指導改善研修の実態 横浜市


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指導改善研修の実態 横浜市

1: 横浜人権侵害都市:13/12/16 16:56
年明けの2013年1月24日 分会長のU教諭と共にいる前で。NH校長の不適切且つ違法な言動について。
○文部科学省、横浜市の指導改善研修の規定によると、元来指導力不足教員に該当しないにもかかわらず私を「指導力不足教員として申請書をすでに出すことにした」と暴言を吐いた。  
療休の診断書を2月の半ばに出しますから異動対象者名簿から私の名前を取り下げてくださいとお願いすると。校長はこれを2度拒否。東部学校事務所のOさんの指示に従って校長に事前にお願いしようとしたが拒否をする。校長としては本来診断書を受理する義務がある。「異動対象者名簿から取り下げない」などと無謀で一方的な発言を繰り返した。
仮に、「指導力不足教員として認定されなくとも、私はあなたを、教育委員会預かりにしてやるつもりだ」などと暴言を繰り返したものである。これらの発言は全て裁判上の証拠となる音声記録にも保存されているもので、事実である。NH校長が私を何としても異動させてK校から追い出そうとしていた、つまりパワーハラスメントを繰り返していたことは事実である。
○以降私は、疲弊しきっていたため、精神科で受診し、適応障害との診断を下された。寝付けない日々の中、なんとか学年末までやり終えることができた。午前中2時間年休を取得したり、休んだりすることが多い中での勤務で相当大変な思いをしたが、指導力不足教員の認定審査会では、H課長から、「すぐに休む」という点を指摘された。NH校長は心配するどころか、私に不利になり得るものは、療休であろうが構わず、悪いニュアンスで「すぐに休んでしまう職員」という言い方をしていたのである。前日に断裂症で休んだり、適応障害のために精神的に疲弊して午後から病院に行ったり休んだりした職員を捕まえて「すぐに休むダメな職員」という評価をして、教育委員会育成課に書類を提出し、強制的に指導改善研修に送り込んだのである。
当該NH小学校校長は、公務員に関わる諸規則、倫理規定、職務規定に該当し、自治会長から金銭を授受し、飲み食い等に充てるなど不適切に浪費した件に関して教育委員会から指導を受けている。2013年4月1日以降、強制的に指導改善研修に行かされている。

2013年9月18日(水)下校時の児童指導に立って児童に挨拶等をしていたが、不当にも、明日からは立たなくていいと発言。職員である者にこうした制限を設けるのは合理的理由がなく、パワーハラスメントである。

2013年9月、所属校研修ということでK小学校で勤務していたが、該当する場面がなく、学校長からの具体的な指摘もない事項について、不当に評価を低くつけられた。例えば、「採点ミスが多い」「市販テストで安易な評価をする」という場面そのものがなかったにもかかわらず、評価は「時々見られる」となっているのである。該当しない事柄までも、評価されているのであり、不実記載である。18項目中7項目(全体の38%)も本来該当することがないにもかかわらず、時々あるとされたのである。パワーハラスメントである。
 11月7日(木)に、学校長によるパワハラに関する訴えを労災として申請。本日付にて学校のメール便で送付。翌週11日(月)には届いているはずである。


1101: 名無しさんAA:17/12/26 19:35
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 743----------

バビロニアではミトラ派の神官達は「占星学」を創造し農業の為の星座占いを行った。
これはその後、バビロニアの神官団(カルデア人)と合流し、ミトラの密儀として形に
なりバビロニアの占星学を統合して「秘教占星学(ズルワーン神学)」を作りあげて、
ミトラ教という宗教の中核となって発展させていた。これはのちにバビロニア=ストア
学派の手で欧州やローマ帝国に伝えらて更に盛んになった。ミスラ信仰はペルシャ帝国
期、マギ神官 によって小アジア、シリア、メソポタミア他に伝道され、ギリシア やロ
ーマにも取り入れられた。ギリシャ語形・ラテン語形でミトラースと呼ばれ、太陽神、
英雄神として崇められた。その信仰はミトラス教と呼ばれる密儀宗教となって、1世紀
後半から4世紀半ばまでのローマ帝政期、ローマとその属州で広く信奉され、形式上の
善悪二元論と終末思想と共に説かれた。最大のミトラス祭儀は冬至の後で太陽の復活を
祝う12月25日の祭で、キリスト教のクリスマス(降誕祭)の原型とされる。のちに
新プラトン主義と結合し、キリスト教と争ったが、圧迫されて衰退した。アルメニアに
は今も残る遺跡にギリシャ神話の形態の痕跡がある、「紀元301年には世界で初めて
キリスト教を国教とした地域」として有名だが、これも又ユダヤ教の中にいなかった。
多くの国民が寛容のゾロアスター教だったからと言う。いや逆に拝火教教徒の国がアル
メニアだったのかもしれない。アルメニアは、パルティア王国が224年にサーサーン
王朝ペルシャに滅ぼされたあともサーサーン家が宗主権を持ち続けた。428年までは
アルメニアを支配しているからだ。そのため古代アーリア人の信仰した神々の影響を受
け特にミトラ神を好んだと言う。ザラスシュトラの宗教改革の結果、ゾロアスター教の
中では六大天使にも入らなかったミトラ神だが、ゾロアスター教が衰退したアルメニア
や小アジアなどの西方では、ミトラ神は崇拝はそのまま信仰を集めた。ミトラの密儀は
、バビロン又はカルディアの占星術と融合してできたもので、種まきや農耕の暦を知る
サークルだったのが、特異な密議宗教として地下に密室を掘って男だけで集まり、短剣
で牛を屠って再生を経験するという儀式を行う様に変化していた。ミトラ教は、ヘレニ
ズム・ローマ世界で主に紀元1世紀から4世紀にかけて、キリスト教と並ぶ救済宗教と
して絶大な支持を集めていた。現実に収穫が違っていたからだ。だが392年には、ロ
ーマ帝国から宗教的寛容さを打ち切る旨の勅令が出され、国の祭儀として行なわれてい
た古代ローマ時代から続く儀礼への国費補助が打ち切られた。そして、ミトラ教をはじ
めとする異教の神殿は破壊され、それまでミトラ神の洞窟神殿だった聖域上にキリスト
教会が建立された。

1102: 名無しさんAA:17/12/26 19:35
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 744----------

 ゾロアスター教のこの名称は、開祖ザラスシュトラに由来し、古代ペルシャ語では、
「黄金のラクダを持つ者」の意。アヴェスター語では、「輝ける白色」一族の「老いた
駱駝の持ち主」という。ザラスシュトラ(ゾロアスター、ツァラトストラ)は、しばし
ば、ゾロアスター教の創始者といわれ、「ゾロアスター教」の呼称も彼の名に由来する
が、その活動には今なお不明なところが多い。生存した年齢は紀元前12〜9世紀の間
と推定されているが、原始アーリア民族の中でも最後まで故地にとどまった後発グルー
プだったようだ。だが紀元前25世紀頃からこの考え方や宗教は存在していて「マゴス
の神官団の教え」として 1、拝火儀礼 2、曝葬(ばくそう) 4、清浄儀礼 5、悪
なる生物の殺害(蛙、サソリ、蛇など) 6、最近親婚 7、牛の犠牲獣祭などが遊牧民
の中に浸透していた。そもそもの拝火儀礼は当然の事ながら調理が出来た時からの儀礼
で風葬である鳥葬でも樹木葬でも原始アーリア民族の共通祭式だが、他の習慣について
も、今でも牛の屠殺料理の手際は伝承されていて、その祭りは移動するパオが集団であ
ると考えれば、近親相姦の結婚も多民族との結婚を否定してはいない事から 他を襲わ
ないとすれば、原始アーリア民族宗教が展開した部分としては当然とも思える。マゴス
神官団の宗教は、その後イラン高原に西進してきた原始ゾロアスター教と習合した。結
局原始ゾロアスター教がマゴス神官団の宗教を受け入れて、犠牲獣祭は、牛から羊へと
転換しているが、これはイラン高原西部では牛を飼育する多年草などが少ないためだっ
たという。その後ゾロアスターの本式な形式は街に定住してからは犠牲獣祭を失くして
いる。マゴス神官団の宗教は、バビロニアの天文学・占星術と習合して時間を崇拝する
拝時教・ズルヴァーン主義を生み出した。ゾロアスター教は、のちにグノーシス主義や
マニ教に重大な影響を及ぼすことになる。マゴス神官団は通称「マギ教団」とされ今の
マジックやまじないやマグネットの語源になったと言う程の当時での「魔法使い集団」
と目されていて、クルド人の疑惑の眼から戦いに押されて バビロニアに居住して、今
の各種各教団のゾロアスターの教義を統合したとされる。「アフラ・マズダー」は古代
アーリア人でアフラ神群の中から考案された「アフラ(主)」と「マズダー(叡智)」
「英知の神」でありそれが光を放すとされた。「善と悪」との対立を基盤に置いた世界
観を提供し火のみならず、水、空気、土もまた神聖なものとし、生者の霊魂は「チンワ
ト橋(選別者の橋)」において冥界で選別され、それは聖戦の結果「ザラスシュトラ」
(サンクチュアリ)因果応報であると説いた


1103: 名無しさんAA:17/12/26 19:36
謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 745----------

 この一週間が7日と言うのは、南米や南洋の5日 和暦の6日以外は世界的一週間で
あったが。これは「ゾロアスター教」の6柱7神信仰から来ている。月の神は日本でも
イザナミイザナギの男女の神が一体で崇められる。海の潮を数える神で日本でも7つは
7不思議やら7月7日など始まりとされるのが一般的で、「ゾロアスター教」などでは
、東洋的に閻魔など闇夜の善神司法の元になった死神や闇の神である。始祖信仰で風葬
をしている多神教のゾロアスターでは夜空の神、即ち夜の天空の神や星の神としても、
おかしくなく、日本神話でも月読みの女神が出て来るが、聖書ではそれが出来なかった
。それは一神教である絶対神の世界で最初から星や夜空があってはならないかった。か
らだ。「ゾロアスター教」では火曜日はこの最も神聖な火の神として「アフラ・マズダ
ー」「英智の神」「光明の神」が降り立って来た事になる。だが聖書では何もないから
空を創る事になったのである。水曜日は水の神だがこれは「光明の神」が闇の神と戦う
為に呼び込むのだが、これは飲める水が天空から降り注ぎ川となり飲めない水海と闘う
事を示している。ところが聖書ではこの光の神が水の神やその後風の神を呼び込む事に
対して、それを信じて居る既存の信者を掴む為にも又此処で絶対神に太陽と月と星を作
らせたのだ。こうして天と地を3回造る物語が出来たのである。こうして出来る裏には
絶対的信心されたミトラ信仰を破る事が必要とされた神聖ローマ帝国の命題だったから
だ。エジプト文明の中にこの痕跡がある。ミトラ信仰がやって来て木が育つように収穫
が増えたとされる記述だ。この太陽信仰集団は月や星座を読んで種蒔きや収穫の日を決
定していた。そしてナイル氾濫の時期や日まで予想して国家運営に当たっていたに違い
ないのだ。そして権威と地位と財を得ていた。これがユダヤ教徒には我慢ならなかった
。そしてユダヤの経典「旧約聖書」では木曜日の太陽と星が造られ金曜日に木々や魚や
鳥が造られたのである。土曜日に獣や人が造られるために。ところがその元になったで
あろう「ゾロアスター教」の教義では風の神が光の神の横暴に民を助ける為に水の神と
共に木の神霊を呼び寄せている。日本の天照の天の岩戸を開く物語の様に光の神が隠れ
た為の混乱があった。此処では嵐の神が強かった為だが。が此処で大きな事は金曜日は
本当にバビロンの都市では、金の採掘をしていた事だ。バビロンでは真珠の採取さえも
行っていた。水である川と海の瀬戸際で暮らしていた。此処に人は大きな食糧供給が出
来たからだ。



1104: 名無しさんAA:17/12/26 19:36
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 746----------

 こうして火の神を祭る都市は、煉瓦を創る技術を得た事で住居の神土の神を祭る日が
出来た。だがこの聖書ではこの煉瓦を創る秘法を神が人を創った日としている。此処に
人間賛歌を行わない聖書の苦痛がある。元々煉瓦技術はやって来たがミケーネ文化も、
エジプト文明も石造りの文化なのだ。当然煉瓦などは必要ないセメント文化だったのだ
。こうしてゾロアスターで光に包まれる最終日は聖書では神が休んだ日とされる。とこ
ろがキリスト教もユダヤ教も実は土曜日を休日としていた。つまり日曜日に神が天地創
造を始めたとして一週間でなく単に七日間として終日は関係ないとしたのだ。これは当
初月曜日からの設定をしたがミノア学派の休日に合わせては集会が出来なくなった事を
意味している。ところがキリスト復活伝説で今様な日曜休日になった。このキリスト教
に次ぐ信者数を誇る、イスラーム教は、世界中に約16億人の信者を持つが安息日は、
とても曖昧なムハンマドがエルサレムに入場した日として行っている。日本ではあまり
知られてなく徹底して店を閉める。イスラーム教では金曜日を「安息日」と呼びますが
その他にも、約1ヶ月間を断食を行う「ラマダン月」という期間がある。だが断食をす
るのは、日の出から日の入りまで。より正確に言うと、夜明け前のお祈りの時間(ファ
ジュル)から、日没時のお祈り(マグリブ)までだ。この夜明け前にとる食事を「スフ
ール」、日没後にとる食事を「イフタール」と呼ぶ。断食が明ける時のすぐの食事にも
イフタールと名が付き、まずは水やジュース、スープなどの水分、それに栄養価が高い
デーツ(ナツメヤシの実)、ゆで卵、お菓子などの軽食などをとる。その後、揚げもの
や甘いものをふんだんに盛り込んだ豪華な食事を、家族や友人と楽しむのが順序となっ
ている。小さな子どもや、病気の人、妊娠中の人などは、断食をしない。日没後に食べ
る料理を昼間のうちに調理する場合、子どもが「味見」をしたりもする。つまり日本人
的には12時間のサラリーマンが忙しくて昼食を取らなかった日を続けた事に似ている
。昼時に食べないこの期間日中の、飲食を断つ事は、神の恵みに感謝する月とされる。
この形式は正に 正しい「ゾロアスター教の教義」にわざわざたてついた形を作ったと
いえるしきたりでユダヤやキリスト教と同じ形で第二次世界大戦の戦争と全く同じ思考
だ。かつてノーベル文学賞に中国人初の服役中の民主活動家・劉暁波氏が平和賞受賞を
(10年)を貰った。だが中国政府は「中国への内政干渉とノーベル委員会に抗議して
いた。」とその後国際社会からあざ笑われながら、「中国国際和平研究センター」とい
うほぼ無名の組織を出して。孔子平和賞なるものを作って対抗した。この形と同じだ。


1105: 名無しさんAA:17/12/26 19:37
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 747----------

 イスラム社会でもこの5柱なる考え方があって、サウムと呼ばれる断食の義務には、
5柱の一つで、食事、水分摂取、喫煙、性交渉を控えるよう要求するものでもある。
イスラムシーア派では、五信十行を戒めとしている。五信とは、神の唯一性、神の正義
、預言、教主職、来世の信仰 と、十行の、毎日礼拝、貧民喜捨、個人断食、メッカへ
の巡礼、五分の一税(2割棄損)、ジハード(聖戦)、更に予言者への忠誠として5つ
が入る。つまり勧善懲悪と善行奨励、悪行阻止、忠孝忠誠、行動制限が預言者の意向に
よって決まるのである。個人の縁故でも付き合うべき交流も何もかもが制限されるのだ
。そこには正統派としての威信がある。対してスンニ派には六信五行がある六信、信じ
るべき唯一神アラーは同じなのだが、天使、預言者、終末と来世、は同じだが、啓典、
と予定天命についてはちょっと違う。(預言者ムハンマドの時代から積み重ねられた)
「慣行」(スンナ)および正統な「イスラーム」(共同体)に従う・護持する人々とい
う意味で、アラビア語ではさらにこれを略して「スンナに従う人」を意味する「スンニ
ー派」とされる。さらにイスラーム法学者の議論を通じて、コーラン(クルアーン)、
慣行(スンナ)、合意(イジュマー)、類推(キヤース)の四つの方法を四法源として
重視するに至った。イスラム共同体(ウンマ)の間の「合意」を重視する点がシーア派
と比較した場合のスンナ派の大きな特徴である。四法源から 導き出されたスンナ派の
イスラム法学は法源の、扱い方の違いや解釈の違いによって更に四つのイスラム法学派
(ハナフィー学派・シャーフィイー学派・マーリク学派・ハンバル学派)に分かれてい
る。これらが北アフリカ(マグリブ)に伝わり聖者崇拝が盛んになっている。トルコや
中央アジアでは、更に変形し革命により公的に禁止されたものの歴史的には神秘主義の
教団(タリーカ)が大いに栄えていた。エジプトやインド・パキスタンでは、このタリ
ーカがタリバンに又変質し社会的に強い影響力を持つものになった。特に近代に至って
はサウジでワッハーブ派の改革運動が生まれ、その影響でをコーラン・スンナの規定を
厳格に適用し多様性や土俗性或いは異種性を廃する「イスラム原理主義」の初期型イス
ラーム復古が運動がスンナ派ムスリムの一部は進んでいる。近代のスンナ派の復古運動
は時に「反帝国主義・反共産主義・反ユダヤ主義・反米」などの意識で結びつき、無視
できない潮流でもある。だが現実には、これも又過去の聖書を作ったユダヤの亡霊の中
の陰謀でしかない。つまり聖書の中で動かされている選民思想の排除論理が大手を振っ
て武器を手にして、人殺しを楽しんでいるに過ぎない。


1106: 名無しさんAA:17/12/26 19:38
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 748----------

 日本仏教では、毘盧遮那とはサンスクリット語の Vairocana「ヴァイローチャナ」の
音訳で「光明遍照」(こうみょうへんじょう)を意味する。「毘盧舎那仏」とも表記さ
れる。略して盧遮那仏(るしゃなぶつ)、遮那仏(しゃなぶつ)とも表される。史実の
人物としてのゴータマ・シッダールタを超えた宇宙仏(法身仏)。宇宙の真理を全ての
人に照らし、悟りに導く仏。毘盧遮那仏については、『華厳経』に詳しく説かれている
。史実の人物である釈迦のゴータマ・シッダールタを超えた宇宙仏(法身仏)として、
この世に存在するとしている。宇宙の真理を全ての人に照らし、悟りに導く仏の姿であ
る。毘盧遮那仏については、『華厳経』に詳しく説かれているが、その前にこの仏と言
う対象物は、日本仏教では「現智」の存在だ。つまりあるのに見えない。阿弥陀如来は
その未来を見える時の現生の姿としている。古代アーリア人の共通の「ザラスシュトラ
」祭式儀礼の簡素化を求めて闘った、釈迦王子は、苦行の上に因果応報を悟り終末論と
救世主思想を持って人が救われる事に気づいた。人が人であり続ける事では人は進化し
ない。そこで人がより良く生きる知恵として未来社会を置いた。この未来はその人に対
する苦行の位置にある。それを救うのが如来である。更に昇華されれば仏となる。と説
いた。そしてそこは決して崩せない金剛界とし祈る所を胎蔵界とした。つまり曼荼羅教
の中にあるのは、須弥山を中心とする全世界を十方三世の諸仏に捧げる供養であり密教
の経典・儀軌には全く基づかない、神仏が集会(しゅうえ)する図像や文字列の組み合わ
せをして、「金剛界曼荼羅」「胎蔵曼荼羅」「現世界曼荼羅」を作ったのだ。この3つ
はそれぞれ繋がっていて唯一無二の人間で産まれ人はこの世で修行しそして天国に行く
準備をする。そしてその神に近づく用意をする者を如来とした。即ちあの世でも修行す
る者である。そしてそれが釈迦王子=阿弥陀如来=盧遮那仏と言う形に形成されている
。これは欧州に渡った「ゾロアスター教の教義」がユダヤやキリストの単なる書き換え
であった事と違い、一度バラモン教やヒンズー教や或いはイスラム教などの様々な経典
から一つ解脱した答えを出した新しい経典と宗教になったのである。そして日本にやっ
て来て、更にゾロアスター教から派生していた日本皇道である神道との神仏混合が行わ
れ 儀式や階級から離れ更に人を導く宗教にと変化していった。此処にユダヤが造った
旧約聖書と日本人が過去をも大事にした国家神話の話の違いがある。そこには未来を語
るか過去を騙るかの違いである。韓国や中国の様に日本人は収拾や上下を無理に合わせ
た騙りを行わない。おかしい物はおかしいままにして語り継ぐ粋の良さを求めたのであ
る。

1107: 名無しさんAA:17/12/26 19:38
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 749----------

「古代アーリア人」が造ったとされる「アフラ・マズダー」は、アフラの神群の中から
考案された「アフラ(主)」と「マズダー(叡智)」の二語によって指し示されたもの
だ。拝火教自体はもっと古く紀元前3〜4千年まで遡る事が出来る。その中でザラスシ
ュトラは、原始アーリア民族の神々を再編成した結果において、「ゾロアスター教」が
産まれた。アフラ神群をして天使の座に留まり、「善」なる神々を構成した。一方ダエ
ーヴァ神群は神々の座から滑り落ちて、闇夜の神とされ宗教的に新しい概念で「悪魔」
と見なされるようになった。こうして中央アジアからイラン高原のアーリア民族の中で
は、「アフラ・マズダー」と並んで光の神「ミスラ」も人気があり二つの崇拝を巡って
、長らく勢力を争うこととなった。「ザラスシュトラ」の善悪二元論はイラン高原北東
部に生まれたの慣習的意識の中にあったのかも知れない。従来インド・イラン語派の中
で信じられてきた信仰に、「善と悪」との対立を基盤に置いた世界観を提供し、また、
きわめて倫理的な性格をもつ宗教に改革したと考えられている。だがそのミトラのもつ
意識は欧州社会でも拡大される。旧約聖書『創世記』によると、アダムの創造後に、実
のなる植物が創造された。アダムが作られた時にはエデンの園の外には野の木も草も生
えていなかった。アダムはエデンの園に置かれるが、そこにはあらゆる種類の木があり
、その中央には命の木と善悪の知識の木と呼ばれる2本の木があった。それらの木は全
て食用に適した実をならせたが、主なる神はアダムに対し善悪の知識の実だけは食べて
はならないと命令した。なお、命の木の実はこの時は食べてはいけないとは命令されて
はいなかった。その後、女(エバ)が創造されると蛇が女に近付き、善悪の知識の木の
実を食べるようそそのかす。女はその実を食べた後、アダムにもそれを勧めた。実を食
べた2人は目が開けて自分達が裸であることに気付き、それを恥じてイチジクの葉で腰
を覆った。この結果を知った神は、蛇に腹這いの生物に変え、女は妊娠と出産の苦痛が
増し、また、地(アダム)が呪われることによって、額に汗して働かなければ食料を手
に出来ないほど、地の実りが減少することを主は言い渡した。アダムが女をエバと名付
けたのはその後のことであり、主なる神は命の木の実をも食べることを恐れ、彼らに衣
を与えると、2人を園から追放する事にした。命の木を守るため、主なる神はエデンの
東にケルビムときらめいて回転する剣の炎を置いた。

1108: 名無しさんAA:17/12/26 19:49
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 750----------

 物語は続き、その後アダムは930歳で死んだ。とされる、しかしエバの死について
は記述が出ない。また、「善悪の知識の木」の実(禁断の果実)はよく絵画などにリン
ゴとして描かれているが、『創世記』には、何の果実であるかという記述は全くない。
旧約聖書の創世記の、主なる神はアダムとエバを追放した後、命の木への道を守らせる
ためにエデンの園の東に「回転する炎の剣」とともに「ケルビム」を置いたという。記
述と、その後の「契約の箱」の上にはこの天使を模した金細工が乗せられている事から
、「ケルビム」は神の姿を見ることができる天使として(=智ソフィア)事から日本で
は「智天使」という訳語をあてられた。エゼキエル書10章21節によれば、四つの顔と四
つの翼を持ち、その翼の下には人の手のようなものがある。ルネッサンス絵画ではその
まま描写するのではなく、翼を持つ愛らしい赤子の姿で表現されている。これをプット
(Putto) という。「彼はケルブに乗って飛び、」(サムエル記下22章11節)「主はケ
ルビムの上に座せられる。」(詩篇99編1節)などといった記述があって「神の玉座」
「神の乗物」としての一面が見られる。ケルブの起源はアッシリアの「ゾロアスター教
」の守護神をもじった有翼人面獣身の守護者「クリーブ」ともいわれているのである。
エゼキエル書1章によると、ケルビムの姿は「その中には四つの生き物の姿があった。
それは人間のようなもので、それぞれ四つの顔を持ち、四つの翼をおびていた。…その
顔は“人間の顔のようであり、右に獅子の顔、左に牛の顔、後ろに鷲の顔”を持ってい
た。…生き物のかたわらには車輪があって、それは車輪の中にもうひとつの車輪がある
かのようで、それによってこの生き物はどの方向にも速やかに移動することができた。
…ケルビムの“全身、すなわち背中、両手、翼と車輪には、一面に目がつけられていた
”(知の象徴)…ケルビムの一対の翼は大空にまっすぐ伸びて互いにふれ合い、他の一
対の翼が体をおおっていた(体をもっていないから隠しているという)…またケルビム
にはその翼の下に、人間の手の手の形がみえていた(神の手だという)」とされている
。と表現されているこの表現において、セラフィムと混同されて描かれているとも言う
。しかし その後 このユダヤ的「ケルビム」はドイツ語で「ヴィルヘルム」であり、
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトル・アルベルト・フォン・プロイセンの名はこ
の名を取っていると考えられる。このケルビムはの阿悶如来、宝生如来、阿弥陀如来、
不空成就如来の四仏を置く、金剛界五仏を従える大日如来であり、その化身不動明王と
されている。神仏習合の解釈では天照大神と同一視もされる神だった。


1109: 名無しさんAA:17/12/26 19:50
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 750----------

アフラ・マズダーと“善神”群
アフラ・マズダーは、ゾロアスター教の主神で、みずからの属性を7つの
アムシャ・スプンタ(七大天使、不滅なる利益者たち)という神々として実体化させ、
      天空、水、大地、植物、動物、人、火の順番で創成した、世界の創造者で
      ある。アフラ・マズダーを補佐する善神(アムシャ・スプンタ)としては
      、次の7神がある。
スプンタ・マンユ : 「聖霊」を意味する人類の守護神で、アフラ・マズダーと同一視さ         れることもある。
ウォフ・マナフ  : 「善なる意思」を意味し、動物界の統治者でアフラ・マズダーのこ         とばを人類に伝達する役割をになっている。常に人間の行為を記録し         ており、やがて訪れる「最後の審判」でその記録を詠みあげるとされ         る。
アシャ・ワヒシュタ
   (アシャ) : 「宇宙を正しく秩序づける正義」に由来し、天体の運行や季節の移          り変わりをつかさどる。「聖なる火」の守護神。虚偽の悪魔ドゥル          ジに対峙する。
アールマティ   : 代表的な女神(女性天使)。「献身」「敬虔」の名の通り、宗教的          調和や信仰心の強さ、さらに信仰そのものを顕現する。大地の守護          神となっており、「背教」と「推測」の悪魔タローマティと対立す          る。
クシャスラ(フシャスラ・ワルヤ)
         : 「理想的な領土ないし統治」に由来し、「天の王権」を象徴する。          アフラ・マズダーによる「善の王国」建設のために尽力する。
          金属ないし鉱物の守護神。
ハルワタート    : 「完璧」を意味する女性の大天使。アムルタートとは密接不可
          分とされる。水の守護神。
アムルタート    : 主神アフラ・マズダーの子で、名は「不死」に由る。植物の守護         天使で、ハルワタートと力を合わせて地上に降雨をもたらす。
         また、善神の象徴は「炎」とされ、そこから「火の崇拝」が生まれて          いる。


1110: 名無しさんAA:17/12/26 19:50
アシャ・ワヒシュタの、
火持つ天は仏教での不動尊明王とされ「宇宙を正しく秩序づける正義」に由来し、天体
の運行や季節の移り変わりをつかさどる。「聖なる火」の守護神である。虚偽の悪魔ド
ゥルジに対峙すると言う。韋駄天 天空、水、大地、植物、動物、人、火の順番で創成した、世界の創造者である。


1111: 名無しさんAA:17/12/26 19:54
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 750----------

アフラ・マズダーと“善神”群
アフラ・マズダーは、ゾロアスター教の主神で、みずからの属性を7つの
アムシャ・スプンタ(七大天使、不滅なる利益者たち)という神々として実体化させ、
      天空、水、大地、植物、動物、人、火の順番で創成した、世界の創造者で
      ある。アフラ・マズダーを補佐する善神(アムシャ・スプンタ)としては
      、次の7神がある。
スプンタ・マンユ : 「聖霊」を意味する人類の守護神で、アフラ・マズダーと同一視
          されることもある。
ウォフ・マナフ  : 「善なる意思」を意味し、動物界の統治者でアフラ・マズダーの
          ことばを人類に伝達する役割をになっている。常に人間の行為を
         記録しており、やがて訪れる「最後の審判」でその記録を詠みあげ
         るとされる。
アシャ・ワヒシュタ
   (アシャ) : 「宇宙を正しく秩序づける正義」に由来し、天体の運行や季節の
          移り変わりをつかさどる。「聖なる火」の守護神。虚偽の悪魔
         ドゥルジに対峙する。
アールマティ   : 代表的な女神(女性天使)。「献身」「敬虔」の名の通り、宗教
         的調和や信仰心の強さ、さらに信仰そのものを顕現する。大地の守
         護神となっており、「背教」と「推測」の悪魔タローマティと対立
         する。
クシャスラ(フシャスラ・ワルヤ)
         : 「理想的な領土ないし統治」に由来し、「天の王権」を象徴する
          。アフラ・マズダーによる「善の王国」建設のために尽力する。
          金属ないし鉱物の守護神。
ハルワタート    : 「完璧」を意味する女性の大天使。アムルタートとは密接不可
          分とされる。水の守護神。
アムルタート    : 主神アフラ・マズダーの子で、名は「不死」に由る。植物の守
          護天使で、ハルワタートと力を合わせて地上に降雨をもたらす。
         また、善神の象徴は「炎」とされ、そこから「火の崇拝」が生まれ
         ている。

1112: 名無しさんAA:17/12/26 19:56
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 751----------

 なぜヒットラーはユダヤ迫害に及んだか。それは簡単な事でそれが当時の常識だった
から。と言える。戦前までのヨーロッパでは、大陸の人種はもっぱら西洋の人々は、「
アーリア人かセム人か」というふうに区分されていた。大方の諸君が知ってのとおり、
ヒトラーはこのセム人に属するユダヤ人の撲滅を謳い、アーリア主義すなわちゲルマン
主義を喧伝した。そして大量のユダヤ人が虐殺された。それは、一体何だったのか。フ
ァシズム思想と言うの簡単だ。そしてヒトラーの狂気の性にするのも簡単だし現にそう
して米国に行った贋のユダヤ教徒はそうして隠した。ヒトラーは『わが闘争』に「アー
リア人は人類のプロメテウスである」と書いた。しかし、ヒトラーがこのように断言で
きたのは長い前史があったからだったのは歴史上事実だ。キリスト教は長きにわたって
、人間がアダムという共通の父から生まれ、族長ノアとその息子たち、ヤペテ、セム、
ハムによって大きく3流に分岐したと説明してきた。ところがいつの間にか、ヤペテの
子孫がヨーロッパ人になり、セムの子孫がアジア人となり、ハムの子孫がアフリカ人に
なったという俗説を作り上げた。更には、ハムは農奴の祖先で、セムは聖職者の祖先、
ヤペテは貴族の祖先だという俗説に変わると、アーリア神話はどんどこ差別的主張が加
わっていった。これがアーリア神話だ。要するにヒトラー以前に、アーリア神話はとっ
くに作られ、しかも多様に確立していたのだった。この研究は1966年にサセックス
大学のコロンバス・センターで発表され、かのノーマン・コーン(897夜)の主導に
よる「なぜ人種主義や民族主義は大量虐殺の歴史を演じてきたか」をめぐる研究が開始
された。ポリアコフはその恩恵に広く浴したらしい。コーンが提示した研究対象には、
魔女裁判から人種差別まで、スペインにおける白人と黒人の分離からナチスによるユダ
ヤ人虐殺にまでおよぶもので、本書はその討議と研究の成果の最大の結実となったのだ
。やや文脈がとりにくいのだが、そのぶん驚くほどのエビデンス(証拠)をちりばめて
いてこの多国籍にまたがる文脈をあらかた理解するのに、ざっと10年を要した。本書
の記述にあらかたしたがって、スペイン、フランス、イギリス、イタリア、ドイツ、ロ
シアの順にその前史をかいつまみ、そのうえでアーリア神話がどのように異様な超シナ
リオになり、それがヒトラーの言説にまでなっていったのか、その概略をマッピングし
ていくと、日本を支えていたヨーロッパや「セカイ」についての殆どの人間が抱いてき
たイメージや知識が、異邦人でもかなり違っていた物だったと言う事が理解できると思
う。


1113: 名無しさんAA:18/01/14 02:18 ID:LEM
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 752----------

まず、スペインからだが、欧州諸国の中で最も古い歴史を持つと思われる。だが前史の
頃の面影は全く消えてしまう。そしてスペインの歴史上大きいのは711年のイスラム
侵入とその後のレコンキスタである。その前の歴史が忘れられがちであるが、もともと
はローマ帝国が土着文化を消し去ろうとした運動の中でそこへ西ゴート族とヴァンダル
族が侵入したことによって変質していったと見てよい。つまりスペインはもとから積極
的に“ゲルマン化”していった国土だったのだ。カロリング朝以前のヨーロッパで最も
学殖があったとされるセビリアのイシドルス大司教は、西ゴート王朝のすぐれて奉仕的
な理論家でもあった。そしてスペインを「ゲルマン的歴史の人種文化」として正当化し
た。それによりここからゴート人をどのようにみなすかという歴史が躍如した。スペイ
ンのアカデミーでは、いまでも「ゴド」(Godo)といえば「古くからの貴族」の事だと
みなしている。そもそもルネサンスではゴート的なることは(すなわちゴシックっぽい
とは)、自由であって、かつ野蛮でもあると言う両義性をもっている。それゆえにセル
バンテス(1181夜)が書いた『ドン・キホーテ』は冒頭に「高名で光輝あるゴート
人ドン・キホーテ」として示した。こうしたゴート人認識をもとに、18世紀に、古代
スペイン人をゲルマン人あるいはドイツ人と呼ぶという見方が広がった。そこにはイス
ラムの席巻を撃退しなければならなかったイベリア半島独特の「再統一的な征服観念」
が関与した。つまり蛮勇割拠においてイスパニア・ポルトガルが一番頭を抜けて王国の
中の王国となって大航海時代を走りだしたのだった。まさしくこれを横目で眺めていた
のがフランスだった。フランスはスペイン以上に農耕文化の中で王侯貴族は裕福だった
ので結構な怪しい国内歴史を作って来たのだ。フランス人にとっては「ゴート」に匹敵
する「フランク」が問題だった。十字軍は「フランク人の手になる神の行為」であり、
解放された奴隷は「アフランシ」で、自由にされた者の意味を持った。そもそもフラン
スからすれば、フランスの地に侵入したゲルマン人とガロ・ロマン人が混交してフラン
ク人になった史実がある。カロリング朝とは「カール」と言うローマの載冠をした者と
言う表現でフランク人の王が出来た事を示す。欧州大陸の主人公となり、ゲルマン人と
ロマ人がフランクに子を産んで王となったのだ。「年代記」のなかでは、ドイツ人はそ
のフランク人の分枝とみなされている。なんともフランスらしい矜持だった。これで、
シャルルマーニュ(カール大帝)は「フランク人およびチュートン人の皇帝」たること
を自信をもって公称でき吹聴できたのだ。カール大帝は親しい近臣には自分のことを、
ダビデと称ばせていた。

1114: 名無しさんAA:18/01/14 02:34
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 753----------

 ドイツ人からすれば、ゲルマンの魂の正当性を持ち地元の風習や伝統を守って来たア
ーリアの血を、こんなロマ人の混血児フランク人が持っていくのは許せない。ドイツ人
はタキトゥスの『ゲルマーニア』を論拠に、カール大帝をフランス化させた事をなじり
、ライン河の対岸こそアーリアの起源があることを主張した。こうしてルネサンス期に
フランスとドイツ両者の言い分が早くも白熱し違ってくる。ここに1580年代にド・
ベルフォレの『わが祖先ガリア人』が刊行される。「ガリア人こそがフレンチ・アーリ
アの起源である」との評判がたち、ギョーム・ポステルなどもゲルマン人に対するガリ
ア人の優越を強調する。ガリア人はガーリ船の乗組員の事で、ケルトやトルコからの奴
隷のような形で、船員で住み着いた者達だったが彼らこそ、多様でひとくくり出来ない
ミトラの信仰者だったと言う。論争を尻目に、ルイ14世が登場するとフランスは強引
にゲルマンの系統樹も又フランクの系統樹も自分の系統にしてしまった。それは新しい
総国民への税体系にもなった。かくて17世紀のジャン・ラブール神父以降は、「元来
、フランス人は完全に自由で、完全に平等なはずだ。」という風で、これがシモンや、
モンテスキューにも伝染して、古代ゲルマン人を「われわれの父」とさえ呼んでいた。
この手放しの、ガリア主義・ゲルマン主義をこっぴどくやっつけたのは、皮肉な歴史家
ヴォルテールだった。彼はフランスにフランクの家系を引くものなど一つもないと言っ
てのけた。同じ啓蒙派でもディドロのほうは、あえて語源を持ち出して、「フランク、
フラン(自由)、リーブル(自由な)、ノーブル(貴族)」などが同じ語源であること
を仄めかした。だが不思議にもフランス革命は、これらの議論は一旦ご破算にしてた。
フランス革命は「抑圧するローマ人、抑圧されるガリア人、解放を謳うゲルマン人」と
いう三つ巴の構図を現出させたのは不思議である。これが盛んになったとは言え中世期
のフランスの国家経営は破綻し、都市文化が反映し農家が常に窃取され民族の歴史から
見たフランス革命とは、貧困からの脱却でしかなかった。そういうものだったのだ。フ
ランス革命は必ずしも市民の起爆などでなくギゾーはこれを集約して、「フランス革命
は結局はフランク人とガリア人の対立だった。それがそのまま領主と農民、貴族と平民
の対立になり、そこに勝利と敗北があらわれたのだ」と述べた。つまりは、フランスの
アーリア神話は貴族の神話で、フランス革命とフランスの歴史を最も公平に記述したジ
ュール・ミシュレさえも「人種は重なり合っていく。ガリア人、ウェールズ人、ボルグ
人(古代ベルギー人)イベリア人というふうに。そのたびにガリアの地が、肥沃でケル
ト人の上にローマ人が重なり、ゲルマン人が、そこへ最期にやってきたのだ」と書いた。

1115: 名無しさんAA:18/01/14 02:42
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 754----------

 英国ブリテン島は全く以て困っていた。間違いの国イギリスは、只のローマ人の砦地
であったからだ。もともとイギリスはそのような過誤の国事情が多々あるままだった。
11世紀以前のイギリスは多数の民族の次々到来し寒い土地が錯綜していた。ブリトン
人、アングル人、サクソン人が先住していた中、ケルト人、ローマ人、ゲルマン人、ス
カンディナヴィア人、イベリア人などがやって来た、最後にノルマン人が加わったのだ
が。この小さな島に大陸の主要民族や部族は、みんなこのイギリス島に逃げて来ていた
。この「逃げて来た」と言うのが曲者で、人生の後ろ影あるので寄り添う様に混交が進
み、本来は区別される地も共用管理として上手く働きだした中に次の民族が入って来る
。と言う事が積み重ねられた。そうして「ブリティッシュ」と「イングリッシュ」の境
いすら曖昧になった。実は公用語として大事な「英語」は、この混成交差する民族達の
曖昧な言語で発達し意味すら混合した人為言語だ。それゆえ英語は「失敗しても逃げら
れるユーモア」などが巧みに必要となる言語となった。こうした調整をするに長けたイ
ギリス人は、自分たちの起源神話をギリシア・ローマ神話にもケルト神話にも、ゲルマ
ン神話にも聖書にも求めた。こんな欲張りなルーツの民族はない。もっとも、イギリス
から派生したアメリカ人はまだ大胆に欲張りだった。ジェファーソンらがアメリカ合衆
国をつくりあげた起源神話でも、サクソン人の首領ヘンジストとホーサによるとあげ、
一方でメイフラワー号の渡航のユダヤ人やアングル人による移民もあげた。しかし実際
には、「最初の横断」のことなどすっかり忘れていて、そこでやむなく、イシドルスの
記述を持ち出し、自分たちの名の由来になる祖先として「ブリットないしはブルタス」
という名を選び出し、せっせとヤペテの系譜につなげたのだ。今の韓国人の世界は韓国
起源説と全く同じ様な出鱈目だった。ベーダが「イングランド史」を書くのだが、この
テキストのおかげでベーダは“イギリス史学の父”と呼ばれた。ベーダは「ジュート、
アングル、サクソンがゲルマニアの地からやってきた」とも書き加えていたからだ。ま
、この系譜はのちに書き換えられていったのだが。アルフレッド征服の“史実”を正統
化するために、いつの間にか、あらゆるゲルマン部族のなかで、アングル族とサクソン
族のみが最高神オーディン神(北欧神話の主神にして戦争と死の神で魔術に長け、知識
に対し貪欲な神)、(ミーミルの泉の水を飲んで知恵を身に付け、魔術を会得した全知
全能の神)で、(自らの目や命を代償に差し出す形力を持った神。)の系譜をもった者
として、セムの系譜に直結しているという風にしたのである。

1116: 名無しさんAA:18/01/14 04:26
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 755----------

 こうしてイギリス人はヤペテの系譜であった、が、ノアの長子のセムの系譜のほうに
位置づけされ。このうまくいった話はアーサー王伝説や獅子王リチャードの伝説がその
根拠となった。イングランド王たちは自分たちがセムの末裔であって、「モーセの民」
であることを誇った。ヘンリー8世も、クロムウェルもピューリタン派も、ウィリアム
でさえ、イギリス人をモーセの民に帰属させることに賛意をして、驚かされる。主流派
を嫌い支流の盟主となった者らが、主流派としたのだからピューリタンとして多くの血
を流した新教徒革命は全くかつての世情の階級と宗教に戻っのだ。こうしてイギリス人
とユダヤ人を結びつけるへ理屈が積極的にいろいろ試みられた。トーランドは「大ブリ
テン島及びアイルランドにユダヤ人を帰化させる理由」を書き、プリンは安易な選択に
反対する「イングランドへのユダヤ人の召還に反対する小論」などを出した。しかし、
近代にイギリス人の血は、ウォルター・スコットの『アイヴァンホー』と『ウェイヴァ
リー』だ。これによってジャコバン派の反乱を素材に若い草莽の血を描いた英国浪漫を
滾(たぎ)らせて、イングランドの血統はスコットランドの血統に対峙した形で収まり
、イギリスの血潮はフランスの血潮を凌駕してしまった。この対峙はユダヤ人金融家に
とっては全く都合が良く、更にアイルランドを絡ませる事でフランスの金融資産を隠し
にイングランド銀行創設を可能にしたのである。かくして、この地に無税の政府に支配
されない金融資産の運用拠点が築かれたのである。つまり民主主義に於いて血統継承が
なされない政権と世代継承する資産との共存が三つ巴の抗争で此処に可能になったのだ
。これがイギリスの培った面妖さであった。こうしてイタリアのフェレンツェやオラン
ダのアムステルダムの都市達が、貿易によって資産を積み上げて国家運営する中で、王
侯貴族の博打による保険制度や同じ様な船舶の信用保証の高い掛け金や株式の先物取引
などを作り上げ裏で操る国家となった。アムステルダムのチューリップ輸出などは最初
の株価暴落として有名だが、この裏のプロパガンダには、船舶保険を担ったロイド保険
の持っていたプロパガンダ機能が大いに利用された。ではその簡単に財産を分捕られた
イアリアの市民は一体何を根拠として動いていたのか。イタリアは「イタリア的」と言
われる程古くからの国際正義であるルールが存在して壁があった。フランスやイギリス
やスペインと同じ視点でみるのは、違いの極みだ。イタリアの地では多くの部族や民族
が通過する古い都市であったからだ。ギリシア人、ガリア人、ゴート人、ロンバルディ
ア人、ビザンチン人、ノルマン人、フランス人、ドイツ人、スペイン人全てが交差した。

1117: 名無しさんAA:18/01/14 11:19
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 756----------

 しかし今も昔もイタリアは、この地で成功した者が住み着いている地だったのである
。つまりフランスやイギリスと違い、本流であり続ける誇りの下に住み続けた人達だ。
これらの民には自分たちが世界の歴史の中心に組み込まれる恐怖を知っていた。それは
イタリアは非主流が誇りであった事だ。本流でありながら主流を嫌った。横浜の中華街
の様に、ヨーロッパの辺境である事で良いとしていた。既にイタリアは古代文化都市で
あり、つねにウェルギリウスが描いた「アエネーアスの物語伝統」と、そこから国が築
かれた「古代ローマの遺産」と、そして「歴代のローマ教皇」の上に成立し、いかなる
イタリア性も別の国々から援用しては来なかった。つまり逆に入って来る文化を嫌った
のだ。例えその先祖帰りの系統の進んだ文化であっても拒否していた。確かにイタリア
にはフランク神話やゴート神話に類したもの、たとえば“ロンバルディア神話”といっ
たものは一度も現出しない国である。どだい「長い髭の異臭」(古きが故のくびき)と
いう以上の意味をもってはいなかった。中世都市国家群すら、イタリアの民族主義に何
の装飾も加えなかった。それはここが常にスラブ民族の欧州征服の基点となる国家だっ
たからだ。征服されれば征服された悲しさよりは次の征服の用意に押し立てられ、防御
を考えれば防御に期待する後ろの国家の圧力を受け続けた歴史からだ。強くも弱くもあ
ってはならない国家であり続けた。当然マフィアやギルダーなど裏の結びつきで仲間や
国民同盟の色分けが際立った、群居の都市国家の集まりであった。純血イタリア主義と
もいうべきをルネサンスに向かって派手に確立させたのは、イタリア起源神話の流れに
最も貢献したダンテであった。「神曲」がウェルギリウスの案内による世界巡りして、
シーザー(カエサル)を殺したブルータスとカッシウスが地獄の第9獄に配下されてい
ることでも、よくわかる。視点は常に外の社会や世界だった。つまり、ダンテもイタリ
ア人もイタリアを通過した数々の族長には決して関心を示さない。ダンテだけではない
。ルネサンスのユマニスムを謳歌したペトラルカやボッカチオだって一人の古代ギリシ
ア人すらとりあげなかった。イタリアは既に「覇権」を止めて「個人主義と懐疑主義」
の中にいて普通の幸福を求める国であったのだ。以来、イタリアはマッツィーニが「第
3のローマ」を謳い、ガリバルディが「ローマか死か」と訴えたように、みんなが“ロ
ムルスの子孫”というアーリア人になりたがったのである。つまりは人種起源など、ど
うでもよく自分達のテーゼは地中海にありルーツはギリシャにしか無いと思っていた。


1118: 名無しさんAA:18/01/14 11:20
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 757----------

 ふつうにイタリアが「個人主義と懐疑主義」の民に片寄るのなら、ドイツは「群衆心
理と熱狂の民」に加担してきたと言われてきた。しかしニーチェはそもそも「ドイツ人
を定義することなど不可能なのである」と言ってのけた。ドイツ民衆には「ゲルマンの
初期」と「大ドイツの初期」との間の断絶を見る傾向がある。初期ドイツ人がゲルマン
系の言葉を喋っていたというなら、すでにクローヴィスとシルペリクの時代がゲルマン
的であったのだし、新たにドイツ的なるものがどこから芽生えたのか。いう事になる。
ドイツ(Deutsche)というそのものの語源が示しているように、ドイツは多様な部族間
の言語的共同体あいだの中から生まれてきたものなのだ。この部族間の言語的共同体の
中にあって、その間の文化こそがドイツのナショナリズムの起原となる原郷なのである
。これを真っ先に掲げたのは、誰あろうマルティン・ルターだった。そのことはルター
の「ドイツ国民のキリスト教貴族に与う一書」に明白に書かれる。1780年プロシア
の政治家ヘルツベルクは、ゲルマン民族(アーリア民族)の発祥地はブランデンブルク
であって、そここそが「新しいマケドニア」であると言ってのける。これが何を意味す
るかといえば、ロマン派の巨人ジャン・パウルは「ヨーロッパにおけるどんな戦争も、
つまりはドイツ人のあいだの市民戦争にすぎない」と、ドラスティックに示唆している
。つまりイタリア同様ドイツは色んな民族から蹂躙されて作られた国家だったのだ。又
ドイツを象徴していることは、あらゆるローマ的なるものを軽蔑してきたという事だ。
それはオットー大帝が即位し断言した様に「我々は、ロンバルディア人、サクソン人、
フランク人、ロートリンゲン人、バヴァリア人、ズェーヴェン人、ブルクントセ人は、
ローマ人にたいしてきわめて大きな軽蔑の念を抱いているので、われわれが怒りを表現
しようとするとき、我々は敵を罵(ののし)るのに、ローマ人という言葉を使うのであ
る。」と。この事は少なくとも権威を否定している事にある。ここがイタリアとの確執
であった。同じ大陸からの欧州戦の前線基地であってもローマは中枢でありドイツは、
そうした迫害から駆り出された反骨者の本当の戦場として栄えた地だったのだ。ドイツ
はその歴史の当初から、民族の秩序としての「ドイツ的な魂の共同的原理」を囲う国と
してきた。そう言える。当然派兵された隊の威厳としての規律がそこにある。残念なが
らも「ドイツ的な魂の共同的原理」などというものは性格からのその幻想に過ぎない。
それはこの国が絶えず“理想のドイツ”という共同幻想の上に咲かざるを得ないものだ
った証でもある。その共同幻想は、日本の「八紘一宇」や「大東亜共栄圏」がそうであ
ったように、ふつうならどこかで歪むはずをスローガンで保っていた国であった。

1119: 名無しさんAA:18/01/14 11:20
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 758----------

 ところが、ドイツにあっては、それが 宿敵フランスとの対立や対比が歴史上巧みに
作り挙げられ三十年戦争などついに崩れることなかった。それにはロシアが同じ対立上
にあり、海の向こうにイギリスがあり 国家棄損を自ら国民は避けてきた。その姿は、
今の韓国が対北朝鮮の位置に居ながら、対米活動しロシアや中国に寄り付いて媚をうる
姿と全く同じで言い訳にならない言い訳を我が身に言っていた。顕著な例としてナポレ
オン戦争によって、クラウゼヴィッツのドイツ・戦争論が確立し、フィヒテ「ドイツ国
民に告ぐ」が熱狂的に受け入れられ、「ドイツ語がヘブライ語に先んじていた」という
勝手な共同幻想が、大ドイツ主義の形成を担って広がった。この事は「ドイツ人の世界
の精神」という観念をいつも肥大させ、疾風怒濤のシラーがまさにそうであったけれど
、「ドイツの世界精神が人間の教育を永遠におこなうための資源である」という妄想に
までふくらませて「ドイツ国民の食糧や資源調達にスラブは必要悪の正義である」とい
った様な好き勝手理論を作り上げていた。勝手な「世界生存圏闘争」の幕開けである。
これらは当然な事にワーグナーやヒトラーのアーリア神話に行き届いていく。のだが、
それは当然であった。此処に来た民は進んで来たにせよ押しやられて来たにせよ、民族
の狭間の最前線でありながらも、欧州大陸の地理的中央の肥沃な大地の土地だったのだ
。これを細目で見ていた国がロシアである。ロシアには長らく5つの伝承が組み合わさ
ってきた。ロシアという名称の起原となった「ルーシ伝承」である。更にスラブ族の長
としての「スラブ伝承」と、キエーフの年代記がもたらす「ネストルの伝承」である。
又各民俗習慣やロシア正教の伝承と、そしてビザンチウムやロマノフ王朝の伝承もある
。これらの伝承はしばしば「ウラジミール公の伝説」というふうに束ねられていた。だ
がこれらのいくつもの伝承が、実際に一つに向かっていく結節点となる事は多くの場合
無かった。1472年イヴァン3世がギリシアの王女ソフィア・パレオログと結婚し、
国民的紋章がビザンチンの双頭の鷲になり、ふさわしいモノマクの王冠(白い三重宝冠
)が用意され、モスクワが“第三のローマ”とみなされたが、国内的よりは対外的だっ
た。そこに加わったのが、ロマノフ家のアナスターシャと結婚したイヴァン4世(雷帝
)による、「私はロシア人ではない。私の祖先はドイツ人だった。」という宣言だった
。雷帝はここにロマノフの王家がアーリア化し、ゲルマンの矜持をもつようになった。
 この広大な北国の土地では、激しい非情か、共に助け合う民族かでしか生き残れなか
った。そしてそれは辺境の地故の亡霊や伝説が蠢いていた土地だったのだ。


1120: 名無しさんAA:18/01/14 11:20
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 759----------

 それは「私は田舎に来たけど町の子よ。ひ弱な都会っ子よ。」よ言ったに等しく、そ
の欲望この極寒の地には似合わない言葉だった。だがこれに答えた皇帝がいた。路線と
して欧州文化を拡大したのがピョートル大帝である。大帝は1700年前後の北方戦争
で領土を著しく広域化すると、西欧主義を積極的にとりいれ、ロシア官僚主義とロシア
絶対主義を築いた。しかし、いくらピョートル大帝が夜郎自大にいばり、権勢を誇り、
文化文明を近づけてヨーロッパに向けて喧伝しても、ドイツ人からすると、ロシア人と
いうのは、アジア起原の民族か、もしくはアッティラに率いられてヨーロッパに侵入し
た出鱈目のフン一族の末裔にしか見えなかったのである。が、こんなひどい侮辱は吹き
飛ばさなければならない。その憤慨に着手したピョートル3世に嫁いだエカテリーナ女
帝自身だった。この愚鈍な夫を放逐した上殺害し、ロシア全土に農奴制を強化していっ
た。その後もエカテリーナ女帝は、3度のポーランド分割、再度の露土戦争を押し切り
、フランス革命を憎んだ稀代の女帝で、スラブ人の人種的優越を鼓吹し、晩年にスラヴ
ォニア語が人類最初の言語だと自分で執筆するほど高慢であった。これらの事件は不毛
の地のしたたかな住民の、生活環境も生活感情も生活様式思考も、強制的に一変させら
れた。租税徴収においてスラブ民による同志ユダヤ人の排斥が起こったのである。これ
まで家臣団によって統治されていた地が一律の帝国の統治に嫌々ながら変化したのだ。
こうして、これまで不毛の地をかかえて静かに帝国の元を築いていたロシアにも急激に
大帝国が出来上がるのである。カラムジの「ロシア国家の歴史」や国民詩人プーシキン
の歴史観などが出回るのだが、実際には、プーシキンの友人だったチャダーエフが言う
「哲学書簡」に述べた言葉の様に、ロシアの唯一の特異性は「無」の中に潜んでいたの
だろう。これは簡単な答えでもある。かつて文明は人の住む場所が限られていた。ロシ
アの極寒の地は、恐らくアフリカやアマゾンの灼熱の大地よりも住み難い所の筈だ。だ
がそこに生活している以上は 何らかの生活様式と食糧を持つ活動がある訳で、ロシア
国内の民族がより南下すればその無骨で素朴で真面目な働きでは収穫が上がるのは必定
だった。ロシア革命前のナロード・ニキの運動、ロシア革命のボルシェヴィズムの運動
、ロシア革命後のユーラシア運動などを見ると、チャダーエフの暗示は当たっていた。
こうして、各国に用意されていたアーリア神話の、それぞれの“前提”が出来上がった


1121: 名無しさんAA:18/01/14 11:21
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 760----------

 これらの各国でてんでんばらばらに出入りしてきた言説が、それが奇っ怪にも、しだ
いに「一つのアーリア神話」に向かって超シナリオ化されていった。なぜそんな驚くべ
き超シナリオがつくられることになったかといえば、冒頭にも書いたように、ヨーロッ
パ各国に“人類の単一性”についての「聖書に代わる新たな神話」が必要になっていっ
たからだった。人類をアダムの末裔として提示した聖書については、早くから疑義がも
たらされていた。10世紀のアル・マスーディは「すべての人間が一人の父のもとから
派生した」という考えのおかしさを指摘して、アダムの前にざっと28種ほどの民族が
先行していたことを主張した。以来、このようなトンデモ仮説はさまざまなヴァージョ
ンとなって歴史思想をかいくぐってきた。とくにこの手の仮説がまことしやかに立案さ
れていったのは、なんと“人間復興”に耽ったはずのルネサンスに入ってからのことで
、それも世界思想の駆動エンジンに大きな寄与をもたらしてきた人物たちの手で、立案
された。それは聖書の記述を否定しながら聖書の中の正統な子孫となりたかった欲望か
らだった。パラケルススはアメリカの土着民は“別のアダム”の系譜に属するだろうと
問い、ジョルダーノ・ブルーノは「人類はエノク、レビヤタン(リヴァイアサン)、ア
ダムという3つの祖先をもっていた」と説いたのだ。イギリスでは詩人のクリストファ
ー・マーローや、数学者のトマス・ハリオットが「ヨーロッパのどんな外国でもアダム
以前の人間たちの末裔がひしめいているはずだ」と述べている。こうした言説がアーリ
ーモダンおいて最初の異様なセンセーションに達したのは、ボルドー地方のマラーノだ
ったイザク・ド・ラ・ペレールが『ユダヤ人の召還』(1643)や『前アダム仮説に関す
る神学体系』(1655)を発表したときである。ラ・ペレールは聖書の年代記をいったん
ご破算にして、フランス王たちは「かつての選ばれた民」を国内に召還したほうがいい
、そうすればユダヤ人以外の祖先によるダビデの王国を復活することも可能になると、
強調した。これは、アダムがユダヤ人のみの生みの親であっても、それ以外の選民がも
っといるはずだ、そこには「われわれのルーツ」もあるはずだという主張でもあった。
いささかおっちょこちょいだったデカルトやメルセンヌはこの主張にけっこう心を動か
した。さすがにパスカルは一笑に付している。だがこれは正当な意見でもあった。人が
選民思想を植え付けられていたとしても 選民が敢えて一民族と言うのは意図的である



1122: 名無しさんAA:18/01/14 11:21
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 761----------

 このような新しい人類起源論の流行を、いまではまとめて「複数創世説」ということ
ができる。人類複数起原説である。この話は御歴々の思想家達に人気があり異説が好き
なホッブス、スピノザはむろん、後期ヴォルテールも後期ゲーテも加担したのである。
 しかし、いざこの仮説を現実社会に充てると、けっこうな難題が待ちかまえていた。
その難題に最初に出会ったのがスペイン人だ。南米を侵略したスペインがここで原住民
を布教する事になったとき、インディオをアダムの末裔と見るか、それとも異民族と見
るかで布教方法が大論争になったのである。ドミニコ会の修道士バルトロメ・ラス・カ
サス達は、インディオをアダムの末裔とみなし、その解釈にローマ教皇庁もフェリペ2
世も同意した。ということは、ここでは「複数創生説」は破れたのだ。ところが他方、
スペインから奴隷労働力として南米に連れていく事になったアフリカの黒人達について
は、彼らは、ぬけぬけと複数説をとり、「白いインディオ」と「黒いエチオピア人」と
言って別けて黒いアビシニアを区別し家畜としたのである。酷い話だがそれが選民思想
の成せる技だった。インディオをアダムの民と見ることと、黒いエチオピア人を白いイ
ンディオと対比させることには、あきらかに矛盾があった筈だ。にもかかわらずそれが
慣習になった。そこで何らかの工夫が必要になった。その工夫に貢献した一人のシナリ
オライターが「ノアの方舟あるいは諸王国の歴史」(1666)を書いたドイツ人のゲオル
ギウス・ホルニウスである。ホルニウスはノアの末裔に分岐をもうけ、ヤペテ系が白人
になり、セム系が黄色人種になり、ハム系が黒人になった。と言う論を展開したのだ。
歴史学も神話学も取り乱しはじめた。やがてスペインの時代がオランダに移り、それが
イギリスに移っていくと、こうした人種論に“科学の目”を絡めて目くらましを行うこ
とが流行した。ラ・フォンテーヌは、そうしたイギリス人の趣味を、「至る所で科学の
王国を広げているイギリスのキツネ達」と呼んだ。アーリア人種主義は「科学の王国の
住民」にもなったのだ。不思議だが近代科学のプロトタイプとなった数々の科学論や哲
学論が、人種についてはそうとうにめちゃくちゃな議論を正当化しようとしていたこと
は、今も昔もそういう思想が聖書の源流を造ったのおだ。こういう人種論はもっと知っ
ておいたほうがいい。ジョン・ロックは「猫と鼠をかけあわせた動物がいる。」だろう
と世界の人種を見ていたし、レオミュールはそれこそ「ニワトリとウサギのかけあわせ
に類する実験 のあれこれに成功した。」とフランスでは信じられていたのだ。

1123: 名無しさんAA:18/01/14 11:22
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 763----------

 このとんでもないゴミノー科学は、「吸引の法則というのは人種の混交を受容して行
く傾向のことを、反発の法則は混交を避ける傾向をいう。」と言う”歴史科学”を用い
ていて白い人類にあてはめられた。「二つの法則がはたらいて、ハム人は黒い血との混
交を吸引しすぎて飽和と劣化をくりかえし、セム人はそれよりもゆっくりした程度では
あるが劣化した。それに対してヤペテの子孫であるアーリア人は、キリスト教の初期時
代あたりまでかなりの純粋を保ってきた。」とゴビノーは、そうした珍説を繰り返して
いた。ちなみにユダヤ人はセムの初期の血をやや純度をもってきたとみなされた。ゴビ
ノーは、こんなどうにも理屈の整合性の説明がつかないような構図を自信をもって提示
したのだが、それは当時反発すらされなかったのだ。最も、アーリア人もキリスト紀元
以降はフィン人をはじめとする各種の民族と混交したため、しだいに堕落していったと
見て、決してドイツ人ばかりに好意の例外性を与えてはいない。が「ゴビノー科学」の
このトンデモ仮説は、当初は全く評価を受けなかった。ゴビノーはがっかりしていた。
そのためトクヴィル、エルネストらはゴビノーを慰め、「君の主張はきっとゲルマン諸
国で受け入れられていく」と激励したほどだった。この慰めの予言はヒトラーの時代に
なって当たった。実際はゴビノー科学とは別に、思想家達や言語学の分類学が似た様な
言説を強調していった。トンデモ仮説はまことしやかな恰好でしだいに広まっていった
。たとえば、「自然哲学の父」と称ばれたシェリングは白人は最も重要な高貴があると
考えていたし、「神話の哲学」で人類を「人間的な人種」(ヨーロッパ)、「動物的な
人種」(アフリカ・アメリカ)、「中間的な人種」(アジア)に分けている。その上で
「コーカサスの人種の祖先のみがイデーの世界に入りこめる唯一の人間だった」と、暗
にアーリア人を称揚した。又、ドイツの自然主義哲学のパイオニアのR・オイケンも、
モンゴル人、アメリカ・インディアン、アフリカ黒人に言及し、結果的にゴビノーの歴
史科学に似た言説を披露した。そこには「黒人が赤面できないのは、内面的な生活がな
いからである。」などという強烈な差別発言もまじっていた。これら発表した欧州世界
が、社会制度として 黒人奴隷を家畜相当と見なして生活し 財力に物を言わせて彼ら
を雇い「生命の実権」すら持った社会であった為に、その底辺階級に対する思想的底流
を正当化した流れがあった事を物語る。現実社会の階層として一般人も糞尿を窓から捨
てるアパート暮らしであったし、税が払えなければ 田舎での勝手な植物採取の暮らし
しかないのが現状だった頃だ。即ち一般人には使用人暮らしか許さずその使用人でも又
差別化が図られたのである。

1124: 名無しさんAA:18/01/14 11:22
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 764----------

 思想大家ヘーゲルだって、同じような人種論を展開した。有色人種や黒人に対して劣
等性を与えただけでなく、アフリカのような地域の全体を世界史の枠組みから外してし
まっていた。それどころかヘーゲルの世界史は、@ゲルマン民族の発端からシャルルマ
ーニュまで、Aシャルルマーニュから宗教改革まで、B宗教改革からヘーゲル自身の思
索の成就まで、というような鼻持ちならない3段階でフレーミングされて、無神論者の
フォイエルバッハはちょっと捻りを加えた。たいしたアイディアでもないものなのだが
、ゲルマン的本質に男性的な哲学原理を、フランス的なるものに女性的な思索原理を対
比させた。そのほか、昭和初期の日本で大流行した「唯一者とその所有」のマックス・
シュティルナーはやや積極的に、「人類の歴史は、コーカサスの人種の天を征服してい
くことになるだろう。」と予想した。もしそれがナチスの先取りだったとしたら、シュ
ティルナーはヒトラーの先駆者だったということになる。マルクスやエンゲルスはどう
だったかといえば、残念ながらこの件についての例外になり得てもいない。エンゲルス
の『自然弁証法』は人種の下等性を動物に譬え、黒人には数学能力がないだろうと書い
ている。ただ、セム人とアーリア人については同一のホリゾントに並べた。ショーペン
ハウアーは、どうかというと、さすがに人種主義には陥ってはいなかったろう思ってい
たが、それでもなお、本書の著者は、ショーペンハウアーが「アーリア主義」と「セム
主義」を対比させるという方法をドイツ国民に普及させる。これにより、最も影響力と
洗脳力を発揮した最初の人物だったのだ。もしそうだとするのなら、この「意志と表象
の哲人達」はユダヤによって窒息された西欧思想をユダヤ思想から解き放つのに、はか
らずも貢献してしまっていた。ということになる。勿論そういった常識界ではビスマル
クも同じ役割をはたしただろう。この鉄血宰相はゲルマン人を奮い立たせるのに、たい
ていスラブ人とケルト人を引き合いに出したのも頷ける話だった。歌と社会の革命詩人
ハインリッヒ・ハイネに至っては、完全に遠慮もしていない「われわれドイツ人は最も
強く最も知的な民族である」と歌って、さらに次のように高揚させた。「われわれの、
王朝はヨーロッパすべての王位を占めており、わがロスチャイルドは、世界のあらゆる
財源を支配しており、わが学者たちはすべての科学を支配しており、われわれは火薬と
印刷術を発明したのである!」と謳うのだ。ずいぶんの誇張だが、こうなるともはや誰
だって“出来過ぎたヒトラー”で 後に出て来るヒットラーを礼賛し止めるべき思想や
意見は皆無だったのである。

1125: 名無しさんAA:18/01/19 23:52
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 765----------

通俗科学者達もドイツ・アーリア主義の普及に寄与した。カール・グスタフ・カールス
はジネコロジー(婦人科学)を標榜して、無意識にひそむゲルマン魂を“説明”しては
ドイツ人のプシュケーを見えるように仕立て、カール・グスタフ・ユングの先駆者の役
割を果たしたし、ヴォルフガング・メンツェルは「ゲルマン狂い」(ゲルマン・マニー
)になることこそ、普遍的な人間の魂や悲劇に触れうることを訴えた。もはやニーチェ
は間近かなのである。ニーチェはプロメテウスの神話とアダム堕落の神話をアーリア的
本質とセム的本質に結びつけ、決してアーリアン・スピリットばかりを強調した訳では
なかったのだけれど、それはニーチェ自身の思想においてはそうであっただけで、これ
を読んだ者たちには「超人」こそアーリアン・スピリットの体現者と映っていったはず
だった。こうして世紀末大戦に向かって、ゴビノー科学のアーリア主義は数々の思想の
意匠と尾鰭を身につけ、数々のえり抜いた言葉に飾られ、ついに一人の音楽家によって
絶頂にまで高められたのだ。それがリヒャルト・ワグナーのオペラ・ファンファーレと
いうものだ。もう、どうにもとまらない。この時ダーウィンがうっかり『人間の由来』
を書いたのは余計なことだったかもしれない。既にパリに発足していた人類学会にとっ
ては、ダーウィンが人種にも進化生物学が適用できるというお墨付きをもたらす形にな
ってしまっていたからだ。フランスの形質人類学のリーダーとなったポール・ブロカー
は「アーリア人種という用語は完全に科学的である。」と確信し、ヘブライ人の原型で
ある“ヘブロイド”などという人種を提唱したほどだった。堰は切って落とされたのだ
。こうなっては誰もが黙っていない。マルスラン・ベルトゥロは「アーリア人とギリシ
ア人が比喩の多い言葉を使う理由」を語り、イポリット・テーヌは「言語と宗教と文学
と哲学とが血と精神の共同体となりうる理由」をとくとくと解説し、言語と文化と人種
をごちゃまぜにすることに、あれほど警戒をしていた「文化人類学」の創始者である、
エドワード・タイラーでさえ、ついついアーリアン・ヒストリーについては寛大な姿勢
を見せ、原始アーリア人はウラル・アルタイ系の短頭人だったのではないかといった勇
み足もしてしまっていた。これでは長頭のフランク人がアーリアの源泉からずれること
になる。もっとも、ここでは新たな問題も浮上してきていた。それは言語と人種につい
ての関連が濃くなって来た分、大英帝国の植民地となったインドについての調査と研究
も深まってサンスクリット語の研究が進み、ヨーロッパ・アーリアとインド・アーリア
の区別がつきにくくなっていったということだ。


1126: 名無しさんAA:18/01/19 23:53
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 766----------

 大英帝国が早くから東インド会社を設立し、アフリカ人をして奴隷船商売していたが
、その内効率的にインド人による香辛料商売からアヘンとお茶に変わって行った文化が
そこにあった。つまり今までアヘン地獄の中のインド人は家畜の身分から一気に原始ア
ーリア人の直系となったのである。そのため、ここに「インド・ヨーロッパ語族=アー
リア語族」という等式がいったん浮上したのだが、しかし、ヨーロッパ人たちにとって
はこれでは困る。ヨーロッパ人とインド人が一緒くたでは困るのだ。なんとかしてヨー
ロッパ・アーリアの優秀を強調しなければいけない。かくていっそうに、20世紀はア
ーリアのための人類学、アーリアのための言語学、アーリアのための神話学、アーリア
のための歴史学が過剰に演出されることになった。それとともに、それを言い募るには
近隣の人種をもっと激しく睥睨するか、もっとありていにいえば糾弾する必要にも迫ら
れたのである。ここにいよいよフランスを筆頭に「反ユダヤ主義」の旗が大きく振られ
ていくことになる。アーリア主義と反ユダヤ主義の結びつきを確固たるものとしたのは
、エラズマズ・ダーウィンの孫で、チャールズ・ダーウィンのいとこのフランシス・ゴ
ルトンである。この男がここまでの気運に後戻りがきかないような決定的な方向を与え
た。ゴルトンはケンブリッジ大学を出るとスーダンの首都ハルツームでダーウィン家の
独特の調査研究に携わり、『熱帯のアフリカ』や『旅行学』といった著書を執筆する青
年研究家だった。これで気象学に関心をもったゴルトンは各地の文化地理というものの
特質がどのように生まれてきたかという研究に転じて、そこから密かに人類の遺伝形質
の分類をするようになった。やがて家系や血統によって才能が不平等に分布している事
に気が付くと、『遺伝的天才』を発表、「人間性の堕落」の要因がどこかにあるだろう
と思い始め、しだいに人類の今後の歴史において人種が無差別に堕落していくことに、
警戒するべきだと考えた。こうして1910年前後、最も優秀な民族や人種こそが未来
の人類文明を築くために断乎として残ることの重要性を訴えるべきだと確信する。と、
ついにゴルトンはそこから「優生学」という忌まわしい擬似科学をつくりだしたのであ
る。ここにゴビノー科学の発展した優生学が唱えられた。その優生学の目的は「不適応
者が生まれるのを許さず、その出生率を抑制する」というものだった。どうすればいい
か。「断種」をこそ実施するべきだという結論が出た。


1127: 名無しさんAA:18/01/19 23:53
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 767----------

 この忌まわしい擬似科学「優生学」という火種は瞬く間にゴルトンの優生学として、
イギリスからアメリカに飛び火し、たちまち燎原の火のごとくに広がった。インディア
ナ州とカリフォルニア州を皮切りに、アメリカ各州で断種法が次々に可決成立し、チャ
ールズ・ダヴェンポートらによって優生記録局が設立されると、アメリカ中で断種が奨
励されることになり、各州で数千人ずつがその対象になった。かくてアメリカでは19
25年までに全土で優生学と断種が奨励されるにいたっていた。この優生学的断種運動
がふたたびイギリスに逆流し、それがドイツに転化して、1933年に総統ヒトラーに
よる「ドイツ断種法」の成立になっていったのだ。これでわかるように、先進列強の中
でヒトラー・ドイツはこの運動の最も遅い後発部隊だったのである。すべてはイギリス
とアメリカが用意していたものだったのだのである。ただし、ドイツはその2年後には
「ドイツ民族の血統と名誉を保護する法」というとんでもない法を付け加え、以降には
、アーリア・ドイツ民族とユダヤ人の結婚と性的関係を公式に禁止した。こうして、忌
まわしい「優生学」が最後にドイツで開花してしまったことが、アーリア神話をユダヤ
人虐殺に結びつけた。それはアメリカの原爆製造が日本やドイツより遅れ開花した様に
実行された。ヒトラーが1935年に大学教授に任命したアルフレート・プレーツは、
優生学を「人種衛生学」に改変し、ドイツ最大の産業家のクルップがその研究に資金を
拠出した。もはやアーリア神話は、今までの忌まわしいアーリア問題以外ではなくなっ
ていた。ドイツでこの忌まわしい問題をふたたび神話の輝きに変貌させたのは、パウル
・ド・ラガルドがこれらを丹念に「ドイツ教」に組み替えて、ドイツ教即ちアリーア人
至上主義でユダヤ教に対比させることに成功させる事だった。ラガルドは「ユダヤ人が
ユダヤ人をやめるのは、われわれがドイツ人になるにつれての事だ」と言って、ユダヤ
人虐殺の先鋒を切った。問題は、そうしたラガルドの言説を初期のトマス・カーライル
もトーマス・マンもバーナード・ショーも称賛してしまっていた事だ。そのラガルドの
言説がフートン・スチュワート・チェンバレンによって『十九世紀の基礎』『西欧の歴
史におけるユダヤ人』といった啓蒙書として普及し、それがついにアルフート・ローゼ
ンベルクの手による『二十世紀の神話』として未来に向けての概括として、ヒトラーに
まで献上されてしまう事は当然だった。それが『わが闘争』の一部を飾ってしまった。


1128: 名無しさんAA:18/01/19 23:54
 ポリアコフは次のように書いている。ヒトラーやムッソリーニは新たな神話を捏造し
たのではない。1500年にわたってヨーロッパを動いてきたアーリア・ゲルマン神話
を『サリカ法典』や『神曲』やルターの聖書崙のように援用したのである。むしろルネ
サンス時代の人文主義者や啓蒙時代の思想家たちが、この流れを一度も食い止めること
ができなかったことが、アーリア神話をヒトラーの手に委ねさせることになったのだ。
こうして、優生学が最後にドイツで開花してしまい、アーリア神話をユダヤ人虐殺に結
びついた。ヒトラーが、1935年に大学教授に任命したアルフレート・プレーツは、
優生学を「人種衛生学」に改変し、ドイツ最大の産業家のクルップがその研究に資金を
拠出した。もはやアーリア神話は忌まわしいアーリア問題以外ではなくドイツではこの
問題はふたたび出来た神話で丹念に組み替えられたドイツ教であった。こうして諸君が
知っての通り、ヒトラーはこのセム人に属するユダヤ人の撲滅を謳い、アーリア主義を
倒して信仰するゲルマン主義を喧伝した。そして大量のユダヤ人が虐殺に至って行った
。こうしてファシズム思想はユダヤ撲滅の旗主として、戦後はヒトラーの狂気として扱
われた。ヒトラーは『わが闘争』に「アーリア人は人類のプロメテウスである」と書い
た。しかし実は、ヒトラーがこのように断言できたのは長い前史があったからだった。
キリスト教は長きにわたって、人間がアダムという共通の父から生まれ、族長ノアと、
その息子たち、ヤペテ、セム、ハムによって大きく3流に分岐したと説明してきたのだ
。ところがここにいつの間にか長子セム人=アーリア人=ゲルマン民族になっていたし
その上に選民思想の対決となっていたのである。つまり贋ユダヤ教徒はどちらが頭いい
かを、競い、その扇動を仕切るユダヤ金融家を打ち立てて徹底的にスラブの本流ユダヤ
仲間とドイツに住むケルト由来のゲルマン民族を一掃し支配する陰謀を図ったのである
。日本ではルネッサンスの年代や特筆した事件歴史の授業では習う。しかし日本人の多
くは馬鹿な事に贅沢病に瀕していて、それが第二次世界大戦を引き起こし、日本を狙い
米国金融が世界金融として、過去の奴隷化した社会やAI社会出現に繋がっているなど
とは教えない。思想の歴史或いは宗教の歴史として、日本の義務教育でさえ我々は不幸
にして金を徴収しては収益を上げる組織に牛耳られた奴隷化の下にある事を知らない。
日本の社会の戦前や江戸時代を教えるのに確実に必ず今より悪い体制だったと教える。
だが技術の無い時代に、欧米列強に肩を比べ、或いは日本は理想郷と言わしめた風習や
文化は余りにも見放されている。三井呉服の就業時間は10時から4時までだったが、
それでも奉公人に対しての酷使として責められる場面があるが、この後明治に年俸の2
倍の年間慰労謝金を払わねば誰も商社に入らなかったのである。

1129: 名無しさんAA:18/01/19 23:54
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 769----------

そうした日本が守っていた鎖国主義を解かれ 今の奴隷より酷使される派遣労働者など
と言う仕組みを作る消費文化にさらされて、ユダヤに貢ぐ社会の最もな貢献者になった
歴史が 此処にある事を知らねばならないのである。それが欧州の歴史であったと言う
事を日本人はもっと知って もっと豊かな日本人的思考があると広めるべき時が来てい
る。欧州では有史以来抗争は絶えることは無く、今でもEUなど広域支配をめぐっても
未来志向にはない。日本の移民排斥法が整えられて「黄禍論」が横行していた頃米国内
では「断種法」もあからさまに各州法として成立して生まれていた。アメリカでは連邦
レベルでは「断種法」を成立させたことはないものの、約30の州が、精神疾患や精神
遅滞の人々を対象にする強制的な断種法を制定した。1907〜60年までの間に少な
くとも6万人がそれらの法律の適用を受けて不妊にさせられた。この政策の全盛期にあ
たる1930年代に断種された人の数は平均して毎年約5000人に達していた。ここ
の理由が全く不思議にも家族を守る為として行われていたのである。アメリカでは異質
なものを排除するために、生殖への介入が殆どの地域で正当化されていた。白人と黒人
の性交渉と結婚は、1913年には32州で禁止されていたのである。こうして一部の犯罪者
の生殖能力本人の合意は求められず奪われていた。移民法による移民の制限に優生学は
積極的に関わっていた。均質な中流白人家族を守り、そのさらなる発展をはかるための
学問であり、学問の実践が優生法制である。19世紀末のアメリカで、優生的措置におい
ては、ジェンダーリズムと共に父長制度や家長として威厳を保つ為に産まれていた。多
く諸侯がそのお遊びに子孫を残す事を婦人が断った為に自らに断種を強制されたのだ。
その後その習慣は精神障害者に対する隔離と婚姻規制、常習犯や性犯罪者に対する去勢
によって確立され実施されていた。1899年、外科医シャープが若年軽犯罪者に対する断
種(精管切除)を開始して以来。目的は懲罰としての去勢ではなく、「安全で簡便な」
断種をほどこして、若者を社会復帰させる事にあった。断種法成立以前に彼は500名
前後に断種措置を講じたが、当初は犯罪者だったが断種をしだいに精神障害者にまで拡
大しそこに「優生学とは、遺伝的原理を適用することによって人間集団の質を改善する
研究である。」と言う学問的言置が置かれた。この「人間集団の質を改善」が勝手に論
議される事も無く 権威者によって決められたのは言うまでも無い事であった。更には
本人同意も要らない過程から正確に排除の為の学問として 裏の方で静かに深く浸透し
ていった点も見逃せない盲点だった。


1130: 名無しさんAA:18/01/19 23:55
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 770----------

「優生学とは、遺伝的原理を適用することによって人間集団の質を改善する研究である
」と最初に見た目にやさしいこの定義は、よい科学的定義が常に嘘を吐くように、無害
で、特別の価値判断はないように思える。だがよく見ると、そこはひづめの割れた悪魔
の足先がのぞいている「人間集団の質」という言葉にである。どのように人間の“質”
を定義するか。誰がそれを定義するのか。遺伝病の場合には簡単な事のように思える。
だが色盲や血友病、ハンテントン舞踏病といった病気を根絶し、拡大防止と言う自体に
誤りや批判はないだろうか。このような優生学、すなわち身体的・精神的障害の除去の
研究は「消極的優生学」と呼ばれる。これに対して「積極的優生学」は、人間集団の中
でより望ましい性質の出現頻度を高めようとするものである。これは、特定のタイプの
人間を生み出すことを目的にする一種の“生殖プログラム”の実施ということができる
。「消極的優生学」は、人類社会において歴史的には古くからある考え方だった。ロー
マ人は、著しい奇形や不治の病をもって生まれた赤ん坊をローマ広場の近くにある切り
立ったタルペイア岩から投げ落とした。これは罪人と同じようにして処刑だった。スパ
ルタ人にも同様の慣習があり、多くの原始的な社会でも同じ理由から子殺しが行われて
いたのである。ギリシア人やローマ人の社会だけでなく、中世ヨーロッパのキリスト教
が起こった社会では、どこにおいても社会的に望まれない子供には大規模に遺棄されて
いる。通常、こうした子どもたちは、両親には彼らを食べさせていくだけの余裕がない
貧民層であった。あるいは、私生児であるが故に社会に彼らの居場所がないなど理由に
捨てられていた。その多くは、誰かに拾ってもらえるのではないかと願う親たちによっ
て公共の場に置き去りにされた後の処刑と思われる。だがそれとわかる異常の子を拾お
うとする人はおらず、彼らはたいてい置き去りにされたままに病気になった。今日でも
、ロシアやインド、中国、その他多くの国々では先天的障害をもつ子どもの遺棄が続け
られている。これらの国では、親たちに障害をもつ子どもを世話するだけの経済的余裕
がない。他方、「積極的優生学」にもまた長い歴史がある。古代ギリシアの哲学者プラ
トンは、理想の社会として哲学者の王たちが支配する独裁的エリート社会を構想した。
プラトンは、理想社会の支配者たるガーディアン(守護者)は、ひそかに、“望ましい
男女”が交合するように手配すべきであると示唆した。ガーディアンたちは、戦争では
並はずれて勇敢に振る舞う男がセックスにおいても余分の機会が得られ、それによって
彼らが可能なかぎり多くの子を残せるようにすべきである。と説いている。

1131: 名無しさんAA:18/01/19 23:56
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 771----------
 こうした「優生学理論」を掲げたのは、戦後にドイツを裁いたアメリカこそが、実は
ナチスの優生政策の先駆者だった。戦前のヨーロッパの中にはドイツの他にも優生政策
を推進した国があり、福祉国家スウェーデンでは戦後も根強く優生政策を存続させてい
たのだ。また外でも指摘されている事実だが、ドイツの優生学者のスポンサーとなって
いたのは、アメリカのロックフェラーやハリマンなどの金融一族である事も理由がある
。彼らは1834年に死去したトーマス・マルサスの理論の信奉者であった。ダーウィ
ンの血を受け継ぐマルサスは、非白人種や“劣等な”白人種を、家畜のようにえり分け
ることを提唱していた。マルサスは、経済学者仲間のジョン・スチュアート・ミルらと
ともに、「金髪碧眼のアーリア人種は、この世界へと贈られた神からの賜物である」と
言ってはばからない。優等な白人種が無知な有色人種を支配するべきである、と彼ら二
人は言うのである。結局、ナチスも英米のエスタブリッシュメントも、言うことに違い
はない。彼らは同じ穴のムジナなのだ。1928年、研究所を新築するために「ロック
フェラー財団」は32万5000ドルを寄贈した。「ロックフェラー財団」がミュンヘ
ンの「精神医学研究所」に資金提供をしたために、アメリカの他のスポンサーもあとに
続々と続いた。実際、ベルリンにあった「カイザー・ヴィルヘルム人類学・優生学・人
類遺伝学研究所」の建物の一部もロックフェラー財団の援助金で建設されたものだった
。世界が大恐慌に陥ってから数年間、「カイザー・ヴィルヘルム人類学・優生学・人類
遺伝学研究所」は深刻な財政問題を抱え、閉鎖の危機に追い込まれたが、「ロックフェ
ラー財団」は赤字が出ないよう資金援助を続けた。所長のオトマール・フォン・フェア
シュアー男爵は重要な局面に何度か「ロックフェラー財団」の代表者と会見している。
1932年3月、「ロックフェラー財団」のパリ支部に宛てた手紙のなかで、彼はさら
に6つの研究計画に対する資金援助を依頼した。2カ月後、「ロックフェラー財団」は
肯定的な返事をする。「ナチス」がドイツ科学を支配してからもなお、「ロックフェラ
ー財団」はドイツの優生学者に資金援助を続けた。第二次世界大戦が勃発するまでは、
ナチスの宣伝者は、ドイツは同じ「白人である北方人種の血統」に属する国家とは戦火
を交えたくないと主張していた。彼らの見解を信じていたアメリカの優生学者たちは、
ナチスが人種構成が同じ国に侵略を開始したことを知り、仰天した。ナチスの侵略行為
によって、ドイツとアメリカの優生学運動の関係は明らかに緊張した。開戦当初のT・
U・H・エリンジャーとストダードのドイツ訪問は、すでに難しい国際状況の影響を強
く受けていた。合衆国がドイツと日本を敵国として参戦したことによって、ドイツとア
メリカの優生学者の関係は完全に切れた。

1132: 名無しさんAA:18/01/19 23:56
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 772----------

 だがこれらは日本に幸いした。一つはこうした選民主義と優生学がまとまってこれ以
上の広がりが無かった事だ。そして二つ目が日本がドイツと同盟した事で日本人根絶や
しを謀っていたアメリカの陰謀が打ち崩された事だ。先の「ロックフェラー財団」「カ
イザー・ヴィルヘルム人類学・優生学・人類遺伝学研究所」への資金提供は実はアジア
に於ける劣性研究の為だったと言われる。つまり日本で対しての満州の権益拒否以来、
ロックフェラーやハリマン達は、大和民族の絶滅を願っていたのである。天皇制も国民
も中国進出には邪魔だと公言していたが、その世界地図からの排除の理由付けが無かっ
たのである。それはかつての南米インカ人に対して「病気持ちカルト集団」やアメリカ
先住民に対する「蛮行の社会性の無い盗賊集団」とのプロパガンダ活動と共に日本や中
国人に対する何らかの広報活動が必要だったのである。だがなぜだがこの行動は変化し
た。対ドイツから対日参戦のプロパカンダに変わったからだ。日本が真珠湾を攻撃した
1941年12月7日以後に、ドイツとアメリカの優生学運動が接触した記録は全く見
つかる事はない。ドイツの人種衛生学者の多くは広範囲にわたる根絶計画の調整に忙殺
され、アメリカの優生学運動は戦争終結まで大半の活動を一時的に中止した。と言われ
る。たとえば、「ニュージャージー断種連盟」は事実上すべての活動を中止し、「アメ
リカ優生学協会」は『優生学ニュース』の発行だけに仕事を限定したのである。しかし
直ちに「敵性外国人」とみなされ、当時のルーズベルト大統領によって西海岸に住む日
系人は約12万人が強制的に立ち退きを命じられ、へき地に設けられた全米10カ所の
収容所に強制的に送られが、これらの人の子孫は僅かしかいない。ナチス優生学をも支
援したカーネギー財団を世話したのは他ならぬルーズベルト大統領であったし、セオド
ア・ルーズベルトは、公然と優生学の支持者であることを自ら任じていた。彼は、アン
グロサクソン人の系統の男女が十分な数の子どもを残すことができなければ、それは、
“人種的自殺”につながると警告し、優生学的な理想を支持し、今世紀前半を通じての
優生学が人々に及ぼしていた影響力を反映させていた。1905〜10年の間、優生学
はアメリカで発行されていた一般雑誌で2番目によく取り上げられたテーマでもあった
。その支持者には、保守派もリベラル派も、そして革新派も自由主義者もいたし、この
「敵性外国人」の繁殖を避ける事に反対はなかった。ある収容者は言う。「我々は同じ
米国人として、収容所長や我々のボスには忠誠を誓っていた。」

1133: 名無しさんAA:18/01/19 23:57
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 773----------

Manzanar(California)10,000人   マンザナー、カリフォルニア州(1942年6月開設)
Tule Lake(California)16,000人 ツール・レイク、カリフォルニア州(1942年5月開設)
Poston(Arizona)   20,000人 ポストン、アリゾナ州(1942年5月開設)
Gila River(Arizona)15,000人    ヒラ・リバー、アリゾナ州(1942年7月開設)
Minidoka(Idaho)  10,000人 ハート・マウンテン、ワイオミング州(1942年8月開設)
Heart Mountain(Wyoming)10,000人 ミニドカ、アイダホ州(1942年8月開設)
Granada(Colorado)  8,000人 トパーズ、ユタ州(1942年9月開設)
Topaz(Utah)   10,000人 ローワー、アーカンソー州(1942年9月開設)
Rohwer(Arkansas)  10,000人 ローワー、アーカンソー州(1942年9月開設)
Jerome(Arkansas)  10,000人 ジェローム、アーカンソー州(1942年10月開設)
Amache、 アマチ、コロラド州(1942年8月開設)
Crystal City、 クリスタル・シティー、テキサス州(1942年11月開設)
/司法省が管轄拘置所)
ツールレイク隔離センター
カリフォルニア州北部のツールレイク強制収容所は、戦時転住局によって運営されてい
た10ヶ所ある収容所の一つとして開設されました。1943年に、欠陥だらけだった忠誠登
録の答えに基づいて、合衆国政府が不忠誠とした人達のための、隔離センターへと変更
されることになる。1943年に、ツールレイクにいた日系人で、政府によって忠誠心があ
るとされた人達は他の収容所へと転出し、他の強制収容所からは、不忠誠だとされた人
達が入所して来た。また、既にツールレイクに収容され、再び移動するより留まること
を選択した人達も6千人以上いました。ここでは、収容所以外の場所に移転することは
、全員禁止されていました。およそ千人の警備員が導入され、二重のフェンスが建てら
れ、軍用戦車が収容所を取り囲んでいました。強制捜査は1年に及び続行されました。


1134: 名無しさんAA:18/01/19 23:58
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 774----------

収容数は最高で1万9千人に膨れ上がり、密集状態は収容所内の緊張を高めます。1943年
10月、住民と管理関係者の間での口論の後、戒厳令が布かれ、これは外部の報道機関に
よって暴動にまつりあげられてしまいます。管理体制に反抗的だとの疑惑を持たれた男
性達は、法的手続きも踏まず、柵内に閉じ込められました。1944年の春には、収容所管
理者は、すべての集会を禁止し、学校、職場、スポーツ、リクレーションが閉鎖となり
ます。ツールレイクでは、親日的な団体や、日本に帰国を希望する親からの圧力などで
、5千人以上の二世がアメリカの市民権を破棄することになりました。この隔離センタ
ーは、1946年3月に閉鎖されます。 以下は当時を語るインタビューからの抽出である。
「(収容所内の)農場でのストライキが、問題の一部でしたね。作物は植えられていた
んですが、誰も収穫しない。養豚所も閉鎖された。食糧事情は悪くなる一方でした。そ
れはもう酷くて、ある時なんか、各食堂に、カリフラワーが一箱ずつ届けられただけな
んてこともありましたよ。300人用に一箱ですよ。それで花の部分を切って、葉の所は
残して於くんですね。葉っぱで何をしようっていうのか? 考えたもので、それをきざ
んで、漬物を作ったんです。もう食べ物を要求して、大騒ぎになりました。少しずつ何
か運ばれてくるんですが、とにかく皆を食べさせるために、何とかしないといけない。
管理側は我々にちゃんとした食事を与えてないんですから、皆怒って、それで奉仕団(
即時帰国奉仕団、親日派の団体)の人達がもっと力を持つようになったんですよ。「ほ
ら、あいつらは戦わないだろ。管理側と戦わない。だから、こんな扱いを受けるんだよ
。」と言うふうになってね。そこで力をつけていったんです。管理側がますます弱くな
る、すると陸軍はひどい食事を送ってくるで、彼らにしてみれば、もっと沢山の人をグ
ループに引き入れる武器が揃ったわけです。それをうまく利用しましたね。だから短期
間の間に、あれだけ沢山の人を引き入れられんたんです。それから、管理側が2百、3百
人の奉仕団員を捕まえて、4百、5百人にもなりました。皆追い出して、収容所を落ち着
けようというわけです。団員達は柵に入れられて、それからビスマルクに送られて、そ
れからニューメキシコのクリスタルシティーでしたね。グループ全体を分裂させて、国
内中に散らばしたんです。それで問題解決ってわけです。それで断種なんかも行われた
のしゃないかな。わかんないけど。と話している(ビスマルクは監視独房)

1135: 名無しさんAA:18/02/04 02:37 ID:cjA
NHKは何故嘘をつく。教育NPOでは 教員や学校の事ばかり言っている。更には、
自己決定権を持たない子供や 非行や不登校で教師が時間が無くなっているなどと言う
。これは決定的に違っている。大木の残る比率と子供の貧困比率が正に相対比例してい
る事は何年も前から 明治の景観教育として定着していた。だがそうした事や犯罪集団
としての実体の自治体は各所で議員の旅行や刺青職員などで次々と明らかになっている
。つまり役所が学校教育を腐らせ地方自治体が犯罪を犯している中で 子供が出来そこ
なう事に 自治労や教育労組が全く立ち向かわず 自らの給与や保身や労組保全のみの
運動しかしてこなかったからだ。 一元化教育や管理教育は当然であり混乱を減らす事
も当然なのだ。改善ではない。多様性も必要ない。昔に戻る事が大事だ。多様性を認め
れば殺人犯障害犯を作りだす。問題は人生の中の時間を豊かにゆっくりと過ごす事だ。





1136: 名無しさんAA:18/02/05 15:59 ID:LUE
 国会を開会する大臣達はなぜ 問われた人が答弁しないのか。議長は国会を愚弄して
なぜ職権をまっとうして 答えさせず長々と他に喋らせるのか。全く国会ではないでは
ないか。



1137: 名無しさんAA:18/02/05 22:16

 基本的に 独島エビは 広島・島根の周辺にわざわざ日本の漁師が杉や松の枝付き筏
を50隻ほど浮かべて育て上げたものだ。かつて15年前に何者かに持ち去られたり、
壊されたりした。全く横取りの韓国漁船で その後密かに韓国魚船が島根港の漁港やら
広島の漁港やらに勝手に出入りし警察に届け出て取り締まりはしたが 驚くべき事に、
日本政府は注意するだけで韓国船を一回も拿捕はしなかった。わざわざ徳島からの稚魚
から徳島エビを育てて繁殖させたと言うのにである。





1138: 名無しさんAA:18/02/21 23:28

「マルコポロリ!」で事故が起こった。そもそも東野 幸治がMCなんぞ粗野で下品な
放送界の恥のような番組をいつまでも続けている事の方がおかしい。NHKの教育の
ほうがよっぽど魅力のあるものだろう。近年刑事物ではぐれ刑事が再放送されたり、
相棒が視聴率上げているとされるが、あまりにも製作費を安くあげようとろくな企画も
せず2時間物3時間物のわけのわからない編集をして視聴者の生活も無視した番組作り
がTV離れを加速している。NHKすらその番組表にまったく誠意がない、オリンピッ
クにしても4年に一回はある大々的なお祭りだ。だがその企画と自社の番組作りがその
ままのりあげて視聴率稼ぎに回る事がどんなに愚かな事か。本来のTV局の主張のない
ただの井戸端会議の中継の様なワイドショーが全くTVに不釣り合いな放送である事が
まったく理解していないTV局には 明日はない。



1139: 名無しさんAA:18/03/02 01:08 ID:zmw
演説で文氏は、日本に「特別な対応を要求しない」と言った。
それなら さっさと慰安婦像を撤去せよ。日本だけに国際規約を違反するな



1140: 名無しさんAA:18/03/02 09:20
水曜日のダウンタウンの隠し撮りに批判が上がっている。当然だこれは犯罪だからだ。
本人の内諾なく本人の持つ部屋に隠し撮りなどありえない企画だ。どこまでTV局は馬鹿なのか。
少し前だがある沖縄の米兵用のスタンドバーの持ち主が丘のふもとで殺された。もちろんその店は
すでに廃屋ではあったが昔のミュージックBOXなどがあった。
これもTV番組で沖縄中をあるいたTVクルーの犯罪だったろうしダウンタウン以外もめちゃイケ
などの変なTV界の出入り者は多い。が何様と思っているのだろうか思い上がりもはなはだしい


1141: 名無しさんAA:18/03/02 15:38
 日系人たちの言うとおり、これは「リロケーション・センター」とは名ばかりの「強
制収容所」に他ならない。有刺鉄線の外に出ることは禁止され、日本人の血を引くとい
うだけで彼らは、砂漠の中の掘っ立て小屋に押し込められたのである。しかし、日本語
の「強制収容」という語感が生むイメージとは少々異なる部分もあった。収容所といえ
ども監獄ではない。所内の移動は自由だし、個々の自主的活動はある程度認められてい
た。人々は収容所内で「就職」し、それぞれに見合った仕事によって報酬を得ることが
できた。ひとつの収容所に、およそ1万人以上が暮らすのである。これはすでに、「都
市」であった。ありとあらゆる仕事があり、ありとあらゆる施設があった。農場に工場
、床屋や雑貨屋などの商店、学校、教会、警察、裁判所、劇場に果ては賭博場まで。無
いのは、外へ出て行く自由だけだった。そもそも戦時中の、経済的にも困難な時期であ
る。政府としても、日系人収容所にあまりにも多額の費用を費やすわけにはいかない。
基本的に、収容所内は日系人たちの自治と自給自足に任せる、というのがアメリカ政府
の方針であった。トップの管理職にはもちろんWRAから派遣された白人が就くのだが
、実務はすべて被収容者たちが行なった。所内の食事のために彼らが作った農作物は、
がんらい農業に長けた日系人の本領発揮とばかりにすばらしい出来を見せ、収容所外に
まで「輸出」されてアメリカ人たちの食卓を賑わした。戦争が長期化すれば当然収容所
生活も長引く。変化のない毎日に、日系人たちは暇を持て余した。そんな殺伐とした収
容所生活を彩ろうと、二世の若者たちを中心に野球やフットボール、合唱などのクラブ
ができた。学校では、外部から教師がやってきて授業を行い、教会は各種のパーティー
を主催し、集会所では舞踏会なども実施された。これが政府から強制的に与えられた仮
の生活であるという事実を除けば、そしてそこに起因する様々な問題を忘れてしまえた
なら、物事はごく平穏に進んでいたともいえる。だが此処には割れてゆく日系社会があ
った。この生活はしかし、クラブ活動やパーティーなどでは発散できないわだかまりも
、ある。押し込められた不満、はけ口を失ったエネルギーの矛先は米政府やWRAに向
けられた。いくつかの収容所では管理体制への不満からストライキが頻発し、当局との
小競り合いや発砲事件に発展するケースも見られた。1946年の「ニュルンベルク医
師裁判」で、政府主唱の大虐殺に関与したとして告発されたドイツ人の人種衛生学者は
ほんの数名にすぎなかった。告発された学者たちは被告として抗弁した際に、自分たち
の研究の科学的根拠がドイツ国外でも受け入れられていたことに言及した。この戦術は
、ナチスの人種政策のモデルは民主主義国家米国だったという主張に基づくものだった
。つまりこの収容計画も実はドイツより早かったのだ

1142: 名無しさんAA:18/03/02 15:38
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 776----------

 ただ往々にして、ストライキにより困るのは白人管理者側ではなく、当の日系人たち
なのである。たとえば食堂がストを起こせば、食事にありつけなくなるのは被収容者達
だし、トラック運転手たちのストは物資の輸送を滞らせ、所内は深刻な物不足におちい
る。冷静な人々の間からストライキに対する批判があがるのは当然だった。管理者側は
そこに目をつけ、反スト派の日系人たちを取り込んでゆく。自分の判断で管理局側につ
く日系人もいたし、私利私欲のため、あるいは被収容者全体のためを思って両者の折衝
に尽力しようとする人々もいた。こうした反スト派の者たちは、しばしば同胞から「in
u(犬)」呼ばわりされ、白人や米政府にすりよる裏切り者のレッテルを貼られた。。
 こうして、悲しい構図が生まれていった。日系人同士が、その狭い収容所社会の中で
、お互いにいがみ合う。隣のブロックのあいつはイヌだ、あの奥さんの旦那は日本狂信
派だ――。むりやりに閉じ込められた集団社会は、その内部で、切ない分裂を決定的に
していった。さらにこのような分裂は、親子・家族の間柄をさえも引き裂いていったの
である。 当時、連れられて行く前に、日系人の家々に「Internment Sale」(インター
ンメント・セール)などと書かれたチラシが貼られ、足元を見て買い叩こうとする商売
人たちが追いはぎ同然の行為を繰り返していたという。白井の証言の「カリフォルニア
日系人強制収容所」によれば、米政府は「火事場泥棒式のやからを防ぐために、指定し
た倉庫に荷物を持ってくれば戦争中保管して、戦後きちんと返すと言って、悪徳商人を
取り締った。しかし敵国政府のいうことなどてんで信用しない日本人は、荷物の保管を
申請しようなどしなかった」と会う人は語ったと言う。日系人を転居はさせるものの、
財産まで奪うわけではないという建前上の論理を、政府も一応の措置はとっていたわけ
である。だがこのとき保管庫を利用した人びとの荷物の一部の地域を除いて、政府の言
葉どおり戦後無事に戻ってきたという。収容所内は日系人たち自身で自治と自給自足を
した。所内の食事のために彼らが作った農作物は、がんらい農業に長けた日系人の本領
発揮とばかりにすばらしい出来を見せ、収容所外にまで「輸出」されてアメリカ人たち
の食卓を賑わしたぐらいだ。その姿はドイツの収容所と同じ規制と同じ姿でもっと過酷
であったにせよ 日本人としての誇りを持った生活がそれを大きく変えていた。

1143: 名無しさんAA:18/03/02 15:39
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 778----------

 入居に際して忠誠登録を書かされている。この目的は、アメリカに忠誠である者とそ
うでないものを分け、忠誠が確認されたものは、兵役につくか、仕事や学業で早くアメ
リカの一般社会に戻るように促し、不忠誠とされたものは隔離することでした。しかし
、よく考えずに作成された質問表は、収容所内に不安と混乱をまねいたため、27番目の
質問「二世の者がアメリカ軍入隊の意志があるか」を、女性に対しては「陸軍の看護部
隊、及び婦人陸軍部隊で働く意志があるかどうか」と変え、28番目の質問「アメリカ合
衆国に忠誠を誓い、日本国天皇への忠誠を『破棄』するか」については、アメリカ国籍
も与えられないまま、日本への忠誠を否定すれば、国籍喪失の憂き目にあうと心配する
一世のために、「米国の法律を遵守し、いかなる形でも、米国の戦争遂行努力を妨害す
るような行動をとらないことを誓約するか」に修正しました。結果は、17歳以上の7万8
000の日系人のうち、およそ6,700人が、「忠誠心なし」に分類され、約2,000人が条件
をつけた回答をしています。登録をした83%にあたる6万5000人以上が、忠誠と認められ
ています。27番目と28番目のどちらの質問にもノーと答えた人は、米国に不忠誠だとさ
れた若者でノーノーボーイと呼ばれました。主に日本で教育をうけた帰米二世です。政
府はノーノーボーイの比率が一番高かったツールレイクを、隔離収容所として使う事に
決め、警備をいっそう強化し、各収容所から日本への帰国希望者を含む、不忠誠者とさ
れる者らをすべてツールレイクに集めました。参考までに言うと、日系人強制収容所は
、カナダにもあり(Bay Farms, Lemon Creek, B.C−ともにブリティシュ・コロンビア
州)に存在したのである。、一説では、米国のそれよりも待遇などは遥かに厳しかった
。なおカナダの捕虜収容所(P.O.W. Camp)は、東部にある。第二次世界大戦の戦局が太
平洋に移ると、総数約 21000人と言われた日本の血をひくカナダ人はブリティッシュ・
コロンビア州沿岸部から強制的に立ち退かされ、海岸から167km(100マイル)以上離
れて暮らすよう強制された。そのような一時的強制収容所であるタシュミは、ブリティ
ッシュコロンビア州ホープのおよそ25km東方に急造され、約2600人の男女や子どもたち
が収容された。


1144: 名無しさんAA:18/03/02 15:39
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 779----------

また、オ−ストラリアの首都キャンベラ近くの田舎町カウラにも同様の物があるが、こ
れも正確に言うと、戦争捕虜収容所(P.O.W.Camp)である。日本軍兵士はもちろん、日
本の兵士・軍属として参加させられた台湾、朝鮮の人たちもこれに含まれる。イタリア
人も多数収容されていた。ただ、ブルームの町で真珠養殖にたずさわっていた民間人、
老若男女多数も収容されていたことが、普通の捕虜収容所とは大きく異なるところであ
る。そこの他にも、上記の収容所に入るための集合・移動用の仮収容所が16カ所あり、
一時的に都市の野球場、競馬場、博覧会場などを使って収容されていた。「宿舎」には
馬小屋も当てられていたようだ。さらに各収容所で「問題行動」ある者や「米国市民」
でないものが、サンタ・フェ(Santa Fe)など4カ所に収容された。
参考までに、その他には終戦後に連合国側の「日本軍捕虜収容所」が、各国に多く設け
られたが、それらはここで扱う「収容所」とは全く性格が異なる。それらのうち一つは
、戦犯を軍事裁判にかけ、服役させるためのものであった。もう一つは、国際法違反で
あるが、旧ソ連のシベリアの各収容所のように、報復的、懲罰的、労働力補完的「捕虜
収容所」であった。母親が帰国希望だったために、ペギー・アヤコ・ナガタは、10歳の
時に、家族でミニドカからツールレイクにやってきた。日本帰国組の多いツールレイク
では、日系人自費による日本語学校が容認され、先生自らがガリ版刷りで教科書を作っ
ています。アヤコの当時の教科書を見せてもらいましたが、国語、算数の教科書にまじ
って、日本に帰って困らないようにお作法の教科書もあり、アヤコの自筆で永田綾子と
きれいな字で小さく名前が書いてありました。その頃のようすをアヤコはこう語ります
。毎朝学校が始まる前、校庭で体操をしてから教室に入ります。先生が教室に見えると
、一斉に立ちお辞儀をしてからクラスが始まりました。授業は日本の地理、国語、お行
儀、算数と、すべての教科を日本語で教わりました。交替で教室の掃除もしましたよ。
日本みたいでしょう。女の子の髪はおかっぱか、わたしみたいにお下げで、男の子はす
ごく短いイガグリ頭でした。子ども会にも入っていました。みんなで早起きして太陽が
昇るまえに集合して、そこで昇る太陽にむかってみんなでお辞儀をするんです。私には
とても日本的なことに思えました。

1145: 名無しさんAA:18/03/02 15:39

陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 780----------

米二世の若者は報国奉仕団を結成。留学中にツールレイクに収容された白井昇は、その
活動を、著書「カリフォルニア日系人強制収容所」の中でこう伝えています。男子は、
全員丸坊主頭に髪を刈り、灰色のスウェットシャツをユニフォームとした。そして女子
青年団員はピッグ・テールといって、頭の真中で髪を左右に分け、それを編んで両肩前
に垂らすことを規制した。そして、男子女子青年団員は、ともに日の丸のマークを染め
抜いた鉢巻きを結んでいたので、この青年団のことを「ハチマキ組」とか、「坊主組」
などとも呼んだ。…… 午前五時から広場では1,200名のものが、まず日本の戦勝祈願と
皇居遙排式を行い、次いで勇ましく国民体操を行った。それが終わると、一同は四列縦
隊をつくって、所内ところかまわず、進軍ラッパを吹き鳴らしながらワッショイ、ワッ
ショイと隅々まで駆け足行進を行った。これらの過激集団と収容所長との対立、また親
日派と親米派とのぶつかり合いが多かったツールレイクでは、暴動やストライキが何度
も起き、一度は、所内の治安が落ち着くまでの間、軍の管轄下におかれている。収容所
内には留置所もありました。あるとき、アヤコの父親の知人が、予告もなくキッチンの
仕事を解雇され、父親は、その不当性を食事の時にみんなに訴えました。すると翌日、
それを管理局に密告した人がいたようで、アヤコの父親は捕まり、3ヶ月も留置所にい
れられています。そんな不穏な環境でしたが、アヤコは子どもたちにはどんなことがあ
っても、たちまち元気をとりもどす力があるようだったと語っている。。
もともと優生学の支持者であることを自ら公然と任じていたのが、20世紀初頭のアメ
リカ大統領でノーベル平和賞を受賞してもいるセオドア・ルーズベルトである。彼は、
アングロサクソン人の系統の男女が十分な数の子どもを残すことができなければ、それ
は“人種的自殺”につながると警告していた。セオドア・ルーズベルトが優生学的な理
想を支持したのは、今世紀前半を通じて優生学が人々に及ぼしていた影響力の反映であ
った。1905〜10年の間、優生学はアメリカで発行されていた一般雑誌で2番目に
よく取り上げられたテーマであった。その支持者には、保守派もリベラル派も、そして
革新派も自由主義者もいたのだ。このユダヤが取り入ったアメリカ社会は、決して自由
主義資本主義社会では無かったのだ。気に入らなかければ抑圧し、競争相手と見るや、
財産没収まで及んだのだ。これは日本人社会が誰もユダヤ金融から借りない生活をして
貯蓄をして経営していたからだった。戦後も日本人のその貯蓄率の高さにユダヤは銀行
経営をして香港銀行の拡大を諦めたと言われている。

1146: 名無しさんAA:18/03/02 15:40
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 785----------

 第二次世界大戦中、ウクライナではユダヤ人虐殺(ポグロム)が公然と行われたが、
それは東欧諸国全般に共通する現象であった。北はリトアニアから南はクリミヤまでの
ナチス・ドイツ占領下のソビエト・ロシアでは、ユダヤ人殺戮のためにさまざまな形の
ナチスヘの協力が見られたのである。それと共に、ソ連治下でくすぶっていた極右系の
ナショナリストのグループは、ナチスの方法手段をそのまま導入してユダヤ人迫害にあ
たった。リトアニアのグループなどは、ドイツ軍が攻め込んで来る前にいち早く、独自
のポグロムを始めて迎えていた。これらの地域では警察のみならず一般庶民も、ユダヤ
殺害のためなら互いの境界を越えてまで協力を惜しまなかった、と言われている。リト
アニアで殺されたユダヤ人の数は20万で、生きながらえたユダヤ人はわずか1割だけ
であった。こういった厳しい状況は刻々伝えられていた。リトアニアの日本領事・杉原
千畝氏は、ポーランドから逃れてきたユダヤ人に日本通過査証(ビザ)を発給し続けて
、6000人の命を救ったのである。彼に助けられたユダヤ人は、日本を通過して他の
国に渡っていったが、神戸に住み着いた者もいた。その後1985年、杉原千畝氏は、
イスラエルの公的機関「ヤド・バシェム」から表彰され、「諸国民の中の正義の人賞」
を受賞し翌年に彼は亡くなった。リトアニア生まれのユダヤ人であるソリー・ガノール
は、少年時代にナチスの迫害にあい、「ダッハウ収容所」に収容されたが、アメリカの
「日系人部隊」によって救出された。彼はこの時の体験を、著書『日本人に救われたユ
ダヤ人の手記』(講談社)にまとめている。彼はナチスが迫ってくる頃全く偶然にも、
杉原千畝氏に出会い、杉原夫婦を自宅に招いたという。そして、杉原千畝氏から早期の
脱出をアドバイスされるが、決断が遅れ機を逃してしまい、このことはまさに一生悔や
まれたという。その後、彼は各地を転々としたあと、「ダッハウ収容所」に収容され、
そして、1945年5月2日に「日系人部隊」によって救出されたという。彼は本の中
で次のように記している。「リトアニアの臨時の首都カウナスのユダヤ人たちに、わず
かな希望を差し伸べてくれた当局者がひとりいた。日本領事館の領事代理、杉原千畝氏
である。杉原氏は自分のキャリア、自分の名誉、おそらくは自分の生命さえ危険にさら
して、6000人をこえるユダヤ人を救ったのである。」と

1147: 名無しさんAA:18/03/02 15:41
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 786----------

 第二次世界大戦初頭の2年間についての私の記憶では、杉原氏は暗黒の中の一条の光
にほかならなかった。杉原氏こそは、きたるべき恐ろしい日々の間ずっと、私にとって
、ひとつの変わらぬインスピレーションであり続けたのである。この杉原氏の姿を最後
に目にしてから5年もたった後、しかも、私が ホロコーストの世界から解放された。
まさにその瞬間、杉原氏と同じ日本人の顔が目の前にあった。何と不思議で、何と素晴
らしいめぐりあわせだろうか。杉原氏のまなざし、杉原氏の笑顔に通じる何かが、死の
淵から私を連れ戻してくれた、そのGI(米軍兵士)の温顔に見てとれたのだ。雪野原
から私をかかえ起こしてくれたのは、『ニセイ』と呼ばれるアメリカの日系二世だった
のである。1945年5月2日のことであった。」「ダッハウ収容所」を解放したのは
第522野戦砲兵大隊の兵士たちで全員、日系二世であった。部隊はキヨシ・岡野伍長
、ジェームズ・倉田中尉、ミナベ・平崎一等兵、シャーキー・小林一等兵など日本人の
みの部隊だった。ソリー・ガノールを救出したのは、クラレンス・松村という名前の日
系二世だったという。彼は次のように記している。「日系二世兵士はクラレンス・松村
という名前であった。アメリカ軍の第522野戦砲兵大隊に属していた。大隊から小隊
まで日系二世だけで編成した連隊規模の第100・第442統合戦闘団の一大隊である
。彼らはイタリア、フランス、そしてドイツと、凄惨な戦場を転戦した。この戦闘団は
、その従軍期間から計算すると、大戦中のどのアメリカ軍部隊よりも多くの死傷者を出
し、より多くの戦功賞を得ていた。」そういう部隊であった。ところが、第二次世界大
戦中、自由と民主主義の国アメリカ合衆国にも、「強制収容所」があった。それも日本
人と日系人専用のもので、約12万人もの民間人が財産と市民権を奪われて、カリフォ
ルニア州からルイジアナ州までに広がる10数ヶ所の強制収容所に収容されたのである
。このアメリカの日系人に対する強制政策の裏には、白人の有色人種に対する人種的偏
見や差別意識があったことは明らかである。この時期には、本来の同じ敵国であった、
ドイツ系・イタリア系のアメリカ人は全くお構いなしの状態のままだったのである。こ
のことについて、ソリー・ガノールは次のように記している。「私の身の上を思うと、
いまひとつ見落としにできない運命の皮肉がある。松村ほかの日系人たちが、アメリカ
のために戦い、生命を落としつつあるというのに、故郷の地祖国アメリカでは、彼らの
家族の多くが抑留所に押し込められていたのである。


1148: 名無しさんAA:18/03/02 15:41
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 787----------
  
住居や事業から切り離され、人里離れた土地に作られ、タールや紙を張りめぐらせた、
簡易なバラックでの生活に追いやられていた。アメリカ政府は『再配置収容所』と呼ん
だが、『強制収容所』の別名にすぎなかった。アメリカに作られた日系人強制収容所。
人里離れたアメリカの砂漠の中に建てられた、タール紙で造られたバラック小屋の列の
中で約12万人もの日系民間人が強制的に財産と市民権を奪われて、収容され生活して
いたのである。整理用名札をつけられ、日系人強制収容所に送り込まれたのは、少女は
勿論赤ちゃんから78の老人までそれは容赦のない収容だった。47年後の1992年
、ソリー・ガノールは自分を助けてくれた日系二世兵士たちと、エルサレムで再会を果
たした。ナチ時代に生き延びたことも奇跡的だが、半世紀を経た後の再会も奇跡であっ
た。彼は次のように記している。「1992年春、私は日系人部隊の兵士たちと再会し
た。クラレンス・松村と私の再会の物語は、羽根がはえて世界中に流れた。日系人部隊
の存在も、彼らがドイツの収容所解放に果たした役割のことも、それまでほとんど知ら
れていなかったのである。それは米国政府民主主義の自由と資本主義の解放の恥部とも
言える物だったからだ。この時から後、私は、松村と彼の部隊にいた人たちと何度か会
った。イスラエルで、ドイツで、そしてアメリカでも。彼らと過ごすことのできた時間
、ことに松村との数時間は、感謝の念とともに思い浮かんでくる。しかし、その松村は
1995年5月、消えがたい悲しみを私に残して他界してしまわれた。」そして、彼は
続けて次のように記している。「会うたびに、救出してくれた人たちについての知識と
理解は深まった。彼らに日系人収容所での体験があり、より広くはアメリカでの被差別
体験があったからこそ、あの1945年春、松村と彼の戦友たちは、救出にあたった時
相手に対し、理解と同情の火花を特別に強く燃え上がらせたのではなかったろうか。日
系二世とユダヤ人の間には、何か特別なきずながあるのではないか。私に答えは出せな
い。だが、日系二世たちと日本人に対し、私が強い同胞感覚を抱いていることは確かで
あった。」と懐古している



1149: 名無しさんAA:18/03/02 15:43
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 788----------

 そもそも異常で異様な大国米国は古代「ガラティア王国」を築いた時の様な悪さを持
ち、全くをその時の迫害観念や外に威嚇する脅迫観念と全く変わらない。バビロン帝国
からユダヤと言われる「ヤフェー神」(蛇の神)の信者を解放したのはバビロン崩壊の
現実からだった。ヤーヴェは日本語的には屋兎野辺であり、葦の茂る場所の人と言う事
になる。つまりは金を採る人達だったと推測される。神話の中でソロモン(B.C.967-930
)王が即位して『列王記 上』ではソロモン王はファラオの娘のほかにもモアブ人、アン
モン人、エドム人、シドン人、ヘト人など多くの外国の女を愛した。とある。ここでは
モアブ人女性ルツはダビデの祖先とあり、又カナンの地に行くのに通行させなかった。
とされるモアブ人はアンモン人(ユダヤ人)、と非常に近かったと言われる。エドム人
は古代パレスチナに居住したセム系民族。現在はエジプト人とされ「赤い土の人」とい
う意味とされる。シドン人の先祖はカナンの長子シドンでした。海港の町シドンの名は
彼らの父祖にちなんで付けられたもので漁師を意味している。カナンの北限の地とされ
イスラエルの海の漁師であったと言える。フェニキア沿岸の数少ない港のうちの二つを
持つ海港都市シドンは,陸路を行く隊商達が交易し自分たちの商品も地中海航路を行き
来する船で品々と交換して、交易の一大中心地だった。その為シドン人の中には富裕な
商人,熟練した水夫,強健なこぎ手たちがいた。シドン人には早くからガラスの製造,
機織り,衣類の染色に熟練して有名でした。彼らはまた,木こりや木材切り出し人とし
ても能力のあることでも知られていた。しかしシドン人は宗教的に堕落しており,その
崇拝の主要な部分を成していたのは女神アシュトレテと関係のある性的乱行のみだらな
お祭り騒ぎでした。イスラエル人は自分たちの地にシドン人が残るのを許したため、つ
いにはその偽りの神々を崇拝するという罠にはまりました。(裁 10:6,7,11‐13)と
記載しソロモンがめとった異国の妻たちの一部はシドン人で,その妻たちはソロモンが
忌むべき豊饒の女神アシュトレテを求めるように仕向けました。とある。又北の諸部族
と南のユダ族の中間に位置していたエルサレムの攻略に成功して、エルサレムの街に、
王座を置いたという。この時のヘト人こそヘブライ人で、ダビデはエリアムの娘バト・
シェバで、ヘト人ウリヤの妻に一目ぼれして寝取ってしまっている。バト・シェバは、
ヒッタイト人ウリヤの妻であったが、後にダビデの妻となり、ダビデの跡を継いでイス
ラエル王国の王となったソロモンを産んだ。となっている。この頃のヒッタイトはバビ
ロニアと関係は深い。

1150: 名無しさんAA:18/03/02 15:44
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 789----------

第11章02節 これらの諸国の民については、主がかつてイスラエルの人々に、「あなた
たちは彼らの中に入って行ってはならない。彼らをあなたたちの中に入れてはならない
。彼らは必ずあなたたちの心を迷わせ、彼らの神々に向かわせる」と仰せになったが、
ソロモンは彼女たちを愛してそのとりことなった。 第11章03節 彼には妻たち、すなわ
ち七百人の王妃と三百人の側室がいた。この妻たちが彼の心を迷わせた。と書いている
だが、ダヴィデ、ソロモンに関する神話は誰かの創作。ダヴィデ、ソロモンの実在も疑
われる。そもそも、この頃のパレスティナは様々な民族の混住状態で、統一王国などあ
りえない。この時代の少し前に、エルサレム陥落、南ユダ王国滅亡、第一神殿破壊、第
二次バビロン捕囚(10,832人)→捕囚の地でエゼキエル、第二イザヤ活躍モーセ五書
がこの地で完成された→偶像崇拝との訣別・ユダヤ教の誕生→捕囚は偶像崇拝に対する
罰と受け止められ、絶対神に対する信仰が純化された→ユダヤ民族はこの地で自らの指
導者(捕囚民の長)――ダヴィデの末裔――と自治権を有し、多くは農業に従事してい
たとされている。
しかしペルシャ王キュロスによる捕囚からの解放バビロニア王によって各地から捕囚と
なっていたすべての人々が解放されのに、その祖先の神々に使えることが許されたから
といって。ユダヤ人に対しては、「エルサレムに戻り、神殿を再建すること、その費用
はキュロス王が負担することとされた。」などと言う事はあり得ない。キュロスは善悪
二元論を奉じるゾロアスター教徒であったので、唯一神信仰を持つユダヤ教徒に心情的
に親近感を持った可能性はあるとされる。大多数のユダヤ人はバビロニア生まれで、そ
こにすでに定住しており、帰還した者はごく少数であったと考えられる上に、キュロス
がユダヤの神殿をたててやる筈はないし、エルサレム戻れなど命令すらする事はない。
――以後、11世紀にセルジュークトルコによって一帯が征服されるまで、バビロニア
はユダヤ民族の中心地であり続け、さらに1950年にイスラエルに追放されるまで、ユダ
ヤ民族の重要な集住地域であり続けた。バビロニアに神殿を建てることはなく“集会所
”(シナゴーグ)に集まって礼拝を行なった――シナゴーグの起源これも確実にユダヤ
神話。バビロニアはこの頃の文明の中心地だったので、多くのユダヤ教徒が住んでいた
ことは考えられる。この地でユダヤ教が洗練された可能性は高い。

1151: 名無しさんAA:18/03/02 15:48
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 790----------

 ヒッタイトは、インド・ヨーロッパ語族のヒッタイト語を話し、紀元前15世紀頃に
アナトリア半島に王国を築いた民族または、この民族が建国したヒッタイト帝国(王国
とも)を指す。なお、民族としてのヒッタイトは、ヒッタイト人と表記されることもあ
る。他の民族が青銅器しか作れなかった時代に、高度な製鉄技術によりメソポタミアを
征服した。最初の鉄器文化を築いたとされる。旧約聖書のヘテ人をもとにして、イギリ
ス人のアッシリア学者A.H.セイスがハッティと命名した。エラム人の自称ハタミに近い
。近年、カマン・カレホユック遺跡(トルコ共和国クルシェヒル県クルシェヒル)にて
鉄滓が発見され、ヒッタイト以前の紀元前18世紀頃(アッシリア商人の植民都市がアナ
トリア半島一帯に展開した時代)に鉄があったことが明らかにされた。その他にも、他
国に青銅を輸出或いは輸入していたと見られる大量の積荷が、海底から発見された。紀
元前1680年頃、クズルウルマック("赤い河"の意)周辺にヒッタイト古王国を建国し、
後にメソポタミアなどを征服した。なお、ヒッタイト王の称号は、ラバルナであるが、
これは古王国の初代王であるラバルナ1世、また、ラバルナの名を継承したハットゥシ
リ1世の個人名に由来し、後にヒッタイトの君主号として定着したものである。ヒッタ
イト王妃の称号はタワナアンナであるが、これも初代の王妃であるタワナアンナの名を
継承したといわれている。紀元前1595年頃、ムルシリ1世率いるヒッタイト古王国が、
サムス・ディタナ率いる古バビロニアを滅ぼし、メソポタミアにカッシート王朝が成立
させた。クズル川は東部アナトリア高地を源流(北緯39.8度 東経38.3度)に延長1,150
キロメートルをほぼ右回りで半周して黒海に注ぐ。ヒッタイトはこの川をマラシャンタ
と呼んだ。アナトリア半島西部のリディアと、東の大国メディア王国の国境がこのあた
りであり、紀元前585年にメディア王国が リディアに攻め込む戦争があったが、偶然起
こった日食に不吉を感じて両国は和平し、この川が国境と定められた(ハリュス川の戦
い)紀元前547年、メディアに取って代わったアケメネス朝の君主キュロス2世がリディ
アに攻め込んで属国とし、国境としての意味は失われた。このクズルルマク川はクズル
川 (トルコ語)マラシャンタ(ヒッタイト語)ハリュス川 (古代ギリシア語)はトル
コを流れる川。トルコに水源と河口の両方がある川としては最長である。クズルは赤を
、ウルマクは川を意味する。水力発電に使われている。底が浅いので船舶の航行には適
さない。つまりこの継承の仕方は日本的で鉄の文化と共にヒッタイト文化が広がったと
いえる。


1152: 名無しさんAA:18/03/02 15:48
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 791----------

 歴史上は、紀元前1330年頃、シュッピルリウマ1世はミタンニを制圧する。この時、
前線に出たのは、王の息子達(テレピヌとピヤシリ)であった。 紀元前1285年頃、古
代エジプトとシリアのカデシュで衝突。ラムセス2世のエジプトを撃退する。ラムセス
2世は、勝利の記録を戦いの様子と共にルクソールなどの神殿に刻んでいるが、実際に
はシリアはヒッタイトが支配を続けた(カデシュの戦い)。エジプトのラムセス王の寺
院の壁に、3人乗りの戦車でラムセス2世と戦うヒッタイト軍(ムワタリの軍)のレリ
ーフが描かれている。この際に、世界最古の講和条約が結ばれた。ハットゥシリ3世の
王妃プドゥヘパ作とされる宗教詩は、現在発見されている最古の女性の文芸作である。
ヒッタイトの宗教は、強くフルリ人の宗教の影響を受けていることが分かっている。こ
うしてフリ文化の色彩強まるのだがその後紀元前1430年頃、ヒッタイト新王国が成立し
た。こうして現在の発掘調査や聖書の記述やレリーフにある楔型文字などと比較して、
物語に沿って、つまり史実にそって聖書は嘘を書いて来た歴史書である事が解るのであ
る。ユダヤの聖書とされるこの読み物が何故どうやって出来上がったのかは不明だ。た
だローマ帝国が支配し編纂された事も確かだが、過去の物語も記述も自らを正当化した
宗教書であり正当化した家系図を見れば歴史書としてはとんだインチキのまがい物であ
る事が幾つもの証明がなされている。それでもこれを信じこれを中心にして世界はユダ
ヤを始め、イスラムもキリストも幾つも戦い幾人もの血が流れ、日本を含めた世界大戦
すら行われたのである。さて、おなじみのアダムとイブから始まって、エデンの園から
の追放、神の怒りの大洪水とノアの方舟(はこぶね)の話に進む。ちなみに、旧約聖書
物語によると、天地創造のアダムとイブの次に叙述されるのは弟殺しの「カインとアベ
ル」、その次にくるのがノアの方舟そして言葉を混乱(バラル)させる「バベルの塔」
の話が続く)、そして紀元前2000年頃のある日、メソポタミアの都市ウル出身(シ
ュメールの都市国家)の豪族「アブラハム」は、エホバの神のお告げを受け、約束の地
カナン(パレスチナ)に向け、一家を挙げて北メソポタミアのハランから旅立った。
 だがこの話も全く同じ物がメソポタミア神話に出て来るし拝火教教義読本とされる、
縁起絵と全く重なるのである。ちょっと話の筋と名前が違うのでややこしいのだが。


1153: 名無しさんAA:18/03/02 15:49
謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 792----------

 この旅立ちはアブラハム75歳の時である。ちなみに、カナンは地中海のどん詰まり
、海にそってレバノンとイスラエルが細長く伸びている。国境近くヨルダン川が谷を刻
み、その川は南に下ってやがて死海へ流れ込む。その西南には、アカバ湾とスエズ湾に
挟まれた三角のシナイ半島。そしてエジプトの豊饒な平地が広がっている。カナンとは
、現在のレバノンの南からイスラエル辺り一帯を漠然と指す名称である。アブラハムの
時代、多神教がはびこっていた。アブラハムがお告げを受けた唯一神「エホバ」の信仰
こそが、のちにモーセの十戒をもとにしたユダヤ教を生み出し、そこからイエスの説く
キリスト教が分かれでて、やがてマホメットが始めたイスラム教をもたらしたすべての
教えの源泉と言える。だが大体古代人が幾つまで生きたか解らないが75歳は死に行く
歳である。ここにもゾロアスター教の影が見える。と言うのもゾロアスター教こそは、
死者の国とも言える闇夜との戦いであり、その際の光が生前の行いでの結果としている
。ちなみに、モーセの十戒をもとにしたユダヤの律法、預言などを集大成したのが旧約
(ユダヤ)聖書であり、その数百年後イエスの教えを弟子達が集大成したのが新約聖書
(キリスト教)であるが、ユダヤ教徒にとっては彼らのユダヤ聖書のみが聖典であり、
キリスト教の新約聖書は認めない。ところで、ユダヤ民族を表す言葉にヘブライ、イス
ラエル、ユダヤと言う呼び名に三つの言葉があることは皆さんは知っていますか。その
中で一番古いのが「ヘブライ」で、これは「川向こうからやってきた人々」、つまり、
チグリス・ユーフラテス両川を抱くメソポタミア地方からの移住民のことで、アブラハ
ム一家はさしずめその典型であった。 イスラエルは「エル=神」と争って「イスラ=
勝つ」と言う意味で、アブラハムの孫のヤコブが見知らぬ男(天使)と格闘し、ヤコブ
が勝ったため名付けられた名前だ。それ以来、ヤコブはイスラエルと名乗るようになっ
た。やがてそれは民族の名前になっていく。ヤコブについてはいずれ話すことにしまし
ょう。さて、「ユダヤ」というのは「神をたたえる」という意味があり、エルサレム南
部の一地方の呼び名でもあった。面白いことに現在ユダヤ民族は1948年に建国した
彼らの国をイスラエルと呼び、そこで彼らの父祖の言葉であるヘブライ語を2000年
ぶりに復活させて公用語としている。ヘブライ語でヤ―コブは「かかとをつかむ者=人
を出し抜く者」の意味だ。つまり川の向こうから来た移民=神に勝った者=出し抜いた
狡猾なズル者=兄を出し抜いて祝福された弟 であったのである。


1154: 名無しさんAA:18/03/02 15:50
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 794----------

ユダ・マカベウスはしばしば芸術、音楽で取り上げられている。旧約聖書外典である『
マカバイ記』に登場する紀元前2世紀のユダヤの民族的英雄。シリアの支配下にあった
ユダヤの独立を達成することになるマカバイ戦争を指導し、ハスモン朝が開かれる基礎
を築いた。ギリシア語表記でユダス・マカバイオス、ラテン語表記でユダ・マカベウス
とも表記される。マカバイは「金槌」を意味すると言われる。マカバイ戦争の開始はデ
ィアドコイの一人セレウコス1世の建てたセレウコス朝の王アンティオコス4世エピフ
ァネスはエルサレムを占領するとエルサレム神殿を略奪し、ユダヤ教を迫害して、偶像
崇拝を強要したと言われる。このため、モデインという町に住んでいた祭司マタティア
と五人の息子たちが蜂起した(紀元前167年)。その息子の一人がマカバイと呼ばれた
、ユダであった。これ以降の独立闘争をマカバイ戦争(マカバイの反乱)と呼ばれる。
次の年ユダ・マカバイは父が死ぬと、反乱軍のリーダーとなって弟ヨナタンやシモンと
共にシリア軍と戦い、ゲリラ戦で天才的な指導力を発揮した。まず、サマリア・ユダヤ
の司令官アポロニオス、セロンを討ち取った。アポロニオスから奪った剣を生涯、戦場
に携えた。アンティオコス4世エピファネスがリュシアスにユダヤ制圧を命じると、ド
ルメネスの子プトレマイオス、ニカノル、ゴルギアス率いる4万7千人のシリア軍が侵攻
してきた。ユダはミツパで神に祈りを捧げ、エマオでシリアの大軍と激突した。ユダは
出エジプトの時の紅海の奇跡を引き合いに出して兵士を鼓舞し、シリア軍を撃破して戦
利品を獲得した。リュシアスは自ら6万5千人の兵を率いて出撃したが、ベテズルで大
敗を喫し、ユダと一時的に休戦した。シリア側は宗教的な自由の回復を認めた。ユダは
ついにエルサレムを奪還し、異邦人に汚されたエルサレム神殿の聖所を清め、再びヤハ
ウェに献納して中断していた神殿でのユダヤ教の礼拝を復活させた。ハヌカーはこれを
記念するために制定された(紀元前165年キスレウ25日)。またヘンデルのオラトリ
オ『マカベウスのユダ』はこの故事に取材したものである。こうしてエルサレム奪回と
ハヌカー制定を果たした。宗教的な自由を回復したことで戦争は終結に向かうかと思わ
れたが、ユダは政治的独立を勝ち取ることを目指したため、ハシディームなど宗教指導
者の一部はユダから離れることになった。 ここでユダヤ教は途切れるのである。

1155: 名無しさんAA:18/03/02 15:51
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 795----------

その後もユダ・マカバイはシリア軍や周辺民族との戦いにあけくれる。イドマヤ人、次
いでアンモンのティモテオスらと交戦した後、ガリラヤとギレアデのユダヤ人が孤立し
て救援を求めてくると、「ユダとヨナタン」はギレアデ、シモンはガリラヤへ向かった
。ユダはボソラ、カスフォ、マケド、ボソルなどを攻略し、ティモテオスも撃破して味
方を救出し、意気揚々と帰還した。この時、エルサレムに残っていたザカリアの子ヨセ
フ、アザリアは自分たちも戦功を立てようと相談し、ヤムニアへ出撃したがゴルギアス
に大敗した。ユダはヘブロン、アシュドドも攻略して焼き払った。紀元前164年、エ
ピファネスがイラン遠征中に失意のうちに病死すると、リュシアスは王の子アンティオ
コス5世エウパトルを擁立した。翌年、リュシアスは大祭司メネラオスの要請に応えて
再度ユダヤに侵入し、象部隊を主力として対戦した(ベト・ザカリアの戦い)。ユダの兄
弟エレアザル・アウアランは王の鎧で武装していた巨大な象を見つけると、王が乗って
いると思い込み、象を殺したものの、下敷きとなって死亡した。エウパトルは乗ってい
なかったため、エレアザルの犠牲は無駄となってしまった。ユダは敗北して撤退を余儀
なくされた。エルサレムは包囲されるが、シリア側で将軍フィリッポスによるクーデタ
ーが起こったためにリュシアスはユダと和平を結び、撤退した。紀元前161年、シリ
ア王にデメトリオス1世ソテルが即位すると、大祭司職を狙うアルキモスはデメトリオ
スに援助を求めた。デメトリオスはバッキデスを派遣し、アルキモスを大祭司に任命し
た。続いてニカノルが派遣されるが、ユダはカファルサラマ、続いてアダサでニカノル
を撃破し、討ち取った。こうした遠征とシリアとの再戦が続いて行く。ユダは使者にハ
ッコズの子ヨハネの子エウポレモス、エレアザルの子ヤソンを選び、セレウコス朝シリ
アと敵対関係にあったローマと同盟関係を結んだ。シリアに対抗すべく、やっと外交に
も目を向けたのである。紀元前160年、シリアはバッキデス、アルキモスを派遣して
2万2千人の軍でエルサレムを目指した。ユダの軍では脱走兵が続出し、残ったのはわ
ずか八百人に過ぎなかった。残った戦士から戦闘を避けるよう懇願されたユダは、敵前
逃亡を拒否し、兄弟たちのために男らしく死のうではないか言った。ユダはシリア軍と
の戦闘中に戦死した(ベレトの戦い)。兄弟ヨナタンとシモンはユダの遺体を引き取り
、モディンに葬った。


1156: 名無しさんAA:18/03/02 15:53
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 796----------

 こうして遺体を持って帰ってきたヨナタンは、彼の後をつぎユダヤ軍を指導した。こ
の後こうしてローマとの同盟を結びと戦死した。この物語のあらすじや結末ははローマ
において伝説化ししばしば芸術、音楽で取り上げられる。ゲオルク・フリードリッヒ・
ヘンデルのオラトリオ、ユダス・マカベウスが作った音楽は有名である。また、この中
で オラトリオから讃美歌は、よろこべやたたえよやとして歌われている。日本でも、
ユダ・マカベウスはしばしば芸術、音楽で取り上げられており、ゲオルク・フリードリ
ッヒ・ヘンデルのオラトリオ、ユダス・マカベウスが有名である。また、このオラトリ
オから讃美歌、よろこべやたたえよやとして歌われている。この歌に戦前は「勇ましき
わが選手」という歌詞で表彰式、優勝旗を渡すときあるいは選手が郷里に凱旋するとき
人々は拍手と共にこの歌歌って迎えたのです。戦後では若き日はふたたびあらず、歌え
よいざ、良き友よ、、卒業式でも歌われてました。この歌聴くたびに卒業式を想い出す
人も居る。教会でもこの歌は沢山歌われるもので、普通の人は大体曲が思い出されるだ
ろう。
よろこべや (讃美歌第130番)  
 よろこべや たたえよや   シオンの娘 主の民よ
今しきます あまつきみ    今しきます 平和の主
よろこべや たたえよや    シオンの娘 主の民よ
見よ、勇者は帰る
この中では 勇者=イングランド軍 イングランド軍の勝利を讃えるヘンデルです。
ヘンデルがカロドン・ミュアの戦いで当初劣勢だったイングランドを励まそうとオラト
リオ「Judas Maccabaeus」を作曲し始めたが、1746年のカロドン・ミュアの戦いでイン
グランド軍が大勝利を収めると、この戦いを指揮した活躍したカンバーランド公爵ウィ
リアム・オーガスタス(Prince William Augustus, を讃えるセリフを台本に書き加え
、その勝利を全面にオラトリオの中で表現した。



1157: 名無しさんAA:18/03/02 15:56
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 797----------

マカバイ記の記述によれば、セレウコス朝シリアの王アンティオコス4世エピファネス
は エルサレム神殿において異教の神への捧げ物と祭儀を行って、これを冒涜したため
、紀元前 167年にモディンという村の祭司マタティアとその息子たち(ヨハネ、シモン
、ユダ、エレアザル、ヨナタン)がシリアの役人を殺害して荒れ野に逃れ、抗戦を呼び
かけた。そしてユダ・マカバイの勝利した。紀元前 166年にマタティアが死ぬと、息子
でマカバイと呼ばれたユダ(ユダ・マカベウス)がそのあとを次いで軍事蜂起を行って
シリア軍を排除し、紀元前 164年のキスレウの月(12月)の25日に聖所を清めた。今も
行われるユダヤ人の祭りハヌカはこのユダが聖所を清めた出来事を記念しているという
。だがシリア軍は依然としてエルサレムの要塞に拠っていた。シリアで将軍リュシアス
が実権を握ると、エルサレムに大攻勢をかけ、ユダたちは窮地に陥った。しかしセレウ
コス朝内での権力闘争が起こったため、リュシアスはユダたちと和解し、ユダヤに対す
るシリアの主権を認めることとひきかえに、ユダヤ人の宗教的自由を完全に認めるとい
う協定が結ばれた。その後、シリアによって任命された大祭司アルキモスにユダたちが
叛旗を翻したことで、再びシリアとの間に軍事衝突を引き起こした。ユダはその争いの
中で紀元前 160年に戦死した。ユダの戦死後、指導者となった兄弟のヨナタンはシリア
の王との戦闘の末に講和を結び、大祭司としての地位を承認された。正統な祭司の家系
に属さない人物が大祭司になったことに衝撃を受けた敬虔派の人々はハスモン家と距離
をとるようになっていく。紀元前 142年にヨナタンが敵将の手に落ちて殺害されると、
兄弟のシモンがヨナタンの後をついで大祭司となった。シモンは兄の立場を継承して軍
事的指導者にして大祭司という立場に収まった。シモンの時代にユダヤ人はエルサレム
に駐留するシリア軍を撃退し、撤退させたことで、シリアから政治的独立を認められた
。ハスモン家の祭司としての正当性に疑問を持つユダヤ人たちも少なくなかったが、ハ
スモン一族の政治的実績の前に、多くの人々が「忠実な預言者の出現するまでは、シモ
ンを彼ら(ユダヤ人)の指導者、大祭司とするのをよしとした」(マカバイ記1 14:41)
こうして紀元前142年から紀元前135年にかけてのシモンの時代にユダヤはシリアからの
事実上の独立を勝ち取ることに成功した。シモンはローマに使者を派遣して自らの権威
の承認を求め 元老院はこれに応じて、シモンの政権を承認した(マカバイ記1 15:19)
。しかし、紀元前135年2月、シモン は娘婿プトレマイオスに暗殺された。


1158: 名無しさんAA:18/03/02 15:56
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 798----------

 今や海外では大変な状況に陥っている。まずロヒンギャ問題は対岸火事では済まされ
ない様相に変化している。つまりミャンマー軍事政府は何ら基本的手を尽くさないで、
アウン・サン・スーチー女史の言動すら嫌悪したようだ。此処にきてバングラデシュ政
府とミャンマー政府を飛び越えて、仏教徒対イスラム教徒の対立に発展していく雲行き
である。もともとこの地は海の民ロヒンギャとしてミャンマー政府とは関係ないインド
洋上の民の墓所と水の供給場所だったのだ。これが中国支援の言葉に乗って今後開発し
中国からの鉄道乗り入れを目的に追い出しを図っていると言うのがもっぱらの見方だ。
これが今後にインティファーダ―のイスラエルの様になるのは必至の雲行きなのだが。
ミャンマー西部ラカイン州で、ロヒンギャ族の民兵組織と警察・軍との間で起きた武力
衝突を機に、おびただしい数のロヒンギャ住民が隣国バングラデシュに避難している。
その数は2ヵ月間で推計60万人以上(2017年10月27日現在)とされ、過去最悪の規模に
達した。難民の多くが銃・爆弾などによる怪我を負い、心も傷ついている。過密で、衛
生状態のよくないキャンプでの生活が長引き、深刻な栄養失調や集団感染への懸念も広
がっている。国境なき医師団はこうした事態を受け、援助活動を拡充。日本からも医療
スタッフをバングラデシュに多数派遣し、緊急対応にあたってきた。医師団が事件発生
から現在に至るまで現地で目撃した、ロヒンギャ難民の状況を振り返る。イスラム教徒
の少数派であるロヒンギャは、仏教徒が大多数のミャンマーで「不法移民」として差別
され、移動・結婚の制限、強制労働、資産の没収、不法逮捕など、深刻な人権侵害を受
けていた。日々暴力にさらされ、劣悪な生活環境で暮らすロヒンギャを医療面で援助す
るため、医師団はラカイン州で診療所を運営。月に最大 1万1000件を超える総合診療の
ほか、救急搬送などのサポートもしてきた。しかし、今回の事件が発生する数日前から
外国人スタッフの立ち入りが禁止され、現在これらの活動がすべてストップしている。
回の大規模な移動が始まったきっかけは、ミャンマー軍がラカイン州で展開した大規模
な軍事作戦だ。その作戦は、 8月25日、警察署や軍基地が襲撃され、ロヒンギャの民兵
組織「アラカン・ロヒンギャ救世軍」(ARSA)が犯行声明を出したことに端を発する。
バングラデシュに逃れた難民によると、この軍事作戦で、民間人を狙った深刻な暴力行
為が多発。村や家々は焼き払われ、MSFクリニック2ヵ所も焼け落ちた。その結果、多数
のロヒンギャが着の身着のままで国境を越え、難民キャンプに身を寄せることとなった


1159: 名無しさんAA:18/03/02 15:57
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 799----------

銃・爆弾による襲撃、放火、レイプ、乳幼児の虐殺――。避難所にたどり着いた人たち
の証言によって次々と浮き彫りになっているのが、ミャンマー当局による凄惨な暴力行
為の実態だ。ある女性はこう話す。「150人以上の兵士が村に来て、村の男性を次々
に殺害し始めました。遺体は積み上げられ、焼かれました。私は政府軍の1人に股を刺
され、別の1人にのどを突き刺されました。抱いていた生後28日の赤ん坊は、頭を何か
重いもので殴られました。頭蓋骨が割れて脳がはみ出しました」。愛する夫と子ども6
人を失った。わが子が炎の中で生きたまま焼かれた。赤ちゃんがお腹を裂かれて死んで
いた……。残虐な光景を目撃した人びとが負った心の傷も深刻だ。バングラデシュ・コ
ックスバザール県には以前からロヒンギャ難民20万人が滞在するキャンプがあり、MSF
はクトゥパロンとバルカリという2つの難民キャンプに診療所を設置していた。そこへ
新たに60万人以上が到着したことで医療ニーズが4倍に急増。MSFはバルカリとマイナー
ゴナにもクリニックを新設したほか移動診療も開始、多数のスタッフを派遣し、急ピッ
チで活動拡充を進めている。 活動に参加した日本人スタッフは現地の様子を悲しい事
として見ていた。ロヒンギャへのやっかみは、かつてラカイン州でも見られた。軍政下
では多くの国民が自由を奪われ、貧しい生活を余儀なくされていた。その中で、商才を
発揮したロヒンギャたちが裕福な生活をしているのを、妬みの目で見るミャンマー人は
少なくなかった。――商才ある人々が妬みゆえ迫害を受ける――かつてユダヤ人に向け
られた憎悪を連想させるロヒンギャが、「ミャンマーのホロコースト」という悲劇の主
人公になっているのは、偶然なのだろうか。難民申請や在留特別許可を認められたロヒ
ンギャはこれまで230人ほどいる。ゾーミントゥットやアブールカラムが口をそろえ
て言うように、日本での生活は安定している。彼らの悩みはむしろ、ロヒンギャ以外の
在日ミャンマー人からの拒絶だ。迫害こそされていないものの、祖国で経験した非国民
扱いを、逃れ着いた日本でも経験しているのだ。日本にはロヒンギャ以外にも多くのミ
ャンマー人が暮らす。「彼らは普段、ロヒンギャが経営する食材店で買い物をするし話
もする。」と、在日ミャンマー人社会とのつながりも深い田辺は言う。「ただ、政治的
な集まりや国家行事を祝う式典などでは、ロヒンギャを爪はじきにする。」という。こ
の排除の思想こそユダヤ的である。


1160: 名無しさんAA:18/03/02 15:58

「ロヒンギャを悪玉に仕立て上げるというのは言い得て妙だ」と、ミャンマーに詳しい
ジャーナリストの田辺寿夫は言う。「中央政府は、ラカイン族やラカイン州に住む仏教
徒に対して決まってこう言って脅威をあおる。『ロヒンギャはムスリムだ。一夫多妻だ
。放っておけば、どんどん増えてラカイン州はロヒンギャに占有されるぞ』と。」ラカ
イン族の目をそらせたい目的がもう1つあると、アブールカラムは言う。経済利権だと
断言する。ミャンマー内陸部には巨大な天然ガス田があり、国内経済にとって重要な資
源だ。輸出のために港まで運ぶパイプラインは、ラカイン州を横切る必要がある。ラカ
イン族は当然、その恩恵にあずかろうとするが、分け前を与えたくないミャンマー政府
はロヒンギャとの衝突に集中させることで、その話題に触れさせない。軍の息がかかっ
たラカイン州の政治家が全てを取り仕切っているという。ラカイン族の反ロヒンギャ感
情をあおることで彼らの反政府活動を抑え込み、かつ地域の経済利権を手中に収め、自
らの手を血で染めることなくロヒンギャを始末できる――。ミャンマー政府にとっては
一石三鳥とも言える浄化戦略だ。この政策に中国商社が見え隠れしているのも現実だ。
ロヒンギャも民主化のために闘っている。敵は同じ軍政なのになぜ共闘できないのか―
田辺は幾度となく迫ったが、彼らは決まってこう答えた。「ロヒンギャはミャンマー人
ではない。」移住先である日本でも差別や拒絶を受け続けながら、祖国で苦しむ同胞の
救済を国際社会に訴え続けるゾーミントゥットやアブールカラム。彼らの闘いは孤独で
、時に絶望的だ。「このまま行けば、間違いなくロヒンギャはミャンマーという国から
消えてしまう」と、アブールカラムは嘆く。彼はその後、カレン軍入隊を断念。タイで
の暮らしを経て2千年に日本に難民としてやって来た。「ロヒンギャ問題だけを叫ぶと
宗教問題に見られるが、問題はそこじゃない」。ミャンマー政府の暴力が続けば、やが
てシリアのように国が分裂してしまう。彼の懸念はそこにある。ミャンマー西部でイス
ラム教徒少数民族ロヒンギャの武装勢力と治安部隊の衝突が激化している問題で、現地
報道によると、中国がミャンマーによる対抗策の支持を表明した。洪亮・中国大使は、
ミャンマー政府高官に「西部ラカイン州で発生した過激派からの襲撃に対する、中国の
立場は明らかだ。これは内政問題だ」と発言。「ミャンマーの治安部隊による過激派組
織への反撃と、住民を支援するための政府事業を大いに歓迎する」と述べた。40万人
のロヒンギャが、攻撃から逃れるため隣国バングラデシュで難民となっている。国連の
グテレス事務総長は13日、ラカイン州で起きている事態は民族浄化としか言いようが
ないと発言しており、こうして今も資源の搾取の為の政府の動きは、ノーベル平和賞受
賞者であるミャンマーのアウン・サン・スー・チー国家顧問は苦境に立たされている

1161: 名無しさんAA:18/03/02 16:01
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 801----------

世界で今、最も迫害されているといわれるミャンマー(ビルマ)のイスラム系少数民族
ロヒンギャ。彼らへの連帯を示す動きが思わぬ所で広がっている。ロシア南部チェチェ
ン共和国のカディロフ首長は、「イスラム教徒へのジェノサイド(大量虐殺)」を非難
しないようなロシア政府には従わないとを YouTubeで表明。首都グロズヌイでは、ロヒ
ンギャへの暴力行為が増加していることに抗議する集会に多数の住民が参加した。ミャ
ンマーから隣国バングラデシュに逃れたロヒンギャ難民は、8月下旬以降で9万人近く
に及ぶ。彼らの多くが、ミャンマー軍によるレイプや殺人、放火が横行していると訴え
ている。ロシアのプーチン大統領の「歩兵」で、「アラーのしもべ」と自称するカディ
ロフは、「ロシアが悪魔(ミャンマー当局)を支持するなら、私はロシアに反対する立
場を取る」と明言した。ロヒンギャ保護のためにチェチェン軍を出動させるのは地理的
に難しいが、今の状況にいてもたってもいられないと吐露。「許されるなら核攻撃して
、子供や女性、老人を殺した奴らを一掃したい」とまで発言した。そうした感情はアル
カイダまで届いている。ロヒンギャ迫害の報復にミャンマーに聖戦を宣言しているから
だ。だが、カディロフ自身も決して清廉な人物ではなく、数々の人権侵害をめぐって非
難されてきた。99〜09年の第2次チェチェン紛争時にロシア政府への忠誠を誓って以来
、チェチェンでの権勢を誇り、チェチェンとロシアの国益は一致すると主張してきた。
今回、ロシア政府との対立も辞さないと表明したのは異例だが、ロシアがミャンマー当
局を支持することはないはずだと、譲歩するような発言もしている。むしろ強い怒りの
矛先は「懸念を表明するだけ」の国連に向けていた。カディロフは抗議集会にも参加し
、プーチンが「あらゆる権威と世界における影響力を使って」ロヒンギャ迫害をやめさ
せるよう呼び掛けた。のだが、皮肉にも、今年3月に国連でロヒンギャ迫害への非難声
明案が協議された際、反対したのはロシアと中国だったのである。ロシアはミャンマー
政府にとって、長年の貿易と軍事協力の相手国。こうして「ロシアの歩兵」の頼みは聞
き届けられそうにない。だが今やロヒンギャ問題は軍のおおぴらな迫害で 仏教徒対イ
スラム教徒の宗教対立に変化しようとしている。



1162: 名無しさんAA:18/03/02 16:03
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 802----------

 核・ミサイル開発を続ける北朝鮮への対応について、米外交専門誌「ナショナル・イ
ンタレスト」(電子版)は、「選択肢は予防戦争しかない」との衝撃的なレポートを発
表した。近く北朝鮮を攻撃し戦争が始まった場合の死者は約140万人だが、開戦を回
避してもいずれ「偶発的核戦争」が起こり、5・5倍の約770万人が犠牲になる恐れ
があるというのだ。同誌の「戦争への計算式」は、誰もが認めたくない未来を示してい
る。と伝えられた。インドで、ガンディーは「マハトマ・ガンディー」とも呼ばれてい
ます。この「マハ」は、「偉大な」という意味のサンスクリット語です。そして彼は、
日本についてこう言っている。「日本人は世界でも際立つ興味深い民族で、しかも感謝
の念は特定の個人にだけなく日本全体に強く感じます (シドモア 明治時代)」と。
このガンディーは非暴力を説いて歩いた。ところがその意味は無抵抗を指す意味ではな
い。それは何回も彼は立ち上がる事の意義を演説しているからだ。ガンディーの次のよ
うな言葉を吐く。「暴力は残虐な者のための法であるように、非暴力はわれわれのよう
な者のための法なのです。しかし、臆病と暴力の間の選択しかなかった場合、私は暴力
を勧(すす)めます。」と言っているのである。ガンディーが、暴力を勧めている。本
当にガンディーがこんなことを言ったのだろうか。問う人もいるかも知れない。しかし
、この言葉の真意こそ彼の心からの言葉である。「怯懦(きょうだ)か暴力か、二者択
一を迫られたなら、私は暴力をのほうを勧めるだろう。・・・なぜなら、民族全体が去
勢(きょせい)されるよりは、暴力に賭けるほうをよほどすぐれているからである。」
と間違いなく、ガンディーは暴力を勧めて歩いたのだ。怒り立ち上がる事がすぐれてい
るとまで言って。もちろん、「臆病である」よりは、暴力の方がいいと言っているだけ
で、常套手段的な暴力は進めていない。しかしガンディーがここで言う「臆病」の相手
は、イギリスの植民地として命令に黙って従っている盲目のまま従っている住民の事な
のである。「法律が気に入らないにもかかわらず、それに従うような教育は、男らしさ
に反しますし、宗教にも反しますし、隷属の極みである(真の独立への道(岩波新書)
。」と怒っているのである。

1163: 名無しさんAA:18/05/17 11:53
宣教師の時代       ーーー182  (仏教論議)

「叡山及び其末寺、摩多羅神を崇(あが)めまつれり。此の神、密部諸経儀軌に云ふ阿弥
陀の教令輪身にして常行三昧の時の守護神たり。故に台徒尊ひあへり。中頃台教大にみ
だれて其一家の学に迷へり。此時禅子(学者)の手段にならひて別に公案を巧書し学侶に
著語せしめ印可せり。此時また密法により玄旨帰命壇(げんしきみょうだん)の灌頂(
かんちょう)といへる事を造り、摩多羅神を本尊とし、甚秘(=極秘)として相受せり。
台徒これより玄旨の壇場を一家の極秘とせし故に、摩多羅神を殊に尊崇することゝなり
し。」天野信景『塩尻』と書いている。玄旨帰命壇は、かつて天台宗に存在した一派で
ある。のちに淫祠邪教扱いされ江戸時代には絶滅したといわれる。玄旨帰命檀は、玄旨
檀と帰命檀を合わせたものである。玄旨檀とは、一心三観の深旨を口伝面授する玄旨灌
頂であり、法華の法水を授者の頭頂部にそそぐ儀式である。帰命檀とは、衆生の命の根
源は天台の理である一念三千にあるとして、それを実現する儀式である。つまり古代の
キリスト教である聖水をかける行為を玄旨檀とし、キリストの聖歌的な延年舞(えんね
んまい)を中心にした帰命檀をして儀式としていたものだ。聖歌は讃美歌とも称され、
モーセが紅海を渡った後、エジプト軍が波に飲まれるのを見て、モーセとイスラエルの
民は喜びに満ちて賛美して踊りや歌を講じて宴を行った事から起こっている。日本の寺
院での玄旨檀も延年舞は、元々法会のあと僧侶・稚児たちが行った遊宴の歌舞で、平安
中期には派手に流行し、鎌倉・室町時代に盛行した。曲目は多彩で、現在は僅か数か所
でその面影を伝えるものがある程度である。先に言った様に古来から日本では延年の舞
は神事性交として直会があった。巫女と言うのは女を神職とはせずに御伽童子をして、
新郎新婦などに性交教授を行っていた。「観る小姓」つまり監督である。つまり古代に
は集団性交は儀式であった。「巫女」は舞を舞い、楽器を奏でて神を慰め、神の営む酒
宴に彩を副えた。伽をして神や参拝者を慰めた。「聖婚」や「神殿売春」という神から
下され巫女が処女で無ければ為らない”と云われる様に為ったのは明治以降であり江戸
期は逆に処女ではいけない事になっていた。土佐のよさこい祭りは「夜さ来い」の訛り
だし、祇園そのものが「祓いの園」である。「夜伽」と呼ばれる乱交酒宴で死者を弔っ
たし、日本の神社で神に奉仕する巫女も基本的には神殿娼婦で在った。神が主催する、
収穫や豊漁、多産を願う「お祭り」は乱交パーティはてんこ盛りだったのである。神社
の「巫女」として神に仕える事は、歌や踊りを習い、後に神社を去って諸国を漂泊し、
宿場や宿坊で歌や踊りをしながら一方で性も売る為の修行であった。


1164: 名無しさんAA:18/05/17 11:54
宣教師の時代       ーーー183     (仏教論議)

平安時代の宮中の舞踊・音楽の教習所である「内(ない)教(きょう)坊(ぼう)」で養われ
た「伎女」は、「遊女」や「巫女」にの高尚な職業名と考える研究者は多い。神社で見
る彼女等の白衣に緋短袴で今の巫女の穿く裾が踵迄の袴は短袴であるという 艶やかな
紅白の出で立ちは、男に子供が出来ると言う証明であったと言われる。つまり近親相姦
や暴力的性交や同性愛をこれにより食い止めて 国家的に産めや増やせの事業を担って
いたのである。又神殿娼婦で生まれた子供は子供のいない夫婦にも養子縁組されていて
神の子とされたのである。玄旨帰命壇「常行堂摩多羅神の事」に記されるように、摩多
羅神は円仁が唐から帰国する際に感得して、常行堂に勧請したと伝えられる。しかし、
実際は、摩多羅神は平安時代から鎌倉時代にかけて既に成立した物で、玄旨帰命壇の本
尊として成立したものが改めて朝鮮から「宿曜経」や「理趣経」がやって来て玄旨帰命
壇として教団化した。それはなぜか。実は奴隷商売と麻薬の買い付けが容易になったか
らだ。そもそも西暦804年頃、中国に遣唐使となった空海や最澄や円仁の持ち込んだ
、膨大な量の密教仏典持ち帰ってきたそんな貴重な仏典の中に「宿曜経」や「理趣経」
があったとされる。又チベットの奥にはボン教と言うのがある星宿海の近くの宗教であ
る。チベット初期の文献においてボンとは組織的な宗教の呼称ではなく一種の祭司の事
を指し、古代チベット王国(吐蕃)ではボンとシェンという祭司が祭祀を執り行ってい
た。と言う。ユンドゥン・ボン(永遠のボン)は古代から続くとされるチベット人独特
の総合宗教である。その起源は相当古くに遡り、人類最古の文化のひとつに数えられて
いる。一般にボン教はチベットの土着の宗教であると認識されるが、ユンドゥン・ボン
はその開祖であるシェンラプによって4千年前にチベット西方のタジク方面から伝えら
れたとされる。宗教はチュー(法、慣習)で、ラチュー(神の法)とミチュー(人の法
)とが区別され、ラチューは時にはボン教、時には仏教のことを指し、後者のミチュー
が仏教伝来やボン教成立に先行する土着宗教であっと言う。


1165: 名無しさんAA:18/05/17 11:54
宣教師の時代       ーーー184     (仏教論議)

 実は日本人はお盆を仏教世界と勘違いし又偉い坊主や僧は盂蘭盆会などと言う勝手な
方便を立てている。だがそれは大きく違う。まずチベット仏教は仏教伝来して出来た物
と考えがちだがそれは違っていて、それよりも遥か昔から、チベットにはもうひとつの
総合的な宗教文化が存在していました。それがボン教と呼ばれるものなのです。ボン教
は、カイラス山周辺にあった古代シャンシュン王国からチベットに伝わったとされてい
る。チベットの文化のその基層は、ボン教に遡ると指摘される。チベットの文化や宗教
というと、まずは仏教やラマ教を思い浮かべる方が多い。しかしテレビや映画で見るこ
とが出来る世界一の山の高度のを誇る高原に住むチベット人は、もとももと信心深く、
公共心に富む姿でしか生活できない。宗教や霊感から程遠い日本の私たちは不思議な生
活実態があり、心の奥底に何かを訴えくる。しかしこれは、仏教がチベットに本格的に
伝来された八世紀頃以前からのものだと考えられる。後世の使徒ダライ・ラマ14世も
、正式にボン教をチベットの霊性の系譜の一つと認めているし、ボン教のラマ達も、ダ
ライ・ラマとチベット仏教の霊性を尊重している。ボン教とチベット仏教は共に、チベ
ットの大地の中育まれてきた仲の良い宗教である事が解る。どちらの宗教の流れもチベ
ット人と世界の人の幸福を願って同じ土壌と教えで混同する程だからだ。しかしボン教
自体は紀元前2〜1千前には既に出来ていて拝火教と共に崇められている記録が残る。
ポン(Bon)教の範囲も広く、中国のチベット自治区全域、四川省、甘粛省、青海省、
雲南省からヒマラヤ南麓にまで広く少数民族地帯に分布している宗教で、仏教がチベッ
トにもたらされ、政権と結びつく前まではその地域の主流を占めていたと思われる。土
着的要素と密接な関連を保ちながら、独自の高度な教理体系を築きあげ、少数派ながら
いまも宗教集団として残って居る。チベット仏教の多くの哲学・儀礼の随所には、ポン
教からの影響が認められ、また古いポン教徒は「シャンシュン語」という未だその系統
も文法も明らかにされていない言語を用いていた。この言語はチベット文語の成立に重
大な影響を及ぼしている。ポン教はさまざまな面で、チベットの文化基盤を代表する宗
教であり、その地域を理解するうえで不可欠の要素といえる。


1166: 名無しさんAA:18/05/17 11:54
宣教師の時代       ーーー185     (仏教論議)

 度々出てくるボン教についてはチベット仏教のニンマ派(古典派)と捉われがちだが
その言われはかなり古く、ボン教はチベット仏教が栄える以前の、紀元前2千年の古代
宗教がチベット高原一帯に土着した。と言われる。つまり拝火教の火神信仰と祖霊信仰
、更に霊魂信仰(山や川など自然界に存在するものには神が宿っていると信じ、それら
を祀る)で、主に悪魔払いなどを中心としていた宗教と言われている。実はこのボン教
はかなりの意味で人の宗教心の源道となっている。風葬の儀式や火祭の儀式、誕生霊魂
とする感謝の儀式などは、日本の山岳信仰にほぼ等しい。又ロシア正教会が1千年頃に
キリスト教から分かれたが、カザンの生神女福音聖堂で見る様に 女神信仰である為に
異端とされた事が大きい。こうした事はほぼ古代宗教の自然崇拝と女神信仰、火祭行事
に祖霊風葬の4つはその基幹をなす。つまりエジプト文明より更に古い物だと言える。
このボン教には大きく分けて二つの教えが備わる。古代ボン教(魔ボン、ツェン・ボン
)と現在のボン教(ユンドゥン・ボン)に分けられ、更に現代改訳はドル・ボン、キャ
ル・ボンおよびギェル・ボンの三期に分けられる。と言う。タントラ瞑想のインド哲学
も、ゾクチェンも「大いなる完成」を意味と言われるチベット語でする、瞑想理解から
の発達系であろう。インド起源の仏教は「右繞」(うにょう)すなわち時計回りに巡っ
て行くが、ポン教には「左繞」(さにょう)すなわち左廻りを善しとする。これは日本
の注連縄(しめなわ)行事の祓い祀りの改訳と同じである。つまり祈りか呪いかと言う
2大秘儀の思考体系である。些細な差異によって、奥義のその系譜を残したのだ。事実
キリスト教もイスラム教も事聖書に至っては、その二大元素論を説かない。その為、ボ
ン教での数字や図形の重要さを、そのまま魔術と誤解して伝わっている。黒魔術白魔術
占星術数奇術錬金術、などだ。会昌の廃仏は「唐代三夷教」(マニ教・ゾロアスター教
・キリスト教ネストリウス派)も排斥された事件だが、787 年にチベットの吐蕃が敦煌
を占領したことにより、教義の違いでインド仏教と中国仏教の間の宗教論争が起こった
。この事で始まった。クルガン仮説は文化衝突を示す言語発展の地域予想だが、ギンブ
タスは、明確な墳丘「クルガン」を伴う墳墓を持った「文化」を仮に「クルガン文化」
と呼び、クルガン型の墳丘墓がヨーロッパへ伝播していったことをつきとめた、最初の
インド・ヨーロッパ語族ないし先行インド・ヨーロッパ語族の核をなす民族の発生した
紀元前5千年紀に対応するものと考えられていて、そこを原郷とした。


1167: 名無しさんAA:18/05/17 11:55
宣教師の時代       ーーー186     (仏教論議)

 紀元前5千年紀から紀元前3千年紀にステップやヨーロッパ南東部に存在した原イン
ド・ヨーロッパ語族の民族的特徴が反映されている。7と9はチベット人のシャーマン
が多用する数字で、この数字は宗教儀式の中では、最も吉祥的な数字とされ、9は完成
されたものを示す。ボン教神話では世界は内から9層になっており(九重地)、天界も
はじめ9層あり(九重天)やがて13層に拡大するといわれている。ちなみに13は最
も神聖なる数字とされ、図形では卍は不滅を意味する重要なシンボルで三角は完全な神
の鎮圧を意味するといわれている。従って六芒星の端に鎮座する神6座とその間の6座
そして中心に座る1座の計13座は特別な形とされる。ボン教では天珠を結界の通行手
形としている。天珠が宗教的には仏教の御数珠であるが、砂漠では護符であり瑪瑙など
で特殊な加工を施したジービーズと呼ばれその紋様は種族を表していたがその内中国の
業者が加工を行い販売し、本来の族長の証の老天珠(ジービーズ)の意味が無くなった
のである。古代ボン教(魔ボン、ツェン・ボン)は、史書の記載による女王国家で、西
夏王朝が滅亡した際、皇帝の親族や王妃などの多くが遠く離れた寧夏から山脈が横断し
、峡谷の深い丹巴へと逃れていったということである。学者考証によると、東女国が出
現したのはおよそ隋唐時代で、当時の父権社会とは相対的に、かなり強大な国家だった
と言われている。丹巴で美女を輩出し始めたのは、漢代からだが、紀元前5千年頃から
女権国家で母系社会として受け継がれていた。つまり群雄割拠の中国史の向こう側に、
他の社会が存在していたのだ。嘉絨蔵族(ギャロン族)摩梭人(モソ人)哈尼族(ハニ
族)羌族(チャン族)と数多くの女神族がいた。チベット民族の起源伝説ではサル神と
羅刹女(鬼女)との婚姻で6人の子供が生まれた。六つの子供の名はセ(光)、ム(火
)、ドン(天)、トン(水)、ドゥ(地)、ダ(長)であり、それぞれ氏族、部族とし
て発展した。猿神信仰は日本の道祖神信仰であり、長は祭礼を司つった。第13天に住
み、大神に属した。彼らは光の縄や梯子を使って人間界に降臨した。彼らは宗教儀式に
従事する専門家であり、天を敬い、火を拝し、神に事(つか)え、吉凶を卜占し、福を
招き、邪気を祓う、そういった活動を行なった。政治活動にも参与し、王室の重要な役
割を担った。とくに死や葬送に関することでは欠かさざる存在だった。女神信仰国には
奇習として一夫多婦制であり、群婚や走婚で近親相姦すらも罪ではない。群婚は部落と
部落の複数男女が自由に婚姻する。生まれた子供は女性が所有し、父親が誰であるかは
知る必要が無い。尼汝藏族他多くの婚姻習慣は初期には群婚であったと言われている。

1168: 名無しさんAA:18/05/17 11:55
宣教師の時代       ーーー187     (仏教論議)

 ボン教は2つに大別され、古代ボン教(ツェン・ボン)は高原宗教としての礼拝儀式
紀元前 15000年からの生贄殺生を伴う伝統的祭祀儀礼で、シェンラブ・ミボの教えによ
るものとされ現代も生贄は動物模型などに代替されて行われている。一方現代ボン教は
(ユンドゥン・ボン)残存して体系化されたボン教で、シェンラブ・ミボが創立したも
のとされ、ゾロアスター教の影響や紀元前5世紀末頃に古代インドのバラモン神学を元
に作られたともいわれている。教義に二つの分類法があり、「四つの門と一つの宝典」
と「ボン教の九乗」(ボン教の九つの道)という分類があり、「ボン教の九乗」には「
原因の道」「結果の道」「乗り越えられぬ道」「完成の道」のに統合されている。この
「ボン教の九乗」の内容で @「予言の道」… 呪術や占星術儀式 A「覚醒の道」…
精神物理学の論理 B「幻想の道」…祈願呪術儀式、お祓い C「存在の道」… 葬儀
の執行 D「平信徒の道」… 健全生活の十行原理 E「僧侶の道」… 修行者の戒律
説理 F「原初の音の道」… 最高天啓・マンダラへ統合 G「原初のシェンの道」…
真のタントラ求道基準・指導基準と、弟子や師の精神的責任を説く H「至高の教え」
… 偉大なる完成の教えのみを論ずる。これらは、「経典」「智恵の教えの完成」「タ
ントラ」「知識」という4種類、二百冊以上のボン教聖典として説かれて、他にも儀式
、工芸美術、論理学、医学および物語を扱経典としての地位を持ち、チベット仏教内の
ニンマ派と密接な繋がりと「知識」部門の宇宙論や宇宙進化論は独自のものを放す物だ
。当然紀元前の時代から日本には伝播していたものと考えられ、拝火教の儀式主体を飾
っていたと思う。実はこの事は日本の宗教界にとってはかなり大きなものだ。つまり、
古代宗教拝火教から インド仏教やバラモン教を経て日本仏教になったが、同じように
中国でユダヤ教が生まれキリスト教と変わりイスラム教にも変わって行ったのである。
ユダヤ教の経典とされる聖書は、マリアのキリスト受胎告知などは全くのこの高原宗教
から発していて、それが「馬厩の王子」の話と聖徳太子の別名となった理由でもある。
 かつての昔にこうして日本にやって来たのなら、その後も又その教えはやって来た。
平安時代も鎌倉時代もそして戦国時代も同じ様にやって来た。だからこそインドでも、
ゴアに本拠地にして、コルカタやムンバイなど港に伝播して日本を知り得たのである。



1169: 名無しさんAA:18/05/17 11:55
宣教師の時代       ーーー188     (仏教論議)

 実はこのヒマラヤに近い北側は大きく高地であり空気が薄い。およそ4000m以上
の高台であり水さえも溜り水を飲み、木々がない砂漠に近い高原である。その生活実態
はその沼の水さえも、布をかけ小さな生物を入らぬ様にし掬い、その水を水の神と地の
神と自らの祖先にと三所儀礼を行って水汲みをする。そういう清潔を気にする民族性か
ら、どんなに気をつけていても、日常生活の中で罪を重ねてしまうのは、仕方のないこ
とと言う考え方がある。ボン教やチベット仏教では罪を10種類に分類して、十不善と
名づけている。積み重ねてきた、身体と言葉と心の罪を浄化するために、効果的なのが
浄化の百音節真言と言う真言を唱える。仏教では法印を大印だいいん(偉大なるしるし
)として三昧耶印(さんまやいん)・法印・羯磨印(かつまいん)を各仏の身体的表現
と訳している。従って密教仏教では、特定の尊格を有し 存在者に対する象徴ないしは
象徴的表現法と解され。まず三昧耶サマヤ印(特定の尊格の内面性を象徴する象徴的な
形象)、法印(同じく、その法=真理ないしは言説を象徴する真言)、そして羯磨印(
同じく、行為・活動を象徴する動作ないしはその手印による表現)の三種(=三密)が
あり、それらの三者が綜合されたもの(一尊をその全体として表現する……)を大印と
称する。としている。しかし同じこの印がボン教では神への合図とする感謝を示す行為
とされる。仏教で「ほとけとなる智恵」を指すがボン教では、生きる事が神との3善の
契約とされ善意善行善言のこの事の現わす行為として神に見せる言葉がこの法印とされ
る。つまり食べる度に「頂きます。」と言う様に、水を扱うだけでも神に告げねばなら
ないのである。言葉を発する事も歩くことも常に感謝の意を伝えて行わなければならな
い。とするのだ。印契のことはこれぐらいにして、はなしをもどすと、『金剛頂経』の
原文からすれば、百字真言は「すべての印契を金剛のように堅固にする」ものと仏教は
規定し、ボン教は日常の生活で行うべき行事としている。原語であるインドの梵語(ぼ
んご)に遡さかのぼってみれば、「法」の原語ダルマ(dharma)は「聖なるものを保っ
た真理」をさしている。他方の陀羅尼とは「真理を保つ聖なる言葉」にあたり、大乗仏
教から密教にかけては、聖なるほとけや経典から流れ出る力を私たちに伝える主導力と
言った。今やマンダラは曼荼羅として仏教が作った様に思われがちだが実はこのボン教
のマンダラ供養が起こりとされ、また因果応報の原因と結果の因果律(カルマの法則)
もこの教から出て居る。ダルマを学ぶにあたって、良い結果が得られるように、原因と
なる功徳を積むことは重要な事との教えをブッタ王子が聴いたのであろう。この「マン
ダラ供養」は、速やかに無量の善行を修行とせよの拝火教の教えである。

1170: 名無しさんAA:18/05/17 11:56
宣教師の時代       ーーー189     (仏教論議)

五体投地(ごたいとうち)は、五体すなわち両手・両膝・額を地面に投げ伏して、仏や
高僧などを礼拝することである。仏教において最も丁寧な礼拝方法の一つとされ、対象
への絶対的な帰依を表す。 挙体投地、五輪投地ともいう。 日本では、主に天台宗・真
言宗・信貴山真言宗・黄檗宗・浄土宗などで行われる礼拝方法。とされる。チベット仏
教における聖地では、五体投地を行う者が多い。また、聖地へ向う巡礼自体を五体投地
で進む者もおり、長い時間がかかる過酷な巡礼とされる。しかしこれは、七支分と曼荼
羅供養の中にある「七支分」は、六加行の中心となる修行で、礼拝・供養・懺悔・随喜
・勧請・祈願・廻向の七種の修行から成る。 つまり 1.礼拝 2.供養 3.懺悔 4.随喜
5.勧請 6.祈願 7.廻向 を行うのだがその中で 供養は「七種供養」(=七種類の供
物(閼伽水・洗足水・華鬘・焼香・灯明・塗香・飲食)を行うとされているものだ。こ
聖水である「閼伽水」は日本での「御神水(おみき)」に値する。洗足水は神社仏閣の
入口の清め水である御手水と同じだ。「華鬘・焼香・灯明」は、お花と線香と蝋燭であ
る。塗香(ずこう)とは、仏像や修行者の身体に香を塗って、けがれを除く事とされる
。また、その御香は仏に捧げる六種の供物の一種。数種の香木を混ぜて粉末にし、粉末
のまま乾燥させた粉末と、浄水と混ぜ練香としたものがある。一般には粉末の抹香状の
薄茶色の香をさす。線香や焼香と違い、香を燻らせて供えるものとは違い、身体に塗る
香であり香水と言える。もともとの起源はインドにあり、香木から香料を取り、体に付
けて体臭などを消し、蚊や害虫の寄り付きを払ったのだろう。ここから発展し、身体を
清める、邪気を寄せ付けないという意味で仏教で取り入れられた。多くは、修行に入る
前や法要を執行する前の清めに行われる。飲食も又修行とされる。食べると言う作法に
よって生を得ているからだ。正しい座法と帰依・発心は、座具を用意し、「毘盧遮那の
七法」という作法に従って着座し、数息観(すそくかん)と言う呼吸を数える事を言う
。呼吸を整える事で、「不浄観、慈悲観、因縁観、界分別観、数息観、」を育てる事を
修行とし「貪(欲望)瞋(怒り)痴(無知)因(我執)迷(尋・伺)」を抑制する事を
目的としている。これにより、自身の精神を仏道修行にふさわしく落ち着いた状態に整
える。着座にあたり、五体投地(両手・両膝・額を作法に従い地面につけ、「自身の身
・口・意(しん・く・い)の全てをもって礼拝する」と観じつつ平伏する修行)を3回
または7回・21回・108回行う。こうして帰依(三宝への帰依)と発心(衆生の救
済の為に仏陀となること)を念じる。としている。

1171: 名無しさんAA:18/05/17 11:56
宣教師の時代       ーーー190     (仏教論議)

 このボン教の伝承では、今から1万8000年前、チベットの西にあるタジクという国の
オルモルリングで王子として生まれたあと出家して僧となったトンパ・シェンラッブ・
ミオによってボン教の教えは始まったという。つまり古代大陸の頃にボン教は始まった
とされている。この教えが「永遠なるボン」(ユンドゥン・ボン)の由来である。そも
そも「ボン」と言うのは「宝」と言う意味である。更に宗教の事を「テルマ」と言い、
地中や弟子たちの心の中に埋蔵した霊的な宝物とされ、「大地のテルマ(サテル)」と
「霊感のテルマ(ゴンテル)」の二種があるとされる。と言う。この古代宗教が4派に
分かれて、ニンマ派、カギュ派、サキャ派、ゲルク派からが出来たと言われる。この中
でニンマ派は古典派で消えながらも復活しているボン教のようだ。と言うのも「チベッ
ト版死者の書」とされる聖典が「大地のテルマ」として発見され、その化身とされるテ
ルトンが現れるからだ。彼らの教えは代々受け継がれそのままの形で存在する。対して
リメー運動と言うチベット仏教を再活性化させるというチベット文化のルネッサンスが
何度か起こっているからだ。これは、宗派の壁を超えて仏教などののさまざまな相承系
譜を収集し、多様なものを多様なままで不偏的に平等に拾い続け、強い影響を与えて、
新たな息吹をもたらしている。その一番新しいのがチベット仏教(ラマ教)で7世紀に
チベットに入って来たと云われる。インド仏教の衰亡期の寸前に人間の欲望を積極的に
肯定し、性交を密教原理の具象的現れとし、かつ秘儀とする派閥がインドから北上して
チベット高原に入り、9世紀以後に定着した。これがチベット仏教の正体とされる。チ
ベット仏教はゲルク派ですが、ゲルク派はダライ・ラマ、パンチェン・ラマが属する物
が最大派閥で、ラマ教ともされる。その基本はオルモルリングから東方のカイラス山周
辺にあった古代シャンシュン王国にトンパ・シェンラッブ・ミオが降臨し、ここから、
チベットに伝わったとされている。オルモルリングは、山頂が水晶巖で出来ていて周囲
に数多くの寺院を擁するユントゥン・グプツェー(九つの卍)という聖山があり、この
世にあって別の次元にもあるとも言われいる。「ドンドゥ」によると、タジク、オルモ
ルリングは、チベット北西のティセ山地方にある「ム」という国の北部だとされる。そ
してそこには「九層黒山」があるという。カイラス山は(カイラーサ)はサンスクリッ
トで水晶を意味する「ケーラーサ」との関連が指摘されますが、研究者の間では周囲に
巡礼用の寺院を配して山頂が水晶のように見えるカイラス山が「須弥山」だと目されて
いる。最も丁寧な礼拝方法である「五体投地」で巡礼する聖地として知られてる山だが
、仏教(特にチベット仏教)、ジャイナ教、ヒンズー教、ボン教の聖地ともなっている

1172: 名無しさんAA:18/05/17 11:57
宣教師の時代       ーーー191     (仏教論議)
 この山は、「五体投地」で巡礼する聖地でありながら、標高6656mの未踏峰で、この
「五体投地」は天台宗、真言宗、黄檗宗でも行われている。カイラス山がユントゥン・
グプツェー山(九つの卍層)、九層黒山と呼ばれる聖山だったろうと目されるがこの山
をボン教徒は左廻りに、チベット仏教徒は右廻りに巡礼ししてそれによる教徒の違いが
ある。多分、この巡礼方法が卍の発祥の大元のようだ。ジャイナやヒンズーまでもがこ
こを聖地としている事から、これら宗派の起源がここにある。少なくともインドの大乗
仏教ではない。ボン教の歴史上はチベット密教より前に、土地の精霊を信仰していた。
と言われ。ボン教の起源はボン教の発祥の1万八千年前は、チベットの西にあるタジク
という国の、オルモルリングというところにいた人がはじめたもので、このオルモルリ
ングは世界の2/3の面積を占めていた。とされるカイラス山近くのシャンシュンとい
う国を通り、チベットに伝わった。と言う伝説だこのオルモルリングという場所が、世
界の2/3をしめており、この世にあってまた別の次元にもあるとも言われる。チベット
仏教の布教伝説ではパドマサンバヴァ(サンスクリットで「蓮華に生じた者」の意)の
名は、彼がウッディヤーナ(烏杖那国)―今日のパキスタン、スワート渓谷に当たる―
のダナコーシャ湖の蓮の花の中から8歳の子供の姿で現れたという伝説に由来する。こ
の不思議な子供は国王の養子に迎えられ、国政を委ねられたが、あるとき虚空に現れた
金剛菩薩(ヴァジュラサットヴァ)の教えを受け、出家して僧侶となり、後に密教行者
となった。釈迦の弟子のアーナンダ、シュリー・シンハなど、多くの偉大な師の下で修
行して、密教の大成就者として有名になると、彼の神通力を聞いたチベットのティソン
・デツェン王によってチベットに招かれ、土着の宗教であるボン教等を調伏し、チベッ
ト仏教の基礎を築いたという。布教の際には、時にはなだめ、時には驚かせるために8
つの姿=グル・ツェンギェー(蓮華生大師八大変化、漢訳は『蓮華生大師除障道』)を
見せたと伝えられる。そもそも身代わりの儀式は、かつてボン教でも行われていたもの
で、例えば人が死ぬと、連れ立つ生け贄として動物を殺す儀式が存在していた。こうし
た「身代わり」を使う儀式の災難除けはチベット文化圏で広く見られるものである。中
国の三国時代には、蜀の諸葛亮孔明が現在の雲南省周辺に南征に向かった際、現地では
毎年川が氾濫する度、大勢の人の首を切り落として川に投げ込むという風習が行われて
いた、という記述が残されている雲南省は、今でもチベット文化が色濃い地域である。
またそれを不合理に思った孔明は、人頭の代わりとして小麦粉を練らせ、中に豚肉を詰
めて”頭”を作り、それを代わりに川へと投げ込ませることで、その風習を断ち切るこ
とに成功したという。まこれが、現在我々が口にする饅頭の起源となった。

1173: 名無しさんAA:18/05/17 11:57
宣教師の時代       ーーー192     (仏教論議)

 瞑想法では「イメージの中でダーキニーに変身して、手に持つ鋭い曲刃で執着の源で
ある身体を切り刻み、美味しい甘露のスープを作り、不幸な生きものをパーティーに招
き、苦しみを癒す行法。自分自身の執着心を粉々に砕きながら、心の底から生れてくる
慈悲を体験するのが目的の女性におススメの瞑想法だと説明される。摩多羅神がダキニ
天で「北斗星」を表しているのは忿怒相の黒いダーキニー像が、三眼、髑髏の冠、髑髏
の首飾り、髑髏の器で血や脳みそを飲み、煩悩や悪を象徴する人間を踏んでいる姿をし
ているのは、実はこれは精巧な「和合仏」なのだという。こうした密教の起源はインド
における「尸林(しりん)の宗教」にある。「尸林」は中世インドの葬儀場のことで、
大きな都市に隣接してこの尸林が存在していた。死者の遺骸は都市部から尸林に運ばれ
、荼毘(だび)にふされるかそのまま放置されて鳥獣の貪り食うにまかせられ風葬の鳥
葬の風習だった。しかししばしば 尸林は処刑場を兼ねており、斬首されたり、串刺し
にされた罪人の死骸が晒されていました。これらはまともな神経の人間には実に恐ろし
い場所であり、実際には血肉に飢えた野獣が跋扈(ばっこ)する危険な場所であり、し
ばしば魑魅魍魎(ちみもうりょう)が徘徊する場所として恐れられていた。しかしそれ
でも骨まで持ち去られ事を無くす為、この尸林では、「尸林の宗教」といったものがあ
った、墓場に女神が祀られ、女神に仕える巫女が住み、死体や血液を用いる黒魔術的な
秘儀を行なって、野獣を近づけない方法を行っていた。尸林の土着の女神たちは、それ
ぞれの尸林を管理する教団によって、ヒンドゥー教か仏教の女神として崇拝されていま
した。それぞれの尸林の女神の祠(ほこら)には巫女が仕え、女神を供養する傍ら、呪
術を生業としていました。その巫女は苦行母(茶吉尼・ダーキニー)または、瑜伽女(
ヨーギニー)と言いました。シヴァ神の神妃サティーの暗黒面を表象するドゥルガー女
神に彼女たちは侍女兼巫女として仕えていたのです。その聖地(墓場)に土着の女性た
ちは、多くはアウト・カースト(日本で言う穢多非人・えたひにん)の出身で、昼間は
牧畜や工芸等の底辺労働に従事し、夜間は(アウト・カーストの女性に特有の)妖術を
使うとみなされていました。彼女等は1年の特定の祭日、又は月の特定の祭日に尸林に
集まり、人肉や排泄物を含む反日常的な食物、つまりは聖なる食物として食し、酒を飲
み、歌舞音曲を楽しむというオルギア(秘教的儀式)を行ないました。


1174: 名無しさんAA:18/05/17 11:58
宣教師の時代       ーーー193     (仏教論議)

 この尸林におけるオルギアの中核をなすのは、ガナチャクラと呼ばれる性魔術儀式で
あった。ガナチャクラとは仏教行者の行なう修法の一種であり、修法を構成する儀礼は
曼荼羅制作、護摩(ごま)、観相(瞑想)法、飲食、歌舞、供犠、性瑜伽(ヨガ)など
です。ガナチャクラの構成員は9名であり、破壊神シヴァの最も凶暴な姿を具現した神
、パイラヴァを召喚した男性行者が1名がアジャリとなり、その周囲を円形に囲む女神
を召喚した女性行者が8名の計9名で行なう儀礼であった。天体の運行を模す形で周囲
の女性が位置を変え、順番に中央の男性と瑜伽(性行為・読み方はヨガ、ヨガのポーズ
はこの性行為の秘儀が元になっています。)します。この位置変換を「瑜伽(ヨガ)女
の転移)(サンチャーラ)と言います。女性行者が8名に臨時のメンバー(行者でない
女性)を1名加えた9名と言う説もあります。その場合は中央の歓喜仏の姿勢で交合す
る男女1組に対して、円形に8名の女性が並び、曼荼羅が常時成立することになります
。この結果、中央の男性行者はすべての女性行者と平等に和合することになるが、こう
した儀式が執り行われていたのである。この儀式はインドの古代神話世界において、ヴ
ィシュヌ神が金輪剣(チャクラ)を用いてシヴァの神妃サティーをばらばらに切断し、
地上に落としたあと、サティー女神が復活し、シヴァ神と再結合を果たした説話をかた
どっています。ちなみに切断された女神の遺体が落下した場所が前出の聖地です。この
ダーキニーとの交わりの中でゾクチェンが完成すると解くのがニンマ派やボン教です。
これは神殿巫女と同じメカニズムであり、単体であるダキーニー憤怒立像がネガティブ
要素満載の中から真理を掴ませるという「秘密集会タントラ」と同じ役割を持っている
為に、巧妙な「和合仏」であるという理由なのであろう。ゾクチェンはニンマ派とボン
教に伝わる教えで、チベット語で「大いなる完成」を意味する「ゾクパ・チェンポ」の
短縮形である。人間を含むあらゆる生きもの(一切有情)の心性における本来の様態、
またはあるがままで完成された姿のことを指す言葉である。ゾクチェンにおいては、青
空を見つめる瞑想の他に、空間を見つめる瞑想「アカーシャー」、睡眠中の瞑想「ミラ
ム」(夢見)、暗闇の瞑想「ヤンティ」等々なさまざまな実践法がある。では何故この
死体の晒し場で、それを守る巫女達がこういった儀式を行わなければならなかったのか
。簡単な事で彼女らだけで夜が守れなかったからだ。つまり強い男の守りが必要だった
し、その精子を貰い子孫を残すためにも 死体の傍の住民は男をもてなすしかなかった
のである。それがヒンズー教であったしマグダラのマリアでありロシア正教の元だった
のだ。

1175: 名無しさんAA:18/05/17 11:59
宣教師の時代       ーーー194     (仏教論議)
 実は我々が勘違いいやすいのはこのチベット仏教でもインド仏教でも、宗教や仏教と
いう宗教概念はあまりなかった。例えばバラモン教と我々は言うが、実はそうした名は
欧州人が勝手につけた名で、一つの階級社会を示すものでしかなかった。バラモンとは
司祭階級のこと。正しくはブラーフマナというが、音訳された漢語「婆羅門」の音読み
から、日本ではバラモンということが多い。バラモンは祭祀を通じて神々と関わる特別
な権限を持ち、宇宙の根本原理ブラフマンに近い存在とされ敬われる。最高神は一定し
ていないし、儀式ごとにその崇拝の対象となる神を最高神の位置に置く。ただ用意され
た儀式は、階級制度である四姓制で決まっていた。司祭階級バラモンが最上位で、クシ
ャトリヤ(戦士・王族階級)、ヴァイシャ(庶民階級)、シュードラ(奴隷階級)によ
りなる。また、これらのカーストに収まらない人々はそれ以下の階級パンチャマ(不可
触賤民)とされた。カーストの移動は不可能で、異なるカースト間の結婚はできない。
つまり呪術師の祈りが、勝手に階級を決めたのであり、それがバラモンであったに過ぎ
ない。バラモンは絶対権利者でありその庇護する王族や戦士を次の階級とし、これを信
じない者を奴隷階級とし、更にその奴隷を阻む旅行者や他宗教者を不可触賤民とした。
インドでは、『ヴェーダ』を聖典とし、天・地・太陽・風・火などの自然神を崇拝し、
司祭階級が行う祭式を中心とする。そこでは、人間がこの世で行った行為(業・カルマ
)が原因となって、次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる。人々は悲惨な状態
に生まれ変わる事に不安を抱き、無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める
。転生輪廻(サンサーラ)は、インドのバラモン教の思想とされる。この教えによれば
「人間はこの世の生を終えた後は一切が無になるのではなく、人間のカルマ(行為、業
)が次の世に次々と受け継がれる。この世のカルマが“因”となり、次の世で“果”を
結ぶ。善因は善果、悪因は悪果となる。そして、あらゆる生物が産まれ変わり、六道の
「@地獄道、A餓鬼道、B畜生道、C修羅道(闘争の世界)、D人間道、E天上道」の
どれかを選んで生まれ変わりを待つ。そして又死に変わって、転生し輪廻する。これを
六道輪廻の宿命観という。何者もこの輪廻から逃れることはできない。それは車が庭を
巡るがごとし」と唱え、「その鍵はカルマ(行為、業)にある」という。この考え方は
実は仏教に限らずヴェーダの宗教とされ、地域の民間信仰や各地の神々が変わり、欧州
人は分類の為にヒンズー教・バラモン教・仏教と、神様や教義ごとに色分けした。しか
し実際は古代拝火教、すなわちゾロアスターよりはるかのゾロアスター教から来ている
。問題はその祭りの方法と支配者の正当性の物語の違いが宗教を変えた。実は聖書も又
その中にあった。

1176: 名無しさんAA:18/05/17 11:59
宣教師の時代       ーーー195     (仏教論議)

タントラとは知識を吸収する物質を意味する。これは広い意味では密教経典そのものを
指し、狭い意味では「金剛頂経」以降に現れた後期密教経典をタントラと呼んでいる。
タントラは、精神的であれ、物質的であれ、あるいは性的にであれ、自分を取り囲む生
の営みに全面的に没頭するよう、目を向けさせる儀式だ。「人は自分を倒す相手を利用
して起き上がらなければならない。」我々をがんじがらめにしている人間の本性的な側
面そのものが、解脱への踏み石とされる。タントラの道は、通常生活行為から後退する
のではなく、欲望、感覚、人間常識、それら一切合財を全面的に受け入れてしまうこと
である。タントラは、世界を「精神=物質」として受け入れ、この二元的世界を積極的
に瞑想することで得られる全一なるものに働きかけ、自己覚醒を可能にする。「タント
ラ・インドのエクスタシー礼賛である。タントラとは通常の意味での宗教ではない。又
、「思考の方法」でもない。タントラは、逆この思考というものが、人々にとって自分
たちの世界だと信ずるものの中で、徐々に幻滅を味わい悲惨になってゆく、主な原因の
一つであるとみなしているのだ。従ってタントラは直観行動につれて効力を発揮する。
タントラの文献を構成しているのは、精神的行為を含む、行為への処方箋のみで、それ
が全目的としている。タントラは、本質的に、幻想とは全く関りをもたない。タントラ
自身は、体感である。人をその人自身の正体のもろもろの根源へと没入させるものであ
る。「タントラ・インドのエクスタシー礼賛」はそこにある。一番重要な、ほとんどの
人々が世俗の快楽として片付けてしまうものを、タントラが積極的に開発し、その上に
みずからの基礎を置くという言う行為なのだ。「おまえの享楽を最高度にたかめろ。し
かるのち、それを魂のロケット燃料として用いろ。」タントラ行者が行っていることは
、基本的に、自分の肉体・情緒・精神の中に発見することのできるあらゆるエネルギー
をふるい立たせて、彼を開悟へと運んでくれる乗り物と、それらのエネルギーを結びつ
けることである。タントラ信棒者は、人が現に繰り返して行う快楽の、かつ一つの強力
な感覚的・情緒的な充足感の開発と発見である。他のなによりもはるかに効果的に、人
を幸福に変革するものだと考えている。そして個々のその仮定のもとに、思いつく限り
の情緒的刺激と行為を自分の目的にあてはめて、ありとあらゆる実行可能な手段を用い
る。こうしてタントラは、各人の記憶の蓄積と心的反応が目覚めさせられて、それらの
すべての源である純粋なエネルギーの状態に復元する。あらゆる身体機能が感覚・情緒
・知能などを、最高潮にまで助長し鼓舞するべきであると云う。諸々の興奮と快楽は、
かくして、悟りの状態へとたち戻る変容のための原料とするわけである。

1177: 名無しさんAA:18/05/17 11:59
宣教師の時代       ーーー197     (仏教論議)

 欧州ではこの後に伝わりシャングリア伝説が生まれた。日本が黄金の島国と同じよう
に、チベットに水晶や宝石の山に囲まれていて天国の様な暮らしをしていると言う、日
本で言う桃源郷伝説だ。シャングリラ県はもともと中甸と呼ばれていた。「シャングリ
ラ」という言葉は、チベット仏教の経典に見えるシャンバラ王国にその源が求められ、
チベット仏教の最高境地とみなされている。アメリカの小説で見る様に、人間の楽園、
桃源郷のようなシャングリラは、中甸の自然、文化、生活の部分的描写であった。この
ため、シャングリラに、雲南・チベット高原にある中甸であると人々は信じて歴史家が
訪れた。チベット語で建塘と呼ばれ、四川省の巴塘、理塘と並んで、チベット王の三人
の息子の領地だった。1957年に迪慶チベット自治州が成立し中甸は州都となり、2001年
に名前をシャングリラ県とあらためて、標高約3千4百米で、面積約1万1千平方Kmの
土地が開発された。雲南省、四川省、チベット自治区の境に接する迪慶チベット族自治
州の中部にチベット族を中心に、漢族、ナシ族(納西族)、イ族(彝族)、ペー族(白
族)など10を超える民族、計13万人が住んでいる。山林が広がっていて、広さの割
りにこの土地の住民は多くはない。清の康熙27年(1688年)、チベットは中甸に交易市
場を設立。以来、雲南、四川、チベットからの商人やキャラバンがどっと集まるように
なり、中甸は雲南・チベット商品の集散地のひとつとなった。中甸(ちゅうでん)の市
街地は、今や往来する車とにぎやかな商店街は、内地の県と変わらない。南には千年の
歴史を誇るドゥクゾン古城で、建塘鎮とも呼ばれ、八つの花びらのハスに似た配置で、
伝説では向かいの山から見た大亀山の形が、ハスの上に座っている大法師の姿によく似
ていることに気づいた生き仏が、この古城を建てたという。城内の3大通りと33の横
道が織り成す入り組んだ街は、現地の人でなければ道に迷ってしまう。ここは、かつて
は迪慶からやってきた馬鍋頭(馬方の頭)はチベット語がわかり山道をよく知っている
ため、非常に人気があったという。チベットに入るキャラバンは普通3月から4月の間
に出発し、再び帰ってくるまでには、少なくとも半年近くかかる。出発前、店の主人は
心遣い示すために、馬鍋頭に布製の服一着と皮靴一足を贈る。さらに徳欽に到着すると
、店の中継所で楚巴(チベット族の服装)が配られる。続いてラサに着くと、防寒のチ
ベット族の服とコーデュロイが何着か配られる。道中、キャラバンは規模の異なる様々
な馬宿で、休憩、調整する。


1178: 名無しさんAA:18/05/17 12:00
宣教師の時代       ーーー198     (仏教論議)

チベット族地区に運ぶのは沱茶、黒砂糖、食品などが中心で、雲南に持ち帰るのは主に
インド産の綿布、薬品、雑貨などであった。キャラバンがチベットから無事に帰ると、
馬鍋頭は店の主人から報酬として30枚の銀貨をもらえる。又店のキャラバンで3年以上
にわたって走り続けた馬方に、ラバ1頭を与えられる。こうした習慣で年月を重ねるう
ちに、自分のラバや馬を数頭持つようになった馬方は、キャラバンを脱して自らが次の
馬鍋頭となるのである。西洋人は不思議である。この「シャングリラ」伝説は、決して
「ユートピア」という言葉と同一ではない。「ジパング」も同じだ。更にギリシャの最
も豊かだった「アルカディア」も違う意味である。「アルカディア」は自由主義的・牧
歌的な理想郷を示し、反対語は「ディストピア」の管理された抑圧国家や共産社会を意
味する。その「ディストピア」の中の、豊かな管理された国を「ユートピア」としてい
る。即ち日本人的理想郷ではなく、言わば今の原油で潤うイスラム国家群のようなもの
だろう。ではシャングリアは、地理的には、ヒマラヤ奥地のミステリアスな永遠の楽園
で、外界から隔絶された地上の楽園というような語と同義語とされる。東洋の桃源郷と
ならんで理想郷の代名詞となり、東洋(オリエント)へのエキゾチシズムを駆り立てる
言葉になった。また神秘主義の総本山と認知され、地球の中心にあるとされる理想郷の
ひとつアガルタの首都に通じるとも言われる。アガルタはオカルト界での神秘都市で、
地球の中心で、共存する高度な科学文明と精神社会、超能力を含む超人的な特異能力を
持つきわめて長寿な人類や動植物が描かれている。実は東インド会社が東南アジアに向
かって貿易してもインドから出なかったのはそこに理由がある。アガルタについて論じ
る時西洋では「アガルタ」の神話はかつてインドでそう呼ばれたように「シャンバラ」
Shambhala とも呼ばれているとし、「かつて、モーセとイエスの戒律をキリスト教が
履行し尽くした暁には」「我々の世界に存在するアナルシー(無政府状態)がシナルシ
ー(共同統治)に置き換わる時を意味し 秘められたアガルタの世界と、そのすべての
叡智と富は全人類にアクセス可能になり開放されるだろう。」と持っていた事だ。この
古代よりチベットに伝わる地底王国「シャンバラ」は、インドの『ヴィシュヌ・プラー
ナ』に描かれるシャンバラ島の伝説を継承したものだが、シャンバラについて最も体系
的に書かれているのが、仏教の最終経典と呼ばれるチベット密教の『カーラチャクラ・
タントラ』であるとされ、カーラチャクラ・タントラを説いたのは、ゴータマ・シーダ
ールタ(釈迦)だといわれている。

1179: 名無しさんAA:18/05/17 13:07
宣教師の時代       ーーー199     (仏教論議)

 この時釈迦は、「シャンバラは雪と氷に閉ざされた北にある」と言い残したという。
これに、ヒトラーやスターリン、ルーズベルトも、各地にシャンバラ探索隊を派遣する
ほど固執し 捜索させたが発見されることはなかった。チベット密教の最高権威ダライ
・ラマ14世は、「シャンバラは幻想や象徴ではなく、この世に実在する世界」だと断
言している。これに日本に来た宣教師達が飛びつかない筈はなかった。日本のジパング
伝説とシャンバラ伝説は欧州社会に蔓延していたのだ。宣教師のやって来た時代は正に
その欧州社会でそうした伝説が一番流行した時代だったのである。この亡霊のごとき御
釈迦様の言い伝えである「シャンバラヤ伝説」日本での桃源郷伝説、夢の黄金郷伝説、
ガンダーラ伝説であった。事実ガンダーラの王国は、紀元前6世紀〜11世紀の間存続
し、1世紀から5世紀には仏教を信奉したクシャーナ朝のもとで最盛期を迎えた国だっ
た。しかし1021年にガズナ朝のスルタン・マフムードにより征服された後、ガンダーラ
の地名は失われた。とされる。しかしこのガンダーラの地こそが今の紛争多きカブール
のあるアフガンの地なのである。今やイスラム教原理主義やタリバンなどと言う物騒な
世界であるが、もともとはここにはなく、そうしたものは紀元後の世界からの話なのだ
。もともと人間とは小さなものだ。今まで話して来た宗教儀礼は昔の話として聞いてい
たであろうが、これは昔でも今でも同じだ。たいそうな仰々しい嘘に囲まれて行う儀式
や洗礼は、その裏にある毒々しい人間の性をかくして さも清らかに見せる。しかし、
それは、宗教の欺瞞である。その欺瞞を知った上で人類は宗教や哲学或いは経済学との
付き合いを持たなければならない。今でも古来からの欲望に飽かせたISILやタリバ
ンなどがいるが、熱心なキリスト教徒やイスラム教徒も全く同じである。仏教すらも又
同じに欲望の淵にある。「アガルタ神話」も日本の「仏教美術」も全く同じであり性交
の儀式も死人の弔いの儀式も 人の持つ茶番なのである。しかし映画とおなじく錯覚に
陥るためには、壮大な景色と環境と物語を 莫大な金を使ってセットを作りごまかして
人に見せる事が大事にされる。それは戦争と同じに、人が真面目に生きないからだ。も
し教育と言う伝承が無ければ、人はしゃべる事もなく恐竜と同じに遠の昔に絶滅してい
たであろう。そしてチンパンジーやゴリラでも同じ、いや他の多くの動物と同じに指導
者と言う先達がいなければ先には進まなかったのである。つまり茶番が大事と言う事も
又日本人は知っていたのである。問題はその本質である。次世代に我々は何を残すべき
か。これを知る必要がある。日本の戦国時代はそれを突き詰めた時代でもあったのだ。

1180: 名無しさんAA:18/07/14 12:01
 哲学の先にある文明        2
 江戸時代にこうして分類された人々は着々と平和の礎と繁栄の仕組みを作りに邁進し
た。この時人は時々は現れるどうしようも無い人々、つまりずば抜けて強い人と弱い人
を排除した。強い人は悪党とされ、弱い人を「穢多・非人」とした。支配身分の武士が
名字・帯刀の特権を持ち厳しい責任がなされた。又、百姓や町人は税金を納めて一部の
地主は行政にも参加出来たが代わりに義務も又与えられた。これに対して、えた・ひに
ん等浮浪者や乞食に対しては、住居・職業・服装・交際などには何ら責任も義務もない
者として、多くは犯罪者や諸国漫遊の曲芸師などが、村社会外の住民として認識された
。彼らには厳しい差別的制限が課され、一般的扱いとは異なっていたと記述されている
。更に彼らが罪人の子供だったり、災害被害の身よりのない子である時には、一般の市
民権を貰うためには山の宿坊で修行を積んで 何かしらの仏教や宗教の帰依者である必
要があったと言う。今の現代社会での苦悩はそこにある。インドでは身分制度が確立し
結構な迫害思想がバラモン社会に根付いていた。しかし、此処にきてAIの発達と共に
コンピュータープログラマーと言う新産業世代が新層身分を作り上げようとしている。
不思議な事に、今後6〜7割の人の職業を奪うであろうとされるAI社会に、マイケル
サンディルの白熱教室の人達は、根拠のない人間性論を展開して職業は奪われないとし
ている。実は基本的にAIは過去の実績の集大成としての科学である。つまり未来に行
く不確かさを包有してはいない。かつて線路内の自殺者に対して、運転手は列車を止め
るべきかそのまま走るべきかが米国で争われた。しかしその頃のアメリカは縦横無尽に
勝手に私鉄が走り線路が交差していた。つまり時間運行でも衝突すら構わず走っていた
。運転手は常に先を見張りながら走らなければ衝突や脱線或いは強盗や盗賊の危険すら
あったのである。代わって近年、AIの自動運転はこの蓄積された運転技能に対して、
究極の判断、則ち目の前の違反者や障害を回避するかぶつかるか。回避するには自分が
大事故となりぶつかれば、この無知蒙昧な交通違反者を殺す事になる。この二者択一の
判断を、誰の責任においてどうプログラムするのか又その中の人の命をどう守るのかが
極めて高い壁として存在している。としている。線路の列車事故ですら呆け老人や障害
者への事故には、運転手以上に運行責任者や会社の責任やその非人道性が問われる中で
一般の乗用車には、果たしてそうした自動運転プログラムが必要なのだろうか。あるい
は正義となり得るのだろうか。実は人類はこうした究極物は、先の身分制度の様に排除
を基本に進化した。先のAIと人間性の議論で、不完全だから失敗があるから人間なん
だ。と言う部分である。原爆は完全な究極の兵器であろう。しかしだからと言ってそれ
を持つ事で他を殺していい事にはならない。そうしたものは逆に不必要なのである。

1181: 名無しさんAA:18/07/26 16:09
富安君を探せ              < その190 >

 そもそも明治政府は、明治5年(1872)、近代国家への陸上交通手段として鉄道
を模索していたが、大久保利通も西郷隆盛もその鉄道の革命的利点には、着目してはい
なくて言わば政府内の役人の勢力や予算繰りに終始して国家経営まで至ってなかった。
明治政府はイギリスから技術団を招き新橋〜横浜間の鉄道を開通、片道53分、料金5
0銭から1円50銭で営業が始まったのは、短い路線で縮小予算での快挙でもあった。
1872年、高島嘉右衛門は東京から青森に至り北海道開拓を支える鉄道の建設を政府に建
言、却下されるも、高島は政府要人の岩倉具視を説き、鍋島直大、蜂須賀茂韶をして、
やっと明治天皇および当時の政府に『華族と士族が家財をもって会社を建て、東京と青
森あるいは東京と越後新潟に鉄路を敷き蒸気機関車を走らせることを補す』ことを建言
させた。こうした経緯を経た1881年8月1日、岩倉具視をはじめとする華族などが参加し
て私立鉄道会社「日本鉄道」の創立が決定し、同年11月11日、設立特許条約書が下付さ
れ、初代社長に吉井友実を選出して会社が設立された明治14年(1881)にわが国
最初の民営鉄道である日本鉄道株式会社が創設され、東北、常磐、両毛線などが開通し
た経緯である。その6年後明治20年(1887)横浜〜新橋間の成功から、九州鉄道
会社が創立し高橋新吉とドイツ人技師ヘルマン・ルムシュッテルにより事業を開始した
。博多−久留米間を着工した。久留米以南は羽犬塚〜水田〜柳河を経て渡瀬に行く計画
の鉄道が柳河町(現柳川市)の反対論者多く、路線を東方にずらした瀬高に変更した。
当時は、大宰府でも反対され二日市に変更されていた。明治22年冬、九州で初の鉄道
として博多〜千歳川仮停車場(筑後川北岸)間開業し片道1時間23分かけ1日3往復
の営業運転する。7月の集中豪雨が筑後川の橋梁工事を襲ったため予定駅の久留米の手
前の仮駅で開業する。当時、蒸気機関車も、車両も、レールも、すべてドイツ製でのス
タートだったが、佐賀の反射炉の活用もあった。内山田民治は新橋〜横浜間に営業運転
される1872年よりも7年も前に、1865年に、長崎で蒸気機関車に乗っていた。その3年
前の香港万博にグラバーは薩摩の島津斉彬を連れて来れなかった。そこで長崎港でわざ
わざ線路を敷き人を乗せて走って運賃をとった。その蒸気機関車こそが、西部劇で有名
な「アイアン・デューク号」と名付けられている蒸気機関車だった。つまり香港で内覧
したこの機関車は米国に送られる前に半年程営業運転していたのだ。江戸時代の、この
ショーは米国でかなりの人気を博した。この年アメリカ合衆国憲法修正第13条が提案
されて独立戦争が終わり、 香港上海銀行(HSBC) が設立された。高級な筑後茶がメキシ
コ茶にとって代わり、米国に送っていた鉄砲が日本にやってきたのである。

1182: 名無しさんAA:18/07/26 16:10
富安君を探せ              < その191 >

 「豚買った」とは「おいちょかぶ」すなわちバカラゲームで負けた事を示す言葉だ。
バカラとは、簡単に言えばカードゲームで3〜2枚を引いて数字を足し算し最終桁が9
に近いものが勝つものだが、賭けるのがディーラーが勝つ方にも掛けられる事になって
る為少々計算をややこしくして規定を設けている。だが極端言えば最後のカードで足し
算で9に近づくか9を超えるかで大きく勝敗が分かれる。日本で最初に作られたラーメ
ンは柳川で、柳川鍋とされるごった煮に麺を入れたのが始まりとされる。そこで豚を飼
う事が英国からもたらされ流行したが、結局は暴落し「豚買った。」と言う言葉になっ
た。しかしこの牧場経営で財を成したのが成清家であった。3代目の成清博愛は鉱山経
営に乗り出し「貧乏鳴り金」と揶揄された。そのうなる程の金で「的山荘(てきざんそ
う)」を大分別府に作った。瀬高町小川字堀池園集落にも別荘を建築した。「的山」と
は、鉱山を当てるという意味だそうで、博愛の雅号(がごう)から名づけられた。大分
県杵築市山香町の馬上金山で金鉱を当てた財を、惜しむ事なく投じたと言われ、元来、
柳川の武士は大分に歴史上の経緯から荘園を持っていた。例えば由布院駅付近は、柳川
由布氏の故郷であり差配していた。大分別府も柳川郵便局初代局長の別府氏の持ち物で
あった。大正2年に日之出町に、金鉱石の積み出し港を整備されて別府湾が見直された
。大分県速見郡日出町は別府湾を見渡せる景色の良い、日出城(暘谷城ようこくじょう
)の三の丸の日出藩屋敷跡3670坪を購入させられた。是こそが柳川城を焼失させた
効能であった。柳川市内の財政は潤い、商人は闊歩し各地に土地を購入していた。北島
氏は尖閣を木下氏は北九州の葦地を購入させられていたのだ。しかし誰も立花氏自身の
身を守る商人はいなく、武人のみで函館戦争や西南戦争或いは日露戦争で武功は上げて
いても見向きもされなかった。成清氏は、大正4年(1915)1月に建坪247坪の
豪邸が完成させた。総工費25万円、現在の7〜8億円相当額である。玄関に見られる
式台しきだい、座敷に設けられた床の間、付書院、棚、各部屋境の欄間らんま彫刻など
は江戸時代からの建築様式や装飾を受け継いだ貴重な木造平屋の近代和風建築として作
られた。高崎山を築山つきやまに、別府湾を泉水に見立てた借景の日本庭園で、巨泉を
掘り、巨大な灯籠とうろうを建てた人工の美も発揮している。大分は佐渡の金山が枯渇
してからは日本有数の金産出を誇るようになった。宇佐・玖珠・別府・山香・津江など
県内に多くの金山を擁し、明治後期の日本を支えた。その中でも多くの逸話に彩られて
いる山香の馬上金山(ばじょうきんざん)であった。

1183: 名無しさんAA:18/07/26 16:10
富安君を探せ              < その192 >

 成清博愛は、地元の大工を使ったので、杵築藩の藩校「学習館」の門と同じく江戸様
式の切妻造、桟瓦葺きの腕木門(うできもん)である。両脇に袖塀を持ち、連なる石垣
土台の屋根塀は上部に窓枠を配している。大正4年(1915)の完成した当時の道は
砂利道じゃりみちであったが、のちに石畳が敷詰められている。現在は樹木が茂り風情
をなしているが、門は創建時とほとんど変わっていない。.門を入ると玄関前のロータ
リーまで続く綺麗な石畳の通路は海からの風の匂においいと季節ごと変化する木々を楽
しめる。実はかつての伝習館高校は、立花大学氏において国宝級の玄関飾りをもってい
た。この頃の活況を見るに、その後に藩の財政を支えた高椋銀行が渡辺銀行と合併して
破綻に陥るのだが、それを福岡銀行として所有していた。これも又財にあかせた国宝級
の建物だったが福岡銀行はいとも簡単に解体した。成清博愛は、九州改進党の結成に、
参画し、その資金提供のために鉱山や炭坑を経営するに至った。しかしことごとく失敗
し最後に明治37年に大分県立石の馬上金山の鉱区権を買い取って開坑している。苦心
して金鉱を掘り続け、45年に富鉱部を掘り当て、日本有数の高品位と産出量を誇る大鉱
山に成長して、やっと富豪に返り咲き金山王の名をほしいままにした。しかしその鉱脈
も大きくはなかった。その傍らに、大湯鉄道(現・久大本線)や、宇佐参宮鉄道(現・大
分交通)などを作り、両豊銀行(現・大分銀行)の創立に関与した。また港湾整備や慈善
事業にも携わるなど、地域の活性化に尽力した為彼の後世は功績に満ちてしんでいる。
大正4年総選挙に出馬して当選し、政友会に所属するが、間もなく議員を辞した。実は
侍島吉開久末鷹尾などは常にこの線路の路線として策定された。しかし保太郎は反対の
立場を貫いた。何故なら福岡と直行では若者が悪さする。と言う危惧する声が集落に多
かったからだ。東肥鉄道は、薗田徹夫が藤島豊太郎と川原大など県外から出費者を連れ
て来て取締役に就任し起業した。ようやく1915年(大正4年)2月になり南関停車場建設
予定地にて起工式がおこなわた。工事費の予算は第一期工事 矢部川-南関間を38万8398
円25銭、第二期工事南関-隈府間を64万6954円75銭合計103万5353円であった。しかし株
金の払込の滞納が見られるようになり新聞は完成の目処がたたないと報道し鉄道会社が
反論する一幕もあった。資金難に悩みながら現在、九州自動車道が敷かれているルート
にほぼ並行する形で建設され、1920年(大正9年) - 1922年(大正11年)に順次矢部川
- 南関間を開業させたのであった。永江純一は爆漢に襲われながらも立憲政友会に入り
、政友会幹事長となり、三池銀行頭取、三池土木、三池紡績、鐘ケ淵紡績などの重役を
務めている。

1184: 名無しさんAA:18/07/26 16:11
富安君を探せ              < その193 >

 大正15年にはT型フォードを自家用とし、営業用に小型バスを購入し定期路線を走
らせた。旭屋旅館自動車は瀬高〜沖端〜両開路線を、12人乗りと11人乗りの小型バ
ス2台で運行を開始している。昭和6年頃には大型バス2台で営業していた。昭和にな
ると自動車の時代になった。昭和2年には、下庄恵比須町の佐野慶一氏が瀬高で2番目
に自動車運転2種免許修得し、翌年の昭和3年に甲種運転免許を修得している。当時は
甲種免許は全車種運転が出来、2種免許は単一車種しか乗ることが出来なかった。佐野
氏は貨物運送業を始め、その後、免許証を取る人が増え、瀬口トラック、湯江トラック
、大江トラックの運送業者が増えていった。白菜、酒、レンガ、瓦などの生産品輸送が
、鉄道貨物と競合しながら発展し、各企業や商店も自家用運搬車を購入し始め、車の台
数が急に増加していった。昭和3年頃から「柳河軌道K・K」もホロ型乗り合い自動車を
軌道に沿って走らせた。柳川〜大牟田間と矢部川駅〜柳河間の2路線であった。トラッ
クも2台あったが、荷が少なく改造してバスにしていた。しかし今度は、矢部川駅から
の乗降客を相手に旭屋自動車と柳河軌道K・Kがに客の争奪戦が派手に行われ結果を生ん
だ。クラクションを鳴らし合い、駅の待合所に近い停車位置の奪い合い、果てには用心
棒を雇って喧嘩まで発展する始末に発展し、駅長がしばしば叱責に及ぶ状態になった。
昭和6年に旭屋自動車の可志久旅館跡にあった車庫のバス3台、ホロ型3台、が不審火
により全焼した。しかし1台修理に出していたバスと、あと1台を2万2千円で購入し
て20日後に再び営業を続けている。この当時は修理の部品が簡単に手に入らず、ギヤ
ーやシャフトは大牟田の製作所に依頼していた様子だ。しかし自動車時代の到来の波は
柳河軌道株式会社・解散までに及んだ。昭和7年2月20日 柳河軌道K・Kは、佐賀線
開通により国が金額25万円で補償買収することになり解散する。調査団の収益調査を
して割り出したもので、余分に判明したことは、料金が日本一高く、収益の多い会社で
あったことである。下庄の川原仁三郎氏は旧制中学卒で昭和5年入社、初任給25円で
あったが、これは楽に米4俵(240kg)以上買える額であった。当時の柳川は商工
業の発展において群を抜いて 日本のトップだったので人手を雇うのには高給優遇策が
三井以下一般的にも行われていて、地価もたかかったのである。昭和7年頃は軍部には
兵員輸送に支給する金がなく、全国各地に強制収用が鉄道には行われていた実態がある

1185: 名無しさんAA:18/07/26 16:11
富安君を探せ              < その194 >

 柳川の地からは、往年は矢部川の浜(大和町)から船での天草・長崎・大阪への船で
の輸送手段が取られていた。大川の筏船と共に有名だったとされる。大牟田港が石炭の
積み出しとして整備されると、大型化した大量輸送時代に突入した。明治24年の九州
鉄道の矢部川駅(現瀬高駅)開設により、鉄道での高速輸送手段へ変革してゆく。ここ
で、立花氏は柳川からの接続を図る目的で明治42年から昭和7年まで 柳川から瀬高
(矢部川駅)間を走った柳河軌道(やながわきどう)という道路併用鉄道を走らせた。
大正10年から昭和13年まで矢部川駅〜南関(熊本県)を走った東肥鉄道(とうひて
つどう)それに大正末期からの自動車輸送業への変革の歴史と共に、柳川が当時として
は貴重で画期的な都市であった事が偲ばれる。我が国初の鉄道開通が明治5年(187
2)とされる事から、近代国家への陸上交通手段として明治政府は開通させたが、僅か
15年で九州を結ぶ鉄道を開通させようとしたのは薩摩藩の意志であった。東京で英国
から技術団を招いて、新橋〜横浜間の鉄道を開通させ、片道53分、料金50銭から1
円50銭で営業が始まると、明治20年(1887)、九州鉄道会社が創立し英語学者
高橋新吉とドイツ人技師ヘルマンル・ムシュッテルにより事業を開始する事になった。
博多〜久留米間を開通させ久留米以南は羽犬塚〜水田〜柳河を経て渡瀬に行く計画が反
対論者多く頓挫し、路線を東方にずらした瀬高に変更した事で工事着手にこぎつけた。
既に、明治14年(1881)わが国最初の民営鉄道である日本鉄道株式会社が創設さ
れ、東北、常磐、両毛線などが開通して東京と人物往来を結んでいた。明治22年の年
は大雨の年で7月の集中豪雨は筑後川の橋梁工事を襲った。予定駅の久留米の手前の仮
駅で開業が余儀なくされ、岡蒸気も、車両も、レールも、すべてドイツ製でのスタート
した。こうして九州初の鉄道として博多〜千歳川仮停車場(筑後川北岸)間開業し片道
1時間23分かけ1日3往復の営業運転した。明治24年4月1日に、高瀬(玉名)ま
で開通し、下庄字矢部川に「矢部川駅」(昭和31年瀬高駅と改称)が開設営業を開始
して結果、瀬高が大きく発展することになった。鉄道開通は、初めての「陸蒸気(おか
じょうき)」を見るために弁当持参の郡衆が集まるほど人気があった。開業当初の駅名
が矢部川駅だったのは、高瀬駅(現在の玉名駅)との混同を避けるためであった。この
鉄道の開通により、人は日帰りで遠方に出掛けられ、下ノ庄談議所の浜からの船での荷
物の輸送手段が鉄道便の利用に変化していくことになった。


1186: 名無しさんAA:18/07/26 16:11
富安君を探せ              < その195 >

 矢部川駅(瀬高駅)構内には人力車40輌があり、その他付近町村の分を合わせると
300余輌があったという。車賃は、一里15銭、1日貸切で90銭であった。また駅
構内には乗り合い馬車31輌があり、6人乗りで1人1里10銭であった。駅前の旭屋
旅館の馬車は柳川や沖ノ端にも出張所をもっていた。この頃の馬車を高等馬車と呼んで
いた。この馬車は田中吉政の時代にもあったものだった。1612年(慶長17)に、
この柳川を起点とする一里塚を置く事にしたのである。今柳川盲学校となった前に瀬高
門の前にその起点の石を置いた。藩内に一里塚を築いたとある一里石には元禄14年(
1701)の説もある。現存するものは、瀬高街道に一里石(三橋町下久末)福島街道
(矢部往還)に三里石(瀬高町壇の池)がある。又三池街道には一里石(大和町豊原)
二里石(高田町渡瀬)南関街道に三里石(山川町野町中村病院角)がある。ほかにも、
馬の駅が作られ交通の便を与えた。田中吉政時代は江戸参勤交代の途中、伏見で病死し
四男の忠政が跡を継いだが。だが兄、康政の久留米支城と争いが起きた。その釈明の為
に忠政は江戸に上るが、1615年(元和元年)6月に、「一国一城制」で、柳川藩の
他の支城が取り壊される事に決まった。又居城の修理は許可を新造営はかたく停止され
る。この時大川の地は3支城の榎津城(第一水天宮社)・酒見城(大川風浪宮社)・江
上城(江上若宮館)に変わった。又八女支城も同じで、戦で焼けた猫尾城は山城公園化
して、織豊系石垣が確認できる程度になったし中島城も鷹尾城も江の浦城も白鳥城も、
蒲船津城も花園城も富安城久末城共に再建はできなかった。そんな柳川藩の支城の中で
も群を抜いた規模であったのが、仲たがいした、田中吉政嫡子吉信の久留米笹山城と、
そして三男康政の居城であった福島城である。この福島城も例外なく平城であったが、
八女市役所として現状は酷い状況にある。昭和初期まではある程度遺構は残存していた
が、筑後地方には文化財の認識がなく戦後に破壊されたとはなんとも残念でならない。
この福島の城郭は生粋の織豊系城郭で天正15年の九州征伐後、筑紫広門が肥前勝尾嶽
城から、上妻郡に移り住むに当り築城されたことに始まるとされる。ところが関が原に
おいて、西軍に与した筑紫氏は改易され、この城郭は、柳川藩田中氏の城郭となって進
められ、この際大改修が行われたが改易となった。『筑後地鑑』には天守、櫓を新たに
構築したことなどが記載されている。筑紫広門は水間城(現天満宮前)もつくったがこ
こも中学校として破壊された。こうして元和元年の一国一城令による廃城は平野であっ
た筑後ではかなりの痛手となった。

1187: 名無しさんAA:18/07/26 16:12
富安君を探せ              < その196 >

 昭和7年柳河軌道K・K解散後、自動車部の運転手であった平山満は上田鶴来を代表者
にして、坂梨喜一郎や田中喜一と4氏が自動車を買い取り「大和自動車」を営業開始し
た。こうして矢部川駅〜沖端間をバス5,6台で運行した。昭和10年には柳川軌道の
レールをそのまま移設して、佐賀線が瀬高(鹿児島本線)〜三橋〜百町〜筑後柳河〜東
大川〜筑後大川〜筑後若津〜諸富〜光法〜南佐賀〜東佐賀〜佐賀 (長崎本線)の24.
1km全線開通した。福岡県大川市と佐賀県諸富町を結ぶ「筑後川昇開橋」は、国鉄の
佐賀線が通っていた全長約507mの珍しい昇降式可動橋(現存するものでは日本で最
も古い)橋で、国鉄が民営化した昭和62年に廃線となり、その後、一度は橋の解体も
検討されたが、地元の人たちの要望で保存している筑後川昇開橋は、鉄道橋梁「筑後川
橋梁(ちくごがわきょうりょう)として建設された。1935年(昭和10年)竣工して5月
に開業した。舟運との共存のため、橋の一部が可動式となっている。可動橋には旋回橋
、跳開橋(跳ね橋)昇開橋などがあるが、本橋は橋桁の一部が垂直方向に上下する昇開
橋として珍しく日本に現存する最古のものである。橋の全長は 507.2メートル、可動部
分の長さは24.2メートル、昇降差は23メートルである。本橋の設計施行に中心的役割を
果たしたのは、鉄道技師の釘宮磐(鉄道省熊本建設事務所長)であった。昇開橋の仕組
みそのものは、坂本種芳が考案し。竣工当時は「東洋一の可動式鉄橋」と呼ばれた。ま
た、この筑後川昇開橋の構造を解説するために、精巧な模型が交通博物館(閉館)及び
鉄道博物館(埼玉県さいたま市)で展示されている。ちなみに、この昇開橋の精巧模型
は1937年(昭和12年)にフランス・パリで行われたパリ万博にも出展された。佐賀線の
車両は、佐賀駅・瀬高駅はそれぞれ佐賀線用の0番ホーム出着していていたが、国鉄解
体に従い昭和62年3月(1987)に廃線された。昭和10年の大和自動車と旭屋自
動車が合併し、「金城自動車合名会社」が資本金5万円で矢部川駅〜柳川間を営業開始
した。昭和19年8月28日 黒木町の堀川久助氏が昭和3年に興した「堀川バス」に
11万5千円で買収、諸雑費を引いて旭屋側34,960円、平山、田中、坂梨、上田
の4氏が57,040円の配当で買収された。瀬高〜清水〜山川経由・渡瀬駅前間の運
行を開始した。当時1日4往復運行。こうして堀川バスが誕生し昭和22年頃の運賃は
、初乗り2円、瀬高〜渡瀬間12円であった。昭和46年1月は廃線となったが、バス
運行そのものは、現在、瀬高〜柳川線など筑後地方の路線を運行している。

1188: 名無しさんAA:18/07/26 16:12
富安君を探せ              < その197 >
 西日本鉄道株式会社(にしにっぽんてつどう)は、福岡県を基盤に鉄道路線だが、こ
の成立にはかなり辛辣な事件が地元に起こっている。福岡の路線網を持つ大手私鉄とし
て本社を福岡市中央区天神一丁目の福岡ビルに置いて西鉄グループの核となる会社とし
て存在している。水俣水銀事件で有名な窒素科学肥料は、チッソとして本社を東京都千
代田区大手町に置く会社だが、旭化成、積水化学工業、積水ハウス、信越化学工業、セ
ンコーグループホールディングス、日本ガスなどの母体企業である。主な子会社・関連
会社として、JNC、JNC石油化学(旧:チッソ石油化学)(事業所:千葉県市原市)
、九州化学工業(工場:福岡県北九州市)、JNCファイバーズ(旧:チッソポリプロ繊
維・事業所:滋賀県守山市)や、ポリプロピレン事業合弁会社の日本ポリプロなどがあ
る。日本国内の合弁相手に吉野石膏や同社と同根である旭化成がある。こうした日本の
大きな主要な基礎化学工場は殆どがこの工場の分化した工場である。1906年(明治39
年)日本化学工業の父「野口遵」(したがう)によって曾木電気株式会社が創業される
。鹿児島県伊佐郡羽月村(現・伊佐市)に曽木水力発電所を建設した事から始まる。こ
の曾木発電所の余剰電力を利用してカーバイドを製造することを目的として、熊本県に
葦北郡水俣村(現・水俣市)に日本カーバイド商会が設立される。これがチッソ水俣の
もとになった。その昔、電気事業の電源は当時ほとんどが石炭による火力発電であり、
水力発電を利用するのは、近隣に町のある適地が存在した鹿児島電気と、大分県の竹田
水電・日田水電の3社だけであった。水力発電は当時の技術水準では送電範囲が近距離
に限定されていた。しかし、日露戦争後に長距離・高圧送電技術が発達すると、山間部
で水力発電を行い離れた市街地へと高圧送電するという新しい発送電形態が生まれた。
その頃の柳川の缶詰はこの日露戦争の兵士の食卓に並んでいるし、海鮮加工蒲鉾業界や
富安ラムネなどの商工業者の電力使用は大牟田の火力発電からも比較的早かったのだ。
そうした意味で電力が無限の山地の水脈に頼る事に動いたのが3つあった。一つは、当
時富士瓦斯紡績として繊維産業の一角を成していた中津派である。工場の動力源を得る
目的で紡績産業を集め山国川上流部の水利権を1906年(明治39年)10月に出願していた
一方筑後川では、筑後川沿いの日田の電気事業者日田水電の関係者と、同社の技術的な
後援者であった芝浦製作所(現・東芝)の専務大田黒重五郎と技師岸敬二郎の両名が提
示した大規模水力開発を行おう筑後川上流部の大山川・玖珠川を調査し水利権を申請し
た。彼らは東京派と呼ばれた。また新興財閥として筑豊の炭鉱業者を集め中野徳次郎は
、富安保太郎・山口恒太郎ら「福岡派」と呼ばれるグループで、筑豊・北九州方面への
電力供給を目指してこの地域の水利権獲得に参入した。

1189: 名無しさんAA:18/07/26 16:13
富安君を探せ              < その198 >

こうして「中津派」「東京派」「福岡派」の3派鼎立の形で、大分県庁は受け付ける事
で対応に苦慮することとなった。大分県知事千葉貞幹は3派の代表を県庁に集め、彼ら
に三派合同での出願を要請し、合同の水利権申請・会社設立への準備が進められた。し
かし明治40年は政治経済が変化し米国から不況がやって来て、翌年にかけて設立への
動きは一時停止される。1909年に発起人から和田豊治ら創立委員が選出され、翌1910年
(明治43年)には創立委員会で「九州水力電気株式会社」の社名が決められ、逓信省か
ら電気事業経営許可を得ると設立準備は本格化し、定款などが作成されていった。和田
は富士紡績会社や理化学研究所など、創立に携わった会社は数十社を超え、渋沢栄一に
続く大正時代の「財界世話人」として君臨していた。こうしてこの地域の水利権獲得運
動から発展して設立されたのが九州水力電気であった。しかし筑豊の石炭の火力発電で
福岡の町を九州電灯鉄道が市内電車を走らせていた。元は「博多電灯」と称し、1896年
(明治29年)に福岡市で設立されていた。開業は翌1897年(明治30年)で、このときに
電灯供給を開始。1908年(明治41年)には動力用電力の供給も始めた。1911年(明治44
年)、福岡市の福博電気軌道との合併に伴い「博多電灯軌道」に改称し、事業に電気供
給事業のほか軌道事業(福博電車)・土地建物事業を加えて営業していた。翌1912年も
(明治45年)には佐賀県や福岡県筑後地方に供給する九州電気(旧・広滝水力電気)を
合併して「九州電灯鉄道」に改名した。一方西日本鉄道は、現在の北九州市域において
九州電気軌道として軌道事業を営んでいた鉄道事業者である。略称は「九軌」(きゅう
き)として西日本鉄道(西鉄)の前身で、既に路線を次第に伸ばしていた。。1908年(
明治41年)設立。1911年(明治44年)に開業し、1940年代に入ると福岡県下の鉄道事業
統合の中心となり、1942年(昭和17年)、県下の鉄道事業者4社を合併し西鉄となった
。九州電気軌道が建設した路線は西鉄北九州線となったが、ごく一部の区間を残して、
廃止されており西鉄の路線はない。当時沿線地域では小倉電灯と大阪電灯門司支店の2
つの小規模電気事業者が存在して価格競争していた。九州電気軌道では、合併吸収を繰
り返していた小倉電灯を買い取り小倉市鋳物師町に新鋭火力発電所の小倉発電所を稼働
させて安定化を図った。更に九州帝国鉄道管理局小倉工場まで配電した。つまり電気事
業と軌道の電車事業は不可分の状態にあったのである。この時北九州工業地帯に電力を
供給する事業者は、九州電気軌道以外にも九州水力電気(九水)という電力会社が存在
したその為争奪戦が繰り広げられた。

1190: 名無しさんAA:18/07/26 16:13
富安君を探せ              < その199 >

九州電気軌道と九州水力電気の「電力戦」は、1927年(昭和2年)に相互不可侵と電力
融通を骨子とする協定を結びなおしたことで一旦落ち着き、1929年には株式の持ち合い
による提携強化も図られたが、結局は対立が続いていた。しかし、日中戦争開戦が起こ
り、1938年(昭和13年)政府は、「電力管理法」とその関連法が成立させた。これによ
り電気事業者は主要な電力設備は、新設の国策会社や日本発送電へと現物出資する事に
決定した。九州電気軌道も大門・小倉両発電所と大門・日明両変電所、送電線10路線
を日本発送電設立の際の同社への強制出資する様に逓信省から命令された。しかし又、
電気事業における電力管理法と同時期に、交通事業の分野でも国が交通事業の調整を図
る「陸上交通事業調整法」が成立していた。同法では福岡都市圏を含む5つの都市圏が
国主導による交通調整の対象地域と規定されていた。このような背景の中、政府主導で
電気事業を失った九州電気軌道は福岡県内や周辺地域での交通事業統合に意欲を示し、
また鉄道省側も福岡県内における事業統合の主体に九州電気軌道を想定していた。福岡
の路面電車福博電車(後の西鉄福岡市内線の一部)を運営する九州電灯鉄道の経営陣、
伊丹弥太郎・松永安左エ門・田中徳次郎・山口恒太郎らが発起人となり、1914年(大正
3年)に福岡〜二日市間の特許を得て、1915年(大正4年)に筑紫電気軌道(ちくしで
んききどう)株式会社の名で設立された。当初は社名が示すように福岡市と二日市町(
現・筑紫野市)の間に軌道法による直流600Vの電気鉄道を敷設し、二日市で既存の太宰
府軌道(1902年(明治35年)開業、現在の西鉄太宰府線)に連絡して太宰府天満宮への
参詣客を輸送することを目的として設立されたのであった。福岡〜久留米間の開業当時
には、九州鉄道の路線は国鉄線や他社鉄道路線との接続はなく、孤立した状態であった
。この為まず九州鉄道は自社線開業直後の1924年(大正13年)に久留米市と甘木町(現
・朝倉市)および福島町(現・八女市市街地)の間を結ぶ軌道路線を保有する三井電気
軌道を合併して、三井電鉄は久留米市内で隣接して九州鉄道と路線が平行し、九州鉄道
線との平面交差すらあった。九州鉄道の設立者である伊丹、松永らはのちに五大電力会
社の一つ、東邦電力の経営にかかわったが、傘下東邦電力は北部九州をも事業区域とし
、九州鉄道も東邦電力の傘下に入っていたのである。

1191: 名無しさんAA:18/10/31 18:41 ID:Ubs
  朝鮮人に 喝!  01

 だいたい今の現代人が、韓国人は馬鹿だから終戦時の事を知らないのではないか。日
本政府は韓国政府に最後の国旗掲揚をして朝鮮総督府の終了の式典を呂運や亨金九と共
に、市民3万人と共に行っている。空砲を撃ち日本国旗を降ろし、太極旗を掲揚して、
日本の軍人たちは静かに朝鮮から去った。8代目朝鮮総督の阿部信行・11代朝鮮政務
総監の遠藤柳作はソ連が朝鮮のほとんどの地域を占領することになると推測し、占領に
伴う混乱を避け、日本人の安全を守る為、穏健派だった[呂運亨]と交渉して行政権を渡
すことを日本の総司令部である大本営との交渉の上決めたのである。1945/8/8対日宣戦
布告したソ連は、既に満州・朝鮮に攻め込んできていたからだ。8月10日から交渉し
8月15日 呂運亨は建国準備委員会(建準)を立ち上げて、独立の準備として治安維持
の保安隊と建準組織を朝鮮全土に造って、8月16日朝鮮総督は政治犯の一斉釈放を行
い8月17日にその式典を行った。この時の取り決めも、禅譲もあったが 1945/8/24 
ソ連軍は平壌を占領し、北半分を支配下に置く事になりました。しかし8月26日から
大きく遅れて30日になって一部の米軍と李承晩の案内で上陸し、全く戦う事なく朝鮮
の中央部のソウルに行きついた。ここで最初にした事は、米軍が本軍が来るためにわざ
わざ韓国旗を降ろさせ日本国旗を掲げさせ、9月1日本隊がきて改めて、太極旗を掲げ
させたのである。その為第二次世界大戦で朝鮮総督府が降伏した日を翌日1945年9月2日
からとしている。だがその後も金日成も含めて国内自治の形態は決まっていて平和だっ
た。金九がちゃんと警察署長として治安を守っていたからだ。しかし李承晩がそうした
朝鮮半島を守って来た人々を亡命から帰ってきて暗殺しだした。ここで自治は無理と、
ソ連と米国の話し合いによって北緯38度線で分割して朝鮮を占領することになっていま
した。それでも米軍やソ連兵士の暴行や強姦は止まらず、李承晩は暗殺を続けた。1948
年までの間自国の自治が守れないとして朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が独立を果
たす事で大韓民国(韓国)も李承晩を担いで相次いでそのまま建国された。本来なら呂
運亨が大統領で良かったはずだが、彼は元貴族の両班だった李承晩他に気を使っていた
のである。だが1945/9/6 呂運亨の建準は全国人民大会を開催し朝鮮人民共和国の建国
を宣言したものの1945/9/9 朝鮮総督府は進駐した米軍に権限を渡し、朝鮮の日本統治
が終了した時から、国内治安や食糧や経済が悪化した事で不評だった。この上暗殺であ
る。まともな地域指導者は37人も殺されている。金日成が逃げだして北朝鮮を作った
のも当然だった。こうして連合国2か国軍による占領統治が行われていた時代になる。


1192: 名無しさんAA:18/10/31 18:42
この時代以降、朝鮮は38度線を境とする朝鮮半島分断時代を迎えて統一したいと双方が
思っていたが李承晩は容易ならざる暴力革命の党首であり金日成は武力統一の思想だっ
た。つまり韓国人自らが、南北分断をさせたし、李承晩を呼び込んだのである。又米軍
GHQも、この李承晩のせいで全く朝鮮人を信用していなかった。その為朝鮮総督府が
かってに行政権を移行することは認めず、進駐の時まで南半分の治安維持を 命じたまま
に日本に本体を於いて任せた。朝鮮総督府は建国準備委員会(建準)に移行したまま、そ
の代理の行政権を執行しながら、その国体を取り消して米軍の進駐を待った。その後も
統一政権は出来ず1945年9月19日司令官ジョン・ホッジ中将と、民政長官のアーサー
・リーチ少将の下での38度線南側に軍政を宣言して米軍統治時代が始まり、10月10
日呂運亨の朝鮮人民共和国の成立を否定し、11月23日上海の臨時政府を否定し個人
の資格で金九など 幹部の朝鮮帰国を許可し12月12日呂運亨の朝鮮人民共和国を非
合法化したのだ。これは呂運亨は李承晩を大統領、自身を副大統領とする朝鮮人民共和
国の建国を9月6日に宣言した事が間違いだった事を示している。独立の方針を巡って
右派(民族主義者)と左派(共産主義者)が対立した上、当時中国で活動をしていた、
大韓民国臨時政府関係者も「朝鮮の正統な政府」としての自負から朝鮮人民共和国への
協力を拒否したからだ。そしてかつての国王を持ち上げる事もしなかった。分断国家が
誕生すると。互いに朝鮮半島全土を領土であると主張し、それぞれの朝鮮統一論を掲げ
、北側指導者の金日成は「国土完整」を、南側指導者の李承晩は軍事力の行使をも視野
に入れた「北進統一」を唱えた。互いを併呑しようとする両政府は1950年6月25日に、
勃発した朝鮮戦争によって、実際に戦渦を交えることになる。「米軍が朝鮮戦争に参戦
したのは決して韓国のためではない。共産主義から日本を守るためだった」「もし北朝
鮮軍が韓国軍に勝つことにでもなれば、共産主義はドミノ倒しのように日本に襲いかか
るだろう。韓国が負けるのを米国は傍観できるが、日本を失うことだけは絶対にあって
はならなかった。」第二次世界大戦(大東亜戦争)に既に戦時中に、連合国内での取り
決めがあった。日本の敗戦後の事後処理である。「日本が統治していた朝鮮半島は38度
線を境界線とし、北をソ連、南をアメリカが分割占領・分割統治し、朝鮮半島内が安定
したら独立させる。」というものだった。つまり占領下でも国民統一が出来ていれば、
独立させると言う物だった。ここがドイツとの違いだ。ドイツは力を分断させる意味で
逆に独立させない為に分断した。だが、朝鮮人は親ソ派と親米派に勝手に分裂し、内部
抗争を始めたのだ。まさに朝鮮人である。その後、それぞれが勝手に大韓民国と朝鮮民
主主義人民共和国を建国したのだ。ここでも法や秩序や慣習より感情論が先行された。

1193: 名無しさんAA:18/10/31 18:42
  朝鮮人に 喝!  03

前年に共産主義である支那(中華人民共和国)が誕生した。そのことにより一気に南北
の軍事バランスが一変する。だが、朝鮮戦争は、北朝鮮の一方的な侵略ではない。朝鮮
戦争は韓国の南侵領土拡大策の野望からはじまったのだ。たった一人のバカで無知な卑
怯者である李承晩のせいである。戦後の日本人に対する反日教育も又、この男のせいで
ある。中国の江沢民と非常に似ている。韓国の李承晩政権は日本の対馬、竹島を韓国領
だと勝手に主張し始めた。だがアメリカは全く認めなかった。そこで李承晩は、国際法
上、まったく根拠のない未勝手な「李承晩ライン」を引き、まず竹島を実行支配した。
米国にあまり日本を大事にするな。と言う訳である。実際アメリカは最新鋭エブラハム
の戦車を日本に投入させたが用の無くなっても韓国に送る事はしなかった。こうして世
界が戦後処理で何もできないことをいいこと無法の限りを行った。その後も韓国の不法
拿捕により抑留された日本漁民は3929人、拿捕時の攻撃による死傷者は44人、物
的被害総額は当時の金額で約90億円にも上る。さらに日本の対馬、九州北部への侵攻
を企てて済州島の親日家の村長などを215人を公開処刑した為、日本でその事が発覚
した。そのことに気づいたアメリカは李承晩に警告を与えた。しかしその時の言い訳が
共産党狩りであった。と言う言い訳であった。実際は韓国の占領し政府機能の了承は、
半島のみに限られている取り決めがあったにも関わらずの蛮行だった。「国連軍による
占領統治中の地域に軍事進駐するなら在韓米軍は朝鮮半島から引き揚げる。」とまで言
ったが、李承晩はアメリカの警告を完全無視して日本側攻撃を考察した。対馬に攻め込
もうとし、韓国軍主力戦力は移動を開始。国境である38度線の韓国軍側防御が完全に手
薄になった。そこで激怒したアメリカは「アメリカの西太平洋における防衛線は、アリ
ューシャン列島から日本列島、沖縄に至る線である」との発言をした。つまり朝鮮半島
は防衛圏内ではない。とまで警告した。逆に言えば、戦争したかったアメリカは、この
馬鹿な行動をした李承晩を利用した。国内に軍事産業も食糧も送り先が無かったのだ。
戦後不況というやつで、買取する資本が戦後復興でどこにもなかったが、唯一朝鮮は、
空爆も死人も出て居なかったからだ。この韓国はアメリカの防衛圏内ではないという、
声明と38度線の空白はすぐさま北朝鮮の情報に上がり活動する。


1194: 名無しさんAA:18/10/31 18:43
  朝鮮人に 喝!  04

 この発言を聞いたソ連のスターリンは原爆を持つアメリカを意識して反対だったが、
首脳部は乗り気で、北朝鮮金日成(キムイルソン)に中国の同意があれば応援するとし
た。ところが毛沢東は、丁度胡散臭い兵が北京に集まって来る事が恐怖で一掃したかっ
たので2つ返事で賛意になった。こうして北朝鮮による南侵攻作戦が決行された。前年
に建国した支那(中華人民共和国)も加勢することになり、朝鮮戦争が始まった。始ま
るや否や李承晩は戦うどころか武器を持った北朝鮮軍の前で味方を見捨てて、ひたすら
逃げ隠れし、武器を持たない自国の一般市民20万人を共産党員だと決めつけて虐殺して
、自分の退路を確保した。李承晩は首都を捨て、人民の非難してくる満杯の橋を落とし
て、何回もそうして町を破壊しながら逃亡した。そのせいで韓国の防衛線は完全に崩壊
した。釜山にまで追い詰められた韓国・アメリカ連合軍を救うため、元日本陸軍士官が
逆上陸作戦の計画を立て、秘かに500人を沖縄人や米国人として登録し、アメリカ軍
を増強し上陸兵站分断作戦を実行した。こうして北朝鮮軍を38度線まで押し戻すこと
に見事に成功する。旧日本軍兵士無くして連合軍の勝利はなく、退路を断たれ全滅して
いたに違いない。連合軍の指揮官であったマッカーサーは、この時の募集で国籍を変え
られない兵士には警察予備隊を作って日本の治安部隊として採用した。その後北朝鮮軍
の背後にいる支那(中華人民共和国)への原爆投下と、東シナ海に面する港の封鎖を、
トルーマン大統領に要求したが、議会の猛反対と共に拒否され解任された。この時には
既にワシントンには閣僚に多くの左翼、共産主義者が、国際旅団の本部を於いて共産党
は議会でも、正式な米国共産党として活動していたのである。連合軍(ほぼアメリカ)
に支援を回さず、本当はロシアを通じて北朝鮮を支援していたのだ。ですが、旧日本軍
で教育を受けた兵士の活躍という想定外の事態が起き、マッカーサーが優秀過ぎたので
マッカサーを解雇した。戦後のドッジラインやブレトンウッズ体制などは、この亡命し
て来た共産党員が企画立案したものだった。この朝鮮戦争ではマッカーサーは、日本の
戦争が全て自衛戦争であったことを理解する。支那やソ連などの共産勢力が朝鮮半島に
下りてきたとき、日本を守ろうと思えば朝鮮半島を守らなければならず、朝鮮半島から
敵の勢力を完全に追い払おうと思えば満州に出て行かざるを得ない。マッカーサーは、
日本にとって朝鮮半島がいかに重要な土地かがわかったのである。その後、マッカーサ
ーの発言もあり、今はそれが理解されている。と思われる。この戦争によってアメリカ
は大東亜戦争での日本の立場をようやく理解し、ソ連の反対で渋っていたサンフランシ
スコ講和条約が、簡単に結ばれる事になった。

1195: 名無しさんAA:18/10/31 18:43
  朝鮮人に 喝!  05

 朝鮮総督府の官僚たちがどのような生活を送り、またどのような職場環境だったかに
ついては証言が少ないもので、これも貴重な資料から探る事になる。朝鮮総督府の官僚
といえば、上層部が日本人で占められて朝鮮人は下層部ばかりにいる、というイメージ
が強かったが、実際は全く違っていた。(江原道庁任官時) この時の係長は日本人、
課長は日本人、部長は朝鮮人でした。知事は日本人ではないかなと思っていましたが、
今になって記録を見ると朝鮮人かも知れません。当時は、日本人とか朝鮮人とかそんな
ことは、どうちらでもよくて、あんまり意識していなかったので、記憶に残っていない
こともあります。(江原道寧越郡庁勤務時) 私は朝鮮人の郡主の下で内務課長として
働いていたことになります。(52頁)と言う日記もある。私は朝鮮人の上司の下で働き
、時に朝鮮人を部下につかいました。当然のことながら、お互いに民族の違いは認識し
ておりましたが、それ以外のことは何ら変わりがありません。日本の朝鮮統治というの
は、欧米の植民地とは根本的に異なります。(55頁)朝鮮総督府は日本の朝鮮植民地統
治機関ですが、そこの職員には植民地支配されている朝鮮人が多数勤務しており、出世
する人も少なくなかったのです。 朝鮮人上司の下で、支配者側であるはずの日本人が
部下として働く場合が往々にしてあったのです。」と言う記述は、これは確かに西欧の
植民地支配とは違っているようです。西欧の植民地はアジア・アフリカなどにありまし
たが、植民地政府の構成は基本的には本国人上司と現地人部下というものです。現地人
が上司となって本国人を部下として使うことは、あり得ません。それが20世紀前半まで
の西欧植民地です。アメリカ国内でもこの時代の政府や軍隊では白人上司と黒人部下が
基本で、黒人が上司の場合は部下も必ず黒人です。黒人上司と白人部下という組み合わ
せは、想像すら出来なかった時代です。このことを考えるならば、日本の植民地支配は
西欧とかなり異なっていたと見ることができます。 当時の言葉で「内鮮一体」といっ
ていたように、日本人と朝鮮人との間における差別的取り扱いは少なかったと言えるで
しょう。しかしこのように差別的がなかったことが、逆に「日本に同化させて民族性を
抹殺した」という批判を浴びることになります。 確かに欧米のように徹底して差別す
る方が民族の違いを際立たせ「民族性の抹殺」にはならず、むしろ「民族の覚醒」にな
るのだろう。

1196: 名無しさんAA:18/10/31 18:43
  朝鮮人に 喝!  06

 昨年8月、102歳で亡くなった西川清(きよし)は、「最後の朝鮮総督府官吏」と
いうべき貴重な証人だった。大正4(1915)年、和歌山県出身。地元の林業学校を
出て昭和8年に、日本統治下の朝鮮へ渡った。複数の郡の内務課長を歴任し、朝鮮人の
徴用などに直接、関わった経歴から、慰安婦や徴用工問題をめぐる今の「韓国人らの言
い分」が、どれほどウソとデタラメにまみれているか、身をもって知っている。虚偽の
ことが世界中に流布されてゆくことを黙って見過ごせなかった西川は100歳近くにな
って、安倍晋三首相宛てに事態を憂う手紙を送り、自身の体験をつづった本(『朝鮮総
督府官吏 最後の証言』桜の花出版)も書いた。私が昨年6月に取材に訪れたときは耳
が遠いくらいで元気そうに見えたのだが、西川は「秋にはもう私はいないだろう」と語
り、残念ながらそれは現実になってしまった。西川は、日本人に何を訴えたかったか。
生前インタビューを行った一人として、それを伝える義務と責任がある。西川が遺(の
こ)したメッセージは、慰安婦や徴用工問題だけではない。戦後、70年以上が過ぎた
現在では、日本人も韓国人も、うかがい知ることができなくなった日本統治時代の朝鮮
社会の「雰囲気」というべきものだった。そのひとつが、「日本人と朝鮮人は、ごく当
たり前のように仲良くやっていた」ということである。朝鮮に渡り、中部日本海側にあ
る江原道(県に相当)産業部に配属された西川は昭和11年、朝鮮総督府の地方官吏養
成所の1期生に選ばれる。13の道から計50人、江原道からは西川ら5人、うち2人
は朝鮮人だった。「各道を代表してきた若手の秀才ばかり。九州帝大を出た人も2人い
ました。朝鮮人は全体の半分近くを占め、極めて優秀な人がそろっていました。」養成
所を優秀な成績で卒業した西川は、兵役を経て、28歳の若さで江原道寧越郡の内務課
長に任命される。人事や総務を司(つかさど)る枢要ポストで本来は“たたき上げ”が
定年前に就くことが多い。上司の郡守(首長)は朝鮮人、郡の上部組織である道の部長
クラスも、ほとんどが朝鮮人だった。「上司にも部下にも朝鮮人はいましたね。見かけ
は変わらないし本当に仲良くやっていました。当時を知らない今の人が『怖い、恐ろし
い時代だった』などというのはウソですよ。戦争が始まってからも空襲はなく犯罪も少
なく物資は豊富で穏やかな生活がずっと続いていたのが真相です。独立運動は“地下”
で続いていたのかもしれないが、少なくとも表面に現れることはありませんでした。

1197: 名無しさんAA:18/10/31 18:44
  朝鮮人に 喝!  07

 西川が持ち帰った写真には、朝鮮人の同僚と一緒に花見や野球を楽しんだり、親しげ
に肩を組んだりしたカットがたくさん残されている。「日本は立派な統治をしたと思う
。(略奪が酷(ひど)かった)西欧の植民地支配とは違い、日本は朝鮮に多大な投資を
した。『土地を奪った』という非難も当たらない。従来、あいまいだった朝鮮の土地を
、日本が測量・登記し、権利関係を整理したのが本当です。」と言うくどいようだが、
統治する側とされる側が同じ歴史観を持つことは無い、しかし朝鮮の公表する嘘は諜某
に溢れ恣意的嘘が多すぎる。旧制六高から東京帝大法学部を出て昭和9年の高等試験(
行政科)に合格、「キャリア組」として総督府に入った任文桓(戦後、韓国農林相)は
戦後出版した自著で、日本人の同期とは出世、待遇などで差別を受けたとした上で、日
本に従うフリをする“曲芸師”だったと書いている。これは日本人の自虐史観と同じに
後で考えたら。と言う曰く付きな声だ。 西川は、寧越郡の後、さらに規模が大きい原
州郡でも内務課長を務めている。例えば、戦時の労働動員である「徴用(募集、官斡旋
(あっせん)の段階を含む)」は総督府→道→郡→邑(ゆう)・面(町村に相当)のラ
インで実施された。その“真ん中”にいた西川は募集にかかわり、日本へ向かう朝鮮人
労働者を釜山まで送っていった経験もある。「殴る、蹴るで無理やり連行したなんて、
とんでもない。ちゃんと面談し、労働条件を示した上で、納得ずくで日本へ働きに行っ
た。給与などの待遇も悪くなかったでしょう。」と説明する。これは他の朝鮮引き揚げ
者も同じで後に在日なった人さえ平等だったと証言を得ている。つまり日本でも特高に
目を付けられて酷い被害には逢っているが、それは極端に少ない話である。西川によれ
ば、当時の朝鮮には、カルボチブ(売春宿)、スルチブ(居酒屋だが、売春婦を置いて
いる店もあった)と呼ばれる店が街ごとにあった。慰安婦になったのはそうした女性が
多い。民間人が需要に応じて連れて行ったのである。「もし、日本の官憲が、朝鮮人の
若い娘たちを強制連行したならば、通達文書が残っているはずですが、そんなものはな
いし、私の耳に入らないわけがない。警察官には朝鮮人も多かったんですよ。無理やり
そんなことをすれば、大騒ぎになって、暴動が起きたでしょうね。」終戦時、江原道庁
勤務だった西川は道庁所在地の春川に住んでいたが、朝鮮人の民衆から自宅の扉をたた
かれることがあったくらいで、略奪や暴行の被害を受けることはなかった。戦後、和歌
山県庁に勤めた西川は1980年代以降、降って湧いたような慰安婦問題などの騒ぎを
信じられない思いで見ることになる。世界中にばらまかれたウソやデタラメは一向に収
まる気配はない。泉下の西川の無念はいかばかりか。

1198: 名無しさんAA:18/11/01 02:39
 朝鮮人に 喝!  08

 初代朝鮮総督は伊藤博文だったが、最後の総督は阿部信行であった。その阿部総督は
アメリカが韓国に占領しに来た時、総督府で最後に行った仕事は、降伏文書に署名した
ことであった。そして韓国を離れた。しかしその時この彼が残した有名な言葉がある。
阿部総督は、1879年日本の石川県で生まれ、1897年日本陸軍士官学校を卒業し、陸軍参
謀本部総務部、軍務局長を経て1929年には陸軍次官に任命された。1939年に日本の第36
代首相になったが4ヶ月で総辞職した。 以後、いろいろ職を経て1944年最後の朝鮮総督
として就任し、戦争物資を支援するために人材と物資を戦争遂行のために韓国から収奪
に力を挙げた。徴兵・徴用および勤労報国隊の忌避者を最後まで探し出し、さらに女子
挺身隊勤務令を公布した。韓国社会では、安倍晋三首相の祖父が阿部信行元首相だと信
じている人が少なくない。日本では、阿部信行は昭和14年に首相になったが、四か月ほ
どで辞任した。歴代宰相の中ではもっとも影の薄い人物という程度にしか見られていな
い。だが、韓国では最後の朝鮮総督としてかなり有名で、終戦後帰国した際に「阿部信
行の『予言』」なるものを残したという話まであるという。「阿部信行の『予言』」と
は、「日本は負けたが、朝鮮が勝ったわけではない。自信を持って言うが、朝鮮人が正
気に返って昔の栄光を取り戻すには百年以上かかるだろう。私たちは朝鮮人に銃や大砲
よりも恐ろしい植民地教育を植え付けた。朝鮮人は仲たがいして奴隷生活を送るだろう
。そして私、阿部信行は再び戻る。」といった内容のものである。朝鮮総督府の高官な
ら、「日本は負けたが、朝鮮が勝ったわけではない。」と言いそうな気もする。しかし
「朝鮮人は仲たがい」したのは事実でも、日韓併合前からの話だ。朝鮮戦争だけではな
く、「南」の内部でも韓国初代大統領になった李承晩と金九など激しい政治的対立があ
って、多くの血が流れたのも事実だ。しかし対立した理由は簡単で、李朝時代に官僚達
が四色党派と呼ばれる派閥に分かれて党争を繰り広げてきた朝鮮人の民族性によるもの
。その当時の日本人は、朝鮮総督府の統治によって識字率を向上させるなど教育で恩恵
を施したと信じていて、「恐ろしい植民地教育」などと朝鮮人に悪いことをしたと考え
る事は皆無で言う事はない。これが朝鮮から排除された両班から出たデマで同床異夢の
レジスタンス運動から出た言葉の証左でもある。イ・ヒョンジョン議政府報勲支庁報勳
チーム長や、李承勲ソウル大名誉教授のような韓国でそれなりの地位にあるような人で
も、そうした嘘や「安倍晋三の祖父は阿部信行」だと信じて疑わない。朝鮮総督府の役
人なら言うわけがないこの話は授業でも伝わる。


1199: 名無しさんAA:18/11/01 02:40
この「阿部信行の『予言』」を最後の朝鮮総督が話したと韓国人の多くが信じ込んでい
る。朴槿恵大統領は「歴史を忘れた民族に未来はない」とかいって、日本人に「正しい
歴史」を教えてあげようとやっきになって「安倍晋三の祖父は阿部信行」だと思い込ん
でいる韓国人こそ、「正しい日本の歴史」を学ぶべきであろう。12才以上40才未満
の女性に挺身勤務令書を発行した。これは間違いない。しかし付け加え、これに対し、
命令に応じない時は国家総動員法によって懲役刑を下すこともあっという。と追加する
。これがおかしいのだ。その頃の統治システムとしてあり得ないのである。そしてその
上、彼が朝鮮半島を離れる時、残した有名な言葉ある。と続く。それは「私たちはたと
え戦争に敗れたが、朝鮮が勝利したのではない。朝鮮が大きな事を言ったところで、朝
鮮人が正常な精神状態を取り戻し、きらびやかで偉大だった今までの光栄の生活を取り
戻そうとしても百年以上かかるだろう。私たちの日本は、朝鮮人に銃と大砲よりさらに
恐ろしい植民地教育を植えつけておいた。結局、朝鮮人は互いに仲たがいし奴隷的生活
を送るだろう。そして私、阿部信行はまた戻る。」と言い韓国から離れた。とまことし
やかに伝えられる。韓国としては、情けない話であり、恐ろしい話とする不思議で、何
が恐ろしい仕掛けなのか意味不良で伝わっている。阿部総督は日本陸軍士官学校を卒業
し、ドイツ留学も行き、軍の中央の主要な職務を経て1933年に陸軍大将、1939年には、
日本内閣総理にもなった。たとえ数か月であっても日本国総理を歴任した彼は、1944年
最後の朝鮮総督に任命され、朝鮮人に対する植民地教育をさらに徹底的に行った。と伝
える。そして日本駐留米軍マッカーサー司令部が八月15日直後である1945年12月11日
阿部を尋問する時、彼は「日本植民政策は韓国人に利益になる政策であった。「朝鮮人
はまだ自身で国を治める能力がないので独立した政府形態になれば党派争いで、再び崩
壊するだろう。」としながら南北共同政府樹立に積極的に反対したことが明らかになっ
た。と言う嘘を又綴る。また彼は東京裁判でもA級戦容疑からどういう訳が分からない
が突如起訴が外れた。理由は今でも不明である。と書く。これは簡単な事だ。彼はこの
地に朝鮮統一政府を作り、そのまま託してここを離れた事は、住民として紛れた米軍の
偵察隊の報告で解っていたからだ。そして破壊した暗殺した李承晩の事は棚にあげ、し
かし最後の阿部朝鮮総督の言葉はやはり意味深で思い出さざるを得ない。と言うのだ。
こうした、本当か嘘かわからない話は朝鮮人は上手い。今でもやっかみの告げ口外交や
国際法や国際協議を堂々と無視してロシアや中国や北朝鮮に繋がりを持つ。そして片方
から追いやられてはもう片方に寄り付いて渡る。その為中国王朝の交代劇の様に大統領
になった過去を全否定して今の政権に貢ぐ裁判を終始展開する。彼らに正義も道義もな
い。あるのは餓鬼畜生と同じ、今の生きる餌であり欲望を満たす金なのである。

1200: 名無しさんAA:18/11/01 03:19
 今や日本も日本人が消えて、日本人も又韓国色に染まる。文化が消え独特のこだわり
が消えつつある。かつて山村に住み質素と共同生活で育んだ、開かれた思いやりは消え
て、核家族化して、商魂たくましい利用される思いやりが多い。和歌山カレー事件で解
る様に、見ず知らずの者と情報も無い中で付き合う事を躊躇しないのはいいが、それを
支えていた駐在所システムは今や存在しない。又同じ<あべ>氏が日本の総理大臣にな
って、韓国中国には、同じ様に助けて裏切られ、ちょっと離れて泣きつかれ、支援して
という場当たり的な過去を捨てた外交を繰り返している。全く韓国の心模様と同じだ。
ご存じの通り安倍首相の祖父は岸信介氏である。岸信介氏は満州国を建設し、日本がア
ジアを支配しようとする戦略を立てた。この過程で徹底して中国人と朝鮮人の抗日闘争
を無力化させたとも言われている。「週刊文春」によれば安倍総理は最近「中国は呆れ
返る国だが、それでも外交ゲームが可能だ。だが、韓国はただ愚かな国家であるだけ」
と話したと伝えてはいるが、その愚かな韓国国民も馬鹿じゃない。とは信じても歴史は
馬鹿その物で行ってきている。かつて元が攻めて来た時も中国漢王朝が朝鮮に兵を頼ん
だが元について戦っている。つまり内通者がいてひとたまりもない国家であったのだ。
今でも北朝鮮との統一国家に声を上げるが、統一国家になればなる程国家はこの悪者に
操られ、今以上に大統領交代の愚衆の群れが策動されるだろう。これまでの政権も文政
権も、日本が投下した資本や資金片手に米国に媚びを売って大きくなった財閥に寄生虫
の様にすり寄った政策しか出していない。つまり自立した政治をしないし、法に準じた
裁判をやった事がない。朝鮮人特有の全く人を論破はしても意味不明の未来のない決定
しか行わない思考しかない。日本人も多少は摩擦を避けるが、韓国に至っては揉手に摺
手しか行わず、北朝鮮同様に対立は生死に関わるらしい。つまり追い詰めるのが得意で
常識や情緒や情愛博愛が全くないのである。かつて朝鮮旅行のある田舎の旅館は自分達
は豪勢な食事をし、旅行客には犬の餌しか差し出さなかった。捕えられ取り調べに彼ら
は平然と言ったと言う。「私達は、食べる為に商売をしている。犬も肉鍋にする為に餌
を与えている。それがどこがどう違って法律違反なんだ。」と真顔で言った。そして、
「何も毒を盛ったり、客を追い出した訳ではない。」と。この論拠に警察は縄を解いた
その集落の他の者もうなずいたからだ。そして警官は悟ったと言う。「そう言う人達な
のだ。」と。つまり仏教の「天上天下唯我独尊」をそういう風にしかとらえられていな
い国なのだ。コリアンカーストで平等はない。自分達が大事なのだ。日本人が最初に工
場造り雇用したが、社長を軟禁して交渉する人種だった。だから工場は殆ど米国の経済
植民地になり、株や経営権で搾取されて今に至っているのである。共に生きるのが不可
能な人種なのである。


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