襲われます。
ベティを置いて逃げ出す教授。そこへたまたま通りかかったハニーはベティを助けよう
としますが逆に二人は賊に捕まってしまいます。 そこへ、“こうもり男爵”登場”!
なんと今までの“こうもり男爵”は偽者だったのです!本物の“こうもり男爵”に助け
出される二人。偽こうもり男爵は逮捕され、一見メデタシ、メデタシ・・・とは行かず
、黒幕の大臣は罪を逃れてしまいます。そこで、ベティと教授の二人はメイスン大臣宅
に転がっている微量の放射能物質をネタに、1万ポンドを強請り取るのでした。それは
勿論寄付!。最後にハウス警視に追いかけられて、ライオン像の裏に隠れる“こうもり
男爵”ハウス警視が回りこんでみると、そこには肩を組み合って詩を読む教授とベティ
の姿が。。。 悔しがるハウス警視でした。チャンチャン♪
THE END!

718: 名無しさんAA:17/10/13 13:54
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 357-----------

山本五十六がロンドン滞在中に関東大震災が発生すると、山本は、動揺する周囲に対し
「日本人は偉大な民族であり、前より立派に復興する」と励ましている。1922年、
ワシントン海軍軍縮条約で八八艦隊計画により建造されていた長門型戦艦二番艦「陸奥
」が問題となり、それに対抗してアメリカがコロラド級戦艦三隻、イギリスがネルソン
級戦艦二隻を建造したことに関して「陸奥一隻のためにアメリカとイギリスを強くしす
ぎた」と皮肉を言っている。だがこの太平洋戦争に関しての海軍の行動は異常としか言
えない。日露戦争のときのような艦隊決戦を夢見ていたのか、どうしてガダルカナルま
で進撃してしまったのか、ハワイの精油タンクを爆破しなかった事でも、自分で自分の
首を絞めるような作戦ばかりしている。いずれにしても石油がなければ戦争も出来ない
のだからルーズベルトから石油禁輸された時点で勝敗はついていた。のも解り切ってい
るはずだ。ならば海軍首脳はなぜ戦争に最後まで反対しなかったのだろう。だからか、
最初から負けるとわかっていたから真珠湾攻撃のときから一次攻撃で引き上げるやる気
のなさだ。考えてみると武蔵大和などの巨大戦艦は、現代に当てはめると公務員たちの
公社公団のようなものであり、実際何の仕事をしているのかわからない。国から予算を
もらうために戦艦を作り自分たちの職場にしていた。しかし巨大戦艦は燃料がなくて、
大東亜戦争でもたいした戦果を挙げることもなく、燃料がなければ存在そのものが無意
味な代物だった。帝国海軍が備蓄していた燃料は、一年も動き回れば尽きてしまうこと
がわかっていた。だが南洋を侵攻した割に燃料確保に死に物狂いになった形跡が、海軍
には見られない。政府が決断しなければどうにもならない事ではあるものの 燃料がな
ければ戦争も出来なくなり負ける。これが言えなかったのは無責任だ。代替燃料の開発
なども研究はしてはいたが、泥縄式の研究で大型戦艦分すら製造できない物だった。巨
大な戦艦や空母は燃料がなければ動かない。いくら軍艦を建造しても燃料がなければ無
意味の筈だ。開戦当初から確保したインドネシアの石油は日本に運ぼうにも、タンカー
がアメリカの潜水艦にやられて来なくなり、護送船団を組んで物資を運ぶという発想も
帝国海軍にはなかった。フリゲード艦という護送船すらなかったのだ。山本五十六は公
式な宣戦布告にこだわったらしいが 公式な布告なら商船ルートは確保出来るという、
甘い考えがあったのかも知れない。ちょっと海軍の中の山本は全く謎だ。

719: 名無しさんAA:17/10/13 13:59
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 358-----------

 二十八氏は、『日本の海軍兵備再考』のなかで、海軍のエネルギー戦略を「陸軍を凌
駕したノーテンキ」とし、蘭印の油田に対して官民あげて買収交渉をすべきだったのに
、肝心要の海軍はまったく関心を示さなかった、と批判した。その後ずっとその課題を
、陸軍とともに意識することなく(前述した北棒太は別として)、対米対決まで来てし
まったことを跡付けている。昭和14年二月、海軍陸戦隊は、海南島を占領した。この
占領はアメリカにたいする重大な挑発行為だが、挑発するだけでそこから生じるリスク
にたいする処置を何もしなかった。(ハワイ攻撃もしかりである。)《 もしも海軍が
、占領した海南島に特別陸戦隊と根拠地を整備したならば、いつでもそこから、空母の
支援を受けつつ、直接蘭印を衝くことができた。しかし海軍には、燃料地政学の見識を
有するフィッシャーなく、また蘭印武力進駐が唯一の選択肢であることを確信し、その
案行のための絵の描ける"石原莞爾。も欠いていた。 》 文中のフィッシャーは、海軍
大臣チャーチルに、軍艦の全面的な石油燃料化をすすめた後に、政府の委員でイギリス
の、独自の燃料確保のために辣腕をふるった提督のことである。さらに、兵頭氏は云う
。《 西太平洋地域で最大の油田がある蘭印(インドネシア)の宗主国がドイツに占領さ
れ、政府と元首が亡命したということは、日本にとっては干載一遇の大チャンスだった
はずである。この時いきなり蘭印に軍隊を送り込み、強行進駐してしまえば、海軍のこ
の問題はすべて解決されたであろう。しかし、海軍人にキンタマは無かった。 》即時
の進駐に踏み切れなかったばかりか、海軍は、蘭印植民地政府と日本政府の、石油供給
に関する交渉に際してプレゼンスを示すために近衛首相が懇請した艦隊派遣も断ってい
る、と兵頭氏は指摘している。兵頭氏の想定は、事態を真剣に考えれば考えるほどに、
それしかなかったシナリオと思われてくるが、同時に日露戦争以降、艦船燃料が石油に
変っていくなかで、ひとたびもその隘路を正面突破しようとしなかった帝国海軍の姿は
異様であり、むしろ哀しく思われてくる。こうした視点から見ると、山本五十六の石油
に対する感覚は、多少あったものの、海軍全体の趨勢と大差はないのではないか、と思
われてくる。と書いている



720: 名無しさんAA:17/10/13 15:24
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 359-----------

ダニエル・ヤーギンは石油争奪を軸とした二十世紀史『石油の世紀』のなかで、真珠湾
攻撃について、このように書いている。《 真珠湾攻撃を発案した山本が、日露戦争で
の一九〇四年の旅順港奇襲の失敗点として指摘していたのは、攻撃の徹底を欠いたこと
だった。失敗は真珠湾で再び繰り返された。日本が開戦を決意した最大の動機は石油だ
った。にもかかわらずハワイ作戦の計画の中で、石油は忘れられていた。山本と 彼の
参謀たちは、石油に関してアメリカが圧倒的な擾位に立っていることを充分に承知して
いながら、オアフ島にある石油貯蔵基地の重要性を把握していなかった。この石油基地
への攻撃は作戦計画になかった。戦略的失敗だった。ハワイの石油はすべてアメリカ本
土から運ばれていたが、もし日本軍がアメリカ艦隊の石油備蓄基地と貯蔵タンクを破壌
しておけば、アメリカ太平洋艦隊のすべての艦船は次の行動の不可能に陥っていたはず
である。被害は真珠湾で撃沈された軍艦にとどまらなかった。石油は数千マイル離れた
カリフォルニアにしかなかった。真珠湾攻撃の後、アメリカ太平洋艦隊司令長官となっ
たチェスター・ニミッツ提督は、こう語っている。「日本軍の攻撃を受けた当時、艦隊
の燃料はすぺて地上のタンクに貯蔵されていた。その量は四五〇万バレルに達していた
が、タンクはどれも機銃掃射で燃え上がるような代物だった“もし日本軍が石油基地を
破壊していたら、戦争はもう二年長く続いていたかもしれない。」 》
(『石油の世紀上』日高義樹、持田直武共訳)


721: 名無しさんAA:17/10/13 15:24
真珠湾攻撃については、日本のなかでも多様な議論のあるところで、その点からすれぱ
、ヤーギンのきめつけにたいして異論はあるかもしれないけれど、石油を中心として、
現代世界の歴史を見ている著者の、「石油基地への攻撃は作戦計画になかった。あるい
は戦略的失敗だった」という一言葉は、かの詐欺られた奇怪な実験を想起するに増して
重い事だろう。1925年大正14年)12月には、駐米大使館付武官となって、再び
アメリカに滞在する。山本の航空隊在任は1年3ヶ月であったが、「天洋丸」に乗船し
て米国に向う山本の頭上を、航空隊の部下達が編隊を組んで見送った。とある。この、
1925年のアメリカは既に日本人迫害が起こっていた時でもある。余りにも悠長な見
送りと言える。又、美保関事件で軽巡洋艦「神通」艦長・水城圭次が自決した際、駐米
武官伊藤整一が「死んでは意味がない」と言えば、山本は「死を以て責に任ずるという
事は、我が武士道の根本である。その考えが腹の底にあればこそ、人の長としても御勤
めができる。そういう人が艦長に居ればこそ、日本海軍は大磐石なのだ。水城大佐の自
決は立派とも言えるし、自分としては当然の事をやったとも考えて居る。君の様な唯物
的考えは、今時流行るのかも知れぬが、それでは海軍の軍人として、マサカの時に役に
立たぬぞ」と叱りつけている。1927年の話だ。これが自分に言い聞かせた言葉だと
するか裏があると考えて見るかで違うが 海軍事情が少し垣間見えてくる。



722: 名無しさんAA:17/10/13 15:26
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 360-----------

 山本は昭和9年、ロンドン軍縮予備交渉の日本側全権代表として英国に赴き、その際
、バイウォーターの訪問を受けた。1884年生まれのバイウォーターと、明治十七年
生まれの山本は同じ五十歳だった。その後、学術誌「パシフィック・アフェアーズ」に
、バイウォーターは『太平洋大戦争』について多少の変更すべきことが出てきた、と記
した。日米戦争はフィリピン、グァム奇襲で開始される点に変わりないが、奇襲は違っ
た方法になる。航空母艦による作戦を採用するかもしれない、と言ったという。 当時
の第一次大戦後の世界経済はブロック化し、世界貿易が縮小していたために、後発国で
植民地の少なかった日本は世界市場から締め出されていた。したがって欧米列強の手が
届いていない海外市場の確保が至上命題であったのは確かである。『中央公論』大正十
二年六月号には、米国を仮想敵国とする新国防方針が23年に作成されたが、これに対
して水野は「新国防方針の解剖」を書き、日米戦争を徹底して分析、日米戦うべからず
と警告する。「次の日米戦争は空軍が主体となり、空襲によって、東京全市は一夜にし
て灰じんに帰す。戦争は長期戦と化し、国力、経済力の総力戦となるため、日本は国家
破産し、敗北する以外にない。当局者が発狂せざる限り、英米両国を同時に仮想敵とし
て国防方針を策立することはあるまい」と指摘した。太平洋戦争が始まる十八年前には
既に敗北を見通していたのである。同じく1925年 ヘクター・C・バイウォーター
は『太平洋戦争』で「中国における権益問題でアメリカと対立した日本政府は、内政に
対する国民の不満をそらす意図もあって、対米開戦を決意する。開戦当初、日本はアメ
リカより海軍力においてやや優位にあり、その優位を維持し戦局を有利に展開しようと
海軍はフィリピンに奇襲攻撃をかけマニラを占領するだろう。劈頭パナマ運河の封鎖、
フィリピン・グァム占領、カリフォルニアへの潜水艦攻撃を敢西太平洋の制海権を握る
。しかし、生産力に優るアメリカが海上封鎖による持久戦法をとり、中ソ両国も反日に
転じ、戦局は逆転する。そして艦隊主力をもって行なわれたヤップ島沖海戦でも日本は
敗北し、アメリカはグアム島など南洋の島々を次々に占領し、日本側守備隊は全滅する
。さらにマニラも奪い返される。この間には、ソビエトは樺太(からふと)に侵攻し、
これを占領し、中国軍は南満州を支配下におく。ついに内閣は総辞職する。日米開戦の
17年も前の正確な予測だ。「バイウォーター太平洋戦争と其批判」は、海軍少佐の石
丸藤太により訳されて、文明協会から発行されたが、結論が気に入らないと言うことで
、この貴重な予告を日本人は信じなかった。が驚いたことに山本五十六も、開戦直前に
、この真珠湾攻撃を指摘するバイウォーター記者と会見までしているということだ。

723: 名無しさんAA:17/10/13 15:27
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 370-----------

この死に関して諫められた駐米武官・伊藤整一は、太平洋戦争開戦直前の1941年(
昭和16年)8月11日に軍令部次長に就任した。、開戦前の国策会議に参画。開戦後
、日米交換船で帰国した海軍の駐米大使館武官・横山一郎に対してアメリカの最新動向
に関する質問を伊藤自身が行ったというエピソードが残る。最初、アメリカの太平洋方
面の日本への反攻経路を横山に質問し、横山はサイパン・硫黄島等と回答した。そして
、伊藤は、この戦争がどのように終結するかを検討するように、横山に依頼した。横山
は、じっくり検討した末、どのようにしても日本の敗戦は避けられず、うまくいっても
日清戦争以前に日本の状況は戻ると、伊藤に報告した。その報告の結果を聞いても伊藤
は何も怒らなかったので、横山は伊藤の人格に感心した。と言う。1848年カール・
マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが「共産党宣言」を発表した。執筆したバルーフ
・レヴィという人物が、マルクス宛の手紙の中で、その目的を打ち明けている。
「この新しい人類の社会組織の中で、我々ユダヤ人は いかなる国家に属することもな
く、また他の民族からの何の抵抗を受けることなくして指導勢力となり、やがてはその
影響は全世界に及ぶことになるでしょう。そして、もし彼らの中の 何人かの賢者が、
これら労働大衆のうちに確固たる指導権を打ちたてることに成功するなら、プロレタリ
ア革命の勝利によって 次々に世界共和国の一部となっていく諸国家の支配権は、これ
らプロレタリアを指導する我々ユダヤ人の手に容易に収めることができます。要するに
、プロレタリアの勝利は私有財産の廃止をもたらし、こうして公有財産となった他民族
のあらゆる私有財産は、公有財産を管理するユダヤ人の支配下に入るのです。かくして
我々ユダヤ人のメシアが到来するとき、ユダヤ人は「全世界の民の財産を ことごとく
ダビデの星の下につかさどるであろう。」と言い伝えられてきたタルムードの予言が、
ここに実現されることでしょう。」と言っている。既に日本の参戦前に英米会議は行わ
れ対独の秘密会談がチャーチルとルーズベルトで行われていた1940年12月の宣戦
布告を経て1月にはABC会談と呼ばれるカナダを引き入れた会談の結果、第二次世界
大戦中の1941年9月29日から3ヶ日間、ソ連参戦の話までをスターリンと共に、
ソ連のモスクワで連合国会談を行った。その後も戦後体制を1942年にも再び開催さ
れた為、こちらは第1回モスクワ会談と呼ばれる。この会談は、アメリカのW・アヴェ
レル・ハリマンとイギリスのビーヴァーブルック卿及びソ連のヨシフ・スターリンの3
人で行われた。この会談で、第二次世界大戦に於いての対ドイツにおける連合国のソ連
支援が決定された。

724: 名無しさんAA:17/10/17 05:30
謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 371-----------

アメリカのW・アヴェレル・ハリマンはE・Rノエル・ハリマンと共にニューヨークに
エドワード・ヘンリー・ハリマンの子として生まれる。1915年に父の経営するユニ
オン・パシフィック鉄道に入社し、1932年には同社の最高経営責任者に就任した。
一方で父の投資銀行を引き継ぎ、「W・A・ハリマン」社を創設、同社には弟のE・R・ハ
リマンやその友人で後に上院議員になる プレスコット・ブッシュ、ブッシュの義父の
ジョージ・ハーバート・ウォーカーが在籍していた。ちなみにプレスコット・ブッシュ
は第41代大統領ジョージ・H・W・ブッシュの父で、かつ第43代大統領ジョージ・W
・ブッシュの祖父である。同社は1931年に「ブラウン・ブラザース」社と合併し、
「ブラウン・ブラザーズ・ハリマン」に改組している。1941年にアメリカが第二次世界
大戦に突入すると、外交で活躍するようになる。ハリマンはヨーロッパへの大統領特使
として派遣され、戦争遂行についてイギリスのウィンストン・チャーチル首相と協議し
た人で彼が日米開戦シナリオを行ったとされる。1943年、ルーズヴェルト大統領は
ハリマンを在ソビエトアメリカ合衆国特命全権大使に任命し、1946年まで在職した
が大使としてハリマンはチャーチルやヨシフ・スターリンら連合国の首脳間の調整を行
い日本の休戦協定を阻止した。大戦末期、ソ連軍が中東欧諸国を占領していく中、ソ連
の拡張に危機感を抱き、ワシントンに警告した最初の人物の1人が駐ソ大使であったこ
のハリマンである。ハリマンはトルーマン・ドクトリンやマーシャル・プランなどの、
冷戦政策に対して大きな影響を与えた。その後一般に「ポツダム宣言」のたたき台とさ
れる「カイロ宣言」なる声明の会談を行った。カイロ宣言には公文書はこの世に存在し
てはいない。「カイロ宣言」は、署名のない「カイロ公報」を指しており、国際法上、
何らの拘束力も持ち得てはいない。又、草案に謳(うた)われているものは、太平洋の
島嶼(南洋群島)・台湾及び澎湖島等の日本領土については、奪取・占領・盗取した事
実はなく、明らかな事実誤認かつ歴史歪曲である。従って、「カイロ宣言」に依拠する
「ポツダム宣言」も不完全、特に第8条「カイロ宣言の条項は履行する」は空文であり
、日本が履行する義務は無いと言える。ローズヴェルト大統領、蒋介石大元帥及びチャ
ーチル総理大臣は、各自の軍事及び外交顧問と共に、北アフリカにおいて会議を終了し
、イスラエルへのユダヤ帰還が話し合われ蒋介石の出席で次の一般的声明を発した。


725: 名無しさんAA:17/10/17 05:30
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 372-----------

 ローズヴェルト大統領、蒋介石大元帥及びチャーチル総理大臣は、各自の軍事及び外
交顧問と共に、北アフリカにおいて会議を終了し、次の一般的声明を発した。
「(連合国の)各軍事使節は、日本国に対する将来の軍事行動を協定した。
@三大同盟国(連合国)は、海路、陸路及び空路により、その野蛮な敵国に対し仮借な
 い弾圧を加える決意を表明した。右の弾圧はすでに増大しつつある。三大同盟国(連
 合国)は、日本国の侵略を制止しかつこれを罰するため、今次の戦争を行っている。
Aこの右の同盟国(連合国)は、自国のために何らの利得をも欲求するものではない。
 また、領土拡張の何らの念をも有するものではない。
B右の同盟国の目的は、日本国より、1914年の第一次世界大戦の開始以後において
 日本国が奪取し、又は占領した太平洋における一切の島嶼を剥奪すること、並びに、
 満州、台湾及び澎湖島のような日本国が清国人より盗取した一切の地域を中華民国に
 返還することにある。
C日本国は、また、暴力及び貧欲により日本国が略取した他の一切の地域から駆逐され
 る。前記の三大国(連合国)は、朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由
 かつ独立のものとする決意を有する。
右の目的によって、右の三同盟国は、同盟諸国中、日本国と今交戦中の諸国と協調し、
日本国の無条件降伏をもたらすのに必要な重大かつ長期の行動を続行する。」
 と言う声明であった。これが ポツダム宣言の元になったと言われるカイロ宣言であ
る。このカイロ宣言には 従属国家としての自治国蒋介石の姿はない。というのも、そ
もそも此処に出席した蒋介石はソ連共産党のコミンテルン会議に出席した毛沢東の様に
支援さえあればどうでも良かったのだ。我々の土地の日本軍を払ってくれれば済んだ話
で 既に蒋介石将軍自体に 戦後の中国を順えて平和国家を作る意志も力も知恵もなく
人気すらなかった。此処にいるのは チャーチルのコネクトしてくれる資金と物資補給
だけが 欲しかっただけだったのだ。その為既に寝首を共産党に掴まされていた彼は、
戦後を中国大陸に中華民国を建立する術を持たなかった。米英は対日政策として敵との
宣言するに必要だったが 蒋介石には本来の支援者たる日本をどうしたらいいのか戦略
すらないままに、敵にしたくない米英の口車に乗らされた形だったのだ。


726: 名無しさんAA:17/10/17 05:31
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 373-----------

昭和20年(1945)7月17日は 既にソ連には中立の停戦仲介がソ連に届いて居
た。これをアメリカ、イギリス、ソ連の首脳(トルーマン、チャーチル、スターリンが
ドイツ・ベルリン郊外にあるポツダムに集いどうするか討議していた。7月26日には
、日本に降伏を勧める宣言を発表したが これは米国主導の米国の条文に合意するのみ
であった。この「ポツダム宣言」を日本が受諾すれば降伏、受諾しないならば戦闘続行
に誰も異論は挟めなかった。それは既に同じ日に原爆実験の成功の報が届き、どの国も
その情報は知っていた。この宣言はアメリカ、イギリス、支那の3ヶ国の共同声明とし
て発表された。ソ連は日ソ中立条約を結んだまま動いていなかったからだ。この時対日
戦に参戦してなかったので共同声明からは外されて そのまま終戦であればスターリン
は国内が維持できないと考えていた。チャーチルは既に今後共産党が世界を凌駕する事
に危惧があった。トルーマンはまだ米大統領を引き継いだばかりで 今までひ弱な体で
こうしたおぞましい会議に 原爆成功で威厳をもって出席出来る事に小躍りしていた。
実際には、この宣言に署名したのはトルーマンだけで、チャーチルは本国での選挙敗退
で帰国し、支那(アメリカが支援していた重慶政府)の蒋介石はポツダムに来てさえも
いなかった。要するにアメリカが自分で作って自分で署名したというだけの宣言だった


727: 名無しさんAA:17/10/17 05:34

第1条 米国、英国、支那は協議して戦争を終える機会を日本に与えることで合意した。
第2条 米国、英国、支那の3国は日本に最後的打撃を加える態勢を整えた。
第3条 我々の軍事力は日本の本土を壊滅することができるレベルになっている。
第4条 日本は決定すべき時期が来た。
第5条 我々の条件は以下の通りで、それ以外の条件はない。遅延は認めない。
第6条 軍国主義、世界征服をしようとした者は永久に除去する。
第7条 日本の戦争遂行能力がなくなるまで日本の諸地点を占領する。
第8条 「カイロ宣言」は履行され、日本国の主権は本州、北海道、九州、四国、
    そして我々が決定する島に限定される。
第9条 日本軍は武装解除された後、各自の家庭に復帰し、平和的な生活を営む機会を     与えられる。
第10条 我々は日本人を奴隷にしたり滅亡させようとする意図はないが、我々の国の
    捕虜を虐待した者を含む戦争犯罪人に対しては厳重に処罰する。
    日本国政府は民主主義を推進しなければならない。言論、宗教及び思想の
    自由、基本的人権の尊重を確立しなければならない。
第11条 日本は、経済、産業を維持することを許されるが、再軍備の産業は除く。原料
    の入手は許可され、将来、世界貿易への参加も許される。
第12条 前記の目的が達成され、日本国民が平和的傾向を有し、責任ある政府が樹立さ
    れたときには、連合国の占領軍は直ちに日本より撤収する。
第13条 我々は日本政府が直ちに日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、日本政府がそれを
    保障することを要求する。そうでなければ日本はすぐに壊滅されるだけである
    。
この宣言はアメリカにとっては当然だったが。米国支援を戦争の基調にしたイギリスや
、かつて日本と共同歩調で支援を採りながら 共産党にやられ、日本を裏切っての舵を
採ろうとする政策を続ける中国では 異論など言えるはずはない協議だった。

728: 名無しさんAA:17/10/17 05:36
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 374-----------

 ここにある宣言は 何ら変わったものではない。此処に日本の苦悩があった。日本が
もし ロシアではなくオーストラリアやカナダ或いはフランスやスペインなどに仲裁の
仲介をすれば 何ら問題はないはずだったが 米国に宣戦布告した事は仲裁者はソ連し
かない状態に陥ったのだ。此処に海軍の馬鹿さがある。ドイツが全ての欧州諸国を敵に
回した事で 欧州に米国との仲介者は居なく 又米国の戦略による戦争であった為に、
今だ建立して間もないカナダやオーストラリアやメキシコさえ 仲介者となり得ず休戦
は愚か停戦すら話し合いの場はなかったのだ。松岡が国際連盟を脱退した責任で松岡に
米国に停戦や休戦の会議を行えさせれば良かったのだがそれも出来ない体制の中にいた
。この宣言には全く日本が悪としては書かれなかった幸いにもソ連の脅威を考えた英国
と原爆に浮かれた米国によって日本列島の分断が免れたと言って良いとも言える。更に
此処に書かれている事は第一次大戦以降、即ち第二次世界大戦で占領した土地を返せと
言う宣言と、自由、基本的人権の尊重を行い民主主義を確立せよと言う物で日本政府が
無条件降伏せよとは書かれていない。軍隊の解体のみなのだ。つまり満州国政府を終わ
らせよとか日韓併合は解体されるとかは全く書かれていないのである。これが 米国の
優柔不断の馬鹿さだった。軍の統帥としての天皇を象徴として存続はさせるが 軍隊は
解体させ処罰する。これは不可能であったはずだ。これが海軍の思った思惑ではなかっ
たろうか。と考える。つまり山本五十六以下海軍の主だった者は すぐさま米国と外交
交渉し米国の1つの州となれば 中国大陸の覇権争いやソ連共産党との戦いにならない
。満州も一つの州フィリピンも一つの州となれば、それはそれで世界政府的仕組みとな
り、我々同じ東洋人がいがみ合って殺し合う事もなくなるのではないか。と世界政府論
である。つまり此処でもし日本が勝っても 直ぐに又米英から戦争が仕掛けられる。と
言う現実と日本ではいずれメキシコ石油を巡って熾烈な事になる。更にそこには米国が
勝つしか生き残り策はない。と言う腹つもりだ。更にこうなれば天皇が統帥権で判断す
るのみの世界でしかない現実だ。つまり天皇制が廃止する事でしか 米国の様な合議制
の社会が出来ないと言う。民主主義民の裏に金融資本の暗躍と支配がある事を知らない
戦略がそこにあったと言える。つまり陸軍はそれを知っていたが海軍はそれを信じなか
った。と言える。


729: 名無しさんAA:17/10/17 05:36
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 375-----------

トルーマンはフランクリン・ルーズベルトの死によって大統領になった副大統領である
。このルーズベルトを大統領にしたのは7シスターズを配下に置いた円卓会議であった
。他ならぬロスチャイルド一族の配下であった。一方、1897年、サムエルのシェル
はボルネオでようやく石油を掘り当てたものの原油には灯油成分がなかった。しかし、
重油としての船の燃料に使える為とマーカスはイギリス海軍に石炭の代替として提案す
るも受け容れてもらえなかった。だが石油機関の発達はの世界的ブームになり需要は、
急速に伸び供給不足になった、価格は上昇した。1874年に貴族の家柄で生まれたチ
ャーチルは、名門・ハーロー校に入学したが成績不振で大学進学を諦め、サンドハース
ト王立陸軍士官学校で軍人を志す事になった。士官学校を卒業した後、時にはインドや
スーダンなどで軍人として戦い、時には従軍記者として戦地の状況報告する仕事をこな
した。第二次キューバ独立戦争を観戦し、イギリス領インドでパシュトゥーン人の反乱
鎮圧戦、スーダン侵攻、第二次ボーア戦争に従軍している。1900年植民地省政務次
官としてイギリスに併合されたボーア人融和政策や中国人奴隷問題の処理などで英国領
南アフリカ問題に取り組んで敵の捕虜になった。捕虜の時は只の報道記者だったが突然
の列車襲撃で収容所送りになった。最初は直ぐに出れると思ったが、彼が兵士だった頃
の新聞記事があった事で下手をすれば民間人に偽装したとして戦争法規違反で銃殺され
る可能性も出てきた。チャーチルは12月12日夜中に便所の窓から抜け出して収容所を脱
走した。元イギリス人の帰化トランスヴァール人の炭鉱技師に数日間匿ってもらった後
、貨車に乗ってポルトガル領モザンビークのロレンソ・マルケスのイギリス領事館にた
どりついた。チャーチルはキューバ救援隊のおり『デイリー・グラフィック』紙と特派
員契約をしており、報告書を同新聞社に送り、特派員として戦地に赴くことは、いい小
遣い稼ぎになることを知っていた。家柄はあるものの貧乏兵士だったのだ。こうして、
アフリカで彼は知遇を随分得て居る。1900年に脱獄に成功した事は彼を人気者にし
た。驚くべき強運の持ち主でその事が選挙の勝因になった。




730: 名無しさんAA:17/10/17 05:43
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 375-----------

トルーマンはフランクリン・ルーズベルトの死によって大統領になった副大統領である
。このルーズベルトを大統領にしたのは7シスターズを配下に置いた円卓会議であった
。他ならぬロスチャイルド一族の配下であった。一方、1897年、サムエルのシェル
はボルネオでようやく石油を掘り当てたものの原油には灯油成分がなかった。しかし、
重油としての船の燃料に使える為とマーカスはイギリス海軍に石炭の代替として提案す
るも受け容れてもらえなかった。だが石油機関の発達はの世界的ブームになり需要は、
急速に伸び供給不足になった、価格は上昇した。1874年に貴族の家柄で生まれたチ
ャーチルは、名門・ハーロー校に入学したが成績不振で大学進学を諦め、サンドハース
ト王立陸軍士官学校で軍人を志す事になった。士官学校を卒業した後、時にはインドや
スーダンなどで軍人として戦い、時には従軍記者として戦地の状況報告する仕事をこな
した。第二次キューバ独立戦争を観戦し、イギリス領インドでパシュトゥーン人の反乱
鎮圧戦、スーダン侵攻、第二次ボーア戦争に従軍している。1900年植民地省政務次
官としてイギリスに併合されたボーア人融和政策や中国人奴隷問題の処理などで英国領
南アフリカ問題に取り組んで敵の捕虜になった。捕虜の時は只の報道記者だったが突然
の列車襲撃で収容所送りになった。最初は直ぐに出れると思ったが、彼が兵士だった頃
の新聞記事があった事で下手をすれば民間人に偽装したとして戦争法規違反で銃殺され
る可能性も出てきた。チャーチルは12月12日夜中に便所の窓から抜け出して収容所を脱
走した。元イギリス人の帰化トランスヴァール人の炭鉱技師に数日間匿ってもらった後
、貨車に乗ってポルトガル領モザンビークのロレンソ・マルケスのイギリス領事館にた
どりついた。チャーチルはキューバ救援隊のおり『デイリー・グラフィック』紙と特派
員契約をしており、報告書を同新聞社に送り、特派員として戦地に赴くことは、いい小
遣い稼ぎになることを知っていた。家柄はあるものの貧乏兵士だったのだ。こうして、
アフリカで彼は知遇を随分得て居る。1900年に脱獄に成功した事は彼を人気者にし
た。驚くべき強運の持ち主でその事が選挙の勝因になった。


731: 名無しさんAA:17/10/17 05:43
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 378-----------

1900年、ロシアの穀物生産の不振で経済不況が起き、石油の需要が急激に落ちて、
価格は崩壊してしまい ロスチャイルドは苦境に立たされた。これを救ったのがミルナ
ー卿だった。こうしてサムエルのシェルも軍部に取りあげれられていたが、そのごこの
ロスチャイルド卿がバクー油田を支配した。この第二次世界大戦は実に不思議な大戦で
あった。と言う人は多くいた。第二次世界大戦の勃発はドイツのポーランド侵攻によっ
て、イギリスとフランスが初めてナチスに対して宣戦を布告したことを意味し、「19
39年9月1日」とされている。だがその遥か以前にドイツもイギリスもフランスも、
戦争は始まっているのである。元々ドイツには第一次世界大戦に不服があった。昔には
ポーランドと言う国家があったのだろうが、フランス革命前後の三回に渡ってロシア、
プロイセン、オーストリアなどの大国の戦争で割譲されそのまま長い間に 分割配分国
家の領土だった。第一次大戦によってドイツ及びオーストリアは敗北しポーランド国家
も復活したがそれは英米の勝手な敗戦国は愚か地元の言い分を聞かないベルサユ条約に
よっての話だった。これは多民族国家にとっては新たな移住と国境による分断をもたら
し非常な不満を作られていた。更に英国や仏国はソ連共産党の緩衝としてドイツを置い
ていた。歴史的にスラブ民族とゲルマン民族の対立を利用していたのだ。ところが勝手
にドイツとソ連は独ソ不可侵条約を締結しその秘密議定書には、ポーランドの分割占領
が含まれていた。つまりその前年に勝手に仲直りしたのである。それは今と同じにソ連
には北国を逃れた領土拡大の野心があった。ポーランドばかりかバルト三国、ルーマニ
ア東部までを押さえて対独抑止力を強化しようという露骨な野心である。つまり緩衝地
帯の制圧こそ生きる道としてお互い野心があったのが 分割で協調したのだ。ドイツも
これで本国とケーニヒスベルグ(現カリーニングラード)の間の分断の不合理が解消さ
れた。こうしてドイツとソ連によるポーランドの分割占領が行われ、さらにソ連はフィ
ンランドへ侵攻し、翌年にはやはりドイツが北欧に攻撃を開始、デンマークとノルウェ
ーなどを次々と占領してしまった。ところがこの戦争の経過は、開戦したはずのドイツ
にはそう戦いが無く駐留してしまった。イギリス・フランスが、ほとんど戦争らしい戦
争をしないまま8ヶ月もの歳月が過ぎ去ったのである。ここには後年強い印象を受けて
きた、“悪魔ナチスに対する正義の連合軍”の激戦どころか、ドイツとフランスの国境
付近では、両軍の兵士がなごやかに語り合う風景まで報告され、「開戦の初期の段階で
は、予期されたものとまったく異なる様相を呈した」と、多くの書物に書かれている。

732: 名無しさんAA:17/10/17 05:44
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 378-----------

1900年、ロシアの穀物生産の不振で経済不況が起き、石油の需要が急激に落ちて、
価格は崩壊してしまい ロスチャイルドは苦境に立たされた。これを救ったのがミルナ
ー卿だった。こうしてサムエルのシェルも軍部に取りあげれられていたが、そのごこの
ロスチャイルド卿がバクー油田を支配した。この第二次世界大戦は実に不思議な大戦で
あった。と言う人は多くいた。第二次世界大戦の勃発はドイツのポーランド侵攻によっ
て、イギリスとフランスが初めてナチスに対して宣戦を布告したことを意味し、「19
39年9月1日」とされている。だがその遥か以前にドイツもイギリスもフランスも、
戦争は始まっているのである。元々ドイツには第一次世界大戦に不服があった。昔には
ポーランドと言う国家があったのだろうが、フランス革命前後の三回に渡ってロシア、
プロイセン、オーストリアなどの大国の戦争で割譲されそのまま長い間に 分割配分国
家の領土だった。第一次大戦によってドイツ及びオーストリアは敗北しポーランド国家
も復活したがそれは英米の勝手な敗戦国は愚か地元の言い分を聞かないベルサユ条約に
よっての話だった。これは多民族国家にとっては新たな移住と国境による分断をもたら
し非常な不満を作られていた。更に英国や仏国はソ連共産党の緩衝としてドイツを置い
ていた。歴史的にスラブ民族とゲルマン民族の対立を利用していたのだ。ところが勝手
にドイツとソ連は独ソ不可侵条約を締結しその秘密議定書には、ポーランドの分割占領
が含まれていた。つまりその前年に勝手に仲直りしたのである。それは今と同じにソ連
には北国を逃れた領土拡大の野心があった。ポーランドばかりかバルト三国、ルーマニ
ア東部までを押さえて対独抑止力を強化しようという露骨な野心である。つまり緩衝地
帯の制圧こそ生きる道としてお互い野心があったのが 分割で協調したのだ。ドイツも
これで本国とケーニヒスベルグ(現カリーニングラード)の間の分断の不合理が解消さ
れた。こうしてドイツとソ連によるポーランドの分割占領が行われ、さらにソ連はフィ
ンランドへ侵攻し、翌年にはやはりドイツが北欧に攻撃を開始、デンマークとノルウェ
ーなどを次々と占領してしまった。ところがこの戦争の経過は、開戦したはずのドイツ
にはそう戦いが無く駐留してしまった。イギリス・フランスが、ほとんど戦争らしい戦
争をしないまま8ヶ月もの歳月が過ぎ去ったのである。ここには後年強い印象を受けて
きた、“悪魔ナチスに対する正義の連合軍”の激戦どころか、ドイツとフランスの国境
付近では、両軍の兵士がなごやかに語り合う風景まで報告され、「開戦の初期の段階で
は、予期されたものとまったく異なる様相を呈した」と、多くの書物に書かれている。


733: 名無しさんAA:17/10/17 05:44
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 379-----------

 元々この第一次大戦すらもスラブ民族と言う農耕民族とゲルマン民族と言う職人集団
との争いにユダヤ民族と言う商売人が利益の為に戦争を止めたもの。と考えた方が解り
易いものかも知れない。遠くオスマン帝国とローマ帝国の戦いで戦乱に明け暮れて国が
かなり出来たが、大航海時代を経て産業革命を過ぎた第一次世界大戦の終結は基本的に
 植民地などユダヤ資本のイギリスが原料をドイツに持ち込み、ゲルマンドイツが加工
貿易によって物が作られ その作られた物でスラブ民族のフランスなどが農産物や食糧
を作る事で好循環するはずだ。と言う発想で円卓会議が仕掛けたものだった。この大元
の資源や資本調達を英国がする事で世界を指導する。と言う発想だったのである。つま
りはモンロー主義である不干渉主義を貫いたチェンバレン首相の期間にはドイツ進軍で
もそのシステムは有効に機能していたのだ。ところが1940年「ドイツ・ソ連通商協
定」によって、ソ連から石油・貴金属・穀物の供給を受けてこのシステムが壊れたのだ
。ソ連の介入は全く英国にその原料輸入の役目が無い事を意味していた。更にアフリカ
などの遠隔地からの輸送を必要としない 地産地消に近い2国間取引で安価に出来る物
になった。これに英国は危機感を持ったが、ソ連にもインフラ整備の需要は高かった。
第二次世界大戦当時、ドイツにソ連から石油を供給して戦争を持続させたのは、ロスチ
ャイルドがソ連のバクー油田から生み出した会社「シェル」であった。シェルはイギリ
スのロスチャイルドが資本を出した会社であった。「シェル」の支配者としてのし上が
り、石油業界の独裁者ナポレオンと異名を取ったのが、ヨーロッパの石油王ヘンリー・
デターディングという男だった。バクー油田をソ連が国有化したため、ひと方ならぬ苦
労をして原油を確保しなければならなくなったデターディングは、共産主義を相手に闘
いはじめた。彼は共産主義を憎む資本家の象徴でもあった。奇しくもこの男が結婚した
女性の父親は、ロシア革命によって倒された帝政側の将軍だったとされる。恐らくは本
人も同じ対赤軍派の人間だったのだろう。その後に、今度はナチス党員の女性と結婚し
、自らナチス党員となるや、ドイツに定住して次々とヒトラーの組織に資金を与えはじ
めた。こうして、暗殺されたユダヤ人ラーテナウ外相が敷いたドイツ・ソ連の外交路線
を悪用しながら、片方ではバクーなどから石油を調達し、もう一方でナチスを育てると
いう「シェル」の奇妙なビジネスが誕生した。デターディングは開戦の7ヶ月前にこの
世を去ったが、開戦後も社内でこのビジネスが続けられたことは、石油業界の語り草と
なっている。

734: 名無しさんAA:17/10/17 05:53
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 380-----------

 此処に改めて「共産党宣言」が思い起こされる。ヴァルター・ラーテナウはドイツの
政治家で共産党「友愛会の会員」でもあった。ナチス党の多いの中で右翼に暗殺された
ユダヤ人と言われる。又、ヘンリー・デターディングも同じ友愛会の仲間であったろう
。彼は1880年頃、オランダ人のタバコ栽培業者ジルケルと共にランカットの君主か
ら採掘権を獲得して、石油探鉱に乗り出したとされる。当時オランダには石油資本がな
く、オランダ領東インドの元総督、中央銀行、オランダ国王ギィヨーム3世などがスポ
ンサーとしてこの事業に後押ししている。実はノーベルが樽に石油を積めて船で送る頃
1880年にヨーロッパの石油の6割以上はアメリカ産のスタンダードオイルだった。
そこでノーベルが黒海沿岸のバクー鉄道を開通させると1883年にアルフォンソ・ロ
スチャイルドは、ロシア政府の公債を引き受けた功績でバクー付近のバニト油田を入手
し、ロシアでの石油ビジネスに本格的に乗り出した。そうして莫大な資金を投入し『カ
スピ海・黒海会社』を設立し、ヨーロッパでの製品販売を円滑に進めるため、イギリス
に販売会社を設立した。ヨーロッパ市場においても、ロシア国内市場でもノーベル一家
優位という情勢が続いたが、米国内ではこの石油を安価で提供し、米国の弱小鉱油所は
次々と倒産吸収がなされた。そこで、新たな市場開拓に迫られたロスチャイルドは、海
運仲買人のフレッド・レーンの紹介で、マーカス・サミュエルを紹介された。彼こそ、
シェル石油のサミエル商会の主人だった。彼が石油産業に踏み出すのはロスチャイルド
の手引きによるもので、本来運送販売のみで供給は薄利多売を目指したロスチャイルド
は生産しないと思っていた。「シェル・トランスポート・アンド・トレーディング会社
」を作り極東や東南アジアにその市場を求めた。サミエルがスマトラ島の東シナ海側の
掘削するのに対してオランダ国王はインド洋側にその掘削地を求めた。元々サミエルは
ロシアのバクー産の石油の日本への販売が目的で作られた会社だったのだが その依存
からの脱却に「シェル・トランスポート・アンド・トレーディング会社」の創りメロン
財閥のガルフ石油会社の起源となったスピンドルトップ産の原油買い取りに成功して、
日本に送っていた。だが、この油田はあっという間に底を尽きて新たに油井探索を仕方
なくする事になったのだった。こうしてボルネオの「シェル」とスマトラの「ロイヤル
・ダッチが同時期に油井を掘り当てたのだった。それは簡単な事だった。というのも、
この頃現地人は沼になってまで出てくる油の付いた枯葉を傷口に付ける民間療法があっ
てそこは必ず油が吹きだす確信はあったが井戸を掘る権利こそが難しかったからだ。


735: 名無しさんAA:17/10/17 11:13
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 381-----------

第二次世界大戦は1939年9月1日にドイツ軍はポーランド侵攻に及んで始まったが
、それに対抗して9月3日にはフランスはイギリスとともにドイツに宣戦布告していた
。が おかしな事に、フランス・ドイツ国境地帯(アルザス=ロレーヌ)においても、
戦闘はほとんど起こらず、フランス人が言うところの「奇妙な戦争」「まやかし戦争」
の様子を見せていながらドイツ軍は進軍していた。開戦から半年以上が過ぎた1940
年5月10日、ドイツ軍はオランダ、ベルギー、ルクセンブルグのベネルクス三国に侵
攻を開始(黄色作戦)。ベルギー北部で防御戦を展開するという戦前からの計画(ディ
ール計画黄色作戦)に従ってフランス・イギリス連合軍は軍の主力をベルギー方面に進
出させ、フランス・ドイツ国境地帯においてもマジノ要塞を挟んでドイツ軍と対峙させ
ていた。ドイツ軍はベネルクス三国とマジノ要塞の中間に位置し、フランス軍の防御が
手薄となっていたアルデンヌの森から 戦車部隊を投入させていた(赤色作戦)。この
ことによってフランス軍の防衛線はすぐさま崩壊した。ベルギー方面に進出したフラン
ス・イギリス連合軍はドイツ軍に包囲されてしまい、5月末に、これらの部隊の多くが
イギリス本土への撤退にかろうじて成功した。(ダイナモ作戦)だがこれにより頼りに
なるも軍はなくはやフランスにドイツ軍を止める戦力は何処にも残っていなかったのだ
。こうして電撃作戦で、あれよあれよと言う間に、6月14日、ドイツ軍がパリに無血
入城して、6月16日、フランスのポール・レノー内閣は総辞職するに至った。後継の
フィリップ・ペタン元帥はドイツへの降伏を決断して その宣言をした。6月22日、
コンピエーニュの森において休戦条約が調印され(独仏休戦協定)、フランスの当時第
三共和政とした議会政府は崩壊した。アルザス=ロレーヌ、サヴォワ・ニースはそれぞ
れにドイツと同盟国イタリアに割譲され、パリを含む北部フランスはドイツ軍の占領下
に置かれたのだ。辛うじて残った南部フランスはペタンを首班とするフランス国(ヴィ
シー政権)として独立を許されたものの、実際の運用はにはドイツの保護国としての地
位であった。一方、先の前国防次官シャルル・ド・ゴール准将は亡命先のイギリスで「
自由フランス」を結成し、フランス国民に対独抗戦の継続とヴィシー政権への抵抗を呼
びかける。つまりはここまでの戦争は 日本国内の中国の共産党の行った事件よりも、
かなり穏やかに戦闘が少なく 進んでいたと言える。イギリスにチャーチル政権が出来
る前までの話である。1901年5月24日に、彼は かねてからのフリーメーソンに
正式加入していて チャーチルが政界の実権を握るとこれまでの戦争が一変し悲惨を増
した。

736: 名無しさんAA:17/10/17 11:14
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 382-----------

 アフリカに新聞記者となった時期の、ボーア戦争時の脱獄では、植民地政策に苦しん
でいた英国の現地軍は 意気を高める為にはチャーチルを英雄に仕立てあげる工作をし
た。こうしてチェンバレン内閣での保守党の人気庶民院議員となったチャーチルは、英
国各地で講演会を行い、1900年末にはアメリカや英領カナダでも講演会を開いて金
を稼いだ。講演会はかなりの収入にはなったが、もともと彼は白人優位主義開戦論を主
軸にして講演していた。その為 米国では聴衆のうちアイルランド系アメリカ人はこの
講演が嫌いで反英的な人が多く、それ以外のアメリカ人もボーアの惨劇を知るボーア人
寄りの人が多かった為に多くは講演会を開いた時の聴衆はフリーメイソン会員の為のも
のだった。それでもチャーチルはボーア戦争に関する厳しい追及を受けた。結局チャー
チルも侵略戦争である事を認め「私がボーア人だったら、やはり戦場で戦っているだろ
う」と言い「戦争になれば、それが良い戦争だろうが、悪い戦争だろうが、祖国に従う
しかない」と言い訳をした。帰国してからは「経済重視から関税を永続させよ」という
保護貿易論のチェンバレンに対してチャーチルは自由貿易支持をしていた為、「自由主
義を明確にしない保守党」を見限り、自由党への移籍をした。移籍にはチェンバレンの
本拠地バーミンガムに乗り込んでの保護貿易論を批判するという挑発行動を取ったりし
た。この当時 世論の自由党と自由貿易支持は圧倒的であり、自由党としては保守党内
自由貿易派と手を結ぶ必要がほとんどなかった為に移籍は容易ではなかったがそれでも
移籍し、やっとフリーメイソンの幹部会員の仲間入りを果たした。保守党候補からは、
さんざん「裏切り者」との批判が続いたが その後海軍大臣まで登り詰めた。第一次大
戦後のドイツの賠償金問題は暗礁に乗り上げていた。ドイツ政府の賠償資金調達の結果
、マルク為替は下落し始めた。このため「1922年5月期限の支払いが困難となり、
ドイツは支払い延期を求めたが、フランスはほとんど応じる事はなかった。マルクは1
ポンド=5575 マルクまで下落し。1922年1月のパリ会議で支払い猶予問題について話し
合われ、一時的な支払い猶予がやっと認められた。アメリカのチャールズ・ドーズがこ
の賠償委員会に参加し「公共施設や売却と猶予のあるドーズ案」を提示しドイツはそれ
に喜んで同意した。それでも1929年10月24日、世界恐慌が発生し、1930年1月には第2回
ハーグ会議でヤング案実行に関する協議が行われることに至る。ところがこの苦境に人
民はナチ党を台頭させた。この事は機転の早い海外資本家の資金引き揚げを起こさせた
。こうしてドイツ全土が大規模な信用恐慌に見舞われたのだった。

737: 名無しさんAA:17/10/17 11:25
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 383-----------

こうして1932年6月からローザンヌ会議で再度協議が行われ、この会議でヤング案
の停止と、3年間の支払い猶予、30億ライヒスマルクの支払いによって賠償を終了さ
せるという合意が行われた。しかしナチ党と共産党の拒絶によってドイツ国内での批准
は行われず、対連合国債権減額に反発するアメリカ議会でも批准されなかった。こうし
て1933年にはナチ党が権力を掌握し、ライヒスバンク評議会などの連合国監督措置
は撤廃され、同時に7月にドイツ政府は外国への支払いに対するモラトリアムを宣言し
たのである。その頃世界では過去に合計100回以上の、様々な国でのユダヤマフィア
が社会の害とみなされ公式に追放令が発布されている現実があった。その「迫害」の歴
史は第二次世界大戦のホロコースト以上でもあった。元々初期のローマ帝国は宗教に対
してとても寛容な政策をとっていた。しかし、多神教を信仰していたローマ人に対して
反感を持ち続けたユダヤ人らは、反乱を起こし、やがてローマ軍によって攻め滅ぼされ
てしまった。これが旧約聖書に描かれるユダヤ人の歴史だが この旧約聖書によって、
その後はイスラム教もユダヤ教もキリスト教の中の極端な一派であると黙認されていた
。ナチ党の前進で国内政策は生き詰まった。そんな中で、ヒトラーが打ち出したのが、
「東方生存圏」だった。ドイツから見て東側、つまりポーランドなどの東ヨーロッパに
ドイツの領土を拡大していこうという考えでだ。「民族の発展、食料、資源の確保の為
に、我々はそれを実現せねばならない。」と強く訴えかけて声援を得たのだ。ヒンデン
ブルク大統領が死ぬと、ヒトラーは大統領の権限を奪い取り、国民投票で約9割という
賛成を得て国家元首となるとついに第一次世界大戦にて失った領土を取り返すべく動き
出し 第二次世界大戦へと入っていくのは必然だった。ヒンデンブルクは、戦後共和制
となったドイツにおいての大統領に当選。大票のアドルフ・ヒトラーを首相に任命した
。これが国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に政権樹立への道を開いた。かつてド
イツ騎士団のザクセン隊の名家であり、数々の戦歴は輝かしい物がある一物だったが、
キール軍港の水兵の反乱にはじまるドイツ革命が起こった時は、宰相マクシミリアンが
独断で「ヴィルヘルム2世はドイツ皇帝位とプロイセン王位を退位した」と宣言した上
でヴィルヘルム2世のオランダへの亡命を指揮したとして人気を落とした。ドイツ国民
は第一次大戦を連合国に敗けたのでなく この行為で敗けたと信じていた。従ってこの
大戦後のベルサユ条約の過酷な制約はとても飲むめないものに映っていた。

738: 名無しさんAA:17/10/17 11:34
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 384-----------

 ヒットラーは最先端の科学技術によってこの国は守られる。と信じて止まなかった。
そこで円盤開発に、日本人の科学者も採用されていた。だが、円盤開発のプロジェクト
が進まない内に日本が間抜けな参戦を宣言した。「あの当時、日本が真珠湾攻撃をしか
けたというニュースを聞いて、私はもうだめだ、と思った記憶がある。」「あの頃、私
たちドイツ軍士官の間では、アメリカがこの戦争に乗り出さなければ、我々は勝てると
いう自信があった。ところが、日本が真珠湾に奇襲をかけたとなると、当然、アメリカ
が参戦してくる。私たち空軍士官の仲間たちは、これで全ては終わった、と顔を見合わ
せたものである。」と言っている。ヒトラーは『我が闘争』の中で、世界には「3つの
人種」がいると書いている。1つは「文化創造種」、2つは創造種の創った文化に従う
「文化追従種」。そして、これらの文化を破壊する「文化破壊種」だ。彼の定義による
と、一等種(文化創造種)はアーリア民族のみであり、日本人や他の民族は二等種(文
化追従種)に過ぎない、と書いている。そして、3番目の文化破壊種はユダヤ人だと書
いている。相当なユダヤ嫌いで、同じ『我が闘争』の中で、当時、世界に蔓延していた
「黄禍論(反日感情)」はユダヤ人が扇動したものであると書いている。ヒトラーは同
じ敵を持つ仲間として、日本との同盟を考えていたのである。建築家アルベルト・シュ
ペーアは次のように書いている。「ヒットラーは人種的観点からむろん問題の多い同盟
を彼は拒否しなかったが、『日本との対決』を遠い将来に覚悟していた。ヒトラーには
イタリアをそれほど強国とは信じていなかったが、日本は列強国の同盟国とみていた。
」「『ユダヤ菌』の発見は世界の一大革命だ。今日我々が戦っている戦争は、実は前世
紀のパスツールやコッホの闘いと同種のものなのだ。いったいどれほどの病気が『ユダ
ヤ菌』によって引き起こされていることやら。日本はユダヤ人を受け入れなかったので
、菌に汚染されずにすんだのだ。ユダヤ人を排除すれば、我々は健康を取り戻せる。す
べての病気には原因がある。偶然などない。」「1925年、『我が闘争』には書いた
のだが、ユダヤ人は日本人こそが彼らの手の届かない敵だと見ている。日本人には鋭い
直感が備わっており、さすがのユダヤ人も内から日本を攻撃できない。ということは、
分かっているのだ。となると外から叩くしかない。本来、イギリスとアメリカにとって
は日本との和解は多大な利益を意味する。その和解を必死に阻止しているのがユダヤ人
なのだ。私は警告を発したが、誰も聞く耳を持たなかった。」と嘆いている。既に国連
などの国際会議すらユダヤのフリーメイソンが暗躍し牛耳っている事を知っていた。

739: 名無しさんAA:17/10/17 11:46
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 385-----------

1941年12月8日に日本が真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まると、ヒトラーはそ
の直後の12月11日の演説で「我々は戦争に負けるはずがない。我々には3000年
間一度も負けたことのない味方が出来たのだ!」と日本を賞賛し、喜んでアメリカに対
し宣戦を布告した。かつて満州重工業の総裁であった鮎川義介氏が、ヒトラーに面会し
た時のことである。ヒトラーは鮎川氏に対し、次のような意味のことを語ったという。
「貴方の国が如何に努めてみても、我が国ドイツのような 工作機械は作れないだろう
。しかし、ドイツもどうしても日本のまねが出来ないものがある。それは貴方の国の持
つ歴史と万世一系の皇統である。これはドイツが100年試みても、500年間頑張っ
ても到底出来ない。大切にせねば駄目ですよ。」と言ったと言う。これはヒトラーが、
日本の天皇を崇敬しているというより、君民一体の理想的な国家形態を伝統的に継承し
ている日本に対して、率直に敬意の気持ちを表わしたものであろう。当時「君主政治」
をほぼ完全に近い形で実現している国は、当時では日本だけであった。外国、とくにヨ
ーロッパの王朝の場合、国王はたいてい飾り物的な意味合いが強かった。また国王では
往々にして圧政をしき、国民と対立関係にあった。しかし日本の場合、天皇は国民を慈
しみ、国民は又天皇を敬愛するという、欧米人にとっては甚だうらやましい関係が、ご
く自然な形で成り立っていたからである。そしてこの「君主政治」と対極をなすものが
、主権在民を置く民主主義であるが、ヒトラーは民主主義の欺瞞性を鋭く見抜いて多く
の批判をしていた。更にその民主主義の議会と言う大衆烏合の民衆の愚民の群れとして
その欠陥から自分が選出されたと知っていた。日本はこのドイツとの寄り付きが英国を
刺激していたのは間違いない。がそれも又ソ連封鎖の為の英国の策略でもあった。現実
に1936年に「日独防共協定」が結ばれるのは仕方のない世界地図だった1940年
に「日独伊三国軍事同盟」が成立するまでには、日本とドイツの友好関係は早々には好
い関係を築いてはい無かった。中国大陸での日中戦争以前からドイツの将軍たちは反日
的で、彼らは上海付近の中国人の防衛陣地の建設に裏で協力していた事を知ってのだ。
中国人の防衛陣地の建設に協力し、この縦横に張りめぐらしたクリーク(溝)を利用し
た「ドイツ流陣地」の突破に日本陸軍は苦戦を強いられた多大な犠牲をした経験すらあ
る。第一次世界大戦のときは日本とドイツは「敵国」で「諜報・扇動」もドイツだった
し 日本に対して裏から国際法違反も問わず中国を応援して大陸の混乱をもたらしたし
、そもそもの「黄禍論(反日感情)」がドイツ帝国を築いた「ヴィルヘルム2世」その
ものがより多く吹聴してきた歴史だったからである。

740: 名無しさんAA:17/10/17 12:03
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 386---
 こうして何故だか「ユダヤ嫌い」のヒットラーと「ユダヤ妄信」に走ったチャーチル
と世界を土俵に対決を試みたのだが 周りの普通の民には大きな迷惑だったに違いない
。底流には日清・日露の戦いに勝った日本へのやっかみと猜疑心があった。というのも
その影響からか、日露戦争後しばらく経って、ヨーロッパのメディアでは「次は日本と
アメリカが戦争をするだろう」という記事がかなり散見されるようになったからだ。も
ちろん、そこに白人優位主義を守ると言う選民思想の対立の意味合いが強くあったこと
は言うまでもない。当時の日本人は、それらの報道にはかなりに驚いてはいた。何故な
ら、それまでお人好しの日本人はおしなべて、「アメリカはまったくの友好国」だと思
いこんでいたからだ。この頃、日本人を恐怖で震撼とさせた一つの事件があった。それ
は1907年3月に、突如アメリカの軍艦16隻が、船体を真っ白に塗り、何の前触れ
もなく威嚇の為に日本の太平洋近海に現われた事件だ。この事件について、欧米の新聞
各紙は、「日米戦争」が今から始まるとして報じた。勿論円卓会議の入れ知恵ではあっ
た。だが日本側はまったく寝耳に水で、黒船来航以来の相当大きい恐怖と不安を煽った
上に、信じていた事裏切りのショックをかなりの全国の有識者や日本国民に与えていた
。対して、日本政府側は戦争になるのを避けるために急遽この「白船来航」を歓迎する
ことの応対を決めた。米国からすればスペイン統治と日本の内情と中国進出の目的であ
った。明治政府であろうが徳川幕府であろうが 日本でハワイの様な政変が起きれば、
そこには抜け目なく入り込んで極東の足場作りが出来るからだ。だが日本政府側の対応
は素早かった。歓迎の式典を大々的に行い、報道し横浜に上陸したこの米軍一行を、国
を上げたお祭りムードを無理やりにも装って歓待する事で、非常事態を見せず回避した
のだ。こうして西欧からの飛び込んで戦闘開始や国家間の摩擦を待っていた国際的新聞
報道の記者達は大々的報道せずに、一緒にやって来ていた欧米有力各紙の記者のトーン
も接岸前と違い何の変哲もない歓迎式典の記事に変わってしまったのである。これには
共産党も、自由貿易を標榜するシオニストも拍子抜けではあった。こうした嫌がらせは
その後も、奉天総領事の指導と共に数々と起こっていた。ハリマン予言を達成させたい
が為の処置であったは間違いなく、ユダヤ予言の実力行使であった。ドイツ帝国国内で
も同じことは沢山起こっていた。一次大戦以前はこの共産党赤軍の防波堤としての散々
ドイツを利用していたがバクー油田の権利がユダヤ金融資本に提供しだした事で、ロシ
アは発展の為の工業技術を取り込む事と英国の自由貿易によって各国に解放を迫る事が
完全に一致していた意見となった。正にマルクスとエンゲルスが「共産党宣言」を発表
し執筆したバルーフ・レヴィの手紙の事が起こってしまっていたのだ。

741: 名無しさんAA:17/10/17 12:19
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 387-----------

「この新しい社会主義の中で、我々ユダヤ人は いかなる国家に属することもなく、又
他の民族からの何の抵抗を受けることなくして指導勢力となり、その影響を全世界に及
せる事になる。そして、彼らの中の何人かの賢者が、労働大衆の確固たる指導権を打ち
たてることに成功しても、プロレタリア革命の勝利によって 次々に世界共和国の一部
となっていく諸国家で、支配権はこのプロレタリアを指導する我々の ユダヤ人の手に
容易に収められる事になる。要するに社会主義革命の勝利は私有財産の廃止をもたらし
、こうして公有財産となって、他民族のあらゆる所の私有財産は、これを財産を管理す
る我々ユダヤ人の支配下に入るのだ。かくして我々ユダヤ人の元にメシアが到来する時
、ユダヤ人達は(全世界の民の財産を ことごとくダビデの星の下に司るであろう。)
と言い伝えられてきたタルムード予言が、ここに実現される。」と言っているのである
。チャーチルと対立しユダヤ迫害に及んだナチス党総統ヒットラーはこう述べている。
「我々にとって日本は、いかなる時でも友人であり、そして盟邦でいてくれるであろう
。この戦争の中で我々は、日本を高く評価するとともに、いよいよますます尊敬する事
を学んだ。この共同の戦いを通して、日本と我々との関係はさらに密接な、そして堅固
なものとなるであろう。日本がただちに、我々とともに対ソビエト戦に介入してくれな
かったのは、確かに残念なことである。それが実現していたならば、スターリンの軍隊
は、今この瞬間にブレスラウを包囲してはいなかったであろうし、ソビエト軍はブダペ
ストには来ていなかったであろう。我々両国は共同して、1941年の 冬がくる前に
ボルシェビズムを殲滅していたであろうから、ルーズベルトとしては、これらの敵国(
ドイツと日本)と事を構えないように気をつけることは容易ではなかったであろう。」
「又 他面において人々は、既に1940年に、すなわちフランスが敗北した直後に、
日本がシンガポールを占領しなかったことも残念に思うだろう。合衆国は、大統領選挙
の真っ最中だったために、事を起こすことは不可能であったはずだが、その当時にも、
この戦争の転機は存在していたのである。さもあらばあれ、我々と日本との運命共同体
は存続するであろう。我々は一緒に勝つか、それとも、ともどもに亡ぶかである。運命
がまず 我々(ドイツ)を殲滅してしまうとすれば、ロシア人が“アジア人との連帯”
という神話を日本に対して 今後も長く堅持するとは、私には まず考えられない。」
(1945年2月18日)と述べている。つまり 日本は時期を逸したのでドイツが敗
けた時には日本は白人を信じれるだろうか。私は信じれるとは思わない。と言う意味を
述べたのだ。

742: 名無しさんAA:17/10/17 12:22
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 388-----------

こうしたアメリカのあからさまな威嚇行動を受け、日本でもアメリカとの戦争は避けら
れないものとする意識が芽生え始めた。。結果、ヒットラーが言う様に、欧米諸国も、
人種の壁や、反日感情の高まりを強く大きく広がり始めた。日本人はそのような世界の
人種差別的風潮を受けて、1918年、第一次世界大戦が終結した後のパリ講和会議の
席上では「人種平等に関する提案」という人種差別撤廃案を提出した。だがその提案に
対する投票の結果は、賛成17/反対11と賛成多数であったものの、委員長を務めていた
アメリカ大統領のウィルソンによる「このような重大な案件は全会一致でなければダメ
だ」との理不尽な独断で不採決となってしまったのだった。このパリ講和会議の一件に
ついて、アメリカの黒人歴史学者のレジナルド・カーニーは著書の『20世紀の日本人ー
ーアメリカ黒人の日本人観1900―1945』のなかで次のように書いています。
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743: 名無しさんAA:17/10/17 12:23
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 第一次世界大戦が終わると、ヨーロッパの戦勝国は世界秩序を元に戻そうと、パリで
講和会議を開いた。それぞれの国にはそれぞれの思惑があったが、一致していたのは、
日本とアメリカからの申し入れには耳を傾けよう、という姿勢だった。 ウィルソン大
統領は、世界秩序回復のための一四ヶ条を手に、パリに乗り込んだ。彼がまず唱えたの
は、国際法と国際秩序の確立であった。日本の代表団は、ウィルソンが出せなかった 
一五番目の提案を持って講和会議に出席した。「わが大日本帝国は、国際連盟の盟約と
して、人種平等の原則が固守されるべきことを、ここに提案する」。これこそが、いわ
ゆる一五番目の提案であった。(中略)人種平等の実現を目指していた日本と、そうで
なかったウィルソン。その差がここにでたと言ってもよいだろう。もし日本のこの一五
番目の提案が実現されていれば、アメリカ黒人にとって、おもしろいパラドックスが生
じていたかもしれない。(中略)アメリカ黒人がほかの連盟の人間と同じように、民主
的に扱われるためには、アメリカ以外の外国に住まねばならなかったはずである。そん
なパラドックスが生じていたかもしれないのだ。(中略)「おそらくは世界でもっとも
有望な、有色人種の期待の星」、それが日本であるという確信。日本はすべての有色人
種に利益をもたらすという確信があったのだ。それは、たとえひとつでも、有色人種の
国家が世界の列強の仲間入りをすれば、あらゆる有色人種の扱いが根本的に変わるだろ
うという、彼の強い信念によるものだった。(中略)全米黒人新聞協会(NAAPA)は、
次のようなコメントを発表した。「われわれ黒人は講和会議の席上で、”人種問題”に
ついて激しい議論を戦わせている日本に、最大の敬意を払うものである」。
「全米一二〇〇万人の黒人が息をのんで、会議の成り行きを見守っている」。
――レジナルド・カーニー『20世紀の日本人ーーアメリカ黒人の日本人観1900―1945』
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744: 名無しさんAA:17/10/17 12:43
謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 389-----------

その後もアメリカの「日本いびり」は続いた。アメリカは1922年、ワシントン会議
で日英同盟の解消を取り付け、さらに日本に主力軍艦を建造してはならないという条約
まで日本に押しつける。アメリカ国内では、日本からアメリカへ渡った日本人移民への
差別が激しくし、1924年にカリフォルニア州で「排日移民法」という法律ができ、
日本からの移民を禁止するという事態にまで及んだ。これはボーア会議で中国人移民を
使えなくなったアフリカや他の植民地に中国人を送り込もうとし画策中に、英国内でも
「人種差別の廃止」「人権平等主義」「奴隷制の廃止」と言う当たり前の思想を呼び起
させ植民地廃止を呼び掛けて止まない日本に対するフリーメイソンの腹いせでもあった
。それから当時清国で王朝が滅び、いくつもの勢力に別れて混沌としていた中国の政治
に対して、「日本は口を出すな。」と言ってきたかと思うと、その裏では、アメリカ、
イギリス、中国、オランダによる、いわゆるABCD包囲網と呼ばれる日本への一方的
な経済制裁で中国を取り込んでいた。この事は如何なのんびりした海軍にも衝撃だった
筈だ。日本国内の物資の欠乏は深刻な事態に陥ったが、こうした、あからさまに日本を
敵視した日本孤立化への動きが、実際に真珠湾攻撃による太平洋戦争の開戦に至る以前
、数十年間に渡って行われてきていた。つまり、「太平洋戦争(第二次世界大戦)」と
は、そのようなアメリカの「世界の覇権」への執着が「これでもか。まだか。」と次々
に日本に対して虐めて国際法を無視してでも植民地政策を置きたい人々の仕組んだ戦争
だったのである。これに海軍はいささか優しすぎた。米国を英国と同じ紳士の国と思っ
た嫌いがある。この「人種差別」的な意識が日本を追いつめたことで起こった戦争なの
だが、全く信じられないのは そのような事実上の「抗争」は、実際に武力衝突が起こ
る以前40年間に渡って、執拗に延々と繰り広げられていたことだった。海軍に、この
米国主導の「新黄禍経済論」をはねのける力は全くなかった。そしてそれは、最終的に
日本は、自国の完全な孤立化を回避し自国の存続を維持する働きも妨げた。「アジアの
自立」の目標は第一次大戦前からではあったが、最初に陸軍が掲げ考えた「(欧米排除
による)アジア諸国を欧米の植民地から解放し、それらの国々と一致団結する道」しか
残る道はないと考えます。日本がアジアを結束させ、指導的な立場に立ち「大東亜共栄
圏」をつくることでアジアの独立と団結を一挙に図ろうと言う明治政府以前の考えに戻
そうとしたのです。薩摩藩が説いたと言う征韓論の素となった「アジア自衛の建白書」
が下地となり此処で又政府方針になったのである。江戸末期のペルー以来の再考だった

745: 名無しさんAA:17/10/17 12:53
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 390-----------

 こうしてとうとう「ハル・ノート」という事実上のアメリカ側からの最後通告を拒絶
して、「大東亜共栄圏」の実現をめざして、1941年12月8日、ハワイの真珠湾の
米軍基地を攻撃し、第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)へと突入することにな
るのだが 此処に徹底的米軍基地を叩くと言う意志が見られない。精油施設は破壊して
いない。更に何故だか 他にも先に述べた様なミッドウェーやガダルカナルまで足を伸
ばして失敗続きの上にサイパン諸島をアメリカに陥落させている。不思議な作戦である
 まさにこの視点こそが 海軍将校に欠けていた視点だった。山本五十六も南雲中将も
黒人に対する人種差別がある事は解っていたであろう。だがそれが日本人感覚のままで
の士農工商的身分差別の延長としか思っていなかった事だ。醜悪な何百年も及ぶ憎しみ
や恨みや世界征服計画などとは 荒唐無稽な物だとしか見て居なかったのである。又、
留学に際しても彼らが充分にアメリカ国内で市民と触れ合ったのなら その悲痛な黒人
の叫びや怒りと冷酷にして冷淡で執拗に金に執着するユダヤ民族の習慣に出会えた筈だ
が 日夜閉じこもっての「優良書籍」での見地であったが為にドイツの中の「共産赤軍
」と「スラブ民族」への頑なな拒否と「ケルマン民族」選民主義の視点には、出会わな
かったのだろう。つまり 白人の戦争をゲームとしたブルジョア主義に同じ土俵に乗っ
たとしか考えられないのだ。『ヒトラー第二の書』 A.ヒトラーはこう述べる

746: 名無しさんAA:17/10/17 12:54
かったのだろう。つまり 白人の戦争をゲームとしたブルジョア主義に同じ土俵に乗っ
たとしか考えられないのだ。『ヒトラー第二の書』 A.ヒトラーはこう述べる
「ドイツに対する戦争(第一次世界大戦)は 圧倒的な世界連合によって行われたが、
ドイツの破壊に直接的な利益のあったのは一部の国々だけだった。少なからぬ国々を戦
争に踏み切らせた影響力は、その国の本当の国内的利益から生じたものではまったくな
いか、あるいはその国にとって何の得にもならないものだった。醜悪な戦争プロパガン
ダによってそうした国々の国民世論は五里霧中の状態となり、戦争支持の熱狂へとかき
立てられた。しかもその戦争は、その当の国民にとってはまったく得るところがなかっ
たばかりか、その本当の利益とは真っ向からぶつかることにすらあったのである。この
途方もない戦争プロパガンダを煽動した勢力は、世界中の国際ユダヤだった。なぜなら
ば、こうした国々が数多く戦争に参加することは、その国々の利益から見れば無意味に
思えるかもしれないが、『世界ユダヤの利益』という視点から見ればまさに意味のある
、論理的に必然性のあることだったことだからである。」そして第二次世界大戦も全く
同じ理由と結果だった。此処に一次大戦で儲けたユダヤ資本の二次大戦を又起こした理
由でもあった事が証明される。だがこの証明は一般市民には意味のない悲しいものだっ
た。日本の大和民族にとっては 全くとんでもない事で鎖国を暴力的に解かれ 交易を
迫られ、交易して必死に「西洋に追いつけ」と軍備し大国となり隣国に法治国家を施し
しようとなれば 大義なく叩かれたのである。理不尽にも程がある国際社会であった。


747: 名無しさんAA:17/10/17 13:07
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 391-----------

サルトルは、2000年来のユダヤ人迫害の原因が、決して被害者側には見当たらず、
むしろ加害者側にあったことを明らかにします。上は聖書から、下はヒトラーまで、反
ユダヤ主義は、ユダヤ人の背中にすべての社会悪の責任をなすりつけ、選民的全体主義
を打ち立てる手段であったと言うのです。彼によれば「もしユダヤ人が存在しなかった
ならば、反ユダヤ主義たちはそれに変わるものを作り上げただろう」し、「他の国にお
いては、それが黒人であったり、黄色人種であったりする」のです。と説いた。悪者を
仕立て上げる人間の歴史。それを答えにしている。「偽物のユダヤ人達」ではヒトラー
が何故反ユダヤ主義に陥ったのかを紐解く。「ヒトラーは学生になるためにオーストリ
アの首都ウィーンに出ることになります。そこで、彼は日雇い労働をしながら日銭を稼
ぐ生活をしていました。」彼は、著書『わが闘争』の中で、ユダヤ人の存在を意識して
いなかったことを告白しています。貧しい暮らしの中でやがて、なぜ社会に貧困が存在
し、貧困ゆえの不幸が存在するのかを意識するようになっていきました。その後、当時
のドイツ・オーストリア社会でユダヤ人勢力が影響力を及ぼしていることを発見するの
でした。「ユダヤ人の共同体の存在は特殊である。特殊性の理由は、歴史的経緯や宗教
的習慣による部分が大きい。とくに彼らの知識吸収の習慣 や知識共有の習慣、例えば
毎日の勉強量・議論の量が、そもそも非ユダヤ人と異なっており、生活習慣として身に
ついている。そのような人々が、コミュニティを形成し、成長していくことに競争社会
で勝とうと思えば、同じだけの生活習慣を身につけ、同じような生活習慣の人材を身の
回りに置く必要があるだろう。残念なことに非ユダヤ人にとってそんなことはそもそも
現実的な選択肢ではない。」と語る。「数千年にわたる同族結婚、しばしばごく狭いサ
ークル内での同族結婚によって、ユダヤ人は彼らがその中で生きた数多くの他民族より
も、全体としてはその種族とその特質を厳しく保持してきたのである。そのユダヤ人は
宗教共同体ではなくユダヤ教徒による宗教同盟であり、実体としては、ほとんどユダヤ
民族による一時的な統治システムである。」と。つまりユダヤ社会に於いてはユダヤ外
は害する獣であり又ユダヤ社会内でも 自分以外は蹴落とす存在で 贋ユダヤとする事
で同じユダヤ教徒も 敢えて殺して良いとしている社会だ。と言うのだ。これは支配者
はいても統治者が居ない世界だからと言う分析をし そこに支配の象徴を金とし、その
力を信じた これが加害者の正体であるとしている。ユダヤでは金ナチスでは武器日本
では天皇中国では暴力がその支配の象徴であった。


748: 名無しさんAA:17/10/21 12:33
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 392-----------
そもそもユダヤ人はアーリア人諸国家のような、領土と結びついた独自の国家を持っ
たことがない。にもかかわらず、その宗教共同体は事実上の国家となっている。なぜな
らば、それがユダヤ民族の保存と拡大と未来を保証しているからである。しかし、これ
はまったく国家の任務である。私たちの暮らす日本であっても、日本人一人ひとりが時
の総理大臣と直接つながっているわけではないが結果的に統治されており、望むと望ま
ずとに関わらず集団としての意見を発し続ける。それは常にはあなたの意見とは一致し
ないだろうが、外国からは「日本の意思」とみなされるだろう。日本に生まれた者は、
最初から日本人であり、さほど努力をせずとも世界の平均所得(年間50万円)と比べれば
はるかに上流階級で生活することになる。そして世界の平等よりも、そのような優位性
を持続しようとするのが国家だ。通常はそうである。我々アーリア人の生命闘争の基本
は土地だ。土地を耕し、それをすべての基礎として、自分たちの活動範囲内で、自分た
ちの民族の生産力を通じ、まず自分たちの必要を満たす経済を生み出すのである。と。
『ヒトラー第二の書』 アドルフ・ヒトラーは  そう書いている。
 ナポレオン戦争後の基本的な考え方の一つとしてナショナリズムが挙げられる。即ち
それぞれの民族が主権を脅かされない土地を持つという考え方だ。ユダヤ人のシオニズ
ムも、その一つであると考えることもできる。ナショナリズムの考え方の一方で、伝統
的な王家によって支配される「正統主義」の立場がある。だが一方ユダヤ民族は、領土
的な意味での国家建設を遂行する意志はない。そこで、自身の存在を支えるものとして
、他の民族の業績や創造的活動が必要となってくる。「吸血鬼体質社会」「寄生富民」
の生活である。ゆえユダヤ民族は、存在そのものが、他民族の生命の内部に入り込んだ
寄生虫的なものとなる。したがってユダヤの中の生存競争の究極の目標は、多民族生産
力の活発な活動とその諸民族を奴隷化することによる価値の窃取や搾取となる。この目
標は、古今を通じて現実にユダヤの生存競争を代表してきたものであり、その達成の為
にユダヤは、その民族性格のなかに隠し持ったあらゆる武器を利用するのである。そこ
には、寒くて暮らせない中でも 逃げ延びて暮らすしかない北方民族の真の姿となった
共産主義の顔が見えてくる。過酷な自然では搾取が人間に向くか自然に向くかのみの違
いである。こうして今まで無かったユダヤのシオニズムが18世紀ごろから、突然欧州
社会を覆うのである。それは丁度バチカン社会がキリスト教の中の一部としてローマ帝
国の庇護の下での古典的キリスト教徒の世界が 帝国と共に終焉を迎えた時期だった。
秩序が 平等の論理を捨てて 権威や汚職に取り込まれ贅に飽かしては闘争が起こる。
世の中は 頭の良い異常者ばかりではないからだ。通常は平凡な駄馬の社会なのだ。

749: 名無しさんAA:17/10/21 12:34
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 393-----------

 ヒトラーは、この「ユダヤ人」がどの国においても民族同化しないことを指摘してい
る。民主主義も社会主義も批判したとされるヒトラーだが、ユダヤ人問題を放置した状
態で民主主義や社会主義が機能しないことを指摘していたと言い換えることもできる。
あるいは、仮にユダヤ人問題が解決しても尚、国境という明確な機能限界が存在してい
るのが民主主義であり、それを解決するためには純血主義の結論が導かれてしまう。日
本のようなほとんど単一民族、単一言語、民主主義の集団であってもなお、排他的な考
え方が存在するのが現実だが それはアメリカ社会で州境を超えてはびこるギャング団
と同じく国家の「機能限界線」を知り得た民族の生きる知恵だった。そこで金融支配と
言う新たな手口が編み出される。新天地のアメリカ合衆国において、ユダヤ人たちは、
金融力の支配者である。一年一年彼らはますます1億2千万人の民衆の労働力の監督者
の地位に上っていく。ユダヤ人は自分たちの至福の中で千年王国を築く。日本のような
国家主義国家が残っているのをはばかり、それ故自分自身の独裁が始められる前にきっ
ちり日本の様な純粋国家が絶滅されるよう願っているのである。ヒトラーには単にユダ
ヤ人が異質で嫌悪すべきものだと主張しているのではなく、具体的に何が起こりつつあ
るのかを厳密に考察している。国土を持たず地球上の多くの場所でコミュニティを形成
し、さらにそれらの繋がりを大切にしている「ユダヤ人」という集団は、事実上国家の
ような機能をもってしまう。個々のユダヤ人の意思とは関係なく、集合として、あるい
は「統治システム」の出力として社会への影響を与えてしまう。こうして『わが闘争』
が出版される。1925年は、第二次世界大戦( 1939年-1945年)の14年も前の事で
ある。だが、ヒトラーはユダヤ系資本が確実にアメリカの金融界で支配力を伸ばしてい
ることを認めている。そして、ドイツ人によるドイツの統治が不能になり、貧困や格差
が拡大してしまうことに懸念を表明している。ホルスト・マーラーは「ヒトラーはユダ
ヤ主義的金融資本主義がもたらす金利奴隷世界の来ることを看破し、それを防ごうとし
た。一人一人の貯金さえもが脅かされようとしている現在の世の中こそが彼が慧眼であ
ったことを証明している。」とそこに称賛の声を記録していた


750: 名無しさんAA:17/10/21 13:01
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 394-----------

 1929年はユダヤ資本家にとって投資先の中国ではリスク管理が出来ず。かといっ
て日本では、欧州各国の日本脅威論で反感状態でアジアに優良投資先で無くなった事で
新たな投資先をソ連にした年でもあった。革命で成功したレフ・トロツキーを国外追放
し恐怖のスターリンの独裁体制がここに完成した年でもあった。日本では先の張作霖爆
殺事件責任者の処分発表したが、処分が軽すぎると天皇が首相田中義一を叱責し、田中
義一内閣は総辞職。濱口内閣成立した。エルサレムでは、ユダヤ人とアラブ人が対決す
る「嘆きの壁事件」を発生させていた。これはイギリス委任統治領パレスチナのエルサ
レムにある嘆きの壁で、祖国建国を目指すシオニズム運動により差別に苦しむ離散ユダ
ヤ人を入植者として英国が認めた事で大量にやって来ていた移民管理のなさから来てい
た。いい加減な英国の国策はユダヤの指導で1917年のバルフォア宣言をし入植が可能に
なったのだ。世界各国の同胞から支援を受け、政治や経済に多大な影響力を持つ ロス
チャイルド家など強力な後ろ盾として 貸付先を個人のユダヤ人入植者にした為急増し
、アラブ人やペルシャ人のイスラム教徒たちは、殆どが危機感を募らせていた。それは
現代のパレスチナ問題の入口でもあった。こうして水争が加熱しヘブロン虐殺が起こり
それに対してツファット・ポグロムと言うユダヤ迫害が起こったのである。かつて莫大
な資産を持ったハプスブルク家の縁戚の他のハプスブルク王朝もロマノフ王朝もプロセ
イン公国も今や無く、金融執事であった諸侯は各スイス銀行からの預けたがその運用先
のユダヤ金融家は、今や危機的状況だった。膨大な資金でバクー油田を買い上げたもの
のスターリンの同意を得て利益を得る所にやっと落ち着いた位で、後はこのユダヤ入植
者と言う小さな投資での小さな現金を得る事を続けるしか無かったのである。その中に
アメリカの株式投資やドイツ復興への投資は勿論大きな物だが構図は極めて陰湿だった
。この頃彼らが個人向け投資環境を作り得た事は確かであった。即ち自らで作った銀行
で、誰彼構わず個人貸付し投資しながらも、その供給した紙幣は同じ銀行窓口で発行し
、又裕福な層に同じ様に発行した株を買わせていたのである。これらが生産実績と連動
しないまま買い付けし、株価は当然銀行の思う道理であり当の会社は苦境に陥っていた

751: 名無しさんAA:17/10/21 13:02
。この頃彼らが個人向け投資環境を作り得た事は確かであった。即ち自らで作った銀行
で、誰彼構わず個人貸付し投資しながらも、その供給した紙幣は同じ銀行窓口で発行し
、又裕福な層に同じ様に発行した株を買わせていたのである。これらが生産実績と連動
しないまま買い付けし、株価は当然銀行の思う道理であり当の会社は苦境に陥っていた
。それらは今まで国家間で資本へやっていた行為を個人に行っただけに過ぎなかった行
為だったが、大衆への移行の恐ろしさがそこにあった。1929年10月24日の午前
10時25分。ニューヨークの株式市場において、突然ゼネラルモーターズの株価が80
セント値下がりした時、これを機に市場は売り一色となり株価が大暴落することになっ
た。金融恐慌の始まりだった。つまり一瞬で人は利益売りに総じて変わったのだ。まさ
にユダヤ投資で出来た地域政府の銀行の地域に投資しようと「個人株の売却」の攻防の
も裏目である。そこにはこれまでの伯爵王家などの誇りある余裕やゆとりはなく金満家
の欲深きその場しのぎの権利の確保金融資産の保護しか無かった。


752: 名無しさんAA:17/10/21 13:15
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 395-----------

 ここに現代でもはびこるユダヤの持った「贋ユダヤ思想」の限界があった。生産資産
家として君臨していた各王朝に 金融資産家は生産労働者を持たない為 決して返済の
あるお客とはならなかったのだ。そこにいたのは中流階級とする 酔っ払いの様な浪費
する消費者の姿しかなかったのだ。基本的には地球温暖化も原子力廃棄物問題も貧困問
題や地域格差もこうした社会構造の問題だった。そもそも民族大移動の時と同じ様に、
大航海時代に我々が新大陸を発見したと言わんばかりに記述するが それは正解ではな
い。常に頭に「欧州白人社会に於いては」と言う冠がつくのである。世界一周に於いて
も彼らは寄港地を求めた時原住民はそこそこの航路はあった。それを帆船で繋いでいっ
ただけの話だ。この大航海時代に於いてもユダヤは運用の投資先がなく王族に船を進め
一大帆船造船時代を築かせた。第一次産業の生産にも従事しない。流通や販売にも彼ら
は手を汚さない。更に王侯諸侯の国の経営にも悩まない。只金を作り金をあてがい自分
達がその紙幣や金貨を牛耳る。それは働かないが為に必要な物々交換の中に自分達の発
行紙幣を取り込む行為だった。そして平和で落ち着いた時ユダヤ教本来の「キリスト教
原理主義派」としての兵士だった記憶や性格がここに頭をもたげるのである。彼らは、
金融資本家となっても尚戦争商売を望む事しかしない。ユダヤ教に於いても旧約聖書の
「あなたが、共にいるわたしの民の貧しい者に金を貸す時は、これに対して金貸しのよ
うになってはならない。これから利子を取ってはならない。」(出エジプト記22-25)の
戒律で禁止されていた行為を、ユダヤ教徒は人種差別に於いて解決した。ユダヤ教の場
合に異教徒への金融は許される。と言った具合だ。更に過酷なのはユダヤ金融の利子は
3割から4割にも及んだので、多くの債務者は担保物件を失うしその裏に暗殺集団や強
奪集団がいる事もしらなかった。そして彼らの行動を正当化する為に国があり法律があ
った。つまり国王にも貸して法を動かしたのだ。こうしてユダヤ人金融の影響力は増大
していったが同時に民衆の敵意も増大していった。こうして彼らは本来の特徴である裏
社会のシンジケートを作って行った。多くの王族や諸侯は公にして禁じたが、それは既
に侵略された国家との確執や戦争を産んだ。そこに国内ではポグロムや虐殺の進化が産
まれて行った。ユダヤ人はムスリムと共に常に迫害された。彼らは土地所有を禁じられ
て農業の道を断たれ、ギルドから締め出されて 職工の道も閉ざされ、店舗を構える商
売や国際商取引の大幅制限などで商業の道をも制限された。こうして何百年も国家より
金融経済を信奉する集団として過ぎたのである。そして今もまだ変わってはいない。


753: 名無しさんAA:17/10/21 13:24
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 396-----------

 「純粋に感情的な諸事情や諸理由から、反ユダヤ主義者はその究極の表現をユダヤ人
迫害の内に見出すであろう。しかし、理性のある反ユダヤ主義は、ユダヤ人が他の、我
々の間で生活している『他の外国人』と違って所有している幾つもの特権を、計画的・
合法的に駆除・除去することを 目指さねばならない。その為外国人法を制定する。」
「ユダヤ人の新たな民族意識は、『パレスチナでのユダヤ人国家建国』によって満足さ
れるのだと他の世界の人々に信じさせようと、シオニストたちが努力する時、お人好し
な非ユダヤ人を騙すべく、それに関してユダヤ人はもう一つの手段を採る。彼らには、
『パレスチナにユダヤ人国家』をそこに住むことができるように建国しよう。などとい
う意図は微塵もない。彼らの真の狙いは、国際的な『詐欺とペテンのための中央組織』
を設立することにある。主権国家として、これは他のいかなる国家にも支配されえない
。したがってそれは、正体を見破られた詐欺師の避難場所と同時に、その他の詐欺師の
訓練のための高等学校として役立ちうるのだ。」『わが闘争』A.ヒトラーその予言は、
イスラエルのモサド出身の、アブバクル・バグダディが「イラク・レバントのイスラム
国(ISIL)」指導者としてイスラム共同体の指導者「カリフ(預言者ムハンマドの
後継者)」として奉じるイスラム国家の樹立を宣言した事でも裏付けられる。シリアの
北部アレッポ周辺からイラク中部ディヤラ県までの一帯を現時点の「領土」と位置づけ
て、かつてのオスマン帝国が、イスラム教の王として キリストのバチカンの法王の様
な位置づけを行ったのである。その姿こそ「戦争が無くては食べていけない国家」であ
るイスラエルの「混乱こそ我が国の為」の姿あった。1907年にチャーチルは植民地
大臣エルギン伯爵の許可を得てイギリス領東アフリカへ視察旅行に出ている。その頃の
イギリス人達(多くはフリーメイソンの会社の社員達)は絶対的支配者として振る舞い
それを見たチャーチルは、「そうした統治で平和を保つことができる」イギリスの支配
の偉大さを再確認した。と言う錯覚に陥った。此処に絶対権力の横暴さを持つ反ユダヤ
主義を掲げたヒットラーとユダヤ資本の庇護を元に政界入りしてるチャーチルが激突し
た。1909年秋にドイツを訪問し陸軍演習と職業紹介所を視察したチャーチルがいた。イ
ギリス程ではなかった当時ドイツも失業者を抱えていたが、此処には労働者保護があっ
た。ドイツ訪問では労働者の多くが失業保険に入っていることに感心したチャーチルは
ウィリアム・ベヴァリッジとともに職業紹介所設置法を成立させ、これまで地方公共団
体が設置運営していた職業紹介所を中央政府が直接設置運営させた。


754: 名無しさんAA:17/10/21 13:30
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 397-----------
 こうした社会保障政策は多くの予算を必要にした。労働者保護を目的としたがそれは
中産階級の税負担も大きくした物だったからだ。国際連盟で大型艦隊の造船規制はその
為の工作だった。1911年6月国民保険法はこうした労働者の不満を抑えるためのも
のであったが、それもむなしく、イギリス各港で海運労働者の大規模ストライキが勃発
した。管理者に於いて税金支払いが これまで以上の過酷な労働を捧げる労働者を産ん
だのだ。直ちに各港は海運機能が麻痺し、革命前夜の空気さえ漂った。チャーチルは弾
圧路線を変更するつもりはなく、あちこちに軍隊を派遣してはストライキ弾圧を行った
。そこには平和なアフリカの影があった。1912年1月に戦争大臣ホールデン子爵を
使者としてドイツに派遣し、「ドイツはイギリス海軍の優位を認めるべき。ドイツがこ
れ以上の海軍増強を行わないなら、代わりにイギリスは、ドイツが植民地拡大するのを
邪魔しない。」とさえ言った。イギリスにはびこる諜報員の前にチャーチルは「イギリ
スにとって海軍は必需品、しかしドイツにとって海軍は贅沢品である。」という演説を
行い 援護射撃のつもりだった。だがヴィルヘルム2世の心証を悪くホールデン子爵の
提案は「ドイツ海軍力を一方的に封じ込めようという陰謀である」として拒絶された。
1912年から1914年にかけての予算編成はアイルランド自治法をめぐって議会が
紛糾した。中でも移住者の多い北部アイルランドのアルスターは複雑だった。アルスタ
ーはイングランド本国と経済的に結びつきが強く、アイルランドの中では唯一産業革命
を経た地域であったため、アイルランド自治にあたってここを失うことはカトリック・
アイルランド自治派にとってもプロテスタント・イギリス派にとっても耐えがたいこと
だった。1914年6月のサラエボ事件を機にドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国
対ロシア、フランスの第一次世界大戦が勃発した。フォークランド沖海戦が勃発し、王
立海軍が勝利した事でトイツは鳴りを潜めた。ところが1914年反露親独的なオスマ
ン・トルコ帝国がドイツ側で参戦しており、1915年になるとロシア帝国軍最高司令
官ニコライ大公はイギリス政府に対してトルコを圧迫してほしいと要請して来た。閣内
にはロシア軍との連携を重視する東方派とフランス軍との連携を重視する西方派の争い
があったが、東方派の彼は仏軍協力の元のトルコ派兵を導いた。ガリポリ半島上陸戦は
英仏連合軍で実施し18隻の英仏艦隊でダーダネルス海峡沖を攻め、トルコ軍要塞砲撃
で壊滅させた。ところが戦闘中に戦艦3隻が機雷に接触し、2隻は沈没、もう1隻も大
被害を受けたため、作戦は苦戦を強いられ頓挫した。此処にユダヤの金利に押され国民
が過大な労働と戦争に強いられる姿があった。金融資本の強欲に手を貸したチャーチル
だったのだ。

755: 名無しさんAA:17/10/21 13:33
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 398-----------

この失敗で海軍大臣を辞任した彼だったが、戦争が終わると「カイザーを縛り首にしよ
う」「ドイツ人から賠償金を取り立てよう」などの過激なスローガンで愛国心を煽る選
挙をし、大連立政権支持のロイド・ジョージが政権を取った。そして1919年1月か
ら戦争大臣兼航空大臣(空軍大臣)に任じられた。チャーチルが「戦争終結後に戦争大
臣になってもな」と愚痴ると、保守党党首ボナー・ローから「戦時中にお前を戦争大臣
に任命する変わり者はいないよ」と皮肉られた。それほど戦争好きではあったのだった
。チャーチルの戦争大臣としての最初の仕事は動員の解除であった。兵士たちは一日も
早く動員解除されて帰国することを希望していたが、干渉戦争と言う影響もあって動員
解除はゆっくりと行われ、しかも雇用者から重要労働者と認められた者から順番に動員
解除するという方針をとった。国内に産業が疲弊し労働者が仕事する場所がなかった。
更にイギリスでも北ロシアに駐留する部隊を通じてアレクサンドル・コルチャークらの
帝政派ロシア軍人から成る白軍を支援していたのだ。ロイド・ジョージ首相はこの反ソ
干渉戦争から早く撤退することを希望したがアメリカからの反対が強く、日本のシベリ
ア出兵と同じに 司令官や将校らは赤軍ボルシェヴィキとの妥協に反対し干渉戦争の続
行を主張していたのだった。ロイド・ジョージがパリ講和会議出席のために、イギリス
不在となると、チャーチルはこれに全精力を注いだ。チャーチルは、連合国ロシア委員
会を設置し、連合国各国に反ソ行動を求めた。こうしたチャーチルの反共姿勢に労働者
階級や労働党、動員解除を求める軍人たちの反発は強まった。労働党、はチャーチルが
イギリス軍撤退の無期限延期と新たな兵士を送り込むことを議会に諮る事もなく独断で
白軍に約束したとして彼の逮捕を要求する決議さえ出そうとした。こうした声に押され
て、英軍を撤退させざるをえなくなった。今まで防波堤のドイツが居なくなりポ−ラン
ド侵攻によってロシアの赤化は拡大の一途であった。軍需品をダンツィヒ経由で大量に
ポーランド軍に送りこみ阻止は出来なかったが、他のヨーロッパ諸国への赤化の拡大を
食い止めることには成功した。1921年にチャーチルは植民地大臣に転任して第一次
世界大戦に勝利し敗戦国のドイツやトルコの植民地や領土を、国際連盟からの委任統治
領という形で獲得する事に成功した。大英帝国は過去最大の領土を領有するに至ったが
、それはしかし同時にそれに伴う諸問題も多く抱えることになった事を意味していた。



756: 名無しさんAA:17/10/21 15:12
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 399-----------

英国内でも その後労働争議やストライクが続けて起こり政変を繰り返し続けていた。
戦後マクドナルド労働党政権の成立で失職するが マクドナルドがソ連との国交正常化
やキャンベル起訴撤回問題など労働党左派に配慮した政策によって 保守党や自由党は
批判を強め、10月8日に自由党のアスキスが親ソ政策批判動議が提出され、保守党が
賛成し可決され、マクドナルド内閣は解散総選挙に打って出た。この選挙でチャーチル
は激しい社会主義攻撃を展開し、「社会主義者がブリタニアに着せようとしている。ド
イツ製、ロシア製のふざけたボロ切れを脱ぎ捨てろ。彼女の盾は汚らしい赤旗ではなく
、ユニオン・ジャックの旗でなければならない。」と演説した。エッピング選挙区は反
共主義の機運が強く、チャーチルの反共演説も選挙区民を熱狂させ、圧勝した。こうし
て1924年11月にボールドウィンに大命があり、第2次ボールドウィン内閣が発足
した。この時の大蔵大臣チャーチルの事績として最も知られているのが第一次世界大戦
の勃発で中断されていた金本位制への復帰である。大戦後、イギリスの輸出産業は新興
国アメリカや日本に押されて弱体化を続けていた。またイギリスの海外投資の多くも、
戦争で手放すこととなり、イギリスの国際収支を支えてきた貿易外収入は大きく減少し
ていた。当時イギリスの海外投資の多くはアメリカによって買い取られており、世界金
融の中心はイギリスのシティからアメリカのウォール街に移ろうとしていた。ドルはポ
ンドに先んじて大戦終結直後に金本位制に復帰し、世界通貨の地位を確立していった。
戦後直後のイギリスはインフレ的な国内信用拡大が起こっていた。しかし1920年以
降はデフレになり、需要は低下し、物価は下がり、失業率は高まった。戦前レートでの
金本位制復帰はポンドの過大評価であったので、イギリスの輸出競争力は低下し、輸出
産業、とりわけ石炭産業が打撃を受けた。イギリス鉱山協会は賃金協定を破棄して賃金
切り下げを宣言、これに対抗して炭鉱組合や労働組合会議はゼネストを表明した。政府
は非常事態法を制定して労働運動弾圧を開始し政府と資本家による労働運動切り崩し工
作も成功し、労働組合会議は若干の賃金切り下げを認めるに至り、ゼネストが終了した
29年秋のアメリカ・ウォール街の大暴落に端を発する世界大恐慌はイギリスも襲い、
5月に115万人だったイギリスの失業者数が30年年末には250万人に倍増した。
失業手当が膨大で、労働党政権は失業手当削減案をめぐって閣内が分裂し、31年には
内閣は総辞職をした。こうして困難な時局を迎えてるのである。



757: 名無しさんAA:17/10/21 15:25
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 400-----------

元々はナチス前史を溯って行くと、19世紀末のウィーンに芽生えた2つの宗教的サー
クル(秘密結社)に行きつくと言われる。ランツが創設した「新テンプル騎士団」と、
リストが創設した「リスト協会」である。そしてこの2つの流れは、ベルギーなどの職
人集団であるギルド集団やハンザ同盟と時期が重なる。「帝国ハンマー同盟」の姉妹で
地下組織「ゲルマン教団」を媒介にして合流し、第一次世界大戦後のミュンヘンにおい
てナチスの思想的母体となった「トゥーレ協会」を生み出した事が黒い流れになった。
これらはかつての「十字軍の遠征」を行った過程と同じ様な仕組みを採用したに過ぎな
い。そしてこの「トゥーレ協会」が生み出した右翼政党が「国家社会主義ドイツ労働者
党(NSDAP)」、すなわち「ナチ党」であったとされる。それは第一次大戦の遥か
前から英国や仏国が共産党赤軍の防波堤としてドイツやオーストラリアを利用している
様にフランス革命で労働者者の自立の声が高まった時に宗教家や公爵などが作った防波
堤であった。ヒトラーを『ボヘミアの伍長』と嫌っていたヒンデンブルク大統領時代に
ヒンデンブルクは「ペンキ屋ふぜいにビスマルクの椅子を与えるわけにはいかない」と
椅子を投げつけ、議会懐柔にパーペンは議会に秩序が戻るまでの数ヶ月間だけは自分が
首相として留まると主張したが、これに対しシュライヒャーは「坊さん、坊さん、汝は
苦難の道を選びたり」と、かつてマルティン・ルターに投げつけられた言葉を投げかけ
た事でも解る。魔女狩りが行われた中世以前は人は住んでいたがそうそう交流はなかっ
た世界であったろう。ゴート文字やギリシャ文字ラテン文字など様々な文字と言語が行
きかった時代である。その頃の文盲率は高く人々は何も書けないとされた。だがそうい
った我々が知る欧州文化以外に忘れ去られた民族がかなりいたと思われる。その中には
古代ヨーロッパにはルーン文字という角ばった24つの記号で構成された文字が存在し
ていた。日本語に狩猟民族としての山窟(サンカ)文字が消えてしまった様にドイツよ
り北方では一般的欧州と違っている文字を使う民族がいたのである。バイキングの名で
有名な北方海賊にしても 大航海時代以上の前に大型帆船を動かしていたと伝えられる
。つまりはもとはメイソンリー同志の戦いが 第二次世界大戦だったのだ。これは奇妙
な現実で ソ連の共産主義もドイツの社会主義もイギリスの資本主義もフランスの自由
主義も全く同じにフリーメイソンが行いそこにはユダヤがばらまき融資をしていたのだ
。これは結局自分で製造した国の紙幣で物が流通し、自分が行う融資と利子で国を動か
し国の法を作った事が既に成功していた事を物語っていた。

758: 名無しさんAA:17/10/21 15:36
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 401-----------

 此処にゲルマン民族の優位性を唱える元があった。ドイツ国内は日本で言う平安末期
に近いほど多主張にうずもれていたのだ。その中で赤軍の提唱する「世界暴力革命」の
国民平等はかなり魅力的な扇動だった。ルーン文字はここ最近、占いやお守り、ゲーム
のアイテムとしてよく目にすることができます。特にそういったものに特化して使用し
ているために、この文字は神秘文字や魔法文字と理解される。実際にも古代ゲルマン人
、古代スカンジナビア人、古代アングロサクソン人が使用した呪術にも使用された実用
的な文字であったとされ、現代とは状況が異なった昔は、言わば魔法や呪術や占いとい
うものが実生活と密着しての生活であったとも考えられ、それゆえ「魔法」や「まじな
い」で使用された部分として 古代のルーン文字が消えゆく中で浮かび上がったのかも
しれない。こうした神秘主義的ものの憧れは強くあったのだろう。1933年に誕生し
たヒトラー政権は、ナチス親衛隊(SS)の整備と並行して、国内治安維持を名目に警
察組織の一本化をめざし、州ごとにある警察をナチスの管轄下におく方針を決定した。
そして1933年4月26日には、ベルリンに「ゲシュタポ(秘密国家警察)」の本部
を設置していっそう取り締まりを強化した(初代局長はルドルフ・ディールス)。この
「ゲシュタポ」は、ナチス幹部のヘルマン・ゲーリングが実権をもっていたプロイセン
の政治警察機構を導入したものである。ゲーリングが長官になるつもりでいたが、ヒト
ラーはこれを認めず、以前から警察の全国統一を主張していたハインリッヒ・ヒムラー
をSS総司令官のまま警察長官に任命した。 ヘルマン・ゲーリングはIQ138と言
う頭が良さからだ。ちなみに「ゲシュタポ」という名は、郵便局員が配達の際に「秘密
国家警察(Geheime Staatspolizei)」を省略して呼んだのが広まったという。履歴でも
ゲーリングは元々パイロット揚りだった1933年航空相、35年空軍総司令官となり
、ヴェルサイユ条約で禁止されていたドイツ空軍の再建に頭よく中心役割を果たした。
36年からスペイン内戦にドイツ空軍を「コンドル軍団」として非公式参戦させて、新
型機実験場と称して、広報活動と即戦訓練と実力行使と試験使用更に時流分析に活用し
たのだ。こうして急降下爆撃やウーデットが推す短距離中距離爆撃機を重視する航空機
生産を行わせ第二次世界大戦前半の対ポーランド戦や西方電撃戦で大きな成功につなが
った。これらはアメリカユダヤ金融の思うツボだった。


759: 名無しさんAA:17/10/21 15:54
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 402-----------
 チャーチルは1932年夏に初代マールバラ公の古戦場めぐりの旅に出た際、ドイツ
・バイエルン州・ミュンヘンに立ち寄ったことがあった。その時期ドイツでは国会議員
選挙が行われ、国家社会主義ドイツ労働者党が第一党となり、その党首アドルフ・ヒト
ラーが近いうちにパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領より首相に任命される可能性
が高まっていた。チャーチルは、ミュンヘンでナチ党幹部エルンスト・ハンフシュテン
グルと知り合い、ヒトラーとの会談を勧められ承諾した。しかし、チャーチルはシオニ
ズムを支持している政治家だったために ハンフシュテングルに「なぜヒトラーはユダ
ヤ人を、しかもユダヤ人であるという理由だけで迫害するのか」という質問をぶつけ、
この質問がヒトラーの耳に入って「くだらない馬鹿だ」と思われ、会見はヒトラーの方
から拒否された。後世にチャーチルは「こうしてヒトラーは私と会見するただ一度のチ
ャンスを逃したのだった。ヒトラーが政権を握ってから、何度か会談オファーがあった
が、私は口実を作って断った。」と回顧しているが、正にユダヤの操り人形の人生を、
自ら自負して暴露しながら世界大戦まで持ち込み多くの者を殺しながら後悔しない馬鹿
だった。半年後の1933年1月に首相に任じられた事でドイツ国内はヒトラーの忌ま
わしい独裁体制を整える事になる、1935年3月には念願の ヴェルサイユ条約ドイ
ツ軍備制限条項の破棄と債権放棄を宣言して再軍備を開始する。イギリスでは一般には
保守党の政治家はナチ党に同情的だった。ヴェルサイユ条約のようなものを押し付けら
れては、その撤廃を主張するのは無理からぬことだし、ナチ党とドイツ共産党以外の政
党が力を失っている中では、ここでもしナチ党を政権から引き降ろせば、代わって政権
につくのは恐らくは共産党だったからだ。そのためヒトラーの再軍備計画を徹底的に抑
えつけるより、ある程度の国力回復を許し、対ソ防波堤にするのがよいと考える対独融
和派が多かった。保守党党首ボールドウィンや その後任の党首となるネヴィル・チェ
ンバレンも同様であった。だがユダヤ資本は返済却下を宣言したナチスに貸す金はなか
った。この時反ユダヤ主義を抱えたナチ党とシオニストを掲げた自由党ははお互い牽制
しながらもその方策をただ見守るだけだった仲が決裂した。双方にその支持する民衆は
 既に過激に動きその主張を利用したユダヤ迫害やナチスドイツ消滅に向かい活動して
いた。30年年末には250万人に倍増した英国労働者は警官隊に蹴散らされたし、一
方ドイツではヒムラーを筆頭に人種差別イデオロギーを高々と掲げた。は、アーリア人
種北方人種と定義された人々を主たる人種とし、ユダヤ人、ロマ人、スラヴ人などは人
種的に劣るとした風潮を流布し吹聴しプロパガンダされ次第に迫害の度合いが増して、
ナチ党体制は「ヒットラー親衛隊国家」の性格を色濃くしていった。

760: 名無しさんAA:17/10/21 16:13
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 403-----------

不思議な事だが ナチスヒットラーの周りには IQの高い冷酷人間が固めていた。戦
後に、連合軍がナチ戦犯に心理テストを行った結果、高い知能指数(IQ)の人が多か
ったことが判明している。ちなみに日本の東大生の平均はIQ120とされる。ナチ戦
犯の知能指数 ヒャルマー・シャハト(143) アルトゥル・ザイス=インクヴァルト(141) ヘルマン・ゲーリング(138) カール・テ
゙ーニッツ(138) フランツ・フォン・パーペン(134) エーリヒ・レーダー(134) バルドゥール・フォン・シーラッハ(130) ハンス・フラ
ンク(130) ハンス・フリッチェ(130) ヴィルヘルム・カイテル(129) ヨアヒム・フォン・リッベントロップ(129) アルベルト・シュペー
ア(128) アルフレート・ローゼンベルク(127) アルフレート・ヨードル(127) コンスタンティン・フォン・ノイラート(125) ヴァルター・
フンク(124) ヴィルヘルム・フリック(124) ルドルフ・ヘス(120) フリッツ・ザウケル(118) エルンスト・カルテンブルンナー(113)
ユリウス・シュトライヒャー(106)と かなり異常的に殆どIQが高いのである。このIQの高さこそ
非情なこの反ユダヤ主義を考えるにこうした頭の良い人でなければならなかった理由と
言える。又文化芸術にも科学技術に於いても当時のドイツはずば抜けていた。なぜこの
反ユダヤ主義を掲げたのかが今でも奇妙なのだ。ヒットラー信奉者ヒムラーは日記に書
いている。「ああ、私はユダヤ人虐殺などしたくなかったのだ。私の考えはまったく違
っていた。それなのにゲッベルスの奴がいっさいがっさいをしでかしたのだ」(1942年
、フェリックス・ケルステンに語った言葉)パウル・ヨーゼフ・ゲッベルスは、卓越し
たドイツの宣伝相だった。「プロパガンダの天才」「小さなドクトル」と称されヒトラー
の政権掌握とナチス党政権下のドイツの体制維持に辣腕を発揮した。敗戦の直前、遺書
によってドイツ国首相に任命されるが、直後に自殺した。この姿が今の米国の 過激な
映像産業と一様な姿であるのは明らかだ。ストーリー仕立てすらもトランプを産む要因
となる攻撃的思想が並ぶ。ゲッベルスは、視察に際して「ユダヤ人は全体的に見て、6
割を抹殺しなければならない。残り4割を労働に使用すればよいといえるだろう。全ウ
ィーン管区指導者は、この作戦を実行するにあたっては、慎重に、あまり人目を引かな
いような穏やかな措置を取ったが、今やユダヤ人に裁きが下った。それは確かに残忍な
物ではあるが、奴らには当然の報いだ。」ユダヤ人の国外退去についての司令から絶滅
収容所への移送に変わった事について「ユダヤ人を絶滅させることが我々の目標である
。この戦争に勝とうが負けようが、この目標だけは達成されねばならない。ドイツ軍が
後退を余儀なくされようとその途中に、この世界に残っているユダヤ人を殲滅する。」
(1944年以前)とある。そう宣伝相のゲッペルスこそ諸悪の放言を言い放った人間だっ
たのである。頭の良さがこの組織運営に於いて狙い撃ちされて利用されたのである。

761: 名無しさんAA:17/10/21 16:24
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 404-----------

 その頃にはマダカスカル計画がまだドイツには生きて居たのである。それは1904
年から1905年にかけて、シオニスト運動は、ウガンダ地方今日のケニアを含む場所
への ユダヤ人移住計画がイギリスより打診されていたからだ。この英領ウガンダ計画
はシオニストの間で真剣に議論されたものの、結局却下されたのだが、その結果はドイ
ツ閣僚は大いに気に入っていてヒットラーには届かなかった。又、却下された理由は、
領土主義の支持者の、「約束の地」への国家建設にこだわるシオニストからの袂を分か
ち、ユダヤ人が定住でき、かつ国家、少なくとも自治地域の建設ができる地域を世界中
の候補地から探している中で、イスラエルのカナンの地ではないからと言うのは馬鹿に
していた。もっともこのための地域として、マダガスカルが特別に考慮された地域では
なかった。当然日本における満州国樹立もこうした国連からの要請に答えフグ計画が全
く同じ様になされた事を考えれば 英国は積極的に移住の打診をしていた事になる。ナ
チス・ドイツの指導者たちはこのアイディアに飛びつき、アドルフ・ヒトラーは、19
38年その計画に署名した。1940年5月、ハインリヒ・ヒムラーは彼の「東方の異
人種の取り扱いについての意見」に基づき、次のように宣言した。「全てのユダヤ人を
アフリカやその他植民地に大規模に移住させるという可能性を持ってして、ユダヤ人の
(国内の)存在証明は完全に消え去るだろうと私は望んでいる。」これによって194
2年7月から開始された強制収容所における収容がなされて 海外移住に対応しようと
していた。ところがシオニスト協会もユダヤ人連合会も満州もマダカスカルも拒否した
。それは彼らに農耕民族としての知恵もなくあくまでもイスラエル建国にこだわったか
らだ。その後フランス敗北の成り行きにまかせて、リッベントロップに加えヒトラー自
身がベニート・ムッソリーニにこの計画を語った。この時ソ連は労働力不足であった為
急速北方での受け入れで固まったのである。ポーランド総督府当局は、これまでのよう
に断続的にポーランドにユダヤ人を追放するような所作よりも、はるかに望ましい方法
として、400万人のユダヤ人を強制的にマダガスカルに再定住させる見方を持ってい
た。ポーランドの全ての追放は取り消され、ワルシャワ・ゲットーの建設は中断した。
そのまま船で諸外国への移動がなされると思われたからだが 現実は列車でソ連邦へと
送りだされた。収容所は最初は単に送り出しの場所であり ガス室は実はノミやダニな
どの人体ばい菌の殺菌施設であったのだが 食糧が底をつきソ連侵攻がそれを妨げた。


762: 名無しさんAA:17/10/21 16:37
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 405-----------

 1939年9月、ナチス・ドイツとソ連の両国によってポーランドは攻撃され、全土
は 占領下に置かれた。武装解除されたポーランド軍人や民間人は両軍の捕虜になり、
ソ連軍に降伏した将兵は強制収容所(ラーゲリ)へ送られた。ポーランド政府はパリへ
脱出し、亡命政府を結成、翌1940年にアンジェへ移転したがフランスの降伏でヴィ
シー政権が作られると、更にロンドンへ移された。カティンの森事件はその後1941
年の独ソ戦勃発後、対ドイツで利害が一致したポーランドとソ連はシコルスキー=マイ
スキー協定を結び、ソ連国内のポーランド人捕虜はすべて釈放され、ポーランド人部隊
が編成されることになった。しかし集結した兵士は将校千八百人、下士官と兵士二万七
千人に過ぎず、行方不明となった捕虜の一割にも満たなかったのであった。そこで亡命
政府は捕虜の釈放を正式に要求したが、ソ連側は全てが釈放されたが事務や輸送の問題
で滞っていると回答した。12月3日には亡命政府首相ヴワディスワフ・シコルスキが
ヨシフ・スターリンと会談したが、スターリンは「確かに釈放された」と回答して終わ
った。こうしてロンドンでポーランド亡命政府が作られてもイギリスは動かなかった。
それは ドイツはソ連と英国を戦わせて漁夫の利を得ようとしていたと同時にソ連も又
ドイツと英国が戦う事を望んでいたからだ。又ドイツはソ連の赤軍南下を止める防波堤
として英国も利用していた為 そこを話し合うのは自ら苦境に入る事を示していた。そ
して北方戦線で電撃侵攻を行いフランスに無血入場を果たしたのである。これはかつて
の第一次大戦の進撃と全く同じであったのだ。1940年になってノルウェー、ベネル
クス、フランスなどを次々と攻略し、ダンケルクの戦いで連合国をヨーロッパ大陸から
追い出したほか、イギリス本土上陸作戦の前哨戦となる大空襲も行われた。ソ連は、バ
ルト三国及びフィンランドに領土的野心を示し、11月30日からフィンランドへ侵攻
して冬戦争を起こした。この侵略行為を非難され国際連盟から除名されながらも、同じ
1940年3月にはフィンランドから領土を割譲。ソ連はまず軍隊をバルト三国に駐留
させ、6月には40万以上の大軍で侵攻。8月にはバルト三国を併合した。つまり捕虜
を自国に連れ去り、自国の兵士は又別の戦争まで刈り出していたのだ。この頃鉄鉱石の
半分はこの地からの輸出であった。だがナチス・ドイツはこの戦争の終戦から1ヶ月に
満たない内にデンマークやノルウェーに侵攻し占領に成功。そのため、冬戦争の後に連
合国がフィンランドを支援することはできず、スウェーデンを頼ることもできず、フィ
ンランドはドイツと接近することになった。

763: 名無しさんAA:17/10/21 16:37
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 406-----------

こうしてドイツは電撃的な進撃を果たし入場したフランスは第一次世界大戦の英雄であ
ったペタン元帥が就任し、副首相にはピエール・ラヴァルがヒトラーから好意的な扱い
を受けるために、「堕落した民主主義」を廃して「絶対的権力を持つ権威国家」を樹立
するよう熱心にロビー活動を行った。6月25日彼の演説は痛ましかった。「旧秩序、
フリーメーソン的かつ、資本主義的そして国際的妥協の政治制度が、現在の立場に我々
を導いた。フランスは、もはやそんなものを欲しない。我々は新しい計画、新しい人物
を必要とする」と宣言したのだ。また、新憲法制定の議会では「全ヨーロッパがフラン
スを置き去りにして新世界を建設しようとしている(中略)敗北した議会制民主主義は
大胆で、権威的・社会的・国家的新制度に、その道を譲らねばならぬ。(中略)議会が
同意しないなら、ドイツは直ちにフランス全土を占領して(政治改革を)強制するだろ
う」と演説している。この結果、フランス艦隊の編入もしくは無力化を狙ったイギリス
は、カタパルト作戦によるフランス艦隊の接収を図った。このためイギリスとフランス
の間で海戦が勃発し、政府とフランス国民の間で反英感情が高まった。結果ラヴァルの
工作をより容易にしてフランス混迷の時期を迎えた。後にこの動きを知ったヒトラーは
、国防軍最高司令部長官カイテル元帥と次のような会話をしている。「フランスが我が
ナチズムを信奉しているとは知らなかったな」「そうと知ったら攻撃の必要はありませ
んでした。まるで同士討ちをした想いです。」と。そこには内容を知らない欧州国民が
シオニズムの蹂躙を許すか共産主義の蔓延を許すかの境目に台頭した妥協の中間派とし
てのナチズムを受け入れた姿があった。又庶民としても非ゲルマンとされたロマやユダ
ヤやアーリア人に対する根強い人種差別は元からあった事が伺えるのである。更にこの
ユダヤ人迫害にイギリスが深く関わっている事がこれから覗えるのだ。というのもチャ
ーチルが1932年にドイツに古戦場めぐりの旅に出た時チャーチル自身の言葉で、既
に「なぜヒトラーはユダヤ人を、しかもユダヤ人であるという理由だけで迫害するのか
」という質問で会談が出来なかったと書いている。これは可笑しな話で1938年に、
その移住計画に署名し1939年にその為のポーランド侵攻を行っているのだ。イギリ
ス国内ででも迫害があって1904年にそれは消えたが日本のフグ計画も1930年に
問い合わせがあり1934に提示され1938年の会議で政府の方針として定まったの
だ。

764: 名無しさんAA:17/10/21 17:10
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 407-----------

そもそも第二次世界大戦は 第一次世界大戦終わって無いから起こった。とも言える。
1919年ドイツに関する講和条約、ヴェルサイユ条約が締結されヴェルサイユ体制が
成立したがフランスの強硬な姿勢の結果、ドイツやオーストリアは本国領土の一部を喪
失し、それらは民族自決主義のもとで誕生したポーランド、チェコスロバキア、リトア
ニアなどの領土に組み込まれた。しかしそれらの領域には多数のドイツ系住民が居住し
、最大民族が少数民族の立場に追いやられた。このドイツ系住民処遇問題は紛争の火種
となるのは解っていた。また、海外領土は全て没収され戦勝国によって分割されただけ
でなく、ドイツは巨額の戦争賠償を課せられた。さらに、ドイツの輸出製品には26%
の関税が課される1922年、ヴェルサイユ条約破棄を掲げるクーノ政権が発足する事
は当然だった。1923年になるとフランス・ベルギー軍が賠償金支払いの滞りを理由
にルール占領を強行して工業地帯・炭鉱を占拠し、ドイツ帝国銀行が所有する金を没収
した。占領地に罰金を科した事でこれによりハイパーインフレーションが発生し、軍事
力の無いドイツ民衆はこれにゼネストで対抗したが、クーノ政権は退陣に追い込まれた
が結果は、マルク紙幣の価値は戦前の1兆分の1にまで下落し、ミュンヘン一揆などの
反乱発生だった。これらがイギリスやフランスのユダヤ系金融家が起こした事ははっき
りしていた。アメリカに借りた金への返済が英仏共に出来なった事が原因だったからだ
。元々ヨーロッパ経済の中で英仏に輸出する程の工業生産品や農業生産品など無かった
。戦勝国のイギリス、フランスは政治的には国際連盟を創設し、現状維持を掲げて自ら
作り出した戦後の国際秩序を保とうとした。が経済的には、英国の国力の衰えからそれ
を実現する条件を欠いており、国際連盟の平和維持能力には初めから大きな限界があっ
た。戦後秩序維持に最大の期待をかけられたアメリカにも、内政上の理由から伝統的な
孤立主義(モンロー主義)に舞い戻り、国際政治の舞台から退く形をとっていた。この
時アメリカが考えていたのはソ連の勢いと世界戦略的勢力図だった。下手に欧州を刺激
して国力を削ぎたくないアメリカは、対ユダヤ資本に1930年には、対英戦争すら備
えた計画も立てていた。事実独立戦争は対英戦争でもあった。計画は主にカナダを主戦
場に想定したレッド計画であったが、計画は35年にも更新された。欧州大陸でのナチ
ス・ドイツの台頭により欧州の情勢が激変して39年には更新されなかったが、それで
もアメリカは、次に世界地図に色を染めたカラーコード戦争計画を策定した。日英独仏
伊、スペイン、メキシコ、ブラジルをはじめ各国との戦争を想定した計画を立案してお
り、この計画が後に第二次世界大戦を想定したレインボー・プランへと発展していく。

765: 名無しさんAA:17/10/22 00:15 ID:njI
 その中で日露戦争が終結すると中国大陸の覇権問題で日米間で重要問題化した。両国
間の緊張が高まりだしたのだ。アメリカは日本を仮想敵国とした戦争計画の策定に本腰
を入れ始め、一連のカラーコード戦争計画の一つであるオレンジ計画が誕生する。オレ
ンジが日本を「仮想敵」として立案されたプランだが、他にもブラック=ドイツ、レッ
ド=イギリス、クリムゾン=カナダ、グリーン=メキシコ、イエロー=中国、ゴールド
=フランス インディゴ=アイスランド等々、それぞれ勝手な色を付けては、多数の国
を対象としてそれぞれの戦略地図を作ったのだ。第一次大戦直後までは日本だけを特別
敵視していたわけではない。だが石油事情で内燃機関で必要不可欠になった時米国はそ
の色分けを格段に重視してその再検討を円卓会議のフリーメイソンに掛けた。こうして
1920年代にアメリカ合衆国陸軍において、日本やイギリス、ドイツなどの国を仮想
敵国として検討された数々のシミュレーションを作った。世界の主要国との戦争が発生
した場合を想定した戦争計画であり、それぞれの国に色を割り当ていた為カラーコード
プロジェクトとして数多く作られた。これらのプロジェクトは一時凍結されたが、当時
高まっていた枢軸国との二正面戦争に備えて5色のレインボー・プランとして発展的に
策定された。日清戦争のわずか2年後である1897年から変わらず策定された内容は
既に 1.日本軍の奇襲と攻勢 2.消耗戦とアメリカ軍の反攻 3.日本封鎖 の事
項で明快に日露戦争以前からアジア戦略の研究者で進められていた。それはハワイ島の
占領に於いて仲裁に入った事でアメリカが脅威として 大統領指令で研究を進めたから
だ。よく松岡外相が国際連盟を脱退したかの様に報道される。だが松岡は席を立ったの
みで脱退宣言はしていない。ところが英米のマスコミは既にこのフリーメイソンの餌食
であった。そして日本の新聞社も多くの外国人記者と連携していた。今の外国人記者の
倶楽部と同じに権威のあるパトロンが速報で脱退を示唆する報道をした。この時松岡は
もっと脱退しない由えの演説を強く打つべきだったのである。だが聖書の件のみで全く
相手に通じなかった。それは「暴力国米国の姿」を知っていたモルガンやロックフェラ
ーなどの大財閥が敷いたレインボープランのレール上にいたからに他ならなかった。
1921年には米国で外交問題評議会(CFR)がエドワード・マンデル・ハウスによ
って設立される。CFRは米国を英国の影響下に置き続ける事を目的に設置された。
1925年には太平洋問題調査会(IPR)が設立される。IPRは国際連盟脱退後、
日本唯一の国際窓口となったNGO(非政府組織)で、太平洋戦争時にはこの機関を通
して対日工作が行われた。最近になってこの組織の上層部が全員ソ連のスパイであった
事が判明している。IPRはチャタムハウスの下部組織であるが、資金提供はロックフェ

766: 名無しさんAA:17/10/22 00:16
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 409-----------

 こうした動きを日本人はどれだけ掴んでいたのだろうか。大正天皇時代から昭和天皇
が幼少時代で 軍部は知っていたと思える。だがその中で米英からの自立を指示する事
は不可能だったろう。すでに政府首脳や海軍などは東郷平八郎の様な もはや軍部に於
いて癌を蝕む存在で国体の中で無茶苦茶な老害を引き起こさせていた。そうした象徴的
伝説の人物は祀りあげ利用されるのみで 自らに即応したその時代の知見は皆無と言え
た。 既に日露戦争時からフリーメーソン以下ユダヤ金融資本が歴代合衆国大統領を、
動かしていたのである。セオドア・ルーズベルトもその一人であった。又山本五十六な
ど凡そ軍人にふさわしくない無能な者を海軍は重宝してその派閥間の調整役としていた
。彼が外国通であったのはキリスタンであったからで軍人としての日本を憂う力はなく
、凡そ凡庸な平和主義者の域を出て居ない人だった。決して戦場には出撃しない、現場
指揮はとらない、安全圏にいて自分の命を惜しむ、"卑怯"の二文字を絵に描いた様な、
史上最低の高級軍人としてその地位にいた。熱い愛国主義者が陸軍と通じるの嫌い そ
れを海軍は望んだのだ。彼は国体や天皇より海軍の優位性を望んだ。財務相などの意見
は聞く気が無かった。陸軍も同じだったが石原莞爾などは陸軍経営を行ったが海軍には
その気は無くひたすら宮中派との融和協調だった。飛行機運用には彼の持論で格段の進
歩があったがそれでも開戦前は旧式になってた。連合艦隊司令長官でありながら、空母
六隻を出撃させながら、パール・ハーバー奇襲の指揮を執らず、部下の南雲忠一・中将
にそれをさせて、自分は瀬戸内海に浮かぶ「戦艦ホテル」で優雅な日を過ごしていた。
山本五十六は、世界情勢と日本の実力を認識していた数少ない軍人でした。山本は日本
の進路に関し明晰な意見を持ち、陸軍や右翼の暗殺の脅迫に負けずそれを堂々と表明し
ました。東條などが強力に推進していた中国侵略にも反対していました。日本の為にな
らない、と。三国同盟にも反対、「あんなもの結んだらアメリカと戦争になる。そうな
ったら東京なんか三度くらい丸焼けにされて日本人は惨めな目を見るだろう、」と既に
読んでいて 敗戦後の自分の姿や日本人としての自分や日本国を考えていたのだろう。
「現政府のやり方はすべて前後不順なり。今さら米国の経済圧迫に驚き、憤慨し困難す
るなどは小学生が刹那主義にてウカウカと行動するにも似たり」、対米戦争には「負け
るに決まった戦争するやつがあるか!」と強硬に反対。山本は一般的な意味での平和主
義、反戦主義ではなかったが、世界、日本がよく分かっていたので、理性的、現実的な
判断が出来たのだろうが、ところがそれでも海軍は公式に大勢は日米決戦を決定する。


767: 名無しさんAA:17/10/22 00:27
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 410-----------

これに「内乱では国は滅びない。が、戦争では国が滅びる。内乱を避けるために、戦争
に賭けるとは、主客転倒も甚だしい。」と怒った。この決定は海軍内に艦隊派と条約派
と争いの折衷案だったと言われる。御前会議で山本は「それは是非やれと言われれば初
め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば全く確信
は持てぬ。三国条約が出来たのは致方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避する様、
極極力御努力願ひたい。」と発言しているが、この時「一年間は戦争出来る」と近衛は
勘違いしたと言われている。かくて、仲介先をロシアに求めたが 昭和天皇の危惧する
様にロシアは中立国では在り得なかった。此処にオーストリア公国のハプスブルク家が
統治した世界以降に 急速に大きくなったユダヤ金融家の力があって 戦争に劇的変化
があった事を物語っている。21世紀で領土や捕虜の交換の紳士的な過去の協定事情は
全く無くなったのである。小国や公国の乱立時代は小さくても気風や国の風土は守られ
たが、第一次大戦での過度な賠償金や日露戦争での支払われない賠償金は以前とは全く
違う物だった。スペイン内戦でも最初は右派と左派の対立が尖鋭化していた上でのカタ
ルーニャやバスクなどの公国からの自立であった。だが、政治的混乱が続いて一時は、
軍事独裁政権も成立しその後も 左派が選挙で勝利し、王制から共和制へとスペイン革
命でスペイン第二共和政が成立するものの、総選挙では右派が勝利して政権を奪回する
など、左派と右派の対立は続いた中でコミンテルンの共産党と王立派議会の民主主義の
戦いに変わる、当時のスペイン銀行の外貨準備資金が金の保有量は約710トンと言う
当時世界3位と推定されていた事から 移管されるべきフランス軍とロシアが送り込ん
だ義勇兵組織の国際旅団との戦いになった。最終的にはフランコ将軍の30万の軍勢で
カタルーニャを攻撃し州都バルセロナを陥落させて、人民戦線側を支持する多くの市民
を冬のピレネー山脈を越えてフランスに追い払い。イギリスとフランスがフランコ政権
を国家承認した事で、アサーニャは大統領を辞任、人民戦線政府が亡命政府となって、
した。徹底抗戦を目指す共産党と相対したが、共和党派がマドリードが陥落させて終わ
ったが、終わってみれば兵器の代償として国外に流れ出た金貨を得たイギリスの銀行や
自動車などを調達してスペインに送ったアメリカやチェコやフランスと武器・人員を援
助したソ連が、法外な金貨を捕ってユダヤの金融資本に返済しただけだったのである。
つまり人民は独立の声を上げて それまでの文字道理宝である住民の団結も財宝も盗ま
れただけだったと言う結果だった。昭和天皇は古いナポレオン時代の欧米の風潮に習っ
ていた為 停戦し直ぐに決着が付くとでも思っていたのだろう。既に新資本時代に

768: 名無しさんAA:17/10/22 02:39
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 411-----------
腐敗堕落したエリートが国家や社会を破壊する事は多い。大東亜戦争での山本五十六の
批判は多かった。日本では敗戦の結果大東亜戦争の問題点の追及は行なわれていない。
映画や小説によって作り上げられた山本五十六の事実の隠蔽は戦時中の大本営発表と同
じに国民を騙して行った。日中戦争を拡大したのが米内正光なら、アメリカを対日戦争
に引きずり込んだのが山本五十六である。真珠湾攻撃はたとえ成功しても空母を全滅さ
せねば真珠湾奇襲の意味のないものだった。戦争中に戦後に真珠湾攻撃は大成功と宣伝
されて今に至っている。計画も作戦も実行も本当は大失敗であった。ミッドウェー海戦
での敗退につながった。但し、戦時中はミッドウェー海戦も大勝利と宣伝されていた。
大本営発表は開戦当初から事実は隠蔽され生き残った海軍将兵は本土に上がれず戦地に
送られて事実は永久に葬り去られた。こうして戦後でも小説家や海軍出身の作家たちが
事実を隠蔽し歪曲した事実をかいて、山本五十六は小説や映画になった。こうして名将
になった。山本五十六は連合艦隊司令長官で連合艦隊を率いて真珠湾やミッドウェーで
戦うべきところを、戦わず500キロ後方で将棋をさして幾つもの艦が沈められ責任を
取るのは当然だった。が既に腐敗堕落したエリートの大本営を見抜いていたとも言える
だがそれでも疑問は残る真珠湾攻撃自体が山本元帥の発案であり、海軍軍令部も口出し
が出来ず、すべて山本連合艦隊司令長官に一任されている。本来の日本海軍の作戦母体
は後退邀撃でありハワイやガダルカナルまで戦争をする補給力は無く、絶対国防圏を守
る事が使命であり戦略だったはずだ。又マリアナ諸島を始めとして要塞化は間際までな
されなかった。この事はアメリカにとっては願ったりかなったりの作戦を帝国海軍が行
ったと言える。此処に山本五十六のアメリカのスパイ説がある。ミッドウェー海戦も、
日本海軍の戦力は圧倒的に優勢であり、空母を分散して十分な戦艦による護衛をつけて
いれば全滅する可能性は全く無い無難な戦争だ。が空母を密集させて護衛をつけなかっ
たことはわざと全滅するように仕向けたと言える。イチかバチかの大博打のハワイ奇襲
も必要性がない、にもかかわらず山本司令長官が空母機動部隊を直接指揮しなかった上
に南雲長官がハワイ攻撃を一回攻撃しただけで帰ってきた。連合艦隊は最高責任者がい
ない上に第二回攻撃の決断がなく これが日本の将来を左右する戦争とは思えないで始
まりである。ミッドウェーの開戦も旗艦大和は敵空母の存在を掴んでいた。山本司令官
の判断で空母機動部隊に通達される事はなかった。自分の命を惜しんだというよりもわ
ざと負けるように仕組んだ。連合艦隊の司令官であり戦闘部隊の司令官でありながらも
ハワイ攻撃やミッドウェー海戦でも直接指揮を取る事はなかった。まさに腐敗した海軍
エリート構造の中で戦争で負けた。

769: 名無しさんAA:17/10/22 02:40
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 412-----------

ミッドウェー海戦の大敗北で山本長官への批判が強まって、トラック島に逃げ込んで、
戦艦大和は本土とトラック島を往復するばかりに終始し戦闘に加わることは無かった。
いったい何の為に戦艦大和を作ったのか、不沈戦艦ならハワイやミッドウェー島の傍ま
で行って艦砲射撃を何故しなかったのか。山本司令長官はラバウルで「い」号作戦を指
揮したが、最後までガダルカナルを激励に行った事はなかった。その後アメリカとの消
耗戦で航空戦力や艦船を失うばかりでこの作戦も失敗に終わった。山本長官はブーゲン
ビル島で搭乗機が撃墜され行方不明になるが、作戦失敗の責任を取った自殺とも言える
。まさに当時の海軍にも人材は払底して官僚的海軍が出来上がっていた。軍艦を作る事
には一生懸命で、現在の天下り団体を作る事に一生懸命な官僚と同じであって、国を預
かり戦争してる意識は皆無だった。軍艦をいくら作っても石油が無ければ軍艦は動かな
いのであり、巨大な海軍は張子の虎状態のままだった。当時の状況からすれば南進政策
は無謀で、海軍の画策によって北進から南進に切り替えられたが、だからと言ってアメ
リカと衝突を公式にする事もなかった。日本には石油が無いのだから防御的な作戦しか
海軍は取りえないのであり、インドネシアの石油を確保しても日本に持ってくるまでに
タンカーがみんな沈められてしまう可能性は、作戦上既に知り得る事だ。アメリカの潜
水艦部隊の戦力を過小評価している点でも海軍の堕落が見える。この海軍の南方進出は
、満州にある陸軍部隊を引き抜き、陸軍部隊は南方に送られて輸送船ごと潜水艦に沈め
られて消滅させる事になった。満州の防衛も空洞化して終戦間際にソ連軍の侵攻で満州
の日本軍は消滅する事で悲惨な引き揚げ状態に陥った。これもコミンテルンの工作活動
が陸海軍部内に行なわれ、その立役者が瀬島龍三だった。しかしながら瀬島龍三も小説
ではソ連のスパイでもあるにもかかわらず愛国者として描かれた。瀬島龍三も典型的な
エリート官僚であり、95歳まで生きたが、証拠は無いがソ連のスパイだった事は充分
な証言と状況証拠がある。このような山本五十六や瀬島龍三のようなスパイがうようよ
いた軍隊では戦争に勝てるはずも無い。本人にスパイの自覚は無かったかもしれないが
利用されて敗戦に導く手助けをスパイ共に行えばスパイと言われても仕方ない。現代の
日本にも自覚なきスパイが沢山いるのであり、そのような彼らを英雄のように小説に書
くこともスパイ工作の一部なのだ。

770: 名無しさんAA:17/10/22 02:40
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 413-----------

 東條英機は極端な国際音痴だった。中国侵略大反対にも全く動じず 強力に推進して
いた。日本の為にならない、と大勢の意見は杉山元と同じく聞く耳は持たなかった為に
三国通商も行った。が、対ソ封込み戦略のつもりが ドイツは簡単にソ連と不可侵条約
を結び 更に素早く フランスを無血入場して勢力下に於いてしまったのである。此処
に「ABCD包囲網」が出来がったが、それでも国際政治に無頓着だった。国際情勢は
知っていたが「無主になった南部仏印進駐までは、アメリカは許してくれる。」と勝手
に思っていた。七月二日、日本は御前会議で南部仏印進駐を決定、二十八日、これを実
行に移した。近衛文麿が言った、「三国同盟から離脱しても、日米交渉を成功させてア
メリカから石油を獲得すべきである。」とだが陸軍は苦笑した。「石油の在庫はあと二
年。日米開戦になれば、一年半で消耗するが、南に油井はいくらでもある。このままで
は戦わずして死んでいくだけだ。腹が減っては戦ができぬ。飢え死にする前に、打って
出るべきだ。どうだ海軍。日米決戦に怖気づいたか。」と南進すれば石油が獲得できる
と言う確信で挑発した。敗戦後東條英機の談話は言う。「この戦争の直接の原因は、世
界経済の構造的な変化によって起きた世界恐慌にある。そしてこれによって資源を持っ
ているアメリカなどの国が、資源を持たない日本をいわゆるABCDラインの武力包囲
や経済封鎖・日本資産の凍結・物資の禁輸などによって日本を排除しようとしたために
、窮地に追いつめられた日本が武力で資源獲得をしなければならなかった。」とアント
ニー サットンは言う、「ユダヤ金融は直ぐに一国や社会を相反する2項対立の相克状
態に持っていく基本戦略が使われる。右翼左翼という対立項は実は彼らが戦略的に作っ
たものである。言い換えれば、この視点からものを見ては彼らの思うツボである。」と
いっている。「背後からこれらの対立を操縦することで、金融資本家は世界秩序を維持
してきた。世界秩序は、世界を実体とみなすあらゆる力と実体を否定している。テーゼ
(正)−アンチテーゼー(反)−ジンテーゼ(合)の原則に基いて 機能し、前もって
決められた結論(合)に向けてテーゼ(正)とアンチテーゼ(反)が対立して終わる。
世界秩序はユダヤ人グループを組織して資金を提供する。次に、反ユダヤグループを組
織して資金を提供する。また、共産主義グループを組織してこれに資金提供し、反共産
主義グループを組織して資金を提供する。必ずしも世界秩序がこういうグループ同士の
対立を煽る必要はない。彼らは赤外線追跡ミサイルのように相手を見つけ出し、確実に
破壊しようとする。それぞれのグループの規模と資源を調節することで、世界秩序は常
に前もって結果を決めておけるのだ・・・・サットン 『連邦準備銀行の陰謀』より

771: 名無しさんAA:17/10/22 02:42
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 414-----------

 こうしてこの環境にはまってしまった日本の軍部は 全くどうしようもない位敗戦に
自らを導いていた。唯一生き残る道であった石原莞爾の敵軍浪費の占有確保論も 海軍
の腰砕けの戦術や陸軍上層部の間違えた戦略によって 100年の国家建設が行えなか
った。それらは日本の仏教界と言う思想の破綻でもあった。つまり日露戦争が終わった
時日本には数多くの戦死者がでた事で起こった宗教界の堕落であった。この時まで日本
の仏教界も真摯に死の供養をしては、民族や命や国土や自然の大切さを伝えていた。諸
行無常の世界での情念の世界だ。生命の大切さ命の尊さの話である。ところが靖国神社
が祀られた時や神仏烏合や神仏分離と天皇の「万世一系説」などが国家神道と祀られる
のに全く反対しなかったし、仏教界が死者の弔いの多さが金を稼ぎの商売に変化し、こ
の儀式が世俗化し、仏教界が商売になり裕福になってしまって本来を忘れたのだ。子供
や世間に対する仏法の説く思想を捨てて、背仏対応したのである。それは現代も全く同
じに続いているのである。此処に日本人や隣組などの自治会や氏子や産子制度の馬鹿さ
や悲しさがある。こうして日本は自分の持つ風土風習の歴史を捨てて 土地は沼地より
は田畑 山では杉などの早期収量の植林で 殖産産業と工業化生産更に富国強兵に協力
して行ったのだ。つまりは仏教は仏教経営に変化して形式を重ね、本来の供養と修業を
捨て生き延びたのだった。これまでの生きとし生けるものの愛情を説かないで信徒確保
に走った。その究極が今の創価学会の姿であり経営中心の思想である。これが堕落した
廃国者を産んだし、今もそういう者を作って止まない。死して守る為の諫言が言えなか
った先人の怠慢である。現実的な対応に終始して論陣は新聞に流れて流行に流された。
更に日本が総動員令を掛けた事で僧侶すらも学徒出陣にあったし 学童疎開は更に神社
仏閣は経営を困難にした。戦時中神社は日本皇道として建てられたが 例えば中国寺院
などで共産党員などの思想を反戦思想に変えた話はあまり聞かない。更に軍部が僧侶を
派遣して植民地文化の中に溶け込まそうとした話も余り聞かないのだ。これがキリスト
教布教の形と大きく違っていた弱さであろう。戦後にはそうした反省の元海外布教にも
力を入れたが 今やその活動は少なく更に戦乱の地での厳しい布教活動は皆無に近い。
武器に武器や兵器に兵器では戦さしかない。北朝鮮問題も対話と圧力と言っているが、
対話ではないし 圧力でもない。人間性の覚醒とその行動である。この視点を日本政府
も考える事が肝要である。

772: 名無しさんAA:17/10/22 11:39
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 415-----------

 こうして国際社会と言われる西洋列強からの離反した日本の敗戦は悲惨なものだった
、米英仏蘭との戦争において、海軍では当初から「1年しか持たない」と言い半年後に
はあっけなくミッドウェー海戦は敗北だった。ここまでに何回も海軍は何回も「図上演
習」を重ねていた。だが本来の空母撃沈が目的だったミッドウェー作戦もミッドウェー
攻撃と両方を取る行動に出て大失敗をした。それはハワイの精油施設攻撃と同じく必死
さを欠くものだった。こうして日本における世紀の決戦が敗れ、43年ガダルカナル撤
退となり、44年サイパンが陥落して東条内閣が倒壊しても、大本営は戦争をやめなか
った。制空権も制海権も奪われ、南の島にとり残された兵隊は武器も食料もなく、餓死
、病死をして、戦闘能力は既になく玉砕を叫ぶのみだった。そして本土が空襲にさらさ
れ、沖縄戦の惨劇が起こっても戦争はやめず、広島、長崎の原爆投下をもって無条件降
伏となった。だが可笑しな事にアメリカは皇居も財閥の工場も攻撃しなかった。国会議
事堂も霞ヶ関も残った。ドイツ戦ではヒットラーが標的になり、イラク戦でもフセイン
が殺された。対日戦では日本人は虫けらのように殺されたが、天皇は標的ではなかった
ようだ。変な戦争だ。そして指導者や支配層はアメリカの単独占領を歓迎した。支配層
は日本人民が革命をやり、自分たちの地位を失うことを恐れていた。米英に自分の地位
を守ってもらうために、戦争で日本国民を犠牲にし民族的な利益をみな売り渡す道を進
んだ。「最初からアメリカに負けるために南進したのだ。日本人民の経験でも市民は焼
き殺すが、軍や三菱は無傷だったというのが実感としてある。」最近の史料で明らかに
なったことでは、戦前に駐日米大使をしていたグルーなどが「日本の軍需工場を攻撃す
るな」と主張していた。それがウォール街の共通認識だったという。グルーはJPモル
ガンの利益代表だが、彼が駐日大使だったときに三菱や住友と深い関係を持ち、アメリ
カ資本が日本の大企業に相当投資してインフラを整備しており、今から日本の資本主義
を段階を画して発達させ、収奪していくんだという狙いを持って投資し戦争に臨んでい
た。自らからが投資してきた三菱などの軍需工場への攻撃を避けていた。と言われる。
これに対して日本側の三菱などは日米開戦のときに、「米英はこれまで通り友人だ。だ
から資産をきちっと守って、戦後も同じようにやっていけるよう、みんなもそのつもり
でおれ」と岩崎小弥太が檄を飛ばしていた。ウォール街の意向と一致しているのである



773: 名無しさんAA:17/10/22 11:41
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 416-----------

「鬼畜米英」と教育し、日米両方の司令部が同じ目的で動いていたのだ。中国に侵略し
て酷いことをしたと批判されるが、大和民族の日本の方がさんざんに殺されている。そ
して民族の利益を売り渡すことで自分たちの支配の地位を守る企業は残った。それが唯
一の道だと言う日本の支配階級の卑劣さは尋常ではない。売国奴、傀儡の道を進んだ訳
はユダヤの陰謀に乗った事に他ならない。天皇側からすれば原爆を落として欲しかった
のが実情だろう。全く仲介のない戦争は何時まで続くか解らない中にあったのだ。8月
15日の終戦の詔勅にある「原爆が投下されたからだ」という理由ができて軍部が止ま
る事が期待出来たからだ。武器も食料もなしにどんどん輸送船を出すというのは「殺し
てください」ということだ。南方にはとり残され、戦争能力がもうないのだから、本当
は戦争をやめる他はない。みんな解っていながら止まれなかった「おかしな戦争だった
」というが 他の国のどの戦争を見てもあんな悲惨な国の戦争はない。普通の戦争なら
ば皇居を狙うのが普通だ。将棋でも王将をとるかとられるかだ。しかし下町ばかりが焼
かれた。又欧州の戦争の始まりも 全く大きく宣戦布告と共に行った過去の戦いとは、
全く異質なものだった。とりわけ戦前のあれほどの共産党南下阻止の盟約をドイツが簡
単捨て、今まで黒船が空砲で威嚇してまでの友好通商条約は全くなんだったのか。日本
は何一つ条約を破っていない中の戦争だった。ドイツの場合は「ドイツ国民は我々同じ
人種で良識ある国民だが、悪いヒトラーはやつけないといけない」という。だからドイ
ツではドレスデン空襲はあった。四度におよぶ空襲に千三百機の重爆撃機が参加し三千
九百トンの爆弾が投下された。この爆撃によりドレスデンの街の85%が破壊され、1
0万人とも言われる一般市民が死亡した。が皇居はほとんど空襲はやっていない。又、
「天皇が敵だ」とはいわず、日本人全体を「ジャップ」といい、野蛮な未開の人間では
ないジャップを殺せというのが最初からの姿勢だ。インディアンと同じ扱いだ。日本は
戦後、戦争を推進した天皇も財閥も政治家も官僚もマスコミも、平和主義者のような顔
をしてそのまま残った。ドイツのマスコミは戦後全部解体された。しかし日本は戦前の
支配機構がそのまま残り、「アメリカの対日占領のために働きますよ」と戦争をやって
いるときからその方向を進めていた。明治維新以来の強い独立性、民族性を持った日本
人は殺してもらった方が都合がよいというスパイの言いなりのものだった。これは戦後
七十年経ってみての日本社会の姿がアメリカのいいなりになって無惨に崩壊している現
状が証明し、元凶はあの戦争から来ているという共通の認識となっている。

774: 名無しさんAA:17/10/22 11:43
 このインディアンの皆殺しも同じ 遊び感覚で殺戮されたのはアフリカの猛獣狩りと
全くおなじで 白人優位者のブルジョア主義であった。今日本でやられている英語教育
についても全く同じで、南北アメリカ大陸での7000万〜8000万人いたインディ
アンの皆殺しをやった後の世界では、残った者は同化政策で子どもを親から切り離して
、寄宿舎に入れて英語教育をやり、言葉も歴史も全部奪っていった政策にそっくりだ。
と指摘される。この最も卑しい白人文化は他の民族の歴史も文化も言葉も奪っていく様
は、民族絶滅作戦をやったヒットラーの優良選民政策と変わらず行う。第二次大戦前か
ら「イエローモンキー」といって人間扱いではなかったが、それはインディアンの時か
ら続いている米国社会の本質だ。そもそも民主主義や平等主義というのは白人社会の為
のもので、ロマやユダヤを入れて黒人を除いた社会の理想郷で、当然ながら黄色人種や
褐色人種を従わせるのが民主主義だった。それを受け入れるのが未開の者の務めで、従
わない者は排除してもいい家畜だからという考えだ。「これは神の言う明白な運命」と
いうのが清教徒が持つ、アメリカ大陸に渡り東部から西部に行くうえでの基本理念だっ
た。こうしてアメリカ全土のインディアンを皆殺しにし、生き残った者は囲い込む。そ
の後太平洋まで来てハワイ、フィリピン、日本、中国と全部欧米文化の基準で支配する
。というのが使命だと一貫していたのである。だからフィリピン国内でも相当殺された
。この理念でフィリピン人も日本人も遊び感覚で殺しまくる。インディアンの時には「
頭皮狩り」といって、戦利品として耳を切りとり、頭蓋骨を集めた者が最も偉大な民主
主義者だとやってきた。その様は異様だった。この思想は今は消えたのか。いやちがう
当時でも消えた様に見えた時もあった。だが第一次大戦で日本に対して恐怖し「インデ
ィアンと同じようにやれ」とハルゼーなどがかなり号令をだした。こうして再びアメリ
カ全土を覆いその時の若い兵隊はフロンティア精神と叫びかつてのカウボーイだという
感覚で、日本の子供が逃げまどっているのに、グラマンで笑いながら撃ち殺した。人道
主義といわれたハルゼーも「捕虜はとらなくていい。とにかく殺せ」と言った。「死ん
だインディアンがいいインディアンだ」というのをもじっていて、「6カ月前に死んだ
ジャップがいいジャップだ」といった。これは単にハルゼー個人の考えではない。当時
米兵や市民のマスコミや新聞、雑誌などでも強烈にやっていた米国内の一般的な言葉で
あり現実だった。その感覚で日本占領に来て、マッカーサーが「日本は一二歳の少年だ
。理屈じゃなしにたたき込まないと理解できないんだ」と声明を発している事でも、わ
かる。わずか百年も経たない国が二千年存在し「和を以て貴しとなす国」を詐欺て仕留
めた時の自国へ向かっての虚勢の吠えだった。

775: 名無しさんAA:17/10/22 11:44
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 418-----------

 この世界大戦が終わった話と見ているのは平和ボケした日本人と、日本を占領された
植民地と見る中国や白人優位主義者だけだ。そうした差別主義者は一掃されずに、我々
の社会に今だ消えない核を持ち 銃社会の暴力や石油など利権主義の混乱を勧める者と
現代人は闘わねばならない。もし馬鹿の様に日中国交を進めた田中や何の制約もなく貢
いだ中曽根阿保首相の様な者を出せば、本当に傀儡国である。戦後今まで何回でも満州
国が再建されたり日本の物になったであろうチャンスが幾つもあった事を肝に据えなけ
ればならない。つまり戦後も満州国に愛新覚羅国王政府を造れば投資する。と米国やら
中国に言うだけで良かったのだ。その事で今の様な北朝鮮を作らず政府と国王と言う仕
組みとか日本の言語と法律を適用するだけでアジアは救われたはずだ。これを戦略とし
て行わなかった事は最大の汚点である。そして、そうしたアジアの知恵に背いた米国の
馬鹿さである。北朝鮮では平野部や海が少ない中で国家経営が上手く行くはずはない。
更に共産党中国が広大すぎて統制は締め付けにしかならない。又ソ連では危機は国外に
しか活路がない。その事が英国や米国のこれまでの歴史に一分の理も無い事は充分解る
歴史と条件と原因だ。そしてこの資本主義自由社会の中でも共産主義の中でも ユダヤ
資本には上手く立ち回り今や資源や資産から利権を充分吸い取れる世界にいるのだ。「
赤い楯」はロスチャイルド家の家紋だ。かつてナポレオン時代今だイギリス進出を果た
していないロスチャイルドは小さな代理店を幾つも買収でイギリスの株取引をしていた
。だがスイス銀行を始めイギリス国債は大量の買手として大資本のユダヤ金融を受け入
れた。武器の開発製造の為に。今ののアメリカが中国を入れた様に国債発行の受け手と
なった。だが彼自身は市民革命を果たしたフランスを応援していた。デンマーク王国、
ワルシャワ公国などに沢山のユダヤ同胞が生活していたからだ。当然の如く資金量も大
きくハプスブルク王家縁戚のロシア帝国、プロイセン王国、スウェーデン王国、ポルト
ガル王国、更にキリストの教皇領などの大連合に勝てる筈もなかった。が情報の少ない
当時はそれでもロスチャイルドが大量のイギリス国債を売り始めたら、イギリスは負け
たに違いない。と多くの投資家たち考えた。そこに損失を嫌う多くの投資家は、名門の
家系の金庫番だったがイギリス国債を叩き売りしだした。こうしてイギリス国債は大暴
落した。裏では代理店を使い買えるだけイギリス国債を買い占めていた。こうしてイギ
リスの連合国が勝った時既に殆どの国債資産は二千五百倍に増えて手元に残ったのであ
る。


776: 名無しさんAA:17/10/23 23:04
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 419-----------

 又、マーカス・サミュエルがバクーから石油を運び出した時、その船が向かった先は
スエズ運河であった。この運河を通ってサミュエルは石油をアジア、特に、わが日本に
向けて大量に輸送したが、同時にその帰りの船で米の交易なども行いシェルとBPとい
うヨーロッパの2大石油会社は市場でシェア争いし戦った様にみえるが、創業時代から
すでにロスチャイルド家が両方の株を握り、アメリカからの安い石油の輸送にスエズの
通行料金を払えないからマーカスを誘ったと言う。こうしてヨーロッパ中の石油はフラ
ンス国内の「赤い楯」が保有することになった。これがバクー油田の秘密だった。バク
ーのロシア皇帝やソ連邦の政府の経営阻止に米国産で販売していたのだ。だがこれでは
スエズ運河には経営が成り立たない筈だったが早々にソ連邦の政府は彼に利権を売り渡
した。ここでサミュエルに話が持ち掛けられたのである。ソ連邦の大陸鉄道はそこでは
資金難にぶつかった。「石油成金」の系図に、すでに登場した「スエズ運河」社長ジャ
ック・ジョルジュ=ピコを書き加えれば、この運河を通って石油を運んだシェル輸送の
貿易の歴史と見事に符合する。マーカス・サミュエルは利口だった。生かす殺さずの資
本形成にフランス領のボルネオ油田を得て別の収入源を得ていたからだ。樺太油田にも
彼の石油船団は運送を任されていた。イギリスとフランスが合同でエジプトを襲ったス
エズ動乱の真因は、ここにあった。正に砂漠の戦争と言われた北アフリカ戦線にドイツ
が割り込んでいたのは リビア石油とスエズ運河の 利権の攻防戦だったのである。か
くしてシェル・フランス創業者のドイッチ家自らロスチャイルド家となり、フランス銀
行の金庫番となりスエズ運河の堰(せき)を自由にあけたり閉じたりしながら、際限なく
富を蓄える財閥に高めていったのだった。これをスイス・ジュネーブ出の強欲な銀行家
たちが指をくわえて眺めているはずもなく、ミラボー銀行、ヴェルヌ銀行、マレ銀行と
いった古典的ブルジョワが寄ってたかって嫁を差し出し、ムコを選んで、あっという間
に「ブルジョア一大家族」を形成してしまった。この大家族の系譜が日本を敗戦に導い
た。これに対し日本の支配階級が卑屈にもつき従って売国行為をしたのである。戦後も
、更に一段階画策している。大和民族が奴隷になった瞬間だった。戦後日本の領土処理
問題などポツダム宣言の基礎となる内容をもつ共同宣言がカイロ宣言としてエジプトで
発した理由が此処にあった。イスラエルと言う国もエジプトをにらみアフリカの動向を
知る為の傀儡として必要だったのである。


777: 名無しさんAA:17/10/23 23:05
内村 鑑三(うちむら かんぞう、1861年)は自分で名前を変えたとする明治草創期の一
人である。群馬の高崎藩士・内村宜之とヤソの6男1女の長男として江戸小石川の武士
長屋に生まれている。三度自己を鑑みるという意味で父が「鑑三」と名付けたと言われ
るが慶応2年(1866年)頃、鑑三が5歳の時に父宜之は、藩の大方の意見と不一致で、
高崎に謹慎を命じられ、家族で高崎に移った。幼少期より父から儒学を学び。明治4年
(1871年)の廃藩置県により、高崎藩知事の大河内輝声が罷免された事を機に父の謹慎
蟄居が解かれ県小参事を免ぜられた。高崎では白井という人より手習いを受けた後に、
大河内輝声の創立した英人学校に入り、小泉という教師より初めて英語を教えられて、
英語に勤しむようになった。明治6年(1873年)に単身で上京して、有馬学校英語科に
入学し、後の日本銀行総裁の三島弥太郎がなどと学んだ。有馬学校で1年学んだ後は、
東京外国語学校の下等第四級に編入した。この時の同級生には、末松謙澄、天野為之、
佐藤昌介らがいた。後ほど首相になった加藤高明は一級に在籍していた。この学校での
教師のM・M・スコットより、グループメソッドという新しい英語教育を受けた。在学
中、一年だけ病気のために休学し、杉田玄端から治療を受けた。一年遅れたことにより
、新渡戸稲造、宮部金吾と同級になったがこの三人は終生にわたって親交を結ぶことに
なった気宇の友人達だった。その頃初めて英文講読で『旧約聖書』の聖書物語に触れた
。北海道開拓に携わる技術者を養成する目的で札幌農学校が創立された事で内村は、北
海道開拓使の役人の演説と官費生の特典に心を動かされて、経済上の理由もあり、札幌
農学校への入学を決意する。 札幌へ旅立つ前に、東京の芝で1ヶ月の合宿をした。その
時、東京大学予備門時代の同級・新渡戸稲造、宮部金吾、岩崎行親らと立行社というグ
ループを結成した。新渡戸稲造、宮部金吾と共に札幌農学校時代内村ら第二期生が入学
する前までに、農学校に教頭として在校していたウィリアム・スミス・クラークらの、
お雇い外国人の強い感化力によって第一期生は既にキリスト教に改宗していた。初めは
キリスト教への改宗を迫る上級生に反抗していた内村も、新渡戸稲造と宮部金吾が署名
したことがきっかけで、ついにほとんど強制的に立行社の岩崎行親と同じ日に「イエス
を信ずる者の契約」なる文書に署名させられる。こうして日本独特の無教会主義の内村
らの日曜日には自分達で集会を開きそれぞれ交代した牧師役の「小さな教会」を行い、
幼いながらも真摯な気持ちで信仰と取り組んだ。そして、メソジスト教会から独立した
自分達の教会を持つことを目標とするようになるこの札幌バンド(さっぽろバンド)は
、日本のプロテスタントの発祥地の一つとされた。札幌バンドの中の内村鑑三、新渡戸
稲造、宮部金吾を中心とする青年の活躍は注目され、横浜バンド、熊本バンドと並んで
日本のプロテスタント発祥の3基点の一つに数えられている。

778: 名無しさんAA:17/10/23 23:07
彼らの講演で感化された者の一人に青山士(あおやまあきら)がいた。尋常小学校を卒
業後に上京し、東京府尋常中学校(現在の日比谷高校)、第一高等学校を経て、東京帝
国大学工科大学土木工学科(現在の東京大学工学部土木工学科)に進学した青山は、一
高在学時に内村鑑三の講演を聞き、影響を受けて門下生となった。土木技術者を志した
のも内村の影響であり、内村の講演「後世への最大遺物」では、「子孫のためになる仕
事」の例として土木事業を挙げて講演をやっていた。東京帝大に進んだのも内村鑑三と
札幌農学校の同級生で親友であった広井勇が主任教授を務めていたことから、内村に勧
められ帝大に入った。青山は更に広井の講義を聴き、パナマ運河への思いを募らせた。
彼の生き方は、無教会主義のクリスチャンであった内村鑑三の影響を強く受け、私利私
欲のためではなく広く後世の人類の為になるような仕事をしなければならない、という
思想を貫いた人生だった。1903年に大学を卒業した青山は広井勇の紹介状を携えて、単
身で渡米した。広井の紹介状の宛先はコロンビア大学教授W. H. バーであったが、そ
れはバーが米国政府のパナマ運河工事委員会の委員でもあったからだった。しかしパナ
マ運河の工事は 当初パナマ資本で工事を始めたが、数年間は疫病の流行などによって
工事は遅々として進んでおらず、海面式運河にするか閘門式運河にするかの建設計画さ
え決定していない状態だった。元々スエズ運河に単を発した計画でスエズ運河会社は、
高い金利の貸付返済とエジプトの収益分担に於いて倒産し、建設者レセップスの後任の
フランス政府もパナマ運河建設も事実上計画を放棄した。1890年には運河の免許が
更新されたが、上記の資金の為の宝くじつき債券の発行を巡ってフランス政界で大規模
な疑獄事件が発生。パナマ運河疑獄と呼ばれるこの事件は当時のフランス政界を大きく
揺るがすものとなった。その後アメリカ政府がその公益性に目を付けパナマ運河工事委
員会を作り工事を中断と再開を行っていた。再開を待ちながら、バーの紹介で鉄道会社
に測量員として勤務し、測量の腕を磨きながら英語で仕事をする環境に適応しながら、
待って1904年よりパナマ運河工事委員会に採用され、パナマ運河開削工事に従事し
た。勤勉さと手腕で高く評価され、測量技師、設計技師と昇進し、技術者としてガトゥ
ン閘門の重要部分の側壁などの設計を担当し、ガトゥン工区の副技師長に昇進した。し
かし、残念ながらパナマ運河の完成を見ることなく、1911年11月に休暇として帰
国したが、帰国後には日系人排斥運動の高まりから日本から辞表を提出す結果になった
。これには日露戦争後にアメリカにおいての危機感から、米国の新聞にはスパイではな
いかとの疑いまでも書かれたという。まだまだ33歳の若さの挫折であった。その後は
日本の土木に従事し、彼の思想は荒川放水路の記念碑、及び大河津分水路の改修記念碑
に顕著にあらわれている

779: 名無しさんAA:17/10/23 23:08
青山家は代々旅宿業を営む家で、中泉を代表する素封家であった。素封家とは今の中流
階級でほゞほゞ地元では裕福な層に属する。祖父の青山宙平(1818年〜1910年)は郡長
や地元の政治家として、また社会事業家として活動した人物で、東海道線の建設に当た
っては中泉駅(現在の磐田駅)の用地を提供している。日露戦争の1904年の遼陽会
戦は、ロシア軍は15万8,000の兵をもって防御網を展開し、日本軍は12万5,000の兵が、
衝突した日本陸軍の最初の国際間の本格戦争だったが、此処で生き残り。功績を挙げた
とされる家柄だった。奉天会戦において戦死した市川紀元二は実兄とされ、東京帝国大
学で電気工学を修めて工学士の学位を持ち、京浜電鉄に技術部長として勤務していた。
歩兵少尉である志願兵一年生の予備役将校として出征している。日露戦争で最初に戦死
した帝国大学出身の軍人で最終階級は中尉で、かつては東京帝大内に銅像があったとい
う。又彼の曾祖母の家系での旅館こそは江戸の頃、青山は江戸市街の外縁部にあたり、
大名屋敷や武家屋敷が点在していた青山領主であった内藤氏・青山氏のルーツにある。
関ヶ原の戦い後加増され大名に列して居る青山氏は宗家は江戸期を通じ、大坂城代、老
中などの幕府要職に就き、常陸国江戸崎、武蔵国岩槻、信濃国小諸、遠江国浜松、丹波
国亀山など転封を繰り返し転封後には、その領地は1615年〜1623年頃、一時、幕府直轄
領となったりしている。つまり青山氏の末席にいたと思われ、その為この旅館には、多
くの日本の明治以降の志士がいた。北風 正造(きたかぜ しょうぞう)は、天保5年の
生まれでは、江戸時代末期から明治時代の日本の商人。古代から続いた兵庫の豪商北風
家に婿養子に入り、家督相続。幕府御用掛を勤めながら、資金面から勤皇の志士を後援
した人間だったが、維新後は友人でもある初代兵庫県知事・伊藤博文と共に、兵庫およ
び神戸の発展に貢献した人だ。神戸駅用地(約24万m2)をもの土地を無償提供した事で
もよく知られる。しかしながら、新政府が藩閥闘争の組織の様相を呈してくるや、理想
とのギャップから官職を辞退して又商売に転じた。ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)等を使
って茶の輸出事業を興し、家業・商業に専念するが、大番頭の別家喜多文七郎死後には
、使用人の不祥事、物品思惑購入の失敗が相次ぎ、終に倒産し、失意の中、東京で客死
した。維新関係文書は本人が焼却したと伝えられ、西郷隆盛、伊藤博文等と維新前から
知己があった。神戸事件で事態解決のため派遣されてきた東久世通禧とは、七卿落ちの
時手助けした関係でよく知った間柄であって、多くの勤皇の志士とも面識があったとい
われている。当然宮崎滔天の率いた玄洋社とも仲をもっていた。明治期の喰い詰め藩士
はどこそこに知り合いはいたが その時の出会いの待ち合わせ場所の意味を持つ旅館は
大変な中にいたと思われる。

780: 名無しさんAA:17/10/23 23:08
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 423-----------

 この北風家こそは古くから北前船をして廻船問屋として鳴らしていた米流通の大御所
であった。米相場の取引には欠かせない存在だったが この北回り船は海産物が主流で
あった。プチャーチン事件で知られた江戸幕府とのロシアの砲艦外交は、遥かその前に
ゴローニン事件を起こしていた。その時活躍した中心人物の高田屋嘉兵衛はこの北風氏
からの支援された廻船問屋の創業家であった。淡路国津名郡都志本村の百姓・弥吉の長
男として寛政2年(1790年)に生まれた。嘉兵衛が22歳の時に郷土を離れ、叔父の堺
屋喜兵衛を頼って兵庫津に出てきた時堺屋は兵庫と因幡や伯耆を結ぶ廻船問屋を営んで
いた。既に弟の嘉蔵が奉公に出ていてその縁で出て来たのだ。その前に淡路で瓦船など
に乗った経験のあった嘉兵衛はすぐに頭角を現し、船の進路を指揮する表仕となり、沖
船頭と言う雇われ船頭へ昇格した。寛政4年に所帯を持ち、兵庫西出町に居を構えた。
しかし、一念発起その後すぐに船を下りて2年ほど熊野灘でのカツオ漁に従事して北前
船を入手するための資金を集め、当時としては最大級となる千五百石積み(230トン)の
「辰悦丸」を手に入れた。辰悦丸は、叔父の喜兵衛が出羽国酒田で新造したのだが船頭
を嘉兵衛と目して北風氏から資金を借り受けての新造船だったと思える。つまり船は、
のれん分けで貰えても人や経費捻出はカツオ漁に行くしか手がなかったのだ。勿論この
船には他の船頭を用意しての造船だったが 北前船は北海の荒海を超える事が必要だっ
た。そしてゴローニン事件の推移を考えると その船長がロシア船の襲撃を受けたとも
考えられる。浜田市に残された客船帳の入港記録には(寛政10年)に和泉屋の屋号が
記されていることから、嘉兵衛が兵庫の北風家の助けを得て和泉屋と共同出資したとい
うのが本当であろう。こうして「辰悦丸」を手に入れた喜兵衛は早速翌年には、嘉兵衛
は兄弟で初めて蝦夷地まで足を運んだ。が当時に、蝦夷地を支配していた松前藩では、
その城下松前では既に近江商人などの利権が強くあり、新参者が参入する余地は、全く
なかったと言える。そこで当時松前の三湊との松前、江差、箱館の中でも、まだほとん
ど開発されていなかった箱館を拠点として店を開く事にした。弟の金兵衛を箱館の支配
人として函館に居を構え 兵庫津で酒、塩、木綿などを仕入れて酒田に運び、酒田で米
を購入して箱館に運んで売り、箱館では魚、昆布、魚肥を仕入れて上方で売るという、
行商周りの循環商売を行ったのである。こうして兵庫の西出町に「諸国物産運漕高田屋
嘉兵衛」の看板を掲げ本店を置き独立する事が出来た。


781: 名無しさんAA:17/10/23 23:09
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 424-----------

次の年1877年(寛政11年)嘉兵衛が厚岸に滞在中、択捉島開拓の任に就いていたと
される近藤重蔵に依頼され、国後島と択捉島間の航路を開拓した。更に翌年の寛政12
年(1800年)に嘉兵衛は、兵庫や大坂で大工らを雇い入れて、米、塩、鍋や釜などの物
資を調達し、辰悦丸と4艘の船で択捉島に渡った。択捉島では17か所の漁場を開き、
アイヌに漁法を教えて家を作り与えたとされる。こうして原野開発と商売の種を作り、
享和元年(1801年)、択捉航路の発見・択捉島開拓の功により、33歳の嘉兵衛は幕府
から「蝦夷地定雇船頭」を任じられ、苗字帯刀を許される事になった。文化3年(1806
年)には大坂町奉行から蝦夷地産物売捌方を命じられ、嘉兵衛は漁場を次々開拓、蝦夷
地経営で「高田屋」の財は上昇した。こうした漁を通じた開発はこれまでの 嘉兵衛が
培って来た知恵がものを言ったのであろう。文化6年の大火では箱館市街の半分が焼失
した。高田屋は被災者の救済活動と復興事業を数々と行なった。市内の井戸掘や道路の
改修、開墾・植林等も自己資金で行ない、箱館の基盤整備事業を実施した。文化7年に
は箱館港内を埋め立て造船所を建設し、兵庫から船大工を多数呼び寄せ、多くの船を建
造させた。こうした頃食糧が途絶えたロシアの船ニコライ・フヴォストフが言葉の通じ
ない北海道で襲撃による食糧調達を図った。文化露寇は日本の対ロシア感情を悪化させ
ていた中で、文化8年(1811年)軍艦ディアナ号で測量を行っていたゴローニンは国後
島の泊に入港した。厳戒態勢にあった国後陣屋の役人に捕えられ、松前で幽囚の身とな
った。ディアナ号副艦長のピョートル・リコルドは一旦オホーツクに戻り、ゴローニン
救出の交渉材料とする文化露寇で捕虜となりシベリアに送られていた良左衛門や文化7
年(1810年)にカムチャツカ半島に漂着した摂津国の歓喜丸の漂流民を伴ない、国後島
に向かった。国後島に着いたリコルドは漂流民を陸へ送り、日本側からゴローニンの消
息を知ろうとした。この時奉行所は良左衛門を介してゴローニンは死んだと伝えたが、
リコルドはそれを信じず、文書で証明するようにと良左衛門を陸へ送り返した。だが、
良左衛門は戻らなかった。リコルドは国後島沖に留まり、日本船を拿捕して更なる情報
を入手しようと待ち受けた。そこに通りかかったのが嘉兵衛の船であったとされる。


782: 名無しさんAA:17/10/26 08:49
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 425-----------

 そもそもこの事件は過去を逆昇る事1670年に逆昇る。1654年から1667年
までの間に、ポーランドとのロシア・ポーランド戦争(13年戦争)が起こった。更には
1656年から1658年までのスウェーデンとの北方戦争は、凄惨を極めた殺戮戦の
時代だった。欧州の公国や王国が裕福になりロシアの侵略が行われた。ロシアの人々は
元々定住のないコサックが多かった。この人々はロシア国民となり重い負担が強いられ
た。ツァーリ専制体制が確立され、徴税と徴兵が強化され、多くの農奴・小作農は南に
逃れ、ラージンのコサック盗賊団の仲間になっていった。農民だけでなく下層階級の人
々やカルムイク人などの非ロシア民族の人々もまたラージンの一味となり反ロシア党と
なった。そうして1671年6月は、コサックのアタマンで、モスクワ・ロシア南部に
おいて貴族とツァーリの官僚機構に対する大がかりな抵抗運動を指揮し戦闘が行われた
。日本でもいわゆるロシア民謡である『ステンカ・ラージン』と共に名高い戦争である
。しばしばステンカ・ラージン とも呼ばれるが、本来「ステンカ/スチェーニカ」「ス
テパン/スチェパン」の縮小形の一つで愛称-卑称として用いられる。一行は集落都市サ
ラトフとサマーラは陥落させるものの、シンビルスクで苦戦し、スヴィリ川での2度の
攻防戦の結果、ラージンの軍は屍の山を築いて敗走し、進路をヴォルガ下流に転じた。
 この敗北でラージンの反乱は終わった訳ではなかった。ラージンの使者は扇情的な声
明文を手にニジニ・ノヴゴロド、タンボフ、ペンザなどを回り、人々を洗脳して行った
。その勢いはモスクワやノヴゴロドにまで達した。抑圧されていた人々はラージンの声
明に飛びついて反乱に加わっていった。ラージンは、この蜂起の目的はロシアの貴族・
官吏を追放し、階級の存在しない平等な「コサックの国」をモスクワ大公国全てで実現
することである、とした。共産暴力革命の最初の声明とも言える。だがモスクワ大公は
それを許さなかった。。8度の戦闘の後にラージンの声明文の実現は疑わしいものとな
って反乱は収束に向かった。、モスクワ総主教がラージンを破門したのだ。これを聞い
た後援者であったドン・コサックも、ラージンに叛旗を翻し1671年、ラージンと兄
のフロール・ラージンは最後の砦であったユジノサハリンスクで捕らえられ、モスクワ
に連行された。ラージンは拷問の後、赤の広場で生きたまま四つ裂きの刑に処されたと
言われ。その生きた屍は1年間も放置されたて ロシア皇帝の脅威を見せつけた。


783: 名無しさんAA:17/10/26 09:24
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 426-----------

 だが ヴォルガ全域をコサックの共和国にするために200の船にに兵隊を満載して
アストラハンを出て戦った成果は ロシアの市民を不幸にした。食糧不足と人手不足は
日に日に深刻化した。又地中海やバルト海では19世紀初頭まで使用されたガレー船団
は、このボルガ人達のものであったが乗っていたのはコサック労働者達だったからだ。
ガレー船は香辛料貿易などに用いられた以外では、もっぱら軍用船としても利用されて
いた。この赤穂浪士の時代の変化はペルシャ帝国の終わりを告げる役割も担った。こう
して小ロシア人とされたルーシー族所謂ウクライナ人やベラルーシの民族はロシア帝国
の侵略で北方への強制労働に駆り出されて食糧生産の為の作業に駆り出された。ロシア
人民にとってトナカイ肉や小麦は高値で品薄の品になった。ここに目を付けたのが、イ
ギリスの商人だった。ハドソン湾会社は、歴史的には、北米大陸の現在のカナダに作ら
れた最も初期の会社だ。ビーバーなどの毛皮交易のため1670年に設立されたイング
ランドの国策会社であった。イングランド銀行の貸付を受けて主に新大陸にやって来た
清教徒の為の日用品や食材の提供をしていた。設立当初は、イングランド王チャールズ
2世勅許状に記された正式名称の「ハドソン湾に於いて通商に従事するイングランドの
総督ならびに冒険家の一団」として登録されてい様に、未開の地の占領する冒険家だっ
た。彼らはこの未開地の毛皮や肉を本国やロシアや送って利益を得た。危機感を持った
のがエカテリーナの持つロシア帝国だった。露米会社(ろべいかいしゃ)は、極東と北
アメリカでの植民地経営と毛皮交易を目的とした、ロシア帝国の国策会社・勅許会社で
ある。1799年、パーヴェル1世から、官僚・外交官ニコライ・レザノフへの勅許により
作られた。露米会社はロシア領アメリカ(アラスカ)やアリューシャン列島、千島列島
での毛皮採取、鉱物採掘を20年にわたり独占的に認められた。20年後も更に182
1年に新たな勅許に露米会社はより以北にまでもその支配地域を伸ばした。だが露米会
社の経営は最初から厳しく、食糧難で入植地は崩壊寸前となり会社は大きな損失を出し
ていた。レザノフはアラスカの維持の為には、まず日本との交易が必要と考え、自らが
アラスカのペテルブルクから出航し長崎へ来航したが不調に終わった。辛抱強く半年を
長崎で待った後、彼はカムチャツカ経由でアラスカに向かった。レザノフは現地の規律
を立て直し、食糧難解決のために今度は南方のスペイン領アルタ・カリフォルニアへ向
かい食料調達と交易確立を図った。もう半年日本で待てば変わっただろうが、彼は待て
ず北に去っていき、カルホルニアでの彼の死によりスペインとロシアの条約締結はなら
なかったが。この事が先のゴローニン事件の発端になった。

784: 名無しさんAA:17/10/26 09:24
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 427----------

 コサックの移動はサンクトペテルブルクを多民族の行き交うロシア最初の奴隷都市に
した。ここに生まれ育ったレザノフは14歳には、既に5か国語をマスターしていたと
いわれる。1778年、砲兵学校を出て近衛連隊に入隊し1782年には退役して地方
裁判所の判事となり、1787年にはサンクトペテルブルク裁判所勤務を経て海軍省次
官秘書を務めた。1791年にはピョートル1世の治世では先の食糧不足で清・ジュン
ガルの領土戦争が起こり、ロシアは方々で戦い疲弊した。ロシア帝国は農奴制で支えよ
うとしていた為ドイツ人をボルガ流域に移民誘致してもいた。この後を継いだエカチェ
リーナ2世も貴族の支持を取り付けるためにそのまま農奴制の推進を継承した。先の『
ステンカ・ラージン』の戦いは発生していたが この戦いに勝ってエカチェリーナの割
愛を受けた詩人のデルジャーヴィンの配下の官房長となった事で彼は出世する。数年前
毛皮商人の「シェリホフ=ゴリコフ毛皮会社」を設立運営した男の娘と知り合っていた
。この会社に興味を持ち、レザノフは、アラスカ・北太平洋方面への植民や交易活動を
シェリホフの娘アンナと結婚して、会社を受け継いだ。そして事業の拡大を進めたのだ
。1795年にシェリホフが死ぬと彼は会社の最高指導者となった。レザノフは女帝の
末期と新皇帝パーヴェル1世の宮廷をうまく立ち回り、合同アメリカ会社の経営者とな
り、太平洋の北方を支配し始めた。同社は1800年に国策会社露米会社に発展した。
露米会社設立の勅許が下りたのはパーヴェル1世が暗殺される直前であったが、既に、
イギリスのハドソン湾会社やアメリカ人のハンターらが、カナダ方面から内陸部を伝っ
て進出していて、アラスカの毛皮交易に参入して露米会社のライバルとなっていた。又
ラッコなどの毛皮はアラスカからシベリアを横断してロシアに向かうため、輸送料が高
くつき露米会社の弱点である食糧難は解決できず、ロシア人の入植地は太平洋を航海す
るアメリカ人の船による補給に頼っていた。しかも1821年からの新たな勅許は競争
相手である海外勢力との接触を禁じた為、食糧を補給し毛皮を買ってくれるアメリカ船
とのつながりが断たれた状態に陥った。結果、露米会社は、アラスカ沿岸を通って北極
海に出る航路をハドソン湾会社に認める代わりに同社と協定を結ぶ程の困難さだった。
そこには露米会社が闇雲にも会社存続の為に北方四島での略奪や樺太アイヌの襲撃があ
ったし その船員がそのまま日本に親書を持つ船の乗組員としていたのである。こうし
てトルコ側からとアラスカ側からの影響がロシアの混乱で日本に押し寄せて来ていた。



785: 名無しさんAA:17/10/26 09:28
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 428-----------

1840年代は露米会社にとり厳しい時期だった。海岸部の先住民たちは露米会社のも
とで厳しい労働を強いられていた。アリュート人はアリューシャン列島からアラスカ本
土へ移され、ラッコ狩りや軍務などに従事していたが、その人口は疫病や労役で減少傾
向にあった。また北方カナダインディアンのトリンギット族は露米会社に服従せず何度
も入植地を攻撃した。つまり原住民と露米会社は世紀の氷上戦争に陥ってしまったのだ
しかしこの時期から 何故だか露米会社を経営する海軍士官たちは徐々に、学校や病院
の建設を行い生活向上の努力をしたため人口は回復し始めたと言う。それがロシア皇帝
のレザノフの逮捕収監であった。トリンギットを始めカナダインデアンはアラスカ族と
同じにトーテムポールによる領地を持つ種族であったが、ラッキブーなど白人の侵攻で
、ヤクタト地域の先住民はカッパー川地域から来たエイアック語を話す人々と言われ、
今や壊滅や絶滅に至った民族だった。こうして、北方はエキスモーの狩猟民族のみに変
わった。レザノフは、露米会社の食糧難打開や経営改善に日本との交易が重要と考えて
、遣日使節の派遣を宮廷に働きかけた。これより前の1792年に、日本人漂流民の大
黒屋光太夫一行を返還する目的で通商を求めた。1789年ペテルブルク大学から派遣
されていたアダム・ラクスマンは、シベリアのイルクーツクに滞在中に伊勢国出身の大
黒屋光太夫ら漂流者6名と出会った。父の支援を受け、光太夫を連れてペテルブルクの
女帝エカチェリーナ2世と謁見し、光太夫送還の許しを得たラクスマンは、女帝の命に
より光太夫、小市、磯吉の3名の送還とイルクーツク総督イワン・ピールの通商要望の
信書を手渡すためのロシア最初の遣日使節となる為に寛政4年(1792年)9月にエカテ
リーナ号でオホーツクを出発し、10月に根室に到着していた。この時アダム・ラク

786: 名無しさんAA:17/10/26 09:28
、遣日使節の派遣を宮廷に働きかけた。これより前の1792年に、日本人漂流民の大
黒屋光太夫一行を返還する目的で通商を求めた。1789年ペテルブルク大学から派遣
されていたアダム・ラクスマンは、シベリアのイルクーツクに滞在中に伊勢国出身の大
黒屋光太夫ら漂流者6名と出会った。父の支援を受け、光太夫を連れてペテルブルクの
女帝エカチェリーナ2世と謁見し、光太夫送還の許しを得たラクスマンは、女帝の命に
より光太夫、小市、磯吉の3名の送還とイルクーツク総督イワン・ピールの通商要望の
信書を手渡すためのロシア最初の遣日使節となる為に寛政4年(1792年)9月にエカテ
リーナ号でオホーツクを出発し、10月に根室に到着していた。この時アダム・ラクス
マンと、日本の江戸幕府老中職の松平定信との間に国交樹立の約束が交わされていたが
、レザノフはこの履行を求めた。彼は日本人漂流民の津太夫一行を送還する名目で、正
式な遣日使節としてロシア皇帝アレクサンドル1世の親書を携えた使節団になっていた
。この時ラクスマンに「信牌」(長崎への入港許可証)を与えたのは老中・松平定信で
あったが「国法」を盾に拒否しロシア側の妥協で事なきを得た。レザノフが長崎に来航
した1804年9月6日は、松平定信は失脚し老中を辞任し、幕府は外交能力を失って
いた。新たな責任者の老中土井利厚を中心とする幕閣は、今度は通商は断固拒否する姿
勢で「武力を行使しても日本の武士はいささかもおくれをとらない」と言う態度であっ
た。そのため幕府は上陸も許さない態度をとり、後に乗務員の病気治療と船の修理を名
目にとりあえず上陸を許されますが、それは昼間のみであり、半年も待たせたうえでの
通商を拒否し、一行を追い返した。こうしてレザノフがロシアに帰る途中、日本の幕府
への報復と威嚇を兼ねて部下に千島や樺太においての、攻撃・略奪行為を行う事件を引
き起こして去って行ったのだった。


787: 名無しさんAA:17/10/28 02:49
 大黒屋 光太夫(だいこくや こうだゆう)は、宝暦元年(1751年)に産まれて江戸時
代後期の、伊勢国白子(現三重県鈴鹿市)の港を拠点とした回船(運輸船)の船頭だっ
たと言う。雇われ船頭で船は持っていなかったらしく天明2年(1782年)に、嵐のため
江戸へ向かう回船が漂流し、アリューシャン列島(当時はロシア領アラスカの一部)の
アムチトカ島に漂着した。当時ロシア領として船が回航したらしく先住民のアレウト人
や、毛皮収穫のために滞在していたロシア人に遭遇したという。彼らとともに暮らす中
で光太夫らはロシア語を習得した。4年後になって(1787年)、ありあわせの材料で造
った船によりロシア人らとともに島を脱出する。もともとはロシア人に保護される様な
立場だったが、そのロシア人達を帰還させるための船が到着目前で難破した。漂流民が
逆に増えたため、光太夫らが逆に指導的立場に立って、難破した船の材料などを活用し
て、脱出用の船を作った。こうしてカムチャツカ、オホーツク、ヤクーツクを経由して
1789年(寛政元年)イルクーツクに至った。北海道の北を行く北極回廊を戻った。
フランス人探検家レセップスや博物学者エリク・ラックスマンなどの好意でロシア帝国
の帝都サンクトペテルブルク入りを果たし女帝エカチェリーナ2世に謁見して帰国を願
い出て、漂流から約9年半後の寛政4年(1792年)に 根室港入りして帰国した。ラクス
マンは、光太夫の境遇に同情すると同時に、帰国が叶うように最大級の尽力を惜しまな
かった。また、博物学者としてラクスマンは、光太夫達から日本の情報を収集すること
にも力を注いだ。ラクスマンは、すこし頑固なところがあったが、真摯で誠実な人物で
あり、光太夫一行は、次第にラクスマン一家と家族的な付き合いをするようになってい
った。ところがイルクーツク総督府はあくまで日本人達をロシアに帰化させることを、
方針としていた為握りつぶされていた。その為直接帰国を直訴すべく帝都サンクトペテ
ルブルクに向け出発した。女帝エカチェリーナ2世その後行幸していた女帝を追って、
無事謁見を賜り、帰国の許可を嘆願することに成功した。ラクスマンの次男アダムが初
の遣日使節となってアダムの帰国後、女帝から功労を称えられた。その後自身も日本へ
と向かうが途中シベリアで客死した。幕府の老中・松平定信は光太夫を利用してロシア
との交渉を目論んだが失脚する。その後は江戸で屋敷を与えられ、数少ない異国見聞者
として桂川甫周や大槻玄沢ら蘭学者と交流し、蘭学発展に寄与した。甫周による聞き取
り『北槎聞略』が資料として残され、波乱に満ちたその人生史は小説や映画などでたび
たび取りあげられているアダム・グスタヴォヴィチ・ラクスマンは1806年に『ラクスマ
ン日本渡航日記』を完成させている。

788: 名無しさんAA:17/10/28 02:51
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 430-----------

ゴローニン事件はアダム・ラクスマンに続く第2次遣日使節として訪日して来たもので
あった。文化露寇(ぶんかろこう)は、文化3年(1806年)と文化4年(1807年)に、
ロシア帝国から日本へ派遣された外交使節権を貰ったニコライ・レザノフが、部下に命
じて日本側の北方の拠点を攻撃させた事件だった。事件名は日本の元号に由来しロシア
側からはフヴォストフ事件と呼ばれる。江戸時代後期の1804年、女帝エカチェリー
ナ2世の後ロシア皇帝アレクサンドル1世から派遣されたニコライ・レザノフにより、
行われた通商要求行動の後にロシア側から行われた軍事行動である。それに先だって、
ロシアはエカチェリーナ2世治下の1792年、アダム・ラクスマンを根室に派遣し、
日本との通商を要求したが、江戸幕府はシベリア総督の信書を受理せず、通商要求に対
しては長崎への廻航を指示、ラクスマンには長崎への入港許可証(信牌)を交付した。
文化元年(1804年)、これを受けて信牌を持参したレザノフが長崎に来航し、半年にわ
たって江戸幕府に交渉を求めたが、結局幕府は通商を拒絶し続けた。レザノフは幽閉に
近い状態を余儀なくされた上、交渉そのものも全く進展しなかったことから、日本に対
しては、武力をもって開国を要求する以外に道はない。という意見を持つに至りまた、
日本への報復を計画し、樺太や択捉島など北方における日本側の拠点を部下に攻撃させ
たのである。レザノフの部下ニコライ・フヴォストフ(ロシア語版)は、この文化3年
(1806年)に樺太の松前藩居留地を襲撃し、その後、択捉島駐留の幕府軍を攻撃した。
これを受けて幕府は新設された松前奉行を司令官に、津軽藩、南部藩、庄内藩、久保田
藩(秋田藩)から約3000名の武士が徴集され、宗谷や斜里など蝦夷地の要所の警護
にあたった。こうした中、文化4年(1807年)には斜里に駐留していた津軽藩士70名
が厳寒の越冬中に病死する事件が津軽藩士殉難事件と言われる物が起こった。しかし、
これらの軍事行動はロシア皇帝の許可を得ておらず、不快感を示したロシア皇帝は、1
808年つまり1年後に全軍に撤退を命令した。これに伴い、蝦夷地に配置された諸藩
の警護藩士も撤収を開始した。なお、この一連の事件では、日本側に、利尻島で襲われ
た幕府の船から石火矢(大砲の一種)が奪われたという記録が残っている。もしこの時
レザノフが更に長くこの地に滞在し 日露和親条約が行われていたら又違った世界に、
なっていたとも思われる。

789: 名無しさんAA:17/10/28 02:51
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 431 -----------

元々レザノフが貰った勅許では、露米会社はロシア領アメリカのアラスカやアリューシ
ャン列島、千島列島での毛皮採取、鉱物採掘を独占的に認められていた。その支配地域
を伸ばす事は投資してくれた会社には商人たち 宮廷・皇族の面々が会社の利益の3分
の1は皇帝のものとなる仕組みであり、食糧供給や交易の増収益を図るに樺太や択捉島
など日本人との友好は欠かせない要件だった。これを半年も捨て置かれて幽閉に近い、
長崎泊まりで、その上国境画定と通商開始を要求したが、幕府はその要求を一応拒否し
たままで、長崎のみの開港のだった事はレザノフの鬱憤は積もるままだった。その頃の
北方の開拓は例えばノルウェーにラップ人というサーミ民族がいたが、サーミ人の宗教
は万物に霊が宿るという精霊信仰であり、ノアイデと呼ばれるシャーマンを中心とする
民族だったが、キリスト教の布教がラップ地区に及ぶと、このような精霊信仰は容赦な
く弾圧され、スカンジナビアの宣教師たちはを信仰を守り続けるサーミ人を迫害、特に
ノアイデの改宗、撲滅に努めた。現代サーミ人の大半は後でルーテル教会かロシア正教
会となったのだが、こうしたキリスト教徒異民族による支配で、伝統的文化を否定する
価値観は常に突きつけられていた。スウェーデンなどの原住民も又「あの地に、汚らし
いラップ人がいなければ…」という目で見られていた。こうしたサーミ人の苦難の歴史
は新大陸のインディアンやアボリジニと全く同じで、今の中東のクルド人も周辺諸国と
民族的にちかくムスリムだが、国を持たなかったゆえの悲劇は似ている。こうした民族
主義がない平和な民族にとって国家建設は難しく、国家を持たない民族は部族に留まり
、周辺の強大な民族に吸収されやすいようだ。この頃の北海道のアイヌも似たような状
況だった。ただ先行して江戸幕府が蝦夷地開拓に勤しんでいたので こうした西洋型の
高圧的外交や熾烈な覇権争いや襲撃や盗賊に近い商取引を許さない奉行所がここにあっ
たのである。嘉兵衛が観世丸に乗り、干魚を積んで択捉島から箱館に向かう途中、公文
書を届けるため泊に寄港しようとしていた様に 各地にある住民との取引こそが商売で
あったのだ。こうして、国後島ケラムイ岬の沖合でディアナ号に拿捕された嘉兵衛は、
リコルドにゴローニンが生きていることと、カムチャツカに行く用意があることを伝え
、弟の嘉蔵・金兵衛に事件解決のため「掛合〔交渉〕も致し候」と手紙を書き送り、食
料と衣服をディアナ号に積み替え、水主の金蔵・平蔵・吉蔵・文治・アイヌのシトカと
ともに、カムチャツカ半島のペトロパブロフスク・カムチャツキーに連行されたのであ
る。

790: 名無しさんAA:17/10/28 02:52
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 432-----------

文化8年(1811年)5月、軍艦ディアナ号の艦長で千島列島の測量を行っていたヴァー
シリー・ゴローニンが国後島の泊港に入港します。このとき、フヴォストフ事件の報復
のため厳戒態勢を敷いていた国後陣屋の支配調役・奈佐瀬左衛門らが食事の接待をし、
そのあと ゴローニンら約6名を捕えて、縄で縛ったまま徒歩で陸路を約2ヶ月かけて
松前に護送され、ゴローニンらは幽囚の身となります。この「騙し討ち」によりロシア
人は泊湾を「背信湾」と呼ぶようになりますが、このゴローニンと言う人物が、ブロー
ウニンでして、徳山館跡となる現在の徳山大神宮の敷地が、その幽閉場所であったと言
う事になります。ただし、最初はある程度行動の自由はあったようで、監視付きながら
も散歩も許可されており、城下の武家屋敷に住んでいたと言います。しかし、脱走して
捕まってからは、徳山大神宮の奥にあるバッコ沢の牢獄に入れられたと言う事になりま
す。なお、ロシアに興味があった間宮林蔵は、度々、牢獄を訪問し、鍋や酒を振る舞っ
たとも言います。ディアナ号の副艦長ピョートル・リコルドはオホーツクに戻るとゴロ
ーニン救出のために動きます。シベリアに送られていた良左衛門や、1810年にカム
チャツカ半島に漂着していた摂津国・歓喜丸の漂流民らを、人質交換のような形で、ゴ
ローニン救出のため国後島に届けます。しかし、松前奉行調役の奈佐瀬左衛門は良左衛
門を介してゴローニンは死んだと伝え、ゴローニン救出は失敗しましたが、リコルドは
亡くなったことを信じず、日本船を拿捕して更なる情報を入手しようと国後沖に留まっ
ていました。そこに通りかかったのが高田屋嘉兵衛の観世丸で、クナシリ沖でリコルド
のジアナ号に停船を命じられたのです。高田屋嘉兵衛は、ジアナ号の船長室に連れ込ま
れましたが、少しも臆するところなく一方的な停船命令を非難します。そして、ブロー
ニン事件の経緯と、人質交換を目的とするロシア側の意図を知ると、これ以上日本とロ
シアの間が紛糾することを恐れ、従容としてロシア軍艦の人質を買って出ました。こう
して、高田屋嘉兵衛の身柄は、カムチャッカ半島東岸のベトロバウロスクに運ばれます
が、見知らぬ異国の僻地で、ただひとり孤独な明け暮れを迎えながらも、少しも憂色を
見せなかったと言います。44歳の男盛り、荒波と潮見とに鍛えられ、これまでにも数
多く体験してきた苦難が不凍不屈の精神を養い、全盛を迎えていた高田屋嘉兵衛は、ゆ
っくりと時間をかけてリコルドを説いていました。日本政府へ蛮行事件の謝罪の文書を
提出すれば、きっとゴローニンたちは釈放されるだろうと・・・。

791: 名無しさんAA:17/10/28 02:56
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 433-----------

こうして高田屋嘉兵衛は ロシア帝国の存在を江戸幕府に知らせた最初の存在だった。
ダム・グスタヴォヴィチ・ラクスマンは(1792年)ニコライ・レザノフは(1806年)と
文化4年(1807年)である。ペリーが米国大統領の国書を携え4隻の軍艦で浦賀に来航
して開国を迫ったのは1853年であるが、それより7年前1846年に米国のジェームス・ビ
ッドル(James Biddle,1783-1848)が軍艦二隻で浦賀に来航している。 この時の記録
が弘化雑記第九冊(内閣文庫所蔵)に管轄窓口である浦賀奉行の対応及び江戸湾を警備
する近隣諸大名の注進・報告、浦賀与力の私信、船問屋・名主など民間人の文書、風聞
、幕府決定機関である老中から奉行や諸大名に対する指示等が順不同で多数収録されて
いる。ではこの間に何があったのか。それは砲弾の開発である。19世紀初頭、すでに陸
戦において榴弾砲や臼砲で炸裂弾は使用されていたが、それらは大角度かつ低初速での
使用に限られていた。炸裂砲弾は取り扱いが危険であり、高初速の平射砲で炸裂弾を使
用する技術的な見通しはたっていなかった。双方が移動する海上での砲戦でまともな命
中率を得るには、直接照準による平射が必須であった。このため数世紀に渡って艦砲の
砲弾としては実体弾が使われており、木造艦艇に対してさえも限定的な損害を与えられ
るに過ぎなかった。こうしてペクサンは海戦において平射砲で炸裂弾を使用することを
を提唱し「ブレストで1821年と1824年に行われた実験で、砲弾は廃艦となったパシフィ
カトゥールを激しく破壊した。フランス海軍の砲弾システムはこの成果を基に作られて
いるが、この砲弾には特殊な信管がしくまれ、砲内の発射薬の爆発によって作動し、そ
の予想飛翔時間よりやや遅れて炸裂するように設定することにより、敵艦船に対して他
のいかなる砲弾よりも高い効果を発揮する。」と言う炸裂弾を開発した。ペクサン砲で
ある。この効果は日本の様な砲を持つ防備を著しく低下させた。従来の弾はどんなに大
きく重いカノン砲であれ船とであれば陸上の被害は少なく船は穴が開けられては小さな
穴でも沈没する憂き目にあうからだが 炸裂弾ともなれは陸上でも多大な被害がでるし
火災さえも大火になる可能性がでて来るのだ。こうして今までの大砲を持ってやって来
た大きな木製帆船と 蒸気を使った鉄の艦船とに 船も持っている兵器も大きく違った
威力で 日本に西洋列強が開国を迫る事になった。こうして新しい歴史がのしかかった


792: 名無しさんAA:17/10/28 02:59
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 434-----------

 このペクサン将軍は重砲の製造、砲弾、砲架、その運用に関する重要な改良を行った
。ペクサン砲は炸裂弾と中空砲弾の発射に特化したもので、1824年ごろにフランス海軍
に採用された。同様の砲は英国でも採用された。ペクサン砲は艦砲としても、また沿岸
防衛用の要塞砲としても適していた。とある。こうしてクリミア戦争のシノープの海戦
で採用され威力を発揮し、特にその効果が明らかであったとされる。「フランス海軍の
実施した新型兵器についての実験」はオランダ語に翻訳され日本にも輸入された。それ
を入手した武雄領主鍋島茂義(高島秋帆に弟子入りしていた)はさっそく日本語に翻訳
し、1848年(嘉永元年)に佐賀藩主鍋島直正に献上している。1851年(嘉永4年)に会
津藩が江戸湾(富津台場)の防備を命じられると、江川英龍に150ポンド(17貫300目)
ペクサン砲の鋳造を依頼している。当時は音をとって「伯苦斬刪砲」、またはその特徴
から「暴母加納」(ボム・カノン)と呼ばれていた。1853年(嘉永6年)のペリー来航
の際、ペクサン砲を搭載した米国軍艦に乗り込んだ浦賀奉行所与力中島三郎助は、その
大砲がペクサン砲であることを見抜いたとされている。1849年にジョン・ダールグレン
(John A. Dahlgren)がダールグレン砲を開発すると、ペクサン砲はそれにとって代わ
られた。しかしながら彼の設計思想は他の海軍関係者には受け容れられなかった。大砲
の装填方式が前装式から後装式へ転換したことと冶金技術の発展は、20世紀になる前に
彼の設計を時代遅れなものとした。彼の設計の欠点は、砲尾のhoisting-knob が小さく
壊れやすいことと、大砲にとって不可欠である照準角の設定機構を欠いていたことであ
る。これらの不備はロッドマン砲の開発によって改善が試みられた。こうして武装する
兵器は 海外においては急速な発展を遂げ 日本はついていくしかなかった。そうした
発展は戦艦でも飛行機でも或いは戦車でも常に改良がなされ、常に日本は開発時は最新
鋭ではあったもののその物量や使用の面からも或いは精神面からも遅れを取った。戦艦
大和は不沈戦艦とされたがそれが運用される時は大砲巨艦主義はその浪費から遅れを取
りゼロ戦でも最速で小回りの利く飛行機は脅威であったが薄く後ろからの銃弾に敗れ、
高高度を飛行できなくなる時その利点は後塵に帰した。この最新兵器で威圧する外交は
このペリー来航から常に続いていった。いわゆる砲艦外交である。今までは大砲を気に
せず鎖国で消極的な開国が 出たり入ったりして意見が割れていたが 此処に沿岸庶民
の安全を期するところで 幕府は独断で開国を決めた。

793: 名無しさんAA:17/10/28 02:59
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 435-----------

 ところが江戸時代の銃の改造を見て驚く事もある。
1832年  モーゼル、プロシアで前装式撃針銃の薬莢を発明
1836年  ドライゼ銃(ドレイゼ・ライフル)撃発式発火装置をもちいた世界最初
       の銃で中心撃ち紙製薬莢を用いるボルトアクション式の後装銃
1836年  パリの銃工ルフォーショウが元折式の後装式雷管銃を発明。この形式は
       近代式猟銃の基本となる。
1840年頃 欧州では前装式滑腔火打石銃が制式軍用銃としては使われなくなる
1841年  プロシア陸軍、ドライゼ銃を制式採用
1841年  日本の小山杉渓、『雷撃銃略記』という翻訳書で雷管銃を日本に紹介
1842年  日本の吉雄常三が雷汞および雷管銃を創製
1843年  江川太郎左衛門が門人の松代藩士 片井京助に雷管銃を試作銃を作らせる
1848年  佐賀藩が制式小銃として火縄銃を廃止して火打ち石式の小銃を制式採用
1850年  江川太郎左衛門が雷管銃を大量生産し作らせる  
1853年  ペリー来日
1855年  徳川幕府、オランダより小銃製造に必要な各種工作機械を輸入
1856年  片井京助が日本初の後装式雷管銃を完成させる
       幕府は製造技術が伴わないという理由から制式採用せず
1861年  シカゴの医師ガットリングが銃身回転式機関砲(機関銃)を発明
と言う流れがあるが、日本での1841年に吉雄常三が雷汞および雷管銃を創製とあり
この人尾張藩の藩医で、蘭学者が雷管銃を創っている。天保十四年九月二日雷汞粉製法
の研究中、爆発を生じ死去していて、当時は軍事研究は粉末の場合医学者蘭学者が行い
命懸けの作業だった事がうかがえる。火縄銃というのはそんなに危険なモノではないの
だが これが雷管銃の場合は難しいのだろう。此処に火薬の混合分量の問題が起こる。
かつての線香花火の様な紙巻き黒色火薬に鉛玉の「弾薬」なら、硝石と硫黄と人並みの
知識があれば直ぐに台所ででも作れるとされる。だが19世紀後半から登場した雷管式
の弾薬となると、化学実験室並の設備、薬品と化学者としての常識、技術に加えて精密
工作の設備、技術が必要になり、さすがに素人的研究では出来ない。と言われている。

794: 名無しさんAA:17/10/28 02:59
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 436-----------

ヨーロッパでは火打ち石を使ったマスケット銃というのが登場して火縄銃にとって代わ
った、火打ち石というのは「打つ」衝撃で火花を発して火をつけるわけで、打った衝撃
でブレるため、命中率が悪いという欠点を持っていた。従ってマスケット銃の戦術とい
うのは、兵士の整列間隔を詰めて面積あたりの火力を濃くして弾丸をばら撒くという戦
闘法になって量が必要になり、日本ではあまり普及しなかった。それが傍装雷火銃によ
って雷管式銃が広まり、戦闘法が一変するのである。こうして銃の革命がもたらされた
のは、奇しくも幕末維新の時代であった。1850年代に実用化した雷管や元込式装填
装置、尖頭弾と旋条といった技術は、銃単体の性能と歩兵戦術の両方を一変させた。そ
して日本人は速やかにその最新戦術を習得したのである。戊辰戦争を戦った薩長諸藩や
幕府陸軍の兵士は、ナポレオン戦争のような隊列は組まず、分散しての物陰からの遠距
離射撃する散兵戦術が一般的に行われた。そして新戦術の変化に対応した軍事化の必要
性は、あっという間に封建制の廃止まで行き着いてしまったようだ。同時期のアメリカ
国内の南北戦争では、新式銃器による新戦術の定着までは、まる五年間の歳月と60万
人の死者を出した事と比較すれば、日本人の軍事技術の学習能力は非常に高かった。と
言える。アメリカでは政府軍は南北戦争前期の横隊戦術で戦っている。しかし同期の日
本の西南戦争の政府軍と薩摩軍は、より進歩した散兵戦術で戦っていたのである。こう
した日本人の「学ぶ力」とその「早さ」は、次々と日本の歴史を変えた。「雷管式」銃
が信州の田舎の鉄砲鍛冶が作り、雷汞はどこから手に入れたのか。それは伊豆韮山。最
初の反射炉のある韮山の幕府代官であった江川太郎左衛門英龍が7千両を超える大金を
投じて作ったこの炉に答えがある。江川太郎左衛門英龍は天保14年に門人(松代藩士)
の片井京助が二匁八分のドンドル銃(傍装式雷管銃)の製作に成功した。英龍は屋敷の裏
門の西側に銃器工場を立てて京助の開発した雷管銃の量産を開始して、親友の川路聖謨
に特性の護身用短銃を製作し贈ったという。川路聖謨はロシアとの和親条約に関わった
人でペリー来航より早く来たロシア使節でエフィム・プチャーチンとの交渉を執り行っ
た人だった

795: 名無しさんAA:17/10/28 03:01
 江川門下の信州の鉄砲鍛冶は天保14年(1843年)には完成したが、尾張藩吉雄常三
が火薬製造中に爆死したりした事件が起こる。こうしてさっそく江川は自宅の庭に工場
を建て、ドンドル銃の量産を開始した。この英龍が発明した、いわゆる「ドンドル銃」
だが、これは当時銃は火縄銃か火打銃であったが、引き金で雷管を打つ銃をオランダの
書物で研究しながら発明していた。また「ドンドル銃」のこの為の着火材の「雷粉」と
いう火薬の製造こそが至難を極めていた。三上参次が駒込林町にあった「ドンドル製造
の小屋」とは、江川英龍が発明した「ドンドル銃」や「雷粉」と関係があると見られる
。幕末・明治初年の駒込林町の周囲一帯は、原っぱも多かったことで「ドンドル銃」の
試射し狩りなども行われていたと見られる。この江川太郎左衛門英龍は、高島流砲術の
大家で、今の軍事専門家として名を馳せていたが、一生に一度も戦争はしてない。戦わ
ずに済ませるのが良い軍人のモットーを地でいった。そういう人間だった。マリナー号
事件は1849年嘉永二年閏四月、英国の軍艦マリナー号が日本の沿岸にあらわれた時
に起こった。それは今まで東北や北海道で起こった様に大きな外国船がやって来て、相
模湾で勝手に測量を開始し、さらに下田に移動しそこでも勝手に測量をはじめ、下田奉
行の退去要請を無視して動かなかった。以前から外国船の出没に懸念を感じていた砲術
家江川英龍公は、ここで韮山代官として立ちあがる。当時は幕府の緊迫財政で粗末な衣
装だった貧しかったためバカにされたのだ、と、三越デパートから最高級の陣羽織と袴
を取り寄せる。ふだんは木綿単衣物しか身につけない江川さんが、立派な姿にみんなが
驚く様な衣装に変えた。蜀江の錦と呼ばれる袴で、当時有名な呉服屋「越後屋」から取
り寄せた 部下の手代にも新調の割羽織を着せ、さて、率いる部隊は総勢50名の兵士
たち全員に、最新式のドンドル銃を担ぎ、揃いの高島流軍服で応じた。数年後にやって
来たペリー提督が持っていたさえ火打ち石の銃だったから、雷管式のドンドル銃という
のは、1849年当時では最新鋭であった。マリナー号の艦長はゆったりと測量してる
中で沿岸に綺麗に揃った兵士が立っていた。望遠鏡で確認すると銃と刀を持った兵が構
えている。「日本には戦をしかけてくる勇気なんかあるわけがない。」そう思いながら
も船内には緊張感が増していた。幕府は妖怪鳥居耀蔵が失脚し水野忠邦の時代に変わっ
ていたが下田奉行では何とも当てにならず、今までの海防奉行の鳥居に責任を押しつけ
ようとしたが、スラリと交わして西洋式測量で目の上の瘤だった西洋通のこの江川にそ
の役を付ければいいと言い放った。耀蔵にとっては幕閣からは外れていたので 失敗す
れば幕府を責め成功すれば自分の手柄にする。と言う下心からだった。だが江川の方は
そうしたご下命に喜び勇んで答えていたのだった。


796: 名無しさんAA:17/10/28 03:01
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 438-----------

そして多くの小船がマリナー号へと近づいて来た。小船には武器を持った兵士も乗って
いる。マリナー号では艦長から水兵まで皆が冷や汗を流していた。先頭の小船に豪華な
衣装を着た武士が乗っていて交渉を求むと声をかけてきたことにホッとした。マリナー
号に乗り込んで来た武士は豪華な衣装を着ていて威厳のある男だった。名前を江川英龍
といい数十万人の人民を治める領主だと宣言した。それだけの地位の人物が兵を引き連
れて交渉にやってきたのだ。江川はあくまで紳士的に退去を求めて来る。だが、彼が引
き連れてきた数百の兵は圧力になっている。交渉が決裂すれば彼らがどういう行動にで
てくるか分からない。そうした兵を連れ立っていた。「右向け、右、前へならえ」の号
令の一下、整然と行進して交渉に乗船して来た。そんな号令も江川が翻訳しが発案した
物と言われる。馬鹿にしていた日本という国で、突然あらわれたこの「近代的軍隊」に
、マリナー号のイギリス人は気押されていた。1849年4月12日。こうして江川太
郎左衛門はマリナー号に乗船し、船長のマチスン中佐と船室で会見する。「マチスン殿
に尋ねたいことがある。日本やオランダには法律と申すものがござるが、貴国にも法律
はござるのか」「もちろん、ござるわ。江川氏はイギリスをあまりご存知ではないよう
ですな」「私は大英帝国を紳士の国と聞き及んでいる。この旨間違っておりましたかな
」「いえ。イギリスは確かに紳士の国でございます」「ならば話は早い」と許可なく、
測量したマリナー号は我が国では違法でござる。と非難する太郎左衛門。「これは日本
政府よりの正式な通達でござる。紳士の国なら 何とぞお引取りいただきたい。」「そ
の通達を断れば、この船を沈めるほかござらぬ。スパイ行為を働いた船は国家間の問題
にならず、当方にて処分できる。」「確かに」「無論それは最終的手段であり、貴船が
立ち去ることを約束してくだされば、当方はそれを信じて引き上げ申す。これまでの違
法行為も一切罪に問わぬ。」「貴国の寛大な申し出に感謝する」マリナー号事件は一応
の収束を見る。鳥居耀蔵は1844年に失脚していたので、江川さんはコレで中央政界
に復帰します。こうして日本は次々と現れる黒船の来航にその時々に聡明な日本の武士
が現れ対抗しそれぞれに日本を守って植民地にしなかった。こうした英霊に今や自民党
は唾をはいてた政策ばかりだ。



797: 名無しさんAA:17/10/28 22:02
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 439-----------

川路聖謨は水野忠邦が天保の改革で挫折して失脚した後、奈良奉行に左遷されている。
奈良奉行時代には行方不明となっていた神武天皇陵の捜索を行い、『神武御陵考』を著
して朝廷に報告している。後に孝明天皇がこれを元に神武天皇陵の所在地を確定させた
といわれる。その後、大坂東町奉行をへて、嘉永5年(1852年) 公事方勘定奉行に就任
した。家禄が200石相当から500石の知行取に加増され、当時幕府の内規により遠国奉行
就任で200俵、江戸町奉行・勘定奉行就任で500石へ加増とされる。翌嘉永6年阿部正弘
に海岸防禦御用掛に任じられ、黒船来航に際し開国を唱えて摩擦が起こった。また同年
、長崎に来航したロシア使節エフィム・プチャーチンとの交渉を大目付格槍奉行の筒井
政憲、勘定吟味役・村垣範正、下田奉行・伊沢政義、儒者・古賀謹一郎と共に担当し、
安政元年(1854年)に下田で日露和親条約に調印。その際ロシア側は川路の人柄に大変
魅せられたという。この時老中に向けて「日本の会所ができているのはアニワ湾周辺だ
けで、それより奥地へは探険家が入った程度である。長崎では北緯50度で分けるとの
案を出したが、どこで分けるかの定見は無い。不毛の樺太を棄てても一向に差し障り無
い。」と連絡している。この交渉に於いて、幕府の全権としてプチャーチンと交渉に当
たった外国奉行・川路聖謨は、アメリカ使節ペリーなどの武力を背景に恫喝的な態度を
取っていたのとは対照的に、紳士的に日本の国情を尊重して交渉を進めようというロシ
アの姿に感銘し、プチャーチンの姿勢に大変好感を持った。川路はプチャーチンのこと
を「軍人としてすばらしい経歴を持ち、自分など到底足元に及ばない真の豪傑である。
」と敬意をもって評している一方、プチャーチンの方も報告書の中で、川路については
「鋭敏な思考を持ち、紳士的態度は教養あるヨーロッパ人と変わらない一流の人物」と
評している。お互いに全権大使として礼節をわきまえた交渉だったようだ。これには裏
がある。 ロシア皇帝ニコライ1世は1852年、海軍中将に昇進したエフィム・プチ
ャーチンに、アメリカ合衆国のマシュー・ペリーが日本との条約締結のため出航したこ
とを知ってコンスタンチン大公を通じて 日本との条約締結のために遣日全権使節を命
じたが、これに進言したのは、日本に長く在日していたシーボルトだった。皇帝と共に
シーボルトは日本の国内事情をレクチャーし日本の民族性も又教えていたのである。


798: 名無しさんAA:17/10/28 22:03
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 440-----------

ところが日本は混乱していた。安政5年(1858年)には堀田正睦に同行して上洛、朝廷
に日米修好通商条約の承認を得ようとするが失敗した。江戸へ戻った時井伊直弼が大老
に就任すると一橋派の排除に伴い西丸留守居役に左遷されたが、条約は弟の井上清直と
岩瀬忠震が朝廷の承認が無いままタウンゼント・ハリスと調印している。更に翌年の8
月27日にはその役も罷免されて隠居差控を命じられる。文久3年3月に将軍上洛を行
い229年ぶりに徳川家茂が上洛し天皇と話し合ったのは他ならぬ外国船の就航に困っ
ての事だった。ところが勤皇派の薩摩や長州は強気な態度は更に大きく文久3年5月に
は馬関戦闘を行い長州藩が仏軍艦キンシャン号を砲撃し続いて長州藩が蘭軍艦メデュー
サ号を砲撃した。これを受け川路聖謨は文久3年(1863年)に勘定奉行格の外国奉行に
復帰した。だが外国奉行とは名ばかりで一橋慶喜関係の御用聞きのような役回りに不満
があったようで、病気を理由として僅か4ヶ月で役を辞退した。引退後は、中風による
半身不随や弟の井上清直の死など不幸が続いた。慶応4年(1868年)、割腹の上ピスト
ルで喉を撃ち抜いて自殺した。享年68歳。忌日の3月15日は新政府軍による江戸総
攻撃の予定日であった。勝海舟と新政府側の西郷隆盛の会談で江戸城開城が決定したこ
とを知らず、病躯が戦の足手まといになることを恐れて自決したともいわれるが、江戸
開城の報を聞き、滅びゆく幕府に殉じた筈だとも言われている。少なくとも江戸城開城
に於ける混乱が彼に自殺を促したのだろう。ピストルを用いたのは、半身不随のために
刀ではうまく死ねないと判断したからではないかといわれる。辞世の句に「天津神に 
背くもよかり 蕨つみ 飢えにし人の 昔思へは」という言葉を残し、横に「徳川家譜
代之陪臣頑民斎川路聖謨」と自書している。小説家の山田風太郎はその著「人間臨終図
巻」において次のような言葉を記す。「彼(注:川路)は要職を歴任したとはいうもの
の、別に閣老に列したわけでもなく、かつ生涯柔軟諧謔の性格を失わなかったのに、み
ごとに幕府と武士道に殉じたのである。徳川武士の最後の花ともいうべき凄絶な死に方
であった。」と書く。現代のしみったれた私達では及びもしないが 庶民や貧民を憂い
捧げる命が 神の御心に添っていた筈だという確信がありその為に国を守った自負が、
そこにはある。

799: 名無しさんAA:17/10/28 22:19
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 441-----------

 ロシア皇帝ニコライ1世から命をうけ、訪日したエフィム・プチャーチン海軍中将は
1852年9月、ペテルブルクを出発しイギリスに渡りボストーク号を購入して185
3年8月22日、ペリーに遅れること1ヵ月半後にやって来た。シーボルトの進言を受
けて極めて紳士的に、旗艦パルラダ号以下4隻の艦隊を率いて長崎に来航した。長崎奉
行の大沢安宅に国書を渡し、江戸から幕府の全権が到着するのを待ったが、クリミア戦
争に参戦したイギリス軍が攻撃するため艦隊を差し向けたという情報を得て、長崎を離
れ一旦上海に向かい情報を収集するなどした後には、長崎に戻り、幕府全権の川路聖謨
、筒井政憲と計6回に渡り会談した。一定の成果を得たプチャーチンは再び離れマニラ
へ向かいその後ロシア沿海州のインペラトール湾において、船の修理や補給を行った。
旗艦のパルラダ号は木造の老朽艦であった為新造船のディアナ号に乗り換え、旗艦以外
の3隻の船はイギリス艦隊に備えて沿海州に残した。ディアナ号単艦で再び日本に向か
い、10月21日(嘉永7年8月30日)、箱館に入港し、同地での交渉を拒否された。大
阪へ向かい、翌月に天保山沖に到着し、大阪奉行から下田へ回航する要請を受けて、下
田に入港した。報告を受けた幕府では再び川路聖謨、筒井政憲らを下田へ派遣し、プチ
ャーチンとの交渉を行わせた。この経緯で進んでいた。しかし、交渉開始直後の1854年
12月23日(嘉永7年11月4日)、安政東海地震が発生し地震と津波によりほぼ壊滅した。
ディアナ号も津波により大破した。乗組員にも死傷者が出て、交渉は中断せざるを得な
かった。津波の混乱の中、プチャーチン一行は、波にさらわれた日本人数名を救助し、
船医は看護した。大地震発生でディヤナ号も致命的な損傷を受け大規模な修理が必要に
なり、プチャーチンはほかに適地を要望し日本側に申し入れて、西海岸の戸田港で船を
修理することにした。戸田港は天然の良港で、完全に外界から閉鎖されていて、戦争中
の軍艦を修理するという点でもよい条件であった。ディヤナ号を戸田へ向けて動かすこ
とにしたが、強風で富士川河口の宮嶋村まで流されしまい、駿河湾に沈没した。沈没す
るまでの僅かな間荷物の荷揚げを行い、村民も総出で浜辺に出てこれを応援した。宮嶋
村も地震の被害を受けていたが、それでもプチャーチンらを助けてくれたことに、プチ
ャーチンは「幕府がただちに派遣した役人たちは、我々の不幸に心から同情し、我々を
厳しい冬から守るために家屋を急造し、救済に八方手を尽くしてくれた。しかも我々が
上陸した戸田の地点では大地震のため全家屋が倒壊していたことを考えるならば、我々
に対する日本人の人類愛の心づかいは、賞賛にあまりある」と書いている。


800: 名無しさんAA:17/10/28 22:59
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 442-----------

 この頃まで日本とロシアの関係は非常に友好的であった。この時のプチャーチン提督
の乗艦ディアナ号は、当時の帝政ロシアの最新鋭の軍艦(フリゲート)で長さ52メートル
、2,000トンの木造帆装軍艦で、大砲52門を搭載、乗員500名 その艦首にはロマノ
フ王朝の権威を象徴する双頭の鷲(ワシ)の紋章が金色に輝いていたと言う 全くの欧州
随一の戦闘艦だった。アメリカのペリーが「砲弾による威圧」によって開港を迫ったの
に対して、ロシアのプチャーチンがシーボルトの話に忠実に「対話」に徹した姿勢は、
幕府にとっても好印象だったしロシアにとっても好都合だった。又 皇帝ニコライ一世
から、「あくまで平和的手段」で「直接の話し合い」により友好の道を開けと、命令さ
れていた事は日本のこれまで「異国船打ち払い令」などでの異国人脅威の感情の中でも
この地震や津波後の彼の運命を良い方向に向かわせた。下田で遭遇した地震・津波での
、ディアナ号が大破しているにもかかわらず、漂流する日本人3名を助け、また、陸上
へ医師団を派遣したことも幕府とロシアの友好の一つとなった。こうした中での交渉が
再開された事でも、領土領海の境界の結論が出ないままでも、話し合いの結果を作った
。1854年、下田の長楽寺でプチャーチンと幕末全権の筒井政徳、川路聖謨との間で
日露和親条約が結ばれた。北方4島を日本領とする領土のことが定められたが、樺太を
相互に入植権がある事で落ち着いた。9カ条の本文と4カ条の付録から内容自体は、先
のペリーとの条約とほぼ同じ内容で収まった。その後もディアナ号の沈没を知った戸田
(へだ)の船大工と住民達は協力して、天城山の木材を利用して新しく洋式船を突貫工事
を行い約3ケ月で造りあげて祝った。1855年3月10日プチャーチンは住民に感謝
して、船の名前を「ヘダ号」と名付けて47人と共に帰国した。この時の船大工の、上
田寅吉と鈴木七助は、後に長崎伝習所に行き勝海舟と出会う事になる。また、緒明菊三
郎は横須賀の浦賀ドックを造り、近代の造船業に大きな貢献をした。プチャーチンは、
その後の遺言で、戸田村に百ルーブルを寄贈した事でもその親善行為は心に残っていた
ようだ。正確ではないがおよそ10ルーブル50万円換算で500万〜1000万相当
すると思われるが 共産圏のしがない退役軍人ではかなりの高額と言える。



801: 名無しさんAA:17/10/28 23:03
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 443-----------

 ところが清国の外交音痴によって中国国内では大変な事が起きていたのである。ヴォ
ルガ全域で起こったコサックの共和国建立をする為の反乱はそのまま中国清王朝とロシ
ア帝国との領土争いで極東まで及ぼしていた。このステンカラージンの戦いはそのまま
アムール川流域のやウスリー川流域で起こっていた。これまで緩い朝貢での清国領土と
認識していた土地であったが、急速に進んだ欧州内の工業発展にロシアは不凍港を求め
大航海時代に乗り遅れまじと南下政策に転じていたのである。この混乱や領土争いは、
そのまま無知なる中国大陸を治めていた清国に影響を及ぼした。かつて明は「駅站」と
呼ばれる駅伝制度を敷いていた。それは6世紀頃にも日本に伝わり8世紀頃に完成した
と言われる通行機関だった。日本書紀に大化2年(646年)の詔勅に 「初めて京師を修
め、畿内の国司、郡司、関塞、斥候、防人、駅馬、伝馬を置く」とあり、大化の改新に
際して、政治・軍事と共に交通制度の全国的連絡網の整備を行うことで中央政権を作っ
てきたシステムだった。だが明王朝時代に情報の大切さを捨てたのか 崇禎帝の時代に
経費節減のため廃止された。こうして駅站廃止で失業した者は路頭に迷い、農民反乱を
起こす。延安府米脂県(現在の陝西省)出身の李自成もその中の一人であったが、天啓
7年(1627年)・崇禎元年(1628年)に陝西で起きた大旱魃をきっかけに反乱が頻発し
、李自成もそれに参加した。その間に朝廷は満州族対策に追われてしまい満足には反乱
対策を行えなかった。これに乗じて反乱は勢力拡大し、山西を制圧し、北直隷(河北省
)まで迫る。北京を陥落させて崇禎帝を自殺に追い込み、明を滅ぼした。李自成の軍が
北京城に入城した際には、市民のみならず官兵まで崇禎帝を見捨て、隊列をつくってこ
れを歓迎した。北京に入城した李自成たちは、ここで皇帝となる諸手続きや儀式の用意
をし。入城後は、殺人鬼の張献忠の軍が合流し 厳正であった軍規も次第に無くなり、
略奪・強姦・殺人が横行していた。その頃、満州族は1616年に満洲において清を建国し
ロシアからの侵略に次第に南下して中国を攻めて行った。こうして李自成軍を滅ぼして
1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝を作った。首都を瀋陽
を置き、後に北京に置かれ中国を安定に向けた。満洲族は愛新覚羅氏が建てた征服王朝
で、外来王朝として存在した。これまで明王朝が采配して止めて置いた騎馬民族モンゴ
ルの満州族がロシア皇帝から逃げて来たコーカサスの民に浸食された始めたからでもあ
ったと言える。


802: 名無しさんAA:17/10/28 23:18
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 444-----------

 清国建立されると19世紀から20世紀初頭にかけては、清王朝には災難が押し寄せ
る。早速外国船が交易にやってきては砲艦外交に及んだのである。今だ内乱が収まらな
い中でアヘンが販売され人民は愚民になった。アヘン戦争や太平天国の乱やアロー戦争
(第二次アヘン戦争)による清国内の混乱に乗じた列強の圧力は強かった。列強から結
ぶことを余儀なくされた仏英などの不平等条約に対して、遅れてやって来たロシア帝国
は仲介に入って、東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーが、停泊中
のロシア軍艦から銃砲を乱射して、調印しなければ武力をもって黒竜江左岸の満洲人を
追い払うと脅迫し、清国全権・奕山に認めさせた。こうして列強と結ぶことを余儀なく
された不平等条約がアイグン条約と1860年の北京条約であった。この条約で確定され、
条約によって1689年のネルチンスク条約以来、清国領とされてきたアムール川左岸をロ
シアが獲得し、ウスリー川以東の外満州(現在の沿海州)は両国の共同管理地とされた
。また、清国はロシアに対してアムール川の航行権を認めた。それらは現在でもロシア
連邦と中国の極東部での国境線は、このアイグン条約と1860年の北京条約で確定された
ものが基本となっている。こうして南下政策で清国からまんまと不凍港域をせしめた事
が勢いづかせ、金角湾建設の為にロシアは対馬占領に出た。実は日本人はかつてツング
ース族との交易にウラジオストックに日本人街を持ち金角湾と称していたのである。こ
の湾は現在も東のゴルドビナ岬と西のチグローヴイ岬の間にあり、北西はシュコタ半島
に囲まれた絶景地である。湾の長さは7km、幅は2kmで、水深は20m〜27m湾の両側
は丘陵に囲まれた穏やかな土地だ。海岸線には今や埠頭や造船所が、丘の上には住宅地
がびっしりと続き、最奥部の丘の上にウラジオストク市街中心部がある。波から守られ
た天然の良港で、ウラジオストク市街は湾を挟んで二分されているため交通の便が悪い
状態が続いている。かつての金氏の土地の角地と言う意味で金角湾と呼ばれていただが
、この地の本格的経営をロシアが乗り出した事で、此処に対馬事件が起こったのである
。だがこの事で ロシアは日本人から恨みを買った。強奪や婦女暴行など蛮行が起こっ
た事で一部の人間がこの対馬から逃げて日本本土に渡ったし 当時の瓦版でもその様子
は後に「御露西亜おそろしあ」と噂が流れ、それがロシア皇帝を襲った津田巡査の大津
事件を引き起こして、日露戦争の賠償金拒否まで及んだのである。


803: 名無しさんAA:17/10/28 23:26
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 445-----------

1861年の時代は桜田門外の変によって井伊直弼が暗殺され幕府の威信は揺らいだ。
そんな中、倒れかけた幕府を立て直すために老中・安藤信正はひとり気を吐き、日普修
好通商条約の締結に際して外国奉行の堀が、安藤の逆鱗に触れ切腹した後は、小栗がそ
の後任として外国奉行に就任したのである。この頃は外国人が上陸を許可され日本の事
情を知らない外国人の蛮行に各奉行所は手を焼いていた。そんな幕府に立て続けに起こ
った事件が薩摩藩士によるアメリカ公使の書記官ヒュースケンの殺害事件と対馬占拠事
件だった。ヒュースケン殺害事件はアメリカのみならず各国の通訳をしていた為各国か
ら非難が巻き起こり、一斉に各国の公使館が江戸から引き揚げた。幕府はこの件を解決
するために銀貨1万ドルを遺族に支払う事になった。薩摩藩はこの件を黙殺し、反省も
なく後に生麦事件を引き起こして再び幕府に尻拭いをさせた。対馬占拠事件は1861
年2月3日に、ロシアの軍艦ポサドニック号が突如対馬の西海岸に停泊し、乗務員を上
陸させ対馬の領主・宗義和に面会を強要した事に始まる。対馬藩は10万石の外様大名
で、とてもロシアの軍艦を追い払える筈もなかった。ロシアとの領土問題は、安政元年
(1854年)の日露和親条約によって決着していたので、幕府にとっては「寝耳に水
」であった。対馬はイギリスが対馬の租借権を要求した事もある要所で、強引に対馬の
測量を行った時もあった。この時もロシアはもしもイギリスが実力で対馬を占拠した時
は、日本と共に協力してイギリスを撃退して良い、との申し出もあった。幕府は直ぐに
外国奉行の小栗を対馬に送り込ませた。が、小栗が5月10日に対馬に到着したときは
、すでに艦長のピリレフは対馬に兵舎の建築などを始めていた。対馬の住民との間では
一触即発の緊張が漂い、しかも、対馬の家老は、勝手に藩主との面会約束をしていた。
小栗とピリレフと会談は再三に渡り行われ、ピリレフは家老との約束を盾に藩主と面会
を要求したので、江戸に伝え老中に指示を仰ぐが、返答は即刻破棄だった。この第一回
の会談でロシア側は贈品謝礼を口実に藩主への謁見を強く求め、小栗は謁見を許可する
旨を回答。第二回の会談で小栗はロシア兵の無断上陸を条約違反であるとして抗議。第
三回会談で藩主謁見の実現を求めるビリリョフに対し小栗は(老中安藤信正に謁見は対
馬居留を認めることになるので許可できないといわれたので)前言を翻し謁見はできな
いと回答。話が違うとビリリョフは猛抗議を行ったが、小栗は「私を射殺して構わない
」と言い切り交渉を押し切った。さすがのピリレフもその小栗の姿勢に対して敬意を抱
き、さすがに小栗を討って事を運ぶわけにはいかないと藩主との面会は断念することで
、対馬会談は終了した。

804: 名無しさんAA:17/10/28 23:42
 だが事態の推移は膠着のままで5月19日に小栗が対馬をたって江戸にもどったが、
ロシアの軍艦はまだ対馬に居座ったままだった。帰途の途中、小栗は事件の解決方法と
日本という国が抱える外交政策の重要な問題に対して思いを巡らせていた。江戸に帰っ
た小栗は次のような報告を幕府に提出した。「ロシアの軍艦を追い払う能力が対馬にな
い以上、ロシア領事を通じてロシア本国に外交ルートで抗議を行うより他はない。それ
でも解決しない場合、国際世論に訴えて、国際正義の立場からこれを解決してもらうよ
り手はない。そして、今後にもこのような事態になった場合、日本は軍事力によってこ
れを排除できるように一刻も早く軍事力の整備を行うより他はない。」と提言した。こ
れは対馬のみならず、今後も幕府を通さず藩主と直接交渉しようとする事態が起こらな
いとも限らない。直ぐに島嶼地域の対馬を幕府の直轄領とする事と同時に、外国に対す
る幕府の権限を各藩に示しその範囲を明確にしておかなければならない。と考えた。が
、対馬の直轄領化は見送られたし、軍事力の整備や軍隊や軍船を作る造船所すらなんら
動きはなかった。小栗は盛んに老中に話すが埒が明かず、遂に外国奉行の任を辞した。
それでも老中は外国奉行として函館に行きロシアとの交渉を行うように命じたが、函館
奉行は、小栗が最も信頼していた村垣淡路守であり、面目を潰すことになると考えた為
小栗は、村垣に全て任せるように幕府の要人に伝えて、自分の屋敷へ籠ってしまいまし
た。思いあぐねた老中安藤信正に、一計を用意したのが、勝麟太郎だった。安藤はその
策を受け、表では函館奉行とロシア公使の交渉を行いながらも、裏ではイギリス公使を
呼び、対馬におけるロシアの状況を伝えた。かつて、対馬を租借しようとした経緯のあ
ったイギリスは直ちに行動を移し、7月20日には軍艦2隻を対馬に送り込んだ。そし
て幕府の役人や通訳も同乗してのイギリスはロシアの話し合いがあり、厳重に抗議され
たピリレフも又、ここでイギリスの軍艦と事を構えるわけにはいかないとやむなく退去
した。だがこの時も文久2年(1862年)1月に、和宮降嫁問題によって恨みを抱いてい
た尊王攘夷派の水戸浪士の襲撃を受け、負傷したが一命は取り止めている(坂下門外の
変)。しかもその直後、包帯姿でイギリスの公使ラザフォード・オールコックと会見し
ているのだった。このとき、オールコックは負傷しながらも幕府の権力者として意地を
見せる信正の姿に感嘆したという。後で、勝は『氷川清話』の中で「彼をもって彼を制
す」と胸を張ったが、しかし、イギリス公使オールコックの報告書では、イギリスも又
機会さえあれば対馬を武力で制圧し拠点にしようとしていた事が記されている。そして
、今回の事件はその絶好の機会だったことも記されていたが その頃植民地の軍事予算
に追われていた本国は穏便に済ます事を支持し平和裏に進める事を命令していた。当時
の日本が綱渡りにも似た如何に危ういバランスの中で、成功していたかが伺える。

805: 名無しさんAA:17/10/28 23:46
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 447-----------

 小栗上野介は三河以来の由緒ある名門の出で、本人も秀でた能力を持つエリートでし
た。又彼ほど明治政府の為になった徳川の幕臣もいないだろう。勝海舟は旗本とはいえ
41石の貧乏旗本にすぎませんでした。常に正攻法で行動する小栗に対して、能力を磨
くだけでなく下から這い上がるための力を身につけなければならなかった勝海舟とでは
、同世代の人間としてはかなり違った人生を歩んだ。この事件は、その性質の違いが出
た一つ事件だったともいる。「幕府の運命も難しい。費用をかけて造船所を作っても、
完成した頃に幕府がどうなっているかわからない」。そんな言葉が小栗に向けられてい
たが、元治元年(1864)、勘定奉行の小栗上野介忠順は、幕府の財政が逼迫していること
を承知の上で、あえて製鉄所(造船所)建設を幕閣に提唱します。製鉄所建設は、日本が
近代化に向けて必要な工業力の源になると考えたからでした。しかし、「幕府の屋台骨
が揺らいでいる時に、将来への投資などできるか。」という反応は当然返って来ていた
。これに対し、小栗は言います。「仮に幕府の運命に限りあるとも、日本の運命には限
りがない。私は幕臣である以上、幕府の為に尽くすべき身分だが、それも結局は日本の
為である。幕府のしたことが長く日本の為となり、徳川の仕事のおかげだと後に言われ
れば、徳川家の名誉ではないか。国の利益ではないか。同じ売家にしても土蔵付き売据
えの方がよい。」と持論を展開した。小栗の先祖は家康以来、代々徳川家に仕える譜代
の家臣だが、その小栗家の当主が、幕府の為よりも日本の為になるか否かを最優先事項
として考えていたのは先見的視野だった。小栗の提案は承認され、フランスの協力を得
て慶応元年(1865)より建設が始まった。蒸気機関を動力とする横須賀製鉄所(造船所)で
は、小栗の読み通りその後はこの製鉄所から日本の近代化は始まることになったのです
。一方で小栗は、次のような言葉も発しています。
「病〈やまい〉の癒〈い〉ゆべからざるを知りて薬せざるは孝子の所為〈しょい〉に
あらず。国亡び、身倒るるまでは公事に鞅掌〈おうしょう〉するこそ、真の武士なれ」
(親の病気が、もう治る見込みがないからといって、薬を与えないのは親孝行ではない
。たとえ国が滅びても、この身が倒れるまで公事に尽くすのが、真の武士である。)と
この場合、親というのは、肉親のことではなく、徳川幕府を指しています。今の日本に
必要なのは近代化であり、幕府が倒れるか否かが問題なのではない。だが一方で自分は
幕臣である以上、無節操に幕府を見限ることはしない。幕府が幕を下ろす最後の時まで
、最善を尽くすのが真の武士ではないか…。小栗上野介忠順とは、そんな男でした。


806: 名無しさんAA:17/10/28 23:52
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 448-----------

 こうして慶応3年(1867)、最後の将軍・徳川慶喜は、京都で大政奉還を行ない、自ら
幕府政治の幕を引きました。これに対し、薩摩藩を中心とする討幕派は、御所を固めて
「王政復古の大号令」を決行。クーデターでした。さらに新政権には慶喜を参画させず
、辞官納地を要求します。陰謀の中で新政権を誕生させ、さらに挑発する薩摩に旧幕府
側は激怒し、戦端を開いたのが翌慶応4年1月の鳥羽・伏見の戦いでした。ところが薩摩
・長州らの新政府軍が、偽造した「錦の御旗」を掲げると、前将軍慶喜は腰くだけにな
って、将兵を置き去りにして江戸に逃げ帰ってしまった。これで慶喜以下、旧幕府側は
賊軍の汚名を着せられました。事の成り行きを江戸で知らされた小栗は、はらわたの煮
え返る思いであったでしょう。「幕府政治ではもはや立ち行かないことは、我々幕臣も
承知している。だからこそ上様は大政を奉還申し上げ、近代化にふさわしい政体を求め
ようとされた。それを薩長の者たちは、上様を締め出し、戦いへと誘い込んだあげく、
旧幕府側を朝敵呼ばわりするに至った。こんな姑息な手を用いる者たちに、日本の近代
化など託せようか」。そんな心境であったはずです。慶喜の江戸城帰還後に行なわれた
1月12日の評定で、小栗は徹底抗戦を主張しました。「このまま、旧幕府側が賊徒と
され、260年間の治世も否定されたあげく、黙って新政府軍に討たれるなど、全く筋
の通らぬ話。武士の心も踏みにじる汚い者たちに、近代国家の何たるかなどわかるまい
。無理は押して通せぬことを、我らが知らしむべきであろう」。そんな思いから、次の
ような作戦を言った。「新政府軍が箱根の関内に入ったところを陸軍で迎撃、同時に、
榎本武揚率いる幕府艦隊を駿河湾に突入させて後続部隊を艦砲射撃で足止めし、分断。
箱根の敵軍を孤立させて殲滅する。」と。実際、この話を後に聞いた新政府軍の指揮官
・大村益次郎は、「もし、その策が実行に移されていたら、今頃、我々の首は胴から離
れていただろう」と戦慄したといいます。しかし、前将軍慶喜は首を縦に振ることはな
く、そそくさと評定の場を立ち去ろうとしました。小栗は慶喜の袴のすそをつかみ、「
上様、お待ちくだされ。ご決断を」と訴えると、「無礼者」と慶喜は小栗の手を払い、
奥へ消えました。ほどなく小栗は御役御免となります。免職となった上野介は、彰義隊
や会津藩への協力を誘われますが、「新しい政府に内紛が起こり、国内が混乱し外国に
乗じられるようなら自分の役目もあろう。その心配もなく過ごせるならば、前政府の頑
固な一人として静かに世を過ごすつもり」と言って断りました。

807: 名無しさんAA:17/10/28 23:56
小栗にすれば、「国亡び、身倒るるまでは公事に鞅掌するこそ、真の武士なれ」の実践
をした。ということだった。やるべきことをやり、その結果、主君に疎まれたのならば
、もはやこれまで。後は領地の上野国権田村に退いて、静観するのみ。と心に決めて隠
遁生活に及んだのだった。前将軍の徳川慶喜は非常に頭の良い人間だったに違いない。
イギリス公使オールコックは元々は長崎の公館にいた。それが横浜に開港されて横浜の
東禅寺を公使館として使用し、その後も江戸幕府により品川御殿山に公使館が建設され
ていたが、完成直前の1863年1月31日(文久2年12月24日)に高杉晋作らによる焼き討ち
にあって(英国公使館焼き討ち事件)、使用されることはなかったが、こうした民衆の
崇めた景観の良い一等地を使用していた。彼自身はそうして風光明媚な土地を訪れる事
が好きだったようだ。この横浜公使館の江戸に帰る際、幕府は安全上の懸念から海路で
の移動を勧めたがこれを押し切り陸路で出発。江戸に戻るまでに、京都見物、富士山登
山などを経て江戸に到着した。これは日本の庶民に反感を持たせた。まず京都の寺院で
の参詣も霊峰富士の登山でも その頃の庶民にとって大和民族の心の礎であり、外国人
に土足で入り込むその行為は死罪に値した。事実日本人でさえ罪人や馬上では入れない
神域であった。これを難なく横暴に入り込む様は日本人には許せない行為であった。そ
こに事件が起こった。水戸藩を脱藩した攘夷派14人が150名前後の警備兵により守
られていた公使館に侵入し襲撃した。特に富士山は古くから霊峰として崇められてきた
日本のシンボルで富士山信仰のある中で「神の国日本が穢された」と感じ、襲撃を決意
したと言われる。浪士が携帯していた襲撃を決した書面には「尊攘の大義のため」と書
かれていた。この東禅寺事件が起こった後も一時は公使館を変えていたがまた戻した処
に第二東禅寺事件が起こった。第一次の襲撃だったのに対し第二次事件は一人によって
なされたが松本藩士・伊藤軍兵衛は東禅寺の警備兵として、その任が藩の多大なる負担
に耐えかねて犯行に及んだ。夜中にニールの寝室に侵入し暗殺を試みますが警備のイギ
リス兵2名に発見され戦闘となり、この警備兵2名は伊藤により絶命。自身も負傷し、
一旦松本藩番へと逃れ後に自刃しました。こうして遺書を書き「国中のため、ご藩主様
の御為と想い、偉人を打取ろうと思い狙っていた処四方神力の恵みにより首尾宜しく打
ち取ることができました。恐れながらご公儀に御届け申し、心のまま申し上げ、その後
いかなる罪にても仰せこうむります。これに付き、ご藩主様へ何かあっては不忠第一に
なるので屋敷を出奔し、浪人となります。ご詮議があればこの通りにお答えください」
と書き綴り遺書内には、「警備をおおせつかって向かったが、婦人をつれて江戸見物を
するとのこと、誠に心外」と伊藤のイギリス公使館に対する怒りが綴られてもいた。

808: 名無しさんAA:17/10/28 23:58
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 450-----------

 前将軍の徳川慶喜の前に立ちふさがっていたのは賠償金問題だったと言える。この時
の事件でも賠償金を伴う事件となり、第一次に対して1万ドル、3億7500万円(1
両5万円計算)、第二次に対して1万ポンド、15億円もの金額が支払われることが要
求されている。更に薩英戦争での30万ドルや長州の馬関戦争で300万ドルと言う、
多額の賠償金問題が発生していた事だった。更に各地で起こった欧州人の襲撃事件が幾
多もあり、この事を充分に承知していたと言える。全体に500万ドルとすれば2千5
百億円程度の金が賠償金で仏英米から請求されていた事になる。当時、第一次東禅寺事
件で罰せられた水戸藩浪士の残党が再度襲撃をするという噂が流れてた上に、英国新聞
にもこの事件は記事なり、当然イギリス公使オールコックは日本での英国大使が退任さ
れ新たにラザフォード・オールコックから当時の中国公使をしていたハリー・パークス
に変わった。パークスはかなりの人と会って日本の現状を知る者だった。家族を迎える
ための上海に向かう途上は、長州藩の高杉晋作や伊藤博文と会談し、1866年の米仏
蘭と幕府との改税約書に調印した後は。グラバーの仲介で鹿児島に行き薩摩藩主・島津
茂久や、その父・島津久光・西郷隆盛・寺島宗則と会見している。第二次長州征伐勃発
直後は、フランス公使レオン・ロッシュと共に、下関で長州藩桂小五郎・伊藤博文らと
、小倉で幕府老中小笠原長行と会談し、両者の調停をはかった。その後も、宇和島藩を
訪問し、前藩主・伊達宗城らに会っている。年末に、公使館を横浜から江戸の泉岳寺前
に移転し、翌年江戸で米価高騰による米騒動を目撃すると、幕府に勧めて外国米の輸入
販売を許可する布告を発布させた。箱根に旅行。大坂で徳川慶喜に謁見しこの時、慶喜
はまだ勅許を得ていなかったが、期限どおり兵庫を開港することを確約した。と言われ
る。パークスは、このときの慶喜の印象を「今まで会った日本人の中で最もすぐれた人
物」と語り絶賛した。敦賀視察の後、大坂から海路江戸に帰ったがイギリス海軍教官の
受け入れ準備のため軍艦奉行・勝海舟と交渉し、軍艦スナップ号(後にバジリスク号)
で箱館から日本海を南下し、新潟・佐渡・七尾を視察した後に、長崎を経由し大坂に行
っている。察するにこの大坂で徳川慶喜に謁見した時に、この賠償金問題と開港問題に
スムーズに行かなければ中国の様に本国から占領ないし攻撃命令が出る事を示唆したと
思われる。つまり徳川慶喜は無駄に日本人同士が戦い、更に外国人の攻撃や敵対国を受
け入れて中国の様な内乱になれば 植民地化する事を大阪城の謁見により悟ったと思わ
れるのである。又パークスはそれだけオールコックより日本に親しみがあったと言える


809: 名無しさんAA:17/10/28 23:59
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 451-----------

 こうして徳川慶喜の判断で小栗は生まれ育った江戸を離れ、その家族・家臣が住んで
いる権田村(現在の倉渕村)の東善寺に3月1日入った。小栗は村の若者達を教育して、
国際化する新時代に役立てたいと考えていました。しかし、到着早々、不穏な状況とな
る。小栗が所有する莫大な財産を奪おうと、博徒らが焚き付け近在の村の者を集めて、
その数千人近くに達して襲って来たのだ。もちろん小栗にめぼしい財産などなく、恐ら
く小栗の権田村退去を軍事作戦の一環として新政府軍の何者かが背後にいたのでしょう
。あれだけの戦略を披露したのだから、それだけ新政府軍にとって小栗は怖ろしい存在
であったに違いなかった。しかし、小栗らは家臣全員で僅か20人でそこへ暴徒と化し
た千人が、襲いかかってきた。すぐさま小栗は村の若者たちの応援を得た上で、フラン
ス式調練を受けさせていた家臣らと共に鉄砲で先制攻撃をさせた。正確な射撃で暴徒ら
が次々と撃たれると、彼らはクモの子を散らすように逃げ去りました。こうして窮地を
免れた小栗らでしたが、これが新政府軍の口実となった。その後、小栗らは自分たちが
暮らす屋敷を建て始め、年老いた母や身重の妻らも、少しずつ山村の生活に慣れていき
ました。しかし屋敷の建て前も間近という閏4月1日、突如、高崎、安中、吉井三藩の
使者が小栗を訪れ、新政府軍の回文を見せた。そこには東山道総督府の名で、三藩の藩
主に、小栗が陣屋や砲台を築いて容易ならぬ企てを抱いているので、その追捕し手に余
る場合は討ち取るべしという命令が記されていました。小栗は使者に身の潔白を訴え、
養子の又一に高崎藩主に説明させることにした。しかし、又一は高崎で捕らわれの身と
なり、5日小栗は東善寺を囲んだ東山道総督府指揮の三藩の兵に有無をいわさず捕縛さ
れた。そして翌日朝、小栗は家臣3名と共に取調べもないまま水沼の烏川河原に引き出
され、「小栗上野介 右の者朝廷に対してたてまつり大逆企て候明白につき 天誅をこ
うむらしめしものなり」という無実の罪を着せられて、斬首されたのです。享年42歳
だった。3人の家臣も、また高崎で捕らわれた又一と家臣も処刑されました。小栗はも
とより、彼らには何の罪もありません。罪人として首を打たれる時、果たして小栗はど
んな心境であったのか、小栗本人にしか知る由はない。その後明治38年(1905)の日本
海海戦で勝利した連合艦隊司令長官東郷平八郎は、自宅に小栗の子孫を招き、「日本海
軍が勝利できたのは、小栗さんが横須賀造船所を建設してくれていたおかげ」と言って
、感謝したといいます。小栗へのせめてものはなむけかもしれません(Wikipediaより)


810: 名無しさんAA:17/11/05 18:32 ID:LUE
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 452-----------

 小栗は最後の将軍慶喜に信頼されて外国奉行や勘定奉行を要職を歴任して財政の建て
直しを図り横須賀製鉄所の建設、日本初のフランス語学校を設立などに手腕を発揮して
いる。鳥羽伏見の戦いに際しては主戦論者でしたが、主戦論者は小栗以外にも大勢いた
。小栗はその後罷免されて領地の上野の権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町権田)に一
族とともに静かに暮らしていたところへ新政府軍が来て捕縛し、取り調べもせずに斬首
となった。小栗は安政7年(1860年)、遣米使節目付(監察)として、正使の新見正興
が乗船するポーハタン号で一緒に渡米している。2ヶ月の船旅の後、サンフランシスコ
に到着するが代表の新見より目付の小栗が代表と勘違いされる程の威厳があった。行く
先々で取材を受けたが勘違いの理由として、新見をはじめ同乗者の多くは外国人と接し
たことがなく困惑していた為と言われる。小栗は詰警備役として外国人と交渉経験があ
る為落ち着いており、代表に見えたとされ「目付とはスパイのことだ。日本(徳川幕府
)はスパイを使節として同行させているのか。」という嫌疑さえを受けたという。フィ
ラデルフィアでは通貨の交換比率の見直しの交渉に挑んだ時。「これは日米修好通商条
約で定められた交換比率が不適当で、経済の混乱が生じていたためである。」と小栗は
小判と金貨の分析実験をもとに主張の正しさを証明したものの、比率の改定までは至ら
なかった。しかしこの交渉に関して、多くのアメリカの新聞は絶賛の記事を掲載する。
また小栗はワシントン海軍工廠を見学した際、日本との製鉄及び金属加工技術などの差
に驚愕し、記念にネジを持ち帰った。こうした事で文久2年(1862年)、勘定奉行に就
任し幕府の財政立て直しを指揮する。当時、幕府は海軍力強化のため44隻の艦船を、
諸外国から購入しており、その総額は実に333万6千ドルに上った。と言われる。こ
の時の購入は1千5百億円である。この売買に当時の幕閣が汚職や賄賂があると見た者
がいても不思議ではない。又小栗が、駐日フランス公使レオン・ロッシュの通訳メルメ
・カションと親しかった旧知の栗本鋤雲を通じて、ロッシュとの繋がりを作り、製鉄所
についての具体的な提案を練り上げた事に、英国は腹立たしい思いがあったのだろう。


811: 名無しさんAA:17/11/05 18:32
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 453-----------

この頃から既に坂本龍馬がグラバー邸を通じて時のフリーメイソンからの資金を得てい
た事と当時フランスとイギリスが戦争していた事を思えば それが裏にイギリスの影響
があったと考えてもいいだろう。この後徳川慶喜や幕府閣僚、会津藩主の松平容保らは
死罪になっていない。恐らく新政府が英国の影響が多分にあり新政府も又英国の援助に
気を使っていたからだろう。幕府に最後まで抵抗して戦った榎本武揚・大鳥圭介も死罪
にはならず投獄され、その後に許されて明治政府に出仕している事から、一つは隠され
た財宝の噂とイギリスの意向が無かった事が裏にあると言える。逆に言えば勝が助けな
かった為だろう。この取り調べも裁判もない斬首の死刑は 地元に反対者が多くいた筈
だが、時の東山道総督府指揮板垣退助に誰もまず彼の延命の嘆願をしてない。更に彼の
防備が銃によるものだった事が新政府には脅威だった可能性も高い。後で明治政府の要
職についた大隈重信は「小栗は謀殺される運命にあった。何故なら明治政府の近代化は
、そっくり小栗のそれを模倣したものだったからだ。」と語っている。暗に東征大総督
有栖川宮熾仁親王(皇族)参謀 正親町公董(公家)、西四辻公業(公家)や東山道先
鋒総督府参謀 板垣退助(土佐)、伊地知正治(薩摩)奥羽鎮撫総督 九条道考(公家)
同副総督 沢為量(公家) 同参謀 醍醐忠敬(公家)同下参謀 大山綱良(薩摩)世良
修蔵(長州)などを批判しているのだが、この公家達が疎ましく実力の無い事に易癖し
ていた新政府が、模索して得た功績は小栗の功績そのものだったと言える。近代日本の
建設に大きな役割を果たした横須賀造船所を創設した小栗忠順の功績を認めたくはなか
ったのだろう。また小栗忠順は官軍との徹底抗戦を主張していたが、勝海舟は幕府を平
和のうちに滅亡させて徳川家を存続させたいと奔走していた。その為にどうしても彼が
生きて居る事が邪魔で排除したかったなどの説がある。小栗忠順という気宇の存在を否
定した明治政府、徳川家存続のため彼が邪魔だった勝海舟、薩摩藩邸焼き討ち事件など
で小栗を恨む勤皇の志士達、彼らは全てが、英国支援のコネクションによって結びつい
ていた事などが、決して小栗の処刑を止める人間はなかったということになる。また、
小栗が領地に莫大な埋蔵金を隠していたとする説が処刑当時から根強くある。これは、
財宝・軍資金を必要だった官軍側が「一戦交えようとの企てがある」という疑惑をして
処刑の斬首を後押しした可能性も高い。その後埋蔵金にかかわる証拠は見つからず、当
時逼迫していた中で幕府の金蔵に持ち出せる大金などあろうはずもなく、小栗の「理由
なき処刑」を正当化するために流された流言蜚語だったという悲しい現実だった。


812: 名無しさんAA:17/11/05 18:32
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 454-----------

更にこの小栗斬首がフリーメイソンからの司令である理由はもう一つある。フラデルフ
ィアでの通貨交渉である。交換比率の見直しの交渉に挑んだ時。「これは日米修好通商
条約で定められた交換比率が不適当で、経済の混乱が生じているための交渉である。」
と小栗は小判と金貨の分析実験をもとに主張の正しさを証明し、比率の改定を求めた。
これは最終的に比率改定に至らなかったが、至極正論で理路整然とした会議であったろ
う。しかしおそらくユダヤの金融資本や米国政府の金庫番には2割ほどの減額になるこ
の申し出は全く恐ろしい話であった。そしてこの交渉に関して、多くのアメリカの新聞
は絶賛の記事を掲載した事が多くの者の耳に入ったはずだった。恐らくこの江戸幕府だ
けがユダヤに支配戦略である「背後からこれらの対立を操縦することで、金融資本家は
世界秩序を維持してきた。世界秩序は、世界を実体とみなすあらゆる力と実体を否定し
ている。テーゼ(正)−アンチテーゼー(反)−ジンテーゼ(合)の原則に基いて機能
し、前もって決められた結論(合)に向けてテーゼ(正)とアンチテーゼ(反)が対立
して終わる。世界秩序はユダヤ人グループを組織して資金を提供する。次に、反ユダヤ
グループを組織して資金を提供する。また、共産主義グループを組織してこれに資金提
供し、反共産主義グループを組織して資金を提供する。必ずしも世界秩序がこういう、
グループ同士の対立を煽る必要はない。彼らは赤外線追跡ミサイルのように相手を見つ
け出し、確実に破壊しようとする。それぞれのグループの規模と資源を調節することで
、世界秩序は常に前もって結果を決めておけるのだ・・・・サットン 『連邦準備銀行
の陰謀』より」の攻略が出来なかった唯一のものだったかも知れない。それは蒸気船の
時代まで この国は自力で船をこさえ兵器を作り 各国との調和を果たし植民地になら
ず済んだ唯一の国だったからだ。他はトルコが帝国としてあったが日本の様な小国では
ない。この決められた結論である「植民地」や「傀儡国家」にならなかった国が何度も
米国から攻められている認識が途絶えて 第二次世界大戦で敗戦の憂き目にあったのだ
この中にある金融資本家は災害によって今後一気に冷え込むアメリカの経済に一体どん
な手立てを打つのだろうか。横断鉄道インフラも犯罪抑止の銃器削減プログラムも政権
の汚職や権力を取り締まる格差是正も全くない中で 何処に正義が求められようか。


813: 名無しさんAA:17/11/05 18:37
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 455-----------

 この明治移行期に英国公使について居たのはサー・ハリー・スミス・パークであった
。キャリア・ディプロマット(職業外交官)の名声をほしいままに持っていたのは 彼
が清国で捕縛までされながら貫いた意志の強さからであった。彼の外交スタイルは正に
威厳を地で行く「怒号外交」と言われた。パークスの権限はぞの情報の密なるをもって
支えられていた。それは前任公使オールコックに代って、至ってシンプルに中立を行い
諜報員への精悍な統率力は秀でていた。オールコックは目にみえて統治力の低下して行
く幕府よりも上の政治的権威をもったミカドが存在しその強権での開国を迫る事を望み
その為に薩長両藩に対しても戦闘し優越出来る外交方針で臨んでいたが バークスは、
本国指令に忠実に、軍隊を展開した政治的勢力を求めず、単にに貿易の発展のみを求め
る姿を求めていた。その為より客観的な視野の開国を迫っていた。江戸城無血開城の裏
に働いたパークスの官軍に対する抑判行動や兵庫商社を設立して貿易独占を企てた幕府
に激しく抗議した事などはその良い例であろう。情報については薩摩藩士が兵庫開港に
反対する上書を朝廷に提出した写しまで入っていると言う緻密さである。だがパークス
赴任当時から「長官がいつも使うあの傲慢な言葉の通訳をつとめることにはいささか参
っていた。」と通訳のアーネストサトウはその気苦労を吐露している。こういうパーク
スの威嚇と互角にわたり合えることは、だから日本の外交当局者たちにとっては一つの
試練であり課題であった。造幣局の開業日の時には、喜んで出席したにも拘わらず、祝
辞の終りで「当局の措置宜しきを失し、貨幣の真価を紊(みだれ)るような事があれば
、国家の信用を破壊すること正に斯の如し」といって手にもっていたシャンペンの杯を
卓上に投げつけ木端微塵に打ち砕いたという逸話さえある。伊藤博文はその姿に「彼の
吾輩等に対する態度は、まるで教師が生徒に対する態度じゃった。文明の政治というも
のはこういうものじゃぞと言いたげな風で、すっかりその指南役に成りすまして居った
。」と述べている。がそれでも日本政府は 外国文明を導入する必要性は高く切実であ
り、鉄道・電信どれ一つの施設をとっても、西洋諸国の斡旋が必要であったし、制度・
文物をとり入れるにも「お雇い外国人」を紹介してもらわなくてはならない。そうして
やっと日本の開国化はそのまま条約改正の悲願達成につながるものだ。と知っていた。
威嚇を楯に不平等条約をあくまで押しつける彼にも西洋嫌いの国粋主義政治家らに対抗
して、英国本国の指令を全うし、威厳を用いて身を守る必要があった事も確かだった。

814: 名無しさんAA:17/11/05 18:37
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 456-----------

明治維新後の軍部は、西郷隆盛の薩摩閥と大村益次郎の長州閥が勢力を二分したが、西南戦争で西郷隆盛と共に桐野利秋・村田新八・篠原国幹ら薩摩閥を担うべき人材が戦死、大山巌や西郷従道は残ったものの長州閥が俄然優勢となった。長州藩の木戸孝允・大村益次郎・伊藤博文は文民統治を重視したが、運よく奇兵隊幹部から長州軍人のトップに納まった山縣有朋は木戸の死でタガが外れ、長州閥で陸軍を牛耳り政治に乗出して軍拡を推進、伊藤の没後は直系の桂太郎・寺内正毅・田中義一を首相に据え政府に君臨した。外征志向の山縣有朋は強大な軍隊を志し、プロシア流の皇帝直属軍すなわち「天皇の統帥権を大義名分とする自律的な軍隊」の建設に邁進、軍事予算の獲得と外征に励みつつ軍部大臣現役武官制などで文民統治を排除した。「金があれば早稲田の杜を水底に沈めたい」ほど政党嫌いの山縣有朋は自由民権運動の弾圧に執念を燃やしたが、これも「国民の軍隊」を作らせないための自己防衛であった。大村益次郎の遺志を継いだ山田顕義と三好重臣・鳥尾小弥太・三浦梧楼・谷干城らはフランス流の市民軍を構想し「外征を前提とした軍拡は国家財政の重荷となりむしろ国力を弱める」と正論を説いたが、山縣有朋は官有物払下げ事件に乗じ山田一派を追放、思惑どおり政府や国民の干渉を受けない自律的な軍隊を作り上げた。山縣有朋は死ぬまで極端な長州優遇人事を貫いたが、優秀な野津道貫・児玉源太郎らが死ぬと人材が枯渇、山縣の死の前年に「バーデン・バーデン密約」を交し長州閥打倒で結束した永田鉄山・小畑敏四郎・東條英機・石原莞爾ら中堅幕僚「一夕会」が下克上で陸軍を乗取り満州事変・日中戦争・仏印進駐・対米開戦へと暴走した。一方、当初陸軍の一部だった海軍では、薩摩人の山本権兵衛が西郷従道を擁して大胆な組織・人事改革を行い日清・日露戦争の活躍で陸軍から完全独立、出身地に拘らない人材登用で加藤友三郎(広島)・斎藤実(仙台)・岡田啓介(福井)・米内光政(岩手)・山本五十六(越後長岡)・井上成美(仙台)・鈴木貫太郎(下総関宿)らを輩出したが、後継指名した伏見宮博恭王が艦隊派首領となり対米開戦を主導した。


815: 名無しさんAA:17/11/05 18:39
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 456-----------

明治維新後の軍部は、西郷隆盛の薩摩閥と大村益次郎の長州閥が勢力を二分したが、西
南戦争で西郷隆盛と共に桐野利秋・村田新八・篠原国幹ら薩摩閥を担うべき人材が戦死
、大山巌や西郷従道は残ったものの長州閥が俄然優勢となった。長州藩の木戸孝允・大
村益次郎・伊藤博文は文民統治を重視したが、運よく奇兵隊幹部から長州軍人のトップ
に納まった山縣有朋は木戸の死でタガが外れ、長州閥で陸軍を牛耳り政治に乗出して軍
拡を推進、伊藤の没後は直系の桂太郎・寺内正毅・田中義一を首相に据え政府に君臨し
た。外征志向の山縣有朋は強大な軍隊を志し、プロシア流の皇帝直属軍すなわち「天皇
の統帥権を大義名分とする自律的な軍隊」の建設に邁進、軍事予算の獲得と外征に励み
つつ軍部大臣現役武官制などで文民統治を排除した。「金があれば早稲田の杜を水底に
沈めたい」ほど政党嫌いの山縣有朋は自由民権運動の弾圧に執念を燃やしたが、これも
「国民の軍隊」を作らせないための自己防衛であった。大村益次郎の遺志を継いだ山田
顕義と三好重臣・鳥尾小弥太・三浦梧楼・谷干城らはフランス流の市民軍を構想し「外
征を前提とした軍拡は国家財政の重荷となりむしろ国力を弱める」と正論を説いたが、
山縣有朋は官有物払下げ事件に乗じ山田一派を追放、思惑どおり政府や国民の干渉を受
けない自律的な軍隊を作り上げた。山縣有朋は死ぬまで極端な長州優遇人事を貫いたが
、優秀な野津道貫・児玉源太郎らが死ぬと人材が枯渇、山縣の死の前年に「バーデン・
バーデン密約」を交し長州閥打倒で結束した永田鉄山・小畑敏四郎・東條英機・石原莞
爾ら中堅幕僚「一夕会」が下克上で陸軍を乗取り満州事変・日中戦争・仏印進駐・対米
開戦へと暴走した。一方、当初陸軍の一部だった海軍では、薩摩人の山本権兵衛が西郷
従道を擁して大胆な組織・人事改革を行い日清・日露戦争の活躍で陸軍から完全独立、
出身地に拘らない人材登用で加藤友三郎(広島)・斎藤実(仙台)・岡田啓介(福井)
・米内光政(岩手)・山本五十六(越後長岡)・井上成美(仙台)・鈴木貫太郎(下総
関宿)らを輩出したが、後継指名した伏見宮博恭王が艦隊派首領となり対米開戦を主導
した。

816: 名無しさんAA:17/11/05 18:40
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 457-----------

バーデン=バーデン密約はドイツのフリーメイソンが仕組んだ日本のメイソンリー結成
の狼煙であった。岡村寧次は日本の歴史上最大の馬鹿であったのだろう。早稲田中学校
、東京陸軍地方幼年学校を経て1903年(明治36年)、陸軍中央幼年学校を卒業し。明治
37年10月に陸軍士官学校を16期生として卒業し11月に歩兵少尉に任官、歩兵第
1連隊補充隊付を命ぜられた。同期には岡村を含めて三羽烏と呼ばれた永田鉄山中将・
小畑敏四郎中将の他、土肥原賢二大将・板垣征四郎大将・安藤利吉大将など売国奴が並
ぶ。この年代は世界の緊張の中で平和のマンネリズムの中で大正ブルジョアジーの中心
になった今の昭和の団塊世代の様な者が多かったのだろう。1907年(明治40年)、陸軍
中尉・陸軍士官学校生徒隊付を命ぜられた時、既に陸軍は自立の経済基盤をもっていた
。岡村は士官学校在学中には中国研究を専攻したが、この時の生徒隊では中国からの留
学生の教育を担当していた。1910年(明治43年)12月に陸軍大学校に入校する。在校中
に大尉に昇級する。こうして1913年(大正2年)11月、陸軍大学校25期生として卒業す
る原隊である歩兵第1連隊中隊長に補された。大正十年秋、ベルリンの大使館に岡村寧
次が立ち寄った。 、陸士十六期、陸大二十五期の中堅将校だった。 歩兵第十四連隊付
の肩書でヨーロッパ出張を命じられ、ベルリンに来たのだ。中国の駐在を終えて、とく
に目的もなく「ヨーロッパを見てこい」と送りだされた旅行だったと言う。軍内要職に
進む者に必須のヨーロッパ見聞旅行であったが彼はそれを情勢分析や把握に使わなかっ
た。1920年代にはアメリカ合衆国では、司法長官パーマーが、通称赤狩りと言われ
る、共産主義者などの逮捕を始めて、そうした危機感から国際連盟成立しヴェルサイユ
条約が発効する頃だった。ドイツ国内でもドイツ労働者党が国家社会主義ドイツ労働者
党に改称し共産化しての改めて新党で国内掌握に向かい始めてナチスの台頭があってい
たし 日本でも尼港事件で駐留日本人が大虐殺にあっていた時期だった。だが彼ら全く
無頓着にもドイツの持つ国民総動員令にしか興味を示していない。出張中の岡村寧次、
スイス公使館付武官永田鉄山、ロシア大使館付武官小畑敏四郎の陸軍士官学校16期の
同期生が南ドイツの保養地バーデン=バーデンで来たるべき戦争に向けて、@人事刷新
と軍制改革を断行して、A軍の近代化と国家総動員体制の確立、真崎甚三郎・荒木貞夫
・林銑十郎らの擁立、B陸軍における長州閥打倒、各期の有能な同志の獲得・結集など
の陸軍の改革や、満蒙問題の早期解決、革新運動の断行を誓い合ったとされる。



817: 名無しさんAA:17/11/05 18:40
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 458-----------

閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう)は日本の皇族にして陸軍軍人で
、日本赤十字社総裁であった。伏見宮邦家親王第116王子。階級は元帥陸軍大将大勲
位功一級である。言わば最高位の軍人皇族で最古参でもあった。三条実美の二女・智恵
子と結婚し日清戦争では当初第一軍司令部付大尉として従軍、鴨緑江岸虎山付近の戦闘
の際、伝令将校として弾雨の中馬を馳せ、その任務を達成し、「宮様の伝令使」のエピ
ソードを残した。その後、騎兵第1連隊長、参謀本部に勤務の後、1901年(明治34年)
に陸軍少将に進級し騎兵第2旅団長に就任していた。。幼年学校の同期には明石元二郎
、由比光衛等がいる。1883年(明治16年)、幼年学校を卒業するやフランスへ留学し、
サン・シール陸軍士官学校、ソーミュール騎兵学校、フランスの陸軍大学校を卒業し軽
騎兵第7連隊付を経て明治24年に帰国している。日露戦争で本渓湖の戦いに会い旅団
を敵の側背に進出させ、不意討ちの攻撃し、ロシア軍を敗走させた。またこの時のアイ
デアで機関銃に三脚架を付けて進軍するなど、機関銃を巧妙に活用し大いに貢献した。
その後満州軍総司令部付きの武官として従軍し、戦後、陸軍中将に進級している。言わ
ば旧来の戦争では実力派でもあった。だが皇太子・裕仁親王の欧州外遊に随行した頃か
ら彼は邪魔な雲の上の貴人であった。1932年(昭和6年)に参謀総長に就任して、
髭の参謀総長となってからは、皇族の出自もあり、傀儡として政治利用される事に振り
回された。関東再震災の後は派閥争いの激しかった陸軍内部で皇道派と統制派が競争し
、独断で実務を切り回す皇道派の真崎甚三郎を嫌い、いわゆる統制派に近い立場を取っ
た。この事が二・二六事件を引き起こした。荒木貞夫が陸相を辞任した際、真崎が後任
候補に上がった。だが林銑十郎を推し陸相に就ける画策をした。こうして従来とはなら
ない先例を作り真崎は教育総監に回った。だがその後も真崎が教育総監を追われた際に
も、渡辺錠太郎を通じて強く林に働きかけて真崎の追い落としをした。二・二六事件で
渡辺が凶弾に倒れたのは、載仁親王が皇族であり手出しが出来なかった為、身代わりの
標的として襲撃されたと推測される。又この二・二六事件発生時には、その対応の拙さ
から、かつて自らが教育した昭和天皇の叱責を受けた。とされこのとき親王は70歳で
、天皇は僅か35歳であった。つまり海軍の連合艦隊司令長官であった東郷平八郎大将
並みの陸軍の老害であった。

818: 名無しさんAA:17/11/05 18:41
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 459-----------

 日本では 年金問題でも議員歳費でもそうだが過去の栄光の者をかなりに起用して、
新たな道を模索させない。50歳や60歳を過ぎた人間達を平気で経営者や社長として
会社を存在させ、又社会もこうした壮健な老人を十分に老人扶養をしない。これが今も
又社会的老害を引き起こし若者の無能化を引き起こしているのが現状だ。平和であれば
あるほど、若年令化した機動力のある富国を目指すべきだが 何故だが国際進出もまま
ならないのが現状だ。真崎甚三郎はその意味不幸な中間期の将校であった。真崎農園の
長男として佐賀県に生まれ佐賀中学を卒業後、士官候補生を経て1896年に陸軍士官
学校に入学した。陸士第9期卒後に陸軍大学校に入学したが日露戦争が発生したために
歩兵第46連隊中隊長として従軍したという 辛い過去を持つ。日露戦争時の一兵卒は
将校とは言え捨て駒の存在であり、先の閑院宮載仁親王1865年(慶応元年)生まれと、
真崎の1876年(明治9年)でたった10年の違いだが、この日露戦争で死んでいった友
の悲惨さは身を持って知っている者しか解らない。陸大第19期を恩賜の軍刀を拝領し
卒業した。首席卒業の荒木貞夫の他、阿部信行、松木直亮、本庄繁、小松慶也などと同
期であるが本庄の方は日露戦争を理由に中退となり、歩兵第20連隊中隊長に任ぜられ
、戦地に於いて大尉に進級し、10月に戦傷し帰還している。1905年(明治38年)1月
から陸軍省出仕の辞令が下り大臣官房附となって負傷兵として活躍している。参謀本部
附を経て参謀本部員の資格で北京・上海に駐在し中佐進級の後、ヨーロッパに出張した
後参謀本部附で張作霖軍事顧問に就任し少佐を経て軍事参議官となっていて、本庄は、
石原莞爾によく利用された軍人であったが 真崎はその姿を見ていた。高級参謀の板垣
征四郎から緊急の電話で全軍出動をした後、現地に向かう軍用列車の中で「大丈夫か」
と石原に尋ね「絶対に問題は起こりません。関東軍司令部条例第三条、軍司令官の管外
出兵権条項に基づくものです」と答えを得たと記録される。その後は奉天は関東軍によ
って占領され奉天特務機関長の土肥原賢二大佐が奉天臨時市長に就き、その他満鉄沿線
地帯もまた占領されていった。参謀本部はこの件につき「関東軍の出兵は自衛権の発動
であるから認めるが、これ以上は武力行使を拡大しない。」という方針を後から決定し
、政府もこれを追認して閣議決定した。関東軍の軍状について天皇に拝謁し奉告する。
天皇の下問の中に「柳条湖事件は関東軍の陰謀であるという噂を聞くが、真相はどうか
」とあった。これに対し本庄は「関東軍並びに司令官である自分は絶対に謀略はやって
おりませぬ。」と答え、天皇は「そうか、それならよかった」と述べられたと言う。

819: 名無しさんAA:17/11/05 21:55
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 460-----------

 この時の柳条湖事件1931年(昭和6年)と全く同じ時に1931年8月、本来なら、真崎
が関東軍司令官に任命される順番であったが、本庄繁が関東軍司令官に任命された時で
あり、これにより真崎は台湾軍司令官に任命された。「陸軍の異端児」石原は明治22年
(1889年)生まれで日清日露の戦争には従軍してはいない。板垣征四郎らと満州事変を
実行したとされるが、恐らくロシアの起こした工作に際し事件後の占領が見事だったの
だろう。昭和天皇が1901年〈明治34年〉生まれだから石原莞爾は一回り年上であった
つまり昭和天皇が35歳石原莞爾が47歳更に真崎甚三郎が58歳親王は70歳と言う
、何とも皮肉な世代背景があったのだ。この事はかなりの辛辣な意識の世代間格差を産
んでいた。真崎は1932年、犬養内閣の陸軍大臣であった荒木貞夫の計らいで参謀次
長に就任した。皇族である閑院宮載仁親王が参謀総長であったので、慣例にしたがって
真崎が参謀本部を取り仕切った。この頃から荒木とともに国家革新を図る皇道派が形成
された。派閥の勢力伸張を図り、大尉クラスの青年将校を中心に信望を担ったが、党派
的な行動が反発を買い統制派との対立が発生した。この時閑院宮載仁親王が皇道派を推
せばいいのが閑院宮載仁親王は全く時代にそぐわない人間だった。真崎が陸軍の枢要で
ある軍務局軍事課長をした折り、田中義一がシベリア出兵時の機密費を流用して立憲政
友会への持参金を持って行ったと言う噂が流れた。大正政変後、公家出身の西園寺は、
大正天皇以下宮家の金庫番だった。望まれた第3次桂内閣への協力を拒否し日本政府は
本格的な政党政治に入っていった。1918年の国連から「革命軍によって囚われたチ
ェコ軍団を救出する」という大義名分でシベリア出兵に出た日本は多大な戦費を必要と
した。これで今まで行っていた宮家縁戚への賄賂は遮断されてしまったのである。ここ
で対米協定の出兵論を唱えていた、元老山県有朋および憲政会総裁の加藤高明ならびに
立憲政友会総裁の原敬達は苦境に立たされていた。第一次世界大戦中は久留米俘虜収容
所長もつとめた真崎甚三郎は収容所の環境整備のために努力し、従来禁止していた所内
での音楽などを許可した。衛戍司令官柴勝三郎中将から批判されると、「ドイツ人にと
っての音楽は、日本人にとっての漬物類と同じことで、日常生活の最低不可欠なもので
あります」と答え、了解を求めていた。ヴェルサイユ条約の締結により、捕虜の環境は
劇的に良くなり。捕虜らの処遇の調査目的で収容所の視察が実施されたが。詳しい協議
が随所で行われた結果、捕虜たちの訴えの多くは正当なものだが、日本側も環境改善に
尽力したという結論が得られている。


820: 名無しさんAA:17/11/05 21:55
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 461-----------

 このシベリア出兵の、陸軍機密費の不正蓄積についての疑問を持ったため、機密費の
適正な使用と管理について意見を具申したところ、突然近衛歩兵第1連隊に転出させら
れた。この当時、軍の機密費を取り扱っていたのは田中義一陸相、山梨半造次官、菅野
尚一軍務局長、松木直亮陸軍省高級副官の四人であった。その時真崎甚三郎は あらぬ
詮索として左偏されていると考えても良いだろう。真正直な彼には軍人気質があり、そ
れが他の者に疎まれたし 逆にその疎まれる人間がいる程陸軍は堕落していたのである
。そしてその究極の理由が宮様への忖度であり、その具現対象が東久邇宮稔彦王であっ
たし晩年の西園寺公望であった。田中義一の政界入りに出兵時の機密費を流用しての、
立憲政友会への持参金にしたとの風説は国会でも追及されたが灰色のまま時は過ぎた。
菅野尚一も陸軍少尉として日清戦争に従軍し、1899年(明治32年)12月に陸軍大学校
(13期)を卒業した。歩兵少佐として日露戦争に出征。日露戦争時では大本営参謀の一
人。奉天会戦にて乃木希典の第3軍の参謀も務めている。1917年(大正6年)の石井・
ランシング協定締結の際に、石井菊次郎大使付きの首席武官として竹下勇海軍大将(当
時中将)と共にアメリカへ随行していて、竹下勇大将の取り成しで、セオドア・ルーズ
ベルト元大統領と親交を結んでいる。その後、軍務局長、第20師団長、台湾軍司令官、
軍事参議官などを歴任。台湾軍司令官時代に、当時としては最年少で大将に就任した。
教育総監就任目前で上原勇作らの反長州閥派の妨害に遭い、陸軍を退陣して、代わりに
就任したのは武藤信義であった。以後は、公の場には一切顔を出さす事はなかった。こ
こでおわかりの様に、宮家と本当に日本を思う将校との間に確執があった。この事が、
2・26事件を起こした。此処に江戸末期に起こる薩長土肥の裏にいた宮家が徳川幕府
を追い詰めた構図と全く同じ馬鹿な事がが繰り返されていた。満州事変の原因を、国家
革新の熱病に浮かれた軍部の若い幕僚連が、理想の満州国家に作り、そこから逆に日本
改造に及ぼすために引き起こされた物と見抜いていた真崎は、事変不拡大・満州事変は
満州国内で収める事を直ぐ様決めて基本方針として収拾に当たった。又続いて起こった
第一次上海事変の処理では、軍の駐留は紛争のもととして一兵も残さず撤兵させている
。熱河討伐では、軍の使用は政府の政策として決定し、天皇の裁可を経てから実行され
るという建前から、万里の長城を越えて北支への拡大を断固として押さえつけた。有利
な戦機を見逃して二カ月以上も出動を押さえたとして、拡大派や国家革新推進派からは
非難を浴びたが彼は曲げなかった。

821: 名無しさんAA:17/11/05 21:56
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 462-----------

こうした満州事変後の幾つかの不穏な動きと軍の動きに不満を持つ昭和天皇からは真崎
は繰り返し叱責された。通常間を置かず裁可される上奏も、真崎の場合には、必ず数日
留め置かれた。真崎は天皇へのとりなしを梨本宮守正王や伏見宮博恭王のルートを通し
て試みたが上手くいかず、最終的には自分が重臣元老(に加え天皇からも)誤解されて
いると上奏したところ、天皇は「非常な御不興」を示し面目を失った。さらに原田日記
によると、真崎は当時第5旅団長であった東久邇宮稔彦王に対し、「天皇陛下が参謀本
部の意見を理解されるよう助力して欲しい」と依頼し、それを筋違いであるとして拒否
されると、「ここの宮さんは国家観念に乏しい」と不満を述べている。此処に汚職官僚
達の勝手さがあった。本科長、教授部長兼幹事を経て校長をつとめた4年間の陸軍士官
学校時代に、真崎は教育家としての評価を高めた。この時の生徒に安藤輝三、磯部浅一
らがいた。安藤輝三は二・二六事件に関与した皇道派の人物ので、軍法会議で首謀者の
一人とされ死刑となる。最終階級は陸軍大尉であった。安藤輝三は陸軍少尉になって、
歩兵第3聯隊付となった。この時秩父宮雍仁親王とともに勤務して親しく交わった。中
隊長となるにあたっては、部下、同僚からの信望が厚い一方で過激な青年将校たちと関
係する安藤を危惧する連隊長の井出宣時大佐に対して、「誓って直接行動は致しませぬ
」との証文を提出した。秩父宮からの口添えもあった。こうして連隊長になり、秩父宮
は「安藤、第六中隊の伝統を守ってくれよ」と激励した。また、元連隊長の永田鉄山軍
務局長は「ほう、第六中隊長か。早いものだな。お前もとうとう中隊長か。歩三を立派
な連隊にしてくれ、頼んだぞ」と喜んだ。と言う。秩父宮雍仁親王は昭和天皇の弟宮で
、1902年(明治35年)に産まれ学習院初等科入学し、学習院中等科二年ののち、
皇族身位令に基づき陸軍中央幼年学校に入学。その後大正9年、陸軍士官学校に入学し
た。そうし服部卓四郎、西田税などがて同期であった。卒業後は陸軍少尉に任官された
。陸軍大学校に入学、昭和6年に卒業し43期陸大の卒業生となった。成績優秀であっ
たため慣例に反して恩賜の軍刀を与えてはとの議論が教官の間である程だったという。



822: 名無しさんAA:17/11/05 21:56
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 463-----------

1922年(大正11年)20歳で成年式を行い、宮家「秩父宮」創立、宮号の由来は
、秩父嶺が帝都所在の武蔵国の名山であり、雍仁親王邸の西北に位置したことにちなみ
選定された。昭和3年、松平節子と結婚。成婚にあたり皇太后(九条節子)に遠慮して
勢津子と改名した。当時は「世紀の大恋愛」と報道されたが実際には自由恋愛ではなか
った。昭和6年より第一師団歩兵第3連隊の中隊長を務め、歩三時代には安藤輝三など
とも交流を持ち彼らの革新思想の影響を受けた。本庄日記によると、この頃に秩父宮は
昭和天皇に対して「親政」の必要を説き、「憲法停止」も考えるべきとの意見したため
激論となった。昭和天皇は鈴木貫太郎侍従長に対して「秩父宮の考えは断じて不可」と
述べ、さらにこれを受けて昭和7年に宮内大臣官邸において、一木喜徳郎、木戸幸一、
近衛文麿、原田熊雄が「秩父宮の最近の時局に対する御考がややもすれば軍国的になれ
る点等につき意見を交換」している。秦郁彦は谷田勇から聞いた話として、秩父宮が、
村中孝次に同行し北一輝の自宅を訪問していたとしている。昭和天皇からの内意により
青年将校から引き離すため同年9月に参謀本部第一部第二課(作戦課)に転補された。
昭和10年に弘前市の歩兵第31連隊第3大隊長に任ぜられた。勢津子妃も同行して 
弘前市紺屋町の菊池長之の別邸に居住した。1936年(昭和11年)2月26日皇道
派青年将校らによって二・二六事件が発生した。朝に高松宮から連絡を受けた秩父宮は
連隊長の許可を受けた上で、翌日の27日に奥羽本線、羽越本線、信越本線、上越本線
経由で上京した。平泉澄が群馬県水上駅まで迎えに行き車中で一時間半ほど会談してい
る。平泉はのちに「みちのくのつもる白雪かき分けていま日の皇子は登りますなり」と
歌を詠んだ。秩父宮は夕方に上野駅に到着し憲兵の護衛を受け参内し昭和天皇に拝謁し
たが、翌日谷田には「叱られたよ」と語っている。同日に歩三の森田利八大尉を介して
青年将校らに自決せよと伝えた。木戸日記によると、昭和天皇は「秩父宮は五・一五事
件の時よりは余程宜しくなった」と広幡忠隆侍従次長に述べている。戦後は療養生活を
送りながら皇族として執筆を含む活動を行った。(昭和27年)に静岡県御殿場市から
神奈川県藤沢市鵠沼別邸に移った。同年暮に病状が悪化し(昭和28年)1月4日に薨
去した。遺書の中で「遺体を解剖に附すこと」、「火葬にすること」、「葬式は如何な
る宗教にもよらない形式とすること」を指示していた。勢津子妃が勅許を求めたところ
、昭和天皇は「秩父宮の遺志を尊重するように」とこれを即座に許可、皇族としては、
異例の病理解剖が行われた。


823: 名無しさんAA:17/11/05 21:56
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 464-----------

この葬儀に、昭和天皇は出席しなかった。これは天皇が親王など「目下」の者の葬儀に
出席した前例がなく、皇室喪儀令(廃止されたが、基準となっている)にも規定がない
ため、天皇が出席することで仰々しくなり秩父宮の遺志に副わないとの懸念から、出席
を断念した。ただし、天皇・皇后は何度も、遺骸と会いに行った上で、翌13日には、
墓参に訪れている。また秩父宮存命時の見舞いも、天皇が見舞うのは危篤の場合のみと
いう前例から、結局果たせなかった。目上が下を見舞う事には過去の暗殺の事例からの
祭祀的な危機管理であろう。この点でも昭和天皇と共に悲しい帝位のものではある。
日米開戦の4年前の1937年(昭和12年)に兄・昭和天皇の名代としてイギリスの
ジョージ6世国王の戴冠式に出席し、その後は静養地としてスイス、その他スウェーデ
ンとオランダを訪問した。当初の予定にはなかったが、ヘルベルト・フォン・ディルク
セン駐日ドイツ大使の要請によりドイツを訪れ、日独親善の証としてニュルンベルクで
行なわれていたナチス党大会に来賓として出席した。ヒトラー総統とニュルンベルク城
で会談を行なった。ヒトラーはソビエト連邦の指導者ヨシフ・スターリンを激しく罵り
、「私は彼を信じない、また憎みます。」と口にした。これに対して秩父宮は英語で、
「お互いに一国の責任者として、民族を指導し、世界の平和に貢献しなければならない
重大な責務のある貴方のような方が、他国の代表者を、そのように毛嫌いしたりまた憎
んでもよいものでしょうか?」と返した。この面会について秩父宮は、付き武官の本間
雅晴に対して「ヒトラーは役者だ。彼を信用することは難しい。」と述べている。昭和
天皇独白録によると、日独伊三国同盟の締結が議論されていた1939年(昭和14年)、
同盟に消極的な兄・昭和天皇に対して週に3度参内して締結を勧めたが、「この問題に
ついては直接宮には答えぬ。」と天皇に突っぱねられている。二・二六事件は皇道派の
影響を受けた陸軍青年将校らが1483名の下士官兵を率いて起こした日本のクーデタ
ー未遂事件である。とされこの事件の結果岡田内閣が総辞職し、後継の廣田内閣が思想
犯保護観察法を成立させた。「昭和維新・尊皇討奸」をスローガンに、武力を以て元老
重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し、彼らが政治腐敗と考える政財界の様々な現象や
、農村の困窮が収束すると考えていて)「帝都不祥事件(ていとふしょうじけん)」と
と一般的には呼ばれていた。


824: 名無しさんAA:17/11/05 21:57
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 465-----------

 二・二六事件では安藤輝三大尉は、部下に銃を構えさせて、石原の登庁を陸軍省入口
で阻止しようとしたが、石原は逆に「何が維新だ。陛下の軍隊を私するな。この石原を
殺したければ直接貴様の手で殺せ」と怒鳴りつけ、参謀本部に入った。反乱軍は、石原
のあまりの剣幕と尊大な態度におされて、何もすることができなかった。とある。また
、庁内においても、栗原安秀中尉にピストルを突きつけられ「石原大佐と我々では考え
が違うところもあると思うのですが、昭和維新についてどんな考えをお持ちでしょうか
」と威嚇的に訊ねられるも、「俺にはよくわからん。自分の考えは、軍備と国力を充実
させればそれが維新になるというものだ。」と言い、「こんなことはすぐやめろ。やめ
ねば討伐するぞ」と罵倒し、石原の凄まじい気合いにおされて、栗原は殺害を中止し、
石原は事なきを得ている。と言われる。だがどうもしっくり来ない。石原莞爾は近衛首
相自ら南京に飛び、蒋介石と直接会見して日支提携の大芝居を打つ。これには石原自ら
随行する」と進言したものの、近衛と風見章内閣書記官長に拒絶された。戦線が泥沼化
することを予見して不拡大方針を唱え、トラウトマン工作にも関与したが、当時の関東
軍参謀長・東條英機ら陸軍中枢と対立し、9月に参謀本部の機構改革では参謀本部から
関東軍へ参謀副長として左遷された。と言う。この時真崎甚三郎は裏の黒幕とされたが
これもしっくりしない。更にこの前に五・一五事件が起こってる事も不思議である。五
・一五事件は、1932年(昭和7年)5月15日に武装した海軍の青年将校たちが総理大臣官
邸に乱入し、内閣総理大臣犬養毅を殺害した事件だ。1929年(昭和4年)の世界恐
慌に端を発した大不況により企業倒産が相次いで 社会不安が増していた。犬養政権は
金輸出再禁止などの不況対策を行うことを公約に1932年(昭和7年)2月総選挙で大勝
をおさめたが、一方で満州事変を黙認し、陸軍との関係も悪くなかった。しかし、1930
年(昭和5年)ロンドン海軍軍縮条約を締結した前総理若槻禮次郎に対して不満を持っ
ていた海軍将校は若槻襲撃の機会を狙っていた。1931年(昭和6年)には関東軍の
一部が満州事変を引き起こしたが、政府はこれを収拾できず、かえって引きずられる形
だった。とされる。1936年(昭和11年)2月26日皇道派青年将校らによって二
・二六事件が発生した。

825: 名無しさんAA:17/11/05 21:57
謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 466-----------

 農本主義とは「農は国の本(基)」(のうはくにのもと)という短句により表現され
る思想である。近世(江戸時代)において幕藩体制維持のため農業・農民の重視・保護
を主張した農本思想が、歴史として位置づけることができる。明治維新以降、産業革命
や工業化の結果、農村社会の解体が進んだ為、これに対抗し農業・農村社会の維持存続
をめざす運動が起こり農本主義が成立した。第一次世界大戦後、特に1920代末に起
こった世界恐慌に端を発する農村恐慌のもと、日本では自作・小作農が存続の危機に立
たされ、この結果、農本主義者は反近代主義・体制批判的な性格を持つ新たなタイプの
農本主義となった。それらは超国家主義と結びついて発展していった。兵農一致による
体制変革を主張し五・一五事件に参加した橘孝三郎、農村自治の確立をめざす権藤成卿
らの思想は、多くの場合中小農出身者を多く含む軍部内の青年将校に大きな影響を与え
、二・二六事件の重要な思想的背景となったとされる。また満州事変以降、中国大陸へ
の侵略が拡大すると、これと結びついて農民を国策の先兵として動員していく運動が現
れ、特に加藤完治に指導された満蒙開拓移民の運動はよく知られている。日露戦争で、
力の旗手であった若い男手が居なくなる中で軍部に行く者は多く 娘は相変わらず喰い
ぶち減らしに町に売られて行く様が数多くある世界だった。石原莞爾が板垣征四郎と共
に柳条湖事件を起こし、これを奇貨として満州事変を実行したとされたが、この時の状
況は赴任して3年しか経ってない中だ。「この爆破事件は中国軍の犯行によるものであ
ると発表された。このため、日本では一般的に、太平洋戦争終結に至るまで、爆破は張
学良ら東北軍の犯行と信じられていた。しかし、実際には、関東軍の部隊によって実行
された謀略事件であった。」と解説されるが、建設資金を全く返却しない中国に苛立っ
たソ連側が運行中止の目標で計画を立ててそれを行った事が詳細に解っている。これに
対して日本側はその情報が入っていて ソ連側は国際条約の足枷に領事館の要望の軍を
出動しなかった事まで解っているのである。それはソ連も又貧困の中にあったのだ。


826: 名無しさんAA:17/11/05 21:58
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 467-----------

19世紀の間は中国はロシアと常に戦っていた。それはエリンギ族即ち糞族が勇ましく
影の様に小部族の集まりだったからだ。今の韓国人がその糞族の子孫と言われているが
彼らにとっては国や家族と言う集団よりは、戦いや賭け事などの遊びが優位であった。
自然の中に生きてきた彼らを利用して、双方にロシアも漢も戦っていたと言える。19
世紀が終わって清やロシアが常に彼らの領土をして略奪に及んでいた時20世紀前半に
突然満州国が産まれた。こうしてロシアと、満州国および大日本帝国の間には、現在の
中国東北部で接する国境を巡って高い緊張状態が出来た。中国東北部には、満州と極東
ロシアを結ぶ東清鉄道という鉄道があり、それはソ連の資金で中国が運営していた。そ
こから南に伸びる支線が南満州鉄道が日本のものである。この南満州鉄道は、日露戦争
、そしてそれに続く日中戦争へとつながっていく幾つかの事件、そして日ソ国境紛争の
原因になった。またその舞台にもなった鉄道である。1929年の中ソ紛争、1931年の日中
間の満州事変などがあった。張鼓峰事件は、このような歴史的経緯から互いに不信感を
抱く日本とソ連という二つの強国が戦った戦闘である。そもそも清は、日清戦争は戦争
する金は持たなかった。密約としてロシアに大きな権限を与えて北洋艦隊の資金を得て
いた。従って日清戦争直後の日本の遼東半島の領有をロシアやフランスに頼り三国干渉
によって阻止させた。その見返りとして清国の李鴻章より満洲北部の鉄道敷設権を得る
ことを正式に決定し露清密約を結んだのだった。1896年6月3日。これが国際的違法であ
った事は充分承知で密約としたのである。その中でロシアは、建設困難なアムール川沿
いの路線ではなく、短絡線としてチタから満洲北部を横断しウラジオストクに至る鉄道
の敷設権を獲得を譲らず、1896年12月、露清銀行によって「中国東方鉄道株式会社」、
清朝側の名称では「大清東省鉄路」という鉄道会社を設立させた。経営の最高機関は、
ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクに置かれて 現地には経営権がない状態だった
表向きは露清合弁であったが、ロシアの発言権が強く、清朝は全く経営に関与できてな
かった。この時、露清銀行から供与された資金は、フランスの投資家からロシア政府に
貸し付けた4億ポンドからのもので、これによって露仏同盟が結ばれていた。


827: 名無しさんAA:17/11/05 21:58
謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 468-----------

 ロシア帝国は1891年2月にシベリア鉄道建設を正式決定し、5月よりその建設に着工
した。工事には捕虜であったコサック部隊とドイツ農民朝鮮人農奴中国人苦力が連行さ
れ開始された。1897年にウスリー線(ウラジオストク〜ハバロフスク)が開通、1898年
3月、旅順大連租借条約が結ばれると、ハルビンから大連、旅順に至る南満洲支線の敷設
権も獲得した。続く1898年には中部シベリア線(オビ〜イルクーツク)、1900年にはザ
バイカル線(ムィソーヴァヤ〜スレチェンスク)もそれぞれ開通し、シベリア鉄道全線
開通まで残るはアムール線(スレチェンスク〜ハバロフスク)およびバイカル湖周辺の
みとなっていたが、そのどちらも地勢が大変険しく建設が困難な状況であった。南満洲
支線772kmも1903年1月に完成している。最後の大興安嶺トンネルが完成しシベリア鉄道
と完全に連結したのは1904年2月であった。ところが、日露戦争勃発し。その後日露戦争
(1904年2月 - 1905年9月)が勃発し、日露戦争でロシアが敗北した後の1905年9月5日
、ポーツマス条約により長春以南の南満洲支線は日本に譲渡され南満州鉄道(満鉄)と
なったのである。又その後1911年、辛亥革命によって中華民国が成立しても、ロシアに
よる東清鉄道の利権は譲ることなく継承された。これらの債権や借金はユダヤ資本から
せっつかれてのソ連邦の成立であった。1917年ロシア革命後、ペテルブルク本社の理事
会は機能を停止した。現地の最高責任者であるホルヴァート管理局長が実権を握ったが
彼が1920年に中国軍に放逐されると、奉天軍閥が影響力を強める。また1919年から1922
年にかけては、日米などが参加した連合国鉄道管理委員会がその経営に干渉した。特に
、ハルビンに駐在した委員会技術部長のスティーブンスは、革命後の混乱した経営の立
て直しに辣腕をふるった。ソ連も、1919年の第一次カラハン宣言でいったんは東清鉄道
を放棄することを表明したにもかかわらず、方針を転換させて、北京政府や奉天軍閥に
経営への参入を粘り強く求めた。その後1924年5月、中ソ両国は国交回復のための協定
に調印し、この中で東清鉄道の利権を確認した(北京協定)。また同協定に不満を持つ
東三省の張作霖政権は北京政府とは別に、同年9月奉ソ協定を結んだ。1925年1月20日、
日ソ基本条約が締結された。だが1925年4月9日、ソ連側が権限を超越して第九十四号命
令を行ったため、中華民国側が反発した。此処に柳条湖事件や1928年、張作霖爆殺事件
が起こったのである。

828: 名無しさんAA:17/11/05 22:05
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 469-----------

第九十四号命令又は東支鐵道管理局長示達第九十四號とは、1924年の奉ソ協定に基づき
中ソで共同運営されることとなった東支鉄道会社内において、ソ連から派遣された共産
党員イワノフ東支鐵道管理局長が1925年4月9日に出した通達例規の一つである。九四命
令とも呼ばれ、奉ソ協定では、管理局長の権限は理事会が決定することになっていたが
、管理局長が理事会を無視してこの命令を行うという越権行為を行った。第九十四号命
令の内容は、白系ロシア人に対してはソ連国籍もしくは中華民国国籍の取得を迫り、も
し取得しない場合は解職することを要求すると言うものであった。又他に使用人規則の
改定つまり社員や駅員の処遇も厳しく制限され命令遂行に任務を取り入れた。中華民国
側の東支鐵道臨時提督代理の呂榮袞はソ連側の東支鐵道副理事長ボズジェーエフに対し
、白系ロシア人を擁護するわけではないとしながらも、白系ロシア人に有要人物が多い
ことや、白系ロシア人が中華民国国籍を取得したことを理由に管理局長により解雇され
たこと、管理局長が財政を理由に中華民国側の従業員を解雇しながらもソ連側の従業員
を増やしていたことなどを以って管理局長の行為を問い正した。こうした行為にソ連側
は権益保持を理由に1928年、張作霖爆殺事件を起こした。その後沢山の共産党員によっ
て日本軍による爆破との記事や流布を起こさせてロシアの関与を隠した。ところが1929
年7月、張学良はソ連側の協定違反を理由に鉄道権益を武力回収を試みるに至ったが、
既にソ連側は多くの共産党員を軍として引き入れていた為 張学良は攻撃に敗北した。
最初の中ソ紛争である。勝利したソ連は、1929年12月にハバロフスク議定書を結ばさせ
、回収された利権の原状回復を認めさせた。こうして鉄道の運行も翌年から平常化した
。一方、国民政府は議定書を奉天軍閥の越権行為と見なし批准しなかった。そのため、
中ソ両国の直接交渉がモスクワで始まり、中国側は鉄道の売却を迫ったが、その中での
1931年の満洲事変の勃発により交渉は打ち切られた。こうして中国側の交渉はどうして
も譲らないソ連との交渉に妥結する事はなかった。元々こうした条約は北京条約であっ
ても、この管理鉄道利権であっても ロシア人の請求に理は無く南下政策の下で強引に
中国利権を求めて来たもので、そこには朝鮮人達の勝手な権利主張の代理権や隣国とし
ての調整権利としてずうずうしく入って来た条約相手でその強さに押し切られた形だっ
た。駅員としてのロシア人が礼儀正しかった事で野蛮なロシア人を受け入れてしまった
のである。

829: 名無しさんAA:17/11/05 22:06
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 470-----------

当時の中国では、主な鉄道は外国資本が経営していたが、東清鉄道は唯一ソ連が、第一
次カラハン宣言でいったんは手放し 北京政府や奉天軍閥によって運営される鉄道だっ
た。列強各国が争って清朝から鉄道敷設権を獲得した中で、又ソ連に権利を認めた事は
鉄道会社にある単なる鉄道経営以外にもさまざまな特権が与えられていた権利も認めた
事を意味していた。その中でもロシアが満州(中国東北部)で建設した東清鉄道では、
鉄道附属地という、鉄道会社が沿線で「絶対的かつ排他的な行政権」を有する区域が、
更に存続させると言う極めて危険な行為であった。東清鉄道はバイカル湖から中国領内
の満州里、ハルピン、牡丹江などを通ってウスリー川へ至る路線である。1896年に
モスクワで結ばれた露清同盟密約で建設が決まり、現在のシベリア鉄道はロシア領内だ
けを通っているが、当時はこの東清鉄道がシベリア鉄道の一部だったが中国領土を通っ
ていたのである。つまりロシアにとってはモスクワと沿海州を結ぶ大動脈であり、自国
内を走るのと同じような条件で鉄道を建設し列車を走らせようようとした。北の大地に
は困難がある為に勝手に路線変更していながらも、無事東清鉄道は1903年に全通し
た。1898年にはロシアが関東州を租借したため、ハルビンから分岐して長春、奉天
を経由し大連へ向かう南部線も建設した。この事がロシアを中国に執拗に権利を主張し
続ける理由でもあった。この東清鉄道には鉄道附属地で認められる「絶対的かつ排他的
な行政権」が認められ、本来は鉄道の建設や運行に必要な敷地の土地管理権のことだが
、しかしロシアはこれを徹底的に拡大解釈して、鉄道警備のための軍隊の駐留権や警察
権、司法権、徴税権、郵便局や電話局の運営などの通信権、インフラ整備や衛生、教育
、事業認可などの行政権・・・・などなど、鉄道附属地をほとんど租界と変わらないよ
うにし、経営権参画でそれを発令したのである。司法権も、当初は「ロシア人による犯
罪はロシア側が裁き、中国人による犯罪は中国側で裁く」という不平等条約に基づいた
治外法権と同じだったが、ロシアは吉林省の将軍と交渉して、鉄道附属地に住む中国人
もロシア側が裁けるように権限を拡大したので、租界以上に中国政府の権限が及ばない
ようになってしまい、ソ連側の目論見通りになっていった。

830: 名無しさんAA:17/11/05 22:16
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 473-----------

 だがソ連軍の経済的損失も大きく中東鉄道を売却を決定。当初は中国政府へ売却を打
診していたが、32年に満州国が建国されると、中東鉄道は満州国との合弁の北満鉄道
とも呼ばれるようになり、35年にソ連は1億4000万円で満州国(実際には日本)
へ売却。満州国鉄となって、その管理・運行は満鉄へ委託された。こうして東支鉄道は
日本のものとなった。この時代金を株で買ったやったのが旧幕府の徳川氏といわれる。
朝鮮との併合問題が起きると正式な安奉線が出来た。安奉線とは、朝鮮との国境の安東
(現在の丹東)と満洲の鉄道の要衝・奉天との間の路線で、日本・朝鮮と満洲・中国を
結んだ陸の大動脈だった。日露戦争中に日本陸軍が軍用軽便鉄道として建設し1907
年に満鉄へ譲渡されて本線並みに改軌された。この安奉線も沿線に約500万平方mの
附属地を擁していた。もっともこれは清朝との条約に基づいた附属地ではなく、日露戦
争中に日本軍の「実力」で買収・接収したもの。日本はこのうち半分弱を「やっぱり不
要」だとして清朝に買い取りを打診したが、清朝は「附属地すべて返さない限り応じら
れない」としたため、そのまま既成事実として満鉄に引き渡された。 満鉄付属地 は、
日露戦争で日本がロシアを破ったため、日本はロシアから関東州の租借地のほか東清鉄
道南部線の長春〜大連間とその支線を譲り受け、1906年に 国策会社の南満州鉄道
(満鉄)を設立して経営を引き継いで膨大な物となった。沿線の鉄道附属地もそっくり
引き継ぎ、「満鉄附属地」と呼ばれるようになった為既に満鉄帝国とまで揶揄されてい
た。満鉄になってから附属地はさらに拡大された。なにしろ鉄道附属地は租界と違って
「ここからここまでを附属地とする」という定めはなく、中国側との協議なしに設定す
ることができたからだ。満鉄が中国人地主から買収したり賃借した土地は片っ端から、
附属地になって、日本側の行政権が適用されていった。逆に満鉄が「この土地はもうい
らない」と中国人に売却したり賃借停止した土地は、附属地から外れて中国側の行政に
戻ることになった。このため、各駅の附属地面積は増減を繰り返していたというのだ。
つまり 必要な土地 必要な利権 などは既に取り入れていた状態で 租界よりも強く
租界よりも調整され 租界よりも街づくりが出来ていて中国人にも中国の共産党は勿論
国民政府よりも愛され助けられ、必要となっていた満州鉄道会社だったのである。これ
は既に満州国樹立は 日本人より地元の愛新覚羅を含めた満蒙人の夢としての建国だっ
た。


831: 名無しさんAA:17/11/05 22:22
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 471-----------

 その鉄道附属地だが、どうせ駅構内や線路など鉄道用地のことを指すのだろうと思う
とそれは大きな間違いである。密約には「鉄道の建設経営および保護のために必要なる
土地」とあったが、当時列強国では拡大解釈して、機関車が使う石炭を掘るための炭坑
や、枕木を作るための森林、砂利を掘るための河原・・・と、あちこちの土地を附属地
にしてしまう行為は当然だった。保線に関わる全ては鉄道会社に優先されるべく権利を
想定していたのである。さらに「鉄道の利用促進のため」ということで、主な駅の周り
には広大な商業用地や工業用地も確保。沿線最大の中心都市だったハルピンでは、市街
地全体が鉄道附属地といっても良いほど広大だった。 ハルビンの地図(1919年)
「租借地境界線」と書いてあるのが、実は鉄道附属地の境界線で、旧市街の傅家甸を除
いて全て付属地であり当時はすでに9割程東支鉄道だった。各附属地の行政は東清鉄道
民政部が担当し、1908年から主要都市で東清鉄道の監督の下での自治制が敷かれる
ことになり、ハルピンや満州里、ハイラル、昴々渓、横道河子、博克図、綏芬河では、
国籍に関係なく年間10ルーブル以上の納税者が選挙で選出する市議会と市役所が設置
された。簡単に言えば国の中にあった別の国の飛び地であり自治都市国家として機能し
ていたのだ。清朝が滅亡し中華民国が成立すると、東清鉄道は東支鉄道または中東鉄道
と呼ばれたが、17年のロシア革命でボルシェビキ(ロシア共産党)が政権を握ると、
大打撃を蒙った。中東鉄道のロシア人労働者や駐屯部隊の兵士たちは 労兵ソビエト人
は評議会を組織して赤軍(革命軍)を支持し、白軍(旧帝政軍)支持の白系ロシア人の
経営陣と対立し、中東鉄道ではストが頻発し、ストに怒ったチェコ軍団がハルビンでは
布告を出して、鉄道や附属地を武力支配しようとするなど混乱が続きた。ここに国連の
主導で、列強各国のシベリア出兵により、シベリア鉄道は日本軍が、中東鉄道はアメリ
カ軍が一時管理する事態になったのだった。革命政権によってサンクトペテルブルグの
本社が閉鎖され中東鉄道は、本社を北京に移して経営陣はシベリア各地に成立した白軍
政権側が握っていたが、1919年にオムスク(東ウラル)の全ロシア臨時政府が崩壊
するとこの後盾を失い、一方で民族自決、不平等条約撤廃の世論に押された中国側は、
これを契機に中東鉄道附属地の回収に乗り出した。だが中国側も国民政府としては3つ
の政府がお互いに譲れない利権としてあり 広東政府か国民党政府か満蒙が造った政府
なのか分かれて統一見解はなかったのだ。広東政府はロシアに借金があったし国民党政
府は新たな国交樹立の制約があった。唯一の満蒙の作った政府は買い取れる状態だった
が日本の傀儡である事はわかっていた。

832: 名無しさんAA:17/11/05 22:35
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 472-----------

 モスクワで新たに成立した、ソ連政府は「帝政ロシアが中国で獲得した租界や権益、
治外法権などの特権を放棄する」と発表したため、これに力を得た中国は、1920年
9月に帝政ロシア大使館の承認を取り消し、天津と漢口のロシア租界を接収。翌月には
中東鉄道の監督権を取得した。オムスク政権の総動員令で中東鉄道沿線の白軍がシベリ
アへ狩り出され、治安が悪化したことを理由に、中国側は1920年3月には駐屯権と
警察権を回収し、10月には司法権を回収。次いで21年には中東鉄道が運営していた
郵便局を、22年には電信局を接収していた。また21年、中国側は中東鉄道の附属地
を東省特別区に指定して行政長官を任命し、自治体のない附属地での行政権を接収した
。1924年に中国政府はソ連を承認したが、直奉戦争に勝って、中国政府を支配した
満州の軍閥・張作霖は馬鹿な事に、ソ連による後盾を強化しようと 奉ソ協定を結んで
中東鉄道を中ソ合弁とした。この事で、白系ロシア人の経営陣は排除され、ソ連からの
派遣された幹部に入れ替わった。中東鉄道の経営範囲は商業活動に限定され、これによ
り、鉄道用地以外の土地は中国側へ返還されて、中東鉄道附属地は消滅していた。この
後もハルビンなどでは東清鉄道以来の自治制が続いていたが、26年にはロシア人議員
が過半数を占めていたハルピン市議会で「議会での公用語をロシア語から中国語へ変更
する議案」が否決されると、市議会と市役所を解散させ、中国人主体の市自治会(議会
)と市政局を設置した。こうして新たなロシア人主体の市自治会と市政局を設置した。
この時解散前の市会議員 ロシア人34人 中国人18人 日本人5人 英米仏各1人
だったが解散後の市自治会議員は中国人40人 ロシア人2人 その他の外国人6人(
民族別の議席数をあらかじめ規定)に変わったが、ロシアはそれには不服であった筈だ
。その後、張作霖爆破事件が起こり翌年1929年には張学良軍が中東鉄道の全面接収
を狙ってソ連軍と衝突する事件が起きた。が、結局ソ連は内政を優先させるために送り
込んでいた共産党軍によって彼らを撃退して守っている。この事は利権譲渡を公言して
いながら張学良軍中国に取られまいとして戦い その権益を手放さない共産党と張作霖
の奉天政府はもとより中国本国の正当な北京政府とも険悪な仲になってしまった事を示
していた。


833: 名無しさんAA:17/11/05 22:36

陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 473-----------

 だがソ連軍の経済的損失も大きく中東鉄道を売却を決定。当初は中国政府へ売却を打
診していたが、32年に満州国が建国されると、中東鉄道は満州国との合弁の北満鉄道
とも呼ばれるようになり、35年にソ連は1億4000万円で満州国(実際には日本)
へ売却。満州国鉄となって、その管理・運行は満鉄へ委託された。こうして東支鉄道は
日本のものとなった。この時代金を株で買ったやったのが旧幕府の徳川氏といわれる。
朝鮮との併合問題が起きると正式な安奉線が出来た。安奉線とは、朝鮮との国境の安東
(現在の丹東)と満洲の鉄道の要衝・奉天との間の路線で、日本・朝鮮と満洲・中国を
結んだ陸の大動脈だった。日露戦争中に日本陸軍が軍用軽便鉄道として建設し1907
年に満鉄へ譲渡されて本線並みに改軌された。この安奉線も沿線に約500万平方mの
附属地を擁していた。もっともこれは清朝との条約に基づいた附属地ではなく、日露戦
争中に日本軍の「実力」で買収・接収したもの。日本はこのうち半分弱を「やっぱり不
要」だとして清朝に買い取りを打診したが、清朝は「附属地すべて返さない限り応じら
れない」としたため、そのまま既成事実として満鉄に引き渡された。 満鉄付属地 は、
日露戦争で日本がロシアを破ったため、日本はロシアから関東州の租借地のほか東清鉄
道南部線の長春〜大連間とその支線を譲り受け、1906年に 国策会社の南満州鉄道
(満鉄)を設立して経営を引き継いで膨大な物となった。沿線の鉄道附属地もそっくり
引き継ぎ、「満鉄附属地」と呼ばれるようになった為既に満鉄帝国とまで揶揄されてい
た。満鉄になってから附属地はさらに拡大された。なにしろ鉄道附属地は租界と違って
「ここからここまでを附属地とする」という定めはなく、中国側との協議なしに設定す
ることができたからだ。満鉄が中国人地主から買収したり賃借した土地は片っ端から、
附属地になって、日本側の行政権が適用されていった。逆に満鉄が「この土地はもうい
らない」と中国人に売却したり賃借停止した土地は、附属地から外れて中国側の行政に
戻ることになった。このため、各駅の附属地面積は増減を繰り返していたというのだ。
つまり 必要な土地 必要な利権 などは既に取り入れていた状態で 租界よりも強く
租界よりも調整され 租界よりも街づくりが出来ていて中国人にも中国の共産党は勿論
国民政府よりも愛され助けられ、必要となっていた満州鉄道会社だったのである。これ
は既に満州国樹立は 日本人より地元の愛新覚羅を含めた満蒙人の夢としての建国だっ
た。

834: 名無しさんAA:17/11/05 22:42
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 474-----------

 中でも炭坑の町・撫順の附属地は60平方kmに達したというから日本なら1つの市
がすっぽり入ってしまうほどの広さだった。沿線の主要都市では鉄道開通前からあった
城内(旧市街)を除けば、市街地の大半が満鉄附属地となったが、その大部分は鉄道と
は関係ない土地で、奉天(現在の瀋陽)の満鉄附属地は面積11・6平方kmのうち、
実際の鉄道用地は7%にすぎなかった。このように満州では都市住民の多くが中国側の
管轄が及ばない附属地の住民となり、とりわけ日本人やロシア人など外国人のほとんど
は安心できる附属地で暮らしていた。満鉄附属地では軍隊は関東軍が、警察は大連にあ
った関東州庁が、司法は各都市の日本領事館が担当し、満鉄は土木、衛生、教育などの
行政を担当した。満鉄は公園、図書館、病院を運営し、小中学校はもちろん大学の設立
まで行い満州医科大学まで経営していた。これらの経費は満鉄附属地の住民から税金を
徴収して充てたのだが、そのかわり住民は中国側へ国税や地方税を納税しなくて良かっ
たので、かえって税金は安かった。行政運営は満鉄の地方部が行ったが、小さな附属地
では駅長が担当し、つまり駅長さんが「市長」を兼ねていたようなものだった。附属地
ごとに議会に代わる諮問機関として地方委員会が設置され、当初は満鉄がそのメンバー
を任命していたが、後に一定額以上の税金を収めた附属地住民による選挙が実施される
ようになった。鉄道附属地の内外に関わらず、日本人に対する司法権は中国との不平等
条約によって日本側にあったが、附属地内に住む中国人への司法権は、本来なら中国側
にあった。しかし東清鉄道と同様に日本は「実力」で司法権を及ぼしていた。附属地内
に住む中国人が附属地の外で犯罪を犯した場合や、附属地外の中国人容疑者が附属地へ
逃げ込んだ場合は、中国側警察の求めに応じて日本側の警察が容疑者を中国側へ引き渡
すこともあったが、この辺の取り扱いはかなり曖昧で取引が生じていた。1926年に
奉天の附属地に住んでいた張作霖の第五夫人(中国人)が家賃を滞納したことで、日本
人大家に家財道具を差し押さえられたことを不服として裁判が起こった。奉天の日本国
領事裁判所で起こした訴訟では、「奉天の如き鉄道都市は法の空虚地帯なり」と言い、
ギブアップ宣言とも言える判決が出た。これによって張作霖も 中国北京政府の利権も
奉天政府としての権利も 帝国陸軍は解さないと言うよりタッチ出来ない程満鉄経営は
利潤を上げていたのである。


835: 名無しさんAA:17/11/05 22:52
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 475-----------

ところが1932年に満州国が成立すると、この絶大な治外法権を持つ満鉄付属地は、
日本の「友邦」たる満州国の首を絞めかねない存在になった。なにしろ満州国は首都・
新京をはじめ主要都市の中心部はことごとく満州国の法律が及ばず、そこに住む住民や
企業も満州国に税金を払わずに満鉄に納税していた為だ。このため満鉄が年間3億円の
売上げを稼ぎ、列車の運航経費や付属地でのインフラ整備などの費用を差し引いても5
000万円近い利益を上げて、日本送金するその大部分の株主へ配当金として支払う一
方で、建国しても主要都市でも税金を集められない満州国の税収は年間4000万円足
らずに過ぎず、アヘンの専売権などの収入を加えても国家歳入は1〜2億円程度だった
のだ。つまり満州国より満州鉄道が売り上げ2倍利益3倍をなし、結局、日本政府にと
っても満鉄付属地は非常に厄介な地域になり、1937年には満州国へ返した。満州国
運営には海との接点である港が重要だった。昔からの遼寧半島の付け根にある営口とい
う港町があったが営口から遼河を遡った牛荘は古くから満州一帯の海の玄関口としては
古くから貿易が盛んな場所でだった。清朝時代は牛荘を開港場に指定したのだが、ここ
に租界を作ろうとしたイギリスは、牛荘より河口に近く貿易に便利な営口を「牛荘」だ
と称して領事館を勝手に設置していた。しかし営口は直ぐに河口に土砂が堆積しては、
大型船が入りにくくなり冬は港が凍結してしまうことで、新たにロシアがダルニー(後
の大連)を開発して玄関口がそちらに移った。イギリスが租界を作るために借りた土地
では地盤沈下で沈んでしまったことなどで、結局イギリス租界は作られず徐々に寂れて
いったのである。ところが、日露戦争が始まると営口は日本軍の上陸拠点の基地となり
、営口の町外れにあった駅一帯には、新しい日本人町ができて多くの日本人が住み着き
始めた。中国人やイギリス人が住む港に面した古くからの営口に対して、駅前の新しい
日本人街は「新市街」と呼ばれ発展するようになった。日露戦争が終わってからは、日
本は清朝に圧力をかけて奉天、営口、安東などに日本租界を開設することになったが、
結局ここの租界は作るのはやめてしまった。なぜかというと、1つは、営口に古くから
進出していたイギリスが日本に乗じて租界を作り、満州に本格進出してくるかも知れな
いと懸念した為だ。そしてもう1つの理由は 軍部が反対した。租界の中の行政は領事
館つまり外務省が担当することになるが、軍部は新市街を満鉄附属地にして、自分たち
の息がかかった満鉄を通じて支配したいという思惑があったからだった。と言われる。


836: 名無しさんAA:17/11/05 23:01
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 476-----------

こうした軍部と外務省との対立の結果、新市街はとりあえず租界でも満鉄附属地でもな
いタダの新市街となったが、日本政府が組織した居留民団が行政を掌握して租界と変わ
らない統治をそのまま行ったと言われる。これに対して中国側はたびたび抗議していた
が、日本側はそれを無視し続けた。それは中に朝鮮系の日本人が多数いて軍ではないと
収拾がつかなかったからだ。しかし満州の開発が進むと、営口港はやがて満鉄が経営す
る撫順炭鉱や鞍山鉄鋼所の重要な積出港となり、クーリーが増えて1923年に新市街
は満鉄附属地に編入されて行った。ちなみに日本が支配したアヤシイ新市街は、鴨緑江
を挟んで朝鮮との国境に位置する安東(現在の丹東)にもあって、ここも営口の新市街
と同じように 日露戦争の時に建設され、1923年に満鉄附属地となっていた。こう
して満鉄付属地が有効な土地を増やし輸出入にまで転じて国家経営が出来て来ると線路
の改造問題が持ち上がっていた。日露戦争の以前は、奉天からハルビンへ向かう鉄道は
一直線に敷かれていて、寛城子駅からが長春の最寄駅だったのだ。日露戦争後にロシア
は寛城子駅から南の鉄道を日本へ譲ることになり、満鉄が経営することになった。しか
し東清鉄道のレールの幅はロシア式の広軌(1520mm)だったのに対して、満鉄は
獲得した路線のレールの幅は、中国本土や朝鮮と同じ標準軌(1435mm)に直して
いたので列車の直通運転はできなくて、乗り換えが必要になっていた。兵士などの人の
輸送には自分から歩くので問題は無かったが 貨車などの資材の運搬には積み替えが必
要になって負担や混乱が生じていた。そこで満鉄は 1907年に寛城子駅と市街地(
城内)との間に新しく長春駅を建設し、ここで2つの鉄道の乗換駅にした。長春〜寛城
子の間は満鉄と東清鉄道のレールが並んで敷かれ、東清鉄道も長春駅まで乗り入れを開
始した。一方で、貨物は寛城子駅で積み替えを行った。同時に満鉄は長春駅の南側の土
地を買収して新たに日本側の鉄道付属地を作った。こうして長春駅は1912年に吉長
鉄道(吉林〜長春)も乗り入れてターミナル駅として発展したが、寛城子駅の方は市街
地との間を、長春駅で分断されてしまい、ロシア側の付属地にはロシア兵と鉄道職員が
住むだけで寂れていった。やがて35年にソ連が北満鉄道(東清鉄道→東支鉄道の後身
)を満州国へ売却すると、満鉄は長春改め新京以北のレール幅も1435mmへ改軌し
て、大連・奉天からハルビンへの直通運転をスタート。新京駅でいちいち方向転換して
いては面倒なので、新京駅の東側から北へ向かう新線を建設して、S字形で直行できる
ようにした。一方の寛城子駅はロシア人がいなくなり、新京から内モンゴル方面へ向か
う京白線のローカル駅に転落して、ますます落ちぶれてしまったのでした。

837: 名無しさんAA:17/11/05 23:11
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 477----------

当時のチェコはオーストリア帝国の領土であった。チェコ人はオーストリア軍として第
一次世界大戦に参加したが、オーストリアの敗戦によるチェコスロバキアの独立を夢見
て、5万人のチェコ兵が同じスラブ系民族のロシア軍に投降してこの領土建設に駆り出
された。又連合軍にも加わって東部戦線で戦ってもいてスラブ人は分断して戦争で対抗
して最前線にいた。しかしロシア革命の勃発でロシアがドイツと停戦したため、チェコ
軍団はしかし捕虜となったチェコ人はシベリア鉄道で沿海州へ向かい、連合国側のチェ
コ人は日本、アメリカを経由し地球をほぼ一周してフランスの西部戦線に加わることに
決定した。ところがシベリア鉄道の運行が混乱してなかなか先へ進めなかったため、怒
ったチェコ軍団は沿線各地で反乱を起こしながらウラジオストク(浦塩)へ集結。反革
命政権の主力になった。日本や米英仏などがシベリアへ出兵したのは、当初は「チェコ
軍団の救援」が大義名分だったが、ところがチェコ人も又人種ではなかった。チェコと
言う場所に住む人たちだったのである。かつて千年前ボヘミア公国を建国され、その後
無くなったがハプスブルク家が出来の権威が失墜すると、オーストリア・ハンガリー帝
国という事実上の連邦国家が成立し更にそれが没落して、チェコ人と言う自治民族が出
来てチェコ軍が出来ていた。だが当然ながら民族的な繋がりよりは、チェコ語を話せば
スラブ人でもロシア人でもユダヤ人でもロマ人でも、国内に住み日常の習慣が同じであ
ればチェコ人だったのである。こうしたこの中で ロシアに対抗してシベリア出兵に合
わせて 日本の陸軍は関東軍を作って朝鮮経営に乗り出していたのが、当時の状況だっ
た。この時造ったのがそれが先の狭軌の鉄道だった。関東軍と言う名は中国の中で、こ
の関東州を治めた軍隊だった。関東州は大連、旅順などを中心とした遼東半島の先端に
あった日本の領有地で国際的にも認められたところだった。「関東」とは山海関(万里
の長城)の東側の意味で、本来なら満州全体を指す歴史的な言葉である。ウラジオスト
ックは、ロシアが造った新しい土地だったが、アメリカ経由してわざわざこのウラジオ
ストックに派兵し出来たばかりのシベリア鉄道によって第一次世界大戦に加わっていた
。ところがこの大陸横断のシベリア鉄道は霜のせいで上手く運行が出来ずにいた。そこ
に物資を送る日本の関東軍の鉄道と馬車がハルピンから乗り入れてる形だった。

838: 名無しさんAA:17/11/05 23:16
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 478----------

日清戦争後の下関条約(1895年)で、日本は清朝に台湾とともに 遼東半島(営口
・鳳凰城・鴨緑江を結ぶラインより南側)を割譲させたが、ロシア・フランス・ドイツ
によるいわゆる三国干渉で清朝へ返還した。すると3年後にロシアが清朝からこの遼東
半島の先端を租借し、拠点としてダルニー市(大連)を建設した。日清。日露の戦争は
この部分の攻防だった。日露戦争後には この租借権は日本に引き継がれ、ダルニーは
大連と名を変更し統治したが、それでもロシアは引下らなかった。本国の革命で国際的
取り決めも従う気も無かった上にその指令すら伝達が滞っていたのである。日本は朝鮮
総督府や台湾総督府に相当する植民地の統治機関として、関東都督府(1919年以降
は関東庁、34年に関東州庁と改称)が置かれたが、都督府は関東州の行政だけでなく
、満鉄付属地(日本の国策会社・南満州鉄道が主な駅周辺で統治していた治外法権地帯
)の行政や、日本の治外法権に基づいた満州各地の警察業務なども管轄した。この間協
定で関東州はロシア時代から輸出入に関税がかからない自由港(フリーポート)だった
が、日本もそれを引き継いで自由港としている。しかし大連港に陸揚げされ満州へ運ば
れる商品等には中国の関税がかかる。関東州と満州の間で再び貨物検査をするのは面倒
だったので、大連港には中国の税関当局が(満州国成立後は満州国の税関)が設置され
、満州向けや他の船に積み替えて中国本土へ発送される貨物から関税を徴収することに
なっていたが、此処に中国本国の体制とは遠い中国税関があったようだ。先の張学良軍
の軍閥である。つまりその税が張学良軍の費用であり中国政府の収入とはならなかった
のである。中国政府自体はロシアからの借金で鉄道建設費用を支払いする約束だったの
で支払いのないロシアは爆破し運休を迫る判断だった。張学良軍と政府とに連絡が疎通
で、暫くするとそれは抜け穴も多い環境に密貿易の拠点にもなった。元々関東州にいた
漢民族は少なく、もとから住んでいたのは満州族や朝鮮人だった。朝鮮や台湾、南樺太
など他の植民地と違って、日本政府は彼らに日本国籍を与えなかった。関東州はいずれ
中国に返す(ことになっている)租借地なので、彼らは中国国籍のままとされた。19
25年(大正14年)『『関東庁要覧』の人口統計によれば、日本人8万8336人(
うち内地人=現代でいう日本人8万7572人、朝鮮人764人)に対して、支那人(
満州族、モンゴル族)は63万7110人、他の外国人(主にロシア人)が416人だ
った。

839: 名無しさんAA:17/11/05 23:29
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 479----------

張作霖爆殺事件ソ連特務機関犯行説は、1928年6月4日発生した張作霖爆殺事件の通説の
河本大作の創作した日本人軍人策謀説ではなく、ソ連赤軍特務機関による犯行であると
する真実である。この主張はロシア人歴史作家のドミトリー・プロホロフが最初に表明
した。ソ連崩壊以前から旧ソ連・ロシアの特務機関活動を専門に執筆活動していた彼は
、2000年に共著によって『GRU帝国』を出版したが、そのなかで分析の結果として、
張作霖殺害にソ連の特務機関が関与していることを唱えた。それは、ソ連の職業諜報員
だったナウム・エイチンゴンが日本軍の仕業に見せかけて実行したという説である。こ
の後2005年に出版された ユン・チアンとジョン・ハリデイの共著による『マオ誰も知
らなかった毛沢東』にも、張作霖謀殺に関して「張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行
したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところ、実際には、
スターリンの命令にもとづいてナウム・エイチンゴンが計画して、日本軍の仕業に見せ
かけたものだという。」との記述がある。プロホロフによれば、日本の支援で満州を支
配していた北京政府に、ソ連政府は張作霖の奉天政府とに1924年9月に「中国東北鉄道
条約」を締結し友好関係を結んでいた。しかし張作霖の鉄道代金未納が1400万ルーブル
に及んだ為に、ソ連政府が鉄道使用禁止を通達したが、張作霖はソ連人の鉄道管理官を
逮捕し、実効支配した。としている。これら張作霖の反ソ的な姿勢に加え、ソ連が支援
した対中国国民党に対する軍事行動に失敗したことから、1926年9月に張作霖排除を決
定し、決行をフリストフォル・サルヌインが立案し、特務機関のレオニード・ブルラコ
フによって奉天にある張作霖の宮殿に地雷を敷設して爆殺する計画を立てたが、ブルラ
コフらが逮捕されたため失敗した。だが、張作霖が1928年に反ソ反共の満州共和国創設
を日本政府と協議したことから、ソ連特務機関は再度暗殺計画を立案し、実行責任者と
してナウム・エイチンゴンが任命され爆殺に成功したとしている。また、プロホロフは
極東国際軍事裁判(東京裁判)で関東軍元幹部が犯行を認める証言をしたことについて
「その幹部は戦後、ソ連に抑留され、ソ連国家保安省が準備した内容の証言をさせられ
た。日本が張作霖を暗殺しなければならない理由はなく、ソ連が実行した」と主張して
いる。なお、プロホロフは2009年12月に訪日している。またアパグループの元谷外志雄
代表はプロホロフの住むサンクトペテルブルクを訪問し彼と対談しているが、そのなか
で実行犯の名指しこそしていないが、日本軍の仕業に見せかけるために「日本軍に属し
ていたエージェント(ソ連の工作員)が、サルヌインの指令を受けて、爆弾を仕掛けた
と考えられます」と主張している。

840: 名無しさんAA:17/11/05 23:47
 張一族は、最初からの北洋艦隊からの軍閥ではない。清王朝時代、皇母西太后による
垂簾朝政下で曾国藩・李鴻章ら太平天国の鎮圧に活躍した「穆党」の漢人官僚が、力を
得て北洋艦隊などの軍閥を形成していったのだが、政治・行政面では積弊を露呈してい
た。この時清朝では、旧体制を放置したまま、先ずは産業技術に於いて西欧の技術を導
入する洋務運動を開始している。又この頃対越南(ベトナム)宗主権を維持しようとし
て清仏戦争に突入して失敗し、清仏天津条約によって冊封国「越南(ベトナム)」は、
フランスの植民地となり更に混乱をきたした。又 1886年、緬甸(ビルマ)は3度目の
イギリス軍の侵略を被って滅亡し、いよいよ西洋列強は中国大陸に進出しようとしてい
た時と重なった。従来からの清への臣従を拒む勢力が関東州には台頭していた。属国化
していた朝鮮に対しては、宗主国として内政権を持ってはいたが、壬午事変(1882年)
、甲申政変(1884年)甲午改革(1894年)などが続けて起り、清王朝側は鎮圧をする為
派兵したものの、李氏朝鮮の内情が頼る国を巡って分裂していた。こうして日清戦争で
敗北し下関条約によって遼東半島および福建台湾省の割譲と、朝鮮が自主国であること
を承認させられた。この時張一族は台頭して来ていた。建国以来維持していた李氏朝鮮
に対する広範な支配権も、清朝は失いながら朝鮮は独立国として大韓帝国内に清領租界
を日韓併合後も確保して影響を維持していた。こうした事から日本軍は張一族を支援す
る事を本格的に決めたのである。その後奉天軍閥として満州全域を支配するに成長して
山海関を越え、北京にに拠点を構えた。元々が清王朝は外来政権で満州族の王朝であっ
た。この為満州域は無主の地だった。アジア覇権を握って、中華思想に基づいて、歴代
王朝の皇帝が『天下』を支配し、冊封体制の下で東アジアの国際秩序を維持するものと
考えて清王朝は存在していた。18世紀後半の、西欧諸国が産業革命と海運業発展によ
りアジアに進出して来た時、イギリス商人は西欧の対中国貿易競争に勝ち残って、中国
の開港地の広州で茶貿易をしていた。また、アメリカも独立戦争後の1784年と言う
早い時期にも、商船エンプレス・オブ・チャイナ号が広州で米清貿易を開始していた。
この時は米清貿易により清は金属・オタネニンジン・毛皮を、米国は茶・綿・絹・漆器
・陶磁器・家具を得て全く正常だった。つまりアヘン貿易するまで日本の鎖国開港の様
な開港貿易をしていたのである。この中で1793年、イギリスは広州一港に限られて
いた貿易の拡大するため、ジョージ3世は乾隆帝80歳祝賀使節団としてジョージ・マ
カートニーを派遣した。工業製品や芸術品を皇帝に献上したが、中国にとって商品価値
を持つ英国製品は無く、結果「自由に皇帝に敬意を表してよい」という権限を貰っただ
けであった。こうして対中輸出拡大を望むイギリスの試みは失敗に終わった後 イギリ
スはアヘンを持ち込んだ輸出に転じたのである。

841: 名無しさんAA:17/11/05 23:52
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 481----------

 この事は清の危機感の無さが亡国にした。英国と清の貿易では、清の商人は銀での支
払いのみを認めることとなったが、当時のイギリスは、茶、陶磁器、絹を清から大量に
輸入している中で、中国に輸出する商品を欠いていて、英国に毎年大幅な貿易赤字とな
って蓄積していった。又世界的に、イギリスはアメリカ独立戦争の戦費調達や産業革命
の資本蓄積のため、銀の国外流出を抑制する必要があり、商人はインドの植民地で栽培
した麻薬アヘンを中国に輸出することで三角貿易を成立させる事を実行した。清国では

842: 名無しさんAA:17/11/05 23:53
した麻薬アヘンを中国に輸出することで三角貿易を成立させる事を実行した。清国では
アヘンの輸入を禁止したが、アヘン密貿易は年々拡大し、中国社会でのアヘンの蔓延は
清朝政府にとって無視できないほどになっていったのである。また、17世紀以降の、
平和な清の国内の人口の爆発的増加に伴い、民度が低下し、自暴自棄の下層民が増加し
た事もアヘンの蔓延を助長させた要因であり 属国から西洋列強の攻撃に避難して来た
人間も多くいた。このため、1839年林則徐を欽差大臣に任命してアヘン密貿易の取り締
まりを強化し、歴史的大事件が数々と起こり、不平等条約を締結して行った。この事が
日本の開国時の不平等条約の見本になった。もし祝賀使節団の時清王朝が鉄砲なり軍艦
なりを購入する事をすれば英国交易も全く変わっていただろう。更にこの外来王朝によ
って北京から南部は漢民族の施政であり北部は属国領として歴史的にモンゴル人や朝鮮
人達の自治を任せていた地域であった事が奉天軍と言う張作霖を作った元となっていた
。当初1901年、袁世凱は清朝の北洋通商大臣に就任し、西洋式の新しい北洋軍とい
う新軍を設立して清国を守る為に編成した。だが拡大はしたものの、各地方にも鎮守す
る程の力はなかった。辛亥革命により、袁世凱は革命軍に協力して、清朝を打倒して、
中華民国の樹立に協力したため、彼は中華民国の臨時大総統に就任した。こうして北洋
軍は年々拡大し、地方を根拠地とする背景勢力により各個の軍隊が作られた。戦国時代
の群雄割拠の様相だったのである。1916に袁世凱が死んだ時北洋軍閥はその背景勢
力の違いにより、直系(直隷派)、皖系(安徽派)、東北の奉系(奉天派)、晋系(山
西派)、馮系(西北派)の各分派に分裂した。以後は、分派間や同一派内の有力者間で
抗争を繰り返し、北京政府の政権を争ったが 奉天派はこの中で異色の経済隊だった。
清朝は総理各国事務衙門を設置し、その下に三口通商大臣と五口通商大臣を置き、対外
通商と外交事務を担当させたていたが 冊封によって朝貢してくる国との通商事務が、
この礼部が、外蒙古・青海・西蔵・新疆といった藩部やロシアとの通商外交は理藩院が
、唯一外国との交易を許した広州での貿易事務(広東システム)は両広総督が担当して
いたのである。この総理各国事務衙門の一部が冀東防共自治政府だった。

843: 名無しさんAA:17/11/05 23:53
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 482----------

通称モンゴルは、東アジア北部に位置する国家として存在しているが昔から境界を持た
ない遊牧民の国だった。東と南を中華人民共和国(中国)・内モンゴル自治区と、西を
中国・新疆ウイグル自治区とカザフスタン・東カザフスタン州、北をロシア連邦とそれ
ぞれ接する内陸国となって、首都はウランバートルになって定住するようになったが、
モンゴル民族の居住地域であるモンゴル高原のうち、清国支配下で中国語で外蒙古され
る場所と呼ばれたゴビ砂漠以北の一帯にほぼ該当する領域を国土とした。これに対し、
南部の一帯が内蒙古とされる場所は、現在は中国領とされており、「蒙古族」とされる
中国国籍のモンゴル人のための「民族区域自治」単位として内モンゴル自治区等が置か
れる事で実効支配されている。冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)は、
このモンゴルが出来る前からある清国時代からの漢民族不侵入地域であり、過去300
年前から漢民族には入場制限が課されていた場所だった。モンゴルと言っても5系統の
凡そ50種族があり、ヌルハチのいるモンゴル系女真族がこの清王朝を建てたが、その
庇護下のモンゴル系8民族がこの周辺を回遊民族として生活していた。今解っている中
ではモンゴル国には8割弱がハルハ・モンゴル族、残り2割強にその他モンゴル系、テ
ュルク系民族の16部族が居住するとされる。1920年3月7日、ロシア・ソビエト連邦社
会主義共和国のソビエト政権が日本のシベリア出兵に対峙すべく極東共和国を建国した
、事で1922年11月19日まで存在した短命な極東の緩衝国家だが、この時期に張はロシア
側のスパイとして活動し、日本軍に捕縛されたが、張に見所を認めた時の陸軍参謀次長
・児玉源太郎の計らいで処刑を免れた。この時、児玉の指示を受けて張の助命を伝令し
たのが、後に首相として張と大きく関わることとなる田中義一(当時は少佐)である。
とされる。1875年、遼東半島の付け根に位置する海城県で生まれる。生家はあまり豊か
ではない上に、1889年に実父・張有財と死別。獣医の継父から乗馬を習った。気が合わ
ず、家を飛び出したとも言われている。その後吉林省に渡り、馬賊に身を投じて、営口
市高坎鎮一帯で生活し、非合法な朝鮮人参やアヘンなどの売人をしていたと伝えられる
。この時児玉や田中の頭にあったのは 予想のつかない馬賊の動きであったのだろう。
まず清が指導している訳でもなくロシアに従っている訳でもなく 時には単発で時には
集団で襲ってきたからだ。更にロシアの改革で全く相手が見えなかったのである。

844: 名無しさんAA:17/11/06 00:01
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 482----------

通称モンゴルは、東アジア北部に位置する国家として存在しているが昔から境界を持た
ない遊牧民の国だった。東と南を中華人民共和国(中国)・内モンゴル自治区と、西を
中国・新疆ウイグル自治区とカザフスタン・東カザフスタン州、北をロシア連邦とそれ
ぞれ接する内陸国となって、首都はウランバートルになって定住するようになったが、
モンゴル民族の居住地域であるモンゴル高原のうち、清国支配下で中国語で外蒙古され
る場所と呼ばれたゴビ砂漠以北の一帯にほぼ該当する領域を国土とした。これに対し、
南部の一帯が内蒙古とされる場所は、現在は中国領とされており、「蒙古族」とされる
中国国籍のモンゴル人のための「民族区域自治」単位として内モンゴル自治区等が置か
れる事で実効支配されている。冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)は、
このモンゴルが出来る前からある清国時代からの漢民族不侵入地域であり、過去300
年前から漢民族には入場制限が課されていた場所だった。モンゴルと言っても5系統の
凡そ50種族があり、ヌルハチのいるモンゴル系女真族がこの清王朝を建てたが、その
庇護下のモンゴル系8民族がこの周辺を回遊民族として生活していた。今解っている中
ではモンゴル国には8割弱がハルハ・モンゴル族、残り2割強にその他モンゴル系、テ
ュルク系民族の16部族が居住するとされる。1920年3月7日、ロシア・ソビエト連邦社
会主義共和国のソビエト政権が日本のシベリア出兵に対峙すべく極東共和国を建国した
。緩衝国家としての役割で1922年11月19日まで存在した短命国家だった、この時期に張
はこの属国のロシア側のスパイとして活動し、日本軍に捕縛されたが、張に見所を認め
た時の陸軍参謀次長・児玉源太郎の計らいで処刑を免れた。この時、児玉の指示を受け
て張の助命を伝令したのが、後に首相として張と大きく関わることとなる田中義一少佐
である。とされる。1875年、遼東半島の付け根に位置する海城県で生まれるが生家はあ
まり豊かではない上に、1889年に実父・張有財と死別している。獣医の継父から乗馬を
習った。気が合わない家を飛び出した。と言われている。その後吉林省に渡り、馬賊に
身を投じて、営口市高坎鎮一帯で生活し、非合法な朝鮮人参やアヘンなどの売人をして
いたと伝えられる。この時児玉や田中の頭にあったのは 予想のつかない馬賊の動きで
あったのだろう。まず清が指導している訳でもなくロシアに従っている訳でもなく 時
には単発で時には集団で襲ってきたからだ。更にロシアの改革で全く相手が見えなかっ
たのが現状だったが、ひょこり「極東共和国」なる国家が出来上がっていたのである。


845: 名無しさんAA:17/11/06 00:11
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 483----------

 張作霖爆破事件も柳条湖事件もソ連軍からやって来た日本陸軍の朝鮮兵がやった事件
ではある。そして彼らを匿っていたのも日本のコミンテルンつまりは赤化兵士達だった
。では日本政府は何故日本軍が疑われる事になるこの事件を止めなかったのか。それは
止める理由が無かったのだ。日本政府は北京の各国公使団からも、再三再四「日本の力
で北京を戦禍から守ってほしい。」と強い要請を受けていた。張作霖の奉天軍が北京に
いると、南軍と激戦になり、在留外国人や中国市民が巻き添えを食うことは目に見えて
いたからだ。事実張作霖の私邸は2〜3回爆破未遂事件があっていた。又南軍迫るの報
に、済南事件の惨状を知った北京城内では、外国人・中国人を問わず恐怖に怯えきって
もいた。執拗に続くソ連の領事館指導の赤軍や毛沢東の共産軍がかなり溢れていて判別
出来なかった事もある。今後の虎の子の満州の経営を維持するのに、張作霖はマイナス
だという空気が関東軍に強くなった。というのは張は満州族じゃなく漢民族(実は朝鮮
族)で、満州は単なる根拠地にしているだけで、どうしても北京に出て中国本土の覇権
を握りたい。としていた。元々権益について広東政府からでて来た北京政府とは軋轢が
あった。そのためしばしば国民党軍と戦う。その軍費調達のために重い税金をかける。
それだけでは足りなくて、なんの裏付けもない紙幣を乱発する。そうすると満州はイン
フレになる。このまま張にまかせておいたら、満州は経済的に破綻しかねない。と言う
中にあった。この頃満州国はまだない。先に記述の「鉄道附属地」と言う名の自治防衛
権のみだった。そこで軍は息子の張学良への政権交替を企んだ。学良は重い阿片中毒で
、統治能力はないと見ていた。張作霖の側近には、幸い日本の陸士を出た優秀な幕僚が
いる。彼らに実権を握らせれば、日本には今は好都合だと考える部分もあった。問題は
今の冀東防共自治政府の地位にあった。日本が満州鉄道の地域として満州国を建設した
時、満蒙開拓団と言う一般の農民兵と共に婦女子の受け入れは既に計画されていた。従
って陸軍は、中立地帯としてソビエトの極東国の様な緩衝部分を策定し中国の華北五省
(察哈爾、綏遠、河北、山東、山西)を中立地帯として計画した。その為に陸軍の華北
政策として華北に向かって進軍した。当時、遼寧省と河北省の間に熱河省があり、ここ
が満州国が国際連盟で大問題となっていた場所になった。熱河省の省都・承徳を関東軍
が占領、更に長城を越えて北京のすぐ近くまで軍を進めそしてついに、5月、関東軍は
中国軍との間に「塘沽停戦協定」を締結して、中国軍の非武装地帯を作り終えていた。


846: 名無しさんAA:17/11/06 00:21
元々満州国樹立を宣言しても、そう日本にメリットは無かった。いやデメリットの方が
多かったとも言える。まず権益や税金の問題でも既に先の満鉄附属地があって、満州国
を作っても早々変わった所はない。それどころか軍部や行政の満州国経営によって、こ
の満州鉄道の持つ行政や安い税金での生活が奪われる事になったし、満鉄そのものの、
事業権や法人税や事業税の確執やこじれが生じていた。こうして満州国行政自体の収益
が必要になる中で 今度は付随して設立されていた企業群にも同じ不都合が出来ていた
。これまで正規の半分以下の安い住民税で住んでいた場所が廃止され会社自体や国民に
も税金が課されたのだ。そこでこの企業達は「塘沽停戦協定」で作られた冀東防共自治
政府に目を付けたのである。つまり満州が独立した事で輸出入のこれまでの特権がなく
なった事で冀東防共自治政府と言う中国自治区としての地位を改めて作られた中での、
経済改革である。それは、かつての満鉄附属地と同じに中国政府の立ち寄れない、日本
の軍隊の駐留権や警察権、司法権、徴税権、郵便局や電話局の運営などの通信権、イン
フラ整備や衛生、教育、事業認可などの行政権を自治会が持つと言う とっても都合の
良い処だったからだ。こうしてそこにも生活があり「自治」と言う華北経済圏の独立し
、すなわち「第二の満鉄附属地」化を担って行った。こうしてかつての満州日本軍特務
機関から金と武器を支給された「自治」運動が続出し、1937年11月、河北省東北部の非
武装地帯に、殷汝耕を首班とする冀東政権が冀東防共自治委員会を経て、翌月自治政府
に改組し作られて行った。12月には中国中央政府からなかば独立して河北・察哈爾両
省を管轄する冀察政務委員会(委員長宋哲元)が成立した。その上張作霖の肝いりで、
この熱河省はケシの巨大栽培が試みられていたのである。当然裏には日本の商社がつる
んでいたし、そこにはその後の戦後の自民党を支えた者達がいた。又非武装地帯には帝
国陸軍の権限が棚上げされていた。ここに関東軍でも満鉄でもない三井資本の経営する
阿片栽培の無法地帯が出来上がってしまったのだ。又ここが中国領土と認めていたので
ここを拠点にした密貿易は横行し、中国全土に製品は回っていった。こうして関東軍は
膨大な利益をあげた。それは阿片・モルヒネ・コカインなどに限らず資源や電気すら軍
の下の企業が売り、得た資金を軍の裏金、活動資金にした。一例が関東軍参謀田中隆吉
などがこの資金を蒙古の独立運動につぎ込んだとする裁判である。東京裁判では田中は
天皇を守ることを決意して、検事側証人として出廷した。この時の人間関係の不満によ
り、旧陸軍の内部告発をしたとする批判の人間である。かつての上司である東條英機、
木村兵太郎にとって不利となる証言を次々とした。そのため、田中に対して「裏切り者
」「日本のユダ」という罵声を浴びせる者もいた。

847: 名無しさんAA:17/11/06 00:26
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 485----------

 東京裁判の、特に7月6日の公判において、橋本欣五郎・板垣征四郎・南次郎・土肥
原賢二・梅津美治郎などを名指しで証言した際には、鈴木貞一は、その日の日誌に、「
田中隆吉証言。全ク売国的言動ナリ。精神状態ヲ疑ワザルヲ得ズ」と記し、板垣征四郎
も日記に二重丸をつけて「人面、獣心ノ田中出テクル。売国的行動悪ミテモ尚余リアリ
」と書き、重光葵はその時の心境を「証人が被告の席を指さして 犯人は彼と云ふも浅
まし」と歌に詠んだ。元々、内大臣秘書官長であった松平康昌から「昭和天皇の日本人
は戦犯として裁判を受けるとのことだが、彼らは自分の命令で戦争に従事したのである
から彼らを釈放し自分を処刑してもらいたい」という発言を聞かされて、連合軍の目に
とまりGHQに召喚され、ジョセフ・キーナン主席検事から昭和天皇の戦争責任を回避
するための協力を求められたからだった。田中は被告人側の証言にも立っている(木村
兵太郎、梅津美治郎、東郷茂徳、畑俊六の四名)。これについて人から問われると「自
分は検事団に雇われているわけではない。事実を述べるのに検事側も被告側もあるか」
と意にも介さなかった。東京裁判での田中の言動を「米国流の司法取引」と評している
のは当然だった。「田中の軍歴が示す通り、全てが計算された戦後における謀略であっ
た」と指摘されている。川島芳子と出会い、男女の仲になる。川島をスパイの道に引き
入れる。川島芳子とは清朝の皇族・第10代粛親王善耆の第十四王女で、本名愛新覺羅
顯好(あいしんかくらけんし)、字は東珍、漢名は金璧輝、俳名は和子。他には芳麿、
良輔と名乗っていた時期もある。8歳のとき、粛親王の顧問だった川島浪速の養女とな
り日本で教育を受けた。1927年に旅順のヤマトホテルで、関東軍参謀長の斎藤恒の
媒酌で蒙古族のカンジュルジャップと結婚式をあげた。だが彼はは、川島浪速の満蒙独
立運動と連携して挙兵し、1916年に中華民国軍との戦いで戦死したバボージャブ将軍の
次男にあたり、早稲田大学を中退後1925年「韓紹約」名で陸軍士官学校に入学していた
。このバボージャブ将軍こそ満蒙独立運動の旗頭で、1904年からの日露戦争では日本側
の募った義勇部隊「満州義軍」に参加したモンゴル人だった。日露戦争が終わって満州
義軍が解散すると、彰武県へ戻り巡警局長を務めていた。辛亥革命が起こり外モンゴル
でボグド・ハーン政権が樹立されると露蒙中の三国会談で、モンゴルは強制的に中国の
宗主権を認めさせられた。これに対してバボージャブは配下の2人を日本へ派遣して、
軍資金や武器弾薬の援助を日本に求めた。また清王朝の残党とも協定し日本側から川島
浪速の援助を得て戦ったのである。

848: 名無しさんAA:17/11/06 00:36
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 486----------

 川島をスパイの道に引き入れたとされる田中はかなり真正直な人間で諜報員やスパイ
と言うまでは無かったと言える。つまりその後に中国国内に男装写真を新聞に出したり
国民党軍に川島芳子が捕まった事からもそういう事が苦手では無かったろうかと推測す
る。東條内閣になって外務省とは別に大東亜省を設置すると主張する主張し、外務省と
対立していた。だがこの事は如何に東条英機が国際音痴であるかを物語るものだった。
大東亜省の設置の際、9月1日に外務大臣東郷茂徳は辞任したがその時田中は兵務局長
にあり相談を受けている。田中少将は「東條首相は速やかに首相を辞めて第一線に出る
か、或は引退するのが国家ならびに本人のためである」と答えていた。既に政治家東条
を見切っていたのだ。そして9月22日には田中自身も又東條首相に辞表を提出した。
東郷外相が東條に敗れたら、田中少将も辞任すると約束していたので、実行に移したと
回想録では述べているが、田中少将と東條首相との度重なる意見の相違の結果でもある
。谷田勇は田中と広島幼年学校以来の旧知の仲だった。田中少将が陸軍省を追われて、
国府台陸軍病院の精神病棟に入っていることは承知していたが、長岡の旅館で会ったの
には驚いたようだ。その時、田中少将は「開戦を決心する時は、省部の会議は開かれな
かった。東條大臣と武藤軍務局長と田中新一作戦部長との間で急遽、開戦を決した。己
を知らぬ馬鹿な奴らだ」と吐き捨てる様に言ったという。「日本軍閥暗闘史」によると
陸軍「3月クーデター事件」があったがは宇垣一成大将を首班とした組閣が立案されて
の事だった。これは失敗したが、民間側の指導者、大川周明博士は後に、宇垣大将を「
大嘘つき」と罵倒したことがあった。大川が推薦した白鳥敏夫氏を次官にすると約束し
ながら、宇垣が外相になってもそれを実行しなかったからだ。伊豆長岡の大和屋温泉で
会食した時真っ赤になって「なるほど、君から白鳥氏を次官に採用せよとの要求はあっ
た。自分はただ承りおいたのみで、ただの一回もその実行を約束した覚えはない」と言
った。その時承知したというからそういう人物だと大川と同席していた田中少将は思っ
たに違いない。早速陸軍省の局長会報で兵務局長の田中少将は「この内閣には癌がある
。それは星野、鈴木、岸の三人だ」と一矢を放ったが、東條首相は歯牙にかけない風を
示したという。ただ東条はこの時、別の事に熱心になっていたのかも知れない。

849: 名無しさんAA:17/11/06 00:41
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 487----------

 昭和19年、木戸内大臣と会談した田中少将は「何が故に重臣は東條を推薦せりや?
」と問うた。木戸は「それは東條が陸軍大臣になってから、珍しく統制がとれたので、
東條ならば陸軍部内の主戦論を抑えて、戦争の勃発を回避し得ると思ったからだ」と答
えたが 既にこの木戸もだらしない汚職官僚の一人だった。木戸幸一は学習院高等科で
は原田熊雄、織田信恒などと同級だった。近衛文麿は1学年下にあたる。「学習院高等
科から出た者は、東京の大学が満員だから全部京都大学へ行けというような話」があり
、木戸、原田、織田は京都帝国大学法科大学政治学科に入学し、マルクス経済学の河上
肇に私淑(密かに師と仰ぐ)した。卒業後は農商務省へ入省した。農商務省が農林省と
商工省に分割の際は、商工省に属することとなる。つまり経済学の専門家で国際戦況や
国策には全く素人だったのである。昭和15年から内大臣を務めたが、元老西園寺公望
や元・内大臣牧野伸顕に代わりの昭和天皇の側近として宮中政治に関与し、宮中グルー
プとして、学習院の学友である近衛文麿や原田熊雄らと共に政界を動かしていた。親英
米派でも自由主義者でもなく、親独派として知られた事から恐らくはドイツの工作員の
いいようになっていたとも思われる。又この頃までも明治時代と同じ様に米国よりはド
イツ留学やドイツ視察が陸軍の流れであった事が日本に暗雲を垂らしていた。彼自身は
几帳面な官僚主義的性格の持ち主で、天皇の信頼は厚かった。又木戸にすれば機密費が
天皇に奉上出来る内閣であれば良かったのだ。田中はこうした重臣の軍の統制に対する
無知に驚いたと言う。昭和16年10月、田中少将は下志津飛行学校幹事の中西大佐を
訪れ、「米国の航空機に対して、日本の航空機の現状を持って果たして勝算があるか」
と聴いている。中西大佐は「質、量、共に勝算なし」と極めて明白に断言した。その翌
日、上京中であった石原莞爾中将から木村代議士を通して田中少将に会いたいとの伝言
があった。会ってみると石原中将は開口一番「石油が欲しいからといって戦争をする馬
鹿があるか。」と言った。「南方を占領したって、日本の現在の船舶量では、石油は愚
かな事。ゴムも米も絶対に内地にもって帰ることは出来ぬ」と一流の口調で言った。更
に石原中将は「ドイツはロシアに勝てぬ」とも言ったのである。この年12月8日午前
6時、田中少将は陸軍省から電話を受けて真珠湾攻撃が成功した事を知った。正午にな
って宣戦の大詔が発せられ午後1時陸軍省の大講堂で、東條首相の訓示があった。東条
には、絶対勝つと言う自信があったが、今もまだ 新型爆弾の明瞭な報告は来なかった


850: 名無しさんAA:17/11/06 00:49
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 488----------

 この訓示に田中少将は武藤軍務局長と隣り合って聞いた。訓示の直前、武藤軍務局長
は落胆する田中少将に「これで東條は英雄になった」と言った。田中少将は「国賊にな
らなければよいが。」と言った。すると武藤軍務局長は「そうだ、しくじったら 国体
破壊まで行くから正に国賊だ。然し緒戦が巧く行ったからそんなことにはならぬ」と答
えた。9日午後に至って、真珠湾及びマレー沖海戦の戦果が明らかになった。田中少将
は部下に「この戦争を甘く見てはならぬ。この戦争は独ソ戦争の帰趨が決するまでは始
めてはならない戦争であった。もし万一ドイツが負けたら日本は亡ぶ」と言った。田中
少将の言葉は忽ち部内に伝わり局長として許すべからず悲観論として喧々ごうごうたる
非難を受ける事になった。田中新一は進駐時の武力行使の責をとり更迭された富永恭次
の後を受け、参謀本部第1部長に就任。対米関係が悪化する中、交渉の中止と開戦を強
硬に主張し、慎重派の武藤章軍務局長と対立した。武藤章は昭和の熊本の陸軍軍人で、
最終階級は陸軍中将になっていた。統制派だったが後に東條英機との対立で逆に皇道派
の山下奉文の部下に転じたとされる。武藤が中将に昇進した時、近衛内閣末期であり対
米関係が極度に悪化していた。近衛文麿首相は内閣を投げ出し11月に東条内閣が成立
するが、既に組閣に当って天皇より、「開戦を是とする帝国国策遂行要領白紙還元の御
諚」が発せられていた。東條英機首相も姿勢を対米開戦の回避に改めたという。武藤は
これを受け、開戦に逸る参謀本部を制して最後まで対米交渉の妥結に全力を尽くした。
開戦後は戦争の早期終結を主張し、東條や鈴木貞一、星野直樹らと対立、リヒャルト・
ゾルゲにかねてから軍務局長の名で全面的な情報提供を命じてたことから1942年(
昭和17年)4月にゾルゲ事件の発覚等により更迭され、近衛師団長となっていた。同
師団はスマトラ島メダンで作戦中、1943年(昭和18年)6月に近衛第2師団に改編され
た。その後1944年(昭和19年)10月に第14方面軍(フィリピン)の参謀長に就任した。
これは第14方面軍司令官に任命された山下奉文の希望によるもので、フィリピンの地
で終戦を迎えた。終戦の際は、山下に共に切腹することを提案するが、説得され、現地
で降伏。山下らが起訴されたマニラ軍事裁判では、逮捕起訴されないどころか、弁護人
補佐として出廷し山下らの弁護につとめた。この訓令の頃既に伊十三型潜水艦(いじゅ
うさんがたせんすいかん)は拿捕されていたのである。大日本帝国海軍の潜水艦の特殊
攻撃機「晴嵐」2機を搭載する「潜水空母」である。巡潜甲型改2とも言われるこの艦
は、実は特殊な任務を負っていてその試験航行だったのだが 武藤はその報告を受けて
いなかったのだ。

851: 名無しさんAA:17/11/06 00:54
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 489----------

 こうして武藤は東京裁判で死刑になるが、死刑の理由については、田中隆吉元陸軍少
将の「あの男が軍中枢で権力を握り、対米開戦を強行した」という証言に、検察側の隠
し玉的証人として法廷を驚かせた。また「開戦時の東條の腰ぎんちゃく的存在だった」
とみられた。しかし前述のように東條と武藤は開戦後すぐに仲たがいしており、死刑を
免れた鈴木貞一や星野直樹らの方がよほど東條のイエスマンであった事が解っている。
東條英機は判決後、武藤に「巻き添えにしてすまない。君が死刑になるとは思わなかっ
た」と意外の感を漏らしたとも言われる。また武藤と田中隆吉は互いに相手に対しては
嫌悪感をいだいており、これが田中の証言につながったというふうに説明されることが
多いが果たして真相は解らない。1948年(昭和23年)12月23日に巣鴨プリズンで絞首刑
に処された。辞世の句は、「霜の夜を 思い切ったる門出かな」「散る紅葉 吹かるるま
まの行方哉」であった。不思議な事だが1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件に際して
は、参謀本部作戦課長としては、不拡大方針をたてた上司の作戦部長「石原莞爾」とは
反対に対中国強硬政策を主張し、12月には中支那方面軍参謀副長として現地に赴いて
いる。ここでもう一人の戦犯田中新一は新潟県村松藩士の農業田中寅五郎の長男として
北海道釧路で生まれる無謀な軍人がいた。3月に陸軍省の軍務局課員、同年8月に兵務
局兵務課長となったが1937年(昭和12年)1月の宇垣一成への組閣大命降下に際しては
、陸軍実力者による掣肘を嫌う石原莞爾参謀本部作戦課長らと陸軍中央を説得していて
、陸相を推挙させずに宇垣内閣を流産させる程 高邁な戦略者だった。此処にこうした
国際音痴の状況知らずの強硬軍人の群れが見える。軍務局軍事課長に就任し7月7日の
盧溝橋事件発生に当たり、武藤章参謀本部作戦課長と連携し不拡大方針をとる石原莞爾
参謀本部第1部長を 軍務規定を違反し押し切っての5個師団10万人規模の北支増派
を決定させている。これが後で北支事変に至る結果になった。国際視点のない暴走軍人
の姿がそこにあった。1939年(昭和14年)2月に駐蒙軍参謀長となり、同3月、陸軍少将
に進むと、1940年(昭和15年)には、北部仏印進駐時の武力行使の責をとり更迭された
が富永恭次の後を受け、参謀本部第1部長に就任。対米関係が悪化する中、交渉の中止
と開戦を強硬に主張し、慎重派の武藤章軍務局長と対立しそれを推した。1941年、陸軍
中将に昇進。無謀なガダルカナル作戦に消極的な東條首相を面罵して、辞表を提出して
南方軍総司令部付とされ、陸軍中央から遠ざけられた。牟田口廉也軍司令官(前第18
師団長)がインパール作戦を立案した際もこの作戦を無謀と断じた参謀長の小畑信良少
将を避けて賛成し同じ様に非道の悲劇を産んでいる。

852: 名無しさんAA:17/11/06 01:03
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 490----------

 こうして見ると、田中少将は「開戦を決心する時は、省部の会議は開かれなかった。
東條大臣と武藤軍務局長と田中新一作戦部長との間で急遽、開戦を決した。己を知らぬ
馬鹿な奴らだ」と吐き捨てる様に言ったというが、恐らく田中新一が勝手に暴走した。
と言える。つまり一国の興亡をたった一人の国際音痴の馬鹿が策略を張り巡らして行っ
たていただろうと言う事になる。では一体何故この田中新一をこうした要職につけたの
のか。それは木戸内大臣と会談した田中少将の落胆と同じである。田中が木戸の様な、
無知の重臣の軍の統制に対するいい加減さに驚いた様に、そのいい加減さに国民は死ん
でいったのである。このお友達人事、縁故人事を行って行政が腐れて行く様は安倍政権
でも、充分に見て取れ、これが民主主義を取り入れ議会政治を取り入れた人類の悲劇で
もある 直接の要因だった。1947年(昭和22年)の暮れの東京裁判に於いて、木戸幸一
担当の弁護士が、東條に対して「木戸に天皇のご意思にそむくような行いがあったかど
うか」と質問をした。その時東條は、「いやしくも日本人たるもの、国民の一人といえ
ども陛下のご意思に反して行動するがごとき、不忠の臣はおりません。いわんや文官に
おいてをや。」と大見得を切って言った。だがこれは素直な愚直な程の東条英機の心情
を吐露した物であったのだろう。こうした発言を受けて、GHQを始め天皇や皇族など
こぞって戦々恐々とした。アメリカの新聞は「東条、天皇の戦争責任を証言」と書きた
てた。これを受けてさらに、ソ連の検事が正式に天皇追起訴を提言してはキーナン主席
検事に迫った。キーナンと田中は、天皇は開戦の意図を持っていなかった天皇には責任
はないという立場だったしGHQもその方向の統治方針を決定していた。ここに、如何
ににして東條に再度言明させるかを深夜まで協議をし、更に木戸幸一や近衛文麿などを
内密に動かし東條の秘書を通じて東条へ接触して、東條への工作は成功した。1948年(
昭和23年)1月6日の午後の法廷において、東條に「2、3日前にこの法廷で日本臣民た
る者は何人たりとも天皇の命令に従わない者はないと述べたことは、単に個人的な国民
感情を述べたにすぎず、天皇の責任とは別の問題であり、大東亜戦争(太平洋戦争)に
関しては、統帥部その他自分をふくめて責任者の進言によって、しぶしぶご同意になっ
たのが実情である。」と発言させることに成功した。これにより、この危機は救われた
。だがこの言葉も又嘘では無かった。此処に田中隆吉が武藤章を執拗に死刑に持ってい
く発言をし田中新一を裁判すらかけていない理由が見える。つまり国民に知らせてなら
ない重大な事項に こうした二人の田中の様な小さな裁判で漏れてはならない配慮があ
ったのである。

853: 名無しさんAA:17/11/07 10:16 ID:2Hw
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 491----------

大正デモクラシーで軍人蔑視の風潮がおもわれ、山梨・宇垣軍縮への不満渦巻いてきた
。そうして陸軍各所で中堅将校の「勉強会」が萌芽して、永田鉄山らは河本大作(15
期)・板垣征四郎・土肥原賢二(16期)・山下奉文(18期)ら同志20人と渋谷「
二葉亭」で会合を重ね二葉会を作り、石原莞爾(21期)・鈴木貞一(22期)らの、
年少組の「木曜会」と合体し「一夕会」を結成した。その後も、武藤章・田中新一(2
5期)・牟田口廉也(29期)らも加わった勉強会が。僅か40人ほどで一夕会が出来
た。だが、このあとも陸軍を動かす面々が悉く名を連ね、第一回会合では、@陸軍人事
の刷新をよびかけ、A荒木貞夫・真崎甚三郎・林銑十郎の非長州閥三将官の擁立し、B
満州問題の武力解決、C国家総動員体制の確立の大方針を決め、陸軍中央の重要ポスト
掌握に向け策動を開始していた。この彼らの中で熱血開戦派が主要な意見をいい急先鋒
が東条英機と田中新一であったと言える。こうして田中新一は東條英機と共に石原莞爾
・武藤章から主導権を奪い、無謀な米ソ二正面作戦を唱えて 亡国の対米開戦を主導し
た陸軍暴走の牽引役を果たしている。もともと昭和の軍事史は、「一夕会」「統制派」
を率いた永田鉄山こそが最重要な人物だった。「陸軍の至宝」とされ「永田の前に永田
なく、永田の後に永田なし」と称された逸材で「永田がいれば大東亜戦争は起きなかっ
た」とさえいわれている。陸幼・陸士(16期)・陸大を最優等で卒業した永田鉄山は、
事務能力も抜群で陸軍の綱紀粛正・教育制度改革(軍隊教育令)を主導し一般学校の軍
事教練(陸軍現役将校学校配属令)も創始し、病弱で実戦経験は無いが、部隊に出れば
謙虚・公正・合理性で「陸軍一の名連隊長」と慕われ、少壮から陸軍を背負うべき人材
と輿望を集めた。第一次大戦前後の欧州情勢視察に任じた永田鉄山は、これからの総力
戦時代を痛感し「国家総動員」を提唱、同志のエリート将校を一夕会に組織化し、林銑
十郎を陸相に担いで陸軍省枢要の軍務局長に就き長州閥から主導権を奪取させていた。
永田鉄山は、国力の乏しい日本は総力戦に備え中国大陸の軍需資源を利用すべしと主張
したが、非合法手段や派閥争いは認めず、十月事件では橋本欣五郎(23期)の極刑を
主張し、石原莞爾(陸士21期)らの満州事変では暴走抑止に努めた。その後一夕会系
は「陸軍三長官」を独占したが為に、統制を重んじる永田鉄山を統制派とし実力行使も
辞さない皇統派を作り内部対立が発生した。真崎甚三郎の教育総監更迭を巡っては抗争
が激化すると皇統派の相沢三郎中佐が おくびも無しに簡単に永田鉄山斬殺事件を起し
、勢いづいて皇統派は巻返しを図り青年将校グループが二・二六事件を引起した。

854: 名無しさんAA:17/11/07 10:38
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 492----------

 永田鉄山は超が付くほどの秀才であったらしい。1904年陸軍士官学校、1911
年陸軍大学をそれぞれ主席で卒業、その後第58連隊中隊長・軍事研修でドイツ・北欧
などに駐在したが士官学校では「お願いだからせめて勉強してる振りでもして欲しい」
と言われて過ごしていた。1934年、陸軍省軍務局長等歴任した永田は、若き頃から
将来の陸軍大臣といわれていた。当時陸軍は東条英機・永田鉄山などの統制派と皇道派
に分かれてたが、その中での大きな原因でもあった。何故なら永田が属する統制派は、
地上兵力4個師団9万人ほどに削減して近代的戦備(航空機・戦車・火器など)の充実
に力を注いで、その中心人物として永田は陸軍省を大きく切り回していたからだ。永田
は現実的な合理主義で、これまでの馴れ合いの徒党を組むことを嫌い、政治的器量と存
在感は当時一番だったと。だがそれだけ敵対する皇道派の陸軍将校は多く、相沢曰く「
永田は重臣、財閥、政党の手先となり皇軍を私兵化しょうとしている統制派の元凶であ
る。」としている。それは量が必要な軍の中で偏狭な考えであった。2.26 事件へと
発展の端緒になったのは、事件の発端となった教育総監真崎甚三郎や、刺殺を決行した
相沢三郎中佐は より清廉潔白な人柄に映り誰一人として彼らを悪く言う者はいない。


855: 名無しさんAA:17/11/07 10:38
無口で微動だにしない重厚な人格と温厚で愛国心に満ちた思想には、共感者も多くいて
青年将校からは軍人の鏡で兄貴のような熱き存在であった。又謙虚で誠実な人柄で相沢
や真崎は決して兄貴ぶることはなかった。人心に訴える人格者で“武士たる軍人”を志
した相沢三郎は仙台陸軍幼年学校、陸軍士官学校、そして少尉に任官して朝鮮や台湾の
任地を経験してきていた。日本に戻り、仙台歩兵第二十九連隊に赴任し、連隊長を務め
東久邇宮稔彦と出会った相沢は、宮の薦めで北山の輪王寺に入門、参禅することにした
。ここは仏門一筋に修行する者でさえ辛さに耐えきれず”ね”をあげる過酷な修行に、
逃げる仏僧弟子も多々あった。その為寺の和尚は相沢の入門を断っていた。それでも、
相沢は感服するほどの精進ぶりを見せ、ついに軍務と修行を両立し、禅によってある種
の境地に達していた。この頃から相沢の剣術は凄味を増した。以後、陸軍戸山学校剣術
教官、陸軍士官学校剣術教官と剣一筋の道を歩んでいる。相沢の腕前は永田鉄山の遺体
を検死した医師たちによって「今までお目にかかったことがないような見事な斬り口」
と感嘆したとされた。相沢三郎は他人に対しては丁重、慇懃であり、皇室や国歌に関す
ること以外は人と論争したことはなかった。約束したことは絶対に守り、偽りを言った
り駆け引きをしたりすることもなく、少年時代より毎朝皇居の遥拝を欠かさず、それは
獄中でも変わらなかった。しかし相沢は多くの人と一座する場合でも誰かが陛下に関す
る話題では、自分が相手になっていなくとも、直ちに姿勢居住まいを正して正座謹慎を
していたといわれる。



856: 名無しさんAA:17/11/07 11:01
二・ニ六事件の前年に起こった相沢事件は青年将校たちに大きな衝撃を与えていた。又
二・ニ六事件は逆に相沢事件の真相を隠してしまった。此処に二・ニ六事件の真の真相
がある。1936年8月12日、相沢三郎は永田鉄山のいる軍務局長室にノックをせずにス
ーッと入った。部屋の正面にはついたてが立っていた。相沢はついたての手前で抜刀し
た。その時、永田は大きな事務机の向こう側に座っていた。机の前には憲兵大佐が苦心
して回収した「粛軍に関する意見書」が入っていた。相沢は机に向かって右側から永田
の左に襲いかかった。永田はとっさの出来事に驚いて、ついたての反対側から腰を浮か
して逃げようとした。相沢は追いすがるように「天誅」と心の中で叫びながら一刀を振
り下ろした。そして、相沢は止めの一刀を忘れなかった。アッという間の出来事であっ
た。部屋の中には憲兵大佐が腕に負傷して気を失って倒れていた。相沢は静かに軍刀を
鞘に納めて部屋を出た。一瞬にして修羅場と化した軍務局長の部屋には、異変を聞いて
知っても誰一人駆けつけるものはなかった。日本を国家総動員体制に変え軍主導の国防
国家とし、すでに戦争計画書まで作り上げ、支那大陸への戦争を目論んでいた統制派の
ドンともいえる永田鉄山が此処に血の海に倒れていた。ここに天才と秀才の死闘が見え
る。かつての桜田門の変やその他の江戸時代と同じ様に、平和を愛し天道に生きる事で
人を救わんと生きる者が、運命に贖う事も無く天才に溺れて国家の王道覇道をして職業
と割っての職分を切って抗した姿があった。こうして相沢三郎の手によって果てた永田
惨殺が相沢事件であった。だが永田こそが、その後の戦争を推し進めることになる軍部
の代表で、その後の軍国主義の台頭を止める存在でもあった。が、彼には皇道派の存在
はどうしても邪魔だった。それは意味を解せず烏合としての支那の戦争を食い止めよう
としてきたのが皇道派であったからです。皇道派は「ソ連と赤い手先」こそ日本の本当
の敵だと主張し、支那とは戦争すべきではない。と大きく反対していたからだ「天皇陛
下に申し訳ない」としながら、明治時代討幕派と戦った幕府軍であった者や国民の感情
があった為、これが兵之助の口癖であった親は、どこの息子でもそうして育っていた。
特に三郎には「天皇陛下には命を捧げて絶対の忠誠を誓うように」と尊王精神を幼い頃
からたたき込まれていた。死刑に際しても天皇陛下万歳をする程尊王絶対だった。これ
が日本の悲劇であった。そうして第一師団司令部内で相沢三郎の裁判が始まった。相沢
の弁護人は鵜沢総明と満井佐吉だった。満井は「相沢が永田を殺したという事実認定の
みで背景が審議されていない。永田の背景には大陰謀がある。この陰謀をたくらむ者達
は前教育総監・真崎甚三郎大将を更迭し、皇道派弾圧人事の陣頭指揮を執り、その中心
が永田鉄山である」と言った。そして大動員令を掛けても戦勝に誇りたい者らの「平和
だと言って国防をおろそかにする国は、亡国となる。」と言う常識的思想も溢れていた

857: 名無しさんAA:17/11/07 11:16
 第一師団司令部内で相沢三郎の裁判が始まるが、相沢の弁護人は鵜沢総明と満井佐吉
だった。満井は「相沢が永田を殺したという事実認定のみで背景が審議されていない。
永田の背景には大陰謀がある。この陰謀をたくらむ者たちは前教育総監・真崎甚三郎大
将を更迭し、皇道派弾圧人事の陣頭指揮を執り、その中心が永田鉄山である」と言った
。2月25日、公判で満井は統制派の背後にいる大財閥を攻撃した。三井財閥の大番頭
である池田成彬に対して次のように追求した。「池田は宮中に関わる重臣はじめ官僚、
各政党、マスコミに絶大な影響力を持ち、これらの面々が自陣営の意に添うように働き
かけた」「永田鉄山の死後、永田の遺族の面倒をなぜか三井がみている」「池田が永田
と築地の料亭で密会し皇道派人事刷新について話し合っていた」「永田の叔父が経営す
る業績不振の新聞社が三井に買収されていた」「永田の同郷の先輩が 三井の弁護士で
永田と密接だった」などなど三井が裏の黒幕である事が次々と暴露されて行った。相沢
三郎の義憤が知れ渡るようになって相沢裁判は徐々に優位になりつつあった。しかし、
 翌日の2月26日突然、二・ニ六事件が起きて一変し、その後、相沢は死刑の判決を
受けることになったのである。つまり偽装革命や反乱分子一掃策が、眞崎甚三郎と共に
大尉クラスの青年将校を中心に信望を担った者らを叩く口実作りが何処かで動いたのだ
。党派的な行動が反発を買い 商社と暗い闇を持つ統制派との対立が発生し左偏にあっ
ていた中である。基本的に皇道派は旧体制派と言っても良い。それまで荒木陸相,真崎
参謀次長,柳川兵助陸軍次官,山岡重厚軍務局長,松浦淳六郎人事局長,小畑敏四郎参
謀本部第三部長,秦真次憲兵司令官,持永浅治東京憲兵隊長など、天皇畏敬の皇道派が
陸軍の要職を占めていた。その下に平野助九郎や満井佐吉ら佐官級軍人,荒木の革新的
姿勢に期待を抱いた急進的な隊付青年将校もこれに連なった。しかし,荒木に強くみら
れる観念的な「日本主義的革新論」や「対ソ即戦」的見解などが宮廷グループや政財界
の危惧を招いていた。こうして派閥的人事に色合いが強く陸軍部内の反発も強かった。
又永田鉄山に繋がるドイツ式の最新の体系的考えや技術の刷新がその為に遅れをとって
いて 此処に日本の迷走が始まっていた。33年、荒木が陸軍予算を海軍に譲ったこと
を一因に,陸軍部内皇道派の信望は衰えて、荒木辞職後就任した永田鉄山軍務局長は、
幕僚層を中心とする反皇道派勢力 所謂統制派の反撃にあって皇道派系要人は相次いで
左遷した事務を執り対立を深くした。こうして皇道派は平沼騏一郎擁立運動を行うとと
もに,反対派を「国家社会主義」として非難し実行に移るのだった。両極の不勉強が国
を危うくし、敗戦に追い込んだが それは今の若者の無茶苦茶な行動と全く同じだった


858: 名無しさんAA:17/11/07 11:28
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 495----------

 その頃庶民の間には、一次大戦前からの遺族の間に鬱憤や不満が溜まっていた中に、
大正デモクラシーと共に社会主義的考えが移入して来ていた。美濃部達吉によって代表
される様に急遽出来ていた「大日本帝国憲法(明治憲法)」の解釈をめぐる一学説に改め
て変化が生まれていた。それが「天皇機関説」である。この学説は、「統治権は天皇に
最高の源を発する」という形で天皇主権の原則を認めるものの、しかしながら同時に、
天皇の権力が「絶対的無限の物」に反対し「国家の為の」と言う制限を問い、すなわち
統治権は天皇個人の私利の為ではなく、国家の利益のために行使される。と言う 国体
主権論でその利益を受け取る事の出来る法人格をもつ物と言う考え方だ。よって統治権
の主体である天皇は、法人としての国家を代表し、憲法の条規に従って 統治の権能を
行使する最高機関であると規定する。と言う責任経営者論であった。従って軍部が天皇
の言葉であるとか、天皇の意向である。と言うのは国民議論ないし議会議決なり討論な
りが含まれなくては私語の物として制限されると言う事だった。だがこれは今や三井な
どの商社でも軍部の総動員令を発しようとする軍令部には いささか壁になっていた。
その主張に対する中に蓑田胸喜がいた。彼は元慶応大学専門部倫理学教授で反マルクス
運動を展開し自由主義学者を攻撃していた。蓑田は学者を動員し「原理日本社」を設立
し活発な活動をしていた。陸軍の皇道派将校たちは「我が国体と皇軍」であるとした、
基盤を揺るがすような天皇機関説には猛然と反撃していた。蓑田胸喜は近づいて、菊池
議員に「今度、美濃部をやり玉にあげませんか」と持ちかけた。保守の菊池はリベラル
の美濃部と肌が合わないのでその話に乗った。1935年1月、陸軍中将で男爵の菊池
武夫は貴族院での美濃部学説を攻撃し岡田内閣に迫った。その中で次のような発言があ
った。「陸軍の統制派は政治のファッショ化、軍の政治的独裁を目的とし、それを防ぐ
真崎の追い出しを計画し、真崎の責任になるような刑事事件として十一月事件を構想し
、青年将校を扇動し、一方では床次五十万事件、天皇機関説問題をもって内閣打倒を計
画し、その倒閣の陰謀が真崎から出ていると宣伝した。」と発議した。つまり相当な事
が既にこの菊池は解っていた事だ。又美濃部が赤化共産党と組んで「天皇機関説」を唱
えていた事が気にいらなかったのだ。だがこの説は、学生や官界、宮中方面からも妥当
と受け入れられていた。そして帝国大の憲法講座でも、「天皇は国政運営に必要な一つ
の機関である。」と講義していた美濃部であった為、ここに吊し上げる事にした。

859: 名無しさんAA:17/11/07 11:35
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 496----------

 皇道派とされる「尊王皇道」を説いて来た軍部でも自由主義的「天皇機関説」が出て
来ると、これまでの「国体明徴」を改めて説く必要に迫られた。第一師団長の柳川平助
は真崎教育総監と林陸軍大臣に「機関説問題をこのまま放っておくと軍隊が動揺する。
早く善処の方法を講じて問題が政治化することによって若い将校が影響を被り動揺しな
いように厳重に抑制する必要がある」と発議し。さっそく陸軍大臣(林銑十郎)や、参
謀総長(閑院宮)、教育総監(真崎甚三郎)の三長官会議で天皇機関説への軍部の動揺
を取り上げ話し合った。そこでは「問題が思想関係のことであるから教育総監の名で訓
示を出す」ことに決定した。こうして教育総監である真崎甚三郎は「尊王を絶対の美徳
とし、天皇忠勤」を強調し、4月、全軍に「国体明徴」を訓示した。これこそは林陸相
が永田鉄山の意向に沿って真崎に国体明徴を訓示させた行為だった。こうして訓示が伝
えられると「真崎を罷免させ、荒木はじめ皇道派を覆滅すること」と言う声が上がった
正にドイツ思考の永田鉄山の狙いはそこにありました。そうした策謀の手先として傀儡
の役目を背負わされたのが林銑十郎陸相であった。真崎は天皇機関説問題を「国体観念
にもとるものである」と言ったが、軍隊における教育の根本は精神教育での統率であり
、その拠り所は軍人勅諭でした。その勅諭を下賜される陛下を「只の上層機関」とする
ことなどは、軍部が国体をゆがめてしまいかねない行為であった。真崎が教育総監とし
て教育上の立場から反対するのは当然でもあった。その時の通達した訓示は以下の物で
あった。
「恭しく惟るに、我国体は天孫降臨の際降し給へる御神勅に依り明示せられる所にして
、万世一系の天皇国を統治し給ひ、宝祚の栄は天地と倶に窮りなし。然れば憲法発布の
御上諭に『国家統治の大権は天皇之を祖宗に承けて之を子孫に伝ふる所なり』と宣ひ、
憲法第一条には『大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す』と明示し給ふ。即ち大日本
帝国統治の大権は儼として天皇に存す事明なり。若しも夫れ統治権が天皇に存せずして
、天皇は之を行使する為の機関なりとなすが如きはこれ全く万邦無比なる我国体の本義
を誤るものなり。近時憲法学説を繞り国体の本義に関聯して兎角の論議を見るに至れる
は誠に遺憾に堪へず。政府は愈々国体の明徴に力を致しその精華を発揚せん事を期す」
と言う物であった。つまり「万世一系」「統治の大権」「国体の本義」を明らかにした
もので、交替自由な最高権力体とは解することは出来なかったのは当然だった。

860: 名無しさんAA:17/11/07 11:45

陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 497----------

 しかし、これに公然と異を唱えたのが統制派の軍務局長永田鉄山だった。真崎教育総
監が全軍に国体明徴を訓示したことを逆手にとって、「機関説問題は真崎によって引き
起こされたものだ」とプロパガンダし逆宣伝した。此処に老獪な永田鉄山がいた。宮中
や官界、財界にも人脈があり、このために永田の発言は強力な重みがあった。「真崎が
機関説問題を起こして自ら国体明徴を訓示した」と永田によって流布されると、宮中、
官界、財界共に天皇機関説の信奉者であった彼らは真崎に反発し、真崎罷免へ議論させ
ていった。こうして4月、真崎教育総監を辞めさせる意向の情報が伝わった。その理由
は、「政府において天皇機関説問題、在満機構問題に真崎教育総監が妨害して困る。ま
た天皇機関説に訓示を出したりして真崎がいては困る為。」ということだった。5月に
、永田鉄山は林銑十郎陸相と朝鮮、満州の視察旅行に出かけた。視察旅行は表面上での
理由で、実際には朝鮮総督の宇垣一成や満州の関東軍司令官の南次郎に会って、8月の
定期異動について、特に真崎教育総監を罷免する打つ合わせであった。そして、1935年
7月15日、真崎教育総監が更迭が決定された。だがこの更迭の経緯にも禍根が残った

861: 名無しさんAA:17/11/07 11:45
7月15日、真崎教育総監が更迭が決定された。だがこの更迭の経緯にも禍根が残った
。通常の如く、三長官の席上、林陸相と参謀総長・閑院宮親王は真崎に教育総監を辞め
るように言った。真崎は当然いわれなき辞任などは拒否した。そのため林と閑院宮の二
長官で陛下に上奏御裁可して罷免を決めてしまったのだ。三長官の人事は三長官の合意
の下で陛下に御裁可せねばならなかったのが通例であった。しかし、二長官のみの意思
で上奏御裁可を経て、勝手に真崎教育総監を強制罷免して統制派の渡辺に代えた。これ
は統制派の商社権益を守る為の独裁政治支配を目的としたものであった。永田軍務局長
グループの策謀に踊らされ、永田ら幕僚の思想や国家改造が何であるかを知らず宮中、
元老、重臣、政財界の全てが操られ、真崎を軍から追放するために此処に狂奔した。御
裁可を受けに参内した林陸相に陛下は質問している。「この任命の結果が陸軍の統制に
波紋をおこすようなことはないか」と言われ「波紋を起こすようなことはありません。
かえって真崎を止めさせなければ大部分の不満を大ならしむるの情勢にあります」と答
えていた。この事は真崎教育総監の更迭は皇道派将校を憤激させた。十一月事件で釈放
された皇道派の村中孝次と磯部浅一はその事情を知り直ぐに『教育総監更迭事情』を発
表した。7月25日には維新同志会の名で『軍閥重臣閥の大逆不逞』を流布した。これ
らを全国の同志に発送して、統制派の情報工作による情勢判断に誤りのないようにした
。しかし、村中と磯部は『粛軍に関する意見書』『教育総監更迭事情』の文書配布で、
部内統制をみだしたという理由で8月2日付、官報によって免官となる。陸軍からの追放
であった。


862: 名無しさんAA:17/11/07 11:56
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 498----------

こうして相沢三郎の義憤にかられた惨殺事件が起こるのだが、この事件にも相沢は何故
か問い合わせをしている。1934年12月30日、相沢三郎中佐は末松太平中尉、大岸頼好大
尉と共に仙台に行った。31日の年末の夜、末松中尉が寝た後に相沢は大岸と二人で話
し合った。二人ともきちんと向き合って正座していた。後輩に対してもいつも丁寧な相
沢だが、大岸にはかねてから人生開眼の師として尊敬していたため、大岸先生と呼んで
“ハイ”、“ハイ”と聞いていた。この時、相沢は「今度の上京を機会に永田鉄山を斬
ろうと思うがどうか」と相談した。相沢は十一月事件の村中孝次大尉、磯部浅一大尉ら
の拘留の背後には永田がいると判断していた。「辻政信もその謀略の手先に過ぎない。
そして問題は村中ら三人だけではなく、いずれは全国の同志にかかわることだ。今永田
を斬っておかねば将来の禍害ははかり知れないものがある。」と問うた。しかし、大岸
は大反対した。相沢は「千古賊名甘受」と紙に書いて大岸に差し出した。大岸はその紙
を向きを変えて相沢に返し、相沢への反対意見を言いはじめた。相沢は握りこぶしを両
ひざの上において“ハイ”、“ハイ”と、目には涙を浮かべて大岸の反対意見を聞いて
いたという。東京に着き、翌19日を迎えると「お前、あわてるな、いたらぬことをす
るでない・・」と自分に言い聞かせていた。厳しい戒めの言葉が聞かれる気がした。「
斬るのはやめよう」それよりも永田に会って真心こめて自分の考えを述べてみよう。そ
れがものの道理だと思い直した。しかし、永田に会うことはそう簡単にできないことを
相沢は知っていた。これまでも青年将校たちが何人か面会を申し込んでいるが皆断られ
ていることを相沢は知っていたのだ。その頃の陸軍大臣秘書官は有末精三少佐だった。
有末とは青森の連隊で一緒に大隊長をしていた仲であった。相沢は靖国神社に参拝した
後、有末のいる陸軍省へ向かった。有末は相沢の申し出を聞くと、「今あなたが永田少
将に会うことは穏当ではあるまい」としきりに止めた。しかし相沢はひるまなかった。
 と相沢の物語は綴っている。しかし 此処には永田の国民も国体も馬鹿にしきった様
な理由が「ユダヤの思想」である自分本位である事が記されていない。つまりドイツに
行った将校たちいずれもが、ドイツの兵法と共に多民族国家として生きる屈折した思想
に出会っていたのである。それはあたかも江戸時代の開国時の日本人の突然に開国して
西洋文明を取り入れた時の「国体保護の愛国主義」と「西洋文明の開眼的支配主義」の
葛藤とも言えた。又朝鮮半島での「日韓併合」で発展する国民社会に、教育ある若者の
バカ騒ぎの抗日主義と 全く似た様なものだった。

863: 名無しさんAA:17/11/07 12:07
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 499----------

ついに有末は相沢の熱意に負けた。その後、相沢と永田の会談は午後3時から5時まで
続けられたというから相当話し合った。「林大臣の近頃のおやりになっていることは、
間違いが多い。閣下は大臣にとっての最高の補佐官であり、責任の中心であられるのだ
から、責任を感じてお辞めになるのがよろしいでしょう」相沢は永田に再三にわたって
軍務局長を辞職するようにすすめた。「君の注意は有難いが、自分は誠心誠意大臣を補
佐しているつもりだ。大臣が聴かれればよし、聴かれなければ何とも仕方がない。」と
会談の終わり頃には幕僚が二、三度永田に車の準備ができたと呼びに来たが、それを無
視して永田は腰を上げなかった。ついに永田は腰を上げた時、「初めて会って話しただ
けでは君の考えもよくわからないから、あとは手紙でなり、今度東京に出て来た時なり
に君の考えをよく聞こう」と言った。相沢は永田の印象を温和な親しみのある人と思っ
た反面、永田は所詮「尊王絶対」のわからぬ責任を徹底的に回避する人と思った。もう
話す気も起らなかったし手紙を書く気にもなれなかった。相沢の心は絶望に近かった。
と言える。相沢はさびしい気持ちで東京を去って任地の福山に戻った。福山に戻る前に
相沢は西田税の家に行った。そこには大蔵栄一もいた。その夜はだいぶ暑かったので、
冷たいものを飲みながら雑談にふけっていた。雑談はいつか宮中における天皇周辺の人
物論が話題になっていた。「明治天皇時代、西郷隆盛や山岡鉄舟など得難き諍臣(そう
しん)によって王道が堅持されていたのに比べ、今は佞臣(ねいしん)だけが跋扈して
暗澹たる妖雲となっている。日本の不幸はすべてここに起因していると言わねばならぬ
」というような話題が熱を帯びてきたときである。相沢の後輩である大蔵栄一は、「相
沢さんみたいな人が侍従武官にならんとどうにもならんな」と言った。相沢は急に目が
光り、姿勢を正してこう言った。「大蔵さん、あなたは何ということを言われますか、
慎みなさい!」後輩の誰にも丁寧な口を聞く相沢は怒って言う。「そんなことは私議す
べきではありません。二度と口にすべきではありません」一座は相沢の激しい怒りにシ
ーンとなった。大蔵栄一は著書でこの時のことをこう書いている。「私が相沢中佐にた
しなめられたのは、あとにもさきにもこれが初めで終りであった。・・・私は相沢中佐
のその一喝にふるえ上がった。・・・」と語っている。この日本人主観が日韓併合と共
に大量の朝鮮人から贋日本人が発生し、この頃急速に消えて行こうとしていた事で人々
は深層心理に深く「昔がよかった。」と言う懐古主義の風潮もあったのだった。更にこ
の暗黙の規定主義や戒律主義が常道だったのが突然切られる事件が各個に起こっていた


864: 名無しさんAA:17/11/07 12:11

陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 500----------

相沢は福山に戻ると村中孝次大尉から『教育総監更迭事情』と『軍閥重臣閥の大逆不逞
』が郵送されてきた。それから間もなく、8月1日の定期異動が発表された。相沢は台
湾歩兵第一連隊付、台北高等商業の配属将校に転任することになった。翌8月2日、村
中と磯部が『粛軍に関する意見書』と『教育総監更迭事情』の文書配布で部内統制をみ
だしたという理由で免官となった。相沢は「このままの状態を後にして自分が台湾に赴
任することは御奉公を欠く不忠だ」と思った。こうして二度目の訪問をして事件を起こ
した。相沢事件直後、真崎甚三郎を罷免して教育総監になった渡辺錠太郎は身の危険を
感じて、機関銃を持った護衛の憲兵を自動車の前後につけて役所に出勤したという。身
に覚えがあるということだろう。だがそれ以上にこの人員の配置こそが日本を駄目にし
た元凶でありそれを作ったのは他ならぬ天皇であり三井などの陸軍についた商社であっ
た。こうして政権は徐々に開戦主張の東条英機の環境に近づいて行った。二・二六事件
以降は皇道派将校の 救済の意味も持つようになり、真崎甚三郎の救済にも熱心だった
近衞は、首相就任前からこれに共感を示していた。しかし、西園寺公望は、荒木が唱え


865: 名無しさんAA:17/11/07 12:12
以降は皇道派将校の 救済の意味も持つようになり、真崎甚三郎の救済にも熱心だった
近衞は、首相就任前からこれに共感を示していた。しかし、西園寺公望は、荒木が唱え
だした頃からこの論には反対であり、結局、大赦はならなかった。東條英機は、永田鉄
山・統制派のために奔命するも作戦畑には進めず、皇道派に恨まれて、日陰のポストを
転々とさせられた。才気煥発で自負心も強い石原莞爾にすれば 東條英機など取るに足
らない先輩であり、劣等視された東條は石原を敵視し、石原が日中戦争不拡大を唱える
と拡大派の武藤章を支持し石原一派を陸軍中央から追出した。この功績が永田鉄山であ
った。しかし関東軍参謀副長に左遷された石原莞爾は参謀長の東條英機を公然と無能呼
ばわりし聞こえよがしに「東條上等兵」「憲兵隊しか使えない女々しいやつ」などと、
挑発を止めなかった。怒り心頭の東條は石原を閑職に飛ばし、間もなく予備役編入に追
込んで報復した。軍務を離れた石原莞爾は言論・教育活動などに従事したが、東條英機
は得意の憲兵で執拗に石原を監視した。そして日本の敗戦となるなか、石原莞爾に師事
する柔術家の牛島辰熊と津野田知重少佐による東條英機の暗殺計画が発覚したが、両名
の献策書の末尾には「斬るに賛成」との石原の朱筆があったと言う。この後2・26事
件は起こったが、とても不思議な事件だった。つまり先の真崎甚三郎左遷によって義憤
にかられた相沢三郎の惨殺事件が起こって後の一応の反応は相沢に同意があった中だっ
たからだ。先の認証に於いて林陸相が陛下が質問した「この任命の結果が陸軍の統制に
波紋を起こすような事はないか」と言う疑問にきっぱりと「波紋を起こすようなことは
ありません。かえって真崎を止めさせなければ大部分の不満を大ならしむるの情勢にあ
ります」と答えていた事からも、この林陸相らの陰謀とも取れる部分が多々がある。


866: 名無しさんAA:17/11/07 12:14
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 501----------

この頃、東京憲兵隊の特高課長福本亀治少佐は、本庄侍従武官長に週一度ぐらいの割合
で、この青年将校達の不穏な情報を報告し、事件直前には、今日、明日にでも事件は起
こりうることを報告して事前阻止を進言していた。又事件後憲兵の尋問に「十月頃から
内務大臣と総理大臣、または林前陸相か渡辺教育総監のいずれかを二人、自分ひとりで
倒そうと思っていた」と磯部は答えている。又磯部は川島陸軍大臣を官邸に訪問し「青
年将校が種々国情を憂いている」と磯部が言うと、「青年将校の気持ちはよく判る」と
川島は答えた。「何とかしてもらわねばならぬ」と磯部が追及しても、「そうかなあ、
しかし我々の立場も汲んでくれ」と答えた程度だった。再度磯部が浪人森伝とともに、
川島陸軍大臣と面会した際には渡辺教育総監に将校の不満が高まっており「このままで
は必ず事がおこります」と伝えている。それでも川島は格別の反応を見せず、帰りに、
ニコニコしながら一升瓶を手渡し「この酒は名前がいい。『雄叫(おたけび)』という
のだ。一本あげよう。自重してやりたまえ。」と告げたという。この時既に渡辺教育総
監は危険をひしひしと感じ護衛まで付けて通勤してるはずなのだ。磯部は、第5回公判
で「私は真崎大将に会って直接行動をやる様に煽動されたとは思いません」と述べ、第
6回公判で、「特に真崎大将を首班とする内閣という要求をした事はありません。ただ
、私が心中で真崎内閣が適任であると思っただけであります」と述べている。また村中
は「続丹心録」の中で、真崎内閣説の如きは吾人の挙を予知せる山口大尉、亀川氏らの
自発的奔走にして、吾人と何ら関係なく行われたるもの、と述べている。実はこの頃は
陸軍は非常に悩ましい企画があった。それは1938年1月に、ドイツの科学者のオットー
・ハーンとフリッツ・シュトラスマンの論文により、ウラニウムの核分裂反応が発見さ
れて、既に原子爆弾の利用が検討されていたからだ。彼らは、ウラン235の原子核に
中性子を衝突させて分裂させることに成功したし、そのニュースはいち早く御前会議に
も一つの議題として上がっていた筈である。又同時に昭和天皇は「こうした残虐非道の
大量破壊兵器の研究は、世界を揺るがし国体を揺るがす行為となる。」と真っ赤になっ
て強く反対した為却下になっていた。ところが石原莞爾は元々世界末法思想の持ち主で
日本が勝って秩序ある世界を築くべきとしていた為に この却下情報に憤慨していた。


867: 名無しさんAA:17/11/07 12:17
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 501----------

この頃、東京憲兵隊の特高課長福本亀治少佐は、本庄侍従武官長に週一度ぐらいの割合
で、この青年将校達の不穏な情報を報告し、事件直前には、今日、明日にでも事件は起
こりうることを報告して事前阻止を進言していた。又事件後憲兵の尋問に「十月頃から
内務大臣と総理大臣、または林前陸相か渡辺教育総監のいずれかを二人、自分ひとりで
倒そうと思っていた」と磯部は答えている。又磯部は川島陸軍大臣を官邸に訪問し「青
年将校が種々国情を憂いている」と磯部が言うと、「青年将校の気持ちはよく判る」と
川島は答えた。「何とかしてもらわねばならぬ」と磯部が追及しても、「そうかなあ、
しかし我々の立場も汲んでくれ」と答えた程度だった。再度磯部が浪人森伝とともに、
川島陸軍大臣と面会した際には渡辺教育総監に将校の不満が高まっており「このままで
は必ず事がおこります」と伝えている。それでも川島は格別の反応を見せず、帰りに、
ニコニコしながら一升瓶を手渡し「この酒は名前がいい。『雄叫(おたけび)』という
のだ。一本あげよう。自重してやりたまえ。」と告げたという。この時既に渡辺教育総
監は危険をひしひしと感じ護衛まで付けて通勤してるはずなのだ。磯部は、第5回公判
で「私は真崎大将に会って直接行動をやる様に煽動されたとは思いません」と述べ、第
6回公判で、「特に真崎大将を首班とする内閣という要求をした事はありません。ただ
、私が心中で真崎内閣が適任であると思っただけであります」と述べている。また村中
は「続丹心録」の中で、真崎内閣説の如きは吾人の挙を予知せる山口大尉、亀川氏らの
自発的奔走にして、吾人と何ら関係なく行われたるもの、と述べている。実はこの頃は
陸軍は非常に悩ましい企画があった。それは1938年1月に、ドイツの科学者のオットー
・ハーンとフリッツ・シュトラスマンの論文により、ウラニウムの核分裂反応が発見さ
れて、既に原子爆弾の利用が検討されていたからだ。彼らは、ウラン235の原子核に
中性子を衝突させて分裂させることに成功したし、そのニュースはいち早く御前会議に
も一つの議題として上がっていた筈である。又同時に昭和天皇は「こうした残虐非道の
大量破壊兵器の研究は、世界を揺るがし国体を揺るがす行為となる。」と真っ赤になっ
て強く反対した為却下になっていた。ところが石原莞爾は元々世界末法思想の持ち主で
日本が勝って秩序ある世界を築くべきとしていた為に この却下情報に憤慨していたと
おもわれるのだ。


868: 名無しさんAA:17/11/07 12:26
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 502----------

 1940年(昭和15年)9月に出版された「世界最終戦論」の題名は、最終戦争論と
して日本に広く読まれた。最終戦争では航空機や大量破壊兵器によって殲滅戦略が実施
され極めて短期間のうちに戦争は終結することになる事を示唆していて、この最終戦争
を戦う国としてはブロック化したいくつかの勢力が列挙できる様相も示唆している。こ
うして日本は優位につくべきだ。とした論理は、ドイツ留学時にベルリン大学教授であ
ったハンス・デルブリュックの殲滅戦略と消耗戦略の類型化を学んだ結果で、戦争を、
決戦戦争と持久戦争に分類していたからだ。この頃にドイツの優性民族論の様に国柱会
は「大闘争が発生して世界が統一されるという予言を得た。」とする狂言仏教にはまり
、「キリスト教国を仏外の外道国として悪国指定」していた。その信者として、対米悪
感情の面でも共鳴している。国柱会入会直後、石原は「大正9年7月18日の夫人への手紙
」で、白人を「悪鬼」と述べまた「この地球上から撲滅しなければなりません」と憎悪
を著わしている。ゆえに野村乙二郎は、「重圧としての対米観があった」とこれを説明
している。この世界最終戦論では、「人類が心から現人神(あらひとがみ)の信仰に悟
入したところに、王道文明は初めてその真価を発揮する。」といい「最終戦争即ち王道
・覇道の決勝戦は結局、天皇を信仰するものと然らざるものの決勝戦であり、具体的に
は天皇が世界の天皇とならせられるか、西洋の大統領が世界の指導者となるかを決定す
るところの、人類歴史の中で空前絶後の大事件である。」と石原莞爾は説いている。実
に的は得ていた。その後は莞爾は1928年関東軍作戦主任参謀として満州に渡り、1931年
には満州事変を実行し、満州を占領し。石原は満州を独立国としようとして活躍した。
1936年の二・二六事件では、反乱軍の鎮圧の先頭に立って対処しているが。これは既に
ナチス・ドイツ政権下で、1939年9月末からドイツ国防軍兵器局のもとに原爆開発の為
の実験が試みられるようになっていた頃だ。当時は、ユダヤ人系の学者は追放、または
亡命していたので、残っていたドイツ人学者によって開発が進められたのだろうが、一
部は日本に来ていた。その後、1940年4月に密かに陸軍航空技術研究所所長の安田
武雄中将が部下の鈴木辰三郎に「原子爆弾の製造が可能であるかどうか」について調査
を命じている。がこれは、天皇の意志を裏切るものだった。つまり作戦本部は、満州国
政府樹立と原子爆弾対応との中で天皇の激烈な反対に会って、このとんでもない大事に
、戦略方針の改定と戦局分析の作業中止を起こしてしたのが実情だったのだろう。


869: 名無しさんAA:17/11/07 12:31
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 503----------

 青年将校は相沢裁判を通じて、相沢三郎を救うことに全力を挙げていたのに、突然そ
れを苦境に陥れるような方針に転じたのは、2・26事件により相沢を救いだせると、
何人かに錯覚に陥れられたのではないかと考えられることや、西園寺公が事件を予知し
て静岡に避けていたこと、2・26事件は持永浅治少将の言によれば、思想、計画共に
十月事件そのままであり、十月事件の幕僚が関与している可能性のあること、2月26
日の昼ごろ、大阪や小倉などで「背後に真崎あり」というビラがばらまかれ、準備周到
な事、などから幕僚派の計画であると考えられる事を示唆されている。磯部浅一の法廷
の対決において、磯部が真崎に彼らの術中に落ちたと言い、追求しようとすると、沢田
法務官がすぐに磯部を外に連れ出したことを、真崎はその裁判の中で述べている。「二
・二六事件に関連し起訴中の参謀本部付陸軍歩兵大尉田中彌は10月18日正午ごろ自
宅において自決せり。」と陸軍省から発表された。田中大尉は「帝都における決行を援
け、昭和維新に邁進する方針なり」と各方面に打電し、橋本欣五郎、石原莞爾、満井佐
吉らが帝国ホテルでの画策にも係わっていた事が解っているとしているが、多分戦後の
作文だろう。何故ならその行為が解っているなら死刑の筈だ。田中大尉は十月事件以来
、橋本欣五郎、の腹心の一人であった。事件の起こる直前に全国の同志に向かって決起
要請の電報を発送しようとしたが、大量の為中央郵便局で怪しまれて、大量の電報が差
し押さえられ、その事実が裁判で明るみに出る事になっていた。だが田中大尉は一切の
責任を自分一人で負って自殺し、その背後関係は闇に葬られた。この「昭和維新断行・
尊皇討奸」を掲げて起こしたクーデター未遂事件は「朕(ちん)の軍隊が命令なく自由
行動を起こした事は反乱軍と認める。反乱軍である以上速やかに討伐すべきである。と
発したと言う。この日本を震撼させたこの事件は、陸軍の青年将校に率いられた約1500
人の反乱部隊が首相官邸などを襲撃し、襲撃を受けた岡田啓介首相は無事で、高橋是清
(たかはし・これきよ)蔵相、斎藤実(さいとう・まこと)内大臣ら9人が殺害された
結果となる反乱部隊は陸軍省、参謀本部、警視庁などを占拠、永田町周辺を封鎖して、
部隊を指揮した野中四郎大尉ら青年将校たちは、「昭和維新」を掲げて陸軍部内で国家
革新を目指した「皇道派」で、天皇親政を実現するのが目的とされてた。しかし、昭和
天皇は「最も信頼する老臣を殺傷することは真綿にて我が首を絞めるに等しい行為。」
と激怒、鎮圧の為の拝喝も勅使も許されなかった。こうして東京市に戒厳令がしかれた


870: 名無しさんAA:17/11/07 17:52
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 533----------

 日本人は開戦時、少なくとも主観的には、中国をアメリカ・イギリスによる植民地支
配から解放したいと考えていた。しかし、後発資本主義国である日本には、帝国主義時
代の条件下で欧米列強の植民地になるか、植民地を獲得し帝国主義国となって生き残る
かの選択肢しかなかった事が日本の選択出来る範囲でしか無かった。従って、中国大陸
を期間限定で植民地にするが、それは将来中国を植民地から解放する為である、という
理由と言説を日本は展開した。これは中国人からすれば、受け入れがたい論理であった
のだろう。この時、日本がアメリカ・イギリスと戦争をしなくてはならなかった論理も
大義も、きちんと存在する。1941年12月の開戦直後、当時の政府は戦争の目的と
してそこに至った経緯を国民に対して論理的かつ実証的に説明することを試みた。その
1つが大川周明によるNHKラジオの連続講演(全12回)だ。この速記録には翌月(
42年1月)に「米英東亜侵略史」という単行本として上梓され、ベストセラーになっ
た。本書を読めば、日本が何故にアメリカ・イギリスとの戦争に至らざるを得なかった
かがよくわかる。さらにその内容が、客観的事実に基づいた冷静な主張であることにも
驚かされる。そこには「鬼畜米英!」などといった過激なプロパガンダも見られない。
 開戦直前の東條は首相(兼陸軍大臣)ではあっても、統帥部の方針に容喙する権限は
持たなかった。東條が戦争指導者と呼ぶにふさわしい権限を掌握したのは、1944年2月
に参謀総長を兼任して以降である。海軍の作戦スケジュール詳細は開戦1週間前に知っ
た状況だった。開戦時の東條は、政府の最高責任者の地位にはあっても海軍と統帥部を
管轄する権限は持たず、海軍による真珠湾攻撃や外務省による開戦通知の遅れは東條の
責任に帰することはできないものであったとも言える。この充分に米日戦争は想定され
、何年かけても何回やっても敗けると解っている米国との戦争に、陸軍が強きに出て、
更に永田鉄山没後の陸軍をして、強硬派の一員であった武藤章が、東条英機の訓示に際
して、今だ原爆が使える事と思っていたとしか言いようがない。重光葵は「東條を単に
悪人として悪く言えば事足りるというふうな世評は浅薄である。彼は勉強家で頭も鋭い
。要点をつかんで行く理解力と決断力とは、他の軍閥者流の及ぶところではない。惜し
い哉、彼には広量と世界知識とが欠如していた。もし彼に十分な時があり、これらの要
素を修養によって具備していたならば、今日のような日本の破局は招来しなかったであ
ろう。」と評している。日本と共に揺らされた一個人の有様だった。


871: 名無しさんAA:17/11/08 13:24 ID:1OU
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 534----------

国際法学者ハンス・ケルゼンは「戦争犯罪人の処罰は、国際正義の行為であるべきもの
であって、復讐に対する渇望を満たすものであってはならない。敗戦国だけが自己の国
民を国際裁判所に引き渡して戦争犯罪にたいする処罰を受けさせなければならないとい
うのは、国際正義の観念に合致しないものである。戦勝国もまた戦争法規に違反した自
国の国民にたいする裁判権を独立公平な国際裁判所に進んで引き渡す用意があって然る
べきである」と敗戦国の戦犯裁判を批判した。だが多くの場合敗戦国に犯罪の処理とし
て引き渡した時 敗戦になった恨み怨み(うらみつらみ)は多くの犯罪人を産むであろ
うと思えるGHQのチャールズ・ウィロビーはレーリンク判事に「この裁判は歴史上最
悪の偽善でした」「日本が置かれたような状況では、日本がしたようにアメリカも戦争
をしていただろう」と述べたという。国務省ジョージ・ケナンも東京裁判については「
法手続きの基盤になるような法律はどこにもない。戦時中に捕虜や非戦闘員に対する、
虐待を禁止する人道的な法はある。しかし、公僕として個人が国家のためにする仕事に
ついて国際的な犯罪はない。国家自身はその政策に責任がある。戦争の勝ち負けが国家
の裁判である。日本の場合、敗戦の結果として加えられた災害を通じてその裁判はなさ
れた」として、戦勝国が敗戦国を制裁する権利がないというわけではないが、「そうい
う制裁は戦争行為の一部としてなされるべきであり、正義と関係がない。またそういう
制裁をいかさまな法手続きで装飾するべきではない」と批判した。正に戦争であれば、
国家犯罪は敗戦そのものが、国としての犯罪の罪であり裁きであり量刑での結果と言う
考えだ。従って敗戦国は刑の環境の中にいる事になる。だがそれはそれで正義がない。
ケナンはさらに国務省宛最高機密報告書のなかで、この裁判は「国際司法の極致として
賞賛されている」が、「そもそもの最初から深刻な考え違い」があり、敵の指導者の、
処罰は「不必要に手の込んだ司法手続きのまやかしやペテンにおおわれ、その本質が 
ごまかされて」おり、東京裁判は政治裁判であって、法ではないと批判した。ただし、
ケナンは日本人への同情から述べたのではなく、この裁判を支えている正義を理解する
能力が日本人にはないとも述べ、戦犯は終戦時に即刻まとめて射殺した方が適切であっ
たとものべている。だがそれを行ったのが中国共産党であった。裁判も良心もない自国
の占領に没頭し国民を欺いて今日に至った。その為毛沢東以上の良識も常識も全て一掃
され、国民に平和の中の食糧供給すら出来ない様にして苦しめたのである。


872: 名無しさんAA:17/11/08 13:29
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 535----------

 だがこの戦勝国イベントとしてのプロパガンダ茶番劇は裏付けのないまま幕は開いた
のである。極東国際軍事裁判所条例は国際法上は占領軍が占領地統治に際してハーグ陸
戦条約第三款においても許可されてきた軍律審判に相当し、軍律や軍律会議は軍事行動
であり戦争行為に含まれる。だが尤も、高級軍人等の交戦法規違反について審判する点
についてはまだしも、言論人や国務大臣等がそれらの立場で過去におこなった行為や共
同謀議、あるいはその思想に対して審判が行われたことは異例であった。又戦争犯罪の
処罰についてはポツダム宣言10項で予定されてはいたが、国際法上認められてきた従
来の戦争犯罪概念が、大幅に拡張され検討されたことに特徴がある。なお、仮に国際実
定法上に根拠がなく前例のない国際刑事法廷であったと仮定した場合、法廷そのものの
管轄権に実定法上の根拠がない「事後法」により設置され、また連合国側の戦争犯罪は
法廷では提訴される機会がなく「法の下の平等」がなされていない問題がある。また、
この裁判では原子爆弾の使用や民間人を標的とした無差別爆撃の実施など連合国軍の行
為は対象とならず、証人の全てに偽証罪も問われず、罪刑法定主義や法の不遡及が保証
されなかった。こうした欠陥の多さから、極東国際軍事裁判とは「裁判の名にふさわし
くなく、単なる一方的な復讐の儀式であり、全否定すべきだ」との意見も少なくなく、
次段のとおり国際法の専門家の間では本裁判に対しては否定的な見方をする者が多い。
当時の国際条約(成文国際法)は現在ほど発達しておらず、当時の国際軍事裁判におい
ては現在の国際裁判の常識と異なる点が多く見られた。マッカーサーは上院軍事外交合
同委員会において、資源の乏しかった日本が「原料の供給を断ち切られたら、一千万か
ら一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていた。したがって、彼ら
が戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要性に迫られてのことだった
。」と証言し、この発言はマッカーサー自身が、大東亜戦争は日本の自存自衛のための
戦争であったことを認めたとされる。またマッカーサーは同委員会で「我々が過去百年
間に太平洋で犯した最大の政治的過誤は、共産主義者達が中国に於いて 強大な勢力に
成長するのを黙認してしまった」ことにあるとも述べている。小堀桂一郎はこの発言を
「東京裁判は誤りだった」という認識の、もう一つ別の表現だったと解釈している。

873: 名無しさんAA:17/11/08 13:29
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 536----------

 正にこの誤りこそが 今の国際社会の直面する多くの問題の核心であろう。北朝鮮の
核ミサイルも中国の台頭もおよそ中東の戦争までも 西欧列強の「内憂外患」の放置か
ら産まれて、又その為のユダヤ金融や軍需産業や経済問題、人種差別、就業問題、等々
全てをからめとって今を成している。多くの間違いはその共産思想と自由主義にある。
 遅きに失した政体の改造に、聡明な東条の登場でも何ら陸軍の強気と海軍の弱気には
変わる事は無かった。東条政権誕生では皇居での首相任命の際、天皇から対米戦争回避
に力を尽くすように、と直接指示される。これを持って天皇への絶対忠信の持ち主であ
った東條はそれまでの開戦派的姿勢を直ちに改めた。外相に対米協調派の東郷茂徳を据
え、一旦、帝国国策遂行要領を白紙に戻す。この時、陸軍省に戻って来て執務室までの
道中「和平だっ、和平だっ、聖慮は和平にあらせられるぞっ」と叫びながら歩いたとい
う程の短絡的私情派だった。さらに対米交渉最大の難問であった中国からの徹兵要求に
ついて、すぐにということではなく、中国国内の治安確保とともに長期的・段階的に徹
兵するという趣旨の2つの妥協案(甲案・乙案)を提示する方策を採った。またこれら
妥協案においては、日独伊三国同盟の形骸化の可能性も匂わせており、日本側としては
かなりの譲歩であった。もしこの時東条が石原莞爾にこの方針での画策を頼み軍務総務
にでも置けばそれはそれで回避策を講じた可能性もあったろう。だが長年の開戦路線を
根こそぎ変える事は不可能である事は明らかであった。東條が率いていた陸軍は、かね
てから中国からの撤兵という要求を頑としてはねつけており陸相時の東條は「撤兵問題
は心臓だ。米国の主張にそのまま服したら支那事変の成果を壊滅するものだ。満州国を
も危うくする。さらに朝鮮統治も危うくなる。支那事変は数十万人の戦死者、これに数
倍する遺家族、数十万の負傷者、数百万の軍隊と一億国民が戦場や内地で苦しんでいる
」「駐兵は心臓である。(略)譲歩、譲歩、譲歩を加え、その上にこの基本をなす心臓
まで譲る必要がありますか。これまで譲り、それが外交とは何か、降伏です」「支那に
対して無賠償、非併合を声明しているのだから、せめて駐兵くらいは当然のことだ。」
とまで述べていたからだ。つまり内閣組閣後の東條の態度・行動は、この陸相時の見解
とは全く違ったものであり、昭和天皇の意思を直接告げられた忠臣・東條が天皇の意思
の実現に全力を尽くそうとしたことがよく窺える。外相の東郷が甲案・乙案をアメリカ
が飲む可能性について疑問を言うと、東條は「交渉妥結の可能性は充分にある」と自信
有り気だったという。


874: 名無しさんAA:17/11/08 13:29
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 537----------

 東條は首相・陸軍大臣・内務大臣を兼ねて絶大な権力を一手に握り、「東條幕府」と
揶揄された。組閣の大命を受けるにあたって昭和天皇から対米交渉の継続を示唆された
後には東條は、その意を体して交渉派の東郷茂徳を外務大臣に起用するなどしており、
東條による3ポスト兼任も、日米交渉が日本の譲歩によって妥結した場合に予想される
社会の動揺を警察と陸軍の力で抑え込むためであるとする見方がある。陸相の兼摂は、
木戸の提案であり、対米交渉妥結時に大陸からの撤兵を確実に行わせる意図によるもの
とされる。木戸は後に「あの期に陸軍を押えられるとすれば、東條しかいない。東久邇
宮以外には宇垣一成の声もあったが、宇垣は私欲が多いうえ陸軍をまとめることなどで
きない。なにしろ現役でもない。なにしろ現役にも非ず。東條は、お上への忠節ではい
かなる軍人よりも抜きん出ているし、聖意を実行する逸材であることにかわりはなかっ
た。…優諚を実行する内閣であらねばならなかった」と述べている。裏に新型爆弾開発
を止める行為があったと仮定すれば、全く頷ける話ではないか。恐らくこの木戸幸一こ
そが全てを知り、全てを放置し、全てを黙認した者であろう。かくして11月末、アメ
リカ側はソ連のスパイだったハリー・ホワイトのもとでハル・ノートが提示されて、日
本側の新規提案は甲案・乙案ともに問題外であり、日本軍の中国からの即時全面徹兵だ
けでなく、満州国の存在さえも認めないという最強硬な見解を通告してきた。ただし、
ハル・ノートには満州は含まれていないという説がある。がどっちにしても東条が自ら
乗り込んで米大統領に会談しない限り、米国内の主要な政府首脳は欧州戦線に向けての
日米開戦の方向に固まっていたのだった。広島や長崎に「ピカドン」が落とされると、
すぐさま仁科研究所の職員を調査に行かせた。原爆投下の翌日、仁科や荒勝などの物理
学者は専門家らによる緊急対策チームを立つ上げ、投下から1日経ってから、ようやく
初歩的な分析で「これがウラン235を用いて製造された原子爆弾である」という正確
な答えを導き出し報告した。そして自分たちの経験から、ウラン235の生産は非常に
高コストであることを知っていた為、アメリカが保有するウラン235による爆弾は、
「恐らくこれ一つだけであるだろう。」と判断していた。しかし、原子爆弾「リトルボ
ーイ」が8月6日広島に投下されて後8月9日、正式な報告書を発表する時にもう一つ
の原子爆弾「ファットマン」が長崎に投下された。そして現地に行った仁科の研究員は
驚愕して目を見張った。そして「これはプルトニウム型の爆弾である。」と発表したの
であった。

875: 名無しさんAA:17/11/08 13:30
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 538----------

 実は公式には1950年代から原子力の平和利用が始まり、1951年にソ連のオブ
ニンスクの黒鉛炉式発電所が初めてとされている。モスクワの南西 約100kmにあるフィ
ジックス・パワー・エンジニアリング研究所が、ソ連最初の動力炉建設の責任を持つ事
で、1951年に原子炉設置場所の掘削を開始し、建設から3年を経て1954年5月
に臨界を達成し、6月に世界最初の原子力発電所が運転を開始したのである。ソ連は3
年足らずの間に最も複雑に絡み合った設計、建設及び運転の科学的及びエンジニアリン
グ問題を解決し、原子力が人類に貢献できる可能性を証明したのだ。だがこの世界初の
原子炉は商業原子炉を作らせなかったアメリカ軍部に対しての圧力だった。従ってこの
時の原料は米国から送られている。アメリカサンフランシスコに本拠を置き、総合建設
業を営む多国籍企業で、米国最大の資産家とされるのがベクトルなのだが、建設部門で
名を馳せ、石油コンビナート、発電所、ダム、空港、港湾などの大型建設を請け負う、
世界最大級の建設会社である。創業者ウォーレン・べクテルは、オクラホマ州で牧場経
営に失敗した後、1898年、急成長中であった鉄道産業の使用人として事業を開始した。
それから20年間、ウエスタンパシフィック鉄道をはじめとして鉄道や高速道路建設を請
け負ったりして。1919年以降、共同事業者とともに高速道路・水道トンネル・ダムなど
を建設している。アル・ゴアの真実像は、ウランとプルトニウムを精錬し、核弾頭の原
料を製造するアライド・ケミカル社のオーナーであった。 このアライド・ケミカル社
に原料を供給しているのがアメリカ・ロシア社を始めとして多くのウラン鉱山を持つ、
バーナード・バルーク。 バルークは、アメリカ最大の、ウラン鉱山の所有主であり、
シベリアにもウラン鉱山を所有しており、 そこから産出されるウランは、バルーク自
身によって、冷戦時代、敵国ソ連にも販売され続けて来た。このシベリア鉱山の開発会
社の名が、アメリカ・ロシア社。名前の示す通り、バルークと、ソ連共産党政府の「共
同出資」会社である。そしてバーナード・バルークは、かのIAEAの創設者でもある
。ここにウラン・ビジネスとIAEAの正体、そして冷戦を(表面的に戦った)アメリ
カとソ連の恊働関係が見て取れる。アル・ゴアの長女:カレナ・ゴアは、このクーン・
ローブの経営者ジェイコブ・シフの曾孫アンドルー・シフと、結婚した。アル・ゴアの
環境保護の「自己宣伝」として不都合な真実を書いた。そして環境保護投機会社の経営
資金も、クーン・ローブから出ている。

876: 名無しさんAA:17/11/08 13:30
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 539----------

 此処で問題なのは、長崎の現地に行った仁科の研究員達が驚愕して目を見張った事だ
。そして「これはプルトニウム型の爆弾である。」と発表したのであった。元来ウラン
にはプルトニウムは存在しないからだ。1939年8月2日、ユダヤ人アインシュタインは、
フランクリン・ルーズベルト大統領に宛てた手紙、通称アインシュタイン=シラードの
手紙で、「大量のウランが核分裂連鎖反応を起こす現象は、新型爆弾の製造につながる
かもしれない。飛行機で運ぶには重過ぎるので、船で運んで港湾ごと爆破することにな
る。アメリカで連鎖反応を研究している物理学者グループからなる諮問機関をつくるの
がいい」と進言している。まだ日本との開戦前の話である。1939年9月1日、第二次世界
大戦勃発すると 1939年10月21日、アメリカはウラン諮問委員会を設置した。1940年4月
10日、イギリスが、第一回ウラン爆発軍事応用委員会(MAUD委員会)の会議を開催した。
1940年4月に、理研の仁科芳雄がウラン爆弾計画を安田武雄陸軍航空技術研究所長に進
言する頃、仁科研究室は研究費不足にあえいでいた。原因は輸入物資が止められたから
だ。1940年4月 、安田武雄中将は部下の鈴木辰三郎に「原子爆弾の製造が可能であるか
どうか」について調査を命じた。その後1940年6月、鈴木辰三郎は 東京帝国大学の物理
学者嵯峨根遼吉(当時は助教授)の助言を得て、2か月後に「原子爆弾の製造が可能で
ある」ことを主旨とする報告書を提出1939年10月11日にはアインシュタイン=シラード
の手紙がフランクリン・ルーズベルト大統領に届けられていたが改めて1940年7月6日、
理研の仁科芳雄等が、イギリスの学術雑誌ネイチャーに1939年に既に投稿してあったで
あろう『Fission Products of Uranium produced by Fast Neutrons(高速中性子によっ
て生成された核分裂生成物)』と題する、2個の中性子が放出される(n. 2n)反応や、複
数の対象核分裂を伴う核分裂連鎖反応(臨界事故)を起こした実験成果が掲載されたのだ
。この実験では臨界量を超える天然ウラン(ウラン238-99.3%, ウラン235-0.7%)に 高速
中性子を照射したわけだが、そのことによってプルトニウム239が生成されることや
、核爆発を起こすことがこの時理論上に知られる結果になっていた。日本でのこの研究
の発表は、当然英国やドイツの科学者達に知られた。だが既にドイツでは戦争に入って
その実地実験は出来なかった。英国も同じで、その為にロスアラモスの原爆実験に多く
の欧州の科学者達が詰めかけていたのである。このプルトニウム型の核爆弾こそが恐れ
ていた製造設備によって安価に出来る爆弾だったのである。

877: 名無しさんAA:17/11/08 13:30
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 540----------

 戦時中の当時に日本でも原子炉の検討は一部ではあった。特にこの理研の仁科芳雄等
が進めていた革新的技術ではあった。だが東京帝国大学の物理学者嵯峨根遼吉助教授な
どは、放射能の人体影響の研究者であって、放射能の影響に強い懸念を持っていた人物
だった。ウェスティングハウス・エレクトリックは当時斬新なアイデアで次々と新しい
物を世に出して事業を広めた会社であった。19世紀後半に、エジソンと同時代の発明
家だったジョージ・ウェスティングハウスは、その発明を事業化して始まった会社だが
、創業期においてはウィリアム・スタンリー、ニコラ・テスラら天才的な技術者を多数
擁護し抱えてエジソンと競った。交流、特に三相交流発送電による電力事業を開拓し、
その技術を確立した。これをイギリスのチャールズ・マーズが採り入れようと長いこと
政治の世界と綱引きをして、やがてナショナル・グリッドという全国的送電網を企業体
として成立させる流れにつなげた。このイギリスとの繋がりは1950年代以降の加圧水型
原子炉(PWR)の開発・製造で独占的地位を占めるに至った。しかし、1980 年代頃から
それまでの中心事業の売却や分離が相次ぐようになる。1997年には放送以外の大半の事
業を売却し、社名も伝統的なウェスティングハウスからCBSコーポレーションへ変更
し、1998年には最後に残っていた製造部門である原子力部門も英国核燃料会社社に売却
している。ロスアラモス研究所はマンハッタン計画の中で原子爆弾の開発を目的として
創設されたアメリカの国立研究機関で、戦後所長は、チャールズ・マクミランがなって
いた。自由な原子力研究に1943年に設立したつもりが、政府は「プロジェクトY」とい
う、コードネームで呼ばれていた秘密の研究所だった。当初設立は初代所長はロバート
・オッペンハイマーが、亡命で集まった21名ものノーベル賞受賞者を擁する科学者な
どがいた。マンハッタンプロジェクトで開発やら製造された原爆が、広島に投下された
「リトルボーイ」、および長崎に投下された「ファットマン」である理論を確立した。
当時機密保持を要請していた軍の締め付けに多くの科学者は反対していたが、戦後の赤
狩りによって、オッペンハイマーを始め多くの科学者は排除される憂き目にあっている
。公式には1939年にドイツのオットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマンによって、
核分裂反応が発見されているがその連鎖反応にはレオ・シラードが先行した理論をもっ
ていた。なかでもコロンビア大学の亡命イタリア人エンリコ・フェルミの研究はぬきん
でており、連鎖反応の着想者である亡命ハンガリー人のレオ・シラードの協力も得て、
1941年には基礎的な理論は完成していた。


878: 名無しさんAA:17/11/08 13:32
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 541----------

これらの研究は1942年に発足したマンハッタン計画に大いなる影響を与え、ドイツより
先に原爆を作る気運の中で、マンハッタン計画組み込まれ、研究の場をシカゴ大学に移
し本格的な研究がスタートしたのである。その中にハンガリーからの亡命学者レオ・シ
ラードがいた。既に1933年、ドイツを逃れてほどなく、中性子による核連鎖反応の可能
性に思い至り、以降核物理学の研究に没頭している。そうした中でシカゴ・パイル1号
(Chicago Pile 1、CP-1)が造られ、歴史上初めて臨界に達した最初の原子炉の名称と
なった。CP−1はウランから原子爆弾材料のプルトニウム239を取りだす生成用原
子炉で、実用炉を設計するための実験炉として開発された。このCP−1の成果を元に
つくられた原子炉で生成したプルトニウムは1945年8月9日の、長崎に投下された
原爆に利用され、数万人が死亡した。こうした原子炉が出来ていた事に、長崎の現地に
行った仁科の研究員達が驚愕して目を見張ったのである。CP−1はその名前の通り、
黒鉛ブロックを積み上げた小型原子炉で、形式としては黒鉛減速空気冷却炉であった。
初期の原子炉は全て黒鉛炉だったこともあって、パイルと言う言葉は原子炉と同義とな
っていた。炉心を構成する黒鉛ブロックは木枠で支えられ手積みで組み上げられた。使
用された黒鉛ブロックは350トン、全体の大きさは直径7.5m、高さ6mで、小さな二階建
ての家ほどだった。核燃料として35トンのウランを用い、三本のカドミウム製制御棒を
持っていた。うち一本は緊急停止用で、上からロープで吊るされており、異常があれば
ロープを斧で断ち切って炉心へ落す仕組みだった。またカドミウム塩溶液が準備されて
おり、制御棒の故障時には炉心内へ流し込むことになっていた。1942年5月に炉の
設計が開始され、同年11月にはシカゴ大学のフットボール競技場スタッグ・フィールド
の観客席下にあったスカッシュ・コートに極秘裏に建設が開始された。1942年12月2日
8時30分より実験が始まり、科学者の一人ジョージ・ウェイルの操作により 制御棒が引
き抜かれ、原子炉は臨界に達した。この様子を見守っていた科学者のバーナード・フェ
ルドは「制御棒を引き抜くとルルルルルルルル…と音がして計器の針が振り切れてしま
った」と回想している。すぐさまワシントンの計画本部の ジェームス・B・コナント(
ハーバード大学学長)へ暗号電が発せられた。曰く「イタリア人の航海士が新大陸へ達
した。現地人は友好的だった。この実験の成功は米国政府を驚かせた。短期間でこうし
た実験が成功した事は日本政府も作っているかも知れないと予想させたからだ。


879: 名無しさんAA:17/11/08 13:33
 早速1941年に完成するグランドクーリーダムを電力ダムとしてアルミニウムの精錬な
どに利用するための電力を発生することが第一とされ、当初の目的であったかんがい用
水の整備は一時見送られた。この電力は最高機密であったマンハッタン計画の一部分と
して、ハンフォードにあるハンフォード核施設のプルトニウム生産用原子炉と再処理工
場の稼働用の電源として利用された。CP−1を大型化したプルトニウム生産炉とプル
トニウム抽出工場が、ワシントン州リッチランド北部のコロンビア川沿いの土地にハン
フォード工学工場として建設された。最初のプルトニウム生産炉であるハンフォードB
炉は1943年9月から建設が始まり、翌1944年9月に運転開始、同年12月28日に臨界に達し
た。続くハンフォードD炉も1944年12月17日に臨界に達した。遅れて三基目のF炉は、
1945年2月に運転を開始した。グランドクーリーダムも1941年に 当時世界最大のダムと
して完成しいる。プルトニウム生産炉は黒鉛減速軽水冷却原子炉で天然ウランを使用し
、プルトニウム生産専用で発電系は備えていない。コロンビア川は原子炉からの温排水
で常時湯気を立てるようになったといわれている。原子炉で燃焼した天然ウラン燃料は
プルトニウム抽出工場でウラン238から転換したプルトニウムを抽出、精製された。
だが完成すると、レオ・シラードら68名の科学者が日本への原爆投下に反対して大統
領へ請願書を送り、ロスアラモス研究所は世界で最初の反原爆運動の舞台ともなった。
第二次大戦後はソ連の脅威に対抗するためエドワード・テラーらが水素爆弾の開発を行
ったが、一方でオッペンハイマーらは原子爆弾の廃絶を訴え、マンハッタン計画を推進
した科学者たちはテラー派とオッペンハイマー派に分かれ、それぞれ独自の研究所をつ
くった。だが国も又サンディア国立研究所を作るなどして、新たな核兵器開発を担った
サンディア国立研究所はアメリカ合衆国エネルギー省が管轄する国立研究所で。ニュー
メキシコ州アルバカーキとカリフォルニア州リバモアの2箇所に施設がある。ここでは
核兵器の開発と管理、軍事科学、安全保障の全分野などについて、国家機密に属する先
進的な研究が行われている。2009年3月31日には 世界最大のレーザー核融合施設である
「国立点火施設」。実験装置の一部には、HOYA USAから、大型レーザーガラスが導入さ
れている。また、磁気浮上式鉄道の一種であるインダクトラックの研究も行われている
。現在、研究所施設は政府の財産であるが、管理・運営は請負契約を結んだサンディア
社のロッキード・マーチン社の 100% 出資子会社が行っている。この運営形態は GOCO
軍産共同と呼ばれる。ニューメキシコ州サイトの研究所建屋はカートランド空軍基地の
敷地内に有り、訪問者には基地の東側に所在するオフィスで入構証を発行してもらう。
2012年、116番元素は、当研究所の名にちなんだ「リバモリウム」と名付けられた。

880: 名無しさんAA:17/11/08 13:33
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 543----------

 当初は、軍部(主に大日本帝国陸軍)は新爆弾投下に関する情報を国民に伏せていた
が、広島及び長崎を襲った爆弾の正体が原爆であると確認した軍部は報道統制を解除。
11日から12日にかけて日本の新聞各紙は広島に特派員を派遣し、広島を全滅させた新型
爆弾の正体が原爆であると読者に明かした上、被爆地の写真入りで被害状況を数々と詳
細に報道していた。これによって、当時自国でも開発が進められていたもののその詳細
は機密扱いであったこともあり、一般にはSF小説、科学雑誌などで「近未来の架空兵
器」と紹介されていた原爆が発明され、日本が攻撃を受けたことを日本国民は初めて知
ったのである。なお、この原爆報道によって、新潟県は8月11日に新潟市民に対して
「原爆疎開」命令を出し、大半の市民が新潟市から脱出し新潟市は無人都市になった。
その情報は 8月13日付の読売報知新聞に記載された。これは新潟市も原爆投下の目標リ
ストに入っているらしいという情報が流れたからである。原爆疎開が行われた都市は新
潟市だけであった。また東京でも、単機で偵察侵入してきたB-29を「原爆搭載機」稲光
を「原爆の閃光」と誤認することもあった。こうして先々恐々の中1945年 8月15日
の終戦の日を迎えた。その午前のラジオ放送で、仁科芳雄博士は原爆の解説を行った。
さらに8月15日正午には、戦争の終結を日本国民に告げるために行われた ラジオ放送
(玉音放送)がなされた。原爆について「敵ハ新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シテ無辜ヲ殺傷
シ惨害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル(敵は新たに残虐な爆弾を使用して、罪もな
い者たちを殺傷し、悲惨な損害の程度は見当もつけられないまでに至った)」と詔があ
った。正確な犠牲者数などは、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ / SCAP) 占領下では
言論統制され、日本が主権を回復した1952年に初めて報道されたのである。この時の、
二つの原子爆弾が落とされた事は世界大戦の中でも最も異常な事ではあった。なぜなら
この爆弾によって「日本本土への上陸作戦(ダウンフォール作戦)による米兵の新たな
犠牲は百万人と推定され、戦争の早期終結のために原子爆弾の使用は有効であった。」
との説明が全くの事実無根の嘘である事が明らかであるからだ。これはその後東京裁判
にも紛糾させている。事実上陸作戦においても焦土作戦においても日本は既に降伏条項
の交信を行っていたからだ。通常であれば停戦合意があった中と解するべき状態で戦争
をやりたかった。としか思えない状況下なのだ。更にこの原発が同型撃弾ではない事だ
。威嚇や威力による戦勝誇示なら一発でも充分であった筈だし、長崎型爆弾で充分な事
である。此処にアメリカ合衆国の虚実が浮かび上がるのである。


881: 名無しさんAA:17/11/08 13:34
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 544----------

 極東国際軍事裁判(東京裁判)において連合国側はニュルンベルク裁判と東京裁判と
の統一性を求めていたが、ラダ・ビノード・パール判事は、日本軍による残虐な行為の
事例が「ヨーロッパ枢軸の重大な戦争犯罪人の裁判において、証拠によりて立証された
と判決されたところのそれとは、まったく異なった立脚点に立っている。」と批判した
。戦争犯罪人が、それぞれの司令を下したとニュルンベルク裁判で認定されたナチス・
ドイツの事例との重要な違いを指摘したうえで、「(米国の)原爆使用を決定した政策
こそがホロコーストに唯一比例する行為」と論じ、米国による原爆投下こそが、国家に
よる非戦闘員の生命財産の無差別破壊としてナチスによるホロコーストに比せる唯一の
ものであるとした。同趣旨の弁論は他の弁護士によってもなされた。ベン・ブルース・
ブレイクニー弁護人は 1946年5月14日の弁護側反証段階の冒頭で、アメリカの原子爆弾
投下問題をとりあげ、「キッド提督の死が真珠湾攻撃による殺人罪になるならば、我々
は、広島に原爆を投下した者の名(ポール・ティベッツ)を挙げることができる。投下
を計画した参謀長(カール・スパーツ)の名も承知している。又その国の元首の名前も
承知している。彼らは、殺人罪を意識していたか。してはいまい。我々もそう思う。そ
れは彼らの戦闘行為が正義で、敵の行為が不正義だからではなく、戦争自体が犯罪では
ないからである。何の罪科でいかなる証拠で戦争による殺人が違法なのか。原爆を投下
した者がいる。この投下を計画し、その実行を命じ、これを黙認したものがいる。その
者達が裁いているのだ。彼らも殺人者ではないか。」と発言した。なおこの発言が始ま
ると、チャーターで定められている筈の同時通訳が停止し、日本語の速記録にもこの部
分のみ「以下、通訳なし」としか記載されなかった。更にブレイクニー弁護人は、1947
年3月3日にも、原子爆弾は明らかにハーグ陸戦条約第四項が禁止する兵器だと指摘した
。またイギリスのアーサー・S・コミンズ・カー検察官による「連合国がどんな武器を
使用しようと本審理にはなんらの関係もない」との反駁に対し、日本国はそれに対して
報復する権利がある、と主張した。またパールは1952年、広島市を訪問し、講演「世界
に告ぐ」では「広島、長崎に原爆が投ぜられたとき、どのようないいわけがされたか、
何のために投ぜられなければならなかったか」など、原爆投下を強く非難した。


882: 名無しさんAA:17/11/08 13:34
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 545----------

講演では、「いったいあの場合、アメリカは原子爆弾を投ずべき何の理由があっただろ
うか。日本はすでに降伏すべき用意ができておった」「これを投下したところの国(ア
メリカ)から、真実味のある、心からの懺悔の言葉をいまだに聞いたことがない。」、
連合国側の「幾千人かの白人の軍隊を犠牲にしないため」という言い分に対しては「そ
の代償として、罪のないところの老人や、子供や、婦人を、あるいは一般の平和的生活
をいとなむ市民を、幾万人、幾十万人、殺してもいいというのだろうか。」「われわれ
はこうした手合と、ふたたび人道や平和について語り合いたくはない」として、極めて
強く原爆投下を批判した。日本本土への上陸作戦「ダウンフォール作戦」による米兵の
新たな犠牲は 100万人と推定され、戦争の早期終結のために原子爆弾の使用は有効であ
ったとの説明がなされており、この論文は原爆投下を妥当であったとするアメリカ政府
の公式解釈を形成する上で重要な役割を果たしている。しかし、スティムソンの見解は
スタンフォード大学のバートン・バーンスタインによって、厳しく批判されている。バ
ーンスタインはまた、原爆投下の目的が「一般市民への殺戮」かつ、「日本への懲罰」
であることを明らかにしている。原爆投下問題を再検討するアメリカの研究者の間では
、「原爆の投下は、日本への上陸作戦を避けるためにも、早期に戦争を終結させるため
にも必要ではなかった」、「原爆投下によって回避されたとされる犠牲者の公式解釈で
の推定数『50万人』あるいは『100万人』には根拠がない.」などの点でほぼ合意に達し
ている。またバートン・バーンスタイン教授は被爆したアメリカ兵捕虜について扱って
いる。原爆投下の直前、アメリカはイギリス情報部から「広島にアメリカ人捕虜がいる
」と通告を受けていたがこれを無視され、アメリカ戦略空軍司令部の極秘電報(1945年
7月30日付)によると同司令部は長崎には アメリカ人捕虜収容所があることを確認され
、ワシントンに打電されたが、投下は強行された。結局、長崎の原爆は目標を少しずれ
たため、約1400人のアメリカ人捕虜は助かった。アメリカ政府が被爆死したアメリカ兵
捕虜の事を秘密にしていた理由について、同教授は「アメリカ国民の大半が支持した原
爆投下でアメリカ兵が殺されていたとなれば、世論は批判に変わり、第2次大戦直後の
冷戦激化の中での核戦略に重要な影響をもたらす、と懸念したからではないか」と語り
、「一般市民はもちろん、味方の軍人まで犠牲にしても平気な“戦争の狂気”を告発し
たい」と述べている。


883: 名無しさんAA:17/11/08 13:36
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 546----------

『第二次大戦 殺人兵器』(銀河出版)の中で、ナチスの 原爆開発に関して次のように
書いている。「ドイツが原子爆弾の研究を英米より2年も早く着手し、しかも相当進ん
でいることは英米側ではっきり確認されていた。さしあたりドイツが占領していたノル
ウェーの重水工場の機能を奪って、貴重な重水を使わせないようにすることがイギリス
戦時内閣の最大の課題であった。ノルウェーに潜入させていたスパイからの報告による
と、重水の生産は急速に増加し、毎月ドイツに向かって輸送中だという。もう一刻も猶
予はできなかった。…その後、スイスの情報機関を通じて入手した情報では既に、ドイ
ツの研究は核連鎖反応の段階に達していることがわかった。もう猶予は許されなかった
。同じ様に 哲学者、篠原正瑛氏は「ドイツは原爆の研究を進めてはいたが、技術的に
はまだ完成の段階には達していなかった」という意見が大勢を占めているようだ。しか
し私自身は、あの当時ベルリンで耳にした噂や情報などを総合的に考えてみると、どう
もドイツは、原爆完成の直前にあったのではなかろうか」という気がする。と書いた。

884: 名無しさんAA:17/11/08 13:36
し私自身は、あの当時ベルリンで耳にした噂や情報などを総合的に考えてみると、どう
もドイツは、原爆完成の直前にあったのではなかろうか」という気がする。と書いた。
、ドイツの著名な歴史研究家であるセバスチャン・ハフナー(ユダヤ人)は、著書『ヒ
トラー注釈』の中で次のように述べている。「ヒトラーの反ユダヤ主義によって、ドイ
ツの科学がこうむった頭脳の流失は相当のものだった。アインシュタインを初めとして
ユダヤ人の科学者が亡命しただけではなく、ユダヤ人でない著名な科学者もユダヤ人の
同僚や教師のあとを追った。そしてそれまで群をなしてドイツ参りをしていた外国の科
学者も来なくなった。ヒトラー以前には核物理学の研究では世界の中心はゲッティンゲ
ンだった。それが1933年にアメリカに移った。ヒトラーの反ユダヤ主義がなかった
ら、アメリカではなく、ドイツが最初に原子爆弾を開発する国になったかもしれないと
いうのはなかなか興味をそそる推測である。」結局のところ、ナチスの原爆開発がどの
程度まで進んでいたか不明である。しかし、戦後、連合国側が捕らえた科学者たちの証
言では、「最も難解な過程」は乗り越えていたらしい。イギリス情報局もこの証言を裏
付けるような情報を得ていたという。例えば、次のような情報がある。「『カイザー・
ヴィルヘルム研究所』で原爆リサーチを行っていたナチスの科学者たちは、戦後にイギ
リスへ連れて行かれ、『ファーム・ホール刑務所』へ一時的に拘留された。その時に、
イギリス情報局は当然これら科学者の監房に盗聴器を仕掛けておいた。1945年8月
6日に広島に原爆が落とされた時、そのニュースはラジオを通じてこれら科学者達にも
知らされた。彼らの反応が興味深かった。盗聴されているとは知らずに彼らは広島に落
とされた原爆についていろいろな反応を示したが、ひとつだけ一致した反応があった。
それは『なぜドイツが作った原爆が友好国日本に落とされたのか』という驚きの反応だ
った。これによってイギリス側はドイツの原爆開発がいかに進んでいたかをつかんだの
である」


885: 名無しさんAA:17/11/08 13:36
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 547----------

 これらの事を考えると ドイツでも一発位は核兵器は出来ていたとも考えられる。事
実ベルリンではナチス・ドイツが核兵器開発を実用化直前まで進め、核実験も実施して
いた−との新説を紹介した本「ヒトラーの爆弾」が十四日、ドイツで出版され、信ぴょ
う性をめぐり論議を呼んでいる。著者のベルリン・フンボルト大学講師の歴史家ライナ
ー・カールシュ氏によると、ナチスは一九四四年から四五年にかけベルリン近郊に原子
炉を設置し、濃縮ウランを使った小型核兵器を開発。四五年三月三日、ドイツ東部テュ
ーリンゲンで核実験を行った。被害は半径約五百メートルにわたり、近くの強制収容所
の収容者ら約五百人が犠牲になった。開発は、ヒトラーらナチス指導層も承知していた
という。新たに発見された旧ソ連軍の史料や証言記録、実験場所とされる土壌から放射
能が検出されたことなどを「核実験説」の根拠としている。ドイツでは一九三〇年代か
ら核開発が進められたが、ナチスは兵器化に熱心ではなく、ナチスの核兵器保有を懸念
した科学者らの訴えを聞いた米国が先んじて、原爆を開発した−というのがこれまでの
定説だった。独メディアは新史料発見を評価する一方、この「核実験説」の説得力不足
を指摘している。このドイツの歴史学者ライナー・カールシュ氏は、主にロシア、旧東
ドイツ、西側などの公文書館で発見した「新史料」に基づいて本を書いたとのことであ
る。彼の説の概要は、以下のようなものであるという。@ドイツの核兵器開発計画は、
主流派のハイゼンベルクよりも、非主流のディープナーの下の小グループの手でより実
り多く進められていた。Aベルリンの南、ゴットウ村の陸軍研究施設に建設されたディ
ープナーの原子炉が運転を開始した。B1944年10月、バルト海リューゲン島で核
実験が行なわれた。C1945年3月、テューリンゲンのオードルーフ演習場で核実験
が行なわれ(「閃光と高熱、放射能」を伴う2回の爆発)、捕虜数百名が死亡した。D
ドイツが核兵器を実戦に投入しなかった理由は、量産が困難だったことと、起爆装置と
運搬手段に重大な問題が残されていたためである。と言う事のようだ。資料ではナチス
.ドイツの軍需大臣アルベルト・シュペーアがオットー・ハーンとヴェルナー・ハイゼンベ
ルクから原爆開発に、「生産技術的には遅くとも2年後には製造可能だろう」という返
事を得た為それをヒトラーに報告すると、彼は「それは既に別の研究機関にまかせてあ
る」と答えたきり、二度と触れようとはしなかったという。これは既にこの最終兵器に
賭ける事の不正義に悩んでいた事が解る言葉だ。

886: 名無しさんAA:17/11/08 13:37
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 548----------

1940年6月、ドイツ軍がパリ入城したが、この時に ジョリオ・キューリー博士の
「原子核研究装置」を没収している。更にドイツ軍は、ベルギー・オランダ・ルクセン
ブルグを攻撃し、地球上のウラン産出地域を占領したので、ウラン資源が米国側に渡る
こともなく原爆の製造条件は、全てドイツの手に独占されていたようでもある。その上
重水素を既にスエーデンから陸送していたとなると 充分に原爆は早々作っていた筈だ
。米国はどうして日本に2つのタイプの原爆を投下したのだろうか。しかも先に投下し
たウラン型の原爆は、実験すらしてないのに。ウラン型原爆は現在開発されていないま
まで、広島に投下された原爆は、人類に対する最初にして最後の原爆だったというのは
どうしてもしっくりこない。これまでの米国内の核実験はプルトニウム型だけである。
さらに不思議なのは、なぜドイツではなく日本に原爆が投下されたのかということだ。
ドイツと戦っている段階で米国は原爆投下目標地点を日本(日本軍)と決めていたので
ある。科学者らは、ナチスを潰すために原爆開発に協力したのに、それがなぜドイツで
はなく日本なのか、と。こう抗議したが、米国政府はこの抗議を無視している。原爆開
発は「マンハッタン計画」として天文学的な資金を飲み込み、ここに「水爆の父」エド
ワード・テラーが参加しながら「SDI計画」、さらには「冷戦」をも産み出したとい
えるだろう。「マンハッタン計画」がスタートしたのはルーズベルト大統領のもとであ
るが、この責任者だったのはボーンズのヘンリー・スチムソンである。日本への原爆投
下は、このスチムソンの決定と言える。そして、最終的なゴーサインを出したのが虚弱
なトルーマン大統領となる。トルーマン大統領は、「私は広島・長崎の原爆攻撃を指令
したあとに、良心のとがめを少しも感じなかった。これからも万一の場合、水爆使用は
たしかだ」と語っている。トルーマン政権以降のアメリカとソ連は、熾烈な核軍拡競争
に明け暮れ、20世紀の末までに米ソ両国は合わせて4万発以上の原爆・水爆を製造し
、1700回以上の原爆・水爆実験を実施した。では、2回の世界大戦とはなんだった
のか。ナチとはなんだったのか。そしてヒトラーは何者だったのか。本当かどうかは知
らないが、ナチ(NAZI)の本当の意味は、国際シオニスト連盟(National Associa
tion of Zionist International)だという「話」もある。

887: 名無しさんAA:17/11/08 13:37
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 549----------

つまり ナチは、シオニストの別働隊だったのではないかという疑惑になる。ヒトラー
を「戦争代理人」だったと理解すれば、ナチもそのために誕生したという理解になり、
「そのため」とは、世界大戦の為となる。こうなると全く国際的陰謀論は既にシオニス
トの手に落ちていた事になる。馬鹿なチャーチルを代理人として登場させ、賠償金拒否
をしたドイツを世界を跨いで請求したと言う事だろうか。ヒトラーとしては最終兵器を
使ってまで拒否する理由はなかったのかもしれない。良心があれば昭和天皇と同じに 
軍部に中止をさせたとしても可笑しくはない。だが最近面白い記事が載った。第二次世
界大戦末期、敗戦濃厚となるとナチス・ドイツは、世界各地から強奪した財宝を列車に
積み、山中地下の秘密基地に隠したと考えられている。ナチスの「黄金列車」伝説であ
る。今でも、多くのトレジャーハンターたちは、それを血眼で探し回っているのである
が。ところが現在、とあるドイツ人男性がナチスの「財宝」ではなく「原子爆弾」を見
つけてしまったとして大きな話題となっているのだ。凍りつくような恐ろしい発見は、
今月12日、ドイツ紙「Bild」が報じた。ナチス製原子爆弾を発見したと主張しているの
は、元機械エンジニアのペーター・ローアさん(70)。現役時代に培った技能を活かし
、退職後にナチスの財宝探しを開始したローアさんが、目をつけた同国中部テューリン
ゲン州「ヨナス谷」を地中レーダーで探査中、モニターに5つの不思議な影が写り込ん
だのだという。「これはもしや」と思い、さらに3D解析を進めたローアさんは凍りつ
いた。なんと地中にある謎の物体は、金属製で、戦中・戦後にかけてアメリカやソ連が
開発を競っていた原子爆弾そっくりの形をしていたというのだ。5つの影のうち少なく
とも2つはナチス製原子爆弾であると確信したローアさんは、恐怖に打ち震えながらも
事態をすぐさま州当局に通報、「金属が腐食すれば、第2のチェルノブイリともいうべ
き恐ろしい事態になるだろう。直ちに処理班を組織し、脅威を取り除くべきだ。」と。
ところが、返ってきたのは開いた口が塞がらないほど呑気な答えだったという。「ただ
単に当局は、これ以上調査を続けるなと言ってくるだけでした!」そして、話を真剣に
取り合おうとしない当局にしびれを切らし、彼はメディアを通して危機を訴えることを
決意したというわけだ。ナチス・ドイツが原子爆弾をはじめとする大量殺戮兵器の開発
に邁進していたことは、史実としてよく知られるところである。“ほぼ完成状態にあっ
た”とも囁かれるそれらの兵器が、実は完成していたとしても不思議はないのかもしれ
ない。

888: 名無しさんAA:17/11/08 14:07
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 550----------

 広島に原爆が落ちた時の「原爆投下秘話」として一通の手紙がある。広島に原爆が投
下される瞬間を眼で追い、観測していたのが独立高射砲第22大隊本部の加藤恒太隊長
であった。この人の証言では「キノコ雲の高さを測らせたら九千五百メートルであった
。キノコ雲を背景にして三個のパラシュートが黒い物体をぶら下げてゆらゆら流れ落ち
ている。その高度は七千メートルくらいであった。」ここにある「三個の黒い物体」は
ノンフィクション、『もはや高地なし』によると「同じ瞬間、併走機「グレート・アー
チスト」の爆撃士ビーハンがボタンを押して同機の爆弾投下室のドアを開いた。三つの
物体が飛び出し、数秒後にはパラシュートが開いた。」と書いている。「グレート・ア
ーチスト」は原爆を投下した「エノラ・ゲイ」の後方を飛んでいた支援機の名称です。
「三つの物体」とは爆圧を測定するラジオゾンデでありました。「装置の主要部分は無
電受信機と自動フィルム記憶装置であった。消火器ぐらいの大きさの円筒をつけた三つ
のパラシュートを攻撃目標付近で落とし、円筒内の無線送信機がデータを飛行機に送っ
てくることになった」この機材を準備したのが、アメリカ本土からテニアン島に飛んで
きたカリフォルニヤ大学のルイス・アルバレス博士と二人の助手、アグニューとジョン
ストンであった。この三つのうちの一個が広島の北に位置する亀山村の山林に落ちた。
「不発弾が落ちた」と、村では大騒ぎになった。報告を受けた陸軍がこれを回収して、
「有末調査団」に引き渡したが、直径20センチ、長さが2メートルほどの円筒であり、
中から音がするので、生きているようで気持ちが悪かったそうです。「有末調査団」の
一員である新妻清一技術中佐は、「一見してラジオゾンデであるとわかった」と言って
ますから、さすがに専門家はちがいます。この円筒の表面には一通の手紙が貼られてい
た。手書きの英文のコピーで、「To Prof R Sagane(サガネ授宛)」と書いてあった。差
出人は「三人の学友より」とあって、名前は書かれてなかった。長崎に原爆が投下され
たときにも、一個のラジオゾンデが回収された。これにも同じ文面の手紙が貼り付けて
あった。「サガネ教授」とは当時東大の物理学教授であった嵯峨根遼吉博士です。日本
の物理学界の父とも言われる長岡半太郎の五男に生まれ、嵯峨根家の養子となった。東
大を卒業した後にイギリスとアメリカに留学し、帰国後に理科学研究所に入り仁科芳雄
博士の下で原子物理学を学んだ。昭和18年からは母校の東大に戻り、「この戦争が終
わるまでにはどこの国も原子爆弾を作ることはできない。」と、原子爆弾の開発に見切
りをつけて、レーダーの研究に取り組んでいたのでした。


889: 名無しさんAA:17/11/08 14:07
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 551----------

 手紙には原子爆弾の破壊力の大きさと、アメリカが実験に成功し、生産段階に入った
ことを知らせ、「あなたがすぐれた原子核物理学者としての社会的な影響力をもって、
日本国の参謀たちに、これ以上戦争を続けるならば、日本国民が決定的な損害を受ける
、というおそるべき結果が起こることを知らせて欲しいのです」と書いてありました。
また、「現在、私たちは科学者として、これを平和的利用にさし向けることを研究して
おります」とあり、戦後の平和利用を訴えてもいました。嵯峨根博士が手紙の存在を知
ったのは、日本の降伏直後、長崎の被爆調査を政府から依頼されて長崎に赴いたときで
した。広島の手紙は憲兵隊が押収し、長崎のは海軍の佐世保鎮守府がひそかに保管して
いた。戦後になって判明した差出人は、彼がアメリカのカリフォルニヤ大学放射線研究
所に留学中に知り合った ルイス・アルバレス、フィリップ・モリソン、ロバート・サ
ーバーの3人の科学者であった。原爆の破壊の大きさを知る彼らは、戦争の早期終結を
嵯峨根に訴えようと相談して手紙を書き、アルバレスがテニアン島でラジオゾンデに、
こっそり貼り付けたのです。ちなみに1958年にアメリカの物理学者たちが発起人となり
、国連に「核実験の即時停止を要請する請願書」を提出した。その発起人の中に、フィ
リップ・モリソンの名があります。原子爆弾を開発した科学者を非難することはたやす
い事です。しかし、多くの科学者が「愛国心」と「人道的呵責」の間で心が揺れ、悩ん
でいたのでしょう。人間の心は竹を割るようにすぱっと「右か左か」に割り切れるもの
では在りません。科学者だって人間です。悩みながら、ズルズルと原爆開発に関わって
いた科学者もいるでしょう。戦後の日本の科学技術を立て直したのは嵯峨根博士である
といわれます。GHQは兵器開発につながるとして、日本の科学研究を抑えようとした
。「日本は文化国家になるべきだ」として、科学研究に良い顔をしなかったのだ。この
ときに嵯峨根教授を応援したのがアメリカの物理学者たちだった。彼のすぐれた業績は
アメリカでも知られていたのです。ところで、この手紙ですが、嵯峨根博士は戦後に渡
米したときにアルバレスに「返してくれ」と言われて、返したそうです。アルバレスも
この手紙が公表されて、「友情美談物語」として喧伝されるのが照れ臭かったのかも、
しれいない、国家反逆罪の罪に問われるの可能性があるかもしれない。当時米国では、
ケネディ暗殺の頃まで赤狩りの最中とも言えるだろうから。


890: 名無しさんAA:17/11/08 16:50
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 552----------

1982年9月20日に、NHK特集「私は日本のスパイだった−秘密諜報員ベラスコ
」が放送されたので、ベラスコの名前を知っている日本人は多いだろう。この番組は、
「昭和57年度芸術祭大賞」「第15回テレビ大賞優秀番組賞」「第22回日本テレビ
技術賞」を受賞し、現在は「NHK特集名作100選」に選ばれている。このベラスコ
証言から多くの日本人が「何故2つもの原爆が落とされたのか」の理由が説明できる。
と感じたであろう。第二次世界大戦中、一流スパイとして活躍したべラスコは、ユダヤ
系スペイン人(スファラディム)で、スペインの「ファランヘ党」の設立者の1人であ
った。本名は、アンヘル・アルカサール・デ・ベラスコである。大戦中には、スペイン
は中立国だったので、連合国や枢軸国のスパイが情報収集のために暗躍していたのだが
、ベラスコは「TO諜報機関」という対英米スパイ機関を創設して、日本の在スペイン
公使の須磨弥吉郎に、英米情報を提供していたのである。組織の資金は日本公使館から
送られていた。恐らく武藤が起こしたゾルゲ機関との取引であったろう。スペイン自体
はフランコ政権の中立政策によって、ドイツ、日本には友好的だった。「TO諜報機関
」の組織網はスペイン国内、南北アメリカをカバーしていた。米国の三沿岸の大都市の
ニューヨーク、ワシントン、ニューオリンズ、サンフランシスコ、ロサンゼルス、サン
ディエゴには、機関員合計6人の情報員を配して、マドリードの本部の方で直轄管理、
その6人の周辺にさらに数人、ときには十数人の端末部員を配したという。その意味で
ベラスコは完全な職業スパイで、金で動きドイツの諜報機関のためにも働き、ヒトラー
から厚い信頼を得ていた。そういうこともあって、ベラスコはナチスの秘密や第二次世
界大戦の真相(舞台裏)、そして世界権力の実態について知り尽くしていたと言われて
いる。ベラスコは1945年4月までドイツにいたが、ベルリンにソ連軍が侵入する時
直前にミュンヘンに脱出、リヒテンシュタイン経由でスイスに逃げた。広島、長崎への
原爆投下と日本の敗戦はスイスで知ったという。戦後になってスペインに舞い戻ったが
ベラスコは、「スペイン陸軍省情報部」の特別顧問に迎えられ、優遇されている。この
時ドイツ側のベラスコに対する対応も同様で、元ナチスの大幹部たちはベラスコに南米
逃亡の手助けを委ねている。


891: 名無しさんAA:17/11/08 16:50
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 553----------

アウシュヴィッツの大虐殺は、ためにする伝説だ。いつまで作り話を楽しんでいるのだ
!」特異な世界の住人ベラスコは、そう吐き棄てて、いっそうソファーに体を深く沈め
た。 不機嫌なベラスコへの高橋五郎氏のインタービューは、そうやって始まっていた。
左翼はすでにご存知の人が多いようですがナチスのユダヤ人大虐殺は眉唾物で広島原爆
はナチス製というのは、今や世界の定説になりつつある。この情報が日本人の高橋さん
という人が当時ドイツの日本側のスパイだったというベラスコという人に1980年代
前半に接触して分かって来たものでおそらく同時期に取材しドキュメンタリー賞を受賞
したNHKの取材陣も時期が同じなので知っていたのでしょう。スペイン人のベラスコ
氏は当時ナチスドイツの日本側のスパイでヒトラーの側近までしており、かなり有力な
情報を駐スペイン公使館の三浦文夫さんとやり取りしていました。その辺のやりとりの
模様をNHKが取材していたのである。この放送ではナチス製原爆の事は出てきません
。定説を覆すのは問題があったのでしょう。その核心的言葉は終始通った事実だった。
これから記すのは、1982年のとある日の午後、スペインはマドリード旧市街にある
マヨール広場のカフェテラスでべラスコと交わした、ナチス原爆に関する対話のである
。(広島に落とされた原爆は、本当にナチス製なのか。アメリカ軍がナチス製の原爆を
転用した、ということか)「そういうことだ。実際のところ、アメリカの原爆は未完成
だったのだ。それで、ドイツ軍の原爆を使って日本に投下したのだ」(ドイツの原爆を
アメリカに渡したのか)A「そのとおりだ」(ドイツ原爆の情報を、いつ、どこで、ど
うやって知ったのか)「1936年、リスボンに滞在中のウィンザー公夫妻をドイツに
誘拐する作戦があった。その作戦会議の合間に、ドイツ国防軍情報部長官カナリス(ウ
ィルヘルム)とSS情報将校のシュレンベルグから聞いた。彼らは原爆とはいわなかっ
たが、なんでもドイツは想像を絶する新型兵器を手にしたという。私はその情報を、ド
イツ軍情報部アプヴェールの諜報部員やイギリス諜報部員らも知っているかと尋ねたが
、シュレンベルグもカナリスも答えなかった。そういえば、マーヘンという物理学者が
いた。彼はヒトラーの友人で、新型兵器とその製造に精通していた男だった。私は新型
兵器が製造されているらしいことを、マーヘンの言動から感じていた。カナリス長官と
シュレンベルグが、私に明かした新型兵器の一件を私は信じた。そのときは製造場所ま
では聞かなかった。当時、チャーチルは 全欧破壊計画 とノルウェーの 重水炉施設の
粉砕命令を下していた。


892: 名無しさんAA:17/11/08 16:55
ドイツ国防軍情報部のアプヴェールにもその情報を渡したが、そちらからもな
んの返事もなかった。1940年、日本はすでに対米戦に突入していた。日本はナチス
が新型兵器を所有したことについては知らなかっただろう。私が日本のためのスパイ役
を引き受けた頃のことだったから、新型兵器の情報は日本に伝えた。当時にはすでに、
英米共同で原爆開発に着手していた。実験はイギリスで繰り返されていたが、使える様
な原爆にはならなかったのだ。」(ドイツがその新兵器を製造したのはいつごろからか
)「1940年代の初めごろからだ。その新兵器はまだ不完全だったが、驚異的な破壊
力の爆弾らしいと聞いた。私の周辺の諜報員らは、その新兵器が爆弾なのかどうかすら
知らなかった。爆弾の実験はチェコスロバキアで実施したと聞いた」(チェコでの実験
詳細は知っているか)「知らない。その事件を知っている人間は、世界中でほんの数名
しかいないだろう。数名というのは、実験に直接携わった人間のことだが。」(では、
新型爆弾が原爆だったと知ったのはいつごろなのか)「そいつがとてつもない威力のあ
る新兵器で、それを使えば戦争を終わらせるのも可能だということだった。1943年
、私はアメリカに潜入したが、実はそのときアメリカの原爆開発の様子を知り、初めて
あのドイツ製新兵器が原子爆弾だったと確信できた。私は普段は、マドリードとドイツ
の間を往復していた。私が渡米するときは、部下に暗号文を手交するか、直接会話を必
要とするときに限られていた。これは話しておいたほうがいいと思うのだが、1941
年から43年の間に、私がアメリカに入国した回数は3回、正式入国が2回で、残りの
1回はメキシコのティファナからテキサスに密入国した」(1943年までにナチス原
爆が完成したことを、イギリスは知っていたか)「ノー。イギリスはドイツが原爆を開
発中だとは知っていた。ノルウェーの重水炉施設で、原爆製造のための重水を貯蔵して
いることも知っていた。だからチャーチルは、特殊部隊をノルウェーに潜入させて、重
水貯蔵所を破壊しようとしたのだ。だが、原爆が完成したことまでは知らなかっただろ
う。」(ドイツ原爆の完成と実験成功を、いつごろ知ったのか)「覚えていない。時期
は忘れたが、その数が2個だということは知っていた。2個のほかにも原爆があったに
せよ、それらはソ連が持ち帰ってしまったのだろう。ドイツ軍は2個をリエハ(ベルギ
ー)に運んだ。そしてそれをロンメル将軍に手渡した事実は後で知った。」(2個の爆
弾が原子爆弾だと完全に知ったのはいつか)「1945年だ。1944年ごろには、も
はやドイツ軍は崩壊同然だった。ヒトラー政権はすでに力を失っていた。ヒトラーの周
辺では、1944年に戦争終了させる計画が謀られていた。その年に私がベルリンに行
った時、どうして2個の原爆をイギリスに投下しなかったのか、私はドイツ軍上層部に
噛みついたのを覚えている。」

893: 名無しさんAA:17/11/08 16:55
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 555----------

(もう一度聞く。2個の新型爆弾の完成情報はあなたの耳にどう届いたのか)「いつ完
成したのかは正確には知らない。しかし完成爆弾をベルギーに運んだこと、数回の実験
で多数の死者が出たこと、その2個の新型爆弾が敵軍のアイゼンハワー将軍に渡された
ことは聞いた。」(新型爆弾つまり原爆の製造場所はどこか?)「ペーネミュンデだ」
(工場の規模は?)「大規模だった。そこでは、V1・V2ロケットなどが製造され、
ロンドン攻撃などに使われた。チェコ以外の諸工場で製造された新兵器類の肝心な部分
は、そのペーネミュンデ工場で組み立て、完成されていた。ドイツ軍は“UFO”も、
ここで製造していた。当時、すでに時速3000キロの推力をもつ別の飛行体もそこで
製造されていた」(ペーネミュンデの工場に入ったことは)「ない。場所は知っていた
が」(なぜ2個だったのか)「2個のほかにも新型爆弾は製造されていた。爆弾の改良
と完成を急ぐ計画があった。完成ずみの原爆2個の存在は、その計画の全貌を知ったと
き、納得できた」(2個の原爆の完成は軍事機密だったのか)「当然だ。製造責任者ら
は新兵器の完成を、ヒトラーに口頭で伝えていた。書面で報告すれば秘密は漏れる。」
(イギリス情報部はドイツの新型爆弾の完成情報を入手していたのか)「それは先ほど
答えた。ありえない。われわれはイギリス側に新型爆弾へのアプローチなど絶対にさせ
なかった。彼らには知り得ないことだ。とはいえ、秘密工作活動の内容を一般人に説明
したところで、誰も信じまいが。」(ペーネミュンデで製造に携わった人物たちの名前
は)「ハベルムルの名前しか覚えていない。たとえ知ったところで、それが本名だとは
いえまい。製造関係者らは皆、それぞれ偽名を使っていたからだ。たとえば、そのうち
のひとりはイタリア人だとわかっていたが、それ以上の手がかりはなかった。工場周辺
の町には、OSSやKGBが潜り込んでいた。だが、技術者らは情報を漏らさなかった
のだ」(ドイツ原爆がたどった経緯は?)「完成後はベルリンからの命令を待った。そ
して2個の爆弾をベルギーに移した。ベルギーの戦場のどこかでアメリカ軍に引き渡さ
れ、本国へ運ばれていった」(ベルギーのどの地域のどんな場所に保管されていたのか
)「保管場所は知らない。いずれにせよベルギーは小さな国だ」(だれがどんなルート
でベルギーに移送したのか?)「ドイツ空軍機を使った」(だれの命令でベルギーに移
したのか?)「ゲーリング元帥だ」(どんな目的で移したのか?)「イギリス投下には
、ドイツからよりもベルギーのほうが近い。つまり、射程距離が短い場所を選んだのだ
ろう」(ベルギーへの移転配置をヒトラーは知っていたか)「もちろんだ。ベルギーに
移したのは1944年4月だと思う」

894: 名無しさんAA:17/11/08 16:55
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 556----------

(ベルギーへの爆弾移動はロンメルが担当したのか)「いや違う。ペーネミュンデで、
完成した爆弾は、ゲーリングの指示でベルギーに運ばれた。ベルギーで原爆を受け取っ
て保管したのがロンメルだ」(実験現場をチェコスロバキアに定めた理由は?)「それ
は知らない。ただ、チェコにはペーネミュンデと同様の工場があった。そこで部品なり
を補う必要があって、それでチェコが選ばれたのかもしれない」(なぜ、ロンメルは米
軍に渡したのか。彼の裏切りはいつ頃から考えられていたのか)「ロンメルの動機やそ
の実行タイミングについては、何も知らなかった。もし事前にその企てが耳に入ってい
れば、ロンメルに実行を断念させることができただろう。(ロンメルが敵に原爆を渡し
た謀反をいつ、どうやって知ったのか)「実行されてしばらく後のことだ。ドイツの、
ガルミス・パルテン・キルヘンで仕事中に、仲間のオベルべイルがその一件を伝えてき
た。ロンメルが爆弾を渡した数日後に、連合軍の総攻撃が始まったのだ。」(アメリカ
軍は原爆をどんな方法で本国に移送したのか)「当時、欧州戦線でのアメリカ軍の動き
を知るのは不可能に近かった。われわれの暗号電波はキャッチされ、身動きもできず、
仕事にならなかった。おそらく、ベルギーで受け取った原爆を、アメリカ軍は船舶では
なく空輸で本国に送ったのだろう。」(ドイツ製爆弾2個が、間違いなくアメリカ軍に
渡されたと断言できるか)「断言する。しかし、アメリカ側はこの事実を無視するか、
または否定するだろう。なぜなら、この2個の原爆がアメリカ国内に運び込まれるまで
、アメリカ製原爆は未完成だったからだ。ナチス原爆が実在したというビッグニュース
を知ったら、きっと日本人は驚くことだろう。この事実を世界が知れば、トルーマン大
統領が捏造した原爆神話は根底から崩壊するだろう」(ロンメルの処刑はヒトラーの命
令か)「ヒトラーが自ら命令を下したかどうかは知らない。SSのシュレンベルグの命
令だろう。ヒトラーはロンメルが処刑された後に、ロンメルの裏切りの事実を知らされ
たかもしれない」(ドイツは結局、原爆を使えなかったが?)「当時のドイツ空軍は、
イギリス空軍に制空権を奪われていた」(原爆とロンメルとの関係は?)「ロンメルは
当時、ベルギー方面担当の司令官だった。彼は保管中の原爆を米軍に渡した。その秘密
を知るドイツ軍人はいなかった。裏切ったロンメルは処刑された」


895: 名無しさんAA:17/11/08 16:56
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 557----------

(ロンメルはチャーチル首相にではなくて、なぜアイゼンハワー将軍に渡したのか)「
わからない。ただ、チャーチルは反イギリス的精神の持ち主だったと思う。チャーチル
はノルウェーの重水炉の破壊命令を出した際、同時に欧州全都市の破壊もつけ加えてい
るからだ。チャーチルは欧州人の無差別殺戮を命令した男だ。そんな男にではなくて、
アメリカに渡すほうがまだましだ。ロンメルはそう考えたのだと私は思いたい」(アメ
リカに渡った爆弾はその後どこへ?)「ロスアラモス。アメリカ西海岸にある原爆研究
所だ」(これまでの原爆情報は日本の諜報機関TOのエージェントが確認したのか?)
「そうだ。この点は白か黒かの単純な答えですむことだ。連絡メモは使わなかった」(
では、原爆がロスアラモスに届いた事実をどうやって確認したのか?)「まずは暗号無
線だ。入手した情報を、通常はロスアラモスの近郊からメキシコのティファナに向けて
、即座に発信した。その電波を大西洋上に待機させた船上で中継し、さらにスペインに
転送する。これが私の組織の通信回路だった」(原爆情報を伝えた電波は、スペインで
キャッチして確認したのか?)「いや、私は1944年6月以降、ベルリンにいた。ロ
スアラモス発信の一報を受信した、ティファナの部下から連絡があったのだ。それをマ
ドリードからベルリンの私に無線連絡してきた。急遽スペインに帰国して、あらためて
ティファナに無線で情報内容を確認した」(無線はどう伝えてきたか)「詳細は忘れた
。アメリカに爆弾が運ばれてきたことを知らせてきたのだ。私は即座にその内容をベル
リンと日本側に報告した。」(アメリカに運ばれてきた爆弾が、ドイツ製原爆だとエー
ジェントは事前に知ったうえで、それで打電してきたのか)「そうだ。フライデーと呼
ぶ有能な修道士が、その情報を入手して送電してきたのだ。」(その修道士は西海岸に
配置したエージェントか)「秘密情報員が修道士に化けていたのではない。本物の修道
士をエージェントに使っていたのだ」(どうやってその修道士は、その爆弾がドイツ製
で、ドイツから送られてきたものと判断できたのか)「教会の懺悔室だ。われわれは、
すでにドイツ原爆の完成を知っていた。しかるに、その一件はわれわれの仕事の最重要
事項として扱っていたからだ。牧師は懺悔室で科学者や軍人から情報を取った」(では
、原爆がベルギーから大西洋を渡った時点の情報もキャッチしていたのか)「いや、ア
メリカに爆弾が届いた時点の情報だ」(原爆は最初にアメリカのいったいどこに届いた
のか)「ニューヨークだ」

896: 名無しさんAA:17/11/08 16:56
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 558----------

(アメリカ内にドイツ原爆が到着した情報を、日本側に伝えたときの日本の反応は)「
私はまずベルリンに知らせた。当時は戦況が深刻な状態だった。それでベルリン(日本
大使館)はひと呼吸おいてから、東京に知らせたのだろう」(ロスアラモスに2個の、
ドイツ製原子爆弾が届いたとする情報は、確定情報として、日本側に発信したのか?)
「いや、仮定、つまり推測としてだ」(では、ロスアラモスの部下から大西洋を越えて
、ベルリンのあなたのもとに無線で届いたその情報も、仮定推測の情報だったのか?)
「現物を確認していないから、そのとおりだ。むろん、東京にはわれわれのほか、例え
ば、イタリアやオーストラリアやその他の国々からのも、情報が届いていた事だろう。
しかし、その時点で、日本は何をする術もない状態だったのだ。反応も何もなかった。
(ドイツは完璧な原爆実験をしたのだろうか)「さっきの話を思いだせ。だれがベルギ
ーから原爆を運んだにせよ、当事者は、自分たちが運んでいる荷物の中身が何なのかも
知らずにいたのだ。結局、広島・長崎に原爆が投下されて、初めてその荷物が原爆だっ
たと知ったのである。製造に携わった者たちも、それは同じだ。新兵器(原爆)の精度
や実験成果は、別の人間のみが知ることだからだ。(ナチス原爆の完成を知る存命中の
学者、軍人ほかの人物をあなたは知っているか)「ジャーナリストは、いないだろう。
開発製造に関与した学者(従事科学者)は大勢生存しているはずだ。中にはアメリカや
イタリアでも生きている。しかし彼らは、自分たちが、どんな爆弾を完成させたのか、
当時はあまり知らなかっただろう。結果的に広島、長崎の原爆投下で初めて知ったのだ
と思う。」(2個の原爆以外のドイツ原爆がソ連に渡ったというのは本当か。)完成し
た爆弾をソ連が持っていったのではない。製造のノウハウ(人的資源)を持ち去ったの
だ。終戦間際になって、ペネミュンデの工場からは完成した原爆ではなく製造者らを、
自国の原爆開発に活用するために連れ去ったのだ。」(ソ連が持ち去った時期はいつか
)「戦史年譜を見よ。盗んだのではなくて、ソ連軍がドイツを占領したからだ」(ベル
ギーでナチス原爆がアメリカ側に引き渡されるときは、だれかが手伝ったのか)「知ら
ない。なぜなら、最高機関は自前の組織でやるものだからだ」(ベルギーでアイゼンハ
ワーは原爆と知って受け取ったのか?)「アイゼンハワーであれパットンであれ、彼ら
の受け取ったものが原爆だと知っていたわけではあるまい。新型の驚異的な兵器だろう
程度の認識はあっただろうが」


897: 名無しさんAA:17/11/08 16:57
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 559----------
(ナチス原爆はなぜ、西海岸のロスアラモスに届けられたのか?)「アメリカの原爆開
発研究所がそこにあったからだろう」(アメリカ政府や情報機関の関係者以外、民間人
で原爆移転を知る人は)「知る人間はいるだろう。だが、私はその人物がだれだかは知
らない。もちろん、ルーズベルトの周辺には多少存在しただろうが、そういた人物たち
を私は知らない」(チェコ、ベルギーのその場所を地図で指してほしいのだが)「自分
に対してでさえ、疑いをもつのが私の職業だ。私にその職場を案内しろというのか。考
えておこう」(ナチス原爆の開発と移動の決定的情報を、あなたと交換した相手はだれ
か)「ドイツ国防軍情報部長官カナリスや科学研究者マイヤーらドイツ人だ。1943
年4月か5月、マドリードのアプヴェールの隠れ家で、SS情報部長シュレンベルグも
同席した場で、新型爆弾の話を彼らは私に話した。だが戦後の今となっては、どうやら
彼らはその話をわざと私に囁いたような気もする。というのは、彼らはボム、つまり新
型爆弾とはいったがアトミック(原爆)とはいわなかった。私はヌークリア(核)とア
トミック・ボム(原爆)についての知識を、クラウスから後で教わった。カナリスとシ
ュレンベルグらが私に漏らした新型爆弾とは、やはり原爆のことだったのだ。重大機密
だというよりも、私がこの新型爆弾の存在を日本に伝えるのを見込んで、あえて私に原
子爆弾といわずに新型爆弾だと語ったのだろう。通信傍受はお手のものの彼らだから。
アメリカへの移動確認は、私の組織によるものだ。原爆がアメリカに移送された時は、
もう、その新型爆弾が通常の爆弾であれ 原爆であれ、何もかもがその時点ですでに終
わっていたのだ」(マドリードに置いたアプヴェールの隠れ家は、今でもあるのか?)
「残っている」(カナリスは、よくスペインに来ていたのか?)「そうだ。カナリスと
はよく会った。カナリスはフランコ総統と会うために、戦闘機を自分で操縦して、よく
来ていた)「チェコで実験開発された新型兵器(1943年4月の実験)の成り行きは
、絶えず監視していたのか?」(必要なときにする会話ですむことだ)「チェコでの実
験データを、戦後、アメリカは押収しているのか)「いや、それはないだろう」(資料
・記録・メモ何でもいい。アメリカ軍があの日(8月6日)に、広島に原爆投下するの
は不可能だった、と証明できる手がかりはあるか)「いったい、何回問えば気がすむの
だ。すべてノーなのだ。お前は私の呟きまで疑うのか。私には、私の発言を保証する 
証拠など不要なのだ」(私は自身の常識を疑わざるを得なくなるが?)「それはお前の
勝手だ。私は世界連邦政府主義者だ。どこの民族も愛するし、疑いもする。文句はある
まい。」ここで録音テープは切れた。「ナチス原爆の追加情報は文書でほしい。」筆者
の注文にべラスコは頷いた。

898: 名無しさんAA:17/11/09 09:36
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 560----------

 もうそろそろ陰謀論の世界も止めようとおもう。既に戦後70年経って、戦前に疑問
であった数々の行為が、こうして平和になって初めてあきらかにつながりがあった事が
判明し謎が解けたからだ。今や人類は未来を手に入れた。これまでは「神から選ばれた
民」としてユダヤが選民としてフリーメイソンクラブを作った。選民思想で彼らに指令
しているのは「人類殲滅」「人口抑制」である。だが一方で日本は神から選ばれた民で
はない。「日子族」であり神の子であり神そのものである。そうして万世一系を唱えて
「人類融和」と「自然崇拝」を説いているのである。日本は一点の恥のない文化を持つ
国民だ。世界大戦に於いて原爆をこの日本に落とした罪ははそのまま世界人類の破綻を
浮き彫りにしている。それが中東問題であり中国問題であり北朝鮮問題でありテロ問題
である。この問題を解決するのは英国を始めとするヨーロッパ諸国であり米国なのだ。
今やこの核問題に於いても、中国問題でも世界は滅びゆく一歩前に来ている。地球温暖
化は勿論早々人間の活動だけではない今や小氷河期を終えて、太陽光が強くなる中には
ある。だが自然林伐採が広範囲で巨大である中では恐らく人類は耐えられない地獄をみ
る。それを止めるのは日本人しかいない。かつて西洋の植民地を奴隷を止めたように、
今又格差社会、貧困社会と闘うしかないのである。結局原爆は、昭和天皇はその研究さ
え遮り、ドイツのヒットラーは落とす事を考えてなかった。のだ。そして帝国陸軍も、
ナチス党も、開発し、いずれ落とすだろうと日本はドイツが ドイツは日本が落とす事
を待っていたような様相だったのだろう。本当に落とす気であれば完成した爆弾が、ゲ
ーリングの指示でベルギーに運ばれる時もロシアに向かって落とせば済む事だったし、
V1・V2ロケットに積み込んでも良かった筈だ。わざわざチェコに隠した理由がない
。また潜水艦であっても運べる頃の開発である。そこには忌まわしき放射能や最終兵器
としての悪魔的野心が無かった事の証明でもある。つまりヒットラーも又ナチス党の暴
走に止める術を持たなかったのだろう。ユダヤ人を収容所に入れたのは殺す為でもなく
当初は移動の為だったのだろう。だが衣食住が供給出来ない中では収容所は病人ばかり
になるのは当然だった。ベラスコ氏が言う言葉は根拠となる証拠はない。だが歴史真実
は変わる事はない。しかしナチスの「黄金列車」伝説にトレジャーハンター達が探しだ
した宝は恐らくトンネル内に隠した残りの新型爆弾であろう。今後発掘されればこれが
日本から来た設計かドイツから来た設計かが解るだろう。ともあれアメリカには作れな
かったのは当然の理由があり、日本やドイツが使えなかった当然の理由がそこにあった
。この事をよく人類は知るべきだろう。

899: 名無しさんAA:17/11/09 10:05
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 561----------

 世界人口は長く緩やかな増加を続けてきたが、19世紀末から21世紀に至るまで「人口
爆発」と呼べるほどのスピードで急増した。西暦1年頃に約1億人(推定)だった人口は
1千年後に約2億人(推定)となり、1900年には約16億5千万人にまで増えた。
その後の20世紀、特に第二次世界大戦後における人口の増加は著しく、1950年に
25億人を突破すると、50年後の2千年には2倍以上の約61億人にまで爆発的に増
えている。国連人口基金は、2011年に70億人を突破したと推計している。21世
紀初頭では、アジアやラテンアメリカをはじめとする多くの発展途上国で出生率は低下
してきており、世界の人口増加率は減少する傾向にあるものの、中東やアフリカ地域の
出生率は依然高く、人口増加は続いており、西暦2038年には90億人を突破、さら
に2056年に世界の人口は百億人に達することが見込まれている。しかし世界の人口
増加率は1970年の2%をピークとして減少し続けており、人口増加は続くものの、
人口爆発の危機は遠のいたとされ、今後は世界レベルでの高齢化、人口ボーナスの活用
、地域間の格差と移民が人口問題の焦点になってきている穀物の生産が増加したことが
、人口増大の制約を緩和したという見方がある。イギリスにおける農業革命や、20世
紀における自由貿易の進展のほか、1944年に始まった緑の革命により穀物は低コス
トで大量に生産されるようになった。これが発展途上国における人口扶養力の増大をも
たらした。と考えられている。大陸の人口は幾度も増加と急減を繰り返してきている。
まず、統一的な政権が生まれ統一的な政策が打たれることで、生活の改善が図られ人口
増大が始まる。人口増大と生産増大はやがてずれ始め貧困が発生する。飢饉と世直しを
目的にした内戦により人口が急減する。また統一政権の下で人口増大が始まる。このよ
うなサイクルが繰り返されてきた。特に砂漠のある地帯の中国や中東やアフリカなどで
躇著にそれは現れている。一般に産業革命で人口爆発が起こったと考えられるが、格差
の広がりで生命の危機とされる悲壮感が漂う社会が或る時は、よく子供が増えるようだ
。アフリカ基金などと言うのは欧州の間違った考え方だ。アフリカを救いたいとするな
らアフリカに入り共に生活し、その上で意識革新と技術提供とをすべきで、闇雲に資金
や食糧を提供すればいいと言うのは思い上がりで、政権に武器提供して喜んでる資本家
の馬鹿と同じである。我々が観光旅行でもTVCMの飢餓を救う映像でも、我々が故郷
や生活に生活基盤があるからであって 何も今の様な日本の中に格差を産み貧困がある
中で募金する馬鹿がいると全く腹が立つ程だ。そうした西洋式の考えは改めるべきだ。


900: 名無しさんAA:17/11/09 19:34 ID:XMs
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 562----------

 今無駄な夜景の風景が美しいなどと盛んにPRしている。旅行がいいイベントがある
と言っては食レポートなどと称して 映像を映す。これが全く卑しいTVにしている。
かつて、自分の親の歴史も知らない堤とか言う坊ちゃんがNHKのテニス選手権が時差
があって困る実況中継しろ。などと言って迫っていたが、本来の日本人は自分のやるべ
き職務を正確に知っていた。ところがどうだ、今の日本に経営の意味を知る経営者が、
一体どれだけいるだろうか。政治家に至っては皆無ではないか。それがTVメディアの
馬鹿さにある。著作権限でもそもそもJASRAC側には著作権限はない。あくまでも
作曲家や作詞家による曲に彼らの代理請求者としての集金が任せられた事務団体であり
彼らが音楽教室や映画館やホールでの物真似イベントまでに請求できる筋合いはない。
彼らの事務所は公共福祉に携わる。と言う趣旨で社会的に存在しているのであり、もし
そうした教育的配慮や社会常識がない集団であれば例え事務所の方針であっても詐欺罪
が適用される。それは当然、国家の法律や、人としての社会生活の法律が適用されるか
らだ。そもそも今の裁判所自体が可笑しな発表や審判をしているが 現実主義の中であ
っても基本の国体の持つ理想は守るべきであり 野放図な権利意識は間違っているが。
はたして、世界的にそうした人間しかのし上がっていない。ここにヒットラーや天皇の
苦悩があったのかも知れない。だが今の日本人のリスクを取らない大企業病は逆に大き
なリスクを取っている。三洋やシャープでも東芝でもリスクチャレンジャーでもないに
も関わらず世界に抗せず今やかつての覇様や意気込みはない。今や市や町は全く行政を
しない自治体になっている。ヘイトスピーチにしろセクハラにしろパワハラにしろ、昔
は良識があっての悪口だったし それなりに言った者や行った者も恥ずかしさがわかる
文化であったし そうした者はまず社会的制裁を受けた。だが第二次世界大戦からは、
人が変わった。全くやっている事に教育は行き届かず責任も知恵も無かった。わずかに
東京裁判において、悪くもない時代に流された者はこの戦争責任と言うより敗戦の責任
によって自殺したが、本当の悪い者は生き延びて財産を築いた。それが政治寄り実業家
達であり、吉田内閣から繋がる鳩山や安倍や麻生から戦後内閣である事は間違いない。
本来なら教育があって日本の基盤がしっかり出来てやれるものが 結局は何もやれなか
った。敗戦後は彼らは悲惨さ故に日本の立て直しに真剣に取り組んだだろうがそれだけ
の事で戦前以上の教育水準も江戸期以上の思想の支えも明治期以上の生活も造れなかっ
た。あったのは技術革新による大きな恩恵のみで電気水道ガス道路などの贅沢な生活で
ある。勿論それが何もない戦後世代の夢ではあったろう。だが本当に何もなかったか。

901: 名無しさんAA:17/11/10 16:18
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 563----------

 実は多くの江戸から培われた文化があったのだ。自然を愛して中国やアフリカなどの
禿山を持たなかった。勿論戦時中にかなりの部分で伐採はされた。しかしそれでも雑木
ではなかったが、植林はしていたのである。更に思想的共生能力である。更に中国人や
朝鮮人と違って日本人は海洋人で良く魚を食べていた。明治時代までは日本人以外生魚
を食する人種はいない。それは山葵を持たず、フグで良く死んでいたからだ。朝鮮半島
が海に囲まれていて魚を食べて良さそうだが海賊や津波などで日本人が住み着くまでは
どういう訳か全く食べてはいないし海岸には住み着いては居なかった。汚らしい市内の
糞尿がそのまま流れ来た性もあるかも知れない。ビショップ夫人著「30年前の朝鮮」
よると「市民は地上に瓦または藁を並べた平屋の下に潜り込んで生活している。いや、
不潔な道路に蠢動していると形容した方が良いだろうか。その道路は広くても二頭の馬
が並べるほどではない。狭いところで大きな荷物を担いだ人が通ると、それだけで往来
を塞いでしまうほどである。道路のはしには悪臭が辺り一面臭ってくる溝があり、路面
は埃まみれの半分裸の子供達と、猛悪な犬とによって占領されている。」「下水道は、
市内の汚水を昼夜絶え間なく城外へと排せつしている。そのため、下水道の泥は真っ黒
で、遙かな昔からの汚水によって染められ悪臭を空気中に放散して旅人を悩ましている
。ソウルは汚いことと臭いことでは世界一である。」と百年前の朝鮮を書いている。又
イザベラ・バードは「商店も概してみすぼらしいのは同じである。在庫品全部買っても
6ドル程度の店が沢山ある。・・・何も特徴がないのが特徴である。・・・の他にある
安価な灯油ランプ、手鏡、安物臭い花瓶などといった外国製の不要品から一番くだらな
い物ばかり選んできたような品々は、どれをとっても悪趣味の極みとしか言いようがな
い。」と評した。フランス人宣教師シャルル・ダレ「朝鮮事情」では、抜粋しても全く
その姿は同じだ。1871年から、1872年にかけて、驚くべき飢餓が朝鮮半島を襲
い、国土は荒廃した。あまりの酷さに、西海岸の人々のなかには、娘を中国人の密航業
者に一人当たり米一升で売るものもいた。北方の国境の森林を越えて遼東半島にたどり
着いた何人かの朝鮮人は、惨たらしい国状を絵に描いて宣教師達に示し、「どこの道に
も死体が転がっている」と訴えた。しかし、そんなときでさえも、朝鮮国王は、中国や
日本からの食料買入れを許すよりも、むしろ国民の半数が死んでいくのを放置しておく
道を選んだのである。

902: 名無しさんAA:17/11/10 16:19
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 564----------

 統治時代の道知事であった朴栄は自国の事につぶやいている。公平無私なる観察を下
すならば、いくら日本の朝鮮統治に反対しても善政は善政に相違なく、如何に伊藤博文
公を毛嫌いしても公の真意には感謝せざるを得ない、とはある評者の言であった。究意
するに韓国を亡ぼしたのは日本でもなければ之を責めるにも当たらぬ。また当時の李・
完用始め自余の責任者でもなければ之を攻撃する事の必要もなし。又朴泰赫は、「日本
人地主は、韓国人の小作人の間で、きわめて評判が良かった。日本人がやってきてから
、改良された堆肥を奨励したし、化学肥料が配給されるかたわら、改良品種や、進んだ
農業技術を導入したので、収穫が増えたし、農地開拓と河川整備を進めたので、村人の
生活水準が大きく向上したからだ。それに日本人地主は、昔の両班たちよりもはるかに
寛容だった。両班のように小作人(ソチクイン)である常人を理不尽に苛めるような事
が全くなかったし、不作のときには、小作料を安くしてくれた。日本人地主のほうが、
物わかりがよかった。だから、日本人の地主は人気があった。みんなは、韓国人の地主
の小作人となるよりは、日本人地主の小作人になりたがったのは、当然のことだった。
日本人のもとで働いていた常人たちは、羨望の自で見られていた。日本人が所有してい
た農地は、独立後に、「敵産」(チョクサン)としてすべて没収された、しかし、日本
人が今日の韓国農業の発展の基礎をつくったことは、否定できない。」と書いている。
日本に留学していた金文輯は、数千年にわたる過去の朝鮮の、ことに李朝五百年史だけ
をとりあげてみても、完全独立の道などは一場の夢にすぎないことは、わが朝鮮自身の
常識である。いわんや、最近50年の世界史相を展望するとき、朝鮮が微弱なまま一度
自立してみようというのは最初から問題にならないのである。と日本政府に言っている
。基鎬(加耶大学客員教授)は十九世紀から二十世紀初めの帝国主義、列強諸国の時代
、暗愚の李朝両班階級は、その挑戦に直面、固唾を飲んだままで無為無策だった。その
失策は、あらためて糾弾すべきであって、日本帝国主義の植民地へと転落したことにつ
いて責任を他国のせいにすべきではない。大いに反省すべきなのにもかかわらず、今日
に至るまでいつまでも錯誤を放置、愚純の感情に委せているわけで、今日のような歴史
の初段は、当然再発すること、火を見るより明らかである。と日韓併合に反対したのだ


903: 名無しさんAA:17/11/10 16:19
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 565----------

 高麗大学教授 金鉉球・鄭大均は、わが国の中・高等学校教科書を見ると、百済・高
句麗・新羅三国の文化が日本に伝えられた話が出てきますが、その内容は日本古代史書
である「日本書紀」を土台にしているもので、わが国の史書にはありません。(そもそ
も韓国に古代の文献はほとんどない)ところが、日本の学者が「日本書紀」を土台にし
て、古代日本が二百年余り朝鮮半島南部の伽耶(日本名任那)地域を支配したという「
任那日本府説」を主張すると、韓国の学界ではそれは信じることができないと主張して
いる。これは明白な矛盾であり、こうした姿勢ゆえに日本の学界が韓国の学界を軽く見
るのではありませんか、という身の程を知らぬ質問をしたのだが。そしたらL教授は黙
り込んで答えず、横に居られたC教授が「自信がないんだよ」とおっしゃった。「日本
書紀」には日本が「任那日本府」という機構を置いて朝鮮半島南部を支配しつつ、三国
文化を運んでいったようになっている。しかし、韓国の中・高等学校では三国文化が、
日本に伝播される国際関係に関しては何の説明もされず、ただ高句麗・新羅・百済の、
三国が日本に文化を伝えた事実だけを教えている。そこで学生達は日本を客観的に理解
できずに、無条件、対日優越意識だけを助長する結果をもたらせた。 外国に出かけた、わが国の学生が「任那日本説」に接して戸惑うのも無理はない。「漢城の風雲と名士」
細井肇 著(『政治史』第77巻、豚犬的生活五より)「韓国内地を旅行すれば、路傍
や街路中に累々たる黄金の花(人糞の比喩)が場所も構わずにあちらこちらに咲き乱れ
いて、足の踏み場もなく潔癖な人は一目その不潔さと臭気の酷さに驚くのである。・・
・(中略)・・・現に、この国(韓国)の中央都会である京城(ソウル)のような、「
韓国の帝都」と言われる都市でさえ至る所に人糞や牛馬糞を見ないことはなく、辺りに
漂う恐ろしいほどの臭気は人の鼻を襲い目を顰めない人はいない。さらに京城市内(ソ
ウル市内)を流れている川には、そこに隣接する各家々から排せつされる糞尿が混じり
、川の水は黄色に染まり、ドロドロとなっているなど目も当てられない光景であるが、
韓国人はその水を洗濯に使っている。全く持ってとんでもない話である。毎年夏期にな
ると京城(ソウル)では伝染病が流行し、その伝染病にかかる患者の殆どが韓国人であ
り、大流行時には何千人もの患者を出すことも珍しくはない・・・」



904: 名無しさんAA:17/11/10 16:19
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 566----------

(『朝鮮における司法制度の近代化の足跡』友邦協会編より)元京城控訴院判事 山口
真昌氏の1908年6月の証言では、「道路は非常に狭く、しかも糞尿は至るところ道
ばたに落ちているという有様でした。井戸水は混濁していて、風呂に入れば茶色の湯で
、かえって身体が汚れるような感じで、飲料水は石油の空き缶一杯で何銭(当時のお金
の単位)で買ってきて使用すると言う状態で(要するに飲料水は買わなければならなか
ったと言うこと)、電灯は今だ一般の家庭には普及しておらず、私たちが当時借家とし
ていた家にはその設備(電灯)が無いためランプを使用しておりましたが、冬になると
寒気が激しく、石油が凍って段々と光りが薄暗くなり、仕事が出来ないほどでありまし
た。」朝鮮半島に渡った日本人は、常にこうした光景を見ていた。又日本に来た留学生
も母国に帰ろうとしなかった。こうゆう中で日韓併合を押し付けられていた。伊藤博文
が反対するも 隣国として善隣友好やアジアの独立共和の観点からも おしなべて賛成
であった為、その調査に再度大陸に渡りロシアと権益の調整と現地調査にハルピンに降
り立った。ところがソ連支援に傾いて後その郷土を追われた李氏朝鮮の反逆者がいた。
こうしてロシアに洗脳されたテロにより狂凶の者に伊藤博文は倒れたがそれでも日本は
日韓併合を果たして、自国の国家予算と同じ借金を海外に国債を発行して国家建設に乗
り出した。朝鮮総督府はすぐさま政策を打ち出しとりかかった。併合時(1910)〜終戦時
(1945)を比較すればおよそ無から先進国並みに変えて言った事がわかる。教育の普及は
ほぼ皆無 → 小学校5,213校建設、生徒数2,389,135人。京城帝国大学創設(1924)、旧ソ
ウル師範学校(現ソウル大学)、梨花女子大など1000校以上建設。朝鮮国民に教育を実施
し、就学率を61%まで高めた(1944) 更にわざわざ古典ハングルを整備し体系化させて、
漢字、日本語と共に普及させた。こうして識字率  3-8% → 80%になり、人口も大きく
1313万人 → 2,512万人(1944)に変わった。平均寿命も延び 24歳 → 56歳、鉄道も新た
に敷いた 3,827km敷設。耕地面積 246万町歩 →449万町歩。水田面積などは 84万町歩
→162万町歩(1928)と飛躍的に伸び、石高(米の生産量)約1千万石 →2千万石(1930)
反当たり収量 0.49石 →1.49(3倍)、植林 禿山に30年間で5億9千万本を植林、た
め池(韓国国内のため池の半分は、いまだ日本帝国謹製)朝鮮の不統一な度量衡を統一
し、貨幣価値の安定と物資の流通に資した(モノを受けるときは大きなマス、売るとき
は小さなマスを使っていたリャンバン特権剥奪した)地籍の整備 耕地を耕作者の所有
とみなし、朝鮮の大多数を占める農民の地位と生活を向上させた。

905: 名無しさんAA:17/11/10 16:20
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 567----------

この最も地球上で異常な文化を持っていた。凡そ人の文明とはかけ離れた 朝鮮半島に
、人身の自由、私有財産の保障、法のもとの平等を導入、幼児キーセンと呪術的医療の
禁止。李氏朝鮮の残虐な拷問を廃止(日本人相手に殺人を犯した金九でさえも一年半で
刑期を終えるように罪刑法定主義を徹底)家畜階級にあった朝鮮女性に対して名前をつ
けるように要求し、家長の権限を制限洪中将、金ウンソン少将など、朝鮮人を分け隔て
なく扱い、軍の高位に抜擢。などなど数多くの公共施設と社会資本を建設し施した。こ
の事で強盗件数は、昭和2年1771件。昭和7年1261件。昭和12年727件。
昭和17年 394件、とへり これまで薪により禿山になって災害が生まれて居た地
にも住めるようになったのである。日韓併合後、日本は朝鮮半島を日本本土と同じと考
えて、日本国民の莫大な税金を注いで、朝鮮を近代化させた。日本の敗戦後、韓国はア
メリカによって独立し結果的に日韓併合は日本に多大な経済的損失を被った。現在にも
この時行った治世は今の韓国に数多く残し併合時に先進国に入らない姿勢では 閑散な
ツングースの森よりも悪い いつまでも災害の続く砂漠が出現していたであろう。この
朝鮮半島の悲劇は中国の属国として甘んじ、決して世界を見ようとしなかった事にある
。その頃までロシアも中国も朝鮮を襲って来なかった。襲って来るのは中国王朝を建て
たモンゴルか海を渡った日本でしか無かったと言うのが朝鮮人の意識だったのだろう。
今や嘘の歴史小説が朝鮮国内で横行している。朝鮮通信使とは、室町時代から江戸時代
にかけて李氏朝鮮より日本へ派遣された外交使節団である。正式名称を朝鮮聘礼使と言
う。江戸幕府においての朝鮮通信使は琉球使節と同様に「貢物を献上する」という意味
を含む「来聘」という表現をもっぱら用いており、使節についても「朝鮮来聘使」・「
来聘使」・「朝鮮聘礼使」・「聘礼使」と称し、一般にもそのように言い扱いも裏門の
通行許可であり外様大名より下と見られていた。それは琉球王朝が薩摩に従う王朝であ
り、アイヌが松前藩に従う民族であり、朝鮮も又壱岐対馬の宗家が扱う民族とされてい
たのだ。アイヌ人の場合も琉球人の場合も或いは他の南方から来た民族でも土人として
の誇りや言語を持っていた。しかし朝鮮人の場合は、それを持たず常に宗家が傍で話し
文書をしたためていて、足利氏や秀吉や信長或いは家康にいぶかしく見られている事が
わかっている。近代のDNA研究によってそれらの理由が解る様だ。



906: 名無しさんAA:17/11/10 16:20
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 568----------

 それは、不思議な事にアイヌ人の源流はアムール川下流域に住むモンゴロイドの少数
民族であるとされるが、ツングース諸語ともアイヌ語とも系統を異にする、固有の言語
ニヴフ語を持つ民族でDNA配列でもツングース族でなくモンゴル族とされる。古くは
ギリヤーク人と言われ、アイヌやウィルタと隣り合って居住していたが、ウィルタ語の
属すアムール川流域のニヴフ語と樺太のニヴフ語は大きく異なる。又、頭毛の形状も、
体毛の発達、瞼の形態、指紋型や湿型耳垢の頻度などでは、ネグロイド、コーカソイド
、オーストラロイドなどとの共通性が認められるが、様々な遺伝子の研究は、アイヌは
遺伝的にこれらの人種とは隔たりが長く、東アジアのモンゴロイドと系統的に最も近い
ことがわかっている。だがアイヌが新モンゴロイドの固有派生形質を獲得していない、
すなわち現生人類の祖先形質を残しているためである。形質的には古モンゴロイドとさ
れ(アイノイド)に属すとされ、また縄文人もアイノイドに属していたと考えられる。
アイノイドとは、1775年にドイツ人の人類学者ブルーメンバッハによって分類されたと
言う、五大人種(コーカシア(白人種)、モンゴリカ(黄色人種)、エチオピカ(黒人
種)、アメリカナ(赤色人種)、マライカ(茶色人種))に基づいて使用されるように
なった用語から来ているが、数世紀前の古い分類であり全く最新の科学的な根拠には基
づいていない分類である。だが近年のDNA研究で新たに人類の樹を作り分類を始め、
世界の18人類集団の遺伝的近縁関係の23種類の遺伝子の情報をもとに近隣結合法に
よって作成された人種の遺伝的近縁図が作りだされた。この分析が証明する人類集団の
系統図は、アフリカン(ネグロイド)からコーカソイド(白人)が分岐し、コーカソイ
ドからオセアニアン(オーストラロイド)・イーストアジアン(モンゴロイド)が分岐
、そしてイーストアジアンからネイティブアメリカンが分岐した、と云うものである。
この人類集団の近縁関係は上記の遺伝的系統樹と現在の人類集団の地理的配置に一致す
る中で、新たに古代モンゴル種の一部としてアイノイド系と言う分類がなされた。しか
しこれが 現代の多くの日本人である主流の大和民族より琉球民族の方がアイノイドの
古代モンゴル族の血が濃くアイヌに近かったのである。



907: 名無しさんAA:17/11/10 16:21
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 569----------

 ところが韓国人研究チームが従来のヒトゲノム(人間のすべての遺伝情報)にあった
190個の空白のうち105個(55%)を明らかにし、世界で最も正確なゲノム解読
結果を出した。特に韓国人のゲノム配列をほぼ完ぺきに分析した。韓国人の体質に合う
新薬開発などに活用できるとみられる。と発表しながらも「アジア人の標準ゲノムとし
て未来の精密医学に使用できる医学用の標準ゲノムだ」と評価して韓国国内の標準ゲノ
ムは一般公開していない。韓国人の遺伝子の特徴については韓国人の8割に欠損DNA
が数多くあると発表された。その後日米欧と中国が協力して人間のゲノム(全遺伝情報
)を初めて解読した「国際ヒトゲノム計画」の資料を保存する取り組みが始まった物が
欧米の機関が先行し、日本の東京大学も加わって国際ヒトゲノム計画は2003年に完了す
ると、次々と裏付け情報が流れだした。中央日報では「朝鮮民族特有の精神病に関する
遺伝的特徴が明らかに、南鮮型精神分裂病の遺伝的要素を発見」と報じ、ウルサン医大等の
研究で体内のカテコールーoーメチル基転移酵素遺伝子の一塩基変異多型を調べて、72番のアミノ酸が
アラニンからリン酸に変わる時に精神分裂病の危険性が高まる事を突き止め、南鮮人の精神分
裂病患者にのみ現れる遺伝子の変移としてアメリカ学術誌「ヒューマンギェナティックス」にも掲載され
ている。米人類学者C−Sforzaの、遺伝子勾配データによれば、朝鮮人は世界で
も類を見ないほど均一なDNA塩基配列の持ち主であり、これは過去において、大きな
少数の人が近親相姦を重ねて今の人口動態を形成したか、あるいは近親相姦を日常的に
繰り返す文化の持ち主だった事を表す。韓国では、昔から若くて綺麗な娘達は中国に献
上されていたので、女性が足りず近親相姦が繰り返されてきた。遺伝子レベルで見ても
「父と娘」「母と息子」が結ばれないと出来ない遺伝子が大多数見つかっている。韓国
人が食糞したり、国民の70パーセントに精神障害(火病)が見られる。という。ドイ
ツ人ゲノム担当科学者は、朝鮮民族は近親相姦のものと思われるゲノム上の痕跡である
修正不能が多すぎて、他の民族では考えられない異常な近親相姦を、民族として繰り返
してたと思われるあまりにショッキングで常軌を逸した内容なので、そのゲノムの発表
は出来ない。また、朝鮮人男性の40%に発症すると言われる統合失調症も、それが原
因である可能性が大きい。異常な民族と言わざるを得ない。と発表を控えた。「韓国人
個人ゲノムプロジェクト(KPGP)」の一環として20人の韓国人ゲノムを分析した
結果だった。人間の遺伝子は30億個の塩基で構成されており、今回のプロジェクトを
通じて876万個の遺伝子変異を発見した。このうち184万個は既に発見されたもの
と違い今回新たに発見された変異だったのである。

908: 名無しさんAA:17/11/10 16:21
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 570----------その中でも6万三千個余りの変異は20人のうち13人から共通して発見されたもので
、韓国人特有の遺伝子変異と解釈される。こうしてわかった韓国人特有の変異は、病気
に関連した遺伝子から身体特性に関するものまで多様だった。代表的なものが辛い味を
好む韓国人の特異的変異だ。20人中6人から共通で発見された変異で、唐辛子の辛さ
の成分のカプサイシンによって活性化するたんぱく質と関連があることが明らかになっ
た。この変異によって機能が変わったたんぱく質が辛い味を好む韓国人の食生活習慣を
説明する端緒になると予想される。また、味噌・キムチのように醗酵食品が好きな韓国
人の特異な趣向遺伝子も出てきた。テラジェンイーテックスのパク・ジョンファ博士は
、「世界的に300件余りのヒトゲノム解読結果が公開されているが、大部分が西洋人
やアフリカ人、一部東洋人のもので、韓国人に対する遺伝情報は不備だった。今回6万
個余りの韓国人共通変異を発見したことにより韓国人のためのゲノム解読が可能になっ
た」と説明した。韓国人に対するゲノム分析結果は2008年12月から始まった。嘉
泉医大のキム・ソンジン教授が韓国人ゲノムを初めて完全解読し7月にはマクロジェン
が韓国人18人のゲノムを分析して英国の著名学術誌の「ネイチャージェネティクス」
に発表した。今回行われた韓国人20人のゲノム分析はこれまでに行われたプロジェク
トで最多人員だ。今回のプロジェクトの特徴は韓国人遺伝子変異を明らかにするのに、
クラウドコンピューティング技術を初めて導入した点だ。ヒトゲノムに存在する30億
個の塩基配列情報量は120ギガバイトに達するが、通常1人の塩基配列情報を分析し
結果を保存するのに8コア級サーバー10台を1週間稼働させなければならない。しか
しクラウドコンピューティングサービスを活用すればハードウェアを増設しなくても、
大規模にいつでも必要なだけ利用することができる。2008年に6カ月かかった作業
を今回は40日で終わらせたのが目立った成果だ。KTとテラジェンイーテックスは、
さらに多くの韓国人ゲノム分析のため現在70人の血液サンプルを確保した。KTのオ
・セヒョン新事業戦略担当常務は、「多数のゲノムデータが集まってこそ個人オーダー
メード型医療に必要な情報を知ることができ、これを調べるのにクラウドコンピューテ
ィングのようなシステムは重要な道具だ」と話した。 韓国人の特徴はこのクラウドの
世界のビックデーターの分析で数多くの結果が出て居るが、こうした偏狭者の事件が、
日本で数多く起こっている事は韓国人を入社させたり韓国流のTV放送で事件が起こっ
ているとも言われている。米国の連射事件でも話題になったが中国流で言えば医食同源
の表れであろう。「近づくな朝鮮人に」と言うのが、歴史的にも日本人の本音であった
ろう。

909: 名無しさんAA:17/11/10 16:22
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 571----------

 クラウドコンピューティングは多様なソフトウェアやデータを個人や会社の情報保存
装置に入れずウェブ空間に置いたまま必要な時に呼び出すインターネットコンピュータ
ー環境だが、費用を節約し業務の効率を上げることができる。韓国人のサラリーマンの
90.18%が「火病(ファビョン)にかかったことがある。」との調査結果がまとまった。
「火病」は、怒りやストレスを溜めこむことで発症する、韓国人特有の精神疾患と言わ
れている。悔しさや恨めしさがこみ上げたり自殺願望が高まったりするほか、パニック
障害や食欲低下(拒食症)、不眠症、不安感やうつなどでひどく落ち込んだりする。日
本でいう、うつ病や対人恐怖症に似た症状を引き起こすようだ。かかった理由、「職場
での人間関係にともなう葛藤」が最多韓国で「火病」にかかったサラリーマンは9割に
のぼる。韓国の就職ポータルサイト「キャリア」が、448 人の韓国人サラリーマンを対
象に実施したアンケート調査で、「職場生活のなかで火病にかかったことはあるか」と
いう質問に、90.18%のサラリーマンが「ある,」と回答した。中央日報日本語版が「韓
国人の火病急増、サラリーマン90%が病む... その原因は?」の見出しで、2015年1月
28日に報じた。火病(hwa‐byung)は鬱火病ともいわれ、米国精神医学会でも1995年か
ら認めているという。アンケートによると、火病にかかった理由のうち、1位は「上司
や同僚との人間関係にともなう葛藤」で63.80%を占めた。「業務の多さや 成果に対す
るストレス」が24.89%と多く、「人事考課に対する不利益」(3.62%)や「早朝出勤
や夜勤による睡眠不足」(3.17%)、「解雇やリストラに対する不安感」(2.71%)と
続いた。また、「火病はどのような形態で現れるか」との問いには、34.68%が「慢性
疲労を病んでいる」と回答。「躁鬱症」が19.02%、「脱毛」が12.30%を占めた。「呼
吸困難」(6.26%)や「パニック障害」(4.25%)との回答もあった。この結果に、日
本のインターネットユーザーからは、“「韓国は頑張った者が報われない、正直者がバ
カをみる社会ってこと」「韓国人って無駄にプライド高くて、自分たちを客観的に見る
ことができないってことだよね」といった声がある。火病の原因の一つには、辛み成分
の「カプサイシン」の過剰摂取がある、とされている。この成分が舌や胃、さらには脳
に損傷を与えるといわれ、うつやパニック障害などを引き起こすとされる。火病を抑え
るには「カプサイシン」の摂取を控えることに加え、職場での悩みやストレスを解消す
ることが大事になるとみられる。


910: 名無しさんAA:17/11/10 16:23
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 573----------

 「女は子を産む道具でしかない」朝鮮での、「道具(女)が不良品(不妊症等)であ
ってはならない。故に、「これこの通り、妊娠できる体でございます。」ということを
証明するために、妊婦になってから嫁がせた。父親が子供が出来ない場合「種男」とい
う男に娘を犯させて、わざわざ妊娠した状態で輿入れさせるのが習わしだったのだ。」
だがこの「試し腹」も、産まれてくる子供は、当然夫の血を引いていないため、妻と同
じ奴隷的な身分しかなく、結婚はおろか大人になるまで成長する者も稀だったと言われ
ている。自分の娘を血縁の近い男(兄や叔父)に妊娠させて、妊娠できる女と証明させ
てまでも、嫁がせるのには他ならぬ貧民の顔があった。この悪しき習慣を日帝は禁止し
た。しかし朝鮮時代の悪しき風習だと言ったのは日本などの西欧文化人だけで、朝鮮人
のそれも貢物として女性を受け取る位の高い者はそうは映っていなかった。中国の南北
朝時代や唐代の説話集『二十四孝』や『日記説話』によれば、南斉時代に、黔婁と言う
役人が不安に襲われて急遽帰郷すると父親が病気になっいて、医者に糞を嘗めて見ない
と状態が解らないと言われ、実際に糞を嘗めてみた結果、その味が甘かったので憂いた
とされ、これが儒教における孝行の一種「嘗糞憂心」の説話となった。こうした説話な
り仏教なり儒教なり朱子学なりを広めようとしたが、恐らく朝鮮人には理解不能だった
のだろう。今でも壱岐対馬の盗んだ仏像を祀って仏教を説く仏師がいるなどと言う馬鹿
さであるし、司法すらも考えられない馬鹿さである。この異常さはフン族独特の物だっ
た。、蔚山(ウルサン)科学技術院(UNIST)ゲノム研究所は国際学術誌で、韓民族(
=朝鮮民族)は、3〜4万年前に東南アジアから中国東部の海岸を経て極東地方に流れ
込み、北方人となった南方系の狩猟採集民と、新石器時代が始まった1万年前に同じ経
路で入ってきた南方系の農耕民族の血が混ざって形成されたと発表した。頭がい骨の、
ゲノムを解読・分析したところ、悪魔の門の洞窟人は現地に定着した南方系人で、韓国
人のように茶色い目とシャベル型切歯の遺伝子を持っていたことが明らかになったのだ
。また彼らは、牛乳を消化できない遺伝変異や、高血圧に弱い遺伝子、体臭が少ない遺
伝子、耳たぶの薄い遺伝子など、現代の東アジア人の典型的な遺伝特性も持っていたと
いう。ゲノム研究所のパク・ジョンファ所長は近くに住む「ウルチ」族の先祖で悪魔の
洞窟人は韓国人の祖先とほぼ同じだと言える」と話している。つまりウクライナとモル
ドバにまたがる地域での放牧民であったというのだ。

911: 名無しさんAA:17/11/10 16:23
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 574----------

 英国の旅行家イザベラ・バードは「朝鮮人は日本人よりも体格がよい。約10センチ
の差がある。朝鮮人に物を教えるとすぐに覚えます。朝鮮人は物覚えがよくて、見た目
もよい。」と言っている。「但し異常だとも言える。」朝鮮は昔、毎年3000人の美
女を宗主国に献上してきた事実がある。結果、女性不足となり性の対象として家族姉妹
にまで手を出す風習が出来た。しばらくして、劣性遺伝子が表面化し、現在においても
なお日本人の2倍以上の奇形児が生まれてしまうという悲惨な結果をもたらした。当時
、性欲の処理に困った配偶者のいない朝鮮男は、大量の美女を宗主国にとられ、残りの
醜い女、奇形、白痴まで強姦し妊娠させてしまう。これを属国であるが故の悲劇として
だけでは語れない部分がある。何故なら現在においても、韓国における強姦の発生率は
突出して高いのである。単純に過去の問題としてのみ捉えることはできないのである。
又遺伝子的に日本人と韓国人は赤の他人と近頃判明した。日本人はY染色体DNAのD
系統を高頻度で持つ事で有名である。世界的にもチベット人や中近東の人だけにがこの
DNAをもっているが、他の世界のどこにもほとんど存在しない。さらに日本のすぐ近
くの朝鮮半島や中国人などは南方系O系統であり、孤立したD系統を持つ日本人の異質
さが際立って見える。またこのD系統は、アジア人種よりも地中海沿岸や、中東に広く
分布するE系統の仲間であり、Y遺伝子の中でも非常に古い系統である事が解っている
。東アジアの地域全体には南方系O系統が広く分布し、島国の日本や山岳のチベットに
のみD系統が残ったと考えられる。D2系統はアイヌ人88%、沖縄人56%、本土日本人
で42〜56%(参考までチベット33%)で、韓国ほぼ0%であるのだ。アイヌには南方系
O系統は無く、完全なD系統であり、本土日本人と沖縄人には南方系のO系統が混ざっ
ている。それでも本土日本人のD系統は半数以上である。つまり事実上アイヌと、本土
日本人は大差がなく、アイヌに南方系を足したのが本土日本人となる。結論として日本
人は基本的に共通して、アイヌ人〜本土日本人〜沖縄人までD系統(北方古モンゴロイド
)がベースになっており、日本人の3集団が持つD系統を持たない韓国人は赤の他人と
結論できるのである。

912: 名無しさんAA:17/11/10 16:24
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 575----------

アメリカとドイツの研究室で朝鮮人のDNAを分析していた杉弘工学博士は驚いたこと
を発表している。なんと朝鮮人のDNAは全く現代人では在り得ないものだった。「人
間とも言えない遺伝子が存在している。」と発表したのです。何故かと言うと、アメリ
カにおいて犯罪が一番多いのは朝鮮人です。レイプ・人殺し・銃乱射、etc‥。「何故
、朝鮮人はこんなに犯罪が多いのだろうか?」ということが、DNAを解明しようとし
た最初の動機です。これは世界各国とも同じです。今は遺伝子学がそうとう進歩してい
るので、わかってしまうのです。「強姦していません」と朝鮮人が言ってもDNAを調
べると、朝鮮人の精子がでてきてしまうのです。これで終わりです。遺伝子学の向上に
より犯人のDNAがわかってしまい、もう逃げられないのです。この結果、どうして、
このような凶悪犯罪者が多いのかと研究した結果、6万3千の人間にない、人もどきの
遺伝子が発見されたのです。「人類とは違う欠損遺伝子」と言われています。人間の持
つ遺伝子とは違うのです。ドイツの研究者は、「そのゲノムは発表できない」と言うく
らい悪い遺伝子です。ただ一つ言えることは、長年にわたり近親相姦を繰り返してきた
結果できてきた劣悪な遺伝子だとわかったのです。朝鮮人と日本人は全く違うのです。
外務大臣・東郷茂徳は朝鮮名、朴茂コの孫であった。東郷和彦も朝鮮人の遺伝子が代々
伝わっている。日本に来たのは400年前ですが、遺伝子は消えてなかった。同じ朝鮮
人の遺伝子です。遺伝子の研究により、人種の見方が変わってきたのです。「なぜに、
朝鮮人は火病なのか?」ということも日本人はわかってきたのです。朝鮮人と日本人は
遺伝子が全く違うのです。だから、仲良くはできないのです。「朝鮮民族は仲良くした
人間に食らいついて裏切る。」という性格を持つ欠損遺伝子の存在である。細胞の不協
和をする可能性が高いのである。普通なら養子でもらわれたならば、親を大事にします
。朝鮮人はその親を殺して財産を奪うという邪悪な遺伝子です。和夫一家殺害事件では
朝鮮人の養子13人が和夫夫妻を惨殺した、最近ではアメリカアイダホ州で、韓人養子
と推定される20代男性が銃を連鎖発砲し、自分の養母など3人を殺害、1人を重態に
した後、警察との追撃戦の結果、逮捕される事件が発生しました。犯人はジョン・リー
という韓国人です。朝鮮人は近親相姦もする遺伝子です。近親相姦とは、父と娘、母と
息子、兄と妹、姉と弟です。みんな関係を持つという邪悪な遺伝子です。日本人からみ
たら、こんなことはあり得ないのです。朝鮮人はこの遺伝子をもっているのです。それ
から嘘つきの遺伝子です。全く道徳観がない。それは細胞自体が不協和遺伝子をもつか
らと考えられている。

913: 名無しさんAA:17/11/10 16:24
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 576----------

 最近発見された人骨があった、アムール川流域に「悪魔の洞窟門」は伝説があった。
そこの洞窟群に人が住んでいた事は確かだが、そこが「悪魔の洞窟門」と言われる理由
はその洞窟の前を通った人間は、誰もがいなくなってしまう事だった。「あそこへ行く
な。あそこには悪魔が住んでいる。」というウワサが立って古い伝説になっていた。そ
の後、だんだん人が近よらなくなっていたのだ。何故、人間が近寄らないのかというと
、洞窟の中にいる連中は熊でも人間でも見つけると襲ってきては、食べてしまっていた
からだ。この連中は人間も食ってしまうし、犬も食ってしまうのです。何でも食ってし
まうので、そこを通った人間はいなくなってしまうのです。悪魔の門は、人間が恐れて
通れない所だった。そのような地域があり、恐ろしい場所が近年まであったのであった
。「この連中は一体何か。」という処が話題だった。DNA的に旧原人とも言えたのだ
。現代人をホモ・サピエンスとすると、悪魔の洞窟門の連中は現代人ではありません。
ホモ・サピエンスではない人達です。石器時代、新石器時代に洞窟の中に入って生き延
びてきた連中がいたのです。これが黒い山葡萄原人と呼ばれています。この科学的証明
に朝鮮人は文句が言えません。北朝鮮の歴史教科書でも書いあるのだ。写真入りで。「
俺たちは黒い山葡萄原人だ!」と自慢して言っている。「我々は猿人と現代人の中間で
ある。我々朝鮮人から現代人は生まれたのだ」と主張している。だから「朝鮮こそが、
人類の故郷であり、我らの先祖は偉大なる山葡萄原人だ」と言っているのです。山葡萄
原人はヒト科の種類であり、悪魔の洞窟門は地域です。そこに住んでいた山葡萄原人は
色が黒かったのだと思います。悪魔の洞窟から人骨が2体見つかり、20代の女性と4
0代の女性の人骨が見つかった。これが先ほどのDNAの検査をした骨だったのだ。驚
くことなかれ現代の朝鮮人と全く同じで、ウルチ族も悪魔の洞窟門の人骨と同じ遺伝子
を持っていた。ウルチ族はロシアに数千人しかいません。それも山葡萄原人が生き残っ
て、ロシアに出ていったのがウルチ族になり、満州から朝鮮半島に入り込んだのが朝鮮
人になったのだ。見つかった人骨は、約8千年前の人骨です。人類の数が少ない時代に
人類の中に紛れていったのです。その頃、朝鮮半島には穢族(わいぞく)がいました。
この俾族と山葡萄原人は結合したのでしょう。「地球上、これ以上汚いものはない」と
いうから(わい)というのです。「汚穢(おわい)」の「わい」です。


914: 名無しさんAA:17/11/10 16:25
 しかしながら、朝鮮人だと言って馬鹿にしていますが、体格は日本人よりもよいし、
強いのです。イザベラ・バードが言ったように「朝鮮人は体格がよい」。男は250s
担いで、女は150sの荷物を頭に乗せて運んだのです。朝鮮人は頑丈な体で全て土甕
です。素焼きの壺に水を満タンにして、毎日往復して運ぶので、自然に体格がよくなっ
てしまうのです。というのも生きた化石状態で文化や民族維持をして来たからだ。言わ
ば人類の野種と言えるまま現代まで来た。又 別に糞尿の処理についても日本やドイツ
或いはモスクワより北方の民族を除いては、バケツに盛った糞尿をアパートメントから
窓に捨てて居た。第二次世界大戦まではそれが日常であり、その為に香水や日傘などが
発明され、アルコールのビールやワインがバカ売れした。そうした事で脱げないドレス
が作られたのである。この糞族や俾族などは後から山葡萄原人や匪賊やエべンキ族など
と混同されるが確定的に種の違いや分布図は出来て居ない。大戦の影響で学術的調査が
不備だった為だ。だが女真族を追いやり、その女真族は航海の術を知っていたので日本
を奈良時代から明治時代まで日本沿岸の脅威になっていた事が解っている。この臭い一
族はドナウ川沿岸にもいたとされている。だがお腹が空けば、人間でも犬でも食べてし
まう習性や、犬食いの風俗と、汚らしいエベンキ人と文化同流だったから、どうしよう
もない民族として体制に組み込まれなかった。ともかく臭い物が好きで臭いのが一族の
誇りだった。それはエベンキ族と同じだったエベンキ人(山葡萄原人)が混血をして、
それで朝鮮民族の原型ができてきた。山葡萄原人は、前期人だから約束などという観念
は無かったと言われる。更にその匂いに於いて熊や狼の猟をしたと言われる。エベンキ
人はツングースのトナカイの放牧民だが、彼らは罠の定住民だったとされる。こうして
獰猛で野蛮な一族が人間を殺して朝鮮半島に入り込んでしまったのです。そのようにし
て、シナ人を殺して、女真族を殺して乗っ取り、ジワジワジワと朝鮮半島で占領してき
たのです。こうしたエベンキ人と糞族が合体して朝鮮人になったのです。だから嫌われ
ることなど、なんとも思っていません。クサイということも、「獲物さえ取れればよい
」という事だった生きる為に。「他の人がどう思うか」などということは、関係ないの
です。 朝鮮人が本当は滅びた種族であって、これだけデタラメな民族は現代人の中で
生きていたとは明治政府も知りません。約束してもすぐに裏切る、相手は武力で脅かす
、少しでもスキがあれば親戚でもぶっ殺して物を奪います。人間の肉は食らい、犬の肉
は大好物です。こんな人種と現代文明が付き合える筈はない。言葉が全く通じません。
そんな恐ろしい人種が隣国にいたのです。それが朝鮮人の先祖の流れだったのです。我
々は異人種だということをわかった上で付き合わなかったので大変な大怪我をします。
それが先の大戦だったのです。

915: 名無しさんAA:17/11/10 16:51
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 579----------
窮地がある。この朝鮮人を馬鹿に出来ない。今やDNA科学はデザインベビーまでを、
産むまでになったのだ。ヒトの遺伝子をあたかも化学物質のように、合成しようとする
研究を目指す研究者たちがいる。究極の生命科学ともいえるこの研究には、技術的にも
難関だが倫理的な命題「人間がクローンを作製してよいのか」が立ちはだかる。計画は
まだ検討中の段階であるが、DNA配列を変更できれば不利な体質や体の欠点を克服で
きることになる。人間が人為的な進化を遂げるともいえる行為がハーバードメデイカル
スクールで秘密裏に限られた約150名の研究者たちによって検討されている。出席者
たちはメデイアとの接触を禁じられている。このような試みの科学的に貢献が大きいと
主張する会合の企画者たちはヒトゲノム計画のフォローアップという位置付けととらえ
ている。しかし新しい計画は遺伝子配列の読み取りのみならず、書き込みを得る行為、
すなわち30億個の塩基配列を化学的に合成する次のステップを試みようとしている。
原理的には塩基配列の構成要素は簡単な分子であり、配列を制御して「組み立てる」だ
けのことではあるのだ。しかし、そのような手法が仮に可能になったとしても、この事
が「特定人物のクローン」を作り出す事なら人間に許される。と考える人は少ない。と
言うのも病気疾患の代替え臓器をも可能とするし、例えばアインシュタインと同じ頭脳
をもちたいと願う人は少ない。又不幸にして失った恋人や愛妻が蘇るとしたら、誰しも
新技術を願うかもしれない。この秘密会合に招待された遺伝学者の中には倫理的問題か
ら出席を辞退した人も多数いた。しかし企画したチャーチ教授は「趣旨が誤解されてい
る」と主張する。プロジェクトはヒトのクローン化を目指すものではなく、細胞レベル
の合成実験でDNA合成機能の向上のアカデミックな性格のものだと弁明している。又
出席者のメデイア接触を控えてもらったのも会合の中身を論文で公表するためだとして
いる。新プロジェクトはHGP2、”ヒトゲノムプロジェクト2”とされフォローアッ
ププログラムとなる予定だ。10年を目途にでヒトDNAを「細胞レベルで」合成でき
る技術の確立することと言われる。しかし会合後に正式名称は”人ゲノム書き込み合成
検討会”となり、書き込み、すなわちDNA合成を目標とすることが明確になった。題
し「NIH」である。代表はは時期尚早としてコメントを控えているが企業から関心が
寄せられている。今や存在しているDNA配列を意図的に変更する書き換えは薬の合成
はすでに行われている。これを発展させれば細胞レベルで全てを書き換えることも可能
になる。遺伝子全体を合成するよりは書き換え技術を発展させた方が容易だ。倫理的な
議論を早急に進める必要がある。と言われる。だが細胞の不協和音は人を殺人鬼殺人狂
を作りだす可能性は決して低くない。

916: 名無しさんAA:17/11/10 20:45 ID:SB6
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 580----------

 ――中国は眠らせておけ。目を覚ましたら、世界を震撼させるから――。これはナポ
レオンがそう警告した言葉であった。発したのは、200年前のことだ。そして今、中
国は目覚め、世界を揺るがし始めている。ところが、多くのアメリカ人は中国が農民中
心の後進国から「史上最大のプレーヤー」に変身した事の意味を知らない。又この事が
、日本人にとって何を意味するのか考えようとしない。その為、「トゥキディデスの罠
」について学んで、世界の今後や、日本の今後の対応を検討する事も有意義な事だろう
。トゥキディデスの罠は対ペルシャ戦争後、古代ギリシャ世界に勢力圏を拡大し始めた
頃の都市国家の事件だ。アテネに対するスパルタとその同盟国の不安と疑心暗鬼と反発
を描いている。アテネやその同盟国が防壁をもつのを、スパルタとその同盟国は見過ご
すわけにはいかなかった。それでも、スパルタは当初は静観しようとした。かつての、
米国のモンロー主義である。だがスパルタの意向を受け、スパルタの同盟国を中心とす
る諸都市会議は、アテネ使節団代表が会議で演説する機会を与えた為波紋が起こった。


917: 名無しさんAA:17/11/10 20:45
米国のモンロー主義である。だがスパルタの意向を受け、スパルタの同盟国を中心とす
る諸都市会議は、アテネ使節団代表が会議で演説する機会を与えた為波紋が起こった。
代表は、その席で次のように述べた。「我々は暴力をもって支配圏を獲得したのではな
い。諸君がペルシア軍の残留部隊に抗して留ることを望まなかった為に、同盟軍は我々
を頼りにして、統治権の設立を我々に依頼したのである。そしてまさにこの事態から、
初めはとくに恐怖から、ついで名誉のために、そして最後に利益のために、我々は今日
までにこの支配圏を統治するようにまず強要されたのである。……この一旦、与えられ
た支配圏を引き受けた以上は、体面と恐怖と利益の三大動機に把えられて我々は支配圏
を手放せなくなったのだ』(トゥキュディデス『歴史』小西治雄訳・ちくま学芸文庫、
上、69−70ページ)と かつての日本軍が満州国設立や日韓併合の様な事態だったのだ
。彼はここで、同盟国に対する信頼性(クレディビリティー)の重要性を言おうとして
いる。だが、その点に関してはスパルタも同じだった。アテネとの軍事対決に慎重だっ
たスパルタを動かしたのは、同盟国に対するクレディビリティーの要素だった。「主に
アテナイ(アテネ)の未曽有の海軍力とペルシア戦に示された彼らの勇気に怖れを抱い
た同盟諸都市にそそのかされたからであった」(同、上、79ページ)同盟とは、まこと
に恐ろしい取り決めである。それは、冷厳かつ厳粛な約束事である。同盟国は、そその
かす相手ではない。こちらも、そそのかされる存在であってはならない。同盟は、互い
の国益とリスクを冷静に評価し、戦略的利益をともに追求するため、体を張り、力を合
わせる真剣勝負である。だからこそ民族や国柄を見極める事は大事な要素である。中で
も日本がソ連邦に裏切られ、世界大戦に於いて大きく戦時中以上に敗戦時に悲惨事件を
起こしていた事を知っておかねばならない。特に同胞であった朝鮮人がソ連の手先とな
っての悪質な行為は、かなりの大きな負債を背負いその後も連合国軍だとして婦女子を
次々に暴行して人殺しして来た状況を忘れてはならない。



918: 名無しさんAA:17/11/10 20:46
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 581----------

 この後「トゥキディデスの罠」では覇権国と新興国の競争が構造的ストレスを生み、
通常ならやりすごせそうな事象をきっかけに破滅的な戦争がもたらされる。古代ギリシ
ャの歴史家トゥキディデスが、過去のペロポネソス戦争を観察し、新興国(アテネ)の
むしゃらな拡大が、優位性を失いたくない覇権国(スパルタ)の不安を招き、戦争を不
可避にしたと指摘したことに由来し、アリソン教授はこの力学関係を「トゥキディデス
の罠」と名付けた。正に大日本帝国や、ドイツ帝国が連合国軍相手に問答無用に戦争に
引きずり込まれた様に、陰に陽に引き込まれる現象が生じたのである。ハーバード大学
で指導する「トゥキディデスの罠」プロジェクトでは、過去五百年の歴史を調べては、
新興国が覇権国の地位を脅かした16件のケースを分析している。事例には、15世紀
末のポルトガル対スペイン、16世紀前半のフランス対ハプスブルク家、17世紀半ば
以降のイギリス対オランダ、19世紀末と20世紀初めの日本対中国とロシア、20世
紀初めのアメリカ対イギリス、20世紀半ばの日本対アメリカ、そして冷戦時代を通じ
てのソ連対アメリカ……などが含まれ研究された。それらの事例を踏まえ、米中の場合
も全面戦争になるときは一気にエスカレートして起こる、として以下今後の日本に5つ
のシナリオを挙げている。@偶発的な事故や衝突 A北朝鮮や台湾など旧属国の挑発 
B経済や外交問題での軍事挑発 C支配国の支配地域の独立 D周辺国での戦争や崩壊
である。つまり少しでも周辺地域や周辺国に異変があれば否応なく戦争に巻き込まれて
しまうのである。この状況を作ったのはそもそも馬鹿な自民党でありそれを拡大したの
は中曽根政権なのだ。これが「トゥキディデスの罠」である。かつて大戦中もこの風見
鶏的軍人がこうした危機を作ったのである。一方でアメリカに不沈空母を叫び一方では
中国を支援すると言う馬鹿さである。これを極端に行っているのが朝鮮政権だ。中道外
交で最大限のレバレッジ効果を引き出す。と聞こえはいいが結局日本で言う蝙蝠外交で
右に左の告げ口外交して自分の地位がさも偉いかの様な虎の衣外交だった。したがって
外交において、米国、中国、日本、そして北朝鮮のいずれとも関係が悪化した朴前政権
の経験は、実利はなく教訓しか残していない。「アテネの台頭と、それがスパルタに与
えた恐怖が、戦争を不可避にした。」トゥキディデスは、戦争した理由は、そのように
結論づけた。台頭する新興国の夢とプライド、挑戦を受ける覇権国の恐怖と自信の揺ら
ぎ、追う者と追われる者とのゼロ・サム心理こそが、均衡と安定の最大の敵だった、と
いうのである。このパワー・シフトジレンマを「トゥキディデスの罠」と名づけている


919: 名無しさんAA:17/11/10 20:49
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 582----------
だがこの失敗が教訓になったかも疑わしい。アジア通貨危機の際にも、国際通貨基金の
管理のもとで、財閥の解体などが進められたが、根本的な問題は是正されず、むしろ、
李政権は、政府主導で業種に財閥企業を核にして 海外市場を狙う積極的なグローバル
戦略が展開されている馬鹿さである。韓国経済に深く根を下ろす「疑似資本主義」体制
を変えることは容易ではないにしても、日本の様に 三権分立は必要で司法や行政など
の国際規格ぐらい順守すべきであろう。竹島に降立ち気焔を吐いた李政権を処罰せず、
慰安婦像も撤去せず、更には、抗日戦争勝利70年記念式典の軍事パレードにのうのう
と出席し、THAAD配備を理由に中国からの制裁である。今回も、康京和外相が国会
で、(1)米国のミサイル防衛システムに加入しない(2)日米韓の安全保障の協力は
3カ国軍事同盟に発展しない(3)高高度防衛ミサイル(THAAD)を追加配備しな
い−と言及し、米国の軍事行動に一方的に縛りをかけ、半島有事での「中立」を示唆し
た。これでは、南シナ海をめぐって米中が対立し、北朝鮮の核・ミサイル問題が深刻化
する中では「韓米日」の枠組みへと一応、回帰したとはいえ、日米からの、安保協力の
信頼性は全くなく、中国からも「最終段階高高度地域防衛」(THAAD)の導入や運
用開始に対する報復を受けても文句は言えない。文政権の「反日・反米・従北・親中」
という基本姿勢が現れて、トランプ氏が、韓国国会で北朝鮮を「囚人国家」「人権状況
は劣悪」「われわれを甘く見るな」と厳しく批判したのは韓国や中国への当てつけであ
る。文政権との距離は「米韓同盟の空洞化」は避けがたく、米国は教育的懲罰を与える
べきだが、朝鮮半島有事が現実化した今では韓国が“蚊帳の外”に置く事しか出来ない
だろう。当然である。これまでも、米軍の『作戦計画5015』が、北朝鮮のサイバー
攻撃で盗まれた事も本当かどうか解らない。一部の者の諜報売り込みかも知れないから
だ。米国側はこれまでも韓国側に不信感を強めていたが、文政権の対応にはかなり腹を
立てて『文政権を教育する』『目を覚まさせる』という意識で韓国に乗り込んだ」と明
かすが、外交音痴で国際感覚のない韓国人には効かない。これでは来年「民族の滅亡」
目の当たりにしても仕方がないだろう。問題はに「パックス・チャイナ」を創ろうとし
ている「新皇帝」となった習近平である。「新中国建国1 0 0周年のとき(2 0 4 9年)
までに、富強・民主・文明・和諧(調和のとれた)の社会主義現代化の国家を、必ず作
ってみせる」とこの2度にわたる「重要講話」を行い、「習近平外交」の着々と土台作
りしている。中国から軽蔑され、恫喝される、戦略的には生ける屍のような存在になっ
た韓国に日本は笑う話ではない。日本も又米国にはそっぽ向かれないまでも中国社会に
は痛み分けが続き、教育的位置には遠のいた形になったのだ。

920: 名無しさんAA:17/11/10 20:50
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 583----------

 21世紀の東アジア――。世界のパワーバランスの変化が日本にどのような影響を与
えうるか、考えてみるうえでもぞっとする。北朝鮮の核ミサイル開発は、他の諸外国に
通じないもどかしさからの開発とも言える。韓国と同じく北朝鮮もかつて中国の属国だ
った。「新皇帝」となった習近平であるが、毛沢東の信奉者として育った。その中でも
古代中国皇帝時代の冊封体制での清王朝時代と同じ事を夢見ていたとはなかなか信じ難
い。中国の冊封体制とは、宗主国と朝貢国(属国)からなる「緩やかな主従関係」の事
だ。宗主国とは中央にある中心の国、中国で、朝貢国とは中国周辺の小国群での体制で
ある。冊封体制において、朝貢国は宗主国に対して、春節(旧正月)には外交使節団を
中国の皇帝のもとへ送る義務を負っていた。春節の日に皇帝は、宮殿の前庭に出て、各
国から参賀に訪れた外交使節団に謁見した。皇帝が姿を現すと、各国の外交使節団は、
いっせいに「三跪九叩頭の礼」で迎える。これは1回ひざまずいて3回地面に頭を擦り
付けるという動作を、計3度繰り返すもので、各国が中国の「属国」であることを示す
儀式だった。その代わり各国の使節団は、自国から持参した物以上の大量の贈答品を、
中国から受け取って帰国する。いわゆる「厚往薄来」(来る時は薄くて帰る時は厚い)
の風習である。朝貢国はまた、「皇帝」を名乗ってはならず、皇帝の臣下である「王」
となる。そのため「処帝書年」には中国の暦を用いなければならなかった。ほかには、
朝貢国の王が替わる際に、形式的な事前許可が必要だった。それ以外は、中国は周辺国
に対して内政不干渉を貫いた。暴君が圧政を敷こうが、愚王が国を傾かせようが、干渉
してくることはなかった。ただ朝貢国のメリットとしては、自国で反乱や暴動などが起
こった際に、中国が援軍を出してくれる事だ。又水害や旱魃、疫病などで困ったときに
は経済援助してくれた。つまり冊封体制とは、中国が兄貴分、周辺諸国が弟分のような
、緩やかな兄弟の様な主従関係なのである。もしも朝貢国が中国に逆らった場合には、
中華帝国の強軍が国境を押し破って攻め入ってくるため、多くの周辺国が中国に服従し
た形を取った。この東アジア伝統の冊封体制は、中国の1840年に、アヘン戦争が起
こった事ででイギリス軍に敗北を喫し揺らぎ始めるまで続いた。これらから「屈辱の百
年を乗り越えよ。」と今回声を掛けて主席の座に座った。当然此処で中国は米国には、
新任早々に太平洋は二国で分けても尚余ると声を掛け今年は「一帯一路」で西に勢力を
広げている。今や中国は、GDPで日本を抜き、世界ナンバー2の経済大国に上がり、
中国は、公表している経済統計も軍事費も正確さと透明性に欠けるが、私の推定では、
経済力でアメリカの3分の2、軍事力でアメリカの3分の1規模まで来ている。

921: 名無しさんAA:17/11/10 22:03
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 583----------

 21世紀の東アジア――。世界のパワーバランスの変化が日本にどのような影響を与
えうるか、考えてみるうえでもぞっとする。北朝鮮の核ミサイル開発は、他の諸外国に
通じないもどかしさからの開発とも言える。韓国と同じく北朝鮮もかつて中国の属国だ
った。「新皇帝」となった習近平であるが、毛沢東の信奉者として育った。その中でも
古代中国皇帝時代の冊封体制での清王朝時代と同じ事を夢見ていたとはなかなか信じ難
い。中国の冊封体制とは、宗主国と朝貢国(属国)からなる「緩やかな主従関係」の事
だ。宗主国とは中央にある中心の国、中国で、朝貢国とは中国周辺の小国群での体制で
ある。冊封体制において、朝貢国は宗主国に対して、春節(旧正月)には外交使節団を
中国の皇帝のもとへ送る義務を負っていた。春節の日に皇帝は、宮殿の前庭に出て、各
国から参賀に訪れた外交使節団は謁見する。皇帝が現われると、外交使節団達は、一斉
に「三跪九叩頭の礼」で迎える。1回ひざまずいて3回地面に頭を擦り付ける動作を、
計3度繰り返すもので、各国が中国の「属国」であることを示す儀式だ。その代わりに
各国の使節団は、自国の貢物以上の大量の贈答品を、中国から受け取り帰国する。いわ
ゆる「厚往薄来」(来る時は薄くて帰る時は厚い)の風習である。朝貢国は、「皇帝」
を名乗ってはならず、皇帝の臣下である「王」となる。そのため「--帝--年」には中国
の暦を用いなければならない決まりだ。朝貢国の王が替わる度に、形式的な事前許可が
必要でありそれ以外は、中国は周辺国に対して内政不干渉を貫いた。つまり各王が圧政
を敷こうが、暴君で愚王で国を傾かせようが、干渉しなかったのである。しかし朝貢国
で、自国で反乱や暴動などが起こった際には、要請で中国が援軍を出してくれた事が、
メリットだった。又水害や旱魃、疫病などで困れば湯水の如く経済援助してくれた。つ
まり冊封体制とは、中国が兄貴分、周辺諸国が弟分の様な、緩やかな主従関係なのだっ
たである。しかし朝貢国が中国に逆らった場合に、中華帝国の強軍が国境を押し破って
攻め入ってくる為、多くの周辺国が中国に服従した形を取った。この東アジア伝統の冊
封体制は、中国の1840年に、アヘン戦争が起こった事ででイギリス軍に敗北し、揺
らぎ始めるまで続いたと言う。これらから「屈辱の百年を乗り越えよ。」と今回声を掛
けて主席の座に彼は座った。当然ながら此処に中国は米国に、新任早々に太平洋は二国
で分けても尚余ると声を掛け、今年「一帯一路」で西に勢力を広げている。今や中国は
、GDPで日本を抜き、世界ナンバー2の経済大国に上がり、中国は経済統計も軍事費
も正確さと透明性に欠けるが、推定でも経済力でアメリカの3分の2、軍事力でアメリ
カの2分の1規模まで来ている。と思われる。

922: 名無しさんAA:17/12/07 15:31 ID:2Hw
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 584----------

 この歴代の中国皇帝の宮殿であった中に、習氏自らトランプ氏を迎い入れた。これは
中国国家として最高のもてなしだった。人種の坩堝と人種のサラダが出会ったが今では
奇妙な関係が生まれて居る。海洋大国のアメリカが保護貿易とパンアメリカン主義に戻
った途端に、自由貿易を掲げ、日本がインド洋から引き揚げた途端に南シナ海の占領を
開始していった。この瞬間から中国には孫悟空の金頭環が外された形で大海に出ては荒
らしまくっている。中国10億人の財布と胃袋にはかなりの欲が詰まっていて世界には
動揺が広がっているが彼らも又それを気にする民族ではない。特に共産党は、平和の軍
隊で他国に押し入って戦争をした事など一回もない。と大嘘をついている。国内で大戦
中に日帝をやっつけたのは我々だと国民に嘘をつき、又朝鮮戦争でもベトナム戦争でも
カンボジア国境にもビルマ内紛にも、喰いぶち減らしと軍を送っては戦っている。印度
国境のカシミールでは、全く自分の境界でもないチベット占領を果たして境界紛争して
いる。極めつけは外モンゴルとされたウイグル王国も今やウイグル自治区として制圧し
ては漢民族の暴徒を飼い慣らし殺戮させ 石油を送る駅宿としての権益をほしいままに
している事だ。今回共同記者発表で「太平洋には中国と米国を受け入れる十分な空間が
ある」と発言したことについて日本は「中国は太平洋と接していない」と不快感を示し
た。幸い乍ら我が国は過去にも今でも中国の属国になった事はない。そしてそれは今か
らもだろう。又北朝鮮の核ミサイルに恐れる事はない。何故なら北朝鮮に東を向いて行
く事には何のメリットもない。中国式の考え方で言うなら韓国や日本は程よい緩衝帯な
のだからだ。だとすれば一体何故核ミサイルに固執して米国を目の敵にするのか。それ
はかつても今も中国やロシア或いはソ連に、革命の血を分けた同志であっても何ら恩恵
がもたらせなかった事にある様だ。現実に大戦中に日本の作った工業施設はロシア軍と
中国によって持ち逃げされた形で北朝鮮が出来た。今でこそ北朝鮮だが現実には満州と
朝鮮半島韓国の境界線上にある。ロシアや中国の支援で建国はしているもののそこには
明確な境界線があったとは思えない。今では軍事境界線(38度線)を挟み分断した片割
れの大韓民国と、豆満江を挟んで中華人民共和国及びロシア連邦と、鴨緑江を挟んでの
中華人民共和国と接している形ではあるが、北朝鮮の利益は中国側の平野にしかない。


923: 名無しさんAA:17/12/07 15:32
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 585----------

 北朝鮮は歴史的には紀元前108年に前漢が衛氏朝鮮を滅ぼした後に設置された楽浪
郡の都(現在の平壌)は朝鮮県と呼ばれていた事から 1392年に成立した李氏朝鮮
が国号としてこの名を用いた。以降は半島全体の地域的名称や、そこを統治する国家を
示す言葉として用いられるようになった。新たに朝鮮と呼ばれた事からこの国の名前が
付いたと言われている。朝鮮の統一王朝は中国歴代王朝の冊封国であったが、日清戦争
の講和条約である「下関条約」において、日本の求めに応じて敗戦国の清が朝鮮に対す
る冊封を取りやめたため、李氏朝鮮は1897年に完全な独立国家として国号を大韓帝国に
改称した。しかし三国干渉によって南下政策を推し進めて来たロシアの権益によって、
中国や日本は排除された。これに危機感を抱いた日本は、1904年に勃発した日露戦
争の勝利を経て、ロシアの朝鮮に対する影響力を完全に排除した。その後1910年に
、韓国は日本との間に韓国併合ニ関スル条約を結んで朝鮮の統治権を日本政府へ譲与し
て政府を解体した(韓国併合)。これにより、中国歴代王朝の冊封を脱して誕生した、
大韓帝国は、わずか13年で戦争を経ることもなく名実ともに完全に滅亡した。これ以
降、36年間に渡って朝鮮は日本による統治を受けることとなる。その後1941年の
大東亜戦争の勃発で、日本がイギリスやアメリカ、オランダや中華民国などの連合国と
の間で交戦状態になると、連合国の首脳は1943年のカイロ宣言から「朝鮮の独立」
を求めた。1917年のロシア革命によりロシアを継いだソビエト連邦は、連合国の1
国であったが日ソ中立条約を元に日本との間で中立を保っていた。しかしながら突然に
ソビエト連邦は、1945年8月9日に日本に対する攻撃を開始し朝鮮半島北部に侵攻
した。その後、9月2日に日本が降伏文書に調印したことで日本の朝鮮統治は正式に終了
した。その後朝鮮半島は、北緯38度線以南をアメリカに、38度線以北をソビエト連邦に
占領され、両国軍の軍政統治を受けた。当初、米ソ両国の合同での朝鮮信託統治する予
定だったがその実現方法を巡って決裂し、それぞれの支配地域で政府を樹立する準備を
開始した。その結果、アメリカ軍政によって1948年8月15日に李承晩を首班とす
る大韓民国が朝鮮半島南部単独で樹立され、朝鮮の分断が決定的となった。これに対抗
して朝鮮半島北部でも独立準備が加速し、同年9月9日に金日成首相の下で朝鮮民主主
義人民共和国が建国された。ゲーム理論ではナッシュ均衡はプレーヤーが相手の戦略の
もとで自分の利益を最大化するように行動しているとき成立する均衡状態は、人の為に
ならない。としている。それが今の韓国と北朝鮮である。だが相手が軍拡をしている時
軍縮を叫ぶのは愚かにも墓穴を掘ろう。

924: 名無しさんAA:17/12/07 15:32
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 586----------

ジョン・フォーブス・ナッシュ・ジュニアが説いたゲーム理論は、囚人のジレンマと全
く同じ論理だ。A国・B国はともに軍縮・軍拡のどちらも選択できるものとした場合、
両国とも軍縮を選べば平和が訪れることになる。しかし、いっぱんには自国が軍縮を選
んでも相手国が軍拡を選ぶのではという懸念から、A国・B国ともに相手国の政策につ
いて最悪の場合を想定し、軍拡を選ぶことになる。その結果、際限のない軍拡による「
恐怖の均衡」が成立する。と言う物だ。これを壊すのは友好での未来選択の協議合意か
即時占領しかない。日本の過去でも、此処に日露戦争があった。203高地の戦いであ
る。少し日露戦争時代の戦いぶりから、現代の悩む朝鮮問題が見えて来るかもしれない
。 日露戦争開戦後、陸軍は3月には従来の方針を改め旅順要塞の攻略を決断した。こ
の頃は海軍が旅順閉塞作戦を実施中で海軍は陸軍に応援を求めず、自力でどうにかでき
ると豪語していた世間知らずの軍部だった頃だ。作戦では総勢で六万近くの人員が篭る
旅順を放置して主力が北上しては後方を脅かされる危険があるし、主力の補給物資揚陸
の拠点となる大連が旅順の目と鼻の先で危険だったからだ。又封鎖しようにも6万の大
軍を封鎖するには同数以上の兵力が必要とされ、全日本陸軍の4分の1近くが必要にな
り、兵力がロシアに劣る日本陸軍としては、それほどの兵力を終戦まで使用できないで
封鎖するというのは大きな負担になったからだ。よく旅順艦隊無力化に失敗した海軍が
陸軍に要請し、仕方なく陸軍が「旅順艦隊殲滅」を企図して第三軍を編成する。という
話にが聞くが事実は違う。陸軍は海軍に関係なく自分たちの作戦の都合上、「旅順要塞
攻略」を決めて第三軍を編成したのだ。要塞攻略には2箇所のルートが予想された。二
竜山・東鶏冠山両堡塁などがある要塞東北方面と、203高地などがある西北方面だ。
第三軍は東北方面をルートを選んだ。理由は当時の陸軍の部隊展開のうえで必須の鉄道
が東北方面にしか敷設されていないのと、野砲などの部隊展開に必要な道路が東北方面
にしか無かったからである。工兵による敷設作業や道路の舗装をすれば西北方面からも
行けるが「要塞を早期に攻略して北上し、主力決戦に合流するように」という大本営か
らの命令を考えればそれはできない話でもあった。そして、あまり語られない話に、東
北方面には要塞の「本当の弱点」である望台がありました。ここは旅順で一番標高の高
い地点で203高地よりも港湾砲撃や要塞施設攻撃の観測点として有利な地点だった。
ただし逆に203高地から展望台も撃てる位置だった。


925: 名無しさんAA:17/12/07 15:33
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 587----------

 対して大本営は西北方面ルートを支持しました。理由は簡単で、実は論理的な話では
なく「東北方面が攻め手に有利なら当然防御も強化しているはず。それなら西北方面を
攻撃したほうがいい。」という物だった。小説などでは、この時点で203高地を重視
して、観測点設置のために攻略すべしというシーンがありますがこれも事実ではありま
せん。この時点では大本営も海軍も、誰も203高地うんぬんは言っていないとされる
。だが大本営すら情報が少なく理由にならない理由をいった。本来第三軍設立前に中央
指導部がすべき事前の情報収集が全く出来ておらず、満足に要塞配置の地図すら用意出
来なかったとも言われる。第三軍が渡された地図には203高地などの前進陣地が書か
れておらず、上記の二竜山などの堡塁は「臨時築城陣地」と書かれているなど誤りだら
けと言うよりロシアの新たな陣地は不明だった。第三軍は現地入りして、初めて地図の
不備に気づき、修正しないといけないハメに陥った。そんな知識の大本営だからこそ、
こんな素っ頓狂な理由で西北方面ルート支持をしており、常識ある軍人なら当時の状況
から考えたら東北方面ルートがベターでしたそして児玉他、満州軍司令部も第三軍の案
に賛同しました。小説では児玉は最初から203高地攻略支持とされていますが、事実
は全く異なり、児玉は終始第三軍の方針を支持し、203高地攻略に反対しています。
ともかく要塞攻略戦は東北方面から行われましたが、一回目は大失敗に終わった。ここ
で議論されるのが、強襲法の是非ですが、小説などでは塹壕を掘り進み正攻法が当時の
ベターであると書いていますが、これも異なり、当時は強襲法の方がベターでした技術
の進化で大砲や銃火器の火力が向上し、これらの一斉攻撃で破壊できない陣地はないと
考えられ「攻勢万能主義」が世界の陸軍に蔓延していたからだ。既に兵器は進化して、
塹壕が良いとされるのは日露戦争から数年後の第一次世界大戦緒戦からで、初めてこの
考えが間違っていることが証明されたのである。第三軍は当時の常識で要塞を攻め、初
めてその誤りを身をもって経験したわけです。それでも第三軍は善戦しました。上記の
要塞の本当の弱点である望台を一時的にですが占領したのです。予備兵力が枯渇してし
まい放棄せざるを得なかったのですが、仮にこの時点で途中増援された第7師団があっ
たなら、要塞は陥落した可能性大だった。



926: 名無しさんAA:17/12/07 15:34
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 588----------

 さて第三軍は一回目の攻撃失敗を受け、すぐに戦法を所謂「正攻法」とされる塹壕で
の前進に切り替えました。これにより日本とロシアの損害比率は逆転し、二回目の攻撃
はロシアの方が損害が多くでた。二回目の攻撃により再度の東北方面攻略の下準備が出
来た訳ですが、ここで大本営と海軍が第三軍の足を引っ張ります。203高地主攻論を
言いだしたのです。海軍側の艦隊殲滅の方が優先で、203高地が それを解決できる
地点だという言い分は小説などでは正論として捉えられていますが事実は違う話とされ
る。既に占領している大弧山や海鼠山からの観測で十分港湾部は一望でき、艦隊への砲
撃も実施し損害も与えているし可能だった。203高地でしか見えない地域は一部だけ
でありそう影響はなかった。この望台でも十分203高地の任務はまかなえるものだっ
たのである。つまり従来通り東北方面を攻めつづけ、望台を落とせば、それで艦隊殲滅
もできるのに態々回れ右して203高地を落とせと言ってきたのだ。当然第三軍は反対
し、児玉も猛反対しましたが大本営は天皇の勅令まで引き出して203高地攻略を指示
した為。やむなく乃木は203高地攻略を決断した。ここで児玉が動きます。旅順へ行
って第三軍を助ける行動に出たのだ。これも小説では「203高地を攻略するよう指導
するため」とされていますが、実際は寄り道である203高地をさっさと攻略させて、
早く東北方面攻撃を再開させたかったのである。もっとも児玉が来なくても203高地
は陥落出来る物であった。何故なら児玉が到着する前日に203高地は1度陥落してい
たのだから。の翌日奪還されてしまいますが、地の利を知って再奪取は時間の問題でし
た。小説では児玉が28センチ榴弾砲を陣地移動して203高地への砲撃に使用し、敵
味方関係なく砲撃を行うなどを指示して半日で攻略した事になっていますが、事実では
児玉が移動を指示した重砲は28センチ榴弾砲ではなく12センチ榴弾砲と9センチ臼
砲の予備部隊と言う軽いものだった。目標も203高地ではなく、203高地奪還後の
為のその周囲の敵堡塁だった。28センチ榴弾砲自体は児玉到着前から全砲門が203
高地砲撃に投入されていたし、三日で陣地移動させる事は当時の土木技術では不可能な
ものだった。又敵味方関係なく撃つのも児玉到着前から行っていた為逆に砲撃を自制す
るよう注意すらしている。というのが事実だった。



927: 名無しさんAA:17/12/07 15:34
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 589----------

また、この際の作戦立案も児玉一人の独創ではなく、児玉が第三軍参謀に立案を指示
して、その内容を承諾して命令していると言われている。203高地は「第三軍司令部
の立案した作戦」で攻略されたのが事実です。さて203高地攻略により寄り道を終え
た第三軍は直ぐ様部隊を再配置し東北方面を攻撃した。203高地からの観測射撃によ
り旅順艦隊は攻撃を受けますが、戦後の調査で殆どの艦艇はキングストン弁を開いた為
の自沈であった事が判明。28センチ榴弾砲は艦艇砲撃には不向きだということも判明
した。そして要塞守備隊は艦隊が殲滅されても降伏せず一ヶ月近く抵抗。12月31日に、
望台をようやく第三軍が占領したことで諦め降伏した。仮に203高地に寄り道せずに
、そのまま東北方面を攻撃し続け、新鋭の第7師団をこの方面に投入できていたら、恐
らくもっと早く12月頭には望台を占領し、要塞は降伏。艦隊は鹵獲されるか脱出した
。と言っても脱出出来る艦艇は僅かだろうが後に連合艦隊に殲滅されて、史実より1ヶ
月は早くに攻略できたろうと思われる。旅順攻略戦の折、児玉が乃木を助けに来たのは
事実だった。しかし乃木と児玉が違った意見を持っていたというのは誤りで、両人とも
東北方面攻撃を支持していたし、203高地攻略を寄り道と考えていた。その寄り道を
はやく済ますために児玉は乃木の決断した203高地攻撃に手助けをした。それも自分
だけで立案したのではなく第三軍参謀に考えさせて立案したものだった。ではなぜこの
時旅順港攻略に手間どったのか。ロシアは、1898年の遼東半島租借以降、旅順口を太平
洋艦隊(後の第一太平洋艦隊)の主力艦隊(旅順艦隊)の根拠地とし、旅順口を囲む山
々に本格的な永久要塞を建設していたのである(旅順要塞)。日本側にとっては、日清
戦争で貰った権益を三国干渉で、朝鮮を独立国認めてその地を返しているのだ。それが
又ロシアに占領された形となっていたのだ。となれば、武力奪還しか無かった。が日露
戦争に勝利するためには、日本本土と朝鮮半島および満州との間の補給路の安全確保が
必要であり、朝鮮半島周辺海域の制海権を押さえるために旅順艦隊の完全無力化が不可
欠と見なしていた。また旅順要塞に立て籠ったロシア陸軍勢力(2個師団)は、満州南
部で予想される決戦に挑む日本軍(満州軍)の背後(および補給にとって重要な大連港)に対する脅威であり、封じ込めもしくは無力化がどうしても必要だった。と言う背景が
ある。



928: 名無しさんAA:17/12/07 15:35
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 590----------

陸軍側は参謀本部が満州攻勢作戦の研究を1902年より始め、その中で、旅順攻城を佐藤
鋼次郎少佐が担当していた。1903年11月頃の参謀本部内の意見は、兵力の大部分を遼陽
方面へ北進させ予想される大決戦に集中させ、旅順は一部の兵力による封鎖監視に留め
るべきとの考えが大勢だったが、佐藤少佐が攻略の必要性を主張し研究は続けられた。
だが海軍は違っていた。「旅順港外に停泊している旅順艦隊に対する奇襲を優先すべき
」との海軍側は「奇襲による撃沈での旅順港封鎖」の主張と「臨時韓国派遣隊の派遣を
優先すべき」との陸軍側の主張とが対立した。陸軍は譲って海軍案に決着した。海軍は
独力による旅順艦隊への対処を言明し、陸軍はそのまま旅順攻城の研究を進め、1904年
1月、陸軍参謀本部による計画案が成り、陸軍省に所要資材の照会がなされ独自に2〜
3個師団をもって攻城を行うこととし、作戦目的を「地上より旅順要塞を攻略し、北上
する日本軍主力の後方を安定化する」と決定していた。4月6日の大山巌参謀総長、児玉
源太郎次長と海軍軍令部次長伊集院五郎との合議議決文に「陸軍が要塞攻略をすること
は海軍の要請にあらず」という1文がある。。開戦後、2月12〜13日に機雷を敷設し、
海軍による港外奇襲と港口閉塞作戦が実行されたが失敗し、第二回閉塞作戦を3月27日
5月3日に第三回閉塞作戦が実施されたが、これも不成功に終わった。5月9日より、日本
海軍は、旅順港口近くに戦艦を含む艦艇を遊弋させる直接封鎖策に転換し主力艦が貼り
付かざるを得なくなり機雷によって保有する戦艦の6隻のうち2隻を触雷により失った。
既にバルチック艦隊の極東派遣を決定・発表していた為に、陸軍に頼る以外他無くなっ
たのである。こうして満州軍(総司令部)が設置され、第3軍もその下に入った。第3
軍の使命は、速やかに要塞を陥落させ、兵力を保全したままその後に北から攻めて来る
第1・2軍に合流することだった。旅順港の要塞は主防御線としてベトンで周囲を固め
た半永久堡塁8個を中心に堡塁9個、永久砲台6個、角面堡4個とそれを繋ぐ塹壕から
なりあらゆる方角からの攻撃に備え、後方の高台(望台)に砲台を造り支援砲撃を行う
ことになっていた。さらに突破された場合に備えて堡塁と塹壕と砲台を連ねた小規模な
副郭が旅順旧市街を取り囲んでいた。海上方面にも220門の火砲を砲台に配備しては
艦船の接近を妨害するようになっていた強固なものだったのである。


929: 名無しさんAA:17/12/07 15:40
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 591----------

 此処に近代戦にみるロシアの素早さが見て取れる。24日午後5時、乃木は総攻撃の
中止を指示した。第一回総攻撃で日本軍は戦死5,017名、負傷10,843名という大損害を
蒙り、対するロシア軍の被害は戦死1,500名、負傷4,500名だった。第三軍はほぼ一個師
団分の損害を出したことになる惨々な結果だったのだ。。乃木は攻撃方法を再考し、正
攻法へ切り替える考えを固めた。これは占領した盤龍山東西堡塁から要塞前面ぎりぎり
まで塹壕を掘り進み進撃路を確保し、歩兵の進撃の際は十分に支援砲撃を行う方式であ
り、麾下の参謀に調査(地質や地形、敵情など)や作戦立案を指示した。12月5日に
なってやっと203高地陥落させて、同地に設けられた観測所を利用し日本側は湾内の
旅順艦隊残余に砲撃を開始する。各艦の大多数はそれまでの海戦や観測射撃で破壊され
、要塞攻防戦の補充のため乗員、搭載火砲も陸揚げし戦力を失っていたが、日本側はこ
れらに対しても砲弾を送り込み、旅順艦隊艦艇は次々と被弾した。日本側の28センチ榴
弾砲砲弾の多くは戦艦の艦底を貫けず、多くの艦艇は自沈処理がなされた。この戦争で
当時の日本や欧米列強において火力万能主義の時代であったため、坑道戦術自体が軽視
されていた事が解った。又軽量化が図られた上に毎分五百連発と実用性の高い機関銃で
あるマキシム機関銃は、この戦闘で世界で初めて本格的に運用され威力を発揮した。機
関銃陣地からの十字砲火に対し、従来の歩兵による突撃は無力であることを実戦で証明
し、欧州ではそれが特殊な場所として余り重要視されなかった。当時の日露両軍は世界
的に見ても例外的に機関銃を大量配備していたが、早くから防衛兵器としての運用を考
え出したロシア軍に対し、日本軍側はあくまでも野戦の補助兵器として考えていたので
、初期には効果的な運用は行われていなかった。後に日本側もロシア側の運用法を応用
した。旅順攻略の目的は終始要塞攻略であり艦隊撃滅ではない。従って映画などの「艦
隊撃滅が目的だった」というのは誤りである。また第一次総攻撃時点で第三軍には重砲
にはその様な能力はなく、艦船の撃滅自体不可能だった。つまり第三軍が艦隊殲滅を目
的に編成された部隊でない事が分かるし命令が要塞攻略である以上、それに何ら寄与し
ない203高地攻略は第三軍は選択できないのは当たり前でだったのある。何故この、
日露大戦に固執して書くのか。それは今の日本が初めて戦った本格的海外戦線であり、
更に異常な戦死者を出し、本当に何もない知恵と精神で勝った戦いだったからで、日本
人の特にいまの百歳〜六十歳位の馬鹿日本人は全くその崇高な意志を意に介していない
からだ。


930: 名無しさんAA:17/12/07 15:42
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 592----------

ところが、11月に大本営は御前会議を開いてまで203高地主攻を決めたが、第三軍
の上級司令部たる満州軍が反対しているので、決定に沿わず第三軍として従来通り攻撃
を続けたことは当然である。是非はともかく、固執した点を問題視するなら第三軍では
なく満州軍の方が上級司令部である以上責任が大である。それでも203高地の占領に
固執した大本営には、220門の火砲を一つ一つ攻略するのが不可能である事の理解が
できなかったし説明できなかった。ここに虚像と現実があった。こうした多大な犠牲を
2度も強いても朝鮮半島の蟻の様な 死者の道を攻めても日本の物とした理由は、この
アジアにおけるナッシュ均衡と呼ばれるゲーム理論でも現わせられる現実だった。当時
も今も「帝政ロシアの南下政策」を力強くそのまま行っていて、欧州列強では、日本に
アジアに拡大路線で植民地構想しか無かったのだ。そこには例えば、英国・仏国が共に
軍縮・軍拡のどちらも選択できるものとした場合、両国とも軍縮を選べば平和は訪れる
だろうが、それでもソ連も独国もある中ではそれが出来なかったのだ。もし仮にヨーロ
ッパ社会が安定した平和な社会なら日本でも拡大政策を採らなかったことになる。しか
し残念ながら、一般的にも、地理的にも歴史的地政学でも、それは起こり得ない事であ
った。三鼎脚の様な平和の安定には至ってないからだ。イギリス、ロシア、ドイツ、フ
ランス、共に全てが領土的にも、資源的にも、技術的にも、思想的にも、人種的にも互
いに疑心暗鬼で蠢いていたのだから日本はその中で揺らぐ中国に対抗せざるを得なかっ
たのだ。此処に日露戦争が持ち上がっていた。日清戦争でわざわざ朝鮮半島を独立した
国や資本に変えさせて返したが、それは全く意味も無く、朝鮮王朝は全く考える事もな
くロシアに蹂躙された資本経営に戻り、植民地化の道を開く鉄道や港の権益を売り捌い
て贅沢三昧に勤しんだのだ。この時代には植民地主義での経営を基本とした経済と覇権
主義での人身売買の奴隷制度の横行する社会で、真面目に鎖国していた日本が、弱小故
に開国させられていたが、李氏朝鮮にはその危機感は全く無かった。それが属国支配の
国策運営で生きて来た姿の為であっただろうが、それが原因で米国が韓国を打ち立てて
失敗したり、欧米列強がアジア支配を目指してやって来た理由でもあった。中国・朝鮮
と共に全く力が無く努力も無かった。それが又日本がアジア大陸に走る要因でもあった


931: 名無しさんAA:17/12/07 16:03
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 593----------

 特に今の内閣や或いは中曽根や小泉の姿を見ると虫図が走る位馬鹿だ。今の安倍政権
すら 今の日本が大事と言わんばかりだが今の日本を創った礎である「日本の意識」や
「日本の精神」を逸脱している。「質実剛健」を旨とした人々の暮らしを経済と言う名
や政治の腐敗でぶち壊していながら、教育も間違いながら世界を騙ると言う見ずぼらし
い姿を挺している。これでいい訳が無い。欧米に負けず劣らずの村々の社会が都会化の
中で全く歴史的価値のない社会構造になりしゃにむにの有力者の汚職や教育のない発言
に右往左往の行政ではないか。裁判所すらまともな判断をしていなく留置所すらない。
全く貧相な国家観にも程がある。TV局を始め経営者や財界のバカ騒ぎをまともにしな
い限りこの日本は亡国のままである。話を戻そう。一般には自国が軍縮を選んでも相手
国が軍拡を選ぶのではという懸念から、A国・B国ともに相手国の政策について、最悪
の場合を想定し、軍拡を選ぶことになる。その結果、際限のない軍拡による「恐怖の均
衡」が成立する。とされる。それがナッシュ均衡である。此処でのA国はアメリカであ
りB国がロシアである事は、言うまでも無い。事実 北米大陸に於いてロシアは北から
米国は南からやって来てカナダはその狭間にいて大戦後からアメリカについた。そして
それは、南米でも、東南アジアでもインドでもアフリカでも中東でも黒海でも地中海で
も同じ様に起こっていたのである。這えば立て、立てば歩めの親心。と言う我が子に向
けた心境を言う諺があるが、正に日本国民は日本と言う国に対して、開国し文明開化し
富国防衛をめざすなら大陸進出は避けられない共同体の土地だったのが歴史の証明だ。
そして戦前も戦中も戦後もそれの解らない朝鮮人に世界は混乱は避けられずいた。かつ
て、日本では1945年8月12日未明、興南沖三十数キロの海上での原爆実験を行っ
た。と言う報道があった。ソ連軍の侵攻に対策したとしていただろうとされる日本軍の
原子爆弾は此処に廃棄された。この事は当然推定とされる。この時までは、ただただ天
皇陛下から固く反対されて政府も軍部も委縮している中であり、例えウラン製造してい
たとしても 既に使う事も出来ず敵に渡る事を覚悟した為とも思える。日付も又8月6
日に広島投下し8月9日長崎投下した後で15日の玉音放送がある前である。12日と
なれば既に、ソ連は中立条約を捨てて侵攻して来ていて威嚇する為に米軍がやったとも
考えられる程の時期だったのだ。

932: 名無しさんAA:17/12/07 16:57
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 594----------

 日本の敗戦を受けて 朝鮮半島にはアメリカ軍は駐留を開始した。協定によって国連
はソ連との共同統治になったが、アメリカ米軍は1948年8月15日に李承晩を首班
とする大韓民国が 朝鮮半島南部単独で樹立させた。これにより朝鮮の分断が決定的と
なっていた。ソ連側は金日成をして対抗した。これは朝鮮民族自体が未だ国としての、
国体意識の無さで起こった事だった。ソ連は対抗して朝鮮半島北部で独立準備を加速さ
せ、同年9月9日に金日成主席をたて朝鮮民主主義人民共和国が建国された。この原爆
廃棄を見守っていたのが金柵であったと言われる。金策とは朝鮮民主主義人民共和国の
咸鏡北道南端の都市の名である。ながく城津と呼ばれていたが、朝鮮戦争で戦死した同
地出身の朝鮮人民軍司令官金策の名を記念して1953年改称された。この時の金策が鶴上
面水使洞で貧農の子として生まれた金洪啓だった。家族とともに間島に移住し成長後に
、抗日パルチザン活動に身を投じ、1927年4月7日に朝鮮共産党火曜派に参加して。1930
年、一国一党原則に基づき中国共産党に入党していた。しかし、満州国が出来ると、日
満軍警のパルチザン制圧作戦を逃れてソ連に亡命してしまった。1940年のハバロフスク
会議に金日成と合流し、教導旅団(第88特別旅団)第3大隊政治委員となった。だが、
金日成も又偽物の名であった。同郷だった金策によって英雄とされた金日成の名を騙っ
たのである。この咸鏡北道南端の日本海に臨む工業都市は開港以来。市街地は鶴頭山を
背景に東海岸に沿って南北に展開していて交亀山を天然の防風防波堤とする 城津港を
中心に天然の良港が揃っている地だった。摩天嶺山脈の東麓を占めている農村部があり
、その為穀物,魚類の輸出港として栄え、日本植民地時代の末期には北方奥地の蓋馬高
原で開発された電力を利用する金属工業が建設され、以来工業化が最も進んだ工業地帯
になっていた。マグネサイト,耐火煉瓦,船舶などの諸工業が立地し、特に城津製鋼所
は清津からの鉄鉱石を材料とする事で、今では北朝鮮最大の特殊鋼基地となっている。
 元々この「朝鮮民主主義人民共和国咸鏡南道咸興市」に属する咸興湾に面した港湾都
市・化学工業都市であるこの区域は野口遵が作った都市だった。隣接する咸興市と合併
、興南市としての分離を繰り返しており、近年では2001〜2005年の間は「興南市」であ
った。1945年、大日本帝国の敗戦後、多くの日本人が興南から日本に引き揚げたが、こ
の工場や都市を作った有力者はこの国の人と骨を埋ずめる覚悟で残った。朝鮮戦争の際
には北進した韓国軍・国連軍が一時占領したが、1950年中国義勇軍が参戦すると、国境
地帯から退却したアメリカ軍をはじめとする国連軍10万人が、一般市民10万人とともに
興南の港から、アメリカ海軍の海路による脱出する興南撤退作戦が行われた。

933: 名無しさんAA:17/12/07 17:23
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 595----------
野口遵は先に述べたように、日本統治時代に、蓋馬高原に電源開発が行ない、それらを
もとに興南に工業地帯が建設し日本一の近代工業の場となった。中心となった朝鮮窒素
肥料は日窒コンツェルンと言われ、硫安など日本の化学工業化の基本をなした。興南府
としては国以上の利益を上げ北朝鮮に、興南工場を創設した後は戦前の国際的な舞台の
日本の鉱工業化に広く大きく貢献していた。「電気化学工業界の父」と呼ばれ、日本窒
素、旭化成、積水化学など、日本の化学系事業体の土台を創り上げた人物で、彼が自ら
興南に築き上げた巨大な工業地帯を中心として大々的に事業展開をなした。この時、ド
イツ、イタリア等の海外の最新特許を取り入れながら、日本の工業を世界に進出させよ
うとした彼が、人格面においてきわめて優れており、事業においても卓越した能力があ
ったということは言うまでもない。野口遵につながっている人には、野口研、鮎川義介
、森矗昶、藤山常一、久保田豊、島進、稲津敏行、野口英世、水野真盛、鈴木研、高田
研、石弘、岸信介、久原房之助、井上馨、松岡洋右、井口治夫、鮎川純太 など数々の、
名士でいずれも名だたる功績を日本に残した人達である。1926年、日窒の全額出資
で朝鮮水電を設立して、29年に第一期工事が完成して送電が開始されたのだが、この
電力をによって建設されたのが興南工場で、1927年の朝鮮窒素肥料を設立し硫安の製造
を開始した事に繋がっている。北朝鮮の屋根である蓋馬高原の鴨緑江にダムで大電力に
なる構想が実って工場はドンドン拡大された。肥料工場では硫安、硫燐安のほか過燐酸
石灰や乾式燐酸からの燐安の設備をもつに至った。火薬の原料であるグリセリンを自給
するための油脂工場が昭和7年に完成した。グリセリンは延岡及び興南に建設された、
朝窒火薬の火薬工場に送られた。脂肪酸からつくる洗濯石鹸、化粧石鹸は、内地、朝鮮
はもちろん、満州、台湾、中国の市場に向けられた。興南肥料工場の東北に興南金属工
場がつくられ、アルミニウム工場、マグネシウム工場、カーボン工場、製鉄工場などが
建設された。アルミニウム工場は朝鮮木浦附近の明礬石を原料とした。宝石工場では、
アルミナを酸素水素焔で溶融して、軸受けなどに使われるルビー、サファイアの原石を
つくった。本宮工場では、苛性ソーダ、エチレングリコール、ブタノール、アセトン、
アセチレンブラックなどアセチレンを原料とする諸工場ができ、またアランダム工場、
塩化アンモニア肥料工場、アンモニア工場が建設された。日窒燃料工業の竜興工場では
アセチレンからアセトアルデヒドをつくり、アルドール、クロトンアルデヒドを経て、
ブタノールとし、これよりイソオクタンを製造した。朝窒火薬では硝酸、硝酸アンモニ
ア、過塩素酸アンモン、綿火薬、黒色火薬、導火線、カーリット、ダイナマイト、窒化
鉛、ヘキソーゲン等の工場が並び、火薬綜合工場となった。

934: 名無しさんAA:17/12/08 18:40 ID:1OU
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 596----------

 その後、日本窒素は興南以外の朝鮮で、咸鏡北道の永安工場、灰岩工場(朝鮮人造石
油)、平安北道の青水工場(日窒燃料)、南山工場(日窒ゴム工業)の諸工場があり、
永安、朱乙、吉州、竜門に石灰の鉱業所があった。また満州で吉林人造石油、北支太原
で華北窒素、台湾で台湾窒素、海南島で日窒海南工業、それにジャバ、スマトラ、マラ
ヤなどに進出していた。しかし日本窒素の事業の中心はここ興南であった。興南工場は
第二次世界大戦中は、何等の損傷を全く受けなかった。だが1945年8月19日に ソ連軍が
元山に上陸、26日に興南工場はソ連軍に接収された後は、発電機他数々の機材は持ち去
れてしまった。日本が戦後不況に喘いでいた時「夢の国」とし日本人妻や日本人労働者
を集めた時金日成は又多くの工業が又復活すると期待していた。だが機材の無い中では
叶わなかった。又この事でソ連と米国での確執が起こっていた。朝鮮戦争が始まり1950
年7月末から8月初めに米軍の爆撃で工場は完全に破壊された。その後も 興南は国連軍
の艦砲射撃と空爆により破壊されたが、後にソ連・東ドイツなどの東側諸国の援助もあ
り復興し、発展したが大戦時の様な復興には至らなかった。この時金日成は何故韓国を
攻めたのか。此処にソ連の秘密工作があった。実はヨーロッパ戦線でソ連は遅れをとっ
ていた。ドイツに於いて西方に位置する「フランス、ベルギー、オランダ、ルクセンブ
ルク、デンマークなど」での、イギリス・フランス・アメリカ合衆国などの連合国との
戦いは西部戦線だったが、このドイツとソビエト連邦の戦闘である独ソ戦は東部戦線と
される。ドイツ軍はパリ開城を始めとしたフランス北部を占領し、さらにイタリア王国
もフランスに対して侵攻を開始していた。これにより1941年には、ドイツ軍はソ連侵攻
作戦であるバルバロッサ作戦が開始された。フランス北西部海岸線に大西洋の壁と称さ
れた防衛線の構築が開始された為優位にソ連侵攻が図れると見たのだ。苦戦を続けてい
たソ連軍は、負担を和らげるためにスターリンは米英両国首脳に対して西部戦線の再構
築を要求した程だ。その為兵站が未だ整っていなかった連合軍では、強行偵察的な上陸
作戦をフランス北部におこなうことを決定しディエップへの上陸が決行されたが完全な
失敗に終わった。その後2年間は特殊部隊の散発的な攻撃やレジスタンスによるゲリラ
は果敢な攻撃はしたが、そうした以外には大規模な戦闘は行われなかったのである。

935: 名無しさんAA:17/12/08 18:45
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 596----------

 その後、日本窒素は興南以外の朝鮮で、咸鏡北道の永安工場、灰岩工場(朝鮮人造石
油)、平安北道の青水工場(日窒燃料)、南山工場(日窒ゴム工業)の諸工場があり、
永安、朱乙、吉州、竜門に石灰の鉱業所があった。また満州で吉林人造石油、北支太原
で華北窒素、台湾で台湾窒素、海南島で日窒海南工業、それにジャバ、スマトラ、マラ
ヤなどに進出していた。しかし日本窒素の事業の中心はここ興南であった。興南工場は
第二次世界大戦中は、何等の損傷を全く受けなかった。だが1945年8月19日に ソ連軍が
元山に上陸、26日に興南工場はソ連軍に接収された後は、発電機他数々の機材は持ち去
れてしまった。日本が戦後不況に喘いでいた時「夢の国」とし日本人妻や日本人労働者
を集めた時金日成は又多くの工業が又復活すると期待していた。だが機材の無い中では
叶わなかった。又この事でソ連と米国での確執が起こっていた。朝鮮戦争が始まり1950
年7月末から8月初めに米軍の爆撃で工場は完全に破壊された。その後も 興南は国連軍
の艦砲射撃と空爆により破壊されたが、後にソ連・東ドイツなどの東側諸国の援助もあ
り復興し、発展したが大戦時の様な復興には至らなかった。この時金日成は何故韓国を
攻めたのか。此処にソ連の秘密工作があった。実はヨーロッパ戦線でソ連は遅れをとっ
ていた。ドイツに於いて西方に位置する「フランス、ベルギー、オランダ、ルクセンブ
ルク、デンマークなど」での、イギリス・フランス・アメリカ合衆国などの連合国との
戦いは西部戦線だったが、このドイツとソビエト連邦の戦闘である独ソ戦は東部戦線と
される。ドイツ軍はパリ開城を始めとしたフランス北部を占領し、さらにイタリア王国
もフランスに対して侵攻を開始していた。これにより1941年には、ドイツ軍はソ連侵攻
作戦であるバルバロッサ作戦が開始された。フランス北西部海岸線に大西洋の壁と称さ
れた防衛線の構築が開始された為優位にソ連侵攻が図れると見たのだ。苦戦を続けてい
たソ連軍は、負担を和らげるためにスターリンは米英両国首脳に対して西部戦線の再構
築を要求した程だ。その為兵站が未だ整っていなかった連合軍では、強行偵察的な上陸
作戦をフランス北部におこなうことを決定しディエップへの上陸が決行されたが完全な
失敗に終わった。その後2年間は特殊部隊の散発的な攻撃やレジスタンスによるゲリラ
は果敢な攻撃はしたが、そうした以外には大規模な戦闘は行われなかったのである。こ
の欧州戦線で遅れをとった事で北朝鮮は新しい未来を築く事が出来なかったのだ。ソ連
がドイツで米国があらゆる物を持ち去った様に、朝鮮のその設備の中心を持ち去れてし
まった。勿論ドイツで他の連合国も持ち去った様に朝鮮では韓国や中国も持ち去ったの
だが、これは決定的な未来への負担になった。

936: 名無しさんAA:17/12/08 18:53
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 597----------

1943年12月に連合国遠征軍最高司令官にアイゼンハワー米陸軍中将が任命されたが、既
に1939年頃には作戦の詳細な計画は既に進められていた。第一次世界大戦において
ウィンストンチャーチル卿は若い海軍大臣として失敗していた。ロイド・ジョージ内閣
で軍需大臣として再入閣したが、戦後は戦争大臣と航空大臣に就任し、ロシア革命を阻
止すべく反共産主義戦争を主導し、赤軍のポーランド侵攻は撃退していて、ソ連共産党
との仲は良くないと見られていた。その後ロイド首相は干渉戦争を快く思わず、植民地
大臣への転任を命じられ、イギリス委任統治領のイラクやパレスチナ政策、ユダヤ人の
パレスチナ移民を推し進めていた。第二次世界大戦を機にチャーチルは海軍大臣として
閣僚に復帰し、北欧戦で惨敗した。この責任はチェンバレン首相に帰せられ後任として
首相職に就いた。戦争失敗者・敗戦容因者として首相に着いたのだった。この辺が英国
やユダヤ教徒の全く無責任極まりない考え方なのだが、歴史的には失敗しミスし、その
原因でチャーチルは何故だか、英国首相に登るのである。勿論その後でも西方電撃戦、
ギリシャ・イタリア戦争、北アフリカ戦線など多くでドイツ軍に敗北するが、バトル・
オブ・ブリテンでは アメリカからの経済支援でレーダー網を敷き ドイツ空軍の撃退
に成功していた。その後独ソ戦開始のためソ連と協力し、またアメリカとも同盟関係と
なって、日本をこの世界大戦に引きずり込む事に成功した。ドイツのレーダーは英国よ
りもかなり遅れていて、情報の質も悪かった。さらに国内では、ゲーリングやヒトラー
が目標選定や近接護衛戦術などについて横槍を入れ、搭乗員には十分な休息がなかった
。だがそれでも、それによる波状攻撃は英パイロット達を疲労困憊させたと言われる。
1944年6月6日決行と決定されたノルマンディーへの上陸作戦は海岸の内陸部への
空挺部隊の降下が同時に行われた。連合軍は上陸地点の1つのオマハ海岸での苦戦など
があったものの橋頭堡の確保に成功した。その後連合軍はノルマンディーの西側に位置
するシェルブールを物資の補給港とするために早期に占領を目指したが、ドイツ軍の激
しい抵抗のため占領できたのは6月26日であった。しかも港の施設はドイツ軍が徹底
的に破壊していたため、修復や機雷の除去に時間を要し最初の船が埠頭に接岸したのは
8月9日となった。その後はドイツ軍を掃討するインファチュエイト作戦でカナダ中心
の連合軍が勝利し、10月に米軍はドイツ最初の都市アーヘン包囲をするに至った。双
方に5,000人の死者が出たアーヘンの戦いの後に町は占領され、5,600人のドイツ兵が捕
虜となった。

937: 名無しさんAA:17/12/08 18:54
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 598----------

西部戦線は、その後もバルジの戦いで停滞したがライン渡河を終えルール工業地帯包囲
するヴァーシティー作戦が成功裏に終わり、ベルリンへの進撃を唱える声もあったが、
ソ連との事前の取り決めと、アルプス国家要塞の情報を警戒したアイゼンハワー部隊は
、ベルリン進撃を否決し、米英軍はドイツ北部および南部に展開をしていった。この年
の4月30日にヒトラーが自殺し、そして後継者とされたカール・デーニッツ提督のも
とで、5月8日にドイツ国防軍は無条件降伏をした。一方東部戦線は全く様相が違って
いた。アドルフ・ヒトラー自身も、ソ連との戦争を「イデオロギーの戦争」「絶滅戦争
」と位置付け、西部戦線とは別の戦争であると認識していたのだ。事実1941年6月22日3
時15分、「バルバロッサ作戦」の下にドイツがソ連を奇襲攻撃した際には、歴史的な反
ソ感情が強かった市民達は、バルト地方やウクライナの住民などは、これまでの過酷な
共産党の政策からの救う者達として、ドイツ軍を「共産主義ロシアの圧制からの解放軍
」と当初は歓迎していたのである。又ドイツ軍に志願したり共産主義者を引き渡すなど
自ら進んでドイツ軍の支配に協力する住民も多く、また反共主義者はロシア国民解放軍
やロシア解放軍として共産主義者と戦った。こうしたヨーロッパにおけるドイツ占領地
から反共主義者の志願者や、武装親衛隊によって徴発された人々がドイツ軍に加わった
。ところが、スラブ人を劣等民族と認識していたヒトラーは、彼らの独立を認める考え
はなく、こうした動きがほとんど利用される事はなかった。それどころかドイツ系民族
を占領地に移住させて植民地にしようと計画し、一部実行された程だった。この時のソ
連側の死者は大規模であった。独ソ戦の犠牲者は、ソ連兵が1128万人 ドイツ兵が500万
人とされ。民間人の犠牲者をいれるとソ連は2〜3000万人が死亡し ドイツは約6〜800万
人は死んだとされる。この死傷者の総計は第二次世界大戦における全ての交戦国の中で
ソ連は最も多いと言われ、捕虜・民間人に対する扱いも苛酷を極めた。占領地の住民や
捕虜は双方で強制労働に従事させられるなど極めて厳しい扱いを受けた。ドイツが戦争
初期に捕らえたソ連捕虜500万人はほとんど死亡し、ドイツ兵捕虜300万人の多くも又、
そのままソ連によって強制労働に従事させられ、およそ 100万人が死亡したと記録され
る。この戦いの展開がクルスクの戦いまでドイツ軍の攻勢にソビエト軍の防御であった
が、攻守が逆転し、東欧からドイツ東部地域までソビエトの占領地域となったのは、こ
の人種差別からだった。1945年にドイツ国防軍最高司令部総長ヴィルヘルム・カイテル
元帥がベルリンで無条件降伏文書の批准手続きを行って終結するまでそれらは続いた。


938: 名無しさんAA:17/12/08 18:55
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 599----------
 スペイン内戦では、独ソの代理戦争という形で両国は対決していた。赤軍大粛清の一
因に、ドイツ親衛隊情報部(SD)長官ハイドリヒの謀略があったともいう。スターリ
ンの方では、イギリスのドイツに対する宥和政策をみてイギリスとドイツが対ソ包囲網
を結んでいるのではないかとの懸念から、また、他方のヒトラーは二正面作戦を避ける
ことを目論んで、1939年8月に独ソ不可侵条約を結ぶこととなった。これを受けソ連は
、ドイツに対してヴェルサイユ条約が禁止する航空機・戦車部隊の技術提携を行ったり
、バルト海沿岸の港の使用やイギリス空爆のためのレーダー技術の提供などして、ソ連
に亡命してきたドイツの共産主義者を強制送還までさせてヒトラーに便宜を図っていた
。又、ソ連からも石油や鉄鉱石など資源がドイツへ輸出されており、戦争開始数時間前
まで鉄道による輸送が続いていた状態で、ドイツとの提携を模索をしていた状態だった
。もし仮にナチスドイツ軍が、温情豊かな人種偏見の無かった軍隊であったなら、恐ら
くは敗ける事は無かったであろう。開戦当初は奇襲により各戦線でほぼドイツ軍がソ連
赤軍を圧倒し、北方軍集団ではレニングラードを包囲、中央軍集団は開戦1ヶ月でミン
スクを占領する快進撃を続けた。赤軍は各地で分断され、多くの部隊が投降・捕虜とな
った。又独ソ戦勃発時は、ソ連軍ははるかに時代遅れの兵器でドイツ軍の爆撃に壊滅し
て行ったが、それでも作戦地域が広大であったため、進撃が遅れドイツ側の損害も甚大
であったスモレンスクを陥落させた中央軍集団の主力部隊の矛先を南部に向け、キエフ
、ハリコフなどが陥落したが、ドイツ軍戦死者が1週間で1939年から1940年6月までの
ドイツ軍死傷者数を上回る時期さえあった。南方への支援により中央軍集団での、首都
モスクワへの進撃は約1ヵ月遅延し9月にモスクワ攻略(タイフーン作戦)に乗り出す
事になった。例年より早い冬によって発生した泥濘と降雪が進撃の足を止め、ドイツ軍
はクレムリンまであと十数キロのところまで迫ったが、赤軍も猛抵抗したことにより、
ドイツ軍の攻勢は頓挫したのである。短期決戦を想定していたドイツの目論見は外れて
持久戦の様相を呈することで凍傷患者で立ち往生に陥った。電撃戦を続けてきたドイツ
軍にとっては初めてのケースで補給路が延び切った上、冬季装備の前線部隊への配送が
滞ったドイツ軍は、各地で進撃の停止と負傷者や患者の増加に戦争中断は余儀なくされ
た。ドイツ軍の損害はすでに投入兵力の35%、100万人におよび、この年だけで戦死者は
20万人に達していたが、国防軍の指導部のモスクワ前面からの撤退を唱える声にヒッ
トラーは徹底抗戦による戦線は維持と現状死守を厳命した。ドイツ軍は辛うじて戦線崩
壊を回避した中でソ連軍は厳冬期の反撃に打って出た。取りあえずドイツ軍の及ばない
場所への労働者の疎開と新兵器となる改良戦車や戦闘機の増産を整えた。

939: 名無しさんAA:17/12/08 18:58
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 600----------

 ソ連側は焦土作戦により退避を主とした攻撃で、ドイツ軍の現地調達の手段を奪い、
占領した地域の住民に対しパルチザンを組織させ、後方撹乱によりドイツ軍の補給路の
妨害を指導した。又、軍事的に重要な工場や労働者を貨物列車によりドイツの手の届か
ない内陸部にまで疎開させ一時的に生産力は低下することとなったが厳冬期で影響は全
くと言っていい程なかった。そして安全な地から大量の戦車が生み出され反撃にでた。
開けて42年を「ヒトラー・ドイツの崩壊の年だ、赤軍の勝利の年にする。」と叫び、
赤軍参謀本部の反対を押し切って「全戦線の総反撃」を命じた。今だ強力な戦力を保持
したドイツ軍を相手に打ち破るには、赤軍の戦力は質的にも量的にもまだ十分でなかっ
たが、補給路を断たれたドイツ軍には、この春先の総反撃には頓挫したまま戦線は膠着
したまま補給基地まで退却するしかなかった。赤軍はドイツ軍を後退させたことにより
、失いかけていた自信を回復することができ、ドイツ陸軍の無敵の神話は破られたので
ある。その後「決着をつけるために一気に首都モスクワ侵攻を狙うに違いない」と思い
、モスクワ西部及び南面での防備の強化と、モスクワ進撃作戦を牽制したドイツ軍戦力
を撃破するための反撃をハリコフ方面で開始するよう命令したが、ドイツ軍の今度の攻
撃は全く逆のソ連南部を目指すものだった。こうして前年の作戦により、ドイツの地上
戦力の限界が露見した。元々ヒットラーは「ヨーロッパ大陸最後の戦争」であるとして
独ソ戦開始の意思を国防軍首脳に告げている。この侵攻計画の策定に当たり表面上両国
関係は穏やかであったが、ソ連からの物資が滞りなく流入していたにもかかわらず、第
一次大戦での敗戦の報復的要素は強く、ドイツの支払いは不自然なほどに引き延ばされ
たり、工作機械のソ連への引き渡しが当局によって妨害されたりもしていた。ドイツ軍
のブラウ作戦と、スターリングラードにおける血みどろの市街地戦の戦訓により、様々
な戦闘車両が生み出され主力戦車の交代はしたが時は遅く新しい戦闘車両は一部の旧式
車両の車台を流用するなど戦闘車両生産をますます混乱させ生産低下していた。シチリ
アへの連合軍上陸の報に、新しい作戦は決戦を待たずして中止され、ドイツ軍は完全に
東部戦線の主導権を失い、秋以降、圧倒的な物量を武器にしたソ連赤軍に、冬季攻勢か
ら猛攻にドイツは敗走を続けることとなる。これにより戦線は、ドニエプル河を越えて
、西へ移動しウクライナ地方の大部分はソ連赤軍に奪回された。こうした自国民の地で
焦土作戦すら厭わない共産主義の危険さこそ 今の世界の核を持つ危険さなのである。
そこまでしてドイツに勝っても、ソ連の国民が手に入れたのは不幸な生活しかなかった
のである。

940: 名無しさんAA:17/12/08 19:02
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 601----------

 ナチス・ドイツ軍で行った戦いは鉄道網、道路網が整備された限定的な地域であり、
目的地までの距離は比較的短かった。このことは、ドイツ軍が編み出した特殊な電撃戦
という戦術を行うことにおいて有利に働いた。進軍・補給ともに計画はそれ以上の結果
を残したため電撃戦の効果を十二分に発揮できたのだ。ドイツは他の方面の防衛には、
最小限の武力を残して、攻勢の前面にほぼ全力を投入する戦闘を続けており この戦い
方は最大かつ最重要なことであり正しいことであった。電撃戦の失敗による長期持久戦
化はドイツにとって危険となる二正面作戦を生み出すことになるはずである事は自明で
あった。この中で独ソ戦の開戦時、機甲師団の能力・電撃戦の限界については、未知数
だった。対ソビエトの戦闘においての進撃すべき距離は、これまでの戦闘とは比較には
ならない距離だった上に、これまでの戦いとは異なり、本国とはるか離れた広大な領土
を持つソビエトにおける戦いには 電撃戦による短期決戦が可能かどうかという点には
季節が左右するところであった。電撃戦に必要なものは一にも二にも速度であり、これ
には補給と飛行場の確保が不可欠であったのだが、ロシアの大地は電撃戦をしかけるに
はあまりに広大でインフラが整って居なく、未整備な上に冬季は厳寒。攻撃する側には
必要不可欠な十分な装備や知識を持ち得ていなかったのである。更に本部と遠く離れた
事の感覚の違いは大きく非常に危険な大地だったのだ。このような状況・段階にもかか
わらずヒトラーのソビエトに対する認識はあくまでも過小評価していて、バルバロッサ
開始時だけでなくブラウ開始後においても、ソビエト赤軍の戦力は低いと認識し、それ
を参謀本部に再確認するほどの違った状況であった。このようなドイツに対して、ソビ
エト軍は全力をあげて赤軍の組織を再編しドイツ軍に対抗していた。史上最大の戦車戦
と言われるクルスクの戦いでは、陸・海・空という総合的な戦力が勝っていたトイツに
ソ連赤軍には革新的ともいえるT−34という革新的戦車を配置したことは特筆すべき
であろう。敵の砲弾を弾く効果的な形状を持ち、その形状にそった小さな砲塔では、敵
戦車に対しては必要十分な砲を持つという、対戦車戦において絶対的に優位な、今日に
おける主力戦車の概念を与えうる戦車の歴史を変えるほどの戦車を作り上げていた。こ
の大量生産された戦車は既存のドイツ戦車を駆逐する性能と生産性と整備性を持つ驚異
的な戦闘車両であった。指摘しうる欠陥は砲塔、砲などを着実に変更・修正し、やがて
三人乗りの大型砲塔に85mmの砲を積み中戦車としてはその量産性からもドイツ軍を圧倒
するに至った。戦後にもアルミでスコップを作る程の技術力と資源力はソ連の底力だっ
た。

941: 名無しさんAA:17/12/08 19:03
又 ロシアの鉄道はドイツとは軌間(レールの幅)が異なり、ドイツが標準軌なのに対
し、ソ連側は1524mmの現在の1520mmのロシアゲージの広軌を利用していた。その為、そ
のままではドイツから直接列車を乗り入れることは不可能だった。ドイツ側は常に列車
の鹵獲(機械占領捕獲)を当てて使用していたが、ソ連側はウラルへの工場疎開と同時
に列車を避難させてドイツ軍の鹵獲は思うように行かなかった。結局、工兵によっての
線路を標準軌に変更する工事を行う事になり時間と労力を要した。こうして線路はソ連
側の逆襲時にはアメリカの援助を受けて元のロシアゲージに戻される工事を必要とした
。又冬季のロシアの厳寒には、ドイツが持ち込んだ蒸気機関車を容易に故障を連発させ
た。劣悪な路盤整備においては大型の機関車の導入も拒んだ。道路網も舗装もされてい
ないし 整備がなされていない悪路が多く、その情報は不足したままの戦争だった。ま
た、南北方向の道路網は比較的整備されていたが、東西に移動するドイツ軍の進撃には
役に立たなかった。そのため、軍備増強を急いだために、自動車化が完全ではなく移動
・補給の多くに鉄道と軍馬を必要としているドイツ軍にとっては困難な戦場であった。
自国の生産だけでは間に合わず、占領国からもかき集めたトラックなどを含めて荒れ果
てた道路での利用による故障は甚だしく、修理もままならず輸送の効率は非常に低いも
のになった。同時期に戦場となっていた北アフリカは、広大な戦域は地図上でみても、
西端から東端までの距離は、ベルリンからモスクワよりも遠いにも関わらず 港湾付近
以外では自動車以外の補給手段がなかった。その為にその作戦規模に比較して膨大な輸
送用自動車が割かれていたことも大きな問題であった。確かに北アフリカ戦線は自動車
以外の補給の方法は無かったが、要求する数量はあきらかに作戦が生み出すものからす
れば桁はずれな数量であった。最前線に対しては1割の部隊への燃料補給に対して9割
の補給部隊の燃料消費が必要なほど、補給部隊の消耗が激しかったのだ。1942年に
ブラウ作戦が発動され作戦開始当初は快進撃が続き「大部分が達成された」と明言する
ほどだったが赤軍が撤退速度は早く、包囲殲滅など皆無だった。スターリンが全戦線に
おける抵抗を命じた時、ドイツのA軍はマイコプ油田を占領したが、油田はすでにソ連
軍により火をつけられ破壊されていた。次に東のグロズヌイ油田に向かったが、進軍す
るに補給路が伸び、燃料不足とソ連軍の抵抗により進軍はとうとう停止した。これが、
コーカサスの油田地帯での実態だった。スターリングラードに向かったドイツのB軍も
市街地の大部分を制圧したもののソ連軍の抵抗により冬が到来しても市街戦を続けてい
た始末でソ連は極秘のうちに大規模な反攻作戦の準備を進めていた。反攻作戦は冬期に
入る11月に開始され補給路を切断されて包囲されることになった。救出作戦が出たが
ドイツ軍はソ連の包囲網を突破できなかった。

942: 名無しさんAA:17/12/08 19:04
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 603----------

ドイツがソ連に侵攻を開始して3年目には、赤軍は「バグラチオン作戦」を発動し攻勢
に出た。ドイツ軍は南部戦線を予測しており、赤軍の欺瞞作戦の効果もあって対応が遅
れ後手に回った。赤軍は、かつてのドイツ軍が行った陸空一体の電撃戦を展開し。圧倒
的な物量・戦力差で進軍を開始した。ヒトラーの厳命で撤退や持ち場放棄すら出来ない
部隊は機動戦で個別に撃破されるという、開戦時と逆転した叩き陥っている状況となり
、ドイツ中央軍は事実上壊滅することになった。この結果ドイツ軍は敗走も出来ず駆逐
され、開戦前の国境線でも東部戦線の継続はほぼ不可能となった。絶望的な戦いを余儀
なくする中で、南部ではルーマニアでクーデターが発生し離反しドイツに宣戦を布告し
た。ブルガリアとフィンランドも離脱し、ハンガリーも続いたがドイツ軍の「パンツァ
ーファウスト作戦」の工作により政府は枢軸側に留まった。がその戦いは壮絶だった。
10月15日に実行されたハンガリー王国のクーデター計画では、クーデターは成功し、新
たにサーラシ・フェレンツを首班とするドイツの属国としての国民統一政府が成立した
。ハンガリーは工業・石油の供給地であり、バルカン半島とドイツをつなぐ要衝でもあ
るため、ドイツにとってはどうしても手放せない地であったのだ。ソ連赤軍と休戦協定
を結んだルーマニアがドイツに宣戦するのを機にソ連がブルガリアに宣戦布告し、侵攻
を開始した。ハンガリー・ルーマニア国境地帯であるアルプス山脈の防衛計画を策定し
たがソ連赤軍は国境の峠を次々と突破した。ヒトラーはこれに対して戦車1個師団や親
衛隊2個師団、戦車2個旅団を送り込んだがT−34のソ連赤軍の部隊の侵攻は食い止
めらず要衝ズクラ峠は易々突破された。ハンガリー軍と王国政府の士気は低下しもはや
ハンガリー軍に戦意がなかった。ハンガリー防衛は不可能とヒトラーに具申し密かに臨
時閣議で休戦の方針を決定したが、ドイツに筒抜けでありハンガリー軍参謀総長が総統
大本営を訪れて兵力増強を要請した際に、「我々はともに反共十字軍を同志と信じてき
たが、もはや貴国政府に対する信頼は消滅した」と告げている。1月からはソ連軍では
ヴィスワ=オーデル攻勢を行い、2月2日にはベルリンまで70kmにせまっていた。ハン
ガリーの首都ブダペストが陥落し、ハンガリーのほぼ全土がソ連赤軍の支配下となった
。だがドイツ軍はハンガリーの油田奪回を目指して最後の攻勢春の目覚め作戦を行い、
圧倒的な戦力差により惨敗を喫するも、ソ連はドイツに近づけなかった。ベルリン総攻
撃が開始される。4月30日、ヒトラーが自殺。5月、ベルリンは陥落したがそれでもソ連
の戦いは続いてた。独ソ戦すべての戦闘が終結したのはプラハの戦いが終結する、5月
11日のことだった。

943: 名無しさんAA:17/12/08 19:10
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 604----------
 実はヒットラーは既にこの戦争の敗戦を予知していたとも考えられる節がある。そも
そも冬戦争におけるフィンランド国防軍との戦闘でソ連軍は醜態を晒した。赤軍である
が大敗している。ドイツはそれを知っていたが、冬の備えをした戦いにはしていない。
多くは夏期に勝つものとしていたと言うのが通説ではあるが、そうではなく人間不信に
あったと考えるべきだろう。即ち自軍の兵士を信じて居なかった。あまりにも忠誠を示
し怖かったと思える。その中でこの戦いでソ連は中立不可侵条約を日本と契約し、欧州
戦線に、日本に備えていたシベリア方面精鋭軍を、心置きなく投入できたことも勝因と
して大きかった。この面でも日本は馬鹿を犯していた。そのままでは戦車も兵員も不足
していたのがモスクワに、東欧に増員出来る事になったのだ。又かつて焦土作戦を展開
し大北方戦争でスウェーデンを、祖国戦争でナポレオン率いる大陸軍を撃退したロシア
は、今度も又同じ戦略を決行することは明白であった。この冬場の焦土作戦のそれに、
ドイツは全く対処していなかった。もっともこの作戦は、ロシア側にとっても多大な犠
牲を強いることになってはいたが。ロシアにとってもドイツにとっても東欧の人々は、
国民ではなかったのだった。ドイツのヒットラーは英国占領に固執していた。ロシアの
占領はロケットが出来た時点でモスクワに飛ばせば事足りていたのだが それをしなか
った。更に終戦後アメリカに持ち帰りされて広島に落とされたとする原爆は一個ではな
かったが、それを落とす命令は発しなかった。英国では1941年年末以降の日本軍の
参戦に成功したが、同時に東方植民地である香港やシンガポールをはじめとするマレー
半島一帯のイギリス軍の相次ぐ陥落が起こっていた。インド洋から放逐され失態を犯し
た上に、ドイツ軍によるトブルク陥落でイギリスの威信が次々と傷付き、何とか植民地
として残っていたインドやエジプトでの反英闘争激化を招いていた。チャーチルは1944
年6月にノルマンディー上陸作戦で攻勢に転じ1945年5月にドイツが降伏すると、労働党
が挙国一致内閣を解消して総選挙を起こし保守党は惨敗した。いち早く共産党拡大路線
に赤信号を灯して、反共外交を行いヨーロッパ合衆国構想などを推し進めが、イギリス
は、大戦終結後に英国復興にはインド等の植民地は足枷になり、労働党政権は手放して
いくことを決めた。これに大英帝国主義の立場から痛烈に批判し、植民地独立の阻止に
力を注いだが、植民地のほぼ全てを失うことで決着を見て居る。世界大戦でアメリカと
ソ連に並ぶ戦勝国の地位を得たが、世界一の植民地大国の座を失って米ソの後塵を拝す
る国に転落してしまうのである。アメリカのみが自国領に被害が無く一人勝ち状態だっ
た。そこに日本との戦争が思うままに 力が注がれる状態になった。これも日本のミス
であろう。

944: 名無しさんAA:17/12/08 19:14
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 604----------

 チャーチルはまだまだ昔の ドイツとの建艦競争が激化する中に海軍大臣に就任した
。第一次世界大戦時には海軍大臣で失敗し1941年英国が独ソ戦開始の為にソ連が協
力を申し込んできた事に反対しなかった。それはアメリカとも同盟関係となる為だった
。アメリカが日本と対抗したのは、英国の中の影の力 つまり英国からアメリカに渡航
しようとしていたユダヤ実業界のギルド連盟であるシオニスト達つまりメイソンロッジ
を経営するユダヤの寺の信者達を手離したくは無かったからだ。それはフリーメイソン
結社が出来た理由に ロシアやドイツに於ける「ポグロム」(ユダヤ人虐殺)によって
出来て居た事による。バクー油田を始めユダヤ資本の油井が ロシア皇帝から盗まれ、
その後の革命でもボリシェヴィキの党政権でもその「ポグロム」は終わらずユダヤ金融
は「スラブの地の同志」が人質となり投資続ける羽目に陥っていたのである。この事を
救ったのがチャーチルであったのだが、チャーチルは元々メロン財閥の男爵の知遇を得
ていた。兵士となりアフリカで駐留していた時反乱が起こった。アフリカではダイヤで
資本を成したデビアス・ロスチャイルドの社員でもあった。元々ダイヤは固すぎて宝石
としては「三流の石」としてルビーやサファイヤの10分の1の価格だったが、これを
平面削りでの意匠をして価値を得たこのデビアス社の庇護を受けてアフリカで九死に一
生を経ていた。つまり既にロスチャイルドの配下でありユダヤ資本とは切れない関係に
あったし国としても戦争遂行にも必要な資金源だった。対してヒットラーには歴史的に
も国家的にも平和を脅かす災難だったし、戦後の賠償金の取立屋としても忌み嫌う存在
としてユダヤ人がいたのである。当然ソ連とは手を組んでも、英国とは手は組まれない
存在だった。又その頃には米国も又紙幣の発行権利を争っていて当然日本が世界大戦に
登場するとは思えない存在だった。だがアメリカのユダヤ資本は既に半数以上の議員を
牛耳っていたし、その力でメキシコを取引材料にしてフィリピンをアメリカ政府の名で
購入していた。それはスペインの内乱に乗じた戦争の取引として確約が存在していた。
つまり王政を掲げていたスペインに、カタルーニャなどの独立派は、人民戦線を掲げた
共産主義に支援されメキシコ・ドイツ・ソ連・イタリアが支援し、カトリックの王政に
議会制民主主義を志向するプロテスタントの穏健派にフランスとイギリスがついて社会
主義無政府主義革命を志向する強硬派と共に行動していたのだ。当初決して一枚岩では
なかった中でアメリカがメキシコや南米紛争と共に妥協案を提示して来たのである。


945: 名無しさんAA:17/12/08 20:28
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 605----------

 こうした話が日本に関係ないと思ったら大間違いである。キューバ革命(1959年
)の指導者エルネスト・チェ・ゲバラが南米ボリビアで軍事政権打倒を目指して、共に
戦った同志の中にも、鹿児島出身の移民の父を持つ日系人がいた。唯一名前が上がった
のは前村フレディと言う日系二世だが、他にも大勢日本人はいた。又ソ連が支援した、
国際旅団にも日本人兵士がコックとなった反ファシストの日本人の義勇軍兵士がいた。
「戦うコック」として愛された「ジャック白井」である。他にも野口英世と共にアフリ
カ戦線に出た者や潜水艦の漂流でアフリカにて死んだ日本の武士など大勢がいる。ただ
他の国の人と違ってあまり有名にはならなかっただけなのだ。実は日本は日露戦争以来
数多くの米国向けの移民を出して来た。ハワイの日系人を始め日本が日露戦争で農業の
人手や漁業の人手が足りず、食いつないで国内で生活するのが不可能に追い込まれたか
らだ。江戸時代から日露戦争まで「世界で一番安い東京の青い空と白い米」と言われる
程暮らしやすかったのだった。日露戦争で勝ったのも実はこの東京に来ていた 多くの
学生などの知識や素養が軍隊にあったから規律が守られて勝ったのだ。と言われている
。更に日本人は諸外国の内乱から逃げて来た多くの革命家も又支援したりわけ隔てなく
教育するシステムがあった。日本最初の集団での海外移民は、1868年(明治元)に40人
余がグアム島、153人がハワイ、1869年(明治2)に40余人がカリフォルニアに渡航した
のがはじまりである。とされる。後に「元年者」と呼ばれるようになった最初のハワイ
への移民は、主にサトウキビ耕地の労働者として、横浜駐在のハワイ領事ヴァン・リー
ドが、日本人の口入屋を使って京浜地区で集めた人達であった。職人が中心であったが
、農民や武士も含まれていた。ヴァン・リードは、幕府からの渡航印章(旅券)の発給
を受けていたが、明治新政府がこれを認めなかった為、許可のないまま渡航を強行した
。移民を乗せた(Scioto)斎藤号は1868年5月17日(慶応4年4月25日)に横浜を出帆し、
1868年6月20日(慶応4年5月1日)ホノルル港に到着した。ホノルルまでの航海は順調で
あったが、農場に入った後、移民たちは、不慣れな気候の下での過酷な労働と、物価高
による生活の困窮に苦しみ、同年12月には移民元締の牧野富三郎らが日本政府に救出を
求める嘆願書を寄せる事態に至った。明治政府は、問題解決のために民部省監督正の 
上野景範を使節としてハワイに派遣した。上野一行は、サンフランシスコ経由で1869年
12月27日(明治2年11月25日)ハワイに到着し、ハワイ外相ハリスと交渉の末、1870年1
月11日(明治2年12月10日)、帰国希望者40人の帰国、残留者も契約期間が経過したと
きにはハワイ政府の費用で日本に送り届けること、などを合意した。

946: 名無しさんAA:17/12/08 20:49
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 606----------
 ネルソンロックフェラーは、ロックフェラーセンターを企画し不況時代に雇用を産ん
だ初代ロックフェラーの孫だった。ネルソンとデービットはワールドツウピーストレー
ドビル即ち911で有名なトレードセンターを作った。ネルソンは1979年70歳で
亡くなったが、「私はとうとう社会にはびこるがん細胞を取り除けなかった。」と言っ
てこの世を去った。初代ジョン・デイヴィソン・ロックフェラーは、弟のウィリアム・
ロックフェラーとスタンダードオイルを作って財をなしたのだが。「今の商売のやり方
は私達が起こした当初の商売のやり方を真似た様に戻って来てる。だが、本当の問題は
資産や財産を持つことの責任だ。大いなる禍か、大いなる祝福かは、やがて神が決める
。」と言って死んで行った。ロックフェラーは若い頃から教会に収入の10%を寄付して
いた。オハイオ州クリーブランドのレイクビュー墓地に埋葬されたのだが、そのときに
巨額の財産は、ごく僅かしか残っていなかった。ロックフェラーは自らの一族に既に、
莫大な生前贈与を行い、とりわけ息子のジョン・D・ロックフェラー・Jrには多くを
分け与えていたのであった。結果、一族は遺産騒動もなく20世紀のアメリカで最も豊
かで最も影響力を持つ一家となっていた。孫のトレードセンターを作るにあたっても、
息子の名で投資していた。事実上息子であったジョン・D・ロックフェラー・Jrは、
慈善事業に多くの投資を行っていた。かつて魔の金曜日で吹っ飛んでしまった財産も、
安値買いで既に倍になって彼らを潤していたのである。そのけん引役となったのはチェ
ース・マンハッタン銀行で現在のJPモルガン・チェースであり、ロックフェラーの孫
デイヴィッド・ロックフェラーがCEOを20年間務めていた。ここを通じて、このセ
ンター建設の投資も行われたのであった。同じくロックフェラーの孫ネルソン・ロック
フェラーは、ジェラルド・フォード大統領の下で副大統領に就任して大統領を狙ったが
、愛人騒動で「ゴールド・ウォーター事件」として、最初の政治家の私人スキャンダル
で不評敗けした。もう一人の孫ウィンスロップ・ロックフェラーはアーカンソー州知事
に就任したが彼の隠し子がビル・クリントンであるとされ、ジョン・F・ケネディ大統
領がやって来た時のセレモニーの主催者となっている。又クリントンのスポンサーは、
ユダヤ財閥、ハリマン家の当主パメラ・ハリマンで、ブッシュ家との関係も深いアメリ
カ有数のユダヤ人実業家で日本に満鉄共同経営を進めた家柄だ。曾孫ジョン・ロックフ
ェラー4世は、現在民主党のアメリカ合衆国上院議員であり、かつてはウェストバージ
ニア州知事を務めていた。結果としてロックフェラー2世はニューヨークにおける最大
の不動産所有者となったしアメリカの銀行であるチェース・ナショナル・バンクが彼の
信託投資会社を買収したときその支配的利権を得ている。

947: 名無しさんAA:17/12/08 20:50

陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 607----------

ロックフェラー2世は、結果として世界恐慌の間にロックフェラー・センタービルの建
設に資金を提供したが、米国最大の不動産王となった。慈善事業に力を入れ、そうした
文化事業によって最も記憶されるのは一族と共にロックフェラー財団とロックフェラー
大学を創立した事だ。さらにニューヨークの国連本部の建設敷地を寄贈して居る事だ。
ジョン・ロックフェラー4世はジョン・ロックフェラー3世であるジョン・ロックフェ
ラー2世の長男の子だが、当主3世の子でありながら、長年傍系の一族に追いやられて
いた。何故だか彼は1954年にフィリップス・エクセター・アカデミーを卒業し、ハ
ーバード大学で東洋の歴史および言語を学び1961年に卒業後、東京の国際基督教大
学で日本語を三年間学んだ。結局7年間も東洋言語を学んだが、実際に日本語を話せる
程ではなかったと言われる。その子ジャスティン・ロックフェラーにはあまりいい話は
ない。ベンチャーキャピタリスト、政治活動家の肩書があるが叔父のマイケル・ロック
フェラーはハーバード大学で民族学を専攻、その過程でニューギニア・イリアンジャヤ
の部族に興味を持ち、特に、ダニ族と当時首狩りの風習が残っていたアスマット族の研
究を行ない、彼らの木彫りの美しい美術品を収集するなどしていたが、行方不明になり
首狩り族に殺されたとされる。ニューメキシコ準州(現ニューメキシコ州)ソコロ郡の
サン・アントニオで、ノルウェー系ドイツ人移民の息子として生まれたホテル王コンラ
ッド・ヒルトンは、戦後の東西冷戦下でアメリカ文化のショーウインドウとして世界各
地に豪華ホテルを建設した。彼はニューメキシコ軍人養成学校で教育を受けた後、第一
次世界大戦でアメリカの参戦に従軍してフランスへ送られた。その後退役するとテキサ
ス州シスコに移住し、当初銀行家を目指したが、買収に手ごろな銀行がなく、たまたま
見つけたモブレー・ホテルを1919年に買収したのが彼のホテル経営の最初であった。こ
のホテルは大盛況を迎え、その後はホテル経営に才能を発揮し、1930年にはヒルトン・
ホテル最初の高級ホテルとなるエル・パソ・ヒルトン(現プラザ・ホテル)を開業する
に至っている。世界恐慌期には破産寸前にまで追い込まれたが、フリーメイソン結社の
会合場所として資本家の知遇を得て持ちこたえた。その後には立て直し、1946年にヒル
トン・ホテルズ・コーポレイションを設立し、株式の上場を果たした。戦後西ドイツに、
「我々は共産主義に挑む様に、アメリカ陣営の自由の旗を建ててこの理想建設を謳う事
を高々と宣言する。」と最高級ホテルを突如として建設した。


948: 名無しさんAA:17/12/08 20:51
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 608----------

しかし、キューバでのヒルトンホテルは散々な目にあった。キューバ革命によって歴史
の渦に巻き込まれ窃取されたのだ。キューバに開業した南米最大のハバナ・ヒルトンに
、カストロが革命本部を設置し、政府に接収されてしまうのです。資本主義の自由の旗
を自負していたコンラッドはじくじたる思いでした。この物語には半世紀後に続きがあ
ります。2015年、コンラッドのひ孫であるパリス・ヒルトンがハバナを訪れたので
す。そこで出会ったのが、カストロの息子でした。メディアは二人を「ロミオとジュリ
エット」に喩えて世界に報道しまた。ニュースは伝える。「米国とキューバの間で国交
正常化に向けた交渉が続く中に、米国の有名タレント、パリス・ヒルトンがキューバの
首都ハバナを訪れ、フィデル・カストロ前国家評議会議長の息子と会った。ヒルトンの
曽祖父コンラッド・ヒルトン氏はヒルトンホテルの創業者だが、1958年に「ハバナ
・ヒルトン」を開業し翌年のキューバ革命で国有化されて、名前も「ハバナ・リブレ」
(自由ハバナ)になった。一時、革命政府の本部にも使われたが現在も ホテルとして
営業中だがこのホテルの、ハバナでの葉巻フェアに招かれた。この会場で、フィデル氏
の息子で原子力専門家のフィデル・カストロ・ディアス・バラルトさんと携帯電話など
で写真を撮るなどした。米スーパーモデルのナオミ・キャンベルらも同席した。」と。
ヒルトンさんの曽祖父時代の、フィデル氏が率いる革命政府によって、開業したばかり
のホテルを接収された因縁がある。映画「ハバナの夜」ではユダヤ系マフィアのランス
キー親分が59年の革命に、これは共産主義革命だと、ハバナから脱出を図るシーンが
出て来る。信頼している子分のアルマンドと国外脱出しようとしたとき、彼が思いがけ
ないことを言う。「これは共産主義革命なんかじゃありません。フィデリスタの革命な
のです。私はここに残ります。フィデルの革命なのだから。」と言う。彼はランスキー
から信頼され高額で雇われ仕事人として慕われていた筈だった。だが金より革命に心が
動かされたのだ。仕事を失って、更に仕えるボスが不在で、カジノが閉鎖されても彼は
革命政権のキューバに残る覚悟をした。ランスキーは自分自身を否定されたような衝撃
に驚き、ホテル・ナショナルの庭のベンチに腰掛け少年期の体験を語り部下の説得を試
みた。ランスキーも12歳まで帝政ロシアに住んでいた。共産主義のロシア革命によっ
て郷里を離れる事になり、合衆国へ移り住んだ。実体験を基にキューバ革命は共産主義
だと警告するランスキーだった。だが、彼の部下のアルマンドは「仮にそうだとしても
、人民のための革命です。」と言い切り結局キューバに残る。ここにカストロが起こし
た革命とマフィアの金で操る価値観の衝突を、巧みに描写している。

949: 名無しさんAA:17/12/08 20:54
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 609----------

 映画と違い実写では、笑顔でナイスミドルといった感じの男性の彼が、有名なマフィ
ア、ラッキー・ルチアーノである。「ハバナの夜」ではルチアーノがランスキーに招か
れ、祖国イタリアからハバナ入りするシーンから始まる。ランスキーは資金と共に国外
脱出したが、革命政権下でも裏ビジネスを続けようとするマフィアもいた。ランスキー
に次ぎハバナで力があったマフィア、サント・トラフィカンテ・ジュニアは、革命が起
きても所詮首がすげ代わるだけだろう思っていた。マフィアが独裁者と共に築き上げた
悪徳の帝国経済はすっかりマフィアの事業に浸っていて、いまさら抜け出すことなどは
不可能だと考えていた。しかし、カストロが率いるキューバ革命は金より正義を選んで
いた。CIAもペンタゴンも多くの資金をつぎ込んで暗殺を企てた。だが彼らは巨額の
資金を投じても、カストロを暗殺できなかった。政権の座に着いてから国際連合の総会
に出席する時、ニューヨークに向かう飛行機でカストロは記者のインタービューを受け
る。「あなたはいつも防弾チョッキを着ていると聞いていますが」という問いに対して
「私はモラルという名のチョッキを着てニューヨークにやって来た。これがあれば心強
い。このチョッキがいつも私を護ってくれてきたんだ。」と返答している。カストロが
今日まで生存されて来られたのはこの“モラル”があったからではないかと思う。先に
紹介したアルマンドが、マフィアの大御所の下での身入りの良い馴れた仕事を絶って、
革命政権下のキューバに残ったのだが、時に人は金よりモラルや正義を優先する。CI
Aやマフィアは、カストロの元愛人にも暗殺を依頼していたが、彼女は当時に、この旧
ヒルトン・ホテルの司令部を構えた中のカストロの個室に潜入し銃口を向ける段階まで
いった。だが、良心からトリガーを引くことは出来なかった。こうして起こったキュー
バ革命は、結果的にはソ連に近づき、社会主義化したがマフィアやCIAはカストロの
率いた革命と敵対した。だが本質を見誤っていた点に、根本的な間違いがあった。それ
はキューバ独立の使徒ホセ・マルティの時代からキューバ人が求めて来た人道主義に基
づいた革命であった事だ。合衆国とキューバは国交正常化の道を歩んだ今日でも、未だ
キューバ革命の真髄を誤解している。「ハバナの夜」の著者もカストロを「ラ・エンガ
ニャドーラ」(詐欺師)と描写している箇所が上記のハイメ氏の証言後にあるが、私は
このような記述を見るにつけ、事の本質を西洋は間違えた見方を行いがちだとつくづく
思う。カストロは1979年1月3日、サンタモニカで老衰のため大往生した。

950: 名無しさんAA:17/12/08 20:56
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 610----------

 この頃の移民として日系人は多かった。此処に一つの資料がある。宮崎新聞の民間移
民の大御所菅原氏の手記である。米二年の収穫と布哇(ハワイ島)移民と題される物で
過去二年間の渡米は、私にとつて大きな開発を付与したものだ。と言った後の言葉だ。
「日本は人口が多く、殖える方も早いから今後は出来るだけ人を海外へ出して発展の途
を講じなければならぬ、といふ所に根拠を置いて国家的見地から移民問題を取上げたわ
けである。日向は才智に富み英文も巧みであつた。此に着眼して菅原と相談し布哇移民
の計画を立てたのである。菅原は、始めそうした目的ではなく全く政治的の結論を抱い
て布哇(ハワイオアフ島)へ行つたもので、亡命中の孫逸仙を援けて支那革命のために
気を吐かうとした。それともう一つは、アメリカが余りに布哇を圧迫するので、それに
対して蹶起する、布哇の志士を援けやうとしたのである。その志士と云ふのは、英人と
布哇人の混血児で予て菅原には相識の間柄であつた。さて日向と菅原が布哇で移民事業
を起すことになつたのであるが 当時布哇には官約移民なるものが日本から送られてゐ
た。之には斯うした経路があつた。由来 布哇では労働者の不足に苦しみ、明治元年に
は砂糖工場主が、日本へ手を廻して各地から人を集め百五十人ばかりのものを殆んど瞞
すやうにして連れ込んだ事実がある。明治十四年には、布哇のカラカウア王が世界周遊
の途次、日本へ立寄られて移民の事を政府に請ひ、井上外相と相談されたこともある。
越へて明治十七年、布哇政府は日本駐在のアービン公使に命じて更に移民の斡旋をし、
井上外相に請求されたので、十年間の約束で移民を送ることになつた。之が官約移民と
名づけられたわけである。爾来十年間に謂ゆる官約移民として送られた数が二万九千人
と統計は教へて居る。
 そこに日向は目をつけ、間もなく十年の官約期限が切れるその跡を引受けて民間事業
としてやろうと考へたのである。この計画はうまく行き 日向、菅原の移民事業は大に
成功した。私等も此の事業について相談をかけられた時には大に賛成して関係すること
になつたのであるが、当時の根本観念としては、誰も利益方面を考へたわけでなく全く
移民事業の必要を痛感した結果であるが、実行して見ると意外の利益があがつて来たの
である。松岡達三郎も加はつたが、要するに移民事業に於ける私どもの立場は傍系的の
関係にあつたのである。


951: 名無しさんAA:17/12/08 20:58
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 611----------

人口問題と海外発展策として
 二年数ヶ月を桑港で過して私は明治廿四年の秋、帰朝して懐かしき祖国の姿に接した
のであるが、星先生は私より先に帰国して居られた。移民事業の計画を話したら、すぐ
賛成して呉れた。陸奥さんが外務大臣に就任したのは二十五年の八月であるが、星先生
から移民会社の認可に就て話込んだのであるが、陸奥さんは以前の移民が、ひどい状態
にあつたといふことを耳に挟んで居るので「国民を外国へやつて半奴隷の境遇に陥しい
れることは同意出来ぬ」と反対されたものだ。そこで星先生は「移民の境遇が悪いと言
ふことは改害の途を講ずればよいわけで、将来の人口問題とか、海外発展策といふやう
な点から考へて見れば兎に角、人を外へ出すことが先決ではないか、立派な契約を結ば
せ、尚ほ領事館に命じて平生の監督をさせたら移民状態は心配がなくなるだらう」と、
力説したので、陸奥さんも「然らば良からう。」と言ふことになり、明治廿七年になる
と移民会社を認可するやうになったのである。尤も本当に移民を出したのは、廿八年か
らであるが、その状態が数年間続いて居るうちに、明治卅一年には 布哇がアメリカに
合併され、三十三年からは米国の移民法が布哇にも適用されることになつたので、日本
からの移民は一時中絶し私等の会社も消滅したわけである。其時までに各会社から布哇
に送つた移民の総数は四万人以上になつてゐる。布哇の外アメリカに渡つた移民も頗る
多かつたがそれを加へると、私等が事業を止めたころ既に十六万人の移民が海外に出て
居たのである。私は移民会社に関係するやうになつてから十何遍か布哇に行つた。
熊本移民やその他の会社の動向
 扨て、日本移民の気受は何うかといふに、非常に評判がよく、移民なら日本に限ると
歓待されたもので、又布哇は日本移民によつて発展したと云つてよい。支那人は労働に
は堪へるが、我利の念に強くて面白からず、葡萄牙人(ポルトガル人)にしても独逸人
(ドイツ人)にしても、移民としては、うまく行かなかった。斯ういふ機運に鑑み私は
田中賢道、山口熊野、小山雄太郎等と共に熊本移民合資会社を起したのであるが、日向
と菅原は広島移民会社を作り、森岡眞は個人で森岡移民会社を経営し 倶に共に国民の
移民熱を昂揚したものだった。布哇移民については、会社は雇主から 移民の渡航費を
受取つが、船賃を支払ふと、一人につき十円余りの余剰が出て余分の儲けになつた。之
が多くの頭数にかかるので、巨額に上つたが、その代り、移民が布哇へ行つてから何か
事が起ると世話をしてやらなければならず、必ずしも儲けることばかりを仕事にして居
たわけではない。だが世間では一方ばかり見てひどく移民会社を攻撃したものであつた。

952: 名無しさんAA:17/12/08 21:00
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 612----------
 少々くどくどしくなるが、当時の会社としては移民一人につき五十円位の帰国旅費を
積立てねば政府が許さぬことになつてゐたから、移民を布哇へ送ると月々その手続をし
て二年か三年の間に五十円にしなければならなかつた。此の時分 布哇に於ける移民の
給料は平均一ヶ月十七八弗(ドル)であつたが、帰国旅費の積立や個々人の貯金とか、
郷里の送金など、すべて正金銀行に預けてゐたものである。そこで吾々の仲間で銀行を
起し、移民の金を取扱はうといふことになり、出来たのが京浜銀行であるが、之が熊本
、広島、森岡の三移民会社に関係して居るもので組織し、本店を東京に置き、明治三十
一年の七月、ホノルルに支店を設けて、之等の会社で取扱つた移民の金を預かることに
したのである。之は余談であるが、会社時代に、私は山口と相談して南米の方面にも手
を拡げやうと考へ自らメキシコに出張して石炭坑を視察したり、メキシコ政庁へ行つて
交渉するなど相当に奔走して、その炭坑へ五六百人の労働者を送つたこともあるが、之
は結局失敗に終つた。それといふのは、メキシコでは賃銀が一週間二弗か三弗(ドル)
であつたが、アメリカへ入ると倍額になるので自由労働として送つたそれらの移民は、
皆逃げ出した。それでメキシコへ拡げた事業は、すつかり損失になつたわけである。之
を要するに移民事業に関しては、当時各会社に対する、いろいろの攻撃もあつたが、今
から思へば日本人の海外発展について相当の貢献はなして居るのである。
 元年者のトラブル後、明治政府はハワイをはじめ外国からの移民送出の要請を拒絶し
続けた。しかし、1884年(明治16)にオーストラリア北東部ヨーク岬半島とニューギニ
アとの間のトレス海峡の真珠貝採取移民を許可したのが皮切りとなり、その翌年にはハ
ワイへの移民送出を許可した。1885年(明治18)1月に、両政府の取扱いによる移民が
開始され、1886年(明治19)には日布渡航条約(「布哇国政府ト締結セル渡航条約」)
が締結された。この条約に基づく移民(後に官約移民と呼ばれた)は、計26回行われ、
約3万人が渡航した。その後1894年(明治27)日清戦争開戦により官約移民が廃止され
、ハワイ移民の送出しは、移民の募集と渡航の周旋をする民間の移民会社の取扱いに移
った。これ以降、神戸渡航合資会社、海外渡航株式会社、森岡眞(個人経営)など移民
会社が続々設立され、これらの会社は競ってハワイへの移民送出しを行った。ハワイが
米国に併合された後の1899年(明治32)に米国本土での排日の動きを受けて、移民会社
によるハワイへの移民取り扱いが一時的に禁止されたことがあったが、日本人労働力を
必要とするハワイ側の事情から、1901年(明治34)8月、自由移民ならば差支えないと
いう合意ができて、移民が再開された。以後には、日米紳士協定により移民が制限され
る1907年(明治40)までハワイ移民は全盛期を迎え、1年に約1万人から約2万5千人が、渡航した

953: 名無しさんAA:17/12/08 21:01
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 612----------

 この移民の中にフレディ前村の父 「前村純吉(1893〜1959)」がいたのだ
。出身地が鹿児島県揖宿郡頴娃町(いぶすきぐんえいちょう=現南九州市)だがここは
九州最南端だ。1913年10月に紀洋丸でペルーに移住した純吉は最初、カニエテの
大農場でコロノ生活を送ったと言う。コロノ生活とは、コーヒー園が人権問題から農奴
を契約農民にして年間契約の奴隷生活の延長をさせていたのものである。1913年は
大正2年で戦争の前の大不況が押し寄せて来た時代だった。8人兄弟の2人目で、その
数年後に弟重春も後を追ったのは 地元で食えなかったからだ。純吉は前宣伝と違って
まったくお金の残らないコロノ生活に見切りをつけて、ボリビア国ベニ州都トゥリニダ
ーという最貧地に再移住した。純吉の出稼ぎ先の農園の労働は過酷を極め、この地から
徒歩でアンデス山脈を越えてボリビアに移ったのである。アンデス山脈の標高5千メー
トルの山道を徒歩で越えて、日系ボリビア移民の草分けとなった。雑貨店を開業して富
を築き、ボリビア人女性との間に3男2女をもうけた。この地域はアマゾン川の源流に
位置する所で、この頃は天然ゴムの一大産地だった。この時代にゴム採取人として日本
移民が多数入った名残りで、今でも「トキオ」(東京)、「ハポン」(日本)、「ヨコ
ハマ」(横浜)、サカタ、イシヤマ、イタキといった日本語に由来する地名が数多く残
っていると言う。この地でスペイン系の三世のローザを妻に娶ったことから純吉は永住
の覚悟を決めたと言われる。ゴムの仲買いをして資金を貯えて、現地人向けの 食料や
衣料などの提供をし、雑貨屋を始め、裕福な生活を維持した。38年に長女マリーが生
れ、フレディは5人兄弟の3人目だった。この時将来の為に彼は、子供には皆に高等教
育を受けさせていた。マリーは「父は聡明で力強く、口数が少ない働き者」と記す。嘆
いたことなど一度もない。寡黙な父に映っていた。マリーが鹿児島県で見つけた書類に
は、父が戦前に祖国の軍部に大金を寄附した感謝状があった。ボリビアに暮らしていて
も強い愛国心を持っていた。戦争中、ペルーでは日系社会指導者が根こそぎ米国に強制
収容されたが、ボリビアでも日本人迫害はあったという。そんな41年にフレディ前村
は誕生していた。エクトルは幼少時のフレディの心情を、こう代弁する。「自分は裕福
な生活をしているが、通っている公立学校には貧しい現地人子弟がたくさん通っており
、その社会格差の現実に幼い頃から心を悩ませた。彼らを助けたいという気持ちから、
フレディは医者を志した」。治療は費用がかかる、貧しい人々を助けたい、そう考えて
医者を志した。ゲバラも、裕福な家庭に育って医学部へ進み、貧富の格差の解消を願っ
て革命家になったが、どこか共通したものがある仲間であったのだろう。

954: 名無しさんAA:17/12/08 21:02
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 614----------

 フレディ前村は50年代半ば、ボリビアの学生闘争の中心地として有名だった国立高
校に、8月6日高校に入学して政治に目覚めて、共産党青年部に入党した。本来の医者
になるには最高峰のラ・パス大学に入学するしかなかったが、当時は反共主義者で有名
な学長であった為に、共産党員の彼の入学を認めなかった。そのためにキューバに進学
した。59年にバティスタ大統領が国外逃亡した事でキューバ革命は達成された。世界
中に共産思想の赤色の夢がばら撒かれていた時代であり、その英雄が、この国のゲバラ
だった。革命政府が募集した奨学金留学生には応募が殺到し、フレディはボリビア人第
1期生としてハバナに留学出来た。エクトルは「両親や家族はフレディは真面目であり
、キューバで医学の勉強を続けていると思っていた。」と語る。だが大学でゲバラと出
合って革命思想に目覚めていた。最初は貧困者への医療行為が 彼らの肉体的な苦痛を
和らげると考えていたが、社会をみる目が深まるに従って、ボリビアのような貧しい国
々での病死の主な原因は、経済・社会の後発性、極貧、幼児の栄養失調、連綿と続く、
飢餓だと気づいた。」とある。九州大学医学部を卒業しパキスタン・ペシャワールのハ
ンセン氏病担当医師として派遣され、今や土木工事までしている福岡県医師の中村哲氏
の闘いと同じ心境だったのだろう17年間に渡ってパキスタン・アフガニスタン無医村
地区で無償の医療活動に従事して水路まで作っている。此処には、医療行為よりも政治
体制や社会を変革することこそが、本当の意味での不平等是正や貧者救済になるのだ。
との考えに行き着いている。ボリビアで生まれ育ち、留学先のキューバでゲバラに出会
い、その思想に傾倒したが革命は失敗。25歳で殺害された前村は長らく反逆者の扱い
を永らく受けてきていた。だが没後50年を迎え、前村を主人公にした日本・キューバ
合作映画が全国公開される事でその真実が浮かび上がる。貧困や権力に敢然と立ち向か
う前村にゲバラの信頼は厚かったという。66年にゲリラとして母国に潜入した。だが
ボリビア軍に捕らえられ拷問の末に射殺される。長姉マリーさんの「兄弟の中で最も父
親に重なる部分が多かった」という言葉は寡黙な日本人観を見せる。だがボリビア軍に
捕らえられ拷問の末に射殺されて家族は一時拘束され、軍の監視下に置かれた。その後
反逆者としての汚名が付いた。そそがれ始めたのはゲバラの遺骨発掘が始まった90年
代。2005年には左派政権が誕生し前村らの評価が見直された。ゲバラは前村につい
て「完璧なゲリラ戦士」と日記に書くほど信頼を置き、自身と同様に医学を学んでいた
こともあり、仲間内では前村を自分の名前でもある「エルネスト」と呼んで、称賛を惜
しまなかった。

955: 名無しさんAA:17/12/08 21:04
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 615----------

 2008年に、前村のおいのエクトルさんが鹿児島を訪問した。その時、初めて前村
の存在や歴史を知った上村さんは「まさか自分のいとこが革命に関わっているなんて」
と驚いたという。それにしても革命家としての資質はどう培われたのか。純吉に続いて
ペルーに渡った前村のおじ、重春を知る福元福一さん(78)=南九州市=は語った。
「昔からここは貧しい地域でしたが、村の祭りや公民館の建設費も米国や南米に出稼ぎ
に行った人の寄付でまかなえた。正義感が強くて地域に尽くす人が多かったね」郷土史
に詳しい県立図書館の原口泉館長は、「江戸時代から薩摩藩には開拓政策があり、フロ
ンティア精神あふれる人が多い。特に頴娃町のあたりはかつて不毛の地で、移民を多く
輩出している」と説明。「フレディの功績は、移民の歴史を持つ薩摩に誇りと勇気を与
えてくれる」と評する。理想を追い求めて戦い続けたゲバラと、維新の立役者を生んだ
鹿児島にルーツを持つ前村。志半ばで倒れた2人の思いは、50年たった今も色あせる
ことはない。この物語に「日本人にしか撮れない」と阪本監督は意欲をみせていた。阪
本順治監督(59)は、3年前からキューバやボリビアでの取材を重ね、キューバ政府
の協力も得て映画を完成させた。「日本が高度成長と東京五輪に沸いていた時代、南米
に日本人の血が流れ、希望を追求した名もなき医学生がいたことを知ってほしい。」と
話、映画は1959年にゲバラが広島を訪れる場面から始まる。「核のおぞましさを、
実感を持って知ったチェ・ゲバラと、日系人のフレディが、キューバ危機を通じて出会
っていく。これは日本人の監督にしか撮れない」と直感したという。キューバでの撮影
は現地政府の協力を得て行われ、軍事訓練のシーンは実物の武器を用いた。日本文化に
対する認知度は高く、阪本監督は「ロケを見ている人が、松坂大輔はどうしているのか
とか声を掛けてくる。原爆のこともよく知っていた」と振り返る。主人公、前村の父は
鹿児島から南米に渡った。「九州の人には新天地を求めていく勢いや夢を抱く力があっ
た。なんとしても成功して国に財を持ち帰るというおとこ気は感じる」“革命家の血”
はどこから来たのか。父の古里、同県頴娃(えい)町(現南九州市)にルーツがあった
緩やかに波打つ茶畑と芋畑が広がる南九州市の耳原集落。「確かこの家だったと思いま
す」。前村のいとこ、上村冨美子さん(66)=鹿児島市=は、ある平屋の前で立ち止
まった。前村の父純吉と、その妹で上村さんの母ノリさんが暮らした場所だった。映画
ではキューバで揺れ動く前村の青春時代が描かれる。阪本順治監督は何度も南米に渡り
取材し、前村の兄弟や同級生から誠実で意志が強く、かつ 他者の意見にも耳を傾ける
人物像が浮かび上がる。

956: 名無しさんAA:17/12/08 21:04
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 616----------

 実は不思議な事だが、このチェ・ゲバラも初代ロックフェラーもフレディ前村にも、
或いは中村哲氏でも、カストロでもこの移民達にも、何故だか日本人が忘れて居る共通
の熱い思いがある様に感じて止まない。近頃の生活に違和感があるのは政治や経済に、
大きなとても同意出来ない不調和の影があるからだろう。勿論今や人類は大きな知恵を
つけ文明社会の恩恵の上に立っている。そして第四の革命が起きようとしている。だが
何故か我々が目指している全人類の未来とちょっと違うと思ってしまうのである。かつ
て、第一次産業革命は蒸気機関の発明とされた。この実情は鉄の革命であったと言える
。古来より大量の鉄は出来ず、飾り物や鉄剣位の小さな部品にとどまったままだった。
だが鉄鉱石の発見や精練方法の改良により大型の機械部品を簡単に作る事が可能になっ
た事で蒸気機関と言う無尽の力を取り込める様になり、蒸気船や大砲や数々の鉄製品が
出来る素地が出来た。第二次産業革命は電気の革命であった。これまで静電気や壺電池
しか無く不思議とされた電気が磁石によって力を持ちモーターが開発されたのだ。この
事で更に電磁波や新しい様々有機化合物が作られて行き、更に石油産業と言う燃焼機関
や発電機を作った。これは大きく飛行機と言う今まで熱気球の様な浮かぶ物が飛ぶもの
に変化したのである。第三次産業革命は電子革命である。実質はコンピューター革命で
複合する電磁波の電算機革命でもあった。同時にトランジスタ回路の発見からIC回路
を作り小型コンピューターの道を開いたのである。この大きさは今も通信機器映像機器
時間や測量や単なる自動車や家電まで及んで指令機器を埋め込んで調整を果たし便利に
する為の拡大を図っている事からも、巨大な革命である事が解る。そして今、又新たに
又新しい革命の機運がある。自動認識を得てビックデータから計算するAI革命が起こ
ろうとしているのだ。初代ロックフェラーが今の商売が搾取と独占で利益を上げようと
して昔に戻っていると警告しているのは、やっと共生と救済での経済に落ち着こうとし
ていたからの警告だった。元々経済の済は救済の「済む」「終わる」「落ち着く」「戻
る」「解決する」と言う意味だ。つまり「無事で済んだ」と言う安心に戻る事を意味す
る。今度の革命に「住む寝る食べる」と言う人の生活が全く関係していないゲームの世
界に見える事がそう思わせている。


957: 名無しさんAA:17/12/09 00:11
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 617----------

 杉原千畝が命のピザを発給し続けて居た頃、香港でもやって来るユダヤ人に日本人が
大奮闘していた。戦前には、ハルピンにユダヤ人が5千人ほど居住していた。その後に
3千人ほどになり、営利事業を展開していた。二千年になってイスラエルのオルメルト
首相がやって来る様になっていた。首相はハルピン生まれであり、本年1月には墓参に
訪れていると言う。中国政府筋では、ユダヤ資本を東北地方に誘致することによって、
経済の活性化を企図している噂がある。イスラエル首脳は、国際的孤立からの回避戦略
と、近年の中国の近代化において、中国との接触をふかめておきたい模様らしい。ここ
に中国・イスラエル両国首脳の思惑が一致し大会が開催されるの運びとなり 2007
年の6月14から4日間、「ハルピン・世界ユダヤ人経貿合作国際論壇大会」を黒竜江
省ハルピン市において開催された。この大会にはロシアのユダヤ自治州の副州長も参加
していたのである。実はマルコポーロ時代から中国にはユダヤ人がいた。フビライの中
の宮廷には、ヴェニスの商人としてマルコ・ポーロが長年逗留していたがその理由の一
つがユダヤ商人がいた事だった。13世紀のころ、北京にやってきたマルコ・ポーロは
『東方見聞録』の中で、「中国東部の開封には大いに栄えているユダヤ人社会が存在し
ていると聞いた」と記している。6世紀には、山西省にユダヤ人は数ヶ所のユダヤ教の
教会を持つに至っていて、唐の時代にはユダヤ人の宗教は危険であるとされ、9世紀の
中頃、広東で4万人のユダヤ人が殺されたといわれている。実はこの人達こそが、正統
な直系ユダヤ人と思われる。元々「啓典の民」でありユダヤ教徒としての自治が認めら
れていたからユダヤ教に固執する事は無かった。この民こそ「開封(かいほう)の民」
とされ、中国で最も歴史が古い都市の一つであり、850年前の北宋時代に首都になっ
た当時100万人の国際都市だった。とされる。「イギリス・ユダヤ人協会」は、ロン
ドンに1871年7月に本部を置いて、ユダヤ人の社会的、道徳的教育の促進を図るこ
とと、各地で迫害を受けるユダヤ人を保護・救済することを目的に創設された。その時
支部を大英帝国の植民地にも広げて海外属領に設立され、その実態調査をしている。中
でも香港島はアジア最大の調査しコミュニュティを広げた所だった。日本が国際連合か
らシベリア駐留を迫られた時、そこにチェコからや中国在留のユダヤコミュニィティが
存在していた中で ロシア孤児達を人情から北欧に民間船が送っている。ロシア革命の
混乱期、ロシア難民の子供たち約800人救出に尽力した、愛媛の海運王だった、勝田
銀次郎の陽明丸の話である。任侠の男とされた勝田銀次郎は、子供たちを無事に故郷の
ペトログラードに送り届けた。

958: 名無しさんAA:17/12/09 00:11
 現在のイスラエルの状況は、それまでイスラエルに点在していた昔からの原住民であ
るイスラム教徒のパレスチナ人に、原理主義のハマスが、居住するガザ地区を拠点とし
、パレスチナ人を盾としてイスラエルの首都テルアビブを中心に攻撃を仕掛けて揺さぶ
りをかけている。ハマスの狙いは同胞イスラム教徒のパレスチナ人を盾としてユダヤ人
を攻撃し、元から住んでいた居住地の奪還である。パレスチナの民間人に犠牲者を出す
ことも多いが、盗賊の如く武力で乗っ取りを図ったイスラエルユダヤ人の罪は大きい。
国際社会は人権問題によって、罪もない民間人を犠牲にしているイスラエルを非難する
が過去の約束である共和生活の規則すら守らないイスラエル人に手を焼いている状態だ
。ハマスは国際世論を味方に付けながら、戦況を有利に進めていたいが武力を持つ事を
控えて戦っている。しかし、物事の本質を見ずに中国人達は記事を書く。欧米社会は強
くイスラエル批判に回っているが、中国政府同様彼らに人権や平和の意志が無いままだ
。日本人も欧州人程に無いにしろユダヤ人を好まない人種ではある。ルールを守らず、
協調や共和を行わない宗教徒であるからだが、中国さえ脅威としない。と断言する平和
ボケした中では、早々嫌味な事にはならない。そもそも西洋人の様にはユダヤ人=優秀
などとは思ってはいない。本当に優秀ならば、金でも力でもない美しさを兼ね備えての
人種であって、過去からのカナンの地を捨てる事はしない筈だからだ。第2次世界大戦
時にドイツの独裁者ヒトラーが、ホロコーストでユダヤ人600万人の犠牲者を出した
と言う嘘を堂々と付く様は、中国人の南京大虐殺が何万人と言うのと殆ど同じ法螺であ
る。よく言われるのは「金融はユダヤが牛耳っている」という話は単にマフィアも又ユ
ダヤ社会であっただけで、老舗の金融機関であるモルガンスタンレーやゴールドマンサ
ックス、シティバンクやJPモルガンチェース銀行など、大手金融機関のユダヤ系は黒
い闇社会と繋がっていただけの話だ。それだけまともな商売をしない中では嫌われても
仕方ない話である。キリストが貼り付けにされた時代から、永遠と裏切りと告げ口での
商売をし、ドイツだけでなくスペインやイタリア、英国でも「優秀なユダヤ人が我々の
職と食を奪っている」という認識は今度の911事件でも明らかになっているし、世界
大戦に各国の政治家たちはこのチャンスとばかりに根絶やしを考えた事は当然だろう。
不幸にも欧州各地に散らばっていたユダヤ人は、地元では厄介者扱いされていたのは、
その所業の汚さやあくどさ故でもあった。欧州の不況が深刻化すると、貸金の取立に殺
人さえ厭わなかった。ユダヤ人が職を奪っていると言う現実は、ぬれ衣でも何でも無く
、ドイツで起こったハイパーインフレはユダヤ資本が行った金融引き揚げで意図された
ものだった。この時ドイツ国内の餓死者や自殺者はかなりの数に登った。

959: 名無しさんAA:17/12/11 16:08 ID:J/A
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 619----------

 ところがイスラム教はこのユダヤ教に対抗して エジプトで起こったものとするのが
古い物語から読み取れる。「出エジプト記」はモーセ五書の中で歴史的背景を言うもの
だが人類出現「創世記」の次に来る。その後宗教的規定に関しての記述書「レビ記」が
事細かに神の訓示からの教えを説く。その後モーセの死後の歴史である「民数記」への
家系の記述に繋がっている。その後「申命記」として詩編教えを説く。つまりこの五書
は旧約聖書の基幹をなすもので、ヘブライ語でトーラとも呼ばれる。つまりヘブライ語
を原書としてユダヤ教が旧約聖書の詩経を保管している。と言う自負をしているのであ
る。それぞれ「創世記は」ヘブライ語で「初めに」の意味で「出エジプト記」の原題は
「名」の意味「レビ記」は「神は呼ばれた」の意味であり「民数記」は「荒れ野に」の
意味「申命記」の原題は「言葉」の意味とされる。ユダヤ教においてトーラは、律法と
読むが、意味は「教え」であり、「教示」「指示」である。なお、プトレマイオス朝の
エジプトのファラオの時代でプトレマイオス2世の命で、ユダヤ教の「祭司」とされる
レビ族の書記官たちが言う言葉をギリシャ語に翻訳した律法の題名が「トーラ」と名称
になったとされる。この名はこのモーセ五書のそれぞれの書のタイトルである。そして
、それら五つのタイトルである文節が並ぶと「初めに荒野で呼ばれた名は言葉」という
意味を成す。これらから、ヘブライ語律法を読経する際は、現行の法律や契約書の様式
にも取り入れられている読み替えを行い、「言葉」から「名」に、あるいは「名」から
「言葉」に読み替えて意に留める訓読みをしている。例えば文中に綴られた「かかと」
の「言葉」を音読すると同時に、その言葉が「ヤコブ」という「名」に由来することを
意に留めると言った風な事だ。日本の掛け替え言葉の様なものだ。ところがこのトーラ
はユダヤ教の聖書のことであり、すなわちヘブライ語のヘブライ語聖書を指す言葉であ
るしそれは不文律の律法なのだ。律法は1.道徳律法、2.司法律法、3.儀式律法に別けら
れて、この内の道徳律法は永続性があるが、儀式律法はイエス・キリストの十字架によ
って成就された、とされる。つまりキリスト教は成文律法であり、まだその奥に一子相
伝の口伝律法のトーラーがある。と言う考え方である。この「成文のトーラー」に対す
るユダヤ教の概念こそ「他聞不要秘儀」のトーラーの法規面に関する、解釈・分析の中
の議論の口伝の伝統で書にはされなかったが、モーセがシナイ山で預かったと同じよう
大事なものとして扱われる。こうして聖書の成立とは別に口伝の伝統を保ってきたのだ


960: 名無しさんAA:17/12/11 16:08
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 620----------

ところが この旧約聖書はキリスト教側の観点でしかない。このために最近では「ユダ
ヤ教聖書」、「ヘブライ語聖書」、「アラム語聖典」などと呼ばれることもある。事実
アラム語の聖書は起源が古く、ユダヤ教においては、トーラー、ネビイーム、ケトゥビ
ームの頭文字、TNKに母音を付した『タナハ』と呼ばれる他、『ミクラー(Miqra):
朗誦するもの』と呼ばれる経法ともされる。又ミクラーはイスラムのクルアーンと語源
を同じくしている。この「旧約聖書」の内容は古代イスラエル人・ユダヤ人の思想活動
すべてを網羅するごとく多岐に渡っている。この旧約聖書に含まれる文書の概略は多く
が知る様に不思議な伝承でもある。旧約聖書の冒頭は創世記だが、そこでは神が7日間
で世界を創り、楽園に男と女(アダムとエバ)を住まわせる。だが、彼らが蛇の誘惑に
よって禁忌を犯したので楽園を追放され、神による天地創造と人間の堕落が語られる。
その後、創世記には最初の殺人であるカインとアベルの兄弟の話(創世記4:1-16)が続
き、ノアの箱舟(創世記6:5-9:17)、バベルの塔(創世記11:1-9)と物語が続いていく
。続いて、アブラハム・イサク・ヤコブの3代の族長の物語が記されている。アブラハ
ムはバビロニアから出発して、カナン(現在のイスラエル/パレスチナ)にやってきた
遊牧民の族長であり、神から祝福を受け 諸民族の父になるという約束を与えられた。
イサクはアブラハムの息子であり、彼にも子孫が栄える旨が神から約束されている。更
にその息子がヤコブであり、彼と契約を結んだ神はヤコブとその子孫にカナンの土地を
与えると約束している。ヤコブはこの契約でイスラエルと改名し、彼の子孫はイスラエ
ル人と呼ばれるようになった。ヤコブは12人の男子および数人の女子をもうけたが、
男子それぞれがイスラエル十二氏族の長とされている(創世記29-30) つまりヤコブが
このイスラエルやユダヤ人の始祖である。とされたのである。この創世記には、この族
長の3代記に続けてヤコブの末子のヨセフの物語が記されている。兄たちに殺されかけ
てエジプトに奴隷として売り飛ばされながら、夢占いと実力で立身出世してエジプトの
宰相にまで登りつめ、飢饉に苦しむようになった父と兄たちをエジプトに呼び寄せて救
う話である。創世記では、これらの他に悪徳の町であるソドムとゴモラの滅亡(創世記
18:20-19:28)、ヤコブと神の使者との格闘などの話(創世記32:23-33)が有名である
また創世記には、多くの系図が含まれておりイスラエル周辺部族の縁起等も語られてい
る。

961: 名無しさんAA:17/12/11 16:09
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 621----------
だがこの天地創造と部族長の物語をユダヤ教としてるが、実は近年の研究でバビロニア
神話のモチーフをそのまま真似した物語に過ぎない事が解っている。そして「出エジプ
ト記」に移るのだが、ヨセフの時代にエジプトに移住していたイスラエル人達は、王朝
が変った事で、やがて迫害される。そこに、エジプト人としての教育を受けたモーセが
、神から召命を受けて立ち上がりイスラエル人たちを率いてエジプトを脱出し、神の声
が族長ヤコブに約束した「乳と蜜の流れる」カナンの地を目指しながら40年間シナイ
半島で放浪するのである(出エジプト15:22-40:38、民数記) その中でモーセが数々の
奇跡を起こしエジプト王を威嚇し、追跡するエジプト軍を逃れるために海を二つに割っ
てその間を通っていくシーンなどは有名であり、映像化もされて、現在の研究では、ポ
ンペイの大津波として現実の出来事を物語に変えたと言われている。現在も続くユダヤ
教の行事、たとえば過越祭/除酵祭、仮庵祭などでは、この出エジプトおよび荒野流浪
の故事にちなむものとされ、ユダヤ文化の中でも特別で象徴的な位置を占める物語であ
る。シナイ山でモーセとイスラエル人は、神の声から十戒を授かり、他にも様々な祭儀
規定や倫理規定、法律が言い渡される。(出エジプト19:1-34:35)。この中に十戒では
多神教の禁止や偶像崇拝の禁止に始まり、殺人・姦淫・窃盗を禁止し、父母への敬愛や
隣人愛などの倫理を規定するものであるが、この十戒を基にして神はイスラエル人全体
と契約を結んだとされる。このシナイ山での契約は、ユダヤ教の重要な原点の一つであ
るとされている。「ヤーウェ(ヤハウェ)」という神の名はモーセの召命時に初めて明
かされ、モーセ以前には「アブラハムの神」「イサクの神」「ヤコブの神」という呼ば
れ方で部族の神とされていたが、名前を明かした状態で民衆全体と契約を結んだのであ
る。(出エジプト3:13-15)、このアラム語される「ヤーウェ」が英語では「エホバ」と
訳され神聖四文字の「アドナイ」(わが主)古代イスラエルの唯一神の名とされる。こ
の「天を創造された主」「全能者」でヤハウェはサタンを責める事のできる存在である
とされて、「恵みふかく、あわれみに満ち、怒ることおそく、いつくしみ豊か」とされ
る性格は、「罰すべき者は決して許さない」とされた。ピネハスは、旧約聖書の中では
「出エジプト記」に登場するユダヤ人の祭司なのだが、レビ族の出身で祭司エルアザル
の息子であった。荒れ野を放浪するイスラエルの民がシティムで異教神バアルを拝んで
いたとき、ピネハスはミディアン人の女を連れ込んだイスラエルの男性をもろともに槍
で突き刺し殺した。これを神はよろこび、イスラエルを襲わせた災害を去らせ、ピネハ
スとその子孫に永遠の祭司職を約束する(『民数記』25:1-18)。この事が今日の戦争
を産んでいる原因だ。

962: 名無しさんAA:17/12/11 16:11
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 622----------

 ここに書かれている物語は、実は全くバビロニア伝記の書き写しに過ぎない。そして
当時のエジプトにあった奴隷制度を加味され味付けされている。つまり奴隷制度の権利
としての言い分がこの話にちりばめられているのだ。21:3もし彼が独身で来たのなら、
独身で去り、もし彼に妻があれば、その妻は彼とともに去ることができる。と奴隷とい
う権利が社員の様に財産を築いてはいけない事を支持し、21:4もし彼の主人が彼に妻を
与えて、妻が彼に男の子、または女の子を産んだのなら、この妻とその子どもたちは、
その主人のものとなり、彼は独身で去らなければならない。と子供の命でさえ主人の物
と規定した。21:5しかし、もし、その奴隷が、「私は、私の主人と、私の妻と、私の子
どもたちを愛しています。自由の身となって去りたくありません。」と、はっきり言う
なら、21:6その主人は、彼を神のもとに連れて行き、戸または戸口の柱のところに連れ
て行き、彼の耳をきりで刺し通さなければならない。彼はいつまでも主人に仕えること
ができる。と言う永遠の奴隷の印である耳飾りつまりイヤリングの証明の風習まで書か
れている。アフリカ原住民が行う刺青や民族の誇りとしてのこうした飾りは、古代では
特に変わった事では無い。逆にそうした特徴のない所属のない者は生きられなかった。

963: 名無しさんAA:17/12/11 16:11
特に変わった事では無い。逆にそうした特徴のない所属のない者は生きられなかった。
そして今の会社や国民などと言うテカゴリーの決定はその頃の風習を現在まで連れて来
た結果と言える。6:17私は、この身に、イエスの焼き印を帯びている。21:7人が自分の
娘を女奴隷として売るような場合、彼女は男奴隷が去る場合のように去ることはできな
い。21:9もし、彼が彼女を自分の息子のものとするなら、彼女を娘に関する定めによっ
て、取り扱わなければならない。21:10 もし彼が他の女を娶るなら、先の女への食べ物
、着物、夫婦の務めを減らしてはならない。21:11 もし彼がこれら三つのことを彼女に
行なわないなら、彼女は金を払わないで無償で去ることができる。21:12 人を打って死
なせた者は、必ず殺されなければならない。21:13 ただし、彼に殺意がなく、神が御手
によって事を起こされた場合、私は貴方に彼の逃れる場所を指定しよう。21:14 しかし
、人が、ほしいままに隣人を襲い、策略をめぐらして殺した場合、この者を、わたしの
祭壇のところからでも連れ出して殺さなければならない。21:15 自分の父または母を打
つ者は、必ず殺されなければならない。21:16 人をさらった者は、その人を売っていて
も、自分の手もとに置いていても、必ず殺されなければならない。21:18 人が争い、一
人が石か拳で相手を打ち、その相手が死なないで床についた場合、21:19 もし再び起き
上がり、杖によって、外を歩くようになれば、打った者は罰せられない。ただ彼が休ん
だ分を弁償し、彼が完全に直るようにしてやらなければならない。21:20 自分の男奴隷
、あるいは女奴隷を杖で打ち、その場で死なせた場合、その者は必ず復讐されなければ
ならない。21:21 ただし、もしその奴隷が一日か二日生きのびたなら、その者は復讐さ
れない。奴隷は彼の財産だからである。などと細かに聖書は奴隷の刑法条文としても、
記述している。



964: 名無しさんAA:17/12/11 16:12
 問題はそこにある。つまりこの聖書は事細かに規定せねばならぬ程、人は馬鹿だった
と神は人に言っているのである。つまり事故と事件とを裁判して判断しなければならな
い程に、人の生活は教育無くしては成り立たない物だったのだ。21:22 人が争っていて
、みごもった女に突き当たり、流産させるが、殺傷事故がない場合、彼はその女の夫が
負わせるだけの罰金を必ず払わなければならない。その支払いは裁定による。21:23 し
かし、殺傷事故があれば、いのちにはいのちを与えなければならない。21:24 目には目
。歯には歯。手には手。足には足。21:25 やけどにはやけど。傷には傷。打ち傷には打
ち傷。21:28 牛が男または女を突いて殺した場合、その牛は必ず石で打ち殺さなければ
ならない。その肉を食べてはならない。しかし、その牛の持ち主は無罪である。21:29
しかし、もし、牛が以前から突くくせがあり、その持ち主が注意されていても、それを
監視せず、その牛が男または女を殺したのなら、その牛は石で打ち殺し、その持ち主も
殺されなければならない。22:7金銭あるいは物品を、保管のために隣人に預け、それが
その人の家から盗まれた場合、もし、その盗人が見つかったなら、盗人はそれを二倍に
して償わなければならない。22:8もし、盗人が見つからないなら、その家の主人は神の
前に出て、彼が隣人の財産に絶対に手をかけなかったことを誓わなければならない。…
‥と数限りなく次々と足し重ねられる。だがそれでも人々は旧約聖書を信じた。イスラ
エルの神は預言者モーセに神の指で書かれた石の板二枚、十戒を授け、偶像崇拝を禁じ
た(出エジプト記31:18)。ゆえに、アブラハムの宗教のユダヤ教、キリスト教、イス
ラームの諸宗教では偶像崇拝は禁忌とされており、神を可視化してはならない。として
いる。「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また
地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向か
ってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。」 出エジプト記 20:4-5、イス
ラエルの民が金の子牛を崇拝した際には、極刑をもって処罰された。「モーセの十戒」
他の国々や諸宗教で信仰の対象とされている偶像については、以下のように全くの無能
であるとされた。「彼らの偶像はしろがねと、こがねで、人の手のわざである。それは
口があっても語ることができない。目があっても見ることができない。耳があっても聞
くことができない。鼻があってもかぐことができない。手があっても取ることができな
い。足があっても歩くことができない。また、のどから声を出すこともできない。これ
を造る者と、これに信頼する者とはみな、これと等しい者になる。」 詩篇115章4節8節
ヨシヤ王はユダとエルサレムを清めるために偶像を粉々に打ち砕いた。などだ。

965: 名無しさんAA:17/12/11 16:12
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 624----------

 つまりこれでは、ユダヤ教、キリスト教、イスラームの諸宗教では、機械もロボット
も電話もポスターもレコードもラジオやTVも車も使ってはいけない事になる。だが、
現実社会にそうした人が何人いるだろうか。特に日本に一歩でも足を踏み入れた者には
決してそうした者はいない。だがそれでもハラームを食べ、特別許可のハラールを探す
そうしたイスラム教徒が多い。又キリスト教は既に十字の上にイエスキリストやマリア
像と言う偶像を許しユダヤ教徒も又作っていけない原爆や研究していけない科学を研究
して成果を上げている。出エジプト記の他にも、レビ記、民数記、申命記には、おびた
だしい量の法律、倫理規定、禁忌規定、祭祀規定が記されており、これらをまとめて、
「律法」(トーラー)と呼び、原義は「教え」である。これを律法とする法と考えるか
生きる知恵としての「教学」と考えるかが個人に任せてあるのが抜け道だ。たとえば、
法律としては「ある人の牛が隣人の牛を突いて死なせた場合、生きている方の牛を売っ
て折半し、死んだほうの牛も折半する」など細かな規定に及んでいる(出エジプト記21
:35)又倫理規定としては「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ19:18)
など、禁忌規定としては豚食や鱗のない魚を食べることの禁止し(レビ記11章、申命記
14章など)がある。しかし、現代科学では、隣人とは地球人全員であり鱗のない魚など
いない。皮膚が変形し特化した物だからだ。又子ヤギの肉を乳で煮てはいけないとか、
(申命14:21) 細かな食物規定を持ち、祭祀については祭壇の寸法までが細かに指示さ
れている (出エジプト25-28章)レビ記、民数記、申命記は物語よりは律法の記載が多
くほとんどである。ユダヤ教の伝統では創世記から申命記までの五書全体を律法と呼ん
でいるがこの律法に従った生活などまるでしていない。それでもユダヤ教徒だと自らを
呼ぶのである。また、これらの律法はモーセが神から伝えられたもので、五書自体も、
モーセ自身が執筆したという聖書自身の記述と伝承があったためにモーセ五書という呼
ばれ方がなされているがそれは全く間違っている事もバビロン伝承から解決されている
。イエス・キリストも「モーセの律法」と呼んだとされるが、このバビロン神話の故郷
イラクの都をユダヤ教徒は今回徹底して破壊させた。伝承記録を消したいが為に。ヤコ
ブ博士はそれを嘆く。申命記の最後では、ヨルダン川東岸から約束の地であるカナンを
遠く望んだ地でモーセは、そこでヨシュアを後継者に指名して後、「モアブ」で没する
。牛乳などの料理が他民族料理である為厳しく制限したが、兵士養成都市国家の要素で
あったのだろう。


966: 名無しさんAA:17/12/11 16:14
 こうした伝承のこれらが、紀元前に次々に作りだされた規定である事が解る。中世の
時代にはそれがもとで、22:18 「呪術を使う女はこれを生かしておいてはならない」と
いう部分が欧州中に魔女狩りとして利用された。この歴史の様に、今や聖書は古い異物
でしかない。「やがてイスラエル全体の指導者の一人となっていたピネハスはヨルダン
川東側に移動したルベン族、ガド族、マナセ族が勝手に祭壇を築いたときには同地へ赴
き、これを糾弾していた。ルベン族らはこれに弁明し、戦争の危機は回避された(『ヨ
シュア記』22:16-20)のこうした排他主義は、実はもう行うべき事ではない。しかし、
神は今でも「人類は馬鹿だから」と言うのである。つまりアブラハムの宗教のユダヤ教
、キリスト教、イスラームの諸宗教では偶像崇拝は禁忌とされ、この「神」のいい奴隷
であった訳だ。しかし、これだけ席巻してる旧約聖書やバビロン神話は日本に来ていな
かったのだろうか。その不思議は八戸に答えがある。現代に日本人の持つ日本神話が、
日本の物と信じて居るのは盲目的信心である。日本の持つ神道こそ洗練された聖書から
出来た宗教なのだろう。厩戸皇子と言う名前がキリストを指した言葉で聖徳太子である
と言うのは今や常識だろう。日本の皇室は男系男子が規範だが、ユダヤは何故だが女系
女子である。即ちユダヤ教徒である女史で産まれた子はすべからず、ユダヤ教徒となる
のが伝統である。更にこの宗教群ではかつてのゾロアスター教(拝火教)や仏教やジャ
イナ教である福音主義派の菜食主義が色濃く反映されている。禁欲主義とアヒンサー(
不害)の禁戒を厳守するジャイナ教(蛇否教)は徹底した苦行・禁欲主義をもって知ら
れインドの宗教として三千年を要するが世界に知れ渡る事は無かった。仏教と異なり、
インド以外の地にはほとんど伝わらなかったが、恐らくインドバラモン教(古代のヒン
ドゥー教)の更に元になった宗教と解釈してもよいものだろう。バラモン教は、紀元前
13世紀頃にやって来たアーリア人が、インドに侵入して先住民族であるドラヴィダ人
を支配する過程でバラモン教が形作られ産まれたとされる。紀元前10世紀にはこのア
ーリア人とドラヴィダ人の混血が調和、宗教の融合が始まり紀元前7〜4世紀にかけて
、バラモン教の教えを理論的に深めたウパニシャッド哲学が形成4大ヴェーダが現在の
形で成立して宗教としての形がまとめられたとされ、その進化がバラモンの特別性から
今のヒンズーの形が示される。しかしそれに反発して受け入れられず、多くの新宗教や
思想が生まれたのが現在の仏教やジャイナ教で 同じこの時期に成立したとされる。新
思想が生まれてきた理由として、経済力が無くバラモン階級が貧しい階級を守れなくな
り、階級から消え去った事などが考えられる。カースト、特にバラモンの特殊性を否定
されたこれらの教えは、特にバラモンの支配をよく思っていなかったクシャトリヤなど
に支持されていく。

967: 名無しさんAA:17/12/11 16:14
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 626----------

16世紀末、幻の民族が出現した。欧州各国が大航海時代に入ると、アフリカやインド
や日本と言った国と話す事は大事な事になり言語学が発達した。インドやアフリカ更に
中東・極東・北米・南米と言語体系を分類する必要が出てきた。この中でサンスクリッ
ト語や、ギリシア語、ラテン語、ペルシア語、ゲルマン語などの欧州系言語とのあいだ
に類似点が見つかり、これらの言語は、かつて存在したはずのバビロンの末裔としての
インド=ヨーロッパ語とかいうものを共通の祖語とし、そこから派生した同系の言語で
あることが「発見」「証明」された。このことの始まりでアーリア人と言う種族が創り
出された。仮定上のこの共通の祖語を使用していたとされる人々はインド=ヨーロッパ
語族、または(ドイツでは)インド=ゲルマン語族またはインド=アーリア語族と名づ
けられた。その後19世紀になって、皇帝専属学者らは、どういう根拠からかは知らな
いが、この語族分類と人種分類が同一視され、このインド=ヨーロッパ語族がさも特定
の人種ということで説明されだした。この事は欧州列強の植民地支配には都合が良かっ
た。というのもその当時資本家は王族であり王族に資金提供されるのに、説明が必要で
あり又提供側の王も又諸侯に説明する必要があったからだ。ア−リア人という同種族で
あり、或る時支配し又同じ様に我々が支配する事は理に適っている。とした方が納得し
て貰われたからだ。こうしてヨーロッパ製の世界史観が近代ヨーロッパの侵略と植民地
主義の正当化の為に盛んに利用された。その中で今だに、日本の教科書の編纂者がその
まま受け売りしていて、このアーリア神話を世界の歴史として編纂している。このあま
りにうまくでき過ぎている話は金庫番しているユダヤ人が考えてついた事だった。18
世紀、19世紀はヨーロッパ諸国による他国、他民族の植民地化と支配と搾取が最高潮
に達した時期であり、これに乗り遅れる事は王族諸侯への背信とされた。そこでこの時
期の最先端発見の、インド=ヨーロッパ語が「利用」され、アーリア人種が出現したの
だった。こうして人種差別と植民地化と支配と搾取を正当化するような過去の「歴史」
がつくられていくのである。アーリア人神話は、遠くは、黒人にアフリカ大陸から追っ
払われ、近くはローマ帝国に侵略され、植民地化されたヨーロッパ民族の屈辱を埋め合
わせちょっと昔ではナチスの優性列伝とし1)肌が白く、2)背が高く、3)鼻筋がと
おり、4)他の民族より優れていて、5)他人の物は自分の物という支配権利とされた
思想を進化させ、ドイツ人がゲルマン民族のアーリア人種であり、支配して生き延びる
唯一の人種だと選民思想教育を行うのに充分であった。


968: 名無しさんAA:17/12/11 16:22
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 627----------

、「アーリア人の進入とガンジス川流域への移動」という項目に、「前1500年頃か
ら、カイバル峠をこえてインド=ヨーロッパ語系の牧畜民アーリアが西北インドに進入
しはじめた。・・・前千年をすぎると、アーリア人は西北インドからガンジス川流域へ
の移動を開始した。・・・アーリア人は、移動した土地で農耕に従事する先住民と交わ
り、定住農耕社会を形成した。」とあり、高校の教科書でも「アーリア人の侵入」とい
う項目を設け、「中央アジアで半農半牧の生活を営んでいたアーリア人は、イラン高原
をへてインドに侵入し、前1500年ごろまでにパンジャーブ地方に住みついた」と記
述される。だがこれには大きな間違いが起こっている。アーリア人の定義がないのだ。
アーリア人とは、アジア大陸の人と言う意味でアジアそのものが大きな陸の人だと言う
意味だ。紀元前の2300年頃、インド亜大陸に流れるインダス川流域に都市文明が興り、
この文明は後でインダス文明と言われ、世界最古の文明の一つとされた。インダス文明
では、河口近くのモヘンジョ=ダロと、中流域のハラッパーという2つの都市が栄えた
。モヘンジョダロ遺跡とハラッパー遺跡は、構造が似ていて、平野に築かれた城壁で街
を囲み、外敵の侵入に備えていました。また、舗装された道路や、上下水道が完備され
ていて、安定的な農業の収穫によって支えられた文明だったと考えられています。この
インダス文明は同時期のメソポタアの都市国家とも貿易していたとされていて、青銅器
や彩文土器、印章なども使用されていた。こうしたインダス文明で用いられた印章など
はエジプト文明より遥かに早い時期だ。この豊かなインダス文明だったが、次第に衰退
し、紀元前1800年頃に滅亡したと言われる。此処にアーリヤ人の登場がある。この最初
の文明の滅亡後、中央アジアで遊牧生活を送っていたインド=ヨーロッパ語族アーリヤ
人という民族がインドに侵入したと書き加えられた。アーリヤ人の文明では、様々な、
自然現象を祀った多神教が信じられ、この頃の書物「リグ=ヴェーダ」では儀式・祭式
を記した文献が成立しました。紀元前1500年頃から紀元前1000年までの期間の状況を、
この文献からとって前期ヴェーダ時代といわれている。現在狭義におけるアーリア人は
消滅したと考えられている。だが「インド」や「イラン」という国名自体ペルシア語で
「アーリア人の国」を意味し、イラン最後の皇帝であるモハンマド・レザー・パフラヴ
ィー(1979年にイラン革命による失脚で廃位)は自らの称号を「アーリア人の栄光」を
意味する「アーリヤー・メヘル」に定めるなど、現在もペルシア人は自らをアーリア人
であると自認する者が多い。ではアーリア人とは何だ。人種か民族か教徒か。実は現地
人つまり土人に対する侵入者としての名称に過ぎなかったのだ。

969: 名無しさんAA:17/12/11 16:34
アーリア人の第一次(紀元前1500年前後)の移動後の彼らの歴史では、1)肌が白く、
2)背が高く、3)鼻筋がとおり、4)選民思想民族で、5)自他共有の共済村落形成
、ということでまとめられている。最初の古代アーリア人がイラン、トルコ、ギリシャ
などに侵入していくとき、自分たちが新しく侵入していく処に、それまで住んでいた人
は皆殺しにして、別に良心の呵責など感じなかったと言う。もともとギリシャ当りに住
んでいた人々は北からアーリア人に押し出されて地中海に逃げた。インドでは新しく侵
入してきたアーリア人が「肌の白いのが最上級」というカースト制を作り出し、支配を
固定し、最上級の中からお釈迦様も生まれた。とされた。だが白人を追い出した黄色人
が白人社会を創った。追い出された白人が黄色人と言うのは解せない話である。アーリ
アの語源は、サンスクリット語の「アーリア (a?rya)」および、それがペルシャ語に取
り入れられた「アリイア (ariia)」とされる。いずれも「高貴な」という意味であり、
他民族より「高貴な」民族と考えたアーリア人が自称したと言う。古代ギリシア人達が
イラン高原をアリアナ地方 (Aryana)、当地の住民をアーリア人と記録しているのだが
、その頃は地中海東部地域でも既知の民族名だったと言える。アーリアン学説でインド
・ヨーロッパ祖語を話していた人々に関する今日の科学的見解に関しては、インド・ヨ
ーロッパ祖語は 北インドのアーリア系民族の中にもパールシーなどのように、イラン
・アーリア人を祖先とする民族もある としている学説が最も正しいもののようだ。パー
ルシーは、サーサーン朝のペルシア帝国滅亡後にインドに移ってきたゾロアスター教を
信奉する古代ペルシア人の子孫であるのがアーリアンとしている。ゾロアスター教は、
古代社会での世界最古の宗教で、拝火教とも略される。その後バラモンが確立されて、
インド・アーリア人が創り出したが、バラモン教の宗教学派はその前に出来たのである
。仏教では、バラモンの階層社会を否定したがバラモン教の習慣、言語習慣を用いて教
えを説いた。ヒンドゥー教は、このバラモン教を土台に、その他の宗教を取り込んでい
て再構成された。ジャイナ教は、仏教と同時期にヴァルダマーナによって提唱された教
えで、より徹底した不殺生を説き頑なな世界を守って今までの存続を得て居る。仏教、
ヒンドゥー教、ジャイナ教三者は成立以降、互いに影響し合って発展してきた経緯があ
る。こうした中でシク教は、この中のヒンドゥー教とイスラム教の宥和を目指して新し
く構築されたもので、両者の教義を取り入れている。つまり此処では歴史的にユダヤ教
の旧約聖書はイスラムもキリストもインド大陸進出は果たせなかった。それはその原資
がここにあったからだ。そして基礎である古代ペルシャの神話とされるバビロン神話の
起源がこの地にこそあったからだと言える。つまりは旧約聖書も一神教ではなかったの
だ。

970: 名無しさんAA:17/12/11 16:37
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 629----------

 世界大戦時ドイツ人でサンスクリットの文献学者であったフリードリヒ・マックス・
ミューラーは「インド人とヨーロッパ人は起源を同じとする。」とし、2つを統合して
アーリア人と呼ぶことを一般に定着させた。がしかし、皮肉なことに後々にミューラー
自身が「実はその様な人種は存在していなかった。」という発言をするという結果に至
ったのである。だがその間のヒットラーはオカルティズムに傾倒しナチスが優越民族と
していたアーリア人の起源であり、祖先がシャンバラに住んでいると信じられていた。
チベットには幻の理想郷シャンバラが存在するとされ遠征部隊が組織され、この遠征に
ナチスは大きく夢を抱いていた。持ち帰った情報は不明だが莫大な資金を使って詳細な
検証がされていたことは事実のようである。こうした伝説は、ナチス顧問のトップから
ヒトラーへと流れ、高度文明から高い知識を得たいと考えていたナチスは実際にそこへ
到達しようと考え、色々な行動に移していたといわれている。ナチスによれば、他より
も優れた存在であり、唯一生きるに値する優れた民族をアーリア人としていた。アーリ
ア人とは、金髪碧眼、色白であり、起源はインドとヨーロッパであるとされその思想に
基づきナチス・ドイツはアーリア人ではない者を迫害していた。このアーリア人という
伝説の言葉は、元を辿るとサンスクリット語からきており、本来は“侵略者”という、
大きな意味がある。そして、いつしかこの言葉は、“他より優れた民族”という意味が
残り、ある時は現在のイラクにあたるペルシャ人がアーリア人と呼ばれたりしていた。
又、「イエス・キリストを刺した槍を手にするものは世界を制する。」と言うキリスト
が十字に掛けられる時に脇腹を刺した槍がいつしか“運命の槍”とされる伝説もあった
。世界征服を目論む人間の間を行き来してきたこの槍は、古くは紀元4世紀、初代ロー
マ皇帝のコンスタンティヌス1世が手にしたと言われ、ローマ皇帝に受け継がれてきた
とされている。そして「その槍を手にしたものは負け知らずとなるが、その槍を失うと
死亡する。」という呪いも一緒についてきた。世界征服を目指したヒトラーが、これを
見逃すわけがなかった。38年のナチスがオーストリアを併合した時はヒトラーは、最初
にハプスブルグ家の財宝を奪い去ったが、その中でも彼がこだわったのが“運命の槍”
だった。ヒトラーのこの槍に強い愛着があったが、連合軍がナチス・ドイツに乗り込ん
だ時、この“運命の槍”は連合軍に奪われ偶然か呪いか、ヒトラーがこの槍を失ったと
されて80時間後に彼は自らの命を絶ったとされる。


971: 名無しさんAA:17/12/13 16:18 ID:1BM
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 630----------

 大正6年(1917)ロシアで世にいう「10月革命」が起こり富豪及び知識人を目標にし
た大暴動が勃発してロマノフ王朝が崩壊、以後数年間の革命と内戦が勃発した。首都の
サンクトペテルブルでは放火、略奪、暴行、殺人が横行する中、上流階級の3〜15才
の子供達は親を頼みいることもできず、兄弟を守ることもできず命からがら御身一つで
脱出し極東シベリアの沿岸部まで逃げ延び途方にくれ彷徨っていたところ、シベリアに
遠征中の連合軍に救われ、その後アメリカ赤十字社派遣部隊により保護されて、ウラジ
オストックの収容所のような窮屈穴な所に婦女子900人に近い一団が牢籠とした日々
を送っていた。大正9年(1920)当時ウラジオストックでは日本軍の統治下にあっ
て平和を保っていたものの、戦火が拡大し極めて危険な状態になっていた、この避難し
て来た一団のは上流階級の子弟が多かった為に、共産主義のソビエト新政権では彼らが
将来、危険分子となることを危惧して彼らに敵体的であったばかりか、国外脱出すら認
めず、速やかに児子達を引き渡すようアメリカ政府に警告していた。こうした事に政府
は関心を持たず赤十字のみが救出を考えていた。米国赤十字はこの800人の子供達を
保護、ウラジオストクにある施設に移送した時その後の子供たちの救出作戦を立てた。
一旦ロシアを離れ、子供たちを故郷ペトログラードに近い安全な国へ海路で移送しロシ
アの混乱が落ち着いたのを見計らい、子供たちを親元に返すという計画である。こうし
て米国赤十字は関係各国の船舶会社にこの800人の子供たちの移送を依頼を全世界に
打診した。しかし船舶会社の返事は全てNOであり世界中のどの国の会社も子供たちの
移送を引き受けてくれなかった。そこで最後の望みをかけ子供たちの移送の依頼を日本
の運搬会社にも送った。日本では1920年は日露戦争が終結してまだ十数年で革命と
は言え、世界初の社会主義確立を目指したロシアと資本主義を掲げる日本は敵対関係に
あり、中国国内でも満鉄を始めもめていた。勝田は苦悩した。一介の船会社とは言え出
来る事ならロシアの子供たちを助けてあげたい。しかし現実には、もし日本と敵対関係
にあるロシアの子供たちを助ければ、日本国政府や国中から非難され会社は倒産へと追
い込まれかねない状況もあったし、勝田の会社では物資を運ぶ海運会社で客船商売はし
ていなかった。そのため貨物船しかなく八百人もの子供が寝泊まりできる客船は所有し
ていない中であった。だが勝田は「私はロシアの800人の子供たちを助ける」と決断した


972: 名無しさんAA:17/12/13 16:19
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 631----------

 これには理由があった。表向きでは日本政府も関与できず、この港湾入り口には機雷
が敷設されている可能性等のかなりの危険を伴う上に、貨物船主にとって人間の輸送は
厄介な事だった。更に当時の客船は国際的なお客運搬で何処の船会社も面倒は辞退し、
受けての無い状態だったのだ。これを聞いた任侠溢れる勝田汽船社長の勝田銀次郎は、
すぐさま危険と採算が合わないのを承知でアメリカ赤十字社の傭船を快諾して、貨物船
「陽明丸」10,675重量トンを改造しててその任務に当たる事を申し出たのである
。実は銀次郎は林家の長男に生まれながらも勝田家に預けられた男だった。元来土佐で
は勤皇党で新政府討幕軍と旧幕府軍の争いの中で、他の藩より経済がおもいかない中で
あった。松山市法龍寺の先祖墓(銀次郎建立)墓碑は勝田家祖先の墓となっているが、
林家は旧幕府方の家老の下の勘定方でその繋がりで米問屋を始業していた勝田家だった
。つまり幕府からの支給米が無くなり泣く泣く商売している実家の勝田家に預けられた
養子だったのだ。では林家の本筋は、武家侍を多く要した北海道の屯田兵として樺太な
どの開拓移民団の中で、永らく消息を絶っていた物と思われる。屯田兵が実際に入植し
始めたのは1875年からで、記念すべき屯田兵第 1号は琴似。以降、発寒(はっさむ
)、山鼻、江別、篠路、篠津、野幌(のっ ぽろ)といった、札幌や江別に集中して入地さ
せていた。最初の琴似入地から10年後には、今度は根室や室蘭など道内各地に屯田兵
村が形成されていったが、当時は生き延びるだけで精一杯の状態だっただろう。「開墾
は、それはもう厳しいものでした。木の根があり、石があり、支給された鍬は、すぐ歯
がボロボロになり何の役にも立ちません。まず木を切り倒し、薪にして売り出します。
その後、根を掘り起こし、大きな根は火薬抜根でおこしていきます。樹齢100年以上
と思われる桂木や、楢木が何のためらいもなく次々と薪にされていった。やっとの思い
で拓いた土地に、麦、トウキビ、イナキビ等を植えたが、斜里岳下ろしの強風に煽られ
、なかなか収入には結びつきません。(中略)お風呂は下駄をはいて入るドラム缶で、
外には、熊、きつね、たぬき、へび等がこちらを伺っています。(中略)卵を得るため
に飼った鶏は寒さの為卵を生まず、肉を得ようと飼った豚は、食糧不足のため太らず、
(中略)1間しかない掘っ立て小屋は、真ん中に炉が切ってあり、薪を燃して暖を取り
、夜は燠火に灰をかけ、四方から足を入れ炬燵にして休みます。朝起きると、布団の衿
が凍っていたり、吹雪の日には、布団の上に雪が白く積もっています。もう少しましな
家が欲しい、と皆さんに手伝って貰い、柱を建て終わったところで、強風のため吹き飛
ばされてしまったのです。この時に、開墾をあきらめ山を下りる決心をしました。」

973: 名無しさんAA:17/12/13 16:19
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 632----------

こうした状況が日本各地で続いていたのだ。松山中学時代に父を亡くし家督を継いだが
卒業と同時に当時の流行で新天地を夢見て松山を飛び出し北海道を目指し旅立った。北
へ向かう途中汽車の中で東京英和学校(現青山学院大学)の本多庸一院長と出合うが、
この偶然の出合いで、銀次郎の横に座った洋装の本多庸一の新天地への希望を胸に伊予
から出てきた青年に「まずは学問を修めることが大事である、将来世界に羽ばたこうと
思うなら外国語を学ぶ事」と説諭しその言葉に感激した銀次郎はすぐ入学手続きをした
。同校に入学するのであるが日清戦争が勃発した明治27年21才の時従軍記者によっ
て華々しい戦果が伝えられるのを見て新聞記者を目指し学舎を離れたが望みは叶わず2
年後大坂の貿易商に入り後に神戸税関に籍を置きそしてこの税関関係の下積みが後年の
成功の礎えとなった。この時多分銀次郎は本多氏に相当の世話になったと思われる。が
本多庸一は明治期日本におけるキリスト教主義教育の先駆者とされる程の人物で「君が
後世に世話をやって返せば良い。」と全く気にしなかった。青山学院は所謂“MAN”
を育てる学校であると述べている。ここでいう“Man”とは、Sincerity(至誠ーきわめ
て誠実であるということ)、Simplicity(質直ー飾り気がなくまじめであること)とい
う2つの資質を兼ね備えた人物であり、その精神はスクールモットーである「地の塩・
世の光」の人物像へと繋がっている。本多庸一は1910年(大正9年)に英国エディンバラ
で行われた「世界宣教大会」に井深梶之助らと共に出席し、1912年(明治45年)に、内務
次官床次竹二郎の企画で、神道、仏教、キリスト教の三派の会同ために政府関者と各宗
教の代表が出席した。政府は原敬内務大臣らが出席、キリスト教代表として、本多と宮
川経輝、千葉勇五郎、井深梶之助ら7名が出席した。翌日、三派の大乗が再度会合して
、決議案を検討した。キリスト教側はこの会同に進んで協力して、神仏二教と同等の待
遇を受けたことを喜んだ。これを、三教会同という日本宗教界を作っていた。明治33
年、27才で神戸市内に勝田商会を創立して海外からの雑貨や豆粕の輸入を初めてた。
明治37年になると日露戦争のころから商売は益々軌道に乗り初め、大正3年の第一次
世界大戦の頃には、新船建造や古船の買収で勝田汽船は最盛期には20隻計15万トン
の船を有する大船主となっていた。この海外との取引で莫大な収益を上げた銀次郎は、
儲けたお金を散財するのでは無く奨学金の授与や教育施設などに多額の寄付を行ってい
たのである。


974: 名無しさんAA:17/12/13 16:19
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 633----------

 この東京英和学校に入学し英語やロシア語の教育を受けた恩を忘れず、名前を変えた
青山学院大学には「勝田ホール」と呼ばれた欧風レンガ造りの2階建ての校舎や院長舎
などを寄付していた。「地の塩・世の光」は「地の塩となり世の光となれ」で、物は燃
やせば塩となり、塩は栄養となり腐敗を防ぐ、そうして燃やした光は、「道徳」や「優
れた行い」で灯として社会の規範となるべき人生を過ごせ。と言う意味とされる。この
任侠の男勝田銀次郎、と言われるが全く違ってキリスタンとして信心深い優しい男だっ
たのである。勝田ホールが完成した大正7年、世界大戦が終結した、大方の船主は新造
船の取り消しなどで大戦後の需要減少に備えていたが大量発注していた勝田は「男がい
ったん約束したこと」と続行した。見かねた周囲が造船会社に値引きを持ちかけようと
したが「船さえ残れば日本の利益になる」と毅然とその申し出を断った。この「日本国
の利益」「約束の真」を重んじる勝田らしい態度であったが経営への悪影響は免れず、
負債がかさんで「勝田御殿と呼ばれた屋敷も収集していたお宝も手放すこととなった。
こうした中の決断だった。この決断に反対する者は誰一人いなかった。会社で一番新し
い最新鋭の貨物船の陽明丸を客船に改造した。800人もの子供が長期化に移動できる
よう洗面所、トイレ、寝る部屋などを増築し、その船の改造費は多くを勝田が私財を投
げ打って払った。その額は、現在の価値で数千万円と言うとんでもない額だった。この
為通常1年はかかるだろう客船への改造期間は、約1ヵ月で仕上げられ、伝説の船長と
して名高い茅原基治が船長に名乗りを上げるた。これまで数々の航海の実績があった彼
は、伝説の船長として名を馳せた人物だった。この時岡山県笠岡市出身の茅原基治を、
船長に指名し「陽明丸」のメインマストに掲げられていた勝田汽船社旗をはずし煙突に
赤十字のマークを入れ貨物船だった船を勝田銀次郎個人でも多額の寄付をして子供達が
航海できる客船仕様に改造にした。実はこの頃勝田は幾人かの船長に打診していたが、
まず日露戦争をして「ロシア」と言う言葉で例え「ウラジオストック」が安心できる所
でも、まずどんな給金を釣り上げても今の船長職を離れて来る者はいなかった。更には
フランスとドイツの戦争の傷跡のあるキール港で、もし迎え船が無ければ戦乱のサンク
トペテルブルクまでの渡航なのだ。とても危険で長い船旅なのである。更に最も悪い事
に1920年3月に起こったアムール川縁の都市ニコラエフスク(尼港)の惨殺事件は日本
に広く知れ渡っていたのだ。



975: 名無しさんAA:17/12/13 16:20
 この頃日本人は、世界の各所で人食い事件や人さらいの人身売買や米国奴隷の存在を
知っていた事だ。更にこのニコラエフスク(尼港事件)は駐留していた日本海軍の船が
居たのに氷で動かずに、住民はロシア人日本人問わずパルチザン部隊は、日本領事館を
包囲すると火を放ち、中国軍から日本軍を砲撃するためとして貸与された艦載砲とガト
リング砲で攻撃し皆殺しにされていたのだ。中国国籍人2千3百人日本国籍人1千人(
朝鮮人含)米国人6百人他3百人で生き残ったのが50名足らずだったのだ。その少し
前にもブラゴヴェシチェンスクでは前の年末に清国人三千人とロシア人二千人がこの赤
ロシア軍によって虐殺されるアムール川事件が起きているとされている。つまり奥地か
らパルチザン部隊或いは赤兵部隊が海岸に迫って来ている。との認識は誰でも持って居
た時期だったのである。こうした中だったので茅原基治は、日露戦争時に大きな船会社
が行けない所を、幾つかの雇われ船長としての独立した船団で香港やマカオ或いは樺太
やカムチャッカや松前まで航海をしていたのだ。勝田銀次郎この男を何度か使い信用に
於いて頼み倒した。その上で改造では、貨物船だった「陽明丸」は一時的に中甲板全部
を客室にし、上層甲板下に病室・浴場を設けた。また客室の換気を行う為要所〃に8個
の電気通風器を据え付ける等して一寸した汽船には見られないれない程の設備を施した
。つまり防衛の為の機銃所や武器庫を全く付けなかった。これはその頃としては異常で
あった。だがその為に外装は煙突に赤十字のマークをペイントし、舷側に 「AMERIKAN
RED CROSS」と大きくペイントした。つまり中立航海船として徹底したのだ。航海時に
はメインマストに、米国国旗と赤十字旗を連掲し、船尾にのみ大日章旗を翻した。19
20年7月、こうして陽明丸は神戸を出発して、子供たちのいるロシア・ウラジオスト
クに到着した。しかし、子供とは言え日露戦後である。更に同じロシア人にさえ逃げて
来た子供達でボロボロの生活者だった。茅原基治さんに向けられたのは子供たちの戸惑
いの表情と、その身なりの粗末さだった。日露戦争の記憶がまだ強く残っていた当時、
日本にとってロシアがそうだったように、ロシアにとっても日本はかつての敵国だった
のだ。船長探しの時すらも、日本では誰もが「ロシア」「子供」「800人」と言う、
キーワードで誰もが拒否していた。相手のロシアの子供たちではより以上恐ろしかった
と言える。ロシアの子供達の眼には自分たちを助けるといって現れたのが、日本人であ
る現実の前に、どう接すれば良いのか分からなかったのが実情だったし、又赤十字本社
が最後に日本に打診したのもそうした理由があったからだった。しかし船長茅原基治さ
んも、そこは経験の多い叩き上げの船長だった。又10月革命でレーニンが率いるボリ
シェビキが台頭してその怖さを知っている中にあった。彼はロシアの子供達と信頼関係
を築く為に航海の途中、日本へ寄り道をした。

976: 名無しさんAA:17/12/13 16:21
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 635----------

それはほんの数年前までは敵国であった日本から来た船に、どう接すれば良いのか分か
らなかった子供達でした。こんなに不安がられては航海出来ない。それが素直な気持ち
だった。少しでも「日本」を「日本人」知ってもらいたいと思ったのだろう。しかし、
日本側も敵対関係にあったロシアの子供たちに日本への上陸許可は下りませんでした。
だが社長の勝田銀次郎(かつだぎんじろう)は所謂、軍需成金でしたが、儲けるだけで
はなく広く社会奉仕も行なっている人物でした。又私財を投げすて多額の改造費(現在
の通貨価値で数千万円)に当てて客船への改装を完了させていた事は知れ渡っていた。
又母校の本多庸一を通じて北海道の日本キリスト教協会も支援していました。そこで、
日本の北海道室蘭に寄航して「全ての責任を自らが取る」という条件でロシアの子供達
の日本上陸許可を得ました。日本上陸を許可された子供たちと向かったのは室蘭にある
小学校でした。茅原基治さんは役所にお願いしロシアと日本の子供が触れ合う機会を設
けてもらっていたのでした。言葉は通じなくてもそこは子供同士。仲良くなり元気にな
るのにそう時間はかかりませんでした。こうして日本人の温かさがロシアの子供たちの
心の雪を溶かしてくれたのです。そして新たに2日の停泊を得て食糧などを供給し、本
格的な大航海にに向けて、陽明丸はフィンランドへ室蘭を出港したのでありました。こ
うして船長の茅原基治さんと子供たちの関係にも変化が起こります。茅原基治さんは、
子供たちのためにハーモニカを演奏したり、子供たちも音楽に合わせて踊り楽しい時間
を過ごしたりする時間が出来て、子供たちは茅原基治さんのことを「ニイサン」と日本
語で呼んで航海できる程信頼ができたのでした。こうして陽明丸は室蘭を出港した後は
、太平洋経路で、サンフランシスコ、パナマ運河、ニューヨーク、フランス・ブレスト
などを経由し、フィンランドへの2万5キロ以上に渡る大航海が始まりました。7月の
13日をウラジオストックを出て10月13日に到着と言う3ヵ月の狭い船内の長旅で
す。又子供らは5月から親元を離れてウラジオストックに来ていたのである。楽しい旅
でなければ続けられません。ところが赤道近くになると次々と子供は倒れて行きます。
多くの子供たちが慣れない赤道直下の太平洋の暑さのせいで、日射病や熱中症にかかっ
てで倒れてしまったのだ。茅原船長は子供たちを徹夜で看病し支え、看病のかいもあり
子供たちの病状は快方へ向かって行った。その後は船内では茅原船長と子供達は家族の
様になり、茅原船長の奏でるハーモニカに、子供たちも合わせて踊りったりと、楽しい
時間を過ごしていました。

977: 名無しさんAA:17/12/13 16:21
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 636----------

 実はこの陽明丸には、ウラジオストック港に行ったときドイツ軍捕虜もいた。ルシア
島海岸一帯で待ち受けていた一団の子女達は煙突に赤十字、舷側にアメリカン・デット
クロスと大書きし、メインマストに米国旗と赤十字旗を掲げ船尾に日章旗掲揚した「陽
明丸」の船影を見ると一斉に歓呼をあげ迎えた。時に大正9年(1920年)年7月9日だった。
当時のウラジオストックは荒廃し、最大の百貨店クンストアルバースは革命直後暴徒の
襲撃を受けしかも経営者がドイツ人だった為、徹底的に略奪され何一つとして残らず壁
まで剥げ落ちその他の商店も往日の面影を止ず陰惨な空気は全市に沈滞していた。その
ドイツ人経営者の店で 陽明丸はウラジオストックで食料、日用品を積み込み7月13
日の午後一行を乗せて出帆したのだが、それが不足しての室蘭での物資補給も行う程に
街路では、よれよれの服を着た警使や疲れきった感の市民達の姿が見られ共産革命とは
いったい何だったんろうと思わせるウラジオストックの風情であったのである。ロシア
難民は 男児 428名 女児 351名 婦人87名 で平均年令12.3才の子女で10
才前後が多かったとされる。又他にこの店主も合わせドイツ兵士などの捕虜が77名(
米国赤十字社に収容された東部戦線でロシア軍に捕らえられて解放された)米国赤十字
社関係者が隊長アレン中佐を筆頭に以下16名、米国YMCA派遣員1名陽明丸乗組員
が茅原船長以下60余名と言う総勢960名を乗せての、陽明丸であったのだ。だが、
ウラジオストックで積み込んだ牛肉に不良品があった為、途中北海道の室蘭に入港して
25頭分と野菜類の追加買入の必要になっていた。ニュースでは船が室蘭港に入港した
時子女達は一歩でも日本の土を踏みたいと申し出たが室蘭水上署は思想問題、講和条約
未批准未了の理由で米国人以外は罷りならんと拒否されたが、「彼らがソビエト政権に
追われ、しかも、頑是ない児子達に赤思想があるはずもない事」を力説して船長が責任
を負うことでやっと許可がでていた。室蘭市役所は官吏数名を上陸場に派遣し子女達を
迎え直ちに近くの小学校に案内し茶菓を供し絵葉書を贈り学童の銃剣道試合を見せ校庭
では言葉が通じないにもかかわらす純真な日ロ児童達が互いに手を握り片を打って戯れ
交友した後一行は市内を一巡して帰船した。と伝えられている。


978: 名無しさんAA:17/12/13 16:21
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 637----------

 学校で気の毒な話を教えられた児童数十名は各々菓子や果物を携え「陽明丸」に乗船
し身振り手振りで面白く可笑しく青い目の子供達と遊び戯れた。付き添いの大人達は、
これを見て泣いて喜んだ。室蘭〜サンフランシスコ間は、航程4,250海里7月16日に
室蘭を出港した「陽明丸」はサンフランシスコへと向かった彼らの健康を考えてインド
洋の夏の暑さを避け、太平洋と大西洋を約3か月かけて航海する計画であった。途中で
子女達は、万一に備え救命ボートを水面に下ろす作業を船員と共同で練習したり操練や
救命浮環などの使用法等を教わたりしていざという時に備えた。又 学齢以上の子供達
はこの他毎日英語と数学の勉強を課せられその代わりに土曜、日曜には映画、ダンス、
綱引き、ボクシング等で旅情を慰めた。こうして一大移動学園「陽明丸」は穏やかな太
平洋を東へ東へと航海し航程四二五〇海里を無事横断し8月1日無事サンフランシスコ
港に着いた。サンフランシスコ港の入り口付近では、連絡のあった米国赤十字社社員、
新聞記者等が乗船する多くの小型艇に迎えられ入港した。「陽明丸」は係留先の桟橋で
も埋め尽くす多くの人々に歓迎され、アメリカ国民に歓迎されて居る事が実感できた。
「陽明丸」が燃料と「食料を補給している間、子女達は各種の歓迎会に招かれたり、市
中見学したりして8月5日に出港し次の寄港地パナマに向かったのである。しかし彼ら
子女は、サンフランシスコの盛況、市長の歓迎、多数の慰問品等、日本の室蘭と比較し
てアメリカの歓迎は大きい。と聞かされた船員達は日本で寄港したのが室蘭ではなく、
せめて函館であったらと悔しがった。カルフォルニア湾一帯は雄大な景色が広がり海面
には(海豹)アザラシ群れが戯れ上空では無数のカモメが舞飛び陸上では大草原が広が
る中を、船はサンフランシスコ〜パナマ 航程 3,250海里を進んだ。この一大スペクタ
ル映画の様なシーンに、児子達は寝食を忘れる程喜び就寝時間が来ても上甲板から去ら
ず警務係が船首に来れば、船尾へと月明かりの船上を走り廻り騒いで喜んでいた。「陽
明丸」は南下を続けメキシコから中南米沿岸に来るとロシアでは経験の無い暑さとなり
油を流したような海面から強烈な日光を反射するので、児子達もいつパナマに着くのか
「暑い々」と苦しみ20人程が軽度の日射病にかかたが運良く2〜3日で治った。8月
18日「陽明丸」は太平洋の東端パナマ港に到着、直ちに淡水の補給を始め翌日午前6時
運河に向け出港するので ここでは子女達の上陸は許可が出なかった。


979: 名無しさんAA:17/12/13 16:22
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 638----------

パナマ運河では、絵葉書がほしい、果物がほしい、との子供心を叶えてやりたいと葦原
船長は乗組員一名を連れ客馬車に盛りあがる程買い入れて来た。が到底七百幾十人の要
求を満たすことは出来なかった。が、翌日運河通過の際果物や絵葉書を寄贈してくれる
篤志家があったので真に皆んなに行き渡ることが出来た。これを見た他の人達も自動車
を飛ばし運河まで駆けつけオレンジ、マンゴー、バナナ等を雨の様に船内に投げ込んで
くれていた。その度に児子達が歓声を上げて喜ぶので岸に立っていた少女が大切に抱い
ていた人形を投げてくれたが船まで届かず中間の水面に落ちてしまった。見ていた船員
が「それ!人命救助は赤十字社の本領だ」と、早速縄梯子を下げて人形を救い上げたの
で船からも陸からも大歓声が沸き起こった。パナマ運河〜ニューヨークまで航程1,972
海里だった。8月19日午後8時頃「陽明丸」はパナマ運河を抜けて大西洋上に浮かび
ニューヨークへと向かった。翌20日は朝から北東の風強く海も時々飛沫を船上に浴び
せる程度荒れた。子供達はオレンジやバナナを沢山ご馳走になった翌日であったので、
船酔いする子達が続出した。そこへ、カメラを向けるイタズラ者も現れ、苦悶と爆笑の
混成で珍妙な場面があちこちで展開されたが、運良く地球を3分の2航海した中であり
船酔い騒ぎは今回が初めてだった事は幸運であった。途中キューバ島の北方にある低い
島々の上に高い椰子の木が茂りアメリカ大陸を発見した。コロンブスが第一歩を印した
サンサルバドル島を過ぎると暑さも刻々と衰え児子達も元気に悪戯を始めだした。大き
な地図で見る島だった。やがて陽明丸はアメリカ東海岸沿いに北航し大型船が東に南と
頻繁に往来するニューヨーク港入り口に差し掛り孤児達を喜ばした。8月28日ニュー
ヨークに到着した。ニューヨークでは、陽明丸は神戸で積んだ砂糖を揚げ、これから更
に北欧方面に行く石炭を積込む為、約2週間停泊することになり孤児達一行は50日間
の居住であった陽明丸を離れて、米軍兵舎に移動する事が出来た。これまで航海中50
日間に散髪をしてもらったり、玩具をもらった児子達も沢山いて、乗組員との間は非常
に親密になっていて兵舎へ行くことを喜ばない子供もいた。米国赤十字社幹部もやっと
のことで一行を説得し移動を行った。それほど親しくなっていたのである。

980: 名無しさんAA:17/12/13 16:22
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 639----------

 現地の日本語新聞ニューヨーク新報では、一行の旅情を慰める為在留邦人から義援金
を募っていたのだが、締め切りが迫っても僅か50ドル足らずしか集まらなかった。ほ
とんど知識階級の在留邦人で普段は親善などと言っている割には、このような時には無
関心であったし又ロシア人であった事が壁になっていた。日本企業のニューヨーク支店
も、日本赤十字社ニューヨーク支部も鳴りを潜めて動かず、ニューヨーク領事館にいた
っては、日本の船がロシア人の子供を乗せているとは何事かと船長を呼び出し「問題が
起きないように慎重にせよ」とのお叱りを受けるありさまであった。茅原船長いわく「
こんな外交官が日米親善とか外交振興を求むるは木に登って魚を求めると同様。」と言
わしめた。小児だけでも800名いるのに50ドル足らずではどうしようもなく、結局
義援金は陽明丸乗組員が100ドル寄付したところ急に、篤家が現れ529ドルに達し
た。それでも相変わらず日本領事館、日本赤十字社ニューヨーク支部及び日本の一流会
社からは一円の義援金も得られなかった。ニューヨーク〜ブレスト(仏蘭西)間は、航
程3,200海里 ニューヨークでは色々とあったが 陽明丸は児子達を乗せ9月14日出港
して大西洋を一路仏蘭西のブレストに向け出港する。出港に際し在留邦人から届けられ
たお菓子は貧弱な品ではあったが児子達は日本人から貰ったお菓子を喜んで頬張った。
 出港の翌々日ロシアの夫人が病没した。凶事は三度重なるということわざがあるが、
16才の少女の死とニコロフィースキー少年の死と3度目となった。それでも元気に、
これ以降は平穏に航程3200海里を無事航海して、9月27日仏蘭西の北側ブレスト
港に着いた。ブレスト(仏蘭西)に着いた。この港では 日米人以外者の上陸、面会は
禁止され武装兵をもって監視するという物々しさであった。が、過激派の難を逃れての
仏蘭西に居る多数の白色ロシア人が 必ず一行の近親者がいるとの推測からアメリカの
赤十字社仏蘭西支部は探索した。だが、にもかかわらずわずか2名を見い出したに過ぎ
ず支援には及ばなかった。この地では近親者に引き渡すこの2名と、ウクライナ方面に
帰還する4名 計6名が一行から離れることとなった。シベリアの荒野で互いに助け合
い助けられた友人であった。恐らく永遠の別れとなるべく この別離を一同いたく悲し
み幾度も幾度も抱擁と接吻を繰り返し監視兵の制止もきかず門外まで走り別れを惜しん
だ。ここで陽明丸はフランス海軍から石炭と淡水の提供を受け翌9月28日デンマーク
のキール運河目指し出港する事になった。


981: 名無しさんAA:17/12/13 16:22
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 640----------

 ブレスト〜キール運河 航程800海里を 陽明丸はドーバー海峡を北進し9月31日の
朝、上流にハンブルク港があるエルベ川を昇り、キール運河の南端港プロンスヒュート
に到着した。キール運河はドイツ皇帝によって開かれた全長100キロ程のバルト海と
北海を結ぶ世界3大運河である。北端がドイツのキール軍港に通じている為キール運河
と呼ばれている。軍事上の目的を主としものだけに横幅、深さ共に大艦巨舶の運行にも
僅かな困難も感じさせない立派なに運河である。この運河にも南北端に閘門があってバ
ルチック海と北海の潮高すなわち海面の高さを調節している。ドイツ人達は一行が乗船
している陽明丸が運河の南北関門通過の際には食料品、衣料等が陸上より手当次第投げ
入れられ数日後任務を終える陽明丸の船倉にはこれらの品物が山積みされた。キール〜
ヘルシンキホルスを回りバルチック海からフィンランド湾に至る。一帯はドイツ、ロシ
アによりおびただしい数の機雷が敷設されていている、両国の国情から掃海されないま
まになっているので 危険この上なかった。現地で水先案内人を雇いエストニア西岸諸
島を迂回しレベル港から真北に直進し10月10日ヘルシンキホルス港に着岸した。こ
の航程は800海里足らずであったが危険を回避する為減速を繰り返し通常の倍以上の
時間をついやした。ヘルシンキホルス港はフィンランド共和国で、長年ロシアからの干
渉を嫌いドイツに接近していた。すべてをドイツに範を取り文武官の服装から貨幣の様
式までそっくりとしカイゼル髭を巻き上げている武官を多く見かけた。外国語もドイツ
語が主でフランス語、英語をしゃべりロシア語を知ていても口にする者はいない。やっ
とロシアと目と鼻の先の港に来たのだから何か児子達の情報は無いか英字新聞を買った
が情報を得る事は出来なかった。フィンランドのコイビスト港(現ロシア・レニングラ
ード州プリモルスク港)に着いた。コイビスト港はロシア国境に近い港であるが戸数は
5〜60戸しかすぎず少量の木材を小型の汽船や帆船で輸出するだけの貧弱な港である
がフィンランド国にとっては国防上重要な所である為水上飛行隊が配置されていた。陽
明丸はこの港で使命を果たす。そこで休養品、食料品、器具、寝具の陸揚げを始め13
,14日の雨天でこれらの一切とドイツ人を除いた一行を上陸させた。ウラジオストッ
クを出港以来寒暑を共にし、3ヶ月一緒に過ごした乗組船員に一行の誰もが瞼を曇らせ
「さよなら」「さよなら」とくり返した。


982: 名無しさんAA:17/12/13 16:22
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 641----------

 子供たちは同年10月、無事に故郷のペトログラード(現サンクトペテルブルク)へ
戻ることができた。その大航海は地球をほぼ一周する距離だった。一時に900人もの
家族を失った陽明丸は大嵐が過ぎ去ったような異様な寂しさを感じながら 首都のコペ
ンハーゲンで、残ったドイツ人捕虜を上陸させ臨時施設の一切を取り除き10月28日
元の貨物船に復帰し星条旗と赤十字のマーク消し勝田汽船の社旗をメインマストに閃め
かせて帰途についた。航海中の様子は 茅原船長が書かれた「赤色革命余話― 露西亜小
児団輸送記 ―をご一読下さい。金光図書館蔵書 岡山県浅口市金光町に蔵書している。
この物語に、2013年2月、森喜朗元総理は安倍首相の特使としてロシアを訪問、日
露間の懸案の問題についてプーチン大統領と会談した際、陽明丸の事蹟についてプーチ
ン大統領に披露、関連資料も直接手渡しました。森元総理は「陽明丸顕正会」の北室理
事長とは同郷のよしみで、この事蹟についても何かと気に懸けていただいているそうで
す。郷土 愛媛・松山でもこの男気溢れる銀次郎の美談を取り上げてもらいたいもので
す。残念ながら勝田銀次郎は18才で松山を旅立ってからは生活の拠点が神戸だった為
に、故郷松山では彼の事を知る人はまれである。強いて言えば彼は明治・大正・昭和初
期活躍したの3大船成金で神戸市長にまで努めた人であるという位であろう。茅原船長
がいつしか日本語で「ニイサン」呼ばれる様になっていた事で探し回るロシア人がいた
。航海から3ヶ月経った10月10日、いよいよ目的の地、フィンランド近くにまで到
着しました。しかし、この海域には第一次世界大戦中に海に仕掛けられた機雷が数多く
残っており、危険ですが機雷が浮かぶ危険海域を無事通過し、遂にフィンランドに到着
しそして、子供たちはフィンランドから無事に故郷ペトログラードへ戻り親との再会を
果たしました。その子供の中に、ともに15歳のオルガという少女とユーリという少年
がいました。船内で二人は仲よくなって恋におち、20歳でめでたく結婚し、一人娘を
授かりました。ですが悲しい事に今度は第二次世界大戦が二人の中を引き裂きました。
娘は父親ユーリに引き取られる事になりました。ユーリさんは一人娘に事あるごとに妻
と出会った「ヨーメーマル」の話をおとぎ話の様に話していました。そしてその「ヨー
メーマルの」話は一人娘が成長し産んだオルガ・モルキナさんにも語り継がれ「ヨーメ
ーマル」についての奇跡が起こるのでした。


983: 名無しさんAA:17/12/13 16:25
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 642----------

2009年、北室南苑さんという日本人とロシアでオルガさんは出会うのです。そして長い
年月を経て、祖父母が日本人に助けられたオルガさんによって、この物語が世に知られ
る事になる。命の恩人である2人の日本人にお礼が言いたいと考えていたオルガさんは
、当時の救出劇を語り、初めて奇跡の物語は日本に伝えられた。北室さんは日本に帰国
後、オルガさんの為に2人の日本人の消息を知ろうと尽力し 何とか勝田銀次郎と茅原
基治の2人のお墓を突き止めた。こうして2011年、ロシアから日本へ祖父母の意志を継
ぎ感謝を意を伝える事ができたのです。なぜこの物語は約90年もの間、世に出ること
が無かったのでしょうか?それは航海に関わった日本人乗組員が勝田銀次郎さんと茅原
基治さんが非国民扱いされないように 固く口を閉ざしてきたからです。ところが祖父
母が日本人に助けられたオルガ・モルキナさんによって、この物語が世に知られること
になったのです。2009年9月 書家・篆刻家(てんこくか)の北室南苑(本名北村正枝)

984: 名無しさんAA:17/12/13 16:25
ぎ感謝を意を伝える事ができたのです。なぜこの物語は約90年もの間、世に出ること
が無かったのでしょうか?それは航海に関わった日本人乗組員が勝田銀次郎さんと茅原
基治さんが非国民扱いされないように 固く口を閉ざしてきたからです。ところが祖父
母が日本人に助けられたオルガ・モルキナさんによって、この物語が世に知られること
になったのです。2009年9月 書家・篆刻家(てんこくか)の北室南苑(本名北村正枝)
さんが、ロシアのサンクトペテルブルグで個展「篆刻アート展」を開催しました。その
個展に、オルガ・モルキナと名乗る女性(英語教師、フリージャーナリスト)が話しか
けてきました。その話の内容は、「ヨーメーマル」という船で船長の名前が「カヤハラ
」で、「ヨーメーマル」により自分の祖父・祖母を含む800人の子供達が救われた事
をまとめ、書籍を出版していました。90年前に祖父母を救ってくれたこの日本人船長
「カヤハラ」のその後の消息についての探索を是非お願いしたい。と「カヤハラ」船長
の捜索の依頼でした。幼いころ、母親から祖父母を救った「ヨーメーマル」という船の
名前と「カヤハラ」船長の名前の日本語の不思議な響きが記憶の中に残っていたからで
した。北室南苑さんは、石川県金沢市の自宅に戻ると、早速調査を開始します。船の名
は「陽明丸」で、所有は神戸に本社を置く現在の川崎汽船グループの「太洋日本汽船株
式会社」と判明しました。そこで中西眞誠常務が調査に協力し神戸や東京など各地で調
査しました。そしてオルガ・モルキナさんの調査依頼から2年も経った2011年7月 船長
が岡山県笠岡市の出身の「茅原 基治(かやはら もとじ)」さんだったと判明しました
。又勝田銀次郎の方はへこたれることは無く神戸市会議員になり神戸市長となりました
。議員時代に関東大震災の時には神戸からの支援に尽力します。又昭和13年の阪神で
風水害の時に市長として、何日も不眠不及で陣頭指揮をとります。政府に協力に働きか
けて巨額の復興費を獲得、砂防堤を各所に設けるなど復旧工事に全力を傾けて神戸市民
に絶大な支持を受け2期8年をもって神戸市長を退任しました。しかし太平洋戦争に突
入し退任後も多忙な日々を送ったが、この戦争で自宅も戦災に遭い、追い打ちをかける
ように公職追放で一切の公的活動を禁じられました。昭和26年追放が解除されて神戸
市最高顧問となった。委託の辞令を手渡すため病床の勝田に市長が「今一度、神戸の為
にご尽力を」と声をかけるとじっと声を呑んで目を閉じはらはらと涙をこぼした。


985: 名無しさんAA:17/12/13 16:25
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 643----------

 樋口季一郎は兵庫県淡路島出身で最終階級は陸軍中将であった。歩兵第41連隊長や
第3師団参謀長を経て ハルピン特務機関長、第9師団師団長等を歴任した。終戦時の
最終役職は第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官だったが、これはシベリアや樺太など
の北方方面隊を南方戦線で兵員補充が利かず、規模縮小の為再編成した舞台だった。が
このハルピンの北の都市に昭和十三年三月十日、ドイツのナチスの手を逃れた二万人の
ユダヤ難民がソ連領を横断してやって来ていた。満州国西部国境、満州里駅(マンチョ
リえき)の対岸オトポールに流れ込んできたのだ。当時ソ連政府はドイツに気兼ねして
ユダヤ人難民がソ連領内に留まることを許していなかった。こうして難民が当面逃れる
先は満州国より他はなかった。満州国を経由すれば上海へ行けるし、そして上海からは
米国や日本の神戸などへ落ち着く先を求められたからだ。しかしこの時のユダヤ人救済
の評価は六千人のユダヤ人難民を救済した杉原千畝ほどには確定していない。というの
も杉原千畝の時の様な銀行家などの富裕層ではなかったし、ドイツ系ユダヤ人だけでは
なくチェコからロシアに掛けたスラブ系ロシア人のユダヤ人が多かったからだ。ドイツ
が突然侵攻した時からこのハルピン駅周辺には、平和を求めて逃れて来るユダヤ人はか
なりの数がいた。それは殆どがドイツ人のユダヤ弾圧よりソ連の「ポログラム」に逃れ
て来ている人で早くからソ連軍や政府から逃れて来ていた人達だった。従って元々が、
住民票など発行出来ない人達でウラジオストックから船出する事も出来ない人達でもあ
った。当時日本は日独伊三国同盟を結んでいたので、満州国でも関東軍への遠慮からも
容易くは難民を受け入れる状況ではなかった。この時ヒューマニズムの精神からユダヤ
人難民の満州国受け入れに奔走したのが、関東軍の樋口特務機関長であった。この辺の
事情は彼の著書『陸軍中将 樋口季一郎回想録』にも書かれている。だが実はそれ以上
に人権問題よりハルピン市内での溢れるユダヤ人の暴動対策に追われて奔走していた。
 実はこの樋口機関のユダヤ人難民救済が旧軍人間で確定していない最大の理由は、2
つの理由がある。まずこの内密に処理すべき人数が二万人もいたという事実にある。彼
の回想録にも二万人という数字が記載されているし、彼を取り扱った書物のほとんどに
も二万人となっているのだが、これを信じる人が少ない。だが大陸間の移動を考えれば
この杉原千畝の凡そ20倍程が隠れて東欧からやって来たと考えて当然でもある。そし
てその本質がロマ人やボヘミアンであったとしても、ユダヤ人を騙り逃れてきたと言え
る。


987: 名無しさんAA:17/12/13 16:26
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 645----------
 
「ナチから追われたユダヤ 難民二万人の救援」ではこう記事を書いている。
「極東ユダヤ人大会の二カ月後、三月十日にドイツのナチスの手を逃れた二万のユダヤ
難民がソ連領を横断し、満州国西部国境、満州里駅の対岸オトポールに流れ込んだので
す。多数の難民は、春尚浅い零下数十度の北満の原野にテントを強って露営同然の生活
をしておりました。放っておけば人命に関する問題となることは明かでした。ソ連政府
は当時、ドイツに気兼ねしてこの難民に対し、ソ連領内に留まることを絶対に拒否しま
した。そうなると、難民の入国先は満州国よりないわけです。ところが満州国の外交部
は、関東軍に気兼ねして中々決心がつかない。これは、一応無理もないことであり、再
びカウフマン博士の樋口少将に対する懇願となりました。樋口少将は、ハルピンにおい
て満州国外交部の責任者を呼びよせ、「満州国は、独立国家である。何も関東軍に気兼
ねすることはない。ましてドイツの属国でもない。ドイツが排撃したからと言うて、一
緒になってユダヤ人を排撃する必要なんか毛頭ない。事は人道問題である。未だ国境の
寒さはきびしい。一日延びれば、難民の生命に関する重大な問題ではないか。なるべく
早く決心されたらどうか。」と力強く説得したのでした。満州国では漸くこの意見に従
って、ユダヤ難民全部を満州国内に受け入れることとし、間もなく難民は、満鉄の救援
列車によりハルピンに救援されてきました。樋口少将なくして、この大芝居は打てなか
ったでしょう。樋口少将の決断は、ハルピンにおけるユダヤ人工作に有終の美を飾った
ことになります。果せるかなドイツ外務省は、リッペントロップ外相の名をもって日本
外務省に、ユダヤ難民を満州南が受入れたことは、日独親善に水を差すものであると言
う厳重な抗議をしてきました。陸軍省から関東軍司令部(軍司令官植田大将、参謀良東
条英機中将)へ問い合せがあり、東条中将と樋口少将と対談した結果、東条中将は、樋
口の決断と処置に間違いなしと断定しドイツの抗議は不問にふせられたのでした。----
---------------------------------どうも出所はこの一文にあると思われる。
考えてみれば当時のオトポールは人口五千人の辺境の村である。どうしてこの村に二万
人が逃げ込めようか。そう考える人は多い。ところが現場の河村愛三少佐からの報告に
よるものとした上で、「1933年から1939年までにドイツを脱出したユダヤ人は、近年の
ドイツの調査では25万人から31万人といわれていますから、二万人という数もあながち
荒唐無稽ではありません」(cf.「ウォッカの小瓶と鴨居の小さな水彩画 …祖父の思い
出」『歴史街道』2012年4月号)と述べている。

988: 名無しさんAA:17/12/13 16:27
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 645----------
 「ナチから追われたユダヤ 難民二万人の救援」ではこう記事を書いている。
「極東ユダヤ人大会の二カ月後、三月十日にドイツのナチスの手を逃れた二万のユダヤ
難民がソ連領を横断し、満州国西部国境、満州里駅の対岸オトポールに流れ込んだので
す。多数の難民は、春尚浅い零下数十度の北満の原野にテントを強って露営同然の生活
をしておりました。放っておけば人命に関する問題となることは明かでした。ソ連政府
は当時、ドイツに気兼ねしてこの難民に対し、ソ連領内に留まることを絶対に拒否しま
した。そうなると、難民の入国先は満州国よりないわけです。ところが満州国の外交部
は、関東軍に気兼ねして中々決心がつかない。これは、一応無理もないことであり、再
びカウフマン博士の樋口少将に対する懇願となりました。樋口少将は、ハルピンにおい
て満州国外交部の責任者を呼びよせ、「満州国は、独立国家である。何も関東軍に気兼
ねすることはない。ましてドイツの属国でもない。ドイツが排撃したからと言うて、一
緒になってユダヤ人を排撃する必要なんか毛頭ない。事は人道問題である。未だ国境の
寒さはきびしい。一日延びれば、難民の生命に関する重大な問題ではないか。なるべく
早く決心されたらどうか。」と力強く説得したのでした。満州国では漸くこの意見に従
って、ユダヤ難民全部を満州国内に受け入れることとし、間もなく難民は、満鉄の救援
列車によりハルピンに救援されてきました。樋口少将なくして、この大芝居は打てなか
ったでしょう。樋口少将の決断は、ハルピンにおけるユダヤ人工作に有終の美を飾った
ことになります。果せるかなドイツ外務省は、リッペントロップ外相の名をもって日本
外務省に、ユダヤ難民を満州南が受入れたことは、日独親善に水を差すものであると言
う厳重な抗議をしてきました。陸軍省から関東軍司令部(軍司令官植田大将、参謀良東
条英機中将)へ問い合せがあり、東条中将と樋口少将と対談した結果、東条中将は、樋
口の決断と処置に間違いなしと断定しドイツの抗議は不問にふせられたのでした。----
---------------------------------どうも出所はこの一文にあると思われる。
考えてみれば当時のオトポールは人口五千人の辺境の村である。どうしてこの村に二万
人が逃げ込めようか。そう考える人は多い。ところが現場の河村愛三少佐からの報告に
よるものとした上で、「1933年から1939年までにドイツを脱出したユダヤ人は、近年の
ドイツの調査では25万人から31万人といわれていますから、二万人という数もあながち
荒唐無稽ではありません」(cf.「ウォッカの小瓶と鴨居の小さな水彩画 …祖父の思い
出」『歴史街道』2012年4月号)と述べている。

989: 名無しさんAA:17/12/13 16:27
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 647----------

 1930年代にはいると、ナチドイツによる反ユダヤ主義が激化し、多くのヨーロッ
パで、ドイツ系ユダヤ人が上海に避難所を求めて来た。多くの国々がユダヤ人の受け入
れを拒否したが、中国の領土であって中国ではない上海は、彼らに査証もパスポートも
求めなかった、1931年から1941年の間に、20万人のユダヤ人がこの町に避難民として
流入した。1940年、リトアニア領事・杉原千畝が、主にポーランド出身のユダヤ人2139
家族、約6千人に、21日間の日本通過ビザを発給した話は、広く知られている。これら
ユダヤ人は、シベリア鉄道で中国東北部やウラジオストクを経て、日本へ到着したが、
しかし、許可された日本滞在間内に当初の渡航目的地、カリブ諸島のオランダ領キュラ
ソーへ渡れず、大部分は止む無く上海にやってきた。同じような話が、中国にもある。
1人の勇敢な中国人「何風山博士」は、1938年から1940年までウイーンの中国領事であ
ったが、数千人のユダヤ人に査証を発行し、ヨーロッパを離れて上海に安全な避難場所
を見つけられるように計らった。とされている。1941年に日本軍は上海を占領したが、
この時中国人に対する残虐行為はあったものの、ユダヤ人に対して西洋人の様な偏見を
持たない日本人は、全般的にユダヤ人に迫害を加えることはなかった。1930年代、欧州
では白人社会にユダヤ人にたいする敵対感情が生まれ、“シオンの長老の議定書”にあ
るような反ユダヤ主義の宣伝パンフレットが出回ったが、日本人は余り影響を受けては
いなかった。シオンの議定書は1918年ロシア革命に反対する白系ロシア軍のコサック兵
の首領、グレゴリー・ミカイロヴィッチ・セミョーノフが全軍に配布した怪文書であっ
て、ユダヤ人が世界制覇のための秘密計画を進めていてロシア革命も彼らの計画の一部
だとする反ユダヤ主義の文章で占められていた書物であった。ところが日本の犬塚大佐
は、本部の要請に於いて1939年(昭和14年)夏には、犬塚機関として、上海のフリーメ
イソンリーの拠点三ヶ所を強制捜査し、祭祀用具、進級問答集など大量の貴重品を押収
した。この押収物は「極秘軍令品」として1942年(昭和17年)春に、上海から東京に運
ばれている。戦後、犬塚惟重海軍大佐の未亡人である犬塚(旧姓:新明)きよ子により
、それらの「上海フリーメイソン文書」を公開されたが、ソ連・支那のメイソンが大東
社系である事、当時の中国国民党内部に支那人のメイソンが多数居た事や、彼らがフリ
ーメイソンリーを介してアメリカ・イギリスの意向を汲むスパイ行動を取っていた事な
どが、明らかとなった。

990: 名無しさんAA:17/12/13 16:29
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 648----------
この猶太人対策要綱(ユダヤ対策)は、安江仙弘が当時の陸相・板垣征四郎に働きかけ
によって早いうちに策定された。安江はシベリア出兵をしてこのユダヤ研究の第一人者
として、その頃の満鉄特務班や満州国特務機関とに度々呼ばれて、その対応策に追われ
ている。この中で上海租界地での対応は、私財を投げ打ってまで調査していた大塚惟重
海軍大佐とも仲が良く連絡をしあっていたと言われる。上海にドイツ・オーストリア系
のユダヤ人が流入したのは、ナチスがオーストリアを合併した1938年秋であり、イ
スラエルの地での入港拒否されたイタリア商船コンテ・ビオレ号で上海に上陸したのが
最初であるとされている。当時、ユダヤ人が希望する米国等はビザ発給が制限されてお
り、実態的にはどの国でも入国拒否に近かった。更にイギリス領のイスラエルでは発砲
など非人道的行為まであった。そうした中で、入国ビザなしに上陸できたのは世界で唯
一、上海の共同租界、日本海軍の警備する虹口(ホンキュー)地区だけだった。この噂
は瞬く間に世界に打電された。当時陸軍が接取しようとした上海では海軍がいち早く南
方方面の軍事基地として接取していて、陸軍との軋轢があった。海軍大佐の犬塚惟重は
そうした中でも、日本人学校校舎をユダヤ難民の宿舎にあてるなど、ユダヤ人の保護に
奔走した。彼は戦後には「日ユ懇談会」の会長を務めたが山本五十六の支持があった事
をほのめかしている。元々真珠湾攻撃を考案した山本連合艦隊司令長官は、1936年12月
から39年8月にかけて務めた海軍次官時代、対米戦争への傾斜とみられるあらゆる国策
に対し断固として反対していた。また、三国同盟締結を画する政府に憤りを覚えていて
、「日米正面衝突を回避」すべく「絶対に日独同盟を締結す可からざる」との意見書を
何回も海軍省に送っている。上海島は元々国際都市であり中国の中心ともいえるほどの
共同租界が出来上がっていた。中央区と西区(旧イギリス租界)では、バンド地区に、
各国の領事館や銀行、商館が並び、これに直角に交わる南京路には、ビック・フォーと
呼ばれる先施公司(中国語版)、永安公司(中国語版)、新新公司(中国語版)そして
大新公司(中国語版)といった、1920年から1930年の上海を代表するデパートが立ち並
んだ。商店も、江海関(1927年落成)建設され、キャセイ・ホテル(1929年竣工)、ジ
ャーディン・マセソン商会ビル(1920年竣工)、横浜正金銀行(1924年竣工)などが並
びデヴィッド・サッスーンは、サーッスン商会が麻薬商売で財を成しユダヤ実業家一族
が牛耳っていた。アヘンで莫大な富を築く一方で、わが国の片岡物産も代理店となって
いてイギリス紅茶の総元締めとしても知られました。だが台湾の麻薬撲滅を機に日本の
意向には反発があった。インドのロスチャイルドと言われた彼の当主は各国の租界に通
じていて かなりの権力を持っていたのである。

991: 名無しさんAA:17/12/13 16:29
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 649----------

 中でもフランス租界は淮海路を中心に商店街が形成していたが、中国とは仲が悪く、
ドイツと日本の接近で危機感が漂ってスパイ活動の中心に目されていた。そういう意味
で、同時に検札が入りにくく、茶館、妓館、アヘン窟が集中して存在していた。1920年
代共同租界においては国連指導でも、「禁娼」「アヘン吸引禁止」「禁賭」が唱えられ
たが、フランス租界では依然法的に認められていた。共同租界の北区と東区(旧アメリ
カ租界)においては、ほとんどの地域を日本人に占領されて日米渡航のメッカとなって
いた。とりわけ虹口(ホンキュウ)地区は、別名日本租界と呼ばれるほど、日本の諸施
設が整いや日本人向けの商店が集中していたし日本語がつうじた地区だった。総数40
を超える各国の人びとが居住していた国際都市として上海は或る時一変する。1937年8
月の日本軍侵攻によって、日本の占領下におかれたからだ。それから終戦まで、日本人
は、中国人は、世界各国から上海にたどり着いた人びとは、政治的・文化的に混乱した
空間に置かれた。日本では1904年〜05年の日露戦争の際、ユダヤ人銀行家に資金援助を
仰いでいた。それは、むしろユダヤ人の巨大な財力と力を利用し、満州にユダヤ人を含
めた共和国と建設しようとする動きまであった程だった。その頃でイギリス最大の利益
を上げた銀行であるHSBC(香港上海銀行)は、このアヘン貿易で得たお金で創られ
てうごいていた。永い間「阿片王」として君臨したデヴィッド・サッスーンは、1864年
にこの世を去ったが、HSBCそのものはデヴィッドの5男のアーサー・サッスーンが
最大株主となって香港上海銀行は設立運営がされていた。その出資者は、サッスーン一
族がリーダーとなり、ベアリング商会、ジャーディン・マセソン商会、ロスチャイドに
関係する役員で構成されていてその中にハリソンもいた。彼らは上海を中心に中国北部
を支配したフリーメーソン組織「イングランド系北支地区大結社」の首脳であり、米国
の大陸横断鉄道を手掛けていた。そこに日本のシェル石油のサミエルと縁故のサミエル
がラッセル商会を運営していた。イギリスが1773年にインドでアヘン専売権を武力
で得て、東インド会社の貿易で中国にアヘンを売りつけ、アジアから銀を巻き上げるた
麻薬貿易は、ロンドンのシティに莫大な富をもたらしていたがその終焉の時代であった


992: 名無しさんAA:17/12/13 16:29
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 650----------

 こうした事で日本の動向を探る必要に迫られサッスーン商会は、神戸市北野町にある
異人館、サッスーン邸を置いていた。これに実際に居住していたのはユダヤ系シリア人
のデヴィッド・サッスーンで山本五十六とも交友があったとされる。現在は結婚式場に
なって歴史的建造物でしかないが此処で重要な交渉があっていた。ポーランドのワルシ
ャワで大量虐殺をおこない、「ワルシャワの屠殺人」の異名を取ったヨーゼフ・アルベ
ルト・マイジンガー大佐のゲットー建設要請である。1941年にベルリンの国家保安
本部に呼び戻され、4月から東京の駐日ドイツ大使館付警察武官兼SD代表として派遣
させられていた。着任直後から日本の特別高等警察や憲兵隊と連絡を取り合い、ドイツ
の有力紙特派員の、オイゲン・オット大使と親しく大使の顧問も務めて、ユダヤ人動向
を伺っていた。リヒャルト・ゾルゲをはじめとする主要な在日ドイツ人の身辺調査を行
って、駐日ドイツ大使館に赴任し、ユダヤ人迫害を拒否する日本政府にホロコーストへ
の加担を要求していた。ドイツ国の親衛隊(SS)の将校で最終階級は親衛隊大佐(SS-S
)で警察大佐でもあった。1942年にはマイジンガー・プランなるものをひっさげて
ユダヤ絶滅計画を持って政府首脳部にやってきたのだ。それは崇明島に処刑所を作り、
アジアの特に米国に渡航する裕福な上海のユダヤ人に“最終決着”を図ろうとするもの
であった。1941年9月27日に発覚したゾルゲ事件は1942年の判決で彼が特権
を利用した2重スパイでソ連の英雄であった事を物語っていた。ドイツのソ連侵攻作戦
の正確な開始日時を事前にモスクワに報告し、日本軍部が、独ソ戦開戦に先立つ1941年
4月30日には日ソ中立条約が締結されて、南方資源確保の意味もあって ソ連への侵攻に
は消極的である事まで報告されていたからだ。近衛内閣の内閣嘱託としての尾崎秀実は
かなりの部分で国賊であった。またこうした戦時期の上海では、人びとが出会い、交流
していて、コンタクト・ゾーンとして機能し、敵味方、支配被支配、の関係に抵抗協力
の、複雑な関係のあり様があった。この時日本政府の有田外相は、ハルピンのユダヤ人
指導者アブラハム・カウフマン博士を東京に呼びつけて、「日本政府は今後ともユダヤ
人を差別しない。他の外国人と同じに自由だ」とわざわざ明言していた。こうして常に
やって来るユダヤ人を1939(昭和14)年夏までに、溢れるユダヤ難民を上海「日本租
界」に上海内で約2万人以下に調整するに至っていた。此処にアーサー・サッスーンの
助けを借りたのだった。


993: 名無しさんAA:17/12/13 22:57
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 651----------

 メキシコではアステカ時代からアスファルトやピッチを作っていたとされる。1876年
にはタンピコ近郊で初めてケロシンが発見された。山本五十六が私費を投じてメキシコ
視察旅行をしていたのは大正8年(1919)〜大正15年(1926)のアメリカ駐
在武官に任命されハーバード大学に留学し、駐米大使付武官として赴任した頃だった。
アメリカの国情研究として、テキサス州もオレンジ油田、デトロイドの自動車産業など
を視察している。つまり既にケロシン抽出により飛躍的に航空機性能が高くなったエン
ジンに出会っている事になる。山本五十六は明治42年(1909)、巡洋艦「阿蘇」
の遠洋航海でアメリカ西岸の主要港を視察して、行きと帰りにハワイのホノルルに寄港
しており、この時に真珠湾のありさまを目にし、太平洋開戦時の、真珠湾奇襲作戦立案
のヒントになったといわれている。つまり既にもう米国に勝つ様な資源が日本になく、
戦争しても威嚇だけですぐさま停戦協定を結ばねばならない。と悟っていたのである。
1929年時は、ワシントン国際無線電信会議に帝国委員として参加もして無線の危険
も充分知っていた。メキシコ革命はラテンアメリカで最初の社会革命であり、メキシコ
のその政治体制を決定づける事件であった。1910年にはじまり、国内を二分する激しい
戦いが断続的に10年以上続いていた。既に革命は終わっていたが内部対立はくすぶり
最終的な勝者となったオブレゴンは1920年6月の大統領選に立候補し、当選する。
それでも革命政権は転覆と征服を繰り返していた。1927年に達成した石油産業の国
有化は米国の猛烈な反発を受けたが、カルデナスはこれを断行し1936年、スペイン
内戦が始まるとスペイン共和国人民戦線政府と国際旅団を創設しソビエト連邦と共に、
支援した。その敗北後は合計一万人以上の亡命者を受け入れ1940年、ラサロ・カル
デナスの任期が切れるとともに、メキシコ革命は名実ともに終結し、制度的革命党の、
(PRI)による一党独裁時代が71年間続いた。メキシコで起きた社会主義革命の始
まりは1911年とロシア革命より早い、ここに就任したポリフィリオ・ディアス大統
領の腐敗政権は独裁体制で、民衆の不満の蓄積が爆発し、ここにメキシコは国内を二分
する内戦がくすぶったまま現代まで続いている。実はアメリカはフィリピンとメキシコ
の植民地権を買ったが全く金が無かった。対してイギリスのユダヤ金融は敵対するソ連
に投資する程余っていたが 投資先を探していた。先のサミュエル商会のシェル石油と
統合しBP社を作ったのは、アメリカ軍向け石油供給体制を整えソ連やナチスと対抗す
る軍事力を持ちたかったからだった。

994: 名無しさんAA:17/12/13 22:57
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 652----------

 犬塚 惟重は、日本海軍の海軍大佐であった。ユダヤ問題研究家として名を馳せ、独自
に 宇都宮 希洋(うつのみや きよう)とのペンネームまで持って、ユダヤを日本に知ら
しめる活動をしている。太平洋戦争開戦に伴い召集されて、支那方面艦隊司令部付(上
海在勤海軍武官特別調査部長)、佐世保鎮守府付、「鹿野丸」監督官、「いくしま丸」
艦長、第2海上護衛隊司令部付、同運航指揮官、横須賀鎮守府付、第31警備隊司令、横
須賀鎮守府付など歴任し1945年5月召集解除となった。1946年3月から翌年7月まで、
マニラにおいて戦犯容疑で拘留された。フリーメイソンとの係わりは、軍令部第三部の
(情報担当)に勤務した為に、ユダヤ人研究を始めたのであった。1936年(昭和11年)
、国際政経学会発行の「国際秘密力の研究」を「宇都宮希洋」のペンネームで分担執筆
し、1939年(昭和14年)3月から1942年(昭和17年)4月まで、日本海軍の中でユダヤ
人問題対策機関「犬塚機関」を指揮している。神明きよ子はこの犬塚機関の事務方をし
ていた。1939年(昭和14年)、ナチス・ドイツの対ユダヤ人政策への批判を織りこんだ
、「ユダヤ問題と日本」(内外書房)を出版し、犬塚は次のように主張した。
(…ユダヤ人は危険ではあるが、日本はこれを味方につけるべきである。これまでユダ
ヤ人はパレスティナを避難所とみなしていたが、イギリスのアラブ寄り政策によって、
パレスティナへの門戸は閉ざされた。その結果、今度は東に目を転じて、「アジアへの
帰還」という願いを、日本が支配する中国各地への移住によって現実化しようとしてい
る。…)この現象は、二千年来地球上をさまよい続けた東洋人種猶太人の東洋還元であ
る。言葉をかえれば、古代の日本民族指導下から乖離した猶太民族の帰順である。然し
、現状では帰順とは言いがたい。むしろ日本へ反逆し、東亜から日本勢力を閉め出し、
彼等のみの天地を建設せんとしていると思われるのが、今次事変下の彼等の行動である
。その主因は彼等の日本研究不足、特に日本精神の無理解と、民族性の誤判断から拠っ
て来たるところ多大であると言えよう。我々は先ず、事変下国民の尽忠報国の行動を以
って、現実に彼等にこれを教え、且つ日本学の確立、日本古代文化史の展開を以って、
彼等の蒙を開くべきであろう。その結果、彼等が前非を悟りまつろい来たるまで、我々
は倦まず弛まず努力するのも、新東亜建設者の責任である。と書いている。


995: 名無しさんAA:17/12/13 22:57
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 653----------

 日本が1931年、現地軍の関東軍が独自行動で満州事変を起こしたのを機に中国へ
の侵略を開始し満州全土を制圧したとされた時、いち早く既にユダヤ人達はモンゴルの
地に避難してきていた。1932年3月に傀儡政権満州国を建国したが、これに対して
の中国政府は、国際連盟に満州国建国の無効と日本軍の撤退を求めて提訴した。ここに
蒋介石政権に従った張学良の、蒋介石の「失権失地回復」政策に則った@南満州鉄道へ
の経営圧迫政策、A日本人・朝鮮人居留民への圧迫、B満鉄付属地の経済封鎖、などの
抗日政策が行われたのである、又並行して、朝鮮族では激しい排日運動が再燃するよう
工作を始めていた。それは一方奉天軍閥の軍費を賄うために満州の住民に重税を課した
のである。治安状況は悪化し、馬賊が横行、官吏・裁判官の腐敗が横行し、行き倒れる
者も多く、庶民から反発を受けていた。「満州事変が始まる頃、満州にはおよそ三千万
人の人びとが住んでいた。その大部分は中国本土から移住した漢民族であったが、この
外、満州族、蒙古族、朝鮮族、白系ロシヤ人、日本人が混住していた。日本人は約二十
三万人で南満州鉄道沿線および関東州に主として集中していた。」と言われて居る中で
既に農用トラクター名目で新型戦車の開発に成功し1935年には、ヒトラーはヴェル
サイユ条約破棄を宣言し、再軍備を図っている。翌年には非武装地帯であるフランス国
境のラインラントに軍を送り、41年に突然ソ連侵攻作戦であるバルバロッサ作戦が開
始されている。第一次大戦後1919年のドイツは完全な経済破綻によって半飢餓が発
生していた。その中に裏切り者による「背後の一突き」が原因で敗北したという神話が
生じていた。社会主義者やユダヤ人を標的にしたこのような話は、ヴァイマル共和国の
ナチスの隆盛を招く事にもなっていた。つまり最下位のロマ族にしろユダヤにしろこの
敗戦のドイツですら批判の的だったのだ。ドイツ陸軍は、プロイセン貴族軍で階級的に
ドイツ騎士団の伝統を汲む者が多く、地位が脅かされない限り政治には中立的であった
。それでもこうだったのだ。ましてはチェコスロバキア領内のズデーテンラントの人々
が戦争も辞せずとしたのは当然だろう。又イギリスやフランスも国としては疲弊して、
ユダヤ救済などおぼつかないのが現状だった。国際連盟がリットン調査団を派遣し現地
や日本を調査し、リットン報告書をまとめたが、この総会報告書に対する同意確認の結
果、賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(タイ)、投票不参加1国(チリ)で、
松岡洋右 全権率いる日本はこれを不服としてその場で退場して 脱退となった。


997: 名無しさんAA:17/12/13 22:58
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 655----------

 1934年にフランクリン・ルーズベルト大統領のもとでプラット条項は廃止されたが、
アメリカは親米政権をキューバにおいて維持させることを国是としており、活発な投資
活動が続いていた。さらに第二次世界大戦ではグアンタナモ基地がドイツの潜水艦に対
する基地として活用されるなど、軍事的にもキューバはアメリカと切っても切れない関
係となっていった。グアンタナモ基地がドイツの潜水艦基地となった頃アメリカの苛立
ちは最高であった。チャーチルがサンドハースト王立陸軍士官学校で軽騎兵連隊に所属
して、第二次キューバ独立戦争を観戦し、イギリス領インド国内でパシュトゥーン人の
反乱鎮圧戦の連絡係をし、スーダン侵攻、第二次ボーア戦争に従軍した事は。その後の
1900年のイギリス総選挙にオールダム選挙区から保守党候補で初当選する事に寄与した
。松岡洋右が馬鹿の如く国際連盟会場から退場せずに、この会場で議会が終了するまで
議論を戦わし会場の外まで声明を発していたなら、日本はまだ違った道を歩いていた。
というのもドイツのUボート問題は国際社会ではすべからず常識であり、第一次大戦後
から無差別攻撃を繰り返して権益確保をこの南米中米で行っていたからだ。先のユダヤ
救出でも、船長達が怖かったのは、実は機雷でも戦艦でもなくこの潜水艦攻撃であった
。多くのチェコやブルガリアのユダヤ難民がオトボールに押し寄せた「オトボール事件
」は、実は此処にあった。黒海や地中海はその頃ドイツ軍のUボートの縄張りの中にあ
ったのだ。チャーチルは、赤軍のポーランド侵攻は撃退したが、第一次世界大戦では、
アントワープ防衛やガリポリ上陸作戦で惨敗を喫し、辞任している。この失敗大臣であ
る海軍大臣が又政権に着いたのは、それこそユダヤのフリーメイソンの力であり、ロス
チャイルドの資金力であった。逆にユダヤ資本は他の人間をまだ持たなかったのだ。こ
のあと指名されたのは植民地としていたイラクやエジプトなどのパレスチナ人との調整
役であった。此処にサッスーン家の威力があった。1936年8月 ドイツナチス党はリッベ
ントロップを駐英大使に任命した。彼に与えられた使命は、ヒトラーがかつて予言した
ような「英独連携」を果たすことであった。この事はユダヤ人にとっては脅威であった
。インドのボンベイに拠点を置き東インド会社が支那にアヘンの密輸を開始し莫大な富
を蓄積していた上海屈指の豪商サッスーン一族は、スファラディ系ユダヤ人であった。



998: 名無しさんAA:17/12/13 22:59
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 656----------
 19世紀半ばアヘン戦争に破れた清朝が上海に租界の設置を認めると、時を移さずに
上海に進出し、アヘンを含む物資の売買を開始し瞬く間に、金融、不動産、交通、食品
、重機械製造などを傘下に擁する、一大コンツェルンに成長した。その中に、金融業と
して「サッスーン・バンキングコーポレーション」不動産建設で「ファーイースタン・
インベストメント・カンパニー」不動産流通「ハミルトン・トラスト」、不動産斡旋で
「上海プロパティーズ」住宅・ホテル「イースタン・エステート・ランド」「キャセイ
・ランド」、重機械製造「シャンハイ・ドックヤード」機器製造「中国公共汽車公司」
鉄道貨車「中国鋼車製造公司」、食品関係「上海碑酒公司」ビール会社など・・・全く
それは今のアメリカ資本を牛耳っている小さな実験場の地域となっていた。支那四大家
族が中華民国期に政治・経済の実権を握った蒋介石・宋子文・孔祥熙・陳果夫(陳立夫)
の一族の四家の姓を取って蒋宋孔陳と呼んだが、上海ではユダヤ系の経済パイオニアの
、サッスーン、カドーリ、ハードン、エズラの4家族だった。こうして「上海ユダヤ四
大財閥」と呼ばれる事になった。当主のビクター・サッスーンは1832年から、この
町で商売をしており、経済帝国を築き上げていた。その影響力は、市当局が武装した「
商人部隊」自衛組織の編成を外国人に認めたことでも分かり、1928年にイギリスを
モデルとした1400人の上海自衛団に進化した。自衛団にはいわゆる『ユダヤ中隊』
があり、200人から250人がこれに属していた。その後ユダヤ難民がこれに加わり
強化されて戦争を迎えていた。デビッド・サッスーンの死後、アルバート・サッスーン
が継ぎ「ロスチャイルド家」と血縁関係を結んで、その後エドワード・サッスーンが相
続し三代の間に巨富を築いた。香港最大の銀行「香港上海銀行」のほとんどの株を握っ
たアーサー・サッスーンの義理の弟は、金融王ネイサン・ロスチャイルドの孫レオポル
ド・ロスチャイルドだった。サッスーン一族の繁栄の最盛期を具現化したエリス・ビク
ター・サッスーンは、不動産投資に精を出し、破綻会社の不動産を買い叩き借金の担保
の不動産を差し押さえた。その後彼は、「グローヴナー・ハウス(現・錦江飯店中楼)
」、「メトロポール・ホテル(現・新城飯店)」、「キャセイ・マンション(現・錦江
飯店北楼)」などを次々と建築した。こうして自慢の、「東洋一のビル」と称えられた
「サッスーン・ハウス(現・和平飯店)」を建設し、サッスーン家の本拠となっていた
貿易、運輸、各種軽工業などにも事業展開していったエリス・ビクター・サッスーンが
最盛期の資産は、上海全体の20分の1もあったと言われている。彼は「東洋のモルガ
ン」の異名を持っていた。上海の不動産王「上海キング」と言う異名があった。この資
本の接収をドイツは日本に要請したのである。それが上海ゲットー建設だった。

999: 名無しさんAA:17/12/13 23:00
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 657----------

 上海閥の蒋介石が北京で中華民国を宣言し 国家建設の乗り出した頃にも、ドイツの
軍事顧問を手放さなかった。それは蒋介石政権内でも張学良の抗日政策が続き資金援助
を日本政府が行わなかったからだ。こうして中国政府はアメリカ製のカーチス・ホーク
IIやヴォート V92「コルセア」などを主力とする中国航空隊を組織し侮れない存在にな
っていた。こうして蒋介石中国政府は静かに中国空軍上海爆撃を考案し、第二次上海事
変中の1937年8月に中華民国空軍により上海に対して空爆を行い、日本政府で空爆が行
われ被害がでたとの声明をはっした。中国側では“大世界墜弾惨案”、もしくは“K色
星期六”(暗黒の土曜日)と呼称される日本軍の空襲と言う物だ。だが直ぐに飛行機の
航跡や写真などで中国軍爆撃機の攻撃であった事は判明した。黄浦江の呉淞近くにいた
。この時イギリス海軍重巡洋艦「カンバーランド」及び合衆国アジア艦隊旗艦である重
巡洋艦「オーガスタ」の2隻にも向けられた。爆撃機2機の急降下はカンバーランド上
空で行われたが、パイロットによる水平飛行への移行操作が早すぎ爆弾を誤った方向に
向けたため攻撃は失敗した。この時どちらの艦からも発砲はなかった。中国軍機は悪天
候のため両方の艦船を日本の艦船と間違えたと思われた。又日本艦の応戦した対空砲火
は中国軍機が爆撃には高すぎる場所にいることを強いられ、その爆弾を目標近くに落下
させることができなかった。しかし、ひとつの爆弾は黄浦江の浦東側のアジア石油社の
設備に当たり、一晩中燃え続ける火災を起こした。5発は川に落ちて巨大な水柱を起こ
したが1発は、ジャーディン・マセソン社の倉庫に当たった。出雲ともう1隻の軽巡洋
艦「川内」は高射砲の一斉射撃2回で援護しながら各々艦載機(九五式水上偵察機)を
飛ばした。この日の戦闘において日本軍の艦載機と艦船の高射砲により中国軍機3機が
落とされている。この時チベット通りが国際共同租界とフランス租界との境界線である
エドワード7世大通りと交差する場所に落とされ、直ちに激しい爆発となり5人の外国
人を含む850人が負傷し、450人が死亡、12台の自動車が破壊。さらにもう一対の爆弾が
キャセイホテルとパレスホテルの間に落とされる。爆発で12人の外国人を含む数百人以
上が死傷した。日本海軍は直ぐに台湾の航空基地より九六式陸上攻撃機6機を飛ばして
、杭州や広徳へ爆撃に向かわせた。しかし周家口より飛び立った高志航中校率いる第4
大隊がこれを迎撃。空中戦における中国空軍初の戦果となった。こうして中華民国は、
8月14日は中華民国空軍の記念日「空軍節」に指定された。

1000: 名無しさんAA:17/12/13 23:00
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 658----------

 ドイツの対中国政策は中独合作とされ明治時代より古い歴史を持っていた。だが1900
年の義和団の乱の際にはドイツ公使を殺され、即位してたヴィルヘルム2世は怒って、
遠征軍司令官に対して、「反乱軍はフン族の如く容赦ない攻撃を加えよ」と命令した。
第一次大戦後には、パリ講和会議での中国代表団は猛反対したが、ヴェルサイユ条約に
よってドイツ租借地の土地は全て日本に割譲され(購入)することが決まった。だが、
その後に、日本と満蒙地帯での確執で支援が狭められ国民党政府はドイツの支援を求め
、ドイツで教育を受けた朱が中華民国とドイツの一連の軍事的・経済的協力関係を指し
独中合作に成功した。日中戦争直前の中国で、産業と軍隊の近代化を起こし1912年の、
中華民国が成立した直後の中国軍閥では、跋扈した列強の侵略に苛まれていたが、そこ
にドイツは組み入っていた。国民党による北伐の完成で一応ながらも国内統一がなされ
たがその後満州事変などの日本の進出により、「中華民国による国家統一」が脅かされ
ると考えドイツ軍事顧問には再三の支援要請が在っていた。ドイツの中国政策は一環し
て日本やソ連との中国の戦争や紛争であり、その火事場に漁夫の利を得る事だった。又
対ロシア人やフン族とするスラブ人に中国と本国から攻める絶滅作戦を常に国是として
いた。中国軍事顧問のゼークトは、ナチス政権が出来て、その地位をアレクサンダー・
フォン・ファルケンハウゼンに譲り、1935年3月にドイツに帰国した。帰国後 1936年に
はヒトラーは中国に1億マルクの借款を与え、その借款で中国はドイツから武器を購入
する契約をして米国の支援を得た。又10年間にわたり 毎年1,000万マルク相当の鉱物
資源がドイツに提供される契約で英国支援を得た。つまりドイツを裏切るから支援しろ
と共産党を通じて国民党政府は接近したのだ。これに1936年1月、南京政府訪独団が、
ドイツを訪れた時、大陸横断鉄道による 2000tのタングステンを提供を申し出ている。
同年4月8日には、独中間で借款貿易協定がむすばれ、ドイツは中国政府に1億マルクの
追加融資を行いアメリカ航空機購入に至った。推進者は国防省官房長のヴァルター・フ
ォン・ライヒェナウ中将であった。ライヒェナウはクラインらと中国軍備拡張計画を練
り、六個師団からなる十万の軍、将来的には30万にまで拡張する新たな軍事顧問団の
創設を構想していた。この国際社会の不思議な中国政策には日本は常に尻拭いの関係で
あった。空爆が中国軍が行っている事が確かでも 日本に非難が殺到していたのだ。こ
のドイツに対する鉱物輸送も本来ならイギリスフランスは愚かソ連すら反対しなかった


1001: 名無しさんAA:17/12/13 23:01
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 659----------
 この中国と同じ様に三国通商条約をまとめた時 ソ連との中立条約もドイツとの通商
条約もアメリカ政府を始め大きな反日運動に繋がった。ここでも松岡洋右は世界を見誤
ったのである。日露戦争後アメリカの鉄道王ハリマンが来日し、日本の元老たちと接触
していた。ハリマンが、資金の提供とともに、日本と南満州鉄道を共同経営することを
持ちかけてきたのは、ソ連の大陸鉄道にユダヤ金融は大きな投資をしていたからだ。そ
れは東欧の地のユダヤ人救出にあったのは確かだった。実は白系ロシア人によって1931
年に成立したロシアファシスト党は指導者ウラジーミル・レーニンのボリシェヴィキ党
より更に過激な共産党であった。ハルピンでは白系ロシア人の青年層は失業率が高く、
ユダヤ人コミュニティを目の敵にし複数のファシスト集団を結成し、人質交換で資金源
を経ていて張学良の裏社会とも思われた。黒百人組はペテルブルクで創られた2つの集
団、神聖旅団とロシア会議が黒百人組の前身と考えらた1900年に結成されたこの2つの
団体は、反動的な知識人・政府高官・聖職者・地主代表を惹きつけて組織的政治闘争の
テロリスト集団であった。今のKGBや秘密警察の前身で地方版とも言える。元々は、
他集団からの自衛団だったと目されるが、この頃には黒百人組こそがポグロム遂行の為
に犯罪者を雇うロシア正教会の影の組織だった。革命時の自警団は「正教・専制・国民
性」を標語として紋章と旗は教会に飾られ、政府の支持や資金得ていた。正教会と皇帝
と母国への愛着を謳い、反ユダヤ活動を保持して会を存続させていた。ユダヤ人問題の
解決方法として、強制移住・物理的殲滅を論じていた黒百人組の指導者たちは、ナチス
の先触れで、これをドイツは真似ていた。ペテルブルクのロシア人民連合やロシア人連
合・ロシア帝政党などなどは、モスクワの対革命闘争活動協会でオデッサ「双頭の白鷲
」などの、多くの右翼集団は1905年革命後に作られた。これらの政治団体によって組織
されたテロリスト集団は、小商店主・浮浪者・職業的犯罪者の混成で成り立っていた。
ハルピンのユダヤ人指導者アブラハム・カウフマン博士は極東ユダヤ人会議議長となっ
て記者を通じ、日本への警戒心を緩めるようアメリカ社会に説いたが、フランクリン・
ルーズベルト大統領の側近となっていた、世界ユダヤ人会議議長のスティーヴン・サミ
ュエル・ワイズは、「ユダヤ・日本間の如何なる協力も非愛国的行為だ」とする 強い
見解を示した。これはロシア系ユダヤ人で大富豪のヨゼフ・カスペの息子が殺害された
時の日本側の対応が、ハルビン在住のユダヤ人に不信感を抱かせて起こった悲劇だった
。こうして米国指導部のメイソン協会のメイソンガーと一般団体のフリーメイソン協会
のメイソンリーの意見の相違は、日本の悲劇でもあった。元々ユダヤのラビの地位を得
た指導部会員界に逆らえる筈もない話ではあったが、ここにハリマンの怨恨もあった。

1002: 名無しさんAA:17/12/15 06:10 ID:1E.
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 660----------

 河村愛三が、ハルビン憲兵隊本部の特高課長であった時、アブラハム・カウフマンは
ハルビンのユダヤ人コミュニティーのトップとして率いて演説をした。「ハルビン・ヘ
ブライ協会」が設立されてその指導者となったカウフマンは、反ファシズムを訴える大
会開催を要請し、樋口も演説した。樋口は、ユダヤ人に安住する国がない事を嘆いては
いたが、「ユダヤ人に安住の土地を与えよ」と演説し、ユダヤ人を感激させ満州国建国
時に、1万人以上にもなっていたユダヤ人社会を何とか他の地にとも思っていた。先に
述べたようにユダヤ人社会も一つでは無かったのだ。ドイツ系ロシア系スラブ系英国系
それぞれに言語も習慣も違っていた。更にユダヤの系統すら違っていた。スファラディ
系ユダヤ人(スファラディム)とアシュケナジー系ユダヤ人(アシュケナジーム)では
格差もあった。シオニズムと言う王国醸成を掲げたユダヤ指導者階級は、ロシア、ポー
ランドを中心とする東欧系ユダヤ人(アシュケナジーム)とその子孫が多い。これに対
し中東と北アフリカのアラブ諸国から難民として流入してきたユダヤ人(スファラディ
ム)は、イスラエル社会の底辺を形成する者だったが、上海ではサッスーン家によって
逆転していた。この時欧州からやってきたアシュケナジー系ユダヤ人は「エレツ・イス
ラエル(イスラエルの土地)にユダヤ人国家を復興させる」という高い理念に燃えてい
てキブツ(社会主義的ユダヤ人共同体)運動との実践や確執もあった。白人系の多いこ
のアシュケナジー系は遊牧民系のスファラディ系のサッスーン家の繁栄に嫉妬もあった
。アブラハム・カウフマンはその名の通りペルシャ系だがサッスーン家はアラブ系だっ
た。更に殺されたヨゼフ・カスペはロシア系でスティーヴン・サミュエル・ワイズは、
ハンガリーのスラブ系だった。イスラエルでは一般に、セファルディムがアジア人また
は中東系ユダヤ人、アシュケナジム(ヘブライ語でドイツを意味する)が白系ユダヤ人
を指す語として大雑把に使われるが、これはオスマン朝からイギリス委任統治期を経て
イスラエル共和国建国後に至るユダヤ教の宗教行政において「オリエントのユダヤ教徒
」とひとくくりにした結果であった。当の本人達は明確な違いを認識していた。元々、
オーストリアのユダヤ系思想家であるナータン・ビルンバウムが、シオニズム指導者と
なるまでは「ユダヤ人」や「シオニスト」や「シオニズム」などと言うのは存在しなか
った。1880年代にユダヤ教徒を「民族」として定義し、ディアスポラ民族主義からの離
脱を進め、指導大学を作った為このナータンによってこうした問題が出来たのである。

1003: 名無しさんAA:17/12/15 06:10
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 661----------
ナータン・ビルンバウムは最初のシオニズム指導者であり、ユダヤ人を民族として定義
した人物であった。「シオニスト」や「シオニズム」などの用語を考案したのちには、
シオニズムではなくディアスポラ民族主義(現在の居住地でユダヤ教徒の権利を獲得し
、独自の文化を発展させていく)に傾いていったのだがそれは、共産主義にも影響した
。1881年〜1882年頃のロシアにおけるポグロムには、ウィーンのユダヤ人社会や世界に
衝撃を与える程だった。ブロディ(現ウクライナ西部の都市)などに難民が殺到したが
、ナータン・ビルンバウムはそれらの中から活動を起こして共済主義を説いていった。
1882年、ペレツ・スモレンスキンらと共にオーストリア初のユダヤ人「民族主義」的な
大学知識人の団体「カディマ」を創設し、この組織名はqadimah(東方へ)とkidumah(
前進)合成した名だが、その後カナンの地の建国が合言葉になったが本来は只の旧約聖
書の教徒に過ぎなかった。旧約聖書のみを信じるとしたユダヤ教徒の生活に出会い、こ
の考えに感銘を受けた彼は、それまで "Pollak(ポーランド人)"とか"Litwak(リトア
ニア人)"、「ロシアのユダヤ人」「東欧のユダヤ人」「ガリチア人」など と呼ばれて
いた、非ドイツ語圏に居住しイディッシュ語を話す数多くのアシュケナジムに初めて「
東方ユダヤ人 Ostjuden 」という名称を与えた。彼はユダヤ人を民族として捉え、「東
方ユダヤ人」が 非ドイツ語圏においてのイディッシュ語の保持、敬虔な信仰・思想と
生活、伝統的価値観を保持していると考えるに至っていた。満州国建国直後は全員貧し
かったため問題はなかったが、経済的成長を遂げると次第に流浪の民がユダヤ人として
押し寄せて来て、既存移住者と新規移住者の両者間のギャップは社会的差別となって、
表面化した。シベリア横断鉄道が出来上がって職がない人も遠くウクライナ付近からの
逃げて来るロマ人もクーリーもユダヤ教に染まった者もいた。現代に於いてキリスト系
の新興宗教が多いのはその為でもある。1942年にマイジンガー・プランなるものを
ひっさげて「ワルシャワの屠殺人」の異名を取ったヨーゼフ・アルベルト・マイジンガ
ー大佐が「ユダヤ絶滅計画」に沿った「ゲットー建設要請」を持って政府首脳部にやっ
てきたのだが、幸いにも日本政府や日本軍は、これには同意しなかった。しかし形式的
同盟に沿って1943年に、殺人収容所の代わりに虹口の共同租界の一部に救済施設を設け
た。それは提籃橋の日本人居住区の直ぐ東隣に、国籍の無い“難民のための指定地区”
を設定していて、そこに多くのユダヤ人を押し留めた。この区域は西は公平路、東は通
北路、南は恵民路(旧Baikal Road)、北は周家嘴路(旧Point Road)に囲まれた地域
だった。“ユダヤ難民隔離区―ゲットー”の成立である。その時上海にいたユダヤ人は
2万5千人。日本軍はこのゲットを約3年間管理した。

1004: 名無しさんAA:17/12/15 06:17
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 662----------

 この上海ゲットーは膨れ上がっていった。第二次上海事変の結果、この地域が大日本
帝国に占領されたが、日本軍と南京国民政府はパスポートに関する社会体制を整えなか
った。この為上海港は世界中で唯一ビザ無しで訪れることのできる場所となった。中国
と列強の不平等条約は続いており、上海を訪れるには欧州からの旅券を見せるだけで良
かったのである。こうして「無国籍難民限定地区」として知られてナチス支配下にあっ
たドイツ、オーストリア、ポーランド、チェコスロヴァキア、リトアニアなどでの迫害
の地から逃れて日本に訪れたユダヤ人は、日本が当時公表していた“無国籍難民の定住
と商売の制限に関する声明”によって日本占領下の上海に移住してきた。ゲットーには
正しく無祖国難民の限定地区として機能し、2万人以上のユダヤ人難民や10万人の中
国人などが定住し、貧しい難民が難を逃れ上海に移住するために押し寄せていた。現地
のユダヤ人家族と米国ユダヤ人の慈善団体は彼らを保護し、食事と衣服を与え続けた。
日本に敗戦に近づき 次第にいろいろな制限を強めていったが、最後まで生活環境は、
劣り悪くになってもゲットー封鎖がされる事は無かった。現地で中国人居住者も同様に
生活水準は悪くなった。だが、去る事は無かった。ユダヤ人の多くは能力のある専門家
で、教師、編集者、レポーター、作家、画家、音楽家、スポーツマンなどであった。彼
らは隔離区域で学校を開設し、劇団を組織し、移動図書館を作り、音楽バンドを編成し
、フットボールチームまで作った。時代の困難な状況下で、数十種の新聞雑誌が発行さ
れた。粗末なビルの一角で、130人ものプロのオーケストラさえ、直ぐにに編成でき
た。といわれる。上海のユダヤ人の歴史と遺産提籃橋の街角には、オーストリア人の、
パン屋があり、ウイーンの人々が強いコーヒーを啜っていた。或る者は、地元のドイツ
語の新聞を読んでいた。(ポーランド語、ロシア語、イーデイッシュ語の新聞さえ発行
されていた。)コーシャフード(ユダヤ教の食物規定に基づく食物)の肉屋やドイツの
デリカテッセンも近くにあり、聖日に使うお祭り用の蝋燭もアブラハム乾物屋で売られ
ていた。1945年第二次世界大戦が終ると、上海のユダヤ人は大部分上海を去り、イスラ

1005: 名無しさんAA:17/12/15 06:18
パン屋があり、ウイーンの人々が強いコーヒーを啜っていた。或る者は、地元のドイツ
語の新聞を読んでいた。(ポーランド語、ロシア語、イーデイッシュ語の新聞さえ発行
されていた。)コーシャフード(ユダヤ教の食物規定に基づく食物)の肉屋やドイツの
デリカテッセンも近くにあり、聖日に使うお祭り用の蝋燭もアブラハム乾物屋で売られ
ていた。1945年第二次世界大戦が終ると、上海のユダヤ人は大部分上海を去り、イスラ
エル、米国、その他の国々へ散っていった。 第二次世界大戦以降には、ユダヤ人達は
ほとんど上海に残らなかった。上海のユダヤ人の歴史と遺産虹口区提籃橋の摩西会堂は
、市政府の記念館として公開され、当時の生々しい記憶を今に伝えている。すぐ近くの
スラム化した旧ユダヤナ難民収容所も、ユダヤ難民が暮らした3階建てのアパートが残
り(舟山路59号)も当時の面影を残す。カーター時代の前米国財務長官ブルーメンソ
ール国務副次官補(経済担当)として大使級通商交渉大統領特別副代表などの公職と、
民間部門で相互に働いたが、このアパートの2階に10年間も暮らしていた。当時難民
の老人、子供で溢れていた霍山公園には、ユダヤ難民記念碑が建っている。舟山路を歩
くと、当時の光景が亡霊のように立ちのぼってくる。


1006: 名無しさんAA:17/12/15 06:20
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 663----------

 上海のユダヤ人の歴史と遺産は、いま虹口地区では、ユダヤ資本を入れて町の再開発
が始まっている。かつてそこで過ごしたユダヤ人だけでなく、全てのユダヤ人達が彼ら
民族の虹口での歴史を保存しようしている。CJSSのパンフレットによれば、いまも
ロスアンゼルスには、かつて虹口にいたユダヤ人の団体が発行する新聞や倶楽部が存在
しているという。中国にとって、エネルギ資源と絡むアラブ諸国との関係から、対イス
ラエル政策は微妙だ。ユダヤ教は今も、正式な活動を認可されていない。21世紀にな
って経済躍進が続く上海で、ユダヤ人は新たにどのような活動をするのであろうか。又
新しい歴史が始まろうとしている。このブルーメンソールはコンピューター革命時ユニ
シスを立ち上げてCEOになっている。ユニシスは年間売上高105億ドルでIBMに
次ぐ世界第2位のコンピュータ企業ともなった。ユニシスは1986年9月に、元アメリカ
合衆国財務長官のマイケル・ブルーメンソールによるメインフレームメーカーのスペリ
ー社とバロース社の合併(バロースがスペリーを48億ドルで買収)で設立された。合併
当時は 120,000人もの従業員を抱えていた。ユニシスのシステムは、銀行業務、小切手
処理、所得税処理、航空機予約、生体認証、新聞コンテンツ管理、港湾出荷管理、気象
情報サービスなど様々な用途に使われている。アメリカ国立気象局の ドップラー気象
レーダーシステム NEXRAD のソフトウェアもユニシスが開発しており、レーダーや気象
衛星などからの気象データを提供している。また、アメリカ軍の世界最大のRFIDネット
ワークの運用も担当しており、25カ国にある1,500箇所の拠点で年間900万個のコンテナ
の追跡を行っている。南アフリカ共和国では一般市民用の汎用的身分証明書の作成を請
け負っていた。バロース社は元々はタイプライターの老舗であった。「言語指向システ
ム」という哲学に基づき、3つの非常に革新的なコンピュータ・アーキテクチャを開発
した。この命令セットは ALGOL、COBOL、FORTRANといった高水準言語を念頭に置いて設
計されていずれもメインフレームクラスのマシンを動かした。バロースの大型メインフ
レームは1961年から始まったが、1980年代のAシリーズへと続いた時、小型機用のマイ
クロプログラム方式が主流に代わり、各プロセスをそのプログラミング言語に最適なア
ーキテクチャの仮想マシン上で動作させることが可能な設計で書き換え可能なコントロ
ールストアを採用して拡張型OSに変わった。この事がIBMのOSを可能にして追い
抜かれた。実はこれらOSには上海からの米国人のガレッジホビーが多くの寄与があっ
たのだ

1007: 名無しさんAA:17/12/15 06:21
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 664----------
 多くのアメリカに於ける研究者は、シオニストイスラエルに対しての支持基盤が事実
的にはキリスト教原理主義者だから仕方ない。博士は言う。又専門家の分析では、アメ
リカ国内のキリスト教原理主義からのシオニストイスラエルに対する支持が揺らぐ事は
ないという判断をしている。理由は簡単だ。彼らは指導者から、キリストが地上に再臨
するまでに「イスラエルが完全なものになる」ことが必要だと教えられているからだ。
ダービーの聖書の“世界”はイスラエルを支援して、最終的にかつての地位を再現する
ことが出来れば、それがメギドの平野での最後の戦いへと繋がるというものだ。最後の
戦いとはつまり「アルマゲドン」のことで、その戦いには世界の主要大国の全てが参加
する。そのあとは、壊滅的な飢饉と疫病に襲われるが、キリスト教徒はそれを「終わり
の時の印」として、そして間違いなくキリストの再臨が近いことの印として歓迎すべき
である、というのである。これは完全な終末戦争を意味し「末法思想」の何物でもない
。このユダヤ思想が不当なパルフォア宣言を利用し、それを国際連盟の文書にもぐりこ
ませて、委任統治権をあたえたことは、中国以上の歴史改竄であったと言える。いくつ
もの証拠が示すように東ヨーロッパおよびロシアのユダヤはその大半がハザール系であ
ることに間違いはない。従って論理的に言えばヨーロッパユダヤの先祖はパレスチナや
ヨルダン地方からではなく、黒海とカスピ海の間、及びヴォルガ川沿いの地域からやっ
てきた事は間違いない事実だ。故にヨーロッパならびにアメリカにいる現代のユダヤ教
人口は大半がカナン人ではないこと、すなわちパレスチナにルーツをもっていないこと
が証明される。むしろ現代のユダヤはハザール系であるとする意見は、ほぼ正しい事は
明らかなのである。ところが研究者がそれして、ヨーロッパユダヤ、アメリカユダヤの
大半がアブラハムやイザクやヤコブの種だという主張の正当性に疑問を唱え始めた時に
途端にイギリスにはドイツとの戦争の正当性が失われる事でその研究者は暗殺されるは
めになる。元々イギリス王室が唱えたプロテスタント教会はカトリックの様な中央集権
的宗教ではない。特にアイルランドなどの先住民ケルトなどに取り入れてもらうには、
霊的宗教習慣が大事だった。1400年代にアイルランド系住民で起きた信仰回復、新
しい教会運営に関する方法論を模索した活動でしかない。イスラム教の開祖ムハンマド
の死後、ムハンマドの代理人としてイスラム共同体の後継指導者のカリフたちがそれぞ
れ闘いながらイスラム国家群は大きく拡大した。ムハンマド以来のこのイスラム共同体
にローマ帝国はカトリック教会に聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを
目的に十字軍として遠征軍を派遣する事を考えたのである。これらの戦いは公式非公式
含めてかなりの兵員を要した。

1008: 名無しさんAA:17/12/15 06:26
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 665----------

 この十字軍の遠征は各国諸侯にとっては都合の良い異端者払いだったし、国内の宗教
戦争や隣国の境界争いや商売の住み分けなど、全く都合が良い戦争だった。又これまで
襲われる紛争では自分達には期日や集会など出来なかったが、遠征ともなれば集会での
人集めや熱き兵士達を輝かしく送る事も出来て一石二鳥も三鳥にもなった話だったのだ
。ところがこれには金が要ったし、収穫期の人手不足も問題だった。そこでヴォルガ川
沿岸やヨルダン地方の残兵者など集めて、金の工面もする集団が現れる。イスラム世界
とキリスト世界で共通の認識だけ選び出すとすれば「旧約聖書」とされる部分だけだ。
これが原理主義集団とされるかけがえのない共通認識となる。ならばその部分だけの、
お題目を唱えた宗教に属すれば事は早い。と当初のユダヤ教とは全く離れたユダヤ教が
出来上がったとしても不思議ではない。元々ユダヤ教はユダの流れの子と言う蔑む言葉
が発祥だった。こうしてユダヤ教徒のかれらの祖先はヨルダン地方やカナンではなく、
コーカサス地方からやって来たことになっても全く不思議ではなかった。コーカサスと
いえばかってはアーリア人発祥の地と考えられていた所であり、遺伝的に言えばハザー
ル人はアブラハム、イサク、ヤコブよりもフン族、ウィグル族、マジャール族に近いの
であるが考えて見れは当然でもある。と言うのも「旧約聖書」と言う最も古い歴史教書
を崇め乍らもキリスト教やイスラム教などより最も新しい教団でこれだけ 商売上手な
宗教で権力基盤に組み込まれる宗教が、大航海時代に日本にも香港にもインドにも全く
無かったのである。それはソ連の共産党とや第一インターナショナルなどと言う新思考
と同時に現れた商売の為の教徒達であり人種だったのである。元々こうした原理主義に
基づいた考え方はジョン ネルソン ダービーやらアンソニー ノリス グローブスな
どで唱えられていて カトリックから分かれてプロテスタントが起こった時既にあって
ロシア正教会すらもその時代に起こった宗教だったのである。こうして千年も経った今
では実態であれ虚像であれ存在しては 我々を惑わし恐れさせる力を持ったのである。
ロシアにおける帝政やボリシェヴィキ党などのポグロムから逃れてきたボヘミアンでも
ロマ人でも程度の差はあれ旧約聖書を知る者であり、日本人から見ればハルピンに押し
寄せて来たユダヤ人であったのだ。ソ連となったロシアは次々とシベリア開発民として
ユダヤ自治州に人を送り込んだ。一説には20年間800万人である。そして境界を越
えて中国人に変わって、米国に出ていった。


1009: 名無しさんAA:17/12/15 06:27
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 666----------

ジグムント1世老王は「ユダヤ人の自由に関する一般憲章」(一般的には「カリシュ法
」として知られる。)の「カリシュの法令」を宣言した。1264年9月8日、カリシュの地
において大ポーランドのボレスワフ敬虔公によって発布されたこの憲章は、ポーランド
の国内でユダヤ人の法的地位の根拠となり、これによって「国民内国民」とも言えるよ
うなイディッシュ語話者による自治組織が創始された。今のイスラムの難民や移民の様
に陸続きで不穏な輩の集団移住は、元からいた居住民には恐ろしかった為それぞれの村
で自警団が組織され村外者には冷たく暴行事件すら多数あったと言える。この厄介な者
らを取り締まる事はそれも又手間だった。その為こうした法を発布するに至ったのだっ
た。この憲章は1795年の第3次ポーランド分割まで存続した。この憲章によってユダヤ
人に関する事案はユダヤ人の裁判所のみが取り扱うことになり、ユダヤ人とキリスト教
徒が関わる事案については別個に独立した法廷で取り扱うことになった。この法令は同
時に、ユダヤ人の安全と個人の自由を保障しており、これによりポーランドのユダヤ人
たちは安心して自分たちの信仰を守り、商売を行い、旅行をすることができた。カリシ
ュの法令は1334年にカジミェシュ3世大王、1453年にカジミェシュ4世王、1539年には
ジグムント1世王によって、それぞれ改めて承認されている。こうして「のけ者」「裏
切り者」「異端者」「異質者」と言う意味の「ユダ者」が農奴と言う農家の奴隷の下に
住み着いて良いとする存在が認められたのだった。そこに「ポグロム」とされる猟奇的
差別が起こっていたのは当然だったかも知れない。言語も習慣も違い何よりも食糧供給
すらままならなかったのだから。ディアスポラ後も、ユダヤ人のほとんどは地中海世界
のちのイスラム世界に住んでいた。それに対し、アルプス以北におけるユダヤ人の起源
はない。7世紀に中央アジア西部のコーカサスからカスピ海北岸にいたハザール王国の
住民とされ、ヨーロッパに西進し移住したわずかのコーカソイドの一派のユダヤ教徒の
子孫だとする説、またはローマ時代イスラム世界から商人としてヨーロッパを訪れたと
する説、イタリアからアルプスを越えてやって来たとする説などいずれも最もな説はあ
るが、単一の起源ではないとし、9世紀頃に民衆がユダヤ教に集団改宗した黒海北岸の
ハザール汗国の子孫だとする主張が最も考えられる。いずれにせよ、8世紀から9世紀
には北フランスにアシュケナジムらしきユダヤ人の記録が見える。彼らはドイツ中部の
ライン川(ライン地方)、ブリテンなどにも広がった。


1010: 名無しさんAA:17/12/15 06:27
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 667----------

 アシュケナジムはユダヤ系のディアスポラ(定住者)のうちドイツ語圏や東欧諸国な
どに定住した人々、およびその子孫を指す。語源は創世記10章3節ならびに歴代誌上
1章6節に登場するアシュケナズから来ている。単数形はアシュケナジと言う。アシュ
ケナジムとセファルディムは、今日のユダヤ社会の二大勢力である。アシュケナージは
、ヘブライ語でドイツを意味する。イスラエルでは一般に、前者が白系ユダヤ人、後者
がアジア人、南欧系及び中東系ユダヤ人を指す語として大雑把に使われる場合があるが
、これはオスマン朝からイギリス委任統治期を経てイスラエル共和国建国後に至るユダ
ヤ教の宗教行政において「オリエントのユダヤ教徒」がセファルディムの主席ラビの管
轄下に置かれていたことに起因する。しかし、それ以前の歴史や人種的にはっきりした
ことは不詳で、現在も論争がたえない。1881年・1882年のロシアにおけるポグロムでは
ウィーンのユダヤ人社会や世界に衝撃を与え、ブロディ(現ウクライナ西部の都市)な
どに難民を殺到させた。ナータン・ビルンバウムはそれらの中から活動を起こしていっ
た。1882年、ペレツ・スモレンスキンらと共にオーストリア初のユダヤ人「民族主義」
的な大学知識人の団体「カディマ」を創設した。この組織名は(東方へ)と(前進)を
合成した言葉である。この段階での基本的綱領は 後のシオニズム指導者テオドール・
ヘルツルと一致していた。またこの団体で東方とモラヴィア、ウィーンのユダヤ人が顔
を合わせた。またカディマの団体歌を作詞した。これはオーストリア・ハンガリー帝国
のユダヤ教徒社会を象徴する光景ともとらえられる。党名はヘブライ語で前進を意味す
る。当初は国家責任党という名称が検討されたが、同名称では省略すればNPPとなる
ことから、国家宗教党(NRP)が激しく反発し、最終的にカディマに落ち着いた。ま
た、「カディマ」の名称に対しても、カディマがヘブライ語で「前進」を意味するとこ
ろから、ベニート・ムッソリーニがイタリア社会党に所属していた際に同党の機関紙・
「アヴァンティ!(イタリア語で前進の意)」の編集長をつとめていた経緯から問題視
する声が上がったが、これは大勢にはならなかった。シオニストとはシオニズムを信奉
する人びとであり、シオニズムとはエルサレム神殿があったとされる「シオンの丘」へ
戻ろうという運動で。この用語はナータン・ビルンバウムが1893年に初めて使ったとい
うが、近代シオニズムの始まった年とされているのは、セオドール・ヘルツルが『ユダ
ヤ人国家』を出版した1896年だ。こうした運動を強く支援していた富豪のひとりがフラ
ンスのエドモンド・ジェームズ・ド・ロスチャイルドだと言われている。


1011: 名無しさんAA:17/12/15 06:37
 しかし、その前に「ユダヤ人」をパレスチナへ「帰還」させようという運動を始めた
人物がいる。スコットランド人のジョン・ネルソン・ダービーだ。救世主の再臨を実現
するために「ユダヤ人」をパレスチナに「帰還」させ、最終戦争を実現する必要がある
と彼は考えたという。彼らの声が恐らくチャーチルなどに聞こえたのだろう。ドイツの
ユダヤ収容とイギリスのユダヤ人送還などは、時を同じにしている。ダービーは1859年
から72年にかけてアメリカで布教に努め、その流れの中から聖書根本主義派(キリスト
教系カルト教団)が生まれた。ジェリー・ファルウェルやパット・ロバートソンもそう
したカルトに属している。こうしたキリスト教系カルトとジャボチンスキー派は1970年
代に手を組み、アメリカでの影響力を増しただけでなく、イスラエルで主導権を握るこ
とにも成功した。議会はともかく、イスラエルに好意的なアメリカ大統領は少なくない
。例えば、ルーズベルト。アメリカで活動していた二人のラビ(ユダヤ教の聖職者)、
ステファン・ワイズとアッバ・ヒレル・シルバーがメディアを使ってルーズベルトは、
シオニストを支持していたという話を広め、それを信じている人もいるようだが、実際
は違う。中東に混乱をもたらすとして、イスラエルの建国には反対していた。ドワイト
・アイゼンハワーや ジョン・F・ケネディもイスラエルには批判的だ。イスラエルが領
土拡大を目指して第3次中東戦争を引き起こしたのは、議会で親イスラエル派を率いて
いたリンドン・ジョンソンが大統領になった為だった。建国の直後、1949年からイスラ
エルは核兵器の開発に着手しているが、そのプロジェクトに協力したのはアメリカでな
く、フランスだった。開発資金を提供していたのは欧米に住むユダヤ系富豪、例えば、
アメリカのエイブ・フェインバーグやフランスのエドモンド・アドルフ・ド・ロスチャ
イルド。エドモンド・アドルフはエドモンド・ジェームズの孫に当たる人物で、ヘンリ
ー・キッシンジャーと親しい関係にあると言われている。これらからスエズ運河の利権
とパナマ運河の建設などが深く関係している事は確かと思われる。そして日本も又無関
係ではなかった。「オトポール事件」でも当時、満鉄本社総裁室の文書課にいた庄島辰
登氏の体験によると、樋口少将よりの情報に接した松岡洋右総裁は運転司令に対して、
救援列車の出動を電話で命令した。そこで、文書課で作成した命令電文を庄島氏が電報
局へ行き、奉天鉄道総局へ打電したという。救援列車出動の理由を聞くと、一週間に客
車と貨物車が各一回の運行であったからという。これ以降は、客車以外に貨物車の乗務
員控室などにも便乗させて常に運んだようだ。かくして、四月末までに数車両を無料で
運んだ様だ。無料は松岡総裁の指示であって松岡以降の東条なども同様であった。ただ
、担当者が後日の証拠として記録し、ユダヤ人協会が精算したときいているという。が
実は関東軍も上海に送らねばオトポール他ハルピンでも警備軍兵は全く不足だった。

1012: 名無しさんAA:17/12/15 11:29
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 669----------

1933年(昭和8年)2月21日、日本政府はリットン報告書が連盟総会で採択された場合は
代表を引き揚げることをすでに事務局決定していた。 2月24日、軍縮の分館で行われた
連盟総会で報告書は予想通り賛成の圧倒的多数で可決・採択された。3月のオトポール
事件では松岡や東条達は樋口季一郎と協力してユダヤ人難民を保護している。これは、
ちょっと不思議な事になる。つまり日本とドイツとの友好を進めたのははこの松岡洋右
総裁である。敢えて言うならユダヤ迫害のドイツに賛意を示した者であるし、国連脱退
の人間である。国連総会で日本政府のスポークスマンとして英語での弁舌に力を発揮し
、またその時同じ随員であった近衛文麿とも出会っている。帰国後は総領事として再び
中華民国勤務となるが、1921年(大正10年)、外務省を41歳の若さで退官して満州入
りしているのである。彼がこのソ連の動き、つまりユダヤ人達が強制収容され北方開発
にアムールに送られ、ピロジャンと言うユダヤ人街が出来て、そこからオトポールやハ
ルピン多くのユダヤ人とおぼしき者が溢れてしまっていた事は知らない筈はない事だっ
た。もっとも、帰国途中ロンドンでは満州における日本の行動に抗議する英国市民に遭
遇して、松岡は「日本は賊人の国だ」とののしられた上、本人は「日本の立場を理解さ
せることが叶わなかったのだから自分は敗北者だ。国民に陳謝する」と至らなさを痛感
したのコメントを出してはいる。外国通の英語を話す彼すらこうだったのだ。1940年(

1013: 名無しさんAA:17/12/15 11:30
したのコメントを出してはいる。外国通の英語を話す彼すらこうだったのだ。1940年(
昭和15年)近衛文麿が大命降下を受け、外務大臣として松岡を指名し内定した。松岡は
「私が外相を引き受ける以上、軍人などに外交に口出しはさせません。」と大見得を切
ったが、松岡は外相就任当時、「独逸人ほど信用のできない人種はない。」とも語って
おり、ドイツに対して好感を持っていたわけではなかったし、ソ連も又信じるに値しな
いと踏んでいた。だが既に包囲網は敷かれ就任当初からドイツ・イタリア・日本による
三国同盟を唱える陸軍の使者が松岡の元を訪れ、三国同盟を推進するよう働きかけてき
ていた。ドイツ留学が多い陸軍の接客と「議論」を行う中では、三国同盟に傾斜してい
る将校が多く又ドイツの発達した技術や科学には侮れない魅力もあった。一方で松岡は
、伊藤博文の影響もあって昔から親ロシアを唱えており、伊藤門下の親露派の首領を自
ら任じてもいた。つまりユダヤ選別のポぐロムの集団移住政策を是認していたのである
。日ソ中立条約締結前、イギリスのチャーチルは松岡宛に「ヒトラー(ドイツ)は近い
うちに必ずソ連と戦争状態へ突入する」とM16から仕入れた情報を手紙として送って
いた。だが松岡はこれを無視し日ソ中立条約を締結した。これは後年、極東国際軍事裁
判の公判でイギリス側の証拠としてこの手紙が提示され明らかにされた。青年期の松岡
の苦学、そして当時の米国における人種差別は想像を絶するものであろう。とはいえ又
それは彼が白人世界の人種差別の是認でもあった。一つ確かなことは、日露戦争の講話
締結に貢献した金子堅太郎(1853〜1942)のように松岡は日本の国益増進の為に米国留学
経験を活かすことはなかった、ということである。


1014: 名無しさんAA:17/12/16 05:47
 三国同盟は松岡の意図する道では無かったのだろう。昭和10年、第7回コミンテルン
総会で人民戦線テーゼが採択され、国際的に連帯し共産革命を推進することが決議され
た。同年イタリアではエチオピアに進出し、国際連盟と対立、翌年エチオピアを併合す
る事変が起きる。同じ頃、満洲事変後、華北地方を国民政府から分離して日本の支配下
に置こうとする華北分離工作が関東軍を中心に推進されていた。昭和11年にはベルリ
ンオリンピックが開催され、ドイツの急激な発展が目を引いた。そして共産党の脅威に
対抗し、同年11月に、日独防共協定が締結されたのである。当時、それと共にドイツと
イタリアも連携を深め、翌年には日独伊の3国による防共協定が成立した。この事によ
ってイギリス・フランス・アメリカの警戒心を喚起し、第2次世界大戦への道筋が出来
上がった。盧溝橋事変から3年後に、日独軍事同盟締結を至上目的とする第二次近衛内
閣が発足した。松岡は外相として再び外交の表舞台に立つこととなるが、日独伊三国防
共協定が軍事同盟である三国同盟に発展したのは、松岡が外相就任してからわずか2ヶ
月後の昭和15年9月である。即ちヨーロッパにおける第二次世界大戦開戦から1年も
経過した時点で、ドイツが西部戦線でベネルクス三国のみならず、フランスをも屈服さ
せる戦況の最中での出来事であったのだ。松岡は外相就任直後に三国同盟締結に障害と
なる親米英派の大使、公使など40名を更迭するという空前の人事異動を実施している
。このことは昭和16年12月の日米開戦の布石になり大きな誘因になったのは言うま
でもない。これまでも三国同盟に対してルーズヴェルト米国大統領は、屑鉄や鉄鋼など
、日本にとっての欠かせない原材料の輸出を次々と禁止し、厳しい経済制裁を加えては
いた。こうして短期間のうちに日本とアメリカの対決はのっぴきならない決定的なもの
に陥ったのだ。それがきっかけで日本は石油などの天然資源確保のために、これまでの
華北分離工作に象徴される北進政策から、南進政策へと傾斜していった。ドイツに叩か
れて弱体化した仏印、蘭印への侵攻に踏み切れば、当時米領のフィリピンの安全保障は
脅かされ日米開戦は不可避なものとなる。欧州は疲弊して原因は言うまでもなく第一次
世界大戦にある。戦後の混乱を終結するため、イタリアでは大正11年にムッソーニが
、ドイツでは昭和8年にヒトラーが政権を握り、独裁体制を作りあげていた。昭和7年
に五・一五事件、昭和11年に二・二六事件が発生する。日本でも欧州でも政治的に病的
な状況が進行していたのだ。昭和16年4月、松岡外相はモスクワにて日ソ中立条約を
締結。日独伊三国同盟にソ連を協力させる松岡の多元外交は、あたかも英米への頑強な
牽制力形成を実現したかに見えたが、その幻想はあえなく崩れた。2ヵ月後、ドイツは
突如ソ連に進攻。ソ連を加えた4国でアメリカに対抗しようとする松岡の構想はついに
崩壊したのである。

1015: 名無しさんAA:17/12/16 05:47
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 671----------

松岡は日英同盟廃棄以降の非常に不安定になっていた日本のポジションをはっきりさせ
る意味合いで三国同盟を考えた。のみならずソ連をも後ろ盾にした米英との交渉を展望
していた。よく評価すれば極めて複雑な多元外交をやろうとしたと言えなくもない。が
しかし20世紀初頭、パクス・ブリタニカの時代の日英同盟は国益増進に資するもので
あったことを鑑みれば、個人的な英米コンプレックスや片意地で多元外交に突き進んで
しまうことは、独立独歩に欧米風情のない日本が情報不足に危うさの中にあり、極めて
大きな壁を感じざるを得ない。その意味ではパクス・アメリカーナの戦後、日米同盟は
我が国において長期間にわたって平和と繁栄をもたらしたことはいうまでもない。松岡
が日本外交の表舞台に立った時代は、パクス・ブリタニカからパクス・アメリカーナへ
の移行期でもあったとも言える。そしてそれは一種のヘゲモニーの空白時代であった。
その空白を埋めるための松岡の多元外交は複雑極まりなきものであると同時に、成功を
したとしても実に脆いものであったはずで、実は第一次世界大戦で戦勝国としての振る
舞いは、各国共に常にこの危うい中の綱渡りに過ぎなかったと言える。敗戦から半世紀
以上を経た現代日本において、パクス・アメリカーナがいずれは終焉し、世界的なヘゲ
モニーの空白期到来を予見し、もしくは期待する人々から、東アジア共同体構想が喧伝
されるようになった。地政学上の位置、国力からして、果たして我が国が多元外交に適
した国家なのかどうか、この松岡外交の歴史から再考する必要が生じている。戦前には
北伐が開始されると、中国ナショナリズムの勃興により従来の権益を失うことを、日本
は非常に恐れた。その為、事あることに上海租界に対する干渉を繰り返した。それは、
植民地支配の他アジア自体の民族の生死に関わる人口増加や糧自給や産業育成にも関わ
っていたからだ。1931年の満州事変と翌1932年の上海事変を経て、傀儡の満州国建設を
手始めとして、1937年には日本人の認識に関わらず、ついに中国との全面戦争に突入し
た。中華民国は奮戦したが、共産党テロに屈して、南京、武漢を相次いで失い、上海よ
り長江を2000キロ遡った重慶に立て籠もる。租界都市上海は日本軍占領地に浮かぶ孤島
と化した。1941年12月に太平洋戦争が勃発して、共同租界とフランス租界が、日本軍に
接収されるまでの4年間を、中国では「孤島期」と称している。上海では「孤島期」こ
そは、戦争景気によっての大きく一時的な繁栄を誇った時代だった。太平洋戦争以後は
急速にさびれて、上海の工業消費電力は、1936年を100%とすると、1942年には52
%、1943年には37%であった。


1016: 名無しさんAA:17/12/16 05:48
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 672----------

 更に日本の敗戦前1943年には、共産党の躍進で全市の中国人経営の工場の内約3分の
2が倒産し廃業した。当然1944年末以降、日本の敗戦が確実になると、大部分の中国人
工場主は日本との合作を願ったが、共産党による国民党撤退で断り始めた。1945年にも
なると、上海の中国人経営の工場の生産は事実上停止し、餓死者もでた。日本資本での
工場の稼働率も戦前の生産能力のわずか4分の1に過ぎなく、実質生産は10分1とな
った。この時朝鮮半島のみが稼働できたのだ。遡ること1943年1月には、日本は南京の
汪兆銘政権に、アメリカ・イギリスは重慶の蒋介石政権に対し、それぞれに租界返還と
治外法権廃棄をそれぞれ宣言していた。そして、日本の敗戦後の1945年、国民党政権は
全上海を接収し、ここに100年に及ぶ租界の歴史が終結した。だが 不思議なのは、
そうした生産が開始されない中でも、中国共産党と中国国民党は米英の支援を得て戦っ
ていたのだ。国民党台湾国民政府は、1949年10月の中華人民共和国成立によって
崩壊状態に陥った南京国民政府を、蒋介石が台湾に移転して再編成したことによって、
成立した中華民国政府を移転して戦っていた。既に日本では玉音放送の調印されたポツ
ダム宣言を、1945年8月15日に日本が受諾して第二次世界大戦が終結する宣言を
公にし、同年9月2日に日本政府は降伏文書に調印していた。ところが中国国民には、
毛沢東は予言者として戦いは今からだ敗走するであろう。と宣言したのだ。そして又、
周恩来はこの日本軍撤退を受けて、その後の中国建設の話し合いをしたいという、テロ
軍団の毛沢東の声に蒋介石の代理として会いに行き拉致されてしまうのだったのである
。玉音放送を得て、1945年9月9日に中華民国政府は南京で日本の現地軍からの降伏文書
を受領した。そして、10月25日、台湾省行政長官に任命された陳儀は連合国の代表者と
して台北市の台北公会堂(現在の台北中山堂)にて安藤利吉台湾総督からの降伏を受領
し同日、中華民国政府は台湾・澎湖諸島に対する領土の主権が回復されたことを宣布し
たのである。しかしながら、国民党政府は台湾地元民の政治参加を拒否するのである。
こうして政治参加を拒否されたことによって不満を持った民衆が国民党政府と衝突した
事件が1947年の二・二八事件である。二・二八事件が起こった事で、中国大陸では
国共内戦で共産党の支持が起こっていた。1949年になると、毛沢東率いる中国共産党軍
が中華民国の首都・南京を制圧し、南京国民政府は崩壊状態に陥った。しかし、その際
に南京国民政府の 前総統・蒋介石が崩壊状態にある南京国民政府を指導した為、国民
政府は広州、重慶、成都を経た上で台湾に移転することに成功した。この全てが周恩来
が拉致された事に起因していた。

1017: 名無しさんAA:17/12/16 05:48
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 673----------

 近衛文麿、総理大臣に任命された時 松岡は次々と失敗して日本を苦難に陥れた。そ
れは1940年の出来事に象徴される。ドイツは、オランダ、フランスなど西ヨーロッ
パの各国を屈服させ、パリを占領する。このドイツの快進撃を受けて、日本国内では、
陸軍を中心にアメリカとの戦争を覚悟してでも、再びドイツとの同盟を強化し、立ち消
えになった三国同盟を見直すべきだという機運が高まる。7月17日、近衛文麿が総理
大臣として組閣の命を受けた。近衛は、新内閣の外務大臣として、松岡洋右を抜擢する
。新内閣の外交方針の話し合いの席上、松岡は、「まず、ドイツとイタリアとの関係を
強化すべきだ。アメリカに対しては、無用の衝突を避けるよう努力する。しかしながら
、アメリカが、力をもって干渉してきた場合には、断固これを排除する」と主張した。
さらに、「日本がこれまで敵対してきたソ連をも、三国同盟に組み込みたい。ドイツと
ソ連はすでに不可侵条約を結んでいる。日本が、さらにソ連と協定を結べば、相手が4
国では、アメリカも手出しができないはずだ」これが、松岡の外交方針の思惑だった。
7月22日、近衛内閣が発足。松岡は、次の約束を取り付けた。「外交に関しては、全
て自分に一任してほしい」と。松岡は、外務省の大改革を行う。大使や公使など、40
人を更迭するという空前の人事異動だった。三国同盟の障害となる、外務省の親アメリ
カ、イギリス派を一掃したと報じられた。これが松岡の大きな失敗だった。ただでさえ
正確な情報がない中で、更に情報が偽情報に埋まった形で、まともな情報や助言が切れ
たのである。途切れていた同盟の交渉を再開したいという松岡の呼びかけで、ドイツか
らスターマー特使が来日し9月9日夜、極秘の交渉が行われた。当時、ドイツの外務大
臣だったリッペンドロップも、ソ連を加えた4国同盟の構想を抱いていた。松岡の気が
かりは、目論見どおり、ソ連と協定を結べるかどうかだった。スターマーは、次のよう
に約束した。「ドイツは、三国同盟締結後、日本とソ連とを結ぶ、誠実な仲介者となる
用意がある」と。松岡は、ドイツはやがてイギリスを落とし、ヨーロッパ全体を手に入
れると予想していた。事実ドイツの勢いは相当な物だったが、イギリスは、そうはさせ
なかった。


1018: 名無しさんAA:17/12/16 05:49
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 674----------

モスクワで松岡とスターリンと会うとき、ドイツ軍がソ連に進攻していくとは全く思え
なかった。1940年9月19日、宮中で、三国同盟締結についての御前会議が行われ
たのだが、席上、原枢密院議長は、次のような危ぐを述べた。「この条約の発表によっ
て日本の態度が明白になれば、アメリカは日本に対して経済圧迫を加えて、石油、鉄を
禁輸、長期に渡って日本を疲弊せしめ、戦争に耐えられないように謀るものと思われる
。」と発言した。数多い情報が原の下にあって、それは真子う事ない米国の姿勢だった
。だが松岡は答えた「今やアメリカの対日感情は、極端に悪化していて、わずかの機嫌
取りくらいでは、回復するものではない。−−ただ、我々の毅然とした態度だけが、今
後戦争を避け締めうるであろう。」と言った。松岡の勧めてきた日独伊三国同盟案は、
今後の欧州構図の不明の中で、過去の経過などから、何故かついに了承されたのである
。1940年9月27日、ベルリンのヒトラー総統官邸で、日独伊三国同盟の調印式が
行われドイツからは、リッペンドロップ外務大臣、イタリヤ、チアリ外務大臣、そして
日本の来栖ドイツ大使が次々とサインする。ついに、日独伊三国同盟が締結された。こ
の事は直ちに、東京の外務大臣官邸に伝えられて、松岡は、ドイツ大使やイタリヤ大使、
そして日本政府の要人を招いて、盛大な祝賀会を催した。しかしここで、恐れていた事
はことが起こったのだ。原議長の危ぐのとおり、三国同盟に対し、アメリカが厳しい経済
制裁で日本に答えてきた。ルーズベルト大統領は、鉄鋼やくず鉄など日本にとって欠か
せない原材料の輸出を禁止。日本とアメリカの対立は、決定的なものになった。この結
果打開策に1941年3月26日、松岡はドイツベルリンを訪れる。松岡はヒトラーを
訪問、日本とソ連との仲立ちを、ドイツが努めるという約束の実行を迫った。ところが
ドイツは交渉の仲介を拒絶したのである。この時ヒトラーは、ソ連攻撃を決意し、ひそか
にその準備をすすめていた。松岡にはそれを知る由はなかった。だが基本的には、仏英
両国を敵にして、ドイツの資源や経済はソ連からの物流で成り立っているはずだった。
松岡は何とかしてソ連を味方に引き入れなければならない。と思って帰途についた。4
月7日、松岡はモスクワに乗り込み友好的な条約を結ぶための交渉を始めた。1941
年4月13日、日ソ中立条約が結ばれた。日独伊三国同盟に、ソ連を協力させる松岡の
構想は大きな前進を遂げたかに見えた。その幻想はあえなく敗れた。わずか2ヵ月後に
ドイツは、突如ソ連に進攻し、ソ連を加えた4国で、アメリカに対抗しようとする松岡の
構想はここに崩壊したし、その後の日本の敗戦時の停戦や終戦の要請にも日本の裏切り
として相手されなかったのである。

1019: 名無しさんAA:17/12/16 05:50
 日本が国際社会で信任を失い続ける様に、松岡個人も又当然の如く、政府内で信望を
失っていた。7月16日、近衛内閣では、アメリカに対し強硬姿勢をとりつづける松岡
外務大臣を除くため一端総辞職する事になった。松岡は近衛がアメリカとの交渉継続を
図ろうとする中で方針を全く変えないままでいたのだ。11月26日アメリカは、日本
に対し、「中国からの全面撤退や三国同盟の否認など」の要求が突き付けられた。日米
両国の妥協は絶望的となった。こうして、明けて41年の雪解けとする春に、かねてか
らの軍の要求であった日米開戦の決定をし、秋にはそのまま遂行する事決めたのである
。1941年の12月8日太平洋上の空母からとびたった日本軍攻撃隊はハワイ真珠湾
を急襲し、アメリカとの戦争が始まった。その日開戦を知った松岡は、友人にこう語っ
たという。「三国同盟の締結は、僕一生の不覚だったことを、いまさらながら痛感する。
これを思うと死んでも死にきれない。」と後悔しているが、同じ頃、戦場を南雲中将に
任せて、神戸の軍艦上に商人と話している山本五十六が同じ様に、今後の日本の国体を
危惧して、サッスーン家の執事と会って酒を手に話していた。その後アメリカとの戦争
で初戦は有利だった日本も、やがては各地で敗退を繰り返し日本本土は、激しい空襲に
さらされるようになる。ヨーロッパでも、ドイツ・イタリヤは敗北を続けて1943年
には、まずイタリヤが降伏、1945年5月には、ドイツも降伏した。日本だけが、なぜ
か引きずられて開戦し今だ終戦に至らずただ一国で戦い続ける事になった。3ヶ月後に
ソ連は欧州の全軍の戦車を列車で送り込み8月8日に有効期限のあった日ソ中立条約を
無視して日本に宣戦布告し満州や朝鮮半島に侵入した。これらは国際関係を知る者では
シナリオ通りの凄惨な出来事であった。「日本が海戦で敗れる」事も「原爆が開発され
使用される」事も「ドイツが資源枯渇で敗ける」事も日本の有識者では常識だったので
ある。従って松岡の新聞などの烏合の衆の戯言に踊らせられた外交をし、日米開戦が起
こった時殆どの外事通の者は田舎に疎開した隠居生活に陥ったと言う奇妙な現象が起こ
っていた。後になって、松岡が三国同盟の締結を「一生の不覚」と嘆いたが、その通り
で後の祭である。松岡を中心とした「日本外交の甘さ」や「情報不足」からくる「見通
しの甘さ」を物語る歴史的事実であると言わねばならない。20世紀アメリカの世紀で
あったという。1次、2次世界大戦を通じて一人勝ちし、社会主義の崩壊など世界情勢
は変わったが、アメリカだけは、パンアメリカンを謳い、この世紀全く変っていない。
日本は、戦後、この一人勝ちの国アメリカに盲目的追従し経済発展を遂げた。21世紀
の日本は、このままでいくのか現在の日本外交の現状を見るにつけ、21世紀の日本は
政治も経済ものみならず文化も、世界全体に目を向けて、先を見通した毅然とした外交
を行っていくことも必要だろう。

1020: 名無しさんAA:17/12/16 05:50
 日本の大きな失敗は、近衛文麿が総理大臣に任命された時 次々と失敗しては日本を
苦難に陥れた松岡洋右を抜擢した事だった。松岡洋右の家柄は、吉田茂などの資産家の
末裔ではあったが とても貧乏で努力して彼は留学していた。1880年(明治13年)3月4
日に山口県熊毛郡室積村(のち光市室積)にて、廻船問屋の四男として生まれている。
洋右が11歳の時、父親が事業に失敗し破産した事で、思い余って親戚が既に渡米してい
て成功を収めていた噂などから1893年(明治26年)に留学のため渡米している。アメリ
カでは親類縁故がそう大しては成功したとも言えず、使用人としてのノルマをこなしな
がら学校へ通わなくてはならなかったと言う。黒人奴隷と同じく、たびたび人種差別の
被害にあった。この頃の体験が「アメリカ人に、たとえ脅されたとしても、自分が正し
い場合は道を譲ってはならない。」との信念が出来ていた。周囲の人々からキリスト教
の影響を受け、入信に至り来日経験のあるオレゴン州ポートランドのアメリカ・メソジ
スト監督教会牧師メリマン・ハリスのあたたかい信仰に見守られ、日本自由メソヂスト
教会の指導者となる河辺貞吉から大きな影響を受け、洗礼を受けた。実はこれが間違い
でもあった。既に1800年代から米国始め各国には倶楽部が林立していてキリストの
宗派内での金融調達を行う教徒会が大手を振っていたのだ。そこにには新しいブラザレ
ンムーブメンントが既に起こっていたのである。ティーパーティの原型である。そして
このブラザレン(同胞組合論)の思想と「エクレシア」(教会)のもともとの「呼び集
められた者たちの群れ」をさす「集会」と言う考えに変わっていたのである。内村鑑三
は明治のキリスタン思想家だが、明治11年(1878年)に、アメリカ・メソジスト教会の
M.C.ハリスから洗礼を受ける。洗礼を受けた若いキリスト者達は、日曜日には自分達
で「小さな教会」と言う集会を開き、幼いながらも真摯な気持ちで信仰と取り組んだ。
こうした真面目な宗教はキリスト教徒達のみであり、ユダヤ教徒内ではテンペラ―騎士
団や紅バラ団や双頭の鷲団など十字軍遠征の人集めをやっていた後継のクラブが金融の
投資家としての情報倶楽部を設置していたのだ。これがアメリカ開拓と共に瞬く間に、
フリーメイソンのロッジ経営をして大きな集団化したのである。元々がこの倶楽部の歴
史は幾つも系統があった。組合組織として発展したギルド系先の騎士の編成として奴隷
市場系統或いは税や公国経営の議会としてのフリーダム系統やパルチザン系統共同体と
して貸し借りの講の様な銀行倶楽部系統と、あったのがその頃はアメリカ独立戦争を得
てフリーメイソンの政治化したロッジ経営が盛んになっていたのだ。彼がもし天皇やら
白井の様な藩主だったりどこかの大企業の息子であれば、相当な会費でこの会に入会を
強いられたであろう。又そうした事で吉田茂の様なアメリカの別の友達が作れただろう
が、彼にはその財力も暇も無かったのである。

1021: 名無しさんAA:17/12/16 05:51
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 677----------

 だが、学生時代もしかしたら外国人だったので、そうした勧誘でのいさかいが少しは
あったのかもしれない。だが彼は敬虔な最も金満欲のない政治主張のない霊感や感性に
高いメソジスト教であったのだ。これが政治家として日本には致命傷であった。真に信
に願うばかりでは先に進まなかったのだ。特に醜悪なメイソンリーのユダヤのシオニス
ト達の暴言に近い悪意の中には、彼の行動は目に余る物だったであろう。ここで世に言
う日本語的に「魚心あれば水心」である。彼が正面突破しようとすればする程その壁を
厚くして攻撃が多かったのだ。それが逆に「花に嵐」であって「魚心あれば水心」の逆
作用になったのである。此処に忖度があった。この流れに山本五十六は多分南雲中将に
それとなくハワイ攻撃では空母攻撃に専念して、給油施設には言及していなく、更に又
下の心の通える者に絶対油タンクは攻撃するな、後で接収する為にと命令していたはず
だ。でなければどう考えてもこの燃料を叩かない事は理由がつかず、更に2年目には、
休戦ないし停戦合意をすると言う約束が陸軍もしくは大臣とに約束があったとしか考え
られない。でなければ南方を攻撃するにしてもフランスやイギリスであり米国のもつ、
フィリピン領ではない。確かに戦いの領海争いや植民地としてのフィリピンで戦闘は起
こるだろうだろうが別に宣戦布告をする程でもないのである。又天皇の告示をわざわざ
米国などの海外特派員に示してまで開戦しながら奇襲攻撃と言われている事はそのまま
反論出来る筈だがそれすら戦後でもやっていない。ここに天皇のイルミナティ会員であ
ったのでないかと言う理由がある。1921年(大正10年)3月3日から9月3日までの6ヶ月
間、当時皇太子であった裕仁親王(昭和天皇)によるヨーロッパ各国の歴訪した。日本
の皇太子がヨーロッパを訪問したのは初めてのことで、日本国内でも大きな話題となっ
た。らしい。、アメリカ合衆国の外交官ジョセフ・クラーク・グルーは日米開戦時の、
駐日アメリカ合衆国大使であったが、日米開戦回避に努めた。開戦(1941年12月)後は
日本国内に抑留され、外交官交換により帰国(1942年6月)した。帰国後には国務次官
となり、占領政策立案・終戦交渉に尽力した。終戦と同時に国務次官を辞任し、私人と
して講演活動などを通じ、日米両国の親善に尽した。吉田茂は、グルーは「本当の意味
の知日家で、『真の日本の友』であった。」と高く評価した。他方、グルーの日本理解
には限界があった、あるいは彼は政治的にきわめて保守的であったことを指摘する見方
もある。 グルー家は、植民地時代初期時代に、イギリスからマサチューセッツに移住
したカルヴィン主義ピューリタンで 真の開拓移住者の清教徒であり頑ななアメリカン
スピリッツがあったと思われる。

1022: 名無しさんAA:17/12/16 05:51
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 678----------

 松岡洋右が如何にアメリカへの留学経験があったとしても、満州国での満鉄総裁とし
て弐キ参スケの一人に数えられたとしても力不足であった。日本の国際連盟脱退、日独
伊三国同盟の締結、日ソ中立条約の締結など第二次世界大戦前夜での日本外交の重要な
局面に、代表的な外交官ないしは外務大臣として関与し打開策に奔走して成功したが、
その成功にドイツや軍部が増長し、日本が戦争に走っていったのである。正に木を見て
森を観ずという大局観の無さとアメリカ嫌いが日本を苦難に陥れた。敗戦後に極東国際
軍事裁判の公判中に病死したが。外交官同士のジョセフ・グルーと親交があったのは、
グルーが彼を崇めていたからでもあった。グルーは第一次世界大戦後エドワード・ハウ
ス大佐に同行してアメリカ全権団書記官としてパリ講和会議に同伴出席している。
1924年2 月、国際連盟でのアメリカ合衆国を代表する任務を終えて本国に戻った時に、
グルーは自分が国務次官に任命されたという電報を受け取った。だがこれはロジャーズ
法が成立し、外交職と領事職の間の格差を失くす、外交官制度の改革の試みが始まって
いた事からだった。ロジャーズ未だ日本にも採用されていない外交に、自国の意思を表
明して接受国と交渉に当たる事と、接受国についての情報を収集し自国に報告する機能
と、領事職である自国民・自国企業等の行政事務・手続きをして、相手国のサービスや
ビザの発給・文化交流などに関わる事をの統合し、その評価基準を設けるものだった。
新規採用における競争的試験を実施、能力による昇進、65歳定年の実施などを定めて
ジョン・ジェイコブ・ロジャーズらからの提案だった。かつて地中海はバルバリア諸国
の支配下にあって、ヨーロッパ諸国は手のつけられない存在として恐れられていた。こ
のバルバリア海賊はアメリカ商船などに通行料を取り、又不払いになるとキリスト教徒
達を人質にして身代金を取って代価を得ていた。これに対してトリポリやチュニジアに
宣戦布告して海戦したのがアメリカであったのだ。当時オスマン帝国が勢力を伸ばして
いたが、海戦でもあった為か介入しなかった。アメリカ合衆国の要求を承諾したため、
1805年6月10日、講和条約が締結され、第一次バーバリ戦争は終結した。だがアメリカが
戦争に勝った事は、バーバリ諸国に通行料を上納していたヨーロッパ諸国に大きな衝撃
を与え、その後のアメリカ合衆国の北アフリカ、中東のイスラム諸国に対する外交方針
に大きな影響を与えてた。この時の提督として活躍したのがジョン・ジェイコブ・ロジ
ャーズの家系だった。


1023: 名無しさんAA:17/12/16 05:52
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 679----------

 父のウィリアム・レッドヤード・ロジャース(英語版)(海軍兵学校(アナポリス)
1878年組)も米西戦争で活躍した。母方の曽祖父は黒船来航のマシュー・ペリーであり
、初期の航空パイロットであるカルブレイス・ロジャースはいとこにあたる。ロジャー
スはいわば「サラブレッド」であった。ジョン・ジェイコブ・ロジャーズはそうした、
権威すら持つ家系で一方のジェームス・ド・ロチルド男爵のひい孫でもあった。元々、
ロスチャイルド家はフランス語でロートシルト家であり、フランス屈指の銀行家であっ
た。ナポレオン戦争後、フランスにブルボン家の復古王政が樹立され、追放されていた
貴族たちが続々とフランスに戻ってきたが金融の調達管理が出来なかった。そこに目を
付けたジェームスは彼らの財産管理の相談に乗ることでロチルド銀行を作り顧客にして
いった。 1821年8月21日にはオーストリア帝国から総領事の地位を与えられ、1822年に
はハプスブルク家よりジェームスを含めたロスチャイルド一族全員に男爵位が授与され
た。同年、ロシア皇帝からも聖ウラジーミル勲章を送られ、翌1823年にはフランス政府
からもレジオンドヌール勲章を授与された。1830年の7月革命でブルボン家の復古王政
が倒され、親ブルジョワ的なオルレアン家のルイ・フィリップがフランス国王に即位し
たがこの革命熱はブリュッセルにも波及し混乱を来した。こうしてベルギー独立闘争が
起こり各国が反フランス包囲網を作り、戦争ムードになった。がこの時、ジェームスは
「ロチルド銀行は戦争の為には一銭も出さない」と宣言することで各国を牽制して戦争
を阻止し、もってベルギーの独立を助けた。ジェームス・ド・ロチルド男爵は、ヤーコ
プ・マイアー(Jakob Mayer)と名乗っていて、フランス移住後にジェームス(James)
と改名した。こうしてユダヤ金融の大家となり、フリーメーソンが設けるフランスの、
グランドロッジの監査役でパリ倶楽部の会員となった。1792年にロートシルト家(ロス
チャイルド家)の始祖であるマイアー・アムシェル・ロートシルトの五男(末子)とし
てフランクフルト・アム・マインに誕生。初名はヤーコプだったが、フランス移住後に
ジェームスに改名した。これは英語風の名前にすることでロンドン・ロスチャイルド家
との繋がりを強調し、商売をやりやすくするためだったと見られる。ジェームスは新国
王のルイ・フィリップとも親密な関係を保った。そのためフィリップ王はロチルド銀行
にフランス国債を独占的に任せ、また国王個人の投資事業も委ねた。この頃鉄やガラス
が発見され産業が移って行った。


1024: 名無しさんAA:17/12/16 05:53
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 680----------

ジェームスはルイ・フィリップの治世から鉄道への投資を熱心に行い、1837年にはパリ
〜サンジェルマン間、1839年にはパリ〜ベルサイユ間の鉄道建設に尽力した。1846年に
は北部鉄道を設立している。この頃からジェームスは鉄道王と呼ばれるようになった。
1836年にロンドンの兄ネイサンが死去するとロスチャイルド家全体の家長的存在となっ
た。1848年革命でフランスは共和政となり、11月にはナポレオンの甥にあたるルイ・
ナポレオンが大統領に当選した。51年にクーデタを起こして翌年には、フランス皇帝
ナポレオン3世を名乗った。ナポレオン3世にはジェームスとライバル関係のユダヤ金
融業者アシーユ・フールがスポンサーとして付いていた。その関係からフールには大蔵
大臣になる確約があり任命された。この人事を聞いたジェームスは「ふーん、新しいワ
ーテルローの臭いがするね。」という感想を言った。この頃にユダヤ金融業者ペレール
兄弟がこのフール大臣の肝いりで投資銀行の先駆けとされるクレディ・モビリエ投資銀
行を立ち上ていた。ジョルジュ・オスマンのパリ改造を支援したり、鉄道をはじめとす
る各分野に積極的な融資を行い、商業銀行業務が中心に堅い営業を続けたロチルド銀行
と競合するようにまでなっていた。クレディ・モビリエは無謀で投機的な投資を手当た
り次第に大臣と共に行った。だがやがて長続きせずクレディ投資銀行は、凋落の様相を
呈した。苦境打開のためにフランス国債を独占的に任せてほしいとナポレオン3世と、
フール大臣に要請したが、フールはこれを蹴った。ナポレオン3世に見捨てられたクレ
ディ・モビリエの株価は下がり続け、1867年には倒産した。1860年代後半に、ナポレオ
ン3世がテュイルリー宮殿で催した晩餐会に出席した際に、ワルツ『平和なくして帝国
なし』の曲がしつこく流れた。が、この時ジェームスはこの曲についてナポレオン3世
に「お分かりですか」と念を押したという。しかしナポレオン3世には分かっていなか
った。彼はジェームスの死後の1870年にフランスを破滅的な戦争へ導くことになったの
であった。最晩年の1868年にブドウ園シャトー・ラフィットを購入した。同年76歳で
死去したが。最終的にジェームスの資産は6億フラン以上だったと見られている。彼の
ロチルド銀行は他のフランス主要銀行の資産を全て合計した金額よりさらに1億フラン
も多く持っていた。5人の子供がいたが第1子(長女)シャーロットは英国ロスチャイ
ルド家のナサニエル・ド・ロスチャイルドと結婚した。第2子の長男アルフォンスは、
パリ・ロチルド家第2代目当主として跡を継いだ。次男のギュスターヴ、三男のサロモ
ン、四男のエドモンといたがそれぞれ第一次普仏戦争では兵士として戦っていた。


1025: 名無しさんAA:17/12/16 10:36 ID:Svw
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 681----------

 四男のエドモン・ロスチルドはジャコブ・マイエール・ド・ロチルドとベティ・フォ
ン・ロチルドの末っ子として誕生した。彼はフランス第二共和政とフランス第二帝政の
時代に育ち、第一次普仏戦争では遊撃隊の兵士として戦っていた。1882年夏、パレスチ
ナへ入植したユダヤ人の代表としてヨーロッパに派遣されたヨーゼフ・ファインベルク
及び同行していたロシア人ラビと面会する。1924年新たにパレスチナ委員会を創設して
「パレスチナユダヤ植民教会」と名付けた活動をした。この頃パレスチナのユダヤ人植
民者の数は4500人も満たなかった。彼らは土地を耕し、肉体も精神も健康な新たなユダ
ヤ人を作ろうとした。彼らは最初のユダヤ人民族主義者だった。彼らは「シオンの恋人
」と呼ばれスルタン制度下の移民だった。19世紀末のパレスチナにいたアラブ人の農
民、彼らは最初のユダヤ人植民者がやってきたとき、何も疑わなかった。彼らは数世紀
にわたって、封建制度に従って、スルタン(皇帝)の臣民として暮らしていた。土地は
全て、有力者やスルタン、あるいは豪族のものだった。ベドウィンと農民はそもそも何
も所有していなかった。ただ土地で自立の生計をたて、村は彼らの家であった。ここに
何人かのロシアのロマン主義的なユダヤ人の若者達が、シオニズムを発明したロシア人
ラビとフランス兵がやって来た。彼らはイスラエルに帰還しようと主張していた。戦禍
の中にあって欧州各地に納税出来ない無政府居民に対する弾圧や虐殺が行われていた。
「テオドール・ヘルツル」はそうした事件を追っていた記者だった。ハンガリーのブダ
ペストに生まれて、ウィーンに育った記者であった。フランスで起きたユダヤ人軍人が
スパイとして冤罪事件となったドレフュス事件を扱った後、彼はこのように書いている
。「啓蒙のフランスさえも、ユダヤ人の死を望むならば、私たちは自分たちの土地を持
たねばならない。私たちが主人になれる国家が必要だ。」 彼らは フランスで起きた
冤罪事件をも、イスラエル侵略の口実として用いようとしていた。彼は1987年スイスで
、最初のシオニスト会議の議長を務めた男だ。フランス国内では「反ユダヤ主義」と「
ユダヤ資本主義論」が巻き起こり民間資金は「パナマ運河疑獄」も飲み込んでいたのだ
アルフォンス・ド・ロチルド男爵は、フランスの銀行家、貴族でパリ・ロチルド家の第
2代当主。ジェームス・ド・ロチルドの長男としてバクー油田の権益に関わり1982年に
発行されたイスラエルの旧500シェケル紙幣に肖像が使用されている。

1026: 名無しさんAA:17/12/16 10:37
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 682----------

ナポレオン3世は1853年に勃発していたクリミア戦争に翌年より介入し、かつてモスク
ワ遠征でナポレオン1世を返り討ちにしたロシアに対して勝利を収めた。1856年にはパ
リで講和会議を開催するなど中心的な役割を果たし、帝国内外に彼の威光を知らしめた
。かつてのナポレオンがそうであったようにヨーロッパにおけるナショナリズムの擁護
者であろうとし、1859年のイタリア統一戦争にもサルデーニャ王国を支援して参戦した
。途中でサルデーニャの意向に反しオーストリアと単独講和に至ったのだが、しかし、
その姿勢は変わらなかった。又理念はヨーロッパ外では適用されるものではなく、イン
ドシナ、アフリカにおける植民地の拡張に尽力して、アメリカ大陸においてもメキシコ
出兵を行いナショナリズムの高揚を求めて一気に戦争世界を作りだしていた。こうした
あいつぐ外征は、ナポレオン3世の威光を維持する上で必要不可欠であったが、当然な
がら外征の失敗は彼の威信と国家財政破綻をおとしめることにもつながった。この時に
はまた、日本の戊辰戦争においては、徳川幕府側を支援していた。市民革命を得てコミ
ューンの共和政に移行したのだが1870年に起こったプロイセン(普国)とフランス
(仏国)の戦争では敗れた結果において悲惨な事だった。鉄鉱石と石炭の豊富なアルザ
ス=ロレーヌ鉱山地帯を失い、莫大な賠償金を課せられたフランス経済は大きな困難に
直面してしまったのだ。国内経済の不振で資金は有利な海外投資に向けられ、ロートシ
ルト(ロスチャイルド)などのユダヤ系の金融資本が国民の零細な貯蓄を投資に引き入
れる事しかなく、東ヨーロッパなどへの投資を行っていた資金は底をつく状態に近い。
1882年には金融恐慌が発生して。多くの投資銀行が破産に追いやられた結果、貯蓄をな
くした人々は金融界を牛耳るユダヤ人への憎悪を昂らせ、反ユダヤ主義が高まったので
ある。一方、保守派と軍部はドイツに対する報復と熱狂的な愛国主義を煽り、1880年代
後半には、ドイツへの復讐を叫ぶブーランジェ将軍が右翼・軍部の支持の下に独裁政権
の樹立を図る事件も起こし失敗していた(ブーランジェ事件)こうした政府不信と財政
悪化は数々のユダヤ民圧迫に押し入っていた。この時次男のギュスターヴはアメリカの
未来に託し、三男のサロモンは英国に嫁っていたロスチャイルドに頼ってフランスの中
に貯まっていた金塊資産を密かにを送って動かしていた。それはドイツのユダヤ追放や
排除が既に行われていたからであった。


1027: 名無しさんAA:17/12/16 10:38
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 683----------
 ペリーは1794年、アメリカのロードアイランド州ニューポートに生まれていた。
アメリカの独立宣言(1776年)から18年後である。兄と同じく草創期の海軍に入
ったペリーは1837年、アメリカで初めて造られた蒸気軍艦の艦長に就任し、アフリ
カ艦隊、メキシコ湾艦隊の各司令長官など要職を歴任して世界を回り「蒸気軍艦の父」
と呼ばれた。正式な名はマシュー・カルブレイス・ペリーで、アメリカ海軍私掠船長の
クリストファー・レイモンド・ペリーと、妻セーラの間に3男として生まれた。兄の方
のオリバー・ハザード・ペリーの方が有名で、英雄として知られる。当初、アメリカ大
統領フィルモアは、日本の開国と通商関係を結ぶことを目指した船団には、東インド艦
隊司令官の代将であるジョン・オーリックに任務を与えた。1851年に蒸気フリゲート艦
「サスケハナ」は東インド艦隊の旗艦としてアジアに向けて出発したが、サスケハナの
艦長インマン海軍大佐とトラブルを起こしたことで、広東で病と言う事で解任されて、
代わりにマシュー・ペリーが東インド艦隊の代将に就任した。大西洋を渡って、マデイ
ラ諸島・ケープタウン・モーリシャス・セイロン・シンガポール・マカオ・香港へ航海
し1853年5月4日には上海に到着。サスケハナなど東インド艦隊と合流すると、マカオで
は漢文通訳のウィリアムズを雇って、5月にサスケハナを旗艦として、まずは琉球に向
かった。この時、大統領はすでに民主党のピアースに代わり、ドッピン海軍長官は侵略
目的の武力行使を禁止したが、航海途上のペリーには届いていなかった。北米の大西洋
岸にイギリスが建設した13の植民地が独立した後、アメリカ北部では産業革命が進み
、南部では綿花の栽培が拡大し奴隷取引が横行していた。1828年、初めて西部出身
の大統領としてジャクソン(第7代)が当選しました。ジャクソンは西部でフロンティ
ア(開拓)を推し進め、30年には「インディアン」と呼ばれた アメリカの先住民を
強制移住させる法律を公布して、これまでの協定を破りアメリカはメキシコ領だった、
テキサスの併合に乗り出し、これに反発するメキシコと戦火を交えます。この時には、
ペリーは浦賀にもやってきた「ミシシッピー号」に乗艦して戦功を立てている。その後
アメリカは対メキシコ戦争(1846〜48年)に勝利して、カリフォルニアを獲得す
ると、そこに金鉱が見つかり多数の人々が殺到しました。あの有名な「ゴールドラッシ
ュ」が起こっている。その頃のアメリカは今の中国と同じに「膨張を続け、デモクラシ
ーを広めていくのは、神から与えられた天命で宿命である」と考えていた。そしてここ
に選ばれし我々は、「この選民思想による使命感は、やがて西部全域でインディアンが
抵抗できなくなるまで虐殺し、さらに太平洋上の島に及び、アジアにも広がるべきだ。
」とした思想が蔓延していたのです。

1028: 名無しさんAA:17/12/16 10:39
 1868年8月8日、ロスチャイルド財閥創始者マイヤー・アムシェルの5男でパリ在住の
銀行家ジャコブ・マイエール・ド・ロチルドは、ヴィンテーンベルグ家から競売に出さ
れていたシャトー・ラフィットとシャトー・カリュアド(後にラフィットと統合される
)を444万フランの大金で競り落とし、新たな所有者となっていた。一方米国では、
無法地帯だった西部の開拓民は、余りにも戦争が続いていた事で、不埒者が多く自分の
身は自分で守るための自警団を組織し、武器が普及してしまってした。武器所有の権利
を保障するアメリカ憲法修正第2条は、銃火器の回収をこの新しい連邦政府が事実上は
放棄したことを意味した。ここには、今も悲劇を生む、銃社会・アメリカの源流がある
思想が垣間見える。さて、ペリーに話を戻しますと、ペリーの日本遠征は、こうした、
アメリカの「西へ、西へ」の版図拡大戦略の流れの中にありました。特に当時は、カリ
フォルニア併合により、対中貿易拡大を目指す太平洋航路の起点として、サンフランシ
スコが大いに注目されてた。こうした航海や防衛を可能にしたのが「腐れない水」とし
て重宝されたのがワインであった。新地に井戸がある訳でもなく又長い航海にも、人に
水は欠かせない物だった。食糧は海では魚が取れ、空の鳥も陸上の牛も干し肉とすれば
永い間保存できたが、水は違っていた。なお、シャトー・ムートン・ロートシルトはロ
スチャイルド家の別の系統の一族が所有している。ヤーコプ・ヒルシュ・シフ。別名、
ヘンリー・シェフは高橋是清の求めに応じて日露戦争の際には日本の戦時国債を購入し
た。勲一等旭日大綬章を明治天皇より贈られる。初代マイアー・アムシェル・ロスチャ
イルド時代に「グリューネシルト(緑の盾)」と呼ばれる建物にロスチャイルド家と共
に住んでいた。フランクフルトの古いユダヤ教徒の家庭に生まれる。代々ラビの家系で
、父は銀行員だったが。元々はそこは、1370年からのフランクフルトのゲットー(
強制収容施設)であった。1865年に渡米したが、ニューヨークに着いた時はほとんど無
一文だった。はじめ銀行には出納係に就いたが28歳の時、クーン・ローブ商会に就職
して1885年、ソロモン・ローブの娘・テレサと結婚している。ロシアでポグロムに苦し
むユダヤ人の多くを解放するために尽力した。ロスチャイルド家は英語読みでドイツ語
読みは「ロートシルト」フランス語読みは「ロチルド」だがその家系は宮廷金融家であ
り、宮廷ユダヤ人と呼ばれていた。ヨーロッパの財閥、貴族。門閥として名高く。ロマ
ノフ家とは三度にわたる結婚を介して家族関係にある。また、ベアリング家もギネス家
を介してやはり家族関係である。モルガン家やゴールドシュミット・ファミリーとも、
親密であり、1001クラブ等の広範なビジネスコネクションをもつ。内側から外資を誘導
し、地中海クラブでクレディト・アンシュタルト(オーストリア国立銀行)が世界恐慌
で破綻したときに独墺関税同盟を破棄させた。

1029: 名無しさんAA:17/12/16 10:39
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 685----------

 タイタニックは20世紀に建造された豪華客船。処女航海中1912年4月14日深
夜、北大西洋上で氷山に接触し、翌日未明にかけて沈没した。船が沈没し始めた時に、
スミス船長は、「女性と子供を優先して救命ボートに乗せよ」という指示を出した。ア
メリカの実業家で億万長者のジョン・ジェイコブ・アスター4世は、妊娠5カ月の妻を
4番目の救命ボートで送り出した後、ペットの犬を連れて甲板に立ち、葉巻に火をつけ
た。乗員がボートに乗るよう促したが、彼は「私は最初の呼びかけの、弱者を優先に保
護する言葉に従います。」と頑なに拒み続け、救命ボートの席をアイルランド人の女性
に譲った。数日後、彼の遺体が収容された。当時の彼の資産はタイタニックを10数隻
も建造できるほど莫大なものだった。初代ジョン・ジェイコブ・アスターが生まれた時
はヨハン・ヤーコプ・アストルと呼ばれていた。彼はアスター一族の初代となる著名な
一員であり、アメリカ合衆国では最初の百万長者になった草創期の資産家だ。アメリカ
では初めてトラストを創設し、毛皮貿易、不動産およびアヘンなどからその資産を築い
た。アスターはドイツの貧しい家の出であり、ロンドンに、続いてアメリカ独立戦争後
のアメリカに移民した。五大湖やカナダに跨る毛皮貿易帝国を作り上げ、後にはアメリ
カ合衆国西部や太平洋岸まで拡大した。1800年代初期、ニューヨーク「ウォルドルフ」
とは、アメリカ最初の億万長者であるアスター家初代当主のジョン・ジェイコブ・アス
ターの出身地、ドイツのヴァルドルフに由来する。このタイタニックで死んだアスター
家の4代目ウィリアム・ウォルドルフ・アスターは、1893年13階建ての「ウォルドルフ
・ホテル」を建設した。その隣に従兄弟のジョン・ジェイコブ・アスター4世が1897年
に建てた17階建ての「アストリア・ホテル」がその起源としてロスチャイルド家とも
近かった。ジェイコブは、ヘブライ語起源のヤコブに由来する英語の姓である。この初
代アスターが死んだのは、1848年、南北戦争の前だった。その当時、アメリカ最大の資
産家が、このアスターであった。銀行業が盛んになると、ニューヨークは急成長した。
相当の土地を持つアスターは、この時ニューヨークの王様となった。ちなみに、ウォー
ル街の「ウォール」とは、インディアンの襲来から身を守るために築いた“砦”に由来
する。その後、三代目、四代目になると資産は膨れ上がった。ニューヨーク一のホテル
ウォルドーフ・アストリア・ホテルを建設した。死んだ四代目の資産は、今から八十年
前で、一億ドルに達していた。楽に、一般市民の“十万年分”の生活費となる。
 

1030: 名無しさんAA:17/12/16 10:40
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 686----------

アスター家が毛皮で成功したのは、毛皮だけでなく、アメリカ・ロスチャイルド家二代
目ウォルター・ネイサン・ロスチャイルドと、銀行家ワーバーグ、そしてルーズヴェル
ト大統領が一族であったからである。ネイサンは初代ロスチャイルド男爵ナサニエル・
ロスチャイルドとその夫人エンマ・ルイーザ・フォン・ロートシルトの間の長男として
ロンドンに生まれている。弟にチャールズ・ロスチャイルドがいる。赤のロスチャイル
ドは1905年に死去しパリ・ロチルド家の家督は 長男エドゥアールが相続したが。緑の
ロスチャイルドは既にアメリカに渡り資産を積み上げていた。かつてのポーランドにお
いてハザール帝国の移民が多く物語を持っていた。古来からロシア人は戦闘的、革命的
な要素をもたない民族であった為初代ロマネフ王朝のロシア皇帝はタッチしなかった。
一方、ユダヤ教徒ハザール人にとってロシアは敵国であり、ロシア文化は敵国の文化で
あった。したがって、彼らはロシア国家に対しては常に戦闘的、革命的であった。ユダ
ヤ教徒ハザール人たちは、古い過去の歴史をすぐに引き合いに出す。現在の歴史と古い
歴史を同じように並べたて、3500年前の「出エジプト」(エジプトで奴隷となって
いた古代ユダヤ人がモーセに率いられてエジプトから脱出した)の事跡などを持ち出し
て権利を主張していた。ユダヤ人は過去の怨恨の中に生きているといってもよいだろう
。だからこそ、ユダヤ教徒ハザール人は、かつてロシア人がハザール王国を崩壊させた
ことをよく覚えて、伝えている。そのためユダヤ人の中には、常にロシアに対する復讐
の思いがある。ロシアで革命を起こし、国家を転覆させることは、ユダヤ教徒ハザール
人にとって最も重要な目的であった。当時のロシアの知識人の中には、すでにそうした
ユダヤ教徒ハザール人の動きをキャッチしていた人々がいた。たとえばロシアの作家、
ドストエフスキーの著作は、彼は繰り返し「ユダヤ人は革命を起こすだろう、ユダヤ人
はロシアの中に入った毒であり、悪魔だ」と強調している。ドストエフスキーは「必ず
ユダヤ革命が起きる」と断言していた。しかしロシア政府は、そうした動きをまったく
感知していなかった。そして、ほとんどのロシアの知識人たちは、ユダヤ人と戦わずに
ユダヤ人と一緒になって革命を準備したのだった。日露戦争はユダヤ人の画策により、
隣同士の2つの国が衝突することになった戦争である。当時、イギリスがフランスから
や資産を持ち込む為に、仏国の目を盗む為ドイツに対抗して英国ユダヤ人が挑発的な行
動に出て、日本もロシアも知らないうちに戦争に巻き込まれていった、と言える

1031: 名無しさんAA:17/12/16 10:41
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 689----------

 日露戦争当時、ユダヤ人たちは「ロシア政府の敗北」というスローガンを掲げて革命
運動を展開した。このスローガンは明石機関も関わっていた。ユダヤ人の革命家たちは
、ロシア政府の敗北を望む日本やアメリカから革命資金を導入することを容易にもした
のであるが、日本の資金力はそれほど大きなものではなかったため、主にアメリカ資本
が投入された。アメリカの大資本家であり、アシュケナジー・ユダヤ人であるヤコブ・
シフが、ロシアのアシュケナジー・ユダヤ人の革命家たちに多額の援助を与えたことは
良く知られている。こうして第一次ロシア革命の嵐がロシア全土を襲い、1906年5
月、ロシア政府はストルイピンを首相とする新政府を構成していた。だがこのストルイ
ピン首相も、民族主義者であり国家主義者であった為、強固な反ユダヤ的な政策をとっ
ていた。今までの革命運動を鎮圧してレーニンもジュネーブに亡命する程だった。スト
ルイピンは「強いロシアをつくろう」というスローガンを掲げて、今日風ののロシアの
「改革」とはまったく異なる、ロシア人によるロシア人のための政治・経済改革を進め
ていった。ロシア人によるロシア人のための政治・経済改革を進めたストルイピン首相
だったが所詮ロシア人は都市部の僅か1割の国民に過ぎず他は多民族の労働者であった
。しかし残念なことに、1911年9月、ストルイピン首相は暗殺されてしまった。ス
トルイピンがキエフに行った際に、ニコライ2世とともに劇場でオペラを見ていた時の
事である。彼の席の近くにボグロフというユダヤ人がいた。彼は反体制派、社会革命党
の党員で政府の警察のエージェントでもあった。彼はストルイピンの席近くへやって来
るや、ニコライ2世の面前で、ピストルを2発、ストルイピンめがけて撃ったのである
。元々19世紀の終わりからロシアは「内憂外患」にさらされ続けていた。国家内部で
は革命運動という名の内乱、外的には日本とドイツとの戦争です。この絶え間ない波状
攻撃その疲弊によってロシア国家は転覆させられていきます。だがその裏にあったのは
他ならぬ「鉄の革命時代のユダヤ金融」であった。アゼルバイジャン共和国の首都の、
カスピ海西岸に突き出したアブシェロン半島南岸にバクー油田はある。このカスピ海周
辺の大量の石油が埋蔵されている事は古くから知られていて、ノアの箱舟でのアスファ
ルトもここの油の乾燥した塊ではないか。とさえ言われているはやくも9世紀頃の書物
には浮かぶ油を壺にいれ灯されたりして、10世紀には小さな油井が掘られていた。


1032: 名無しさんAA:17/12/16 10:42
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 690----------

実1873年には、当時知られていた中では世界最大の油脈であると王立研究所は公表し、
この地方での近代的な油田の開発が始まりは1878年にはアルフレッド・ノーベルが投資
し二人の兄と共にノーベル兄弟石油会社を設立したが、そのノーベルのほかにも、のち
にカルースト・グルベンキアンを生むグルベンキアン家もバクー石油の有力な企業家だ
った。1900年にはバクーには油井が3000本掘られ、そのうち2000本が産業レベルで石油
を生産していて活況だったのだ。バクーは黒い金の首都と呼ばれ、世界で最も豊かな土
地に生まれ変わったのである。そこにいたのがパシチューンユダヤであった。スファラ
ディ系ユダヤ人は(スペイン行人)と対してアシュケナジー・ユダヤ人(オリエント行
人)の差はそのままキリストの原理主義教団とイスラムの原理主義教団の違いがあった
。元々ペルシャ帝国やオスマン帝国などイスラムのスルタンの下でユダヤ教徒ハザール
人は住んでいたのだ。石炭から石油に変わって行く中で欧州白人系はこの文盲率の高い
中で「旧約聖書」しか信じない人達に目を付け「ユダヤ教徒」との名称を付けた。こう
して「旧約聖書」は、「ユダ人の書」と言う「不信心の中途半端な民の書」から一躍、
「ユダヤ人の聖書」に格上げされた。これは印刷技術に依る物だった。ここでポグロム
(погром パグローム)とは、ロシア語で「破滅・破壊」を意味する言葉である
事を知らねばならない。特定の意味が派生する場合には、加害者の如何を問わず、ユダ
ヤ人に対し行なわれる集団的迫害行為(殺戮・略奪・破壊・差別)を言う言葉に変わっ
たのだ。チェコ語には同系のポフロマという言葉があり、不時の災難を意味する。歴史
的にこの語には、ユダヤ人に対して、自発的計画的に広範囲に渡って行われる暴力行為
と、同様な出来事について使われている。ポグロムは標的とされた人々に対する物理的
な暴力と殺戮を伴っている。13世紀のカリシュの法令によって権利および安全をシュ
ラフタ(ポーランド貴族)および ポーランド王の庇護のもとに保障されたことから、
ユダヤ人はポーランドに集まり生活していた。1543年にプロテスタント運動の創始者の
一人であるマルチン・ルターが示した著書では「ユダヤ人と彼らの嘘について」におい
てはユダヤ人への激しい迫害及び暴力を理論化し熱心に提唱している。魔女裁判の時代
である。17世紀に入ると、ウクライナ・コサックの「フメリニツキーの乱」で起こっ
たポグロムはその犠牲者の数で最悪のものとなった。無政府主義者の群れは無法地帯化
を産みこの鎮圧が見せしめに変わったからだ。


1033: 名無しさんAA:17/12/16 10:45
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 690----------

実1873年には、当時知られていた中では世界最大の油脈であると王立研究所は公表し、
この地方での近代的な油田の開発が始まりは1878年にはアルフレッド・ノーベルが投資
し二人の兄と共にノーベル兄弟石油会社を設立したが、そのノーベルのほかにも、のち
にカルースト・グルベンキアンを生むグルベンキアン家もバクー石油の有力な企業家だ
った。1900年にはバクーには油井が3000本掘られ、そのうち2000本が産業レベルで石油
を生産していて活況だったのだ。バクーは黒い金の首都と呼ばれ、世界で最も豊かな土
地に生まれ変わったのである。そこにいたのがパシチューンユダヤであった。スファラ
ディ系ユダヤ人は(スペイン行人)と対してアシュケナジー・ユダヤ人(オリエント行
人)の差はそのままキリストの原理主義教団とイスラムの原理主義教団の違いがあった
。元々ペルシャ帝国やオスマン帝国などイスラムのスルタンの下でユダヤ教徒ハザール
人は住んでいたのだ。石炭から石油に変わって行く中で欧州白人系はこの文盲率の高い
中で「旧約聖書」しか信じない人達に目を付け「ユダヤ教徒」との名称を付けた。こう
して「旧約聖書」は、「ユダ人の書」と言う「不信心の中途半端な民の書」から一躍、
「ユダヤ人の聖書」に格上げされた。これは印刷技術に依る物だった。ここでポグロム
(погром パグローム)とは、ロシア語で「破滅・破壊」を意味する言葉である
事を知らねばならない。特定の意味が派生する場合には、加害者の如何を問わず、ユダ
ヤ人に対し行なわれる集団的迫害行為(殺戮・略奪・破壊・差別)を言う言葉に変わっ
たのだ。チェコ語には同系のポフロマという言葉があり、不時の災難を意味する。歴史
的にこの語には、ユダヤ人に対して、自発的計画的に広範囲に渡って行われる暴力行為
と、同様な出来事について使われている。ポグロムは標的とされた人々に対する物理的
な暴力と殺戮を伴っている。13世紀のカリシュの法令によって権利および安全をシュ
ラフタ(ポーランド貴族)および ポーランド王の庇護のもとに保障されたことから、
ユダヤ人はポーランドに集まり生活していた。1543年にプロテスタント運動の創始者の
一人であるマルチン・ルターが示した著書では「ユダヤ人と彼らの嘘について」におい
てはユダヤ人への激しい迫害及び暴力を理論化し熱心に提唱している。魔女裁判の時代
である。17世紀に入ると、ウクライナ・コサックの「フメリニツキーの乱」で起こっ
たポグロムはその犠牲者の数で最悪のものとなった。無政府主義者の群れは無法地帯化
を産みこの鎮圧が見せしめに変わったからだ。


1034: 名無しさんAA:17/12/18 17:40
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 691----------

1648年、まだウクライナがポーランド領であった頃、ウクライナ・コサックによる
ユダヤ人虐殺事件が発生した。いわゆる「フメリニツキーの乱」である。ボグダン・フ
メリニツキーのもとに集まったウクライナ・コサックは、ウクライナとポーランドの行
く先々でユダヤ人を襲い、金品を略奪したあげく虐殺した。約50万ものユダヤ人が殺
された。ボグダン・フメリニツキーは、ロシア史においては、コサック農民にとっての
反乱指導者として、ウクライナをポーランドから解放し、ロシア支配に至らせたとして
高く評価されている。しかしその反乱において、ユダヤ人を虐殺し、ユダヤ人共同体を
破壊したために、ユダヤ年代記では「邪悪なフメル」と記されている。虐殺は、ガリチ
ア地方(西ウクライナ)を中心として、ベロルシア、さらにウクライナ南東部にも及ん
だ。この虐殺と破壊によって、ユダヤ人共同体は、崩壊的危機に立たされた。ロマ人や
ユダヤ人ボヘミアンと言った施政から離れた農奴以下の者は落穂拾いで解るように勝手
に人の物を施しを受けていい様になっていた。それは日本のお寺の坊主の様な存在だっ
た。違うのは彼らは乞食であって修行僧の様なルンペンでは無かった事だ。こうして、
1795年に起こった戦争処理の第三次ポーランド分割によりポーランド・リトアニア
共和国が完全に消滅した。その東部の旧リトアニア公国領がロシアに併合された事で、
もはや消滅したポーランド国家による庇護を受けることができなくなったユダヤ人達は
ポーランド人やリトアニア人としてハプスブルク家に庇護を求めた。しかし、ウクライ
ナ人・ベラルーシ人にはこの行為は裏切り行為と受け取られた。元々ポーランド継承戦
争と言われポーランドでヤゲウォ王朝が断絶し1572年から選挙王制となっていた。
1700年に始まった北方戦争はロシアとスウェーデンの王権対立であったが、ポーラ
ンドもロシアと結んで戦った事でロシアが敗北するとスウェーデン軍がポーランドに侵
入して、親ロシアのポーランド国王は追放されたのである。親スウェーデンの国王即位
以後、国内では議会で自由拒否権を行使した権力争いが起こり、次の国王の選出に周辺
の国のロシア、プロイセン、オーストリア、フランスなの介入が起こっていた。実はこ
の頃のポーランドは東欧一の農工業地帯で食糧生産地として各国の供給母体の地であっ
た。この国家の統一の維持が次第に困難となっていった中で、終止符を打ったのがこの
ハクスブルク家の大きな王権だった。ポーランド王国政府自体が当事者能力を失った中
周辺の絶対王政に分割統治する事で食糧調達利権を分けたのだ。だが此処に来て産業革
命は強化した諸国の餌食とされてしまった。


1035: 名無しさんAA:17/12/18 17:56
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 692----------

1819年、ドイツのヴュルツブルクでポグロムが発生すると瞬く間にドイツ圏の全域に、
大規模な反ユダヤ暴動が広まった。「ヘプヘプ・ポグロム」と言われる。1821年「オデ
ッサ・ポグロム」と言われものも起こった。理由は簡単だった。1795年に残された
国土はロシア、プロイセン、オーストリア三国が分割しポーランドは消滅したからだ。
フランスが持つ住民意志の「自由・平等・博愛」に諸侯は徹底的対策が迫られた。1819
年のイングランド・マンチェスターのセント・ピーターズ・フィールドで発生した民衆
弾圧事件も同じだった。選挙法改正を求めて集会を開いていた群衆に騎兵隊が突入して
鎮圧を図り、多数の死傷者が出る惨事となった。ピータールー虐殺事件、マンチェスタ
ー虐殺事件とも言われる。ナポレオン戦争が終結したことでイングランドでは記録的な
高失業と、食糧不足による飢餓の時代を迎えた。穀物法の高税制定が、米国穀物輸入を
止めた。この「虐殺」は4年前に起きた仏国ワーテルローの戦いと皮肉な対比を成すも
のとして「ピータールー」と名付けられる事になる。民衆蜂起のイングランド内戦の途
中の事だった、清教徒革命におけるイングランド騎士党(国王派)と円頂党(議会派)
の間で行われた軍事衝突での内乱は海外からの安い穀物に頼っていた。これに疲弊経済

1036: 名無しさんAA:17/12/18 17:57
のとして「ピータールー」と名付けられる事になる。民衆蜂起のイングランド内戦の途
中の事だった、清教徒革命におけるイングランド騎士党(国王派)と円頂党(議会派)
の間で行われた軍事衝突での内乱は海外からの安い穀物に頼っていた。これに疲弊経済
に議会は高関税をかけて財政を補い、治安維持目的に次々に弾圧立法を制定したのであ
る。改革封じ込めが原因で、各国で米国の安い穀物が売れていた。だがフランスで戦争
が維持され国を超えアメリカとフランスの穀物取引をイギリス商社が担う事になった。
。自由の女神像はフランス系フリーメイソンリーとアメリカ系フリーメイソンリーの間
に交わされた贈り物であった。その為に台座の記念盤には以下の文言が刻まれている。
(この地にて 1884年8月5日、「世界を照らす自由の女神」の像の台座の礎石は、ニュ
ーヨーク州メイソン団のグランド・マスター、ウィリアム・A・ブロディーによる式典
とともに設置された。グランド・ロッジの構成員ら、合衆国およびフランスの政府の代
表ら、陸軍および海軍の将校ら、諸外国の使節団の構成員ら、ならびに名高い市民らが
参列した。この銘盤は かの歴史的事件の第100周年を記念してニューヨークのメイ
ソン団により捧げられる。)英国政府は破綻し1783年にアメリカ独立戦争を終結さた。
そしてアメリカの植民地をアメリカ政府に売るパリ条約を、フランスの仲介で発効させ
た。1881年ロシア皇帝暗殺からポグロムが続発した理由はそこにある。ロシアユダヤ社
会が現実には東欧だが、食糧も仕事も無く浮浪者となったからだ。ユダヤ人の大移住が
始まり19世紀の終わり、ほぼ全てが定住し住んでいた5百万人強のハザール・ユダヤ
人達が追われ1881年から1910年までに300万人近くのユダヤ人が欧州へと移
住したのである。つまり約2百万人が米国へ、特にニューヨークへと移住した。だがA
言われなき迫害に革命への積極的参加をロシアに残ったユダヤ人は行う、とりわけ貧乏
で金の無い青年は、迫害を受けるユダヤ人が自由と権利を得るためと革命運動に参加。
トロツキー、カーメネフ、ジノヴィエフ、ラデック、さらにメンシェヴィキのマルトフ
など、革命指導者のほとんどは、ユダヤ人で革命参加者の中にも多数のユダヤ青年が存
在している。



1037: 名無しさんAA:17/12/18 17:59
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 693----------

 こうして考えられたのがB当時オスマン・トルコ帝国下にあったパレスチナにユダヤ
人の国家の建設である。国家樹立こそ迫害の唯一の解決と考え、シオニズム運動を展開
した。米国独立戦争は英国の権利は制限されたが、英国の世界戦略に影響を及ぼす事も
無く、勢力は維持され逆に仏国は、北米植民地戦争の借りを返すことに成功したが、国
家財政は破綻し困窮を極めた。一方米国大陸では、独立戦争で自信を深め、仏国革命の
連鎖により、民主主義自由主義をかざして世界支配を目論み、民衆も同じ様に民主主義
自由主義をかざして中米、南米でも独立の機運が高まっていた。19世紀後半になると
そこにシオニズム運動が開始され国家樹立する機運が産まれていた、旧リトアニア公国
の領域(ベラルーシ・ウクライナ・モルドヴァ)では、ウクライナ人・ベラルーシ人農
民は貧困に仰えぎ、コサックなどの一揆はそのままひろがった。この際にもユダヤ人が
襲撃の巻き添えとなった。1881年にアレクサンドル2世が暗殺されると、こうしてロシ
アで反ユダヤ主義のポグロムが起こりロシア帝国をはじめとして、各国でのユダヤ人に
対したポグロムが広がり盛んに行われたが。バクー近郊の機械掘削の油井は、アメリカ
油田の発達と共に歴史が出来上がる。1848年ごろにアメリカ合衆国のカリフォルニアで

1038: 名無しさんAA:17/12/18 17:59
襲撃の巻き添えとなった。1881年にアレクサンドル2世が暗殺されると、こうしてロシ
アで反ユダヤ主義のポグロムが起こりロシア帝国をはじめとして、各国でのユダヤ人に
対したポグロムが広がり盛んに行われたが。バクー近郊の機械掘削の油井は、アメリカ
油田の発達と共に歴史が出来上がる。1848年ごろにアメリカ合衆国のカリフォルニアで
起きたゴールドラッシュは世界の銀行を変えて、一連のゴールドラッシュは世界のマネ
ーサプライ(紙幣発行流通額)を急増させた。フランス銀行の発券高は1850年の4億5千
万フランから1870年に15億5千万フランとなった。プロイセン銀行の方は1850年に 1837
万ターラーだったのが1870年には1億6326ターラーに達した。金 準備の増加は中央銀行
の再割引も促進した。イングランド銀行の場合、1847年10月の830万ポンドが 1852年の
第3・4半期僅か半年で平均で2180万ポンドに増えた。フランス銀行の場合は増加率が
5倍近く、1847年の1億2260万フランから1852年の5億8480万フランにまで膨れたのだ。
これがフランスの疲弊や自由運動を助けたのだ。アメリカ開拓使で全く出てこないのが
ソ連だった。ロシア皇帝はこのバルカンの民衆や朝鮮半島の民衆を引き受けて動ごけな
い状態に陥った上に、ロシア特有の意識から北米開発はカムチャッカ半島やアラスカの
地から始まってしまったのだ。その為に、シベリアで失敗し北海道で失敗しカナダでも
失敗した。それらの失敗は全て人の居ない土地での人殺しと言う何とも占領するに理由
の無い行為だった。当初は毛皮や木材や海産物などで商売になったが、威圧の為の虐殺
や戦争は占領を無意味な物にした。そこにシベリア横断鉄道の負担があった。その負担
を支えたのがユダヤからの接収した油田でありユダヤ民の金融資本でありユダヤの労力
だった。ここでポグロムが労働収容所に連行する事に変わった。元々捕虜がなかった訳
ではない。だが鉄道が通り列車の運行が出来ると人々は 過酷な生活から逃げて行く事
が可能になった。それが1890年代から起こったのだ。



1039: 名無しさんAA:17/12/18 18:00
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 694----------

タイタニックは、イギリスのホワイト・スター・ライン社が北大西洋航路用に計画した
ものだ。当時のホワイト・スター・ラインは当時白熱していた北大西洋航路における中
の「ブルーリボン賞」と呼ばれるスピード競争にはあまり関心を示さず、上質でゆった
りと快適な船旅を売り物としていた会社でその評価を上げていた。従って、タイタニッ
ク号もスピードより設備の豪華さに重点を置いて設計する様に要請されていた。また、
当時としては最高の安全対策にも力が入れられており、防水区画が設けられての設計が
なされていた。それは価格にもあった特等室や1等船室では他にない価格だった。だが
大型船舶を作るに当たって、この造船を頼んだのは、沈没時に運命を共にしたことで、
有名になったトーマス・アンドリューズでお高く止まった設計にホワイト・スター・ラ
インとは折り合いの悪かったのだった。室内装飾は贅沢な造りであったが、船体下層の
客室にはレシプロ蒸気機関の振動が響くなど、全く快適とは言いがたい環境であった。
この船は、計画された3隻のオリンピック級客船の2番船であった。姉妹船にオリンピ
ックや、後に病院船として運航されたブリタニックがある。主任設計技師はアレクサン
ダー・カーライルだったが、当時としてはそう新しい設計思想は持ってなかった。知っ
ての通り、処女航海中の1912年4月14日深夜、北大西洋上で氷山に接触して、翌
日未明にかけて沈没した。犠牲者数は乗員乗客合わせて1,513人( 他に1,490人、1,517
人、1,523人 1609人 など様々な説がある)であり、当時では世界最悪の海難事故であ
った。タイタニック号の船長であったエドワード・ジョン・スミスは、この航海を最後
に引退しようと考えている程のベテランで、スミス船長の船にしか乗らないと言う人々
がいたほど、彼は経験豊かで高い名声を誇っていました。1881年にアレクサンドル二世
暗殺されて以降にはロシア国内が白衛隊が奮戦するも、ポグロムが続出し赤兵の暴動事
件は収まらなかった。そして革命時の政権のストルイピン首相は1911年9月暗殺さ
れてしまったのだ。、ロシア人によるロシア人のための改革も終わってしまった。」(
イワノフ氏)ストルイピンが暗殺されるとユダヤ人たちはもう一つの革命の準備に入っ
た。1917年11月6日の「10月革命」である。この10月革命はユダヤ人による
革命であった。これは疑いの余地がない。いうまでもなく、革命を指導した者のほとん
どがユダヤ人だからである。10月革命の前に、トロツキーをリーダーとする70人の
ユダヤ人グループが、ニューヨークからやって来ていた。アメリカのユダヤ人資本家ヤ
コブ・シフは、このトロツキーのグループを支援していたのだった。

1040: 名無しさんAA:17/12/18 18:00
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 695----------

 1879年の、ベルリン会談終了直後、ビスマルクはオーストリア=ハンガリー二重帝国
外相アンドラッシーとの間で対ロシア同盟交渉が行なわれたが、此処にユダヤ資本の立
ち入る隙はなかった。内容は、同盟国中の一国がロシアに攻撃された場合、他の同盟国
は援助のため参戦し、個別講和は行なわない。ロシア以外の第三国に同盟国が攻撃され
た場合、少なくとも好意的中立を守る。しかし、ロシアがその第三国に加担した場合、
同盟国は共に戦う。以上がその内容で軍事中立同盟の申し合わせだった。 ビスマルク
は、普仏戦争でプロイセンが勝てたのはロシアの好意的中立あってのことを知っていた
、それにもかかわらずビスマルクがイニシアチブを取ったベルリン会議では、戦勝国で
あるロシアの権益を大幅に削ることになった条項は、ロシアに対する裏切りであり、こ
れを不満に思ったロシアがフランスと結び、ドイツに軍事的圧力をかける可能性を危惧
していた。そこで、先手をうってオーストリア=ハンガリー二重帝国と同盟を結んで、
自国をロシアの脅威から守るよう、画策していただった。当然ながらその自衛はオース
トリア=ハンガリー二重帝国が今や落ち目のオスマン・トルコ帝国から、さらにもっと
バルカン半島の権益を奪おうとしていて、その際にビスマルクに便宜を図ってもらおう
という腹で、アンドラッシー自身も同盟には乗り気でした。ところがロシアの方では、
この頃本格化してきた革命運動の萌芽、「ヴナロード運動」と言う民主主権に手を焼い
ており、革命の本家本元であるフランスに対して不信感をつのらせていた。さらに外交
上の孤立は、戦術上の勝利をも無効にしてしまうことを、今度のベルリン会議でいやと
いうほど味会っていて、むしろドイツより他のヨーロッパにおける同盟国を探っていた
のであった。この時期ロシア外交を握っていたのは外務官僚のニコライ・デ・ギールス
、その名の通りドイツ系プロテスタントのロシア人で、ドイツに対し極めて好意を持つ
人物だった。そこでギールスの意向もあって1880年、ロシアからドイツに対してこの同
盟締結の提案があり、同盟国が増えるのはビスマルクにとっては喜ばしいことですから
、先に結んでいた三帝同盟の更新といった意味で、ロシアの同盟参加も極めて乗り気で
あったのだ。



1041: 名無しさんAA:17/12/18 18:00
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 696----------

 ところがこれに関してオーストリア=ハンガリー二重帝国が猛反対であった。理由は
、イギリスでは親トルコ・親オーストリア的な保守党党首ディズレリが内閣を組織して
いる限りイギリスの庇護の下オーストリア=ハンガリー二重帝国と友好関係にあるわけ
で、これ以上ロシアを加えなくてもオーストリア=ハンガリー二重帝国は十分安全であ
る、という事があった。又同じくバルカン半島の権益に関心を持つロシアが同盟に加わ
ってしまうと、バルカン半島での進出がやりにくくなるということと、投資の石油資本
が出来つつある中で、既にユダヤ金融資本がローマクラブやロンドンクラブやパリクラ
ブで国家経営資本として活躍していた事が理由であった。ところが1880年四月、総選挙
では、ディズレリ率いる保守党が簡単に破れ、かわって組閣したのは自由党でトルコ寄
りの第二次グラッドストン内閣だった。グラッドストンは典型的な自由主義・合理主義
・経験主義の家風だった。宗教にこだわりと厳格を求めていた。「諸君が地図の上に指
を置いて、ここでオーストリアがよいことをしたといえるような地点は、地図上に一点
もない。またオーストリアがよいことをしたという実例は一つもない」と総選挙中の演
説で訴えた人ですから、さすがのオーストリア=ハンガリー二重帝国もドイツとロシア
と連合を組む決心を固めたのです。つまりこうして、オーストリア・ドイツ・ロシアの
協商関係は成立寸前でした。対イギリス対フランスによってだがロシア内のポグロムが
続出し収まらなかった。更にドイツ国家内でも大きく起こる事になった。ハザールのユ
ダヤ人たちの大量海外移民とシオニスト運動が開始されて、それがやって来たのだ。共
にソ連でもハザールユダヤ青年層を中心とし革命運動が活発となり、革命を喧伝する政
党が次々に誕生しますした。1903年それらの多数派(ボリシェヴィキ)の赤兵隊は少数
のユダヤ指導者とてモスクワに入り取り仕切ったそれがレーニンでだった。ビスマルク
は"誠実な仲介人"を自称し中立を宣言していたが、ベルリン条約でロシアが得た利益を
認めたものの、ロシア南下政策を否定するイギリスを終始支持した。ドイツは、1882年
に三国同盟を結成してフランスを孤立化させ、1885年に日本にメッケルを派遣してロシ
アの東アジア進出を牽制し、狙い通り日露戦争でロシアの進出を阻むことに成功した。
1890年にビスマルクが引退してベルリン条約の秩序が再び崩れると、ロシアは普仏戦争
以降孤立化していたフランスに接近して1894年に露仏同盟を結び、対独包囲網の結成を
模索していた。スラブユダヤはそうした動きに右往左往するのを止めて新天地に向かっ
ていた。


1042: 名無しさんAA:17/12/18 18:01
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 697----------

 上海にドイツ・オーストリア系ユダヤ人が流入したのは、ナチスがオーストリアを合
併した1938年秋であり、イタリア商船コンテ・ビオレ号から上海に上陸したのが、
最初であるとしている。その中で当時、ユダヤ人が希望する米国等はビザ発給が制限さ
れており、実態的には入国拒否に近かった。非人道的行為まであったという。だが実情
はもっと違っていただろう。と言うのはハザール帝国のユダヤ人たちの数は八百万人か
にのぼる数でそれらが半数は残っていたとしても半数はシベリアのユダヤ自治州に送ら
れたであろうと思われるからだ。更に大半が強制労働で死を迎えたとしても一割程度は
逃げたであろう。そう考えても八十万人である。そしてその動きはもっと早い時期に、
起こっているのだ。少なくともシオニスト集会では新天地を求めている。8世紀以前の
世界にはごくわずかな混血者を除いて、白人系ユダヤ人はほとんど存在していなかった
。それがなぜか8〜9世紀を境にして、突然、大量に白人系ユダヤ人が歴史の表舞台に
登場したのである。いったい何が起きたのか?ロシアとユダヤのはじめの衝突はロシア
帝国VSハザール王国(アシュケナジー・ユダヤ人)であり、それは8世紀までさかのぼ
る。12世紀にユダヤ教徒ハザール人が、ロシアアンドレイ・ボゴリュプスキー皇帝を
暗殺したことをきっかけに、ロシアにおけるユダヤ人弾圧が始まった。ロシアから追放
されたユダヤ教徒ハザール人たちは、そのほとんどがポーランドに移っていった。ハザ
ールは6世紀のビザンツ史料において、サビル(英語版)(サベイロイ)と呼ばれてお
り、『戦史』の著者プロコピオスによれば、「サビルはフンの一族であり、カフカスあ
たりに居住し、多数の首長のもとに適当に分かれている」という。このサビルとハザー
ルがまったく同一の民族であったか否かは確定できないが、少なくとも10世紀のアラ
ブの歴史家マスウーディーは『黄金の牧場』の中で、ハザールをテュルク系サビルとし
ている。また、サビルの名が6世紀末からほとんど現れなくなるのは、サビルと呼ばれ
る部族が改宗しハザールと変化しただろうことを示すからであろう。その後西突厥の支
配下にあったと言われる。しかし、ハザールはおそらく6世紀末にカスピ海沿岸および
カフカスからアゾフ海のステップに進出したが、その時期はまだ西突厥の勢力が強大で
、その宗主権のもとに置かれていたが、626年に、東ローマ帝国のヘラクレイオス1
世は帝国の北東国境を守るために「東のテュルク」と同盟を結んだ。この「東のテュル
ク」の主力をなしていたのがハザールであり、東ローマ帝国は彼らと共にペルシア(サ
ーサーン朝)支配下にあったカフカスを攻めビザンチン・サーサーン戦争を起こし、第
三次ペルソ・テュルク戦争で、大きな戦果をあげた。とされる。

1043: 名無しさんAA:17/12/18 18:03

陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 698----------

つまりササン朝ペルシャと戦ったカスカフ部隊であったのだ。この事はローマ帝国時代
の勇猛な戦士として、出稼ぎに兵士となり、用が済めばカスピ海周辺で暮らしていた事
を物語っている。「ロシア革命」は「ユダヤ革命」だった、ユダヤ人たちは1917年
11月6日の「10月革命の準備に入った。(第一次世界大戦)ハザール王室直系の子
孫、カガノビッチの暗躍する10月革命以降は、特に1920〜1930年代にユダヤ
人はロシアで「国家内国家」をつくっていった。一般に「スターリンの独裁」ハザール
人の支配したハザール王国の指導者による独裁だったのである。ロシア文化を徹底的に
破壊しハザール系ユダヤ人ロシアの優れた頭脳と称して、ロシアの文化人も、優秀な実
業家も、伝統的な農民、習慣、歴史と、それを存続させている貴族を徹底的に破壊しよ
うとしたのだ。ロシア正教を90%を破壊しそれを又改宗し利用した。1953年6月
26日ジューコフ元帥軍事クーデターを起こし、これに成功する少なくとも1960年
まで、ほとんどの政府機関からユダヤ人が一掃された。従ってウクライナやカザフスタ
ンに核を置き軍事の基幹を置いた。カガノビッチはどのようにしてロシアの国家内国家
、すなわちユダヤ国家を指導していったのだろうか。共産党に頼ったのではなかった。
共産党も表向きの形式にすぎなかっただろう。実際には裏の組織があった。それが国家
保安省(後の国家保安委員会=KGB)である。国家保安省の幹部のすべてがユダヤ人
だった。トップだけではなく、中間層も下層も、ほとんどがユダヤ人で占められていた

1044: 名無しさんAA:17/12/18 18:04
破壊しハザール系ユダヤ人ロシアの優れた頭脳と称して、ロシアの文化人も、優秀な実
業家も、伝統的な農民、習慣、歴史と、それを存続させている貴族を徹底的に破壊しよ
うとしたのだ。ロシア正教を90%を破壊しそれを又改宗し利用した。1953年6月
26日ジューコフ元帥軍事クーデターを起こし、これに成功する少なくとも1960年
まで、ほとんどの政府機関からユダヤ人が一掃された。従ってウクライナやカザフスタ
ンに核を置き軍事の基幹を置いた。カガノビッチはどのようにしてロシアの国家内国家
、すなわちユダヤ国家を指導していったのだろうか。共産党に頼ったのではなかった。
共産党も表向きの形式にすぎなかっただろう。実際には裏の組織があった。それが国家
保安省(後の国家保安委員会=KGB)である。国家保安省の幹部のすべてがユダヤ人
だった。トップだけではなく、中間層も下層も、ほとんどがユダヤ人で占められていた
。国家保安省に、ベリヤというきわめて危険な人物がいた。彼はユダヤ人(母親)との
ハーフで、グルジアの北コーカサス出身のユダヤ人であった。ベリヤはカガノビッチの
従兄弟にあたる。カガノビッチはベリヤ、すなわち国家保安省を通して、ロシア=ハザ
ールの幹部となっていたのだ。またその頃、ユダヤ人は国家保安省の中に「収容所」と
いう新しいシステムをつくった。ソルジェニーツィンの著書「収容所群島」には、この
システムについて詳しく述べられている。各収容所の所長には9割がユダヤ人だった。
収容所システムを初めに導入した人物は、フレンケルというユダヤ人の革命家である。
収容所はロシア人の奴隷を収容するためにつくられた施設だった。革命が成功すると、
ユダヤ人たちはロシア人を完全に支配下におこうとした。そのためにはロシアの「頭」
を切り落とさなければならない。「頭」というのは日本でいえば天皇であるように、ロ
シアでいえばツアー、すなわち皇帝であった。ハザール国家を作りソ連を支配していっ
たのであった。つまりユダヤ人はユダヤ人を支配下に於いて行く事も厭わない人種に変
化していたのだ。古代にフン族を改宗させてハザール帝国を作った時からロシアは狙わ
れた国だった。そして彼ら砂漠のバッタの如く他の国に浸食しようとしている。それが
今のイスラエル国家の状況であろう。仲間さえも信じない。この世の地獄の釜の仲間を
して地獄の釜に変えているのである。幸せを持たない宗教人種これがユダヤだった。




1045: 名無しさんAA:17/12/18 18:06
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 699----------

コーカサス山脈はロシア語でカフカース山脈と言われ黒海からカスピ海まで東西に走る
走る山脈である北の大カフカース山脈と南の小カフカース山脈と区別して呼ばれている
。ギリシア神話では、コーカサスは世界を支える柱のうちの一つでゼウスがプロメーテ
ウスを鎖で繋いだ場所でもある。ウラル山脈、カスピ海とともにアジアとヨーロッパの
境をなすと言われる。山脈の北は北コーカサス地方とよばれロシア連邦領、南は南コー
カサス地方とよばれて、水源がある為比較的肥沃な大地でありジョージアとアゼルバイ
ジャンの領土となっている。西側にヨーロッパ最高峰エルブルス山(5,642m)やカズベ
ク山(5,033m)などの高峰が集まる。アルプス・ヒマラヤ造山帯に含まれる新期造山帯
である。南部の領有アルメニア北部を通る山脈で、カピジク山(3,904m)が最高峰だ。
ただし、やや南にあるアラガツ山(4,090m)やアララト山(5,165m)も小コーカサスに
含めることがある。異論は色々あるが「使徒言行録」のガラテヤの信徒への手紙」は恐
らくこの地に住んだ人達を諫めた様なパウロの手紙であろうというのが大方の見方だ。
その書によればガラテヤの共同体はパウロ自身が創設したもので、信徒たちはかつては
異教徒であったものがほとんどであったが改宗したと言う。この共同体はパウロが離れ
た後で、「異なる福音」を伝えるものたち教師が現れ、信徒の間に混乱をひきおこして
いたとして手紙を出した事になっている。パウロはこのような教えに耳を貸さないよう
ガラテヤの共同体のメンバーたちに強く求めている。書簡にあらわれる「反対者たち」
の教師たちがどのような人々だったのかは意見が分かれ、パウロの言葉からその思想を
再構成するしか方法がないが大方の見方は彼らが「ユダヤ教から改宗したキリスト教徒
」であったということである。彼らは異教徒から改宗したキリスト教徒に対し、ユダヤ

1046: 名無しさんAA:17/12/18 18:07
。ギリシア神話では、コーカサスは世界を支える柱のうちの一つでゼウスがプロメーテ
ウスを鎖で繋いだ場所でもある。ウラル山脈、カスピ海とともにアジアとヨーロッパの
境をなすと言われる。山脈の北は北コーカサス地方とよばれロシア連邦領、南は南コー
カサス地方とよばれて、水源がある為比較的肥沃な大地でありジョージアとアゼルバイ
ジャンの領土となっている。西側にヨーロッパ最高峰エルブルス山(5,642m)やカズベ
ク山(5,033m)などの高峰が集まる。アルプス・ヒマラヤ造山帯に含まれる新期造山帯
である。南部の領有アルメニア北部を通る山脈で、カピジク山(3,904m)が最高峰だ。
ただし、やや南にあるアラガツ山(4,090m)やアララト山(5,165m)も小コーカサスに
含めることがある。異論は色々あるが「使徒言行録」のガラテヤの信徒への手紙」は恐
らくこの地に住んだ人達を諫めた様なパウロの手紙であろうというのが大方の見方だ。
その書によればガラテヤの共同体はパウロ自身が創設したもので、信徒たちはかつては
異教徒であったものがほとんどであったが改宗したと言う。この共同体はパウロが離れ
た後で、「異なる福音」を伝えるものたち教師が現れ、信徒の間に混乱をひきおこして
いたとして手紙を出した事になっている。パウロはこのような教えに耳を貸さないよう
ガラテヤの共同体のメンバーたちに強く求めている。書簡にあらわれる「反対者たち」
の教師たちがどのような人々だったのかは意見が分かれ、パウロの言葉からその思想を
再構成するしか方法がないが大方の見方は彼らが「ユダヤ教から改宗したキリスト教徒
」であったということである。彼らは異教徒から改宗したキリスト教徒に対し、ユダヤ
教の律法を完全に守るよう要求していた。書簡からは、割礼、安息日の遵守、モーセの
律法の遵守などを巡って意見が戦わされた。パウロの言葉から推測すると、ユダヤ教か
らの改宗者たちはアブラハムを引き合いに出して、契約のしるしとしての割礼の意味を
強調している。さらに彼らはヤコブに従うエルサレムの教会を支持することでパウロの
使徒として正統性に疑義を呈していたことがうかがえる。また、教師たちの言動がガラ
テヤの信徒たちに大きな動揺を引き起こしたこともわかる。研究者によれば当時、異教
から改宗したキリスト教徒たちは「アイデンティティーの喪失」に悩み、律法の完全な
遵守という明快な指針を示した「教師たち」に魅力を感じていたと考える。パウロは、
ガラテヤの人々の精神的動揺を叱咤している。彼は自分の伝えた「律法からの自由」で
あったことを思い出させる。パウロは自らの改心の経緯と使徒としての資格の正当性、
さらにエルサレム教会との関係について詳しく述べる。パウロは自らアブラハムの物語
の意味を再解釈して人々に伝えている。

1047: 名無しさんAA:17/12/18 18:08
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 700----------

 6世紀後半、突然中央アジアのヴォルガ川流域に強力な民族が台頭しはじめた。のち
の世にハザール(カザール)王国を形成するハザール民族である。一方、当時はロシア
もまだ帝国としては存在していなかったが、ロシア人はすでにキエフなどに定着してい
た。6世紀から8世紀にかけて、ハザール民族はカスピ海の北方に進出すると、ロシア
人とたびたび衝突するようになった。ハザール人はロシア人を支配下におき、奴隷にし
て、カスピ海の北にあるイティルというハザール人たちの首都に連れて行った。イティ
ルでは当時、ロシア人の奴隷がいとも安価で売買されていたという。イティルに住む民
は多様であった。ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒、シャーマニズムやペイガ
ニズムの信徒がおり、ハザール国外からの貿易商も多かった。各宗教集団は独自の聖堂
を持ち、住民の争いの解決の為には7人ほどの判事が各宗教集団から選ばれた(2人の
キリスト教徒、3人のユダヤ教徒、2人のイスラム教徒、ロシア正教などから1人)。
その後8世紀になり、ビザンチン・キリスト教とイスラムの圧迫を受けたハザール民族
は、王から奴隷にいたるまで国を挙げてユダヤ教に改宗し、ハザールはその法令におい
てユダヤ国家となった。そして彼らは自らをユダヤ人と名乗るようになったのである。
現在、世界のユダヤ人の大半を占めるアシュケナジー・ユダヤ人は、このハザール人の
子孫であると言われる。8世紀から9世紀にかけて、ロシア人の侵略にハザール王国は
数回にわたって戦争をした改宗を迫られた。965年、ついにロシア人がハザール王国
を占領した。その後キエフ大公国のスヴャトスラフ1世はハザールをことごとく破り、
968年(または969年)にハザールの同盟都市もボルガ流域のイティルの街も占領されて
略奪され廃都市の運命を辿る事になる。首都イティルの、ほとんどを壊滅させてしまい
以来、ハザール国家は再びかつてのような強国となることはなかった。13世紀には、
今度は、タタール(モンゴル)がハザール王国を完全に滅亡させたからだ。ユダヤ教徒
のハザール人(アシュケナジー)はロシアに逃げ込み奴隷になるしかなかったのだ。近


1048: 名無しさんAA:17/12/18 18:10
今度は、タタール(モンゴル)がハザール王国を完全に滅亡させたからだ。ユダヤ教徒
のハザール人(アシュケナジー)はロシアに逃げ込み奴隷になるしかなかったのだ。近
かったのでその多くがロシア領内に逃げ込み住んだ。その後ロシアの中のユダヤ教徒は
ハザールの怨恨の火を絶やさなかった。12世紀には、ロシア国家の中でロシアに対す
る陰謀を画策するように増えていたし、重税や虐げられたままだった。そして1174
年、遂にロシアの皇帝、アンドレイ・ボゴリュプスキー皇帝を暗殺したのである。当時
のロシアはまだ国となってはいなく、寒い中の多くの集落の小国家集合体だったのであ
る。それぞれの国が皇帝を名乗り集まり会議が行われていた。その結果において彼らは
ロシアに移入して来たユダヤ教徒ハザール人を弾圧することは決定していた。食糧も猟
も不審者でしかなかったからだ。こうして多数のユダヤ教徒ハザール人が殺されること
になっていた。これがポグロムの元になった。



1049: 名無しさんAA:17/12/18 18:11
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 701----------

 日本でも太平洋戦争は陸海両軍がそれぞれ威信をかけての、米英はじめとする連合国
に戦争をしかけていったのだが、それは「奴隷」と「植民地」と「食糧」への危機感か
らだった。日本でも外地従軍は食糧に於いて補給は充分でなく現地調達での進軍だった
。ただこの時代は他の国には大王なり皇帝なりの領地争いだったが、日本では天皇を掲
げてはいたものの、軍においてはそれは市民革命軍だった。天皇は地位の上に指導をお
こなっていただろうが、日本政府や軍に限れば、他のアジア諸国の様な民族虐殺になら
ない為の国家経営の進軍であった。と言える。だがそこに意思統一は無かった。中には
無謀な兵将も多く、日本人としての誇りよりも勝つ事が全てであり戦場を進軍する事に
重きをしていた。ただアメリカ軍が勝った理由は原爆でも物量でも無かった。移民の群
れであったからだった。殆どの国は戦争は自衛の為だったがアメリカのみが拡大の為で
あった。特にアジアにおいてはそれは徴躇であった。この特徴的戦争形態は他にない。
欧州社会であっても、ドイツが拡大政策を採らなければ、欧州の悲劇は起きなかった。
つまり防備の為の外交だったのだ。ところがドイツやロシアにすれば拡大しなければ、
自分達の食糧や経済は破綻する物だった。そして日本も同じに満州や朝鮮半島は、既に
日本経済の支えともなっていたし、東南アジア圏内では今も昔も変わらずに経済圏であ
ったのだ。だがアメリカだけは違っていた。アメリカは国内の独立戦争を終えて国民の
反乱を止めるべく政府は動いていた。つまりカナダもメキシコもキューバも原住民はい
たし、更に移民を連れて来て作った国だった。到底国内統一は出来ないまま各州がそれ
ぞれ独立をして連携を図っていたのである。ここに外敵の必要があったし軍事産業とし
ての経済活動があったのだ。そして日本も中国大陸に進駐した時、満州と朝鮮の平和は
必要最低限の防衛であった。日本は自らに自国を守る必要があったのだ。米国の平和裏
の原料供給がなければ、自前補給しか日本経済は回らなかったのだ。こうして、第一次
大戦が終わった時、ドイツ領が手に入り太平洋を管理とした為に、この後戦線は次第に
拡大し、西はインドシナ半島とビルマ、南はインドネシアのほぼ全域とニューギニア、
東は中部太平洋に浮かぶ島々まで、実に壮大な範囲を占領するに至った。もしサミエル
商会などが東南アジアに油井が見つからなければ、米国は大陸までは足を延ばす合意に
は至らなかっただろう。


1050: 名無しさんAA:17/12/18 18:12
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 702----------

1898年4月25日、キューバ独立革命をきっかけとした米西戦争が勃発する。その直前、
香港でアメリカ合衆国との間に独立援助の密約を取り付けていたアギナルドら亡命指導
部は、マニラ湾海戦での米艦隊大勝を経て、米軍を後盾にフィリピンへの帰還を果たし
た。だがフィリピン独立革命は失敗に終わった。理由としては、もちろん中途介入して
きたアメリカとの圧倒的な軍事力と欲望からだ、フィリピン側にも多少の問題はあった
が、より以上にアメリカは危険な債権国策を望んだ。そもそも米国建国ではインディア
ン人の生活にスペイン人は鉄砲を持ち込んで領土をほしいままにした。その後イギリス
は十字架を掲げて乗り込んで来し、フランスは奴隷を連れて乗り込んで来た。その後も
何処からもやって来ていた。アメリカ政府は当時州境の協定をこなし自治国経営を行っ
ていた。次々インディアンを始め大陸から追われた人が西南に逃げ延びて西南戦争が起
こった西部劇である。こうして荒れ狂う中にかつて世界の覇者としての植民地は独立と
敵対するイギリス・フランスなどと共に戦争の費用がかさみ、イギリスは独立を許し、
スペインは、ニューメキシコを売り渡す事にした。ガズデン購入である。その時アメリ
カは自国がユダヤ金融と連れ立って世界を征服出来ると信じたし、それだけの力を持っ
た。アメリカで始まったオイルポンプジャック方式はユダヤ資本は直ぐにバクー油田に
取り入れて、安価な石油をアメリカに搬入して大小の国内石油を手中に収めた。その後
はイギリスのペドロと共にメキシコ湾の油田に着手していたのである。此処に搾取され
ていた原住民の独立や革命が起こっていたのである。此処に避難用の東南アジア油田が
開発されていた。メキシコやキューバの休戦協定と共にスペインの持っていたフィリピ
ンの権益と共にアメリカが買ったのである。此処にスペインの植民地は大西洋沿岸特に
アフリカモロッコやブラジルなど以外の権益を完全に失ったのであった。これには理由
があった。アメリカの新聞が読者数を伸ばそうとしていた時期と一致して、1897年の「
アメリカ婦人を裸にするスペイン警察」という新聞記者による捏造記事のフェイクニュ
ースをきっかけに、各紙はスペインのキューバ人に対する残虐行為を誇大に報道し、ア
メリカ国内のスペイン人の排除運動があったのだ。先行入植者としてインディアン側に
ついていたので敵対されたのだ。これはかなりの人道的感情を刺激した。そしてキュー
バへの介入を求める勢力の増大を招いた。こうしてイエロー・ジャーナリズムは力を持
った。


1051: 名無しさんAA:17/12/19 00:26
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 703----------

1898年6月20日、アメリカ海軍の巡洋艦チャールストンおよび輸送船3隻の艦隊が当時
スペインの植民地だったグアム島をカノン砲で砲撃し、これを占領しようとした。がス
ペイン側の司令官は戦争が始まったことを知らず、司令官自身がチャールストンに現れ
て降伏の意思を伝え、島にいた54名のスペイン兵は捕虜となり、グアムは占領された。
その為方々で開戦への他の圧力をかけていた。事実、アメリカ海軍は開戦の1年以上前
にフィリピンでスペイン軍を攻撃するための国内計画を作成していた。西部への拡張、
および、アメリカインディアンとの大規模交戦の終戦条約協定後はアメリカ陸軍には、
任務を減少させ軍の減少を招き、軍の指導部は新しい任務を望んだ。早期からアメリカ
人の多数は キューバが彼らのものであると考えており、マニフェスト・デスティニー
に関する理論はちょうどフロリダの沖合に非常に魅力的に見える島を作った。キューバ
の経済の多くは既にアメリカの手にあり、ほとんどの貿易(その多くは闇市場だったが)
はアメリカとの間のものであった。何人かの財界人は、開戦を同様に要求した。ネブラ
スカ州の上院議員ジョン・M・サーストンは「スペインとの戦いは、すべてのアメリカ
の鉄道ビジネスおよび所得を増加させるだろう。それは、すべてのアメリカの工場経済
を増加させるだろう。それは、産業と国内通商のすべての流通を刺激するだろう。」と
明言していた。太平洋を渡ってマニラまで2ヶ月はかかる時代であったが、開戦からは
わずか約2週間後の5月1日に、マニラ湾海戦が勃発した。これによりフルーツコードの
レモン計画グレープ計画は実行終了し、新たなカラーコード計画がなされた。最も不思
議な事は初期のこのフルーツコードでは、ブドウのマークであるギルド系ユダヤ金融の
排除であったしレモン印の騎士団系政治結社の排除であった筈だった。フリーダム系統


1052: 名無しさんAA:17/12/19 00:26
の経済の多くは既にアメリカの手にあり、ほとんどの貿易(その多くは闇市場だったが)
はアメリカとの間のものであった。何人かの財界人は、開戦を同様に要求した。ネブラ
スカ州の上院議員ジョン・M・サーストンは「スペインとの戦いは、すべてのアメリカ
の鉄道ビジネスおよび所得を増加させるだろう。それは、すべてのアメリカの工場経済
を増加させるだろう。それは、産業と国内通商のすべての流通を刺激するだろう。」と
明言していた。太平洋を渡ってマニラまで2ヶ月はかかる時代であったが、開戦からは
わずか約2週間後の5月1日に、マニラ湾海戦が勃発した。これによりフルーツコードの
レモン計画グレープ計画は実行終了し、新たなカラーコード計画がなされた。最も不思
議な事は初期のこのフルーツコードでは、ブドウのマークであるギルド系ユダヤ金融の
排除であったしレモン印の騎士団系政治結社の排除であった筈だった。フリーダム系統
のクラブがそれがひっくり変わって集合統合したフリーメイソンの支部に変化した事だ
。実は此処に日本がいた。つまり不思議だが明治時代大西洋航路よりも太平洋航路の方
が発達していたのだ。我々はどうしても西洋人がアメリカ移住を果たしたのは欧州から
と考えがちだが、それは全く違っている。香港から横浜や敦賀からのこのスラブ系人種
もかなり移民として渡ったのである。アムール川の支流のこの黒竜江域は、最も肥沃な
大地であり極寒の地でもあったが春ともなれば住みよい場所でもある。ハバロスクや、
ピロジャンやダマンスキー島(中国語名珍宝島)などのホーカン周辺は南北に流れるこ
の川の為に東西に中国とソ連に分かれていた。黒竜江省だけでも行政区画は12の市や
1つの自治地区の下に19の県級市・46の県・1つの自治県が設置され、日本での77
の県区域に分かれる広大な土地だ。対して人口は3689万人で相当少なく漢民族を中心に
、満州族・朝鮮族・モンゴル(蒙古)族・回族・ダフール(達斡爾)族・シボ(錫伯)族・ホジョン
(赫哲)族・オロチョン(鄂倫春)族・エヴェンキ(鄂温克)族・キルギス(柯爾克孜)族 などが
居住しているがこれにソ連地区を兼ね合わせてモンゴル系のパオ集団の移住を考えれば
800万人の半数400万人が此処に連れられてそのまま米国に逃げたとしても、別に
おかしい事はない。


1053: 名無しさんAA:17/12/19 00:27
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 704----------
ところがこのウラジオストックの北側は秋あらに越冬する遊牧民の場所だったのだ。と
言うのもこの川の魚などが豊富だった事と干し肉などの越冬の動物を寒い風から逃れて
死なす訳に行かないからだ。そこで秋に川の水が少ない内に対岸に行き 日本海側の風
や寒さが少ない場所で越冬し、川の氷床が融ける前に又モンゴルに帰って草原の放牧を
行わならなければいけなかった。更にこの習慣は何千年も前からの風習でもあった。
中ソ国境紛争は1969年3月2日、15日にアムール川(中国語名は黒竜江)の支流ウスリー
川の中州であるダマンスキー島(中国語名珍宝島)の領有権を巡って大規模な軍事衝突
が発生した事で起こった(珍宝島事件、ちんぽうとうじけん、ダマンスキー島事件)。
同年8月にも新疆ウイグル自治区でも軍事衝突が起こり、中ソの、全面戦争や核戦争に
エスカレートする重大な危機に発展した。同じ共産党独裁国家でありながら、かつては
蜜月を誇った中国とソ連の対立が表面化した事件でもあった。1950年代後半のニキータ
・フルシチョフ首相によるスターリン批判以降、ソ連と中国の間では関係が悪化してい
た。中ソ対立により両国間の政治路線の違い・領土論争をめぐって緊張が高まり、1960
年代末には 4,380kmの長さの国境線の両側に、658,000人のソ連軍部隊と814,000人の中
国人民解放軍部隊が対峙する事態になった。在北京ソビエト連邦大使館に対する紅衛兵
の襲撃や、国境地帯での発砲事件など両国の小規模な衝突は度々起きていたものの、本
格的な軍事衝突は起きないままでいた。1969年3月2日での、極東のウスリー川の中州・
ダマンスキー島(珍宝島)ではソ連側の酔っ払い警備兵と中国人民解放軍の農民兵士に
よる衝突が起こった。これに関しては双方とも「先に相手が攻撃を仕掛けた」と主張し
ている。また、中国人民解放軍部隊が民間人・農民・家畜に部隊を囲ませながら前進す
る戦術を取ったという。中国側の記録にはソ連軍に大きな損害を与え、自軍の死者はご
く少なかったとある。なおこの時、少なくとも1輌のT-62が中国側に鹵獲されている。
(中国はT-62を1輌公開している。)。7月8日には,中ソ両軍が黒竜江省同江県に属する
黒竜江(アムール川)の中州・八岔島(ゴルジンスキー島)で武力衝突し,8月13日には
新疆ウイグル自治区タルバガタイ(塔城)地区チャガントカイ(裕民)県の鉄列克提(
テレクチ)でも武力衝突が起きるなど、極東及び中央アジアでの更なる交戦の後、両軍
は最悪の事態に備え核兵器使用の準備を開始した。こうした最中、1969 年9月に北ベト
ナムのホー・チ・ミン国家主席が死去し、ソ連のアレクセイ・コスイギン首相はハノイ
での葬儀に列席した後北京に立ち寄り中国の周恩来首相と会談して政治解決の道を探り
、軍事的緊張は緩和された。国境問題は先延ばしされたが、最終的な解決には至らず両
国とも国境の兵力配置を続けた。

1054: 名無しさんAA:17/12/19 00:27
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 705----------

 明治期1900年頃、大阪商船では日露戦争後に北米航路の開設が企画され、明治40
年(1907)1月に蘂取丸による試験航海が行われた。翌 明治41年(1908)にはシカゴ・ミ
ルウォーキー・エンド・セントポール鉄道会社と連絡輸送の契約を結ぶと共に本航路用
に6,000総トン級の大型貨客船6隻を発注した。当時の資本金の3分の1にあたる巨費
を投じて開設された本格航路 (ピューゼットサウンド線〜香港/タコマ線 )は、同社の
命運握った初の本格的な遠洋航路であった。明治42年(1909)7月3日第1船たこま丸が
香港を出航、寄港地は香港/門司/神戸/四日市/横濱/シアトル/タコマで当初は使
用船3隻により4週に1回の定期サービスとし、航海奨励法の適用を受けた。明治43年
(1910)1月1日より逓信省の命令航路となった。日本郵船も実はこのシアトル航路には早
くから目を付けていた( 明29.8.1(1896)開設大正期−昭16.7.17(1941)休航−昭 26.10
(1951)再開−昭35.10.5(1960)終航。早くから桑港( サンフランシスコ)線に着眼してい
たものの多大な資金を要する船の購入には社内や日本政府の後押しが必要だった。この
頃は、高価な石炭や石油の供給が不可能で日本政府の軍船がやっとの時代だった。その
為当時はパシフィック・メイル社(Pacific Mail Steamship Co.)やO&O社(Occidenta
l & Oriental S.N.Co.) が独占的優位を占めていた。海外での物資供給の確約とグレー
ト・ノーザン鉄道会社(Great Northern Railway Co.)の提携申し入れを受けてやっと可
能になり、まずシアトル航路を開設した。当初は汽船3隻(三池丸、山口丸、金州丸)で
毎月1回のサービスとし寄港地は香港/下関/神戸/横濱/ホノルル(臨時)/シアトル
とした。明治34年(1901)加賀丸型の就航後は6隻体制となって (加賀丸、伊豫丸、金州
丸、信濃丸、旅順丸、土佐丸)で2週1回のサービスとなった。この成果は石炭の 安定
供給や安価な中国産などよって客船の定期運航はかなり簡単になりアジア近海から遠洋
航路に移っていった。こうして大阪商船では日露戦争後すぐに北米航路の開設が企画さ
れてのち日本郵船と共に東洋汽船も桑港( サンフランシスコ)航路 明31.12.15(1898)開
設していた。−大正期−大15.3(1926)以降日本郵船が継承東洋汽船を設立した淺野総一
郎はP.M.社(Pacific Mail Steamship Co.)、南太平洋鉄道(Southern Pacific Railway)
との交渉後、太平洋航路用に3隻の新造船を英国で建造した。航海数は4週に1回とし
、寄港地は香港/長崎/神戸/横濱/ホノルル/桑港。明治32年(1899)7月10日に政府
から特定補助航路の命令書が下付された。

1055: 名無しさんAA:17/12/19 00:28
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 706----------
こうした航路は順調に行き日本郵船では明治45年(1912)には就航中の因幡丸と丹波丸が
補助船の資格を失うため明治43年(1910)に代船として計画されたのは荷客の動きとパナ
マ運河開通後を考慮して6200総トン級の純貨物船2隻であった。しかし明治44年(1911)
11月に従来と同様な貨客船に設計変更がなされて横濱丸と 静岡丸が明治45年(1912)5月
以降に順次竣工した。日米間の太平洋航路は、パシフィック・メール汽船会社によって
の1867年1月1日の一番船「コロラド」の出航から始まったのだが、22日後の1月24日
横浜到着、そして最終目的地の香港には1月30日到着したのであった。これによってこ
の航路が1ヶ月の航路が完成していた事が伺い知れる。こうして1896年には日本郵船が
シアトル航路を、1898年東洋汽船がサンフランシスコ航路を開始して各日本船社の参入
となった。そして、1941年の日米開戦で中断した太平洋航路は、戦後になって復活した
ものの、戦争中の航空機の技術革新により、太平洋の連絡の役目において客船の活躍は
急速に衰退していった。パシフィック・メール汽船会社が設立されたのは合衆国がメキ
シコからカリフォルニアを併合した翌年である、1848年のこの航路はパナマ・オレゴン
・カリフォルニアで一番船の「カリフォルニア」は、大西洋岸からカリフォルニアへの
回航される際に、同年に発見されたカリフォルニアの金が目当ての男たちを乗せていた
。1849年2月サンフランシスコに到着しカリフォルニアへ向かう男たちは、合衆国の東
部からの幌馬車隊でのロッキー越えをする男と全く同じ気持ち乗り込んでいて、このル
ートと並んで、パナマ経由で太平洋を上るこのパシフィック・メール便が花形ルートで
あった。1855年にはパナマ地峡にパナマ鉄道が開通し、このルートは至便を極めるにい
たった。しかし、1869年ユニオンパシフィック鉄道とセントラルパシフィック鉄道の、
ユタ州のプロモントリーで締結、すなわち大陸横断鉄道の完成で主要ルートが陸路鉄道
経由に変わり収益がなくなると、パシフィック・メール汽船会社の関心も太平洋の対岸
に向いてきて1867年元旦のこの太平洋横断航路の出発式であったのだ。ところが、
実は1875年時代には熾烈な運行争いが鉄道にも船便にもあって経営拡大闘争を繰り広げ
られていた。それは金鉱脈から掘り出された金の流通量の拡大と貸付の拡大更に人の移
動の拡大が共に影響しあっていたのである。これによってユダヤ金融は欧州金融から、
世界金融に発展して行ったのである。これにはアメリカ政府の主張した国家の自主発行
券権利を拒否する力も必要になった。此処に大不況がおきるのである。つまり言わば今
発効しているユダヤ紙幣は実は金交換の兌換券で引換券だったのだ。金を持ち今紙幣の
回収をしなければ、政府が勝手に発行し流通した時彼らはその債権と同じく財産没収は
免れないと踏んで回収し始めたのである。

1056: 名無しさんAA:17/12/19 00:29
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 707----------

 ところが、アメリカ移民はユダヤ金満家やアメリカ政府が思う以上に大きかったので
ある。シティー・オブ・ペキンとシティー・オブ・トウキョウの4000トン級の新造船が
完成し、会社の経営も大陸横断鉄道との提携運輸とパナマ経由の安価貨物の輸送で好調
であったパシフィック・メールも、太平洋を渡ってきた荷物を自社益の多いパナマ経由
で運ぼうとして、鉄道会社の反発を買い、ユニオンパシフィック鉄道とセントラルパシ
フィック鉄道の陸海制覇の欲望のために作られた別の汽船会社の、「オクシデンタル・
アンド・オリエンタル汽船をによって、3隻の用船「オセアニック」、「ベルジック」
、「ゲーリック」などが就航し1875年より太平洋横断航路を開始した。このの運
行開始時点までは既にPMとの協調が確認され、あたかも1つの会社のような営業形態
があったが 次第に減退する乗客に1906年まで続けてO&Oは消滅する結果となった。
日本による遠洋航路は1893年11月7日神戸発ボンベイ行き廣島丸から始まり、1896年の
日本郵船欧州航路、シアトル航路に続いて1898年東洋汽船が「日本丸」、「香港丸」、
「亜米利加丸」をしてサンフランシスコ航路を開始していた。 米国商船TKK、PM、O&O
は3社共同9隻でサンフランシスコ航路を運営していた。PMは1902年に千トン級の「
コリア」と「サイベリア」を、更に 1904年にはPMは13000トン級の大型船「モンゴリ
ア」、「マンチュリア」をこの航路に投入して、船舶の大型化を計った。TKKもこれ
に続き、12000トン級の「天洋丸」、「地洋丸」、おくれて「春洋丸」を1908年から191
1年までに投入した。 1915年にはグレースライン汽船会社に全株式を売却した老舗のPM
から、「パーシャ」、「コリア」、「サイベリア」を購入して輸送力増強を計りながら
も、第一次大戦後の船腹過剰で「日本丸」を売却している。 東洋汽船も、O&O汽船とPM
汽船会社とともにサザンパシフィック鉄道との連携輸送契約を結び、またサザンパシフ
ィック鉄道は大陸横断連携運輸をユニオンパシフィック鉄道、シカゴ・ノースウェスタ
ン鉄道と結んでいた。その後は過当競争で太平洋航路は収斂され国際航路は世界一周の
船旅に変わり米国標準船の502型を16隻を投入して、ホノルル・横浜・神戸・上海
・香港・マニラ・シンガポール・ペナン・コロンボ・スエズ・ポートサイド・アレクサ
ンドリア・ナポリ・ジェノア・マルセイユ・ボストン・ニューヨーク・ハバナ・バルボ
ア・ロサンゼルスを回る世界一周航路と変化していた。こうした中で明治政府は「命令
航路」によって国内航路の運行を維持していた。


1057: 名無しさんAA:17/12/19 00:29
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 708----------

ある日東条英機に昭和天皇は問うた。「何故こんなことをしたのか。つまりこの戦争の
目的はなんだったのか。」と。戦線開始の責任者である東条英機に対して昭和天皇がこ
う下問した時。すると東条は俄には答えることができなかったという。そして「いま研
究中ですので、追って奏上申し上げます。」といったそうなのである。世界中で第二次
世界大戦で5千万人以上の死者が出たとしている。第一次世界大戦前では殆どが軍事施
設が乗っ取られ軍人達の戦争だったが ポログラムに怒ったユダヤ人(ユダヤ教徒)は
革命に転じていたのである。そしてロシアをターゲットに選んでいた。フランスの実業
家、フェルディナン・ド・レセップスが、パナマ運河を起工し、ロシア帝国・清間での
イリ条約締結した頃ロシア国内はどうしようない混乱にあった。ロマノフ朝第12代皇
帝アレクサンドル2世が暗殺され、翌日アレクサンドル3世が第13代皇帝に即位した
。1912年からの、バルカン諸国とオスマン帝国の間で第一次バルカン戦争が始まっ
ていたが、ルーマニアは中立を維持した。その戦後処理をめぐる対立で勃発した第二次
バルカン戦争では、ルーマニアはブルガリア王国に侵攻し、南ドブロジャを獲得した。
此処に停戦協定がなされてルーマニア王国成立し初代国王カロル1世の治世の破綻が始
まっていた。既にこの地区の自然破壊は、鳥の様に寄ってくる移民を受け入れる程の豊
かさを持ち得なかった。このバルカン戦争において、共産主義や無政府主義ははびこり
そこにきて ドイツは国家間競争で囲まれては人種の絶滅戦争に追い込まれた。それは
自らにウィルヘム2世が発した「フン族を絶滅せよ。」の合言葉を使った戦争からだっ
た。こうしたオスマン帝国の衰退と共に石油戦争が起こっていた事に日本人は知らない
事実があったのだ。日本に黒船来航した時既にアメリカ移民は多くの事を知り、国家の
形成に国際法を武力と妥協で作り上げ、クリミア戦争などの国家間の世界戦争を経験し
て凌駕していたのである。あの悲惨な世界を分けた第二次世界大戦の一方の戦争当事者
の最高責任者が、この始末である。狐につままれた様に、或いは狸に化けられたように
、日本は戦争にはまって行った。日本がこの戦争を合理的な作戦に基づいて、西洋的に
履行する可能性ははじめから低かったと言う事は誰もが証明できる。彼ら指導者は目的
も明らかではなく、また展望も持たない中で、やみくもに戦争に向かって突進し、挙句
の果ては強大な敵を前にしてあえなく敗退したというわけだ。だからといって、これを
笑い話として済ますわけにはいかないだろう。実際には、満州事変から支那事変を経て
全面的な戦争状態に陥った中国との関係の延長線上に、対米戦争をせざるを得ない羽目
に自ら陥っていった。というのが正直な話である。

1058: 名無しさんAA:17/12/19 00:56
謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 709----------

 では、果たして日露戦争以降この戦争が止められたのか、と言う答えは恐らく無理だ
った。と言うのが正解だろう。日韓併合以来こうなる事は確実であったと言える。何故
か。それはアメリカとの戦争が何を意味するか、と言う事に繋がる事だ。よくハリマン
の申し入れを受けて居ればない様な話がある。だがそれは全く違っている。そうなれば
今や日本人は日本語さえ話せない程の混乱した社会を呈していたであろう。民族壊滅の
撲滅主義者などと言う怖い思想が日本人には全くなくそうした事に対応できなかったか
らだ。それは少なくとも海軍の方は分かっていた。アメリカとの戦争は長期的に見れば
勝ち目はないし、かと言っておめおめ米国の言いなりには日本人が許さない。何故なら
近代的戦争は総力戦の形をとるのであり、国力において圧倒的な差があるアメリカに、
勝てる見込みがない。もしその可能性があるとすれば、短期間でアメリカを完膚なきま
でに叩き潰し、その戦意を喪失させ、他の国から調停されて中止を探る以外に方法はな
いからだ。米国の多民族国家の形態の醜悪さは死ぬほど見ていたに違いない。その意志
は攻撃的で国外に戦争を持ち込まなければ平和の保たれない社会であった事も知ってい
た。幸い海戦時点での戦力に限って言えば、日本はアメリカにまさるものを持っていた
し、短期的な戦争に終われば、つまりアメリカがあっけなく停戦なり休戦を申し入れば
、日本にも勝てる見込みがある。アジアの長として植民地解放に動くのは使命であり、
宿命でもあった。それは連合国のその長としての米国に対抗できる国は、既に当時何処
にもいなかったのである。だがそれは逆に悲劇的に調停者がいない事を意味していた。
つまり、国や民族が潰れるまで双方がもういいと言うまで戦い続ける事が宿命つけられ
た戦いだったのだ。考えて見れば戦後の戦争は常にそうした戦争である。シリア紛争を
見てもそうだ。NHKを始めとした日本のマスコミ全てが報道している「内戦の続くシ
リアでは・・」の枕詞のもと報道されている。しかし当初は「シリアの圧制者アサド政権
に対し民衆が立ち上がった」と、いい芙蓉花革命などともてはやされたが革命と言う物
がそもそもそうした国民からは可能なのだろうか。それは不可能だ。不満があっても一
国の政権を侵略なしに転覆させる行為は在り得ない。その国の政権以上の力なくしては
転覆するはずがないからだ。これは革命が下から起きるのではなく、上から落とされか
横から誘導させられるかで起こるものだからだ。ではそこに何があるか。それに支援が
ある。つまり自由化やら大国の利益やら国民の悲惨さへの救済など何らかの要因からの
軍事支援なのである。又大国の戦略と一致しなければ支援すらないのだ。この時日本は
革命の出来ない国内革命の最中だったのだ。

1059: 名無しさんAA:17/12/20 14:59
支援や援助の無い孤高の国際化の国内革命の最中だったのだ。


1060: 名無しさんAA:17/12/20 15:00
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 710----------

76年前、真珠湾攻撃が行われました。戦後書かれた日米の戦争に関する記述は、内外
を問わず、ほとんどが真珠湾事件から始まっています。ところが不思議なことに「なぜ
日本が真珠湾を攻撃しなければならなかったのか」についての因果関係が、全くと言っ
て良い程論議されていない。突然意味もなく、日本が国家意思をもって、ハワイにある
米軍の軍事施設である真珠湾を攻撃するなど、ありえないことです。さらに「米国は真
珠湾を攻撃されたから日本を懲らしめるために戦争をしたのであって、軍隊は暴力装置
であり、日本はその装置が暴走して無謀な侵略戦争を挑んだ。」とさえ書いているもの
もあります。しかし少し頭を働かせれば誰にでも解る程理屈に合わない。第一には日本
の軍隊とは大日本帝国の正規軍でそして日本はアジアで唯一国際連盟にいた近代国家で
す。その近代国家の正規軍は国家の意思がなければ動けませんし、動きません。どこぞ
の国の軍閥ならいざ知らず、一国の軍隊が何の理由もなく勝手に戦争を始めることなど
不可能な話だった。第二に、日本が米国に対する侵略意図があったのなら、真珠湾にお
いて、日本軍はほぼ無傷で米太平洋艦隊を壊滅させるという快挙を果たしたはずなです
。又ビッグチャンスに、そのまま米国本土まで攻撃に行かなかったのでしょうか。米国
本土とまではいかないまでも、どうしてハワイ全土やメキシコを占領しなかったのでし
ょうか。日本は、真珠湾攻撃で、米軍の艦船を攻撃しただけで、そのまま綺麗さっぱり
と引き揚げています。つまり、日本には「米国を侵略」する意図など、皆無であった。
ということである。第三に、戦争が何の脈絡もなく、突然はじまるものではない、とい
うことです。戦争には戦争目的があり、その目的を生むだけの経緯があるものである。

1061: 名無しさんAA:17/12/20 15:01
ということである。第三に、戦争が何の脈絡もなく、突然はじまるものではない、とい
うことです。戦争には戦争目的があり、その目的を生むだけの経緯があるものである。
米国の歴史家として有名なモーゲンソーは、「近代ではすべての戦争責任は敗戦国に押
しつけられる慣習になっている。」という。戦勝国で自国に都合の悪い歴史研究は喜ば
れないから。(モーゲンソー著『真珠湾』)しかしその事実さえ解っていた日本政府が
そのまま日米開戦に及んだのである。つまりは、意図的に隠されている事は当然だった
のです。そこで真珠湾攻撃をちょっと遡ってみると、知らない事実がぞろぞろと出て来
て驚くのである。開戦前11月には、ハルノートによる対日要求がありました。7月に
は、米国の日本資産凍結やABCD包囲網がありました。5月には、支那南部における
米陸軍航空隊の義勇軍を偽装した宣戦布告のない対日攻撃が行われています。それだけ
ではありません。昭和14(1939)年には、米国は通商航海条約を一方的破棄しています
。昭和12(1937)年には、支那事変が勃発しているのですが、このとき日本は、事態の
穏便な解決を図るために、日支講和のための仲介を米国に依頼していますが、米国は、
これを拒否して米国は日本と敵対する蒋介石に対し、15億ドルという途方もない大金
を与え、蒋介石にその後も継続して軍事援助を行う約束までしています。細かなことを
あげると、さらにもっともっと沢山の米国による工作活動がぞろぞろと出てきます。



1062: 名無しさんAA:17/12/20 15:03
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 711----------

米国政府は反日外交を繰り広げたのだ。戦前も今も日本の対米政策はまさに「友好」一
辺倒の世界観である。世界各国との対立を好まず、あくまでも相互の和を求めようとす
るのは、いま以上に経済的に国際化したばかりの日本外交の根本姿勢です。ワシントン
の桜は有名です。これは戦前に日本が日米友好のために贈ったものです。また米国産業
界にとっても日本は、貿易規模第三位の国でした。しかも他の諸国と異なり、支払いで
まったく問題を起こさない、まさに上得意先でした。日本の対米輸出は、現在と違って
生糸ぐらいしかなかった時代です。当然、米国の対日貿易収支は、大幅な黒字だった筈
です。にも関わらず、米国は牙をむき出し、次々と日本を追い詰ようとしたのである。
それだけなく戦争が始まると、無差別空襲し米国は日本に原爆まで落としました。同じ
第二次世界大戦でも、日本とともに連合国と戦ったドイツやイタリアには、原爆の投下
はされていません。イタリアに無差別空襲はありません。ドイツに原爆投下の計画さえ
ありません。けれど日本には、早くから原爆投下が計画されていました。ドイツ降伏前
に米国は、日本に非情な計画を既に立てていた。多くの高校や大学の歴史授業では日米
関係史において、パーセプション・ギャップ(誤解)が原因であったと教えています。


1063: 名無しさんAA:17/12/20 15:03
日米が互いに政策を誤解して戦争になったというわけです。しかしこれはおかしな話で
す。誤解があるなら、話し合えば良いだけのことで、すくなくとも日米開戦前までは、
ちゃんと外交ルートは確立していたのです。誤解などではなく、追いつめる意図がなけ
れば、そもそも戦争など起こるものではありません。ヘレン・ミアーズ女史は著書に、
「戦争前の外交記録を調べれば、米国が日本を一方的に圧迫したことは、誰の目にも明
らかである」と記しています。(アメリカの鏡日本)更に公けに発端の真珠湾事件に関
しては、日本にいたグルー大使が、日本が真珠湾を攻撃する準備をしているという警報
が、既に米国政府にもたらされています。それは、実際に攻撃が行われる前、十か月も
前のことで、日本の新聞でも御前会議の意向を色々推し測って書いてあります。さらに
米国は日本の暗号も解読していました。つまり米国にとって、真珠湾攻撃は「奇襲」で
もなんでもなく、既知の出来事だったということです。米国政府は、「日本が真珠湾を
攻めて来る」ことを知っていて、対する対抗準備をとっていたが真珠湾の駐屯艦隊には
知らせていなかったのです。簡単にいえば、真珠湾に駐留していた米国人の大事な兵士
たちを、米国政府が国家意思として見殺しにしたのです。砂漠の中の原子爆弾実験と同
じ様に。そうして米国は着々と、対日戦争を準備していました。そして奇襲攻撃と発表
し戦後で経過が明らかになっていても「奇襲攻撃でハワイがやられた。」と言う記述を
曲げません。



1064: 名無しさんAA:17/12/20 15:04
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 712----------

 「戦争が外交(国際戦略)の延長である」と言うのは、ドイツプロイセンの戦略家の
クラウゼビッツの言葉です。そしてそれが国際社会の常識なのです。ではなぜ米国では
反日運動を起こし日本叩きに終始し日系人収容所まで作りドイツのゲットーより酷かっ
たのか。その動機は何だったのでしょうか。その対日攻撃政策は、どこまでさかのぼる
のでしょうか。これについては諸説あります。黒船来航の時以上という説もあります。
私は白人の人種差別による黒人奴隷時代。即ちナポレオン時代までさかのぼると思って
いる。勿論「米国は満洲と中国大陸が欲しかった。」と言う理由も頷けます。「植民地
の放棄を要求したから」と言うのも頷けます。更に他の列強との競い合いがあったから
と言うのも頷けます。しかし「今日の現状」この一点で、米国の対日敵視政策の謎が解
けるからです。当時の米国は、白人の「植民地主義国」の一つです。アフリカにせよア
ジアにせよ、そこにあるのは蛮族のテリトリーであり、近代国家とは認識されてはいま
せん。その蛮族は、人でさえありません。猿の一部であり、ヒトモドキです。たとえば
「黒人は刺しても殴っても痛みを感じる神経を持たない」などと、真剣に信じられてい
た時代です。そして近代国家は、そうした蛮族を支配し、使役することが、世界の常識
となっていました。欧米諸国における当時の「民主主義」は、もちろん「人間は平等で
ある」というものです。けれどこれには但し書きがつきます。すなわち「有色人種は除
く」というものです。米国は、他の欧州諸国同様、アジアに植民地を欲していたのです

1065: 名無しさんAA:17/12/20 15:05
。米国の極東進出戦略は、明治32(1899)年のジョンヘイ国務長官の「支那門戸開放機
会均等」宣言に始まっています。米国は西部開拓が終わると太平洋に進出し、ハワイを
占領し、スペインから独立したばかりのフィリピンを武力占領して植民地にしました。
そして次の標的が清朝滅亡で統一政権が失われて軍閥が割拠していた支那満洲だったと
されています。日露戦争当時は、米国は日本に好意的でした。けれど、国際関係におい
て、そこには目的と利害があります。つまり国益がそこあるのです。しかしながら日本
人や日本国は、「人間として当然の好意で先進諸国の常識」と勘違いしていたのです。
日露戦争は、ロシアが満州全土を占領しようとしていた中にあったのです。そうなれば
、満州を米国が支配できる日は、まず永遠にやってきません。米国はロシアの南下を防
ぐために日本に手を貸したのであって、好意や共産対策だとか、そうした情緒的なもの
は、そこに一切関係がありません。日露戦争後、ポーツマス講和条約が交されました。
南満州鉄道の権益は日本に割り当てられました。米国はこれを取り上げるつもりであっ
て小村全権の帰国に際し、米国の鉄道王ハリマンが日本に対して、南満州鉄道の買収を
申し出ていて、それは揺るぎない歴史的事実で常識でとなっている。つまり米国は取り
たい物は取る。嘘ついても戦争してでも人を殺してでも国民に嘘をついてでも。と言う
国だったのである。



1066: 名無しさんAA:17/12/20 15:05
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 713----------

日本政府は、小村の意見具申によって、米国の申し出を断りました。するとこれを境に
、米国の対日姿勢がガラリと反日に転換しています。ハリマンの提案自体は、単なる一
企業のビジネス上の利益を求めた提案です。米国はそうした一部のエスタブリッシュメ
ントが政治を牛耳る国に変わっていたのです。満州は、米国本土から八千キロも離れて
います。そこに米国が直接介入することは、米国民をなだめてこれを正当化するのは、
難しいことです。そこで米国は、支那の軍閥をひそかに援助すると言う、対日条約違反
行為をやっています。日本は、何度も協定違反を米国に抗議しましたが、まったく放置
されています。米国の元外交官マクマレーは、大戦後の極東情勢を正確に予測しては、
日米戦争の回避に努めたことで有名な人です。彼は、「1920年代のワシントン体制
を一番守ったのは日本であった。」「これを破壊したのは米国であった。」と明確に述
べています。日本は、張学良の排日行為の激化により、昭和6(1931)年の満州事変で、
治安維持上やむをえない措置として張学良を満州国外へ追い出しました。すると、米国
は早速、スティムソン国務長官が満州国否認宣言を発表しています。昭和7(1932)年。
満洲にこだわっていた米国の意思がわかります。そして同年、米国は国際連盟を通じて
日本に、満洲の白人植民地宗主国による共同支配を要求しました。松岡全権は、これを
断固拒否して、国際連盟を脱退しました。松岡全権の国連脱退劇は、日本の軍国主義の
象徴などではなく、軍事力を背景とした横暴に対する、日本の国家意思としての抗議だ
ったのです。この後米国は、昭和7(1937)年、ソ連が蒋介石を使って支那事変を起こす

1067: 名無しさんAA:17/12/20 15:05
と、日本の講和仲介を断るだけでなく、反対に蒋介石に、当時のお金で15億ドル現在
価値で30兆円くらいという、途方もない金額の軍事援助を与えました。まさに火に油
を注いだのです。満洲獲得のために、先行して日本を戦争に駆り立て、日本を疲弊させ
ようとしたのです。また支那事変後にひとつ顕著になったことがあります。日本が占領
した地域では、中国人同士の暴力行為が禁止され、きわめて高いレベルでの治安が維持
されていたということです。このことの何が問題かというと、それまで中国社会の混乱
に乗じて、また外国の白人勢力と組んで暴力や麻薬の売買で大儲けをしていた中国のあ
る少数民族の利権が失われたということです。このことは、中国国民にとっては、とて
も良かったのだが、しかし、特殊な利権を失ったその一族にとっては、重大な利益喪失
事項だったのだ。その一族は、中国国民党にも、毛沢東の八路軍にも一族を送り込んで
いました。そして双方が戦ってくれれば、武器や弾薬を白人から調達し、そこでも大儲
けしていました。ところが日本がやってきて、彼の地に平和と安定をもたらしてしまっ
たわけです。つまり彼らにとっては、日本はまさに「憎むべき侵略国」でした。



1068: 名無しさんAA:17/12/20 15:07
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 714----------

そこでその一族が行ったことが、米国での反日活動です。彼らはその年のうちに米国に
上陸すると、昭和8年(1938)7月には、米国内で「日本の侵略に加担しない米国
委員会」という組織を立ち上げています。発起人には、YMCA北米同盟のマーガレッ
ト・フォルシスや、作家のヘレン・ケラー、パール・バック、『ネイション』副編集長
のマクスウェル・スチュワート、『アメレジア』編集長のフィリップ・ジャッフェ、や
元国務長官のヘンリー・スティムソンなど層々たる人物が名を連ね、理事長には元在の
漢口アメリカ総領事のロジャー・グリーン、事務総長には、元北京大学教授のハリー・
プライスなど、著名人がズラリと顔を揃えました。面白いことに、女性の方は別として
、男性の発起人や理事、あるいは彼らの用意したパンフレットに名を連ねた、60歳以
上の米国著名人男性たちは、いずれも20歳前後の中国の若い女性があてがわれていま
す。そしてこの「日本の侵略に加担しないアメリカ委員会」の主張は、その1年後には
米国内の主流派の意見となり、ルーズベルトは、こうした反日世論を巧みに利用して、
平和主義者を装いながら、実質的な対日宣戦布告ともいえる 日米通商条約破棄という
暴挙を実行しています。ChineseマフィアとChineseコネクションが手を結んだのです。


1069: 名無しさんAA:17/12/20 15:07
日本人は、テレビの影響もあってか、スパイというと裏方で工作活動をする忍者の様な
工作部隊の存在をすぐに想像してしまいます。しかし世界における一流のスパイと言う
ものは、実はきわめて有名な著名人で、大富豪であるのが世界の常識です。これは当然
のことで、影響力がなければ工作にならないし、工作する膨大な資金を賄い膨大な利権
を転がらせて分配しなければならないからです。ちなみに戦後においても米国政府要人
には、Chinese の若い女性があてがわれ続けています。誰とはいいません。調べれば、
いくらでも出てくることです。要するに国や政府に関係なく、Chinese なら一族の繁栄
、米国なら米国企業のスポンサー(株主)となって、米国経済を牛耳る人たちにとって
、日本よりも中国や満洲の市場の方が、おいしくて立派に見えたわけです。実際に付き
合ってみれば、お金は払わないし、約束は守らないし、とんでもない連中とわかるでし
ょうが。しかし、だからこそ武器を突きつけて言うことをきかせるのだし、そのための
武器がまた売れるわけです。日本人ではそうはいきません。日本人は約束を守るから、
武器を突きつけるわけにいかないし、そもそも武器を買ってくれません。逆にいえば、
いま日米関係が比較的良好なのは、日本が米国製の武器を買う顧客だからです。損か得
か、儲かるか儲からないか、彼らにはそういう視点しかないのです。又儲かる事が正義
であって、人気でありその為に人がどれだけ死のうが、彼らには関係の無い事として、
いつの間にか政府を乗っ取り変えてしまっている国だったのです。「清教徒の夢の国」
では無かったのです。


1070: 名無しさんAA:17/12/20 15:08
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 715----------

 ところが世界はもっと複雑だった。チャーチルの予測通りにソ連は原爆を気にしてい
なかった。昭和20(1945)年に日本が降伏すると、米国のお金持ちたちは、これで中国
大陸が手に入ると期待しました。米ルーズベルト大統領は、ヤルタ協定でスターリンに
帝政ロシアが持っていた支那利権を認め、スターリンが満洲を占領することも認めて、
しかる後に、その後蒋介石を傀儡政権に仕立てて、支那満洲を支配しようとしました。
国連加入にも中華民国を日本の代わりに入れました。そのスターリンは、権益を手に入
れると、あれほど堅く約束したヤルタ協定をあっさり破って、満洲を蒋介石ではなく、
毛沢東に渡してしまったのです。米国大統領特別補佐官アルジャー・ヒスは、ソ連の筆
頭の工作員です。米国政府内の厭戦気分を知っている。米国が、直接満州や支那に反撃
にでることはない、と踏んだのです。この結果昭和24(1949)年、支那満洲全土では、
勢いよく共産化し、米国は19世紀から営々と築いてきた支那の全拠点から追い出され
てしまいました。その上朝鮮半島にまで手を付けました。これについてはマッカーサー
も、「支那の喪失と共産化は、米国太平洋政策百年の最大の失敗である。」と総括非難
しています。要するに、日本の占領は、それ自体が米国の目的ではなかったことがここ
にわかります。米国の占領政策は、これを機会に、日本の武装解除から時を待たず自衛
促進にガラリと方向性が変わりました。もちろん朝鮮戦争への日本の参戦期待もありま
すが、一石が二鳥にも三鳥にもなるようなものが政策となるのです。そして米国にとっ
て、支那満洲進出が不可能になった以上、日本の占領は米国に何の利益もなく、却って
日本の国防代行が負担になってしまう事態となりました。そこで日本を早期に再軍備さ
せようとしました。ところが吉田首相は朝鮮戦争で、新たに編成された新日本軍が国連
軍の名で朝鮮半島に送られることを警戒し、詭弁を弄してダレスの再軍備要請を断りま
した。そして必要な人員は沖縄に移住させて米国民として派兵する事で折り合いをつけ
ました。こうして米国の外人部隊募集が戦後の新聞に載りました。その結果日米は安保
条約を結び、今日に至っています。ところがソ連は他にも次々に手を打ってました。一
つは国際金融機構についての協定である。「アメリカ合衆国ドルを基軸とした固定為替
相場制」であり、1オンス35USドルと金兌換によってアメリカのドルと、各国の通貨の
交換比率(為替相場)を一定に保つことによって自由貿易を発展させ、世界経済を安定
させる仕組みであった。アメリカはこれによりドルの基軸通貨の地位を得るがソ連でも
アメリカの「ゴールドラッシュ」の恩恵が無かった外貨に一定の通貨価値を持ったのだ


1071: 名無しさんAA:17/12/20 15:13
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 716----------

国際通貨基金(IMF)、国際復興開発銀行(IBRD)の設立を決定したこれらの組
織を中心とする体制であった。この協定は1929年の世界大恐慌により1930年代に各国が
ブロック経済圏をつくって二度目の世界大戦をまねいた反省によっているだけでなく、
第二次世界大戦で疲弊・混乱した世界経済を安定化させる目的があった。と聞こえはい
いが要はユダヤ資本のソ連への貸付の金の価値の清算だった。又革命で金額の乱高下し
貸した金がドイツの様な無価値の返済になる事を恐れたのだ。かつてはドイツの返済し
た国債が直ぐに無価値に近い紙屑になりウォール街に悲劇が起こったのである。この時
の返済はソ連も日本も平成まで続いていた。この体制はブレトンウッズ制による金本位
制とされたが、日本が真面目に復興し71年のニクソンショックが起こる事は既に英国
王立研究所などでは予想されていたのだ。早くからキッシンジャーは中東と手を結び、
ソ連を黙らせる事に苦心していた。1973年には本格的に変動相場制に移行し、ブレトン
・ウッズ体制は完全に終結した。もう一つはコミンテルンの世界会議と共に国際旅団と
言うゲリラ支援組織による後進国支援である。チェ・ゲバラは、「もし我々が空想家の
ようだと言われるならば、救い難い理想主義者と言われるならば、出来もしないことを
考えていると言われるならば、何千回でも答えよう、「その通りだ!」と。」答えてい
る。つまりあのチェ・ゲバラさえ共産党革命を望んではいなかった。ただ米英の抑圧か
らの解放にソ連の武器の支援を求めていただけだったのである。ソ連は抜け目なく米国
が自由主義や議会制民主主義を掲げるならいいだろう。我々も又自由主義とやらのその
自治に介入するまでだ。と言っていたのだ。ソ連がユダヤ資本で真の革命が更に覆えさ
えた経験を充分知っていて大量のスパイを全世界に送っていたのである。この事で固い
マッカーサーは、本国議会からは召還命令が出て昭和26(1951)年に更迭されました。
これも、彼の失政によるというより、国際情勢の中の赤軍の役割による変化だったので
す。マッカーサーが議会で大東亜戦争を日本が自衛のために行ったと述べたのは、個人
的な歴史観ではなく、米政府から指示されて日本の再軍備を促進するために行った発言
でもあった。彼の占領統治によって、軍事力恐怖症に陥った日本人を、あらためて覚醒
させるためのものでもあったが、この一強軍事力の恐怖は日本だけではなかった。原爆
を作った科学者達さえも、そうした米国ユダヤの傲慢に危険性を悟り早い段階で自ら進
んで情報をソ連に送っていた。こうなっては米国の極東政策の変更は仕方ない所となっ
た。日米戦争の原因や経過はユダヤ金融資本からは無に帰した。がそれでもユダヤにと
っては、全く損はなかった。それは米国紙幣と言う基軸通貨を手に入れていたからだ

1072: 名無しさんAA:17/12/20 15:15
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 717----------

 米国は表面的には大きく変わりましたが、自国の利益を追求すると言う意味では一貫
しています。以上の日米戦争の原因と今日にいたる経緯ではハザール帝国の国家思想が
何百年も続いていて、今やアメリカと言う地を得て寄生虫の様に牛耳っている事が解る
。戦前、米ソの傀儡であった蒋介石は、戦後米国から役割終了で一度は見捨てられた。
その後冷戦で関係が改善して蒋介石は言った。「米国という国は、それまでの関係にこ
だわらず、一夜にして百八十度の政策転換をする国であるから常に注意する必要がある
。」と。李登輝総統は1984年蒋経国により副総統候補に指名され、第1回国民大会の、
第7回会議選挙の結果、第7期中華民国副総統に就任した。蒋経国が、登輝を副総統に
抜擢したことについて登輝自身は「私は 蒋経国の副総統であるが、彼が計画的に私を
後継者として選んだのかどうかは、本当に知らない。しかし、私は結局彼の後を引き継
いだのであり、これこそは歴史の偶然なのである。」と言っている。だが彼の人生を見
ると彼は非常に真面目な中華民国の国民党を担うべき人材であった事が解る。と言うの
も彼は在住の客家の家柄で産まれ日本の建てた台湾大学を出て居る。その後日本の皇軍
に入り終戦で米国に行きロックフェラー財団及びコーネル大学の奨学金を得てコーネル
大学に留学している。同大学では農業経済学を専攻し、農業経済学で博士論文までだし
ている。要請で台湾に帰国するが帰国後間もなく、所属していた新民主同志會がその後
に共産党に吸収され共産党軍に入る。だが、「共産主義理論をよく理解しており、共産
主義は失敗する運命にあることを知っているので、共産主義には長い間反対していたの
で離れた。」とインタビューで言っている。全米農業経済学科賞を受賞し、1971年にコ

1073: 名無しさんAA:17/12/20 15:15
離れた。」とインタビューで言っている。全米農業経済学科賞を受賞し、1971年にコ
ーネル大学出版社から出版され博士号を受けていながら尚、1968年に台湾に帰国したの
は、日本の大学を卒業した翌1947年、二・二八事件が発生した時、登輝は台湾人および
日本人としての経歴から、この事件で粛清の対象になる可能性が高かったため、呉克泰
などの知人の蔵に匿われて出国していたからだった。呉克泰の証言では、登輝は台湾に
帰国後間もなく、彼の要請を受け、台湾大学教授兼農復会技正(技師)に就任していて
この海の物山の物とも解らない登輝を副総統にするのは誰もが反対だったが、蒋経国の
強い支持だった。この頃は日本人も国際関係の冷厳さを知り大いに国際的世論に訴えよ
うとする人達がいた。だが、福田や田中や中曽根と言った親中派と言われる人は何故か
この共産党中国と昔の中国とを勘違いして望郷の念や残留孤児の哀れさで見て居て国交
樹立に動き、台湾を捨てた。日本が一日も早く、真の独立自尊を回復しなければならな
いのは、あのユダヤ人と言われようとも救出する様な自由を持たなければならない。現
在の米国も、それを求めています。世界が、その日を待っているのです。

1074: 名無しさんAA:17/12/20 15:16
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 718----------

 ユダヤ人救出においては当時、日本はドイツと防共協定を締結していた為から、当然
ドイツから、また日本の外務省から猛烈な抗議が来た。対して東條は「当然なる人道上
の配慮によって行われたものである。日本はドイツの属国ではない!」と一蹴したが。
それから2年後の1940年7月から9月にかけてリトアニアの駐在領事代理の杉原千畝の
「生命のビザ」が6,000枚発行している。本の中では、著者は、「東條や、樋口、
安江、杉原によって救われて満州国に入国したユダヤ難民のうち4608人、が日本に入っ
てきた。上陸した港、敦賀の銭湯・朝日屋は無料で彼等を招待して入浴させた。苦難の
旅をしてきたユダヤ難民たちが、かれらにとって全く異郷の地であった。日本の人々の
親切心によって、どれほど慰められたことだったろうか、このような善意こそ国際瀬が
高いというべきだ」「杉原は日本においても、ユダヤ人を救った人道主義者として賛美
されている。それならば、どうして 東條や、樋口や、安江を同じように称えることが
出来ないのだろうか。私は東條や、樋口や、安江も同じように扱われるべきだと思う。
」「もし東條の名がゴールデンブックに刻まれていたら、国際的イメージが大きく変わ
っていたに違いない、そして世界中のユダヤ人から助命嘆願書が、マッカーサー元帥の
もとに寄せられたことだろう。そして連合国をひどく困惑させたに違いない」と結んで
いる。此処に贋ユダヤの存在がある。1920年代のソ連では、各地には自治共和国や
自治州など民族の自治行政単位が次々とそのまま創設された。ソ連国内には昔からあま
たの民族が共存していたが、ところがユダヤ人と他民族との違いは、本来は人種でもな
い宗教団体がユダヤ人と唱えた為にユダヤ人だけが土地を持っていない、ということで
あった。ソ連政府は、急速にユダヤ人に土地を与えるプランを練り、1928年3月に
「ビロビジャン計画」を決定したのだ。この為各地からシベリア開発民としてユダヤ人
が集められた。ソ連政府は政治的同情と経済援助を受けられることを期待し、「ユダヤ
人の歴史上初めて自分の故郷の建設、自らの民族国家の成就への燃えるような要望が満
たされた。」と大々的に誇大広告した。こうして「ビロビジャン計画」が宣伝されると
、入植者が殺到した。「ビロビジャン計画」に熱狂した者が、ポーランドやアルゼンチ
ン、アメリカからさえもやってきた。だが、それも始めだけだった。なにしろ寒い気候
、沢山の雨、沢山の虫、それに補償や補填はなく自前で家は木を切り倒して建てなけれ
ばならない時代だった、そこから撤退する者も沢山いた。

1075: 名無しさんAA:17/12/20 15:25
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 719----------

 この東に作られた「ユダヤ人自治州」=ビロビジャン共和国で、1939年の国勢調
査によれば、ユダヤ人自治州の人口10万9000人のうち、基幹民族たるユダヤ人は
1万7695人(16%)にすぎず、しかも大多数が都市部に集中していた。1928
年から1937年までの10年間で、およそ四十万三千人のユダヤ人がビロビジャンに
移民している。が、その過半数は短期間で立ち去ったことがわかる。だがそうして減少
するシベリア開拓民を補充する様に1937〜38年の大粛清やスターリン晩年期など
までに、「民族的偏向」の咎めを受け、弾圧された者を送り込んだ。ビロビジャンでは
ユダヤ文化が繁栄したが、自由に発展を許されたわけではなく、言わば公的農奴以下の
苦民の刈り出した、収容都市だった。当然年間10万人補充し10万人が逃げたり死ん
だりを繰り返して都市を形成して行った。1928年から日本が敗けた1945年まで
何らかの形でソ連の強制入植地から脱出した人達が、満州国と国境を接した ソ連の「
オトプール」で、吹雪のため立ち往生していた事件は早くからあったと言える。彼らが
、強制入植地のピロビジャンから満州里を経て上海へ脱出しようとしていたルートは、
実は少し遠回りだが近くの街ハバロスクに行って川沿いにハルピンに行かなかった為に
起こっているいた事だった。ハルピンに着けば鉄道があるので犬ぞりでハバロスクの川
に沿ってハルピンまで二日のルートだったのだ。その為の人の運搬屋がいたと言われて
る。実は私の叔父もそのルートで帰還している。イスラエル共和国では1967年6月
の第三次中東戦争以来、ヨルダン川西岸ガザ地区を占領し続けてその結果に、多くのパ
レスチナ人たちを国内に抱えるようになった。この為イスラエルの指導者達が、数十年
後にパレスチナ人達のほうがユダヤ人よりも多くなるのではないかと心配し懸念した。
その時声を掛けたのがソ連だった。シャロン国防相は、ソ連の軍高官と秘密理に接触し
ソ連のユダヤを受け入れた。1981年に開かれたイスラエルソ連の秘密会議では、ア
ラブ人口とユダヤ人口の逆転を防ぐため、ソ連政府による計画移住の出国ユダヤ人達は
、ソ連政府の発表で120万人にのぼるロシア系ユダヤ人を送り出している。1989
年から2010年の 11年間にイスラエルの西岸地区へ移民させることに同意したの
だ。この話からしてビロビジャンに送られたのはそれ以上の人数と思われる。即ち年間
5万人が日本や満州入りして来たと思われるのだ。この本にある「然しながら、満州国
が入国を拒否したため、進むに進めず引くに引けぬと、二進も三進もいかぬ状況に陥っ
たのである。」と言うのはちょっと考えにくく、そうした状況はドイツが敗戦しソ連兵
が駐留してからの事だったと思われる。

1076: 名無しさんAA:17/12/20 15:26
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 720----------

即ち満州人なりモンゴル人なら金さえあれば簡単にソ連から出てこれたと思えるからだ
。つまり金が無くハルピンで列車に乗れなかった人がいた。と言う事だろう。日本はソ
連とは終戦間際まで友好中立条約があった。つまりドイツに真似た収容所で管理しない
限り中国国内に逃げて来れたのである。現在もこの「ユダヤ人自治州」=ビロビジャン
共和国は、ロシア連邦極東地方に残る唯一の自治州として存在する。面積は3万600
0平方キロで、1995年現在の州人口は21万2000人。そのうちユダヤ人は70
00人以下しかいないという。我々日本人がシベリア鉄道と言えば一本の首都モスクワ
から、ロシア連邦東部のウラジオストクまでを繋ぐ鉄道である。と連想する。だが正確
には、この連想する本線と他にもう一本シベリアの中に並行して街を行くシベリア鉄道
の方がより使われている。正確にはバイカル・アムール鉄道通称バム鉄道である。シベ
リア第二鉄道とされ1880年代にシベリア鉄道が計画された時、バイカル湖の北側を通る
現在のバム鉄道に近いルートが挙がり地元は要望していた。しかし、この時期には国家
建設が急がれて最終的には、候補から外れてウラジオストックに早急に繋げる工事が、
優先とされた。元々バム鉄道の計画は、満州事変が起こった翌年の1932年にはソビエト
連邦により極東の防衛に備える目的で既に立てられていた。そして、東西両端から建設
が始められていた。しかし、かなりの難関工事であり、人員が第二次世界大戦の独ソ戦
が勃発するとそちらの方へと人員を注ぐため一時建設が凍結され、戦局がソビエト連邦
優位に転じたところで日本との戦争に備えるべく建設を再開して出来たものだ。この対
日参戦の直前に1945年7月末に、東部のコムソモリスク・ナ・アムーレからワニノ港ま
での一部区間をやっと運行を開始したが、その為に投入された労働者がユダヤ人だった
。樺太を対岸に要するワニノ港は間宮海峡に船をつける為の必要からアムール河畔都市
とやっと結んだ形だった。西部区間でも1947年にはタイシェト〜ブラーツク間はモンゴ
ルの北側の高地でー40℃の極寒で日本にやって来る寒波を作る所で此処に戦後日本人
抑留者が20万人が強制労働させられ鉄道輸送を開始している。その輸送は約3ヶ月と
言われている4ヶ月としても一ヵ月5万人である。先の太平洋航路が月2回4船会社の
8回の航路で一回1500〜2000人だった。仮に千人としても8千人が1ヶ月の移
動の民となる。一年で一万二千人である。1900年から20年間となれば16万人だ
それに1870年代から外国企業による運航まで入れ更に香港などの直行便ともなれば
かなりの数がアメリカの住民となったのだろう。

1077: 名無しさんAA:17/12/20 15:28
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 721----------

 このバム鉄道の建設にはシベリア抑留で捕らえられた日本人も多く使われ、犠牲者も
多く50万人が投降し従事させられ、何百人しか生きて日本の地に帰れなかったという
。しかし、ヨシフ・スターリンが1953年に没すると建設工事は中止され、その後はソビ
エト連邦の投資方針が変わったこともあって残りの部分は長らく建設されないままであ
ったが建設が再開されるのは、中ソ対立によりダマンスキー島事件(珍宝島事件)など
が起こり再び極東の軍事強化が必要とみなされるようになってからだ、1960年代後半で
あった。特に中国国境に近いシベリア鉄道の代替路線として戦略的に重視されている。
このバイカル・アムール鉄道は、今や繋がりロシア連邦東部のシベリア地方にある鉄道
路線。略称バム鉄道シベリア鉄道との分岐点イルクーツク州タイシェトからバイカル湖
の北を通り、日本海沿岸のソビエツカヤ・ガバニへ至る約4,32kmを結ぶ。先に開業して
いたシベリア鉄道よりも600kmから700km北を並行するルートを進むため、第2シベリア
鉄道としてかなりの極寒の地を走る。このルートは騎馬民族から逃げたロシア人居住地
の村を巡っているのだ。逆に最初のシベリヤ鉄道は騎馬民族と定住者のその境界沿いに
ある。騎馬民族とされテュルク系モンゴル民族と言われ 中国に万里の長城を作らせ、
ボルガのほとりを火の海にして、ウラル土民に蛮族と言わせ、エルサレムでガラテヤ人
と言われたは一体誰なのか何のか。テュルクが→トルコになったのまでは解る。だが、
日本で突厥(とっくつ)、鉄勒、ウイグル(回吃音)、カルルク(葛邏禄)、バスミル
(拔悉蜜)、沙陀族などを一括りにした呼称」としている元騎馬民族でフン族と言われ
雇用兵の国家ハザール王国とは一体何のだ、このユダヤ教に改宗した人達は白人ではあ
るが欧州ギリシャ人でもない。タタール人とされゲルマン人とされ右に左に国家破綻を
招いては次に移る。まるで砂漠のイナゴの様に。確かにDNAではGやJ1はトルコを
中心にある。ではトルコ人の祖先は一体何処にあるのだろうか。この騎馬民族の王国に
アッティラと言う幻の王朝がある。この王朝(Attila、406年 - 453年)は フン族と、
その諸侯の王で構成される。中世ドイツの「ニーベルンゲンの歌」などの叙事詩では、
エツェルの名で登場している。現在のロシア・東欧・ドイツを結ぶ大帝国を築き上げ、
西方世界の「大王」を自称した。またローマ帝政末期に広がっていたキリスト教の信者
からは「神の災い」や「神の鞭」と恐れられた。出自についてはフン族全体と同じく詳
しくは分からないが、名前や風貌の伝承などからテュルク・モンゴル系民族に属すると
思われている。

1078: 名無しさんAA:17/12/20 15:35
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 722----------

 つまり日本人は「ユダヤ人自治州」=ビロビジャン共和国の中をユダヤ人と称しては
、次々と国境を超えて押し寄せて来て、中国大陸に居つき或いは米国に行った人は誰な
のか。日本人は全く知らないままに、中国駐留やアメリカ移民として扱っていたのだ。
アッティラは兄弟さえも手にかけて権力を手にした極悪非道な男… のようにイメージ
される。それは、フン族自身が記録を残さず、文字による証言が侵略側に因るからとも
言える。敗戦に敗戦をかさね、和睦のための高い金を支払わされていたローマ側からは
、フン族を良く書く理由は全くない。フン族は確かに、ローマを引っ掻き回し、多くの
小国を叩き潰した。その記録は正確だ。フン族の支配下に置かれ、ローマから分捕った
金で豊かに暮らせた少数民族もいたがそれは一部に過ぎない。時代的に彼らはもしかし
たら、アッティラを恩人か主君として崇めていたかもしれない。「ニーベルンゲンの歌
」や、「エッダ」の中のエピソードは、物語は最初、民間口伝として発達していった。
それを物語にしている。残されている物語では、全ての人民がアッティラを悪く思って
はいない。ちなみに「アッティラ」とは、「おとっつぁん」のような意味の親しい言葉
で、本名ではないらしい。本名は分からない「おとっつぁん」と呼ばれていた大王なら
、意外に慕われていたかもしれない。歴史ではフン族は突如として西洋世界に現れた「
野蛮人」である。ゴート族も易々と破る騎馬民族だ。文明を知らぬフン族は、人馬一体
となり、獣の群れのように押し寄せた。それはあくまでローマ側の言い分ではあるが。
そもそもフン族に歴史を記録した文字も伝承も見つから、最初に記録に現れるのは37
5年の頃だ。突然、東のほうから押し寄せて、あっという間に東ゴートの王国を破り、
その勢いで突然東ローマにも押し寄せた。最初の激突で死亡した東ゴートの老王の「エ
ルマナリク」の悲話から始まる。以降、東ゴート族は征服され他の部族同様に、フン族
の下について戦いの先頭に参加する事となる。物語の中で、東ゴートの王・ディートリ
ッヒが客としてアッティラの元に居たのは、東ゴート族がフン族の元に身を寄せていた
という時期があったからだろう。ただディートリッヒ自身は、アッティラが死んだ後に
生まれている。アッティラが登場するのは434年。以降、453年までの19年間、王位にあ
った。フン族の王国は、アッティラ大王のもとで最大に達する。一度など、はるばると
フランスのオルレアンまで遠征している。迎え撃ったのは西ローマ軍と、スペインあた
りに住んでいた西ゴート族だった。ブルグント族などと連合軍を組んで戦った。

1079: 名無しさんAA:17/12/20 15:35
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 723----------

 この戦いによって、西ゴートの王テオドリックは死亡している。また、ハンガリー、
イタリアにも進軍したが、教皇レオ一世が介入して、とりあえずローマからは退かせて
いる。なお、このときヴェネト地方の人々が建造を開始したのが今のヴェネツィアの町
だったという。この運河の街を作る技術の高さは何処にあったのか不思議な事だ。そう
した遠征を繰り返したのち、東ローマに攻め入ろうとした矢先にアッティラは急死する
。偉大なカリスマを失ったフン族の帝国は、これにより崩壊。やがて四散霧散して消え
ていった。これも不思議なものだが突然にこの帝国は無くなったのだ。アッティラの死
は突然だったが、その状況もまた特別だった。王は、妻に迎えた西ゴート族の王女の、
ヒルディコとの初夜の床で死んだのだ。彼女による暗殺なのか、それとも単なる病死な
のかは知る術はない。ただ歴史上は、「血まみれになった王の側で、若い娘が1人泣い
ていた」とのみ伝えた文書が残っている。おそらく無理な生活がたたっての死だろうが
、伝え聞いた人々はそうは思わなかったらしい。「神の鞭とまで呼ばれた絶対的な王者
、誰ひとり止めることの出来なかった男が、か弱く若い小娘によって殺されたかも知れ
ない」として謳われる。このドラマチックな出来事を原型として、人々は無限の想像力
を羽ばたかせ、物語として語り継いでいく。驚異的な王アッティラの死には、エルマナ
リク王と同じく、美女による報復死の噂が死の直後から絶えなかったようだ。しかし、
60過ぎのジジィが若い花嫁もらって、初夜の床で鼻血出して死ぬとか言うのは、全く
何処まで欲情のある爺いの話なのだろうか。アッティラが実に欲深い人間的人物だった
。と言う事なのか。そこは人の胸に刺す人生の終焉である。又フン族�ア奴、という説
は定説ではなく、実際には証拠や確証がほとんどない、曖昧な話ではある。匈奴は、主
に中国の漢の時代に名をはせ、一時は首都にも迫るほどの勢いを持っていた遊牧民だ。
ちょうどフン族が東西ローマ帝国を追い詰め、ローマの町まで迫っていたのと同じよう
に。勢いを持っていた時期に周囲の少数民族を従え、一大帝国を築いたものの、短期間
で崩壊し四散していく仮定もそっくりである。しかし、それは同じ騎馬民族だからとい
う類似点に過ぎないのかもしれない。フン族が、東のどこかからヨーロッパにやって来
たかは不明だが、アジア系の民族だというのは間違いない。しかし、それ以上のことは
分かっていない。フン族自身、自分たちの歴史を知らず、定住地を持たず、特徴的な風
習や文明も持ってない。こうした人々の痕跡は、遺跡としても残らない。足取りは辿れ
ない。スキタイなどは、特徴的なアクセサリーや墓があるのだが フン族は全く不明だ

1080: 名無しさんAA:17/12/20 15:36
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 724----------

不思議なのは、フン族が、東のどこかからヨーロッパにやって来たアジア系の民族で、
同じ時期に、匈奴の一部が漢との接触を断って西へ消えてから、フン族が突然現れるま
で、約200年間の空白がある事だ。漢と駆け引きをし、堂々たる国を築いた匈奴は高
い文化水準を誇ったはずだが、嵐の如く東ゴートの国に押し寄せたフン族と同じにそれ
が無かった。もし匈奴=フン であるならば、空白の期間に、彼らは一度手にした文明
を「失わなくては」ならないのである。更に何故か水の都ベネチィアを作り上げる能力
を持っていた。あの水辺でどうしようもない海辺の沼地に石を積み上げた建物を作った
のだ。匈奴の一部が「西へ」消えたこと、消えた時代は確かにフン族の到来より前の事
だが、同じ騎馬民族ということもあり、フン族とイコールで結びたい気持ちは分からな
くも無いが、それはあくまで状況証拠。具体的に匈奴とフン族の間に共通する文化が何
も見つからないのでは、今の段階では別物と言うしかない。東ゴートのディートリッヒ
の原型の、テオドリクの祖先はたまたまフン族の進軍する場所にいたために、最初に、
フン族の急襲を食らってフルボッコにされたのだが、彼らと対峙していたローマにとっ
ては「今度はアイツらをどうやって懐柔しようかな攻めてこられるとイヤだなあ。」と
思っていた矢先、いきなりその強敵が、何処からともなくやってきた新参者に敗北した
のだからビックリだったろう。375年、東ゴートの国はフン族の急襲によって陥落。
しかし、この事件は、特別な意味を持って時の詩人達に語られた。勇ましきゴートの王
エルマナリクは、戦いによって命を落としたのではなかったからである。エルマナリク
は、伝説によれば110歳。フン族の押し寄せる中、彼は、城の中で血まみれになって
息絶えていた、という。自殺とも、暗殺とも言われる。その真偽を確かめることは今や
不可能だがこの老王を賛美している。また物語は、朽ちた羊皮紙の間から鮮やかに語り
続ける。猛き王の命を奪った争いには、美しき姫君スニルダの処刑と、その兄弟たちに
よる報復があったのだ、と―― 当時、ローマにとって蛮族であり、手におえない存在
であったゴートの国の、あまりにあっけない滅亡。この出来事は、その後の百年も衝撃
的な出来事として語り継がれ、それを成し遂げたフン族とは、文明国にとって、もはや
悪魔以外の何者でもないと思われた。「文明とは、略奪すべきもので決して身を浸すも
のではない。」と言う司馬遼太郎氏からこの言葉を借りるならば、フン族の戦士ら異邦
人としての使命である破壊と強奪を欲しいままにしていたと言う事なのだろうか。

1081: 名無しさんAA:17/12/20 15:37
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 725----------

ところが、それより古いガリア戦記によれば同じ様な話が別の形で出て来る。ガリア・
キサルピナは現在で言えば、北イタリアで、その名の通りガリアのこれより北は他の国
だった。従って他を知るには遠征に行くしかない。として進軍する話だ。「アルプスの
向こう側のガリア」はガリア・トランサルピナ、と言われトランサルピナよりさらにも
っと北側のガリアはガリア・コマタと呼ばれそこまでしか知られて居なかった時代だっ
た。このギリシャ社会の中で北の境界線はアルプス山脈で、南はアルノ川とルビコン川
を結ぶ線で遮られていた。よく戦いにルビコン川を渡ったと言うのはこの川の事だ。ポ
ー平原を主な区域で属州の首都はムティナ(現モデナ)があった。紀元前58年に、ガ
リア・キサルピナの総督となったカエサルはガリア・キサルピナを拠点にしてガリア戦
争へ乗り出した。ガリア・キサルピナは紀元前43年から42年頃にオクタウィアヌス
によってイタリア本土へ統合されていた。その時にスペインをスパニア人としイギリス
をブリテン人フランスにブルゴー人など称していて、ウォセグスの戦いではガリア戦争
中紀元前58年にスエビ族出身のアリオウィストゥスが指揮を執るゲルマニア人とガリ
ア総督ガイウス・ユリウス・カエサル率いるローマ軍の間で行われた戦いを描いている
。ゲルマニアは、古代ローマ時代の地名で、おおよそライン川の東、ドナウ川の北の地
域を指し、現在のドイツ、ポーランド、チェコ、スロバキア、デンマークとほぼ重なる
一帯と思われる問題の地だ。紀元前の時代に既にゲルマン民族と呼ばれていたのである
。なお、中世前期ゲルマニアの諸地方のうち最も広い地域を占める東部のスラーヴィア
地方(ポーランドを中心とした一帯)では、中世やそれ以前の欧州において「ゲルマン
人」はゲルマン語諸部族の外ゲルマニアの東部地方に住むスラヴ語諸部族の両方を意味
していたことを示唆している。此処に原点を見る。つまりガリア=イタリアでありなが
らドナウ=ドイツでゲルマニア=スラブ地方だったのだ。古代のペルガモン王国やアッ
タロス朝ペルガモン=ベルギーなどあったのだ。その中にトラキアと言う国が、バルカ
ン半島南東部の歴史的地域にあったとされる。現在は3か国に分断され、西トラキアが
ブルガリアの南東部とギリシャ北東部の一部に、東トラキアがトルコのヨーロッパ部分
となっている。つまりトルコ=トラキアだった。ではこのユリウス達が何故かその北や
東の地に遠征にいかなかったのか。何故西の遠征を止めたのか。それが騎馬民族サルマ
タイの恐怖があったからとされる。つまりゲルマン民族大移動など出ては来ない代わり
に「サルマタイの恐怖」の伝説がでてくるのである。

1082: 名無しさんAA:17/12/20 15:52
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 726----------

サウロマタイは、紀元前7世紀末頃からウラル南部部族が紀元前4世紀頃東方から移動
し、遊牧民が加わって形成されたとされる。ウラル南部〜黒海北岸にかけて活動した、
イラン系遊牧民集団といわれ黒海北岸をちなんでサルマティアと呼んだいた。サルマテ
ィア人とも呼ばれ、古代の黒海北部に住んでいたイラン系部族連合で、紀元前5世紀に
ヘロドトスがスキタイ人やアマゾン族の末裔として初めて紹介している。2世紀のゴー
ト族出現まで存在していたとされ、歴史記述が様々に切り貼りされた結果、ポーランド
を築いたポラン族(ポラニエ)は古代サルマタイ人の子孫であり、このアジア起源の好
戦的な部族が北東ヨーロッパに移住したという伝説がつくられていた。サルマタイは、
トルコが起源ともされて、アマゾン族の末裔とされる。アマゾネス社会は母系社会で、
兵士としては男女雇用し、女性は乳房を邪魔になる為切り落とした社会であったとされ
ている。サルマタイはギリシア語であり、ラテン語ではサルマタエとなる。不思議にも
「マタイによる福音書」は、イエスがキリスト(救い主)であり、この系図によれば、
これこそがユダヤ民族の父と呼ばれているアブラハムの末裔であり、またイスラエルの
王の資格を持つダビデの末裔として伝えられる。イエス理解の中では、ユダヤ人キリス
ト教徒を対象に書かれた。伝承では最初アラム語で書かれ、ギリシャ語へと翻訳された
とされている。がしかし、「マタイによる福音書」がアマゾネスのアラム語で書かれた
なら、シリアなどには他にもよく読まれた「ヘブライ人の福音書」などがあったろうが
、「マタイによる福音書」だけが飛び越えて西方で受け入れられている。ギリシャ語の

1083: 名無しさんAA:17/12/20 15:52
、「マタイによる福音書」だけが飛び越えて西方で受け入れられている。ギリシャ語の
古い版を見ても、翻訳らしいことはほとんど見つけられていない。つまりアラム語族の
アラム語の「マタイによる福音書」はイスラエルでは発見されていないのである。これ
は不思議でマタイがユダヤ人を対象として福音書を書いたとはいえ、福音書が書かれた
頃にヘレニズム世界に住むユダヤ人の多くにとって、もっともなじみ深い言葉には、ギ
リシャ語で、特にエジプトのアレクサンドリアのユダヤ人共同体は世界最大規模であっ
たが見つからない。例外的にエルサレムがあり、そこではさまざまな文化的背景をつユ
ダヤ人達が暮らしたが、アラム語が共通語となっていたと言われる。だがユダヤ人対象
に書くにしろあえてアラム語で書く積極的な理由が無かった。そう考えるべきなのか、
初めからギリシャ語で書かれていた。新約聖書冒頭のマタイ(紀元85年までに成立),
マルコ(紀元65〜70年頃),ルカ(紀元80〜150年頃),ヨハネ(紀元100年頃)の4福
音書は成立年代が異なる。新約聖書の成立過程でこのような並び順になった理由ははっ
きりしては居ない。年代から言えばマルコによる福音書が最も古いとされるが、ヨハネ
を除く3福音書は共通部分が多く、聖書学によっては共通部分を「共観表」としてまと
めているところから「共観福音書」と呼ばれている。



1084: 名無しさんAA:17/12/20 15:53
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 727----------

トルコ近くの考古学では、ガラティア王国やポントス王国が出て来る。ポントス王国は
紀元前 281年〜紀元前64年の現在のクズルウルマク川が発祥の地だ。当初アケメネス朝
のペルシアの属国的な位置として出現した。古代文字の解読でペルシア系の王朝として
、ミュシアにあったギリシア都市キウスを治めていたアリオバルザネス1世やミトリダ
テス2世が初期の王として出て来る。ディアドコイ戦争ではアンティゴノス1世に服属
し、アンティゴノスの戦死により、ミトリダテス2世は紀元前 281年にポントス王ミト
リダテス1世と称して、独立した。ディアドコイ戦争は後継者戦争で、アレクサンドロ
大王が急逝後、その配下の将軍たちが大王の後継者(ディアドコイ)の座を巡って繰り
広げた戦争とされる。アレクサンドロス大王死去直後の紀元前323年から、紀元前281年
の間に大戦争になりコルペディオンの戦いの勝利によりセレウコス朝シリアが一時的に
覇権を確立するまでの実に40年の闘争が繰り広げられる。紀元前323年6月に、ア
レクサンドロス大王はついに後継者を明示せずバビロンで死去する。熱病によって臨終
の床にあった言葉は「最強の者が帝国を継承せよ」というものであった。この為皮肉に
もこの言葉はディアドコイ戦争の動機かつ最終目標として内紛になった。後継者の候補
とは王妃ロクサネが身ごもっていた赤子と側妾バルシネが生んだ庶子ヘラクレスがいる
のみであった。この為マケドニアの貴族、軍人たちは一斉に集って大王死後の国家体制
を話し合うことに決して会議をバビロンで開いた。会議の場では将軍ネアルコスがヘラ
クレスを推したが賛同者は全く無かった。将軍メレアグロスが大王の異母兄弟アリダイ
オスを推し、大貴族ペルディッカスはロクサネの出産を待つべきだと主張した。エウメ
ネスの仲裁もあってか彼らは妥協し、アリダイオスをフィリッポス3世として即位させ
ペルディッカスが後見人となり、ロクサネの子が男子であるならば彼を共同統治者とす
る。と決定した。やがてロクサネが産んだ子は男子であったため、このアレクサンドロ
ス4世とフィリッポス3世が共同統治者となった。そしてペルディッカスがアレクサン
ドロス4世の、また声望の高かった将軍クラテロスがフィリッポス3世の後見人にそれ
ぞれ就任し、将軍らは領内各地に太守として封じられる。二人の新王のうちフィリッポ
ス3世は精神に障害があり、アレクサンドロス4世は未だ幼少であったためペルディッ
カスは事実上の最高権力者の座に就いていた。会議終了直後に反抗の兆しをみせたメレ
アグロスとその一派三百人を処刑するなど当初からこの権力基盤には磐石とは言い難い
内紛状態にあった。

1085: 名無しさんAA:17/12/20 15:54
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 728----------

ガラティア王国はアンキュラ(現在トルコの首都アンカラ)を首都とし、北はビティニ
アとパフラゴニア、東はポントゥス、南はリュカオニアとカッパドキア、西はフリュギ
アに接する。フリュギア東部とともに、ヨーロッパから侵入したガリア人(ガラティア
人)に支配され、ガラティアの名もガリア人にちなむ。彼らは紀元前3世紀に支配者に
なった。このガリア人たちは、当時トラキア・マケドニア・ギリシアに侵入した人々の
一部であるとされる。このグループは紀元前279年、トラキアに移住し、彼らはさら
に紀元前278年から翌年にかけアナトリアに現れた。これはビティニアの王位争いに
引き入れられたものであるが、その後も彼らは勇猛な戦士として尊重され、ペルガモン
王国などアナトリア諸国をめぐる戦いに傭兵あるいは同盟軍としてしばしば参加する。
彼らは約1万人の戦士、およびその家族などからなり、3部族に分かれていた。マケド
ニア・ギリシアに侵入したグループはまもなく敗走し撃退されたが、アナトリア中央部
に移住したガリア人は、もとのフリュギアの東部に定住し王国を建て、ここがガラティ
ア国と呼ばれることになった。紀元前2世紀初めには、セレウコス朝のアンティオコス
3世に同盟するが、シリアの戦争でローマに敗れた。これ以降軍事力が低下し、しばし
ばポントゥスに屈服するが、ポントゥス王ミトリダテス6世の時代に反抗し、ローマを
支援して解放される事になる。紀元前64年にローマの同盟国(属国)となり、旧王国
は解体されて3人の部族長が支配した。しかしまもなくその中の1人のデイオタルスが
支配者となり、ローマからも王として認められた。こうしたローマ以前の前史時代から
のスラブの戦いの続きに巻き込まれ、こうした古代から続く戦争の歴史がまさか日本の
世界大戦に続いているとは、思いもしなかった日本人が多い。又それは戦争当事者天皇
も同じ様に思っただろう。いやユダヤを調べた東條や、樋口や、安江も同じ様に思って
いたといえる。誰もその頃に、米国の金を調達したユダヤ金融が裏にいて、あのヒット
ラーが憎んだ様に民族間の永年の恨みや裏を思ったりはしてはいないだろう。それでも
日本の日露大戦に融資した事は事実であり、ドイツと同盟しユダヤ闘争の中心に躍り出
た事実は変えられない。ただソ連の共産党政権での融資を知った情報通であったなら、
別だろう。明石機関は革命時にその行為の馬鹿さを嘆いた。そして安江などのユダヤ民
の探索に同意した。彼らが何処までこのユダヤの真相を探り当てたのかは不明のままだ


1086: 名無しさんAA:17/12/20 15:56
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 729----------

西アジアの歴史をひもとけば、メディア王国というのは、イランの北西部のザクロス山
脈の山岳地帯から興り、紀元前7世紀頃には、イラン・アッシリア・カッパドキア・バ
クトリアをも領した広大な王国の名前である。メディア人は、もともとは南ロシアのス
テップ地帯で半農半牧の共同生活を営んでいたが、次第に南下して、オリエント世界に
進出してきたイラン系民族の一部族であり、後にペルシャ帝国を築いたペルシャ人とは
極めて近縁の部族である。メディア人たちは、紀元前14〜15世紀頃にはザクロス山
中に住んでいたが、紀元前8世紀に現れたダイウック(ギリシャの歴史家ヘロドトスが
伝えるディオケス)が、メディア人諸部族を統一し、エクバタナ(現在のハマダン)を
都とし、メディア王国の基礎を置いた。しかし、その頃、オリエントはアッシュルから
興り巨大な版図を擁した軍事帝国アッシリアの支配下にあり、そのため、メディア王国
もアッシリアの一つの属国に過ぎなかった。ダイウック (ディオケス) の跡を継いだ
フラオルテスは東に南に王国の拡張を図るが、戦場で命を落とす。その子キュアクサレ
スは、紀元前612年、大帝国アッシリアの都ニネヴェを、カルデア王国(新バビロニ
ア)と共同で襲撃して陥落させ、遂に、アッシリアを滅亡させる。こうして、オリエン
トは、メディア・カルデア(新バビロニア)・リュディア・エジプトの4つの王国の併
立の時代を迎える。そして、メディア王国の領土は、現在のイラン・アフガニスタン・
パキスタン西部・トルコ東部にまたがるものであった。しかしやがて、王国の東南部パ
ルサの地にいたペルシャ人たちは、アカイメネス家を王にいただき、次第に王国を形作
ってゆく。その4代目のカンピュセスはメディア王家の王女マンダネを王妃に迎え、そ
の間にキュロス二世を儲ける。そのキュロス二世が紀元前550年、祖父の国メディア
を戦いに破って併合してしまい、ペルシャ人の独立を獲得したのみならず、さらに、こ
れを契機として、またたく間にリュディアを滅ぼし新バビロニアを滅ぼし、エジプトを
除くオリエント世界を征服し尽くして、古代史上最後にして最大の帝国の基礎を築いた
のである。このようにして、メディア王国は史上から姿を消し、メディア人たちも、同
じイラン系民族であるペルシャ人の中に吸収され一体化してしまう。いま、メディアと
云う言葉を口にする時、この古代オリエントに栄えたメディア王国を連想する人が、ど
れ程いるのであろうか。

1087: 名無しさんAA:17/12/20 15:59
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 730----------

サルゴン2世はその紀元前7世紀頃の紀元前700年の新アッシリア王国時代、その絶
頂期を統治したアッシリア王の一人である。アッカド語ではシャル・キンと表記され、
「確固たる王」を意味する。なお、古アッシリア王国時代のサルゴン1世に対する2世
であり、アッカド帝国創設者のサルゴンに対する2世ではない。彼はティグラト・ピレ
セル3世の息子として生まれ、紀元前722年にアッシリア王位についた。かつては、
彼が王位を簒奪した新王朝の創設者であったという説が唱えられたが現在では主流派で
はない。しかし、彼が王族の人間であったとしてもその即位名でわざわざ「確固たる王
」と称するなど支持基盤が、脆弱であったことを窺わせる節があり、即位すると寺院や
有力者の歓心を買うために、減税処置を行うなどの無数の努力を強いられたと言われて
いる。彼の即位直後、メロダク・バルアダン2世がエラムの支援の下でバビロニア王に
即位し、アッシリアから離反した。紀元前721年の事だ。更にシリアの諸王国も連合
してアッシリアに離反した。この困難な事態に対し国内情勢からか、サルゴン2世はこ
のメロダク・バルアダン2世のバビロニア王位を認め、彼との和平を締結したのだが、
それはその後のサルゴン2世を悩ませ続けた。だが決意して、シリア地方への遠征に乗
り出し紀元前721年にはイスラエル王国を滅ぼして後に、その上層民を帝国各地に 
強制移住させ、他の地方の住民をイスラエルに入植させた。こうして西方での反乱を鎮
圧した後、紀元前710年にはバビロニア支配権の奪還に乗り出し、迎え撃つメロダク
・バルアダン2世を敗走させた。敗走したエラムへと逃れ、バビロン市はアッシリア軍
によって占領され、サルゴン2世がバビロニア王に即位した。紀元前720年の戦いに
は東のエラムともデルで戦っている。この戦いの記録ではアッシリア、エラム双方とも
に勝利を主張していて詳細は不明であるがバビロニアの年代記にはエラムの勝利として
記録されている。メロダク・バルアダン2世はエラムの庇護を受けて機会を待ち、サル
ゴン2世が紀元前705年に死去するとバビロンに再び進軍しアッシリアの新王センナ
ケリブは再びバビロニアを支配下に置くべく軍を差し向けキシュ平野で激突したが、バ
ビロニア軍は敗走した。メロダク・バルアダン2世は戦いの最中、戦車や馬などを置き
去りにして逃走し、センナケリブは彼を追撃したが湿地帯に逃げ込んだメロダク・バル
アダン2世はアッシリア軍の追撃を逃れ再びエラムに身を寄せた。


1088: 名無しさんAA:17/12/22 15:06
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 731----------

聖書ではヒデキヤ書でこう伝えている―‐‐そのころ、バラダンの子であるバビロンの
王メロダクバラダンは、手紙と贈り物を持たせて使節をヒゼキヤにつかわした。これは
ヒゼキヤが病んでいることを聞いたからである。ヒゼキヤは彼らを喜び迎えて、宝物の
蔵、金銀、香料、貴重な油および武器倉、ならびにその倉庫にあるすべての物を彼らに
見せた。家にある物も、国にある物も、ヒゼキヤが彼らに見せない物は一つもなかった
。その時、預言者イザヤはヒゼキヤ王のもとにきて言った、「あの人々は何を言いまし
たか。どこからきたのですか」と。ヒゼキヤは言った、「彼らは遠い国から、バビロン
からきたのです」。イザヤは言った、「彼らはあなたの家で何を見ましたか」。ヒゼキ
ヤは答えて言った、「わたしの家にある物を皆見ました。私の倉庫の内には、私が彼ら
に見せない物は一つもありません」。そこでイザヤはヒゼキヤに言った、「主の言葉を
聞きなさい、『主は言われる、見よ、すべてあなたの家にある物、及び、貴方の先祖達
が今日までに積み蓄えた物は、バビロンに運び去られる日が来る。何も残るものはない
であろう。また、貴方の身から出るあなたの子供達も連れ去られ、バビロンの王の宮殿
で宦官となるであろう』」と。ヒゼキヤはイザヤに言った、「貴方が言われた主の言葉
は結構です」。彼は「せめて自分が世にあるあいだ、平和と安全があれば良いことでは
なかろうか」と思ったからである。(口語訳聖書:列王記下20章12-19節)とある。が、
この聖書は歴史の後に作られた可能性が高い。つまり毛沢東と同じくあった事を後の世
で予言が当たった、神の言葉通りになった。として書いたか又は歴史書として書かれた
と言う事である。「サルゴン王朝」は一般にアッシリア王による王碑文は前任者に言及
するものであるが、彼の王碑文ではそれが見られないため、彼が簒奪によって新王朝を
建設したという説もあった。この説に立つ学者は以後滅亡まで続く事になる王朝をその
まま「サルゴン王朝」と呼んでいた。しかし、サルゴン2世は正当な王位継承者ではな
く、ティグラト・ピレセル3世の息子であることを示す碑文が存在するため、彼の即位
はアッシリアでよく見られる王位継承争いに過ぎず新王朝と呼ぶにはあたらないとする
説が有力となった。バビロニアにはバビロン幽囚記によってキュロス王が浮かび上がる


1089: 名無しさんAA:17/12/22 15:06
キュロス王はヘロドトス『歴史』巻一に描かれるドラマである。このドラマにには、
宗教的には旧約聖書的ものよりは、ゾロアスター教(拝火教)の物語風情や心理が背景
にはあるようだ。又このヒデキヤ書の交流が故に襲われて無くなる現実は鎖国から解か
れた日本の今の苦悩と同じ模様が此処にある。戦争によって自由化社会を押し付けられ
その保障に、金塊もアメリカに引き揚げられ武器は作る事もできなく、政策すら法律は
押し付けら防衛すらままならない日本になったのである。



1090: 名無しさんAA:17/12/22 15:07
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 732----------

ペルシアの地を支配していたメディア王国の国王アステュアゲスにはマンダネという娘
がいた。或る時メディア王は娘のマンダネが放尿して町中に溢れ、さらにアジア全土に
氾濫するという夢を見た。マゴス(占い師)の夢占いで将来に恐怖を感じた国王は、こ
れが自分がアンダネの子に襲われる予兆の夢だと解した。そこでマンダネをメディア人
ではなくペルシア人のアケメネス家のカンビュセスという男の嫁とした。その後マンダ
ネが妊娠したとき、国王はまた夢を見た。マンダネの陰部から一本の葡萄の樹が生え、
それがアジア全土を覆うという夢である。マゴスたちの夢判断は、マンダネが生む子は
国王に代わって王になる筈だという物だった。国王は驚いてマンダネをペルシアから呼
び戻し、いよいよその子キュロスが産まれるとハルバゴスという一族の者に殺すことを
命じた。赤児を渡されたハルバゴスは自分で殺すことができず、牛飼いの男に山中で殺
してきてくれとたのむ。赤児を抱いて家に帰った牛飼いは妻に相談した。ちょうど牛飼
いの妻は子供を死産した後だった。妻は死んだ我が子の代わりにキュロスを育てようと
夫を説得し、牛飼いは死んだ我が子にキュロスの着ていた着物を着せ、ハルバコスに見
せた。こうして牛飼いの子はキュロスとして葬られ、本当のキュロスは別な名で牛飼い
に育てられることになった。牛飼いに育てられた少年キュロスが10歳になった時、回
りの子どもたちが彼を王様に選んで遊んでいた。王様役のキュロスが、命令に背いた子
供を撲ったところ、悔しいと思ったその子はメディア王の重臣の子だったので父を通じ
て国王に訴えた。訴えを受けた国王がキュロスを訊問すると、子供に似合わぬ風格があ
り、しかも自分に似ていることに気がついた。そこで子供の父親という牛飼いを捕らえ
て拷問にかけて白状させ、我が子が生きていたことを知る。国王は命令に従わなかった
ハルバコスを呼び、我が子が生きていた祝宴にハルバコスの13歳になる子を参加させ
るように命じた。罰せられなかった事を喜んだハルバコスが息子を宮中にやると、国王
はその子を殺し、手足をバラバラにして調理し、何も知らない父にまず頭以外の肉を食
べさせた。満腹したところで頭の覆いを取り、国王はどんな獣肉か判ったかと聞いた。
父ハルバコスは自若として「判りました。王のなされることにはどのようなことでも、
私は満足でございます」と答えると、残った肉を持って屋敷に帰った。


1091: 名無しさんAA:17/12/22 15:07
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 733----------

 国王はキュロスをどうするか、マゴスに聞いたところ、子供の遊びと言えキュロスは
一度国王になっているので、これ以上禍を及ぼすことはない、という意見であった。国
王は安心してキュロスをペルシアに返すことにした。ペルシアのアケメネス家に戻った
キュロスは成人すると、武勇に優れ人望有る人物となった。ある時キュロスの元に兎の
体に隠された密書が届いた。それは我子をメディア王に殺されたハルバコスからのもの
で、メディア王の苛政に苦しむ人々を救うため、謀反を起こすことを促すものであった
。「ペルシア人はすでに以前からメディア人に支配されることを快く思っていなかった
。ここに勇猛果敢で知性溢れる指導者を得て、欣然として自由を獲得する戦いに臨んだ
のである。キュロスの率いるペルシア軍がメディア軍を攻撃すると、キュロスに内通し
たハルバコスが率いる部隊がペルシア軍に寝返った。その為、メディア軍は総崩れとな
った。国王アステュアゲスはキュロスを放せと彼に説いたマゴスたちを串刺しの刑に処
し、町に残った者たちの老若を問わず武装させペルシア軍と戦かわせたが敗れてしまう
。その後、国王も捕虜となり、メディアはペルシアに支配されることとなった。こうし
た戦いの結果、ユダヤ人を「バビロン捕囚」から解放しキュロス2世はペールス北部の
パサルガダエに壮麗な新都を築き、碑文を遺している。そこには宗教的信念を表明する
文は見当たらない。しかし、宮殿遺蹟には二基の石の台座があって、これはゾロアスタ
ー教の火を祀る祭壇と推測される。従ってキュロスは、メディア王国時代に既にイラン
東北の中央アジアからイラン高原に及んでいたゾロアスター教を信じていた、と考えら
れる。しかし新たな征服地にその宗教を強制することは無かった。その寛容の恩恵を受
けたのがユダヤ人であり、彼らはバビロン捕囚から解放されてイェルサレムに戻り、神
殿を再建することを許された。この事はユダヤの歴史上「人類の宗教史にとっては特殊
な例」であったが、ユダヤ人はその後もキュロスに好意を持ち続け、キュロス自身を、
「救世主(メシア)」と讃えている(『第二イザヤ書』)。その中の「わたし(ヤハウ
ェ)はよろずの物を造り・・・わたしは地を造って、その上に人を創造した。天よ、上
より水を注げ、雲は義を降らせよ。・・・」などの詩句はゾロアスターの聖典『アヴェ
スター』と驚くほどよく似た聖文で讃えている。キュロス王の寛容が、ゾロアスター教
の影響をユダヤ教に及ぼしたと考えられる。


1092: 名無しさんAA:17/12/22 15:08
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 734----------

 キュロス2世は、こうしてアケメネス朝ペルシアの初代国王として、古代エジプトを
除く全ての古代オリエント諸国を統一して空前の大帝国を建設した。現代のイラン人は
、キュロスをイランの建国者と称えている。ヘロドトスは著書『ヒストリアイ』の中で
、キュロスは、トミュリス女王率いるマッサゲタイ人との戦いで戦死したという説を伝
えている。しかしすでに一部の統治権を譲渡されていたこともあり、皇太子カンビュセ
ス2世への政権移譲は滞りなく行われていた。カンビュセス2世は紀元前525年に残
る大国であるエジプトを征服し、オリエントに広大な統一帝国が誕生することとなった
。キュロスの死とその墓はは、王都パサルガダエに築かれた。この陵墓は現在でも残っ
ており、2004年に「パサルガダエの都市遺跡」の一部として世界遺産に登録された
。記録ではキュロスは、帝国の北東の国境を脅かしていた同じイラン人の半遊牧民であ
るマッサゲダイ族と老齢を鞭打って戦いで死んだ。彼の死体は典香で詰めされて御棺に
入れてパサルガダエに戻され、そこの平野に今も残っている墓に安置された。と言われ
る。ゾロアスター教では死体は汚れた物とされるので、人の手には触れられず、風葬に
されるのが儀礼であったが、後のアケメネス朝やササン朝の王も香詰めにされているの
で、これが先例になったと思われている。風葬ではなかったがキュロス王の墓ははるか
高い六段の石段の上に、厚い壁、窓もない部屋に置かれて人が触れることができないよ
うにし、その戸口には不死の象徴である太陽の彫刻が施されている。後継者カンビュセ
ス王はこの墓前で毎日羊と馬の供儀を続け、その後の王によっても200年にわたって
続いたが、アレクサンドロス大王がペルシアを征服したときこの墓は暴かれ「金の寝台
」などが持ち去られたという。こうしてユダヤさえも許したキュロス王が作った都が、
アレクサンドロス大王の遠征によって破壊され、墓石のみの残る都市になったのだが、
ペルシア帝国に建てられた最初の都だった。ペルセポリスの北東87Kmに位置し、紀元
前に、キュロス2世の手によって建設が開始され、キュロス2世の死により町の建設は
途中で終わったとされる。パサルガダエ考古遺跡は、建設者のキュロス2世の墓と伝え
られる建造物は丘の近くにそびえるタレ・タフト要塞と2つの王室の庭園から構成され
てイランに見られる最初の四分法に基づいて建設された墓所だ。ペルシャ式庭園で最近
の研究ではこの遺跡は震度7の地震でも耐えうるだけの設計を施されていたことがわか
っている。キュロス2世の墓の中には、金色のベッド、杯とテーブル、金色の棺桶、高
価な宝石がちりばめられた装飾品と墓碑を見つけ出されましたが、現在はそれらの痕跡
は残されてはいない。

1093: 名無しさんAA:17/12/22 15:08
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 735----------

パサルガダエは、イランのファールス州にある古代ペルシャの都市遺跡です。ペルシャ
帝国の最初の首都で、紀元前546年に建設が開始された都市だ。イランは日本の面積
4.5倍もの大きさがあり、地方によっては気候も様々である。イラン全土に共通して言
えることは、イランは日本と同様はっきりとした四季がある。3月後半〜5月の春の季
節や10月〜11月の秋の季節は、日本同様で過ごしやすい気候の季節となる。しかし
、北部と南部では気候の変化が激しく日本の九州と樺太ぐらいの差がある。イランには
地域ごとにカスピ海温暖気候、山岳気候、砂漠・半砂漠性気候と大きく3つの気候に分
けることができる。砂漠地帯では雨の心配は無いあまりが降るときはかなり危ない。他
の地域では年間を通して雨も降りやすい地域もある。また、イランの夏はとにかく暑く
、皮膚には乾燥や日焼けが死をもたらす。また、冬は寒く、首都テヘランでも雪が降る
ところがある。防寒対策をしっかりしないとかなりやばい所でもある環境だ。ペルセポ
リスはいまだ謎に包まれた都市だ。ペルセポリスは紀元前7世紀、現在のイランの地に
大帝国を築き上げていたのがメディアだ。この配下にいたペルシアのキュロス2世は紀
元前550年にメディアを滅ぼし、パサルガダエ(世界遺産)を首都にアケメネス朝を
建国しようとした。鉄器を備えた騎馬軍団を中心とする「不死身の1万人隊」を中心に
各地に攻め込み、チグリス・ユーフラテス川を支配していた新バビロニアと、トルコを
支配していたリディアをも滅ぼし「諸王の王」を名乗る。続くカンビュセス2世の時に
エジプトを征服し、アッシリアに続いて古代オリエント統一に成功。ダレイオス1世は
さらにギリシアにまで攻め込み、最大版図を獲得する。このダレイオス1世の時代はこ
の地の全盛期だった。君主となったダレイオス1世は、まず全土を20前後に分けて州
を置き、各州にサトラップ(総督)を置いて各地を治めさせた。サトラップが反乱を起
こさないよう監察する「王の目」部隊と秘密の情報収集機関「王の耳」部隊を置いて、
統制を果たした。更に地方との結びつきを強くする為「王の道」を整備して、途中には
いくつもの中継点を置いて早馬を待機させ、駅伝制を敷いて全土から情報を集め、いち
早く指揮を下した。ローマ帝国の基礎が此処に整備されていたのである。


1094: 名無しさんAA:17/12/22 15:09
 当時この地に流行していた宗教が「ゾロアスター教」だ。光の神アフラ・マズダと闇
の神アーリマンによって世界は支配されているとする善悪二元論の宗教で、この2神は
言ってみれば神と悪魔。その力はほぼ対等で、常に戦い続けているのだが、最後にアフ
ラ・マズダが勝利して、悪は滅び、救世主のもと世界が再建され、すべての命が復活し
て楽園が造り上げられるという。一見すると、ユダヤ教やキリスト教、或いはイスラム
教の「最後の審判」そっくりなのだが、実はその意味に於いて戦う事に正義を於いてい
る事が違う。又成立はゾロアスター教の方が古いため、これがルーツなのではないかと
いわれている。「ペルセポリス」の名がギリシア語であるように、その詳細には、古代
ギリシアのクセノフォンやローマ時代のプルタルコスらの著書か、ペルセポリスにある
石碑の文字を解読するしか方法がないのだが、その量はけっして多くはない。実は当時
この都がこの地でなんと呼ばれていたかすら、まだまだよくわかっていない。それらの
記録によると、アケメネス朝の王たちは、春はスーサ、夏はエクバタナ、冬はバビロン
ですごした。とある。つまりペルセポリスは宮殿でありながら、長期にわたっては住ま
われた場所ではない。此処に放牧民の面影が見え隠れする。現在有力な説は、当時ペル
シアに信者が多かった宗教「ゾロアスター教」(拝火教)の正月(春分の日)の祭りで
あるノー・ルーズを祝う場所だったのではないかという説だ。ノー・ルーズの日には、
古代オリエント各地から諸王がこの聖都を訪れ、「諸王の王」といわれたアケメネス朝
の大王に謁見し、各地の名産品や金品を献上した。謁見の様子はいまもレリーフに見る
ことができる。レリーフによると、各地の王が土産物を手にアケメネス朝の大王に謁見
に訪れた都がペルセポリスだとされる。ペルセポリスは約450×300mの長方形の
大基壇で持ち上げられたその上に、様々な宮殿が建てられていた。その中の入り口にあ
る大階段に諸王たちは入場した。階段を昇ると登場するのが万国の門があり、クセルク
セス門がある。この門には、翼を持った牡牛の身体に人間の頭がついた「ゾロアスター
教」のレリーフ有翼人頭像があり、諸王たちを見下ろしていた。後に偶像崇拝を嫌った
イスラム教徒によって頭部が破壊された。門を右に回るといよいよ謁見の間アパダナが
ある。アパダナはさらに高い基壇の上に建立された宮殿で、基壇の壁が一面レリーフで
覆われている。レリーフには人々と貢ぎ物の隊列が克明に描かれている。アパダナには
柱が立って残っていて、柱の上の柱頭には牡牛やグリフォンと言うワシの頭と翼を持つ
ライオンの胴体の生物が彫られ、諸王を見下ろしていたと思われる。中央には正方形の
広間があり、ノー・ルーズはここで祝われたといわれている。神々の像で諸王を威圧し
ているようにも見えるが、実際アケメネス朝は柔軟な外交政策をとっていたようだ。

1095: 名無しさんAA:17/12/22 15:10
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 737----------

 「ゾロアスター教」は寛容の宗教だった。ユダヤ教徒をバビロン捕囚から解放したよ
うに、税さえ払えば各地の宗教と文化を認め、諸民族間の融和を押し進めていた都市が
ペルセポリスである。此処には膨大な財宝が収められていたにも関わらず、強固な城壁
も深い堀も広大な軍事施設もない。このアパダナで、諸王たち同士で語らい合い、平和
を論じ謳歌していたのかもしれない。アパダナの南には、中央宮殿トリピュロン、ダレ
イオス1世の宮殿タチャラ、クセルクセス1世の宮殿ハディシュ、そしてハレムが並ん
でいる。ハレムの東にあるのが宝物殿だ。いまはその跡をとどめるだけだが、マケドニ
アのアレクサンドロス(アレクサンダー大王)がペルセポリスを破壊した際、一万頭の
ロバと五千頭のラクダで宝を運んだといわれるほどの財宝が収められていたらしい話が
伝わる。その北にあるのがアパダナと並ぶペルセポリスのハイライト、百柱の間で玉座
殿とされる。かつては10×10の百本の柱があり、ペルセポリス最大の宮殿だった。
残念ながらいまは柱は立っていないが、数多くの門や壁が残っており、王の玉座のレリ
ーフや、クセルクセス1世がライオンと闘う有名なレリーフを見ることができる。百柱
の間は軍隊に謁見する場所だったといわれている。クーヘ・ラハマト山の山腹には、北
の砦やアルタクセルクセス2世の墓、東の砦などがある。アルタクセルクセス2世の墓
周辺からペルセポリスとその周囲を一望でき眺められる。パサルガダエ遺跡の1.6q
2 におよび、ペルシャ式庭園はパサルガダエ遺跡とは別に世界遺産に登録されている。
や要塞、キュロス2世の墳墓などから成っています。 パサルガダエ遺跡がイランで発掘
調査にキュロスはペルシア帝国の建国者として賞揚されるようになった。このキュロス
の円筒印章を「史上最初の人権宣言」と呼んでさかんに宣伝したのもこの時期のことで
あった。1971年にキュロスのアケメネス朝建国2500年を記念してペルセポリスで、
盛大なイラン建国二千五百年祭典を開催し、パサルガダエのキュロス2世の墓において
も国王の演説が行われた。またこの時にイラン暦の紀元がキュロス即位が紀元前559
年に変更されてイラン皇帝暦と名を変え、ヒジュラ暦に代わって国家の公式な暦となっ
た時期があった。この暦が公式に施行されたのは翌1976年であったが、このため、
西暦1976年は皇帝暦2535年となり混乱を来した。しかしイラン革命が起こってパフラヴ
ィー朝の王制が廃止されると、このキュロス紀元も廃止された。


1096: 名無しさんAA:17/12/22 15:10
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 738----------

 なぜ私がこの古代宗教まで語るのか。それはこの「ゾロアスター教」(拝火教)こそ
我々が知るべき起源だからだ。日本の国家神道である吉田神道も日本仏教も此処に起因
している。その意味ではユダヤ教やキリスト教或いはイスラム教などは派生した邪教で
あると言える。光の神アフラ・マズダと闇の神アーリマンによって世界は支配されてい
るとする善悪二元論の宗教と言われているが、その解釈は間違っている。この宗教では
この2神は言ってみれば神と魔だが。その力はほぼ対等で、常に戦い続けている。のだ
、そしてこの戦いこそが正義でありやがて善が勝つ事を信じて居るしやって来るとして
いる。此処に違いがある。此処には終末戦争などは語られてはいない。継続や伝承に於
いて勝つとしているのは、その精査つまり篩い分けを人が人に行うとしているのだ。こ
の為に人は、善言善行善意による人間と社会を目指すべく説いているのである。死ぬ事
も病気も或いは、不便も便利も正義でも悪でもないのである。では何が悪なのか。それ
は悪意こそ悪とし諸悪の根源としているのだ。人はこれに帰るべき時に来ている。キリ
ストやイスラムの枝葉を取り除いてユダヤ教になる様にユダヤから枝葉を取り除けば「
ゾロアスター教」(拝火教)になるのである。人は何故産まれ人は何故生きて何に生か
されるのか。この答えを明快に説いている。人は既に仕事も金も要らない世界にいる。
いや逆にあってはならない世界に到達している。地球自体が人類の知性を疑う中にいる
。馬鹿げた事に金融界でゴールドラッシュ以来紙幣の流通価値の操作に戦々恐々として
、現代経済学はマネーサプライの供給量増減を政策の柱にしているの一途に人の幸せを
置いている。だが、その上に人口増加による人間活動を心配しているのである。これは
不思議な事だ。中国では一人っ子の政策で人口減少は起きなかった。だが自由化解放路
線を敷いた途端に金満家が出現し、人口減少とスモッグ社会が出現したのである。この
理屈は現代の知識では理解出来ない物だろう。だがそれが人をも自然との共存共栄の種
とすれば直ぐに理解できる。砂漠バッタが転種する様に、人は破壊的破滅を予想すれば
子供さえも老後の生活の保険の様に産み仕事に従事させるのだ。更に逆に子供に楽をさ
せたいなどと言う親は何も苦労をしなかった人生経験の無さに悪党にしか育たないのだ
。つまり成金坊ちゃまの不良化である。此処に神を崇める元がある。形式でも物真似で
も貧乏で無ければならず、神を拝して親孝行をしなければならないのである。



1097: 名無しさんAA:17/12/22 15:10
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 739----------

 多くの研究者はゾロアスター教の開祖といわれるザラスシュトラの活動がやゾロアス
ター教の成立に関して居る様に理解している。しかしそれは少し違っている。ゾロアス
ターつまり拝火教も5つの系統に分かれて居るアフリカに残るもの2系統ペルシャ系統
インド系統更に中国系統である。そして中身は微妙に違っている。そして、今なお不明
なところが少なくない。イラン高原北東部に生まれたザラスシュトラは、従来インド・
イラン語派のなかで信じられてきた信仰に、善と悪との対立を基盤に置いた世界観を、
提供し、また、きわめて倫理的な性格をもつ宗教に改革したといわれる。これらが主流
とはなっているが火を求めて森林を伐採し煉瓦を作ったバビロンのゾロアスターは既に
もう衰退期に入っていた。本来のゾロアスターは中央アジア近くの地下からの天然ガス
による炎から生じて居る。従って「大地から何もかも産まれるものだ。」と言う説話か
ら始まっている。更に太陽が照り付ける高い温度の夏場の時の勢いから「光が炎を上げ
る。」と言う事象が正しい事であるとあるとした。ザラスシュトラ以前のアーリア人(
インド・イラン語派)の信仰においても、すでに「三大アフラ」として叡智の神アフラ
・マズダー、火の神ミスラ、水の神ヴァルナが存在していた。そのため、単にアフラ・
マズダーまたはミスラを信仰しているというだけで、厳密にいえば、ゾロアスター教徒
とはいえない部分がある。「異教蔓延時代」と呼ばれる移住イラン人と区別するための
判断基準は、ゾロアスター教の真の信仰者かどうかであった。信仰告白であるフラワラ
ーネにあらわれている。そこでは5つの条件が挙げられている。すなわち、
1. 創造母神アフラ・マズダーを礼拝すること。
2. 指導者ゾロアスターの信奉者であること。
3. 世俗的で好戦的で不道徳な神と敵対すること。
4. アフラ・マズダーが創造した偉大な6柱神を信じて7つ神の霊魂を礼拝すること。
5. すべての善をアフラ・マズダー(大地の神)に帰すること。である。
 この中でアフラ・マズダーは、創造主ではない創造母神とした事は、従来の神々であ
る神の創造主神話と違うところだ。その後の創造神や唯一神を産むきっかけを生んだの
だろう。更にこの6柱神信仰がインド・イランの八百神信仰なったろうが、それがまた
異なる点でもある。実際ゾロアスター教自体は、紀元前1千年紀の前半、イラン東部か
らアフガニスタンを含む中央アジアの西部でかなり発達し、その後、アケメネス朝の時
代にはイラン高原にも浸透するようになっていたものと推測されている。


1098: 名無しさんAA:17/12/22 15:11
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 740----------

 ゾロアスター教においては、世界は、光明をつかさどる善神のアフラ・マズダーと闇
の世界を支配する悪神アンラ・マンユの闘争の場と見なされ、火はアフラ・マズダーの
象徴として特に重視された形態である。だが現実にもこの地球上の生命は太陽の光なく
して生き残る事はできない。また緑の大地なくして生活は出来ない。この基本に忠実あ
る事が大事なのである。重婚の進めでも実は教義の中には無いDNAが母体依存にある
からだ。つまり日本他一夫多妻の制度は実は父系維持の為に日本の天皇制の基本となっ
ている。ゾロアスター教の聖典は『アヴェスター』と言われ、それに用いられた言語を
古代アヴェスター語と言う。日本語では梵字である。ゾロアスター教の根本聖典「アヴ
ェスター」は日本に3回やって来たとされる。それは紀元前の時代と仏教伝来の少し前
である。そして山岳信仰の山伏が形成された。それはそのまま星の動きと風を読むとさ
れた陰陽道やこの天童神道や海童神道に利用された。火渡りや火の祭事は殆どはこの拝
火教に起因して行われたとされる。そして最後は密教系の修行僧最澄や空海などが持ち
込んだ。こうして護摩焚きや梵字の旧いしきたりの魔符が新たになって広まったのであ
る。仏教では大日如来をアフラ・マズダーとしている。かつて神道では日子とされてい
る最高神である。スプンタ・マンユの「聖霊」とされるものは天の使いとされた。アフ
ラ・マズダーである大日如来と同一視される神々の事である。そもそも日本の天照大神
もその同一視される神なのだ。イザナミとイザナギは共に風と潮の神である。ヴァユの
(風の神)ティシュトリヤ(雨の神)はさしずめ江戸時代の風神雷神とも言える対象神
ではなかろか。天空、水、大地、植物、動物、人、火の順番で創成した、世界の管理者
とした創造神はそのまま自然信仰から始まっている。だが彼らを滅ぼした文化すなはち
偶像崇拝を悉く嫌った信仰は その豊かな土地を灌漑や農耕と称して開発し不毛の砂漠
に変えた。つまりかつて世界紀元前後では一番豊かな森だったこの地は地震と共にその
まま砂漠になってしまった。つまりペルシャ湾から天山山脈にかけての農地はすべてが
このユダヤ教やイスラム教によって失った緑地だったのだ。日本でも東西日本の津波の
被害が大きかった理由は行政の悪さだと言う指摘はある。もし過去の日本の様に、農地
改良や町内土地開発などを行っていなかったなら大木や雑木林によってその被害は四割
に収まっていた筈だという。つまり自らに浜の鳥や渡り鳥さえ街路樹しか止まれない様
な街作りしかできて居ない。これは石造り欧州の街並みが戦後さえ元に戻しローマ帝国
で緑を失い滅びたとされ事でそれを学習している社会とは対称的である。

1099: 名無しさんAA:17/12/26 19:34
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 741----------

 矛盾と謎だらけの「いにしえ」の「聖典神話」はローマ帝国時代紀元3世紀頃編纂さ
れた。世界の神話は伝説であり、文学であり、歴史でもあり、西洋の祖先のエネルギー
ともなった。ギリシアに前8世紀前後に天才的な詩人ホメロスが出現し、トロイア戦争
を扱った「イリアス」とその後日譚「オディセイア」を歌った書が登場する。ホメロス
と大体同じ頃ヘシオドスと言う詩人が「神統記」と「仕事と日」という詩を残している
。「神統記」には、カオス(巨大な裂け目)が、ついでガリア(大地)タンタロス(奈
落の底)、エロス(愛)の全部で4つ詩編のが最初に世に生じたことになっています。
こうしたギリシャ神話は前5世紀の世界のギリシアでは、市民の一般教養として神話の
知識は文化や言語の基本となっていた。その後、アレクサンダー大王が前323年に亡
くなって後のヘレニズム時代築くのだが、このころからギリシア神話そのものの性質も
、また神話を伝える文学も次第に変化していった。そうした中で「旧約聖書」が成立し
、そしてエルサレム神殿が再開された。エルサレム神殿は前955年頃、ソロモン王が
完成させたと言われていますが、彼らユダヤ人自体の歴史は紀元前1800〜1700
年頃までこの地に残っていた民もいたとも言われる。とりわけユダヤ人の持っていた神
話「旧約聖書」は、そのローマに受け入れられた。と言うよりユダヤ人が政権の取り巻
きになって進言した。こうして現在においてもその神話に則りイスラエルの民は他国、
とりわけパレスチナ・アラブ人達などを選民主義のもと、虐げてもよい 他民族であり
奴隷である。として争いを繰り広げているのであります。何千年前の話をそれも創った
物語で、まことしやかに論争の俎上で戦わせるなどは、神話も学校で教えてもらえない
我々日本人にとっては到底考えられない「狂気の沙汰」と映るののだが しかし、彼ら
イスラエル・ユダヤにとっては、神話の世界も現在の生活もつながっていて同等と言っ
てはばからない。そこに日本の不理解の馬鹿さがあると言っても過言ではない。それで
は、そのユダヤ人達の神話「旧約聖書」なるものは何か、そして西洋においての原点と
も云われるその歴史を少しおさらいし遡ってみたいと思います。この書いてある事が、
かつての 日本の「第二次世界大戦」のとりわけ太平洋戦争に持ち込んだ原因でもあり
中身であると思いながら見つめながら。



1100: 名無しさんAA:17/12/26 19:34

陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 742----------

 物語は創世記神話に逆昇る『創世記』はヘブライ語では冒頭の言葉を取ってベレシー
トと呼ばれているおり、これは「はじめに」を意味する。また、ギリシア語の七十人訳
では、(ゲネシス)と呼ばれており、「起源、誕生、創生、原因、開始、始まり、根源
」の意で日本では訳される。
1日目 神は天と地をつくられた。暗闇がある中、神は光をつくり、
    昼と夜ができられた。(つまり、宇宙と地球を最初に創造した)
2日目 神は空(天)をつくられた。
3日目 神は大地を作り、海が生まれ、地に植物をはえさせられた。
4日目 神は太陽と月と星をつくられた。
5日目 神は魚と鳥をつくられた。
6日目 神は獣と家畜をつくり、神に似せた人をつくられた。
7日目 神はお休みになった。
此処に既に問題がある。最初の一日目に既に天と地を別けて光を創りあげ2日目には大
地の上に更に天を創り更に4日目に又太陽と月と星を作ったのである。これには理由が
ある。この聖書が完成する頃人々が信仰していたのは、ゾロアスター教(拝火教)から
派生したミトラ教であったからだ。紀元前1世紀頃のヘレニズム時代になると、古代の
アーリア民族の宗教で最も活発だったのは、ゾロアスター教ではなくミトラ信仰をして
押し寄せてきていたからである。その頃太陽神信仰であるミトラ崇拝は、ちょっと以前
のアケメネス朝時代からイラン高原西部に浸透していて紀元前1世紀以降は、メソポタ
ミアから小アジアまでかなり拡大していた。ミトラ派の神官達はアフリカ地方にも活動
の場を広げていたが、紀元前1世紀頃になると、彼らの文化がギリシアの影響を強く受
け、その結果、ミトラ神をギリシアの「太陽神ヘリオス」と同一視した新たな信仰」が
生み出されていた。1世紀後半に西北インドに興ったクシャーナ朝に伝えられて後、こ
の神は「太陽神ミイロ」となり、後にはこれが仏教に取り入れられ「弥勒菩薩」となっ
たとされる。


1101: 名無しさんAA:17/12/26 19:35
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 743----------

バビロニアではミトラ派の神官達は「占星学」を創造し農業の為の星座占いを行った。
これはその後、バビロニアの神官団(カルデア人)と合流し、ミトラの密儀として形に
なりバビロニアの占星学を統合して「秘教占星学(ズルワーン神学)」を作りあげて、
ミトラ教という宗教の中核となって発展させていた。これはのちにバビロニア=ストア
学派の手で欧州やローマ帝国に伝えらて更に盛んになった。ミスラ信仰はペルシャ帝国
期、マギ神官 によって小アジア、シリア、メソポタミア他に伝道され、ギリシア やロ
ーマにも取り入れられた。ギリシャ語形・ラテン語形でミトラースと呼ばれ、太陽神、
英雄神として崇められた。その信仰はミトラス教と呼ばれる密儀宗教となって、1世紀
後半から4世紀半ばまでのローマ帝政期、ローマとその属州で広く信奉され、形式上の
善悪二元論と終末思想と共に説かれた。最大のミトラス祭儀は冬至の後で太陽の復活を
祝う12月25日の祭で、キリスト教のクリスマス(降誕祭)の原型とされる。のちに
新プラトン主義と結合し、キリスト教と争ったが、圧迫されて衰退した。アルメニアに
は今も残る遺跡にギリシャ神話の形態の痕跡がある、「紀元301年には世界で初めて
キリスト教を国教とした地域」として有名だが、これも又ユダヤ教の中にいなかった。
多くの国民が寛容のゾロアスター教だったからと言う。いや逆に拝火教教徒の国がアル
メニアだったのかもしれない。アルメニアは、パルティア王国が224年にサーサーン
王朝ペルシャに滅ぼされたあともサーサーン家が宗主権を持ち続けた。428年までは
アルメニアを支配しているからだ。そのため古代アーリア人の信仰した神々の影響を受
け特にミトラ神を好んだと言う。ザラスシュトラの宗教改革の結果、ゾロアスター教の
中では六大天使にも入らなかったミトラ神だが、ゾロアスター教が衰退したアルメニア
や小アジアなどの西方では、ミトラ神は崇拝はそのまま信仰を集めた。ミトラの密儀は
、バビロン又はカルディアの占星術と融合してできたもので、種まきや農耕の暦を知る
サークルだったのが、特異な密議宗教として地下に密室を掘って男だけで集まり、短剣
で牛を屠って再生を経験するという儀式を行う様に変化していた。ミトラ教は、ヘレニ
ズム・ローマ世界で主に紀元1世紀から4世紀にかけて、キリスト教と並ぶ救済宗教と
して絶大な支持を集めていた。現実に収穫が違っていたからだ。だが392年には、ロ
ーマ帝国から宗教的寛容さを打ち切る旨の勅令が出され、国の祭儀として行なわれてい
た古代ローマ時代から続く儀礼への国費補助が打ち切られた。そして、ミトラ教をはじ
めとする異教の神殿は破壊され、それまでミトラ神の洞窟神殿だった聖域上にキリスト
教会が建立された。

1102: 名無しさんAA:17/12/26 19:35
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 744----------

 ゾロアスター教のこの名称は、開祖ザラスシュトラに由来し、古代ペルシャ語では、
「黄金のラクダを持つ者」の意。アヴェスター語では、「輝ける白色」一族の「老いた
駱駝の持ち主」という。ザラスシュトラ(ゾロアスター、ツァラトストラ)は、しばし
ば、ゾロアスター教の創始者といわれ、「ゾロアスター教」の呼称も彼の名に由来する
が、その活動には今なお不明なところが多い。生存した年齢は紀元前12〜9世紀の間
と推定されているが、原始アーリア民族の中でも最後まで故地にとどまった後発グルー
プだったようだ。だが紀元前25世紀頃からこの考え方や宗教は存在していて「マゴス
の神官団の教え」として 1、拝火儀礼 2、曝葬(ばくそう) 4、清浄儀礼 5、悪
なる生物の殺害(蛙、サソリ、蛇など) 6、最近親婚 7、牛の犠牲獣祭などが遊牧民
の中に浸透していた。そもそもの拝火儀礼は当然の事ながら調理が出来た時からの儀礼
で風葬である鳥葬でも樹木葬でも原始アーリア民族の共通祭式だが、他の習慣について
も、今でも牛の屠殺料理の手際は伝承されていて、その祭りは移動するパオが集団であ
ると考えれば、近親相姦の結婚も多民族との結婚を否定してはいない事から 他を襲わ
ないとすれば、原始アーリア民族宗教が展開した部分としては当然とも思える。マゴス
神官団の宗教は、その後イラン高原に西進してきた原始ゾロアスター教と習合した。結
局原始ゾロアスター教がマゴス神官団の宗教を受け入れて、犠牲獣祭は、牛から羊へと
転換しているが、これはイラン高原西部では牛を飼育する多年草などが少ないためだっ
たという。その後ゾロアスターの本式な形式は街に定住してからは犠牲獣祭を失くして
いる。マゴス神官団の宗教は、バビロニアの天文学・占星術と習合して時間を崇拝する
拝時教・ズルヴァーン主義を生み出した。ゾロアスター教は、のちにグノーシス主義や
マニ教に重大な影響を及ぼすことになる。マゴス神官団は通称「マギ教団」とされ今の
マジックやまじないやマグネットの語源になったと言う程の当時での「魔法使い集団」
と目されていて、クルド人の疑惑の眼から戦いに押されて バビロニアに居住して、今
の各種各教団のゾロアスターの教義を統合したとされる。「アフラ・マズダー」は古代
アーリア人でアフラ神群の中から考案された「アフラ(主)」と「マズダー(叡智)」
「英知の神」でありそれが光を放すとされた。「善と悪」との対立を基盤に置いた世界
観を提供し火のみならず、水、空気、土もまた神聖なものとし、生者の霊魂は「チンワ
ト橋(選別者の橋)」において冥界で選別され、それは聖戦の結果「ザラスシュトラ」
(サンクチュアリ)因果応報であると説いた


1103: 名無しさんAA:17/12/26 19:36
謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 745----------

 この一週間が7日と言うのは、南米や南洋の5日 和暦の6日以外は世界的一週間で
あったが。これは「ゾロアスター教」の6柱7神信仰から来ている。月の神は日本でも
イザナミイザナギの男女の神が一体で崇められる。海の潮を数える神で日本でも7つは
7不思議やら7月7日など始まりとされるのが一般的で、「ゾロアスター教」などでは
、東洋的に閻魔など闇夜の善神司法の元になった死神や闇の神である。始祖信仰で風葬
をしている多神教のゾロアスターでは夜空の神、即ち夜の天空の神や星の神としても、
おかしくなく、日本神話でも月読みの女神が出て来るが、聖書ではそれが出来なかった
。それは一神教である絶対神の世界で最初から星や夜空があってはならないかった。か
らだ。「ゾロアスター教」では火曜日はこの最も神聖な火の神として「アフラ・マズダ
ー」「英智の神」「光明の神」が降り立って来た事になる。だが聖書では何もないから
空を創る事になったのである。水曜日は水の神だがこれは「光明の神」が闇の神と戦う
為に呼び込むのだが、これは飲める水が天空から降り注ぎ川となり飲めない水海と闘う
事を示している。ところが聖書ではこの光の神が水の神やその後風の神を呼び込む事に
対して、それを信じて居る既存の信者を掴む為にも又此処で絶対神に太陽と月と星を作
らせたのだ。こうして天と地を3回造る物語が出来たのである。こうして出来る裏には
絶対的信心されたミトラ信仰を破る事が必要とされた神聖ローマ帝国の命題だったから
だ。エジプト文明の中にこの痕跡がある。ミトラ信仰がやって来て木が育つように収穫
が増えたとされる記述だ。この太陽信仰集団は月や星座を読んで種蒔きや収穫の日を決
定していた。そしてナイル氾濫の時期や日まで予想して国家運営に当たっていたに違い
ないのだ。そして権威と地位と財を得ていた。これがユダヤ教徒には我慢ならなかった
。そしてユダヤの経典「旧約聖書」では木曜日の太陽と星が造られ金曜日に木々や魚や
鳥が造られたのである。土曜日に獣や人が造られるために。ところがその元になったで
あろう「ゾロアスター教」の教義では風の神が光の神の横暴に民を助ける為に水の神と
共に木の神霊を呼び寄せている。日本の天照の天の岩戸を開く物語の様に光の神が隠れ
た為の混乱があった。此処では嵐の神が強かった為だが。が此処で大きな事は金曜日は
本当にバビロンの都市では、金の採掘をしていた事だ。バビロンでは真珠の採取さえも
行っていた。水である川と海の瀬戸際で暮らしていた。此処に人は大きな食糧供給が出
来たからだ。



1104: 名無しさんAA:17/12/26 19:36
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 746----------

 こうして火の神を祭る都市は、煉瓦を創る技術を得た事で住居の神土の神を祭る日が
出来た。だがこの聖書ではこの煉瓦を創る秘法を神が人を創った日としている。此処に
人間賛歌を行わない聖書の苦痛がある。元々煉瓦技術はやって来たがミケーネ文化も、
エジプト文明も石造りの文化なのだ。当然煉瓦などは必要ないセメント文化だったのだ
。こうしてゾロアスターで光に包まれる最終日は聖書では神が休んだ日とされる。とこ
ろがキリスト教もユダヤ教も実は土曜日を休日としていた。つまり日曜日に神が天地創
造を始めたとして一週間でなく単に七日間として終日は関係ないとしたのだ。これは当
初月曜日からの設定をしたがミノア学派の休日に合わせては集会が出来なくなった事を
意味している。ところがキリスト復活伝説で今様な日曜休日になった。このキリスト教
に次ぐ信者数を誇る、イスラーム教は、世界中に約16億人の信者を持つが安息日は、
とても曖昧なムハンマドがエルサレムに入場した日として行っている。日本ではあまり
知られてなく徹底して店を閉める。イスラーム教では金曜日を「安息日」と呼びますが
その他にも、約1ヶ月間を断食を行う「ラマダン月」という期間がある。だが断食をす
るのは、日の出から日の入りまで。より正確に言うと、夜明け前のお祈りの時間(ファ
ジュル)から、日没時のお祈り(マグリブ)までだ。この夜明け前にとる食事を「スフ
ール」、日没後にとる食事を「イフタール」と呼ぶ。断食が明ける時のすぐの食事にも
イフタールと名が付き、まずは水やジュース、スープなどの水分、それに栄養価が高い
デーツ(ナツメヤシの実)、ゆで卵、お菓子などの軽食などをとる。その後、揚げもの
や甘いものをふんだんに盛り込んだ豪華な食事を、家族や友人と楽しむのが順序となっ
ている。小さな子どもや、病気の人、妊娠中の人などは、断食をしない。日没後に食べ
る料理を昼間のうちに調理する場合、子どもが「味見」をしたりもする。つまり日本人
的には12時間のサラリーマンが忙しくて昼食を取らなかった日を続けた事に似ている
。昼時に食べないこの期間日中の、飲食を断つ事は、神の恵みに感謝する月とされる。
この形式は正に 正しい「ゾロアスター教の教義」にわざわざたてついた形を作ったと
いえるしきたりでユダヤやキリスト教と同じ形で第二次世界大戦の戦争と全く同じ思考
だ。かつてノーベル文学賞に中国人初の服役中の民主活動家・劉暁波氏が平和賞受賞を
(10年)を貰った。だが中国政府は「中国への内政干渉とノーベル委員会に抗議して
いた。」とその後国際社会からあざ笑われながら、「中国国際和平研究センター」とい
うほぼ無名の組織を出して。孔子平和賞なるものを作って対抗した。この形と同じだ。


1105: 名無しさんAA:17/12/26 19:37
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 747----------

 イスラム社会でもこの5柱なる考え方があって、サウムと呼ばれる断食の義務には、
5柱の一つで、食事、水分摂取、喫煙、性交渉を控えるよう要求するものでもある。
イスラムシーア派では、五信十行を戒めとしている。五信とは、神の唯一性、神の正義
、預言、教主職、来世の信仰 と、十行の、毎日礼拝、貧民喜捨、個人断食、メッカへ
の巡礼、五分の一税(2割棄損)、ジハード(聖戦)、更に予言者への忠誠として5つ
が入る。つまり勧善懲悪と善行奨励、悪行阻止、忠孝忠誠、行動制限が預言者の意向に
よって決まるのである。個人の縁故でも付き合うべき交流も何もかもが制限されるのだ
。そこには正統派としての威信がある。対してスンニ派には六信五行がある六信、信じ
るべき唯一神アラーは同じなのだが、天使、預言者、終末と来世、は同じだが、啓典、
と予定天命についてはちょっと違う。(預言者ムハンマドの時代から積み重ねられた)
「慣行」(スンナ)および正統な「イスラーム」(共同体)に従う・護持する人々とい
う意味で、アラビア語ではさらにこれを略して「スンナに従う人」を意味する「スンニ
ー派」とされる。さらにイスラーム法学者の議論を通じて、コーラン(クルアーン)、
慣行(スンナ)、合意(イジュマー)、類推(キヤース)の四つの方法を四法源として
重視するに至った。イスラム共同体(ウンマ)の間の「合意」を重視する点がシーア派
と比較した場合のスンナ派の大きな特徴である。四法源から 導き出されたスンナ派の
イスラム法学は法源の、扱い方の違いや解釈の違いによって更に四つのイスラム法学派
(ハナフィー学派・シャーフィイー学派・マーリク学派・ハンバル学派)に分かれてい
る。これらが北アフリカ(マグリブ)に伝わり聖者崇拝が盛んになっている。トルコや
中央アジアでは、更に変形し革命により公的に禁止されたものの歴史的には神秘主義の
教団(タリーカ)が大いに栄えていた。エジプトやインド・パキスタンでは、このタリ
ーカがタリバンに又変質し社会的に強い影響力を持つものになった。特に近代に至って
はサウジでワッハーブ派の改革運動が生まれ、その影響でをコーラン・スンナの規定を
厳格に適用し多様性や土俗性或いは異種性を廃する「イスラム原理主義」の初期型イス
ラーム復古が運動がスンナ派ムスリムの一部は進んでいる。近代のスンナ派の復古運動
は時に「反帝国主義・反共産主義・反ユダヤ主義・反米」などの意識で結びつき、無視
できない潮流でもある。だが現実には、これも又過去の聖書を作ったユダヤの亡霊の中
の陰謀でしかない。つまり聖書の中で動かされている選民思想の排除論理が大手を振っ
て武器を手にして、人殺しを楽しんでいるに過ぎない。


1106: 名無しさんAA:17/12/26 19:38
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 748----------

 日本仏教では、毘盧遮那とはサンスクリット語の Vairocana「ヴァイローチャナ」の
音訳で「光明遍照」(こうみょうへんじょう)を意味する。「毘盧舎那仏」とも表記さ
れる。略して盧遮那仏(るしゃなぶつ)、遮那仏(しゃなぶつ)とも表される。史実の
人物としてのゴータマ・シッダールタを超えた宇宙仏(法身仏)。宇宙の真理を全ての
人に照らし、悟りに導く仏。毘盧遮那仏については、『華厳経』に詳しく説かれている
。史実の人物である釈迦のゴータマ・シッダールタを超えた宇宙仏(法身仏)として、
この世に存在するとしている。宇宙の真理を全ての人に照らし、悟りに導く仏の姿であ
る。毘盧遮那仏については、『華厳経』に詳しく説かれているが、その前にこの仏と言
う対象物は、日本仏教では「現智」の存在だ。つまりあるのに見えない。阿弥陀如来は
その未来を見える時の現生の姿としている。古代アーリア人の共通の「ザラスシュトラ
」祭式儀礼の簡素化を求めて闘った、釈迦王子は、苦行の上に因果応報を悟り終末論と
救世主思想を持って人が救われる事に気づいた。人が人であり続ける事では人は進化し
ない。そこで人がより良く生きる知恵として未来社会を置いた。この未来はその人に対
する苦行の位置にある。それを救うのが如来である。更に昇華されれば仏となる。と説
いた。そしてそこは決して崩せない金剛界とし祈る所を胎蔵界とした。つまり曼荼羅教
の中にあるのは、須弥山を中心とする全世界を十方三世の諸仏に捧げる供養であり密教
の経典・儀軌には全く基づかない、神仏が集会(しゅうえ)する図像や文字列の組み合わ
せをして、「金剛界曼荼羅」「胎蔵曼荼羅」「現世界曼荼羅」を作ったのだ。この3つ
はそれぞれ繋がっていて唯一無二の人間で産まれ人はこの世で修行しそして天国に行く
準備をする。そしてその神に近づく用意をする者を如来とした。即ちあの世でも修行す
る者である。そしてそれが釈迦王子=阿弥陀如来=盧遮那仏と言う形に形成されている
。これは欧州に渡った「ゾロアスター教の教義」がユダヤやキリストの単なる書き換え
であった事と違い、一度バラモン教やヒンズー教や或いはイスラム教などの様々な経典
から一つ解脱した答えを出した新しい経典と宗教になったのである。そして日本にやっ
て来て、更にゾロアスター教から派生していた日本皇道である神道との神仏混合が行わ
れ 儀式や階級から離れ更に人を導く宗教にと変化していった。此処にユダヤが造った
旧約聖書と日本人が過去をも大事にした国家神話の話の違いがある。そこには未来を語
るか過去を騙るかの違いである。韓国や中国の様に日本人は収拾や上下を無理に合わせ
た騙りを行わない。おかしい物はおかしいままにして語り継ぐ粋の良さを求めたのであ
る。

1107: 名無しさんAA:17/12/26 19:38
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 749----------

「古代アーリア人」が造ったとされる「アフラ・マズダー」は、アフラの神群の中から
考案された「アフラ(主)」と「マズダー(叡智)」の二語によって指し示されたもの
だ。拝火教自体はもっと古く紀元前3〜4千年まで遡る事が出来る。その中でザラスシ
ュトラは、原始アーリア民族の神々を再編成した結果において、「ゾロアスター教」が
産まれた。アフラ神群をして天使の座に留まり、「善」なる神々を構成した。一方ダエ
ーヴァ神群は神々の座から滑り落ちて、闇夜の神とされ宗教的に新しい概念で「悪魔」
と見なされるようになった。こうして中央アジアからイラン高原のアーリア民族の中で
は、「アフラ・マズダー」と並んで光の神「ミスラ」も人気があり二つの崇拝を巡って
、長らく勢力を争うこととなった。「ザラスシュトラ」の善悪二元論はイラン高原北東
部に生まれたの慣習的意識の中にあったのかも知れない。従来インド・イラン語派の中
で信じられてきた信仰に、「善と悪」との対立を基盤に置いた世界観を提供し、また、
きわめて倫理的な性格をもつ宗教に改革したと考えられている。だがそのミトラのもつ
意識は欧州社会でも拡大される。旧約聖書『創世記』によると、アダムの創造後に、実
のなる植物が創造された。アダムが作られた時にはエデンの園の外には野の木も草も生
えていなかった。アダムはエデンの園に置かれるが、そこにはあらゆる種類の木があり
、その中央には命の木と善悪の知識の木と呼ばれる2本の木があった。それらの木は全
て食用に適した実をならせたが、主なる神はアダムに対し善悪の知識の実だけは食べて
はならないと命令した。なお、命の木の実はこの時は食べてはいけないとは命令されて
はいなかった。その後、女(エバ)が創造されると蛇が女に近付き、善悪の知識の木の
実を食べるようそそのかす。女はその実を食べた後、アダムにもそれを勧めた。実を食
べた2人は目が開けて自分達が裸であることに気付き、それを恥じてイチジクの葉で腰
を覆った。この結果を知った神は、蛇に腹這いの生物に変え、女は妊娠と出産の苦痛が
増し、また、地(アダム)が呪われることによって、額に汗して働かなければ食料を手
に出来ないほど、地の実りが減少することを主は言い渡した。アダムが女をエバと名付
けたのはその後のことであり、主なる神は命の木の実をも食べることを恐れ、彼らに衣
を与えると、2人を園から追放する事にした。命の木を守るため、主なる神はエデンの
東にケルビムときらめいて回転する剣の炎を置いた。

1108: 名無しさんAA:17/12/26 19:49
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 750----------

 物語は続き、その後アダムは930歳で死んだ。とされる、しかしエバの死について
は記述が出ない。また、「善悪の知識の木」の実(禁断の果実)はよく絵画などにリン
ゴとして描かれているが、『創世記』には、何の果実であるかという記述は全くない。
旧約聖書の創世記の、主なる神はアダムとエバを追放した後、命の木への道を守らせる
ためにエデンの園の東に「回転する炎の剣」とともに「ケルビム」を置いたという。記
述と、その後の「契約の箱」の上にはこの天使を模した金細工が乗せられている事から
、「ケルビム」は神の姿を見ることができる天使として(=智ソフィア)事から日本で
は「智天使」という訳語をあてられた。エゼキエル書10章21節によれば、四つの顔と四
つの翼を持ち、その翼の下には人の手のようなものがある。ルネッサンス絵画ではその
まま描写するのではなく、翼を持つ愛らしい赤子の姿で表現されている。これをプット
(Putto) という。「彼はケルブに乗って飛び、」(サムエル記下22章11節)「主はケ
ルビムの上に座せられる。」(詩篇99編1節)などといった記述があって「神の玉座」
「神の乗物」としての一面が見られる。ケルブの起源はアッシリアの「ゾロアスター教
」の守護神をもじった有翼人面獣身の守護者「クリーブ」ともいわれているのである。
エゼキエル書1章によると、ケルビムの姿は「その中には四つの生き物の姿があった。
それは人間のようなもので、それぞれ四つの顔を持ち、四つの翼をおびていた。…その
顔は“人間の顔のようであり、右に獅子の顔、左に牛の顔、後ろに鷲の顔”を持ってい
た。…生き物のかたわらには車輪があって、それは車輪の中にもうひとつの車輪がある
かのようで、それによってこの生き物はどの方向にも速やかに移動することができた。
…ケルビムの“全身、すなわち背中、両手、翼と車輪には、一面に目がつけられていた
”(知の象徴)…ケルビムの一対の翼は大空にまっすぐ伸びて互いにふれ合い、他の一
対の翼が体をおおっていた(体をもっていないから隠しているという)…またケルビム
にはその翼の下に、人間の手の手の形がみえていた(神の手だという)」とされている
。と表現されているこの表現において、セラフィムと混同されて描かれているとも言う
。しかし その後 このユダヤ的「ケルビム」はドイツ語で「ヴィルヘルム」であり、
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトル・アルベルト・フォン・プロイセンの名はこ
の名を取っていると考えられる。このケルビムはの阿悶如来、宝生如来、阿弥陀如来、
不空成就如来の四仏を置く、金剛界五仏を従える大日如来であり、その化身不動明王と
されている。神仏習合の解釈では天照大神と同一視もされる神だった。


1109: 名無しさんAA:17/12/26 19:50
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 750----------

アフラ・マズダーと“善神”群
アフラ・マズダーは、ゾロアスター教の主神で、みずからの属性を7つの
アムシャ・スプンタ(七大天使、不滅なる利益者たち)という神々として実体化させ、
      天空、水、大地、植物、動物、人、火の順番で創成した、世界の創造者で
      ある。アフラ・マズダーを補佐する善神(アムシャ・スプンタ)としては
      、次の7神がある。
スプンタ・マンユ : 「聖霊」を意味する人類の守護神で、アフラ・マズダーと同一視さ         れることもある。
ウォフ・マナフ  : 「善なる意思」を意味し、動物界の統治者でアフラ・マズダーのこ         とばを人類に伝達する役割をになっている。常に人間の行為を記録し         ており、やがて訪れる「最後の審判」でその記録を詠みあげるとされ         る。
アシャ・ワヒシュタ
   (アシャ) : 「宇宙を正しく秩序づける正義」に由来し、天体の運行や季節の移          り変わりをつかさどる。「聖なる火」の守護神。虚偽の悪魔ドゥル          ジに対峙する。
アールマティ   : 代表的な女神(女性天使)。「献身」「敬虔」の名の通り、宗教的          調和や信仰心の強さ、さらに信仰そのものを顕現する。大地の守護          神となっており、「背教」と「推測」の悪魔タローマティと対立す          る。
クシャスラ(フシャスラ・ワルヤ)
         : 「理想的な領土ないし統治」に由来し、「天の王権」を象徴する。          アフラ・マズダーによる「善の王国」建設のために尽力する。
          金属ないし鉱物の守護神。
ハルワタート    : 「完璧」を意味する女性の大天使。アムルタートとは密接不可
          分とされる。水の守護神。
アムルタート    : 主神アフラ・マズダーの子で、名は「不死」に由る。植物の守護         天使で、ハルワタートと力を合わせて地上に降雨をもたらす。
         また、善神の象徴は「炎」とされ、そこから「火の崇拝」が生まれて          いる。


1110: 名無しさんAA:17/12/26 19:50
アシャ・ワヒシュタの、
火持つ天は仏教での不動尊明王とされ「宇宙を正しく秩序づける正義」に由来し、天体
の運行や季節の移り変わりをつかさどる。「聖なる火」の守護神である。虚偽の悪魔ド
ゥルジに対峙すると言う。韋駄天 天空、水、大地、植物、動物、人、火の順番で創成した、世界の創造者である。


1111: 名無しさんAA:17/12/26 19:54
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 750----------

アフラ・マズダーと“善神”群
アフラ・マズダーは、ゾロアスター教の主神で、みずからの属性を7つの
アムシャ・スプンタ(七大天使、不滅なる利益者たち)という神々として実体化させ、
      天空、水、大地、植物、動物、人、火の順番で創成した、世界の創造者で
      ある。アフラ・マズダーを補佐する善神(アムシャ・スプンタ)としては
      、次の7神がある。
スプンタ・マンユ : 「聖霊」を意味する人類の守護神で、アフラ・マズダーと同一視
          されることもある。
ウォフ・マナフ  : 「善なる意思」を意味し、動物界の統治者でアフラ・マズダーの
          ことばを人類に伝達する役割をになっている。常に人間の行為を
         記録しており、やがて訪れる「最後の審判」でその記録を詠みあげ
         るとされる。
アシャ・ワヒシュタ
   (アシャ) : 「宇宙を正しく秩序づける正義」に由来し、天体の運行や季節の
          移り変わりをつかさどる。「聖なる火」の守護神。虚偽の悪魔
         ドゥルジに対峙する。
アールマティ   : 代表的な女神(女性天使)。「献身」「敬虔」の名の通り、宗教
         的調和や信仰心の強さ、さらに信仰そのものを顕現する。大地の守
         護神となっており、「背教」と「推測」の悪魔タローマティと対立
         する。
クシャスラ(フシャスラ・ワルヤ)
         : 「理想的な領土ないし統治」に由来し、「天の王権」を象徴する
          。アフラ・マズダーによる「善の王国」建設のために尽力する。
          金属ないし鉱物の守護神。
ハルワタート    : 「完璧」を意味する女性の大天使。アムルタートとは密接不可
          分とされる。水の守護神。
アムルタート    : 主神アフラ・マズダーの子で、名は「不死」に由る。植物の守
          護天使で、ハルワタートと力を合わせて地上に降雨をもたらす。
         また、善神の象徴は「炎」とされ、そこから「火の崇拝」が生まれ
         ている。

1112: 名無しさんAA:17/12/26 19:56
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 751----------

 なぜヒットラーはユダヤ迫害に及んだか。それは簡単な事でそれが当時の常識だった
から。と言える。戦前までのヨーロッパでは、大陸の人種はもっぱら西洋の人々は、「
アーリア人かセム人か」というふうに区分されていた。大方の諸君が知ってのとおり、
ヒトラーはこのセム人に属するユダヤ人の撲滅を謳い、アーリア主義すなわちゲルマン
主義を喧伝した。そして大量のユダヤ人が虐殺された。それは、一体何だったのか。フ
ァシズム思想と言うの簡単だ。そしてヒトラーの狂気の性にするのも簡単だし現にそう
して米国に行った贋のユダヤ教徒はそうして隠した。ヒトラーは『わが闘争』に「アー
リア人は人類のプロメテウスである」と書いた。しかし、ヒトラーがこのように断言で
きたのは長い前史があったからだったのは歴史上事実だ。キリスト教は長きにわたって
、人間がアダムという共通の父から生まれ、族長ノアとその息子たち、ヤペテ、セム、
ハムによって大きく3流に分岐したと説明してきた。ところがいつの間にか、ヤペテの
子孫がヨーロッパ人になり、セムの子孫がアジア人となり、ハムの子孫がアフリカ人に
なったという俗説を作り上げた。更には、ハムは農奴の祖先で、セムは聖職者の祖先、
ヤペテは貴族の祖先だという俗説に変わると、アーリア神話はどんどこ差別的主張が加
わっていった。これがアーリア神話だ。要するにヒトラー以前に、アーリア神話はとっ
くに作られ、しかも多様に確立していたのだった。この研究は1966年にサセックス
大学のコロンバス・センターで発表され、かのノーマン・コーン(897夜)の主導に
よる「なぜ人種主義や民族主義は大量虐殺の歴史を演じてきたか」をめぐる研究が開始
された。ポリアコフはその恩恵に広く浴したらしい。コーンが提示した研究対象には、
魔女裁判から人種差別まで、スペインにおける白人と黒人の分離からナチスによるユダ
ヤ人虐殺にまでおよぶもので、本書はその討議と研究の成果の最大の結実となったのだ
。やや文脈がとりにくいのだが、そのぶん驚くほどのエビデンス(証拠)をちりばめて
いてこの多国籍にまたがる文脈をあらかた理解するのに、ざっと10年を要した。本書
の記述にあらかたしたがって、スペイン、フランス、イギリス、イタリア、ドイツ、ロ
シアの順にその前史をかいつまみ、そのうえでアーリア神話がどのように異様な超シナ
リオになり、それがヒトラーの言説にまでなっていったのか、その概略をマッピングし
ていくと、日本を支えていたヨーロッパや「セカイ」についての殆どの人間が抱いてき
たイメージや知識が、異邦人でもかなり違っていた物だったと言う事が理解できると思
う。


1113: 名無しさんAA:18/01/14 02:18 ID:LEM
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 752----------

まず、スペインからだが、欧州諸国の中で最も古い歴史を持つと思われる。だが前史の
頃の面影は全く消えてしまう。そしてスペインの歴史上大きいのは711年のイスラム
侵入とその後のレコンキスタである。その前の歴史が忘れられがちであるが、もともと
はローマ帝国が土着文化を消し去ろうとした運動の中でそこへ西ゴート族とヴァンダル
族が侵入したことによって変質していったと見てよい。つまりスペインはもとから積極
的に“ゲルマン化”していった国土だったのだ。カロリング朝以前のヨーロッパで最も
学殖があったとされるセビリアのイシドルス大司教は、西ゴート王朝のすぐれて奉仕的
な理論家でもあった。そしてスペインを「ゲルマン的歴史の人種文化」として正当化し
た。それによりここからゴート人をどのようにみなすかという歴史が躍如した。スペイ
ンのアカデミーでは、いまでも「ゴド」(Godo)といえば「古くからの貴族」の事だと
みなしている。そもそもルネサンスではゴート的なることは(すなわちゴシックっぽい
とは)、自由であって、かつ野蛮でもあると言う両義性をもっている。それゆえにセル
バンテス(1181夜)が書いた『ドン・キホーテ』は冒頭に「高名で光輝あるゴート
人ドン・キホーテ」として示した。こうしたゴート人認識をもとに、18世紀に、古代
スペイン人をゲルマン人あるいはドイツ人と呼ぶという見方が広がった。そこにはイス
ラムの席巻を撃退しなければならなかったイベリア半島独特の「再統一的な征服観念」
が関与した。つまり蛮勇割拠においてイスパニア・ポルトガルが一番頭を抜けて王国の
中の王国となって大航海時代を走りだしたのだった。まさしくこれを横目で眺めていた
のがフランスだった。フランスはスペイン以上に農耕文化の中で王侯貴族は裕福だった
ので結構な怪しい国内歴史を作って来たのだ。フランス人にとっては「ゴート」に匹敵
する「フランク」が問題だった。十字軍は「フランク人の手になる神の行為」であり、
解放された奴隷は「アフランシ」で、自由にされた者の意味を持った。そもそもフラン
スからすれば、フランスの地に侵入したゲルマン人とガロ・ロマン人が混交してフラン
ク人になった史実がある。カロリング朝とは「カール」と言うローマの載冠をした者と
言う表現でフランク人の王が出来た事を示す。欧州大陸の主人公となり、ゲルマン人と
ロマ人がフランクに子を産んで王となったのだ。「年代記」のなかでは、ドイツ人はそ
のフランク人の分枝とみなされている。なんともフランスらしい矜持だった。これで、
シャルルマーニュ(カール大帝)は「フランク人およびチュートン人の皇帝」たること
を自信をもって公称でき吹聴できたのだ。カール大帝は親しい近臣には自分のことを、
ダビデと称ばせていた。

1114: 名無しさんAA:18/01/14 02:34
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 753----------

 ドイツ人からすれば、ゲルマンの魂の正当性を持ち地元の風習や伝統を守って来たア
ーリアの血を、こんなロマ人の混血児フランク人が持っていくのは許せない。ドイツ人
はタキトゥスの『ゲルマーニア』を論拠に、カール大帝をフランス化させた事をなじり
、ライン河の対岸こそアーリアの起源があることを主張した。こうしてルネサンス期に
フランスとドイツ両者の言い分が早くも白熱し違ってくる。ここに1580年代にド・
ベルフォレの『わが祖先ガリア人』が刊行される。「ガリア人こそがフレンチ・アーリ
アの起源である」との評判がたち、ギョーム・ポステルなどもゲルマン人に対するガリ
ア人の優越を強調する。ガリア人はガーリ船の乗組員の事で、ケルトやトルコからの奴
隷のような形で、船員で住み着いた者達だったが彼らこそ、多様でひとくくり出来ない
ミトラの信仰者だったと言う。論争を尻目に、ルイ14世が登場するとフランスは強引
にゲルマンの系統樹も又フランクの系統樹も自分の系統にしてしまった。それは新しい
総国民への税体系にもなった。かくて17世紀のジャン・ラブール神父以降は、「元来
、フランス人は完全に自由で、完全に平等なはずだ。」という風で、これがシモンや、
モンテスキューにも伝染して、古代ゲルマン人を「われわれの父」とさえ呼んでいた。
この手放しの、ガリア主義・ゲルマン主義をこっぴどくやっつけたのは、皮肉な歴史家
ヴォルテールだった。彼はフランスにフランクの家系を引くものなど一つもないと言っ
てのけた。同じ啓蒙派でもディドロのほうは、あえて語源を持ち出して、「フランク、
フラン(自由)、リーブル(自由な)、ノーブル(貴族)」などが同じ語源であること
を仄めかした。だが不思議にもフランス革命は、これらの議論は一旦ご破算にしてた。
フランス革命は「抑圧するローマ人、抑圧されるガリア人、解放を謳うゲルマン人」と
いう三つ巴の構図を現出させたのは不思議である。これが盛んになったとは言え中世期
のフランスの国家経営は破綻し、都市文化が反映し農家が常に窃取され民族の歴史から
見たフランス革命とは、貧困からの脱却でしかなかった。そういうものだったのだ。フ
ランス革命は必ずしも市民の起爆などでなくギゾーはこれを集約して、「フランス革命
は結局はフランク人とガリア人の対立だった。それがそのまま領主と農民、貴族と平民
の対立になり、そこに勝利と敗北があらわれたのだ」と述べた。つまりは、フランスの
アーリア神話は貴族の神話で、フランス革命とフランスの歴史を最も公平に記述したジ
ュール・ミシュレさえも「人種は重なり合っていく。ガリア人、ウェールズ人、ボルグ
人(古代ベルギー人)イベリア人というふうに。そのたびにガリアの地が、肥沃でケル
ト人の上にローマ人が重なり、ゲルマン人が、そこへ最期にやってきたのだ」と書いた。

1115: 名無しさんAA:18/01/14 02:42
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 754----------

 英国ブリテン島は全く以て困っていた。間違いの国イギリスは、只のローマ人の砦地
であったからだ。もともとイギリスはそのような過誤の国事情が多々あるままだった。
11世紀以前のイギリスは多数の民族の次々到来し寒い土地が錯綜していた。ブリトン
人、アングル人、サクソン人が先住していた中、ケルト人、ローマ人、ゲルマン人、ス
カンディナヴィア人、イベリア人などがやって来た、最後にノルマン人が加わったのだ
が。この小さな島に大陸の主要民族や部族は、みんなこのイギリス島に逃げて来ていた
。この「逃げて来た」と言うのが曲者で、人生の後ろ影あるので寄り添う様に混交が進
み、本来は区別される地も共用管理として上手く働きだした中に次の民族が入って来る
。と言う事が積み重ねられた。そうして「ブリティッシュ」と「イングリッシュ」の境
いすら曖昧になった。実は公用語として大事な「英語」は、この混成交差する民族達の
曖昧な言語で発達し意味すら混合した人為言語だ。それゆえ英語は「失敗しても逃げら
れるユーモア」などが巧みに必要となる言語となった。こうした調整をするに長けたイ
ギリス人は、自分たちの起源神話をギリシア・ローマ神話にもケルト神話にも、ゲルマ
ン神話にも聖書にも求めた。こんな欲張りなルーツの民族はない。もっとも、イギリス
から派生したアメリカ人はまだ大胆に欲張りだった。ジェファーソンらがアメリカ合衆
国をつくりあげた起源神話でも、サクソン人の首領ヘンジストとホーサによるとあげ、
一方でメイフラワー号の渡航のユダヤ人やアングル人による移民もあげた。しかし実際
には、「最初の横断」のことなどすっかり忘れていて、そこでやむなく、イシドルスの
記述を持ち出し、自分たちの名の由来になる祖先として「ブリットないしはブルタス」
という名を選び出し、せっせとヤペテの系譜につなげたのだ。今の韓国人の世界は韓国
起源説と全く同じ様な出鱈目だった。ベーダが「イングランド史」を書くのだが、この
テキストのおかげでベーダは“イギリス史学の父”と呼ばれた。ベーダは「ジュート、
アングル、サクソンがゲルマニアの地からやってきた」とも書き加えていたからだ。ま
、この系譜はのちに書き換えられていったのだが。アルフレッド征服の“史実”を正統
化するために、いつの間にか、あらゆるゲルマン部族のなかで、アングル族とサクソン
族のみが最高神オーディン神(北欧神話の主神にして戦争と死の神で魔術に長け、知識
に対し貪欲な神)、(ミーミルの泉の水を飲んで知恵を身に付け、魔術を会得した全知
全能の神)で、(自らの目や命を代償に差し出す形力を持った神。)の系譜をもった者
として、セムの系譜に直結しているという風にしたのである。

1116: 名無しさんAA:18/01/14 04:26
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 755----------

 こうしてイギリス人はヤペテの系譜であった、が、ノアの長子のセムの系譜のほうに
位置づけされ。このうまくいった話はアーサー王伝説や獅子王リチャードの伝説がその
根拠となった。イングランド王たちは自分たちがセムの末裔であって、「モーセの民」
であることを誇った。ヘンリー8世も、クロムウェルもピューリタン派も、ウィリアム
でさえ、イギリス人をモーセの民に帰属させることに賛意をして、驚かされる。主流派
を嫌い支流の盟主となった者らが、主流派としたのだからピューリタンとして多くの血
を流した新教徒革命は全くかつての世情の階級と宗教に戻っのだ。こうしてイギリス人
とユダヤ人を結びつけるへ理屈が積極的にいろいろ試みられた。トーランドは「大ブリ
テン島及びアイルランドにユダヤ人を帰化させる理由」を書き、プリンは安易な選択に
反対する「イングランドへのユダヤ人の召還に反対する小論」などを出した。しかし、
近代にイギリス人の血は、ウォルター・スコットの『アイヴァンホー』と『ウェイヴァ
リー』だ。これによってジャコバン派の反乱を素材に若い草莽の血を描いた英国浪漫を
滾(たぎ)らせて、イングランドの血統はスコットランドの血統に対峙した形で収まり
、イギリスの血潮はフランスの血潮を凌駕してしまった。この対峙はユダヤ人金融家に
とっては全く都合が良く、更にアイルランドを絡ませる事でフランスの金融資産を隠し
にイングランド銀行創設を可能にしたのである。かくして、この地に無税の政府に支配
されない金融資産の運用拠点が築かれたのである。つまり民主主義に於いて血統継承が
なされない政権と世代継承する資産との共存が三つ巴の抗争で此処に可能になったのだ
。これがイギリスの培った面妖さであった。こうしてイタリアのフェレンツェやオラン
ダのアムステルダムの都市達が、貿易によって資産を積み上げて国家運営する中で、王
侯貴族の博打による保険制度や同じ様な船舶の信用保証の高い掛け金や株式の先物取引
などを作り上げ裏で操る国家となった。アムステルダムのチューリップ輸出などは最初
の株価暴落として有名だが、この裏のプロパガンダには、船舶保険を担ったロイド保険
の持っていたプロパガンダ機能が大いに利用された。ではその簡単に財産を分捕られた
イアリアの市民は一体何を根拠として動いていたのか。イタリアは「イタリア的」と言
われる程古くからの国際正義であるルールが存在して壁があった。フランスやイギリス
やスペインと同じ視点でみるのは、違いの極みだ。イタリアの地では多くの部族や民族
が通過する古い都市であったからだ。ギリシア人、ガリア人、ゴート人、ロンバルディ
ア人、ビザンチン人、ノルマン人、フランス人、ドイツ人、スペイン人全てが交差した。

1117: 名無しさんAA:18/01/14 11:19
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 756----------

 しかし今も昔もイタリアは、この地で成功した者が住み着いている地だったのである
。つまりフランスやイギリスと違い、本流であり続ける誇りの下に住み続けた人達だ。
これらの民には自分たちが世界の歴史の中心に組み込まれる恐怖を知っていた。それは
イタリアは非主流が誇りであった事だ。本流でありながら主流を嫌った。横浜の中華街
の様に、ヨーロッパの辺境である事で良いとしていた。既にイタリアは古代文化都市で
あり、つねにウェルギリウスが描いた「アエネーアスの物語伝統」と、そこから国が築
かれた「古代ローマの遺産」と、そして「歴代のローマ教皇」の上に成立し、いかなる
イタリア性も別の国々から援用しては来なかった。つまり逆に入って来る文化を嫌った
のだ。例えその先祖帰りの系統の進んだ文化であっても拒否していた。確かにイタリア
にはフランク神話やゴート神話に類したもの、たとえば“ロンバルディア神話”といっ
たものは一度も現出しない国である。どだい「長い髭の異臭」(古きが故のくびき)と
いう以上の意味をもってはいなかった。中世都市国家群すら、イタリアの民族主義に何
の装飾も加えなかった。それはここが常にスラブ民族の欧州征服の基点となる国家だっ
たからだ。征服されれば征服された悲しさよりは次の征服の用意に押し立てられ、防御
を考えれば防御に期待する後ろの国家の圧力を受け続けた歴史からだ。強くも弱くもあ
ってはならない国家であり続けた。当然マフィアやギルダーなど裏の結びつきで仲間や
国民同盟の色分けが際立った、群居の都市国家の集まりであった。純血イタリア主義と
もいうべきをルネサンスに向かって派手に確立させたのは、イタリア起源神話の流れに
最も貢献したダンテであった。「神曲」がウェルギリウスの案内による世界巡りして、
シーザー(カエサル)を殺したブルータスとカッシウスが地獄の第9獄に配下されてい
ることでも、よくわかる。視点は常に外の社会や世界だった。つまり、ダンテもイタリ
ア人もイタリアを通過した数々の族長には決して関心を示さない。ダンテだけではない
。ルネサンスのユマニスムを謳歌したペトラルカやボッカチオだって一人の古代ギリシ
ア人すらとりあげなかった。イタリアは既に「覇権」を止めて「個人主義と懐疑主義」
の中にいて普通の幸福を求める国であったのだ。以来、イタリアはマッツィーニが「第
3のローマ」を謳い、ガリバルディが「ローマか死か」と訴えたように、みんなが“ロ
ムルスの子孫”というアーリア人になりたがったのである。つまりは人種起源など、ど
うでもよく自分達のテーゼは地中海にありルーツはギリシャにしか無いと思っていた。


1118: 名無しさんAA:18/01/14 11:20
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 757----------

 ふつうにイタリアが「個人主義と懐疑主義」の民に片寄るのなら、ドイツは「群衆心
理と熱狂の民」に加担してきたと言われてきた。しかしニーチェはそもそも「ドイツ人
を定義することなど不可能なのである」と言ってのけた。ドイツ民衆には「ゲルマンの
初期」と「大ドイツの初期」との間の断絶を見る傾向がある。初期ドイツ人がゲルマン
系の言葉を喋っていたというなら、すでにクローヴィスとシルペリクの時代がゲルマン
的であったのだし、新たにドイツ的なるものがどこから芽生えたのか。いう事になる。
ドイツ(Deutsche)というそのものの語源が示しているように、ドイツは多様な部族間
の言語的共同体あいだの中から生まれてきたものなのだ。この部族間の言語的共同体の
中にあって、その間の文化こそがドイツのナショナリズムの起原となる原郷なのである
。これを真っ先に掲げたのは、誰あろうマルティン・ルターだった。そのことはルター
の「ドイツ国民のキリスト教貴族に与う一書」に明白に書かれる。1780年プロシア
の政治家ヘルツベルクは、ゲルマン民族(アーリア民族)の発祥地はブランデンブルク
であって、そここそが「新しいマケドニア」であると言ってのける。これが何を意味す
るかといえば、ロマン派の巨人ジャン・パウルは「ヨーロッパにおけるどんな戦争も、
つまりはドイツ人のあいだの市民戦争にすぎない」と、ドラスティックに示唆している
。つまりイタリア同様ドイツは色んな民族から蹂躙されて作られた国家だったのだ。又
ドイツを象徴していることは、あらゆるローマ的なるものを軽蔑してきたという事だ。
それはオットー大帝が即位し断言した様に「我々は、ロンバルディア人、サクソン人、
フランク人、ロートリンゲン人、バヴァリア人、ズェーヴェン人、ブルクントセ人は、
ローマ人にたいしてきわめて大きな軽蔑の念を抱いているので、われわれが怒りを表現
しようとするとき、我々は敵を罵(ののし)るのに、ローマ人という言葉を使うのであ
る。」と。この事は少なくとも権威を否定している事にある。ここがイタリアとの確執
であった。同じ大陸からの欧州戦の前線基地であってもローマは中枢でありドイツは、
そうした迫害から駆り出された反骨者の本当の戦場として栄えた地だったのだ。ドイツ
はその歴史の当初から、民族の秩序としての「ドイツ的な魂の共同的原理」を囲う国と
してきた。そう言える。当然派兵された隊の威厳としての規律がそこにある。残念なが
らも「ドイツ的な魂の共同的原理」などというものは性格からのその幻想に過ぎない。
それはこの国が絶えず“理想のドイツ”という共同幻想の上に咲かざるを得ないものだ
った証でもある。その共同幻想は、日本の「八紘一宇」や「大東亜共栄圏」がそうであ
ったように、ふつうならどこかで歪むはずをスローガンで保っていた国であった。

1119: 名無しさんAA:18/01/14 11:20
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 758----------

 ところが、ドイツにあっては、それが 宿敵フランスとの対立や対比が歴史上巧みに
作り挙げられ三十年戦争などついに崩れることなかった。それにはロシアが同じ対立上
にあり、海の向こうにイギリスがあり 国家棄損を自ら国民は避けてきた。その姿は、
今の韓国が対北朝鮮の位置に居ながら、対米活動しロシアや中国に寄り付いて媚をうる
姿と全く同じで言い訳にならない言い訳を我が身に言っていた。顕著な例としてナポレ
オン戦争によって、クラウゼヴィッツのドイツ・戦争論が確立し、フィヒテ「ドイツ国
民に告ぐ」が熱狂的に受け入れられ、「ドイツ語がヘブライ語に先んじていた」という
勝手な共同幻想が、大ドイツ主義の形成を担って広がった。この事は「ドイツ人の世界
の精神」という観念をいつも肥大させ、疾風怒濤のシラーがまさにそうであったけれど
、「ドイツの世界精神が人間の教育を永遠におこなうための資源である」という妄想に
までふくらませて「ドイツ国民の食糧や資源調達にスラブは必要悪の正義である」とい
った様な好き勝手理論を作り上げていた。勝手な「世界生存圏闘争」の幕開けである。
これらは当然な事にワーグナーやヒトラーのアーリア神話に行き届いていく。のだが、
それは当然であった。此処に来た民は進んで来たにせよ押しやられて来たにせよ、民族
の狭間の最前線でありながらも、欧州大陸の地理的中央の肥沃な大地の土地だったのだ
。これを細目で見ていた国がロシアである。ロシアには長らく5つの伝承が組み合わさ
ってきた。ロシアという名称の起原となった「ルーシ伝承」である。更にスラブ族の長
としての「スラブ伝承」と、キエーフの年代記がもたらす「ネストルの伝承」である。
又各民俗習慣やロシア正教の伝承と、そしてビザンチウムやロマノフ王朝の伝承もある
。これらの伝承はしばしば「ウラジミール公の伝説」というふうに束ねられていた。だ
がこれらのいくつもの伝承が、実際に一つに向かっていく結節点となる事は多くの場合
無かった。1472年イヴァン3世がギリシアの王女ソフィア・パレオログと結婚し、
国民的紋章がビザンチンの双頭の鷲になり、ふさわしいモノマクの王冠(白い三重宝冠
)が用意され、モスクワが“第三のローマ”とみなされたが、国内的よりは対外的だっ
た。そこに加わったのが、ロマノフ家のアナスターシャと結婚したイヴァン4世(雷帝
)による、「私はロシア人ではない。私の祖先はドイツ人だった。」という宣言だった
。雷帝はここにロマノフの王家がアーリア化し、ゲルマンの矜持をもつようになった。
 この広大な北国の土地では、激しい非情か、共に助け合う民族かでしか生き残れなか
った。そしてそれは辺境の地故の亡霊や伝説が蠢いていた土地だったのだ。


1120: 名無しさんAA:18/01/14 11:20
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 759----------

 それは「私は田舎に来たけど町の子よ。ひ弱な都会っ子よ。」よ言ったに等しく、そ
の欲望この極寒の地には似合わない言葉だった。だがこれに答えた皇帝がいた。路線と
して欧州文化を拡大したのがピョートル大帝である。大帝は1700年前後の北方戦争
で領土を著しく広域化すると、西欧主義を積極的にとりいれ、ロシア官僚主義とロシア
絶対主義を築いた。しかし、いくらピョートル大帝が夜郎自大にいばり、権勢を誇り、
文化文明を近づけてヨーロッパに向けて喧伝しても、ドイツ人からすると、ロシア人と
いうのは、アジア起原の民族か、もしくはアッティラに率いられてヨーロッパに侵入し
た出鱈目のフン一族の末裔にしか見えなかったのである。が、こんなひどい侮辱は吹き
飛ばさなければならない。その憤慨に着手したピョートル3世に嫁いだエカテリーナ女
帝自身だった。この愚鈍な夫を放逐した上殺害し、ロシア全土に農奴制を強化していっ
た。その後もエカテリーナ女帝は、3度のポーランド分割、再度の露土戦争を押し切り
、フランス革命を憎んだ稀代の女帝で、スラブ人の人種的優越を鼓吹し、晩年にスラヴ
ォニア語が人類最初の言語だと自分で執筆するほど高慢であった。これらの事件は不毛
の地のしたたかな住民の、生活環境も生活感情も生活様式思考も、強制的に一変させら
れた。租税徴収においてスラブ民による同志ユダヤ人の排斥が起こったのである。これ
まで家臣団によって統治されていた地が一律の帝国の統治に嫌々ながら変化したのだ。
こうして、これまで不毛の地をかかえて静かに帝国の元を築いていたロシアにも急激に
大帝国が出来上がるのである。カラムジの「ロシア国家の歴史」や国民詩人プーシキン
の歴史観などが出回るのだが、実際には、プーシキンの友人だったチャダーエフが言う
「哲学書簡」に述べた言葉の様に、ロシアの唯一の特異性は「無」の中に潜んでいたの
だろう。これは簡単な答えでもある。かつて文明は人の住む場所が限られていた。ロシ
アの極寒の地は、恐らくアフリカやアマゾンの灼熱の大地よりも住み難い所の筈だ。だ
がそこに生活している以上は 何らかの生活様式と食糧を持つ活動がある訳で、ロシア
国内の民族がより南下すればその無骨で素朴で真面目な働きでは収穫が上がるのは必定
だった。ロシア革命前のナロード・ニキの運動、ロシア革命のボルシェヴィズムの運動
、ロシア革命後のユーラシア運動などを見ると、チャダーエフの暗示は当たっていた。
こうして、各国に用意されていたアーリア神話の、それぞれの“前提”が出来上がった


1121: 名無しさんAA:18/01/14 11:21
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 760----------

 これらの各国でてんでんばらばらに出入りしてきた言説が、それが奇っ怪にも、しだ
いに「一つのアーリア神話」に向かって超シナリオ化されていった。なぜそんな驚くべ
き超シナリオがつくられることになったかといえば、冒頭にも書いたように、ヨーロッ
パ各国に“人類の単一性”についての「聖書に代わる新たな神話」が必要になっていっ
たからだった。人類をアダムの末裔として提示した聖書については、早くから疑義がも
たらされていた。10世紀のアル・マスーディは「すべての人間が一人の父のもとから
派生した」という考えのおかしさを指摘して、アダムの前にざっと28種ほどの民族が
先行していたことを主張した。以来、このようなトンデモ仮説はさまざまなヴァージョ
ンとなって歴史思想をかいくぐってきた。とくにこの手の仮説がまことしやかに立案さ
れていったのは、なんと“人間復興”に耽ったはずのルネサンスに入ってからのことで
、それも世界思想の駆動エンジンに大きな寄与をもたらしてきた人物たちの手で、立案
された。それは聖書の記述を否定しながら聖書の中の正統な子孫となりたかった欲望か
らだった。パラケルススはアメリカの土着民は“別のアダム”の系譜に属するだろうと
問い、ジョルダーノ・ブルーノは「人類はエノク、レビヤタン(リヴァイアサン)、ア
ダムという3つの祖先をもっていた」と説いたのだ。イギリスでは詩人のクリストファ
ー・マーローや、数学者のトマス・ハリオットが「ヨーロッパのどんな外国でもアダム
以前の人間たちの末裔がひしめいているはずだ」と述べている。こうした言説がアーリ
ーモダンおいて最初の異様なセンセーションに達したのは、ボルドー地方のマラーノだ
ったイザク・ド・ラ・ペレールが『ユダヤ人の召還』(1643)や『前アダム仮説に関す
る神学体系』(1655)を発表したときである。ラ・ペレールは聖書の年代記をいったん
ご破算にして、フランス王たちは「かつての選ばれた民」を国内に召還したほうがいい
、そうすればユダヤ人以外の祖先によるダビデの王国を復活することも可能になると、
強調した。これは、アダムがユダヤ人のみの生みの親であっても、それ以外の選民がも
っといるはずだ、そこには「われわれのルーツ」もあるはずだという主張でもあった。
いささかおっちょこちょいだったデカルトやメルセンヌはこの主張にけっこう心を動か
した。さすがにパスカルは一笑に付している。だがこれは正当な意見でもあった。人が
選民思想を植え付けられていたとしても 選民が敢えて一民族と言うのは意図的である



1122: 名無しさんAA:18/01/14 11:21
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 761----------

 このような新しい人類起源論の流行を、いまではまとめて「複数創世説」ということ
ができる。人類複数起原説である。この話は御歴々の思想家達に人気があり異説が好き
なホッブス、スピノザはむろん、後期ヴォルテールも後期ゲーテも加担したのである。
 しかし、いざこの仮説を現実社会に充てると、けっこうな難題が待ちかまえていた。
その難題に最初に出会ったのがスペイン人だ。南米を侵略したスペインがここで原住民
を布教する事になったとき、インディオをアダムの末裔と見るか、それとも異民族と見
るかで布教方法が大論争になったのである。ドミニコ会の修道士バルトロメ・ラス・カ
サス達は、インディオをアダムの末裔とみなし、その解釈にローマ教皇庁もフェリペ2
世も同意した。ということは、ここでは「複数創生説」は破れたのだ。ところが他方、
スペインから奴隷労働力として南米に連れていく事になったアフリカの黒人達について
は、彼らは、ぬけぬけと複数説をとり、「白いインディオ」と「黒いエチオピア人」と
言って別けて黒いアビシニアを区別し家畜としたのである。酷い話だがそれが選民思想
の成せる技だった。インディオをアダムの民と見ることと、黒いエチオピア人を白いイ
ンディオと対比させることには、あきらかに矛盾があった筈だ。にもかかわらずそれが
慣習になった。そこで何らかの工夫が必要になった。その工夫に貢献した一人のシナリ
オライターが「ノアの方舟あるいは諸王国の歴史」(1666)を書いたドイツ人のゲオル
ギウス・ホルニウスである。ホルニウスはノアの末裔に分岐をもうけ、ヤペテ系が白人
になり、セム系が黄色人種になり、ハム系が黒人になった。と言う論を展開したのだ。
歴史学も神話学も取り乱しはじめた。やがてスペインの時代がオランダに移り、それが
イギリスに移っていくと、こうした人種論に“科学の目”を絡めて目くらましを行うこ
とが流行した。ラ・フォンテーヌは、そうしたイギリス人の趣味を、「至る所で科学の
王国を広げているイギリスのキツネ達」と呼んだ。アーリア人種主義は「科学の王国の
住民」にもなったのだ。不思議だが近代科学のプロトタイプとなった数々の科学論や哲
学論が、人種についてはそうとうにめちゃくちゃな議論を正当化しようとしていたこと
は、今も昔もそういう思想が聖書の源流を造ったのおだ。こういう人種論はもっと知っ
ておいたほうがいい。ジョン・ロックは「猫と鼠をかけあわせた動物がいる。」だろう
と世界の人種を見ていたし、レオミュールはそれこそ「ニワトリとウサギのかけあわせ
に類する実験 のあれこれに成功した。」とフランスでは信じられていたのだ。

1123: 名無しさんAA:18/01/14 11:22
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 763----------

 このとんでもないゴミノー科学は、「吸引の法則というのは人種の混交を受容して行
く傾向のことを、反発の法則は混交を避ける傾向をいう。」と言う”歴史科学”を用い
ていて白い人類にあてはめられた。「二つの法則がはたらいて、ハム人は黒い血との混
交を吸引しすぎて飽和と劣化をくりかえし、セム人はそれよりもゆっくりした程度では
あるが劣化した。それに対してヤペテの子孫であるアーリア人は、キリスト教の初期時
代あたりまでかなりの純粋を保ってきた。」とゴビノーは、そうした珍説を繰り返して
いた。ちなみにユダヤ人はセムの初期の血をやや純度をもってきたとみなされた。ゴビ
ノーは、こんなどうにも理屈の整合性の説明がつかないような構図を自信をもって提示
したのだが、それは当時反発すらされなかったのだ。最も、アーリア人もキリスト紀元
以降はフィン人をはじめとする各種の民族と混交したため、しだいに堕落していったと
見て、決してドイツ人ばかりに好意の例外性を与えてはいない。が「ゴビノー科学」の
このトンデモ仮説は、当初は全く評価を受けなかった。ゴビノーはがっかりしていた。
そのためトクヴィル、エルネストらはゴビノーを慰め、「君の主張はきっとゲルマン諸
国で受け入れられていく」と激励したほどだった。この慰めの予言はヒトラーの時代に
なって当たった。実際はゴビノー科学とは別に、思想家達や言語学の分類学が似た様な
言説を強調していった。トンデモ仮説はまことしやかな恰好でしだいに広まっていった
。たとえば、「自然哲学の父」と称ばれたシェリングは白人は最も重要な高貴があると
考えていたし、「神話の哲学」で人類を「人間的な人種」(ヨーロッパ)、「動物的な
人種」(アフリカ・アメリカ)、「中間的な人種」(アジア)に分けている。その上で
「コーカサスの人種の祖先のみがイデーの世界に入りこめる唯一の人間だった」と、暗
にアーリア人を称揚した。又、ドイツの自然主義哲学のパイオニアのR・オイケンも、
モンゴル人、アメリカ・インディアン、アフリカ黒人に言及し、結果的にゴビノーの歴
史科学に似た言説を披露した。そこには「黒人が赤面できないのは、内面的な生活がな
いからである。」などという強烈な差別発言もまじっていた。これら発表した欧州世界
が、社会制度として 黒人奴隷を家畜相当と見なして生活し 財力に物を言わせて彼ら
を雇い「生命の実権」すら持った社会であった為に、その底辺階級に対する思想的底流
を正当化した流れがあった事を物語る。現実社会の階層として一般人も糞尿を窓から捨
てるアパート暮らしであったし、税が払えなければ 田舎での勝手な植物採取の暮らし
しかないのが現状だった頃だ。即ち一般人には使用人暮らしか許さずその使用人でも又
差別化が図られたのである。

1124: 名無しさんAA:18/01/14 11:22
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 764----------

 思想大家ヘーゲルだって、同じような人種論を展開した。有色人種や黒人に対して劣
等性を与えただけでなく、アフリカのような地域の全体を世界史の枠組みから外してし
まっていた。それどころかヘーゲルの世界史は、@ゲルマン民族の発端からシャルルマ
ーニュまで、Aシャルルマーニュから宗教改革まで、B宗教改革からヘーゲル自身の思
索の成就まで、というような鼻持ちならない3段階でフレーミングされて、無神論者の
フォイエルバッハはちょっと捻りを加えた。たいしたアイディアでもないものなのだが
、ゲルマン的本質に男性的な哲学原理を、フランス的なるものに女性的な思索原理を対
比させた。そのほか、昭和初期の日本で大流行した「唯一者とその所有」のマックス・
シュティルナーはやや積極的に、「人類の歴史は、コーカサスの人種の天を征服してい
くことになるだろう。」と予想した。もしそれがナチスの先取りだったとしたら、シュ
ティルナーはヒトラーの先駆者だったということになる。マルクスやエンゲルスはどう
だったかといえば、残念ながらこの件についての例外になり得てもいない。エンゲルス
の『自然弁証法』は人種の下等性を動物に譬え、黒人には数学能力がないだろうと書い
ている。ただ、セム人とアーリア人については同一のホリゾントに並べた。ショーペン
ハウアーは、どうかというと、さすがに人種主義には陥ってはいなかったろう思ってい
たが、それでもなお、本書の著者は、ショーペンハウアーが「アーリア主義」と「セム
主義」を対比させるという方法をドイツ国民に普及させる。これにより、最も影響力と
洗脳力を発揮した最初の人物だったのだ。もしそうだとするのなら、この「意志と表象
の哲人達」はユダヤによって窒息された西欧思想をユダヤ思想から解き放つのに、はか
らずも貢献してしまっていた。ということになる。勿論そういった常識界ではビスマル
クも同じ役割をはたしただろう。この鉄血宰相はゲルマン人を奮い立たせるのに、たい
ていスラブ人とケルト人を引き合いに出したのも頷ける話だった。歌と社会の革命詩人
ハインリッヒ・ハイネに至っては、完全に遠慮もしていない「われわれドイツ人は最も
強く最も知的な民族である」と歌って、さらに次のように高揚させた。「われわれの、
王朝はヨーロッパすべての王位を占めており、わがロスチャイルドは、世界のあらゆる
財源を支配しており、わが学者たちはすべての科学を支配しており、われわれは火薬と
印刷術を発明したのである!」と謳うのだ。ずいぶんの誇張だが、こうなるともはや誰
だって“出来過ぎたヒトラー”で 後に出て来るヒットラーを礼賛し止めるべき思想や
意見は皆無だったのである。

1125: 名無しさんAA:18/01/19 23:52
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 765----------

通俗科学者達もドイツ・アーリア主義の普及に寄与した。カール・グスタフ・カールス
はジネコロジー(婦人科学)を標榜して、無意識にひそむゲルマン魂を“説明”しては
ドイツ人のプシュケーを見えるように仕立て、カール・グスタフ・ユングの先駆者の役
割を果たしたし、ヴォルフガング・メンツェルは「ゲルマン狂い」(ゲルマン・マニー
)になることこそ、普遍的な人間の魂や悲劇に触れうることを訴えた。もはやニーチェ
は間近かなのである。ニーチェはプロメテウスの神話とアダム堕落の神話をアーリア的
本質とセム的本質に結びつけ、決してアーリアン・スピリットばかりを強調した訳では
なかったのだけれど、それはニーチェ自身の思想においてはそうであっただけで、これ
を読んだ者たちには「超人」こそアーリアン・スピリットの体現者と映っていったはず
だった。こうして世紀末大戦に向かって、ゴビノー科学のアーリア主義は数々の思想の
意匠と尾鰭を身につけ、数々のえり抜いた言葉に飾られ、ついに一人の音楽家によって
絶頂にまで高められたのだ。それがリヒャルト・ワグナーのオペラ・ファンファーレと
いうものだ。もう、どうにもとまらない。この時ダーウィンがうっかり『人間の由来』
を書いたのは余計なことだったかもしれない。既にパリに発足していた人類学会にとっ
ては、ダーウィンが人種にも進化生物学が適用できるというお墨付きをもたらす形にな
ってしまっていたからだ。フランスの形質人類学のリーダーとなったポール・ブロカー
は「アーリア人種という用語は完全に科学的である。」と確信し、ヘブライ人の原型で
ある“ヘブロイド”などという人種を提唱したほどだった。堰は切って落とされたのだ
。こうなっては誰もが黙っていない。マルスラン・ベルトゥロは「アーリア人とギリシ
ア人が比喩の多い言葉を使う理由」を語り、イポリット・テーヌは「言語と宗教と文学
と哲学とが血と精神の共同体となりうる理由」をとくとくと解説し、言語と文化と人種
をごちゃまぜにすることに、あれほど警戒をしていた「文化人類学」の創始者である、
エドワード・タイラーでさえ、ついついアーリアン・ヒストリーについては寛大な姿勢
を見せ、原始アーリア人はウラル・アルタイ系の短頭人だったのではないかといった勇
み足もしてしまっていた。これでは長頭のフランク人がアーリアの源泉からずれること
になる。もっとも、ここでは新たな問題も浮上してきていた。それは言語と人種につい
ての関連が濃くなって来た分、大英帝国の植民地となったインドについての調査と研究
も深まってサンスクリット語の研究が進み、ヨーロッパ・アーリアとインド・アーリア
の区別がつきにくくなっていったということだ。


1126: 名無しさんAA:18/01/19 23:53
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 766----------

 大英帝国が早くから東インド会社を設立し、アフリカ人をして奴隷船商売していたが
、その内効率的にインド人による香辛料商売からアヘンとお茶に変わって行った文化が
そこにあった。つまり今までアヘン地獄の中のインド人は家畜の身分から一気に原始ア
ーリア人の直系となったのである。そのため、ここに「インド・ヨーロッパ語族=アー
リア語族」という等式がいったん浮上したのだが、しかし、ヨーロッパ人たちにとって
はこれでは困る。ヨーロッパ人とインド人が一緒くたでは困るのだ。なんとかしてヨー
ロッパ・アーリアの優秀を強調しなければいけない。かくていっそうに、20世紀はア
ーリアのための人類学、アーリアのための言語学、アーリアのための神話学、アーリア
のための歴史学が過剰に演出されることになった。それとともに、それを言い募るには
近隣の人種をもっと激しく睥睨するか、もっとありていにいえば糾弾する必要にも迫ら
れたのである。ここにいよいよフランスを筆頭に「反ユダヤ主義」の旗が大きく振られ
ていくことになる。アーリア主義と反ユダヤ主義の結びつきを確固たるものとしたのは
、エラズマズ・ダーウィンの孫で、チャールズ・ダーウィンのいとこのフランシス・ゴ
ルトンである。この男がここまでの気運に後戻りがきかないような決定的な方向を与え
た。ゴルトンはケンブリッジ大学を出るとスーダンの首都ハルツームでダーウィン家の
独特の調査研究に携わり、『熱帯のアフリカ』や『旅行学』といった著書を執筆する青
年研究家だった。これで気象学に関心をもったゴルトンは各地の文化地理というものの
特質がどのように生まれてきたかという研究に転じて、そこから密かに人類の遺伝形質
の分類をするようになった。やがて家系や血統によって才能が不平等に分布している事
に気が付くと、『遺伝的天才』を発表、「人間性の堕落」の要因がどこかにあるだろう
と思い始め、しだいに人類の今後の歴史において人種が無差別に堕落していくことに、
警戒するべきだと考えた。こうして1910年前後、最も優秀な民族や人種こそが未来
の人類文明を築くために断乎として残ることの重要性を訴えるべきだと確信する。と、
ついにゴルトンはそこから「優生学」という忌まわしい擬似科学をつくりだしたのであ
る。ここにゴビノー科学の発展した優生学が唱えられた。その優生学の目的は「不適応
者が生まれるのを許さず、その出生率を抑制する」というものだった。どうすればいい
か。「断種」をこそ実施するべきだという結論が出た。


1127: 名無しさんAA:18/01/19 23:53
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 767----------

 この忌まわしい擬似科学「優生学」という火種は瞬く間にゴルトンの優生学として、
イギリスからアメリカに飛び火し、たちまち燎原の火のごとくに広がった。インディア
ナ州とカリフォルニア州を皮切りに、アメリカ各州で断種法が次々に可決成立し、チャ
ールズ・ダヴェンポートらによって優生記録局が設立されると、アメリカ中で断種が奨
励されることになり、各州で数千人ずつがその対象になった。かくてアメリカでは19
25年までに全土で優生学と断種が奨励されるにいたっていた。この優生学的断種運動
がふたたびイギリスに逆流し、それがドイツに転化して、1933年に総統ヒトラーに
よる「ドイツ断種法」の成立になっていったのだ。これでわかるように、先進列強の中
でヒトラー・ドイツはこの運動の最も遅い後発部隊だったのである。すべてはイギリス
とアメリカが用意していたものだったのだのである。ただし、ドイツはその2年後には
「ドイツ民族の血統と名誉を保護する法」というとんでもない法を付け加え、以降には
、アーリア・ドイツ民族とユダヤ人の結婚と性的関係を公式に禁止した。こうして、忌
まわしい「優生学」が最後にドイツで開花してしまったことが、アーリア神話をユダヤ
人虐殺に結びつけた。それはアメリカの原爆製造が日本やドイツより遅れ開花した様に
実行された。ヒトラーが1935年に大学教授に任命したアルフレート・プレーツは、
優生学を「人種衛生学」に改変し、ドイツ最大の産業家のクルップがその研究に資金を
拠出した。もはやアーリア神話は、今までの忌まわしいアーリア問題以外ではなくなっ
ていた。ドイツでこの忌まわしい問題をふたたび神話の輝きに変貌させたのは、パウル
・ド・ラガルドがこれらを丹念に「ドイツ教」に組み替えて、ドイツ教即ちアリーア人
至上主義でユダヤ教に対比させることに成功させる事だった。ラガルドは「ユダヤ人が
ユダヤ人をやめるのは、われわれがドイツ人になるにつれての事だ」と言って、ユダヤ
人虐殺の先鋒を切った。問題は、そうしたラガルドの言説を初期のトマス・カーライル
もトーマス・マンもバーナード・ショーも称賛してしまっていた事だ。そのラガルドの
言説がフートン・スチュワート・チェンバレンによって『十九世紀の基礎』『西欧の歴
史におけるユダヤ人』といった啓蒙書として普及し、それがついにアルフート・ローゼ
ンベルクの手による『二十世紀の神話』として未来に向けての概括として、ヒトラーに
まで献上されてしまう事は当然だった。それが『わが闘争』の一部を飾ってしまった。


1128: 名無しさんAA:18/01/19 23:54
 ポリアコフは次のように書いている。ヒトラーやムッソリーニは新たな神話を捏造し
たのではない。1500年にわたってヨーロッパを動いてきたアーリア・ゲルマン神話
を『サリカ法典』や『神曲』やルターの聖書崙のように援用したのである。むしろルネ
サンス時代の人文主義者や啓蒙時代の思想家たちが、この流れを一度も食い止めること
ができなかったことが、アーリア神話をヒトラーの手に委ねさせることになったのだ。
こうして、優生学が最後にドイツで開花してしまい、アーリア神話をユダヤ人虐殺に結
びついた。ヒトラーが、1935年に大学教授に任命したアルフレート・プレーツは、
優生学を「人種衛生学」に改変し、ドイツ最大の産業家のクルップがその研究に資金を
拠出した。もはやアーリア神話は忌まわしいアーリア問題以外ではなくドイツではこの
問題はふたたび出来た神話で丹念に組み替えられたドイツ教であった。こうして諸君が
知っての通り、ヒトラーはこのセム人に属するユダヤ人の撲滅を謳い、アーリア主義を
倒して信仰するゲルマン主義を喧伝した。そして大量のユダヤ人が虐殺に至って行った
。こうしてファシズム思想はユダヤ撲滅の旗主として、戦後はヒトラーの狂気として扱
われた。ヒトラーは『わが闘争』に「アーリア人は人類のプロメテウスである」と書い
た。しかし実は、ヒトラーがこのように断言できたのは長い前史があったからだった。
キリスト教は長きにわたって、人間がアダムという共通の父から生まれ、族長ノアと、
その息子たち、ヤペテ、セム、ハムによって大きく3流に分岐したと説明してきたのだ
。ところがここにいつの間にか長子セム人=アーリア人=ゲルマン民族になっていたし
その上に選民思想の対決となっていたのである。つまり贋ユダヤ教徒はどちらが頭いい
かを、競い、その扇動を仕切るユダヤ金融家を打ち立てて徹底的にスラブの本流ユダヤ
仲間とドイツに住むケルト由来のゲルマン民族を一掃し支配する陰謀を図ったのである
。日本ではルネッサンスの年代や特筆した事件歴史の授業では習う。しかし日本人の多
くは馬鹿な事に贅沢病に瀕していて、それが第二次世界大戦を引き起こし、日本を狙い
米国金融が世界金融として、過去の奴隷化した社会やAI社会出現に繋がっているなど
とは教えない。思想の歴史或いは宗教の歴史として、日本の義務教育でさえ我々は不幸
にして金を徴収しては収益を上げる組織に牛耳られた奴隷化の下にある事を知らない。
日本の社会の戦前や江戸時代を教えるのに確実に必ず今より悪い体制だったと教える。
だが技術の無い時代に、欧米列強に肩を比べ、或いは日本は理想郷と言わしめた風習や
文化は余りにも見放されている。三井呉服の就業時間は10時から4時までだったが、
それでも奉公人に対しての酷使として責められる場面があるが、この後明治に年俸の2
倍の年間慰労謝金を払わねば誰も商社に入らなかったのである。

1129: 名無しさんAA:18/01/19 23:54
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 769----------

そうした日本が守っていた鎖国主義を解かれ 今の奴隷より酷使される派遣労働者など
と言う仕組みを作る消費文化にさらされて、ユダヤに貢ぐ社会の最もな貢献者になった
歴史が 此処にある事を知らねばならないのである。それが欧州の歴史であったと言う
事を日本人はもっと知って もっと豊かな日本人的思考があると広めるべき時が来てい
る。欧州では有史以来抗争は絶えることは無く、今でもEUなど広域支配をめぐっても
未来志向にはない。日本の移民排斥法が整えられて「黄禍論」が横行していた頃米国内
では「断種法」もあからさまに各州法として成立して生まれていた。アメリカでは連邦
レベルでは「断種法」を成立させたことはないものの、約30の州が、精神疾患や精神
遅滞の人々を対象にする強制的な断種法を制定した。1907〜60年までの間に少な
くとも6万人がそれらの法律の適用を受けて不妊にさせられた。この政策の全盛期にあ
たる1930年代に断種された人の数は平均して毎年約5000人に達していた。ここ
の理由が全く不思議にも家族を守る為として行われていたのである。アメリカでは異質
なものを排除するために、生殖への介入が殆どの地域で正当化されていた。白人と黒人
の性交渉と結婚は、1913年には32州で禁止されていたのである。こうして一部の犯罪者
の生殖能力本人の合意は求められず奪われていた。移民法による移民の制限に優生学は
積極的に関わっていた。均質な中流白人家族を守り、そのさらなる発展をはかるための
学問であり、学問の実践が優生法制である。19世紀末のアメリカで、優生的措置におい
ては、ジェンダーリズムと共に父長制度や家長として威厳を保つ為に産まれていた。多
く諸侯がそのお遊びに子孫を残す事を婦人が断った為に自らに断種を強制されたのだ。
その後その習慣は精神障害者に対する隔離と婚姻規制、常習犯や性犯罪者に対する去勢
によって確立され実施されていた。1899年、外科医シャープが若年軽犯罪者に対する断
種(精管切除)を開始して以来。目的は懲罰としての去勢ではなく、「安全で簡便な」
断種をほどこして、若者を社会復帰させる事にあった。断種法成立以前に彼は500名
前後に断種措置を講じたが、当初は犯罪者だったが断種をしだいに精神障害者にまで拡
大しそこに「優生学とは、遺伝的原理を適用することによって人間集団の質を改善する
研究である。」と言う学問的言置が置かれた。この「人間集団の質を改善」が勝手に論
議される事も無く 権威者によって決められたのは言うまでも無い事であった。更には
本人同意も要らない過程から正確に排除の為の学問として 裏の方で静かに深く浸透し
ていった点も見逃せない盲点だった。


1130: 名無しさんAA:18/01/19 23:55
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 770----------

「優生学とは、遺伝的原理を適用することによって人間集団の質を改善する研究である
」と最初に見た目にやさしいこの定義は、よい科学的定義が常に嘘を吐くように、無害
で、特別の価値判断はないように思える。だがよく見ると、そこはひづめの割れた悪魔
の足先がのぞいている「人間集団の質」という言葉にである。どのように人間の“質”
を定義するか。誰がそれを定義するのか。遺伝病の場合には簡単な事のように思える。
だが色盲や血友病、ハンテントン舞踏病といった病気を根絶し、拡大防止と言う自体に
誤りや批判はないだろうか。このような優生学、すなわち身体的・精神的障害の除去の
研究は「消極的優生学」と呼ばれる。これに対して「積極的優生学」は、人間集団の中
でより望ましい性質の出現頻度を高めようとするものである。これは、特定のタイプの
人間を生み出すことを目的にする一種の“生殖プログラム”の実施ということができる
。「消極的優生学」は、人類社会において歴史的には古くからある考え方だった。ロー
マ人は、著しい奇形や不治の病をもって生まれた赤ん坊をローマ広場の近くにある切り
立ったタルペイア岩から投げ落とした。これは罪人と同じようにして処刑だった。スパ
ルタ人にも同様の慣習があり、多くの原始的な社会でも同じ理由から子殺しが行われて
いたのである。ギリシア人やローマ人の社会だけでなく、中世ヨーロッパのキリスト教
が起こった社会では、どこにおいても社会的に望まれない子供には大規模に遺棄されて
いる。通常、こうした子どもたちは、両親には彼らを食べさせていくだけの余裕がない
貧民層であった。あるいは、私生児であるが故に社会に彼らの居場所がないなど理由に
捨てられていた。その多くは、誰かに拾ってもらえるのではないかと願う親たちによっ
て公共の場に置き去りにされた後の処刑と思われる。だがそれとわかる異常の子を拾お
うとする人はおらず、彼らはたいてい置き去りにされたままに病気になった。今日でも
、ロシアやインド、中国、その他多くの国々では先天的障害をもつ子どもの遺棄が続け
られている。これらの国では、親たちに障害をもつ子どもを世話するだけの経済的余裕
がない。他方、「積極的優生学」にもまた長い歴史がある。古代ギリシアの哲学者プラ
トンは、理想の社会として哲学者の王たちが支配する独裁的エリート社会を構想した。
プラトンは、理想社会の支配者たるガーディアン(守護者)は、ひそかに、“望ましい
男女”が交合するように手配すべきであると示唆した。ガーディアンたちは、戦争では
並はずれて勇敢に振る舞う男がセックスにおいても余分の機会が得られ、それによって
彼らが可能なかぎり多くの子を残せるようにすべきである。と説いている。

1131: 名無しさんAA:18/01/19 23:56
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 771----------
 こうした「優生学理論」を掲げたのは、戦後にドイツを裁いたアメリカこそが、実は
ナチスの優生政策の先駆者だった。戦前のヨーロッパの中にはドイツの他にも優生政策
を推進した国があり、福祉国家スウェーデンでは戦後も根強く優生政策を存続させてい
たのだ。また外でも指摘されている事実だが、ドイツの優生学者のスポンサーとなって
いたのは、アメリカのロックフェラーやハリマンなどの金融一族である事も理由がある
。彼らは1834年に死去したトーマス・マルサスの理論の信奉者であった。ダーウィ
ンの血を受け継ぐマルサスは、非白人種や“劣等な”白人種を、家畜のようにえり分け
ることを提唱していた。マルサスは、経済学者仲間のジョン・スチュアート・ミルらと
ともに、「金髪碧眼のアーリア人種は、この世界へと贈られた神からの賜物である」と
言ってはばからない。優等な白人種が無知な有色人種を支配するべきである、と彼ら二
人は言うのである。結局、ナチスも英米のエスタブリッシュメントも、言うことに違い
はない。彼らは同じ穴のムジナなのだ。1928年、研究所を新築するために「ロック
フェラー財団」は32万5000ドルを寄贈した。「ロックフェラー財団」がミュンヘ
ンの「精神医学研究所」に資金提供をしたために、アメリカの他のスポンサーもあとに
続々と続いた。実際、ベルリンにあった「カイザー・ヴィルヘルム人類学・優生学・人
類遺伝学研究所」の建物の一部もロックフェラー財団の援助金で建設されたものだった
。世界が大恐慌に陥ってから数年間、「カイザー・ヴィルヘルム人類学・優生学・人類
遺伝学研究所」は深刻な財政問題を抱え、閉鎖の危機に追い込まれたが、「ロックフェ
ラー財団」は赤字が出ないよう資金援助を続けた。所長のオトマール・フォン・フェア
シュアー男爵は重要な局面に何度か「ロックフェラー財団」の代表者と会見している。
1932年3月、「ロックフェラー財団」のパリ支部に宛てた手紙のなかで、彼はさら
に6つの研究計画に対する資金援助を依頼した。2カ月後、「ロックフェラー財団」は
肯定的な返事をする。「ナチス」がドイツ科学を支配してからもなお、「ロックフェラ
ー財団」はドイツの優生学者に資金援助を続けた。第二次世界大戦が勃発するまでは、
ナチスの宣伝者は、ドイツは同じ「白人である北方人種の血統」に属する国家とは戦火
を交えたくないと主張していた。彼らの見解を信じていたアメリカの優生学者たちは、
ナチスが人種構成が同じ国に侵略を開始したことを知り、仰天した。ナチスの侵略行為
によって、ドイツとアメリカの優生学運動の関係は明らかに緊張した。開戦当初のT・
U・H・エリンジャーとストダードのドイツ訪問は、すでに難しい国際状況の影響を強
く受けていた。合衆国がドイツと日本を敵国として参戦したことによって、ドイツとア
メリカの優生学者の関係は完全に切れた。

1132: 名無しさんAA:18/01/19 23:56
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 772----------

 だがこれらは日本に幸いした。一つはこうした選民主義と優生学がまとまってこれ以
上の広がりが無かった事だ。そして二つ目が日本がドイツと同盟した事で日本人根絶や
しを謀っていたアメリカの陰謀が打ち崩された事だ。先の「ロックフェラー財団」「カ
イザー・ヴィルヘルム人類学・優生学・人類遺伝学研究所」への資金提供は実はアジア
に於ける劣性研究の為だったと言われる。つまり日本で対しての満州の権益拒否以来、
ロックフェラーやハリマン達は、大和民族の絶滅を願っていたのである。天皇制も国民
も中国進出には邪魔だと公言していたが、その世界地図からの排除の理由付けが無かっ
たのである。それはかつての南米インカ人に対して「病気持ちカルト集団」やアメリカ
先住民に対する「蛮行の社会性の無い盗賊集団」とのプロパガンダ活動と共に日本や中
国人に対する何らかの広報活動が必要だったのである。だがなぜだがこの行動は変化し
た。対ドイツから対日参戦のプロパカンダに変わったからだ。日本が真珠湾を攻撃した
1941年12月7日以後に、ドイツとアメリカの優生学運動が接触した記録は全く見
つかる事はない。ドイツの人種衛生学者の多くは広範囲にわたる根絶計画の調整に忙殺
され、アメリカの優生学運動は戦争終結まで大半の活動を一時的に中止した。と言われ
る。たとえば、「ニュージャージー断種連盟」は事実上すべての活動を中止し、「アメ
リカ優生学協会」は『優生学ニュース』の発行だけに仕事を限定したのである。しかし
直ちに「敵性外国人」とみなされ、当時のルーズベルト大統領によって西海岸に住む日
系人は約12万人が強制的に立ち退きを命じられ、へき地に設けられた全米10カ所の
収容所に強制的に送られが、これらの人の子孫は僅かしかいない。ナチス優生学をも支
援したカーネギー財団を世話したのは他ならぬルーズベルト大統領であったし、セオド
ア・ルーズベルトは、公然と優生学の支持者であることを自ら任じていた。彼は、アン
グロサクソン人の系統の男女が十分な数の子どもを残すことができなければ、それは、
“人種的自殺”につながると警告し、優生学的な理想を支持し、今世紀前半を通じての
優生学が人々に及ぼしていた影響力を反映させていた。1905〜10年の間、優生学
はアメリカで発行されていた一般雑誌で2番目によく取り上げられたテーマでもあった
。その支持者には、保守派もリベラル派も、そして革新派も自由主義者もいたし、この
「敵性外国人」の繁殖を避ける事に反対はなかった。ある収容者は言う。「我々は同じ
米国人として、収容所長や我々のボスには忠誠を誓っていた。」

1133: 名無しさんAA:18/01/19 23:57
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 773----------

Manzanar(California)10,000人   マンザナー、カリフォルニア州(1942年6月開設)
Tule Lake(California)16,000人 ツール・レイク、カリフォルニア州(1942年5月開設)
Poston(Arizona)   20,000人 ポストン、アリゾナ州(1942年5月開設)
Gila River(Arizona)15,000人    ヒラ・リバー、アリゾナ州(1942年7月開設)
Minidoka(Idaho)  10,000人 ハート・マウンテン、ワイオミング州(1942年8月開設)
Heart Mountain(Wyoming)10,000人 ミニドカ、アイダホ州(1942年8月開設)
Granada(Colorado)  8,000人 トパーズ、ユタ州(1942年9月開設)
Topaz(Utah)   10,000人 ローワー、アーカンソー州(1942年9月開設)
Rohwer(Arkansas)  10,000人 ローワー、アーカンソー州(1942年9月開設)
Jerome(Arkansas)  10,000人 ジェローム、アーカンソー州(1942年10月開設)
Amache、 アマチ、コロラド州(1942年8月開設)
Crystal City、 クリスタル・シティー、テキサス州(1942年11月開設)
/司法省が管轄拘置所)
ツールレイク隔離センター
カリフォルニア州北部のツールレイク強制収容所は、戦時転住局によって運営されてい
た10ヶ所ある収容所の一つとして開設されました。1943年に、欠陥だらけだった忠誠登
録の答えに基づいて、合衆国政府が不忠誠とした人達のための、隔離センターへと変更
されることになる。1943年に、ツールレイクにいた日系人で、政府によって忠誠心があ
るとされた人達は他の収容所へと転出し、他の強制収容所からは、不忠誠だとされた人
達が入所して来た。また、既にツールレイクに収容され、再び移動するより留まること
を選択した人達も6千人以上いました。ここでは、収容所以外の場所に移転することは
、全員禁止されていました。およそ千人の警備員が導入され、二重のフェンスが建てら
れ、軍用戦車が収容所を取り囲んでいました。強制捜査は1年に及び続行されました。


1134: 名無しさんAA:18/01/19 23:58
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 774----------

収容数は最高で1万9千人に膨れ上がり、密集状態は収容所内の緊張を高めます。1943年
10月、住民と管理関係者の間での口論の後、戒厳令が布かれ、これは外部の報道機関に
よって暴動にまつりあげられてしまいます。管理体制に反抗的だとの疑惑を持たれた男
性達は、法的手続きも踏まず、柵内に閉じ込められました。1944年の春には、収容所管
理者は、すべての集会を禁止し、学校、職場、スポーツ、リクレーションが閉鎖となり
ます。ツールレイクでは、親日的な団体や、日本に帰国を希望する親からの圧力などで
、5千人以上の二世がアメリカの市民権を破棄することになりました。この隔離センタ
ーは、1946年3月に閉鎖されます。 以下は当時を語るインタビューからの抽出である。
「(収容所内の)農場でのストライキが、問題の一部でしたね。作物は植えられていた
んですが、誰も収穫しない。養豚所も閉鎖された。食糧事情は悪くなる一方でした。そ
れはもう酷くて、ある時なんか、各食堂に、カリフラワーが一箱ずつ届けられただけな
んてこともありましたよ。300人用に一箱ですよ。それで花の部分を切って、葉の所は
残して於くんですね。葉っぱで何をしようっていうのか? 考えたもので、それをきざ
んで、漬物を作ったんです。もう食べ物を要求して、大騒ぎになりました。少しずつ何
か運ばれてくるんですが、とにかく皆を食べさせるために、何とかしないといけない。
管理側は我々にちゃんとした食事を与えてないんですから、皆怒って、それで奉仕団(
即時帰国奉仕団、親日派の団体)の人達がもっと力を持つようになったんですよ。「ほ
ら、あいつらは戦わないだろ。管理側と戦わない。だから、こんな扱いを受けるんだよ
。」と言うふうになってね。そこで力をつけていったんです。管理側がますます弱くな
る、すると陸軍はひどい食事を送ってくるで、彼らにしてみれば、もっと沢山の人をグ
ループに引き入れる武器が揃ったわけです。それをうまく利用しましたね。だから短期
間の間に、あれだけ沢山の人を引き入れられんたんです。それから、管理側が2百、3百
人の奉仕団員を捕まえて、4百、5百人にもなりました。皆追い出して、収容所を落ち着
けようというわけです。団員達は柵に入れられて、それからビスマルクに送られて、そ
れからニューメキシコのクリスタルシティーでしたね。グループ全体を分裂させて、国
内中に散らばしたんです。それで問題解決ってわけです。それで断種なんかも行われた
のしゃないかな。わかんないけど。と話している(ビスマルクは監視独房)

1135: 名無しさんAA:18/02/04 02:37 ID:cjA
NHKは何故嘘をつく。教育NPOでは 教員や学校の事ばかり言っている。更には、
自己決定権を持たない子供や 非行や不登校で教師が時間が無くなっているなどと言う
。これは決定的に違っている。大木の残る比率と子供の貧困比率が正に相対比例してい
る事は何年も前から 明治の景観教育として定着していた。だがそうした事や犯罪集団
としての実体の自治体は各所で議員の旅行や刺青職員などで次々と明らかになっている
。つまり役所が学校教育を腐らせ地方自治体が犯罪を犯している中で 子供が出来そこ
なう事に 自治労や教育労組が全く立ち向かわず 自らの給与や保身や労組保全のみの
運動しかしてこなかったからだ。 一元化教育や管理教育は当然であり混乱を減らす事
も当然なのだ。改善ではない。多様性も必要ない。昔に戻る事が大事だ。多様性を認め
れば殺人犯障害犯を作りだす。問題は人生の中の時間を豊かにゆっくりと過ごす事だ。





1136: 名無しさんAA:18/02/05 15:59 ID:LUE
 国会を開会する大臣達はなぜ 問われた人が答弁しないのか。議長は国会を愚弄して
なぜ職権をまっとうして 答えさせず長々と他に喋らせるのか。全く国会ではないでは
ないか。



1137: 名無しさんAA:18/02/05 22:16

 基本的に 独島エビは 広島・島根の周辺にわざわざ日本の漁師が杉や松の枝付き筏
を50隻ほど浮かべて育て上げたものだ。かつて15年前に何者かに持ち去られたり、
壊されたりした。全く横取りの韓国漁船で その後密かに韓国魚船が島根港の漁港やら
広島の漁港やらに勝手に出入りし警察に届け出て取り締まりはしたが 驚くべき事に、
日本政府は注意するだけで韓国船を一回も拿捕はしなかった。わざわざ徳島からの稚魚
から徳島エビを育てて繁殖させたと言うのにである。





1138: 名無しさんAA:18/02/21 23:28

「マルコポロリ!」で事故が起こった。そもそも東野 幸治がMCなんぞ粗野で下品な
放送界の恥のような番組をいつまでも続けている事の方がおかしい。NHKの教育の
ほうがよっぽど魅力のあるものだろう。近年刑事物ではぐれ刑事が再放送されたり、
相棒が視聴率上げているとされるが、あまりにも製作費を安くあげようとろくな企画も
せず2時間物3時間物のわけのわからない編集をして視聴者の生活も無視した番組作り
がTV離れを加速している。NHKすらその番組表にまったく誠意がない、オリンピッ
クにしても4年に一回はある大々的なお祭りだ。だがその企画と自社の番組作りがその
ままのりあげて視聴率稼ぎに回る事がどんなに愚かな事か。本来のTV局の主張のない
ただの井戸端会議の中継の様なワイドショーが全くTVに不釣り合いな放送である事が
まったく理解していないTV局には 明日はない。



1139: 名無しさんAA:18/03/02 01:08 ID:zmw
演説で文氏は、日本に「特別な対応を要求しない」と言った。
それなら さっさと慰安婦像を撤去せよ。日本だけに国際規約を違反するな



1140: 名無しさんAA:18/03/02 09:20
水曜日のダウンタウンの隠し撮りに批判が上がっている。当然だこれは犯罪だからだ。
本人の内諾なく本人の持つ部屋に隠し撮りなどありえない企画だ。どこまでTV局は馬鹿なのか。
少し前だがある沖縄の米兵用のスタンドバーの持ち主が丘のふもとで殺された。もちろんその店は
すでに廃屋ではあったが昔のミュージックBOXなどがあった。
これもTV番組で沖縄中をあるいたTVクルーの犯罪だったろうしダウンタウン以外もめちゃイケ
などの変なTV界の出入り者は多い。が何様と思っているのだろうか思い上がりもはなはだしい


1141: 名無しさんAA:18/03/02 15:38
 日系人たちの言うとおり、これは「リロケーション・センター」とは名ばかりの「強
制収容所」に他ならない。有刺鉄線の外に出ることは禁止され、日本人の血を引くとい
うだけで彼らは、砂漠の中の掘っ立て小屋に押し込められたのである。しかし、日本語
の「強制収容」という語感が生むイメージとは少々異なる部分もあった。収容所といえ
ども監獄ではない。所内の移動は自由だし、個々の自主的活動はある程度認められてい
た。人々は収容所内で「就職」し、それぞれに見合った仕事によって報酬を得ることが
できた。ひとつの収容所に、およそ1万人以上が暮らすのである。これはすでに、「都
市」であった。ありとあらゆる仕事があり、ありとあらゆる施設があった。農場に工場
、床屋や雑貨屋などの商店、学校、教会、警察、裁判所、劇場に果ては賭博場まで。無
いのは、外へ出て行く自由だけだった。そもそも戦時中の、経済的にも困難な時期であ
る。政府としても、日系人収容所にあまりにも多額の費用を費やすわけにはいかない。
基本的に、収容所内は日系人たちの自治と自給自足に任せる、というのがアメリカ政府
の方針であった。トップの管理職にはもちろんWRAから派遣された白人が就くのだが
、実務はすべて被収容者たちが行なった。所内の食事のために彼らが作った農作物は、
がんらい農業に長けた日系人の本領発揮とばかりにすばらしい出来を見せ、収容所外に
まで「輸出」されてアメリカ人たちの食卓を賑わした。戦争が長期化すれば当然収容所
生活も長引く。変化のない毎日に、日系人たちは暇を持て余した。そんな殺伐とした収
容所生活を彩ろうと、二世の若者たちを中心に野球やフットボール、合唱などのクラブ
ができた。学校では、外部から教師がやってきて授業を行い、教会は各種のパーティー
を主催し、集会所では舞踏会なども実施された。これが政府から強制的に与えられた仮
の生活であるという事実を除けば、そしてそこに起因する様々な問題を忘れてしまえた
なら、物事はごく平穏に進んでいたともいえる。だが此処には割れてゆく日系社会があ
った。この生活はしかし、クラブ活動やパーティーなどでは発散できないわだかまりも
、ある。押し込められた不満、はけ口を失ったエネルギーの矛先は米政府やWRAに向
けられた。いくつかの収容所では管理体制への不満からストライキが頻発し、当局との
小競り合いや発砲事件に発展するケースも見られた。1946年の「ニュルンベルク医
師裁判」で、政府主唱の大虐殺に関与したとして告発されたドイツ人の人種衛生学者は
ほんの数名にすぎなかった。告発された学者たちは被告として抗弁した際に、自分たち
の研究の科学的根拠がドイツ国外でも受け入れられていたことに言及した。この戦術は
、ナチスの人種政策のモデルは民主主義国家米国だったという主張に基づくものだった
。つまりこの収容計画も実はドイツより早かったのだ

1142: 名無しさんAA:18/03/02 15:38
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 776----------

 ただ往々にして、ストライキにより困るのは白人管理者側ではなく、当の日系人たち
なのである。たとえば食堂がストを起こせば、食事にありつけなくなるのは被収容者達
だし、トラック運転手たちのストは物資の輸送を滞らせ、所内は深刻な物不足におちい
る。冷静な人々の間からストライキに対する批判があがるのは当然だった。管理者側は
そこに目をつけ、反スト派の日系人たちを取り込んでゆく。自分の判断で管理局側につ
く日系人もいたし、私利私欲のため、あるいは被収容者全体のためを思って両者の折衝
に尽力しようとする人々もいた。こうした反スト派の者たちは、しばしば同胞から「in
u(犬)」呼ばわりされ、白人や米政府にすりよる裏切り者のレッテルを貼られた。。
 こうして、悲しい構図が生まれていった。日系人同士が、その狭い収容所社会の中で
、お互いにいがみ合う。隣のブロックのあいつはイヌだ、あの奥さんの旦那は日本狂信
派だ――。むりやりに閉じ込められた集団社会は、その内部で、切ない分裂を決定的に
していった。さらにこのような分裂は、親子・家族の間柄をさえも引き裂いていったの
である。 当時、連れられて行く前に、日系人の家々に「Internment Sale」(インター
ンメント・セール)などと書かれたチラシが貼られ、足元を見て買い叩こうとする商売
人たちが追いはぎ同然の行為を繰り返していたという。白井の証言の「カリフォルニア
日系人強制収容所」によれば、米政府は「火事場泥棒式のやからを防ぐために、指定し
た倉庫に荷物を持ってくれば戦争中保管して、戦後きちんと返すと言って、悪徳商人を
取り締った。しかし敵国政府のいうことなどてんで信用しない日本人は、荷物の保管を
申請しようなどしなかった」と会う人は語ったと言う。日系人を転居はさせるものの、
財産まで奪うわけではないという建前上の論理を、政府も一応の措置はとっていたわけ
である。だがこのとき保管庫を利用した人びとの荷物の一部の地域を除いて、政府の言
葉どおり戦後無事に戻ってきたという。収容所内は日系人たち自身で自治と自給自足を
した。所内の食事のために彼らが作った農作物は、がんらい農業に長けた日系人の本領
発揮とばかりにすばらしい出来を見せ、収容所外にまで「輸出」されてアメリカ人たち
の食卓を賑わしたぐらいだ。その姿はドイツの収容所と同じ規制と同じ姿でもっと過酷
であったにせよ 日本人としての誇りを持った生活がそれを大きく変えていた。

1143: 名無しさんAA:18/03/02 15:39
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 778----------

 入居に際して忠誠登録を書かされている。この目的は、アメリカに忠誠である者とそ
うでないものを分け、忠誠が確認されたものは、兵役につくか、仕事や学業で早くアメ
リカの一般社会に戻るように促し、不忠誠とされたものは隔離することでした。しかし
、よく考えずに作成された質問表は、収容所内に不安と混乱をまねいたため、27番目の
質問「二世の者がアメリカ軍入隊の意志があるか」を、女性に対しては「陸軍の看護部
隊、及び婦人陸軍部隊で働く意志があるかどうか」と変え、28番目の質問「アメリカ合
衆国に忠誠を誓い、日本国天皇への忠誠を『破棄』するか」については、アメリカ国籍
も与えられないまま、日本への忠誠を否定すれば、国籍喪失の憂き目にあうと心配する
一世のために、「米国の法律を遵守し、いかなる形でも、米国の戦争遂行努力を妨害す
るような行動をとらないことを誓約するか」に修正しました。結果は、17歳以上の7万8
000の日系人のうち、およそ6,700人が、「忠誠心なし」に分類され、約2,000人が条件
をつけた回答をしています。登録をした83%にあたる6万5000人以上が、忠誠と認められ
ています。27番目と28番目のどちらの質問にもノーと答えた人は、米国に不忠誠だとさ
れた若者でノーノーボーイと呼ばれました。主に日本で教育をうけた帰米二世です。政
府はノーノーボーイの比率が一番高かったツールレイクを、隔離収容所として使う事に
決め、警備をいっそう強化し、各収容所から日本への帰国希望者を含む、不忠誠者とさ
れる者らをすべてツールレイクに集めました。参考までに言うと、日系人強制収容所は
、カナダにもあり(Bay Farms, Lemon Creek, B.C−ともにブリティシュ・コロンビア
州)に存在したのである。、一説では、米国のそれよりも待遇などは遥かに厳しかった
。なおカナダの捕虜収容所(P.O.W. Camp)は、東部にある。第二次世界大戦の戦局が太
平洋に移ると、総数約 21000人と言われた日本の血をひくカナダ人はブリティッシュ・
コロンビア州沿岸部から強制的に立ち退かされ、海岸から167km(100マイル)以上離
れて暮らすよう強制された。そのような一時的強制収容所であるタシュミは、ブリティ
ッシュコロンビア州ホープのおよそ25km東方に急造され、約2600人の男女や子どもたち
が収容された。


1144: 名無しさんAA:18/03/02 15:39
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 779----------

また、オ−ストラリアの首都キャンベラ近くの田舎町カウラにも同様の物があるが、こ
れも正確に言うと、戦争捕虜収容所(P.O.W.Camp)である。日本軍兵士はもちろん、日
本の兵士・軍属として参加させられた台湾、朝鮮の人たちもこれに含まれる。イタリア
人も多数収容されていた。ただ、ブルームの町で真珠養殖にたずさわっていた民間人、
老若男女多数も収容されていたことが、普通の捕虜収容所とは大きく異なるところであ
る。そこの他にも、上記の収容所に入るための集合・移動用の仮収容所が16カ所あり、
一時的に都市の野球場、競馬場、博覧会場などを使って収容されていた。「宿舎」には
馬小屋も当てられていたようだ。さらに各収容所で「問題行動」ある者や「米国市民」
でないものが、サンタ・フェ(Santa Fe)など4カ所に収容された。
参考までに、その他には終戦後に連合国側の「日本軍捕虜収容所」が、各国に多く設け
られたが、それらはここで扱う「収容所」とは全く性格が異なる。それらのうち一つは
、戦犯を軍事裁判にかけ、服役させるためのものであった。もう一つは、国際法違反で
あるが、旧ソ連のシベリアの各収容所のように、報復的、懲罰的、労働力補完的「捕虜
収容所」であった。母親が帰国希望だったために、ペギー・アヤコ・ナガタは、10歳の
時に、家族でミニドカからツールレイクにやってきた。日本帰国組の多いツールレイク
では、日系人自費による日本語学校が容認され、先生自らがガリ版刷りで教科書を作っ
ています。アヤコの当時の教科書を見せてもらいましたが、国語、算数の教科書にまじ
って、日本に帰って困らないようにお作法の教科書もあり、アヤコの自筆で永田綾子と
きれいな字で小さく名前が書いてありました。その頃のようすをアヤコはこう語ります
。毎朝学校が始まる前、校庭で体操をしてから教室に入ります。先生が教室に見えると
、一斉に立ちお辞儀をしてからクラスが始まりました。授業は日本の地理、国語、お行
儀、算数と、すべての教科を日本語で教わりました。交替で教室の掃除もしましたよ。
日本みたいでしょう。女の子の髪はおかっぱか、わたしみたいにお下げで、男の子はす
ごく短いイガグリ頭でした。子ども会にも入っていました。みんなで早起きして太陽が
昇るまえに集合して、そこで昇る太陽にむかってみんなでお辞儀をするんです。私には
とても日本的なことに思えました。

1145: 名無しさんAA:18/03/02 15:39

陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 780----------

米二世の若者は報国奉仕団を結成。留学中にツールレイクに収容された白井昇は、その
活動を、著書「カリフォルニア日系人強制収容所」の中でこう伝えています。男子は、
全員丸坊主頭に髪を刈り、灰色のスウェットシャツをユニフォームとした。そして女子
青年団員はピッグ・テールといって、頭の真中で髪を左右に分け、それを編んで両肩前
に垂らすことを規制した。そして、男子女子青年団員は、ともに日の丸のマークを染め
抜いた鉢巻きを結んでいたので、この青年団のことを「ハチマキ組」とか、「坊主組」
などとも呼んだ。…… 午前五時から広場では1,200名のものが、まず日本の戦勝祈願と
皇居遙排式を行い、次いで勇ましく国民体操を行った。それが終わると、一同は四列縦
隊をつくって、所内ところかまわず、進軍ラッパを吹き鳴らしながらワッショイ、ワッ
ショイと隅々まで駆け足行進を行った。これらの過激集団と収容所長との対立、また親
日派と親米派とのぶつかり合いが多かったツールレイクでは、暴動やストライキが何度
も起き、一度は、所内の治安が落ち着くまでの間、軍の管轄下におかれている。収容所
内には留置所もありました。あるとき、アヤコの父親の知人が、予告もなくキッチンの
仕事を解雇され、父親は、その不当性を食事の時にみんなに訴えました。すると翌日、
それを管理局に密告した人がいたようで、アヤコの父親は捕まり、3ヶ月も留置所にい
れられています。そんな不穏な環境でしたが、アヤコは子どもたちにはどんなことがあ
っても、たちまち元気をとりもどす力があるようだったと語っている。。
もともと優生学の支持者であることを自ら公然と任じていたのが、20世紀初頭のアメ
リカ大統領でノーベル平和賞を受賞してもいるセオドア・ルーズベルトである。彼は、
アングロサクソン人の系統の男女が十分な数の子どもを残すことができなければ、それ
は“人種的自殺”につながると警告していた。セオドア・ルーズベルトが優生学的な理
想を支持したのは、今世紀前半を通じて優生学が人々に及ぼしていた影響力の反映であ
った。1905〜10年の間、優生学はアメリカで発行されていた一般雑誌で2番目に
よく取り上げられたテーマであった。その支持者には、保守派もリベラル派も、そして
革新派も自由主義者もいたのだ。このユダヤが取り入ったアメリカ社会は、決して自由
主義資本主義社会では無かったのだ。気に入らなかければ抑圧し、競争相手と見るや、
財産没収まで及んだのだ。これは日本人社会が誰もユダヤ金融から借りない生活をして
貯蓄をして経営していたからだった。戦後も日本人のその貯蓄率の高さにユダヤは銀行
経営をして香港銀行の拡大を諦めたと言われている。

1146: 名無しさんAA:18/03/02 15:40
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 785----------

 第二次世界大戦中、ウクライナではユダヤ人虐殺(ポグロム)が公然と行われたが、
それは東欧諸国全般に共通する現象であった。北はリトアニアから南はクリミヤまでの
ナチス・ドイツ占領下のソビエト・ロシアでは、ユダヤ人殺戮のためにさまざまな形の
ナチスヘの協力が見られたのである。それと共に、ソ連治下でくすぶっていた極右系の
ナショナリストのグループは、ナチスの方法手段をそのまま導入してユダヤ人迫害にあ
たった。リトアニアのグループなどは、ドイツ軍が攻め込んで来る前にいち早く、独自
のポグロムを始めて迎えていた。これらの地域では警察のみならず一般庶民も、ユダヤ
殺害のためなら互いの境界を越えてまで協力を惜しまなかった、と言われている。リト
アニアで殺されたユダヤ人の数は20万で、生きながらえたユダヤ人はわずか1割だけ
であった。こういった厳しい状況は刻々伝えられていた。リトアニアの日本領事・杉原
千畝氏は、ポーランドから逃れてきたユダヤ人に日本通過査証(ビザ)を発給し続けて
、6000人の命を救ったのである。彼に助けられたユダヤ人は、日本を通過して他の
国に渡っていったが、神戸に住み着いた者もいた。その後1985年、杉原千畝氏は、
イスラエルの公的機関「ヤド・バシェム」から表彰され、「諸国民の中の正義の人賞」
を受賞し翌年に彼は亡くなった。リトアニア生まれのユダヤ人であるソリー・ガノール
は、少年時代にナチスの迫害にあい、「ダッハウ収容所」に収容されたが、アメリカの
「日系人部隊」によって救出された。彼はこの時の体験を、著書『日本人に救われたユ
ダヤ人の手記』(講談社)にまとめている。彼はナチスが迫ってくる頃全く偶然にも、
杉原千畝氏に出会い、杉原夫婦を自宅に招いたという。そして、杉原千畝氏から早期の
脱出をアドバイスされるが、決断が遅れ機を逃してしまい、このことはまさに一生悔や
まれたという。その後、彼は各地を転々としたあと、「ダッハウ収容所」に収容され、
そして、1945年5月2日に「日系人部隊」によって救出されたという。彼は本の中
で次のように記している。「リトアニアの臨時の首都カウナスのユダヤ人たちに、わず
かな希望を差し伸べてくれた当局者がひとりいた。日本領事館の領事代理、杉原千畝氏
である。杉原氏は自分のキャリア、自分の名誉、おそらくは自分の生命さえ危険にさら
して、6000人をこえるユダヤ人を救ったのである。」と

1147: 名無しさんAA:18/03/02 15:41
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 786----------

 第二次世界大戦初頭の2年間についての私の記憶では、杉原氏は暗黒の中の一条の光
にほかならなかった。杉原氏こそは、きたるべき恐ろしい日々の間ずっと、私にとって
、ひとつの変わらぬインスピレーションであり続けたのである。この杉原氏の姿を最後
に目にしてから5年もたった後、しかも、私が ホロコーストの世界から解放された。
まさにその瞬間、杉原氏と同じ日本人の顔が目の前にあった。何と不思議で、何と素晴
らしいめぐりあわせだろうか。杉原氏のまなざし、杉原氏の笑顔に通じる何かが、死の
淵から私を連れ戻してくれた、そのGI(米軍兵士)の温顔に見てとれたのだ。雪野原
から私をかかえ起こしてくれたのは、『ニセイ』と呼ばれるアメリカの日系二世だった
のである。1945年5月2日のことであった。」「ダッハウ収容所」を解放したのは
第522野戦砲兵大隊の兵士たちで全員、日系二世であった。部隊はキヨシ・岡野伍長
、ジェームズ・倉田中尉、ミナベ・平崎一等兵、シャーキー・小林一等兵など日本人の
みの部隊だった。ソリー・ガノールを救出したのは、クラレンス・松村という名前の日
系二世だったという。彼は次のように記している。「日系二世兵士はクラレンス・松村
という名前であった。アメリカ軍の第522野戦砲兵大隊に属していた。大隊から小隊
まで日系二世だけで編成した連隊規模の第100・第442統合戦闘団の一大隊である
。彼らはイタリア、フランス、そしてドイツと、凄惨な戦場を転戦した。この戦闘団は
、その従軍期間から計算すると、大戦中のどのアメリカ軍部隊よりも多くの死傷者を出
し、より多くの戦功賞を得ていた。」そういう部隊であった。ところが、第二次世界大
戦中、自由と民主主義の国アメリカ合衆国にも、「強制収容所」があった。それも日本
人と日系人専用のもので、約12万人もの民間人が財産と市民権を奪われて、カリフォ
ルニア州からルイジアナ州までに広がる10数ヶ所の強制収容所に収容されたのである
。このアメリカの日系人に対する強制政策の裏には、白人の有色人種に対する人種的偏
見や差別意識があったことは明らかである。この時期には、本来の同じ敵国であった、
ドイツ系・イタリア系のアメリカ人は全くお構いなしの状態のままだったのである。こ
のことについて、ソリー・ガノールは次のように記している。「私の身の上を思うと、
いまひとつ見落としにできない運命の皮肉がある。松村ほかの日系人たちが、アメリカ
のために戦い、生命を落としつつあるというのに、故郷の地祖国アメリカでは、彼らの
家族の多くが抑留所に押し込められていたのである。


1148: 名無しさんAA:18/03/02 15:41
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 787----------
  
住居や事業から切り離され、人里離れた土地に作られ、タールや紙を張りめぐらせた、
簡易なバラックでの生活に追いやられていた。アメリカ政府は『再配置収容所』と呼ん
だが、『強制収容所』の別名にすぎなかった。アメリカに作られた日系人強制収容所。
人里離れたアメリカの砂漠の中に建てられた、タール紙で造られたバラック小屋の列の
中で約12万人もの日系民間人が強制的に財産と市民権を奪われて、収容され生活して
いたのである。整理用名札をつけられ、日系人強制収容所に送り込まれたのは、少女は
勿論赤ちゃんから78の老人までそれは容赦のない収容だった。47年後の1992年
、ソリー・ガノールは自分を助けてくれた日系二世兵士たちと、エルサレムで再会を果
たした。ナチ時代に生き延びたことも奇跡的だが、半世紀を経た後の再会も奇跡であっ
た。彼は次のように記している。「1992年春、私は日系人部隊の兵士たちと再会し
た。クラレンス・松村と私の再会の物語は、羽根がはえて世界中に流れた。日系人部隊
の存在も、彼らがドイツの収容所解放に果たした役割のことも、それまでほとんど知ら
れていなかったのである。それは米国政府民主主義の自由と資本主義の解放の恥部とも
言える物だったからだ。この時から後、私は、松村と彼の部隊にいた人たちと何度か会
った。イスラエルで、ドイツで、そしてアメリカでも。彼らと過ごすことのできた時間
、ことに松村との数時間は、感謝の念とともに思い浮かんでくる。しかし、その松村は
1995年5月、消えがたい悲しみを私に残して他界してしまわれた。」そして、彼は
続けて次のように記している。「会うたびに、救出してくれた人たちについての知識と
理解は深まった。彼らに日系人収容所での体験があり、より広くはアメリカでの被差別
体験があったからこそ、あの1945年春、松村と彼の戦友たちは、救出にあたった時
相手に対し、理解と同情の火花を特別に強く燃え上がらせたのではなかったろうか。日
系二世とユダヤ人の間には、何か特別なきずながあるのではないか。私に答えは出せな
い。だが、日系二世たちと日本人に対し、私が強い同胞感覚を抱いていることは確かで
あった。」と懐古している



1149: 名無しさんAA:18/03/02 15:43
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 788----------

 そもそも異常で異様な大国米国は古代「ガラティア王国」を築いた時の様な悪さを持
ち、全くをその時の迫害観念や外に威嚇する脅迫観念と全く変わらない。バビロン帝国
からユダヤと言われる「ヤフェー神」(蛇の神)の信者を解放したのはバビロン崩壊の
現実からだった。ヤーヴェは日本語的には屋兎野辺であり、葦の茂る場所の人と言う事
になる。つまりは金を採る人達だったと推測される。神話の中でソロモン(B.C.967-930
)王が即位して『列王記 上』ではソロモン王はファラオの娘のほかにもモアブ人、アン
モン人、エドム人、シドン人、ヘト人など多くの外国の女を愛した。とある。ここでは
モアブ人女性ルツはダビデの祖先とあり、又カナンの地に行くのに通行させなかった。
とされるモアブ人はアンモン人(ユダヤ人)、と非常に近かったと言われる。エドム人
は古代パレスチナに居住したセム系民族。現在はエジプト人とされ「赤い土の人」とい
う意味とされる。シドン人の先祖はカナンの長子シドンでした。海港の町シドンの名は
彼らの父祖にちなんで付けられたもので漁師を意味している。カナンの北限の地とされ
イスラエルの海の漁師であったと言える。フェニキア沿岸の数少ない港のうちの二つを
持つ海港都市シドンは,陸路を行く隊商達が交易し自分たちの商品も地中海航路を行き
来する船で品々と交換して、交易の一大中心地だった。その為シドン人の中には富裕な
商人,熟練した水夫,強健なこぎ手たちがいた。シドン人には早くからガラスの製造,
機織り,衣類の染色に熟練して有名でした。彼らはまた,木こりや木材切り出し人とし
ても能力のあることでも知られていた。しかしシドン人は宗教的に堕落しており,その
崇拝の主要な部分を成していたのは女神アシュトレテと関係のある性的乱行のみだらな
お祭り騒ぎでした。イスラエル人は自分たちの地にシドン人が残るのを許したため、つ
いにはその偽りの神々を崇拝するという罠にはまりました。(裁 10:6,7,11‐13)と
記載しソロモンがめとった異国の妻たちの一部はシドン人で,その妻たちはソロモンが
忌むべき豊饒の女神アシュトレテを求めるように仕向けました。とある。又北の諸部族
と南のユダ族の中間に位置していたエルサレムの攻略に成功して、エルサレムの街に、
王座を置いたという。この時のヘト人こそヘブライ人で、ダビデはエリアムの娘バト・
シェバで、ヘト人ウリヤの妻に一目ぼれして寝取ってしまっている。バト・シェバは、
ヒッタイト人ウリヤの妻であったが、後にダビデの妻となり、ダビデの跡を継いでイス
ラエル王国の王となったソロモンを産んだ。となっている。この頃のヒッタイトはバビ
ロニアと関係は深い。

1150: 名無しさんAA:18/03/02 15:44
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 789----------

第11章02節 これらの諸国の民については、主がかつてイスラエルの人々に、「あなた
たちは彼らの中に入って行ってはならない。彼らをあなたたちの中に入れてはならない
。彼らは必ずあなたたちの心を迷わせ、彼らの神々に向かわせる」と仰せになったが、
ソロモンは彼女たちを愛してそのとりことなった。 第11章03節 彼には妻たち、すなわ
ち七百人の王妃と三百人の側室がいた。この妻たちが彼の心を迷わせた。と書いている
だが、ダヴィデ、ソロモンに関する神話は誰かの創作。ダヴィデ、ソロモンの実在も疑
われる。そもそも、この頃のパレスティナは様々な民族の混住状態で、統一王国などあ
りえない。この時代の少し前に、エルサレム陥落、南ユダ王国滅亡、第一神殿破壊、第
二次バビロン捕囚(10,832人)→捕囚の地でエゼキエル、第二イザヤ活躍モーセ五書
がこの地で完成された→偶像崇拝との訣別・ユダヤ教の誕生→捕囚は偶像崇拝に対する
罰と受け止められ、絶対神に対する信仰が純化された→ユダヤ民族はこの地で自らの指
導者(捕囚民の長)――ダヴィデの末裔――と自治権を有し、多くは農業に従事してい
たとされている。
しかしペルシャ王キュロスによる捕囚からの解放バビロニア王によって各地から捕囚と
なっていたすべての人々が解放されのに、その祖先の神々に使えることが許されたから
といって。ユダヤ人に対しては、「エルサレムに戻り、神殿を再建すること、その費用
はキュロス王が負担することとされた。」などと言う事はあり得ない。キュロスは善悪
二元論を奉じるゾロアスター教徒であったので、唯一神信仰を持つユダヤ教徒に心情的
に親近感を持った可能性はあるとされる。大多数のユダヤ人はバビロニア生まれで、そ
こにすでに定住しており、帰還した者はごく少数であったと考えられる上に、キュロス
がユダヤの神殿をたててやる筈はないし、エルサレム戻れなど命令すらする事はない。
――以後、11世紀にセルジュークトルコによって一帯が征服されるまで、バビロニア
はユダヤ民族の中心地であり続け、さらに1950年にイスラエルに追放されるまで、ユダ
ヤ民族の重要な集住地域であり続けた。バビロニアに神殿を建てることはなく“集会所
”(シナゴーグ)に集まって礼拝を行なった――シナゴーグの起源これも確実にユダヤ
神話。バビロニアはこの頃の文明の中心地だったので、多くのユダヤ教徒が住んでいた
ことは考えられる。この地でユダヤ教が洗練された可能性は高い。

1151: 名無しさんAA:18/03/02 15:48
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 790----------

 ヒッタイトは、インド・ヨーロッパ語族のヒッタイト語を話し、紀元前15世紀頃に
アナトリア半島に王国を築いた民族または、この民族が建国したヒッタイト帝国(王国
とも)を指す。なお、民族としてのヒッタイトは、ヒッタイト人と表記されることもあ
る。他の民族が青銅器しか作れなかった時代に、高度な製鉄技術によりメソポタミアを
征服した。最初の鉄器文化を築いたとされる。旧約聖書のヘテ人をもとにして、イギリ
ス人のアッシリア学者A.H.セイスがハッティと命名した。エラム人の自称ハタミに近い
。近年、カマン・カレホユック遺跡(トルコ共和国クルシェヒル県クルシェヒル)にて
鉄滓が発見され、ヒッタイト以前の紀元前18世紀頃(アッシリア商人の植民都市がアナ
トリア半島一帯に展開した時代)に鉄があったことが明らかにされた。その他にも、他
国に青銅を輸出或いは輸入していたと見られる大量の積荷が、海底から発見された。紀
元前1680年頃、クズルウルマック("赤い河"の意)周辺にヒッタイト古王国を建国し、
後にメソポタミアなどを征服した。なお、ヒッタイト王の称号は、ラバルナであるが、
これは古王国の初代王であるラバルナ1世、また、ラバルナの名を継承したハットゥシ
リ1世の個人名に由来し、後にヒッタイトの君主号として定着したものである。ヒッタ
イト王妃の称号はタワナアンナであるが、これも初代の王妃であるタワナアンナの名を
継承したといわれている。紀元前1595年頃、ムルシリ1世率いるヒッタイト古王国が、
サムス・ディタナ率いる古バビロニアを滅ぼし、メソポタミアにカッシート王朝が成立
させた。クズル川は東部アナトリア高地を源流(北緯39.8度 東経38.3度)に延長1,150
キロメートルをほぼ右回りで半周して黒海に注ぐ。ヒッタイトはこの川をマラシャンタ
と呼んだ。アナトリア半島西部のリディアと、東の大国メディア王国の国境がこのあた
りであり、紀元前585年にメディア王国が リディアに攻め込む戦争があったが、偶然起
こった日食に不吉を感じて両国は和平し、この川が国境と定められた(ハリュス川の戦
い)紀元前547年、メディアに取って代わったアケメネス朝の君主キュロス2世がリディ
アに攻め込んで属国とし、国境としての意味は失われた。このクズルルマク川はクズル
川 (トルコ語)マラシャンタ(ヒッタイト語)ハリュス川 (古代ギリシア語)はトル
コを流れる川。トルコに水源と河口の両方がある川としては最長である。クズルは赤を
、ウルマクは川を意味する。水力発電に使われている。底が浅いので船舶の航行には適
さない。つまりこの継承の仕方は日本的で鉄の文化と共にヒッタイト文化が広がったと
いえる。


1152: 名無しさんAA:18/03/02 15:48
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 791----------

 歴史上は、紀元前1330年頃、シュッピルリウマ1世はミタンニを制圧する。この時、
前線に出たのは、王の息子達(テレピヌとピヤシリ)であった。 紀元前1285年頃、古
代エジプトとシリアのカデシュで衝突。ラムセス2世のエジプトを撃退する。ラムセス
2世は、勝利の記録を戦いの様子と共にルクソールなどの神殿に刻んでいるが、実際に
はシリアはヒッタイトが支配を続けた(カデシュの戦い)。エジプトのラムセス王の寺
院の壁に、3人乗りの戦車でラムセス2世と戦うヒッタイト軍(ムワタリの軍)のレリ
ーフが描かれている。この際に、世界最古の講和条約が結ばれた。ハットゥシリ3世の
王妃プドゥヘパ作とされる宗教詩は、現在発見されている最古の女性の文芸作である。
ヒッタイトの宗教は、強くフルリ人の宗教の影響を受けていることが分かっている。こ
うしてフリ文化の色彩強まるのだがその後紀元前1430年頃、ヒッタイト新王国が成立し
た。こうして現在の発掘調査や聖書の記述やレリーフにある楔型文字などと比較して、
物語に沿って、つまり史実にそって聖書は嘘を書いて来た歴史書である事が解るのであ
る。ユダヤの聖書とされるこの読み物が何故どうやって出来上がったのかは不明だ。た
だローマ帝国が支配し編纂された事も確かだが、過去の物語も記述も自らを正当化した
宗教書であり正当化した家系図を見れば歴史書としてはとんだインチキのまがい物であ
る事が幾つもの証明がなされている。それでもこれを信じこれを中心にして世界はユダ
ヤを始め、イスラムもキリストも幾つも戦い幾人もの血が流れ、日本を含めた世界大戦
すら行われたのである。さて、おなじみのアダムとイブから始まって、エデンの園から
の追放、神の怒りの大洪水とノアの方舟(はこぶね)の話に進む。ちなみに、旧約聖書
物語によると、天地創造のアダムとイブの次に叙述されるのは弟殺しの「カインとアベ
ル」、その次にくるのがノアの方舟そして言葉を混乱(バラル)させる「バベルの塔」
の話が続く)、そして紀元前2000年頃のある日、メソポタミアの都市ウル出身(シ
ュメールの都市国家)の豪族「アブラハム」は、エホバの神のお告げを受け、約束の地
カナン(パレスチナ)に向け、一家を挙げて北メソポタミアのハランから旅立った。
 だがこの話も全く同じ物がメソポタミア神話に出て来るし拝火教教義読本とされる、
縁起絵と全く重なるのである。ちょっと話の筋と名前が違うのでややこしいのだが。


1153: 名無しさんAA:18/03/02 15:49
謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 792----------

 この旅立ちはアブラハム75歳の時である。ちなみに、カナンは地中海のどん詰まり
、海にそってレバノンとイスラエルが細長く伸びている。国境近くヨルダン川が谷を刻
み、その川は南に下ってやがて死海へ流れ込む。その西南には、アカバ湾とスエズ湾に
挟まれた三角のシナイ半島。そしてエジプトの豊饒な平地が広がっている。カナンとは
、現在のレバノンの南からイスラエル辺り一帯を漠然と指す名称である。アブラハムの
時代、多神教がはびこっていた。アブラハムがお告げを受けた唯一神「エホバ」の信仰
こそが、のちにモーセの十戒をもとにしたユダヤ教を生み出し、そこからイエスの説く
キリスト教が分かれでて、やがてマホメットが始めたイスラム教をもたらしたすべての
教えの源泉と言える。だが大体古代人が幾つまで生きたか解らないが75歳は死に行く
歳である。ここにもゾロアスター教の影が見える。と言うのもゾロアスター教こそは、
死者の国とも言える闇夜との戦いであり、その際の光が生前の行いでの結果としている
。ちなみに、モーセの十戒をもとにしたユダヤの律法、預言などを集大成したのが旧約
(ユダヤ)聖書であり、その数百年後イエスの教えを弟子達が集大成したのが新約聖書
(キリスト教)であるが、ユダヤ教徒にとっては彼らのユダヤ聖書のみが聖典であり、
キリスト教の新約聖書は認めない。ところで、ユダヤ民族を表す言葉にヘブライ、イス
ラエル、ユダヤと言う呼び名に三つの言葉があることは皆さんは知っていますか。その
中で一番古いのが「ヘブライ」で、これは「川向こうからやってきた人々」、つまり、
チグリス・ユーフラテス両川を抱くメソポタミア地方からの移住民のことで、アブラハ
ム一家はさしずめその典型であった。 イスラエルは「エル=神」と争って「イスラ=
勝つ」と言う意味で、アブラハムの孫のヤコブが見知らぬ男(天使)と格闘し、ヤコブ
が勝ったため名付けられた名前だ。それ以来、ヤコブはイスラエルと名乗るようになっ
た。やがてそれは民族の名前になっていく。ヤコブについてはいずれ話すことにしまし
ょう。さて、「ユダヤ」というのは「神をたたえる」という意味があり、エルサレム南
部の一地方の呼び名でもあった。面白いことに現在ユダヤ民族は1948年に建国した
彼らの国をイスラエルと呼び、そこで彼らの父祖の言葉であるヘブライ語を2000年
ぶりに復活させて公用語としている。ヘブライ語でヤ―コブは「かかとをつかむ者=人
を出し抜く者」の意味だ。つまり川の向こうから来た移民=神に勝った者=出し抜いた
狡猾なズル者=兄を出し抜いて祝福された弟 であったのである。


1154: 名無しさんAA:18/03/02 15:50
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 794----------

ユダ・マカベウスはしばしば芸術、音楽で取り上げられている。旧約聖書外典である『
マカバイ記』に登場する紀元前2世紀のユダヤの民族的英雄。シリアの支配下にあった
ユダヤの独立を達成することになるマカバイ戦争を指導し、ハスモン朝が開かれる基礎
を築いた。ギリシア語表記でユダス・マカバイオス、ラテン語表記でユダ・マカベウス
とも表記される。マカバイは「金槌」を意味すると言われる。マカバイ戦争の開始はデ
ィアドコイの一人セレウコス1世の建てたセレウコス朝の王アンティオコス4世エピフ
ァネスはエルサレムを占領するとエルサレム神殿を略奪し、ユダヤ教を迫害して、偶像
崇拝を強要したと言われる。このため、モデインという町に住んでいた祭司マタティア
と五人の息子たちが蜂起した(紀元前167年)。その息子の一人がマカバイと呼ばれた
、ユダであった。これ以降の独立闘争をマカバイ戦争(マカバイの反乱)と呼ばれる。
次の年ユダ・マカバイは父が死ぬと、反乱軍のリーダーとなって弟ヨナタンやシモンと
共にシリア軍と戦い、ゲリラ戦で天才的な指導力を発揮した。まず、サマリア・ユダヤ
の司令官アポロニオス、セロンを討ち取った。アポロニオスから奪った剣を生涯、戦場
に携えた。アンティオコス4世エピファネスがリュシアスにユダヤ制圧を命じると、ド
ルメネスの子プトレマイオス、ニカノル、ゴルギアス率いる4万7千人のシリア軍が侵攻
してきた。ユダはミツパで神に祈りを捧げ、エマオでシリアの大軍と激突した。ユダは
出エジプトの時の紅海の奇跡を引き合いに出して兵士を鼓舞し、シリア軍を撃破して戦
利品を獲得した。リュシアスは自ら6万5千人の兵を率いて出撃したが、ベテズルで大
敗を喫し、ユダと一時的に休戦した。シリア側は宗教的な自由の回復を認めた。ユダは
ついにエルサレムを奪還し、異邦人に汚されたエルサレム神殿の聖所を清め、再びヤハ
ウェに献納して中断していた神殿でのユダヤ教の礼拝を復活させた。ハヌカーはこれを
記念するために制定された(紀元前165年キスレウ25日)。またヘンデルのオラトリ
オ『マカベウスのユダ』はこの故事に取材したものである。こうしてエルサレム奪回と
ハヌカー制定を果たした。宗教的な自由を回復したことで戦争は終結に向かうかと思わ
れたが、ユダは政治的独立を勝ち取ることを目指したため、ハシディームなど宗教指導
者の一部はユダから離れることになった。 ここでユダヤ教は途切れるのである。

1155: 名無しさんAA:18/03/02 15:51
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 795----------

その後もユダ・マカバイはシリア軍や周辺民族との戦いにあけくれる。イドマヤ人、次
いでアンモンのティモテオスらと交戦した後、ガリラヤとギレアデのユダヤ人が孤立し
て救援を求めてくると、「ユダとヨナタン」はギレアデ、シモンはガリラヤへ向かった
。ユダはボソラ、カスフォ、マケド、ボソルなどを攻略し、ティモテオスも撃破して味
方を救出し、意気揚々と帰還した。この時、エルサレムに残っていたザカリアの子ヨセ
フ、アザリアは自分たちも戦功を立てようと相談し、ヤムニアへ出撃したがゴルギアス
に大敗した。ユダはヘブロン、アシュドドも攻略して焼き払った。紀元前164年、エ
ピファネスがイラン遠征中に失意のうちに病死すると、リュシアスは王の子アンティオ
コス5世エウパトルを擁立した。翌年、リュシアスは大祭司メネラオスの要請に応えて
再度ユダヤに侵入し、象部隊を主力として対戦した(ベト・ザカリアの戦い)。ユダの兄
弟エレアザル・アウアランは王の鎧で武装していた巨大な象を見つけると、王が乗って
いると思い込み、象を殺したものの、下敷きとなって死亡した。エウパトルは乗ってい
なかったため、エレアザルの犠牲は無駄となってしまった。ユダは敗北して撤退を余儀
なくされた。エルサレムは包囲されるが、シリア側で将軍フィリッポスによるクーデタ
ーが起こったためにリュシアスはユダと和平を結び、撤退した。紀元前161年、シリ
ア王にデメトリオス1世ソテルが即位すると、大祭司職を狙うアルキモスはデメトリオ
スに援助を求めた。デメトリオスはバッキデスを派遣し、アルキモスを大祭司に任命し
た。続いてニカノルが派遣されるが、ユダはカファルサラマ、続いてアダサでニカノル
を撃破し、討ち取った。こうした遠征とシリアとの再戦が続いて行く。ユダは使者にハ
ッコズの子ヨハネの子エウポレモス、エレアザルの子ヤソンを選び、セレウコス朝シリ
アと敵対関係にあったローマと同盟関係を結んだ。シリアに対抗すべく、やっと外交に
も目を向けたのである。紀元前160年、シリアはバッキデス、アルキモスを派遣して
2万2千人の軍でエルサレムを目指した。ユダの軍では脱走兵が続出し、残ったのはわ
ずか八百人に過ぎなかった。残った戦士から戦闘を避けるよう懇願されたユダは、敵前
逃亡を拒否し、兄弟たちのために男らしく死のうではないか言った。ユダはシリア軍と
の戦闘中に戦死した(ベレトの戦い)。兄弟ヨナタンとシモンはユダの遺体を引き取り
、モディンに葬った。


1156: 名無しさんAA:18/03/02 15:53
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 796----------

 こうして遺体を持って帰ってきたヨナタンは、彼の後をつぎユダヤ軍を指導した。こ
の後こうしてローマとの同盟を結びと戦死した。この物語のあらすじや結末ははローマ
において伝説化ししばしば芸術、音楽で取り上げられる。ゲオルク・フリードリッヒ・
ヘンデルのオラトリオ、ユダス・マカベウスが作った音楽は有名である。また、この中
で オラトリオから讃美歌は、よろこべやたたえよやとして歌われている。日本でも、
ユダ・マカベウスはしばしば芸術、音楽で取り上げられており、ゲオルク・フリードリ
ッヒ・ヘンデルのオラトリオ、ユダス・マカベウスが有名である。また、このオラトリ
オから讃美歌、よろこべやたたえよやとして歌われている。この歌に戦前は「勇ましき
わが選手」という歌詞で表彰式、優勝旗を渡すときあるいは選手が郷里に凱旋するとき
人々は拍手と共にこの歌歌って迎えたのです。戦後では若き日はふたたびあらず、歌え
よいざ、良き友よ、、卒業式でも歌われてました。この歌聴くたびに卒業式を想い出す
人も居る。教会でもこの歌は沢山歌われるもので、普通の人は大体曲が思い出されるだ
ろう。
よろこべや (讃美歌第130番)  
 よろこべや たたえよや   シオンの娘 主の民よ
今しきます あまつきみ    今しきます 平和の主
よろこべや たたえよや    シオンの娘 主の民よ
見よ、勇者は帰る
この中では 勇者=イングランド軍 イングランド軍の勝利を讃えるヘンデルです。
ヘンデルがカロドン・ミュアの戦いで当初劣勢だったイングランドを励まそうとオラト
リオ「Judas Maccabaeus」を作曲し始めたが、1746年のカロドン・ミュアの戦いでイン
グランド軍が大勝利を収めると、この戦いを指揮した活躍したカンバーランド公爵ウィ
リアム・オーガスタス(Prince William Augustus, を讃えるセリフを台本に書き加え
、その勝利を全面にオラトリオの中で表現した。



1157: 名無しさんAA:18/03/02 15:56
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 797----------

マカバイ記の記述によれば、セレウコス朝シリアの王アンティオコス4世エピファネス
は エルサレム神殿において異教の神への捧げ物と祭儀を行って、これを冒涜したため
、紀元前 167年にモディンという村の祭司マタティアとその息子たち(ヨハネ、シモン
、ユダ、エレアザル、ヨナタン)がシリアの役人を殺害して荒れ野に逃れ、抗戦を呼び
かけた。そしてユダ・マカバイの勝利した。紀元前 166年にマタティアが死ぬと、息子
でマカバイと呼ばれたユダ(ユダ・マカベウス)がそのあとを次いで軍事蜂起を行って
シリア軍を排除し、紀元前 164年のキスレウの月(12月)の25日に聖所を清めた。今も
行われるユダヤ人の祭りハヌカはこのユダが聖所を清めた出来事を記念しているという
。だがシリア軍は依然としてエルサレムの要塞に拠っていた。シリアで将軍リュシアス
が実権を握ると、エルサレムに大攻勢をかけ、ユダたちは窮地に陥った。しかしセレウ
コス朝内での権力闘争が起こったため、リュシアスはユダたちと和解し、ユダヤに対す
るシリアの主権を認めることとひきかえに、ユダヤ人の宗教的自由を完全に認めるとい
う協定が結ばれた。その後、シリアによって任命された大祭司アルキモスにユダたちが
叛旗を翻したことで、再びシリアとの間に軍事衝突を引き起こした。ユダはその争いの
中で紀元前 160年に戦死した。ユダの戦死後、指導者となった兄弟のヨナタンはシリア
の王との戦闘の末に講和を結び、大祭司としての地位を承認された。正統な祭司の家系
に属さない人物が大祭司になったことに衝撃を受けた敬虔派の人々はハスモン家と距離
をとるようになっていく。紀元前 142年にヨナタンが敵将の手に落ちて殺害されると、
兄弟のシモンがヨナタンの後をついで大祭司となった。シモンは兄の立場を継承して軍
事的指導者にして大祭司という立場に収まった。シモンの時代にユダヤ人はエルサレム
に駐留するシリア軍を撃退し、撤退させたことで、シリアから政治的独立を認められた
。ハスモン家の祭司としての正当性に疑問を持つユダヤ人たちも少なくなかったが、ハ
スモン一族の政治的実績の前に、多くの人々が「忠実な預言者の出現するまでは、シモ
ンを彼ら(ユダヤ人)の指導者、大祭司とするのをよしとした」(マカバイ記1 14:41)
こうして紀元前142年から紀元前135年にかけてのシモンの時代にユダヤはシリアからの
事実上の独立を勝ち取ることに成功した。シモンはローマに使者を派遣して自らの権威
の承認を求め 元老院はこれに応じて、シモンの政権を承認した(マカバイ記1 15:19)
。しかし、紀元前135年2月、シモン は娘婿プトレマイオスに暗殺された。


1158: 名無しさんAA:18/03/02 15:56
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 798----------

 今や海外では大変な状況に陥っている。まずロヒンギャ問題は対岸火事では済まされ
ない様相に変化している。つまりミャンマー軍事政府は何ら基本的手を尽くさないで、
アウン・サン・スーチー女史の言動すら嫌悪したようだ。此処にきてバングラデシュ政
府とミャンマー政府を飛び越えて、仏教徒対イスラム教徒の対立に発展していく雲行き
である。もともとこの地は海の民ロヒンギャとしてミャンマー政府とは関係ないインド
洋上の民の墓所と水の供給場所だったのだ。これが中国支援の言葉に乗って今後開発し
中国からの鉄道乗り入れを目的に追い出しを図っていると言うのがもっぱらの見方だ。
これが今後にインティファーダ―のイスラエルの様になるのは必至の雲行きなのだが。
ミャンマー西部ラカイン州で、ロヒンギャ族の民兵組織と警察・軍との間で起きた武力
衝突を機に、おびただしい数のロヒンギャ住民が隣国バングラデシュに避難している。
その数は2ヵ月間で推計60万人以上(2017年10月27日現在)とされ、過去最悪の規模に
達した。難民の多くが銃・爆弾などによる怪我を負い、心も傷ついている。過密で、衛
生状態のよくないキャンプでの生活が長引き、深刻な栄養失調や集団感染への懸念も広
がっている。国境なき医師団はこうした事態を受け、援助活動を拡充。日本からも医療
スタッフをバングラデシュに多数派遣し、緊急対応にあたってきた。医師団が事件発生
から現在に至るまで現地で目撃した、ロヒンギャ難民の状況を振り返る。イスラム教徒
の少数派であるロヒンギャは、仏教徒が大多数のミャンマーで「不法移民」として差別
され、移動・結婚の制限、強制労働、資産の没収、不法逮捕など、深刻な人権侵害を受
けていた。日々暴力にさらされ、劣悪な生活環境で暮らすロヒンギャを医療面で援助す
るため、医師団はラカイン州で診療所を運営。月に最大 1万1000件を超える総合診療の
ほか、救急搬送などのサポートもしてきた。しかし、今回の事件が発生する数日前から
外国人スタッフの立ち入りが禁止され、現在これらの活動がすべてストップしている。
回の大規模な移動が始まったきっかけは、ミャンマー軍がラカイン州で展開した大規模
な軍事作戦だ。その作戦は、 8月25日、警察署や軍基地が襲撃され、ロヒンギャの民兵
組織「アラカン・ロヒンギャ救世軍」(ARSA)が犯行声明を出したことに端を発する。
バングラデシュに逃れた難民によると、この軍事作戦で、民間人を狙った深刻な暴力行
為が多発。村や家々は焼き払われ、MSFクリニック2ヵ所も焼け落ちた。その結果、多数
のロヒンギャが着の身着のままで国境を越え、難民キャンプに身を寄せることとなった


1159: 名無しさんAA:18/03/02 15:57
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 799----------

銃・爆弾による襲撃、放火、レイプ、乳幼児の虐殺――。避難所にたどり着いた人たち
の証言によって次々と浮き彫りになっているのが、ミャンマー当局による凄惨な暴力行
為の実態だ。ある女性はこう話す。「150人以上の兵士が村に来て、村の男性を次々
に殺害し始めました。遺体は積み上げられ、焼かれました。私は政府軍の1人に股を刺
され、別の1人にのどを突き刺されました。抱いていた生後28日の赤ん坊は、頭を何か
重いもので殴られました。頭蓋骨が割れて脳がはみ出しました」。愛する夫と子ども6
人を失った。わが子が炎の中で生きたまま焼かれた。赤ちゃんがお腹を裂かれて死んで
いた……。残虐な光景を目撃した人びとが負った心の傷も深刻だ。バングラデシュ・コ
ックスバザール県には以前からロヒンギャ難民20万人が滞在するキャンプがあり、MSF
はクトゥパロンとバルカリという2つの難民キャンプに診療所を設置していた。そこへ
新たに60万人以上が到着したことで医療ニーズが4倍に急増。MSFはバルカリとマイナー
ゴナにもクリニックを新設したほか移動診療も開始、多数のスタッフを派遣し、急ピッ
チで活動拡充を進めている。 活動に参加した日本人スタッフは現地の様子を悲しい事
として見ていた。ロヒンギャへのやっかみは、かつてラカイン州でも見られた。軍政下
では多くの国民が自由を奪われ、貧しい生活を余儀なくされていた。その中で、商才を
発揮したロヒンギャたちが裕福な生活をしているのを、妬みの目で見るミャンマー人は
少なくなかった。――商才ある人々が妬みゆえ迫害を受ける――かつてユダヤ人に向け
られた憎悪を連想させるロヒンギャが、「ミャンマーのホロコースト」という悲劇の主
人公になっているのは、偶然なのだろうか。難民申請や在留特別許可を認められたロヒ
ンギャはこれまで230人ほどいる。ゾーミントゥットやアブールカラムが口をそろえ
て言うように、日本での生活は安定している。彼らの悩みはむしろ、ロヒンギャ以外の
在日ミャンマー人からの拒絶だ。迫害こそされていないものの、祖国で経験した非国民
扱いを、逃れ着いた日本でも経験しているのだ。日本にはロヒンギャ以外にも多くのミ
ャンマー人が暮らす。「彼らは普段、ロヒンギャが経営する食材店で買い物をするし話
もする。」と、在日ミャンマー人社会とのつながりも深い田辺は言う。「ただ、政治的
な集まりや国家行事を祝う式典などでは、ロヒンギャを爪はじきにする。」という。こ
の排除の思想こそユダヤ的である。


1160: 名無しさんAA:18/03/02 15:58

「ロヒンギャを悪玉に仕立て上げるというのは言い得て妙だ」と、ミャンマーに詳しい
ジャーナリストの田辺寿夫は言う。「中央政府は、ラカイン族やラカイン州に住む仏教
徒に対して決まってこう言って脅威をあおる。『ロヒンギャはムスリムだ。一夫多妻だ
。放っておけば、どんどん増えてラカイン州はロヒンギャに占有されるぞ』と。」ラカ
イン族の目をそらせたい目的がもう1つあると、アブールカラムは言う。経済利権だと
断言する。ミャンマー内陸部には巨大な天然ガス田があり、国内経済にとって重要な資
源だ。輸出のために港まで運ぶパイプラインは、ラカイン州を横切る必要がある。ラカ
イン族は当然、その恩恵にあずかろうとするが、分け前を与えたくないミャンマー政府
はロヒンギャとの衝突に集中させることで、その話題に触れさせない。軍の息がかかっ
たラカイン州の政治家が全てを取り仕切っているという。ラカイン族の反ロヒンギャ感
情をあおることで彼らの反政府活動を抑え込み、かつ地域の経済利権を手中に収め、自
らの手を血で染めることなくロヒンギャを始末できる――。ミャンマー政府にとっては
一石三鳥とも言える浄化戦略だ。この政策に中国商社が見え隠れしているのも現実だ。
ロヒンギャも民主化のために闘っている。敵は同じ軍政なのになぜ共闘できないのか―
田辺は幾度となく迫ったが、彼らは決まってこう答えた。「ロヒンギャはミャンマー人
ではない。」移住先である日本でも差別や拒絶を受け続けながら、祖国で苦しむ同胞の
救済を国際社会に訴え続けるゾーミントゥットやアブールカラム。彼らの闘いは孤独で
、時に絶望的だ。「このまま行けば、間違いなくロヒンギャはミャンマーという国から
消えてしまう」と、アブールカラムは嘆く。彼はその後、カレン軍入隊を断念。タイで
の暮らしを経て2千年に日本に難民としてやって来た。「ロヒンギャ問題だけを叫ぶと
宗教問題に見られるが、問題はそこじゃない」。ミャンマー政府の暴力が続けば、やが
てシリアのように国が分裂してしまう。彼の懸念はそこにある。ミャンマー西部でイス
ラム教徒少数民族ロヒンギャの武装勢力と治安部隊の衝突が激化している問題で、現地
報道によると、中国がミャンマーによる対抗策の支持を表明した。洪亮・中国大使は、
ミャンマー政府高官に「西部ラカイン州で発生した過激派からの襲撃に対する、中国の
立場は明らかだ。これは内政問題だ」と発言。「ミャンマーの治安部隊による過激派組
織への反撃と、住民を支援するための政府事業を大いに歓迎する」と述べた。40万人
のロヒンギャが、攻撃から逃れるため隣国バングラデシュで難民となっている。国連の
グテレス事務総長は13日、ラカイン州で起きている事態は民族浄化としか言いようが
ないと発言しており、こうして今も資源の搾取の為の政府の動きは、ノーベル平和賞受
賞者であるミャンマーのアウン・サン・スー・チー国家顧問は苦境に立たされている

1161: 名無しさんAA:18/03/02 16:01
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 801----------

世界で今、最も迫害されているといわれるミャンマー(ビルマ)のイスラム系少数民族
ロヒンギャ。彼らへの連帯を示す動きが思わぬ所で広がっている。ロシア南部チェチェ
ン共和国のカディロフ首長は、「イスラム教徒へのジェノサイド(大量虐殺)」を非難
しないようなロシア政府には従わないとを YouTubeで表明。首都グロズヌイでは、ロヒ
ンギャへの暴力行為が増加していることに抗議する集会に多数の住民が参加した。ミャ
ンマーから隣国バングラデシュに逃れたロヒンギャ難民は、8月下旬以降で9万人近く
に及ぶ。彼らの多くが、ミャンマー軍によるレイプや殺人、放火が横行していると訴え
ている。ロシアのプーチン大統領の「歩兵」で、「アラーのしもべ」と自称するカディ
ロフは、「ロシアが悪魔(ミャンマー当局)を支持するなら、私はロシアに反対する立
場を取る」と明言した。ロヒンギャ保護のためにチェチェン軍を出動させるのは地理的
に難しいが、今の状況にいてもたってもいられないと吐露。「許されるなら核攻撃して
、子供や女性、老人を殺した奴らを一掃したい」とまで発言した。そうした感情はアル
カイダまで届いている。ロヒンギャ迫害の報復にミャンマーに聖戦を宣言しているから
だ。だが、カディロフ自身も決して清廉な人物ではなく、数々の人権侵害をめぐって非
難されてきた。99〜09年の第2次チェチェン紛争時にロシア政府への忠誠を誓って以来
、チェチェンでの権勢を誇り、チェチェンとロシアの国益は一致すると主張してきた。
今回、ロシア政府との対立も辞さないと表明したのは異例だが、ロシアがミャンマー当
局を支持することはないはずだと、譲歩するような発言もしている。むしろ強い怒りの
矛先は「懸念を表明するだけ」の国連に向けていた。カディロフは抗議集会にも参加し
、プーチンが「あらゆる権威と世界における影響力を使って」ロヒンギャ迫害をやめさ
せるよう呼び掛けた。のだが、皮肉にも、今年3月に国連でロヒンギャ迫害への非難声
明案が協議された際、反対したのはロシアと中国だったのである。ロシアはミャンマー
政府にとって、長年の貿易と軍事協力の相手国。こうして「ロシアの歩兵」の頼みは聞
き届けられそうにない。だが今やロヒンギャ問題は軍のおおぴらな迫害で 仏教徒対イ
スラム教徒の宗教対立に変化しようとしている。



1162: 名無しさんAA:18/03/02 16:03
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 802----------

 核・ミサイル開発を続ける北朝鮮への対応について、米外交専門誌「ナショナル・イ
ンタレスト」(電子版)は、「選択肢は予防戦争しかない」との衝撃的なレポートを発
表した。近く北朝鮮を攻撃し戦争が始まった場合の死者は約140万人だが、開戦を回
避してもいずれ「偶発的核戦争」が起こり、5・5倍の約770万人が犠牲になる恐れ
があるというのだ。同誌の「戦争への計算式」は、誰もが認めたくない未来を示してい
る。と伝えられた。インドで、ガンディーは「マハトマ・ガンディー」とも呼ばれてい
ます。この「マハ」は、「偉大な」という意味のサンスクリット語です。そして彼は、
日本についてこう言っている。「日本人は世界でも際立つ興味深い民族で、しかも感謝
の念は特定の個人にだけなく日本全体に強く感じます (シドモア 明治時代)」と。
このガンディーは非暴力を説いて歩いた。ところがその意味は無抵抗を指す意味ではな
い。それは何回も彼は立ち上がる事の意義を演説しているからだ。ガンディーの次のよ
うな言葉を吐く。「暴力は残虐な者のための法であるように、非暴力はわれわれのよう
な者のための法なのです。しかし、臆病と暴力の間の選択しかなかった場合、私は暴力
を勧(すす)めます。」と言っているのである。ガンディーが、暴力を勧めている。本
当にガンディーがこんなことを言ったのだろうか。問う人もいるかも知れない。しかし
、この言葉の真意こそ彼の心からの言葉である。「怯懦(きょうだ)か暴力か、二者択
一を迫られたなら、私は暴力をのほうを勧めるだろう。・・・なぜなら、民族全体が去
勢(きょせい)されるよりは、暴力に賭けるほうをよほどすぐれているからである。」
と間違いなく、ガンディーは暴力を勧めて歩いたのだ。怒り立ち上がる事がすぐれてい
るとまで言って。もちろん、「臆病である」よりは、暴力の方がいいと言っているだけ
で、常套手段的な暴力は進めていない。しかしガンディーがここで言う「臆病」の相手
は、イギリスの植民地として命令に黙って従っている盲目のまま従っている住民の事な
のである。「法律が気に入らないにもかかわらず、それに従うような教育は、男らしさ
に反しますし、宗教にも反しますし、隷属の極みである(真の独立への道(岩波新書)
。」と怒っているのである。

1163: 名無しさんAA:18/05/17 11:53
宣教師の時代       ーーー182  (仏教論議)

「叡山及び其末寺、摩多羅神を崇(あが)めまつれり。此の神、密部諸経儀軌に云ふ阿弥
陀の教令輪身にして常行三昧の時の守護神たり。故に台徒尊ひあへり。中頃台教大にみ
だれて其一家の学に迷へり。此時禅子(学者)の手段にならひて別に公案を巧書し学侶に
著語せしめ印可せり。此時また密法により玄旨帰命壇(げんしきみょうだん)の灌頂(
かんちょう)といへる事を造り、摩多羅神を本尊とし、甚秘(=極秘)として相受せり。
台徒これより玄旨の壇場を一家の極秘とせし故に、摩多羅神を殊に尊崇することゝなり
し。」天野信景『塩尻』と書いている。玄旨帰命壇は、かつて天台宗に存在した一派で
ある。のちに淫祠邪教扱いされ江戸時代には絶滅したといわれる。玄旨帰命檀は、玄旨
檀と帰命檀を合わせたものである。玄旨檀とは、一心三観の深旨を口伝面授する玄旨灌
頂であり、法華の法水を授者の頭頂部にそそぐ儀式である。帰命檀とは、衆生の命の根
源は天台の理である一念三千にあるとして、それを実現する儀式である。つまり古代の
キリスト教である聖水をかける行為を玄旨檀とし、キリストの聖歌的な延年舞(えんね
んまい)を中心にした帰命檀をして儀式としていたものだ。聖歌は讃美歌とも称され、
モーセが紅海を渡った後、エジプト軍が波に飲まれるのを見て、モーセとイスラエルの
民は喜びに満ちて賛美して踊りや歌を講じて宴を行った事から起こっている。日本の寺
院での玄旨檀も延年舞は、元々法会のあと僧侶・稚児たちが行った遊宴の歌舞で、平安
中期には派手に流行し、鎌倉・室町時代に盛行した。曲目は多彩で、現在は僅か数か所
でその面影を伝えるものがある程度である。先に言った様に古来から日本では延年の舞
は神事性交として直会があった。巫女と言うのは女を神職とはせずに御伽童子をして、
新郎新婦などに性交教授を行っていた。「観る小姓」つまり監督である。つまり古代に
は集団性交は儀式であった。「巫女」は舞を舞い、楽器を奏でて神を慰め、神の営む酒
宴に彩を副えた。伽をして神や参拝者を慰めた。「聖婚」や「神殿売春」という神から
下され巫女が処女で無ければ為らない”と云われる様に為ったのは明治以降であり江戸
期は逆に処女ではいけない事になっていた。土佐のよさこい祭りは「夜さ来い」の訛り
だし、祇園そのものが「祓いの園」である。「夜伽」と呼ばれる乱交酒宴で死者を弔っ
たし、日本の神社で神に奉仕する巫女も基本的には神殿娼婦で在った。神が主催する、
収穫や豊漁、多産を願う「お祭り」は乱交パーティはてんこ盛りだったのである。神社
の「巫女」として神に仕える事は、歌や踊りを習い、後に神社を去って諸国を漂泊し、
宿場や宿坊で歌や踊りをしながら一方で性も売る為の修行であった。


1164: 名無しさんAA:18/05/17 11:54
宣教師の時代       ーーー183     (仏教論議)

平安時代の宮中の舞踊・音楽の教習所である「内(ない)教(きょう)坊(ぼう)」で養われ
た「伎女」は、「遊女」や「巫女」にの高尚な職業名と考える研究者は多い。神社で見
る彼女等の白衣に緋短袴で今の巫女の穿く裾が踵迄の袴は短袴であるという 艶やかな
紅白の出で立ちは、男に子供が出来ると言う証明であったと言われる。つまり近親相姦
や暴力的性交や同性愛をこれにより食い止めて 国家的に産めや増やせの事業を担って
いたのである。又神殿娼婦で生まれた子供は子供のいない夫婦にも養子縁組されていて
神の子とされたのである。玄旨帰命壇「常行堂摩多羅神の事」に記されるように、摩多
羅神は円仁が唐から帰国する際に感得して、常行堂に勧請したと伝えられる。しかし、
実際は、摩多羅神は平安時代から鎌倉時代にかけて既に成立した物で、玄旨帰命壇の本
尊として成立したものが改めて朝鮮から「宿曜経」や「理趣経」がやって来て玄旨帰命
壇として教団化した。それはなぜか。実は奴隷商売と麻薬の買い付けが容易になったか
らだ。そもそも西暦804年頃、中国に遣唐使となった空海や最澄や円仁の持ち込んだ
、膨大な量の密教仏典持ち帰ってきたそんな貴重な仏典の中に「宿曜経」や「理趣経」
があったとされる。又チベットの奥にはボン教と言うのがある星宿海の近くの宗教であ
る。チベット初期の文献においてボンとは組織的な宗教の呼称ではなく一種の祭司の事
を指し、古代チベット王国(吐蕃)ではボンとシェンという祭司が祭祀を執り行ってい
た。と言う。ユンドゥン・ボン(永遠のボン)は古代から続くとされるチベット人独特
の総合宗教である。その起源は相当古くに遡り、人類最古の文化のひとつに数えられて
いる。一般にボン教はチベットの土着の宗教であると認識されるが、ユンドゥン・ボン
はその開祖であるシェンラプによって4千年前にチベット西方のタジク方面から伝えら
れたとされる。宗教はチュー(法、慣習)で、ラチュー(神の法)とミチュー(人の法
)とが区別され、ラチューは時にはボン教、時には仏教のことを指し、後者のミチュー
が仏教伝来やボン教成立に先行する土着宗教であっと言う。


1165: 名無しさんAA:18/05/17 11:54
宣教師の時代       ーーー184     (仏教論議)

 実は日本人はお盆を仏教世界と勘違いし又偉い坊主や僧は盂蘭盆会などと言う勝手な
方便を立てている。だがそれは大きく違う。まずチベット仏教は仏教伝来して出来た物
と考えがちだがそれは違っていて、それよりも遥か昔から、チベットにはもうひとつの
総合的な宗教文化が存在していました。それがボン教と呼ばれるものなのです。ボン教
は、カイラス山周辺にあった古代シャンシュン王国からチベットに伝わったとされてい
る。チベットの文化のその基層は、ボン教に遡ると指摘される。チベットの文化や宗教
というと、まずは仏教やラマ教を思い浮かべる方が多い。しかしテレビや映画で見るこ
とが出来る世界一の山の高度のを誇る高原に住むチベット人は、もとももと信心深く、
公共心に富む姿でしか生活できない。宗教や霊感から程遠い日本の私たちは不思議な生
活実態があり、心の奥底に何かを訴えくる。しかしこれは、仏教がチベットに本格的に
伝来された八世紀頃以前からのものだと考えられる。後世の使徒ダライ・ラマ14世も
、正式にボン教をチベットの霊性の系譜の一つと認めているし、ボン教のラマ達も、ダ
ライ・ラマとチベット仏教の霊性を尊重している。ボン教とチベット仏教は共に、チベ
ットの大地の中育まれてきた仲の良い宗教である事が解る。どちらの宗教の流れもチベ
ット人と世界の人の幸福を願って同じ土壌と教えで混同する程だからだ。しかしボン教
自体は紀元前2〜1千前には既に出来ていて拝火教と共に崇められている記録が残る。
ポン(Bon)教の範囲も広く、中国のチベット自治区全域、四川省、甘粛省、青海省、
雲南省からヒマラヤ南麓にまで広く少数民族地帯に分布している宗教で、仏教がチベッ
トにもたらされ、政権と結びつく前まではその地域の主流を占めていたと思われる。土
着的要素と密接な関連を保ちながら、独自の高度な教理体系を築きあげ、少数派ながら
いまも宗教集団として残って居る。チベット仏教の多くの哲学・儀礼の随所には、ポン
教からの影響が認められ、また古いポン教徒は「シャンシュン語」という未だその系統
も文法も明らかにされていない言語を用いていた。この言語はチベット文語の成立に重
大な影響を及ぼしている。ポン教はさまざまな面で、チベットの文化基盤を代表する宗
教であり、その地域を理解するうえで不可欠の要素といえる。


1166: 名無しさんAA:18/05/17 11:54
宣教師の時代       ーーー185     (仏教論議)

 度々出てくるボン教についてはチベット仏教のニンマ派(古典派)と捉われがちだが
その言われはかなり古く、ボン教はチベット仏教が栄える以前の、紀元前2千年の古代
宗教がチベット高原一帯に土着した。と言われる。つまり拝火教の火神信仰と祖霊信仰
、更に霊魂信仰(山や川など自然界に存在するものには神が宿っていると信じ、それら
を祀る)で、主に悪魔払いなどを中心としていた宗教と言われている。実はこのボン教
はかなりの意味で人の宗教心の源道となっている。風葬の儀式や火祭の儀式、誕生霊魂
とする感謝の儀式などは、日本の山岳信仰にほぼ等しい。又ロシア正教会が1千年頃に
キリスト教から分かれたが、カザンの生神女福音聖堂で見る様に 女神信仰である為に
異端とされた事が大きい。こうした事はほぼ古代宗教の自然崇拝と女神信仰、火祭行事
に祖霊風葬の4つはその基幹をなす。つまりエジプト文明より更に古い物だと言える。
このボン教には大きく分けて二つの教えが備わる。古代ボン教(魔ボン、ツェン・ボン
)と現在のボン教(ユンドゥン・ボン)に分けられ、更に現代改訳はドル・ボン、キャ
ル・ボンおよびギェル・ボンの三期に分けられる。と言う。タントラ瞑想のインド哲学
も、ゾクチェンも「大いなる完成」を意味と言われるチベット語でする、瞑想理解から
の発達系であろう。インド起源の仏教は「右繞」(うにょう)すなわち時計回りに巡っ
て行くが、ポン教には「左繞」(さにょう)すなわち左廻りを善しとする。これは日本
の注連縄(しめなわ)行事の祓い祀りの改訳と同じである。つまり祈りか呪いかと言う
2大秘儀の思考体系である。些細な差異によって、奥義のその系譜を残したのだ。事実
キリスト教もイスラム教も事聖書に至っては、その二大元素論を説かない。その為、ボ
ン教での数字や図形の重要さを、そのまま魔術と誤解して伝わっている。黒魔術白魔術
占星術数奇術錬金術、などだ。会昌の廃仏は「唐代三夷教」(マニ教・ゾロアスター教
・キリスト教ネストリウス派)も排斥された事件だが、787 年にチベットの吐蕃が敦煌
を占領したことにより、教義の違いでインド仏教と中国仏教の間の宗教論争が起こった
。この事で始まった。クルガン仮説は文化衝突を示す言語発展の地域予想だが、ギンブ
タスは、明確な墳丘「クルガン」を伴う墳墓を持った「文化」を仮に「クルガン文化」
と呼び、クルガン型の墳丘墓がヨーロッパへ伝播していったことをつきとめた、最初の
インド・ヨーロッパ語族ないし先行インド・ヨーロッパ語族の核をなす民族の発生した
紀元前5千年紀に対応するものと考えられていて、そこを原郷とした。


1167: 名無しさんAA:18/05/17 11:55
宣教師の時代       ーーー186     (仏教論議)

 紀元前5千年紀から紀元前3千年紀にステップやヨーロッパ南東部に存在した原イン
ド・ヨーロッパ語族の民族的特徴が反映されている。7と9はチベット人のシャーマン
が多用する数字で、この数字は宗教儀式の中では、最も吉祥的な数字とされ、9は完成
されたものを示す。ボン教神話では世界は内から9層になっており(九重地)、天界も
はじめ9層あり(九重天)やがて13層に拡大するといわれている。ちなみに13は最
も神聖なる数字とされ、図形では卍は不滅を意味する重要なシンボルで三角は完全な神
の鎮圧を意味するといわれている。従って六芒星の端に鎮座する神6座とその間の6座
そして中心に座る1座の計13座は特別な形とされる。ボン教では天珠を結界の通行手
形としている。天珠が宗教的には仏教の御数珠であるが、砂漠では護符であり瑪瑙など
で特殊な加工を施したジービーズと呼ばれその紋様は種族を表していたがその内中国の
業者が加工を行い販売し、本来の族長の証の老天珠(ジービーズ)の意味が無くなった
のである。古代ボン教(魔ボン、ツェン・ボン)は、史書の記載による女王国家で、西
夏王朝が滅亡した際、皇帝の親族や王妃などの多くが遠く離れた寧夏から山脈が横断し
、峡谷の深い丹巴へと逃れていったということである。学者考証によると、東女国が出
現したのはおよそ隋唐時代で、当時の父権社会とは相対的に、かなり強大な国家だった
と言われている。丹巴で美女を輩出し始めたのは、漢代からだが、紀元前5千年頃から
女権国家で母系社会として受け継がれていた。つまり群雄割拠の中国史の向こう側に、
他の社会が存在していたのだ。嘉絨蔵族(ギャロン族)摩梭人(モソ人)哈尼族(ハニ
族)羌族(チャン族)と数多くの女神族がいた。チベット民族の起源伝説ではサル神と
羅刹女(鬼女)との婚姻で6人の子供が生まれた。六つの子供の名はセ(光)、ム(火
)、ドン(天)、トン(水)、ドゥ(地)、ダ(長)であり、それぞれ氏族、部族とし
て発展した。猿神信仰は日本の道祖神信仰であり、長は祭礼を司つった。第13天に住
み、大神に属した。彼らは光の縄や梯子を使って人間界に降臨した。彼らは宗教儀式に
従事する専門家であり、天を敬い、火を拝し、神に事(つか)え、吉凶を卜占し、福を
招き、邪気を祓う、そういった活動を行なった。政治活動にも参与し、王室の重要な役
割を担った。とくに死や葬送に関することでは欠かさざる存在だった。女神信仰国には
奇習として一夫多婦制であり、群婚や走婚で近親相姦すらも罪ではない。群婚は部落と
部落の複数男女が自由に婚姻する。生まれた子供は女性が所有し、父親が誰であるかは
知る必要が無い。尼汝藏族他多くの婚姻習慣は初期には群婚であったと言われている。

1168: 名無しさんAA:18/05/17 11:55
宣教師の時代       ーーー187     (仏教論議)

 ボン教は2つに大別され、古代ボン教(ツェン・ボン)は高原宗教としての礼拝儀式
紀元前 15000年からの生贄殺生を伴う伝統的祭祀儀礼で、シェンラブ・ミボの教えによ
るものとされ現代も生贄は動物模型などに代替されて行われている。一方現代ボン教は
(ユンドゥン・ボン)残存して体系化されたボン教で、シェンラブ・ミボが創立したも
のとされ、ゾロアスター教の影響や紀元前5世紀末頃に古代インドのバラモン神学を元
に作られたともいわれている。教義に二つの分類法があり、「四つの門と一つの宝典」
と「ボン教の九乗」(ボン教の九つの道)という分類があり、「ボン教の九乗」には「
原因の道」「結果の道」「乗り越えられぬ道」「完成の道」のに統合されている。この
「ボン教の九乗」の内容で @「予言の道」… 呪術や占星術儀式 A「覚醒の道」…
精神物理学の論理 B「幻想の道」…祈願呪術儀式、お祓い C「存在の道」… 葬儀
の執行 D「平信徒の道」… 健全生活の十行原理 E「僧侶の道」… 修行者の戒律
説理 F「原初の音の道」… 最高天啓・マンダラへ統合 G「原初のシェンの道」…
真のタントラ求道基準・指導基準と、弟子や師の精神的責任を説く H「至高の教え」
… 偉大なる完成の教えのみを論ずる。これらは、「経典」「智恵の教えの完成」「タ
ントラ」「知識」という4種類、二百冊以上のボン教聖典として説かれて、他にも儀式
、工芸美術、論理学、医学および物語を扱経典としての地位を持ち、チベット仏教内の
ニンマ派と密接な繋がりと「知識」部門の宇宙論や宇宙進化論は独自のものを放す物だ
。当然紀元前の時代から日本には伝播していたものと考えられ、拝火教の儀式主体を飾
っていたと思う。実はこの事は日本の宗教界にとってはかなり大きなものだ。つまり、
古代宗教拝火教から インド仏教やバラモン教を経て日本仏教になったが、同じように
中国でユダヤ教が生まれキリスト教と変わりイスラム教にも変わって行ったのである。
ユダヤ教の経典とされる聖書は、マリアのキリスト受胎告知などは全くのこの高原宗教
から発していて、それが「馬厩の王子」の話と聖徳太子の別名となった理由でもある。
 かつての昔にこうして日本にやって来たのなら、その後も又その教えはやって来た。
平安時代も鎌倉時代もそして戦国時代も同じ様にやって来た。だからこそインドでも、
ゴアに本拠地にして、コルカタやムンバイなど港に伝播して日本を知り得たのである。



1169: 名無しさんAA:18/05/17 11:55
宣教師の時代       ーーー188     (仏教論議)

 実はこのヒマラヤに近い北側は大きく高地であり空気が薄い。およそ4000m以上
の高台であり水さえも溜り水を飲み、木々がない砂漠に近い高原である。その生活実態
はその沼の水さえも、布をかけ小さな生物を入らぬ様にし掬い、その水を水の神と地の
神と自らの祖先にと三所儀礼を行って水汲みをする。そういう清潔を気にする民族性か
ら、どんなに気をつけていても、日常生活の中で罪を重ねてしまうのは、仕方のないこ
とと言う考え方がある。ボン教やチベット仏教では罪を10種類に分類して、十不善と
名づけている。積み重ねてきた、身体と言葉と心の罪を浄化するために、効果的なのが
浄化の百音節真言と言う真言を唱える。仏教では法印を大印だいいん(偉大なるしるし
)として三昧耶印(さんまやいん)・法印・羯磨印(かつまいん)を各仏の身体的表現
と訳している。従って密教仏教では、特定の尊格を有し 存在者に対する象徴ないしは
象徴的表現法と解され。まず三昧耶サマヤ印(特定の尊格の内面性を象徴する象徴的な
形象)、法印(同じく、その法=真理ないしは言説を象徴する真言)、そして羯磨印(
同じく、行為・活動を象徴する動作ないしはその手印による表現)の三種(=三密)が
あり、それらの三者が綜合されたもの(一尊をその全体として表現する……)を大印と
称する。としている。しかし同じこの印がボン教では神への合図とする感謝を示す行為
とされる。仏教で「ほとけとなる智恵」を指すがボン教では、生きる事が神との3善の
契約とされ善意善行善言のこの事の現わす行為として神に見せる言葉がこの法印とされ
る。つまり食べる度に「頂きます。」と言う様に、水を扱うだけでも神に告げねばなら
ないのである。言葉を発する事も歩くことも常に感謝の意を伝えて行わなければならな
い。とするのだ。印契のことはこれぐらいにして、はなしをもどすと、『金剛頂経』の
原文からすれば、百字真言は「すべての印契を金剛のように堅固にする」ものと仏教は
規定し、ボン教は日常の生活で行うべき行事としている。原語であるインドの梵語(ぼ
んご)に遡さかのぼってみれば、「法」の原語ダルマ(dharma)は「聖なるものを保っ
た真理」をさしている。他方の陀羅尼とは「真理を保つ聖なる言葉」にあたり、大乗仏
教から密教にかけては、聖なるほとけや経典から流れ出る力を私たちに伝える主導力と
言った。今やマンダラは曼荼羅として仏教が作った様に思われがちだが実はこのボン教
のマンダラ供養が起こりとされ、また因果応報の原因と結果の因果律(カルマの法則)
もこの教から出て居る。ダルマを学ぶにあたって、良い結果が得られるように、原因と
なる功徳を積むことは重要な事との教えをブッタ王子が聴いたのであろう。この「マン
ダラ供養」は、速やかに無量の善行を修行とせよの拝火教の教えである。

1170: 名無しさんAA:18/05/17 11:56
宣教師の時代       ーーー189     (仏教論議)

五体投地(ごたいとうち)は、五体すなわち両手・両膝・額を地面に投げ伏して、仏や
高僧などを礼拝することである。仏教において最も丁寧な礼拝方法の一つとされ、対象
への絶対的な帰依を表す。 挙体投地、五輪投地ともいう。 日本では、主に天台宗・真
言宗・信貴山真言宗・黄檗宗・浄土宗などで行われる礼拝方法。とされる。チベット仏
教における聖地では、五体投地を行う者が多い。また、聖地へ向う巡礼自体を五体投地
で進む者もおり、長い時間がかかる過酷な巡礼とされる。しかしこれは、七支分と曼荼
羅供養の中にある「七支分」は、六加行の中心となる修行で、礼拝・供養・懺悔・随喜
・勧請・祈願・廻向の七種の修行から成る。 つまり 1.礼拝 2.供養 3.懺悔 4.随喜
5.勧請 6.祈願 7.廻向 を行うのだがその中で 供養は「七種供養」(=七種類の供
物(閼伽水・洗足水・華鬘・焼香・灯明・塗香・飲食)を行うとされているものだ。こ
聖水である「閼伽水」は日本での「御神水(おみき)」に値する。洗足水は神社仏閣の
入口の清め水である御手水と同じだ。「華鬘・焼香・灯明」は、お花と線香と蝋燭であ
る。塗香(ずこう)とは、仏像や修行者の身体に香を塗って、けがれを除く事とされる
。また、その御香は仏に捧げる六種の供物の一種。数種の香木を混ぜて粉末にし、粉末
のまま乾燥させた粉末と、浄水と混ぜ練香としたものがある。一般には粉末の抹香状の
薄茶色の香をさす。線香や焼香と違い、香を燻らせて供えるものとは違い、身体に塗る
香であり香水と言える。もともとの起源はインドにあり、香木から香料を取り、体に付
けて体臭などを消し、蚊や害虫の寄り付きを払ったのだろう。ここから発展し、身体を
清める、邪気を寄せ付けないという意味で仏教で取り入れられた。多くは、修行に入る
前や法要を執行する前の清めに行われる。飲食も又修行とされる。食べると言う作法に
よって生を得ているからだ。正しい座法と帰依・発心は、座具を用意し、「毘盧遮那の
七法」という作法に従って着座し、数息観(すそくかん)と言う呼吸を数える事を言う
。呼吸を整える事で、「不浄観、慈悲観、因縁観、界分別観、数息観、」を育てる事を
修行とし「貪(欲望)瞋(怒り)痴(無知)因(我執)迷(尋・伺)」を抑制する事を
目的としている。これにより、自身の精神を仏道修行にふさわしく落ち着いた状態に整
える。着座にあたり、五体投地(両手・両膝・額を作法に従い地面につけ、「自身の身
・口・意(しん・く・い)の全てをもって礼拝する」と観じつつ平伏する修行)を3回
または7回・21回・108回行う。こうして帰依(三宝への帰依)と発心(衆生の救
済の為に仏陀となること)を念じる。としている。

1171: 名無しさんAA:18/05/17 11:56
宣教師の時代       ーーー190     (仏教論議)

 このボン教の伝承では、今から1万8000年前、チベットの西にあるタジクという国の
オルモルリングで王子として生まれたあと出家して僧となったトンパ・シェンラッブ・
ミオによってボン教の教えは始まったという。つまり古代大陸の頃にボン教は始まった
とされている。この教えが「永遠なるボン」(ユンドゥン・ボン)の由来である。そも
そも「ボン」と言うのは「宝」と言う意味である。更に宗教の事を「テルマ」と言い、
地中や弟子たちの心の中に埋蔵した霊的な宝物とされ、「大地のテルマ(サテル)」と
「霊感のテルマ(ゴンテル)」の二種があるとされる。と言う。この古代宗教が4派に
分かれて、ニンマ派、カギュ派、サキャ派、ゲルク派からが出来たと言われる。この中
でニンマ派は古典派で消えながらも復活しているボン教のようだ。と言うのも「チベッ
ト版死者の書」とされる聖典が「大地のテルマ」として発見され、その化身とされるテ
ルトンが現れるからだ。彼らの教えは代々受け継がれそのままの形で存在する。対して
リメー運動と言うチベット仏教を再活性化させるというチベット文化のルネッサンスが
何度か起こっているからだ。これは、宗派の壁を超えて仏教などののさまざまな相承系
譜を収集し、多様なものを多様なままで不偏的に平等に拾い続け、強い影響を与えて、
新たな息吹をもたらしている。その一番新しいのがチベット仏教(ラマ教)で7世紀に
チベットに入って来たと云われる。インド仏教の衰亡期の寸前に人間の欲望を積極的に
肯定し、性交を密教原理の具象的現れとし、かつ秘儀とする派閥がインドから北上して
チベット高原に入り、9世紀以後に定着した。これがチベット仏教の正体とされる。チ
ベット仏教はゲルク派ですが、ゲルク派はダライ・ラマ、パンチェン・ラマが属する物
が最大派閥で、ラマ教ともされる。その基本はオルモルリングから東方のカイラス山周
辺にあった古代シャンシュン王国にトンパ・シェンラッブ・ミオが降臨し、ここから、
チベットに伝わったとされている。オルモルリングは、山頂が水晶巖で出来ていて周囲
に数多くの寺院を擁するユントゥン・グプツェー(九つの卍)という聖山があり、この
世にあって別の次元にもあるとも言われいる。「ドンドゥ」によると、タジク、オルモ
ルリングは、チベット北西のティセ山地方にある「ム」という国の北部だとされる。そ
してそこには「九層黒山」があるという。カイラス山は(カイラーサ)はサンスクリッ
トで水晶を意味する「ケーラーサ」との関連が指摘されますが、研究者の間では周囲に
巡礼用の寺院を配して山頂が水晶のように見えるカイラス山が「須弥山」だと目されて
いる。最も丁寧な礼拝方法である「五体投地」で巡礼する聖地として知られてる山だが
、仏教(特にチベット仏教)、ジャイナ教、ヒンズー教、ボン教の聖地ともなっている

1172: 名無しさんAA:18/05/17 11:57
宣教師の時代       ーーー191     (仏教論議)
 この山は、「五体投地」で巡礼する聖地でありながら、標高6656mの未踏峰で、この
「五体投地」は天台宗、真言宗、黄檗宗でも行われている。カイラス山がユントゥン・
グプツェー山(九つの卍層)、九層黒山と呼ばれる聖山だったろうと目されるがこの山
をボン教徒は左廻りに、チベット仏教徒は右廻りに巡礼ししてそれによる教徒の違いが
ある。多分、この巡礼方法が卍の発祥の大元のようだ。ジャイナやヒンズーまでもがこ
こを聖地としている事から、これら宗派の起源がここにある。少なくともインドの大乗
仏教ではない。ボン教の歴史上はチベット密教より前に、土地の精霊を信仰していた。
と言われ。ボン教の起源はボン教の発祥の1万八千年前は、チベットの西にあるタジク
という国の、オルモルリングというところにいた人がはじめたもので、このオルモルリ
ングは世界の2/3の面積を占めていた。とされるカイラス山近くのシャンシュンとい
う国を通り、チベットに伝わった。と言う伝説だこのオルモルリングという場所が、世
界の2/3をしめており、この世にあってまた別の次元にもあるとも言われる。チベット
仏教の布教伝説ではパドマサンバヴァ(サンスクリットで「蓮華に生じた者」の意)の
名は、彼がウッディヤーナ(烏杖那国)―今日のパキスタン、スワート渓谷に当たる―
のダナコーシャ湖の蓮の花の中から8歳の子供の姿で現れたという伝説に由来する。こ
の不思議な子供は国王の養子に迎えられ、国政を委ねられたが、あるとき虚空に現れた
金剛菩薩(ヴァジュラサットヴァ)の教えを受け、出家して僧侶となり、後に密教行者
となった。釈迦の弟子のアーナンダ、シュリー・シンハなど、多くの偉大な師の下で修
行して、密教の大成就者として有名になると、彼の神通力を聞いたチベットのティソン
・デツェン王によってチベットに招かれ、土着の宗教であるボン教等を調伏し、チベッ
ト仏教の基礎を築いたという。布教の際には、時にはなだめ、時には驚かせるために8
つの姿=グル・ツェンギェー(蓮華生大師八大変化、漢訳は『蓮華生大師除障道』)を
見せたと伝えられる。そもそも身代わりの儀式は、かつてボン教でも行われていたもの
で、例えば人が死ぬと、連れ立つ生け贄として動物を殺す儀式が存在していた。こうし
た「身代わり」を使う儀式の災難除けはチベット文化圏で広く見られるものである。中
国の三国時代には、蜀の諸葛亮孔明が現在の雲南省周辺に南征に向かった際、現地では
毎年川が氾濫する度、大勢の人の首を切り落として川に投げ込むという風習が行われて
いた、という記述が残されている雲南省は、今でもチベット文化が色濃い地域である。
またそれを不合理に思った孔明は、人頭の代わりとして小麦粉を練らせ、中に豚肉を詰
めて”頭”を作り、それを代わりに川へと投げ込ませることで、その風習を断ち切るこ
とに成功したという。まこれが、現在我々が口にする饅頭の起源となった。

1173: 名無しさんAA:18/05/17 11:57
宣教師の時代       ーーー192     (仏教論議)

 瞑想法では「イメージの中でダーキニーに変身して、手に持つ鋭い曲刃で執着の源で
ある身体を切り刻み、美味しい甘露のスープを作り、不幸な生きものをパーティーに招
き、苦しみを癒す行法。自分自身の執着心を粉々に砕きながら、心の底から生れてくる
慈悲を体験するのが目的の女性におススメの瞑想法だと説明される。摩多羅神がダキニ
天で「北斗星」を表しているのは忿怒相の黒いダーキニー像が、三眼、髑髏の冠、髑髏
の首飾り、髑髏の器で血や脳みそを飲み、煩悩や悪を象徴する人間を踏んでいる姿をし
ているのは、実はこれは精巧な「和合仏」なのだという。こうした密教の起源はインド
における「尸林(しりん)の宗教」にある。「尸林」は中世インドの葬儀場のことで、
大きな都市に隣接してこの尸林が存在していた。死者の遺骸は都市部から尸林に運ばれ
、荼毘(だび)にふされるかそのまま放置されて鳥獣の貪り食うにまかせられ風葬の鳥
葬の風習だった。しかししばしば 尸林は処刑場を兼ねており、斬首されたり、串刺し
にされた罪人の死骸が晒されていました。これらはまともな神経の人間には実に恐ろし
い場所であり、実際には血肉に飢えた野獣が跋扈(ばっこ)する危険な場所であり、し
ばしば魑魅魍魎(ちみもうりょう)が徘徊する場所として恐れられていた。しかしそれ
でも骨まで持ち去られ事を無くす為、この尸林では、「尸林の宗教」といったものがあ
った、墓場に女神が祀られ、女神に仕える巫女が住み、死体や血液を用いる黒魔術的な
秘儀を行なって、野獣を近づけない方法を行っていた。尸林の土着の女神たちは、それ
ぞれの尸林を管理する教団によって、ヒンドゥー教か仏教の女神として崇拝されていま
した。それぞれの尸林の女神の祠(ほこら)には巫女が仕え、女神を供養する傍ら、呪
術を生業としていました。その巫女は苦行母(茶吉尼・ダーキニー)または、瑜伽女(
ヨーギニー)と言いました。シヴァ神の神妃サティーの暗黒面を表象するドゥルガー女
神に彼女たちは侍女兼巫女として仕えていたのです。その聖地(墓場)に土着の女性た
ちは、多くはアウト・カースト(日本で言う穢多非人・えたひにん)の出身で、昼間は
牧畜や工芸等の底辺労働に従事し、夜間は(アウト・カーストの女性に特有の)妖術を
使うとみなされていました。彼女等は1年の特定の祭日、又は月の特定の祭日に尸林に
集まり、人肉や排泄物を含む反日常的な食物、つまりは聖なる食物として食し、酒を飲
み、歌舞音曲を楽しむというオルギア(秘教的儀式)を行ないました。


1174: 名無しさんAA:18/05/17 11:58
宣教師の時代       ーーー193     (仏教論議)

 この尸林におけるオルギアの中核をなすのは、ガナチャクラと呼ばれる性魔術儀式で
あった。ガナチャクラとは仏教行者の行なう修法の一種であり、修法を構成する儀礼は
曼荼羅制作、護摩(ごま)、観相(瞑想)法、飲食、歌舞、供犠、性瑜伽(ヨガ)など
です。ガナチャクラの構成員は9名であり、破壊神シヴァの最も凶暴な姿を具現した神
、パイラヴァを召喚した男性行者が1名がアジャリとなり、その周囲を円形に囲む女神
を召喚した女性行者が8名の計9名で行なう儀礼であった。天体の運行を模す形で周囲
の女性が位置を変え、順番に中央の男性と瑜伽(性行為・読み方はヨガ、ヨガのポーズ
はこの性行為の秘儀が元になっています。)します。この位置変換を「瑜伽(ヨガ)女
の転移)(サンチャーラ)と言います。女性行者が8名に臨時のメンバー(行者でない
女性)を1名加えた9名と言う説もあります。その場合は中央の歓喜仏の姿勢で交合す
る男女1組に対して、円形に8名の女性が並び、曼荼羅が常時成立することになります
。この結果、中央の男性行者はすべての女性行者と平等に和合することになるが、こう
した儀式が執り行われていたのである。この儀式はインドの古代神話世界において、ヴ
ィシュヌ神が金輪剣(チャクラ)を用いてシヴァの神妃サティーをばらばらに切断し、
地上に落としたあと、サティー女神が復活し、シヴァ神と再結合を果たした説話をかた
どっています。ちなみに切断された女神の遺体が落下した場所が前出の聖地です。この
ダーキニーとの交わりの中でゾクチェンが完成すると解くのがニンマ派やボン教です。
これは神殿巫女と同じメカニズムであり、単体であるダキーニー憤怒立像がネガティブ
要素満載の中から真理を掴ませるという「秘密集会タントラ」と同じ役割を持っている
為に、巧妙な「和合仏」であるという理由なのであろう。ゾクチェンはニンマ派とボン
教に伝わる教えで、チベット語で「大いなる完成」を意味する「ゾクパ・チェンポ」の
短縮形である。人間を含むあらゆる生きもの(一切有情)の心性における本来の様態、
またはあるがままで完成された姿のことを指す言葉である。ゾクチェンにおいては、青
空を見つめる瞑想の他に、空間を見つめる瞑想「アカーシャー」、睡眠中の瞑想「ミラ
ム」(夢見)、暗闇の瞑想「ヤンティ」等々なさまざまな実践法がある。では何故この
死体の晒し場で、それを守る巫女達がこういった儀式を行わなければならなかったのか
。簡単な事で彼女らだけで夜が守れなかったからだ。つまり強い男の守りが必要だった
し、その精子を貰い子孫を残すためにも 死体の傍の住民は男をもてなすしかなかった
のである。それがヒンズー教であったしマグダラのマリアでありロシア正教の元だった
のだ。

1175: 名無しさんAA:18/05/17 11:59
宣教師の時代       ーーー194     (仏教論議)
 実は我々が勘違いいやすいのはこのチベット仏教でもインド仏教でも、宗教や仏教と
いう宗教概念はあまりなかった。例えばバラモン教と我々は言うが、実はそうした名は
欧州人が勝手につけた名で、一つの階級社会を示すものでしかなかった。バラモンとは
司祭階級のこと。正しくはブラーフマナというが、音訳された漢語「婆羅門」の音読み
から、日本ではバラモンということが多い。バラモンは祭祀を通じて神々と関わる特別
な権限を持ち、宇宙の根本原理ブラフマンに近い存在とされ敬われる。最高神は一定し
ていないし、儀式ごとにその崇拝の対象となる神を最高神の位置に置く。ただ用意され
た儀式は、階級制度である四姓制で決まっていた。司祭階級バラモンが最上位で、クシ
ャトリヤ(戦士・王族階級)、ヴァイシャ(庶民階級)、シュードラ(奴隷階級)によ
りなる。また、これらのカーストに収まらない人々はそれ以下の階級パンチャマ(不可
触賤民)とされた。カーストの移動は不可能で、異なるカースト間の結婚はできない。
つまり呪術師の祈りが、勝手に階級を決めたのであり、それがバラモンであったに過ぎ
ない。バラモンは絶対権利者でありその庇護する王族や戦士を次の階級とし、これを信
じない者を奴隷階級とし、更にその奴隷を阻む旅行者や他宗教者を不可触賤民とした。
インドでは、『ヴェーダ』を聖典とし、天・地・太陽・風・火などの自然神を崇拝し、
司祭階級が行う祭式を中心とする。そこでは、人間がこの世で行った行為(業・カルマ
)が原因となって、次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる。人々は悲惨な状態
に生まれ変わる事に不安を抱き、無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める
。転生輪廻(サンサーラ)は、インドのバラモン教の思想とされる。この教えによれば
「人間はこの世の生を終えた後は一切が無になるのではなく、人間のカルマ(行為、業
)が次の世に次々と受け継がれる。この世のカルマが“因”となり、次の世で“果”を
結ぶ。善因は善果、悪因は悪果となる。そして、あらゆる生物が産まれ変わり、六道の
「@地獄道、A餓鬼道、B畜生道、C修羅道(闘争の世界)、D人間道、E天上道」の
どれかを選んで生まれ変わりを待つ。そして又死に変わって、転生し輪廻する。これを
六道輪廻の宿命観という。何者もこの輪廻から逃れることはできない。それは車が庭を
巡るがごとし」と唱え、「その鍵はカルマ(行為、業)にある」という。この考え方は
実は仏教に限らずヴェーダの宗教とされ、地域の民間信仰や各地の神々が変わり、欧州
人は分類の為にヒンズー教・バラモン教・仏教と、神様や教義ごとに色分けした。しか
し実際は古代拝火教、すなわちゾロアスターよりはるかのゾロアスター教から来ている
。問題はその祭りの方法と支配者の正当性の物語の違いが宗教を変えた。実は聖書も又
その中にあった。

1176: 名無しさんAA:18/05/17 11:59
宣教師の時代       ーーー195     (仏教論議)

タントラとは知識を吸収する物質を意味する。これは広い意味では密教経典そのものを
指し、狭い意味では「金剛頂経」以降に現れた後期密教経典をタントラと呼んでいる。
タントラは、精神的であれ、物質的であれ、あるいは性的にであれ、自分を取り囲む生
の営みに全面的に没頭するよう、目を向けさせる儀式だ。「人は自分を倒す相手を利用
して起き上がらなければならない。」我々をがんじがらめにしている人間の本性的な側
面そのものが、解脱への踏み石とされる。タントラの道は、通常生活行為から後退する
のではなく、欲望、感覚、人間常識、それら一切合財を全面的に受け入れてしまうこと
である。タントラは、世界を「精神=物質」として受け入れ、この二元的世界を積極的
に瞑想することで得られる全一なるものに働きかけ、自己覚醒を可能にする。「タント
ラ・インドのエクスタシー礼賛である。タントラとは通常の意味での宗教ではない。又
、「思考の方法」でもない。タントラは、逆この思考というものが、人々にとって自分
たちの世界だと信ずるものの中で、徐々に幻滅を味わい悲惨になってゆく、主な原因の
一つであるとみなしているのだ。従ってタントラは直観行動につれて効力を発揮する。
タントラの文献を構成しているのは、精神的行為を含む、行為への処方箋のみで、それ
が全目的としている。タントラは、本質的に、幻想とは全く関りをもたない。タントラ
自身は、体感である。人をその人自身の正体のもろもろの根源へと没入させるものであ
る。「タントラ・インドのエクスタシー礼賛」はそこにある。一番重要な、ほとんどの
人々が世俗の快楽として片付けてしまうものを、タントラが積極的に開発し、その上に
みずからの基礎を置くという言う行為なのだ。「おまえの享楽を最高度にたかめろ。し
かるのち、それを魂のロケット燃料として用いろ。」タントラ行者が行っていることは
、基本的に、自分の肉体・情緒・精神の中に発見することのできるあらゆるエネルギー
をふるい立たせて、彼を開悟へと運んでくれる乗り物と、それらのエネルギーを結びつ
けることである。タントラ信棒者は、人が現に繰り返して行う快楽の、かつ一つの強力
な感覚的・情緒的な充足感の開発と発見である。他のなによりもはるかに効果的に、人
を幸福に変革するものだと考えている。そして個々のその仮定のもとに、思いつく限り
の情緒的刺激と行為を自分の目的にあてはめて、ありとあらゆる実行可能な手段を用い
る。こうしてタントラは、各人の記憶の蓄積と心的反応が目覚めさせられて、それらの
すべての源である純粋なエネルギーの状態に復元する。あらゆる身体機能が感覚・情緒
・知能などを、最高潮にまで助長し鼓舞するべきであると云う。諸々の興奮と快楽は、
かくして、悟りの状態へとたち戻る変容のための原料とするわけである。

1177: 名無しさんAA:18/05/17 11:59
宣教師の時代       ーーー197     (仏教論議)

 欧州ではこの後に伝わりシャングリア伝説が生まれた。日本が黄金の島国と同じよう
に、チベットに水晶や宝石の山に囲まれていて天国の様な暮らしをしていると言う、日
本で言う桃源郷伝説だ。シャングリラ県はもともと中甸と呼ばれていた。「シャングリ
ラ」という言葉は、チベット仏教の経典に見えるシャンバラ王国にその源が求められ、
チベット仏教の最高境地とみなされている。アメリカの小説で見る様に、人間の楽園、
桃源郷のようなシャングリラは、中甸の自然、文化、生活の部分的描写であった。この
ため、シャングリラに、雲南・チベット高原にある中甸であると人々は信じて歴史家が
訪れた。チベット語で建塘と呼ばれ、四川省の巴塘、理塘と並んで、チベット王の三人
の息子の領地だった。1957年に迪慶チベット自治州が成立し中甸は州都となり、2001年
に名前をシャングリラ県とあらためて、標高約3千4百米で、面積約1万1千平方Kmの
土地が開発された。雲南省、四川省、チベット自治区の境に接する迪慶チベット族自治
州の中部にチベット族を中心に、漢族、ナシ族(納西族)、イ族(彝族)、ペー族(白
族)など10を超える民族、計13万人が住んでいる。山林が広がっていて、広さの割
りにこの土地の住民は多くはない。清の康熙27年(1688年)、チベットは中甸に交易市
場を設立。以来、雲南、四川、チベットからの商人やキャラバンがどっと集まるように
なり、中甸は雲南・チベット商品の集散地のひとつとなった。中甸(ちゅうでん)の市
街地は、今や往来する車とにぎやかな商店街は、内地の県と変わらない。南には千年の
歴史を誇るドゥクゾン古城で、建塘鎮とも呼ばれ、八つの花びらのハスに似た配置で、
伝説では向かいの山から見た大亀山の形が、ハスの上に座っている大法師の姿によく似
ていることに気づいた生き仏が、この古城を建てたという。城内の3大通りと33の横
道が織り成す入り組んだ街は、現地の人でなければ道に迷ってしまう。ここは、かつて
は迪慶からやってきた馬鍋頭(馬方の頭)はチベット語がわかり山道をよく知っている
ため、非常に人気があったという。チベットに入るキャラバンは普通3月から4月の間
に出発し、再び帰ってくるまでには、少なくとも半年近くかかる。出発前、店の主人は
心遣い示すために、馬鍋頭に布製の服一着と皮靴一足を贈る。さらに徳欽に到着すると
、店の中継所で楚巴(チベット族の服装)が配られる。続いてラサに着くと、防寒のチ
ベット族の服とコーデュロイが何着か配られる。道中、キャラバンは規模の異なる様々
な馬宿で、休憩、調整する。


1178: 名無しさんAA:18/05/17 12:00
宣教師の時代       ーーー198     (仏教論議)

チベット族地区に運ぶのは沱茶、黒砂糖、食品などが中心で、雲南に持ち帰るのは主に
インド産の綿布、薬品、雑貨などであった。キャラバンがチベットから無事に帰ると、
馬鍋頭は店の主人から報酬として30枚の銀貨をもらえる。又店のキャラバンで3年以上
にわたって走り続けた馬方に、ラバ1頭を与えられる。こうした習慣で年月を重ねるう
ちに、自分のラバや馬を数頭持つようになった馬方は、キャラバンを脱して自らが次の
馬鍋頭となるのである。西洋人は不思議である。この「シャングリラ」伝説は、決して
「ユートピア」という言葉と同一ではない。「ジパング」も同じだ。更にギリシャの最
も豊かだった「アルカディア」も違う意味である。「アルカディア」は自由主義的・牧
歌的な理想郷を示し、反対語は「ディストピア」の管理された抑圧国家や共産社会を意
味する。その「ディストピア」の中の、豊かな管理された国を「ユートピア」としてい
る。即ち日本人的理想郷ではなく、言わば今の原油で潤うイスラム国家群のようなもの
だろう。ではシャングリアは、地理的には、ヒマラヤ奥地のミステリアスな永遠の楽園
で、外界から隔絶された地上の楽園というような語と同義語とされる。東洋の桃源郷と
ならんで理想郷の代名詞となり、東洋(オリエント)へのエキゾチシズムを駆り立てる
言葉になった。また神秘主義の総本山と認知され、地球の中心にあるとされる理想郷の
ひとつアガルタの首都に通じるとも言われる。アガルタはオカルト界での神秘都市で、
地球の中心で、共存する高度な科学文明と精神社会、超能力を含む超人的な特異能力を
持つきわめて長寿な人類や動植物が描かれている。実は東インド会社が東南アジアに向
かって貿易してもインドから出なかったのはそこに理由がある。アガルタについて論じ
る時西洋では「アガルタ」の神話はかつてインドでそう呼ばれたように「シャンバラ」
Shambhala とも呼ばれているとし、「かつて、モーセとイエスの戒律をキリスト教が
履行し尽くした暁には」「我々の世界に存在するアナルシー(無政府状態)がシナルシ
ー(共同統治)に置き換わる時を意味し 秘められたアガルタの世界と、そのすべての
叡智と富は全人類にアクセス可能になり開放されるだろう。」と持っていた事だ。この
古代よりチベットに伝わる地底王国「シャンバラ」は、インドの『ヴィシュヌ・プラー
ナ』に描かれるシャンバラ島の伝説を継承したものだが、シャンバラについて最も体系
的に書かれているのが、仏教の最終経典と呼ばれるチベット密教の『カーラチャクラ・
タントラ』であるとされ、カーラチャクラ・タントラを説いたのは、ゴータマ・シーダ
ールタ(釈迦)だといわれている。

1179: 名無しさんAA:18/05/17 13:07
宣教師の時代       ーーー199     (仏教論議)

 この時釈迦は、「シャンバラは雪と氷に閉ざされた北にある」と言い残したという。
これに、ヒトラーやスターリン、ルーズベルトも、各地にシャンバラ探索隊を派遣する
ほど固執し 捜索させたが発見されることはなかった。チベット密教の最高権威ダライ
・ラマ14世は、「シャンバラは幻想や象徴ではなく、この世に実在する世界」だと断
言している。これに日本に来た宣教師達が飛びつかない筈はなかった。日本のジパング
伝説とシャンバラ伝説は欧州社会に蔓延していたのだ。宣教師のやって来た時代は正に
その欧州社会でそうした伝説が一番流行した時代だったのである。この亡霊のごとき御
釈迦様の言い伝えである「シャンバラヤ伝説」日本での桃源郷伝説、夢の黄金郷伝説、
ガンダーラ伝説であった。事実ガンダーラの王国は、紀元前6世紀〜11世紀の間存続
し、1世紀から5世紀には仏教を信奉したクシャーナ朝のもとで最盛期を迎えた国だっ
た。しかし1021年にガズナ朝のスルタン・マフムードにより征服された後、ガンダーラ
の地名は失われた。とされる。しかしこのガンダーラの地こそが今の紛争多きカブール
のあるアフガンの地なのである。今やイスラム教原理主義やタリバンなどと言う物騒な
世界であるが、もともとはここにはなく、そうしたものは紀元後の世界からの話なのだ
。もともと人間とは小さなものだ。今まで話して来た宗教儀礼は昔の話として聞いてい
たであろうが、これは昔でも今でも同じだ。たいそうな仰々しい嘘に囲まれて行う儀式
や洗礼は、その裏にある毒々しい人間の性をかくして さも清らかに見せる。しかし、
それは、宗教の欺瞞である。その欺瞞を知った上で人類は宗教や哲学或いは経済学との
付き合いを持たなければならない。今でも古来からの欲望に飽かせたISILやタリバ
ンなどがいるが、熱心なキリスト教徒やイスラム教徒も全く同じである。仏教すらも又
同じに欲望の淵にある。「アガルタ神話」も日本の「仏教美術」も全く同じであり性交
の儀式も死人の弔いの儀式も 人の持つ茶番なのである。しかし映画とおなじく錯覚に
陥るためには、壮大な景色と環境と物語を 莫大な金を使ってセットを作りごまかして
人に見せる事が大事にされる。それは戦争と同じに、人が真面目に生きないからだ。も
し教育と言う伝承が無ければ、人はしゃべる事もなく恐竜と同じに遠の昔に絶滅してい
たであろう。そしてチンパンジーやゴリラでも同じ、いや他の多くの動物と同じに指導
者と言う先達がいなければ先には進まなかったのである。つまり茶番が大事と言う事も
又日本人は知っていたのである。問題はその本質である。次世代に我々は何を残すべき
か。これを知る必要がある。日本の戦国時代はそれを突き詰めた時代でもあったのだ。

1180: 名無しさんAA:18/07/14 12:01
 哲学の先にある文明        2
 江戸時代にこうして分類された人々は着々と平和の礎と繁栄の仕組みを作りに邁進し
た。この時人は時々は現れるどうしようも無い人々、つまりずば抜けて強い人と弱い人
を排除した。強い人は悪党とされ、弱い人を「穢多・非人」とした。支配身分の武士が
名字・帯刀の特権を持ち厳しい責任がなされた。又、百姓や町人は税金を納めて一部の
地主は行政にも参加出来たが代わりに義務も又与えられた。これに対して、えた・ひに
ん等浮浪者や乞食に対しては、住居・職業・服装・交際などには何ら責任も義務もない
者として、多くは犯罪者や諸国漫遊の曲芸師などが、村社会外の住民として認識された
。彼らには厳しい差別的制限が課され、一般的扱いとは異なっていたと記述されている
。更に彼らが罪人の子供だったり、災害被害の身よりのない子である時には、一般の市
民権を貰うためには山の宿坊で修行を積んで 何かしらの仏教や宗教の帰依者である必
要があったと言う。今の現代社会での苦悩はそこにある。インドでは身分制度が確立し
結構な迫害思想がバラモン社会に根付いていた。しかし、此処にきてAIの発達と共に
コンピュータープログラマーと言う新産業世代が新層身分を作り上げようとしている。
不思議な事に、今後6〜7割の人の職業を奪うであろうとされるAI社会に、マイケル
サンディルの白熱教室の人達は、根拠のない人間性論を展開して職業は奪われないとし
ている。実は基本的にAIは過去の実績の集大成としての科学である。つまり未来に行
く不確かさを包有してはいない。かつて線路内の自殺者に対して、運転手は列車を止め
るべきかそのまま走るべきかが米国で争われた。しかしその頃のアメリカは縦横無尽に
勝手に私鉄が走り線路が交差していた。つまり時間運行でも衝突すら構わず走っていた
。運転手は常に先を見張りながら走らなければ衝突や脱線或いは強盗や盗賊の危険すら
あったのである。代わって近年、AIの自動運転はこの蓄積された運転技能に対して、
究極の判断、則ち目の前の違反者や障害を回避するかぶつかるか。回避するには自分が
大事故となりぶつかれば、この無知蒙昧な交通違反者を殺す事になる。この二者択一の
判断を、誰の責任においてどうプログラムするのか又その中の人の命をどう守るのかが
極めて高い壁として存在している。としている。線路の列車事故ですら呆け老人や障害
者への事故には、運転手以上に運行責任者や会社の責任やその非人道性が問われる中で
一般の乗用車には、果たしてそうした自動運転プログラムが必要なのだろうか。あるい
は正義となり得るのだろうか。実は人類はこうした究極物は、先の身分制度の様に排除
を基本に進化した。先のAIと人間性の議論で、不完全だから失敗があるから人間なん
だ。と言う部分である。原爆は完全な究極の兵器であろう。しかしだからと言ってそれ
を持つ事で他を殺していい事にはならない。そうしたものは逆に不必要なのである。

1181: 名無しさんAA:18/07/26 16:09
富安君を探せ              < その190 >

 そもそも明治政府は、明治5年(1872)、近代国家への陸上交通手段として鉄道
を模索していたが、大久保利通も西郷隆盛もその鉄道の革命的利点には、着目してはい
なくて言わば政府内の役人の勢力や予算繰りに終始して国家経営まで至ってなかった。
明治政府はイギリスから技術団を招き新橋〜横浜間の鉄道を開通、片道53分、料金5
0銭から1円50銭で営業が始まったのは、短い路線で縮小予算での快挙でもあった。
1872年、高島嘉右衛門は東京から青森に至り北海道開拓を支える鉄道の建設を政府に建
言、却下されるも、高島は政府要人の岩倉具視を説き、鍋島直大、蜂須賀茂韶をして、
やっと明治天皇および当時の政府に『華族と士族が家財をもって会社を建て、東京と青
森あるいは東京と越後新潟に鉄路を敷き蒸気機関車を走らせることを補す』ことを建言
させた。こうした経緯を経た1881年8月1日、岩倉具視をはじめとする華族などが参加し
て私立鉄道会社「日本鉄道」の創立が決定し、同年11月11日、設立特許条約書が下付さ
れ、初代社長に吉井友実を選出して会社が設立された明治14年(1881)にわが国
最初の民営鉄道である日本鉄道株式会社が創設され、東北、常磐、両毛線などが開通し
た経緯である。その6年後明治20年(1887)横浜〜新橋間の成功から、九州鉄道
会社が創立し高橋新吉とドイツ人技師ヘルマン・ルムシュッテルにより事業を開始した
。博多−久留米間を着工した。久留米以南は羽犬塚〜水田〜柳河を経て渡瀬に行く計画
の鉄道が柳河町(現柳川市)の反対論者多く、路線を東方にずらした瀬高に変更した。
当時は、大宰府でも反対され二日市に変更されていた。明治22年冬、九州で初の鉄道
として博多〜千歳川仮停車場(筑後川北岸)間開業し片道1時間23分かけ1日3往復
の営業運転する。7月の集中豪雨が筑後川の橋梁工事を襲ったため予定駅の久留米の手
前の仮駅で開業する。当時、蒸気機関車も、車両も、レールも、すべてドイツ製でのス
タートだったが、佐賀の反射炉の活用もあった。内山田民治は新橋〜横浜間に営業運転
される1872年よりも7年も前に、1865年に、長崎で蒸気機関車に乗っていた。その3年
前の香港万博にグラバーは薩摩の島津斉彬を連れて来れなかった。そこで長崎港でわざ
わざ線路を敷き人を乗せて走って運賃をとった。その蒸気機関車こそが、西部劇で有名
な「アイアン・デューク号」と名付けられている蒸気機関車だった。つまり香港で内覧
したこの機関車は米国に送られる前に半年程営業運転していたのだ。江戸時代の、この
ショーは米国でかなりの人気を博した。この年アメリカ合衆国憲法修正第13条が提案
されて独立戦争が終わり、 香港上海銀行(HSBC) が設立された。高級な筑後茶がメキシ
コ茶にとって代わり、米国に送っていた鉄砲が日本にやってきたのである。

1182: 名無しさんAA:18/07/26 16:10
富安君を探せ              < その191 >

 「豚買った」とは「おいちょかぶ」すなわちバカラゲームで負けた事を示す言葉だ。
バカラとは、簡単に言えばカードゲームで3〜2枚を引いて数字を足し算し最終桁が9
に近いものが勝つものだが、賭けるのがディーラーが勝つ方にも掛けられる事になって
る為少々計算をややこしくして規定を設けている。だが極端言えば最後のカードで足し
算で9に近づくか9を超えるかで大きく勝敗が分かれる。日本で最初に作られたラーメ
ンは柳川で、柳川鍋とされるごった煮に麺を入れたのが始まりとされる。そこで豚を飼
う事が英国からもたらされ流行したが、結局は暴落し「豚買った。」と言う言葉になっ
た。しかしこの牧場経営で財を成したのが成清家であった。3代目の成清博愛は鉱山経
営に乗り出し「貧乏鳴り金」と揶揄された。そのうなる程の金で「的山荘(てきざんそ
う)」を大分別府に作った。瀬高町小川字堀池園集落にも別荘を建築した。「的山」と
は、鉱山を当てるという意味だそうで、博愛の雅号(がごう)から名づけられた。大分
県杵築市山香町の馬上金山で金鉱を当てた財を、惜しむ事なく投じたと言われ、元来、
柳川の武士は大分に歴史上の経緯から荘園を持っていた。例えば由布院駅付近は、柳川
由布氏の故郷であり差配していた。大分別府も柳川郵便局初代局長の別府氏の持ち物で
あった。大正2年に日之出町に、金鉱石の積み出し港を整備されて別府湾が見直された
。大分県速見郡日出町は別府湾を見渡せる景色の良い、日出城(暘谷城ようこくじょう
)の三の丸の日出藩屋敷跡3670坪を購入させられた。是こそが柳川城を焼失させた
効能であった。柳川市内の財政は潤い、商人は闊歩し各地に土地を購入していた。北島
氏は尖閣を木下氏は北九州の葦地を購入させられていたのだ。しかし誰も立花氏自身の
身を守る商人はいなく、武人のみで函館戦争や西南戦争或いは日露戦争で武功は上げて
いても見向きもされなかった。成清氏は、大正4年(1915)1月に建坪247坪の
豪邸が完成させた。総工費25万円、現在の7〜8億円相当額である。玄関に見られる
式台しきだい、座敷に設けられた床の間、付書院、棚、各部屋境の欄間らんま彫刻など
は江戸時代からの建築様式や装飾を受け継いだ貴重な木造平屋の近代和風建築として作
られた。高崎山を築山つきやまに、別府湾を泉水に見立てた借景の日本庭園で、巨泉を
掘り、巨大な灯籠とうろうを建てた人工の美も発揮している。大分は佐渡の金山が枯渇
してからは日本有数の金産出を誇るようになった。宇佐・玖珠・別府・山香・津江など
県内に多くの金山を擁し、明治後期の日本を支えた。その中でも多くの逸話に彩られて
いる山香の馬上金山(ばじょうきんざん)であった。

1183: 名無しさんAA:18/07/26 16:10
富安君を探せ              < その192 >

 成清博愛は、地元の大工を使ったので、杵築藩の藩校「学習館」の門と同じく江戸様
式の切妻造、桟瓦葺きの腕木門(うできもん)である。両脇に袖塀を持ち、連なる石垣
土台の屋根塀は上部に窓枠を配している。大正4年(1915)の完成した当時の道は
砂利道じゃりみちであったが、のちに石畳が敷詰められている。現在は樹木が茂り風情
をなしているが、門は創建時とほとんど変わっていない。.門を入ると玄関前のロータ
リーまで続く綺麗な石畳の通路は海からの風の匂においいと季節ごと変化する木々を楽
しめる。実はかつての伝習館高校は、立花大学氏において国宝級の玄関飾りをもってい
た。この頃の活況を見るに、その後に藩の財政を支えた高椋銀行が渡辺銀行と合併して
破綻に陥るのだが、それを福岡銀行として所有していた。これも又財にあかせた国宝級
の建物だったが福岡銀行はいとも簡単に解体した。成清博愛は、九州改進党の結成に、
参画し、その資金提供のために鉱山や炭坑を経営するに至った。しかしことごとく失敗
し最後に明治37年に大分県立石の馬上金山の鉱区権を買い取って開坑している。苦心
して金鉱を掘り続け、45年に富鉱部を掘り当て、日本有数の高品位と産出量を誇る大鉱
山に成長して、やっと富豪に返り咲き金山王の名をほしいままにした。しかしその鉱脈
も大きくはなかった。その傍らに、大湯鉄道(現・久大本線)や、宇佐参宮鉄道(現・大
分交通)などを作り、両豊銀行(現・大分銀行)の創立に関与した。また港湾整備や慈善
事業にも携わるなど、地域の活性化に尽力した為彼の後世は功績に満ちてしんでいる。
大正4年総選挙に出馬して当選し、政友会に所属するが、間もなく議員を辞した。実は
侍島吉開久末鷹尾などは常にこの線路の路線として策定された。しかし保太郎は反対の
立場を貫いた。何故なら福岡と直行では若者が悪さする。と言う危惧する声が集落に多
かったからだ。東肥鉄道は、薗田徹夫が藤島豊太郎と川原大など県外から出費者を連れ
て来て取締役に就任し起業した。ようやく1915年(大正4年)2月になり南関停車場建設
予定地にて起工式がおこなわた。工事費の予算は第一期工事 矢部川-南関間を38万8398
円25銭、第二期工事南関-隈府間を64万6954円75銭合計103万5353円であった。しかし株
金の払込の滞納が見られるようになり新聞は完成の目処がたたないと報道し鉄道会社が
反論する一幕もあった。資金難に悩みながら現在、九州自動車道が敷かれているルート
にほぼ並行する形で建設され、1920年(大正9年) - 1922年(大正11年)に順次矢部川
- 南関間を開業させたのであった。永江純一は爆漢に襲われながらも立憲政友会に入り
、政友会幹事長となり、三池銀行頭取、三池土木、三池紡績、鐘ケ淵紡績などの重役を
務めている。

1184: 名無しさんAA:18/07/26 16:11
富安君を探せ              < その193 >

 大正15年にはT型フォードを自家用とし、営業用に小型バスを購入し定期路線を走
らせた。旭屋旅館自動車は瀬高〜沖端〜両開路線を、12人乗りと11人乗りの小型バ
ス2台で運行を開始している。昭和6年頃には大型バス2台で営業していた。昭和にな
ると自動車の時代になった。昭和2年には、下庄恵比須町の佐野慶一氏が瀬高で2番目
に自動車運転2種免許修得し、翌年の昭和3年に甲種運転免許を修得している。当時は
甲種免許は全車種運転が出来、2種免許は単一車種しか乗ることが出来なかった。佐野
氏は貨物運送業を始め、その後、免許証を取る人が増え、瀬口トラック、湯江トラック
、大江トラックの運送業者が増えていった。白菜、酒、レンガ、瓦などの生産品輸送が
、鉄道貨物と競合しながら発展し、各企業や商店も自家用運搬車を購入し始め、車の台
数が急に増加していった。昭和3年頃から「柳河軌道K・K」もホロ型乗り合い自動車を
軌道に沿って走らせた。柳川〜大牟田間と矢部川駅〜柳河間の2路線であった。トラッ
クも2台あったが、荷が少なく改造してバスにしていた。しかし今度は、矢部川駅から
の乗降客を相手に旭屋自動車と柳河軌道K・Kがに客の争奪戦が派手に行われ結果を生ん
だ。クラクションを鳴らし合い、駅の待合所に近い停車位置の奪い合い、果てには用心
棒を雇って喧嘩まで発展する始末に発展し、駅長がしばしば叱責に及ぶ状態になった。
昭和6年に旭屋自動車の可志久旅館跡にあった車庫のバス3台、ホロ型3台、が不審火
により全焼した。しかし1台修理に出していたバスと、あと1台を2万2千円で購入し
て20日後に再び営業を続けている。この当時は修理の部品が簡単に手に入らず、ギヤ
ーやシャフトは大牟田の製作所に依頼していた様子だ。しかし自動車時代の到来の波は
柳河軌道株式会社・解散までに及んだ。昭和7年2月20日 柳河軌道K・Kは、佐賀線
開通により国が金額25万円で補償買収することになり解散する。調査団の収益調査を
して割り出したもので、余分に判明したことは、料金が日本一高く、収益の多い会社で
あったことである。下庄の川原仁三郎氏は旧制中学卒で昭和5年入社、初任給25円で
あったが、これは楽に米4俵(240kg)以上買える額であった。当時の柳川は商工
業の発展において群を抜いて 日本のトップだったので人手を雇うのには高給優遇策が
三井以下一般的にも行われていて、地価もたかかったのである。昭和7年頃は軍部には
兵員輸送に支給する金がなく、全国各地に強制収用が鉄道には行われていた実態がある

1185: 名無しさんAA:18/07/26 16:11
富安君を探せ              < その194 >

 柳川の地からは、往年は矢部川の浜(大和町)から船での天草・長崎・大阪への船で
の輸送手段が取られていた。大川の筏船と共に有名だったとされる。大牟田港が石炭の
積み出しとして整備されると、大型化した大量輸送時代に突入した。明治24年の九州
鉄道の矢部川駅(現瀬高駅)開設により、鉄道での高速輸送手段へ変革してゆく。ここ
で、立花氏は柳川からの接続を図る目的で明治42年から昭和7年まで 柳川から瀬高
(矢部川駅)間を走った柳河軌道(やながわきどう)という道路併用鉄道を走らせた。
大正10年から昭和13年まで矢部川駅〜南関(熊本県)を走った東肥鉄道(とうひて
つどう)それに大正末期からの自動車輸送業への変革の歴史と共に、柳川が当時として
は貴重で画期的な都市であった事が偲ばれる。我が国初の鉄道開通が明治5年(187
2)とされる事から、近代国家への陸上交通手段として明治政府は開通させたが、僅か
15年で九州を結ぶ鉄道を開通させようとしたのは薩摩藩の意志であった。東京で英国
から技術団を招いて、新橋〜横浜間の鉄道を開通させ、片道53分、料金50銭から1
円50銭で営業が始まると、明治20年(1887)、九州鉄道会社が創立し英語学者
高橋新吉とドイツ人技師ヘルマンル・ムシュッテルにより事業を開始する事になった。
博多〜久留米間を開通させ久留米以南は羽犬塚〜水田〜柳河を経て渡瀬に行く計画が反
対論者多く頓挫し、路線を東方にずらした瀬高に変更した事で工事着手にこぎつけた。
既に、明治14年(1881)わが国最初の民営鉄道である日本鉄道株式会社が創設さ
れ、東北、常磐、両毛線などが開通して東京と人物往来を結んでいた。明治22年の年
は大雨の年で7月の集中豪雨は筑後川の橋梁工事を襲った。予定駅の久留米の手前の仮
駅で開業が余儀なくされ、岡蒸気も、車両も、レールも、すべてドイツ製でのスタート
した。こうして九州初の鉄道として博多〜千歳川仮停車場(筑後川北岸)間開業し片道
1時間23分かけ1日3往復の営業運転した。明治24年4月1日に、高瀬(玉名)ま
で開通し、下庄字矢部川に「矢部川駅」(昭和31年瀬高駅と改称)が開設営業を開始
して結果、瀬高が大きく発展することになった。鉄道開通は、初めての「陸蒸気(おか
じょうき)」を見るために弁当持参の郡衆が集まるほど人気があった。開業当初の駅名
が矢部川駅だったのは、高瀬駅(現在の玉名駅)との混同を避けるためであった。この
鉄道の開通により、人は日帰りで遠方に出掛けられ、下ノ庄談議所の浜からの船での荷
物の輸送手段が鉄道便の利用に変化していくことになった。


1186: 名無しさんAA:18/07/26 16:11
富安君を探せ              < その195 >

 矢部川駅(瀬高駅)構内には人力車40輌があり、その他付近町村の分を合わせると
300余輌があったという。車賃は、一里15銭、1日貸切で90銭であった。また駅
構内には乗り合い馬車31輌があり、6人乗りで1人1里10銭であった。駅前の旭屋
旅館の馬車は柳川や沖ノ端にも出張所をもっていた。この頃の馬車を高等馬車と呼んで
いた。この馬車は田中吉政の時代にもあったものだった。1612年(慶長17)に、
この柳川を起点とする一里塚を置く事にしたのである。今柳川盲学校となった前に瀬高
門の前にその起点の石を置いた。藩内に一里塚を築いたとある一里石には元禄14年(
1701)の説もある。現存するものは、瀬高街道に一里石(三橋町下久末)福島街道
(矢部往還)に三里石(瀬高町壇の池)がある。又三池街道には一里石(大和町豊原)
二里石(高田町渡瀬)南関街道に三里石(山川町野町中村病院角)がある。ほかにも、
馬の駅が作られ交通の便を与えた。田中吉政時代は江戸参勤交代の途中、伏見で病死し
四男の忠政が跡を継いだが。だが兄、康政の久留米支城と争いが起きた。その釈明の為
に忠政は江戸に上るが、1615年(元和元年)6月に、「一国一城制」で、柳川藩の
他の支城が取り壊される事に決まった。又居城の修理は許可を新造営はかたく停止され
る。この時大川の地は3支城の榎津城(第一水天宮社)・酒見城(大川風浪宮社)・江
上城(江上若宮館)に変わった。又八女支城も同じで、戦で焼けた猫尾城は山城公園化
して、織豊系石垣が確認できる程度になったし中島城も鷹尾城も江の浦城も白鳥城も、
蒲船津城も花園城も富安城久末城共に再建はできなかった。そんな柳川藩の支城の中で
も群を抜いた規模であったのが、仲たがいした、田中吉政嫡子吉信の久留米笹山城と、
そして三男康政の居城であった福島城である。この福島城も例外なく平城であったが、
八女市役所として現状は酷い状況にある。昭和初期まではある程度遺構は残存していた
が、筑後地方には文化財の認識がなく戦後に破壊されたとはなんとも残念でならない。
この福島の城郭は生粋の織豊系城郭で天正15年の九州征伐後、筑紫広門が肥前勝尾嶽
城から、上妻郡に移り住むに当り築城されたことに始まるとされる。ところが関が原に
おいて、西軍に与した筑紫氏は改易され、この城郭は、柳川藩田中氏の城郭となって進
められ、この際大改修が行われたが改易となった。『筑後地鑑』には天守、櫓を新たに
構築したことなどが記載されている。筑紫広門は水間城(現天満宮前)もつくったがこ
こも中学校として破壊された。こうして元和元年の一国一城令による廃城は平野であっ
た筑後ではかなりの痛手となった。

1187: 名無しさんAA:18/07/26 16:12
富安君を探せ              < その196 >

 昭和7年柳河軌道K・K解散後、自動車部の運転手であった平山満は上田鶴来を代表者
にして、坂梨喜一郎や田中喜一と4氏が自動車を買い取り「大和自動車」を営業開始し
た。こうして矢部川駅〜沖端間をバス5,6台で運行した。昭和10年には柳川軌道の
レールをそのまま移設して、佐賀線が瀬高(鹿児島本線)〜三橋〜百町〜筑後柳河〜東
大川〜筑後大川〜筑後若津〜諸富〜光法〜南佐賀〜東佐賀〜佐賀 (長崎本線)の24.
1km全線開通した。福岡県大川市と佐賀県諸富町を結ぶ「筑後川昇開橋」は、国鉄の
佐賀線が通っていた全長約507mの珍しい昇降式可動橋(現存するものでは日本で最
も古い)橋で、国鉄が民営化した昭和62年に廃線となり、その後、一度は橋の解体も
検討されたが、地元の人たちの要望で保存している筑後川昇開橋は、鉄道橋梁「筑後川
橋梁(ちくごがわきょうりょう)として建設された。1935年(昭和10年)竣工して5月
に開業した。舟運との共存のため、橋の一部が可動式となっている。可動橋には旋回橋
、跳開橋(跳ね橋)昇開橋などがあるが、本橋は橋桁の一部が垂直方向に上下する昇開
橋として珍しく日本に現存する最古のものである。橋の全長は 507.2メートル、可動部
分の長さは24.2メートル、昇降差は23メートルである。本橋の設計施行に中心的役割を
果たしたのは、鉄道技師の釘宮磐(鉄道省熊本建設事務所長)であった。昇開橋の仕組
みそのものは、坂本種芳が考案し。竣工当時は「東洋一の可動式鉄橋」と呼ばれた。ま
た、この筑後川昇開橋の構造を解説するために、精巧な模型が交通博物館(閉館)及び
鉄道博物館(埼玉県さいたま市)で展示されている。ちなみに、この昇開橋の精巧模型
は1937年(昭和12年)にフランス・パリで行われたパリ万博にも出展された。佐賀線の
車両は、佐賀駅・瀬高駅はそれぞれ佐賀線用の0番ホーム出着していていたが、国鉄解
体に従い昭和62年3月(1987)に廃線された。昭和10年の大和自動車と旭屋自
動車が合併し、「金城自動車合名会社」が資本金5万円で矢部川駅〜柳川間を営業開始
した。昭和19年8月28日 黒木町の堀川久助氏が昭和3年に興した「堀川バス」に
11万5千円で買収、諸雑費を引いて旭屋側34,960円、平山、田中、坂梨、上田
の4氏が57,040円の配当で買収された。瀬高〜清水〜山川経由・渡瀬駅前間の運
行を開始した。当時1日4往復運行。こうして堀川バスが誕生し昭和22年頃の運賃は
、初乗り2円、瀬高〜渡瀬間12円であった。昭和46年1月は廃線となったが、バス
運行そのものは、現在、瀬高〜柳川線など筑後地方の路線を運行している。

1188: 名無しさんAA:18/07/26 16:12
富安君を探せ              < その197 >
 西日本鉄道株式会社(にしにっぽんてつどう)は、福岡県を基盤に鉄道路線だが、こ
の成立にはかなり辛辣な事件が地元に起こっている。福岡の路線網を持つ大手私鉄とし
て本社を福岡市中央区天神一丁目の福岡ビルに置いて西鉄グループの核となる会社とし
て存在している。水俣水銀事件で有名な窒素科学肥料は、チッソとして本社を東京都千
代田区大手町に置く会社だが、旭化成、積水化学工業、積水ハウス、信越化学工業、セ
ンコーグループホールディングス、日本ガスなどの母体企業である。主な子会社・関連
会社として、JNC、JNC石油化学(旧:チッソ石油化学)(事業所:千葉県市原市)
、九州化学工業(工場:福岡県北九州市)、JNCファイバーズ(旧:チッソポリプロ繊
維・事業所:滋賀県守山市)や、ポリプロピレン事業合弁会社の日本ポリプロなどがあ
る。日本国内の合弁相手に吉野石膏や同社と同根である旭化成がある。こうした日本の
大きな主要な基礎化学工場は殆どがこの工場の分化した工場である。1906年(明治39
年)日本化学工業の父「野口遵」(したがう)によって曾木電気株式会社が創業される
。鹿児島県伊佐郡羽月村(現・伊佐市)に曽木水力発電所を建設した事から始まる。こ
の曾木発電所の余剰電力を利用してカーバイドを製造することを目的として、熊本県に
葦北郡水俣村(現・水俣市)に日本カーバイド商会が設立される。これがチッソ水俣の
もとになった。その昔、電気事業の電源は当時ほとんどが石炭による火力発電であり、
水力発電を利用するのは、近隣に町のある適地が存在した鹿児島電気と、大分県の竹田
水電・日田水電の3社だけであった。水力発電は当時の技術水準では送電範囲が近距離
に限定されていた。しかし、日露戦争後に長距離・高圧送電技術が発達すると、山間部
で水力発電を行い離れた市街地へと高圧送電するという新しい発送電形態が生まれた。
その頃の柳川の缶詰はこの日露戦争の兵士の食卓に並んでいるし、海鮮加工蒲鉾業界や
富安ラムネなどの商工業者の電力使用は大牟田の火力発電からも比較的早かったのだ。
そうした意味で電力が無限の山地の水脈に頼る事に動いたのが3つあった。一つは、当
時富士瓦斯紡績として繊維産業の一角を成していた中津派である。工場の動力源を得る
目的で紡績産業を集め山国川上流部の水利権を1906年(明治39年)10月に出願していた
一方筑後川では、筑後川沿いの日田の電気事業者日田水電の関係者と、同社の技術的な
後援者であった芝浦製作所(現・東芝)の専務大田黒重五郎と技師岸敬二郎の両名が提
示した大規模水力開発を行おう筑後川上流部の大山川・玖珠川を調査し水利権を申請し
た。彼らは東京派と呼ばれた。また新興財閥として筑豊の炭鉱業者を集め中野徳次郎は
、富安保太郎・山口恒太郎ら「福岡派」と呼ばれるグループで、筑豊・北九州方面への
電力供給を目指してこの地域の水利権獲得に参入した。

1189: 名無しさんAA:18/07/26 16:13
富安君を探せ              < その198 >

こうして「中津派」「東京派」「福岡派」の3派鼎立の形で、大分県庁は受け付ける事
で対応に苦慮することとなった。大分県知事千葉貞幹は3派の代表を県庁に集め、彼ら
に三派合同での出願を要請し、合同の水利権申請・会社設立への準備が進められた。し
かし明治40年は政治経済が変化し米国から不況がやって来て、翌年にかけて設立への
動きは一時停止される。1909年に発起人から和田豊治ら創立委員が選出され、翌1910年
(明治43年)には創立委員会で「九州水力電気株式会社」の社名が決められ、逓信省か
ら電気事業経営許可を得ると設立準備は本格化し、定款などが作成されていった。和田
は富士紡績会社や理化学研究所など、創立に携わった会社は数十社を超え、渋沢栄一に
続く大正時代の「財界世話人」として君臨していた。こうしてこの地域の水利権獲得運
動から発展して設立されたのが九州水力電気であった。しかし筑豊の石炭の火力発電で
福岡の町を九州電灯鉄道が市内電車を走らせていた。元は「博多電灯」と称し、1896年
(明治29年)に福岡市で設立されていた。開業は翌1897年(明治30年)で、このときに
電灯供給を開始。1908年(明治41年)には動力用電力の供給も始めた。1911年(明治44
年)、福岡市の福博電気軌道との合併に伴い「博多電灯軌道」に改称し、事業に電気供
給事業のほか軌道事業(福博電車)・土地建物事業を加えて営業していた。翌1912年も
(明治45年)には佐賀県や福岡県筑後地方に供給する九州電気(旧・広滝水力電気)を
合併して「九州電灯鉄道」に改名した。一方西日本鉄道は、現在の北九州市域において
九州電気軌道として軌道事業を営んでいた鉄道事業者である。略称は「九軌」(きゅう
き)として西日本鉄道(西鉄)の前身で、既に路線を次第に伸ばしていた。。1908年(
明治41年)設立。1911年(明治44年)に開業し、1940年代に入ると福岡県下の鉄道事業
統合の中心となり、1942年(昭和17年)、県下の鉄道事業者4社を合併し西鉄となった
。九州電気軌道が建設した路線は西鉄北九州線となったが、ごく一部の区間を残して、
廃止されており西鉄の路線はない。当時沿線地域では小倉電灯と大阪電灯門司支店の2
つの小規模電気事業者が存在して価格競争していた。九州電気軌道では、合併吸収を繰
り返していた小倉電灯を買い取り小倉市鋳物師町に新鋭火力発電所の小倉発電所を稼働
させて安定化を図った。更に九州帝国鉄道管理局小倉工場まで配電した。つまり電気事
業と軌道の電車事業は不可分の状態にあったのである。この時北九州工業地帯に電力を
供給する事業者は、九州電気軌道以外にも九州水力電気(九水)という電力会社が存在
したその為争奪戦が繰り広げられた。

1190: 名無しさんAA:18/07/26 16:13
富安君を探せ              < その199 >

九州電気軌道と九州水力電気の「電力戦」は、1927年(昭和2年)に相互不可侵と電力
融通を骨子とする協定を結びなおしたことで一旦落ち着き、1929年には株式の持ち合い
による提携強化も図られたが、結局は対立が続いていた。しかし、日中戦争開戦が起こ
り、1938年(昭和13年)政府は、「電力管理法」とその関連法が成立させた。これによ
り電気事業者は主要な電力設備は、新設の国策会社や日本発送電へと現物出資する事に
決定した。九州電気軌道も大門・小倉両発電所と大門・日明両変電所、送電線10路線
を日本発送電設立の際の同社への強制出資する様に逓信省から命令された。しかし又、
電気事業における電力管理法と同時期に、交通事業の分野でも国が交通事業の調整を図
る「陸上交通事業調整法」が成立していた。同法では福岡都市圏を含む5つの都市圏が
国主導による交通調整の対象地域と規定されていた。このような背景の中、政府主導で
電気事業を失った九州電気軌道は福岡県内や周辺地域での交通事業統合に意欲を示し、
また鉄道省側も福岡県内における事業統合の主体に九州電気軌道を想定していた。福岡
の路面電車福博電車(後の西鉄福岡市内線の一部)を運営する九州電灯鉄道の経営陣、
伊丹弥太郎・松永安左エ門・田中徳次郎・山口恒太郎らが発起人となり、1914年(大正
3年)に福岡〜二日市間の特許を得て、1915年(大正4年)に筑紫電気軌道(ちくしで
んききどう)株式会社の名で設立された。当初は社名が示すように福岡市と二日市町(
現・筑紫野市)の間に軌道法による直流600Vの電気鉄道を敷設し、二日市で既存の太宰
府軌道(1902年(明治35年)開業、現在の西鉄太宰府線)に連絡して太宰府天満宮への
参詣客を輸送することを目的として設立されたのであった。福岡〜久留米間の開業当時
には、九州鉄道の路線は国鉄線や他社鉄道路線との接続はなく、孤立した状態であった
。この為まず九州鉄道は自社線開業直後の1924年(大正13年)に久留米市と甘木町(現
・朝倉市)および福島町(現・八女市市街地)の間を結ぶ軌道路線を保有する三井電気
軌道を合併して、三井電鉄は久留米市内で隣接して九州鉄道と路線が平行し、九州鉄道
線との平面交差すらあった。九州鉄道の設立者である伊丹、松永らはのちに五大電力会
社の一つ、東邦電力の経営にかかわったが、傘下東邦電力は北部九州をも事業区域とし
、九州鉄道も東邦電力の傘下に入っていたのである。

1191: 名無しさんAA:18/10/31 18:41 ID:Ubs
  朝鮮人に 喝!  01

 だいたい今の現代人が、韓国人は馬鹿だから終戦時の事を知らないのではないか。日
本政府は韓国政府に最後の国旗掲揚をして朝鮮総督府の終了の式典を呂運や亨金九と共
に、市民3万人と共に行っている。空砲を撃ち日本国旗を降ろし、太極旗を掲揚して、
日本の軍人たちは静かに朝鮮から去った。8代目朝鮮総督の阿部信行・11代朝鮮政務
総監の遠藤柳作はソ連が朝鮮のほとんどの地域を占領することになると推測し、占領に
伴う混乱を避け、日本人の安全を守る為、穏健派だった[呂運亨]と交渉して行政権を渡
すことを日本の総司令部である大本営との交渉の上決めたのである。1945/8/8対日宣戦
布告したソ連は、既に満州・朝鮮に攻め込んできていたからだ。8月10日から交渉し
8月15日 呂運亨は建国準備委員会(建準)を立ち上げて、独立の準備として治安維持
の保安隊と建準組織を朝鮮全土に造って、8月16日朝鮮総督は政治犯の一斉釈放を行
い8月17日にその式典を行った。この時の取り決めも、禅譲もあったが 1945/8/24 
ソ連軍は平壌を占領し、北半分を支配下に置く事になりました。しかし8月26日から
大きく遅れて30日になって一部の米軍と李承晩の案内で上陸し、全く戦う事なく朝鮮
の中央部のソウルに行きついた。ここで最初にした事は、米軍が本軍が来るためにわざ
わざ韓国旗を降ろさせ日本国旗を掲げさせ、9月1日本隊がきて改めて、太極旗を掲げ
させたのである。その為第二次世界大戦で朝鮮総督府が降伏した日を翌日1945年9月2日
からとしている。だがその後も金日成も含めて国内自治の形態は決まっていて平和だっ
た。金九がちゃんと警察署長として治安を守っていたからだ。しかし李承晩がそうした
朝鮮半島を守って来た人々を亡命から帰ってきて暗殺しだした。ここで自治は無理と、
ソ連と米国の話し合いによって北緯38度線で分割して朝鮮を占領することになっていま
した。それでも米軍やソ連兵士の暴行や強姦は止まらず、李承晩は暗殺を続けた。1948
年までの間自国の自治が守れないとして朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が独立を果
たす事で大韓民国(韓国)も李承晩を担いで相次いでそのまま建国された。本来なら呂
運亨が大統領で良かったはずだが、彼は元貴族の両班だった李承晩他に気を使っていた
のである。だが1945/9/6 呂運亨の建準は全国人民大会を開催し朝鮮人民共和国の建国
を宣言したものの1945/9/9 朝鮮総督府は進駐した米軍に権限を渡し、朝鮮の日本統治
が終了した時から、国内治安や食糧や経済が悪化した事で不評だった。この上暗殺であ
る。まともな地域指導者は37人も殺されている。金日成が逃げだして北朝鮮を作った
のも当然だった。こうして連合国2か国軍による占領統治が行われていた時代になる。


1192: 名無しさんAA:18/10/31 18:42
この時代以降、朝鮮は38度線を境とする朝鮮半島分断時代を迎えて統一したいと双方が
思っていたが李承晩は容易ならざる暴力革命の党首であり金日成は武力統一の思想だっ
た。つまり韓国人自らが、南北分断をさせたし、李承晩を呼び込んだのである。又米軍
GHQも、この李承晩のせいで全く朝鮮人を信用していなかった。その為朝鮮総督府が
かってに行政権を移行することは認めず、進駐の時まで南半分の治安維持を 命じたまま
に日本に本体を於いて任せた。朝鮮総督府は建国準備委員会(建準)に移行したまま、そ
の代理の行政権を執行しながら、その国体を取り消して米軍の進駐を待った。その後も
統一政権は出来ず1945年9月19日司令官ジョン・ホッジ中将と、民政長官のアーサー
・リーチ少将の下での38度線南側に軍政を宣言して米軍統治時代が始まり、10月10
日呂運亨の朝鮮人民共和国の成立を否定し、11月23日上海の臨時政府を否定し個人
の資格で金九など 幹部の朝鮮帰国を許可し12月12日呂運亨の朝鮮人民共和国を非
合法化したのだ。これは呂運亨は李承晩を大統領、自身を副大統領とする朝鮮人民共和
国の建国を9月6日に宣言した事が間違いだった事を示している。独立の方針を巡って
右派(民族主義者)と左派(共産主義者)が対立した上、当時中国で活動をしていた、
大韓民国臨時政府関係者も「朝鮮の正統な政府」としての自負から朝鮮人民共和国への
協力を拒否したからだ。そしてかつての国王を持ち上げる事もしなかった。分断国家が
誕生すると。互いに朝鮮半島全土を領土であると主張し、それぞれの朝鮮統一論を掲げ
、北側指導者の金日成は「国土完整」を、南側指導者の李承晩は軍事力の行使をも視野
に入れた「北進統一」を唱えた。互いを併呑しようとする両政府は1950年6月25日に、
勃発した朝鮮戦争によって、実際に戦渦を交えることになる。「米軍が朝鮮戦争に参戦
したのは決して韓国のためではない。共産主義から日本を守るためだった」「もし北朝
鮮軍が韓国軍に勝つことにでもなれば、共産主義はドミノ倒しのように日本に襲いかか
るだろう。韓国が負けるのを米国は傍観できるが、日本を失うことだけは絶対にあって
はならなかった。」第二次世界大戦(大東亜戦争)に既に戦時中に、連合国内での取り
決めがあった。日本の敗戦後の事後処理である。「日本が統治していた朝鮮半島は38度
線を境界線とし、北をソ連、南をアメリカが分割占領・分割統治し、朝鮮半島内が安定
したら独立させる。」というものだった。つまり占領下でも国民統一が出来ていれば、
独立させると言う物だった。ここがドイツとの違いだ。ドイツは力を分断させる意味で
逆に独立させない為に分断した。だが、朝鮮人は親ソ派と親米派に勝手に分裂し、内部
抗争を始めたのだ。まさに朝鮮人である。その後、それぞれが勝手に大韓民国と朝鮮民
主主義人民共和国を建国したのだ。ここでも法や秩序や慣習より感情論が先行された。

1193: 名無しさんAA:18/10/31 18:42
  朝鮮人に 喝!  03

前年に共産主義である支那(中華人民共和国)が誕生した。そのことにより一気に南北
の軍事バランスが一変する。だが、朝鮮戦争は、北朝鮮の一方的な侵略ではない。朝鮮
戦争は韓国の南侵領土拡大策の野望からはじまったのだ。たった一人のバカで無知な卑
怯者である李承晩のせいである。戦後の日本人に対する反日教育も又、この男のせいで
ある。中国の江沢民と非常に似ている。韓国の李承晩政権は日本の対馬、竹島を韓国領
だと勝手に主張し始めた。だがアメリカは全く認めなかった。そこで李承晩は、国際法
上、まったく根拠のない未勝手な「李承晩ライン」を引き、まず竹島を実行支配した。
米国にあまり日本を大事にするな。と言う訳である。実際アメリカは最新鋭エブラハム
の戦車を日本に投入させたが用の無くなっても韓国に送る事はしなかった。こうして世
界が戦後処理で何もできないことをいいこと無法の限りを行った。その後も韓国の不法
拿捕により抑留された日本漁民は3929人、拿捕時の攻撃による死傷者は44人、物
的被害総額は当時の金額で約90億円にも上る。さらに日本の対馬、九州北部への侵攻
を企てて済州島の親日家の村長などを215人を公開処刑した為、日本でその事が発覚
した。そのことに気づいたアメリカは李承晩に警告を与えた。しかしその時の言い訳が
共産党狩りであった。と言う言い訳であった。実際は韓国の占領し政府機能の了承は、
半島のみに限られている取り決めがあったにも関わらずの蛮行だった。「国連軍による
占領統治中の地域に軍事進駐するなら在韓米軍は朝鮮半島から引き揚げる。」とまで言
ったが、李承晩はアメリカの警告を完全無視して日本側攻撃を考察した。対馬に攻め込
もうとし、韓国軍主力戦力は移動を開始。国境である38度線の韓国軍側防御が完全に手
薄になった。そこで激怒したアメリカは「アメリカの西太平洋における防衛線は、アリ
ューシャン列島から日本列島、沖縄に至る線である」との発言をした。つまり朝鮮半島
は防衛圏内ではない。とまで警告した。逆に言えば、戦争したかったアメリカは、この
馬鹿な行動をした李承晩を利用した。国内に軍事産業も食糧も送り先が無かったのだ。
戦後不況というやつで、買取する資本が戦後復興でどこにもなかったが、唯一朝鮮は、
空爆も死人も出て居なかったからだ。この韓国はアメリカの防衛圏内ではないという、
声明と38度線の空白はすぐさま北朝鮮の情報に上がり活動する。


1194: 名無しさんAA:18/10/31 18:43
  朝鮮人に 喝!  04

 この発言を聞いたソ連のスターリンは原爆を持つアメリカを意識して反対だったが、
首脳部は乗り気で、北朝鮮金日成(キムイルソン)に中国の同意があれば応援するとし
た。ところが毛沢東は、丁度胡散臭い兵が北京に集まって来る事が恐怖で一掃したかっ
たので2つ返事で賛意になった。こうして北朝鮮による南侵攻作戦が決行された。前年
に建国した支那(中華人民共和国)も加勢することになり、朝鮮戦争が始まった。始ま
るや否や李承晩は戦うどころか武器を持った北朝鮮軍の前で味方を見捨てて、ひたすら
逃げ隠れし、武器を持たない自国の一般市民20万人を共産党員だと決めつけて虐殺して
、自分の退路を確保した。李承晩は首都を捨て、人民の非難してくる満杯の橋を落とし
て、何回もそうして町を破壊しながら逃亡した。そのせいで韓国の防衛線は完全に崩壊
した。釜山にまで追い詰められた韓国・アメリカ連合軍を救うため、元日本陸軍士官が
逆上陸作戦の計画を立て、秘かに500人を沖縄人や米国人として登録し、アメリカ軍
を増強し上陸兵站分断作戦を実行した。こうして北朝鮮軍を38度線まで押し戻すこと
に見事に成功する。旧日本軍兵士無くして連合軍の勝利はなく、退路を断たれ全滅して
いたに違いない。連合軍の指揮官であったマッカーサーは、この時の募集で国籍を変え
られない兵士には警察予備隊を作って日本の治安部隊として採用した。その後北朝鮮軍
の背後にいる支那(中華人民共和国)への原爆投下と、東シナ海に面する港の封鎖を、
トルーマン大統領に要求したが、議会の猛反対と共に拒否され解任された。この時には
既にワシントンには閣僚に多くの左翼、共産主義者が、国際旅団の本部を於いて共産党
は議会でも、正式な米国共産党として活動していたのである。連合軍(ほぼアメリカ)
に支援を回さず、本当はロシアを通じて北朝鮮を支援していたのだ。ですが、旧日本軍
で教育を受けた兵士の活躍という想定外の事態が起き、マッカーサーが優秀過ぎたので
マッカサーを解雇した。戦後のドッジラインやブレトンウッズ体制などは、この亡命し
て来た共産党員が企画立案したものだった。この朝鮮戦争ではマッカーサーは、日本の
戦争が全て自衛戦争であったことを理解する。支那やソ連などの共産勢力が朝鮮半島に
下りてきたとき、日本を守ろうと思えば朝鮮半島を守らなければならず、朝鮮半島から
敵の勢力を完全に追い払おうと思えば満州に出て行かざるを得ない。マッカーサーは、
日本にとって朝鮮半島がいかに重要な土地かがわかったのである。その後、マッカーサ
ーの発言もあり、今はそれが理解されている。と思われる。この戦争によってアメリカ
は大東亜戦争での日本の立場をようやく理解し、ソ連の反対で渋っていたサンフランシ
スコ講和条約が、簡単に結ばれる事になった。

1195: 名無しさんAA:18/10/31 18:43
  朝鮮人に 喝!  05

 朝鮮総督府の官僚たちがどのような生活を送り、またどのような職場環境だったかに
ついては証言が少ないもので、これも貴重な資料から探る事になる。朝鮮総督府の官僚
といえば、上層部が日本人で占められて朝鮮人は下層部ばかりにいる、というイメージ
が強かったが、実際は全く違っていた。(江原道庁任官時) この時の係長は日本人、
課長は日本人、部長は朝鮮人でした。知事は日本人ではないかなと思っていましたが、
今になって記録を見ると朝鮮人かも知れません。当時は、日本人とか朝鮮人とかそんな
ことは、どうちらでもよくて、あんまり意識していなかったので、記憶に残っていない
こともあります。(江原道寧越郡庁勤務時) 私は朝鮮人の郡主の下で内務課長として
働いていたことになります。(52頁)と言う日記もある。私は朝鮮人の上司の下で働き
、時に朝鮮人を部下につかいました。当然のことながら、お互いに民族の違いは認識し
ておりましたが、それ以外のことは何ら変わりがありません。日本の朝鮮統治というの
は、欧米の植民地とは根本的に異なります。(55頁)朝鮮総督府は日本の朝鮮植民地統
治機関ですが、そこの職員には植民地支配されている朝鮮人が多数勤務しており、出世
する人も少なくなかったのです。 朝鮮人上司の下で、支配者側であるはずの日本人が
部下として働く場合が往々にしてあったのです。」と言う記述は、これは確かに西欧の
植民地支配とは違っているようです。西欧の植民地はアジア・アフリカなどにありまし
たが、植民地政府の構成は基本的には本国人上司と現地人部下というものです。現地人
が上司となって本国人を部下として使うことは、あり得ません。それが20世紀前半まで
の西欧植民地です。アメリカ国内でもこの時代の政府や軍隊では白人上司と黒人部下が
基本で、黒人が上司の場合は部下も必ず黒人です。黒人上司と白人部下という組み合わ
せは、想像すら出来なかった時代です。このことを考えるならば、日本の植民地支配は
西欧とかなり異なっていたと見ることができます。 当時の言葉で「内鮮一体」といっ
ていたように、日本人と朝鮮人との間における差別的取り扱いは少なかったと言えるで
しょう。しかしこのように差別的がなかったことが、逆に「日本に同化させて民族性を
抹殺した」という批判を浴びることになります。 確かに欧米のように徹底して差別す
る方が民族の違いを際立たせ「民族性の抹殺」にはならず、むしろ「民族の覚醒」にな
るのだろう。

1196: 名無しさんAA:18/10/31 18:43
  朝鮮人に 喝!  06

 昨年8月、102歳で亡くなった西川清(きよし)は、「最後の朝鮮総督府官吏」と
いうべき貴重な証人だった。大正4(1915)年、和歌山県出身。地元の林業学校を
出て昭和8年に、日本統治下の朝鮮へ渡った。複数の郡の内務課長を歴任し、朝鮮人の
徴用などに直接、関わった経歴から、慰安婦や徴用工問題をめぐる今の「韓国人らの言
い分」が、どれほどウソとデタラメにまみれているか、身をもって知っている。虚偽の
ことが世界中に流布されてゆくことを黙って見過ごせなかった西川は100歳近くにな
って、安倍晋三首相宛てに事態を憂う手紙を送り、自身の体験をつづった本(『朝鮮総
督府官吏 最後の証言』桜の花出版)も書いた。私が昨年6月に取材に訪れたときは耳
が遠いくらいで元気そうに見えたのだが、西川は「秋にはもう私はいないだろう」と語
り、残念ながらそれは現実になってしまった。西川は、日本人に何を訴えたかったか。
生前インタビューを行った一人として、それを伝える義務と責任がある。西川が遺(の
こ)したメッセージは、慰安婦や徴用工問題だけではない。戦後、70年以上が過ぎた
現在では、日本人も韓国人も、うかがい知ることができなくなった日本統治時代の朝鮮
社会の「雰囲気」というべきものだった。そのひとつが、「日本人と朝鮮人は、ごく当
たり前のように仲良くやっていた」ということである。朝鮮に渡り、中部日本海側にあ
る江原道(県に相当)産業部に配属された西川は昭和11年、朝鮮総督府の地方官吏養
成所の1期生に選ばれる。13の道から計50人、江原道からは西川ら5人、うち2人
は朝鮮人だった。「各道を代表してきた若手の秀才ばかり。九州帝大を出た人も2人い
ました。朝鮮人は全体の半分近くを占め、極めて優秀な人がそろっていました。」養成
所を優秀な成績で卒業した西川は、兵役を経て、28歳の若さで江原道寧越郡の内務課
長に任命される。人事や総務を司(つかさど)る枢要ポストで本来は“たたき上げ”が
定年前に就くことが多い。上司の郡守(首長)は朝鮮人、郡の上部組織である道の部長
クラスも、ほとんどが朝鮮人だった。「上司にも部下にも朝鮮人はいましたね。見かけ
は変わらないし本当に仲良くやっていました。当時を知らない今の人が『怖い、恐ろし
い時代だった』などというのはウソですよ。戦争が始まってからも空襲はなく犯罪も少
なく物資は豊富で穏やかな生活がずっと続いていたのが真相です。独立運動は“地下”
で続いていたのかもしれないが、少なくとも表面に現れることはありませんでした。

1197: 名無しさんAA:18/10/31 18:44
  朝鮮人に 喝!  07

 西川が持ち帰った写真には、朝鮮人の同僚と一緒に花見や野球を楽しんだり、親しげ
に肩を組んだりしたカットがたくさん残されている。「日本は立派な統治をしたと思う
。(略奪が酷(ひど)かった)西欧の植民地支配とは違い、日本は朝鮮に多大な投資を
した。『土地を奪った』という非難も当たらない。従来、あいまいだった朝鮮の土地を
、日本が測量・登記し、権利関係を整理したのが本当です。」と言うくどいようだが、
統治する側とされる側が同じ歴史観を持つことは無い、しかし朝鮮の公表する嘘は諜某
に溢れ恣意的嘘が多すぎる。旧制六高から東京帝大法学部を出て昭和9年の高等試験(
行政科)に合格、「キャリア組」として総督府に入った任文桓(戦後、韓国農林相)は
戦後出版した自著で、日本人の同期とは出世、待遇などで差別を受けたとした上で、日
本に従うフリをする“曲芸師”だったと書いている。これは日本人の自虐史観と同じに
後で考えたら。と言う曰く付きな声だ。 西川は、寧越郡の後、さらに規模が大きい原
州郡でも内務課長を務めている。例えば、戦時の労働動員である「徴用(募集、官斡旋
(あっせん)の段階を含む)」は総督府→道→郡→邑(ゆう)・面(町村に相当)のラ
インで実施された。その“真ん中”にいた西川は募集にかかわり、日本へ向かう朝鮮人
労働者を釜山まで送っていった経験もある。「殴る、蹴るで無理やり連行したなんて、
とんでもない。ちゃんと面談し、労働条件を示した上で、納得ずくで日本へ働きに行っ
た。給与などの待遇も悪くなかったでしょう。」と説明する。これは他の朝鮮引き揚げ
者も同じで後に在日なった人さえ平等だったと証言を得ている。つまり日本でも特高に
目を付けられて酷い被害には逢っているが、それは極端に少ない話である。西川によれ
ば、当時の朝鮮には、カルボチブ(売春宿)、スルチブ(居酒屋だが、売春婦を置いて
いる店もあった)と呼ばれる店が街ごとにあった。慰安婦になったのはそうした女性が
多い。民間人が需要に応じて連れて行ったのである。「もし、日本の官憲が、朝鮮人の
若い娘たちを強制連行したならば、通達文書が残っているはずですが、そんなものはな
いし、私の耳に入らないわけがない。警察官には朝鮮人も多かったんですよ。無理やり
そんなことをすれば、大騒ぎになって、暴動が起きたでしょうね。」終戦時、江原道庁
勤務だった西川は道庁所在地の春川に住んでいたが、朝鮮人の民衆から自宅の扉をたた
かれることがあったくらいで、略奪や暴行の被害を受けることはなかった。戦後、和歌
山県庁に勤めた西川は1980年代以降、降って湧いたような慰安婦問題などの騒ぎを
信じられない思いで見ることになる。世界中にばらまかれたウソやデタラメは一向に収
まる気配はない。泉下の西川の無念はいかばかりか。

1198: 名無しさんAA:18/11/01 02:39
 朝鮮人に 喝!  08

 初代朝鮮総督は伊藤博文だったが、最後の総督は阿部信行であった。その阿部総督は
アメリカが韓国に占領しに来た時、総督府で最後に行った仕事は、降伏文書に署名した
ことであった。そして韓国を離れた。しかしその時この彼が残した有名な言葉がある。
阿部総督は、1879年日本の石川県で生まれ、1897年日本陸軍士官学校を卒業し、陸軍参
謀本部総務部、軍務局長を経て1929年には陸軍次官に任命された。1939年に日本の第36
代首相になったが4ヶ月で総辞職した。 以後、いろいろ職を経て1944年最後の朝鮮総督
として就任し、戦争物資を支援するために人材と物資を戦争遂行のために韓国から収奪
に力を挙げた。徴兵・徴用および勤労報国隊の忌避者を最後まで探し出し、さらに女子
挺身隊勤務令を公布した。韓国社会では、安倍晋三首相の祖父が阿部信行元首相だと信
じている人が少なくない。日本では、阿部信行は昭和14年に首相になったが、四か月ほ
どで辞任した。歴代宰相の中ではもっとも影の薄い人物という程度にしか見られていな
い。だが、韓国では最後の朝鮮総督としてかなり有名で、終戦後帰国した際に「阿部信
行の『予言』」なるものを残したという話まであるという。「阿部信行の『予言』」と
は、「日本は負けたが、朝鮮が勝ったわけではない。自信を持って言うが、朝鮮人が正
気に返って昔の栄光を取り戻すには百年以上かかるだろう。私たちは朝鮮人に銃や大砲
よりも恐ろしい植民地教育を植え付けた。朝鮮人は仲たがいして奴隷生活を送るだろう
。そして私、阿部信行は再び戻る。」といった内容のものである。朝鮮総督府の高官な
ら、「日本は負けたが、朝鮮が勝ったわけではない。」と言いそうな気もする。しかし
「朝鮮人は仲たがい」したのは事実でも、日韓併合前からの話だ。朝鮮戦争だけではな
く、「南」の内部でも韓国初代大統領になった李承晩と金九など激しい政治的対立があ
って、多くの血が流れたのも事実だ。しかし対立した理由は簡単で、李朝時代に官僚達
が四色党派と呼ばれる派閥に分かれて党争を繰り広げてきた朝鮮人の民族性によるもの
。その当時の日本人は、朝鮮総督府の統治によって識字率を向上させるなど教育で恩恵
を施したと信じていて、「恐ろしい植民地教育」などと朝鮮人に悪いことをしたと考え
る事は皆無で言う事はない。これが朝鮮から排除された両班から出たデマで同床異夢の
レジスタンス運動から出た言葉の証左でもある。イ・ヒョンジョン議政府報勲支庁報勳
チーム長や、李承勲ソウル大名誉教授のような韓国でそれなりの地位にあるような人で
も、そうした嘘や「安倍晋三の祖父は阿部信行」だと信じて疑わない。朝鮮総督府の役
人なら言うわけがないこの話は授業でも伝わる。


1199: 名無しさんAA:18/11/01 02:40
この「阿部信行の『予言』」を最後の朝鮮総督が話したと韓国人の多くが信じ込んでい
る。朴槿恵大統領は「歴史を忘れた民族に未来はない」とかいって、日本人に「正しい
歴史」を教えてあげようとやっきになって「安倍晋三の祖父は阿部信行」だと思い込ん
でいる韓国人こそ、「正しい日本の歴史」を学ぶべきであろう。12才以上40才未満
の女性に挺身勤務令書を発行した。これは間違いない。しかし付け加え、これに対し、
命令に応じない時は国家総動員法によって懲役刑を下すこともあっという。と追加する
。これがおかしいのだ。その頃の統治システムとしてあり得ないのである。そしてその
上、彼が朝鮮半島を離れる時、残した有名な言葉ある。と続く。それは「私たちはたと
え戦争に敗れたが、朝鮮が勝利したのではない。朝鮮が大きな事を言ったところで、朝
鮮人が正常な精神状態を取り戻し、きらびやかで偉大だった今までの光栄の生活を取り
戻そうとしても百年以上かかるだろう。私たちの日本は、朝鮮人に銃と大砲よりさらに
恐ろしい植民地教育を植えつけておいた。結局、朝鮮人は互いに仲たがいし奴隷的生活
を送るだろう。そして私、阿部信行はまた戻る。」と言い韓国から離れた。とまことし
やかに伝えられる。韓国としては、情けない話であり、恐ろしい話とする不思議で、何
が恐ろしい仕掛けなのか意味不良で伝わっている。阿部総督は日本陸軍士官学校を卒業
し、ドイツ留学も行き、軍の中央の主要な職務を経て1933年に陸軍大将、1939年には、
日本内閣総理にもなった。たとえ数か月であっても日本国総理を歴任した彼は、1944年
最後の朝鮮総督に任命され、朝鮮人に対する植民地教育をさらに徹底的に行った。と伝
える。そして日本駐留米軍マッカーサー司令部が八月15日直後である1945年12月11日
阿部を尋問する時、彼は「日本植民政策は韓国人に利益になる政策であった。「朝鮮人
はまだ自身で国を治める能力がないので独立した政府形態になれば党派争いで、再び崩
壊するだろう。」としながら南北共同政府樹立に積極的に反対したことが明らかになっ
た。と言う嘘を又綴る。また彼は東京裁判でもA級戦容疑からどういう訳が分からない
が突如起訴が外れた。理由は今でも不明である。と書く。これは簡単な事だ。彼はこの
地に朝鮮統一政府を作り、そのまま託してここを離れた事は、住民として紛れた米軍の
偵察隊の報告で解っていたからだ。そして破壊した暗殺した李承晩の事は棚にあげ、し
かし最後の阿部朝鮮総督の言葉はやはり意味深で思い出さざるを得ない。と言うのだ。
こうした、本当か嘘かわからない話は朝鮮人は上手い。今でもやっかみの告げ口外交や
国際法や国際協議を堂々と無視してロシアや中国や北朝鮮に繋がりを持つ。そして片方
から追いやられてはもう片方に寄り付いて渡る。その為中国王朝の交代劇の様に大統領
になった過去を全否定して今の政権に貢ぐ裁判を終始展開する。彼らに正義も道義もな
い。あるのは餓鬼畜生と同じ、今の生きる餌であり欲望を満たす金なのである。

1200: 名無しさんAA:18/11/01 03:19
 今や日本も日本人が消えて、日本人も又韓国色に染まる。文化が消え独特のこだわり
が消えつつある。かつて山村に住み質素と共同生活で育んだ、開かれた思いやりは消え
て、核家族化して、商魂たくましい利用される思いやりが多い。和歌山カレー事件で解
る様に、見ず知らずの者と情報も無い中で付き合う事を躊躇しないのはいいが、それを
支えていた駐在所システムは今や存在しない。又同じ<あべ>氏が日本の総理大臣にな
って、韓国中国には、同じ様に助けて裏切られ、ちょっと離れて泣きつかれ、支援して
という場当たり的な過去を捨てた外交を繰り返している。全く韓国の心模様と同じだ。
ご存じの通り安倍首相の祖父は岸信介氏である。岸信介氏は満州国を建設し、日本がア
ジアを支配しようとする戦略を立てた。この過程で徹底して中国人と朝鮮人の抗日闘争
を無力化させたとも言われている。「週刊文春」によれば安倍総理は最近「中国は呆れ
返る国だが、それでも外交ゲームが可能だ。だが、韓国はただ愚かな国家であるだけ」
と話したと伝えてはいるが、その愚かな韓国国民も馬鹿じゃない。とは信じても歴史は
馬鹿その物で行ってきている。かつて元が攻めて来た時も中国漢王朝が朝鮮に兵を頼ん
だが元について戦っている。つまり内通者がいてひとたまりもない国家であったのだ。
今でも北朝鮮との統一国家に声を上げるが、統一国家になればなる程国家はこの悪者に
操られ、今以上に大統領交代の愚衆の群れが策動されるだろう。これまでの政権も文政
権も、日本が投下した資本や資金片手に米国に媚びを売って大きくなった財閥に寄生虫
の様にすり寄った政策しか出していない。つまり自立した政治をしないし、法に準じた
裁判をやった事がない。朝鮮人特有の全く人を論破はしても意味不明の未来のない決定
しか行わない思考しかない。日本人も多少は摩擦を避けるが、韓国に至っては揉手に摺
手しか行わず、北朝鮮同様に対立は生死に関わるらしい。つまり追い詰めるのが得意で
常識や情緒や情愛博愛が全くないのである。かつて朝鮮旅行のある田舎の旅館は自分達
は豪勢な食事をし、旅行客には犬の餌しか差し出さなかった。捕えられ取り調べに彼ら
は平然と言ったと言う。「私達は、食べる為に商売をしている。犬も肉鍋にする為に餌
を与えている。それがどこがどう違って法律違反なんだ。」と真顔で言った。そして、
「何も毒を盛ったり、客を追い出した訳ではない。」と。この論拠に警察は縄を解いた
その集落の他の者もうなずいたからだ。そして警官は悟ったと言う。「そう言う人達な
のだ。」と。つまり仏教の「天上天下唯我独尊」をそういう風にしかとらえられていな
い国なのだ。コリアンカーストで平等はない。自分達が大事なのだ。日本人が最初に工
場造り雇用したが、社長を軟禁して交渉する人種だった。だから工場は殆ど米国の経済
植民地になり、株や経営権で搾取されて今に至っているのである。共に生きるのが不可
能な人種なのである。

1201: 名無しさんAA:18/11/01 12:38
 朝鮮人に 喝!  011

 呉善花女史は韓国からの帰化人である。簡単に言えば、韓国が嫌になり、そして日本
が好きになったから帰化したのだ。最近文筆活動で有名である。書店で少し立ち読みを
して見たが、朝鮮民族でなければ書けないものだと思った。以下は終戦当時12歳、女
学校1年生だったメルマガ読者の話で、呉氏の本を読んで記憶に照らし合わせたもので
説得力がある。私は小学校(國民学校)2年生だったが、以下に出てくる朝鮮語をかな
り思い出した。アボジ、オモニぐらいしか覚えていないと思っていたが、そうでないこ
とが分かった。それにしても李氏朝鮮時代の韓流ドラマを朝から観る日本人、それを流
す日本のテレビは大問題であろう。韓国にのっとられたフジテレビは仕方ないとしても
随分おかしい事だろう。(読者の声)呉善花女史の韓国歴史、文化、女性論を読みなが
ら、とくに仏教弾圧の李氏朝鮮の考証は目から鱗でした。鮮やかな記憶が蘇えりました
。父は朝鮮総督府殖産局鉱山課勤務が始まりで18年間この半島暮し。高山の宿坊=お寺
(隠遁暮し)の写真がありました。日本人が居座ったからそうせざるを得なかったのか
と自虐史の中で長い間もやもや続きでしたが。今、覚醒です。女学校一年生12歳まで居
た子供時代、凍てつく深夜、遠くから次第に近づくテンツクテンテン団扇太鼓が聞こえ
てくる。腕白ッ子たちは、『キタキタキタッ』と炬燵やオンドルに逃げ、布団に潜り込
んだものです。80歳になって、蘇るあの過去の理由が解る。そうだったのか。今、何も
かも納得です。日本は仏教、神道を通して学校教育でも忠孝仁義礼を説こうとしていた
のは確かです。私の小学校の学級名も「忠組孝組」、「仁組」などでした。敢えてお伝
えしたく衝動にかられたのは「解放」から70年近くたった今、20万人のコリアン女性が
、日本軍に強制連行されたと被害妄想も甚だしい記事を、今や米国紙広告欄に載せ、世
界に持ち出し、一方女子挺身隊の少女像を日本大使館前に建て、これを全米に建てると
言う。なんという破廉恥な愚挙を行っているからである。一方驚くべきは21世紀のコリ
アンの娼婦が、組織売春の犯罪撤廃の目的でできた売春防止法を、自ら即刻撤去せよ、
と娼婦たち自身がド派手な化粧と扮装で白昼から、毎日街頭デモというニュースです(
日本の組織売春防止法は昭和32年成立。翌4月から施行)。



1202: 名無しさんAA:18/11/01 12:38

 朝鮮人に 喝!  012

 一体なにが起きているのか。謎で混乱していた。しかしこの本でわかりました。李朝
王朝朝鮮の五百年の落とし物で、両班が作ったその土壌は今も変わっていないと言う事
です。何度も何度も、官につく「奴婢」の存在は、原簿を焼却したり人身売買を禁止し
たり賤民階級の身分解放は、形の上では繰り返されていますが。精神土壌が今までも今
も全く変わらないと言う事で、変わらない限り、そこに育つ人間の生き方は変わらない
のです。儒教国家を歴史的に見ると両班の権力下、奴婢(ノビ)は最下層で朝鮮半島で
は最大の多数なのです。姜在彦氏によると、ソウルには両班人口の数倍または十数倍の
奴婢がいた。儒教的拘束の女の悲しい性で出産とその子供は母親の身分で決まり、妾子
の子は奴婢。送り返された嫁も嫁の子も奴婢。結果として女の稼ぐ手だては身売りしか
ない。性病罹患でも亡国病の時代、軍は取り締まり管理を強化し教化しようとした。が
その頃の 私たちの子供の耳にも、606号とか梅毒とか、大人たちの井戸端会議が響いた
ものです。今ならばエイズでしょうか。病院も満杯状態。統治國日本は日韓併合以前の
、日露戰爭後、性病予防の検診を軸に公娼『遊廓』をソウル、インチョンなどに許した
。そこに寄り添うように集まってきて作ったたのが、朝鮮人の女衒、抱え主達が率いる
朝鮮ピーさん一行だったのである。男たちへの話し聲が聞こえてきます。『お兄さん、
寄っといで』とピーさん。『勇気出してお入り』その朝鮮娼婦街をカルボチブと言い、
そんな概略図の記録も同窓会に保管されています。野放図に出来て行く女郎宿に総督府
はそれぞれの抱え主のもとに組合を作らせ、16歳以下を使ったら打ち壊しの刑を課した
のです(各国領事館が視線が集中したなかですかからね。)厳しさがあったのです。し
かし、華やかな酒場街でビリヤードもあって検番もある。組合管理で組織的に性病予防
の定期検診が遂行され、兎も角賑やかだったのです。貸し座敷で料理も寿司、中華、何
でもありでした。しかしパールハーバー以後は、戦況悪化にともない国内の食糧事情や
人手不足で、兵士たちの移動が始まると収入に響いた抱え主は、女たちを引き連れて、
満洲へ東南アジアへと渡り移動します。満洲へと河を渡るその時、渡行証や言葉で朝鮮
人とわかると、満洲族が嫌がらせ。苛められる。それで日本人名をとの願いも出てくる




1203: 名無しさんAA:18/11/01 12:38
 朝鮮人に 喝!  013

 続々外地に出て行き空っぽになった店には、すぐに新手の次の一団が入るという活況
さは変わらなかった。日本人の女衒、周旋業者がいたのと同様に、朝鮮人のカルボチブ
の抱え主、周旋業者が居て増えていったのです。そこから通学している子供たち。その
生徒を指導する教師の証言です。周旋業者が居て子供達まで話す。不景気な半島にいる
より、金になる戦場がいいと。そうして噂話によって続々渡って行った。下層の女たち
奴婢は、どこに居ても逞しかったのです。それでも、夕暮れになると。化け物のような
脂粉の女たちが明洞に現れ事業は続いている。フランス教会の夕べの祈り鐘の音。茜雲
を背景に飛び立つ烏のようにボーッと現れる女たちは、常に交番を悩ませた‐‐と書い
た京城商業學校生の日記の記録があります。その一方で今『代理母』業で稼ぐ韓国の、
今のそれらの女達。誠に希有な民族の諸行ではないでしょうか。お蔭様ですっきりしま
した。日本の統治は、俗にいう植民地政策とは全く異質だったということ。(参考資料
=史実を記録する日本人の証拠として斉藤實総督時代、航空写真を基に作成した畳2畳
分程の地図『大京城府大観』)があります。その他、相互に小中校同窓会をして、それ
ぞれが殘した何種類もの地図の存在が解った。そこに仏教寺院がいくつも記録されてい
ます。東本願寺、西本願寺、曹谿寺、興正寺、伊藤公を偲ぶ博文寺。本願寺は上海にも
ありました。しかし、マッカーサーが初めて芝にたった時。築地のあの瓦屋根はぶっ壊
せ−−と叫んだ。とか、次々に仏教の御堂や寺院は壊されていった。長崎の孔子像は、
託されてわざわざ持って帰ったと言う話は当然だろう。信徒自らこの打ち壊し寺院を案
内したと言う程信じていなかったのだから。そんな話が懐かしく蘇ります。李氏朝鮮で
は仏教は、目の上のタン瘤だった。仏教は東へ東へと伝わり同時に仏教美術品も芸術品
も現代のアフガニスタンの盗品遺品でさえも日本に流れ着いて保護されているこの国だ
。日本人に生れてよかった。李朝儒教国是五百年。仏教排斥により国外逃亡の日本渡来
組が、やや異質な色合いももってやって来ている。例えば西武線高麗駅もそうだ。その
由来も記録で明白です。この日本は、仏教は仏教とし受け入れた。東京練馬の禅定院も
立派なお寺です。信者を抱えています。色々あったにせよ。御仏の教えは純粋に教えで
あるという受け方です。にもかかわらず儒教国家が醸成した半島では、その土壌そのも
のが今も全く同じに変わっていないのです。何でも排斥活動にしかつながらない。その
事がトラブルメーカーになっている悲劇を韓国が理解すべきではないだろうか。



1204: 名無しさんAA:18/11/01 12:39
 朝鮮人に 喝!  014

 北は「朝鮮民主主義人民共和国」。南は「大韓民国」。従軍慰安婦と女子挺身隊の
混同、こうした暴挙は、今の韓国では赤狩り粛清の声の下で、親日家を公開処刑して、
『抗日』や『反日』を叫べばプラスになるという思い込みの試行錯誤がずっーと続く。
日本人の一人ひとりも考えなければならない問題だと思い、長くなりましたが書かせて
いただきました。」と書いてある。つまり韓国人もまともな人間は遠の昔に日本に帰化
してきた。と言う訳である。東京の大地震で帝都は致命的打撃を負った。それでも終戦
前に復興した中、米国の無差別都市攻撃で既に防備の無い中、焼夷弾攻撃で致命的破壊
が行われた。呪われたユダヤは、ソ連開放を謳いながらもドイツと闘った事で、ソ連と
共に活動した。マッカーサーと共に降り立った民生員は、ソ連やドイツやフランスから
大量に移民としてアメリカ人になったホワイト共産党員が殆どだった。彼らの資料では
朝鮮半島はそのままでも今後困る事は無い。日本の様に空爆も工場破壊もない街の荒廃
もない。だが日本は過去に戻すには、恐らく百年は要するだろう。原爆跡地などは何一
つ残っていないここは特別に二百年かかるかも知れない。本国や朝鮮からの手助けが必
要だろう。と当時は報告しているようようだ。ところがこのマッカサー知見と歴史は、
全く違って、朝鮮人には「働く」とか「国造り」と言う言葉は辞書には無かったのであ
る。国とは奪う物であり、働くとは権力の座につく事。だったのである。そこには中国
人以上に簒奪搾取(さんだつさくしゅ)の意識しか働いていなく、自らで建設生産する
と言う意識はなかった。上陸した米国の軍人からは、李承晩は全く信用されていなく、
その信任を取り付ける為に、旧来の政府事務をした者達を次々に手にかけ暗殺処刑した
。その中には朝鮮半島を良くする為に 戦後まで残った日本人も大勢いたが、親日家と
言うだけで殺された。そして歴史は、敗戦国の日本をあれよあれよと言う間に経済大国
にさせ、朝鮮は欲望のままに二人の指導者が、二国に分断し戦争をやり出した。米軍を
引き連れた韓国と中国とソ連を引き連れた北朝鮮である。そもそも李承晩には朝鮮半島
を捨てる理由があった。朝鮮半島を守り暮らして来た人間とは折り合いがつかず、最初
の統一朝鮮政府の会議でも 九州を攻めると言う話であり米軍に聞かせられない話ばか
りでありながら呂運亨(りょ・うんきょう)の建国準備委員会(建準)の一同は聞き入
っていたのだ。


1205: 名無しさんAA:18/11/01 12:47
 朝鮮人に 喝!  015

 朝鮮総督府から不逞鮮人として監視された金斗漢(きん とかん)は、家庭内の事情
も良くなく、梶童(キョドン)国民学校(キョドン小学校)を2年生で中退した。開城
に移ったが、10歳の時、1人で京城にきた際に乞食たちに捕まり路上生活者となり、
袁氏を名乗る老人に「日帝の勉強はする必要がない。すぐに独立するのでその時勉強し
なさい」と言われ、学校には通わずに水標橋(朝鮮語版)の下や路頭で17歳まで過ご
した。18歳にして朝鮮全土に約3万人の構成員を抱える任侠団体、鐘路派(チョンノ
・パ)の頭目に就任した。日本統治時代の末期にはソウルの繁華街、鐘路(チョンノ)
を中心に朝鮮のチュモッケの王(げんこつの王)とされ、不良愚連隊や暴力団のごとく
一般市民に対し悪行を働きまくった。しかし金斗漢本人はあくまで侠客として生きてい
た。金佐鎮の息子であることを誇りに、強い抗日の姿勢から、日本軍の武器庫を爆破。
日本系暴力団(商業権を狙って縄張りを拡大していた)と抗争を繰り広げ、朝鮮人商人
を保護する侠客として活動した。つまり日本商店を襲い、華僑系の商店に雇われた形だ
った。自由党政権下で政治暴力団の頭目となった李丁載(イ・ジョンジェ)は、金斗漢
(キム・ドゥハン)が組織する鐘路派の下位団体の準構成員出身で、戦中の満州や朝鮮
半島北部で優勢を誇った半島北部愚連隊の隊長である李聖淳(イ・ソンスン:シラソニ
)とは義兄弟として呼び合う仲だった。1944年に李載熙と結婚。1945年9月5日に国会議
員となってキム・ウルドンを産んだ。日本降伏後は朝鮮建国準備委員会に参加し、治安
維持を担った。建国準備委員会が解消し、社会主義活動家の朴憲永の秘書となっていた
丁鎮龍(チョン・ジニョン)の勧めで朝鮮共産党に入党。朝鮮青年前衛隊の隊長に就任
した。父の死が共産者による暗殺だった事実を知り、共産主義から民族主義に転向し、
米軍政庁の警務部長趙炳玉(チョ・ビョンオク)や、のちの新民党総裁の柳珍山(ユ・
ジンサン)の知遇を得た。民族主義指導者との交流を深め、反共産主義闘争の白色テロ
の代行者となり、多数を殺害した。この成果から李承晩(イ・スンマン)、金九(キム
・グ)、柳珍山(ユ・ジンサン)が主導する大韓民主青年同盟監察部長になり、右翼陣
営の最先鋒として活動。団体の資金を調達するために、後に反民族行為特別調査委員会
の逮捕対象となる朴興植など親日派資本家の家を襲撃した。私的流用しない保証に自宅
を抵当とし李承晩の領収書を書いた。金斗漢別働隊は反共産主義闘争に力を尽くす過程
で、左右合作の合同政府を提唱した呂運亨(ヨ・ウニョン)、金奎植(キム・ギュシク
)らの拉致・暗殺未遂事件を起こす。これに憤慨した金九から注意を受け、以降は一切
表に出ない影の支配者となり、尖鋭レジスタンス運動家となった。

1206: 名無しさんAA:18/11/01 13:08
 朝鮮人に 喝!  016

1948年、死刑判決を受け、米軍管轄の沖縄刑務所に収監されたが大韓民国政府を李承晩
が成立させた事で、計らいにより刑死をまぬがれている。金斗漢が共産党を離脱し、民
族主義陣営に加わり、共産党前衛隊(左翼)と青年同盟別働隊(右翼)の争いが加熱し
、米軍から逮捕状が出て潜伏中に対共産党に金斗漢は襲撃され、頭部に銃弾を受け通報
で駆けつけた米軍により病院に搬送され、緊急手術を受け一命を取り留め、その回復後
、朝鮮共産党や左翼運動家に対する数々の殺傷行為容疑で米軍に逮捕され収監されてい
たのである。死刑執行予定日の数日前に開放され、大韓民国政府樹立以後、当時最大の
労働組合組織である大韓独立促成全国労働総同盟最高委員に就任した。労働者の要求に
耳を傾け諸課題を解決。労組所属する全国の労働者から絶大な人気を得る事になった。
朝鮮戦争中には、大韓学徒義勇軍参謀長に就任。約 1,500名の学徒兵を連れて参戦した
。対北テロ集団の白衣社の幹部に就任し金日成(キム・イルソン)の暗殺未遂を起こす
など反共活動を続けた。1954年、36歳の時に、鐘路遊興街の女性たちの圧倒的な支持を
受け、第3代国会議員選挙に民主国民党の指名を断って無所属で出馬僅差で当選してい
る。水標橋の下や貧民街の路頭で17歳まで過ごした事で、軍政と距離を置き、彼は枠に
とらわれない様々な功績を残し、李承晩(イ・スンマン)大統領から報酬や要職の提供
を打診されたが、独裁色が濃くなった李承晩政権に難を示し受けなかった。大統領特使
や、国連韓国代表を務めていた趙炳玉(チョ・ビョンオク)が大統領李承晩との意見の
衝突で辞職。金斗漢は反李承晩勢力の主要人物となった趙炳玉や柳珍山(ユ・ジンサン
)らと行動を共にした。こうして白衣社は影に隠れた存在になったのだ。、文政権は、
朝鮮人の代表者として、「歴史は見直しして行かなければならない。」と大統領候補の
時叫んでいた。つまり歴史を改竄して構わないという意識である。しかし、歴史を嘘で
固める横着さは、大陸清野作戦そのものの考え方だ。つまり、積み上げる、権利がある
。と言うのは彼らには、勝つ、占領し奴隷として使う。と言う事の意識しかないのであ
る。だからナッツリターンや、セォール号の転覆が起こる。起こすように新聞が煽る。
財団は素晴らしい。人民は素晴らしい。政府は素晴らしい。と、のうのうと嘘をつき、
少しでも落ち度があれば許さない。それを追い立てる。つまり新聞や裁判官の彼らは、
今でも国民を奴婢として讃えているのである。また国民も奴婢として帝や政府からの、
贈り物の食料や金や仕事でいいのである。つまりソ連で言う処の農場の豚でいいと思っ
ている。


1207: 名無しさんAA:18/11/01 15:17
 朝鮮帰化人の山下貴司法相は、あの朝鮮半島と同じに質疑応答を何とも思っていない
。つまるところ 国会も国民も日本と言う国も、なんとも思っていない。韓国では法相
というのは最高職域である。つまりは自分が国王と思っているのだ。民主主義の国では
殺人は権利である。だが日本は法治国家として長年殺人は違法として裁かれて裁判官の
元に引き出されるものとした甘い考えで国家運営をしてきた。つまりは銃器も刀剣も、
市民から奪い、権力者の下で首を垂れる様に戦後は教育したのである。こうした本来の
民主化とかけ離れた世界を、嘲笑するかのように韓国化の流れを、朝鮮からの帰化日本
人の2世3世或いは4世が形作っている。この国会答弁も当たり前に討議しない国旗掲
揚もしないと言う全くふざけた国を今の安倍政権はやっている。全く阿保のような話だ


1208: 名無しさんAA:18/11/01 15:18
東京都に住み着いた7割が古来からの日本人では無い。




1209: 名無しさんAA:18/11/03 11:42
 朝鮮人に 喝!  016

1948年、死刑判決を受け、米軍管轄の沖縄刑務所に収監されたが大韓民国政府を李承晩
が成立させた事で、計らいにより刑死をまぬがれている。金斗漢が共産党を離脱し、民
族主義陣営に加わり、共産党前衛隊(左翼)と青年同盟別働隊(右翼)の争いが加熱し
、米軍から逮捕状が出て潜伏中に対共産党に金斗漢は襲撃され、頭部に銃弾を受け通報
で駆けつけた米軍により病院に搬送され、緊急手術を受け一命を取り留め、その回復後
、朝鮮共産党や左翼運動家に対する数々の殺傷行為容疑で米軍に逮捕され収監されてい
たのである。死刑執行予定日の数日前に開放され、大韓民国政府樹立以後、当時最大の
労働組合組織である大韓独立促成全国労働総同盟最高委員に就任した。労働者の要求に
耳を傾け諸課題を解決。労組所属する全国の労働者から絶大な人気を得る事になった。
朝鮮戦争中には、大韓学徒義勇軍参謀長に就任。約 1,500名の学徒兵を連れて参戦した
。対北テロ集団の白衣社の幹部に就任し金日成(キム・イルソン)の暗殺未遂を起こす
など反共活動を続けた。1954年、36歳の時に、鐘路遊興街の女性たちの圧倒的な支持を
受け、第3代国会議員選挙に民主国民党の指名を断って無所属で出馬僅差で当選してい
る。水標橋の下や貧民街の路頭で17歳まで過ごした事で、軍政と距離を置き、彼は枠に
とらわれない様々な功績を残し、李承晩(イ・スンマン)大統領から報酬や要職の提供
を打診されたが、独裁色が濃くなった李承晩政権に難を示し受けなかった。大統領特使
や、国連韓国代表を務めていた趙炳玉(チョ・ビョンオク)が大統領李承晩との意見の
衝突で辞職。金斗漢は反李承晩勢力の主要人物となった趙炳玉や柳珍山(ユ・ジンサン
)らと行動を共にした。こうして白衣社は影に隠れた存在になったのだ。、文政権は、
朝鮮人の代表者として、「歴史は見直しして行かなければならない。」と大統領候補の
時叫んでいた。つまり歴史を改竄して構わないという意識である。しかし、歴史を嘘で
固める横着さは、大陸清野作戦そのものの考え方だ。つまり、積み上げる、権利がある
。と言うのは彼らには、勝つ、占領し奴隷として使う。と言う事の意識しかないのであ
る。だからナッツリターンや、セォール号の転覆が起こる。起こすように新聞が煽る。
財団は素晴らしい。人民は素晴らしい。政府は素晴らしい。と、のうのうと嘘をつき、
少しでも落ち度があれば許さない。それを追い立てる。つまり新聞や裁判官の彼らは、
今でも国民を奴婢として讃えているのである。また国民も奴婢として帝や政府からの、
贈り物の食料や金や仕事でいいのである。つまりソ連で言う処の農場の豚でいいと思っ
ている。


1210: 名無しさんAA:18/11/03 11:43
 朝鮮人に 喝!  017

 朝鮮帰化人の山下貴司法相は、あの朝鮮半島と同じに質疑応答を何とも思っていない
。つまるところ 国会も国民も日本と言う国も、なんとも思っていない。韓国では法相
というのは最高職域である。つまりは自分が国王と思っているのだ。民主主義の国では
殺人は権利である。だが日本は法治国家として長年殺人は違法として裁かれて裁判官の
元に引き出されるものとした甘い考えで国家運営をしてきた。つまりは銃器も刀剣も、
市民から奪い、権力者の下で首を垂れる様に戦後は教育したのである。こうした本来の
民主化とかけ離れた世界を、嘲笑するかのように韓国化の流れを、朝鮮からの帰化日本
人の2世3世或いは4世が形作っている。この国会答弁も当たり前に討議しない国旗掲
揚もしないと言う全くふざけた国の形を今の安倍政権はやっている。全く阿保のような
話だ。その為に安倍は国会答弁でも、自分は国の最高立法府の長として物を言っている
。などと間違えている。これで4回目だそうだ。政府と言う最高行政府の長は、立法が
仕事ではない。国を守るのが仕事である。つまり行政の不合理を無くす為に立法権を持
たせたに過ぎず本来議会が立法府なのだ。東京は戦前戦中の震災や空襲で、過去からの
人達は土地や家系が消えた。そこへこの帝都に住み着いた人の7割が古来からいた日本
人では無い。つまり日本はこの時乗っ取られているのである。その中でこざかしく動き
回って嘘の証本を作り回ったのが在日になった者達だった。今回積水ハウスの取引詐欺
問題は、今だにこうした者を警察が暗殺して撲滅していなかった事に問題がある。広域
暴力団を指定したのはいいが、逆にこうした経済舎弟を増やした可能性も強い。積水ハ
ウスがこうした奴らと繋がりを持っていた可能性もある。いままでさんざん社員を使い
、不動産漁りを行って来た成果である。つまり地面師は積水こそが知らぬ間に使って来
たのだ。こうして独裁に似た会社組織の社長案件の場合たいていは騙されている。東芝
の原子力発電しかり、この積水しかり、中国中信投資の伊藤忠商事しかりである。日本
人は馬鹿げたように踊りまくる。奄美群島は九州の南から台湾に連なる「琉球弧」の外
縁をなし、沖縄や対馬とともに日本列島の防衛ラインを形成する。これを中国企業は買
いまくる。壱岐対馬は対馬海峡の見張り番だ。これも朝鮮企業が買いまくる。北海道は
北方領土共に原野林の残る数少ない日本の貴重資源だ。こうした場所の多くは自衛隊の
基地も存在する。つまり自衛隊基地の側を買い漁るのだ。又今中国に重量波発生装置が
出来たとされる。セーザーと言われるレーザーの様な光の無いエネルギー銃だ。中性子
作用でこれらは電子機器を破壊する。一日分の電気をを貯めて衛星から発信させる。と
言われている。

1211: 名無しさんAA:18/11/03 14:48
 朝鮮人に 喝!  018
 馬鹿げた事に文政権は本当に守らなければならない市民を、トランプと同じ様に分断
させて止まない。その一つが中央分離の空白帯政策である。米軍に話もせず勝手に国連
に連絡して決めた。米軍はそれはすさまじい腹を立てて、矢継ぎ早にFTAのメキシコ
カナダとは完全に降りて合意に達して韓国の輸入税を従来の中国と同じに置き、中国の
輸入関税を上げるのを決定した。更に北朝鮮包囲網の通帳や下請けや荷替えを徹底的に
排除する。中国の北への輸出入は、瀬取りや橋越えの会社はここに来て観光さえも規制
されるだろう。この空白地帯は飛行禁止区域区域となり遥かに北朝鮮優位となったし、
更に敵対行為の中止合意で、いままでうるさかった拡声器攻撃も無くなった。そこでは
もう一つの事象が起こった。韓国内の諜報活動が活発になった事だ。つまり今回の司法
の徴用工判断も半数以上が何らかの形で脅迫を受けて判断したのだ。これらの活動に、
全く戸惑ったのは、多くの無辜の正直な脱北者達である。彼らは命からがら氷の流れる
河を渡り、中には家族を置いてその命を顧みずに、雲南の山を越えてタイを経由した、
かつての援蒋ルートを通り、ベトナムやラオスを越えて船旅や飛行機を使って韓国の中
の脱北を援助するNPOによってやって来ている。しかし、そこに今回の統一ムードで
圧力がかかる。中国国境沿いには中国部隊の兵が10倍ほど動員され、脱北手助けは、
ほぼ壊滅状態である。更に中国はそのまま企業を入れ、ミャンマー国境までの天然ガス
のパイプライン構想を公表し、ラカイン州のイスラムを追い出した。彼らも迷った北か
らの者を助けているかもしれないと想像したからだ。というのも実はこの脱北ルートは
実は国内のチベット・モンゴル・ウイグルなど、中国の体制批判者の脱出ルートと同一
だったからだ。そうして今や山越えは不可能でここで捕まったら中国はおろかタイやラ
オス或いはベトナム政府すら北朝鮮や中国に送り返している。それは習近平の首脳会談
で釘を刺し秘密の条約協定に盛り込んだからだ。こうした壊滅的打撃の上に、国内での
寄付金も又今までと一桁違って活動出来ない状態だ。風船やアドバルーンなどで広告や
音楽など数限りなく支援していたが、韓国内の密偵組織は脱北者を弾圧し圧力をかけ続
け、子供の学校では脱北者の氏名公表を違反とせず、自らも居住先や職場あるいは役所
において、公然と公示して北の工作員の疑いとして疑惑を掛けた。又真の工作員も身分
が高くなり大学サークルや民主活動家の顔をもつものに不法な広告告示や非難噂を広め
反北朝鮮融和者を閉じ込めてしまおうと動いている。これが政府からの資金であるのは
間違いない。つまり共産暴力革命や脱北者弾圧を公然としだしたのだ。そこで生活に耐
えられない脱北者は、韓国を出て脱南者となり、カナダ・ドイツ・日本・米国に出よう
としているが、いずれも難民受け入れには堅い国に変わって行こうとしている。

1212: 名無しさんAA:18/11/05 17:36
 朝鮮人に 喝!  019

 韓国の暴力社長がパワハラ映像として波紋を呼んでいる。人を殴り殺すと脅し部下に
鳥を殺させる。こうした日課を記録にとって遊んでいた。まあ朝鮮人気質が、たまたま
偶然にもあぶり出された格好だ。「強い者にはへりくだり、弱い者には徹底的に強くあ
り殺しや虐めも辞さない徹底ぶり」と言う気質だ。これはほんの一部の人の者か。とい
うと韓国通や朝鮮研究者は100%日常茶判事の朝鮮人の性格と断言する。つまり日本
の様な優雅さや美しさは求めない。というのだ。暇あれば襲う事奪う事戦う事を常時考
えるというのである。ナッツリターンもたまたま事件で知れた事で、普通の事だ。とい
う。「ほら、韓流ドラマを見てみなさい。まだまだやさしい現実でしょ。もっとすごい
大きな会社が、沢山ありますよ。もっとすごい権力が韓国でありますよ。法律に従わな
い国務院とか裁判所とか、暴動を仕掛ける新聞社やメディアとか。どんな人もかなわな
いでしょ。今朴槿恵大統領も、その前の李明博大統領も監獄の中ですよ。もっと言えば
前大統領が普通の国の様に 捕まらないで余生を送ったような大統領は一人もいないで
すよ。なんせ「怨・恨」の「妬み」「羨む」世界ですから。と呑気に解説する。確かに
大統領を支える国民が許さないからこうした構造だろうが、かと言ってこれで良いとし
た国際条約すら破り、国家間の協定すら蹴飛ばし、全く勝手な法律判断する国家が日本
の傍にあっていいのか。と言う話だ。日本は馬鹿な事に真面な仕事もないのに労働者不
足の嘘を謳っている。中古品は溢れ、廃棄物の再生まで行い、脱炭素化のめどまで付け
た産業界は、NHKと同じ様に中身の無い映像に特化した8k映像にを研究してる様に
、全く国民社会に寄与しない奴隷化システムを構築しようとしている。そもそも今回の
開放された安田さんのTVジャーナリズムは、全く民主主義が体制批判に於いて成り立
っている。批判が出来るから自由主義がある。と言う大前提を全く解っていない。特に
そのまんま東などは、市長にもなっていながら全く、いい加減な「自己陶酔論」を掲げ
興味本位で行っていて「自己責任論」を展開した。全くこの東原の様な奴を何故TVに
だすのだ。全くおかしい。そもそも国家批判も体制批判も現代批判の無い処にジャーナ
リズムはない。そしてそれは独裁政権であり言葉の無い世界であり文化のない残虐国家
である。戦争がなく平和なのは議論や法が必要としたからだ。近頃とみにジャーナリズ
ムは朝鮮の様に違法性も公共性も問題のないものを問題にする。ジャーナリズムに閉鎖
型の自己責任などある筈はない。問題提起と明日への展望が使命だからだ。東原の様な
低次元の命の尊さではない。


1213: 名無しさんAA:18/11/05 17:41
 朝鮮人に 喝!  019

 韓国の暴力社長がパワハラ映像として波紋を呼んでいる。人を殴り殺すと脅し部下に
鳥を殺させる。こうした日課を記録にとって遊んでいた。まあ朝鮮人気質が、たまたま
偶然にもあぶり出された格好だ。「強い者にはへりくだり、弱い者には徹底的に強くあ
り殺しや虐めも辞さない徹底ぶり」と言う気質だ。これはほんの一部の人の者か。とい
うと韓国通や朝鮮研究者は100%日常茶判事の朝鮮人の性格と断言する。つまり日本
の様な優雅さや美しさは求めない。というのだ。暇あれば襲う事奪う事戦う事を常時考
えるというのである。ナッツリターンもたまたま事件で知れた事で、普通の事だ。とい
う。「ほら、韓流ドラマを見てみなさい。まだまだやさしい現実でしょ。もっとすごい
大きな会社が、沢山ありますよ。もっとすごい権力が韓国でありますよ。法律に従わな
い国務院とか裁判所とか、暴動を仕掛ける新聞社やメディアとか。どんな人もかなわな
いでしょ。今朴槿恵大統領も、その前の李明博大統領も監獄の中ですよ。もっと言えば
前大統領が普通の国の様に 捕まらないで余生を送ったような大統領は一人もいないで
すよ。なんせ「怨・恨」の「妬み」「羨む」世界ですから。」と呑気に解説する。確か
に大統領を支える国民が許さない、こうした構造だろうが、かと言ってこれで良いとし
た国際条約すら破り、国家間の協定すら蹴飛ばし、全く勝手な法律判断する国家が日本
の傍にあっていいのか。と言う話だ。日本は馬鹿な事に真面な仕事もないのに労働者不
足の嘘を謳っている。中古品は溢れ、廃棄物の再生まで行い、脱炭素化のめどまで付け
た産業界は、NHKと同じ様に中身の無い映像に特化した8k映像にを研究してる様に
、全く国民社会に寄与しない奴隷化システムを構築しようとしている。そもそも今回の
開放された安田さんのTVジャーナリズムは、全く民主主義が体制批判に於いて成り立
っている。批判が出来るから自由主義がある。と言う大前提を全く解っていない。特に
そのまんま東などは、市長にもなっていながら全く、いい加減な「自己陶酔論」を掲げ
興味本位で行っていて「自己責任論」を展開した。全くこの東原の様な奴を何故TVに
だすのだ。全くおかしい。そもそも国家批判も体制批判も現代批判の無い処にジャーナ
リズムはない。そしてそれは独裁政権であり言葉の無い世界であり文化のない残虐国家
である。戦争がなく平和なのは議論や法が必要としたからだ。近頃とみにジャーナリズ
ムは朝鮮の様に違法性も公共性も問題のないものを問題にする。ジャーナリズムに閉鎖
型の自己責任などある筈はない。問題提起と明日への展望が使命だからだ。東原の様な
低次元の命の尊さではない。

1214: 名無しさんAA:18/11/05 20:26

まあ今だに 東野や浜田のような侮辱小馬鹿を芸人と採用しているTV局風土じゃあ〜
朝鮮人と同じで 未来はないけどね。

1215: 名無しさんAA:18/11/09 00:35 ID:XMs
 かつて昔 糞まみれの産まれたての雑菌卵としていた野生の卵を、洗って冷蔵庫にい
れて爛熟卵として売っている。として NHKで所ジョージが食べていた。こらあ〜〜
死ぬわと思ったが、死なないようだが 何回か倒れたと言う。大体TV局はおいしい。
と言えばいいのか。の様に贅沢な盛り付けや欲張りな大盛り奇抜な特性食事を見せる。
昔、食べる事に文句言う事はならん。昔我々は本当に泥水をすすり地を張って血の雨を
くぐって帰ってきたんだ。と、おいしい、まずい、などと評が言えたものではなかった
。屈折した精神かも知れないが、いまのTV局は狂っている。こうした食事で味覚の壺
が塞がった辛い物芸人だったり、病気にならない芸人など、芸人なら出来ると思ってい
る。全く放映理由の無い芸に お笑い芸人なら叩いてもいいと言うなら大道芸人として
一年間日本中をドサ廻りして食ってみろ。と言いたい。一発屋芸人をこんなに増やして
大学祭の延長みたいな危険な青臭い大阪芸人や こうした食い物映像で身体壊す芸人に
放送協会は一体食物の雑菌検査などしてるのだろうか。そもそも8K研究よりそういっ
た宣伝のない確立した衛生状態の職場の方が先だろう。



1216: 名無しさんAA:18/11/13 18:38
 朝鮮人に 喝!  020
 波多野被告は、睡眠導入剤を同僚に何回も飲ませ 何回も自動車事故をおこした同僚
を見て知っていた。そして次第に量を増やして やっと人を交通事故で殺すまでに至っ
た。何とも朝鮮人風の地道な悪意に飛んだ「怨」「恨」の念である。こうゆう事件が、
目の前に起こっていても、何食わぬ顔で女子中高生は「韓国カルチャー」のTVドラマ
の韓流カルチャを見て、タッカルビなどのグルメ、「Kビューティ」の名の韓国コスメ
で着飾り、Twice やBTSというK-POPスターたちの、ITを活用するプロモーションにガ
ッチリ掴まれ人気の下支えする。一時期より落着いたものの、ニュースで韓国の「反日
」や「従軍慰安婦」「徴用工裁判」などで注目され、「国交断絶!」「韓国人は来るな
!」という怒りの声が溢れているにも関わらず、スマホやネットでそのような情報に触
れている世代であっても気にしたり臆することがない。一体どういう事なのか。韓国の
人気グループ、バンタンこと防弾少年団(BTS)のメンバーは、原爆のキノコ雲 をデザ
インしたTシャツを着用して、日本人に天罰が当たっただけだ。東北震災はいい気味だ
。などと裏ではほざいている韓国人の一人なのだ。だがステージでは、「日本のファン
を愛してます。」とかしれっ〜と言いながら、Tシャツブランドと共に、「反日的な意
図はない」なんて調子で釈明をしている。原爆の14万人の命を奪った悲しみや、今も
後遺症に苦しむ人たちがいる原爆の写真と、民衆がバンザイをしている写真を組み合わ
せてプリントしていながら、どういう理屈をつけても原爆投下を表現しているのは明白
だ。これが高齢化に悩む原爆被害者なら広報活動だとの意見もあろうが、日本国旗の旭
日旗すらも嫌悪を示す馬鹿国民の言い訳にはならない意見だ。しかしこのファンの馬鹿
さは止まらない「ファッションとして1回着用しただけで大騒ぎしすぎだ。」と嘘の擁
護し、他のメンバーが原爆のブルゾンを着用していた画像を出し、ナチス風のステージ
衣装が問題視されたりと、次々と目立って噂になるべく「不謹慎」を公然と行っている
。これには「ネトウヨ」の怒りは収まらない、さらにヒートアップした。しかし問題な
のは無責任無関心のファンの方だ。原爆や今でも後遺症のある被害者に「あれはあれで
、しょうがないじゃん」「自分には関係ない」という見方をしている。SNS で話題にな
った発言がある。「国よりも K-POPのほうが大事」とファンは明言した問題発言が続く
。「日本の戦国時代にいっぱい人が死んだって言われたって昔すぎてどうでもいいじゃ
ん? 原爆も同じだよ。まだ戦国時代よりは新しいから少しむごく感じるだけ その内
原爆無双とかいってイケメンのゲームになるよ 人間なんてそんなもん そんなことよ
り今のバンタンを楽しむよ。」まさしくコリアンスタンダード、コリアピラミッドの、
「虐めのゲーム感覚」の人間形成、社会構造である。

1217: 名無しさんAA:18/11/13 20:34
 朝鮮人に 喝!  021

 これは戦後におおらかな日本人が、数多くの朝鮮人や中国人を日本人として帰化させ
た事に起因する。大陸からの正式な帰還者と共に密航などで住み着いた人も多くを受け
入れ日本人とした。勿論帰化を嫌がった者もいて、在日となったがそれらの人は一部に
すぎない。何故なら多くの日本人が妻や夫として大陸人と結婚もしていたからだ。勿論
彼らに罪はないし日本文化を壊す意図もない。ところが多くの韓国人が「いくら日本を
恨んでいても原爆のような大量虐殺兵器を正当化するなんて絶対に許せない。」との怒
りの声に同意するが、その一方で、「原爆」や「戦争」というものを終わったことで、
「あれはあれで、しょうがないじゃん」と割り切ったものの見方ができる性格を持ち、
そうした日本人も又増えている上に「どこかのようにいつまでもネチネチと被害者ぶっ
ていてもしょうがない。」とおおらかなのだ。「おいおい。君達子孫の為に意を決して
生死を分けて戦い、辛酸を舐めながら戦後世界を築いたのだ。日本人は未来志向だと言
えば聞こえはいいが、我々先人はそんな正義のない子孫の為に国造りしてきたのではな
い。」と言う声が聞こえそうだ。フランスなどは「平和は只ではない。自由は勝手に実
らない。」と言う。つまり水をやり管理し常に目をかけ育てていかないと枯れてしまう
と言うのである。日本も「悪業も悪行よりは、それを放置するが極悪である。」という
。その為江戸時代は小さな盗みでも死罪は行われ、殺人より軽犯罪が刑は重かった。あ
る村の坂道では、若い男が首切り用の竹ののこぎりで引かなければ番所の門はくぐれな
かった。聞けばその男は毎年の柿泥棒であり、老夫婦の庭先の柿を取った罪だった。何
故か。実は庭先の柿は旅人の柿とされ、誰でも獲っていいはずの柿とされたが盗みは法
度だったのだ。つまり自分の土地のある盗人はそれを許さないと言うややこしいが礼儀
で生きて来た国だったのだ。又祭りではどんな不作でも長者は炊き出しの米は奉納しな
ければならなかった。ある時娘に婿入りし代替わりして奉米を断り家屋が取り崩された
。勿論本人や丁稚には傷一つないものだったが、この押し込み暴動裁判は無罪であった
。これが日本の姿だったのだ。ところが朝鮮では、今や日本の江戸時代さながらに、国
民烏合法と言う法律があるかの様に大法院法廷は世界の常識を覆す判決を行う。今度の
徴用工裁判も同じである。言わば西側の様式を真似た中国式人民裁判であったのだ。こ
の姿を知っているのか知らないのか 至っておおらかな女子高生群は、従軍慰安婦問題
も徴用工問題も、そして原爆でさえも「昔はいろいろあったけど、今ごちゃごちゃ言っ
てもしょうがないじゃん」という位置付けなのだ。全く流浪の民の様な非国民性である


1218: 名無しさんAA:18/11/13 20:34
 朝鮮人に 喝!  022

 しかしこれは優位さにかこつけた自己矛盾である。独島問題では歴史を書き換え、こ
の歴史を書き換える為に50万人を戦後に殺し、その中に反発として南北朝鮮戦争が起
こったと言う事が全く理解していない韓国民なのだから全く無知厚顔もあつかましい。
戦争犯罪人の李承晩が勝手に引いたラインを継承し、更に李承晩が日本に泣きついて亡
命を日本に言えなく米軍に連絡した事もその理由であった事なのに、ひた隠しして日本
の援助を取り付けたのだ。漢江の奇跡は奇跡でも何でもない。かつての日本軍の遺産を
日本人の手で日本資金を入れ日本技術と日本教育を施したまでの事だ。今だ赤紙の徴兵
制を強いていながらも、今だに日本人の習慣や言語や文化を否栄光の旭日旗さえ受け入
れず歴史を曲変させている中では、全く日本人が何を行っても無駄で、国交断絶が一番
望ましい形なのは韓国人自身や日本人自身が一番知って居る筈である。文大統領は昨年
、大統領就任後の光復節(終戦記念日)演説で、「過去の歴史が未来志向的な発展の足
を引っ張るのは好ましくない」と述べ「日本との未来志向」を説いていた。しかし折に
触れ軍国主義の亡霊が現れるかのように、間違った歴史や曲解した過去を言うのが韓国
の定番である。それは、日本と対立していることに“存在意義”を感じている人々の存
在である。過去には韓国の自国自治を抗日レジスタンスとして壊しつづけ、米軍進駐で
は赤狩り先発隊として殺しまくった共産党員達である。文大統領は、こうした系統の継
承する元慰安婦団体と手を組んでいる上その上層部には、中国資金とロシアコミンテル
ン団体資金言わば昔の国際旅団の子孫なのだ。なぜ彼らが生き残ったか。簡単な事だ。
全土制圧にかかった北朝鮮の兵士を、兵站の分断作戦で止めたものの南北戦争時に国政
や全国民の掌握には至らなかったからだ。つまり逆にこの南北戦争は李承晩が北朝鮮の
共産党員を引き込んだ戦争で民主主義が逆転したのである。仮にそういう人々が反対し
ても、大多数の元慰安婦が納得していれば、この日韓合意は十分正当性があるものと言
えるがそこが韓国である。こうした合意や条約があるにも関わらず、そうした歴史的合
意のものを反故にするならず者文化を発展させて今に至っているのである。これはかな
り異常なことだ。なぜかというと、加害者側でさえ、70年も経過をすれば、原爆の非
人道的な側面に気付き、罪悪感に苛(さいな)まれているからだ。なのに被害者として
全く間違いの歴史を全く正視しようとしない。第二次世界大戦の10万以上の朝鮮兵士
の事も南北戦争前後の 韓国旗を降ろして米軍旗を持って殺戮の限りを起こした滑稽な
姿も歴史から抹消している。


1219: 名無しさんAA:18/11/13 22:00 ID:1BM
 朝鮮人に 喝!  023

 67回目の「原爆の日」に、原爆の投下を命じたトールマン元大統領の孫が初めて平和
式典に参列して、14万人という尊い命を一瞬で消し去った史上最悪の「大量殺戮兵器」
を、祖父が使ったことについて、いったいどう考えているのかと読売新聞が尋ねたら、
「私は米国の教育を受け、原爆投下は早期終戦のためと教わった」と答えたことからも
分かるように、かの国では原爆はアメリカンジャスティスの象徴だった。実際、調査会
社ギャラップが戦後50年に実施した調査では59%が、戦後60年の調査では57%が原爆投
下を支持していた。だが、これが変わってきた。近年のネット調査の結果では、18〜29
歳の若年層では45%が「間違っていた」と回答して、「正しかった」と回答した41%を
上回った。なぜ被害者である日本の若者の間では「しょうがない」が増えているのに、
加害者である米国の若者が「間違っていた」と真逆の結果が出てきたのか。いろいろな
理由があるが、そこには民主主義の基幹を成す「議論の場」が大きいと言える。よく言
われるが、米国では、学校教育の中に当たり前のようにディスカッションが取り入れら
れている。原爆投下についても、米国は「核大国」である以上、「核は戦争を終わらせ
るものであるから、やむなし。」というのが前提にある。しかし、本当に、あれがいい
判断なのかどうだったのか。その前提でいいのか。なんていう事を当たり前のように、
活発に議論をするのだ。ところが、日本は小学校から大学まで、当たり障りのない意見
を出し合う「話し合い」しかされていない。又、歴史の教科書に戦争はいまだに、被害
や年号など事実のみが記載され、データとして学ぶだけで「評価」はスルーされている
。あの戦争がなんだったんのか、原爆を落とされたことは、我々が悪いのか、米国が悪
いのかという深い議論はない。その上に、「戦争が悪い」とか「あの悲劇は繰り返さな
いように」という自虐史観に基づいたモヤモヤした結論で片付けられる。70年以上も、
建前的な議論しかしてこなかったのだから、原爆が落とされた日が忘れられるのも、「
あれはしょうがない」という容認派が増えていくのも、ある意味当然と言えば当然の話
なのだ。しかし、韓国・中国はもっと酷い。つまり政府の作った捏造された歴史の補強
に使われるのである。『ワイドナショー』にメンタリストのDAIGO の弟で現役東大生の
松丸亮吾さんが出演して、今の大学生は政治的な話をすると、何か危ないこと、いけな
いことをしているような気がして、そういう話をする人は敬遠される。と言っていたが
、実は韓国で竹島は日本の物だと言おうものなら殺されるか酷い目にあう。セォール号
事故が韓国の裁判所の姿に原因があっても、誰もそれを問わず朴槿恵の罷免に乗ってい
った国民性があり、正義を目指さない。国際社会の醜悪さは、この韓国ここに尽きる。

1220: 名無しさんAA:18/11/15 15:32
 朝鮮人に 喝!  024

 ニュースによれば韓国の文政権はとんでもない悪だくみをしている。今や空の事情は
アメリカの独壇場であった38度線の空域警戒を捨てて 南北交通の砦を壊し始めたの
である。更に反対する財界のサムソンの株価を原価資産異常として、株式上場を止めよ
うとしている。つまり政権援助の資金を出せといわんばかりである。更に対日本政策に
アセアン韓国会議をして金正恩を招待すると合議し、北朝鮮との交易を呼びかけた。全
く国連決議違反も甚だしいが、その発議者をインドネシアのジョコ大統領にしている事
だ。例の正男塗り薬毒殺事件はマレーシアの空港なのである。更にコメコン韓国会議を
発足させる。と発言した。これはおかしい。コメコンは東側共産党が米国のマーシャル
プラン(欧州復興計画)を東欧諸国に蹴らせて作った物で、韓国社会には全く起こって
いない。と言う事は彼は北朝鮮人だった。と言える。となれば潜入諜報工作員だったの
である。そうなると裁判所が韓国左翼団体の会長らを裁判長とし、この38度防衛線を
排除し金正恩の相談役の様な会談をし、西側諸国の国際ルールを無視している姿が理解
出来る。ところがこの北朝鮮の独裁の下にくぐった韓国が統一半島になって東アジアの
平和は保たれるか。全く無理であろう。現にマレーシアの殺人事件や大韓航空爆破事件
など起こしても、全く制裁出来ない韓国ではないか。何か北朝鮮の壁になったか。自分
達で自立の道を目指したか。自分達の社会が自由主義民主主義の社会になったか。全く
ふらふらして米国に寄り付き中国によりつきポイされても 駐留米軍にしがみついて、
虎の威を借りた鼠である。分不相応な虚言と妄想で日本をATMの様に振る舞い 自力
の無いまま国内に継承される政策や人脈を持たないで 騒ぐだけの国ではないか。これ
では朴槿恵が告げ口外交したくはなろう国民性だ。今でも逮捕裁判する理由が一般人の
友人の崔順実(チェ・スンシル)の「国政介入問題」と「国家機密漏洩」が罪だって。
全く大統領判断で国が動いているのに、それを違法としてる論理矛盾のばかげた国民達
である。それだけ劣化したメディアなのだろう。



1221: 名無しさんAA:18/11/15 15:34
朝鮮人に 喝!  024

 ニュースによれば韓国の文政権はとんでもない悪だくみをしている。今や空の事情は
アメリカの独壇場であった38度線の空域警戒を捨てて 南北交通の砦を壊し始めたの
である。更に反対する財界のサムソンの株価を原価資産異常として、株式上場を止めよ
うとしている。つまり政権援助の資金を出せといわんばかりである。更に対日本政策に
アセアン韓国会議をして金正恩を招待すると合議し、北朝鮮との交易を呼びかけた。全
く国連決議違反も甚だしいが、その発議者をインドネシアのジョコ大統領にしている事
だ。例の正男塗り薬毒殺事件はマレーシアの空港なのである。更にコメコン韓国会議を
発足させる。と発言した。これはおかしい。コメコンは東側共産党が米国のマーシャル
プラン(欧州復興計画)を東欧諸国に蹴らせて作った物で、韓国社会には全く起こって
いない。と言う事は彼は北朝鮮人だった。と言える。となれば潜入諜報工作員だったの
である。そうなると裁判所が韓国左翼団体の会長らを裁判長とし、この38度防衛線を
排除し金正恩の相談役の様な会談をし、西側諸国の国際ルールを無視している姿が理解
出来る。ところがこの北朝鮮の独裁の下にくぐった韓国が統一半島になって東アジアの
平和は保たれるか。全く無理であろう。現にマレーシアの殺人事件や大韓航空爆破事件
など起こしても、全く制裁出来ない韓国ではないか。何か北朝鮮の壁になったか。自分
達で自立の道を目指したか。自分達の社会が自由主義民主主義の社会になったか。全く
ふらふらして米国に寄り付き中国によりつきポイされても 駐留米軍にしがみついて、
虎の威を借りた鼠である。分不相応な虚言と妄想で日本をATMの様に振る舞い 自力
の無いまま国内に継承される政策や人脈を持たないで 騒ぐだけの国ではないか。これ
では朴槿恵が告げ口外交したくはなろう国民性だ。今でも逮捕裁判する理由が一般人の
友人の崔順実(チェ・スンシル)の「国政介入問題」と「国家機密漏洩」が罪だって。
全く大統領判断で国が動いているのに、それを違法としてる論理矛盾のばかげた国民達
である。それだけ劣化したメディアなのだろう。だが世界はそれを許してはならない。
特に米国は、こうした違反行為を目をつぶると言う事であれば 世界戦争も辞さない様
覚悟をしなければならないだろう。


1222: 名無しさんAA:18/11/15 18:08
 今年は恐らくロシアでいくらかの凍死者が出るかも知れない。そしてアメリカで焼死
者がでる。と思っていた。というのも、去年も幾らかあった事だ。アメリカの山火事が
止まらない。と言う事は中国やインドのスモッグが止まっていない事であり、それは、
地球上の水蒸気が不均衡のままと言う事になる。そうなるとオーストラリアでさえ洪水
と山火事が起こる。と思っていたら案の定である。スペインやイタリアそしてヨルダン
の遺跡まで大洪水である。こういう事でロシアは3つの大変が起こっている。一つは、
凍土が解けて建物が沈んだり、がけ崩れが起こっているのである。一つは地下の天然ガ
スの爆発である。これは火が出る訳ではない。そのまま地中の圧縮液化しているものが
気化している事だ。その為夏場に蓋部分の土砂が吹き飛び大きな深い穴が顕れている。
そして三つめがそうした穴に溜まった水が気候を変え大雨の洪水を呼び込んでいる事だ
。つまりこれらは大規模な異常で恐らくインフラが異常に破損しロシアは財政が追いつ
かない。つまりソ連時代の崩壊の再来は何としてもプーチンは避けたいのである。まあ
いいか。と思っていたら、案の定ロシアは動き出した。安倍晋三首相とロシアのプーチ
ン大統領は14日、北方領土問題について平和条約締結後の歯舞、色丹2島の引き渡し
を明記した1956年の日ソ共同宣言に基づいた交渉の加速で合意した。ただし、対日
関係に詳しいロシアの専門家は過去のプーチン氏の発言を考慮すれば、ロシアが「簡単
に2島を引き渡すことはない」と指摘している。2016年12月のインタビューでは
、プーチン氏は日ソ共同宣言に基づく2島引き渡しに関して「どのような条件下で引き
渡されるのか、どちらの主権下に置かれるのかは書かれていない。」と主張していた。
まあロシアに人権は無いので放置するのかと思いきや、やはり人気も大事でシベリアの
窮状も救いたいようだ。ロシア科学アカデミーのビクトル・クジミンコフ日本研究セン
ター研究員はこの発言について「引き渡しはプーチン氏にとって主権の引き渡しを意味
していない。」と解説し、米ロ関係が悪化する中、プーチン氏は2島返還の場合に米軍
基地が置かれることを強く懸念しており、交渉は一筋縄ではいかないとみる。クジミン
コフ氏は、プーチン氏が12年に領土問題の「引き分け」解決に言及していると説明。
宣言に基づきすんなりと2島を返還することは、プーチン氏とすれば引き分けではなく
、「そうなると1島引き渡しにとどまるという見方もある。」と分析しているた。それ
ではwinwinにはならない。まあいい提案だがもしプーチンが人気維持を図るなら難しい
しかし、窮状救済ならシベリアまで含めて日本の帰属とロシア権益を分ければいい。つ
まり大きく軍港や町をロシアの専従地で認めそれ以外は日本の持ち物とする事と 更に
米軍駐留はしない事だ。日本は開発者や日本人居留民の安全が欲しいだけで社会構成上
ロシアの独裁や法律がそぐわないし銃砲を持つ住民が怖いだけである。 

1223: 名無しさんAA:18/11/15 21:51
 ヨーデル・ドーデル・プーチン様  02
 プーチン露大統領と中国の習近平(しゅう・きんぺい)国家主席は6月の首脳会談で
、両国の「パートナーシップ関係」を惜しまない。軍事・経済協力を強化していく。と
合意した。さらに同時期にシベリアで行われた軍事演習「ボストーク(東方)2018
」には中国軍を初参加させた。ロシアのショイグ国防相と中国の魏鳳和(ぎ・ほうわ)
国務委員兼国防相が、「両国が定期的に共同軍事演習を行っていく」と合意している。
二千年以降に両国間で善隣友好協力条約が締結され、アムール川(中国名・黒竜江)の
中州の領有権の紛争が解決され、両国の国境が画定され、2015年に、ロシアが主導
する経済圏構想「ユーラシア経済連合」と中国が主導する「一帯一路」を連携させてい
くことも合意して、関係はますます深まっていくかにみえる。だが実態は、今や幾つか
のプロジェクトは止まり越境行為は止まらない。10月の露経済紙「コメルサント」に
よると、ここ最近、中国系銀行がロシア側との取引を中止し、口座開設を認めなかった
り、嫌がらせ事例が相次いでいる。国際的な対露制裁の対象外の企業や個人も例外では
ないといい、「中国側はどの企業が制裁対象なのか精査していない。その結果、全てを
ブロックしている。」と不満を指摘している。「この問題は今年6月の首脳会談以降、
両国間で議論されてきた。にもかかわらず中国側は『是正する』というだけで、実際は
何もしていない」と不満タラタラだ。26日付の露リベラル紙ノーバヤ・ガゼータでで
も「中国はロシアの友人のように振る舞っているが、実際は自分の利益しか眼中にない
」と批判。「中国の経済成長の鈍化が進めば、中国政府は国民の不満をそらし、自らの
正当性を確保するため、攻撃的な外交政策に乗り出す可能性がある。例えばシベリアや
極東地域の“占領”などだ」と警戒感を示している。これは日本にしても同じだ。日本
が困るだろう響くだろう息の根が止まるだろう。と言う事には果敢に行う。そして苦し
くなると猫なで声で「善隣外交・自由世界維持・門戸開放」など臆面も無く叫ぶ。今回
の訪日外交と同じだ。実際、露極東地域には、隣の中国東北部からの中国企業の進出や
労働者の出稼ぎが相次いでいる。極東に住むロシア人の人口は今後、減少していくと予
想されており、同紙の懸念は「いずれ極東地域は中国の支配下に置かれる」というロシ
ア側の根強い危機感があるといえる。露紙「独立新聞」も中国脅威論を取り上げ「ユー
ラシア経済連合と一帯一路との連携に基づく計画は、実際には何一つ実現していない」
と指摘し、「中国によるロシアへの直接投資は、カザフスタンへの投資よりさえも少な
い」と指摘した。ウズベキスタンやカザフスタンなどの中央アジア諸国に、投資や技術
供与、軍事協力などを繰り広げており、表向きの双方の友好姿勢の裏で影響力を確保す
る為の熾烈な競争を繰り広げている。

1224: 名無しさんAA:18/11/16 04:59 ID:Svw
 ヨーデル・ドーデル・プーチン様  03

 いわゆる帝国の裏庭論は、日本にはない。タタールのくびきは、かつての帝政時代に
ロシアのツアーリズムの帝国主義でルーシーを包有した。この事で多くの混乱が生じた
。ヨーロッパ文化とアジア文化の衝突を背負ったまま食料供給不足に陥ったのである。
先の帝国の裏庭論が日本にもあるとしたら、朝鮮半島なのかもしれない。しかし朝鮮論
はさておいてロシアにとっては中央アジアでありウクライナであろう。今アメリカでは
移民キャラバンが押し寄せメキシコ国境沿いにしばらくすれば集結するだろう。欧州で
もチュニジアやモロッコに移民の群れは押し寄せている。経済発展が著しい中央アジア
も又、ロシアは旧ソ連の元構成国として「裏庭」だとみなしている。しかし、一帯一路
も不可欠な要素と位置付けている。ウクライナとロシアが1997年に両国大統領が調印し
、翌々年に批准された「友好協力パートナーシップ条約(以下、平和条約)」は10年ご
とに更新されるが、20年間効力を維持した後、今回ウクライナ外務省はの未延長を通告
した。これで平和条約は、2019年 4月末に失効する。平和条約は「領土保全・国境線の
不可侵」を謳っていたわけだから、ロシアがウクライナ領を侵略している現状では失効
は当然であろう。しかし、ロシア政府は「ロシアはウクライナの領土保全を尊重してい
る。なぜならクリミア併合は合法的であるし、ドンバスにはロシア正規軍はいない。」
つまり、クリミアは住民自ら独立した。という立場を崩していない。国連総会の決議68
/262号」『ウクライナの領土保全に関する決議』にもかかわらず、ロシアはクリミアの
実効支配を強めており、本年5月には本土・半島間のケルチ海峡をつなぐクリミア橋を
開通させている。しかし、開通の数日前、ウクライナがクリミアをめぐってハーグ国際
司法裁判所でロシア政府に勝利を収めたことはあまり知られていない。クリミア架橋の
経済効果は顕著なものがある。クリミア半島の今シーズンの観光客数は前年比3割増を
記録、六百万人を突破して過去の観光客数を更新している。来年に鉄道運航が開始され
れば、ロシア本土からの旅客だけでなく物流も更に強化されることになる。しかし、ア
ゾフ海に面するウクライナの港湾都市、マリウポリやベルジャンスクの多くの工場には
大打撃を与える。橋の完工により、海面からの高さ33m、全長160m以上の船舶は
通過が困難になってしまうからだ。更にロシアが通過制限を課せば、大型輸送船がアゾ
フ海に進入することが不可能となり、ウクライナ製品の輸送コストが上昇する。

1225: 名無しさんAA:18/11/16 05:00
 ヨーデル・ドーデル・プーチン様  04

 アゾフスターリ、イリッチ冶金工場の二大製鉄所を抱えるマリウポリ港からの輸出は
、ウクライナ総輸出額の2割を占め、マリウポリ港の競争力低下はウクライナ経済全体
の死活問題となる。クリミア併合に伴うウクライナの経済的損失は、橋の完成以前から
問題視されていた。又「独立・ロシア連邦編入」などに伴い、半島のウクライナ企業の
多くはロシア法に則って再登記したり、あるいは、資産を売却して撤退したり 250有余
の企業はクリミア当局による資産接収の憂き目に遭った。ナフトガス・ウクライナ国営
チョルノモーレ・ナフトハス(黒海石油ガス公社)のガス田、油田および施設はクリミ
ア共和国政府により「国有化」され、今日、ロシア・ガスプロムが採掘を行っている。
国営ウクルエネルゴもクリミア半島における送電インフラをロシア政府に接収された。
ウクルナフタはクリミア半島に展開していたガソリン・スタンド網を燃料ごと奪われ、
漁業企業も漁業権を失い操業停止を余儀なくされた。セヴァストーポリ市のベルベク空
港施設の管理企業は、クリミア共和国政府に権限を奪われ、管理収入の糧を絶たれた。
国有銀行オシチャド・バンクやプリヴァト・バンクは、半島に有していた債権だけでな
く、支店を含む不動産を接収されてしまった。ウクライナ企業はクリミアで裁判を起こ
したのだが、今までことごとく敗訴し、これを受けて2015年以降ウクライナ政府の支援
を受けてハーグ国際司法裁判所に補償を求める調停を次々に申請している。つまり併合
から今日に至るまで、天然ガスの「盗掘」が続けられ国有企業の接収が続いている。と
いうことになる。地政学的に重要な中央アジアでの権益には、影響力を確保するため、
ロシアは決して手放さない。この地域へ平和とは裏腹に、現実は協調とはほど遠いのが
実情だ。そもそも国際調停は、相方が調停付託に同意する必要があるが、ウクライナ側
はウクライナ・ロシア両国政府が調印・批准した条約を根拠としている。1998年に両国
政府間で調印された「投資保護条約」は係争時の国際調停を明示しているため、一方か
らでも国際調停を申請することが可能となる。だがロシア政府は一貫して「クリミアは
ロシア領であるから係争問題になり得ない。」として一度も参加することなくこの審議
は終了した。先のクリミア住民独立とは矛盾した物言いである。つまりこれらの条約は
クリミアとは条約相手ではないのでウクライナ・クリミア間の話し合いはそのまま拒否
しているのだ。ロシアが代理であって代理でない状態のままだ。2018年に出された調停
は、クリミア併合の 2014年3月21日以降のウクライナ投資家の損失責務を負う。として
ロシア政府に対し1億5900万ドルの補償を命じた。ナフトガス・ウクライナや、諸銀行
が申請した調停も審議中であり、ウクライナ側の補償額は8億ドル規模に達する。

1226: 名無しさんAA:18/11/16 05:00
 日本の戦後を見れば、満州や朝鮮の経済投資した日本の国営企業の資産は今でならば
一千億ドル以上であろう。満鉄経営の線路や駅などだけでも下らないからだ。それを、
戦後とは言え、敗戦と共に捨てた上に戦後賠償を借金してまで中国・朝鮮に行い漢江の
奇跡などの資金を供与した。なんとお大尽で肝太い政府だろうか。更に今でもガス田問
題や慰安婦問題或いは尖閣や竹島を抱えてそれを解消できずにいる。ウクライナ政府の
支援を受けたハーグ国際司法裁判所に補償を求める調停を次々とロシアの補償を命令し
提言するだろう。もちろん、すぐに補償を得られるわけではないが、ロシア政府の在外
資産の差し押さえなど、対抗手段の選択肢は広がることになる。この調停で注目すべき
ことは、もっぱら半島における経済的な損失補償に集中させ、間接的に、クリミア併合
の非合法性を改めて確認していることだ。実は、ウクライナ危機後の両国間の係争の多
くが、ウクライナ側によって国際司法の場に持ち込まれている。非占領地域(クリミア
、ドンバス)などにおける人権抑圧でウクライナ法務省は、ロシアを相手取って欧州人
権裁判所に訴訟を起こしている。前述したケルチ海峡やアゾフ海についても、主権侵害
されているとして、ウクライナ政府は国連海洋条約に基づいて調停を申請している。こ
うした国際的な法廷闘争は、多額の費用を必要とする。コヴィントン&バーリング法律
事務所、ヒューズ・ハバード&リード法律事務所、クイン・エマニュエル・アークハー
ト・サリバン事務所など、名だたる国際法律事務所が、ウクライナ側の代理人に名を連
ね、彼らに委託している。欧州人権裁判所にかかる訴訟だけでも、ウクライナ法務省は
これまで15億フリブナ(約5000万ドル)を国際法律事務所に支払ってきたと報道されて
いる。多額のお金を費やして国際司法で勝利したからといって、クリミア併合の現状が
打開されるわけではない。しかし、ロシア政府の蛮行を強く国際社会にアピールできる
し、何よりも、クリミア半島が法的にウクライナ領であることを再確認し、ウクライナ
のクリミアにおける権利を主張する機会となる。イェーリングに従えば、「権利侵害に
対する抵抗は訴訟費用がいくらかかろうが自身の義務である」ということになろうか。
実は、こうした地球政府的措置を標榜したのは他ならぬソ連の共産党の社会主義思想で
あったはずだ。ここに矛盾がある。そもそも共産党と言うのは労働者革命団体であり、
独裁や封建社会の阻止や大権阻止にデモ行進した理論だった。又民主主義自由主義では
独裁や大統領権限を許す代わりに、報道の自由や組織巨大化を止める法治体系だった。
これらがアメリカの大義放棄で、完全に逆転している。ここに鳩山のような戦争反対者
の矛盾がある。人は悲惨で醜い戦争を止めたいなら、何故声を大にして敵対しても厳正
な正義を求めないのか。韓国の欺瞞や中国の非道を批判しないのか。経済によらず兵器
生産売却の可否をなぜ問わないのか。

1227: 名無しさんAA:18/11/20 19:25
 ヨーデル・ドーデル・プーチン様  06

  2018年11月9日、シリアで40か月拘束され、解放されたジャーナリストの安田純平氏
が開放され、日本に帰ってきて、外国特派員協会にて会見を行なう運びとなった。「本
日は貴重なお時間を割いていただきありがとうございます。今回、私の解放に向けてご
尽力いただいた日本、トルコ、カタールをはじめとする多くの皆さま方、ご心配いただ
いた皆さまにおわびしますと共に、深く感謝申し上げます。本当にありがとうございま
した。」とまずは感謝を述べている。これは感謝して当然ではあろうが、日本政府も邦
人保護は仕事である。中に外務省の人間は「幾ら自己責任で行っても、我々は動かざる
得ないのであって・・・・云々」と如何にも迷惑そうな話をする。これは全くおかしい
。基本的に日本は西側国家で自由主義資本主義を選んだ国だ。いままでもの長い間救出
を出来ず、又北方4島や北朝鮮拉致被害者の解決も出来ていない非力を問うべきである
。自衛隊問題で軍隊だの防衛だの・・云々・・の議論はあるが、基本的に軍隊があろう
がなかろうが独立国家として情報を世界に持った国だと言うシステムは必要だろう。中
でも今やアメリカや豪州も、あるいは中国やロシアや中東の情報も日本ほど少ない国は
世界に類をみない。それだけ海外に出ても仕事をやっている日本企業や個人旅行者など
は多くの苦労がなされている。更に日本は銃刀法などで以外に防衛する力は阻まれる。
言わば日本ほど海外に行く為に努力を必要とする国はなく、その上やって来る観光客に
門戸を開いたアンバランスな国はない。その次にでた言葉が「そして、今も行方不明に
なっている多くのジャーナリストたちの1日も早い無事の解放を祈っています。今回、
私自身の行動によって日本政府を当事者にしてしまったという点について、大変申し訳
ないと思っています。今回、何があったか可能な限り説明することが私の責任であると
思っています。よろしくお願いします。」と言葉を綴っている。その後の質問に「この
報道の仕事、ジャーナリストの仕事が政府や権力にコントロールされるものではない。
ということについて、全面的に賛成いたします。今回、謝罪といいますか、私自身の、
行動に幾つかのミスがあったということは間違いないので、この点について皆さまのご
批判をいただいて、今後に生かしていくためにまずごあいさつといいますか、ご批判を
いただくに当たって『おわび申し上げます』ということを申し上げています。」と言っ
た。これは全く自虐である。例えば事故の多い高速道路で事故がおきる。勿論当然運転
していた者に責任はあるだろう。しかし事故の多い処では事故は起こる。つまり不注意
のみが悪くはない。運行管理する警察行政或いは道路管理者たる土木事務所や道路公団
など多くの問題を含んでいるのが現実だ。自己責任とは言えそれは真の原因ではない。

1228: 名無しさんAA:18/11/20 19:26
 ヨーデル・ドーデル・プーチン様  07

 かつてトンネルに天井板落下事故があった。又新幹線高架橋でも落石事故は絶えない。事件に大きくならないから見えないだけで、人は充分だと、予算や技術の頂点でそこに
建物や土木が行われ社会的インフラがある。しかしそれらは完全ではない。つまりそこ
には外的要因に圧され崩壊したり危険が迫ったり事故が起こったりするのは常識の範囲
である。例え地震に強いM6に倒壊しない。と豪語してもM8やM10の地震では悲劇
が起こるのである。問題はそこにあるのだ。充分やっていても完全ではない。より完全
にするのが社会常識なのだ。この社会常識からいってジャーナリズムが危険をともない
民主主義の基幹を成している大きなものである。と言うのが議論の頂点にあってしかる
べきで、そこが日本人にない。米国でも欧州でも論説があり分析がり推論があって多く
の批判的意見がなされて初めて人は民主主義資本主義或いは自由・平等・博愛が唱える
事ができるのだ。仮にロシアの様に秘密警察で押さえ強迫し、中国のように公然と台湾
香港すら違法で辛辣な人権侵害を許し、韓国の様に全く世界の遵法精神をないがしろに
するような判決では、これらに国家の資格もなく民主主義もないただの独裁国家であっ
て戦争し消滅しても仕方のない国や躾のない国民なのである。よく考えれば解るはずだ
。ロシアも中国も今や資本主義民主主義を取り入れている。しかし中東やアフリカの独
裁国家と同じに監視し管理し脅迫し恐喝し国家としての強奪を狙い軍隊を於いている。
では欧州や米国或いは日本は違うのか。今やAIやビックデーター或いは仮想コインで
人々を共産主義の世界社会主義の国家給付と国家福祉の世界を作ろうと模索している。
馬鹿げてるが現実だ。例えば運転手のいない車を走らせようとしている様に。が列車が
ワンマンや中央管理制御になって減った訳ではない。減った理由は感知器や技術発展で
運航スピード調整などが出来た事であり、それだけ高度な高速時代を迎えただけで事故
の死者数はそうたいして変わらない。飛行機事故も同じで決して無事故になった訳では
なくむしろ大量輸送が出来る技術で一度の事故の悲惨さは過去の死者よりはるかに多い
。だからこそ改良して疲労を少なく機械に頼った自動航法を作ったがそこに又ヒューマ
ンエラーが顕れる。人間社会も同じである。高度に特化して中央管理しようとして独裁
を楽にした。だからこそ批判や反対意見が必要でそうした発議があってこそ民主化が図
られる。そしてそれを保証しているのが法律の究極の役目だ。

1229: 名無しさんAA:18/11/20 19:26
 ヨーデル・ドーデル・プーチン様  08

 良く日本では報道の自由と個人の人権が対立したり、共産主義や社会主義と自由主義
が対立してるかに見える様な意見や概念を論じる研究者や評論家がいる。だがそれは全
く違っている。純粋な独裁も社会主義も共産主義も自由主義もこの世に存在し得ない。
人間の発展ははそこにある。欲望を捨てて、余人の幸せを念じる事の大切さがそこにあ
る。日本には「足るを知る者は富む」と言う言葉がある。図らずもEU離脱においては
、白人たちの強欲主義が顔を出し頭をもたげた。メイ首相は非常に実務に富んだ頭の良
い合意内容を取り付けた。ところがこうした合意に務めない人は権利の主張して止まな
い。全く相手のいない強欲な夢や理想を追いかけているのである。こんな馬鹿な話はな
い。EU自体がこうした欲望の夢の実現に向けて集合体になったのだから、離脱して貧
相になり権利を失うのは当然であろうが、それをイギリスは認めない。我々は独立国だ
。主権の自由があると叫ぶ。これは移民の勝手にどこに住んでもいい筈だ。我々は強盗
や死や貧困から逃れてきたのだ。と叫んでいる彼らのと身勝手と何ら変わらない。この
声は独裁国家の声でしかない。何故なら、国内の矛盾か世界の矛盾か、守るのが国内の
民か国外の民かの違いしかない。つまり共産主義でも民主主義でも色分けするのは間違
いであって、多様化を認めるか認めないかの色分けで決めるべきで、多様化を認めない
とするナチスの様な純血主義やkkkの様な白人主義或いは中国華僑の様な独善主義や
ユダヤのような選民主義こそが国際的に人類が敵視するべきものだ。それが今やメジャ
ーやトラストを敵視すべき理由だ。マイケル=ペン記者は外国特派員協会の質問でこう
聞いた。「もちろん日本政府はいろいろと解放に向けての働きをしていたという事はあ
ったと思うんですが、それについては謝罪をするのではなく、やはり帰国したことで、
歓迎されるべきではないでしょうか。それについてのコメントをお願いいたします。」
と更に「世界で活躍するジャーナリストとしては、本当に謝罪をする必要があると考え
られているでしょうか? 日本は民主国家でありますので、その民主国家の、そして民
主主義の社会においての社会は、コントロールされる情報ではなくて、現場の直の情報
を伝えることがジャーナリストの仕事だと思います。がいかがですか。」とまた「自己
責任という人は、では政府だけのバイアスのかかった情報に頼るべきだと考えるのでし
ょうか。大本営発表に頼った報道では民主主義の姿はありません。それを痛いほど分か
っているべきなのは、(大本営の誤情報によって日米戦争を起こした過去を持つ)日本
人こそ(が必要)ではないでしょうか。


1230: 名無しさんAA:18/11/20 19:27
 ヨーデル・ドーデル・プーチン様  09
 APEC(アジア太平洋経済協力会議)は、初めて首脳宣言の採択を見送って閉幕したが、
首脳宣言の文言をめぐって、議長国・パプアニューギニア外務省に中国代表団のメンバ
ーは、首脳宣言交渉が続いていた17日、外務貿易相との面会を求め、これを断られると
、強引に執務室へ入ろうとした為に、警察官が配置された。議長国が取りまとめる首脳
宣言に、中国側の意向を反映させようとしたとみられ、パプア政府当局者は、「不適切
」だと不快感を示しているが、中国の代表団は翌日の会見で、この出来事を強く否定し
ていた。中国外務省・王小竜国際経済局長は、「悪意を持った人がデマを流していると
思う」と述べた。米中の対立だけでなく、中国の強引な外交運営が表面化したことにな
る。こうした行為のあった事の発表や公表が何故悪意なのか。なぜ会議の中身で話合わ
ず、いつもの人権無視の、高圧的突飛な強迫や強奪やカツアゲや資金援助の餌などで、
言わばインサイダー取引で事を済まそうとするのか。実はそうして来た歴史から、そう
した文化しか学習していないからだ。古来からの王朝時代を作り、言わば膝を合わせた
話し合いなどとした事のない国民文化で、どちらかが高位でありどちらかが危険な相手
でしか不満を言わなかった。そういう国だったのだ。集団講堂と言えば暴動であり続け
話し合いと言えば上意下達の通達でしかない。それが彼ら達の会議という、言わば西側
とはもっとも離れた場所の会議システムだ。それがいまプーチンがTVシステムで見せ
る。年一回の直訴状の苦情処理する国営放送のTV局は、「直ぐ調べさせ、直させる。
」とプーチンが言えば、直ぐに工事や改良がなされる。言わば現代の水戸黄門である。
中央アジアの文化とは我々の知る列島文化の譲り合いなどをしていたらたちまちの内に
それは命と共に葬り去られる特異な地帯である。その上に強者や権力者に逆らうものな
ら、直ぐに天に唾はいた様な塗炭の苦しみが訪れるのである。この独裁主義に真似よう
としているのが中国の形態だ。今や習近平は軍も政治部も党員会議も全ての頂点に達し
た。プーチンがKGBなどの軍部や諜報会議と議員の議会と周辺国の会議との頂点にい
る事と同じだ。問題は法務部である。つまりここの裁判官も又掌握された。この度中国
のICPO(国際刑事警察機構)の総裁が9月下旬から行方不明になってい。11月にな
って(ICPO)の孟宏偉総裁は、中国当局に身柄を拘束されていた事が判明するが、その
中国の声明はたった1行である。「孟宏偉を違法行為の疑いで目下、国家監察委員会が
監察・調査している。」なんと中国共産党の汚職摘発機関である中央規律検査委員会が
国際機関よりも位が高いのである。異常な事件と言わざるを得ない「異質な中国」では
法治の常識が通用しない。そんな現実を、習近平(シー・ジンピン)政権は自ら世界に
発信してしまった。

1231: 名無しさんAA:18/11/20 19:30
 ヨーデル・ドーデル・プーチン様  10

 今後アメリカは事件が後を絶たない。当然である。このまま教育を放って置けば人は
銃を持って襲い、自殺する。まるでイスラムの自爆テロである。この自爆テロの形態は
古くからある。魔女狩りや魔女裁判はその恐怖の裏返しである。そこに死への達観があ
るかないかである。言うなれば人には生への賛歌が必要なのだ。しかし今やどうも世界
は、この共産世界に傾いている。よく坊主とかTVコメンティターが事件を嘲笑し罵倒
する。人々の個性や能力の違いはどうしようもないし、それら貧民の全てが救われた様
な世界が存在するなどとは思わない。しかし、少なくとも江戸期や明治期以上の幸せな
世界はあってしかるべきではないだろうか。ジュネーブからの報道は、19日中国の張
向晨・世界貿易機関(WTO)大使は、同国がWTO改革案を提出する計画を示した。
一方、他の加盟国は改革を中国に制約をかけるチャンスと見るべきではないと警告した
。張氏はパリで16日に開かれたWTO改革を巡る会合に合わせ発言し、その内容をロ
イターが入手している。WTOを巡っては、米国が中国による規定違反を見過ごしてい
るなどとして改革を要求。米国は欧州や日本の支持を受け、WTOが政府系企業への、
国家の補助金、鉄鋼や他の基幹産業の過剰生産能力問題、投資企業に高価値技術の提供
を強制する慣行を取り締まるよう求めている。張氏は、欧州連合(EU)が提案してい
る紛争解決機関の上級委員会の改革を共同提案することを決めたと指摘した。中国への
不満などに注意深く耳を傾けたとし、「それらを慎重に検討する意向で、一部は国内機
関の改革で考慮に入れる可能性もある。」と述べた。また過剰生産能力などの根本原因
について協議する考えがあるとしたが、早急に結論を出す前に正確に判断する必要があ
るとも述べた。つまりのらりくらりとして正論のいいとこ取りで従来通りの論調である
。ま、もっとも今や経済的に国家再生に盗賊のような国法で成功しこれを改めたくは無
いのは当然だ。乞食の様な国が日本の中曽根などが空き缶に金を恵んだばかりに寄って
たかって他の乞食に囲まれ身包み剥され日本企業は簀巻きにされて国外に放り出された
形だ。着物である工場財布である投資資金荒取りされてお客も技術も盗られても尚安倍
氏政権はにこにこと一帯一路を支持するような誤解ある接近をした。馬鹿も休み休みで
いいのに。隣国ロシアはその泥棒行為は、たまんない魅力的行動に見える。そして韓国
も同じなのだ。笑い話の様に日本は世界のATMに成り下がった。


1232: 名無しさんAA:18/11/21 14:12
 ヨーデル・ドーデル・プーチン様  11

 ジャーナリストの安田純平氏が開放され、日本に帰ってきては「自己責任」だとか、
「日本政府に謝罪せよ」といった言説が多数流された。しかし我々はその自己責任の中
に、そうした世界の中に立っているのだろうか。アメリカが真摯に日本の孤児を救った
か。欧州が自らにナチスの出現を止めたか。ナチスの惨殺に入って居なかったか。日本
が東南アジアの遺骨を全部拾ってその民衆の苦難を救ったか。もっと大枠で言えば人類
はイエメンもロヒンギャも助けたか。誰も助けて居ない。米国は殺りく兵器は売り渡し
ても、共助の救助や援助は軍隊は何一つしていない。だからこそ現実を掴む資料が必要
なのである。だからこそ安田さんの様な真実を求める冒険家が必要なのだ。「極めて残
念で哀しいことです。戦地や紛争地に赴き、中立な立場から報道する戦場ジャーナリス
トは民主主義社会にとって不可欠な存在です。たとえば、ベトナム戦争を終結させたの
も、戦場ジャーナリストたちが、無垢な人々が凄惨な目に遭っていることを世界に発信
し、反戦の世論が起きたからです。」と語っている。――フランスでも過去に、日刊紙
『リベラシオン』のフローランス=オブナ記者がイラクのバクダッドで拘束され、人質
にされたことがありましたね。―――「2005年1月5日に彼女はイラク人通訳のフセイン
さんと武装勢力に拘束されました。その間、与党・野党を問わず彼女たちの解放を求め
る集会がフランス全土で行われましたし、解放を求めるために国全体が連帯しました。
パリではすべての駅構内や町中に、2人の顔写真が載った解放を求めるポスターがボラ
ンティアで貼られました。『自己責任』だと言ったのは、たった一人で、主張したのは
極右政党『国民戦線』のジャンマリー=ルペン党首だけでした。日本の自己責任バッシ
ングは、まるで日本全体が極右化しているように思えます。2005年にオブナ記者が解放
されたとき、ジャック=シラク大統領はバカンスを切り上げても空港に駆け付け迎えに
行きました。日本政府の対応との落差を感じてしまいます。」「会見で、オブナ記者は
拘束状態について話しました。ほとんど暗闇の中で、全身を縛られ、放置された。その
状態で 157日間も、精神を病まずによくいられたと思います。安田さんも同様です。た
いへん恐縮しながら申し上げますが、オブナ記者の解放を、国を挙げて喜んだフランス
のほうが先進国標準です。安田さんや家族が謝る姿からは、日本の異常性を示している
と言える。欧米の特派員ならば皆がそう思っていますよ。」と国際ジャーナリスト達は
話す。つまり日本は異常である。と


1233: 名無しさんAA:18/11/21 14:13
 ヨーデル・ドーデル・プーチン様  11

 この戦場ジャーナリストの活動も、例えばロシアでプーチンの暗部を取材してる事も
或いはアメリカでトランプの行動を取材する事も、日本で安倍首相の言動を取材してい
る事も、中国で共産党の悪業を取材してる事も、およそ同じに命を賭けてジャーナリス
トとしての使命を果たしている事なのである。その思想は、そこいらの掛け声だけでバ
ラエティ番組に食事して金を貰う様な贋戦場カメラマンとはおよそ違って、自由主義や
資本主義は公平で真実のジャーナル保護で出来上がったシステムである事を充分理解し
ているのである。対して日本人の多くは全く理解が足りない。特に新聞社が行った中国
取材の合意は犯罪に等しい行為で、中国政府を批判しないなど言う恐喝合意は戦うべき
ものだったはずだ。今ではTVでいけしゃしゃとコメンティターや解説者気取りでTV
で論説しているが、こうした基本がないのは致命的欠陥である。首相の官邸前のインタ
ビューも馬鹿TV局が余りにも大人げない同じ質問を毎日毎日浴びせ、常識はずれの新
人インタビュアーを雇用していた 情けなさが今やストップにした。あまりにも失礼な
登用であったし、あまりにも国民を馬鹿にしてる国民代表質問だったからだ。NHKを
はじめそんなことをしながら今だに視聴率や視聴料請求に迷走している様は見るに堪え
ない。およそバラエティやお笑いなどと言うのは、この自由主義の副産物にすぎなない
。アニメにしても人々の得心を得る手段の一つで、それは生活実態の生産活動の様態の
束の間のくつろぎのはずが、今や少女漫画や戦闘アニメの苦痛以外何もないデタラメの
人気アニメと変化している。今や例えば社会主義労働者党を率いたヒットラーと共産党
を率いる習近平と新全体主義を掲げるプーチンそして国家主義を唱えたトランプあるい
は普通の戦争できる国を標榜して止まない安倍と、一体どこに違いがあろうか。彼らは
いずれも平和には程遠い存在で、イタリアの難民や移民拒否英国のEU離脱もスペイン
の愛国主義も殆ど同じに、既に国家は滅びたかに見える。国家の尊厳は命の尊厳と同じ
に自主権や自治権もさることながら、他国に関係せず干渉せずに自立できる自活できる
国や地域である。イギリスの漁民の様に自分の所の貝が獲り過ぎて自滅したから境界ま
で攻めて獲りにいく、或いはEU内の決定権に影響力が少ないから離脱する。こうした
考え方は中国やロシアの暴力的我が儘と同じで、気に入らないから排除し、秘密の暗部
を知っているから殺し、たてつくから拉致する。これでは国家ではない。それが今トラ
ンプの放言して止まない秩序だとしたら人類は死滅し国際社会は崩壊する。自己責任論
はそうした言い訳の延長上にあり、一見当然に見えるが単なる余分な負担減らしの言い
訳に過ぎない。負担があってこそ成り立つ社会への拒否行動なのである。

1234: 名無しさんAA:18/11/22 09:01 ID:njI
 朝鮮人に 喝!  025

 BTSは前日に行われた1日目の公演で5万人の観客を集めたのに続き、今日も会場
の東京ドーム周辺には午前からファンが集まった。公演開始は午後6時、入場は午後4
時であるにもかかわらず、ファンらは早くから会場周辺に集まり、BTSのグッズを買
うために長い列を作った。初日と同様に、会場周辺に設置されたBTSメンバーの写真
の前には記念撮影のために並ぶファンの姿がみられた。メンバーの名前を 服に付けた
馬鹿ファンも多かった。親子で会場を訪れた人やベビーカーを押して来場した女性も目
についた。BTSの曲を口ずさむ人も多かった。会場周辺は日本の祭りのような雰囲気
でBTSのメンバー、JIMIN(ジミン)が過去に原爆投下によるきのこ雲がプリン
トされたTシャツを着用した問題については、初日公演が大盛況だったこともあってか
話題にする人はいない様子だった。女子高生ファンたちは、「昨日の公演でジミンが心
が痛むと話した。Tシャツについて気にするファンはいない。。」と強調した。Tシャ
ツの問題でBTSは日本の右翼団体などによる攻撃に苦しめられたが、ファンらはむし
ろ団結した様子だった。前日に続き、この日も公演会場周辺では懸念されていた大規模
な嫌韓デモは目撃されず、今後も東京ドーム公演に続き、来年2月迄京セラドーム大阪
、ナゴヤドーム、福岡ヤフオク!ドームで総観客数38万人規模のドームツアーを行う
という。馬鹿日本人の象徴である。韓日関係の悪化に伴って韓流ブームが下火になり、
12年からの5年間は紅白の出場者リストから韓国歌手の名前が消えたが、昨年6年ぶ
りにTWICEが初出場を果たした。同番組には東方神起(2008〜09年)、Bo
A(02〜07年)、キム・ヨンジャ(01年)など9年連続で韓国歌手が出場し、K
―POPの人気がピークだった2011年には東方神起、少女時代、KARAの3組が
出場している。まず断っておくが、私は知り合いもいるし縁故もいるが、本当に嫌韓で
ある。二極分離で左右にはまるその考え方が反吐がでるくらい嫌いである。子供の様に
後先考えず、右行って左に行っていい訳し強硬論を振りかざす。全く異質で大嫌いだ。
BTSもデビューは2013年で。その後、ソーシャルメディアを駆使し16年に、突然全米
フォーブス誌の「ここ30日で最もリツイートされたアーティスト」という世界的なラン
キングで、なぜか、米大物歌手のカニエ・ウェストやジャスティン・ビーバーなどを押
しのけて、BTSがトップになるという現象が起きている。まるで人気ゲームの世界だ
が、裏にはファンが、ネットを使ってどんどん投票を行ったのだろう。愚挙行為が好き
な国民の証だ。


1235: 名無しさんAA:18/11/22 09:01
 朝鮮人に 喝!  026

 この報道の現状を観れば、アジアのジャーナリズムと欧米には大きな開きがある。と
いうのも、例えば、米国の幾つかの報道機関があるがCBSやCNNのニュース記者が
首相官邸反感を買って報道査証を大統領によって剥奪されそうになったが、その中で、
現大統領に最も寄り添って官邸報道をしていたFOXニュースも英国のBBCでも、そ
の行為には断然と反対している。又欧州での英国のEU離脱のジブラルタル問題の報道
は、その詳細の差はあろうが、スペイン放送もフランス放送もドイツでもイタリアでも
全く同じ認識で報道量は違っても同じに報道して人々に情報は与えている。ところが、
韓国の今の慰安婦問題での、慰安婦問題を巡る2015年の韓日合意に基づき設立された慰
安婦被害者支援のための「和解・癒やし財団」の解散を発表したニュースでは、韓国政
府が同財団の解散を公式に発表した。と言うだけで、文政権の言葉の不一致をまったく
報道していない。国内向けには、文在寅(ムン・ジェイン)政権発足後で性急であって
、韓国政府は慰安婦合意の検証をよくやって居なかった為だ。と発表し、日本の領事館
に送った外相の表明は、旧日本軍の慰安婦問題を巡る2015年末の韓日合意を破棄や
変更するつもりはない。と答えている。そして韓国官邸は、韓国に設立された「和解・
癒やし財団」の存廃について、韓国政府が日本との本格的な協議に着手しソウルの日本
大使館前で開かれた慰安婦問題の解決を求める定例の「水曜集会」で「和解・癒やし財
団」の解散を約束している。又外交部は24日、同部の趙顕(チョ・ヒョン)第1次官
が同日から2日間の日程で日本を訪問し、秋葉剛男外務事務次官と会談する予定だと発
表し同部によると、会談は25日に開かれ、両国の懸案や朝鮮半島情勢など相互の関心
事について意見交換が行われが、女性家族部の陳善美(チン・ソンミ)長官は「(政府
の)立場はある程度整理したが、時期や方法を議論している」とした上で、「11月初
旬にはまとめ、国民に何か公表できると思う」と説明し「最終調整に入ったと聞いた」
と明らかにしている。こんな嘘の政権が国際社会でまかり通るだろうか。それ以前に、
こんな嘘つき国民性で経済が維持できると思っているのだろうか。商売も外交も信用で
ある。根拠なくた慰安婦問題の解決に、「和解・癒やし財団」の韓国人事務所に任せて
欲しいと発したのは他ならぬ韓国政府である。これでは全く経済は立ちいかないだろう
。現にサムスン電子に次ぐ第2位の企業「現代自動車」が危機に直面している。当然だ。
又韓国労働争議は、労組の賃上げ要求が高く我慢して国を守る気配は全くない。


1236: 名無しさんAA:18/11/22 19:07
 ヨーデル・ドーデル・プーチン様  12

 ここで大事なことは、フランスも又同じ労働争議が起こっている事だ、そして今まで
この日産事件のゴーン逮捕を見る様に、韓国経済もフランス経済も日本社会が背負って
いた事だ。いやこの2国に限らず世界経済は日本が下支えしている現実がここにある。
この現実にはロシアのプーチンが知らない筈はない。いやロシア全土で注目している筈
だ。だとしたプーチンは馬鹿だろう。今やロシアは軍備や領土以上に経済こそが大きな
国力である事を解っていながらシベリアも北方4島も手放さない。そもそもが神話の時
代からオイミャコンなどー40℃の世界に生きている人達が居る事が現代のミステリー
である。まあ季節によってではあろうが、この北の冬将軍の強さは日本など比較になら
ない。こうした所での現代生活の文化が入れば誰も住み続ける事は無くなるだろう。こ
こに生活の為のインフラ整備の難しさがある。そうしたインフラがおぼつかない中では
他国の企業誘致でこれまでの国営企業を切り捨てるしかない。ロシア日産自動車製造会
社は日本の企業では結構遅い時期に進出している。それでもなかなか日本企業がはいり
づらいなかで堅調な拡大を続け2016年には、日産のサンクトペテルブルク工場はロシア
国内一位の生産となり、稼働10周年と累計生産25万台を祝うほどになった。2016年には
3万6458台以上を生産し、前年比は8%の伸び。2015年11月に『キャシュカイ』,2016年6
月に新型『ムラーノ』を投入した効果が表れた状態だった。ここに日産自動車は11月に
、サンクトペテルブルクに技術支援・開発拠点「テクニカルセンター」の新オフィスを
開設している。日産自動車ロシアがプレスリリースで発表した内容では、同センターで
日産テクニカルセンターヨーロッパ(NTCE)のロシア拠点として、当初は2005年に市場
調査を目的に、モスクワのディストリビューター店に開設されていたが。2011年にサン
クトペテルブルクの同社組立工場「日産ロシア製造(NMGR)」内に移転し今回、工場と
同じ地区の市内中心部寄りの場所に4千平方メートルの建屋を建設し、独立したとして
いる。日産ヨーロッパのポール・ウィルコックス会長は、「ロシアは常に、日産の重要
な戦略市場であり続けている。目標は、現地生産の開発、部品のローカリゼーションレ
ベルの向上、輸出プロジェクトの拡大」と述べている。 日産自動車は7月11日、ロシア
のサンクトペテルブルク工場の生産能力を拡大すると発表したばかりでゴーン氏の逮捕
である。


1237: 名無しさんAA:18/11/22 19:08
 ヨーデル・ドーデル・プーチン様  13

 欧州ビジネス評議会(AEB)の発表では、2018年上半期(1〜6月)のロシア新車の 販売結
果では、総販売台数は、84万9221台。前年同期比は18.2%増と、2桁増を達成している
。 ブランドトップは、ロシア自動車大手、アフトワズの乗用車ブランド「ラーダ」が
16万9884台を。2位は、韓国のヒュンダイ傘下のキアでコンパクトカーの『リオ』が5万
1558台 3位は韓国のヒュンダイ。小型セダンの『アクセント』が3万3857台。新型 SUV
の『クレタ』は、3万3224台を販売。4位はルノー。7万0844台『ダスター』2万1290台。
『キャプチャー』1万5589台。5位はフォルクスワーゲン。4万8158台で,主力の『ポロ』
が2万6966台。『ティグアン』は29.3%増の1万5579台。6位にトヨタで4万7094台を販売
。『RAV4』が1万3423台を販売。『カムリ』は1万3884台。7位は日産。3万7037台『エク
ストレイル』が1万0621台。『キャシュカイ』1万0275台。2017年のロシア新車販売は、
159万5737台。前年比は11.9%増と、実に5年ぶりに前年実績を上回っている。つまり
ロシアはクリミアの強襲で欧州で干されたが、今や復活を遂げたのである。この新車の
売り上げから見れば2割はロシアの自国の自動車メーカーが売り上げているが残りは、
一割ずつ目白押しで海外の自国生産が売れている。しかし、これは組み立てによる物で
現実は三菱日産トヨタはエンジン部門を担っている。何故ならルノー日産三菱アライア
ンス傘下のアフトワズとなっていて、ロシアで開催中のモスクワモーターショー2018に
おいて、ラーダ『4×4ビジョン』(Lada 4×4 Vision)を初公開し、アフトワズが擁す
るロシアの最量販乗用車ブランドがラーダ車種でラインナップのコンセプトカーとして
。ロシア人気SUVモデルを発表しているからだ。このロシアの自動車製造最大手アフ
トワズの筆頭株主が、フランスのルノーだった。ルノーとロシアの国家持ち株会社ロス
テフの合弁企業「アライアンス・ロステック・オート」は、モスクワ証券取引所で流通
しているアフトワズの全株式を取得し、上場を廃止する予定を発表したばかりである。
9月28日付アフトワズの発表によると、7月から実施していたロシア法の義務的公開買い
付けの結果、アライアンス・ロステック・オートは持ち株比率を83.5%から96.6%に拡
大し事実上ロシアとフランスの国家企業となった。アフトワズのスクボルツォフ会長は
上場廃止の目的を、「資本の再編成で負債を清算し、簡潔で素早い企業判断によって経
営効率を高める」ためと説明している。此の事で資金調達は困難になるが、投資家によ
る批判も無くなる事になる。


1238: 名無しさんAA:18/11/22 19:08
 ヨーデル・ドーデル・プーチン様  14

 この日産ロシアの「テクニカルセンター」の独立と新オフィスを開設に、日産自動車
ロシアがプレスリリースで発表した「日産テクニカルセンターヨーロッパ(NTCE)」の
ロシア拠点の位置づけは「アライアンス・ロステック・オート」の政府の個人事業とに
密接な関わり合いがあるものと思われる。当初は2005年に市場調査を目的に、モスクワ
のディストリビューター店に開設され、2011年にサンクトペテルブルクの同社組立工場
「日産ロシア製造(NMGR)」内で長らく活動していた。今回工場と同じ地区の市内中心
部寄りの場所とは言え建屋を建設し独立したのだ。「日産ロシア製造(NMGR)」の製造
規模拡大に応じたとはいえ、テクニカルセンターの役割は同じはずだが今や衛星を通じ
た電子機器化して無人運転までAIがこなす時代に入ったのだ。当然業務は拡大し国家
機密化してきている。現在のロシアでの、自然・走行環境や消費者の嗜好(しこう)に
合わせた特性適合・性能設計や、NMGRの製造ライン支援、現地調達率向上に向けた地場
部品製造企業の開拓・認定・技術支援を行うなど、活動の幅を広げている。というのは
ゴーン氏が頭を痛める処ではなかったかと思う。ロシア日産自動車製造会社(Nissan M
otor Russia Ltd, Ниссан России)は、2003年に設立された日産自動車の
ロシアにおける自動車生産および販売を行っている企業で、サンクトペテルブルクに2
億ドル(約192億円)を 投じて竣工した工場で、日本メーカーではトヨタ自動車に次い
で進出した。この後、日産ルノー連合は、2010年4月、ダイムラーと株式を3.1%ずつ持
ち合い、エンジンを共同開発するなどの戦略的提携を行っている。この中でダイムラー
は日産の高級ブランド「インフィニティ」向けにガソリンエンジンとディーゼルエンジ
ンを供給することで合意。この中で「エンジン領域の協業は、それぞれブランド・商品
のアイデンティティーを尊重すると同時に、コスト競争力を目的に進める」と表明して
スカイラインにこのダイムラーのメルセデス・ベンツEクラスと同じ2リッター直列4
気筒のガソリンターボエンジンを載せて、まさにその具現化の国内第1号を出した。現
行スカイラインは海外では「インフィニティQ50 」として販売し、日本国内でもフロン
トグリルにインフィニティのオーナメントを冠するなど、実質的にインフィニティブラ
ンドとなっている。日産は今後、米国でメルセデス・ベンツのエンジンを共同生産し、
両社の高級車に搭載する計画を進めてきた。


1239: 名無しさんAA:18/11/22 19:09
 ヨーデル・ドーデル・プーチン様  15

 日産が今回と同じ高効率エンジンを自社開発するとなると、 「100億円ほどの費用が
かかる」(自動車メーカー関係者)という中で。その開発コストを抑え、メルセデス・
ベンツのクウォリティーをインフィニティに取り込むことで、日産は世界で自らのブラ
ンド力を高める戦略だ。スカイラインは、その第一歩となった。当時現行スカイライン
は 日産製のエンジン(VQ35HR型)を積んだハイブリッドモデルで、実は「GT―t」は、
メルセデス・ベンツEクラスと同じ2リッター直列4気筒のガソリンターボエンジンと
なり全く古びたエンジンの、欧州で流行のダウンサイジングがセールスポイントのエン
ジンだった。確かにコストパホーマンスには優れていたが、当時から行っていたEエン
ジン、則ち電気自動車に先駆けて電気を補給するハイブリッドターンとはかけ離れた物
であった。日本の自動車メーカーにとって、心臓部のエンジンは自社開発というのが、
これまでは不文律の掟だった。最近ではトヨタ自動車が富士重工業(スバル)の水平対
向エンジンを共同開発のスポーツカーに搭載するなど、エンジンの共有が少なからずあ
るが、OEM(相手先ブランドによる受託生産)などを除けば、日本の国産乗用車に外
国メーカーのエンジンを搭載する例などなかった。他メーカーのエンジンを積むことは
、「メーカー自らのアイデンティティーを否定することになり、クルマを白物家電化す
ることにつながりかねない。」(メーカー関係者)と言う強い反発があった。日産のサ
ラブレッドであるスカイラインともなれば、日産以外のエンジンにユーザーの抵抗があ
ってもおかしくはない。しかしそこを敢えて隠して積み込んだ。事実日産が発表した中
の2014年6月5日 発売のスカイラインの中で、追加モデル「200GT-t」には積んであって
も何も宣伝していない。2014年2月発売のところが、「GT―t」のカタログはもちろん、
日産のニュースリリースを眺めても、エンジンがダイムラー製だという表記は全く見つ
からない。日産の公式発表には「高出力・低燃費・軽量な次世代ターボチャージャー付
ガソリンエンジンを搭載」とあるだけだ。唯一、メルセデス・ベンツのエンジンとわか
るのは、カタログの「エンジン主要諸元」欄のエンジン形式に「274930」と、見慣れな
い型番があることだ。この数字がメルセデス・ベンツのエンジン形式であり 274型は現
行のEクラスに搭載する2リッター直列4気筒ターボエンジンを指す。「GT―t」の出力、
トルクはメルセデス・ベンツE250と同じだった。もっとも、高級車メルセデス・ベンツ
のエンジンとなると話は別だろうという消費者意向を見て、定評あるスカイラインのシ
ャシー(足回り)で、メルセデス・ベンツの最新エンジンを味わうことができる。との
ユーザー説明をさせている。

1240: 名無しさんAA:18/11/22 19:34
 ヨーデル・ドーデル・プーチン様  16

 なるほど、ゴーン氏には敵も多く、又ワンマンで日産にも反発はあっただろう。しか
し、今やメルセデス・ベンツは苦境の中にある。と言うのもディーゼルの排気ガス違法
プログラム問題で大きな反則金が課されたからだ。ドイツがディーゼルエンジンの排ガ
ス不正で揺れている。一方、欧州ばかりか日本でもディーゼルエンジンの開発・生産を
中止する自動車メーカーが続出している。積極的にディーゼルエンジンを開発するのは
、トラック・バスメーカーと乗用車メーカーではマツダだけである。ディーゼルエンジ
ンの排ガスをめぐる不正の後は通行規制まで引いた。詐欺や虚偽記載の疑いがかけられ
ているのは、ダイムラーに欧州で77.4万台のリコールを命じ、5000億円ほどの罰金を免
れている。昨年には自動車メーカーによるカルテル疑惑が浮上し、EU(欧州連合)が
調査に乗り出した。さらに今年2月に連邦行政裁判所が「窒素酸化物の排出量を減らす
ための最後の手段として、地方自治体がディーゼル車の大都市への乗り入れを禁止する
のは適法」という判決を下したからだ。3年もたったが「メイド・イン・ジャーマニー
」の名声を脅かす問題に発展し、名門メーカーの「大企業病」は、予想以上に深刻だ。
米国では約72万台(2リッター・エンジン車と3リッター・エンジン車の合計)にすぎな
かったが、それでも、米国司法は消費者と監督官庁を欺いていたVWに厳しい制裁措置を
下した。司法省がVWに科した制裁金や、同社が民事訴訟の原告団に支払うことに同意し
た和解金などを合わせると、約215億ドル(約2兆3650億円)に達して、同社の2015年の
業績は、15億8200万ユーロ(2057億円)の赤字となったほか、排ガス不正が米国の監督
官庁によって発表された直後、VWの株価は一時43%下落し、約250億ユーロ(3兆2500億
円)の株式価値が吹き飛んだ形だ。更に米国の検察当局は、今年5月3日にマルティン・
ヴィンターコルン元 CEO(最高経営責任者)を詐欺の罪で起訴している。又同時にVWブ
ランドの取締役を務め、同社でエンジン開発を担当していたハンス・ヤーコブ・ノイサ
ー氏ら5人の幹部も詐欺の罪で起訴している。しかし不正ソフトウエアが使われていた
のは全世界で1074万台のうち、約79%が欧州で販売されている。米国の 3億2800万ドル
(361億円)の和解金の合意の比ではない。その上 そのままでも、「この問題は我が社
の業績に20億ユーロ(2600億円)の影響を与える可能性がある。」と株主に発言してい
る。この動きをゴーン氏が知らない筈はなく、手放す事無く世界制覇にアパートメント
を買っていた。とも考えられる。ところが大きくなればなるほど収益を支えている日産
は一体何の為誰の為の会社なのだ。と反発は大きい。


1241: 名無しさんAA:18/11/23 02:02
共産国ではマラソンと言う競技はないらしい。中国で行われたマラソン大会では、優勝
争いのデッドヒートのさなかに沿道スタッフがコースに「乱入」し、中国の選手に中国
国旗を渡したが、選手はその国旗を一度受け取るものの、直後に落としたことに批判が
沸き起こり、謝罪する事態になった事件が起こった。しかし、旗を渡した運営側の説明
に、「ゴール前に選手に中国国旗を渡すことは、中国のレースでは一つの内容だ。これ
まで20か所以上で同様のことをしてきたが事故はなかった。今回は雨が降っていて寒く
、路面も濡れて滑りやすかったので、このようなことになってしまった。選手には深く
謝罪したい。」と言っている。つまり、国内の他のレースでもゴール直前の選手に国旗
を渡し、選手が羽織ったり広げたりしてゴールするようになっていたのだ。そもそもが
何のスポーツでも競技中に選手の競技妨害がある事は、スポーツではない。サッカーの
競技中に裸で乱入した事件と同じに、そこでは競技や大会がストップするのが規定であ
る。恣意的に運営側が旗を渡すなどとはあり得ない。つまり、彼ら中国人はスポーツと
か、競技と言う物を今だに知らないでいるのである。この無知厚顔の国民性は、スポー
ツが只のサークルイベントで言わば、酒飲み会の町内の親善野球のレクレーションと、
勘違いして、それをまた町内会のある店主の広告イベントと同じに愛国主義推進の道具
にして、スポーツは、愛国心が高揚する場だ。と勘違いしているのだ。日本でも、普段
は国旗や国歌を強く意識しない人でも、サッカーワールドカップやオリンピックになる
と、日本人としての誇りを強く感じることはある。スポーツを通じて愛国心を強く意識
することは決して悪いことやおかしい事ではない。しかし今回の問題は、中国でのスポ
ーツが、レクレーションの国威発揚、政府の愛国主義推進の道具になっていることをあ
らためて示している。スポーツつまり中国に自由経済が存在しない様にスポーツも又、
存在していないのである。こうした西側と異質の感覚は、経済でも技術でも言論でも、
外交でも起こっている。例えば、ロシアのプーチンはガスプロム問題で石油資本の接収
には、「サイン」しなさいで終り、原子力潜水艦沈没事故の表明では、批判する住民に
は注射が打たれた。北朝鮮も同じに「金正男」は日本で入管法で捕まってから「暗殺」
の司令が出た。つまり顔が報道されては行けない。と言う究極の報道規制である。それ
はイギリスのスパイの放射能死問題でも、先のガスフロム問題のKGBの動きを知って
いたから、と言われている。こうした間違えた国に文政権はすり寄るが一体正義はある
のだろうか。日本も同じに立憲民主党の枝野幸男代表が25日に予定している安倍晋三首
相の母校、成蹊大の学園祭での講演を巡り、報道機関の取材許可が一転して取り消され
たことが分かった。我々はこの非道を国内ぐらいは正したいものだ。

1242: 名無しさんAA:18/11/23 03:55
 ヨーデル・ドーデル・プーチン様  18
 ロシアが音速の20倍の速さで飛び、1発で都市を丸ごと壊滅させ、宇宙空間のどの
方向からも移動し攻撃するそのヤバ過ぎるミサイルに、プーチン大統領は「無敵(invi
ncible)」と評した。この「アバンガードシステム」は、現存するいかなるミサイル防
衛システムでも突破できるとのこと。この兵器は来年2019年のはじめにはウラル山脈の
南側の基地に配備される予定という、世にも恐ろしいニュースが飛び込んできました。
機械に組み込まれた人工知能(AI)の認知や判断によって敵を殺傷する「自律型致死兵
器システムを、(LAWS・ローズ)」というがこの開発が懸念されたが、正に戦場のAI
ロボットが自ら判断して人を殺近未来戦争の最先端にこの兵器はある。世界が戦慄して
いる。人型のLAWSに至るまでの間にある『高度に自動化された兵器』というのは存在し
、ロシアの銃器メーカー・カラシニコフ社は、小銃を装備した無人のミニ装甲車両の様
な兵器を開発し、ICBM(大陸間弾道ミサイル)のサイトや軍事施設の護衛のために動き
回らせる。」これに追いつこうと開発しているのが、韓国はサムスンの子会社が開発し
た無人化された防御システムで、北朝鮮との軍事境界線周辺に配置している。越境して
入国してくる者を熱センサーで感知して撃つ固定型だ。韓国は詳細な情報を明かさない
が、人間が操作するマニュアル・モードと、自動射撃するモードも組み込まれていると
言われこれをもって境界防衛できると思っているらしい。しかしこうなると、先程の脱
北者救出のような物語は産まれる余地はない。イスラエルも又命中率が高いといわれる
ミサイル防衛システム「アイアンドーム」などの兵器も、LAWSの完成段階に入っている
といわれる。「人間が介在しないAI兵器は、キラーロボットで、勝手に戦争をする。
」と言われ、最も警戒しているのは、実は軍人で顔認識は5割程度で即断即決では3割
に落ちる。膨大なデーターから敵か味方が判断できず熱感知となれば敵味方もないから
だ。と既にアフガンや殺人無人飛行機で試験運用されてその可否が検討され却下されて
いる。今は各国共通で、開戦も、停戦を決めるのも政治判断で行う。だがAIは政治が
及ばず、戦闘のコントロールが利かなくなる。とされる。それこそ、人間は戦争を避け
たいのに、機械達が核戦争を誘導すると、予期しない形で人類が滅びる。事実、かつて
はミサイルシステムが誤動作し、1983年、ソ連(当時)の早期警戒システムが、米国か
ら弾道ミサイル5発がソ連に向けて発射された探知して、コンピューターは対抗核を選
んでいる。アラームが鳴り響く中、当直だった空軍中佐は反撃のスイッチを入れず、シ
ステムの誤作動だと判断した。この為難を逃れた「米国が本気で核攻撃を仕掛けてくる
のならば、もっと大規模な攻撃になる。たった5発ではソ連側から報復攻撃を受ける。
非合理的だと思った。」と語っている。後にハッカ―による誤動作だったと言われた。

1243: 名無しさんAA:18/11/23 03:55
 ヨーデル・ドーデル・プーチン様  19

 世界は人の知らない所で動いている。私達の知らない世界で決定して誰かが行動して
いる。正にAI世界はそうしたロシアの理想のアイテムかもしれない。しかしロシアで
もAIでも勝てない物が一つある。それは自然の驚異や宇宙からの隕石などだ。我々が
どんなに科学につぎ込んで自然現象を解読したとしても、それは一面に過ぎず全体調和
が乱された時には人は生きる術を持たない。例えば今アメリカの西海岸は山火事に死者
が出ている。だがこの遠因は中国の海に放置したゴミ問題にある。マイクロプラスチッ
クの問題は深刻だと生態系や生体ばかりに気を取られがちだが、タマ報告ではそもそも
加工で使われたエネルギーは海には存在し、小さな破片は波頭に乗って空中を浮遊する
までなる。つまり西海岸は中国・韓国・インドネシアのゴミが浮遊し、スペイン・イタ
リアなどは南米やアフリカのゴミが浮遊する。この成分は残れば雨粒の芯となり大粒の
雨を降らせ、乾燥すれば大気を可燃ガスに変える。つまり重い天然ガスと同じなのだ。
英紙ガーディアン電子版は「システムエラー」との見出しで桜田義孝五輪相が衆院委で
「自分でパソコンを打つことはない」と発言したことに「日本はオリンピックに向けて
サイバーセキュリティー強化の真っ最中だが、担当大臣が驚くべき告白をした」と紹介
し「ハッカーが狙っても何も情報を盗めない。最強のセキュリティーだ」などと、揶揄
されている。ところが、これは当たらずとも遠からず、この軍事世界で軍人が兵器運用
を支持し開発する時代は既に終わっていて戦争の悲惨さの前に立つことはプーチンでも
ない。また、日本で税金の税率変更が決められたが、可処分所得の低下の中で、税金を
払う当の庶民の意見などそこにはない。つまりパソコンも発展し開発され進化するが、
それはオタク文化の延長のようなもので、まったくかつての改革前の日産みたいな物だ
。つまり、どこまで知っているかを問わず、こうした進化を止めないものは利用はして
も、やはり不意の事故に備える事は重要な事になる。そこで活きるのは断捨離ではない
が、便利を捨てた世界を知っている事であろう。この「使わない世界を知る」と言う事
は大事な事で、「ハッカーが狙っても何も情報を盗めない。最強のセキュリティーだ」
と言われるが確かに、道具で道具を盗むのがハッカーであり、道具が無ければ盗まれる
事はない。この現実は重たく大きい。つまり白物家電が日本では進化しすぎて売れなく
なったが、実は人間の生活はそこまで必要としていないどころか拒否するのである。今
回日本は、ポイントなどと言っている事が如何に間違いであるかが解ろうというものだ

1244: 名無しさんAA:18/11/23 09:07 ID:oxM
 ヨーデル・ドーデル・プーチン様  20

 科学技術の進歩が私たちの生活を便利にする一方で、当然ながら軍事の方面でも最新
の技術が兵器に応用されて最先端を行こうとするのは当然だろう。アバンガードの様な
地球破滅に陥る世にも恐ろしい兵器が次々と発明され、縮小化し通常兵器として使われ
多くの犠牲者を生もうとする兵器産業は必定の進化であろう。しかしこの考え方やこれ
を止めない限り人類の明日はない。「サターン2」といったコードネームで知られる、
ロシアの大陸間弾道ミサイル「RS-28」は、2ダースのアバンガードを積むことが可能で
あり、もしそこにアバンガードがフルに積載されれば、イギリスの主要都市すべてを、
一瞬の内に壊滅させることができる。ロシアのプーチン時代はいいが次の大統領はおそ
らくは、同じ能力や手腕をもっていしてもロシアを治められない。中にはキチガイみた
いに変わった大統領が登場するかも知れない。トランプがアメリカなのでいいが、南米
のような自国優曼のチャベツのようでは、ロシアは立ちいかない。今年の、プーチン大
統領の年次教書演説によってそのベールを脱いだアバンガードですが、早くも来年には
発射に向けた準備が整う。平和ボケしている日本人にとっては、どこか遠い世界の話の
ように感じるが、私たちが知らないところで今日も軍事開発が進められている。といっ
て平和ボケしていないフランスやイギリスでも手出しは出来ない。東西冷戦が終わった
頃、散々平和の夢が唱えられ、「これで軍需産業の仕事場がなくなる」とまで言われた
。しかし冷戦でがんじがらめになって、各国、身動きがとれなかった側面がなくなり、
縛りがなくなってしまったことで世界中で最新技術が溢れて、鍋が煮えた状態になった
。つまり複雑怪奇に拍車がかかった。経済問題、領土問題、エネルギー問題、宗教問題
 特に中東が危険に陥ってしまった。世界の混乱が深まって、むしろロシアの活躍の場
が増えてしまった。プーチンはロシアマフィアのドンだ。個人的に使える「暴力装置」
を持ちロシアを動かす。スポーツ観光国家委員会という組織は、決してドーピングを認
め無かったしマフィア組織の中枢である事を隠し続けた。旧ソ連時代は、見込みのある
子に幼少から英才教育を施し、格闘技系の才能のある子は、筋力増強剤をガンガン打ち
続けた。このような乱暴なことの中からプーチンは突出した大統領だ。当然、最終的に
使い物にならなくなる人間がたくさん見て来たはずだ。新自由主義経済の時代になって
、恨みもある。権力闘争もある。騙し合いもある。人々の欲望がむき出しになりロシア
は荒れた。争いごとは絶えない。プーチンの出番というわけで出て来たが今や国際社会
の国同士がそうした中にはまり 覇権を賭けて大国同士が争っている始末だ。

1245: 名無しさんAA:18/11/24 18:51 ID:uH.
 ヨーデル・ドーデル・プーチン様  21

 ヒトラー以後、初めて登場した怖い男プーチンには「狂気」が備わっている。彼は自
分の国の事を考え、しかも自国の利益と個人の利益とが重なっている。勿論トランプも
トルコのエルドワンも又同じであろう。だがトルコとは遥かにスケールが違い、米国の
持つ良識の安全装置は何処にもない。おなじ崖を歩くのに、米国にはメディアや世論と
言う手すりがあり、選挙と言う安全ロープで国は大統領の国の盗難防止を行い国際流通
と言う防犯カメラまで備わって展示される国だ。片やロシアは屋外の展示品同様、西側
の自由社会と言う屋根も、民主主義と言う防風壁もない。従って人々は自然災害の雨に
も、経済危機と言う風にも自らが立ち向かうしかない。ロシア連邦政府は自動車産業振
興のため、国内の自動車メーカーをさまざまな優遇政策を通じて支援するかたわら、次
世代自動車の基幹部品製造工程の(ロシアへの)移管、開発機能の強化、輸出の強化な
どを各社に求めている (2018年7月12日記事)とされた。今や自動車は一番てみじかな
兵器開発の為の無人用電子機器と化している。つまり間違いなく目的地に安全に行く。
と言う行動は、目的物を確実に行き間違いのない破壊をする。と言う軍用と同じだった
のだ。「そりゃ日産ゴーン会長が50億円も所得を過少申告してました、と言われれば『
なんだその金額は』と怒りたくなるのが庶民感情なのですが、実際には日本社会の経済
的な没落を受け入れるためにも日産が経験したような大胆な改革が必要であったことを
考えれば、怒る先はどこにあるのか、あるいはどう怒るべきなのかはもうちょっと冷静
に考えたほうがいいんじゃないかとすら思います。と書いている。だがちょっと意味が
違っている。今やフランスも英国のEU離脱で経済状態は良くない。要するにいままで
EUを引っ張ってきた2台巨頭の1方英国が居なくなりドイツのみになった。ドイツは
今や自然エネルギーの取り込みで第三位だったフランスに英国並みの拠出を迫っている
。又どの国で自国の愛国主義を煽る新極右が台頭し煽られた新極左は福祉や雇用の拡大
を叫び移民反対で着々と人気や票を伸ばしている状態だ。だが昔話の毛毬の2等分の話
ではないが、このEUから独立してもEUも独立国も今までの利益受容はなく建ってい
かない。そしてそれは日産とルノーの問題も同じだ。しかし、仏政府方針は、このまま
世界統合で、ルノーは日産も三菱も廃止してルノーブランドにおいて日産や三菱を残す
案を掲げていた。つまりルノーの下請けの日産も三菱も単なる組み立て工場化である。
これには、いかな静かな日本人も腹を立てるだろう。しかし現に国際化巨大化は、今の
米国のラストベルトをつくり、生き残った米国自動車は錆びた工場を捨てて生き残った

1246: 名無しさんAA:18/11/24 18:51
 ヨーデル・ドーデル・プーチン様  22

 これは地獄と同じである。今恐らく日産を支えていた中国向けエンジンが急速になく
なりつつあるのだろう。理由は2つで一つ電動化した自動車の出現ともう一つは自国の
エンジンが例え火を吹いた粗悪品だとしても開発・製造が成功して購入する理由が無く
なったからだだろう。あまりにも早い世界的流行に今やどの部門でも工場建設には二の
足を踏んでいる。このリスクヘッジに日産はルノー傘下の3社日産傘下の3社更に三菱
などから集金合併した共同開発が出来ると踏んだゴーンは、一気に嫌いだったルノーの
提案を飲んだ可能性がある。勿論今後の電気自動車には三菱電機を視野に入れている筈
だ。モスクワから南西に180キロ、ロシアのカルーガ州にある「PCMA Rus」は、三菱
自動車とPSAプジョー・シトロエン社とのロシア合弁車両組立工場だ。約145ha
の敷地面積を有し、工場の敷地内に鉄道もある。日本から海路でエストニアのタリンに
送られた自動車部品は、陸路でカルーガへやって来るのだ。工場で働く労働者の男女比
は半々、自動車工場として女性比率が高く生産ラインは、男女を問わず働けるように最
大限簡単にしている。人の作業と自動化ロボットの作業割合は半々で、ロシア内では、
かなり近代化された工場だ。新人採用から生産ラインに立てるまで、研修時間は2週間
ほどだという。PCMA Rusで作られる車は、日本で組み立てられたものと全く同じ基準を
満たしており、品質に差はないといわれるが、ロシア人は、自国の製造業に個人消費者
製品に信頼性がなかった。三菱自動車のロシアにおけるマーケティング・広報は苦労し
かなり疑いをもっていたものを払しょくさせた。「ここまでロシア製日本車を定着させ
るのは並大抵の苦労ではなかった」と代理店は振り返る。2010年以降、アウトラン
ダーは売れ行き好評で雪に強く出来上がった。ロシアに工場を構える日本企業は総じて
ローカリゼーション(現地化)を目指している。今の段階で、3〜4割前後でこれを上
げることが目下の課題としている。しかしローカリゼーションができていると言っても
、ほとんどは外国メーカーの現地生産品だ。純ロシア産ということになると比率は6パ
ーセントにぐっと落ち込む。今のところ純粋なロシア企業のサプライヤーは1社のみだ
。つまり数多くの部品が多国籍企業として部品供給され収集した国際品なのである。


1247: 名無しさんAA:18/11/24 18:52
 PCMAロシアでは、2010年4月、PSAグループが70%、三菱自動車が30%を出資する合弁
車両組立工場として、ロシアのカルーガ州に設立。総投資額は、5億5000万ユーロ。同
工場では2010年から、プジョー『308』『4007』、シトロエン『C4』『Cクロッサー』、
三菱『アウトランダー』のノックダウン生産を開始。12万5000台の年産能力を備えた。
PSAグループは今回、2018年第1四半期からPCMAロシアにおいて、小型商用車の生産を開
始すると発表。新型プジョー『エキスパート』と新型シトロエン『ジャンピー』を組み
立てる。PSAグループによると 今回の発表は中期経営戦略、「プッシュ・トゥ・パス」
の一環。欧州以外の販売量を3倍に増やし、2021年までに収益性を高めていく、として
いる。2月にロシアで三菱アウトランダー生産 2017の販売。3月に ディーゼルエンジ
ンを搭載した第3世代の新たな三菱パジェロスポーツが販売開始、5月には三菱パジェ
ロIVが販売され非常に伸びている。すなわち、アウトランダーとパジェロはロシアで最
も人気のある三菱のモデルということになる。今ロシアで一番人気がある三菱のモデル
のアウトランダーは、非常に多くのお客さんに評価されていて、今年の1月から3月の
アウトランダーの販売は、去年の1月から3月に比べて27%増えています。台数では
、3842台、3ヶ月で4000台弱ということで、このミディアムSUVと言われる
セグメントの中で約11%のシェアをとっています。この車が非常に評価されるのは、
もちろん価格帯が非常にリーズナブルであるというのに加えまして、先ほど話したSU
Vの機能がこの国にマッチしていて、お客さんに非常に評価されているというところが
ある。これは日産が三菱を取り込んだ理由でもある。実は三菱アウトランダーにはロシ
ア特有の交通事故時緊急対応システム「エラ・グロナス」が搭載されている。同時に独
自のアクティブセーフティシステムもあります。この2つのシステムは重複している。
しかし、お互いが良いコンビネーションだ認識される。アウトランダーに装着されてい
る安全機能は「事故を起こさないため」の機能で、一方でエラ・グロナスは「事故が起
こった後」の機能だからだ。この2つがあることは、消費者は走行上の安全と事故後の
安全と思っている。価格はもちろんエラ・グロナスという新しいデバイスがつけばその
分コストがかかり追加コストということにはなります。けれどもそれは広く好評だった
。実は先の日産の、NTCEでは 120人の技術者が勤務しこれを追っかけた形である。
新建屋には研究・試験関連機材も導入されている。同センターの開所式に出席したNTCE
の東倉社長は「テクニカルセンターのオフィス新設は、日産自動車のロシアでの技術開
発の促進に向けた経営陣の強いコミットメントの証左」と述べた。連邦政府とサンクト
ペテルブルク市政府に引き続き支援を要請し、政府のマクシム産業政策委員長は歓迎の
意を表明している。ここにこのゴーン氏の戦略がある。

1248: 名無しさんAA:18/11/24 18:52
 ヨーデル・ドーデル・プーチン様  24

 すなわち、日産はいままで中国に電気自動車を輸出していた。しかし、中国と米国の
貿易戦争では、日本などの部品を輸入し、他の国で組み立てし、そして更に組み立てら
れた部品を中国で完成品とすることは不可能で更にそれを米国で売る事は更に高値にな
る。つまり各国で関税がかかれば採算は取れない。ではどうするか。今やBRICSは
中央アジアを中心にしている。石油価格は下がったものの、ロシアでも中国でも力を入
れ始めたのは中央アジア近郊の国への輸出である。ロシアは国際社会から疎外されて、
排気ガス規制は、今の欧州程ではない。但し欧州程はインフラは整備されておらず道路
はロシアと同じにあってない様な地面の筋でしかない。つまりオフロード仕様で高熱に
耐え砂漠の埃に耐え更にロシアの極寒の雪にも耐えなければならないのだ。これは電気
自動車では無理な話で、ガソリン車でも無理なのだ。軽油や灯油タンクしか持っていけ
ないからだ。つまり都市型の洗練された最新鋭の排気ガス規制もクリアする車と、今だ
未開のオフロードで強い車の二つの仕様が必要であり、当面の利益はこのディーゼル車
仕様の後者を考える事が必要となった。ここにドイツ車の市場低下である。これはビッ
グチャンス到来とばかりにゴーン氏は日産とルノーと三菱の三社の頂点に立って動く事
を考えた。これまでのニュースから言えば、給与20億円の内10億円の給付と、10
億円の個人積立ての様な貸付もしくは、日産内の余剰金に組み込まれていた。つまりは
20年にして200億円を越え更に正規の退職慰労金と利子を含めれば300億円は優
にこえるであろう。つまり日産は、この世界の頂上のグループの会長になるゴーン氏の
為に、今の日産社長は、300億を現物でゴーンの指定する口座に支払わなければなら
ない事になる。それは今の日産自動車(Nissan Motor)の西川広人(Hiroto Saikawa)
最高経営責任者(CEO) には寝耳に水の話ではないか。更に今の自分にそうした隠れた
積立金は無い上に、幾ら社内においてのルノーの経営流儀だとしても、一挙に300億
も利益が吹っ飛んだ形は、全く取れない。かといってルノー側もそれを出す力はない。
この状態に、前会長カルロス・ゴーン(Carlos Ghosn)容疑者は違法行為の認識もなく
更に、今のドイツ自動車メーカーを中国の政府系企業が攻略するのを指をくわえて待つ
ような人柄ではない。つまり工場閉鎖してでも日本側にその請求を求めてくる事は必至
となれば、当然政府に駆け込むしかない。と言ったところだったのではと推測する。


1249: 名無しさんAA:18/11/24 18:53
 ここでゴーン氏が狙ったのは二つの車の統合型のディーゼルエンジン車ではなかった
か。と思われる。つまりドイツの排気ガスは抜きにしたエンジン制御プログラムである
。つまり、ルノーのデザインに三菱のエンジン更にドイツのプログラムである。又試験
所をもってそれを統合する日産開発試験所と何処かの安い組み立て工場。そして各社の
共通フレームの開発である。これは何を意味するのか。つまりこれからはグローバルの
社会生き残りしか生き残れないと言う事を示している。その意味ではロシアは堅調であ
り、もはや中国や日本や米国は消えたも同然である。日本で可哀そうなのは昔の時代は
ここ10年ぐらいで何処にも残してないと言う間違いだ、先の中国で本当の品のある生
活の実体であった古都はことごとく中国共産党でうばわれ、ここ30年間で日本以上に
破壊され消滅した。これは世界の危機であろう。今の中国は本来の協調した中国社会で
はない。戦後に出来た共産党思想の元に破壊された残りカスの文化である。日本でも今
神社仏閣は粗野なつくりの欄間や彫り師のいない簡単な意味のない文様の神社仏閣に変
えられ祀らないほうがいいぐらいの腐れた神社仏閣に変化してきている。更に人々も同
じに意味のあった町の藪や庭園などは勝手に行政が書き換え開発し道路や分譲地として
都市化している。かつての江戸時代以下の都市計画のままで水害も灌漑も今や電気無し
には成り立たない様な仕様だ。全く馬鹿げた発展だ。更に痛々しいのは各個に持ってい
た伝記や貴重な資料は小中学校の図書館を初め意味のない新書に置き換えられ方言すら
無くなって、とても美味し国などと言うのは10年でまずくまずしくなった山間や寒村
で均一化した行政のみだ。全く馬鹿げた無駄なそして取返しのつかない開発ばかりで、
ムダ金を豊富にばらまく事を日本政府が行っているのである。これでは文化どころか、
国家さえ残らない。残るのは経済実態のみで、それとて借金漬けでは、とても孫世代が
背負う事は不可能であろう。現実に年金も国家予算も国民生活も、50年前と比べもの
にならないぐらい貧しく問題が噴出している。いのしし一つとっても寒村の悲鳴がある
シャッター通りは今や歯抜けで解体して駐車場である。おそらく今後人は生きられない
。特に日本の持っていた技術や能力は田舎にしか残らない。その田舎も横柄な議員によ
って今度の豪雨災害の様な悲劇のしたにしかない。安倍や麻生或いは谷垣などの無知さ
が招いた悲劇のくにである。日産も同じ運命にあるかつての村山工場は日産のGT車の
メモリアルだったが、馬鹿な世界征服で、日本人でも出来た再生が非情な事でやり遂げ
た再生方法だったのだ。それはかつての日産社長塙氏の馬鹿さの他何物でもない。今も
築いた商店や個人事業主の社長は必至に自分が築いたとしがみつく。これはおかしいの
だ。日本だから、地域があったから、自分が育てなかったから、そこに商店はないのだ

1250: 名無しさんAA:18/11/25 01:02
 ヨーデル・ドーデル・プーチン様  30
 およそ日本のみならず普遍的に世界中に「足るを知る者は生き残る」というのが定理
である。しかし、人類は今やそれを忘れたかのようだ。フランスのシラク政権が出来た
。シラクはゴーリストであり、1970年代半ばにフランス首相を務めた時期に、経済政策
の遂行にあたり計画経済路線とレッセ・フェール路線の両方でアプローチしたことがあ
った。また1978年、パリのコシャン病院入院中に出した有名な反欧州主義的宣言(ドゴ
ール主義宣言:Appel de Cochin )では、ヴァレリー・ジスカール・デスタン大統領の
フランス民主連合の欧州主義や EEC拡大路線を公然と非難した。1974年の大統領選挙に
当選したヴァレリー・ジスカール・デスタンは、第五共和制成立以来初めて非ド・ゴー
ル派から選出された大統領である。ジスカール・デスタンが当選した背景には当時最大
政党であったゴーリスト政党、共和国民主連合(UDR)の分裂があり、UDRからはジャッ
ク・シャバン・デルマスが大統領候補となっていたが、シャバン・デルマスに反対する
ジャック・シラクを中心としたUDRの一部はジスカール・デスタン支持に回ったのだ
。デスタン政策は、社会政策に融和的、寛容で穏健な路線を志向している。ヴェイユ法
成立は妊娠中絶を合法化し、離婚に関する規制を緩和した。経済政策では国家の市場へ
の介入と計画(ディリジスム)を主張し、ド・ゴール派とは対照的に、統制の廃止規制
緩和や自由化を打ち出した。国家の経済への介入を減らして市場をより重視する方針で
ある。地方分権を推進し、中央政府の近代化と権限の抑制を図り外交政策においては、
欧州統合に懐疑的・消極的であった姿勢を転換し、欧州統合を積極的に推進する立場に
コミットした。従来に比べアメリカとの協調、西側諸国との連帯を重視する路線を歩ん
だのだ。しかし政策上の痛みは、路線対立やインフレ率や失業率の上昇への対処を従い
対応に批判が集まり1976年、シラクは辞任した。これを受け、ジスカール・デスタンは
経済学者であったレイモン・バールを首相に迎えた。これは、ジスカール・デスタン派
とシラクらネオ・ゴーリストとの対立に激化し、1978年にフランス政界は4つの勢力に
割れた、すなわち非ドゴールのデスタン党とネオ・ゴーリスト党である。そしてそれぞ
れに社会主義と、共産主義の言い分に分かれた。これは今の日産問題に非常によく似て
いる。急ぎ過ぎるが故に失敗する構図だが先頭を行かない限り旨味が無いと言う現在の
仕組みの構図だ。国際化や巨大化効率化は避けて通れない。しかししてその道を急げば
急ぐほど足元がおぼつかず体力がなく走れない。正にドゴールプランはそこを狙った物
だった。人は思う様には、感覚も生活も意識も文化も体制も変えられないのである。例
えそこに珠玉の宝石が落ちていようとも、砂漠の地の杖ついた病人には不必要な物なの
だ。これが神の作った罠なのである。

1251: 名無しさんAA:18/11/25 11:03
 明治の開国時に西郷は幾つもの逸話を残している。「戊辰戦争は、日本を再生するた
めの“義”の戦いだったはず」と言ったが、その「義」に関して次のように語っている
。「節操や道義……恥を知る心、こういうものを国民が失ったら、国は、とても持たな
いね。これは、西洋でも同じことだよ。たとえば、政治家や官僚や公務員などの上に立
つ者が、国民から利益を得ることばかりを求めて、社会正義を忘れてしまったならば、
どうなるか。国民もその真似をして、その心は、どんどん拝金主義に向かい、いやらし
い貪欲な心が、日を追うごとに国民の間に広がっていくよ。・・・そうなってしまった
ら……、いったい、どうやって国を維持すればいいんだい?道義を国民が失ったら、国
は持たない。明治政府の高官たちが私利私欲にふけっている姿は、自ら国を壊している
。それでは「日本再生のための義の戦い」と信じて、命を捧げていった戦没者たちに申
し訳ない。」とその思いが西郷の涙となっていた。西郷が戊辰戦争を「日本再生のため
の義の戦い」と捉えていたことを知れば、『戦いは……勝てば、もうそれでいいよ。あ
とは、同じ日本人……。新しい日本をつくる同志じゃないか』と、庄内藩の人々に寛大
に接した理由である。西郷は庄内藩士を「最後の最後まで徳川家に忠義を尽くした立派
な武士」と称えていた。今後は日本の再生のために、ともに忠義を尽くして欲しい、と
いうのが、西郷の願いだった。明治維新という「日本再生のための義の戦い」は、黒船
の来航に象徴される欧米諸国の脅威の下で 行われた。その欧米諸国について、西郷は
省内藩士たちにこう語っている。ある時、西郷先生が、こうおっしゃった。「文明とい
うのは、どういうことかわかるかい?それは、道徳心が人々に広くゆきわたって、それ
が実践されている国のようすを、称えて言う言葉なんだ。けっして宮廷が大きくて立派
だとか、人々の服装が美しくて綺麗だとか、そういう外から見た、フワフワした華やか
さを言うのではないよ。・・・私は昔、ある人と議論したことがあるんだよ。その時、
私は、こう言ったのさ。『西洋は野蛮じゃ!』するとその人は、こう言った。『いや、
西洋は文明です』そこで私は、『いいや、いいや……、野蛮じゃ!』と、たたみかけた
。すると、その人はあきれて、『どうして西洋のことを、それほどまでに悪くおっしゃ
るのですか?』と、不満そうに言い返してきた。そこで私は、こう言ってやったのさ。
『ほんとうに文明の国々なら、遅れた国には、やさしい心で、親切に説得し、その国の
人々に納得してもらった上で、その国を発展させる方向に導いてやるんじゃないかな?
けれど西洋は、そうではない。時代に遅れて、ものを知らない国であればあるほど、む
ごくて残忍なことをしてきたし、結局のところ、そうして自分たちの私利私欲を満たし
てきたじゃないか。これを野蛮と言わないで、何を野蛮と言うんだい?』そう言ったら
、その人は口をつぐんで、もう何も言わなくなったよ。」と西郷はお笑ったと言う。

1252: 名無しさんAA:18/11/25 11:05
 ヨーデル・ドーデル・プーチン様  32

 当時、欧米諸国はアジア・アフリカの諸国を植民地化し、搾取していた。支配者がそ
の様では、国民全体が植民地根性を抱いて、私利私欲のために働く。西洋の「野蛮」が
アジア・アフリカに「野蛮」を生み出ていた。西郷は「文明」とは「道徳心が人々に広
くそれが実践されている国の様子と実体」と考えた。西洋諸国に植民地化されてしまえ
ば、そんな文明国にはなりえない。その西洋諸国の「野蛮」から国を守ることが「攘夷
」なのであった。松浦光修は「攘夷」によって先人たちが護ろうとしていたのは、単な
る“国益”ではありません。ここが大切なところなのですが、最終的に護ろうとしてい
たのは、“道義”だったし国の形だったのです。かつて慶応3(1867)年12月、江戸の
薩摩藩邸に結集し浪人達は、江戸の治安を乱した。江戸の治安維持を任されていた庄内
藩士千人を中心とする5藩は、薩摩藩邸攻撃を命ぜられ、邸を砲撃し、焼き払った。こ
の事件で鳥羽伏見での明治政府と徳川幕府との戦いが始まり、以後1年半の戊辰(ぼし
ん)戦争が続いた。庄内藩は会津藩、米沢藩などとともに幕府側に立ち、新政府側に立
った西郷軍は秋田に攻め連戦連勝を重ねた。庄内藩は良民を手厚く保護する藩政をとっ
てきた藩で、藩主・家臣・領民の結束が強かった。藩政を支えてきた商人・本間家も、
スナイドル銃などの最新兵器購入のために莫大な献金をした。 米沢藩、会津藩の降伏
後でも庄内藩は最後まで藩領土へ新政府軍の侵入を許さなかった。しかし庄内藩以外の
すべての藩が降伏したので、明治元(1868)年9月、新政府軍に恭順の意を示した。この
ように最後まで頑強に新政府軍に戦ったので、庄内藩の人々はどれほど厳しい降伏条件
を突きつけられるのか、と心配していたがしかし、勝者として庄内藩鶴ヶ岡城に入って
きた新政府軍は刀を持たず、丸腰だった。新政府軍の兵士の中に勝ちに奢って乱暴狼藉
を働くかも知れないので、それを防ぐ処置だった。逆に敗者の庄内藩士には帯刀を許し
、武士の面目を持たせた。これには庄内藩の人々が驚いた。しかも、新政府軍の使者と
してやってきた薩摩藩の黒田清隆が示したのは、驚くほど寛大な条件だった。11代藩
主 忠篤の謹慎、弟 忠宝への代替わりと、16万7千余石の12万石へ減封であった。


1253: 名無しさんAA:18/11/25 11:05
さらに黒田は、藩主の上座に座って、一応の「言い渡し」を終えると、直ちに藩主の下
座に降り、「役目のために、ご無礼をいたしましたが、お許しください」と、礼儀正し
い態度をとった。武士道を弁えた黒田の態度に、庄内藩の人々は心を動かされた。庄内
藩家老と菅実秀(すげ・さねひで)が東京に出てきて、黒田に寛大な処置に対するお礼
を述べた。すると、黒田は「あれは私の処置ではありません。すべて西郷先生の指示で
やったことです」と明かした。指揮官だった西郷は、庄内藩が降伏した翌日にはすぐに
帰ろうとした。まだ降伏したばかりで、後で何が起きるのか分からないので、黒田は西
郷を止めた。が、西郷先生は、『戦いは……勝てば、もうそれでいいよ。あとは、同じ
日本人。新しい日本をつくる同志じゃないか。もう敵でも味方でもない。』と言った。


1254: 名無しさんAA:18/11/27 08:16 ID:YYM
 ヨーデル・ドーデル・プーチン様  33

 今ウクライナとロシアのケルチ海峡で起こっている事は、こうした尊攘の心の欠如で
ある。ウクライナは、このケルチ海峡を渡らなければ何処へも行けず、輸出入も出来な
い。それでもロシアの強圧的行動には不満がたまっている。何故ならロシアはソ連時代
同様に国内と同じ法律や同じ規制同じ感覚で他国とは思っていない行動なののである。
つまりクリミヤ半島制圧は、ロシアにとっては国内暴動の制圧に等しく、ウクライナに
とっては他国への内政干渉と言う事になる。これは中国の台湾を自国と言って曲げない
事と同じである。かろうじて台湾は外洋に広く海洋交通の港を持っている為に半独立を
保っている。この閉鎖感のこの事は非常悲しい現実であり、今の中国やロシアあるいは
米国といった大国をのさばらせている結果になっている。かつて原爆が出来た時科学者
は、米国一国主義に疑問を呈した。その為スパイでは無かったのに進んでその技術を流
したとされる。理由は簡単だ。米国の野蛮さを知っていたからだった。つまり自国を治
め切れないこれらの大国は、外にその視線を逃す事で国民を納得させようとしている事
に原因がある。それが交易である。今やEU離脱の英国は秒読みだが、これはフランス
の道路封鎖に似ている。土曜日のガソリン値上げに対する道路封鎖といった抗議活動で
、50代の女性1人がタクシーで病院に行けず死亡し、この抗議デモで47人が負傷中に
3人の危篤状態の重症者がいる。また少なくとも24人が逮捕された。この南フランス
のグラース以外にも3ヶ所ほど起こりマクロンは頭を痛める。パリのシャンゼリゼ通り
では、このマクロン大統領の辞任を求めてエリゼ宮へ行進していた50人ほどのグルー
プが、警察によって遮断されるという事態に陥った。抗議活動は全国で2000件,124,000
人が参加とされている。トゥールーズのロータリー(rond-point)では、抗議活動に遭遇
したタクシー運転手は、「思ったより大規模だけれど現場は和やか」と安心していた。
しかし、このクリスマス時期に例年の3割売り上げと悩む商店主や、ガラスが割られて
窓枠など取られた家主は「クリスマスシーズンなのになんてこった。どうしてくれるん
だ。」と起こっていた。トラックは、「イヤー商売あがったりだ。」と言えば農夫は、
「ここでやっと出荷したトマトは腐れて帰って来てしまった。大打撃だ。廃業すら考え
ないといけない。」と嘆く。黄色いベストを着た活動家らが路上に立ちはだかり、ロー
タリーに侵入する車を遮断したからだ。そのチョッキの配布から恐らくルペン党だろう
。しかし、これでフランスの五千万ユーロの経済はどぶに捨てた形だ。これがEU内で
英国のの姿と同じである。今後この摩擦は大きな経済弊害となる。


1255: 名無しさんAA:18/11/27 08:16
 ヨーデル・ドーデル・プーチン様  34

 そうした事を知り尽くしても尚人々はやめない。 フランス国内で、ガソリンは15
%、ディーゼル燃料は25%も値上がりしており、それに拍車をかけるマクロン政府の
燃料課税に対して、燃料価格高騰の影響を受けてきたタクシーやバス、トラックなどの
運送業者、また交通手段を車に頼らざるを得ない地方からゲリラ的な抗議行動は収まる
気配はない。この運動は「黄色いベスト (Gilets Jaunes)」運動と呼ばれ、参加者達
は道路作業員が路上での作業で着用する黄色いベスト(車載用品)をシンボルとして身
につけ、各地で道路を封鎖する抗議行動を展開して止まない。この行動はSNSを通じ
て拡散され、一般の市民も含め多くの人たちが路上に出て行動に合流し、1日のうちに
主要都市をはじめ全国2000カ所以上に広がったのだ。巧妙に主催者がいないまま、
警察当局も対応することができなかったのだ。それでも何故か参加者たちは「マクロン
は辞めろ」「課税をやめろ」「月500ユーロ(約6万5000円)で生活し、ジャガ
イモばかり食べている国民のことを分かっていない。」などのスローガンを叫び、国歌
「ラ・マルセイエーズ」を歌いながらデモをおこなっている。あわせて各地の主要道路
や交差点を封鎖し、高速道路も、抗議するために押し寄せた多くの車両で封鎖され、国
内全域で交通網が麻痺したのである。これを笑えないのがロシアである。クリミヤ国民
の抵抗はこのフランス国内のデモや暴動と同じと見ているからだ。だが世界全体で言え
ば、このロシアの苦悩と同じに中国の南沙諸島、ロシアのケルチ封鎖、米国のメキシコ
の壁、イギリスのEU離脱こそがこの種の人類進化への抵抗なのであるのが現実だ。今
、戦争が起きないのは、結局人々の忍耐と寛容さなのだ。この忍耐と寛容さがなく高慢
な大国は、話し合いもなく実力行使である。例えばアメリカ人とは何か何者かに明確に
答えは無い。同様にEU人とイギリス人に違いはなく、ロシア人とウクライナ人にも、
なんら違いはない。あるとすれば生活実態であり、言語や風習、習慣や文化でしかない
。当然である。物を食べ、働いて、身を守り、家庭を築く事は人類の普遍でありながら
それが技術革新で犯され続けているのだから。米国が治世の取れたイラクを攻撃し南米
の麻薬組織を叩かなかった。それは簡単言えば銃砲を売り捌き糧を得た米国民を保護す
る為で、弱すぎる米軍を勝たせたかったからだ。その結果が今の南米からのキャラバン
である。つまり10年も過ぎて今に影響が現れたと言うことになる。


1256: 名無しさんAA:18/11/28 13:30 ID:keA
 ヨーデル・ドーデル・プーチン様  35

 アメリカのメディアや諸外国の論説も、日本が甘いのか、日本の事となると途端にき
つい論説が登場する。この日産問題では、ゴーン容疑者は報酬を隠したとされる容疑に
ついて、共に逮捕された側近の前代表取締役グレッグ・ケリー容疑者(62)に「『リ
ーガリー(適法)にやってくれ』と頼んでやってもらっていた」と説明し、「(ケリー
容疑者は)合法だと言っていた」などとも話した。特捜部の取り調べにも同様の供述を
しているという。ゴーン容疑者は19日に逮捕され、1週間以上が経過した。関係者に
よると、勾留中の東京拘置所で、元気な様子でおり、健康面に問題はない。一方ケリー
容疑者も「(ゴーン容疑者の役員報酬は)適切に処理した。」などと、特捜部の取り調
べに容疑を否認。報酬の一部を後払いにした退任後報酬については、周囲に「(ゴーン
容疑者の)退任に備えて準備した。退任後、競業他社に協力しないようにする意味もあ
った」などと説明しており、特捜部にも同様の供述をしたもようだ。これだけしか情報
が無い為かフランスもレバノンもアメリカも、勾留中の取り調べには弁護士が同席せず
、自らの権利を守ることができない。資金流用疑惑がメディアに次々とリークされ「宗
教裁判」のよう。とか最大20日間の勾留が認められ、再逮捕もできる日本の司法制度
は、犯罪歴のない国際企業の幹部には適切ではないと酷評し「共産主義の中国なのか」
と疑問を呈している。しかしこれは欧米の馬鹿さであろう。また、逮捕容疑とともに、
所得隠しや社有資産の私的支配のような背任行為があったとしても、日本の役員の報酬
開示は甘すぎで、役員に緊張感を与えていない。と指摘し日本では1億円以上の報酬を
もらわないと個別開示が義務付けられていないが、なぜ1億円以上なのかという疑問が
呈されている。金額に関係なく、会社の重要事項を決定する役員が、どれだけ「報酬に
応じた働きをしているのか。」というチェックができなければ、株主としては不満では
ないのか。と言う疑問である。しかしこんな馬鹿な質問する欧米人は全く文化程度が低
い。有価証券報告書に巨額報酬を過少記載した容疑について、日産自動車が長年にわた
って把握していなかったとは不自然だと指摘しているが、まさしくそこである。今や、
欧米は「人の生活の価値」を忘れている。なぜ一億円かと言うのは当然月収一億円なら
充分食っていけるからで、食べて資産を増やす以上の個人の欲は、社会の悪である事は
当然である。現実に社会の7%の人間が7割の資産や財産を持つアメリカ社会が、何の
問題もなく何の犯罪も無くなったか。と言えば逆に銃社会犯罪社会国境に壁を持つ社会
を作っている。もし日本がアメリカ大陸に日本社会を築いていたなら全く違っていて、
犯罪が無かったなどとは言わないがもっとよりよい社会であったであろう。

1257: 名無しさんAA:18/11/28 13:30
 ヨーデル・ドーデル・プーチン様  36
 じつは既にウクライナ政府などというのは、ロシア政府との上手い付き合いをしない
限り生きていける場所ではない。更に今回ケルチ海峡に巨大な橋を作った事で、まった
くロシアはウクライナを手玉にとる事になる。実はこうした力や権利権力の戦いには、
全く意味がない。悲しい死者が増えるだけだからだ。クリミヤで起こったロシア人排除
の立法措置は、ロシア人の横暴がウクライナ人を怒らせた事にある。言わば日本の沖縄
の婦女子暴行事件で米兵の沖縄上陸禁止を決めたような物だった。考え方は違うだろう
がその内容はそうした物だった。馬鹿な鳩山由紀夫はこの事を知っているのか沖縄では
米軍撤去を叫び、クリミアではロシアの正当化を認めた。こうした矛盾の考察が人類を
苦しめる。現代社会も、巧妙に隠しても、戦争でアメリカが一番先に行ったのは財閥解
体と大農者禁止の小作人法だった。これは何を意味するのか。つまり馬鹿も賢い者も、
一律に昔を忘れて小さく生活せよ。と言う強制された収容所的生活である。白人優位主
義のままに、東洋人に圧迫を加え、本当の敵国であったドイツやソ連とは戦わず日本を
生贄(いけにえ)犠牲牛(スケープゴード)にしたのである。その為その頃のドイツには
マーシャル・プランで食糧援助と資金援助が行われ、朝鮮戦争のおかげでイギリスを超
えて西側諸国第2位のGDPになっている。ギリシャ・トルコに4億ドルの支出と民間
人・軍人の派遣を議会要請し、連合国救済復興機関に対しては、米国は活動資金(約36
億6000万ドル)の大半を拠出してきたし、英米金融協定に基づき37億5000万ドルを英国
に貸し付け欧州復興に当たっている。3年間にわたり毎年60乃至70億ドル相当の物資を
贈与する旨を決定している。CEECの報告書は欧州復興委員会の全体会議に提出された全
体会議は報告書は米国不足額の算定に関しては、4年間で224億4000万ドル(1948年80億
4000万ドル、1949年63億5000万ドル、1950年46億5000万ドル、1951年34億ドル)と推計
し、国際機関からの援助を除くと193億1000万ドルになる。つまり3年間200億相当が
運びこまれた。一方日本はアメリカにその1%の300万トンの食糧の輸入を申請します
が、アメリカ政府は、結局60万トンの小麦しか認めませんでした。嫌われたのだ。つま
り、この時アメリカは大金持ちだったのだが、他の国には資産も金も無く買わないので
援助するしかなかったのだが、それでも日本は打ち捨てられ感心はもっぱら欧州だった
のである。つまりライバルの金持ちは必要ない。と言う態度だったのだ。今回のゴーン
の過当給与問題も、日本で歴史的にアメリカが作った平等主義がこうした給与体制を、
強制していながら、最近に銀行の古い株式を現物帳簿に変えることまで内政干渉して、
自国の金持ちに大きな税を掛けず、ビックバン金融で日本から持ち去ったのに、今やこ
うした論説なのだ。ふざけすぎる米国のメディアである。

1258: 名無しさんAA:18/12/04 05:38
 朝鮮人に 喝!  026

 韓国国民は 今度の裁判判決や竹島領有を歴史問題として 詐欺る。全くもって解せ
ない。これは明らかに外交問題であり、国の法務問題で人権問題である。つまり北朝鮮
のミサイル発射より質の悪い 韓国民の人格・韓国いう国の骨格思想の国際問題なのだ
。つまりいくら話し合っても無駄。国際社会から抹殺したが正しいと言う、殺人者が、
ナイフや拳銃持って話さないような。周りの警察は殺すしかない様な人格問題なのだ。
まず反省はない。行動を変える気も無い。歴史だと嘘ばかり言う。妥協したふりして応
じない。そしてこびへつらい乞食や強盗同様自立しない。その上その嘘の上に胡坐をか
き宣伝車のごとく拡声演壇にて嘘や出任せや告げ口で扇動広報する。これを止める気も
ないし、それに乗る事をポピュリズムと間違えている。愚衆政治の最先端を行き、自国
を治めた大統領すら拝礼も敬意もない世界だ。どう考えてもこのまま統一化しても北朝
鮮社会の今の北朝鮮人の様に奴隷化した社会になるのが確定的でも 統一を恐れない。
つまり、普通でないのだ。国民も国家も。西側でいる事も東側の傘の下でいる事も無い
。北朝鮮の自国の核ミサイル開発する腐った精神と同じだ。技術を盗み、資金を詐欺て
、世界に法螺を吹き、自国代表も隣国もない自分が一番の国だ。だから旅行客の飯には
 家族の食べ残しで旅館をやっていた過去があるのだ。今の中国と全く同じである。ま
るでこの世に生きる資格なしの人間を共産党員として育てても平気な国なのだ。こうし
た国をどうしようと言うのだ西側の財界や経営陣は。全く話にならないのは、強盗や殺
人者を一人育てたら、まともに育った人間が10人も20人も無くなるし、仲間として
おなじ人間が出来上がると言う事だ。国も同じだ。こんな腐った国を放置するからフラ
ンスデモやEU離脱が起こるのである。もっと悪いのは、最高裁判所の前任者を政治的
配慮で先送りしたとして「職権乱用罪」を職権乱用してる様である。全く世界中でこん
なデタラメな法務行政は見た事が無い。国家政権が紛争や戦争が起こっている中なら兎
も角条約締結した中の行為に「先送りした為職権乱用罪」を適用して逮捕したなどとは
世界中どこに行っても、後にも先にもない。さすが前任の大統領までこき下ろし罪人に
仕立てあげる汚らしい国の姿である。もはや日本は韓国との同調や友好など諦めたがよ
い。こんな腐れた話は無い。曲がりなりにも法治国家を唱えその法の番人の役目の者が
強権病の犬なのだ。こんな違法が出来る独裁皇帝と間違えた様な違法行為を行える大法
院などは、これでは北朝鮮の金氏の独裁より悪い。平等法下の違法を認めないのだから
自分は特別だとでも言うのだろうこの最高裁判事は、只の国民の代表の権利で独裁権を
持っているとでもいいたげである。文氏の司令であろうが全く馬鹿げている。

1259: 名無しさんAA:18/12/04 14:10 ID:cjA
 ヨーデル・ドーデル・プーチン様  37

 どうもルノー日産は大きなチャンスを逃がした様に見える。瀕死のドイツの排気ガス
問題ではちょっと模様が変わって来た。ニュースでは、米国家経済会議(NEC)のカ
ドロー委員長は3日、トランプ米政権は電気自動車(EV)などを対象とした補助金の
廃止を希望していると明らかにした。カドロー氏は、ゼネラル・モーターズ(GM)が
先週、米国内の工場閉鎖と解雇を発表したことについて質問された際、プラグインEV
購入時の2500〜7500ドルの税控除に言及し「全額廃止を望んでいる」と述べた
。さらに「オバマ政権時に導入された他の補助金についても対象が再生可能エネルギー
車であろうと終了させる」と述べた。時期について質問されると、近いうちに終了する
とし、2020年か2021年になるかは分からないと説明した。自動車メーカー各社
の税控除対象車の上限は20万台に設定されており、販売台数がこの水準に達したら税
控除は段階的に廃止される。GMは年内にこの水準に到達するとの見通しを示している
。テスラは7月にこの水準に到達したという。他のメーカーは、数年間はこの水準に達
しない見通しという。さらにマクロン氏は3日、フィリップ首相やルメール経済・財務
相らと協議した。このためルメール氏はベルギー・ブリュッセルで開かれたEUのユー
ロ圏財務相会合を途中で退席した。そして決まった事がディーゼルの排気ガス問題に対
して、EUから補助金を出す。という話である。えええ〜〜〜いままでの企業への罰金
は一体何だったの。地球温暖化防止は兎も角企業責任はあるだろう。しかし、これで、
ドイツのメルケル女史はルンルン気分であろう。企業に排気ガスのシステム調整を振り
また、国の補助としても、税又は企業となれば市民との摩擦は避けられない。今デモで
揺れるフランスの二の舞になりかねない。それがEUが思い切り紙幣を刷ってくれたら
そりゃ御の字であろう。幸いに、自国自動車会社の延命に口を挟む英国はいないし、仏
国のマクロン氏もルノーも先は不明な中で VWもベンツやダイムラーなどの自動車会
社を救済するな、とは言えない環境だろうし、これでロールスロイスは格下になれば、
それはそれでいい事でEUの代表自動車会社になるかも知れない。特に三菱が狙ってい
ただろう、トラック・バス部門などのフォルクスワーゲン(VW)の商用車部門トラッ
ク&バスは今年、力強い増益を見込んでいる。欧州や中国で販売が好調なことに加え、
ブラジル市場もやや回復している。独ダイムラーも、乗用車部門とトラック・バス部門
をそれぞれ分社すると発表し、スウェーデン商用車大手のボルボはグローバルで生産、
開発、販売を部門別に統括していたが、昨年、子会社のUDトラックスに日本や新興国向
け事業の権限を委譲し、UDが独自に戦略を構築できるようにした。再編は進む。

1260: 名無しさんAA:18/12/04 14:26
  十戒を生き抜いた懺悔の民 14

 今度の外国人就業者に、シャープの企業が名前や技術のみ相続して、外国人労働者に
派遣会社は三千人の雇止めを行っている。正社員などの保証ある人なら兎も角、派遣で
出稼ぎ労働者に、次の就職あっせんする事も無く突然の雇止めと言うのは解せない話だ
。 シャープ亀山工場(三重県)で働いていた多くの日系外国人が雇い止めされていた
問題で、労働者の一部が加入する労働組合「ユニオンみえ」は、東京都内で記者会見し
、雇い止めは3千人弱とみられると明らかにした。外国人労働者の受け入れ拡大を目指
す政府は、人手不足を訴える企業側の意向を理由に挙げている。しかし、3千人もの雇
い止め判明で、国会審議が続く入管難民法改正案への懸念は一層強まりそうだ。ユニオ
ンみえの広岡法浄書記長らは「日系人でも不利益な立場で働かされている。法改正で受
け入れる外国人も人権を奪われるのは明らか」と危機感を訴えた。これに対して法的雇
用主の派遣会社は返答をしない。また倫理的に道義的な実質的雇用主のシャープは下請
け派遣会社の事で当社は関知しない。と突っぱねた。これは明らかに労働基準違反であ
る。何故なら、仮に事故が起こって死亡者が出た時の保険的個人保証の責任は雇用主も
あるが、実質的使用責任や安全責任或いは監理者責任はシャープにあるからだ。家に、
火災があったとして、借り手の責任とする部分はあるがそもそもの借家の防火責任や、
不法な管理仕様や使用用途などは大家にある。特にこんな前例のない突然の解雇などは
どんな契約形態であろうと 平等の地位や力関係での契約法に違反している。つまり、
既に江戸時代以前から、日本は簡単な理由なき解雇を許してはいない。そして民法も、
かつでの大日本帝国憲法でもそうした事は許していない。だからこそオイルショック時
にも従業員の給料を上げたし、転勤の移動命令の多い頃は、仕事がなくても窓際族でも
雇ったし、また不況時の工場閉鎖でも下請けに転向派遣を行ったのだ。法律に奴隷的な
人の使用は全く許さない気概で時の法律家が書いているからだ。だいたい今の政府は頭
がおかしい。休眠預金まで手を付けて管理するなら兎も角使おうとしているのである。
余裕も何もない。銀行が潰れる事に使うとか、担保設定に置いておくとか、銀行融資枠
の足しにすれば景気も大きくなるのに、政府財政は利子すら拡大させるほどいい加減な
政府が分捕ろうという卑しさは情けない。昔のままで犯人を処罰できてもしない。組織
は軒並み腐れ犯罪摘発しない 従業員はその場解雇で乞食を増やす。馬鹿げた政府だ。

1261: 名無しさんAA:18/12/04 20:35
ヨーデル・ドーデル・プーチン様  38

 しかし欧州も大変である。英国の議会の承認期限は来年1月21日と、まだ1カ月半
以上残っているが、「ノー・ディール(合意なき離脱)」に備えよ、という論調も珍し
くなくない。イングランド銀行(英中央銀行、BOE)はEUと英政府が合意した離脱
案に支持を表明したがこれ以上混乱は避けたい現れだろう。低迷しているポンド相場は
、恐らくまだ下がる。このまま合意の様に進めばシナリオに至った場合でも中銀にでき
ることは限定される。1〜1,5割位ですみそうだが非現実的なノー・ディール」シナ
リオだと底が見えない。2〜3割ずるずると行きそうで、その内自然現象の負荷に耐え
られない国情が出来るかもしれない。旱魃の為の火事、豪雨による浸水、台風や地震や
強風による災害などだ。軟着陸に至る環境をできるかぎり整備することが望ましいのは
当然である。とはいえ、離脱に反対賛成どちらもこの合意に意味は無いとしている。つ
まり離脱リスクはあっても離脱リターンが無いのだ。精一杯のメイ氏でもこればっかり
は仕方がない。EU内では大将で優位だったから外れればそうはいかない。国民投票後
を思い返せば分かるように、今回も合意なき離脱で悲観ムードが極まる想定は現実だろ
う。一番の軟着陸はメイ氏が降りてもう一度この条件の離脱しかできないので国民投票
で見極めたいと言い出し、離脱をキャンセルする事だろう。しかしそれでも相当の覚悟
が必要だ。英国を守る事で個人評価を気にしないとなれば出来るが英国人には無理だろ
う。協定案の肝である「(2年弱の)移行期間延長の可能性」に注目すればポンド相場
は急落を強いられても緩やかな下降ではあろうが、全くいつまで続くのか止まらないと
いった具合になる。ポンド相場が急落し、同時に消費者物価指数(CPI)も押し上げ
られる。正確には、ポンド相場が反転、上昇に転じた後もCPIは上がる。輸出はいい
が輸入に負荷がかかるからだ。離脱決定だけでも前年比+3〜4%で推移したという。
しかし、今回国内企業の3割は移転する。つまりこの倍はいく8〜10%である。とい
う事は物価は確実に1割は上がる。果たして年金生活者など少子高齢化時代に耐えうる
だろうか。実質所得と共に政府予算も1割は下げざるを得ないのだから。更に中国台頭
で世界資源の枯渇が追い打ちをかける。つまり物価が2割あがっても生活する事になる
。既にノー・ディールでなくても離脱に合わせ、在庫倉庫枯渇でEUに移す経営者は出
始めている。中国と違って、すでに中流生活している先進国がそうそう質が落とせると
は思えない。EUの輸出入に共通関税が課されると、英国民が品不足に直面するケース
も多々出てくる上に輸出入用の事務や在庫の手間やロスは10倍以上である。


1262: 名無しさんAA:18/12/04 20:36
 ヨーデル・ドーデル・プーチン様  39

 すでに英国では買いだめ行為が発生しており、それにより景気が上向いているという
声すら出始めている。すでに市場では、ポンドは国民投票後の安値を割り込み1.10
ドルまで急落するという見通しも目にする。そもそも国民投票後、ポンド相場が下がっ
た以外、実体経済に具体的な変化があったわけではない。当の利上げも、「通貨防衛の
ための一手」というより「好景気に対応する一手」と解釈される雰囲気が強かった。実
際、BOEは17年11月に利上げに踏み切った際、実質国内総生産(GDP)の成長
率加速や失業率の低下などを理由として挙げていた。国民投票で離脱方針を決めても、
EUから即離脱するわけではなく、関税や非関税障壁が突然復活することに景気失速や
、社会的混乱を懸念する必要はなかった。しかし、ノー・ディールで離脱すれば、英国
とEUの輸出入には共通関税が課されるようになり、英国民が品不足に直面するケース
も多々出てくるだろう。すでに英国では多くの経営者が東欧州の移転を考えていると噂
される。これまで築き上げた手法を一から創り出し構築する負担は、かなりの負荷であ
ろう。実際物価が上向いているという声すら出始めている。実体経済において、ノー・
ディールを現実に起こり得るものとして受け止める向きが出てきた好例だろう。今が、
絶好調の景気になって居れば少しは気が楽だろうが、そこまで行っていない。だから議
員の浮かれた演説や主張に待ったをかけたい英国銀行だろう。未曾有のショックに見舞
われる恐れがあり、BOEに打つ手はないので、必ず現行の離脱案で決着させるべきだ
。多くのエコノミストは、このような警鐘を鳴らしている。オプション市場では、ポン
ド相場の下落に備え始めた様子がうかがえる。ポンド/ドルのプットオプションとコー
ルオプションの売買の傾きを示すリスクリバーサル、予想変動率(インプライド・ボラ
ティリティ)を見ても、16年6―7月並みの緊張感が漂っている。すでに市場には、
ノー・ディール・シナリオをある程度覚悟している雰囲気がある。しかし英国の景気の
後退に限らない。英国が2割後退すれば、フランスも又大きく影響する恐らく5%前後
失速する。そして戻る見込みがない。今フランス以下EU内も又未曽有の災害事情と、
国民不満の中に居るからだ。つまり手一杯の中の僅か5%の景気の落ち込みでも、今の
丁度気候変動と中国台頭の前では、余りにも重なりすぎだ。フランスのマクロン氏は、
国際会議もゆっくりできずにそさくさと帰路についている。フランス国民も自国の国土
を荒らして負荷を増やし不況を生産してもデモしている失態なのだ。馬鹿もここまでく
れば穏やかではない。


1263: 名無しさんAA:18/12/04 23:18
 ヨーデル・ドーデル・プーチン様  40

 日本ももう韓国など国交断絶していけばいいのだ。今後欧州での不況は、経済低迷に
陥る。アメリカも又自然災害に大きな拠出が必要だろう。日本も同じだ。経済よりは、
共生社会に入って行く。中国は既に自立した経済を持ち、食糧増産も一応終わり国内争
乱が始まる。作っても売り先が無いのだ。でアフリカ南米との商取引に負債が増える。
世界中ででまるでイナゴの様に 取り漁った中国人の後に絶滅危惧種は絶滅し、資源の
馬鹿取りに戦争が起こるだろう。問題は中東の出方である。中央アジアはロシアが主導
して何とか平和を保っている。しかしプーチンでも不死身ではない。年は取るし支持率
も下がる。隣国の中国人も何をしでかすか解らない。軍事的優位は保っているものの、
経済や金融更に農業技術や食糧増産には、ロシアは遅れを取っている。北方4島なんぞ
手放して日本の技術支援を仰ぎたいが、頭を下げ譲歩した形ではロシア国民が許さない
。痛しかゆしだ。特に少年の頃餓死寸前を母親が守ってくれた過去を知ると、この国に
二度とあんな食料も無い様な混乱状態にはさせたくない。その想いと義務感で大統領を
やっている。早く禅譲できる人間や豊かな国に変わって楽したい。この思いは充分ある
が、環境が許さない。と言った所だろう。日本人も交渉が下手だ。このロシアに日本に
渡そうそして豊かになろうと言う世論形成の何かすればいいのに。と心の底では思って
いる。だが北方4島の帰属と利権は手放すつもりはない。それは決して領土拡張ではな
く、ロシア領土のアメリカと中国からの防衛からだ。勿論最終的には核は持ち続けて、
侵される事はない。めちゃくちゃの中国は今のタクラマカン砂漠を作った遊民だった。
かつて中国大陸は沿岸部には僅かしか人は住んでなった。何故かこのタクラマカン砂漠
が雑木林の茂る豊かな大地だったからだ。今中国の恐竜時代からの地質調査で明らかに
なったのは、人類の有史以降も畑や農地があっただろうと言う事だ。だが中国の歴史が
始まる頃から一挙に家も木々も焼け川は塞がれ人々は住めなくなった。大陸大移動と共
に天候不順から戦いに明け暮れ農業から放牧に移った民衆がいたからだ。村々を襲い、
食糧を得ては村民を虐殺した。これが中国の歴史だった。今や23の砂漠のオアシス国
家は文書にはのこるもののどれ一つもない。敦煌・ホータン・カシュガル・トルファン
メイフォ・寧夏など今や小さな村で、かつての場所から離れて新たに住んだ町とされる
。気候も厳しくタリム盆地はー40℃〜+40℃の気候と言われ、一度壊された自然の
環境は、もう二度と木も生えないだろうとされる。そこに清野作戦で敵に渡さぬ為に、
全てを燃やし立ち去る作戦で戦った民族で、人類どころか生物にに明日が無い大地にな
った事は言うまでもない。

1264: 名無しさんAA:18/12/04 23:19
ヨーデル・ドーデル・プーチン様  41

 韓国ニュースでは大法院判事の今度の慰安婦や徴用工判決に、疑問符を付けた判事の
逮捕状を発行した。「2018年12月04日 12時16分 【ソウル】韓国人元徴用工らが日本企
業に損害賠償を求めた訴訟に関連し、韓国検察は3日、朴槿恵パククネ前政権の意向を
踏まえて大法院(最高裁)判決を遅らせたとして、職権乱用権利行使妨害などの容疑で
朴炳大パクビョンデ大法院前判事(61)の逮捕状をソウル中央地裁に請求した。聯合
ニュースによると、大法院判事経験者の逮捕状が請求されたのは憲政史上初めて。朴前
判事は、大法院判事在任中の2014年10月、大統領府関係者と元徴用工らの、訴訟
判決を遅らせる協議を行った疑いが持たれている。訴訟と関連する日本企業の関係者と
秘密裏に接触したことも確認されたという。朴前判事は当時、大法院長を補佐し事務を
統括する「法院行政処」のトップを務めていた。訴訟を巡っては、韓国メディアが今年
7月、当時の大法院が、日本との関係を考慮した朴政権の意向を受けて判決を遅らせよ
うとしたとする内部文書が見つかったと伝え、「朴政権時代の不正」として注目された
。一方、今回の逮捕状請求には、左派の文在寅(ムンジェイン)政権が、過去の保守政
権の不正を過剰に追及する「積弊清算」の一環だとする批判的な見方もある。他2人と
共に3人を逮捕拘留して取り調べていると発表している。韓国は煮ても焼いても食えな
い国である。重鎮の国会議員や首相・外相が「韓国は国家の体をなしていない」とか「
ありえない」と叫ぶ事態は度を越している。冷静に韓国側の反応や背景の分析と解説を
すべき「知韓派」を自認する元韓国大使や韓国留学経験のある大学教授らが、「安倍総
理のおっしゃるとおり」などと韓国叩きの先陣を切って、嫌韓世論をあおり、一方の文
政権も、今回確認された請求権は、未払い賃金に対するものではなく、それらを超えた
「不法な植民地支配および侵略戦争の遂行と直結した日本企業の反人道的な不法行為を
前提とする強制動員被害者の日本企業に対する慰謝料請求権」=「強制動員慰謝料請求
権」であると、韓国の民法の持つ消滅権から既に法律上時効の判決を、敢えて大法院は
棄却せず判断している。日本側がいう1965年の日韓請求権協定には、どこにも戦争被害
や植民地支配の損害に対する「補償」という文言は入っていない。などの嘘をつき、協定
制定時の協議資料をわざと捨てた処理をする。もともと日本が直接給付補償をしたい。

1265: 名無しさんAA:18/12/04 23:19
との要望を、国家で行うとの願として聞かない所から始まっている。そこで同協定の中
に協定の目的は、「前記の供与および貸付は、大韓民国の経済の発展に役立つものでな
ければならない」と第1条に明記している。文政権が国をあげての「印象操作」に走っ
ているのだから、騒動はなかなか収まらないと思われる。今回の判決内容は予想されて
いた。それでも左派の文政権の見解・立場では国際法違反でもでものっかかる事で政権
維持を図った。この判決はもっと早く下されるはずだったが、まともな朴槿恵前政権に
よって、大法院に判決に適法な工作が行われていたが、関係者を違法逮捕し訴追して、
五輪精神との対立しても北にすり寄ったように、支持率低下の為強硬手段にでたのだ。


1266: 名無しさんAA:18/12/07 18:18
 今だに悟らない西洋思想             −−−01。    

 ジョージ・ブッシュが死んだ。歴代の大統領が並んで列席し葬儀が営なわれた。ちょ
っと不思議である。あの英雄ジョン・マケインが死んだ時も列席しなかったトランプが
出席したのだ。マケインは81歳に及ぶ人生の前半期をベトナム戦争の英雄として生き
、その残り半分を戦争屋として生きた。ウクライナ、イスラム国、米の戦争には必ず顔
を出す米議会における「ディープステート」の象徴的な存在だった。マイケル議員委員
長には幾つもの逸話がある。2008年の大統領選挙戦でオバマと戦ったマケイン氏だった
が。選挙イベントに参加した女性支持者が「オバマは信用できない。彼はアラブ人だ」
と発言。するとマケイン氏はマイクを取り上げ「違います。彼は家族を愛するまっとう
なアメリカ市民です。彼と私は基本的な事柄について意見が異なるだけです。」と言っ
た。こうしてマケイン氏に勝って大統領となったオバマ前大統領は、かつての対立候補
の訃報を受けて、ツイッターでコメントを発表した。「自分たちには色々な食い違いが
あった」ものの、「より高いものに忠実だという共通点があった。何世代にも渡る米国
人や移民が同じように闘い、行進し、犠牲を払ってきた、高い理想に対して」と書いた
。さらに「ジョンはかつて、ほとんどが経験しないような形で限界を試され、勇気をふ
るわなくてはならなかった。あれほど厳しく試される経験をする人は少ないが、自分の
利益より大勢の利益を優先する、そんな勇気を自分も持てるよう、誰もが目指すことは
できる」と称えた。「ベストな状態のジョンは、それがどういうことか示してくれた」
と結んだ。ジョン・マケイン同様にこのジョージ・H・W・ブッシュもかなり高潔で常識
があったようだ。何回もの選挙戦に負けてレーガンノミ久に代表される供給経済学を、
ブードゥ経済学と揶揄したが結局は副大統領として辣腕を振るった。湾岸戦争でクェー
ト侵攻を許さないと戦争に出かけたが、イラクには侵攻しない方針を取って批判された
。この時彼はきっぱりと言っている。ブッシュは「我々はイラクのサッダーム・フセイ
ン政権の打倒を目的にしていない。新世界秩序を乱さない様にあくまで制裁の為の戦争
である。」と。更に、「侵攻し打倒し勝ったとしても、不慣れな砂漠の地で、ベトナム
戦争の様に、我々米国の若者がこの先何十倍何百倍も血を流し死んで行く事は望ましく
ない。」と。これを軍需産業の支持者達は弱腰と叫び、ビル・クリントンを持ち上げた
。知っての通りビルクリントンは、アメリカ企業マフィアの御曹司である。原爆開発で
巨万の富を得て、その頃の軍需産業束ねていた企業暗黒団の貴公子であった。



1267: 名無しさんAA:18/12/07 18:18
 今だに悟らない西洋思想             −−−02。    

 CNNはウェブ版のニュース記事でも、G20でのトランプ大統領の動向とともに、トラン
プ大統領との会談での「アメリカ中間選挙での歴史的な勝利」を祝辞を、安倍首相の珍
コメントとして紹介している。全く暗くなる話だ。CNNもBCCもニューヨークタイ
ムズも全く解って居ない。今貴ノ岩の付け人への暴力問題が更に出て来ている。日本の
精神論からすれば、年賀状問題である。「砂漠の嵐作戦」「シャルリー・エブド襲撃」
と全く同じ精神論の中にある。「年賀状問題」は、実は江戸・明治の頃の話である。つ
まり今まで挨拶を交わす手紙や話があって、日本は信書取り扱いの郵便システムを作っ
た。で普通に便りが交差していくと、どうせ手紙をくれるのなら年末より年始の方が縁
起がいい。と年賀状が急増した。この為日本は年賀状の特別受付を開始したのである。
わざわざ休みであろう1月元旦の配達を大々的に行ったのだ。日本の「おみくじ精神論
」とでもいうものであろう。「どうせなら縁起のいい奴がいい。」と言う欲望を満たす
小さな事を苦労し努力して行うのだ。今回の「貴乃岩の暴力事件」と「ゴーン氏脱税問
題」はそうした日本人的発想にある。ゴーン氏は小さい事だが慎重に1億円以上の給料
を巧妙に隠した。貴乃岩暴力事件は、大きな事と解っていながら小さでみじかな「暴力
」と言う自分の行為を止められなかった。フランス・パリ11区にある週刊風刺新聞を
発行している『シャルリー・エブド』本社にイスラム過激派テロリストは、我が教祖の
モハンマドの風刺を許す事が出来ず「編集長、風刺漫画家、コラムニスト、警察官ら」
を殺した。今回のG20記事ではトランプ大統領のロシア疑惑と関連してプーチン大統
領との会談がキャンセルされ、「サミットでもっとも重要」な習近平首席との会談、サ
ウジアラビアやトルコなど各国首脳陣とのエピソードと共に、中国や北朝鮮問題に懸念
を抱いている中で、「誇張した賞賛を送った」と、これまた小馬鹿にするような記述が
欧米の西洋主義が頭をもたげている。不思議なものだ。北朝鮮と韓国の会談で、何ら北
の主張と韓国の環境は変わって居ないのに「誇張する南北会談」とは誰も書かなかった
しトランプの北京入りを「行き過ぎるトランプ外交」などとは書かなかった。平和外交
は首脳同士の会話から始まる。とか称賛し、中国のやりすぎ外交や高給取り過ぎ給与と
言う感覚は日本のみの主張だったようだ。


1268: 名無しさんAA:18/12/07 18:19
 今だに悟らない西洋思想             −−−04。  

 地球上の「未来予想図」は深刻な病理がある。日本でも現在、政府がゴリ押ししてい
る入管法改正案は、低賃金労働の固定化や、社会保障をどうするのかなど、さまざまな
問題が発生することもさることながら、その手法と政府の高圧的独裁を許す現システム
に数多くの問題を指摘されている。実はその中で最も早く、誰の目に見てもわかりやす
い形で顕在化しているのがゴーン氏逮捕であろう。「外国人労働者」という弱い立場の
方と強い経済指導者の話は、実は日本流の文化を捨てるかどうかの瀬戸際であり、表裏
一体のものだ。日本に蔓延する、パワハラとセクハラの問題は、すでに日本のそこかし
こで進行している欧米化や西洋思想から来た問題だ。日本はKKKの様な白人優位主義
の様な極端な思想至上主義は存在しないものの、黒人奴隷の様な家畜以下の生活強要や
一般黒人を一般捜査で銃殺する警官の様な過激な行動もないが、そうそう事件化はしな
いが完全に今の義務教育の持つ西洋称賛主義が持つ思考方法である。つまり経済至上主
義である。生きる為に働かなければならない。→生きる為に金を稼がねばならない。と
すり替わっているのだ。日本には「働かざるもの食うべからず」と言う諺はある。だが
「稼がざるもの食うべからず」とはなって居ない。又 エブドー襲撃テロ事件は、犠牲
者が130人に登り、多くの負傷者を出した、同国にとって史上最悪のテロとして現場
では当時現場にいて生き残った人々や犠牲者の遺族と大統領が「我々は共にある。」と
の光景が見られました。「Je suis Charlie(私はシャルリー)(我々は共にある。)」
「アッラーフ・アクバル(神は偉大なり)」にどういう違いがあるのか日本は海外開放
に向けた実習生死亡「3年で69人」と立憲が発表した。6人は自殺で「外国人労働者
が69人もの死者がいる。自殺や溺死や事故死でいずれも20代の青年だ。おかしいで
しょう。」と問いかける。また失踪外国人で今失踪した外国人技能実習生2870人に対す
る昨年の法務省調査の元資料を分析した結果、全体の2/3を越える67.6% の1939人が最
低賃金割れだったと発表される。2017年の失踪者は7000人を超えた。この7割のすなわ
ち五千人程度はの20代の若い労働者が、ブラック企業の触手に食われ、労働搾取され
ている話になる。渋谷の「狂ったハロウィン」でも馬鹿日本人と外国人が逮捕されてい
るが、「郷にいっては郷に従え。」と言う諺があるが、白洲次郎が言った様に、「我々
は戦争に負けただけで奴隷になった訳ではない。」従って欧米の軍門に下って植民地の
支配にある訳でなく反対する。あくまで「独立国として連合国側に下っただけ」なのだ
。と反論する生き方や教育をしているだろうか。


1269: 名無しさんAA:18/12/07 18:19
 今だに悟らない西洋思想             −−−05。  

 サウジアラビアの記者カショギ氏がトルコで死んだ。自らの母国の国民を守るべき領
事館で殺されると言う異例な事だ。サウジは当然乍らイスラム教だが、このイスラムに
は神聖な事と言うのは無いらしい。国際社会において、大使館や領事館というは、かな
り自国を守るための大きな権限を持つ施設である。別名に、戦争国家と揶揄される米国
においては、今日では、ほとんどの国民は、自由のために自らが犠牲を払う必要はない
。アメリカの徴兵制は1973年に終わったからだ。当時ベトナム戦争においての悲惨
さは数々のメディアのニュースの定番だった。その中でアメリカの学生は、デモを起こ
し「兵に行かない運動」をし、その抵抗がスポーツ界まで蔓延した。特にボクシング界
王者のモハメドアリは、黒人の米兵の差別されたままの戦争の辛さを聞いて育っていた
。彼はイスラム教に改宗し名も替えた。そして徴兵制を蹴って裁判で収容された。これ
は黒人差別運動と平和運動とに火をつけた。1960年ローマオリンピックボクシングのラ
イトヘビー級で金メダルを獲得し、その後プロに転向していた彼は、1964年にはソニー
・リストンを倒して世界ヘビー級王座を獲得した。つまりメディアのニュースソースと
して充分だったのだ。マルコム・Xは、アメリカの黒人公民権運動活動家で過激な運動
家であったが、彼と知り合いになってイスラム教に改宗している。ネーション・オブ・
イスラム (NOI) のスポークスマン、ムスリム・モスク・インク および、アフリカ系ア
メリカ人統一機構の創立者でもあるマルコムは、キング牧師と対照的な運動家だった。
しかしマルコム自体は、暴力に訴えた事はなかった。父がミシガン州ランシングで人種
差別主義団体KKKに標的にされ、その後頭が変形するほど殴られ、体が三つに切断さ
れるように線路に放置されて轢死体となって発見された。明らかな殺人にも関わらず、
その時の警察は自殺と断定した。又マルコムの父は二つの保険会社の生命保険に入って
いたが、その内の一つは受け取りの金額が僅か数百ドルと小額が支払われたが、もう一
つの保険会社は受け取りの金額が大きく、警察が自殺と断定したとの理由により保険金
は支払われなかったのだ。母親は精神を病んだが病院では、黒人は人間モルモットまが
いの扱いを受けていたものと推測された。又裁判では、病院側はあらゆる質問を拒否し
彼女のカルテも無断で破棄したため事実は現在でも闇の中である。マルコムの祖母が白
人に強姦されて生まれた混血が彼の母親ルイーズだった。この時代のアメリカでは慈善
事業と謳い、富裕層の白人が黒人の孤児を引き取ることが流行していた。マルコム兄弟
は幼い頃から優秀な成績を収め学級委員長に何度も当選し、母親は役所から子供の養子
を何度も強要して精神を病んだとされる。

1270: 名無しさんAA:18/12/07 18:20
 今だに悟らない西洋思想             −−−06  

 マルコムは白人の上流階級の家に引き取られたが、自伝ではあくまでも「高価あるい
は珍しい動物としてしか扱われなかった」と語っている。歴史あるオムニ・パーカー・
ハウス・ホテルでテーブル片付け係として働いていた。このホテルはジョン・F・ケネ
ディがジャクリーン夫人に、プロポーズした場所であり、ホー・チ・ミンがシェフを務
めていた。その後、ニューヨークのハーレムでギャンブル、麻薬取引、売春、ゆすり、
および強盗に手を染めた。さらに第二次世界大戦中、徴兵を回避するために精神異常を
装った。1946年、20歳のときに強盗の罪で逮捕され、窃盗罪で懲役10年が宣告され
た。通常の窃盗罪は初犯では懲役2年となることが多いが、白人女性のソフィアと継続
的な性的関係を持っていたため、通常よりも長い懲役刑を宣告された。収監されたチャ
ールズタウン州刑務所では何でも罵った事で、特に神と聖書に対する悪罵から、看守か
ら彼は「サタン」と呼ばれた。急遽1948年には家族はマルコムをイスラム教に改宗させ
た。彼は獄中でイライジャ・ムハンマドの教徒となって彼の行っていたブラック・ムス
リム運動に出会い、その教えを勤勉に研究した。イライジャと文通を行いNOI(ネー
ション・オブ・イスラム)に入会した。こうして出所したマルコムは自伝では、大学や
大学院を卒業している黒人を「白人に従順になるように調教されたことに気付かない哀
れな家畜だ」と述べている。1964年、がたまたま公民権法に関する論議を聞くためにア
メリカ合衆国議会議事堂を訪れたマルコムは、キング牧師と、最初で最後の対面をした
。二人はたまたまその日いたために実現した事だった。この年アフリカ・中東を訪問し
、メッカに巡礼する。このメッカ巡礼で現地イスラムから熱い歓迎を受け白人で自分た
ち黒人を肌で判断しない彼らに感銘を受けてNOIを脱退し、アフリカ系アメリカ人統
一機構(OAAU)を組織した、この為NOIの緊張は増加し、教団内に侵入していた
FBIの潜入捜査官は、マルコムが教団によって暗殺の対象になったと報告している。
後に暗殺者ヘーガンは犯行動機について、マルコムXが意見の相違を理由にNOIと袂
を分かった為と語った。教団はマルコムの暗殺指令をメンバーに下して教団内のFBI
工作員はマルコムの自動車に爆弾を仕掛けるように指示された。という。しかし白人優
位主義の観点から、FBIが協力してNOIが存続し、その管理出来ない分派を許さな
かった。ともとれる。1965年に2月14日、ニューヨークの彼の自宅は、教団メンバー
によって爆弾で攻撃されたが、マルコムと彼の家族は無事だった。 一週間後の2月21日
、マンハッタン、ワシントンハイツ地区にあるオードゥボン舞踊場でマルコムがスピー
チを始めたとき暗殺されてしまう。

1271: 名無しさんAA:18/12/07 18:20
 今だに悟らない西洋思想             −−−07   

 アリはマルコムXと出会いその後思想に啓蒙され、イスラム教に改宗する。その時既
に自身の旧名、カシアス・クレイでボクサーとして活躍し、世界チャンピオンになって
いたが、教団から授かったムスリム名であるモハメド・アリに改名し、周囲を驚かせた
。また、マルコムXの影響を受けて、アリはベトナム戦争の徴兵令を拒否する。これは
世界タイトルの剥奪及び試合停止などの処分を伴う厳しい選択であったが、アリは自身
の理念を貫いた。しかし民衆の運動は活況となり、徴兵制を終わらせればデモが減るだ
ろうと考えたニクソン大統領が、徴兵制を廃止したのだ。第2次世界大戦やベトナム戦
争では、すべての国民が犠牲になる中にあったが、今は違う。代償を払うのは軍人とそ
の家族だけなのである。平和を訴える人たちは、「徴兵制を導入すれば、アメリカの戦
争は減る」と言う。自分が犠牲にならない人たちは、簡単に戦争に賛成し、戦争を支持
する政治家に投票する。そして、そのような人ほど兵士をヒーローと呼んで美化する。
しかし、戦争で犠牲になった軍人が望んでいるのはそんなことではない。第2次世界大
戦で親友を失い、広島の悲劇を見たジョージは、「戦争があったことを忘れないでくれ
」と言った。19歳のときサイパン戦に送られたケンは、「僕は日本兵を殺した。本当
に申し訳ない」と泣いた。戦時中、戦闘機の整備員をしていたロジャーは、「僕が悲し
いのは、今でも戦争が続いているっていうことさ」と言った。私は彼らの言葉を忘れな
い。今、イラク戦争やアフガニスタン戦争では、同じ軍人達が何度も のPTSD(心身外
傷後ストレス障害)が問題になっている。戦争から帰ってきて自殺する軍人の数が絶え
ないのだ。アメリカでは毎日22人、年間で8000人の兵役経験者が自殺している。フェイ
クニュースで名高いゴールドマン・サックスで投資銀行家として名を馳せ、調査事業の
バンパイヤオフィスで名高い「バイオスフィア2」の代行取締役のスティーブン・ケヴ
ィン・バノンは、元々が、経済ナショナリストを自称していて、彼は移民を少なくする
こと、中国やメキシコとの自由貿易を制限することそして年間所得高額者に課せられる
連邦所得税を増税することの3つを主張していた。この糞の様なナショナリストは世界
中に過激なナショナリストやポピュリスト達や保守派の政治運動家を支援し、ヨーロッ
パのさまざまなフェイクニュースソーサーを造り出している。馬鹿げているとしか言い
ようがない。本来ナショナリズムで大戦が起こり、人類はその過ちを認めてドゴール主
義に入ったのである。

1272: 名無しさんAA:18/12/07 18:20
 今だに悟らない西洋思想             −−−08  

 このド・ゴールの外交政治は一貫した国際政治における国家の自立主権であり、その
思想の実践としてNATOも欧州経済共同体(EEC)の国際組織に対して、ある程度
反対の立場を取った。その基本的な信条は、「フランスの存続のためにフランスは外国
に依存すべきではなく、フランスはいかなる外国の圧力に対しても従属すべきではない
。」というものでゴーリストとされ、米英から批判されたが、この意見によって、国家
群は常に慎重で確実な歩調で平和を築いた。この噂で浮足だたせた古今のイラク侵攻の
ような行動とは全く違っていた。実はこの英国や米国の自分の足元も考えず行動する事
を諫めた姿は勇敢である。これはドゴールの生き方そのものだった。事実フランス人の
相当の人はドイツ兵として徴兵され又相当数がレジスタンスとしてドイツの占領と戦っ
ていた。第一次世界大戦では大尉としてドイツ軍と戦い、1916年ヴェルダン戦で部隊を
指揮したド・ゴールは、最も厳重な捕虜収容所だったインゴルシュタット城の牢獄「天
女の宿」で生活しており、戦中5回脱獄を図ったものの全て失敗している。第一次世界
大戦の中で1916年のソンムの戦いと、ヴェルダンの戦いはその中心であって悲惨な土豪
戦であった。この、5回も脱獄を図ったと言う逸話は彼の肩書となった。ドゴール主義
ゴーリスト(ド・ゴール主義者、ド・ゴール派)と言うのは、「連続と開放」「集合と
離散」を掲げて、自立自尊の上の結集を信条としていた。排斥も融合も辞さない姿勢で
あり、その意味では今の英国のEU離脱の様な意味のない行動は行わない。第二次世界
大戦では、彼の生い立ちが、ロスチャイルド家と古くから姻戚のヴォルム銀行を代理す
る立場にあって、ヴィシー政権の主要な閣僚は同行から出ていて、ドイツと必然的に搾
取される中にあった。何故ならドイツはその資金が必要で侵攻したからだったからだ。
6月に首都パリが陥落し、ド・ゴールは、イギリスへ召還された連合軍顧問の英陸軍将
校スピアーズ将軍に同伴して亡命することを決断する。そしてロンドンに亡命政府「自
由フランス」を結成し、BBCラジオを通じて、対独抗戦の継続とヴィシー政権への抵
抗をフランス国民に必死に呼びかけるに至ったのだ。ドイツ帝国は膠着した戦況を挽回
すべく、参謀総長エーリッヒ・フォン・ファルケンハインの発案により、目標をパリへ
と続く街道にあるヴェルダンに定めた。ここで大量の損害をフランスに与えることによ
り、フランスが戦争を継続できなくなるよう企図したのである。当初においてこの作戦
は成功をおさめていたが、この戦いの本筋が消耗戦と理解しないヴィルヘルム皇太子は
ヴェルダン攻略に固執した。


1273: 名無しさんAA:18/12/07 18:21
 今だに悟らない西洋思想             −−−09  

その結果、両軍とも泥沼式に師団を投入して多大な損害を出した。この戦いの最中に東
部戦線でのロシア軍のブルシーロフ攻勢やイギリス軍によるソンム攻勢が始まり、ドイ
ツ軍はそちらの方に戦力を回さなければならなくなった。そのためヴェルダン攻略は中
止されたが、そもそもが、1914年のサラエヴォ事件の発生に、ドイツの参戦を主張した
事が始まりだった。第一次世界大戦勃発後、マルヌの戦いでドイツの攻勢が頓挫すると
、9月小モルトケの後任として参謀総長に就任したが、ヴィルヘルム皇太子はヴェルダ
ン攻略というのが、エーリッヒ・フォン・ファルケンハインの発案のフランスへの侵攻
作戦である古くからの、シュリーフェン・プランのからのもので、石炭領地の取り合い
であり、西部戦線の陣地構築の戦いだった事を知らない筈はなかった。そもそも、大量
のイギリス軍とフランス軍の反攻を一時食い止めるなどとはできないものを、苦肉の策
でドイツの完全勝利に悲観的な見通しを持ち、11月18日に外交交渉で戦争を終わらせる
為の窮地の戦略だったが、外交交渉を主張する覚書を政府に送ったが、ヴィルヘルム2
世の子ヴィルヘルム皇太子には聞き入れられる術がなかったのである。つまり作戦とし
てのヴェルダン戦をヴィルヘルム皇太子は全く理解していなかったのだ。その意味では
今の核開発の金さんはよく止まったものだ。と感心する。又、こうした攻防戦の最前線
に王子を立てた事は、「初陣の将の敗因」としてよくある事例でもあったのだろう。ド
・ゴールは第一次大戦後にポーランドの軍事顧問となり、同国へ赴任した。当時ポーラ
ンドは、この頃には革命ロシア赤軍の侵攻を受けており、首都ワルシャワまで迫られて
いていた。この時この戦いで活躍し、「ポーランド軍少佐」の称号を得ると共に、ポー
ランド政府からの勲章も授与された。こうして1921年ド・ゴールは帰国し、サン・シー
ル陸軍士官学校の軍事史担当教官として勤めた。弟のピエール・ド・ゴールはユニオン
・パリへ入行したが、ド・ゴールがフランス陸軍大学校入学し、後ペタンに買われて、
軍事教育を担い、「戦闘行為と指揮官」という特別講演も行っている。1926年レイモン
・ポアンカレ内閣はピエールの提言で、預金供託金庫と別個の独立償却金庫を廃して、
「国防証券管理・たばこ産業経営・公債償却のための独立金庫」を創設し、旧オスマン
帝国領から莫大な財源を得る事が出来た。1929年11月ド・ゴールがベイルートキャンプ
で軍事情報を管理し、1931年11月パリの軍事最高会議事務局に入るに至り、1932年、ド
・ゴールは中佐となり、軍事最高会議事務長に就任した。1934年「機甲化軍にむけて」
、1938年「フランスとその軍隊」を執筆した。終戦時この名誉を元に小さな軍隊は大戦
終了後の戦勝パレードにフランス軍として先頭に立って、連合国側の国をアピールした。

1274: 名無しさんAA:18/12/07 18:21
 今だに悟らない西洋思想             −−−10   

 そもそもド・ゴールが知らない間に作られたゴーリスト(ド・ゴール主義者、ド・ゴ
ール派の群れは何を目指したか。特にポンピドーは、1958年ド・ゴールが首相として政
界復帰を果たすと官房長官を務めた後、ド・ゴール大統領の下で1962年から〜1968年ま
で首相を務めた。ド・ゴール引退後も1969年の大統領選挙において、58.22%の得票率で
当選した事は半数以上の支持を持ったと言う事だ。ド・ゴールの後継者として登場しつ
つも路線変更し、外交面においては、イギリスのEC加盟を支持する姿勢をとり、イギ
リスの1973年にEC加盟を実現させた。同年に起こった石油危機への対応に追われる中
、大統領在任中の1974年に白血病で倒れ死亡したが、彼の意思こそがゴーリストの想い
であろう。各国の自立自尊の上の結集を信条としていた為。排斥も融合も辞さない姿勢
であり、その意味では今の英国離脱はEU敵対であって排斥した貿易関係は当然である
。戦後英国との貿易が切れていた時代ドゴール政権は倒れた。5月10日にはカルティエ
・ラタンが学生により占拠した五月革命(ごがつかくめい)が起こったのだ。1968年5
月パリの学生運動が、フランス全土に社会変革を求める大衆運動が起こった。発端では
パリ大学の学生の大学制度改革の要求に対し大学側は拒否し、大学側が警官隊の実力排
除要請でパリ市内で学生と警官隊が衝突した事だった。地方大学に波及し市街戦の様相
を1週間も起きて、労働者,教員組合が支援ストで労働組合,教員組合,農民組織のゼ
ネストで2週間も長きに、フランスは完全に麻痺状態に陥ったのである。こうして少数
のゴーリストは排除されたが、彼らの作った自尊自衛の戦略は、今でも原子力も核も持
ち空母も飛行機も開発し、国際社会に一定の発言権を持って対処する力を保有させ世界
の中に、ソ連米国の二大大国に欧州がある事を認めさせていた。今中国などが発言権を
持つに至ったが、それでも欧州は怯む事はない。その基盤が此処にある。しかし英国の
離脱は英国よりはEUが痛いし、それは取りも直さず仏国が一番苦労する立場にある。
実はルノーが日産を経営出来たのも、この大学問題,ベトナム反戦から高度資本主義の
管理体制を批判する社会変革闘争の様相を帯びた闘争で、経営軟化があったからだ。こ
の仏国は、経済と国家信条或いは宗教の政教分離の精神は一貫している。ルノー自動車
工場や国営鉄道をはじめ、マスコミ、金融機関に至るまで拡大化し、ゼネストの様相を
呈し、こうした内乱寸前の危機を収拾するために、政府は賃金の大幅引上げや社会保障
ならびに労組の権利の改善・向上を約束したグルネル協約を結び、次の選挙でゴール派
は議会でストの極左を一掃し、更に政権運営しそしてミッテランの社会党に移ったのだ
当然ルノーはこの時労働単価にあえぎ株を持つ政府は後押しした。

1275: 名無しさんAA:18/12/07 18:24
 フランス国民は、これは日本の象徴天皇制と同じに「自由・平等・博愛」を信条とし
自由は只じゃない。平等は闘いである。と思っている。ベトナム反戦から世界中に学生
の社会主義を理想とする運動が生まれた。フランス人は口に脳みそがあるんじゃないか
と思うくらい、なんでもかんでも後先考えず、言葉にしすぎー。と思う事もあるくらい
合意や同じ認識を気に掛ける。黙っていれば、文句も異議も無い、=最悪、何も考えて
いないおばかさん。と思われる。他人の話をあまり聞いてない人達なので何を言われよ
うと大して気にしない。その分フランス人はしつこく自分を主張する。日本人は気にし
過ぎるのでフランス人相手には空回りしていることが多い。「ポジティブ、さらっと自
慢」が基本。もうどうでも良いよ!って言うくらい、折れない!頑固。無駄に頑固だが
情が深い。日本人にとっては当たりが強すぎて、フランス人はフランス語に誇りを持ち
フランス料理にプライドがある。他民族移民を早くから入れた文化で、つくづく高慢で
好き嫌いがはっきりしている「面倒くさい奴らだ」と思われる部類だそうだ。これが原
因でフランス嫌いになってしまう日本人も少なくない。パリに来た日本人には、いわゆ
る「パリ症候群」になってしまう人がいるとか。態度が冷たいフランス人に会ったりし
て、日本人旅行者は自分が何か悪いことをしたのではないかと不安に思うそうだが、話
を聞いてみると、「前に来たお客さんが嫌な客だった」とか、「忙しくてお昼ご飯の休
憩に入れない」とかだったりします。関係のない人にも無愛想になる点があるそうで、
日本とフランスの文化の違いがまざまざだ。言わば、妻より世話好きのおしゃべりおば
さんで陽気でふくれっ面が多いお手伝いと言った風かも。友人や家族と答えのないどう
でもいい議論を延々と男も女も楽しそうに話す。日本のことわざには「言わぬが花」と
いうものがありますが、フランス人は議論し話すことこそが花だと言う。フランス人は
「お高くとまっている」とか、「保守的だ」と言われますが、その背景にはフランス人
の「馬鹿だと思われたくない恐れ」のようなものを感じます。映画にも文学にも保守性
は強くあって、「巴里のアメリカ人」というミュージカル映画もあるが、フランス人の
アメリカのイメージを現わしているのかも知れない。下町人情を重視する山田洋次など
、完璧にフランス系と言われ、小津安二郎がフランスで評価が高い。戦争映画なども、
戦前の日本の戦争映画などは、アメリカ系というよりは、ジャン・ギャバンなどがでる
ような、フランスの戦争映画などに近いといえます。アクションより人情、泣き重視で
物語は事象より心情を重く見る作風だという。おおらかでのんびりとしたベルギー人は
細かいことを気にせず、あくまでもマイペース。周辺国からジョークのネタにされても
気にしません。これにいらだつドイツとフランス人の挿絵があったがそうした国民性で
あろう。

1276: 名無しさんAA:18/12/07 18:24
 今だに悟らない西洋思想             −−−12   

 徴用工裁判問題で朝鮮日報は論説委員のコラムで「50年余り維持してきた合意や約
束を覆せば相手が反発して関係が悪化する。だろうことは誰でも分かること・」と論じ
、1965年の日韓請求権・経済協力協定に反する判決そのものを批判した。その上で
、「日本が各種の協定破棄に出てきてもおかしくない」と警告する。中道の韓国日報は
、社説で、「韓日政府は解決を急ぐべきだ」とする見出しを掲げ、さらに有識者のコラ
ムでは「日本と対立する懸案ばかり積み重なることは韓国の国益にかなうのか」と疑問
を呈している。この韓国の思いあがりは、韓国民全員ではない。だがこの一部の条約を
破棄する判例を作り、全く嘘の虚構の歴史を作った犯罪国家は、ヒットラーに勝るもの
で歴代大統領が築いて来た道だった。日本人の特に正義感のあるまともな有識者の落胆
には、想像を絶するほどの暗さを持つ。およそ百年間も、どう罵られ罵声を浴びようが
国際社会に「共に繁栄する事は大事な事なんだ。」「アジアは中国や朝鮮を差し置いて
自分達だけ発展しても人類の為にならない。」と事あるごとに提唱してきたからだ。今
トランプ政権下で言われている日本評は「日本は手ぬるい。全く中国・韓国は変わって
いないではないか。」との批判である。そして北の核が届くまでなった今では、米国内
のオピニオンたちの言い分は「却って悪くなった。」の一言である。これを受けてトラ
ンプ大統領が当選した。ラビア・カーディル元世界ウィグル会議議長が中国のウィグル
政策に対して、「米国は目覚めた」と語った。かつて大正時代が終わって近衛内閣が出
来た。近衛は支持基盤の無い象徴天皇の様に、国民人気に支えられた政治家だった。双
子山相撲に喝采を浴びるとき、新聞は部数を伸ばすに戦争を煽った。「我々はその責任
を全うすると総国民精神論を演説した。一方米国は更に上を行く中にあった。ウイルソ
ンの孤立平和主義は遠のき、イエロージャーナルの国民の聞きたくない声は流さない。
国民が聞きたい文章が部数を伸ばすとして欺瞞主義の下ルーズベルトは、「私は戦争に
反対する。故に他国に干渉し参戦する。」ともっともらしい欺瞞声明で圧倒的に支持さ
れた政権が誕生した。四国協商条約を結んだ。世論に後押しされた軍部は仏印インドネ
シア占領を果し、松岡に翻弄された近衛内閣は、ユダヤの軍需産業が派遣したハル国務
長官の盾で日米首脳会談は頓挫され、御前会議では負ける戦争を鼓舞する軍部に圧され
た。

1277: 名無しさんAA:18/12/07 18:24
 今だに悟らない西洋思想             −−−13     

 ルーズベルト大統領は、1937年7月7日の盧溝橋事件勃発後の日中戦争(当時日本側呼
称:支那事変、近衛文麿首相・第1次近衛内閣)にあたり、大量の軍事物資を援蒋ルー
トを通じて蒋介石率いる国民党政権を支持し送り続けた。当時の国務長官のコーデル・
ハルはかなりの頑固者で政界のドンであった。アメリカ合衆国の政治家として、この、
フランクリン・デラノ・ルーズヴェルト大統領の下で1933年から1944年までアメリカ合
衆国国務長官を務めた。1945年のノーベル平和賞の受賞者であり、「国際連合の父」と
称されたがやった事は戦争特需の政策だった。1913年には最初の連邦所得税法案を通し
1916年には同法案修正と連邦および州相続税法を強行成立をさせた。これによりルーズ
ベルトは米国の紙幣発行権を完全に捨てた形になった。ハルは1930年に上院議員に選出
され、1933年にはフランクリン・デラノ・ルーズヴェルト大統領より国務長官に任命さ
れて信任を得ていた。ハルの政策は貿易の促進と関税低下を支援し、また、1930年代の
東アジア開発に対する彼の警告は、アメリカ合衆国連邦政府に日本との戦争準備を支援
するものだった。国務長官として1941年11月にハル・ノートを提示したが、そこには、
日本の中国大陸からの撤退と言う、満州鉄道や満州国建設の利権が来なかったユダヤの
不満の代理人としての条項を付け加えていた。こうして日本との交渉は決裂し、12月
には真珠湾攻撃によって太平洋戦争が開戦した。ユダヤの代表として1943年のモスクワ
会議ではアメリカ全権代表を務め、ハルはドイツのロケット科学者ヴェルナー・フォン
・ブラウンと彼の研究チームをペーパークリップ計画によってアメリカに移送して、ア
メリカのロケット計画を組織し宇宙開発に貢献した。彼が本当に貢献したのはこの計画
で、後のNASAの宇宙開発計画の基礎となっている。一方ハルは国際連合の発案者で
熱心な支持者であったことで有名でもあった。彼は「国連憲章」の執筆を国務省に強く
求めた主要人物であり、それは1943年の中頃までに実行された。共和党は依然国際連合
への加入に反対したが、ハルの超党派的献身がアメリカ合衆国の国際連合加入に際して
共和党が協力した理由だとされる。此の事で彼はしばしば「国連の父」と呼ばれるのだ
が、しかし当時ユダヤ社会は、世界征服政府設立に多くの思想の流れがあった。つまり
どの国にどの世界にいっても ユダヤ人の行動が迫害されない世界を望んだのである。


1278: 名無しさんAA:18/12/07 18:25
 今だに悟らない西洋思想             −−−14   

 現代の共産党中国に対して、米国のマイク・ペンス副大統領はハドソン研究所の演説
で、対中対決の姿勢を明確に論じた。「ソ連の崩壊後、中国の自由化は避けられないと
想定した」「自由が経済的だけでなく政治的にも拡大することを期待した。」こう述べ
、そのため「楽観主義をもって米国経済への自由なアクセスに合意し、WTO(世界貿
易機関)にも加盟させたが、その希望は満たされなかった。」と断言したのだ。ペンス
副大統領は、ハドソン研究所理事のマイケル・ピルズベリー著『China 2049』の論拠を
なぞる演説したのである。このピルズベリー博士は、もともとCIA(米中央情報局)
の高級職員として米国の歴代政権に仕え、1973年から中国各軍の将官や政府の強硬派と
仕事をしてきたとする人だ。コロンビア大学の指導教官は「西洋と日本がいかに中国を
不当に扱ってきたかを強調し、『贖罪すべきだ』と示唆した。」と述べている。事実、
やっと米国はアジア社会の中での巨大国家中国に改めてサングラスを外し直視した形と
なった。つまりこの間200年も過ぎた今になって、中国の蛮行社会を認めたのである
。今まで、多くの中国を研究する米国人は「中国を西洋帝国主義の気の毒な犠牲者。」
と言う良心の呵責まで持って見做しがちである。 「中国を助けたい」という願望と、
「犠牲者という中国の自己イメージ」を盲信する傾向が、これまでの米国の対中政策の
軸であり、歴史であった。その潮流はまさしく「中国分析の専門家による大統領などへ
の提言」にも影響を与え、中国=正義の覇者 日本=悪意の島国のイメージで進んで来
ていた。それを誇張し焚きつけて来たのが属国同人種の韓国だった。ピルズベリー著書
『China 2049』は、博士が50年間中国に関わってきた集大成として2015年に上梓したも
のだが、その中には 中国専門家として中国の軍部や諜報機関に誰よりも通じていた事
で知り得る知識が、今まで、朝鮮戦争、中ソ関係、ニクソン訪中、天安門事件などに関
わる中国の考えを、米国は少しも理解していなかった、という反省で書かれているから
驚きである。ジョージ・ワシントン大学のロバート・サタ―教授も中国の攻撃的行動を
過小評価していたことを告白している。此の事は、兵法を得意とする中国が依然として
「孫子」の大国であったことを如実に示したというべきであろう。

1279: 名無しさんAA:18/12/07 18:25
 今だに悟らない西洋思想             −−−15   
 世の中には時の常識と 人類普遍の定める正義がある。大陸中国で、中国新政府ソ連
はナチス以上の暴虐を続けていた。これは全く歴史に出てこない。しかし日本人がいた
数々の都市では赤化したロシア人が帰化した日本人は勿論ロマ人もユダヤ人もチェコ人
も総じて惨殺されていた。ニコライエフ港の惨殺事件他 恐らく聞こえない情報からで
も2万人程度の一般人が簡単に何も戦争していない平和な村人が勝手に殺されていたの
である。そして日本人が巻き添えを食ったのは、他ならぬ国際社会の要望のシベリアへ
の出兵からだ。つまり既に、植民地主義の破棄を叫んで居た時、日本は国連からの排除
にピストルの標準器を当てられ標的になっていたのである。それでも日本政府は義侠心
を捨てずにアジア救済を捨てなかったし又捨てられなかった。日本には資源も技術も乏
しく、いつなんどき、あの鎖に繋がれた黒人奴隷の様な農奴になるかは解らない運命を
背負っていたからだ。従って第一次大戦には参加しなかったがシベリア出兵をしたのだ
。1918年11月11日、ドイツ敗戦で第一次世界大戦が終了した事になった。では
始まったの一体いつか。 1914年7月28日からとされ、サラエヴォへの視察に訪れていた
オーストリア=ハンガリーの帝位継承者フランツ・フェルディナント大公を暗殺した事
件が発端だった。とされた。だがこれは今の歴史上の記述であり、日本の開国以前から
オスマントルコの帝国との戦争は続いていたのである。1910年に日韓併合で喜んだのは
国際社会であり日本のメディアであって、けっして日本政府では無かった。それは日本
が金がない貧国と日本人自身が知っていたからだ。テラヌリウス=無主の地の思想は、
ナチスを作り、ポーランド人ロマ人ユダヤ人チェコ人を人間と認めない政策を取った。
そして今もロシアに受け継がれている。またオーストラリアのアボリジニ先住民の判決
にはそういった思想が溢れている。「歴史に関する偏った選択と解釈が意図的になされ
たのです。」と憤慨する白人も多い中、初期の開拓者たちが残した文献を研究する人達
は「白人の彼らが侵略した土地に、すでに先住民たちが住み着いており、十分に開拓さ
れていたといった事実は排除された。英国人たちは、先住民たちがその土地を使用して
いなかった、あるいは、彼らはそもそもそこにすらいなかったと主張しようとした。」
1992年に下された連邦最高裁の判決は原告代表として裁判手続きを推進した「マボ対ク
イーンズランド州事件」でやっと「オーストラリア先住民やトレス海峡の原住民には土
地との特別な結び付きがある。それは植民地化よりも前から存在しており、今日も依然
として存在している」という判決内容にかわった。「テラ・ヌリウス=無主地」、すな
わち「先住民たちがその土地を開墾していなかったため、植民地化され、時のオースト
ラリアは“誰のものでもなかった”」というフィクションを否定した瞬間だった。

1280: 名無しさんAA:18/12/07 18:26
 今だに悟らない西洋思想             −−−16   

 つまり、1992年まで待たねば、「テラ・ヌリウス=無主地」、すなわち「先住民
たちがその土地を開墾していなかったため、植民地化され、時の白人達のは“誰のもの
でもなかった”から住んだ。」という理屈が、通っていたのである。彼ら白人社会には
、国のルールや資格が要った。つまり一つは中央集権が整っている事。一つは異端でも
キリスト教を認める国或いはキリスト教を知る国である事。そして一つは侵されない主
権や兵器の存在が認められる事。この三つの基準が無い限り大国に蹂躙されたのである
。中国は皇帝の国だった。皇帝には国の境界と言う物の認識は無かった。従って中国の
政府役人は、属国を売る事は皇帝に報告する事だけであった。香港を朝鮮半島を台湾を
琉球王朝を日本列島をウラジオストックを、みんな勝手に割譲した。つまり条約は領土
問題は存在しなかった。みんな自分の領土であり、割譲は他国に独占自治を認める事で
しかなかった。又譲り受けた西洋諸国も建て前の契約が国王に報告できれば良かった。
そして、この3つの条件が整えられでば、今度は借金を要請した。なぜこういう事が起
こったか、それはキリスト教にある。つまり異教徒には高い利子の貸付が出来たからだ
。そしてそれこそが国家間の戦争であったのだ。赤化したシベリアの大陸は、まさしく
ロシアの思う「無主の地」であり原住民はいないと宣言出来る地で、そこに中国との、
領地問題が起こっていた。中国には領土や境界の意識はなかったが朝貢外交の基本で、
天子様の影響のある土地である事が原則だった。この中国には天子は天が授けたものと
言う信仰の元に皇帝がいた。しかし徳のない天子が変えられる交代劇も天の意思によっ
てなされる。としていた。その為、天子は賊の侵入する支配下の占領には、兵を出さね
ば徳が無いとされ天子の椅子が取り除かれる恐怖で、ロシアと清の境界戦争は起こって
いた。1689年(日本では江戸時代・元禄二年)9月6日は、ロシア帝国と清がネル
チンスク条約に調印した。これにより大陸横断シベリア鉄道が開発出来た。この頃のロ
シアは北欧方面やポーランドなどと戦争をして、シベリアにも勢力を伸ばし始めたばか
りだったが、かといって全兵力を中国方面に割けなかった。清も、戦争の準備は進めつ
つ「できればロシアとの全面対決は避けたい」と考えていた。当時、ジュンガル(中国
・新疆ウイグル自治区にあった遊牧民の国)と戦争をしており、これを孤立させるため
にはロシアの協力が欲しかったのだ。ロシア最大の目的だった「不凍港の獲得」にはな
らなかったため、相対的に清にとって有利な条約となった。以降事あるごとに戦争と条
約を繰り返した。

1281: 名無しさんAA:18/12/07 18:26
 今だに悟らない西洋思想             −−−17   

 この頃の清は条約と言う物を知らなかった。先に言った様に境界と言う感覚はない。
つまり、ロシアを朝貢国の一つと言う要するに属国とみなし、もう一つの属国の満州の
仲裁人の立場と思っていた。従って、この頃のネルチンスク条約でもキャフタ条約でも
、朝貢国とのお付き合いを担当する理藩院が担当している。また条文には、ロシア語・
満洲語・ラテン語のみで作られており、中国語版はありませんでした。つまり、この時
国際法順守を守って、キリスト教の聖職者が通訳したラテン語を入れて、自国語版がな
いような条約であっても、兵を出さなくていいのであれば、それで良かったのだ。それ
が皇帝の権力とみなされた物だった。ネルチンスク条約から清国領とされてきたアムー
ル川(中国名:黒竜江)の左岸はロシアのものであり、ウスリー川以東の外満州(ロシ
ア:沿海州)とされた。両国の共同管理地とされ、清はロシアにアムール川の航行権を
認めた。この条約を結んだ経緯は、簡単でロシア側の東シベリア総督が、停泊中の軍艦
から銃や大砲をぶっ放し、「条約に調印しないんなら、力尽くでアムール川左岸を取る
」との脅迫で、清国全権に認めさせたものだった。既にアロー号事件やアヘン戦争など
の「他国との戦争でボロボロ」になっていた清にあえて他国を入れず掠め取るやり方で
あった。これで日本に原住民が寄って来たのである。中国もロシアも信じられない満州
人は、その後孫文や安藤氏を初め数多くが日本に留学してきている。この頃は中国の国
力は衰退して止まない中にあった。それがプライドの高い中国人気質で、アヘン戦争・
太平天国の乱・アロー戦争などで清は既に国体の体のない状態だった。そこにロシアと
も不平等条約を結ばされるのである。決して謝らない。他国の権力の全否定は国民性で
ある。その為清の場合、受難が続く。アロー戦争の講和条約だった天津条約の追加項目
である。当初清とロシアではなく、清とイギリス・フランスの間で結ばれるはずのもの
に、追加項目で、そこにロシアが乗っかった形で、「天津条約」が三つも結ばれた。今
でも中国は「巨大の赤ん坊」と呼ばれる。つまり巨大な暴走する聞く耳を持たない国民
である。この時も戦争をどんなに負けても止める事はなかった。とされるその為最終的
に1860年 北京条約を結ぶ事になった。アロー戦争後の天津条約もかなりの賠償金
などが清に課せられたものだった。それでも、清の内部は「中華は世界の中心、我々が
西洋の野蛮人に屈さない。」という声に覆われて清政府は批准を拒んでいる。こうして
ゴネた分だけ英仏両国もロシアも、清朝に課せられた賠償金は重くしていった。イギリ
スなどは香港と接する九竜半島の南部を割譲するなど、どんどんむしり取られていきま
した。まるでこの時の戦争はルーレットカジノの掛け金状態であったのだ。

1282: 名無しさんAA:18/12/07 18:27
 今だに悟らない西洋思想             −−−18   

 世界はニュースに溢れている。特に有史以来今でも「巨大な赤ちゃん」たるその姿の
、自らに破滅の道に人々と共に行こうとする姿は、特に中国人自身に明らかにして見せ
るべきなのだ。だがその手足を司る「習近平」の脳は、顔である「共産党」も手となる
「軍部」も足となる「中国民」も市民も華僑も、今や聞く耳など持たない。悲劇への恐
怖心は例え集団自殺する鼠であっても、集団の中の安心感こそが救われるからだ。しか
し、やっとそうした砂漠バッタ状態の中国を正視する世界が出来た様だ。トランプが仕
掛けた貿易戦争はその魔法が融けた時の常人の反応だろう。突然発生した貿易戦争に、
中国には手立てはなく、僅かに大豆や輸入肉に同じ高関税をかけた。が国内では9億頭
のアフリカ豚コレラの発生に苦慮し、大豆などの農産物輸入などは是非安く仕入れたい
と250兆円の輸入会談を持ちかけた。今回の会談で、米国側の発表では、2000億
ドル相当の中国からの輸入品に対する関税を10%に据え置き、技術移転の強要や知的
財産権保護、非関税障壁、サイバー攻撃、サービスや農業分野について、構造改革協議
を速やかに開始することで合意した。と発表し、これらについて今後90日間で合意で
きなければ、対中関税は25%に引き上げられる。と声明を出した。しかし、中国国営
メディアは2日、今回の米中首脳が「重要なコンセンサス」に達したことを伝え、90
日の期限には言及せず。「テクノロジー分野など中国が守りたい分野への言及も乏しく
、まさに同床異夢、呉越同舟という首脳会談だった」(外資系証券エコノミスト)との
受け止めが市場で多い。この会談と共にゲノム編集ベビーを「作った」と発表した。つ
まりデザイナーズベビーの誕生だ。この声明に疑う専門家はいなかった。この研究者は
自らの業績を世界で評価してほしいだけで、倫理を蹴った。そして説明されるゲノム編
集ベビーを「作り話」と疑う専門家はいなかった。「ゲノム編集した受精卵から子が生
まれたこの技術は今では簡単な技術となった。技術の進歩は速い。常に先回りして議論
する必要がある。」「今後、倫理規範や、安全性確認などの国際基準づくりが進むだろ
う。」の声はある。しかし今だ国家規制である。またこの研究者の「死刑囚本人から同
意も得ている」と正当化する。しかし中国の臓器移植を調査してきた専門家は、中国の
死刑囚ドナーは今だ続けられ、世界的にはドナー不足しているにもかかわらず、発表さ
れているだけで年1万〜1万5000件の臓器移植が行われている。臓器移植の待ち時間も又
半日から数週間と非常に短い。声明で中国は死刑囚ドナーの存在について、「死刑囚は
中国社会に害をもたらした。だから臓器の提供は最後の償いだ。死刑囚本人から同意も
得ている」と正当化している。

1283: 名無しさんAA:18/12/07 18:28
 今だに悟らない西洋思想             −−−19   
「巨大な赤ちゃん」バスの運転手に、稀代のケ小平と言う人が顕れた。遺訓ともいう
べき声は「韜光養晦(とうこうようかい:目立たず用を足せ)」であった。しかし今、
習近平氏が登場して、終焉を告げた。「中華民族の偉大なる復興」を掲げて権力を集中
し「中国製造2025」を叫んだのだ。世界一の軍隊を作り上げ、太平洋の二分を目指すと
公言した。横行した技術の米国や日本など先進国からの知財窃盗は盛り上りを極めて、
。中国が米国に対峙し凌駕する。こうして覇権国家と闡(こえ)を上げるに至っては、
好意的にサポートしてきた米国も黙っているわけにはいかないと立ち上がったの形だ。
かつて昔、大英帝国として繁栄を極めた時代だった頃、英国は日本をパートナーとして
選んだ。しかし植民地経営は上手く行かず米国が独立してしまった。米国は英国に代わ
って世界のリーダーに躍り出たが、策略でパートナー仲間のふりをして日英同盟を破棄
させた。その後中国は猫なで声で条約違反を繰り返した。日本は被害を受けている事実
を中国の後見人ともみなされた米国に訴えたが、逆に日本の対応に異議を唱える始末で
、中国を諫めるどころか増長させる事に走った。ジョセフ・グルー駐日米国大使も又、
マクマリーの見識と同じに、条約破り常習犯の中国に日本が苦労していることや、共産
主義に日本が対処している実情を米国が理解していれば、米国がソ連という共産主義国
に対処する必要は起きなかったであろうと述懐している。日本人で当初共産思想に憧れ
て、米国に帰化したカール・カワカミは言う。 1930年代に、中国を最も知っていたの
は日本人であった。その日本の忠告に耳を傾けない米国に意見する。「いかに米国が、
親中反日的行動をとっていたか。」を、そこには、朝鮮人や中国人の宣伝に踊り舞い上
がり、共産党の罠にかかったルーズベルト大統領やチャーチルなどの姿がある。フレデ
リック・ウイリアムズはジャーナリストとして新聞で警告を発し続けていた。しかし、
当時の米国人に極東の中国と日本とに区別のつく人は皆無だった。「西洋諸国はアンチ
ジャパンで、(中略)日本が負けたら、ソビエトがあらゆる国を中国貿易から締め出し
、共産主義の垂れ幕の下に宝の山を運び入れるだろうという事実を彼らは考慮に入れな
い。」「ロシアの脅しが聞こえている。今真に行動に移ろうとしている。日本は今にも
世界のパワーになろうとしているソビエトを阻止しようと、一人で戦っている。」 「
我々が日本に1ドルを支払うごとに、彼らは20ドルをアメリカに支払っている。日本
は1937年では、アメリカから41%以上を買っている。」と。そして「日本は西洋の工場
で生産される農業機械類、鉄道資材など、無数のものを必要とし(中略)アメリカ人が
目覚め、外国のプロパガンダの手先になることをやめれば、このビジネスに参加できる
。」と、真実に目覚めるよう訴えたが叶わなかった。

1284: 名無しさんAA:18/12/07 18:28
今だに悟らない西洋思想             −−−20   

 蒋介石にユダヤは迫害されながらも米国軍需産業はくっついて離れなかった。蒋介石
のプロパガンダについては「かつてなかったほど沢山の偽物写真がアメリカの新聞雑誌
にこっそりと挿入された。彼らは次々と人々に恐怖を起させようと、実にタイミングよ
くリリースしていった。」上海の爆撃で破壊された廃墟で泣き叫ぶ赤ん坊の写真を例示
すると「世界中に配布されているから、偽物だと論破するにはもう遅い。(中略)『無
法行為』をしでかした『非人間的な日本人』への反感から、義憤が立ち上がってくる。
このような用意周到な指導された写真は沢山ある。米国軍部の指導の下に発行された物
だ。・・・そして日本の敵には大変な名声を与え続けた」「没落し行く紹介石政府は、
絶望したあげく、アメリカが干渉してくることを期待して、まず同情を得て援助を獲得
し、その創作劇の作成に宣教師達の知故を得た。宣教師がやろうとしたのは、アメリカ
人からの寄付であった。(中略)彼らは軍閥の支配体制、泥棒性、いかさま性、不信性
、道徳的堕落、野蛮性、ふしだら、賄賂といったことには言及しないであたかも正義の
ごとく集めた。」「これらは役人にも大衆にも共通する中国人の日常生活である。彼ら
は『素晴らしい』ところ、哀れを誘うところ、同情を喚起するところしか言わないのだ
。」「中国人は善意で貧しくあり、西洋世界とキリスト教が彼らに与えられるものを、
正当に評価し、あこがれている」と誇大広告を打って成功した。ラルフ・タウンゼント
も警告した。新聞記者、大学講師を経て外交官となり、カナダから1931年に中国に赴任
し、上海、厦門、福州で領事として2年勤務する。政治色も中国の予備知識もほとんど
持たずに赴任した実体験で、中国人の生き方や社会観、国家観などが、著しく奇妙で、
自分の国と違うことを知り、同時に米国が行う援助や布教活動は全く無意味なものであ
ると、外交官を2年で辞職した。時の外交官が、美辞麗句の建前報告をする一方、日本
の脅威のみが誇張された報告だったからだ。中国の本当の姿を米国人に知らせる必要が
あると、『暗黒大陸 中国の真実』(1933年)を書き上げ発行した。大学講師の傍らで
米国の極東政策のあるべき姿を示したが、米国人の間違った日本観、中国観執筆や講演
・ラジオで、糾すことに明け暮れた生活で、ルーズベルト大統領が進めている極東政策
、なかんずく対日政策の誤りを質すものだけに、言論弾圧され、出版も放送も制約され
、自宅あてに希望冊数などを寄せた者へ配送するなど 大変な窮状の中でやらざるを得
なくなり、さながら日本の為に吹聴するジャーナリストと批判された。しかし本人は、
自由の為平和の為正義の為に行った事だった。


1285: 名無しさんAA:18/12/13 18:48
『韓国の文喜相(ムンヒサン)国会議長は11日、外国メディア向けの記者会見で、日
韓慰安婦合意について、「韓国人の大部分が間違った交渉だったと判断している。慰安
婦は同意しなかった」と指摘した。「(安倍晋三首相の)誠意のある謝罪さえあれば、
(日本が慰安婦財団に拠出した)10億円は問題ではない。1円もなくても解決できる
」とも語った。』とニュースは伝える。これは許さざる言葉だ。まるで自分が韓国民の
代表であるかのような要請である。韓国はこれまでもこうした悪意を秘めた好意発言を
繰り返して来た。これまでの日韓合意も ほとんどは韓国国民に開示されてはいない。
又歴史上もどれだけの首相がどれだけの補償や謝罪し話し合いの席に着いた事か。今回
も勝手な現政権の判断であり策略で一つの戦略でしかない。つまり全く国民合意のない
勝手な日本をおとしめる発言でしかない。更に笑えるのは、『文氏は合意に基づいて、
設立された財団の解散はやむを得ないとの考えを示した。一方、元徴用工への損害賠償
を認めた大法院(最高裁)判決が人権問題などを考慮した結果だとしたうえで、「韓国
人は誰もが受け入れるしかなく、異議は唱えない」と述べた。「三権分立であり、司法
の判決をひっくり返すことはできない」と立法府として介入しない考えも示した。』と
続けられる言葉である。馬鹿につける薬はない。こんな詭弁が通る筈は無い。「財団の
解散はやむを得ない。」と言うのは全く可笑しな話で条約で国家間の合意が勝手に一方
的に破棄出来るならEU離脱に英国は苦慮しない。それが許されざる行為だから国民に
投票やEU委員会などと協議しているのだ。まずその重さがない。又「元徴用工への損
害賠償を認めた大法院(最高裁)判決が人権問題などを考慮した結果だ。」というのも
全くおかしい。今さっきっまで韓国内で大法院内でこの判決に反対した最高裁判事3人
を国家転覆罪或いは不当判断罪で早朝から逮捕にかけつけ拘留と留置と取り調べしたば
かりで、行政府がや立法府が三権分立を差し置いて逮捕に出かけたのだ。大法院勅令と
して。こんないい加減な法体系でいて「立法府として介入しない」なんていう二枚舌も
いいとこだ。又、文氏は韓日議連の元会長。昨年5月、文在寅(ムンジェイン)大統領
の特使として訪日した際に安倍首相らと会談し、日韓慰安婦合意について「合意をすぐ
に破棄したい、再交渉を求めたいということではない。」と語っていたという。つまり
もともとこの人の詭弁で進んで来た行為だったのだ。「合意破棄で再交渉しない。」と
は一体何を言いたいのか。要は私は抗日活動家の支援で成り立つ政権ですよ。と言いた
かったのである。国交断絶やむなし。これを表明すべきである。


1286: 名無しさんAA:18/12/13 22:11
 ファーウェイ(華為技術)の孟晩舟最高財務責任者(CFO)を逮捕した事件で中国
人民はiPon の不買運動が起こったり、カナダ人外交官や人権活動家が拘束される事件
や、中国の政府は官製デモの構えで対処している。全く可笑しな中国政府である。この
一民間企業のCEO逮捕で中国政府が購入税を引き、カナダ人相手に拉致監禁まで行い
、これでは中国政府は政府ぐるみでサイバー攻撃しています。ファーウェイ(華為技術
)と情報盗聴しています。ハッカーを養成しています。と言っているようなものだ。こ
れに踊らされる中国人民なら大馬鹿である。つまり自国民が管理され情報漏えいして、
共産党の手の中にいる事を認め、今までの天安門事件などの不幸な事件や悲惨な事を了
承する事になるからだ。カナダも痛しかゆしである。カナダの警察は、中国通信機器の
最大手ファーウェイ(華為技術)の孟晩舟を逮捕したものの自国の5Gはファーウェイ
(華為技術)で網羅しているからだ。孟は中国財界の大物でもある同社の創業者の娘だ
。米当局はカナダに対し、詐欺容疑で孟の身柄引渡しを要請している。孟が米国の制裁
対象であるイランと契約を結ぼうとしていた企業と自社の関係について、複数の米金融
機関に虚偽の説明をしていた疑いがあるというが、これは疑いでなく犯行が決定したも
のだろう。中国政府はカナダに対し、「重大な結果」につながると警告した。ほとんど
今まで中国政府とは関係ない民間集団としていたのが一転したのである。中国・国営新
華社通信は、「不愉快な事態」の発生を招いたカナダのジャスティン・トルドー首相を
批判している。また、中国共産党機関紙、人民日報系の英字紙・環球時報の胡編集局長
も、孟の逮捕を「テロ行為だ」「よくある人権侵害よりはるかに悪い」と批判している
。全く新聞社なら批判する相手が違うだろ。と言う所だ。国際人権NGOヒューマン・
ライツ・ウォッチ(HRW)の 中国担当部長は同編集局長の見解に反論した。そして「人
間の権利としての法の適正手続きと人権侵害に関する個別指導について、HRW にご連絡
下さい」と発表している。中国当局はカナダの元外交官で安全保障の専門家であるマイ
ケル・コブリグを拘束し、報復措置を取った。つまり、中国は自国のエリートの1人が
犯罪者として裁かれる可能性があるという事実が気に入らないということを理由に、相
手国の、人々の安全を確保するために働いた人々を逮捕しだしたということだ。「不愉
快」で人権侵害行為と決めつけ犯罪に当たるとしたのだ。捕まったカナダ人にはこの言
いがかりは「寝耳に水」でたまらない理由だ。だがこれは無節操な米国企業の経営者に
責任がある。中国のテクノロジー大手が台頭するなか、利益獲得の為、こうした中国企
業のいかがわしい行動に目をつぶり、取引を続けてきた無節操な米企業の罪があるのだ


1287: 名無しさんAA:18/12/13 22:13
 「中国の強制収容所に監視カメラを供給してるテクノロジー大手ハイクビジョンは、
米国の友人たちから多くの支援を受けている。」「米国の大手広告代理店は,支援をす
ることで、毎月2万5000ドル(約280万円)を稼いでいる.」「ハイクビジョンと提携す
るインテル は、この工場内の自動化を推進。アマゾンは 数百に上るハイクビジョン製
品を販売している。」「中国政府がファーウェイに対していつでもデータの引き渡しを
求めることができ、同社の製品は実質的に「あらかじめ埋め込まれたスパイウェア」に
なる。というのは5年も前から指摘され豪州で確認された事だ。それでも利益を追う米
企業家達は知らん顔して続けてきたのである。米国市場は以前から、ファーウェイを締
め出そうとしていた。さらに、米政府は11月、各国の携帯電話業者や、インターネット
プロバイダーに対し、同社製の通信機器の使用を中止するよう要請したのは去年である
。これまでも再三再四どこでもドアがある。盗聴盗視の事実がある。と追及されていた
にも関わらず、IT業界大手は「知らない」「言えない」「顧客の為」と言い訳を続け
ファーウェイ機器の装着を見過ごしてきた。やっと米Bloombergが10月4日、中国の工場
で製造されたサーバ用のマザーボードに、中国軍がバックドアとして利用することを狙
った超小型マイクロチップが密かに仕込まれ、Amazon やAppleを含む米国企業約30社
に納入されたサーバに搭載されていたことが分かったと伝えて表沙汰になった。サーバ
ー内のマザーボード上にコメ粒ほどの小さなのマイクロチップが組み込まれているのが
見つかり、ボード本来の設計にはない部品だった事が判明し、ハッキング用マイクロチ
ップと解ったのだ。この時捜査官らは問題のチップが操作されたサーバーを含むいかな
るネットワークにもアクセスすることを可能にするものだと結論付けた。事情に詳しい
複数の関係者によれば、チップの埋め込みは中国の製造下請け会社の工場で成されてい
たしそのチップはファーウェイのスーパーマイクロ社のチップだったのである。スーパ
ーマイクロ社はEMSベンダーとして各国のサーバー製品や産業機器に幅広く採用され
ている、業界屈指のサーバーメーカーである。米アップル(AAPL.O)とアマゾン・ドット
・コム(AMZN.O)などにも納入し、両社のコンピュータシステムに、中国情報機関が悪意
あるチップを組み込んだ。とするブルームバーグの報道を否定した。米CNETは、Apple
がこの報道を深刻に受け止めているとする声明を、Apple から受け取った。とされてイ
ンタビューを受けているが「顧客データに対する影響を示唆するものは何もない」と強
調されていた。がその半年後は、そのほとんどの顧客データーが盗まれたとする声明が
発せられている。アップルとアマゾン、中国製スパイチップがハードウェアに組み込ま
れていたとの報道を否定していたが、それを使ってハッキングされた事実が浮き彫りに
なったのである。

1288: 名無しさんAA:18/12/14 11:16
 バークシャー・ハサウェイは、ウォーレン・バフェットが会長兼CEOを務め、チャ
ーリー・マンガーが副会長を務める。2016年現在7名の取締役及び役員がおり、様々な
子会社、関連会社、株式等を所有している。実質的には会長兼CEOで筆頭株主である
ウォーレン・バフェットと、副会長のチャーリー・マンガーの2人が運営する株式会社
の形態をとった投資ファンドと目されている。このバークシャー・ハサウェイを投資し
統括指導するのが米金融大手ウェルズ・ファーゴ(Wファーゴ)である。ウェルズ・フ
ァーゴは、カリフォルニア州サンフランシスコに本社を置き、西部を地盤とする会社で
、2017年ではアメリカ合衆国で最も支店数が多い金融機関である。資産価値では、全米
第三位であり、市場価値では世界最大の銀行であった。カナダ、北マリアナ諸島、西イ
ンド諸島においても現地法人を数々持ち、個人向けの業務を営んでいた。同行だけを展
示した歴史博物館があるほど堅調な会社で、欧米の大手金融機関が投資銀行部門を収益
の柱とし、巨額の危険なデリバティブ残高を保有しているのに対し、ウェルズ・ファー
ゴだけはこれらの比率が他社に比べ相当に低く、伝統的な商業銀行ビジネスを柱とする
保守的な経営方針の金融機関として知られている。投資会社バークシャー・ハサウェイ
はその為か繋がりが深く、ポートフォリオの主力にウェルズ・ファーゴを据えている。
元々ウェルズ・ファーゴはその名の通り宅配業の会社だった。ニューヨークへ本部を移
し、連邦レベルで証券業界に対する調査と規制が進んだ1905年に、ウェルズ・ファーゴ
は銀行業と宅配業を分離し金融機関を設立している。エドワード・ヘンリー・ハリマン
がウェルズ・ファーゴをネバダ・ナショナル・バンクと合併させて支配権を握り、1906
年のサンフランシスコ地震で、ウェルズ・ファーゴ・ネバダ・ナショナル・バンクは同
じ被害を受けが、保険や復興のため預金は焼け太った。と言われている。アメリカン・
トラスト・カンパニーとの合併を計画しオフショア市場の先駆者となった。カード社会
をいち早く作りだした手腕はそのまま業績になった。しかしドイツ出店の折ラボバンク
と西部銀行を設立したが、この銀行は不動産を担保とする不良債権を抱えたので、この
処理にあたりウェルズ・ファーゴに損害が出た。国内銀行と合弁で更にロンドンに出し
た西部銀行も、オイルショックに耐えられずだめになった。ウェルズ・ファーゴは外為
取引でも失敗した。ミッドランド銀行(Midland Bank, 現HSBC)からクロッカー(Croc
ker National Bank)を11億ドルで買収し 落ち着いたが、一方でブラジルとメキシコの
債権が焦げつき、1989年半ばまで不良債権処理に追われた。1988年、バークレイズのカ
リフォルニア支店を買収しウェルズ・ファーゴは証券化を推進して不良債権処理をした


1289: 名無しさんAA:18/12/14 11:16
2000年、ウェルズ・ファーゴがナショナル・バンク・オブ・アラスカを買収し、2003年
、経営危機にあったストロング・フィナンシャルが運用していた290億ドルの受託資
産を買い叩き、ウェルズ・ファーゴのミューチュアル・ファンドは受託資産額が1千億
$を超えた。2008年、米銀大手ワコビア(総資産5207億ドル)を約151億ドルで合併
した。ワコビアの名前で売っていた証券部門は2009年ウェルズ・ファーゴ証券に改称し
た。世界金融危機のあと、マスターカードをめぐり欧米領域で反トラスト法違反容疑の
調査があったが、2011年、賄賂事件から続くアイルランド銀行解体に参加し(2014年か
ら欧州中央銀行が統制権を行使)、およそ10億ドルの負債を抱えた事業の受け皿とも
なった。2012年こっそりと、マーリン証券を買収し、ヘッジファンドやその他のアセッ
ト・マネジメントへ進出をはたした。後の調査でアイルランドは世界第4位のシャドー
・バンキング・システム保有国であることが分かったが、ウェルズ・ファーゴの資金が
このシャドーバンクの救済に向かったことになる。文字通り闇の投資者で英国病の欧州
でかなりEUを潤わせたのだろう。2016年、自社で顧客の許可のないまま口座を開設し
たり、クレジットカードを発行したり、違法行為が横行していたと明らかにし、問題が
多く過去数年の間に5300人の行員を解雇したと明らかにしている。中国のシャドーバン
キング問題では、すぐさまウォーレン・バフェットは投資に走っている。つまり利益率
の高い闇金に株式投資で資金提供し値が上がった時点で回収しウェルズ銀行に預金する
と言う循環をして世界を駆け巡っているのである。怖い話ではあるが、それが続く事は
ない。今や中国は総額500兆円とも言われている負債と、300兆円のマーケットが
ひとたび破綻への道へ動き出せば、世界的な同時株安が起き、日本のアベノミクスどこ
ろか世界市場が吹き飛んでしまう不景気がやってくる可能性がある。第二サブプライム
危機と言える。そんなことが起きてしまえば、各国、財政に余裕がない今この先30年
は立ち直ることが出来ないでしょう。銀行ではない証券会社やヘッジファンドなどの、
金融機関が行う金融仲介業務で影の銀行とも呼ばれるこの金融業界は銀行業界に劣る物
ではない。だがそうした事実に関わらず利益率の高さと安易な貸付で資金事情が大盤振
る舞いして破綻する。勿論勝手な高利貸し付けに保証する事は無い。と思いきやそうで
も無かった。中国政府は中央銀行を持たないが国営銀行5行、人民・農業・商業・工業
と中国銀行に政府調達の貸付を行ったのである。現在、地方政府傘下の投資会社が発行
した『理財商品』と呼ばれる金融商品で、10%を超える高い利回りで投資家に販売し
て、資金を集めたが、今や中央政府管理の上記銀行のいずれかが今の日銀の様な買付け
で持ち直したようだ。

1290: 名無しさんAA:18/12/14 11:17
 しかし現実的に、借りたお金に5〜10%もの利息を付けて返済するというのは、自然の
掟にはかなっていない。植物の成長度が5%だが、その中で自然損失1%人間の使用率
2%を差し引けば実質は僅か2%の余力かない。それも最大限の運用や高効率社会での
障害の無かった場合の話である。なかなかそうした利益が出来るものではありません。
ではどうなるか。当然自然破壊や闇雲な搾取や強盗である。即ち日本の1割の消費税も
人の物を盗めと言っている様な高い税率と言う事になる。中国ではその税金を引いた残
りでこの経済利率を達成しなければならない。当然紙幣を余計刷って誤魔化すか子供に
負担を押しつける債権の発行かで済ませる事になる。紙幣を刷れば物価を上げインフレ
が起こり、債権で誤魔化せば政府予算が先細りになるのは見えている。つまり建設軍事
などは予算削りにもってこいだろうが福祉や事業費となればそうはいかない。国民不満
が鬱積するからだ。こうして今や中国経済の減速により、開発事業自体が失敗して陰り
が見えるケースも多い。そこで持ち出したのが「一帯一路」の掛け声だ。つまり各国か
ら投資を呼び込み、他国に高利貸しして中国人に外国で事業して税金を納めてもらう式
だ。中国主導のAIIBアジアインフラ投資銀行は創設時の資本金は1000億ドルを
海外から資金を調達し、日本のADB(アジア開発銀行)の67カ国・地域を上回る70カ
国・地域となった。そして投資された各国はカンボジア、パキスタン、ムンバイなど、
恐らく200年経っても返せないだろうとされていて、開発された港や鉄道はいずれも
軍用港湾や用地或いは資源略奪の隠れ蓑として利用されている。だが、これでどのくら
いのお金が返済出来るかと言えば微々たるもので、中国国内の不能になっている実態の
掴めない300兆円ほどの返済不能(デフォルト)からすれば3兆円にも満たないと言
われている。個人的な見解では、この中国が引きずる世界経済にかなり悲観的で自然破
壊した建設に明日はないとみている。この所習政権において、地方政府発表GDP合計
と中央政府発表のGDPの数値のズレは収まりそうだが、今だインドネシア1国分のズ
レがある。不思議な統計発表である。そんな所で大金を投資することは、ハイリスク・
ローリターンだった。驚くほどの損失を出して中国のシャドーバンキングから手を引く
ウォーレン・バフェットの投資であったが、中国のシャドーバンキング問題はなんだか
んだ破綻することはなく、2017年現在でもかろうじて維持されている状況でも償却され
ずにいる。当然親会社の査察で、米連邦準備理事会(FRB)のパウエル議長は、不正
営業問題を受けて資産拡大禁止などの業務制限命令を出した。米金融大手ウェルズ・フ
ァーゴ(Wファーゴ)について、リスク管理強化などの是正措置を講じるまでは、業務
制限命令を解除しない、との方針を示した。拡大も縮小もできない。のである。中国は
大喜びかもしれない。

1291: 名無しさんAA:18/12/14 11:22
クリントン氏は、ウェルズ・ファーゴについて「米銀大手の一角が数千人の従業員に
不正行為を強いるなど、あまりにひどい」と断じた。その上で、消費者を欺き、従業員
を悪用し、納税者をだまし取る企業は「責任を負わされるとの明確なメッセージを経済
界首脳に送る。」とした。演説に先立ち、クリントン陣営は消費者による企業提訴を容
易にする計画を公表した。現在は提訴に持ち込む前に仲裁を義務付ける規定があり、消
費者団体などから集団訴訟や提訴そのものを困難しているとの指摘が上がっていた。ク
リントン氏はこうした規定が消費者に打撃を与えていることがウェルズ・ファーゴの一
件で明るみになったと指摘。「われわれはウェルズ・ファーゴのような企業が、こうし
た規定を利用し責任を免れられないようにする」と主張した。これは大統領選の2016年
10月04日のニュースである。この発言でクリントンを応援していたオピニオンリーダー
の黒幕達の態度が変わったと言われる。だが日本では全く報じられる事は無かったのだ
。この事件は、米消費者金融保護局(CFPB)は9月8日の発表に遡る。米大手銀行のウェ
ルズ・ファーゴが顧客に無断で預金口座開設やクレジットカード発行などの違法行為を
繰り返し、同行が1億8500万ドル(190億円)の罰金をCFPBに支払い、また顧客への損害
賠償として500万ドル(約5億円)を支払うことで合意したと発表しました。巨額罰金を
ビジネスとした米国政府機関のこの合意の、総額1億9000万ドルの和解金はちょっと少
なすぎる。何よりもウェルズ・ファーゴでは、こういう違法行為が2011年以降継続的に
日常的に行われており、顧客に無断で開設された口座が150万件、発行されたクレジ
ットカードが56万枚、当然にそれらはタダではなく預金残高が一定金額を下回り手数料
が徴収されて、顧客から不正な手数料収入が総額が260万ドル入ったとされるものだ
。この260万ドルも又恐らく不正の1割程でもっと多いに違いない。と思われている
その後ウェルズ・ファーゴは2011年以降、5300人もの従業員をこれら違法行為にかかわ
っていたとして懲戒解雇している。背景には無理な営業ノルマや実績に基づく報酬体系
があると言われ、ウェルズ・ファーゴは、調査時の自己申告による金額や件数とされる
。2011年から5年ほどの間に5300人もの従業員が懲戒解雇されたと言う声が上がって、
調査されたものだ。これに対してウェルズ・ファーゴの経営陣が、お咎めを受けた事実
はない。とにかくしぶしぶ調査した米国政府機関側も早々に和解してしまったため、こ
れ以上の情報が出てくるとも思えない。こうして「何か大きなものが覆い隠されてしま
った」と感じる中欧州の銀行では銀行間取引の利子料金を操作していたとか、シティ銀
行が付け替え作業していた。とかぼろぼろ出て来た。

1292: 名無しさんAA:18/12/14 11:22
 しかしそれでも政府側でも及び腰で、第二のリーマンショックを起したくない腹があ
るからだ。この問題は、世界の大手銀行が米国政府に巨額罰金を支払ったマネーロンダ
リングや経済制裁国との取引やMBS不正販売などのような大口取引や投資銀行業務で
はなく、ごく普通の預金者を相手した純粋のリテール銀行業務で大規模な違法行為が行
われていた事になる。それだけ銀行業界のイメージ低下も大きく通常に不正が行われて
監査が生き届かなかった事を露呈した。こうして米国政府機関も「さっさ」と和解して
問題が拡散しないようにした。さらに今回問題が発覚したウェルズ・ファーゴ銀行とは
、リーマンショック以前も以降にも投資銀行業務に見向きもせず、ひたすら純粋のリテ
ール銀行業務に特化して業容を拡大させたと言われ、今では世界最大の株式時価総額の
銀行となっている。全企業の時価総額で世界10位(8月31日現在)です。またウェルズ
・ファーゴの2016年4〜6月期決算では純利益が55億5800万ドル(5660億円)もあり、
大雑把に言うと年間2兆円以上の純利益を稼ぐ超高収益銀行で政府から称賛されていた
銀行である。FRBやIMFなどとの取引も多く、優良銀行とされたこの銀行がこの有
様だったのである。ちなみに今回の罰金と損害賠償の合計は195億円で、利益の1%以下
である。先週末のウェルズ・ファーゴの株価は48.72ドルと、直近高値の50.80ドルから
それほど下落しているわけではなく、先週末の時価総額も2458億ドル(25兆円)もあり
るので屁でもない感じだ。日本のメガバンクグループで時価総額最大の三菱UFJフィ
ナンシャル・グループは7.5兆円でこの銀行の1~2割でしかない。ウェルズ・ファーゴは
ウォーレン・バフェットのコア保有銘柄でもあり、現在でもコカ・コーラやプロクター
&ギャンブルなどとかなりの優良企業株を並んで大量に保有している。要するにウェル
ズ・ファーゴの時価総額25兆円、年間純利益2兆円というベースとイメージとが、2011
年から繰り返されてきた違法行為の細かさと、195億円という和解金額の少なさが、
この事件の大きさと、違和感だらけで国民は納得しない。こうして今後の展開も想像で
きない大変に気持ちの悪い事件となっている。銀行業界に限らず、政界や業界にも大物
顧客を持つ銀行である。何か世界のよくない出来事の「きっかけ」になってしまってい
るような気もしています。これまで「ウエルズ・ファーゴは米国のリテール・バンキン
グのトップ・ブランド」との評判が、実は血に飢えた社員ノルマの120%を強いる、極悪
のブラック企業であったと言うこの銀行の物語に、国民は全く納得していないのである
。又、ある時には、強盗が押し入り警察ともみ合っている中、上司が「営業の電話を続
けろ」と指示したという逸話さえあったようだ。


1293: 名無しさんAA:18/12/14 11:22
 この問題をめぐり、ジョン・スタンプ最高経営者(CEO)に4100万ドル相当の株式
報酬を返上させることを決定した。これを受けウォール街では、企業の不正に目を向け
コンプライアンスに注意をし始めた。ジョン・スタンフCEOは、米中西部ミネソタ生
まれのミネソタ育ちで、他行の経営者にハーバード・ビジネススクール出身のサラブレ
ッドが多い中では、パン屋や銀行で働きながらミネソタ大学でMBAを取得した異色の
立志伝中の存在だ。同行の前身の一つであるミネソタ州ミネアポリスに本拠を持ってい
たノーウエスト銀行に1982年に入行後、同行一筋のたたき上げのCEOだったが、彼が
CEOに就任した直後の2007年には管理職への残業代未払いの問題が発生している。ま
た、同行の内部文章によれば、少なくとも2009年には不正口座開設をめぐるトラブルが
記録され、顧客や元従業員からいくつかの訴訟が起こされていた。CFPB長官のリチャー
ド・コーデレイ氏は声明で、今回の事例を教訓として「インセンティブのしくみを注意
深く監視しなければ、法的に重大な結果を伴うリスクにつながる。」と全産業に対して
注意喚起した。親切で教育された行員、こぎれいで清潔な窓口、堅実で好調な業績でも
てはやされた「優等生企業」ウェルズ・ファーゴの仮面の裏には、「ブラック企業」の
顔が隠されていたわけだ。しかし、明らかになる不正続出でも、銀行経営へのダメージ
はあまり受けていない。当局の指摘を受け「ノルマ設定を2017年から廃止する」と発表
し、リスク担当役員の更迭や4100万ドル相当の株式給与の返上などの対策をとる。当初
から、同行は「すべて従業員のせい。」にするつもりの作戦だった。しかし民主党上院
議員が労働省に残業代未払いや高ストレスを伴う労働環境について調査を要請して事は
大きくなった。「残業代未払いの疑い」で米労働省はこの問題に関して現従業員および
元従業員に対する窓口を開設した。ここで元従業員が同行の口座を閉鎖せよと呼びかけ
るキャンペーンが持ち上がる。これらの事態を受けて、シカゴ市財務当局は同行で運用
していた2500万ドルを引き上げ、1年間取引を中止すると発表、米シカゴ市当局のほか
カリフォルニア州、イリノイ州などいくつかの公的機関の大口融資案件を失うこととな
り、スタンフCEOは議会の公聴会に呼び出されて辞任を要求され、同行の株価は安値
を付け、大株主のバフェット氏も数十億ドルに及ぶ損失を被る。スタンフ氏はバフェッ
ト氏から「問題を認識するのが遅すぎた」という叱責を受けたと言われておりさすがに
辞任を表明せざるを得なくなった。スタンフ氏には退職金は支払われず後任に同社CO
O(最高執行責任者)のティム・スローン氏が就任する。ちなみに同氏は上記2013年の
LAタイムズ記事にも登場して不正の存在を否定していた人物である。

1294: 名無しさんAA:18/12/14 11:23
 さすがにこの人事は無いだろうと顧客が離れて行った。同行は資産総額で全米3位(
1.9兆ドル),時価総額が世界最大の銀行であったが、発覚発表後に株価は下落したまま
、時価総額1位の座を3年半ぶりにJPモルガン・チェースに譲ることとなった。しかし
同行第三四半期の業績が発表された、実際収入(前年同四半期比2%減)、収入(同2
%増)ともにアナリストの予想を超える結果となっており、経営の数字に大きなインパ
クトは少なかった。しかし、8月から今回の事態が発覚した9月にかけて、クレジット
カードの申請は30%、不動産担保紹介は24%、口座開設は30%、支店訪問客が10%減少
している。新聞では「米ウェルズF、7−9月は2.6%減益−住宅ローン好調で予想上回
る。」と報道している。今回のスキャンダルが世間に与えたインパクトはとても大きい
ものがあったが、解雇された従業員数の5300人という数は、同行の全従業員26万人の2
%にすぎない。また、今のところ電通のような従業員の自殺の報告などもされてはいな
い。総資産 1.9兆ドル、総利益23億ドルに上る大銀行である同行にとって、CFPBが課し
た 「1.9億ドル」という罰金は、課徴金としては2011年の創設以来の最高額とはいえど
も、経営に与える影響は限定的であった。住宅ローン担保証券の不正販売によって最大
140億ドルの支払いを米司法省から求められて、経営的に追い詰めれているドイツ銀
行と比べても遥かに少ない。ドイツ銀行では報酬返上圧力、不正行為の穴埋め、信頼回
復に大わらわであるがそれに比べ微々たるものというしかない。「ブラック企業を社会
から追い出す取り組み」という観点においては、米国の現状ではこれが限界なのだろう
。従業員が顧客に断りなく数多くの架空取引、預金口座、クレジットカード口座の開設
を強いられ、行った全米で 300人の従業員が解雇されるも全従業員の5%、うち1割は
地方支店長か地方幹部かそれ以上だった。到達目標とされる営業目標が現実的に到達不
可能であり、それに対処するため全国で組織的な不正手法が行われていた。不正行為を
報告しようとした従業員には、意趣返しで解雇された例も多くある。こうして解雇され
たのは下級管理職のみ。銀行は架空取引による手数料数百万ドルは顧客に返還した事に
なっている。東芝CEOの「チャレンジ」発言が、粉飾決算につながったのと同根だろ
う。ウェルズ・ファーゴのやり方は、「えげつなさ」過ぎたということだろう。『達成
できない場合は(サービス)残業をさせられ、中には友人や家族に商品購入や口座開設
を懇願する行員もいたという』と書かれたが、日本の首相官邸や今の政府官僚や自民党
はより以上にえげつない。とみえる。


1295: 名無しさんAA:18/12/14 11:51
 この、FRBの2月に出した、Wファーゴに対しての資産拡大禁止などの業務制限命
令の発令には。企業統治と内部管理の態勢が十分改善されるまで、資産総額を昨年末時
点の1兆9500億ドルにとどめなければならないとしている。パウエル議長はウォー
レン上院議員に充てた書簡で「こうした問題に対する是正措置が採用され、われわれの
満足がいくように導入されるまでは、資産拡大禁止を解除することはない。」と説明し
た。米ニューヨーク連銀のダドリー総裁は19日、顧客に無断で口座を開くといった違
法行為が繰り返されていた米銀大手ウェルズ・ファーゴ(Wファーゴ)の問題について
、大手銀行内の企業文化を変えるために「われわれがやり残していることが多くあるこ
とを浮き彫りにした」と述べた。ウェルズ・ファーゴは先月、この問題をめぐり、当局
に罰金など1億9000万ドルを支払うことで合意。会長兼最高経営責任者だったジョ
ン・スタンプ氏が辞任に追い込まれている。しかし、実はこの銀行業界が、実は多くの
情報漏えいとDDOS攻撃で、そもそもが調査が出来ない。と言う運命の下にある事も
発覚している。DDoS攻撃とは、一般にマルウエア(ウイルスなどの不正プログラム)に
感染させた多数のネットワーク機器から、標的となるサービスを提供しているサーバー
に対して一斉にアクセスさせることで、サーバーをダウンさせたり動作を不安定にさせ
たりする攻撃手法である。ただ、今回特徴的だったのは、マルウエアを感染させる対象
となったのが、従来もっぱら狙われていたパソコンではなく、ルーターや Webカメラ、
プリンターなど 「IoT(モノのインターネット)」系の機器だったことが問題視されて
いる。パスワードが初期設定のままなど、管理が行き届いていないIOT機器が狙われ
たと見られている。UFJでもソニーでも今や何処ででもこの攻撃にさらされる。この
暗号化命令チップが実はファーウェイのスーパーマイクロ社のチップ問題とリンクして
いる。そして、今や北朝鮮・中国・ロシア・カナダが敵となり、日本・豪州・タイなど
が汚染地帯とされる。日本企業は長年そうした「リスク」を軽視してきた。国家は企業
に対策を丸投げし、経営者は現場の担当に責任を押し付ける。そして多くの企業の現場
では「ヒト・モノ・カネ」が十分に与えられず、無為に時間を過ごしてきた。そして今
この「サイバー無策」のツケを支払う時期を、日本企業も世界も迎えようとしている。
サイバーディフェンス研究所の上級分析官で防空システムなどを担当した専門家が、近
年激増している「子供サイバー攻撃」の背景を語る。サイバー攻撃の被害に遭う企業が
後を絶ちません。攻撃の手口が巧妙化しており、対策が間に合わないという悲鳴が聞こ
えてきますが、正直に答えると各方面から怒られそうですが、高度な攻撃だけでなく「
子供のサイバー攻撃」にも耐えられないのが、多くの日本企業の実情だと思います。


1296: 名無しさんAA:18/12/14 11:51
8歳ぐらいの子供は、大人の行動を真似て悪いことをしたがりますよね。こうした幼稚
な攻撃者が、最近、サイバー空間で激増しています。訓練を受けずに場当たり的にサイ
バー攻撃を仕掛けてくるため、ほとんどのケースは失敗します。しかしこうした子供の
力でも、繰り返し殴られるとやっぱり痛いし中にはヒットするものがある。専門家から
すれば「8歳児レベル」の非常に稚拙な攻撃でも、様々な企業から情報を盗むのに成功
しています。という。つまり遅れた北朝鮮や中国の技術でも、容易に情報が盗まれてい
たのである。なぜサイバー攻撃に手を出すのか一言で言えば儲かるからだ。日本企業か
ら盗んだ情報は、特に中国で高く売れる。漢字を使っているため理解しやすい、貴重な
情報が無防備に置かれているケースも多い。しかも情報は腐らず、売ってもなくなるこ
とがない。再生産するための工場設備すら必要ない。違法に入手した情報を売るだけで
、毎月数十万円を稼いでいるハッカーはたくさんいる。こうした裏社会における成功者
に憧れて、サイバー攻撃に手を染める「子供達」がどんどん増えている。見破られなか
った攻撃手法が見つかると、数万円で販売する技術者も増えてきました。中国語で検索
すれば、ハッキングのマニュアルが大量に探せる。見よう見まねで攻撃できるツールも
すぐに手に入る。又大人のサイバー攻撃も高度化し、増えている。国家が関与しなけれ
ばできないような、組織的な攻撃も相次いでいる。被害に遭った企業を調査すると、た
まに芸術的としか表現できない攻撃手法を発見することがあります。複数の専門家でも
周到に準備を整え、一糸乱れず攻撃する事が不可能な様な攻撃もある。子供が場当たり
的にやっているとは、到底考えられない物である。こうした大人のプロのサイバー攻撃
を、日本企業が防ぐのはまず不可能です。絶対にやられます。今や世界中の国家が、こ
の意志を持ってサイバー空間で攻撃やテロを仕掛けてきた場合の対処法や、それを防御
する組織が必要となったが日本にはない。物理空間では軍や自衛隊が守ってくれる。し
かし、サイバー空間ではどうか。昨年、日本年金機構がサイバー攻撃を受け百万件超の
個人情報が流出した。今年はJTBが被害に遭っている。これらの攻撃の背後にどこか
の国がいた場合、JTBなどを守るのは日本政府の役割であるがどうも動かない。とこ
ろが現実は違います。年金機構に関しては、政府が逆に叩いてしまった。年金機構のあ
ら探しをするようなリポートを出して、再起不能な状態に追い込んでしまった印象です
。国家レベルのサイバー攻撃に対抗するには、相応の体制が必要です。物理的に日本の
企業文化の稚拙さが産んだものだが、今や輪をかけてこのカードリスクを政府主導で、
国民に与えようとしている。おかしな馬鹿国家日本である。

1297: 名無しさんAA:18/12/14 14:04
 5Gのファーウェイのスーパーマイクロ社のチップ問題は奥が深い。中国先行で出来
たこの技術の試作は韓国のインターネット環境で行われた。まだウインドゥズXP時代
である。所謂多チャンネル周波数通信である。日本では九州電力が電気の供給と共に、
この特定周波帯の通信に成功した時代である。こうした通信技術に長けたアメリカは、
既に盗聴に特化したエシュロン (Echelon)システムを持っていた。これはアメリカ合
衆国を中心に構築された軍事目的の 通信傍受( シギント)システムで、米国の国家安
全保障局(NSA)主体で運営されている。とされるものだ。欧州連合 などが指摘してい
る一方で、アメリカ合衆国連邦政府自身はこれまで認めたことはない。しかし、フラン
ス語 で「(梯子の)段」を意味する語「echelon」に由来するこのシステムは、エドワ
ード・スノーデンの告発により 、PRISMで有線データ通信さえも盗聴されていることが
明らかになったのである。しかし、この日本の技術も含めて、この盗聴をデジタル化し
選んで盗聴する事が出来るようになった。このうち、アメリカ政府が初めてその存在を
認めたのが「PRISM(プリズム)」と呼ばれる情報収集システムである。これらは
高度に暗号化された電波を何層かで送りそれを振い分けして暗号化の解法算式でデータ
を視覚化したり言語化する物で、NTTを始め数多くの暗号化を解く事ができるシステ
ムとされる。5G開発の最大手ファーウェイ(華為技術)の孟晩舟を逮捕した理由は、
日本のゴーン氏逮捕の理由に近い。というのもこれまでのこうした通信技術が更に高度
化したデーターとして送られている事にある事だ。今憶測として流れているのが管理用
チャンネルが解放されたと言う話である。つまりこれまで日本は映像データーと音声の
データーを二つ同時に流さなかった。混線するからだ。つまりスマホの当初は4つのチ
ャンネルが解放され、位置情報と映像と音声と管理チャンネルが解放される。その中で
管理チャンネルは暗号キーで閉鎖される。だが5Gではこの中の、2つのチャンネルが
10個のチャンネルをもち、5倍の速度で通信される。つまり25倍の性能を持った。
いまでは50〜100倍とされる。つまり恐ろしく早く反応し恐ろしく多くのチャンネ
ルとなる。これをスーパーマイクロのハッキングチップが分離するのである。この指令
コードが既に決まっている。とされている。今や画像解析のファーウェイ(華為技術)
のチップは日本製品の家電やカメラに数多く取り付けられている。一時期イスラエルの
画像と共に他の情報が送れるとされた2重幕プログラムの応用編だ。GoogleやFacebook
は、「米連邦政府のものであろうとその他の政府のものであろうと、われわれのサーバ
への直接アクセスを提供するいかなるプログラムにも参加したことはない。」と声明を
だしたが、それは虚構であったし、現に中国ではプログラム参加ができないでいる。こ
の映像OSが極めて恐ろしいものなのだ。

1298: 名無しさんAA:18/12/15 05:15
 英国の正式なEU離脱が近づく、だが今でも一部の英国民やメイ首相は理想の離脱を
欲して止まず、全くEU連盟の恩恵や、他国と自国の差を理解せず、自国の権利が脅か
されるとして離脱を望んで止まない。この強硬な離脱派とフランスのイエローベストの
暴行を止めない一派と何の違いがあるのだろう。英国内のこの離脱支持者は3割に留ま
り3割は現状維持派のようだ。そして残り4割は優柔不断な抜け目なく利に預かる者と
一割の政治とは一線を画して無関心若しくはどうしようもない。と諦めた人達である。
国民投票でも接戦であった事や票田の分析からも、都市化したロンドンなど情報が多く
人が多い場所にいる人は意外にも離脱を望んだ。如何に影響があるかを知る人が賛意を
示したのだ。田舎の現状維持派が賢いとは言わないが、この呼びかけに懐疑心が起こっ
て深く議論したかった事は確かなようだ。フランスの暴動は、理由はどうあれ自分達の
起こしたデモの呼びかけで多くの損失がでた責任がある。自由の国とは言えども、他人
の店舗を破壊し石を投げ石油税に抵抗した姿をどう取ろうとも、シャルル・エブドーの
襲撃事件と変わらない戦う意思の下に事が起こされた。恐らくトランプが発した国境の
壁は現人類のもっともショッキングな目覚めをさせた発言で大きな意識の壁の崩壊を意
味するものだろう。元来人が望む望まないに関わらず運命とは動く物だ。だがこの一部
の西洋人にはそれは受け入れがたい苦痛や酷く自尊心を傷つけられた事象に見えるのだ
ろう。エブドの挑発した風刺漫画の事件はストレートにイスラムの民の誇りや煽りが、
そこに見えるがEU離脱には見えにくい面はある。それでも離脱後の世界も示唆しない
まま選挙を行った行為は、英国政治の欺瞞と慢心の奢りでしかない。その奢りの政治は
フランスのマクロンの発言にも見える。それが巡り巡った所のデモであろうが、それで
も、日本流に言えば悪人を作った或いは暴行を起させた責任は大きい。エブド事件では
誰もエブドの挑発風刺漫画を批判する声はない。それは議論の中にある声に、現実社会
の破壊行為が及んだ事の批判である。つまり、それまでは行動と議論に明確な一線を人
々が敷いていたしそれを常識としていたからだ。参加者が「静かなデモ企画に一部の者
に暴動があった。我々に責任はない。」と言う話をどう見るかがここで問われる。その
発言に無理があるし嘘があるのが明確だからだ。どうみても3回目4回目の呼びかけに
店舗被害や経済被害が出ている事が明らかで、そのままの危険性は認識出来た筈だ。一
方で、過激化するこのデモに対話の椅子が無い事も現実である。選任された議員達が誰
も代表とならない汚ないデモの実態があるからだ。それは離脱だけ叫びEUとの繋がり
を明示しない離脱派のいうなれば風見鶏のジョンソン手法にも見えている暴挙である。

1299: 名無しさんAA:18/12/15 05:15
 この暴挙を繰り出す本家本元のアメリカは、今や揺れ動く。追随する日本も又同じだ
。ファーウェイ事件やゴーン事件はそのいい加減さを極めた事件である。盛んに自由な
貿易の堅持を呼び掛ける中国そのものが国内も国外も自由さはまるでない陸でもない国
である。暴虐無比の国が大国になるまでと同じに自国御都合主義に明け暮れているのだ
。歴史的にみて欧州は今になって欧州半島の大陸統一のEU連合を組んだが、中国社会
は遥か2〜2千5百年前に戦乱に明け暮れ中国王朝を作った。ところがこの王朝とは名
ばかりの強い兵隊がいただけの話でこの宮廷が持つ兵隊を巡って常に覇権争いは絶えな
かったし、外部のもっと強い兵の前に次々と王が挿げ替えられる征服王朝であったのだ
。こうして逃げてくる宦官などが朝鮮王朝などを打ち立てたり、砂漠からの騎馬民族が
王朝の皇帝になったりして歴史を紡いだ。それに困ったのが日本である。日本は侵略も
占領もなかった国だった。日本が朝鮮に出たのは危機感であり、ロシアへの恐れからだ
ったし、日韓併合は乞われたものだ。更にシベリア出兵も請われたものだった。又今の
日米防衛も実は歴史上は前代未聞の中で進んでいる。事実日米同盟も米国民も日本国民
もあまり自覚しないままに大きく世界貢献して来ていた。多くの戦争で占領地の国は、
そのほとんどが占領者に利用され前線に立たされる。しかし日本は戦後の軍備解体方針
でベトナム他米軍の戦争にあまり参加しては居ない。更に占領地でありながら米軍の中
の核の傘におんぶにだっこで利用した。又米軍の日本進駐に自由の騎士と占領からの解
放を謳ったために英国や仏国もアジア解放をせざるを得なかった。日本の植民地解放の
声以上の公平さや平等が求められたからだ。米国内でもアフリカでも人種差別がある中
で占領地では自由・平等・博愛をたてに奴隷はおろか人種差別は認められなかったので
ある。この意識の先進性は日本は捨ててはならない。にも関わらず、今や日本は変化を
求められる。こうした混沌とした中で蠢くのは悪魔の様な共産主義の声でしかない。今
の様な情報過多や霧にまぎれて動けるのは共産国家の中国やロシアであるのは違いない
。彼らの辞書に人権や尊重と言う言葉はない。あるのは強いか弱いかしかないからだ。
だからこそプーチンは「引き分け」と言う負けでも勝ちでもない概念を叫んだのである
。その言葉自体に意味は無い。日本の持つ引き分けと、ロシア人の持つ引き分けの概念
とは確実に違っているのは間違いない。

1300: 名無しさんAA:18/12/16 10:20 ID:Svw
 国内最大の官民ファンド、産業革新投資機構が導入をめざす経営陣への高額報酬につ
いて、経済産業省が3日、認可しないと発表した。高額報酬と言うからどのくらいなの
かと思ったら、年収1500万円+成功報酬1億円程度のものらしい。要するにこの業界の
ことが全く理解できていない。起業という分野で、こんな安価なお金で来る「本物の」
人材がいるはずがないのです。1千万円の企業を100億円とかで売り飛ばす世界です
から、報酬としてそのうち20%をもらっても20億円になります。必要経費を引いても15
億円は手元に残るでしょう。実際そういう起業家は世界中が探しており、世界に起業家
のはしくれの「年寄り起業家」でも年収5億円程度の最低賃金のオファーはいくらでも
ある。要するに政府はこうした起業家を掴まえて事を起すのは、まず無理なのだ。役人
は管理することが仕事であって、新たな仕事を作り出したり、利益を生み出したりする
経験は皆無であって、中国であっても未来のビジネスや産業育成や地方再生を先導しよ
うとして失敗している。アップル、アマゾン、マイクロソフトに至るまで、米国の時価
総額上位の会社は、明日どうなっているかなんて全く見当もつかない。当事者たちさえ
もよくわからない。そこに役人が出てきて成功できるほど甘くはない。高度経済成長を
遂げた日本を見習い、それにいかに早く追いつくか、という競争し、資源を効率的配分
する「社会主義的政策」に、如何に有効に近づいた社会を作ったか。を探った。そこで
彼らは、放任したように優秀な人材を全国の有志を国外の大企業に派遣させ、逃避渡米
を容認し「護送船団方式」に似た「共産党管轄方式」で一気に攻めていったのである。
これは、資源も資材も資金も技術も人材も一度中国大陸に関わったら離さない、返さな
い見返りを許さない。と言う「闇撃ち盗賊理論」で効率が良かったわけだ。誰でも同じ
に、盗み恫喝悪企みで資本を出さないで工場設備や資源供給し起業するのは一番大きな
利益であろう。例えゴミから作った食品や有害廃棄物た鉛を使った玩具や増し腑を使っ
た飲料でも売れれば大きな儲けだった。投資家は金稼ぎだけでそうした世界的混迷の悪
行には目をつむった。それは当然であろう。戦争になる極悪兵器の武器商人にも投資し
てきた性格である。中国国内の小さな間違えた建設者と世界のテロ支援とでは50歩1
00歩でも優しい投資だ。この間違えた米国投資によって、結果的には中国は成功した
社会主義国となった。彼らは稼ぐ民間企業の既得権を、共産党政府が体を張って守り、
国際的スパイ活動を容認し、やりたいようにやらせて、投資の10倍成長の国から倍額
の利益をえた。まさにウィンウィンである。しかし中国の一般の良識ある人民は街を破
壊され拉致され殺され表にでない。、昔ながらの風情も人情も伝説もあえて破壊しつく
した。米国の大富豪たちの夢である共通の社会の経済会計方針からだ。

1301: 名無しさんAA:18/12/16 11:59
 かつて宇宙船ヤマトは壮大な宇宙に人類の未来を賭けて旅立ったのだが、その理由は
宇宙戦争で破壊され放射能が広がった地球を救う為のコスモクリーナーと言う放射能の
除去装置と言うとんでもない基軸のストーリだった。のっけからアニメの話で恐縮だが
、私の産まれた頃はこの放射能の脅威に溢れていたのだろう。勿論原爆の後遺症に国が
悩んでいた時代だったのかもしれない。アトムも8マンも原子炉で動きタバコは加速剤
であった。スパイダーマンもゴジラも仮面ライダーも初回ストーリーは原爆などでの、
突然変異の新人類や新生物の姿として設定されたものだ。およそ放射能などと言う物は
マーキュリー夫人達がみつけるまで誰も気に止めてなかったものだ。この有害無比の毒
物は宇宙空間には溢れ出ている。そしていくらかは地上でも取り込まれ放出されている
。生物は器用にもこの放射線の死滅で損傷した細胞を殺し新たな分裂増殖する新細胞を
作って機能保持をしている。人の体はおよそ2年もすれば新しい細胞となっていると言
われ、尻からの排泄物は取り込まれなかった養分以外にも体の使い古された破損細胞も
一緒に捨てられている。21世紀の対立軸は「コスモポリタニズムvs.ナショナリズム」
といわれ、コスモポリタニズムはユダヤの世界征服王朝つまり世界政府主義に至る物だ
。今の国連組織や数多くの国家主義の観念を捨てた社会を意味する。一方のナショナリ
ズムは、かつての覇権を争った軍国主義の平和思想の元に構成された愛国主義ともとれ
る地域主義である。山や国境を超えてやってくる地球温暖化や伝染病パンデミックや、
海洋汚染や大気汚染や多角化貿易などでも何ら力はないものの、地域経済生活こそが、
一番必要な部分であると説く。事実西洋社会は、アマゾンの天然資源や熱帯林は地球の
肺だ皆んなで守ろうと説く。しかしこの地域に出た麻薬組織は暴虐の限りで街の住民を
痛めつける。そこで人々はメキシコを渡り逃げ延びてくる。しかし移民達には国境の壁
で追い払うのだ。この姿は米国の2枚舌で奇妙で、麻薬シンジケートはうまく立ち回り
また米国の企業家は、ジャングルを切り開きパームヤシや石油掘削や鉱物資源などでは
、多額の利潤を搾取し原住民に西洋型の社会生活に追い立ていながら、一方でその社会
生活の標準社会のアメリカ社会への入場を拒否しているのである。これはみせかけ口実
でしかない。つまり多様化を容認し声高く自由や博愛を唱えながら、一方では自国経済
の為に他国の資源の安易で安価な搾取を模索して武力や経済力で権力行使をして地域の
社会を殺そうとしているのだ。日本の沖縄問題と同じ構図である。県職員時代の沖縄県
の翁長雄志(おながたけし)知事の計画に基づいて行われる辺野古飛行場は、今やその
後継者とする玉城デニー氏が又も反対闘争に明け暮れる。劇画の世界なら見せ場だろう
がそれは癌さながらである。


1302: 名無しさんAA:18/12/16 11:59
脳の指令と部位の指令を戦いそこに病原菌はむしばむ体に
一喜一憂の繁殖をして体を食いちぎる。正に今地球は食いちぎられている。欧米の進め
た西洋型の贅沢な生活様式によって 悪魔の様な便利さの追求は止まない。


1303: 名無しさんAA:18/12/16 13:01
 第二次世界大戦後のアメリカ合衆国の、メジャー企業群は、グローバリズムを掲げて
世界各国に政治的・軍事的に介入をして覇権を目指した。事実上世界政治に最も実行力
を持つ政府を創り上げ裏で操ると言う画策が成功したのである。しかし、真のアメリカ
国民は伝統的には、征服者としてモンロー主義に代表される内向き・地域主義志向が強
く自立主義の中にある。第一次世界大戦でモンロー主義で脱却した後も孤立主義的行動
をしばしば採っている。銃砲携帯を止めないのも、欧米流に見えながらも一国独断の姿
の止めないのも、ロシアの呼びかけにそっけないのもサウジへの武器輸出を止めないの
もそこに理由がある。戦争が公共事業とされるアメリカ風土の中で、中国サイバーハッ
カー養成機関の会長であるファーウェイ(華為技術)の孟晩舟最高財務責任者(CFO
)が逮捕される事は ZTEの事件からも明らかだった。日本では多くの事が報道され
ないが、日本の技術の8〜9割は常に中国に流れていた事実がある。中国ファーウェイ
会長孟氏の祖父は元四川省副省長という中国政府幹部であり、周恩来首相人脈につらな
る古参幹部だった。また、孟氏の父は中国人民解放軍出身でファーウェイ会長の孟氏自
身も、この父の跡を継いで中国政府に電子技術投資に派遣された特別共産党員である。
来年にもファーウェイ会長に就任するといわれる大物幹部であり、中国政府にとっても
最重要人物だ。習氏は高級幹部子弟の太子党閥の総帥だが、孟氏は典型的な太子党であ
り、今や上海閥の江沢民が引退し、薄熙来・王立軍共に失脚させ、周永康・徐才厚・郭
伯雄・令計劃ら有力者は軒並み失脚党員はく奪で、戦後にやっと中国の統一した中華の
春を奏でる筈だった頃だ。その要の隠れた情報ソースの孟氏が海外で逮捕されたのは、
完全にトランプ政権に裏をかかれた格好で、中国の最重要人物を保護できなかった習の
指導部の失態としかいいようがないのだろう。しかし問題はその後にある。習氏指導部
が犯した失敗は、孟氏逮捕の報復として、中国在住の2人のカナダ人男性を「国家安全
を害した容疑」で拘束したことだ。これについてスポークスマンは「法に基づいて行動
した」と述べたが、孟氏逮捕とは無関係と主張したがそれは認められるはずがない。今
までも数多くの報復行動で嘘をつき世界を席巻した中国共産党だからだ。戦争があれば
平和の為にと独裁軍事政権に武器供給し鉱物資源を搾取、経済支援と必要の無い港湾の
改良で高利貸付、交通要所は安全の為と無断で自国領として軍事施設建設その為には、
地元の守る岩礁に10人以上のフィリピン漁師に機関銃砲撃、全く尖閣でも今でも漁民
の監視活動と言いながら、漁民の国際法違反の根こそぎ漁を斡旋してる実態だ。赤サン
ゴもうなぎ稚魚もその他の幼魚も馬鹿のごとくに取っては自分達の漁獲量の天然資源を
減らしている。この馬鹿さに一向に気にしない。中国の言う法が国際的な違法であるの
は間違いなく、これがアメリカのモンロー主義の崩壊を今も促すきっかけとなっている。

1304: 名無しさんAA:18/12/16 19:30
 これまで何度もコンピューターを変えてはきた。しかし、今度のウィルスは一体何な
んだ。本当に勝手に管理システムが開き、コンピューター誤作動が始まり壊れてしまっ
た。これまでのいい加減な無線サービスが厳格な暗証コード管理になったのは解るが、
かつてのウィンドウズXP更に7、8,2 VISTA 4台が次々に壊れた。多分NTTサービ
スが又勝手に変えたのだろうが、NECも少しは文句を言えよ。なぜ5Gウィルスが、
過去の機器を壊し始めるのか。いい加減IT業界は目を覚ませ、多チャンネル集合周波
数は多大な負担を強いるのだ。8K映像など専門家しかいらないのだ。デジタル移行時
の切り捨てと同じにフィリッピンで投げ捨てられた発信基地が中国に言い様に取られた
様に、全く日本の為にはならない。一か月4台 前代未聞の故障だ。



1305: 名無しさんAA:18/12/17 02:11
 欧米でポピュリズムの嵐が吹き荒れているのか。新たな対立軸はどこにあるのか。今
ニューヨークで言われているのが「2017年の米国株式市場は<トランプタンブル>(ト
ランプの転落相場)になる」と予測していたのが景気が持ち直していた事で分析が始ま
っていた事だ。トランプ政治の理論的支柱でトランプのポピュリズムを推進してきただ
ろうスティーブン・バノンが首席戦略官も辞任することになったが、彼が焚きつけた乱
暴なアジテートポピュリズムは、フェイクニュースの氾濫として結実した。国内ではや
ばいとでも思ったのかその主戦場を欧州に変えた。しかし、対して中国はより一層の、
官製デモ官製情報統制を進めて、ポリスポピュリズムと言う共産党支配を確立した。香
港の民主化は英国は多分出来ると踏んだのだろうが、さすがに国家権力の前には香港の
雨傘運動も台湾のひまわり運動も実は現状維持の民主主義さえも守れなかったのである
。バノンは国家安全保障委員会(NSC)から外されて干されていた様に見えるが、他国の
疲弊を狙う戦略は、そこかしこでこの行きすぎた思想が溢れ出ている。そうしたナショ
ナリズムの勢いは6月にイギリスが欧州連合(EU)からの離脱を選んだことで決定的な
ものとなった。だがこの選挙と共にフランスのイエローベスト抗争を見ていると、まる
で現代のIT近代化に釘を指したもののように見える。しかしここで起こっている事は
単なる事象に過ぎず、根本的問題の経済格差の是正には至っていない。そうした世界の
流れに逆行するかの様に日本の韓国議員連盟などは、簡単に韓国の文政権に尾っぽ振る
行為に出ている。ぶっ飛んだ茶番劇で世の中の喜劇役者やお笑い芸人でも出来ないブラ
ックジョークである。そもそも今回訪韓した日本の議員達は一体日本と言う国に責任を
持っているのか。もっと言えばどういう歴史認識や地勢的位置の認識を持っているのだ
ろうか。アメリカがロシアを仮想敵国としてるなら日本は朝鮮半島を危惧する国であり
かつての東側を仮想敵国とするのは当然の話である。敵味方或いは西東に敵を考えずと
も朝鮮は唯一の即時脅威になる隣国である。この隣の国が今まで竹島占領をし実効支配
をしているのだ。これを放置しながら、連盟の議員たちは「日韓請求権協定に反し、極
めて遺憾」という従来のお決まり文句を言って、抗議しただけである。そして、同じテ
ーブルを囲んで、文大統領らと茶を飲み、軽食を共にした。もう、バカとしか言いよう
がない。国民の怒りに火が付いている今この時に、こんな行動を取れる議員がいるとは
信じられないことだ。財界の泣き言を聞く暇があるのなら連盟の議員たちは、もう少し
歴史の中の悲劇を偲ぶ事だ。「徴用工裁判など、無法なことをこれ以上続けるならば、
我々としても考えがある。覚悟しろ!」くらいのことを日本国民を代表して、言いに行
ったというのならばわかる。かつての明治期の日本の様に優しい言葉と親愛なる態度は
裏切られるに決まっている民族に、その性格や質も検討しないでよく訪韓出来た物だ。

1306: 名無しさんAA:18/12/22 12:21 ID:njI
「日本を企業が最も儲けやすい国にする」「人件費を1割、削減する経団連の要求をの
む」「規制緩和を徹底して生活基盤まで破壊する」「金融を超緩和状態にする」という
政策を採った結果、日本は利上げどころか現状維持も国債で賄うままにある。データに
よれば、2013年から2017年までの実質所得(1世帯当たりの平均所得額)は5年で80万
円減収(年収で16万円の減収)となった。内訳をみると、消費税3%の増税はこれでは
消費者物価は5%上昇予定だったが2%に留まった。実質所得の減収は5年で、60万円
(年収で12万円)となり、残りの20万円(年収で4万円)は円安に輸入物価高によるも
のとされる。増税苦境を中国の安い野菜や製品が物価高を止め庶民を救ったのである。
それでもこの5年間で雇用者数は370万人増加したが、正規社員は 26%の増加に過ぎず
、非正会社員が73%も増加し、雇用は不安定化している。同期間の名目GDPは492兆円か
ら546兆円に 52兆円増加しているが、32兆円は計算方法を変えて底上げしただけであっ
て、本来の調査資料の体を崩し、比較検証、検討、考察計画を出来なくさせている。ま
るで馬鹿の国民行政である。実態は5年間でわずか 20兆円(年成長率0.8%)の増加に
過ぎない。さらに安倍内閣は海外から労働力を導入して日本人の所得を抑えようとして
いる。 一方、上場企業の2017年度の役員報酬合計は、2010年度と比べて31%も増加し
ている(東京商工リサーチ調査)。日本の労働国民の所得を低く抑えて大企業と言う架
空人格を儲けさせ、その利益は株主配当と役員報酬、内部留保になっており、国民の実
質所得の伸びはマイナスで国を建たせようというのは大間違いである。大日本帝国が、
陸軍や海軍の軍閥を重んじて、日本を捨てた事と全く同じではないか。戦闘兵士を皇軍
の駒として、日本の人民や国民である事を忘れた戦いをして負けたのである。こうした
奴隷方式に対して日本国民は戦ったし、戦う意義を持っていた。しかし今無慈悲なこう
した西洋式暴挙を黙認している事は先達の英霊が泣く思いだ。朝鮮半島も同じで、その
多くの株式資本は外国の投資家で成り立つ。先に進んだ欧米化方式で国民は経済奴隷化
してしまっている。それが今や欧州社会の庶民に火がついた。欧州国民の労働者層は、
今までも階級闘争の嵐をくぐってきた。その仕業が貴族や富裕層に在る事を知っている
。フランス国民は馬鹿にされない意地は、自分の街をも破壊してもデモを起す農民一揆
を行って来た。英国市民は間違いと解っていて独立孤歩の道を探る。スペインでは、地
方のユグノーの子孫達がスペイン王からの離脱を叫び、混物ワインの華僑に反対ののろ
しを上げる。イタリアは、市民選挙でこの悪政を訴える。次々に赤字予算をEUに突き
つけ、ドイツは移民の群れを奴隷化する方針に変えた。つまりドイツ語習得者の移民に
労働需要に大量受付をしだす事を決めた。

1307: 名無しさんAA:18/12/22 12:22
 ロシアは内需拡大の軍需産業復活の為に戦争を仕掛けようとし、アメリカは予算不足
の中で、数々の国際社会の取り決めから離れて逃げる事を決めた。そも中央銀行は利率
で国債の回収を、輸出で一般紙幣を行い銀行を保持してきた。サウジに武器を売ったも
のの国民の反発も多く、影の武器商人もロシアの様な独裁はできないと判断する政権に
どうそそのかすか思案する。トランプもすなわちシリアも今の被害が少ない内に撤退し
、後腐れの無い中で、あとはロシアとトルコ或いはイランとクルド人とシリアのアサド
の間に立たないと言う決心をしたのであろう。これは、支援したクルド政府が、米国が
支援したのか、クルドが米国支援したのか、どうでもよく勝ち進んだが、勝った後に、
勝手に独立の住民投票を強行投票した事でに決まった方針である。つまりイラク政府も
押さえこんだ連合国軍であったが、今やシリア政府の無断駐留の批判にさらされ、ロシ
アからの出ていけコールの中にある。と言うのが現状のようだ。後からやおら出て来て
わがもの顔でドイツ製戦車で進軍するトルコ部隊は、エルドアンの小癪な戦法でクルド
勢力に目の敵にして追い散らしシリア内を闊歩しているのである。これまでトルコには
目の上のコブとしてリヤドと言われるサウジの米国議会のロビイスト達が立ちふさがっ
ていた。国家としてのイスラエルが消滅するかの様な第4次中東戦争は、トルコ近郊国
は中東同盟としてオペックを作り、エジプトを中心に軍事同盟で結束を図った。ところ
が、あと一歩の所でシーア派とスンニ派に亀裂が走った。それは米国がサウジを通じて
イスラエルに兵器修理の部品供給したからだ。と言われる。こうしてイランを目の敵に
するイスラエルとサウジに対してパレスチナ難民を受け入れ、ムスリム同盟を重視する
トルコやイランとは犬猿の仲になった。又、体よくアメリカ主導で中東の西洋化を目指
し国を作ったシリアやイラクのアッパーズ派バース党があった。ハーシム王政崩壊後の
1959年にフセインは叔父が教育庁長官の職を追放され、大統領アフマド・ハサン・アル
=バクルとは従兄弟である為、アラブの民族主義の盛り上がりでエジプトナセル大統領
がクーデターが起きたが、それを真似てフセインやアサドが建国したとされる。もとも
とは少数民族の族長達であり、フセインはアルブ・ナシル一族で。エジプトとは近く、
バアス党は時のイランの親英王制を打倒させて出来た政権についていたアブドゥル=カ
リム・カシム国王が、アラブ統一よりもイラクの国益を優先する政策をとりアラブ連合
共和国への参加に懐疑的だったため出来たものだった。

1308: 名無しさんAA:18/12/22 12:24
 正統王朝のヨルダン国王であるアブドゥッラー2世・ビン・アル=フセインの名が示
す様に、中東はオアシス国家の首族長の集まりで、ヨルダンは最古国王ヒジャーズ国王
フサイン・イブン・アリーから近代の国家となったが、イスラムの家系のハシーム王朝
は紀元前からの王朝の流れである。イランのパーレビ国王は、民主化と経済活性化を行
ったのに革命で失脚してしまいましたが、モハンマド・レザー・シャー・パラビィは、
イスラム教パラビィ派の宗教上の指導者の家系だった。パフラヴィー2世や日本報道で
パーレビ国王と呼ばれることが多かった国王だが、父である先代の皇帝レザー・シャー
の退位により即位し、「白色革命」を推進してイランの近代化を進めたが挫折し、イラ
ン革命により失脚した。モハンマドは改革の一環として、女性解放をかかげてヒジャブ
の着用を禁止するなどイランの世俗化を進めたが、これらの政策はホメイニーらイスラ
ム法学者の反発を招いたという。例えば1962年に、地方選挙において選挙権と被選挙権
をムスリムのみに限った条項を撤廃し、バハーイー教徒などにも市民権への道を開こう
とした時には、異教徒、とりわけシーア派保守派からは「邪教徒」「カーフィル」とさ
れるバハーイー教徒がムスリムと対等になることを嫌ったホメイニーらの抵抗にあった
。つまりここでも、異教徒の奴隷階層が慣習化していたのである。首都テヘランに「シ
ャーの栄光」を意味するシャーヤード・タワーを作ったり、父親レザー・シャーの霊廟
を建設したり、従来のジャラーリー暦に代わって帝国暦を採用、キュロス2世がメディ
アを滅ぼしてアケメネス朝を起こした紀元前 550年をキュロス紀元としたり、国威発揚
を促して自由化を進めたがそれが返って自由化を阻害した。モハンマドは自らの称号を
「アーリア人の栄光」を意味する「アーリヤー・メヘル」と定めて、日本の大阪万博の
翌年、1971年には古代のアケメネス朝ペルシア帝国の遺跡ペルセポリスで、イラン建国
二千五百年祭典を開催した。イラン人の民族意識を鼓舞する「イラン・ナショナリズム
」をイランの新たなイデオロギーに据えることを目標にし、行事には多数の国賓が出席
し、エチオピア帝国のハイレ・セラシエ皇帝や、日本の皇族で古代オリエント史学者の
三笠宮崇仁親王等といった世界各国の王族だけでなく、西側諸国・東側諸国・非同盟諸
国の首脳なども招いた盛大な式典を催しした。冷戦下において欧米や日本などの先進国
との石油外交を基礎にした深い経済関係を元に進めてきた近代化政策は、1970年代中盤
に起きたオイルショック後の急速な原油価格の安定化もあり、1970年代後半に入ると、
裏からのソ連の介入したホメイニなどの反乱で破綻した。パフラヴィー朝は国号をペル
シアからイランに改称したが、そもそもロシアからのタタール人対策でペルシア・コサ
ック旅団を作ってルーシー対策したのが発端である

1309: 名無しさんAA:18/12/22 12:29

 しかしこの姑息で大胆なロシア帝国のペルシャ対策は功を奏して、東欧には数々の、
コサック旅団が出来あがり、資金提供したロシアには歯向かない勢力が出来あがった。
これには英国も仏国も独国も対策が迫られた。なぜならこの穀倉地帯が欧州の台所とな
っていたからだ。こうして江戸時代前からこの地の戦乱は紛争を起していたが、今でも
呪われた様に大国に振り回された運命を辿っている。今度のCNA特派員カショギ氏の
暗殺は、又韓国人の様な振る舞いのトルコロビーの活動によって行われたようだ。ワシ
ントンに本拠を置くシンクタンクが先月発表したこの報告書は、アラブのリヤドがどの
ように膨大な富を使って米国の外交政策に影響を与えたかを克明に示して、米国議会を
動揺させている。共和党の上院議員の5人全員が法案の進展に反対し、合意されれば、
米国はイエメンでの壊滅的なサウジアラビア戦争への支援を制限することになった。議
会の上院議員の上院議員は、決議案を進めるために議会で63対37の議決がおこなわれた
。衆議院はイエメンの戦争についてまだ行動を起こしていない。米国の武器購入を訴え
ているドナルド・トランプ米大統領は、机に着くと、拒否することを脅しているという
。 サウジアラビアは、いくつかの見積もりによると、2017年にロビー活動には 約2700
万ドルもの賄賂を費やした。Glover Park GroupやBRG Groupなどの一部のロビー会社は
、トルコのイスタンブールにあるサウジ領事館での、米国亡命のサウジジャーナリスト
Jamal Khashoggi の殺人事件の反動を受け、サウジ顧客の寄付金を落として、トランプ
にすれば、いまさら馬鹿と議論の余地はないだろう。と言う事になる。既にシリア駐留
は大義名分もロシアとの話し合いも席がない状態で、残留ISが又大きくなったとして
も近くの住民たちが苦労するだけだ。と言う発想だろう。アフガン撤退も同じでアルカ
イダの台頭は住民の意識の問題であり駐留米軍の問題ではない。と思っている。つまり
トランプは西側防衛よりは経済価値が戦争の基準なのだ。こうした考えは米国内で主流
であり「銃器が人を殺すのではない人が殺すのだ。」と言う言い訳と同じだ。だがこう
した考え方は、更にNY株価を落とすだろう。あと半値に近くなるまで暴落は続くはず
だ。止めて行くマティスの言う様に、同盟国と共に生きる共に繁栄したいと言う意思す
ら欠けている国に投資の意思や人類の未来建設の概念を持ち得ようか。例え悪態国家の
ソ連であっても米国科学者達がこぞって原爆製造の秘密を流した様に、今や意識の問題
は経済に直結し重要な要因となる。

1310: 名無しさんAA:18/12/22 12:49
 三星集団(サムスングループ)は国内総生産(GDP)の6分の1を占める韓国経済の中
枢を握っていた。この捜査で同グループの解体とは思わず、人気取りに法務チーム長を
務めた弁護士に暴露させて異例の状況を作りだした。これまで批判を受け続けてきた富
と企業経営権の世襲問題に本格的な捜査のメスを入れた形になった。がこうした偽りの
操作はやがて国際社会からは見向きもされなくなったが、その後も次々と検察官法務が
動いて国法を超えて超法規的措置で財閥解体に力をつける集団になった。虎の衣を借り
た李明博政権は、正に韓国民の感情を代表し北朝鮮や中国の言いなりで、その後の政権
のくびきとなった。自動車会社も同じだった。技術革新や工場改善に向かわず、労働者
の共産党争議に明け暮れた。給与はうなぎ昇りで物価は高騰したが、政権は何も止める
手立ては行わなかった。日本を挑発し日本を脅し日本に債権保証を頼み、日本は又快く
共通スワップの輸出入外貨建てを保証している。全くばかである。その後礼をしらない
恥知らず大統領は、最初に竹島に渡った大統領、平成天皇に唾吐いた大統領として名声
を得た。とてつもない恩知らずの韓国国民性を露わにした。安重根を英雄にし慰安婦像
輸出に明け暮れ、K−POPに国家予算をつぎ込んだのだ。これで国が建って行くわけ
がない。日本でも橋下徹氏、小沢一郎代表と会食し前原誠司氏がつないだとニュースが
流れる。しかし、前原氏は少し勘違いしている。もし信奉するなら立憲の枝野氏流の、
信念を貫いた時流に乗った考えが必要で、今だ民主党の解体した国民の怒りに答えてい
ない。小沢や橋下の様な我流で言いだしぺで責任を考えない様ないかさま論では世界に
通用しない韓国社会の様になる。これでは話にならない。民主党のトラウマを、立憲民
主党代表・枝野幸男は「私たちは"非自民で集まる"という過ちを二度と犯さない」とい
う。無所属の会は13人。岡田氏のほか、野田佳彦前首相、玄葉光一郎元外相や安住淳元
財務相ら元民進党のベテラン議員が中心だが、何故か枝野代表とそりが合わないようだ
。大塚耕平も馬鹿だから玉木氏の国民民主党に走った。このまさかの選択は自民党糾弾
には力およばずになってしまったのだ。これでは政治にならない。税金の税率問題など
は政党合意する事ではない。税収の国債発行すら国民ことではないか。議員が勝手に合
してジャンジャンやろうぜ。と言う話ではない。意奮起せよ日本国民。と海外から声を
かけられるのは当然だ。よく消費税が海外は20%などと言われるが、間接税の直間比
率で40%もの高額であり、代わりに減税したのが法人税。これでは話にならない。更
に国民福祉の年金や健康保険などの保険掛金は普通の国では長者布施金でこれも日本は
累進増税してない。本来人格権を置いた会社と高額所得者の布施行為であると言う認識
ない、取りやすい一般サラリーマンからの納税に高率にして、老人の箪笥預金や使われ
ない亡霊口座の集金しようというのだ。議員や財務省の情けない思考結果である。

1311: 名無しさんAA:18/12/22 18:42

 大槌町役場は役場職員すら庁舎が浸水域である事を忘れ、地震後に津波が来る可能性
を忘れて、防災会議を玄関脇で開こうとして職員は被害にあい流された。こうした長年
の被災地である。と言う歴史すら忘れてしまう様な職員を雇っていながら 被災した事
は町民の指導自治体として 不適格と言わねばならない。この不適格職員や町長がその
まま、今の被災した姿を残す事をしないのは 更に不届き千万である。かつてチリ地震
津波でも被害を受けながら・・・である。実はこうした行政は特に多い。福岡県の例え
ば市民の苦情を受ける係や土木のの係に 歴史の形骸化や 過去の歴史の啓蒙を言うが
全く相手にしない。つまり改善も改良もその会議すらしない横柄な態度の行政なのだ。
住民に一人一人会って話を聞いたり、これからの市町村の在り方も検討しないのだ。実
はこうした通り一遍の形式だけの通告での法律軽視が こうした災害を大きくしている
。実に沖縄の辺野古沖の建設も多くは 沖縄県の行政が異常である。デニ―玉城氏の考
えに期待していたが 全く今までのこうした上っ面の行政をした翁長 雄志(おなが た
けし)と全く同じに意味のない未来の構想や思想のない言葉でがっくりである。今まで
の沖縄県の日本国憲法においての国際社会での米国に敗戦し、そうした地位も知ってい
ながら沖縄返還運動が起こった現実とその後の変遷をよく知るべきである。すべての答
えが歴史に詰まっている。真の沖縄県民は早く整えた海上基地に全ての米軍を移して、
より安全で米軍の音の聞こえない基地計画を求めている。その移行する中での辺野古の
飛行場を何年も反対闘争で中断させている反対派の住民は 罪が重い。




1312: 名無しさんAA:18/12/22 22:55
東芝出資には、なぜか日本の政府ファンド、年金機構や産業革新投資機構は全く投資
していない。こんな馬鹿な官民ファンドはない。そもそも日本の企業が苦境にはいって
いる企業にこそ投資して国の為にも新路線で収益のある企業や産業となすべきで全くお
かしな事だ。この政府がが導入をめざす経営陣へのみの高額報酬について、経済産業省
は、認可するとかしないとか発表している。高額報酬と言う年収報酬1億円以上に対し
てこの政府筋にはまともな人間はいないのだろうか。代わりに記事になったのは、驚愕
利回り、投資ファンド高笑い 大型増資に応じたファンドのその後を追跡。とされている
記事だ。記事は「投資ファンドにとっては「おいしい案件」だった」と素直に書いてい
る。1年前の増資前に、東芝は6000億円超の債務超過をしていた。その脱却に半導体子
会社・東芝メモリの売却契約を結んだ。これだけでも政府は筋が悪い。政府買い上げで
も充分成り立つ物だがそれを出来る力量がなく、またまた山一証券と同じに国体を誤っ
た。つまり仕事をしなかったのである。独占禁止法承認が、2018年3月までに間に合う
か微妙だったし、有利発行ギリギリの水準だった。東芝が2017年12月に行った増資案に
しどろもどろの日本の銀行団は、第三者割当増資に貸し渋った。取りまとめたのは、米
投資銀行のゴールドマン・サックスである。わずか3週間で約6000億円を集め発行価格
は直近株価に対し90%の1株262.8円と、有利発行ギリギリの水準で異常に有利な条件を
提示している。それでも馬鹿な日本銀行マンは喰いつかず、増資に応じたのはほとんど
が海外の投資ファンドと言うなげかわしい愛国心だった。やっと東芝は増資資金を使い
一息ついて、倒産した子会社の米ウエスチングハウス関連の税務上損失を確定し、税の
軽減効果も得て債務超過を解消するに至ったのだ。なんと哀れな日本企業だろうか。か
つて戦前に行われた共済共闘の精神が終えたおぞましい阿修羅の姿をみるような政府で
ある6月に東芝メモリは中国韓国勢への売却を完了し、9月末の株主資本は約2兆円に
達し危機から脱した。このターニングポイントは明らかに第三者割当増資だったのは言
うまでもない。では、増資を引き受けた側、タックスヘイブンの投資ファンド60社は
どうなったのか。増資引き受け側は即日2年以内に売却すれば、東芝に報告する義務が
ありそれを東京証券取引所に報告する事になる。開示情報ではファンドは引き受けた株
の45%を売却済み。17社は合計1362億円投資に対し、1631億円回収する。単純利回り
2割である。ARCMの名を冠する3ファンドのみは僅か4日で売り捌き12%の利回りを
受けた。これらにレバレッジの倍額先物売買をしてれば数倍になる。中には実現益がセ
ガンティやエリオットなど約100億円以上の利益を上げたファンドもあると言う。一
方で、旧村上ファンド系のエフィッシモが運営するEMCや、米ハーバード大学が運営
するファンドなどはまだ保有したままだという。まあこんなものであろう。

1313: 名無しさんAA:18/12/22 22:56
 日本で著名なサード・ポイント系のファンドは、実に新株発行の前日から売却を開始
し(カラ売りを活用していたと思われる)、約1週間で出口戦略を完了した。利益の出な
い中で引受額上位と重なり100億以上の利益を得た禿鷹ファンドだが、そうしたファ
ンドの活用法はさすがにゴールドマン・サックスのお手の物であったと言える。大体、
国の経産省はこうした相手の10社や20社と戦うべき中にあって気概も知能も行動も
ないとは情けないにも程がある。もともと会社に物言う株主と再生引受人たる投資家を
馬鹿にしすぎである。ホリエモンや村上ファンドやら育て方があったろうに外人投資家
のみ重宝にしすぎである。日本の証券市場ももっとしっかりすべきだろう。山一を潰し
一銭の利もないのに全く政府融資を共同で頼み込んでいない。こうした極悪人のくせに
いばり過ぎである。もっと銀行指導し日本銀行に意見すべきであろう。日本銀行の金庫
で腐って行く株式債権を、日本の株式市場の「東京証券取引所」「名古屋証券取引所」
「札幌証券取引所」「福岡証券取引所」の、4つの取引所は一体どう思っているのだ。
まったく高給に胡坐かいて、縮小経済になんら行動せずひたすら投資家を詐欺るだけの
世界なのか。ちょっとおかしいだろう。その後東芝は自社株買いをするまでに至ってい
るらしい。こうした海外投資家に投資回収の道を用意した事になる。現在実施中の7000
億円規模の自社株買いは2018年11月12日以降に3回、12月中旬までに2576億円分買って
いる。と書かれている。平均単価は3762円。第三者割当の価格より4割以上高い。今後
の株価次第だが、まだ東芝株を保有するファンドも3〜4割の利益を出すことは確実だ。
10%ディスカウントで発行した株を1年後に高値で買い戻しているのだから、東芝にと
って喜べる取引ではないが、この増資後によって株価が上昇しており、既存株主にとっ
ても増資は正解だったという理屈になる。最大の利を得たのが海外ファンドであること
は間違いない。リスク買いの対価とはいえ、ファンド関係者の高笑いが聞こえてくる。
しかし、こうした海外勢にのみ溺れていては、今後は建っていけない。米国株価はまだ
まだ下がる要因が高く、餓鬼のような守銭奴の群れで膨れすぎている。対して日本の株
は相対して安い。だが海外投資家に偏れば、株価が上がれば通貨レートが下がり、輸出
名目の理由ばかりで株価変動が起こる。つまり円高株高が起こっても不思議ではないが
起こらないのである。これがいけない理由は簡単な事でニューヨーク株価と全く連動す
る必要はないのに同じ様に下がるリスクがあるからだ。今後来年の株価は連銀が一度も
利上げができない程下がる。英国も仏国もドイツさえも米国の貸付利益取りする相手と
ならない。その上中国の台頭を防げない。中国米国とも災害は大きい勿論ロシアも同じ
である。既に地球は異種の周期に入り、神は人類の滅亡を望んだようだからだ。さてさ
て。

1314: 名無しさんAA:18/12/23 03:18
 天皇陛下は23日、平成天皇は、在位中最後の記者会見で「平成が戦争のない時代と
して終わろうとしていることに、心から安堵(あんど)している」と胸中を語り、「天
皇としての旅」を支えてくれた国民に対し「衷心より感謝」を伝えられた。と報じられ
た。しかし何故TV局は一斉に生放送として報道していないのだろうか。藤原の麻薬騒
動の方が話題性を持つと判断したのはメディアの勝手な言い分である。日本人は天皇が
国民のいままでも象徴であり、これからも象徴であり続ける事を願っている。そして最
も大事な人間だった事は歴史は証明している。たしかに、戦時中の様な熱気はないかも
しれない。しかし天皇と国民との繋がりはそんな簡単なものではなだろう。何故放送が
こんなに阻害されているのか、全くおかしな話だ。



1315: 名無しさんAA:18/12/23 10:48

ガンバルーヤのよしこの「くそが。」というのは芸でも何でもない。只の公衆害悪だ。
こういうのを許す吉本興業は許せない。人前に立つ、TVに映る。と言う事は少なくと
も人に害悪にならない範囲の事だ。知恵や笑いをさずけ奇異奇抜はあっても憤慨すらも
できない程の 醜鬼悪は見世物にならないし見せる物ではない。TV局は良識良心を持
って映像で語れ。



1316: 名無しさんAA:18/12/23 11:38
 今急激に上海や香港で流行している物がある。それが豪州帰りのホモ文化で男性狩り
とされる。一説では大きな有名な会社は、今や黒人男性をはべらせて夜昼構い無く秘書
や運転手をさせている。又韓国の不況を受けて、韓国グループが中国公演したりで、中
国にもボーイズグループが出来て、上海大舞台という1万人クラスの会場で単独ライブ
が行われたりしだした。つまり今アジア流行の中性化嗜好が出て来て、イケメンホモの
時代に入った。と言われる。中国には韓国や日本と違って、中華圏にいわゆる男性アイ
ドルグループは少なく、台湾・香港を含めても、過去20年間に売れたグループは、小虎
隊、F4、飛輪海、棒棒堂、TFBOYSなど、数えるほどしかないとされる。人気があるのは
リーダーの伍嘉成で、歌、ダンス、トークなど幅広く才能があり、性格は明るく、華奢
な体形で愛嬌のある顔立ちです。アイドルとしての素質に大変恵まれて、ライブ当日に
、会場の周りには早くからファンの女の子たちが集まっていました。メンバーごとに私
設ファンクラブが形成されている。ファンはほぼ100%女の子で、20代が中心です。想像
していたよりもファンの年齢層が高く、大学生以上、社会人が主力だと思います。恐ら
く他の K-POPグループでの「ファン活動暦」を持つ、アイドルファンとしての経験値が
高い子たちだろう。加えて今や中国での男性の地位は低い。一人っ子政策や中国特有の
老後保険の男子重用で、結婚はままならない。又結婚しても同じ様に一人っ子で甘えて
育った嫁の自我の強い側面に、男が家庭を捨て、別居や離婚する事は多いとされている
。こうしたホモ化現象やバイセクシュアルの姿は表に表れない。「中国では、ゲイは今
も社会的に存在を認められていない。しかし、実際にゲイやバイセクシャルの男性は多
いんです。」と中国出身で現在は日本に住むバイセクシャルの男性は語る。中国で「違
法」だった同性愛が1997年法的に認められたが、それでも「同性愛」は精神疾患と見做
されタブー視されている。一人っ子政策の結果、結婚しないことへの家族からのプレッ
シャーがとても強く、同性愛者でも結婚して子どもをもうける人が多い。しかしスマホ
の発達で、中国の同性愛者向けマッチングアプリが出来て一躍表に躍り出た。 「Blued
」の最高経営責任者・耿楽氏が「国内のLGBT人口が7000万人を超える」と発言するなど
、ゲイやバイセクシャルが中国国内で増え続けていると指摘する声もある。「感覚とし
て、バイセクシャルの男性が中国で増えている。普段は妻や彼女と性行為を楽しみ、お
酒を飲んだりドラッグをした時に、同性の相手と愛し合いたくなる。私の既婚者の友人
もHIVに感染しましたが、家族にはひた隠しにしています。家族に言えるわけがない
。従って治療しない。」と言う

1317: 名無しさんAA:18/12/23 11:38
 一方で、同性のパートナーや、感染者らとは性行為を続けている。日本に来た時は、
女性がいる性風俗店も利用する。そこで日本での感染が広がり続けている。」と話す。
福岡の派遣型風俗店を営む男性は、「今度も中国や韓国など、大陸方面からやってくる
男性観光客の増加が、いまやHIVやその他の性病の蔓延の原因だ」と分析している。
「関西方面で、抗生剤の効かない新種の淋病が流行った時も、二年前くらいから梅毒患
者が増えた時も、そして今回のHIV感染も、全部外国人観光客の、特に中国人観光客
が増えたタイミングとぴったり一致しとる。金持ちの客は女の子にチップをたっぷり渡
して、密かに本番行為を迫ってくる。それが当たり前になっとったけど、黙っとったら
この状態になった。」とつぶやく。中国で若年層のHIV感染・患者数の激増している
背景には、ネットで簡単に相手を見つけ、知識がないまま危険な性行為を行っているか
らと指摘がある。中国における同性愛は、違法ではなくなったものの、現在も同性愛を
理由に精神病院に入院を強いられるなどの危険な現状がある。「ないもの」としている
ために、どうすれば安全な性生活を送れるのか、安全であることがどれほど重要なのか
が浸透していないし、そもそも避妊具など金を出そうとしないし、話をしようとしない
。共産党の密告時代の風習が残るからだ。1985年から今年までの間で、中国全土の公式
エイズ患者は累計で50万人を超え、そのうち15万人が死亡している。エイズ感染の原因
の95%は性行為によるものだが、そのうち75%の患者はホモセクシャルで、とくに15歳
から19歳までの未成年の男子が最も多く、エイズ患者の半数はこの年代で、最年少は14
歳だったという。中国各紙は報じている。中国のエイズ患者は全国的にまんべんなく広
がっているが、それでも北京や上海などの大都市部に多く、年齢も10代の男子が急増し
ている。これはネット発達で、おもしろ半分にホモセクシャルの世界に入る高校・大学
の若者が多いことを物語っている。北京では今年10月までのほぼ30年間の累計で18,635
人がエイズに罹患しているが、今年に入って2932人と急激に増えている。内73.5%がホ
モセクシャルで、全国的な傾向で、河北省ではエイズ患者は今年だけで9601人だが、そ
のうちの89.5%がホモセクシャル、河南省でもエイズ患者の96.3%を占めているという
。中国衛生省関係者によると、上海のホモセクシャルは10万人を超えて、高校生や大学
生が興味半分に交渉を持ち、エイズに感染するケールがあとを絶たない。ホモセクシャ
ルは北京や上海など大都市の教育程度の高い男性に多く、成人男性のうち8割が既婚者
で、知らず知らずのうちに、配偶者も夫との性行為によってエイズに罹患するケースが
多い。とされる。その為日本の満金旅行者に多く、日本人を介して中国人エイズ患者を
うつしているケースもあると思われる。

1318: 名無しさんAA:18/12/23 11:38
 今年の春節に爆発的に売れたと言う日本風俗ツアーが人気のままにHIV患者を増や
している2月8日は、中国全土が春節(旧正月)を迎え、中国人にとっては長期休暇が
取れる機会だからだ。それに合わせて海外旅行、特に日本に出かけるのは定番となって
いる。「6泊7日で日本の女を食いまくれる夢のようなツアー」が話題になり中国のある
掲示板にアップされた衝撃の訪日旅行日程がある。かつて韓国やるパックと言われた様
なものだ。一日目は日本観光の定番、東京・浅草寺参拝から東京スカイツリー見物、ミ
シュラン掲載レストランでの夕食など一般的に回遊する。日本の空気に慣れた所で夜遊
び9時に新宿のキャバで飲ませる。11時にホテルに帰ると「日本女学生援交サービス
」としここで初めてプレイを堪能させる。業態不明だが〈直接見て女の子を選べます。
挿入できるタイプの風俗です〉と書き添えられている。2日目夕方までお台場観光だが
、なんと〈AV女優が同伴する〉との説明がある。蒼井そらの登場以来、日本のAV女優は
憧れの的だ。「単体女優」だけではなく、名もない「企画物女優」にも詳しいとされる
中国人男性にとって、AV女優とのお台場デートは夢とされる。夜6時、銀座の神戸牛レ
ストランで食事をして台東区の高級ソープへ。台東区といえば日本一のソープ街、吉原
がある。中国にも“サウナ”という名の本番風俗はあるが、ムードなどないマッサージ
で味気ないもの。快楽と贅の極みを追求した吉原は、中国人男性が一度は行きたい桃源
郷だという。11時には飽きない綿々には中央区の高級クラブへと陣を進め、美女を隣に
杯を重ねさせる。こうして疲れさせた所で3日目から一般の秋葉原でメイドカフェ体験
。JKリフレ、続いてアキバのイメクラ店へ。こちらで本日の昇天。夜7時、高級蟹料
理レストランで腹ごしらえをして新宿へと向かわせる。中国では見られないストリップ
に鼻の下を伸ばさせホテルにデリヘル嬢をよこして追加課金で本番。旅行中日に2度を
中国人の精力スケジュールに入れると言う。次は大阪へ昼から新幹線で移動し心斎橋や
通天閣を見物、ふぐ料理に舌鼓を打った後の夜8時半から飛田新地。長い間外国人お断
わりだった伝統遊郭も最近は中国人OKが増え少々行儀よくさせ夜10時、梅田のセクシ
ーパブへ案内する。5日目朝9時から美女を引き連れてUSJで遊んだ後、滋賀の雄琴
温泉へと向かう。夕方4時に到着し、ゆっくりと温泉に浸かったあと、夜9時には関西
最大級の雄琴ソープで性技を堪能させ、最終日は新幹線で東京へ舞い戻り、表参道を見
物。ミシュラン掲載レストランで夕食を済ませると、夜9時に六本木のAV嬢キャバク
ラへ入店。「中国の風俗は2014年に始まった政策によって取り締まりが厳しくなり数が
減ったために、値段が上がったのに風俗嬢の質が下がった。だから、レベルが高く安全
に楽しめる日本風俗ツアーが人気になりつつある。」と200万程度の射精ツアーを組
んだと語られる。

1319: 名無しさんAA:18/12/23 11:47
 ところが9月の九州のブロック紙「西日本新聞」が報じた記事によれば、2016年から
の福岡県内のHIV感染者は軒並み増加し、エイズ患者の新規報告者数が合計92人と
なり過去最多、前年と比べて61%も増えており、隣接する佐賀や熊本でも感染者や患者
が急増中だという報道だ。関東甲信越エリアではほぼ「横ばい」なのに比べて、九州エ
リアだけ32%も増加しているのはなぜなのか。一昨年に、日本国内で急増した「梅毒」
が、実はこの射精ツアーで止まらない男性客が九州まで足を運んだ結果だったのである
。大陸、特に中国からの観光客がこうして持ち込まれたもので「何でもかんでも中国人
のせいにするな」といわれそうだが分析結果は、その根拠となった。訪日観光客、とく
に中国からの観光客が激増とHIV患者の増加はぴたりと一致するからだ。又ときを同
じく中国国内でも梅毒患者が急増している。そして日本へやってきた中国人観光客の一
部が、日本の風俗を積極的に利用して、中国人観光客を受け入れた風俗店店長らすらも
感染していた。梅毒では「中国など、大陸から持ち込まれたもの」と類推でき今回もま
た同様に、九州に蔓延するエイズが中国などの大陸方面から持ち込まれた。と考える事
は当然だ。これは複数の要因が浮かび上がっている。2014年の「世界エイズデー」にお
いて世界保健機関(WHO)は、中国でHIV感染・患者数の発表し、中国政府に対策をとる
ように求めている。発表での中国のHIV感染・患者数は累計約50万人と人口に対し低
く推移していたが、ここ一年間で10万人以上、前年比10%以上増加し著しい感染・患者
数が今現在増えていたからだ。これらはすべて、政府の意向をくんだ発表による数値の
ため、実際にはもっと多くの感染・患者数とみられている。さらに関係者を驚かせたの
は、その年齢層が、若年層の15〜19歳の男性感染者の増加が顕著である事だ。前年同期
比で51.4%も増えていたことは驚くべき数値である。多くが薬物の静脈注射や違法採血
などの、注射器感染ではなく性交渉で、同性との性行為によって感染していたといわれ
、前年比5割増加は、男性ゲイ乱性交者の増加を物語るもの。と言えるのだその後に、
2016年の世界エイズデーにあわせて中国が発表した感染・患者数は約65万人に増えてお
り、経路としてはいまも男性間の性的接触による感染が大都市ほど顕著に多い。中国は
、性的マイノリティに優しい国になったのだろうか。この安全な性行為の認識不足とい
う点からは、中国のことばかりではない。九州で性産業の取材から、日本でも多くが、
自分とパートナーを危険にさらしているという認識がないまま、快楽を優先している人
が少なくない。この中国旅程のタイトルを訳すと〈各地で射精してまわる、日本セット
メニュー〉。中国でも目を引いたようでネット上では「羨ましい」「実在するツアーな
ら行ってみたい」などと話題になり若い男性客も多いとされる。「梅毒やら淋病ばうつ
されるくらいならまだマシやったけど、HIVてなるとね……先の関係男性のぼやきだ。

1320: 名無しさんAA:18/12/23 12:20
厚生省関係当局は「早期発見・治療で感染拡大リスクを減らせる」と呼びかけている
。しかし、急激な感染者や患者の増加率、そして当事者たちの危機意識の無さから考え
られることは、もう既に「発表値以上」の罹患者が日本で増加し存在しているのは間違
いなさそうだ。そして、その危険は、あなたの身近にも迫っているかもしれない。在日
中国人の男性の自らコーディネートからガイドまでを行なっている関係者は、ツアーの
詳細には、「評判も人気もまずまず。まだ空きはあるが、行く店は変更になる場合もあ
るが充分男性客を満足させられる。教えられることは以上だ。」というなり電話を切ら
れた。こうした性交や男性用射精ツアーは規模は珍しいにせよ数多く存在する。中国人
向けの「日本風俗ツアー」などは年々増加し、今や日本人の子女は性奴隷化状態という
。中国の文化・風俗に詳しいライターの奥窪優木氏は、その原因は習近平政権の風俗一
掃政策にあると分析するが、そもそもの原因は国会議員の中国援助と経団連を始めとす
る多くの馬鹿人間が中国進出企業としてお金と仕事と技術とお客を置いて来た事である
。つまり日本と言う国は、自国の若者には貧民生活を強いり、留学生や旅行客の為に、
行政の看板付け替えやパンフレットや多くの行政支出を行い、更に税率を上げるという
全く悪魔の鬼子母神すら行わない非情をやって来たのだ。大学教育が今や貧乏な日本人
相手ではなく、国費補助のアジア人や金持ちの中国人向けを半数占め、学力の高い女医
すら採用しないという糞のような教育機関で、お金持ち坊ちゃんクラブと化しても尚、
スポーツの不祥事を見るように、日本人虐待に率先して行い、本当の過去からの奥ゆか
しい日本人は、日本人風の帰化朝鮮人から苛められ小学生時代から自殺に追い込まれて
いる。事実教育委員会の不見識な事実調査の実態には反吐が出るほど韓国風の考えと感
情が出ている。都合の悪い事実は隠したい。たかかが一件の事故だ。自分の地位が危う
い。地域を不名誉な事で有名にしたくない。有力者のコネが切れる。などなどだ。住民
もその教育者も行政も、昔からあった日本的な「心は正義に志する」と言う感情がなさ
すぎる。かつては戦争遺族の「誉れの家」は勇士にではなく「国憂の志」に掲げられた
激戦敗戦でその心は廃れたのだが、それでも大陸からの引き揚げ者は区別しなかった。
1983年に発見されたヒト免疫不全ウイルス(HIV)は、感染すると後天性免疫不全症候群
(エイズ)を発症し、ほどなく死に至るイメージが未だに強い。しかし近年では、感染
しても発症を抑える治療や、発症しても抗ウイルス薬治療を続ければ非感染者とほぼ同
じ水準の余命を生きられる。とはいえ完治が難しく、一生、治療を継続しなければなら
ない。そのエイズ感染が、九州で急増している。この現象は図らずも都市化と言う金満
主義の延長で 日本人が貧乏にされ経済において侵されて性産業で生きる事に指導した
ような行政に、大きな暗雲が垂れ全く間違えたアベノミクスを示している。

1321: 名無しさんAA:18/12/23 13:03 ID:oxM
 中国農業農村部(日本の農林水産省に相当)は12月初旬までに、「 約740万人の農民
工が都市部から地元に戻った。」と発表している。農民工とは、農村から都市部に出稼
ぎに出る人々のことだ。同部は「起業のため」と理由を説明しているが、事実上の失業
が原因だとみられる。中国の農民工は昨年末現在、前年比1.7%増の2億8652万人。中国
の景気冷え込みが深刻化していることがうかがえるが、中国では2018年、これ以外にも
既に 200万人が失業していることが分かっており、約1000万人が失業の憂き目を見てる
。香港紙「経済日報」は失業者の急増について「第1の原因は米中貿易戦争の影響だ」
と指摘する。外資企業や中国企業が次々と、生産拠点を中国から他国に移転しており、
中国内の求人数は激減している状態という。第2に、中国当局が最近掲げた「国進民退
(国有経済の増強と民有経済の縮小)」政策も、失業者の急増に大きく関係している。
裏付けるように、中国では2018年に入って雇用低迷に関する報道は近年日増しに増えて
いた。経済専門華字サイト「財新網」には「国内雇用低迷のため 202万件の求人広告が
消えた」と報じている。ポータルサイト「網易」でも「今年上半期で、中国内の 504万
社が倒産、失業者数が 200万人超となった。」と伝えている。真以は定かではないが、
現状報告だろう。がしかし、例のごとく両サイトの記事は当局にとって都合が悪かった
ので、掲載の数時間後にはサイトから消えてしまったのである。それは、中国当局が失
業者急増によって社会的不安が急速に広がる。と危惧してか、米国に中国は全く影響は
微弱だ。と思わせたいのか。色々理由はあろうが経済の情報統制を強めているとみられ
ている。一方、中国求職情報サイト「智聯招聘」が10月23日に発表した統計によると、
2018年7,8,9月期の求職申請者数は前期と比べて、24.37%減少し、企業側の求人数は同
20.79%縮小した。7〜9月期のIT関連企業の採用者数も前年同期比5割減となった。
中国メディアは10月、中国電子商最大手のアリババ集団や京東、通信大手の華為(ファ
ーウェイ)などの大企業は人員削減を計画していると相次いで報じており、中国の雇用
および国内経済が非常に厳しい局面に入っていることを示している。こうした事を受け
中国共産党中央政治局は7月、経済政策をテーマにした会議を開催し、中国経済の情勢
は「安定の中に変化があり、いくつの新たな問題や試練に直面している」などと結論づ
けており、今年に入って失業者数が急増していることを裏付けている。対して米国の文
化においても「長者」になることは、起業家である事を示しは富のキャリアパスになり
得る。一方で起業家の10人中8人が、創業から1年半以内に事業に失敗している。創業者
の多くは、自分の貯蓄のかなりの部分を事業に注ぎ込んで、国は個人の富を吸い上げて
拡大した行政や国富をつくっている。その中で大富豪になる最も早い方法が、間違いな
く投資だ。起業リスクを冒すことなく必死に働く必要もない。これが共産党が真似た。

1322: 名無しさんAA:18/12/24 21:09 ID:uH.
 米国の文化においては長年、誰もが憧れるのは大富豪になることだとされてきた。だ
が実際には誰もが、厳しい現実に直面している。「百万長者」になることは、憧れるこ
とではなく必要なことだからだ。米国のミレニアル世代が退職後の生活を送るためには
、180万〜250万ドル(約2億〜2億8000万円)が必要だ。とする調査結果があるほどだ。
つまり、次々に利上げした景気高揚をして、ドル高で物品のインフレ化で市場経済を保
って来たのだ。医療保障や老後や年金も全てが投資案件化して個人の生活保障を得てい
る。好況時でも、ある時はインフラ投資予算すら州財政にないぐらい税収は金持ちのみ
に限った税法下だった。そうした中では、仕事や収入が途絶えた老後を考えれば数百万
ドルを持つ富豪になっておかなければ、65歳や70歳を過ぎても働き続けることにな
る可能性が高いのである。つまり米国には大富豪は少ないものの、富豪が数多くいると
言う事になる。それは逆に貧者や国籍も持たない大貧者も多い事を意味している。では
彼らは誰もが欲しがる肩書をどうして手に入れられたのか。彼らのほぼ全員が共通する
のは5つで、一つは教育を受ける位はゆとりの財産を親が持っていた事だ。他の4つの
行動の、起業をして、自らの何らかのスキル磨き極め、間違いのない投資し、資産を築
くと言う方法だ。自分の時間と引き換えに収入を得ている社会で、お金を稼げる潜在的
な能力は「時間」の制約を受ける。受けない方法として起業が存在し、世界で最も裕福
な人たちのうち、半分は起業家である。米国は、大企業の最高経営責任者の平均年収は
、およそ1560万ドル(約17億5200万円)で平均的な米国人労働者の年収(5万8000ドル)
の約三百倍。起業で成功して富を築く5%か失敗してお金を失う9割か、まさに白か黒
かのどちらかに掛ける人が多い理由はそこにある。自身が何かを極めておけば、財産は
失っても完全に収入源を失うことはない。と言う思想で日本の様な総合職的求人や会社
は殆どなく全てが専門職と言われる。起業家の10人中8人が、創業から1年半以内に事業
に失敗しているし、創業者の多くは、自分の貯蓄のかなりを事業に注ぎ込んでいる。つ
まり日本の零細企業並みの公私混同ぶりなのだ。日産のゴーン社長が、あれだけ大きな
会社であっても、背任行為した理由である。また中国に腐敗の汚職党員が繁殖する理由
でもある。つまり欧米流の教育の中にはそうした福祉や共済思想のなさの世界で生きる
非情さが含まれている。実はそれが米国の銃社会の根源であり、今国際社会の当惑する
思想でもある。自由主義は本来個人孤立主義のはずだった。しかし米国では会社や組織
をして自分の城を築き権力や生活の元としたのだ。それを中国は共産党の権限に強化し
た。この権利の委譲で、会社の国富化に異を唱え危険を感じたのがロシアのプーチンで
ある。土地は共産党であれ自由主義であれ国のものとされる。が資源や産業は中国では
アメリカ並みの共産党国策企業にしたが、ロシアは国営から民営に移転できなかった。

1323: 名無しさんAA:18/12/24 21:27
 日本海のEEZ=排他的経済水域内で、海上自衛隊のP-1哨戒機が12月20日、韓国海軍の
「クァンゲト・デワン」級駆逐艦から、火器管制レーダーの照射を受けた。この駆逐艦
は、別名「KDX-1」と言い、全部で3隻建造され、1998年から2000年にかけて就役した。
防衛省が発表した画像は、艦番号が 「971」なので、「クァンゲト・デワン」級1番艦
の「クァンゲト・デワン」ということになる。韓国は何故か「クァンゲト・デワン」と
海洋警察庁の警備救難艦「サンボンギョン」の2隻で、遭難信号を出し漂流中だった北
朝鮮の漁船を捜索していたという。IHSジェーン軍艦年鑑によれば「クァンゲト・デ
ワン」級駆逐艦は、空中の飛翔体を 360度捜索するSPS-49v5対空捜索レーダー、水上及
び低空を捜索するMW08レーダー、空中の標的に狙いを定める火器管制レーダー STIR180
レーダー、航海用のSPS-55Mレーダー、それに、敵味方識別装置UPX-27 が搭載されてい
る。これらのレーダーや電波装置は、使用する周波数帯がそれぞれ異なって、使い方も
異なる。海面の漁船捜索なら「クァンゲト・デワン」は、海面及び低空捜索・射撃指揮
用のMW08レーダーを働かせる。このレーダーのアンテナは、海面を遠くまで見渡せるよ
うに、マスト上の高い位置にある。軍艦の為様々な武器を積んでいる。対航空機用に、
RIM-7Pシー スパロー艦対空ミサイルを前艦橋の前の垂直発射装置に16発装填できる。
このミサイルは、標的となる敵の航空機に 軍艦の火器管制レーダーから電波をあてて
、その反射した電波をシースパロー・ミサイルの先端にあるアンテナが受信して、標的
に向かって飛んでいくという仕組みだ。これは標的を破壊するまで「クァンゲト・デワ
ン」は、火器管制レーダーの電波をあてていなくてならない。これがロックオン状態で
ある。それが火器管制レーダーの STIR180だ。防衛省が発表した画像を見ると、前後の
艦橋にそれぞれ1基ずつある、STIR180 レーダーの後ろのアンテナが、こちらに向いて
いる。つまり、撮影したP-1哨戒機のほうを確実に向いていたし上向きだ。STIR180 火
器管制レーダーの電波は、複数回数分にわたって、P-1哨戒機に向かって出されていた
とのことで、これが正しければ「クァンゲト・デワン」は、シースパロー艦対空ミサイ
ルを発射する直前でであり、既に戦闘態勢にはいったレーダーの使い方をしていた事に
なる。「発射後の誘導のために、STIR180 火器管制レーダーが電波を出している状況」
だと、P-1の乗員が判断して、対空ミサイル除けの空中機動をすると共に、ミサイル除
けのチャフやフレアを撒くなどの回避行動をとるのは当然の状況である。 さらに、P-1
哨戒機から「クァンゲト・デワン」に無線で呼びかけたにも関わらず「回答がなかった
」ということなので、P-1の乗員にすれば、異常事態で、他国なら撃沈させてもいい筈
の文句の言えない状況を作っていたのだ。海自のP-1哨戒機の呼びかけに答えられない
ような通信、または、データリンクのトラブルでも抱えていたのだろうか。

1324: 名無しさんAA:18/12/24 21:55
 12月22日付の韓国・聯合ニュースによると、「韓国軍の消息筋は、『出動した駆逐艦
は遭難した北の船舶を迅速に見つけるため、火器管制レーダーを含むすべてのレーダー
を稼働し、この際、近くの上空を飛行していた日本の海上哨戒機に照射された』と説明
した」という。日本の防衛省は22日、「火器管制レーダーは航空用の物で、広範囲捜索
に適するものではなく、遭難船舶を捜索するためには、水上捜索レーダーを使用するこ
とが適当です。」とコメントしている。聯合ニュースの記事が正しいとすると、漁船の
ような海上の目標を探すのに、STIR180 対空火器管制レーダーも働かせる必要があった
必要なない。この「クァンゲト・デワン」には、一度にすべてのレーダーを稼働させる
仕組みが組み込まれていて、人為的ミスでそれを稼働させたのか。または、すべてのレ
ーダーを稼働させてしまったシステムという、致命的“欠陥船”であって、それがこの
「クァンゲト・デワン」級にあったのかどうか。または、そんなシステムや“欠陥”は
なく、指揮系統の人為的ミスで、すべてのレーダーを稼働させたのか。それとも、何ら
かの事態の場合には、すべてのレーダーを稼働させるという決まりや規則が韓国海軍に
あるのか疑問だ。そういう規定など普通はないからだ。又レーダー欠陥もこれまで異常
が確認されれば直している筈だ。というのも、中国機がつい2,3日前も飛んでいるか
らだ。しかし、事情通からは不思議な情報が届く。これまでも北朝鮮は数々の海上での
瀬取りを国連の目をかいくぐってして来た。それらの多くは中国商社や中国の買い付け
船が多かったが、今回の貿易戦争で共産党の厳しい貿易商社の管理がなされて動けなく
なった。と言う話である。つまり北朝鮮は中国共産党に瀬取りの機材発注ができなかっ
た。とした情報である。安保理北朝鮮制裁委員会の専門家パネルの報告書で、密輸ルー
トには、積み荷の入れ替え、産地偽装など組み合わせており、安保理関係者は「制裁を
強化するたびに、手口を巧妙化させている」と指摘している。北朝鮮の主要産品である
石炭は規制対象であり、昨年8月は輸出が全面的に禁止された。専門家パネルは、昨年
8月以降も、北朝鮮が石炭を密輸した疑いがある事例は23件もある。輸出先はロシア
(7件)、中国(5件)、ベトナム(9件)、韓国(2件)だ。主な手口は、ロシアな
ど第三国港に北朝鮮産の石炭を輸送し、港でいったん降ろしした後、書類上産地を偽装
。その後、別の船が同じ港に入港しては石炭を積み替えて、各国に輸出していたのだ。
報告書では、「いくつかの船は、石炭が積み降ろされた港に数日後に入港し、出港時に
は、重量が増えていた」と、不自然さを指摘している。ここにベトナムや韓国への密輸
入に大きな問題がある。この北から石炭が輸入されている事だ。北朝鮮産をロシア産と
偽装するケースは横行しており、中国当局は、山東省の日照市、青島市の港では、ロシ
ア産の石炭はすべて輸入を禁止すると公表している。

1325: 名無しさんAA:18/12/24 21:56
 ところが、報告では北朝鮮が1月から5月末に、海上で船を横付けして石油精製品を
積み替えて密輸する「瀬取り」を少なくとも89回繰り返していたことが12日、米政
府の報告書で明らかになっている。北朝鮮には国連安全保障理事会の制裁決議で厳しい
輸入制限が科されているが、瀬取りだけで年間輸入上限を超えたとみられ、中国とロシ
アを念頭に輸出停止を求めた。対北朝鮮制裁は、これまでも「抜け穴」が指摘されて、
実効性に疑問があった。トランプ米政権は、北朝鮮が完全な非核化を実現させるまで制
裁を緩和しないとしているが、北朝鮮は米国との対話の裏でも制裁破りで大規模な密輸
を続けていた疑いが濃厚となった。米国連代表部が11日付で北朝鮮制裁委員会に送っ
た報告書によると、同期間に瀬取りでガソリンや軽油などの石油精製品を積んだとみら
れるタンカーが89回、北朝鮮西部の南浦(ナムポ)や日本海側の元山(ウォンサン)
などに入港。安保理決議は北朝鮮への石油精製品の輸出上限を年間50万バレルとして
いる。瀬取りして入港したタンカーが積載可能量の3分の1しか積んでいなかったとし
ても上限を超過しているという。つまりこの話では石炭を韓国に輸出し石油をロシアか
ら買っている事になる。ここに何故が起こる。石油の輸入は考えられるがわざわざ産地
をロシアと偽装してまで石炭を売って何を買ったのか。ここで考えられるのはロケット
やミサイルの部品であろう。と言う事だ。更に漁船探しと言いながら傍に大型船舶が無
い事から小さな部品である。と推定される。更にレーダーを自動に開放してまでの捜索
は、ロシア船舶やロシア航空機との遭遇なら恐らく撃沈される。この撃沈されてもいい
ぐらいの高値でこのミッションがあるとすればIC部品に違いない。と言う事になる。
北朝鮮がミサイル発射を控えているのは、「アメリカとの交渉の為でアメリカを起こら
せたくないから。」と言うのは軽薄短小であろう。裏に北朝鮮のミサイルの完成がある
からだ。加えてこの度ロシアは幾つかの強力な兵器を開発した。一つは小型の核弾頭で
ある。高熱に耐えて地球上のどこでも爆発させられる。もう一つは超音速マッハ10以
上の宇宙空間から目的地に行ける飛行体である。自国で高く打ち上がる為に何ら制約を
受ける事無く、一度発射すれば自動で自己判断して回避し撃ち落とす事は不可能の曲芸
飛行を繰り出す。もう一つはその発射体である。珍しくロシア衛星ロケットの打ち上げ
が失敗に終わった頃、軍需産業の工場では長身のハイブリッド小型ロケットエンジンが
開発された。つまり工場の指導者が日本の衛星打ち上げなどどうでもよい位に大事な試
験を行っていたのである。極超音速ミサイル「キンジャール」を搭載したミグ31K型
戦闘機と、長距離爆撃機 Tu-22M3との合同演習である。こうした秘密の図面は恐らくは
北朝鮮も手に入れた筈だ。つまり北朝鮮にとってはいまだにロシア中国は脅威なのだ。
又韓国は裏で北朝鮮との密貿易をしているとしか言いようがない。

1326: 名無しさんAA:18/12/24 21:57
 では北朝鮮が石油の代用品のはずの石炭を売ってまでICを手に入れて何をしようと
していたのだろうか。それは準用核つまり核開発の完成だろう。つまり、恐らくは古い
ソ連の電子制御の技術の設計図はロシアの軍需産業から手に入れていると考えられる。
つまりソ連の技術を北朝鮮に作って、もっと制度の良い飛行体の完成であるといえる。
 英BBC放送(電子版)などによると、大統領選前の重要な年次教書演説でプーチン
氏が発表した新兵器は主に4種だった。最も脅威的なのは、大陸間弾道ミサイル「RS
28サルマト」で、射程は11万キロ。通常の攻撃コースである北極経由はもちろん、
南極経由でも欧米を攻撃できる射程を持ち、弾頭重量は100トン、核弾頭なら15個
を搭載できるという。北極経由より圧倒的に長距離である南極経由の攻撃が可能になっ
た。この意味するところは、弾道ミサイル防衛(MD)において「北から核ミサイルが
くる」との想定に基づき北方方面に配備していたMDの迎撃ミサイルなどを、南側にも
配備しなければ守りきれないということだ。さらに、このサルマトが搭載できるのは、
自由落下していく核弾頭だけではない。大気圏突入後、滑空して目標へのコースを変え
る超音速飛翔滑空兵器「アバンガード」も搭載できるという。アバンガードは機体表面
が約2000度近くになり「隕石のような火の玉となって標的に飛ぶ。」もうひとつは
低空を飛ぶ巡航ミサイルだが、その動力が原子力とされる。核動力巡航ミサイルとして
「無限の射程距離」を獲得した。これは北大西洋条約機構(NATO)や米国、日本の
迎撃システムによる迎撃可能エリアを大きく迂回して目標に到達することが可能だ。と
説明される。レーダーに探知されにくい低空を滑空して飛び目的地に向かう。4つめは
海中無人機だが、動力は核エンジンで、長射程を獲得するためとみられる。潜水艦から
発射され、通常の潜水艦では潜れないような深海を航行する。しかもスピードは潜水艦
より速く、目標艦船に回避の時間を与えない。また核弾頭を搭載すれば港湾など陸上施
設の攻撃も可能という。つまりロシアは従来の弾道ミサイル防衛を無能にした技術を持
ったのである。しかし、これらの兵器がすべて驚愕に値する「秘密の新兵器」というわ
けではないつまり予測されていたのだ。例えばサルマトは2016年10月にロシアの
開発メーカーが既に自社のホームページで開発の実態を公表している。それらをまとめ
て「新兵器」として公開したプーチン氏の意図は明白だ。演説でプーチン氏は「これら
は非常に強力な兵器で、(欧米の)弾道ミサイル防衛(MD)を突破できる。」と強調
し、新兵器で「われわれとの国境付近にMDシステムや北大西洋条約機構(NATO)
の施設を配備するといった非友好的な行動は意味がなくなる。」と述べケン制したのだ
つまり意図は「MDの無力化をアピールすること」にあったといえる。

1327: 名無しさんAA:18/12/24 21:57
 米国やNATO、日本が持つ弾道ミサイル迎撃システムは、海上自衛隊では護衛艦「
みょうこう」などのイージス艦が持つイージス・システムとSM3ミサイルの組み合わ
せのほか、陸上版のイージス・アショア、韓国配備の高高度防衛ミサイル「THAAD
」、比較的低空での迎撃を受け持つPAC3といったものがある。ロシアが恐れて来た
のは、こうした防衛兵器で自国ロシアの核兵器が無効化される一方で、自国に向かって
くる核兵器を迎撃する手段がないことだ。これでは、お互い核兵器を持つことで平和と
軍事的均衡を保つ「相互確証破壊」が成り立たなくなる。これが報復核の均衡平和とい
う現象を産んでいた。そこで核の数量削減しようというのが米国だったし、対抗MDを
突破できる兵器を−というのがロシアの動きだった。新兵器群はむしろロシアの限界を
示している。ロシアはかつてのソ連時代から、兵器開発に関しては特徴があった。その
一つは、旧西側の兵器の開発思想を追いかける現実、というものだ。第二次大戦後には
、戦時中にもソ連領沿海州に不時着した米国のB29重爆撃機を返却せずに分解。ほぼ
コピーしたTu−4爆撃機を、約1000機も生産、配備した。その後は、実物が手に
入ることがなくフルコピーもなく、西側、特に米国の兵器開発の後を追う姿勢が続いた
。パイオニアの国は相当に無駄な試行錯誤をしなければならないが、後追いならば、枝
分かれする技術のうち先行者が選んだ「本命」だけを選択できる。開発時間とコストの
大幅削減が可能だ。そして、選んだ道が失敗であったとしても、それは先行者も失敗す
ることを意味していて「ひとり負け」は避けられる。それがスーペーシャトルに良く表
れている。米国は何度も失敗しシャトル開発を止めたが、ソ連はそれによって大きく国
の出費が嵩んで止めてもソ連自体が無くなった。可変翼の大型戦略爆撃機では米B−1
に対しソ連はブラックジャックを、宇宙往還機ではスペースシャトルに対しブラン、超
音速旅客機でも英仏コンコルドに対しTu−144と、外観に違いはあれど開発思想的
には「そっくりさん」の機体は多い。また中国のように劣化コピーしか作れないのと異
なり、後追いの利点を活かして元祖より優秀という機体も少なくない。さらに後追いと
は別思想の兵器もあり、分野によっては米に対し優位性すらあった。ところが、今回の
MDに対するロシアの姿勢は異なる。MDに対して「我が方もMDを」という選択肢を
取っていない。高度な電子装備やミサイル誘導で、そしてその実用化といった面でも、
もはや同じ土俵に立つのは不可能になったとみるのが妥当なようだ。


1328: 名無しさんAA:18/12/24 22:11
今回プーチン氏が公開した兵器群の「核偏重」はかつてレーガン時代の思想そのものだ
。米紙ウォールストリート・ジャーナル(WSJ、電子版)は、この兵器群を「ソ連時
代の防衛構想の焼き直しか、ロシアが既に作り上げているもの」として、斬新さに否定
的で、例えば南極経由の弾道ミサイルは無価値ではないが、人工衛星を打ち上げるロケ
ット技術があれば作れるレベルのものとしている。又レーガン時代に起こったスターウ
ォーズ計画からの流れから米露が逸脱するものではない。しかしすくなくともブッシュ
の湾岸戦争で行われた廃棄核砲弾で、米兵は多くの被爆者となり、この軍産複合企業の
勝手な兵器思想を止めた。実際、原子力をさまざまな兵器に応用しようとの試みは1960
年代には存在していた。米国では原子力を動力とした爆撃機が構想され、原子力を動力
とした巡航ミサイルについても「冷戦時代に米ソとも開発を検討した。」とされる。

1329: 名無しさんAA:18/12/24 22:11
とした巡航ミサイルについても「冷戦時代に米ソとも開発を検討した。」とされる。当
時は戦場の大口径砲といった戦術級兵器にすら核弾頭が用意され「原子砲」と呼ばれた
。さらに米国では空対空核ミサイル「AIR2−ジーニー」という、現在の目で見れば
非常識な兵器まで開発され運用された。核爆弾を搭載して攻めてくる爆撃機の編隊に向
けて発射し、編隊ごと吹き飛ばし蒸発させる。後で起きる放射能汚染など二の次という
兵器だった。この兵器の為に、広島長崎の原爆展の米国開催が軍の強硬な姿勢で、開催
されなかった歴史がある。つまり国民はその放射能被害に盲目であり平和の希求も大き
く危惧されたからだ。今の北朝鮮やロシアの思考が核さえ持てば世界を凌駕出来る。と
言う考え方だ。こうした冷戦期の原子力・核利用兵器に共通する思考は安全性の低さと
人命の軽さだろう。兵器の安全性には違和感があるが、信頼性や安全性が無ければ中国
製の安い化学兵器がイラクやイエメンやシリアで問題化したように自爆テロに似た構造
になりやすいし、廃棄核問題では自国兵士の命すら奪った。いくら核兵器とはいえども
、保管や扱い中に被爆したり曝露したり、突然爆発するなどあっては戦闘にならない。
いざというとき故障が起こるようでは駄目なのだ。運用人員の教育と訓練、整備、知識
そして維持管理のコスト等々、米ソとも冷戦期にこうした問題を検討せず、結局は無用
の長物として、核動力のミサイルや爆撃機といった類いの危険な兵器の開発や配備をし
、そして中止した。核弾頭など利用では、空母や原子力潜水艦の動力に使われる程度と
なって現在に至っている。米国側はこうした取り扱いの危険なものを削減してきた。が
ロシアは更に拡散させようとしている。その一部が北朝鮮の核開発でもあった。ロシア
が供与したウランによって実験を繰り返していたのだ。では今何故。と言う問いが新核
戦略であろう。つまりロシアは、新しい音速以上の宇宙から攻撃出来る飛行体の完成で
もう古い近場の発射型の技術は要らないと思ったか管理がずさんになって、北朝鮮でも
作れることになった。と考えられる。そして更にクリントン財団から買ったウラン鉱山
のウランを売ろうとしているとおもわれる。だが国内の選別廃棄物ウラン土壌は放置さ
れたままなのだ。こんな馬鹿げた国内政策では自由な報道はおぼつかない。


1330: 名無しさんAA:18/12/24 22:14
 また、その過去もロシア(ソ連)はいくつもの大失態を重ねてきた。鉄のカーテンの
陰で当時は一般に知られていなかったが、実験被爆や採掘労働者の被爆、更に廃棄物投
棄や原子力潜水艦の事故、用済み原子炉の解体などは信じがたいほどずさんだったのだ
。1960年には原潜K−8が原子炉の蒸気発生器の故障を起こし乗組員13人が重度
の被曝、又1961年、K−19の原子炉事故により被曝で21人が死亡、更に68年
、K−27が原子炉事故で142人が被曝、10人死亡。70年末にはアルファ級原潜
で原子炉のメルトダウン事故が起き、83年にはK324がウラジオストク南東100
キロで中国の潜水艦と衝突し沈没。現場近辺では高濃度の放射線レベルが計測された。

1331: 名無しさんAA:18/12/24 22:14
ソ連崩壊に伴う原潜の廃棄において、残留放射能の高い原子炉区画の処理・保管に日本
が協力したこともまだまだ記憶に新しい。ソ連からロシアとなった後も、原潜クルスク
の大事故(2000年8月)が発生している。こうした過去を踏まえてロシアの「新兵
器群」を見れば、結局は管理しきれない原子力利用兵器を無闇に増やすだけではないの
かという思いが深まる。では果たして殺す程憎むべき敵が居るのだろうか。実はロシア
がどう思おうとも、実は、米国もロシアも中国も本来敵などいない。もし政権に敵があ
るとすれば、自分が行っている政治形態であろう。虚構の敵として兵器を創り上げても
事実上は、弱い者への威嚇でありイラクやシリアやアフガンを見て解るように、今や、
国を奪っても管理する事は不可能なのだ。混乱や紛争は、その実殺人魔を呼び起こす事
のみであり、国家予算の無駄使いにしかならない。今のトルコを見て解るように、国民
の自由がなく、カショギ氏殺害の様に自国での経済は停滞し、人気取りに殺人や暗殺を
計画しながら他国の所為にして人気取りを図ると言う馬鹿な事が起こる。開発背景に目
をやっても、兵器開発の基盤となる経済面で、名目GDPでトップから米中日独英仏印
と続き、ロシアは12位で韓国(11位)より下位にある中である。こんな状態で米国
と対等の兵器群を開発・維持しようとすれば、歪(ひず)みが出るのも無理はない。又
今後、敵国となるかも知れないトルコにドイツが最新戦車を売った様に、軍産複合企業
の死の商人達が何をしでかすかも管理出来ないのが現実だ。今後に韓国の売ったICが
北朝鮮に渡り脅威となっても韓国の民は恨んではいけない。自らがちゃんと自由主義の
宣教師とならなかった責任である。アメリカも同じである。アメリカの苦境がアメリカ
で廃業した溶鉱炉を中国人達に次々と売ったのである。今の南沙諸島問題も30年も前
のそうした工場やメーカーや製造設備やブランドや株式などを中国に売り捌いていった
責任がそこにあるのだ。本来なら国が消却すべきものを、日本にはココム違反として数
多く規制したが、国内ではそうした製鉄所もIBMのブランドすらもどういうつもりか
売ったのだ。それは先に言う様に福祉政策の無さが、そうした守銭奴の国民を育てたの
だ。この現実は乱射犯人を銃社会が育てていると言う現実に背を向けている限り治らな
い。



1332: 名無しさんAA:18/12/25 17:54
まったくバカ日本のバカ裁判所のバカ判決だ。日産問題はもっと
裁判所はなぜ日本人と違う判決や拘留拒否をするのかちゃんと声明を出せ



1333: 名無しさんAA:18/12/26 19:25
 安倍氏は本当に馬鹿なのだろう。麻生が少し教えてやればいいのだ。ファインメタル
ズが強いと言う事基礎的諸条件が好いと言う事は円高要件なのである。つまり今や円高
を円安誘導にどんどんと政府なり日銀が買い込む状態なのだ。と言う事は今や値段の高
い日本製品が危機的状況にある。と言う事になる。春闘で給与を挙げる税金で物価高を
推し進める。というのは今が一番やっていけない時期なのだ。それを経団連始め経営者
に頼み込む。と言う全くの間違いをしている。何故英国がEUを離脱したのか。実はポ
ンドの価値を低くしなければ物価が上がっても物を輸出出来ない。と思ったからだ。ま
ったく解っていない経済音痴なのだろう。今中国から抜けて行く企業群は実は人件費の
高騰と物価の高騰で食っていけないと考えているからだ。旅行の爆買い入国を目指すの
は円安であり、輸出品の順調な収益も同じく円安なのだ。輸入を増やし輸出減らしたい
と言う思惑だろうが、円高では海外品が日本に溢れ、給与高では更に海外に売れない。
しかし既に自動車で見るように、アメ車と同じ様に人は質の低い腐れたまがい品を輸入
しても日本の製品を買いその値段が高くつくだけなのだ。つまり円高でも円安でも日本
の所得は減るのである。だったら原料が安くあって円高に向かう。その中で給与が上が
る事は不可能なのだ。事基礎的諸条件が好いとはそういう事だ。更に、これをわざわざ
円安誘導する政府資金も馬鹿にならない。ゴーンじゃないがフランス式に海外から資金
調達が今の先進国形態なのだ。もともと「好循環」が続いているのは、いままで世界的
な景気拡大の好循環にあった。それを利用し牽引し拡大金融投資をしてきたのは中国の
金融サイクルと新ITサイクルが世界を動かして来た。しかしその中国も下方に転じ、
又米中貿易戦争まで発展したことだ。依然として、円ドルの為替水準は、想定レートよ
り円安のままで安心だが、2019年の最大のリスクとなる可能性も高い。2016年以上に、
或いはリーマンショック以上に今回のクリスマスショックでも、トランプバーストでも
いいが株価下落のを引き起こし、今後に想定為替レートが超円高で好循環が途切れる事
の可能性も現実的である。既に世界経済の環境悪化で、米国FRBの利上げスタンスで
企業は景気国民は危機と言う国が今の韓国だ。『中央日報』は韓国経済の状況を次のよ
うに伝えている。韓国の上場企業の7〜9月期の営業利益は、半導体を除けば11.4%減少
した。自動車や石油化学といった主要業種の不振が続いており、来年はさらに半導体の
需要が減ると予想されている。また10月の失業率は3.5%で、先月より0.3%上昇して10
月としては13年振りの高水準、就業者比率も数も9ヵ月連続で下落した。今年に入って
生命保険の解約 数が増加、カードローンも急増している。


1334: 名無しさんAA:18/12/26 19:25
これは、雇用が減少したことに伴う国民生活の窮乏を意味する。文政権の経済政策の
軸の「公正経済」「革新成長」「所得主導成長」はもはや霧の中だ。公正経済によって
大企業集中を解消し、中小企業や自営業者、労働者に還元する。革新成長で投資と雇用
を増やし、所得主導で経済成長を果たすという夢が、現実の経済は雇用・投資・生産・
消費の全てで冷え込んで、去年の景気すら守れないでいる。事実、格付け機関ムーディ
ーズは、今年の韓国経済の成長率予測値を2.8%から2.5%に引き下げ、来年はさらに下
がるだろうと悲観的な展望を示している。米国を始めとする世界経済が意外に好調な中
で、韓国経済のみが停滞するのは政策の失敗を意味している。特に、所得主導成長政策
により労働者に恩恵を与えるとして、今年から来年にかけて2年間、最低賃金を29%も
引き上げた。これで、中小企業の経営者や自営業者は困難を極めており、設備投資は縮
小している。正に日本に対する抗日支持運動しか残されていない下落ぶりだ。いま安倍
の唱える呪文が、この2〜3年前の韓国の唱えた事と同じなのだ。馬鹿の極みである。
まあ今の官庁が日本もどきの韓国人だらけだから仕方ないとも思うが馬鹿すぎるのだ。
もともと中国の景況感は既にピークアウト状態を示していて「チャイナ・クロック」と
して、世界経済の牽引エンジンの中国経済が停滞局面に入った可能性をしめしていた。
かつて、2015年末から2016年にかけての急速な円高トレンドへの転換で、日銀はさらな
る金融緩和策として2016年1月のマイナス金利導入に追い込まれた。財務省は2016年6月
の消費増税延期に追い込まれた。ユーロ安・円高も加わり、日銀は9月に、長期国債を
ゼロ近傍に誘導するイールドカーブ・コントロールまで踏み出す。しかしその後日銀は
、安倍政権に忖度して全く利上げを行っていない。こんな仕事しない日銀なら必要無い
。今後「2016年の再来」とケースに陥るがリスク回避の道はない。対応する金融財政政
策の余地が無能の議員の政治しかないと言うことだ。これで平和政党など言うのだから
どうしようもない自民党だ。その上この大馬鹿財務省は2019年10月の消費増税を起点と
して財政再建への一歩を踏み出そうと意気込んでいるだからアホだ。既に日本税制は、
税率変更は不可の状態にある。つまり世界的にも国債償還と公務員給与が倍ほど高く、
日本人の忍耐によって平和が保たれている状態である。議員や国会の悪さの極みなのだ
これで景気があるはずはない。



1335: 名無しさんAA:18/12/26 21:14
 2016年の日銀と財務省の「悪夢」の再発である。物価高騰と人件費拡大は、世界景気
の冷え込みを意味する。今や日本の株価を海外投資家が引いて行っただけでこの有様だ
。日本は世界に名だたる経済の中心になっていたのだ。このインフレショックの起因と
なるのは、他ならぬ馬鹿議員の無駄な出費でありそれが増税税率の理由になっている。
つまり抜け作達の馬鹿頭で自分達の経費や給与を上げ、更に政治と言えない借金財政で
ばら撒き政治をやって来たつけを 収めきれない程膨れ上がったと言う事だ。ここで、
もし計画通りの増税したら確実に日本は輸出を無くし、円高にならなく為の大きな石油
高騰に疲弊し経済は沈む。当然世界経済も失速する。実は英国がEU離脱が出来るのは
国内に北極原油があるからだ。つまり国内にエネルギー資源があるから無理が出来る。
しかし、日本はいまだに海洋資源開発は夢の中で、太陽光などくだらないエネルギーに
依存しようとしている。つまり失敗したドイツ政策の物まねをしようとしているのであ
る。今後誰もが言うのは、トランプ政策はしたたかさを求められ、友情や同盟と国益を
分離した考え方に走っていると言う事だろう。幸いな事に日本は今だ原子力を維持して
ロシアの天然ガスについていない事で 早々振り回される小国には至っていない事だ。
しかし、日銀の黒田総裁の安倍政権も厳しい日本の未来に対して無能すぎやしないか。
英国が、高騰する物価にメスを入れるように安いポンド供給で北極海油田は確実に売れ
るであろうし、サウジ油田やロシア天然ガスと戦う事が出来るだろう。しかし日本は、
鼻からそうした制約は無いのだ。少しは未来に対して政策があってもいいだろうに。大
体税率を変えるというのはイカレテいる。キチガイ沙汰である。普通の年金や保険や医
療を見ても公共料金みてもスェーデンより高い利率で低福祉高供出なのだ。消費税以外
の税を入れて凡そ5割は高い。この高い税制にのうのうとあぐらかいて、日々何の成果
もない議論と法律談義をして日本自体をおとしているのが国会であり地方自治体である
。およそ地方自治で自己の採算性のある収益自治を果たしている事業所がどこにある。
全くふざけた話しだ。利益還元の収益度外視はあろうが、国家権力と横暴な法の優越権
を持っていながら生産性も事業性や営業性も持たないとは情けない話で、かつての国鉄
と同じじゃないか。国民の金を強請り多寡って国鉄を作っていながら、赤字運営という
議員の経営資質の無さ。森林も塩業もタバコも電電公社も全く経営出来ず値段を上げて
最後は民営化と言う名の売り捌きで、これで国が太刀打ちできないと税率変更とは、江
戸の悪代官よりわるい。それが今や国会議員が国家経営でやってる事だ。天皇崩御もな
く2つ返事で世代交代を認めて、交代に異論はないが、もっとましな国民議論があるべ
きであろう。年齢制限も宮家継続の法も遷宮式典も全く議論なしでなし崩し的で国会は
全く不釣り合いな「もりかけ問題」で明け暮れて、国会の価値がない。

1336: 名無しさんAA:18/12/28 04:02
 世の中にはこんな馬鹿やアホの市町村もあるもんだ。と日本の自治体の腐れた状況が
よくあらわしたニュースが踊る。福島市の認可外の保育園で昼寝中だった1歳2カ月の
男児が死亡した事故で、園は1時間おきの間隔でしか見回りをしていなかった。市は園
側に「10分おき」を求めていたが、守られずに、専門家も園側の対応を問題視する。
「見回りが不十分だった。大変申し訳ありませんでした。」集まった報道陣の前で26
日夕、南福島保育園(福島市伏拝)の丹治洋子園長(64)は頭を下げた。これは殺人
事件で、人の命の重さや「預かっている」と言う重さを一体全体どう思っているのであ
ろうか。「深谷市は、廃校となった小学校の体育館と敷地の入札について、予定価格を
市側がお金を支払うマイナスに設定して12月に実施する。落札者が体育館を自費で解
体することが条件だが、解体費が土地の評価額を上回ることが見込まれるため。市によ
ると、自治体がマイナス価格で資産を入札にかけるのは県内初で、実際にマイナス価格
で落札されれば全国で初めてという。」こんな馬鹿な話がニュースに上がる。全くもっ
てどうかしている。今までも耐震性がないとか場所が無いとかで 人々の財産を勝手に
処分して税金をゴミにして来た行政を見て来たが 全くおかしいままだ。東京環状線を
今使用している物すら新しくする事を出来ず壊せないで補修してやりくりする馬鹿さだ
。その上税金を上げ物価地価を高くしようと言うのだから全く聞いてあきれる。散々、
森の木や藪の樹など残し活用しろと言っても聞かず 東北の津波では勢いを早くし2割
以上の被災増やしに貢献した土木建築業種である。今回作られる長防波堤も又視界を無
くし海の恐怖を無くさせ、海との関わりを否定した作りで、今後の被災を大きくする事
であろう。何兆円も使った無駄な工事と悪意に満ちた行政指導で日本が潰されるのだ。
廃校になった体育館もまず活用していない事がおかしいし、その上解体費と土地の評価
額を対比した事自体がおかしいだろう。そこに使われた木材一本一本が財産でそこにあ
る鉄の一つ一つが資産なんだ。これを預かった自治体が 活用出来ないと言うなら解放
すればいいだけの話で、どこの世界にも老人や子供はいるし貧民はいるのだ。教育は、
常に必要なのだ。この財産や資産に、高率の税で潰して没収までしておきながら、今更
活用出来ない、税負担のない自治体すら管理出来ないなどと 何を寝言言っているんだ
。戦前戦後或いは江戸期明治期に 多くの公用地や市民の森や誇りとした用地を供出さ
せておいて、御神木から村の鐘までださせ、最後は赤紙や無料の労務奉仕までさせた国
の機関や仕組みの自治体が 何を基準に何をもって職員教育してるのだ。ふざけるな。
仕事出来ず 能力もないというなら資格や地位からはなれろ。天皇陛下であるまいし。
まったくあの理想郷に燃えた共済思想の 本当の日本人はどこに消えてしまったのか。
時代が問題ではない。人が問題なのだ人の教育や思想組織の運営が腐れているんだ

1337: 名無しさんAA:18/12/28 04:03
人が問題なのだ人の教育や思想組織の運営が腐れているんだ安倍
政治の様に。ものの本質を国民が見ていない。例え大臣だろうが汚職は汚職無能は無能


1338: 名無しさんAA:18/12/28 04:22
 韓国船や中国船は解ってやっているんだ。今更説明しても無駄。どんどん違法船は沈
めて攻撃すりゃいいんだ。ロシアすらなめられてどうするんだ。船を沈めて人命は助け
る方針で行けば問題はないのだ。別段自衛の為の行為は今でも認められている。日本は
独立国なのだ。国連の管理下の韓国とは違うのだ。どんどん沈めよ無駄な事はするな。
税金泥棒たちよ。北朝鮮と韓国の国境線も別に韓国が決めた線ではない。米国もしくは
国連の管理下の柵なのだ。日本の同意もなしに解体しつなげる行為は殆ど国際法違反で
線路をつなぐ式典をやる権利などは、韓国のどこにもないのだ。全く国境線のこの合意
の席についていない国が、誰も意見しないとみて勝手に国際法を堂々と違反しているの
である。そんな国なのだ。本来の合意式典なら、国連も米軍も日本も中国もロシアも、
その式典に、関係者だから参加しなければおかしいのだ。その違反を違反と言う国が居
ないと鷹をくくって オリンピック憲章の違反と同じことを自分の都合でやっているの
である。本来ならオリンピック委員会は大きく抗議し それなりの違反金をもらうべき
であり、大会運営の大前提が崩れ去った事は 大きな問題なのだ。これをどう思ってい
るのか全くおかしな組織でありますと掲げているようなもので、東京オリンピックも、
ちゃんとオリンピック委員会からの共同事業体としてのルールを問うべきで 一方的な
意見ばかりと競技のみの申請ばかりでは日本はおかしな国と言われるのだ。



1339: 名無しさんAA:18/12/28 14:13 ID:keA
 危険な玩具と、大きな赤ちゃん 27

 「25日付の中国共産党機関紙・人民日報系の環球時報は、ロシアメディアを引用し
、中国がロシア製の最新鋭地対空ミサイルシステムS400の試射を行ったと報じた。
250キロ離れた地点から極超音速で飛行する目標のミサイルを迎撃することに成功し
たという。中国本土から台北が射程に入ることになり、日本の安全保障にも影響が出そ
うだ。タス通信は、これに先立ち、12月上旬に中国内でS400の試射が行われたと
軍事外交筋が明らかにしたと伝えていた。強い電子的な妨害を敵から受ける状況を想定
し、毎秒 3キロで飛行する弾道ミサイルを撃ち落としたとしている。ロシアが外国に
S400を供与したのは中国が初めて。S400は米最新鋭ステルス戦闘機F35Bや
弾道ミサイルの迎撃も可能とされ、地対空ミサイルとしては世界最高水準の性能とみら
れている。」とニュースは伝えた。アルマーズ・アンテイでは、S-300 の改良型として
開発された。と言う。ロシア連邦軍が最初に採用している。以前は S-300PM3 (С-300
ПМ3)もしくは S-300PMU3 (C-300ПМУ3)として知られていた。と言う。このC300
こそが、ウクライナのドネツィク州グラボヴォでの、何者かの発射した地対空ミサイル
「ブーク」によって撃墜され、マレーシア航空の定期旅客便でマレーシア航空17便が
撃墜されたミサイルなのだ。通常巡航飛行中の17時15分頃(現地時刻)ボーイング777の
5番目の全損事故であり、撃墜による航空事故として死者数が史上最多の事故である。

1340: 名無しさんAA:18/12/28 14:13
当時、ウクライナ東部では政府軍と親ロシア派による内戦が勃発して4日前から配置さ
れ、既に現場近くで、親ロシア武装勢力はウクライナ軍の戦闘機2機を撃墜していた。
撃墜され国際的批判から1週間前後で撤去されたが、この「ブークシステム」はソビエ
ト連邦で開発された中・低高度防空ミサイル・システムの事で、ロケットアームシステ
ムとスノードリフト監視レーダーとファイアードームH/I-band追跡迎撃レーダーを組み
合わせて使用する物だった。当初は戦車二台の形式だったが、派生として発電機を組ん
だレーダ車両が、小型ミサイル10発を乗せたロケットアームコンテナを牽引して1組
とした手軽なシステムに変えている。マレーシア航空17便撃墜事件(マレーシアこう
くう17びんげきついじけん)では、2014年7月17日 にオランダのアムステルダム・スキ
ポール空港からマレーシアのクアラルンプール国際空港に向かっていて、マレーシア航
空機が高度1万メートルを飛行中に撃墜され、17ヵ国の乗客・乗員全員の298人が
死亡した。大半はオランダ人だった。このミサイルシステムは従来型のS-300シリーズ
だったが、S-400システムは勿論これを凌駕し、アメリカのパトリオットミサイル に比
べて少なくとも二倍の射程距離を誇り、ロシアの資料によれば、S-400は400km先の六つ
の目標に対する同時処理能力を有していて、高次元の対ステルス戦能力も備えていると
されていた。



1341: 名無しさんAA:18/12/28 14:14
危険な玩具と、大きな赤ちゃん 28

 この、高次元の対ステルス戦能力も備えているとされていたブークシステムが進化し
、S-400システムとなった。S-400システムの開発は1990年代末から開始された。ロシア
空軍による正式発表は1999年1月。同年の2月12日にアストラハンのカプースチンヤール
で行われた初試験が成功し、この成功によってS-400は2001年完全配備が決定した。 し
かし同年、計画は事故により延期に直面する。その後2003年に配備への準備が整った。
と明らかにされたが、八月に二人の上級参謀によってS-400は陳腐化した S-300Pを用い
た試験ではまだその段階には無いとの発表がなされた。S-400「トリウームフ」(Trium
f:大勝利)対空ミサイル・システム(NATOコードネーム:SA-21「グラウラー」(Growl
er:怒り屋))は、モスクワのアルマーズ設計局が完成させ(後2009年にアルマーズ・
アンテーイ設計局に改組)が、S-300対空ミサイル・システムの後継として開発した超長
距離地対空ミサイル・システムとして運用された。以前は「S-300PM3」もしくは「S-300
PMU3」の名称で知られていたS-400対空ミサイル・システムだが、この特徴は4つある。
一つは、S-300対空ミサイル・システムと同じく、対空ミサイルはシールされて10年間は
保守不要のキャニスターに収められており、発射時にはキャニスターを垂直に立ててコ
ールドローンチ方式で発射される。つまりロケット発射は、空中放り投げ方式なのだ。
二つ目は、対空ミサイルを収めたキャニスターを4連装で装備の10輪トレーラーベース
の自走発射機である事だ。自由に動き自由に設置出来る。400km以内の100個の目標を処
理できる多機能レーダーなど5種類の車両で1ユニットを構成する。とされるが運用そ
のものは2台で充分なようだ。つまり、充填キャニスターを牽引するのみで後はレーダ
ー車両が発電機を牽引している。残りは360度データリンクセンサー用の車両で水平
弾道弾の対処に使われる車両とされる。つまり防御用である。三つ目の特徴は百発百中
必殺のサイドクラスター型とされる。パトリオット 対空ミサイルPAC-3と類似点が多く
、サイドスラスターを装備して、目標突入時にサイドスラスターの噴射で弾体を直接制
御するモードである。先の飛行機事故は特徴的に小石大のクラスターが蜂の巣状で破壊
していて本体の前で飛翔した小粒のミサイルが発射された跡が残っていた事でも解る。

1342: 名無しさんAA:18/12/28 14:15
又弾頭と共にロケットも数種類あり、48N6シリーズは中〜長距離用で、最新型の48N6DM
は発射重量1,835kg、最大有効射程250kmとなっている。40N6シリーズは長〜超長距離用
で、最大有効射程400kmと米軍対空ミサイルPAC-2の2倍以上の射程距離を誇る。9M96E1と
9M96E2の2種類が開発されており、9M96E1は発射重量333kg、最大有効射程40km、9M96E2
は発射重量420kg、最大有効射程120kmとなっている。9M96シリーズはサイズが小型で、
48N6用キャニスター1本に9M96が4本入る。つまり5っつの蓋の下に4っつのミサイルが
隠されたスタイルである。


1343: 名無しさんAA:18/12/28 14:16
 危険な玩具と、大きな赤ちゃん 29

 最終的に、開発終了は2004年2月だとされる。また同年4月に新型迎撃ミサイル48N6DM
を用いた試験で弾道弾迎撃に成功した。その後はまたABM国際条約をアメリカが離脱
し無効化に伴って、ロシア軍はS-400対空ミサイル・システムよりも弾道ミサイル迎撃能
力を大きく向上させた、新型対空ミサイル・システムS-500「プロメテーイ」(Prometey
:プロメテウス)の開発も進めて、今回のマッハ5の「AIR2−ジーニー」が開発さ
れているようだ。S-400が400km先の6個の目標に対する同時処理能力を有しているのに
対し、S-500は600km先の10個の目標に対する同時処理能力を有しているといわれる。
S-500対空ミサイル・システムは2016年末〜2017年にロシア軍への配備が開始される予定
となっており、旧式化したS-300対空ミサイル・システムの後継として配備が進められて
いる。のみならず今までのS-400対空ミサイル・システムは置き換える存在になり、今や
中国やサウジに売却した可能性がある。更に S-400の簡略化版も輸出市場を狙っており
、中国はS-400の最初の購入国となったと言われる。また 今回の発表は中国が開発計画
の一部を担う可能性もあるとも噂されていたが、実質は合同開発したような報告である
。ロシアはアラブ首長国連邦とギリシャにも購入を打診した。イスタンブール国際見本
市場で開かれた第9回国際防衛産業フェアにおいて、トルコも購入に意欲を見せたとさ
れている。イランのような国がこのミサイルの購入に意欲を見せることは、アメリカの
注意を呼んだ。ロシア下院国家会議副議長ウラジーミル・ジリノフスキーは最優先で、
S-400 をイランへ輸出することを促した。このようなモスクワとテヘランの関係を強化
するように見える動きに対しワシントンは対応に苦慮している。これまでロシアミサイ
ルに二の足を踏んでいた中国は、いまだに自国のGPS電波を有していなかった事で、
ミサイルの現在地を知る位置システムが機能していなかったからだ。ロシア衛星からの

1344: 名無しさんAA:18/12/28 14:16
ロシア衛星からの
謎の電波を解読出来なかったと思われる。しかし、今回はミサイルの成功と同時に中国
政府は、独自に開発を進める中国版GPS「北斗」がほぼ完成し、位置情報などのサー
ビスを27日から全世界で提供すると発表した。中国版GPS「北斗」は、衛星を使っ
て位置を測定するもので、2012年からはアジア・太平洋地域でサービスを提供して
きた。北斗衛星ナビゲーションシステム・冉承其報道官「『北斗3号』の基本システム
の建設は完成され、27日から世界に向けてサービスを提供することを発表する。」と
声明を出したのである。中国政府は、現在位置を測定する精度は誤差が10メートルほ
どだということだが、2020年までにさらに12基の衛星を打ち上げ、精度を高めて
いくとしている。このレーダー技術が今回の韓国艦船の問題や中国ミサイル問題と深く
繋がっているのは言うまでも無い。



1345: 名無しさんAA:18/12/28 14:17
危険な玩具と、大きな赤ちゃん 30

 実は、中国・ロシアのこのS400簡易版開発には、韓国のICつまり集積回路が、
欠かせない役割を得ている。つまりロシアや中国は韓国産ICメモリーが不可欠だった
のである。その為2003年頃から北朝鮮を通じて盛んに韓国にすり寄ったのである。2003
年に誕生した廬武鉉政権下では、雇用創出、若年者・弱者の雇用安定、非正規労働者の
権利保護等が重要な政策課題となっていた。その為ロシアや中国と多少の付き合いをし
て窓口を開いて北方4島の出稼ぎ移民を作っていた。その後李明博(イ・ミョンバク)
大統領が北京で、2012年に野田佳彦前首相と首脳会談を行って投資や援助を求めたが、
無償援助もGPS技術の供与も断ったのだろう。その後は急速に経済悪化と共に国交も
悪化した。知っての通り日韓関係については、2012年夏に李前大統領が竹島(韓国名・
独島)に上陸して以降、関係が急速に悪化。朴政権発足(2013年)後も、韓国側は歴史
認識問題と従軍慰安婦問題をめぐって対日強硬姿勢をとった。特に、安倍首相が2013年
12月26日に靖国神社を参拝した後、日韓関係は極めて悪化していた。これは既にロシア
中国の東側の踏み絵を飲まされたからだった。これで急速に中国ロシアを通じて北朝鮮
は近代化を果たす事になる。北朝鮮の石炭はロシア市民にとっては手軽な燃料火力であ
る。例え天然ガスが産出されてもプロパンボンベの配給など出来ていなければ一般庶民
は使えないのだ。そしてそれは韓国も同じだった。韓国は石炭輸入と共にIC基盤ない
しチップをうっていたものと思われる。北朝鮮がいち早く薄型モニターに変えてミサイ
ル発射できたのもこの為だ。薄型テレビにはLEDないし液晶しか存在しない。この頃
でそれが製造できたのは日本と韓国しかなかった。しかしこの韓国LDは元は金星産業
もともとのグループ名のLucky-Goldstarの略称であり、引き揚げ朝鮮人会の在日会社だ
。LGエレクトロニクスの前身である金星社(GOLDSTAR)と総合化学メーカーのラッキー
(樂喜化學工業社)が、1995年に経営統合して誕生したブランドである。樂喜化學工業
社の創始者許準九は元々朝鮮人向けの家庭化粧品のメーカーとして会社をおこした。が
訪問販売時、朝鮮人会の元締めだった具哲会の娘婿になってそのシェアを守った。戦後
の腐れた進駐軍牛乳を遠心分離器で乳液を作り高いガラス容器に詰めて成功したのであ
る。これを元手で韓国でソニーの様なラジオを作り始めた。これはヒットしたが、後は

1346: 名無しさんAA:18/12/28 14:18
後は
サムスン電子の後追いのような形で進んで財閥5位の中にあった。ところが、白物家電
の全般を手掛ける中で日本企業との流通コネクションが強く、LEDの退職技術陣で、
当のNECより早く量産工場を打ち立て販売するに至り、又ドコモに卸したL−01A
が大ヒットしたのである。更にユニークにも後進国販売に強くインドや南米で東南アジ
アに密着販売している。当然北朝鮮は韓国を通さずとも、この東南アジアの旧東の国家
を通してこうした物が手に入れられたのである。



1347: 名無しさんAA:18/12/28 14:18
 危険な玩具と、大きな赤ちゃん 31

 韓国はアルマズの支援を受けCheolmae-2と呼ばれるS-400の簡易版の開発を行っ
ている。Cheolmae-2はアルマズ製多機能X-バンドレーダー車両、指揮管制車両、韓国
版「9M96ミサイル」を装備した複数のTEL車両から構成される。主契約者はサムスン
電子とタレス・グループの合弁会社サムソンタレス。2009年3月17日、RIAノーボスチは
ロシアがSー400を数年以内に輸出することは無いと報道した。また翌日にはベラル
ーシが二個大隊分の S-400システムの輸入を正式に要請していたと報じた。又、インド
やイランがこのミサイルの購入に興味を示しており、トルコでは長距離対空ミサイルの
選考においてS-400とパトリオット PAC3を比較し2010年に決定するとされる。2009年8
月26日、ロシアの高級将校は北朝鮮のミサイル実験への対抗処置として、ロシア極東に
S-400 を配備すると発言した。こうして北朝鮮を焚きつけたロシアは同時に身の危険か
らも、2017年12月から、ウラジオストクで運用が開始されたたのである。全く馬鹿だ。
最近の報道では20億ドル分の輸出契約がロシアとサウジアラビアの間に成立したとされ
、この契約の下で、少なくとも8機の発射機と32発のミサイルが購入された。とされ
ている。韓国軍は、ロッテのゴルフ用地にPAC3のパトリオットミサイルを設置した
。しかしこの運用は米軍であり、米軍の軍事機密には接するにまで至っていない。中国
や北朝鮮の工作員の騒動によって、このPAC3のパトリオットミサイルの設置合意も
実は後数台の配置だったが中断されて、設置料の支払い問題も空中分解しているのだ。
ここに韓国の大きな妄想や野望がある。つまり米軍から守ってもらっているものの、今
に中国やロシアが強くなり出て行く筈だ。出て行くのなら先に近づいてロシアに組して
開発に参加する。と言うことである。これが今回の新型対空ミサイル・システム S-500
「プロメテーイ」の準用実験参加の理由だった。サムソンタレスは、タレス・グループ
と言うフランスの大手電機企業との合弁企業であり、タレスは航空宇宙分野、防衛分野
、交通システム分野、セキュリティ分野での情報システムと各種サービスを提供してい
る。フランスのパリ近郊に本社があり、ユーロネクストの証券取引所に上場している。
2000年末に イギリスの防衛機器メーカー「Racal Electronics plc」を13億ポンドで
吸収合併し、社名を「トムソンCSF」から「タレス」に変更した。この軍需企業との
合弁会社である。当然レーダーの性能試験とロシア中国のミサイル試験とにらみあって
いたのだ。それも北朝鮮漁船と通じて情報を得ていたと思われる。ところが、恐らくは
北朝鮮の発電機は全くこうしたレーダー電波の追尾には邪魔な存在で、妨害電波の様な
形になっていたのではないだろうか。と推測する。

1348: 名無しさんAA:18/12/28 23:21
 危険な玩具と、大きな赤ちゃん 32
 タレス社は日産のようにフランス政府が筆頭株主で、世界中の50ヶ国以上で活動して
いる。2006年70,000人の従業員を擁して、130億ユーロの総収益をあげた。6割が軍
需部門で、この割合は毎年あまり変わらない。軍需産業だけに限れば11位と言う。タ
レス社は世界中で活動していて、イギリスやアメリカはもちろんの事、アジアでは、オ
ーストラリアや中華民国(台湾軍)及び日本の自衛隊の国際共同開発にも参加する西側を
代表するコングロマリットとして、本国フランス軍の国防関連産業でも買収の結果とし
て、西側軍事部門の大きな存在であり、イギリスではいくつかの重要な契約を結んでい
る。国際合同企業であり世界でも有数の規模を誇る。イギリスの今後の将来型空母計画
・空中給油機・無人飛行機計画・遠隔操作ステーションと数々を落札している。又フラ
ンス国内でもの艦船の殆どの修理改造に携わっている。しかし。総合コンサルティング
企業のアクセンチュアは、ストラテジー(総合計画や運用方法)、コンサルティング、
(企画・立案・相談)デジタル(電化・無人化・効率化)、テクノロジー(最新技術、
最新高度化技術、集合集積対応技術、)オペレーションズ(運営・手法・飛行場建設)
といったサービスを5つの領域で提供する総合航空コンサルティング企業のアクセンチ
ュアが、フランスのタレスグループと提携した事が明らかになった。このソリューショ
ンはハイパーレッジャー・ファブリックをベースとしており、イギリスで行われるファ
ーンボロ国際航空ショーで初めて公開されるようです。ブロックチェーンとタレス・グ
ループのツールPUF(物理的複製防止機能)を用いて、航空機の素材や部品をそれぞれ
監視と共に追跡する事で、本物であることを証明するとしています。アクセンチュアの
航空宇宙で防衛分野を務めるジョン・シュミット氏は、「航空宇宙および防衛産業は、
世界で最も複雑なサプライチェーンの1つを抱えている」と述べています。この提携は
、ブロックチェーンを用いて、そうした航空機向けのサプライチェーンを展開するため
だという。つまり今日本がやっているマイレージなどの金融計画サービスと、航空機の
乗り継ぎサービスや航空機追尾の管制システムなど統合した運用をしようとしている。
時同じくして、フランスルノーのゴーンの追放劇は検察という国家権力の力を借りた形
だが、川勝宣昭は同じ30〜40代の同志の課長たちとともに自分たちの手で1979〜86年の
7年間におよぶ戦いの末、勝利した。倒した相手の名は塩路一郎といったという。日産
を中心に系列部品メーカー、販売会社の労働組合を束ねた大組織、日本自動車産業労働
組合連合会(以下、自動車労連)の会長の職にあった。日産圏の23万人の組合員の頂点
に立ち、生産現場を牛耳って、本来なら会社側が持つはずの人事権、管理権を簒奪(さ
んだつ)し、経営にも介入するほどの絶大な権力を誇り、「塩路天皇」と呼ばれてい

1349: 名無しさんAA:18/12/28 23:21
 危険な玩具と、大きな赤ちゃん 33

 日産は、元々戦前にフォード日本工場を買い取った日産コンツェルン(にっさんコン
ツェルン)がその組織の源流である。今でこそ知られないが、戦前戦中は、軍部さえも
動かす日本の財閥の5本の指に数えられるものだった。1920年代第一次世界大戦の
特需にアメリカは大いに沸いた。アメリカ経済は空前の大繁栄をとげ、戦前の債務国か
ら世界最大の債権国に発展した。日本も又、第一次世界大戦の特需景気(大戦景気)で
沸いて、繊維・造船・製鉄などの製造業や、海運業が大いに発展した。戦争に乗じ欧州
諸国の市場であったアジアに商品の販路を広げた。これらの理由により輸出が大幅に伸
びて、日本は米国同様に債務国から債権国に転じた。この好景気を背景に東京や大阪な
どの大都市で百貨店が営業をはじめ、ラジオ放送や雑誌の創刊が行われた。しかし1919
年までの話で、1920年代に入ると大戦景気の反動による不況(戦後恐慌)をはじめとし
て、震災恐慌、金融恐慌など経済的な苦境がつづいた。都市の中間層の増大は大正デモ
クラシーといわれる政治上の主張としてあらわれて、一般大衆の、選挙権を求めた運動
(普通選挙法)がさかんとなった。本格的な政党政治がおこなわれ、一方では社会主義
思想が広まって労働争議や小作争議が相次いだ。この時需要に押されて手一杯の軍需の
生産を担っていたのが久原鉱業を中心とした久原財閥グループだった。一気に経営危機
になった久原財閥を引き継ぎ、久原鉱業を中心とした事業再編を軍部の懇願により鮎川
義介が断行して切り抜けた。1928年にこのグループを日本産業株式会社に改組し、この
会社は株式公開企業とした。公開にあたって得た資金を元に事業拡大を進め大陸進出を
果たした。当時三井三菱住友の大店も殆どが、どこかの藩の後ろ盾で商売をして生業と
していた。久原は藤田財閥の藤田伝三郎の実兄にして共同経営者であった久原庄三郎が
離れて起こした鉱山会社でしかなかった。井上馨の助けを借り、三井銀行常務取締役の
筆頭・池田成彬や大阪鴻池銀行からの融資をとりつけ、久原は赤沢銅山を所在地日立村
の地名をそのままとって、「日立鉱山」を開始した。そして明治政府が連れてきた御雇
外国人技術者の力を借り、従来の操業方法の近代化、機械化につとめ掘削方式を一新、
科学的近代技術と機械の導入で能率の向上をはかった。この明治から大正にかけては、
日本では大きな技術発展の期間だった。野口 遵(のぐち したがう、したごう)も、こ
の頃日本の実業家として立ち。日本窒素肥料を中核とする日窒コンツェルンを一代で築
いている。


1350: 名無しさんAA:18/12/28 23:21
 危険な玩具と、大きな赤ちゃん 34

 井上 馨(いのうえ かおる)は、明治維新後は木戸孝允の引き立てで大蔵省に入り、
伊藤と行動を共にし、主に財政に力を入れた。明治4年(1871年)7月に廃藩置県の秘密
会議に出席、同月に副大臣相当職の大蔵大輔に昇進、大蔵卿・大久保利通が木戸や伊藤
らと岩倉使節団に加わり外遊中は留守政府を預かり、事実上の大蔵省の長官として「今
清盛」と呼ばれるほどの権勢をふるう立場にいた。日本の長州藩士の長として采配を振
い、政治家であり実業家であった。河内源氏の流れを汲む安芸国人毛利氏家臣井上氏の
出身で、古くから商売人としての武家だった。先祖は毛利元就の宿老である井上就在。
首相・桂太郎は姻戚。同時代の政治家・井上毅や軍人・井上良馨は同姓だが血縁関係は
ないという。明治政府の頃、太政官制時代に外務卿、参議など。黒田内閣で農商務大臣
を務め、第2次伊藤内閣では内務大臣など、要職を歴任した。1910年孫である鮎川義介
が日立金属の前身である「戸畑鋳物株式会社」設立した。鮎川義介も山口県生まれであ
り、東京帝国大学機械工学科卒業し一門でも秀いでて期待される人物だった。明治の中
で政治家・井上馨を大叔父に持ち、日本水産の創始者国司浩助や、久原鉱業社長の久原
房之介などと姻戚関係にある華麗なる一族に生まれて尚、非常な努力家で、本場アメリ
カに行っての可鍛鋳鉄について勉強している。期待される逸材として経験に基づき戸畑
鋳物鰍設立した。この会社は、日本初で東洋初の可鍛鋳鉄工場だった。官営八幡製鉄
所が1901年(明治34年)に操業を開始していた為にここの港には鉄鉱石と石炭やコーク
スの集荷場となっていたのだ。製鉄所の前身であった田中製鉄所は1887年(明治20年)
に釜石製鉄所が出来ていた。日本国内で2番目の製鉄所であった八幡は、第二次世界大
戦前には日本の鉄鋼生産量の過半を製造する国内随一の製鉄所となっていた。この用地
も又柳川立花藩の側近労の両替商の木下氏の申し出であった。可鍛鋳鉄とは本来からの
鋳鉄製法における鉄成分を変えて鋳鉄の一つの欠点としての、衝撃に弱く、伸びの値が
低いと言う問題を克服するものだった。換言すれば、靭性、つまり粘り強さに欠けると
いう性質で、それを解消する材料として開発されたものだ。通常の延鉄ロールは鉄成分
とは大きく変えず何回も圧延し伸ばし叩いて強くした物で、これと違って成分や製法で
強くしたものだ。可鍛鋳鉄と呼ばれる鋳鉄品で、可鍛と書いてある為、鍛造かと誤解さ
れる方もいますが、これは鍛造している材料ではありません。単に、衝撃や曲げ方向の
力が加わっても破壊されにくいことを示しています。


1351: 名無しさんAA:18/12/28 23:22
 危険な玩具と、大きな赤ちゃん 35

可鍛鋳鉄は大きな特徴として、鋳造時点では黒鉛がありません。もともと炭素やシリコ
ンを少なくしており、熱処理を経ることで、黒鉛を生成させていきます。熱処理のやり
方で、可鍛鋳鉄は、白心可鍛鋳鉄、パーライト可鍛鋳鉄、黒心可鍛鋳鉄といった種類に
分かれている。これを国内初に行ったのだ。戸畑鋳物が行ったのは、エンジン部門の鋳
造で、農業用・工業用・船舶用石油発動機(ディーゼルエンジン)の製造販売であった
1924年に開始し1926年に戸畑鋳物が現在の日立金属若松工場の前進である帝国鋳物鰍ネ
どを吸収合併。若松工場は合併後、東洋一のロール工場と言われる程になった。その後
1928年に長州閥として陸軍大将、田中義一の再建要請にしぶしぶこたえる形で、鮎川は
第一次世界大戦後の恐慌などで経営破綻に陥っていた久原鉱業を買い取り、社長に就任
した。同社を日本産業(日産)と改称し後にこの会社を持株会社に変更して大陸進出し
た。この中に公開持株会社として傘下に、日産自動車、日本鉱業、日立製作所、日産化
学、日本油脂、日本冷蔵、日本 炭鉱 、日産火災、日産生命など多数の企業を収めて、
日産コンツェルンを形成した。1931年久保田鉄工所からダット自動車製造鰍フ経営譲渡
され、1932にダットサンを誕生させて、軍需トラックの生産に乗り出した。1933年には
戸畑鋳物且ゥ動車部を設立、また日本産業鰍ニ共同出資で自動車製造株式会社を横浜に
設立。新子安の湾岸埋立地(現日産横浜工場敷地)2万余坪の土地を横浜市から買い取
った。1934年自動車製造鰍日産自動車鰍ニ社名変更した。戦後に旧日産コンツェルン
GPの日本油脂が、反組合の闘士だった彼を、「ストライキ破りにぴったりな若者」と
推薦し入社したのが塩路だった。当時、日産は労働争議を繰り返していた。47年に興銀
から経理担当常務として送り込まれていた川又克二は第2組合を作って労働争議を終了
させようと考えた。川又は面接した塩路に強い印象を受け、「骨のあるやつだ。ああい
う男こそ必要なんだ」と人事部長に採用を進言した。塩路は喧嘩屋本領を発揮しては、
横浜工場の経理課に配属された。彼はすぐに反組合派として頭角を現し入社間もない、
53年夏から4カ月間に及ぶ労働争議が起きた。第1組合の切り崩しを進め、労使協調路
線を掲げる第2組合を結成すると、新入社員の塩路は会計部長の要職に就いた。労働争
議を終息させた川又は57年、日産の社長に就任。58年に日産労組書記長に就いた塩路は
第1組合潰しの論功行賞として、ハーバード大学ビジネス・スクールへ留学(59〜60年
)させ帰国後の61年日産労組組合長、62年に日産グループの労組でつくる自動車労連の
会長に就任した。


1352: 名無しさんAA:18/12/28 23:23
 危険な玩具と、大きな赤ちゃん 36

 その後、72年に自動車メーカーの主要労組を統合した自動車総連を結成し、86年まで
会長を務めた。つまりアメリカ留学は藪蛇だったのである。その為直ぐに経営が行き詰
ったのだ。日産自動車には、かつて3人の「天皇」がいた。日本興業銀行(現・みずほ
コーポレート銀行)出身の川又克二社長(86年、81歳で死去)、生え抜きの石原俊社長
(03年、91歳で死去)、自動車労連(現・日産労連)の塩路一郎会長(13年、86歳で死
去)である。70年代後半からの日産は「三頭政治」と呼ばれた。川又と蜜月関係を結ん
だ塩路が、石原と激しく対立した。日産の凋落を招き、仏ルノーに身売りしなければな
らなくなった最大の原因は、3人の天皇による社内抗争にあった。労働争議を終息させ
た川又は57年、日産の社長に就任。58年に日産労組書記長に就いた塩路は第1組合潰し
の論功行賞としてハーバード大学ビジネス・スクールへ留学(59〜60年)させてもらい
、帰国後の61年日産労組組合長、62年に日産グループの労組でつくる自動車労連の会長
に就任。72年に自動車メーカーの主要労組を統合した自動車総連を結成し、86年まで会
長を務めた。川又克二は73年に岩越忠恕にバトンタッチするまで16年間、日産のトップ
として君臨した。岩越社長の時代の4年間も、川又は会長として院政を敷いた。塩路は
権力志向の強い男だった。労使一体化路線を進め、人事権を握った。人事・労務部門は
塩路派の巣窟といわれた。日産社内では、労組(=塩路)の同意がなければ人事や経営
方針が決められないほどの影響力を行使し、「塩路天皇」と呼ばれた。日産社内で「あ
のフォーカス事件」として語り継がれる写真爆弾で、石原は塩路にトドメを刺したとい
う。4000万円はするといわれた、美しいヨットを3隻所有していただけではない。品川
には7LDKの高級マンションを持ち、日産プレジデントとフェアレディ240Zを乗り回
し銀座には多くの婦人を持っていた。「(労組の指導者が)銀座で飲み、ヨットで遊ん
で何が悪い。」と公言してはばからない人物と「フォーカス」誌上では紹介されていた
。長年に及ぶ組合内の独裁や、「労働貴族」と呼ばれる豪華な生活に不満を募らせてい
た工場勤務の組合員から厳しい批判を浴びて、事実上、解任される形で、86年に自動車
労連と自動車総連の会長を辞任し、石原は塩路の追い落としに成功した。後年、石原は
「社長任期中の大半は、塩路氏との対決に時間を費やした」と語った。塩路は12年に、
回顧録『日産自動車の盛衰 自動車労連会長の証言』(緑風出版)を書いている。「日
産のマスコミへの出稿費用(=広告宣伝費のこと)は分不相応に 年700億円を超えてい
て、トヨタを大きく上回っていた。


1353: 名無しさんAA:18/12/28 23:30
 危険な玩具と、大きな赤ちゃん 37
塩路を潰すためなら金に糸目を付けないという石原氏の姿勢がそうさせた」と綴って
いる。塩路一郎が経営に不当に介入するまでに権力を肥大化させたのには、塩路に取り
入ってライバルを蹴落とそうとした経営側の人間にも責任の一端がある。日産の経営は
迷走を続け、99年にフランスのルノーの傘下に入った。日産自動車没落のA級戦犯。そ
れは川又克二、石原俊、塩路一郎という名前の3人の天皇だった。とされる。だが果た
してそうだろうか。実は川又は、戦後の過度期には随分と苦労している。川又と中山は
旧制東京商科大学(現一橋大)を卒業、興銀に入行した仲間で、中山が若くして才能開花
し、人事、調査部長を歴任、理事に就任した。それには軍の背景がある。ブリジストン
を育て、プリンス自動車を立ち上げた石橋正二郎も、又同じ運命にいた。大正元年石橋
が九州から上京しゴム底の足袋をつくり、ゴムというものを、将来どのように発展させ
るか考えていた石橋青年は、T型フォードをみると、たちまち魅了された。それで大枚
はたいて1台を買い求め、九州の久留米に持ち帰った。これが石橋が初めて自動車に目
をつけた最初であった。それほど当時は東京でも自動車は珍しかったのである。石橋は
戦後に1949年にプリンスの前身である東京電気自動車の会長に就任しフォードの跡地で
、大株主会長として君臨したが、あくまで本業はブリヂストンタイヤである。輸入自由
化の波に直面し、世界的な経済競争に突入した自動車会社をタイヤメーカーが支配する
時代ではない。と、判断したのであった。横浜ゴムは今こそ、ブリヂストンに大きく水
をあけられてはいる。しかしかつては、ブリヂストンなど足元にも及ばない優秀企業で
あった。1917年にBFグッドリッチとの合弁でできた会社で、グッドリッチの技術
を背景に飛ぶ鳥を落とす勢いで成長した企業だった。それが、経営者が政治に足を入れ
、学閥偏重で、人気が下がり業績が急降下で悪化し今に至っている。つまりブリジスト
ンも又自動車会社一社を持って販売出来るのでなく、自動車全社にタイヤを売り込む時
代が来ているのだ。と痛感し折しも「2、3年前から、通産省は自動車産業の集約化を
提唱して、我々のところにも、重工業局長あたりが、何度も合併談をすすめにきた。」
と書いている。「しかし、その都度、断った。ところが今度は、桜内通産大臣が突然や
ってきて、膝詰め談判である。当面は無事だが、自由化が行われたあとの業界は大変で
、プリンスは外車攻勢で危ない。だから、このさい大衆的見地に立って、率先して合併
を考えてくれと。説得された。歴代の通産大臣で、自ら乗り込んできたことはなかった
。それだけに、桜内大臣の国を憂う真情に動かされた。」と懐想している。いかに弱体
とはいえ、長年育て上げたプリンスである。従業員にたいする情もからんでいる。それ
を敢えて合併に踏み込んだのだ。

1354: 名無しさんAA:18/12/28 23:30
 危険な玩具と、大きな赤ちゃん 38

 石橋と、小川は、小川が住友銀行久留米支店長時代、親交を結んだ事で石橋のたって
の願いにより、社長に迎えられていた。という経緯もあった。それだけに小川は新職場
であるプリンス側に立ち、大きく奮闘した。また、それゆえに、合併直前まで、社長の
椅子に固執できたともいわれている。住友銀行では、プリンスの内容を調査したが、現
状はとにかく、近い将来に貿易の自由化が行われ、資本自由化の黒船が到来したときの
状態を研究分析した結果、独立困難というものであった。そこで、合併の数年前、同じ
住友銀行系の東洋工業(現マツダ)とプリンスとの合併を画策した。しかし、これは失敗
に終わる。天才的な経営センスをもっていた松田一族最後の名社長の2代目の松田恒次
が頑強に拒否したからである。「合併するなら、自分のところより弱い会社とはしない
。強い会社、たとえば日産自動車となら考えてもよい。」と松田恒次は語ていた。住友
銀行頭取の堀田庄三は、経営者としての松田恒次を特に高く評価していただけに、下手
に無理強いして恒次を怒らせると、プリンスとの合併が頓挫するだけでなく、東洋工業
との取引関係も悪化すると考えた。マツダは近郊に多くの工場を抱えた上得意の客だっ
たからだ。プリンスとの合併の強行を行えず、プリンスと東洋工業の合併不調は、まも
なく一般に伝えられた。これにより、住友銀行系のプリンスと東洋工業の両自動車メー
カーには、当分合併の動きはないという憶測が財界やマスコミに支配的となっていった
。それがために、突然のプリンスと日産合併のニュースはセンセーショナルに報道され
た。住友銀行に限らず、富士、三菱、三和、東海、第一、三井、興銀、長期信用銀行と
いった当時の大手銀行が、自由化に備えて、あらゆる事態を想定してシミュレーション
を行っていて、住友銀行も東洋工業との縁談が断られて、あらたな合併先を模索してい
た矢先である。そこに突然、日産自動車という大型合併の話が舞い込んできたのである
。結局、プリンスは、通産省、石橋正二郎、住友銀行という関係者の思惑を絡ませなが
らも、トヨタ、東洋工業と合併を2度も模索して失敗、3度目の正直で、ようやく日産
との話がまとまった形だった。この為世間の評価は「石橋はプリンスの前途を見切り、
石橋家の財産保全のために、あえてプリンスを手放した。」と冷ややかだった。結果的
にも、一番利益を得たのは、石橋正二郎だったのも事実だったし、その後世界企業とし
て羽ばたく資金を得たのも事実だった。桜内大臣は、プリンスの合併先としては、最初
トヨタを選び、断られている。しかし断念せず、日産自動車との合併を画策していた。
それは社長の川又克二自身であった。桜内はまず、興銀頭取の中山素平を訪ね、日産の
メインバンクで、その背景に興銀から送り込まれた川又克二社長である事を知っていた

1355: 名無しさんAA:18/12/28 23:32
 危険な玩具と、大きな赤ちゃん 39

 中山、川又とも1929年に旧制東京商科大学(現一橋大)を卒業、興銀に入行した仲間で
、中山が若くして才能開花し、人事、調査部長を歴任、理事に就任したのに対し、川又
は、地方に回され、しかも途中、陸軍主計幹部候補生として徴用され、戦後興銀に出社
すると、与えられた辞令は融資部次長で、同期の中山が理事に抜擢され、輝かしい未来
が約束されていたのとは対照的な人生を送っていた。まさに天国と地獄であった。川又
にしてみれば敵愾心あった事を語っている。「戦争末期における4年間の軍隊生活で、
世の中の悲惨な面には飽き飽きした。これからは金でもあれば牛か馬を相手に牧場でも
やって、のんきに暮らしたいと、そんな気でいたのだから、事務処理などまっぴらだっ
た。なた豆のキセルで刻みを吸いながら、新聞、雑誌ばかり読む生活が3、4ヶ月も続
き銀行のほうでも、そんな私に愛想をつかしたのか、昭和21(1946)年3月、広島支店長
を命ずるという辞令をもらった。(中略)やっとの思いで、軍隊から解放され、家族と一
緒にやれやれと思っているやさきである。支店長はよいが、原爆で戦争の最大の被害地
になった広島へ行けというのだから、正直なところうんざりした。辞令を破って捨てて
しまおうかと思った。」と書いている。1947年、川又は、興銀融資の背景で日産自動車
の常務に就任する。本来の目標の興銀理事にはなれず、追い出された形だ。だから川又
の心の奥深くでは、必ずしも興銀は古巣ではなかったようである。目標を達しえず、追
い出された巣箱だった。「俺を見損なった興銀ではないか」と言う一種の敵愾心があっ
た。このような事情に、まず桜内通産大臣は、中山興銀頭取を訪れ、中山の意向を確か
めたのだった。訪れた興銀の中山素平は、「財界の鞍馬天狗」の異名も持つ男だった。
当時の合併は、海運、証券業界の再編に成功し、山一證券の経営危機に際しては、日銀
特融を主張し、田中角栄蔵相の決断を引き出すきっかけを作る程の辣腕をふるった中山
であった。こうして外圧に対して積極的に再編成を仕掛けていた中山が、桜内の合併話
に賛成するのは当然の事でもあった。川又は新聞記者に対し「桜内通産相に懇請されて
、日産とプリンスの合併交渉を進めていた。あくまでも対等の精神で合併することに決
めて、通産相に仲人役をつとめてもらった。このような形で、今後とも、自動車業界の
再編、強化が促進されることを望んでいる。」と言った。実はこの話は大変なデメリッ
トを持っていた。トヨタとの合併話では、このとき早くも察知していたといわれる。そ
れは、プリンス自動車販売の内部に隠された赤字であった。飛ばし負債である。


1356: 名無しさんAA:18/12/28 23:32
 危険な玩具と、大きな赤ちゃん 40

 プリンス自動車販売は未公開会社であった。一般に、その内容は公表されていなく、
赤字が最低50億円から100億円と言われ「赤字100億円以上」の声が高く、石橋
正二郎もその額に驚いたくらいとされる。また、住友銀行専務の高橋吉隆と興銀常務の
梶浦英夫が、両社の内容を検討したときの一番驚いたのは、プリンス自販の莫大な赤字
であった。と伝えられる。トヨタ内では、自動車業界の再編成問題に対処の為、何年か
前から、三井銀行からの中川不器男社長直轄の「トヨタ特捜班」の調査機関ができてい
る。合併を噂されていた、いすゞ自動車、日野自動車などはもちろん、プリンス自動車
の内容も、特捜班の手で、洗われていた。それで、プリンス自動車はともかく、プリン
ス販売会社が、このような弱体では、合併しても将来大きな重荷になると判断し、トヨ
タはプリンス合併によるデメリットを重要視して、合併拒否に動いた。これに反して、
日産の川又社長は、この話に食いついた。いわゆる質より量を取ったのである。プリン
スを合併することで、トヨタに数字的に肉薄、日本一の日産への悲願に、大きく近づけ
ると判断したからだ。しかし川又には、プリンスの話に乗る3年前、軽自動車コニーの
愛知機械を引き受け、その経営再建に努力、成功させた経験があった。同じ興銀出身の
小田邦美が経営に失敗したのを尻拭いしたのだ。その経験による自信も手伝い、プリン
スの話に乗った。ことに、川又が目をつけたのは、プリンスの技術陣の高さだ。戦時中
、活躍した中島飛行機の技術陣は、業界でも有名でプリンスは、その中島飛行機の技術
者を中心にしていた。戦後、再出発した会社で惜しみなく技術者を持った会社は、成長
する自動車業界で、なにより必要な物だった。短時間で育成しうるものではない。こと
に、現実的な魅力は、プリンスが天皇の御料車をつくりつつあるという事実でも伺い知
れる事であった。これは広告宣伝としてもそうとうアピールするものであった。同時に
、第3回日本グランプリで優勝したプリンスR380の開発も捨てがたかった。又、プ
リンスの持つ三鷹、荻窪、村山の3工場も、日産の工場に比較、地理的条件にめぐまれ
ていた。こうした魅力があった。さらに川又には金融関係の拡大が見えた。日産は興銀
が主力銀行で、ついで富士、三和、協和、それに安田信託で、住友との関係は極めて薄
かった。しかし、プリンスを合併すると、当然、住友との関係が深くなる。住友は、同
じ都市銀行でも、当時、預金高の増加が顕著なことで有名だった。興銀を主軸に、4大
銀行のうち富士、住友、三和をもつことは、日産自動車としては、まさに鬼に金棒の、
融資が可能になったのである。


1357: 名無しさんAA:18/12/28 23:32
 危険な玩具と、大きな赤ちゃん 41

 川又は、プリンスとの合併を断ったトヨタや東洋工業と異なり、合併によるデメリッ
トより、メリットの光が輝き、飛びついたといえる。しかし、そのデメリットは、川又
の予想以上に大きく、自動車労連(日産労連)の塩路一郎会長の台頭を許した原因とな
ったのである。日産の川又社長が社長になったのは理由があった。1947年7月といえば
、まさに敗戦後2年目の混乱期である。当時、日産自動車は日産重工業と称していたが
、現在と比べれば、その地位は問題にならないほど小さかった。川又自身も、広島支店
で興銀本店から日産入りの電話による辞令を受けたとき、日産重工業とはどんな会社か
、すぐには思い出せなかったほどだ。帰宅後「たしか、クルマを造っていた会社だよ。
昔、鮎川義介さんが、やっていた会社で、ダットサンを造っていたそうだ。いまでも、
そういうものを造っているんだろう。」と答えたと言う。その日産常務に就任したが、
前歴に照らし合わせ、担当は経理となった。当時の日産は、経理担当の役員が欠けてい
た。戦時中は親会社の日本産業から、万事支持を仰ぎ、直接指揮する必要がなかった上
に労働争議があっちこっちで紛糾した年であったからだ。川又が初めて出社すると、会
社側は、労組と賃金交渉の最中で川又は否応なく、その席上に出されたのだ。時の社長
の箕浦多一は、いわゆる2代目だったが、財閥解体で首脳部の追放という中、取締役の
総務部長から、一躍社長に抜擢されたばかりで経験も、経営の才能も疑問が多い人物で
あった。これに対し川又は、箕浦に比較され、風采からして貫禄があり、社長のように
見え風貌があった。しかも、資金繰りしてくれる天下の興銀から送り込まれた者なので
、翌日から組合幹部は、社長を無視して、新任の経理担当常務と交渉するようになった
のである。社長の箕浦は、問題局面収拾の能力に欠いていた。そこで川又は、箕浦に対
し、重役の改造、充実の人事を進言、結局川又が専務となり、実権を掌握したのだが、
当初から社長代理の様な役目であったのだろう。ところが、争議は拡大した。箕浦は、
川又から重役の改造人事を進言されるや、直ちに辞意を漏らすぐらいに臆病な男であっ
たから、1949年9月、会社側が1760人のリストラを発表、組合側の行動が一段と先鋭化
してきたと知るや、高血圧で倒れてしまった。それで川又が社長代理となり、事実上の
総指揮官として、陣頭指揮にあたったのだ。この時のリストラこそ日産のゴーンのやっ
た事に近かった。川又は、1947年7月に、興銀の広島支店長から、日産自動車の常務と
して送り込まれ、赴任早々、日産の歴史的なストライキに直面、否応なくその対策に乗
り出さねばならなかったのだ。

1358: 名無しさんAA:18/12/28 23:33
 危険な玩具と、大きな赤ちゃん 42

 川又克二が日産社長の椅子に座ることとなった決定打に、歴史的な日産大争議の解決
者になった事がある。川又は日産に乗り込むや、「会社再建のためには人的整理の蛮勇
をふるう以外に道はない。」と決意し、組合との全面衝突が進んだ。1949(昭和24)年9
月、事態は悪化するばかりだった。翌年6月に、朝鮮戦争が起こり、車両関係の特需が
増大、経営が少しばかり楽になったが、前にも増して組合側は団結を強化、賃上げ要求
の幅は大きく、ことに人員配備に対する要求が増大した。残業も組合の承諾なしでは、
簡単にできないようになった。普段マジメでよく働く従業員が、組合から指令が出ると
、就業時間中でも職場集会に出席し、仕事を中断する。しかも、会社側は誰が参加し、
誰が参加しなかったか、掌握できず欠勤時間分の給料を差し引くことはできない状態が
約3年も続いていた。1953年盲腸炎の手術を受け、静養のため湯河原温泉に出かけた。
そこで組合側からバスケット方式の一律のベースアップ要求が出た。経験15年で3万円
が最低で、全要求をまとめると、税込賃金の平均が約23,300円という、当時としては桁
はずれの常識を超えた高賃金で、炭鉱労働者以上であった。川又は、「いま組合を徹底
的に叩かなければ、会社の前途は危険だ。」と思った。そこで最後の手段、ロックアウ
ト、つまり工場閉鎖を決意したのである。ロックアウトによって、組合の要求と徹底的
に戦い、これに敗れたら、経営陣の総退陣までも覚悟したのだった。川又は言う。「解
決のため、中労委の仲裁の話もあったが、争議の性格から、中労委の斡旋程度で解決で
きる生易しいものではなかった。」と語っている。石原俊が居なかったら、そこで争議
は終わっていたかも知れない。しかしこの後にジェネレーションギャップのある第2の
労働組合が組織された事で石原の労働闘争に火が付いていた。そして幻のクーデターの
黒い歴史が残る。こうした大争議疲弊と、その直後の不況を朝鮮特需で克服した日産。
ようやく経営に見通しがついてきた1955年の春に、経営内部では株主総会に向けて陰謀
が企てられた。後で社長となった石原俊の企みによる川又・塩路の追放工作である。赤
坂の料亭「清水」や「中川」等を使い、浅原社長を擁して役員と部長クラスの秘密会議
が行われた。彼らは、「川又は労働争議を解決したことで、いい気になり、赤坂で遊び
呆けている」とのデマを流し、それを真に受けて興銀は、川又専務を日産から出すこと
に了解したのである。1955(昭和30)年5月1日メーデーの日の午後に、川又の甥である
田辺邦行(設計部長、後に日産車体常務)が塩路の家を訪問してきて、「大変だ、川又さ
んが飛ばされると」いう話だった。


1359: 名無しさんAA:18/12/28 23:38
 危険な玩具と、大きな赤ちゃん 43
 「争議を解決して、新労使関係で日産の再建に協力し合ってきた。片方の旗頭がこん
どの株主総会で社外に出される。」というのだ。塩路は機転を利かせて、直接、宮家委
員長に伝えるよう頼みこんだ。翌日は組合首脳部緊急会合で、日産争議を乗り切った会
社側のリーダー川又が讒言で飛ばされることが報告された。しかも、川又の追放を企ん
だ連中は、争議中は渦中から逃げ傍観を装った。塩路の指示で横浜工場のラインは組合
員によりストップされその間、宮家委員長が興銀に乗りこみ、「川又専務を追い出すの
なら、我々が守った会社は我々が潰す、いまラインが止まっているが、いつまで止まる
かわからない。」と直談判した。その結果、興銀は組合側の要求を受け入れることとな
った。この時石原は、川又の家に訪問し、応接間にて「川又さん、あんたね、もうこう
なったら、日産車体でも貰って、おとなしく引き下がった方がいいよ。」と脅していた
。しかも、両足をテーブルにのっけながらの会話だ。石原は平取締役の経理部長で、そ
の彼を部長にしたのは川又である。まるで飼い犬に噛まれたようなものであった。この
組合側の行動により、石原による川又へのクーデター工作は失敗に終わった。石原は、
このとき43歳、この企てでは岩越忠恕常務も社外に出し、大館常務を社長にした後、40
代で自分が社長になることを目論んでいたが、それから22年もの長きの間、社長になる
65歳まで、クーデターを妨げた者への逆恨みを秘めて隠忍自重の日々を石原は過ごした
。しかしこうした状態で、日産側としては1対4という合併比率でも割に合わない内容
で合併時期を迎えたのだ。戦後の企業はどこの会社も経営者では無かった。富士重工も
そうだが、プリンス自動車工業も「技術あって経営なし」の企業であったことは事実だ
。モータリゼーションの波や近代化の息吹がこれから本格的に芽生えようとしていた頃
の60年代初頭の日本にあっては、人徳の奉仕活動として企業があった。小さな工場は
ラインナップに小型大衆車が無いというバランスを欠いて、常日頃「ピラミッド理論」
によって底辺から顧客をつかみ、その後に高価格車にステップアップしてもらおうとし
た東洋工業の2代目社長である松田恒次のような経営センスを持った者はプリンスには
いなかった。日本で多くが、元が飛行機屋であった自動車メーカーは、生産コストを度
外視した技術偏重に陥っていたようである。同じく飛行機屋であったBMWが、1950年
代末に深刻な経営危機にあったときに、小型大衆車の700を販売して業績挽回をした
のとは対照的であったが、それは日本の政界が造った仕組みの違いであった。つまり、
法や届け出や通達で、がんじがらめで自ら国鉄赤字を先導する行為を今でも行っている
それが補助金づけの地方自治や病院や福祉や教育であったり、子飼いの土建業だったり
する。日本がこんなに潰されていようとも与党は海外に頭を下げひれ伏し野党は見ない

1360: 名無しさんAA:18/12/28 23:42
 危険な玩具と、大きな赤ちゃん 44
 この時合併時に、具体的に、プリンスの代表車種であるグロリアでみると、1964年度
の年間販売台数20,500台が65年の翌年には12,025台に激減している。この事実は、プリ
ンス自販の弱体化を物語ることでもあるが、このマイナス面の相当部分は日産も背負わ
なかればならなかったのである。日産側は、この事情をほとんど考慮しなかった。とも
かく、日産側はプリンスを吸収合併した。この結果、企業規模、ことに従業員数、資本
金ではトヨタを抜いて、たしかに日産は日本一の自動車会社になった。しかしして、日
本一への執念に燃える川又が、量的拡大を焦ったばかりに、プリンスを吸収した為に、
日産は質的には低下してしまったのは事実である。具体的な数字をあげると、従業員1
人あたりの生産金額が、プリンス吸収後の日産は、1人あたり年間100万円近くも下
がっているのだ。これは現在の価値で言えば約1千万円であるのだが。1964年当時は、
トヨタに対し1人あたり100万円も差をつけてトップとなっていたのに、こともあろ
うにこの合併は、日産が1966年に、トヨタに比較して、じつに200万円を超える差が
ついてしまったのだ。つまり+100万増収がー100万の損失を産んでしまったので
ある。この事実は、日産自動車が、プリンスとの合併で、規模だけは大きくなったが、
身を伴わない、水ぶくれ体質になったことを物語っている。こうした企業の歴史や人の
現象は多くの今のアジア国家の企業との繋がりを示唆している。今日本の労働者不足と
は言われるが、このばらまき行政で浮かれた経済の中、土建業や組み立てラインや福祉
事業では全く高度な社会高度な人材は出来ない。まずは会社や生活や行政の利益体質の
向上が望まれるのであって、全くこうした労働者法では還元されない。こうした過去の
労働闘争は、今の特定アジアの位置や、日本と米国の横にいる韓国や中国やロシアなど
が良く見える。例えば、ロシアや北朝鮮を労働争議の党首としてみよう。こう考えると
勿論米国は資本家を支える銀行なのである。日産本体が日本に例えれば韓国は胡散臭い
サブプライヤーつまり部品供給する同じ独立会社なのだ。で中国やロシアは今後合併す
るのか敵のままの永遠ライバルなのかは不明だが、恐らくは頼る事も関わることも無い
他の独立会社である。しかしして、北朝鮮でもベトナムでも労働者つまり輸出入のある
友好者や社員としての地位や権利が無くなれば当然生活の為に反対し首切りによって、
東側になびく事になる。自動車総連などは国連と同じに、この川又氏が言う様に常識の
ない運動には手も足も出ないのが相場なのだ。資本のロックアウトと言う工場閉鎖状態
は、正に今トランプが行おうとする物で、アメリカのモンロー主義に立ちかえる事と、
こう考えられる。なぜ労働争議が起こるのか。世界が見えないままに人は幸福を求める
からだ。正に欧州で起こる極右や極左の言い分である。ブレクジットに理由はない。


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