指導改善研修の実態 横浜市


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指導改善研修の実態 横浜市

1: 横浜人権侵害都市:13/12/16 16:56
年明けの2013年1月24日 分会長のU教諭と共にいる前で。NH校長の不適切且つ違法な言動について。
○文部科学省、横浜市の指導改善研修の規定によると、元来指導力不足教員に該当しないにもかかわらず私を「指導力不足教員として申請書をすでに出すことにした」と暴言を吐いた。  
療休の診断書を2月の半ばに出しますから異動対象者名簿から私の名前を取り下げてくださいとお願いすると。校長はこれを2度拒否。東部学校事務所のOさんの指示に従って校長に事前にお願いしようとしたが拒否をする。校長としては本来診断書を受理する義務がある。「異動対象者名簿から取り下げない」などと無謀で一方的な発言を繰り返した。
仮に、「指導力不足教員として認定されなくとも、私はあなたを、教育委員会預かりにしてやるつもりだ」などと暴言を繰り返したものである。これらの発言は全て裁判上の証拠となる音声記録にも保存されているもので、事実である。NH校長が私を何としても異動させてK校から追い出そうとしていた、つまりパワーハラスメントを繰り返していたことは事実である。
○以降私は、疲弊しきっていたため、精神科で受診し、適応障害との診断を下された。寝付けない日々の中、なんとか学年末までやり終えることができた。午前中2時間年休を取得したり、休んだりすることが多い中での勤務で相当大変な思いをしたが、指導力不足教員の認定審査会では、H課長から、「すぐに休む」という点を指摘された。NH校長は心配するどころか、私に不利になり得るものは、療休であろうが構わず、悪いニュアンスで「すぐに休んでしまう職員」という言い方をしていたのである。前日に断裂症で休んだり、適応障害のために精神的に疲弊して午後から病院に行ったり休んだりした職員を捕まえて「すぐに休むダメな職員」という評価をして、教育委員会育成課に書類を提出し、強制的に指導改善研修に送り込んだのである。
当該NH小学校校長は、公務員に関わる諸規則、倫理規定、職務規定に該当し、自治会長から金銭を授受し、飲み食い等に充てるなど不適切に浪費した件に関して教育委員会から指導を受けている。2013年4月1日以降、強制的に指導改善研修に行かされている。

2013年9月18日(水)下校時の児童指導に立って児童に挨拶等をしていたが、不当にも、明日からは立たなくていいと発言。職員である者にこうした制限を設けるのは合理的理由がなく、パワーハラスメントである。

2013年9月、所属校研修ということでK小学校で勤務していたが、該当する場面がなく、学校長からの具体的な指摘もない事項について、不当に評価を低くつけられた。例えば、「採点ミスが多い」「市販テストで安易な評価をする」という場面そのものがなかったにもかかわらず、評価は「時々見られる」となっているのである。該当しない事柄までも、評価されているのであり、不実記載である。18項目中7項目(全体の38%)も本来該当することがないにもかかわらず、時々あるとされたのである。パワーハラスメントである。
 11月7日(木)に、学校長によるパワハラに関する訴えを労災として申請。本日付にて学校のメール便で送付。翌週11日(月)には届いているはずである。


501: 名無しさんAA:17/09/26 20:29
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 151

 本来佐賀藩が狙っていたのは どうも砂糖だったようだ。砂糖は日本では高級品で、
庶民に売るには少量で高価だったからだ。だがフェートン号事件以降は鉄の恐ろしさを
知る。更に船便で多少の麻薬の阿片との積荷の差が無く厄介なものであり、砂糖その物
が他の藩が南洋上の奄美などからやって来て利権を持っていた上に、中国向けの麻薬は
南蛮船の得意とするもので 交易をひたすら鉄に変えた様だ。当時の日本では鉄は鉄砲
や兵器以外には釘や刀位で必要は無かった。各藩では古来より砂鉄から刀や馬具などを
生産する方法があったからだ。だが蒸気船や大砲の身近な到来は 大量の鉄文化が西洋
の主流で、船・機関車・大砲・線路と佐賀藩には大きな衝撃があったと言えるだろう。
多分この頃から 南蛮商人の入用のお茶や陶磁器に力を入れて、ひたすら欧州の技術を
学んだ様だ。博多のビードロや薩摩切子は有名だが 多分ガラス機器も佐賀が最初であ
ったろうと思われる。それは火や窯に対する情熱の高さからだ。ただガラスコップは、
陶磁器作品の商売敵である。だから禁令を出して隣の福岡や縁戚の薩摩に移ったと考え
られる。更にサトウキビは薩摩では取れるここでも薩摩とは競り合わない配慮をした。
と考えられる。薩摩には仙巌園内に残る反射炉跡がある。安政4年(1857年)、28
代薩摩藩主島津斉彬が佐賀藩に次いで反射炉を完成させた。この反射炉は縁戚の佐賀藩
に助力を求め佐賀から江川氏を派遣して出来たと言われる。この炉で鉄を大量に生産し
、大砲鋳造を始め様々な武器も製作した。つまり1862年の生麦事件の時既に佐賀藩
の指導のもとこの反射炉は完成し佐賀藩が作っていたアームストロング砲改良版が出来
ていたのだ。更には英国の技術者さえも接触していた可能性すらある。そうした中でも
英国は10万ポンド(40万ドル)の賠償金を要求し先の通訳官斬殺事件1万ドル合計
11万ドルもの大金を小笠原長行の独断とは言え 幕府からせしめていた上に薩摩への
襲来を図ったのである。11万ドルの受け渡しにイギリス公使館内では、中国人の貨幣
検定人を方々から借り集め、貨幣の検定と勘定を進め、全部やり終えるのに3日間かか
ったという。皮肉なことにイギリス側に賠償金を支払った日の翌日、5月10日は幕府
が攘夷実行期限として、朝廷に約束した日付であった。この事から 英国側は既に尊王
攘夷で公武合体の機運があり日本が内乱を起こすと予想をしていたと考えられ、それが
無くなってまずは南の辺地から内乱を起こすきっかけを模索していたとも見て取れる。

502: 名無しさんAA:17/09/26 20:29
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 152

 1860年当時アメリカ公使館の通訳官・ヒュースケンが斬殺された事件での賠償金
が1万ドルであり、同じ様に薩摩藩がヨーロッパから購入した最新鋭の蒸気船が一隻、
約10万ドルである事から、恵まれた藩が奮発して買う軍艦が、4隻も買えると言う莫
大な金額であったと言える。つまりそれだけ吹っ掛けた金額だった。それだけに40万
ドルという金額は幕府が今まで支払った賠償金額をはるかに超える途方もない金額であ
ったと言える。だがこのイギリスの目的が賠償金である筈がない。一般的に戦争するに
も出費というものがある。出費しても欲しいとしたのは日本そのものだったと言える。
イギリスの戦争目的が、薩摩のイギリス人無礼討ちに難癖をつけて日本侵略の足掛かり
を築く事であったのだろう。更にこの戦艦を錦江湾に集結させた理由はかつてのアヘン
戦争で香港やマカオを足掛かりに中国大陸を窃取したやり方と全く同じで、中国のジャ
ンク船の戦艦を平らげた様に日本もやれると思っていたと思われる。ところが錦江湾に
は、旗艦では無かったものの蒸気船が3隻停留していたのだ。緊迫したムードが錦江湾
を覆う中、英国艦隊は、宣戦布告もないままに停泊していた薩摩の船、天佑丸(英製)
、青鷹丸(独製)、白鳳丸(米製)の3隻を拿捕した。多分にこの戦艦が無ければ無力
と思えたのであろう。ここで英語の通じる寺島宗則と五代友厚の2名は、乗組員を安全
に下船させることを条件に人質となった。彼らは旗艦を爆破し、英国の提督と差し違え
る覚悟で日本側の乗組員が全て下船すると 2層式片側16門の旗艦は直ぐに撃破され
た。このような形で開戦し、始めのうちは薩摩の海岸沿いの大砲が威力を発揮した。が
、英国艦隊が大砲の射程外に出ると、艦砲により磯の工業地帯を壊滅させました。前の
藩主の斉彬の頃までの薩摩の大砲は外国製で射程距離が長かったが、和製大砲には螺旋
を切る技術がまだ無く、射程が短くなっていたのであった。更には薩摩藩側は物的被害
が大きく出た、鹿児島城内の櫓、門等損壊、集成館、鋳銭局、民家350余戸、藩士屋
敷160余戸、藩汽船3隻、民間船5隻が焼失したのである。だが英軍側の方も戦死者
、負傷者を多く出し、旗艦は大破。旗艦艦長も死亡している。現在の鹿児島市街の一割
は完全に焼き払われ、イギリス艦隊も旗艦艦長と副長が戦死するなど、多大な犠牲を払
う中で英国艦隊が離れて行った事でこの戦争は終わった。こうして英国のその目論見は
、薩摩が屈服しなかった事によって失敗に終わったと言える。


503: 名無しさんAA:17/09/26 20:30
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 153
 薩英戦争の時には 既に台風が近づいていた。また、英国艦隊も旗艦の艦長以外は、
初めからから戦争をするつもりではなかった中で招集されていた。資材も食料もそれほ
ど積んでいなかったのだ。この後英国軍は神戸に向かい人質を解放した。航海の途中で
人質にした寺島と五代に「上陸して戦闘した場合に、勝ち目があるか」を尋ねたところ
、薩摩人の勇敢さについてとくと語られ、横浜に帰ることになったと記録される。拿捕
した3隻の薩摩の戦艦は足手まといになり、途中沈めてたと言う。英国艦隊が横浜に着
いたときに、人質となっていた寺島と五代は釈放されました。しかし、二人はこの時、
英国と内通者とみなされ、幕府と薩摩の両方から指名手配される。つまり、スパイ容疑
をかけられたのです。寺島は武蔵の羽生村に五代は長崎のグラバーのところに落ち延び
た。これは横浜から何処にも行けない状態だったのだろう。多分人質になった時既に我
が身の命は無い物と思っての行動がそこにはあったのだろう。しかし、薩摩内において
二人に同情的な意見が多く、しばらくして二人は免罪された。この時、五代は藩あてに
注進書を書きます。英国と薩摩の国力の差は計り知れない、そしてそれを見習うために
留学生を派遣すべきである、と。そして、この計画は実現し、19名の留学生を幕府に
秘密で英国に派遣する事になる。又再度の講和が持ちあがった時、薩摩藩内には英国と
引き続き交戦すべきだという意見も多々あった。が結局船はなく、磯の工業地帯を壊滅
させられ被害の復旧の資金などの事態を考えれば英国と講和する事の方が得だった。こ
うして生麦事件の犯人捜査に全力を尽くすことと、賠償金を支払うことを約束しました
。賠償金は幕府が立て替えたのですが、数年後に明治維新になり、薩摩は幕府にはこの
お金を返さずじまいで終わっている。薩摩藩は攻撃を開始する前に既に避難を命じてい
た為人的被害は少なく、又斉彬公が他藩に比べ近代武装化ができていた事でイギリスは
阿片戦争の様に脅せば落ちると思っていた様には行かず、又弱腰の幕府から賠償金を得
られていたために面目は取りあえず図れていた事が、西洋を相手にしようとした大層な
この戦争に決着をつけたといえる。結果として、薩摩藩側が賠償金を支払い和解となっ
たため、負けた形の薩英戦争ですが、世界最強と言われたイギリス海軍が事実上敗けて
戦いをあきらめ、途中撤退したという事に西洋は驚いた。ニューヨーク・タイムズ紙は
「この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということだ。
彼らは勇敢であり西欧式の武器や戦術にも予想外に長けていて、降伏させるのは難しい
。英国は増援を送ったにもかかわらず、日本軍の勇猛さをくじくことはできなかった」
とし、さらに、「西欧が戦争によって日本に汚い条約に従わせようとするのはうまくい
かないだろう」とも評した。

504: 名無しさんAA:17/09/26 20:30
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 154

 イギリス本国では、「薩摩は九州島の西南の端」との情報程度しかなく、居城の砲撃
か、又は港の封鎖かを提督らの判断に任せるとの指示を出していた。当時はまだ山川湊
の海図しかなく、鹿児島湾内の水深を測りながらの航行であった。測量専門技師をわざ
わざ上海から呼び寄せ、さらに薩摩に来たことのある日本人水先案内人を横浜で雇いま
した。案内人から、谷山沖に「七ツ島」があると聞き、そのどこかの島に7隻の軍艦が
停泊できると思っていましたが、七つの小さな岩が海中から突き出ているだけだったこ
とに驚いています。「沖小島」を「ニール島」、桜島の小池海岸周辺を「ユーリアラス
湾」、鹿児島湾の「神瀬」を測量技師パーカーの名から「パーカー瀬」と名付けていま
す。すぐ様、戦争の結果はイギリス本国に報告された。ビクトリア女王は交戦になるの
ではないかと懸念していたことを話し それが現実となって英国議会の開会挨拶の中で
は、鹿児島市民に多大な被害を与えたことに対し遺憾の意を表明した。イギリス国内に
おいては、この英国艦隊の行動を批難した住民の抗議集会など大きな反動があり、各地
で批難の決議や書簡が政府や報道機関に寄せられている。交戦時に砲台を壊滅する必要
はあっても、市街地を焼き払い、一般市民に多大な被害を与える行為は許せないとの声
が多く、市民からは人道的な立場からの深い同情の念が示されたものでした。イギリス
艦隊が、再び鹿児島砲撃に向かわなかったのは、こうしたイギリス本国の事情があった
からだといえる。だが日本では幕府の中に大事件が多数起こっていて、斉彬公の逃げ得
は当然であった。既に孝明天皇の強い要望により将軍徳川家茂が、文久3年5月10日
(1863年6月25日)をもって 攘夷実行するとの約束をしていて その期限が近々だった
のだ。又こうした動きは既に西洋諸国の公使館員は殆ど知っていて、清国と同じに今度
は英国だけに交易権利を渡さないと虎視眈々と狙っていたし、各藩も多小はあっても、
自藩の領地を守るための武器は取り寄せていた為、逆にこの居留している貿易商の危惧
があった。先のアヘン戦争後の清国の様に混乱に命の安全が脅かされる事だ。だか公使
は戦争による経済の拡大に動いていたのである。今の経営者と社員の関係の初期状態だ
。この攘夷が幕府は外国船打ち払いの軍事行動と海外からの独立とはおもっていないか
った。が裏で糸を引いていた長州藩は、馬関海峡の閉鎖と通過する外国船への砲撃可能
を意味していた。従って、馬関戦争とされるこの戦争は通過する外国船の打ち払いから
始まる。

505: 名無しさんAA:17/09/26 20:30
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 155

対して、英国駐日公使ラザフォード・オールコックは下関海峡封鎖を強く問題視した、
更に この横浜の停滞と長州藩の攘夷を継続で幕府に鎖国政策を提言し、今後の開港の
封鎖を恐れ、この危機を他国との共同作戦に持って行った。「長州のとった条約国船舶
に対する下関海峡の砲撃封鎖は明白な条約違反で、海峡の自由航行が守られねばならな
い。」と呼びかけて、日本に来ていた敵対している4国に共同制圧を呼び掛けたのだ。
 これには伏線がある。歴史的には、1864年の戦闘を馬関戦争(ばかんせんそう)
と呼び、1863年の戦闘はその「原因となった事件」として扱われることが多いが、
それには理由がある。当時ペリー提督のアメリカ艦隊が浦賀沖に来航し強い圧力で幕府
に開国を迫ったのが1853年だが、次の年のペリー来航で幕府は日米和親条約を締結
した。ところが現実的にはロシアからの船も当初長崎に来航し更に弘前藩などに来ては
直ぐに捕縛されて囚牢にされている。今だ国民の声は「外国船打ち払い令」のままだっ
たのだ。既にロシア帝国のニコライ・レザノフをはじめ、外国船が日本に通商を求めて
来航するようになっていたのだ。寛政4年(1792年)9月にエカテリーナ号で北の
オホーツクを出発し、漂流民と共に根室に到着した。根室に駐在していた藩士は直ちに
松前藩に報告し藩は幕府に伺った。幕府にラクスマンの、江戸に船で出向いての、漂流
民を引き渡し、通商交渉をおこなう意思が強いことを知らされたのだ。が老中松平定信
は、漂流民は受け取るが、総督ピールの信書は受理せず、もしどうしても通商を望むな
らば長崎に廻航させる。と言う回答をした。ラクスマンは、長崎への入港許可証(信牌
)が交付された。ところが濃霧などで根室で足止めを喰らい、松前藩で越冬し帰国して
代わって文化元年1804年、改めて信牌を持参したレザノフが長崎に来航し交渉に出
た。半年間にわたって停留し江戸幕府に交渉を求めたが、結局幕府は通商を拒絶し続け
たままで、レザノフは幽閉に近い状態を余儀なくされ、交渉そのものも全く進展しなか
った。そこで「日本に対しては武力をもって開国を要求する以外に道はない」という意
見を持つに至り日本への報復を計画し、樺太や択捉島など北方における日本側の拠点を
部下に攻撃させた。これを受けて津軽藩、南部藩、庄内藩、久保田藩(秋田藩)から約
三千名の武士が徴集され、宗谷や斜里など蝦夷地の要所の警護に当たった。これにより
方々で襲撃事件が北方の樺太や紗那の幕府会所利尻島など二年間続いた。これらの軍事
行動はロシア皇帝の許可を得ておらず、不快感を示したロシア皇帝は、1808年全軍
に撤退を命令をだした。これに伴い、蝦夷地の諸藩の警護藩士も撤収を開始し終息した
。これらの事は既に北方ではペリー来航や薩英戦争の様な事件は起こっていたのである。

506: 名無しさんAA:17/09/26 20:31
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 156

 こうして 多くの知らない国の入港の長崎奉行の申し出に徳川家斉時代に、幕府方は
文化3年(1806年)に「文化の薪水給与令」を出し、諸外国との穏便な出入国させ
る方向性を打出す事になっていた。ところが、この幕府の対応の遅さに対したロシアの
軍船の方針によって日本は大きく変化した。この同じ年に起こった襲撃事件(文化露寇
)を受けて翌年にはロシア船打払令が出され、わずか1年で撤回された形になったのだ
。更に文政8年(1825年)には、反動的な異国船打払令が打ち出されるものの、今
度は非武装のアメリカの商船 「モリソン号 」がマカオで保護されていた日本人漂流民
の音吉・庄蔵・寿三郎ら7人を乗せて、日本人漂流民の送還と通商・布教のために来航
した。モリソン号は鹿児島湾、浦賀沖に現れたが 接岸出来ず、薩摩藩と浦賀奉行太田
資統は異国船打払令に基づき砲撃を行ったのである。一年後モリソン号はこの日本人漂
流民の送還と通商・布教のために来航していた事が判明し、異国船打払令に対する批判
が大きく強まった。こうして開国にも鎖国の上の攻撃にも転じる幕府の姿勢は、各国の
批判ではあっても多くの国で起こる事で、この英国公使は解っていたのである。更には
、先の安政5年1858年の、アメリカの強い威嚇により、幕府は日米通商修好条約を
締結した事も理解し、その後のオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約
を結んで幕府の鎖国体制は完全に崩れていた事も知っていたのだ。そしてそれが公式な
ものであっても 現実の日本の国王たる人間は天皇であり、今孝明天皇が 和親条約は
ともかく通商条約には反対であり、安政条約に対する勅許を与えなかった事も、十分に
に知っていたと言える。又、幕府に不満を持つ攘夷派尊皇思想から 朝廷の攘夷派公卿
たちと結び付き方針転覆の可能性すら知っていたかも知れない。何故なら今の長州から
の砲撃の通行禁止策を諸外国で話し合う中でも話された筈だからだ。情報をかき集めて
分析し、こうして研究尽くされた中で、先の薩英戦争も大きく分析されて本国から批判
されない様に 民間に影響のない形の戦争を行っている。更に議会対応に英国のみでな
く他の4ヶ国にも戦争の賛同を呼びかけ合同艦隊にした、したたかさである。こうして
国内通行の禁止を求めた1863年の砲撃事件を下関事件、1864年の4ヵ国艦隊が
国内に反撃出た戦争活動を、四国下関砲撃事件と呼んで区別している。こうして両者を
併せた総称として「下関戦争」が起こっていた。が当然オールコックは本国にも下関を
攻撃する旨の書簡を送っている。がこれも当時に 返書にも2ヶ月はかかるものだった
事を熟知しての行動だろう。

507: 名無しさんAA:17/09/26 20:32
 英国本国は依然として日本との全面戦争につながりかねない武力行使には否定的であ
ってこれを否認する旨の訓示を日本へ送っている。が 現実にはそれは事後策を練る為
の時間稼ぎの様なもので、当時の公使はオールコックの「攘夷不可能を思い知らすため
(文明国)の武力を示す必要を感じて長州藩へ懲罰攻撃する。」などの決意には、何ら
影響のないものであった。現地公使の裁量で戦争が進められる国は既に多くあった。
「兵庫の開港、大阪の開市も近々行われる約束だから、全条約国にとっては この海峡
と内海の封鎖は明らかな条約違反だ。」という勝手な論理で「条約国海軍が長州による
下関海峡封鎖を軍事力で開放して見せれば、日本が例え横浜を鎖港しても先進条約国の
軍事力でたちまち開放するぞという、一大デモンストレーションになる。」と言う指摘
をし、「これはまた、更なる貿易関税の引き下げや、今横浜での供給が激減した生糸等
の供給増加へ向けた日本側の規制撤廃をさせる圧力にもなる。」とエサをちらつかせて
軍事力による制裁の賛同を呼びかけた。各国は戦争には同意しないものの、取り合えあ
ず威嚇の為に4ヶ国はこのコックの行う軍事作戦に、共同で乗る事にはした。アメリカ
は母国で南北戦争が起こって軍船はなく、仏英蘭はお互い敵対していた国だった。この
時幸いにも 大きく日本に反感を持っていた露国が 今だ貿易に大きな実績がなかった
為に、横浜の公使館には入ってなかった と思われる。これには先に出された「ロシア
船打払令。」の影響があったのかもしれない。この頃には既にグラバーの好意的手配で
イギリス留学生を送り出ししていた。英国の長州藩士の伊藤と井上は 四国連合による
下関攻撃が近いことを知り、戦争を止めるべく急ぎ帰国の途についた。三ヶ月もかけて
やっと横浜に到着し、すぐさまオールコックに面会の上「藩主を説得すること」を約束
し離れた。中止を承知させた。オールコックは通訳のアーネスト・サトウを伴わせて、
豊後国姫島まで送り、長州へ帰させた。二人は藩庁に入り藩主毛利敬親と藩首脳部に、
「イギリスの国力と機械技術は日本より遙かに優れている事」や「戦争をしても絶対に
勝てない事。」などで止戦論を説いただろうが、長州藩では強硬論が中心であり、徒労
に終わった。又幕府内でも フランスから外交使節団が帰国していて、フランスと取り
交わしたパリ約定を提示していたが拒否されていた。それには「関門海峡の通行可能に
する条項」も含んでいて、苦労して談判を交わした横浜鎖港談判使節団だった。が名前
と違って中身は開港使節団になった様な そんな約定の内容を提出していたからだ。当
然不満として批准は行なわれかった。結果、攻撃は予定通り実施されることとなった、
こうしてイギリス軍のオールコック中将を総司令官とする四国連合艦隊は横浜を出港し

508: 名無しさんAA:17/09/26 20:32
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 158

 艦隊は17隻で、イギリス軍艦9隻、フランス軍艦3隻、オランダ軍艦4隻、アメリ
カなどは仮装軍艦1隻で戦列に立って、総員約5千名の兵力が船出した。それでも横浜
にはイギリス軍艦1隻、アメリカ軍艦1隻と香港からの陸軍分遣隊1350人が待機し
て戦乱に備えていたのである。この時既に先に述べた人種差別的「黄禍論」の思想がそ
こにあった事は間違いない。この「下関事件」「薩英戦争」ロシアの襲撃による「幽因
事件」の3事件は、恐らく日本を決定づけ更にこの欧米不審感は大津事件の素だろう。
 8月4日になって、四国連合艦隊の来襲が近いことを知った藩庁は、ようやく海峡の
通航を保障する止戦方針を決めて、伊藤を漁船に乗せて交渉のため艦隊に向かわせた。
が、艦隊は既に戦闘態勢に入っており既に手遅れであったし、幕府も、長州が勝つ見込
みも賠償金を支払う能力もない事で、これで更なる出費が嵩む事が危惧されたが遅かっ
た。戦闘で惨敗を喫した長州藩は入牢していたに高杉晋作を偽名を使い、講和使節の使
者として立てた。通訳のアーネスト・サトウがこれに立ち会った。こうして下関海峡の
外国船の通航の自由、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し、悪天候時の船員
の下関上陸の許可、下関砲台の撤去、賠償金300万ドルの支払いなど5条件を受け入
れて講和が成立した。この談判に高杉は全て飲んだと言う。ただ彦島の租借だけは断固
拒否し、香港のような外国領土になるのを防いだという逸話が残っている。後で賠償金
については長州藩ではなく幕府に請求することになったのは幕府にしか金が無かった為
だが、幕府の朝廷との約束で諸藩通達に従ったまでという名目で長州藩も又返さなかっ
た。この後幕府は150万ドルを支払い、明治維新後に新政府が残額を明治7年までに
分割で支払った。と言う。こうした過去の事件を追っていると 現代の北朝鮮がいまに
ある理由になっている。不思議なのは日本の徳川幕府が先に払った30万ドルあるいは
300万ドルと言う通貨を交換して払えた事だ。又その後の満鉄建設でも北朝鮮近郊の
朝鮮建設にもほんの僅かな年で 長年で築いた香港銀行の資産を超えた朝鮮銀行を発足
させて 恐慌や通貨危機も切り抜いた事だ。欧米列強の搾取型の植民地主義を取らなか
った為とか諸外国の様な暴力的革命で明治政府が興きなかった為とか色々あろうが、基
本には 独立独歩を慈しむ風土がこうした力であったと思える。こうした威圧による、
(1)軍事的対応 (2)追加制裁による圧力強化 (3)現状の受け入れ の姿は今の北朝鮮
対応にそっくりなのだが、これこそが我々が最も考えるべき事かも知れない。


509: 名無しさんAA:17/09/26 20:33
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 159

 明治政府が出来た頃ドイツの進出が始まるのである。ドイツ帝国はしばしばプロイセ
ンと呼ばれる。古プルーセン人が語源であると言う。ロシアがしばしばプロシアと呼ば
れスラブ系民族の地域名称の特徴と言われる。プルーセン人はしばしば襲われ事は多く
プルセン十字軍を結成し戦い守ったとされる。だが1100年頃ゲルマン民族ドイツ騎
士団により征服され、ドイツ騎士団国家と代わりこの地に混乱が産まれた。凡スラブ主
義はそうした多民族国家多様主義に反対しスラブ民族の考えで統一した大社会を作ると
言う言葉でチェコソロバキアなどが対立したのでハプスブルク君主国のハンガリー側で
盛んにした言葉としている。従ってナチスはその逆の凡ゲルマン主義を唱えた事になる
。1890年代のヴィルヘルム2世はこのドイツとオーストリア(=ハンガリー帝国)
という二つの民族のドイツ人国家を統合し、さらに中世以来のドイツ人の東方植民によ
って東ヨーロッパからバルカン方面に広がったドイツ人の居住地域もドイツ国家に併合
しようと主張した。これが世界政策の展開の背景となった思想である。が近くのスラヴ
系諸国、その背後にあるロシアのパン=スラヴ主義と厳しく対立しするようになる。こ
こにロシアの南下政策の素がある。ハクスブルク家は神聖ローマ帝国の一領主だったが
古代バビロン帝国モンゴル帝国オスマン帝国などとの交渉や政治に於いて卓越した才能
があったのだろう。強大な縁戚を持って支配していた。後にフランスとなるフランク王
国はその為に領土を変えて存在して来た。ハクスブルク家の皇位継承者フェルディナン
ト大公夫妻がボスニアの州都サラエヴォでセルビア人青年に暗殺される事件が起こった
。通称サラエヴォ事件だが凡ゲルマン主義を掲げたドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はこの
スローガンを掲げバルカン地方へ進出しようと大公の金魚の糞の様につきまとっていた
。こうして緩衝材としてのフェルディナント大公が死んだ時第一次大戦の火がついた。
汎スラヴ主義と対立し、南下政策を続けるロシアとの軋轢を招いた。後にバルカン半島
をヨーロッパの火薬庫と呼ばれるまでに民族の対立を激しくした要因の1つである。こ
の結果、列強間による帝国主義化、軍備拡大は避けられず、第一次世界大戦を引き起こ
すこととなった。これは、ドイツ統一を牽引し、周辺諸国との勢力均衡を望んでいた帝
国宰相ビスマルクの理念からはかけ離れたものとなった。

510: 名無しさんAA:17/09/26 20:33
 ヴィルヘルム2世の治世は恐らく間違ってはいなかったのだろう地政学的には。だが
彼が求めた国内統一や意志の統一が国外への拡大戦争と少数民族排除にその集結を求め
た事はナチスドイツの手口と全く同じであった事から 全く間違った観念の元に政策を
進めた事は確かであろう。この何処の国の指導者も陥るだろう手法は、人間の欲求なの
だろうか。それともこの地域特有の伝承や風習であるのか。と言うのも、ドイツの正式
名称ドイツ連邦共和国と言う様に、かつては多くの君主国が存在していて、それの集ま
りでもあったからだ。それを無理をしてでも「大きく」「強く」「広く」まとめる為に
強者強国が併合しながら国家連合を作ってきた歴史がある。古くは「神聖ローマ帝国」
として纏まっていたが、しかし、神聖ローマ帝国はフランス皇帝ナポレオン一世によっ
て蹴散らされ、今度はフランスを盟主とする「ライン同盟」という国家連合で纏まりま
った。この時阿蘭陀やプロセインなどが、イスパニアや英国など海運争いで、仲違いし
たのだ。しかしながら、フランス皇帝のナポレオン一世が失脚すると、枢軸となる強国
がなくなりライン同盟は解体されてしまう。そこで新しく作られたのが国家連合体が「
ドイツ連邦」をつくった。「ドイツ連邦」は、1815年「ウィーン会議」なる調整の
会議が発足しEUみたいに統合して大国オーストリア帝国を盟主として作られた組織と
なったのだがこれがドイツの国家連合の素だ。だが混沌としていた過去の旧神聖ローマ
帝国末裔達と対抗する諸侯国群と新しい自由都市群によって構成されていて、そこには
元々は主権国家同士の連合体なので、民族や宗教や考え方や言語の違いが存在していた
。従ってこの連合体は「ドイツ同盟」と呼ばれる事もしばしばあったのだ。ドイツ連邦
の構成国群は、中心に帝国としての兵力の勝るオーストリア帝国があったのだが、他に
7王国 (プロイセン王国 ザクセン王国 バイエルン王国 ハノーファー王国 ヴュル
テンベルク王国 ヘッセン=カッセル選帝侯国)17公国(バーデン大公国 ヘッセン
=ダルムシュタット大公国 ルクセンブルク大公国 メクレンブルク=シュヴェリン大
公国 メクレンブルク=シュトレーリッツ大公国 ザクセン=ヴァイマル大公国 オル
デンブルク大公国 シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国 ブラウンシュヴァイク公
国 ナッサウ公国 ザクセン=ゴータ公国 ザクセン=コーブルク公国 ザクセン=マ
イニンゲン公国 ザクセン=ヒルトブルクハウゼン公国 アンハルト=デッサウ公国
アンハルト=ベルンブルク公国 アンハルト=ケーテン公国 )そして4都市 (リュー
ベック フランクフルト・アム・マイン ブレーメン ハンブルク の集まりだった。


511: 名無しさんAA:17/09/26 20:34
こうして「ドイツ連邦」として纏まったが、ドイツ連邦の盟主であるオーストリア帝国
とプロイセン王国がドイツ統一の在り方を巡って対立し、1866年�メ戦争が勃発。
この戦争でオーストリア帝国は戦略に勝るプロイセン王国に敗北した。勝利したプロイ
セン王国がこの後のドイツ統一の主導権を握りった。オーストリア帝国が盟主であった
「ドイツ連邦」はすぐさま解体され、更に翌年には新たなプロイセン王国を中心とした
国家連合「北ドイツ連邦」が作られ、これが今のの「ドイツ帝国」の母体となったので
ある。 だがこの時の戦いの遺恨は国民には長く残った。こうした国内事情を抱えてい
た為に、他の諸国が海に出て大航海時代を行く事に遅れを取り、民主化は国王が存在し
て渋り、残るは産業革命を追い求めての、経済立て直しの道しか残っていなかった。が
逆にこの人種の坩堝的国家の隣が、感覚の自由さも求めるフランスで海を渡ればイギリ
スと言う最新技術をもった産業が傍にあると言う地理的要因があった。この国の厳格な
法を求め数値科学の持つ理論や金融資本の持つ多民族の中の風土は、実験的投資を産ん
で大国家となり得たのである。ところがこの国は常にこうした諍いで起こる体制からの
疎外者が出来て集団化していた。ロマの人々ユダヤの人々ボヘミアンの人々その他の多
くの移民や浮浪者の整理が必要だった。厄介な事にイタリアから来た職人集団会議のマ
エストロを産んだギルドさえ、それぞれの職ごとに或いは言語や宗教ごとに二百〜三百
の集団や組合の形で存在していた。徒弟制度と称される厳格な身分制度が存在し、その
頂点に立つ親方は職人・徒弟を指導して労働に従事させた。ギルドに参加できるものは
親方資格をもつものに限られてはいたものの その職によっては地下組織に近かった集
団さえ存在した。だがその仕組みが逆に移民を受け入れ 浮浪者さえ職につかせ 国を
豊かにする仕組みでもあったのだ。そして今のEU内は、多かれ少なかれ そうした多
民族の存在と、うんざりする様な多様化社会を大戦後に受け入れ 今やっと会社組織や
銀行組織や人権を含めた法治国家として固める中になったのが実情だった。このドイツ
統一の主導権を握ったヴィルヘルム2世の統治はしかし 排斥主義を持ち込み人種差別
の意志を強く出し「黄禍」という死にかけの言葉を復活させ「黄禍思想」を努力してま
でも拡大させたのである。これは世界の不幸であった。その姿はそのままアメリカ大陸
に流れ込んだ。イギリスの中の新しい平等社会の楽天地を求めた清教徒が移り住むのに
このドイツは金融や科学技術と共にそれを後押しする事で国を潤したがその思想もまた
持ち込んだからだ。かつてナポレオン時代に、大航海時代の先駆けとしていたスペイン
が英仏海戦で負けに敗けて 大西洋航海もままならぬ事になったが、その事は東洋社会
では恒久的搾取を意味しかなりの不幸な事だったとも言えよう。それがオランダやロシ
アの国家感を変え航海を変えた。

512: 名無しさんAA:17/09/26 20:34
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 162

それまでは公募の様な航海でその都度資金を募り人を集め航海し、国王と共に持ちよっ
た財宝を分け前としていた。そうしたスペインポルトガルにイギリスオランダは常駐の
事務所と株式投資と言うパトロンを見つけ運輸とした輸送体系を整えたのだ。そして、
それには奴隷時代の世相と相成って、契約した投資で運用する保険や銀行機構がついて
来た。当然パトロンにも掛け金や投資損失に「子や孫の時代でも債権は返済する。勿論
国家であっても。」と言う非情さでの投資の取り立てが運用されたのである。がそれは
資源枯渇に拍車をかけ 投資理財の拡大を強制した。つまり利益や搾取の拡大を意味し
ている。世界が不幸に見舞われる事は、更にその発展の遅い東南アジアの不幸になった
。大英艦隊や阿蘭陀に敗けてスペインが次に目を付けたのが太平洋航海であった。これ
はフィリピンにとっては不幸な事だった。マニラガレオンは、そうしたスペイン貿易船
の呼称だが「インドの富をスペインに運ぶ」、「東に行くために西進する」という、欧
州のコロンブスの夢を現実にした象徴貿易の事で「ガレオン貿易」「アカプルコ貿易」
と人は言った。この不幸はフィリピンの永遠戦いを物語る言葉でもある。メキシコ独立
戦争とナポレオン戦争の終焉を持って終わるかに見えたが新たな第一次世界大戦の序章
であり取って変わった米国ドイツがその利権を受け継いだ。フィリピン人にとって不幸
続きでもあった。エミリオ・アギナルド・イ・ファミイが革命家として独立運動に走る
のはそうした中に既に独立革命を課題にした秘密結社「カティプナン」の集団が存在し
ていたからだった。多数の民族がそれぞれに独立して存在していたこの国がスペインが
やって来て植民地とすると 当局による重税と重労働で虐げられた国に変わりその支配
が終わっても領主が代わるだけだった。欧米列強の火力の前に手がなかったからだ。そ
の意味では近年までも戦い続けて、ついに独立を果たした「ベトナム」は最強の戦士達
の国とも言える。こうして遅れてやって来たドイツやアメリカがやった事は、英国とフ
ランスの搾取より酷い恫喝外交と実力行使であった。フランスには 少なくとも人権と
騎士道を持って現地に降り立った。又英国に於いては法の順守と紳士の習慣を与えた。
がドイツはヒットラー時代を築いたように差別と偏見の統制があり、日本はいきがかり
の国家観で仕方なしなし崩しに大戦に突入した。だが、米国とソ連は違っていた。大国
の論理であり物量や消費など 巨大圧力による国家戦略としての思想での制圧であった
からだ。これが今の中国と北朝鮮に伝播して間違えた進歩に踏み出している事は間違い
ない。


513: 名無しさんAA:17/09/28 19:58 ID:keA
 ナポレオン時代に 大航海時代の先駆けだったガレオン船も、英仏海戦で負けに敗け
て大西洋航海さえもままならぬ事になった。目を付けたのが太平洋航海であった。が、
母国往復に2年近くかかるマニラガレオンでは、スペインの貿易船では如何にも効率な
ままだったと言える。「インドの富をスペインに」、「東に行くために西進する」とい
うコロンブスの発想は夢を現実のものになった。実際はこの交易も船員の食事などや利
益の少ないない分け前に苦労していたという。南北戦争メキシコ独立戦争と起こったの
は当然ながらこの遠い僻地から運んで来る富より 近くの中南米や米国の原住民からの
強奪や搾取が楽であり歴史的には必然だったのだろう。初代大統領エミリオ・アギナル
ド・イ・ファミイが革命家の道に走った生き方をしたのは 既にそこに独立革命に走り
国際旅団が力を貸して武器を供給する集団として存在していたからだ。フィリピン諸島
は欧米列強が来島して来て以来、貿易風で走るスペイン航路に一番早く 他の国に先駆
けて東南アジア諸国の中では早々と植民地化された場所だった。だから武力によるこの
共産革命を世界に打ち出し世界革命にしようと言う機運はロシア革命以前に此処から始
まったが、そうした意識が既にこの地にあったのは興味深い話だ。それはフィリピン先
住民達が既に村々を形成して生計を立てていたのであり 更に交易のガレー船がイスラ
ム教を持ち込んできていた事で成立していた。スペインの植民地として当局による重税
と重労働で虐げられ始めた時、イスラムからの支援の手があったのだ。十字軍で戦った
戦士によって。1892年アンドレス・ボニファシオらが立ち上がり秘密結社「カティ
プナン」を創って以来 ずっーと休む事無く1世紀に渡り闘い続けているのは、中東や
アフガニスタンなどの長い戦争でソ連すら苦戦する徹底抗戦を行う姿と同じであろう。
明治になってからは、アメリカがこの独立支援を約束した。こうしてやっとスペイン軍
を追撃し、総督を含めての植民地政府の撃破が出来た時、現地の彼らは大いに喜んだ。
だがそのフィリッピン革命軍へのてこ入れは、只の米軍のふりに過ぎず、最後の追撃は
華持たせに過ぎなかったのだった。こうして見せかけの建国にウィリアム・マッキンリ
ーは「フィリピン群諸島は合衆国の自由なる旗のもとに置かれなければならない。」と
するとんでもない声明を発した。フィリピンが独立し建国より米国下の自治運営が良い
。と言い代わったのだ。ジュリアン・フェリペはわざわざ「ラ・マルセイエーズ」を念
頭に「フィリピン行進曲」を作曲までして祝い、解放宣言に際しての喜びを新たにフィ
リピンの国旗と共にフィリピンの国歌を作って待ち望んだ独立が この米国の包囲網の
中のスペイン排除は、裏では既にフィリピン購入をした米国の植民地としての6月12
日をフィリピンの独立としての記念日の行事でしかなかった。これまで必死になって、
大量の死者まで出して先人の戦い追撃した答えが独立とは程遠いものだったのである。

514: 名無しさんAA:17/09/28 20:03
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 164
 こうしてフィリピン第一共和国の樹立を宣言し、議会投票によりにエミリオ・アギナ
ルドは初代大統領に就任した。これを以ってアギナルドは1898年代表として日本に
マリアン・ポンセを派遣し、アメリカ合衆国にはフェリペ・アゴンシリョを革命政府の
代表として派遣した。当時のウィリアム大統領と会談出来たものの、海軍から情報を得
ていた米国は全く色よい返事はなかった。それどころかアメリカ軍はアーサー・マッカ
ーサー2世軍政長官を頂点に 米国の南北戦争において虐殺に手を染めたと問題にされ
る者達や狂人とされる将軍を次々と軍事顧問として送り込んだのである。裏では密かに
アメリカが中南米諸国の統治権とフィリピンの統治権を交換する。と言う裏取引が行わ
れスペインと手を結んでいたのである。こうして、パリ条約を結んだ時スペインからの
アメリカに譲渡されて来る時 アメリカはこの譲渡に戦勝国でありながらも、アメリカ
合衆国は2千万ドルを払わさせられる事で合意を飲んでいた。そして米政府はその理由
をフィリピンを購入した事の代償と嘘をついたのだ。そこにはフィリピン経営で今後の
支払いの利益は出るだろうと言うしたたかな計算があったが、実はアメリカの裏庭での
スペイン支援のキューバ国家を 絶対認めさせたくない為の戦争賠償金だった事を隠し
す為だった。従ってカリブ海および太平洋の スペインの旧植民地に対する管理権を、
アメリカが獲得する為パリ条約を話し合いながら、現地政府には国家を認め植民地経営
の安定を求めながら、片方で国民や議会にの説明には、矛盾を叩かれ糾弾が無い様に 
自治国家でなく米国の中の自治領であるから 安い買い物である。といい訳した取引を
行っていたのである。こうした二枚舌外交は当時米英では盛んではあった。日本政府で
は今後の欧米との関係悪化を恐れて、日本政府としての否定した反対も公式な賛意も、
出せない苛立ちの中にあった。そうした中に代表団は派遣されて日本に滞在した。ポン
セは独立承認を求めて回った。賛意を持つ 大隈重信、山縣有朋、犬養毅ら政府要人と
親交を結び川上操六参謀総長と犬養毅の支持によって平山周、宮崎滔天、中村弥六らが
中心になり、日本陸軍が日清戦争で使い古した旧式のモーゼル銃と弾薬を譲り受ける事
に成功した。だがドイツ系ユダヤ人商人ワインベルゲルを通じて布引丸でフィリピンに
届ける用意をすると、すぐさまその話が漏れたのか 布引丸はあえなく渡航時に沈没し
てしまいフィリピン革命政府への 自衛の為の兵器引き渡しは出来ずに終わったのであ
る。こうしてすぐさま フィリッピン統治において、大統領でありながらアギナルドは
拘留監禁され 率いていた独立政府要人や独立軍2万人は一斉掃討をされ始めたのだ。
結果この対米戦争で69万人のフィリピン人がアメリカ軍により殺された。こうして、
この島の島民は又遥かに高い独立の壁に人命を賭して登る事になったのである。

515: 名無しさんAA:17/09/28 20:45
165


516: 名無しさんAA:17/09/28 20:46
アシュケナジムとセファルディムは、今日のユダヤ社会の二大勢力である。「アシュケ
ナージ」は、ヘブライ語でドイツを意味する言葉とされる。イスラエルでは一般に、前
者が白系ユダヤ人、後者のセファルディムはアジア人を指し、南欧系及び中東系ユダヤ
人を指す語として大雑把に使われる場合がある。これはオスマン朝からイギリス委任統
治期を経てイスラエル共和国建国後に至るユダヤ教の宗教行政において「オリエントの
ユダヤ教徒」がセファルディムの主席ラビの管轄下に置かれていたという歴史に起因す
る。しかし、それ以前の歴史や人種的にはっきりしたことは不詳で、現在も論争がたえ
ない。「ディアスポラ」と言われる分散飛翔後も、ユダヤ人のほとんどは地中海の世界
に住んでいたと言うのが趨勢となっている。それがイスラム世界であるとされる。それ
に対し、アルプス以北におけるユダヤ人の起源ははっきりしない。7世紀に中央アジア
西部のコーカサスからカスピ海北岸にいたハザール王国の住民とされ、ヨーロッパには
西進し移住したのは、わずかのコーカソイドの一派のユダヤ教徒の子孫だとする説、又
はローマ時代イスラム世界から商人としてヨーロッパを訪れたとする説、イタリアから
アルプスを越えてやって来たとする説などある。又一部に、9世紀頃に民衆がユダヤ教
に集団改宗した黒海北岸のハザール汗国の子孫だとする主張が見られる。しかしハザー
ルの使用言語はテュルク諸語であった点など歴史的な状況を考えると色々無理があるが
それでも欧州スラブ民族社会の中にユダヤ教徒が現実氾濫した。ポーランド王国は当初
彼らを、騎士団として強いドイツ人移民に代わる専門職移民として歓迎した。彼らの中
に、リトアニア共和国で成功し、金融業や商人、地主や貴族階級になった者やヨーロッ
パに来て初めて農業を営んだ者もいたが、その点が西欧に住み続けたユダヤ人たちと異
なっていた。中世末期の欧州でも、諸国の王がその時々の利得をはかって、ユダヤ人に
しばしば保護を与えては、予告なく撤回されると言う事を繰り返していた。アシュケナ
ジム(東欧系ユダヤ人)のポーランド移住の初期における身分は、そのような政策の特
徴をよく示している。このポーランド王国にやってきたユダヤ人は、祖国で享受してい
たものと同等とされる特典をいくつか与えられた為この制度のもと、ユダヤ人社会は、
その宗教と民族的出自ゆえに、特殊な社会集団としてコミューンを組織し、内部自治を
行うことにしていた。こうしてユダヤ人の生命財産は君主の所有物であるとされ、農奴
のボヘミアンやロマ人と区別されこれを害するものは君主の財産を害するものと見なさ
れたが。長い年月で変化する19世紀には既に王侯貴族の金庫番や国の経営に関わり、
その後ロシア帝国の占領ではポグロム(虐待)や反ユダヤ政策(差別)が行われ、欧州
諸国での反ユダヤ主義が湧き出ていたのである。


517: 名無しさんAA:17/09/28 20:47
こうしてユダヤ人自身の国民国家を約
束の地に建国することを求めるシオニズムが生まれ、ポーランドやロシアや東欧などに
攻めて来る大国に移住したり応援したり建国運動などをしだしたのである。

518: 名無しさんAA:17/09/28 21:05
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 165

 このドイツのと言うより 人種の坩堝で擦れた人間の教育されない道徳観は朝鮮半島
の持つ混乱と同じであった。更に日本人がこの間違えたドイツ商会に運ばせた銃剣類が
フィリピンに届かなかった不幸は そのままアジア解放日本の進出の不幸でもあった。
 だがそれは島国日本の開国が遅れた事で仕方ない事実でもあった。同時に基本的には
ドイツ人達が侵略戦争に取った戦いが、第一次世界大戦前を踏襲して戦っている事と同
じで、ドイツの特にシュリーフェン・ラインでの戦線は 大戦前の皇帝ライン或いは、
第一次の塹壕戦に明け暮れたソンムの戦いと全く同じ戦線ラインだった。それは又、国
家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)党首アドルフ・ヒトラーの「我が闘争」の言及し
ている様に脅迫観念からの「生存権ライン」の戦いでもあった、「ゲルマン民族には、
十分な生活空間が与えら得て居ない」とする不満は一次世界大戦より遥か以前からあっ
た思想でもある。「東方生存圏」と言うドイツ独自の生存圏思想は、ドイツが東部獲得
するべきとした思想であるが、驚くべき事はイスラエルが建国が遥か2千年も前の話を
する様に ドイツはフン族がゲルマン民族襲い民族大移動を起こさせた事を語り継ぎ、
いる事だ。西ゴートの国々が次々と匈奴が襲い、西ゴートに東ゴートの人々が襲って来
たと言う歴史である。フン族襲撃の記憶はゲルマン民族の中で口伝物語として伝承され
、数多くの物語や音楽や詩や絵の重要な題材で構成要素ではある。これらは千数百年前
の民族移動時代の事だが、それでもなお語り継がれて 更にフン族とは何者かは不明の
まま受け継がれる伝承だ。その後ドイツ皇帝ウィルヘルム2世は、ヒットラーと同じ様
に凡ゲルマン主義の思想を掲げ、中でも差別主義の源の様な「黄禍論」を展開させた。
正に選民思想から排斥思想に変えた瞬間である。サライェヴォ事件は衝撃的な事件では
あったものの、これが世界大戦を引き起こすとは思っていなかった。たが、ボヘミアン
やロマ族の一部は見越していたらしくフランスに向かって移住した。ヨーロッパ各国は
、セルビアの行為をこの他民排斥論で大いに非難し、セルビアの謝罪と一定の賠償は必
要との声が上がる。だがセルビア批判には「凡スラブ主義」があり、スラブ民族の後ろ
盾としてロシアが控えていて各国の首脳は言い出せてはいない。当然の如くこのドイツ
皇帝ウィルヘルム2世は、「ドイツは同盟義務と旧来の友好関係に忠実にオーストリア
を支持する」とゲルマン支持を確約した声明を行った。この無条件支持は「ドイツの白
紙小切手」と呼ばれた。今の無知なる大統領が中東に行ってアラブ人を支持し、イラン
批判を行った事と全く同じなのである。当然北朝鮮と同じく「草を喰ってでも生きる」
イスラム教徒のオスマン人には耐えがたき屈辱であったはずだ。

519: 名無しさんAA:17/09/28 21:05
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 166

 皇太子を殺さたままでは国体がなくオーストリアは、セルビアに最後通牒を突きつけ
難癖をつけた。当然セルビアは一定の譲歩をしたが、不満解消には至らずオーストリア
は、宣戦布告に走った。恐れられるバルカン紛争と言う導火線に火がついたのだ。この
宣戦布告後、セルビアとオーストリアの間では第三次バルカン戦争が始まったが、仮に
ロシアにもドイツにも「領土拡張主義」とする「南下政策」や「生存圏」の思考がなく
単純な支持であれば和解は可能だったかもしれない。オーストリアとセルビアとでは、
本来国力差があり、単純に戦えばオーストリアが大国であり勝つ筈だった。ドイツはそ
の「生存圏思想」の中で、オーストリアが勝って同盟国領域を広げる事は正義だった。
、又この時期の対抗したフランスの市民革命にドイツの誇りを見せるチャンスでもあっ
た。一気に勢力をのばそうと意気軒昂に後押しした。だが小国でもセルビアが負ける事
は、バルカン半島のスラブ系民族の地位が無くなる事を意味し、勢力衰退は同時にスラ
ブの盟主ロシアの地位が弱くなることを意味していて、北方民族の影響力の南下を止め
ればそれこそ南下政策の失敗であり死活問題であった。ロシアは黙ってこれを見ている
わけにはいかなかったのだ。現代のウクライナ問題とするクリミア半島と同じであった
訳だ。だが懸念は的中したのである。強国の紛争ドミノと言う最悪の形で起こったのだ
。ロシアはセルビア支持に乗出し総動員をかけた。ドイツは総動員撤回を求め応じられ
ない為総動員令を発し、ロシアに宣戦布告する。隣国フランスも露仏同盟により総動員
を開始し、これを見たドイツは、フランスにも宣戦布告。「栄光ある孤立」のイギリス
でも不干渉方針を翻し、ドイツの大陸支配阻止をするためにドイツに対し宣戦布告した
。又ドイツの宣戦布告は総動員令を掛けた時点で既に戦争回避の道はなかった。と言う
のも小国の四方囲まれた中の連立国家の集まりは、議事運用でドイツ陸軍のシステムを
決めていたからだ。動員令は戦時中を意味しドイツ国内で、張り紙だけで国民は総員兵
士となり、軍隊となり平時編制から戦時編制が開通する。そしてマニュアルで決まった
作戦が決行され、各所で集権する一気通貫するシステムだった。その連動の精緻さに、
一度発動されてしまった後では 例え君主でも首相であっても止める事は不可能だった
体制になっていた。それは、「動員の開始」がそのまま「戦争の開始」を意味していた
と言える。他国に移住した者さえスパイと兵隊になる危険は フランス・イギリスの持
つ危惧でもあった。こうしてまさに負の連鎖が起こり列強各国が次々と疑心暗鬼に陥り
、戦争体制に突入していき 第一次世界大戦となってしまったのである。

520: 名無しさんAA:17/09/28 21:06
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 167

 その姿は、かつてのサラエボ紛争にも見え隠れする。平和な村が民族主義の枠で包ま
れた小集団に囲まれていて、その民族も又民族主義を批判する国家の中にあり、その国
も又その周りを反対する国家群が囲むと言う、至って複雑明快なマトリョーシカ状態の
世界地図や地政学なのである。だがそもそもどうしてこうドイツは囲まれていたのか。
それは偏屈な皇帝ウィルヘルム2世やナチスを産んだ素地の「ゲルマン思想」であろう
。元々ゲルマン人もスラブ人も同一民族でキリスト教やユダヤ教など要らない民族であ
った。所謂都市国家時代の多神教で遠くバビロン帝国の時代からギリシャ神話の世界観
が漂っていた。ところが遠いバビロニアに於いて この都市国家の「国家神」としての
中心にされた神の中にエホバを唯一神と掲げる女系女子の集団が現れた。「ユダヤ教」
と言う一人の神しか認めない集団の誕生である。「唯一神信仰」であるこのユダヤ教は
早い時期にヨーロッパ社会に蔓延した。本来の多神教群の中で改訳変遷をしたのだ。日
本での「創価学会」の作りと同じで、既存の日蓮宗の端単派で集金システムに特化した
ものを作り上げ、やがて本家総本山に破門されても会員や集金し独自の改訳を進めて、
尚拡大するシステムで一定以上の規模になった革命集団である。この一つの宗教観のみ
と言う原理教思想を最初に持ち込んで「原始ユダヤ教」ができた事がそもそもの凶事で
あったのだ。その後の変遷で今やキリスト教やロシア正教イスラム教など多く派生宗教
が起り世界を巡ったが、この選民主義思想でしか生き残れなかった人々は、融和もせず
移民として欧州にやって来て混沌とした社会を作った事にドイツの苦悩がある。「中独
合作」は蒋介石将軍の目指した中国建国策だったが、それ以前からドイツや欧州社会に
は「黄禍論」に基づいての選民思想や白人優位主義は根強く進出していた。正に寓意画
『ヨーロッパの諸国民よ、諸君らの最も神聖な宝を守れ』を合言葉にして生きていたの
だ。中独合作は蒋介石将軍の中国建国策だったろうが それは大きな間違いだった。既
に清朝が出来る頃から中国には国外に出て新天地で生きる者が多くいた。マルコポーロ
が帰途につく頃は、船便が整備された状況だったからだ。その後イギリスを始めとする
西洋諸国によって半植民地の状態におかれた中国では、安定した生活を求め海外移住者
華僑は更に増え始めた。「黄禍論」はそうした中で西洋社会に一般化した。特に日本人
の場合は違う国と説明しても「東洋人種」として華僑と間違われたし、日本人移住者が
多くなれば華僑やドイツがやっていた商売が日本人と競合した。これによって白人さえ
も金鉱の鉱夫や鉄道工事の工夫として多くの最下層の肉体労働者として受け入れられた。


521: 名無しさんAA:17/09/28 21:08
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 169
 日本政府の支援を受けて中国は欧米列強への賠償金を払い、1912年に中華民国が
日本軍の力を借りて独立宣言した。が、それでも中国国内では、共産党がゲリラ戦を行
い軍閥が跋扈し、列強の相次ぐ諜報合戦で権利や侵略に苛まれていた。それでも徐々に
租界など平和に豊かになっていた。1928年の国民党は北伐の深追いを止めなかった
これにより指導部の蒋介石は共産党の罠に陥って寝首をつかまれた状態であった事は、
全く日本は解ず関知しなかった。、一応ながらも国内統一がなされたからだ。しかし、
その後ゲリラ的襲撃は収まらず「満州事変」などで更に日本の進出がなされた。「中華
民国による国家統一」は統一政府として傀儡政権となる形骸化恐れてるようになった。
 既にドイツは東南アジアやアメリカ大陸が他の国々の下での植民地経営があった事を
知り尽くしていた。従って清国に於いても露骨な英国や仏国の様な帝国主義や威圧交渉
は全くしなかった。それは日本に於いても同じだった。それは清国政府にとっては有難
くドイツとの協力関係を基にして近代化を進めよう。との誘いに傾く事は当然だった。
 こうした背景において軍隊と国防産業の近代化を必要とする中華民国と、資源の安定
供給を必要としていたドイツの思惑が一致し、1900年代に入ると盛んに死の商人的
意味合いの強い「軍事顧問団」を派遣したり「年間契約の雇用技術者」で代価を稼いで
来た。日本で言う「雇われ外人」である。だが日本の場合その多くが日本国籍を取り、
帰化して帰国する事はしなかった。明治政府が英国の香港銀行やフランスのBNP(バ
リ国立銀行)などの資本家から貸付を貰った様に、このドイツ・アジア銀行は日本の中
の民間企業に貸付を行った。これらが野口や満鉄などに貸付を行った事は間違いない。
だが そうしたスイス銀行からの流れである各国の中央銀行とは無縁である為に しば
しばこの重要な金融や経済の国際的枠組みからは外されてきた歴史を持つ。この事は、
一つは共産主義的搾取の考え方が今だある現状だろう。フランス革命で得た「平等主義
」はドイツが周りを敵や異国に囲まれて出来た「優位主義」とされるこの人種偏見とは
相容れない思想だった。「殲滅作戦」はその戦争に際しての心得だった。「プロイセン
は地理的にヨーロッパの中心に位置して、四方を敵軍に露出している。イギリスのよう
な島国は持久戦に持ち込むことが出来る。また、ロシアは自国内部に戦略的退却するこ
とも出来る。だがプロイセンは、後顧の憂いなく敵軍を完膚なきまでに打ち破らなけれ
ばならない。つまり敵軍を殲滅することである。」これがドイツの昔からの掲げている
プロイセン軍の戦術論である殲滅戦理論なのである。もう一つは既にユダヤの資本下だ
った事だろう。それは米国で敵対するドイツでさえ「日本人収容所」のような物は無か
った事が証明している。

522: 名無しさんAA:17/09/29 18:17
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 170

 こうした曰くつきの主義主張が、人種の坩堝となる中では極めて大きな主張となる。
もっともらしい説明で理論付けされるのはそうした「マッキンダー理論」である。世界
の陸地の 3分の2を占めているユーラシア大陸を「世界島」とし、世界島の中央部で
シーパワーの影響外にある地域を「ハートランド」と名づけ、ランドパワーの中心地は
ハートランドを基盤に戦争は世界島へ展開されると考えた理論だ。こうして国際情勢を
ドイツ大陸国家の海洋国家群を突き抜けて世界島への拡張を警戒し、「東欧を制するも
のはハートランドを制し、ハートランドを制するものは世界島を制し、世界島を制する
ものは世界を制す」という有名な言葉を第一次世界大戦後の講和会議に英国の委員に対
して述べた学者の2極論である。だがこれらの殆どは間違っている。特に近年の近代兵
器の前にして囲い込み出来る陸国家と言う枠組みは不可能で歴史上もない。ロシアが、
自国内に戦略的退却が出来ると言う論法も狂ってる。第一次世界大戦にて塹壕戦に及ん
だがそこで死んだのは多くは塹壕の劣悪な環境による凍傷や病気や餓死だ。独軍がモス
クワで止まったのも極寒の地で兵糧が尽きた為だ。爆薬が無かったこ事ではない。第二
次世界大戦も全く同じでドイツの行った収容所の死はガス室や銃殺と同様に 過酷な環
境で死因が多い。又その後敗戦後はもっと大きな残虐行為が戦勝国内で行われたが、全
く隠している。更に民衆の怒りの前には力も無かった。日本でも米軍との対戦で多く死
んだが、最も過酷だったのは現地調達の食糧であり南方では病気や飢えで死ぬ仲間の死
骸を、跨いで通る事だった。つまり戦争で一番大きい事は死との対面ではあるが、より
以上に上司からの苦役や病死や飢餓であった。バーターンの死の行進でもビルマ後退で
の骸骨街道でもそれは見て取れる。硫黄島も同じだった。中国国内で日本軍より共産軍
が怖い八路軍や方面路隊が怖いと言う中国人民多く、共産党ゲリラが食糧を持たず完全
に野蛮な盗賊だったからだ。袁世凱は中国清末期の軍人で欧米に対応した海軍(北洋軍
閥)総帥となったが。貧国国が近代化の改革を求める孫文らの辛亥革命の混乱中では、
朝廷と孫文らの間で渡り歩くのは仕方なかった。大清帝国第2代内閣総理大臣を務めた
が人望はなく、清朝崩壊後は第2代中華民国臨時大総統、初代中華民国大総統に就任し
た。中華帝国皇帝として即位して旧体制に戻したのは、冷徹、果断にみえるが、元首と
しては醜悪さ、生臭さに転じて器ではなかった人物だった。と言われる。日露戦争当時
は、清は表面上は厳正中立であったが、裏では日本に刷りより情報を流し、馬賊を紹介
し 選りぬきの将校らを満洲・蒙古の奥深く、露清国境付近まで潜入させて援助した。
が日本が勝って、友好国とした途端に米国やドイツと手を組んで 内乱に手を染めた。

523: 名無しさんAA:17/09/29 18:17
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 171

 清王朝時代に袁世凱将軍を取り立てたのは海軍大臣役であった李鴻章である。北洋軍
閥の創設者で 北洋通商大臣兼直隷総督となり司令官を提督丁汝昌に決めた。日清戦争
において大日本帝国海軍連合艦隊と交戦しが、その時戦った艦艇は1880年代ドイツ
の艦艇だ。フルカン株式会社シュテッティン造船所で出来たザクセン級装甲艦で、当時
最新鋭旗艦としたザクセンと同じ仕様や武装の船だった。この造船所で建造された定遠
と鎮遠は清国の北洋艦隊の中心であった。定遠は日清戦争の艦艇として参加した。主砲
による砲撃中、艦橋が崩壊、司令官丁汝昌も負傷し指揮能力を失いながら、159発の
命中弾を受ける。これによって死者17人負傷者38人を出したが人員交代し作戦能力
は健在であった。後に水雷艇の夜襲を受け雷撃で擱座する。砲台として戦闘を継続した
が日本の陸上からの攻撃を受け不能になった。こうしてその後日本軍による鹵獲を避け
る自沈を果たした。一方鎮遠も同じ「定遠級」の甲鉄砲塔艦の1隻であるが、東洋一の
堅艦と呼ばれていたこの型は使いづらい物だった。同じ日清戦争において早々と鹵獲さ
れて、戦後に戦利艦として日本海軍に編入された。この日清戦争の敗北により、袁世凱
はこれまでの洋務運動が兵装のみで間違っていたと悟る。自強軍及び新建陸軍建設の為
の支援をドイツに求めた。さらなる軍備と産業や技術面と軍事顧問である。ところが、
ドイツ国内で普仏戦争の対フランスに勝ってもそのしこりは大きく 先に言った様に、
国内でもフランス解放軍の思想や人が新しい国作りを求めていた人々がいる議会運営だ
ったのだ。この頃のドイツは、対外的にはヨーロッパの覇権調整の要として機能してい
たし、一方でイギリスとの親善外交、三帝同盟や三国同盟、再保障条約など対仏包囲網
を形成し、強い牽制を行っていた為にパリ包囲が出来てやっと勝っていた戦争だった。
それに今後の新銀行や同盟国による戦争予防が完成し、ビスマルク体制には出費が重ん
でいてウィルヘルム2世もハプスブルク家の君主フェルディナント大公を頼っていた。
。それでもビスマルク体制下では軍拡が行われやすく、第一次世界大戦の遠因にもなっ
たといわれる。袁世凱の要請の時は、そうした中で拡大した自国の立て直しで とても
東洋の国に援助や軍艦を用意する余裕など無かったのである。そして条約により日本に
しぶしぶではあるが この要求を日本に行ったのだ。ドイツの顧問が居る中でこうして
公使館付武官の青木宣純が軍事顧問として新建陸軍を指導育成した。が袁世凱は青木を
「最も信頼できる日本人」と高く評していたという。こうして出来た新しい海軍こそ後
で日本を悩まし国民党軍の陸軍以上の力を持つ「北洋軍閥」であった。

524: 名無しさんAA:17/09/29 18:18
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 172

 だが問題は袁世凱ではなく 既に清時代から今だドイツになっていなかったプロセイ
ン王国とのつながりがあって後で日清戦争で活躍する北洋艦隊の旗艦「定遠」「鎮遠」
を発注し造船している事だ。中独合作は遥か以前から模索されていて1880年代後半
だが、ドイツの兵器関連企業クルップは、旅順の要塞化にまで、協力している事実だ。
そう1898年正に野口遵がシーメンスに入社した年よりも遥か前に既につてがあった
のである。1894年(明治27年)日清戦争1904年(明治37年)日露戦争は、
共に大日本帝国はロシアや中国との間で朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部と、日本海
を主戦場として発生した戦争ではあったが その裏にいたのはドイツであったのだ。そ
れは仏国も英国も解っていたのである。ある意味ユダヤ資本同士が戦争に賭けていたの
である。国防産業の近代化を必要とする中華民国と、資源の安定供給を必要としていた
ドイツの思惑が一致し、1920年代の終わりから1930年代の終わりにかけて両国
の蜜月関係は最高潮に達した。ナチスがドイツを支配するとさらに関係が強化されたが
日独防共協定が締結されると関係は弱められた。と言うのが一般的見解だが「華僑」は
1800年代初頭から大陸や欧州で広がった黒人奴隷がアメリカ建国に関わる頃中国人
達も又渡米や渡欧州をして一緒に汗を流し洋務運動の為の人材を連れてきていたのであ
る。そしてそれは朝鮮半島も同じであった。シベリア鉄道は、1850年にモスクワ〜
サンクトペテルブルク鉄道が完成した時既に立案されていた。シベリアに鉄道を建設す
る計画はその後も持続的な活動がありそれぞれにその引き込み路線を検討し時の政府に
発案している。だが計画、請願は多数に登ったものの、いずれも実行に移されることは
なかった中1880年、ロシア帝国のアレクサンドル2世の就任記念で突如ボルガ大鉄
橋が完成され、またエカテリンブルグ・チュメニ間の工事が着工された。エアテリンブ
ルク〜チュメニ間の鉄道はボルガ川とオビ川の水運を連結させるこの工事の完成をみて
大事業は方々で行われる事になった。これに従事した労工に朝鮮半島の苦夫が多数いて
朝鮮半島でも近代化の思想や中国の洋務運動の流れがあった。だが李氏朝鮮の政権内で
は清の冊封国としての立場の維持が大事とする守旧派(事大党)と朝鮮の近代化を目指
す開化派に分かれていた。そして近代化路線にはすでに危機に瀕した清朝に頼るか、宗
属関係に依拠するよりは、むしろロシアや日本に頼り独立近代国家の形成をはからなけ
ればならないのではと言う急進開化派(独立党)と、より穏健で中間派ともいうべき者
はあくまで親清による開化派になっていて 穏健な昔のままの王朝維持派と事大党との
大きな溝を産んでいたのだ。清時代のアヘン輸入禁止は1796年なのだ

525: 名無しさんAA:17/09/29 18:18
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 173

 だがこの頃の清国は先の世界最先端の旗艦を要した北洋艦隊を持って その兵員も又
極東最大であったのだ。既にロシアすらも極東の清の海軍を脅威とみなし、そこに朝鮮
とつなぐシベリア鉄道建設と旅順要塞の奪取を決定しているのである。これは又仏国や
独国の極東進出を脅威とした中にロシアはあったのである。独国が仏国に勝った事も又
大きな問題だったのだ。そしてそのロシアと清国が対峙している中にベトナムでの清仏
戦争が起こったのである。当然阮朝は清朝の庇護国であった為宗主国である清朝はこの
朝鮮に派兵してた軍隊の半数と海軍を投入した。此処に日本の近代化に寄り添うべし、
とする開国派の金玉均・朴泳孝・徐載弼ら独立党の人士が他の派閥を排除し李斯朝鮮の
玉座を守備し建国宣言に至ったものだった。だが朝鮮国も又清朝の庇護国であってこの
宣言に即座に清国軍は派兵した。大量の清軍が反撃に出て、袁世凱の率いる部隊はクー
デタ部隊を攻撃し、日本軍は撤退した為、開化派政権は三日で崩壊した。金玉均・朴泳
孝等は日本に亡命し翌年、日清両国は天津条約を締結、朝鮮出兵の際の相互事前通告な
どを取り決めた。このクーデターは1884年(明治17年)の甲申政変と呼ばれるも
ので、この三日で終わった事変は今だ朝鮮出兵していないで王宮警備もままならない時
期に起こった悲劇だった。だがこの清の冊封国としての立場の維持は、勝手な清国の用
いた地位であって、既に朝鮮国を英国に売り渡してドイツから戦艦を買った状態だった
のである。この後1886年にも、清国の北洋艦隊は朝鮮東岸からの帰路に長崎によっ
ている。これは朝鮮半島東岸の元山に出動したのは 朝鮮問題で対峙していたロシアを
威嚇する為であった。この出動の帰路に艦隊は長崎に寄港するのだが、長崎寄港の目的
自体は、燃料の補給及び北洋艦隊の主力である定遠級戦艦の修理にあった。特に定遠級
はこの時修理が必要な段階に来ていたが、当時の東アジアには、巨大な定遠級を受け
入れられるドックが長崎にしかなかったのである。また当時の日本の開港地では海外の
不平等条約によって治外法権があったため、中国人でも上陸が止められずにいたのだ。
こうして一挙に上陸しては遊廓で登楼の順番をめぐる行き違いから、備品を壊し暴行を
働くなどのトラブルが起こり、長崎市内をのし回り、商店に押し入っては金品を強奪。
泥酔の上、市内で暴れまわり婦女子を追いかけまわすなど乱暴狼藉の限りを尽くすので
ある。長崎県警察部が鎮圧に向かったものの、警察官と清国水兵は抜刀して市街戦に発
展、斬り合いの結果、双方とも80数人の死傷者を出し、やっと水兵達は逮捕された。
まさに いまの尖閣問題同様の 無礼で恥で野蛮で傲慢な抑圧姿勢での強要なのである


526: 名無しさんAA:17/09/29 18:19
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 174

 この時に水兵は骨董店などで購入した日本刀を武器として用いたと言う。こうして、
長崎に来航した清国北洋艦隊水兵が起こした暴動事件に謝罪はなく、又一方的に清国は
日本政府に対して補償を要求した。事件後、日清両国は長崎にて英仏人弁護士の立ち会
う中会弁委員会を開き、また東京では井上馨外相と徐承祖駐日公使により交渉が行われ
た。最終的には英独の斡旋を経て妥結し、その内容は事件の当事者については所属国の
法律により処分する。また撫恤料として日本からは52500円、清国から15500円を支出す
る。という事に落ち着いた。また当時の日本の開港地では治外法権があったため、長崎
事件の再発を防ぐために日清両国は相互の軍艦往来について規則を定め、両国の軍艦が
相手国を訪問する際は相手国側の規則に従う事、また上陸する士卒の制限を定めた。更
に日本の警察官が今後帯刀を禁ずべしという要求を突き付け、飲ませる事に成功した。
と中国側は報告している。が事件当時帯刀が許されず警棒であった為一端引き揚げての
帯刀して事態を鎮圧した事から この機によって警官に限り帯刀を許す事に変わった。
 この事は当時は如何に日本は諸外国に弱かったか 或いは清国海軍がロシアさえ威嚇
し極東の最大艦隊として日本海や東シナ海で制海権を取って行動していたかが解る事件
であろう。更にこの仲介に 日本側は英国大使に求め 中国側はドイツ大使に求めた事
は世界の中で極東の勢力状態 或いは時の政府が何処を頼りにしていたかが解るもので
ある。ロシアも仏国も英国も中国には敵対した国家であり、そこにドイツは歩みよって
来ていたのだ。更に大事な事は日本にもこの頃は充分すぎるほどの輸出をし民間企業に
取り入っていては巨大投資や技術提供をしている事実だ。そこには少しも先の「黄禍論
」的強圧な外交をしていなかったのである。少なくとも表向きは。ところが一方では、
極東へのドイツの対中国政策はヴィルヘルム2世が即位すると急変し、帝国主義政策を
推進した。例えば日清戦争後の1897年、ドイツ人宣教師殺害を口実にして膠州湾に
軍を出し、1898年には山東省膠州湾の99年間の租借を認めさせた。中独関係が最も
冷え込んだのは1900年の義和団の乱の際で、ドイツ公使を殺された時は怒って、こ
の制圧に向かっている遠征軍司令官に対して、「反乱軍をフン族の如く容赦ない攻撃を
加えよ。」と命令した。この事件後は国内で公に第一次世界大戦、第二次世界大戦の声
明や命令に軍内でははしばしば「フン族」の蔑称が呼ばれていくのである。


527: 名無しさんAA:17/09/29 18:19
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 175

 中独合作はその後その後中共合作と共産党化していく。というのも本来ドイツ帝国は
この第一次大戦前から第二次大戦後の今でも 先のドイツ連邦国家を作るに当たっての
大国オーストリアを入れた国家か入れないでの協調国家かで国論は割れていた。が、常
にその結果は同じで、オーストリアと言う大きな国に動かされる事を恐れた小国の集ま
り「純ドイツ主義」と言う特異的な「小ドイツ主義」のまとまりを望んだのである。が
更に国内の「大ドイツ主義」の意見を抑える為に オーストリアを武力による吸収拡大
を基本方針に約束するのである。これは先のマトリョーシカ的つながりからドイツ国民
の一部がオーストリアに在住していたからだが それと同時にフランスが起こした市民
革命や自由主義の持つ資本主義を嫌う封建的保守体質からもそういう結果に常になった
といえる。この封建的保守的と言うのは、正にソ連共産党の体質でその共産党派が多数
を占める事を意味している。それはヒットラー台頭時代も同じで そもそもナチスとは
日本語的には「国家社会主義ドイツ労働者党」であり社会共産党を意味するものであっ
たのだ。ここに日本政府はかつても今も大きな間違いを犯している この中独合作は、
ナチスが台頭して来る頃は 既に思想的には中共合作と同じになっていたのである。つ
まりドイツのソ連侵攻は北朝鮮がソ連なり中国なりに乗り込んで行った様な感覚なのだ
。この社会主義派と自由主義派の分裂はサラエボ事件ででも起こっているしヒットラー
時代の侵攻作戦でも大戦後の東西分割時もそれは全く同じであり ドイツ国民のもって
いるだろう独特の脅迫観念の素となっている。従って1930年代の終わりにかけては
、両国の蜜月関係は最高潮に達し、ナチスがドイツを支配するとさらに関係が強化され
た。日独防共協定が締結されると表向きは関係は弱められが、現実はロシア包囲に応援
していたのである。その中で共産党に米・英・仏・露が又共産党軍を応援して来たのだ
が 日本は馬鹿な事に共産党支部であるドイツには対ロ防共を唱えた条約を結び、本部
共産党のソ連にはには不可侵とする日ソ中立条約、を結ぶと言うおかしな事を真面目に
行っているのである。更にはどういう勘違いなのか この防共協定を結ぶに当たって、
イギリスフランスに合同調印を呼びかけている。これは如何に巧妙にナチスが共産党の
配下である事を隠したかが解る事例の一つであろう。又中国を日・独・米・英・仏全て
に応援した武器や兵員供与があった事は 第一次大戦後の条約違反を大国が堂々と独国
の進出を理由にやっていた事になる。国際連盟を脱退した理由でベルサユ条約と共にあ
ったベルサユ体制の日本の権利は無視されていたのである。これが今の混乱の素だった


528: 名無しさんAA:17/09/29 18:20
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 176

 こうして ナチス党は表向き共産党を非難しても、裏では共産党と手をつなぎ、共産
党の 排斥活動なりユダヤの様な、共産主義者の取り締まりはしていない。それどころ
かナチス党そのものが共産主義の中の愛国者を集めた形で人材登用し 政権運営してい
てソ連の供給で日本の様な石油枯渇すら起こっていないのである。この共産党進出には
国際旅団などの暴走した武装革命をイギリスもフランスも見抜いてはいたに違いない。
だがドイツの間で調印された共産党防止の「インターナショナル・コミンテル活動阻止
」の協定などをした日本を笑っていた。同じ共産党同志の領地争いで支部に本部の暴走
を止めようと呼びかけ 本部にこちらに来ないで下さい。との約束をした行為に過ぎな
いと。それは当然だった米国共和党も英国資本もこのユダヤと言う隠れ蓑の下の共産主
義支援者だったからだ。お粗末なもので この事でより日本が共産主義の仲間だと思わ
れたに過ぎない条約だったろう。チャーチルは既にこの共産主義が世界の最大の問題と
なる。と予見したが そもそもが日本とドイツはその防波堤としての砦に先進国は利用
して来ていたのだ。がナチス侵攻で英仏共当面の問題はドイツ拡大でありロシアではな
かった。更に米国にはロシア系ユダヤも多くいて 金融資本の繋がりからは ドイツの
戦争による債権返済や償還拒否やフィリピン購入の代価が支払われない問題が重大であ
ったはずだ。この中独合作は中国の近代化に大きな影響を与え、第二次上海事変で成果
を発揮した。とあるのは歴史的大きな事実を日本人はまともに教えて来ていない事にあ
る。というのもよく盧溝橋事件から世界大戦に走ったと記載されるが全く間違いでこの
第二次上海事件こそが 日本の本当に太平洋戦争所謂世界大戦に突入した理由であるか
らだ。共産党軍がゲリラ活動をして中共合作を目論み 世界が日本の大戦参加を目論ん
でいた。その意味ではドイツも英国も同じだった。英国は米国の参戦を希望していたか
らだ。中華民国に駐在していたドイツ軍事顧問団団長ファルケンハウゼンは、「中国の
敵は日本が第一、共産党を第二」と指導し、国民党軍に漢口と上海にある租界の日本軍
に対する奇襲を提案した。その後も「今こそ対日戦に踏み切るべきだ」と蒋介石に進言
し、北海事件後には河北の日本軍を攻撃するよう進言した。こうした執拗な進言は独国
が如何に東洋の国の同士討ちを願っていたかが解るし「黄禍論」が存在したかが見える


529: 名無しさんAA:17/09/29 18:26
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 177

既に共産党との裏約束がある国民党軍は1935年冬、国民政府軍は、ドイツの緻密な
策定の後押しで、南京・上海方面の「抗戦工事」(陣地)の準備を張治中に密かに命令し
ていた。優勢なる兵力をもって奇襲し上海の日本軍を殲滅しこれを占領し、日本の増援
を不可能にしようと企図し行動した。この頃既に悪態の限りの中国軍と治安維持を行う
日本軍の関係はかなり険悪であった。中19路軍の支援を受けて日本の勢力を利用して
の現蒋介石政権の打倒を図ろうと活動していた共産党は、海外援助により一気にテロ活
動を活発にした。こうして中山水兵射殺事件や上海日本人水兵狙撃事件が次々に引き起
こされていた。宮崎貞夫一等水兵事件は 中国人に拉致されたと在留邦人から報告され
た事で発覚する。日本側の対応は早く、上海特別陸戦隊は警備配置につき、調査を開始
したが、これに対し 中国保安隊は既に日本側に抗する為要所ごとに土のうを積上げ、
鉄条網を張り巡らし待ち構えた。上海市長である兪鴻鈞が直ちに岡本季正上海総領事に
連絡を取った。第一次上海事変後停戦協定により、中国軍は上海中心地への駐留が禁止
され、3200人ほどの保安隊だけが認められていたが、先制攻撃の道を考えていた中国軍
は、保安隊や憲兵隊に変装した兵隊を閘北に入りこませ、一帯に土嚢を積み、戦闘準備
を進めていたのである。この為自国の保安隊の動きに不安を煽られた上海市民は既に第
一次上海事変を想起し、共同租界地やフランス租界地などへ避難して、その数は一日に
二万人とも五万人ともいわれた移動が行われていた。日本側はこの事件に即応したが、
宮崎の逃亡の可能性を疑い、いたずらに危機を煽らない為警戒配備をのみとし、中国側
も防備を撤収した。大山事件の現場でも早期の時局収拾を目指した日本は船津辰一郎元
上海総領事を上海へ派遣したが、その後夕刻、上海海軍特別陸戦隊 西部派遣中隊長の
大山勇夫海軍中尉と斎藤與蔵一等水兵が支那兵に射殺される事件が起こった。大山事件
である。両軍は一触即発の状態となり、情勢が緊迫した。こうした事で 8月10日、上海
のノルウェー総領事アールは、在上海各国領事に対し領事団会議を開催する事を求めた
。当初、日本総領事岡本は固辞したものの、再三の要請により出席することになった。
英米仏伊代表は上海付近に戦禍を波及しないように日中両国に希望することで決議をし
、上海市長へも伝達するとした。この時共産党パルチザンまで飲み込み自軍が収拾のつ
かない状態であった事は明らかで 朝鮮パルチザンの不適格人格者は多数いた。という
のも中国軍のアヘンの購入量が一時期にかなり増えたのである。

530: 名無しさんAA:17/09/29 18:37
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 178

 こうして同日に、閣議では海軍側より陸軍に派兵要請を行い、4相会議で派兵が決定
した。だがこれを受けた海軍の長谷川清中将は、国際租界内の海軍司令部に対し、平静
を保つように命令を出した。またこの日には、海軍陸戦隊には上陸命令は出さない事に
決定した。ところが翌8月11日、上海市長は日本領事に電話をかけ、「自分は無力で
何もできない」と通報してきた。先の会談合意が守れない事だった為。危機を感じた日
本側は急遽夜、陸戦隊1支隊を予防のために上陸させた。こうして戦闘予定の配備を怠
りなく防備してはいたが 突然に戦闘が開始された。上海海軍特別陸戦隊本部は、8月
12日未明、中国正規軍本隊を上海まで前進させ、中国軍屈指の精鋭部隊第87師、第
88師などの約3万人を超えて 国際共同租界の日本人区域を包囲したのである。日本
軍の支援上陸に備えて揚子江の呉淞鎮と宝山にも約1千名を配置した。対する日本軍は
は、上海陸戦隊2千2百、漢口から引き揚げてきた特別陸戦隊3百、呉と佐世保から送
られた特別陸戦隊千2百、出雲の陸戦隊二百、常駐部隊3百2十の計4千人あまりで、
全く少ない中にあった。3万対4千である。この為に、日本領事は 国際委員会を再び
招集し、中国軍の撤退を要求した。しかし上海市長は中国は既に侵略をうけている。と
の声明を繰り返すのみで、最後に喩市長は、中国軍は攻撃されない限りは攻撃しない。
、中国政府として認められるのはせいぜいそれぐらいだと断言した。一方、日本は上海
近辺での中国の派兵の全ての責任は中国側にあるとしにらみ合いが続いた。午後5時5
0分、日本海軍の第3艦隊が軍令部に、陸軍派兵を要請する電報を打った。午後8時4
0分、本部からは「動員が下されても到着まで2週間かかる。なるべく戦闘正面を拡大
しないように」という電報が返ってきた。こうして本部屋上で待機する海軍特別陸戦隊
は待つ事になった。8月13日午前10時半頃、商務印書館付近の中国軍は日本軍陣地
に向かって機関銃による射撃を突然開始した。日本の陸戦隊は応戦したが不拡大方針に
基づいて可能な限りの交戦回避の努力を行い、また戦闘区域が国際区域に拡大しないよ
う、防衛的戦術に限定した、中国軍機が低空を飛行したが陸戦隊は対空砲火を行わなか
った。列強各国の調停の申し出を期待したのである。午後4時54分には、八字橋方面
の中国軍が西八字橋、済陽橋、柳営路橋を爆破、砲撃を開始し、日本軍は応戦した。午
後5時には大川内上海特別陸戦隊司令官が全軍の戦闘配置を命令し、戦闘が開始された
この日、英米仏の各領事は日中双方に申し入れを行い、上海での敵対行動を回避する為
に直接交渉を行うことを勧めた。


531: 名無しさんAA:17/09/29 18:38
また、回避案として以下を提案した。この提案原文が
東京に届いたのはこの日の深夜であった。
1.中国軍は国際共同租界とフランス特権区域から撤退する。
2.日本軍は国際租界から撤退する。
3.中国軍撤退地域は多国籍軍が治安維持を行う。
大世界近くのチベット通りとモンティニー大通りの交差点付近への中国軍機の爆撃に
よる民間人被害者がでた。中国軍機の爆撃による大世界前の惨状が起こった



532: 名無しさんAA:17/09/29 18:38
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 179

此処から中国側の襲撃事件そして上海租界の爆撃などが起こり 延々と日本人襲撃が起
こるのである。時々これを日中戦争とか言う。がそれは違い今で言うならテロなのだ。
 当時の中国では、蒋介石を中心とする国民党と毛沢東率いる共産党が政権争いをして
いた。しかし既に、2つの派閥は国の一大事の前に手を組み日本軍に対抗する事を決め
ていた。そして他国の諜報部はそれを見守っていた。それはドイツさえ共産主義でこの
極東に手を伸ばし西側もこの「野蛮な国の同士の戦い」を予定した国策を行っていたか
らだ。当時の派閥争いでは国民党が有利だったので蒋介石は手を組む事は嫌だったろう
。だが、変節の多い中国人は張学良を国民党に入れ蒋介石を軟禁した後も常に監視して
国民党の司令部を共産党が乗取った形の作戦を行っていたのだ。日本軍としては、この
国民党政府の治安に任せて南部戦線を発していたので、痛かった。日本軍は、初め中国
の首都、南京を奪還目標と定め1937年12月10日、20万の兵で総攻撃。13日
には南京占領。その後は、戦線を拡大。武昌、漢口、広州と中国の主要都市を占領。そ
れらを結ぶ鉄道も支配下におき粛清と治安維持確保を行った。しかしながら、中国軍も
首都を重慶に移し抗戦。ゲリラ戦を展開し、こうして日本は苦戦を強いられ日中戦争は
長期戦へともつれ込んでいく。こうして拡大する戦火に1938年には、日本でも対応
する為に国家総動員法を制定した。国民男子を政府が強制的召集令状で勝手に戦線に送
り込むものだ。更に国民の財産も政府の自由没収利用出来る法律でもあった。極東のこ
の混乱の成功を見てドイツは、1939年にポ−ランド侵攻に走った。こうして第一次
世界大戦の敗戦で、縮小し監視され周りの小国からも囲われていた国外での地位や権利
と国内での不況に近い経済の打開にドイツ軍は突然に隣国に迫り領土拡大した。この時
1941年に 日本は既に共産党の罠にかかっていた。贋の国際情勢と米国始め同盟国
としてしての鉄や石油などの重要物資の供給を ドイツロシアとの条約で止められたの
である。本来ドイツも石油はない。ところが中東原油のルートの確保を行っていたのだ
1939年に第二次世界大戦は勃発したがナチスはソ連と不可侵条約、翌年にはドイツ
・ソ連通商協定を結び、ヒトラーは「賎しいユダヤ人」「呪うべき共産主義者」と攻撃
していながら共産主義ソ連と手を組んで、石油・貴金属・穀物の供給を受けていたので
ある

533: 名無しさんAA:17/09/29 18:38
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 180

 本当にドイツに戦争をやめさせたければ石油の供給を止めればよいのである。しかし
、ドイツにソ連のバクー油田から石油を供給して戦争を継続させたのは、英国ユダヤ資
本ロスチャイルドやノーベル財閥の石油会社シェルの裁断であった。共産ドイツの奇妙
な関係は、これだけではない。ナチスにユダヤ人を迫害させたのはシオニストだという
証言は多い。ユダヤ人を中心にその後の戦争終結時は収容所以上のドイツ人捕虜を沢山
ソ連に送り込み収容所で働かせ虐殺した。これに米軍は加担したのである。ドイツ人の
「黄禍論」は中国で正しく伝わり「夷国をもって夷国を制す」と中国政治家の考え方を
蒋介石も毛沢東も受け入れて戦略をたて、日本を中国の内戦に引き込み、中独合作・中
共合作などと言いながら 自国民に政府による官製テロを行い国際社会アピールを促し
たのだ。上海空爆はその最も著しい物で、上海租界の外国人に政府は「空爆は日本軍の
横暴な行為で断固反対する。」との抗議声明をだした。だが写真を撮った記者は現像し
中国政府軍の航空機である証拠を突き付け「目標を間違えた事故であった。」と訂正し
た。それでも最初に大きな記者会見の場でこの大きな嘘のプロカバンダは成功し人民に
は特に日本人の行為と映った。、1938年、日本軍の進撃の道をはばもうと、黄河の
堤防を爆破した。この時は、折しも大雨が降ったこともあって11の都市と、4千の村
が水没し死者100万人、その他の被害者600万人という大惨事になり死者は川に溢
れかえった。しかもそれだけでは終わらない。この突然の人造水害の結果、黄河の水路
の流れは変わり、周辺に水枯れが大飢饉を起こした。被災地で食糧不足に悩み中国軍部
隊は民衆からの食糧の強奪を始めたのだ。飢饉は深刻化し、その惨状を当時のアメリカ
人記者は、「道ばたには凍死者と餓死者があふれ、飢えた人々は屍肉を食べていた。」
と報じた。この時中国側は又事件直後から、堤防決壊を日本軍のしわざとして宣伝して
いる。しかし中国側のこの自作自演は、証言や写真で外国人記者に見破られてしまう。
 この堤防決壊の時も、日本軍兵士は1人も死んでない追いついていないからだ。それ
はただ中国人を大量殺戮しただけの行為だったのだ。堤防決壊の直後、追いついた日本
軍は堤防の修復作業を行なっただけでなく、被災した民衆の救助と、防疫作業を行ない
ました。日本軍は、中国軍から虫けらのように扱われた中国民衆を、必死になって救済
した。こうした事は多々ある。今でも中国政府は自国民制裁を行い、全てを外国悪者に
見立てる。更にその論拠が崩れるとすぐさま内政干渉するなと隠してしまうのである。



534: 名無しさんAA:17/09/30 12:14 ID:gyk
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 181

 では何故こうした事が起こるのか。実はユダヤ教など1神教と日本との戦争視点の違
いがある。日本でもこうした自国民を虐げる行為がない訳ではない。だが極端に他国の
者もいて国籍のみが日本人と言う海外の人間は比較的少ない。ところが国境をまたぐ今
の移民の群れの様な集団には日本の様な「治安」の観念はなく中国国内でも「漢民族」
がウイグル人を日本人の様な自国民と言う意識はないのだ。又共産党や自由主義と言う
観念も植え付けられたものであり「自由資本主義」は金の兌換をしないニクソンショッ
クで既に終わっている。又「共産社会主義」の経営も又ソ連崩壊や日本の中国支援など
既に崩壊していた事は事実である。つまりこれらの国家経営の手法は全く間違えていて
貧富の格差などどうでもよかったのである。先の英国ユダヤ資本ロスチャイルドとは言
え彼らの基はこのドイツからの移民でありドイツに巨大貸付していた金融家であった為
と言えばうなずけるだろう。つまりナチスのユダヤ狩りそのものがヒットラーの考えに
矛盾していたのである。中国の蒋介石も又自分の命と人民の治安では自分の命が大事で
あったのだ。日本人の様な「世の為、人の為、尽くしてこそ命の価値がある。」と言う
道徳心は植え付けられず ただただ同族同業者でさえ蹴落として競争社会に生きる主義
を貫いているのである。つまり鼻から「共産社会主義」を巧みにペテンで覆い指導者層
の席を狙い、攻撃は最大の防御で対策し自己防衛の正当性に「武器さえ自由の競争社会
」の演出を主張して 共和国を作らせてやまないのである。それが原爆の傘理論であり
株式の運用理論なのである。ドイツで起こった「ホロコースト」という言葉は、ナチス
によるユダヤ人大虐殺と同義に使われるが、本来は「神に捧げる犠牲」という意味であ
る。つまりユダヤ人同志が仲間を神に捧げた行為だったのだ。ユダヤ人600万人がナ
チスに殺されたというのは大誇張がある。なぜなら、戦前のユダヤ人の人口は約160
0万人、戦後は約1470万人と解っている。人口を比べると130万人ほどしか減っ
ていないのだ。その上、ソ連領内で100万人のユダヤ人が減っていることがヨハネス
・ロスクランツの調査によって確認されている。他国への移住者も数多くいた時なので
、せいぜい数万人数十万人でなければ計算が全く合わない。更に強制収容所内での飢え
や病気が原因の死亡者も多くいたと思われる。ただユダヤ人が迫害を受けていた歴史は
事実で、シオニズムに反対したユダヤ人と呼ばれた人はイスラエル建国の為のに、正し
く「神に捧げる犠牲」とされた。それはロマ人でありロシア人でありボヘミアンと国籍
の無い人達であり 移住して来た人も土着民もいただろう。敢えて整理したのである。


535: 名無しさんAA:17/09/30 12:15
 今や北朝鮮は核を持ちミサイルを飛ばす。これを危険だ恐ろしいと叫ぶのは大和民族
の性分であるだろうが 本当に恐ろしいのはそうした平和ボケしたような教育の廃れで
もあろう。即ち先の「世の為人の為の命」とする道徳教育と「夷を以て夷を制す」と言
う覇業観念の違いこそが 最も恐ろしい事の筈なのだ。この日本流の「他人の褌で相撲
を取る」と言う離れ技は 全く陰謀論そのままである。「黄禍論」は正に留学して得た
張学良の「傀儡指導者となった蒋介石」そのものの姿であったが、この姿こそ 共産党
コミンテルンもユダヤ教シオニストも 最も求めている姿であろうが地球が持たない。
そうしたことで虐げられるのはいつも下層の庶民であり、更に敵としているのは同じ指
導者としての地位を持つ良識者であった事が この上海租界事件に見える。だが現実に
起こった事は日本人妊婦を暴行し八つ裂きにして、手足や頭それぞれを晒すなどの真に
おぞましい事が毎日の様に繰り返し人々に狂気を誘った事だ。その姿ややり方は今でも
中国やロシアでは起こっている。これこそはユダヤ人の想いと同じであったのだ。北の
真面目な核実験やミサイルは全く怖い事ではない。それ以上に怖いのは、既に日本との
在置諜報員としての繋がりが消えて、張成沢を犬に噛ましたぐらいの狂気と、その狂気
を持った指導者が核を利用する狂気である。1944年に今だ戦争も終わらない中で、
不思議な会議が開かれた。ブレントン・ウッズ会議である。英国代表には経済学者のジ
ョン・メイナード・ケインズ「フェビアン社会主義者」で、一方米国代表はハル・ノー
トの作成者、財務次官のハリー・デクスター・ホワイト「国際共産党主義者」である。
社会主義者と共産主義者が協議して今後の戦後の“資本主義体制”を、決定するという
 不可解で実に不思議な会議が開かれたのである。7月夏のアメリカ合衆国のニューハ
ンプシャー州ブレトン・ウッズで開かれた連合国通貨金融会議で45ヵ国が参加した。
締結されたのは 1945年に発効した国際金融機構についての協定である。この会議
を取り仕切ったのが、米国財務長官のヘンリー・モーゲンソーJr.  である。父親は、
ロスチャイルド一族の銀行家ゴールドスミス家、母親は、ロスチャイルド一族の鉱山王
グッゲンハイム財閥の出身という人物でこの鉱山は戦時には鉄で戦後はウランで稼いだ
とされる。「アメリカ合衆国のドルを基軸とした固定為替相場制」であり、1オンス35
USドルと金兌換によってアメリカのドルと各国の通貨の交換比率(為替相場)を一定に
保つことによって自由貿易を発展させ、世界経済を安定させる仕組みである。が この
会議の不可解なのは今だドル札発行は米国政府の権限ではない。つまり国際会議であり
ながらも政府間会議でもないのだ。国際通貨基金(IMF)、国際復興開発銀行(IBRD)、
の設立を決定し、これらの組織を中心とする通貨体制である。

536: 名無しさんAA:17/09/30 12:16
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 183

 勿論、この協定が1929年の世界大恐慌により1930年代に各国がブロック経済
圏をつくって恐慌を起こした経験則から二度もの世界大戦をまねいた反省によっている
事は明らかだ。今回の戦争で疲弊・混乱した世界経済を安定化させる目的と共に、通貨
の乱高下による投機筋の動きを抑える目的もあった。だがこの不可解な会議は共産党の
社会主義学派によって固められた知恵だった事だ。この事には2つの事実がある。一つ
は国家予算以上の歳費で核ミサイルが既に製作段階に入っていた事だ。二つ目は共産党
の流れを組む共和党の施政でハーバート・クラーク・フーヴァーがアメリカ合衆国の第
31代大統領に就任した事だ。彼はオーストラリアの鉱山で鉱山技師として働き始め、
その後中国で鉱山の開発に従事した。1900年には天津租界で義和団事件によって、
1ヶ月もの間包囲され、攻撃を受けている。妻が慈善施設で働いている時、彼はバリケ
ードの建設を指揮し、時には中国の子どもを命がけで救っている。彼はドイツ人鉱山師
アグリーコラをこよなく愛して翻訳さえ手掛け、その正確な翻訳には定評がある。アグ
リーコラは、実際に鉱山で働く人々の、今までの知見や経験、発見や発明を科学の言葉
に替え、新しい体系を創出した鉱山師だった。自然や実業に密着していたため、錬金術
など頭から否定し、軽蔑していた。又フーヴァーはヘンリー・カボット・ロッジと共に
、他の上院の共和党員の大きな反対にもかかわらず、商務長官在任中の1921年に、
ロシア革命により混乱をうけ飢饉で苦しだソ連や、大戦後のドイツの人々など食糧支援
を提供した。その行為に評論家は批判的で「共産主義ロシア」を助けていなかったか。
との問い合わせを受けた。フーヴァーの答えは、明快に「2千万の人が飢えているのだ
。彼らの政治が何であっても彼らを食べさせるべきである。」と真っ向から反論した。
ニューヨーク・タイムズはこのあと「10人の最も重要な生きているアメリカ人」に、
フーヴァーを選んだほどだ。この事は共産主義などと言うしっかりしたものはこの世に
は存在しなかったと明確にしている。共生社会を夢見る社会が共産党の本流や国民党や
共和党などの分流の中にあると言う現実現実でも かなり冷たい中 一般でもその思想
の一端を持っている筈だと言う現実だ。加えて言うならより非情な自由主義の存在がそ
の援助や通貨枠組みをしたと言う現実だ。共産主義が非現実であり幻想であって そも
そも人の持つ道徳に守られている事だ。自由主義すらも道徳により運営される。此処に
今のルールなき格差社会を是認した冷たい資本主義の破滅の馬鹿さや嘘がある。


537: 名無しさんAA:17/09/30 12:22
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 184

 この「黄禍論」のルーツは「選民主義」であり、そのルーツはユダヤ人と言う事だ。
だがユダヤ人は、その定義さえはっきりしない不思議な人たちである。一般的には古代
イスラエルの十二氏族のうちユダ族だった人たちがユダヤ人ということになっている。
だが、実際にはかなり複雑なことになっている。「スファラディ系のユダヤ人」とは、
「聖書の民」であるユダヤ人でイスラエルからスペイン方面に逃げてきた有色人種だ。
我々は白色人種の中ユダヤ人を見るが 本来の正当なユダヤ人は有色人種と言われる。
「マラーノ」はキリスト教に改宗させられたり、改宗したふりをした隠れユダヤ人で、
ある意味ユダヤの中のユダと言われ キリスト自体が、ユダヤ教からの改宗者である。
「ミズラヒ(東人行者)」は先のユダヤ人の中で「ユダヤ教布教徒」として存在し布教
で同じアジア人に溶け込んだ人達とされる。本流ユダヤ人の中のユダヤ教徒で日本の男
系男子の様に 元々はこの家族は女系女子である。東人と言う意味で更に古くは男性を
ユダヤ教徒としなかった経緯があった。とされる東人とは東に行った人行者は行う者。
「ホフ・ユーゲン(宮廷ユダヤ人)」ユダヤ系の中でユダヤ教徒の指導者であり、仲間
の6人以上の証人もしくは認知者でユダヤ教徒加入を認める職者。欧州宮廷の中で貴族
階級に同化してゆき、特権を享受してユダヤ人加入者を振分け決定する権限を持った。
「アシュケナージ系ユダヤ人」7世紀から10世紀にかけてカスピ海の北で栄えた遊牧
国家ハザール汗国という国があった。8世紀半ば頃、イスラム軍がこのハザール汗国に
侵攻してきて、改宗を迫る。ハザールの隣はキリスト教の大国、東ローマ帝国である。
東ローマ帝国と友好関係にあったハザール汗国の皇帝は、悩んだ末にキリスト教とイス
ラム教の元になったユダヤ教を国教とし宣言した、それ以降、国民全員がユダヤ教徒に
なる施策をとって国民をユダヤ教徒にした。この国民のユダヤ教徒に改宗したハザール
人達だが、のちに隣国まで教徒は増えた。アシュケナージはドイツ系と言われる。白人
のユダヤ人になった人という説もある。現在においては、イスラエルにいる「スファラ
ディ系ユダヤ人」は少数派で、90%以上の殆どが「アシュケナージ系ユダヤ人」であ
り「改宗派ユダヤ教徒」である。肌が浅黒い「スファラディ系ユダヤ人」という「真性
ユダヤ人」ではなく、白人のアシュケナージは、血統的に全く無関係な民族達である。
したがって、アシュケナージが「神の約束の地へ帰る」ことを口実にパレスチナの地に
ユダヤ人国家を建設することは、まったく正当性がない。しかしながら、世界の主要な
マスコミの株主を慮っており、ドルショック同様このことはタブーとされ、決して追求
さる事はない。

538: 名無しさんAA:17/09/30 12:23
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 185

 このブレントン・ウッズ会議で、ドルが世界の基軸通貨と定められた。これはユダヤ
の「シオニストの世界戦略」と言われた。と言うのも本来の少数の「真性ユダヤ人」は
シオニスト会議を行わないしシオニスト連合に参加していない。シオニズムそのものが
旧約聖書に書き込みにある様に 違法なのだ。それはユダヤ王は真の世界の法王、世界
に跨る教会の総大司教である。(全人類の王)とされかの王の権限でしか会議は出来な
いからだ。だがイスラエルが建国された様に迫害を盾に取って、自らの自衛の為の生存
圏として 世界戦略を考える選民思想や白人優位主義がこの会議を産んだ。今まで貯め
た貨幣価値の温存の為にである。こうした帝国は「古いユダヤ教」を取入れた。「教義
を利用」し「宗教を利用」し「人を利用」し「国を利用」し「経済を利用」したのだ。
このブレントン・ウッズ会議で出来た、国際通貨基金「IMF」と「世界銀行」の創設
は、他ならぬ戦勝国が持つ今までの資産価値の温存であった。この両機関が、WTOと
共に今後の国際関係を決める大枠として働く事で グローバリゼーションを推進しなが
ら自分達が中心勢力であり続け、同時に途上国を支配し頭を押さえた機関でもある事は
事実だ。それは「核保有5大国」が自国の核を増やし続け、他国に「核開発禁止」する
事と全く同じ仕組みの不平等性に証明される。かつての植民地は、戦後、次々と独立を
果たし、工業発展途上国と呼ばれるまでなった。名前の通り、途上国は元々資源供給地
にされ、工業技術力では相手にならない。その上に、輸送手段と販路を既に握られてい
る中にあった。先進国のように世界各地へ売りさばくことが出来ない上に、貿易で豊か
になろうと思えば一次産品の輸出を続けるしかない状態である。百数カ国の途上国が、
たった30品目程度の生産品目しかない一次産品を争って輸出し、60年代以降に価格
が暴落する事は目に見えていた。慢性的な赤字を抱えるようになった途上国が、IMF
や世界銀行から借金をするのだが、その際、構造調整プログラムというものを受け入れ
ることを条件とされ、それは先進各国の産品を安値にしない事や先進国の持つ消費社会
を文明社会と受け入れる事が必須の条件だった。その上地下資源など開発するインフラ
でも債務国は自国の経営権を失う程の契約に於いて投資対象者となったのだ。この姿は
オリンピック開催と似ている。事務局の権限は最大で勝手な開催は出来ない。だが開催
となれば莫大なPR費と観客動員が出来、それを頼りに公共投資での不況対策が出来る
のである。そしてその価値は文化でも食糧でもなく「ドル」と言う通貨価値なのだ。


539: 名無しさんAA:17/09/30 12:23
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 186

 古来よりユダヤ教の聖典は『旧約聖書』だが、冒頭の5書、「創世記」「出エジプト
記」「レビ記」「民数記」「申命記」は特に重要とされている。「モーセ 五書」又は
「トーラー」(律法)と呼ばれる神聖な律法として崇められてきた。さらに、モーセが
神から授けられた法として、成文化されずに口伝で伝えられたものがある。この口伝は
3世紀頃に文書化され「ミシュナ」と呼ばれている。この ミシュナと、ミシュナからの
ラビが解釈した「ゲマラ」から作成された日常生活の規範と、時代時代に対応した生き
ざまを記した「タルムード」の素である。タルムードは、6部構成、63編から成ると
される文書群で、現代のユダヤ教の主要教派のほとんどが聖典として認めており、この
ユダヤ教徒の生活、信仰の基となっ ていると言われるものである。その膨大な文書の
中に民族的排他性と独善的選民思想が含まれた問題箇所があり、ユダヤ人が排斥される
原因となってきた。その一部を抜粋するがこれが愚民作りに大いに役立った事が解る。
まず天孫降臨に及んでユダヤの為に神は降り立ったとし他の民族は人ではない獣だとい
う視点がある。更にキリスト教の全てを違法でも何でも奪って良いとしているのだ。更
にキリスト以外の異教徒は「ゴイム」として、異教徒にはどんな事もも許されるとして
イスラエル人は相手がイスラエル人で無ければ殺しても構わず又異教徒にユダヤ教を教
える者は殺しても構わず異教徒が我々の教説を知ったならば、彼らは公然と我々を殺す
だろう。と予見し、異教徒ががわれらの書物には何か害することが書いてあるのではな
いかと聞いたら嘘を宣誓せよ。と教えているのだ。此処に言うイスラエル人とはユダヤ
人でありユダヤ人以外は奴隷以下の獣として扱って良いとされ唯一キリスト教のみ盗み
や搾取の対象としている。これでは嫌われて然るべきでとても協調社会など築けないで
あろう。このような“選民思想”と共に、もう一つの特徴が「終末にあたって救世主が
再臨し、正義と平和が支配する理想世界が訪れる」とする“救世主(メシア)思 想”
である、言い換えれば“終末思想”である。これではヒットラーが産んだナチス思想で
ある。共産思想で言う世界革命である。秘密結社の殺人犯の言い分である。ただこれは
理由がある。そうあのアテネなど都市国家間が戦争の兵士の養成に作られた文章なのだ
つまりこのタルムードは聖職者の勝手な改訳を兵士作りの為に編み出したものだったの
だ。それは古来からのしきたりに絡んでいて今のイスラム教にも利用されている。この
ユダヤ教がローマの兵士を産む元になったとも言えるし十字軍やイスラム軍の戦いでの
洗礼を受けて今にあるのかもしれない。このユダヤ教が忌み嫌われたのは間違いない。


540: 名無しさんAA:17/09/30 12:24
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 187

 ここで我々が知るべきは 決して核兵器やミサイルを恐れてはいけない事だ。恐れる
べきはこうした事を作りたがるまやかしであり その思想と嗜好である。正にユダヤ教
のこの全人類から財産を没収せよ殺してでも良いと言った考え方はナチスの言う言葉と
同じであったのだ。そこにユダヤの恐怖があった。だが蓋をあければ同じ白人のユダヤ
教徒であっただけだった。ではユダヤは何処にいるか。それは割礼に秘密がある。この
割礼は一体何んの為にするのか。起源は何処にあるのか。それはバビロニアにある。こ
の地の多神教がある都市で多神教の都市国家が一神教を作った事は解っている紀元前6
00年ぐらいの話と言われている。この都市国家群の中に国家群を守る為の都市国家が
あったとしてもおかしくない。ユダヤ教では、割礼はブリットと呼ばれ、ヘブライ語で
「契約」を意味する言葉である。ユダヤ教徒の家庭に生まれた乳児および改宗者は、割
礼を行わなくてはならない。とされる。これはブリット・ミラー「契約の証明」と呼ば
れ、モーヘール「割礼師」と呼ばれる専門家が行う。つまりユダヤ教の入会式である。
創世記では「またその家の人々は家に生れた者も、銀で異邦人から買い取った者も皆、
彼と共に割礼を受けた。」即ちここで既に 母系母子の関係や正統とされる血縁のみの
宗教から一般化された布教する宗教に変化をしている。更に変化し現代では割礼に反対
するユダヤ人もおり、その場合はブリット・シャーローム(命名式に相当)をもって、
割礼の代わりとする ただしブリット・シャーロームは律法(旧約聖書)に反するとし
て否定する者も多く、今では一般的な儀式としては広まってはいない。男性の陰茎包皮
の切除をするこの割礼儀式は 今は入宗者や改宗者としているが、本来は兵士になるか
どうかであったと思われる。そして割礼が陰茎の包皮切除ではなく切断で、形を残した
機能の消失儀式だったと思われる。権力者への忠誠と兵士の子孫を絶つ行為だったのだ
。と言うのもこの考え方は以外に世界に広い風習だ。中国では宦官制度で皇帝の世話係
である。インドでは犯罪者の刑として、アフリカでは女性の淫乱防止にと風習がある。
あったのだ。日本での宦官の風習がなかったのは諸外国お如く淫乱に明け暮れる暇が無
かったからと言える。今でも一夫多妻や人口増加に悩む国は多い。だが日本の場合台風
・地震・お祭りと暇はない権力者が多い。その上水害や病気を含めれば 一夫多妻での
子孫を増やす事は必要な家系の存続行為だったが、より以上に今生きてる者を守る事に
祈りを捧げて国事とした。更に言えば 戦いは人よりは災害であり兵士は不要だった。

541: 名無しさんAA:17/09/30 12:34
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 188

 日本では周りに攻めて来る他国が少なかった。だが世界では都市国家間は交易もあっ
たが 災害では他の土地へ移る事はあって攻める事も又あった。同じ部族存続も砂漠や
アフリカでは一夫多妻で子供を産んで多産を奨励する。だが一方で人口増加や過密都市
でのは食糧需要には危機が襲う。大陸ではまるでイナゴか鹿が若芽を食む様に人間も又
緑を食い尽くし移動する。中国が匈奴の侵入に悩んで来たのは 匈奴との交易が断たれ
国内では権力争いに明け暮れたからでである。つまり格差是正に取り組まなかったから
文化の隔壁が襲撃を起こさせたのだ。こうした事例は歴史上多いギリシャ時代ローマ時
代或いはインドやペルシャやアフリカでも多いし日本でもある。一般的には競争社会こ
そが社会進歩を遂げると言われるが間違った見方だし、それは事実ではない。殆どの場
合小さな「いさかい」はあっても平和な生活で発見も発明も発展も文化も産まれている
。問題は権力者の施政にある。どこの地域でも人口増加に悩んで領地外にそれを求め、
結局は戦い消滅した民族は多い。隔離された中では進化がないからだ。中国の様に政策
として子供一人とするのは難しいし気宇な例だ。通常は周りを攻めて緑を失い災害によ
って危機が押し寄せ飢餓と共に離散する。こうして古代都市国家の消失や戦争が起こっ
た事が証明されている。これは人口抑制と国家拡大は二律背反であり模索した事だろう
。となれば女性は人口拡大の為に置いといても、人口抑制に男性機能は失わせるのが手
っ取り早い人口調整だった。男は多ければ闘って命を失し忙しければ性交の出会いがな
い。その中では他民族に生殖させ増やし勢力に入れる訳に出来ない。又兵士が少なけれ
ば兵士として雇う喰いぶちも少なくなるが温存は必要だ。つまり自己の民族増加を減ら
す最も効率良い作業が男を少数にする事だった。一方女性は一年に一回しか子供は産め
ず産んだ後もその子の成長には欠かせない世話係だ。従って一夫多妻制度が必要になる
。こうして人口調整の方法として 公式の兵士養成所を作りその忠誠の証としての断根
が女性側に伝承者として受け継がれユダヤ教の素が作られたと研究成果は言っている。
。それが「人は産まれながらにして罪を持っている」とし、「行いや生き方で終末に当
たり救済の主 救世主が現れる」、「正義と平和が支配する理想世界が訪れる。」とす
る“救世主思想”言わば「末法思想」を植えつけて置きながら 忠誠に陰部不能を提出
させた兵士に「君らは選ばれた民だ聖戦士だ」と言うのである。こうして古代は生き延
びて来たと考えられる。ところが現代になって日本やインカの現状からそれは不要であ
り又、より以上の移住でも全体が生き残れないと言う 深刻な地球的問題になったのだ。

542: 名無しさんAA:17/09/30 12:49
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 189

 この日本で言えば地獄の閻魔様のの話やおばすて山の西洋版の話であるこれらの仕組
みは スムーズな人口調整役を兵士にさせた話である。この部族が都市国家群に参加す
る事によって、先の様に他の軍隊の侵入を止め、中国の宦官の様に去勢に近い何らかの
手術によって その常態の兵隊を置いた形で人口を増やさない工夫になっていた。人口
増加と食糧不足のその苦悩は今も同じで、古代の小さな世界であった国家群でも 同じ
様にまとまる集団に活動していたのだろう。そしてこの伝承の女性に受け継がれた宗教
は権力者によって神の如く「諜報活動や暗殺活動や権力集中活動」に無心していた。ま
るで今後世界の滅亡が始まると言わんばかりに布教した。この方式は別に紀元前の時代
は多く用いられて来た手法で、中国やアフリカや南米北方アボリジニなど方々に その
風習の痕跡がある。奴隷としてや多民族の労力を使う手立てとして或いは官史登用とし
て宦官など忠誠の証と反抗の阻止の為に使われた方法だった。ところがその手法が今や
危機を作る。まず殆どの近代都市国家では 戦争が無い限りそうした断種を行わないで
も人口減少に陥っているのである。生物学的にも危機感があるほど種の保存行為が高く
、戦ではより人口は増えた。突然増えるアフリカバッタはその典型的例で生物学的には
合致する。又こうして戦った事での損失が更に食糧逼迫を招いている事実は多々ある。
地中海や砂漠の緑の損出は今も残るし、アフリカの天災はその典型であろう。ある学者
の調査では平和期は動物の生息数は変わらないが大戦や内乱などの戦争で極端に減った
と言う。それは戦争が起こると木を切って船で魚を取る漁業が増える。だが切られた木
は野生動物を減らし、魚が不漁になると野に食を求め野獣食に変わる事で更に一般的な
獣などいなくなるが よりずる賢い猿や鳥が増えて今度は農作物が荒される被害が増え
更に密漁や密猟が増えて 悪循環の末に食糧不足が深刻化して世界的伝染病が蔓延する
と提言しそれは歴史でも証明されている。つまりここで大事な事は、戦争での死者は多
いものの人口は一向に減らなかったと言う事実と、その後病気で減ったと言う現実だ。
更に自然再生能力が無くなるまで緑が無くなり豊かさが消滅した事実だ。この「国家の
安泰を望んで他国から守る」という論理は「自国安泰の為に他国を攻める」と言う行為
に変わり、これまで積み上げてきた「外交」と言う手法が消えた時、結果的になし崩し
的に自然災害要因を作り 自国の破壊から逃れられない運命にある。歴史と言う結果は
その不幸を産む事実を教え その結果がある事に人類が気付いたのである。地球温暖化
は、実はほんの少しの一部分の現象でしかない。だがそれだけでも大型台風や水害や食
糧生産の低下や山火事などで、数多くの連鎖的被害が出ている

543: 名無しさんAA:17/09/30 21:57
 ロヒンギャ問題は深刻な問題だ。本来バングラデシュにもビルマにもイスラム教徒は
全くいなかった。それはフィリピンやマレーシアでもいなかった。だがガレー船交易が
盛んになる10世紀頃に船の着く所に数人のそうしたイスラムの布教が始まった。世界
大戦時のアフガンなどでは盛んに傭兵がインドに出て行った。インドの東インド会社が
盛んに集めたからだ。インドのカースト制はある意味貧民層は幾らでも受け入れたのだ
。世界大戦以前から日本が南方の進出が成功すると、欧米は植民地解体の危機が自らが
治めていたインドでの傭兵を守備兵として雇った。その頃のインドネシアでもマレーシ
アでもここミャンマーでも仏教によって原住民は生活していた。だがイスラム教徒はそ
の生活を捨てなかったし言語体系も違っていたのだ。マレー戦線が拡大し日本が初戦に
勝ったのは同じ仏教徒だったからとも言える。だが陸に海に空に中国の蒋介石援助ルー
トを様々に構築し、そこにイスラム傭兵を契約で投入したのだ。彼らはひるむことない
強い兵士だった。クメールルージュと言われるビルマの血旗隊である。彼らの参戦で、
今まで案内して食糧す支援すらしていた原住民は殺され 砦の維持すら出来なかった。
そこに起こった悲惨さは日本軍を夜盗化させるまで至った。広大な土地に取り残された
日本軍は、当初は南方でも南洋でもフィリピンでもビルマでもベトナムでも戦争よりは
インフラの整備を重きにしていた。原住民に学校を開き日本語を教え 道路を作り兵隊
を送り出し 鉄道を作り物流を整備しようとした。これは満州の成功からの知恵だった
。だがそうした事を恐れた英国は最前線にこの不毛の傭兵を送りこんだ。物資は空輸し
てでも次々と援蒋ルートを作り中国に送り続けた。今の中国の海洋政策として九段線が
ある。「大陸の舌構想」だが、これは日本軍が当初フランスとの戦いを避ける為の香港
での中国を自分の領地としての計画で、イギリスの香港領事館から引き継いだものだっ
たものだ。その後には米英の積極参入によって日本軍は南方政策に変わり更に戦後の共
産軍政策が加わった。だがイスラムはそうした事に関係なく方々に殺戮と領地確保をし
ていった。ポルポト軍などはその生き残りでもあった。近年でも東チモールでも集落が
突然の奇襲を受けて多くの民家が全員いなくなった事件がある。イスラムの不当上陸だ
すぐさまチモールのPKOが組織された。ここに人の馬鹿さがある。つまり共産主義も
自由主義もちゃんとした道徳教育がなければ社会は成り立たないのだ。核廃絶と同じく
合意しこの合意を守る事で平和と人口減少が起こるのであり食糧危機も防げる。中国の
様な教育も道徳も無い巨大国家では乱獲乱開発を起こし、米国の様な宗教的利益主義で
は格差やら資本争いが醜悪な社会を産み、或いは食べれないロシアの様に自国防衛の為
の攻撃論が闊歩すれば世の中は全く良くならない。ここに教育があるのだ。小国主義が
人を豊かにする。問題は大国を制する力が無い事だけだ。

544: 名無しさんAA:17/09/30 21:57
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 191

 アジア大陸で、日本が手掛けて最大のものは、ロシア南下の対抗としての満州の建設
であった。つまり満州国建国はその一歩に過ぎなかった。その先の求めていた 日本の
安泰と周辺諸国との共生であった。これは日本人の本質だろう。五族共和の夢を求めて
いたのだ。世界はこれを、満州国という傀儡国家につくり変え軍政の拡大と見た。又、
満州国に連接してた朝鮮半島の経営に 海岸地帯から黄河の上流500kmにわたる東部
中国のベルト地帯を作りあげた事は このユダヤ金融の指図する企業群や国家群の脅威
に映った。日本は「日華事変の解決」と呼んだが、結果的に、中国民の権益の奪取や日
本圏拡大に見え戦争に繋がった。この戦争が、蒋介石国民党よりも、もっと恐ろしい、
ロシアが根回しした 西洋列強が待っている太平洋戦争へ、日本を導くことになった。
 アメリカは、関心を高め、日本を眺めていたが、共産党の策謀は米国国民を欺くまで
巨大だった、日本の中国大陸における軍事行動にたいして、怒りをこめて非難するまで
になっていったのだ。日本の戦争を終えさせるとの言い訳についに1940年アメリカ
政府はこれまで使っていなかった外交的手段、日本と中国との戦争を終わらせるために
、いわゆる経済制裁を加えることを決定した。この決定は、世界各国が喜んだ。アメリ
カが同盟諸国としてヨーロッパ戦争に参加するものとの期待が現実になって支持した。
それは既に去年からドイツがドイツ・ポーランド不可侵条約破棄を宣言しチェコスロバ
キアのボヘミア占領、ハンガリー王国がカルパト・ウクライナを攻撃し北欧侵攻も果た
しドイツ軍がパリに無血入城していたからだ。日本も米国も、第二次世界大戦への不介
入を昨年に表明していた矢先の事件だった。モノンハン事件でソ連は窮地のままの結果
だった。だがこのソ連の南下に対して1936年に、日本はドイツと日独防共協定を結
んでいた。「共に共産主義拡大を阻止しよう」目の前の仮想敵国の、スターリン率いる
ソ連に恐怖があったのだ。よく連合国対枢軸国と言われ日独伊三国同盟などと言われる
がこの時米国方針が無ければ日独伊三国条約はなかった筈だ。なぜならこの条約は軍事
同盟でなく資源の流通条約だからだ。だが七月、ルーズベルトは側近に国際共産主義者
H・D・ホワイトが居た。こうしてアメリカは日米通商航海条約廃棄通告をしてきた。
のである。つまり世界の対ソ体制がナチス侵攻で米国の内側から崩れ去ったのだ。防共
を国際社会から任せられたと思っていた日本にとっては驚きだったのだ。その意味では
全く時の西洋列強の指導者は自国の利益しか眼中になく 未来の事などなかった。


545: 名無しさんAA:17/09/30 21:58
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 192

 大東亜共栄圏構想は「東亜新秩序圏」や「東亜安定圏」と同一であるとした、日本・
満州・中国に加え、マレーシア(フランス領インドシナ)、インドネシア(オランダ領
東インド)をも含めた範囲であると決定していた。と言うのも、チェンバレン製油所の
石油輸入が日本に止められたのだ。太平洋戦争(大東亜戦争)開戦を控えた1941年
11月6日には第25軍司令官山下はアメリカ領ハワイへの真珠湾攻撃に先立つこと約
1時間前にE作戦(マレー作戦)を行った。マレー作戦は日本軍による一連の南方作戦
の最重要項目で第一発目となった。まともとハワイへの真珠湾攻撃は防備戦であり本来
はこの東南アジアからの石油輸送が目的だった。つまり太平洋戦争はこのマレー作戦を
行う為に開始されたのだ。シンガポールの戦いもインパール作戦の初戦として同時期に
行われ帝国陸軍第25軍がマレー半島に上陸した時、英インド軍第3軍団豪第27旅団
英本国軍大隊がこれに立ち向かった。が海上の物資補給船が既に撃沈されており孤立し
ていた。又イギリス軍は日本の様な無計画では無かった。新着のイギリス軍第18師団
と約7万人の戦闘部隊を抱えてその補給が無い事に悲観的であった。北部マレー半島で
の日本軍は数量的にはわずかに優勢にすぎなかったが、制空権・戦車・歩兵戦術・戦闘
経験において優越してはいたものの2倍を超える兵力差を覆して、当時難攻不落と謳わ
れたシンガポール要塞を日本が10日足らずで攻略した。英国としては歴史上最大規模
の将兵が降参し、。チャーチルは「英国軍の歴史上最悪の惨事であり、最大の降伏」と
評した。だがパーシヴァル中将の判断は英国として当然の事だった。敗けた要因には、
一つは戦車が通れないとされた湿地を日本軍の軽い小型戦車が通り抜けた事二つ目には
突然の攻撃に自軍の防衛で他への応援を駆け付けなかった事三っつ目が肝心の通行する
橋を防備に爆破していた事で本部は完全に孤立しその上新人部隊を上陸させたばかりだ
った。これがパーシバルを会談に持ち込んだ要因だった。裕福な混合戦隊での食糧不足
の反乱を恐れたのだ。その上山下奉文はそうした国際的な捕虜の扱いや会談には似合わ
ない人間だったのである。これがシンガポールやコタバルの悲劇であった。こうして東
南アジアが解放され この地の奴隷的国家群の形成が無くなり旧来からの日本への物流
が出来ると思っていた。支配的植民地経営から自立する日本との共存共栄の外交である
が本来「大東亜共栄圏構想」や「東亜新秩序圏」や「東亜安定圏」と言う論議は、全く
異質で違うものだった。東亜安定圏は北方の日本海周辺の権益であり新秩序は共防政策
であったからだ。「大東亜共栄圏構想」が如何に無謀で捕虜を苦しめたかは想像に難く
ない。それはそれまで無かった戦いに身を投じたからだ。

546: 名無しさんAA:17/09/30 21:59
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 193

 明けて翌年の1942年(昭和17年)に日本も又食糧自給と物量運搬に迫られた。日
本国そのものが国体保持と致命的な敗北を避ける為に、鉄道輸送を必要としていたのだ
。泰緬鉄道はその必要性に迫られた。それは、ちょうど連合軍が最後の勝利を得るため
の、ノルマンジー作戦の様な日本の必要不可欠の作戦だった。この戦争に日本の配員は
大本営は戦争を早めの停戦と調印で終戦が迎えられると考えていた。だが世界情勢でソ
連を相手にドイツは戦い日本もアメリカさえも戦争に入れてソ連が停戦調停してくれる
と甘い期待のまま戦争していた。戦争はどんどん過酷になり日本兵は誰ひとりとして、
最後の瞬間まで、敗戦を信じようとはしなかった。しかも、1945年(昭和20年)8
月15日の、天皇の玉音放送後さえ敗戦と思わず、いぜん戦争を続行するのだという気
迫に燃えていた。先の存置諜者の命令と同じである「再び進軍するまで領地を死守せよ
。」なのだ。この真面目な日本人気質が、泰緬鉄道建設において、信じられないほどの
短期間での完成遂行に、捕虜達を急き立てたのだった。彼らにとっては、マラリアなど
どこ吹く風であった。此処に悲劇があった。キンビグ少佐は言う――泰緬鉄道の必要性
を感じ、これを建設することのできた人種は、いかなる西欧人種ともまったく質の異な
った人種である、と。ニューサウスウェールズ州にあるノウラで、ニューギェアで捕虜
になった数百人の日本兵は、復員という不名誉を潔しとせず、集団脱走して、死を求め
た。サイパンにおいて、日本軍兵士だけでなく、女、子どもにいたるまでが、降伏より
も死を選んだ。日本人が 戦争中つねに身につけていた教訓は、彼らにいかなる行動を
とったかをわれわれが知り、新しい教訓としなければならない。我々が学ばなければな
らない教訓は、「神風」特攻隊においても、「沖縄玉砕」においても、また同じである
。彼らが抱いていた死の観念は、われわれ西欧人の考えている死の観念とは、まったく
次元を異にしたものだったのである。とそして『ミズリー号の道程』を書いた加瀬俊一
は、その中でいう 「日本の敗北は米、英、オランダ、オーストラリアのせいではなく
、まったく無益に、長期にわたって戦った中国のせいである。」としている。そして、
そのようなことは二度とおきてはならないと警告している。「アメリカの日本に対する
鉄および鋼の輸出を禁止した事や、オランダの、長期にわたる石油契約について、日本
の要求を拒否した事。また1941年、イギリスはマレーのゴム輸出禁止命令を出して
最後に、日本にたいする石油輸出を禁止し、在米日本資産を凍結したアメリカが決定的
制裁は、外交がもはや手遅れであり、太平洋戦争を避け難いものとして戦争突入した。


547: 名無しさんAA:17/09/30 21:59
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 194

日本軍のビルマ攻勢はチンドウィン川堤防の線にまで達し、ようやく停止した。その時
、日本軍の補結線は伸び過ぎ、兵士たちは疲れきってしまい、戦力を使い果たしていた
。スリム将軍のビルマ軍団が、インパールの聖域をめざして、北西に向けて退却してい
た間、ビルマ戦線では、スチルウェル将軍の中国部隊が、サルウィン川を越えて、雲南
に進出していた。中国は今や、完全に孤立してしまっていたからだ。ビルマの首都ラン
グーンから、雲南山脈を越えて重慶に至るビルマ公路は、中国に残された唯一の補給路
だったが、いまや日本軍の手中にあった。日本軍も中国国内の度重なるテロに支援路の
遮断が有効だとしていた。特に中国国民党までもが日本軍に対抗して来た今を変える為
にも。 この大勢力圏は、インドシナからビルマを経てマレー半島に至り、無数に散在
するオランダ領東インド諸島およびフィリピンを含み、これらを越えて西部ニューギュ
ア、月形をしたニューブリテン島、飛び石のようなソロモン群島、小さなギルバート諸
島にわたり、最後には、中部太平洋を北上して、アリューシャン列島のアッツ、キスカ
の孤島にも及ぶものであった。日本のこれまで開国を迫られ、資源のない国がソ連の脅
威から泣く泣く朝鮮経営に手をかけ領土を拡大してきた理由の帰結でもあった。日清戦
争に、日露戦争に、多大な犠牲と資本をつぎ込みそれぞれ領土を獲得し、また、第一次
大戦の平和会議において、ドイツの太平洋の領土を譲り受けた。これらの拡大してきた
領土に、さらに今度の大征服によって、新たな領土を追加し、本格的な帝国建設に乗り
出したのだ。1941年(昭和16年)の頃は、日本が足場を築く 絶好のチャンスにも
見えた。オランダ他は実にあっけなく、日本の同盟国ドイツに揉順されてしまったし、
イギリスもヨーロッパ本土の戦闘にまき込まれ、中東基地の随所に専念していた。 一
方、フランスは枢軸国に占領され、ビシー政権は弱体で、抵抗の力はなかった。さらに
重要なことは、日本の昔からの敵国であったソ連が、ドイツ軍電撃戦部隊と生か死かの
闘争を行なって、ソ連の南部地域に突進し、日本の北は安全になるものと期待されてい
た事だ。こうして、アメリカが今までどおり孤立主義を固持して譲歩をみせなないとみ
て、その年の瀬に、南方に向って攻撃を加えることを決定している。これらの戦略的な
考慮は、多くの日本人が信じていた社会的、政治的、経済的主張によって支持された。

548: 名無しさんAA:17/09/30 22:00
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 195

つまり、「大東亜共栄圏」が名実共に安定した自立圏が出来ると信じていたのだ。日本
は東南アジアおよび太平洋からヨーロッパ諸国の軍隊を駆逐することによって、この圏
を繁栄の礎に創造できるだろうと信じていた。この「大東亜共栄圈」構想によって占領
された白人地域は、搾取から解放され、日本の指導の下に、豊かな繁栄を保証される。
特に人口増加と共に食糧や資源のない日本の危機が これによって無くなると期待した
この政策は、東南アジアの独立を望む少数の民族主義者にとって大へん魅力的だったし
、敗戦後もこの地域の共存共栄の思想は変わらずにいる。だが敗戦後日本人は口を閉じ
てしまい、この夢がなかったかのように振る舞った。それは欧米から持ち込まれた高い
理想や共産国の持つ信頼が この裏切り行為と言う結果で惨々足る結末になり身を持っ
て欧米の持つ二枚舌や三枚舌の醜さとその結果の非情さの現実に驚いていたからだった
。その傷は長らく癒えなかったが、近頃は逆に忘れたように騒いでいる。住むだけの住
まいや決して贅沢では無かった生きる為の食事で平等では無いにしても周りさえ配慮の
ある人情社会を築いていた。だが今や贅沢で豪奢(ごうしゃ)な考えの中で過去の歴史の
の積んだ家や時を眺めていた大木は行政の名の下で何の意味もなく打ち払われ、趣を凝
らした食事の食材を世界中から取り入れている。これは現代病とも言える奇妙な進歩で
あろう。かつて幣原が外交官の時代1920年代の自由主義体制における国際協調路線
は「幣原外交」とも称されたが、それは軍部の軍拡自主路線「田中外交」と対立した。
ワシントン体制に基づき、対米英に対しては列強協調を勧めた。共産テロが頻発する大
陸中国において、あくまで条約上の権益擁護のみの追求で、東アジアに特別な地位を占
める日本が中心となって安定した秩序を形成していくべきとの方針である。これがこの
共栄圏の骨子であった。これに米英は賛同し3ケ国条約を申し込んでいる。が幣原は何
故かフランスを入れて4ケ国条約にして改めさせて結んでいる。これには不思議が付き
まとう。世界は金融恐慌の煽りを受けた。若槻内閣倒閣は経済の立て直しの諸外国の方
針にあわせた。1926年(大正15年)の蒋介石の国民革命軍率いて 勝手に行った
北伐の頃である。これに対し、内政不干渉の方針に基づき、アメリカとともにイギリス
による派兵の要請を幣原は拒絶した。この事で幣原はロンドン軍縮条約を結び兵力制限
に同意して軍は出せないとした。軍からは軟弱外交と強い批判を受けてしまっていた。
こうして折角の有能な若槻内閣は倒閣されてしまった。

549: 名無しさんAA:17/09/30 23:48
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 196
 田中儀一はロシア通であった。1927年(昭和2年)第1次若槻内閣のもとで全国
各地の銀行で取り付け騒ぎが起こった昭和金融恐慌である。若槻内閣は総辞職し、代わ
って立憲政友会総裁の田中が内閣を組閣した。田中内閣には 元総理や次の総理を狙う
大物政治家そして将来の総理や枢密院議長などが肩を寄せ合い、大物揃い内閣となった
。ロシア留学時代に正教に入信し、日曜毎に知り合いのロシア人と教会へ礼拝に行く程
徹底したロシア研究者であった。又、地元の連隊に入隊して内部からロシア軍を調査し
、日露戦争前は陸軍屈指のロシア通と自負していた。長州閥の一人だが、軍人として有
能で、同時期ロシアに留学していた海軍広瀬武夫と酒を汲み交わし強硬な開戦論を叫ぶ
などあった。日露戦争では満州軍参謀として総参謀長児玉源太郎のスタッフを務めた。
戦後の1906年『随感雑録』が山縣有朋に評価され、当時陸軍中佐ながら帝国国防方
針の草案を作成し名声を得ていた。その頃の大陸事情は朝鮮の発電所の完成を見て中国
にも多くの電気事情が良くなっていた。そうした背景に 日系企業が上海・青島などの
中華企業を買い上げて更なる改善などで紡績工業など相次いで進出していた。17社程
の大手企業の中で在華紡は日本式経営で中国の4割の百万錘規模の生産を果たしていた
。だが中国国内にも販路を求めていた為この金融恐慌によりこれまでの摩擦が一気に噴
出してデモや日貨排斥運動など標的となった。この事に共産毛沢東がいる事を田中は知
っていたのか日本軍を出さず 中国人ストライキに対して奉天軍閥の張作霖に要請して
武力鎮圧するなど、権益の擁護の後ろ盾に第三者による制圧をはかっている。中国初頭
の袁世凱将軍が創った北洋軍閥は互いに直系(直隷派)、皖系(安徽派)、東北の奉系
(奉天派)、晋系(山西派)、馮系(西北派)で北京政府の政権を争っていた。が19
26年に一応は蒋介石を中心とする政府体制が出来て国民革命軍は北伐を開始した。こ
の頃は、中国国内は取りあえず国民党政府を樹立した状態だった。だが共産党勢力の浸
透は根深く、蒋介石安泰とは全く行かず、上海クーデターなどを起こして共産党勢力や
労働組合の粛清を図る事でやっとだった。やっと南京国民政府を制圧樹立し、更に反対
する武漢国民政府を倒し軍閥政府の根拠地である北京を陥落させた。こうして全国統一
し政府主席に就任し「訓政綱領」「国民政府組織法」を定め「以党治国」(国民党によ
る国民政府の指導)と行政・司法・立法・考試・監察の5院制を定めたが、思う様には
行かず 反対する保守派が集まり清国残党と共に広州国民政府が成立して蒋介石を脅か
していた。田中はその大陸事情をよく知り尽くしていた。だがこの時既に軍部も西園寺
以下対共産化のフリーメイソンの主催するロッジ経営がなされ、政府内にも吉田茂以下
奉天総領事として赴任していた。正にJPモルガンの戦略恐るべしだった。

550: 名無しさんAA:17/09/30 23:50
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 197

 1931年夏、同じ分派の台湾の広東政府の外交部長陳友仁が訪日し、張学良を満洲
から排除し満洲を日本が任命する政権の下において統治させ、中国は間接的な宗主権の
みを保持することを提案したが、幣原外相は一蹴した。その後、関東軍の独走で勃発し
た満州事変の収拾に失敗し、政界を退いた。幣原外交の終焉は官僚外交の終焉であり、
その後は軍部が独断する時代が終戦まで続いたのである。ここで、幣原は2つのミスを
したのである。いわゆる軍部の軍拡自主路線「田中外交」と対立した事だ。ソ連から出
資された英国企業アルコスはソ連諜報部の隠れ家だった。ソ連から金製品や亜麻・毛皮
・マンガン鉱を輸出し、その売り上げで食料・繊維・石炭などを輸入。外国為替銀行と
してアルコス銀行を設置し、貿易関連の資金決済や訪ソ旅行者のための外貨両替にあた
った。この表向きは正当で合法でロンドンの国内法にも合致してた。1927年突然の
服の捜査員50名がアルコス本部事務所に殺到し、外部との往来も接触も一切遮断した
、押収文書は2万におよび、ピストル6丁も共に応酬した。これによって共産党の宣伝
工作や広報活動が南京事件にまで及び今までのイギリス政府の収集した証拠を覆す材料
を電報で取寄せるまでに至った。ソ連が「大英帝国と南北アメリカのいたる場所におい
ての軍事的スパイ活動および破壊活動」のためにアルコスを使ったとして非難して、こ
のアルコス事件以降はソ連と英国間の外交関係と貿易協定は、直後に解消されて、19
27年に英ソの国交断絶となった。従って上海クーデターまでの党内の中国共産党員の
粛清を行った第一次北伐までは米英も賛同して援助していた。だが中国国民党内がまた
混乱状態に陥った時、蒋介石が事態の収拾に成功し権力を掌握すると、国民政府は第二
の北伐を再開した(第2次北伐)。この時の北伐は英米からの不参加である為ソ連に支
援を求めヴァシーリー・ブリュヘルの下で計画された。この時日本軍の後ろ盾の奉天派
の首領である張作霖が北京を撤退し北伐軍が北京を占領したのである。当時日本の首相
・田中義一はなおも張の利用価値を認め、東三省で再起させることを考えていたが、既
に満州国の建国計画を進めていた関東軍は張の東三省復帰をこれを望まなかったという
。1927年に起こったアルコスと同時期に国民革命軍が南京・上海を占領した事で行
った捜索だった。南京事件が発生し、欧米勢力の目にも 国民革命軍の背後に明らかに
ソ連が暗躍する姿が映り、国民革命軍を嫌って支持せず、張に好意的な姿勢を取るよう
になった。張も日本よりも欧米勢力に追随する風を見せていた。今だ英米も日本も中国
の支援方針が中国の混乱に見定め出来なかったのだ。取りあえず 混乱さえあれば良い
そう思ったソ連は積極的に支援した。

551: 名無しさんAA:17/09/30 23:52
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 198

 こうして張作霖は日本支援を執るべく北京のソ連大使館捜索した。それは突然に行わ
れソ連大使館官舎奉天軍として乗り込み、ロシア人・中国人80名以上を検挙、武器及
び宣伝ビラ多数などを押収した。これは奉天にも国民党軍からの共産主義者が浸透し、
それによる満洲の共産化運動を防ぐための処置でもあった。張がソ連大使館官舎を家宅
捜索したことについては、日本を含む列強各国から事前に国際法上の問題がないことの
承認を得ていた。また南京事件は共産主義者が起こしたとされ、各国の共産主義に対す
る警戒心は高まっていた中だったのである。こうして南京事件で追われて満州の本拠地
に帰る事になったが、日本の関東軍は色よい返事はなかった。それは張作霖政権でソ連
の満州鉄道と並行した路線の開拓を進めていたからだ。1928年(昭和3年)早朝、
蒋介石の率いる北伐軍との決戦を断念して満洲へ引き上げる途上にいた張作霖は 乗車
した特別列車が奉天(瀋陽) 近郊、皇姑屯(こうことん)の京奉線(けいほうせん)との
満鉄連長線の立体交差地点を時速10km程で通過中、上方を通る満鉄線の橋脚に仕掛け
られていた黄色火薬推定300キロが爆発した。列車は大破炎上し、交差していた鉄橋
も崩落し、張作霖は両手両足を吹き飛ばされた。現場で虫の息ながら「日本軍がやった
」と言い遺したという。奉天城内の統帥府にかつぎこまれたときには絶命していたが、
関東軍に新政府を作らせまいとした日本軍の暴挙と奉天軍は発表した。2週間後6月2
1日である。しかしまた日本軍も警備、側近ら17名が死亡していた。証言では同列車
には張作霖の元に日本から派遣された軍事顧問の儀我誠也少佐も同乗していた。がかす
り傷程度で難を逃れた。又その声明で事件直後に張作霖配下の荒木五郎奉天警備司令に
激怒した話が伝わっている。張作霖の私的軍事顧問で予備役大佐の町野武馬は張作霖に
要請されて同道したが、天津で下車した事も不審の証明となった。更には、山東省督軍
の張宗昌将軍も天津で下車した。常蔭槐は先行列車に乗り換えた。車両に乗車していた
奉天軍側警備と線路を守っていた奉天軍兵士は爆発の直後やたらと発砲し始めたが日本
人将校の指示によって落ち着き、射撃を中止した。この爆発で解る事は恐らくソ連大使
館の家宅捜査で大量の日本軍内の諜報者がこの張作霖は掴んでいただろうと思える事だ
。又曲がりなりにも田中義一はロシア通でそれは解っていたが「満州国樹立計画」を、
止められなかった事だ。時は昭和恐慌に振り回され、この事で張作霖爆破事件が起こり
、田中内閣は総辞職に入る。田中は天皇に説明がつかなかったのだ。

552: 名無しさんAA:17/09/30 23:53
 こうして「満州国樹立宣言」に至るのだが この時の欧米のマスコミにも共産党員は
数多く配置されて日本非難を繰り返した。更に日本軍の中にも又 誇張とデマと威嚇を
吹聴する者もいた。更にこの奉天軍の「日本軍がやった。」と言う張作霖の言葉も信じ
られる筈はない。好く石原莞爾の陰謀説が語られるがこの時の田中内閣であった事から
ほぼ石原の計画は田中に伝わっていたとも考えられる。更にロシアの諜報員若しくはド
イツ人がいたと考えられる。何故なら爆薬が仕掛けられていると知っていたのなら、ま
ずは張作霖がそこにいる筈はないからだ。ソ連コミンテルン陰謀説の大きな証拠は東清
鉄道の建設と共に3回の、暗殺未遂が起きている事だ。鉄道建設前には関東軍からピス
トルで、その後は自宅の出入りの門に前に2回とも地雷であったとされる。犯人が見つ
からず事は大きくならない事になったが、張作霖自身は日本軍が仕掛けたと言っている
。がその後日本軍が撤去している事から日本製の地雷ではあってもそんな高くつくやり
方を日本軍がするとは思えない。ただそうした事を掴んでいた事はあり得る。更にそこ
で見つかった理由はお抱えの日本人の運転手が盛り上がった土を見て判明した。と言う
のだからまず違うだろう。このロシア情報を元に関東軍はこの地の制圧が出来たのだろ
う。リットン調査団でも恐らく断定出来なかっただろう。ただ欧米は日本軍の仕業にし
たかった。欧米共にロシア人はこうした巧妙な事件を仕掛けるのは得意の民族であるよ
うだ。近年では飛行機事故やオリンピックの薬物事件ではその証拠が現れても違うとの
政府見解を発表する。昭和天皇が言う通りである。欧米は冷たいだがロシア人はもっと
寒い国だ。ノモンハン事件はその後の1939年(昭和14年)に起きる。当時建国し
た満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した紛争の事とされる。が
これは少し違って見える。大日本帝国とソビエト連邦の間で断続的に発生した日ソ国境
紛争で、満州国軍とモンゴル人民共和国軍の衝突に端を発し、両国の後ろ盾となってい
た大日本帝国陸軍とソビエト労農赤軍が戦闘を展開し、一連の日ソ国境紛争のなかでも
最大規模の軍事衝突となった。と言う事件だが 既にソ連は貧困の中で粛清を繰り返し
労農赤軍を組織していた事が原因である。当時日本の租借地関東州、ソ連は1924年
に成立させたモンゴル人民共和国の勢力圏内の事件だ。日本軍とソ連軍が兵力を派遣し
大規模な戦闘に発展した。結果は、日本軍側が航空戦では数に劣りながらも常に優勢で
あったが「地上戦闘は戦車火砲の力の差が甚だしく敗戦に近い結果に終わり、モンゴル
共和国とソ連の主張する国境線はほぼ維持された。この時ポーランド侵攻直前のモスク
ワ主導部は「日ソ両軍の現在地を停戦ラインとし、国境線の画定は後日設立の国境確定
委員で交渉する。」とのクレムリンの決定で事件の停戦の合意が、9月15日深夜にて
成立した。ソ連の南下作戦は事実上稼働しドイツの侵攻作戦で止められたのである。

553: 名無しさんAA:17/10/02 17:41
労農赤軍を組織していた事が原因である。当時日本の租借地関東州、ソ連は1924年
に成立させたモンゴル人民共和国の勢力圏内の事件だ。日本軍とソ連軍が兵力を派遣し
大規模な戦闘に発展した。結果は、日本軍側が航空戦では数に劣りながらも常に優勢で
あったが「地上戦闘は戦車火砲の力の差が甚だしく敗戦に近い結果に終わり、モンゴル
共和国とソ連の主張する国境線はほぼ維持された。この時ポーランド侵攻直前のモスク
ワ主導部は「日ソ両軍の現在地を停戦ラインとし、国境線の画定は後日設立の国境確定
委員で交渉する。」とのクレムリンの決定で事件の停戦の合意が、9月15日深夜にて
成立した。ソ連の南下作戦は事実上稼働しドイツの侵攻作戦で止められたのである。


554: 名無しさんAA:17/10/02 17:41
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 200----

 日本が本格的に国際会議で連合国の一員として派兵したのは1918年シベリア出兵
が初めてだろう。この時大日本帝国・イギリス帝国・アメリカ合衆国・フランス・イタ
リアなどと一緒に連合国として 「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」と
いう大義名分でシベリアに出兵した。ロシアでは革命が起こって社会共産主義を封じ込
めると言う提言であったが 現実的にはロシア帝国時代の外債と、露亜銀行などの様々
な外資を保全つまり借金の取り立てであったと言われる。だが日本からは兵力7万3千
人、約9億円の国家予算(当時)という巨額の戦費を投入して3千人〜5千人の死者を
出し撤退した。ロシアでは元々経済は破綻して近代化の遅れで戦いに敗走を重ねていた
。1917年に2月革命、11月にはレーニンのボリシェヴィキ社会主義革命を経て翌
年帝国は崩壊した。仏英と戦争を起こしていたドイツは単独で講和条約を結び仏英と向
かいあったのだ。仏・英はこれにより大攻勢をかけられて苦戦し、連合国としてドイツ
と共に、同時にロシアの革命政権を打倒する道を叫んだ。こうして干渉戦争を開始し、
ロシア極東のウラジヴォストークに「チェコ軍捕囚の救出」を大義名分に出兵した。日
本でも出兵論が大勢を占め出兵を決定した。海外の知識層はレオナード・ハンフリーズ
意見も同じ分析をしている。「当時の日本側の事情として、領土獲得への野心、日露戦
争後に失った利権の奪還、地政学的な理由であるロシアと地理的に近い事や、さらには
日本の利権が絡んだ満州、日本統治下の朝鮮半島は直接ロシアと国境を接していた等の
みならず、政治的・イデオロギー的な理由もあった。すなわち、日本の政体(国体)で
ある天皇制と革命政権のイデオロギーは相容れない以上、共産主義が日本を含めた同地
域に波及することをなんとしても阻止する必要があったのであろう。」としている。が
これは他の内情もあった。陸軍と海軍の勢力争いと張作霖や朝鮮半島の策動である。こ
の事で張作霖は完全に日本軍の下を決意したし、逆に共産党員が地下活動、即ち諜報戦
に移ったのは間違いなかった。政府としては日露戦争の賠償に国民が不満であった事の
解消材料としても利用した。当初のウラジヴォストークより先に進軍しないという規約
を無視し、ボリシェヴィキが組織した赤軍や労働者・農民から組織された非正規軍たる
パルチザンと戦闘を繰り返し、北樺太、沿海州や満州を鉄道沿いに侵攻。シベリア奥地
のバイカル湖東部までを占領し進軍した。だが張作霖の共闘決意によって幣原外交は魔
境の様なとめどない兵士の死者と莫大な遠征浪費によって平和がくじかれた。


555: 名無しさんAA:17/10/02 17:42
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 201----

 こうして、最終的にバイカル湖西部のイルクーツクにまで占領地を拡大した。各国よ
りも数十倍多い兵士を派遣し、各国が撤退した後もシベリア駐留を続けた。又この時に
占領地に傀儡国家の建設を画策。日本はロシアのみならず、イギリスやアメリカ、フラ
ンスなどの連合国からも領土的野心を疑われた。だが北方からの憂いを取り除き撤退し
たかったのは当然であった。このシベリア駐留は1918年のドイツの帝国革命が起こ
って停戦協定を結び、連合国各国が引き揚げても駐留した。既にシベリア介入の目的を
失い1920年には相次いで撤兵したが、日本軍は更に単独で駐留を続行した。翌年の
ワシントン会議開催時点で出兵を続けていたのは日本だけであった。こうしてロシア側
も境界の防備の必要性を学んだのだ。その時 ロシア帝国は清の間で結ばれた北京条約
(およびその後の補助的な国境に関する合意)に基づき、国境線は満州と中華との国境
を「張鼓峰頂上」を通過していると考えていた。一方、日本側の方は「張鼓峰頂上一帯
」は満洲領であるとの見解を持っており、ソ連側は国境線を曲解して、国境線の標識は
改竄させたものだと日本は主張していた。いずれにしても、この丘の防衛を担当してい
た朝鮮軍第19師団は国境不確定地帯として張鼓峰頂上に兵力を配置していなかった。
この国境問題がノモンハン事件として噴出した。基本的にこの地区を守っていたのは、
元々張作霖の奉天軍であった。ところが張作霖が爆死し関東軍になると手薄と見てか、
ソビエト国境警備隊の小部隊がハサン湖の西側高地の領域に入り、山に砲床、観測壕、
鉄条網、通信施設などを建設するなど、築城をはじめた。更にこれを監視中の松島伍長
を不法に殺害した。その地域の防衛を割り当てられていた日本の朝鮮軍は当初はソビエ
ト軍の前進を無視していた。しかし、管轄地域が張鼓峰で重なっている関東軍は、ソビ
エト軍の企図に疑惑があるとして、もっと対応するよう朝鮮軍を後押しした。これを受
けて朝鮮軍はこの件を東京に知らせ、ソ連に対して正式に抗議するよう助言した。この
国境の曖昧だった地帯は、長年スパイ戦に使われてスパイの巣窟だったのである。この
シベリア出兵に時、日本軍が撤退しなかったのには政治的理由よりは日本人気質、人情
がそこにあった。と言われる。1918年から1922年までの間、連合国が勝手に、
「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分で内政干渉して行っ
たシベリアに出兵であったが、真面目にそれを受けて行ったのは日本だけだった。この
オールド・ボリシェヴィキが指揮して起こした十月革命者は特に政治犯とポーランド人
をナチスのユダヤ人迫害の様に次々にシベリア抑留して収容所に送った事から始まる。

556: 名無しさんAA:17/10/02 17:43
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 202---

ロシア皇帝退位時のロシア革命時には「パン・土地・平和」をスローガンとして掲げた
を目の前にして「平和を求める大衆の意見を尊重すべき」とのトロツキーの意見が反映
されたものとしいる。その市民革命は「パンが無ければお菓子を食べればいい」との声
に集約される。ボリシェヴィキはメンシェヴィキや社会革命党に比べ少数派であったが
、人事と要職を握って「多数派」を名乗り粛清し押さえた。政権取ったその後も粛清を
繰り返し暴力革命を主張した。こうして徹底した中央集権による組織統制が特徴とする
共産党体制が産まれて、そのまま後身である ソビエト連邦共産党へと引き継がれた。
ボルシェヴィズムスは第一義的にロシアの共産主義者を指し、過激なロシア第一主義に
過ぎなかったが、それを隠して共生社会を掲げた。帝政ドイツやナチス時代にはドイツ
の中の社会民主主義より最もに急進的な過激思想を指した。つまり日本語的にはゆるい
共済社会を社会主義とし 過激なヤクザの様な過激な殺人を厭わない共済社会を共産主
義と呼んだが その通りの暴力的世界革命を平和な共生社会の経過であると国際旅団を
作って諜報活動に暗躍していた。ロシアのサンクトペテルブルクモスクワ鉄道の開通を
受けてこの便利さが支持され、サンクトペテルブルクワルシャワ鉄道、モスクワニジニ
・ノヴゴロド鉄道などが次々と予定され、その反対には国際旅団は活躍した。こうして
早くもこの鉄道輸送網の完成を見て発達は極東地域との格差を産んでいた。1860年
代には既に鉄道事業および鉄道監督行政を所管する官庁を整備し1865年、皇帝アレ
クサンドル2世は勅令を出し、内務省と逓信庁電信部門を統合したロシア帝国運輸通信
省を発足させていたがとん挫していた。こうして1867年には運輸通信省建設総局が
出来て鉄道網整備が急務である事になって、この時此処に労働者や技術者の必要性が出
た。此処に強制労働者としてポーランド人を送り込んでいた。当時ロシア帝国は この
ポーランド人政治犯などを多数シベリアに流刑し、ロシア革命当時のシベリアには相当
数のポーランド人がいた。その後、ロシア革命の混乱と1918年のポーランドの独立
によって、多数のポーランド人の孤児(シベリア孤児)がシベリアに取り残され、その
保護のために力を貸す国は殆どなかった。シベリア出兵中にポーランド孤児を救出し、
彼等を祖国に帰還させる事業で陸軍は動いていた。1920年に第1次ポーランド孤児
救済が、1922年に第2次ポーランド孤児救済がそれぞれ行われたのである。こうし
て約815名の孤児が帰還を果たした。このシベリア出兵に従事し孤児を救った51名
の日本軍将校に対し、ポーランド政府はヴィルトゥティ・ミリターリ勲章を授与して、
その功績に報いた。

557: 名無しさんAA:17/10/03 14:26
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 203----

 幣原外相は米英が同盟を求めた形でも仏国まで入れた同盟にした。つまりこれにより
米英の対共産党対策の諜報活動の情報は途絶えた。又田中義一や台湾政府の声を聞かな
い事で 現場の緊張には無知のままの外交活動をつづけた。こうして日本は誇張した力
の情報にドイツに引きずられた戦争となった。この戦争時においても「共栄圏構想」は
西はバイカル湖から一直線にビルマまで東はアリューシャン列島からガダルカナルまで
と言う途方もない範囲を自由勢力圏と想定していた。戦後の幣原内閣は1945年の東
久邇内閣の総辞職を受け、昭和天皇の依頼を受けた内大臣木戸幸一が中心となり、平沼
騏一郎、吉田茂らの協力により幣原喜重郎が首相候補となり出来た内閣だ。組閣の大命
が幣原に下り10月9日に内閣が成立した。当時の日本ではアメリカ合衆国ら連合国の
占領下にあり、幣原の訪問を受けたダグラス・マッカーサーにより五大改革と憲法の自
由主義化が示唆されるなど、連合国軍最高司令官総司令部の強い影響下にあった。幣原
内閣は憲法改正や社会立法に取り組む一方衆議院を解散し戦時色の一掃を図ったものと
みなされているが、GHQは幣原内閣の改革の取り組みが消極的だとして、同年のうち
に財閥解体などの急進的な改革や戦犯逮捕、総選挙期日の延期などを指示した。翌年に
公職追放令が発布され、これにより内閣自体の総辞職の危機を迎えたが、内閣改造によ
り存続し、総選挙の時期も3月以降の実施許可をGHQより得た。この間に内大臣府が
廃止され、また陸軍省と海軍省もともに廃止されて、これを改組した第一復員省と第二
復員省が新たに設置されたのだった。陸軍省は明治5年に兵部省から分離し、海軍省と
ともに設置されたものだ。太政大臣の統制下に軍政、軍令を一元的に統轄するフランス
型の陸軍組織として発足したが、後では軍令機関を独立させプロシア式に改められる。
1878年(明治11年)に参謀本部が設立されると、1900年(明治11年)には
専門教育重視のために教育機関として教育総監部を独立させて純粋な軍政機関となった
。解体され改組される時は旧陸軍省の資財は大蔵省に一括移管された。陸軍省の資料の
一部は、防衛省、厚生労働省に引き継がれている。また陸軍軍人の兵歴は当時の連隊区
司令部から都道府県に引き継がれてた。ところが海軍省は内閣の省であり、海軍大臣は
、天皇によって任命された。海軍大臣の職務は海軍軍人の監督など海軍軍政の管理であ
り軍令権は持たなかった。また大臣は現役の海軍大将又は中将が任命されていた。この
時幣原内閣は初めて 自分の間違いに気づいた筈だ。如何に多くの英霊で歴史があった
かと。それを全権大使で米英に引きずられた事で 日本に地獄を招いた事を知る。

558: 名無しさんAA:17/10/03 14:26
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 204----

 こうした体制が田中派が外交の中心に往かず 更に陸軍の戦争の開戦派を産む結果と
なった。又国際会議の軍縮会議などで海軍大臣が長期間日本国内にいない場合は内閣総
理大臣による兼任や、臨時の海軍大臣を設けたが これらの出席も海軍の役務であった
為 現地の事情と国際会議なり国際情勢との乖離が進んだ事も 日本の悲劇の要因の一
つになっていた。幣原外交は1922年やっとワシントン体制を作り上げワシントン会
議で締結された九カ国条約、四カ国条約、ワシントン海軍軍縮条約を基礎とするアジア
・太平洋地域の国際秩序を維持する平和体制の礎を見た事の成功を日本政府が生かせな
かった事にある。又国際社会はこの条約によって守られるべきものを守り切れなかった
。先に言った様にソ連の武力による世界共産革命を叫び諜報活動やテロ活動は止められ
なかった。それどころかこの条約はこの赤隊とされる潜入コミンテルンを切り落とす時
の足枷にすらなった。そして中国では毛沢東以下こうした国際的約束は全く関知せずに
ソ連の支援をうけて 誤報拡散や中心部爆破など攪乱と動乱焚き付けを数多く起こして
いた。それには理由があった。一つは中国人の野心だ中国政府は政府内でも多くの競争
があったし誰も統一中国など望んでなかった事だ。一つはロマノフ王朝が集めていた、
金銀財宝の金を持っていて資金は豊富だった。更に一つは食糧基地が国内に無かった事
だ。国民を雇う豊富な食糧は全て周辺の諸外国に頼る事しか無かった。トナカイの肉で
さえ言葉の通じない放牧民から買っていたのである。つまりはロシアでもソ連でも自国
民の胃袋を満たす為には 自給自足は出来ず常に周辺国の離反を止める事が仕事であっ
た。これが南下政策のもとであり戦争の要因であった。周辺国も自国民の食糧を失くし
までは輸出しないのだ。この開発にも強制収容の強圧的侵略が北欧や東欧になされて、
この極東開発に収容者を労働力として移送していたのである。幣原は大正から昭和にか
けての、第二次護憲運動で成立した加藤高明内閣の外相に就任した。加藤は第一次大戦
中に大隈内閣の外相として中国に対華21カ条要求を突き付けたことで知られる。この
年代は所謂大正デモクラシーの申し子だった。護憲三派運動を通じて協調外交路線に転
換していたというは日本に欧米文化が浸透した証でもあった。だが幣原や加藤はその中
でも代表するお坊ちゃまだったのだ。共に岩崎弥太郎の女婿で権勢も財力もあり格差の
是正に取り組まず 軍部財界一般庶民などの隔壁が産まれていたのである。これが確執
を産み誤情報と国策の判断ミスに繋がっている。戦後はその間違いにGHQは怒り修正
に追われたと言う。憲法草案でも幣原は理解していたが「松本案」が出てきた事にその
乖離が証明できる。

559: 名無しさんAA:17/10/03 14:30
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 205-----

 幣原外交は失敗の連続で これが今の日本を決定づけた。「国際協調主義」が特徴と
されるが、幣原の友好外交は、ひどく現状を無視するものであった。後の松岡外交同様
、日本を害する物でしかなかった。支那に甘く与えて舐められ、支那に関する現状を知
らされても、思い込んだ平和外交主張を変えなかった。日本とイギリスは支那における
利益が一致する為平和外交路線が英国寄りならまだよかったが、米国の言いなりだった
。既に米国で排日移民法が可決されていた。当時米国に行ける者は満州に行く必要はな
い感情が国民の間にあった。だが、一方的に絶対的な排日移民法を作ったので、外交に
対する国民拒否が出来た。イギリス租界奪取事件の時でも、イギリスは2万3千人の軍
隊で共に列国に同調を求めている。清朝から支那騒乱が起こり外国人居留民の安全が脅
かされた場合は、列国は出兵するのは北清事変同様 決まり事だった。ところが、幣原
は断固として出兵を拒否してしまったのだ。シベリア出兵以来の信頼が疑心に変わった
瞬間である。この日本の平和的というより意味不明な軟弱な態度は、逆に支那人の侮日
感情高め、幣原外交の継続を拒否する事件を起こし続ける。それが南京事件や漢口事件
であった。日本は英国や米国などと同じように大被害を受けていた。だが、日本だけは
報復せずに、居留民の一方的な引き揚げを決めてしまった。これは、支那共産党運動の
過激化する支那ナショナリズムや中国に暗躍する共産党の思うつぼで、弱腰に映った姿
は。「暴れれば日本人は逃げる」と支那革命運動の拡大と矛先の集中を促したのだ。こ
の幣原の軟弱外交はその頃の、大正天皇の崩御(1926年12月)と昭和天皇の即位で国内
の注目は釘付けとなって「南京事件」と平行して「昭和2年の金融恐慌」が起こって、
うやむやになったからだ。この政治の大混乱が落ち着くと幣原への大非難が起こるが、
時すでに過ぎて次のステージに移ってしまう、このことが日本に大きな悲劇をもたらす
。これはまるで頭の良い大学生がオウムに入信する様に 幣原は留学時代に秘密結社の
平和主義者団体に入り込んでいた事を物語るのだ。正に秘密結社ユダヤのシオニストの
ロッジ経営の面妖で醜悪な核心である。ロシアの南下と地域の自立更にイスラムユダヤ
などの原理主義集団の策謀と難民移民の移動は大きな国際問題である。ここに選民主義
の主張の破綻がある。知識や人格のない者の歴史的委譲である。破壊される世俗主義は
破綻でしかない。責任のない権限や財力は悲惨な欲望に果てる。此処に日本の戦前教育
の大事さと価値がある


560: 名無しさんAA:17/10/03 14:31
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 206-----------

弊害がすでにあった「幣原外交」がこの親からの権勢と財力で又再開されてしまう。
このため満州の日本人はさらに我慢に我慢を強いられることになった。そして我慢に何
らかの展望も失われた外交方針が出る。幣原の満州問題対策は、「被害に遭うのが嫌な
ら、引き揚げて来い」という方針だ。明治の昔に政府の政策に従って満州に赴き、何十
年も営々と努力して築いた財産や生活基盤を、少し情勢が悪いからと放棄して帰国せよ
、と言われても納得できるものではない。更に当時の日本経済がほとんど崩壊しては、
国内政治の安定は 朝鮮工業地帯と満州鉄道経営から出来ていた。政局が大波乱を呼ぶ
ことは目に見えていた。幣原が再び外相をやった時「日支関税協定」を結んで支那での
関税自主権を認めた。これは日本の「抜け駆け」として非常に他の列強から嫌がられた
。だがそうした恩恵を支那に与えながら、帰ってきたのは「満州赤化拡大」と「排日暴
動熾烈化」だけだった。こうして日支関係が好転するかに見えたその時期、幣原外交の
間違いで満州は赤化され、支那中央政府の支配の及ばぬ間島地方の反日暴動となって既
に中国大陸は混乱の極地で後戻り出来ない重大化をした。お坊ちゃま外相の英国式ブル
ジョアの所謂西洋列強に合わせた鹿鳴館外交の延長であり 不平等な通商条約締結と同
じに身分を自己保全する姿勢のままだったのだ。そこには俯瞰視野も将来展望も過去の
英霊達の意志や歴史は微塵もなかった。ただの共産党秘密結社ロッジの性格そのものだ
った。ハーディングは共和党のオハイオ州知事候補指名運動を始めたが、共和党大会で
指名を勝ち取るものの、党内進歩主義派と保守派の分裂によって、民主党の現職ジャド
ソン・ハーモンに敗れている。この当時共産党支援の共和党で第一次世界大戦後にアメ
リカ合衆国大統領になったウォレン・ハーディングの提唱で開かれた国際軍縮会議にて
、ワシントン会議においては全権委員をつとめたのである。これは北朝鮮の6ヶ国協議
に似ていて生粋の平和主義者のふりで柔和な物腰、そして『敵を作らないでください』
という選挙戦略で立っていたが裏では賄賂の収受と違法な融資に国有油田を取引して貸
し出し「黒い血のハーディング一家」の一員であったし「オハイオギャング」の一角で
もあった。彼らが中国経営にも共産テロにも深く情報を持っていたのは確かなようだ。
陰謀の末に敗戦を期した日本の苦悩はそのまま世界の苦悩でもある。人の心の隅にある
悪の論理や鬼の業呈を今も尚残して 現代の豊穣を破壊するであろう予測が出来る。


561: 名無しさんAA:17/10/03 14:46
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 208-----------
これまで述べた歴史の要旨は 如何に欧米文明が石の擁壁で構えた街づくりをするし
かない歴史だったか。と言う事だ。つまり何処かで何らかの異変があれば、「黄禍論」
の如く、イスラムから東欧のトルコから或いは北のロシアから容赦なく食糧を求めて、
彷徨い出てくる人々がいた。と言う歴史である。或る時は浮浪者として或る時は兵士と
して或る時は孤児として押し寄せてきた中で国家を維持してきた。そのそもそもの要因
は中華や中東の拡大した帝国主義の罪であろう。だが人類はこの帝国主義のこの悪態を
今だ是正するに至っていない。此処に核兵器の憂鬱がある。北朝鮮が今如何に日本との
外交を求め活動していたかは色々な資料で判明するが、それは在置諜者としての取り組
みと共に対米戦略だったのだろう。日本は明治政府が出来た時すでに大きな憂いを抱え
ていた。それは政府内の軍閥である。当初のこの軍閥競争は日本を支える為には大きく
貢献した。だが、大正・昭和になって海軍と陸軍の競争が覇権しあい その後は海外か
らの秘密結社や国際旅団などのスパイの餌食になっていた。それは「陸軍と海軍が全力
で戦い、その余った力で米軍と戦う。」と言う当時公然と訓示して来た軍人姿勢でも現
れいる。敵である米軍と戦う以前に、日本の陸軍と海軍は仲が悪く、統一した動きが全
くできず更に陸軍には共産党内通者、海軍にはユダヤ金融のフリーメイソンの会員が、
それぞれ深く入り込み跋扈していた事実がある。海軍が政府機関を牛耳り陸軍が戦略を
牛耳っていたからだ。もちろん、元を辿れば「陸軍は長州で海軍は薩摩」という背景か
らそれは出来上がったと言う歴史はある。だが南洋の孤島や南方の兵站に物資輸送する
海軍はその任を果たさなかったと言われている。つまり陸軍を干しにかかり、その為軍
の進撃には現地調達の命令に切り替わっている。これは国内に混乱を果たしていたのは
中国国内だけではなかったのだ。最初は、英米派(鹿鳴館派)の井上馨、欧州派(ドイ
ツ派)の伊藤博文らに対し、軍閥代表で反英米志向の山県有朋の3人が、均衡を図りな
がら国家運営を行っていたのだが、シーメンス事件以来山縣有朋が陸軍大臣になる頃は
、井上、伊藤が死去し山県が権力を独占した形で陸軍には豊富な資材力が資金源になっ
た。それでも児玉源太郎らの活躍により国家運営は安定していた。海軍は元々反戦主流
でハワイ奇襲にも精油施設を攻撃しなかった。既に国際舞台がどう動いているか知って
いてユダヤの情報も高かった。更に数々の兵站補給任務を投げ出し 山本五十六も古賀
峯一も完全な遺体はでてない。フィリピンのダバオとパラオ間で消息を絶っている。こ
れは無線傍受で暗号解読が終わっていたからだと言われる。だが逆に米英の罠に自ら入
っていったとも考えられる。一説ではオースラリアで余生を暮らしたとも囁かれる。


562: 名無しさんAA:17/10/03 14:47
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 209-----------

 日本の太閤秀吉が朝鮮征伐をしたのは 各地の沿岸で襲撃事件が多数起こっていた為
でもあった。日本を度々悩ましていた女真族の入寇とされ紀元前から続いていたと言わ
れる。また十世紀後後半頃から掛けて頻発した高麗軍の入寇のうち、1019年の刀伊
の入寇において対馬、九州の大宰府を襲った「刀伊」(朝鮮語で外様を意味する)とい
う海賊集団は、女真系の一部族が主体だったと考えられている。刀伊の構成員について
は高麗人や契丹人なども混じっていたと言われるが詳細は不明である。室町末期にこの
海賊を調べた所では奥満州の部族の一部と言う報告がなされた。歴史に現れて以来、遼
(契丹)に従っており、中国化の度合いによって熟女真と生女真の2大集団に分かれて
いたとされるが実はそれが違っていた事が明るみに出て来ている。清時代の建立と共に
部族制圧にこの種族を利用したのだ。つまり仏教徒イスラムのウイグルが仲良く暮らし
た為にその又北方のツングース系民族の一つの、最も凶暴とされるエヴェンキに満州族
の軍隊である八旗隊を作らせたのだ。この民族は肉食で寒い地方になれた生活をし、そ
の寒さから目が細い小太りである。正に「匈奴」とされる騎馬族で恐れられる「黄禍論
の元になった民族だった。この民族をチベット周辺国の征伐に多用した。そして清が終
焉を遂げる頃はこの北洋軍閥の直隷派(馮国璋)・安徽派(段祺瑞)・奉天派(張作霖)に吸
収されていたと思われる。直隷派の首魁として湖北督軍王占元や江西督軍李純と組んで
、北洋政府の中心となっていた安徽派の段祺瑞に対抗した事から恐らく直隷派(馮国璋)
にいたのだろう。長崎事件では清国の北洋艦隊は朝鮮東岸の元山に出動した事から朝鮮
元山に本拠を変えたとも取れる。元山は北朝鮮江原道元山市に位置する。朝鮮民主主義
人民共和国鉄道庁江原線の駅である。日本統治時代は平元線の終点駅で咸鏡線の起点駅
であったとされ、平羅線は間里〜高原〜咸興〜金策〜清津〜羅津を結ぶ。平壌から朝鮮
半島を横断して日本海側に出、咸鏡南道・咸鏡北道の沿岸部の大都市を結ぶ線で、ロシ
ア国境に至る重要な鉄道路線である。近くにラソン港がある。またこの満州族の軍隊で
ある八旗軍こそが八路軍の元とも取れ、漢軍八旗は満洲八旗・蒙古八旗とともに清朝初
期の軍隊の主力をなしたと言う。十全武功(じゅうぜんぶこう)では連戦負けなしとし
八旗軍そのものが女真族統一によって出来た軍隊だったとしている。


563: 名無しさんAA:17/10/03 14:51
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 210-----------

 実際エヴェンキ族とされる人は点在する。ツングース系民族の一つで、主にロシア国
内のクラスノヤルスク地方にある旧エヴェンキ自治管区地域に居住する。ほか、ロシア
国内ではサハ共和国などにも居住し、中国国内でも興安嶺山脈周辺の内モンゴル自治区
エヴェンキ族自治旗・黒竜江省などに居住している。エベンキとも表記される。同系統
にオロチョン族とテュルク系のヤクート族とウラル系のサモエード人(ユラツ人)と複
雑に混血を繰り返して、生活を営んでいる。日本では黒水部・粟末部など様々な部族が
在り、長く統一される事がなかった。と記載される。基本的に放牧と糞尿での暖を取る
モンゴル族と同じだが 特筆なのはー40℃の極寒の地に耐えうる生活が出来る事だ。
彼らはゲルよりかなり小さい雪の重みに耐える即席の板で家にしている。更に飼ってい
るのはトナカイである。更に糞尿と共にねぐらとする。極寒の地では細菌は繁殖せず、
外では氷ついて燃料にならないしその腐敗熱でも部屋に暖が取れるからだ。更に匂いは
熊などから襲われない力になっている。昼はトナカイ集団の最前線で熊などの猟をして
その肉の捌き具合は血さえ残さない程独特だ。だがこの末裔が朝鮮民族として言葉や文
化が類似しており、朝鮮民族の祖先という主張がある。2005年に韓国のイ・ホンギ
ュ(ソウル大医大教授)は「韓-ロシア ユーラシア文化フォーラム」において、エヴェ
ンキと韓国人の人種的類似性と関連して「韓国人は北方モンゴロイドのエヴェンキと南
方原住民の血が混ざって形成された民族」という見解を唱えた。その話によると、「何
年か前にDNA検査のためにエヴェンキの髪の毛をソウル大学に渡したことがあるが、
まだ研究結果は聞けなかった。エヴェンキも私たち(韓国人)のようにモンゴル斑点が
あり、顔付きも似ている」という。また、エヴェンキは現在まで「アリラン」と「スリ
ラン」という単語を使用しており、その後シベリア原住民の遺伝子と韓国人の遺伝子型
を分析した結果、約70%が典型的なモンゴロイドの遺伝型を見せており、父系の祖先
のY染色体の場合、シベリア原住民は主にO型、南アジア原住民はC・D型であるが、
韓国人はO型とC・D型が混ざっているという。これについて「韓国語の起源がツング
ース語だという学説を後押しできる実体的証拠が発見された、さらに多い研究が必要だ
」と説明した。獰猛果敢な蛮族の夷狄と同族であった韓国人とは納得できる話だ。また
これには欠損DNAの遺伝子がみつかり それが韓国を形作っている。


564: 名無しさんAA:17/10/03 17:41
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 216-----------

 日本は、満洲国の国づくりを支える決断に陸軍は多くの兵を労働者として使った。こ
の足掛かりになったのがダムの建設であった。大規模なダムを次々と建設して行く中で
陸軍がであったのが「野口遵(のぐちしたがう)」であった。中でも彼が造ったとされ
る「豊満ダム」は、高さ90M、長さ1100M、東洋一のアジア最初にして最大級の
ダムであった。 ダム建設によって、まず満洲の水害が激減したのだ。 治水可能になっ
てこれにより、農業振興が出来上がった。加えてダムは、満洲やその周辺の電力を賄っ
て有り余る供給をしたことで映画配給に及んだのだ。この豊満ダムが完成した時、世界
中から多くの人が見学に来ている。1934年着工、1942年に発電所として稼働開
始した豊満ダム。松花江をせき止めてつくられた堤防は、建設当時はアジアで最も高い
と言われた。その後、中国国内や朝鮮半島の各水力発電所のモデルにもなったこのダム
の設備容量は約100万kW。発電用途以外に治水、灌漑、生活・工業用水の供給に一役
買い大いに潤った。その後1944年に完成した朝鮮半島38度の国境沿いの水豊水力
発電所発電能力:60万kWも又同じ様に竣工させている。この発電規模が当時の世界最
大級であり、当時の日本国内の水力発電の総電力規模280万kWと比較してもその大き
さは巨大なのは容易に比較できる。建設当時、“東洋最高のダム”と呼ばれた中国・吉
林省の豊満ダムは満州国の要になった。フィリピンはスペイン植民地として350年、
アメリカの支配下で40年が経過してもそうしたダムやインフラ整備はしていない。又
ソ連と取り合ったベトナムもフランス植民地すらもわずかに港を建設した程度で英国に
至っては建造物と言えば教会すら倉庫の後に作っている。「住民の生活向上に役立つも
の」と言う意識が植民地思想には無かったのである。対して満洲は建国わずか10年に
してこのような建設をしていた。当時アメリカでもグランドクーリーダムが、同時期に
砂漠地帯であったコロンビア盆地へのかんがい用水供給を目的とした公共事業の一環と
して建設計画が立案された。もとより発電のためというわけではなかったが、途中では
核開発の電力として電源ダムに変更されたが、1933年12月に始まり、第二次世界大戦の
初期に完成した。当初、ダムの高さは現在よりも低いものと計画され、後でかさ上げが
できるものとしたが建設中に現在の高さとするよう変更された。これにより地元の先住
民達はサケマスの溯上や産卵がなくなって問題が起きたが、日本のダムは逆に地元民の
為に作ったと言うこの違いが西洋と東洋の違いであろう。又基本である鉄道輸送にも、
幾度も改良を重ねた。日本の新幹線構想の元になった高速輸送網計画である。日本が開
発した蒸気機関車は夢の超特急でもあった。

565: 名無しさんAA:17/10/03 17:48
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 217-----------

そうした中「あじあ号」は、当時の蒸気機関の最高水準70kをはるかに上回る最高時
速120km/hで走行する仕様であった。しかも、当時の機関車でありながらも、冷暖房
完備で運行した。鉄道敷は、年間600kmも延長され、新京、奉天、ハルビン、吉林、
チチハル等の新都市が建設され始めた。首都・新京では、百万人都市となるべく計画が
進められ、電気、上下水道が完備し、東洋初の水洗便所が整備された。新京放送局は、
百キロワットという東洋一の出力規模の放送局としてスタートした。おかげで、当初は
ラジオに馴染みのなかった満洲人が、昭和15年頃には日本人以上にラジオを聴く人が
増えた。満洲電信電話株式会社は、電話を敷設し、電話加入者は昭和15年には10万
人を超えた。又現地の教育にも力を注ぎ昭和9年には国立新京法制大学、昭和12年に
は建国大学が建立されました。こうして、銀行が生まれ、小中高の学校が設立され、重
工業地帯が整備され、農地は整備されかつ拡大し、病院ができ、道路ができ、空港や港
がで来たことで。満洲国では、治外法権もなくした。満洲人であれ、支那人であれ、日
本人であれ、満洲国法の下で等しく裁かれるようになった。これが13年の成果だった
。大東亜戦争の最中でも止むことのなかった満洲国の国家的インフラ整備事業は、昭和
20年8月9日、米国が広島に原爆を落とした3日後のソ連による宣戦布告で破られた。
南方戦線に戦闘用物資を送り、ほとんど丸裸状態だった満洲の関東軍17万人に、ソ連陸
軍 175万人が襲いかかります。日本軍の将兵には、弾も残されていない。あるのは、終
戦直前まで工事進行のために用意されていたダイナマイトだけです。彼らは、そのダイ
ナマイトを抱え、肉弾突撃で、ソ連軍の戦車の来襲を食い止めようとした。なぜか。日
本の婦女子や老人たちを、内地に逃すためです。しかし、男たちがソ連軍に肉弾突撃を
して戦い死んで行ったことをよいことにして、難民となった日本人の婦女子や老人に、
支那人や朝鮮人が襲いかかります。ようやく北朝鮮との国境の町、通化にたどりついた
とき、女たちは、衣類さえも奪われ、身にまとっているものといえば、大陸の寒空の中
で、むしろ1枚にされていた。そしてソ連は、戦後、日本の軍人、民間人、60万人〜70
万人と、様々な機械設備等をシベリアに連行し、ソ連の理想とする、有産階級(労働者
)が働かなくても、国家によって給料が支給され、みなが平等に暮らせるという「理想
」の実現のために、奴隷的労働を課せられた。その設備の一部はイランまで送っている


566: 名無しさんAA:17/10/03 17:59
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 218-----------

わずか13年で満洲国一国を建設した、その技術とノウハウと、設備一式のすべてを、
盗賊の如く持ち去り。その後ソ連は民間人までもなぶり殺しし連行した。収容所では、
無給のみならず一日一食パン一切れで彼らを働かせ、ソ連国内のインフラ整備をさせた
。近所の脱因の人からは毎日10人に一人は死んで言ったと証言がそこにあった。アメ
リカのボーレー調査団の報告によれば、ソ連が満洲から連行した資産は、約9億ドルに
相当する資産だったといわれる。当時大蔵省から抜擢され満洲国総務長官を務めた星野
直樹氏の言葉があります。建国わずか13年。満洲国の建設は遂に見果てぬ夢に終わっ
た。しかしこの間、日本の若き人々の費やした努力と苦心とは永久に日本民族の誇りと
するに足るものであると確信する。満洲国建設の仕事に参画することができたことを、
いまに幸福と考えているのは、決して私一人ではないと思う。満洲はその後、支那共産
党が、摂取し、自国の領土とした。この時毛沢東はこれを狂喜し、「東北省(満洲)を
手に入れたことは、支那すべての富を入手したことに等しい」と述べています。しかし
、支那共産党は、日本と満洲国が作った鉄道路線を、戦後の60年間、ただの1Mも伸
ばすことなく、日本と満洲国が築いた高速道路も、ようやく近年、日本の経済と技術援
助で完成させたとされていて、庶民の為の整備の気持ちはない。五族協和と王道楽土を
夢見た満洲国の姿は、いまはもう既にない。そして、支那共産党の民族同化政策により
、かつて 一国を築いた女真族も、すでにありません。満洲国の物語は、私達に色々な
事を教えて止まない。大切なことは、国家というものは、大国の意志で消えてなくなる
こともある、ということです。それも合意でも対立でもその頃の様な大戦状態はかなり
国は消える可能性が出て来る。と言う事。更にその状態は今でも出来る素地がある。と
言う事そのことを、わたしたち日本人は、もういちどよくかみしめてみるべき時がきて
いる。王道楽土を夢見た大陸浪人たちが創った「満州国」はいまはもうありません。
甘粕正彦の辞世の句を最後に紹介します 「大博打 身ぐるみ脱いで すってんてん」
彼が果たした役割が大きいとも言われています。甘粕正彦は東映の元となった人材を育
成した満州映画の社長でもあった。我々は生活も大事だが 政治を監視する事はもっと
大事だと事を知らねばならない。死ぬ間際には「満州国は満州人達のものでなくてはな
らない。」とも言って息を引き取ったとされる。

567: 名無しさんAA:17/10/03 18:02
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 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 219-----------

 このとき同じ陸軍でもかなりに異色の「帝国陸軍の異端児」の渾名が付くほど組織内
では変わり者の石原 莞爾(いしわら かんじ)が関東軍作戦参謀として就任してきた。
、乃木希典や大隈重信の私邸を訪ね、教えを乞うている程の勉学家でもあったがそれは
独学での事だった。色々と問題児として扱われながらも陸軍士官学校を卒業した卒業後
は、歩兵第65連隊に復帰して、見習士官の教官として非常に厳しい教育訓練を行った
とされる。ドイツへ留学(南部氏ドイツ別邸宿泊)する。ナポレオンやフリードリヒ大
王らの伝記を読みあさった。陸大30期卒業生。石原は前列中央連隊長命令で、不本意
ながら陸軍大学校を受験することになった。受験科目は、初級戦術学、築城学、兵器学
、地形学、交通学、軍制学、語学、数学、歴史などであり、各科目三時間または三時間
半で解答するというものであった。受かる気もなかった為全く勉強しなかった。しかし
、その試験に合格し、大正4年(1915年)に入学することになる。ここでは、戦術学、
戦略、軍事史などの教育を施されたが、独学してきた石原にとっては膨大な宿題も楽に
こなし、残った時間を思想や宗教の勉強に充てていた。その戦術知能は高く、研究討論
でも教官を言い負かすこともあった。また、日蓮宗系の新宗教国柱会の熱心な信者と言
う。軍事雑誌に掲載された戦術問題に解答を投稿するなどして学習していたが、『西洋
史講話』や『古神道大義』など、軍事学以外の哲学や歴史の勉学にも励んでいる。盛岡
藩家老で明治新政府の外交官だった南部次郎(東 政図(ひがし まさみち)よりアジア
主義の薫陶を受けていた為孫文大勝の報を聞いた時は、部下にその意義を説き、共に「
支那革命万歳」と叫んだという。石原が書いた『現在及び将来に於ける日本の国防』に
は、既に満蒙領有論が構想されている。また、『関東軍満蒙領有計画』には、帝国陸軍
による満蒙の占領が日本の国内問題を解決するという構想が描かれていた。こうして昭
和3年に関東軍作戦主任参謀として満州に赴任した。自身の最終戦争論を基にして、関
東軍による満蒙領有計画を立案する。昭和6年(1931年)に板垣征四郎らと満州事変を
実行し、23万の張学良軍を相手に、わずか1万数千の関東軍で、日本本土の3倍もの
面積を持つ満州の占領を実現したのは驚異でもあった。



568: 名無しさんAA:17/10/03 18:06
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 220-----------

 昭和11年(1936年)の二・二六事件の際、石原は参謀本部作戦課長だったが、東京
警備司令部参謀兼務であり反乱軍の鎮圧の先頭に立った。この時の石原の態度について
、昭和天皇は「一体石原といふ人間はどんな人間なのか、よく分からない、満洲事件の
張本人であり乍ら この時の態度は正当なものであった」と述懐している。この時、ほ
とんどの軍中枢部の将校は、反乱軍に阻止されて登庁出来なかったが、統制派にも皇道
派にも属さず、自称「満州派」の石原は、反乱軍から見て敵か味方か判らなかったため
登庁することができた。安藤輝三大尉は、部下に銃を構えさせて、石原の登庁を陸軍省
入口で阻止しようとしたが、石原は逆に「何が維新だ。陛下の軍隊を私するな。この石
原を殺したければ直接貴様の手で殺せ」と怒鳴りつけて、参謀本部に入った。反乱軍は
、石原のあまりの剣幕と尊大な態度におされて、何もすることができなかった。昭和12
年(1937年)に廣田内閣が総辞職した。これにより、次期首相にはかつて軍縮に成功し
、軍部ファシズムの流れに批判的であり、また中国や英米などの外国にも穏健な姿勢を
取る宇垣一成大将が俄然有力視され、ついに大命降下される運びとなった。石原莞爾は
参謀本部第一部長心得を中心とする陸軍中堅層と共に、軍部主導で政治を行うことを目
論んでおり、宇垣の組閣が成れば軍部に対しての強力な抑止力となることは明白であっ
たので、なんとしてもこの宇垣の組閣を阻止しようと動いた。だがこの宇垣一成も努力
の人でドイツに留学した経験を持つ。宇垣一成は、大正末期から昭和初期にかけて長州
出身者に代わって陸軍の実権を握り、宇垣閥と称される勢力を築いた人で、陸軍大臣と
して宇垣軍縮を断行したほか、クーデター未遂計画である三月事件に関与したと言われ
た。彼が予備役入り後に組閣の大命が下った時陸軍の反対で頓挫し、以後も幾度か首相
に擬せられたがいずれも実現しなかった。短期間外相を務めた後公職から引退し、戦後
になり参議院議員となったが在職中に死去した。この宇垣一成と対立した事には正義が
なかったが石原莞爾はそれを実行している。長州閥の権限強化に嫌気があったのだろう
だが、石原は後年、宇垣の組閣を流産させたこのときの自分の行動を人生最大級の間違
いだった。として反省している。石原の反省は、宇垣の組閣流産の後の政治の流れが、
石原が最も嫌う日本と中国の全面戦争、石原が時期尚早と考えていた対米戦争への突入
へと動いていったことによるものである。と言う


569: 名無しさんAA:17/10/03 18:12
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 221-----------

 満州時代の甘粕は、日本政府の意を受けて満州国を陰で支配していたとも言われる。
しかし甘粕はその硬骨漢ぶりと言動故に関東軍には煙たがられ、甘粕事件のイメージも
あり、士官学校の恩師である東條英機という例外を除いては、むしろ冷遇されいた。そ
の影響力はあくまで日本人官僚グループとの個人的な付き合いや、士官学校時代の同期
の学友達との人脈が源泉となっていたという。また、根岸の証言によれば、謀略の資金
源の大半は満映から出ていたという。1945年(昭和20年)8月8日ソ連は日ソ不
可侵条約を破棄し日本に宣戦布告。翌9日満洲に侵攻。ソ連軍が新京に迫りくる中で、
日本が降伏した翌日の8月16日甘粕は満映の社員を全員集めて「必ず死ぬ」と言った
上で、中国人社員に「満映は中国人社員が中心になるべき」と述べ、最後に「皆さんの
お世話になったことを深く厚く御礼申し上げます」と挨拶した。そのあとに身の回り品
を形見として一人一人に配り、社内の預金を退職金として全額引き出した。自殺を心配
し監視される中、その目を盗んで青酸カリの服毒自殺を図ったとされる。また石原莞爾
は「俺が理想郷を心に描いて着手した満州国が、心なき日本人によって根底からふみに
じられたのである。在満中国人に対する約束を裏切る結果となってしまった。その意味
において、俺は立派な戦争犯罪人である。独立に協力した中国人に対してまことにすま
なかった、と思っている。」と述べた。 1937年7月、盧溝橋事件を機に日中戦争
が勃発するが、日本・満州国・中国の連帯を唱える石原にとって日中戦争はあってはな
らない戦争であり、実際、「支那事変」が拡大に向かってはずみ始めたとき、当時にお
いて作戦部長であった石原は、近衛首相に「蒋介石と頂上会談を行い決着をつける以外
に術はない、石原が中国までお供する」と提案します。結局、近衛首相は決断に踏み切
れず戦争は拡大・泥沼化し、それが結果的に太平洋戦争へとつながっていった経緯があ
る。そして日米戦争もまた、石原にとっては何十年か早く始まってしまった戦争であり
、彼の戦略理論上、決して勝てない戦争であることを早くから認識していました。戦後
、石原は通信社の記者に対し、次のように語っています。「もし日本が真にサイパンの
防備に万全を期していたなら、米軍の侵入は防ぐことはできた。(中略)米軍はサイパ
ンを奪取できなければ、日本本土爆撃は困難であった。(中略)蒋介石がその態度を明
確にしたのは、サイパンが陥落してからである。サイパンさえ守り得たなら、日本政府
は東亜の内乱を政治的に解決し、中国に心から謝罪して支那事変を解決し、次に民族の
結合力を利用して東亜一丸となる事が出来たであろう。」と懐述している。

570: 名無しさんAA:17/10/03 18:26
 彼は『世界最終戦論』を唱え、東亜連盟として 日本、満州、中国の政治の独立に力
をつくし朝鮮は自治政府として、経済の一体化、国防の共同化の実現を目指した構想を
提案し、戦後の右翼思想にも影響を与えていた。その一方で、熱心な日蓮主義者でもあ
り、最終戦論では戦争を正法流布の戦争と捉えていたことはあまり知られていない。最
終戦争論とは、戦争自身が進化して戦争形態や武器等などが巨大化してやがて絶滅する
。と言う物で絶対平和が到来するという説である。その前提条件としていたのが、今の
核兵器クラスの「一発で都市を壊滅させられる」武器と地球を無着陸で何回も周れるよ
うな兵器の存在を想定していた。といわれる。比喩として挙げられているのは織田信長
で、鉄砲の存在が、日本を統一に導いたとしている論法だ。ドイツへの留学中の南部氏
のドイツ別邸宿泊してナポレオンやフリードリヒ大王伝記を読みあさった結果の推論だ
ろう。また、日蓮宗系の新宗教国柱会の熱心な信者となった為末法思想の上の平和論と
も言える。これらが欧州文化の持つ異文化や有色人種に嫌悪する思考と人種差別には、
ぴったり納まった未来像であったとも考えられる。石原が昭和2年(1927年)に書
いた『現在及び将来に於ける日本の国防』には、既に満蒙領有論が構想されている。又
『関東軍満蒙領有計画』には、帝国陸軍による満蒙の占領が日本の国内問題を解決する
という構想が描かれている。翌年に関東軍作戦主任参謀として満州に赴任すると。自身
の最終戦争論を基にして、関東軍による満蒙領有計画を立案し実行する。昭和6年での
板垣征四郎らと満州事変を実行し、23万の張学良軍を相手に、わずか1万数千の関東
軍で日本本土の3倍もの面積を持つ満州の占領を実現し建国に至ったとする、この満州
国の建国は、「王道楽土」「五族協和」をスローガンを必要としたが、それは日本自衛
の方法論の究極でもあった。これにより満蒙領有論(植民地支配論)から満蒙独立論(
経済生活共有防衛論)へ転向させ日本人も国籍を離脱して満州人になるべきだと語って
いる。だが軍部は日本及び中国を父母とした独立国と東洋の自立の布石としてとらえた
のであった。しかしそれは当然ながら、石原も又独自の構想である最終戦争たる日米決
戦に備えるための第一段階であり、それを実現するための民族協和であったとも指摘さ
れる。基本的にベルリンで戦争論を学んだ時殲滅戦略と消耗戦略の類型を学び取り、戦
争を決戦戦争と持久戦争に分類される手法を学んでいる。最終的に決戦戦争では武力の
重要性が高く、その経過は期間は短期となる。一方で持久戦争では武力以外の手段が他
の手段に対して相対化され、戦争は静的でその期間は長期戦となる。と知っていて、そ
の防御戦闘の技術的優位性や経済優位性が圧倒的に高まってから行うものとし、将来の
戦争は決戦戦争の形態に移行し大量破壊兵器で戦国時代が終了すると予見していた。

571: 名無しさんAA:17/10/03 21:49
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 223----------

 日本では、戦略という言葉の意味に主に最も次元の高い大戦略である国家レベル、に
おける、外交や経済戦略がなかった。「国家の政治的な目的を達成するための行動の指
針」について陸軍局と海軍局には各自あったがそれは決して交わっていない。不用意に
発刊された石原のこの発刊は多分にアメリカの戦略に大いに脅威を与えたであろう。こ
の後日本が対日制裁での物資補給が滞ると、御前会議では日本が対米英蘭開戦を正式に
決定した。南部仏印進駐後に対外関係、日米関係が決定的に悪化し「ハル・ノート」を
突きつけられた後の1941年に開かれた御前会議においての決定はそれまでを踏襲し
た決定ではあったが「12月1日午前零時までに日米交渉が成立した場合は武力発動を
中止する」という留保付きの明文でその危機に心理的負担を軽くしている。それまでに
も、9月6日の御前会議で第三次近衛内閣が決定し、11月6日の御前会議においての
東条内閣が再度決定し承認された「帝国国策遂行要領」で、すでに12月初旬の開戦が
決定されていた。 とはいえ、11月5日の決定を受けた陸海軍の現場では、直ちに、
フィリピン、マレーなどに対する南方作戦やハワイ攻撃をはじめとする作戦準備を発動
した。 無論、当時の軍事・政治エリートの中にも、米内光政海相や山本五十六連合艦
隊司令長官、井上成美第四艦隊司令長官など開戦に消極的であったし、日米の物的基盤
比較に関する報告書、並びに図上演習・兵棋演習等を通じ、たとえ 南方作戦が順当に
いったところで対米戦争に勝ち目のないことは予想出来ていた筈だった。この対米戦争
の愚を知り、アメリカに対して勝ち目はないことを悟っていた にも拘らず、国家の政
治的な決定に殉じ、真珠湾奇襲作戦を策定・実施した山本は、いわば軍人の鑑であり、
一組織人としてあるべき姿を体現した人物であるように言われる。だがそれにも拘らず
、なぜ当時の日本は「自滅軌道」ともいうべき敗戦必至の対米戦争へと向かい、未曾有
の惨劇を招いてしまったのかは今だ闇の中である。真珠湾攻撃を考案した山本連合艦隊



572: 名無しさんAA:17/10/03 21:50

司令長官は、1936年12月から39年8月にかけて務めた海軍次官時代、対米戦争への傾斜
とみられるあらゆる国策に対し断固として反対していたし、三国同盟締結を画する政府
に憤りを覚え、「日米正面衝突を回避」すべく「絶対に日独同盟を締結す可からざる」
との意見書を海軍省に送っている。この山本に対して 石原は大局的な戦略を何よりも
重視し、山本は与えられた状況の下、作戦・戦術のレベルでより良く戦うことを追求し
たと見ることができる。その長期的にも短期的にも開戦反対の2人でも止められない動
きは、当時の新聞やメディアの策略としか言いようがない。ロッジ経営フリーメイソン
も国際旅団経営のコミンテルンもドイツシオニストも英国にコミンテルンも全てが日本
の開戦を望んでいた。しかしミッドウェー以降の史実を見てもわかるように、開戦での
戦略の不備を作戦・戦術で補うことは到底不可能であることは否めない。それどころか
海軍には殲滅作戦の意識も陸軍との協調作戦には極めて否定的で、来迎礼賛は一つも無
かったし、孤島の陸軍の兵糧攻めに加担までしていたと言える。


573: 名無しさんAA:17/10/03 21:50
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 224-----------

『石原莞爾 マッカーサーが一番恐れた日本人』(双葉新書、二〇一三年二月一七日)
には、石原莞爾がジャーナリストの マーク・ゲインに、日本の敗因など吐露している
『ニッポン日記』(筑摩書房 一九五一)ので、そのまま紹介する。昭和二十一年四月
は、講和条約締結前で、まだ交戦状況下にある。他の軍人たちは自殺・自決したりして
自ら「心の法廷」に決別したが、石原は連合軍最高司令官マッカーサーや米大統領トル
ーマン、アメリカ国民に向って堂々と反論した。それがマーク・ゲインの『ニッポン日
記』に、こう書かれている、「私が現役に止まっていたら、あなた方アメリカ人にもっ
と金を使わせたでしょう。戦線を縮少し、アメリカの補給路を延長させ、日華事変を解
決すればもっとうまくやれたと思う(中略)。日本の指導者たちがミッドウェーの敗戦
の意義を埋解し、ソロモン群島の防衛線を強化していたら、太平洋の広さが日本に味方
していたにちがいない。山本五十六大将らは誤りを犯した。どこに根拠地を求めるかを
知らなかったからだ。サイパン失陥を聞いたとき、私は敗戦を覚悟した。」「私は支那
とは和平できたと思っている。われわれは東亜連盟に非常に確信を持っていた。その精
神を中国民衆に浸透させることができたら、戦いを終えることはできた。東亜連盟は、
終始非侵略主義だった。国際連盟が、中国が満州国を承認さえすれば、日本軍隊は中国
からの撤退しうると論じていた。蒋介石は相互に結末をつける段どりとなっていたから
満州国を承認しただろう。私は終始、中国本土から撤退し、満州国をソ連との緩衝地帯
にせよ、との意見だった。勿論我々はソ連と戦う意志などはなかった。」そして石原は
、東條については「無能な男」と語る。「対中国政策に関しては、東條と私との間に別
に意見の相違はなかった。なぜなら、東條という男は、およそプラン(作戦)など立て
る男ではないからだ。彼は細かい事務的なことはよくできる。しかし中国政策というよ
うな国策や大問題に関しては全く無能だった。彼は臆病者で私を逮捕するだけの勇気も
なかった。東條のような男やその一派が政権を握りえたという事実が、すでに日本没落
の一因でもあった。」と述べた。さらに東條に迫害され続けた東亜同盟会員とマッカー
サーについても語っている。「不幸なことは、東亜連盟は貴国の命令で解散させられた
。東條も連盟を弾圧しようと試みたが連盟は朝鮮でも満州でも、また支那においても、
力強い勢力を維持し(続けたなら平和維持)出来ただろう。マッカーサーが東亜連盟を
解散させたとき、我々は旧日本の軍国主義とアメリカの軍国主義者とは何の違いもない
ことを知った。東亜連盟こそ、共産主義思想と対等の条件で戦える唯一の組織だった」

574: 名無しさんAA:17/10/03 21:52
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 225-----------

【中略】最後に、「日本の敗因は何ですか」と聞かれたときは、はっきりとこう話した
。「日本の真の敗因は、民主主義でなかったことだ。特高警察と憲兵隊のおかげで、国
民はいつも怯えていた。しかしこれらの警察力が、今除去されたということが、ただち
に日本の民主化を意味するものではない。が秘密警察が破壊された以上、マッカーサー
は日本人の手で追放を行わせるべきである。総司令部のやり方を見ていると、どうも信
用できない人たちの情報に頼っている、というのが現状だ。新聞関係のあなた方などが
総司令部が真実を知りうるように、大いに助力されることを、私はお勧めする。」と。
早瀬氏の『石原莞爾 マッカーサーが一番恐れた日本人』には、興味深い記述だ。
戦前、皇室には予算として年額450万円が国家予算から計上されていたが、一説によ
れば天皇の総資産は少なく見積もっても約16億円であるという。だが、宮内庁のこの
数字は嘘で、本当の資産総額は、海外へ隠した資産を含めれば、信じ難いような天文学
的金額であるともいわれている。皇室予算だけではこのような金額を貯蓄することは不
可能であったが、当時皇室は横浜正金(後の東京銀行)、興銀、三井、三菱ほか、満鉄
、台湾銀行、東洋拓殖、王子製紙、台湾製糖、関東電気、日本郵船等、大銀行、大企業
の大株主であり、その配当総計は莫大なものであった。すなわち、これら企業・銀行の
盛衰は、そのまま皇室に影響を及ぼすわけである。こうなると戦争で、財界が植民地か
ら搾りとるほどに皇室は豊かになるということになる。」戦前の天皇家と国家、あるい
は天皇家と資本家の関係がこれで言い尽くされているであろう。天皇は決して操り人形
では無かった。彼の侍従の話では、彼は、強力な独裁制の主唱者として登場してきたと
いう。彼は、卓越した知性の持ち主とも言われている。1945年までは、彼は、政府
のあらゆる詳細に明るく、すべての分野の官吏と逐一協議しており、常時、世界情勢に
ついての全体的視野を保持していたという。彼の、民事、軍事、宗教上の力は、絶対的
なものと受け止められておりながら、彼はそれをただ儀礼的に、かつ国務大臣の推奨を
追認するのみで執行していたとも言われている。だがそれは間違いだ。また、どの話の
中でも、彼は常に大臣の構想に遅れを取らずに助言を与え、そして、彼が受け入れられ
るような推奨案へと舵取りしていたことが次々と語られている。また、時には、反対す
る見解をも採用し、少数意見も受け入れ、あるいは、ひとつの推薦案を丸々無視したと
すらも認められていた。調べた確証から浮かび上がる天皇の姿は、公式の伝記にあらわ
れるような姿とは、まるで嘘のように異なっている。


575: 名無しさんAA:17/10/05 13:51
 昭和天皇に対して 軍人だった人の多くの見方では、裕仁は、献身的で、衰えを知ら
ず、利巧かつ細心で、そして忍耐力を備えた、卓越した戦争指導者だった。と言われる
。ただ、彼も又、アジアから白人を追放するというその使命を帯びた盟友の誉れ足らん
とした大祖父から その座を引き継いで来たアジアの指導者の一人だった。それでも、
国民はそうした事はもっと無関心で後進的であった。その為に、人々をそうした役務に
かりだすため、戦争の20年前から、心理的、軍事的に準備を重ね、巧みに操っていっ
た中の一人と言える。只石原莞爾が天皇の国際的裏事情に皆無であった様に、昭和天皇
も又身近な所に松岡洋右や木戸幸一の様な国家神道の平和や和平の本意に反した洋蒙派
を側近としてつけた事が、大きな間違いではあったろう。後のGHQの調書取りに「隠
すところなく、恐るるところなく」、いかに自分が軍国主義者と戦い、政治的には非力
であったかを述べ、当時の政府や軍部の内情を暴露して天皇免訴に動いたと言う。しか
し、結果的には連合国との開戦に対して明確に反対しなかったことから、イギリス代表
検事であるアーサー・S・コミンズ・カーからは、「“天皇の秘書”であるなら、親英
米派であった天皇の意向に沿って行動するのが道徳であろう。」として、「不忠の人間
」であると強く批判されが、正に政治や軍部の宮家派を作り翻弄させた中心人物達であ
った。結局、木戸の日記や証言は天皇免訴の決定的証拠にはならず、東條の証言によっ
て天皇の免訴は最終的に決定することになったが、天皇や東条を調査し指導する力もな
かった。将来陸軍を担うだろうとされる永田鉄山が駐スイス大使館付駐在武官となった
時永田とロシア公使館付武官小畑敏四郎少佐と欧州出張中の岡村寧次少佐の同僚三者は
ドイツのバーデン・バーデンで会合を行い、翌日にはここに東條英機も合流した。この
会合にて、陸軍における長州閥支配の打破、人事刷新、軍制改革、総動員体制の構築を
目指すことが合意され、陸軍の中に統制派とされる面々が第一次世界大戦時の欧州の総
力戦体制の構築を日本においてもおこなうことを目的として中堅将校を集めた一夕会が
結成された。此処に「ソ連の緩衝地帯」としての支那の安定を説き、天皇の下の結集を
図る皇道派と「日本の属国」として機能する為には支那を叩いて日本の力を示す必要が
ある。とした統制派の視点の違いがあった。これにより相沢三郎陸軍中佐による永田斬
殺事件が起きた。「支那と戦争すれば英米は黙っていないし必ず世界を敵とする大変な
戦争になる」と反駁した。だが総力戦計画に心酔していた陸軍は「国家総動員に関する
意見」などが認められて1926年(大正15年)に国家総動員機関設置準備委員会幹事
となり、内閣の資源局、陸軍省の動員課と統制課の設置に導き、初代動員課長となる。
その為この事件以降東条英機がこの課長となった。

576: 名無しさんAA:17/10/05 13:52
 昭和天皇は若い頃には、宮中の書斎にナポレオンの胸像を飾った中で過ごしていた。
有名な話で、パリを訪問した時の土産として自分で買ったもので、珍重していたと言う
。彼の持論はイギリスの分析したフランスの話とされる。「ナポレオンの軍隊は安上が
りの徴集兵で、この軍隊を愛国心に燃える兵隊の群れに仕上げた軍隊だった。」「日本
の軍隊も又 葉書一枚で徴兵された“民草”といわれる安上がりの軍隊で、ナポレオン
の軍隊以上に愛国心に燃えていた。」と比較され「ナポレオンは 補給のほとんどを現
地補給とした。天皇の軍隊はこれを真似た。」「ナポレオンは参謀部をつくり、機動力
にまかせて、波状攻撃を仕掛けた。天皇は大本営を宮中に置き、参謀部の連中と連日会
議を開き、ナポレオンと同様の波状攻撃を仕掛けた。」「真珠湾攻撃や、南方での戦争
は、ナポレオンの戦争とそっくりである。」と鬼塚氏は書いている。そう言われれば確
かにそうなのだ。つまり、昭和裕仁天皇はナポレオン崇拝で、それをならって大戦争を
仕掛けるという壮大な火遊びをやった。と見られる。真珠湾攻撃が「成功した」と聞く
と、狂喜乱舞したとされ、2・26事件の当時の侍従武官の本庄繁の日記には、天皇が
、ナポレオンの研究に専念した様子が具体的に描かれていると言う。敗戦で戦争指導の
責任を全部、東条ら軍人らに(それも陸軍ばかり)に押し付けた。大東亜戦争で米英と
戦った主力は帝国海軍である。陸軍の主任務地は支那およびビルマやインドであり、わ
ざわざ太平洋を主任務地としたのは海軍の主張であった。あの太平洋での拙劣きわまる
作戦で惨敗につぐ惨敗を喫し、国家を惨めな敗北に導いた直接の責任は、海軍の筈だっ
た。ところが、戦後には何故だか「海軍善玉論」がマスコミや出版界を席巻した。あの
戦争は全部陸軍が悪かったという風潮が数多く醸成された。何故か多くの作家がそのお
先棒を担いだ。海軍の作戦を宮中の大本営で指導したのが、昭和天皇だったし、陸軍の
満州占領に海軍を炊きつかせた天皇としては、どうしても敗戦の責任を海軍に負わせる
わけにはいかなかったようだ。そこから「海軍善玉論」を意図的に展開させたのではな
いか。と、多くの歴史家や佐藤氏は見ていた。だが私は裏にモルガンがいた。と思う。
太平洋作戦の全般を大本営の服部卓四郎や瀬島龍三らは「下僚参謀が勝手に指揮した。
」などとと書いているが、さすがに本当は昭和天皇が指導したとは書けなかったのだろ
。東京裁判で収監された東条英機は尋問に答えた。「我々(日本人)は、陛下のご意志
に、逆らうことはありえない。」と言ったが、これは当時としては真実である。しかし
東条のこの発言が宮中に伝えられると天皇は焦った。責任が全部自分に来てしまうと。
自分が絞首刑にされる。と意を決してそれで天皇は部下を遣わして、GHQに会いに行
ったし 周りは東条と軍部に戦争責任を負わせるべく木戸をして工作をした。

577: 名無しさんAA:17/10/05 13:52
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 229-----------

 そもそも江戸時代 天皇家が生き残るののは幕府にへつらう藩主達と同じ立場であっ
た。地位こそ高かったものの 外交に内政にタッチする事は無かった。それは幕末にあ
って外国船が沿岸に現れてもそれを指令する権限も資金も資材も無かった。宮中を守る
独自の軍隊すら徳川が指名した薩摩や長州や会津などの外様に守られての住居だったか
らだ。正に現人神であったのだ。この中で尊王攘夷が外様が焚き付けられた事は間違い
ない。そこには生活する庶民や日本の国体など言う視野はない。守る物も攻撃する力も
海外との話し合いする知識も無かったからだ。つまりTVのコメンターよろしく国内の
解説か判断の批判かしか無かったのだ。佐賀藩で大砲が造られ薩摩で反射炉で鉄の製造
に至った時クーデターを画策した。そしてその後ろ盾はイギリスであったと言える。明
治政府になって長州薩摩の軍閥が出来ても尚 明治政府には力は無かった。潰れたとは
言えグラバー商会他の借金は残っていたからだ。新政府や朝廷の両者ともにロスチャイ
ルドの資金力に支えられて債権の取り立てに悩まされていた筈だ。天皇家が返済し蓄財
に転じたのは日清戦争の時であろう。清国からの賠償金は3億65百万円程度であり、
その内そのまま2千万円が皇室の財宝になった。勿論この振込や運用は、皇室管理する
宮内庁の中ではあったろうが天皇の耳に入ったはずだ。これに図に乗って、その後には
経済戦略を取り次々と戦争を仕掛けていく趨勢を止められなかった「戦前の皇室予算は
年額450万円が国家予算計上がなされていた。一説によれば天皇の総資産は少なくみ
て約16億円である。」と宮内庁ははじいている。この数字は嘘で、本当の資産総額は
、海外へ隠した資産を含めれば、信じ難いような天文学的金額であるともいわれている
。皇室予算でこのような金額を貯蓄することは不可能であるが、当時の皇室は横浜正金
(後の東京銀行)、興銀、三井、三菱ほか、満鉄、台湾銀行、東洋拓殖、王子製紙、台
湾製糖、関東電気、日本郵船等、大銀行、大企業の大株主であり続けた、その配当総計
は莫大なものであった。数々の資本家は彼らの投資を受けて存続していた。中島知久平
「中島飛行機」津田信吾「鐘紡」藤原銀治郎「王子製紙」藤山愛一郎「大日本製糖」な
どそれは数限り沢山ある。彼らは中国との全面戦争とともに、イギリスとの戦争を説い
た高利益の基礎に外地会社の多角経営があり、これを積極的に中国領内に拡大する希望
を持ったことで、邦人会社の優位を保とうとしていたからだ。これら企業・銀行の盛衰
は、そのまま皇室に影響を及ぼしたわけで、こうなると戦争で、財界が植民地から搾り
とるほどに皇室は豊かになるという構図だと言うことになる。

578: 名無しさんAA:17/10/05 13:53
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 230-----------

天皇家は封建時代の末期、慶応三年全資産の現金評価金額がわずか10万2268円でした。
この頃天皇家では、出入りの豆腐屋さんに「今日の支払いはちょっと待って下さい」と
言ったことがあるほど貧乏していたという話が、京都には伝わっています。ところが、
明治になって、日本が資本主義的発展を始めてからは、表にみられるように、鰻登りに
資産が増え続けています。最初の頃は伊藤博文たちが、当時の権力者の象徴天皇に資産
力をつけて、海外資本からの買収に危険を感じたからだ。知っての通り伊藤は人身売買
の罠にかかった経験があった。更に天皇の尊いその力を利用して、日本を資本主義的に
発展させようと考え、「金は力なり」と言って、明治維新のときに地方の大名から取り
上げた。これも国内の対抗する兵力を減らす為に模索された。国の資産を次々に天皇家
の資産にした結果代わりに株資本の形態を整えた。各藩に銀行が出来上がりその銀行の
融通で藩主運営をさせ契約社会にした。その後憲法が制定され、国会が開設されてから
では、やりにくくなるからと、国会開設以前に駆け込むように天皇に資本投下を行なっ
ている。その後は日本が、アジアに侵略を開始してからは、雪だるま式に資産を増やし
て行く。経済学者の報告では、1917年ロシア革命でロシアの皇帝が倒されてからは
、天皇が世界一の大富豪になったとのことです。大正、昭和にはその1千万弱の資産が
終戦時37億円に膨れ上がっていた。国体とは実はこの資本の事であった。戦場で散っ
て行く若者たちを盾にして支配層が守ろうとしたものはこの「神聖な財閥」を頂点とす
る金融資本の塊だったのである。天皇家の資産は、戦後GHQによって財産税33億4268
万円が課税され、そのほとんどは物納された。その後に残された金融資産は1500万円。
この1500万円が、昭和天皇が亡くなった時には、20億円にも膨らんでいました。天皇家
に経済顧問として投資のアドバイスをしていたのは、元経団連会長の石坂泰三氏や元三
菱銀行頭取の加藤武男氏、元日銀総裁の森永貞一氏だった。明治維新以来、最高の財政
ブレーンが皇室の富を極限まで増やすために働いてきた。賄賂がきかないくらいに天皇
を金持ちにせよというビスマルクの助言に沿って、日本の一流企業や銀行の株式と年間
収益の10パーセントが天皇に譲渡されたのである

579: 名無しさんAA:17/10/05 13:54
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 231-----------

元々松岡洋右は11歳の時、父親が事業に失敗し破産し、親戚がを頼って既に渡米して
いた。18983年(明治26年)その父を頼り留学のため渡米した。アメリカでの生
活は厳しくキリスト教の影響を受け、入信に至った。来日経験のあるアメリカ・メソジ
スト監督教会牧師メリマン・ハリスのあたたかい信仰に見守られつつ、紹介された日本
自由メソヂスト教会の指導者となる河辺貞吉と親しくなり影響を受け、洗礼を受けた。
がそれでもアメリカでの生活は苦しいままで、最初の寄宿先に到着した早々薪割りを命
じられるなど、使用人としてのノルマをこなしながら学校へ通わなくてはならなかった
。という。また、度々人種差別の被害にあいこの体験が「アメリカ人には、たとえ脅さ
れたとしても、自分が正しい場合は道を譲ってはならない。対等の立場を欲するものは
、対等の立場で臨まなければならない。力に力で対抗する事によってはじめて真の親友
となれる。」を信条とする彼の対米意識を育んでいった。母親の健康悪化などで190
2(明治35年)、9年振りに帰国した。東京麹町に山口県人会の寮で独学での外交官
試験に挑み合格した。こうして外務省に入り中華民国上海、関東都督府などに赴任した
。その頃、満鉄総裁だった後藤新平や三井物産の山本条太郎の知遇を得て外交官になっ
た。明治13年に山口県熊毛郡の田舎町の廻船問屋の四男として生まれた彼が入信して
覚醒宗教派メソジズムの終末思想の「確証の教理」や「信仰の確証」をするメソジスト
とは誰も思っていなかったともいえる。「聖霊の証し」の強調は狂信主義で運動を特徴
づけるものでもあったからだ。それほど青年の頃のアメリカ留学は辛かったのであろう
。短期間のロシア、アメリカ勤務の後、寺内内閣のとき総理大臣秘書官兼外務書記官と
して両大臣をサポート、特にシベリア出兵に深く関与した。この時馬鹿げた事に日本政
府はあれほど諜報活動をしながらも樺太原油の情報を得て居ない。又1919年(大正
8年)からのパリ講和会議には随員(報道係主任)として派遣され、日本政府のスポー
クスマンとして英語の力を発揮、また同じく随員であった近衛文麿とも出会う。帰国後
は総領事として再び中華民国勤務となるが、1921年(大正10年)外務省を41歳
の若さで退官した。退官後はすぐに、上海時代に交友を結んだ山本条太郎の引き抜きに
より、南満州鉄道(満鉄)に理事として着任、1927年(昭和2年)には副総裁とな
る(総裁は山本)。松岡本人も撫順炭鉱での石炭液化プラント拡充などを指導していた


580: 名無しさんAA:17/10/05 13:55
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 231-----------

元々松岡洋右は11歳の時、父親が事業に失敗し破産し、親戚がを頼って既に渡米して
いた。18983年(明治26年)その父を頼り留学のため渡米した。アメリカでの生
活は厳しくキリスト教の影響を受け、入信に至った。来日経験のあるアメリカ・メソジ
スト監督教会牧師メリマン・ハリスのあたたかい信仰に見守られつつ、紹介された日本
自由メソヂスト教会の指導者となる河辺貞吉と親しくなり影響を受け、洗礼を受けた。
がそれでもアメリカでの生活は苦しいままで、最初の寄宿先に到着した早々薪割りを命
じられるなど、使用人としてのノルマをこなしながら学校へ通わなくてはならなかった
。という。また、度々人種差別の被害にあいこの体験が「アメリカ人には、たとえ脅さ
れたとしても、自分が正しい場合は道を譲ってはならない。対等の立場を欲するものは
、対等の立場で臨まなければならない。力に力で対抗する事によってはじめて真の親友
となれる。」を信条とする彼の対米意識を育んでいった。母親の健康悪化などで190
2(明治35年)、9年振りに帰国した。東京麹町に山口県人会の寮で独学での外交官
試験に挑み合格した。こうして外務省に入り中華民国上海、関東都督府などに赴任した
。その頃、満鉄総裁だった後藤新平や三井物産の山本条太郎の知遇を得て外交官になっ
た。明治13年に山口県熊毛郡の田舎町の廻船問屋の四男として生まれた彼が入信して
覚醒宗教派メソジズムの終末思想の「確証の教理」や「信仰の確証」をするメソジスト
とは誰も思っていなかったともいえる。「聖霊の証し」の強調は狂信主義で運動を特徴
づけるものでもあったからだ。それほど青年の頃のアメリカ留学は辛かったのであろう
。短期間のロシア、アメリカ勤務の後、寺内内閣のとき総理大臣秘書官兼外務書記官と
して両大臣をサポート、特にシベリア出兵に深く関与した。この時馬鹿げた事に日本政
府はあれほど諜報活動をしながらも樺太原油の情報を得て居ない。又1919年(大正
8年)からのパリ講和会議には随員(報道係主任)として派遣され、日本政府のスポー
クスマンとして英語の力を発揮、また同じく随員であった近衛文麿とも出会う。帰国後
は総領事として再び中華民国勤務となるが、1921年(大正10年)外務省を41歳
の若さで退官した。退官後はすぐに、上海時代に交友を結んだ山本条太郎の引き抜きに
より、南満州鉄道(満鉄)に理事として着任、1927年(昭和2年)には副総裁とな
る(総裁は山本)。松岡本人も撫順炭鉱での石炭液化プラント拡充などを指導していた


581: 名無しさんAA:17/10/05 13:55
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 232-----------

 だがこの松岡洋右も幣原内閣も 日本に「黄禍論」の禍い即ち諜報員の暗躍があって
大きく政治まで及ぼしている事が解らなかった。政友会は日本最初の本格的政党政治を
行った政党で戦前の帝国議会において幾度も内閣を作って日本を動かした。1900年
に超然主義の破綻と 政党政治の必要性を感じた伊藤博文が自らの与党として組織した
がその運営は帝国ホテルに事務所を設置するぐらい経済界との癒着があった。政党政治
に明治天皇は反対したものの天皇守護の政党も必要との説明で折れた。日露戦争以降の
交渉に西園寺などが欧米の「エリート・アングロサクソン・クラブ」に入会出来たから
とされる。英国ロンドン倶楽部 仏国パリ倶楽部 米国ボヘミアン倶楽部やフリーメー
ソンやイルミナティの世界だが、これは結局の所戦争時の個人的な外交会議に過ぎない
。だがそこでの同意や意向は強く政治の世界に反映された。こうして提言に基づき19
06年成立の第1次西園寺内閣には2大臣を送り、年来の主張であった鉄道国有化を実
現した。つづく第2次桂内閣にも与党、第2次西園寺内閣のもとでは原敬・松田正久を
中心に党勢を拡大する。第3次桂内閣に対しては護憲運動を組織して倒閣に追い込み、
1913年成立の第1次山本内閣の与党となった。なお、西園寺と桂が交代で政権を担
当したこの時代は桂園時代と呼ばれた。こうして激しく共産化を避けて資本主義作りを
行った。1930年に松岡が引き抜かれ、満鉄を退職して第17回衆議院議員総選挙に
郷里山口2区から立候補して当選する時は。議会内では対米英協調・対中内政不干渉方
針で固まろうとしていた。この幣原外交を厳しく批判し、国民から喝采を浴びる事にな
り1931年(昭和6年)の満州事変をうけて、1932年(昭和7年)、国際連盟はリットン調
査団を派遣、その報告書(対日勧告案)が9月に提出され、その後ジュネーブ特別総会
での採択を待つ状況だった。此処に松岡は全権大使として入った。連盟総会は日本に対
して厳しい雰囲気の中、開催される。到着早々の松岡は1時間20分にわたる原稿なし
の大演説を総会で行う。それは「十字架上の日本」とでも題すべきもので、「欧米諸国
は20世紀の日本を十字架上に磔刑に処しようとしているが、イエスが後世においてよ
うやく理解された如く、日本の正当性は必ず後に明らかになるだろう」、との趣旨のも
のだった。しかし、日本国内では喝采を浴びたし 会場もこの英語力にこの演説に拍手
だった。軍縮分館で行われた連盟総会で報告書は予想通り賛成42票、反対1票(日本
)、棄権1票(シャム)の圧倒的多数で可決・採択された。松岡はあらかじめ準備して
いた宣言書を朗読して総会から退場した。だがこの時脱会を決めたのは松岡ではない。
後日の外務省方針だったのである。それは世論に押されたからだ。此処に策謀がある。

582: 名無しさんAA:17/10/05 13:56
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 233-----------

 この演説は全く書類で配布はしていない。つまり公式文書としての声明をしていない
。又途中退席したが それは採決があった後だったのだ。更に言えば採決前の対談やら
根回しをやってないし この反論は宗教じみたキリストの話であり 反論に値しなかっ
たし この総会に例え演説が受けたとしても 本国の意向を無視した採決にはならなか
ったであろう。松岡はそこで脱会宣言した訳ではない。だが日本の新聞始め当時の報道
は「松岡が来てから日本はサイレント版からトーキーになった」と会衆は口々に世辞を
言い「国連よさらば。」などと銘打った新聞の論説が出され、帰国では英雄であった。
 実際は松岡の「十字架上の日本」の演説の後、「リットン卿一行の満州視察」という
満鉄広報課の作成した映画が上映され、各国代表を含め約600人程が観覧したが、併
合した朝鮮や台湾と同じく 多大な開発と生活文化振興を目標とする日本の満州開発姿
勢に、日本反対の急先鋒であったチェコ代表ベネシュも絶賛したが共に日本の対外宣伝
の不足を感じ、松岡にその感想を伝える程であった。つまり放映は遅かったのである。
事前に各国に配布し鑑賞してもらい その開発の為の努力の数値を示した方が良かった
はずだ。だがそれには裏がある日露戦争は、日英同盟による支援のほかに、アメリカの
ユダヤ資本の支援を受けて戦った戦争だった。日英同盟は、バルチック艦隊のアジア帰
還をさまざまの形で妨害し、アメリカユダヤ資本は、戦費を調達した。そして、日露戦
争直後、ポーツマス条約締結の最中、アメリカの鉄道王ハリマンが来日し、満州におけ
る共同の鉄道経営を提案し、日本政府内の大方の合意を取り付け、帰国した。その帰国
後、ポーツマス条約交渉から帰ってきた、小村寿太郎は、「桂・ハリマン覚書」の破棄
を強硬に主張し、覚書は破棄されることとなった。さらに、ハリマンの商売敵のモルガ
ン系銀行団からの資金提供の申し出も拒否したのである。日本がこの覚書を破棄したこ
と知ったハリマンは、烈火のごとくに怒り、ただちに翌年の8月に腹心のウィラード・
ストレイトを奉天領事に送りこみ、徹底して日本の利権とアメリカ人の利権とを衝突さ
せていったのである。この時、ハリマンは次のような言葉を言い放った。「日本は十年
後に後悔することになるだろう」又当時、セオドア・ルーズベルト大統領は、次のよう
な言葉(書簡)を残している。「私は従来日本びいきであったが、ポーツマス会議開催
以来、日本びいきでなくなった……」 と こうしてアメリカ議会に反日抗戦の機運が
高まっていったのである。

583: 名無しさんAA:17/10/05 13:58
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 234-----------

 この緩衝地帯の満州鉄道経営に米国を入れる事がロシアに備えるとともに共同経営で
日米友好をもたらし一石二鳥になったのではないか。これを蹴った小村寿太郎は歴史を
変えたとの批判は多い。一見この意見は正しいように思われる。だが小村寿太郎は外交
の天才で彼がミスを犯すことなど在り得ない話だ。第1回目の文部省海外留学生に選ば
れていてハーバード大学へ留学し、法律を学んだ天才で。帰国後は司法省に入省し、大
審院判事を経て、1884年に乞われて外務省へ転出する。陸奥宗光に認められてから
は、1893年に清国代理公使を務めていた。従って彼は欧米の二枚舌の醜さを十分に
知っていたし「黄禍論」で理論や経済的には同じ白人国家が対立しても感情や本能的に
は有色人種を裏切る事を知っていた。更に彼の頃のフグ計画であるユダヤ人入植地計画
がロシア国境沿いで御破算になっていた事も知っていたと言える。もともとユダヤ人と
呼ばれる実体には20〜30の団体がある。この大部分の本部がかつてはオランダにあ
った。オランダは大航海時代制約が少なく、ユダヤ人達は培った商才をいかんなく発揮
できる場所だった。17世紀のオランダ黄金時代になると、東インド会社経営にも大き
く関わるようになった。前に述べた様に航海はその時資本家を募集して一回ずつの航海
への投資とその見返りで資本が出来ていた。本来の直系有色人種の母系母子ユダヤは今
ではつかめない程小さく今のクルドとも言われる程だ。逆にこの白人ユダヤを創った元
がイタリアやベニスの商人達でユダヤ人でないユダヤ教徒を創ったとされ彼らがボヘミ
アンとしてポーランドやロシアにいたとされる。所謂白人ユダヤの系統であこの系統は
職人組合ギルドから発達していてユダヤ教徒である事を隠していたと思われる集団だっ
た。こうしてこの人達がオランダやドイツやイギリスで成功し又スイスやイタリアの富
との間で金融家として介在し中世を過ごしていた。こうして早く渡ったユダヤ人と今で
も迫害を受けてる地元のユダヤ人といたのである。勿論この時のユダヤ人とはユダヤ教
徒の事だ。こうしてスピノザなどユダヤの知識人倶楽部とユダヤ人の間で「新エルサレ
ム」と呼ばれるユダヤコミュニティがシオニスト協会とメシアによるイスラエルの再建
というヤハウェの約束を信じてきた観点からシオニズムに反対しているフリーメイソン
などが出来た。フリーメイソンなどは字の如く本来石工組合なのである。アメリカでは
大半は中欧・東欧から移民してきたアシュケナージとその子孫である。セファルディム
、ミズラヒムなどユダヤのマイノリティ民族も少なからず存在すると言う。


584: 名無しさんAA:17/10/05 13:58

 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 235-----------

 当時における鉄道の経営と言えば、国家を経営するの同じ意味であった。米国型経営
の中には、主要都市とそれを結ぶ周辺の領土の治安を守り牛耳る事だった。共同経営と
聞こえはいいが、ある意味で紛争の火種を付ける行為だった。アメリカは当時から今も
巨大市場の中国大陸に、幻想の期待を抱いている。ハリマンの挫折後も、米国務長官ノ
ックスによる満鉄中立化の提案など、たびたび満州進出を目指していたことからも伺え
満州に足がかりを得れば、日本を締め出す事は明らかだった。現実に戦争が起こった理
由は英国との付き合いで出来た欧米との信頼が米国やドイツなどで裏切られた結果だ。
 ハリマンの満鉄共同経営案は、明治維新から日米開戦に至るターニングポイントとし
てよく語られる。しかし、それを受け入れたからといって日米開戦回避の可能性が高ま
ったとは到底いえず、むしろ危険を増しただけかもしれない。既に植民地の野望はハワ
イやフィリピン購入で解っていたし、JPモルガンなどの作ったフリーメイソンを通じ
た野望は整いつつあり、下手すれば日米戦争を回避できるどころか、開戦をより早めた
り大和民族の離散と言う惨々たる結果になった装いがあった事がゾルゲ事件でもわかる
。その意味で小村寿太郎の決断は評価されるべきであろう。鎖国時代の19世紀末に、
ロシアではポグロム(ユダヤ人迫害)の嵐が吹き荒れて日本出資を応援したと見たのは
日本人の人の良さでしかない。欧州ポグロムはあまり教科書に出てこない。が国民権の
ない彼らすら奴隷だった。サンクトペテルブルクのあの広大で綺麗な宮殿や公園を創っ
たのは奴隷としてのユダヤ人がユダヤの金とロマ族やボヘミアン労働者でロシア政権の
迫害による税の取り立てで出来た。農奴以下の身分が国を潰され増えていたのが現状だ
った。その為に1894年に政権を握った皇帝ニコライ2世は、彼の政権を脅かすほど
の民衆の不信感に直面していた。その打開策として、彼は民衆の怒りを「内の敵(ユダ
ヤ人)」と「外の敵(有色人種若しくは日本人)」に向けようとした現実は知らなけれ
ばならない。



585: 名無しさんAA:17/10/05 13:58

こうしてまずは弱き日本を叩いて 大津事件の鬱憤と朝鮮半島の権益を我
が物にと言う戦いが始まったのだ。1904年、日露戦争が勃発すると、ヨーロッパの
ユダヤ資産家は、ユダヤ人を敵視していた帝政ロシアへの援助を拒否した。この資産家
たちの中には、今まで『シベリア鉄道』へ多額の援助をしたフランスのロスチャイルド
卿も含まれていた。ロスチャイルド卿がロシアのために働いたのは、戦争で負傷したロ
シア人を援助する機関に寄付することにとどまった。ロシアに対する態度とは対照的に
、他のユダヤ人資本家たちはみな日本を援助した。その中でも注目すべきは、ニューヨ
ークの『クーン・ローブ商会』の経営者であるヤコブ・シフであるが、日露戦争は、ユ
ダヤ人が農奴だった頃、兵士としてまた様々な関係の生みの親として大いに動いた近代
における最初の大戦であった。それまで国を失ったユダヤ民族は、戦闘経験はなかった
し国民ではなかった。が帝国ロシアとドイツ帝国のみがユダヤ人を労務とし『シベリア
鉄道』の建設に携わらせ、更に雇用兵でなく自国徴兵として戦闘態勢を整えた。こうし
てロシアに大きく貢献し、また自らロシア軍兵士として戦った。ポーランドやウクライ
ナ兵という最初の自衛の志願兵でも金による雇用兵でもない徴兵の兵隊制度であった。


586: 名無しさんAA:17/10/05 13:59
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 236-----------

 日露戦争に動員されたユダヤ人は3万3000人で、これは満州におけるロシア軍の
約6.6%、このうち約3000人が戦死した。と 記録される。しかしその一方で、戦
争でロシアを負かすために日本に援助を送り、日本の勝利を喜んだのもユダヤ人であっ
た。そして、戦時中に起きた革命の過程とその結末の中で随所に登場し、それと並行し
て同じ頃、ロシアからパレスチナへ移住するための重要な役割を担ったのも、またロシ
ア系ユダヤ人であった」「『シベリア鉄道』はロシアの軍事・経済の拡大に大きな弾み
をつけ、日本との対立を早める要因となった。この鉄道は、国外から巨額の資金調達に
よってまかなわれたが、その中の一つがフランスの『ロスチャイルド銀行』であった。
ロシア政府の奨励により、ユダヤ人事業家は『シベリア鉄道』の沿線に居住した。東欧
地域の開拓につとめ、ロシア権益の存在を強めるためである。又中国の北東に位置する
満州に、ロシアの町ハルビンが建設されたとき、ロシア政府は『シベリア鉄道』の中国
部分と呼ばれる東清鉄道の地域と、その南部に当たる南満州鉄道の付近へ、在ヨーロッ
パユダヤ人の移住を促した。その場所に『ヨーロッパ人口』を増援するのが目的であっ
た。1903年、ハルビンのユダヤ人コミュニティで、請負業や商業に携わったユダヤ
人の数は500人を数えており、その地でもユダヤ人は町の発展に大いに貢献していた
。」「日露戦争で負けたロシアは、ヤコブ・シフが日本を援助したことを許さなかった
。1911年、ロシアの大蔵大臣はアメリカの報道機関に対して、次のように述べてい
る『ロシア政府は、あのユダヤ人シフが私たちにもたらしたことを決して許さず、また
忘れることはないであろう……彼は一個人でありながらも、日本のアメリカからの資金
調達を可能にした。彼(ヤコブ・シフ)は、我々に立ち向かった最も危険な人物の一人
である!』」だがこの後も強制連行での強制労働は止まらなかった。農奴と農奴を使う
者を兵隊として戦場に送った為食糧自給がままならず不満者が多かったからだ。食糧の
元々連年の戦いの為に財宝はあっても食糧はなかった。革命が起き打ち捨てられた孤児
がこの鉄道沿いに産まれた。その後のシベリア出兵時の保護はこうしてうまれたのだ。


587: 名無しさんAA:17/10/05 13:59
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 237-----------

 ヤコブ・シフが日本を援助したのと同時に、戦後の満州経営について、日本政府とユ
ダヤ財閥との間に秘密の取引きが行われていた。東郷平八郎率いる日本連合艦隊が当時
、海軍力世界2位のロシアのバルチック艦隊を破って以来、203高地は捕れてたもの
のその後の伸びた戦線のための補給にも苦しくなっていたところ、アメリカのセオドア
・ルーズベルト大統領の仲介で1905年8月10日、ポーツマスで講和会議が開かれ
た。小村寿太郎は全権大使として第26代アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトに合
いそして、秘密取引きの内容を具体化するために、ポーツマスで日露の講和会議が開か
れてた。この最中に、このヤコブ・シフに共同経営の資本を投資していたロックフェラ
ー家と関係の深いアメリカの鉄道王エドワード・ハリマンが、クーン・ローブ・グルー
プの代表として来日したのである。それは当然、南満州鉄道の日米共同経営についての
話し合いが目的だった。アメリカの鉄道王エドワード・ハリマンは裸一貫からアメリカ
を横断する鉄道網を作り上げ、当時最も高かった石油や鉄鉱石の輸送で巨万の富があっ
た。1905年8月、クーン・ローブ・グループの代表として来日した時、当時は既に
電信の最初の商業化がウィリアム・クックで始まっていた。クックは1837年にチャ
ールズ・ホイートストンと共に警報機としての一般化した電信機の特許を取得してロン
ドンのユーストンとカムデン・タウン間での実演を成功していた。そのシステムはアメ
リカにも伝わりパディントン駅からウェスト・ドレイトンまでの間、約21kmにわたっ
てグレート・ウェスタン鉄道の線路を利用してその中に敷設された。つまり鉄道敷設は
同時に電信電話の情報の敷設でもあったのだ。「ポーツマス講和会議」では、ロシアの
代表ウィッテの巧みな外交戦術により、日本の代表小村寿太郎は、赤子が手をひねられ
るように屈し、戦勝国でありながらも日本は、領地をほとんど手に入れることが出来ず
、賠償も権益も得るところわずかであった。さらにそれに米英は口をはさみ手を出す事
はなかった。この交渉はかなりの労力が必要だった。裏にロスチャイルドがロシアに貸
付して鉄道や樺太事業を狙っていたからだ。交渉結果の知らせを聞いた国内では、「国
賊小村」の声すらも上がっていた。つまりハリマンはこの結果を予想し反対される前に
この満鉄の経営についての話し合いしを日本政府に打診して来ていたのであり思いの外
簡単に契約取り付けして大喜びだった筈だった。その為小村と会わなかったと言える。




588: 名無しさんAA:17/10/05 14:00
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 238-----------

日露戦争後の「ポーツマス講和会議」(1905年)の結果は、日本に大きな混乱を起
こした。軍部の不満と共に民衆のデモも起こった。当時の日本も又同じ様に苦しい中の
戦争だったのだ。この時代の日本国民の生活は増税につぐ増税で苦しいものだったし、
戦死者の遺族の生活はどん底だった。働き手を失くし娘を女衒に売る事も多かったのだ
。ポーツマスの日露講和条約に不満を持つ人々は、1905年9月5日、東京の日比谷
公園で大集会を開いた。群衆は集会を解散させようとする警官と衝突し、政府高官の家
や新聞社、交番、電車を焼き打ちにしたので、日本政府は軍隊の力を借りてこれを鎮め
た。日露講和反対の大集会は大きくなり推定約3万人に増えていた日比谷焼き打ち後に
東京の各地で焼き打ちがある無政府状態を危惧して東京にには戒厳令が敷かれた。この
騒動により、死者は17名、負傷者は500名以上、検挙者は2000名以上にも上っ
た。戒厳令は11月29日まで続いた。こうした中で、ハリマンは、小村寿太郎が「ポ
ーツマス講和会議」で留守中に、桂太郎首相と南満州鉄道の日米協同経営の予備協定を
10月12日に結んだで 上機嫌のうちにサンフランシスコへ向かう船上の人となった
が、その後、10月15日に帰国した小村寿太郎は、桂内閣の予備協定の決定を聞くに
及んで、烈火のごとくに怒った。「日本が2年間に渡る大戦で、血を流し財を尽くして
獲得した報償は、まことに貧弱である。講和条約を不満とする愛国の至誠が、暴動とさ
えなっている。その上また、この貧弱な戦果の半ば以上の価値がある満鉄をアメリカ人
に売り渡してしまい、満州そのものを外国商業との自由競争の場に委ねてしまおうとい
うのは、とうてい忍ぶことができない。」元老院の桂太郎内閣はこの小村寿太郎の要望
を入れて10月23日、アメリカ側に予備協定の「破棄」を通告した。ハリマンがサン
フランシスコに着いたときに、彼を待っていたのは「破棄」を通告する日本政府からの
電報であった。今度はハリマンが烈火のごとくに怒り、ただちに 翌年の8月に腹心の
ウィラード・ストレイトを奉天領事に送りこみ、徹底して日本の利権と アメリカ人の
利権とを衝突させていったのである。この時、ハリマンは次のような言葉を言い放った
。「日本は十年後に後悔することになるだろう!」これが有名な「ハリマン事件」であ
る。

589: 名無しさんAA:17/10/05 14:00
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 239-----------

 屈辱外交官として、いったんは政治生命を絶たれた小村寿太郎は、この事件後、「南
満州鉄道を救った男」として名誉を回復した。しかし、歴史はハリマンの予告通りに動
いていく。これ以後は、満鉄を中心として日本とアメリカの対立が深まり、その関係が
こじれていった。そして1921年の「日英同盟」破棄以降、両者の対立は決定的なも
のとなり、やがて日本は英米との関係を断ち切り、ドイツとの協定にのめりこんでいっ
たのだった。このように、日米関係は「日露戦争」を境に一変したのであるが。しかし
この時大勢のユダヤ人も闘っているが 現実には一割でしかない。つまり他の兵士達は
ロシア人やウクライナ人やロマ人やトルク人など他のロシア人達だった。又日本にして
も日清戦争以来大きな負担と死傷者で この両方が消耗し負担となる中当の朝鮮人やら
投資したユダヤ人資本は返済や権益はそのまま双方に求めているのだ。此処に「黄禍論
」の極みがある。つまり国境線はあっても国境の壁のない中での通行で国内に住み着い
た異教徒なり異人なりの排除である。今の中国がやっている弾圧である。歴史的に見て
ナチスがやった虐殺がなかった訳ではない。フランスが起こした魔女狩りもナポレオン
戦争時に起こしたライヒ宣言のプロイセン王国やバイエルン王国でのドイツ帝国も同じ
で管理や統制の名の元に体制の形作りと体制に従わない者の排除であった。ペチェネグ
は、10世紀頃のカスピ海北から黒海北に広がるキプチャク草原に住んだ人達の名称だ
ここで形成された遊牧民の部族は互いの連絡に同盟を結んだ。遊牧民のハザール人やら
オグズ人の圧迫によって移住したとされ、フィン・ウゴル系の遊牧民マジャル人などで
後のハンガリー人となったとされる。豊かな草原ではスラヴ系とされる先住民族の農耕
民ウールィチ人,やティーヴェルツィ人を追い出したという。こうしてキエフ・ルーシ
,ブルガリア,ハンガリー王国,ビザンツ帝国などの隣国との母国帰参の抗争に明け暮
れた。遊牧民のポロヴェツやクマン、キプチャクに圧迫されてドナウ川を越え、この人
達がビザンツ帝国領内へ移住した。残った人々は、ポロヴェツに同化した。ペチェネグ
人の系統に最も近い現存する民族はガガウズ人であるとされる。日本語的に弥勒とされ
るこの人達はブルガリア帝国を作り南の東ローマ帝国と敵対し、ビザンチン帝国とされ
る東ローマ帝国の文化様式を作りながらも個々の自由を認めて居た為方々に離散した。


590: 名無しさんAA:17/10/05 14:02
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 240-----------

「ハリマン事件」について岡崎久彦氏は、次のように語っている。「あの時に日本がハ
リマンの提案を受けていたならば、20世紀の歴史はまるで変わっていただろう。アメ
リカの極東外交は、単なる領土保全、機会均等というお経だけでなく、日本をパートナ
ーとして共同で満州経営を行う形をとり、また日本では、伊藤博文が健在だった時でも
あり、第一次世界大戦の国際情勢の中で、対露、対支政策について、日米英の協調路線
ができていた可能性は小さくない。」としている1905年10月、アメリカの鉄道王
ハリマンが来日し、日本がポーツマス講和条約によって 獲得した南満州鉄道の経営に
参加したいという申し出をした。このとき会った首相・桂太郎、元老・井上馨、同じく
伊藤博文、財界の渋沢栄一らであったが、彼らはみな『ハリマン構想』に賛成し、合意
の覚え書まで作られた。日本側が『ハリマン構想』に同意したのは、今日から見ても正
しい判断であった。」と意見は多い。「そもそも戦争でロシアに勝ったとはいえ、シナ
大陸からロシアの勢力が消え失せたわけではない。ロシア軍はなお北満州に展開し、南
下の機会を狙っている。そのような状況下において、日本一国が南満州鉄道を維持する
のは、軍事的に見ても、また財政的に見ても非常な負担であったから、日米合弁で鉄道
経営をするということは、日本にとって一種の安全保障にもなるからである。もしも、
ロシアが南満州を狙って南下しようとすれば、アメリカ政府はただちにロシアに圧力を
かけるに違いないからだ。また、日米外交という面から見ても、『ハリマン構想』には
意義あるものだった。当時、シナ大陸に進出していたのはイギリス、フランス、ドイツ
、日本といった国々であり、シナに利権を有していなかったアメリカは切歯扼腕してい
たからである。ここで日本が南満州鉄道の利権を半分譲れば、アメリカも満足を覚え、
日本との友好関係を重視するであろう。」こうした点を踏まえて、日本のトップ・リー
ダーたちは挙げて『ハリマン構想』に賛成したのであった。ところが、そこにただ一人
の、そして頑強なる反対者が現われた。


591: 名無しさんAA:17/10/05 14:03
                  それはポーツマス講和条約を無事締結し、意気
揚々と帰国した外務大臣・小村寿太郎である。小村は『わが国の将兵が血を以て獲得し
た南満州利権をアメリカに譲り渡すとは何事か』と唱え、ついにハリマンとの覚え書を
破棄させるに至った。もし、『ハリマン構想』がそのまま実現していたら、その後の日
本の運命は大きく変わっていたであろう。戦前の世界において日米間に緊張が高まり、
ついに大東亜戦争に至ったのは、結局はシナ利権問題であった。西部地方の大開拓時代
が終わり、その膨張欲を満たす対象を失ったアメリカにとって、広大なシナ大陸の利権
はひじょうに魅力的に映った。だが、そのシナ大陸の主要な利権は、他の国々に握られ
、アメリカが新たに獲得できる可能性はない。そこで彼らは『ハリマン構想』を日本に
持ちかけ、シナ大陸進出の橋頭堡(きょうとうほ)にしようとしたのである。だが、そ
の『ハリマン構想』は土壇場で覆された。この事件は、その後の日米関係に決定的な亀
裂をもたらすことになった。というのもアメリカは自分たちの欲求不満を『日本叩き』
に向けたからである。彼らはアメリカがシナ大陸に進出できないのは、すべて日本人の
せいだと考えるようになった。戦前のアメリカ人が抱いていた日本に対する憎悪は、今
考えてもぞっとするほどである。まず標的にされたのは在米の日本人移民であった。日
本人移民を徹底的に迫害する法律が諸州で作られたばかりか、『絶対的排日移民法』と
呼ばれる連邦法までが成立し、日本人がアメリカの市民権を得ることはできなくなった
のである。 〈中略〉歴史に『イフ』を持ち出すのは慎重でなければならないが、『ハ
リマン構想』が実現していれば、アメリカは日本移民をあれほどまでに敵視することは
なかったろうし、それどころか満州国建国をもアメリカは支持したと考えられるのであ
る。」(渡部昇一著『まさしく歴史は繰りかえす 〜今こそ「歴史の鉄則」に学ぶとき〜
』クレスト社より)日露戦争に勝った日本だったが、戦後処理にはアメリカに仲裁を頼
んでいた。そのアメリカはセオドア・ルーズベルトが大統領だったのだが、有色人種が
白人種に勝ったことに恐怖すら感じていたのだ。ルーズベルトはロシアと結託して日本
には賠償金を要求させなかった。外交の天才と云われていた小村寿太郎も体もなく騙さ
れたのだった。はたしてそうだろうか



592: 名無しさんAA:17/10/05 14:06
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 241-----------

 ところが である。アメリカは「日露戦争」(1904年)の数年前に、突然ハワイ
に海兵隊を奇襲上陸させている。当時、独立国であった「ハワイ王国」を占領して滅ぼ
し、アメリカの領土としていた。当時ハワイでは、日本人が人口の半分(2万2000
人)を占めていたので、ハワイ王国最後の女王リリウオカラニ女王は明治天皇に援助を
依頼してきた。当時の日本にはアメリカと戦う力はなく、みすみす事態を見過ごすしか
なかった。それはフィリピン革命同志も辛亥革命の孫文も李斯朝鮮の通信使も全く同じ
で、出来たばかりの明治政府はこの西洋の圧力に踏まれた雑草の様に旧体制を壊され揺
らぎ漂って日本にかなりやって来たが 国力も諸外国の事情も無理解のままの政府だっ
た。ハワイ王国最後の女王リリウオカラニは、音楽を愛好したことでも知られ、ハワイ
民謡として有名な「アロハ・オエ」は彼女の作である。ハワイはカメハメハ大王を始祖
として統治する民族で1795年に始まった西洋認知の「ハワイ王国」とされていたが
、アジア進出の足掛かりに、アメリカは武力で併合した(1898年)。こうして宮殿
に掲げられていた「ハワイ王国」の国旗は下げられ、アメリカ合衆国の国旗が揚げられ
たのである。有無を言わさぬ殺戮と強襲によって蹴散らされたハワイ住民らはこのとき
、悲しみの声をあげたが 当時の日系移民らにその多くの声は届いたという。この手の
出ない義憤に多くの日本人も「鬼畜米英」の姿を見ていたのである。大事な事は日本の
政府は此処に2つの教訓を得ていた。1つは米英のやり方が 最初は交易であり次には
布教と言語で最後に乗っ取りである。と言う事だった。ハワイ王国は決して米国に反抗
した国では無かった。当時の渡航に寄港させて、移民さえも受け入れている事からもそ
れは解る。2つ目は西洋列強に並ぶ資本と軍事力を持たなければ 直ぐに占領されて、
国民は奴隷となり、国土は植民地化する。と言う現実だった。これが日本が黒船来航以
来眠りをさまさせた蒸気船が見せた世界だったのである。だが米国側からすれば、既に
先鞭をつけていたこの太平洋の権益をスペインと賠償金によって手を付け太平洋の覇権
フィリピンと共に手にしていると言う独裁者気取りの国権を武力によって持っていた。
これに対抗する為に 各地に共産主義暴力革命による共和国が出来たの当然であった。
こうして 知識のある日本人は欧米列強の国々の外交に疑心暗鬼の中に陥っている。



593: 名無しさんAA:17/10/05 14:07
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 242-----------

 既に王国との承認済みのこの国は、彼女の兄であるカラカウアが前国王はとして治め
ていて、明治政府が出来た時、世界で初めて日本を訪れた外国の国家元首だった。彼は
ハワイ王国の安泰のため、明治天皇の甥に縁談を申し込んだことで知られている。18
81年の事だ。もし、この縁談が実現していたら、「ハワイ王国」はもっと長く存続し
ていたかもしれない。このカラカウアはカメハメハ5世が後継者を指名せずに世を去っ
た為に選挙でルナリロを選出したがその対抗馬だった。ルナリロも又後継者を指名せず
死んでいる。その為留学し洋風化を取り入れた4世のエンマ女王と選挙で戦う事になっ
たカメハメハ4世の未亡人であるエンマに勝って国王に選出されたものの。この選挙で
エンマ女王の支持者が暴動を起こし死者を出す混乱が起こった。旧体制派の洋風時代に
進む事を危惧したのだろう。カラカウアはアメリカとイギリスの海軍の力を借りてこの
暴動を鎮圧した。こうしてカラカウア王は弟のウィリアム・ピット・レレイオホクを跡
継ぎに指名したため、選挙によって国王を選出する時代は終わりを告げた。カラカウア
前国王はアメリカのハワイへの進出を阻むため、同じような状況にあったアジア諸国と
連合を組み、立ち向かうための構想を持っていた。そして、それを実現するためアジア
諸国を回り、日本をその一番最初の訪問国として絶対同盟を組みたいと思っていた国だ
った。この構想は日本に「大東亜共栄圏」構想の出る前の先駆的なプランだった。しか
し、このプランは、維新して日が浅い国力増強優先の日本が取り組めるほどには余裕が
なかった事もあり、実現しなかった。「ハワイ王国」滅亡後、ここにアメリカの大軍事
基地が築かれ、「太平洋艦隊」の根拠地として発展した。それが「パールハーバー」で
ある。そして、イギリスのシンガポール、ロシアのウラジオストク(ロシア語で「極東
を征服せよ」の意)と呼応して、三大軍港が日本を三方から牽制するように取り囲む体
制が次第に整っていくのである。そしてこのフィリピンと共にハワイの軍事基地化計画
は既に外務大臣・小村寿太郎の時代には 小村に詳細に移民からの報告が伝わっていた
のである。幕末時に琉球政府がもし薩摩に吸収されず離れていたとしたら 恐らくは、
全く同じ結果になって米国にもっと早く蹂躙されていただろう。事実として戦前も戦後
も沖縄の歴史は日本の政治的歴史ではなく 沖縄と言う地政学的歴史であって駐留軍が
いるのは 沖縄の先人にとっては仕方ない事実と受け止められていたのである。




594: 名無しさんAA:17/10/05 14:08

 この時代の国々といえば、「帝国主義」が全盛期だった。当時の世界は「帝国そのも
のを果たすか、属国になり植民地となった国かに分かれる、まさに混乱の時代だった。
南北戦争から1912年までに、アメリカが獲得した主要な新領土およびその植民地は
、中国の利権をめざして、アメリカは西へ西へとそのエネルギーを伸張させていたこと
が分かる。膨張し拡大するアメリカは、西へのフロンティアの開拓の夢と、その情熱的
エネルギーが、ついに北米大陸を離れて海上へ溢れ出した姿として理解できる。当時作
られたこの風刺画は、列強諸国がパイにみたてた中国を分割しているところを描いたも
のである。左からイギリスのヴィクトリア女王、ドイツのヴィルヘルム2世、ロシアの
ニコライ2世。ななめ後ろがフランスで、右端の武士が日本である。背後で両手をあげ
ている男性は清の大臣で、「やめてくれ!」と悲鳴をあげている。開国維新後の日本に
とって、最大の脅威はロシア帝国であった。ロシアは軍事力を傘に東アジア南下戦略を
目指していた。日本にとって「日露戦争」は、国家予算の6倍以上の戦費をつぎ込み、
継戦不可能というギリギリで掴んだ“薄氷の勝利”であった。その戦費は 約40%を
調達したのが、第3章で紹介したユダヤ人金融業者ヤコブ・シフだった。この男の助け
がなければ日本は「日露戦争」に勝てなかった、と言っても過言ではなかった。アメリ
カ・ユダヤ人の中心的存在だったユダヤ人金融業者ヤコブ・シフは1847年ドイツの
フランクフルトで生まれる。1870年にアメリカに帰化した。シフ家の祖先は、ドイ
ツのフランクフルトの旧ユダヤ人街区にある一軒の家をロスチャイルド家と共有して住
んでいた。シフ(schiff)家の側には「船(schiff)」が、ロスチャイルド(Rothschi
ld)家の側には「赤い盾(roter Schild)が描かれてあり、本来縁戚のようである。両
家の姓は、そこに由来しているという。ヤコブ・シフの「クーン・ローブ商会」とエド
ワード・ハリマンについては「クーン・ローブ商会」の創業者エイブラハム・クーンが
、他のドイツ系ユダヤ人同様、行商人から身を起こし10年後、インディアナ州で衣類
の卸売業を経営していた時に、遠縁のソロモン・ローブを呼び寄せた。ソロモンは、エ
イブラハムの妹と結婚し、すぐに共同経営者となった。こうして「クーン・ローブ商会
」を立ち上げJPモルガンと競う位の地位と資産を持つに至った。JPモルガンが鉄道
事業に先鞭をつけた為 シフがパートナーとしてハリマンと提携し起こった交渉だった。

595: 名無しさんAA:17/10/06 13:05
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 244-----------

1999年にシフの伝記を書いたナオミ・コーエンによれば、1904年2月上旬、ニ
ューヨークの五番街にあったシフ邸で ユダヤ人指導者達の会合が開かれた。シフは、
「72時間以内に日露間で戦争が勃発する。日本の公債引受の問題が提起されているの
だが、私が引き受けることでロシアの同胞にどんな影響が及ぶか、諸君の見解を聞きた
い」と語った。シフは日露開戦の情報を事前につかんでおり、公債引受の打診さえ受け
ていたのだ。この場の全員が一致して、シフが日本の公債を引き受けることに賛成した
。当時、大統領のセオドア・ルーズベルトもアメリカの国内世論も日本支持に傾いてお
り、シフが日本公債を引き受ける結果、ロシアに与える打撃に良心の呵責をおぼえる必
要はなかった。と書いている。政治と距離を置いたJ・P・モルガンと違って、ヤコブ
・シフはアメリカの政府部内に味方を増やす必要があった。日露戦争の直前にもシフは
ロシアとルーマニアでのユダヤ人迫害に対してアメリカ政府が公式に抗議するよう嘆願
していた。ところがこの頃日本は1898年に、台湾に後藤新平を派遣し、台湾総督と
してアヘン対策に成果が出た頃だった。台湾でも建設途中で北洋軍閥は米国を盛んに取
り込もうし、又米国の内政干渉的妨害も数多く出ていた。日本側から見てロシアも米国
も同じだったのである。又米国から見れば今だ規制のない未開地の一部であったのだ。
日本がロシアに勝とうとも米英には敵わないはずだとみていたのだ。その点英国は薩摩
と下関でその士気のすさまじさを知っていての対応だったのである。更にアヘン取り締
まりに業を煮やしてアヘン取引を管理する事に決めた政府はペルシャアヘンの買い占め
に転じた。その処理に星製薬のモルヒネ開発に投資していたのだった。こうしてアヘン
の取引市場は高値になって多くの海外財閥はその貸付した商会の貸し倒れに転じていた
のである。そして三井が造った会社でこの買い付け転売を特務機関が請負っていたのだ
ろう。関係者の一人である星野直樹は満州国のアヘン専売局の儲けを抵当にして、日本
の複数の銀行から多額のローンを取り決めた。と米軍は報告している。だがこれは既に
日本軍がアヘンからモルヒネ抽出技術に軍が窃取した後の話と考えられる。別の当局者
の報告によれば、満州国の分も含め中国全体の麻薬の収入は日本軍によって年間3億円
と評価されている。

596: 名無しさんAA:17/10/06 13:44
 後藤新平は藩境争いにあった胆沢県に大参事として安場保和がまたま赴任して来てい
た事で、人生を変える。安場は後で初代福岡県令となるが 肥後細川藩出身で薩摩・長
州の藩閥政府と微妙な距離を保ちながらも海外視察団にも同行している。彼に認められ
県庁勤務になったが、後藤本人は政治家を志していた。政変上の弾圧等の影響もあって
医者を勧められ愛知県医学校に入り医者になった。岐阜での遊説中に暴漢に刺され負傷
した板垣退助を診察している際後藤は「閣下、御本懐でございましょう」と言ったとい
う。後藤の診察を受けた後、板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と口にした。
明治31年(1898)陸軍次官兼軍務局長の児玉源太郎の下で働いていたが、その児
玉が推挙され台湾総督になった時、自らの補佐役である民政局長に 後藤を抜擢した。
後藤新平は恐らくこのアヘンの効能も社会毒も解っていたのだろう。アヘン売買には一
気に捜索・逮捕しても撲滅に繋がらないだろう。と考えた。更にこれには米国金融投資
が関わっている。と睨んでいたしその証拠も掴んでいた。歴史的にも東インド会社の持
つ特権販売でもあったからだ。こうした物は流通ルートの遮断に限ると考えた彼は、星
製薬と共にアヘンの分析から始め、台湾の土地柄を分析すると言う地道な作業を行った
。東京震災の復興計画に際し、その規模の大きさから「大風呂敷」とあだ名されたが、
植民地経営者であり、都市計画家としては日本屈指の逸材であったろう。台湾総督府の
民政長官、満鉄総裁を歴任し、日本の大陸進出を支えた。鉄道院総裁として国内の鉄道
網を整備した。関東大震災後にも内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の帝都復興計画
を立案し多くの批判を受けた。当時京都帝国大学法科大学教授に就任していた松岡参太
郎をわざわざ呼びつけ 最初は後藤が民政長官を務めていた台湾総督府で臨時の台湾旧
慣調査会に参加させて同地の法慣行を調査させている。アメリカからも、乞いて新渡戸
稲造も招いた。米軍報告書には「軍隊は兵士によるアヘンと麻薬の使用を禁止し、これ
を破れば、日本の市民権を剥奪される規制を敷いたが、劣等種族の士気をくじくために
使用することには許可を与えた。」とある。1932年には組織化されたアヘンの専売
があり、三井財閥がこれに関与し、国内麻薬の多量の消費を抑える目的のためと称して
、アヘンを栽培していた。場所は固定され熱河省と吉林省の北西に設定されていた。「
1934年から1年の間に、栽培面積は480平方km、1 平方km当たり 1.1トン
を生産していた。」と評価されていた。また、多くの非合法の栽培もされ、非常によく
儲かるため、この危険な麻薬を効果的に抑制することに障害となった。「秘密の日本人
の商人のグループである “Nikisansuke” が関与した。」と 報告している。この栽培
には当然星製薬がモルヒネ分の多い栽培品種の特定に成功した事が大きく関わっている

597: 名無しさんAA:17/10/06 13:54
 この“Nikisansuke”=にきさんすけ=弐キ参スケである。このグループこそ後藤の作
った「里見機関」と言うアヘン撲滅チームだったと言える。秘密倶楽部の如く東条英機
、星野直樹、鮎川義介、岸信介、松岡洋右の長州閥の下に、里見甫(さとみはじめ)を
選んだのだ。里見は福岡県立中学修猷館を卒業して、玄洋社第二代社長進藤喜平太に可
愛がられ、福岡市からの留学生として上海の東亜同文書院に入学している。中華独立の
革命家を支援する玄洋社につてがあったのだろう。東亜同文書院を卒業後、青島の貿易
会社に一時期勤務するが退社し、帰国して東京で日雇い労働者となった。独立運動の関
係があったのか橘樸が主筆を務める天津の京津日日新聞の記者となってジャーナリスト
となった。その為幅広く知乎となり取材を進めていた。堪能な中国語が幅を利かしたの
だろう。国民党軍さえもインタビューをしている。そうした幅広い人脈に特務機関長の
土肥原賢二大佐の指揮下で、甘粕正彦と共に諜報・宣伝・宣撫活動を担当する事になっ
たのだった。こうして後藤新平は 先にアヘンを買い占めて高く購入してまずは中毒者
を増やさない対策をした。更にその買い占めたアヘンはモルヒネ抽出に使い残りは循環
資金に売った。又一方でこうして患者となるものを日本人国籍や中国人国籍の剥奪の法
を作った。一方で中国の奥地にアヘン栽培を行って国外からの輸入に対抗させようとし
た。またこうして出て来る浮浪者は労働者としてダム建設などに安価な労働力として提
供した。又モルヒネは負傷した兵隊には大事な薬品となった。こうして高価で売れると
踏んだ海外からの輸入品は一挙に大量にのせて中国に向けて輸送した。東インド会社は
大儲けと思ったのだ。だが港に着いて待っていたのは品質の良い新鮮で安価な麻薬が出
回っていたのである。こうして麻薬の乱高下が陸軍の下で始まった。何回か繰り返すと
陸軍も三井もそれが巨万の富を産む事を知った。だが安値でも買い付けてやった海外の
アヘンが処分できなかった。そこでこの星製薬に安価なアヘンの使用を強制しようとし
た。外国品の処分である。もし全然買い付け無ければ不審がられるし、だぶついたまま
では更に安値で仲介役が懐にいれ日本の中国産が売れなくなるからだ。こうして星製薬
は品質の悪い阿片の使用を断っている。だが陸軍は大胆にもこの星製薬にアヘン供給を
止め強制摂取を行おうとした。この事で裁判したが星製薬は敗けて 三井の呼んだ三共
製薬に吸収されて軍の事業が行なわれたのである。この事で東条英機の軍隊は、危険な
中毒患者を支配出来た。鮎川の日産コンツェルは安い労働力を手にした。松岡洋右の会
計帳簿は潤い、満州建設がスムーズに行くことで満州鉄道は資源調達が上手く出来る様
にになり これまでのテロや飛び込みが減っていった。そしてそうした情報は全て三井
の里見の情報によって操作されて 撲滅が進んだ。甘粕機関はその中で軍部や政治家を
見張る民間機関でもあり里見に情報を流す機関でもあった。 

598: 名無しさんAA:17/10/06 14:03
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 247-----------

 当然のことながら西洋列強には隠れての仕事だった。里見は上海に移り、参謀本部第
8課(謀略課)課長影佐禎昭に、中国の地下組織や関東軍との太い人脈と、抜群の中国
語力を見込まれ、陸軍特務部の楠本実隆大佐を通じて特務資金調達のための阿片売買を
依頼される。この松岡のシステムの後継者であった。1938年、阿片売買のため三井
物産および興亜院主導で設置された宏済善堂の副董事長(事実上の社長)に就任する。
ここで、三井物産・三菱商事・大倉商事が共同出資して設立された商社であったが実態
は陸軍の特務機関であった昭和通商や、中国の地下組織青幇や紅幇などとも連携してい
た。こうして正式に1939年、上海でのアヘン密売を取り仕切る里見機関を設立した
。「里見機関」が完全に日本政府の統制の下に出来上がり、日本政府のためのみの組織
であることが文書で裏付けられる。この興亜院の他にも、陸軍が指導・監督し、三井・
三菱・大倉が出資して昭和通商という企業が設立されている。この企業は、武器輸出や
阿片の取扱から、戦地での物資調達までを行っていた。要は、国として表だってする事
の出来ない最もダーティーな部分を、民間企業等を設立して役目を果たさせ、終戦の折
には 歴史と共に消滅させる結果を作っていた。こうした隠れた国内の諜報に明け暮れ
た事で 本来の海外の情報は得られない結果を日本は招いていた。そこで映画スターを
作って、巡業や映写会などでの 派遣する代理人を作る計画を甘粕は敷いた。この民・
官混在の作戦は花開いたばかりだったが これにより汚職と利権の争いが起こっていた
。そしてその事が大きな禍をもって 本来の海外動向の情報がおろそかにされた事に、
甘粕機関の持つ組織は危機感を持っていた。アヘンの動向に翻弄されて本来の海外事情
に手を付ける事が可能にする行動だったのだ。とこが同じ年の1939年にドイツ軍は
その同盟軍であるスロバキア軍と共に、突然ポーランド侵攻を行った。更に秋にはソビ
エト連邦軍がポーランド領内に侵攻した。ポーランドの同盟国であったイギリスとフラ
ンスが相互援助条約を元に9月3日にドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まった
のである。緊張はあったもののこれは大きく計画にずれたものだった。更に日本軍の中
の共産党退治もこれによって不可能になったし、甘粕の渡米戦略も事実上消えた。


599: 名無しさんAA:17/10/06 14:09
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 248-----------

 だがこの戦争はユダヤ資本にも突然だったらしく大きく対応が遅れた。上海屈指の豪
商サッスーン一族は、18世紀初頭イラクのバグダッドに出現したスファラディ系ユダ
ヤ人である。当時の大英帝国の東方進出に協力して、まずインドのボンベイに拠点をか
まえた。やがて東インド会社が支那にアヘンの密輸を開始すると、その取引に荷担して
莫大な富を蓄積した。19世紀半ばアヘン戦争に破れた清朝が上海に租界の設置を認め
ると、時を移さず上海に進出し、アヘンを含む物資の売買を開始した。そして、わずか
1世紀足らずの間に、金融、不動産、交通、食品、重機械製造などを傘下に擁する、一
大コンツェルンに成長した。支那四大家族の向こうをはって、ジャーディン・マセソン
、バターフィルド・スワイヤ、カドーリなどとともに『上海ユダヤ四大財閥』と呼ばれ
た。この老舗の豪商にアヘン商人達は共同に対応しようとスクラム組んだばかりだった
。当主のビクター・サッスーンは、ようやく五十路に手がとどいたばかりの、独身の伊
達男で、「彼の顔写真が新聞に登場しない日はない」と言ってよかった。」この「ジャ
ーディン・マセソン商会」こそは、日本では、幕末・明治期の重要人物であるトーマス
・グラバーが長崎代理店「グラバー商会」の設立した後ろ盾だった。横浜の英国公邸の
脇に、英商ウィリアム・ケスウィックが支店を設立し地元民から「英一番館」と呼ばれ
ていた。戦後もジャーディン・マセソン・グループは、今でも「マンダリン・オリエン
タルホテル」を経営し、14ヶ国に26の高級ホテルを展開しており、現在もアジアを
基盤に世界最大級の貿易商社として影響力を持っている。この上海のユダヤ系の4大財
閥の、サッスーン、カドーリ、ハードン、エズラは上海経済のパイオニア的存在だった
。廃業はしたものの中国大陸において「サッスーン商会」と並んで二大商社の名を馳せ
たのは、グラバーの「ジャーディン・マセソン商会」で、この5つで経済帝国を築き上
げていた。その影響力は、市当局が武装した『商人部隊』の編成を外国人に認めたこと
でも分かり、これは1928年にイギリスをモデルとした1400人の上海自衛団に改
組されていた。此処にドイツ・オーストリア系ユダヤ人が避難民として大量流入した。
ナチスがオーストリアを合併するとイタリア商船ビオレ号から上海に吐き出されたのを
皮切りにとめどもなく人が溢れた。その後もドイツの軍靴がチェコ、ポーランドと進む
につれて、数百万のユダヤ人が世界各地に逃げ出さざるを得ない状態になったのだ。が
、目指すアメリカや中南米、パレスチナなどは、入国査証の発給を制限した為、足止め
状態のまま移行していた。英統治領パレスチナなどは、海岸に着いたユダヤ難民船に、
陸上から英軍が機関銃の一斉射撃を加えるという非人道的行為まであったと言われる。

600: 名無しさんAA:17/10/06 14:13
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 249-----------

アラブの妨害とされたが 現実は英国がアラブとの対立を恐れて混成部隊の発砲を許し
ていた。パレスチナに行けないイタリア乗船避難民ははこうして上海にやって来たのだ
。そうした中で日本は満州経営が一応の成功を見た経過から、入国ビザなしに上陸でき
るようになっていた。世界で唯一上海の共同租界の日本海軍の警備する虹口(ホンキュ
ー)地区は上陸出来たのだ。海軍大佐の犬塚惟重は、日本人学校校舎をユダヤ難民の宿
舎にあてるなど、ユダヤ人の保護に奔走した。この緊急事態に日本政府の有田外相は、
ハルビンのユダヤ人指導者アブラハム・カウフマン博士を東京に呼び相談した結果。「
日本政府は今後ともユダヤ人を差別しない。他の外国人と同じに自由だ」と明言した。
こうして1939年夏までに、約2万人のユダヤ難民が上海の「日本租界」にあふれる
に至ったのだ。「1941年時点で、上海のユダヤ人社会はよく組織されていた。スフ
ァラディ系社会とアシュケナジー系社会があったが、前者は、バグダッドから移住して
きたユダヤ人たちで、なかにはイギリス国籍を取得している人すらあった。代表格が、
いろいろな事業を経営するサッスーン家だった。そのほかハルドン家やアブラハムズ家
も有名で、助けが必要なイラク出身のユダヤ人移民に、支援の手を差し伸べていた。」
「サッスーン家の家長のユダヤ人は、上海の大立者であり、極東で一、二を競う大富豪
であった。経済、政治力の影響力は相当なものであったようだ。ビクター・サッスーン
は、家の伝統に従って同胞のために尽くした。しかし、上海の中国住民に対する貢献は
もっと大きかった。売春婦の収容施設に多額の金を使ったし、市街電車の路線延長も彼
の功績である。 〈中略〉 こうして革命やポグロムが発生するたびに、ユダヤ人達が
満洲へ流出し、そこから国際都市上海へ向かった。ロシア系ユダヤ難民は上海に根をお
ろし、貿易商となった。 〈中略〉 当時にはドイツ系ユダヤ人社会もあった。かなり
大きく、その数約1万5000人。上海へは入国ビザの必要がないのでその後、ユダヤ
人が続々と流れてきた。上海は1939年の中頃までユダヤ人を無制限に受け入れた。
しかしその後は、居留が厳しく制限されるようになった。 〈中略〉 スファラディ系
とアシュケナジー系で構成された『上海ユダヤ人委員会』は、アメリカを本拠地とする
ジョイントの資金援助を受けながら、日本租界の虹口(ホンキュー)地区を中心とする
ホステルへ難民を収容した。」と言われる



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