指導改善研修の実態 横浜市


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指導改善研修の実態 横浜市

1: 横浜人権侵害都市:13/12/16 16:56
年明けの2013年1月24日 分会長のU教諭と共にいる前で。NH校長の不適切且つ違法な言動について。
○文部科学省、横浜市の指導改善研修の規定によると、元来指導力不足教員に該当しないにもかかわらず私を「指導力不足教員として申請書をすでに出すことにした」と暴言を吐いた。  
療休の診断書を2月の半ばに出しますから異動対象者名簿から私の名前を取り下げてくださいとお願いすると。校長はこれを2度拒否。東部学校事務所のOさんの指示に従って校長に事前にお願いしようとしたが拒否をする。校長としては本来診断書を受理する義務がある。「異動対象者名簿から取り下げない」などと無謀で一方的な発言を繰り返した。
仮に、「指導力不足教員として認定されなくとも、私はあなたを、教育委員会預かりにしてやるつもりだ」などと暴言を繰り返したものである。これらの発言は全て裁判上の証拠となる音声記録にも保存されているもので、事実である。NH校長が私を何としても異動させてK校から追い出そうとしていた、つまりパワーハラスメントを繰り返していたことは事実である。
○以降私は、疲弊しきっていたため、精神科で受診し、適応障害との診断を下された。寝付けない日々の中、なんとか学年末までやり終えることができた。午前中2時間年休を取得したり、休んだりすることが多い中での勤務で相当大変な思いをしたが、指導力不足教員の認定審査会では、H課長から、「すぐに休む」という点を指摘された。NH校長は心配するどころか、私に不利になり得るものは、療休であろうが構わず、悪いニュアンスで「すぐに休んでしまう職員」という言い方をしていたのである。前日に断裂症で休んだり、適応障害のために精神的に疲弊して午後から病院に行ったり休んだりした職員を捕まえて「すぐに休むダメな職員」という評価をして、教育委員会育成課に書類を提出し、強制的に指導改善研修に送り込んだのである。
当該NH小学校校長は、公務員に関わる諸規則、倫理規定、職務規定に該当し、自治会長から金銭を授受し、飲み食い等に充てるなど不適切に浪費した件に関して教育委員会から指導を受けている。2013年4月1日以降、強制的に指導改善研修に行かされている。

2013年9月18日(水)下校時の児童指導に立って児童に挨拶等をしていたが、不当にも、明日からは立たなくていいと発言。職員である者にこうした制限を設けるのは合理的理由がなく、パワーハラスメントである。

2013年9月、所属校研修ということでK小学校で勤務していたが、該当する場面がなく、学校長からの具体的な指摘もない事項について、不当に評価を低くつけられた。例えば、「採点ミスが多い」「市販テストで安易な評価をする」という場面そのものがなかったにもかかわらず、評価は「時々見られる」となっているのである。該当しない事柄までも、評価されているのであり、不実記載である。18項目中7項目(全体の38%)も本来該当することがないにもかかわらず、時々あるとされたのである。パワーハラスメントである。
 11月7日(木)に、学校長によるパワハラに関する訴えを労災として申請。本日付にて学校のメール便で送付。翌週11日(月)には届いているはずである。


402: 名無しさんAA:17/09/13 11:44

 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 120

 では当時既に日本人だった金英柱や金国泰や金敬姫が金日成として北朝鮮を建国した
のだろうか。此処に山下財宝との関連がある。九州での小さな企業団を作っていた野口
遵 (のぐち したがう)が戦争特需で儲けたとは言え朝鮮での投資を成功させたのだろ
うか。野口は、豊富な水資源がある鴨緑江とその支流の長津江、赴戦江に着目して工事
を行った。この三大河川流をせき止めて大ダムを建設し,このダムから上流に30キロ
の大送水トンネルを掘り,大水流を日本海側に逆流落下させて発電するという稀有壮大
な計画である。この壮大な計画を野口は迅速に実行していった。野口のこの大計画には
豊富な資金力が必要だった。全面協力したのは、勿論要請した日本陸軍 (宇垣一成)
と実は朝鮮銀行だったと言う。結果短期間で野口の計画どおりにダムと大発電所群が陸
続と完成し,稼動し始めた。その総発電能力は驚くなかれ,なんと100万キロワット
である。当時の世界一は,ソヴィエト連邦・ドニエプル発電所だったが31万kwであ
りその3倍の発電量であった。ここで日本は、断トツ世界一の発電能力をもつ巨大ダム
群を北朝鮮内に築造したのだ。こうして同時に,この巨大電力をフルに利用する大工業
地帯も北鮮域につくっていった。これが満州国を豊かにした。朝鮮半島が日本の統治下
であった1937年に満州国と朝鮮の電力確保の為、建設が開始され1944年には完
成していた。建設されたのは鴨緑江下流の平安北道新義州府から80km地点の日満国境と
され(現在は中朝国境)であった。湛水面積は日本の琵琶湖(670.33平方キロメートル
)のほぼ半分に相当し、総工費は約5億円である。なお、この金額は同時代に構想され
ていた「東京・下関間新幹線」に匹敵する巨額であり、その費用は当時朝鮮半島でも一
大重化学企業であった朝鮮窒素肥料(朝鮮窒素)(現在のチッソ)が負担したという。
太平洋戦争の泥沼化の中に完成し、3月に水豊水力発電所(発電能力:60万kW)と共に
竣工している。この発電規模が当時の世界最大級であり、当時の日本国内の水力発電の
規模280万kW と比較してもその大きさは巨大なのは容易に比較できる。7基の発電機は
各々約10万kWの発電能力を持っていたが、当時世界最大級の能力であり、この製造を受
注した東京芝浦電気(現在の東芝)では製造のためにわざわざ新工場を建設したという
代物だった。だが終戦時1945年8月9日、ソ連軍侵攻により、7基の発電機のうち5基を
略奪され、奪われた発電機は、カザフスタン共和国、イリティッシュ川(エルティシ川
)の上流のダムで確認されている。

403: 名無しさんAA:17/09/13 12:15
 日朝間の最大の懸案である拉致問題だが 日本にとっては、拉致問題の解決がない限
り北朝鮮との国交正常化もあり得ない。20年以上前、日朝国交正常化が目前に迫った
ときがあったがこの時大きなミスを両党は犯したのであった。 平成2(1990)年
9月26日。北朝鮮有数の景勝地、妙香山の招待所で自民党の元副総理・金丸信、社会
党副委員長の田辺誠、北朝鮮主席の金日成(キム・イルソン)が顔を合わせた。金丸、
田辺の2人が日朝の友好を進めるため、双方に「連絡事務所」の設置を持ちかけると、
金はこう返して2人を驚かせた。「いや、そんなのをつくる必要ないでしょう。(日朝
の)外交関係をつくればいいんですから。日本と仲良くしたい」予期せぬ発言に動揺を
隠せない金丸。田辺に「どうする」と目をやった。田辺も「いいんじゃないですか」と
即答した。金丸は金に向かって「社会党もいいと言っている。私たち自民党も責任を持
つ」と応じた。この瞬間、北朝鮮に拘束されていた第18富士山丸の船長、紅粉勇らの
日本人2人の釈放と、日朝友好親善が主目的だった訪朝が、政府間の国交正常化を前提
とした外交交渉に転換した。とも思えた。世論やマスコミは訪朝団の功績を軒並みたた
え、国交正常化を支持する声が多かったという。しかし、訪朝団は後に大きな批判にさ
らされることになる。9月28日に調印された自民党、社会党、朝鮮労働党の3党共同
宣言の中に記された「戦後45年間の謝罪、十分な償い」が、北朝鮮への戦後賠償の表
明とみなされたからだ。共同宣言は、金丸訪朝団事務総長の石井一(79)、同団事務
局長の武村正義、社会党訪朝団副団長の久保亘らが中心となった起草委員会で議論され
た。武村ら日本側は「交戦もしていない国の戦後賠償には応じられない」と突っぱねた
が、北朝鮮はなかなか折れない。16時間にわたる協議の末、最後は金丸の鶴の一声で
「償い」の文言を入れることが決まったのだという。だが彼ら戦後の状況を理解しては
居なかった。残置諜者の育成の会議が開かれ戦後の課題に触れていた事や 野口遵氏が
一代で築いた「日本の電気化学工業の父」とも「朝鮮半島の事業主」とも言われている
実業家が残した日窒コンツェルンの膨大な遺産がこの地に残されていた事などを戦後の
内閣は伝えては来なかった。時のGHQすら知っていた現実や共産党諜報者の存在結果
などを調査もしなかったのだ。この馬鹿とも言える3つの罪「即時連絡事務所を作らず
国民総意を取り付けなかった事。」「他の拉致被害者を言及しなかった事。」「現代の
価値20兆円規模の日本陸軍資産を敗戦供与してながらも戦後補償や謝罪声明などをし
て来た事。」は日中国交と同じ非道であった。田中角栄の日中国交時も尖閣問題を棚上
げし 台湾問題で折れて正義を貫いていない。こうした弱腰外交は 未来の日本の足枷
でしかなかったが、戦後の日本には今だ母国の土を踏めない帰参不能者がいる という
現状に人々は心を痛めていた事に折れたのである。

404: 名無しさんAA:17/09/13 12:15
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 125

 この野口遵(したがう)氏はこの時ダム群の権利をして、日窒コンツェルンを一代で
築た「日本の電気化学工業の父」とも「朝鮮半島の事業主」ともされる実業家だった。
1940年(昭和15年)正にドイツが欧州侵攻をする頃 朝鮮半島に於いて脳溢血で
倒れて逝くのだが 彼の残したダム群は全ての完成は見てないとは言え膨大だった。病
に倒れた時、野口は側近にこう語った。「古い考えかもしれんが、報徳とか報恩という
ことが、おれの最終の目的だよ・・化学工業で今日を成したのだから、化学方面に財産
を寄付したい。それと、朝鮮で成功したから、朝鮮の奨学資金のようなものに役立てた
い。」と言って息を引き取った。その後遺言通り、全財産の3千万円を寄付し、2千5
百万円で(財)野口研究所を設立し、化学工業の発展に寄与している。残りの5百万円
は朝鮮人子弟の教育のために朝鮮総督府に寄付され、朝鮮奨学会として朝鮮の地から4
万人の奨学生を巣立たせている。当時の1円は今の二千円位と言われる。つまり6千万
円を今で換算して1兆二千億円程度を寄付し更にこの金を産むダムをそのまま置いたの
だ。91式航空魚雷:2万円 (豊田穣の著書に記載)97式艦攻:18万円 (同上)89
式潜水艦魚雷:2万円 (「海軍の科学」昭和16年刊行に記載)1式陸攻:25万円 (「
空翔ける神兵」昭和18年刊行に記載) 当時の戦艦大和の実際の建造費ですら:1億6千
三百万円である。対してこのダムに投資した金額は5億円なのだ。そしてその支出管理
をしていた当時のシベリア出兵で赤字だった朝鮮銀行も一気に資産2兆円を持つに至っ
たがそのままにして 敗戦によってその地に寄付しているのだ。これは戦火を直接受け
なかった朝鮮半島で、景気が上向いて朝鮮銀行の経営状態も改善されて1943年には
不良債権を一掃した程だった。これがその後に日本人妻や北朝鮮渡航労働者を詐欺する
常套句である「産業がある豊かな夢の国北朝鮮」を産んだのだった。だが児玉機関では
この北朝鮮の白頭山の近郊の金鉱山は 爆破による封鎖が行われたと言われている。が
金丸訪朝団の後 金丸氏が逮捕される事件が起こった。金丸信・元自民党副総裁の5億
円ヤミ献金事件だ。1992年に発覚したが、公判に付されず20万円の罰金で処理されたた
め、捜査資料が法廷で開示されず多くの謎が残されている。この時大量の金塊がでた。
つまり ダム一個でも1兆円であり朝鮮銀行の資産と工場や鉱山権利やその資材はどう
考えても世界最大規模の投資した地で シベリア支所南方支所南洋支所まで金貨を送る
銀行資産は20兆円は下らない規模だったのだ。更に新産業のその最新鋭機器の設置を
田中角栄は請け負う工事をしながら 彼らは途中で売って日本に帰ってきたのである。


405: 名無しさんAA:17/09/13 12:16
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 126

 この野口遵の業績を知るにつけ、台湾発展の基を作った 明石元二郎大佐や八田与一
土木技師や後藤新平などを思い起こす人も多い。明石と八田は嘉南平野を肥沃な大農地
とする大灌漑事業を完遂し、八田与一の「八田ダム」は当時の記録世界一となっている
。また後藤新平は、台湾のインフラを整備して今も慕われ、上下水道を整備し衛生管理
を広めている事を知る人も多い。彼らは今も台湾の人たちに敬愛され、明石も八田も、
死後台湾の地に手厚く葬られ、台湾の人たちは銅像やお墓まで立てて祀っているという
。だがしかし、朝鮮では、どうであろうか。朝鮮では、朝鮮の近代化のために学校建設
に邁進した初代統監の伊藤博文はハルピンで暴徒に殺されたが、その暴徒を英雄として
いるし 初代朝鮮総督として寺内正毅はハングルを広めたが、墓参する朝鮮人はいない
。又目賀田種太郎は朝鮮の財政と貨幣の整理や近代的土地調査を実施し、農業をはじめ
朝鮮近代化の基礎を作り、第7代朝鮮総督となった宇垣一成は農村振興運動を展開し、
朝鮮を飢餓から救い近代化へと導いている。が知る人もいない。そして朝鮮産業革命の
祖といわれる野口遵は朝鮮北部に水力発電所を沢山作り興南の地に重化学コンビナート
を作っている。がその功績は日本でしか語られない。又朝鮮王朝の妻として高宗の妻は
有名な閔妃(明成皇后)ですが、彼女は高宗が朝鮮王から大韓帝国皇帝に即位する前に
殺害されている上に、高宗自身からは死後平民におとされている。高宗の後をついだ嫡
男の純宗は最初、純明孝皇后を立てたが両方とも閔氏尹氏で朝鮮人名門の出身で全く国
が発展しなかった。純宗には子供が出来なかったので、弟の英親王垠(李垠)が皇太子
となり日本との縁戚を希望した。大日本帝国政府は、この英親王に日本の皇室から梨本
宮方子女王を強制的に嫁がせました。方子女王は第二次世界大戦後も韓国にいる事を要
望したが残れず、夫妻は王公族制度廃止により一般の在日韓国人扱いとなってしまった
。その後も韓国政府は帰国を中々認めなかったので、英親王垠の帰国は彼が病に倒れた
後の1963年となった。1970年にソウルで李垠が亡くなった後も方子夫人は韓国
に永住し障害者福祉に勤め、1989年に亡くなりました。韓国内で恵まれない人々の
為に多くの施設を運営していた。

406: 名無しさんAA:17/09/13 12:56
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 119

 噂ではニュースの金国泰氏(北朝鮮労働党検閲委員長)も仲間だったと言う。金国泰
氏の朝鮮中央通信によると、13日、急性心不全と呼吸困難のため死去した。89歳。
故金正日総書記の側近の1人だった。北朝鮮の発表や韓国統一省の資料によると、現在
の咸鏡北道金策市生まれで、父は金日成主席とともに抗日パルチザン活動を行った金策
元副首相。1960年代後半に党宣伝扇動部部長に就任。92年に幹部担当の党書記と
なり、2010年9月の党代表者会で政治局員に選ばれ、党検閲委員長に就いたとされ
る。又北朝鮮で13日に処刑された張成沢(チャンソンテク)・前国防委員会副委員長
の妻で、故金正日(キムジョンイル)総書記の妹の金敬姫(キムギョンヒ)書記が健在
であることが、14日の朝鮮中央通信の報道で明らかになった。同通信によると、13
日に病死した金国泰(キムグクテ)・朝鮮労働党政治局員の国家葬儀委員会の名簿に、
敬姫氏も含まれていた。と発表された。死んだ張成沢も気がかりな名だ。若い頃容姿端
麗かつ性格も開放的で酒にも強く、大学では性別問わず人気者であった。頭の回転が速
く、機敏で気の利く遊び人だった性分を、当時上級生だった金正日に気に入られ、幼少
時に事故で死去していた弟の代わりの様に可愛がられる。とある抗日パルチザンとして
彼らが乗り込んだのは当然、中華民国の北洋軍閥の馬賊奉天派(ほうてんは)の末裔の
動向だったと言える。中国東北部を基盤として日本の支援を受けていた総帥は張作霖と
息子の張学良は、国民党軍に帰順して馬賊、匪賊討伐、帰順工作をして勢力を拡大し新
建陸軍から派遣されてきた部隊と統合され指揮下に入ったまま 台湾に逃げた蒋介石の
下で終戦を迎えていたが彼の一族が裏にいたとも思えるからだ。張学良は西安事件で罠
をはり蒋介石を捕らたが蒋介石の日記で対日戦略のために臥薪嘗胆の計を取っているこ
とを知り驚愕して蒋介石を助けていた。金英柱は、関東軍の通訳として働いていたが、
朝鮮の咸鏡南道で匪賊に襲撃される事件が起きた。満州国の朝鮮人治安関係者が調査を
した結果、「襲撃事件の首謀者金日成は、諱を金成柱といい、関東軍の通訳として働い
ている金英柱の実兄である」との証言を得た。金英柱は協力を求められ、祖母の李寶益
と共に、日本・満州国側に投降するよう金日成に呼びかけている。金英柱も又最高人民
会議常任委員会の名誉副委員長となったが仲間だったと思われる。2003年の第11期最高
人民会議第1回会議でも代議員として選出され、最高人民会議常任委員会名誉副委員長
に再任されている。

407: 名無しさんAA:17/09/13 12:57
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 121

 この後南北戦争で北朝鮮を叩く為に、雷撃を含むアメリカ軍機の攻撃を受けたが、こ
のダム構造が堅牢であったため決壊を免れたという。戦後に北朝鮮は発電能力を増強し
て復興した。竣工から60年以上経過した現在もダム本体は大きな改修工事が行われず
現役であると思われ、現在も北朝鮮の重要なエネルギー源の一つである。なおダム湖は
中朝国境となっており、北側は中国領となっている。実は中国が朝鮮戦争に合意したの
はこのダム周辺を中国領域としたかったからだと言われている。つまりダムの発電機は
ソ連軍に取られたのだが その頃の電力の貴重さは中国北朝鮮双方が知る所だったのだ
。この巨大ダム群の一つが,朝鮮戦争時に話題になった 「水豊 (スプン)ダム」で米
軍が幾度も爆撃し破壊を試みたがついに堤防を破れなかったダムであった事は充分理由
があった。双方共に死守したのである。こうして,大電力を確保した日本帝国は,化学
繊維,窒素火薬,アルミ,石油精製,やがて,タングステンからウランの製造までをも
開始した。そしてついには“核”の研究と開発も大日本帝国の大敗戦以降積極的に開始
する。この “ダム資産”と“技術の蓄積” の全てを引き継いだのが,ソ連と北朝鮮だ
ったのである。アメリカ合衆国には先進国として債務過超過の超破産国家の道を歩いた
。いっぽう,北朝鮮は独裁体制を敷き恐怖政治を行った。秘密警察があり貧困がある。
飢えも脱北者の弾圧収容所もテロ機関もある世界になった。拉致機関も謀略機関もある
中で超貧国として世界一の偽ドルの印刷所や世界一の舞踊団を作った。だが地下資源は
最も宝庫な国でコバルト,石灰石,黒鉛,ルビジウム,マグネサイト,磁鉄鉱,ウラン
,ジルコニウム,オバマ,マンガン,ヒラリー,ニッケル,タングステン,チタン,パ
ラジウム,モリブデン,ニッケル,金剛石,ハフニウム,ニオブ.更に金や白金がある
まさしく北朝鮮は,希少金属資源の標本室,レアメタルの宝庫とされる。とくに凄いの
は,タングステンとウランでは埋蔵量世界一で無尽蔵と言われる。この世界一の“財産
”を生かしきれば,北朝鮮は世界の最強国家になる。その為にNPT核不拡散条約から
撤退した。その後北朝鮮の電力事情にソ連から黒鉛炉の設置申し出に同時にIAEAの
規定保障から離脱しウランの自主濃縮を決めた。この為米国は一時期朝鮮半島エネルギ
ー開発機構KDDOが作られ、これを受けてIAEA加入とウラン供給による軽水炉建
設を約束したが IAEA違反が見つかった為に軽水炉計画のその約束は反故されてし
まったのである。


408: 名無しさんAA:17/09/15 15:39 ID:1E.
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 127

こうした朝鮮の発展には、多くの日本人が関与している。李氏朝鮮では到底近代化は叶
わなかったし事実それらが現れた事件も多数ある。しかし、日本は隣国として朝鮮に関
わり、朝鮮はわずか36年で、それを成し遂げている。その裏には数多くに日本人が居
たし戦後の援助も膨大なものである。しかし朝鮮人は、このことを一切無視している。
そればかりか、恩人であるべき日本政府や日本人の功績を、韓国政府は、いまだに歴史
を捏造し隠し続けて教えている。これらが如何に世界愚劣な卑小民族に属することをや
る民族かが判るであろう。例えば李斯朝鮮時代に既に経済が破たんしていたにも関わら
ず、船や鉄道或いは文明の産物や諸外国との交易での高級調度品を購入した。結果権利
の殆どを失くして李氏朝鮮末期を迎えて居た、売れる権利はほとんど諸外国に売り払い
経済が破綻していて。高宗と閔妃が外国に売り払った利権は、日本側が戻す事に容易な
ものではなかった。
1896年 ・ロシアへ慶南・馬山浦の栗九味租借権 咸北・慶源・鐘城の金鉱採掘権
       鐘城の石炭採掘権 豆満江・鴨緑江上流地域と鬱陵島の森林伐採権
      ・アメリカには京仁鉄道敷設権  雲山金鉱(平北)採掘権
      ・イギリスには財閥顧問の派遣と海関管理権
      ・フランスには京義鉄道敷設権
1897年 ・ロシアへ財政顧問の派遣と海関管理権、軍隊の教育訓練権
      ・ドイツに江原・金城、金鉱採掘権
1898年 ・アメリカにソウルの電車・電灯・水道経営権
      ・日本へ京釜鉄道敷設権
      ・イギリスに平南・殷山金鉱採掘権
1899年 ・ロシアへ東海岸における捕鯨権
1900年 ・ロシアへ慶南・馬山浦の栗九味租借忠北・稷山金鉱採掘権
      ・日本に京畿道沿海の漁業権
1901年 ・フランスに平北・昌城金鉱採掘権
1903年5月 ついにロシアは朝鮮北部の龍岩浦に軍港を建設
       シベリア鉄道の完成も近づき極東アジアの情勢は著しく悪化した
ロシアの極東南下 (既に満州の一部は侵略支配されロシア沿海州になっている)

409: 名無しさんAA:17/09/15 15:40
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 128

こうして結局、権利の無い物まで全てを売り払い破綻した李斯朝鮮は、日露戦争の直接
的な原因を引き起こした後、日本に外交権を没収され保護国となって出直すことを要望
した。それは産業が無く支払えないから仕方のない方策だった。だが朝鮮国内では併合
賛成派と反対派の対立の声が高まり朝鮮の指導者たちは日本に併合を要請することにな
ったが伊藤博文は国難と財政を理由に依然として反対していた。だが大日本帝国内閣で
は賛成多数で、朝鮮が欧米列強に売り渡した利権を日本が全て買い戻して、併合する事
にしたのである。 こうして1903年小村寿太郎外相と駐日ロシア公使ローゼンとの間
で朝鮮満州をめぐる交渉開始したが1904年談判決裂し対露宣戦布告し日露戦争が起
こった。ロシア皇帝ニコライ2世は大津事件後日本との交渉を良しとしなかったのだ。
 方針が決定されれば日本は自由行動の為の日韓議定書を締結した。露と戦うため韓国
内で日本軍が自由に行動する権利だった。第一次日韓協約で韓国政府の財政・外交顧問
に日本政府の推薦者をいれた。その後仲裁により1905年アメリカの斡旋でポーツマ
ス条約締結し小村寿太郎全権大使が任命された。日露戦争終結し日本側の大勝利となっ
たが、日本兵士の死傷者数は日本の大きな負担で終わった。元々韓国側は日露どちらと
も疲弊してからの清の介入を望んでいた。直ぐに第二次日韓協約を結び韓国統監府を設
置して韓国を中国属国から独立政府との地位を与え外交権を取り上げた。1907年に
ハーグ密使事件を機に、韓国の皇帝を退位させる。第三次日韓協約。内政権を剥奪。軍
隊解散にともない近衛歩兵隊及び近衛騎兵隊が置かれる。1909年日韓併合反対派の
伊藤博文は、ハルビン駅頭で朝鮮人安重根に射殺される。閣議は韓国併合方針を決定。
1910年日韓併合。朝鮮総督府設置、初代総督に寺内正毅を任命した。この時日本は
大きく窮地であった事は間違いない事実だ。日清戦争の戦後賠償で八幡製鉄所を築く事
にはなっても中国が直接資金や技術を渡した訳ではない。日露戦争では特にそうだった
のである。元々先に言った様にロシアも朝鮮にも中国にも貸した金投資した金は戻って
来なかった事で領土の割譲して植民地経営に力を注ごうとしていた。だが古来ロシアの
経営が成功した国はない。自立経営の国に共産思想を埋め込み戦乱地にして潰すのみの
共和国政治でそこに欧米が対抗武器を売って経営する事がパターンだった。破壊しかし
ていない国では経営が不可能でソ連邦に於いても母国経営が出来ず衛星国の技術資源や
食糧供給に頼っているからこそ南下政策を行っていたのである。


410: 名無しさんAA:17/09/15 15:40
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 129

 この日本の明治以降の苦悩は正に この朝鮮半島や中国大陸の運営であった。ソ連が
運営できず南下政策や欧州進出を図り、第一次世界大戦は起きた。そしてその後消費の
爆発的拡大革命が金融資本や産業革命で起こって流通戦争が起こった。此処に権益戦争
として第二次世界大戦が起こっていた。勿論此処に地政学的要素や連合主義的同盟やら
イデオロギーとしての自由や技術流出やら伝統的人種差別など色々はあっただろう。が
日本は結局は海外からは 良く知られていない東洋の魔物として見られ有色人種蔑視の
中での植民地支配の撤廃闘争でしか無かったのである。もし韓国や中国がロシアや英国
との取引も貿易も無かったならば 白人からの魅力的な南洋の夢の島スパイスアイラン
ドなどへの要求もなかっただろう。明治からの日本の努力はこの弊害から脱却であり、
キリストなどの一神教の刹那の思いを断ち切る役割でしかないのであろう。こうして、
朝鮮半島の李氏朝鮮政府の負債を日本が買い取る事に 世界は大きく喜んだ。日韓併合
は欧米主導の政策でもあったのだ。そしてそこはドイツに掛けた様な 共産主義南下の
防波堤を望んだ思惑もあった。それは当然日本も又受け入れていたのである。こうして
日韓併合は喜んで向かい入れられたが この後の共産主義ロシアのチョッカイは止まな
かったし匪賊としての中国国民を時の中国政府は統制出来ないでいた。終戦時国民党軍
が台湾に逃げ込んだのも新しく出来た韓国政府が北朝鮮を融合できなかったのも 実は
この政府には正義や道義に於いて国民人民庶民の人気がなく支援者が居なかったからだ
もともと日本軍が来るまでは階級社会が存在し 過激な革命的変化を望む輩が暴力によ
っての政府しか作れなかった能力がそうさせていたのだろう。諸外国はこの日韓併合で
大日本帝国の国体も潰れると見ていた節もある。それは 二分された国内世論に慎重な
日本政府は併合の正当性について列国に打診して、アメリカとイギリスは、このまま韓
国を放置することは地域に混乱与えると考え、韓国併合に賛成し、他の、清国、ロシア
、イタリア、フランス、ドイツといった当時の主要国からの反対も全くなく、各国の賛
成を得て、日本は韓国併合に乗り出したのに対して、孫文らの辛亥革命(1911年10月)
以降の『国民党と中国共産党の激しい内戦・軍閥の割拠』で北閥の袁世凱が西欧列強と
協調した独裁政治をしても 一向に介さなかったのだ。更に満州国樹立や蒋介石政府の
治安維持にも手を貸すどころか 逆に謀反者を多数入れて軍事顧問団を入れ武器供与を
反乱者に手を貸しているのである。

411: 名無しさんAA:17/09/15 15:44
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 130

 日中戦争は 盧溝橋事件から始まった一連の戦争を言う。とある。1937年(昭和
12年)に日本と中華民国の間で始まった長期間かつ大規模な戦闘であるとされる。が
それは日本は支那事変としている。そしてそもそも盧溝橋事件(1937年7月7日)は、4
日後の松井-秦徳純協定により 事は収拾している状態なのだ。此処に蒋介石の嘘があっ
た。既に蒋介石は匪賊鎮圧に広げるなと言う日本軍の言う事を聞かず 西安にて張学良
に囚われて 手足を握られていたのだ。こうしてゲリラ作戦で中国共産党の国共合作に
よる徹底抗戦の呼びかけで西安事件で罠を張られ捕らた蒋介石は ソ連と米国から支援
を取り付ける事になる。遥か以前から起こっていた満蒙独立運動は満蒙地域を独立させ
るいう試みで、常に何度も起こり、満蒙独立運動が成功して満州国樹立と蒋介石国民政
府が出来上がると蒋介石の方から それまで江戸時代から応援して来た日本政府側を、
裏切って西欧列強に寝返った形になっていた。日本側もロシアを表向きは遠ざけるが、
却って共産党員がはびこり、西洋諸国を取り入れたフグ計画も現地視察の派遣ユダヤ人
が寒さと不毛にNOを突き付けながら大陸経営を申し出ると言う有様で、馬賊匪賊には
手を焼いていた状態だった。それは蒋介石が今までの信頼ある孫文や袁世凱の様な人間
ではなかったからだ。盧溝橋事件により始まった華北(北支)での戦闘は、いったんは
停戦協定が結ばれたものの、25日の廊坊事件で停戦が破られると、26日の広安門事件で
日本人に犠牲者が発生し、29日 の通州事件では民間人を含む230名が虐殺されたことに
より、武藤章や田中新一ら拡大派が、石原莞爾や河辺虎四郎ら不拡大派を押し切った。
この事件以後中華事変において交戦が拡大した。中華民国に駐在していた、ドイツ軍事
顧問団団長ファルケンハウゼンは、「中国の敵は日本が第一、共産党を第二」と明言し
、1935年10月1日、漢口と上海にある租界の日本軍に対する奇襲を提案、1936年4月1日,
「今こそ対日戦に踏み切るべきだ」と蒋介石に進言して、北海事件後の9月12日には河
北の日本軍を攻撃するよう進めた。1935年冬、国民政府は、南京・上海方面の「抗戦工
事」(陣地)の準備を張治中に密かに命令し、優勢なる兵力をもって奇襲し上海の日本軍
を殲滅しこれを占領し、日本の増援を不可能にしようと企図した。この上海爆撃は日本
艇を模した空襲艇で行われたがイギリスのジャーナリストによって写真が撮られ 自国
軍機が自国を攻めた事が明らかになり 更に蒋介石政府は力の無いものになっていった


412: 名無しさんAA:17/09/15 15:45
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 130
 日中戦争は 盧溝橋事件から始まった一連の戦争を言う。とある。1937年(昭和
12年)に日本と中華民国の間で始まった長期間かつ大規模な戦闘であるとされる。が
それは日本は支那事変としている。そしてそもそも盧溝橋事件(1937年7月7日)は、4
日後の松井-秦徳純協定により 事は収拾している状態なのだ。此処に蒋介石の嘘があっ
た。既に蒋介石は匪賊鎮圧に広げるなと言う日本軍の言う事を聞かず 西安にて張学良
に囚われて 手足を握られていたのだ。こうしてゲリラ作戦で中国共産党の国共合作に
よる徹底抗戦の呼びかけで西安事件で罠を張られ捕らた蒋介石は ソ連と米国から支援
を取り付ける事になる。遥か以前から起こっていた満蒙独立運動は満蒙地域を独立させ
るいう試みで、常に何度も起こり、満蒙独立運動が成功して満州国樹立と蒋介石国民政
府が出来上がると蒋介石の方から それまで江戸時代から応援して来た日本政府側を、
裏切って西欧列強に寝返った形になっていた。日本側もロシアを表向きは遠ざけるが、
却って共産党員がはびこり、西洋諸国を取り入れたフグ計画も現地視察の派遣ユダヤ人
が寒さと不毛にNOを突き付けながら大陸経営を申し出ると言う有様で、馬賊匪賊には
手を焼いていた状態だった。それは蒋介石が今までの信頼ある孫文や袁世凱の様な人間
ではなかったからだ。盧溝橋事件により始まった華北(北支)での戦闘は、いったんは
停戦協定が結ばれたものの、25日の廊坊事件で停戦が破られると、26日の広安門事件で
日本人に犠牲者が発生し、29日 の通州事件では民間人を含む230名が虐殺されたことに
より、武藤章や田中新一ら拡大派が、石原莞爾や河辺虎四郎ら不拡大派を押し切った。
この事件以後中華事変において交戦が拡大した。中華民国に駐在していた、ドイツ軍事
顧問団団長ファルケンハウゼンは、「中国の敵は日本が第一、共産党を第二」と明言し
、1935年10月1日、漢口と上海にある租界の日本軍に対する奇襲を提案、1936年4月1日,
「今こそ対日戦に踏み切るべきだ」と蒋介石に進言して、北海事件後の9月12日には河
北の日本軍を攻撃するよう進めた。1935年冬、国民政府は、南京・上海方面の「抗戦工
事」(陣地)の準備を張治中に密かに命令し、優勢なる兵力をもって奇襲し上海の日本軍
を殲滅しこれを占領し、日本の増援を不可能にしようと企図した。この上海爆撃は日本
艇を模した空襲艇で行われたがイギリスのジャーナリストによって写真が撮られ 自国
軍機が自国を攻めた事が明らかになり 更に蒋介石政府は力の無いものになっていった


413: 名無しさんAA:17/09/15 15:47
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 132

 何故この時同時に華川ダムも日本人は作っているのか。江原道華川郡の北漢江にある
このダムも野口の技術集団が作っている。それには野口の経歴にある。当時出来たばか
りの東京帝国大学電気工学科の卒業生は1人から4人と言うかなり門の狭い学問だった
。野口の年次に初めて10人を越す在籍者となった位だ。1896年に卒業しているが
電気そのものが今だ都市のほんの一部しかない時代である。先にも言った様にエジソン
の助手のウイリアム・H・ムーアーが日本に来日し、首相伊藤博文、山県外務大臣と会
い、「竹なら京都へ」とのアドバイスを貰い京都で竹探しをしたのが1880年である
。まだ白熱電球が何時間も切れずに明かりを灯す前で1885年頃に海外でもやっと出
たのだ。今だ直流か交流かをアメリカで裁判していて200Vか100Vかを揉めてい
る時代なのだ。ただ都市交通の運行に対してはエンジン系と電力系で競争していたので
かなり動力機関が進展していただろう。その後のシーメンス入社も興味深い話である。
当時ドイツがどれくらい認識されていたか解らないが医学科学共にドイツの学問は最先
端であった事は間違いない。金融や交易すら今だロッテルダムはロンドンと競っていた
時代であろう。1861年、ドイツ外交使節が徳川将軍家へ拝謁シーメンス製電信機を
献上し、ここに初めてシーメンス製品が日本に持ち込まれた。1887年にシーメンス
東京事務所が開設され、以降日本で大きな納入実績を残した。足尾銅山への電力輸送設
備設置、九州鉄道株式会社へのモールス電信機据付、京都水利事務所など多数の発電機
供給、江ノ島電気鉄道株式会社への発電機を含む電車制御機および電車設備一式の供給
、小石川の陸軍砲兵工廠への発電機供給、などだが売り上げが伸びた事で1901年に
はシーメンス・ウント・ハルスケ日本支社が創立された。その後は一気にも発電・通信
設備を中心とした製品供給が続き、八幡製鐵所、小野田セメント、伊勢電気鉄道、古河
家日光発電所、曽木電気(のちの日本窒素肥料)等へ発電設備を供給した。また、逓信
省へ、電話関係機器の多量かつ連続的な供給を行なう事になったのだ。この草分け社員
であったのだ。軍需関係では、陸軍へ口径60センチシーメンス式探照灯、シーメンス・
レントゲン装置、各種無線電信機、海軍へ無線装置・信号装置・操舵制御装置等を納入
している。ところが1914年には海軍省の注文に千葉県船橋に80〜100 キロワット級
テレフンケン式無線電信局を建築したが、この無線電信局の納入をめぐるリベートが、
「シーメンス事件」として政界を揺るがす事件が起こることになる。


414: 名無しさんAA:17/09/15 15:48
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 133

 シーメンス社はかなりの先駆け的企業で ヴェルナー・フォン・ジーメンスは小作農
家の14人兄弟の4番目だったと言われるがドイツ期っての電気工学博士だった。兄弟
にウィリアム・ジーメンスが鉄鋼用のシーメンス平炉を発明し、フリードリヒ・ジーメ
ンスが蓄熱式加熱法を用いたガラス用のシーメンス炉を発明したとされる。陸軍に入隊
して工学を学び兵士としての間に、技術将校としての勤務中に電磁式指針電信機という
モールス符号を使わずに、電気の強弱を針による文字盤の文字を指す電文伝達装置、を
作ったり地下ケーブルを発明した。この事で戦争から戻ると除隊し、それまでの発明を
元にして事業を起こしてやがて国際企業になった。ジーメンスは電磁式指針電信機以外
にも電気工学分野でその後にも様々な発明・開発を行っており、ドイツにおける電気工
学の父と呼ばれている。自励式自動発電機(ダイナモの改良種)を発明、電流を振動に
変換するコイルの特許を取得。1920年代にアメリカでこの発明を利用してダイナミック
型スピーカーを発明、電気機関車を実用化、世界初の電気式エレベーターを開発、トロ
リバスの試験走行を行っている。又ヴィルヘルム・レントゲンがX線研究に使った放電
管もシーメンス社製だった。逆に人の発明にも研究が盛んだったのだろう。白熱電球が
エジソンの特許が切れてから日本で会社を興そうとしてこの野口遵を入社させてドイツ
での資本提供者を探そうとしていたのだから面白い。シーメンス事件とは1914年1
月にロイター通信で発表された海軍の購入に際した手数料の収賄事件だ。言わば明治版
ロッキード事件と言えるだろう。明治政府には当初からイギリスの金融と投資家が後押
しして艦船や装備品を購入していた。だが、新艦船の造船まで出来る様になるとドイツ
やフランス・アメリカなどからもその購入を行う様になった。それは性能と品不足の為
もあったが販売を日本人が代理する様になると外国の造船会社相互間の競争は激しくな
って、海軍の高級技術将校や監督官などは、その立場上各造船会社や軍需品を取り扱う
企業の日本代理店との交渉や手数料をめぐって問題を起こしやすかった。本当の問題は
陸軍にあったが、海軍は政府高官に近く議員達もそれぞれに藩閥を成して厄介な関係が
起こっていたのである。


415: 名無しさんAA:17/09/15 15:51
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 135

 山縣有朋は長州藩の足軽より低い中間と言う身分の子に産まれている。相当な貧乏だ
ったらしく彼の生活は 多くの勲章を得ても清貧そのものだったと伝えられる。死んだ
時も1か月前に病没した大隈重信の葬儀が「国民葬」として、多数の民衆が集まり華々
しかったが、山縣の葬儀は国葬とされ閑散としたものだったと言われる。東京日日新聞
は、「大隈候は国民葬。今日は〈民〉抜きの〈国葬〉で幄舎の中はガランドウの寂しさ
」と報じたと言う。東洋経済新報社記者の、戦後総理大臣となる石橋湛山は、コラムに
「死もまた社会奉仕」と発表し、山縣の政治権力を「国を憂うる至誠の結果」と評した
、宮中某重大事件は湛山は至誠から出た行為と評して、「世の中は停滞せざる新陳代謝
があって、初めて社会は健全たる発達をする」と批評するも、「人は適当の時期に去り
行くのもの、死もまた一の意義ある社会奉仕でなければならぬ。」と評している。山形
の治世で大戦景気に沸いた第一次大戦後には債務国から債権国へ、輸入超過国から輸出
超過国へと転換した。さらに戦勝国として南洋諸島のドイツ権益を引き継ぐなど、日本
の国際的地位も上昇したが、山縣はむしろこの日本の急成長によって大戦を契機に急成
長を遂げたアメリカ合衆国の様に国民に黄禍論を強めていることに不安に感じなが死ん
でいったと言う。山縣の生活は規則正しく、質素倹約なものであった。午前6時の起床
後はタオルで体を拭き、食後には槍を振るった。外見としては痩せた長身であり、上前
歯が突出していた。部下たちは密かに「反歯伯」と呼んだ。「黄禍論」とは当時米国や
豪州で増えて来た東洋人に対した嫌悪感の論文で、白人国家において現れた大きく公言
される「黄色人種脅威論。」であった。この人種差別一種で肌の色と社会関係を批判し
ていたのである。19世紀半ばからヨーロッパ・北アメリカ・オーストラリアなど白人
国家において現れ、フランスでは1896年の時点でこの言葉の使用が確認されており
、ドイツ帝国の皇帝ヴィルヘルム2世は『ヨーロッパの諸国民よ、諸君らの最も神聖な
宝を守れ(ドイツ語版)』の寓意画によって広め世界に流布した。日清戦争に勝利した
日本に対して、欧州各国は特にロシア・ドイツ・フランスが自らの三国干渉を正当化す
るために浴びせた人種差別政策で、続く日露戦争の日本勝利で欧州全体に広まった。こ
れによって「日本脅威論」が根深く無意識のうちに西洋社会に取り入れられたという。

416: 名無しさんAA:17/09/15 15:52
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 136

 そもそも「黄禍論」は昔から欧州にはあった。ただ相手はイスラム教徒だったりイン
ド人だったり或いはスキタイのモンゴル人だったりオスマン帝国のトルコ人だったり、
兎も角は南から攻めて来る怖い者の話で 当面はフランス人が攻めて来る「白禍論」の
方がドイツではより危険視され叫ばれていた。古来白人は、モンゴル帝国をはじめとし
た東方系民族による侵攻に苦しめられてきた歴史からの寓話であった。キタイと言う言
葉の直接の意味は、10世紀頃に華北にて遼朝を建国した遊牧民族「契丹」を指すが、
ロシア語においては(現在も含めた)「中国」を意味し、北方への対外侵略を常として
きた契丹と同一視する事で警戒心・畏怖の意味も込められている。そのため黄色人種は
、モスクワ大公国(後のロシア帝国)においては「タタールのくびき」として、また、
西ヨーロッパではアンチキリストがアジアから現れると信じられ、共に恐れられてきた
。だがこうした「黄禍論」が込められた寓意画『ヨーロッパの諸国民よ、諸君らの最も
神聖な宝を守れ(ドイツ語版)』をわざわざ各国にドイツ帝国の皇帝ヴィルヘルム2世
が送り広めたのである。ロシアのニコライ皇太子の殺傷事件である大津事件が背景にあ
るのかもしれない。というのも彼らはロマノフ家の末裔だからだ。日本が日清戦争やら
日露戦争で勝利すると「黄禍」という言葉が生まれ黄禍思想は日清戦争の講和条約に際
してロシア、ドイツ、フランスの行った三国干渉の会議で、人種理論の影響を受けたと
いうドイツ帝国の皇帝ヴィルヘルム2世は「黄禍」を説くことによって、それまでの汎
スラヴ主義や汎ゲルマン主義の対立によってドイツと敵対していたロシアを極東に釘付
ける為に、盛んに説いたと言われる。こうして黄禍論は広がり、近代で対象とされる民
は、主に中国人、日本人とされた。特にアメリカ合衆国では1882年に制定された排華移
民法、1924年に制定された排日移民法など露骨に反中、反日的な立法を建てられ、影響
が出ていた。明治21年よりヨーロッパ各地へ視察旅行に出て宮中での大日本帝国憲法
発布式典にも出て居なかった山形有朋は伊藤博文と共にその内容を把握していたのだろ
う。当時「シュタイン詣出」とさえ言われるほど日本政府要人らのウィーンの憲法学者
ローレンツ・フォン・シュタインを訪れていたが、山縣も訪問している。ほかグナイス
ト、クルメツキ、ビスマルク、ヴィルヘルム2世らのもとを訪問して帰国している。


417: 名無しさんAA:17/09/15 15:55
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 137

 早くからそのその才能があった山縣有朋は友人・杉山松助らに松下村塾への入塾を勧
められるも、「吾は文学の士ならず」として辞退し槍の稽古に励んで少年時代を過ぎた
。安政5年に長州藩が京都へ諜報活動要員を派遣する時その真面目さに6人中に選ばれ
、杉山松助・伊藤俊輔らとともに上京して、尊皇攘夷派の久坂玄瑞・梁川星巌・梅田雲
浜らなどと出会った。彼らの立志に感化を受け帰藩後には久坂の紹介で吉田松陰の松下
村塾に入塾した。しかし山縣が入塾したとされる時期は数か月で後に松陰は獄に下り刑
死することになっている。だが生涯「松陰先生門下生」と称し続けた事はその影響は大
きかったと言える。高杉晋作の奇兵隊創設とともにこれに参加し、武芸や兵法の素養を
活かして頭角を現し、高杉は身分にとらわれずに有能な人材を登用したため、高杉軍艦
時代に法教寺事件の責で身を引いた時奇兵隊軍監に就任して長州征討で高杉と共に活躍
しそのまま戊辰戦争では北陸道鎮撫総督・会津征討総督の参謀となった。長州奇兵隊や
新政府軍の中枢を任された山縣は軍政家であり続け、兵を率いて前線に立ち軍功を上げ
るということはそれほどはなかったが、日清戦争で元首相でありながら第一線に立った
者は居ない。日露戦争でも満洲軍総司令官就任を希望していたが叶わなかったという。
明治政府を立ち上げ明治2年に渡欧し、各国の軍事制度を視察し、帰国すれば直ぐに、
大村益次郎の実質的な後継者として西郷隆盛の協力を得ることで軍制改革を断行して、
徴兵制を取り入れた。その後、陸軍出入りの政商・山城屋和助に陸軍公金を無担保融資
して焦げ付かせたが山城屋の証拠隠滅工作によって、山縣に司法の追及は及ばなかった
が責任を取る形で明治6年に陸軍大輔を辞任した。しかし内閣において山縣に代わりう
る人材がなく、藩閥を嫌う採用に伊藤博文などの信任は厚く同年6月に陸軍卿で復職し
た。参謀本部の設置、軍人勅諭の制定に携わった。だが皮肉にも彼が陸軍だった為に、
西南戦争では官軍の事実上の総指揮を執ったため、さながら薩摩閥と長州閥の直接対決
の様相を呈した。士気の高い薩軍に対し、装備と物量・兵力で対抗し、積み上がる死人
に西郷は「もういいだろう。」と降伏にでたと言う。官僚制度の確立にも精力を傾け、
門閥や情実だけで官僚文官官吏が登用されることのないように文官試験制度を創設し、
後進を育成。山縣が軍部・政官界に築いた幅広い人脈は「山県系」「山県閥」などと称
された。

418: 名無しさんAA:17/09/15 16:00
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 138

 伊藤博文の欧米視察後、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎らは憲法起草に参画して、
明治22年(1889年)2月11日に大日本帝国憲法(明治憲法)を公布することに至ったが
、当初の日本ではまだ法典整備されておらず、民間が成熟しきっていない無法地帯の国
家である。指摘とされていた。こうして欧州からの指摘で日本の憲法制定に大きく携わ
ることとなったのが、ルドルフ・フォン・グナイスト、ローレンツ・フォン・シュタイ
ンである。彼の言及に「その頭脳の中には黄色人には憲法は不適当なり、寧ろ生意気な
る所業なりとの観念を有したるが如し」との言葉があった。明治15年に当人について
学んだ伊東巳代治の意見でもある。「憲法とは国民本位に託されたものであり、憲法が
国民の権利を決める(保障する)ものではない。」との意味を示したとしている。ここ
に山田顕義が、岩倉使節団の一員として欧米視察から帰国後の、「兵は凶器なり」と指
摘した上申書(理事官功程)提出し、自身が遊学中に施行された徴兵令の延期を求めた
理由があった、その後山田は東京鎮台司令長官に任命されるが、11月には同職を解かれ
清国特命全権公使に任命されたが山田本人に渡清の意思はなく、佐賀に於いて明治政府
に対する士族反乱が起きてその任を解かれた。明治18年に内閣制度が発足し、山田は
第1次伊藤博文内閣初の司法大臣に就任する。明治20年には外務省が一時所管した、
法律取調委員会を再び司法省に戻し委員長に就任する。民法はフランス人ボアソナード
に、商法はドイツ人ロエスレルに原案の起草をさせ、法律取調委員会では民法・商法・
民事訴訟法、裁判所構成法などの草案が審議され、山田が議事を整理して事業に明け暮
れた。明治21年、引き続き黒田内閣の司法大臣に留任して12月に民法、商法の各法
案を黒田首相及び内閣に提出した。司法大臣として法典整備を進め、日本の人種・習慣
・風俗・言語など国家成立の要因、すなわち国体を明らかにし、その基礎となる国典の
研究の重要性を認識したことで、明治22年、皇典講究所所長に就任し皇典講究所の改
革を進めた。同所内に日本古来の法と外国の法を研究する教育機関として、日本大学の
前身である日本法律学校を創設し、その後も引き続き第1次山縣内閣の司法大臣に留任
し法の要を成文化した。明治24年、司法大臣に復職し直後にロシア帝国の皇太子・ニ
コライ2世が襲われて負傷する大津事件が発生した時は、犯人・津田三蔵への死刑適用
に奔走したと言われる。動乱の中で西欧列強の持つ2面性に日本があたふた事を物語る
。一方で人権尊重し 一方で内政干渉・領土侵害も辞さない姿勢は人間の本性のままだ

419: 名無しさんAA:17/09/15 16:06
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 139

 明治5年の、陸軍出入りの政商・山城屋和助の陸軍公金の無担保融資事件は山縣有朋
には相当のショックがあった。山城屋和助は政府要人と同じ長州藩出身という縁故での
兵部省御用商人だった。軍需品の納入などで、陸軍省の公金15万ドルを借用して買い
付けを行っていた。ところが日本からの銀の流出で陸軍省保管の現銀は価格低落を被っ
ていて買い付けできなくなっていた。そこで生糸相場に手を出したが、ヨーロッパでの
生糸相場も日本の参入で暴落にあっていた。こうして投機は失敗し。山城屋は陸軍省か
ら更に金を借り出し、フランスの商人と直接取引をしようとフランスに渡っていた。が
此処に一人の日本人がフランスで豪遊しているという情報が、フランス駐在中弁務使の
鮫島尚信やイギリス駐在大弁務使寺島宗則の耳に入り、日本政府本国の外務省副島種臣
外務卿へ連絡されたのである。陸軍省会計監督・種田政明が密かに調査を始め、「一品
の抵当もなしに」多額の陸軍省公金が貸し付けられていたことが発覚して、薩摩系陸軍
人と長州系陸軍の対立のある中で激しく追及するところとなる。山縣は陸軍中将・近衛
都督を自ら辞任することにした。翌年の明治5年、江藤新平率いる司法省による本格的
な調査が始まろうとしたが、山縣から至急の返済を求められた山城屋は公金返済が不可
能であった為、陸軍省内で割腹自殺を図りその際関係する帳簿と長州系軍人の借金証文
類も焼き払われていたため、事件の真相は解明されることなく、陸軍省会計監督の長船
越衛の処分をもって終わったのだった。こうして日露戦争前の混乱は数少ない海外取引
を担う有能な武士が 戦乱や派閥に埋もれて行く時代の中だった。野口遵(したがう)
がシーメンスから用済みになり曾木電気株式会社創立したのは1906年で丁度 日露
戦争の前夜であったと言える。シーメンス事件もシーメンス社員のカール・リヒテルが
シークレットペーパーを会社から盗み出し、買い取るよう東京支店長宛に脅迫文書を送
ったところに始まる。要求金額は25000ポンド今の日本円で5千万円程度だったらしい。
脅迫は拒否され失敗した。カール・リヒテルはこの書類をロイター通信特派員に売って
ドイツへ帰国した。こうした事件の背景にあるのが 当時のドイツ人にある「黄禍」の
思想であろう。つまり日本人は敵であり(黒人と同じ様に)植民地の奴隷であるべきだ
と言う思考である。この勝手に自分の優位に刷り替える思考は今の朝鮮民族まで伝授さ
れたのだろう。盗み信用を無くす行為に日本人は混乱して良い正義だと言う欺瞞だ。


420: 名無しさんAA:17/09/15 16:14
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 140

 この後その脅迫された連絡を受けてすぐさまシーメンス重役陣は動き、同社の信用失
墜と関係海軍将校への影響を怖れてもみ消しを図り、公表を阻止した。これを知らされ
た当時海軍大臣の斎藤実は「わが海軍部内にかかる醜事に関係する武官あるべからず、
秘密書類の公表はむしろ望むところなり」と回答し、内情調査をするよう連絡したが、
議会運営が始まり 政局重大の折でもあり海軍当局の正式な連絡後に司法活動を開始す
ることとし一応静観の態度を取った。その後シーメンスとプーレーの間で妥協が成立し
、1913年にシーメンスが秘密書類を50,000円(1憶)で買い取り横浜領事館で焼却
、一度事件は終結を見た。ところがドイツの秘密機関がこの経過を全て把握しており、
ドイツ官憲はシベリア鉄道で帰国するリヒテルがドイツへ入国した瞬間にこれを逮捕、
恐喝未遂罪で起訴したのである。判決は贈収賄があったと認定し、贈収賄が犯罪を誘発
したとして情状酌量を認め、カール・リヒテルは2年に減刑された懲役刑に処された。
公正中立をもって知られるドイツ司法裁判所ではあったがこの事件に限っては国際儀礼
に反して一審判決から日本海軍将校の実名をも進んで通信社に公表した。そこには対共
政策に悩みながら日本に商売するドイツの姿があった。と言うのも最先端の軍事物資を
扱うシーメンスはドイツでも重大な機密であったが国としての優位保持も大事だった。
山縣有朋はしたたかに交友関係を保っていた。国王ヴィルヘルム2世としては日本との
商売はしても 日本に技術は売りたくはなかったのだ。更に既に日露戦争で勝って貰っ
たが今となれば山縣の政界での権力は潰したかったのである。こうした利害関係一致に
よっての陰謀が図られたのだ。シーメンス事件当時検事総長だった平沼騏一郎も 後に
回顧録でこの説を容認している。山縣有朋は薩摩閥・海軍と対立していた長州閥・陸軍
の代表的存在に変化していたからであった。更にこの少し前に日本海軍の活躍によって
日露戦争に勝利、「日本海軍育ての親」と称される山本権兵衛が首相となり山本権兵衛
は陸軍の主張であった軍部大臣現役武官制を一部廃止、陸軍の二個師団増設案を拒否、
山縣有朋が議長を務め天皇のブレーンとなっていた枢密院の定員削減などの行政改革を
していながら八八艦隊建設計画予算を計上していた。ヴィルヘルム2世は日英同盟から
の対抗の海軍拡張を進めており、イギリス海軍の分身とみなす日本海軍の金剛型戦艦4
隻を「ドイツ東洋艦隊を無力化する」としての脅威に感じてもいたのである。こうして
日本は注目を集め スパイ天国の国になり折角の国際的進出も道を誤らせられるのであ
る。陸軍軍閥を潰したい。海軍勢力は抑えたい。日本そのものを潰したい。ドイツの思
惑であった。それは同時に国際社会の誤りにもなり 現代までその禍根を残す。

421: 名無しさんAA:17/09/17 18:56 ID:mog
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 141

 こうして欧州戦乱の 米国英国Vs仏国蘭国がいつの間にか米国英国仏国Vs蘭国独
国伊国になり更に露国が入ってトルコなどの植民地が入り 東洋は奇妙な位置づけが、
があったが、日本がロシアに勝った事で更に奇妙な地位に降り立つ事になったのだった
。日本が開国し経済的には恵まれて1$1円時代に突入する頃、正にジパングで大量の
金の放出時期であった。正式に日本政府の発行券が流通する時代に到来するのだが、こ
れが先の海外製品や株が暴落した原因でもあったと言う。この通貨乱高下に伊藤博文さ
えも、奴隷商人によって米国内で売られそうになった事もあった。この後八幡製鉄所の
構想で九州電気軌道の軌道敷設計画が起こるのだが。これに日本政府は多くのドイツ人
イギリス人を雇った。最先端機器を必要とした時、基本的システムはイギリスに学んで
いたが 電化技術や軌道運搬や化学産品はドイツに学ぶ機器しか存在しなかったのだ。
明治の移行期に柳川近郊の足踏みの水車を作った者がいたがそこに一人の弟子が居た。
田中久重である。佐賀に反射炉が出来たのは江戸期でありアームストロング砲の改良型
が既に出来ていた。更に長崎のグラバーは既に多くの筑後茶で商売をしていた。この街
道沿いが現在の大木町や筑後市である。明治期では此処は多くの海外からの物が頻繁に
大川港を介して動いていた。浮羽から大川までは古くからの筏船が動いていた流通経路
が存在していた。水沼回廊と言う水路運搬も次々に出来て行った。運河計画もあった。
此処に当時の貯木場が今の八丁牟田近郊にあったとされる。八女金山をして金を納めて
いた逸話のある荒くれの金納氏がいたが此処に言う天才細工師が居たのだ。彼が作った
足踏み水車は少年さえ抱えるほど軽く高い3m程の段差さえも水を揚げた。と言われ更
に足で回転させる事も摩擦が少なく簡単に回ったのであった。彼は田中義右衛門の師匠
の様な人だったと言われる。田中久重は江戸時代後期から明治にかけての発明家で佐賀
藩の反射炉で作業をしている。その後「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」と呼ば
れて、芝浦製作所を設立し後の東芝の重電部門の創業者となったが、筑後国久留米の鼈
甲細工師・田中弥右衛門の長男だった。蘭学狂いの鍋島直正が治め佐賀藩の精煉方に着
任していたのは佐野常民が幕府注文の蒸気鑵(ボイラー)を製作する任を受けていたか
らだったと言う。空気圧で灯油を補給する無尽灯を売り出した田中に、白羽の矢をたて
てボイラーの試作を行う事にしたのである。佐賀藩が鉄砲やアームストロング改良砲を
売って財政立て直しに、成功した頃の話である。

422: 名無しさんAA:17/09/17 19:11
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 142

。“からくり儀右衛門”久重と“肥前の妖怪”鍋島閑叟の出会いを生み出したものは、
先代の佐賀藩の汚名であった。久重は高い志を持ち、創造のためには自らに妥協を許さ
なかった。芝浦製作所を作る時久重は、「知識は失敗より学ぶ。事を成就するには、志
があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、その後に、成就があるのである」との
言葉を残している。これは鍋島閑叟の意志でもあったのだろう。フェートン号事件以来
長崎警備等の負担が重く、更にはシーボルト台風など佐賀藩は悲惨な状況であった。借
財返済を申し立てた商人に、斉正の大名行列は進行を停止せざるを得ない屈辱的な経験
をもしているぐらい財政破綻に陥っていた。かつて1808年に、オランダ船拿捕を目
的としてイギリス海軍の戦艦フェートン号が、偽りのオランダ国旗を掲げて長崎入港し
た。通常業務として阿蘭陀館長や通訳が船に近づくとすぐさま人質にし、英国国旗を掲
げた。要求は水や食糧や燃料を求めた事だが、これは長崎警備の佐賀藩にとって寝耳に
水の厄難であった。2日に渡り停泊し食糧や水の補給すれば人質を解放して終わった。
終われば日本側に人的・物的な被害はなく、人質のオランダ人も無事に解放されて事件
は平穏に解決していたのだが、幕府は許さなかった。勝手に兵力を減らしていたからだ
。長崎奉行松平康英は、国威を辱めたとして自ら切腹して果て、鍋島藩家老等も責任を
取って切腹した。さらに幕府は、鍋島藩が長崎警備の任を怠っていたとして藩主の鍋島
斉直に百ヵ日蟄居閉門を命じた。しかし38門艦フェートン号には片方の側砲に16門
の大砲が備えられた戦闘艦であった。。対して日本にはそうした軍艦は一つも無く上申
するも幕府は備える事が出来なかったのである。その為にグラバーを通じて佐賀藩は大
きく商売に出た。既に細々と陶磁器やお茶が売れていたが借財して土地を売り嬉野茶を
育てり川内に今まで職人芸だった焼き物を分業し集団制作に変えたりはしていた。この
空砲を打つ軍艦ではあったが相当な衝撃だったはずだ。阿蘭陀人の指導を得て反射炉を
作り隠れて大砲や軍艦制作まで行う事にしたのである。当時武器輸入は長崎のこのトー
マス・ブレーク・グラバーを通じて行われていた。スコットランド出身の武器商人とし
て、幕末の日本で活躍した者だ。彼は明治維新後も造幣寮の機械輸入に関わるなどした
が、武器が売れくなり諸藩の資金回収が滞りグラバー商会は破産してしまった。大森氏
となって帰化し、高島炭鉱の実質的な経営者として喰いつないだ。帰れなかったのだ。
官営事業払い下げで三菱の岩崎弥太郎が高島炭鉱を買収した時、所長として経営する。
明治18年1885年以後は三菱財閥の相談役になり、経営危機のS・B・ブルワリー
の再建参画を岩崎に勧めて麒麟麦酒の基礎を築いた。

423: 名無しさんAA:17/09/17 19:11
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 143

トーマスグラバーは日本初の商業鉄道が開始されるよりも前に蒸気機関車の試走を行い
、長崎に西洋式ドックを建設し造船の街としての礎を築くなど日本の近代化に大きな役
割を果たしたと言われる。1830年隠居の後を受け17歳で第10代藩主になるが、
先代藩主・斉直はいち早く海軍時代を予想し阿蘭陀から軍船を買っていた。この電流丸
(でんりゅうまる)は佐賀藩所有の軍艦。排水量およそ3百トンの木製コルベット艦だ
った。購入金10万ドルは安くなかったはずだ。安政の大地震が東北に起きた頃だった
為、米相場の米輸送で儲ける為と言える。この大川の対岸の八重津と呼ばれる早津江港
に着いた時は大老井伊直弼が就任した時であった。電流丸はコルベット艦で一層の砲甲
板しか持たず、大きさはフリゲートよりも小さかった。それでも大砲を何門か備えてい
た。江戸時代にこの藩が買ったのは脅威であった。父親の斉直でも受け継いだ時佐賀藩
では1万5千貫の借金があり、財政が破綻寸前となっていた。この為斉直は財政再建の
藩政改革に取りかかっている。まず、経費節減政策を考えている。支藩の肥前鹿島藩の
廃藩、次に長崎警備の任務の返上である。長崎警備には莫大な費用がかかり内密で熊本
藩に引き継いでもらおうとしたのだが幕府に見つかるのだ。鹿島廃藩も小城藩や蓮池藩
の反対でとん挫しその中でフェートン号事件が起こったのである。その後も江戸藩邸が
焼失しシーボルト台風の襲来で財政はさらに悪化し、借金は13万両に膨れ上がるので
ある。この中で電流丸を買い付けしているのだ。斉直に百ヵ日蟄居閉門を命じられた時
多分色々と考えたに違いない。大坂船場に移り住み折りたたみ式の「懐中燭台」、灯油
を自動補給する灯明の「無尽灯」考案し京都へ移ったが、天文学を学ぶために土御門家
に入門している。この土御門家は薩摩藩お抱えの公家のはずだ。土御門家は、安倍清明
以来続く陰陽道の家柄で代々、幸徳井家とともに暦の制作にたずさわっていた家柄だ。
又嘉永6年(1853年)佐野常民の薦めで蘭学狂いといわれた鍋島直正が治める肥前
国佐賀藩の精煉方に着任し、国産では日本初の蒸気機関車及び蒸気船の模型を製造する
のだが この佐野の産まれた所が肥前国佐賀郡早津江村で佐賀藩の三重津海軍所である
。東芝の創業者であり、“東洋のエジソン”と呼ばれた奇才な発明家、田中久重がここ
に来るのに多分に薩摩藩の土御門家を通じた援助があり佐賀藩自体は長崎出島まで密輸
を行う起点として三重津海軍所を作ったと言える。幕府の目を盗んで。幕府としても、
この長崎奉行の警護には佐賀藩が欠かせない存在で大目に見たのだろう。

424: 名無しさんAA:17/09/17 19:13
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 144

 トーマス・ブレーク・グラバーは1859年に上海へ渡り「ジャーディン・マセソン
商会」に入社。「グラバー商会」を設立し、貿易業を営む。とある。当初は生糸や茶の
輸出を中心として扱ったが八月十八日の政変後には政治的混乱に着目して討幕派の藩、
佐幕派の藩、幕府問わず、武器や弾薬を販売した。又亀山社中とも取引を行ったし薩摩
藩の五代友厚・森有礼・寺島宗則、長澤鼎らの海外留学や、長州五傑のイギリス渡航の
手引きもしている。だがこの「ジャーディン・マセソン商会」こそ中国にアヘン売人と
して上陸し、襲われてイギリス海軍出動戦争をして恨みをはらそうとした東インド会社
の、香港貿易商社だった。中国の広州(沙面島)に設立された中国語名は「怡和洋行」
は当時、広州は広東システム体制下、ヨーロッパ商人に唯一開かれた貿易港であった。
設立当初の主な業務は、アヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出をして、香港上海銀行を
通じて本国に送金する事だった。HSBCはその為に設立された銀行で、ウィリアム・
ジャーディンとジェームス・マセソンは香港で稼いだ資金を運用する権限を持っていた
。この時この行為を知った清は取り締まりをして、船長以下捕らえた。此処に清とイギ
リスとの間で1840年から2年間にわたってのアヘン戦争が起こる。イギリスでは、
インドで栽培し製造したアヘンを、清に密輸して広く組織的に販売し収益を得ていたが
、当初はアヘンの流通販売や摂取を禁止していた清との間では綿花の輸出入が貿易だっ
た。だがイギリスに産業革命が起こると送る綿花はなかった。機械化し国内重要が代わ
り出来たからだ。他に胡椒や香辛料もインドで栽培しようとしたが、東南アジアからの
品質や量に叶わなかった。そこで登場したのがアヘンである。当初アフリカの奴隷貿易
で屈強な奴隷たちを服従させるために酒の様に使われたが、これは中国では有効な手段
としてもてはやされた。アヘンは高地でも手軽に栽培されインドの名産としてベンガル
阿片として広く流通した。当初明時代に朝貢物として阿片が輸入され広く出回ったが、
日本に攻撃された李氏朝鮮の救援(文禄・慶長の役)などの出費がかさみ、財政が破綻
していた明王朝はその取り締まりは出来なかった。その後清王朝が取り締まりをしたが
阿片需要は止まらない中での銀の決済ができなかったのだ。元々はビルマから中国に入
り銀と交換し阿片がアフリカで使われる循環だった。だがベンガル阿片の登場と産業革
命はそれを変えた。更に日本から入ってきた銀は江戸期には中国に来なくなっていた。
銅の鉱山や銅の精錬が出来たからだ。そしてイギリスは三角貿易が出来ていた


425: 名無しさんAA:17/09/17 19:14
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 145

 かつて日本は長い間 銀を送って銅銭を手に入れる事で貿易を行っていた。それには
理由が2つあった。つまり銅鉱山はかなり危険な成分を含んだ鉱石と存在した鉱山だっ
たからだ。日本での銅鉱石は多くは黄銅鉱や硫化鉄で少量の有害な物質と半分程の不要
鉱物だった。今でこそ精錬法が電気精錬などが出来てそう危険では無くなったが明治の
時代までその精錬には 有害なガスと有害な水溶液と危険な作業が重なり合った場所で
あった。精錬に要する火力は鉄に匹敵し更にガスの対処するには屋外同様の環境で作業
するしかなかったし 掘り揚げる鉱山も炭鉱の危険さと同じ上に触る石が有害だった。
 国内の銅の存在は鉄より古い。銅鉱石を初めて産出したのは西暦698年(文武2年
)には、因幡国(鳥取県)から銅鉱を朝廷に献じたと伝えられて記載されている。また
708年(慶雲5年)には武蔵国秩父から献上された銅を用いて貨幣(和同開珎)が作
られ、年号も和銅と改められたとなってその通貨価値も古い。最近7世紀後半の飛鳥池
の遺跡から発見された「富本銭」も、鋳造は700年以前に遡ることが確認された。又
、遺跡からの溶銅の大量出土はその当時の産銅量が既に一定の水準に達していたことを
物語っている。それでも平家の時代わざわざ貨幣改めをする程に一般に流通していない
。銅を中国に求めたほど発達しない物だった。精錬技術が危険でそのまま伝わらなかっ
たし銀の生産の方が効率的だったからだ。その昔中国では、金・銀・銅のいずれも「金
」と総称していた。必要ならば金を黄金、銀を白金、銅を赤金と区別していた。それが
「銅」の文字の語源である。だが銅は合金であってその不純物との化合具合から、発色
が違っていた。日本の場合銅金(あかがね)と呼ばれた。黄銅や青銅はさび付きやすい
古代銅であった為だ。江戸時代には精錬技術が発展し、純度の高い銅を素銅(すあか)
、不純物を多く含む銅を山銅(やまがね)と呼び、区別した。中国の字典には赤銅の記
述がされ 赤銅(しゃくどう)は金を数パーセント混ぜた銅合金を示すとされる。対し
て金銀は灰吹法が導入されて簡単に純度をあげられた。つまり粉末の金銀が鉛と化合し
熱によって素皿に鉛を吸わせる事で簡単に抽出できたからだ。鉛中毒の恐れはあるもの
の鉱山の外でのフイゴによる容易な火力で出来たのだ。


426: 名無しさんAA:17/09/17 19:38
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 146
 だが室町時代には 既に町場鍛冶が起こっていてこの銅が鉄に含む化合物として大き
く必要となり、日本人は画期的な精錬法を編み出した。それは不純物を燃した後の銅を
高熱のまま百度のお湯で冷やすのである。爆発の恐れはあるものの先の銀と鉛の化合物
を素焼きの皿に吸わして金や銀を抽出するように、沸騰したお湯につけて精錬する方法
は逆転の発想であろう。全国各地で各種の鉱物が続々と発見され、奈良朝および平安朝
時代にかけては青銅の仏像や仏具・工芸品などが盛んに作られ、749年(天平21年
)聖武天皇発願である東大寺大仏の建立で、銅の精錬・鋳造加工技術は著しい進歩を示
した。ところが銅の精錬は秘密裡に行われたのだ。室町時代にはいると中国・スペイン
・ポルトガル・オランダなどとも貿易が開かれましたが、そこは鉄の世界だった。鉄砲
その他の武器・貨幣・日常生活の器具等に銅に関する需要が内外ともに旺盛となったも
のの量そのものは増えない。と言うの銅の展延性は特に金属加工において重要であるが
銅鉱石の不純物の鉄の方が利用されたし、銅の細工は早々大きくも多くもない。ことに
江戸時代の寛文、元禄の頃銅は金銀にかわって長崎貿易の主力となり流通は藩財政の中
の財源だった為特に秘密裡に行われた。世界的に見て、それでも新大陸(米国)の銅山
がいまだ多く開発されていなかった頃の1697年(元禄10年)の銅の生産高は世界
一の約1000万斤(6,000トン)で、長崎貿易の輸出量はその半分にも達する状
況になっていた。銅製品が戦国時代の武将の鎧兜で多く必要とされていたのだが その
原料は精錬はそう必要が無かったが 海外まで有用な品物となった時その精錬法は見直
されたと思われる。江戸時代末期の1853年に、ロシアのエフィム・プチャーチンが
来航し、蒸気で走る模型を披露したり1854年、アメリカのマシュー・ペリーが江戸
幕府の役人の前で模型蒸気機関車の走行を実演した記録があるが、その後いち早く18
65年の元治2年に、このグラバーは大浦海岸において蒸気機関車(アイアン・デュー
ク号)を走らせている。アイアンデュークは圧力タンクと蒸気機関の名称で、その汽船
や機関車が当時では最先端の速さを持っていた。大きさは小さいがアメリカ西部では、
数多く使われ ゴールドラッシュ時の移動から第二次世界大戦のアメリカ産業を支えた
。恐らくは、イギリス本国にこの日本との交易の危機を訴えてすぐさまその対策として
汽車を取り寄せ、それに合わせた線路を敷いたと思われる。この汽車は、1865年(
慶応元年)に上海博覧会に出品されていた英国製の蒸気機関車をグラバーが買い取って
、客車2両を引かせて、石炭が無く木炭で走らせたらしい。長崎(現在の市民病院前)
〜大浦海岸(現在の大浦川)までの約600mの線路を敷設して走らせたのである。この
購入額はかなり高かかったといえる。

427: 名無しさんAA:17/09/17 19:39
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 147

1851年イギリスから始まった、万国博覧会は異様な盛り上がりと国際的祭りとして
斬新な物で、イギリスの産業革命を強く彩る祭典だった。これを機に1853年アメリ
カニューヨークでも開かれ日本にも知らされた。この事はフランスを刺激し、1855
年にパリ万国博覧会ナポレオン指導で行われた。この時正式な日本の参加は無かったも
のの中国やインドと一緒に陶磁器が飾られたとされる。その後も英国は精力的に第4回
を1862年にロンドン万国博覧会として200日開催している。その後1867年に
第二回パリ万国博覧会が 幕府および薩摩藩と佐賀藩が参加した形で行われた博覧会で
有名であるが、既にその前の英国のロンドン博覧会でも正式参加ではないが、駐日英国
公使のラザフォード・オールコックが、自身で収集した漆器や刀剣、版画といった日本
の美術品のほか、蓑笠や提灯、草履なども展示された。また、開会式には文久遣欧使節
の一行が参加し、日本が万博に関与した最初の事例となった。このコレクションに対す
るロンドンでの評価は、日本の国民性をみごとに表現したものとして高く評価され、ヨ
ーロッパにおけるジャポニズム流行の契機にもなった。こうして日本の展示品は現地で
は絶賛されたが、日本の使節団の見た視線は淵辺徳蔵『欧行日記』に「全く骨董品の如
く雑具」、「かくの如き粗物のみを出せしなり」と不満を書き残していて、使節団の一
員だった福沢諭吉が Exhibitionを「博覧会」と訳したと言われている。 この中国での
上海博覧会に佐賀藩のみが招待されて隠れて見学に行っているのである。もともとは、
英国の東インド会社では麻薬ではなく香辛料の運搬が主だった。高く売れたからだ。が
バグダッド人がインドのボンベイに「ディビッド・サッスーン商会」を設立してこれが
英国東インド会社による阿片の専売権を受け持つ事で 大きな東南アジアの三角貿易が
始まっていた。産業革命の結果、イギリスは陶器や絹織物を輸入して、綿織物を輸出し
たがそれが鉄に変わった。綿織物が高く売れなかったのだ。それは日本へ流れた綿花の
まま布団になったのだ。急速な革命的変化はインド、中国のあいだでと銀の交換が必要
だったがその対抗産物が無かった事で麻薬が三角貿易の対象となった。中国の税は銀貨
で納める事が決められていたからだ。イギリスからの綿工業製品が日本へ、インドから
の阿片が中国へ、中国から銀、日本から茶や陶磁器が輸出された。この商品の流れと逆
方向に銀が移動する。イギリスが買う茶よりも、中国が買うアヘンの金額が大きくなれ
ば、イギリスの貿易は銀が貯まる。こうしてアヘン貿易が中国の高い茶や陶磁器の貿易
を逆転して安い日本のお茶や陶磁器に変化してこれに佐賀藩は財政転化を図ったのだ。

428: 名無しさんAA:17/09/17 19:46
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 148

 1830年に佐賀藩を受け継いだ時藩の財政は既に火の車で多くの負債を返す宛はな
かった。唯一の産業は有田焼だったとおもわれる。これまで一人の者の成型加工絵付け
を分業化して 有田の町から川内町に移して大量生産体制を敷いた。1835年二の丸
焼失事件を機に佐賀藩を大きくする事を決断した。密貿易である。当時当番で長崎奉行
をしていた関係から 外国商人との関係は深かった。当時清国では阿片は悩みの種だっ
たが広く出回って居た為「弛禁論」と言う認めて関税をかけよ。と言う声まで現れてい
た。その後「吸引した者は死刑に処すべき」と言う声に林則徐を特命全権大臣に任命し
広東に派遣し、アヘン密輸を厳しく取締まった。1839年には阿片商人たちに「今後
、一切アヘンを国内に持ち込まない。」という誓約書提出させ、「持ち込んだら死刑」
と通告した。さらにイギリス商人が持っていたアヘンを没収、商館である夷館も閉鎖し
た。没収した阿片塊は海水に浸し塩と石灰で無毒化させ灰からも精製出来ない処分をし
1400トンを没収してそれを行い誓約書のない阿片商人を町から退去させた。この展
開にイギリス商人は阿片の引き渡しの要求には応じたが、誓約書の提出は拒否し、更に
英国人保護の為広東在住の全英国人を連れてマカオに退去した。だが九竜事件での船員
による現地民殺害を口実にマカオを武力封鎖して市内の食料を断ち、さらに井戸に毒を
撒いてイギリス人を毒殺しようと企んだ。ここで事態が飲み込めないまま東インド艦隊
のフリゲート艦が2隻だけ到着し 英国商人達は反撃にでるのである。これにたいして
英国議会は「不義の戦争」とする批判がある中、清に対する出兵予算案は賛成271票
、反対262票の僅か9票差で承認され、イギリス海軍はイギリス東洋艦隊を編成して
対清国開戦に及んだのだ。この艦隊出現で道光帝は驚き、強硬派の林則徐を開戦の責を
負わせて新疆へ左遷し、代わりの者に川鼻条約を結ばせた。ところが艦隊が撤収すると
強硬派の台頭によってその条約は破棄された。こうして南京条約が結ばれるまで戦争の
アヘン戦争が起きるのだが 中国のジャンク船はイギリスの火力の前には全く歯がたた
なかったのである。こうして1842年南京のイギリス海軍戦列艦で、イギリス全権代
表清国全権代表での南京条約が締結されるまで続いた。1. 香港島割譲  2. 賠償金
2,100万$を四年の分割で支払う  3. 広州、福州、廈門、寧波、上海の5港の開港
 4. 公行の廃止による貿易完全自由化などを認めさせた。この戦闘によって代用品と
して日本の陶磁器やお茶や刀や木製品を浮世絵など包み送り日本産品の名声を得たのだ
った。

429: 名無しさんAA:17/09/17 19:54
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 149

 この1865年(慶応元年)に上海博覧会において 出品されていた英国製の蒸気機
関車「アイアン・デューク号」を買い取り、客車2両を引かせてたが、この博覧会が、
清とイギリスとの間で1840年から2年間にわたって行われたアヘン戦争のしこりを
のぞき 日本などとの商取引を大きくしようとした英国の催し物であった事は間違いな
い。加えて武器取引や阿片商売更に奴隷交易といった暗いイメージで敵対される視線を
そらす為の重要な布石であった。国際的欧州社会は大きな転換期を迎え、米国すらも、
国内経営に切り替え 他国との競争時代になったのだ。幕末の文久2年西暦1862年
9月14日に、武蔵国橘樹郡生麦村において、降って沸いたような突然の事件が起こっ
た。薩摩藩主の島津茂久の父・島津久光の行列に、乗馬のままの乱入したイギリス人達
がいた。当然供回りの藩士たちは防備の任に当たり1名死亡 2名重傷した。有名な、
生麦事件である。4人はこの日、東海道で乗馬を楽しんでいたとあるが、観光で川崎大
師に向かっていたともいわれる。この時死亡したのが上海で長年商売をしていて、見物
のため来日していたチャールズ・レノックス・リチャードソンだった。外務大臣ラッセ
ル伯爵の文書では、騎士道ならざる抑制されないプロ・ボクサーにみられるような本能
の男で蛮勇の持ち主である。と書いている。つまり「大名というものは子供の時から、
周囲から敬意を表されて育つ。もしリチャードソン氏が敬意を表することに反対ならば
、何故に彼よりも分別のある同行の人々から強く、引き返すか、道路のわきに避けるな
どしなかったのであろうか。」つまり生意気なイギリス青年が大名行列に出くわした。
と言う事件だったのだ。ところが殺されたリチャードソンは一人息子で、彼の父親が 
事件発生を知ったのは、2か月後の新聞報道で、詳細がつかめない旨の返事で報道後の
20日後にやっと日本のニール代理公使から事件概要を掴み、薩摩に対し犯人の処刑と
賠償金10ドルの支払いを要求し、もし薩摩がそれを拒み、又は引き延ばした場合は相
応の措置をとるとの確約を 英国高官と行ったのだ。事件直後から日本国内では、各国
公使、領事、各国海軍士官、横浜居留民が集まって対策会議が開かれた。中には「島津
久光、又は高官を捕虜とする。」という議題まで挙がっていて、下手をすれば大戦争に
直結しかねないだけに、幕府もイギリス公使館も対処の仕方に苦慮を重ねる事になった
。又水面下でも色々な問題が議論された。がニール代理公使は本国指令を待って 年明
けて改めて幕府に対して謝罪と賠償金の10万ポンド要求と犯人の受け渡しを望んだ。
こうしてこの年には幕府統制の一括海外貿易が崩れた原因になった。

430: 名無しさんAA:17/09/17 19:57
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 150

 英国側では幕府と藩との関係に弁明を受け さらには、薩摩藩には幕府の統制が及ん
でいないとして、艦隊を薩摩に派遣して直接同藩と交渉し、犯人の処罰及び賠償金2万
5千ポンドを要求することを通告した。幕府に圧力を加えるため、イギリス・フランス
・オランダ・アメリカの四カ国艦隊が順次横浜に入港した。老中や幕府が支払い決定や
支払い拒否を繰り返す中で、緊迫した空気に小笠原長行は海路横浜に赴き、独断で賠償
金交付を命じた。翌日、賠償金全額がイギリス公使館に輸送された。小笠原長行は罷免
なったがこれにより幕府との交渉は一応の決着がついた。だがイギリスは薩摩藩と直接
交渉するため、6月27日に軍艦7隻を鹿児島湾に入港させた。交渉は不調であり、7月2日
、イギリス艦による薩摩藩船の拿捕をきっかけに 薩摩藩がイギリス艦隊を砲撃して、
薩英戦争が勃発した。薩摩側は鹿児島市街が焼失するなど大きな被害を受けるが、英国
艦隊側にも損傷が大きく、4日には艦隊は鹿児島湾を去り、戦闘は収束したのである。
 事件後には「この事件が起こる前に島津の行列に遭遇したアメリカ人商人のユージン
・ヴァン・リードは、すぐさま下馬した上で馬を道端に寄せて行列を乱さないように道
を譲り、脱帽して行列に礼を示しており、薩摩藩士側も外国人が行列に対して敬意を示
していると了解し、特に問題も起こらなかったという。ヴァン・リードは日本の文化を
熟知しており、大名行列を乱す行為がいかに無礼なことであるか、礼を失すればどうい
うことになるかを理解しており、「彼らは傲慢にふるまった。自らまねいた災難である
」とイギリス人4名を非難する意見を述べ、当時の『ニューヨーク・タイムズ』は「こ
の事件の非はリチャードソンにある。日本の最も主要な通りである東海道で日本の主要
な貴族に対する無礼な行動をとることは、外国人どころか日本臣民でさえ許されていな
かった。条約は彼に在居と貿易の自由を与えたが、日本の法や慣習を犯す権利を与えた
わけではない。」と評している。だが国内では、「国内法との整合性がつかない治外法
権を含んだ条約は、朝廷の許しも得ず幕府が勝手に結んだもの。」との批判に溢れた。
そしてその後の日本国は、肝心な点の、日英修好通商条約による治外法権の規定の、「
日本の側にはイギリス人を裁く権利は存在しなかった。」ことの修正とイギリス側から
言う、「イギリス人が日本の法律に従ういわれはなく、たとえ日本の国内法で無礼討ち
が認められていようとも、当然のことながらそれはイギリス側からは認められるもので
はない。」と言う矛盾の訂正に走りまわる事になったのである。前者は通商交渉の訂正
ややり直しであり後者は日本の仕組みや法律の改定で意識改革であった。

431: 名無しさんAA:17/09/17 20:06
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 151

 本来佐賀藩が狙っていたのは どうも砂糖だったようだ。砂糖は日本では高級品で、
庶民に売るには少量で高価だったからだ。だがフェートン号事件以降は鉄の恐ろしさを
知る。更に船便で多少の麻薬の阿片との積荷の差が無く厄介なものであり、砂糖その物
が他の藩が南洋上の奄美などからやって来て利権を持っていた上に、中国向けの麻薬は
南蛮船の得意とするもので 交易をひたすら鉄に変えた様だ。当時の日本では鉄は鉄砲
や兵器以外には釘や刀位で必要は無かった。各藩では古来より砂鉄から刀や馬具などを
生産する方法があったからだ。だが蒸気船や大砲の身近な到来は 大量の鉄文化が西洋
の主流で、船・機関車・大砲・線路と佐賀藩には大きな衝撃があったと言えるだろう。
多分この頃から 南蛮商人の入用のお茶や陶磁器に力を入れて、ひたすら欧州の技術を
学んだ様だ。博多のビードロや薩摩切子は有名だが 多分ガラス機器も佐賀が最初であ
ったろうと思われる。それは火や窯に対する情熱の高さからだ。ただガラスコップは、
陶磁器作品の商売敵である。だから禁令を出して隣の福岡や縁戚の薩摩に移ったと考え
られる。更にサトウキビは薩摩では取れるここでも薩摩とは競り合わない配慮をした。
と考えられる。薩摩には仙巌園内に残る反射炉跡がある。安政4年(1857年)、28
代薩摩藩主島津斉彬が佐賀藩に次いで反射炉を完成させた。この反射炉は縁戚の佐賀藩
に助力を求め佐賀から江川氏を派遣して出来たと言われる。この炉で鉄を大量に生産し
、大砲鋳造を始め様々な武器も製作した。つまり1862年の生麦事件の時既に佐賀藩
の指導のもとこの反射炉は完成し佐賀藩が作っていたアームストロング砲改良版が出来
ていたのだ。更には英国の技術者さえも接触していた可能性すらある。そうした中でも
英国は10万ポンド(40万ドル)の賠償金を要求し先の通訳官斬殺事件1万ドル合計
11万ドルもの大金を小笠原長行の独断とは言え 幕府からせしめていた上に薩摩への
襲来を図ったのである。11万ドルの受け渡しにイギリス公使館内では、中国人の貨幣
検定人を方々から借り集め、貨幣の検定と勘定を進め、全部やり終えるのに3日間かか
ったという。皮肉なことにイギリス側に賠償金を支払った日の翌日、5月10日は幕府
が攘夷実行期限として、朝廷に約束した日付であった。この事から 英国側は既に尊王
攘夷で公武合体の機運があり日本が内乱を起こすと予想をしていたと考えられ、それが
無くなってまずは南の辺地から内乱を起こすきっかけを模索していたとも見て取れる。

432: 名無しさんAA:17/09/17 20:09
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 152

 1860年当時アメリカ公使館の通訳官・ヒュースケンが斬殺された事件での賠償金
が1万ドルであり、同じ様に薩摩藩がヨーロッパから購入した最新鋭の蒸気船が一隻、
約10万ドルである事から、恵まれた藩が奮発して買う軍艦が、4隻も買えると言う莫
大な金額であったと言える。つまりそれだけ吹っ掛けた金額だった。それだけに40万
ドルという金額は幕府が今まで支払った賠償金額をはるかに超える途方もない金額であ
ったと言える。だがこのイギリスの目的が賠償金である筈がない。一般的に戦争するに
も出費というものがある。出費しても欲しいとしたのは日本そのものだったと言える。
イギリスの戦争目的が、薩摩のイギリス人無礼討ちに難癖をつけて日本侵略の足掛かり
を築く事であったのだろう。更にこの戦艦を錦江湾に集結させた理由はかつてのアヘン
戦争で香港やマカオを足掛かりに中国大陸を窃取したやり方と全く同じで、中国のジャ
ンク船の戦艦を平らげた様に日本もやれると思っていたと思われる。ところが錦江湾に
は、旗艦では無かったものの蒸気船が3隻停留していたのだ。緊迫したムードが錦江湾
を覆う中、英国艦隊は、宣戦布告もないままに停泊していた薩摩の船、天佑丸(英製)
、青鷹丸(独製)、白鳳丸(米製)の3隻を拿捕した。多分にこの戦艦が無ければ無力
と思えたのであろう。ここで英語の通じる寺島宗則と五代友厚の2名は、乗組員を安全
に下船させることを条件に人質となった。彼らは旗艦を爆破し、英国の提督と差し違え
る覚悟で日本側の乗組員が全て下船すると 2層式片側16門の旗艦は直ぐに撃破され
た。このような形で開戦し、始めのうちは薩摩の海岸沿いの大砲が威力を発揮した。が
、英国艦隊が大砲の射程外に出ると、艦砲により磯の工業地帯を壊滅させました。前の
藩主の斉彬の頃までの薩摩の大砲は外国製で射程距離が長かったが、和製大砲には螺旋
を切る技術がまだ無く、射程が短くなっていたのであった。更には薩摩藩側は物的被害
が大きく出た、鹿児島城内の櫓、門等損壊、集成館、鋳銭局、民家350余戸、藩士屋
敷160余戸、藩汽船3隻、民間船5隻が焼失したのである。だが英軍側の方も戦死者
、負傷者を多く出し、旗艦は大破。旗艦艦長も死亡している。現在の鹿児島市街の一割
は完全に焼き払われ、イギリス艦隊も旗艦艦長と副長が戦死するなど、多大な犠牲を払
う中で英国艦隊が離れて行った事でこの戦争は終わった。こうして英国のその目論見は
、薩摩が屈服しなかった事によって失敗に終わったと言える。

433: 名無しさんAA:17/09/17 20:17
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 153
 薩英戦争の時には 既に台風が近づいていた。また、英国艦隊も旗艦の艦長以外は、
初めからから戦争をするつもりではなかった中で招集されていた。資材も食料もそれほ
ど積んでいなかったのだ。この後英国軍は神戸に向かい人質を解放した。航海の途中で
人質にした寺島と五代に「上陸して戦闘した場合に、勝ち目があるか」を尋ねたところ
、薩摩人の勇敢さについてとくと語られ、横浜に帰ることになったと記録される。拿捕
した3隻の薩摩の戦艦は足手まといになり、途中沈めてたと言う。英国艦隊が横浜に着
いたときに、人質となっていた寺島と五代は釈放されました。しかし、二人はこの時、
英国と内通者とみなされ、幕府と薩摩の両方から指名手配される。つまり、スパイ容疑
をかけられたのです。寺島は武蔵の羽生村に五代は長崎のグラバーのところに落ち延び
た。これは横浜から何処にも行けない状態だったのだろう。多分人質になった時既に我
が身の命は無い物と思っての行動がそこにはあったのだろう。しかし、薩摩内において
二人に同情的な意見が多く、しばらくして二人は免罪された。この時、五代は藩あてに
注進書を書きます。英国と薩摩の国力の差は計り知れない、そしてそれを見習うために
留学生を派遣すべきである、と。そして、この計画は実現し、19名の留学生を幕府に
秘密で英国に派遣する事になる。又再度の講和が持ちあがった時、薩摩藩内には英国と
引き続き交戦すべきだという意見も多々あった。が結局船はなく、磯の工業地帯を壊滅
させられ被害の復旧の資金などの事態を考えれば英国と講和する事の方が得だった。こ
うして生麦事件の犯人捜査に全力を尽くすことと、賠償金を支払うことを約束しました
。賠償金は幕府が立て替えたのですが、数年後に明治維新になり、薩摩は幕府にはこの
お金を返さずじまいで終わっている。薩摩藩は攻撃を開始する前に既に避難を命じてい
た為人的被害は少なく、又斉彬公が他藩に比べ近代武装化ができていた事でイギリスは
阿片戦争の様に脅せば落ちると思っていた様には行かず、又弱腰の幕府から賠償金を得
られていたために面目は取りあえず図れていた事が、西洋を相手にしようとした大層な
この戦争に決着をつけたといえる。結果として、薩摩藩側が賠償金を支払い和解となっ
たため、負けた形の薩英戦争ですが、世界最強と言われたイギリス海軍が事実上敗けて
戦いをあきらめ、途中撤退したという事に西洋は驚いた。ニューヨーク・タイムズ紙は
「この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということだ。
彼らは勇敢であり西欧式の武器や戦術にも予想外に長けていて、降伏させるのは難しい
。英国は増援を送ったにもかかわらず、日本軍の勇猛さをくじくことはできなかった」
とし、さらに、「西欧が戦争によって日本に汚い条約に従わせようとするのはうまくい
かないだろう」とも評した。

434: 名無しさんAA:17/09/17 20:54
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 154

 イギリス本国では、「薩摩は九州島の西南の端」との情報程度しかなく、居城の砲撃
か、又は港の封鎖かを提督らの判断に任せるとの指示を出していた。当時はまだ山川湊
の海図しかなく、鹿児島湾内の水深を測りながらの航行であった。測量専門技師をわざ
わざ上海から呼び寄せ、さらに薩摩に来たことのある日本人水先案内人を横浜で雇いま
した。案内人から、谷山沖に「七ツ島」があると聞き、そのどこかの島に7隻の軍艦が
停泊できると思っていましたが、七つの小さな岩が海中から突き出ているだけだったこ
とに驚いています。「沖小島」を「ニール島」、桜島の小池海岸周辺を「ユーリアラス
湾」、鹿児島湾の「神瀬」を測量技師パーカーの名から「パーカー瀬」と名付けていま
す。すぐ様、戦争の結果はイギリス本国に報告された。ビクトリア女王は交戦になるの
ではないかと懸念していたことを話し それが現実となって英国議会の開会挨拶の中で
は、鹿児島市民に多大な被害を与えたことに対し遺憾の意を表明した。イギリス国内に
おいては、この英国艦隊の行動を批難した住民の抗議集会など大きな反動があり、各地
で批難の決議や書簡が政府や報道機関に寄せられている。交戦時に砲台を壊滅する必要
はあっても、市街地を焼き払い、一般市民に多大な被害を与える行為は許せないとの声
が多く、市民からは人道的な立場からの深い同情の念が示されたものでした。イギリス
艦隊が、再び鹿児島砲撃に向かわなかったのは、こうしたイギリス本国の事情があった
からだといえる。だが日本では幕府の中に大事件が多数起こっていて、斉彬公の逃げ得
は当然であった。既に孝明天皇の強い要望により将軍徳川家茂が、文久3年5月10日
(1863年6月25日)をもって 攘夷実行するとの約束をしていて その期限が近々だった
のだ。又こうした動きは既に西洋諸国の公使館員は殆ど知っていて、清国と同じに今度
は英国だけに交易権利を渡さないと虎視眈々と狙っていたし、各藩も多小はあっても、
自藩の領地を守るための武器は取り寄せていた為、逆にこの居留している貿易商の危惧
があった。先のアヘン戦争後の清国の様に混乱に命の安全が脅かされる事だ。だか公使
は戦争による経済の拡大に動いていたのである。今の経営者と社員の関係の初期状態だ
。この攘夷が幕府は外国船打ち払いの軍事行動と海外からの独立とはおもっていないか
った。が裏で糸を引いていた長州藩は、馬関海峡の閉鎖と通過する外国船への砲撃可能
を意味していた。従って、馬関戦争とされるこの戦争は通過する外国船の打ち払いから
始まる。

435: 名無しさんAA:17/09/17 20:55
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 155

対して、英国駐日公使ラザフォード・オールコックは下関海峡封鎖を強く問題視した、
更に この横浜の停滞と長州藩の攘夷を継続で幕府に鎖国政策を提言し、今後の開港の
封鎖を恐れ、この危機を他国との共同作戦に持って行った。「長州のとった条約国船舶
に対する下関海峡の砲撃封鎖は明白な条約違反で、海峡の自由航行が守られねばならな
い。」と呼びかけて、日本に来ていた敵対している4国に共同制圧を呼び掛けたのだ。
 これには伏線がある。歴史的には、1864年の戦闘を馬関戦争(ばかんせんそう)
と呼び、1863年の戦闘はその「原因となった事件」として扱われることが多いが、
それには理由がある。当時ペリー提督のアメリカ艦隊が浦賀沖に来航し強い圧力で幕府
に開国を迫ったのが1853年だが、次の年のペリー来航で幕府は日米和親条約を締結
した。ところが現実的にはロシアからの船も当初長崎に来航し更に弘前藩などに来ては
直ぐに捕縛されて囚牢にされている。今だ国民の声は「外国船打ち払い令」のままだっ
たのだ。既にロシア帝国のニコライ・レザノフをはじめ、外国船が日本に通商を求めて
来航するようになっていたのだ。寛政4年(1792年)9月にエカテリーナ号で北の
オホーツクを出発し、漂流民と共に根室に到着した。根室に駐在していた藩士は直ちに
松前藩に報告し藩は幕府に伺った。幕府にラクスマンの、江戸に船で出向いての、漂流
民を引き渡し、通商交渉をおこなう意思が強いことを知らされたのだ。が老中松平定信
は、漂流民は受け取るが、総督ピールの信書は受理せず、もしどうしても通商を望むな
らば長崎に廻航させる。と言う回答をした。ラクスマンは、長崎への入港許可証(信牌
)が交付された。ところが濃霧などで根室で足止めを喰らい、松前藩で越冬し帰国して
代わって文化元年1804年、改めて信牌を持参したレザノフが長崎に来航し交渉に出
た。半年間にわたって停留し江戸幕府に交渉を求めたが、結局幕府は通商を拒絶し続け
たままで、レザノフは幽閉に近い状態を余儀なくされ、交渉そのものも全く進展しなか
った。そこで「日本に対しては武力をもって開国を要求する以外に道はない」という意
見を持つに至り日本への報復を計画し、樺太や択捉島など北方における日本側の拠点を
部下に攻撃させた。これを受けて津軽藩、南部藩、庄内藩、久保田藩(秋田藩)から約
三千名の武士が徴集され、宗谷や斜里など蝦夷地の要所の警護に当たった。これにより
方々で襲撃事件が北方の樺太や紗那の幕府会所利尻島など二年間続いた。これらの軍事
行動はロシア皇帝の許可を得ておらず、不快感を示したロシア皇帝は、1808年全軍
に撤退を命令をだした。これに伴い、蝦夷地の諸藩の警護藩士も撤収を開始し終息した
。これらの事は既に北方ではペリー来航や薩英戦争の様な事件は起こっていたのである。

436: 名無しさんAA:17/09/17 21:08
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 156

 こうして 多くの知らない国の入港の長崎奉行の申し出に徳川家斉時代に、幕府方は
文化3年(1806年)に「文化の薪水給与令」を出し、諸外国との穏便な出入国させ
る方向性を打出す事になっていた。ところが、この幕府の対応の遅さに対したロシアの
軍船の方針によって日本は大きく変化した。この同じ年に起こった襲撃事件(文化露寇
)を受けて翌年にはロシア船打払令が出され、わずか1年で撤回された形になったのだ
。更に文政8年(1825年)には、反動的な異国船打払令が打ち出されるものの、今
度は非武装のアメリカの商船 「モリソン号 」がマカオで保護されていた日本人漂流民
の音吉・庄蔵・寿三郎ら7人を乗せて、日本人漂流民の送還と通商・布教のために来航
した。モリソン号は鹿児島湾、浦賀沖に現れたが 接岸出来ず、薩摩藩と浦賀奉行太田
資統は異国船打払令に基づき砲撃を行ったのである。一年後モリソン号はこの日本人漂
流民の送還と通商・布教のために来航していた事が判明し、異国船打払令に対する批判
が大きく強まった。こうして開国にも鎖国の上の攻撃にも転じる幕府の姿勢は、各国の
批判ではあっても多くの国で起こる事で、この英国公使は解っていたのである。更には
、先の安政5年1858年の、アメリカの強い威嚇により、幕府は日米通商修好条約を
締結した事も理解し、その後のオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約
を結んで幕府の鎖国体制は完全に崩れていた事も知っていたのだ。そしてそれが公式な
ものであっても 現実の日本の国王たる人間は天皇であり、今孝明天皇が 和親条約は
ともかく通商条約には反対であり、安政条約に対する勅許を与えなかった事も、十分に
に知っていたと言える。又、幕府に不満を持つ攘夷派尊皇思想から 朝廷の攘夷派公卿
たちと結び付き方針転覆の可能性すら知っていたかも知れない。何故なら今の長州から
の砲撃の通行禁止策を諸外国で話し合う中でも話された筈だからだ。情報をかき集めて
分析し、こうして研究尽くされた中で、先の薩英戦争も大きく分析されて本国から批判
されない様に 民間に影響のない形の戦争を行っている。更に議会対応に英国のみでな
く他の4ヶ国にも戦争の賛同を呼びかけ合同艦隊にした、したたかさである。こうして
国内通行の禁止を求めた1863年の砲撃事件を下関事件、1864年の4ヵ国艦隊が
国内に反撃出た戦争活動を、四国下関砲撃事件と呼んで区別している。こうして両者を
併せた総称として「下関戦争」が起こっていた。が当然オールコックは本国にも下関を
攻撃する旨の書簡を送っている。がこれも当時に 返書にも2ヶ月はかかるものだった
事を熟知しての行動だろう。


437: 名無しさんAA:17/09/17 21:29
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 157

 英国本国は依然として日本との全面戦争につながりかねない武力行使には否定的であ
ってこれを否認する旨の訓示を日本へ送っている。が 現実にはそれは事後策を練る為
の時間稼ぎの様なもので、当時の公使はオールコックの「攘夷不可能を思い知らすため
(文明国)の武力を示す必要を感じて長州藩へ懲罰攻撃する。」などの決意には、何ら
影響のないものであった。現地公使の裁量で戦争が進められる国は既に多くあった。
「兵庫の開港、大阪の開市も近々行われる約束だから、全条約国にとっては この海峡
と内海の封鎖は明らかな条約違反だ。」という勝手な論理で「条約国海軍が長州による
下関海峡封鎖を軍事力で開放して見せれば、日本が例え横浜を鎖港しても先進条約国の
軍事力でたちまち開放するぞという、一大デモンストレーションになる。」と言う指摘
をし、「これはまた、更なる貿易関税の引き下げや、今横浜での供給が激減した生糸等
の供給増加へ向けた日本側の規制撤廃をさせる圧力にもなる。」とエサをちらつかせて
軍事力による制裁の賛同を呼びかけた。各国は戦争には同意しないものの、取り合えあ
ず威嚇の為に4ヶ国はこのコックの行う軍事作戦に、共同で乗る事にはした。アメリカ
は母国で南北戦争が起こって軍船はなく、仏英蘭はお互い敵対していた国だった。この
時幸いにも 大きく日本に反感を持っていた露国が 今だ貿易に大きな実績がなかった
為に、横浜の公使館には入ってなかった と思われる。これには先に出された「ロシア
船打払令。」の影響があったのかもしれない。この頃には既にグラバーの好意的手配で
イギリス留学生を送り出ししていた。英国の長州藩士の伊藤と井上は 四国連合による
下関攻撃が近いことを知り、戦争を止めるべく急ぎ帰国の途についた。三ヶ月もかけて
やっと横浜に到着し、すぐさまオールコックに面会の上「藩主を説得すること」を約束
し離れた。中止を承知させた。オールコックは通訳のアーネスト・サトウを伴わせて、
豊後国姫島まで送り、長州へ帰させた。二人は藩庁に入り藩主毛利敬親と藩首脳部に、
「イギリスの国力と機械技術は日本より遙かに優れている事」や「戦争をしても絶対に
勝てない事。」などで止戦論を説いただろうが、長州藩では強硬論が中心であり、徒労
に終わった。又幕府内でも フランスから外交使節団が帰国していて、フランスと取り
交わしたパリ約定を提示していたが拒否されていた。それには「関門海峡の通行可能に
する条項」も含んでいて、苦労して談判を交わした横浜鎖港談判使節団だった。が名前
と違って中身は開港使節団になった様な そんな約定の内容を提出していたからだ。当
然不満として批准は行なわれかった。結果、攻撃は予定通り実施されることとなった、
こうしてイギリス軍のオールコック中将を総司令官とする四国連合艦隊は横浜を出港し

438: 名無しさんAA:17/09/17 21:31
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 158

 艦隊は17隻で、イギリス軍艦9隻、フランス軍艦3隻、オランダ軍艦4隻、アメリ
カなどは仮装軍艦1隻で戦列に立って、総員約5千名の兵力が船出した。それでも横浜
にはイギリス軍艦1隻、アメリカ軍艦1隻と香港からの陸軍分遣隊1350人が待機し
て戦乱に備えていたのである。この時既に先に述べた人種差別的「黄禍論」の思想がそ
こにあった事は間違いない。この「下関事件」「薩英戦争」ロシアの襲撃による「幽因
事件」の3事件は、恐らく日本を決定づけ更にこの欧米不審感は大津事件の素だろう。
 8月4日になって、四国連合艦隊の来襲が近いことを知った藩庁は、ようやく海峡の
通航を保障する止戦方針を決めて、伊藤を漁船に乗せて交渉のため艦隊に向かわせた。
が、艦隊は既に戦闘態勢に入っており既に手遅れであったし、幕府も、長州が勝つ見込
みも賠償金を支払う能力もない事で、これで更なる出費が嵩む事が危惧されたが遅かっ
た。戦闘で惨敗を喫した長州藩は入牢していたに高杉晋作を偽名を使い、講和使節の使
者として立てた。通訳のアーネスト・サトウがこれに立ち会った。こうして下関海峡の
外国船の通航の自由、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し、悪天候時の船員
の下関上陸の許可、下関砲台の撤去、賠償金300万ドルの支払いなど5条件を受け入
れて講和が成立した。この談判に高杉は全て飲んだと言う。ただ彦島の租借だけは断固
拒否し、香港のような外国領土になるのを防いだという逸話が残っている。後で賠償金
については長州藩ではなく幕府に請求することになったのは幕府にしか金が無かった為
だが、幕府の朝廷との約束で諸藩通達に従ったまでという名目で長州藩も又返さなかっ
た。この後幕府は150万ドルを支払い、明治維新後に新政府が残額を明治7年までに
分割で支払った。と言う。こうした過去の事件を追っていると 現代の北朝鮮がいまに
ある理由になっている。不思議なのは日本の徳川幕府が先に払った30万ドルあるいは
300万ドルと言う通貨を交換して払えた事だ。又その後の満鉄建設でも北朝鮮近郊の
朝鮮建設にもほんの僅かな年で 長年で築いた香港銀行の資産を超えた朝鮮銀行を発足
させて 恐慌や通貨危機も切り抜いた事だ。欧米列強の搾取型の植民地主義を取らなか
った為とか諸外国の様な暴力的革命で明治政府が興きなかった為とか色々あろうが、基
本には 独立独歩を慈しむ風土がこうした力であったと思える。


439: 名無しさんAA:17/09/18 08:06
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 159

 明治政府が出来た頃ドイツの進出が始まるのである。ドイツ帝国はしばしばプロイセ
ンと呼ばれる。古プルーセン人が語源であると言う。ロシアがしばしばプロシアと呼ば
れスラブ系民族の地域名称の特徴と言われる。プルーセン人はしばしば襲われ事は多く
プルセン十字軍を結成し戦い守ったとされる。だが1100年頃ゲルマン民族ドイツ騎
士団により征服され、ドイツ騎士団国家と代わりこの地に混乱が産まれた。凡スラブ主
義はそうした多民族国家多様主義に反対しスラブ民族の考えで統一した大社会を作ると
言う言葉でチェコソロバキアなどが対立したのでハプスブルク君主国のハンガリー側で
盛んにした言葉としている。従ってナチスはその逆の凡ゲルマン主義を唱えた事になる
。1890年代のヴィルヘルム2世はこのドイツとオーストリア(=ハンガリー帝国)
という二つの民族のドイツ人国家を統合し、さらに中世以来のドイツ人の東方植民によ
って東ヨーロッパからバルカン方面に広がったドイツ人の居住地域もドイツ国家に併合
しようと主張した。これが世界政策の展開の背景となった思想である。が近くのスラヴ
系諸国、その背後にあるロシアのパン=スラヴ主義と厳しく対立しするようになる。こ
こにロシアの南下政策の素がある。ハクスブルク家は神聖ローマ帝国の一領主だったが
古代バビロン帝国モンゴル帝国オスマン帝国などとの交渉や政治に於いて卓越した才能
があったのだろう。強大な縁戚を持って支配していた。後にフランスとなるフランク王
国はその為に領土を変えて存在して来た。ハクスブルク家の皇位継承者フェルディナン
ト大公夫妻がボスニアの州都サラエヴォでセルビア人青年に暗殺される事件が起こった
。通称サラエヴォ事件だが凡ゲルマン主義を掲げたドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はこの
スローガンを掲げバルカン地方へ進出しようと大公の金魚の糞の様につきまとっていた
。こうして緩衝材としてのフェルディナント大公が死んだ時第一次大戦の火がついた。
汎スラヴ主義と対立し、南下政策を続けるロシアとの軋轢を招いた。後にバルカン半島
をヨーロッパの火薬庫と呼ばれるまでに民族の対立を激しくした要因の1つである。こ
の結果、列強間による帝国主義化、軍備拡大は避けられず、第一次世界大戦を引き起こ
すこととなった。これは、ドイツ統一を牽引し、周辺諸国との勢力均衡を望んでいた帝
国宰相ビスマルクの理念からはかけ離れたものとなった。


440: 名無しさんAA:17/09/18 08:27
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 160

 ヴィルヘルム2世の治世は恐らく間違ってはいなかったのだろう地政学的には。だが
彼が求めた国内統一や意志の統一が国外への拡大戦争と少数民族排除にその集結を求め
た事はナチスドイツの手口と全く同じであった事から 全く間違った観念の元に政策を
進めた事は確かであろう。この何処の国の指導者も陥るだろう手法は、人間の欲求なの
だろうか。それともこの地域特有の伝承や風習であるのか。と言うのも、ドイツの正式
名称ドイツ連邦共和国と言う様に、かつては多くの君主国が存在していて、それの集ま
りでもあったからだ。それを無理をしてでも「大きく」「強く」「広く」まとめる為に
強者強国が併合しながら国家連合を作ってきた歴史がある。古くは「神聖ローマ帝国」
として纏まっていたが、しかし、神聖ローマ帝国はフランス皇帝ナポレオン一世によっ
て蹴散らされ、今度はフランスを盟主とする「ライン同盟」という国家連合で纏まりま
った。この時阿蘭陀やプロセインなどが、イスパニアや英国など海運争いで、仲違いし
たのだ。しかしながら、フランス皇帝のナポレオン一世が失脚すると、枢軸となる強国
がなくなりライン同盟は解体されてしまう。そこで新しく作られたのが国家連合体が「
ドイツ連邦」をつくった。「ドイツ連邦」は、1815年「ウィーン会議」なる調整の
会議が発足しEUみたいに統合して大国オーストリア帝国を盟主として作られた組織と
なったのだがこれがドイツの国家連合の素だ。だが混沌としていた過去の旧神聖ローマ
帝国末裔達と対抗する諸侯国群と新しい自由都市群によって構成されていて、そこには
元々は主権国家同士の連合体なので、民族や宗教や考え方や言語の違いが存在していた
。従ってこの連合体は「ドイツ同盟」と呼ばれる事もしばしばあったのだ。ドイツ連邦
の構成国群は、中心に帝国としての兵力の勝るオーストリア帝国があったのだが、他に
7王国 (プロイセン王国 ザクセン王国 バイエルン王国 ハノーファー王国 ヴュル
テンベルク王国 ヘッセン=カッセル選帝侯国)17公国(バーデン大公国 ヘッセン
=ダルムシュタット大公国 ルクセンブルク大公国 メクレンブルク=シュヴェリン大
公国 メクレンブルク=シュトレーリッツ大公国 ザクセン=ヴァイマル大公国 オル
デンブルク大公国 シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国 ブラウンシュヴァイク公
国 ナッサウ公国 ザクセン=ゴータ公国 ザクセン=コーブルク公国 ザクセン=マ
イニンゲン公国 ザクセン=ヒルトブルクハウゼン公国 アンハルト=デッサウ公国
アンハルト=ベルンブルク公国 アンハルト=ケーテン公国 )そして4都市 (リュー
ベック フランクフルト・アム・マイン ブレーメン ハンブルク の集まりだった。


441: 名無しさんAA:17/09/18 09:41
こうして「ドイツ連邦」として纏まったが、ドイツ連邦の盟主であるオーストリア帝国
とプロイセン王国がドイツ統一の在り方を巡って対立し、1866年�メ戦争が勃発。
この戦争でオーストリア帝国は戦略に勝るプロイセン王国に敗北した。勝利したプロイ
セン王国がこの後のドイツ統一の主導権を握りった。オーストリア帝国が盟主であった
「ドイツ連邦」はすぐさま解体され、更に翌年には新たなプロイセン王国を中心とした
国家連合「北ドイツ連邦」が作られ、これが今のの「ドイツ帝国」の母体となったので
ある。 だがこの時の戦いの遺恨は国民には長く残った。こうした国内事情を抱えてい
た為に、他の諸国が海に出て大航海時代を行く事に遅れを取り、民主化は国王が存在し
て渋り、残るは産業革命を追い求めての、経済立て直しの道しか残っていなかった。が
逆にこの人種の坩堝的国家の隣が、感覚の自由さも求めるフランスで海を渡ればイギリ
スと言う最新技術をもった産業が傍にあると言う地理的要因があった。この国の厳格な
法を求め数値科学の持つ理論や金融資本の持つ多民族の中の風土は、実験的投資を産ん
で大国家となり得たのである。ところがこの国は常にこうした諍いで起こる体制からの
疎外者が出来て集団化していた。ロマの人々ユダヤの人々ボヘミアンの人々その他の多
くの移民や浮浪者の整理が必要だった。厄介な事にイタリアから来た職人集団会議のマ
エストロを産んだギルドさえ、それぞれの職ごとに或いは言語や宗教ごとに二百〜三百
の集団や組合の形で存在していた。徒弟制度と称される厳格な身分制度が存在し、その
頂点に立つ親方は職人・徒弟を指導して労働に従事させた。ギルドに参加できるものは
親方資格をもつものに限られてはいたものの その職によっては地下組織に近かった集
団さえ存在した。だがその仕組みが逆に移民を受け入れ 浮浪者さえ職につかせ 国を
豊かにする仕組みでもあったのだ。そして今のEU内は、多かれ少なかれ そうした多
民族の存在と、うんざりする様な多様化社会を大戦後に受け入れ 今やっと会社組織や
銀行組織や人権を含めた法治国家として固める中になったのが実情だった。このドイツ
統一の主導権を握ったヴィルヘルム2世の統治はしかし 排斥主義を持ち込み人種差別
の意志を強く出し「黄禍」という死にかけの言葉を復活させ「黄禍思想」を努力してま
でも拡大させたのである。これは世界の不幸であった。その姿はそのままアメリカ大陸
に流れ込んだ。イギリスの中の新しい平等社会の楽天地を求めた清教徒が移り住むのに
このドイツは金融や科学技術と共にそれを後押しする事で国を潤したがその思想もまた
持ち込んだからだ。かつてナポレオン時代に、大航海時代の先駆けとしていたスペイン
が英仏海戦で負けに敗けて 大西洋航海もままならぬ事になったが、その事は東洋社会
では恒久的搾取を意味しかなりの不幸な事だったとも言えよう。それがオランダやロシ
アの国家感を変え航海を変えた。

442: 名無しさんAA:17/09/18 09:50
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 162

それまでは公募の様な航海でその都度資金を募り人を集め航海し、国王と共に持ちよっ
た財宝を分け前としていた。そうしたスペインポルトガルにイギリスオランダは常駐の
事務所と株式投資と言うパトロンを見つけ運輸とした輸送体系を整えたのだ。そして、
それには奴隷時代の世相と相成って、契約した投資で運用する保険や銀行機構がついて
来た。当然パトロンにも掛け金や投資損失に「子や孫の時代でも債権は返済する。勿論
国家であっても。」と言う非情さでの投資の取り立てが運用されたのである。がそれは
資源枯渇に拍車をかけ 投資理財の拡大を強制した。つまり利益や搾取の拡大を意味し
ている。世界が不幸に見舞われる事は、更にその発展の遅い東南アジアの不幸になった
。大英艦隊や阿蘭陀に敗けてスペインが次に目を付けたのが太平洋航海であった。これ
はフィリピンにとっては不幸な事だった。マニラガレオンは、そうしたスペイン貿易船
の呼称だが「インドの富をスペインに運ぶ」、「東に行くために西進する」という、欧
州のコロンブスの夢を現実にした象徴貿易の事で「ガレオン貿易」「アカプルコ貿易」
と人は言った。この不幸はフィリピンの永遠戦いを物語る言葉でもある。メキシコ独立
戦争とナポレオン戦争の終焉を持って終わるかに見えたが新たな第一次世界大戦の序章
であり取って変わった米国ドイツがその利権を受け継いだ。フィリピン人にとって不幸
続きでもあった。エミリオ・アギナルド・イ・ファミイが革命家として独立運動に走る
のはそうした中に既に独立革命を課題にした秘密結社「カティプナン」の集団が存在し
ていたからだった。多数の民族がそれぞれに独立して存在していたこの国がスペインが
やって来て植民地とすると 当局による重税と重労働で虐げられた国に変わりその支配
が終わっても領主が代わるだけだった。欧米列強の火力の前に手がなかったからだ。そ
の意味では近年までも戦い続けて、ついに独立を果たした「ベトナム」は最強の戦士達
の国とも言える。こうして遅れてやって来たドイツやアメリカがやった事は、英国とフ
ランスの搾取より酷い恫喝外交と実力行使であった。フランスには 少なくとも人権と
騎士道を持って現地に降り立った。又英国に於いては法の順守と紳士の習慣を与えた。
がドイツはヒットラー時代を築いたように差別と偏見の統制があり、日本はいきがかり
の国家観で仕方なしなし崩しに大戦に突入した。だが、米国とソ連は違っていた。大国
の論理であり物量や消費など 巨大圧力による国家戦略としての思想での制圧であった
からだ。これが今の中国と北朝鮮に伝播して間違えた進歩に踏み出している事は間違い
ない。

443: 名無しさんAA:17/09/18 10:21
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 163

 ナポレオン時代には 大航海時代の先駆けとしていたガレオン船が英仏海戦で負けに
敗けて大西洋航海もままならぬ事になって、目を付けたのが太平洋航海であったが、そ
れでも母国との往復に2年近くかかるマニラガレオンは、スペインの貿易船が如何にも
非効率なままだった。「インドの富をスペインに運ぶ」、「東に行くために西進する」
というコロンブスの夢を現実のものとしたこの貿易も実際は交易の為の船員の食事など
や利益のない分け前に苦労していた。南北戦争やメキシコ独立戦争と起こったのは当然
ながらこの運んで来る富が無いために 近くの中南米や米国の原住民からの強奪や搾取
に走ったからであり歴史的には当然の流れだろう。ファミイが革命家の道に走った生き
方をしたのは 既にそこに独立革命には国際旅団が力を貸す。武器を供給する集団とし
て存在していたからだ。フィリピン諸島は欧米列強が来島して来て以来、風を読んで走
る帆船にとって貿易風でスペイン航路に一番良く 他の国に先駆けて植民地化された。
だが この共産革命を世界に打ち出し世界革命にしようと言う機運がロシア革命以前に
既にあったのは興味深い話だ。それはフィリピン先住民達が既に村々を形成して生計を
立てていたのであり 更に交易のガレー船がイスラム教を持ち込んできていた事で成立
していたと言えるだろう。スペインが植民地として 当局による重税と重労働で虐げら
れ始めた時、1892年にアンドレス・ボニファシオらが立ち上がり秘密結社「カティ
プナン」を創って以来 ずっーと休む事無く1世紀に渡り闘い続けているのは、中東や
アフガニスタンなどの長い戦争でソ連すら苦戦する徹底抗戦を行う姿と同じであろう。
 明治になってから、アメリカはこの独立支援を約束した。やっとスペイン軍を追撃し
、総督を含めての植民地政府の撃破が出来たと彼らは喜んだ。だがフィリッピン革命軍
へのてこ入れは、只の米軍の華持たせに過ぎなかったのだった。ウィリアム・マッキン
リーは「フィリピン群諸島は合衆国の自由なる旗のもとに置かれなければならない。」
とする声明を発しはしたが、独立建国より米国下の自治運営が良い。と言い代わった。
ジュリアン・フェリペは「ラ・マルセイエーズ」を念頭に「フィリピン行進曲」を作曲
までして、解放宣言に際しての喜びを新たにフィリピンの国旗と共にフィリピンの国歌
を作って待ち望んだが この米国の包囲網の中のスペイン排除は既にフィリピン購入を
した後の6月12日をフィリピンの独立としての記念日としての行事でしかなかった。
その必死になって大量の死者まで出して追撃した答えの独立とは程遠いものだった。


444: 名無しさんAA:17/09/18 10:48
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 164
 こうしてフィリピン第一共和国の樹立を宣言し、議会投票によりにエミリオ・アギナ
ルドは初代大統領に就任した。これを以ってアギナルドは1898年代表として日本に
マリアン・ポンセを派遣し、アメリカ合衆国にはフェリペ・アゴンシリョを革命政府の
代表として派遣した。当時のウィリアム大統領と会談出来たものの、海軍から情報を得
ていた米国は全く色よい返事はなかった。それどころかアメリカ軍はアーサー・マッカ
ーサー2世軍政長官を頂点に 米国の南北戦争において虐殺に手を染めたと問題にされ
る者達や狂人とされる将軍を次々と軍事顧問として送り込んだのである。裏では密かに
アメリカが中南米諸国の統治権とフィリピンの統治権を交換する。と言う裏取引が行わ
れスペインと手を結んでいたのである。こうして、パリ条約を結んだ時スペインからの
アメリカに譲渡されて来る時 アメリカはこの譲渡に戦勝国でありながらも、アメリカ
合衆国は2千万ドルを払わさせられる事で合意を飲んでいた。そして米政府はその理由
をフィリピンを購入した事の代償と嘘をついたのだ。そこにはフィリピン経営で今後の
支払いの利益は出るだろうと言うしたたかな計算があったが、実はアメリカの裏庭での
スペイン支援のキューバ国家を 絶対認めさせたくない為の戦争賠償金だった事を隠し
す為だった。従ってカリブ海および太平洋の スペインの旧植民地に対する管理権を、
アメリカが獲得する為パリ条約を話し合いながら、現地政府には国家を認め植民地経営
の安定を求めながら、片方で国民や議会にの説明には、矛盾を叩かれ糾弾が無い様に 
自治国家でなく米国の中の自治領であるから 安い買い物である。といい訳した取引を
行っていたのである。こうした二枚舌外交は当時米英では盛んではあった。日本政府で
は今後の欧米との関係悪化を恐れて、日本政府としての否定した反対も公式な賛意も、
出せない苛立ちの中にあった。そうした中に代表団は派遣されて日本に滞在した。ポン
セは独立承認を求めて回った。賛意を持つ 大隈重信、山縣有朋、犬養毅ら政府要人と
親交を結び川上操六参謀総長と犬養毅の支持によって平山周、宮崎滔天、中村弥六らが
中心になり、日本陸軍が日清戦争で使い古した旧式のモーゼル銃と弾薬を譲り受ける事
に成功した。だがドイツ系ユダヤ人商人ワインベルゲルを通じて布引丸でフィリピンに
届ける用意をすると、すぐさまその話が漏れたのか 布引丸はあえなく渡航時に沈没し
てしまいフィリピン革命政府への 自衛の為の兵器引き渡しは出来ずに終わったのであ
る。こうしてすぐさま フィリッピン統治において、大統領でありながらアギナルドは
拘留監禁され 率いていた独立政府要人や独立軍2万人は一斉掃討をされ始めたのだ。
結果この対米戦争で69万人のフィリピン人がアメリカ軍により殺された。こうして、
この島の島民は又遥かに高い独立の壁に人命を賭して登る事になったのである。

445: 名無しさんAA:17/09/18 11:57
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 165

 このドイツのと言うより 人種の坩堝で擦れた人間の教育されない道徳観は朝鮮半島
の持つ混乱と同じであった。更に日本人がこの間違えたドイツ商会に運ばせた銃剣類が
フィリピンに届かなかった不幸は そのままアジア解放日本の進出の不幸でもあった。
 だがそれは島国日本の開国が遅れた事で仕方ない事実でもあった。同時に基本的には
ドイツ人達が侵略戦争に取った戦いが、第一次世界大戦前を踏襲して戦っている事と同
じで、ドイツの特にシュリーフェン・ラインでの戦線は 大戦前の皇帝ライン或いは、
第一次の塹壕戦に明け暮れたソンムの戦いと全く同じ戦線ラインだった。それは又、国
家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)党首アドルフ・ヒトラーの「我が闘争」の言及し
ている様に脅迫観念からの「生存権ライン」の戦いでもあった、「ゲルマン民族には、
十分な生活空間が与えら得て居ない」とする不満は一次世界大戦より遥か以前からあっ
た思想でもある。「東方生存圏」と言うドイツ独自の生存圏思想は、ドイツが東部獲得
するべきとした思想であるが、驚くべき事はイスラエルが建国が遥か2千年も前の話を
する様に ドイツはフン族がゲルマン民族襲い民族大移動を起こさせた事を語り継ぎ、
いる事だ。西ゴートの国々が次々と匈奴が襲い、西ゴートに東ゴートの人々が襲って来
たと言う歴史である。フン族襲撃の記憶はゲルマン民族の中で口伝物語として伝承され
、数多くの物語や音楽や詩や絵の重要な題材で構成要素ではある。これらは千数百年前
の民族移動時代の事だが、それでもなお語り継がれて 更にフン族とは何者かは不明の
まま受け継がれる伝承だ。その後ドイツ皇帝ウィルヘルム2世は、ヒットラーと同じ様
に凡ゲルマン主義の思想を掲げ、中でも差別主義の源の様な「黄禍論」を展開させた。
正に選民思想から排斥思想に変えた瞬間である。サライェヴォ事件は衝撃的な事件では
あったものの、これが世界大戦を引き起こすとは思っていなかった。たが、ボヘミアン
やロマ族の一部は見越していたらしくフランスに向かって移住した。ヨーロッパ各国は
、セルビアの行為をこの他民排斥論で大いに非難し、セルビアの謝罪と一定の賠償は必
要との声が上がる。だがセルビア批判には「凡スラブ主義」があり、スラブ民族の後ろ
盾としてロシアが控えていて各国の首脳は言い出せてはいない。当然の如くこのドイツ
皇帝ウィルヘルム2世は、「ドイツは同盟義務と旧来の友好関係に忠実にオーストリア
を支持する」とゲルマン支持を確約した声明を行った。この無条件支持は「ドイツの白
紙小切手」と呼ばれた。今の無知なる大統領が中東に行ってアラブ人を支持し、イラン
批判を行った事と全く同じなのである。当然北朝鮮と同じく「草を喰ってでも生きる」
イスラム教徒のオスマン人には耐えがたき屈辱であったはずだ。

446: 名無しさんAA:17/09/18 12:10
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 166

 皇太子を殺さたままでは国体がなくオーストリアは、セルビアに最後通牒を突きつけ
難癖をつけた。当然セルビアは一定の譲歩をしたが、不満解消には至らずオーストリア
は、宣戦布告に走った。恐れられるバルカン紛争と言う導火線に火がついたのだ。この
宣戦布告後、セルビアとオーストリアの間では第三次バルカン戦争が始まったが、仮に
ロシアにもドイツにも「領土拡張主義」とする「南下政策」や「生存圏」の思考がなく
単純な支持であれば和解は可能だったかもしれない。オーストリアとセルビアとでは、
本来国力差があり、単純に戦えばオーストリアが大国であり勝つ筈だった。ドイツはそ
の「生存圏思想」の中で、オーストリアが勝って同盟国領域を広げる事は正義だった。
、又この時期の対抗したフランスの市民革命にドイツの誇りを見せるチャンスでもあっ
た。一気に勢力をのばそうと意気軒昂に後押しした。だが小国でもセルビアが負ける事
は、バルカン半島のスラブ系民族の地位が無くなる事を意味し、勢力衰退は同時にスラ
ブの盟主ロシアの地位が弱くなることを意味していて、北方民族の影響力の南下を止め
ればそれこそ南下政策の失敗であり死活問題であった。ロシアは黙ってこれを見ている
わけにはいかなかったのだ。現代のウクライナ問題とするクリミア半島と同じであった
訳だ。だが懸念は的中したのである。強国の紛争ドミノと言う最悪の形で起こったのだ
。ロシアはセルビア支持に乗出し総動員をかけた。ドイツは総動員撤回を求め応じられ
ない為総動員令を発し、ロシアに宣戦布告する。隣国フランスも露仏同盟により総動員
を開始し、これを見たドイツは、フランスにも宣戦布告。「栄光ある孤立」のイギリス
でも不干渉方針を翻し、ドイツの大陸支配阻止をするためにドイツに対し宣戦布告した
。又ドイツの宣戦布告は総動員令を掛けた時点で既に戦争回避の道はなかった。と言う
のも小国の四方囲まれた中の連立国家の集まりは、議事運用でドイツ陸軍のシステムを
決めていたからだ。動員令は戦時中を意味しドイツ国内で、張り紙だけで国民は総員兵
士となり、軍隊となり平時編制から戦時編制が開通する。そしてマニュアルで決まった
作戦が決行され、各所で集権する一気通貫するシステムだった。その連動の精緻さに、
一度発動されてしまった後では 例え君主でも首相であっても止める事は不可能だった
体制になっていた。それは、「動員の開始」がそのまま「戦争の開始」を意味していた
と言える。他国に移住した者さえスパイと兵隊になる危険は フランス・イギリスの持
つ危惧でもあった。こうしてまさに負の連鎖が起こり列強各国が次々と疑心暗鬼に陥り
、戦争体制に突入していき 第一次世界大戦となってしまったのである。


447: 名無しさんAA:17/09/18 12:29
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 167

 その姿は、かつてのサラエボ紛争にも見え隠れする。平和な村が民族主義の枠で包ま
れた小集団に囲まれていて、その民族も又民族主義を批判する国家の中にあり、その国
も又その周りを反対する国家群が囲むと言う、至って複雑明快なマトリョーシカ状態の
世界地図や地政学なのである。だがそもそもどうしてこうドイツは囲まれていたのか。
それは偏屈な皇帝ウィルヘルム2世やナチスを産んだ素地の「ゲルマン思想」であろう
。元々ゲルマン人もスラブ人も同一民族でキリスト教やユダヤ教など要らない民族であ
った。所謂都市国家時代の多神教で遠くバビロン帝国の時代からギリシャ神話の世界観
が漂っていた。ところが遠いバビロニアに於いて この都市国家の「国家神」としての
中心にされた神の中にエホバを唯一神と掲げる女系女子の集団が現れた。「ユダヤ教」
と言う一人の神しか認めない集団の誕生である。「唯一神信仰」であるこのユダヤ教は
早い時期にヨーロッパ社会に蔓延した。本来の多神教群の中で改訳変遷をしたのだ。日
本での「創価学会」の作りと同じで、既存の日蓮宗の端単派で集金システムに特化した
ものを作り上げ、やがて本家総本山に破門されても会員や集金し独自の改訳を進めて、
尚拡大するシステムで一定以上の規模になった革命集団である。この一つの宗教観のみ
と言う原理教思想を最初に持ち込んで「原始ユダヤ教」ができた事がそもそもの凶事で
あったのだ。その後の変遷で今やキリスト教やロシア正教イスラム教など多く派生宗教
が起り世界を巡ったが、この選民主義思想でしか生き残れなかった人々は、融和もせず
移民として欧州にやって来て混沌とした社会を作った事にドイツの苦悩がある。「中独
合作」は蒋介石将軍の目指した中国建国策だったが、それ以前からドイツや欧州社会に
は「黄禍論」に基づいての選民思想や白人優位主義は根強く進出していた。正に寓意画
『ヨーロッパの諸国民よ、諸君らの最も神聖な宝を守れ』を合言葉にして生きていたの
だ。中独合作は蒋介石将軍の中国建国策だったろうが それは大きな間違いだった。既
に清朝が出来る頃から中国には国外に出て新天地で生きる者が多くいた。マルコポーロ
が帰途につく頃は、船便が整備された状況だったからだ。その後イギリスを始めとする
西洋諸国によって半植民地の状態におかれた中国では、安定した生活を求め海外移住者
華僑は更に増え始めた。「黄禍論」はそうした中で西洋社会に一般化した。特に日本人
の場合は違う国と説明しても「東洋人種」として華僑と間違われたし、日本人移住者が
多くなれば華僑やドイツがやっていた商売が日本人と競合した。これによって白人さえ
も金鉱の鉱夫や鉄道工事の工夫として多くの最下層の肉体労働者として受け入れられた。

448: 名無しさんAA:17/09/18 13:16
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 168

 1898年正に野口遵がシーメンスに入社した時代は明治30年の発布による最初の
、政党内閣成立させ大隈重信が憲政党内閣の首相として組閣した時だった。日本では、
やっと江戸末期から送り出していた留学生が各々に欧米の技術や文化を持ち帰り花を咲
かそうと奮戦していた時代だ。 中国朝鮮でも静かにドイツ帝国やユダヤ資本がその資
産の投資先として東洋に禿鷹ファンドの建設に乗る時期だった。19世紀後半では、極
東の地の中国貿易の主導権は、殆どがイギリスが握っていた。プロイセン王国の宰相の
ビスマルクは、衰退する阿蘭陀貿易に活路を開く為 イギリスに対抗できる貿易機構を
熱望した。1885年、明治13年ビスマルクは、清への直行汽船に補助金を出す法案
を議会通過させた。これにより仏国は直ぐにベトナム阮王朝に対して東南アジアの足場
強化に乗りだし、強制的な武力併合をした。それまで間接的に阮朝が南部に設置してい
た行政区がフランス式の軍港となったのだ。このフランスの領土的野心は、コーチシナ
戦争を起こした。フランスはを武力併合し仏領コーチシナを形成して、文字通り東南ア
ジア進出の拠点と変えた。阮朝は元々は宗主国である清朝の庇護国であった。清朝に支
援を要請しフランス進出に対抗する黒旗軍に武器や資金を援助し、トンキンでの反仏国
の戦いを支援し続けていた。こうしてフランスの進出を阻み続けてはいた。1884年
に清仏戦争に先駆けて宣戦布告も無しに フランス軍は再びトンキンに侵攻し清国軍の
兵は一挙に敗退する。各都市の陥落は続き これがフランスの植民地になったのだ。こ
の東洋を視察に、ビスマルクは出向いて清にドイツ第一銀行と産業調査団を送り込む事
を決定し、1890年ドイツ・アジア銀行その後の徳華銀行を設立して足掛かりを得た
のである。こうした努力により、中国の1896年の貿易量はイギリスに次いで2番目
の量を交易した。ヒトラーは「東方から押し寄せてくるアジア内陸の人間、その背後の
国際ユダヤ人に対抗するためには、ドイツが一定の生存圏を得て、指導的大国にならね
ばならない」と説いている。これは「ドイツの土地で養える人間には限りがあり、輸入
によってまかなうのであれば代価を支払わねばならない。その代価となる工業製品を製
造できる見込もないこの国が、これから逃れる為には 産児制限や海外植民もあるが、
それは民族を衰退させる愚の政策であり、民族が発展・存続するためには人口の増加が
不可欠である為 他国支配や領地拡大や貢物輸入しかない。」と指導力や技術の対価の
収入を得る事を勧めている。これが東方生存圏の骨子であった。即ち極東では敵味方は
関係なく技術を売ればドイツは儲かり彼らは互いに戦争し崩壊する。これが黄色い人種
の「殲滅作戦」に繋がるもので「黄禍論」にも適合するやり方でもあったのだ。

449: 名無しさんAA:17/09/18 13:17
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 169
 日本政府の支援を受けて中国は欧米列強への賠償金を払い、1912年に中華民国が
日本軍の力を借りて独立宣言した。が、それでも中国国内では、共産党がゲリラ戦を行
い軍閥が跋扈し、列強の相次ぐ諜報合戦で権利や侵略に苛まれていた。それでも徐々に
租界など平和に豊かになっていた。1928年の国民党は北伐の深追いを止めなかった
これにより指導部の蒋介石は共産党の罠に陥って寝首をつかまれた状態であった事は、
全く日本は解ず関知しなかった。、一応ながらも国内統一がなされたからだ。しかし、
その後ゲリラ的襲撃は収まらず「満州事変」などで更に日本の進出がなされた。「中華
民国による国家統一」は統一政府として傀儡政権となる形骸化恐れてるようになった。
 既にドイツは東南アジアやアメリカ大陸が他の国々の下での植民地経営があった事を
知り尽くしていた。従って清国に於いても露骨な英国や仏国の様な帝国主義や威圧交渉
は全くしなかった。それは日本に於いても同じだった。それは清国政府にとっては有難
くドイツとの協力関係を基にして近代化を進めよう。との誘いに傾く事は当然だった。
 こうした背景において軍隊と国防産業の近代化を必要とする中華民国と、資源の安定
供給を必要としていたドイツの思惑が一致し、1900年代に入ると盛んに死の商人的
意味合いの強い「軍事顧問団」を派遣したり「年間契約の雇用技術者」で代価を稼いで
来た。日本で言う「雇われ外人」である。だが日本の場合その多くが日本国籍を取り、
帰化して帰国する事はしなかった。明治政府が英国の香港銀行やフランスのBNP(バ
リ国立銀行)などの資本家から貸付を貰った様に、このドイツ・アジア銀行は日本の中
の民間企業に貸付を行った。これらが野口や満鉄などに貸付を行った事は間違いない。
だが そうしたスイス銀行からの流れである各国の中央銀行とは無縁である為に しば
しばこの重要な金融や経済の国際的枠組みからは外されてきた歴史を持つ。この事は、
一つは共産主義的搾取の考え方が今だある現状だろう。フランス革命で得た「平等主義
」はドイツが周りを敵や異国に囲まれて出来た「優位主義」とされるこの人種偏見とは
相容れない思想だった。「殲滅作戦」はその戦争に際しての心得だった。「プロイセン
は地理的にヨーロッパの中心に位置して、四方を敵軍に露出している。イギリスのよう
な島国は持久戦に持ち込むことが出来る。また、ロシアは自国内部に戦略的退却するこ
とも出来る。だがプロイセンは、後顧の憂いなく敵軍を完膚なきまでに打ち破らなけれ
ばならない。つまり敵軍を殲滅することである。」これがドイツの昔からの掲げている
プロイセン軍の戦術論である殲滅戦理論なのである。もう一つは既にユダヤの資本下だ
った事だろう。それは米国で敵対するドイツでさえ「日本人収容所」のような物は無か
った事が証明している。

450: 名無しさんAA:17/09/18 13:31
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 170

 こうした曰くつきの主義主張が、人種の坩堝となる中では極めて大きな主張となる。
もっともらしい説明で理論付けされるのはそうした「マッキンダー理論」である。世界
の陸地の 3分の2を占めているユーラシア大陸を「世界島」とし、世界島の中央部で
シーパワーの影響外にある地域を「ハートランド」と名づけ、ランドパワーの中心地は
ハートランドを基盤に戦争は世界島へ展開されると考えた理論だ。こうして国際情勢を
ドイツ大陸国家の海洋国家群を突き抜けて世界島への拡張を警戒し、「東欧を制するも
のはハートランドを制し、ハートランドを制するものは世界島を制し、世界島を制する
ものは世界を制す」という有名な言葉を第一次世界大戦後の講和会議に英国の委員に対
して述べた学者の2極論である。だがこれらの殆どは間違っている。特に近年の近代兵
器の前にして囲い込み出来る陸国家と言う枠組みは不可能で歴史上もない。ロシアが、
自国内に戦略的退却が出来ると言う論法も狂ってる。第一次世界大戦にて塹壕戦に及ん
だがそこで死んだのは多くは塹壕の劣悪な環境による凍傷や病気や餓死だ。独軍がモス
クワで止まったのも極寒の地で兵糧が尽きた為だ。爆薬が無かったこ事ではない。第二
次世界大戦も全く同じでドイツの行った収容所の死はガス室や銃殺と同様に 過酷な環
境で死因が多い。又その後敗戦後はもっと大きな残虐行為が戦勝国内で行われたが、全
く隠している。更に民衆の怒りの前には力も無かった。日本でも米軍との対戦で多く死
んだが、最も過酷だったのは現地調達の食糧であり南方では病気や飢えで死ぬ仲間の死
骸を、跨いで通る事だった。つまり戦争で一番大きい事は死との対面ではあるが、より
以上に上司からの苦役や病死や飢餓であった。バーターンの死の行進でもビルマ後退で
の骸骨街道でもそれは見て取れる。硫黄島も同じだった。中国国内で日本軍より共産軍
が怖い八路軍や方面路隊が怖いと言う中国人民多く、共産党ゲリラが食糧を持たず完全
に野蛮な盗賊だったからだ。袁世凱は中国清末期の軍人で欧米に対応した海軍(北洋軍
閥)総帥となったが。貧国国が近代化の改革を求める孫文らの辛亥革命の混乱中では、
朝廷と孫文らの間で渡り歩くのは仕方なかった。大清帝国第2代内閣総理大臣を務めた
が人望はなく、清朝崩壊後は第2代中華民国臨時大総統、初代中華民国大総統に就任し
た。中華帝国皇帝として即位して旧体制に戻したのは、冷徹、果断にみえるが、元首と
しては醜悪さ、生臭さに転じて器ではなかった人物だった。と言われる。日露戦争当時
は、清は表面上は厳正中立であったが、裏では日本に刷りより情報を流し、馬賊を紹介
し 選りぬきの将校らを満洲・蒙古の奥深く、露清国境付近まで潜入させて援助した。
が日本が勝って、友好国とした途端に米国やドイツと手を組んで 内乱に手を染めた。

451: 名無しさんAA:17/09/18 14:04
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 171

 清王朝時代に袁世凱将軍を取り立てたのは海軍大臣役であった李鴻章である。北洋軍
閥の創設者で 北洋通商大臣兼直隷総督となり司令官を提督丁汝昌に決めた。日清戦争
において大日本帝国海軍連合艦隊と交戦しが、その時戦った艦艇は1880年代ドイツ
の艦艇だ。フルカン株式会社シュテッティン造船所で出来たザクセン級装甲艦で、当時
最新鋭旗艦としたザクセンと同じ仕様や武装の船だった。この造船所で建造された定遠
と鎮遠は清国の北洋艦隊の中心であった。定遠は日清戦争の艦艇として参加した。主砲
による砲撃中、艦橋が崩壊、司令官丁汝昌も負傷し指揮能力を失いながら、159発の
命中弾を受ける。これによって死者17人負傷者38人を出したが人員交代し作戦能力
は健在であった。後に水雷艇の夜襲を受け雷撃で擱座する。砲台として戦闘を継続した
が日本の陸上からの攻撃を受け不能になった。こうしてその後日本軍による鹵獲を避け
る自沈を果たした。一方鎮遠も同じ「定遠級」の甲鉄砲塔艦の1隻であるが、東洋一の
堅艦と呼ばれていたこの型は使いづらい物だった。同じ日清戦争において早々と鹵獲さ
れて、戦後に戦利艦として日本海軍に編入された。この日清戦争の敗北により、袁世凱
はこれまでの洋務運動が兵装のみで間違っていたと悟る。自強軍及び新建陸軍建設の為
の支援をドイツに求めた。さらなる軍備と産業や技術面と軍事顧問である。ところが、
ドイツ国内で普仏戦争の対フランスに勝ってもそのしこりは大きく 先に言った様に、
国内でもフランス解放軍の思想や人が新しい国作りを求めていた人々がいる議会運営だ
ったのだ。この頃のドイツは、対外的にはヨーロッパの覇権調整の要として機能してい
たし、一方でイギリスとの親善外交、三帝同盟や三国同盟、再保障条約など対仏包囲網
を形成し、強い牽制を行っていた為にパリ包囲が出来てやっと勝っていた戦争だった。
それに今後の新銀行や同盟国による戦争予防が完成し、ビスマルク体制には出費が重ん
でいてウィルヘルム2世もハプスブルク家の君主フェルディナント大公を頼っていた。
。それでもビスマルク体制下では軍拡が行われやすく、第一次世界大戦の遠因にもなっ
たといわれる。袁世凱の要請の時は、そうした中で拡大した自国の立て直しで とても
東洋の国に援助や軍艦を用意する余裕など無かったのである。そして条約により日本に
しぶしぶではあるが この要求を日本に行ったのだ。ドイツの顧問が居る中でこうして
公使館付武官の青木宣純が軍事顧問として新建陸軍を指導育成した。が袁世凱は青木を
「最も信頼できる日本人」と高く評していたという。こうして出来た新しい海軍こそ後
で日本を悩まし国民党軍の陸軍以上の力を持つ「北洋軍閥」であった。

452: 名無しさんAA:17/09/18 14:50
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 172

 だが問題は袁世凱ではなく 既に清時代から今だドイツになっていなかったプロセイ
ン王国とのつながりがあって後で日清戦争で活躍する北洋艦隊の旗艦「定遠」「鎮遠」
を発注し造船している事だ。中独合作は遥か以前から模索されていて1880年代後半
だが、ドイツの兵器関連企業クルップは、旅順の要塞化にまで、協力している事実だ。
そう1898年正に野口遵がシーメンスに入社した年よりも遥か前に既につてがあった
のである。1894年(明治27年)日清戦争1904年(明治37年)日露戦争は、
共に大日本帝国はロシアや中国との間で朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部と、日本海
を主戦場として発生した戦争ではあったが その裏にいたのはドイツであったのだ。そ
れは仏国も英国も解っていたのである。ある意味ユダヤ資本同士が戦争に賭けていたの
である。国防産業の近代化を必要とする中華民国と、資源の安定供給を必要としていた
ドイツの思惑が一致し、1920年代の終わりから1930年代の終わりにかけて両国
の蜜月関係は最高潮に達した。ナチスがドイツを支配するとさらに関係が強化されたが
日独防共協定が締結されると関係は弱められた。と言うのが一般的見解だが「華僑」は
1800年代初頭から大陸や欧州で広がった黒人奴隷がアメリカ建国に関わる頃中国人
達も又渡米や渡欧州をして一緒に汗を流し洋務運動の為の人材を連れてきていたのであ
る。そしてそれは朝鮮半島も同じであった。シベリア鉄道は、1850年にモスクワ〜
サンクトペテルブルク鉄道が完成した時既に立案されていた。シベリアに鉄道を建設す
る計画はその後も持続的な活動がありそれぞれにその引き込み路線を検討し時の政府に
発案している。だが計画、請願は多数に登ったものの、いずれも実行に移されることは
なかった中1880年、ロシア帝国のアレクサンドル2世の就任記念で突如ボルガ大鉄
橋が完成され、またエカテリンブルグ・チュメニ間の工事が着工された。エアテリンブ
ルク〜チュメニ間の鉄道はボルガ川とオビ川の水運を連結させるこの工事の完成をみて
大事業は方々で行われる事になった。これに従事した労工に朝鮮半島の苦夫が多数いて
朝鮮半島でも近代化の思想や中国の洋務運動の流れがあった。だが李氏朝鮮の政権内で
は清の冊封国としての立場の維持が大事とする守旧派(事大党)と朝鮮の近代化を目指
す開化派に分かれていた。そして近代化路線にはすでに危機に瀕した清朝に頼るか、宗
属関係に依拠するよりは、むしろロシアや日本に頼り独立近代国家の形成をはからなけ
ればならないのではと言う急進開化派(独立党)と、より穏健で中間派ともいうべき者
はあくまで親清による開化派になっていて 穏健な昔のままの王朝維持派と事大党との
大きな溝を産んでいたのだ。清時代のアヘン輸入禁止は1796年なのだ

453: 名無しさんAA:17/09/18 14:58
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 173

 だがこの頃の清国は先の世界最先端の旗艦を要した北洋艦隊を持って その兵員も又
極東最大であったのだ。既にロシアすらも極東の清の海軍を脅威とみなし、そこに朝鮮
とつなぐシベリア鉄道建設と旅順要塞の奪取を決定しているのである。これは又仏国や
独国の極東進出を脅威とした中にロシアはあったのである。独国が仏国に勝った事も又
大きな問題だったのだ。そしてそのロシアと清国が対峙している中にベトナムでの清仏
戦争が起こったのである。当然阮朝は清朝の庇護国であった為宗主国である清朝はこの
朝鮮に派兵してた軍隊の半数と海軍を投入した。此処に日本の近代化に寄り添うべし、
とする開国派の金玉均・朴泳孝・徐載弼ら独立党の人士が他の派閥を排除し李斯朝鮮の
玉座を守備し建国宣言に至ったものだった。だが朝鮮国も又清朝の庇護国であってこの
宣言に即座に清国軍は派兵した。大量の清軍が反撃に出て、袁世凱の率いる部隊はクー
デタ部隊を攻撃し、日本軍は撤退した為、開化派政権は三日で崩壊した。金玉均・朴泳
孝等は日本に亡命し翌年、日清両国は天津条約を締結、朝鮮出兵の際の相互事前通告な
どを取り決めた。このクーデターは1884年(明治17年)の甲申政変と呼ばれるも
ので、この三日で終わった事変は今だ朝鮮出兵していないで王宮警備もままならない時
期に起こった悲劇だった。だがこの清の冊封国としての立場の維持は、勝手な清国の用
いた地位であって、既に朝鮮国を英国に売り渡してドイツから戦艦を買った状態だった
のである。この後1886年にも、清国の北洋艦隊は朝鮮東岸からの帰路に長崎によっ
ている。これは朝鮮半島東岸の元山に出動したのは 朝鮮問題で対峙していたロシアを
威嚇する為であった。この出動の帰路に艦隊は長崎に寄港するのだが、長崎寄港の目的
自体は、燃料の補給及び北洋艦隊の主力である定遠級戦艦の修理にあった。特に定遠級
はこの時修理が必要な段階に来ていたが、当時の東アジアには、巨大な定遠級を受け
入れられるドックが長崎にしかなかったのである。また当時の日本の開港地では海外の
不平等条約によって治外法権があったため、中国人でも上陸が止められずにいたのだ。
こうして一挙に上陸しては遊廓で登楼の順番をめぐる行き違いから、備品を壊し暴行を
働くなどのトラブルが起こり、長崎市内をのし回り、商店に押し入っては金品を強奪。
泥酔の上、市内で暴れまわり婦女子を追いかけまわすなど乱暴狼藉の限りを尽くすので
ある。長崎県警察部が鎮圧に向かったものの、警察官と清国水兵は抜刀して市街戦に発
展、斬り合いの結果、双方とも80数人の死傷者を出し、やっと水兵達は逮捕された。
まさに いまの尖閣問題同様の 無礼で恥で野蛮で傲慢な抑圧姿勢での強要なのである


454: 名無しさんAA:17/09/18 15:03
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 174

 この時に水兵は骨董店などで購入した日本刀を武器として用いたと言う。こうして、
長崎に来航した清国北洋艦隊水兵が起こした暴動事件に謝罪はなく、又一方的に清国は
日本政府に対して補償を要求した。事件後、日清両国は長崎にて英仏人弁護士の立ち会
う中会弁委員会を開き、また東京では井上馨外相と徐承祖駐日公使により交渉が行われ
た。最終的には英独の斡旋を経て妥結し、その内容は事件の当事者については所属国の
法律により処分する。また撫恤料として日本からは52500円、清国から15500円を支出す
る。という事に落ち着いた。また当時の日本の開港地では治外法権があったため、長崎
事件の再発を防ぐために日清両国は相互の軍艦往来について規則を定め、両国の軍艦が
相手国を訪問する際は相手国側の規則に従う事、また上陸する士卒の制限を定めた。更
に日本の警察官が今後帯刀を禁ずべしという要求を突き付け、飲ませる事に成功した。
と中国側は報告している。が事件当時帯刀が許されず警棒であった為一端引き揚げての
帯刀して事態を鎮圧した事から この機によって警官に限り帯刀を許す事に変わった。
 この事は当時は如何に日本は諸外国に弱かったか 或いは清国海軍がロシアさえ威嚇
し極東の最大艦隊として日本海や東シナ海で制海権を取って行動していたかが解る事件
であろう。更にこの仲介に 日本側は英国大使に求め 中国側はドイツ大使に求めた事
は世界の中で極東の勢力状態 或いは時の政府が何処を頼りにしていたかが解るもので
ある。ロシアも仏国も英国も中国には敵対した国家であり、そこにドイツは歩みよって
来ていたのだ。更に大事な事は日本にもこの頃は充分すぎるほどの輸出をし民間企業に
取り入っていては巨大投資や技術提供をしている事実だ。そこには少しも先の「黄禍論
」的強圧な外交をしていなかったのである。少なくとも表向きは。ところが一方では、
極東へのドイツの対中国政策はヴィルヘルム2世が即位すると急変し、帝国主義政策を
推進した。例えば日清戦争後の1897年、ドイツ人宣教師殺害を口実にして膠州湾に
軍を出し、1898年には山東省膠州湾の99年間の租借を認めさせた。中独関係が最も
冷え込んだのは1900年の義和団の乱の際で、ドイツ公使を殺された時は怒って、こ
の制圧に向かっている遠征軍司令官に対して、「反乱軍をフン族の如く容赦ない攻撃を
加えよ。」と命令した。この事件後は国内で公に第一次世界大戦、第二次世界大戦の声
明や命令に軍内でははしばしば「フン族」の蔑称が呼ばれていくのである。



455: 名無しさんAA:17/09/18 15:26
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 175

 中独合作はその後その後中共合作と共産党化していく。というのも本来ドイツ帝国は
この第一次大戦前から第二次大戦後の今でも 先のドイツ連邦国家を作るに当たっての
大国オーストリアを入れた国家か入れないでの協調国家かで国論は割れていた。が、常
にその結果は同じで、オーストリアと言う大きな国に動かされる事を恐れた小国の集ま
り「純ドイツ主義」と言う特異的な「小ドイツ主義」のまとまりを望んだのである。が
更に国内の「大ドイツ主義」の意見を抑える為に オーストリアを武力による吸収拡大
を基本方針に約束するのである。これは先のマトリョーシカ的つながりからドイツ国民
の一部がオーストリアに在住していたからだが それと同時にフランスが起こした市民
革命や自由主義の持つ資本主義を嫌う封建的保守体質からもそういう結果に常になった
といえる。この封建的保守的と言うのは、正にソ連共産党の体質でその共産党派が多数
を占める事を意味している。それはヒットラー台頭時代も同じで そもそもナチスとは
日本語的には「国家社会主義ドイツ労働者党」であり社会共産党を意味するものであっ
たのだ。ここに日本政府はかつても今も大きな間違いを犯している この中独合作は、
ナチスが台頭して来る頃は 既に思想的には中共合作と同じになっていたのである。つ
まりドイツのソ連侵攻は北朝鮮がソ連なり中国なりに乗り込んで行った様な感覚なのだ
。この社会主義派と自由主義派の分裂はサラエボ事件ででも起こっているしヒットラー
時代の侵攻作戦でも大戦後の東西分割時もそれは全く同じであり ドイツ国民のもって
いるだろう独特の脅迫観念の素となっている。従って1930年代の終わりにかけては
、両国の蜜月関係は最高潮に達し、ナチスがドイツを支配するとさらに関係が強化され
た。日独防共協定が締結されると表向きは関係は弱められが、現実はロシア包囲に応援
していたのである。その中で共産党に米・英・仏・露が又共産党軍を応援して来たのだ
が 日本は馬鹿な事に共産党支部であるドイツには対ロ防共を唱えた条約を結び、本部
共産党のソ連にはには不可侵とする日ソ中立条約、を結ぶと言うおかしな事を真面目に
行っているのである。更にはどういう勘違いなのか この防共協定を結ぶに当たって、
イギリスフランスに合同調印を呼びかけている。これは如何に巧妙にナチスが共産党の
配下である事を隠したかが解る事例の一つであろう。又中国を日・独・米・英・仏全て
に応援した武器や兵員供与があった事は 第一次大戦後の条約違反を大国が堂々と独国
の進出を理由にやっていた事になる。国際連盟を脱退した理由でベルサユ条約と共にあ
ったベルサユ体制の日本の権利は無視されていたのである。これが今の混乱の素だった

456: 名無しさんAA:17/09/18 16:23
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 176

 こうして ナチス党は表向き共産党を非難しても、裏では共産党と手をつなぎ、共産
党の 排斥活動なりユダヤの様な、共産主義者の取り締まりはしていない。それどころ
かナチス党そのものが共産主義の中の愛国者を集めた形で人材登用し 政権運営してい
てソ連の供給で日本の様な石油枯渇すら起こっていないのである。この共産党進出には
国際旅団などの暴走した武装革命をイギリスもフランスも見抜いてはいたに違いない。
だがドイツの間で調印された共産党防止の「インターナショナル・コミンテル活動阻止
」の協定などをした日本を笑っていた。同じ共産党同志の領地争いで支部に本部の暴走
を止めようと呼びかけ 本部にこちらに来ないで下さい。との約束をした行為に過ぎな
いと。それは当然だった米国共和党も英国資本もこのユダヤと言う隠れ蓑の下の共産主
義支援者だったからだ。お粗末なもので この事でより日本が共産主義の仲間だと思わ
れたに過ぎない条約だったろう。チャーチルは既にこの共産主義が世界の最大の問題と
なる。と予見したが そもそもが日本とドイツはその防波堤としての砦に先進国は利用
して来ていたのだ。がナチス侵攻で英仏共当面の問題はドイツ拡大でありロシアではな
かった。更に米国にはロシア系ユダヤも多くいて 金融資本の繋がりからは ドイツの
戦争による債権返済や償還拒否やフィリピン購入の代価が支払われない問題が重大であ
ったはずだ。この中独合作は中国の近代化に大きな影響を与え、第二次上海事変で成果
を発揮した。とあるのは歴史的大きな事実を日本人はまともに教えて来ていない事にあ
る。というのもよく盧溝橋事件から世界大戦に走ったと記載されるが全く間違いでこの
第二次上海事件こそが 日本の本当に太平洋戦争所謂世界大戦に突入した理由であるか
らだ。共産党軍がゲリラ活動をして中共合作を目論み 世界が日本の大戦参加を目論ん
でいた。その意味ではドイツも英国も同じだった。英国は米国の参戦を希望していたか
らだ。中華民国に駐在していたドイツ軍事顧問団団長ファルケンハウゼンは、「中国の
敵は日本が第一、共産党を第二」と指導し、国民党軍に漢口と上海にある租界の日本軍
に対する奇襲を提案した。その後も「今こそ対日戦に踏み切るべきだ」と蒋介石に進言
し、北海事件後には河北の日本軍を攻撃するよう進言した。こうした執拗な進言は独国
が如何に東洋の国の同士討ちを願っていたかが解るし「黄禍論」が存在したかが見える


457: 名無しさんAA:17/09/18 16:23
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 177

既に共産党との裏約束がある国民党軍は1935年冬、国民政府軍は、ドイツの緻密な
策定の後押しで、南京・上海方面の「抗戦工事」(陣地)の準備を張治中に密かに命令し
ていた。優勢なる兵力をもって奇襲し上海の日本軍を殲滅しこれを占領し、日本の増援
を不可能にしようと企図し行動した。この頃既に悪態の限りの中国軍と治安維持を行う
日本軍の関係はかなり険悪であった。中19路軍の支援を受けて日本の勢力を利用して
の現蒋介石政権の打倒を図ろうと活動していた共産党は、海外援助により一気にテロ活
動を活発にした。こうして中山水兵射殺事件や上海日本人水兵狙撃事件が次々に引き起
こされていた。宮崎貞夫一等水兵事件は 中国人に拉致されたと在留邦人から報告され
た事で発覚する。日本側の対応は早く、上海特別陸戦隊は警備配置につき、調査を開始
したが、これに対し 中国保安隊は既に日本側に抗する為要所ごとに土のうを積上げ、
鉄条網を張り巡らし待ち構えた。上海市長である兪鴻鈞が直ちに岡本季正上海総領事に
連絡を取った。第一次上海事変後停戦協定により、中国軍は上海中心地への駐留が禁止
され、3200人ほどの保安隊だけが認められていたが、先制攻撃の道を考えていた中国軍
は、保安隊や憲兵隊に変装した兵隊を閘北に入りこませ、一帯に土嚢を積み、戦闘準備
を進めていたのである。この為自国の保安隊の動きに不安を煽られた上海市民は既に第
一次上海事変を想起し、共同租界地やフランス租界地などへ避難して、その数は一日に
二万人とも五万人ともいわれた移動が行われていた。日本側はこの事件に即応したが、
宮崎の逃亡の可能性を疑い、いたずらに危機を煽らない為警戒配備をのみとし、中国側
も防備を撤収した。大山事件の現場でも早期の時局収拾を目指した日本は船津辰一郎元
上海総領事を上海へ派遣したが、その後夕刻、上海海軍特別陸戦隊 西部派遣中隊長の
大山勇夫海軍中尉と斎藤與蔵一等水兵が支那兵に射殺される事件が起こった。大山事件
である。両軍は一触即発の状態となり、情勢が緊迫した。こうした事で 8月10日、上海
のノルウェー総領事アールは、在上海各国領事に対し領事団会議を開催する事を求めた
。当初、日本総領事岡本は固辞したものの、再三の要請により出席することになった。
英米仏伊代表は上海付近に戦禍を波及しないように日中両国に希望することで決議をし
、上海市長へも伝達するとした。


458: 名無しさんAA:17/09/18 16:23
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 178

 こうして同日に、閣議では海軍側より陸軍に派兵要請を行い、4相会議で派兵が決定
した。だがこれを受けた海軍の長谷川清中将は、国際租界内の海軍司令部に対し、平静
を保つように命令を出した。またこの日には、海軍陸戦隊には上陸命令は出さない事に
決定した。ところが翌8月11日、上海市長は日本領事に電話をかけ、「自分は無力で
何もできない」と通報してきた。先の会談合意が守れない事だった為。危機を感じた日
本側は急遽夜、陸戦隊1支隊を予防のために上陸させた。こうして戦闘予定の配備を怠
りなく防備してはいたが 突然に戦闘が開始された。上海海軍特別陸戦隊本部は、8月
12日未明、中国正規軍本隊を上海まで前進させ、中国軍屈指の精鋭部隊第87師、第
88師などの約3万人を超えて 国際共同租界の日本人区域を包囲したのである。日本
軍の支援上陸に備えて揚子江の呉淞鎮と宝山にも約1千名を配置した。対する日本軍は
は、上海陸戦隊2千2百、漢口から引き揚げてきた特別陸戦隊3百、呉と佐世保から送
られた特別陸戦隊千2百、出雲の陸戦隊二百、常駐部隊3百2十の計4千人あまりで、
全く少ない中にあった。3万対4千である。この為に、日本領事は 国際委員会を再び
招集し、中国軍の撤退を要求した。しかし上海市長は中国は既に侵略をうけている。と
の声明を繰り返すのみで、最後に喩市長は、中国軍は攻撃されない限りは攻撃しない。
、中国政府として認められるのはせいぜいそれぐらいだと断言した。一方、日本は上海
近辺での中国の派兵の全ての責任は中国側にあるとしにらみ合いが続いた。午後5時5
0分、日本海軍の第3艦隊が軍令部に、陸軍派兵を要請する電報を打った。午後8時4
0分、本部からは「動員が下されても到着まで2週間かかる。なるべく戦闘正面を拡大
しないように」という電報が返ってきた。こうして本部屋上で待機する海軍特別陸戦隊
は待つ事になった。8月13日午前10時半頃、商務印書館付近の中国軍は日本軍陣地
に向かって機関銃による射撃を突然開始した。日本の陸戦隊は応戦したが不拡大方針に
基づいて可能な限りの交戦回避の努力を行い、また戦闘区域が国際区域に拡大しないよ
う、防衛的戦術に限定した、中国軍機が低空を飛行したが陸戦隊は対空砲火を行わなか
った。列強各国の調停の申し出を期待したのである。午後4時54分には、八字橋方面
の中国軍が西八字橋、済陽橋、柳営路橋を爆破、砲撃を開始し、日本軍は応戦した。午
後5時には大川内上海特別陸戦隊司令官が全軍の戦闘配置を命令し、戦闘が開始された
この日、英米仏の各領事は日中双方に申し入れを行い、上海での敵対行動を回避する為
に直接交渉を行うことを勧めた。


459: 名無しさんAA:17/09/18 16:24
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 179

此処から中国側の襲撃事件そして上海租界の爆撃などが起こり 延々と日本人襲撃が起
こるのである。時々これを日中戦争とか言う。がそれは違い今で言うならテロなのだ。
 当時の中国では、蒋介石を中心とする国民党と毛沢東率いる共産党が政権争いをして
いた。しかし既に、2つの派閥は国の一大事の前に手を組み日本軍に対抗する事を決め
ていた。そして他国の諜報部はそれを見守っていた。それはドイツさえ共産主義でこの
極東に手を伸ばし西側もこの「野蛮な国の同士の戦い」を予定した国策を行っていたか
らだ。当時の派閥争いでは国民党が有利だったので蒋介石は手を組む事は嫌だったろう
。だが、変節の多い中国人は張学良を国民党に入れ蒋介石を軟禁した後も常に監視して
国民党の司令部を共産党が乗取った形の作戦を行っていたのだ。日本軍としては、この
国民党政府の治安に任せて南部戦線を発していたので、痛かった。日本軍は、初め中国
の首都、南京を奪還目標と定め1937年12月10日、20万の兵で総攻撃。13日
には南京占領。その後は、戦線を拡大。武昌、漢口、広州と中国の主要都市を占領。そ
れらを結ぶ鉄道も支配下におき粛清と治安維持確保を行った。しかしながら、中国軍も
首都を重慶に移し抗戦。ゲリラ戦を展開し、こうして日本は苦戦を強いられ日中戦争は
長期戦へともつれ込んでいく。こうして拡大する戦火に1938年には、日本でも対応
する為に国家総動員法を制定した。国民男子を政府が強制的召集令状で勝手に戦線に送
り込むものだ。更に国民の財産も政府の自由没収利用出来る法律でもあった。極東のこ
の混乱の成功を見てドイツは、1939年にポ−ランド侵攻に走った。こうして第一次
世界大戦の敗戦で、縮小し監視され周りの小国からも囲われていた国外での地位や権利
と国内での不況に近い経済の打開にドイツ軍は突然に隣国に迫り領土拡大した。この時
1941年に 日本は既に共産党の罠にかかっていた。贋の国際情勢と米国始め同盟国
としてしての鉄や石油などの重要物資の供給を ドイツロシアとの条約で止められたの
である。本来ドイツも石油はない。ところが中東原油のルートの確保を行っていたのだ
1939年に第二次世界大戦は勃発したがナチスはソ連と不可侵条約、翌年にはドイツ
・ソ連通商協定を結び、ヒトラーは「賎しいユダヤ人」「呪うべき共産主義者」と攻撃
していながら共産主義ソ連と手を組んで、石油・貴金属・穀物の供給を受けていたので
ある


460: 名無しさんAA:17/09/18 16:29
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 180

 本当にドイツに戦争をやめさせたければ石油の供給を止めればよいのである。しかし
、ドイツにソ連のバクー油田から石油を供給して戦争を継続させたのは、英国ユダヤ資
本ロスチャイルドやノーベル財閥の石油会社シェルの裁断であった。共産ドイツの奇妙
な関係は、これだけではない。ナチスにユダヤ人を迫害させたのはシオニストだという
証言は多い。ユダヤ人を中心にその後の戦争終結時は収容所以上のドイツ人捕虜を沢山
ソ連に送り込み収容所で働かせ虐殺した。これに米軍は加担したのである。ドイツ人の
「黄禍論」は中国で正しく伝わり「夷国をもって夷国を制す」と中国政治家の考え方を
蒋介石も毛沢東も受け入れて戦略をたて、日本を中国の内戦に引き込み、中独合作・中
共合作などと言いながら 自国民に政府による官製テロを行い国際社会アピールを促し
たのだ。上海空爆はその最も著しい物で、上海租界の外国人に政府は「空爆は日本軍の
横暴な行為で断固反対する。」との抗議声明をだした。だが写真を撮った記者は現像し
中国政府軍の航空機である証拠を突き付け「目標を間違えた事故であった。」と訂正し
た。それでも最初に大きな記者会見の場でこの大きな嘘のプロカバンダは成功し人民に
は特に日本人の行為と映った。、1938年、日本軍の進撃の道をはばもうと、黄河の
堤防を爆破した。この時は、折しも大雨が降ったこともあって11の都市と、4千の村
が水没し死者100万人、その他の被害者600万人という大惨事になり死者は川に溢
れかえった。しかもそれだけでは終わらない。この突然の人造水害の結果、黄河の水路
の流れは変わり、周辺に水枯れが大飢饉を起こした。被災地で食糧不足に悩み中国軍部
隊は民衆からの食糧の強奪を始めたのだ。飢饉は深刻化し、その惨状を当時のアメリカ
人記者は、「道ばたには凍死者と餓死者があふれ、飢えた人々は屍肉を食べていた。」
と報じた。この時中国側は又事件直後から、堤防決壊を日本軍のしわざとして宣伝して
いる。しかし中国側のこの自作自演は、証言や写真で外国人記者に見破られてしまう。
 この堤防決壊の時も、日本軍兵士は1人も死んでない追いついていないからだ。それ
はただ中国人を大量殺戮しただけの行為だったのだ。堤防決壊の直後、追いついた日本
軍は堤防の修復作業を行なっただけでなく、被災した民衆の救助と、防疫作業を行ない
ました。日本軍は、中国軍から虫けらのように扱われた中国民衆を、必死になって救済
した。こうした事は多々ある。今でも中国政府は自国民制裁を行い、全てを外国悪者に
見立てる。更にその論拠が崩れるとすぐさま内政干渉するなと隠してしまうのである。


461: 名無しさんAA:17/09/18 16:57
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 181

 では何故こうした事が起こるのか。実はユダヤ教など1神教と日本との戦争視点の違
いがある。日本でもこうした自国民を虐げる行為がない訳ではない。だが極端に他国の
者もいて国籍のみが日本人と言う海外の人間は比較的少ない。ところが国境をまたぐ今
の移民の群れの様な集団には日本の様な「治安」の観念はなく中国国内でも「漢民族」
がウイグル人を日本人の様な自国民と言う意識はないのだ。又共産党や自由主義と言う
観念も植え付けられたものであり「自由資本主義」は金の兌換をしないニクソンショッ
クで既に終わっている。又「共産社会主義」の経営も又ソ連崩壊や日本の中国支援など
既に崩壊していた事は事実である。つまりこれらの国家経営の手法は全く間違えていて
貧富の格差などどうでもよかったのである。先の英国ユダヤ資本ロスチャイルドとは言
え彼らの基はこのドイツからの移民でありドイツに巨大貸付していた金融家であった為
と言えばうなずけるだろう。つまりナチスのユダヤ狩りそのものがヒットラーの考えに
矛盾していたのである。中国の蒋介石も又自分の命と人民の治安では自分の命が大事で
あったのだ。日本人の様な「世の為、人の為、尽くしてこそ命の価値がある。」と言う
道徳心は植え付けられず ただただ同族同業者でさえ蹴落として競争社会に生きる主義
を貫いているのである。つまり鼻から「共産社会主義」を巧みにペテンで覆い指導者層
の席を狙い、攻撃は最大の防御で対策し自己防衛の正当性に「武器さえ自由の競争社会
」の演出を主張して 共和国を作らせてやまないのである。それが原爆の傘理論であり
株式の運用理論なのである。ドイツで起こった「ホロコースト」という言葉は、ナチス
によるユダヤ人大虐殺と同義に使われるが、本来は「神に捧げる犠牲」という意味であ
る。つまりユダヤ人同志が仲間を神に捧げた行為だったのだ。ユダヤ人600万人がナ
チスに殺されたというのは大誇張がある。なぜなら、戦前のユダヤ人の人口は約160
0万人、戦後は約1470万人と解っている。人口を比べると130万人ほどしか減っ
ていないのだ。その上、ソ連領内で100万人のユダヤ人が減っていることがヨハネス
・ロスクランツの調査によって確認されている。他国への移住者も数多くいた時なので
、せいぜい数万人数十万人でなければ計算が全く合わない。更に強制収容所内での飢え
や病気が原因の死亡者も多くいたと思われる。ただユダヤ人が迫害を受けていた歴史は
事実で、シオニズムに反対したユダヤ人と呼ばれた人はイスラエル建国の為のに、正し
く「神に捧げる犠牲」とされた。それはロマ人でありロシア人でありボヘミアンと国籍
の無い人達であり 移住して来た人も土着民もいただろう。敢えて整理したのである。


462: 名無しさんAA:17/09/18 17:00
 今や北朝鮮は核を持ちミサイルを飛ばす。これを危険だ恐ろしいと叫ぶのは大和民族
の性分であるだろうが 本当に恐ろしいのはそうした平和ボケしたような教育の廃れで
もあろう。即ち先の「世の為人の為の命」とする道徳教育と「夷を以て夷を制す」と言
う覇業観念の違いこそが 最も恐ろしい事に筈なのだ。この日本流の「他人の褌で相撲
を取る」と言う離れ技は 全く陰謀論そのままである。「黄禍論」は正に留学して得た
張学良の「傀儡指導者となった蒋介石」そのものの姿であったが、この姿こそ 共産党
コミンテルンもユダヤ教シオニストも 最も求めている姿であろうが地球が持たない。
そうしたことで虐げられるのはいつも下層の庶民であり、更に敵としているのは同じ指
導者としての地位を持つ良識者であった事が この上海租界事件に見える。だが現実に
起こった事は日本人妊婦を暴行し八つ裂きにして、手足や頭それぞれを晒すなどの真に
おぞましい事が毎日の様に繰り返し人々に狂気を誘った事だ。その姿ややり方は今でも
中国やロシアでは起こっている。これこそはユダヤ人の想いと同じであったのだ。北の
真面目な核実験やミサイルは全く怖い事ではない。それ以上に怖いのは、既に日本との
在置諜報員としての繋がりが消えて、張成沢を犬に噛ましたぐらいの狂気と、その狂気
を持った指導者が核を利用する狂気である。1944年に今だ戦争も終わらない中では
不思議な会議が開かれた。ブレントン・ウッズ会議である。英国代表には経済学者のジ
ョン・メイナード・ケインズ「フェビアン社会主義者」で、一方米国代表はハル・ノー
トの作成者、財務次官のハリー・デクスター・ホワイト「国際共産党主義者」である。
社会主義者と共産主義者が協議して今後の戦後の“資本主義体制”を、決定するという
 不可解で実に不思議な会議が開かれたのである。7月夏のアメリカ合衆国のニューハ
ンプシャー州ブレトン・ウッズで開かれた連合国通貨金融会議で45ヵ国が参加した。
締結されたのは 1945年に発効した国際金融機構についての協定である。この会議
を取り仕切ったのが、米国財務長官のヘンリー・モーゲンソーJr.  である。父親は、
ロスチャイルド一族の銀行家ゴールドスミス家、母親は、ロスチャイルド一族の鉱山王
グッゲンハイム財閥の出身という人物でこの鉱山は戦時には鉄で戦後はウランで稼いだ
とされる。「アメリカ合衆国のドルを基軸とした固定為替相場制」であり、1オンス35
USドルと金兌換によってアメリカのドルと各国の通貨の交換比率(為替相場)を一定に
保つことによって自由貿易を発展させ、世界経済を安定させる仕組みである。が この
会議の不可解なのは今だドル札発行は米国政府の権限ではない。つまり国際会議であり
ながらも政府間会議でもないのだ。国際通貨基金(IMF)、国際復興開発銀行(IBRD)、
の設立を決定し、これらの組織を中心とする通貨体制である。


463: 名無しさんAA:17/09/18 19:08 ID:XP.
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 183

 勿論、この協定が1929年の世界大恐慌により1930年代に各国がブロック経済
圏をつくって恐慌を起こした経験則から二度もの世界大戦をまねいた反省によっている
事は明らかだ。今回の戦争で疲弊・混乱した世界経済を安定化させる目的と共に、通貨
の乱高下による投機筋の動きを抑える目的もあった。だがこの不可解な会議は共産党の
社会主義学派によって固められた知恵だった事だ。この事には2つの事実がある。一つ
は国家予算以上の歳費で核ミサイルが既に製作段階に入っていた事だ。二つ目は共産党
の流れを組む共和党の施政でハーバート・クラーク・フーヴァーがアメリカ合衆国の第
31代大統領に就任した事だ。彼はオーストラリアの鉱山で鉱山技師として働き始め、
その後中国で鉱山の開発に従事した。1900年には天津租界で義和団事件によって、
1ヶ月もの間包囲され、攻撃を受けている。妻が慈善施設で働いている時、彼はバリケ
ードの建設を指揮し、時には中国の子どもを命がけで救っている。彼はドイツ人鉱山師
アグリーコラをこよなく愛して翻訳さえ手掛け、その正確な翻訳には定評がある。アグ
リーコラは、実際に鉱山で働く人々の、今までの知見や経験、発見や発明を科学の言葉
に替え、新しい体系を創出した鉱山師だった。自然や実業に密着していたため、錬金術
など頭から否定し、軽蔑していた。又フーヴァーはヘンリー・カボット・ロッジと共に
、他の上院の共和党員の大きな反対にもかかわらず、商務長官在任中の1921年に、
ロシア革命により混乱をうけ飢饉で苦しだソ連や、大戦後のドイツの人々など食糧支援
を提供した。その行為に評論家は批判的で「共産主義ロシア」を助けていなかったか。
との問い合わせを受けた。フーヴァーの答えは、明快に「2千万の人が飢えているのだ
。彼らの政治が何であっても彼らを食べさせるべきである。」と真っ向から反論した。
ニューヨーク・タイムズはこのあと「10人の最も重要な生きているアメリカ人」に、
フーヴァーを選んだほどだ。この事は共産主義などと言うしっかりしたものはこの世に
は存在しなかったと明確にしている。共生社会を夢見る社会が共産党の本流や国民党や
共和党などの分流の中にあると言う現実現実でも かなり冷たい中 一般でもその思想
の一端を持っている筈だと言う現実だ。加えて言うならより非情な自由主義の存在がそ
の援助や通貨枠組みをしたと言う現実だ。共産主義が非現実であり幻想であって そも
そも人の持つ道徳に守られている事だ。自由主義すらも道徳により運営される。此処に
今のルールなき格差社会を是認した冷たい資本主義の破滅の馬鹿さや嘘がある。



464: 名無しさんAA:17/09/18 19:25
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 184

 この「黄禍論」のルーツは「選民主義」であり、そのルーツはユダヤ人と言う事だ。
だがユダヤ人は、その定義さえはっきりしない不思議な人たちである。一般的には古代
イスラエルの十二氏族のうちユダ族だった人たちがユダヤ人ということになっている。
だが、実際にはかなり複雑なことになっている。「スファラディ系のユダヤ人」とは、
「聖書の民」であるユダヤ人でイスラエルからスペイン方面に逃げてきた有色人種だ。
我々は白色人種の中ユダヤ人を見るが 本来の正当なユダヤ人は有色人種と言われる。
「マラーノ」はキリスト教に改宗させられたり、改宗したふりをした隠れユダヤ人で、
ある意味ユダヤの中のユダと言われ キリスト自体が、ユダヤ教からの改宗者である。
「ミズラヒ」は先のユダヤ人の中で「ユダヤ教布教徒」として存在し布教で同じアジア
人に溶け込んだとされる。本流ユダヤ人の中のユダヤ教徒で日本の男系男子の様にこの
家族は女系女子である。東人と言う意味で更に古くは男性をユダヤ教徒としなかった。
「ホフ・ユーゲン(宮廷ユダヤ人)」ユダヤ系の中でユダヤ教徒の指導者であり、仲間
の6人以上の証人もしくは認知者でユダヤ教徒加入を認める職者。欧州宮廷の中で貴族
階級に同化してゆき、特権を享受してユダヤ人加入者を振分け決定する権限を持った。
「アシュケナージ系ユダヤ人」7世紀から10世紀にかけてカスピ海の北で栄えた遊牧
国家ハザール汗国という国があった。8世紀半ば頃、イスラム軍がこのハザール汗国に
侵攻してきて、改宗を迫る。ハザールの隣はキリスト教の大国、東ローマ帝国である。
東ローマ帝国と友好関係にあったハザール汗国の皇帝は、悩んだ末にキリスト教とイス
ラム教の元になったユダヤ教を国教とし宣言した、それ以降、国民全員がユダヤ教徒に
なる施策をとって国民をユダヤ教徒にした。この国民のユダヤ教徒に改宗したハザール
人達だが、のちに隣国まで教徒は増えた。アシュケナージはドイツ系と言われる。白人
のユダヤ人になった人という説もある。現在においては、イスラエルにいる「スファラ
ディ系ユダヤ人」は少数派で、90%以上の殆どが「アシュケナージ系ユダヤ人」であ
り「改宗派ユダヤ教徒」である。肌が浅黒い「スファラディ系ユダヤ人」という「真性
ユダヤ人」ではなく、白人のアシュケナージは、血統的に全く無関係な民族達である。
したがって、アシュケナージが「神の約束の地へ帰る」ことを口実にパレスチナの地に
ユダヤ人国家を建設することは、まったく正当性がない。しかしながら、世界の主要な
マスコミの株主を慮っており、ドルショック同様このことはタブーとされ、決して追求
さる事はない。

465: 名無しさんAA:17/09/18 19:38
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 185

 このブレントン・ウッズ会議で、ドルが世界の基軸通貨と定められた。これはユダヤ
の「シオニストの世界戦略」と言われた。と言うのも本来の少数の「真性ユダヤ人」は
シオニスト会議を行わないしシオニスト連合に参加していない。シオニズムそのものが
旧約聖書に書き込みにある様に 違法なのだ。それはユダヤ王は真の世界の法王、世界
に跨る教会の総大司教である。(全人類の王)とされかの王の権限でしか会議は出来な
いからだ。だがイスラエルが建国された様に迫害を盾に取って、自らの自衛の為の生存
圏として 世界戦略を考える選民思想や白人優位主義がこの会議を産んだ。今まで貯め
た貨幣価値の温存の為にである。こうした帝国は「古いユダヤ教」を取入れた。「教義
を利用」し「宗教を利用」し「人を利用」し「国を利用」し「経済を利用」したのだ。
このブレントン・ウッズ会議で出来た、国際通貨基金「IMF」と「世界銀行」の創設
は、他ならぬ戦勝国が持つ今までの資産価値の温存であった。この両機関が、WTOと
共に今後の国際関係を決める大枠として働く事で グローバリゼーションを推進しなが
ら自分達が中心勢力であり続け、同時に途上国を支配し頭を押さえた機関でもある事は
事実だ。それは「核保有5大国」が自国の核を増やし続け、他国に「核開発禁止」する
事と全く同じ仕組みの不平等性に証明される。かつての植民地は、戦後、次々と独立を
果たし、工業発展途上国と呼ばれるまでなった。名前の通り、途上国は元々資源供給地
にされ、工業技術力では相手にならない。その上に、輸送手段と販路を既に握られてい
る中にあった。先進国のように世界各地へ売りさばくことが出来ない上に、貿易で豊か
になろうと思えば一次産品の輸出を続けるしかない状態である。百数カ国の途上国が、
たった30品目程度の生産品目しかない一次産品を争って輸出し、60年代以降に価格
が暴落する事は目に見えていた。慢性的な赤字を抱えるようになった途上国が、IMF
や世界銀行から借金をするのだが、その際、構造調整プログラムというものを受け入れ
ることを条件とされ、それは先進各国の産品を安値にしない事や先進国の持つ消費社会
を文明社会と受け入れる事が必須の条件だった。その上地下資源など開発するインフラ
でも債務国は自国の経営権を失う程の契約に於いて投資対象者となったのだ。この姿は
オリンピック開催と似ている。事務局の権限は最大で勝手な開催は出来ない。だが開催
となれば莫大なPR費と観客動員が出来、それを頼りに公共投資での不況対策が出来る
のである。そしてその価値は文化でも食糧でもなく「ドル」と言う通貨価値なのだ。

466: 名無しさんAA:17/09/19 04:12
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 186

 古来よりユダヤ教の聖典は『旧約聖書』だが、冒頭の5書、「創世記」「出エジプト
記」「レビ記」「民数記」「申命記」は特に重要とされている。「モーセ 五書」又は
「トーラー」(律法)と呼ばれる神聖な律法として崇められてきた。さらに、モーセが
神から授けられた法として、成文化されずに口伝で伝えられたものがある。この口伝は
3世紀頃に文書化され「ミシュナ」と呼ばれている。この ミシュナと、ミシュナからの
ラビが解釈した「ゲマラ」から作成された日常生活の規範と、時代時代に対応した生き
ざまを記した「タルムード」の素である。タルムードは、6部構成、63編から成ると
される文書群で、現代のユダヤ教の主要教派のほとんどが聖典として認めており、この
ユダヤ教徒の生活、信仰の基となっ ていると言われるものである。その膨大な文書の
中に民族的排他性と独善的選民思想が含まれた問題箇所があり、ユダヤ人が排斥される
原因となってきた。その一部を抜粋するがこれが愚民作りに大いに役立った事が解る。
まず天孫降臨に及んでユダヤの為に神は降り立ったとし他の民族は人ではない獣だとい
う視点がある。更にキリスト教の全てを違法でも何でも奪って良いとしているのだ。更
にキリスト以外の異教徒は「ゴイム」として、異教徒にはどんな事もも許されるとして
イスラエル人は相手がイスラエル人で無ければ殺しても構わず又異教徒にユダヤ教を教
える者は殺しても構わず異教徒が我々の教説を知ったならば、彼らは公然と我々を殺す
だろう。と予見し、異教徒ががわれらの書物には何か害することが書いてあるのではな
いかと聞いたら嘘を宣誓せよ。と教えているのだ。此処に言うイスラエル人とはユダヤ
人でありユダヤ人以外は奴隷以下の獣として扱って良いとされ唯一キリスト教のみ盗み
や搾取の対象としている。これでは嫌われて然るべきでとても協調社会など築けないで
あろう。このような“選民思想”と共に、もう一つの特徴が「終末にあたって救世主が
再臨し、正義と平和が支配する理想世界が訪れる」とする“救世主(メシア)思 想”
である、言い換えれば“終末思想”である。これではヒットラーが産んだナチス思想で
ある。共産思想で言う世界革命である。秘密結社の殺人犯の言い分である。ただこれは
理由がある。そうあのアテネなど都市国家間が戦争の兵士の養成に作られた文章なのだ
つまりこのタルムードは聖職者の勝手な改訳を兵士作りの為に編み出したものだったの
だ。それは古来からのしきたりに絡んでいて今のイスラム教にも利用されている。この
ユダヤ教がローマの兵士を産む元になったとも言えるし十字軍やイスラム軍の戦いでの
洗礼を受けて今にあるのかもしれない。このユダヤ教が忌み嫌われたのは間違いない。


467: 名無しさんAA:17/09/19 04:13
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 187

 ここで我々が知るべきは 決して核兵器やミサイルを恐れてはいけない事だ。恐れる
べきはこうした事を作りたがるまやかしであり その思想と嗜好である。正にユダヤ教
のこの全人類から財産を没収せよ殺してでも良いと言った考え方はナチスの言う言葉と
同じであったのだ。そこにユダヤの恐怖があった。だが蓋をあければ同じ白人のユダヤ
教徒であっただけだった。ではユダヤは何処にいるか。それは割礼に秘密がある。この
割礼は一体何んの為にするのか。起源は何処にあるのか。それはバビロニアにある。こ
の地の多神教がある都市で一神教の都市国家が一神教を作った事は解っている紀元前6
00年ぐらいの話と言われている。この都市国家群の中に国家群を守る為の都市国家が
あったとしてもおかしくない。ユダヤ教では、割礼はブリットと呼ばれ、ヘブライ語で
「契約」を意味する言葉である。ユダヤ教徒の家庭に生まれた乳児および改宗者は、割
礼を行わなくてはならない。とされる。これはブリット・ミラー「契約の証明」と呼ば
れ、モーヘール「割礼師」と呼ばれる専門家が行う。つまりユダヤ教の入会式である。
創世記では「またその家の人々は家に生れた者も、銀で異邦人から買い取った者も皆、
彼と共に割礼を受けた。」即ちここで既に 母系母子の関係や正統とされる血縁のみの
宗教から一般化された布教する宗教に変化をしている。更に変化し現代では割礼に反対
するユダヤ人もおり、その場合はブリット・シャーローム(命名式に相当)をもって、
割礼の代わりとする ただしブリット・シャーロームは律法(旧約聖書)に反するとし
て否定する者も多く、今では一般的な儀式としては広まってはいない。男性の陰茎包皮
の切除をするこの割礼儀式は 今は入宗者や改宗者としているが、本来は兵士になるか
どうかであったと思われる。そして割礼が陰茎の包皮切除ではなく切断で、形を残した
機能の消失儀式だったと思われる。権力者への忠誠と兵士の子孫を絶つ行為だったのだ
。と言うのもこの考え方は以外に世界に広い風習だ。中国では宦官制度で皇帝の世話係
である。インドでは犯罪者の刑として、アフリカでは女性の淫乱防止にと風習がある。
あったのだ。日本での宦官の風習がなかったのは諸外国お如く淫乱に明け暮れる暇が無
かったからと言える。今でも一夫多妻や人口増加に悩む国は多い。だが日本の場合台風
・地震・お祭りと暇はない権力者が多い。その上水害や病気を含めれば 一夫多妻での
子孫を増やす事は必要な家系の存続行為だったが、より以上に今生きてる者を守る事に
祈りを捧げて国事とした。更に言えば 戦いは人よりは災害であり兵士は不要だった。

468: 名無しさんAA:17/09/19 04:17
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 188

 日本では周りに攻めて来る他国が少なかった。だが世界では都市国家間は交易もあっ
たが 災害で他の土地へ移る事はあっても攻める事はなかった。同じ部族存続も砂漠や
アフリカでは一夫多妻で子供を産んで多産を奨励する。だが一方で人口増加や過密都市
でのは食糧需要には危機が襲う。大陸ではまるでイナゴか鹿が若芽を食む様に人間も又
緑を食い尽くし移動する。中国が匈奴の侵入に悩んで来たのは 匈奴との交易が断たれ
国内では権力争いに明け暮れたからでである。つまり格差是正に取り組まなかったから
文化の隔壁が襲撃を起こさせたのだ。こうした事例は歴史上多いギリシャ時代ローマ時
代或いはインドやペルシャやアフリカでも多いし日本でもある。一般的には競争社会こ
そが社会進歩を遂げると言われるが間違った見方だが、それは事実ではない。殆どの場
合小さな「いさかい」はあっても平和な生活で発見も発明も発展も文化も産まれている
。問題は権力者の施政にある。どこの地域でも人口増加に悩んで領地外にそれを求め、
結局は戦い消滅した民族は多い。隔離された中では進化がないからだ。中国の様に政策
として子供一人とするのは難しいし気宇な例だ。通常は周りを攻めて緑を失い災害によ
って危機が押し寄せ飢餓と共に離散する。こうして古代都市国家の消失や戦争が起こっ
た事が証明されている。これは人口抑制と国家拡大は二律背反であり模索した事だろう
。となれば女性は人口拡大の為に置いといても、人口抑制に男性機能は失わせるのが手
っ取り早い人口調整だった。男は多ければ闘って命を失し忙しければ性交の出会いがな
い。又多民族に生殖させる訳に行かない。又少なければ兵士として雇う事も少なくなる
。つまり増加を減らす最も効率良い事だった。一方女性は一年に一回しか子供は産めず
産んだ後もその成長には欠かせない世話が必要だ。従って一夫多妻の制度が必要になる
。こうして人口調整の方法として 公式の兵士養成所を作りその忠誠の証としての断根
が女性側に伝承者として受け継がれユダヤ教の素が作られたと研究成果は言っている。
。それが「人は産まれながらにして罪を持っている」とし、「行いや生き方で終末に当
たり救済の主 救世主が現れる」、「正義と平和が支配する理想世界が訪れる。」とす
る“救世主思想”言わば「末法思想」を植えつけて置きながら 忠誠に陰部不能を提出
させた兵士に「君らは選ばれた民だ聖戦士だ」と言うのである。こうして古代は生き延
びて来たと考えられる。ところが現代になって日本やインカの現状からそれは不要であ
り 又より以上の移住でも生き残れないと言う 深刻な地球的問題になったのだ。


469: 名無しさんAA:17/09/19 22:41 ID:iPk
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 120

 ロヒンギャ問題は深刻な問題だ。本来バングラデシュにもビルマにもイスラム教徒は
全くいなかった。それはフィリピンやマレーシアでもいなかった。だがガレー船交易が
盛んになる10世紀頃に船の着く所に数人のそうしたイスラムの布教が始まった。世界
大戦時のアフガンでは盛んに傭兵がインドに出て行った。インドの東インド会社が盛ん
に集めたからだ。大戦以前から日本が南方の進出が成功すると欧米は植民地解体の危機
が自らが納めていたインドの傭兵を守備兵として雇ったからだ。その頃のインドネシア
でもマレーシアでもここミャンマーでも原住民と違って生活していた。イスラム教を捨
てなかったし言語体系も違っていたのだ。マレー戦線が拡大し日本が初戦に勝ったのは
同じ仏教徒だったからとも言える。だが陸に海に空に この中国の蒋介石援助のルート
を様々に構築した。そこにイスラム傭兵を契約で投入したのだ。彼らはひるむことない
強い兵士だった。クメールルージュと言われるビルマの血旗隊である。彼らの参戦で、
今まで案内して食糧す支援すらしていた原住民は殺され 砦の維持すら出来なかった。
そこに起こった悲惨さは日本軍の夜盗化である。広大な土地に取り残された日本軍は、
当初は南方でも南洋でもフィリピンでもビルマでもベトナムでも戦争よりはインフラの
整備を重きにしていた。学校を作り日本語を教え 道路を作り兵隊を送り出し 鉄道を
作り物流を整備しようとした。これは満州の成功からだ。だがそうした事を恐れた英国
は最前線に傭兵を送り物資は空輸して次々と援蒋ルートを作り中国に送り続けた。今の
中国の海洋政策として九段線がある。大陸の舌構想だ。だがこれはフランスとの戦いを
避ける為の香港での中国を自分の領地としてイギリスの香港領事館が引いたものだもの
だ。その後日本軍の南方政策が加わり更に戦後の共産軍政策が加わった。だがイスラム
はそうした事に関係なく方々に殺戮と領地確保をしていった。東チモールでも集落が奇
襲を受けて多くの民家が全員いなくなった事件でチモールのPKOが組織されたのだ。



470: 名無しさんAA:17/09/19 22:54
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 120

 ロヒンギャ問題は深刻な問題だ。本来バングラデシュにもビルマにもイスラム教徒は
全くいなかった。それはフィリピンやマレーシアでもいなかった。だがガレー船交易が
盛んになる10世紀頃に船の着く所に数人のそうしたイスラムの布教が始まった。世界
大戦時のアフガンでは盛んに傭兵がインドに出て行った。インドの東インド会社が盛ん
に集めたからだ。大戦以前から日本が南方の進出が成功すると欧米は植民地解体の危機
が自らが納めていたインドの傭兵を守備兵として雇ったからだ。その頃のインドネシア
でもマレーシアでもここミャンマーでも原住民と違って生活していた。イスラム教を捨
てなかったし言語体系も違っていたのだ。マレー戦線が拡大し日本が初戦に勝ったのは
同じ仏教徒だったからとも言える。だが陸に海に空に この中国の蒋介石援助のルート
を様々に構築した。そこにイスラム傭兵を契約で投入したのだ。彼らはひるむことない
強い兵士だった。クメールルージュと言われるビルマの血旗隊である。彼らの参戦で、
今まで案内して食糧す支援すらしていた原住民は殺され 砦の維持すら出来なかった。
そこに起こった悲惨さは日本軍の夜盗化である。広大な土地に取り残された日本軍は、
当初は南方でも南洋でもフィリピンでもビルマでもベトナムでも戦争よりはインフラの
整備を重きにしていた。学校を作り日本語を教え 道路を作り兵隊を送り出し 鉄道を
作り物流を整備しようとした。これは満州の成功からだ。だがそうした事を恐れた英国
は最前線に傭兵を送り物資は空輸して次々と援蒋ルートを作り中国に送り続けた。今の
中国の海洋政策として九段線がある。大陸の舌構想だ。だがこれはフランスとの戦いを
避ける為の香港での中国を自分の領地としてイギリスの香港領事館が引いたものだもの
だ。その後日本軍の南方政策が加わり更に戦後の共産軍政策が加わった。だがイスラム
はそうした事に関係なく方々に殺戮と領地確保をしていった。東チモールでも集落が奇
襲を受けて多くの民家が全員いなくなった事件でチモールのPKOが組織されたのだ。
ここに人の馬鹿さがある。つまり共産主義も自由主義もちゃんとした道徳教育がなけれ
ば成り立たないのだ。核廃絶と同じく合意しこの合意を守る事で平和と人口減少が起こ
るのであり食糧危機も防げるのだ。中国の様な乱獲乱開発欧米の様な利益主義格差やら
ロシアの防衛の為の攻撃論では世の中は良くならない。ここに教育があるのだ

471: 名無しさんAA:17/09/21 16:55 ID:YHg
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 121

 大東亜共栄圏構想は「東亜新秩序圏」や「東亜安定圏」と同一であるとした、日本・
満州・中国に加え、マレーシア(フランス領インドシナ)、インドネシア(オランダ領
東インド)をも含めた範囲であると決定していた。と言うのも、チェンバレン製油所の
石油輸入が日本に止められたのだ。太平洋戦争(大東亜戦争)開戦を控えた1941年
11月6日には第25軍司令官山下はアメリカ領ハワイへの真珠湾攻撃に先立つこと約
1時間前にE作戦(マレー作戦)を行った。マレー作戦は日本軍による一連の南方作戦
の最重要項目で第一発目となった。まともとハワイへの真珠湾攻撃は防備戦であり本来
はこの東南アジアからの石油輸送が目的だった。つまり太平洋戦争はこのマレー作戦を
行う為に開始されたのだ。シンガポールの戦いもインパール作戦の初戦として同時期に
行われ帝国陸軍第25軍がマレー半島に上陸した時、英インド軍第3軍団豪第27旅団
英本国軍大隊がこれに立ち向かった。が海上の物資補給船が既に撃沈されており孤立し
ていた。又イギリス軍は日本の様な無計画では無かった。新着のイギリス軍第18師団
と約7万人の戦闘部隊を抱えてその補給が無い事に悲観的であった。北部マレー半島で
の日本軍は数量的にはわずかに優勢にすぎなかったが、制空権・戦車・歩兵戦術・戦闘
経験において優越してはいたものの2倍を超える兵力差を覆して、当時難攻不落と謳わ
れたシンガポール要塞を日本が10日足らずで攻略した。英国としては歴史上最大規模
の将兵が降参し、。チャーチルは「英国軍の歴史上最悪の惨事であり、最大の降伏」と
評した。だがパーシヴァル中将の判断は英国として当然の事だった。敗けた要因には、
一つは戦車が通れないとされた湿地を日本軍の軽い小型戦車が通り抜けた事二つ目には
突然の攻撃に自軍の防衛で他への応援を駆け付けなかった事三っつ目が肝心の通行する
橋を防備に爆破していた事で本部は完全に孤立しその上新人部隊を上陸させたばかりだ
った。これがパーシバルを会談に持ち込んだ要因だった。裕福な混合戦隊での食糧不足
の反乱を恐れたのだ。その上山下奉文はそうした国際的な捕虜の扱いや会談には似合わ
ない人間だったのである。これがシンガポールやコタバルの悲劇であった。こうして東
南アジアが解放され この地の奴隷的国家群の形成が無くなり旧来からの日本への物流
が出来ると思っていた。支配的植民地経営から自立する日本との共存共栄の外交である

472: 名無しさんAA:17/09/21 17:01
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 122
 明けて翌年の1942年(昭和17年)に日本も又食糧自給と物量運搬に迫られた。日
本国そのものが国体保持と致命的な敗北を避ける為に、鉄道輸送を必要としていたのだ
。泰緬鉄道はその必要性に迫られた。それは、ちょうど連合軍が最後の勝利を得るため
の、ノルマンジー作戦の様な日本の必要不可欠の作戦だった。この戦争に日本の配員は
大本営は戦争を早めの停戦と調印で終戦が迎えられると考えていた。だが世界情勢でソ
連を相手にドイツは戦い日本もアメリカさえも戦争に入れてソ連が停戦調停してくれる
と甘い期待のまま戦争していた。戦争はどんどん過酷になり日本兵は誰ひとりとして、
最後の瞬間まで、敗戦を信じようとはしなかった。しかも、1945年(昭和20年)8
月15日の、天皇の玉音放送後さえ敗戦と思わず、いぜん戦争を続行するのだという気
迫に燃えていた。先の存置諜者の命令と同じである「再び進軍するまで領地を死守せよ
。」なのだ。この真面目な日本人気質が、泰緬鉄道建設において、信じられないほどの
短期間での完成遂行に、捕虜達を急き立てたのだった。彼らにとっては、マラリアなど
どこ吹く風であった。此処に悲劇があった。キンビグ少佐は言う――泰緬鉄道の必要性
を感じ、これを建設することのできた人種は、いかなる西欧人種ともまったく質の異な
った人種である、と。ニューサウスウェールズ州にあるノウラで、ニューギェアで捕虜
になった数百人の日本兵は、復員という不名誉を潔しとせず、集団脱走して、死を求め
た。サイパンにおいて、日本軍兵士だけでなく、女、子どもにいたるまでが、降伏より
も死を選んだ。日本人が 戦争中つねに身につけていた教訓は、彼らにいかなる行動を
とったかをわれわれが知り、新しい教訓としなければならない。我々が学ばなければな
らない教訓は、「神風」特攻隊においても、「沖縄玉砕」においても、また同じである
。彼らが抱いていた死の観念は、われわれ西欧人の考えている死の観念とは、まったく
次元を異にしたものだったのである。とそして『ミズリー号の道程』を書いた加瀬俊一
は、その中でいう 「日本の敗北は米、英、オランダ、オーストラリアのせいではなく
、まったく無益に、長期にわたって戦った中国のせいである。」としている。そして、
そのようなことは二度とおきてはならないと警告している。「アメリカの日本に対する
鉄および鋼の輸出を禁止した事や、オランダの、長期にわたる石油契約について、日本
の要求を拒否した事。また1941年、イギリスはマレーのゴム輸出禁止命令を出して
最後に、日本にたいする石油輸出を禁止し、在米日本資産を凍結したアメリカが決定的
制裁は、外交がもはや手遅れであり、太平洋戦争を避け難いものとして戦争突入したの
だ。


473: 名無しさんAA:17/09/21 17:04
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 123

日本軍のビルマ攻勢はチンドウィン川堤防の線にまで達し、ようやく停止した。その時
、日本軍の補結線は伸び過ぎ、兵士たちは疲れきってしまい、戦力を使い果たしていた
。スリム将軍のビルマ軍団が、インパールの聖域をめざして、北西に向けて退却してい
た間、ビルマ戦線では、スチルウェル将軍の中国部隊が、サルウィン川を越えて、雲南
に進出していた。中国は今や、完全に孤立してしまっていたからだ。ビルマの首都ラン
グーンから、雲南山脈を越えて重慶に至るビルマ公路は、中国に残された唯一の補給路
だったが、いまや日本軍の手中にあった。日本軍も中国国内の度重なるテロに支援路の
遮断が有効だとしていた。特に中国国民党までもが日本軍に対抗して来た今を変える為
にも。 この大勢力圏は、インドシナからビルマを経てマレー半島に至り、無数に散在
するオランダ領東インド諸島およびフィリピンを含み、これらを越えて西部ニューギュ
ア、月形をしたニューブリテン島、飛び石のようなソロモン群島、小さなギルバート諸
島にわたり、最後には、中部太平洋を北上して、アリューシャン列島のアッツ、キスカ
の孤島にも及ぶものであった。日本のこれまで開国を迫られ、資源のない国がソ連の脅
威から泣く泣く朝鮮経営に手をかけ領土を拡大してきた理由の帰結でもあった。日清戦
争に、日露戦争に、多大な犠牲と資本をつぎ込みそれぞれ領土を獲得し、また、第一次
大戦の平和会議において、ドイツの太平洋の領土を譲り受けた。これらの拡大してきた
領土に、さらに今度の大征服によって、新たな領土を追加し、本格的な帝国建設に乗り
出したのだ。1941年(昭和16年)の頃は、日本が足場を築く 絶好のチャンスにも
見えた。オランダ他は実にあっけなく、日本の同盟国ドイツに揉順されてしまったし、
イギリスもヨーロッパ本土の戦闘にまき込まれ、中東基地の随所に専念していた。 一
方、フランスは枢軸国に占領され、ビシー政権は弱体で、抵抗の力はなかった。さらに
重要なことは、日本の昔からの敵国であったソ連が、ドイツ軍電撃戦部隊と生か死かの
闘争を行なって、ソ連の南部地域に突進し、日本の北は安全になるものと期待されてい
た事だ。こうして、アメリカが今までどおり孤立主義を固持して譲歩をみせなないとみ
て、その年の瀬に、南方に向って攻撃を加えることを決定している。これらの戦略的な
考慮は、多くの日本人が信じていた社会的、政治的、経済的主張によって支持された。



474: 名無しさんAA:17/09/21 17:14
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 124

つまり、「大東亜共栄圏」が名実共に安定した自立圏が出来ると信じていたのだ。日本
は東南アジアおよび太平洋からヨーロッパ諸国の軍隊を駆逐することによって、この圏
を繁栄の礎に創造できるだろうと信じていた。この「大東亜共栄圈」構想によって占領
された白人地域は、搾取から解放され、日本の指導の下に、豊かな繁栄を保証される。
特に人口増加と共に食糧や資源のない日本の危機が これによって無くなると期待した
この政策は、東南アジアの独立を望む少数の民族主義者にとって大へん魅力的だったし
、敗戦後もこの地域の共存共栄の思想は変わらずにいる。だが敗戦後日本人は口を閉じ
てしまい、この夢がなかったかのように振る舞った。それは欧米から持ち込まれた高い
理想や共産国の持つ信頼が この裏切り行為と言う結果で惨々足る結末になり身を持っ
て欧米の持つ二枚舌や三枚舌の醜さとその結果の非情さの現実に驚いていたからだった
。その傷は長らく癒えなかったが、近頃は逆に忘れたように騒いでいる。住むだけの住
まいや決して贅沢では無かった生きる為の食事で平等では無いにしても周りさえ配慮の
ある人情社会を築いていた。だが今や贅沢で豪奢(ごうしゃ)な考えの中で過去の歴史の
の積んだ家や時を眺めていた大木は行政の名の下で何の意味もなく打ち払われ、趣を凝
らした食事の食材を世界中から取り入れている。これは現代病とも言える奇妙な進歩で
あろう。かつて幣原が外交官の時代1920年代の自由主義体制における国際協調路線
は「幣原外交」とも称されたが、それは軍部の軍拡自主路線「田中外交」と対立した。
ワシントン体制に基づき、対米英に対しては列強協調を勧めた。共産テロが頻発する大
陸中国において、あくまで条約上の権益擁護のみの追求で、東アジアに特別な地位を占
める日本が中心となって安定した秩序を形成していくべきとの方針である。これがこの
共栄圏の骨子であった。これに米英は賛同し3ケ国条約を申し込んでいる。が幣原は何
故かフランスを入れて4ケ国条約にして改めさせて結んでいる。これには不思議が付き
まとう。世界は金融恐慌の煽りを受けた。若槻内閣倒閣は経済の立て直しの諸外国の方
針にあわせた。1926年(大正15年)の蒋介石の国民革命軍率いて 勝手に行った
北伐の頃である。これに対し、内政不干渉の方針に基づき、アメリカとともにイギリス
による派兵の要請を幣原は拒絶した。この事で幣原はロンドン軍縮条約を結び兵力制限
に同意して軍は出せないとした。軍からは軟弱外交と強い批判を受けてしまっていた。
こうして折角の有能な若槻内閣は倒閣されてしまった。

475: 名無しさんAA:17/09/21 17:38
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 125

 田中儀一はロシア通であった。1927年(昭和2年)第1次若槻内閣のもとで全国
各地の銀行で取り付け騒ぎが起こった昭和金融恐慌である。若槻内閣は総辞職し、代わ
って立憲政友会総裁の田中が内閣を組閣した。田中内閣には 元総理や次の総理を狙う
大物政治家そして将来の総理や枢密院議長などが肩を寄せ合い、大物揃い内閣となった
。ロシア留学時代は正教に入信し、日曜毎に知り合いのロシア人と教会へ礼拝に行く。
徹底したロシア研究者であった。又、地元の連隊に入隊して内部からロシア軍を調査し
、日露戦争前は陸軍屈指のロシア通と自負していた。長州閥の一人だが、軍人として有
能で、同時期ロシアに留学していた海軍広瀬武夫と酒を汲み交わし強硬な開戦論を叫ぶ
などあった。日露戦争では満州軍参謀として総参謀長児玉源太郎のスタッフを務めた。
戦後の1906年『随感雑録』が山縣有朋に評価され、当時陸軍中佐ながら帝国国防方
針の草案を作成し名声を得ていた。その頃の大陸事情は朝鮮の発電所の完成を見て中国
にも多くの電気事情が良くなっていた。そうした背景に 日系企業が上海・青島などの
中華企業を買い上げて更なる改善などで紡績工業など相次いで進出していた。17社程
の大手企業の中で在華紡は日本式経営で中国の4割の百万錘規模の生産を果たしていた
。だが中国国内にも販路を求めていた為この金融恐慌によりこれまでの摩擦が一気に噴
出してデモや日貨排斥運動など標的となった。この事に共産毛沢東がいる事を田中は知
っていたのか日本軍を出さず 中国人ストライキに対して奉天軍閥の張作霖に要請して
武力鎮圧するなど、権益の擁護に後ろ盾の第三者として制圧をはかっている。中国初頭
の袁世凱将軍が創った北洋軍閥は互いに直系(直隷派)、皖系(安徽派)、東北の奉系
(奉天派)、晋系(山西派)、馮系(西北派)で北京政府の政権を争っていた。が19
26年に一応は蒋介石を中心とする政府体制が国民革命軍は北伐を開始し、取りあえず
国民党政府を樹立した状態だった。だが共産党勢力の浸透は深く、蒋介石安泰とは行か
ず上海クーデターを起こして共産党勢力や労働組合の粛清を図り、やっと南京国民政府
を樹立した。更に反対する武漢国民政府を倒し軍閥政府の根拠地である北京を陥落させ
た。全国統一し政府主席に就任し「訓政綱領」「国民政府組織法」を定め「以党治国」
(国民党による国民政府の指導)と行政・司法・立法・考試・監察の5院制を定めたが
反対する保守派が集まり清国残党と共に広州国民政府が成立して蒋介石を脅かした。


476: 名無しさんAA:17/09/21 17:39
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 126

 1931年夏、同じ分派の台湾の広東政府の外交部長陳友仁が訪日し、張学良を満洲
から排除し満洲を日本が任命する政権の下において統治させ、中国は間接的な宗主権の
みを保持することを提案したが、幣原外相は一蹴した。その後、関東軍の独走で勃発し
た満州事変の収拾に失敗し、政界を退いた。幣原外交の終焉は官僚外交の終焉であり、
その後は軍部が独断する時代が終戦まで続いたのである。ここで、幣原は2つのミスを
したのである。いわゆる軍部の軍拡自主路線「田中外交」と対立した事だ。ソ連から出
資された英国企業アルコスはソ連諜報部の隠れ家だった。ソ連から金製品や亜麻・毛皮
・マンガン鉱を輸出し、その売り上げで食料・繊維・石炭などを輸入。外国為替銀行と
してアルコス銀行を設置し、貿易関連の資金決済や訪ソ旅行者のための外貨両替にあた
った。この表向きは正当で合法でロンドンの国内法にも合致してた。1927年突然の
服の捜査員50名がアルコス本部事務所に殺到し、外部との往来も接触も一切遮断した
、押収文書は2万におよび、ピストル6丁も共に応酬した。これによって共産党の宣伝
工作や広報活動が南京事件にまで及び今までのイギリス政府の収集した証拠を覆す材料
を電報で取り寄せまでに至った。ソ連が「大英帝国と南北アメリカのいたる場所におい
ての軍事的スパイ活動および破壊活動」のためにアルコスを使ったとして非難して、こ
のアルコス事件以降はソ連と英国間の外交関係と貿易協定は、直後に解消されて、19
27年に英ソの国交断絶となった。従って上海クーデターまでの党内の中国共産党員の
粛清を行った第一次北伐までは米英も賛同して援助していた。だが中国国民党内がまた
混乱状態に陥った時、蒋介石が事態の収拾に成功し権力を掌握すると、国民政府は第二
の北伐を再開した(第2次北伐)。この時の北伐は英米からの不参加である為ソ連に支
援を求めヴァシーリー・ブリュヘルの下で計画された。この時日本軍の後ろ盾の奉天派
の首領である張作霖が北京を撤退し北伐軍が北京を占領したのである。当時日本の首相
・田中義一はなおも張の利用価値を認め、東三省で再起させることを考えていたが、既
に満州国の建国計画を進めていた関東軍は張の東三省復帰をこれを望まなかったという
。1927年に起こったアルコスと同時期に国民革命軍が南京・上海を占領した事で行
った捜索だった。南京事件が発生し、欧米勢力の目にも 国民革命軍の背後に明らかに
ソ連が暗躍する姿が映り、国民革命軍を嫌って支持せず、張に好意的な姿勢を取るよう
になった。張も日本よりも欧米勢力に追随する風を見せた。

477: 名無しさんAA:17/09/21 17:45
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 126

 1931年夏、同じ分派の台湾の広東政府の外交部長陳友仁が訪日し、張学良を満洲
から排除し満洲を日本が任命する政権の下において統治させ、中国は間接的な宗主権の
みを保持することを提案したが、幣原外相は一蹴した。その後、関東軍の独走で勃発し
た満州事変の収拾に失敗し、政界を退いた。幣原外交の終焉は官僚外交の終焉であり、
その後は軍部が独断する時代が終戦まで続いたのである。ここで、幣原は2つのミスを
したのである。いわゆる軍部の軍拡自主路線「田中外交」と対立した事だ。ソ連から出
資された英国企業アルコスはソ連諜報部の隠れ家だった。ソ連から金製品や亜麻・毛皮
・マンガン鉱を輸出し、その売り上げで食料・繊維・石炭などを輸入。外国為替銀行と
してアルコス銀行を設置し、貿易関連の資金決済や訪ソ旅行者のための外貨両替にあた
った。この表向きは正当で合法でロンドンの国内法にも合致してた。1927年突然の
服の捜査員50名がアルコス本部事務所に殺到し、外部との往来も接触も一切遮断した
、押収文書は2万におよび、ピストル6丁も共に応酬した。これによって共産党の宣伝
工作や広報活動が南京事件にまで及び今までのイギリス政府の収集した証拠を覆す材料
を電報で取寄せるまでに至った。ソ連が「大英帝国と南北アメリカのいたる場所におい
ての軍事的スパイ活動および破壊活動」のためにアルコスを使ったとして非難して、こ
のアルコス事件以降はソ連と英国間の外交関係と貿易協定は、直後に解消されて、19
27年に英ソの国交断絶となった。従って上海クーデターまでの党内の中国共産党員の
粛清を行った第一次北伐までは米英も賛同して援助していた。だが中国国民党内がまた
混乱状態に陥った時、蒋介石が事態の収拾に成功し権力を掌握すると、国民政府は第二
の北伐を再開した(第2次北伐)。この時の北伐は英米からの不参加である為ソ連に支
援を求めヴァシーリー・ブリュヘルの下で計画された。この時日本軍の後ろ盾の奉天派
の首領である張作霖が北京を撤退し北伐軍が北京を占領したのである。当時日本の首相
・田中義一はなおも張の利用価値を認め、東三省で再起させることを考えていたが、既
に満州国の建国計画を進めていた関東軍は張の東三省復帰をこれを望まなかったという
。1927年に起こったアルコスと同時期に国民革命軍が南京・上海を占領した事で行
った捜索だった。南京事件が発生し、欧米勢力の目にも 国民革命軍の背後に明らかに
ソ連が暗躍する姿が映り、国民革命軍を嫌って支持せず、張に好意的な姿勢を取るよう
になった。張も日本よりも欧米勢力に追随する風を見せていた。今だ英米も日本も中国
の支援方針が中国の混乱に見定め出来なかったのだ。取りあえず 混乱さえあれば良い
ソ連は積極的に支援した。

478: 名無しさんAA:17/09/21 17:56
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 127

 こうして張作霖は日本支援を執るべく北京のソ連大使館捜索した。それは突然に行わ
れソ連大使館官舎奉天軍として乗り込み、ロシア人・中国人80名以上を検挙、武器及
び宣伝ビラ多数などを押収した。これは奉天にも国民党軍からの共産主義者が浸透し、
それによる満洲の共産化運動を防ぐための処置でもあった。張がソ連大使館官舎を家宅
捜索したことについては、日本を含む列強各国から事前に国際法上の問題がないことの
承認を得ていた。また南京事件は共産主義者が起こしたとされ、各国の共産主義に対す
る警戒心は高まっていた中だったのである。こうして南京事件で追われて満州の本拠地
に帰る事になったが、日本の関東軍は色よい返事はなかった。それは張作霖政権でソ連
の満州鉄道と並行した路線の開拓を進めていたからだ。1928年(昭和3年)早朝、
蒋介石の率いる北伐軍との決戦を断念して満洲へ引き上げる途上にいた張作霖は 乗車
した特別列車が奉天(瀋陽) 近郊、皇姑屯(こうことん)の京奉線(けいほうせん)との
満鉄連長線の立体交差地点を時速10km程で通過中、上方を通る満鉄線の橋脚に仕掛け
られていた黄色火薬推定300キロが爆発した。列車は大破炎上し、交差していた鉄橋
も崩落し、張作霖は両手両足を吹き飛ばされた。現場で虫の息ながら「日本軍がやった
」と言い遺したという。奉天城内の統帥府にかつぎこまれたときには絶命していたが、
関東軍に新政府を作らせまいとした日本軍の暴挙と奉天軍は発表した。2週間後6月2
1日である。しかしまた日本軍も警備、側近ら17名が死亡していた。証言では同列車
には張作霖の元に日本から派遣された軍事顧問の儀我誠也少佐も同乗していた。がかす
り傷程度で難を逃れた。又その声明で事件直後に張作霖配下の荒木五郎奉天警備司令に
激怒した話が伝わっている。張作霖の私的軍事顧問で予備役大佐の町野武馬は張作霖に
要請されて同道したが、天津で下車した事も不審の証明となった。更には、山東省督軍
の張宗昌将軍も天津で下車した。常蔭槐は先行列車に乗り換えた。車両に乗車していた
奉天軍側警備と線路を守っていた奉天軍兵士は爆発の直後やたらと発砲し始めたが日本
人将校の指示によって落ち着き、射撃を中止した。この爆発で解る事は恐らくソ連大使
館の家宅捜査で大量の日本軍内の諜報者がこの張作霖は掴んでいただろうと思える事だ
。又曲がりなりにも田中義一はロシア通でそれは解っていたが「満州国樹立計画」を、
止められなかった事だ。

479: 名無しさんAA:17/09/21 18:04
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 128

 こうして「満州国樹立宣言」に至るのだが この時の欧米のマスコミにも共産党員は
数多く配置されて日本非難を繰り返した。更に日本軍の中にも又 誇張とデマと威嚇を
吹聴する者もいた。更にこの奉天軍の「日本軍がやった。」と言う張作霖の言葉も信じ
られる筈はない。何故なら爆薬が仕掛けられていると知っていたのなら そこにいる筈
はないからだ。ソ連コミンテルン陰謀説の大きな証拠は東清鉄道の建設と共に3回の、
暗殺未遂が起きている事だ。鉄道建設前には関東軍からピストルでその後は自宅の出入
りの門に前に2回とも地雷であったとされる。犯人が見つからず事は大きくならない事
になったが日本軍が仕掛けたと本人は言っているが日本軍が撤去している事から日本製
の地雷でもそんな高くつくやり方を日本軍がするとは思えない。更にそこで見つかった
理由はお抱えの日本人の運転手が盛り上がった土を見て と言うのだからまず違うだろ
う。リットン調査団でも恐らく断定出来なかっただろう。ただ欧米は日本軍の仕業にし
たかった。欧米共にロシア人はこうした巧妙な事件を仕掛けるのは得意の民族であるよ
うだ。近年では飛行機事故やオリンピックの薬物事件ではその証拠が現れても違うとの
政府見解を発表する。昭和天皇が言う通りである。欧米は冷たいだがロシア人はもっと
寒い国だ。ノモンハン事件はその後の1939年(昭和14年)に起きる。当時建国し
た満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した紛争の事とされる。が
これは少し違って見える。大日本帝国とソビエト連邦の間で断続的に発生した日ソ国境
紛争で、満州国軍とモンゴル人民共和国軍の衝突に端を発し、両国の後ろ盾となってい
た大日本帝国陸軍とソビエト労農赤軍が戦闘を展開し、一連の日ソ国境紛争のなかでも
最大規模の軍事衝突となった。と言う事件だが 既にソ連は貧困の中で粛清を繰り返し
労農赤軍を組織していた事が原因である。当時日本の租借地関東州、ソ連は1924年
に成立させたモンゴル人民共和国の勢力圏内の事件だ。日本軍とソ連軍が兵力を派遣し
大規模な戦闘に発展した。結果は、日本軍側が航空戦では数に劣りながらも常に優勢で
あったが「地上戦闘は戦車火砲の力の差が甚だしく敗戦に近い結果に終わり、モンゴル
共和国とソ連の主張する国境線はほぼ維持された。この時ポーランド侵攻直前のモスク
ワ主導部は「日ソ両軍の現在地を停戦ラインとし、国境線の画定は後日設立の国境確定
委員で交渉する。」とのクレムリンの決定で事件の停戦の合意が、9月15日深夜にて
成立した。ソ連の南下作戦は事実上稼働しドイツの侵攻作戦で止められたのである。


480: 名無しさんAA:17/09/21 18:09
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 129

 日本が本格的に国際会議で連合国の一員として派兵したのは1918年シベリア出兵
が初めてだろう。この時大日本帝国・イギリス帝国・アメリカ合衆国・フランス・イタ
リアなどと一緒に連合国として 「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」と
いう大義名分でシベリアに出兵した。ロシアでは革命が起こって社会共産主義を封じ込
めると言う提言であったが 現実的にはロシア帝国時代の外債と、露亜銀行などの様々
な外資を保全つまり借金の取り立てであったと言われる。だが日本からは兵力7万3千
人、約9億円の国家予算(当時)という巨額の戦費を投入して3千人〜5千人の死者を
出し撤退した。ロシアでは元々経済は破綻して近代化の遅れで戦いに敗走を重ねていた
。1917年に2月革命、11月にはレーニンのボリシェヴィキ社会主義革命を経て翌
年帝国は崩壊した。仏英と戦争を起こしていたドイツは単独で講和条約を結び仏英と向
かいあったのだ。仏・英はこれにより大攻勢をかけられて苦戦し、連合国としてドイツ
と共に、同時にロシアの革命政権を打倒する道を叫んだ。こうして干渉戦争を開始し、
ロシア極東のウラジヴォストークに「チェコ軍捕囚の救出」を大義名分に出兵した。日
本でも出兵論が大勢を占め出兵を決定した。海外の知識層はレオナード・ハンフリーズ
意見も同じ分析をしている。「当時の日本側の事情として、領土獲得への野心、日露戦
争後に失った利権の奪還、地政学的な理由であるロシアと地理的に近い事や、さらには
日本の利権が絡んだ満州、日本統治下の朝鮮半島は直接ロシアと国境を接していた等の
みならず、政治的・イデオロギー的な理由もあった。すなわち、日本の政体(国体)で
ある天皇制と革命政権のイデオロギーは相容れない以上、共産主義が日本を含めた同地
域に波及することをなんとしても阻止する必要があったのであろう。」としている。が
これは他の内情もあった。陸軍と海軍の勢力争いと張作霖や朝鮮半島の策動である。こ
の事で張作霖は完全に日本軍の下を決意したし、逆に共産党員が地下活動、即ち諜報戦
に移ったのは間違いなかった。政府としては日露戦争の賠償に国民が不満であった事の
解消材料としても利用した。当初のウラジヴォストークより先に進軍しないという規約
を無視し、ボリシェヴィキが組織した赤軍や労働者・農民から組織された非正規軍たる
パルチザンと戦闘を繰り返し、北樺太、沿海州や満州を鉄道沿いに侵攻。シベリア奥地
のバイカル湖東部までを占領し進軍した。だが張作霖の決意を幣原外交はくじいた。


481: 名無しさんAA:17/09/21 18:14
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 130

 こうして、最終的にバイカル湖西部のイルクーツクにまで占領地を拡大した。各国よ
りも数十倍多い兵士を派遣し、各国が撤退した後もシベリア駐留を続けた。又この時に
占領地に傀儡国家の建設を画策。日本はロシアのみならず、イギリスやアメリカ、フラ
ンスなどの連合国からも領土的野心を疑われた。だが北方からの憂いを取り除き撤退し
たかったのは当然であった。このシベリア駐留は1918年のドイツの帝国革命が起こ
って停戦協定を結び、連合国各国が引き揚げても駐留した。既にシベリア介入の目的を
失い1920年には相次いで撤兵したが、日本軍は更に単独で駐留を続行した。翌年の
ワシントン会議開催時点で出兵を続けていたのは日本だけであった。こうしてロシア側
も境界の防備の必要性を学んだのだ。その時 ロシア帝国は清の間で結ばれた北京条約
(およびその後の補助的な国境に関する合意)に基づき、国境線は満州と中華との国境
を「張鼓峰頂上」を通過していると考えていた。一方、日本側の方は「張鼓峰頂上一帯
」は満洲領であるとの見解を持っており、ソ連側は国境線を曲解して、国境線の標識は
改竄させたものだと日本は主張していた。いずれにしても、この丘の防衛を担当してい
た朝鮮軍第19師団は国境不確定地帯として張鼓峰頂上に兵力を配置していなかった。
この国境問題がノモンハン事件として噴出した。基本的にこの地区を守っていたのは、
元々張作霖の奉天軍であった。ところが張作霖が爆死し関東軍になると手薄と見てか、
ソビエト国境警備隊の小部隊がハサン湖の西側高地の領域に入り、山に砲床、観測壕、
鉄条網、通信施設などを建設するなど、築城をはじめた。更にこれを監視中の松島伍長
を不法に殺害した。その地域の防衛を割り当てられていた日本の朝鮮軍は当初はソビエ
ト軍の前進を無視していた。しかし、管轄地域が張鼓峰で重なっている関東軍は、ソビ
エト軍の企図に疑惑があるとして、もっと対応するよう朝鮮軍を後押しした。これを受
けて朝鮮軍はこの件を東京に知らせ、ソ連に対して正式に抗議するよう助言した。この
国境の曖昧だった地帯は、長年スパイ戦に使われてスパイの巣窟だったのである。この
シベリア出兵に時、日本軍が撤退しなかったのには政治的理由よりは日本人気質、人情
がそこにあった。と言われる。1918年から1922年までの間、連合国が勝手に、
「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分で内政干渉して行っ
たシベリアに出兵であったが、真面目にそれを受けて行ったのは日本だけだった。この
オールド・ボリシェヴィキが指揮して起こした十月革命者は特に政治犯とポーランド人
をナチスのユダヤ人迫害の様に次々にシベリア抑留して収容所に送った事から始まる。

482: 名無しさんAA:17/09/21 18:28
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 131
ロシア皇帝退位時のロシア革命時には「パン・土地・平和」をスローガンとして掲げた
を目の前にして「平和を求める大衆の意見を尊重すべき」とのトロツキーの意見が反映
されたものとしいる。その市民革命は「パンが無ければお菓子を食べればいい」との声
に集約される。ボリシェヴィキはメンシェヴィキや社会革命党に比べ少数派であったが
、人事と要職を握って「多数派」を名乗り粛清し押さえた。政権取ったその後も粛清を
繰り返し暴力革命を主張した。こうして徹底した中央集権による組織統制が特徴とする
共産党体制が産まれて、そのまま後身である ソビエト連邦共産党へと引き継がれた。
ボルシェヴィズムスは第一義的にロシアの共産主義者を指し、過激なロシア第一主義に
過ぎなかったが、それを隠して共生社会を掲げた。帝政ドイツやナチス時代にはドイツ
の中の社会民主主義より最もに急進的な過激思想を指した。つまり日本語的にはゆるい
共済社会を社会主義とし 過激なヤクザの様な過激な殺人を厭わない共済社会を共産主
義と呼んだが その通りの暴力的世界革命を平和な共生社会の経過であると国際旅団を
作って諜報活動に暗躍していた。ロシアのサンクトペテルブルクモスクワ鉄道の開通を
受けてこの便利さが支持され、サンクトペテルブルクワルシャワ鉄道、モスクワニジニ
・ノヴゴロド鉄道などが次々と予定され、その反対には国際旅団は活躍した。こうして
早くもこの鉄道輸送網の完成を見て発達は極東地域との格差を産んでいた。1860年
代には既に鉄道事業および鉄道監督行政を所管する官庁を整備し1865年、皇帝アレ
クサンドル2世は勅令を出し、内務省と逓信庁電信部門を統合したロシア帝国運輸通信
省を発足させていたがとん挫していた。こうして1867年には運輸通信省建設総局が
出来て鉄道網整備が急務である事になって、この時此処に労働者や技術者の必要性が出
た。此処に強制労働者としてポーランド人を送り込んでいた。当時ロシア帝国は この
ポーランド人政治犯などを多数シベリアに流刑し、ロシア革命当時のシベリアには相当
数のポーランド人がいた。その後、ロシア革命の混乱と1918年のポーランドの独立
によって、多数のポーランド人の孤児(シベリア孤児)がシベリアに取り残され、その
保護のために力を貸す国は殆どなかった。シベリア出兵中にポーランド孤児を救出し、
彼等を祖国に帰還させる事業で陸軍は動いていた。1920年に第1次ポーランド孤児
救済が、1922年に第2次ポーランド孤児救済がそれぞれ行われたのである。こうし
て約815名の孤児が帰還を果たした。このシベリア出兵に従事し孤児を救った51名
の日本軍将校に対し、ポーランド政府はヴィルトゥティ・ミリターリ勲章を授与して、
その功績に報いた。


483: 名無しさんAA:17/09/21 18:45
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 132

 幣原外相は米英が同盟を求めた形でも仏国まで入れた同盟にした。つまりこれにより
米英の対共産党対策の諜報活動の情報は途絶えた。又田中義一や台湾政府の声を聞かな
い事で 現場の緊張には無知のままの外交活動をつづけた。こうして日本は誇張した力
の情報にドイツに引きずられた戦争となった。この戦争時においても「共栄圏構想」は
西はバイカル湖から一直線にビルマまで東はアリューシャン列島からガダルカナルまで
と言う途方もない範囲を自由勢力圏と想定していた。戦後の幣原内閣は1945年の東
久邇内閣の総辞職を受け、昭和天皇の依頼を受けた内大臣木戸幸一が中心となり、平沼
騏一郎、吉田茂らの協力により幣原喜重郎が首相候補となり出来た内閣だ。組閣の大命
が幣原に下り10月9日に内閣が成立した。当時の日本ではアメリカ合衆国ら連合国の
占領下にあり、幣原の訪問を受けたダグラス・マッカーサーにより五大改革と憲法の自
由主義化が示唆されるなど、連合国軍最高司令官総司令部の強い影響下にあった。幣原
内閣は憲法改正や社会立法に取り組む一方衆議院を解散し戦時色の一掃を図ったものと
みなされているが、GHQは幣原内閣の改革の取り組みが消極的だとして、同年のうち
に財閥解体などの急進的な改革や戦犯逮捕、総選挙期日の延期などを指示した。翌年に
公職追放令が発布され、これにより内閣自体の総辞職の危機を迎えたが、内閣改造によ
り存続し、総選挙の時期も3月以降の実施許可をGHQより得た。この間に内大臣府が
廃止され、また陸軍省と海軍省もともに廃止されて、これを改組した第一復員省と第二
復員省が新たに設置されたのだった。陸軍省は明治5年に兵部省から分離し、海軍省と
ともに設置されたものだ。太政大臣の統制下に軍政、軍令を一元的に統轄するフランス
型の陸軍組織として発足したが、後では軍令機関を独立させプロシア式に改められる。
1878年(明治11年)に参謀本部が設立されると、1900年(明治11年)には
専門教育重視のために教育機関として教育総監部を独立させて純粋な軍政機関となった
。解体され改組される時は旧陸軍省の資財は大蔵省に一括移管された。陸軍省の資料の
一部は、防衛省、厚生労働省に引き継がれている。また陸軍軍人の兵歴は当時の連隊区
司令部から都道府県に引き継がれてた。ところが海軍省は内閣の省であり、海軍大臣は
、天皇によって任命された。海軍大臣の職務は海軍軍人の監督など海軍軍政の管理であ
り軍令権は持たなかった。また大臣は現役の海軍大将又は中将が任命されていた。この
時幣原内閣は初めて 自分の間違いに気づいた筈だ。如何に多くの英霊で歴史があった
かと。それを全権大使で米英に引きずられた事で 日本に地獄を招いた事を知る。

484: 名無しさんAA:17/09/21 18:45
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 133

 こうした体制が田中派が外交の中心に往かず 更に陸軍の戦争の開戦派を産む結果と
なった。又国際会議の軍縮会議などで海軍大臣が長期間日本国内にいない場合は内閣総
理大臣による兼任や、臨時の海軍大臣を設けたが これらの出席も海軍の役務であった
為 現地の事情と国際会議なり国際情勢との乖離が進んだ事も 日本の悲劇の要因の一
つになっていた。幣原外交は1922年やっとワシントン体制を作り上げワシントン会
議で締結された九カ国条約、四カ国条約、ワシントン海軍軍縮条約を基礎とするアジア
・太平洋地域の国際秩序を維持する平和体制の礎を見た事の成功を日本政府が生かせな
かった事にある。又国際社会はこの条約によって守られるべきものを守り切れなかった
。先に言った様にソ連の武力による世界共産革命を叫び諜報活動やテロ活動は止められ
なかった。それどころかこの条約はこの赤隊とされる潜入コミンテルンを切り落とす時
の足枷にすらなった。そして中国では毛沢東以下こうした国際的約束は全く関知せずに
ソ連の支援をうけて 誤報拡散や中心部爆破など攪乱と動乱焚き付けを数多く起こして
いた。それには理由があった。一つは中国人の野心だ中国政府は政府内でも多くの競争
があったし誰も統一中国など望んでなかった事だ。一つはロマノフ王朝が集めていた、
金銀財宝の金を持っていて資金は豊富だった。更に一つは食糧基地が国内に無かった事
だ。国民を雇う豊富な食糧は全て周辺の諸外国に頼る事しか無かった。トナカイの肉で
さえ言葉の通じない放牧民から買っていたのである。つまりはロシアでもソ連でも自国
民の胃袋を満たす為には 自給自足は出来ず常に周辺国の離反を止める事が仕事であっ
た。これが南下政策のもとであり戦争の要因であった。周辺国も自国民の食糧を失くし
までは輸出しないのだ。この開発にも強制収容の強圧的侵略が北欧や東欧になされて、
この極東開発に収容者を労働力として移送していたのである。幣原は大正から昭和にか
けての、第二次護憲運動で成立した加藤高明内閣の外相に就任した。加藤は第一次大戦
中に大隈内閣の外相として中国に対華21カ条要求を突き付けたことで知られる。この
年代は所謂大正デモクラシーの申し子だった。護憲三派運動を通じて協調外交路線に転
換していたというは日本に欧米文化が浸透した証でもあった。だが幣原や加藤はその中
でも代表するお坊ちゃまだったのだ。共に岩崎弥太郎の女婿で権勢も財力もあり格差の
是正に取り組まず 軍部財界一般庶民などの隔壁が産まれていたのである。これが確執
を産み誤情報と国策の判断ミスに繋がっている。戦後はその間違いにGHQは怒り修正
に追われたと言う。憲法草案でも幣原は理解していたが「松本案」が出てきた事にその
乖離が証明できる。

485: 名無しさんAA:17/09/21 18:59
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 134

 幣原外交は失敗の連続で これが今の日本を決定づけた。「国際協調主義」が特徴と
されるが、幣原の友好外交は、ひどく現状を無視するものであった。後の松岡外交同様
、日本を害する物でしかなかった。支那に甘い与えて舐められ。支那に関する現状を知
らされても、思い込んだ平和外交主張を変えなかった。日本とイギリスは支那における
利益が一致する為平和外交路線が英国寄りならまだよかったが、米国の言いなりだった
。既に米国で排日移民法が可決されていた。当時米国に行ける者は満州に行く必要はな
い感情が国民の間にあった。だが、一方的に絶対的な排日移民法を作ったので、外交に
対する国民拒否が出来た。イギリス租界奪取事件の時でも、イギリスは2万3千人の軍
隊で共に列国に同調を求めている。清朝から支那騒乱が起こり外国人居留民の安全が脅
かされた場合は、列国は出兵するのは北清事変同様 決まり事だった。ところが、幣原
は断固として出兵を拒否してしまったのだ。シベリア出兵以来の信頼が疑心に変わった
瞬間である。この日本の平和的というより意味不明な軟弱な態度は、逆に支那人の侮日
感情高め、幣原外交の継続を拒否する事件を起こし続ける。それが南京事件や漢口事件
であった。日本は英国や米国などと同じように大被害を受けていた。だが、日本だけは
報復せずに、居留民の一方的な引き揚げを決めてしまった。これは、支那共産党運動の
過激化する支那ナショナリズムや中国に暗躍する共産党の思うつぼで、弱腰に映った姿
は。「暴れれば日本人は逃げる」と支那革命運動の拡大と矛先の集中を促したのだ。こ
の幣原の軟弱外交はその頃の、大正天皇の崩御(1926年12月)と昭和天皇の即位で国内
の注目は釘付けとなって「南京事件」と平行して「昭和2年の金融恐慌」が起こって、
うやむやになったからだ。この政治の大混乱が落ち着くと幣原への大非難が起こるが、
時すでに過ぎて次のステージに移ってしまう、このことが日本に大きな悲劇をもたらす
。これはまるで頭の良い大学生がオウムに入信する様に 幣原は留学時代に秘密結社の
平和主義者団体に入り込んでいた事を物語るのだ。正に秘密結社ユダヤのシオニストの
ロッジ経営の面妖で醜悪な核心である。ロシアの南下と地域の自立更にイスラムユダヤ
などの原理主義集団の策謀と難民移民の移動は大きな国際問題である。ここに選民主義
の主張の破綻がある。知識や人格のない者の歴史的委譲である。破壊される世俗主義は
破綻でしかない。責任のない権限や財力は悲惨な欲望に果てる。此処に日本の戦前教育
の大事さと価値がある

486: 名無しさんAA:17/09/21 19:00
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 135

弊害がすでにあった「幣原外交」がこの親からの権勢と財力で又再開されてしまう。
このため満州の日本人はさらに我慢に我慢を強いられることになった。そして我慢に何
らかの展望も失われた外交方針が出る。幣原の満州問題対策は、「被害に遭うのが嫌な
ら、引き揚げて来い」という方針だ。明治の昔に政府の政策に従って満州に赴き、何十
年も営々と努力して築いた財産や生活基盤を、少し情勢が悪いからと放棄して帰国せよ
、と言われても納得できるものではない。更に当時の日本経済がほとんど崩壊しては、
国内政治の安定は 朝鮮工業地帯と満州鉄道経営から出来ていた。政局が大波乱を呼ぶ
ことは目に見えていた。幣原が再び外相をやった時「日支関税協定」を結んで支那での
関税自主権を認めた。これは日本の「抜け駆け」として非常に他の列強から嫌がられた
。だがそうした恩恵を支那に与えながら、帰ってきたのは「満州赤化拡大」と「排日暴
動熾烈化」だけだった。こうして日支関係が好転するかに見えたその時期、幣原外交の
間違いで満州は赤化され、支那中央政府の支配の及ばぬ間島地方の反日暴動となって既
に中国大陸は混乱の極地で後戻り出来ない重大化をした。お坊ちゃま外相の英国式ブル
ジョアの所謂西洋列強に合わせた鹿鳴館外交の延長であり 不平等な通商条約締結と同
じに身分を自己保全する姿勢のままだったのだ。そこには俯瞰視野も将来展望も過去の
英霊達の意志や歴史は微塵もなかった。ただの共産党秘密結社ロッジの性格そのものだ
った。ハーディングは共和党のオハイオ州知事候補指名運動を始めたが、共和党大会で
指名を勝ち取るものの、党内進歩主義派と保守派の分裂によって、民主党の現職ジャド
ソン・ハーモンに敗れている。この当時共産党支援の共和党で第一次世界大戦後にアメ
リカ合衆国大統領になったウォレン・ハーディングの提唱で開かれた国際軍縮会議にて
、ワシントン会議においては全権委員をつとめたのである。これは北朝鮮の6ヶ国協議
に似ていて生粋の平和主義者のふりで柔和な物腰、そして『敵を作らないでください』
という選挙戦略で立っていたが裏では賄賂の収受と違法な融資に国有油田を取引して貸
し出し「黒い血のハーディング一家」の一員であったし「オハイオギャング」の一角で
もあった。彼らが中国経営にも共産テロにも深く情報を持っていたのは確かなようだ。
陰謀の末に敗戦を期した日本の苦悩はそのまま世界の苦悩でもある。人の心の隅にある
悪の論理や鬼の業呈を今も尚残して 現代の豊穣を破壊するであろう予測が出来る。


487: 名無しさんAA:17/09/25 15:16
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 136

 そもそも「黄禍論」は昔から欧州にはあった。ただ相手はイスラム教徒だったりイン
ド人だったり或いはスキタイのモンゴル人だったりオスマン帝国のトルコ人だったり、
兎も角は南から攻めて来る怖い者の話で 当面はフランス人が攻めて来る「白禍論」の
方がドイツではより危険視され叫ばれていた。古来白人は、モンゴル帝国をはじめとし
た東方系民族による侵攻に苦しめられてきた歴史からの寓話であった。キタイと言う言
葉の直接の意味は、10世紀頃に華北にて遼朝を建国した遊牧民族「契丹」を指すが、
ロシア語においては(現在も含めた)「中国」を意味し、北方への対外侵略を常として
きた契丹と同一視する事で警戒心・畏怖の意味も込められている。そのため黄色人種は
、モスクワ大公国(後のロシア帝国)においては「タタールのくびき」として、また、
西ヨーロッパではアンチキリストがアジアから現れると信じられ、共に恐れられてきた
。だがこうした「黄禍論」が込められた寓意画『ヨーロッパの諸国民よ、諸君らの最も
神聖な宝を守れ(ドイツ語版)』をわざわざ各国にドイツ帝国の皇帝ヴィルヘルム2世
が送り広めたのである。ロシアのニコライ皇太子の殺傷事件である大津事件が背景にあ
るのかもしれない。というのも彼らはロマノフ家の末裔だからだ。日本が日清戦争やら
日露戦争で勝利すると「黄禍」という言葉が生まれ黄禍思想は日清戦争の講和条約に際
してロシア、ドイツ、フランスの行った三国干渉の会議で、人種理論の影響を受けたと
いうドイツ帝国の皇帝ヴィルヘルム2世は「黄禍」を説くことによって、それまでの汎
スラヴ主義や汎ゲルマン主義の対立によってドイツと敵対していたロシアを極東に釘付
ける為に、盛んに説いたと言われる。こうして黄禍論は広がり、近代で対象とされる民
は、主に中国人、日本人とされた。特にアメリカ合衆国では1882年に制定された排華移
民法、1924年に制定された排日移民法など露骨に反中、反日的な立法を建てられ、影響
が出ていた。明治21年よりヨーロッパ各地へ視察旅行に出て宮中での大日本帝国憲法
発布式典にも出て居なかった山形有朋は伊藤博文と共にその内容を把握していたのだろ
う。当時「シュタイン詣出」とさえ言われるほど日本政府要人らのウィーンの憲法学者
ローレンツ・フォン・シュタインを訪れていたが、山縣も訪問している。ほかグナイス
ト、クルメツキ、ビスマルク、ヴィルヘルム2世らのもとを訪問して帰国している。



488: 名無しさんAA:17/09/25 15:16
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 137

 早くからそのその才能があった山縣有朋は友人・杉山松助らに松下村塾への入塾を勧
められるも、「吾は文学の士ならず」として辞退し槍の稽古に励んで少年時代を過ぎた
。安政5年に長州藩が京都へ諜報活動要員を派遣する時その真面目さに6人中に選ばれ
、杉山松助・伊藤俊輔らとともに上京して、尊皇攘夷派の久坂玄瑞・梁川星巌・梅田雲
浜らなどと出会った。彼らの立志に感化を受け帰藩後には久坂の紹介で吉田松陰の松下
村塾に入塾した。しかし山縣が入塾したとされる時期は数か月で後に松陰は獄に下り刑
死することになっている。だが生涯「松陰先生門下生」と称し続けた事はその影響は大
きかったと言える。高杉晋作の奇兵隊創設とともにこれに参加し、武芸や兵法の素養を
活かして頭角を現し、高杉は身分にとらわれずに有能な人材を登用したため、高杉軍艦
時代に法教寺事件の責で身を引いた時奇兵隊軍監に就任して長州征討で高杉と共に活躍
しそのまま戊辰戦争では北陸道鎮撫総督・会津征討総督の参謀となった。長州奇兵隊や
新政府軍の中枢を任された山縣は軍政家であり続け、兵を率いて前線に立ち軍功を上げ
るということはそれほどはなかったが、日清戦争で元首相でありながら第一線に立った
者は居ない。日露戦争でも満洲軍総司令官就任を希望していたが叶わなかったという。
明治政府を立ち上げ明治2年に渡欧し、各国の軍事制度を視察し、帰国すれば直ぐに、
大村益次郎の実質的な後継者として西郷隆盛の協力を得ることで軍制改革を断行して、
徴兵制を取り入れた。その後、陸軍出入りの政商・山城屋和助に陸軍公金を無担保融資
して焦げ付かせたが山城屋の証拠隠滅工作によって、山縣に司法の追及は及ばなかった
が責任を取る形で明治6年に陸軍大輔を辞任した。しかし内閣において山縣に代わりう
る人材がなく、藩閥を嫌う採用に伊藤博文などの信任は厚く同年6月に陸軍卿で復職し
た。参謀本部の設置、軍人勅諭の制定に携わった。だが皮肉にも彼が陸軍だった為に、
西南戦争では官軍の事実上の総指揮を執ったため、さながら薩摩閥と長州閥の直接対決
の様相を呈した。士気の高い薩軍に対し、装備と物量・兵力で対抗し、積み上がる死人
に西郷は「もういいだろう。」と降伏にでたと言う。官僚制度の確立にも精力を傾け、
門閥や情実だけで官僚文官官吏が登用されることのないように文官試験制度を創設し、
後進を育成。山縣が軍部・政官界に築いた幅広い人脈は「山県系」「山県閥」などと称
された。


489: 名無しさんAA:17/09/25 15:16

 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 138

 伊藤博文の欧米視察後、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎らは憲法起草に参画して、
明治22年(1889年)2月11日に大日本帝国憲法(明治憲法)を公布することに至ったが
、当初の日本ではまだ法典整備されておらず、民間が成熟しきっていない無法地帯の国
家である。指摘とされていた。こうして欧州からの指摘で日本の憲法制定に大きく携わ
ることとなったのが、ルドルフ・フォン・グナイスト、ローレンツ・フォン・シュタイ
ンである。彼の言及に「その頭脳の中には黄色人には憲法は不適当なり、寧ろ生意気な
る所業なりとの観念を有したるが如し」との言葉があった。明治15年に当人について
学んだ伊東巳代治の意見でもある。「憲法とは国民本位に託されたものであり、憲法が
国民の権利を決める(保障する)ものではない。」との意味を示したとしている。ここ
に山田顕義が、岩倉使節団の一員として欧米視察から帰国後の、「兵は凶器なり」と指
摘した上申書(理事官功程)提出し、自身が遊学中に施行された徴兵令の延期を求めた
理由があった、その後山田は東京鎮台司令長官に任命されるが、11月には同職を解かれ
清国特命全権公使に任命されたが山田本人に渡清の意思はなく、佐賀に於いて明治政府
に対する士族反乱が起きてその任を解かれた。明治18年に内閣制度が発足し、山田は
第1次伊藤博文内閣初の司法大臣に就任する。明治20年には外務省が一時所管した、
法律取調委員会を再び司法省に戻し委員長に就任する。民法はフランス人ボアソナード
に、商法はドイツ人ロエスレルに原案の起草をさせ、法律取調委員会では民法・商法・
民事訴訟法、裁判所構成法などの草案が審議され、山田が議事を整理して事業に明け暮
れた。明治21年、引き続き黒田内閣の司法大臣に留任して12月に民法、商法の各法
案を黒田首相及び内閣に提出した。司法大臣として法典整備を進め、日本の人種・習慣
・風俗・言語など国家成立の要因、すなわち国体を明らかにし、その基礎となる国典の
研究の重要性を認識したことで、明治22年、皇典講究所所長に就任し皇典講究所の改
革を進めた。同所内に日本古来の法と外国の法を研究する教育機関として、日本大学の
前身である日本法律学校を創設し、その後も引き続き第1次山縣内閣の司法大臣に留任
し法の要を成文化した。明治24年、司法大臣に復職し直後にロシア帝国の皇太子・ニ
コライ2世が襲われて負傷する大津事件が発生した時は、犯人・津田三蔵への死刑適用
に奔走したと言われる。動乱の中で西欧列強の持つ2面性に日本があたふた事を物語る
。一方で人権尊重し 一方で内政干渉・領土侵害も辞さない姿勢は人間の本性のままだ

490: 名無しさんAA:17/09/25 15:17
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 139

 明治5年の、陸軍出入りの政商・山城屋和助の陸軍公金の無担保融資事件は山縣有朋
には相当のショックがあった。山城屋和助は政府要人と同じ長州藩出身という縁故での
兵部省御用商人だった。軍需品の納入などで、陸軍省の公金15万ドルを借用して買い
付けを行っていた。ところが日本からの銀の流出で陸軍省保管の現銀は価格低落を被っ
ていて買い付けできなくなっていた。そこで生糸相場に手を出したが、ヨーロッパでの
生糸相場も日本の参入で暴落にあっていた。こうして投機は失敗し。山城屋は陸軍省か
ら更に金を借り出し、フランスの商人と直接取引をしようとフランスに渡っていた。が
此処に一人の日本人がフランスで豪遊しているという情報が、フランス駐在中弁務使の
鮫島尚信やイギリス駐在大弁務使寺島宗則の耳に入り、日本政府本国の外務省副島種臣
外務卿へ連絡されたのである。陸軍省会計監督・種田政明が密かに調査を始め、「一品
の抵当もなしに」多額の陸軍省公金が貸し付けられていたことが発覚して、薩摩系陸軍
人と長州系陸軍の対立のある中で激しく追及するところとなる。山縣は陸軍中将・近衛
都督を自ら辞任することにした。翌年の明治5年、江藤新平率いる司法省による本格的
な調査が始まろうとしたが、山縣から至急の返済を求められた山城屋は公金返済が不可
能であった為、陸軍省内で割腹自殺を図りその際関係する帳簿と長州系軍人の借金証文
類も焼き払われていたため、事件の真相は解明されることなく、陸軍省会計監督の長船
越衛の処分をもって終わったのだった。こうして日露戦争前の混乱は数少ない海外取引
を担う有能な武士が 戦乱や派閥に埋もれて行く時代の中だった。野口遵(したがう)
がシーメンスから用済みになり曾木電気株式会社創立したのは1906年で丁度 日露
戦争の前夜であったと言える。シーメンス事件もシーメンス社員のカール・リヒテルが
シークレットペーパーを会社から盗み出し、買い取るよう東京支店長宛に脅迫文書を送
ったところに始まる。要求金額は25000ポンド今の日本円で5千万円程度だったらしい。
脅迫は拒否され失敗した。カール・リヒテルはこの書類をロイター通信特派員に売って
ドイツへ帰国した。こうした事件の背景にあるのが 当時のドイツ人にある「黄禍」の
思想であろう。つまり日本人は敵であり(黒人と同じ様に)植民地の奴隷であるべきだ
と言う思考である。この勝手に自分の優位に刷り替える思考は今の朝鮮民族まで伝授さ
れたのだろう。盗み信用を無くす行為に日本人は混乱して良い正義だと言う欺瞞だ。


491: 名無しさんAA:17/09/25 15:18
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 140

 この後その脅迫された連絡を受けてすぐさまシーメンス重役陣は動き、同社の信用失
墜と関係海軍将校への影響を怖れてもみ消しを図り、公表を阻止した。これを知らされ
た当時海軍大臣の斎藤実は「わが海軍部内にかかる醜事に関係する武官あるべからず、
秘密書類の公表はむしろ望むところなり」と回答し、内情調査をするよう連絡したが、
議会運営が始まり 政局重大の折でもあり海軍当局の正式な連絡後に司法活動を開始す
ることとし一応静観の態度を取った。その後シーメンスとプーレーの間で妥協が成立し
、1913年にシーメンスが秘密書類を50,000円(1憶)で買い取り横浜領事館で焼却
、一度事件は終結を見た。ところがドイツの秘密機関がこの経過を全て把握しており、
ドイツ官憲はシベリア鉄道で帰国するリヒテルがドイツへ入国した瞬間にこれを逮捕、
恐喝未遂罪で起訴したのである。判決は贈収賄があったと認定し、贈収賄が犯罪を誘発
したとして情状酌量を認め、カール・リヒテルは2年に減刑された懲役刑に処された。
公正中立をもって知られるドイツ司法裁判所ではあったがこの事件に限っては国際儀礼
に反して一審判決から日本海軍将校の実名をも進んで通信社に公表した。そこには対共
政策に悩みながら日本に商売するドイツの姿があった。と言うのも最先端の軍事物資を
扱うシーメンスはドイツでも重大な機密であったが国としての優位保持も大事だった。
山縣有朋はしたたかに交友関係を保っていた。国王ヴィルヘルム2世としては日本との
商売はしても 日本に技術は売りたくはなかったのだ。更に既に日露戦争で勝って貰っ
たが今となれば山縣の政界での権力は潰したかったのである。こうした利害関係一致に
よっての陰謀が図られたのだ。シーメンス事件当時検事総長だった平沼騏一郎も 後に
回顧録でこの説を容認している。山縣有朋は薩摩閥・海軍と対立していた長州閥・陸軍
の代表的存在に変化していたからであった。更にこの少し前に日本海軍の活躍によって
日露戦争に勝利、「日本海軍育ての親」と称される山本権兵衛が首相となり山本権兵衛
は陸軍の主張であった軍部大臣現役武官制を一部廃止、陸軍の二個師団増設案を拒否、
山縣有朋が議長を務め天皇のブレーンとなっていた枢密院の定員削減などの行政改革を
していながら八八艦隊建設計画予算を計上していた。ヴィルヘルム2世は日英同盟から
の対抗の海軍拡張を進めており、イギリス海軍の分身とみなす日本海軍の金剛型戦艦4
隻を「ドイツ東洋艦隊を無力化する」としての脅威に感じてもいたのである。こうして
日本は注目を集め スパイ天国の国になり折角の国際的進出も道を誤らせられるのであ
る。陸軍軍閥を潰したい。海軍勢力は抑えたい。日本そのものを潰したい。ドイツの思
惑であった。それは同時に国際社会の誤りにもなり 現代までその禍根を残す。

492: 名無しさんAA:17/09/25 15:19
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 141

 こうして欧州戦乱の 米国英国Vs仏国蘭国がいつの間にか米国英国仏国Vs蘭国独
国伊国になり更に露国が入ってトルコなどの植民地が入り 東洋は奇妙な位置づけが、
があったが、日本がロシアに勝った事で更に奇妙な地位に降り立つ事になったのだった
。日本が開国し経済的には恵まれて1$1円時代に突入する頃、正にジパングで大量の
金の放出時期であった。正式に日本政府の発行券が流通する時代に到来するのだが、こ
れが先の海外製品や株が暴落した原因でもあったと言う。この通貨乱高下に伊藤博文さ
えも、奴隷商人によって米国内で売られそうになった事もあった。この後八幡製鉄所の
構想で九州電気軌道の軌道敷設計画が起こるのだが。これに日本政府は多くのドイツ人
イギリス人を雇った。最先端機器を必要とした時、基本的システムはイギリスに学んで
いたが 電化技術や軌道運搬や化学産品はドイツに学ぶ機器しか存在しなかったのだ。
明治の移行期に柳川近郊の足踏みの水車を作った者がいたがそこに一人の弟子が居た。
田中久重である。佐賀に反射炉が出来たのは江戸期でありアームストロング砲の改良型
が既に出来ていた。更に長崎のグラバーは既に多くの筑後茶で商売をしていた。この街
道沿いが現在の大木町や筑後市である。明治期では此処は多くの海外からの物が頻繁に
大川港を介して動いていた。浮羽から大川までは古くからの筏船が動いていた流通経路
が存在していた。水沼回廊と言う水路運搬も次々に出来て行った。運河計画もあった。
此処に当時の貯木場が今の八丁牟田近郊にあったとされる。八女金山をして金を納めて
いた逸話のある荒くれの金納氏がいたが此処に言う天才細工師が居たのだ。彼が作った
足踏み水車は少年さえ抱えるほど軽く高い3m程の段差さえも水を揚げた。と言われ更
に足で回転させる事も摩擦が少なく簡単に回ったのであった。彼は田中義右衛門の師匠
の様な人だったと言われる。田中久重は江戸時代後期から明治にかけての発明家で佐賀
藩の反射炉で作業をしている。その後「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」と呼ば
れて、芝浦製作所を設立し後の東芝の重電部門の創業者となったが、筑後国久留米の鼈
甲細工師・田中弥右衛門の長男だった。蘭学狂いの鍋島直正が治め佐賀藩の精煉方に着
任していたのは佐野常民が幕府注文の蒸気鑵(ボイラー)を製作する任を受けていたか
らだったと言う。空気圧で灯油を補給する無尽灯を売り出した田中に、白羽の矢をたて
てボイラーの試作を行う事にしたのである。佐賀藩が鉄砲やアームストロング改良砲を
売って財政立て直しに、成功した頃の話である。


493: 名無しさんAA:17/09/25 15:20
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 142

。“からくり儀右衛門”久重と“肥前の妖怪”鍋島閑叟の出会いを生み出したものは、
先代の佐賀藩の汚名であった。久重は高い志を持ち、創造のためには自らに妥協を許さ
なかった。芝浦製作所を作る時久重は、「知識は失敗より学ぶ。事を成就するには、志
があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、その後に、成就があるのである」との
言葉を残している。これは鍋島閑叟の意志でもあったのだろう。フェートン号事件以来
長崎警備等の負担が重く、更にはシーボルト台風など佐賀藩は悲惨な状況であった。借
財返済を申し立てた商人に、斉正の大名行列は進行を停止せざるを得ない屈辱的な経験
をもしているぐらい財政破綻に陥っていた。かつて1808年に、オランダ船拿捕を目
的としてイギリス海軍の戦艦フェートン号が、偽りのオランダ国旗を掲げて長崎入港し
た。通常業務として阿蘭陀館長や通訳が船に近づくとすぐさま人質にし、英国国旗を掲
げた。要求は水や食糧や燃料を求めた事だが、これは長崎警備の佐賀藩にとって寝耳に
水の厄難であった。2日に渡り停泊し食糧や水の補給すれば人質を解放して終わった。
終われば日本側に人的・物的な被害はなく、人質のオランダ人も無事に解放されて事件
は平穏に解決していたのだが、幕府は許さなかった。勝手に兵力を減らしていたからだ
。長崎奉行松平康英は、国威を辱めたとして自ら切腹して果て、鍋島藩家老等も責任を
取って切腹した。さらに幕府は、鍋島藩が長崎警備の任を怠っていたとして藩主の鍋島
斉直に百ヵ日蟄居閉門を命じた。しかし38門艦フェートン号には片方の側砲に16門
の大砲が備えられた戦闘艦であった。。対して日本にはそうした軍艦は一つも無く上申
するも幕府は備える事が出来なかったのである。その為にグラバーを通じて佐賀藩は大
きく商売に出た。既に細々と陶磁器やお茶が売れていたが借財して土地を売り嬉野茶を
育てり川内に今まで職人芸だった焼き物を分業し集団制作に変えたりはしていた。この
空砲を打つ軍艦ではあったが相当な衝撃だったはずだ。阿蘭陀人の指導を得て反射炉を
作り隠れて大砲や軍艦制作まで行う事にしたのである。当時武器輸入は長崎のこのトー
マス・ブレーク・グラバーを通じて行われていた。スコットランド出身の武器商人とし
て、幕末の日本で活躍した者だ。彼は明治維新後も造幣寮の機械輸入に関わるなどした
が、武器が売れくなり諸藩の資金回収が滞りグラバー商会は破産してしまった。大森氏
となって帰化し、高島炭鉱の実質的な経営者として喰いつないだ。帰れなかったのだ。
官営事業払い下げで三菱の岩崎弥太郎が高島炭鉱を買収した時、所長として経営する。
明治18年1885年以後は三菱財閥の相談役になり、経営危機のS・B・ブルワリー
の再建参画を岩崎に勧めて麒麟麦酒の基礎を築いた。

494: 名無しさんAA:17/09/25 15:21
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 143

トーマスグラバーは日本初の商業鉄道が開始されるよりも前に蒸気機関車の試走を行い
、長崎に西洋式ドックを建設し造船の街としての礎を築くなど日本の近代化に大きな役
割を果たしたと言われる。1830年隠居の後を受け17歳で第10代藩主になるが、
先代藩主・斉直はいち早く海軍時代を予想し阿蘭陀から軍船を買っていた。この電流丸
(でんりゅうまる)は佐賀藩所有の軍艦。排水量およそ3百トンの木製コルベット艦だ
った。購入金10万ドルは安くなかったはずだ。安政の大地震が東北に起きた頃だった
為、米相場の米輸送で儲ける為と言える。この大川の対岸の八重津と呼ばれる早津江港
に着いた時は大老井伊直弼が就任した時であった。電流丸はコルベット艦で一層の砲甲
板しか持たず、大きさはフリゲートよりも小さかった。それでも大砲を何門か備えてい
た。江戸時代にこの藩が買ったのは脅威であった。父親の斉直でも受け継いだ時佐賀藩
では1万5千貫の借金があり、財政が破綻寸前となっていた。この為斉直は財政再建の
藩政改革に取りかかっている。まず、経費節減政策を考えている。支藩の肥前鹿島藩の
廃藩、次に長崎警備の任務の返上である。長崎警備には莫大な費用がかかり内密で熊本
藩に引き継いでもらおうとしたのだが幕府に見つかるのだ。鹿島廃藩も小城藩や蓮池藩
の反対でとん挫しその中でフェートン号事件が起こったのである。その後も江戸藩邸が
焼失しシーボルト台風の襲来で財政はさらに悪化し、借金は13万両に膨れ上がるので
ある。この中で電流丸を買い付けしているのだ。斉直に百ヵ日蟄居閉門を命じられた時
多分色々と考えたに違いない。大坂船場に移り住み折りたたみ式の「懐中燭台」、灯油
を自動補給する灯明の「無尽灯」考案し京都へ移ったが、天文学を学ぶために土御門家
に入門している。この土御門家は薩摩藩お抱えの公家のはずだ。土御門家は、安倍清明
以来続く陰陽道の家柄で代々、幸徳井家とともに暦の制作にたずさわっていた家柄だ。
又嘉永6年(1853年)佐野常民の薦めで蘭学狂いといわれた鍋島直正が治める肥前
国佐賀藩の精煉方に着任し、国産では日本初の蒸気機関車及び蒸気船の模型を製造する
のだが この佐野の産まれた所が肥前国佐賀郡早津江村で佐賀藩の三重津海軍所である
。東芝の創業者であり、“東洋のエジソン”と呼ばれた奇才な発明家、田中久重がここ
に来るのに多分に薩摩藩の土御門家を通じた援助があり佐賀藩自体は長崎出島まで密輸
を行う起点として三重津海軍所を作ったと言える。幕府の目を盗んで。幕府としても、
この長崎奉行の警護には佐賀藩が欠かせない存在で大目に見たのだろう。


495: 名無しさんAA:17/09/25 15:23
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 145

 かつて日本は長い間 銀を送って銅銭を手に入れる事で貿易を行っていた。それには
理由が2つあった。つまり銅鉱山はかなり危険な成分を含んだ鉱石と存在した鉱山だっ
たからだ。日本での銅鉱石は多くは黄銅鉱や硫化鉄で少量の有害な物質と半分程の不要
鉱物だった。今でこそ精錬法が電気精錬などが出来てそう危険では無くなったが明治の
時代までその精錬には 有害なガスと有害な水溶液と危険な作業が重なり合った場所で
あった。精錬に要する火力は鉄に匹敵し更にガスの対処するには屋外同様の環境で作業
するしかなかったし 掘り揚げる鉱山も炭鉱の危険さと同じ上に触る石が有害だった。
 国内の銅の存在は鉄より古い。銅鉱石を初めて産出したのは西暦698年(文武2年
)には、因幡国(鳥取県)から銅鉱を朝廷に献じたと伝えられて記載されている。また
708年(慶雲5年)には武蔵国秩父から献上された銅を用いて貨幣(和同開珎)が作
られ、年号も和銅と改められたとなってその通貨価値も古い。最近7世紀後半の飛鳥池
の遺跡から発見された「富本銭」も、鋳造は700年以前に遡ることが確認された。又
、遺跡からの溶銅の大量出土はその当時の産銅量が既に一定の水準に達していたことを
物語っている。それでも平家の時代わざわざ貨幣改めをする程に一般に流通していない
。銅を中国に求めたほど発達しない物だった。精錬技術が危険でそのまま伝わらなかっ
たし銀の生産の方が効率的だったからだ。その昔中国では、金・銀・銅のいずれも「金
」と総称していた。必要ならば金を黄金、銀を白金、銅を赤金と区別していた。それが
「銅」の文字の語源である。だが銅は合金であってその不純物との化合具合から、発色
が違っていた。日本の場合銅金(あかがね)と呼ばれた。黄銅や青銅はさび付きやすい
古代銅であった為だ。江戸時代には精錬技術が発展し、純度の高い銅を素銅(すあか)
、不純物を多く含む銅を山銅(やまがね)と呼び、区別した。中国の字典には赤銅の記
述がされ 赤銅(しゃくどう)は金を数パーセント混ぜた銅合金を示すとされる。対し
て金銀は灰吹法が導入されて簡単に純度をあげられた。つまり粉末の金銀が鉛と化合し
熱によって素皿に鉛を吸わせる事で簡単に抽出できたからだ。鉛中毒の恐れはあるもの
の鉱山の外でのフイゴによる容易な火力で出来たのだ。



496: 名無しさんAA:17/09/26 20:26
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 146
 だが室町時代には 既に町場鍛冶が起こっていてこの銅が鉄に含む化合物として大き
く必要となり、日本人は画期的な精錬法を編み出した。それは不純物を燃した後の銅を
高熱のまま高熱のお湯で冷やすのである。爆発の恐れはあるものの先の銀と鉛の化合物
を素焼きの皿に吸わして金や銀を抽出するように、沸騰したお湯につけて精錬する方法
は逆転の発想であろう。全国各地で各種の鉱物が続々と発見され、奈良朝および平安朝
時代にかけては青銅の仏像や仏具・工芸品などが盛んに作られ、749年(天平21年
)聖武天皇発願である東大寺大仏の建立で、銅の精錬・鋳造加工技術は著しい進歩を示
した。ところが銅の精錬は秘密裡に行われたのだ。室町時代にはいると中国・スペイン
・ポルトガル・オランダなどとも貿易が開かれましたが、そこは鉄の世界だった。鉄砲
その他の武器・貨幣・日常生活の器具等に銅に関する需要が内外ともに旺盛となったも
のの量そのものは増えない。と言うの銅の展延性は特に金属加工において重要であるが
銅鉱石の不純物の鉄の方が利用されたし、銅の細工は早々大きくも多くもない。ことに
江戸時代の寛文、元禄の頃銅は金銀にかわって長崎貿易の主力となり流通は藩財政の中
の財源だった為特に秘密裡に行われた。世界的に見て、それでも新大陸(米国)の銅山
がいまだ多く開発されていなかった頃の1697年(元禄10年)の銅の生産高は世界
一の約1000万斤(6,000トン)で、長崎貿易の輸出量はその半分にも達する状
況になっていた。銅製品が戦国時代の武将の鎧兜で多く必要とされていたのだが その
原料は精錬はそう必要が無かったが 海外まで有用な品物となった時その精錬法は見直
されたと思われる。江戸時代末期の1853年に、ロシアのエフィム・プチャーチンが
来航し、蒸気で走る模型を披露したり1854年、アメリカのマシュー・ペリーが江戸
幕府の役人の前で模型蒸気機関車の走行を実演した記録があるが、その後いち早く18
65年の元治2年に、このグラバーは大浦海岸において蒸気機関車(アイアン・デュー
ク号)を走らせている。アイアンデュークは圧力タンクと蒸気機関の名称で、その汽船
や機関車が当時では最先端の速さを持っていた。大きさは小さいがアメリカ西部では、
数多く使われ ゴールドラッシュ時の移動から第二次世界大戦のアメリカ産業を支えた
。恐らくは、イギリス本国にこの日本との交易の危機を訴えてすぐさまその対策として
汽車を取り寄せ、それに合わせた線路を敷いたと思われる。この汽車は、1865年(
慶応元年)に上海博覧会に出品されていた英国製の蒸気機関車をグラバーが買い取って
、客車2両を引かせて、石炭が無く木炭で走らせたらしい。長崎(現在の市民病院前)
〜大浦海岸(現在の大浦川)までの約600mの線路を敷設して走らせたのである。この
購入額はかなり高かかったといえる。

497: 名無しさんAA:17/09/26 20:26
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 147

1851年イギリスから始まった、万国博覧会は異様な盛り上がりと国際的祭りとして
斬新な物で、イギリスの産業革命を強く彩る祭典だった。これを機に1853年アメリ
カニューヨークでも開かれ日本にも知らされた。この事はフランスを刺激し、1855
年にパリ万国博覧会ナポレオン指導で行われた。この時正式な日本の参加は無かったも
のの中国やインドと一緒に陶磁器が飾られたとされる。その後も英国は精力的に第4回
を1862年にロンドン万国博覧会として200日開催している。その後1867年に
第二回パリ万国博覧会が 幕府および薩摩藩と佐賀藩が参加した形で行われた博覧会で
有名であるが、既にその前の英国のロンドン博覧会でも正式参加ではないが、駐日英国
公使のラザフォード・オールコックが、自身で収集した漆器や刀剣、版画といった日本
の美術品のほか、蓑笠や提灯、草履なども展示された。また、開会式には文久遣欧使節
の一行が参加し、日本が万博に関与した最初の事例となった。このコレクションに対す
るロンドンでの評価は、日本の国民性をみごとに表現したものとして高く評価され、ヨ
ーロッパにおけるジャポニズム流行の契機にもなった。こうして日本の展示品は現地で
は絶賛されたが、日本の使節団の見た視線は淵辺徳蔵『欧行日記』に「全く骨董品の如
く雑具」、「かくの如き粗物のみを出せしなり」と不満を書き残していて、使節団の一
員だった福沢諭吉が Exhibitionを「博覧会」と訳したと言われている。 この中国での
上海博覧会に佐賀藩のみが招待されて隠れて見学に行っているのである。もともとは、
英国の東インド会社では麻薬ではなく香辛料の運搬が主だった。高く売れたからだ。が
バグダッド人がインドのボンベイに「ディビッド・サッスーン商会」を設立してこれが
英国東インド会社による阿片の専売権を受け持つ事で 大きな東南アジアの三角貿易が
始まっていた。産業革命の結果、イギリスは陶器や絹織物を輸入して、綿織物を輸出し
たがそれが鉄に変わった。綿織物が高く売れなかったのだ。それは日本へ流れた綿花の
まま布団になったのだ。急速な革命的変化はインド、中国のあいだでと銀の交換が必要
だったがその対抗産物が無かった事で麻薬が三角貿易の対象となった。中国の税は銀貨
で納める事が決められていたからだ。イギリスからの綿工業製品が日本へ、インドから
の阿片が中国へ、中国から銀、日本から茶や陶磁器が輸出された。この商品の流れと逆
方向に銀が移動する。イギリスが買う茶よりも、中国が買うアヘンの金額が大きくなれ
ば、イギリスの貿易は銀が貯まる。こうしてアヘン貿易が中国の高い茶や陶磁器の貿易
を逆転して安い日本のお茶や陶磁器に変化してこれに佐賀藩は財政転化を図ったのだ。


498: 名無しさんAA:17/09/26 20:26
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 148

 1830年に佐賀藩を受け継いだ時藩の財政は既に火の車で多くの負債を返す宛はな
かった。唯一の産業は有田焼だったとおもわれる。これまで一人の者の成型加工絵付け
を分業化して 有田の町から川内町に移して大量生産体制を敷いた。1835年二の丸
焼失事件を機に佐賀藩を大きくする事を決断した。密貿易である。当時当番で長崎奉行
をしていた関係から 外国商人との関係は深かった。当時清国では阿片は悩みの種だっ
たが広く出回って居た為「弛禁論」と言う認めて関税をかけよ。と言う声まで現れてい
た。その後「吸引した者は死刑に処すべき」と言う声に林則徐を特命全権大臣に任命し
広東に派遣し、アヘン密輸を厳しく取締まった。1839年には阿片商人たちに「今後
、一切アヘンを国内に持ち込まない。」という誓約書提出させ、「持ち込んだら死刑」
と通告した。さらにイギリス商人が持っていたアヘンを没収、商館である夷館も閉鎖し
た。没収した阿片塊は海水に浸し塩と石灰で無毒化させ灰からも精製出来ない処分をし
1400トンを没収してそれを行い誓約書のない阿片商人を町から退去させた。この展
開にイギリス商人は阿片の引き渡しの要求には応じたが、誓約書の提出は拒否し、更に
英国人保護の為広東在住の全英国人を連れてマカオに退去した。だが九竜事件での船員
による現地民殺害を口実にマカオを武力封鎖して市内の食料を断ち、さらに井戸に毒を
撒いてイギリス人を毒殺しようと企んだ。ここで事態が飲み込めないまま東インド艦隊
のフリゲート艦が2隻だけ到着し 英国商人達は反撃にでるのである。これにたいして
英国議会は「不義の戦争」とする批判がある中、清に対する出兵予算案は賛成271票
、反対262票の僅か9票差で承認され、イギリス海軍はイギリス東洋艦隊を編成して
対清国開戦に及んだのだ。この艦隊出現で道光帝は驚き、強硬派の林則徐を開戦の責を
負わせて新疆へ左遷し、代わりの者に川鼻条約を結ばせた。ところが艦隊が撤収すると
強硬派の台頭によってその条約は破棄された。こうして南京条約が結ばれるまで戦争の
アヘン戦争が起きるのだが 中国のジャンク船はイギリスの火力の前には全く歯がたた
なかったのである。こうして1842年南京のイギリス海軍戦列艦で、イギリス全権代
表清国全権代表での南京条約が締結されるまで続いた。1. 香港島割譲  2. 賠償金
2,100万$を四年の分割で支払う  3. 広州、福州、廈門、寧波、上海の5港の開港
 4. 公行の廃止による貿易完全自由化などを認めさせた。この戦闘によって代用品と
して日本の陶磁器やお茶や刀や木製品を浮世絵など包み送り日本産品の名声を得たのだ
った。

499: 名無しさんAA:17/09/26 20:27
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 149

 この1865年(慶応元年)に上海博覧会において 出品されていた英国製の蒸気機
関車「アイアン・デューク号」を買い取り、客車2両を引かせてたが、この博覧会が、
清とイギリスとの間で1840年から2年間にわたって行われたアヘン戦争のしこりを
のぞき 日本などとの商取引を大きくしようとした英国の催し物であった事は間違いな
い。加えて武器取引や阿片商売更に奴隷交易といった暗いイメージで敵対される視線を
そらす為の重要な布石であった。国際的欧州社会は大きな転換期を迎え、米国すらも、
国内経営に切り替え 他国との競争時代になったのだ。幕末の文久2年西暦1862年
9月14日に、武蔵国橘樹郡生麦村において、降って沸いたような突然の事件が起こっ
た。薩摩藩主の島津茂久の父・島津久光の行列に、乗馬のままの乱入したイギリス人達
がいた。当然供回りの藩士たちは防備の任に当たり1名死亡 2名重傷した。有名な、
生麦事件である。4人はこの日、東海道で乗馬を楽しんでいたとあるが、観光で川崎大
師に向かっていたともいわれる。この時死亡したのが上海で長年商売をしていて、見物
のため来日していたチャールズ・レノックス・リチャードソンだった。外務大臣ラッセ
ル伯爵の文書では、騎士道ならざる抑制されないプロ・ボクサーにみられるような本能
の男で蛮勇の持ち主である。と書いている。つまり「大名というものは子供の時から、
周囲から敬意を表されて育つ。もしリチャードソン氏が敬意を表することに反対ならば
、何故に彼よりも分別のある同行の人々から強く、引き返すか、道路のわきに避けるな
どしなかったのであろうか。」つまり生意気なイギリス青年が大名行列に出くわした。
と言う事件だったのだ。ところが殺されたリチャードソンは一人息子で、彼の父親が 
事件発生を知ったのは、2か月後の新聞報道で、詳細がつかめない旨の返事で報道後の
20日後にやっと日本のニール代理公使から事件概要を掴み、薩摩に対し犯人の処刑と
賠償金10ドルの支払いを要求し、もし薩摩がそれを拒み、又は引き延ばした場合は相
応の措置をとるとの確約を 英国高官と行ったのだ。事件直後から日本国内では、各国
公使、領事、各国海軍士官、横浜居留民が集まって対策会議が開かれた。中には「島津
久光、又は高官を捕虜とする。」という議題まで挙がっていて、下手をすれば大戦争に
直結しかねないだけに、幕府もイギリス公使館も対処の仕方に苦慮を重ねる事になった
。又水面下でも色々な問題が議論された。がニール代理公使は本国指令を待って 年明
けて改めて幕府に対して謝罪と賠償金の10万ポンド要求と犯人の受け渡しを望んだ。
こうしてこの年には幕府統制の一括海外貿易が崩れた原因になった。

500: 名無しさんAA:17/09/26 20:27
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 150

 英国側では幕府と藩との関係に弁明を受け さらには、薩摩藩には幕府の統制が及ん
でいないとして、艦隊を薩摩に派遣して直接同藩と交渉し、犯人の処罰及び賠償金2万
5千ポンドを要求することを通告した。幕府に圧力を加えるため、イギリス・フランス
・オランダ・アメリカの四カ国艦隊が順次横浜に入港した。老中や幕府が支払い決定や
支払い拒否を繰り返す中で、緊迫した空気に小笠原長行は海路横浜に赴き、独断で賠償
金交付を命じた。翌日、賠償金全額がイギリス公使館に輸送された。小笠原長行は罷免
なったがこれにより幕府との交渉は一応の決着がついた。だがイギリスは薩摩藩と直接
交渉するため、6月27日に軍艦7隻を鹿児島湾に入港させた。交渉は不調であり、7月2日
、イギリス艦による薩摩藩船の拿捕をきっかけに 薩摩藩がイギリス艦隊を砲撃して、
薩英戦争が勃発した。薩摩側は鹿児島市街が焼失するなど大きな被害を受けるが、英国
艦隊側にも損傷が大きく、4日には艦隊は鹿児島湾を去り、戦闘は収束したのである。
 事件後には「この事件が起こる前に島津の行列に遭遇したアメリカ人商人のユージン
・ヴァン・リードは、すぐさま下馬した上で馬を道端に寄せて行列を乱さないように道
を譲り、脱帽して行列に礼を示しており、薩摩藩士側も外国人が行列に対して敬意を示
していると了解し、特に問題も起こらなかったという。ヴァン・リードは日本の文化を
熟知しており、大名行列を乱す行為がいかに無礼なことであるか、礼を失すればどうい
うことになるかを理解しており、「彼らは傲慢にふるまった。自らまねいた災難である
」とイギリス人4名を非難する意見を述べ、当時の『ニューヨーク・タイムズ』は「こ
の事件の非はリチャードソンにある。日本の最も主要な通りである東海道で日本の主要
な貴族に対する無礼な行動をとることは、外国人どころか日本臣民でさえ許されていな
かった。条約は彼に在居と貿易の自由を与えたが、日本の法や慣習を犯す権利を与えた
わけではない。」と評している。だが国内では、「国内法との整合性がつかない治外法
権を含んだ条約は、朝廷の許しも得ず幕府が勝手に結んだもの。」との批判に溢れた。
そしてその後の日本国は、肝心な点の、日英修好通商条約による治外法権の規定の、「
日本の側にはイギリス人を裁く権利は存在しなかった。」ことの修正とイギリス側から
言う、「イギリス人が日本の法律に従ういわれはなく、たとえ日本の国内法で無礼討ち
が認められていようとも、当然のことながらそれはイギリス側からは認められるもので
はない。」と言う矛盾の訂正に走りまわる事になったのである。前者は通商交渉の訂正
ややり直しであり後者は日本の仕組みや法律の改定で意識改革であった。



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