指導改善研修の実態 横浜市


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指導改善研修の実態 横浜市

1: 横浜人権侵害都市:13/12/16 16:56
年明けの2013年1月24日 分会長のU教諭と共にいる前で。NH校長の不適切且つ違法な言動について。
○文部科学省、横浜市の指導改善研修の規定によると、元来指導力不足教員に該当しないにもかかわらず私を「指導力不足教員として申請書をすでに出すことにした」と暴言を吐いた。  
療休の診断書を2月の半ばに出しますから異動対象者名簿から私の名前を取り下げてくださいとお願いすると。校長はこれを2度拒否。東部学校事務所のOさんの指示に従って校長に事前にお願いしようとしたが拒否をする。校長としては本来診断書を受理する義務がある。「異動対象者名簿から取り下げない」などと無謀で一方的な発言を繰り返した。
仮に、「指導力不足教員として認定されなくとも、私はあなたを、教育委員会預かりにしてやるつもりだ」などと暴言を繰り返したものである。これらの発言は全て裁判上の証拠となる音声記録にも保存されているもので、事実である。NH校長が私を何としても異動させてK校から追い出そうとしていた、つまりパワーハラスメントを繰り返していたことは事実である。
○以降私は、疲弊しきっていたため、精神科で受診し、適応障害との診断を下された。寝付けない日々の中、なんとか学年末までやり終えることができた。午前中2時間年休を取得したり、休んだりすることが多い中での勤務で相当大変な思いをしたが、指導力不足教員の認定審査会では、H課長から、「すぐに休む」という点を指摘された。NH校長は心配するどころか、私に不利になり得るものは、療休であろうが構わず、悪いニュアンスで「すぐに休んでしまう職員」という言い方をしていたのである。前日に断裂症で休んだり、適応障害のために精神的に疲弊して午後から病院に行ったり休んだりした職員を捕まえて「すぐに休むダメな職員」という評価をして、教育委員会育成課に書類を提出し、強制的に指導改善研修に送り込んだのである。
当該NH小学校校長は、公務員に関わる諸規則、倫理規定、職務規定に該当し、自治会長から金銭を授受し、飲み食い等に充てるなど不適切に浪費した件に関して教育委員会から指導を受けている。2013年4月1日以降、強制的に指導改善研修に行かされている。

2013年9月18日(水)下校時の児童指導に立って児童に挨拶等をしていたが、不当にも、明日からは立たなくていいと発言。職員である者にこうした制限を設けるのは合理的理由がなく、パワーハラスメントである。

2013年9月、所属校研修ということでK小学校で勤務していたが、該当する場面がなく、学校長からの具体的な指摘もない事項について、不当に評価を低くつけられた。例えば、「採点ミスが多い」「市販テストで安易な評価をする」という場面そのものがなかったにもかかわらず、評価は「時々見られる」となっているのである。該当しない事柄までも、評価されているのであり、不実記載である。18項目中7項目(全体の38%)も本来該当することがないにもかかわらず、時々あるとされたのである。パワーハラスメントである。
 11月7日(木)に、学校長によるパワハラに関する訴えを労災として申請。本日付にて学校のメール便で送付。翌週11日(月)には届いているはずである。


701: 名無しさんAA:17/10/13 08:58
 日本での潜水艦の歴史も他国に漏れず早く 明治期の水雷艇から始まる。大型汽船に
載せた救助ボートの様な小さな船に水雷をぶら下げて敵艦艇に飛び込むと言う物で魚雷
と言う自走式の水中機雷が出来るまで砲を載せた戦艦を作るより安価な敵艦攻撃の要で
もあった。この水雷艇の活躍に対して、水雷艇から戦艦など主力艦を守るため水雷艇駆
逐艦(後の駆逐艦)が開発されたため、水雷艇の有効性はほとんど失われて建造は止ま
った。Uボート攻撃が明るみに出て米国はエレクトリック・ボート社に突貫作業で建造
せた。日本はその中でホーランド型潜水艇を買い取り、一度解体し日本に運ばせ 明治
37年に横浜まで運ばせ、続いて機材など全部品が12月上旬には揃えられて、組み立
てを横須賀において行われた。これが潜水艦開発の初期である。翌年に始まった日露戦
争は、わが国有利のうちに講和条約が締結され、戦闘に参加する機会を得る事はなかっ
たが、出来た潜水艦は年末の凱旋観艦式で、御召艦の目前での披露潜行や、航行など戦
技を演じる栄誉を得ることができた。海軍は早々に同じものを発注し1号艇から5号艇
により「第一潜水艇隊」を編成し、その後国産の「第二潜水艇隊」まで編成した。後の
潜水空母ともいえる大型潜水艦を造り、米英に戦いを挑んだ日本海軍潜水艦隊の誕生で
あった。と言われている。これはサミュエルが英国に石油タンカーの船団を売って市長
になった2年後だった。1905年である。この頃から海外流行に合わせた軍備拡張が
自由に交流して行われたのだ。ジェネラル・ダイナミクス・エレクトリック・ボート社
は日本海軍の依頼を受けて特別水雷艇(ホランド型艇)5隻を建造してくれた後、続い
て翌年には、ホーランド型の新型設計図を入手した川崎造船所では、これを機会に日本
人だけの手で建造を試み、異常な熱意で見事に6号艇と7号艇の国産潜水艇を完成させ
、明治39年3月、その第6、7潜水艇で「第二潜水艇隊」を編成した。日本海軍は早
くも二個の潜水艇隊をもつことになったのである。ところが日本が完成した頃には、早
くも世界は高速潜水艇の時代に移っていた。ハンブルクのドイチェ・ヴェルフト307
番ヤードは大型潜水艦の建造に長けていた造船所だった。1871年に帝国海軍キール
造船所と改名して以来ドイツの主要造船所群だった。基本的に国家戦略としてドイツは
歴史上十分な制海権艦能力を持たない。制海権は絶えず英国側にあった。その為に、海
上封鎖は行えず、敵の強力な水上艦隊の勢力下でも作戦行動が可能な潜水艦がこの任に
最適だと考え開発たのである。隠密行動による通商破壊を目的として使用される事が主
な任務であったのだが、この悪さが更にドイツ国民を各国が嫌う理由ともなった。この
無差別殺戮の罪を見つからなければ犯罪ではないとするずる賢さに 他の国は悩んだ。
この結果が あくまで紳士的な戦争を願う日本の太平洋戦に持ち込まれた悲惨さである

702: 名無しさんAA:17/10/13 09:34
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 343-----------

 イギリス人の間から、ユダヤ人が石油業界で君臨していることに対して反発が強まり
、ついにこの会社を売らなければならなくなった。というのは、表向きの話であろう。
当時イギリスは大海軍を擁していたが、その艦隊に、サミュエルが石油を供給していた
から批判はあったが、タンカーが予想以上にこのUボートからの標的になる事を恐れた
からだった。と言える。元々バクー油田を抑えたロスチャイルド卿はスエズ運河も、こ
の、石油タンカーで供給していたサミュエル商会の船団もボルネオの油井も彼の出資だ
。さらにはその後イランの石油会社「アングロ・イラニアン石油」の重役室に「シェル
石油」を立ち上げたサミュエルが入った、という事実がある。この「アングロ・イラニ
アン石油」がその後のBP(ブリテイッシュ石油)社の前身であったのである。石原莞爾

703: 名無しさんAA:17/10/13 09:34
さらにはその後イランの石油会社「アングロ・イラニアン石油」の重役室に「シェル
石油」を立ち上げたサミュエルが入った、という事実がある。この「アングロ・イラニ
アン石油」がその後のBP(ブリテイッシュ石油)社の前身であったのである。石原莞爾
が理解していなかったのは陸軍に皇道派と言う保守の天皇尊重の武闘派と統制派と言う
戦略重視の国の経営を問う二つが議論しお互い競った様に、海軍にも飛行部隊を中心と
した航空派と陸戦部隊を中心とした斬減作戦派更には戦艦中心の艦隊派と言われる三つ
がそれぞれ司令官が手を焼いていた状態だった事だ。中でも米国艦隊の様な無差別商船
攻撃での敵中攻撃は司令官以下の戦略派は極めて強く諫めていた事だ。この為日本の中
での潜水艦は元々隠密行動の為の設計思想が全く無く 米国のソナーで探知されてまと
もな攻撃が出来る物ではなかった。深夜の敵前上陸が主だった。一方の米軍側最新設備
も次々と出来上がりがあったものの色々な不都合もつきまとっていた。一つは本体強度
の高すぎた為に魚雷が制約受け潜水艦が大型化した事だった。ところが日本の海中探査
は機械化されていなかった上に幼稚なレーダで音信が主だった。米国は次次と不合理を
直した新型ないし改良型の潜水艦を投入して来た。その為ミッドウェーの開戦以降は全
く日本の潜水艦も艦船も戦闘機も威力は無かった。戦争初期の米軍の潜水艦が使ってい
た魚雷は不具合だらけでまともに使えたものでは無い。第一次世界大戦時のインド洋が
主戦場だった為日本ではあまり知られていない。精度が低く狙った方向に向かわない。
命中しても爆発しない、ひどいものは魚雷が円を描いて走り出し、自分の艦に命中しか
ねない代物だった。実際に避けられずに二隻沈んでいる潜水艦も報告がなされている。
その後に改良はなされたが、開戦当初は当の魚雷の設計・製造を取り仕切っていた海軍
兵器局は全く意に介さなかった。というのも民間商船の撃沈後に救助する余裕が潜水艦
に備わっていなく日本の客船や貨物船にもオーストラリア人など自国民も大勢乗ってい
たから概ね潜水艦攻撃に反対だったのだ。ところがアジア艦隊の雷撃失敗の報告が山と
積み上がって来るとその失敗の調査が本国の海軍省から入る。そして魚雷の命中確率が
1%も無かった事で開発が進んだ。

704: 名無しさんAA:17/10/13 09:37
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 344-----------

 この1%〜5%の命中率は不幸にも日本の軍艦ないし商船が大型化した事で撃沈して
いたのである。クルーの訓練が足りないのだろうという言い訳に、潜水艦部隊の指揮官
を務めていたチャールズ・A・ロックウッドは、現場からの声を重く受け止め 実験を
開始した。漁網を使った実験で魚雷は設定深度より3メートルほど深くを走っている事
が確認され改良するに至った。開戦時 こうした事で喫水線の深い大型船のみやられた
のである。だが深度調節の問題は解消されても魚雷の不発や早期爆発は起こり、海軍兵
器局には不満の声が溢れた。地球磁気で設定される磁気起爆装置が場所の違いで働かな
かったのである。日本軍の様な接触起爆は命中して爆破するが磁気起動は通過時に爆発
すると言う効率の良いもだった。こうして開戦後1年も経てば秘密理にアメリカ太平洋
艦隊司令長官チェスター・ニミッツが指揮下では 潜水艦と駆逐艦に対して魚雷の接触
信管だけを使うよう命令を下していた。ところが太平洋戦争開戦から1年半を優に過ぎ
た1943年7月24日、アメリカ潜水艦隊の使っていたMark-14 魚雷の信頼性の高い
接触信管だけを使ったにも関わらず船を沈める事が出来なかった。真珠湾から出撃した
米潜水艦ティノサがトラック諸島西方沖で日本のタンカー、第三図南丸を発見した。9
時23分に行われた一斉発射を皮切りに、計15発に及ぶ雷撃を加えた。命中弾13発
の内、爆発したのはたったの2発。ティノサが使ったのは接触信管で、爆発はしなくて
も舷側に魚雷がぶつかる音で命中はわかった。特に7発目以降の雷撃は全弾命中しても
全てが不発で、哨戒記録には「Hit. No effect」(命中するも変化なし)の文字が躍っ
た。磁気信管の使用が中止され、ようやく魚雷の問題がすべて解決されたと思われた矢
先の出来事だった。


705: 名無しさんAA:17/10/13 09:38
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 345-----------

この不発魚雷の為に 多くの南洋の人々の特に先行して帰還する婦女子の命が救われた
と言われている。ちなみに、魚雷攻撃を受けた「第三図南丸」は、航行不能になるもの
のなんとか生き延び、トラック泊地で暫く石油タンク代わりに使われる事になった。又
、その大量の魚雷が船に突き刺さった姿がまるで「かんざしを差した花魁」の様である
ことから、工作艦明石に修理を受けるまで一時期「花魁丸」と呼ばれていた程だった。
つまり、米潜水艦から「かんざし」をもらった花魁の様な船という扱いになっていた。
というなんとも皮肉な話である。だがこの事が大日本帝国海軍の視点を甘くし逆に米国
の兵器改良のサイクルを機敏にした。Mark-14魚雷の接触信管は、旧型のMark-10魚雷に
使われていた物をそのまま転用された物だった。設計に問題はなかったがMark-14 魚雷
は旧式と比べて遥かに高速であり激突時の衝撃も大きかった。その為起爆装置がそれに
耐えられず、爆発が起きる前に部品が壊れて不発になってしまっていた。当時2つの事
で対応は早かった。一つは Mark-14魚雷の様な最先端技術の塊である開発信管で無く、
他国に情報が漏れないようにしなければならない措置は要らなかった。2つ目は原因が
究明されて設計の大幅な見直しをせずとも部品の強度を増しただけで正常に作動するよ
う出来た事だ、こうして1943年 Mark-14魚雷のすべての問題は解決した。太平洋戦
争開戦から21ヶ月が経過していたがこれにより潜水艦隊は力を発揮できるようになり
、以後の戦果は目覚ましい向上を見せた。こうして、日本軍船舶が被った潜水艦による
被害があっても渡航できた船も、この時期より確実に沈められ倍増被害はしていった。
だが この潜水艇の無差別攻撃は全くその時の国際機関の準じた戦争法の違反であった
。イギリスはUボートにより当時隠れて「戦時禁制品の火薬類」を運送中の英国船籍の
豪華客船ルシタニア号を無警告で撃沈され、1198人の犠牲者を出して以来民間人の
保護を強く求めた活動をしてドイツ避難を繰り返したからだ。この犯罪的米国行動こそ
大日本帝国海軍の最も危惧するところだった。アメリカにすれば既にドイツとの海戦で
の死闘を繰り広げて「国際法違反」などないものであり国際法順守であれば原爆さえも
作り得なかった。こうした事は日本の海軍には戦争前から大いなる憂いであった。戦争
で「人が勝つための獣になる」道理の無い攻撃をする。太平洋戦争下のアメリカ海軍で
起きた数々事件はその好例だろう。

706: 名無しさんAA:17/10/13 09:46
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 346-----------

 第一次世界犬戦中にイギリス支援のためインド洋から地中海にわたるまで艦隊を運用
し、油槽船の払底により原油不足に悩んだ海軍は、あらゆる日本の組織のなかで、石油
問題についてもっとも鋭敏で最初の戦略を引きずった組織であった。大正七(一九一八)
年、海軍省は、「軍事上の必要に基づく石油政策」を起草した。日本においてはじめて
の石油政策の提言であったが、閣議決定にはいたらなかった。海軍は、この政策案では
石油会社の官営化、国内石油会社の統合による国策会社化を提案しているが、実施には
至らなかった。勿論石油の確保に関して海軍は、シェル傘下のライジングサン石油との
長期契約によりポルネオ石油の購入権を獲得し、ロシア時代から久原鉱業が保持してい
た北樺太油田開発権に、六十万円の資金を提供し、鈴木商店、三井鉱山などの参加を仰
いで、オハ油田の試掘に成功している。こうした石油確保には努力していた。また自前
の石油精製設備を持ち、海軍煉炭製造所を海軍燃料廠に改組した。海軍としては相応に
、取り組んでいるのだが、イギリスに較べると真剣さ、切実さに著しく欠けているよう
に見えてしまう。陸軍の大方がチャーチルが笑った、「国際市場」なるものを信じ、あ
るいは甘えていたように見えないでもない。無論、それは現在も社会全体のこととして
同じにエネルギーは、金さえだせぱいつでも買えるといったような意識がある。六十年
前、大和民族は痛切な思いで この資源の無さを味わったはずだが「油の一滴血の一滴
」は今や生かされているとは思えない。石油問題について、山本五十六も、盲目だった
わけではない。むしろ海軍の将校のなかでは、一番に鋭敏だったといっていいだろう。
反町栄一は『人間・山本五十六』において、山本は語学将校としてのハーバード大学に
留学中に、テキサスをはじめとする、アメリカ各地の油田や精製施設を視察しただけで
なく、「石油に関するあらゆる文献著書を読破し、毎日米国新聞四十幾種類を閲読し、
睡眠時間は一日平均三時間であったといわれてる程石油を知っていた。こうして読破し
てのアメリカの石油事情に通暁していた山本は、メキシコ旅行を志す。山本はメキシコ
旅行に対しては、旅費がないために水とパンとバナナだけですごした。余りにも貧しい
暮しぶりなので、メキシコ政府からは日本大使館に問い合わせが来た、というエピソー
ドがある。当時のメキシコの状況は、この時期、メキシコの石油産業の大転換期であっ
た。二十世紀初めから、本格的な油田開発がはじまったメキシコは、アメリカ企業の参
入により大発展を遂げ、第一次世界大戦中にアメリカからの需要が爆発的に増えたため
もあって、世界第二位の原油産出国になっていたのである。

707: 名無しさんAA:17/10/13 09:55
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 347-----------

バイウオーターは真珠湾攻撃の約一年前にロンドンにおいて亡くなった。死因は不明と
される1921の著書『太平洋におけるシーパワー:米日の海洋問題の研究』1925
年の書籍『太平洋戦争:日米関係未来記』はアメリカでも海兵隊を中心に盛んに読まれ
た。日本でも1923年(大正12年)水野広徳が「新国防方針の解剖」を書き、19
32年(昭和7年)同じ様に日米戦争仮想物語『興亡の此一戦』を出版し発禁となった
。双方共に「次の日米戦争は空軍が主体となり、空襲によって、東京全市は一夜にして
灰じんに帰す。戦争は長期戦と化し、国力、経済力の総力戦となるため、日本は国家破
産し、敗北する以外にない。当局者が発狂せざる限り、英米両国を同時に仮想敵として
国防方針を策立することはあるまい」と指摘した。太平洋戦争が始まる十八年前にすで
に敗北を見通していたのである。又物語では東京大空襲の惨状、被害をリアルに措き、
日本の敗北をにおわせた内容であったため「左傾的記事があり」という理由で、直ちに
発禁となってしまった。通常の知識人さえも日米開戦を危惧し敗戦を予想し海外からも
警告されていた。それは西洋歴史や日本の国情や世界の国々を知る者であれば推測出来
る話ではある。19世紀後からインディオとの闘争が終わればアメリカの世界進出は解
っていた話だったからだ。いや米国が英国の植民地として進出した時から既に世界進出
は米国民になった白人が独立を果たさずとも決まっていた意志とも言える。そも黒船来
航自体がその一環であったのだから全く世界大戦を希望していたと言える。当然、日本
とアメリカが、互いに帝国主義国として中国市場進出を狙う目的で双方戦争に突入する
ことは、十分あり得たし、当時も研究された重要戦略のはずだ。アメリカのアジア進出
においては、ハワイや南洋は軍事戦略上、要衝の地として手に入れたアメリカは米西戦
争の最中でも、ハワイを併呑している。日本がアメリカと衝突するとすれば、まずその
境界として騒がれるハワイだったことは誰でもわかる話だ。移民問題や海洋航路であっ
て当時の状況は、アメリカと日本はハワイで競争していた。しかしその実権はアメリカ
が握っていた数々の事件がある。日露戦争後の1905年、日本は朝鮮を保護国とする
が、同時に、日露戦争の仲介者としてアメリカはフィリピンを獲得する。これには日本
が秘密条約でアメリカに桂・タフト協定で承認していることが理由だ。だが日露戦争で
、アメリカはロシアとの間に立つ仲介者の国ではあるが、大統領はその労を渋々受けて
いたし 裏では活用して日本を最大限に国益確保に利用した。日本のより以上の国力を
上げる事を認めなかったのである。既に此処に黒い罠は作っていたのだ。


708: 名無しさんAA:17/10/13 10:12
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 349-----------

 この事件から1900年代には ドイツ・ロシアに加えて米国から日本が敵視される
様になった。この大倉組は大倉財閥の鉱山用建設会社で後の大成建設の前身であったが
、事実は長崎グラバーの代わりになった英国企業の製品輸入で財を成していた。191
7年、再編し土木建設部門を大倉組土木に、石炭採掘、鉄鋼販売を大倉鉱業に、残りの
主力商事部門を大倉商事として再編した。戦後、財閥解体により、内外通商と改称して
出発し大倉商事は世界各地に事務所網を張り巡らし、RCAやキャタピラー等欧米の一
流会社の日本代理店に指名された。1915年第一次世界大戦中のアイルランド沖を航
行していた英国籍の客船ルシタニア号がドイツ海軍のUボートの魚雷によって沈没した
、ルシタニア号事件は米国人128人を含む1198人が犠牲となった悲劇だがところ
がルシタニア号の積み荷には173トンの弾薬が有り、当時の国際法に照らし合わせる
と、ルシタニア号は攻撃を受けても仕方がない事件だった。ドイツ大使館も事前に米国
民へ「船に乗るな」と警告を発していたが事件は起こった。しかし、ウィルソン大統領
は弾薬の積載を決して認めず、積み荷の目録を開封禁止にした。当時の米ハウス大佐と
英国外交官エドワード・グレイ卿の会話記録が残っている。グレイが「もしドイツ軍が
米国旅客船を沈めたらどう反応するだろう。」と言うとハウスは「怒りの炎が米国中に
広がり、我々を着実に戦争へ導くだろう。」と答えている。ドイツの野蛮な攻撃に対し
てアメリカの世論は沸騰。これによって、それまでモンロー主義で中立であった米国議
会も反ドイツの雰囲気が強まり、アメリカも参戦するきっかけとなった。この事が次の
日米開戦での参考になって円卓会議でアメリカの方針が決まって第二次世界大戦になっ
た。日露戦争で一向に進まない話し合いに、日本は朝鮮を保護国とするが、同時に日露
戦争の仲介者、アメリカはフィリピンを獲得する。これが日本が持った桂・タフト協定
と呼ばれる秘密条約でアメリカは承認したとしている。1905年の事だ。その後政局
は西園寺公望と交代で首相を務め、「桂園時代」と呼ばれた。桂太郎がどこまで西洋を
理解していたかは不明だ。だが1900年に、拓殖大学の前身、台湾協会学校を創立し
ている。また、現在の獨協中学校・高等学校の前身である獨逸学協会学校の二代校長を
明治20年からつとめていた事から 陸軍が英国よりドイツに傾いた元を作ったとも、
考えられる。日本人好みの秩序ある社会性の維持に重きがあったのだろう。第2次桂内
閣時には韓国併合も行ったが1900年年末に児玉源太郎と交代した。もちろんすべて
山縣の意向だったがこの時期の最大の案件は「ロシアと戦うことになるのか否か、戦う
とすれば誰に首相の大任を委ねるか」であったと言う。対ロで悩む両国が見える事実だ

709: 名無しさんAA:17/10/13 10:22
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 350-----------

 この1904年(明治37年)の日露戦争までは 日本は小さな島国で見向きもされ
ないものだった。それは目の前に中国大陸と言う巨大な市場や土地や土俵があったから
だ。が中国市場に食い込んでいた欧州までもが多分この年を境に1941年(昭和16
年)の真珠湾攻撃までに、念入りに日本占領を考えて来たはずで その結果の日米開戦
を迎えたと考えていいのだろう。つまりハリマンを断ろうとも共同経営しようとも結果
は同じだったのだ。既に外相の小村寿太郎がポーツマス条約で賠償金を取れなかった事
とこのハリマンの訪日は最初から計画された物だった。そもそもハリマン自身円卓会議
の一員だったのだ。日本としても米国に賠償金要求に賛同されなかった事で、経済の面
から考えても、当時の日本としては満州国独立経営は必要であった。昭和の初期当時は
日本への原料供給地として、あるいは輸出製品の市場として満州は不可欠であった。「
満蒙は日本の生命線」と言った松岡洋右の言葉はあながちうそではない。当時ブロック
化する経済の中で一次産品の6割を担い二次産品への供給が無かったら8割が経済停止
状態だったと目されるからだ。土地のない日本が恐慌の後米国のニューデール政策に似
た雇用吸収と食糧増産が出来たのはこの独自の新天地のおかげであった。円卓会議その
ものが先の白人優位主義の中で如何に優位を保ち奴隷を活かすかの会議であった。原資
をロスチャイルドの融資を受けて、セシル・ローズのデビアス社が全世界のダイヤモン
ドをほぼ独占的に支配した時、ロンドンは宝石商のメッカとなった。南アフリカではこ
のローズが鉄道・電信・新聞業を支配下に入れ、1890年にはケープ植民地の首相と
なり、南アフリカの政治・経済の実験を一手に握りアパルトヘイト政策を推し進めてい
た。セシル・ローズは、白人を結集して世界中の全居住地を支配下に置き英語圏にする
という野望を持って秘密ネットワークを組織した。それが円卓会議グループであった。
創始者グループの幹部は、ロスチャイルド卿、バルフォア卿、グレイ卿、イッシャー卿
、ミルナー卿であった。ローズの死後は、アルフレッド・ミルナー卿が遺志を継いで、
「イルミナティの秘密ネットワークを担う人材を育成した。この頃彼らの中心議題は、
石油資本の独占であったが その戦略は大きく成功し各国の放漫な紙幣の流通と自然の
浪費は今の潮流である。物質多過の文明を築き欲望をそそのかし徳の無い世界は今後に
人類の最大の過ちである核を作ったが 西洋は兎も角東洋は果たして幸せになったのか
大きな疑問だ。この今の中国などと同じ嘘で固めた歴史で 人々は現代良優信仰にある

710: 名無しさんAA:17/10/13 10:31
 サミエル商会が開発運搬していたシェル石油が、英国政府の主導でロスチャイルドの
手に落ちた時は、バクー油田がソ連の革命によって国有化され、1878年秋、ロシア
初の石油パイプライン建設を計画し、資本参加を求めた時期だ。1904年の日露決戦
で負けたもののユダヤ資本はその後の貸付金の回収に米国と英国を捉え、ロシアも2回
の革命を終えて国家経営しだし、自国のみの石油消費は金を産まない事を知っていた。
賠償金が無かったのはソ連新政府がより多くの投資や融資を求めたからに他ならなかっ
た。1930年代には同国の石油産出量は世界の大半を占めていた。バクー油田を管理
したアレクサンドル・セレブロフスキーは「ソ連のロックフェラー」と呼ばれたが、投
資した資金返済でもロックフェラーは莫大な利益を出したが 安売りでアメリカを席巻
し日本にまで売って行った石油は不足に陥ってしまった。こうして1907年 ロイヤ
ル・ダッチとシェルが合併してはロイヤル・ダッチ・シェルが誕生する。ロイヤル・ダ
ッチとはオランダ皇室のことである。オランダは産油国のインドネシアを植民地にして
いた。サミエル自身は日本を好意的に見ていたが、この「円卓会議」の世論誘導と国家
主義的動向には逆らえなかった。実際日露開戦で日本支援していた事が布引丸事件で、
英国人の脳裏に悪い印象を与えていた。1909年 今のイランにアングロ・ペルシャ
石油が設立されるとこれは後にブリティッシュ・ペトリアムとなり、今はBPとなった
。その後出光石油の日章丸事件が起こるのだがその前にアメリカの石油資本にも大きな
動きがあっていた。山本五十六がメキシコに旅行したこの時期、メキシコの石油産業は
、大転換期にさしかかっていた。二十世紀はじめから、本格的な油田開発がはじまった
メキシコだが、大半はアメリカ企業の参入により大発展を遂げ、第一次世界大戦による
アメリカからの需要が爆発的に増えた為の潤いだった。それは当時世界第二位の原油産
出国になった事でも表される。だが、大正六(1917)年、メキシコ革命憲法が制定さ
れ、天然資源の国有化が宣言された。当然のごとく、。国際資本の石油会社は猛烈抗議
し、それをアメリカ、イギリスの両政府が後押しするという展開になった。当初のメキ
シコ政府は柔軟であった。所有権をとりあえず名目上確保し、操業は国際資本の好きに
させて、一定の税金を納めるだけで良いとした。だが、国際資本は、その状態に満足せ
ず、アメリカはメキシコ政府に強く抗議をし、軍事介入も辞さない構えを示す。この間
、石油会社が撤退し、ついに昭和十二(1937)年に、石油産業の完全国有化が強行さ
れた。メキシコ革命による石油産業の国有化である。だがこれは、第二次世界大戦後の
、中東諸国の油田国有化のモデル・ケースともなった。ロスチャイルドはバクーで産出
より販売が大事な事を心得ていた。戦後の出光は独占するその戦略に剣を入れた。

711: 名無しさんAA:17/10/13 10:44
 だがロスチャイルドは、バクー油田の権利を持っているので、これでロシア、インド
ネシア、イランと大産油国の石油を掌中に収めたことになった。現在でもシェルやBP
、あるいはロックフェラーのエクソンモービルなど、国際石油資本がもつ油田の埋蔵量
は世界の全埋蔵量の10%を超えていて、残りは産油国の国有石油会社が持っている中
、商品取引所による価格形成メカニズムを用いて、その影響力を堅持している。日本が
八八艦隊計画や戦艦大和の造船にかかった時既にアメリカはその動力となる石油資源が
枯渇する事を見越していた。そしてそれがハワイを通じたこのメキシコを目指すか、又
はマレーシアを目指すしかない。と思っていた。当時マレーシアは英国が国有化しこの
メキシコしか残ってない。との読みだったろう。この間世界は既に大艦巨砲主義が過去
の戦略になった事を知らなかったとは言えない。だが艦隊建設のピーク時の軍事予算が
、国家予算の6割も占めて作った艦隊計画であった事も山本五十六は充分承知していた
。実は日露戦争前の日清戦争の時でも下関条約で遼東半島の割譲を日本が要求している
ことを知った列強の、特に英仏に遅れてやって来たロシア・ドイツなどは衝撃を受けて
た。それはこれまで清国に接近はしているものの、今だ割譲を迫る露骨な要求するには
及んでいなく清国の情勢を見極めている状態だったからだ。此処に三国干渉の結果せっ
かく清に返還した遼東半島は、みすみす清がロシアに与え占有された。ロシアはシベリ
ア鉄道を整備し、旅順を軍港として大拡張し、そこを拠点とする太平洋艦隊を充実させ
、この結果、その脅威は到底往年の清の比ではなくなった。つまり日清戦争の死闘の戦
果は清国のおかげで御破算になって 更に日露戦争で奪う事に陥ってしまったのだ。こ
の事で賠償金の使途やロシアの南下政策などを背景に、江戸時代に後戻りたアジアにな
った。フィリピンやベトナム共に日本はアジア最大海軍大国清国を恨んだ。政府内では
この戦後経営が大きく試された。自立の中国政策は大誤算だったのだ。そこで打ち出さ
れたのが海軍増強の六六艦隊計画だった。その後は 海軍はそれを拡大した戦艦8隻、
巡洋艦8隻の常備を中心に、多数の補助艦艇を整備する悲願の大建艦計画である八八艦
隊計画を作った。しかしながら、当時の財政からはあまりに負担の大きいものであり、
米英との海軍軍縮条約(ワシントン条約)によってでも中止が勧告された。その為この
計画で実際に戦力化されたのは、長門型戦艦2隻のほか、球磨型軽巡洋艦〜夕張型軽巡
洋艦14隻などであった。山本が南米視察時メキシコの石油産業は、この国際大資本か
ら離脱し国有化をはかる、大混乱期にあった。もし、日本政府なり帝国海軍なりが長期
的な視野をもって取り組んでいれば、既存のメキシコ油田を入手できる可能性がないと
はいえない状態だったのであるが そこには米英との資本が絡んでいたから諦めたのだ
ろう。ここに山本の悲願は打ちのめされた。

712: 名無しさんAA:17/10/13 11:26
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 353----------

 実はフィリピンはかなり古い時代から日本と交流している。文献上は不明のままだが
ヨーロッパの白人社会が来る前だろう。戦国時代の織田信長の時代にさえ4、5つの、
日本人街が確認されている。と言うより日本にポルトガル船を連れて来たのさえ日本人
がインドに渡り教えての事だったとされる。既に伝説では鎌倉時代元寇が襲う前にも、
蛮人として黒い南洋人やカースト制を持つインド系の使節めいた人が流れついて居る。
そうした事もあってか明治政府が出来ると同時に大量の入植者が居て世界大戦前には、
何と資料で30位無許可では凡そ50位の日本人の所属する農場が出来て居る。多くは
バナナ農場だろうがその他ににもに鶏や卵や牛や稲作農場や干し魚なんかも出来ていた
ようだ。更に多くの経営者は別にスペイン人やらイギリス人などがいたらしいから奴隷
を指導する中間層だったといえるかもしれない。第一次世界大戦の帰趨は、石油が決め
ることになった。海路で石油を輸入していたイギリスは、Uポートによる攻撃にあって
、燃料枯渇の危機にあったが何とかしのぎきった。連合軍は、自動車を多用して前線へ
の兵員、物資の輸送を行い、鉄道への依存度が高いドイツを圧倒した。一九一四年八月
、高名なパリ防衛に、タクシーが一役買ったというエピソードは、燃料のパラダイム転
換を象徴するものである。戦車(もちろんガソリンで動く)の前線への投入も、イギリ
スが主導したものである。「ガソリンの一滴は血の一滴」という言葉は、第二次世界大
戦下、日本でもスローガンとして流布したが、もともとこの言葉は、石油の供給を求め
て、フランスのクレマンソー首相が、ウィルソン米大統領にたいして語ったものであっ
た。こうしてフランスもイギリスも頼りとするアメリカがこのフィリピンを手にしよう
としてスペインと戦った。そして日本は独自にスペインにもアメリカにも加担せず、地
元の原住民に手を貸そうとした。第一次大戦は1918年三月、ソビエトロシアとの講
和によって、入手可能だったパクー油田からの石油が、イギリス軍部隊の占領によって
途絶えてしまった事からドイツは降伏を決定した戦争だった。戦闘は勿論国内産業も麻
痺したのだった。この事は時の政府や海軍や陸軍の指導部が知らなかったとは到底思え
ない。第一次世界大戦から真珠湾攻撃まであったにもかかわらず、なぜ、帝国海軍は燃
料供給の確保ができなかったのか、その結果として、望まぬ戦いに何故踏み切らなけれ
ばならなくなったのか不思議である。特に日本に失望したとは言えハワイ攻撃はしなく
ともいいはずの急襲であった。

713: 名無しさんAA:17/10/13 11:28
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 354-----------

帝国海軍省は、大正七(1918)年、「軍事上の必要に基づく石油政策」を起草した。
日本においてのはじめての石油政策の提言であったが、閣議決定にはいたらなかった。
、こうした石油政策程度の提言すら通らない状態では、到底国策化は難しかったろう。
更に当時一留学生にすぎない、山本五十六には、どうにもできないことだったろう。山
本が、兄季八に宛てた絵葉書には、新潟の石油業者がメキシコまで試掘に訪れていたこ
とが記されている。「石油視察の為めタンピコ市に参り候。一日一井の産額五百余石と
云ふ井戸あり。噴出十三年継続と云ふもあり一石の原油一円転出税一円と伝う相場なり
。越後あたりでは、本当とは受取れぬ話に候。日本石油、宝田石油技師の来ると云ふ太
平洋沿岸の地は有望なるも未試掘の地。肝っ玉の太き人に来て貰はずば物に相成まじく
国家的見地から微力ながら推奨申し上候。」としている。米の1石は下位単位では10
斗にあたり、同じく100升、千合に相当する。100X1,8Lつまり50000x1.8lで
凡そ900ton/日の噴出量なのだ。これに驚嘆し日本では考えられぬ事に13年も吹
き出している。と言っている更に出れば一つの油井に500石で一日千円が相場だとま
で口添えしている。日本石油は石油の精製・販売会社で1888年有限責任日本石油会
社として創立した会社だった。戦前94年改組して日本石油と社名変更。1921年に
宝田石油,41年小倉石油を合併。 戦時42年鉱業部門を帝国石油に譲渡して後 同年
愛国石油を合併。アメリカのカリフォルニア・テキサス・オイル (現カルテックス・ペ
トロリアム ) との合弁による日本石油精製のほか 日本石油瓦斯となる。日本石油化学
,日本石油基地,日石観光,日石海外石油開発など多くの関係会社をもったが99年の
4月三菱石油と合併,日石三菱となったその後「日石三菱」から新日本石油に改称した
後に興亜石油、東北石油と合併「新日本石油精製」として統合された、日鉱金属とジャ
パンエナジーの共同持株会社「新日鉱ホールディングス」と経営統合し、新日本石油と
なった。その昔アメリカの石油会社「CALTEX」(カルテックス)社と提携関係にあった。
そのためコウモリをモチーフにした昔のブランドマークにはカルテックスの星のマーク
が隣にあった。彼らが石油掘削して掘り当てたのは確かだが メキシコ石油国有化で、
アメリカの石油企業と運命を共にし 更に山本との密接なつながりがあったのは証明は
出来る。ただ日本政府がこれを利用出来なかったのが不思議である。 

714: 名無しさんAA:17/10/13 13:42
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 355-----------

 かつて 蝙蝠男爵と呼ばれる男がいた。コウモリはかつては日本国中至る所にいたと
される。活動は夕闇から明け方まで 突然暗闇から出て来ては昆虫類を捕食し 良い米
が育つ所には蝙蝠がいる。とされた。更にカメムシや蚊などを食べるので益鳥?の仲間
にされ 江戸時代の食糧難の時代には食糧にもなったと言う。更に殆ど昼間は暗い所で
人の目に触れない場所にいて 影の如く悪い虫を食べてくれると言う事で神様の使いと
まで言われていた所もある。又そうしたご神木のある神社の祠や洞窟に居て 時々の浮
浪者を穴に入れない事からも番犬や神社の生きた狛犬の如く扱われたりもした。こうし
た事で黒く覆われた神の世界のイメージがあったかも知れない。彼らが落とした糞で、
火の玉が見える事もあろうし 彼らが食糧となり得る事で一緒に住んだ浪人が鞍馬天狗
の如く不正を正す事もあったかも知れない。筑後羽犬塚は羽犬を使う何某かの忍者がい
た様で、その大きな犬にも見える蝙蝠を縁起のいいものとして太閤秀吉が愛でたとする
言い伝えすらある。神になれないあくまでも神の使いの天狗同様神社はないが獣でも鳥
でも無き事から幅広い商売の縁起物とされた事もある。従って蝙蝠の字が福に似て縁起
がいいものとしたのでなく 縁起がいいから蝙蝠の字をつけたと言う方が正解だろう。
江戸後期の桜田門の変時分から日本人の多くは 人の繋がりが大きく広くなり又暗殺な
どが頻繁に起きる様になった。この時人々は今の暮らしが「お陰様で」成り立っている
と感じた様だ。無事明治政府が出来て、中国の様な政情不安が少なくなると こぞって
勧善懲悪の出版や話が増える。言わば水戸黄門や鞍馬天狗や赤胴鈴之助の世界だがその
中に黒蝙蝠と言う物語もあったと言う。どうもルパンの様な物語らしく、これが戦後に
大人気になったらしくこの最後に昇華して善行しか行わない黄金頭巾や黄金の蝙蝠にな
たと言う。これが黄金バット伝説である。がこれは古いらしくこの黄金の蝙蝠が日本の
字を形作ったマークにされた。それは米相場のとある人のマークでもあったらしい。
関西か四国の成金で家紋が撃ち手の小槌か何かであったが 兄弟喧嘩か親からの勘当か
されていて、親類縁者が解るから使えないので似た様な柄から蝙蝠を図案化したという
話だった。だがその前に江戸期の欧州に暗闇の男なる物語があったかに記憶している。
それは武器商人にの話だったと記憶している。所謂ブレーメンの音楽隊の話である。


715: 名無しさんAA:17/10/13 13:43

 ブレーメンの音楽隊の話のあらすじは 年取ったロバ日本語的に駄馬から始まる。
「かつて働き者だったロバは年を取ってしまい、仕事が出来なくなってしまったので、
飼い主から虐待されるようになった。これはかなわんと脱走し、ブレーメンに行って音
楽隊に入ろうと考える。その旅の途中で同じような境遇のイヌ、ネコ、ニワトリに次々
に出会い、彼らはロバの提案に賛成し、ブレーメンへと足を進めた。
ブレーメンへの道のりは遠く、日も暮れてしまったので動物たちは森の中で休憩をする
事にした。すると、明かりが灯る家に気づいたので、その家に近づいてみると、中では
泥棒たちがごちそうを食べながら金貨を分けている。ごちそうを食べたい動物たちは、
泥棒を追い出すために一計を案じた。窓の所でロバの上にイヌが乗り、イヌの上にネコ
が乗り、ネコの上にニワトリが乗り、一斉に大声で鳴いたのである。泥棒たちはその声
に驚き、窓に映った動物たちの影を見て、お化けが出たと叫んで逃げ出して行った。動
物たちは家の中に入ってごちそうをたらふく食べる事ができ、腹一杯になると明かりを
落として眠りについた。
森に逃げた泥棒たちは、落ち着きを取り戻すと家に帰ろうとした。そして一人が偵察の
ために真っ暗な家の中に恐る恐る踏み込む。動物たちは家に入ってくる泥棒に、襲い掛
かった。ネコは引っかき、イヌが噛みつき、ロバが蹴とばし、ニワトリは突っつく。闇
の中で散々な目にあって逃げ帰った泥棒は、本当にお化けに襲われたと思って仲間に報
告したので、泥棒たちは家を取り戻す事を諦めて退散してしまった。
動物たちはその家がすっかり気に入り、音楽を奏でながら仲良く暮らしました。」


716: 名無しさんAA:17/10/13 13:43

と言う話である。つまりロバはスラブ民族でありイヌはゲルマンであり猫はギリシャで
あった。で結局ニワトリはスペインやポルトガルの船乗りなのだ。でその泥棒の住処と
あるのは海賊とされた北方民族バイキングであり 占領されたのはイギリスやアイスラ
ンドでそれをブレーメンの音楽隊にもじったとしている。この話は裏に3匹の熊の物語
と似ている。 三匹の熊の物語は次のようなものだった。
 ある日女の子は家の裏の森で道に迷ってしまった。迷って迷ってどんどんと森の奥に
来た。女の子が森でクマの家を見つける。誰もいないので入ってみると、テーブルの上
にお粥が置いてあった。1つ目のお粥は「熱すぎる」。2つ目のは「冷たすぎる」。3
つ目のは「ちょうどいい」ので、全部飲んでしまう。
女の子は疲れていたので椅子に座ろうとした。1つ目の椅子は「大きすぎる」。2つ目
のは「もっと大きすぎる」。3つ目のは「ちょうどいい」ので座ったが、椅子は壊れて
しまった。
眠たくなったので寝室に行ってみると3つのベッドがあった。1つ目のベッドは「固す
ぎる」。2つ目のは「柔らかすぎる」。3つ目のは「ちょうどいい」ので、そこで寝て
しまう。クマ達が戻って来て、お粥は食べられ、椅子には座った痕があり、1つは壊さ
れていて、ベッドには寝た痕があり、子グマのベッドには女の子が寝ているのを発見す
る。目を覚めた女の子はクマに驚き、慌てて家から逃げていったのであった。
と言う物語である。これは元々のロシア人とされるツングース族の犯された森の話を
トルストイが翻訳したとされる。


717: 名無しさんAA:17/10/13 13:48
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 356-----------

又明治末期から 海外作品を翻訳して人々の読み物となっていたが、その内日本人には
ちょっと似つかない名前や風景で もっと日本に近づけ馴染みの話にしたい事で蝙蝠男
が出来たり 蝙蝠男爵が出来た と言う話も伝わっている。
≪ストーリー≫第一話『ロンドンの黒い霧』
1926年のロンドン。“こうもり男爵”と呼ばれる盗賊が世間を騒がせていました。
金持ちから金品を奪っては、貧しい人々に分け与えている義賊です。スコットランドヤ
ードの、ハウス警視は彼を追ってアイザック・アシモフ教授が怪しいと睨んでいますが
、証拠がありません。そして、ハウス警視の姪、新聞記者のベティはアイザックと特別
な親友(ここは当時のこととて、はっきり書いてない)でことごとく叔父の邪魔をしま
す。(こう書くと、やたらシリアスに思えるけど完璧コメディ)アシモフ教授とベティ
がレストランに行くと、そこでベティの親友私立探偵のハニーと遭遇。三人一緒に仲良
く食事をしていたら、そこへ“こうもり男爵”登場!?持っている金品を奪われた上、
腕に怪我をした教授とベティは“こうもり男爵”退治をすることに!。。
奪われた指輪ケースに入っていたのは放射能物質で、ガイガーカウンターで突き止めた
先は汚職大臣のメイスン宅(ここは、かなりご都合主義)でも、相手は現職大臣。尻尾
を出しません。しかし、大臣宅からの帰り道、二人は“こうもり男爵”に襲われます。
ベティを置いて逃げ出す教授。そこへたまたま通りかかったハニーはベティを助けよう
としますが逆に二人は賊に捕まってしまいます。 そこへ、“こうもり男爵”登場”!
なんと今までの“こうもり男爵”は偽者だったのです!本物の“こうもり男爵”に助け
出される二人。偽こうもり男爵は逮捕され、一見メデタシ、メデタシ・・・とは行かず
、黒幕の大臣は罪を逃れてしまいます。そこで、ベティと教授の二人はメイスン大臣宅
に転がっている微量の放射能物質をネタに、1万ポンドを強請り取るのでした。それは
勿論寄付!。最後にハウス警視に追いかけられて、ライオン像の裏に隠れる“こうもり
男爵”ハウス警視が回りこんでみると、そこには肩を組み合って詩を読む教授とベティ
の姿が。。。 悔しがるハウス警視でした。チャンチャン♪
THE END!

718: 名無しさんAA:17/10/13 13:54
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 357-----------

山本五十六がロンドン滞在中に関東大震災が発生すると、山本は、動揺する周囲に対し
「日本人は偉大な民族であり、前より立派に復興する」と励ましている。1922年、
ワシントン海軍軍縮条約で八八艦隊計画により建造されていた長門型戦艦二番艦「陸奥
」が問題となり、それに対抗してアメリカがコロラド級戦艦三隻、イギリスがネルソン
級戦艦二隻を建造したことに関して「陸奥一隻のためにアメリカとイギリスを強くしす
ぎた」と皮肉を言っている。だがこの太平洋戦争に関しての海軍の行動は異常としか言
えない。日露戦争のときのような艦隊決戦を夢見ていたのか、どうしてガダルカナルま
で進撃してしまったのか、ハワイの精油タンクを爆破しなかった事でも、自分で自分の
首を絞めるような作戦ばかりしている。いずれにしても石油がなければ戦争も出来ない
のだからルーズベルトから石油禁輸された時点で勝敗はついていた。のも解り切ってい
るはずだ。ならば海軍首脳はなぜ戦争に最後まで反対しなかったのだろう。だからか、
最初から負けるとわかっていたから真珠湾攻撃のときから一次攻撃で引き上げるやる気
のなさだ。考えてみると武蔵大和などの巨大戦艦は、現代に当てはめると公務員たちの
公社公団のようなものであり、実際何の仕事をしているのかわからない。国から予算を
もらうために戦艦を作り自分たちの職場にしていた。しかし巨大戦艦は燃料がなくて、
大東亜戦争でもたいした戦果を挙げることもなく、燃料がなければ存在そのものが無意
味な代物だった。帝国海軍が備蓄していた燃料は、一年も動き回れば尽きてしまうこと
がわかっていた。だが南洋を侵攻した割に燃料確保に死に物狂いになった形跡が、海軍
には見られない。政府が決断しなければどうにもならない事ではあるものの 燃料がな
ければ戦争も出来なくなり負ける。これが言えなかったのは無責任だ。代替燃料の開発
なども研究はしてはいたが、泥縄式の研究で大型戦艦分すら製造できない物だった。巨
大な戦艦や空母は燃料がなければ動かない。いくら軍艦を建造しても燃料がなければ無
意味の筈だ。開戦当初から確保したインドネシアの石油は日本に運ぼうにも、タンカー
がアメリカの潜水艦にやられて来なくなり、護送船団を組んで物資を運ぶという発想も
帝国海軍にはなかった。フリゲード艦という護送船すらなかったのだ。山本五十六は公
式な宣戦布告にこだわったらしいが 公式な布告なら商船ルートは確保出来るという、
甘い考えがあったのかも知れない。ちょっと海軍の中の山本は全く謎だ。

719: 名無しさんAA:17/10/13 13:59
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 358-----------

 二十八氏は、『日本の海軍兵備再考』のなかで、海軍のエネルギー戦略を「陸軍を凌
駕したノーテンキ」とし、蘭印の油田に対して官民あげて買収交渉をすべきだったのに
、肝心要の海軍はまったく関心を示さなかった、と批判した。その後ずっとその課題を
、陸軍とともに意識することなく(前述した北棒太は別として)、対米対決まで来てし
まったことを跡付けている。昭和14年二月、海軍陸戦隊は、海南島を占領した。この
占領はアメリカにたいする重大な挑発行為だが、挑発するだけでそこから生じるリスク
にたいする処置を何もしなかった。(ハワイ攻撃もしかりである。)《 もしも海軍が
、占領した海南島に特別陸戦隊と根拠地を整備したならば、いつでもそこから、空母の
支援を受けつつ、直接蘭印を衝くことができた。しかし海軍には、燃料地政学の見識を
有するフィッシャーなく、また蘭印武力進駐が唯一の選択肢であることを確信し、その
案行のための絵の描ける"石原莞爾。も欠いていた。 》 文中のフィッシャーは、海軍
大臣チャーチルに、軍艦の全面的な石油燃料化をすすめた後に、政府の委員でイギリス
の、独自の燃料確保のために辣腕をふるった提督のことである。さらに、兵頭氏は云う
。《 西太平洋地域で最大の油田がある蘭印(インドネシア)の宗主国がドイツに占領さ
れ、政府と元首が亡命したということは、日本にとっては干載一遇の大チャンスだった
はずである。この時いきなり蘭印に軍隊を送り込み、強行進駐してしまえば、海軍のこ
の問題はすべて解決されたであろう。しかし、海軍人にキンタマは無かった。 》即時
の進駐に踏み切れなかったばかりか、海軍は、蘭印植民地政府と日本政府の、石油供給
に関する交渉に際してプレゼンスを示すために近衛首相が懇請した艦隊派遣も断ってい
る、と兵頭氏は指摘している。兵頭氏の想定は、事態を真剣に考えれば考えるほどに、
それしかなかったシナリオと思われてくるが、同時に日露戦争以降、艦船燃料が石油に
変っていくなかで、ひとたびもその隘路を正面突破しようとしなかった帝国海軍の姿は
異様であり、むしろ哀しく思われてくる。こうした視点から見ると、山本五十六の石油
に対する感覚は、多少あったものの、海軍全体の趨勢と大差はないのではないか、と思
われてくる。と書いている



720: 名無しさんAA:17/10/13 15:24
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 359-----------

ダニエル・ヤーギンは石油争奪を軸とした二十世紀史『石油の世紀』のなかで、真珠湾
攻撃について、このように書いている。《 真珠湾攻撃を発案した山本が、日露戦争で
の一九〇四年の旅順港奇襲の失敗点として指摘していたのは、攻撃の徹底を欠いたこと
だった。失敗は真珠湾で再び繰り返された。日本が開戦を決意した最大の動機は石油だ
った。にもかかわらずハワイ作戦の計画の中で、石油は忘れられていた。山本と 彼の
参謀たちは、石油に関してアメリカが圧倒的な擾位に立っていることを充分に承知して
いながら、オアフ島にある石油貯蔵基地の重要性を把握していなかった。この石油基地
への攻撃は作戦計画になかった。戦略的失敗だった。ハワイの石油はすべてアメリカ本
土から運ばれていたが、もし日本軍がアメリカ艦隊の石油備蓄基地と貯蔵タンクを破壌
しておけば、アメリカ太平洋艦隊のすべての艦船は次の行動の不可能に陥っていたはず
である。被害は真珠湾で撃沈された軍艦にとどまらなかった。石油は数千マイル離れた
カリフォルニアにしかなかった。真珠湾攻撃の後、アメリカ太平洋艦隊司令長官となっ
たチェスター・ニミッツ提督は、こう語っている。「日本軍の攻撃を受けた当時、艦隊
の燃料はすぺて地上のタンクに貯蔵されていた。その量は四五〇万バレルに達していた
が、タンクはどれも機銃掃射で燃え上がるような代物だった“もし日本軍が石油基地を
破壊していたら、戦争はもう二年長く続いていたかもしれない。」 》
(『石油の世紀上』日高義樹、持田直武共訳)


721: 名無しさんAA:17/10/13 15:24
真珠湾攻撃については、日本のなかでも多様な議論のあるところで、その点からすれぱ
、ヤーギンのきめつけにたいして異論はあるかもしれないけれど、石油を中心として、
現代世界の歴史を見ている著者の、「石油基地への攻撃は作戦計画になかった。あるい
は戦略的失敗だった」という一言葉は、かの詐欺られた奇怪な実験を想起するに増して
重い事だろう。1925年大正14年)12月には、駐米大使館付武官となって、再び
アメリカに滞在する。山本の航空隊在任は1年3ヶ月であったが、「天洋丸」に乗船し
て米国に向う山本の頭上を、航空隊の部下達が編隊を組んで見送った。とある。この、
1925年のアメリカは既に日本人迫害が起こっていた時でもある。余りにも悠長な見
送りと言える。又、美保関事件で軽巡洋艦「神通」艦長・水城圭次が自決した際、駐米
武官伊藤整一が「死んでは意味がない」と言えば、山本は「死を以て責に任ずるという
事は、我が武士道の根本である。その考えが腹の底にあればこそ、人の長としても御勤
めができる。そういう人が艦長に居ればこそ、日本海軍は大磐石なのだ。水城大佐の自
決は立派とも言えるし、自分としては当然の事をやったとも考えて居る。君の様な唯物
的考えは、今時流行るのかも知れぬが、それでは海軍の軍人として、マサカの時に役に
立たぬぞ」と叱りつけている。1927年の話だ。これが自分に言い聞かせた言葉だと
するか裏があると考えて見るかで違うが 海軍事情が少し垣間見えてくる。



722: 名無しさんAA:17/10/13 15:26
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 360-----------

 山本は昭和9年、ロンドン軍縮予備交渉の日本側全権代表として英国に赴き、その際
、バイウォーターの訪問を受けた。1884年生まれのバイウォーターと、明治十七年
生まれの山本は同じ五十歳だった。その後、学術誌「パシフィック・アフェアーズ」に
、バイウォーターは『太平洋大戦争』について多少の変更すべきことが出てきた、と記
した。日米戦争はフィリピン、グァム奇襲で開始される点に変わりないが、奇襲は違っ
た方法になる。航空母艦による作戦を採用するかもしれない、と言ったという。 当時
の第一次大戦後の世界経済はブロック化し、世界貿易が縮小していたために、後発国で
植民地の少なかった日本は世界市場から締め出されていた。したがって欧米列強の手が
届いていない海外市場の確保が至上命題であったのは確かである。『中央公論』大正十
二年六月号には、米国を仮想敵国とする新国防方針が23年に作成されたが、これに対
して水野は「新国防方針の解剖」を書き、日米戦争を徹底して分析、日米戦うべからず
と警告する。「次の日米戦争は空軍が主体となり、空襲によって、東京全市は一夜にし
て灰じんに帰す。戦争は長期戦と化し、国力、経済力の総力戦となるため、日本は国家
破産し、敗北する以外にない。当局者が発狂せざる限り、英米両国を同時に仮想敵とし
て国防方針を策立することはあるまい」と指摘した。太平洋戦争が始まる十八年前には
既に敗北を見通していたのである。同じく1925年 ヘクター・C・バイウォーター
は『太平洋戦争』で「中国における権益問題でアメリカと対立した日本政府は、内政に
対する国民の不満をそらす意図もあって、対米開戦を決意する。開戦当初、日本はアメ
リカより海軍力においてやや優位にあり、その優位を維持し戦局を有利に展開しようと
海軍はフィリピンに奇襲攻撃をかけマニラを占領するだろう。劈頭パナマ運河の封鎖、
フィリピン・グァム占領、カリフォルニアへの潜水艦攻撃を敢西太平洋の制海権を握る
。しかし、生産力に優るアメリカが海上封鎖による持久戦法をとり、中ソ両国も反日に
転じ、戦局は逆転する。そして艦隊主力をもって行なわれたヤップ島沖海戦でも日本は
敗北し、アメリカはグアム島など南洋の島々を次々に占領し、日本側守備隊は全滅する
。さらにマニラも奪い返される。この間には、ソビエトは樺太(からふと)に侵攻し、
これを占領し、中国軍は南満州を支配下におく。ついに内閣は総辞職する。日米開戦の
17年も前の正確な予測だ。「バイウォーター太平洋戦争と其批判」は、海軍少佐の石
丸藤太により訳されて、文明協会から発行されたが、結論が気に入らないと言うことで
、この貴重な予告を日本人は信じなかった。が驚いたことに山本五十六も、開戦直前に
、この真珠湾攻撃を指摘するバイウォーター記者と会見までしているということだ。

723: 名無しさんAA:17/10/13 15:27
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 370-----------

この死に関して諫められた駐米武官・伊藤整一は、太平洋戦争開戦直前の1941年(
昭和16年)8月11日に軍令部次長に就任した。、開戦前の国策会議に参画。開戦後
、日米交換船で帰国した海軍の駐米大使館武官・横山一郎に対してアメリカの最新動向
に関する質問を伊藤自身が行ったというエピソードが残る。最初、アメリカの太平洋方
面の日本への反攻経路を横山に質問し、横山はサイパン・硫黄島等と回答した。そして
、伊藤は、この戦争がどのように終結するかを検討するように、横山に依頼した。横山
は、じっくり検討した末、どのようにしても日本の敗戦は避けられず、うまくいっても
日清戦争以前に日本の状況は戻ると、伊藤に報告した。その報告の結果を聞いても伊藤
は何も怒らなかったので、横山は伊藤の人格に感心した。と言う。1848年カール・
マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが「共産党宣言」を発表した。執筆したバルーフ
・レヴィという人物が、マルクス宛の手紙の中で、その目的を打ち明けている。
「この新しい人類の社会組織の中で、我々ユダヤ人は いかなる国家に属することもな
く、また他の民族からの何の抵抗を受けることなくして指導勢力となり、やがてはその
影響は全世界に及ぶことになるでしょう。そして、もし彼らの中の 何人かの賢者が、
これら労働大衆のうちに確固たる指導権を打ちたてることに成功するなら、プロレタリ
ア革命の勝利によって 次々に世界共和国の一部となっていく諸国家の支配権は、これ
らプロレタリアを指導する我々ユダヤ人の手に容易に収めることができます。要するに
、プロレタリアの勝利は私有財産の廃止をもたらし、こうして公有財産となった他民族
のあらゆる私有財産は、公有財産を管理するユダヤ人の支配下に入るのです。かくして
我々ユダヤ人のメシアが到来するとき、ユダヤ人は「全世界の民の財産を ことごとく
ダビデの星の下につかさどるであろう。」と言い伝えられてきたタルムードの予言が、
ここに実現されることでしょう。」と言っている。既に日本の参戦前に英米会議は行わ
れ対独の秘密会談がチャーチルとルーズベルトで行われていた1940年12月の宣戦
布告を経て1月にはABC会談と呼ばれるカナダを引き入れた会談の結果、第二次世界
大戦中の1941年9月29日から3ヶ日間、ソ連参戦の話までをスターリンと共に、
ソ連のモスクワで連合国会談を行った。その後も戦後体制を1942年にも再び開催さ
れた為、こちらは第1回モスクワ会談と呼ばれる。この会談は、アメリカのW・アヴェ
レル・ハリマンとイギリスのビーヴァーブルック卿及びソ連のヨシフ・スターリンの3
人で行われた。この会談で、第二次世界大戦に於いての対ドイツにおける連合国のソ連
支援が決定された。

724: 名無しさんAA:17/10/17 05:30
謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 371-----------

アメリカのW・アヴェレル・ハリマンはE・Rノエル・ハリマンと共にニューヨークに
エドワード・ヘンリー・ハリマンの子として生まれる。1915年に父の経営するユニ
オン・パシフィック鉄道に入社し、1932年には同社の最高経営責任者に就任した。
一方で父の投資銀行を引き継ぎ、「W・A・ハリマン」社を創設、同社には弟のE・R・ハ
リマンやその友人で後に上院議員になる プレスコット・ブッシュ、ブッシュの義父の
ジョージ・ハーバート・ウォーカーが在籍していた。ちなみにプレスコット・ブッシュ
は第41代大統領ジョージ・H・W・ブッシュの父で、かつ第43代大統領ジョージ・W
・ブッシュの祖父である。同社は1931年に「ブラウン・ブラザース」社と合併し、
「ブラウン・ブラザーズ・ハリマン」に改組している。1941年にアメリカが第二次世界
大戦に突入すると、外交で活躍するようになる。ハリマンはヨーロッパへの大統領特使
として派遣され、戦争遂行についてイギリスのウィンストン・チャーチル首相と協議し
た人で彼が日米開戦シナリオを行ったとされる。1943年、ルーズヴェルト大統領は
ハリマンを在ソビエトアメリカ合衆国特命全権大使に任命し、1946年まで在職した
が大使としてハリマンはチャーチルやヨシフ・スターリンら連合国の首脳間の調整を行
い日本の休戦協定を阻止した。大戦末期、ソ連軍が中東欧諸国を占領していく中、ソ連
の拡張に危機感を抱き、ワシントンに警告した最初の人物の1人が駐ソ大使であったこ
のハリマンである。ハリマンはトルーマン・ドクトリンやマーシャル・プランなどの、
冷戦政策に対して大きな影響を与えた。その後一般に「ポツダム宣言」のたたき台とさ
れる「カイロ宣言」なる声明の会談を行った。カイロ宣言には公文書はこの世に存在し
てはいない。「カイロ宣言」は、署名のない「カイロ公報」を指しており、国際法上、
何らの拘束力も持ち得てはいない。又、草案に謳(うた)われているものは、太平洋の
島嶼(南洋群島)・台湾及び澎湖島等の日本領土については、奪取・占領・盗取した事
実はなく、明らかな事実誤認かつ歴史歪曲である。従って、「カイロ宣言」に依拠する
「ポツダム宣言」も不完全、特に第8条「カイロ宣言の条項は履行する」は空文であり
、日本が履行する義務は無いと言える。ローズヴェルト大統領、蒋介石大元帥及びチャ
ーチル総理大臣は、各自の軍事及び外交顧問と共に、北アフリカにおいて会議を終了し
、イスラエルへのユダヤ帰還が話し合われ蒋介石の出席で次の一般的声明を発した。


725: 名無しさんAA:17/10/17 05:30
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 372-----------

 ローズヴェルト大統領、蒋介石大元帥及びチャーチル総理大臣は、各自の軍事及び外
交顧問と共に、北アフリカにおいて会議を終了し、次の一般的声明を発した。
「(連合国の)各軍事使節は、日本国に対する将来の軍事行動を協定した。
@三大同盟国(連合国)は、海路、陸路及び空路により、その野蛮な敵国に対し仮借な
 い弾圧を加える決意を表明した。右の弾圧はすでに増大しつつある。三大同盟国(連
 合国)は、日本国の侵略を制止しかつこれを罰するため、今次の戦争を行っている。
Aこの右の同盟国(連合国)は、自国のために何らの利得をも欲求するものではない。
 また、領土拡張の何らの念をも有するものではない。
B右の同盟国の目的は、日本国より、1914年の第一次世界大戦の開始以後において
 日本国が奪取し、又は占領した太平洋における一切の島嶼を剥奪すること、並びに、
 満州、台湾及び澎湖島のような日本国が清国人より盗取した一切の地域を中華民国に
 返還することにある。
C日本国は、また、暴力及び貧欲により日本国が略取した他の一切の地域から駆逐され
 る。前記の三大国(連合国)は、朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由
 かつ独立のものとする決意を有する。
右の目的によって、右の三同盟国は、同盟諸国中、日本国と今交戦中の諸国と協調し、
日本国の無条件降伏をもたらすのに必要な重大かつ長期の行動を続行する。」
 と言う声明であった。これが ポツダム宣言の元になったと言われるカイロ宣言であ
る。このカイロ宣言には 従属国家としての自治国蒋介石の姿はない。というのも、そ
もそも此処に出席した蒋介石はソ連共産党のコミンテルン会議に出席した毛沢東の様に
支援さえあればどうでも良かったのだ。我々の土地の日本軍を払ってくれれば済んだ話
で 既に蒋介石将軍自体に 戦後の中国を順えて平和国家を作る意志も力も知恵もなく
人気すらなかった。此処にいるのは チャーチルのコネクトしてくれる資金と物資補給
だけが 欲しかっただけだったのだ。その為既に寝首を共産党に掴まされていた彼は、
戦後を中国大陸に中華民国を建立する術を持たなかった。米英は対日政策として敵との
宣言するに必要だったが 蒋介石には本来の支援者たる日本をどうしたらいいのか戦略
すらないままに、敵にしたくない米英の口車に乗らされた形だったのだ。


726: 名無しさんAA:17/10/17 05:31
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 373-----------

昭和20年(1945)7月17日は 既にソ連には中立の停戦仲介がソ連に届いて居
た。これをアメリカ、イギリス、ソ連の首脳(トルーマン、チャーチル、スターリンが
ドイツ・ベルリン郊外にあるポツダムに集いどうするか討議していた。7月26日には
、日本に降伏を勧める宣言を発表したが これは米国主導の米国の条文に合意するのみ
であった。この「ポツダム宣言」を日本が受諾すれば降伏、受諾しないならば戦闘続行
に誰も異論は挟めなかった。それは既に同じ日に原爆実験の成功の報が届き、どの国も
その情報は知っていた。この宣言はアメリカ、イギリス、支那の3ヶ国の共同声明とし
て発表された。ソ連は日ソ中立条約を結んだまま動いていなかったからだ。この時対日
戦に参戦してなかったので共同声明からは外されて そのまま終戦であればスターリン
は国内が維持できないと考えていた。チャーチルは既に今後共産党が世界を凌駕する事
に危惧があった。トルーマンはまだ米大統領を引き継いだばかりで 今までひ弱な体で
こうしたおぞましい会議に 原爆成功で威厳をもって出席出来る事に小躍りしていた。
実際には、この宣言に署名したのはトルーマンだけで、チャーチルは本国での選挙敗退
で帰国し、支那(アメリカが支援していた重慶政府)の蒋介石はポツダムに来てさえも
いなかった。要するにアメリカが自分で作って自分で署名したというだけの宣言だった


727: 名無しさんAA:17/10/17 05:34

第1条 米国、英国、支那は協議して戦争を終える機会を日本に与えることで合意した。
第2条 米国、英国、支那の3国は日本に最後的打撃を加える態勢を整えた。
第3条 我々の軍事力は日本の本土を壊滅することができるレベルになっている。
第4条 日本は決定すべき時期が来た。
第5条 我々の条件は以下の通りで、それ以外の条件はない。遅延は認めない。
第6条 軍国主義、世界征服をしようとした者は永久に除去する。
第7条 日本の戦争遂行能力がなくなるまで日本の諸地点を占領する。
第8条 「カイロ宣言」は履行され、日本国の主権は本州、北海道、九州、四国、
    そして我々が決定する島に限定される。
第9条 日本軍は武装解除された後、各自の家庭に復帰し、平和的な生活を営む機会を     与えられる。
第10条 我々は日本人を奴隷にしたり滅亡させようとする意図はないが、我々の国の
    捕虜を虐待した者を含む戦争犯罪人に対しては厳重に処罰する。
    日本国政府は民主主義を推進しなければならない。言論、宗教及び思想の
    自由、基本的人権の尊重を確立しなければならない。
第11条 日本は、経済、産業を維持することを許されるが、再軍備の産業は除く。原料
    の入手は許可され、将来、世界貿易への参加も許される。
第12条 前記の目的が達成され、日本国民が平和的傾向を有し、責任ある政府が樹立さ
    れたときには、連合国の占領軍は直ちに日本より撤収する。
第13条 我々は日本政府が直ちに日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、日本政府がそれを
    保障することを要求する。そうでなければ日本はすぐに壊滅されるだけである
    。
この宣言はアメリカにとっては当然だったが。米国支援を戦争の基調にしたイギリスや
、かつて日本と共同歩調で支援を採りながら 共産党にやられ、日本を裏切っての舵を
採ろうとする政策を続ける中国では 異論など言えるはずはない協議だった。

728: 名無しさんAA:17/10/17 05:36
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 374-----------

 ここにある宣言は 何ら変わったものではない。此処に日本の苦悩があった。日本が
もし ロシアではなくオーストラリアやカナダ或いはフランスやスペインなどに仲裁の
仲介をすれば 何ら問題はないはずだったが 米国に宣戦布告した事は仲裁者はソ連し
かない状態に陥ったのだ。此処に海軍の馬鹿さがある。ドイツが全ての欧州諸国を敵に
回した事で 欧州に米国との仲介者は居なく 又米国の戦略による戦争であった為に、
今だ建立して間もないカナダやオーストラリアやメキシコさえ 仲介者となり得ず休戦
は愚か停戦すら話し合いの場はなかったのだ。松岡が国際連盟を脱退した責任で松岡に
米国に停戦や休戦の会議を行えさせれば良かったのだがそれも出来ない体制の中にいた
。この宣言には全く日本が悪としては書かれなかった幸いにもソ連の脅威を考えた英国
と原爆に浮かれた米国によって日本列島の分断が免れたと言って良いとも言える。更に
此処に書かれている事は第一次大戦以降、即ち第二次世界大戦で占領した土地を返せと
言う宣言と、自由、基本的人権の尊重を行い民主主義を確立せよと言う物で日本政府が
無条件降伏せよとは書かれていない。軍隊の解体のみなのだ。つまり満州国政府を終わ
らせよとか日韓併合は解体されるとかは全く書かれていないのである。これが 米国の
優柔不断の馬鹿さだった。軍の統帥としての天皇を象徴として存続はさせるが 軍隊は
解体させ処罰する。これは不可能であったはずだ。これが海軍の思った思惑ではなかっ
たろうか。と考える。つまり山本五十六以下海軍の主だった者は すぐさま米国と外交
交渉し米国の1つの州となれば 中国大陸の覇権争いやソ連共産党との戦いにならない
。満州も一つの州フィリピンも一つの州となれば、それはそれで世界政府的仕組みとな
り、我々同じ東洋人がいがみ合って殺し合う事もなくなるのではないか。と世界政府論
である。つまり此処でもし日本が勝っても 直ぐに又米英から戦争が仕掛けられる。と
言う現実と日本ではいずれメキシコ石油を巡って熾烈な事になる。更にそこには米国が
勝つしか生き残り策はない。と言う腹つもりだ。更にこうなれば天皇が統帥権で判断す
るのみの世界でしかない現実だ。つまり天皇制が廃止する事でしか 米国の様な合議制
の社会が出来ないと言う。民主主義民の裏に金融資本の暗躍と支配がある事を知らない
戦略がそこにあったと言える。つまり陸軍はそれを知っていたが海軍はそれを信じなか
った。と言える。


729: 名無しさんAA:17/10/17 05:36
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 375-----------

トルーマンはフランクリン・ルーズベルトの死によって大統領になった副大統領である
。このルーズベルトを大統領にしたのは7シスターズを配下に置いた円卓会議であった
。他ならぬロスチャイルド一族の配下であった。一方、1897年、サムエルのシェル
はボルネオでようやく石油を掘り当てたものの原油には灯油成分がなかった。しかし、
重油としての船の燃料に使える為とマーカスはイギリス海軍に石炭の代替として提案す
るも受け容れてもらえなかった。だが石油機関の発達はの世界的ブームになり需要は、
急速に伸び供給不足になった、価格は上昇した。1874年に貴族の家柄で生まれたチ
ャーチルは、名門・ハーロー校に入学したが成績不振で大学進学を諦め、サンドハース
ト王立陸軍士官学校で軍人を志す事になった。士官学校を卒業した後、時にはインドや
スーダンなどで軍人として戦い、時には従軍記者として戦地の状況報告する仕事をこな
した。第二次キューバ独立戦争を観戦し、イギリス領インドでパシュトゥーン人の反乱
鎮圧戦、スーダン侵攻、第二次ボーア戦争に従軍している。1900年植民地省政務次
官としてイギリスに併合されたボーア人融和政策や中国人奴隷問題の処理などで英国領
南アフリカ問題に取り組んで敵の捕虜になった。捕虜の時は只の報道記者だったが突然
の列車襲撃で収容所送りになった。最初は直ぐに出れると思ったが、彼が兵士だった頃
の新聞記事があった事で下手をすれば民間人に偽装したとして戦争法規違反で銃殺され
る可能性も出てきた。チャーチルは12月12日夜中に便所の窓から抜け出して収容所を脱
走した。元イギリス人の帰化トランスヴァール人の炭鉱技師に数日間匿ってもらった後
、貨車に乗ってポルトガル領モザンビークのロレンソ・マルケスのイギリス領事館にた
どりついた。チャーチルはキューバ救援隊のおり『デイリー・グラフィック』紙と特派
員契約をしており、報告書を同新聞社に送り、特派員として戦地に赴くことは、いい小
遣い稼ぎになることを知っていた。家柄はあるものの貧乏兵士だったのだ。こうして、
アフリカで彼は知遇を随分得て居る。1900年に脱獄に成功した事は彼を人気者にし
た。驚くべき強運の持ち主でその事が選挙の勝因になった。




730: 名無しさんAA:17/10/17 05:43
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 375-----------

トルーマンはフランクリン・ルーズベルトの死によって大統領になった副大統領である
。このルーズベルトを大統領にしたのは7シスターズを配下に置いた円卓会議であった
。他ならぬロスチャイルド一族の配下であった。一方、1897年、サムエルのシェル
はボルネオでようやく石油を掘り当てたものの原油には灯油成分がなかった。しかし、
重油としての船の燃料に使える為とマーカスはイギリス海軍に石炭の代替として提案す
るも受け容れてもらえなかった。だが石油機関の発達はの世界的ブームになり需要は、
急速に伸び供給不足になった、価格は上昇した。1874年に貴族の家柄で生まれたチ
ャーチルは、名門・ハーロー校に入学したが成績不振で大学進学を諦め、サンドハース
ト王立陸軍士官学校で軍人を志す事になった。士官学校を卒業した後、時にはインドや
スーダンなどで軍人として戦い、時には従軍記者として戦地の状況報告する仕事をこな
した。第二次キューバ独立戦争を観戦し、イギリス領インドでパシュトゥーン人の反乱
鎮圧戦、スーダン侵攻、第二次ボーア戦争に従軍している。1900年植民地省政務次
官としてイギリスに併合されたボーア人融和政策や中国人奴隷問題の処理などで英国領
南アフリカ問題に取り組んで敵の捕虜になった。捕虜の時は只の報道記者だったが突然
の列車襲撃で収容所送りになった。最初は直ぐに出れると思ったが、彼が兵士だった頃
の新聞記事があった事で下手をすれば民間人に偽装したとして戦争法規違反で銃殺され
る可能性も出てきた。チャーチルは12月12日夜中に便所の窓から抜け出して収容所を脱
走した。元イギリス人の帰化トランスヴァール人の炭鉱技師に数日間匿ってもらった後
、貨車に乗ってポルトガル領モザンビークのロレンソ・マルケスのイギリス領事館にた
どりついた。チャーチルはキューバ救援隊のおり『デイリー・グラフィック』紙と特派
員契約をしており、報告書を同新聞社に送り、特派員として戦地に赴くことは、いい小
遣い稼ぎになることを知っていた。家柄はあるものの貧乏兵士だったのだ。こうして、
アフリカで彼は知遇を随分得て居る。1900年に脱獄に成功した事は彼を人気者にし
た。驚くべき強運の持ち主でその事が選挙の勝因になった。


731: 名無しさんAA:17/10/17 05:43
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 378-----------

1900年、ロシアの穀物生産の不振で経済不況が起き、石油の需要が急激に落ちて、
価格は崩壊してしまい ロスチャイルドは苦境に立たされた。これを救ったのがミルナ
ー卿だった。こうしてサムエルのシェルも軍部に取りあげれられていたが、そのごこの
ロスチャイルド卿がバクー油田を支配した。この第二次世界大戦は実に不思議な大戦で
あった。と言う人は多くいた。第二次世界大戦の勃発はドイツのポーランド侵攻によっ
て、イギリスとフランスが初めてナチスに対して宣戦を布告したことを意味し、「19
39年9月1日」とされている。だがその遥か以前にドイツもイギリスもフランスも、
戦争は始まっているのである。元々ドイツには第一次世界大戦に不服があった。昔には
ポーランドと言う国家があったのだろうが、フランス革命前後の三回に渡ってロシア、
プロイセン、オーストリアなどの大国の戦争で割譲されそのまま長い間に 分割配分国
家の領土だった。第一次大戦によってドイツ及びオーストリアは敗北しポーランド国家
も復活したがそれは英米の勝手な敗戦国は愚か地元の言い分を聞かないベルサユ条約に
よっての話だった。これは多民族国家にとっては新たな移住と国境による分断をもたら
し非常な不満を作られていた。更に英国や仏国はソ連共産党の緩衝としてドイツを置い
ていた。歴史的にスラブ民族とゲルマン民族の対立を利用していたのだ。ところが勝手
にドイツとソ連は独ソ不可侵条約を締結しその秘密議定書には、ポーランドの分割占領
が含まれていた。つまりその前年に勝手に仲直りしたのである。それは今と同じにソ連
には北国を逃れた領土拡大の野心があった。ポーランドばかりかバルト三国、ルーマニ
ア東部までを押さえて対独抑止力を強化しようという露骨な野心である。つまり緩衝地
帯の制圧こそ生きる道としてお互い野心があったのが 分割で協調したのだ。ドイツも
これで本国とケーニヒスベルグ(現カリーニングラード)の間の分断の不合理が解消さ
れた。こうしてドイツとソ連によるポーランドの分割占領が行われ、さらにソ連はフィ
ンランドへ侵攻し、翌年にはやはりドイツが北欧に攻撃を開始、デンマークとノルウェ
ーなどを次々と占領してしまった。ところがこの戦争の経過は、開戦したはずのドイツ
にはそう戦いが無く駐留してしまった。イギリス・フランスが、ほとんど戦争らしい戦
争をしないまま8ヶ月もの歳月が過ぎ去ったのである。ここには後年強い印象を受けて
きた、“悪魔ナチスに対する正義の連合軍”の激戦どころか、ドイツとフランスの国境
付近では、両軍の兵士がなごやかに語り合う風景まで報告され、「開戦の初期の段階で
は、予期されたものとまったく異なる様相を呈した」と、多くの書物に書かれている。

732: 名無しさんAA:17/10/17 05:44
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 378-----------

1900年、ロシアの穀物生産の不振で経済不況が起き、石油の需要が急激に落ちて、
価格は崩壊してしまい ロスチャイルドは苦境に立たされた。これを救ったのがミルナ
ー卿だった。こうしてサムエルのシェルも軍部に取りあげれられていたが、そのごこの
ロスチャイルド卿がバクー油田を支配した。この第二次世界大戦は実に不思議な大戦で
あった。と言う人は多くいた。第二次世界大戦の勃発はドイツのポーランド侵攻によっ
て、イギリスとフランスが初めてナチスに対して宣戦を布告したことを意味し、「19
39年9月1日」とされている。だがその遥か以前にドイツもイギリスもフランスも、
戦争は始まっているのである。元々ドイツには第一次世界大戦に不服があった。昔には
ポーランドと言う国家があったのだろうが、フランス革命前後の三回に渡ってロシア、
プロイセン、オーストリアなどの大国の戦争で割譲されそのまま長い間に 分割配分国
家の領土だった。第一次大戦によってドイツ及びオーストリアは敗北しポーランド国家
も復活したがそれは英米の勝手な敗戦国は愚か地元の言い分を聞かないベルサユ条約に
よっての話だった。これは多民族国家にとっては新たな移住と国境による分断をもたら
し非常な不満を作られていた。更に英国や仏国はソ連共産党の緩衝としてドイツを置い
ていた。歴史的にスラブ民族とゲルマン民族の対立を利用していたのだ。ところが勝手
にドイツとソ連は独ソ不可侵条約を締結しその秘密議定書には、ポーランドの分割占領
が含まれていた。つまりその前年に勝手に仲直りしたのである。それは今と同じにソ連
には北国を逃れた領土拡大の野心があった。ポーランドばかりかバルト三国、ルーマニ
ア東部までを押さえて対独抑止力を強化しようという露骨な野心である。つまり緩衝地
帯の制圧こそ生きる道としてお互い野心があったのが 分割で協調したのだ。ドイツも
これで本国とケーニヒスベルグ(現カリーニングラード)の間の分断の不合理が解消さ
れた。こうしてドイツとソ連によるポーランドの分割占領が行われ、さらにソ連はフィ
ンランドへ侵攻し、翌年にはやはりドイツが北欧に攻撃を開始、デンマークとノルウェ
ーなどを次々と占領してしまった。ところがこの戦争の経過は、開戦したはずのドイツ
にはそう戦いが無く駐留してしまった。イギリス・フランスが、ほとんど戦争らしい戦
争をしないまま8ヶ月もの歳月が過ぎ去ったのである。ここには後年強い印象を受けて
きた、“悪魔ナチスに対する正義の連合軍”の激戦どころか、ドイツとフランスの国境
付近では、両軍の兵士がなごやかに語り合う風景まで報告され、「開戦の初期の段階で
は、予期されたものとまったく異なる様相を呈した」と、多くの書物に書かれている。


733: 名無しさんAA:17/10/17 05:44
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 379-----------

 元々この第一次大戦すらもスラブ民族と言う農耕民族とゲルマン民族と言う職人集団
との争いにユダヤ民族と言う商売人が利益の為に戦争を止めたもの。と考えた方が解り
易いものかも知れない。遠くオスマン帝国とローマ帝国の戦いで戦乱に明け暮れて国が
かなり出来たが、大航海時代を経て産業革命を過ぎた第一次世界大戦の終結は基本的に
 植民地などユダヤ資本のイギリスが原料をドイツに持ち込み、ゲルマンドイツが加工
貿易によって物が作られ その作られた物でスラブ民族のフランスなどが農産物や食糧
を作る事で好循環するはずだ。と言う発想で円卓会議が仕掛けたものだった。この大元
の資源や資本調達を英国がする事で世界を指導する。と言う発想だったのである。つま
りはモンロー主義である不干渉主義を貫いたチェンバレン首相の期間にはドイツ進軍で
もそのシステムは有効に機能していたのだ。ところが1940年「ドイツ・ソ連通商協
定」によって、ソ連から石油・貴金属・穀物の供給を受けてこのシステムが壊れたのだ
。ソ連の介入は全く英国にその原料輸入の役目が無い事を意味していた。更にアフリカ
などの遠隔地からの輸送を必要としない 地産地消に近い2国間取引で安価に出来る物
になった。これに英国は危機感を持ったが、ソ連にもインフラ整備の需要は高かった。
第二次世界大戦当時、ドイツにソ連から石油を供給して戦争を持続させたのは、ロスチ
ャイルドがソ連のバクー油田から生み出した会社「シェル」であった。シェルはイギリ
スのロスチャイルドが資本を出した会社であった。「シェル」の支配者としてのし上が
り、石油業界の独裁者ナポレオンと異名を取ったのが、ヨーロッパの石油王ヘンリー・
デターディングという男だった。バクー油田をソ連が国有化したため、ひと方ならぬ苦
労をして原油を確保しなければならなくなったデターディングは、共産主義を相手に闘
いはじめた。彼は共産主義を憎む資本家の象徴でもあった。奇しくもこの男が結婚した
女性の父親は、ロシア革命によって倒された帝政側の将軍だったとされる。恐らくは本
人も同じ対赤軍派の人間だったのだろう。その後に、今度はナチス党員の女性と結婚し
、自らナチス党員となるや、ドイツに定住して次々とヒトラーの組織に資金を与えはじ
めた。こうして、暗殺されたユダヤ人ラーテナウ外相が敷いたドイツ・ソ連の外交路線
を悪用しながら、片方ではバクーなどから石油を調達し、もう一方でナチスを育てると
いう「シェル」の奇妙なビジネスが誕生した。デターディングは開戦の7ヶ月前にこの
世を去ったが、開戦後も社内でこのビジネスが続けられたことは、石油業界の語り草と
なっている。

734: 名無しさんAA:17/10/17 05:53
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 380-----------

 此処に改めて「共産党宣言」が思い起こされる。ヴァルター・ラーテナウはドイツの
政治家で共産党「友愛会の会員」でもあった。ナチス党の多いの中で右翼に暗殺された
ユダヤ人と言われる。又、ヘンリー・デターディングも同じ友愛会の仲間であったろう
。彼は1880年頃、オランダ人のタバコ栽培業者ジルケルと共にランカットの君主か
ら採掘権を獲得して、石油探鉱に乗り出したとされる。当時オランダには石油資本がな
く、オランダ領東インドの元総督、中央銀行、オランダ国王ギィヨーム3世などがスポ
ンサーとしてこの事業に後押ししている。実はノーベルが樽に石油を積めて船で送る頃
1880年にヨーロッパの石油の6割以上はアメリカ産のスタンダードオイルだった。
そこでノーベルが黒海沿岸のバクー鉄道を開通させると1883年にアルフォンソ・ロ
スチャイルドは、ロシア政府の公債を引き受けた功績でバクー付近のバニト油田を入手
し、ロシアでの石油ビジネスに本格的に乗り出した。そうして莫大な資金を投入し『カ
スピ海・黒海会社』を設立し、ヨーロッパでの製品販売を円滑に進めるため、イギリス
に販売会社を設立した。ヨーロッパ市場においても、ロシア国内市場でもノーベル一家
優位という情勢が続いたが、米国内ではこの石油を安価で提供し、米国の弱小鉱油所は
次々と倒産吸収がなされた。そこで、新たな市場開拓に迫られたロスチャイルドは、海
運仲買人のフレッド・レーンの紹介で、マーカス・サミュエルを紹介された。彼こそ、
シェル石油のサミエル商会の主人だった。彼が石油産業に踏み出すのはロスチャイルド
の手引きによるもので、本来運送販売のみで供給は薄利多売を目指したロスチャイルド
は生産しないと思っていた。「シェル・トランスポート・アンド・トレーディング会社
」を作り極東や東南アジアにその市場を求めた。サミエルがスマトラ島の東シナ海側の
掘削するのに対してオランダ国王はインド洋側にその掘削地を求めた。元々サミエルは
ロシアのバクー産の石油の日本への販売が目的で作られた会社だったのだが その依存
からの脱却に「シェル・トランスポート・アンド・トレーディング会社」の創りメロン
財閥のガルフ石油会社の起源となったスピンドルトップ産の原油買い取りに成功して、
日本に送っていた。だが、この油田はあっという間に底を尽きて新たに油井探索を仕方
なくする事になったのだった。こうしてボルネオの「シェル」とスマトラの「ロイヤル
・ダッチが同時期に油井を掘り当てたのだった。それは簡単な事だった。というのも、
この頃現地人は沼になってまで出てくる油の付いた枯葉を傷口に付ける民間療法があっ
てそこは必ず油が吹きだす確信はあったが井戸を掘る権利こそが難しかったからだ。


735: 名無しさんAA:17/10/17 11:13
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 381-----------

第二次世界大戦は1939年9月1日にドイツ軍はポーランド侵攻に及んで始まったが
、それに対抗して9月3日にはフランスはイギリスとともにドイツに宣戦布告していた
。が おかしな事に、フランス・ドイツ国境地帯(アルザス=ロレーヌ)においても、
戦闘はほとんど起こらず、フランス人が言うところの「奇妙な戦争」「まやかし戦争」
の様子を見せていながらドイツ軍は進軍していた。開戦から半年以上が過ぎた1940
年5月10日、ドイツ軍はオランダ、ベルギー、ルクセンブルグのベネルクス三国に侵
攻を開始(黄色作戦)。ベルギー北部で防御戦を展開するという戦前からの計画(ディ
ール計画黄色作戦)に従ってフランス・イギリス連合軍は軍の主力をベルギー方面に進
出させ、フランス・ドイツ国境地帯においてもマジノ要塞を挟んでドイツ軍と対峙させ
ていた。ドイツ軍はベネルクス三国とマジノ要塞の中間に位置し、フランス軍の防御が
手薄となっていたアルデンヌの森から 戦車部隊を投入させていた(赤色作戦)。この
ことによってフランス軍の防衛線はすぐさま崩壊した。ベルギー方面に進出したフラン
ス・イギリス連合軍はドイツ軍に包囲されてしまい、5月末に、これらの部隊の多くが
イギリス本土への撤退にかろうじて成功した。(ダイナモ作戦)だがこれにより頼りに
なるも軍はなくはやフランスにドイツ軍を止める戦力は何処にも残っていなかったのだ
。こうして電撃作戦で、あれよあれよと言う間に、6月14日、ドイツ軍がパリに無血
入城して、6月16日、フランスのポール・レノー内閣は総辞職するに至った。後継の
フィリップ・ペタン元帥はドイツへの降伏を決断して その宣言をした。6月22日、
コンピエーニュの森において休戦条約が調印され(独仏休戦協定)、フランスの当時第
三共和政とした議会政府は崩壊した。アルザス=ロレーヌ、サヴォワ・ニースはそれぞ
れにドイツと同盟国イタリアに割譲され、パリを含む北部フランスはドイツ軍の占領下
に置かれたのだ。辛うじて残った南部フランスはペタンを首班とするフランス国(ヴィ
シー政権)として独立を許されたものの、実際の運用はにはドイツの保護国としての地
位であった。一方、先の前国防次官シャルル・ド・ゴール准将は亡命先のイギリスで「
自由フランス」を結成し、フランス国民に対独抗戦の継続とヴィシー政権への抵抗を呼
びかける。つまりはここまでの戦争は 日本国内の中国の共産党の行った事件よりも、
かなり穏やかに戦闘が少なく 進んでいたと言える。イギリスにチャーチル政権が出来
る前までの話である。1901年5月24日に、彼は かねてからのフリーメーソンに
正式加入していて チャーチルが政界の実権を握るとこれまでの戦争が一変し悲惨を増
した。

736: 名無しさんAA:17/10/17 11:14
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 382-----------

 アフリカに新聞記者となった時期の、ボーア戦争時の脱獄では、植民地政策に苦しん
でいた英国の現地軍は 意気を高める為にはチャーチルを英雄に仕立てあげる工作をし
た。こうしてチェンバレン内閣での保守党の人気庶民院議員となったチャーチルは、英
国各地で講演会を行い、1900年末にはアメリカや英領カナダでも講演会を開いて金
を稼いだ。講演会はかなりの収入にはなったが、もともと彼は白人優位主義開戦論を主
軸にして講演していた。その為 米国では聴衆のうちアイルランド系アメリカ人はこの
講演が嫌いで反英的な人が多く、それ以外のアメリカ人もボーアの惨劇を知るボーア人
寄りの人が多かった為に多くは講演会を開いた時の聴衆はフリーメイソン会員の為のも
のだった。それでもチャーチルはボーア戦争に関する厳しい追及を受けた。結局チャー
チルも侵略戦争である事を認め「私がボーア人だったら、やはり戦場で戦っているだろ
う」と言い「戦争になれば、それが良い戦争だろうが、悪い戦争だろうが、祖国に従う
しかない」と言い訳をした。帰国してからは「経済重視から関税を永続させよ」という
保護貿易論のチェンバレンに対してチャーチルは自由貿易支持をしていた為、「自由主
義を明確にしない保守党」を見限り、自由党への移籍をした。移籍にはチェンバレンの
本拠地バーミンガムに乗り込んでの保護貿易論を批判するという挑発行動を取ったりし
た。この当時 世論の自由党と自由貿易支持は圧倒的であり、自由党としては保守党内
自由貿易派と手を結ぶ必要がほとんどなかった為に移籍は容易ではなかったがそれでも
移籍し、やっとフリーメイソンの幹部会員の仲間入りを果たした。保守党候補からは、
さんざん「裏切り者」との批判が続いたが その後海軍大臣まで登り詰めた。第一次大
戦後のドイツの賠償金問題は暗礁に乗り上げていた。ドイツ政府の賠償資金調達の結果
、マルク為替は下落し始めた。このため「1922年5月期限の支払いが困難となり、
ドイツは支払い延期を求めたが、フランスはほとんど応じる事はなかった。マルクは1
ポンド=5575 マルクまで下落し。1922年1月のパリ会議で支払い猶予問題について話し
合われ、一時的な支払い猶予がやっと認められた。アメリカのチャールズ・ドーズがこ
の賠償委員会に参加し「公共施設や売却と猶予のあるドーズ案」を提示しドイツはそれ
に喜んで同意した。それでも1929年10月24日、世界恐慌が発生し、1930年1月には第2回
ハーグ会議でヤング案実行に関する協議が行われることに至る。ところがこの苦境に人
民はナチ党を台頭させた。この事は機転の早い海外資本家の資金引き揚げを起こさせた
。こうしてドイツ全土が大規模な信用恐慌に見舞われたのだった。

737: 名無しさんAA:17/10/17 11:25
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 383-----------

こうして1932年6月からローザンヌ会議で再度協議が行われ、この会議でヤング案
の停止と、3年間の支払い猶予、30億ライヒスマルクの支払いによって賠償を終了さ
せるという合意が行われた。しかしナチ党と共産党の拒絶によってドイツ国内での批准
は行われず、対連合国債権減額に反発するアメリカ議会でも批准されなかった。こうし
て1933年にはナチ党が権力を掌握し、ライヒスバンク評議会などの連合国監督措置
は撤廃され、同時に7月にドイツ政府は外国への支払いに対するモラトリアムを宣言し
たのである。その頃世界では過去に合計100回以上の、様々な国でのユダヤマフィア
が社会の害とみなされ公式に追放令が発布されている現実があった。その「迫害」の歴
史は第二次世界大戦のホロコースト以上でもあった。元々初期のローマ帝国は宗教に対
してとても寛容な政策をとっていた。しかし、多神教を信仰していたローマ人に対して
反感を持ち続けたユダヤ人らは、反乱を起こし、やがてローマ軍によって攻め滅ぼされ
てしまった。これが旧約聖書に描かれるユダヤ人の歴史だが この旧約聖書によって、
その後はイスラム教もユダヤ教もキリスト教の中の極端な一派であると黙認されていた
。ナチ党の前進で国内政策は生き詰まった。そんな中で、ヒトラーが打ち出したのが、
「東方生存圏」だった。ドイツから見て東側、つまりポーランドなどの東ヨーロッパに
ドイツの領土を拡大していこうという考えでだ。「民族の発展、食料、資源の確保の為
に、我々はそれを実現せねばならない。」と強く訴えかけて声援を得たのだ。ヒンデン
ブルク大統領が死ぬと、ヒトラーは大統領の権限を奪い取り、国民投票で約9割という
賛成を得て国家元首となるとついに第一次世界大戦にて失った領土を取り返すべく動き
出し 第二次世界大戦へと入っていくのは必然だった。ヒンデンブルクは、戦後共和制
となったドイツにおいての大統領に当選。大票のアドルフ・ヒトラーを首相に任命した
。これが国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に政権樹立への道を開いた。かつてド
イツ騎士団のザクセン隊の名家であり、数々の戦歴は輝かしい物がある一物だったが、
キール軍港の水兵の反乱にはじまるドイツ革命が起こった時は、宰相マクシミリアンが
独断で「ヴィルヘルム2世はドイツ皇帝位とプロイセン王位を退位した」と宣言した上
でヴィルヘルム2世のオランダへの亡命を指揮したとして人気を落とした。ドイツ国民
は第一次大戦を連合国に敗けたのでなく この行為で敗けたと信じていた。従ってこの
大戦後のベルサユ条約の過酷な制約はとても飲むめないものに映っていた。

738: 名無しさんAA:17/10/17 11:34
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 384-----------

 ヒットラーは最先端の科学技術によってこの国は守られる。と信じて止まなかった。
そこで円盤開発に、日本人の科学者も採用されていた。だが、円盤開発のプロジェクト
が進まない内に日本が間抜けな参戦を宣言した。「あの当時、日本が真珠湾攻撃をしか
けたというニュースを聞いて、私はもうだめだ、と思った記憶がある。」「あの頃、私
たちドイツ軍士官の間では、アメリカがこの戦争に乗り出さなければ、我々は勝てると
いう自信があった。ところが、日本が真珠湾に奇襲をかけたとなると、当然、アメリカ
が参戦してくる。私たち空軍士官の仲間たちは、これで全ては終わった、と顔を見合わ
せたものである。」と言っている。ヒトラーは『我が闘争』の中で、世界には「3つの
人種」がいると書いている。1つは「文化創造種」、2つは創造種の創った文化に従う
「文化追従種」。そして、これらの文化を破壊する「文化破壊種」だ。彼の定義による
と、一等種(文化創造種)はアーリア民族のみであり、日本人や他の民族は二等種(文
化追従種)に過ぎない、と書いている。そして、3番目の文化破壊種はユダヤ人だと書
いている。相当なユダヤ嫌いで、同じ『我が闘争』の中で、当時、世界に蔓延していた
「黄禍論(反日感情)」はユダヤ人が扇動したものであると書いている。ヒトラーは同
じ敵を持つ仲間として、日本との同盟を考えていたのである。建築家アルベルト・シュ
ペーアは次のように書いている。「ヒットラーは人種的観点からむろん問題の多い同盟
を彼は拒否しなかったが、『日本との対決』を遠い将来に覚悟していた。ヒトラーには
イタリアをそれほど強国とは信じていなかったが、日本は列強国の同盟国とみていた。
」「『ユダヤ菌』の発見は世界の一大革命だ。今日我々が戦っている戦争は、実は前世
紀のパスツールやコッホの闘いと同種のものなのだ。いったいどれほどの病気が『ユダ
ヤ菌』によって引き起こされていることやら。日本はユダヤ人を受け入れなかったので
、菌に汚染されずにすんだのだ。ユダヤ人を排除すれば、我々は健康を取り戻せる。す
べての病気には原因がある。偶然などない。」「1925年、『我が闘争』には書いた
のだが、ユダヤ人は日本人こそが彼らの手の届かない敵だと見ている。日本人には鋭い
直感が備わっており、さすがのユダヤ人も内から日本を攻撃できない。ということは、
分かっているのだ。となると外から叩くしかない。本来、イギリスとアメリカにとって
は日本との和解は多大な利益を意味する。その和解を必死に阻止しているのがユダヤ人
なのだ。私は警告を発したが、誰も聞く耳を持たなかった。」と嘆いている。既に国連
などの国際会議すらユダヤのフリーメイソンが暗躍し牛耳っている事を知っていた。

739: 名無しさんAA:17/10/17 11:46
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 385-----------

1941年12月8日に日本が真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まると、ヒトラーはそ
の直後の12月11日の演説で「我々は戦争に負けるはずがない。我々には3000年
間一度も負けたことのない味方が出来たのだ!」と日本を賞賛し、喜んでアメリカに対
し宣戦を布告した。かつて満州重工業の総裁であった鮎川義介氏が、ヒトラーに面会し
た時のことである。ヒトラーは鮎川氏に対し、次のような意味のことを語ったという。
「貴方の国が如何に努めてみても、我が国ドイツのような 工作機械は作れないだろう
。しかし、ドイツもどうしても日本のまねが出来ないものがある。それは貴方の国の持
つ歴史と万世一系の皇統である。これはドイツが100年試みても、500年間頑張っ
ても到底出来ない。大切にせねば駄目ですよ。」と言ったと言う。これはヒトラーが、
日本の天皇を崇敬しているというより、君民一体の理想的な国家形態を伝統的に継承し
ている日本に対して、率直に敬意の気持ちを表わしたものであろう。当時「君主政治」
をほぼ完全に近い形で実現している国は、当時では日本だけであった。外国、とくにヨ
ーロッパの王朝の場合、国王はたいてい飾り物的な意味合いが強かった。また国王では
往々にして圧政をしき、国民と対立関係にあった。しかし日本の場合、天皇は国民を慈
しみ、国民は又天皇を敬愛するという、欧米人にとっては甚だうらやましい関係が、ご
く自然な形で成り立っていたからである。そしてこの「君主政治」と対極をなすものが
、主権在民を置く民主主義であるが、ヒトラーは民主主義の欺瞞性を鋭く見抜いて多く
の批判をしていた。更にその民主主義の議会と言う大衆烏合の民衆の愚民の群れとして
その欠陥から自分が選出されたと知っていた。日本はこのドイツとの寄り付きが英国を
刺激していたのは間違いない。がそれも又ソ連封鎖の為の英国の策略でもあった。現実
に1936年に「日独防共協定」が結ばれるのは仕方のない世界地図だった1940年
に「日独伊三国軍事同盟」が成立するまでには、日本とドイツの友好関係は早々には好
い関係を築いてはい無かった。中国大陸での日中戦争以前からドイツの将軍たちは反日
的で、彼らは上海付近の中国人の防衛陣地の建設に裏で協力していた事を知ってのだ。
中国人の防衛陣地の建設に協力し、この縦横に張りめぐらしたクリーク(溝)を利用し
た「ドイツ流陣地」の突破に日本陸軍は苦戦を強いられた多大な犠牲をした経験すらあ
る。第一次世界大戦のときは日本とドイツは「敵国」で「諜報・扇動」もドイツだった
し 日本に対して裏から国際法違反も問わず中国を応援して大陸の混乱をもたらしたし
、そもそもの「黄禍論(反日感情)」がドイツ帝国を築いた「ヴィルヘルム2世」その
ものがより多く吹聴してきた歴史だったからである。

740: 名無しさんAA:17/10/17 12:03
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 386---
 こうして何故だか「ユダヤ嫌い」のヒットラーと「ユダヤ妄信」に走ったチャーチル
と世界を土俵に対決を試みたのだが 周りの普通の民には大きな迷惑だったに違いない
。底流には日清・日露の戦いに勝った日本へのやっかみと猜疑心があった。というのも
その影響からか、日露戦争後しばらく経って、ヨーロッパのメディアでは「次は日本と
アメリカが戦争をするだろう」という記事がかなり散見されるようになったからだ。も
ちろん、そこに白人優位主義を守ると言う選民思想の対立の意味合いが強くあったこと
は言うまでもない。当時の日本人は、それらの報道にはかなりに驚いてはいた。何故な
ら、それまでお人好しの日本人はおしなべて、「アメリカはまったくの友好国」だと思
いこんでいたからだ。この頃、日本人を恐怖で震撼とさせた一つの事件があった。それ
は1907年3月に、突如アメリカの軍艦16隻が、船体を真っ白に塗り、何の前触れ
もなく威嚇の為に日本の太平洋近海に現われた事件だ。この事件について、欧米の新聞
各紙は、「日米戦争」が今から始まるとして報じた。勿論円卓会議の入れ知恵ではあっ
た。だが日本側はまったく寝耳に水で、黒船来航以来の相当大きい恐怖と不安を煽った
上に、信じていた事裏切りのショックをかなりの全国の有識者や日本国民に与えていた
。対して、日本政府側は戦争になるのを避けるために急遽この「白船来航」を歓迎する
ことの応対を決めた。米国からすればスペイン統治と日本の内情と中国進出の目的であ
った。明治政府であろうが徳川幕府であろうが 日本でハワイの様な政変が起きれば、
そこには抜け目なく入り込んで極東の足場作りが出来るからだ。だが日本政府側の対応
は素早かった。歓迎の式典を大々的に行い、報道し横浜に上陸したこの米軍一行を、国
を上げたお祭りムードを無理やりにも装って歓待する事で、非常事態を見せず回避した
のだ。こうして西欧からの飛び込んで戦闘開始や国家間の摩擦を待っていた国際的新聞
報道の記者達は大々的報道せずに、一緒にやって来ていた欧米有力各紙の記者のトーン
も接岸前と違い何の変哲もない歓迎式典の記事に変わってしまったのである。これには
共産党も、自由貿易を標榜するシオニストも拍子抜けではあった。こうした嫌がらせは
その後も、奉天総領事の指導と共に数々と起こっていた。ハリマン予言を達成させたい
が為の処置であったは間違いなく、ユダヤ予言の実力行使であった。ドイツ帝国国内で
も同じことは沢山起こっていた。一次大戦以前はこの共産党赤軍の防波堤としての散々
ドイツを利用していたがバクー油田の権利がユダヤ金融資本に提供しだした事で、ロシ
アは発展の為の工業技術を取り込む事と英国の自由貿易によって各国に解放を迫る事が
完全に一致していた意見となった。正にマルクスとエンゲルスが「共産党宣言」を発表
し執筆したバルーフ・レヴィの手紙の事が起こってしまっていたのだ。

741: 名無しさんAA:17/10/17 12:19
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 387-----------

「この新しい社会主義の中で、我々ユダヤ人は いかなる国家に属することもなく、又
他の民族からの何の抵抗を受けることなくして指導勢力となり、その影響を全世界に及
せる事になる。そして、彼らの中の何人かの賢者が、労働大衆の確固たる指導権を打ち
たてることに成功しても、プロレタリア革命の勝利によって 次々に世界共和国の一部
となっていく諸国家で、支配権はこのプロレタリアを指導する我々の ユダヤ人の手に
容易に収められる事になる。要するに社会主義革命の勝利は私有財産の廃止をもたらし
、こうして公有財産となって、他民族のあらゆる所の私有財産は、これを財産を管理す
る我々ユダヤ人の支配下に入るのだ。かくして我々ユダヤ人の元にメシアが到来する時
、ユダヤ人達は(全世界の民の財産を ことごとくダビデの星の下に司るであろう。)
と言い伝えられてきたタルムード予言が、ここに実現される。」と言っているのである
。チャーチルと対立しユダヤ迫害に及んだナチス党総統ヒットラーはこう述べている。
「我々にとって日本は、いかなる時でも友人であり、そして盟邦でいてくれるであろう
。この戦争の中で我々は、日本を高く評価するとともに、いよいよますます尊敬する事
を学んだ。この共同の戦いを通して、日本と我々との関係はさらに密接な、そして堅固
なものとなるであろう。日本がただちに、我々とともに対ソビエト戦に介入してくれな
かったのは、確かに残念なことである。それが実現していたならば、スターリンの軍隊
は、今この瞬間にブレスラウを包囲してはいなかったであろうし、ソビエト軍はブダペ
ストには来ていなかったであろう。我々両国は共同して、1941年の 冬がくる前に
ボルシェビズムを殲滅していたであろうから、ルーズベルトとしては、これらの敵国(
ドイツと日本)と事を構えないように気をつけることは容易ではなかったであろう。」
「又 他面において人々は、既に1940年に、すなわちフランスが敗北した直後に、
日本がシンガポールを占領しなかったことも残念に思うだろう。合衆国は、大統領選挙
の真っ最中だったために、事を起こすことは不可能であったはずだが、その当時にも、
この戦争の転機は存在していたのである。さもあらばあれ、我々と日本との運命共同体
は存続するであろう。我々は一緒に勝つか、それとも、ともどもに亡ぶかである。運命
がまず 我々(ドイツ)を殲滅してしまうとすれば、ロシア人が“アジア人との連帯”
という神話を日本に対して 今後も長く堅持するとは、私には まず考えられない。」
(1945年2月18日)と述べている。つまり 日本は時期を逸したのでドイツが敗
けた時には日本は白人を信じれるだろうか。私は信じれるとは思わない。と言う意味を
述べたのだ。

742: 名無しさんAA:17/10/17 12:22
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 388-----------

こうしたアメリカのあからさまな威嚇行動を受け、日本でもアメリカとの戦争は避けら
れないものとする意識が芽生え始めた。。結果、ヒットラーが言う様に、欧米諸国も、
人種の壁や、反日感情の高まりを強く大きく広がり始めた。日本人はそのような世界の
人種差別的風潮を受けて、1918年、第一次世界大戦が終結した後のパリ講和会議の
席上では「人種平等に関する提案」という人種差別撤廃案を提出した。だがその提案に
対する投票の結果は、賛成17/反対11と賛成多数であったものの、委員長を務めていた
アメリカ大統領のウィルソンによる「このような重大な案件は全会一致でなければダメ
だ」との理不尽な独断で不採決となってしまったのだった。このパリ講和会議の一件に
ついて、アメリカの黒人歴史学者のレジナルド・カーニーは著書の『20世紀の日本人ー
ーアメリカ黒人の日本人観1900―1945』のなかで次のように書いています。
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743: 名無しさんAA:17/10/17 12:23
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 第一次世界大戦が終わると、ヨーロッパの戦勝国は世界秩序を元に戻そうと、パリで
講和会議を開いた。それぞれの国にはそれぞれの思惑があったが、一致していたのは、
日本とアメリカからの申し入れには耳を傾けよう、という姿勢だった。 ウィルソン大
統領は、世界秩序回復のための一四ヶ条を手に、パリに乗り込んだ。彼がまず唱えたの
は、国際法と国際秩序の確立であった。日本の代表団は、ウィルソンが出せなかった 
一五番目の提案を持って講和会議に出席した。「わが大日本帝国は、国際連盟の盟約と
して、人種平等の原則が固守されるべきことを、ここに提案する」。これこそが、いわ
ゆる一五番目の提案であった。(中略)人種平等の実現を目指していた日本と、そうで
なかったウィルソン。その差がここにでたと言ってもよいだろう。もし日本のこの一五
番目の提案が実現されていれば、アメリカ黒人にとって、おもしろいパラドックスが生
じていたかもしれない。(中略)アメリカ黒人がほかの連盟の人間と同じように、民主
的に扱われるためには、アメリカ以外の外国に住まねばならなかったはずである。そん
なパラドックスが生じていたかもしれないのだ。(中略)「おそらくは世界でもっとも
有望な、有色人種の期待の星」、それが日本であるという確信。日本はすべての有色人
種に利益をもたらすという確信があったのだ。それは、たとえひとつでも、有色人種の
国家が世界の列強の仲間入りをすれば、あらゆる有色人種の扱いが根本的に変わるだろ
うという、彼の強い信念によるものだった。(中略)全米黒人新聞協会(NAAPA)は、
次のようなコメントを発表した。「われわれ黒人は講和会議の席上で、”人種問題”に
ついて激しい議論を戦わせている日本に、最大の敬意を払うものである」。
「全米一二〇〇万人の黒人が息をのんで、会議の成り行きを見守っている」。
――レジナルド・カーニー『20世紀の日本人ーーアメリカ黒人の日本人観1900―1945』
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744: 名無しさんAA:17/10/17 12:43
謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 389-----------

その後もアメリカの「日本いびり」は続いた。アメリカは1922年、ワシントン会議
で日英同盟の解消を取り付け、さらに日本に主力軍艦を建造してはならないという条約
まで日本に押しつける。アメリカ国内では、日本からアメリカへ渡った日本人移民への
差別が激しくし、1924年にカリフォルニア州で「排日移民法」という法律ができ、
日本からの移民を禁止するという事態にまで及んだ。これはボーア会議で中国人移民を
使えなくなったアフリカや他の植民地に中国人を送り込もうとし画策中に、英国内でも
「人種差別の廃止」「人権平等主義」「奴隷制の廃止」と言う当たり前の思想を呼び起
させ植民地廃止を呼び掛けて止まない日本に対するフリーメイソンの腹いせでもあった
。それから当時清国で王朝が滅び、いくつもの勢力に別れて混沌としていた中国の政治
に対して、「日本は口を出すな。」と言ってきたかと思うと、その裏では、アメリカ、
イギリス、中国、オランダによる、いわゆるABCD包囲網と呼ばれる日本への一方的
な経済制裁で中国を取り込んでいた。この事は如何なのんびりした海軍にも衝撃だった
筈だ。日本国内の物資の欠乏は深刻な事態に陥ったが、こうした、あからさまに日本を
敵視した日本孤立化への動きが、実際に真珠湾攻撃による太平洋戦争の開戦に至る以前
、数十年間に渡って行われてきていた。つまり、「太平洋戦争(第二次世界大戦)」と
は、そのようなアメリカの「世界の覇権」への執着が「これでもか。まだか。」と次々
に日本に対して虐めて国際法を無視してでも植民地政策を置きたい人々の仕組んだ戦争
だったのである。これに海軍はいささか優しすぎた。米国を英国と同じ紳士の国と思っ
た嫌いがある。この「人種差別」的な意識が日本を追いつめたことで起こった戦争なの
だが、全く信じられないのは そのような事実上の「抗争」は、実際に武力衝突が起こ
る以前40年間に渡って、執拗に延々と繰り広げられていたことだった。海軍に、この
米国主導の「新黄禍経済論」をはねのける力は全くなかった。そしてそれは、最終的に
日本は、自国の完全な孤立化を回避し自国の存続を維持する働きも妨げた。「アジアの
自立」の目標は第一次大戦前からではあったが、最初に陸軍が掲げ考えた「(欧米排除
による)アジア諸国を欧米の植民地から解放し、それらの国々と一致団結する道」しか
残る道はないと考えます。日本がアジアを結束させ、指導的な立場に立ち「大東亜共栄
圏」をつくることでアジアの独立と団結を一挙に図ろうと言う明治政府以前の考えに戻
そうとしたのです。薩摩藩が説いたと言う征韓論の素となった「アジア自衛の建白書」
が下地となり此処で又政府方針になったのである。江戸末期のペルー以来の再考だった

745: 名無しさんAA:17/10/17 12:53
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 390-----------

 こうしてとうとう「ハル・ノート」という事実上のアメリカ側からの最後通告を拒絶
して、「大東亜共栄圏」の実現をめざして、1941年12月8日、ハワイの真珠湾の
米軍基地を攻撃し、第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)へと突入することにな
るのだが 此処に徹底的米軍基地を叩くと言う意志が見られない。精油施設は破壊して
いない。更に何故だか 他にも先に述べた様なミッドウェーやガダルカナルまで足を伸
ばして失敗続きの上にサイパン諸島をアメリカに陥落させている。不思議な作戦である
 まさにこの視点こそが 海軍将校に欠けていた視点だった。山本五十六も南雲中将も
黒人に対する人種差別がある事は解っていたであろう。だがそれが日本人感覚のままで
の士農工商的身分差別の延長としか思っていなかった事だ。醜悪な何百年も及ぶ憎しみ
や恨みや世界征服計画などとは 荒唐無稽な物だとしか見て居なかったのである。又、
留学に際しても彼らが充分にアメリカ国内で市民と触れ合ったのなら その悲痛な黒人
の叫びや怒りと冷酷にして冷淡で執拗に金に執着するユダヤ民族の習慣に出会えた筈だ
が 日夜閉じこもっての「優良書籍」での見地であったが為にドイツの中の「共産赤軍
」と「スラブ民族」への頑なな拒否と「ケルマン民族」選民主義の視点には、出会わな
かったのだろう。つまり 白人の戦争をゲームとしたブルジョア主義に同じ土俵に乗っ
たとしか考えられないのだ。『ヒトラー第二の書』 A.ヒトラーはこう述べる

746: 名無しさんAA:17/10/17 12:54
かったのだろう。つまり 白人の戦争をゲームとしたブルジョア主義に同じ土俵に乗っ
たとしか考えられないのだ。『ヒトラー第二の書』 A.ヒトラーはこう述べる
「ドイツに対する戦争(第一次世界大戦)は 圧倒的な世界連合によって行われたが、
ドイツの破壊に直接的な利益のあったのは一部の国々だけだった。少なからぬ国々を戦
争に踏み切らせた影響力は、その国の本当の国内的利益から生じたものではまったくな
いか、あるいはその国にとって何の得にもならないものだった。醜悪な戦争プロパガン
ダによってそうした国々の国民世論は五里霧中の状態となり、戦争支持の熱狂へとかき
立てられた。しかもその戦争は、その当の国民にとってはまったく得るところがなかっ
たばかりか、その本当の利益とは真っ向からぶつかることにすらあったのである。この
途方もない戦争プロパガンダを煽動した勢力は、世界中の国際ユダヤだった。なぜなら
ば、こうした国々が数多く戦争に参加することは、その国々の利益から見れば無意味に
思えるかもしれないが、『世界ユダヤの利益』という視点から見ればまさに意味のある
、論理的に必然性のあることだったことだからである。」そして第二次世界大戦も全く
同じ理由と結果だった。此処に一次大戦で儲けたユダヤ資本の二次大戦を又起こした理
由でもあった事が証明される。だがこの証明は一般市民には意味のない悲しいものだっ
た。日本の大和民族にとっては 全くとんでもない事で鎖国を暴力的に解かれ 交易を
迫られ、交易して必死に「西洋に追いつけ」と軍備し大国となり隣国に法治国家を施し
しようとなれば 大義なく叩かれたのである。理不尽にも程がある国際社会であった。


747: 名無しさんAA:17/10/17 13:07
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 391-----------

サルトルは、2000年来のユダヤ人迫害の原因が、決して被害者側には見当たらず、
むしろ加害者側にあったことを明らかにします。上は聖書から、下はヒトラーまで、反
ユダヤ主義は、ユダヤ人の背中にすべての社会悪の責任をなすりつけ、選民的全体主義
を打ち立てる手段であったと言うのです。彼によれば「もしユダヤ人が存在しなかった
ならば、反ユダヤ主義たちはそれに変わるものを作り上げただろう」し、「他の国にお
いては、それが黒人であったり、黄色人種であったりする」のです。と説いた。悪者を
仕立て上げる人間の歴史。それを答えにしている。「偽物のユダヤ人達」ではヒトラー
が何故反ユダヤ主義に陥ったのかを紐解く。「ヒトラーは学生になるためにオーストリ
アの首都ウィーンに出ることになります。そこで、彼は日雇い労働をしながら日銭を稼
ぐ生活をしていました。」彼は、著書『わが闘争』の中で、ユダヤ人の存在を意識して
いなかったことを告白しています。貧しい暮らしの中でやがて、なぜ社会に貧困が存在
し、貧困ゆえの不幸が存在するのかを意識するようになっていきました。その後、当時
のドイツ・オーストリア社会でユダヤ人勢力が影響力を及ぼしていることを発見するの
でした。「ユダヤ人の共同体の存在は特殊である。特殊性の理由は、歴史的経緯や宗教
的習慣による部分が大きい。とくに彼らの知識吸収の習慣 や知識共有の習慣、例えば
毎日の勉強量・議論の量が、そもそも非ユダヤ人と異なっており、生活習慣として身に
ついている。そのような人々が、コミュニティを形成し、成長していくことに競争社会
で勝とうと思えば、同じだけの生活習慣を身につけ、同じような生活習慣の人材を身の
回りに置く必要があるだろう。残念なことに非ユダヤ人にとってそんなことはそもそも
現実的な選択肢ではない。」と語る。「数千年にわたる同族結婚、しばしばごく狭いサ
ークル内での同族結婚によって、ユダヤ人は彼らがその中で生きた数多くの他民族より
も、全体としてはその種族とその特質を厳しく保持してきたのである。そのユダヤ人は
宗教共同体ではなくユダヤ教徒による宗教同盟であり、実体としては、ほとんどユダヤ
民族による一時的な統治システムである。」と。つまりユダヤ社会に於いてはユダヤ外
は害する獣であり又ユダヤ社会内でも 自分以外は蹴落とす存在で 贋ユダヤとする事
で同じユダヤ教徒も 敢えて殺して良いとしている社会だ。と言うのだ。これは支配者
はいても統治者が居ない世界だからと言う分析をし そこに支配の象徴を金とし、その
力を信じた これが加害者の正体であるとしている。ユダヤでは金ナチスでは武器日本
では天皇中国では暴力がその支配の象徴であった。


748: 名無しさんAA:17/10/21 12:33
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 392-----------
そもそもユダヤ人はアーリア人諸国家のような、領土と結びついた独自の国家を持っ
たことがない。にもかかわらず、その宗教共同体は事実上の国家となっている。なぜな
らば、それがユダヤ民族の保存と拡大と未来を保証しているからである。しかし、これ
はまったく国家の任務である。私たちの暮らす日本であっても、日本人一人ひとりが時
の総理大臣と直接つながっているわけではないが結果的に統治されており、望むと望ま
ずとに関わらず集団としての意見を発し続ける。それは常にはあなたの意見とは一致し
ないだろうが、外国からは「日本の意思」とみなされるだろう。日本に生まれた者は、
最初から日本人であり、さほど努力をせずとも世界の平均所得(年間50万円)と比べれば
はるかに上流階級で生活することになる。そして世界の平等よりも、そのような優位性
を持続しようとするのが国家だ。通常はそうである。我々アーリア人の生命闘争の基本
は土地だ。土地を耕し、それをすべての基礎として、自分たちの活動範囲内で、自分た
ちの民族の生産力を通じ、まず自分たちの必要を満たす経済を生み出すのである。と。
『ヒトラー第二の書』 アドルフ・ヒトラーは  そう書いている。
 ナポレオン戦争後の基本的な考え方の一つとしてナショナリズムが挙げられる。即ち
それぞれの民族が主権を脅かされない土地を持つという考え方だ。ユダヤ人のシオニズ
ムも、その一つであると考えることもできる。ナショナリズムの考え方の一方で、伝統
的な王家によって支配される「正統主義」の立場がある。だが一方ユダヤ民族は、領土
的な意味での国家建設を遂行する意志はない。そこで、自身の存在を支えるものとして
、他の民族の業績や創造的活動が必要となってくる。「吸血鬼体質社会」「寄生富民」
の生活である。ゆえユダヤ民族は、存在そのものが、他民族の生命の内部に入り込んだ
寄生虫的なものとなる。したがってユダヤの中の生存競争の究極の目標は、多民族生産
力の活発な活動とその諸民族を奴隷化することによる価値の窃取や搾取となる。この目
標は、古今を通じて現実にユダヤの生存競争を代表してきたものであり、その達成の為
にユダヤは、その民族性格のなかに隠し持ったあらゆる武器を利用するのである。そこ
には、寒くて暮らせない中でも 逃げ延びて暮らすしかない北方民族の真の姿となった
共産主義の顔が見えてくる。過酷な自然では搾取が人間に向くか自然に向くかのみの違
いである。こうして今まで無かったユダヤのシオニズムが18世紀ごろから、突然欧州
社会を覆うのである。それは丁度バチカン社会がキリスト教の中の一部としてローマ帝
国の庇護の下での古典的キリスト教徒の世界が 帝国と共に終焉を迎えた時期だった。
秩序が 平等の論理を捨てて 権威や汚職に取り込まれ贅に飽かしては闘争が起こる。
世の中は 頭の良い異常者ばかりではないからだ。通常は平凡な駄馬の社会なのだ。

749: 名無しさんAA:17/10/21 12:34
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 393-----------

 ヒトラーは、この「ユダヤ人」がどの国においても民族同化しないことを指摘してい
る。民主主義も社会主義も批判したとされるヒトラーだが、ユダヤ人問題を放置した状
態で民主主義や社会主義が機能しないことを指摘していたと言い換えることもできる。
あるいは、仮にユダヤ人問題が解決しても尚、国境という明確な機能限界が存在してい
るのが民主主義であり、それを解決するためには純血主義の結論が導かれてしまう。日
本のようなほとんど単一民族、単一言語、民主主義の集団であってもなお、排他的な考
え方が存在するのが現実だが それはアメリカ社会で州境を超えてはびこるギャング団
と同じく国家の「機能限界線」を知り得た民族の生きる知恵だった。そこで金融支配と
言う新たな手口が編み出される。新天地のアメリカ合衆国において、ユダヤ人たちは、
金融力の支配者である。一年一年彼らはますます1億2千万人の民衆の労働力の監督者
の地位に上っていく。ユダヤ人は自分たちの至福の中で千年王国を築く。日本のような
国家主義国家が残っているのをはばかり、それ故自分自身の独裁が始められる前にきっ
ちり日本の様な純粋国家が絶滅されるよう願っているのである。ヒトラーには単にユダ
ヤ人が異質で嫌悪すべきものだと主張しているのではなく、具体的に何が起こりつつあ
るのかを厳密に考察している。国土を持たず地球上の多くの場所でコミュニティを形成
し、さらにそれらの繋がりを大切にしている「ユダヤ人」という集団は、事実上国家の
ような機能をもってしまう。個々のユダヤ人の意思とは関係なく、集合として、あるい
は「統治システム」の出力として社会への影響を与えてしまう。こうして『わが闘争』
が出版される。1925年は、第二次世界大戦( 1939年-1945年)の14年も前の事で
ある。だが、ヒトラーはユダヤ系資本が確実にアメリカの金融界で支配力を伸ばしてい
ることを認めている。そして、ドイツ人によるドイツの統治が不能になり、貧困や格差
が拡大してしまうことに懸念を表明している。ホルスト・マーラーは「ヒトラーはユダ
ヤ主義的金融資本主義がもたらす金利奴隷世界の来ることを看破し、それを防ごうとし
た。一人一人の貯金さえもが脅かされようとしている現在の世の中こそが彼が慧眼であ
ったことを証明している。」とそこに称賛の声を記録していた


750: 名無しさんAA:17/10/21 13:01
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 394-----------

 1929年はユダヤ資本家にとって投資先の中国ではリスク管理が出来ず。かといっ
て日本では、欧州各国の日本脅威論で反感状態でアジアに優良投資先で無くなった事で
新たな投資先をソ連にした年でもあった。革命で成功したレフ・トロツキーを国外追放
し恐怖のスターリンの独裁体制がここに完成した年でもあった。日本では先の張作霖爆
殺事件責任者の処分発表したが、処分が軽すぎると天皇が首相田中義一を叱責し、田中
義一内閣は総辞職。濱口内閣成立した。エルサレムでは、ユダヤ人とアラブ人が対決す
る「嘆きの壁事件」を発生させていた。これはイギリス委任統治領パレスチナのエルサ
レムにある嘆きの壁で、祖国建国を目指すシオニズム運動により差別に苦しむ離散ユダ
ヤ人を入植者として英国が認めた事で大量にやって来ていた移民管理のなさから来てい
た。いい加減な英国の国策はユダヤの指導で1917年のバルフォア宣言をし入植が可能に
なったのだ。世界各国の同胞から支援を受け、政治や経済に多大な影響力を持つ ロス
チャイルド家など強力な後ろ盾として 貸付先を個人のユダヤ人入植者にした為急増し
、アラブ人やペルシャ人のイスラム教徒たちは、殆どが危機感を募らせていた。それは
現代のパレスチナ問題の入口でもあった。こうして水争が加熱しヘブロン虐殺が起こり
それに対してツファット・ポグロムと言うユダヤ迫害が起こったのである。かつて莫大
な資産を持ったハプスブルク家の縁戚の他のハプスブルク王朝もロマノフ王朝もプロセ
イン公国も今や無く、金融執事であった諸侯は各スイス銀行からの預けたがその運用先
のユダヤ金融家は、今や危機的状況だった。膨大な資金でバクー油田を買い上げたもの
のスターリンの同意を得て利益を得る所にやっと落ち着いた位で、後はこのユダヤ入植
者と言う小さな投資での小さな現金を得る事を続けるしか無かったのである。その中に
アメリカの株式投資やドイツ復興への投資は勿論大きな物だが構図は極めて陰湿だった
。この頃彼らが個人向け投資環境を作り得た事は確かであった。即ち自らで作った銀行
で、誰彼構わず個人貸付し投資しながらも、その供給した紙幣は同じ銀行窓口で発行し
、又裕福な層に同じ様に発行した株を買わせていたのである。これらが生産実績と連動
しないまま買い付けし、株価は当然銀行の思う道理であり当の会社は苦境に陥っていた

751: 名無しさんAA:17/10/21 13:02
。この頃彼らが個人向け投資環境を作り得た事は確かであった。即ち自らで作った銀行
で、誰彼構わず個人貸付し投資しながらも、その供給した紙幣は同じ銀行窓口で発行し
、又裕福な層に同じ様に発行した株を買わせていたのである。これらが生産実績と連動
しないまま買い付けし、株価は当然銀行の思う道理であり当の会社は苦境に陥っていた
。それらは今まで国家間で資本へやっていた行為を個人に行っただけに過ぎなかった行
為だったが、大衆への移行の恐ろしさがそこにあった。1929年10月24日の午前
10時25分。ニューヨークの株式市場において、突然ゼネラルモーターズの株価が80
セント値下がりした時、これを機に市場は売り一色となり株価が大暴落することになっ
た。金融恐慌の始まりだった。つまり一瞬で人は利益売りに総じて変わったのだ。まさ
にユダヤ投資で出来た地域政府の銀行の地域に投資しようと「個人株の売却」の攻防の
も裏目である。そこにはこれまでの伯爵王家などの誇りある余裕やゆとりはなく金満家
の欲深きその場しのぎの権利の確保金融資産の保護しか無かった。


752: 名無しさんAA:17/10/21 13:15
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 395-----------

 ここに現代でもはびこるユダヤの持った「贋ユダヤ思想」の限界があった。生産資産
家として君臨していた各王朝に 金融資産家は生産労働者を持たない為 決して返済の
あるお客とはならなかったのだ。そこにいたのは中流階級とする 酔っ払いの様な浪費
する消費者の姿しかなかったのだ。基本的には地球温暖化も原子力廃棄物問題も貧困問
題や地域格差もこうした社会構造の問題だった。そもそも民族大移動の時と同じ様に、
大航海時代に我々が新大陸を発見したと言わんばかりに記述するが それは正解ではな
い。常に頭に「欧州白人社会に於いては」と言う冠がつくのである。世界一周に於いて
も彼らは寄港地を求めた時原住民はそこそこの航路はあった。それを帆船で繋いでいっ
ただけの話だ。この大航海時代に於いてもユダヤは運用の投資先がなく王族に船を進め
一大帆船造船時代を築かせた。第一次産業の生産にも従事しない。流通や販売にも彼ら
は手を汚さない。更に王侯諸侯の国の経営にも悩まない。只金を作り金をあてがい自分
達がその紙幣や金貨を牛耳る。それは働かないが為に必要な物々交換の中に自分達の発
行紙幣を取り込む行為だった。そして平和で落ち着いた時ユダヤ教本来の「キリスト教
原理主義派」としての兵士だった記憶や性格がここに頭をもたげるのである。彼らは、
金融資本家となっても尚戦争商売を望む事しかしない。ユダヤ教に於いても旧約聖書の
「あなたが、共にいるわたしの民の貧しい者に金を貸す時は、これに対して金貸しのよ
うになってはならない。これから利子を取ってはならない。」(出エジプト記22-25)の
戒律で禁止されていた行為を、ユダヤ教徒は人種差別に於いて解決した。ユダヤ教の場
合に異教徒への金融は許される。と言った具合だ。更に過酷なのはユダヤ金融の利子は
3割から4割にも及んだので、多くの債務者は担保物件を失うしその裏に暗殺集団や強
奪集団がいる事もしらなかった。そして彼らの行動を正当化する為に国があり法律があ
った。つまり国王にも貸して法を動かしたのだ。こうしてユダヤ人金融の影響力は増大
していったが同時に民衆の敵意も増大していった。こうして彼らは本来の特徴である裏
社会のシンジケートを作って行った。多くの王族や諸侯は公にして禁じたが、それは既
に侵略された国家との確執や戦争を産んだ。そこに国内ではポグロムや虐殺の進化が産
まれて行った。ユダヤ人はムスリムと共に常に迫害された。彼らは土地所有を禁じられ
て農業の道を断たれ、ギルドから締め出されて 職工の道も閉ざされ、店舗を構える商
売や国際商取引の大幅制限などで商業の道をも制限された。こうして何百年も国家より
金融経済を信奉する集団として過ぎたのである。そして今もまだ変わってはいない。


753: 名無しさんAA:17/10/21 13:24
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 396-----------

 「純粋に感情的な諸事情や諸理由から、反ユダヤ主義者はその究極の表現をユダヤ人
迫害の内に見出すであろう。しかし、理性のある反ユダヤ主義は、ユダヤ人が他の、我
々の間で生活している『他の外国人』と違って所有している幾つもの特権を、計画的・
合法的に駆除・除去することを 目指さねばならない。その為外国人法を制定する。」
「ユダヤ人の新たな民族意識は、『パレスチナでのユダヤ人国家建国』によって満足さ
れるのだと他の世界の人々に信じさせようと、シオニストたちが努力する時、お人好し
な非ユダヤ人を騙すべく、それに関してユダヤ人はもう一つの手段を採る。彼らには、
『パレスチナにユダヤ人国家』をそこに住むことができるように建国しよう。などとい
う意図は微塵もない。彼らの真の狙いは、国際的な『詐欺とペテンのための中央組織』
を設立することにある。主権国家として、これは他のいかなる国家にも支配されえない
。したがってそれは、正体を見破られた詐欺師の避難場所と同時に、その他の詐欺師の
訓練のための高等学校として役立ちうるのだ。」『わが闘争』A.ヒトラーその予言は、
イスラエルのモサド出身の、アブバクル・バグダディが「イラク・レバントのイスラム
国(ISIL)」指導者としてイスラム共同体の指導者「カリフ(預言者ムハンマドの
後継者)」として奉じるイスラム国家の樹立を宣言した事でも裏付けられる。シリアの
北部アレッポ周辺からイラク中部ディヤラ県までの一帯を現時点の「領土」と位置づけ
て、かつてのオスマン帝国が、イスラム教の王として キリストのバチカンの法王の様
な位置づけを行ったのである。その姿こそ「戦争が無くては食べていけない国家」であ
るイスラエルの「混乱こそ我が国の為」の姿あった。1907年にチャーチルは植民地
大臣エルギン伯爵の許可を得てイギリス領東アフリカへ視察旅行に出ている。その頃の
イギリス人達(多くはフリーメイソンの会社の社員達)は絶対的支配者として振る舞い
それを見たチャーチルは、「そうした統治で平和を保つことができる」イギリスの支配
の偉大さを再確認した。と言う錯覚に陥った。此処に絶対権力の横暴さを持つ反ユダヤ
主義を掲げたヒットラーとユダヤ資本の庇護を元に政界入りしてるチャーチルが激突し
た。1909年秋にドイツを訪問し陸軍演習と職業紹介所を視察したチャーチルがいた。イ
ギリス程ではなかった当時ドイツも失業者を抱えていたが、此処には労働者保護があっ
た。ドイツ訪問では労働者の多くが失業保険に入っていることに感心したチャーチルは
ウィリアム・ベヴァリッジとともに職業紹介所設置法を成立させ、これまで地方公共団
体が設置運営していた職業紹介所を中央政府が直接設置運営させた。


754: 名無しさんAA:17/10/21 13:30
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 397-----------
 こうした社会保障政策は多くの予算を必要にした。労働者保護を目的としたがそれは
中産階級の税負担も大きくした物だったからだ。国際連盟で大型艦隊の造船規制はその
為の工作だった。1911年6月国民保険法はこうした労働者の不満を抑えるためのも
のであったが、それもむなしく、イギリス各港で海運労働者の大規模ストライキが勃発
した。管理者に於いて税金支払いが これまで以上の過酷な労働を捧げる労働者を産ん
だのだ。直ちに各港は海運機能が麻痺し、革命前夜の空気さえ漂った。チャーチルは弾
圧路線を変更するつもりはなく、あちこちに軍隊を派遣してはストライキ弾圧を行った
。そこには平和なアフリカの影があった。1912年1月に戦争大臣ホールデン子爵を
使者としてドイツに派遣し、「ドイツはイギリス海軍の優位を認めるべき。ドイツがこ
れ以上の海軍増強を行わないなら、代わりにイギリスは、ドイツが植民地拡大するのを
邪魔しない。」とさえ言った。イギリスにはびこる諜報員の前にチャーチルは「イギリ
スにとって海軍は必需品、しかしドイツにとって海軍は贅沢品である。」という演説を
行い 援護射撃のつもりだった。だがヴィルヘルム2世の心証を悪くホールデン子爵の
提案は「ドイツ海軍力を一方的に封じ込めようという陰謀である」として拒絶された。
1912年から1914年にかけての予算編成はアイルランド自治法をめぐって議会が
紛糾した。中でも移住者の多い北部アイルランドのアルスターは複雑だった。アルスタ
ーはイングランド本国と経済的に結びつきが強く、アイルランドの中では唯一産業革命
を経た地域であったため、アイルランド自治にあたってここを失うことはカトリック・
アイルランド自治派にとってもプロテスタント・イギリス派にとっても耐えがたいこと
だった。1914年6月のサラエボ事件を機にドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国
対ロシア、フランスの第一次世界大戦が勃発した。フォークランド沖海戦が勃発し、王
立海軍が勝利した事でトイツは鳴りを潜めた。ところが1914年反露親独的なオスマ
ン・トルコ帝国がドイツ側で参戦しており、1915年になるとロシア帝国軍最高司令
官ニコライ大公はイギリス政府に対してトルコを圧迫してほしいと要請して来た。閣内
にはロシア軍との連携を重視する東方派とフランス軍との連携を重視する西方派の争い
があったが、東方派の彼は仏軍協力の元のトルコ派兵を導いた。ガリポリ半島上陸戦は
英仏連合軍で実施し18隻の英仏艦隊でダーダネルス海峡沖を攻め、トルコ軍要塞砲撃
で壊滅させた。ところが戦闘中に戦艦3隻が機雷に接触し、2隻は沈没、もう1隻も大
被害を受けたため、作戦は苦戦を強いられ頓挫した。此処にユダヤの金利に押され国民
が過大な労働と戦争に強いられる姿があった。金融資本の強欲に手を貸したチャーチル
だったのだ。

755: 名無しさんAA:17/10/21 13:33
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 398-----------

この失敗で海軍大臣を辞任した彼だったが、戦争が終わると「カイザーを縛り首にしよ
う」「ドイツ人から賠償金を取り立てよう」などの過激なスローガンで愛国心を煽る選
挙をし、大連立政権支持のロイド・ジョージが政権を取った。そして1919年1月か
ら戦争大臣兼航空大臣(空軍大臣)に任じられた。チャーチルが「戦争終結後に戦争大
臣になってもな」と愚痴ると、保守党党首ボナー・ローから「戦時中にお前を戦争大臣
に任命する変わり者はいないよ」と皮肉られた。それほど戦争好きではあったのだった
。チャーチルの戦争大臣としての最初の仕事は動員の解除であった。兵士たちは一日も
早く動員解除されて帰国することを希望していたが、干渉戦争と言う影響もあって動員
解除はゆっくりと行われ、しかも雇用者から重要労働者と認められた者から順番に動員
解除するという方針をとった。国内に産業が疲弊し労働者が仕事する場所がなかった。
更にイギリスでも北ロシアに駐留する部隊を通じてアレクサンドル・コルチャークらの
帝政派ロシア軍人から成る白軍を支援していたのだ。ロイド・ジョージ首相はこの反ソ
干渉戦争から早く撤退することを希望したがアメリカからの反対が強く、日本のシベリ
ア出兵と同じに 司令官や将校らは赤軍ボルシェヴィキとの妥協に反対し干渉戦争の続
行を主張していたのだった。ロイド・ジョージがパリ講和会議出席のために、イギリス
不在となると、チャーチルはこれに全精力を注いだ。チャーチルは、連合国ロシア委員
会を設置し、連合国各国に反ソ行動を求めた。こうしたチャーチルの反共姿勢に労働者
階級や労働党、動員解除を求める軍人たちの反発は強まった。労働党、はチャーチルが
イギリス軍撤退の無期限延期と新たな兵士を送り込むことを議会に諮る事もなく独断で
白軍に約束したとして彼の逮捕を要求する決議さえ出そうとした。こうした声に押され
て、英軍を撤退させざるをえなくなった。今まで防波堤のドイツが居なくなりポ−ラン
ド侵攻によってロシアの赤化は拡大の一途であった。軍需品をダンツィヒ経由で大量に
ポーランド軍に送りこみ阻止は出来なかったが、他のヨーロッパ諸国への赤化の拡大を
食い止めることには成功した。1921年にチャーチルは植民地大臣に転任して第一次
世界大戦に勝利し敗戦国のドイツやトルコの植民地や領土を、国際連盟からの委任統治
領という形で獲得する事に成功した。大英帝国は過去最大の領土を領有するに至ったが
、それはしかし同時にそれに伴う諸問題も多く抱えることになった事を意味していた。



756: 名無しさんAA:17/10/21 15:12
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 399-----------

英国内でも その後労働争議やストライクが続けて起こり政変を繰り返し続けていた。
戦後マクドナルド労働党政権の成立で失職するが マクドナルドがソ連との国交正常化
やキャンベル起訴撤回問題など労働党左派に配慮した政策によって 保守党や自由党は
批判を強め、10月8日に自由党のアスキスが親ソ政策批判動議が提出され、保守党が
賛成し可決され、マクドナルド内閣は解散総選挙に打って出た。この選挙でチャーチル
は激しい社会主義攻撃を展開し、「社会主義者がブリタニアに着せようとしている。ド
イツ製、ロシア製のふざけたボロ切れを脱ぎ捨てろ。彼女の盾は汚らしい赤旗ではなく
、ユニオン・ジャックの旗でなければならない。」と演説した。エッピング選挙区は反
共主義の機運が強く、チャーチルの反共演説も選挙区民を熱狂させ、圧勝した。こうし
て1924年11月にボールドウィンに大命があり、第2次ボールドウィン内閣が発足
した。この時の大蔵大臣チャーチルの事績として最も知られているのが第一次世界大戦
の勃発で中断されていた金本位制への復帰である。大戦後、イギリスの輸出産業は新興
国アメリカや日本に押されて弱体化を続けていた。またイギリスの海外投資の多くも、
戦争で手放すこととなり、イギリスの国際収支を支えてきた貿易外収入は大きく減少し
ていた。当時イギリスの海外投資の多くはアメリカによって買い取られており、世界金
融の中心はイギリスのシティからアメリカのウォール街に移ろうとしていた。ドルはポ
ンドに先んじて大戦終結直後に金本位制に復帰し、世界通貨の地位を確立していった。
戦後直後のイギリスはインフレ的な国内信用拡大が起こっていた。しかし1920年以
降はデフレになり、需要は低下し、物価は下がり、失業率は高まった。戦前レートでの
金本位制復帰はポンドの過大評価であったので、イギリスの輸出競争力は低下し、輸出
産業、とりわけ石炭産業が打撃を受けた。イギリス鉱山協会は賃金協定を破棄して賃金
切り下げを宣言、これに対抗して炭鉱組合や労働組合会議はゼネストを表明した。政府
は非常事態法を制定して労働運動弾圧を開始し政府と資本家による労働運動切り崩し工
作も成功し、労働組合会議は若干の賃金切り下げを認めるに至り、ゼネストが終了した
29年秋のアメリカ・ウォール街の大暴落に端を発する世界大恐慌はイギリスも襲い、
5月に115万人だったイギリスの失業者数が30年年末には250万人に倍増した。
失業手当が膨大で、労働党政権は失業手当削減案をめぐって閣内が分裂し、31年には
内閣は総辞職をした。こうして困難な時局を迎えてるのである。



757: 名無しさんAA:17/10/21 15:25
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 400-----------

元々はナチス前史を溯って行くと、19世紀末のウィーンに芽生えた2つの宗教的サー
クル(秘密結社)に行きつくと言われる。ランツが創設した「新テンプル騎士団」と、
リストが創設した「リスト協会」である。そしてこの2つの流れは、ベルギーなどの職
人集団であるギルド集団やハンザ同盟と時期が重なる。「帝国ハンマー同盟」の姉妹で
地下組織「ゲルマン教団」を媒介にして合流し、第一次世界大戦後のミュンヘンにおい
てナチスの思想的母体となった「トゥーレ協会」を生み出した事が黒い流れになった。
これらはかつての「十字軍の遠征」を行った過程と同じ様な仕組みを採用したに過ぎな
い。そしてこの「トゥーレ協会」が生み出した右翼政党が「国家社会主義ドイツ労働者
党(NSDAP)」、すなわち「ナチ党」であったとされる。それは第一次大戦の遥か
前から英国や仏国が共産党赤軍の防波堤としてドイツやオーストラリアを利用している
様にフランス革命で労働者者の自立の声が高まった時に宗教家や公爵などが作った防波
堤であった。ヒトラーを『ボヘミアの伍長』と嫌っていたヒンデンブルク大統領時代に
ヒンデンブルクは「ペンキ屋ふぜいにビスマルクの椅子を与えるわけにはいかない」と
椅子を投げつけ、議会懐柔にパーペンは議会に秩序が戻るまでの数ヶ月間だけは自分が
首相として留まると主張したが、これに対しシュライヒャーは「坊さん、坊さん、汝は
苦難の道を選びたり」と、かつてマルティン・ルターに投げつけられた言葉を投げかけ
た事でも解る。魔女狩りが行われた中世以前は人は住んでいたがそうそう交流はなかっ
た世界であったろう。ゴート文字やギリシャ文字ラテン文字など様々な文字と言語が行
きかった時代である。その頃の文盲率は高く人々は何も書けないとされた。だがそうい
った我々が知る欧州文化以外に忘れ去られた民族がかなりいたと思われる。その中には
古代ヨーロッパにはルーン文字という角ばった24つの記号で構成された文字が存在し
ていた。日本語に狩猟民族としての山窟(サンカ)文字が消えてしまった様にドイツよ
り北方では一般的欧州と違っている文字を使う民族がいたのである。バイキングの名で
有名な北方海賊にしても 大航海時代以上の前に大型帆船を動かしていたと伝えられる
。つまりはもとはメイソンリー同志の戦いが 第二次世界大戦だったのだ。これは奇妙
な現実で ソ連の共産主義もドイツの社会主義もイギリスの資本主義もフランスの自由
主義も全く同じにフリーメイソンが行いそこにはユダヤがばらまき融資をしていたのだ
。これは結局自分で製造した国の紙幣で物が流通し、自分が行う融資と利子で国を動か
し国の法を作った事が既に成功していた事を物語っていた。

758: 名無しさんAA:17/10/21 15:36
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 401-----------

 此処にゲルマン民族の優位性を唱える元があった。ドイツ国内は日本で言う平安末期
に近いほど多主張にうずもれていたのだ。その中で赤軍の提唱する「世界暴力革命」の
国民平等はかなり魅力的な扇動だった。ルーン文字はここ最近、占いやお守り、ゲーム
のアイテムとしてよく目にすることができます。特にそういったものに特化して使用し
ているために、この文字は神秘文字や魔法文字と理解される。実際にも古代ゲルマン人
、古代スカンジナビア人、古代アングロサクソン人が使用した呪術にも使用された実用
的な文字であったとされ、現代とは状況が異なった昔は、言わば魔法や呪術や占いとい
うものが実生活と密着しての生活であったとも考えられ、それゆえ「魔法」や「まじな
い」で使用された部分として 古代のルーン文字が消えゆく中で浮かび上がったのかも
しれない。こうした神秘主義的ものの憧れは強くあったのだろう。1933年に誕生し
たヒトラー政権は、ナチス親衛隊(SS)の整備と並行して、国内治安維持を名目に警
察組織の一本化をめざし、州ごとにある警察をナチスの管轄下におく方針を決定した。
そして1933年4月26日には、ベルリンに「ゲシュタポ(秘密国家警察)」の本部
を設置していっそう取り締まりを強化した(初代局長はルドルフ・ディールス)。この
「ゲシュタポ」は、ナチス幹部のヘルマン・ゲーリングが実権をもっていたプロイセン
の政治警察機構を導入したものである。ゲーリングが長官になるつもりでいたが、ヒト
ラーはこれを認めず、以前から警察の全国統一を主張していたハインリッヒ・ヒムラー
をSS総司令官のまま警察長官に任命した。 ヘルマン・ゲーリングはIQ138と言
う頭が良さからだ。ちなみに「ゲシュタポ」という名は、郵便局員が配達の際に「秘密
国家警察(Geheime Staatspolizei)」を省略して呼んだのが広まったという。履歴でも
ゲーリングは元々パイロット揚りだった1933年航空相、35年空軍総司令官となり
、ヴェルサイユ条約で禁止されていたドイツ空軍の再建に頭よく中心役割を果たした。
36年からスペイン内戦にドイツ空軍を「コンドル軍団」として非公式参戦させて、新
型機実験場と称して、広報活動と即戦訓練と実力行使と試験使用更に時流分析に活用し
たのだ。こうして急降下爆撃やウーデットが推す短距離中距離爆撃機を重視する航空機
生産を行わせ第二次世界大戦前半の対ポーランド戦や西方電撃戦で大きな成功につなが
った。これらはアメリカユダヤ金融の思うツボだった。


759: 名無しさんAA:17/10/21 15:54
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 402-----------
 チャーチルは1932年夏に初代マールバラ公の古戦場めぐりの旅に出た際、ドイツ
・バイエルン州・ミュンヘンに立ち寄ったことがあった。その時期ドイツでは国会議員
選挙が行われ、国家社会主義ドイツ労働者党が第一党となり、その党首アドルフ・ヒト
ラーが近いうちにパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領より首相に任命される可能性
が高まっていた。チャーチルは、ミュンヘンでナチ党幹部エルンスト・ハンフシュテン
グルと知り合い、ヒトラーとの会談を勧められ承諾した。しかし、チャーチルはシオニ
ズムを支持している政治家だったために ハンフシュテングルに「なぜヒトラーはユダ
ヤ人を、しかもユダヤ人であるという理由だけで迫害するのか」という質問をぶつけ、
この質問がヒトラーの耳に入って「くだらない馬鹿だ」と思われ、会見はヒトラーの方
から拒否された。後世にチャーチルは「こうしてヒトラーは私と会見するただ一度のチ
ャンスを逃したのだった。ヒトラーが政権を握ってから、何度か会談オファーがあった
が、私は口実を作って断った。」と回顧しているが、正にユダヤの操り人形の人生を、
自ら自負して暴露しながら世界大戦まで持ち込み多くの者を殺しながら後悔しない馬鹿
だった。半年後の1933年1月に首相に任じられた事でドイツ国内はヒトラーの忌ま
わしい独裁体制を整える事になる、1935年3月には念願の ヴェルサイユ条約ドイ
ツ軍備制限条項の破棄と債権放棄を宣言して再軍備を開始する。イギリスでは一般には
保守党の政治家はナチ党に同情的だった。ヴェルサイユ条約のようなものを押し付けら
れては、その撤廃を主張するのは無理からぬことだし、ナチ党とドイツ共産党以外の政
党が力を失っている中では、ここでもしナチ党を政権から引き降ろせば、代わって政権
につくのは恐らくは共産党だったからだ。そのためヒトラーの再軍備計画を徹底的に抑
えつけるより、ある程度の国力回復を許し、対ソ防波堤にするのがよいと考える対独融
和派が多かった。保守党党首ボールドウィンや その後任の党首となるネヴィル・チェ
ンバレンも同様であった。だがユダヤ資本は返済却下を宣言したナチスに貸す金はなか
った。この時反ユダヤ主義を抱えたナチ党とシオニストを掲げた自由党ははお互い牽制
しながらもその方策をただ見守るだけだった仲が決裂した。双方にその支持する民衆は
 既に過激に動きその主張を利用したユダヤ迫害やナチスドイツ消滅に向かい活動して
いた。30年年末には250万人に倍増した英国労働者は警官隊に蹴散らされたし、一
方ドイツではヒムラーを筆頭に人種差別イデオロギーを高々と掲げた。は、アーリア人
種北方人種と定義された人々を主たる人種とし、ユダヤ人、ロマ人、スラヴ人などは人
種的に劣るとした風潮を流布し吹聴しプロパガンダされ次第に迫害の度合いが増して、
ナチ党体制は「ヒットラー親衛隊国家」の性格を色濃くしていった。

760: 名無しさんAA:17/10/21 16:13
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 403-----------

不思議な事だが ナチスヒットラーの周りには IQの高い冷酷人間が固めていた。戦
後に、連合軍がナチ戦犯に心理テストを行った結果、高い知能指数(IQ)の人が多か
ったことが判明している。ちなみに日本の東大生の平均はIQ120とされる。ナチ戦
犯の知能指数 ヒャルマー・シャハト(143) アルトゥル・ザイス=インクヴァルト(141) ヘルマン・ゲーリング(138) カール・テ
゙ーニッツ(138) フランツ・フォン・パーペン(134) エーリヒ・レーダー(134) バルドゥール・フォン・シーラッハ(130) ハンス・フラ
ンク(130) ハンス・フリッチェ(130) ヴィルヘルム・カイテル(129) ヨアヒム・フォン・リッベントロップ(129) アルベルト・シュペー
ア(128) アルフレート・ローゼンベルク(127) アルフレート・ヨードル(127) コンスタンティン・フォン・ノイラート(125) ヴァルター・
フンク(124) ヴィルヘルム・フリック(124) ルドルフ・ヘス(120) フリッツ・ザウケル(118) エルンスト・カルテンブルンナー(113)
ユリウス・シュトライヒャー(106)と かなり異常的に殆どIQが高いのである。このIQの高さこそ
非情なこの反ユダヤ主義を考えるにこうした頭の良い人でなければならなかった理由と
言える。又文化芸術にも科学技術に於いても当時のドイツはずば抜けていた。なぜこの
反ユダヤ主義を掲げたのかが今でも奇妙なのだ。ヒットラー信奉者ヒムラーは日記に書
いている。「ああ、私はユダヤ人虐殺などしたくなかったのだ。私の考えはまったく違
っていた。それなのにゲッベルスの奴がいっさいがっさいをしでかしたのだ」(1942年
、フェリックス・ケルステンに語った言葉)パウル・ヨーゼフ・ゲッベルスは、卓越し
たドイツの宣伝相だった。「プロパガンダの天才」「小さなドクトル」と称されヒトラー
の政権掌握とナチス党政権下のドイツの体制維持に辣腕を発揮した。敗戦の直前、遺書
によってドイツ国首相に任命されるが、直後に自殺した。この姿が今の米国の 過激な
映像産業と一様な姿であるのは明らかだ。ストーリー仕立てすらもトランプを産む要因
となる攻撃的思想が並ぶ。ゲッベルスは、視察に際して「ユダヤ人は全体的に見て、6
割を抹殺しなければならない。残り4割を労働に使用すればよいといえるだろう。全ウ
ィーン管区指導者は、この作戦を実行するにあたっては、慎重に、あまり人目を引かな
いような穏やかな措置を取ったが、今やユダヤ人に裁きが下った。それは確かに残忍な
物ではあるが、奴らには当然の報いだ。」ユダヤ人の国外退去についての司令から絶滅
収容所への移送に変わった事について「ユダヤ人を絶滅させることが我々の目標である
。この戦争に勝とうが負けようが、この目標だけは達成されねばならない。ドイツ軍が
後退を余儀なくされようとその途中に、この世界に残っているユダヤ人を殲滅する。」
(1944年以前)とある。そう宣伝相のゲッペルスこそ諸悪の放言を言い放った人間だっ
たのである。頭の良さがこの組織運営に於いて狙い撃ちされて利用されたのである。

761: 名無しさんAA:17/10/21 16:24
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 404-----------

 その頃にはマダカスカル計画がまだドイツには生きて居たのである。それは1904
年から1905年にかけて、シオニスト運動は、ウガンダ地方今日のケニアを含む場所
への ユダヤ人移住計画がイギリスより打診されていたからだ。この英領ウガンダ計画
はシオニストの間で真剣に議論されたものの、結局却下されたのだが、その結果はドイ
ツ閣僚は大いに気に入っていてヒットラーには届かなかった。又、却下された理由は、
領土主義の支持者の、「約束の地」への国家建設にこだわるシオニストからの袂を分か
ち、ユダヤ人が定住でき、かつ国家、少なくとも自治地域の建設ができる地域を世界中
の候補地から探している中で、イスラエルのカナンの地ではないからと言うのは馬鹿に
していた。もっともこのための地域として、マダガスカルが特別に考慮された地域では
なかった。当然日本における満州国樹立もこうした国連からの要請に答えフグ計画が全
く同じ様になされた事を考えれば 英国は積極的に移住の打診をしていた事になる。ナ
チス・ドイツの指導者たちはこのアイディアに飛びつき、アドルフ・ヒトラーは、19
38年その計画に署名した。1940年5月、ハインリヒ・ヒムラーは彼の「東方の異
人種の取り扱いについての意見」に基づき、次のように宣言した。「全てのユダヤ人を
アフリカやその他植民地に大規模に移住させるという可能性を持ってして、ユダヤ人の
(国内の)存在証明は完全に消え去るだろうと私は望んでいる。」これによって194
2年7月から開始された強制収容所における収容がなされて 海外移住に対応しようと
していた。ところがシオニスト協会もユダヤ人連合会も満州もマダカスカルも拒否した
。それは彼らに農耕民族としての知恵もなくあくまでもイスラエル建国にこだわったか
らだ。その後フランス敗北の成り行きにまかせて、リッベントロップに加えヒトラー自
身がベニート・ムッソリーニにこの計画を語った。この時ソ連は労働力不足であった為
急速北方での受け入れで固まったのである。ポーランド総督府当局は、これまでのよう
に断続的にポーランドにユダヤ人を追放するような所作よりも、はるかに望ましい方法
として、400万人のユダヤ人を強制的にマダガスカルに再定住させる見方を持ってい
た。ポーランドの全ての追放は取り消され、ワルシャワ・ゲットーの建設は中断した。
そのまま船で諸外国への移動がなされると思われたからだが 現実は列車でソ連邦へと
送りだされた。収容所は最初は単に送り出しの場所であり ガス室は実はノミやダニな
どの人体ばい菌の殺菌施設であったのだが 食糧が底をつきソ連侵攻がそれを妨げた。


762: 名無しさんAA:17/10/21 16:37
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 405-----------

 1939年9月、ナチス・ドイツとソ連の両国によってポーランドは攻撃され、全土
は 占領下に置かれた。武装解除されたポーランド軍人や民間人は両軍の捕虜になり、
ソ連軍に降伏した将兵は強制収容所(ラーゲリ)へ送られた。ポーランド政府はパリへ
脱出し、亡命政府を結成、翌1940年にアンジェへ移転したがフランスの降伏でヴィ
シー政権が作られると、更にロンドンへ移された。カティンの森事件はその後1941
年の独ソ戦勃発後、対ドイツで利害が一致したポーランドとソ連はシコルスキー=マイ
スキー協定を結び、ソ連国内のポーランド人捕虜はすべて釈放され、ポーランド人部隊
が編成されることになった。しかし集結した兵士は将校千八百人、下士官と兵士二万七
千人に過ぎず、行方不明となった捕虜の一割にも満たなかったのであった。そこで亡命
政府は捕虜の釈放を正式に要求したが、ソ連側は全てが釈放されたが事務や輸送の問題
で滞っていると回答した。12月3日には亡命政府首相ヴワディスワフ・シコルスキが
ヨシフ・スターリンと会談したが、スターリンは「確かに釈放された」と回答して終わ
った。こうしてロンドンでポーランド亡命政府が作られてもイギリスは動かなかった。
それは ドイツはソ連と英国を戦わせて漁夫の利を得ようとしていたと同時にソ連も又
ドイツと英国が戦う事を望んでいたからだ。又ドイツはソ連の赤軍南下を止める防波堤
として英国も利用していた為 そこを話し合うのは自ら苦境に入る事を示していた。そ
して北方戦線で電撃侵攻を行いフランスに無血入場を果たしたのである。これはかつて
の第一次大戦の進撃と全く同じであったのだ。1940年になってノルウェー、ベネル
クス、フランスなどを次々と攻略し、ダンケルクの戦いで連合国をヨーロッパ大陸から
追い出したほか、イギリス本土上陸作戦の前哨戦となる大空襲も行われた。ソ連は、バ
ルト三国及びフィンランドに領土的野心を示し、11月30日からフィンランドへ侵攻
して冬戦争を起こした。この侵略行為を非難され国際連盟から除名されながらも、同じ
1940年3月にはフィンランドから領土を割譲。ソ連はまず軍隊をバルト三国に駐留
させ、6月には40万以上の大軍で侵攻。8月にはバルト三国を併合した。つまり捕虜
を自国に連れ去り、自国の兵士は又別の戦争まで刈り出していたのだ。この頃鉄鉱石の
半分はこの地からの輸出であった。だがナチス・ドイツはこの戦争の終戦から1ヶ月に
満たない内にデンマークやノルウェーに侵攻し占領に成功。そのため、冬戦争の後に連
合国がフィンランドを支援することはできず、スウェーデンを頼ることもできず、フィ
ンランドはドイツと接近することになった。

763: 名無しさんAA:17/10/21 16:37
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 406-----------

こうしてドイツは電撃的な進撃を果たし入場したフランスは第一次世界大戦の英雄であ
ったペタン元帥が就任し、副首相にはピエール・ラヴァルがヒトラーから好意的な扱い
を受けるために、「堕落した民主主義」を廃して「絶対的権力を持つ権威国家」を樹立
するよう熱心にロビー活動を行った。6月25日彼の演説は痛ましかった。「旧秩序、
フリーメーソン的かつ、資本主義的そして国際的妥協の政治制度が、現在の立場に我々
を導いた。フランスは、もはやそんなものを欲しない。我々は新しい計画、新しい人物
を必要とする」と宣言したのだ。また、新憲法制定の議会では「全ヨーロッパがフラン
スを置き去りにして新世界を建設しようとしている(中略)敗北した議会制民主主義は
大胆で、権威的・社会的・国家的新制度に、その道を譲らねばならぬ。(中略)議会が
同意しないなら、ドイツは直ちにフランス全土を占領して(政治改革を)強制するだろ
う」と演説している。この結果、フランス艦隊の編入もしくは無力化を狙ったイギリス
は、カタパルト作戦によるフランス艦隊の接収を図った。このためイギリスとフランス
の間で海戦が勃発し、政府とフランス国民の間で反英感情が高まった。結果ラヴァルの
工作をより容易にしてフランス混迷の時期を迎えた。後にこの動きを知ったヒトラーは
、国防軍最高司令部長官カイテル元帥と次のような会話をしている。「フランスが我が
ナチズムを信奉しているとは知らなかったな」「そうと知ったら攻撃の必要はありませ
んでした。まるで同士討ちをした想いです。」と。そこには内容を知らない欧州国民が
シオニズムの蹂躙を許すか共産主義の蔓延を許すかの境目に台頭した妥協の中間派とし
てのナチズムを受け入れた姿があった。又庶民としても非ゲルマンとされたロマやユダ
ヤやアーリア人に対する根強い人種差別は元からあった事が伺えるのである。更にこの
ユダヤ人迫害にイギリスが深く関わっている事がこれから覗えるのだ。というのもチャ
ーチルが1932年にドイツに古戦場めぐりの旅に出た時チャーチル自身の言葉で、既
に「なぜヒトラーはユダヤ人を、しかもユダヤ人であるという理由だけで迫害するのか
」という質問で会談が出来なかったと書いている。これは可笑しな話で1938年に、
その移住計画に署名し1939年にその為のポーランド侵攻を行っているのだ。イギリ
ス国内ででも迫害があって1904年にそれは消えたが日本のフグ計画も1930年に
問い合わせがあり1934に提示され1938年の会議で政府の方針として定まったの
だ。

764: 名無しさんAA:17/10/21 17:10
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 407-----------

そもそも第二次世界大戦は 第一次世界大戦終わって無いから起こった。とも言える。
1919年ドイツに関する講和条約、ヴェルサイユ条約が締結されヴェルサイユ体制が
成立したがフランスの強硬な姿勢の結果、ドイツやオーストリアは本国領土の一部を喪
失し、それらは民族自決主義のもとで誕生したポーランド、チェコスロバキア、リトア
ニアなどの領土に組み込まれた。しかしそれらの領域には多数のドイツ系住民が居住し
、最大民族が少数民族の立場に追いやられた。このドイツ系住民処遇問題は紛争の火種
となるのは解っていた。また、海外領土は全て没収され戦勝国によって分割されただけ
でなく、ドイツは巨額の戦争賠償を課せられた。さらに、ドイツの輸出製品には26%
の関税が課される1922年、ヴェルサイユ条約破棄を掲げるクーノ政権が発足する事
は当然だった。1923年になるとフランス・ベルギー軍が賠償金支払いの滞りを理由
にルール占領を強行して工業地帯・炭鉱を占拠し、ドイツ帝国銀行が所有する金を没収
した。占領地に罰金を科した事でこれによりハイパーインフレーションが発生し、軍事
力の無いドイツ民衆はこれにゼネストで対抗したが、クーノ政権は退陣に追い込まれた
が結果は、マルク紙幣の価値は戦前の1兆分の1にまで下落し、ミュンヘン一揆などの
反乱発生だった。これらがイギリスやフランスのユダヤ系金融家が起こした事ははっき
りしていた。アメリカに借りた金への返済が英仏共に出来なった事が原因だったからだ
。元々ヨーロッパ経済の中で英仏に輸出する程の工業生産品や農業生産品など無かった
。戦勝国のイギリス、フランスは政治的には国際連盟を創設し、現状維持を掲げて自ら
作り出した戦後の国際秩序を保とうとした。が経済的には、英国の国力の衰えからそれ
を実現する条件を欠いており、国際連盟の平和維持能力には初めから大きな限界があっ
た。戦後秩序維持に最大の期待をかけられたアメリカにも、内政上の理由から伝統的な
孤立主義(モンロー主義)に舞い戻り、国際政治の舞台から退く形をとっていた。この
時アメリカが考えていたのはソ連の勢いと世界戦略的勢力図だった。下手に欧州を刺激
して国力を削ぎたくないアメリカは、対ユダヤ資本に1930年には、対英戦争すら備
えた計画も立てていた。事実独立戦争は対英戦争でもあった。計画は主にカナダを主戦
場に想定したレッド計画であったが、計画は35年にも更新された。欧州大陸でのナチ
ス・ドイツの台頭により欧州の情勢が激変して39年には更新されなかったが、それで
もアメリカは、次に世界地図に色を染めたカラーコード戦争計画を策定した。日英独仏
伊、スペイン、メキシコ、ブラジルをはじめ各国との戦争を想定した計画を立案してお
り、この計画が後に第二次世界大戦を想定したレインボー・プランへと発展していく。

765: 名無しさんAA:17/10/22 00:15 ID:njI
 その中で日露戦争が終結すると中国大陸の覇権問題で日米間で重要問題化した。両国
間の緊張が高まりだしたのだ。アメリカは日本を仮想敵国とした戦争計画の策定に本腰
を入れ始め、一連のカラーコード戦争計画の一つであるオレンジ計画が誕生する。オレ
ンジが日本を「仮想敵」として立案されたプランだが、他にもブラック=ドイツ、レッ
ド=イギリス、クリムゾン=カナダ、グリーン=メキシコ、イエロー=中国、ゴールド
=フランス インディゴ=アイスランド等々、それぞれ勝手な色を付けては、多数の国
を対象としてそれぞれの戦略地図を作ったのだ。第一次大戦直後までは日本だけを特別
敵視していたわけではない。だが石油事情で内燃機関で必要不可欠になった時米国はそ
の色分けを格段に重視してその再検討を円卓会議のフリーメイソンに掛けた。こうして
1920年代にアメリカ合衆国陸軍において、日本やイギリス、ドイツなどの国を仮想
敵国として検討された数々のシミュレーションを作った。世界の主要国との戦争が発生
した場合を想定した戦争計画であり、それぞれの国に色を割り当ていた為カラーコード
プロジェクトとして数多く作られた。これらのプロジェクトは一時凍結されたが、当時
高まっていた枢軸国との二正面戦争に備えて5色のレインボー・プランとして発展的に
策定された。日清戦争のわずか2年後である1897年から変わらず策定された内容は
既に 1.日本軍の奇襲と攻勢 2.消耗戦とアメリカ軍の反攻 3.日本封鎖 の事
項で明快に日露戦争以前からアジア戦略の研究者で進められていた。それはハワイ島の
占領に於いて仲裁に入った事でアメリカが脅威として 大統領指令で研究を進めたから
だ。よく松岡外相が国際連盟を脱退したかの様に報道される。だが松岡は席を立ったの
みで脱退宣言はしていない。ところが英米のマスコミは既にこのフリーメイソンの餌食
であった。そして日本の新聞社も多くの外国人記者と連携していた。今の外国人記者の
倶楽部と同じに権威のあるパトロンが速報で脱退を示唆する報道をした。この時松岡は
もっと脱退しない由えの演説を強く打つべきだったのである。だが聖書の件のみで全く
相手に通じなかった。それは「暴力国米国の姿」を知っていたモルガンやロックフェラ
ーなどの大財閥が敷いたレインボープランのレール上にいたからに他ならなかった。
1921年には米国で外交問題評議会(CFR)がエドワード・マンデル・ハウスによ
って設立される。CFRは米国を英国の影響下に置き続ける事を目的に設置された。
1925年には太平洋問題調査会(IPR)が設立される。IPRは国際連盟脱退後、
日本唯一の国際窓口となったNGO(非政府組織)で、太平洋戦争時にはこの機関を通
して対日工作が行われた。最近になってこの組織の上層部が全員ソ連のスパイであった
事が判明している。IPRはチャタムハウスの下部組織であるが、資金提供はロックフェ

766: 名無しさんAA:17/10/22 00:16
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 409-----------

 こうした動きを日本人はどれだけ掴んでいたのだろうか。大正天皇時代から昭和天皇
が幼少時代で 軍部は知っていたと思える。だがその中で米英からの自立を指示する事
は不可能だったろう。すでに政府首脳や海軍などは東郷平八郎の様な もはや軍部に於
いて癌を蝕む存在で国体の中で無茶苦茶な老害を引き起こさせていた。そうした象徴的
伝説の人物は祀りあげ利用されるのみで 自らに即応したその時代の知見は皆無と言え
た。 既に日露戦争時からフリーメーソン以下ユダヤ金融資本が歴代合衆国大統領を、
動かしていたのである。セオドア・ルーズベルトもその一人であった。又山本五十六な
ど凡そ軍人にふさわしくない無能な者を海軍は重宝してその派閥間の調整役としていた
。彼が外国通であったのはキリスタンであったからで軍人としての日本を憂う力はなく
、凡そ凡庸な平和主義者の域を出て居ない人だった。決して戦場には出撃しない、現場
指揮はとらない、安全圏にいて自分の命を惜しむ、"卑怯"の二文字を絵に描いた様な、
史上最低の高級軍人としてその地位にいた。熱い愛国主義者が陸軍と通じるの嫌い そ
れを海軍は望んだのだ。彼は国体や天皇より海軍の優位性を望んだ。財務相などの意見
は聞く気が無かった。陸軍も同じだったが石原莞爾などは陸軍経営を行ったが海軍には
その気は無くひたすら宮中派との融和協調だった。飛行機運用には彼の持論で格段の進
歩があったがそれでも開戦前は旧式になってた。連合艦隊司令長官でありながら、空母
六隻を出撃させながら、パール・ハーバー奇襲の指揮を執らず、部下の南雲忠一・中将
にそれをさせて、自分は瀬戸内海に浮かぶ「戦艦ホテル」で優雅な日を過ごしていた。
山本五十六は、世界情勢と日本の実力を認識していた数少ない軍人でした。山本は日本
の進路に関し明晰な意見を持ち、陸軍や右翼の暗殺の脅迫に負けずそれを堂々と表明し
ました。東條などが強力に推進していた中国侵略にも反対していました。日本の為にな
らない、と。三国同盟にも反対、「あんなもの結んだらアメリカと戦争になる。そうな
ったら東京なんか三度くらい丸焼けにされて日本人は惨めな目を見るだろう、」と既に
読んでいて 敗戦後の自分の姿や日本人としての自分や日本国を考えていたのだろう。
「現政府のやり方はすべて前後不順なり。今さら米国の経済圧迫に驚き、憤慨し困難す
るなどは小学生が刹那主義にてウカウカと行動するにも似たり」、対米戦争には「負け
るに決まった戦争するやつがあるか!」と強硬に反対。山本は一般的な意味での平和主
義、反戦主義ではなかったが、世界、日本がよく分かっていたので、理性的、現実的な
判断が出来たのだろうが、ところがそれでも海軍は公式に大勢は日米決戦を決定する。


767: 名無しさんAA:17/10/22 00:27
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 410-----------

これに「内乱では国は滅びない。が、戦争では国が滅びる。内乱を避けるために、戦争
に賭けるとは、主客転倒も甚だしい。」と怒った。この決定は海軍内に艦隊派と条約派
と争いの折衷案だったと言われる。御前会議で山本は「それは是非やれと言われれば初
め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば全く確信
は持てぬ。三国条約が出来たのは致方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避する様、
極極力御努力願ひたい。」と発言しているが、この時「一年間は戦争出来る」と近衛は
勘違いしたと言われている。かくて、仲介先をロシアに求めたが 昭和天皇の危惧する
様にロシアは中立国では在り得なかった。此処にオーストリア公国のハプスブルク家が
統治した世界以降に 急速に大きくなったユダヤ金融家の力があって 戦争に劇的変化
があった事を物語っている。21世紀で領土や捕虜の交換の紳士的な過去の協定事情は
全く無くなったのである。小国や公国の乱立時代は小さくても気風や国の風土は守られ
たが、第一次大戦での過度な賠償金や日露戦争での支払われない賠償金は以前とは全く
違う物だった。スペイン内戦でも最初は右派と左派の対立が尖鋭化していた上でのカタ
ルーニャやバスクなどの公国からの自立であった。だが、政治的混乱が続いて一時は、
軍事独裁政権も成立しその後も 左派が選挙で勝利し、王制から共和制へとスペイン革
命でスペイン第二共和政が成立するものの、総選挙では右派が勝利して政権を奪回する
など、左派と右派の対立は続いた中でコミンテルンの共産党と王立派議会の民主主義の
戦いに変わる、当時のスペイン銀行の外貨準備資金が金の保有量は約710トンと言う
当時世界3位と推定されていた事から 移管されるべきフランス軍とロシアが送り込ん
だ義勇兵組織の国際旅団との戦いになった。最終的にはフランコ将軍の30万の軍勢で
カタルーニャを攻撃し州都バルセロナを陥落させて、人民戦線側を支持する多くの市民
を冬のピレネー山脈を越えてフランスに追い払い。イギリスとフランスがフランコ政権
を国家承認した事で、アサーニャは大統領を辞任、人民戦線政府が亡命政府となって、
した。徹底抗戦を目指す共産党と相対したが、共和党派がマドリードが陥落させて終わ
ったが、終わってみれば兵器の代償として国外に流れ出た金貨を得たイギリスの銀行や
自動車などを調達してスペインに送ったアメリカやチェコやフランスと武器・人員を援
助したソ連が、法外な金貨を捕ってユダヤの金融資本に返済しただけだったのである。
つまり人民は独立の声を上げて それまでの文字道理宝である住民の団結も財宝も盗ま
れただけだったと言う結果だった。昭和天皇は古いナポレオン時代の欧米の風潮に習っ
ていた為 停戦し直ぐに決着が付くとでも思っていたのだろう。既に新資本時代に

768: 名無しさんAA:17/10/22 02:39
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 411-----------
腐敗堕落したエリートが国家や社会を破壊する事は多い。大東亜戦争での山本五十六の
批判は多かった。日本では敗戦の結果大東亜戦争の問題点の追及は行なわれていない。
映画や小説によって作り上げられた山本五十六の事実の隠蔽は戦時中の大本営発表と同
じに国民を騙して行った。日中戦争を拡大したのが米内正光なら、アメリカを対日戦争
に引きずり込んだのが山本五十六である。真珠湾攻撃はたとえ成功しても空母を全滅さ
せねば真珠湾奇襲の意味のないものだった。戦争中に戦後に真珠湾攻撃は大成功と宣伝
されて今に至っている。計画も作戦も実行も本当は大失敗であった。ミッドウェー海戦
での敗退につながった。但し、戦時中はミッドウェー海戦も大勝利と宣伝されていた。
大本営発表は開戦当初から事実は隠蔽され生き残った海軍将兵は本土に上がれず戦地に
送られて事実は永久に葬り去られた。こうして戦後でも小説家や海軍出身の作家たちが
事実を隠蔽し歪曲した事実をかいて、山本五十六は小説や映画になった。こうして名将
になった。山本五十六は連合艦隊司令長官で連合艦隊を率いて真珠湾やミッドウェーで
戦うべきところを、戦わず500キロ後方で将棋をさして幾つもの艦が沈められ責任を
取るのは当然だった。が既に腐敗堕落したエリートの大本営を見抜いていたとも言える
だがそれでも疑問は残る真珠湾攻撃自体が山本元帥の発案であり、海軍軍令部も口出し
が出来ず、すべて山本連合艦隊司令長官に一任されている。本来の日本海軍の作戦母体
は後退邀撃でありハワイやガダルカナルまで戦争をする補給力は無く、絶対国防圏を守
る事が使命であり戦略だったはずだ。又マリアナ諸島を始めとして要塞化は間際までな
されなかった。この事はアメリカにとっては願ったりかなったりの作戦を帝国海軍が行
ったと言える。此処に山本五十六のアメリカのスパイ説がある。ミッドウェー海戦も、
日本海軍の戦力は圧倒的に優勢であり、空母を分散して十分な戦艦による護衛をつけて
いれば全滅する可能性は全く無い無難な戦争だ。が空母を密集させて護衛をつけなかっ
たことはわざと全滅するように仕向けたと言える。イチかバチかの大博打のハワイ奇襲
も必要性がない、にもかかわらず山本司令長官が空母機動部隊を直接指揮しなかった上
に南雲長官がハワイ攻撃を一回攻撃しただけで帰ってきた。連合艦隊は最高責任者がい
ない上に第二回攻撃の決断がなく これが日本の将来を左右する戦争とは思えないで始
まりである。ミッドウェーの開戦も旗艦大和は敵空母の存在を掴んでいた。山本司令官
の判断で空母機動部隊に通達される事はなかった。自分の命を惜しんだというよりもわ
ざと負けるように仕組んだ。連合艦隊の司令官であり戦闘部隊の司令官でありながらも
ハワイ攻撃やミッドウェー海戦でも直接指揮を取る事はなかった。まさに腐敗した海軍
エリート構造の中で戦争で負けた。

769: 名無しさんAA:17/10/22 02:40
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 412-----------

ミッドウェー海戦の大敗北で山本長官への批判が強まって、トラック島に逃げ込んで、
戦艦大和は本土とトラック島を往復するばかりに終始し戦闘に加わることは無かった。
いったい何の為に戦艦大和を作ったのか、不沈戦艦ならハワイやミッドウェー島の傍ま
で行って艦砲射撃を何故しなかったのか。山本司令長官はラバウルで「い」号作戦を指
揮したが、最後までガダルカナルを激励に行った事はなかった。その後アメリカとの消
耗戦で航空戦力や艦船を失うばかりでこの作戦も失敗に終わった。山本長官はブーゲン
ビル島で搭乗機が撃墜され行方不明になるが、作戦失敗の責任を取った自殺とも言える
。まさに当時の海軍にも人材は払底して官僚的海軍が出来上がっていた。軍艦を作る事
には一生懸命で、現在の天下り団体を作る事に一生懸命な官僚と同じであって、国を預
かり戦争してる意識は皆無だった。軍艦をいくら作っても石油が無ければ軍艦は動かな
いのであり、巨大な海軍は張子の虎状態のままだった。当時の状況からすれば南進政策
は無謀で、海軍の画策によって北進から南進に切り替えられたが、だからと言ってアメ
リカと衝突を公式にする事もなかった。日本には石油が無いのだから防御的な作戦しか
海軍は取りえないのであり、インドネシアの石油を確保しても日本に持ってくるまでに
タンカーがみんな沈められてしまう可能性は、作戦上既に知り得る事だ。アメリカの潜
水艦部隊の戦力を過小評価している点でも海軍の堕落が見える。この海軍の南方進出は
、満州にある陸軍部隊を引き抜き、陸軍部隊は南方に送られて輸送船ごと潜水艦に沈め
られて消滅させる事になった。満州の防衛も空洞化して終戦間際にソ連軍の侵攻で満州
の日本軍は消滅する事で悲惨な引き揚げ状態に陥った。これもコミンテルンの工作活動
が陸海軍部内に行なわれ、その立役者が瀬島龍三だった。しかしながら瀬島龍三も小説
ではソ連のスパイでもあるにもかかわらず愛国者として描かれた。瀬島龍三も典型的な
エリート官僚であり、95歳まで生きたが、証拠は無いがソ連のスパイだった事は充分
な証言と状況証拠がある。このような山本五十六や瀬島龍三のようなスパイがうようよ
いた軍隊では戦争に勝てるはずも無い。本人にスパイの自覚は無かったかもしれないが
利用されて敗戦に導く手助けをスパイ共に行えばスパイと言われても仕方ない。現代の
日本にも自覚なきスパイが沢山いるのであり、そのような彼らを英雄のように小説に書
くこともスパイ工作の一部なのだ。

770: 名無しさんAA:17/10/22 02:40
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 413-----------

 東條英機は極端な国際音痴だった。中国侵略大反対にも全く動じず 強力に推進して
いた。日本の為にならない、と大勢の意見は杉山元と同じく聞く耳は持たなかった為に
三国通商も行った。が、対ソ封込み戦略のつもりが ドイツは簡単にソ連と不可侵条約
を結び 更に素早く フランスを無血入場して勢力下に於いてしまったのである。此処
に「ABCD包囲網」が出来がったが、それでも国際政治に無頓着だった。国際情勢は
知っていたが「無主になった南部仏印進駐までは、アメリカは許してくれる。」と勝手
に思っていた。七月二日、日本は御前会議で南部仏印進駐を決定、二十八日、これを実
行に移した。近衛文麿が言った、「三国同盟から離脱しても、日米交渉を成功させてア
メリカから石油を獲得すべきである。」とだが陸軍は苦笑した。「石油の在庫はあと二
年。日米開戦になれば、一年半で消耗するが、南に油井はいくらでもある。このままで
は戦わずして死んでいくだけだ。腹が減っては戦ができぬ。飢え死にする前に、打って
出るべきだ。どうだ海軍。日米決戦に怖気づいたか。」と南進すれば石油が獲得できる
と言う確信で挑発した。敗戦後東條英機の談話は言う。「この戦争の直接の原因は、世
界経済の構造的な変化によって起きた世界恐慌にある。そしてこれによって資源を持っ
ているアメリカなどの国が、資源を持たない日本をいわゆるABCDラインの武力包囲
や経済封鎖・日本資産の凍結・物資の禁輸などによって日本を排除しようとしたために
、窮地に追いつめられた日本が武力で資源獲得をしなければならなかった。」とアント
ニー サットンは言う、「ユダヤ金融は直ぐに一国や社会を相反する2項対立の相克状
態に持っていく基本戦略が使われる。右翼左翼という対立項は実は彼らが戦略的に作っ
たものである。言い換えれば、この視点からものを見ては彼らの思うツボである。」と
いっている。「背後からこれらの対立を操縦することで、金融資本家は世界秩序を維持
してきた。世界秩序は、世界を実体とみなすあらゆる力と実体を否定している。テーゼ
(正)−アンチテーゼー(反)−ジンテーゼ(合)の原則に基いて 機能し、前もって
決められた結論(合)に向けてテーゼ(正)とアンチテーゼ(反)が対立して終わる。
世界秩序はユダヤ人グループを組織して資金を提供する。次に、反ユダヤグループを組
織して資金を提供する。また、共産主義グループを組織してこれに資金提供し、反共産
主義グループを組織して資金を提供する。必ずしも世界秩序がこういうグループ同士の
対立を煽る必要はない。彼らは赤外線追跡ミサイルのように相手を見つけ出し、確実に
破壊しようとする。それぞれのグループの規模と資源を調節することで、世界秩序は常
に前もって結果を決めておけるのだ・・・・サットン 『連邦準備銀行の陰謀』より

771: 名無しさんAA:17/10/22 02:42
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 414-----------

 こうしてこの環境にはまってしまった日本の軍部は 全くどうしようもない位敗戦に
自らを導いていた。唯一生き残る道であった石原莞爾の敵軍浪費の占有確保論も 海軍
の腰砕けの戦術や陸軍上層部の間違えた戦略によって 100年の国家建設が行えなか
った。それらは日本の仏教界と言う思想の破綻でもあった。つまり日露戦争が終わった
時日本には数多くの戦死者がでた事で起こった宗教界の堕落であった。この時まで日本
の仏教界も真摯に死の供養をしては、民族や命や国土や自然の大切さを伝えていた。諸
行無常の世界での情念の世界だ。生命の大切さ命の尊さの話である。ところが靖国神社
が祀られた時や神仏烏合や神仏分離と天皇の「万世一系説」などが国家神道と祀られる
のに全く反対しなかったし、仏教界が死者の弔いの多さが金を稼ぎの商売に変化し、こ
の儀式が世俗化し、仏教界が商売になり裕福になってしまって本来を忘れたのだ。子供
や世間に対する仏法の説く思想を捨てて、背仏対応したのである。それは現代も全く同
じに続いているのである。此処に日本人や隣組などの自治会や氏子や産子制度の馬鹿さ
や悲しさがある。こうして日本は自分の持つ風土風習の歴史を捨てて 土地は沼地より
は田畑 山では杉などの早期収量の植林で 殖産産業と工業化生産更に富国強兵に協力
して行ったのだ。つまりは仏教は仏教経営に変化して形式を重ね、本来の供養と修業を
捨て生き延びたのだった。これまでの生きとし生けるものの愛情を説かないで信徒確保
に走った。その究極が今の創価学会の姿であり経営中心の思想である。これが堕落した
廃国者を産んだし、今もそういう者を作って止まない。死して守る為の諫言が言えなか
った先人の怠慢である。現実的な対応に終始して論陣は新聞に流れて流行に流された。
更に日本が総動員令を掛けた事で僧侶すらも学徒出陣にあったし 学童疎開は更に神社
仏閣は経営を困難にした。戦時中神社は日本皇道として建てられたが 例えば中国寺院
などで共産党員などの思想を反戦思想に変えた話はあまり聞かない。更に軍部が僧侶を
派遣して植民地文化の中に溶け込まそうとした話も余り聞かないのだ。これがキリスト
教布教の形と大きく違っていた弱さであろう。戦後にはそうした反省の元海外布教にも
力を入れたが 今やその活動は少なく更に戦乱の地での厳しい布教活動は皆無に近い。
武器に武器や兵器に兵器では戦さしかない。北朝鮮問題も対話と圧力と言っているが、
対話ではないし 圧力でもない。人間性の覚醒とその行動である。この視点を日本政府
も考える事が肝要である。

772: 名無しさんAA:17/10/22 11:39
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 415-----------

 こうして国際社会と言われる西洋列強からの離反した日本の敗戦は悲惨なものだった
、米英仏蘭との戦争において、海軍では当初から「1年しか持たない」と言い半年後に
はあっけなくミッドウェー海戦は敗北だった。ここまでに何回も海軍は何回も「図上演
習」を重ねていた。だが本来の空母撃沈が目的だったミッドウェー作戦もミッドウェー
攻撃と両方を取る行動に出て大失敗をした。それはハワイの精油施設攻撃と同じく必死
さを欠くものだった。こうして日本における世紀の決戦が敗れ、43年ガダルカナル撤
退となり、44年サイパンが陥落して東条内閣が倒壊しても、大本営は戦争をやめなか
った。制空権も制海権も奪われ、南の島にとり残された兵隊は武器も食料もなく、餓死
、病死をして、戦闘能力は既になく玉砕を叫ぶのみだった。そして本土が空襲にさらさ
れ、沖縄戦の惨劇が起こっても戦争はやめず、広島、長崎の原爆投下をもって無条件降
伏となった。だが可笑しな事にアメリカは皇居も財閥の工場も攻撃しなかった。国会議
事堂も霞ヶ関も残った。ドイツ戦ではヒットラーが標的になり、イラク戦でもフセイン
が殺された。対日戦では日本人は虫けらのように殺されたが、天皇は標的ではなかった
ようだ。変な戦争だ。そして指導者や支配層はアメリカの単独占領を歓迎した。支配層
は日本人民が革命をやり、自分たちの地位を失うことを恐れていた。米英に自分の地位
を守ってもらうために、戦争で日本国民を犠牲にし民族的な利益をみな売り渡す道を進
んだ。「最初からアメリカに負けるために南進したのだ。日本人民の経験でも市民は焼
き殺すが、軍や三菱は無傷だったというのが実感としてある。」最近の史料で明らかに
なったことでは、戦前に駐日米大使をしていたグルーなどが「日本の軍需工場を攻撃す
るな」と主張していた。それがウォール街の共通認識だったという。グルーはJPモル
ガンの利益代表だが、彼が駐日大使だったときに三菱や住友と深い関係を持ち、アメリ
カ資本が日本の大企業に相当投資してインフラを整備しており、今から日本の資本主義
を段階を画して発達させ、収奪していくんだという狙いを持って投資し戦争に臨んでい
た。自らからが投資してきた三菱などの軍需工場への攻撃を避けていた。と言われる。
これに対して日本側の三菱などは日米開戦のときに、「米英はこれまで通り友人だ。だ
から資産をきちっと守って、戦後も同じようにやっていけるよう、みんなもそのつもり
でおれ」と岩崎小弥太が檄を飛ばしていた。ウォール街の意向と一致しているのである



773: 名無しさんAA:17/10/22 11:41
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 416-----------

「鬼畜米英」と教育し、日米両方の司令部が同じ目的で動いていたのだ。中国に侵略し
て酷いことをしたと批判されるが、大和民族の日本の方がさんざんに殺されている。そ
して民族の利益を売り渡すことで自分たちの支配の地位を守る企業は残った。それが唯
一の道だと言う日本の支配階級の卑劣さは尋常ではない。売国奴、傀儡の道を進んだ訳
はユダヤの陰謀に乗った事に他ならない。天皇側からすれば原爆を落として欲しかった
のが実情だろう。全く仲介のない戦争は何時まで続くか解らない中にあったのだ。8月
15日の終戦の詔勅にある「原爆が投下されたからだ」という理由ができて軍部が止ま
る事が期待出来たからだ。武器も食料もなしにどんどん輸送船を出すというのは「殺し
てください」ということだ。南方にはとり残され、戦争能力がもうないのだから、本当
は戦争をやめる他はない。みんな解っていながら止まれなかった「おかしな戦争だった
」というが 他の国のどの戦争を見てもあんな悲惨な国の戦争はない。普通の戦争なら
ば皇居を狙うのが普通だ。将棋でも王将をとるかとられるかだ。しかし下町ばかりが焼
かれた。又欧州の戦争の始まりも 全く大きく宣戦布告と共に行った過去の戦いとは、
全く異質なものだった。とりわけ戦前のあれほどの共産党南下阻止の盟約をドイツが簡
単捨て、今まで黒船が空砲で威嚇してまでの友好通商条約は全くなんだったのか。日本
は何一つ条約を破っていない中の戦争だった。ドイツの場合は「ドイツ国民は我々同じ
人種で良識ある国民だが、悪いヒトラーはやつけないといけない」という。だからドイ
ツではドレスデン空襲はあった。四度におよぶ空襲に千三百機の重爆撃機が参加し三千
九百トンの爆弾が投下された。この爆撃によりドレスデンの街の85%が破壊され、1
0万人とも言われる一般市民が死亡した。が皇居はほとんど空襲はやっていない。又、
「天皇が敵だ」とはいわず、日本人全体を「ジャップ」といい、野蛮な未開の人間では
ないジャップを殺せというのが最初からの姿勢だ。インディアンと同じ扱いだ。日本は
戦後、戦争を推進した天皇も財閥も政治家も官僚もマスコミも、平和主義者のような顔
をしてそのまま残った。ドイツのマスコミは戦後全部解体された。しかし日本は戦前の
支配機構がそのまま残り、「アメリカの対日占領のために働きますよ」と戦争をやって
いるときからその方向を進めていた。明治維新以来の強い独立性、民族性を持った日本
人は殺してもらった方が都合がよいというスパイの言いなりのものだった。これは戦後
七十年経ってみての日本社会の姿がアメリカのいいなりになって無惨に崩壊している現
状が証明し、元凶はあの戦争から来ているという共通の認識となっている。

774: 名無しさんAA:17/10/22 11:43
 このインディアンの皆殺しも同じ 遊び感覚で殺戮されたのはアフリカの猛獣狩りと
全くおなじで 白人優位者のブルジョア主義であった。今日本でやられている英語教育
についても全く同じで、南北アメリカ大陸での7000万〜8000万人いたインディ
アンの皆殺しをやった後の世界では、残った者は同化政策で子どもを親から切り離して
、寄宿舎に入れて英語教育をやり、言葉も歴史も全部奪っていった政策にそっくりだ。
と指摘される。この最も卑しい白人文化は他の民族の歴史も文化も言葉も奪っていく様
は、民族絶滅作戦をやったヒットラーの優良選民政策と変わらず行う。第二次大戦前か
ら「イエローモンキー」といって人間扱いではなかったが、それはインディアンの時か
ら続いている米国社会の本質だ。そもそも民主主義や平等主義というのは白人社会の為
のもので、ロマやユダヤを入れて黒人を除いた社会の理想郷で、当然ながら黄色人種や
褐色人種を従わせるのが民主主義だった。それを受け入れるのが未開の者の務めで、従
わない者は排除してもいい家畜だからという考えだ。「これは神の言う明白な運命」と
いうのが清教徒が持つ、アメリカ大陸に渡り東部から西部に行くうえでの基本理念だっ
た。こうしてアメリカ全土のインディアンを皆殺しにし、生き残った者は囲い込む。そ
の後太平洋まで来てハワイ、フィリピン、日本、中国と全部欧米文化の基準で支配する
。というのが使命だと一貫していたのである。だからフィリピン国内でも相当殺された
。この理念でフィリピン人も日本人も遊び感覚で殺しまくる。インディアンの時には「
頭皮狩り」といって、戦利品として耳を切りとり、頭蓋骨を集めた者が最も偉大な民主
主義者だとやってきた。その様は異様だった。この思想は今は消えたのか。いやちがう
当時でも消えた様に見えた時もあった。だが第一次大戦で日本に対して恐怖し「インデ
ィアンと同じようにやれ」とハルゼーなどがかなり号令をだした。こうして再びアメリ
カ全土を覆いその時の若い兵隊はフロンティア精神と叫びかつてのカウボーイだという
感覚で、日本の子供が逃げまどっているのに、グラマンで笑いながら撃ち殺した。人道
主義といわれたハルゼーも「捕虜はとらなくていい。とにかく殺せ」と言った。「死ん
だインディアンがいいインディアンだ」というのをもじっていて、「6カ月前に死んだ
ジャップがいいジャップだ」といった。これは単にハルゼー個人の考えではない。当時
米兵や市民のマスコミや新聞、雑誌などでも強烈にやっていた米国内の一般的な言葉で
あり現実だった。その感覚で日本占領に来て、マッカーサーが「日本は一二歳の少年だ
。理屈じゃなしにたたき込まないと理解できないんだ」と声明を発している事でも、わ
かる。わずか百年も経たない国が二千年存在し「和を以て貴しとなす国」を詐欺て仕留
めた時の自国へ向かっての虚勢の吠えだった。

775: 名無しさんAA:17/10/22 11:44
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 418-----------

 この世界大戦が終わった話と見ているのは平和ボケした日本人と、日本を占領された
植民地と見る中国や白人優位主義者だけだ。そうした差別主義者は一掃されずに、我々
の社会に今だ消えない核を持ち 銃社会の暴力や石油など利権主義の混乱を勧める者と
現代人は闘わねばならない。もし馬鹿の様に日中国交を進めた田中や何の制約もなく貢
いだ中曽根阿保首相の様な者を出せば、本当に傀儡国である。戦後今まで何回でも満州
国が再建されたり日本の物になったであろうチャンスが幾つもあった事を肝に据えなけ
ればならない。つまり戦後も満州国に愛新覚羅国王政府を造れば投資する。と米国やら
中国に言うだけで良かったのだ。その事で今の様な北朝鮮を作らず政府と国王と言う仕
組みとか日本の言語と法律を適用するだけでアジアは救われたはずだ。これを戦略とし
て行わなかった事は最大の汚点である。そして、そうしたアジアの知恵に背いた米国の
馬鹿さである。北朝鮮では平野部や海が少ない中で国家経営が上手く行くはずはない。
更に共産党中国が広大すぎて統制は締め付けにしかならない。又ソ連では危機は国外に
しか活路がない。その事が英国や米国のこれまでの歴史に一分の理も無い事は充分解る
歴史と条件と原因だ。そしてこの資本主義自由社会の中でも共産主義の中でも ユダヤ
資本には上手く立ち回り今や資源や資産から利権を充分吸い取れる世界にいるのだ。「
赤い楯」はロスチャイルド家の家紋だ。かつてナポレオン時代今だイギリス進出を果た
していないロスチャイルドは小さな代理店を幾つも買収でイギリスの株取引をしていた
。だがスイス銀行を始めイギリス国債は大量の買手として大資本のユダヤ金融を受け入
れた。武器の開発製造の為に。今ののアメリカが中国を入れた様に国債発行の受け手と
なった。だが彼自身は市民革命を果たしたフランスを応援していた。デンマーク王国、
ワルシャワ公国などに沢山のユダヤ同胞が生活していたからだ。当然の如く資金量も大
きくハプスブルク王家縁戚のロシア帝国、プロイセン王国、スウェーデン王国、ポルト
ガル王国、更にキリストの教皇領などの大連合に勝てる筈もなかった。が情報の少ない
当時はそれでもロスチャイルドが大量のイギリス国債を売り始めたら、イギリスは負け
たに違いない。と多くの投資家たち考えた。そこに損失を嫌う多くの投資家は、名門の
家系の金庫番だったがイギリス国債を叩き売りしだした。こうしてイギリス国債は大暴
落した。裏では代理店を使い買えるだけイギリス国債を買い占めていた。こうしてイギ
リスの連合国が勝った時既に殆どの国債資産は二千五百倍に増えて手元に残ったのであ
る。


776: 名無しさんAA:17/10/23 23:04
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 419-----------

 又、マーカス・サミュエルがバクーから石油を運び出した時、その船が向かった先は
スエズ運河であった。この運河を通ってサミュエルは石油をアジア、特に、わが日本に
向けて大量に輸送したが、同時にその帰りの船で米の交易なども行いシェルとBPとい
うヨーロッパの2大石油会社は市場でシェア争いし戦った様にみえるが、創業時代から
すでにロスチャイルド家が両方の株を握り、アメリカからの安い石油の輸送にスエズの
通行料金を払えないからマーカスを誘ったと言う。こうしてヨーロッパ中の石油はフラ
ンス国内の「赤い楯」が保有することになった。これがバクー油田の秘密だった。バク
ーのロシア皇帝やソ連邦の政府の経営阻止に米国産で販売していたのだ。だがこれでは
スエズ運河には経営が成り立たない筈だったが早々にソ連邦の政府は彼に利権を売り渡
した。ここでサミュエルに話が持ち掛けられたのである。ソ連邦の大陸鉄道はそこでは
資金難にぶつかった。「石油成金」の系図に、すでに登場した「スエズ運河」社長ジャ
ック・ジョルジュ=ピコを書き加えれば、この運河を通って石油を運んだシェル輸送の
貿易の歴史と見事に符合する。マーカス・サミュエルは利口だった。生かす殺さずの資
本形成にフランス領のボルネオ油田を得て別の収入源を得ていたからだ。樺太油田にも
彼の石油船団は運送を任されていた。イギリスとフランスが合同でエジプトを襲ったス
エズ動乱の真因は、ここにあった。正に砂漠の戦争と言われた北アフリカ戦線にドイツ
が割り込んでいたのは リビア石油とスエズ運河の 利権の攻防戦だったのである。か
くしてシェル・フランス創業者のドイッチ家自らロスチャイルド家となり、フランス銀
行の金庫番となりスエズ運河の堰(せき)を自由にあけたり閉じたりしながら、際限なく
富を蓄える財閥に高めていったのだった。これをスイス・ジュネーブ出の強欲な銀行家
たちが指をくわえて眺めているはずもなく、ミラボー銀行、ヴェルヌ銀行、マレ銀行と
いった古典的ブルジョワが寄ってたかって嫁を差し出し、ムコを選んで、あっという間
に「ブルジョア一大家族」を形成してしまった。この大家族の系譜が日本を敗戦に導い
た。これに対し日本の支配階級が卑屈にもつき従って売国行為をしたのである。戦後も
、更に一段階画策している。大和民族が奴隷になった瞬間だった。戦後日本の領土処理
問題などポツダム宣言の基礎となる内容をもつ共同宣言がカイロ宣言としてエジプトで
発した理由が此処にあった。イスラエルと言う国もエジプトをにらみアフリカの動向を
知る為の傀儡として必要だったのである。


777: 名無しさんAA:17/10/23 23:05
内村 鑑三(うちむら かんぞう、1861年)は自分で名前を変えたとする明治草創期の一
人である。群馬の高崎藩士・内村宜之とヤソの6男1女の長男として江戸小石川の武士
長屋に生まれている。三度自己を鑑みるという意味で父が「鑑三」と名付けたと言われ
るが慶応2年(1866年)頃、鑑三が5歳の時に父宜之は、藩の大方の意見と不一致で、
高崎に謹慎を命じられ、家族で高崎に移った。幼少期より父から儒学を学び。明治4年
(1871年)の廃藩置県により、高崎藩知事の大河内輝声が罷免された事を機に父の謹慎
蟄居が解かれ県小参事を免ぜられた。高崎では白井という人より手習いを受けた後に、
大河内輝声の創立した英人学校に入り、小泉という教師より初めて英語を教えられて、
英語に勤しむようになった。明治6年(1873年)に単身で上京して、有馬学校英語科に
入学し、後の日本銀行総裁の三島弥太郎がなどと学んだ。有馬学校で1年学んだ後は、
東京外国語学校の下等第四級に編入した。この時の同級生には、末松謙澄、天野為之、
佐藤昌介らがいた。後ほど首相になった加藤高明は一級に在籍していた。この学校での
教師のM・M・スコットより、グループメソッドという新しい英語教育を受けた。在学
中、一年だけ病気のために休学し、杉田玄端から治療を受けた。一年遅れたことにより
、新渡戸稲造、宮部金吾と同級になったがこの三人は終生にわたって親交を結ぶことに
なった気宇の友人達だった。その頃初めて英文講読で『旧約聖書』の聖書物語に触れた
。北海道開拓に携わる技術者を養成する目的で札幌農学校が創立された事で内村は、北
海道開拓使の役人の演説と官費生の特典に心を動かされて、経済上の理由もあり、札幌
農学校への入学を決意する。 札幌へ旅立つ前に、東京の芝で1ヶ月の合宿をした。その
時、東京大学予備門時代の同級・新渡戸稲造、宮部金吾、岩崎行親らと立行社というグ
ループを結成した。新渡戸稲造、宮部金吾と共に札幌農学校時代内村ら第二期生が入学
する前までに、農学校に教頭として在校していたウィリアム・スミス・クラークらの、
お雇い外国人の強い感化力によって第一期生は既にキリスト教に改宗していた。初めは
キリスト教への改宗を迫る上級生に反抗していた内村も、新渡戸稲造と宮部金吾が署名
したことがきっかけで、ついにほとんど強制的に立行社の岩崎行親と同じ日に「イエス
を信ずる者の契約」なる文書に署名させられる。こうして日本独特の無教会主義の内村
らの日曜日には自分達で集会を開きそれぞれ交代した牧師役の「小さな教会」を行い、
幼いながらも真摯な気持ちで信仰と取り組んだ。そして、メソジスト教会から独立した
自分達の教会を持つことを目標とするようになるこの札幌バンド(さっぽろバンド)は
、日本のプロテスタントの発祥地の一つとされた。札幌バンドの中の内村鑑三、新渡戸
稲造、宮部金吾を中心とする青年の活躍は注目され、横浜バンド、熊本バンドと並んで
日本のプロテスタント発祥の3基点の一つに数えられている。

778: 名無しさんAA:17/10/23 23:07
彼らの講演で感化された者の一人に青山士(あおやまあきら)がいた。尋常小学校を卒
業後に上京し、東京府尋常中学校(現在の日比谷高校)、第一高等学校を経て、東京帝
国大学工科大学土木工学科(現在の東京大学工学部土木工学科)に進学した青山は、一
高在学時に内村鑑三の講演を聞き、影響を受けて門下生となった。土木技術者を志した
のも内村の影響であり、内村の講演「後世への最大遺物」では、「子孫のためになる仕
事」の例として土木事業を挙げて講演をやっていた。東京帝大に進んだのも内村鑑三と
札幌農学校の同級生で親友であった広井勇が主任教授を務めていたことから、内村に勧
められ帝大に入った。青山は更に広井の講義を聴き、パナマ運河への思いを募らせた。
彼の生き方は、無教会主義のクリスチャンであった内村鑑三の影響を強く受け、私利私
欲のためではなく広く後世の人類の為になるような仕事をしなければならない、という
思想を貫いた人生だった。1903年に大学を卒業した青山は広井勇の紹介状を携えて、単
身で渡米した。広井の紹介状の宛先はコロンビア大学教授W. H. バーであったが、そ
れはバーが米国政府のパナマ運河工事委員会の委員でもあったからだった。しかしパナ
マ運河の工事は 当初パナマ資本で工事を始めたが、数年間は疫病の流行などによって
工事は遅々として進んでおらず、海面式運河にするか閘門式運河にするかの建設計画さ
え決定していない状態だった。元々スエズ運河に単を発した計画でスエズ運河会社は、
高い金利の貸付返済とエジプトの収益分担に於いて倒産し、建設者レセップスの後任の
フランス政府もパナマ運河建設も事実上計画を放棄した。1890年には運河の免許が
更新されたが、上記の資金の為の宝くじつき債券の発行を巡ってフランス政界で大規模
な疑獄事件が発生。パナマ運河疑獄と呼ばれるこの事件は当時のフランス政界を大きく
揺るがすものとなった。その後アメリカ政府がその公益性に目を付けパナマ運河工事委
員会を作り工事を中断と再開を行っていた。再開を待ちながら、バーの紹介で鉄道会社
に測量員として勤務し、測量の腕を磨きながら英語で仕事をする環境に適応しながら、
待って1904年よりパナマ運河工事委員会に採用され、パナマ運河開削工事に従事し
た。勤勉さと手腕で高く評価され、測量技師、設計技師と昇進し、技術者としてガトゥ
ン閘門の重要部分の側壁などの設計を担当し、ガトゥン工区の副技師長に昇進した。し
かし、残念ながらパナマ運河の完成を見ることなく、1911年11月に休暇として帰
国したが、帰国後には日系人排斥運動の高まりから日本から辞表を提出す結果になった
。これには日露戦争後にアメリカにおいての危機感から、米国の新聞にはスパイではな
いかとの疑いまでも書かれたという。まだまだ33歳の若さの挫折であった。その後は
日本の土木に従事し、彼の思想は荒川放水路の記念碑、及び大河津分水路の改修記念碑
に顕著にあらわれている

779: 名無しさんAA:17/10/23 23:08
青山家は代々旅宿業を営む家で、中泉を代表する素封家であった。素封家とは今の中流
階級でほゞほゞ地元では裕福な層に属する。祖父の青山宙平(1818年〜1910年)は郡長
や地元の政治家として、また社会事業家として活動した人物で、東海道線の建設に当た
っては中泉駅(現在の磐田駅)の用地を提供している。日露戦争の1904年の遼陽会
戦は、ロシア軍は15万8,000の兵をもって防御網を展開し、日本軍は12万5,000の兵が、
衝突した日本陸軍の最初の国際間の本格戦争だったが、此処で生き残り。功績を挙げた
とされる家柄だった。奉天会戦において戦死した市川紀元二は実兄とされ、東京帝国大
学で電気工学を修めて工学士の学位を持ち、京浜電鉄に技術部長として勤務していた。
歩兵少尉である志願兵一年生の予備役将校として出征している。日露戦争で最初に戦死
した帝国大学出身の軍人で最終階級は中尉で、かつては東京帝大内に銅像があったとい
う。又彼の曾祖母の家系での旅館こそは江戸の頃、青山は江戸市街の外縁部にあたり、
大名屋敷や武家屋敷が点在していた青山領主であった内藤氏・青山氏のルーツにある。
関ヶ原の戦い後加増され大名に列して居る青山氏は宗家は江戸期を通じ、大坂城代、老
中などの幕府要職に就き、常陸国江戸崎、武蔵国岩槻、信濃国小諸、遠江国浜松、丹波
国亀山など転封を繰り返し転封後には、その領地は1615年〜1623年頃、一時、幕府直轄
領となったりしている。つまり青山氏の末席にいたと思われ、その為この旅館には、多
くの日本の明治以降の志士がいた。北風 正造(きたかぜ しょうぞう)は、天保5年の
生まれでは、江戸時代末期から明治時代の日本の商人。古代から続いた兵庫の豪商北風
家に婿養子に入り、家督相続。幕府御用掛を勤めながら、資金面から勤皇の志士を後援
した人間だったが、維新後は友人でもある初代兵庫県知事・伊藤博文と共に、兵庫およ
び神戸の発展に貢献した人だ。神戸駅用地(約24万m2)をもの土地を無償提供した事で
もよく知られる。しかしながら、新政府が藩閥闘争の組織の様相を呈してくるや、理想
とのギャップから官職を辞退して又商売に転じた。ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)等を使
って茶の輸出事業を興し、家業・商業に専念するが、大番頭の別家喜多文七郎死後には
、使用人の不祥事、物品思惑購入の失敗が相次ぎ、終に倒産し、失意の中、東京で客死
した。維新関係文書は本人が焼却したと伝えられ、西郷隆盛、伊藤博文等と維新前から
知己があった。神戸事件で事態解決のため派遣されてきた東久世通禧とは、七卿落ちの
時手助けした関係でよく知った間柄であって、多くの勤皇の志士とも面識があったとい
われている。当然宮崎滔天の率いた玄洋社とも仲をもっていた。明治期の喰い詰め藩士
はどこそこに知り合いはいたが その時の出会いの待ち合わせ場所の意味を持つ旅館は
大変な中にいたと思われる。

780: 名無しさんAA:17/10/23 23:08
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 423-----------

 この北風家こそは古くから北前船をして廻船問屋として鳴らしていた米流通の大御所
であった。米相場の取引には欠かせない存在だったが この北回り船は海産物が主流で
あった。プチャーチン事件で知られた江戸幕府とのロシアの砲艦外交は、遥かその前に
ゴローニン事件を起こしていた。その時活躍した中心人物の高田屋嘉兵衛はこの北風氏
からの支援された廻船問屋の創業家であった。淡路国津名郡都志本村の百姓・弥吉の長
男として寛政2年(1790年)に生まれた。嘉兵衛が22歳の時に郷土を離れ、叔父の堺
屋喜兵衛を頼って兵庫津に出てきた時堺屋は兵庫と因幡や伯耆を結ぶ廻船問屋を営んで
いた。既に弟の嘉蔵が奉公に出ていてその縁で出て来たのだ。その前に淡路で瓦船など
に乗った経験のあった嘉兵衛はすぐに頭角を現し、船の進路を指揮する表仕となり、沖
船頭と言う雇われ船頭へ昇格した。寛政4年に所帯を持ち、兵庫西出町に居を構えた。
しかし、一念発起その後すぐに船を下りて2年ほど熊野灘でのカツオ漁に従事して北前
船を入手するための資金を集め、当時としては最大級となる千五百石積み(230トン)の
「辰悦丸」を手に入れた。辰悦丸は、叔父の喜兵衛が出羽国酒田で新造したのだが船頭
を嘉兵衛と目して北風氏から資金を借り受けての新造船だったと思える。つまり船は、
のれん分けで貰えても人や経費捻出はカツオ漁に行くしか手がなかったのだ。勿論この
船には他の船頭を用意しての造船だったが 北前船は北海の荒海を超える事が必要だっ
た。そしてゴローニン事件の推移を考えると その船長がロシア船の襲撃を受けたとも
考えられる。浜田市に残された客船帳の入港記録には(寛政10年)に和泉屋の屋号が
記されていることから、嘉兵衛が兵庫の北風家の助けを得て和泉屋と共同出資したとい
うのが本当であろう。こうして「辰悦丸」を手に入れた喜兵衛は早速翌年には、嘉兵衛
は兄弟で初めて蝦夷地まで足を運んだ。が当時に、蝦夷地を支配していた松前藩では、
その城下松前では既に近江商人などの利権が強くあり、新参者が参入する余地は、全く
なかったと言える。そこで当時松前の三湊との松前、江差、箱館の中でも、まだほとん
ど開発されていなかった箱館を拠点として店を開く事にした。弟の金兵衛を箱館の支配
人として函館に居を構え 兵庫津で酒、塩、木綿などを仕入れて酒田に運び、酒田で米
を購入して箱館に運んで売り、箱館では魚、昆布、魚肥を仕入れて上方で売るという、
行商周りの循環商売を行ったのである。こうして兵庫の西出町に「諸国物産運漕高田屋
嘉兵衛」の看板を掲げ本店を置き独立する事が出来た。


781: 名無しさんAA:17/10/23 23:09
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 424-----------

次の年1877年(寛政11年)嘉兵衛が厚岸に滞在中、択捉島開拓の任に就いていたと
される近藤重蔵に依頼され、国後島と択捉島間の航路を開拓した。更に翌年の寛政12
年(1800年)に嘉兵衛は、兵庫や大坂で大工らを雇い入れて、米、塩、鍋や釜などの物
資を調達し、辰悦丸と4艘の船で択捉島に渡った。択捉島では17か所の漁場を開き、
アイヌに漁法を教えて家を作り与えたとされる。こうして原野開発と商売の種を作り、
享和元年(1801年)、択捉航路の発見・択捉島開拓の功により、33歳の嘉兵衛は幕府
から「蝦夷地定雇船頭」を任じられ、苗字帯刀を許される事になった。文化3年(1806
年)には大坂町奉行から蝦夷地産物売捌方を命じられ、嘉兵衛は漁場を次々開拓、蝦夷
地経営で「高田屋」の財は上昇した。こうした漁を通じた開発はこれまでの 嘉兵衛が
培って来た知恵がものを言ったのであろう。文化6年の大火では箱館市街の半分が焼失
した。高田屋は被災者の救済活動と復興事業を数々と行なった。市内の井戸掘や道路の
改修、開墾・植林等も自己資金で行ない、箱館の基盤整備事業を実施した。文化7年に
は箱館港内を埋め立て造船所を建設し、兵庫から船大工を多数呼び寄せ、多くの船を建
造させた。こうした頃食糧が途絶えたロシアの船ニコライ・フヴォストフが言葉の通じ
ない北海道で襲撃による食糧調達を図った。文化露寇は日本の対ロシア感情を悪化させ
ていた中で、文化8年(1811年)軍艦ディアナ号で測量を行っていたゴローニンは国後
島の泊に入港した。厳戒態勢にあった国後陣屋の役人に捕えられ、松前で幽囚の身とな
った。ディアナ号副艦長のピョートル・リコルドは一旦オホーツクに戻り、ゴローニン
救出の交渉材料とする文化露寇で捕虜となりシベリアに送られていた良左衛門や文化7
年(1810年)にカムチャツカ半島に漂着した摂津国の歓喜丸の漂流民を伴ない、国後島
に向かった。国後島に着いたリコルドは漂流民を陸へ送り、日本側からゴローニンの消
息を知ろうとした。この時奉行所は良左衛門を介してゴローニンは死んだと伝えたが、
リコルドはそれを信じず、文書で証明するようにと良左衛門を陸へ送り返した。だが、
良左衛門は戻らなかった。リコルドは国後島沖に留まり、日本船を拿捕して更なる情報
を入手しようと待ち受けた。そこに通りかかったのが嘉兵衛の船であったとされる。


782: 名無しさんAA:17/10/26 08:49
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 425-----------

 そもそもこの事件は過去を逆昇る事1670年に逆昇る。1654年から1667年
までの間に、ポーランドとのロシア・ポーランド戦争(13年戦争)が起こった。更には
1656年から1658年までのスウェーデンとの北方戦争は、凄惨を極めた殺戮戦の
時代だった。欧州の公国や王国が裕福になりロシアの侵略が行われた。ロシアの人々は
元々定住のないコサックが多かった。この人々はロシア国民となり重い負担が強いられ
た。ツァーリ専制体制が確立され、徴税と徴兵が強化され、多くの農奴・小作農は南に
逃れ、ラージンのコサック盗賊団の仲間になっていった。農民だけでなく下層階級の人
々やカルムイク人などの非ロシア民族の人々もまたラージンの一味となり反ロシア党と
なった。そうして1671年6月は、コサックのアタマンで、モスクワ・ロシア南部に
おいて貴族とツァーリの官僚機構に対する大がかりな抵抗運動を指揮し戦闘が行われた
。日本でもいわゆるロシア民謡である『ステンカ・ラージン』と共に名高い戦争である
。しばしばステンカ・ラージン とも呼ばれるが、本来「ステンカ/スチェーニカ」「ス
テパン/スチェパン」の縮小形の一つで愛称-卑称として用いられる。一行は集落都市サ
ラトフとサマーラは陥落させるものの、シンビルスクで苦戦し、スヴィリ川での2度の
攻防戦の結果、ラージンの軍は屍の山を築いて敗走し、進路をヴォルガ下流に転じた。
 この敗北でラージンの反乱は終わった訳ではなかった。ラージンの使者は扇情的な声
明文を手にニジニ・ノヴゴロド、タンボフ、ペンザなどを回り、人々を洗脳して行った
。その勢いはモスクワやノヴゴロドにまで達した。抑圧されていた人々はラージンの声
明に飛びついて反乱に加わっていった。ラージンは、この蜂起の目的はロシアの貴族・
官吏を追放し、階級の存在しない平等な「コサックの国」をモスクワ大公国全てで実現
することである、とした。共産暴力革命の最初の声明とも言える。だがモスクワ大公は
それを許さなかった。。8度の戦闘の後にラージンの声明文の実現は疑わしいものとな
って反乱は収束に向かった。、モスクワ総主教がラージンを破門したのだ。これを聞い
た後援者であったドン・コサックも、ラージンに叛旗を翻し1671年、ラージンと兄
のフロール・ラージンは最後の砦であったユジノサハリンスクで捕らえられ、モスクワ
に連行された。ラージンは拷問の後、赤の広場で生きたまま四つ裂きの刑に処されたと
言われ。その生きた屍は1年間も放置されたて ロシア皇帝の脅威を見せつけた。


783: 名無しさんAA:17/10/26 09:24
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 426-----------

 だが ヴォルガ全域をコサックの共和国にするために200の船にに兵隊を満載して
アストラハンを出て戦った成果は ロシアの市民を不幸にした。食糧不足と人手不足は
日に日に深刻化した。又地中海やバルト海では19世紀初頭まで使用されたガレー船団
は、このボルガ人達のものであったが乗っていたのはコサック労働者達だったからだ。
ガレー船は香辛料貿易などに用いられた以外では、もっぱら軍用船としても利用されて
いた。この赤穂浪士の時代の変化はペルシャ帝国の終わりを告げる役割も担った。こう
して小ロシア人とされたルーシー族所謂ウクライナ人やベラルーシの民族はロシア帝国
の侵略で北方への強制労働に駆り出されて食糧生産の為の作業に駆り出された。ロシア
人民にとってトナカイ肉や小麦は高値で品薄の品になった。ここに目を付けたのが、イ
ギリスの商人だった。ハドソン湾会社は、歴史的には、北米大陸の現在のカナダに作ら
れた最も初期の会社だ。ビーバーなどの毛皮交易のため1670年に設立されたイング
ランドの国策会社であった。イングランド銀行の貸付を受けて主に新大陸にやって来た
清教徒の為の日用品や食材の提供をしていた。設立当初は、イングランド王チャールズ
2世勅許状に記された正式名称の「ハドソン湾に於いて通商に従事するイングランドの
総督ならびに冒険家の一団」として登録されてい様に、未開の地の占領する冒険家だっ
た。彼らはこの未開地の毛皮や肉を本国やロシアや送って利益を得た。危機感を持った
のがエカテリーナの持つロシア帝国だった。露米会社(ろべいかいしゃ)は、極東と北
アメリカでの植民地経営と毛皮交易を目的とした、ロシア帝国の国策会社・勅許会社で
ある。1799年、パーヴェル1世から、官僚・外交官ニコライ・レザノフへの勅許により
作られた。露米会社はロシア領アメリカ(アラスカ)やアリューシャン列島、千島列島
での毛皮採取、鉱物採掘を20年にわたり独占的に認められた。20年後も更に182
1年に新たな勅許に露米会社はより以北にまでもその支配地域を伸ばした。だが露米会
社の経営は最初から厳しく、食糧難で入植地は崩壊寸前となり会社は大きな損失を出し
ていた。レザノフはアラスカの維持の為には、まず日本との交易が必要と考え、自らが
アラスカのペテルブルクから出航し長崎へ来航したが不調に終わった。辛抱強く半年を
長崎で待った後、彼はカムチャツカ経由でアラスカに向かった。レザノフは現地の規律
を立て直し、食糧難解決のために今度は南方のスペイン領アルタ・カリフォルニアへ向
かい食料調達と交易確立を図った。もう半年日本で待てば変わっただろうが、彼は待て
ず北に去っていき、カルホルニアでの彼の死によりスペインとロシアの条約締結はなら
なかったが。この事が先のゴローニン事件の発端になった。

784: 名無しさんAA:17/10/26 09:24
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 427----------

 コサックの移動はサンクトペテルブルクを多民族の行き交うロシア最初の奴隷都市に
した。ここに生まれ育ったレザノフは14歳には、既に5か国語をマスターしていたと
いわれる。1778年、砲兵学校を出て近衛連隊に入隊し1782年には退役して地方
裁判所の判事となり、1787年にはサンクトペテルブルク裁判所勤務を経て海軍省次
官秘書を務めた。1791年にはピョートル1世の治世では先の食糧不足で清・ジュン
ガルの領土戦争が起こり、ロシアは方々で戦い疲弊した。ロシア帝国は農奴制で支えよ
うとしていた為ドイツ人をボルガ流域に移民誘致してもいた。この後を継いだエカチェ
リーナ2世も貴族の支持を取り付けるためにそのまま農奴制の推進を継承した。先の『
ステンカ・ラージン』の戦いは発生していたが この戦いに勝ってエカチェリーナの割
愛を受けた詩人のデルジャーヴィンの配下の官房長となった事で彼は出世する。数年前
毛皮商人の「シェリホフ=ゴリコフ毛皮会社」を設立運営した男の娘と知り合っていた
。この会社に興味を持ち、レザノフは、アラスカ・北太平洋方面への植民や交易活動を
シェリホフの娘アンナと結婚して、会社を受け継いだ。そして事業の拡大を進めたのだ
。1795年にシェリホフが死ぬと彼は会社の最高指導者となった。レザノフは女帝の
末期と新皇帝パーヴェル1世の宮廷をうまく立ち回り、合同アメリカ会社の経営者とな
り、太平洋の北方を支配し始めた。同社は1800年に国策会社露米会社に発展した。
露米会社設立の勅許が下りたのはパーヴェル1世が暗殺される直前であったが、既に、
イギリスのハドソン湾会社やアメリカ人のハンターらが、カナダ方面から内陸部を伝っ
て進出していて、アラスカの毛皮交易に参入して露米会社のライバルとなっていた。又
ラッコなどの毛皮はアラスカからシベリアを横断してロシアに向かうため、輸送料が高
くつき露米会社の弱点である食糧難は解決できず、ロシア人の入植地は太平洋を航海す
るアメリカ人の船による補給に頼っていた。しかも1821年からの新たな勅許は競争
相手である海外勢力との接触を禁じた為、食糧を補給し毛皮を買ってくれるアメリカ船
とのつながりが断たれた状態に陥った。結果、露米会社は、アラスカ沿岸を通って北極
海に出る航路をハドソン湾会社に認める代わりに同社と協定を結ぶ程の困難さだった。
そこには露米会社が闇雲にも会社存続の為に北方四島での略奪や樺太アイヌの襲撃があ
ったし その船員がそのまま日本に親書を持つ船の乗組員としていたのである。こうし
てトルコ側からとアラスカ側からの影響がロシアの混乱で日本に押し寄せて来ていた。



785: 名無しさんAA:17/10/26 09:28
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 428-----------

1840年代は露米会社にとり厳しい時期だった。海岸部の先住民たちは露米会社のも
とで厳しい労働を強いられていた。アリュート人はアリューシャン列島からアラスカ本
土へ移され、ラッコ狩りや軍務などに従事していたが、その人口は疫病や労役で減少傾
向にあった。また北方カナダインディアンのトリンギット族は露米会社に服従せず何度
も入植地を攻撃した。つまり原住民と露米会社は世紀の氷上戦争に陥ってしまったのだ
しかしこの時期から 何故だか露米会社を経営する海軍士官たちは徐々に、学校や病院
の建設を行い生活向上の努力をしたため人口は回復し始めたと言う。それがロシア皇帝
のレザノフの逮捕収監であった。トリンギットを始めカナダインデアンはアラスカ族と
同じにトーテムポールによる領地を持つ種族であったが、ラッキブーなど白人の侵攻で
、ヤクタト地域の先住民はカッパー川地域から来たエイアック語を話す人々と言われ、
今や壊滅や絶滅に至った民族だった。こうして、北方はエキスモーの狩猟民族のみに変
わった。レザノフは、露米会社の食糧難打開や経営改善に日本との交易が重要と考えて
、遣日使節の派遣を宮廷に働きかけた。これより前の1792年に、日本人漂流民の大
黒屋光太夫一行を返還する目的で通商を求めた。1789年ペテルブルク大学から派遣
されていたアダム・ラクスマンは、シベリアのイルクーツクに滞在中に伊勢国出身の大
黒屋光太夫ら漂流者6名と出会った。父の支援を受け、光太夫を連れてペテルブルクの
女帝エカチェリーナ2世と謁見し、光太夫送還の許しを得たラクスマンは、女帝の命に
より光太夫、小市、磯吉の3名の送還とイルクーツク総督イワン・ピールの通商要望の
信書を手渡すためのロシア最初の遣日使節となる為に寛政4年(1792年)9月にエカテ
リーナ号でオホーツクを出発し、10月に根室に到着していた。この時アダム・ラク

786: 名無しさんAA:17/10/26 09:28
、遣日使節の派遣を宮廷に働きかけた。これより前の1792年に、日本人漂流民の大
黒屋光太夫一行を返還する目的で通商を求めた。1789年ペテルブルク大学から派遣
されていたアダム・ラクスマンは、シベリアのイルクーツクに滞在中に伊勢国出身の大
黒屋光太夫ら漂流者6名と出会った。父の支援を受け、光太夫を連れてペテルブルクの
女帝エカチェリーナ2世と謁見し、光太夫送還の許しを得たラクスマンは、女帝の命に
より光太夫、小市、磯吉の3名の送還とイルクーツク総督イワン・ピールの通商要望の
信書を手渡すためのロシア最初の遣日使節となる為に寛政4年(1792年)9月にエカテ
リーナ号でオホーツクを出発し、10月に根室に到着していた。この時アダム・ラクス
マンと、日本の江戸幕府老中職の松平定信との間に国交樹立の約束が交わされていたが
、レザノフはこの履行を求めた。彼は日本人漂流民の津太夫一行を送還する名目で、正
式な遣日使節としてロシア皇帝アレクサンドル1世の親書を携えた使節団になっていた
。この時ラクスマンに「信牌」(長崎への入港許可証)を与えたのは老中・松平定信で
あったが「国法」を盾に拒否しロシア側の妥協で事なきを得た。レザノフが長崎に来航
した1804年9月6日は、松平定信は失脚し老中を辞任し、幕府は外交能力を失って
いた。新たな責任者の老中土井利厚を中心とする幕閣は、今度は通商は断固拒否する姿
勢で「武力を行使しても日本の武士はいささかもおくれをとらない」と言う態度であっ
た。そのため幕府は上陸も許さない態度をとり、後に乗務員の病気治療と船の修理を名
目にとりあえず上陸を許されますが、それは昼間のみであり、半年も待たせたうえでの
通商を拒否し、一行を追い返した。こうしてレザノフがロシアに帰る途中、日本の幕府
への報復と威嚇を兼ねて部下に千島や樺太においての、攻撃・略奪行為を行う事件を引
き起こして去って行ったのだった。


787: 名無しさんAA:17/10/28 02:49
 大黒屋 光太夫(だいこくや こうだゆう)は、宝暦元年(1751年)に産まれて江戸時
代後期の、伊勢国白子(現三重県鈴鹿市)の港を拠点とした回船(運輸船)の船頭だっ
たと言う。雇われ船頭で船は持っていなかったらしく天明2年(1782年)に、嵐のため
江戸へ向かう回船が漂流し、アリューシャン列島(当時はロシア領アラスカの一部)の
アムチトカ島に漂着した。当時ロシア領として船が回航したらしく先住民のアレウト人
や、毛皮収穫のために滞在していたロシア人に遭遇したという。彼らとともに暮らす中
で光太夫らはロシア語を習得した。4年後になって(1787年)、ありあわせの材料で造
った船によりロシア人らとともに島を脱出する。もともとはロシア人に保護される様な
立場だったが、そのロシア人達を帰還させるための船が到着目前で難破した。漂流民が
逆に増えたため、光太夫らが逆に指導的立場に立って、難破した船の材料などを活用し
て、脱出用の船を作った。こうしてカムチャツカ、オホーツク、ヤクーツクを経由して
1789年(寛政元年)イルクーツクに至った。北海道の北を行く北極回廊を戻った。
フランス人探検家レセップスや博物学者エリク・ラックスマンなどの好意でロシア帝国
の帝都サンクトペテルブルク入りを果たし女帝エカチェリーナ2世に謁見して帰国を願
い出て、漂流から約9年半後の寛政4年(1792年)に 根室港入りして帰国した。ラクス
マンは、光太夫の境遇に同情すると同時に、帰国が叶うように最大級の尽力を惜しまな
かった。また、博物学者としてラクスマンは、光太夫達から日本の情報を収集すること
にも力を注いだ。ラクスマンは、すこし頑固なところがあったが、真摯で誠実な人物で
あり、光太夫一行は、次第にラクスマン一家と家族的な付き合いをするようになってい
った。ところがイルクーツク総督府はあくまで日本人達をロシアに帰化させることを、
方針としていた為握りつぶされていた。その為直接帰国を直訴すべく帝都サンクトペテ
ルブルクに向け出発した。女帝エカチェリーナ2世その後行幸していた女帝を追って、
無事謁見を賜り、帰国の許可を嘆願することに成功した。ラクスマンの次男アダムが初
の遣日使節となってアダムの帰国後、女帝から功労を称えられた。その後自身も日本へ
と向かうが途中シベリアで客死した。幕府の老中・松平定信は光太夫を利用してロシア
との交渉を目論んだが失脚する。その後は江戸で屋敷を与えられ、数少ない異国見聞者
として桂川甫周や大槻玄沢ら蘭学者と交流し、蘭学発展に寄与した。甫周による聞き取
り『北槎聞略』が資料として残され、波乱に満ちたその人生史は小説や映画などでたび
たび取りあげられているアダム・グスタヴォヴィチ・ラクスマンは1806年に『ラクスマ
ン日本渡航日記』を完成させている。

788: 名無しさんAA:17/10/28 02:51
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 430-----------

ゴローニン事件はアダム・ラクスマンに続く第2次遣日使節として訪日して来たもので
あった。文化露寇(ぶんかろこう)は、文化3年(1806年)と文化4年(1807年)に、
ロシア帝国から日本へ派遣された外交使節権を貰ったニコライ・レザノフが、部下に命
じて日本側の北方の拠点を攻撃させた事件だった。事件名は日本の元号に由来しロシア
側からはフヴォストフ事件と呼ばれる。江戸時代後期の1804年、女帝エカチェリー
ナ2世の後ロシア皇帝アレクサンドル1世から派遣されたニコライ・レザノフにより、
行われた通商要求行動の後にロシア側から行われた軍事行動である。それに先だって、
ロシアはエカチェリーナ2世治下の1792年、アダム・ラクスマンを根室に派遣し、
日本との通商を要求したが、江戸幕府はシベリア総督の信書を受理せず、通商要求に対
しては長崎への廻航を指示、ラクスマンには長崎への入港許可証(信牌)を交付した。
文化元年(1804年)、これを受けて信牌を持参したレザノフが長崎に来航し、半年にわ
たって江戸幕府に交渉を求めたが、結局幕府は通商を拒絶し続けた。レザノフは幽閉に
近い状態を余儀なくされた上、交渉そのものも全く進展しなかったことから、日本に対
しては、武力をもって開国を要求する以外に道はない。という意見を持つに至りまた、
日本への報復を計画し、樺太や択捉島など北方における日本側の拠点を部下に攻撃させ
たのである。レザノフの部下ニコライ・フヴォストフ(ロシア語版)は、この文化3年
(1806年)に樺太の松前藩居留地を襲撃し、その後、択捉島駐留の幕府軍を攻撃した。
これを受けて幕府は新設された松前奉行を司令官に、津軽藩、南部藩、庄内藩、久保田
藩(秋田藩)から約3000名の武士が徴集され、宗谷や斜里など蝦夷地の要所の警護
にあたった。こうした中、文化4年(1807年)には斜里に駐留していた津軽藩士70名
が厳寒の越冬中に病死する事件が津軽藩士殉難事件と言われる物が起こった。しかし、
これらの軍事行動はロシア皇帝の許可を得ておらず、不快感を示したロシア皇帝は、1
808年つまり1年後に全軍に撤退を命令した。これに伴い、蝦夷地に配置された諸藩
の警護藩士も撤収を開始した。なお、この一連の事件では、日本側に、利尻島で襲われ
た幕府の船から石火矢(大砲の一種)が奪われたという記録が残っている。もしこの時
レザノフが更に長くこの地に滞在し 日露和親条約が行われていたら又違った世界に、
なっていたとも思われる。

789: 名無しさんAA:17/10/28 02:51
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 431 -----------

元々レザノフが貰った勅許では、露米会社はロシア領アメリカのアラスカやアリューシ
ャン列島、千島列島での毛皮採取、鉱物採掘を独占的に認められていた。その支配地域
を伸ばす事は投資してくれた会社には商人たち 宮廷・皇族の面々が会社の利益の3分
の1は皇帝のものとなる仕組みであり、食糧供給や交易の増収益を図るに樺太や択捉島
など日本人との友好は欠かせない要件だった。これを半年も捨て置かれて幽閉に近い、
長崎泊まりで、その上国境画定と通商開始を要求したが、幕府はその要求を一応拒否し
たままで、長崎のみの開港のだった事はレザノフの鬱憤は積もるままだった。その頃の
北方の開拓は例えばノルウェーにラップ人というサーミ民族がいたが、サーミ人の宗教
は万物に霊が宿るという精霊信仰であり、ノアイデと呼ばれるシャーマンを中心とする
民族だったが、キリスト教の布教がラップ地区に及ぶと、このような精霊信仰は容赦な
く弾圧され、スカンジナビアの宣教師たちはを信仰を守り続けるサーミ人を迫害、特に
ノアイデの改宗、撲滅に努めた。現代サーミ人の大半は後でルーテル教会かロシア正教
会となったのだが、こうしたキリスト教徒異民族による支配で、伝統的文化を否定する
価値観は常に突きつけられていた。スウェーデンなどの原住民も又「あの地に、汚らし
いラップ人がいなければ…」という目で見られていた。こうしたサーミ人の苦難の歴史
は新大陸のインディアンやアボリジニと全く同じで、今の中東のクルド人も周辺諸国と
民族的にちかくムスリムだが、国を持たなかったゆえの悲劇は似ている。こうした民族
主義がない平和な民族にとって国家建設は難しく、国家を持たない民族は部族に留まり
、周辺の強大な民族に吸収されやすいようだ。この頃の北海道のアイヌも似たような状
況だった。ただ先行して江戸幕府が蝦夷地開拓に勤しんでいたので こうした西洋型の
高圧的外交や熾烈な覇権争いや襲撃や盗賊に近い商取引を許さない奉行所がここにあっ
たのである。嘉兵衛が観世丸に乗り、干魚を積んで択捉島から箱館に向かう途中、公文
書を届けるため泊に寄港しようとしていた様に 各地にある住民との取引こそが商売で
あったのだ。こうして、国後島ケラムイ岬の沖合でディアナ号に拿捕された嘉兵衛は、
リコルドにゴローニンが生きていることと、カムチャツカに行く用意があることを伝え
、弟の嘉蔵・金兵衛に事件解決のため「掛合〔交渉〕も致し候」と手紙を書き送り、食
料と衣服をディアナ号に積み替え、水主の金蔵・平蔵・吉蔵・文治・アイヌのシトカと
ともに、カムチャツカ半島のペトロパブロフスク・カムチャツキーに連行されたのであ
る。

790: 名無しさんAA:17/10/28 02:52
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 432-----------

文化8年(1811年)5月、軍艦ディアナ号の艦長で千島列島の測量を行っていたヴァー
シリー・ゴローニンが国後島の泊港に入港します。このとき、フヴォストフ事件の報復
のため厳戒態勢を敷いていた国後陣屋の支配調役・奈佐瀬左衛門らが食事の接待をし、
そのあと ゴローニンら約6名を捕えて、縄で縛ったまま徒歩で陸路を約2ヶ月かけて
松前に護送され、ゴローニンらは幽囚の身となります。この「騙し討ち」によりロシア
人は泊湾を「背信湾」と呼ぶようになりますが、このゴローニンと言う人物が、ブロー
ウニンでして、徳山館跡となる現在の徳山大神宮の敷地が、その幽閉場所であったと言
う事になります。ただし、最初はある程度行動の自由はあったようで、監視付きながら
も散歩も許可されており、城下の武家屋敷に住んでいたと言います。しかし、脱走して
捕まってからは、徳山大神宮の奥にあるバッコ沢の牢獄に入れられたと言う事になりま
す。なお、ロシアに興味があった間宮林蔵は、度々、牢獄を訪問し、鍋や酒を振る舞っ
たとも言います。ディアナ号の副艦長ピョートル・リコルドはオホーツクに戻るとゴロ
ーニン救出のために動きます。シベリアに送られていた良左衛門や、1810年にカム
チャツカ半島に漂着していた摂津国・歓喜丸の漂流民らを、人質交換のような形で、ゴ
ローニン救出のため国後島に届けます。しかし、松前奉行調役の奈佐瀬左衛門は良左衛
門を介してゴローニンは死んだと伝え、ゴローニン救出は失敗しましたが、リコルドは
亡くなったことを信じず、日本船を拿捕して更なる情報を入手しようと国後沖に留まっ
ていました。そこに通りかかったのが高田屋嘉兵衛の観世丸で、クナシリ沖でリコルド
のジアナ号に停船を命じられたのです。高田屋嘉兵衛は、ジアナ号の船長室に連れ込ま
れましたが、少しも臆するところなく一方的な停船命令を非難します。そして、ブロー
ニン事件の経緯と、人質交換を目的とするロシア側の意図を知ると、これ以上日本とロ
シアの間が紛糾することを恐れ、従容としてロシア軍艦の人質を買って出ました。こう
して、高田屋嘉兵衛の身柄は、カムチャッカ半島東岸のベトロバウロスクに運ばれます
が、見知らぬ異国の僻地で、ただひとり孤独な明け暮れを迎えながらも、少しも憂色を
見せなかったと言います。44歳の男盛り、荒波と潮見とに鍛えられ、これまでにも数
多く体験してきた苦難が不凍不屈の精神を養い、全盛を迎えていた高田屋嘉兵衛は、ゆ
っくりと時間をかけてリコルドを説いていました。日本政府へ蛮行事件の謝罪の文書を
提出すれば、きっとゴローニンたちは釈放されるだろうと・・・。

791: 名無しさんAA:17/10/28 02:56
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 433-----------

こうして高田屋嘉兵衛は ロシア帝国の存在を江戸幕府に知らせた最初の存在だった。
ダム・グスタヴォヴィチ・ラクスマンは(1792年)ニコライ・レザノフは(1806年)と
文化4年(1807年)である。ペリーが米国大統領の国書を携え4隻の軍艦で浦賀に来航
して開国を迫ったのは1853年であるが、それより7年前1846年に米国のジェームス・ビ
ッドル(James Biddle,1783-1848)が軍艦二隻で浦賀に来航している。 この時の記録
が弘化雑記第九冊(内閣文庫所蔵)に管轄窓口である浦賀奉行の対応及び江戸湾を警備
する近隣諸大名の注進・報告、浦賀与力の私信、船問屋・名主など民間人の文書、風聞
、幕府決定機関である老中から奉行や諸大名に対する指示等が順不同で多数収録されて
いる。ではこの間に何があったのか。それは砲弾の開発である。19世紀初頭、すでに陸
戦において榴弾砲や臼砲で炸裂弾は使用されていたが、それらは大角度かつ低初速での
使用に限られていた。炸裂砲弾は取り扱いが危険であり、高初速の平射砲で炸裂弾を使
用する技術的な見通しはたっていなかった。双方が移動する海上での砲戦でまともな命
中率を得るには、直接照準による平射が必須であった。このため数世紀に渡って艦砲の
砲弾としては実体弾が使われており、木造艦艇に対してさえも限定的な損害を与えられ
るに過ぎなかった。こうしてペクサンは海戦において平射砲で炸裂弾を使用することを
を提唱し「ブレストで1821年と1824年に行われた実験で、砲弾は廃艦となったパシフィ
カトゥールを激しく破壊した。フランス海軍の砲弾システムはこの成果を基に作られて
いるが、この砲弾には特殊な信管がしくまれ、砲内の発射薬の爆発によって作動し、そ
の予想飛翔時間よりやや遅れて炸裂するように設定することにより、敵艦船に対して他
のいかなる砲弾よりも高い効果を発揮する。」と言う炸裂弾を開発した。ペクサン砲で
ある。この効果は日本の様な砲を持つ防備を著しく低下させた。従来の弾はどんなに大
きく重いカノン砲であれ船とであれば陸上の被害は少なく船は穴が開けられては小さな
穴でも沈没する憂き目にあうからだが 炸裂弾ともなれは陸上でも多大な被害がでるし
火災さえも大火になる可能性がでて来るのだ。こうして今までの大砲を持ってやって来
た大きな木製帆船と 蒸気を使った鉄の艦船とに 船も持っている兵器も大きく違った
威力で 日本に西洋列強が開国を迫る事になった。こうして新しい歴史がのしかかった


792: 名無しさんAA:17/10/28 02:59
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 434-----------

 このペクサン将軍は重砲の製造、砲弾、砲架、その運用に関する重要な改良を行った
。ペクサン砲は炸裂弾と中空砲弾の発射に特化したもので、1824年ごろにフランス海軍
に採用された。同様の砲は英国でも採用された。ペクサン砲は艦砲としても、また沿岸
防衛用の要塞砲としても適していた。とある。こうしてクリミア戦争のシノープの海戦
で採用され威力を発揮し、特にその効果が明らかであったとされる。「フランス海軍の
実施した新型兵器についての実験」はオランダ語に翻訳され日本にも輸入された。それ
を入手した武雄領主鍋島茂義(高島秋帆に弟子入りしていた)はさっそく日本語に翻訳
し、1848年(嘉永元年)に佐賀藩主鍋島直正に献上している。1851年(嘉永4年)に会
津藩が江戸湾(富津台場)の防備を命じられると、江川英龍に150ポンド(17貫300目)
ペクサン砲の鋳造を依頼している。当時は音をとって「伯苦斬刪砲」、またはその特徴
から「暴母加納」(ボム・カノン)と呼ばれていた。1853年(嘉永6年)のペリー来航
の際、ペクサン砲を搭載した米国軍艦に乗り込んだ浦賀奉行所与力中島三郎助は、その
大砲がペクサン砲であることを見抜いたとされている。1849年にジョン・ダールグレン
(John A. Dahlgren)がダールグレン砲を開発すると、ペクサン砲はそれにとって代わ
られた。しかしながら彼の設計思想は他の海軍関係者には受け容れられなかった。大砲
の装填方式が前装式から後装式へ転換したことと冶金技術の発展は、20世紀になる前に
彼の設計を時代遅れなものとした。彼の設計の欠点は、砲尾のhoisting-knob が小さく
壊れやすいことと、大砲にとって不可欠である照準角の設定機構を欠いていたことであ
る。これらの不備はロッドマン砲の開発によって改善が試みられた。こうして武装する
兵器は 海外においては急速な発展を遂げ 日本はついていくしかなかった。そうした
発展は戦艦でも飛行機でも或いは戦車でも常に改良がなされ、常に日本は開発時は最新
鋭ではあったもののその物量や使用の面からも或いは精神面からも遅れを取った。戦艦
大和は不沈戦艦とされたがそれが運用される時は大砲巨艦主義はその浪費から遅れを取
りゼロ戦でも最速で小回りの利く飛行機は脅威であったが薄く後ろからの銃弾に敗れ、
高高度を飛行できなくなる時その利点は後塵に帰した。この最新兵器で威圧する外交は
このペリー来航から常に続いていった。いわゆる砲艦外交である。今までは大砲を気に
せず鎖国で消極的な開国が 出たり入ったりして意見が割れていたが 此処に沿岸庶民
の安全を期するところで 幕府は独断で開国を決めた。

793: 名無しさんAA:17/10/28 02:59
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 435-----------

 ところが江戸時代の銃の改造を見て驚く事もある。
1832年  モーゼル、プロシアで前装式撃針銃の薬莢を発明
1836年  ドライゼ銃(ドレイゼ・ライフル)撃発式発火装置をもちいた世界最初
       の銃で中心撃ち紙製薬莢を用いるボルトアクション式の後装銃
1836年  パリの銃工ルフォーショウが元折式の後装式雷管銃を発明。この形式は
       近代式猟銃の基本となる。
1840年頃 欧州では前装式滑腔火打石銃が制式軍用銃としては使われなくなる
1841年  プロシア陸軍、ドライゼ銃を制式採用
1841年  日本の小山杉渓、『雷撃銃略記』という翻訳書で雷管銃を日本に紹介
1842年  日本の吉雄常三が雷汞および雷管銃を創製
1843年  江川太郎左衛門が門人の松代藩士 片井京助に雷管銃を試作銃を作らせる
1848年  佐賀藩が制式小銃として火縄銃を廃止して火打ち石式の小銃を制式採用
1850年  江川太郎左衛門が雷管銃を大量生産し作らせる  
1853年  ペリー来日
1855年  徳川幕府、オランダより小銃製造に必要な各種工作機械を輸入
1856年  片井京助が日本初の後装式雷管銃を完成させる
       幕府は製造技術が伴わないという理由から制式採用せず
1861年  シカゴの医師ガットリングが銃身回転式機関砲(機関銃)を発明
と言う流れがあるが、日本での1841年に吉雄常三が雷汞および雷管銃を創製とあり
この人尾張藩の藩医で、蘭学者が雷管銃を創っている。天保十四年九月二日雷汞粉製法
の研究中、爆発を生じ死去していて、当時は軍事研究は粉末の場合医学者蘭学者が行い
命懸けの作業だった事がうかがえる。火縄銃というのはそんなに危険なモノではないの
だが これが雷管銃の場合は難しいのだろう。此処に火薬の混合分量の問題が起こる。
かつての線香花火の様な紙巻き黒色火薬に鉛玉の「弾薬」なら、硝石と硫黄と人並みの
知識があれば直ぐに台所ででも作れるとされる。だが19世紀後半から登場した雷管式
の弾薬となると、化学実験室並の設備、薬品と化学者としての常識、技術に加えて精密
工作の設備、技術が必要になり、さすがに素人的研究では出来ない。と言われている。

794: 名無しさんAA:17/10/28 02:59
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 436-----------

ヨーロッパでは火打ち石を使ったマスケット銃というのが登場して火縄銃にとって代わ
った、火打ち石というのは「打つ」衝撃で火花を発して火をつけるわけで、打った衝撃
でブレるため、命中率が悪いという欠点を持っていた。従ってマスケット銃の戦術とい
うのは、兵士の整列間隔を詰めて面積あたりの火力を濃くして弾丸をばら撒くという戦
闘法になって量が必要になり、日本ではあまり普及しなかった。それが傍装雷火銃によ
って雷管式銃が広まり、戦闘法が一変するのである。こうして銃の革命がもたらされた
のは、奇しくも幕末維新の時代であった。1850年代に実用化した雷管や元込式装填
装置、尖頭弾と旋条といった技術は、銃単体の性能と歩兵戦術の両方を一変させた。そ
して日本人は速やかにその最新戦術を習得したのである。戊辰戦争を戦った薩長諸藩や
幕府陸軍の兵士は、ナポレオン戦争のような隊列は組まず、分散しての物陰からの遠距
離射撃する散兵戦術が一般的に行われた。そして新戦術の変化に対応した軍事化の必要
性は、あっという間に封建制の廃止まで行き着いてしまったようだ。同時期のアメリカ
国内の南北戦争では、新式銃器による新戦術の定着までは、まる五年間の歳月と60万
人の死者を出した事と比較すれば、日本人の軍事技術の学習能力は非常に高かった。と
言える。アメリカでは政府軍は南北戦争前期の横隊戦術で戦っている。しかし同期の日
本の西南戦争の政府軍と薩摩軍は、より進歩した散兵戦術で戦っていたのである。こう
した日本人の「学ぶ力」とその「早さ」は、次々と日本の歴史を変えた。「雷管式」銃
が信州の田舎の鉄砲鍛冶が作り、雷汞はどこから手に入れたのか。それは伊豆韮山。最
初の反射炉のある韮山の幕府代官であった江川太郎左衛門英龍が7千両を超える大金を
投じて作ったこの炉に答えがある。江川太郎左衛門英龍は天保14年に門人(松代藩士)
の片井京助が二匁八分のドンドル銃(傍装式雷管銃)の製作に成功した。英龍は屋敷の裏
門の西側に銃器工場を立てて京助の開発した雷管銃の量産を開始して、親友の川路聖謨
に特性の護身用短銃を製作し贈ったという。川路聖謨はロシアとの和親条約に関わった
人でペリー来航より早く来たロシア使節でエフィム・プチャーチンとの交渉を執り行っ
た人だった

795: 名無しさんAA:17/10/28 03:01
 江川門下の信州の鉄砲鍛冶は天保14年(1843年)には完成したが、尾張藩吉雄常三
が火薬製造中に爆死したりした事件が起こる。こうしてさっそく江川は自宅の庭に工場
を建て、ドンドル銃の量産を開始した。この英龍が発明した、いわゆる「ドンドル銃」
だが、これは当時銃は火縄銃か火打銃であったが、引き金で雷管を打つ銃をオランダの
書物で研究しながら発明していた。また「ドンドル銃」のこの為の着火材の「雷粉」と
いう火薬の製造こそが至難を極めていた。三上参次が駒込林町にあった「ドンドル製造
の小屋」とは、江川英龍が発明した「ドンドル銃」や「雷粉」と関係があると見られる
。幕末・明治初年の駒込林町の周囲一帯は、原っぱも多かったことで「ドンドル銃」の
試射し狩りなども行われていたと見られる。この江川太郎左衛門英龍は、高島流砲術の
大家で、今の軍事専門家として名を馳せていたが、一生に一度も戦争はしてない。戦わ
ずに済ませるのが良い軍人のモットーを地でいった。そういう人間だった。マリナー号
事件は1849年嘉永二年閏四月、英国の軍艦マリナー号が日本の沿岸にあらわれた時
に起こった。それは今まで東北や北海道で起こった様に大きな外国船がやって来て、相
模湾で勝手に測量を開始し、さらに下田に移動しそこでも勝手に測量をはじめ、下田奉
行の退去要請を無視して動かなかった。以前から外国船の出没に懸念を感じていた砲術
家江川英龍公は、ここで韮山代官として立ちあがる。当時は幕府の緊迫財政で粗末な衣
装だった貧しかったためバカにされたのだ、と、三越デパートから最高級の陣羽織と袴
を取り寄せる。ふだんは木綿単衣物しか身につけない江川さんが、立派な姿にみんなが
驚く様な衣装に変えた。蜀江の錦と呼ばれる袴で、当時有名な呉服屋「越後屋」から取
り寄せた 部下の手代にも新調の割羽織を着せ、さて、率いる部隊は総勢50名の兵士
たち全員に、最新式のドンドル銃を担ぎ、揃いの高島流軍服で応じた。数年後にやって
来たペリー提督が持っていたさえ火打ち石の銃だったから、雷管式のドンドル銃という
のは、1849年当時では最新鋭であった。マリナー号の艦長はゆったりと測量してる
中で沿岸に綺麗に揃った兵士が立っていた。望遠鏡で確認すると銃と刀を持った兵が構
えている。「日本には戦をしかけてくる勇気なんかあるわけがない。」そう思いながら
も船内には緊張感が増していた。幕府は妖怪鳥居耀蔵が失脚し水野忠邦の時代に変わっ
ていたが下田奉行では何とも当てにならず、今までの海防奉行の鳥居に責任を押しつけ
ようとしたが、スラリと交わして西洋式測量で目の上の瘤だった西洋通のこの江川にそ
の役を付ければいいと言い放った。耀蔵にとっては幕閣からは外れていたので 失敗す
れば幕府を責め成功すれば自分の手柄にする。と言う下心からだった。だが江川の方は
そうしたご下命に喜び勇んで答えていたのだった。


796: 名無しさんAA:17/10/28 03:01
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 438-----------

そして多くの小船がマリナー号へと近づいて来た。小船には武器を持った兵士も乗って
いる。マリナー号では艦長から水兵まで皆が冷や汗を流していた。先頭の小船に豪華な
衣装を着た武士が乗っていて交渉を求むと声をかけてきたことにホッとした。マリナー
号に乗り込んで来た武士は豪華な衣装を着ていて威厳のある男だった。名前を江川英龍
といい数十万人の人民を治める領主だと宣言した。それだけの地位の人物が兵を引き連
れて交渉にやってきたのだ。江川はあくまで紳士的に退去を求めて来る。だが、彼が引
き連れてきた数百の兵は圧力になっている。交渉が決裂すれば彼らがどういう行動にで
てくるか分からない。そうした兵を連れ立っていた。「右向け、右、前へならえ」の号
令の一下、整然と行進して交渉に乗船して来た。そんな号令も江川が翻訳しが発案した
物と言われる。馬鹿にしていた日本という国で、突然あらわれたこの「近代的軍隊」に
、マリナー号のイギリス人は気押されていた。1849年4月12日。こうして江川太
郎左衛門はマリナー号に乗船し、船長のマチスン中佐と船室で会見する。「マチスン殿
に尋ねたいことがある。日本やオランダには法律と申すものがござるが、貴国にも法律
はござるのか」「もちろん、ござるわ。江川氏はイギリスをあまりご存知ではないよう
ですな」「私は大英帝国を紳士の国と聞き及んでいる。この旨間違っておりましたかな
」「いえ。イギリスは確かに紳士の国でございます」「ならば話は早い」と許可なく、
測量したマリナー号は我が国では違法でござる。と非難する太郎左衛門。「これは日本
政府よりの正式な通達でござる。紳士の国なら 何とぞお引取りいただきたい。」「そ
の通達を断れば、この船を沈めるほかござらぬ。スパイ行為を働いた船は国家間の問題
にならず、当方にて処分できる。」「確かに」「無論それは最終的手段であり、貴船が
立ち去ることを約束してくだされば、当方はそれを信じて引き上げ申す。これまでの違
法行為も一切罪に問わぬ。」「貴国の寛大な申し出に感謝する」マリナー号事件は一応
の収束を見る。鳥居耀蔵は1844年に失脚していたので、江川さんはコレで中央政界
に復帰します。こうして日本は次々と現れる黒船の来航にその時々に聡明な日本の武士
が現れ対抗しそれぞれに日本を守って植民地にしなかった。こうした英霊に今や自民党
は唾をはいてた政策ばかりだ。



797: 名無しさんAA:17/10/28 22:02
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 439-----------

川路聖謨は水野忠邦が天保の改革で挫折して失脚した後、奈良奉行に左遷されている。
奈良奉行時代には行方不明となっていた神武天皇陵の捜索を行い、『神武御陵考』を著
して朝廷に報告している。後に孝明天皇がこれを元に神武天皇陵の所在地を確定させた
といわれる。その後、大坂東町奉行をへて、嘉永5年(1852年) 公事方勘定奉行に就任
した。家禄が200石相当から500石の知行取に加増され、当時幕府の内規により遠国奉行
就任で200俵、江戸町奉行・勘定奉行就任で500石へ加増とされる。翌嘉永6年阿部正弘
に海岸防禦御用掛に任じられ、黒船来航に際し開国を唱えて摩擦が起こった。また同年
、長崎に来航したロシア使節エフィム・プチャーチンとの交渉を大目付格槍奉行の筒井
政憲、勘定吟味役・村垣範正、下田奉行・伊沢政義、儒者・古賀謹一郎と共に担当し、
安政元年(1854年)に下田で日露和親条約に調印。その際ロシア側は川路の人柄に大変
魅せられたという。この時老中に向けて「日本の会所ができているのはアニワ湾周辺だ
けで、それより奥地へは探険家が入った程度である。長崎では北緯50度で分けるとの
案を出したが、どこで分けるかの定見は無い。不毛の樺太を棄てても一向に差し障り無
い。」と連絡している。この交渉に於いて、幕府の全権としてプチャーチンと交渉に当
たった外国奉行・川路聖謨は、アメリカ使節ペリーなどの武力を背景に恫喝的な態度を
取っていたのとは対照的に、紳士的に日本の国情を尊重して交渉を進めようというロシ
アの姿に感銘し、プチャーチンの姿勢に大変好感を持った。川路はプチャーチンのこと
を「軍人としてすばらしい経歴を持ち、自分など到底足元に及ばない真の豪傑である。
」と敬意をもって評している一方、プチャーチンの方も報告書の中で、川路については
「鋭敏な思考を持ち、紳士的態度は教養あるヨーロッパ人と変わらない一流の人物」と
評している。お互いに全権大使として礼節をわきまえた交渉だったようだ。これには裏
がある。 ロシア皇帝ニコライ1世は1852年、海軍中将に昇進したエフィム・プチ
ャーチンに、アメリカ合衆国のマシュー・ペリーが日本との条約締結のため出航したこ
とを知ってコンスタンチン大公を通じて 日本との条約締結のために遣日全権使節を命
じたが、これに進言したのは、日本に長く在日していたシーボルトだった。皇帝と共に
シーボルトは日本の国内事情をレクチャーし日本の民族性も又教えていたのである。


798: 名無しさんAA:17/10/28 22:03
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 440-----------

ところが日本は混乱していた。安政5年(1858年)には堀田正睦に同行して上洛、朝廷
に日米修好通商条約の承認を得ようとするが失敗した。江戸へ戻った時井伊直弼が大老
に就任すると一橋派の排除に伴い西丸留守居役に左遷されたが、条約は弟の井上清直と
岩瀬忠震が朝廷の承認が無いままタウンゼント・ハリスと調印している。更に翌年の8
月27日にはその役も罷免されて隠居差控を命じられる。文久3年3月に将軍上洛を行
い229年ぶりに徳川家茂が上洛し天皇と話し合ったのは他ならぬ外国船の就航に困っ
ての事だった。ところが勤皇派の薩摩や長州は強気な態度は更に大きく文久3年5月に
は馬関戦闘を行い長州藩が仏軍艦キンシャン号を砲撃し続いて長州藩が蘭軍艦メデュー
サ号を砲撃した。これを受け川路聖謨は文久3年(1863年)に勘定奉行格の外国奉行に
復帰した。だが外国奉行とは名ばかりで一橋慶喜関係の御用聞きのような役回りに不満
があったようで、病気を理由として僅か4ヶ月で役を辞退した。引退後は、中風による
半身不随や弟の井上清直の死など不幸が続いた。慶応4年(1868年)、割腹の上ピスト
ルで喉を撃ち抜いて自殺した。享年68歳。忌日の3月15日は新政府軍による江戸総
攻撃の予定日であった。勝海舟と新政府側の西郷隆盛の会談で江戸城開城が決定したこ
とを知らず、病躯が戦の足手まといになることを恐れて自決したともいわれるが、江戸
開城の報を聞き、滅びゆく幕府に殉じた筈だとも言われている。少なくとも江戸城開城
に於ける混乱が彼に自殺を促したのだろう。ピストルを用いたのは、半身不随のために
刀ではうまく死ねないと判断したからではないかといわれる。辞世の句に「天津神に 
背くもよかり 蕨つみ 飢えにし人の 昔思へは」という言葉を残し、横に「徳川家譜
代之陪臣頑民斎川路聖謨」と自書している。小説家の山田風太郎はその著「人間臨終図
巻」において次のような言葉を記す。「彼(注:川路)は要職を歴任したとはいうもの
の、別に閣老に列したわけでもなく、かつ生涯柔軟諧謔の性格を失わなかったのに、み
ごとに幕府と武士道に殉じたのである。徳川武士の最後の花ともいうべき凄絶な死に方
であった。」と書く。現代のしみったれた私達では及びもしないが 庶民や貧民を憂い
捧げる命が 神の御心に添っていた筈だという確信がありその為に国を守った自負が、
そこにはある。

799: 名無しさんAA:17/10/28 22:19
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 441-----------

 ロシア皇帝ニコライ1世から命をうけ、訪日したエフィム・プチャーチン海軍中将は
1852年9月、ペテルブルクを出発しイギリスに渡りボストーク号を購入して185
3年8月22日、ペリーに遅れること1ヵ月半後にやって来た。シーボルトの進言を受
けて極めて紳士的に、旗艦パルラダ号以下4隻の艦隊を率いて長崎に来航した。長崎奉
行の大沢安宅に国書を渡し、江戸から幕府の全権が到着するのを待ったが、クリミア戦
争に参戦したイギリス軍が攻撃するため艦隊を差し向けたという情報を得て、長崎を離
れ一旦上海に向かい情報を収集するなどした後には、長崎に戻り、幕府全権の川路聖謨
、筒井政憲と計6回に渡り会談した。一定の成果を得たプチャーチンは再び離れマニラ
へ向かいその後ロシア沿海州のインペラトール湾において、船の修理や補給を行った。
旗艦のパルラダ号は木造の老朽艦であった為新造船のディアナ号に乗り換え、旗艦以外
の3隻の船はイギリス艦隊に備えて沿海州に残した。ディアナ号単艦で再び日本に向か
い、10月21日(嘉永7年8月30日)、箱館に入港し、同地での交渉を拒否された。大
阪へ向かい、翌月に天保山沖に到着し、大阪奉行から下田へ回航する要請を受けて、下
田に入港した。報告を受けた幕府では再び川路聖謨、筒井政憲らを下田へ派遣し、プチ
ャーチンとの交渉を行わせた。この経緯で進んでいた。しかし、交渉開始直後の1854年
12月23日(嘉永7年11月4日)、安政東海地震が発生し地震と津波によりほぼ壊滅した。
ディアナ号も津波により大破した。乗組員にも死傷者が出て、交渉は中断せざるを得な
かった。津波の混乱の中、プチャーチン一行は、波にさらわれた日本人数名を救助し、
船医は看護した。大地震発生でディヤナ号も致命的な損傷を受け大規模な修理が必要に
なり、プチャーチンはほかに適地を要望し日本側に申し入れて、西海岸の戸田港で船を
修理することにした。戸田港は天然の良港で、完全に外界から閉鎖されていて、戦争中
の軍艦を修理するという点でもよい条件であった。ディヤナ号を戸田へ向けて動かすこ
とにしたが、強風で富士川河口の宮嶋村まで流されしまい、駿河湾に沈没した。沈没す
るまでの僅かな間荷物の荷揚げを行い、村民も総出で浜辺に出てこれを応援した。宮嶋
村も地震の被害を受けていたが、それでもプチャーチンらを助けてくれたことに、プチ
ャーチンは「幕府がただちに派遣した役人たちは、我々の不幸に心から同情し、我々を
厳しい冬から守るために家屋を急造し、救済に八方手を尽くしてくれた。しかも我々が
上陸した戸田の地点では大地震のため全家屋が倒壊していたことを考えるならば、我々
に対する日本人の人類愛の心づかいは、賞賛にあまりある」と書いている。


800: 名無しさんAA:17/10/28 22:59
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 442-----------

 この頃まで日本とロシアの関係は非常に友好的であった。この時のプチャーチン提督
の乗艦ディアナ号は、当時の帝政ロシアの最新鋭の軍艦(フリゲート)で長さ52メートル
、2,000トンの木造帆装軍艦で、大砲52門を搭載、乗員500名 その艦首にはロマノ
フ王朝の権威を象徴する双頭の鷲(ワシ)の紋章が金色に輝いていたと言う 全くの欧州
随一の戦闘艦だった。アメリカのペリーが「砲弾による威圧」によって開港を迫ったの
に対して、ロシアのプチャーチンがシーボルトの話に忠実に「対話」に徹した姿勢は、
幕府にとっても好印象だったしロシアにとっても好都合だった。又 皇帝ニコライ一世
から、「あくまで平和的手段」で「直接の話し合い」により友好の道を開けと、命令さ
れていた事は日本のこれまで「異国船打ち払い令」などでの異国人脅威の感情の中でも
この地震や津波後の彼の運命を良い方向に向かわせた。下田で遭遇した地震・津波での
、ディアナ号が大破しているにもかかわらず、漂流する日本人3名を助け、また、陸上
へ医師団を派遣したことも幕府とロシアの友好の一つとなった。こうした中での交渉が
再開された事でも、領土領海の境界の結論が出ないままでも、話し合いの結果を作った
。1854年、下田の長楽寺でプチャーチンと幕末全権の筒井政徳、川路聖謨との間で
日露和親条約が結ばれた。北方4島を日本領とする領土のことが定められたが、樺太を
相互に入植権がある事で落ち着いた。9カ条の本文と4カ条の付録から内容自体は、先
のペリーとの条約とほぼ同じ内容で収まった。その後もディアナ号の沈没を知った戸田
(へだ)の船大工と住民達は協力して、天城山の木材を利用して新しく洋式船を突貫工事
を行い約3ケ月で造りあげて祝った。1855年3月10日プチャーチンは住民に感謝
して、船の名前を「ヘダ号」と名付けて47人と共に帰国した。この時の船大工の、上
田寅吉と鈴木七助は、後に長崎伝習所に行き勝海舟と出会う事になる。また、緒明菊三
郎は横須賀の浦賀ドックを造り、近代の造船業に大きな貢献をした。プチャーチンは、
その後の遺言で、戸田村に百ルーブルを寄贈した事でもその親善行為は心に残っていた
ようだ。正確ではないがおよそ10ルーブル50万円換算で500万〜1000万相当
すると思われるが 共産圏のしがない退役軍人ではかなりの高額と言える。




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