指導改善研修の実態 横浜市


@3ch掲示板 > 指導改善研修の実態 横浜市
全部1- 101- 201- 301- 401- 501- 601- 701- 801- 901- 1001- 1101- 1201- 1301- 最新50

指導改善研修の実態 横浜市

1: 横浜人権侵害都市:13/12/16 16:56
年明けの2013年1月24日 分会長のU教諭と共にいる前で。NH校長の不適切且つ違法な言動について。
○文部科学省、横浜市の指導改善研修の規定によると、元来指導力不足教員に該当しないにもかかわらず私を「指導力不足教員として申請書をすでに出すことにした」と暴言を吐いた。  
療休の診断書を2月の半ばに出しますから異動対象者名簿から私の名前を取り下げてくださいとお願いすると。校長はこれを2度拒否。東部学校事務所のOさんの指示に従って校長に事前にお願いしようとしたが拒否をする。校長としては本来診断書を受理する義務がある。「異動対象者名簿から取り下げない」などと無謀で一方的な発言を繰り返した。
仮に、「指導力不足教員として認定されなくとも、私はあなたを、教育委員会預かりにしてやるつもりだ」などと暴言を繰り返したものである。これらの発言は全て裁判上の証拠となる音声記録にも保存されているもので、事実である。NH校長が私を何としても異動させてK校から追い出そうとしていた、つまりパワーハラスメントを繰り返していたことは事実である。
○以降私は、疲弊しきっていたため、精神科で受診し、適応障害との診断を下された。寝付けない日々の中、なんとか学年末までやり終えることができた。午前中2時間年休を取得したり、休んだりすることが多い中での勤務で相当大変な思いをしたが、指導力不足教員の認定審査会では、H課長から、「すぐに休む」という点を指摘された。NH校長は心配するどころか、私に不利になり得るものは、療休であろうが構わず、悪いニュアンスで「すぐに休んでしまう職員」という言い方をしていたのである。前日に断裂症で休んだり、適応障害のために精神的に疲弊して午後から病院に行ったり休んだりした職員を捕まえて「すぐに休むダメな職員」という評価をして、教育委員会育成課に書類を提出し、強制的に指導改善研修に送り込んだのである。
当該NH小学校校長は、公務員に関わる諸規則、倫理規定、職務規定に該当し、自治会長から金銭を授受し、飲み食い等に充てるなど不適切に浪費した件に関して教育委員会から指導を受けている。2013年4月1日以降、強制的に指導改善研修に行かされている。

2013年9月18日(水)下校時の児童指導に立って児童に挨拶等をしていたが、不当にも、明日からは立たなくていいと発言。職員である者にこうした制限を設けるのは合理的理由がなく、パワーハラスメントである。

2013年9月、所属校研修ということでK小学校で勤務していたが、該当する場面がなく、学校長からの具体的な指摘もない事項について、不当に評価を低くつけられた。例えば、「採点ミスが多い」「市販テストで安易な評価をする」という場面そのものがなかったにもかかわらず、評価は「時々見られる」となっているのである。該当しない事柄までも、評価されているのであり、不実記載である。18項目中7項目(全体の38%)も本来該当することがないにもかかわらず、時々あるとされたのである。パワーハラスメントである。
 11月7日(木)に、学校長によるパワハラに関する訴えを労災として申請。本日付にて学校のメール便で送付。翌週11日(月)には届いているはずである。


901: 名無しさんAA:17/11/10 16:18
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 563----------

 実は多くの江戸から培われた文化があったのだ。自然を愛して中国やアフリカなどの
禿山を持たなかった。勿論戦時中にかなりの部分で伐採はされた。しかしそれでも雑木
ではなかったが、植林はしていたのである。更に思想的共生能力である。更に中国人や
朝鮮人と違って日本人は海洋人で良く魚を食べていた。明治時代までは日本人以外生魚
を食する人種はいない。それは山葵を持たず、フグで良く死んでいたからだ。朝鮮半島
が海に囲まれていて魚を食べて良さそうだが海賊や津波などで日本人が住み着くまでは
どういう訳か全く食べてはいないし海岸には住み着いては居なかった。汚らしい市内の
糞尿がそのまま流れ来た性もあるかも知れない。ビショップ夫人著「30年前の朝鮮」
よると「市民は地上に瓦または藁を並べた平屋の下に潜り込んで生活している。いや、
不潔な道路に蠢動していると形容した方が良いだろうか。その道路は広くても二頭の馬
が並べるほどではない。狭いところで大きな荷物を担いだ人が通ると、それだけで往来
を塞いでしまうほどである。道路のはしには悪臭が辺り一面臭ってくる溝があり、路面
は埃まみれの半分裸の子供達と、猛悪な犬とによって占領されている。」「下水道は、
市内の汚水を昼夜絶え間なく城外へと排せつしている。そのため、下水道の泥は真っ黒
で、遙かな昔からの汚水によって染められ悪臭を空気中に放散して旅人を悩ましている
。ソウルは汚いことと臭いことでは世界一である。」と百年前の朝鮮を書いている。又
イザベラ・バードは「商店も概してみすぼらしいのは同じである。在庫品全部買っても
6ドル程度の店が沢山ある。・・・何も特徴がないのが特徴である。・・・の他にある
安価な灯油ランプ、手鏡、安物臭い花瓶などといった外国製の不要品から一番くだらな
い物ばかり選んできたような品々は、どれをとっても悪趣味の極みとしか言いようがな
い。」と評した。フランス人宣教師シャルル・ダレ「朝鮮事情」では、抜粋しても全く
その姿は同じだ。1871年から、1872年にかけて、驚くべき飢餓が朝鮮半島を襲
い、国土は荒廃した。あまりの酷さに、西海岸の人々のなかには、娘を中国人の密航業
者に一人当たり米一升で売るものもいた。北方の国境の森林を越えて遼東半島にたどり
着いた何人かの朝鮮人は、惨たらしい国状を絵に描いて宣教師達に示し、「どこの道に
も死体が転がっている」と訴えた。しかし、そんなときでさえも、朝鮮国王は、中国や
日本からの食料買入れを許すよりも、むしろ国民の半数が死んでいくのを放置しておく
道を選んだのである。

902: 名無しさんAA:17/11/10 16:19
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 564----------

 統治時代の道知事であった朴栄は自国の事につぶやいている。公平無私なる観察を下
すならば、いくら日本の朝鮮統治に反対しても善政は善政に相違なく、如何に伊藤博文
公を毛嫌いしても公の真意には感謝せざるを得ない、とはある評者の言であった。究意
するに韓国を亡ぼしたのは日本でもなければ之を責めるにも当たらぬ。また当時の李・
完用始め自余の責任者でもなければ之を攻撃する事の必要もなし。又朴泰赫は、「日本
人地主は、韓国人の小作人の間で、きわめて評判が良かった。日本人がやってきてから
、改良された堆肥を奨励したし、化学肥料が配給されるかたわら、改良品種や、進んだ
農業技術を導入したので、収穫が増えたし、農地開拓と河川整備を進めたので、村人の
生活水準が大きく向上したからだ。それに日本人地主は、昔の両班たちよりもはるかに
寛容だった。両班のように小作人(ソチクイン)である常人を理不尽に苛めるような事
が全くなかったし、不作のときには、小作料を安くしてくれた。日本人地主のほうが、
物わかりがよかった。だから、日本人の地主は人気があった。みんなは、韓国人の地主
の小作人となるよりは、日本人地主の小作人になりたがったのは、当然のことだった。
日本人のもとで働いていた常人たちは、羨望の自で見られていた。日本人が所有してい
た農地は、独立後に、「敵産」(チョクサン)としてすべて没収された、しかし、日本
人が今日の韓国農業の発展の基礎をつくったことは、否定できない。」と書いている。
日本に留学していた金文輯は、数千年にわたる過去の朝鮮の、ことに李朝五百年史だけ
をとりあげてみても、完全独立の道などは一場の夢にすぎないことは、わが朝鮮自身の
常識である。いわんや、最近50年の世界史相を展望するとき、朝鮮が微弱なまま一度
自立してみようというのは最初から問題にならないのである。と日本政府に言っている
。基鎬(加耶大学客員教授)は十九世紀から二十世紀初めの帝国主義、列強諸国の時代
、暗愚の李朝両班階級は、その挑戦に直面、固唾を飲んだままで無為無策だった。その
失策は、あらためて糾弾すべきであって、日本帝国主義の植民地へと転落したことにつ
いて責任を他国のせいにすべきではない。大いに反省すべきなのにもかかわらず、今日
に至るまでいつまでも錯誤を放置、愚純の感情に委せているわけで、今日のような歴史
の初段は、当然再発すること、火を見るより明らかである。と日韓併合に反対したのだ


903: 名無しさんAA:17/11/10 16:19
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 565----------

 高麗大学教授 金鉉球・鄭大均は、わが国の中・高等学校教科書を見ると、百済・高
句麗・新羅三国の文化が日本に伝えられた話が出てきますが、その内容は日本古代史書
である「日本書紀」を土台にしているもので、わが国の史書にはありません。(そもそ
も韓国に古代の文献はほとんどない)ところが、日本の学者が「日本書紀」を土台にし
て、古代日本が二百年余り朝鮮半島南部の伽耶(日本名任那)地域を支配したという「
任那日本府説」を主張すると、韓国の学界ではそれは信じることができないと主張して
いる。これは明白な矛盾であり、こうした姿勢ゆえに日本の学界が韓国の学界を軽く見
るのではありませんか、という身の程を知らぬ質問をしたのだが。そしたらL教授は黙
り込んで答えず、横に居られたC教授が「自信がないんだよ」とおっしゃった。「日本
書紀」には日本が「任那日本府」という機構を置いて朝鮮半島南部を支配しつつ、三国
文化を運んでいったようになっている。しかし、韓国の中・高等学校では三国文化が、
日本に伝播される国際関係に関しては何の説明もされず、ただ高句麗・新羅・百済の、
三国が日本に文化を伝えた事実だけを教えている。そこで学生達は日本を客観的に理解
できずに、無条件、対日優越意識だけを助長する結果をもたらせた。 外国に出かけた、わが国の学生が「任那日本説」に接して戸惑うのも無理はない。「漢城の風雲と名士」
細井肇 著(『政治史』第77巻、豚犬的生活五より)「韓国内地を旅行すれば、路傍
や街路中に累々たる黄金の花(人糞の比喩)が場所も構わずにあちらこちらに咲き乱れ
いて、足の踏み場もなく潔癖な人は一目その不潔さと臭気の酷さに驚くのである。・・
・(中略)・・・現に、この国(韓国)の中央都会である京城(ソウル)のような、「
韓国の帝都」と言われる都市でさえ至る所に人糞や牛馬糞を見ないことはなく、辺りに
漂う恐ろしいほどの臭気は人の鼻を襲い目を顰めない人はいない。さらに京城市内(ソ
ウル市内)を流れている川には、そこに隣接する各家々から排せつされる糞尿が混じり
、川の水は黄色に染まり、ドロドロとなっているなど目も当てられない光景であるが、
韓国人はその水を洗濯に使っている。全く持ってとんでもない話である。毎年夏期にな
ると京城(ソウル)では伝染病が流行し、その伝染病にかかる患者の殆どが韓国人であ
り、大流行時には何千人もの患者を出すことも珍しくはない・・・」



904: 名無しさんAA:17/11/10 16:19
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 566----------

(『朝鮮における司法制度の近代化の足跡』友邦協会編より)元京城控訴院判事 山口
真昌氏の1908年6月の証言では、「道路は非常に狭く、しかも糞尿は至るところ道
ばたに落ちているという有様でした。井戸水は混濁していて、風呂に入れば茶色の湯で
、かえって身体が汚れるような感じで、飲料水は石油の空き缶一杯で何銭(当時のお金
の単位)で買ってきて使用すると言う状態で(要するに飲料水は買わなければならなか
ったと言うこと)、電灯は今だ一般の家庭には普及しておらず、私たちが当時借家とし
ていた家にはその設備(電灯)が無いためランプを使用しておりましたが、冬になると
寒気が激しく、石油が凍って段々と光りが薄暗くなり、仕事が出来ないほどでありまし
た。」朝鮮半島に渡った日本人は、常にこうした光景を見ていた。又日本に来た留学生
も母国に帰ろうとしなかった。こうゆう中で日韓併合を押し付けられていた。伊藤博文
が反対するも 隣国として善隣友好やアジアの独立共和の観点からも おしなべて賛成
であった為、その調査に再度大陸に渡りロシアと権益の調整と現地調査にハルピンに降
り立った。ところがソ連支援に傾いて後その郷土を追われた李氏朝鮮の反逆者がいた。
こうしてロシアに洗脳されたテロにより狂凶の者に伊藤博文は倒れたがそれでも日本は
日韓併合を果たして、自国の国家予算と同じ借金を海外に国債を発行して国家建設に乗
り出した。朝鮮総督府はすぐさま政策を打ち出しとりかかった。併合時(1910)〜終戦時
(1945)を比較すればおよそ無から先進国並みに変えて言った事がわかる。教育の普及は
ほぼ皆無 → 小学校5,213校建設、生徒数2,389,135人。京城帝国大学創設(1924)、旧ソ
ウル師範学校(現ソウル大学)、梨花女子大など1000校以上建設。朝鮮国民に教育を実施
し、就学率を61%まで高めた(1944) 更にわざわざ古典ハングルを整備し体系化させて、
漢字、日本語と共に普及させた。こうして識字率  3-8% → 80%になり、人口も大きく
1313万人 → 2,512万人(1944)に変わった。平均寿命も延び 24歳 → 56歳、鉄道も新た
に敷いた 3,827km敷設。耕地面積 246万町歩 →449万町歩。水田面積などは 84万町歩
→162万町歩(1928)と飛躍的に伸び、石高(米の生産量)約1千万石 →2千万石(1930)
反当たり収量 0.49石 →1.49(3倍)、植林 禿山に30年間で5億9千万本を植林、た
め池(韓国国内のため池の半分は、いまだ日本帝国謹製)朝鮮の不統一な度量衡を統一
し、貨幣価値の安定と物資の流通に資した(モノを受けるときは大きなマス、売るとき
は小さなマスを使っていたリャンバン特権剥奪した)地籍の整備 耕地を耕作者の所有
とみなし、朝鮮の大多数を占める農民の地位と生活を向上させた。

905: 名無しさんAA:17/11/10 16:20
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 567----------

この最も地球上で異常な文化を持っていた。凡そ人の文明とはかけ離れた 朝鮮半島に
、人身の自由、私有財産の保障、法のもとの平等を導入、幼児キーセンと呪術的医療の
禁止。李氏朝鮮の残虐な拷問を廃止(日本人相手に殺人を犯した金九でさえも一年半で
刑期を終えるように罪刑法定主義を徹底)家畜階級にあった朝鮮女性に対して名前をつ
けるように要求し、家長の権限を制限洪中将、金ウンソン少将など、朝鮮人を分け隔て
なく扱い、軍の高位に抜擢。などなど数多くの公共施設と社会資本を建設し施した。こ
の事で強盗件数は、昭和2年1771件。昭和7年1261件。昭和12年727件。
昭和17年 394件、とへり これまで薪により禿山になって災害が生まれて居た地
にも住めるようになったのである。日韓併合後、日本は朝鮮半島を日本本土と同じと考
えて、日本国民の莫大な税金を注いで、朝鮮を近代化させた。日本の敗戦後、韓国はア
メリカによって独立し結果的に日韓併合は日本に多大な経済的損失を被った。現在にも
この時行った治世は今の韓国に数多く残し併合時に先進国に入らない姿勢では 閑散な
ツングースの森よりも悪い いつまでも災害の続く砂漠が出現していたであろう。この
朝鮮半島の悲劇は中国の属国として甘んじ、決して世界を見ようとしなかった事にある
。その頃までロシアも中国も朝鮮を襲って来なかった。襲って来るのは中国王朝を建て
たモンゴルか海を渡った日本でしか無かったと言うのが朝鮮人の意識だったのだろう。
今や嘘の歴史小説が朝鮮国内で横行している。朝鮮通信使とは、室町時代から江戸時代
にかけて李氏朝鮮より日本へ派遣された外交使節団である。正式名称を朝鮮聘礼使と言
う。江戸幕府においての朝鮮通信使は琉球使節と同様に「貢物を献上する」という意味
を含む「来聘」という表現をもっぱら用いており、使節についても「朝鮮来聘使」・「
来聘使」・「朝鮮聘礼使」・「聘礼使」と称し、一般にもそのように言い扱いも裏門の
通行許可であり外様大名より下と見られていた。それは琉球王朝が薩摩に従う王朝であ
り、アイヌが松前藩に従う民族であり、朝鮮も又壱岐対馬の宗家が扱う民族とされてい
たのだ。アイヌ人の場合も琉球人の場合も或いは他の南方から来た民族でも土人として
の誇りや言語を持っていた。しかし朝鮮人の場合は、それを持たず常に宗家が傍で話し
文書をしたためていて、足利氏や秀吉や信長或いは家康にいぶかしく見られている事が
わかっている。近代のDNA研究によってそれらの理由が解る様だ。



906: 名無しさんAA:17/11/10 16:20
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 568----------

 それは、不思議な事にアイヌ人の源流はアムール川下流域に住むモンゴロイドの少数
民族であるとされるが、ツングース諸語ともアイヌ語とも系統を異にする、固有の言語
ニヴフ語を持つ民族でDNA配列でもツングース族でなくモンゴル族とされる。古くは
ギリヤーク人と言われ、アイヌやウィルタと隣り合って居住していたが、ウィルタ語の
属すアムール川流域のニヴフ語と樺太のニヴフ語は大きく異なる。又、頭毛の形状も、
体毛の発達、瞼の形態、指紋型や湿型耳垢の頻度などでは、ネグロイド、コーカソイド
、オーストラロイドなどとの共通性が認められるが、様々な遺伝子の研究は、アイヌは
遺伝的にこれらの人種とは隔たりが長く、東アジアのモンゴロイドと系統的に最も近い
ことがわかっている。だがアイヌが新モンゴロイドの固有派生形質を獲得していない、
すなわち現生人類の祖先形質を残しているためである。形質的には古モンゴロイドとさ
れ(アイノイド)に属すとされ、また縄文人もアイノイドに属していたと考えられる。
アイノイドとは、1775年にドイツ人の人類学者ブルーメンバッハによって分類されたと
言う、五大人種(コーカシア(白人種)、モンゴリカ(黄色人種)、エチオピカ(黒人
種)、アメリカナ(赤色人種)、マライカ(茶色人種))に基づいて使用されるように
なった用語から来ているが、数世紀前の古い分類であり全く最新の科学的な根拠には基
づいていない分類である。だが近年のDNA研究で新たに人類の樹を作り分類を始め、
世界の18人類集団の遺伝的近縁関係の23種類の遺伝子の情報をもとに近隣結合法に
よって作成された人種の遺伝的近縁図が作りだされた。この分析が証明する人類集団の
系統図は、アフリカン(ネグロイド)からコーカソイド(白人)が分岐し、コーカソイ
ドからオセアニアン(オーストラロイド)・イーストアジアン(モンゴロイド)が分岐
、そしてイーストアジアンからネイティブアメリカンが分岐した、と云うものである。
この人類集団の近縁関係は上記の遺伝的系統樹と現在の人類集団の地理的配置に一致す
る中で、新たに古代モンゴル種の一部としてアイノイド系と言う分類がなされた。しか
しこれが 現代の多くの日本人である主流の大和民族より琉球民族の方がアイノイドの
古代モンゴル族の血が濃くアイヌに近かったのである。



907: 名無しさんAA:17/11/10 16:21
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 569----------

 ところが韓国人研究チームが従来のヒトゲノム(人間のすべての遺伝情報)にあった
190個の空白のうち105個(55%)を明らかにし、世界で最も正確なゲノム解読
結果を出した。特に韓国人のゲノム配列をほぼ完ぺきに分析した。韓国人の体質に合う
新薬開発などに活用できるとみられる。と発表しながらも「アジア人の標準ゲノムとし
て未来の精密医学に使用できる医学用の標準ゲノムだ」と評価して韓国国内の標準ゲノ
ムは一般公開していない。韓国人の遺伝子の特徴については韓国人の8割に欠損DNA
が数多くあると発表された。その後日米欧と中国が協力して人間のゲノム(全遺伝情報
)を初めて解読した「国際ヒトゲノム計画」の資料を保存する取り組みが始まった物が
欧米の機関が先行し、日本の東京大学も加わって国際ヒトゲノム計画は2003年に完了す
ると、次々と裏付け情報が流れだした。中央日報では「朝鮮民族特有の精神病に関する
遺伝的特徴が明らかに、南鮮型精神分裂病の遺伝的要素を発見」と報じ、ウルサン医大等の
研究で体内のカテコールーoーメチル基転移酵素遺伝子の一塩基変異多型を調べて、72番のアミノ酸が
アラニンからリン酸に変わる時に精神分裂病の危険性が高まる事を突き止め、南鮮人の精神分
裂病患者にのみ現れる遺伝子の変移としてアメリカ学術誌「ヒューマンギェナティックス」にも掲載され
ている。米人類学者C−Sforzaの、遺伝子勾配データによれば、朝鮮人は世界で
も類を見ないほど均一なDNA塩基配列の持ち主であり、これは過去において、大きな
少数の人が近親相姦を重ねて今の人口動態を形成したか、あるいは近親相姦を日常的に
繰り返す文化の持ち主だった事を表す。韓国では、昔から若くて綺麗な娘達は中国に献
上されていたので、女性が足りず近親相姦が繰り返されてきた。遺伝子レベルで見ても
「父と娘」「母と息子」が結ばれないと出来ない遺伝子が大多数見つかっている。韓国
人が食糞したり、国民の70パーセントに精神障害(火病)が見られる。という。ドイ
ツ人ゲノム担当科学者は、朝鮮民族は近親相姦のものと思われるゲノム上の痕跡である
修正不能が多すぎて、他の民族では考えられない異常な近親相姦を、民族として繰り返
してたと思われるあまりにショッキングで常軌を逸した内容なので、そのゲノムの発表
は出来ない。また、朝鮮人男性の40%に発症すると言われる統合失調症も、それが原
因である可能性が大きい。異常な民族と言わざるを得ない。と発表を控えた。「韓国人
個人ゲノムプロジェクト(KPGP)」の一環として20人の韓国人ゲノムを分析した
結果だった。人間の遺伝子は30億個の塩基で構成されており、今回のプロジェクトを
通じて876万個の遺伝子変異を発見した。このうち184万個は既に発見されたもの
と違い今回新たに発見された変異だったのである。

908: 名無しさんAA:17/11/10 16:21
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 570----------その中でも6万三千個余りの変異は20人のうち13人から共通して発見されたもので
、韓国人特有の遺伝子変異と解釈される。こうしてわかった韓国人特有の変異は、病気
に関連した遺伝子から身体特性に関するものまで多様だった。代表的なものが辛い味を
好む韓国人の特異的変異だ。20人中6人から共通で発見された変異で、唐辛子の辛さ
の成分のカプサイシンによって活性化するたんぱく質と関連があることが明らかになっ
た。この変異によって機能が変わったたんぱく質が辛い味を好む韓国人の食生活習慣を
説明する端緒になると予想される。また、味噌・キムチのように醗酵食品が好きな韓国
人の特異な趣向遺伝子も出てきた。テラジェンイーテックスのパク・ジョンファ博士は
、「世界的に300件余りのヒトゲノム解読結果が公開されているが、大部分が西洋人
やアフリカ人、一部東洋人のもので、韓国人に対する遺伝情報は不備だった。今回6万
個余りの韓国人共通変異を発見したことにより韓国人のためのゲノム解読が可能になっ
た」と説明した。韓国人に対するゲノム分析結果は2008年12月から始まった。嘉
泉医大のキム・ソンジン教授が韓国人ゲノムを初めて完全解読し7月にはマクロジェン
が韓国人18人のゲノムを分析して英国の著名学術誌の「ネイチャージェネティクス」
に発表した。今回行われた韓国人20人のゲノム分析はこれまでに行われたプロジェク
トで最多人員だ。今回のプロジェクトの特徴は韓国人遺伝子変異を明らかにするのに、
クラウドコンピューティング技術を初めて導入した点だ。ヒトゲノムに存在する30億
個の塩基配列情報量は120ギガバイトに達するが、通常1人の塩基配列情報を分析し
結果を保存するのに8コア級サーバー10台を1週間稼働させなければならない。しか
しクラウドコンピューティングサービスを活用すればハードウェアを増設しなくても、
大規模にいつでも必要なだけ利用することができる。2008年に6カ月かかった作業
を今回は40日で終わらせたのが目立った成果だ。KTとテラジェンイーテックスは、
さらに多くの韓国人ゲノム分析のため現在70人の血液サンプルを確保した。KTのオ
・セヒョン新事業戦略担当常務は、「多数のゲノムデータが集まってこそ個人オーダー
メード型医療に必要な情報を知ることができ、これを調べるのにクラウドコンピューテ
ィングのようなシステムは重要な道具だ」と話した。 韓国人の特徴はこのクラウドの
世界のビックデーターの分析で数多くの結果が出て居るが、こうした偏狭者の事件が、
日本で数多く起こっている事は韓国人を入社させたり韓国流のTV放送で事件が起こっ
ているとも言われている。米国の連射事件でも話題になったが中国流で言えば医食同源
の表れであろう。「近づくな朝鮮人に」と言うのが、歴史的にも日本人の本音であった
ろう。

909: 名無しさんAA:17/11/10 16:22
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 571----------

 クラウドコンピューティングは多様なソフトウェアやデータを個人や会社の情報保存
装置に入れずウェブ空間に置いたまま必要な時に呼び出すインターネットコンピュータ
ー環境だが、費用を節約し業務の効率を上げることができる。韓国人のサラリーマンの
90.18%が「火病(ファビョン)にかかったことがある。」との調査結果がまとまった。
「火病」は、怒りやストレスを溜めこむことで発症する、韓国人特有の精神疾患と言わ
れている。悔しさや恨めしさがこみ上げたり自殺願望が高まったりするほか、パニック
障害や食欲低下(拒食症)、不眠症、不安感やうつなどでひどく落ち込んだりする。日
本でいう、うつ病や対人恐怖症に似た症状を引き起こすようだ。かかった理由、「職場
での人間関係にともなう葛藤」が最多韓国で「火病」にかかったサラリーマンは9割に
のぼる。韓国の就職ポータルサイト「キャリア」が、448 人の韓国人サラリーマンを対
象に実施したアンケート調査で、「職場生活のなかで火病にかかったことはあるか」と
いう質問に、90.18%のサラリーマンが「ある,」と回答した。中央日報日本語版が「韓
国人の火病急増、サラリーマン90%が病む... その原因は?」の見出しで、2015年1月
28日に報じた。火病(hwa‐byung)は鬱火病ともいわれ、米国精神医学会でも1995年か
ら認めているという。アンケートによると、火病にかかった理由のうち、1位は「上司
や同僚との人間関係にともなう葛藤」で63.80%を占めた。「業務の多さや 成果に対す
るストレス」が24.89%と多く、「人事考課に対する不利益」(3.62%)や「早朝出勤
や夜勤による睡眠不足」(3.17%)、「解雇やリストラに対する不安感」(2.71%)と
続いた。また、「火病はどのような形態で現れるか」との問いには、34.68%が「慢性
疲労を病んでいる」と回答。「躁鬱症」が19.02%、「脱毛」が12.30%を占めた。「呼
吸困難」(6.26%)や「パニック障害」(4.25%)との回答もあった。この結果に、日
本のインターネットユーザーからは、“「韓国は頑張った者が報われない、正直者がバ
カをみる社会ってこと」「韓国人って無駄にプライド高くて、自分たちを客観的に見る
ことができないってことだよね」といった声がある。火病の原因の一つには、辛み成分
の「カプサイシン」の過剰摂取がある、とされている。この成分が舌や胃、さらには脳
に損傷を与えるといわれ、うつやパニック障害などを引き起こすとされる。火病を抑え
るには「カプサイシン」の摂取を控えることに加え、職場での悩みやストレスを解消す
ることが大事になるとみられる。


910: 名無しさんAA:17/11/10 16:23
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 573----------

 「女は子を産む道具でしかない」朝鮮での、「道具(女)が不良品(不妊症等)であ
ってはならない。故に、「これこの通り、妊娠できる体でございます。」ということを
証明するために、妊婦になってから嫁がせた。父親が子供が出来ない場合「種男」とい
う男に娘を犯させて、わざわざ妊娠した状態で輿入れさせるのが習わしだったのだ。」
だがこの「試し腹」も、産まれてくる子供は、当然夫の血を引いていないため、妻と同
じ奴隷的な身分しかなく、結婚はおろか大人になるまで成長する者も稀だったと言われ
ている。自分の娘を血縁の近い男(兄や叔父)に妊娠させて、妊娠できる女と証明させ
てまでも、嫁がせるのには他ならぬ貧民の顔があった。この悪しき習慣を日帝は禁止し
た。しかし朝鮮時代の悪しき風習だと言ったのは日本などの西欧文化人だけで、朝鮮人
のそれも貢物として女性を受け取る位の高い者はそうは映っていなかった。中国の南北
朝時代や唐代の説話集『二十四孝』や『日記説話』によれば、南斉時代に、黔婁と言う
役人が不安に襲われて急遽帰郷すると父親が病気になっいて、医者に糞を嘗めて見ない
と状態が解らないと言われ、実際に糞を嘗めてみた結果、その味が甘かったので憂いた
とされ、これが儒教における孝行の一種「嘗糞憂心」の説話となった。こうした説話な
り仏教なり儒教なり朱子学なりを広めようとしたが、恐らく朝鮮人には理解不能だった
のだろう。今でも壱岐対馬の盗んだ仏像を祀って仏教を説く仏師がいるなどと言う馬鹿
さであるし、司法すらも考えられない馬鹿さである。この異常さはフン族独特の物だっ
た。、蔚山(ウルサン)科学技術院(UNIST)ゲノム研究所は国際学術誌で、韓民族(
=朝鮮民族)は、3〜4万年前に東南アジアから中国東部の海岸を経て極東地方に流れ
込み、北方人となった南方系の狩猟採集民と、新石器時代が始まった1万年前に同じ経
路で入ってきた南方系の農耕民族の血が混ざって形成されたと発表した。頭がい骨の、
ゲノムを解読・分析したところ、悪魔の門の洞窟人は現地に定着した南方系人で、韓国
人のように茶色い目とシャベル型切歯の遺伝子を持っていたことが明らかになったのだ
。また彼らは、牛乳を消化できない遺伝変異や、高血圧に弱い遺伝子、体臭が少ない遺
伝子、耳たぶの薄い遺伝子など、現代の東アジア人の典型的な遺伝特性も持っていたと
いう。ゲノム研究所のパク・ジョンファ所長は近くに住む「ウルチ」族の先祖で悪魔の
洞窟人は韓国人の祖先とほぼ同じだと言える」と話している。つまりウクライナとモル
ドバにまたがる地域での放牧民であったというのだ。

911: 名無しさんAA:17/11/10 16:23
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 574----------

 英国の旅行家イザベラ・バードは「朝鮮人は日本人よりも体格がよい。約10センチ
の差がある。朝鮮人に物を教えるとすぐに覚えます。朝鮮人は物覚えがよくて、見た目
もよい。」と言っている。「但し異常だとも言える。」朝鮮は昔、毎年3000人の美
女を宗主国に献上してきた事実がある。結果、女性不足となり性の対象として家族姉妹
にまで手を出す風習が出来た。しばらくして、劣性遺伝子が表面化し、現在においても
なお日本人の2倍以上の奇形児が生まれてしまうという悲惨な結果をもたらした。当時
、性欲の処理に困った配偶者のいない朝鮮男は、大量の美女を宗主国にとられ、残りの
醜い女、奇形、白痴まで強姦し妊娠させてしまう。これを属国であるが故の悲劇として
だけでは語れない部分がある。何故なら現在においても、韓国における強姦の発生率は
突出して高いのである。単純に過去の問題としてのみ捉えることはできないのである。
又遺伝子的に日本人と韓国人は赤の他人と近頃判明した。日本人はY染色体DNAのD
系統を高頻度で持つ事で有名である。世界的にもチベット人や中近東の人だけにがこの
DNAをもっているが、他の世界のどこにもほとんど存在しない。さらに日本のすぐ近
くの朝鮮半島や中国人などは南方系O系統であり、孤立したD系統を持つ日本人の異質
さが際立って見える。またこのD系統は、アジア人種よりも地中海沿岸や、中東に広く
分布するE系統の仲間であり、Y遺伝子の中でも非常に古い系統である事が解っている
。東アジアの地域全体には南方系O系統が広く分布し、島国の日本や山岳のチベットに
のみD系統が残ったと考えられる。D2系統はアイヌ人88%、沖縄人56%、本土日本人
で42〜56%(参考までチベット33%)で、韓国ほぼ0%であるのだ。アイヌには南方系
O系統は無く、完全なD系統であり、本土日本人と沖縄人には南方系のO系統が混ざっ
ている。それでも本土日本人のD系統は半数以上である。つまり事実上アイヌと、本土
日本人は大差がなく、アイヌに南方系を足したのが本土日本人となる。結論として日本
人は基本的に共通して、アイヌ人〜本土日本人〜沖縄人までD系統(北方古モンゴロイド
)がベースになっており、日本人の3集団が持つD系統を持たない韓国人は赤の他人と
結論できるのである。

912: 名無しさんAA:17/11/10 16:24
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 575----------

アメリカとドイツの研究室で朝鮮人のDNAを分析していた杉弘工学博士は驚いたこと
を発表している。なんと朝鮮人のDNAは全く現代人では在り得ないものだった。「人
間とも言えない遺伝子が存在している。」と発表したのです。何故かと言うと、アメリ
カにおいて犯罪が一番多いのは朝鮮人です。レイプ・人殺し・銃乱射、etc‥。「何故
、朝鮮人はこんなに犯罪が多いのだろうか?」ということが、DNAを解明しようとし
た最初の動機です。これは世界各国とも同じです。今は遺伝子学がそうとう進歩してい
るので、わかってしまうのです。「強姦していません」と朝鮮人が言ってもDNAを調
べると、朝鮮人の精子がでてきてしまうのです。これで終わりです。遺伝子学の向上に
より犯人のDNAがわかってしまい、もう逃げられないのです。この結果、どうして、
このような凶悪犯罪者が多いのかと研究した結果、6万3千の人間にない、人もどきの
遺伝子が発見されたのです。「人類とは違う欠損遺伝子」と言われています。人間の持
つ遺伝子とは違うのです。ドイツの研究者は、「そのゲノムは発表できない」と言うく
らい悪い遺伝子です。ただ一つ言えることは、長年にわたり近親相姦を繰り返してきた
結果できてきた劣悪な遺伝子だとわかったのです。朝鮮人と日本人は全く違うのです。
外務大臣・東郷茂徳は朝鮮名、朴茂コの孫であった。東郷和彦も朝鮮人の遺伝子が代々
伝わっている。日本に来たのは400年前ですが、遺伝子は消えてなかった。同じ朝鮮
人の遺伝子です。遺伝子の研究により、人種の見方が変わってきたのです。「なぜに、
朝鮮人は火病なのか?」ということも日本人はわかってきたのです。朝鮮人と日本人は
遺伝子が全く違うのです。だから、仲良くはできないのです。「朝鮮民族は仲良くした
人間に食らいついて裏切る。」という性格を持つ欠損遺伝子の存在である。細胞の不協
和をする可能性が高いのである。普通なら養子でもらわれたならば、親を大事にします
。朝鮮人はその親を殺して財産を奪うという邪悪な遺伝子です。和夫一家殺害事件では
朝鮮人の養子13人が和夫夫妻を惨殺した、最近ではアメリカアイダホ州で、韓人養子
と推定される20代男性が銃を連鎖発砲し、自分の養母など3人を殺害、1人を重態に
した後、警察との追撃戦の結果、逮捕される事件が発生しました。犯人はジョン・リー
という韓国人です。朝鮮人は近親相姦もする遺伝子です。近親相姦とは、父と娘、母と
息子、兄と妹、姉と弟です。みんな関係を持つという邪悪な遺伝子です。日本人からみ
たら、こんなことはあり得ないのです。朝鮮人はこの遺伝子をもっているのです。それ
から嘘つきの遺伝子です。全く道徳観がない。それは細胞自体が不協和遺伝子をもつか
らと考えられている。

913: 名無しさんAA:17/11/10 16:24
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 576----------

 最近発見された人骨があった、アムール川流域に「悪魔の洞窟門」は伝説があった。
そこの洞窟群に人が住んでいた事は確かだが、そこが「悪魔の洞窟門」と言われる理由
はその洞窟の前を通った人間は、誰もがいなくなってしまう事だった。「あそこへ行く
な。あそこには悪魔が住んでいる。」というウワサが立って古い伝説になっていた。そ
の後、だんだん人が近よらなくなっていたのだ。何故、人間が近寄らないのかというと
、洞窟の中にいる連中は熊でも人間でも見つけると襲ってきては、食べてしまっていた
からだ。この連中は人間も食ってしまうし、犬も食ってしまうのです。何でも食ってし
まうので、そこを通った人間はいなくなってしまうのです。悪魔の門は、人間が恐れて
通れない所だった。そのような地域があり、恐ろしい場所が近年まであったのであった
。「この連中は一体何か。」という処が話題だった。DNA的に旧原人とも言えたのだ
。現代人をホモ・サピエンスとすると、悪魔の洞窟門の連中は現代人ではありません。
ホモ・サピエンスではない人達です。石器時代、新石器時代に洞窟の中に入って生き延
びてきた連中がいたのです。これが黒い山葡萄原人と呼ばれています。この科学的証明
に朝鮮人は文句が言えません。北朝鮮の歴史教科書でも書いあるのだ。写真入りで。「
俺たちは黒い山葡萄原人だ!」と自慢して言っている。「我々は猿人と現代人の中間で
ある。我々朝鮮人から現代人は生まれたのだ」と主張している。だから「朝鮮こそが、
人類の故郷であり、我らの先祖は偉大なる山葡萄原人だ」と言っているのです。山葡萄
原人はヒト科の種類であり、悪魔の洞窟門は地域です。そこに住んでいた山葡萄原人は
色が黒かったのだと思います。悪魔の洞窟から人骨が2体見つかり、20代の女性と4
0代の女性の人骨が見つかった。これが先ほどのDNAの検査をした骨だったのだ。驚
くことなかれ現代の朝鮮人と全く同じで、ウルチ族も悪魔の洞窟門の人骨と同じ遺伝子
を持っていた。ウルチ族はロシアに数千人しかいません。それも山葡萄原人が生き残っ
て、ロシアに出ていったのがウルチ族になり、満州から朝鮮半島に入り込んだのが朝鮮
人になったのだ。見つかった人骨は、約8千年前の人骨です。人類の数が少ない時代に
人類の中に紛れていったのです。その頃、朝鮮半島には穢族(わいぞく)がいました。
この俾族と山葡萄原人は結合したのでしょう。「地球上、これ以上汚いものはない」と
いうから(わい)というのです。「汚穢(おわい)」の「わい」です。


914: 名無しさんAA:17/11/10 16:25
 しかしながら、朝鮮人だと言って馬鹿にしていますが、体格は日本人よりもよいし、
強いのです。イザベラ・バードが言ったように「朝鮮人は体格がよい」。男は250s
担いで、女は150sの荷物を頭に乗せて運んだのです。朝鮮人は頑丈な体で全て土甕
です。素焼きの壺に水を満タンにして、毎日往復して運ぶので、自然に体格がよくなっ
てしまうのです。というのも生きた化石状態で文化や民族維持をして来たからだ。言わ
ば人類の野種と言えるまま現代まで来た。又 別に糞尿の処理についても日本やドイツ
或いはモスクワより北方の民族を除いては、バケツに盛った糞尿をアパートメントから
窓に捨てて居た。第二次世界大戦まではそれが日常であり、その為に香水や日傘などが
発明され、アルコールのビールやワインがバカ売れした。そうした事で脱げないドレス
が作られたのである。この糞族や俾族などは後から山葡萄原人や匪賊やエべンキ族など
と混同されるが確定的に種の違いや分布図は出来て居ない。大戦の影響で学術的調査が
不備だった為だ。だが女真族を追いやり、その女真族は航海の術を知っていたので日本
を奈良時代から明治時代まで日本沿岸の脅威になっていた事が解っている。この臭い一
族はドナウ川沿岸にもいたとされている。だがお腹が空けば、人間でも犬でも食べてし
まう習性や、犬食いの風俗と、汚らしいエベンキ人と文化同流だったから、どうしよう
もない民族として体制に組み込まれなかった。ともかく臭い物が好きで臭いのが一族の
誇りだった。それはエベンキ族と同じだったエベンキ人(山葡萄原人)が混血をして、
それで朝鮮民族の原型ができてきた。山葡萄原人は、前期人だから約束などという観念
は無かったと言われる。更にその匂いに於いて熊や狼の猟をしたと言われる。エベンキ
人はツングースのトナカイの放牧民だが、彼らは罠の定住民だったとされる。こうして
獰猛で野蛮な一族が人間を殺して朝鮮半島に入り込んでしまったのです。そのようにし
て、シナ人を殺して、女真族を殺して乗っ取り、ジワジワジワと朝鮮半島で占領してき
たのです。こうしたエベンキ人と糞族が合体して朝鮮人になったのです。だから嫌われ
ることなど、なんとも思っていません。クサイということも、「獲物さえ取れればよい
」という事だった生きる為に。「他の人がどう思うか」などということは、関係ないの
です。 朝鮮人が本当は滅びた種族であって、これだけデタラメな民族は現代人の中で
生きていたとは明治政府も知りません。約束してもすぐに裏切る、相手は武力で脅かす
、少しでもスキがあれば親戚でもぶっ殺して物を奪います。人間の肉は食らい、犬の肉
は大好物です。こんな人種と現代文明が付き合える筈はない。言葉が全く通じません。
そんな恐ろしい人種が隣国にいたのです。それが朝鮮人の先祖の流れだったのです。我
々は異人種だということをわかった上で付き合わなかったので大変な大怪我をします。
それが先の大戦だったのです。

915: 名無しさんAA:17/11/10 16:51
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 579----------
窮地がある。この朝鮮人を馬鹿に出来ない。今やDNA科学はデザインベビーまでを、
産むまでになったのだ。ヒトの遺伝子をあたかも化学物質のように、合成しようとする
研究を目指す研究者たちがいる。究極の生命科学ともいえるこの研究には、技術的にも
難関だが倫理的な命題「人間がクローンを作製してよいのか」が立ちはだかる。計画は
まだ検討中の段階であるが、DNA配列を変更できれば不利な体質や体の欠点を克服で
きることになる。人間が人為的な進化を遂げるともいえる行為がハーバードメデイカル
スクールで秘密裏に限られた約150名の研究者たちによって検討されている。出席者
たちはメデイアとの接触を禁じられている。このような試みの科学的に貢献が大きいと
主張する会合の企画者たちはヒトゲノム計画のフォローアップという位置付けととらえ
ている。しかし新しい計画は遺伝子配列の読み取りのみならず、書き込みを得る行為、
すなわち30億個の塩基配列を化学的に合成する次のステップを試みようとしている。
原理的には塩基配列の構成要素は簡単な分子であり、配列を制御して「組み立てる」だ
けのことではあるのだ。しかし、そのような手法が仮に可能になったとしても、この事
が「特定人物のクローン」を作り出す事なら人間に許される。と考える人は少ない。と
言うのも病気疾患の代替え臓器をも可能とするし、例えばアインシュタインと同じ頭脳
をもちたいと願う人は少ない。又不幸にして失った恋人や愛妻が蘇るとしたら、誰しも
新技術を願うかもしれない。この秘密会合に招待された遺伝学者の中には倫理的問題か
ら出席を辞退した人も多数いた。しかし企画したチャーチ教授は「趣旨が誤解されてい
る」と主張する。プロジェクトはヒトのクローン化を目指すものではなく、細胞レベル
の合成実験でDNA合成機能の向上のアカデミックな性格のものだと弁明している。又
出席者のメデイア接触を控えてもらったのも会合の中身を論文で公表するためだとして
いる。新プロジェクトはHGP2、”ヒトゲノムプロジェクト2”とされフォローアッ
ププログラムとなる予定だ。10年を目途にでヒトDNAを「細胞レベルで」合成でき
る技術の確立することと言われる。しかし会合後に正式名称は”人ゲノム書き込み合成
検討会”となり、書き込み、すなわちDNA合成を目標とすることが明確になった。題
し「NIH」である。代表はは時期尚早としてコメントを控えているが企業から関心が
寄せられている。今や存在しているDNA配列を意図的に変更する書き換えは薬の合成
はすでに行われている。これを発展させれば細胞レベルで全てを書き換えることも可能
になる。遺伝子全体を合成するよりは書き換え技術を発展させた方が容易だ。倫理的な
議論を早急に進める必要がある。と言われる。だが細胞の不協和音は人を殺人鬼殺人狂
を作りだす可能性は決して低くない。

916: 名無しさんAA:17/11/10 20:45 ID:SB6
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 580----------

 ――中国は眠らせておけ。目を覚ましたら、世界を震撼させるから――。これはナポ
レオンがそう警告した言葉であった。発したのは、200年前のことだ。そして今、中
国は目覚め、世界を揺るがし始めている。ところが、多くのアメリカ人は中国が農民中
心の後進国から「史上最大のプレーヤー」に変身した事の意味を知らない。又この事が
、日本人にとって何を意味するのか考えようとしない。その為、「トゥキディデスの罠
」について学んで、世界の今後や、日本の今後の対応を検討する事も有意義な事だろう
。トゥキディデスの罠は対ペルシャ戦争後、古代ギリシャ世界に勢力圏を拡大し始めた
頃の都市国家の事件だ。アテネに対するスパルタとその同盟国の不安と疑心暗鬼と反発
を描いている。アテネやその同盟国が防壁をもつのを、スパルタとその同盟国は見過ご
すわけにはいかなかった。それでも、スパルタは当初は静観しようとした。かつての、
米国のモンロー主義である。だがスパルタの意向を受け、スパルタの同盟国を中心とす
る諸都市会議は、アテネ使節団代表が会議で演説する機会を与えた為波紋が起こった。


917: 名無しさんAA:17/11/10 20:45
米国のモンロー主義である。だがスパルタの意向を受け、スパルタの同盟国を中心とす
る諸都市会議は、アテネ使節団代表が会議で演説する機会を与えた為波紋が起こった。
代表は、その席で次のように述べた。「我々は暴力をもって支配圏を獲得したのではな
い。諸君がペルシア軍の残留部隊に抗して留ることを望まなかった為に、同盟軍は我々
を頼りにして、統治権の設立を我々に依頼したのである。そしてまさにこの事態から、
初めはとくに恐怖から、ついで名誉のために、そして最後に利益のために、我々は今日
までにこの支配圏を統治するようにまず強要されたのである。……この一旦、与えられ
た支配圏を引き受けた以上は、体面と恐怖と利益の三大動機に把えられて我々は支配圏
を手放せなくなったのだ』(トゥキュディデス『歴史』小西治雄訳・ちくま学芸文庫、
上、69−70ページ)と かつての日本軍が満州国設立や日韓併合の様な事態だったのだ
。彼はここで、同盟国に対する信頼性(クレディビリティー)の重要性を言おうとして
いる。だが、その点に関してはスパルタも同じだった。アテネとの軍事対決に慎重だっ
たスパルタを動かしたのは、同盟国に対するクレディビリティーの要素だった。「主に
アテナイ(アテネ)の未曽有の海軍力とペルシア戦に示された彼らの勇気に怖れを抱い
た同盟諸都市にそそのかされたからであった」(同、上、79ページ)同盟とは、まこと
に恐ろしい取り決めである。それは、冷厳かつ厳粛な約束事である。同盟国は、そその
かす相手ではない。こちらも、そそのかされる存在であってはならない。同盟は、互い
の国益とリスクを冷静に評価し、戦略的利益をともに追求するため、体を張り、力を合
わせる真剣勝負である。だからこそ民族や国柄を見極める事は大事な要素である。中で
も日本がソ連邦に裏切られ、世界大戦に於いて大きく戦時中以上に敗戦時に悲惨事件を
起こしていた事を知っておかねばならない。特に同胞であった朝鮮人がソ連の手先とな
っての悪質な行為は、かなりの大きな負債を背負いその後も連合国軍だとして婦女子を
次々に暴行して人殺しして来た状況を忘れてはならない。



918: 名無しさんAA:17/11/10 20:46
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 581----------

 この後「トゥキディデスの罠」では覇権国と新興国の競争が構造的ストレスを生み、
通常ならやりすごせそうな事象をきっかけに破滅的な戦争がもたらされる。古代ギリシ
ャの歴史家トゥキディデスが、過去のペロポネソス戦争を観察し、新興国(アテネ)の
むしゃらな拡大が、優位性を失いたくない覇権国(スパルタ)の不安を招き、戦争を不
可避にしたと指摘したことに由来し、アリソン教授はこの力学関係を「トゥキディデス
の罠」と名付けた。正に大日本帝国や、ドイツ帝国が連合国軍相手に問答無用に戦争に
引きずり込まれた様に、陰に陽に引き込まれる現象が生じたのである。ハーバード大学
で指導する「トゥキディデスの罠」プロジェクトでは、過去五百年の歴史を調べては、
新興国が覇権国の地位を脅かした16件のケースを分析している。事例には、15世紀
末のポルトガル対スペイン、16世紀前半のフランス対ハプスブルク家、17世紀半ば
以降のイギリス対オランダ、19世紀末と20世紀初めの日本対中国とロシア、20世
紀初めのアメリカ対イギリス、20世紀半ばの日本対アメリカ、そして冷戦時代を通じ
てのソ連対アメリカ……などが含まれ研究された。それらの事例を踏まえ、米中の場合
も全面戦争になるときは一気にエスカレートして起こる、として以下今後の日本に5つ
のシナリオを挙げている。@偶発的な事故や衝突 A北朝鮮や台湾など旧属国の挑発 
B経済や外交問題での軍事挑発 C支配国の支配地域の独立 D周辺国での戦争や崩壊
である。つまり少しでも周辺地域や周辺国に異変があれば否応なく戦争に巻き込まれて
しまうのである。この状況を作ったのはそもそも馬鹿な自民党でありそれを拡大したの
は中曽根政権なのだ。これが「トゥキディデスの罠」である。かつて大戦中もこの風見
鶏的軍人がこうした危機を作ったのである。一方でアメリカに不沈空母を叫び一方では
中国を支援すると言う馬鹿さである。これを極端に行っているのが朝鮮政権だ。中道外
交で最大限のレバレッジ効果を引き出す。と聞こえはいいが結局日本で言う蝙蝠外交で
右に左の告げ口外交して自分の地位がさも偉いかの様な虎の衣外交だった。したがって
外交において、米国、中国、日本、そして北朝鮮のいずれとも関係が悪化した朴前政権
の経験は、実利はなく教訓しか残していない。「アテネの台頭と、それがスパルタに与
えた恐怖が、戦争を不可避にした。」トゥキディデスは、戦争した理由は、そのように
結論づけた。台頭する新興国の夢とプライド、挑戦を受ける覇権国の恐怖と自信の揺ら
ぎ、追う者と追われる者とのゼロ・サム心理こそが、均衡と安定の最大の敵だった、と
いうのである。このパワー・シフトジレンマを「トゥキディデスの罠」と名づけている


919: 名無しさんAA:17/11/10 20:49
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 582----------
だがこの失敗が教訓になったかも疑わしい。アジア通貨危機の際にも、国際通貨基金の
管理のもとで、財閥の解体などが進められたが、根本的な問題は是正されず、むしろ、
李政権は、政府主導で業種に財閥企業を核にして 海外市場を狙う積極的なグローバル
戦略が展開されている馬鹿さである。韓国経済に深く根を下ろす「疑似資本主義」体制
を変えることは容易ではないにしても、日本の様に 三権分立は必要で司法や行政など
の国際規格ぐらい順守すべきであろう。竹島に降立ち気焔を吐いた李政権を処罰せず、
慰安婦像も撤去せず、更には、抗日戦争勝利70年記念式典の軍事パレードにのうのう
と出席し、THAAD配備を理由に中国からの制裁である。今回も、康京和外相が国会
で、(1)米国のミサイル防衛システムに加入しない(2)日米韓の安全保障の協力は
3カ国軍事同盟に発展しない(3)高高度防衛ミサイル(THAAD)を追加配備しな
い−と言及し、米国の軍事行動に一方的に縛りをかけ、半島有事での「中立」を示唆し
た。これでは、南シナ海をめぐって米中が対立し、北朝鮮の核・ミサイル問題が深刻化
する中では「韓米日」の枠組みへと一応、回帰したとはいえ、日米からの、安保協力の
信頼性は全くなく、中国からも「最終段階高高度地域防衛」(THAAD)の導入や運
用開始に対する報復を受けても文句は言えない。文政権の「反日・反米・従北・親中」
という基本姿勢が現れて、トランプ氏が、韓国国会で北朝鮮を「囚人国家」「人権状況
は劣悪」「われわれを甘く見るな」と厳しく批判したのは韓国や中国への当てつけであ
る。文政権との距離は「米韓同盟の空洞化」は避けがたく、米国は教育的懲罰を与える
べきだが、朝鮮半島有事が現実化した今では韓国が“蚊帳の外”に置く事しか出来ない
だろう。当然である。これまでも、米軍の『作戦計画5015』が、北朝鮮のサイバー
攻撃で盗まれた事も本当かどうか解らない。一部の者の諜報売り込みかも知れないから
だ。米国側はこれまでも韓国側に不信感を強めていたが、文政権の対応にはかなり腹を
立てて『文政権を教育する』『目を覚まさせる』という意識で韓国に乗り込んだ」と明
かすが、外交音痴で国際感覚のない韓国人には効かない。これでは来年「民族の滅亡」
目の当たりにしても仕方がないだろう。問題はに「パックス・チャイナ」を創ろうとし
ている「新皇帝」となった習近平である。「新中国建国1 0 0周年のとき(2 0 4 9年)
までに、富強・民主・文明・和諧(調和のとれた)の社会主義現代化の国家を、必ず作
ってみせる」とこの2度にわたる「重要講話」を行い、「習近平外交」の着々と土台作
りしている。中国から軽蔑され、恫喝される、戦略的には生ける屍のような存在になっ
た韓国に日本は笑う話ではない。日本も又米国にはそっぽ向かれないまでも中国社会に
は痛み分けが続き、教育的位置には遠のいた形になったのだ。

920: 名無しさんAA:17/11/10 20:50
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 583----------

 21世紀の東アジア――。世界のパワーバランスの変化が日本にどのような影響を与
えうるか、考えてみるうえでもぞっとする。北朝鮮の核ミサイル開発は、他の諸外国に
通じないもどかしさからの開発とも言える。韓国と同じく北朝鮮もかつて中国の属国だ
った。「新皇帝」となった習近平であるが、毛沢東の信奉者として育った。その中でも
古代中国皇帝時代の冊封体制での清王朝時代と同じ事を夢見ていたとはなかなか信じ難
い。中国の冊封体制とは、宗主国と朝貢国(属国)からなる「緩やかな主従関係」の事
だ。宗主国とは中央にある中心の国、中国で、朝貢国とは中国周辺の小国群での体制で
ある。冊封体制において、朝貢国は宗主国に対して、春節(旧正月)には外交使節団を
中国の皇帝のもとへ送る義務を負っていた。春節の日に皇帝は、宮殿の前庭に出て、各
国から参賀に訪れた外交使節団に謁見した。皇帝が姿を現すと、各国の外交使節団は、
いっせいに「三跪九叩頭の礼」で迎える。これは1回ひざまずいて3回地面に頭を擦り
付けるという動作を、計3度繰り返すもので、各国が中国の「属国」であることを示す
儀式だった。その代わり各国の使節団は、自国から持参した物以上の大量の贈答品を、
中国から受け取って帰国する。いわゆる「厚往薄来」(来る時は薄くて帰る時は厚い)
の風習である。朝貢国はまた、「皇帝」を名乗ってはならず、皇帝の臣下である「王」
となる。そのため「処帝書年」には中国の暦を用いなければならなかった。ほかには、
朝貢国の王が替わる際に、形式的な事前許可が必要だった。それ以外は、中国は周辺国
に対して内政不干渉を貫いた。暴君が圧政を敷こうが、愚王が国を傾かせようが、干渉
してくることはなかった。ただ朝貢国のメリットとしては、自国で反乱や暴動などが起
こった際に、中国が援軍を出してくれる事だ。又水害や旱魃、疫病などで困ったときに
は経済援助してくれた。つまり冊封体制とは、中国が兄貴分、周辺諸国が弟分のような
、緩やかな兄弟の様な主従関係なのである。もしも朝貢国が中国に逆らった場合には、
中華帝国の強軍が国境を押し破って攻め入ってくるため、多くの周辺国が中国に服従し
た形を取った。この東アジア伝統の冊封体制は、中国の1840年に、アヘン戦争が起
こった事ででイギリス軍に敗北を喫し揺らぎ始めるまで続いた。これらから「屈辱の百
年を乗り越えよ。」と今回声を掛けて主席の座に座った。当然此処で中国は米国には、
新任早々に太平洋は二国で分けても尚余ると声を掛け今年は「一帯一路」で西に勢力を
広げている。今や中国は、GDPで日本を抜き、世界ナンバー2の経済大国に上がり、
中国は、公表している経済統計も軍事費も正確さと透明性に欠けるが、私の推定では、
経済力でアメリカの3分の2、軍事力でアメリカの3分の1規模まで来ている。

921: 名無しさんAA:17/11/10 22:03
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 583----------

 21世紀の東アジア――。世界のパワーバランスの変化が日本にどのような影響を与
えうるか、考えてみるうえでもぞっとする。北朝鮮の核ミサイル開発は、他の諸外国に
通じないもどかしさからの開発とも言える。韓国と同じく北朝鮮もかつて中国の属国だ
った。「新皇帝」となった習近平であるが、毛沢東の信奉者として育った。その中でも
古代中国皇帝時代の冊封体制での清王朝時代と同じ事を夢見ていたとはなかなか信じ難
い。中国の冊封体制とは、宗主国と朝貢国(属国)からなる「緩やかな主従関係」の事
だ。宗主国とは中央にある中心の国、中国で、朝貢国とは中国周辺の小国群での体制で
ある。冊封体制において、朝貢国は宗主国に対して、春節(旧正月)には外交使節団を
中国の皇帝のもとへ送る義務を負っていた。春節の日に皇帝は、宮殿の前庭に出て、各
国から参賀に訪れた外交使節団は謁見する。皇帝が現われると、外交使節団達は、一斉
に「三跪九叩頭の礼」で迎える。1回ひざまずいて3回地面に頭を擦り付ける動作を、
計3度繰り返すもので、各国が中国の「属国」であることを示す儀式だ。その代わりに
各国の使節団は、自国の貢物以上の大量の贈答品を、中国から受け取り帰国する。いわ
ゆる「厚往薄来」(来る時は薄くて帰る時は厚い)の風習である。朝貢国は、「皇帝」
を名乗ってはならず、皇帝の臣下である「王」となる。そのため「--帝--年」には中国
の暦を用いなければならない決まりだ。朝貢国の王が替わる度に、形式的な事前許可が
必要でありそれ以外は、中国は周辺国に対して内政不干渉を貫いた。つまり各王が圧政
を敷こうが、暴君で愚王で国を傾かせようが、干渉しなかったのである。しかし朝貢国
で、自国で反乱や暴動などが起こった際には、要請で中国が援軍を出してくれた事が、
メリットだった。又水害や旱魃、疫病などで困れば湯水の如く経済援助してくれた。つ
まり冊封体制とは、中国が兄貴分、周辺諸国が弟分の様な、緩やかな主従関係なのだっ
たである。しかし朝貢国が中国に逆らった場合に、中華帝国の強軍が国境を押し破って
攻め入ってくる為、多くの周辺国が中国に服従した形を取った。この東アジア伝統の冊
封体制は、中国の1840年に、アヘン戦争が起こった事ででイギリス軍に敗北し、揺
らぎ始めるまで続いたと言う。これらから「屈辱の百年を乗り越えよ。」と今回声を掛
けて主席の座に彼は座った。当然ながら此処に中国は米国に、新任早々に太平洋は二国
で分けても尚余ると声を掛け、今年「一帯一路」で西に勢力を広げている。今や中国は
、GDPで日本を抜き、世界ナンバー2の経済大国に上がり、中国は経済統計も軍事費
も正確さと透明性に欠けるが、推定でも経済力でアメリカの3分の2、軍事力でアメリ
カの2分の1規模まで来ている。と思われる。

922: 名無しさんAA:17/12/07 15:31 ID:2Hw
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 584----------

 この歴代の中国皇帝の宮殿であった中に、習氏自らトランプ氏を迎い入れた。これは
中国国家として最高のもてなしだった。人種の坩堝と人種のサラダが出会ったが今では
奇妙な関係が生まれて居る。海洋大国のアメリカが保護貿易とパンアメリカン主義に戻
った途端に、自由貿易を掲げ、日本がインド洋から引き揚げた途端に南シナ海の占領を
開始していった。この瞬間から中国には孫悟空の金頭環が外された形で大海に出ては荒
らしまくっている。中国10億人の財布と胃袋にはかなりの欲が詰まっていて世界には
動揺が広がっているが彼らも又それを気にする民族ではない。特に共産党は、平和の軍
隊で他国に押し入って戦争をした事など一回もない。と大嘘をついている。国内で大戦
中に日帝をやっつけたのは我々だと国民に嘘をつき、又朝鮮戦争でもベトナム戦争でも
カンボジア国境にもビルマ内紛にも、喰いぶち減らしと軍を送っては戦っている。印度
国境のカシミールでは、全く自分の境界でもないチベット占領を果たして境界紛争して
いる。極めつけは外モンゴルとされたウイグル王国も今やウイグル自治区として制圧し
ては漢民族の暴徒を飼い慣らし殺戮させ 石油を送る駅宿としての権益をほしいままに
している事だ。今回共同記者発表で「太平洋には中国と米国を受け入れる十分な空間が
ある」と発言したことについて日本は「中国は太平洋と接していない」と不快感を示し
た。幸い乍ら我が国は過去にも今でも中国の属国になった事はない。そしてそれは今か
らもだろう。又北朝鮮の核ミサイルに恐れる事はない。何故なら北朝鮮に東を向いて行
く事には何のメリットもない。中国式の考え方で言うなら韓国や日本は程よい緩衝帯な
のだからだ。だとすれば一体何故核ミサイルに固執して米国を目の敵にするのか。それ
はかつても今も中国やロシア或いはソ連に、革命の血を分けた同志であっても何ら恩恵
がもたらせなかった事にある様だ。現実に大戦中に日本の作った工業施設はロシア軍と
中国によって持ち逃げされた形で北朝鮮が出来た。今でこそ北朝鮮だが現実には満州と
朝鮮半島韓国の境界線上にある。ロシアや中国の支援で建国はしているもののそこには
明確な境界線があったとは思えない。今では軍事境界線(38度線)を挟み分断した片割
れの大韓民国と、豆満江を挟んで中華人民共和国及びロシア連邦と、鴨緑江を挟んでの
中華人民共和国と接している形ではあるが、北朝鮮の利益は中国側の平野にしかない。


923: 名無しさんAA:17/12/07 15:32
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 585----------

 北朝鮮は歴史的には紀元前108年に前漢が衛氏朝鮮を滅ぼした後に設置された楽浪
郡の都(現在の平壌)は朝鮮県と呼ばれていた事から 1392年に成立した李氏朝鮮
が国号としてこの名を用いた。以降は半島全体の地域的名称や、そこを統治する国家を
示す言葉として用いられるようになった。新たに朝鮮と呼ばれた事からこの国の名前が
付いたと言われている。朝鮮の統一王朝は中国歴代王朝の冊封国であったが、日清戦争
の講和条約である「下関条約」において、日本の求めに応じて敗戦国の清が朝鮮に対す
る冊封を取りやめたため、李氏朝鮮は1897年に完全な独立国家として国号を大韓帝国に
改称した。しかし三国干渉によって南下政策を推し進めて来たロシアの権益によって、
中国や日本は排除された。これに危機感を抱いた日本は、1904年に勃発した日露戦
争の勝利を経て、ロシアの朝鮮に対する影響力を完全に排除した。その後1910年に
、韓国は日本との間に韓国併合ニ関スル条約を結んで朝鮮の統治権を日本政府へ譲与し
て政府を解体した(韓国併合)。これにより、中国歴代王朝の冊封を脱して誕生した、
大韓帝国は、わずか13年で戦争を経ることもなく名実ともに完全に滅亡した。これ以
降、36年間に渡って朝鮮は日本による統治を受けることとなる。その後1941年の
大東亜戦争の勃発で、日本がイギリスやアメリカ、オランダや中華民国などの連合国と
の間で交戦状態になると、連合国の首脳は1943年のカイロ宣言から「朝鮮の独立」
を求めた。1917年のロシア革命によりロシアを継いだソビエト連邦は、連合国の1
国であったが日ソ中立条約を元に日本との間で中立を保っていた。しかしながら突然に
ソビエト連邦は、1945年8月9日に日本に対する攻撃を開始し朝鮮半島北部に侵攻
した。その後、9月2日に日本が降伏文書に調印したことで日本の朝鮮統治は正式に終了
した。その後朝鮮半島は、北緯38度線以南をアメリカに、38度線以北をソビエト連邦に
占領され、両国軍の軍政統治を受けた。当初、米ソ両国の合同での朝鮮信託統治する予
定だったがその実現方法を巡って決裂し、それぞれの支配地域で政府を樹立する準備を
開始した。その結果、アメリカ軍政によって1948年8月15日に李承晩を首班とす
る大韓民国が朝鮮半島南部単独で樹立され、朝鮮の分断が決定的となった。これに対抗
して朝鮮半島北部でも独立準備が加速し、同年9月9日に金日成首相の下で朝鮮民主主
義人民共和国が建国された。ゲーム理論ではナッシュ均衡はプレーヤーが相手の戦略の
もとで自分の利益を最大化するように行動しているとき成立する均衡状態は、人の為に
ならない。としている。それが今の韓国と北朝鮮である。だが相手が軍拡をしている時
軍縮を叫ぶのは愚かにも墓穴を掘ろう。

924: 名無しさんAA:17/12/07 15:32
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 586----------

ジョン・フォーブス・ナッシュ・ジュニアが説いたゲーム理論は、囚人のジレンマと全
く同じ論理だ。A国・B国はともに軍縮・軍拡のどちらも選択できるものとした場合、
両国とも軍縮を選べば平和が訪れることになる。しかし、いっぱんには自国が軍縮を選
んでも相手国が軍拡を選ぶのではという懸念から、A国・B国ともに相手国の政策につ
いて最悪の場合を想定し、軍拡を選ぶことになる。その結果、際限のない軍拡による「
恐怖の均衡」が成立する。と言う物だ。これを壊すのは友好での未来選択の協議合意か
即時占領しかない。日本の過去でも、此処に日露戦争があった。203高地の戦いであ
る。少し日露戦争時代の戦いぶりから、現代の悩む朝鮮問題が見えて来るかもしれない
。 日露戦争開戦後、陸軍は3月には従来の方針を改め旅順要塞の攻略を決断した。こ
の頃は海軍が旅順閉塞作戦を実施中で海軍は陸軍に応援を求めず、自力でどうにかでき
ると豪語していた世間知らずの軍部だった頃だ。作戦では総勢で六万近くの人員が篭る
旅順を放置して主力が北上しては後方を脅かされる危険があるし、主力の補給物資揚陸
の拠点となる大連が旅順の目と鼻の先で危険だったからだ。又封鎖しようにも6万の大
軍を封鎖するには同数以上の兵力が必要とされ、全日本陸軍の4分の1近くが必要にな
り、兵力がロシアに劣る日本陸軍としては、それほどの兵力を終戦まで使用できないで
封鎖するというのは大きな負担になったからだ。よく旅順艦隊無力化に失敗した海軍が
陸軍に要請し、仕方なく陸軍が「旅順艦隊殲滅」を企図して第三軍を編成する。という
話にが聞くが事実は違う。陸軍は海軍に関係なく自分たちの作戦の都合上、「旅順要塞
攻略」を決めて第三軍を編成したのだ。要塞攻略には2箇所のルートが予想された。二
竜山・東鶏冠山両堡塁などがある要塞東北方面と、203高地などがある西北方面だ。
第三軍は東北方面をルートを選んだ。理由は当時の陸軍の部隊展開のうえで必須の鉄道
が東北方面にしか敷設されていないのと、野砲などの部隊展開に必要な道路が東北方面
にしか無かったからである。工兵による敷設作業や道路の舗装をすれば西北方面からも
行けるが「要塞を早期に攻略して北上し、主力決戦に合流するように」という大本営か
らの命令を考えればそれはできない話でもあった。そして、あまり語られない話に、東
北方面には要塞の「本当の弱点」である望台がありました。ここは旅順で一番標高の高
い地点で203高地よりも港湾砲撃や要塞施設攻撃の観測点として有利な地点だった。
ただし逆に203高地から展望台も撃てる位置だった。


925: 名無しさんAA:17/12/07 15:33
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 587----------

 対して大本営は西北方面ルートを支持しました。理由は簡単で、実は論理的な話では
なく「東北方面が攻め手に有利なら当然防御も強化しているはず。それなら西北方面を
攻撃したほうがいい。」という物だった。小説などでは、この時点で203高地を重視
して、観測点設置のために攻略すべしというシーンがありますがこれも事実ではありま
せん。この時点では大本営も海軍も、誰も203高地うんぬんは言っていないとされる
。だが大本営すら情報が少なく理由にならない理由をいった。本来第三軍設立前に中央
指導部がすべき事前の情報収集が全く出来ておらず、満足に要塞配置の地図すら用意出
来なかったとも言われる。第三軍が渡された地図には203高地などの前進陣地が書か
れておらず、上記の二竜山などの堡塁は「臨時築城陣地」と書かれているなど誤りだら
けと言うよりロシアの新たな陣地は不明だった。第三軍は現地入りして、初めて地図の
不備に気づき、修正しないといけないハメに陥った。そんな知識の大本営だからこそ、
こんな素っ頓狂な理由で西北方面ルート支持をしており、常識ある軍人なら当時の状況
から考えたら東北方面ルートがベターでしたそして児玉他、満州軍司令部も第三軍の案
に賛同しました。小説では児玉は最初から203高地攻略支持とされていますが、事実
は全く異なり、児玉は終始第三軍の方針を支持し、203高地攻略に反対しています。
ともかく要塞攻略戦は東北方面から行われましたが、一回目は大失敗に終わった。ここ
で議論されるのが、強襲法の是非ですが、小説などでは塹壕を掘り進み正攻法が当時の
ベターであると書いていますが、これも異なり、当時は強襲法の方がベターでした技術
の進化で大砲や銃火器の火力が向上し、これらの一斉攻撃で破壊できない陣地はないと
考えられ「攻勢万能主義」が世界の陸軍に蔓延していたからだ。既に兵器は進化して、
塹壕が良いとされるのは日露戦争から数年後の第一次世界大戦緒戦からで、初めてこの
考えが間違っていることが証明されたのである。第三軍は当時の常識で要塞を攻め、初
めてその誤りを身をもって経験したわけです。それでも第三軍は善戦しました。上記の
要塞の本当の弱点である望台を一時的にですが占領したのです。予備兵力が枯渇してし
まい放棄せざるを得なかったのですが、仮にこの時点で途中増援された第7師団があっ
たなら、要塞は陥落した可能性大だった。



926: 名無しさんAA:17/12/07 15:34
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 588----------

 さて第三軍は一回目の攻撃失敗を受け、すぐに戦法を所謂「正攻法」とされる塹壕で
の前進に切り替えました。これにより日本とロシアの損害比率は逆転し、二回目の攻撃
はロシアの方が損害が多くでた。二回目の攻撃により再度の東北方面攻略の下準備が出
来た訳ですが、ここで大本営と海軍が第三軍の足を引っ張ります。203高地主攻論を
言いだしたのです。海軍側の艦隊殲滅の方が優先で、203高地が それを解決できる
地点だという言い分は小説などでは正論として捉えられていますが事実は違う話とされ
る。既に占領している大弧山や海鼠山からの観測で十分港湾部は一望でき、艦隊への砲
撃も実施し損害も与えているし可能だった。203高地でしか見えない地域は一部だけ
でありそう影響はなかった。この望台でも十分203高地の任務はまかなえるものだっ
たのである。つまり従来通り東北方面を攻めつづけ、望台を落とせば、それで艦隊殲滅
もできるのに態々回れ右して203高地を落とせと言ってきたのだ。当然第三軍は反対
し、児玉も猛反対しましたが大本営は天皇の勅令まで引き出して203高地攻略を指示
した為。やむなく乃木は203高地攻略を決断した。ここで児玉が動きます。旅順へ行
って第三軍を助ける行動に出たのだ。これも小説では「203高地を攻略するよう指導
するため」とされていますが、実際は寄り道である203高地をさっさと攻略させて、
早く東北方面攻撃を再開させたかったのである。もっとも児玉が来なくても203高地
は陥落出来る物であった。何故なら児玉が到着する前日に203高地は1度陥落してい
たのだから。の翌日奪還されてしまいますが、地の利を知って再奪取は時間の問題でし
た。小説では児玉が28センチ榴弾砲を陣地移動して203高地への砲撃に使用し、敵
味方関係なく砲撃を行うなどを指示して半日で攻略した事になっていますが、事実では
児玉が移動を指示した重砲は28センチ榴弾砲ではなく12センチ榴弾砲と9センチ臼
砲の予備部隊と言う軽いものだった。目標も203高地ではなく、203高地奪還後の
為のその周囲の敵堡塁だった。28センチ榴弾砲自体は児玉到着前から全砲門が203
高地砲撃に投入されていたし、三日で陣地移動させる事は当時の土木技術では不可能な
ものだった。又敵味方関係なく撃つのも児玉到着前から行っていた為逆に砲撃を自制す
るよう注意すらしている。というのが事実だった。



927: 名無しさんAA:17/12/07 15:34
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 589----------

また、この際の作戦立案も児玉一人の独創ではなく、児玉が第三軍参謀に立案を指示
して、その内容を承諾して命令していると言われている。203高地は「第三軍司令部
の立案した作戦」で攻略されたのが事実です。さて203高地攻略により寄り道を終え
た第三軍は直ぐ様部隊を再配置し東北方面を攻撃した。203高地からの観測射撃によ
り旅順艦隊は攻撃を受けますが、戦後の調査で殆どの艦艇はキングストン弁を開いた為
の自沈であった事が判明。28センチ榴弾砲は艦艇砲撃には不向きだということも判明
した。そして要塞守備隊は艦隊が殲滅されても降伏せず一ヶ月近く抵抗。12月31日に、
望台をようやく第三軍が占領したことで諦め降伏した。仮に203高地に寄り道せずに
、そのまま東北方面を攻撃し続け、新鋭の第7師団をこの方面に投入できていたら、恐
らくもっと早く12月頭には望台を占領し、要塞は降伏。艦隊は鹵獲されるか脱出した
。と言っても脱出出来る艦艇は僅かだろうが後に連合艦隊に殲滅されて、史実より1ヶ
月は早くに攻略できたろうと思われる。旅順攻略戦の折、児玉が乃木を助けに来たのは
事実だった。しかし乃木と児玉が違った意見を持っていたというのは誤りで、両人とも
東北方面攻撃を支持していたし、203高地攻略を寄り道と考えていた。その寄り道を
はやく済ますために児玉は乃木の決断した203高地攻撃に手助けをした。それも自分
だけで立案したのではなく第三軍参謀に考えさせて立案したものだった。ではなぜこの
時旅順港攻略に手間どったのか。ロシアは、1898年の遼東半島租借以降、旅順口を太平
洋艦隊(後の第一太平洋艦隊)の主力艦隊(旅順艦隊)の根拠地とし、旅順口を囲む山
々に本格的な永久要塞を建設していたのである(旅順要塞)。日本側にとっては、日清
戦争で貰った権益を三国干渉で、朝鮮を独立国認めてその地を返しているのだ。それが
又ロシアに占領された形となっていたのだ。となれば、武力奪還しか無かった。が日露
戦争に勝利するためには、日本本土と朝鮮半島および満州との間の補給路の安全確保が
必要であり、朝鮮半島周辺海域の制海権を押さえるために旅順艦隊の完全無力化が不可
欠と見なしていた。また旅順要塞に立て籠ったロシア陸軍勢力(2個師団)は、満州南
部で予想される決戦に挑む日本軍(満州軍)の背後(および補給にとって重要な大連港)に対する脅威であり、封じ込めもしくは無力化がどうしても必要だった。と言う背景が
ある。



928: 名無しさんAA:17/12/07 15:35
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 590----------

陸軍側は参謀本部が満州攻勢作戦の研究を1902年より始め、その中で、旅順攻城を佐藤
鋼次郎少佐が担当していた。1903年11月頃の参謀本部内の意見は、兵力の大部分を遼陽
方面へ北進させ予想される大決戦に集中させ、旅順は一部の兵力による封鎖監視に留め
るべきとの考えが大勢だったが、佐藤少佐が攻略の必要性を主張し研究は続けられた。
だが海軍は違っていた。「旅順港外に停泊している旅順艦隊に対する奇襲を優先すべき
」との海軍側は「奇襲による撃沈での旅順港封鎖」の主張と「臨時韓国派遣隊の派遣を
優先すべき」との陸軍側の主張とが対立した。陸軍は譲って海軍案に決着した。海軍は
独力による旅順艦隊への対処を言明し、陸軍はそのまま旅順攻城の研究を進め、1904年
1月、陸軍参謀本部による計画案が成り、陸軍省に所要資材の照会がなされ独自に2〜
3個師団をもって攻城を行うこととし、作戦目的を「地上より旅順要塞を攻略し、北上
する日本軍主力の後方を安定化する」と決定していた。4月6日の大山巌参謀総長、児玉
源太郎次長と海軍軍令部次長伊集院五郎との合議議決文に「陸軍が要塞攻略をすること
は海軍の要請にあらず」という1文がある。。開戦後、2月12〜13日に機雷を敷設し、
海軍による港外奇襲と港口閉塞作戦が実行されたが失敗し、第二回閉塞作戦を3月27日
5月3日に第三回閉塞作戦が実施されたが、これも不成功に終わった。5月9日より、日本
海軍は、旅順港口近くに戦艦を含む艦艇を遊弋させる直接封鎖策に転換し主力艦が貼り
付かざるを得なくなり機雷によって保有する戦艦の6隻のうち2隻を触雷により失った。
既にバルチック艦隊の極東派遣を決定・発表していた為に、陸軍に頼る以外他無くなっ
たのである。こうして満州軍(総司令部)が設置され、第3軍もその下に入った。第3
軍の使命は、速やかに要塞を陥落させ、兵力を保全したままその後に北から攻めて来る
第1・2軍に合流することだった。旅順港の要塞は主防御線としてベトンで周囲を固め
た半永久堡塁8個を中心に堡塁9個、永久砲台6個、角面堡4個とそれを繋ぐ塹壕から
なりあらゆる方角からの攻撃に備え、後方の高台(望台)に砲台を造り支援砲撃を行う
ことになっていた。さらに突破された場合に備えて堡塁と塹壕と砲台を連ねた小規模な
副郭が旅順旧市街を取り囲んでいた。海上方面にも220門の火砲を砲台に配備しては
艦船の接近を妨害するようになっていた強固なものだったのである。


929: 名無しさんAA:17/12/07 15:40
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 591----------

 此処に近代戦にみるロシアの素早さが見て取れる。24日午後5時、乃木は総攻撃の
中止を指示した。第一回総攻撃で日本軍は戦死5,017名、負傷10,843名という大損害を
蒙り、対するロシア軍の被害は戦死1,500名、負傷4,500名だった。第三軍はほぼ一個師
団分の損害を出したことになる惨々な結果だったのだ。。乃木は攻撃方法を再考し、正
攻法へ切り替える考えを固めた。これは占領した盤龍山東西堡塁から要塞前面ぎりぎり
まで塹壕を掘り進み進撃路を確保し、歩兵の進撃の際は十分に支援砲撃を行う方式であ
り、麾下の参謀に調査(地質や地形、敵情など)や作戦立案を指示した。12月5日に
なってやっと203高地陥落させて、同地に設けられた観測所を利用し日本側は湾内の
旅順艦隊残余に砲撃を開始する。各艦の大多数はそれまでの海戦や観測射撃で破壊され
、要塞攻防戦の補充のため乗員、搭載火砲も陸揚げし戦力を失っていたが、日本側はこ
れらに対しても砲弾を送り込み、旅順艦隊艦艇は次々と被弾した。日本側の28センチ榴
弾砲砲弾の多くは戦艦の艦底を貫けず、多くの艦艇は自沈処理がなされた。この戦争で
当時の日本や欧米列強において火力万能主義の時代であったため、坑道戦術自体が軽視
されていた事が解った。又軽量化が図られた上に毎分五百連発と実用性の高い機関銃で
あるマキシム機関銃は、この戦闘で世界で初めて本格的に運用され威力を発揮した。機
関銃陣地からの十字砲火に対し、従来の歩兵による突撃は無力であることを実戦で証明
し、欧州ではそれが特殊な場所として余り重要視されなかった。当時の日露両軍は世界
的に見ても例外的に機関銃を大量配備していたが、早くから防衛兵器としての運用を考
え出したロシア軍に対し、日本軍側はあくまでも野戦の補助兵器として考えていたので
、初期には効果的な運用は行われていなかった。後に日本側もロシア側の運用法を応用
した。旅順攻略の目的は終始要塞攻略であり艦隊撃滅ではない。従って映画などの「艦
隊撃滅が目的だった」というのは誤りである。また第一次総攻撃時点で第三軍には重砲
にはその様な能力はなく、艦船の撃滅自体不可能だった。つまり第三軍が艦隊殲滅を目
的に編成された部隊でない事が分かるし命令が要塞攻略である以上、それに何ら寄与し
ない203高地攻略は第三軍は選択できないのは当たり前でだったのある。何故この、
日露大戦に固執して書くのか。それは今の日本が初めて戦った本格的海外戦線であり、
更に異常な戦死者を出し、本当に何もない知恵と精神で勝った戦いだったからで、日本
人の特にいまの百歳〜六十歳位の馬鹿日本人は全くその崇高な意志を意に介していない
からだ。


930: 名無しさんAA:17/12/07 15:42
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 592----------

ところが、11月に大本営は御前会議を開いてまで203高地主攻を決めたが、第三軍
の上級司令部たる満州軍が反対しているので、決定に沿わず第三軍として従来通り攻撃
を続けたことは当然である。是非はともかく、固執した点を問題視するなら第三軍では
なく満州軍の方が上級司令部である以上責任が大である。それでも203高地の占領に
固執した大本営には、220門の火砲を一つ一つ攻略するのが不可能である事の理解が
できなかったし説明できなかった。ここに虚像と現実があった。こうした多大な犠牲を
2度も強いても朝鮮半島の蟻の様な 死者の道を攻めても日本の物とした理由は、この
アジアにおけるナッシュ均衡と呼ばれるゲーム理論でも現わせられる現実だった。当時
も今も「帝政ロシアの南下政策」を力強くそのまま行っていて、欧州列強では、日本に
アジアに拡大路線で植民地構想しか無かったのだ。そこには例えば、英国・仏国が共に
軍縮・軍拡のどちらも選択できるものとした場合、両国とも軍縮を選べば平和は訪れる
だろうが、それでもソ連も独国もある中ではそれが出来なかったのだ。もし仮にヨーロ
ッパ社会が安定した平和な社会なら日本でも拡大政策を採らなかったことになる。しか
し残念ながら、一般的にも、地理的にも歴史的地政学でも、それは起こり得ない事であ
った。三鼎脚の様な平和の安定には至ってないからだ。イギリス、ロシア、ドイツ、フ
ランス、共に全てが領土的にも、資源的にも、技術的にも、思想的にも、人種的にも互
いに疑心暗鬼で蠢いていたのだから日本はその中で揺らぐ中国に対抗せざるを得なかっ
たのだ。此処に日露戦争が持ち上がっていた。日清戦争でわざわざ朝鮮半島を独立した
国や資本に変えさせて返したが、それは全く意味も無く、朝鮮王朝は全く考える事もな
くロシアに蹂躙された資本経営に戻り、植民地化の道を開く鉄道や港の権益を売り捌い
て贅沢三昧に勤しんだのだ。この時代には植民地主義での経営を基本とした経済と覇権
主義での人身売買の奴隷制度の横行する社会で、真面目に鎖国していた日本が、弱小故
に開国させられていたが、李氏朝鮮にはその危機感は全く無かった。それが属国支配の
国策運営で生きて来た姿の為であっただろうが、それが原因で米国が韓国を打ち立てて
失敗したり、欧米列強がアジア支配を目指してやって来た理由でもあった。中国・朝鮮
と共に全く力が無く努力も無かった。それが又日本がアジア大陸に走る要因でもあった


931: 名無しさんAA:17/12/07 16:03
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 593----------

 特に今の内閣や或いは中曽根や小泉の姿を見ると虫図が走る位馬鹿だ。今の安倍政権
すら 今の日本が大事と言わんばかりだが今の日本を創った礎である「日本の意識」や
「日本の精神」を逸脱している。「質実剛健」を旨とした人々の暮らしを経済と言う名
や政治の腐敗でぶち壊していながら、教育も間違いながら世界を騙ると言う見ずぼらし
い姿を挺している。これでいい訳が無い。欧米に負けず劣らずの村々の社会が都会化の
中で全く歴史的価値のない社会構造になりしゃにむにの有力者の汚職や教育のない発言
に右往左往の行政ではないか。裁判所すらまともな判断をしていなく留置所すらない。
全く貧相な国家観にも程がある。TV局を始め経営者や財界のバカ騒ぎをまともにしな
い限りこの日本は亡国のままである。話を戻そう。一般には自国が軍縮を選んでも相手
国が軍拡を選ぶのではという懸念から、A国・B国ともに相手国の政策について、最悪
の場合を想定し、軍拡を選ぶことになる。その結果、際限のない軍拡による「恐怖の均
衡」が成立する。とされる。それがナッシュ均衡である。此処でのA国はアメリカであ
りB国がロシアである事は、言うまでも無い。事実 北米大陸に於いてロシアは北から
米国は南からやって来てカナダはその狭間にいて大戦後からアメリカについた。そして
それは、南米でも、東南アジアでもインドでもアフリカでも中東でも黒海でも地中海で
も同じ様に起こっていたのである。這えば立て、立てば歩めの親心。と言う我が子に向
けた心境を言う諺があるが、正に日本国民は日本と言う国に対して、開国し文明開化し
富国防衛をめざすなら大陸進出は避けられない共同体の土地だったのが歴史の証明だ。
そして戦前も戦中も戦後もそれの解らない朝鮮人に世界は混乱は避けられずいた。かつ
て、日本では1945年8月12日未明、興南沖三十数キロの海上での原爆実験を行っ
た。と言う報道があった。ソ連軍の侵攻に対策したとしていただろうとされる日本軍の
原子爆弾は此処に廃棄された。この事は当然推定とされる。この時までは、ただただ天
皇陛下から固く反対されて政府も軍部も委縮している中であり、例えウラン製造してい
たとしても 既に使う事も出来ず敵に渡る事を覚悟した為とも思える。日付も又8月6
日に広島投下し8月9日長崎投下した後で15日の玉音放送がある前である。12日と
なれば既に、ソ連は中立条約を捨てて侵攻して来ていて威嚇する為に米軍がやったとも
考えられる程の時期だったのだ。

932: 名無しさんAA:17/12/07 16:57
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 594----------

 日本の敗戦を受けて 朝鮮半島にはアメリカ軍は駐留を開始した。協定によって国連
はソ連との共同統治になったが、アメリカ米軍は1948年8月15日に李承晩を首班
とする大韓民国が 朝鮮半島南部単独で樹立させた。これにより朝鮮の分断が決定的と
なっていた。ソ連側は金日成をして対抗した。これは朝鮮民族自体が未だ国としての、
国体意識の無さで起こった事だった。ソ連は対抗して朝鮮半島北部で独立準備を加速さ
せ、同年9月9日に金日成主席をたて朝鮮民主主義人民共和国が建国された。この原爆
廃棄を見守っていたのが金柵であったと言われる。金策とは朝鮮民主主義人民共和国の
咸鏡北道南端の都市の名である。ながく城津と呼ばれていたが、朝鮮戦争で戦死した同
地出身の朝鮮人民軍司令官金策の名を記念して1953年改称された。この時の金策が鶴上
面水使洞で貧農の子として生まれた金洪啓だった。家族とともに間島に移住し成長後に
、抗日パルチザン活動に身を投じ、1927年4月7日に朝鮮共産党火曜派に参加して。1930
年、一国一党原則に基づき中国共産党に入党していた。しかし、満州国が出来ると、日
満軍警のパルチザン制圧作戦を逃れてソ連に亡命してしまった。1940年のハバロフスク
会議に金日成と合流し、教導旅団(第88特別旅団)第3大隊政治委員となった。だが、
金日成も又偽物の名であった。同郷だった金策によって英雄とされた金日成の名を騙っ
たのである。この咸鏡北道南端の日本海に臨む工業都市は開港以来。市街地は鶴頭山を
背景に東海岸に沿って南北に展開していて交亀山を天然の防風防波堤とする 城津港を
中心に天然の良港が揃っている地だった。摩天嶺山脈の東麓を占めている農村部があり
、その為穀物,魚類の輸出港として栄え、日本植民地時代の末期には北方奥地の蓋馬高
原で開発された電力を利用する金属工業が建設され、以来工業化が最も進んだ工業地帯
になっていた。マグネサイト,耐火煉瓦,船舶などの諸工業が立地し、特に城津製鋼所
は清津からの鉄鉱石を材料とする事で、今では北朝鮮最大の特殊鋼基地となっている。
 元々この「朝鮮民主主義人民共和国咸鏡南道咸興市」に属する咸興湾に面した港湾都
市・化学工業都市であるこの区域は野口遵が作った都市だった。隣接する咸興市と合併
、興南市としての分離を繰り返しており、近年では2001〜2005年の間は「興南市」であ
った。1945年、大日本帝国の敗戦後、多くの日本人が興南から日本に引き揚げたが、こ
の工場や都市を作った有力者はこの国の人と骨を埋ずめる覚悟で残った。朝鮮戦争の際
には北進した韓国軍・国連軍が一時占領したが、1950年中国義勇軍が参戦すると、国境
地帯から退却したアメリカ軍をはじめとする国連軍10万人が、一般市民10万人とともに
興南の港から、アメリカ海軍の海路による脱出する興南撤退作戦が行われた。

933: 名無しさんAA:17/12/07 17:23
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 595----------
野口遵は先に述べたように、日本統治時代に、蓋馬高原に電源開発が行ない、それらを
もとに興南に工業地帯が建設し日本一の近代工業の場となった。中心となった朝鮮窒素
肥料は日窒コンツェルンと言われ、硫安など日本の化学工業化の基本をなした。興南府
としては国以上の利益を上げ北朝鮮に、興南工場を創設した後は戦前の国際的な舞台の
日本の鉱工業化に広く大きく貢献していた。「電気化学工業界の父」と呼ばれ、日本窒
素、旭化成、積水化学など、日本の化学系事業体の土台を創り上げた人物で、彼が自ら
興南に築き上げた巨大な工業地帯を中心として大々的に事業展開をなした。この時、ド
イツ、イタリア等の海外の最新特許を取り入れながら、日本の工業を世界に進出させよ
うとした彼が、人格面においてきわめて優れており、事業においても卓越した能力があ
ったということは言うまでもない。野口遵につながっている人には、野口研、鮎川義介
、森矗昶、藤山常一、久保田豊、島進、稲津敏行、野口英世、水野真盛、鈴木研、高田
研、石弘、岸信介、久原房之助、井上馨、松岡洋右、井口治夫、鮎川純太 など数々の、
名士でいずれも名だたる功績を日本に残した人達である。1926年、日窒の全額出資
で朝鮮水電を設立して、29年に第一期工事が完成して送電が開始されたのだが、この
電力をによって建設されたのが興南工場で、1927年の朝鮮窒素肥料を設立し硫安の製造
を開始した事に繋がっている。北朝鮮の屋根である蓋馬高原の鴨緑江にダムで大電力に
なる構想が実って工場はドンドン拡大された。肥料工場では硫安、硫燐安のほか過燐酸
石灰や乾式燐酸からの燐安の設備をもつに至った。火薬の原料であるグリセリンを自給
するための油脂工場が昭和7年に完成した。グリセリンは延岡及び興南に建設された、
朝窒火薬の火薬工場に送られた。脂肪酸からつくる洗濯石鹸、化粧石鹸は、内地、朝鮮
はもちろん、満州、台湾、中国の市場に向けられた。興南肥料工場の東北に興南金属工
場がつくられ、アルミニウム工場、マグネシウム工場、カーボン工場、製鉄工場などが
建設された。アルミニウム工場は朝鮮木浦附近の明礬石を原料とした。宝石工場では、
アルミナを酸素水素焔で溶融して、軸受けなどに使われるルビー、サファイアの原石を
つくった。本宮工場では、苛性ソーダ、エチレングリコール、ブタノール、アセトン、
アセチレンブラックなどアセチレンを原料とする諸工場ができ、またアランダム工場、
塩化アンモニア肥料工場、アンモニア工場が建設された。日窒燃料工業の竜興工場では
アセチレンからアセトアルデヒドをつくり、アルドール、クロトンアルデヒドを経て、
ブタノールとし、これよりイソオクタンを製造した。朝窒火薬では硝酸、硝酸アンモニ
ア、過塩素酸アンモン、綿火薬、黒色火薬、導火線、カーリット、ダイナマイト、窒化
鉛、ヘキソーゲン等の工場が並び、火薬綜合工場となった。

934: 名無しさんAA:17/12/08 18:40 ID:1OU
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 596----------

 その後、日本窒素は興南以外の朝鮮で、咸鏡北道の永安工場、灰岩工場(朝鮮人造石
油)、平安北道の青水工場(日窒燃料)、南山工場(日窒ゴム工業)の諸工場があり、
永安、朱乙、吉州、竜門に石灰の鉱業所があった。また満州で吉林人造石油、北支太原
で華北窒素、台湾で台湾窒素、海南島で日窒海南工業、それにジャバ、スマトラ、マラ
ヤなどに進出していた。しかし日本窒素の事業の中心はここ興南であった。興南工場は
第二次世界大戦中は、何等の損傷を全く受けなかった。だが1945年8月19日に ソ連軍が
元山に上陸、26日に興南工場はソ連軍に接収された後は、発電機他数々の機材は持ち去
れてしまった。日本が戦後不況に喘いでいた時「夢の国」とし日本人妻や日本人労働者
を集めた時金日成は又多くの工業が又復活すると期待していた。だが機材の無い中では
叶わなかった。又この事でソ連と米国での確執が起こっていた。朝鮮戦争が始まり1950
年7月末から8月初めに米軍の爆撃で工場は完全に破壊された。その後も 興南は国連軍
の艦砲射撃と空爆により破壊されたが、後にソ連・東ドイツなどの東側諸国の援助もあ
り復興し、発展したが大戦時の様な復興には至らなかった。この時金日成は何故韓国を
攻めたのか。此処にソ連の秘密工作があった。実はヨーロッパ戦線でソ連は遅れをとっ
ていた。ドイツに於いて西方に位置する「フランス、ベルギー、オランダ、ルクセンブ
ルク、デンマークなど」での、イギリス・フランス・アメリカ合衆国などの連合国との
戦いは西部戦線だったが、このドイツとソビエト連邦の戦闘である独ソ戦は東部戦線と
される。ドイツ軍はパリ開城を始めとしたフランス北部を占領し、さらにイタリア王国
もフランスに対して侵攻を開始していた。これにより1941年には、ドイツ軍はソ連侵攻
作戦であるバルバロッサ作戦が開始された。フランス北西部海岸線に大西洋の壁と称さ
れた防衛線の構築が開始された為優位にソ連侵攻が図れると見たのだ。苦戦を続けてい
たソ連軍は、負担を和らげるためにスターリンは米英両国首脳に対して西部戦線の再構
築を要求した程だ。その為兵站が未だ整っていなかった連合軍では、強行偵察的な上陸
作戦をフランス北部におこなうことを決定しディエップへの上陸が決行されたが完全な
失敗に終わった。その後2年間は特殊部隊の散発的な攻撃やレジスタンスによるゲリラ
は果敢な攻撃はしたが、そうした以外には大規模な戦闘は行われなかったのである。

935: 名無しさんAA:17/12/08 18:45
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 596----------

 その後、日本窒素は興南以外の朝鮮で、咸鏡北道の永安工場、灰岩工場(朝鮮人造石
油)、平安北道の青水工場(日窒燃料)、南山工場(日窒ゴム工業)の諸工場があり、
永安、朱乙、吉州、竜門に石灰の鉱業所があった。また満州で吉林人造石油、北支太原
で華北窒素、台湾で台湾窒素、海南島で日窒海南工業、それにジャバ、スマトラ、マラ
ヤなどに進出していた。しかし日本窒素の事業の中心はここ興南であった。興南工場は
第二次世界大戦中は、何等の損傷を全く受けなかった。だが1945年8月19日に ソ連軍が
元山に上陸、26日に興南工場はソ連軍に接収された後は、発電機他数々の機材は持ち去
れてしまった。日本が戦後不況に喘いでいた時「夢の国」とし日本人妻や日本人労働者
を集めた時金日成は又多くの工業が又復活すると期待していた。だが機材の無い中では
叶わなかった。又この事でソ連と米国での確執が起こっていた。朝鮮戦争が始まり1950
年7月末から8月初めに米軍の爆撃で工場は完全に破壊された。その後も 興南は国連軍
の艦砲射撃と空爆により破壊されたが、後にソ連・東ドイツなどの東側諸国の援助もあ
り復興し、発展したが大戦時の様な復興には至らなかった。この時金日成は何故韓国を
攻めたのか。此処にソ連の秘密工作があった。実はヨーロッパ戦線でソ連は遅れをとっ
ていた。ドイツに於いて西方に位置する「フランス、ベルギー、オランダ、ルクセンブ
ルク、デンマークなど」での、イギリス・フランス・アメリカ合衆国などの連合国との
戦いは西部戦線だったが、このドイツとソビエト連邦の戦闘である独ソ戦は東部戦線と
される。ドイツ軍はパリ開城を始めとしたフランス北部を占領し、さらにイタリア王国
もフランスに対して侵攻を開始していた。これにより1941年には、ドイツ軍はソ連侵攻
作戦であるバルバロッサ作戦が開始された。フランス北西部海岸線に大西洋の壁と称さ
れた防衛線の構築が開始された為優位にソ連侵攻が図れると見たのだ。苦戦を続けてい
たソ連軍は、負担を和らげるためにスターリンは米英両国首脳に対して西部戦線の再構
築を要求した程だ。その為兵站が未だ整っていなかった連合軍では、強行偵察的な上陸
作戦をフランス北部におこなうことを決定しディエップへの上陸が決行されたが完全な
失敗に終わった。その後2年間は特殊部隊の散発的な攻撃やレジスタンスによるゲリラ
は果敢な攻撃はしたが、そうした以外には大規模な戦闘は行われなかったのである。こ
の欧州戦線で遅れをとった事で北朝鮮は新しい未来を築く事が出来なかったのだ。ソ連
がドイツで米国があらゆる物を持ち去った様に、朝鮮のその設備の中心を持ち去れてし
まった。勿論ドイツで他の連合国も持ち去った様に朝鮮では韓国や中国も持ち去ったの
だが、これは決定的な未来への負担になった。

936: 名無しさんAA:17/12/08 18:53
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 597----------

1943年12月に連合国遠征軍最高司令官にアイゼンハワー米陸軍中将が任命されたが、既
に1939年頃には作戦の詳細な計画は既に進められていた。第一次世界大戦において
ウィンストンチャーチル卿は若い海軍大臣として失敗していた。ロイド・ジョージ内閣
で軍需大臣として再入閣したが、戦後は戦争大臣と航空大臣に就任し、ロシア革命を阻
止すべく反共産主義戦争を主導し、赤軍のポーランド侵攻は撃退していて、ソ連共産党
との仲は良くないと見られていた。その後ロイド首相は干渉戦争を快く思わず、植民地
大臣への転任を命じられ、イギリス委任統治領のイラクやパレスチナ政策、ユダヤ人の
パレスチナ移民を推し進めていた。第二次世界大戦を機にチャーチルは海軍大臣として
閣僚に復帰し、北欧戦で惨敗した。この責任はチェンバレン首相に帰せられ後任として
首相職に就いた。戦争失敗者・敗戦容因者として首相に着いたのだった。この辺が英国
やユダヤ教徒の全く無責任極まりない考え方なのだが、歴史的には失敗しミスし、その
原因でチャーチルは何故だか、英国首相に登るのである。勿論その後でも西方電撃戦、
ギリシャ・イタリア戦争、北アフリカ戦線など多くでドイツ軍に敗北するが、バトル・
オブ・ブリテンでは アメリカからの経済支援でレーダー網を敷き ドイツ空軍の撃退
に成功していた。その後独ソ戦開始のためソ連と協力し、またアメリカとも同盟関係と
なって、日本をこの世界大戦に引きずり込む事に成功した。ドイツのレーダーは英国よ
りもかなり遅れていて、情報の質も悪かった。さらに国内では、ゲーリングやヒトラー
が目標選定や近接護衛戦術などについて横槍を入れ、搭乗員には十分な休息がなかった
。だがそれでも、それによる波状攻撃は英パイロット達を疲労困憊させたと言われる。
1944年6月6日決行と決定されたノルマンディーへの上陸作戦は海岸の内陸部への
空挺部隊の降下が同時に行われた。連合軍は上陸地点の1つのオマハ海岸での苦戦など
があったものの橋頭堡の確保に成功した。その後連合軍はノルマンディーの西側に位置
するシェルブールを物資の補給港とするために早期に占領を目指したが、ドイツ軍の激
しい抵抗のため占領できたのは6月26日であった。しかも港の施設はドイツ軍が徹底
的に破壊していたため、修復や機雷の除去に時間を要し最初の船が埠頭に接岸したのは
8月9日となった。その後はドイツ軍を掃討するインファチュエイト作戦でカナダ中心
の連合軍が勝利し、10月に米軍はドイツ最初の都市アーヘン包囲をするに至った。双
方に5,000人の死者が出たアーヘンの戦いの後に町は占領され、5,600人のドイツ兵が捕
虜となった。

937: 名無しさんAA:17/12/08 18:54
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 598----------

西部戦線は、その後もバルジの戦いで停滞したがライン渡河を終えルール工業地帯包囲
するヴァーシティー作戦が成功裏に終わり、ベルリンへの進撃を唱える声もあったが、
ソ連との事前の取り決めと、アルプス国家要塞の情報を警戒したアイゼンハワー部隊は
、ベルリン進撃を否決し、米英軍はドイツ北部および南部に展開をしていった。この年
の4月30日にヒトラーが自殺し、そして後継者とされたカール・デーニッツ提督のも
とで、5月8日にドイツ国防軍は無条件降伏をした。一方東部戦線は全く様相が違って
いた。アドルフ・ヒトラー自身も、ソ連との戦争を「イデオロギーの戦争」「絶滅戦争
」と位置付け、西部戦線とは別の戦争であると認識していたのだ。事実1941年6月22日3
時15分、「バルバロッサ作戦」の下にドイツがソ連を奇襲攻撃した際には、歴史的な反
ソ感情が強かった市民達は、バルト地方やウクライナの住民などは、これまでの過酷な
共産党の政策からの救う者達として、ドイツ軍を「共産主義ロシアの圧制からの解放軍
」と当初は歓迎していたのである。又ドイツ軍に志願したり共産主義者を引き渡すなど
自ら進んでドイツ軍の支配に協力する住民も多く、また反共主義者はロシア国民解放軍
やロシア解放軍として共産主義者と戦った。こうしたヨーロッパにおけるドイツ占領地
から反共主義者の志願者や、武装親衛隊によって徴発された人々がドイツ軍に加わった
。ところが、スラブ人を劣等民族と認識していたヒトラーは、彼らの独立を認める考え
はなく、こうした動きがほとんど利用される事はなかった。それどころかドイツ系民族
を占領地に移住させて植民地にしようと計画し、一部実行された程だった。この時のソ
連側の死者は大規模であった。独ソ戦の犠牲者は、ソ連兵が1128万人 ドイツ兵が500万
人とされ。民間人の犠牲者をいれるとソ連は2〜3000万人が死亡し ドイツは約6〜800万
人は死んだとされる。この死傷者の総計は第二次世界大戦における全ての交戦国の中で
ソ連は最も多いと言われ、捕虜・民間人に対する扱いも苛酷を極めた。占領地の住民や
捕虜は双方で強制労働に従事させられるなど極めて厳しい扱いを受けた。ドイツが戦争
初期に捕らえたソ連捕虜500万人はほとんど死亡し、ドイツ兵捕虜300万人の多くも又、
そのままソ連によって強制労働に従事させられ、およそ 100万人が死亡したと記録され
る。この戦いの展開がクルスクの戦いまでドイツ軍の攻勢にソビエト軍の防御であった
が、攻守が逆転し、東欧からドイツ東部地域までソビエトの占領地域となったのは、こ
の人種差別からだった。1945年にドイツ国防軍最高司令部総長ヴィルヘルム・カイテル
元帥がベルリンで無条件降伏文書の批准手続きを行って終結するまでそれらは続いた。


938: 名無しさんAA:17/12/08 18:55
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 599----------
 スペイン内戦では、独ソの代理戦争という形で両国は対決していた。赤軍大粛清の一
因に、ドイツ親衛隊情報部(SD)長官ハイドリヒの謀略があったともいう。スターリ
ンの方では、イギリスのドイツに対する宥和政策をみてイギリスとドイツが対ソ包囲網
を結んでいるのではないかとの懸念から、また、他方のヒトラーは二正面作戦を避ける
ことを目論んで、1939年8月に独ソ不可侵条約を結ぶこととなった。これを受けソ連は
、ドイツに対してヴェルサイユ条約が禁止する航空機・戦車部隊の技術提携を行ったり
、バルト海沿岸の港の使用やイギリス空爆のためのレーダー技術の提供などして、ソ連
に亡命してきたドイツの共産主義者を強制送還までさせてヒトラーに便宜を図っていた
。又、ソ連からも石油や鉄鉱石など資源がドイツへ輸出されており、戦争開始数時間前
まで鉄道による輸送が続いていた状態で、ドイツとの提携を模索をしていた状態だった
。もし仮にナチスドイツ軍が、温情豊かな人種偏見の無かった軍隊であったなら、恐ら
くは敗ける事は無かったであろう。開戦当初は奇襲により各戦線でほぼドイツ軍がソ連
赤軍を圧倒し、北方軍集団ではレニングラードを包囲、中央軍集団は開戦1ヶ月でミン
スクを占領する快進撃を続けた。赤軍は各地で分断され、多くの部隊が投降・捕虜とな
った。又独ソ戦勃発時は、ソ連軍ははるかに時代遅れの兵器でドイツ軍の爆撃に壊滅し
て行ったが、それでも作戦地域が広大であったため、進撃が遅れドイツ側の損害も甚大
であったスモレンスクを陥落させた中央軍集団の主力部隊の矛先を南部に向け、キエフ
、ハリコフなどが陥落したが、ドイツ軍戦死者が1週間で1939年から1940年6月までの
ドイツ軍死傷者数を上回る時期さえあった。南方への支援により中央軍集団での、首都
モスクワへの進撃は約1ヵ月遅延し9月にモスクワ攻略(タイフーン作戦)に乗り出す
事になった。例年より早い冬によって発生した泥濘と降雪が進撃の足を止め、ドイツ軍
はクレムリンまであと十数キロのところまで迫ったが、赤軍も猛抵抗したことにより、
ドイツ軍の攻勢は頓挫したのである。短期決戦を想定していたドイツの目論見は外れて
持久戦の様相を呈することで凍傷患者で立ち往生に陥った。電撃戦を続けてきたドイツ
軍にとっては初めてのケースで補給路が延び切った上、冬季装備の前線部隊への配送が
滞ったドイツ軍は、各地で進撃の停止と負傷者や患者の増加に戦争中断は余儀なくされ
た。ドイツ軍の損害はすでに投入兵力の35%、100万人におよび、この年だけで戦死者は
20万人に達していたが、国防軍の指導部のモスクワ前面からの撤退を唱える声にヒッ
トラーは徹底抗戦による戦線は維持と現状死守を厳命した。ドイツ軍は辛うじて戦線崩
壊を回避した中でソ連軍は厳冬期の反撃に打って出た。取りあえずドイツ軍の及ばない
場所への労働者の疎開と新兵器となる改良戦車や戦闘機の増産を整えた。

939: 名無しさんAA:17/12/08 18:58
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 600----------

 ソ連側は焦土作戦により退避を主とした攻撃で、ドイツ軍の現地調達の手段を奪い、
占領した地域の住民に対しパルチザンを組織させ、後方撹乱によりドイツ軍の補給路の
妨害を指導した。又、軍事的に重要な工場や労働者を貨物列車によりドイツの手の届か
ない内陸部にまで疎開させ一時的に生産力は低下することとなったが厳冬期で影響は全
くと言っていい程なかった。そして安全な地から大量の戦車が生み出され反撃にでた。
開けて42年を「ヒトラー・ドイツの崩壊の年だ、赤軍の勝利の年にする。」と叫び、
赤軍参謀本部の反対を押し切って「全戦線の総反撃」を命じた。今だ強力な戦力を保持
したドイツ軍を相手に打ち破るには、赤軍の戦力は質的にも量的にもまだ十分でなかっ
たが、補給路を断たれたドイツ軍には、この春先の総反撃には頓挫したまま戦線は膠着
したまま補給基地まで退却するしかなかった。赤軍はドイツ軍を後退させたことにより
、失いかけていた自信を回復することができ、ドイツ陸軍の無敵の神話は破られたので
ある。その後「決着をつけるために一気に首都モスクワ侵攻を狙うに違いない」と思い
、モスクワ西部及び南面での防備の強化と、モスクワ進撃作戦を牽制したドイツ軍戦力
を撃破するための反撃をハリコフ方面で開始するよう命令したが、ドイツ軍の今度の攻
撃は全く逆のソ連南部を目指すものだった。こうして前年の作戦により、ドイツの地上
戦力の限界が露見した。元々ヒットラーは「ヨーロッパ大陸最後の戦争」であるとして
独ソ戦開始の意思を国防軍首脳に告げている。この侵攻計画の策定に当たり表面上両国
関係は穏やかであったが、ソ連からの物資が滞りなく流入していたにもかかわらず、第
一次大戦での敗戦の報復的要素は強く、ドイツの支払いは不自然なほどに引き延ばされ
たり、工作機械のソ連への引き渡しが当局によって妨害されたりもしていた。ドイツ軍
のブラウ作戦と、スターリングラードにおける血みどろの市街地戦の戦訓により、様々
な戦闘車両が生み出され主力戦車の交代はしたが時は遅く新しい戦闘車両は一部の旧式
車両の車台を流用するなど戦闘車両生産をますます混乱させ生産低下していた。シチリ
アへの連合軍上陸の報に、新しい作戦は決戦を待たずして中止され、ドイツ軍は完全に
東部戦線の主導権を失い、秋以降、圧倒的な物量を武器にしたソ連赤軍に、冬季攻勢か
ら猛攻にドイツは敗走を続けることとなる。これにより戦線は、ドニエプル河を越えて
、西へ移動しウクライナ地方の大部分はソ連赤軍に奪回された。こうした自国民の地で
焦土作戦すら厭わない共産主義の危険さこそ 今の世界の核を持つ危険さなのである。
そこまでしてドイツに勝っても、ソ連の国民が手に入れたのは不幸な生活しかなかった
のである。

940: 名無しさんAA:17/12/08 19:02
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 601----------

 ナチス・ドイツ軍で行った戦いは鉄道網、道路網が整備された限定的な地域であり、
目的地までの距離は比較的短かった。このことは、ドイツ軍が編み出した特殊な電撃戦
という戦術を行うことにおいて有利に働いた。進軍・補給ともに計画はそれ以上の結果
を残したため電撃戦の効果を十二分に発揮できたのだ。ドイツは他の方面の防衛には、
最小限の武力を残して、攻勢の前面にほぼ全力を投入する戦闘を続けており この戦い
方は最大かつ最重要なことであり正しいことであった。電撃戦の失敗による長期持久戦
化はドイツにとって危険となる二正面作戦を生み出すことになるはずである事は自明で
あった。この中で独ソ戦の開戦時、機甲師団の能力・電撃戦の限界については、未知数
だった。対ソビエトの戦闘においての進撃すべき距離は、これまでの戦闘とは比較には
ならない距離だった上に、これまでの戦いとは異なり、本国とはるか離れた広大な領土
を持つソビエトにおける戦いには 電撃戦による短期決戦が可能かどうかという点には
季節が左右するところであった。電撃戦に必要なものは一にも二にも速度であり、これ
には補給と飛行場の確保が不可欠であったのだが、ロシアの大地は電撃戦をしかけるに
はあまりに広大でインフラが整って居なく、未整備な上に冬季は厳寒。攻撃する側には
必要不可欠な十分な装備や知識を持ち得ていなかったのである。更に本部と遠く離れた
事の感覚の違いは大きく非常に危険な大地だったのだ。このような状況・段階にもかか
わらずヒトラーのソビエトに対する認識はあくまでも過小評価していて、バルバロッサ
開始時だけでなくブラウ開始後においても、ソビエト赤軍の戦力は低いと認識し、それ
を参謀本部に再確認するほどの違った状況であった。このようなドイツに対して、ソビ
エト軍は全力をあげて赤軍の組織を再編しドイツ軍に対抗していた。史上最大の戦車戦
と言われるクルスクの戦いでは、陸・海・空という総合的な戦力が勝っていたトイツに
ソ連赤軍には革新的ともいえるT−34という革新的戦車を配置したことは特筆すべき
であろう。敵の砲弾を弾く効果的な形状を持ち、その形状にそった小さな砲塔では、敵
戦車に対しては必要十分な砲を持つという、対戦車戦において絶対的に優位な、今日に
おける主力戦車の概念を与えうる戦車の歴史を変えるほどの戦車を作り上げていた。こ
の大量生産された戦車は既存のドイツ戦車を駆逐する性能と生産性と整備性を持つ驚異
的な戦闘車両であった。指摘しうる欠陥は砲塔、砲などを着実に変更・修正し、やがて
三人乗りの大型砲塔に85mmの砲を積み中戦車としてはその量産性からもドイツ軍を圧倒
するに至った。戦後にもアルミでスコップを作る程の技術力と資源力はソ連の底力だっ
た。

941: 名無しさんAA:17/12/08 19:03
又 ロシアの鉄道はドイツとは軌間(レールの幅)が異なり、ドイツが標準軌なのに対
し、ソ連側は1524mmの現在の1520mmのロシアゲージの広軌を利用していた。その為、そ
のままではドイツから直接列車を乗り入れることは不可能だった。ドイツ側は常に列車
の鹵獲(機械占領捕獲)を当てて使用していたが、ソ連側はウラルへの工場疎開と同時
に列車を避難させてドイツ軍の鹵獲は思うように行かなかった。結局、工兵によっての
線路を標準軌に変更する工事を行う事になり時間と労力を要した。こうして線路はソ連
側の逆襲時にはアメリカの援助を受けて元のロシアゲージに戻される工事を必要とした
。又冬季のロシアの厳寒には、ドイツが持ち込んだ蒸気機関車を容易に故障を連発させ
た。劣悪な路盤整備においては大型の機関車の導入も拒んだ。道路網も舗装もされてい
ないし 整備がなされていない悪路が多く、その情報は不足したままの戦争だった。ま
た、南北方向の道路網は比較的整備されていたが、東西に移動するドイツ軍の進撃には
役に立たなかった。そのため、軍備増強を急いだために、自動車化が完全ではなく移動
・補給の多くに鉄道と軍馬を必要としているドイツ軍にとっては困難な戦場であった。
自国の生産だけでは間に合わず、占領国からもかき集めたトラックなどを含めて荒れ果
てた道路での利用による故障は甚だしく、修理もままならず輸送の効率は非常に低いも
のになった。同時期に戦場となっていた北アフリカは、広大な戦域は地図上でみても、
西端から東端までの距離は、ベルリンからモスクワよりも遠いにも関わらず 港湾付近
以外では自動車以外の補給手段がなかった。その為にその作戦規模に比較して膨大な輸
送用自動車が割かれていたことも大きな問題であった。確かに北アフリカ戦線は自動車
以外の補給の方法は無かったが、要求する数量はあきらかに作戦が生み出すものからす
れば桁はずれな数量であった。最前線に対しては1割の部隊への燃料補給に対して9割
の補給部隊の燃料消費が必要なほど、補給部隊の消耗が激しかったのだ。1942年に
ブラウ作戦が発動され作戦開始当初は快進撃が続き「大部分が達成された」と明言する
ほどだったが赤軍が撤退速度は早く、包囲殲滅など皆無だった。スターリンが全戦線に
おける抵抗を命じた時、ドイツのA軍はマイコプ油田を占領したが、油田はすでにソ連
軍により火をつけられ破壊されていた。次に東のグロズヌイ油田に向かったが、進軍す
るに補給路が伸び、燃料不足とソ連軍の抵抗により進軍はとうとう停止した。これが、
コーカサスの油田地帯での実態だった。スターリングラードに向かったドイツのB軍も
市街地の大部分を制圧したもののソ連軍の抵抗により冬が到来しても市街戦を続けてい
た始末でソ連は極秘のうちに大規模な反攻作戦の準備を進めていた。反攻作戦は冬期に
入る11月に開始され補給路を切断されて包囲されることになった。救出作戦が出たが
ドイツ軍はソ連の包囲網を突破できなかった。

942: 名無しさんAA:17/12/08 19:04
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 603----------

ドイツがソ連に侵攻を開始して3年目には、赤軍は「バグラチオン作戦」を発動し攻勢
に出た。ドイツ軍は南部戦線を予測しており、赤軍の欺瞞作戦の効果もあって対応が遅
れ後手に回った。赤軍は、かつてのドイツ軍が行った陸空一体の電撃戦を展開し。圧倒
的な物量・戦力差で進軍を開始した。ヒトラーの厳命で撤退や持ち場放棄すら出来ない
部隊は機動戦で個別に撃破されるという、開戦時と逆転した叩き陥っている状況となり
、ドイツ中央軍は事実上壊滅することになった。この結果ドイツ軍は敗走も出来ず駆逐
され、開戦前の国境線でも東部戦線の継続はほぼ不可能となった。絶望的な戦いを余儀
なくする中で、南部ではルーマニアでクーデターが発生し離反しドイツに宣戦を布告し
た。ブルガリアとフィンランドも離脱し、ハンガリーも続いたがドイツ軍の「パンツァ
ーファウスト作戦」の工作により政府は枢軸側に留まった。がその戦いは壮絶だった。
10月15日に実行されたハンガリー王国のクーデター計画では、クーデターは成功し、新
たにサーラシ・フェレンツを首班とするドイツの属国としての国民統一政府が成立した
。ハンガリーは工業・石油の供給地であり、バルカン半島とドイツをつなぐ要衝でもあ
るため、ドイツにとってはどうしても手放せない地であったのだ。ソ連赤軍と休戦協定
を結んだルーマニアがドイツに宣戦するのを機にソ連がブルガリアに宣戦布告し、侵攻
を開始した。ハンガリー・ルーマニア国境地帯であるアルプス山脈の防衛計画を策定し
たがソ連赤軍は国境の峠を次々と突破した。ヒトラーはこれに対して戦車1個師団や親
衛隊2個師団、戦車2個旅団を送り込んだがT−34のソ連赤軍の部隊の侵攻は食い止
めらず要衝ズクラ峠は易々突破された。ハンガリー軍と王国政府の士気は低下しもはや
ハンガリー軍に戦意がなかった。ハンガリー防衛は不可能とヒトラーに具申し密かに臨
時閣議で休戦の方針を決定したが、ドイツに筒抜けでありハンガリー軍参謀総長が総統
大本営を訪れて兵力増強を要請した際に、「我々はともに反共十字軍を同志と信じてき
たが、もはや貴国政府に対する信頼は消滅した」と告げている。1月からはソ連軍では
ヴィスワ=オーデル攻勢を行い、2月2日にはベルリンまで70kmにせまっていた。ハン
ガリーの首都ブダペストが陥落し、ハンガリーのほぼ全土がソ連赤軍の支配下となった
。だがドイツ軍はハンガリーの油田奪回を目指して最後の攻勢春の目覚め作戦を行い、
圧倒的な戦力差により惨敗を喫するも、ソ連はドイツに近づけなかった。ベルリン総攻
撃が開始される。4月30日、ヒトラーが自殺。5月、ベルリンは陥落したがそれでもソ連
の戦いは続いてた。独ソ戦すべての戦闘が終結したのはプラハの戦いが終結する、5月
11日のことだった。

943: 名無しさんAA:17/12/08 19:10
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 604----------
 実はヒットラーは既にこの戦争の敗戦を予知していたとも考えられる節がある。そも
そも冬戦争におけるフィンランド国防軍との戦闘でソ連軍は醜態を晒した。赤軍である
が大敗している。ドイツはそれを知っていたが、冬の備えをした戦いにはしていない。
多くは夏期に勝つものとしていたと言うのが通説ではあるが、そうではなく人間不信に
あったと考えるべきだろう。即ち自軍の兵士を信じて居なかった。あまりにも忠誠を示
し怖かったと思える。その中でこの戦いでソ連は中立不可侵条約を日本と契約し、欧州
戦線に、日本に備えていたシベリア方面精鋭軍を、心置きなく投入できたことも勝因と
して大きかった。この面でも日本は馬鹿を犯していた。そのままでは戦車も兵員も不足
していたのがモスクワに、東欧に増員出来る事になったのだ。又かつて焦土作戦を展開
し大北方戦争でスウェーデンを、祖国戦争でナポレオン率いる大陸軍を撃退したロシア
は、今度も又同じ戦略を決行することは明白であった。この冬場の焦土作戦のそれに、
ドイツは全く対処していなかった。もっともこの作戦は、ロシア側にとっても多大な犠
牲を強いることになってはいたが。ロシアにとってもドイツにとっても東欧の人々は、
国民ではなかったのだった。ドイツのヒットラーは英国占領に固執していた。ロシアの
占領はロケットが出来た時点でモスクワに飛ばせば事足りていたのだが それをしなか
った。更に終戦後アメリカに持ち帰りされて広島に落とされたとする原爆は一個ではな
かったが、それを落とす命令は発しなかった。英国では1941年年末以降の日本軍の
参戦に成功したが、同時に東方植民地である香港やシンガポールをはじめとするマレー
半島一帯のイギリス軍の相次ぐ陥落が起こっていた。インド洋から放逐され失態を犯し
た上に、ドイツ軍によるトブルク陥落でイギリスの威信が次々と傷付き、何とか植民地
として残っていたインドやエジプトでの反英闘争激化を招いていた。チャーチルは1944
年6月にノルマンディー上陸作戦で攻勢に転じ1945年5月にドイツが降伏すると、労働党
が挙国一致内閣を解消して総選挙を起こし保守党は惨敗した。いち早く共産党拡大路線
に赤信号を灯して、反共外交を行いヨーロッパ合衆国構想などを推し進めが、イギリス
は、大戦終結後に英国復興にはインド等の植民地は足枷になり、労働党政権は手放して
いくことを決めた。これに大英帝国主義の立場から痛烈に批判し、植民地独立の阻止に
力を注いだが、植民地のほぼ全てを失うことで決着を見て居る。世界大戦でアメリカと
ソ連に並ぶ戦勝国の地位を得たが、世界一の植民地大国の座を失って米ソの後塵を拝す
る国に転落してしまうのである。アメリカのみが自国領に被害が無く一人勝ち状態だっ
た。そこに日本との戦争が思うままに 力が注がれる状態になった。これも日本のミス
であろう。

944: 名無しさんAA:17/12/08 19:14
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 604----------

 チャーチルはまだまだ昔の ドイツとの建艦競争が激化する中に海軍大臣に就任した
。第一次世界大戦時には海軍大臣で失敗し1941年英国が独ソ戦開始の為にソ連が協
力を申し込んできた事に反対しなかった。それはアメリカとも同盟関係となる為だった
。アメリカが日本と対抗したのは、英国の中の影の力 つまり英国からアメリカに渡航
しようとしていたユダヤ実業界のギルド連盟であるシオニスト達つまりメイソンロッジ
を経営するユダヤの寺の信者達を手離したくは無かったからだ。それはフリーメイソン
結社が出来た理由に ロシアやドイツに於ける「ポグロム」(ユダヤ人虐殺)によって
出来て居た事による。バクー油田を始めユダヤ資本の油井が ロシア皇帝から盗まれ、
その後の革命でもボリシェヴィキの党政権でもその「ポグロム」は終わらずユダヤ金融
は「スラブの地の同志」が人質となり投資続ける羽目に陥っていたのである。この事を
救ったのがチャーチルであったのだが、チャーチルは元々メロン財閥の男爵の知遇を得
ていた。兵士となりアフリカで駐留していた時反乱が起こった。アフリカではダイヤで
資本を成したデビアス・ロスチャイルドの社員でもあった。元々ダイヤは固すぎて宝石
としては「三流の石」としてルビーやサファイヤの10分の1の価格だったが、これを
平面削りでの意匠をして価値を得たこのデビアス社の庇護を受けてアフリカで九死に一
生を経ていた。つまり既にロスチャイルドの配下でありユダヤ資本とは切れない関係に
あったし国としても戦争遂行にも必要な資金源だった。対してヒットラーには歴史的に
も国家的にも平和を脅かす災難だったし、戦後の賠償金の取立屋としても忌み嫌う存在
としてユダヤ人がいたのである。当然ソ連とは手を組んでも、英国とは手は組まれない
存在だった。又その頃には米国も又紙幣の発行権利を争っていて当然日本が世界大戦に
登場するとは思えない存在だった。だがアメリカのユダヤ資本は既に半数以上の議員を
牛耳っていたし、その力でメキシコを取引材料にしてフィリピンをアメリカ政府の名で
購入していた。それはスペインの内乱に乗じた戦争の取引として確約が存在していた。
つまり王政を掲げていたスペインに、カタルーニャなどの独立派は、人民戦線を掲げた
共産主義に支援されメキシコ・ドイツ・ソ連・イタリアが支援し、カトリックの王政に
議会制民主主義を志向するプロテスタントの穏健派にフランスとイギリスがついて社会
主義無政府主義革命を志向する強硬派と共に行動していたのだ。当初決して一枚岩では
なかった中でアメリカがメキシコや南米紛争と共に妥協案を提示して来たのである。


945: 名無しさんAA:17/12/08 20:28
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 605----------

 こうした話が日本に関係ないと思ったら大間違いである。キューバ革命(1959年
)の指導者エルネスト・チェ・ゲバラが南米ボリビアで軍事政権打倒を目指して、共に
戦った同志の中にも、鹿児島出身の移民の父を持つ日系人がいた。唯一名前が上がった
のは前村フレディと言う日系二世だが、他にも大勢日本人はいた。又ソ連が支援した、
国際旅団にも日本人兵士がコックとなった反ファシストの日本人の義勇軍兵士がいた。
「戦うコック」として愛された「ジャック白井」である。他にも野口英世と共にアフリ
カ戦線に出た者や潜水艦の漂流でアフリカにて死んだ日本の武士など大勢がいる。ただ
他の国の人と違ってあまり有名にはならなかっただけなのだ。実は日本は日露戦争以来
数多くの米国向けの移民を出して来た。ハワイの日系人を始め日本が日露戦争で農業の
人手や漁業の人手が足りず、食いつないで国内で生活するのが不可能に追い込まれたか
らだ。江戸時代から日露戦争まで「世界で一番安い東京の青い空と白い米」と言われる
程暮らしやすかったのだった。日露戦争で勝ったのも実はこの東京に来ていた 多くの
学生などの知識や素養が軍隊にあったから規律が守られて勝ったのだ。と言われている
。更に日本人は諸外国の内乱から逃げて来た多くの革命家も又支援したりわけ隔てなく
教育するシステムがあった。日本最初の集団での海外移民は、1868年(明治元)に40人
余がグアム島、153人がハワイ、1869年(明治2)に40余人がカリフォルニアに渡航した
のがはじまりである。とされる。後に「元年者」と呼ばれるようになった最初のハワイ
への移民は、主にサトウキビ耕地の労働者として、横浜駐在のハワイ領事ヴァン・リー
ドが、日本人の口入屋を使って京浜地区で集めた人達であった。職人が中心であったが
、農民や武士も含まれていた。ヴァン・リードは、幕府からの渡航印章(旅券)の発給
を受けていたが、明治新政府がこれを認めなかった為、許可のないまま渡航を強行した
。移民を乗せた(Scioto)斎藤号は1868年5月17日(慶応4年4月25日)に横浜を出帆し、
1868年6月20日(慶応4年5月1日)ホノルル港に到着した。ホノルルまでの航海は順調で
あったが、農場に入った後、移民たちは、不慣れな気候の下での過酷な労働と、物価高
による生活の困窮に苦しみ、同年12月には移民元締の牧野富三郎らが日本政府に救出を
求める嘆願書を寄せる事態に至った。明治政府は、問題解決のために民部省監督正の 
上野景範を使節としてハワイに派遣した。上野一行は、サンフランシスコ経由で1869年
12月27日(明治2年11月25日)ハワイに到着し、ハワイ外相ハリスと交渉の末、1870年1
月11日(明治2年12月10日)、帰国希望者40人の帰国、残留者も契約期間が経過したと
きにはハワイ政府の費用で日本に送り届けること、などを合意した。

946: 名無しさんAA:17/12/08 20:49
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 606----------
 ネルソンロックフェラーは、ロックフェラーセンターを企画し不況時代に雇用を産ん
だ初代ロックフェラーの孫だった。ネルソンとデービットはワールドツウピーストレー
ドビル即ち911で有名なトレードセンターを作った。ネルソンは1979年70歳で
亡くなったが、「私はとうとう社会にはびこるがん細胞を取り除けなかった。」と言っ
てこの世を去った。初代ジョン・デイヴィソン・ロックフェラーは、弟のウィリアム・
ロックフェラーとスタンダードオイルを作って財をなしたのだが。「今の商売のやり方
は私達が起こした当初の商売のやり方を真似た様に戻って来てる。だが、本当の問題は
資産や財産を持つことの責任だ。大いなる禍か、大いなる祝福かは、やがて神が決める
。」と言って死んで行った。ロックフェラーは若い頃から教会に収入の10%を寄付して
いた。オハイオ州クリーブランドのレイクビュー墓地に埋葬されたのだが、そのときに
巨額の財産は、ごく僅かしか残っていなかった。ロックフェラーは自らの一族に既に、
莫大な生前贈与を行い、とりわけ息子のジョン・D・ロックフェラー・Jrには多くを
分け与えていたのであった。結果、一族は遺産騒動もなく20世紀のアメリカで最も豊
かで最も影響力を持つ一家となっていた。孫のトレードセンターを作るにあたっても、
息子の名で投資していた。事実上息子であったジョン・D・ロックフェラー・Jrは、
慈善事業に多くの投資を行っていた。かつて魔の金曜日で吹っ飛んでしまった財産も、
安値買いで既に倍になって彼らを潤していたのである。そのけん引役となったのはチェ
ース・マンハッタン銀行で現在のJPモルガン・チェースであり、ロックフェラーの孫
デイヴィッド・ロックフェラーがCEOを20年間務めていた。ここを通じて、このセ
ンター建設の投資も行われたのであった。同じくロックフェラーの孫ネルソン・ロック
フェラーは、ジェラルド・フォード大統領の下で副大統領に就任して大統領を狙ったが
、愛人騒動で「ゴールド・ウォーター事件」として、最初の政治家の私人スキャンダル
で不評敗けした。もう一人の孫ウィンスロップ・ロックフェラーはアーカンソー州知事
に就任したが彼の隠し子がビル・クリントンであるとされ、ジョン・F・ケネディ大統
領がやって来た時のセレモニーの主催者となっている。又クリントンのスポンサーは、
ユダヤ財閥、ハリマン家の当主パメラ・ハリマンで、ブッシュ家との関係も深いアメリ
カ有数のユダヤ人実業家で日本に満鉄共同経営を進めた家柄だ。曾孫ジョン・ロックフ
ェラー4世は、現在民主党のアメリカ合衆国上院議員であり、かつてはウェストバージ
ニア州知事を務めていた。結果としてロックフェラー2世はニューヨークにおける最大
の不動産所有者となったしアメリカの銀行であるチェース・ナショナル・バンクが彼の
信託投資会社を買収したときその支配的利権を得ている。

947: 名無しさんAA:17/12/08 20:50

陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 607----------

ロックフェラー2世は、結果として世界恐慌の間にロックフェラー・センタービルの建
設に資金を提供したが、米国最大の不動産王となった。慈善事業に力を入れ、そうした
文化事業によって最も記憶されるのは一族と共にロックフェラー財団とロックフェラー
大学を創立した事だ。さらにニューヨークの国連本部の建設敷地を寄贈して居る事だ。
ジョン・ロックフェラー4世はジョン・ロックフェラー3世であるジョン・ロックフェ
ラー2世の長男の子だが、当主3世の子でありながら、長年傍系の一族に追いやられて
いた。何故だか彼は1954年にフィリップス・エクセター・アカデミーを卒業し、ハ
ーバード大学で東洋の歴史および言語を学び1961年に卒業後、東京の国際基督教大
学で日本語を三年間学んだ。結局7年間も東洋言語を学んだが、実際に日本語を話せる
程ではなかったと言われる。その子ジャスティン・ロックフェラーにはあまりいい話は
ない。ベンチャーキャピタリスト、政治活動家の肩書があるが叔父のマイケル・ロック
フェラーはハーバード大学で民族学を専攻、その過程でニューギニア・イリアンジャヤ
の部族に興味を持ち、特に、ダニ族と当時首狩りの風習が残っていたアスマット族の研
究を行ない、彼らの木彫りの美しい美術品を収集するなどしていたが、行方不明になり
首狩り族に殺されたとされる。ニューメキシコ準州(現ニューメキシコ州)ソコロ郡の
サン・アントニオで、ノルウェー系ドイツ人移民の息子として生まれたホテル王コンラ
ッド・ヒルトンは、戦後の東西冷戦下でアメリカ文化のショーウインドウとして世界各
地に豪華ホテルを建設した。彼はニューメキシコ軍人養成学校で教育を受けた後、第一
次世界大戦でアメリカの参戦に従軍してフランスへ送られた。その後退役するとテキサ
ス州シスコに移住し、当初銀行家を目指したが、買収に手ごろな銀行がなく、たまたま
見つけたモブレー・ホテルを1919年に買収したのが彼のホテル経営の最初であった。こ
のホテルは大盛況を迎え、その後はホテル経営に才能を発揮し、1930年にはヒルトン・
ホテル最初の高級ホテルとなるエル・パソ・ヒルトン(現プラザ・ホテル)を開業する
に至っている。世界恐慌期には破産寸前にまで追い込まれたが、フリーメイソン結社の
会合場所として資本家の知遇を得て持ちこたえた。その後には立て直し、1946年にヒル
トン・ホテルズ・コーポレイションを設立し、株式の上場を果たした。戦後西ドイツに、
「我々は共産主義に挑む様に、アメリカ陣営の自由の旗を建ててこの理想建設を謳う事
を高々と宣言する。」と最高級ホテルを突如として建設した。


948: 名無しさんAA:17/12/08 20:51
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 608----------

しかし、キューバでのヒルトンホテルは散々な目にあった。キューバ革命によって歴史
の渦に巻き込まれ窃取されたのだ。キューバに開業した南米最大のハバナ・ヒルトンに
、カストロが革命本部を設置し、政府に接収されてしまうのです。資本主義の自由の旗
を自負していたコンラッドはじくじたる思いでした。この物語には半世紀後に続きがあ
ります。2015年、コンラッドのひ孫であるパリス・ヒルトンがハバナを訪れたので
す。そこで出会ったのが、カストロの息子でした。メディアは二人を「ロミオとジュリ
エット」に喩えて世界に報道しまた。ニュースは伝える。「米国とキューバの間で国交
正常化に向けた交渉が続く中に、米国の有名タレント、パリス・ヒルトンがキューバの
首都ハバナを訪れ、フィデル・カストロ前国家評議会議長の息子と会った。ヒルトンの
曽祖父コンラッド・ヒルトン氏はヒルトンホテルの創業者だが、1958年に「ハバナ
・ヒルトン」を開業し翌年のキューバ革命で国有化されて、名前も「ハバナ・リブレ」
(自由ハバナ)になった。一時、革命政府の本部にも使われたが現在も ホテルとして
営業中だがこのホテルの、ハバナでの葉巻フェアに招かれた。この会場で、フィデル氏
の息子で原子力専門家のフィデル・カストロ・ディアス・バラルトさんと携帯電話など
で写真を撮るなどした。米スーパーモデルのナオミ・キャンベルらも同席した。」と。
ヒルトンさんの曽祖父時代の、フィデル氏が率いる革命政府によって、開業したばかり
のホテルを接収された因縁がある。映画「ハバナの夜」ではユダヤ系マフィアのランス
キー親分が59年の革命に、これは共産主義革命だと、ハバナから脱出を図るシーンが
出て来る。信頼している子分のアルマンドと国外脱出しようとしたとき、彼が思いがけ
ないことを言う。「これは共産主義革命なんかじゃありません。フィデリスタの革命な
のです。私はここに残ります。フィデルの革命なのだから。」と言う。彼はランスキー
から信頼され高額で雇われ仕事人として慕われていた筈だった。だが金より革命に心が
動かされたのだ。仕事を失って、更に仕えるボスが不在で、カジノが閉鎖されても彼は
革命政権のキューバに残る覚悟をした。ランスキーは自分自身を否定されたような衝撃
に驚き、ホテル・ナショナルの庭のベンチに腰掛け少年期の体験を語り部下の説得を試
みた。ランスキーも12歳まで帝政ロシアに住んでいた。共産主義のロシア革命によっ
て郷里を離れる事になり、合衆国へ移り住んだ。実体験を基にキューバ革命は共産主義
だと警告するランスキーだった。だが、彼の部下のアルマンドは「仮にそうだとしても
、人民のための革命です。」と言い切り結局キューバに残る。ここにカストロが起こし
た革命とマフィアの金で操る価値観の衝突を、巧みに描写している。

949: 名無しさんAA:17/12/08 20:54
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 609----------

 映画と違い実写では、笑顔でナイスミドルといった感じの男性の彼が、有名なマフィ
ア、ラッキー・ルチアーノである。「ハバナの夜」ではルチアーノがランスキーに招か
れ、祖国イタリアからハバナ入りするシーンから始まる。ランスキーは資金と共に国外
脱出したが、革命政権下でも裏ビジネスを続けようとするマフィアもいた。ランスキー
に次ぎハバナで力があったマフィア、サント・トラフィカンテ・ジュニアは、革命が起
きても所詮首がすげ代わるだけだろう思っていた。マフィアが独裁者と共に築き上げた
悪徳の帝国経済はすっかりマフィアの事業に浸っていて、いまさら抜け出すことなどは
不可能だと考えていた。しかし、カストロが率いるキューバ革命は金より正義を選んで
いた。CIAもペンタゴンも多くの資金をつぎ込んで暗殺を企てた。だが彼らは巨額の
資金を投じても、カストロを暗殺できなかった。政権の座に着いてから国際連合の総会
に出席する時、ニューヨークに向かう飛行機でカストロは記者のインタービューを受け
る。「あなたはいつも防弾チョッキを着ていると聞いていますが」という問いに対して
「私はモラルという名のチョッキを着てニューヨークにやって来た。これがあれば心強
い。このチョッキがいつも私を護ってくれてきたんだ。」と返答している。カストロが
今日まで生存されて来られたのはこの“モラル”があったからではないかと思う。先に
紹介したアルマンドが、マフィアの大御所の下での身入りの良い馴れた仕事を絶って、
革命政権下のキューバに残ったのだが、時に人は金よりモラルや正義を優先する。CI
Aやマフィアは、カストロの元愛人にも暗殺を依頼していたが、彼女は当時に、この旧
ヒルトン・ホテルの司令部を構えた中のカストロの個室に潜入し銃口を向ける段階まで
いった。だが、良心からトリガーを引くことは出来なかった。こうして起こったキュー
バ革命は、結果的にはソ連に近づき、社会主義化したがマフィアやCIAはカストロの
率いた革命と敵対した。だが本質を見誤っていた点に、根本的な間違いがあった。それ
はキューバ独立の使徒ホセ・マルティの時代からキューバ人が求めて来た人道主義に基
づいた革命であった事だ。合衆国とキューバは国交正常化の道を歩んだ今日でも、未だ
キューバ革命の真髄を誤解している。「ハバナの夜」の著者もカストロを「ラ・エンガ
ニャドーラ」(詐欺師)と描写している箇所が上記のハイメ氏の証言後にあるが、私は
このような記述を見るにつけ、事の本質を西洋は間違えた見方を行いがちだとつくづく
思う。カストロは1979年1月3日、サンタモニカで老衰のため大往生した。

950: 名無しさんAA:17/12/08 20:56
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 610----------

 この頃の移民として日系人は多かった。此処に一つの資料がある。宮崎新聞の民間移
民の大御所菅原氏の手記である。米二年の収穫と布哇(ハワイ島)移民と題される物で
過去二年間の渡米は、私にとつて大きな開発を付与したものだ。と言った後の言葉だ。
「日本は人口が多く、殖える方も早いから今後は出来るだけ人を海外へ出して発展の途
を講じなければならぬ、といふ所に根拠を置いて国家的見地から移民問題を取上げたわ
けである。日向は才智に富み英文も巧みであつた。此に着眼して菅原と相談し布哇移民
の計画を立てたのである。菅原は、始めそうした目的ではなく全く政治的の結論を抱い
て布哇(ハワイオアフ島)へ行つたもので、亡命中の孫逸仙を援けて支那革命のために
気を吐かうとした。それともう一つは、アメリカが余りに布哇を圧迫するので、それに
対して蹶起する、布哇の志士を援けやうとしたのである。その志士と云ふのは、英人と
布哇人の混血児で予て菅原には相識の間柄であつた。さて日向と菅原が布哇で移民事業
を起すことになつたのであるが 当時布哇には官約移民なるものが日本から送られてゐ
た。之には斯うした経路があつた。由来 布哇では労働者の不足に苦しみ、明治元年に
は砂糖工場主が、日本へ手を廻して各地から人を集め百五十人ばかりのものを殆んど瞞
すやうにして連れ込んだ事実がある。明治十四年には、布哇のカラカウア王が世界周遊
の途次、日本へ立寄られて移民の事を政府に請ひ、井上外相と相談されたこともある。
越へて明治十七年、布哇政府は日本駐在のアービン公使に命じて更に移民の斡旋をし、
井上外相に請求されたので、十年間の約束で移民を送ることになつた。之が官約移民と
名づけられたわけである。爾来十年間に謂ゆる官約移民として送られた数が二万九千人
と統計は教へて居る。
 そこに日向は目をつけ、間もなく十年の官約期限が切れるその跡を引受けて民間事業
としてやろうと考へたのである。この計画はうまく行き 日向、菅原の移民事業は大に
成功した。私等も此の事業について相談をかけられた時には大に賛成して関係すること
になつたのであるが、当時の根本観念としては、誰も利益方面を考へたわけでなく全く
移民事業の必要を痛感した結果であるが、実行して見ると意外の利益があがつて来たの
である。松岡達三郎も加はつたが、要するに移民事業に於ける私どもの立場は傍系的の
関係にあつたのである。


951: 名無しさんAA:17/12/08 20:58
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 611----------

人口問題と海外発展策として
 二年数ヶ月を桑港で過して私は明治廿四年の秋、帰朝して懐かしき祖国の姿に接した
のであるが、星先生は私より先に帰国して居られた。移民事業の計画を話したら、すぐ
賛成して呉れた。陸奥さんが外務大臣に就任したのは二十五年の八月であるが、星先生
から移民会社の認可に就て話込んだのであるが、陸奥さんは以前の移民が、ひどい状態
にあつたといふことを耳に挟んで居るので「国民を外国へやつて半奴隷の境遇に陥しい
れることは同意出来ぬ」と反対されたものだ。そこで星先生は「移民の境遇が悪いと言
ふことは改害の途を講ずればよいわけで、将来の人口問題とか、海外発展策といふやう
な点から考へて見れば兎に角、人を外へ出すことが先決ではないか、立派な契約を結ば
せ、尚ほ領事館に命じて平生の監督をさせたら移民状態は心配がなくなるだらう」と、
力説したので、陸奥さんも「然らば良からう。」と言ふことになり、明治廿七年になる
と移民会社を認可するやうになったのである。尤も本当に移民を出したのは、廿八年か
らであるが、その状態が数年間続いて居るうちに、明治卅一年には 布哇がアメリカに
合併され、三十三年からは米国の移民法が布哇にも適用されることになつたので、日本
からの移民は一時中絶し私等の会社も消滅したわけである。其時までに各会社から布哇
に送つた移民の総数は四万人以上になつてゐる。布哇の外アメリカに渡つた移民も頗る
多かつたがそれを加へると、私等が事業を止めたころ既に十六万人の移民が海外に出て
居たのである。私は移民会社に関係するやうになつてから十何遍か布哇に行つた。
熊本移民やその他の会社の動向
 扨て、日本移民の気受は何うかといふに、非常に評判がよく、移民なら日本に限ると
歓待されたもので、又布哇は日本移民によつて発展したと云つてよい。支那人は労働に
は堪へるが、我利の念に強くて面白からず、葡萄牙人(ポルトガル人)にしても独逸人
(ドイツ人)にしても、移民としては、うまく行かなかった。斯ういふ機運に鑑み私は
田中賢道、山口熊野、小山雄太郎等と共に熊本移民合資会社を起したのであるが、日向
と菅原は広島移民会社を作り、森岡眞は個人で森岡移民会社を経営し 倶に共に国民の
移民熱を昂揚したものだった。布哇移民については、会社は雇主から 移民の渡航費を
受取つが、船賃を支払ふと、一人につき十円余りの余剰が出て余分の儲けになつた。之
が多くの頭数にかかるので、巨額に上つたが、その代り、移民が布哇へ行つてから何か
事が起ると世話をしてやらなければならず、必ずしも儲けることばかりを仕事にして居
たわけではない。だが世間では一方ばかり見てひどく移民会社を攻撃したものであつた。

952: 名無しさんAA:17/12/08 21:00
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 612----------
 少々くどくどしくなるが、当時の会社としては移民一人につき五十円位の帰国旅費を
積立てねば政府が許さぬことになつてゐたから、移民を布哇へ送ると月々その手続をし
て二年か三年の間に五十円にしなければならなかつた。此の時分 布哇に於ける移民の
給料は平均一ヶ月十七八弗(ドル)であつたが、帰国旅費の積立や個々人の貯金とか、
郷里の送金など、すべて正金銀行に預けてゐたものである。そこで吾々の仲間で銀行を
起し、移民の金を取扱はうといふことになり、出来たのが京浜銀行であるが、之が熊本
、広島、森岡の三移民会社に関係して居るもので組織し、本店を東京に置き、明治三十
一年の七月、ホノルルに支店を設けて、之等の会社で取扱つた移民の金を預かることに
したのである。之は余談であるが、会社時代に、私は山口と相談して南米の方面にも手
を拡げやうと考へ自らメキシコに出張して石炭坑を視察したり、メキシコ政庁へ行つて
交渉するなど相当に奔走して、その炭坑へ五六百人の労働者を送つたこともあるが、之
は結局失敗に終つた。それといふのは、メキシコでは賃銀が一週間二弗か三弗(ドル)
であつたが、アメリカへ入ると倍額になるので自由労働として送つたそれらの移民は、
皆逃げ出した。それでメキシコへ拡げた事業は、すつかり損失になつたわけである。之
を要するに移民事業に関しては、当時各会社に対する、いろいろの攻撃もあつたが、今
から思へば日本人の海外発展について相当の貢献はなして居るのである。
 元年者のトラブル後、明治政府はハワイをはじめ外国からの移民送出の要請を拒絶し
続けた。しかし、1884年(明治16)にオーストラリア北東部ヨーク岬半島とニューギニ
アとの間のトレス海峡の真珠貝採取移民を許可したのが皮切りとなり、その翌年にはハ
ワイへの移民送出を許可した。1885年(明治18)1月に、両政府の取扱いによる移民が
開始され、1886年(明治19)には日布渡航条約(「布哇国政府ト締結セル渡航条約」)
が締結された。この条約に基づく移民(後に官約移民と呼ばれた)は、計26回行われ、
約3万人が渡航した。その後1894年(明治27)日清戦争開戦により官約移民が廃止され
、ハワイ移民の送出しは、移民の募集と渡航の周旋をする民間の移民会社の取扱いに移
った。これ以降、神戸渡航合資会社、海外渡航株式会社、森岡眞(個人経営)など移民
会社が続々設立され、これらの会社は競ってハワイへの移民送出しを行った。ハワイが
米国に併合された後の1899年(明治32)に米国本土での排日の動きを受けて、移民会社
によるハワイへの移民取り扱いが一時的に禁止されたことがあったが、日本人労働力を
必要とするハワイ側の事情から、1901年(明治34)8月、自由移民ならば差支えないと
いう合意ができて、移民が再開された。以後には、日米紳士協定により移民が制限され
る1907年(明治40)までハワイ移民は全盛期を迎え、1年に約1万人から約2万5千人が、渡航した

953: 名無しさんAA:17/12/08 21:01
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 612----------

 この移民の中にフレディ前村の父 「前村純吉(1893〜1959)」がいたのだ
。出身地が鹿児島県揖宿郡頴娃町(いぶすきぐんえいちょう=現南九州市)だがここは
九州最南端だ。1913年10月に紀洋丸でペルーに移住した純吉は最初、カニエテの
大農場でコロノ生活を送ったと言う。コロノ生活とは、コーヒー園が人権問題から農奴
を契約農民にして年間契約の奴隷生活の延長をさせていたのものである。1913年は
大正2年で戦争の前の大不況が押し寄せて来た時代だった。8人兄弟の2人目で、その
数年後に弟重春も後を追ったのは 地元で食えなかったからだ。純吉は前宣伝と違って
まったくお金の残らないコロノ生活に見切りをつけて、ボリビア国ベニ州都トゥリニダ
ーという最貧地に再移住した。純吉の出稼ぎ先の農園の労働は過酷を極め、この地から
徒歩でアンデス山脈を越えてボリビアに移ったのである。アンデス山脈の標高5千メー
トルの山道を徒歩で越えて、日系ボリビア移民の草分けとなった。雑貨店を開業して富
を築き、ボリビア人女性との間に3男2女をもうけた。この地域はアマゾン川の源流に
位置する所で、この頃は天然ゴムの一大産地だった。この時代にゴム採取人として日本
移民が多数入った名残りで、今でも「トキオ」(東京)、「ハポン」(日本)、「ヨコ
ハマ」(横浜)、サカタ、イシヤマ、イタキといった日本語に由来する地名が数多く残
っていると言う。この地でスペイン系の三世のローザを妻に娶ったことから純吉は永住
の覚悟を決めたと言われる。ゴムの仲買いをして資金を貯えて、現地人向けの 食料や
衣料などの提供をし、雑貨屋を始め、裕福な生活を維持した。38年に長女マリーが生
れ、フレディは5人兄弟の3人目だった。この時将来の為に彼は、子供には皆に高等教
育を受けさせていた。マリーは「父は聡明で力強く、口数が少ない働き者」と記す。嘆
いたことなど一度もない。寡黙な父に映っていた。マリーが鹿児島県で見つけた書類に
は、父が戦前に祖国の軍部に大金を寄附した感謝状があった。ボリビアに暮らしていて
も強い愛国心を持っていた。戦争中、ペルーでは日系社会指導者が根こそぎ米国に強制
収容されたが、ボリビアでも日本人迫害はあったという。そんな41年にフレディ前村
は誕生していた。エクトルは幼少時のフレディの心情を、こう代弁する。「自分は裕福
な生活をしているが、通っている公立学校には貧しい現地人子弟がたくさん通っており
、その社会格差の現実に幼い頃から心を悩ませた。彼らを助けたいという気持ちから、
フレディは医者を志した」。治療は費用がかかる、貧しい人々を助けたい、そう考えて
医者を志した。ゲバラも、裕福な家庭に育って医学部へ進み、貧富の格差の解消を願っ
て革命家になったが、どこか共通したものがある仲間であったのだろう。

954: 名無しさんAA:17/12/08 21:02
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 614----------

 フレディ前村は50年代半ば、ボリビアの学生闘争の中心地として有名だった国立高
校に、8月6日高校に入学して政治に目覚めて、共産党青年部に入党した。本来の医者
になるには最高峰のラ・パス大学に入学するしかなかったが、当時は反共主義者で有名
な学長であった為に、共産党員の彼の入学を認めなかった。そのためにキューバに進学
した。59年にバティスタ大統領が国外逃亡した事でキューバ革命は達成された。世界
中に共産思想の赤色の夢がばら撒かれていた時代であり、その英雄が、この国のゲバラ
だった。革命政府が募集した奨学金留学生には応募が殺到し、フレディはボリビア人第
1期生としてハバナに留学出来た。エクトルは「両親や家族はフレディは真面目であり
、キューバで医学の勉強を続けていると思っていた。」と語る。だが大学でゲバラと出
合って革命思想に目覚めていた。最初は貧困者への医療行為が 彼らの肉体的な苦痛を
和らげると考えていたが、社会をみる目が深まるに従って、ボリビアのような貧しい国
々での病死の主な原因は、経済・社会の後発性、極貧、幼児の栄養失調、連綿と続く、
飢餓だと気づいた。」とある。九州大学医学部を卒業しパキスタン・ペシャワールのハ
ンセン氏病担当医師として派遣され、今や土木工事までしている福岡県医師の中村哲氏
の闘いと同じ心境だったのだろう17年間に渡ってパキスタン・アフガニスタン無医村
地区で無償の医療活動に従事して水路まで作っている。此処には、医療行為よりも政治
体制や社会を変革することこそが、本当の意味での不平等是正や貧者救済になるのだ。
との考えに行き着いている。ボリビアで生まれ育ち、留学先のキューバでゲバラに出会
い、その思想に傾倒したが革命は失敗。25歳で殺害された前村は長らく反逆者の扱い
を永らく受けてきていた。だが没後50年を迎え、前村を主人公にした日本・キューバ
合作映画が全国公開される事でその真実が浮かび上がる。貧困や権力に敢然と立ち向か
う前村にゲバラの信頼は厚かったという。66年にゲリラとして母国に潜入した。だが
ボリビア軍に捕らえられ拷問の末に射殺される。長姉マリーさんの「兄弟の中で最も父
親に重なる部分が多かった」という言葉は寡黙な日本人観を見せる。だがボリビア軍に
捕らえられ拷問の末に射殺されて家族は一時拘束され、軍の監視下に置かれた。その後
反逆者としての汚名が付いた。そそがれ始めたのはゲバラの遺骨発掘が始まった90年
代。2005年には左派政権が誕生し前村らの評価が見直された。ゲバラは前村につい
て「完璧なゲリラ戦士」と日記に書くほど信頼を置き、自身と同様に医学を学んでいた
こともあり、仲間内では前村を自分の名前でもある「エルネスト」と呼んで、称賛を惜
しまなかった。

955: 名無しさんAA:17/12/08 21:04
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 615----------

 2008年に、前村のおいのエクトルさんが鹿児島を訪問した。その時、初めて前村
の存在や歴史を知った上村さんは「まさか自分のいとこが革命に関わっているなんて」
と驚いたという。それにしても革命家としての資質はどう培われたのか。純吉に続いて
ペルーに渡った前村のおじ、重春を知る福元福一さん(78)=南九州市=は語った。
「昔からここは貧しい地域でしたが、村の祭りや公民館の建設費も米国や南米に出稼ぎ
に行った人の寄付でまかなえた。正義感が強くて地域に尽くす人が多かったね」郷土史
に詳しい県立図書館の原口泉館長は、「江戸時代から薩摩藩には開拓政策があり、フロ
ンティア精神あふれる人が多い。特に頴娃町のあたりはかつて不毛の地で、移民を多く
輩出している」と説明。「フレディの功績は、移民の歴史を持つ薩摩に誇りと勇気を与
えてくれる」と評する。理想を追い求めて戦い続けたゲバラと、維新の立役者を生んだ
鹿児島にルーツを持つ前村。志半ばで倒れた2人の思いは、50年たった今も色あせる
ことはない。この物語に「日本人にしか撮れない」と阪本監督は意欲をみせていた。阪
本順治監督(59)は、3年前からキューバやボリビアでの取材を重ね、キューバ政府
の協力も得て映画を完成させた。「日本が高度成長と東京五輪に沸いていた時代、南米
に日本人の血が流れ、希望を追求した名もなき医学生がいたことを知ってほしい。」と
話、映画は1959年にゲバラが広島を訪れる場面から始まる。「核のおぞましさを、
実感を持って知ったチェ・ゲバラと、日系人のフレディが、キューバ危機を通じて出会
っていく。これは日本人の監督にしか撮れない」と直感したという。キューバでの撮影
は現地政府の協力を得て行われ、軍事訓練のシーンは実物の武器を用いた。日本文化に
対する認知度は高く、阪本監督は「ロケを見ている人が、松坂大輔はどうしているのか
とか声を掛けてくる。原爆のこともよく知っていた」と振り返る。主人公、前村の父は
鹿児島から南米に渡った。「九州の人には新天地を求めていく勢いや夢を抱く力があっ
た。なんとしても成功して国に財を持ち帰るというおとこ気は感じる」“革命家の血”
はどこから来たのか。父の古里、同県頴娃(えい)町(現南九州市)にルーツがあった
緩やかに波打つ茶畑と芋畑が広がる南九州市の耳原集落。「確かこの家だったと思いま
す」。前村のいとこ、上村冨美子さん(66)=鹿児島市=は、ある平屋の前で立ち止
まった。前村の父純吉と、その妹で上村さんの母ノリさんが暮らした場所だった。映画
ではキューバで揺れ動く前村の青春時代が描かれる。阪本順治監督は何度も南米に渡り
取材し、前村の兄弟や同級生から誠実で意志が強く、かつ 他者の意見にも耳を傾ける
人物像が浮かび上がる。

956: 名無しさんAA:17/12/08 21:04
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 616----------

 実は不思議な事だが、このチェ・ゲバラも初代ロックフェラーもフレディ前村にも、
或いは中村哲氏でも、カストロでもこの移民達にも、何故だか日本人が忘れて居る共通
の熱い思いがある様に感じて止まない。近頃の生活に違和感があるのは政治や経済に、
大きなとても同意出来ない不調和の影があるからだろう。勿論今や人類は大きな知恵を
つけ文明社会の恩恵の上に立っている。そして第四の革命が起きようとしている。だが
何故か我々が目指している全人類の未来とちょっと違うと思ってしまうのである。かつ
て、第一次産業革命は蒸気機関の発明とされた。この実情は鉄の革命であったと言える
。古来より大量の鉄は出来ず、飾り物や鉄剣位の小さな部品にとどまったままだった。
だが鉄鉱石の発見や精練方法の改良により大型の機械部品を簡単に作る事が可能になっ
た事で蒸気機関と言う無尽の力を取り込める様になり、蒸気船や大砲や数々の鉄製品が
出来る素地が出来た。第二次産業革命は電気の革命であった。これまで静電気や壺電池
しか無く不思議とされた電気が磁石によって力を持ちモーターが開発されたのだ。この
事で更に電磁波や新しい様々有機化合物が作られて行き、更に石油産業と言う燃焼機関
や発電機を作った。これは大きく飛行機と言う今まで熱気球の様な浮かぶ物が飛ぶもの
に変化したのである。第三次産業革命は電子革命である。実質はコンピューター革命で
複合する電磁波の電算機革命でもあった。同時にトランジスタ回路の発見からIC回路
を作り小型コンピューターの道を開いたのである。この大きさは今も通信機器映像機器
時間や測量や単なる自動車や家電まで及んで指令機器を埋め込んで調整を果たし便利に
する為の拡大を図っている事からも、巨大な革命である事が解る。そして今、又新たに
又新しい革命の機運がある。自動認識を得てビックデータから計算するAI革命が起こ
ろうとしているのだ。初代ロックフェラーが今の商売が搾取と独占で利益を上げようと
して昔に戻っていると警告しているのは、やっと共生と救済での経済に落ち着こうとし
ていたからの警告だった。元々経済の済は救済の「済む」「終わる」「落ち着く」「戻
る」「解決する」と言う意味だ。つまり「無事で済んだ」と言う安心に戻る事を意味す
る。今度の革命に「住む寝る食べる」と言う人の生活が全く関係していないゲームの世
界に見える事がそう思わせている。


957: 名無しさんAA:17/12/09 00:11
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 617----------

 杉原千畝が命のピザを発給し続けて居た頃、香港でもやって来るユダヤ人に日本人が
大奮闘していた。戦前には、ハルピンにユダヤ人が5千人ほど居住していた。その後に
3千人ほどになり、営利事業を展開していた。二千年になってイスラエルのオルメルト
首相がやって来る様になっていた。首相はハルピン生まれであり、本年1月には墓参に
訪れていると言う。中国政府筋では、ユダヤ資本を東北地方に誘致することによって、
経済の活性化を企図している噂がある。イスラエル首脳は、国際的孤立からの回避戦略
と、近年の中国の近代化において、中国との接触をふかめておきたい模様らしい。ここ
に中国・イスラエル両国首脳の思惑が一致し大会が開催されるの運びとなり 2007
年の6月14から4日間、「ハルピン・世界ユダヤ人経貿合作国際論壇大会」を黒竜江
省ハルピン市において開催された。この大会にはロシアのユダヤ自治州の副州長も参加
していたのである。実はマルコポーロ時代から中国にはユダヤ人がいた。フビライの中
の宮廷には、ヴェニスの商人としてマルコ・ポーロが長年逗留していたがその理由の一
つがユダヤ商人がいた事だった。13世紀のころ、北京にやってきたマルコ・ポーロは
『東方見聞録』の中で、「中国東部の開封には大いに栄えているユダヤ人社会が存在し
ていると聞いた」と記している。6世紀には、山西省にユダヤ人は数ヶ所のユダヤ教の
教会を持つに至っていて、唐の時代にはユダヤ人の宗教は危険であるとされ、9世紀の
中頃、広東で4万人のユダヤ人が殺されたといわれている。実はこの人達こそが、正統
な直系ユダヤ人と思われる。元々「啓典の民」でありユダヤ教徒としての自治が認めら
れていたからユダヤ教に固執する事は無かった。この民こそ「開封(かいほう)の民」
とされ、中国で最も歴史が古い都市の一つであり、850年前の北宋時代に首都になっ
た当時100万人の国際都市だった。とされる。「イギリス・ユダヤ人協会」は、ロン
ドンに1871年7月に本部を置いて、ユダヤ人の社会的、道徳的教育の促進を図るこ
とと、各地で迫害を受けるユダヤ人を保護・救済することを目的に創設された。その時
支部を大英帝国の植民地にも広げて海外属領に設立され、その実態調査をしている。中
でも香港島はアジア最大の調査しコミュニュティを広げた所だった。日本が国際連合か
らシベリア駐留を迫られた時、そこにチェコからや中国在留のユダヤコミュニィティが
存在していた中で ロシア孤児達を人情から北欧に民間船が送っている。ロシア革命の
混乱期、ロシア難民の子供たち約800人救出に尽力した、愛媛の海運王だった、勝田
銀次郎の陽明丸の話である。任侠の男とされた勝田銀次郎は、子供たちを無事に故郷の
ペトログラードに送り届けた。

958: 名無しさんAA:17/12/09 00:11
 現在のイスラエルの状況は、それまでイスラエルに点在していた昔からの原住民であ
るイスラム教徒のパレスチナ人に、原理主義のハマスが、居住するガザ地区を拠点とし
、パレスチナ人を盾としてイスラエルの首都テルアビブを中心に攻撃を仕掛けて揺さぶ
りをかけている。ハマスの狙いは同胞イスラム教徒のパレスチナ人を盾としてユダヤ人
を攻撃し、元から住んでいた居住地の奪還である。パレスチナの民間人に犠牲者を出す
ことも多いが、盗賊の如く武力で乗っ取りを図ったイスラエルユダヤ人の罪は大きい。
国際社会は人権問題によって、罪もない民間人を犠牲にしているイスラエルを非難する
が過去の約束である共和生活の規則すら守らないイスラエル人に手を焼いている状態だ
。ハマスは国際世論を味方に付けながら、戦況を有利に進めていたいが武力を持つ事を
控えて戦っている。しかし、物事の本質を見ずに中国人達は記事を書く。欧米社会は強
くイスラエル批判に回っているが、中国政府同様彼らに人権や平和の意志が無いままだ
。日本人も欧州人程に無いにしろユダヤ人を好まない人種ではある。ルールを守らず、
協調や共和を行わない宗教徒であるからだが、中国さえ脅威としない。と断言する平和
ボケした中では、早々嫌味な事にはならない。そもそも西洋人の様にはユダヤ人=優秀
などとは思ってはいない。本当に優秀ならば、金でも力でもない美しさを兼ね備えての
人種であって、過去からのカナンの地を捨てる事はしない筈だからだ。第2次世界大戦
時にドイツの独裁者ヒトラーが、ホロコーストでユダヤ人600万人の犠牲者を出した
と言う嘘を堂々と付く様は、中国人の南京大虐殺が何万人と言うのと殆ど同じ法螺であ
る。よく言われるのは「金融はユダヤが牛耳っている」という話は単にマフィアも又ユ
ダヤ社会であっただけで、老舗の金融機関であるモルガンスタンレーやゴールドマンサ
ックス、シティバンクやJPモルガンチェース銀行など、大手金融機関のユダヤ系は黒
い闇社会と繋がっていただけの話だ。それだけまともな商売をしない中では嫌われても
仕方ない話である。キリストが貼り付けにされた時代から、永遠と裏切りと告げ口での
商売をし、ドイツだけでなくスペインやイタリア、英国でも「優秀なユダヤ人が我々の
職と食を奪っている」という認識は今度の911事件でも明らかになっているし、世界
大戦に各国の政治家たちはこのチャンスとばかりに根絶やしを考えた事は当然だろう。
不幸にも欧州各地に散らばっていたユダヤ人は、地元では厄介者扱いされていたのは、
その所業の汚さやあくどさ故でもあった。欧州の不況が深刻化すると、貸金の取立に殺
人さえ厭わなかった。ユダヤ人が職を奪っていると言う現実は、ぬれ衣でも何でも無く
、ドイツで起こったハイパーインフレはユダヤ資本が行った金融引き揚げで意図された
ものだった。この時ドイツ国内の餓死者や自殺者はかなりの数に登った。

959: 名無しさんAA:17/12/11 16:08 ID:J/A
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 619----------

 ところがイスラム教はこのユダヤ教に対抗して エジプトで起こったものとするのが
古い物語から読み取れる。「出エジプト記」はモーセ五書の中で歴史的背景を言うもの
だが人類出現「創世記」の次に来る。その後宗教的規定に関しての記述書「レビ記」が
事細かに神の訓示からの教えを説く。その後モーセの死後の歴史である「民数記」への
家系の記述に繋がっている。その後「申命記」として詩編教えを説く。つまりこの五書
は旧約聖書の基幹をなすもので、ヘブライ語でトーラとも呼ばれる。つまりヘブライ語
を原書としてユダヤ教が旧約聖書の詩経を保管している。と言う自負をしているのであ
る。それぞれ「創世記は」ヘブライ語で「初めに」の意味で「出エジプト記」の原題は
「名」の意味「レビ記」は「神は呼ばれた」の意味であり「民数記」は「荒れ野に」の
意味「申命記」の原題は「言葉」の意味とされる。ユダヤ教においてトーラは、律法と
読むが、意味は「教え」であり、「教示」「指示」である。なお、プトレマイオス朝の
エジプトのファラオの時代でプトレマイオス2世の命で、ユダヤ教の「祭司」とされる
レビ族の書記官たちが言う言葉をギリシャ語に翻訳した律法の題名が「トーラ」と名称
になったとされる。この名はこのモーセ五書のそれぞれの書のタイトルである。そして
、それら五つのタイトルである文節が並ぶと「初めに荒野で呼ばれた名は言葉」という
意味を成す。これらから、ヘブライ語律法を読経する際は、現行の法律や契約書の様式
にも取り入れられている読み替えを行い、「言葉」から「名」に、あるいは「名」から
「言葉」に読み替えて意に留める訓読みをしている。例えば文中に綴られた「かかと」
の「言葉」を音読すると同時に、その言葉が「ヤコブ」という「名」に由来することを
意に留めると言った風な事だ。日本の掛け替え言葉の様なものだ。ところがこのトーラ
はユダヤ教の聖書のことであり、すなわちヘブライ語のヘブライ語聖書を指す言葉であ
るしそれは不文律の律法なのだ。律法は1.道徳律法、2.司法律法、3.儀式律法に別けら
れて、この内の道徳律法は永続性があるが、儀式律法はイエス・キリストの十字架によ
って成就された、とされる。つまりキリスト教は成文律法であり、まだその奥に一子相
伝の口伝律法のトーラーがある。と言う考え方である。この「成文のトーラー」に対す
るユダヤ教の概念こそ「他聞不要秘儀」のトーラーの法規面に関する、解釈・分析の中
の議論の口伝の伝統で書にはされなかったが、モーセがシナイ山で預かったと同じよう
大事なものとして扱われる。こうして聖書の成立とは別に口伝の伝統を保ってきたのだ


960: 名無しさんAA:17/12/11 16:08
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 620----------

ところが この旧約聖書はキリスト教側の観点でしかない。このために最近では「ユダ
ヤ教聖書」、「ヘブライ語聖書」、「アラム語聖典」などと呼ばれることもある。事実
アラム語の聖書は起源が古く、ユダヤ教においては、トーラー、ネビイーム、ケトゥビ
ームの頭文字、TNKに母音を付した『タナハ』と呼ばれる他、『ミクラー(Miqra):
朗誦するもの』と呼ばれる経法ともされる。又ミクラーはイスラムのクルアーンと語源
を同じくしている。この「旧約聖書」の内容は古代イスラエル人・ユダヤ人の思想活動
すべてを網羅するごとく多岐に渡っている。この旧約聖書に含まれる文書の概略は多く
が知る様に不思議な伝承でもある。旧約聖書の冒頭は創世記だが、そこでは神が7日間
で世界を創り、楽園に男と女(アダムとエバ)を住まわせる。だが、彼らが蛇の誘惑に
よって禁忌を犯したので楽園を追放され、神による天地創造と人間の堕落が語られる。
その後、創世記には最初の殺人であるカインとアベルの兄弟の話(創世記4:1-16)が続
き、ノアの箱舟(創世記6:5-9:17)、バベルの塔(創世記11:1-9)と物語が続いていく
。続いて、アブラハム・イサク・ヤコブの3代の族長の物語が記されている。アブラハ
ムはバビロニアから出発して、カナン(現在のイスラエル/パレスチナ)にやってきた
遊牧民の族長であり、神から祝福を受け 諸民族の父になるという約束を与えられた。
イサクはアブラハムの息子であり、彼にも子孫が栄える旨が神から約束されている。更
にその息子がヤコブであり、彼と契約を結んだ神はヤコブとその子孫にカナンの土地を
与えると約束している。ヤコブはこの契約でイスラエルと改名し、彼の子孫はイスラエ
ル人と呼ばれるようになった。ヤコブは12人の男子および数人の女子をもうけたが、
男子それぞれがイスラエル十二氏族の長とされている(創世記29-30) つまりヤコブが
このイスラエルやユダヤ人の始祖である。とされたのである。この創世記には、この族
長の3代記に続けてヤコブの末子のヨセフの物語が記されている。兄たちに殺されかけ
てエジプトに奴隷として売り飛ばされながら、夢占いと実力で立身出世してエジプトの
宰相にまで登りつめ、飢饉に苦しむようになった父と兄たちをエジプトに呼び寄せて救
う話である。創世記では、これらの他に悪徳の町であるソドムとゴモラの滅亡(創世記
18:20-19:28)、ヤコブと神の使者との格闘などの話(創世記32:23-33)が有名である
また創世記には、多くの系図が含まれておりイスラエル周辺部族の縁起等も語られてい
る。

961: 名無しさんAA:17/12/11 16:09
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 621----------
だがこの天地創造と部族長の物語をユダヤ教としてるが、実は近年の研究でバビロニア
神話のモチーフをそのまま真似した物語に過ぎない事が解っている。そして「出エジプ
ト記」に移るのだが、ヨセフの時代にエジプトに移住していたイスラエル人達は、王朝
が変った事で、やがて迫害される。そこに、エジプト人としての教育を受けたモーセが
、神から召命を受けて立ち上がりイスラエル人たちを率いてエジプトを脱出し、神の声
が族長ヤコブに約束した「乳と蜜の流れる」カナンの地を目指しながら40年間シナイ
半島で放浪するのである(出エジプト15:22-40:38、民数記) その中でモーセが数々の
奇跡を起こしエジプト王を威嚇し、追跡するエジプト軍を逃れるために海を二つに割っ
てその間を通っていくシーンなどは有名であり、映像化もされて、現在の研究では、ポ
ンペイの大津波として現実の出来事を物語に変えたと言われている。現在も続くユダヤ
教の行事、たとえば過越祭/除酵祭、仮庵祭などでは、この出エジプトおよび荒野流浪
の故事にちなむものとされ、ユダヤ文化の中でも特別で象徴的な位置を占める物語であ
る。シナイ山でモーセとイスラエル人は、神の声から十戒を授かり、他にも様々な祭儀
規定や倫理規定、法律が言い渡される。(出エジプト19:1-34:35)。この中に十戒では
多神教の禁止や偶像崇拝の禁止に始まり、殺人・姦淫・窃盗を禁止し、父母への敬愛や
隣人愛などの倫理を規定するものであるが、この十戒を基にして神はイスラエル人全体
と契約を結んだとされる。このシナイ山での契約は、ユダヤ教の重要な原点の一つであ
るとされている。「ヤーウェ(ヤハウェ)」という神の名はモーセの召命時に初めて明
かされ、モーセ以前には「アブラハムの神」「イサクの神」「ヤコブの神」という呼ば
れ方で部族の神とされていたが、名前を明かした状態で民衆全体と契約を結んだのであ
る。(出エジプト3:13-15)、このアラム語される「ヤーウェ」が英語では「エホバ」と
訳され神聖四文字の「アドナイ」(わが主)古代イスラエルの唯一神の名とされる。こ
の「天を創造された主」「全能者」でヤハウェはサタンを責める事のできる存在である
とされて、「恵みふかく、あわれみに満ち、怒ることおそく、いつくしみ豊か」とされ
る性格は、「罰すべき者は決して許さない」とされた。ピネハスは、旧約聖書の中では
「出エジプト記」に登場するユダヤ人の祭司なのだが、レビ族の出身で祭司エルアザル
の息子であった。荒れ野を放浪するイスラエルの民がシティムで異教神バアルを拝んで
いたとき、ピネハスはミディアン人の女を連れ込んだイスラエルの男性をもろともに槍
で突き刺し殺した。これを神はよろこび、イスラエルを襲わせた災害を去らせ、ピネハ
スとその子孫に永遠の祭司職を約束する(『民数記』25:1-18)。この事が今日の戦争
を産んでいる原因だ。

962: 名無しさんAA:17/12/11 16:11
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 622----------

 ここに書かれている物語は、実は全くバビロニア伝記の書き写しに過ぎない。そして
当時のエジプトにあった奴隷制度を加味され味付けされている。つまり奴隷制度の権利
としての言い分がこの話にちりばめられているのだ。21:3もし彼が独身で来たのなら、
独身で去り、もし彼に妻があれば、その妻は彼とともに去ることができる。と奴隷とい
う権利が社員の様に財産を築いてはいけない事を支持し、21:4もし彼の主人が彼に妻を
与えて、妻が彼に男の子、または女の子を産んだのなら、この妻とその子どもたちは、
その主人のものとなり、彼は独身で去らなければならない。と子供の命でさえ主人の物
と規定した。21:5しかし、もし、その奴隷が、「私は、私の主人と、私の妻と、私の子
どもたちを愛しています。自由の身となって去りたくありません。」と、はっきり言う
なら、21:6その主人は、彼を神のもとに連れて行き、戸または戸口の柱のところに連れ
て行き、彼の耳をきりで刺し通さなければならない。彼はいつまでも主人に仕えること
ができる。と言う永遠の奴隷の印である耳飾りつまりイヤリングの証明の風習まで書か
れている。アフリカ原住民が行う刺青や民族の誇りとしてのこうした飾りは、古代では
特に変わった事では無い。逆にそうした特徴のない所属のない者は生きられなかった。

963: 名無しさんAA:17/12/11 16:11
特に変わった事では無い。逆にそうした特徴のない所属のない者は生きられなかった。
そして今の会社や国民などと言うテカゴリーの決定はその頃の風習を現在まで連れて来
た結果と言える。6:17私は、この身に、イエスの焼き印を帯びている。21:7人が自分の
娘を女奴隷として売るような場合、彼女は男奴隷が去る場合のように去ることはできな
い。21:9もし、彼が彼女を自分の息子のものとするなら、彼女を娘に関する定めによっ
て、取り扱わなければならない。21:10 もし彼が他の女を娶るなら、先の女への食べ物
、着物、夫婦の務めを減らしてはならない。21:11 もし彼がこれら三つのことを彼女に
行なわないなら、彼女は金を払わないで無償で去ることができる。21:12 人を打って死
なせた者は、必ず殺されなければならない。21:13 ただし、彼に殺意がなく、神が御手
によって事を起こされた場合、私は貴方に彼の逃れる場所を指定しよう。21:14 しかし
、人が、ほしいままに隣人を襲い、策略をめぐらして殺した場合、この者を、わたしの
祭壇のところからでも連れ出して殺さなければならない。21:15 自分の父または母を打
つ者は、必ず殺されなければならない。21:16 人をさらった者は、その人を売っていて
も、自分の手もとに置いていても、必ず殺されなければならない。21:18 人が争い、一
人が石か拳で相手を打ち、その相手が死なないで床についた場合、21:19 もし再び起き
上がり、杖によって、外を歩くようになれば、打った者は罰せられない。ただ彼が休ん
だ分を弁償し、彼が完全に直るようにしてやらなければならない。21:20 自分の男奴隷
、あるいは女奴隷を杖で打ち、その場で死なせた場合、その者は必ず復讐されなければ
ならない。21:21 ただし、もしその奴隷が一日か二日生きのびたなら、その者は復讐さ
れない。奴隷は彼の財産だからである。などと細かに聖書は奴隷の刑法条文としても、
記述している。



964: 名無しさんAA:17/12/11 16:12
 問題はそこにある。つまりこの聖書は事細かに規定せねばならぬ程、人は馬鹿だった
と神は人に言っているのである。つまり事故と事件とを裁判して判断しなければならな
い程に、人の生活は教育無くしては成り立たない物だったのだ。21:22 人が争っていて
、みごもった女に突き当たり、流産させるが、殺傷事故がない場合、彼はその女の夫が
負わせるだけの罰金を必ず払わなければならない。その支払いは裁定による。21:23 し
かし、殺傷事故があれば、いのちにはいのちを与えなければならない。21:24 目には目
。歯には歯。手には手。足には足。21:25 やけどにはやけど。傷には傷。打ち傷には打
ち傷。21:28 牛が男または女を突いて殺した場合、その牛は必ず石で打ち殺さなければ
ならない。その肉を食べてはならない。しかし、その牛の持ち主は無罪である。21:29
しかし、もし、牛が以前から突くくせがあり、その持ち主が注意されていても、それを
監視せず、その牛が男または女を殺したのなら、その牛は石で打ち殺し、その持ち主も
殺されなければならない。22:7金銭あるいは物品を、保管のために隣人に預け、それが
その人の家から盗まれた場合、もし、その盗人が見つかったなら、盗人はそれを二倍に
して償わなければならない。22:8もし、盗人が見つからないなら、その家の主人は神の
前に出て、彼が隣人の財産に絶対に手をかけなかったことを誓わなければならない。…
‥と数限りなく次々と足し重ねられる。だがそれでも人々は旧約聖書を信じた。イスラ
エルの神は預言者モーセに神の指で書かれた石の板二枚、十戒を授け、偶像崇拝を禁じ
た(出エジプト記31:18)。ゆえに、アブラハムの宗教のユダヤ教、キリスト教、イス
ラームの諸宗教では偶像崇拝は禁忌とされており、神を可視化してはならない。として
いる。「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また
地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向か
ってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。」 出エジプト記 20:4-5、イス
ラエルの民が金の子牛を崇拝した際には、極刑をもって処罰された。「モーセの十戒」
他の国々や諸宗教で信仰の対象とされている偶像については、以下のように全くの無能
であるとされた。「彼らの偶像はしろがねと、こがねで、人の手のわざである。それは
口があっても語ることができない。目があっても見ることができない。耳があっても聞
くことができない。鼻があってもかぐことができない。手があっても取ることができな
い。足があっても歩くことができない。また、のどから声を出すこともできない。これ
を造る者と、これに信頼する者とはみな、これと等しい者になる。」 詩篇115章4節8節
ヨシヤ王はユダとエルサレムを清めるために偶像を粉々に打ち砕いた。などだ。

965: 名無しさんAA:17/12/11 16:12
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 624----------

 つまりこれでは、ユダヤ教、キリスト教、イスラームの諸宗教では、機械もロボット
も電話もポスターもレコードもラジオやTVも車も使ってはいけない事になる。だが、
現実社会にそうした人が何人いるだろうか。特に日本に一歩でも足を踏み入れた者には
決してそうした者はいない。だがそれでもハラームを食べ、特別許可のハラールを探す
そうしたイスラム教徒が多い。又キリスト教は既に十字の上にイエスキリストやマリア
像と言う偶像を許しユダヤ教徒も又作っていけない原爆や研究していけない科学を研究
して成果を上げている。出エジプト記の他にも、レビ記、民数記、申命記には、おびた
だしい量の法律、倫理規定、禁忌規定、祭祀規定が記されており、これらをまとめて、
「律法」(トーラー)と呼び、原義は「教え」である。これを律法とする法と考えるか
生きる知恵としての「教学」と考えるかが個人に任せてあるのが抜け道だ。たとえば、
法律としては「ある人の牛が隣人の牛を突いて死なせた場合、生きている方の牛を売っ
て折半し、死んだほうの牛も折半する」など細かな規定に及んでいる(出エジプト記21
:35)又倫理規定としては「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ19:18)
など、禁忌規定としては豚食や鱗のない魚を食べることの禁止し(レビ記11章、申命記
14章など)がある。しかし、現代科学では、隣人とは地球人全員であり鱗のない魚など
いない。皮膚が変形し特化した物だからだ。又子ヤギの肉を乳で煮てはいけないとか、
(申命14:21) 細かな食物規定を持ち、祭祀については祭壇の寸法までが細かに指示さ
れている (出エジプト25-28章)レビ記、民数記、申命記は物語よりは律法の記載が多
くほとんどである。ユダヤ教の伝統では創世記から申命記までの五書全体を律法と呼ん
でいるがこの律法に従った生活などまるでしていない。それでもユダヤ教徒だと自らを
呼ぶのである。また、これらの律法はモーセが神から伝えられたもので、五書自体も、
モーセ自身が執筆したという聖書自身の記述と伝承があったためにモーセ五書という呼
ばれ方がなされているがそれは全く間違っている事もバビロン伝承から解決されている
。イエス・キリストも「モーセの律法」と呼んだとされるが、このバビロン神話の故郷
イラクの都をユダヤ教徒は今回徹底して破壊させた。伝承記録を消したいが為に。ヤコ
ブ博士はそれを嘆く。申命記の最後では、ヨルダン川東岸から約束の地であるカナンを
遠く望んだ地でモーセは、そこでヨシュアを後継者に指名して後、「モアブ」で没する
。牛乳などの料理が他民族料理である為厳しく制限したが、兵士養成都市国家の要素で
あったのだろう。


966: 名無しさんAA:17/12/11 16:14
 こうした伝承のこれらが、紀元前に次々に作りだされた規定である事が解る。中世の
時代にはそれがもとで、22:18 「呪術を使う女はこれを生かしておいてはならない」と
いう部分が欧州中に魔女狩りとして利用された。この歴史の様に、今や聖書は古い異物
でしかない。「やがてイスラエル全体の指導者の一人となっていたピネハスはヨルダン
川東側に移動したルベン族、ガド族、マナセ族が勝手に祭壇を築いたときには同地へ赴
き、これを糾弾していた。ルベン族らはこれに弁明し、戦争の危機は回避された(『ヨ
シュア記』22:16-20)のこうした排他主義は、実はもう行うべき事ではない。しかし、
神は今でも「人類は馬鹿だから」と言うのである。つまりアブラハムの宗教のユダヤ教
、キリスト教、イスラームの諸宗教では偶像崇拝は禁忌とされ、この「神」のいい奴隷
であった訳だ。しかし、これだけ席巻してる旧約聖書やバビロン神話は日本に来ていな
かったのだろうか。その不思議は八戸に答えがある。現代に日本人の持つ日本神話が、
日本の物と信じて居るのは盲目的信心である。日本の持つ神道こそ洗練された聖書から
出来た宗教なのだろう。厩戸皇子と言う名前がキリストを指した言葉で聖徳太子である
と言うのは今や常識だろう。日本の皇室は男系男子が規範だが、ユダヤは何故だが女系
女子である。即ちユダヤ教徒である女史で産まれた子はすべからず、ユダヤ教徒となる
のが伝統である。更にこの宗教群ではかつてのゾロアスター教(拝火教)や仏教やジャ
イナ教である福音主義派の菜食主義が色濃く反映されている。禁欲主義とアヒンサー(
不害)の禁戒を厳守するジャイナ教(蛇否教)は徹底した苦行・禁欲主義をもって知ら
れインドの宗教として三千年を要するが世界に知れ渡る事は無かった。仏教と異なり、
インド以外の地にはほとんど伝わらなかったが、恐らくインドバラモン教(古代のヒン
ドゥー教)の更に元になった宗教と解釈してもよいものだろう。バラモン教は、紀元前
13世紀頃にやって来たアーリア人が、インドに侵入して先住民族であるドラヴィダ人
を支配する過程でバラモン教が形作られ産まれたとされる。紀元前10世紀にはこのア
ーリア人とドラヴィダ人の混血が調和、宗教の融合が始まり紀元前7〜4世紀にかけて
、バラモン教の教えを理論的に深めたウパニシャッド哲学が形成4大ヴェーダが現在の
形で成立して宗教としての形がまとめられたとされ、その進化がバラモンの特別性から
今のヒンズーの形が示される。しかしそれに反発して受け入れられず、多くの新宗教や
思想が生まれたのが現在の仏教やジャイナ教で 同じこの時期に成立したとされる。新
思想が生まれてきた理由として、経済力が無くバラモン階級が貧しい階級を守れなくな
り、階級から消え去った事などが考えられる。カースト、特にバラモンの特殊性を否定
されたこれらの教えは、特にバラモンの支配をよく思っていなかったクシャトリヤなど
に支持されていく。

967: 名無しさんAA:17/12/11 16:14
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 626----------

16世紀末、幻の民族が出現した。欧州各国が大航海時代に入ると、アフリカやインド
や日本と言った国と話す事は大事な事になり言語学が発達した。インドやアフリカ更に
中東・極東・北米・南米と言語体系を分類する必要が出てきた。この中でサンスクリッ
ト語や、ギリシア語、ラテン語、ペルシア語、ゲルマン語などの欧州系言語とのあいだ
に類似点が見つかり、これらの言語は、かつて存在したはずのバビロンの末裔としての
インド=ヨーロッパ語とかいうものを共通の祖語とし、そこから派生した同系の言語で
あることが「発見」「証明」された。このことの始まりでアーリア人と言う種族が創り
出された。仮定上のこの共通の祖語を使用していたとされる人々はインド=ヨーロッパ
語族、または(ドイツでは)インド=ゲルマン語族またはインド=アーリア語族と名づ
けられた。その後19世紀になって、皇帝専属学者らは、どういう根拠からかは知らな
いが、この語族分類と人種分類が同一視され、このインド=ヨーロッパ語族がさも特定
の人種ということで説明されだした。この事は欧州列強の植民地支配には都合が良かっ
た。というのもその当時資本家は王族であり王族に資金提供されるのに、説明が必要で
あり又提供側の王も又諸侯に説明する必要があったからだ。ア−リア人という同種族で
あり、或る時支配し又同じ様に我々が支配する事は理に適っている。とした方が納得し
て貰われたからだ。こうしてヨーロッパ製の世界史観が近代ヨーロッパの侵略と植民地
主義の正当化の為に盛んに利用された。その中で今だに、日本の教科書の編纂者がその
まま受け売りしていて、このアーリア神話を世界の歴史として編纂している。このあま
りにうまくでき過ぎている話は金庫番しているユダヤ人が考えてついた事だった。18
世紀、19世紀はヨーロッパ諸国による他国、他民族の植民地化と支配と搾取が最高潮
に達した時期であり、これに乗り遅れる事は王族諸侯への背信とされた。そこでこの時
期の最先端発見の、インド=ヨーロッパ語が「利用」され、アーリア人種が出現したの
だった。こうして人種差別と植民地化と支配と搾取を正当化するような過去の「歴史」
がつくられていくのである。アーリア人神話は、遠くは、黒人にアフリカ大陸から追っ
払われ、近くはローマ帝国に侵略され、植民地化されたヨーロッパ民族の屈辱を埋め合
わせちょっと昔ではナチスの優性列伝とし1)肌が白く、2)背が高く、3)鼻筋がと
おり、4)他の民族より優れていて、5)他人の物は自分の物という支配権利とされた
思想を進化させ、ドイツ人がゲルマン民族のアーリア人種であり、支配して生き延びる
唯一の人種だと選民思想教育を行うのに充分であった。


968: 名無しさんAA:17/12/11 16:22
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 627----------

、「アーリア人の進入とガンジス川流域への移動」という項目に、「前1500年頃か
ら、カイバル峠をこえてインド=ヨーロッパ語系の牧畜民アーリアが西北インドに進入
しはじめた。・・・前千年をすぎると、アーリア人は西北インドからガンジス川流域へ
の移動を開始した。・・・アーリア人は、移動した土地で農耕に従事する先住民と交わ
り、定住農耕社会を形成した。」とあり、高校の教科書でも「アーリア人の侵入」とい
う項目を設け、「中央アジアで半農半牧の生活を営んでいたアーリア人は、イラン高原
をへてインドに侵入し、前1500年ごろまでにパンジャーブ地方に住みついた」と記
述される。だがこれには大きな間違いが起こっている。アーリア人の定義がないのだ。
アーリア人とは、アジア大陸の人と言う意味でアジアそのものが大きな陸の人だと言う
意味だ。紀元前の2300年頃、インド亜大陸に流れるインダス川流域に都市文明が興り、
この文明は後でインダス文明と言われ、世界最古の文明の一つとされた。インダス文明
では、河口近くのモヘンジョ=ダロと、中流域のハラッパーという2つの都市が栄えた
。モヘンジョダロ遺跡とハラッパー遺跡は、構造が似ていて、平野に築かれた城壁で街
を囲み、外敵の侵入に備えていました。また、舗装された道路や、上下水道が完備され
ていて、安定的な農業の収穫によって支えられた文明だったと考えられています。この
インダス文明は同時期のメソポタアの都市国家とも貿易していたとされていて、青銅器
や彩文土器、印章なども使用されていた。こうしたインダス文明で用いられた印章など
はエジプト文明より遥かに早い時期だ。この豊かなインダス文明だったが、次第に衰退
し、紀元前1800年頃に滅亡したと言われる。此処にアーリヤ人の登場がある。この最初
の文明の滅亡後、中央アジアで遊牧生活を送っていたインド=ヨーロッパ語族アーリヤ
人という民族がインドに侵入したと書き加えられた。アーリヤ人の文明では、様々な、
自然現象を祀った多神教が信じられ、この頃の書物「リグ=ヴェーダ」では儀式・祭式
を記した文献が成立しました。紀元前1500年頃から紀元前1000年までの期間の状況を、
この文献からとって前期ヴェーダ時代といわれている。現在狭義におけるアーリア人は
消滅したと考えられている。だが「インド」や「イラン」という国名自体ペルシア語で
「アーリア人の国」を意味し、イラン最後の皇帝であるモハンマド・レザー・パフラヴ
ィー(1979年にイラン革命による失脚で廃位)は自らの称号を「アーリア人の栄光」を
意味する「アーリヤー・メヘル」に定めるなど、現在もペルシア人は自らをアーリア人
であると自認する者が多い。ではアーリア人とは何だ。人種か民族か教徒か。実は現地
人つまり土人に対する侵入者としての名称に過ぎなかったのだ。

969: 名無しさんAA:17/12/11 16:34
アーリア人の第一次(紀元前1500年前後)の移動後の彼らの歴史では、1)肌が白く、
2)背が高く、3)鼻筋がとおり、4)選民思想民族で、5)自他共有の共済村落形成
、ということでまとめられている。最初の古代アーリア人がイラン、トルコ、ギリシャ
などに侵入していくとき、自分たちが新しく侵入していく処に、それまで住んでいた人
は皆殺しにして、別に良心の呵責など感じなかったと言う。もともとギリシャ当りに住
んでいた人々は北からアーリア人に押し出されて地中海に逃げた。インドでは新しく侵
入してきたアーリア人が「肌の白いのが最上級」というカースト制を作り出し、支配を
固定し、最上級の中からお釈迦様も生まれた。とされた。だが白人を追い出した黄色人
が白人社会を創った。追い出された白人が黄色人と言うのは解せない話である。アーリ
アの語源は、サンスクリット語の「アーリア (a?rya)」および、それがペルシャ語に取
り入れられた「アリイア (ariia)」とされる。いずれも「高貴な」という意味であり、
他民族より「高貴な」民族と考えたアーリア人が自称したと言う。古代ギリシア人達が
イラン高原をアリアナ地方 (Aryana)、当地の住民をアーリア人と記録しているのだが
、その頃は地中海東部地域でも既知の民族名だったと言える。アーリアン学説でインド
・ヨーロッパ祖語を話していた人々に関する今日の科学的見解に関しては、インド・ヨ
ーロッパ祖語は 北インドのアーリア系民族の中にもパールシーなどのように、イラン
・アーリア人を祖先とする民族もある としている学説が最も正しいもののようだ。パー
ルシーは、サーサーン朝のペルシア帝国滅亡後にインドに移ってきたゾロアスター教を
信奉する古代ペルシア人の子孫であるのがアーリアンとしている。ゾロアスター教は、
古代社会での世界最古の宗教で、拝火教とも略される。その後バラモンが確立されて、
インド・アーリア人が創り出したが、バラモン教の宗教学派はその前に出来たのである
。仏教では、バラモンの階層社会を否定したがバラモン教の習慣、言語習慣を用いて教
えを説いた。ヒンドゥー教は、このバラモン教を土台に、その他の宗教を取り込んでい
て再構成された。ジャイナ教は、仏教と同時期にヴァルダマーナによって提唱された教
えで、より徹底した不殺生を説き頑なな世界を守って今までの存続を得て居る。仏教、
ヒンドゥー教、ジャイナ教三者は成立以降、互いに影響し合って発展してきた経緯があ
る。こうした中でシク教は、この中のヒンドゥー教とイスラム教の宥和を目指して新し
く構築されたもので、両者の教義を取り入れている。つまり此処では歴史的にユダヤ教
の旧約聖書はイスラムもキリストもインド大陸進出は果たせなかった。それはその原資
がここにあったからだ。そして基礎である古代ペルシャの神話とされるバビロン神話の
起源がこの地にこそあったからだと言える。つまりは旧約聖書も一神教ではなかったの
だ。

970: 名無しさんAA:17/12/11 16:37
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 629----------

 世界大戦時ドイツ人でサンスクリットの文献学者であったフリードリヒ・マックス・
ミューラーは「インド人とヨーロッパ人は起源を同じとする。」とし、2つを統合して
アーリア人と呼ぶことを一般に定着させた。がしかし、皮肉なことに後々にミューラー
自身が「実はその様な人種は存在していなかった。」という発言をするという結果に至
ったのである。だがその間のヒットラーはオカルティズムに傾倒しナチスが優越民族と
していたアーリア人の起源であり、祖先がシャンバラに住んでいると信じられていた。
チベットには幻の理想郷シャンバラが存在するとされ遠征部隊が組織され、この遠征に
ナチスは大きく夢を抱いていた。持ち帰った情報は不明だが莫大な資金を使って詳細な
検証がされていたことは事実のようである。こうした伝説は、ナチス顧問のトップから
ヒトラーへと流れ、高度文明から高い知識を得たいと考えていたナチスは実際にそこへ
到達しようと考え、色々な行動に移していたといわれている。ナチスによれば、他より
も優れた存在であり、唯一生きるに値する優れた民族をアーリア人としていた。アーリ
ア人とは、金髪碧眼、色白であり、起源はインドとヨーロッパであるとされその思想に
基づきナチス・ドイツはアーリア人ではない者を迫害していた。このアーリア人という
伝説の言葉は、元を辿るとサンスクリット語からきており、本来は“侵略者”という、
大きな意味がある。そして、いつしかこの言葉は、“他より優れた民族”という意味が
残り、ある時は現在のイラクにあたるペルシャ人がアーリア人と呼ばれたりしていた。
又、「イエス・キリストを刺した槍を手にするものは世界を制する。」と言うキリスト
が十字に掛けられる時に脇腹を刺した槍がいつしか“運命の槍”とされる伝説もあった
。世界征服を目論む人間の間を行き来してきたこの槍は、古くは紀元4世紀、初代ロー
マ皇帝のコンスタンティヌス1世が手にしたと言われ、ローマ皇帝に受け継がれてきた
とされている。そして「その槍を手にしたものは負け知らずとなるが、その槍を失うと
死亡する。」という呪いも一緒についてきた。世界征服を目指したヒトラーが、これを
見逃すわけがなかった。38年のナチスがオーストリアを併合した時はヒトラーは、最初
にハプスブルグ家の財宝を奪い去ったが、その中でも彼がこだわったのが“運命の槍”
だった。ヒトラーのこの槍に強い愛着があったが、連合軍がナチス・ドイツに乗り込ん
だ時、この“運命の槍”は連合軍に奪われ偶然か呪いか、ヒトラーがこの槍を失ったと
されて80時間後に彼は自らの命を絶ったとされる。


971: 名無しさんAA:17/12/13 16:18 ID:1BM
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 630----------

 大正6年(1917)ロシアで世にいう「10月革命」が起こり富豪及び知識人を目標にし
た大暴動が勃発してロマノフ王朝が崩壊、以後数年間の革命と内戦が勃発した。首都の
サンクトペテルブルでは放火、略奪、暴行、殺人が横行する中、上流階級の3〜15才
の子供達は親を頼みいることもできず、兄弟を守ることもできず命からがら御身一つで
脱出し極東シベリアの沿岸部まで逃げ延び途方にくれ彷徨っていたところ、シベリアに
遠征中の連合軍に救われ、その後アメリカ赤十字社派遣部隊により保護されて、ウラジ
オストックの収容所のような窮屈穴な所に婦女子900人に近い一団が牢籠とした日々
を送っていた。大正9年(1920)当時ウラジオストックでは日本軍の統治下にあっ
て平和を保っていたものの、戦火が拡大し極めて危険な状態になっていた、この避難し
て来た一団のは上流階級の子弟が多かった為に、共産主義のソビエト新政権では彼らが
将来、危険分子となることを危惧して彼らに敵体的であったばかりか、国外脱出すら認
めず、速やかに児子達を引き渡すようアメリカ政府に警告していた。こうした事に政府
は関心を持たず赤十字のみが救出を考えていた。米国赤十字はこの800人の子供達を
保護、ウラジオストクにある施設に移送した時その後の子供たちの救出作戦を立てた。
一旦ロシアを離れ、子供たちを故郷ペトログラードに近い安全な国へ海路で移送しロシ
アの混乱が落ち着いたのを見計らい、子供たちを親元に返すという計画である。こうし
て米国赤十字は関係各国の船舶会社にこの800人の子供たちの移送を依頼を全世界に
打診した。しかし船舶会社の返事は全てNOであり世界中のどの国の会社も子供たちの
移送を引き受けてくれなかった。そこで最後の望みをかけ子供たちの移送の依頼を日本
の運搬会社にも送った。日本では1920年は日露戦争が終結してまだ十数年で革命と
は言え、世界初の社会主義確立を目指したロシアと資本主義を掲げる日本は敵対関係に
あり、中国国内でも満鉄を始めもめていた。勝田は苦悩した。一介の船会社とは言え出
来る事ならロシアの子供たちを助けてあげたい。しかし現実には、もし日本と敵対関係
にあるロシアの子供たちを助ければ、日本国政府や国中から非難され会社は倒産へと追
い込まれかねない状況もあったし、勝田の会社では物資を運ぶ海運会社で客船商売はし
ていなかった。そのため貨物船しかなく八百人もの子供が寝泊まりできる客船は所有し
ていない中であった。だが勝田は「私はロシアの800人の子供たちを助ける」と決断した


972: 名無しさんAA:17/12/13 16:19
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 631----------

 これには理由があった。表向きでは日本政府も関与できず、この港湾入り口には機雷
が敷設されている可能性等のかなりの危険を伴う上に、貨物船主にとって人間の輸送は
厄介な事だった。更に当時の客船は国際的なお客運搬で何処の船会社も面倒は辞退し、
受けての無い状態だったのだ。これを聞いた任侠溢れる勝田汽船社長の勝田銀次郎は、
すぐさま危険と採算が合わないのを承知でアメリカ赤十字社の傭船を快諾して、貨物船
「陽明丸」10,675重量トンを改造しててその任務に当たる事を申し出たのである
。実は銀次郎は林家の長男に生まれながらも勝田家に預けられた男だった。元来土佐で
は勤皇党で新政府討幕軍と旧幕府軍の争いの中で、他の藩より経済がおもいかない中で
あった。松山市法龍寺の先祖墓(銀次郎建立)墓碑は勝田家祖先の墓となっているが、
林家は旧幕府方の家老の下の勘定方でその繋がりで米問屋を始業していた勝田家だった
。つまり幕府からの支給米が無くなり泣く泣く商売している実家の勝田家に預けられた
養子だったのだ。では林家の本筋は、武家侍を多く要した北海道の屯田兵として樺太な
どの開拓移民団の中で、永らく消息を絶っていた物と思われる。屯田兵が実際に入植し
始めたのは1875年からで、記念すべき屯田兵第 1号は琴似。以降、発寒(はっさむ
)、山鼻、江別、篠路、篠津、野幌(のっ ぽろ)といった、札幌や江別に集中して入地さ
せていた。最初の琴似入地から10年後には、今度は根室や室蘭など道内各地に屯田兵
村が形成されていったが、当時は生き延びるだけで精一杯の状態だっただろう。「開墾
は、それはもう厳しいものでした。木の根があり、石があり、支給された鍬は、すぐ歯
がボロボロになり何の役にも立ちません。まず木を切り倒し、薪にして売り出します。
その後、根を掘り起こし、大きな根は火薬抜根でおこしていきます。樹齢100年以上
と思われる桂木や、楢木が何のためらいもなく次々と薪にされていった。やっとの思い
で拓いた土地に、麦、トウキビ、イナキビ等を植えたが、斜里岳下ろしの強風に煽られ
、なかなか収入には結びつきません。(中略)お風呂は下駄をはいて入るドラム缶で、
外には、熊、きつね、たぬき、へび等がこちらを伺っています。(中略)卵を得るため
に飼った鶏は寒さの為卵を生まず、肉を得ようと飼った豚は、食糧不足のため太らず、
(中略)1間しかない掘っ立て小屋は、真ん中に炉が切ってあり、薪を燃して暖を取り
、夜は燠火に灰をかけ、四方から足を入れ炬燵にして休みます。朝起きると、布団の衿
が凍っていたり、吹雪の日には、布団の上に雪が白く積もっています。もう少しましな
家が欲しい、と皆さんに手伝って貰い、柱を建て終わったところで、強風のため吹き飛
ばされてしまったのです。この時に、開墾をあきらめ山を下りる決心をしました。」

973: 名無しさんAA:17/12/13 16:19
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 632----------

こうした状況が日本各地で続いていたのだ。松山中学時代に父を亡くし家督を継いだが
卒業と同時に当時の流行で新天地を夢見て松山を飛び出し北海道を目指し旅立った。北
へ向かう途中汽車の中で東京英和学校(現青山学院大学)の本多庸一院長と出合うが、
この偶然の出合いで、銀次郎の横に座った洋装の本多庸一の新天地への希望を胸に伊予
から出てきた青年に「まずは学問を修めることが大事である、将来世界に羽ばたこうと
思うなら外国語を学ぶ事」と説諭しその言葉に感激した銀次郎はすぐ入学手続きをした
。同校に入学するのであるが日清戦争が勃発した明治27年21才の時従軍記者によっ
て華々しい戦果が伝えられるのを見て新聞記者を目指し学舎を離れたが望みは叶わず2
年後大坂の貿易商に入り後に神戸税関に籍を置きそしてこの税関関係の下積みが後年の
成功の礎えとなった。この時多分銀次郎は本多氏に相当の世話になったと思われる。が
本多庸一は明治期日本におけるキリスト教主義教育の先駆者とされる程の人物で「君が
後世に世話をやって返せば良い。」と全く気にしなかった。青山学院は所謂“MAN”
を育てる学校であると述べている。ここでいう“Man”とは、Sincerity(至誠ーきわめ
て誠実であるということ)、Simplicity(質直ー飾り気がなくまじめであること)とい
う2つの資質を兼ね備えた人物であり、その精神はスクールモットーである「地の塩・
世の光」の人物像へと繋がっている。本多庸一は1910年(大正9年)に英国エディンバラ
で行われた「世界宣教大会」に井深梶之助らと共に出席し、1912年(明治45年)に、内務
次官床次竹二郎の企画で、神道、仏教、キリスト教の三派の会同ために政府関者と各宗
教の代表が出席した。政府は原敬内務大臣らが出席、キリスト教代表として、本多と宮
川経輝、千葉勇五郎、井深梶之助ら7名が出席した。翌日、三派の大乗が再度会合して
、決議案を検討した。キリスト教側はこの会同に進んで協力して、神仏二教と同等の待
遇を受けたことを喜んだ。これを、三教会同という日本宗教界を作っていた。明治33
年、27才で神戸市内に勝田商会を創立して海外からの雑貨や豆粕の輸入を初めてた。
明治37年になると日露戦争のころから商売は益々軌道に乗り初め、大正3年の第一次
世界大戦の頃には、新船建造や古船の買収で勝田汽船は最盛期には20隻計15万トン
の船を有する大船主となっていた。この海外との取引で莫大な収益を上げた銀次郎は、
儲けたお金を散財するのでは無く奨学金の授与や教育施設などに多額の寄付を行ってい
たのである。


974: 名無しさんAA:17/12/13 16:19
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 633----------

 この東京英和学校に入学し英語やロシア語の教育を受けた恩を忘れず、名前を変えた
青山学院大学には「勝田ホール」と呼ばれた欧風レンガ造りの2階建ての校舎や院長舎
などを寄付していた。「地の塩・世の光」は「地の塩となり世の光となれ」で、物は燃
やせば塩となり、塩は栄養となり腐敗を防ぐ、そうして燃やした光は、「道徳」や「優
れた行い」で灯として社会の規範となるべき人生を過ごせ。と言う意味とされる。この
任侠の男勝田銀次郎、と言われるが全く違ってキリスタンとして信心深い優しい男だっ
たのである。勝田ホールが完成した大正7年、世界大戦が終結した、大方の船主は新造
船の取り消しなどで大戦後の需要減少に備えていたが大量発注していた勝田は「男がい
ったん約束したこと」と続行した。見かねた周囲が造船会社に値引きを持ちかけようと
したが「船さえ残れば日本の利益になる」と毅然とその申し出を断った。この「日本国
の利益」「約束の真」を重んじる勝田らしい態度であったが経営への悪影響は免れず、
負債がかさんで「勝田御殿と呼ばれた屋敷も収集していたお宝も手放すこととなった。
こうした中の決断だった。この決断に反対する者は誰一人いなかった。会社で一番新し
い最新鋭の貨物船の陽明丸を客船に改造した。800人もの子供が長期化に移動できる
よう洗面所、トイレ、寝る部屋などを増築し、その船の改造費は多くを勝田が私財を投
げ打って払った。その額は、現在の価値で数千万円と言うとんでもない額だった。この
為通常1年はかかるだろう客船への改造期間は、約1ヵ月で仕上げられ、伝説の船長と
して名高い茅原基治が船長に名乗りを上げるた。これまで数々の航海の実績があった彼
は、伝説の船長として名を馳せた人物だった。この時岡山県笠岡市出身の茅原基治を、
船長に指名し「陽明丸」のメインマストに掲げられていた勝田汽船社旗をはずし煙突に
赤十字のマークを入れ貨物船だった船を勝田銀次郎個人でも多額の寄付をして子供達が
航海できる客船仕様に改造にした。実はこの頃勝田は幾人かの船長に打診していたが、
まず日露戦争をして「ロシア」と言う言葉で例え「ウラジオストック」が安心できる所
でも、まずどんな給金を釣り上げても今の船長職を離れて来る者はいなかった。更には
フランスとドイツの戦争の傷跡のあるキール港で、もし迎え船が無ければ戦乱のサンク
トペテルブルクまでの渡航なのだ。とても危険で長い船旅なのである。更に最も悪い事
に1920年3月に起こったアムール川縁の都市ニコラエフスク(尼港)の惨殺事件は日本
に広く知れ渡っていたのだ。



975: 名無しさんAA:17/12/13 16:20
 この頃日本人は、世界の各所で人食い事件や人さらいの人身売買や米国奴隷の存在を
知っていた事だ。更にこのニコラエフスク(尼港事件)は駐留していた日本海軍の船が
居たのに氷で動かずに、住民はロシア人日本人問わずパルチザン部隊は、日本領事館を
包囲すると火を放ち、中国軍から日本軍を砲撃するためとして貸与された艦載砲とガト
リング砲で攻撃し皆殺しにされていたのだ。中国国籍人2千3百人日本国籍人1千人(
朝鮮人含)米国人6百人他3百人で生き残ったのが50名足らずだったのだ。その少し
前にもブラゴヴェシチェンスクでは前の年末に清国人三千人とロシア人二千人がこの赤
ロシア軍によって虐殺されるアムール川事件が起きているとされている。つまり奥地か
らパルチザン部隊或いは赤兵部隊が海岸に迫って来ている。との認識は誰でも持って居
た時期だったのである。こうした中だったので茅原基治は、日露戦争時に大きな船会社
が行けない所を、幾つかの雇われ船長としての独立した船団で香港やマカオ或いは樺太
やカムチャッカや松前まで航海をしていたのだ。勝田銀次郎この男を何度か使い信用に
於いて頼み倒した。その上で改造では、貨物船だった「陽明丸」は一時的に中甲板全部
を客室にし、上層甲板下に病室・浴場を設けた。また客室の換気を行う為要所〃に8個
の電気通風器を据え付ける等して一寸した汽船には見られないれない程の設備を施した
。つまり防衛の為の機銃所や武器庫を全く付けなかった。これはその頃としては異常で
あった。だがその為に外装は煙突に赤十字のマークをペイントし、舷側に 「AMERIKAN
RED CROSS」と大きくペイントした。つまり中立航海船として徹底したのだ。航海時に
はメインマストに、米国国旗と赤十字旗を連掲し、船尾にのみ大日章旗を翻した。19
20年7月、こうして陽明丸は神戸を出発して、子供たちのいるロシア・ウラジオスト
クに到着した。しかし、子供とは言え日露戦後である。更に同じロシア人にさえ逃げて
来た子供達でボロボロの生活者だった。茅原基治さんに向けられたのは子供たちの戸惑
いの表情と、その身なりの粗末さだった。日露戦争の記憶がまだ強く残っていた当時、
日本にとってロシアがそうだったように、ロシアにとっても日本はかつての敵国だった
のだ。船長探しの時すらも、日本では誰もが「ロシア」「子供」「800人」と言う、
キーワードで誰もが拒否していた。相手のロシアの子供たちではより以上恐ろしかった
と言える。ロシアの子供達の眼には自分たちを助けるといって現れたのが、日本人であ
る現実の前に、どう接すれば良いのか分からなかったのが実情だったし、又赤十字本社
が最後に日本に打診したのもそうした理由があったからだった。しかし船長茅原基治さ
んも、そこは経験の多い叩き上げの船長だった。又10月革命でレーニンが率いるボリ
シェビキが台頭してその怖さを知っている中にあった。彼はロシアの子供達と信頼関係
を築く為に航海の途中、日本へ寄り道をした。

976: 名無しさんAA:17/12/13 16:21
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 635----------

それはほんの数年前までは敵国であった日本から来た船に、どう接すれば良いのか分か
らなかった子供達でした。こんなに不安がられては航海出来ない。それが素直な気持ち
だった。少しでも「日本」を「日本人」知ってもらいたいと思ったのだろう。しかし、
日本側も敵対関係にあったロシアの子供たちに日本への上陸許可は下りませんでした。
だが社長の勝田銀次郎(かつだぎんじろう)は所謂、軍需成金でしたが、儲けるだけで
はなく広く社会奉仕も行なっている人物でした。又私財を投げすて多額の改造費(現在
の通貨価値で数千万円)に当てて客船への改装を完了させていた事は知れ渡っていた。
又母校の本多庸一を通じて北海道の日本キリスト教協会も支援していました。そこで、
日本の北海道室蘭に寄航して「全ての責任を自らが取る」という条件でロシアの子供達
の日本上陸許可を得ました。日本上陸を許可された子供たちと向かったのは室蘭にある
小学校でした。茅原基治さんは役所にお願いしロシアと日本の子供が触れ合う機会を設
けてもらっていたのでした。言葉は通じなくてもそこは子供同士。仲良くなり元気にな
るのにそう時間はかかりませんでした。こうして日本人の温かさがロシアの子供たちの
心の雪を溶かしてくれたのです。そして新たに2日の停泊を得て食糧などを供給し、本
格的な大航海にに向けて、陽明丸はフィンランドへ室蘭を出港したのでありました。こ
うして船長の茅原基治さんと子供たちの関係にも変化が起こります。茅原基治さんは、
子供たちのためにハーモニカを演奏したり、子供たちも音楽に合わせて踊り楽しい時間
を過ごしたりする時間が出来て、子供たちは茅原基治さんのことを「ニイサン」と日本
語で呼んで航海できる程信頼ができたのでした。こうして陽明丸は室蘭を出港した後は
、太平洋経路で、サンフランシスコ、パナマ運河、ニューヨーク、フランス・ブレスト
などを経由し、フィンランドへの2万5キロ以上に渡る大航海が始まりました。7月の
13日をウラジオストックを出て10月13日に到着と言う3ヵ月の狭い船内の長旅で
す。又子供らは5月から親元を離れてウラジオストックに来ていたのである。楽しい旅
でなければ続けられません。ところが赤道近くになると次々と子供は倒れて行きます。
多くの子供たちが慣れない赤道直下の太平洋の暑さのせいで、日射病や熱中症にかかっ
てで倒れてしまったのだ。茅原船長は子供たちを徹夜で看病し支え、看病のかいもあり
子供たちの病状は快方へ向かって行った。その後は船内では茅原船長と子供達は家族の
様になり、茅原船長の奏でるハーモニカに、子供たちも合わせて踊りったりと、楽しい
時間を過ごしていました。

977: 名無しさんAA:17/12/13 16:21
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 636----------

 実はこの陽明丸には、ウラジオストック港に行ったときドイツ軍捕虜もいた。ルシア
島海岸一帯で待ち受けていた一団の子女達は煙突に赤十字、舷側にアメリカン・デット
クロスと大書きし、メインマストに米国旗と赤十字旗を掲げ船尾に日章旗掲揚した「陽
明丸」の船影を見ると一斉に歓呼をあげ迎えた。時に大正9年(1920年)年7月9日だった。
当時のウラジオストックは荒廃し、最大の百貨店クンストアルバースは革命直後暴徒の
襲撃を受けしかも経営者がドイツ人だった為、徹底的に略奪され何一つとして残らず壁
まで剥げ落ちその他の商店も往日の面影を止ず陰惨な空気は全市に沈滞していた。その
ドイツ人経営者の店で 陽明丸はウラジオストックで食料、日用品を積み込み7月13
日の午後一行を乗せて出帆したのだが、それが不足しての室蘭での物資補給も行う程に
街路では、よれよれの服を着た警使や疲れきった感の市民達の姿が見られ共産革命とは
いったい何だったんろうと思わせるウラジオストックの風情であったのである。ロシア
難民は 男児 428名 女児 351名 婦人87名 で平均年令12.3才の子女で10
才前後が多かったとされる。又他にこの店主も合わせドイツ兵士などの捕虜が77名(
米国赤十字社に収容された東部戦線でロシア軍に捕らえられて解放された)米国赤十字
社関係者が隊長アレン中佐を筆頭に以下16名、米国YMCA派遣員1名陽明丸乗組員
が茅原船長以下60余名と言う総勢960名を乗せての、陽明丸であったのだ。だが、
ウラジオストックで積み込んだ牛肉に不良品があった為、途中北海道の室蘭に入港して
25頭分と野菜類の追加買入の必要になっていた。ニュースでは船が室蘭港に入港した
時子女達は一歩でも日本の土を踏みたいと申し出たが室蘭水上署は思想問題、講和条約
未批准未了の理由で米国人以外は罷りならんと拒否されたが、「彼らがソビエト政権に
追われ、しかも、頑是ない児子達に赤思想があるはずもない事」を力説して船長が責任
を負うことでやっと許可がでていた。室蘭市役所は官吏数名を上陸場に派遣し子女達を
迎え直ちに近くの小学校に案内し茶菓を供し絵葉書を贈り学童の銃剣道試合を見せ校庭
では言葉が通じないにもかかわらす純真な日ロ児童達が互いに手を握り片を打って戯れ
交友した後一行は市内を一巡して帰船した。と伝えられている。


978: 名無しさんAA:17/12/13 16:21
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 637----------

 学校で気の毒な話を教えられた児童数十名は各々菓子や果物を携え「陽明丸」に乗船
し身振り手振りで面白く可笑しく青い目の子供達と遊び戯れた。付き添いの大人達は、
これを見て泣いて喜んだ。室蘭〜サンフランシスコ間は、航程4,250海里7月16日に
室蘭を出港した「陽明丸」はサンフランシスコへと向かった彼らの健康を考えてインド
洋の夏の暑さを避け、太平洋と大西洋を約3か月かけて航海する計画であった。途中で
子女達は、万一に備え救命ボートを水面に下ろす作業を船員と共同で練習したり操練や
救命浮環などの使用法等を教わたりしていざという時に備えた。又 学齢以上の子供達
はこの他毎日英語と数学の勉強を課せられその代わりに土曜、日曜には映画、ダンス、
綱引き、ボクシング等で旅情を慰めた。こうして一大移動学園「陽明丸」は穏やかな太
平洋を東へ東へと航海し航程四二五〇海里を無事横断し8月1日無事サンフランシスコ
港に着いた。サンフランシスコ港の入り口付近では、連絡のあった米国赤十字社社員、
新聞記者等が乗船する多くの小型艇に迎えられ入港した。「陽明丸」は係留先の桟橋で
も埋め尽くす多くの人々に歓迎され、アメリカ国民に歓迎されて居る事が実感できた。
「陽明丸」が燃料と「食料を補給している間、子女達は各種の歓迎会に招かれたり、市
中見学したりして8月5日に出港し次の寄港地パナマに向かったのである。しかし彼ら
子女は、サンフランシスコの盛況、市長の歓迎、多数の慰問品等、日本の室蘭と比較し
てアメリカの歓迎は大きい。と聞かされた船員達は日本で寄港したのが室蘭ではなく、
せめて函館であったらと悔しがった。カルフォルニア湾一帯は雄大な景色が広がり海面
には(海豹)アザラシ群れが戯れ上空では無数のカモメが舞飛び陸上では大草原が広が
る中を、船はサンフランシスコ〜パナマ 航程 3,250海里を進んだ。この一大スペクタ
ル映画の様なシーンに、児子達は寝食を忘れる程喜び就寝時間が来ても上甲板から去ら
ず警務係が船首に来れば、船尾へと月明かりの船上を走り廻り騒いで喜んでいた。「陽
明丸」は南下を続けメキシコから中南米沿岸に来るとロシアでは経験の無い暑さとなり
油を流したような海面から強烈な日光を反射するので、児子達もいつパナマに着くのか
「暑い々」と苦しみ20人程が軽度の日射病にかかたが運良く2〜3日で治った。8月
18日「陽明丸」は太平洋の東端パナマ港に到着、直ちに淡水の補給を始め翌日午前6時
運河に向け出港するので ここでは子女達の上陸は許可が出なかった。


979: 名無しさんAA:17/12/13 16:22
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 638----------

パナマ運河では、絵葉書がほしい、果物がほしい、との子供心を叶えてやりたいと葦原
船長は乗組員一名を連れ客馬車に盛りあがる程買い入れて来た。が到底七百幾十人の要
求を満たすことは出来なかった。が、翌日運河通過の際果物や絵葉書を寄贈してくれる
篤志家があったので真に皆んなに行き渡ることが出来た。これを見た他の人達も自動車
を飛ばし運河まで駆けつけオレンジ、マンゴー、バナナ等を雨の様に船内に投げ込んで
くれていた。その度に児子達が歓声を上げて喜ぶので岸に立っていた少女が大切に抱い
ていた人形を投げてくれたが船まで届かず中間の水面に落ちてしまった。見ていた船員
が「それ!人命救助は赤十字社の本領だ」と、早速縄梯子を下げて人形を救い上げたの
で船からも陸からも大歓声が沸き起こった。パナマ運河〜ニューヨークまで航程1,972
海里だった。8月19日午後8時頃「陽明丸」はパナマ運河を抜けて大西洋上に浮かび
ニューヨークへと向かった。翌20日は朝から北東の風強く海も時々飛沫を船上に浴び
せる程度荒れた。子供達はオレンジやバナナを沢山ご馳走になった翌日であったので、
船酔いする子達が続出した。そこへ、カメラを向けるイタズラ者も現れ、苦悶と爆笑の
混成で珍妙な場面があちこちで展開されたが、運良く地球を3分の2航海した中であり
船酔い騒ぎは今回が初めてだった事は幸運であった。途中キューバ島の北方にある低い
島々の上に高い椰子の木が茂りアメリカ大陸を発見した。コロンブスが第一歩を印した
サンサルバドル島を過ぎると暑さも刻々と衰え児子達も元気に悪戯を始めだした。大き
な地図で見る島だった。やがて陽明丸はアメリカ東海岸沿いに北航し大型船が東に南と
頻繁に往来するニューヨーク港入り口に差し掛り孤児達を喜ばした。8月28日ニュー
ヨークに到着した。ニューヨークでは、陽明丸は神戸で積んだ砂糖を揚げ、これから更
に北欧方面に行く石炭を積込む為、約2週間停泊することになり孤児達一行は50日間
の居住であった陽明丸を離れて、米軍兵舎に移動する事が出来た。これまで航海中50
日間に散髪をしてもらったり、玩具をもらった児子達も沢山いて、乗組員との間は非常
に親密になっていて兵舎へ行くことを喜ばない子供もいた。米国赤十字社幹部もやっと
のことで一行を説得し移動を行った。それほど親しくなっていたのである。

980: 名無しさんAA:17/12/13 16:22
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 639----------

 現地の日本語新聞ニューヨーク新報では、一行の旅情を慰める為在留邦人から義援金
を募っていたのだが、締め切りが迫っても僅か50ドル足らずしか集まらなかった。ほ
とんど知識階級の在留邦人で普段は親善などと言っている割には、このような時には無
関心であったし又ロシア人であった事が壁になっていた。日本企業のニューヨーク支店
も、日本赤十字社ニューヨーク支部も鳴りを潜めて動かず、ニューヨーク領事館にいた
っては、日本の船がロシア人の子供を乗せているとは何事かと船長を呼び出し「問題が
起きないように慎重にせよ」とのお叱りを受けるありさまであった。茅原船長いわく「
こんな外交官が日米親善とか外交振興を求むるは木に登って魚を求めると同様。」と言
わしめた。小児だけでも800名いるのに50ドル足らずではどうしようもなく、結局
義援金は陽明丸乗組員が100ドル寄付したところ急に、篤家が現れ529ドルに達し
た。それでも相変わらず日本領事館、日本赤十字社ニューヨーク支部及び日本の一流会
社からは一円の義援金も得られなかった。ニューヨーク〜ブレスト(仏蘭西)間は、航
程3,200海里 ニューヨークでは色々とあったが 陽明丸は児子達を乗せ9月14日出港
して大西洋を一路仏蘭西のブレストに向け出港する。出港に際し在留邦人から届けられ
たお菓子は貧弱な品ではあったが児子達は日本人から貰ったお菓子を喜んで頬張った。
 出港の翌々日ロシアの夫人が病没した。凶事は三度重なるということわざがあるが、
16才の少女の死とニコロフィースキー少年の死と3度目となった。それでも元気に、
これ以降は平穏に航程3200海里を無事航海して、9月27日仏蘭西の北側ブレスト
港に着いた。ブレスト(仏蘭西)に着いた。この港では 日米人以外者の上陸、面会は
禁止され武装兵をもって監視するという物々しさであった。が、過激派の難を逃れての
仏蘭西に居る多数の白色ロシア人が 必ず一行の近親者がいるとの推測からアメリカの
赤十字社仏蘭西支部は探索した。だが、にもかかわらずわずか2名を見い出したに過ぎ
ず支援には及ばなかった。この地では近親者に引き渡すこの2名と、ウクライナ方面に
帰還する4名 計6名が一行から離れることとなった。シベリアの荒野で互いに助け合
い助けられた友人であった。恐らく永遠の別れとなるべく この別離を一同いたく悲し
み幾度も幾度も抱擁と接吻を繰り返し監視兵の制止もきかず門外まで走り別れを惜しん
だ。ここで陽明丸はフランス海軍から石炭と淡水の提供を受け翌9月28日デンマーク
のキール運河目指し出港する事になった。


981: 名無しさんAA:17/12/13 16:22
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 640----------

 ブレスト〜キール運河 航程800海里を 陽明丸はドーバー海峡を北進し9月31日の
朝、上流にハンブルク港があるエルベ川を昇り、キール運河の南端港プロンスヒュート
に到着した。キール運河はドイツ皇帝によって開かれた全長100キロ程のバルト海と
北海を結ぶ世界3大運河である。北端がドイツのキール軍港に通じている為キール運河
と呼ばれている。軍事上の目的を主としものだけに横幅、深さ共に大艦巨舶の運行にも
僅かな困難も感じさせない立派なに運河である。この運河にも南北端に閘門があってバ
ルチック海と北海の潮高すなわち海面の高さを調節している。ドイツ人達は一行が乗船
している陽明丸が運河の南北関門通過の際には食料品、衣料等が陸上より手当次第投げ
入れられ数日後任務を終える陽明丸の船倉にはこれらの品物が山積みされた。キール〜
ヘルシンキホルスを回りバルチック海からフィンランド湾に至る。一帯はドイツ、ロシ
アによりおびただしい数の機雷が敷設されていている、両国の国情から掃海されないま
まになっているので 危険この上なかった。現地で水先案内人を雇いエストニア西岸諸
島を迂回しレベル港から真北に直進し10月10日ヘルシンキホルス港に着岸した。こ
の航程は800海里足らずであったが危険を回避する為減速を繰り返し通常の倍以上の
時間をついやした。ヘルシンキホルス港はフィンランド共和国で、長年ロシアからの干
渉を嫌いドイツに接近していた。すべてをドイツに範を取り文武官の服装から貨幣の様
式までそっくりとしカイゼル髭を巻き上げている武官を多く見かけた。外国語もドイツ
語が主でフランス語、英語をしゃべりロシア語を知ていても口にする者はいない。やっ
とロシアと目と鼻の先の港に来たのだから何か児子達の情報は無いか英字新聞を買った
が情報を得る事は出来なかった。フィンランドのコイビスト港(現ロシア・レニングラ
ード州プリモルスク港)に着いた。コイビスト港はロシア国境に近い港であるが戸数は
5〜60戸しかすぎず少量の木材を小型の汽船や帆船で輸出するだけの貧弱な港である
がフィンランド国にとっては国防上重要な所である為水上飛行隊が配置されていた。陽
明丸はこの港で使命を果たす。そこで休養品、食料品、器具、寝具の陸揚げを始め13
,14日の雨天でこれらの一切とドイツ人を除いた一行を上陸させた。ウラジオストッ
クを出港以来寒暑を共にし、3ヶ月一緒に過ごした乗組船員に一行の誰もが瞼を曇らせ
「さよなら」「さよなら」とくり返した。


982: 名無しさんAA:17/12/13 16:22
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 641----------

 子供たちは同年10月、無事に故郷のペトログラード(現サンクトペテルブルク)へ
戻ることができた。その大航海は地球をほぼ一周する距離だった。一時に900人もの
家族を失った陽明丸は大嵐が過ぎ去ったような異様な寂しさを感じながら 首都のコペ
ンハーゲンで、残ったドイツ人捕虜を上陸させ臨時施設の一切を取り除き10月28日
元の貨物船に復帰し星条旗と赤十字のマーク消し勝田汽船の社旗をメインマストに閃め
かせて帰途についた。航海中の様子は 茅原船長が書かれた「赤色革命余話― 露西亜小
児団輸送記 ―をご一読下さい。金光図書館蔵書 岡山県浅口市金光町に蔵書している。
この物語に、2013年2月、森喜朗元総理は安倍首相の特使としてロシアを訪問、日
露間の懸案の問題についてプーチン大統領と会談した際、陽明丸の事蹟についてプーチ
ン大統領に披露、関連資料も直接手渡しました。森元総理は「陽明丸顕正会」の北室理
事長とは同郷のよしみで、この事蹟についても何かと気に懸けていただいているそうで
す。郷土 愛媛・松山でもこの男気溢れる銀次郎の美談を取り上げてもらいたいもので
す。残念ながら勝田銀次郎は18才で松山を旅立ってからは生活の拠点が神戸だった為
に、故郷松山では彼の事を知る人はまれである。強いて言えば彼は明治・大正・昭和初
期活躍したの3大船成金で神戸市長にまで努めた人であるという位であろう。茅原船長
がいつしか日本語で「ニイサン」呼ばれる様になっていた事で探し回るロシア人がいた
。航海から3ヶ月経った10月10日、いよいよ目的の地、フィンランド近くにまで到
着しました。しかし、この海域には第一次世界大戦中に海に仕掛けられた機雷が数多く
残っており、危険ですが機雷が浮かぶ危険海域を無事通過し、遂にフィンランドに到着
しそして、子供たちはフィンランドから無事に故郷ペトログラードへ戻り親との再会を
果たしました。その子供の中に、ともに15歳のオルガという少女とユーリという少年
がいました。船内で二人は仲よくなって恋におち、20歳でめでたく結婚し、一人娘を
授かりました。ですが悲しい事に今度は第二次世界大戦が二人の中を引き裂きました。
娘は父親ユーリに引き取られる事になりました。ユーリさんは一人娘に事あるごとに妻
と出会った「ヨーメーマル」の話をおとぎ話の様に話していました。そしてその「ヨー
メーマルの」話は一人娘が成長し産んだオルガ・モルキナさんにも語り継がれ「ヨーメ
ーマル」についての奇跡が起こるのでした。


983: 名無しさんAA:17/12/13 16:25
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 642----------

2009年、北室南苑さんという日本人とロシアでオルガさんは出会うのです。そして長い
年月を経て、祖父母が日本人に助けられたオルガさんによって、この物語が世に知られ
る事になる。命の恩人である2人の日本人にお礼が言いたいと考えていたオルガさんは
、当時の救出劇を語り、初めて奇跡の物語は日本に伝えられた。北室さんは日本に帰国
後、オルガさんの為に2人の日本人の消息を知ろうと尽力し 何とか勝田銀次郎と茅原
基治の2人のお墓を突き止めた。こうして2011年、ロシアから日本へ祖父母の意志を継
ぎ感謝を意を伝える事ができたのです。なぜこの物語は約90年もの間、世に出ること
が無かったのでしょうか?それは航海に関わった日本人乗組員が勝田銀次郎さんと茅原
基治さんが非国民扱いされないように 固く口を閉ざしてきたからです。ところが祖父
母が日本人に助けられたオルガ・モルキナさんによって、この物語が世に知られること
になったのです。2009年9月 書家・篆刻家(てんこくか)の北室南苑(本名北村正枝)

984: 名無しさんAA:17/12/13 16:25
ぎ感謝を意を伝える事ができたのです。なぜこの物語は約90年もの間、世に出ること
が無かったのでしょうか?それは航海に関わった日本人乗組員が勝田銀次郎さんと茅原
基治さんが非国民扱いされないように 固く口を閉ざしてきたからです。ところが祖父
母が日本人に助けられたオルガ・モルキナさんによって、この物語が世に知られること
になったのです。2009年9月 書家・篆刻家(てんこくか)の北室南苑(本名北村正枝)
さんが、ロシアのサンクトペテルブルグで個展「篆刻アート展」を開催しました。その
個展に、オルガ・モルキナと名乗る女性(英語教師、フリージャーナリスト)が話しか
けてきました。その話の内容は、「ヨーメーマル」という船で船長の名前が「カヤハラ
」で、「ヨーメーマル」により自分の祖父・祖母を含む800人の子供達が救われた事
をまとめ、書籍を出版していました。90年前に祖父母を救ってくれたこの日本人船長
「カヤハラ」のその後の消息についての探索を是非お願いしたい。と「カヤハラ」船長
の捜索の依頼でした。幼いころ、母親から祖父母を救った「ヨーメーマル」という船の
名前と「カヤハラ」船長の名前の日本語の不思議な響きが記憶の中に残っていたからで
した。北室南苑さんは、石川県金沢市の自宅に戻ると、早速調査を開始します。船の名
は「陽明丸」で、所有は神戸に本社を置く現在の川崎汽船グループの「太洋日本汽船株
式会社」と判明しました。そこで中西眞誠常務が調査に協力し神戸や東京など各地で調
査しました。そしてオルガ・モルキナさんの調査依頼から2年も経った2011年7月 船長
が岡山県笠岡市の出身の「茅原 基治(かやはら もとじ)」さんだったと判明しました
。又勝田銀次郎の方はへこたれることは無く神戸市会議員になり神戸市長となりました
。議員時代に関東大震災の時には神戸からの支援に尽力します。又昭和13年の阪神で
風水害の時に市長として、何日も不眠不及で陣頭指揮をとります。政府に協力に働きか
けて巨額の復興費を獲得、砂防堤を各所に設けるなど復旧工事に全力を傾けて神戸市民
に絶大な支持を受け2期8年をもって神戸市長を退任しました。しかし太平洋戦争に突
入し退任後も多忙な日々を送ったが、この戦争で自宅も戦災に遭い、追い打ちをかける
ように公職追放で一切の公的活動を禁じられました。昭和26年追放が解除されて神戸
市最高顧問となった。委託の辞令を手渡すため病床の勝田に市長が「今一度、神戸の為
にご尽力を」と声をかけるとじっと声を呑んで目を閉じはらはらと涙をこぼした。


985: 名無しさんAA:17/12/13 16:25
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 643----------

 樋口季一郎は兵庫県淡路島出身で最終階級は陸軍中将であった。歩兵第41連隊長や
第3師団参謀長を経て ハルピン特務機関長、第9師団師団長等を歴任した。終戦時の
最終役職は第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官だったが、これはシベリアや樺太など
の北方方面隊を南方戦線で兵員補充が利かず、規模縮小の為再編成した舞台だった。が
このハルピンの北の都市に昭和十三年三月十日、ドイツのナチスの手を逃れた二万人の
ユダヤ難民がソ連領を横断してやって来ていた。満州国西部国境、満州里駅(マンチョ
リえき)の対岸オトポールに流れ込んできたのだ。当時ソ連政府はドイツに気兼ねして
ユダヤ人難民がソ連領内に留まることを許していなかった。こうして難民が当面逃れる
先は満州国より他はなかった。満州国を経由すれば上海へ行けるし、そして上海からは
米国や日本の神戸などへ落ち着く先を求められたからだ。しかしこの時のユダヤ人救済
の評価は六千人のユダヤ人難民を救済した杉原千畝ほどには確定していない。というの
も杉原千畝の時の様な銀行家などの富裕層ではなかったし、ドイツ系ユダヤ人だけでは
なくチェコからロシアに掛けたスラブ系ロシア人のユダヤ人が多かったからだ。ドイツ
が突然侵攻した時からこのハルピン駅周辺には、平和を求めて逃れて来るユダヤ人はか
なりの数がいた。それは殆どがドイツ人のユダヤ弾圧よりソ連の「ポログラム」に逃れ
て来ている人で早くからソ連軍や政府から逃れて来ていた人達だった。従って元々が、
住民票など発行出来ない人達でウラジオストックから船出する事も出来ない人達でもあ
った。当時日本は日独伊三国同盟を結んでいたので、満州国でも関東軍への遠慮からも
容易くは難民を受け入れる状況ではなかった。この時ヒューマニズムの精神からユダヤ
人難民の満州国受け入れに奔走したのが、関東軍の樋口特務機関長であった。この辺の
事情は彼の著書『陸軍中将 樋口季一郎回想録』にも書かれている。だが実はそれ以上
に人権問題よりハルピン市内での溢れるユダヤ人の暴動対策に追われて奔走していた。
 実はこの樋口機関のユダヤ人難民救済が旧軍人間で確定していない最大の理由は、2
つの理由がある。まずこの内密に処理すべき人数が二万人もいたという事実にある。彼
の回想録にも二万人という数字が記載されているし、彼を取り扱った書物のほとんどに
も二万人となっているのだが、これを信じる人が少ない。だが大陸間の移動を考えれば
この杉原千畝の凡そ20倍程が隠れて東欧からやって来たと考えて当然でもある。そし
てその本質がロマ人やボヘミアンであったとしても、ユダヤ人を騙り逃れてきたと言え
る。


987: 名無しさんAA:17/12/13 16:26
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 645----------
 
「ナチから追われたユダヤ 難民二万人の救援」ではこう記事を書いている。
「極東ユダヤ人大会の二カ月後、三月十日にドイツのナチスの手を逃れた二万のユダヤ
難民がソ連領を横断し、満州国西部国境、満州里駅の対岸オトポールに流れ込んだので
す。多数の難民は、春尚浅い零下数十度の北満の原野にテントを強って露営同然の生活
をしておりました。放っておけば人命に関する問題となることは明かでした。ソ連政府
は当時、ドイツに気兼ねしてこの難民に対し、ソ連領内に留まることを絶対に拒否しま
した。そうなると、難民の入国先は満州国よりないわけです。ところが満州国の外交部
は、関東軍に気兼ねして中々決心がつかない。これは、一応無理もないことであり、再
びカウフマン博士の樋口少将に対する懇願となりました。樋口少将は、ハルピンにおい
て満州国外交部の責任者を呼びよせ、「満州国は、独立国家である。何も関東軍に気兼
ねすることはない。ましてドイツの属国でもない。ドイツが排撃したからと言うて、一
緒になってユダヤ人を排撃する必要なんか毛頭ない。事は人道問題である。未だ国境の
寒さはきびしい。一日延びれば、難民の生命に関する重大な問題ではないか。なるべく
早く決心されたらどうか。」と力強く説得したのでした。満州国では漸くこの意見に従
って、ユダヤ難民全部を満州国内に受け入れることとし、間もなく難民は、満鉄の救援
列車によりハルピンに救援されてきました。樋口少将なくして、この大芝居は打てなか
ったでしょう。樋口少将の決断は、ハルピンにおけるユダヤ人工作に有終の美を飾った
ことになります。果せるかなドイツ外務省は、リッペントロップ外相の名をもって日本
外務省に、ユダヤ難民を満州南が受入れたことは、日独親善に水を差すものであると言
う厳重な抗議をしてきました。陸軍省から関東軍司令部(軍司令官植田大将、参謀良東
条英機中将)へ問い合せがあり、東条中将と樋口少将と対談した結果、東条中将は、樋
口の決断と処置に間違いなしと断定しドイツの抗議は不問にふせられたのでした。----
---------------------------------どうも出所はこの一文にあると思われる。
考えてみれば当時のオトポールは人口五千人の辺境の村である。どうしてこの村に二万
人が逃げ込めようか。そう考える人は多い。ところが現場の河村愛三少佐からの報告に
よるものとした上で、「1933年から1939年までにドイツを脱出したユダヤ人は、近年の
ドイツの調査では25万人から31万人といわれていますから、二万人という数もあながち
荒唐無稽ではありません」(cf.「ウォッカの小瓶と鴨居の小さな水彩画 …祖父の思い
出」『歴史街道』2012年4月号)と述べている。

988: 名無しさんAA:17/12/13 16:27
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 645----------
 「ナチから追われたユダヤ 難民二万人の救援」ではこう記事を書いている。
「極東ユダヤ人大会の二カ月後、三月十日にドイツのナチスの手を逃れた二万のユダヤ
難民がソ連領を横断し、満州国西部国境、満州里駅の対岸オトポールに流れ込んだので
す。多数の難民は、春尚浅い零下数十度の北満の原野にテントを強って露営同然の生活
をしておりました。放っておけば人命に関する問題となることは明かでした。ソ連政府
は当時、ドイツに気兼ねしてこの難民に対し、ソ連領内に留まることを絶対に拒否しま
した。そうなると、難民の入国先は満州国よりないわけです。ところが満州国の外交部
は、関東軍に気兼ねして中々決心がつかない。これは、一応無理もないことであり、再
びカウフマン博士の樋口少将に対する懇願となりました。樋口少将は、ハルピンにおい
て満州国外交部の責任者を呼びよせ、「満州国は、独立国家である。何も関東軍に気兼
ねすることはない。ましてドイツの属国でもない。ドイツが排撃したからと言うて、一
緒になってユダヤ人を排撃する必要なんか毛頭ない。事は人道問題である。未だ国境の
寒さはきびしい。一日延びれば、難民の生命に関する重大な問題ではないか。なるべく
早く決心されたらどうか。」と力強く説得したのでした。満州国では漸くこの意見に従
って、ユダヤ難民全部を満州国内に受け入れることとし、間もなく難民は、満鉄の救援
列車によりハルピンに救援されてきました。樋口少将なくして、この大芝居は打てなか
ったでしょう。樋口少将の決断は、ハルピンにおけるユダヤ人工作に有終の美を飾った
ことになります。果せるかなドイツ外務省は、リッペントロップ外相の名をもって日本
外務省に、ユダヤ難民を満州南が受入れたことは、日独親善に水を差すものであると言
う厳重な抗議をしてきました。陸軍省から関東軍司令部(軍司令官植田大将、参謀良東
条英機中将)へ問い合せがあり、東条中将と樋口少将と対談した結果、東条中将は、樋
口の決断と処置に間違いなしと断定しドイツの抗議は不問にふせられたのでした。----
---------------------------------どうも出所はこの一文にあると思われる。
考えてみれば当時のオトポールは人口五千人の辺境の村である。どうしてこの村に二万
人が逃げ込めようか。そう考える人は多い。ところが現場の河村愛三少佐からの報告に
よるものとした上で、「1933年から1939年までにドイツを脱出したユダヤ人は、近年の
ドイツの調査では25万人から31万人といわれていますから、二万人という数もあながち
荒唐無稽ではありません」(cf.「ウォッカの小瓶と鴨居の小さな水彩画 …祖父の思い
出」『歴史街道』2012年4月号)と述べている。

989: 名無しさんAA:17/12/13 16:27
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 647----------

 1930年代にはいると、ナチドイツによる反ユダヤ主義が激化し、多くのヨーロッ
パで、ドイツ系ユダヤ人が上海に避難所を求めて来た。多くの国々がユダヤ人の受け入
れを拒否したが、中国の領土であって中国ではない上海は、彼らに査証もパスポートも
求めなかった、1931年から1941年の間に、20万人のユダヤ人がこの町に避難民として
流入した。1940年、リトアニア領事・杉原千畝が、主にポーランド出身のユダヤ人2139
家族、約6千人に、21日間の日本通過ビザを発給した話は、広く知られている。これら
ユダヤ人は、シベリア鉄道で中国東北部やウラジオストクを経て、日本へ到着したが、
しかし、許可された日本滞在間内に当初の渡航目的地、カリブ諸島のオランダ領キュラ
ソーへ渡れず、大部分は止む無く上海にやってきた。同じような話が、中国にもある。
1人の勇敢な中国人「何風山博士」は、1938年から1940年までウイーンの中国領事であ
ったが、数千人のユダヤ人に査証を発行し、ヨーロッパを離れて上海に安全な避難場所
を見つけられるように計らった。とされている。1941年に日本軍は上海を占領したが、
この時中国人に対する残虐行為はあったものの、ユダヤ人に対して西洋人の様な偏見を
持たない日本人は、全般的にユダヤ人に迫害を加えることはなかった。1930年代、欧州
では白人社会にユダヤ人にたいする敵対感情が生まれ、“シオンの長老の議定書”にあ
るような反ユダヤ主義の宣伝パンフレットが出回ったが、日本人は余り影響を受けては
いなかった。シオンの議定書は1918年ロシア革命に反対する白系ロシア軍のコサック兵
の首領、グレゴリー・ミカイロヴィッチ・セミョーノフが全軍に配布した怪文書であっ
て、ユダヤ人が世界制覇のための秘密計画を進めていてロシア革命も彼らの計画の一部
だとする反ユダヤ主義の文章で占められていた書物であった。ところが日本の犬塚大佐
は、本部の要請に於いて1939年(昭和14年)夏には、犬塚機関として、上海のフリーメ
イソンリーの拠点三ヶ所を強制捜査し、祭祀用具、進級問答集など大量の貴重品を押収
した。この押収物は「極秘軍令品」として1942年(昭和17年)春に、上海から東京に運
ばれている。戦後、犬塚惟重海軍大佐の未亡人である犬塚(旧姓:新明)きよ子により
、それらの「上海フリーメイソン文書」を公開されたが、ソ連・支那のメイソンが大東
社系である事、当時の中国国民党内部に支那人のメイソンが多数居た事や、彼らがフリ
ーメイソンリーを介してアメリカ・イギリスの意向を汲むスパイ行動を取っていた事な
どが、明らかとなった。

990: 名無しさんAA:17/12/13 16:29
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 648----------
この猶太人対策要綱(ユダヤ対策)は、安江仙弘が当時の陸相・板垣征四郎に働きかけ
によって早いうちに策定された。安江はシベリア出兵をしてこのユダヤ研究の第一人者
として、その頃の満鉄特務班や満州国特務機関とに度々呼ばれて、その対応策に追われ
ている。この中で上海租界地での対応は、私財を投げ打ってまで調査していた大塚惟重
海軍大佐とも仲が良く連絡をしあっていたと言われる。上海にドイツ・オーストリア系
のユダヤ人が流入したのは、ナチスがオーストリアを合併した1938年秋であり、イ
スラエルの地での入港拒否されたイタリア商船コンテ・ビオレ号で上海に上陸したのが
最初であるとされている。当時、ユダヤ人が希望する米国等はビザ発給が制限されてお
り、実態的にはどの国でも入国拒否に近かった。更にイギリス領のイスラエルでは発砲
など非人道的行為まであった。そうした中で、入国ビザなしに上陸できたのは世界で唯
一、上海の共同租界、日本海軍の警備する虹口(ホンキュー)地区だけだった。この噂
は瞬く間に世界に打電された。当時陸軍が接取しようとした上海では海軍がいち早く南
方方面の軍事基地として接取していて、陸軍との軋轢があった。海軍大佐の犬塚惟重は
そうした中でも、日本人学校校舎をユダヤ難民の宿舎にあてるなど、ユダヤ人の保護に
奔走した。彼は戦後には「日ユ懇談会」の会長を務めたが山本五十六の支持があった事
をほのめかしている。元々真珠湾攻撃を考案した山本連合艦隊司令長官は、1936年12月
から39年8月にかけて務めた海軍次官時代、対米戦争への傾斜とみられるあらゆる国策
に対し断固として反対していた。また、三国同盟締結を画する政府に憤りを覚えていて
、「日米正面衝突を回避」すべく「絶対に日独同盟を締結す可からざる」との意見書を
何回も海軍省に送っている。上海島は元々国際都市であり中国の中心ともいえるほどの
共同租界が出来上がっていた。中央区と西区(旧イギリス租界)では、バンド地区に、
各国の領事館や銀行、商館が並び、これに直角に交わる南京路には、ビック・フォーと
呼ばれる先施公司(中国語版)、永安公司(中国語版)、新新公司(中国語版)そして
大新公司(中国語版)といった、1920年から1930年の上海を代表するデパートが立ち並
んだ。商店も、江海関(1927年落成)建設され、キャセイ・ホテル(1929年竣工)、ジ
ャーディン・マセソン商会ビル(1920年竣工)、横浜正金銀行(1924年竣工)などが並
びデヴィッド・サッスーンは、サーッスン商会が麻薬商売で財を成しユダヤ実業家一族
が牛耳っていた。アヘンで莫大な富を築く一方で、わが国の片岡物産も代理店となって
いてイギリス紅茶の総元締めとしても知られました。だが台湾の麻薬撲滅を機に日本の
意向には反発があった。インドのロスチャイルドと言われた彼の当主は各国の租界に通
じていて かなりの権力を持っていたのである。

991: 名無しさんAA:17/12/13 16:29
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 649----------

 中でもフランス租界は淮海路を中心に商店街が形成していたが、中国とは仲が悪く、
ドイツと日本の接近で危機感が漂ってスパイ活動の中心に目されていた。そういう意味
で、同時に検札が入りにくく、茶館、妓館、アヘン窟が集中して存在していた。1920年
代共同租界においては国連指導でも、「禁娼」「アヘン吸引禁止」「禁賭」が唱えられ
たが、フランス租界では依然法的に認められていた。共同租界の北区と東区(旧アメリ
カ租界)においては、ほとんどの地域を日本人に占領されて日米渡航のメッカとなって
いた。とりわけ虹口(ホンキュウ)地区は、別名日本租界と呼ばれるほど、日本の諸施
設が整いや日本人向けの商店が集中していたし日本語がつうじた地区だった。総数40
を超える各国の人びとが居住していた国際都市として上海は或る時一変する。1937年8
月の日本軍侵攻によって、日本の占領下におかれたからだ。それから終戦まで、日本人
は、中国人は、世界各国から上海にたどり着いた人びとは、政治的・文化的に混乱した
空間に置かれた。日本では1904年〜05年の日露戦争の際、ユダヤ人銀行家に資金援助を
仰いでいた。それは、むしろユダヤ人の巨大な財力と力を利用し、満州にユダヤ人を含
めた共和国と建設しようとする動きまであった程だった。その頃でイギリス最大の利益
を上げた銀行であるHSBC(香港上海銀行)は、このアヘン貿易で得たお金で創られ
てうごいていた。永い間「阿片王」として君臨したデヴィッド・サッスーンは、1864年
にこの世を去ったが、HSBCそのものはデヴィッドの5男のアーサー・サッスーンが
最大株主となって香港上海銀行は設立運営がされていた。その出資者は、サッスーン一
族がリーダーとなり、ベアリング商会、ジャーディン・マセソン商会、ロスチャイドに
関係する役員で構成されていてその中にハリソンもいた。彼らは上海を中心に中国北部
を支配したフリーメーソン組織「イングランド系北支地区大結社」の首脳であり、米国
の大陸横断鉄道を手掛けていた。そこに日本のシェル石油のサミエルと縁故のサミエル
がラッセル商会を運営していた。イギリスが1773年にインドでアヘン専売権を武力
で得て、東インド会社の貿易で中国にアヘンを売りつけ、アジアから銀を巻き上げるた
麻薬貿易は、ロンドンのシティに莫大な富をもたらしていたがその終焉の時代であった


992: 名無しさんAA:17/12/13 16:29
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 650----------

 こうした事で日本の動向を探る必要に迫られサッスーン商会は、神戸市北野町にある
異人館、サッスーン邸を置いていた。これに実際に居住していたのはユダヤ系シリア人
のデヴィッド・サッスーンで山本五十六とも交友があったとされる。現在は結婚式場に
なって歴史的建造物でしかないが此処で重要な交渉があっていた。ポーランドのワルシ
ャワで大量虐殺をおこない、「ワルシャワの屠殺人」の異名を取ったヨーゼフ・アルベ
ルト・マイジンガー大佐のゲットー建設要請である。1941年にベルリンの国家保安
本部に呼び戻され、4月から東京の駐日ドイツ大使館付警察武官兼SD代表として派遣
させられていた。着任直後から日本の特別高等警察や憲兵隊と連絡を取り合い、ドイツ
の有力紙特派員の、オイゲン・オット大使と親しく大使の顧問も務めて、ユダヤ人動向
を伺っていた。リヒャルト・ゾルゲをはじめとする主要な在日ドイツ人の身辺調査を行
って、駐日ドイツ大使館に赴任し、ユダヤ人迫害を拒否する日本政府にホロコーストへ
の加担を要求していた。ドイツ国の親衛隊(SS)の将校で最終階級は親衛隊大佐(SS-S
)で警察大佐でもあった。1942年にはマイジンガー・プランなるものをひっさげて
ユダヤ絶滅計画を持って政府首脳部にやってきたのだ。それは崇明島に処刑所を作り、
アジアの特に米国に渡航する裕福な上海のユダヤ人に“最終決着”を図ろうとするもの
であった。1941年9月27日に発覚したゾルゲ事件は1942年の判決で彼が特権
を利用した2重スパイでソ連の英雄であった事を物語っていた。ドイツのソ連侵攻作戦
の正確な開始日時を事前にモスクワに報告し、日本軍部が、独ソ戦開戦に先立つ1941年
4月30日には日ソ中立条約が締結されて、南方資源確保の意味もあって ソ連への侵攻に
は消極的である事まで報告されていたからだ。近衛内閣の内閣嘱託としての尾崎秀実は
かなりの部分で国賊であった。またこうした戦時期の上海では、人びとが出会い、交流
していて、コンタクト・ゾーンとして機能し、敵味方、支配被支配、の関係に抵抗協力
の、複雑な関係のあり様があった。この時日本政府の有田外相は、ハルピンのユダヤ人
指導者アブラハム・カウフマン博士を東京に呼びつけて、「日本政府は今後ともユダヤ
人を差別しない。他の外国人と同じに自由だ」とわざわざ明言していた。こうして常に
やって来るユダヤ人を1939(昭和14)年夏までに、溢れるユダヤ難民を上海「日本租
界」に上海内で約2万人以下に調整するに至っていた。此処にアーサー・サッスーンの
助けを借りたのだった。


993: 名無しさんAA:17/12/13 22:57
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 651----------

 メキシコではアステカ時代からアスファルトやピッチを作っていたとされる。1876年
にはタンピコ近郊で初めてケロシンが発見された。山本五十六が私費を投じてメキシコ
視察旅行をしていたのは大正8年(1919)〜大正15年(1926)のアメリカ駐
在武官に任命されハーバード大学に留学し、駐米大使付武官として赴任した頃だった。
アメリカの国情研究として、テキサス州もオレンジ油田、デトロイドの自動車産業など
を視察している。つまり既にケロシン抽出により飛躍的に航空機性能が高くなったエン
ジンに出会っている事になる。山本五十六は明治42年(1909)、巡洋艦「阿蘇」
の遠洋航海でアメリカ西岸の主要港を視察して、行きと帰りにハワイのホノルルに寄港
しており、この時に真珠湾のありさまを目にし、太平洋開戦時の、真珠湾奇襲作戦立案
のヒントになったといわれている。つまり既にもう米国に勝つ様な資源が日本になく、
戦争しても威嚇だけですぐさま停戦協定を結ばねばならない。と悟っていたのである。
1929年時は、ワシントン国際無線電信会議に帝国委員として参加もして無線の危険
も充分知っていた。メキシコ革命はラテンアメリカで最初の社会革命であり、メキシコ
のその政治体制を決定づける事件であった。1910年にはじまり、国内を二分する激しい
戦いが断続的に10年以上続いていた。既に革命は終わっていたが内部対立はくすぶり
最終的な勝者となったオブレゴンは1920年6月の大統領選に立候補し、当選する。
それでも革命政権は転覆と征服を繰り返していた。1927年に達成した石油産業の国
有化は米国の猛烈な反発を受けたが、カルデナスはこれを断行し1936年、スペイン
内戦が始まるとスペイン共和国人民戦線政府と国際旅団を創設しソビエト連邦と共に、
支援した。その敗北後は合計一万人以上の亡命者を受け入れ1940年、ラサロ・カル
デナスの任期が切れるとともに、メキシコ革命は名実ともに終結し、制度的革命党の、
(PRI)による一党独裁時代が71年間続いた。メキシコで起きた社会主義革命の始
まりは1911年とロシア革命より早い、ここに就任したポリフィリオ・ディアス大統
領の腐敗政権は独裁体制で、民衆の不満の蓄積が爆発し、ここにメキシコは国内を二分
する内戦がくすぶったまま現代まで続いている。実はアメリカはフィリピンとメキシコ
の植民地権を買ったが全く金が無かった。対してイギリスのユダヤ金融は敵対するソ連
に投資する程余っていたが 投資先を探していた。先のサミュエル商会のシェル石油と
統合しBP社を作ったのは、アメリカ軍向け石油供給体制を整えソ連やナチスと対抗す
る軍事力を持ちたかったからだった。

994: 名無しさんAA:17/12/13 22:57
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 652----------

 犬塚 惟重は、日本海軍の海軍大佐であった。ユダヤ問題研究家として名を馳せ、独自
に 宇都宮 希洋(うつのみや きよう)とのペンネームまで持って、ユダヤを日本に知ら
しめる活動をしている。太平洋戦争開戦に伴い召集されて、支那方面艦隊司令部付(上
海在勤海軍武官特別調査部長)、佐世保鎮守府付、「鹿野丸」監督官、「いくしま丸」
艦長、第2海上護衛隊司令部付、同運航指揮官、横須賀鎮守府付、第31警備隊司令、横
須賀鎮守府付など歴任し1945年5月召集解除となった。1946年3月から翌年7月まで、
マニラにおいて戦犯容疑で拘留された。フリーメイソンとの係わりは、軍令部第三部の
(情報担当)に勤務した為に、ユダヤ人研究を始めたのであった。1936年(昭和11年)
、国際政経学会発行の「国際秘密力の研究」を「宇都宮希洋」のペンネームで分担執筆
し、1939年(昭和14年)3月から1942年(昭和17年)4月まで、日本海軍の中でユダヤ
人問題対策機関「犬塚機関」を指揮している。神明きよ子はこの犬塚機関の事務方をし
ていた。1939年(昭和14年)、ナチス・ドイツの対ユダヤ人政策への批判を織りこんだ
、「ユダヤ問題と日本」(内外書房)を出版し、犬塚は次のように主張した。
(…ユダヤ人は危険ではあるが、日本はこれを味方につけるべきである。これまでユダ
ヤ人はパレスティナを避難所とみなしていたが、イギリスのアラブ寄り政策によって、
パレスティナへの門戸は閉ざされた。その結果、今度は東に目を転じて、「アジアへの
帰還」という願いを、日本が支配する中国各地への移住によって現実化しようとしてい
る。…)この現象は、二千年来地球上をさまよい続けた東洋人種猶太人の東洋還元であ
る。言葉をかえれば、古代の日本民族指導下から乖離した猶太民族の帰順である。然し
、現状では帰順とは言いがたい。むしろ日本へ反逆し、東亜から日本勢力を閉め出し、
彼等のみの天地を建設せんとしていると思われるのが、今次事変下の彼等の行動である
。その主因は彼等の日本研究不足、特に日本精神の無理解と、民族性の誤判断から拠っ
て来たるところ多大であると言えよう。我々は先ず、事変下国民の尽忠報国の行動を以
って、現実に彼等にこれを教え、且つ日本学の確立、日本古代文化史の展開を以って、
彼等の蒙を開くべきであろう。その結果、彼等が前非を悟りまつろい来たるまで、我々
は倦まず弛まず努力するのも、新東亜建設者の責任である。と書いている。


995: 名無しさんAA:17/12/13 22:57
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 653----------

 日本が1931年、現地軍の関東軍が独自行動で満州事変を起こしたのを機に中国へ
の侵略を開始し満州全土を制圧したとされた時、いち早く既にユダヤ人達はモンゴルの
地に避難してきていた。1932年3月に傀儡政権満州国を建国したが、これに対して
の中国政府は、国際連盟に満州国建国の無効と日本軍の撤退を求めて提訴した。ここに
蒋介石政権に従った張学良の、蒋介石の「失権失地回復」政策に則った@南満州鉄道へ
の経営圧迫政策、A日本人・朝鮮人居留民への圧迫、B満鉄付属地の経済封鎖、などの
抗日政策が行われたのである、又並行して、朝鮮族では激しい排日運動が再燃するよう
工作を始めていた。それは一方奉天軍閥の軍費を賄うために満州の住民に重税を課した
のである。治安状況は悪化し、馬賊が横行、官吏・裁判官の腐敗が横行し、行き倒れる
者も多く、庶民から反発を受けていた。「満州事変が始まる頃、満州にはおよそ三千万
人の人びとが住んでいた。その大部分は中国本土から移住した漢民族であったが、この
外、満州族、蒙古族、朝鮮族、白系ロシヤ人、日本人が混住していた。日本人は約二十
三万人で南満州鉄道沿線および関東州に主として集中していた。」と言われて居る中で
既に農用トラクター名目で新型戦車の開発に成功し1935年には、ヒトラーはヴェル
サイユ条約破棄を宣言し、再軍備を図っている。翌年には非武装地帯であるフランス国
境のラインラントに軍を送り、41年に突然ソ連侵攻作戦であるバルバロッサ作戦が開
始されている。第一次大戦後1919年のドイツは完全な経済破綻によって半飢餓が発
生していた。その中に裏切り者による「背後の一突き」が原因で敗北したという神話が
生じていた。社会主義者やユダヤ人を標的にしたこのような話は、ヴァイマル共和国の
ナチスの隆盛を招く事にもなっていた。つまり最下位のロマ族にしろユダヤにしろこの
敗戦のドイツですら批判の的だったのだ。ドイツ陸軍は、プロイセン貴族軍で階級的に
ドイツ騎士団の伝統を汲む者が多く、地位が脅かされない限り政治には中立的であった
。それでもこうだったのだ。ましてはチェコスロバキア領内のズデーテンラントの人々
が戦争も辞せずとしたのは当然だろう。又イギリスやフランスも国としては疲弊して、
ユダヤ救済などおぼつかないのが現状だった。国際連盟がリットン調査団を派遣し現地
や日本を調査し、リットン報告書をまとめたが、この総会報告書に対する同意確認の結
果、賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(タイ)、投票不参加1国(チリ)で、
松岡洋右 全権率いる日本はこれを不服としてその場で退場して 脱退となった。


997: 名無しさんAA:17/12/13 22:58
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 655----------

 1934年にフランクリン・ルーズベルト大統領のもとでプラット条項は廃止されたが、
アメリカは親米政権をキューバにおいて維持させることを国是としており、活発な投資
活動が続いていた。さらに第二次世界大戦ではグアンタナモ基地がドイツの潜水艦に対
する基地として活用されるなど、軍事的にもキューバはアメリカと切っても切れない関
係となっていった。グアンタナモ基地がドイツの潜水艦基地となった頃アメリカの苛立
ちは最高であった。チャーチルがサンドハースト王立陸軍士官学校で軽騎兵連隊に所属
して、第二次キューバ独立戦争を観戦し、イギリス領インド国内でパシュトゥーン人の
反乱鎮圧戦の連絡係をし、スーダン侵攻、第二次ボーア戦争に従軍した事は。その後の
1900年のイギリス総選挙にオールダム選挙区から保守党候補で初当選する事に寄与した
。松岡洋右が馬鹿の如く国際連盟会場から退場せずに、この会場で議会が終了するまで
議論を戦わし会場の外まで声明を発していたなら、日本はまだ違った道を歩いていた。
というのもドイツのUボート問題は国際社会ではすべからず常識であり、第一次大戦後
から無差別攻撃を繰り返して権益確保をこの南米中米で行っていたからだ。先のユダヤ
救出でも、船長達が怖かったのは、実は機雷でも戦艦でもなくこの潜水艦攻撃であった
。多くのチェコやブルガリアのユダヤ難民がオトボールに押し寄せた「オトボール事件
」は、実は此処にあった。黒海や地中海はその頃ドイツ軍のUボートの縄張りの中にあ
ったのだ。チャーチルは、赤軍のポーランド侵攻は撃退したが、第一次世界大戦では、
アントワープ防衛やガリポリ上陸作戦で惨敗を喫し、辞任している。この失敗大臣であ
る海軍大臣が又政権に着いたのは、それこそユダヤのフリーメイソンの力であり、ロス
チャイルドの資金力であった。逆にユダヤ資本は他の人間をまだ持たなかったのだ。こ
のあと指名されたのは植民地としていたイラクやエジプトなどのパレスチナ人との調整
役であった。此処にサッスーン家の威力があった。1936年8月 ドイツナチス党はリッベ
ントロップを駐英大使に任命した。彼に与えられた使命は、ヒトラーがかつて予言した
ような「英独連携」を果たすことであった。この事はユダヤ人にとっては脅威であった
。インドのボンベイに拠点を置き東インド会社が支那にアヘンの密輸を開始し莫大な富
を蓄積していた上海屈指の豪商サッスーン一族は、スファラディ系ユダヤ人であった。



998: 名無しさんAA:17/12/13 22:59
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 656----------
 19世紀半ばアヘン戦争に破れた清朝が上海に租界の設置を認めると、時を移さずに
上海に進出し、アヘンを含む物資の売買を開始し瞬く間に、金融、不動産、交通、食品
、重機械製造などを傘下に擁する、一大コンツェルンに成長した。その中に、金融業と
して「サッスーン・バンキングコーポレーション」不動産建設で「ファーイースタン・
インベストメント・カンパニー」不動産流通「ハミルトン・トラスト」、不動産斡旋で
「上海プロパティーズ」住宅・ホテル「イースタン・エステート・ランド」「キャセイ
・ランド」、重機械製造「シャンハイ・ドックヤード」機器製造「中国公共汽車公司」
鉄道貨車「中国鋼車製造公司」、食品関係「上海碑酒公司」ビール会社など・・・全く
それは今のアメリカ資本を牛耳っている小さな実験場の地域となっていた。支那四大家
族が中華民国期に政治・経済の実権を握った蒋介石・宋子文・孔祥熙・陳果夫(陳立夫)
の一族の四家の姓を取って蒋宋孔陳と呼んだが、上海ではユダヤ系の経済パイオニアの
、サッスーン、カドーリ、ハードン、エズラの4家族だった。こうして「上海ユダヤ四
大財閥」と呼ばれる事になった。当主のビクター・サッスーンは1832年から、この
町で商売をしており、経済帝国を築き上げていた。その影響力は、市当局が武装した「
商人部隊」自衛組織の編成を外国人に認めたことでも分かり、1928年にイギリスを
モデルとした1400人の上海自衛団に進化した。自衛団にはいわゆる『ユダヤ中隊』
があり、200人から250人がこれに属していた。その後ユダヤ難民がこれに加わり
強化されて戦争を迎えていた。デビッド・サッスーンの死後、アルバート・サッスーン
が継ぎ「ロスチャイルド家」と血縁関係を結んで、その後エドワード・サッスーンが相
続し三代の間に巨富を築いた。香港最大の銀行「香港上海銀行」のほとんどの株を握っ
たアーサー・サッスーンの義理の弟は、金融王ネイサン・ロスチャイルドの孫レオポル
ド・ロスチャイルドだった。サッスーン一族の繁栄の最盛期を具現化したエリス・ビク
ター・サッスーンは、不動産投資に精を出し、破綻会社の不動産を買い叩き借金の担保
の不動産を差し押さえた。その後彼は、「グローヴナー・ハウス(現・錦江飯店中楼)
」、「メトロポール・ホテル(現・新城飯店)」、「キャセイ・マンション(現・錦江
飯店北楼)」などを次々と建築した。こうして自慢の、「東洋一のビル」と称えられた
「サッスーン・ハウス(現・和平飯店)」を建設し、サッスーン家の本拠となっていた
貿易、運輸、各種軽工業などにも事業展開していったエリス・ビクター・サッスーンが
最盛期の資産は、上海全体の20分の1もあったと言われている。彼は「東洋のモルガ
ン」の異名を持っていた。上海の不動産王「上海キング」と言う異名があった。この資
本の接収をドイツは日本に要請したのである。それが上海ゲットー建設だった。

999: 名無しさんAA:17/12/13 23:00
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 657----------

 上海閥の蒋介石が北京で中華民国を宣言し 国家建設の乗り出した頃にも、ドイツの
軍事顧問を手放さなかった。それは蒋介石政権内でも張学良の抗日政策が続き資金援助
を日本政府が行わなかったからだ。こうして中国政府はアメリカ製のカーチス・ホーク
IIやヴォート V92「コルセア」などを主力とする中国航空隊を組織し侮れない存在にな
っていた。こうして蒋介石中国政府は静かに中国空軍上海爆撃を考案し、第二次上海事
変中の1937年8月に中華民国空軍により上海に対して空爆を行い、日本政府で空爆が行
われ被害がでたとの声明をはっした。中国側では“大世界墜弾惨案”、もしくは“K色
星期六”(暗黒の土曜日)と呼称される日本軍の空襲と言う物だ。だが直ぐに飛行機の
航跡や写真などで中国軍爆撃機の攻撃であった事は判明した。黄浦江の呉淞近くにいた
。この時イギリス海軍重巡洋艦「カンバーランド」及び合衆国アジア艦隊旗艦である重
巡洋艦「オーガスタ」の2隻にも向けられた。爆撃機2機の急降下はカンバーランド上
空で行われたが、パイロットによる水平飛行への移行操作が早すぎ爆弾を誤った方向に
向けたため攻撃は失敗した。この時どちらの艦からも発砲はなかった。中国軍機は悪天
候のため両方の艦船を日本の艦船と間違えたと思われた。又日本艦の応戦した対空砲火
は中国軍機が爆撃には高すぎる場所にいることを強いられ、その爆弾を目標近くに落下
させることができなかった。しかし、ひとつの爆弾は黄浦江の浦東側のアジア石油社の
設備に当たり、一晩中燃え続ける火災を起こした。5発は川に落ちて巨大な水柱を起こ
したが1発は、ジャーディン・マセソン社の倉庫に当たった。出雲ともう1隻の軽巡洋
艦「川内」は高射砲の一斉射撃2回で援護しながら各々艦載機(九五式水上偵察機)を
飛ばした。この日の戦闘において日本軍の艦載機と艦船の高射砲により中国軍機3機が
落とされている。この時チベット通りが国際共同租界とフランス租界との境界線である
エドワード7世大通りと交差する場所に落とされ、直ちに激しい爆発となり5人の外国
人を含む850人が負傷し、450人が死亡、12台の自動車が破壊。さらにもう一対の爆弾が
キャセイホテルとパレスホテルの間に落とされる。爆発で12人の外国人を含む数百人以
上が死傷した。日本海軍は直ぐに台湾の航空基地より九六式陸上攻撃機6機を飛ばして
、杭州や広徳へ爆撃に向かわせた。しかし周家口より飛び立った高志航中校率いる第4
大隊がこれを迎撃。空中戦における中国空軍初の戦果となった。こうして中華民国は、
8月14日は中華民国空軍の記念日「空軍節」に指定された。

1000: 名無しさんAA:17/12/13 23:00
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 658----------

 ドイツの対中国政策は中独合作とされ明治時代より古い歴史を持っていた。だが1900
年の義和団の乱の際にはドイツ公使を殺され、即位してたヴィルヘルム2世は怒って、
遠征軍司令官に対して、「反乱軍はフン族の如く容赦ない攻撃を加えよ」と命令した。
第一次大戦後には、パリ講和会議での中国代表団は猛反対したが、ヴェルサイユ条約に
よってドイツ租借地の土地は全て日本に割譲され(購入)することが決まった。だが、
その後に、日本と満蒙地帯での確執で支援が狭められ国民党政府はドイツの支援を求め
、ドイツで教育を受けた朱が中華民国とドイツの一連の軍事的・経済的協力関係を指し
独中合作に成功した。日中戦争直前の中国で、産業と軍隊の近代化を起こし1912年の、
中華民国が成立した直後の中国軍閥では、跋扈した列強の侵略に苛まれていたが、そこ
にドイツは組み入っていた。国民党による北伐の完成で一応ながらも国内統一がなされ
たがその後満州事変などの日本の進出により、「中華民国による国家統一」が脅かされ
ると考えドイツ軍事顧問には再三の支援要請が在っていた。ドイツの中国政策は一環し
て日本やソ連との中国の戦争や紛争であり、その火事場に漁夫の利を得る事だった。又
対ロシア人やフン族とするスラブ人に中国と本国から攻める絶滅作戦を常に国是として
いた。中国軍事顧問のゼークトは、ナチス政権が出来て、その地位をアレクサンダー・
フォン・ファルケンハウゼンに譲り、1935年3月にドイツに帰国した。帰国後 1936年に
はヒトラーは中国に1億マルクの借款を与え、その借款で中国はドイツから武器を購入
する契約をして米国の支援を得た。又10年間にわたり 毎年1,000万マルク相当の鉱物
資源がドイツに提供される契約で英国支援を得た。つまりドイツを裏切るから支援しろ
と共産党を通じて国民党政府は接近したのだ。これに1936年1月、南京政府訪独団が、
ドイツを訪れた時、大陸横断鉄道による 2000tのタングステンを提供を申し出ている。
同年4月8日には、独中間で借款貿易協定がむすばれ、ドイツは中国政府に1億マルクの
追加融資を行いアメリカ航空機購入に至った。推進者は国防省官房長のヴァルター・フ
ォン・ライヒェナウ中将であった。ライヒェナウはクラインらと中国軍備拡張計画を練
り、六個師団からなる十万の軍、将来的には30万にまで拡張する新たな軍事顧問団の
創設を構想していた。この国際社会の不思議な中国政策には日本は常に尻拭いの関係で
あった。空爆が中国軍が行っている事が確かでも 日本に非難が殺到していたのだ。こ
のドイツに対する鉱物輸送も本来ならイギリスフランスは愚かソ連すら反対しなかった



続きを読む
掲示板に戻る 全部次100 最新50
名前: E-mail(省略可): ID非表示