指導改善研修の実態 横浜市


@3ch掲示板 > 指導改善研修の実態 横浜市
全部1- 101- 201- 301- 401- 501- 601- 701- 801- 901- 1001- 1101- 1201- 1301- 最新50

指導改善研修の実態 横浜市

1: 横浜人権侵害都市:13/12/16 16:56
年明けの2013年1月24日 分会長のU教諭と共にいる前で。NH校長の不適切且つ違法な言動について。
○文部科学省、横浜市の指導改善研修の規定によると、元来指導力不足教員に該当しないにもかかわらず私を「指導力不足教員として申請書をすでに出すことにした」と暴言を吐いた。  
療休の診断書を2月の半ばに出しますから異動対象者名簿から私の名前を取り下げてくださいとお願いすると。校長はこれを2度拒否。東部学校事務所のOさんの指示に従って校長に事前にお願いしようとしたが拒否をする。校長としては本来診断書を受理する義務がある。「異動対象者名簿から取り下げない」などと無謀で一方的な発言を繰り返した。
仮に、「指導力不足教員として認定されなくとも、私はあなたを、教育委員会預かりにしてやるつもりだ」などと暴言を繰り返したものである。これらの発言は全て裁判上の証拠となる音声記録にも保存されているもので、事実である。NH校長が私を何としても異動させてK校から追い出そうとしていた、つまりパワーハラスメントを繰り返していたことは事実である。
○以降私は、疲弊しきっていたため、精神科で受診し、適応障害との診断を下された。寝付けない日々の中、なんとか学年末までやり終えることができた。午前中2時間年休を取得したり、休んだりすることが多い中での勤務で相当大変な思いをしたが、指導力不足教員の認定審査会では、H課長から、「すぐに休む」という点を指摘された。NH校長は心配するどころか、私に不利になり得るものは、療休であろうが構わず、悪いニュアンスで「すぐに休んでしまう職員」という言い方をしていたのである。前日に断裂症で休んだり、適応障害のために精神的に疲弊して午後から病院に行ったり休んだりした職員を捕まえて「すぐに休むダメな職員」という評価をして、教育委員会育成課に書類を提出し、強制的に指導改善研修に送り込んだのである。
当該NH小学校校長は、公務員に関わる諸規則、倫理規定、職務規定に該当し、自治会長から金銭を授受し、飲み食い等に充てるなど不適切に浪費した件に関して教育委員会から指導を受けている。2013年4月1日以降、強制的に指導改善研修に行かされている。

2013年9月18日(水)下校時の児童指導に立って児童に挨拶等をしていたが、不当にも、明日からは立たなくていいと発言。職員である者にこうした制限を設けるのは合理的理由がなく、パワーハラスメントである。

2013年9月、所属校研修ということでK小学校で勤務していたが、該当する場面がなく、学校長からの具体的な指摘もない事項について、不当に評価を低くつけられた。例えば、「採点ミスが多い」「市販テストで安易な評価をする」という場面そのものがなかったにもかかわらず、評価は「時々見られる」となっているのである。該当しない事柄までも、評価されているのであり、不実記載である。18項目中7項目(全体の38%)も本来該当することがないにもかかわらず、時々あるとされたのである。パワーハラスメントである。
 11月7日(木)に、学校長によるパワハラに関する訴えを労災として申請。本日付にて学校のメール便で送付。翌週11日(月)には届いているはずである。


601: 名無しさんAA:17/10/06 14:19
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 250-----------

 だが 戦闘が大きくなり日本軍の参戦があると 本拠地はアメリカやカナダに移され
た。当時上海には数多くのユダヤ組織があった。E・ニッシムが会長する英国系「上海
ユダヤ人協会」は英国籍のスファラディ系ユダヤ人で共同租界の北京路に「大商事会社
」を経営していた。「上海ユダヤ人協会」の会員は約800人ほぼ全員がスファラディ
系ユダヤ人として雇っていた。日本がロシアの孤児救済に入った時P・トーパス会長は
「上海シオニスト協会」として発足させた。シベリア出身のアシュケナジー系ユダヤ人
で貿易会社を経営した。この「上海シオニスト協会」は1903年に設立され、会員は
約3000人で、パレスチナ移住を掲げ移住者を募集していた。機関紙『イスラエルズ
・メッセンジャー』は、約1000部が購読され、海外にも発送され、東アジアのシオ
ニズム運動の貴重な声として世界にその存在を誇示するとともに、イギリスと東アジア
を結ぶ架け橋としての役割を果たした。又アメリカに移ってからは軍事産業の中枢にも
潜り込んだ。ドイツの科学者の移住を助けたからだ。「ブナイ・ブリス」カムメルリン
グ会長ルーマニア出身のアシュケナジー系ユダヤ人。「香港・上海ホテル」の株主だが
彼はシオニスト右派に属していた。「ブリス・トランペルダー」R・ビトカー会長は、
ポーランド出身のアシュケナジー系ユダヤ人。この組織は、青年を対象にした民族主義
的シオニスト・グループだった。「上海ヘブライ救援協会」はI・ローゼンツヴァイク
博士が会長し比較的保守で日本政府とも繋がりロシア系ユダヤ人で、アシュケナジー系
ユダヤ難民への救援を目的としていた。「ヘブライ・エンバンクメント・ハウス」テー
ク夫人が幹事していて有力ブローカーであるスファラディ系ユダヤ人テークの妻だった
。貧しいユダヤ難民に宿舎を提供していた。こうした中 「ヨーロッパ移民委員会」と
「ドイツ移民委員会」はアメリカ要人との交渉を重ねていた。両者とも同じ委員会に属
していて、委員はM・スピールマン議長、D・アブラハム、J・ホルツェル、エリス・
ハイムなどがいる。こうして古くからのユダヤ協会が左派と右派に分かれ新しくやって
来た移民が各国ごとに更に迫害される移民を助ける救援のシオニストが各個に出来てい
た。それぞれに資金力がありアヘンなど法に頼らずユダヤの戒律による商売をしていた
。こうして日本を飛びこし米国に新天地を求めたのである。つまりドイツの進軍におい
て既に日本が敗けて、ロシアが侵攻し満州が無くなる事を予測していたのだ。この事は
極めてこのユダヤ人達は動きを察知し或いは加担して 世界を方向づけしていた事にな
る。

602: 名無しさんAA:17/10/06 14:22
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 251-----------

M・スピールマンはオランダ市民であるが、実際はロシア生まれのユダヤ人で若い時に
オランダ領インドに移り、そこで市民権を得て、1917年には上海に移住していた。
この委員会に属する秘匿団体として「政治運営委員会」があり、コミンテルンおよび国
民党当局と密接な連絡を保っていた。この部の責任者はレーヴェンベルク博士(ドイツ
系ユダヤ人)で、弁護士を職とし、共産党に属していたが、ドイツで3年間収容所に入
れられ、脱走してオランダへ、さらに上海に移った。「上海ユダヤ人クラブ」(米国デ
ラウェア州法人)1923年に設立され、何回か解散したが日華事変開始直後、当地の
合衆国総領事館に登録した。会員は約400人。名誉会長ブロック、会長ポリャコフ他
役員の多くはロシア系ユダヤ人で、このクラブはソ連の木材公社とも取り引きがあった
。ちなみに、上海のスファラディ系ユダヤ人たちの中は、金のない貧乏なアシュケナジ
ー系ユダヤ難民の受け入れを嫌がる者が多くいたという。「世界ユダヤ人会議」のユダ
ヤ問題研究所副所長を務めたゾラフ・バルハフティク。ワルシャワ生まれのユダヤ人で
 リトアニアと日本でユダヤ難民の救出に尽力した。戦後はイスラエル国会議員として
国政に参加し、1962年から1974年まで宗教大臣を務めた。彼は後『日本に来た
ユダヤ難民』の著書を発刊している。(原書房)ちなみに戦後産まれの人間に昭和天皇
を冷たい冷酷人間と評する人はいないだろう。又戦前の教育された者に天皇を卑怯者と
言う人も居ないと思われる。だが敢えて言うならば私はかのヒットラーより冷酷であっ
たろうと思う。決して残忍ではなかったろうが 彼が他の国の国王と同等に貴族の火遊
びの中の仲間入りして世界大戦に引き込まれたと今でも思っている。そしてそれは他の
国の国王でも独裁者でも同じだと言える。そこに人民や国民を守ると言う役割や意識が
仕事として無ければ必ず陥る罠であろう。だが皇祖大海の皇子以来日本は平和を守る術
として 人柱や裏切りを忍んだ国民ではあったのだろう。それが小国の生き延びて人情
の国平和の国を作ってきた。この事で長い間1千年もの月日で平和回路しか持たない国
や国民になっていたとも言える。DNAの堆積である。ユダヤ人を救ったのは杉原千畝
が有名だが彼だけでは ここ上海では日本海軍の大佐で「ユダヤ問題研究家」としても
知られる犬塚惟重(いぬづかこれしげ)大佐や、陸軍所属ユダヤ問題の研究家でもある
安江仙弘(やすえのりひろ)大佐が、世界中で酷い扱いを受けていたユダヤ人の保護活
動を続けている。


603: 名無しさんAA:17/10/06 15:35
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 252-----------

 シベリア出兵は1918年に行われた。日本はロシア革命の鎮圧のためシベリア出兵
要請されそれを行い、赤軍と敵対していた白軍を援護した。しかしながら10万人の兵
と9億円の戦費を投入したものの、3千人の死者を出した上に目立った成果もなく、国
際機関の撤退要請で1922年に撤退を余儀なくされた。奥深くまで進軍した兵員はそ
の各所で住民に触れて その中にロシア系ユダヤ人の存在がある事を知った。ロシア正
教会でロシア全土が日本の仏教の様にあると信じていた日本人には不可解な事だった。
その中に「シオン賢者の議定書」が出回りユダヤ教は悪しき宗教である。との触れ込み
であった。1897年にスイスのバーゼルで開催された、第1回シオニスト会議の秘密
議事録とされ流布した同書は、「世界の政治経済の支配を目論む、国際的なユダヤ人の
陰謀の存在を示す証拠。」とされ、度々世間で論議を起こし偽作の見解があったにも拘
らず、世界中に影響を与えた。日本の公債を受け入れたシフの、帝政ロシア打倒工作は
徹底して、第一次世界大戦の前後を通じてその為のほとんどの国々に融資を拡大してい
た。その上帝政ロシアへの資金提供は妨害した。1917年にレーニン、トロツキーに
対してそれぞれ2千万ドルの資金を提供してロシア革命を支援した。経営者一族にシフ
の縁戚となっていたファースト・ナショナル銀行ニューヨークは、ロックフェラーのチ
ェース・マンハッタン、J・P・モルガン・アンド・カンパニーと協調して、新生ソビエ
トに対する融資をしていた。ロシア国内にはユダヤ人が600万人移住して迫害を受け
ていた。シフにいわせればロシア帝政歴史はそのままユダヤ人虐殺史であるという。そ
う説明されたとき、日本の高橋是清の秘書役の深井英五にはよくわからなかった。そっ
と「人種問題というのは、それほど深刻なものでしょうか。」と、あとで高橋にいった
位だ。日本人の概念ではユダヤ人は拝金主義者で、何よりも大切な金を、勝つか負ける
か不明な日本のために投ずるというのは理解しづらい。単一民族である日本人にとって
は、人種問題ほど実感の起こりにくい課題はなかった。その後松方の世話で明治34年
(1901年)に日本銀行に入行し。1904年(明治37年)から1907年(同4
0年)まで、数度の帰国を挟みながら、副総裁・高橋是清の外債募集のための海外出張
に同行した時の話である。この時明石元二郎はフランス公使館付陸軍武官となって裏工
作の特命を受け明石機関を作った。その後ロシア帝国公使館付陸軍武官に転任したが、
サンクトペテルブルクのロシア公使館に着任後、日英同盟に基づいた情報協力により、
イギリス秘密情報部のスパイであるシドニー・ライリーと知り合い、友人となった。


604: 名無しさんAA:17/10/06 15:37
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 253-----------

深井英五は、ジャーナリストとして活躍した後に日本銀行に入行するという異色の経歴
を持つ総裁である。大分の貧困な家庭に産まれたが新島襄が外遊中にブラウン夫人から
託された奨学金の受給者に選ばれ同志社に入学出来た。卒業後、明治の大ジャーナリス
ト徳富蘇峰が主宰する国民新聞社に入社し、明治33年、外報部長の時、蘇峰の推薦で当
時の大蔵大臣松方正義の秘書官に転じたが、しかし、3か月後、松方蔵相の辞職にとも
なって職を失し、1年間の浪人生活の後、松方の推薦により日本銀行に入行し、当時副
総裁だった高橋是清に英語力を買われ是清の外債募集のための海外出張に同行した。妻
はるは北信政財界の第一人者として知られた小坂善之助の次女にあたる。甥にあたる小
坂徳三郎は三井十一家の一つである本村町家2代目・三井弁蔵の長女と結婚したので、
深井家は小坂家を通じて三井財閥の創業者一族である三井家と姻戚関係で結ばれている
彼の能力は大いに認められ総裁にまでなった。特に営業局長時代以降は、第1次世界大
戦、関東大震災、昭和金融恐慌といった歴史的大事件に相次いで遭遇して円滑な金融の
確保に努めたこの間に、第一次世界大戦後の世界恐慌下の金融調整、浜口幸雄内閣のも
とでの金輸出解禁、翌年の犬養毅内閣成立直後の金輸出再禁止に伴う経済激動下の、2
つの通貨制度の下での金融政策の舵取りに円滑な金融政策の実行に尽力した。昭和10
年に総裁に就任しました。一方、パリ国際経済会議をはじめ、多くの国際会議に出席活
躍し、1935年には第13代日銀総裁に就任した。時正に戦時経済であった。勃発し
た二・二六事件では、後ろ盾の高橋是清を失いましたが、事件後の金融界の動揺も巧み
なかじ取りで抑え込み、歴代日銀総裁で最も経済理論に精通した名総裁といわれました
。だが昭和11年に起こった2・26事件には金融界の動揺を押えましたが、その後の
軍事費増大による赤字国債の発行増には抗し得ず、昭和12年に総裁職を辞任したのだ
が、明石機関が明治政府を作った時国際機関も世界的戦争の仕組みも余り解ってはいな
かった。ただ日本は欧米との銀行としての付き合いも又薩摩藩ないし幕府の勘定方との
付き合いしか無かった。かつての下関戦争や薩英戦争の賠償金返済問題があったからだ
。闇雲に世界の中に朝鮮半島の権益に日本人は疑問があるまま戦争に陥ってしまったの
だ。


605: 名無しさんAA:17/10/06 15:40
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 254-----------

 こうしてシフの公債引き受けと国際資本との繋がりが取れて明石機関は、日露戦争が
開戦すると中立国スウェーデンに移り、以後この地を本拠として活動する。明石(当時
の階級は大佐)は日露戦争中に、当時の国家予算は2億3千万円程であった中、山縣有
朋の英断により参謀本部から当時の金額で100万円(今の価値では400億円以上)を工作
資金として支給されロシア革命支援工作を画策した。明石の依頼により、ライリーらは
明治36年(1903年)から建築用木材の貿易商に偽装して戦略的要衝である旅順に移住し
材木会社を開業、ロシア軍司令部の信頼を得て、ロシア軍の動向に関する情報や、旅順
要塞の図面などをイギリスおよび日本にもたらしていた。明石の工作の目的は、当時革
命運動の主導権を握っていたコンニ・シリヤクス率いるフィンランド革命党などのロシ
アの侵略を受けていた国の反乱分子などを糾合し、ロシア国内の革命政党であるエスエ
ル(社会革命党)を率いるエヴノ・アゼフなどに資金援助するなどして、ロシア国内の
反戦、反政府運動の火に油を注ぎ、ロシアの対日戦争継続の意図を挫折させようとした
ものであった。満州軍においては、欧州の明石工作をロシア将兵に檄文等で知らせて戦
意を喪失させようと計ったり、また欧州情勢を受けてロシア軍の後方攪乱活動を盛んに
行ったりした(満州義軍)。成果やレーニンとの会見の有無は別として、この点につい
ては研究者の間でもほぼ見解は一致している。このように、明石は日露戦争中全般にわ
たり、ロシア国内の政情不安を画策してロシアの継戦を困難にし、日本の勝利に貢献す
ることを意図したものであった。陸軍参謀本部参謀次長・長岡外史は、「明石の活躍は
陸軍10個師団に相当する」と評し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、「明石元二郎一人
で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている。」と言って称えたと紹介する
文献もある。日本国内においては、日露戦争での明石の活動ばかりが注目されているが
、対戦国であったロシア側の明石に対する反応はロシアでの啓蒙(警戒)を呼び起こす
ことに繋がっていた。ロシアの月刊誌『ロージナ』『祖国』は平成16年日露戦争特集号
で日本の参謀本部や外務省が満州において中国人やモンゴル人を使って強力な情報網を
構築した件を引き合いにし、このことがソ連時代に対日情報工作の強化一部はゾルゲ事
件のように明るみに出る物に繋がったことや、日本自身の防諜体制の甘さを指摘してい
る。日本側もフランス人記者を使ったロシアからの諜報工作に晒されていたのである。


606: 名無しさんAA:17/10/06 15:49
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 255-----------

帝国在郷軍人会本部の依頼で書かれた『猶太の人々』(1934)の結論には、帰国後の安
江のユダヤ観がこう披瀝されている。「猶太人の一人々々を観れば、数千萬の猶太人が
一人残らず、革命運動に参画して居るのでもなく、又皆一様に大財閥である訳でもない
。多くの猶太人の中には、之を分類すると色々の種類がある。例へば、繪で見る基督の
やうな、昔ながらの服装をして、『猶太の泣壁』に朝夕集り、救世主の降臨を祈り、全
く現代とかけ離れて、猶太教のみに没頭して居る宗教的猶太人がある。又一方にシオニ
ストとして、パーレスタインの猶太國建設のみに熱中して居る猶太人があるかと思へば
、又他方には國境を超越して、世界を舞臺として活躍するインターナシヨナルな猶太人
もある。更にシオニズムによつて一般に覚醒されたとはいひながら、シオン運動には無
関心に自己の商売のみに熱中している猶太人もある。即ち猶太人であるからといふて、
誰も彼も危険視すべきではない。我が國に取つて有害な人物もあれば、無害な善良な人
もある」とある。ここに陸軍と海軍の亀裂の元が透けて見える。即ち陸軍は陸上兵が多
くこのシベリア出兵に於いて「共産化思想」いわゆる赤軍思想に犯されて来た。ここで
その対局としてユダヤを探らせた所このシオニズムにはまってしまったしまった。特に
海軍に於いては 戦艦乗務が多かった為にこの「世界金融を握って世界征服」は「共産
主義で世界革命」の思想よりはショックだったと言える。こうして改めて日本語になっ
たユダヤ人世界の本や書物や記述が一般にも出回り始めてこうした事が視野を広めたし
この記述を信じた多数の人がいた。更に日露戦争がユダヤ金融の融資によって勝利した
事実は外務省役人に対し、ユダヤ人への関心を持たせることに成功している。以後日本
の各所の大使館及び領事館の職員は、彼らの駐在する国々のユダヤ社会の動向を外務省
に伝え続けることを要求された。こうして改めて外務省本局に膨大な報告書が上げられ
たが、いずれも「国際的陰謀」の存在を決定的に証明するには至らなかった。それでも
政府中枢に、ユダヤ人の経済力や政治力、及びユダヤ人が世界中に四散したことによる
国際的情報網を過大評価した者はかなりいた。そしてユダヤがドイツやソビエト連邦を
はじめとするヨーロッパ諸国で迫害を受けてはいるものの、日本とは比較的友好的関係
にあった為に、ユダヤ人を救出することで、今後日本に対する在米ユダヤ人からの確実
で永続的な好意を獲得できると考えた「ユダヤ難民満洲移住計画」通称「河豚計画」が
策定された。が この河豚の名通り、その移住に自由度が必要な上にその計画における
居留地への投資と移民の送致は、世界各国はユダヤ社会任せとされていた。更に「自治
権」を認めさせて 共産国の様な君主打倒を叫ばれる事も危惧された。

607: 名無しさんAA:17/10/06 15:56
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 256-----------

 「シオン賢者の議定書」によれば、諸外国でユダヤ人が支配権の掌握を行った。とさ
れ「居留地は一見自治国のように見えるが、ユダヤ人を認めれば 密かに監視下に置く
ための統制が必要である」との意見が大勢を占めた。又計画者は、ユダヤ人が支配権を
掌握して、日本の政治経済の主流への道を進むのではないかと懸念したのである。こう
して 本部事務局では一回は却下されれていた事案だったのであるが、日々に日本も又
諜報工作に晒されていたのである。こうしてもたらされたが「第1回シオニスト会議の
秘密議事録とされ流布した同書で、「世界の政治経済の支配を目論む、国際的なユダヤ
人の陰謀の存在を示す証拠。」としての「シオン賢者の議定書」であった。だがその後
この会議は陸軍中佐石原莞爾の目に止まり。調査団の陸軍の安江仙弘と海軍の犬塚惟重
の両名はユダヤ人専門家となり長州閥の知遇を得て鮎川の私的懇談会の中に組み込まれ
る。このユダヤ専門家達はその後「大陸派」とある程度まで協力した。陸軍大佐板垣征
四郎及び陸軍中佐石原莞爾率いる「大陸派」は、日本からの開拓者や資本を満州に誘致
しようとしたが、難航していた。これが、改めて本格的計画者の胸中に河豚計画の最初
の種が蒔かれた瞬間であるとみられる。1931年、満州事変の直前のことであった。
こうして、陸軍大佐の安江仙弘と海軍大佐の犬塚惟重の両名を始めとする「猶太民族調
査団」が秘密理に出来た。驚く事にそれは陸軍に金が優遇出来たからであった。「新国
土に於ける満蒙開拓猶太移住計画の可能性」から又改めて「猶太移住計画」が出て「河
豚計画」が改めて出来るのに時間はかからなかった。1927年ユダヤ研究を命じられ
、酒井勝軍を英語通訳として伴い、パレスチナやエジプトから欧州を視察し、このとき
反ユダヤ文書による観念的なユダヤ人理解の誤りを悟った。酒井勝軍は「ユダヤ問題座
談会」で、「包荒子はパレスチナを見てから思想に変化を生じ、『世界革命之裏面』の
如き書物はもう古くてだめだと言い漏らした」としている。こうして日本政府の最高意
思決定機関であった五相会議で、「猶太人対策要綱」が策定されたのも、安江が当時の
陸軍大臣・板垣征四郎に働きかけがあったためである。この要綱の成立過程に関する、
安江の役割については、これまで長男・弘夫の証言だけで資料的裏付けがなかったが、
関根真保が京都大学に提出した学位請求論文の公開『日本占領下の上海ユダヤ人ゲット
ー』のなかで、「満鉄外國経済調査係ニ課スル研究問題」(1938年10月27日)という 
資料のなかに、満鉄側のメモ「本件ハ安江氏ノ私案ナリ」という記述を発見したことが
報告され、この資料のなかに「猶太人対策要綱」の内容が網羅されていることから、
安江弘夫の証言の正しさが立証された。

608: 名無しさんAA:17/10/06 16:01
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 257-----------

だがユダヤ専門家にとって不運なことに、1933年8月、満州の都市ハルビンでユダ
ヤ系ピアニストのシモン・カスペの誘拐・殺害事件が発生した。シモン・カスペ殺害事
件である。この時の日本側の対応がハルビン在住のユダヤ人に不信感を抱かせた。彼は
ロシア系ユダヤ人で大富豪のヨゼフ・カスペの息子であった。シモンは、たまたまハル
ビンに帰省した際に何者かに誘拐され、同年12月、遺体で発見された。両手の生爪を剥
がされ、耳を削がれた上、頭部に銃弾を撃ち込まれるという凄惨なものであった。10
月3日、反ユダヤ主義の新聞ナシ・プーチ(ロシア語版)がロシアファシスト党の機関
紙として出版された。1935年に日本総領事森島守人はこのユダヤ人を中傷するこの
機関紙を批難した。満州国政府の要請によって1938年2月1日に一度停止するが、
1941年までハルビンで出版されつづけ、その後上海に移動した。河豚計画(ふぐけ
いかく)とは、1930年代に日本で進められた、ユダヤ難民の移住計画である。19
34年に鮎川義介が提唱した計画に始まるとされ、その年の五相会議で政府の方針とし
て定まった。実務面では、陸軍大佐安江仙弘、海軍大佐犬塚惟重らが主導した。ヨーロ
ッパでの迫害から逃れたユダヤ人を満州国に招き入れ、自治区を建設する計画であった
が、ユダヤ人迫害を推進するドイツのナチ党との友好を深めるにつれて形骸化し、日独
伊三国軍事同盟の締結や日独ともに対外戦争を開始したことによって実現性が無くなり
頓挫した。鮎川は1934年、「ドイツ系ユダヤ人五万人の満洲移住計画について」と
題する論文を発表した。彼は、5万人のドイツ系ユダヤ人を満州に受け入れ、同時にユ
ダヤ系アメリカ資本の誘致を行うことにより、満州の開発を促進させると共に、同地を
ソ連に対する防壁とする構想を立案した。関東軍の後ろ盾を得た彼は1937年、日本
産業を改組して満州重工業開発を設立。満州への本格的進出を果たした。日露戦争時の
ジェイコブ・シフは、そのユダヤの経済力の象徴として政府首脳の脳裏に刻み込まれた
満州国にユダヤ人を呼び寄せるという彼らの構想は、ユダヤ人が多くの資金や政治権力
、及びそれらを獲得する超自然的ともいうべき能力を有するという確信から来ていた。
彼らは、ドイツ系ユダヤ人でアメリカ人銀行家のジェイコブ・シフの名を記憶していた
。30年前、クーン・ローブ商会を率いるシフが日本政府に提示した巨額の投資があっ
たればこそ、日本は日露戦争に勝利できたのである。この時の戦費の約4割を、日本政
府へシフが協力し調達したといわれる。後年のジェイコブ・シフが又新興勢力のロスチ
ャイルド達の資本と勢力争いに戦っていた時であった。

609: 名無しさんAA:17/10/06 17:42
 だがこうして日本にドイツの先兵と白目向かれ 対日制裁を受けた後でも 日本陸軍
には 全く外交の動きは解らなかった。これは海軍報告や政府内のフリーメイソンなど
が増えて 嘘の報告や無理な作戦がたたっていたからだった。そもそも太平洋戦争にし
ても海軍には米国と対峙する度胸はなかった。単に山本五十六は気宇の天才戦略家であ
る石原莞爾が起こした満州国樹立に対抗して何ら策を持たず真珠湾攻撃をしたのである
。本来ならば真珠湾を攻撃する事は 当然ハワイ島の襲撃でありこの島の占領のはずだ
がその試案などなかったし ただ焚き付けれられた陸軍に対抗して言っただけだったの
である。更に本当の奇襲作戦なら宣戦布告などする必要もなく、ハワイ王国との婚姻で
あっても独立すれば済む事だったのだ。では何故こうした手を抜いた戦争に陥ったのか
。この事でなぜこうも不幸な戦死者を出したのか。それが天皇の狂気であったと言える
今では天皇行幸がTVに映っているが当時の昭和天皇は大正天皇と同じくお飾りと命の
危険があったのだ。つまり今の北朝鮮の指導者と同じに軍部掌握に粛清するか言われた
事に同意するかしか無かったのだ。戦前の天皇は国内を出てはいなく唯一留学した英国
位でこうした南方洋や中国大陸を見る様は無かった。いや天皇だけではない。石原莞爾
は日中首脳会談を近衞に提案したが、広田弘毅が同意せず、最後のところで決断できな
かった。この状況を憂慮し 杉山元に意見具申し、「このまま日中戦争に突入すれば、
その結果はあたかもスペイン戦争でのナポレオン同様、底無し沼にはまることになる。
この際、思いきって北支にある日本軍全体を一挙に山海関の満支国境まで引き下げる。
近衛首相が自ら南京に飛び蒋介石と膝詰めで談判する」という提案をした。同席した陸
軍次官・梅津美治郎は、「そうしたいが、近衛首相の自信は確かめてあるのか」と聞き
、杉山も「近衛首相にはその気迫はあるまい」と述べた。実際、風見によれば、近衞は
陸軍が和平で一本化するかどうか自信がなく、せっかくの首脳会談構想を断念したと言
われている。当初、近衞は首脳会談に大変乗り気になり、南京行きを決意して飛行機ま
で手配したが、直前になり心変わりし蒋介石との首脳会談を取り消した。石原は激怒し
「二千年にも及ぶ皇恩を辱うして、この危機に優柔不断では、日本を滅ぼす者は近衛で
ある」と叫んだと言う。だが 近衞 文麿は本来こうした弱い人間ではなかった。近衛内
閣では盧溝橋事件にトラウマン工作を行い、陸軍の参謀本部のトップである参謀次長多
田駿中将以下が終始停戦・交渉・和平を強く主張し、政府と海軍および陸軍省らがそれ
を阻止し和平を打ち切るという、戦後の一般的なイメージ(陸軍悪玉論・海軍善玉論)
とは逆の構造となっている。つまり日中戦争は満州事変での関東軍の暴走と違い、政府
と海軍が後押ししており、こうした海軍の中華領土拡大の先走りが日本を危うくしたの
である。

610: 名無しさんAA:17/10/06 17:49
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 260-----------

石原莞爾は戦略家ではあったが八代六郎と同じく 結構情報が少なかったと言える。八
代は海軍を政府直属としたかった。さらに、陸軍が朝鮮総督の職を独占しようとする活
動に対抗して 台湾総督を海軍将官に歴任させようと画策した。片岡七郎に相談しが「
河童の海軍が陸に上がれば必ずや失敗するだろう」と猛反対され断念にいたっている。
こうした裏に昭和天皇と徳川 義親がいるものと思われる。彼は松平 春嶽の子で春嶽は
、幕末から明治時代初期にかけての大名で、政治家となった第16代越前福井藩主だ。
嘉永6年(1853年)、アメリカのマシュー・ペリー率いる艦隊が来航して通商を求めた
際には、水戸徳川家の徳川斉昭や薩摩藩主の島津斉彬と共に海防強化や攘夷を主張する
が、老中の阿部正弘らと交流して開国派に転じて 世間からは批判された。幕府が朝廷
の勅許なしでアメリカとの日米修好通商条約を調印すると春嶽は徳川斉昭らとともに登
城をして抗議し不時登城の罪を問われて強制的に隠居させられ、謹慎の処罰を受けた。
井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されると幕府の政策方針も転換し、春嶽は文久2年に幕
政への参加を許される。彼はは熊本藩出身の横井小楠を政治顧問に迎え、藩政改革や幕
政改革にあたって彼の意見を重視した。京都では長州藩など尊王攘夷派の勢力が強く、
春嶽や慶喜らの活動は制限された。慶喜が尊王攘夷派と妥協しようとすると春嶽はこれ
に反対して帰国した。その後王政復古の声は高く小松帯刀の説得を受け、この四者で四
侯会議が開かれた。この合議制により、幕府の権威を縮小し、朝廷および雄藩連合によ
る合議をもってこれに代えようと久光は画策していた慶喜に対しギリギリのタイミング
で大政奉還を建白し、春嶽もまたこれに賛同している。その後尊王攘夷が火を噴き紆余
曲折の後江戸城開城となったが王政復古後の薩摩・長州の討幕運動には賛成しなかった
。維新後の新政府では内国事務総督、民部官知事、民部卿、大蔵卿などを歴任したが、
明治3年に政務を退いた。その子徳川 義親 は、尾張徳川家第19代当主として、政治家
になり、植物学者、狩猟家を趣味としていた。戦前の侯爵・貴族院議員で、第25軍軍政
顧問となっていた。戦後は社会党を支援して党顧問となるが、公職追放を受けたのであ
る。平和主義者として日ソ交流協会会長を務めたが、戦前はマレー半島で虎狩りをした
ことから虎狩りの殿様として有名になった。自伝に「最後の殿様」がある。越前松平家
・松平慶永(春嶽)の子に生まれ、1908年に尾張徳川家の養子となり、家督を相続。同
家の東京移転に際し、愛知県下の土地等の財産の処分を指揮し、1931年に財団法人徳川
黎明会を設立して同家伝来の什宝・書籍を同財団付属の徳川美術館・蓬左文庫で保存・
公開し他家の家政整理にも携わり、「投出しの尾張侯」「理財の天才」と称された。

611: 名無しさんAA:17/10/06 18:03
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 261-----------

1930年9月、橋本欣五郎を中心に、中堅将校の秘密結社桜会が結成された。彼はト
ルコ公使館付武官になったが、この時トルコ建立の革命家ムスタファ・ケマル・パシャ
の革命思想に接したことが、その後の遍歴に影響する。そのときから趣味は「革命」と
なった。と言われる。この桜会に板垣征四郎に親しい大川周明などが集まって来た。大
川は大学卒業後、インドの独立運動を支援していた。ラース・ビハーリー・ボースや、
ヘーラムバ・グプタを一時期自宅に匿うなど、インド独立運動に関わり、『印度に於け
る國民的運動の現状及び其の由来』(1916年)を執筆している。既に宮家やこうした外
国人との交流のある者を特高警察はマークしていた。それは日本が日英同盟を重視して
、イギリス側に立つことを批判し、インドの現状を日本人に伝えるべく尽力したからだ
。1918年(大正7年)に南満州鉄道に入社する。これは、初代満鉄総裁の後藤新平
に、植民地インドに関する研究論文が評価されたことで入社となったが此処にも玄洋社
の息が見える。アジア独立の革命支援だ。のち、満鉄東亜経済調査局の編集課長を務め
た。こうしてクーデター未遂事件が次々と起こる。三月事件は清水行之助らと計画とさ
れ清水が主催する右翼団体・大行社が警視庁を襲撃、東京各所で擬砲弾を炸裂させて騒
擾を起こし、社会民衆党の亀井貫一郎、赤松克麿らが大衆を動員して第59回帝国議会に
おける労働法案上提の予定日である 3月20日に開催中の議会へ群衆を押しかけさせ、陸
軍将校が議会を封鎖して議会の保護を理由に浜口内閣(浜口は襲撃事件で重傷を負い、
幣原喜重郎が代理を務めていた)を辞任させ、宇垣一成陸相を首班指名させる計画だっ
た。陸軍省の中でも永田鉄山や岡村寧次らが計画に反対し、2月に予行された大衆動員
の成果が小規模だったことなどから桜会の中でも反対者が出て、宇垣が消極姿勢に転じ
たことから計画は中止となった。結果計画の途中で「変心した」とされた宇垣は、陸軍
内部での信用を失ってしまった。小磯からの依頼で計画の立案者となりながら計画には
反対した永田は、のち計画案が皇道派の手に渡り、事件の首謀者と見なされ斬殺される
結果を産んだ。この三月事件は1931年柳条湖事件を発生させ十月事件を起こした。
柳条湖事件を端緒として満州事変が勃発したが、この当時外務大臣であった幣原喜重郎
の中心とした政府の働きにより、不拡大・局地解決の方針が9月24日の閣議にて決定
されている。しかし、陸軍急進派はこの決定を不服とし、三月事件にも関わった桜会が
中心となり、大川周明・北一輝らの一派と共にこの動きに呼応するクーデターを計画し
たのであった。-------------------------

612: 名無しさんAA:17/10/06 18:08
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 263-----------

十月事件では三月事件と違っていて幹部の計画だという形跡がありありとある。具体的
には桜会の構成員など将校120名、近衛師団の歩兵10個中隊、機関銃1個中隊、第
1師団歩兵第3連隊、海軍爆撃機13機、陸軍偵察機、抜刀隊10名を出動させ、首相
官邸・警視庁・陸軍省・参謀本部を襲撃、若槻禮次郎首相以下閣僚を斬殺および捕縛。
その後閑院宮載仁親王や東郷平八郎・西園寺公望らに急使を派遣し、組閣の大命降下を
上奏させ、荒木貞夫陸軍中将を首相に、さらに大川周明を蔵相に、橋本欣五郎中佐を内
相に、建川美次少将を外相に、北一輝を法相に、長勇少佐を警視総監に、小林省三郎少
将を海相にそれぞれ就任させ、軍事政権を樹立する、という流れが計画の骨子となる。
これらが漏れたのは先の荒木の談話に寄れば 軍部の恫喝として行われたようだ。西田
が東郷へ出馬を促しに行き、その連絡を荒木にしたことから発覚したとされている。大
内力は、この計画ははじめから実行に移す予定はなく、それをネタに政界や陸軍の中央
部を脅迫することで政局の転換を図ることが目的であったと推測しており、事実、荒木
を含めこの計画を知った軍の首脳部は事態の収拾に率先して動き、次第に政権の主導権
を獲得していくこととなった。『橋本大佐の手記』によれば、東郷平八郎 自身もこの
計画を知っており、参内・奏上に同意していた。とあるが、荒木貞夫の談話では東郷は
知らなかったとされ、荒木自身も計画には加わっていなかったと話したことから、計画
に挙がっていた新内閣の構想は単なる目標に過ぎず、その先の日本の政治や経済につい
てどのようにするかについては無計画であった。この後十月事件首謀者に対する責任の
追及は、永田鉄山らによる極刑論も一部にあったものの、同志の助命を橋本に嘆願され
た杉山茂丸が、西園寺公望に口添えを行ったり、橋本の盟友である石原莞爾が陸軍首脳
部に圧力をかけたりすることで、結果的には曖昧なままにされることとなった。橋本は
重謹慎20日、長・田中は同10日といった軽い物で処分の後、地方や満州に転勤とい
うものであった。これは軍部において桜会の勢力が依然強大であったことを示している
。しかし、この事件をきっかけとして桜会は事実上の解体を余儀なくされ、佐官級の動
きも次第に鎮静化へと向かっていった。三月事件でテロ思考を簡単にし十月事件がうや
むやになって文民統制が無くなった事が挙げられる。一つは若槻内閣の倒閣、二つ目に
陸軍内部の勢力の拡大変化、そして三つ目に民間右翼の活動に刺激を与えたことなどの
影響がでている。これは大きな問題だった。軍部の中で民生部門が干され政局が軍指導
に切り替わった瞬間だったのである。-----------------------------------


613: 名無しさんAA:17/10/06 18:28
昭和12年(1937年)に廣田内閣が総辞職した。これにより、次期首相にはかつて
軍縮に成功し、軍部ファシズムの流れに批判的であり、また中国や英米などの外国にも
穏健な姿勢を取る宇垣一成大将が有力視されて、天皇の大命降下される運びとなった。
此処に石原莞爾の馬鹿さがある。彼が軍の為に妨害した宇垣内閣は日本の救世主だった
かも知れないのである。この時海軍に戦争回避の秘策として3度目のユダヤ入植計画が
司令部に上奏されていたのである。この頃恐らく軍閥は5つ以上にあって収拾つかない
状態だった。長州閥とされる陸軍と薩摩閥とされる海軍から 他に宮家を中心とした皇
軍閥と 更に遺族会を中心とした地方閥である。このクーデター未遂や2・26事件に
よって更に海外閥とも言える朝鮮人や中国人の軍閥も出来上がったと言える。というの
も先の「五属共和」の名の元に幾らかの企業群が悪さを始めたからだ。「冀東防共自治
政府(きとうぼうきょうじちせいふ)」は、1935年から1938年まで中国河北省に存在し
た政権とされる。当時の日本側の認識によると、地方自治を求める民衆を背景に殷汝耕
の指導により成立した。とされるが、中国側からは当時から現代に至るまで認めていな
い。「日本側の特務機関の工作活動により設立された傀儡政権である」と主張されてお
り、また日本や米国にも中国側と同様の認識で傀儡政権であったとする研究がある。又
国旗には中華民国が最初に定めた五色旗を使用した。殷汝耕は孫文の頃からの革命志士
であった。彼らが日本留学が長く日本に人脈がある事から、中国革命政府の外交官的立
場の代表だったが、相次ぐ中国の分裂に 日本政府は彼を中心にした自治区を新たに作
り自治政府とした。と言うのが本当であろう。当然此処に、国民党軍との話し合いが行
われたと思われる。認めるか認めないかである。1933年5月31日 直ぐに日本と中国との
間で塘沽協定が締結され、中国側に非武装地帯を設定し、治安は中国側警察が担当する
こととされた。その範囲は 延慶、昌平、高麗、順義、通州、香河、寶牴、林亭鎮、寧
河、蘆台を結んだ線を境界としてその以北、以東と決められた。この地を支配していた
湯玉麟が此処に出席していた。かつては張学良の部下だったが、満州国の建国宣言に署
名し、熱河省長に就任していた人物だ。湯は正規・不正規軍の両方を併せて2万を越え
る軍を率いていたが、南と西からは張学良の軍事力、北と東からは日本軍の軍事力と言
うの脅威の狭間にあった。蒋介石は 湯玉麟の関心は地盤としての熱河省 とアヘンの
販路としての東北地域の確保と見ていた。張学良はこの地から産出され、天津と北京に
流れるアヘンをさばくためにアヘン販売局を設けて莫大な利益を上げ、自身の満州国に
おける工作活動資金としていた。この地を支配していた湯玉麟は張学良の金庫番だった
。万里の長城に迫りつつあった日本と中国の間を渡り歩いて資金を得ていた。


614: 名無しさんAA:17/10/06 18:28
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 265-----------

湯は正規・不正規軍の両方を併せて2万を越える軍を率いていたが、南と西からの張学
良の軍事力と衝突する。蒋介石は湯玉麟の関心は地盤としての熱河省とアヘンの販路と
しての東北地域の確保と見抜いていたからだ。張学良はこの地から産出され、天津と北
京に流れるアヘンをさばくためにアヘン販売局を設けての莫大な利益を上げて、自身の
満州国における工作活動資金としていた事が許せなかった。満洲国は建国にあたって自
らを満洲民族と漢民族、蒙古民族からなる「満洲人、満人」による民族自決の原則に基
づく国民国家であるとし、日本は建国理念として日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古
人による五族協和と王道楽土を掲げた。満洲国は建国以降日本の、特に関東軍の強い影
響下にあり、「大日本帝国と不可分的関係を有する独立国家」と位置付けられていた。
当時の国際連盟加盟国の多くは満洲地域は法的には中華民国の主権下にあるべきとした
が、このことが1933年(昭和8年)に日本が国際連盟から脱退する主要な原因となると
は思いもしなかった。防共の砦を作って称賛されるはずだった。その後、ドイツやイタ
リア、タイ王国など多くの日本の同盟国や友好国、そしてスペインなどの枢軸寄りの、
中立国も満洲国を承認し、国境紛争を引き起こしていたソビエト連邦をも領土不可侵を
約束して公館を設置するに至っている。当時の独立国の3分の1以上と国交を結んで独
立国として安定した状態に置かれた。アメリカ合衆国やイギリス、フランスなど国交を
結んでいなかった国も国営企業や大企業の支店を構えるなど、人的交流や交易を行い、
そこはプロパガンダ作戦の無さであった。我々が間違えやすいのは 満州国が傀儡政権
と言われ かつて昔は無かった国が出来た様に誤解する事だ。少数の原住民が暮らし 
それを取り入れて円満な社会の上に満州国を宣言しただけだったのだ。このことについ
て昔からの女真族の鳴霞さんの満州国の概要を此処に記述したい。{今、支那の東北省
となっているところは、かつての満州帝国でした。その満州のご出身の方に、鳴霞(め
いか)さんとおっしゃる方がいます。「月刊中国」の日本語版の主編をしておいでの方
です。彼女は、女真族の出身です。つまり、生粋の満州人です。そして彼女の親は彼女
に「ここが満州国だった時代、家に鍵なんてかけたことなんてなかったんだよ」と何度
も話してくれたそうです。満州国は、日本と同じだったのです。犯罪がない。もう少し
詳しく言うと、支那の清王朝時代、清國は満州を「聖地」として、漢民族の立ち入りを
禁じていました。そこは決して豊かな土地ではなく、人々は決して豊かとはいえなかっ
たけれど、泥棒も強盗もいない安全で安心な暮らしができた土地でした。}と。


615: 名無しさんAA:17/10/06 18:32
ところがそこが安全であることから、清朝末期、清國の統制力が弱まると、満州に漢人
たちが次々と入植を始めました。漢族の土地は、強盗団が跋扈して、安心して暮らせな
かったのです。おかげで満州の治安も酷い状態になりました。そして日本がバックアッ
プして満州国が出来上がりました。その満州国は、五族の暮らす土地でしたけれど、満
州が満州国であった時代は、そこは鳴霞さんがおっしゃるとおり、日本と同じく、家に
鍵をかける必要もないほど、安全で安心に暮らせる国に戻ったのです。だから街が発展
しました。満州国は、日本陸軍の傀儡政権であったという人がいます。成程 東京裁判
では、そのように定義づけられています。けれど、満州国の皇帝は、もともと清國の皇
帝であった人です。もともと女真族が支那大陸に攻め込み、北京に清王朝を開いたのは
、度重なる漢族による満州の地への進出が、彼らにとって大迷惑だったことによります
。そのため満州にいた女真族は団結し、漢族の住むエリアに攻め込み、その地を統治す
るために北京に紫禁城を築いています。そして清王朝時代を通じて、紫禁城内は漢族の
立ち入りは禁止でした。中に入ることが許されたのは、科挙の試験に合格したなど、き
わめて特殊なケースに限られました。そして漢族が、何かの事情で紫禁城内に侵入すれ
ば、理由の如何を問わず、逮捕され、城外で漢族たちが居並ぶ町中において刑が執行さ
れました。そのときに行われた刑が「凌遅刑」です。人間を裸にして柱にくくりつけ、
両方の乳房、二の腕の肉、腿の肉などを順番に削いでいく。そして三日三晩かけて苦し
ませながら殺害するというきわめて残酷な刑です。さらに紫禁城内で話されてた言語は
、漢族の話す支那語(北京語)ではありません。城内での会話も、筆記も、すべて女真
語(満州語)が用いられました。ですから、ものすごく簡単に要約すると、清王朝時代
というのは、漢族の土地や人民が、女真族によって植民地にされた時代、ということが
できます。外来王朝なのです。その清王朝の末期、明治44(1911)年に辛亥革命が起
こりました。教科書によっては、これによって清王朝が滅んで中華民国が成立したと誤
認するようなことを書いているものがありますが、全然違います。なるほど中華民国史
からみれば、大正元(1919)年、清國宣統帝は退位し、袁世凱が組織する共和政府に権
限移譲が行われています。つまり、支那を代表する政権としては、清王朝から中華民国
に、政権は交替したわけです。交替はしましたが、だからといって清王朝がこの時点で
消滅したわけではなく、この年以降も、毎年の恒例行事となっているチベット族や、モ
ンゴル族、あるいはウイグル族など周辺国による朝貢は、毎年継続しています。つまり
、清王朝は、そのまま存続していたわけです。単に、政権が変わっただけであったわけ
です。

616: 名無しさんAA:17/10/06 18:40
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 267-----------

ところが中華民国政権は、その後、支那共産党と二つに分裂し、互いに軍事力を駆使し
て、支那全土で凄惨な殺し合いをするようになってしまいました。そこで、内乱で危険
の多い北京から、本来の清王朝の故郷である満州を切り離し、そこに清國皇帝を招いて
満州帝国を日本が援助することで建国したわけです。新たに建国された満州国における
皇帝と、清王朝(大清帝国)では、名称は同じ「皇帝」でも、皇帝の位置づけは全く異
なるものでした。清王朝(大清帝国)の皇帝は、政治の三権(行政権、司法権、立法権
、国家緊急権(軍事権))のすべての権限を保持していました。けれど、満州国皇帝は
、人物は同じ愛新覚羅溥儀ですけれど、日本の天皇と同じく、政治の大権は保持しませ
ん。国家の最高権威として存在し、政治権力は内閣に委ねるという形がとられました。
そして満州国の住民は、満州国皇帝によって「おおみたから」とされました。つまり、
満州国は、日本と同じ統治の方法を取り入れたのです。これによって満州に住む全ての
民衆は、政治権力者と人として対等な存在となりました。つまり、人間としての尊厳を
誰もが認められるという体制になったのです。そして高いレベルの教育、高度に成長し
た経済によって、人々は、家に鍵などかけなくても、誰も泥棒になんて入らない、日本
と同じように安心し、安全に暮らせる国家を築いたのです。ところがこれを妬んだのが
支那やロシアの共産主義者たちでした。彼らの思考では、共産主義革命によってのみ、
人類の至高の幸福と安全で安心な生活が短期間に築かれるはずでした。けれど、共産主
義者たちが百年経っても築けず、混乱と人殺しが相次ぐ殺戮が繰り返されるばかりの共
産主義圏に対し、満州は、またたくまに都市インフラが整い、人々が安心して安全に暮
らせる社会を築いてしまったのです。つまり、共産主義者たちにとっては、満州国の平
和と安定は、すなわち共産主義の誤りを見事に証明するものとなってしまったのです。

617: 名無しさんAA:17/10/06 18:40
ですから共産主義者たちは、満州にスパイを送り込み、内部統治の撹乱工作を始めまし
た。満州国内をアメーバのように走る満州鉄道は、こうした共産主義者達による線路妨
害工作が、年間30万件です。そして尼港事件が起こりました。およそ人類社会におい
て、人類が希求し続けていることは、平和であり安全に安心して暮らせる社会です。け
れど、そういう社会であればあるほど、それを壊し、奪い、意図して混乱を誘う連中が
いるのです。それが共産主義者です。そしていま、その共産主義国である中共が、軍事
力を拡張させ、露骨に近隣諸国の領土や領海を奪いに来ているわけです。南シナ海、尖
閣諸島、小笠原諸島の珊瑚、あるいは日本国内における用地の買収など、彼らの工作は
、ひたすら近隣諸国の平和と安定を脅かすものです。



(ねずさんの ひとりごと より転載)


618: 名無しさんAA:17/10/06 22:25
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 268-----------

 つまり冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)」は女真族の為に作られた
満州と中国の言わば中立地帯で 国際連合からも認められた国だったのだ。特に秦皇島
界隈は古くからのアヘンの昔からの密輸入港で勝手な自治政府があった。1933年の
日本と中国との間での塘沽協定が締結で、中国側に非武装地帯を設定し、治安は中国側
警察が担当することとされれ、その範囲は延慶、昌平、高麗、順義、通州、香河、寶牴
、林亭鎮、寧河、蘆台を結んだ線を境界としてその以北、以東と決められていた。こう
した陸軍の弱気が又も波乱の元になった。中国ロシア境界は常に動乱の地だったのだ。
何故なら 本来この地は空白地であり更に権力の中枢部であったからだ。現実的に今の
中国であれば華南の中央広州市が中心でありアヘン戦争の以前も従来の広東(広州)に
加え厦門、福州、寧波、上海の計5港を開港させ、それぞれに領事を置き、香港の割譲
で決着している。この地を支配していた湯玉麟は、かつては張学良の部下で、奉天軍と
しても実力者である。満州国の建国宣言にも署名し、熱河省長に就任していた。又その
為張学良の資金源がこの地からのものが殆どだった事から、多くは湯玉麟が金庫番をし
ていたものと思われる。ところが中国と言う国はそもそもの国の観念が日本の様な建国
主義「国を建てる」と意識はない。あくまで自分の居所としての場所であり他人に対し
て威嚇する道具。としての意識しかない。つまりその場所や人民などは眼中にはないの
だ。あくまで兵力であり財の貢民の意識しか無かった。そこに自治運動が河北の民衆運
動として発生した。最初の運動は香河県の有力者・武宜亭を指導者とし、減税と自治を
要求し、ライフルとショットガンで武装しており、この事件は中国側で香河事件と呼ば
れた。日本人の「浪人」が参加していたため、日本の憲兵隊がその中の6人を逮捕して
取調べを行い、監視の下、天津に移送した。ところがそもそもがこの国が中国の一部で
あり、この湯玉麟なり張学良への税の支払いがあれば、その後の輸入税は支払わないで
も良い仕組みだった為 国民党政府蒋介石将軍との軋轢又は誤解があったと言える。日
本軍は不拡大政策であった為軍は縮小していた。元々中華と言うのは平原の祖としての
西安が首都としてあるべきものだった。ところが 余りにも戦乱が多くまたこの戦乱で
の醜さ故に人々は戻らなかったのだ。その後復興を遂げると長安と名前まで変えたのだ
が、この理由は支配者の意識に人民があるかないかである。日本の一所懸命の言葉の、
「ー所」は所帯を構えるとか所得とか集団と場所を指す。更に懸命とは懸賞とか懸案と
いう賭けた行為を指す。つまり命を懸けて一つ所を守る事を意味する。だがこの言葉が
中国にはない。生活と言うより自分自身の保身や、自分の命の方が大事なのだ。

619: 名無しさんAA:17/10/06 22:27
 こうした戦乱に明け暮れて 中華政府は全くインフラ整備の視点は無かった。次々と
減っていく税収と 国民の買うものが海外製品となって行った。隣の満州では生産拡大
が続いていた。こうして産物もとれない 生産向上の努力もない愚民のままに通貨政策
は破綻の様相を示した。此処にきて中華民国では継続していた輸入超過のため対外決済
としての アメリカの銀買入政策に起因する銀の海外流出の為に政府系銀行の準備銀が
急激に減少した。つまり銀の在庫が無くなったのだ。金融破綻を恐れた国民政府はすぐ
さま1935年11月4日突如として以下のような銀国有化と紙幣の強制運用の布告を
出した。
 1.1935年11月4日より、中央、中国、交通三銀行発行の銀行券は完全なる法定通貨
  たるべく、租税の徴収、公私債務の支払いは一切法定通貨を以って決済せらるる
  ものとす。
 2.銀弗、銀塊を通貨の目的に使用することは一切之を禁止す。本条項に違反する場合
  は当該通貨全部を差押え没収するものとす。
 3.何人たるを問わず故意に銀弗、銀塊を隠匿又は不法に所有流通するものあるときは
  、緊急治罪法を以って処断す
 4.三銀行以外の発行銀行券にして、すべて財政部の承認を経たるものはそのまま流通
  せしむ。但し各銀行の発券額は十月三日現在を超ゆることを得ず。
つまり今まで使われた銀貨の使用はやめよ 銀行券のお札で行えというものだった。こ
れは国内流通には問題無かったが 外国から 資材は何ら買えないかお札のレートでの
購入しか出来ない事を意味していた。だが相次ぐ戦乱と辛亥革命以来の軍閥諸勢力興亡
の度に地方政権により発行された紙幣は、あるものは暴落し、あるものは廃棄されたと
いう歴史を持ち、中国民衆にとって紙幣の信用は低く、また特に金融知識に疎い農民層
における売買取引は従来殆どが現銀交易のみであった。国民政府の銀国有と紙幣の強制
運用の実施は中国北部農民に極度の不安と恐慌をもたらした。一方、中央銀行を除き、
全ての銀行も反対した。その理由は単純にこの政策で直ちに所有する銀が没収され、兌
換不能による紙幣価値の下落と通貨不安による物価高騰、中国北部における経済停滞か
であった。農民と都市の経済関係の断絶を考慮すれば経済恐慌不可避との判断もあった
。この銀国有化の政策は中国北部の自治要求運動に新たな論拠を与え、運動の再活性化
と進展を促すことになる。翌12月には、この政策に関する銀引渡しに外人銀行団が反対
し、広東が銀国有制度から離脱する事態となり、翌年5月には新通貨政策として新銀貨
発行が決められた。

620: 名無しさんAA:17/10/06 22:30
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 270-----------

通州事件は こうした時起こった。冀東保安隊は、国民革命軍第二十九軍首脳部によっ
て買収され、あるいは使嗾され、またあるいはその宣伝に判断を誤り、通州の日本部隊
が僅かであることに乗じて、1937年7月29日未明を期して冀東保安第一総隊(2,000名)、
第二総隊(2,000名)、教導総隊(1,300名)及び警衛大隊(500名)からなる5,800名による反
乱を起こした。警衛大隊の隊長は反乱に反対したため、第一総隊隊長張慶余に銃撃され
たが、一命をとりとめた。反乱した保安隊は先ず冀東防共自治政府を襲撃して日本人顧
問を殺害、殷汝耕長官を拉致し、他の一隊は通州城内の日本守備隊、特務機関、領事館
、警察署を襲撃し、特務機関は細木機関長以下殆ど殉職、領警署員全滅、城内の日本人
居留民は守備隊に避難収容された135名以外の250名余りの老若男女が残虐に殺害された
。暴徒は日本関連施設のみならず冀東政府、冀東銀行などから掠奪を行った。殷汝耕は
冀東保安隊に拘束され、宋哲元に引き渡されるために北平へと護送されたが、宋はすで
に北平を離れており、殷の護送部隊は日本軍により粉砕されたが、殷は逃亡し、北平城
内に潜伏した。他の冀東防共自治政府の官吏も、反乱の勃発と同時に潜伏するか逃亡し
た。日本軍が29日夕方に反乱を掃蕩するまで政府は反乱保安隊によって占拠され、従来
の組織による政府は消滅した[47]。日本軍支那駐屯軍司令官香月清司中将は、治安体制
の欠如した状態を憂慮し、翌30日要務連絡のため天津に来ていた池宗墨秘書長に政務長
官の任を求めた。この通州事件による日本官民の被害に関しては、冀東防共自治政府が
損害賠償をすることになり、同年12月24日池宗墨長官自ら北京日本大使館に森島参事官
を訪問の上、賠償金120万円を手交し、事件の解決とした。また事件後には、政府所
在地も通県(通州)から唐山へと遷されている。元々この地での貿易は「冀東特殊貿易
」と言われていた神聖な地だった。冀東防共自治政府は正規の関税の四分の一程度の査
験料を徴収することで、海面からの物資の輸入を認める措置を実施した。これは塘沽協
定以来増加していた密輸の公認であり、日本軍の山海関特務機関の指示によるものであ
った。すでに関東軍は戦区海面への中国税関の武装監視船の配置を停戦協定違反として
排除しており、中国側はこの密輸を阻止する手段を持たなかった。この政策は傀儡政府
の経費を確保することを直接の目的としており、しかも低額査験料は、日本商品だけに
適用され、日本商品に不当の利益をもたらすという二重の経済侵略の性格をもつもので
あった。日本の商品は大連に陸上げされると、鉄道で満州を通って冀東政権の「領土」
にはいる。その時、その商品はごく安い税がかけられるが 冀東政権は中国のなかにあ
る地方政権ということになっているから後は税がかけられることは無かった。

621: 名無しさんAA:17/10/06 22:50
通州事件は 極めて残忍な暴徒の事件とされる。勢い勝手に襲われた日本人達は、暴漢
に襲われ男は張り付けの上手足をもぎ取りながら殺され 女は犯されながらころされた
妊婦は腹を出されて 幾日間も晒しものにした。今でも中国に官製デモがあるが この
仕組みは極めて単純で僅かな金を払って好き放題させると言う物だった。中国人には国
と言う物の認識がないから、何処の土地でも何処の民でも破壊し盗み殺す事が出来る民
族で感化されれば我が親さえ食べる残忍さをもつ民族である。それ故に諜落作戦は多く
中国国民党軍のこうした夜盗ぶりは、この事件だけでは無かった。アムール川の河口に
あるニコラエフスク(尼港、現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)で発生した、俗に
言われる尼港事件は全く意味の無い事件でもあったろう。このニコラエフスクは樺太の
横にあるかなりの緯度の高い所の港だが 日本地図を描いた伊能忠敬や民俗研究者にも
知れ渡った存在だから異民族の物々交換拠点としてはかなり古い場所であったと言える
。ところがロシアが日露戦争で敗けた頃か此処の開発が始まった。ロマノフ王朝は帝政
の基盤固めと西洋化を図り専制君主として君臨したピョートル大帝の時代にロシアの西
洋化・近代化を真似て大航海に出た。急速に押し進めヨーロッパの列強に加わり、その
後勢力を拡大しヨーロッパから沿海州までを支配し帝政の基礎はこの時代に安定した。
この時の戦いがバルト海を中心にした大北方戦争であったが 此処で艦隊を増強しカム
チャッカ制圧に挑んでいた。東ローマ帝国は自らを単に「ローマ帝国」と称していた。
そして、「ローマ帝国」は「文明世界全てを支配する帝国」であり「キリストによる最
後の審判まで続く、地上最後の帝国」だと考えられ自らを、キリスト教的 意味での「
世界史的に位置づける強い意識」は、世界創造や紀元の使用にも現れる程だ。このイデ
オロギーは一千年にわたって貫かれる一方で、政治体制は周囲や国内の状況に合わせて
柔軟に変えられていた。強固なイデオロギーと、変化に対応する柔軟性を併せ持ってい
た。東ローマ帝国の住民の中心はギリシア人であり、7世紀以降はギリシア語が公用語
であったが、12世紀まではセルビア人・ブルガリア人といったスラヴ諸民族やアルメ
ニア人などを内包する多民族国家であった。この人達を内包したままオスマン帝国が勢
力下に起きそれに対抗する様にロシア帝国があった。アレクサンドル2世の時代に露土
戦争でオスマン帝国に勝利して西アジアに勢力を拡大した。だが、クリミア戦争敗北後
のロシアは東アジアへの勢力拡張に積極的になり、アロー戦争では英仏に味方して清と
アイグン条約を締結してアムール川一帯など大規模な領土を獲得した。日本とも江戸幕
府と日露和親条約を締結して国交を結んだ。

622: 名無しさんAA:17/10/06 22:50
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 272-----------

ロシア皇帝は2月革命によって退位が迫られた。この時ニコライ2世は、帝位継承法(
英語版、ロシア語版)の規定で本来ならば後継者として予定されていた皇太子アレクセ
イであったが幼かったので、弟のミハイル・アレクサンドロヴィチ大公に皇位を譲った
。ところが、ミハイル大公は即位を拒否したため、ここに 300年続いたロマノフ朝は幕
を閉じ、ロマノフ家の人々は一市民になって臨時政府が立てられ多くの財宝などが政府
に移った。こうして武力によってユリウス暦3月7日には臨時政府によって自由を剥奪
され、ツァールスコエ・セローに監禁された。英国君主とも血縁関係が強い元ロシア皇
帝一家を同盟国でもあるイギリスに亡命させる計画もあったが、ペトログラードのソヴ
ィエトを中心として反対論があり、同年8月、妻や5人の子供とともにシベリア西部の
トボリスクに流された。その後もロシアの政情は悪く治安も経済も復活しなかった。そ
の為各国に不満者をめをそらす必要と粛清の必要に追われた。ボリシェヴィキによる十
月革命がおこってケレンスキー政権が倒されると、一家はウラル地方のエカテリンブル
クへ移され、イパチェフ館に監禁(資産家イパチェフの家を接収して使用)された。イ
パチェフ館は高い塀と鉄柵で覆われ、全ての窓がペンキで白塗りされ、一家は外部との
接触を禁じられて厳しく監視されていたが、互いに協力しあって生活を送った。ニコラ
イ2世は死の4日前まで日記を書き続けた。イパチェフ館の警備兵を務めたアナトーリ
・ヤキモフは当時のニコライ2世の様子について後年に「私は彼が親切で、単純素直で
、気の置けない人柄だと思った。私に話しかけようとしているように思える時もあった
。本当に、私達に話しかけたがっているようだった。」と書き記している。しかし、チ
ェコ軍団の決起によって白軍がエカテリンブルクに近づくと、ソヴィエト権力は元皇帝
が白軍により奪回されることを恐れ、1918年7月17日午前2時33分、ウラジーミル・レー
ニンよりロマノフ一族全員の殺害命令を受けた、元軍医でチェーカー次席のユダヤ人の
ヤコフ・ユロフスキー率いる、ロシア帝政下で抑圧され続けた少数民族のユダヤ人・ハ
ンガリー人・ラトビア人で構成された処刑隊が元皇帝一家7人(ニコライ、アレクサン
ドラ、オリガ、タチアナ、マリア、アナスタシア、アレクセイ)、ニコライ2世の専属
医(エフゲニー・ボトキン)、アレクサンドラの女中(アンナ・デミドヴァ)、一家の
料理人(イヴァン・ハリトーノフ)、従僕(アレクセイ・トルップ)の合わせて11人
をイパチェフ館の地下で銃殺した。

623: 名無しさんAA:17/10/06 22:51
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 273-----------

ノーベルと言えばノーベル賞なのだろうがノーベル賞は、ダイナマイトの発明者として
知られたアルフレッド・ノーベルの遺言に従って1901年から始まった世界的な賞で
ある。物理学、化学、生理学・医学、文学、平和および経済学のでの顕著な功績を残し
た人物に贈られるのだが。経済学賞だけはノーベルの遺言にはなく、スウェーデン国立
銀行の設立300周年祝賀の一環としてノーベルの死後70年後にあたる1968年 に設立さ
れた。従ってノーベル財団は「ノーベル賞ではない」としているが、一般にはノーベル
賞の一部門として扱われることが多い。では 何故 わざわざ 経済学賞をノーベル賞
ではないと言いだしたのか。スウェーデンの発明家・企業家であり、ダイナマイトをは
じめとする様々な爆薬の開発・生産によって巨万の富を築いた。しかし爆薬や兵器をも
とに富を築いたノーベルには一部から批判の声が上がっていた。1888年、兄のリュドビ
ックがカンヌにて死去するが、この時フランスのある新聞がアルフレッドが死去したと
取り違え、「死の商人、死す」との見出しとともに報道。自分の死亡記事を読む羽目に
なったノーベルは困惑し、死後自分がどのように記憶されるかを考えるようになった。
こうして1896年12月10日に63歳でノーベルは死去するが、遺言は死の1年以上前の1895
年11月27日にパリのスウェーデン人・ノルウェー人クラブにおいて署名されていた。こ
の遺言においてノーベルは、「私のすべての換金可能な財は、次の方法で処理されなく
てはならない。私の遺言執行者が安全な有価証券に投資し継続される基金を設立し、そ
の毎年の利子について、前年に人類のために最大たる貢献をした人々に分配されるもの
とする」と残している。実はこの物語の中心はこの彼の兄はロバート・ノーベル、であ
る。現在、一般的な油井掘削に使われているロータリー式掘削法は当初、水井戸掘りと
して1841年(または1845年)にフランス人のフォーベルによって発明され、フランス人
の土木技師レショットが実用化した。こうして19世紀から20世紀にかけてそれまで
の衝撃式掘削方式がロータリー式に取って代わられた。1901年にアメリカ人キャプ
テン・ルーカスがテキサスのスピンドルトップで初めて油田の掘削に使用し、大量の原
油を得た後にアメリカを始め世界各国で使用されるようになった。


624: 名無しさんAA:17/10/06 23:00
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実)274 -----------

 元々 ロシア帝国南部カスピ海沿岸の小さな町バクーは古くから知られた産油地帯で
知られていた。はるか紀元前600年の前から“永劫の火の柱“の奇跡として拝火教の
発祥の地とされた聖地であった。既に住み着いた住民は9世紀以来は、手掘りで採油し
て商売しており使用されており、16世紀から商売が始まっていて、19世紀初期まで
は小規模ながら石油産業が育っていました。現在につながる石油の歴史は、ペンシルベ
ニア州北部のタイタスビルで最初の石油鉱床を発見したエドウィン・ローテレンティン
・ドレーク通称・ドレーク大佐に始まると言われる。ニューヨークの弁護士ビセルが事
業を企画し、ニューヘブン銀行の頭取だったタウンゼント等がパートナーとなってこの
プロジェクトは立ち上げられ、ドレーク大佐はそのプロジェクトマネジャーとして登用
されたのでした。現地入りしてから約2年間、具体的な成果は現れませんでした。それ
まで必要な資金を捻出してきたタウンゼントが事業の撤退を決めようとしていた185
9年8月27日、ついにドレークは石油鉱床にたどり着いたのでした。日本は今だ幕末
であり1858年に日米修好通商条約が結ばれて外国人が横浜に住み着いた頃なのだ。
このドレークの成功の影響を受け、1870年年代初め、ロシア政府はこの地域の個人
の競争企業を認めました。そして、1973年までに小規模な製油所が続々誕生します
。後にノーベル賞を作ることになるアルフレッド・ノーベルの父で発明家のイマヌエル
・ノーベルは爆薬製造の軍事工場を作るため、スウェーデンからロシアに移住します。
アルフレッドは兄2人、弟1人の4人兄弟でしたが、弟はここで工場爆発で死んでしま
ったのだ。父は失敗しますが、次男ルドヴィッヒはこの軍事工場を跡継ぎたてなおしま
す。アルフレッドは化学と経営の才能があり、ニトログリセリン爆薬からダイナマイト
を発明し、世界的な企業を築きます。1973年長男ロバート・ノーベルがバクーにや
ってきて、たちまち石油熱に取り付かれ、小さい製油所を買いました。化学者の血を引
く彼らは原油から不純物を取り除く方法を発明して純度の高い石油を売り出した。こう
して他社からも引き合いが出来て原油を買い取り拡大し、コーカサス地方で最も利益の
上げる企業になっていった。会社はロシアの灯油の半分を生産することになり、アメリ
カの灯油すなわちスタンダードオイルの灯油をロシアの市場から完全に追い出すことに
なりました。19世紀の終わり、フランスのロスチャイルド家がロシアの油田を買い、
バクーから黒海の港町バツームまでの鉄道建設に投資します。ロスチャイルド家は戦争
にも、政府にも、企業にも資金を出す世界で最も有名なユダヤ人でした。


625: 名無しさんAA:17/10/06 23:02
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 275-----------

 ノーベルが来る前では カスピ海西岸に突き出たアフヘシェロン半島には太古の時代
から屋根の四隅で燃え盛る炎の拝火教(ゾロアステー教)の寺院が多くありました。最も
名高いものはバクー近郊スーランヌイにあるアテクガ寺院です。信者にとっては、何故
そこで、永遠の炎がもえてるのか謎でした。その秘密は竹で作られた筒により地下から
屋根まで石油ガスが導かれていたのです。この寺院は625年に破壊されてしましすが
、その後修復され、現在でもゾロスター教の聖火としてトーチの先端でえんえんと燃え
続けています。宗教に"火"ガ取り入れられた事と、その地域に石油が豊富に存在すると
いうことは、密接な関係があるのでしょう。カスピ海沿岸は、ほとんどどこでも石油が
滲み出ていました。原油による沼地のようなものが多数あるようでした。原油はカスピ
海に流れ出て悪臭が立ち込めていて住める土地ではなかったそうです。が今やカスピ海
一帯は石油資源の宝庫として、沿岸の5ケ国が領海占有権、海底占有権の解釈で争って
います。そのどちらで占有権を決定するかにより石油の取り分が大きく違う。ニューヨ
ークの同時多発テロに端を発したアフガン戦争もカスピ海の石油ガス輸送のパイプライ
ンをアフガニスタンからバキスタンに敷設しようとする アメリカ石油資本というより
ブッシュ大統領の関わる石油利権に繋がる複雑な相関関係が見え隠れしているのです。



626: 名無しさんAA:17/10/06 23:03

こうしてバクーにアメリカ ・ペンシルバニアのドレーク油田に続いて本格的な石油産
業が誕生しました。19世紀のバクー油田はカスピ海の沿岸に石油掘削ヤグラが乱立し
て沿岸都市バクーとなっていました。こうして更にカスピ海には原油が流れ込み悪臭ガ
スが立ち込め環境は悪くなっていったといいます。小規模鉱区が多く、約415の手掘
り油井があったといわれています。1873年に最初の油井が噴出しました。石油によ
って都市は近代化していきました。石油に夢をみて人びとが群がり街になっていった。
1873年ノーベル3兄弟のスエーデンの発明家イマヌエル・ノーベルの息子ロバート
・ノーベルがバクーを訪れた時はこんなバクーの初期だった。イマヌエルには3人の息
子がいました。長男のロバートは次男のルドブィッヒの仕事を手伝っていました。次男
は父の仕事を受け継ぎ軍事産業を営んでいました。その関係で ライフルの銃床となる
木材や艤装品の買い付けにバクーを訪れた。そのころ、バクーは既に規模は小さいもの
の石油産業が芽ばえていて、街は栄えて派生した商売流通も中心になっていた。彼は、
たちまち石油の虜になった。懐には、弟から預かった木材買い付けの資金があります。
その資金を流用し1875年にバラハニーに利権を取得小さな製油所を手に入れた。そ
の後、次弟からの資金援助もありバクーでも強力な精製業者となりました。次弟のルド
ブィッヒは、アメリカでの石油産業の急成長を知り、自ら石油産業に乗り出します。発
明家という素養を備えており連続蒸留装置の技術改良など、たちまち製油所を効率的に
改造しました。掘削業者、包装業者、輸送業者を傘下にいれ一大石油産業を確立します



627: 名無しさんAA:17/10/06 23:03
 さらに、油井と製油所との間にパイプラインを敷設しました。『ロベルト・ノーベル
製油所』を設立し国際石油会社としての地位を築きます。長男ロバートは、弟ルドブィ
ッヒが自分の領分を犯したことに反発スェーデンに帰ってしまいます。しかし、187
9年に『ノーベル兄弟石油生産会社』を設立しました。ノーベル一家はこの頃乗り出し
てきたロスチャイルド家と競争することになります。ロバートが弟に出資させて、バク
ーに定住したとあります。しかし、ノーベル基金の設立者が末弟のアルフレッドであり
資金調達の役目がアルフレッドであるのが定説です。このアルフレッドがダイナマイト
の発明者1867年であるとしている。産業発展の為には、安全な爆薬が必要であると
いうことで研究を重ねました。その爆薬とは、ニトログリセリンで、僅かなショックで
爆発するこの液体を安全なものにしたいとの研究でした。その結果、1866年に安全
に取り扱えるダイナマイトを発明しました。彼のダイナマイト発明の目的は、鉄道のト
ンネルを掘る平和産業に貢献することでした。この石油産業に於いては、当時輸送手段
としては木製の樽を使用し、カスピ海を600マイル北上していました。そこから小船
に積み替えてボルカ川を遡り運んでいました。破損、漏洩等効率が悪く悩みの種でした
。石油をバラで運搬する船の船倉にタンクを作り石油を入れる船もありました。しかし
、今で云うタンカーではあるものの"油と水"の関係から船の安定が悪くこれもバクー産
の石油のヨーロッパ諸国への販売拡大を妨げる要因となっていました。持ち前の技術革
新のルドブィッヒは、水と油の密度差による不安定要因をクリアした スェーデンで特
別製のタンカーを作らせ1878年にカスピ海に就航さすことに成功しました。ゾロス
ター号です。ほどなく、カスピ海からボルカ河、バルト海をタンカー船隊が航行しまし
た。こうしてノーベル三兄弟の果たした貢献は大きな利益を産んだ。バクーの石油産業
はロバートが先鞭をつけ、次男が製油所の技術革新により近代化そして末弟がダイナマ
イト発明による特許料により莫大な資金の蓄積により、石油産業への資金提供という図
式で登りつきノーベル賞を作っている。ロスチャイルド家はカスピ海・黒海石油会社を
設立し、アドリア海沿岸の自分の製油所に石油を送り込みます。これにより、ノーベル
兄弟とロスチャイルドのロシアの石油がヨーロッパ市場に流れ、スタンダード・オイル
のシェアは78%から71%に下がりました。1888年ノーベル石油の総指揮官のル
ドヴィッヒ・ノーベルが57歳で急死しました。ヨーロッパの新聞がノーベル兄弟を混
同して、ダイナマイトキング、死の商人の死去と報道しました。生きているアルフレッ
ドは自分に対する「人を殺し、傷つける新方法を編み出し、莫大な財産を築いた」とい
う記事に考え込み、遺書を書き換える決心をします。こうして財産で、ノーベル賞を設
立し、人類に尽くした功績を讃える自分の名前を永久に残そうと考えたのでした。

628: 名無しさんAA:17/10/06 23:06
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 278-----------

このノーベル家、ロスチャイルド家は育て上げたロシアの石油産業からの追放運動こそ
共産主義革命運動の骨格でもあった。此処にサミュエル商会も加わってしまったのだ。
イギリスに、下層階級の上くらいに属する生活をしていた、ユダヤ人の一家があった。
この一家は、東ヨーロッパのポグロム(ユダヤ人迫害)を逃れて移住してきた。両親は
、車に雑貨品を積んで売って歩く、引き売りの街頭商人として暮しを立てていた。子供
が11人おり、その10番目の息子は、大変頭がよく活力に満ちあふれていた。しかし
、学校では成績が非常に悪く、どの学校に行っても、悪い点ばかりとっていた。といっ
て、彼は頭が悪いというわけではなく、学校の授業にうまく合わなかったからであった
。この息子が高校を卒業したとき、父親は彼に、極東へ行く船の三等船室の片道切符を
一枚、お祝いとして贈った。そのとき父親は、息子に2つの条件をつけた。1つは、金
曜日のサバス(安息日)が始まる前に、必ず母親に手紙を書くことだった。というのは
、母親を安心させるためである。2つ目は、父親自身、年をとってきたし、また10人
の兄弟姉妹がいるのだから、一家のビジネスに役立つことを、旅行中に考えてほしいと
いうことだったと言う。こうしてこの息子は、1871年、18歳でロンドンからひと
り船に乗り、インド、シャム、シンガポールを通って、極東に向かった。彼は途中、ど
こにも降りず、船の終点である横浜まで、まっすぐやってきた。彼は、懐(ふところ)
に入れた5ポンド以外には、何も持っていなかった。5ポンドといえば、およそ今日の
5万円かそこらのカネである。日本には、もちろん知人もいないし、住む家もなかった
。また、この時代には、日本にいる外国人といっても、おそらく横浜、東京あたりでも
数百人にすぎなかった時代だ。彼は湘南の海岸に行き、つぶれそうな無人小屋にもぐり
込んで、初めの数日を過ごした。そこで彼が不思議に思ったのは、毎日、日本の漁師達
がやってきて、波打ち際で砂を掘っている姿だった。


629: 名無しさんAA:17/10/06 23:06

                        よく観察していると、彼らは砂の
中から貝を集めていた。手に取ってみるとその貝は大変美しかった。彼は、こうした貝
をいろいろに細工したり加工すれば、ボタンやタバコのケースなど、美しい商品ができ
るのではないかと考えた。そこで彼は、自分でもせっせと貝を拾い始めた。その貝を加
工して父親のもとに送ると、父親は手押し車に乗せて、ロンドンの町を売り歩いた。当
時のロンドンでは、これは大変珍しがられ、飛ぶように売れた。貝がらは美しく父親も
又ボタンなどの作品はロンドンでは、これは大変珍しがられ、飛ぶように売れた。やが
て父親は手押し車の引き売りをやめて、小さな一軒の商店を開くことができた。この商
店が2階建てになり、次には3階建てになり、そして最初はロンドンの下町であるイー
ストエンドにあった店舗を、ウエストエンドへ移すなど、この貝がらをもとにした商売
は、どんどん発展していった。そのあいだにも日本にいた彼の息子は、かなりのカネを
ためることができた。この青年の名前はマーカス・サミュエル、ヘブライ語の名前が、
モルデカイであった。


630: 名無しさんAA:17/10/06 23:16
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 279-----------

 こうしてマーカス・サミュエルは日本の海岸で拾った貝がらの商売で大成功をおさめ
サミュエルは1876年(23歳の時)に、横浜で「マーカス・サミュエル商会」を創
業し、日本の雑貨類をイギリスへ輸出した。この時は輸出だけでなく、日本に工業製品
を輸入したり、日本の石炭をマレー半島へ、日本の米をインドへ売るなどを、アジアを
相手にして、商売を大きく広げていった。ところで、この時代、世界中のビジネスマン
のあいだで一番話題になっていたのが、石油だった。ちょうど内燃機関が登場し、石油
の需要が急増しつつあった。ロックフェラーが石油王となったきっかけも、この時代だ
ったし、ロシアの皇帝もシベリアで石油を探させていた。貝がらの商売で大成功をおさ
めたサミュエルも、この石油の採掘に目をつけ、1万ポンドを充てる計画を立てた。彼
自身、石油についての知識は何もなかったが、人にいろいろ相談したりして、インドネ
シアあたりだったら石油が出るのではないかと考え、インドネシアで石油を探させた。
これが、勘がよかったのか、幸運であったのか、とにかくうまく石油を掘り当てること
ができた。当時のインドネシアでは、石油を暖房のために使う必要もないし、また暗く
なってからも活動するといった生活を送っていたわけではなかったので、石油の売り先
はどこか他に求めなければならなかった。そこで彼は、「ライジング・サン石油株式会
社」をつくって、日本に石油を売り込み始めた。このころ日本において、ケロシン油で
暖房したり、あるいは照明したりすることは革命的なことだった。この商売もまた非常
に成功した。石油をインドネシアから日本までどのように運ぶかということは、頭の痛
い問題だった。初めのうちは2ガロン缶で運んでいたが、原油を運ぶと船を汚すために
、後で洗うのが大変だった。それに火も出やすいということで、船会社が運ぶのをいや
がったし、運賃がべらぼうに高かった。そこでサミュエルは造船の専門家を招いて、世
界で初めてのタンカー船をデザインした。そして彼は、世界初の「タンカー王」となっ
た。サミュエルの新造タンカー「ミュレックス号」がスエズ運河を通過し、シンガポー
ルに航路をとったのは、1892年8月23日のことであった。(「ミュレックス」は
「アッキ貝」の意)。彼は自分のタンカーの一隻一隻に、日本の海岸で自分が拾った貝
の名前をつけた。彼自身、このことについては、次のように書き残している。「自分は
貧しいユダヤ人少年として、日本の海岸で一人貝を拾っていた過去を、けっして忘れな
い。あのおかげで、今日億万長者になることができた」


631: 名無しさんAA:17/10/06 23:20
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 280-----------

1892年に石油業界に参入したマーカス・サミュエルは、世界で初めてのタンカー船
を生み出した。当時の世界で最大のタンカー船隊の持ち主となり、世界初の「タンカー
王」になった。1894年に「日清戦争」が勃発すると、サミュエルは日本軍に、食糧
や、石油や、兵器や、軍需物質を供給して助けた。そして戦後、日本が清国から台湾を
割譲されて、台湾を領有するようになると、日本政府の求めに応じて、台湾の樟脳の開
発を引き受けるかたわら、「アヘン公社」の経営に携わった。日本が領有した台湾には
、中国本土と同じように、アヘン中毒者が多かった。日本の総督府はアヘンを吸うこと
をすぐに禁じても、かえって密売市場が栄えて、治安が乱れると判断して、アヘンを販
売する公社をつくって、徐々に中毒患者を減らすという現実的な施策をとった。サミュ
エルは、これらの大きな功績によって、明治天皇から「勲一等旭日大綬章」という勲章
を授けられた。ところが、彼の石油の仕事が成功すればするほど、イギリス人の間から
、ユダヤ人が石油業界で君臨していることに対して反発が強まり、ついにこの会社を売
らなければならなくなった。というのは、当時イギリスは大海軍を擁していたが、その
艦隊に、サミュエルが石油を供給していたからだ。サミュエルは、会社を売らなければ
ならなくなったとき、いくつかの条件を出した。その一つは少数株主たりといえども、
必ず彼の血をひいた者が、役員として会社に入ること。さらに、この会社が続く限り、
貝を商標とすることであった。というのも、彼は常に自分の過去を記念したかったから
である。この貝のマークをつけた石油会社こそ、今日、日本の津々浦々でもよく見られ
る「シェル石油」であった。1897年、サミュエルは「シェル運輸交易会社」を設立
し、本社を横浜の元町に置いた。彼は湘南海岸で自ら「貝(シェル)」を拾った日々の
原点に戻って、「シェル」と称したのだった。こうして横浜が「シェル石油会社」の発
祥の地となった。1907年には、オランダの「ロイヤル・ダッチ石油会社」とイギリ
ス資本の「シェル石油会社」が合併して、「ロイヤル・ダッチ・シェル」が誕生した。
このイギリス・オランダの2社の合併を推進したのはイギリスのロスチャイルド財閥だ
った。ちなみに、このイギリス=オランダ連合の「ロイヤル・ダッチ・シェル」の子会
社的存在が、イギリスの「ブリティッシュ・ペトロリアム」(英国石油:略称BP)で
ある。現在の、シェルグループは傘下企業145の国に広がり、全体で12万人以上の
従業員がいる 巨大国際メジャー企業となっている。


632: 名無しさんAA:17/10/07 00:59
 武昌米は朝鮮人が作った米だって。馬鹿も休み休みいいなさい。
黒竜江省で米が出来たのは、日本人がダムを作って米を送ったから。
ダムは日本軍が作ったんンダヨ。それまでコーリャンかアワやヒエしか無かった
だから 長い間不毛の地だったんだよ。馬鹿垂れ韓国人嘘もたいがいにしろ。
 DNA解析すればすぐにわかる 秋田か新潟のコシヒカリの元になった品種
福島の旧系米のはずだ。
江戸時代の何とかと言う易学者の品種改良が成功しての東北版だ。



633: 名無しさんAA:17/10/09 04:06
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 281-----------

サミュエルは、イギリスに戻ると名士となった。そして1902年に、ロンドン市長に
なった。ユダヤ人として、5人目のロンドン市長である。彼は就任式に、日本の林董(
はやし ただす )駐英公使を招いて、パレードの馬車に同乗させた。この年1月に「日
英同盟」が結ばれたというものの、外国の外交官をたった一人だけ同乗させたのは、実
に異例なことだった。この事実は、彼がいかに親日家だったかを示している。(ちなみ
に、2台目の馬車には、サミュエルのファニー夫人と、林公使夫人が乗った)明治期の
外交官、政治家林董(はやし ただす)は 駐英公使としてロンドンで「日英同盟」に調
印した。「日英同盟」は、1902年1月30日に結ばれた日本とイギリスとの間の軍
事同盟である。林董(はやし ただす)駐英公使 とイギリスのアーサー・ラウズダウン
外相により調印された。「日英同盟」は、戦前日本にとって最高の同盟関係だったとい
える。この同盟関係を守りきれなかったことが戦前日本の犯した最大の失敗だろう。と
まで言われるほどだ。サミュエルは1921年に男爵の爵位を授けられて、貴族に列し
た。その4年後には、子爵になった。サミュエルは「どうして、それほどまでに、日本
が好きなのか?」という質問に対して、次のように答えている。「中国人には表裏があ
るが、日本人は正直だ。日本は安定しているが、中国は腐りきっている。日本人は約束
を必ず守る。中国人はいつも変節を繰り返している。したがって日本には未来があるが
、中国にはない。」そう言い切った。その後、ロンドンに、サミュエルの寄付によって
「ベアステッド記念病院」が作られ、彼は気前のよい慈善家としても知られるようにな
ったが、1927年に、74歳で生涯を閉じた。現在、「ロイヤル・ダッチ・シェル」
はロスチャイルド系列企業群の中心になっている。1870年代のノーベルのバクー油
田開発から100年有余カスピ海での油田開発競争が再燃しました。「海」か「湖」か
の論争は他に願うとして、ソ連のペレストロイカを切っ掛けに当時大半がソ連領内だっ
たカスピ海での油田開発は石油各社が先駆けを狙っていました。バクー周辺での新規埋
蔵地域の発見に加えて、カザフスタン領土内にあるテンギス油田で、現在北カスピ海を
代表する大油田となっている。1894年に「日清戦争」が勃発すると、サミュエルは
日本軍に、食糧や、石油や、兵器や、軍需物質を供給して助けた関係から1897年に
軍の依頼で樺太油田の調査に技術者を参加させている。1905年日本鉱業の創立者で
ある久原房之助は、日立の銅鉱山を買収し、非鉄金属鉱業のビジネスを開始しました。


634: 名無しさんAA:17/10/09 04:08
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 282-----------

1914年国内各地の石油開発事業に進出。すぐさまその事業をテキサス(米国)、サ
ハリン(ロシア)、ボルネオ(イギリス植民地:当時)、台湾、ビルマそしてジャワに
拡大して行きました。台湾におけるガス田の開発やサハリンにおける石油の権益(これ
は後に三井、三菱そして日本石油との合弁による、北サハリンにおける油田の発見に繋
がります。)を獲得するなどの大きな成功を収めました。1933年北日本において油
田の探鉱井の掘削を開始し、1935年には原油の日産量が6,000バレル、ガスの 日産量が
30百万立方フィートに達する雄物川油田の発見に至りました。その際に、最新の地震探
鉱技術を用いて、日本最大の陸上油田となったこの地域一帯の構造を明らかにしました
。雄物川における大油田の発見を受け、近傍の船川に立地する製油所を買収しました。
これがその後のジャパンエナジーの下流部門の源流である船川製油所です。1949年
戦後、ジャパンエナジーは北日本で石油・ガス上流部門の事業を再開し、新潟県の中条
においてガス田の発見に至りました。中条ガス田は現在まで、約半世紀にわたり生産を
継続している。また同社は、1914年以降5年間に亘り中国・ボルネオ・シベリア・マレ
ー・インドシナ・フィリピン・朝鮮・樺太・台湾において資源調査を行った。1916年2
月には、資源調査の前進基地としてシンガポールに事務所を設け、各地の鉄鉱石等の資
源の有望性を見出し、その開発と事業化を図った。なお、この南方開発には大正政界に
隠然たる勢力を有していた田健治郎が関わっていたとされる。田は1916年に寺内正毅内
閣の逓信大臣に就任し、久原は彼に大正末年まで政治資金を援助した。このように、久
原のアジア進出は、各地での利権獲得等のみならず、数多くの内外要人との親交を深め
ることとなり、それがのちの政界転身への基盤となる。1916年8月、 房之助は、アメリ
カのUSスチール社長ジャッジ・ゲーリーを住吉にある本邸に招き、日米合弁の製鉄事業
計画を進めようともちかけた。この計画は、翌々年の房之助の渡米によって具体的にな
る。またこのころ房之助は、上記合併事業とは別に、山口県下松において、一大工業都
市を建設しようとする計画を秘めていた。住吉本邸でのゲーリーらとの会談において、
合併事業とあわせて、下松での計画を説明している。この「下松計画」は、一口でいえ
ば世界的大工業都市の建設である。その内容は、都濃郡下松町と太華村(現在の周南市
櫛浜)の両町村にわたる沿岸を利用して、各地の工場の計画を統一し、一大工場を設け
、職工および家族その他18万人を収容すべき土地を開くという大計画であった。その規
模は、5カ町村・約160万坪に亘っていた。

635: 名無しさんAA:17/10/09 04:09
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 283-----------
久原房之助の構想は壮大だった。具体的には、第一期工事において下松町東南部約30万
坪に造船工場を建設し、次いで第二期工事において、下松町東部から栗屋川に至る約60
万坪に船渠及び製鉄工場、さらには社宅・娯楽場・学校などを建設し、その用地確保等
のために海岸の埋め立てを行う、という計画であった。その後2ヶ月ほどして実際に買
収された用地は約220万坪に 及んだ。房之助はこの構想の実現のためにアメリカにも技
術者や専門家を多数派遣し、工業用電力を確保するため電力会社を買収し、土地買収代
金の支払いにあてる地方金融の中心となるであろう銀行の買収も行った。これがのちの
山口銀行である。ところがこの計画は、アメリカの対外鉄鋼輸出禁止措置により資材不
足となって、中止を余儀なくされることとなった。また房之助は、1919年(大正8年)5
月には共保生命保険の経営にも関わることとなる。同社はその創業当初、西本願寺の信
徒が株式を保有していたが、1914年には経営権は本山に移った。ところが、本山の財政
が逼迫したため内紛が起こり、かねてから母・文子の影響で浄土真宗への信仰が厚かっ
た房之助に経営が委ねられた。同社はのちに東京生命保険相互会社となる。また生保事
業ばかりでなく商事部門へも進出し、久原鉱業の売買部を分離独立させて久原商事株式
会社(のち日鉱商事株式会社、現JX金属商事株式会社)も設立した。久原王国の苦境は
1918年(大正7年)11月1日、第一次世界大戦は終結であった。 房之助はこの報をハワ
イで知った。この大戦が終われば商売の方針を一変しなければならないと考えていた。
一時的に景気は活況を呈したが、1920年(大正9年)3月15日、東京株式市場は大暴落、
世界経済恐慌のあおりをうけ銀行の取り付け、会社の倒産があいつぎ、房之助も大恐慌
の直撃をうける。久原鉱業は、大戦を契機に1920年下期から1922年(大正11年)下期ま
で連続無配、事業規模の縮小に追い込まれた。このときの合理化で休山は7鉱山におよ
び3製錬所は休止になった。さらに1923年(大正12年)9月1日、関東大震災がおこりさ
らに追い討ちをかけた。久原房之助は、1917年(大正6年)に腸チフスにかかり、生死を
さまよったが、その大病以来、「自分の仕事は49歳で終わった」と言い、「自己的な欲
も得ない、儲けや損に何の関心もなくなり、人生観が一変してしまった。後の余生はも
っと貴いものの究明にささげたい」と1928年(昭和3年)2月、久原鉱業の経営を、義兄
鮎川義介にゆだね、いっさいの関係事業との絶縁を声明、実業界から引退し政界に出る
ことを決意した。初当選した久原は田中義一首相によって新人議員ながら逓信大臣に抜
擢され順調なスタートを切った。一方、久原鉱業は日本産業と改称した。翌1929年、そ
の鉱山部門が日本鉱業株式会社(後に新日鉱ホールディングス、現在のJXTGホールディ
ングス)となった。これらは、後の日産コンツェルンへと発展していくことになる。

636: 名無しさんAA:17/10/09 04:09
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 284-----------

 よくロシア皇帝もシベリア開発していた。と言われる。だがそもそもこの樺太には、
少なくとも当時は全くロシアは占領していない。何故ならアイヌの反抗があったからだ
。またロシアとの領土協定は現場に即した協定でもなかった。日露戦争でも解る様に、
ロシアの軍艦は南シナ海を渡ってしか着ていなく 更にロシア人其の物は満州付近しか
住み着けずにいたのである。此処に先の久原房之助の資本投下があった。マーカス・サ
ミュエルが南方洋でのみ成功した様に見えるが この久原房之助のシベリアでの掘削に
も資本投下しようとしていた。北海道の小樽市は、樺太、シベリア方面への物資積み出
し港であり、ニコラエフスクとも縁が深かった。1924年(大正13年)になって、小樽市
民の総意で軍部に請願し、遭難者の遺灰払い下げの運動を起こされたが。ニコラエフス
クで焼却された遺骨は、アレクサンドロフスクの慰霊碑に保管されていた為だ、これを
小樽で永久保存しようということになったのである。基本的には九州人が多く娼婦など
は天草出身ばかりだろう。此処は港だったからだ。江戸時代初期に北海道は薄荷(ハッ
カ)草が中国から移入して中国人が諫早(長崎)に持ち込んだのち 僧侶が山城(京都
)に持ち込んだという この地での栽培が盛んになったのは明治17年 北海道で初め
て日高門別で薄荷(ハッカ)の栽培が行われるが消滅した。それでも江戸時代文化14
年岡山県から薄荷(ハッカ)の本格栽培は始まっており 安政元年広島県でも薄荷(ハ
ッカ)栽培開始。山形県でも栽培がはじまり、その後最盛となっていた。その後も明治
18年八雲の徳川農場で薄荷(ハッカ)栽培が行われたが数年後に消滅。明治24年永
山(旭川)の石山伝右衛門が山形県から薄荷(ハッカ)を移入、栽培。明治29年湧別
の渡邊精司が永山から種根を取り寄せ栽培。と続く。明治30年北見に夜明けが来る。
北光社移民団・屯田兵入植である。この時鴻之舞鉱山は明治に出来きる。既にアイヌの
神の地だったが、この地を含めてオホーツク海側、特に北オホーツク枝幸のパンケナイ
、ウソタンナイなどの川では、明治30年代頃に砂金が発見され、砂金掘りたちが集まり
、日本の「ゴールドラッシュ」となっていた。枝幸より南に位置する紋別の鴻之舞・藻
鼈川沿いの元山付近で、1915年 (大正4年)に鉱床が発見されると、鉱区設定を巡る紛
争が起きた。結果的に有志による組合により鉱区設定が許され操業が開始されるが、
1917年(大正6年)に住友(のちの住友金属鉱山)が90万円で[1]経営権を得て、以降
1973年(昭和48年)に至るまで操業を続けた。後の日本鉱業株式会社がシベリア探査や
樺太油田を掘った事はかなり早かった。

637: 名無しさんAA:17/10/09 04:11
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 285-----------

アイグン条約は、ロシア帝国と中国の清帝国が、 1858年5月28日に中国北東部、アムー
ル川中流のアイグン(現黒竜江省黒河市)において結んだ条約だと言う。条約によって
、1689年のネルチンスク条約以来、清国領とされてきたアムール川左岸をロシアが獲得
し、ウスリー川以東の外満州(現在の沿海州)は両国の共同管理地とされた。また、清
はロシアにアムール川の航行権を認めた。19世紀から20世紀初頭にかけて、清が列強と
結ぶことを余儀なくされた不平等条約の一つである。太平天国の乱やアロー戦争(第二
次アヘン戦争)による清国内の混乱に乗じたロシア帝国東シベリア総督ニコライ・ムラ
ヴィヨフ=アムールスキーが、停泊中のロシア軍艦から銃砲を乱射して、調印しなけれ
ば武力をもって黒竜江左岸の満洲人を追い払うと脅迫し、清国全権・奕山(中国語版、
英語版)に認めさせた。現在のロシア連邦と中国の極東部での国境線は、このアイグン
条約と1860年の北京条約で確定されたものが基本となっているが、その後の河川の流路
の変化により、中ソ国境紛争など両国の対立の原因の一つとなっていた。しかし、2004
年にようやく国境全部の画定が完了したと言う。この協約確定は結局はソ連の権利の及
ぶ所であるだけでロシア人が居る場所を示して無かった。尼港はの此処では誰もが同じ
権利で同じ様に住む事が出来たのである。従って日本人が北樺太まで開発しだすとすぐ
にその船便による生活物資によって住民が増えて行った。ニコラエフスクにおける漁業
を事業として成立させたのは日本人だったが、1901年に日本人の漁業は禁止され、1907
年に調印された日露漁業協約においてもニコラエフスク近辺は対象からはずされたため
、ロシア人と共同経営をしていた島田商会などを除き 漁業関係者は撤退した。しかし
海産物の交易は続き、第一次世界大戦による食糧不足でロシアの国内需要が急増するま
で、ニコラエフスクの主要海産物であった鮭の主な輸出先は日本であり、居留邦人の数
が多かったため領事館が設けられていた。ところがこの頃の中国艦隊は大きく訓練のな
い兵士だったが より集めのパルチザンはもっとひどかったのだ。日本人で唯一ニコラ
エフスク市商業会議所の議員であった島田元太郎は別格として、他に大きな商店を営む
日本人としては、米、小間物、木材などを扱う川口力太郎、雑貨商の川内多市、溝上乙
吉、菓子パン製造業の百合野熊次郎などがいた

638: 名無しさんAA:17/10/09 04:33
歴史に「もしも」は無いのは無論だが、もしも日本統治下の満州でこの大油田が発見さ
れ、日本が十分なエネルギー源を得ていれば、アメリカへの開戦という無謀な戦争をし
かける必要はなかったのかもしれない。と言う話は多い。実際石油の為に無謀な戦争に
走った面はある。だがそれ以上に多様な人種のいる日本になってしまい、対応が出来な
かったから戦争に走った。と言った方が正しい言い方だ。例えば悲惨な尼港事件も全く
同じ理由で在り、旧皇帝軍派の白軍と社会民主労働党の革命赤軍とは かなり違った人
間達だったにも関わらず、それを見抜けなかったのだ。日本でさえマルクスレーニン主
義を信奉し その基幹「一国社会主義論」というテーゼに掲げそれに沿った暴力革命論
である「国内革命と国際的の世界革命の結合なくして資本家の搾取を廃絶する社会主義
体制の建設と確立は不可能である。」とする世界革命論を 共通認識にし賛同する者が
いたのである。がこの馬鹿げた主張には 軍部も政府もその認識は戦後ですら皆無であ
って 組合やら財閥や結社などを許した。この前提のそれは第一インターナショナルと
してのマルクス主義の初歩の原則であった。革命軍のボリシェヴィキ(ロシア社会民主
労働党主流派)が一般的には少数であり、ロシア革命時の大多数は「パン・土地・平和
」をスローガンとして掲げた大衆だったのだ この意見を尊重すべきとトロツキーの意
見が反映されての革命だった為ユートピア社会主義的な緩やかな革命や絶対権力や資本
家排除を掲げたが、一般の大多数は政治的なな意見など思っていないメンシェヴィキ派
で現実はパンが欲しいだけのそんな高尚な事でなく活動をしていた人が多かった。だが
ボリシェヴィキはメンシェヴィキや社会革命党に比べ少数派であったても、人事と要職
を握って「多数派」「主流派」を名乗り誇大広告によって「暴力革命を主張し、徹底し
た中央集権による組織統制」を特徴として行ったのである。日本語では、これらを意味
するものは「過激派」と訳して報道した。このボリシェヴィキ派には、驚く事にアメリ
カン・インターナショナル・コーポレーションから支援を受けていたのである。当社は
1915年、フランク・A・バンダーリップが会長としてニューヨークに設立されたも
ので、出資者はジョン・モルガン、ロックフェラー、ジェームズ・スティルマンなどの
層々たる金融メンバーだった。その上い配下には1917年12月にウォール街の代表
として、JPモルガンがパートナーのトーマス・ラモントが一緒にロンドンを訪れて、
ロイド・ジョージ内閣にも会っていたりする。中でも、ボルシェヴェィキを支援するよ
うに意見し圧力をかけ、米英の意思統一を図っていた事は驚きだ。とアントニー・サッ
トンは、既にこの事実を指摘していたが。こうした行為はイギリス側の公式資料から採
った事実だが、全く日本には知らないで近年までいたのである。

639: 名無しさんAA:17/10/09 04:43
イギリス首相を裏で操っていたのは、有名なミルナー卿であったという。ウォール街で
革命支援の司令塔となったのは、アメリカの総合商社であったのだ。アメリカン・イン
ターナショナル・コーポレーションはモルガン財閥系のギャランティ・トラストという
金融会社で、巨大銀行の重役たちが理事を務めるニューヨーク連邦準備銀行であった。
このAICにはロックフェラー系のナショナル・シティバンクの人間の大多数が重役会
メンバーとして参加し、ギャランティ・トラストはモルガン財閥の人間が多かった。こ
の事実には日本は当然知らないままに 第二次世界大戦まで進んでいったのだろう。こ
の早い時期から融資し関わり合いを持ったのは、彼らが選民主義に染まり共産党ドイツ
のマルクス修正主義者のイギリス版で、ユートピア社会主義の末裔傍流として「フェビ
アン協会」が1884年に、「木の幹の様にある種の資本家が柱となり支配し管理し、
木の葉の様な愚民や庶民の社会を指導なければならない。」と言った。産業革命の過酷
な労働批判をかわす為の理論で大勢を偽る為の言い訳に起因するものと思われる。そも
20世紀初頭は、世界は白人たちによる『 白人至上主義 』『 有色人種支配 』が蔓延
(まんえん)していた頃だ。白人による有色人種への扱いは、強奪のための植民地支配
であり、有色人種は人間ではなく家畜であった。16世紀初頭から始まった、欧州列強
による5大大陸の侵略という時代は続き、有色人種(アジア・アメリカ・オーストラリ
ア・アフリカ・中近東諸国)は白人により土地を巻き上げられ、農作物は収奪され、奴
隷として支配され、資源を強奪され続けていた。 有色人種が持つすべては強奪の対象
であり、有色人種の女たちは老婆から少女に至るまで犯され、嬲(なぶ)り殺され、気
骨のある男たちは殴られ拷問を受け、虐殺(ぎゃくさつ)されて行く運命にあった。私
たちが普段使っている「原住民」という言葉は、その土地に暮らしてきた『人間』をイ
メージさせない「土民」であり、その地に生息する獣のごとき表現であり、白人による
侵略を正当化させるために編み出された米国版幻語なのである。それらは私たちが何気
なく使っている「土着民」という言葉と同じく、有色人種に対してのみ使われ、白人種
に対して使われた言葉では無い。こうした中「有色人種国家」で完全なる独立を保て
ていたのは、世界で唯一、日本のみだった。かろうじて独立国の体面を保てていたのは
、国土を割譲させられ、英仏侵略勢力の緩衝(かんしょう)地帯としてギリギリのとこ
ろで生き残っているタイ王国、そして、大半の領土を割譲させられた瀕死(ひんし)の
オスマン帝国と、欧米列強の分割支配に悦びを感じていた支那(SINA:中国共産党
政権が認めている中国の国際的な正式呼称)の3ヵ国のみだったのである。ほとんどの
有色人種の国々は、すべて白人国家により侵略され、植民地支配され、人々は奴隷とな
り、何もかもが強奪され、家畜同然の扱いに、あえぎ苦しんでいた時代だった。

640: 名無しさんAA:17/10/09 10:46
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 288-----------

1月12日の日本艦隊のヴラジヴォストーク入港に際して,ヴラジヴォストーク市長は
日本人居留民の保護は,ロシア官憲の責任の下で自らの手で行うことを明言したが,当
時のロシアの治安は革命の混乱によって悪化の一途をたどっており,現実には警察機構
は機能停止の状態にあった。ヴラジヴォストークでも強盗・窃盗は後を絶たず,2月4
日にはヴェルサーリ・ホテルに強盗団が押し入り,外国人多数を含む宿泊客の金品を強
奪して逃走する事件が起こった。この事件は,後に現地ソヴィエトの調査によってフラ
ンス総領事館に出入りしていたロシア軍人の犯行であることが判明し,白衛派に組する
連合国側の陰謀であると考えられたが,これが事実であるかは不明となっていた。いず
れにせよ,この事件はヴラジヴォストークのソヴィエト当局の治安維持能力の低さを露
呈することとなった。このような治安の悪化に対して,ヴラジヴォストーク駐在の各国
総領事はそろって市当局に対して治安改善の要求を突きつけていた。ヴェルサーリ強盗
事件を機に若干の改善は認められるようになったが,3月3日のブレスト・リトフスク
講和条約締結後,この地域の権力闘争が激しさを増してきたため,再び不穏な情勢が高
まってきていた。治安への不安が広がっていくなかで,4月4日にとうとう日本人が殺
害されるという事件が起こった。被害者は貿易業等を営む石戸商会の経営者の弟で,そ
の他に2名が重症を負った。現地当局が捜査のために駆けつけたときには日本総領事館
から派遣された吏員(軍人も含まれていたらしい)によって現場は封鎖され,捜査当局
の関与を拒絶したところから,この後日本の軍事干渉の口実として謀殺された可能性が
指摘された事件だった。浦塩派遣艦隊司令官の加藤少将は,機を逸せず翌5日早朝から
6日早朝にかけて陸戦隊4個中隊5百名を上陸させ,日本人居留区の警備にあたらせた
。英艦サッフォークからも5日午後に海兵隊50名が上陸したが,米艦ブルックリンは同
調せずに事態を静観する構えを見せた。ヴラジヴォストーク・ソヴィエトからは,日本
軍の侵略的行為を非難しながらも事態を楽観視する報告がレーニンの元にもたらされた
。日本軍の行動を連合国同士が示し合わせた措置だと見ていたレーニンは,「幻想を抱
いてはならない。日本軍はきっと攻撃してくるであろう。…例外なくすべての同盟国が
彼らを支援するだろう」と,この後の干渉の拡大を予見する回答を返信した。こうして
日本の意図は,ヴラジヴォストークから9千3百km弱離れたモスクワにいるレーニンで
すら見通せるほどあからさまに見えた。

641: 名無しさんAA:17/10/09 10:47
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 289-----------

尼港事件はグートマンによれば、トリャピーツィンは年齢25ほどで、ペトログラード
の工場労働者だった。(1920年の処刑の判決書には、23歳で、レーニンと同じ シンビルスク 県
の出身とある)離職して、ボルシェビキの地下活動に従っていたが、1919年春にイルク
ーツクへ行き、同年夏にはハバロフスクにいたという。強制動員され、パルチザン軍司
令部で働かされていた。E・エーメリアノフは、トリャピーツィンについて次のように
述べていた。強い意志を持った男で、不遜といえるほど断固としていた。ロシア国民の
無学な階層の心理をよく知っており、目的のためには手段を選ばなかった。トリャピー
ツィンと直接話したことはないが、知人から聞いた話から判断すると、彼の話は常に脅
しが得意であった。(中略)トリャピーツィンを見た他の人たちは『感情のない怪物』
と表現した。彼の演説は、恐ろしいほどの怒りに満ちており、無教養な群衆を、磁石の
ように引きつけていった。彼自身が同じような階層の出であり、彼らに対する演説の仕
方とか、復讐のためにその動物的本能を呼び覚ますすべを熟知していた (2月の初め)
サソフが、私ともう一人漁場監視員ラズモフを呼び、こう言った。『今後、公式監視員
は不要である。全ての者が、人民の敵と闘うパルチザン軍に参加する義務がある。これ
を拒否する者は、生命の保障はされない』その少し前、70人ほどのサハリンの農民パル
チザンが、ワッセに向かう途中に、通りかかったことがあった。最初は、総動員が発せ
られたが、その後、彼らは43から45歳までの砲兵、特殊技能者を選別し始めた。それ以
外の動員者は、全員が35歳以下であった。トリャピーツィンはニコラエフスク住民の大
量殺戮と街の破壊を、事件の大分前に計画していたという。彼は、「町の代わりに、血
溜まりと灰の山を残すだろう」と宣言し、その通りに実行した。大量虐殺と破壊の跡が
残っただけだった。監獄の壁に書かれた 尼港事件犠牲者の遺書とも言える落書きは、
「大正九年五月弐拾四日午后12時 忘ルナ」と書かれてあったと言うニコラエフスク
では、日本軍決起に続く市民虐殺の後、一時、手続きのない殺人は行われなくなってい
た。3月16日には、第1回サハリン州ソビエト大会が開催された。大会で、ハバロフスク
における革命委員会とゼムストヴォ自治政府の妥協主義が非難され、トリャピーツィン
の独裁的な革命体制が確立されようとしていた。配給制度が推し進められ、徴発は日常
茶飯事となり、恣意的な逮捕、投獄は続いた。そんな中で、かつてパルチザン鉱山連隊
の司令官を務めていたブードリンがトリャピーツィンを批判し、ブードリンは逮捕され
た。しかしブードリンには、解散させられた鉱山連隊を中心に支持者が多く、死刑には
ならなかったが、後に大虐殺の最中に殺された。

642: 名無しさんAA:17/10/09 10:48
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 290-----------

「満州で日本が油田を発見できなかったのは不運だった」とこれまで片付けられてきた
が 現実にはタールの様な存在は確認されていた。このシベリア出兵の際も北樺太での
オハ油田は 北樺太のオホーツク海側で最初に開発された油田であるが、日本が占領中
に生産を開始し、施政権がソビエト連邦に返還された後も日本が採掘権を維持していた
。しかしソ連側が人員や物資の出入りを制限するなどの操業妨害をしばしば行ったこと
から、日本にとっての経済価値や戦略価値はあまり大きくなかったとして1941年に
日ソ中立条約締結の条件としてソ連に返還されたのだ。つまり日ソ中立条約には 何ら
死守する気持ちが政府にはなかったのである。それがこの尼港事件での悲惨さだった。
更に 既に資源開発の実務経験ある者が南方に駆り出され、当時満州での油田探査で使
用されていた機器や作業内容は時代遅れの物で アメリカのロータリー式の機械は1台
しか日本にはなかった。時代遅れの機材や中途半端な作業など、時の最先端とはほど遠
いずさんな探査活動の内容だった。陸軍には今だやるべき事は国内統一と領土の保全で
あったが 海軍にはこの石油の確保が一番だった。と言うのが戦争の実態だった。サミ
エル商会など民間企業は当時から欧米の最新鋭機器や最先端技術を取り入れて資源開発
を推進していた一方、日本軍は、欧米で一般に使われていた機材・技術の活用を拒み、
精神論で油田を発見しようとしていた。十分な機材・技術なしには、いくら優秀な技術
者でも油田を見つけることはできない。エネルギー開発の基礎中の基礎をも把握してい
なかった日本政府・軍による明らかな失策であると言える。更にはこの上意下達の風透
しのなさ は情けない失策に開いた口が塞がらない程で 石油実務を知らない素人によ
るソ連との権益交渉、荒唐無稽なエネルギー需給分析に基づいて判断された開戦の意思
決定、松の切り株を原料として戦闘機を飛ばそうとする日本軍の計画など、いかに当時
の日本の中枢がエネルギー音痴であったかがこれでもかと言う程大きな事件が起こる。
当時の政府関係者・軍・民間人たちは必死に日本の石油不足に取り組んだのだろうが、
エネルギーリテラシーが欠けていたために、ついに日本を焦土へと化してしまった。こ
の惨状は今の私たちが歴史の教訓を持たない社会に変質している事と同じだ。同じ過ち
を繰り返さないためにも日本は国体リテラシーを高める必要がある。

643: 名無しさんAA:17/10/09 11:08
アメリカが昭和16年夏に石油を全面禁輸したことが日本を対米戦に駆り立てた決定的要
因であったことはよく知られている。昭和天皇独白録でもこのことに触れている。だが
アメリカの石油禁輸と日本の対米開戦決断の関係については誤解している人が多い。日
本はアメリカが石油を全面禁輸したのに逆上して開戦決意したわけではないし、テキサ
スの油田を取るために開戦決意したわけでもない。言わば天皇派のそそのかしで海軍派
が勝手に日米開戦を行ったのである。戦前日本の石油自給率は低く産地は僅かに新潟と
北樺太(ソ連領であったが日本は石油採掘利権をもっていた)だけであったし、比較的
近い石油産地と言えば蘭印(インドネシア)しかなかった。しかも宗主国オランダは前
年5月ドイツに占領されたので蘭印は半分空き家というのが日本の認識であった。そも
そも日本が前年9月三国同盟を締結したのは、東南アジア植民地の宗主国フランス、オ
ランダは既にドイツ占領下にあり、いずれイギリスもドイツに降伏するであろう。そう
なればこの三国が支配する東南アジアは所有者がいなくなる。無主の地であれば誰が獲
ってもいいようなものだが、「この三国が蹂躙しこの時点でイギリス降伏は可能性でし
かなかったが 報告では敗けそうでフランスのあと英国を屈服させた後ドイツの了解を
得ずに獲るのはまずいので、ドイツに東南アジアは日本の縄張りだと認めさせたい。」
、これが日本が三国同盟を締結した動機の一つであったろう。当時流行った「バスに乗
り遅れるな」は、ドイツの勝利に便乗しようという意味であった。「白人支配から東ア
ジアを開放し大東亜共栄圏を確立する」のは アジアの中の名分に過ぎない。半分無主
とは言っても日本が東南アジアを取りに行くのをアメリカが座視するわけがない。現に
フランスの降伏によって無主となった南部仏印(ベトナム)進駐に対してさえ石油全面
禁輸、在米日本資産凍結によって報いたのであった。対米戦が避けられないものならこ
っちから仕掛けようというわけで石油禁輸と日本の開戦決意との関係はやや迂遠であっ
た。この点ドイツがソ連を攻撃したのが資源欲しさという極めて直截な動機から発した
のとは事情を異にする。従ってもし傀儡国家満洲国と植民地を含む日本のテリトリー内
で石油があったなら東南アジアを侵略する必要はなかったし、対米戦争もしなくても済
んだという仮説はあり得るがそれは間違っている。どっちみちアメリカの底流にある、
日本の進出など許さないと言う意識や思惑を払拭しない限りいずれ起こる物だった。ア
ジアの崇高な独立意識と国内整備の必要性から 東南アジアは取りに行くしか無かった
日本と言うのが現実だろう。ただ歴史が早すぎて体制が整わない中で、終始中国や朝鮮
の民族が余りにも馬鹿過ぎてて聞き分けなく反抗した姿に米国が載ったと言うのが正解
だろう。

644: 名無しさんAA:17/10/09 11:31
 ちなみにアラスカ油田は 1923年アメリカ海軍はアラスカの北極海沿岸に艦船の
石油補給地を作ったのがきっかけで人がアラスカを訪れるようになり、山師たちも石油
を求めてアラスカに来ましたが発見できずいつしか忘れさられました。33年後の19
56年のスエズ危機の時、シェルとニュージャージ・スタンダードがアラスカで石油の
探鉱を行ったが 59年には石油を発見できずに手を引いてしまうアングロイラニアン
は1951年イランのモサデクに接収され、その後、改名したブリティッシュ・ペトロ
リウム(BP)は1957年、中東依存度を減らすため、北海やアラスカの石油探査に
目を向けていた。1958年BPとアメリカのシンクレア石油は共同でアラスカのノー
ス・スロープで試掘をしたが、6本の井戸はすべて失敗していた。又ガルフ石油など多
くの石油会社は 中東の石油価格約1バレル1〜2ドルに対し、発見見つかったとして
も1バレル5ドルもする値段に開発に乗り出すつもりはなかった。それでもカリフォル
ニアにある独立系石油会社リッチフィールドは近さ故探鉱を続けていました。1964
年ニュージャージーはリッチフィールドと合弁で再びアラスカの石油探鉱に乗り出した
。1965年合弁会社はBPとシンクレア石油などをパートナーを引き連れアラスカの
ノース・スロープ地域を対象に再度、石油探鉱を開始する。リッチフィールドはアトラ
ンティク・リファイニングと合併しアトランティック・リッチフィールドとなった。そ
の後ARCOとなりましたがリッチフィールド時代とBPと合弁してからも掘り続けた
井戸は、全く空で当たらなかった。そして、1966年の冬、これが最後とARCOは
アラスカ北岸の土地を試掘しましたが空井戸でした。ARCOがこれまで試掘した6本
の井戸すべて失敗に終わり最後に残ったノース・スロープのブルドー・ベイを試掘する
か否かで首脳陣は割れて揺れた。決定は社長のロバート・アンダーソンの手にのった。
当然彼は石油が必ずあると信じて続行を宣言し、1967年の春、掘削作業が開始され
た。1967年12月26日ブルドー・ベイ・ステイト1号と名付けられたこの最後の
試掘井戸は、突然大きな地鳴りと天然ガスが吹きあがりパイプから気温零下30度C、
強風をものともせず炎が垂直に100メートル燃え上がった。1968年夏にはこのブ
ルドー・ベイ油田は埋蔵量100億バレルという北アメリカで発見された油田の最大で
世界でも有数の油田であることが確認された。シンクレアを買収し、巨大合併したAR
COはノースロープではニュージャージーやBPとともにビッグスリーになり、アメリ
カでは第7位の石油会社になりました。こうして操業が開始されれば日量200万バー
レルでサウジのガワール油田、クウェートのブルガン油田に次ぐ世界第3位の油田にな
るはずでした。


645: 名無しさんAA:17/10/09 11:42
 この頃日本人には、本当に平和お望む声が大きかったのだろう。スープラナショナリ
ズムとは、国家の上位となる国際組織が権限を行うという概念だが。具体例は欧州連合
や、またフィクションではあるが地球連邦の様な思想である。白系ロシア人のグートマ
ンは間違えた事に、日本の北樺太占領を日本人の領土欲と見ていた、そして「ロシア国
民は侵略を受け入れることは決してない」と非難している。だがそれは大きく違う。こ
の北樺太占領に関しては樺太アイヌがロシアの襲撃にあい3千人以上が避難して日本で
生活しだしていたのだ。この赤軍や中国軍艦の襲来によってである。撤兵反対論者で、
対外強硬論者といわれる五百木良三も、「サガレン(サハリン)占領のごときは大道商
人のそれにも比すべき最もケチ臭い現金取引きで、あらずもがなのことだ」と反対して
いるが、『国辱記』で尼港事件を詳報した溝口白羊も、「人道の名を借りて侵略を行う
連中といっしょにされることはお断りだ。」とし、「尼港事件への寄付金には応じない
富豪が、サガレンの漁業、林業、鉱業の利権獲得に夢中になっている」と批判する。ア
メリカ人や共産党のプロパガンダが氾濫していた。此処に先のエネルギーリテラシーが
全く無かった姿が見える。1922年に尼港事件被害者とオホーツク事件被害者のため
の「露国政変及西比利亞事変ノ為損害ヲ被リタル者ノ救恤ニ関スル法律」が施行されて
救恤金が支払われた。しかし、救恤金額が少ないことや申請が出来なかったものなどが
多かった。尼港事件時に内地にいたため難を逃れることができた島田商会の島田元太郎
は、東京に事務所を設け全国の被害者の中心となって再度の救恤金運動を行い続けた。
1925年、日本はソビエト・ロシアと国交を回復し、やっと保障占領していた北樺太
を返還した。しかし、その交渉の過程で、尼港事件は政治的に棚上げされて、北樺太の
オハ油田を中心とする石油長期利権と引きかえに、賠償は求めないことになったのだ。
それほどソ連の領土欲が強かった。日本はこの行為にウンザリしていたのだ。それは裏
に日本を助けた アメリカユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフやN・M・ロスチャイルド
&サンズとロチルド・フレールとは知っていたが、彼らと対抗して死の商人JPモルガ
ンのパートナーだったトーマス・ラモントなどは新興勢力でロシア進出を手助けしてい
た。その頃はロックフェラー系のナショナル・シティバンク、ギャランティ・トラスト
のモルガン財閥の人間が一挙に対抗しウォール街の長となっていたからだ。彼らに良心
は無かった。血生臭い軍政政権でも大量破壊兵器でも儲かるとなれば、何処にも誰にも
投資した。更にその取り立てや利権奪取は凄惨を極めていた。その中にこの尼港事件が
あった。新機材は売らなかったし奪取する情報でソ連をそそのかした。そして革命政府
に投資している事を捨てなかった。そして親日家のシェル石油が日本に送れなくなった
訳もこのロックフェラーの権力だった。

646: 名無しさんAA:17/10/09 11:48
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 294-----------

「日露戦争における米国の立場の決定は、米国自身の国益を冷厳に計算した結果なので
ある。すなわち、米国にとってまず阻止すべきは、世界の列強ロシアが満州を独占する
ことだった。ロシアが日本に勝った場合、満州が完全にロシア領になり、米国の介入の
余地がなくなることは明らかであったからである。米国の立場からすれば、ポーツマス
講和会議において仲介の労をとったことは、米国自身の満州介入のためのワンステップ
だったのである。それゆえ従来から満州に対して強い関心を持っていた米国の鉄道王ハ
リマンが、日露戦争直後、早速日本に南満州鉄道を合弁事業とするよう申し入れている
。このハリマンは、またさらに日本政府が日露戦争での軍費のために行った外国借款 
(しゃっかん)の返済に苦慮するであろうことを見越して、その買収を申し込んだりし
た 勿論(もちろん)満州を再び列強角逐(かくちく)の地にしたのでは、多大の犠牲
を払って日露戦争を戦ったことが無意味となるため、日本政府は最終的にこれを拒否し
、米国の介入意図は失敗に終わったのである。明治42(1909)年には、ノックス国務長
官が、満州における日露協調体制を壊すために、満州諸鉄道の中立化を提案している。
この提案の狙いは、日露両国によって独占されていた満州における鉄道権益を喪失させ
、米国も含めた国際管理に移行させようとしたものである。またそれが無理な場合には
、清朝発祥の地である満州で日本が勢力を伸ばすことを好まない清国をたきつけて日本
側に対抗しての米資本による満鉄併行線の建設を計画した。しかしながらいずれも、米
国の主張より日本の立場を認めた列国の反対で失敗に終わったのである。更に大正7年
(1918)年10月には、米国は、米国資本の大規模な中国進出の条件づくりを目ざして、
中国政府に対する借款事業の独占を主目的とする新たな国際組織(銀行団の結集)を提
唱したが、これもやはり失敗している。米国によるわが国の満州権益の攻勢は、こうし
た直接介入以外にも、日本の満州権益を認め守る条約の否定・否認という形でも現れた
。例えば、ブライアン国務長官は、21箇条条約に対して不承認を宣言している。そし
てその一方では、日本権益を弱体化するための逆攻勢をかけてきたのである。その最初
の結実が、大正11(1921)年のワシントン会議の招集であった。このワシントン会議
の狙いは、明らかに日露戦争及び第1次大戦によって日本が築き上げた成果を米中連携
のもとに否定してしまうことにあったと言ってよい。」それはひとえにアジア独立から
だった。欧米列強の介入による魑魅魍魎の徘徊する運営を嫌ったのだった。それは不平
等な通商友好条約で 日本が充分わかり得たことであったのだ。

647: 名無しさんAA:17/10/09 11:54
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 295-----------

 昭和天皇は「この戦争は誠に石油に始まって、石油に終わった。」とつぶやいた。
 開戦と共に陸軍は進駐地サイゴンにおいて南方燃料廠を設立し、東南アジアの産油地
域のうち、海軍が優先的に提示した蘭印ボルネオ(山田清一中将証言)および、ビルマ
・英領ボルネオ・南北中スマトラの産油地に支廠を設置する編成であった。ジャワ油田
については、日石資料で開発以来60余年にして老朽したと考えられていたことと、兵站
が長大であることから除外されていた。シンガポールの占領なるや昭和15年5月 本部
を昭南市ハブロックの移民局の豪壮な建物に進駐した。やがてジャワ油田が第16軍が
自活のため軍直の工兵隊によって占領復旧され、南方油田中第4位の新興油田の存在が
明かとなったため、17年に至りジャワ支廠を新設して6支廠となった。19年春には
本部庁舎は博物館裏丘陵、フォートカニング要塞の元英国極東軍司令部(パーシバル将
軍)庁舎に移転し活動した。昭和19年南方燃料廠は南方燃料本部、や支廠は工廠と改
称され、その機構は(ビルマ・ボルネオ・スマトラ3ヶ所ジャワ)などに創設された。
陸軍南方燃料廠編成人員は、昭和19年9月現在で軍人軍属の合計8,307名、現地人工員と
臨時工102,000名の計11万307名に達した。(『帝石50年史』)その編成は、東部85
部隊の第21野戦兵器廠(永幡節誕中佐)、さく井中隊4、電気中隊1を中核とする軍人
と新任の技術将校328名が配属された。 また軍属には内務省・商工省・工業技術院・台
湾総督府・陸軍燃料廠の技官や東大・京大・東北大・北大の地質学・有孔虫化石・地球
物理学の教授が嘱託として採用された。尚久留米医専は南スマトラ、ジャンビに病院を
開設して現地人従業員の治療を実施した。主力は国民総動員令によって帝石・日石・満
石・丸善・三菱各社の採油・精油技術者と新潟鉄工・大阪機械・神戸製鋼・ダイハツな
どの機械メーカーおよび利根ボーリング・日鉄鉱業などから徴用された5,302名で 、破
壊油田の復旧 と精油所の再建並びに生産に従事した。(18年9月現在)ただ不思議なの
は日本鉱業がそこに入っていない事だ。実は此処に東条英機や石原莞爾の知らない世界
が動いているのである。それが朝鮮や中国を占領した急進ユダヤ原理主義者である彼ら
が、日本政府も地方自治も手玉に取ってアヘンによる膨大な利益をむさぼっていたのだ
。ドイツ資本の銀行家とされるが 表向きは慈善事業団体でありそれを引き込んだのが
ハリマンの兄弟奉天総領事官であった。それは円卓会議であり赤十字で欧米の謀略の一
形態だったのである。


648: 名無しさんAA:17/10/09 12:05
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 296-----------

 樺太は日本とロシアの間で永く激しく揺れ動いた島だった。江戸時代の後半にはまさ
に日本(徳川幕府)とロシアが樺太の占有をめぐり競った時代でした。日本では17世
紀から樺太を支配しはじめてましたが、18世紀に入ってロシアの圧力が樺太にも強ま
り、ロシアの樺太やその周辺への相次ぐ襲撃事件が起こった。松前藩の報告に危機感を
嗅ぎとった幕府は、樺太を松前藩から幕府の直轄地とし秋田藩・弘前藩・仙台藩・会津
藩の藩兵を蝦夷地に差し向けた事件も起こった。こうした緊張の高まった時代もあった
。日本とロシアとの国境は安政元年(1855年)の 日露和親条約において千島列島
(クリル列島)の択捉島と得撫島との間に定められたが、樺太については国境を定める
ことができず、日露混住の地とされた。1856年にクリミア戦争が終結すると、ロシ
アの樺太開発が本格化し、日露の紛争が頻発するようになった。こうして危機感から「
樺太・千島交換条約」が結ばれ樺太は全てロシアが領有することとなりました。開国し
て明治政府が 富国強兵 殖産興業を強くし 国家経営を始めた明治期に入り1875
年(明治8年)5月「樺太・千島交換条約」が結ばれ樺太は全てロシアが領有する事に
なった。しかし北樺太では、既にその5年前の1870年には東海岸の地上に湧き出る
石油が日本人の手で発見されていた。その後の日露戦争では 日本は米国大統領の助言
から海軍陸戦隊で樺太を一度は保障占領しますが、賠償金も支払われなかったポーツマ
ス条約で石油の出ない南樺太の領有で良しとしてしまった。もつれる会談は代表が米国
の本部に操られている事が見つかったからだ。それでも当時から海軍には情報が足りず
又日本自体石油の価値や将来性を 見抜けなかったと言える。しかし日本にはその後も
樺太の石油を手にする好機は訪れてはいた。1918年今度はロシア革命後のシベリア
出兵である。出兵時に陸軍は樺太北部を占領して樺太全島を領有していた。だがこの時
も40年以上前に北樺太で日本人が見つけた石油の存在は日本国内には詳しくは知らせ
なかったのだった。それでも出資していたサミエル商会を通じて秘密は漏れていた。こ
の時は、ロシア皇帝側の亡命臨時政権相手に 国家予算以上の経費と人命をかけてシベ
リア出兵したのだが石油も石炭も鉄鉱石も得るものの報告はなく ただひたすら闇雲に
前進し、孤児救出などの人道支援措置に力を注いだのである。この時既に壮大な「大東
和共栄圏構想」は息づいていて 広大な土地に行きながら すぐ傍の樺太では1925
年の協定での撤退要請に日本は石油利権をソビエトを国家に承認してしまったのである
。これも海軍が内閣と言うミスであったが、同時にロスチャイルドの強い意志だった。

649: 名無しさんAA:17/10/09 12:13
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 297-----------

この後も石油の出る樺太北部から撤兵し、国境は日露戦争終結時点の北緯50度以下の
線に戻る。ソ連を国家承認した「日ソ基本条約」でオハ油田などの 北樺太の油田地帯
の経済的利権を手にした日本は、莫大な日本国内の資金を注ぎ込んで 事業化し一応の
成功したようにも思えたのだが、日独伊3国同盟、支那事変、ノモンハン事変等でソ連
の心象を悪くし、現地ロシア人工員のサボタージュやパイプラインの使用差し止め等の
数々のソ連側の嫌がらせを受けた。日本への石油の還送料は減り続け、戦前日本は、シ
ベリアや満州に手をだし泥沼の日中戦争に嵌り込むより 多少問題のある手段を使って
でも北樺太と北樺太油田を占有し領土化すべきだったが その気概を既に失くしていた
。昭和16年になるとスタンドプレイヤーの馬鹿げた松岡外相が登場し1941年(昭
和16年)に結んだ日ソ不可侵条約の見返りに 何としたことかさっさと「北樺太油田
」の利権を日本はあっさりと手放してしまった。しかも米国からはこれを機にモラルエ
ンバーゴ(道義的禁輸)発動で日本への石油輸出は極端に減った。その後も、日本は北
樺太の利権は消滅しても何とかソ連側から石油を買い求める事はできましたが 徐々に
ソ連側は供給量を減らし続け1944年(昭和19年以降)は両国の関係も悪化してし
まい 終戦前は一滴も北樺太の石油は日本に入ってくることはありませんでした。19
44年北樺太利権移譲議定書での話である。又、戦時中昭和18年後半からはせっかく
占領した南方の蘭印からの日本へ石油を運ぶタンカーは違法な米潜水艦に次々と沈めら
れました。そういう訳で一番北樺太油田の重要性が高まった昭和19年後半〜20年日
本はソ連に石油交渉の復活もめざしてソ連と様々な交渉を続けますがソ連が日本への石
油輸出に傾く事はなく周知のように昭和20年8月のソ連側から「日ソ不可侵条約」を
一方的に破った開戦となりました。北樺太のオハ油田を中心とする北樺太の石油採掘量
だけでは戦前の日本といえども石油の全消費を賄うことは無理でした。しかし昭和前半
には毎年日本に国内消費量の15%から2割近い年間70万kl前後の石油を日本に合
法的に持たらしていたのです。この時(昭和12年前後)の日本の国内消費量は 年間
500万キロリットルでしたが北樺太のオハ油田は戦後の1960〜70年代には年間
200万kl以上の石油生産実積あった事を考えるとアッサリと昭和18年までに利権
を手放した事は日本にとって松岡の行為は国賊行為で誠残念だったと言えてきます。


650: 名無しさんAA:17/10/09 12:13
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 298-----------

 実は現代科学の粋であるDNA解析によると 日本人は昔から平和主義者であった事
が解っている。日本人の多くは北方系と南方系の遺伝時情報を半々持っている。よく日
本人の特徴を縄文人と弥生人とに分けたがる。だが現実では母系と男系の遺伝子をほぼ
半数ずつ持っていると言う事は奇跡に近い平和共存国家が生まれていたと言う事に他な
らない。更に朝鮮半島から渡って来たと言う仏教伝来や稲作文化や鉄器や瓦などの伝播
など諸説が通説となっているがどれもが大戦後に作られたGHQの意志に基づく歴史で
ある。何故ならその殆どが今の科学的裏付けから日本の方が先行して行っているからだ
。日本では、3万年前の磨製石器が発見されている。これは世界最古とも言える。1万
6500年前には、やはり世界最古の土器が作られていたことが確認されている。そし
てこれが縄文時代のはじまりで、その後、土器や土偶などはどんどん工夫されて行き、
縄文時代の後期には、ハート形土偶などの美しい造形物も制作されるようになっている
。さらに稲作文化に至っては約6500年前の朝寝鼻貝塚を始め、他にも大量のプラン
トオパールが見つかっているが。朝鮮半島には石化したオパールどころかその痕跡さえ
見つかっていない。山が多く沼地のない寒い朝鮮半島では稲作は出来なかったというの
が今の常識であるまさに最先端ともいえる文化的生活が営まれていた日本であったこと
が、考古学的に実証されている。では、同じ時代の朝鮮半島はどうだったかというと、
いまから1万年前から5千年前までの5千年間(一説には一万2千年前から5千年前の
7千年間)もの間、人類の痕跡が全くない。遺跡がないということは、そこに人が住ん
でいなかった。住めなかった。ということだ原因は2つある。一つは寒さであり一つは
火山活動であると考えられる。こうして半々の女系系若しくは男系のDNAがあるが、
通常どちらかに偏って存在する。それは男系社会に戦いがあるからだ。そして他の周辺
国とのDNAとの比較で殆どの歴史が解明される。ところが韓国に至っては異常がある
。DNA、RNAを分析した結果、220万個以上の新しいゲノム変異が見つかったと
、ソウル大学医科大学遺伝体医学研究所とマクローゼン生命科学研究所が、世界的な学
術誌ネイチャージェネティクスで発表しているのだ。今回の研究は遺伝疾患のない韓国
人18人(男性11人、女性7人)のゲノム(全遺伝情報)を分析した。韓国人18人
からは、950万個以上の変異(遺伝子を構成する塩基配列の違い)が確認され、うち
220万個は今回始めて発見された。更にこのうちの約120万個は、韓国人の10%
以上が有していることが分かった。このDNA・RNA配列異常は歴史には合致する。

651: 名無しさんAA:17/10/09 12:14
 ソウル大学医科大学遺伝体医学研究所のソ・ジョンソン教授は、「民族はそれぞれ生
きてきた環境に適応するため、固有の遺伝子変異を持っている」とし、「今回の論文は
ヨーロッパ人とは違う韓民族の遺伝体変異を体系的に整理し、ヨーロッパ人が中心だっ
たこれまでの遺伝子研究の限界を指摘した点で意味がある」と話した。韓国メディアは
、韓国人のゲノム分析を通じ、人種間の多様性が予想よりも大きいことが分かったとし
、韓国人をはじめとするアジア人のゲノム情報を集め、アジア人に的を絞った医学研究
が必要との見方を示した。がこの理由がフン族にある事は誰も思っていないだろう。そ
もそも漢民族と言うのは中国全土を覆う程の民族では無かった。だがユダヤと同じ様に
漢字を使い中国語を使えば誰でも漢人となれた。つまり日本国内でも、東京に産まれれ
東京人、九州や北海道のご出身では九州人と言う位の事だ。陸続きの頻繁な往来のある
で中では地域や人種とはそういう者だった。更に支那と言う言葉は差別でも何でもない
自ら言った中華の言葉が英名チャイナの日本名的語源に他ならない。歴代の支那の王朝
は、紀元前に成立した前漢以外は、すべて外来王朝である。最初に支那を統一した隋は
、鮮卑(せんぴ)系の遊牧騎馬民族が建てた王朝で、隋という国号の文字は「祭りの肉
の余り」という意味の漢字である、即ち食い尽くした残りの骨と言ういかにも肉食の遊
牧民らしい国名なのだ。骨の髄と言うのに似ているがある意味合っている。唐(とう)
も「大きな口」という意味で、大人口の食堂とされ朝貢は口に捧げた食物であった。こ
れも鮮卑系民族だった。宋(そう)も皇帝は趙氏の一族で、これまた遊牧民族系です。
元(げん)が、モンゴルの遊牧民王朝であることは、承知の事実であろう。明(みん)
は、初めて漢族である安徽省の貧農の末子、朱元璋(しゅげんしょう、漢族)が建国し
た国だったが、この時代には、国の北は北元(モンゴル族)と後金(ツングース)によ
って征圧され、度重なる遊牧民族の侵入で常に国が危機状態に置かれていたわけで、こ
れにより紫禁城の北京はある意味南と北の往来を一方的に管理して摩擦を避ける関所の
役割の街だった。それはとても統一支那王朝とは言い難く、実際、国土の中枢部を遊牧
民族に奪われていた中だから辛亥革命や世界大戦が起こったのだ。こうして常に外来の
皇帝が君臨した中国は、支那の土着民である漢族や、チベットウイグルなどの周辺諸族
を、平等に下に従えていた王朝だった。がこの中華の並びに異を唱えたのが他ならぬ漢
民族に同化帰化した漢人だった。だが彼らが力がない為に政変ごとに北に追いやられた
。ついに既存の女真族(満州族)が建てた王朝を建てると、更に追いやられて女真族>
漢族>それ以外の諸族と言う序列を作った。こうして本家漢民族の抵抗や反抗に会いな
がらも清王朝は建てられた。

652: 名無しさんAA:17/10/09 12:15
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 300-----------

こうして建てられた王朝はインドに倣った差別主義を用い更に共産化の波も受けていた
。古代の支那では朝鮮を「糞族(わいぞく)」と呼ぶ。日本は倭で、これは背の低い人
という意味の漢字で、朝鮮族を糞尿を意味する「糞」という漢字を当てられたのは、古
代の朝鮮半島の中部から北部に住む人々だけです。「汚」という漢字と結びついている
理由はその生活形態にあったからだ。今でもツングース族は殆どがモンゴル族の風習や
その動物解体・尿糞燃料・節水飲血の習慣そのままにもっと北に住み着いている。それ
は本来平和で戦いから逃げ延びて来た人々の群れだったのだ。尼港事件の尼港は185
0年に(ニコラエフスク港)建設され、ロシアの極東開港場として最古のものである.
とされる。1850年は日本では海賊が日本列島周辺に現れ 佐賀藩で反射炉が築かれ
る時代だ。江戸時代末期の黒船来航3年前である。つまりそれまではロシア皇帝はロシ
アが何処まであるのかは知らなかった。というのもそれこそが「フン族」の地域だった
からだ。「黄禍論」で言う黄色人種の禍はこの人種によってもたらされていた。この糞
族は −40℃の寒さ故に糞尿を外に出さない。家の中で行う。−40℃では雑菌も繁
殖しにくく 乳酸菌のつく干し肉が食事の殆どだった。しかしロシア国内に異変が起き
た。森林が荒されトナカイの食べるコケが無くなったのだ。その上に大陸横断鉄道建設
には多くの人の肉さえ供与された。この人達は管理がないまま帝政ロシアでトナカイを
ロシア内の軍隊に強制供給させられていた。だが帝政ロシアまでは良かったもののその
後のトロッキー革命の白ロシア軍や共産革命の赤軍更にパルチザンと没収の上追われる
と言う悲惨さがあった。その中に革命によって政権による政治犯の解放に囚人の獄中人
解放が行われ多くの死刑囚や労役因などが解放され自ずとパルチザンとなった。191
8年に尼港事件が起こる頃は、ニコラエフスクにも赤軍が進駐し、ソビエト政権が成立
していた。しかし赤軍は、当時ニコラエフスクはサハリン州に含まれていたがこの町で
全体は300人ほどの少数にすぎず、日本軍の上陸によって追われ、やがてロシア海軍
提督アレクサンドル・コルチャークによる臨時全ロシア政府に代わった経緯があった。
此処にいた先住民族からのニコラエフスクの支配階層市民102名が日本軍を呼んでい
た。それは江戸時代伊能忠敬の樺太探検でも樺太アイヌと違うイヌイット族に松前藩な
どは、古くから鹿の皮や熊の胆など物々交換の場所として数軒の家がある村ではあった


653: 名無しさんAA:17/10/09 12:35

陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 301-----------

ロシア地方政府は港発展策としてユダヤ人にロシア人と同様に土地家屋の私有権を与え
たことから有産階級の大部分はユダヤ人によって構成されていた。ロシア革命の進展に
より、ニコラエフスクは治安が悪くなり白昼でも強盗が行われ、少しでも金を持ってい
そうな者はピストルで射殺されたり、銀行も金品を強奪されることから、イギリス、ア
メリカ、日本の銀行に依頼して預金替がされたり、島田商会が預金依頼されるほどであ
った。漁業を営んでいたユダヤ人の資産家たちは革命によって購買組合や労働者に業を
奪われるようになりウラジオストクに逃れる者も少なくなかった。とされる。日本側に
も信頼があり「尼港市民と内外居留民(イギリス人などもいた)が日本海軍陸戦隊の上
陸を請願した」と記されている。尼港とその周辺地域では、白衛軍系の守備隊が治安維
持にあたっていた。1919年の夏には将校以下350人ほどの人数がおり、日本軍と
協力していた。とある。中国艦隊のニコラエフスク入港までには、紆余曲折があった。
入港直前の8月には内満州において日中両軍が衝突する寛城子事件が起きていた。当時
、日本は北京政府と日支共同防敵軍事協定を結んでおり、中国は連合国の一員として、
巡洋艦海容をウラジオストクに派遣していた。北京政府は、ロシア側が日本の艦船のア
ムール川航行を黙認しているにもかかわらず、中国船の航行を認めないことはアイグン
条約に反するとして交渉していたが、ロシア側は認めず、中国側は、日本がロシアにそ
うさせているのではないか、と疑っていた。北京政府は、日、米、英、仏各国に、ロシ
ア側との仲介を依頼したが、アメリカをのぞく各国の反応は冷淡であり、中国側は、日
本がこの問題のイニシャティブをとっているとの確信を強めた。一方、ウラジオストク
の日本全権は、この問題に日本が関係する意志がないことを中国側に明言し、中国艦隊
のニコラエフスクでの越冬について、コルチャーク政権にとりなした。しかし、中国の
新聞は日本の航行妨害を書き立てているとして、10月1日、北京の小幡酉吉公使は、
北京政府に抗議している。ところがこの凄惨で陰湿で悪質な事件は前後して80件以上
も繰り返される。又本国ソ連国内でも大きく事件は起こっていた。そこで国際旅団がで
きた。要は武器や資金を提供するから暴れるなら外でやってくれ。と言う政策だ


654: 名無しさんAA:17/10/09 12:35

。こう
して日露戦争前後から近年までこの欠損遺伝子の末裔達の犯罪は続く。彼ら達の中に、
ユダヤ教から派生した共産主義そしてそれから派生した大国啓蒙がでて更に差別や格差
や貧困をより大きくしている事実は 隠しようがない。こうして日露戦争の頃まで暴徒
が中国からの義勇兵がロシア軍として大陸で暴れていたのが 日韓併合以降は日本軍と
して暴れ始めていた。第二次世界大戦時代に入ると中国軍として暴れ始めた。つまり、
朝鮮半島を或いは朝鮮人を組み込んだ国は 次々に汚名の中に戦争に入るのだった。




655: 名無しさんAA:17/10/09 12:36
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 302-----------

太平洋戦争には 殆ど無視されていたが 天皇ははっきりと宣戦布告の詔書を出した。
それは国際間条約の上の正しく戦争をしたいと言う気持ちからで米国では日本大使とは
会わなかったとされるが日本では米英加豪4ヵ国の駐日大使と会見し手渡ししているの
だった。

宣戦の詔書(現代語訳)

 天の助けにより万世一系の皇位を受け継いできた大日本帝国の天皇が、忠誠にして武勇である国民に示す。
 私はここに米国及び英国に対し、戦いを宣言する。陸海の将兵は全力をふるって戦いに当たり、武官や役人たちはその職務に励みつとめ、国民もそれぞれの本分をつくし心を一つにし、国家の総力を挙げて、間違いなく戦いの目的を達成するよう期してほしい。
 そもそも、東アジアの安定を確保し、世界の平和に寄与することは、明治天皇から大正天皇へと受け継がれてきた将来への配慮であり、私が常に心に留めてきたことである。そして、各国との友好を大切にし、すべての国がともに栄える喜びを共有することもまた、日本が常に外交の要諦(ようてい)としてきたことである。今、不幸にして米英両国と戦いを始めるに至ったことは、実にやむを得ぬことであり、私の意志であろうはずがない。
 中華民国の政府が先に、日本の真意を理解せず、みだりに事を構え、東亜の平和をかき乱し、ついに日本に戦いを始めさせてから4年余りがたった。幸い、国民政府は新たに生まれ変わり、日本はこれ(汪兆銘政府)と善隣友好の関係を結び、ともに提携するようになった。ところが、重慶に残存する政権(蒋介石政府)は米国、英国の庇護(ひご)に期待して仲間内の争いをやめようとしない。



656: 名無しさんAA:17/10/09 12:40


。こう
して日露戦争前後から近年までこの欠損遺伝子の末裔達の犯罪は続く。彼ら達の中に、
ユダヤ教から派生した共産主義そしてそれから派生した大国啓蒙がでて更に差別や格差
や貧困をより大きくしている事実は 隠しようがない。こうして日露戦争の頃まで暴徒
が中国からの義勇兵がロシア軍として大陸で暴れていたのが 日韓併合以降は日本軍と
して暴れ始めていた。第二次世界大戦時代に入ると中国軍として暴れ始めた。つまり、
朝鮮半島を或いは朝鮮人を組み込んだ国は 次々に汚名の中に戦争に入るのだった。





657: 名無しさんAA:17/10/09 12:40
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 302-----------

太平洋戦争には 殆ど無視されていたが 天皇ははっきりと宣戦布告の詔書を出した。
それは国際間条約の上の正しく戦争をしたいと言う気持ちからで米国では日本大使とは
会わなかったとされるが日本では米英加豪4ヵ国の駐日大使と会見し手渡ししているの
だった。

宣戦の詔書(現代語訳)

 天の助けにより万世一系の皇位を受け継いできた大日本帝国の天皇が、忠誠にして武
勇である国民に示す。 私はここに米国及び英国に対し、戦いを宣言する。陸海の将兵
は全力をふるって戦いに当たり、武官や役人たちはその職務に励みつとめ、国民もそれ
ぞれの本分をつくし心を一つにし、国家の総力を挙げて、間違いなく戦いの目的を達成
するよう期してほしい。
 そもそも、東アジアの安定を確保し、世界の平和に寄与することは、明治天皇から大
正天皇へと受け継がれてきた将来への配慮であり、私が常に心に留めてきたことである
。そして、各国との友好を大切にし、すべての国がともに栄える喜びを共有することも
また、日本が常に外交の要諦(ようてい)としてきたことである。今、不幸にして米英両
国と戦いを始めるに至ったことは、実にやむを得ぬことであり、私の意志であろうはず
がない。
 中華民国の政府が先に、日本の真意を理解せず、みだりに事を構え、東亜の平和をか
き乱し、ついに日本に戦いを始めさせてから4年余りがたった。幸い、国民政府は新た
に生まれ変わり、日本はこれ(汪兆銘政府)と善隣友好の関係を結び、ともに提携する
ようになった。ところが、重慶に残存する政権(蒋介石政府)は米国、英国の庇護(ひご
)に期待して仲間内の争いをやめようとしない。


658: 名無しさんAA:17/10/09 12:41


 米英両国はこの残存政権を支援し、東亜の乱を助長し、平和の美名にかくれて東洋を
制覇しようという誤った望みを持とうとしている。そればかりか、その同盟国に働きか
けて日本の周辺に軍備を増強して我々に挑戦し、さらには日本の平和的な通商にあらゆ
る妨害を加え、ついに経済断交まで行い、日本の生存に重大な脅威を与えている。
 私は政府に事態を平和裏に解決させようとし、長く耐えてきたが、彼らはまったく互
譲の精神はなく、いたずらに解決を延ばそうとし、経済上や軍事上の脅威を一段と増し
、日本を屈服させようとしている。事態がこのまま推移すると、東亜の安定についての
日本の長年の努力はことごとく水泡に帰し、日本の存立も危機に瀕してくる。ここに至
って、日本は自らの存立と自衛のために蹶然(けつぜん)と起ち、すべての障害を打ち破
るほかないのである。
 皇室の祖先や歴代の天皇が、天から見守ってくださるであろう。私は国民の忠誠や武
勇を信じ、歴代の天皇の遺業をおし広め、速やかに禍根を取り除き、東亜に永遠の平和
を確立し、日本の光栄を守ることを期そうとするのである。
御 名 御 璽
 昭和十六年十二月八日              各国務大臣副書



日本時間の12月8日11時45分、日本政府は、米英加豪4ヵ国の駐日大使を呼び 「 宣戦
布告書 」 を手交した。
肝心のアメリカは、第2次世界大戦以降、21回もの戦争もしくは武力行使を仕掛けま
したが、戦争開始前に宣戦布告書を手交したなどとは、ついぞ聞いたことがありません
。日本はこの頃すら「卑怯」「不義」を嫌う まともな果し合い民族だったのだ。




659: 名無しさんAA:17/10/09 12:47


 米英両国はこの残存政権を支援し、東亜の乱を助長し、平和の美名にかくれて東洋を
制覇しようという誤った望みを持とうとしている。そればかりか、その同盟国に働きか
けて日本の周辺に軍備を増強して我々に挑戦し、さらには日本の平和的な通商にあらゆ
る妨害を加え、ついに経済断交まで行い、日本の生存に重大な脅威を与えている。
 私は政府に事態を平和裏に解決させようとし、長く耐えてきたが、彼らはまったく互
譲の精神はなく、いたずらに解決を延ばそうとし、経済上や軍事上の脅威を一段と増し
、日本を屈服させようとしている。事態がこのまま推移すると、東亜の安定についての
日本の長年の努力はことごとく水泡に帰し、日本の存立も危機に瀕してくる。ここに至
って、日本は自らの存立と自衛のために蹶然(けつぜん)と起ち、すべての障害を打ち破
るほかないのである。
 皇室の祖先や歴代の天皇が、天から見守ってくださるであろう。私は国民の忠誠や武
勇を信じ、歴代の天皇の遺業をおし広め、速やかに禍根を取り除き、東亜に永遠の平和
を確立し、日本の光栄を守ることを期そうとするのである。
御 名 御 璽
 昭和十六年十二月八日              各国務大臣副書



日本時間の12月8日11時45分、日本政府は、米英加豪4ヵ国の駐日大使を呼び 「 宣戦
布告書 」 を手交した。
肝心のアメリカは、第2次世界大戦以降、21回もの戦争もしくは武力行使を仕掛けま
したが、戦争開始前に宣戦布告書を手交したなどとは、ついぞ聞いたことがありません
。日本はこの頃すら「卑怯」「不義」を嫌う まともな果し合い民族だったのだ。




660: 名無しさんAA:17/10/09 12:47
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 303-----------

 この戦争に関して間違えたのは 軍部に経済を任せた経営者達にあった。そも後藤も
台湾総督府民政長官ののち満鉄初代総裁になったが かれは兵士や藩閥の政治家では無
かった為にその権力の執着についての認識が少なかった。後藤の阿片政策には、後藤自
身が、杉山茂丸らをパートナーとして阿片利権・裏社会との関わりを深めていったとい
う側面はあった。さらに後藤はまた、台湾総督府の阿片吸食者に売る阿片煙膏のモルヒ
ネ含有量を極秘裡に減らして患者を減らす事が、阿片専売収入増加を図るために行った
と誤解された。より高い阿片煙膏を売り付けることを行い、その秘密を守り通すため、
総督府専売局が、後藤と癒着した星製薬以外の粗製モルヒネの分割払い下げ運動を強硬
に拒んだ。この事で、星製薬をめぐる疑獄事件である台湾阿片事件が発生した。星一は
星新一の父親だが杉山茂丸の書生の出身である。杉山茂丸は戦国大名・龍造寺隆信の末
裔とされる。長男は作家の夢野久作。孫はインド緑化の父と言われる杉山龍丸である。


661: 名無しさんAA:17/10/09 12:47

詩人の杉山参緑。「夢野久作と杉山三代研究会」の杉山満丸は曾孫。戯号として其日庵
(そのひあん)として余生を送った。自らは官職も議席も持たない在野の浪人であった
が、山縣有朋・松方正義・井上馨・桂太郎・児玉源太郎・後藤新平・寺内正毅らの参謀
役務めて、政界の黒幕などと呼ばれた。元々天神近くに産まれたが早くから黒田藩が西
洋化した為土地を追われ一家は芦屋村で農業を営む生活を始めたがうまくいかず貧困生
活を送る事になった。その後も筑紫郡山家や朝倉郡夜須村などを転住し父と共に寺子屋
を開き貧困の中で平民に学問を授ける奉仕活動と共に生活してきた。四書五経をもとに
明治11年(1878年)敬止義塾を筑前町にひらき定住が終わる頃民約論や仏蘭西革命史な
どで政治に目覚め、明治13年(1880年)、諸国巡遊に旅立ち、初めて東京へ行き、山岡
鉄舟の門をくぐる。この事で後藤象二郎や大井憲太郎などと知遇を得た。滞京一年半で
帰郷するが、明治17年、熊本の佐々友房から旅費を借りて上京、伊藤博文を悪政の根源
、「脱亜入欧」、「藩閥の巨魁」と目してその暗殺を企て、山岡鉄舟の紹介状を持って
面会に成功するが、逆に、お互い国家のために身を大事にと説伏されて断念した経緯を
持つ。この時の「反脱亜入欧思想」の運動こそが世間の中の流行っていた思想であった
。こうして伊藤暗殺を果たせなかった杉山は、官憲の追及を避けて北海道に渡るなど、
各地を転々としていたが同郷の頭山満に出会い、心服して以後行動を共にした。頭山と
ともに福岡に戻った杉山は、玄洋社の経済基盤確立のため、頭山に筑豊炭田の取得を勧
め、自らその資金調達に奔走、そのために当時元老院議官であった安場保和を福岡県知
事に就任させた。こうして明治21年(1888年)九州鉄道を創立した。


662: 名無しさんAA:17/10/09 12:49
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 304-----------

 九州鉄道を創立したが、この時杉山は同郷の先輩である金子堅太郎の知遇を得て初代
社長に英学者の高橋新吉を招いている。またこれにより、東京日日新聞主筆の朝比奈知
泉と知り合い「暢気倶楽部」と呼ばれる会合を持つようになって伊藤博文・桂太郎・児
玉源太郎・後藤新平と人脈を広げた。渡米して、世界の金融王J・P・モルガンと単独面
会し、かつ巨額の借款を約定することに成功した。この事が日本を狂わせる。モルガン
はシフとの競争の中にあった。その頃玄洋社は日本のメディア界の長ではあった。そし
て蔓延する「反脱亜入欧思想」から「脱亜入欧思想」に果敢に取り組んだとも言える。
こうして後藤新平が台湾時代にアメリカから新渡戸稲造を招き、生涯の腹心中村是公と
交じり杉山茂丸の資本で大いに活躍した。中村是公は満州時代も本社の造営、埠頭制度
、港湾土木、倉庫施設、大連市街その他付属地の経営、ホテル事業、病院設備、学校創
立、満鉄本線改修、安奉鉄道敷設、上海・営口・安東の各埠頭造営、海運事業創始、電
鉄・瓦斯の施設、中央と各地の試験所開始、公所・地方事務所の設置、各種工場、公園
、図書館、満蒙産業調査機関、その他いろいろの施設を是公の敏腕によつて作りだされ
た。が関東大震災が彼らを一変させた。昭和に入り後藤は赤い男爵と呼ばれ名声を得て
いた。ソ連を訪問しスターリンと会見、国賓待遇を受ける。少年団日本連盟会長として
渡航したのだが、その際、少年達1人々が1粒を送った米による握り飯を泣きながら食
べ渡航したという。日本ボーイスカウトの面々がソ連との仲介を欲しての声だったのだ
。後の満鉄総裁・松岡洋右が日ソ中立条約締結に訪ソした際その後藤新平の名声を利用
したと言われる。貴族院勅選議員となり、終生在籍した。晩年は「政治の倫理化」を唱
え各地を遊説した。後藤が倒れる日に三島に残した言葉は「よく聞け、金を残して死ぬ
者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」で
あったという。日露戦争後、日本が満州を獲得して、三井物産が大きく業績を発展させ
た部門は鉱物資源よりは農作物大豆であった。“満州”は、世界的な大豆の産地でそれ
を三井物産がほとんど独占的に買い占め、その油からマーガリンを造ってヨーロッパ諸
国に輸出し、油粕は国内で肥料として売ることで大いに儲かっていました。だが張作霖
が買い付けに横やりを入れソ連経由の売り場を開いた。そこに政変の満州国建国があっ
たのだ。




663: 名無しさんAA:17/10/10 10:32 ID:SB6
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 305-----------

 こうして満州国土は関東軍の物となった事に悲劇があった。遼東半島・山東半島・満
州そして上海租界地では、大日本陸軍の特務部が、治外法権の特権を利用して阿片の密
売を公然と進めた。医薬品や中毒是正の目的とは無関係となり、中国人相手の阿片・麻
薬販売の利益を得ることと、中国民衆の阿片中毒による弱体化が主目的となったのであ
る。このとき陸海軍の手先として活躍したのが笹川良一、児玉誉士夫たちだ。戦後右派
の黒幕となり日本を動かしていく曲者たちは阿片で莫大な財産を手中にする。「自民湯
なんぞ阿片の金の魔厄党」と言われたのである。現実に1939、陸軍省軍事課長、岩
畔豪雄を中心に、三井、三菱、大倉財閥の出資で満州に「昭和通商」という商社が作ら
れ、主な業務はアヘン密売で世界を席巻した。実働部隊として岸信介、佐藤栄作、池田
勇人、吉田茂がアヘン密売に関与し、満州国の運営資金をアヘン売買で調達した。又小
泉総理の父、祖父が、第二次大戦中、中国侵略を進めた 大政翼賛会の政治家であり、
安倍晋三官房長官の祖父が、中国侵略の中心人物、岸信介であり、麻生太郎外務大臣の
祖父が、中国侵略軍の中核に居た吉田茂である。という家系の繋がりもあった。基本は
岸信介が1936年10月に「満州国国務院実業部総務司長」と言う満州国の、国政の
最高機関に就任した事だった。満州時代に関東軍参謀長の東条英機や日産コンツェルン
の総帥鮎川義介ら軍部や財界要人と関係を結んでいった事で、42年前の1894年の
日清戦争で勝利した日本の内務省衛生局長だった後藤新平が、「満州経営の資金調達の
ため、アヘンを国策として売買すべし」と主張して日本の国策としてモルヒネ生産した
言葉が裏目に出た結果だった。後藤は、後に満鉄初代総裁になって終了に向けて活動を
起こそうとしたが東京大震災はそれを止めさせた。こうして日本政府による阿片販売の
実態は国際問題とされ、国際連盟の議題となってしまったのだ。



664: 名無しさんAA:17/10/10 10:33

「天津の日本人居留地
は、今や世界のヘロイン製造、及び阿片喫煙の神経中枢として知られている。洋行ある
いは外国商会名で経営される阿片あるいはヘロイン魔窟の数はまさしく千を超えている
。隠れた穴場のみならず、白色麻薬を公然販売するホテル店舗、その他の建物が数百あ
る。……中国人・ロシア人及び外国人が汚れた板の上に横たわっており……魔窟の第1
室には朝鮮人の女が。ヘロインと不純物とを混合する仕事に忙しい。……注射は、汚い
注射器で、時には自製の物でなされる。針は決して洗ったり、消毒したり、取り替える
ことはない。梅毒が自由に針を介して一人の阿片常用者から他の者へ蔓延する。私は、
胸一面が腐って壊疽のような肉塊をなしており、拳全部を差し込むことができるような
穴が体にある阿片常用者を幾人も見たことがある。こんな腐敗しつつある辛うじて生命
を保っている死体に、麻酔剤の注射器を次から次へと差し込むのである。(国際連盟、
阿片諮問委員会議事録よりエジプト代表ラッセル・パッシャの陳述記録)』まさに、列
車(列者)の五等(後藤)はしんぺい(新平)でなんねい。と言われた様になった。こ
うしてその後戦後に阿片による莫大な金が岸に動いたことは容易に想像できる。



665: 名無しさんAA:17/10/10 10:34
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 306-----------

 こうして久原房之助が作った資産は 人脈だったのかも知れない。樺太開発で得た様
々知恵や機材はそのまま、アメリカの策略に乗ったまま 小村寿太郎のロシア側の全権
ウィッテと交渉しポーツマス条約を調印したもののソ連は全く折れてなかった。この交
渉に際しても出かける時も、中立国アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領に向けて
「直接かつ全然一己の発意により」日露両国間の講和を斡旋するよう求め、命を受けた
高平は翌日「中立の友誼的斡旋」を大統領に申し入れていた。だが米国の国内は複雑だ
った。中国の門戸開放を願うとアメリカしては、日本とロシアの双方が圧倒的な勝利を
収めて満州を独占する事を避ける為の調停であり、このアメリカの立場と、同じ白人国
家の国内の革命運動抑圧のため戦争終結を望むロシアの要望に答えただけで、戦力限界
と解っていてこれ超えて勝利を確実にしたい日本の希望が一致しただけの話のであった
。ルーズベルトは交渉を有利に進めるためには日本は樺太(サハリン)に軍を派遣して
同地を占領すべきだと意見を示唆しているがそれは油田の発見を知っていたからだった
。小村はまた、明らかにマスメディアの重要性を認識していなかった。ポースマスとい
う異様な場所を会議場所とされた事もあるが、小村自身もマスメディアに対し秘密主義
を貫いていた。現地の新聞にはロシア側が次々と提供した情報が憶測とともに掲載され
それは由々しき問題ともなっている事も解らなかった。モルガン系白人のルーズベルト
のモンロー主義を貫こうとする話にならない姿だった。こうして賠償金問題は棚上げと
なってしまったのだ。そもそもポースマスでの会議そのものがパン・アメリカン主義に
国民は騒ぎ、先のマッキンリー大統領が無政府社会主義者の暗殺があったため副大統領
の彼が大統領になっていたのだ。マッキンリー時代には1893年恐慌後のあおりを受けて
回復に向けて国を指導する中にあった。その中でキューバでの米西戦争が勃発した。こ
の収拾にフィリピンを絡めて賠償金を払い1898年のパリ協定を結ぶ事になった。1898年
にハワイ共和国を併合したが、この時の1893年の暴動では、日本の巡洋艦の浪速と
金剛がホノルルに入り、アメリカのハワイ王朝乗っ取りの際のアメリカの横暴を、牽制
した。この事でアメリカはハワイ併合を断念し、ハワイ共和国とした。また翌年寄港し
、同共和国の一周年を祝う礼砲要請には、艦長の東郷平八郎は断り、他国の艦船もそれ
に倣ったと言う経緯があった。その模様を1897年「できることなら今すぐにハワイ
を併合し、ニカラグア運河(パナマ運河)を完成させ、日本を凌ぐ軍艦を建造したい。
私は日本の脅威をひしひしと感じている」と友人に書き送っている。


666: 名無しさんAA:17/10/10 10:34
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 307-----------

 元々日露戦争宣戦布告と共にハーバード時代にルーズベルトと面識がある金子堅太郎
を伊藤博文は説得をして同月末出帆の船で渡米させていた。ルーズベルト大統領に常に
接触し、戦争遂行を有利に進めるべく日本の広報外交を展開していた。と言われている
。1905年の、ポーツマス会議も第7回本会議においての、償金問題と樺太割譲問題
で日露双方の意見が対立して交渉が暗礁に乗り上げた。そのときに、外相の小村壽太郎
全権より依頼を受けて、金子堅太郎の助力でルーズベルト大統領と会見して、やっとの
事講和の成立がなったのだった。ルーズベルトは共和党を「進歩」の方向に動かそうと
し、当時野放しに拡大し鉄道を支配していたモルガンを反トラストで規制し、独禁法の
制定や企業規制を増やした。彼は国内の課題を説明するため「スクエア・ディール」と
いう句を作り出した。それは日本語的に「公平な扱い」と言う言葉で公共の利益を擁護
する立場から政府の社会的機能や権限を大幅に増大させる。と言う意味だった。そして
、一般市民がその政策の下で正当な分け前を得ることができると強調した。この事で、
労働争議や独占企業や運賃規制や薬品規制を指導した。又ルーズベルトは自然保護運動
を支援しながらもパナマ運河の完成の後ろ盾となったりしている。こうしてルーズベル
トはその性格からも日本の脅威を日増しに募っていたと言える。従って、樺太権益での
油田の権益に並びに海産物の権益に大きな問題がある事も解っていた。ロシア側には、
食糧不足でありバクー油田の抗争がアメリカと起こっていたからだ。そして失意の合議
によって、こうして久原房之助が作った資産はロシアの囲む中での権益となった。勿論
その後早速にソ連領内に於いてアメリカ資本によって早速ソ連が石油を掘り当てた事は
当然だった。だが第二次世界大戦でシェル石油を日本側に送らない理由となった。それ
はJPモルガンもソ連も当初石油タンカーを持ち合わせて居なかった為だった。この海
の波は凄まじくその上冬場には動けなかった。元々久原は江戸後期日本で番付6番目の
藤田財閥の共同投資家の兄の子として生まれていた。藤田組は小坂鉱山の払い下げを受
けてこの鉱山開発に乗り出し銀の生産高が日本一の鉱山となった。実は南部盛岡藩は、
幕府側だったとして13万石に落とされたので70万両の課金によって元の20万石の
藩を保っていた。が既に財政は破綻しいち早く廃藩置県に手をあげ減免してもらってい
た。つまり銀生産は鉱山になく藩の疲弊に要因があった。が此処は商人も多く外国との
接点も頻繁だった。やがて製錬技術が向上すると黒鉱から採れる銅や亜鉛、鉛の生産が
主体となった。その金でインフラ整備を行っていた。


667: 名無しさんAA:17/10/10 10:35
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 308-----------

久原房之助は「ドイツ滞在中の井上馨と組んで、現地で贋札を製造して秘かに持ち込ん
で会社の資金にしようと企てた」と言う藤田組贋札事件が起こっている。当時偽札は絵
を描いても死罪であった。だが少し前の長州閥の山縣有朋が、政商・山城屋和助の汚職
事件に連座した時の様に 薩閥長州閥の争いの中薩摩側は西郷隆盛の戦死や大久保利通
の暗殺と次々に有力者を失い薩摩方に政治力がなかった為か薩摩の謀略か罪は免れてい
る。だがその後彼は、第一次大戦での軍需で鉱山経営を足がかりにして企業を拡大して
、造船業・肥料生産・商社・生命保険を傘下とする久原財閥を形成する。日立製作所、
日産自動車、日立造船、日本鉱業創立の基盤となった久原鉱業所(後の日立銅山)や久
原財閥の総帥として「鉱山王」の異名を取った。第一次世界大戦後の恐慌を機に政界へ
進出。「政界の黒幕・フィクサー」と呼ばれ、右翼に資金を提供して二・二六事件に深
く関与した。戦後はA級戦犯容疑者となり、公職追放となった。
 作家 松本清張は「昭和史発掘」で面白い記述をしている。久原房之助は山口県の資
産家に生れた。その親戚には大阪藤田組の藤田伝三郎がいた。久原の妻の兄は日産の鮎
川義介である。三菱の木村久寿弥太も親戚筋の一人だという。めぐまれた環境である。
久原は若いとき、親戚の藤田組に入り、小坂銅山にやらされた。よく働き、相当な出来
で同僚を圧していた。藤田組をやめ、当時下火だった日立銅山を買ったのが出世のはじ
まりで、日露戦争につづく欧州戦争で、銅で儲ける大当りをした久原商事をつくったま
ではよかったが、そこに欧州戦争後の恐慌が訪れ、たださえ杜撰な経理の彼の会社はあ
えなく崩壊した。それが大正十二年の震災で決定的となった。財界を「食いつめた」後
久原は、成金時代に得意になって貢いでいた同郷の田中義一を頼って政界入りした。「
財界からの夜逃げ同然」とは和田日出吉の表現である。同郷でもあり、旧恩を忘れない
田中は久原を身ぐるみ引きうけ、 いきなり田中内閣の逓信大臣のイスにつけた。 久原
は外務大臣を熱望していたが、さすがに党内幹部が反対したのである。支柱の田中が死
ぬと、久原の人気は下落した。人気が落ちた理由の一つに、彼は数千万円の借財を震災
手形にして政府の肩替りにしたことがあげられている。つまり自分の借金を国民の血税
に肩替りした上、一文も払わなかったのだ。




668: 名無しさんAA:17/10/10 10:36
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 310----------


                 この時久原は政界入りと同時に日立鉱山と久原鉱
業とを義兄の鮎川義介に譲った。それが鮎川の日産財閥の中に日立製作所と日本鉱業と
なって残る。久原の手には資本金一千万円の久原商店と同じく一千万円の久原地所部と
があるが、この全財産二千万円も資産だが負債だかわからなかったという。「彼はそれ
が負債であろが無かろうが問題ではない。いか程の負債も一時にして資産にする力をも
っている彼。株をやる彼。政治と株を結託することによって金をつくり出す彼」(和田
日出吉「二・二六以後」昭和十二年刊)株をやる以外に久原の金儲けの道はない。相場
は世間が安定しているとウマ味がない。物情騒然としたほうが変動を大きくさせ儲けの
機会が多い。久原はわずかな手兵で乱をつくってゆく。「乱世の人物」といわれる所以
である。かつて久原商事には一癖も二癖もある社員ばかりを集めて、結局彼らが会社を
食い倒したと同じように、政治家久原の周囲には奇態な子分ばかりが集った。代議士と
しては津雲国利、西方利馬な七、八名がいる。森恪に死なれて行きどころのなくなった
岡本一巳という放浪代議士もくる。久原は岡本を使い、反対派の鈴木総裁の片腕鳩山一
郎が樺太工業から五万円もらった一件を議会で暴露させ、鳩山を追い落した。乱を好む
久原が、政治に介入してきた軍部に近づくのは当然の行動だった。彼は、「ファッショ
排撃」の声をあげる政界とは逆に軍に結合して行った。久原が得意になってぶっていた
「皇道経済」とは神武天皇以来の精神を経済に生かすという神がかったもので、いかに
も軍部に気にいられそうな題目だった。----と書いている。
ここで注目すべきは、「反対派の鈴木総裁の片腕鳩山一郎が樺太工業から五万円もらっ
た一件を議会で暴露させ、鳩山を追い落した。」と言う一面である。1913年に国内
に幾つも手掛けていた小規模の製紙会社が大手三井資本で国内針葉樹が手に入らない為
さらなる事業拡大を目的に樺太への進出を目指し作った製紙会社だった。このころには
王子製紙・富士製紙の大手2社は北海道に進出し、豊富な針葉樹資源を基とする洋紙の
量産体制を敷いていて既にこれまでの製紙会社を圧迫していたのだ。鈴木内閣は犬養毅
の暗殺で後継としての暫定総理だった。その時の鳩山は恐らく既に「友愛会」である、
コミンテルや国際旅団との繋がりがあって樺太のソ連とは繋がりがあったのだろう。更
にこの樺太には因縁があったと言える。

669: 名無しさんAA:17/10/10 10:38
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 311-----------

久春古丹(クシュンコタン)は、江戸時代から明治初期にかけて用いられた樺太の地名
である。アイヌ語のkus-un-kotan(対岸・にある・村)に由来するとされる。九春古丹
とも当て字された。後の大泊町楠渓町。市街地中央にある台地・神楽岡の北に位置する
。江戸時代には松前藩の穴陣屋があった。また、交易の拠点で北前船も寄港し、松前藩
の出先機関として運上屋も置かれていた。樺太アイヌと日本との交流港であり、樺太の
この南の千歳湾の奥では寒い冬でも寄港出来た唯一の港と言える。江戸時代末期では、
ロシアも極東経営に乗り出し度々ロシア人の襲撃に遭っていた。明治時代に入ってから
は江戸時代の幕府がロシア政府と結んだ日露和親条約で日露混住の地とされ、王政復古
の後は箱館裁判所と箱館府の支配を経て、開拓使の管轄となった。開拓使とは政府の出
先機関の官庁を指し、樺太に政庁を作った状態で推移していた。裁判所時代から現地の
行政は幕府直轄の岡本監輔(けんすけ)が執り、明治政府になり明治2年(1869年)か
ら移住した日本人入植者約5百人を指導していた。岡本は、樺太移住者に無税の条件と
当面の食糧供給などの厚遇を用意したが、定住は容易に進まなかった。だがロシア側は
違っていた何千人単位の入植者を入れたのだった。それも不法者が多かった。というの
もウラジオストックなどにトルコやチェコ人を労務者として政治犯を入植させ、この地
にはそこにいて反対するイルーツク人やシベリアアイヌを入植させたからだ。この循環
政策は以外にも好循環でウラジオストックの港湾建設にはうまくいった。ユダヤ人であ
る為の貴重な技術者が大量にいたし又樺太も寒さに耐えた民族の知恵があったからだ。
このシベリアアイヌは租税の意識が無かっただけで事件は起こっていたが比較的平穏で
あった。終戦後も約4年、戦後の樺太に残っていた人の話ではロシア人の入植者は家こ
そ無かったが彼らのの毛皮の防寒衣のその防寒性能は当時の日本人の持っていた毛布の
様な防寒着とは比較にならなかったと言う。この間ロシア側の移住と開発の速度は日本
側をかなり上回り、さらに日本人との紛争も頻発した。これには、現地の岡本が日露和
親条約の効力を否定し、樺太を日本固有の領土とみなして、ロシア側の開発を原則拒否
する態度を取っていたことにも原因があったという。岡本の考えは、日露和親条約は条
約締結権のない徳川家の家臣が結んだもので、天皇親政の時代には改めて国境を決定し
なければならないという考えもあった。この見解は、幕府時代の条約を引き継いだとい
う認識に立つ日本政府と異なってはいる。しかしこの異常な入植者の流入に驚きすぐさ
ま北海道の函館に伝えた。


670: 名無しさんAA:17/10/10 10:40
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 312-----------

 コタンは日本語の当て字は古丹とつけているが意味合いから言えば戸単と書くべきで
あろう。つまりコタンはアイヌ語で集落を意味し彼らの集落は10戸以上は並ばない。
一般に、狩猟や漁撈など採集により生活している民族は、採集に移動の必要があるため
一箇所に定住しない。しかしアイヌの場合、採集民族ではあるが魚への依存が強かった
ため、一箇所に定住し、なおかつ立地もそれによって決められていた。例えば、サケの
産卵地などの河川沿いに一箇所に移住するなどしていた。コタンの集落は間は大体8km
ほどの間隔で存在して、縄張りを持っていた。コタンの構成要員は、1つまたは複数の
エカシ・イモロと呼ばれる父系の集団の成員であり、その長はコタンコロクル(村を持
つ者)と呼ばれていた。所謂長老である。コタンはそれぞれある一定の地域における、
資源をそのコタン内で平等に共有する権利を持っており、他のコタンの者が別のコタン
の領域を侵すと懲罰に処せられたという。コタンは茅葺の家屋(チセ)、小熊を飼うた
めの檻(ヘペレセッ)、食糧を貯蔵する高床式倉庫(プー)に共同の厠(男用のものが
アシンル、女用のものがメノコル)、さらにイナウを捧げる祭壇(ヌサ)で構成されて
いる。また、コタンの附近にはチャシ(砦のようなもの)があることもあった。とされ
る。そしてこの樺太は言葉こそ通じにくいがやはりアイヌ族だったと言える。ただ冬場
幾人かは氷を伝ってこのツングース族とされる狩猟民がやって来ては居る状態だった。
松前藩では、地勢的に米の収穫が望めないため、藩主が家臣に与える俸禄は石高に基づ
く地方知行の土地の収穫ではなく、いわゆる商場(場所)知行と言う各地の交換市場を
もって主従関係を結んでいた。この制度は、蔵入地以外の蝦夷地及び和人地においての
給地に相当するものとして漁場およびアイヌとの交易地域である商場(場所)を設け、
そこでの交易権を知行として家臣に分与する制度として場所請制を行っていた。家臣の
大半の給地は蝦夷地にあり、その給地内においても採金、鷹待、鮭鱒漁、伐木等の権利
は全て藩主にあった。家臣の知行主に認められていたのは、年1回の自腹で船を仕立て
て交易することのみであった。当然そこに資本力を持つ商人などが松前に出店を置いて
本格的に進出してその商品を買い受けた。知行を持つ家臣は、最初は商人から交易用の
物資や生活費を借りて交易に従事したが、上手く行かずその結果得た商品を商人に渡し
償還するようになり江戸末期はそのまま権利を貸した形となった。だが松前藩預かりと
幕府直轄との間で変遷があるままロシアの襲来を防げないでいた。こうしてそのアイヌ
交易の場所を運上屋と呼ばれ蝦夷地の函館奉行預かりで明治に移行していた。


671: 名無しさんAA:17/10/11 23:27
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 313-----------

当時函館府預かりの岡本監輔だが元は幕末維新期の北方政策に関与した探検家であった
。阿波(徳島県)の医薬家に生まれ、文久3(1863)年から慶応1(1865)年に樺太と蝦夷地を
踏査し樺太北部の状況をはじめて明らかにした人物である。明治1(1868)年2月に侍従
に清水谷公考らを説き,蝦夷地経営の急務を説く建議を朝廷に提出させた。4月,箱館の
裁判所の内国事務局権判事となり官吏となって箱館に在勤する。同年閏4月箱館府権の
判事となり樺太全島の事務を委任され事になった。移民を連れクシュンコタンに至る。
明治2年には開拓判官となるが、政府の樺太政策に不満を持ち辞任した。その後東大の
予備門御用掛、一高講師、台湾総督府国語学校教授などを歴任し京都で没した。明治2
年着任早々に彼は報告する。だが明治政府になって、旧幕時代から北方の重要性を説い
ていた佐賀藩主鍋島直正が函館に就任したが直ぐに次官だった東久世通禧が後を引き継
いで、部下の判官とともに明治2年(1869年)9月に北海道に向かった。箱館府が置か
れていた箱館(函館)は旧・蝦夷地の人口・産業の中心であったが、位置が南に偏りす
ぎているため、その後は北海道の中央部に本庁を設けることになっていた。開拓使の発
足当時、中央政府の財政基盤は弱く、北海道の全域を統治する余力はなかった。その為
諸藩や団体・個人に呼びかけて北海道を分領し開拓させた。樺太では、箱館府の時代か
ら岡本監輔が統治の任にあたっていた。報告により兵士と移民を送りこむロシアに対し
、日本が劣勢に立たされていることに強い危機感を抱いた政府は、明治3年(1870年)
に樺太開拓使を設置し、黒田清隆を開拓使次官にして樺太専務を命じた。樺太を視察し
た黒田は「現状では樺太は3年はもたない」という深刻な報告を行ない、対抗する国力
を充実させるために北海道の開拓に力を入れるべきだと論じた。「北海道開拓振興会」
は樺太を入れ「北振会」としてその寄付資金から油井堀に鉄道にと資材を送った。その
中には新政府の出来たばかりの商社達がいた。玄洋社の杉山茂丸、頭山満、などが山縣
有朋の紹介で動いてくれたからだった。そこに後で福岡県知事になった安場保和がいた



672: 名無しさんAA:17/10/11 23:27
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 314-----------

 彼の建議に従い、明治4年(1871年)8月に10年間一千万円をもって総額とすると
いう大規模予算計画、いわゆる開拓使十年計画が決定された。開拓使は潤沢な予算を用
いて様々な開拓事業を推進したが、広大な範囲でなおも全てを完遂するには不足であり
、測量・道路などの基礎事業を早々に切り上げ、産業育成に重点をおいた。黒田は、北
海道の開拓に難渋する現状では自然条件がいっそう不利な樺太まで手が回らないという
考えを抱いていた。この方針に反対した岡本の辞任もあって、樺太の開拓は進展しなか
った。ところがこの予算によって新たな樺太調査団をして測量や現地調査は細々と行わ
れてはいた。この時石油情報が函館にもたらされてた。黒田清隆が薩摩閥で山縣有朋と
の繋がりからホーレス・ケプロン位しか呼べなかった。ところが同郷の岩崎弥太郎は、
この時三菱の海運事業を興し北海産の海産物にも目をつけていた。三菱の起源は187
0年(明治3年)土佐藩出身の岩崎彌太郎が政府の海援隊の跡を継ぎ海運事業を興した
ことに始まります。以降、四代の岩崎家の社長が三菱グループの基礎を築いた。北海道
開発の呼びかけに「北海道開拓振興会」が発足はしていた。岩崎彌太郎は藩の出張商社
開成館長崎出張所(長崎商会)の主任として、金策に奔走ししながら腕を振るった。蒸
気船や武器を買いまくり、樟脳など土佐の物産を売った。だが神奈川(現在の横浜港)
や兵庫(現在の神戸港)が開港したことにより長崎は独占的な対外窓口ではなくなった
。明治では彌太郎は政府に士官も出来ず藩営の長崎商会や海援隊の残務整理の毎日を過
ごしていた。明治政府は藩営事業を禁止しようとしていた。足を中央に抑えられては、
これから飛躍しようとしている土佐人の立場は脆弱なものになる。藩の事業が禁止され
る前に私商社を立ち上げ海運事業を引き継がせてしまおう。そうすれば少なくとも高知
や神戸航路は引き続き確保出来る。と藩の多くは考えていた。こうして九十九(つくも
)商会が設立された。九十九は土佐湾の別名であった。海援隊で操船経験のある土居市
太郎と、長崎商会で貿易実務を経験している中川亀之助の二人が代表になった。藩の立
場から事業を監督するのが彌太郎だった。藩船3隻も九十九商会に払い下げられた。



673: 名無しさんAA:17/10/11 23:35
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 315-----------

主たる事業は汽船廻漕(かいそう業であり海運だった。高知神戸間に加え、東京大阪間
の貨客輸送も担うかたわらに 外国商館や大阪商人との物産の売買、それに紀州藩から
、取得した炭坑の経営も行った。石川七財(いしかわしちざい)が内偵のために派遣さ
れてきたが彌太郎は即座にこれを見抜くと、石川に帳簿など一切を見せ、「これからの
日本は海運と貿易だ。これを強化せずして日本の将来はない。お前もわしと一緒にやら
んか。」と持ち掛けた。石川は熱く語る彌太郎の世界観に共鳴し、九十九商会に入るこ
とになった。石川は大局を誤らない豪胆な男で、のちに、数字などに強い 川田小一郎
(かわだこいちろう)と共に、彌太郎の事業を支える二本柱となった。明治4(1871)
年、廃藩置県で岩崎彌太郎は土佐藩少参事の地位を失った。この時彌太郎は後藤象二郎
や板垣退助に説得されて、九十九(つくも)商会の経営を引き受けた。実業家岩崎彌太
郎の誕生である。仕官の道はあきらめ、新しい時代の生き方を決意する。三菱の事業の
源流は九十九商会にある。したがって、三菱の創業の年は九十九商会発足の明治3年で
ある。しかし、彌太郎はその時は藩の責任者として監督する立場にあった。今度は実業
家として自ら経営に参画する。こうして九十九商会は明治5年に三川(みつかわ)商会
と社名変更した。岩崎とは名乗らず、あえて経営幹部である川田、石川、中川亀之助の
川の字にちなんで命名したという。これが商社三菱の前身であった。この時岩崎は鉱山
の方が上手く行かない事に腐心していた。新たな人材を米相場の相場師に任せる事にし
ている。無数あったとされる鉱山はこの4つのグループに分かれた。一つは同じ薩摩閥
からの引き抜いた五代友厚の起用であった。五代友厚は、薩摩藩士からの実業家であっ
た。鹿児島城下長田町城ヶ谷に生まれ大阪経済界の重鎮の一人となった人だ。当時、「
まさに瓦解に及ばんとする萌し」の大阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用
秩序の再構築を図った。五代は幕末ころより富国策として鉱山業を掲げ、明治政府御用
の銀鉱脈発見に先駆け、長く放置された鉱山から再度銀、銅などを採り出す製錬技術を
海外から導入して再開発していた。1803(享和3)年幕府は兵庫県朝来市の神子畑鉱
山などの再開発を進めて新鉱脈を掘り当てて成功していた。こうして初めて奈良県吉野
郡天川郷に天和鉱山や、幕末から明治初期にかけ五代が姫路の神子畑に採鉱跡があるの
を知り、部下の加藤正矩に探鉱を命じたと記されている。又神子畑の主要鉱脈を擁する
加盛山の名は加藤正矩にちなんだとされる。この天和鉱山の再開発を要請したのである


674: 名無しさんAA:17/10/11 23:43
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 316-----------

 もともと五代友厚は地銀業者だった。三井・三菱が両替商として 紙幣発行に伴って
金貨銀貨を回収し 精錬してより以上の価値として海外の商人に売りつけていたのを知
っていた。開国派だった彼は長崎海軍伝習所へ藩伝習生として派遣され、オランダ士官
から航海術を学び薩摩藩遣英使節団にも同行している。そこで米相場と共にすぐさまに
貨幣回収業に転じていた。こうして上手く這い上がったのである。大阪の造幣局も彼の
誘致で大阪に出来たと言う。相場師の世界は異様だ。浜野茂は根っからの相場師だった
が彼も兵庫出身だった。「白銅将軍」の異名を取ったが。相場のやり方が、たとい5銭
でも利が乗れば、手仕舞う短期勝負を得意とした相場師だったと言われる。郷土誌では
「浜野は単に自利一偏の相場師に非ず。時に国家社会のために己を忘れ戦い、いわゆる
国家的相場師をもって任ずるところありき」と書いている。日清戦争で米価が暴騰する
と、時の農商務相、後藤象二郎から土佐なまりで、「浜野君米価を抑え込んでくれんか
よ。新宿将軍の誉れ高い浜野君なら朝飯前のことじゃろう」と肩をたたかれた時、浜野
の義狭心に火がついてそれを行った。「すわっ、新宿将軍が売りに回ったぞ」との噂が
立つと相場の流れは一変し、一石当たり8円44銭という、後藤と浜野の間で暗黙のう
ちに交わされていた目標値以上に騰貴することはなかったとされる逸話も残る。いとも
簡単に米価抑圧に成功したかのように映るが、実際は剛腕で鳴る杉島伝兵衛や松沢与七
など買い方に陣取る猛者達を相手に悪戦苦闘して、買い付けで北陸で集めた米を決済日
までに東京まで運ばなければならなかったが 戦争の最中で船が無い。門司港で石炭を
満載して戦場に向け出港間際の土佐丸を富山港に回航させ、石炭を米に積み替え東京に
ぶつける水際作戦で成功したと言う。後に「あの時はめちゃめちゃ積み込ませた」と自
身は回想で語っている。過剰積載でも納会ぎりぎりに間に合ったらしい。その10年後
の日露戦争後では不況が深刻化し、米が暴落、農家は窮状を呈した時も、桂太郎内閣が
農村の救済を唱えると、浜野は「今日自分があるのは米相場のおかげ、今の農村の窮乏
を放置しできるものか。」とまたまた、もろ肌脱いだ。浜野は常平倉(米価を調整する
倉庫)の建築を提唱するが役人たちは受け入れない。すると、「役人ども目に見せてく
れん」と買いまくり米価は奔騰し、農民たちは「神様、仏様、浜野様。」と崇めたとさ
れる。彼の信念は「国あって臣あり、臣ありて民あり。」であった。


675: 名無しさんAA:17/10/12 00:00
相場師には籾山吉次郎なるものがいた。かれは船乗りだったが磯貝和助らなど船乗りか
ら相場師になった面々は多い。昔の廻船問屋で米を運んだが大型汽船に取って変わられ
ての転業だったのかもしれない。明治39年(1906)松村辰次郎と松谷元三郎が連合して
米相場の売り崩しを図ったとき、松沢は敢然と買い向かい、四十万石の渡し米のうちの
二十万石を受け切って世人を驚かせた。これが相場師松沢与七の棹尾を飾る一戦となる
が、天明以来といわれる大豪雨が襲来して松沢は巨利を掴んだ。こうして松沢与七は、
米相場で楼上将軍と呼ばれた相場師となった。彼の相場運用は、売買方針を決めたなら
そう簡単に変更しないことで有名だった。一度買いと決めれば、「思惑三年」として買
い方に陣取って攻めていくというスタイルで大勝利を収めていた人物だった。「売りか
、買いか、一方にこり固まることも必要である。雷火主義はおれの本領ではない。」は
彼の言葉であり、その考え方がよくでている買い方が多かった。この言葉のなかで雷火
(いなずま)主義とは短期で売買を繰り返すやり方をいうが、彼の運用スタイルは、そ
の流れには乗らずどっしりと構えて 長く待ち大きく利益を狙うものだった。この松沢
与七の投資信念は、人々に惚れられたと言われる。名古屋の相場で松沢与七の買いに向
かって売ったことがある。籾山は当時、大隈重信放漫財政のあとを受けた松方正義蔵相
によるデフレだった。緊縮財政下で諸物価は低落傾向にあったから、利乗せ、利乗せで
売りまくり当時10万円の大儲けした。名将松沢与七に勝利した勢いで東京に出てきた
。この時「一緒に大いに仕事をしようとして出てきておって、小さな2.3の仲買店か
ら注文を出しながら、実は大有力者の1人であった。」と周りから嫌われ者になった。
彼にそうした損を被った松沢与七も紀州藩鉱山を引き取った一人だった。「少年時代か
ら勝負事を好み塩町の米相場に出入りし、相場を研究した。30歳頃、米相場で身を立
てようと江戸に出た。と言われる松沢与七が 三菱が託されて鉱山主になった事で松沢
鉱山と呼ばれたこの炭鉱は日本で一番長く経営された鉱山だった。「思惑三年」と称し
て、いったん決めた方針は容易に変えず「絶対的自信の上に立って堂々と押し切り、動
かざること山の如し。」その風格をほれ込んだのは三菱の重鎮豊川良平であった。何く
れとなく支援したが、その進言によって時の首相・桂太郎公等の知遇も得て、公からよ
く「米のことは松沢に聞くんだね」と言われていた。」豊川良平はわざわざ本名はを改
名していた。本名は小野 春彌(おの はるや)だが、豊臣の豊、徳川の川、張良の良、
陳平の平をそれぞれ一字ずつ取って改名していると言う。荘田平五郎や近藤廉平などの
三菱財閥に多くの人材を紹介し、このいとこの岩崎弥太郎を支えた。豊川良平は三菱商
業学校が設立されると会計監督に就き、事実上の校主を務めた。1881年(明治14年)に
は同校が廃されて明治義塾が設立され、その塾長となった。

676: 名無しさんAA:17/10/12 00:02
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 318-----------

玄洋社は元々福岡黒田藩の俸禄が無くなって作った喰い詰め浪人の共済会だった。対し
て北振会も又細川熊本藩の俸禄の無い武家の共済会だった。だがその後北振会は 先の
北海道の蝦夷地開拓団や商工業者に変わりパン屋や商会として変化した。だが 一方の
玄洋社は新聞社や鉄道などで政界に深く入り込んで行く危険な政治結社化していた。そ
の理由は博多港がアジアの玄関口で様々な大陸の革命家がやって来たのと熊本より大き
な金が動いた九州の中心的土地柄にもあった。この危険な政治結社玄洋社の社則の条項
は「皇室を敬戴すべし」、「本国を愛重すべし」、「人民の権利を固守すべし」という
ものであった。当時、薩長藩閥政府による有司専制を打破するために、議会の開設を要
求した有力な政治勢力の一つは、今日「右翼」と称される玄洋社などの民間結社であっ
た。しかし、これらの勢力が議会開設後に一転して政府と一体になって選挙干渉に転じ
た。その理由は、当時の議会が「民力休養」を掲げ、軍事予算の削減を要求しながら清
国との戦争を躊躇していた為であった。玄洋社は、テロも含めた激しい選挙干渉を実行
している。此処には征韓論を唱える西南戦争の生き残りもいた。兎も角政治的に過激だ
ったと言える。玄洋社が関わった有名な事件としては、1889年(明治22年)の大隈
重信爆殺未遂事件がある。当時外務大臣だった大隈は、日本が幕末に結んだ不平等条約
の改正をはかったが、その改正案は関係各国にかなり妥協的であり、国民的反対運動が
たちまち全国を覆った。しかし、剛毅な大隈は決して自案を曲げなかったため、玄洋社
社員の来島恒喜が大隈に爆弾を投擲し、自身もその場で咽喉を斬って自決したのである
。来島の投げた爆弾は過激自由民権運動家の大井憲太郎から提供されたものと言われて
いる。事件で大隈は右足を失いながらも、尚自説を貫く決意であったが、政府は方針を
急転し、大隈は辞職したため、この妥協的改正案は見送られることとなった。玄洋社の
社員らが掲げた有名なスローガンには「大アジア主義」や「アジア自立主義」であった。
宮崎滔天が孫文送った言葉である。彼らは、朝鮮の親日開花運動家金玉均や朴泳孝、イ
ンドの独立運動家ラース・ビハーリー・ボースらを庇護し、アメリカと独立戦争を戦う
フィリピンのアギナルドへは武器と義兵を送ろうとした。社長の来島が死亡して後更に
大きくなって1901年(明治34年)に、内田良平らが参加し黒龍会が海外工作を担う
事で設立され、より多彩な活動が展開された。孫文らの辛亥革命を支援するために、多
くの浪人たちが清朝政府軍やその後の軍閥政府軍と戦っている。


677: 名無しさんAA:17/10/12 00:53
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 319-----------

こうして 玄洋社は長州閥と薩摩閥と言う海軍と陸軍の中で宮家閥と言うべき諜報軍の
位置に近づいてしまったのである。日露戦争中全般にわたり、ロシア国内の政情不安を
画策してロシアの継戦を困難にし、日本の勝利に大きく貢献した明石元二郎も玄洋社の
社中(社員)であった。陸軍参謀本部参謀次長長岡外史は、「明石の活躍は陸軍10個師
団に相当する」と何故か高く評した。また、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、「明石元
二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている。」といって称えた。が
実は華々しい成果は揚げたが それはドイツユダヤ資本が米国に移籍し始めた為だった
。アメリカ連邦政府は1787年、連合規約に代えてさらに中央集権的な合衆国憲法が
激論の末に制定され、翌年発効され、同年に初代大統領としてこれまでの大陸軍司令官
であったジョージ・ワシントンが就任した。この時アメリカが、自由と民主主義を掲げ
げて、当時最新の民主主義国家であった。が、アフリカから連れてこられた奴隷や先住
民の権利はその中には無かった。結果、奴隷制度と人種差別が独立後にもアメリカ国内
に長く残った。もともと北米大陸がヨーロッパ諸国の植民地支配を受けていた。イギリ
スと13の植民地との間で経済や律法や租税をめぐり、対立が生じたまま大きくなって
いた。1775年に独立戦争が勃発すると1776年に既に独立宣言を発表はしていた
。しかしそれはイギリス優位を崩すためにフランスと同盟を締結する為だった。13の
植民地が勝利してやっと1783年にパリ条約が結ばれ「アメリカ合衆国」として正式
に独立し、13州に加えてミシシッピ川以東と五大湖以南をイギリスから割譲された。
この後も北西インディアン戦争勝利により、1795年に北西部を手に入れ、未開の地
西部の勢力拡大を目指し、1803年のフランス領ルイジアナ買収を行なった。この後
もイギリスが西部開拓を阻んだ為、1812年に米英戦争が勃発した。1814年に、
ガン条約を締結してやっと事態は収拾した。そこにはナポレオン戦争で疲弊した英国の
妥協があった。可愛そうなのはそこにいた原住民日本語的に土着民である。インディオ
達は命を張って守った土地も右はフランス左はイギリスと言った形で南へ南へと移住せ
ざるを得なかった。幾ら話し合いをして時の大将と和平を保っても無駄だった。つまり
米英戦争に双方に貸し付けていた資産がロシアに今度は向けられたがユダヤは革命軍を
応援しだしたのである。更にこの時スペインに賠償金を必要としたアメリカには投資が
出来なかったのだ。そこでドル紙幣の発行券を掴んでいた。更に賠償金で得たこのフィ
リピン独立には玄洋社も関わっていて 多くの素浪人が渡航の際の沈没で死んだと言うのである。

678: 名無しさんAA:17/10/12 01:07
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 320-----------

アメリカインデアン達は凡そ500万人が死んだと言われている。この悲惨さは異常だ
国が変われば襲われ、司令官が変われば又襲われ、そうした条約からは蚊帳の外だった
。南も又スペインの植民地だった。こうして入植者達も、先住民との戦争を続けながら
も南下が止まらなかった。1819年のスペイン領フロリダ買収、1830年のインディアン移
住法によりインディアンを西部に移住させると、1836年のメキシコ領テキサスでのテキ
サス共和国樹立と1845年のアメリカへの併合、1846年のオレゴン条約、および米墨戦争
によるメキシコ割譲により、領土は西海岸にまで達した。現在のアメリカ本土と呼ばれ
る北米大陸エリアを確立したのである。この頃から遠洋捕鯨が盛んになり、太平洋にも
進出を始めた。1850年代、鎖国状態だった日本へ食料や燃料調達のために開国させるこ
とを目的に米軍艦を派遣。二つの不平等条約を締結し、開国させた。以後、アジア外交
にも力を入れるようになって ハワイやフィリピンの占領を始めた。こうした流れを見
ても、当時如何に親日派や東洋通なる人物がいたとしても 米国そのものの動きは結局
は植民地拡大は国としての欲望だけで動き、それは止まる事の無い流れだったと言える
。小村寿太郎の日露の条約失敗も、その後ハリマンの満州鉄道の経営に参加していたと
しても より巧妙に手早く植民地になっただけで中国経営だけでは止まらず、植民地の
欲望は止まっていた筈はない。そうしたIF論は、頭の弱い、人の良い日本人の妄想論
でしかない。下手すればより早く大和民族に虐殺や抹消が公的宣言されて、もっと悲痛
な世界になり虐げられたであろう可能性も少なくない。現実に焼夷弾空襲はその為に行
われ原爆実験もドイツ崩壊後も手放す事無く、国際条約に反しての民間攻撃から大量虐
殺の嵐で日本には対応していた。そうした中での敗戦だったのである。比国では白旗の
人も撃たれ、南方では怪我人は捨てられた。都市部空襲や原爆は、それは米国国民全員
が賛成ではなかったにせよ、少なくとも戦争の開戦もこの原爆投下も 時の指導者では
結果的に行われた現実だったのである。アジア人民が今の様な平等とまでは言えなくと
も 少なくとも対等に「我らは戦争には敗けたが奴隷となった訳ではない。」とまで言
える白洲次郎を産むまでになったのはこの戦争のおかげだろう。これが唯一日本が第二
次世界大戦をやった大義と、その成果であろう。

679: 名無しさんAA:17/10/12 01:08

それでも戦後シベリア抑留者や収容所
においては、まだまだ日本人はまさしく人種偏見の中の奴隷のままであった姿がある。
1970年代まで公然と例えばベトナム戦争ですら 原住民を白人は人間として扱われ
ては居なかった。そこらの森に棲む獣と同じと思ってた。だから枯葉剤が撒かれたし、
火炎放射で勝手に家の中に人がいても燃やされたのだった。ポルポトはその真似をした
。征服者はそうあるべきと勉強したのだろう。ロバートキャパはそうした人間を警告し
た意味で大きな役割を果たしたのだったのである。日本人よ目を覚ませ、昔そう遠くな
い昔 私たちは奴隷になろうとしたのである。人類は今だに格差を求めているのである
。神の教えに刃向う様に。

680: 名無しさんAA:17/10/12 01:08
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 321-----------

林 有造(はやし ゆうぞう)は先の九十九商会を設立を推した一人だ。元は土佐の武士
で自由民権運動家から政治家になり逓信大臣、農商務大臣などを歴任した。戊辰戦争で
板垣退助の配下として勤め、越後国に転戦した。明治維新後は、初代の高知県令(参事
)をつとめるが板垣と共に辞任した。その後西南戦争に呼応しようとしたが捕縛された
。大正3年(1914年)、日本の飛行機製作のパイオニアである同郷の伊賀氏広の世話の
もと、予土水産株式会社を設立、真珠養殖業を起こす。また、林新田、片島港を開発す
るなど故郷の発展に尽力した。1911年(明治44年)同郷の山内容堂の弟の山内豊盈
の子伊賀氏広は飛行機同年国産第1号の飛行機「伊賀式舞鶴号」を完成させたが、3気
筒発動機の1気筒が動かず、馬力不足で滑走のみとなり、飛行には至らなかったという
。この伊賀氏は広日本ヂイゼル株式会社の設立に参加し、設立後は営業部長を務めたが
これが日産ディーゼルの前身となった。この時彼はドイツのクルップュンカースと提携
して、我が国の自動車開発につとめ大いに敏腕を振ったと言う。初代アルフレート・ク
ループは水車工房に籠って、鋳鋼の製造法の解明を試みた事が最初だと言う。ところが
彼の地道な努力で切り開いた鋳鋼の技術は優れていて機関車の車輪や砲台では後に世界
一とされアルフレートのクルップ社はナポレオン3世が主催するパリ万国博覧会には化
け物のような大きさの巨砲を出品し人々を驚かせた。こうしてそれまでイギリスが独占
していた鋳鋼に至る技術は世界で必要とされフランスではかなりの需要があった。オラ
ンダに留学中の榎本武揚は 初代アルフレート・クループを訪れ、当時建造中の軍艦開
陽丸に搭載する大砲を注文し、最終的に18門が搭載されたと言う。其の後は中国にも
クルップの火砲は供与され、中国に工場を置くまでになった。ギネスブックにも載る程
の胡里山砲台(中国語版)は日中戦争の際に日本の軍艦を砲撃したと伝えられてる。こ
の鉄がどうしてもこの伊賀氏広は必要としていたのだ。このクルップ社はその後もT型
戦車タイガーの初期版を政策するまでに至っていた。このエンジンが日本に大きく寄与
した事は造船に生かされた事で判明する。(但し小型の潜水艦で失敗している。)当時
のクルップ社はシーメンスと双璧を成すと言われるほどのドイツの国策を握る会社だっ
た。又 南京カルロヴィッツ商会がクルップ社などドイツ有力企業のクルップ社の正式
な代理店であり、南京国民政府を相手に様々な物資を売り込んで、ドイツと中国を結ん
でいたのだった。


681: 名無しさんAA:17/10/12 01:11
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 322-----------

 中国の戦艦定遠は1880年の李鴻章の提案により、1881年にドイツのフルカン造船所に
発注・起工された船だ。アロー号事件以来中国は列強先進国に歯がたたなかった。特に
ベトナム沖での清仏戦争は今だ続いていた。中立期間を清朝に作らせ1885年10月に天津
に到着し、清国海軍に就役した。このヴルカン造船所としてシュテッティンに1851年に
設立された。1945年に廃止されるまでドイツの主要な造船所として客船・戦艦・駆逐艦
など大型船の開発に大きな役割を果たした。ドイツの造船会社として最大でドイツ海軍
向けのUボートと軍艦を建造した事で有名な場所だ、大戦後には会社・造船所共に解体
廃止がポーランド政府によってなされた。この出資企業がクルップ社だった。砲身を主
に作って軍に納めプロイセン国王の依頼で一回パリ万博出展では金賞を貰い、大砲献上
し大いにドイツ軍部に納品した。先王のこうしたことからその後もクルップへ三百門も
の大砲を発注もあった。又フランスのナポレオンに売った車輪は継ぎ目がないとして、
多くの馬車や兵車に利用された。そうした意味ではイギリスのアームストロング砲はこ
のクルップ式火砲により過去の物として劣勢にあった。その為英国の商社はシーメンス
との取引を重視し日本ではシーメンス清国にクルップの流れがあった。シーメンス社は
発電・通信設備を中心とした製品供給が続き、八幡製鐵所、小野田セメント、伊勢電気
鉄道、古河家日光発電所、曽木電気(のちの日本窒素肥料)等へ発電設備を供給した。
また、逓信省へ、電話関係機器の多量かつ連続的な供給を行なった。第一次世界大戦中
は日独が交戦状態に入ったため営業を停止したが、1920年頃から営業を再開した。1923
年には古河電気工業と合弁して富士電機製造株式会社設立、1925年電話部門を富士電機
に譲渡と続いた。又、日本全国の都市水道局へのシーメンス量水器の納入、逓信省への
東京大阪間電話ケーブルに依る高周波多重式搬送電話装置の供給などが続いた。関東大
震災後には、シーメンスの電話交換機が各都市の官庁、ビル・商社に多数設置された。
1929年には、大連逓信局に軽量物搬送装置を供給。以降、1936年に満州国電信電話会社
がシーメンス式ベルトコンベアを採用するなど、日本、台湾、満洲の電信局・郵便局の
ほとんどがこの様式を採用することとなった。ジョン・ハインリヒ・デトレフ・ラーベ
は、シーメンス社の中国駐在員(のち中国支社総責任者)として約30年に渡って中国
に滞在したドイツ人商社マンだった。

682: 名無しさんAA:17/10/12 01:11
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 324-----------

 中共軍の「戦士政治課本」に、事件は「劉少奇の指揮を受けた一隊が決死的に中国共
産党中央の指令に基づいて実行した」と記入してあるのを自身の著作(新資料・盧溝橋
事件)に記している。これが「中国共産党陰謀説」の有力な根拠としてあげられている
。実は本当の話であろう理由が幾つかある。それがこの中独合作にある。もともとこの
中独合作は明治以前からの話だから相当古い。その後その味をしめて中共合作を作る。
更には中米・中英の合作まで至るのである。これを仕掛けたのが劉少奇の持つ一団だっ
た。1937年の盧溝橋事件とされるがこれは直ぐに7月には停戦協定が締結された。
ところがそれから一連のテロが次々に起こっていた。直ぐに近衛文麿は増派声明を出し
たが。その2日後は、北京の大紅門で日本軍のトラックが中国軍第38師に爆破され日本
兵4名が死亡する事件が起きた。又その数日後、日本軍騎兵1名が惨殺される。その後
もたて続けに中国側の事件が起きた。その為7月日本軍は北京周辺で占領行動を開始。
翌日、親日政権(冀東防共自治政府)の一部保安隊が寝返り、通州事件を起こす。8月は
日本軍は北部で勢力拡大するチャハル作戦を認可。中国軍は上海租界駐留の日本軍を攻
撃を開始した。つまりこれまで日本軍の意志と同じだった寄せ集めの国民党軍が寝返り
に打って出て日本軍を攻撃したり惨殺したりしだしたのである。大紅門事件は、193
7年中華民国北平南苑区(現豊台区)の大紅門で中国軍第38師に日本兵が襲撃された
事件だった。これらは全てパルチザンやテロとして準備され計画された事件であった。
この後日本が11月に出したトラウトマン工作は「華北の行政権は南京政府に委ねる」
が記載されている非併合・非賠償の条件であった。これは船津工作を踏襲した物であり
、他の各将領から「これだけの条件でなぜ戦争するのか!?」と言われるほどの条件だ
った。「戦争が継続すれば条件は加重される」と警告していたにも関わらず、蒋介石は
「事変前の状態に復帰するのでない限りどんな要求も受諾できない」と和平条件を一旦
拒絶した。ブリュッセル会議の対日制裁に期待して和平条件を1ヶ月引き伸ばし、19
37年12月に南京陥落して日本政府はトラウトマン工作を賠償を含む厳しい条件に、
近衛文麿は「国民政府を対手とせず」と述べ、日本側はトラウトマン工作を打ち切った
のである。この状況はなぜ出来たのか。これがドイツ軍事顧問の戦略である、共産党の
行動だったのだ。虐殺は当然あった。しかしそれは一般人ではなく 中国国民党と日本
の朝鮮混成部隊更に共産党ゲリラ隊の中で起こった事で 一般市民は逃げ出していた中
の出来事だった。


683: 名無しさんAA:17/10/12 01:12
 つまり1937年、日中戦争が勃発し、日本軍による南京攻略戦の際に、他の十数人
の外国人と共同で組織した南京安全区国際委員会の委員長となって、中国民間人の保護
に努めた。そのほか自分の所有する土地にハーケンクロイツ旗を掲げ、602人といわ
れる避難してきた民間人を戦禍から守ろうとした。南京陥落後は、約20万人ともされ
る中国人避難民が殺到した安全区(南京城内の北西部に設置された、外国人の施設や邸
宅が多くある地区)の代表として、非人道的行為の防止に尽力した。と言う記述そのも
のがまず間違っている。602人と言われる避難してきた者と言うのは当然逃げなかっ
たゲリラ兵士であり自分達が使っていた諜報員だった筈だ。フレデリック・ヴィンセン
ト・ウィリアムズが著した『中国の戦争宣伝の内幕』という本ではこう書かれている。
「蒋介石はドイツ軍事顧問たちから干渉を引き起こすよう耳にささやかれて、上海に着
目した。そこには上海租界があった。外国人がいて、外国の銀行があって、会社があっ
て、外国人住宅があった。ここで事を起こせばもっと簡単ではないのか。そう思った。
町は日本人の避難者でごった返していた。 日本の水兵と陸戦隊は彼ら達を乗船させ、
国外に出そうとして忙しかった。上海での戦いは結果として日本人を外国人区域に閉じ
込め、そして外国人が殺害されることは、外国の干渉と日本に対抗する強力な同盟形成
を意味することになる。(『中国の戦争宣伝の内幕』p.41)ドイツ軍事顧問たちは、この
蒋介石の案に大賛成し、戦いを決して長引かせず、「一撃して去る」ことをアドバイス
したという。蒋介石は上海の混雑した地域に、十万を超える部下を集めて軍服を着せず
に苦力のような格好で潜り込ませた。当時上海にいた日本の 水兵と陸戦隊はわずかに
二千名であったという。圧倒的な数的有利な状態で、蒋介石軍は攻撃を開始する。攻撃
を仕掛けたのは蒋介石軍なのだ。戦いは始まった。しかし、最初の銃撃が始まる前に、
モスクワとヨーロッパのプロパガンダ機関、中国の報道機関が動き報道始めていた。世
界では戦争前に、統一されて目覚めた中国が侵略者に直面しているのだと報道されてい
たのである。日本と武力衝突があったのは、国民党(蒋介石)ですが、両国とも正式な
宣戦布告をしておらず、正確には戦争ではなく「支那(シナ)事変」と呼称している。
蒋介石には、ドイツの軍事顧問団は、明確にアドバイスしている。「日本を相手に、君
達国民党(蒋介石)だけの単独では勝てない。ゆえに、外国に干渉させるのが良い、干
渉させる国は「アメリカ」が最適である。そして、「日本が世界の侵略を企んでいる」
とデマ(情報)を流せば、アメリカも「世界から民主主義を救え」との理由で動き出す
であろう。」これがアドバイスだったのだ。中華民国に駐在していたドイツ軍事顧問団
団長ファルケンハウゼンの指導の下上海空爆も又日本軍がやったと偽装されての空爆が
次々と行われた事が証明されている。

684: 名無しさんAA:17/10/12 01:14
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 326-----------

 中華民国に駐在していたドイツ軍事顧問団団長ファルケンハウゼンは、「中国の敵は
日本が第一、共産党を第二」と考え、1935年10月、漢口と上海にある租界の日本
軍に対する奇襲を提案し、1936年4月、「今こそ対日戦に踏み切るべきだ」と蒋介
石に進言し、北海事件後の9月には河北の日本軍を攻撃するよう進言した。つまりドイ
ツは、何が何でも日本を叩け防共政策も大事だが共産党軍より日本軍だ。と言ったのだ
った。正に「黄禍論」の世界であった。なぜこうもドイツは中国に日本を戦わせたかっ
たか。それは中国領土が欲しかったのだ。ドイツにとって一番の敵は大国ロシアである
。世界戦略にはどう考えてもロシアの前に立つしかない。と考えていた。友好とするも
敵対するも一番陸地て繋がった隣国だった。一つは中国人も日本人もドイツ人からは、
同じ言葉をしゃべる黄色い猿でしかなかった。共に同士討ちして滅びても良い存在だっ
た。これは西洋一般の思想である。二つ目はそれでも日本は国家としても人としても同
等の地位を得ていた。薩英戦争以来英国は只ならぬ国として見ていたし ロシアは日露
戦争以来の、いや大津事件以来かも知れないが、列強文明国に劣らぬ強者としてみてい
た。又米国であってもアジア戦略の唯一の意志の通じるお客様に見ていたのである。こ
の事で日本のみ人種差別の中「優良有色人種」なり「特権許可国」として西洋に唯一の
国際会議出席者と認められていた時代だった。それは租界地でも同じだった。優遇され
た西洋人と同じ様に振る舞う日本人に、この中国人達は不満がありドイツ人も不満があ
ったのである。そして朝鮮人達は喜んで暴れまくったのである。三つ目は先の地政学的
意味である。つまりドイツヒットラーもヴィルヘルム2世或いは父プロイセン王子とし
てのフリードリヒ3世すらも ロシア叩きを、フランスの様に双方二面から波状攻撃を
画策していた。それはピカソのゲルマ国際旅団でスペイン内戦でも国際旅団が働いた事
でそれは垣間見える。つまり西洋式の攻撃は常に二方向の作戦を立てそれが殲滅作戦の
勝利の裏付けであり、その為に極東はドイツに必要だったのだ。アメリカが太平洋戦争
終結に向かった時も 或いはノルマンディ作戦で兵員や兵器を大量投入したのもその中
にあった。ヤルタ会談でも不可侵条約を破棄するお膳立てをして アメリカは会談に及
んだ。つまり 日本の開戦前から開戦時の戦略を立てていたのである。それは南北戦争
からも全く同じ戦略思考である。そしてその数は弐千人も満たないとされた。それが今
や南京大虐殺は10万とか15万にんとかの数字である。呆れて物が言えない位だ。

685: 名無しさんAA:17/10/12 21:33
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 326-----------

 中華民国に駐在していたドイツ軍事顧問団団長ファルケンハウゼンは、「中国の敵は
日本が第一、共産党を第二」と考え、1935年10月、漢口と上海にある租界の日本
軍に対する奇襲を提案し、1936年4月、「今こそ対日戦に踏み切るべきだ」と蒋介
石に進言し、北海事件後の9月には河北の日本軍を攻撃するよう進言した。つまりドイ
ツは、何が何でも日本を叩け防共政策も大事だが共産党軍より日本軍だ。と言ったのだ
った。正に「黄禍論」の世界であった。なぜこうもドイツは中国に日本を戦わせたかっ
たか。それは中国領土が欲しかったのだ。ドイツにとって一番の敵は大国ロシアである
。世界戦略にはどう考えてもロシアの前に立つしかない。と考えていた。友好とするも
敵対するも一番陸地て繋がった隣国だった。一つは中国人も日本人もドイツ人からは、
同じ言葉をしゃべる黄色い猿でしかなかった。共に同士討ちして滅びても良い存在だっ
た。これは西洋一般の思想である。二つ目はそれでも日本は国家としても人としても同
等の地位を得ていた。薩英戦争以来英国は只ならぬ国として見ていたし ロシアは日露
戦争以来の、いや大津事件以来かも知れないが、列強文明国に劣らぬ強者としてみてい
た。又米国であってもアジア戦略の唯一の意志の通じるお客様に見ていたのである。こ
の事で日本のみ人種差別の中「優良有色人種」なり「特権許可国」として西洋に唯一の
国際会議出席者と認められていた時代だった。それは租界地でも同じだった。優遇され
た西洋人と同じ様に振る舞う日本人に、この中国人達は不満がありドイツ人も不満があ
ったのである。そして朝鮮人達は喜んで暴れまくったのである。三つ目は先の地政学的
意味である。つまりドイツヒットラーもヴィルヘルム2世或いは父プロイセン王子とし
てのフリードリヒ3世すらも ロシア叩きを、フランスの様に双方二面から波状攻撃を
画策していた。それはピカソのゲルニカの絵になったスペイン内戦に国際旅団が働いた
事でも垣間見えるのだ。西洋式の攻撃は常に二面方向の作戦を立ててそれが殲滅作戦の
勝利の裏付けであり、その為に極東はドイツに必要だったのだ。アメリカが太平洋戦争
終結に向かった時も 或いはノルマンディ作戦で兵員や兵器を大量投入したのもその中
にあった。ヤルタ会談でも不可侵条約を破棄するお膳立てをして アメリカは会談に及
んだ。つまり 日本の開戦前から開戦時の戦略を立てていたのである。それは南北戦争
からも全く同じ戦略思考である。そしてその数は弐千人も満たないとされた。それが今
や南京大虐殺は10万とか15万にんとかの数字である。呆れて物が言えない位だが、
日本人は相撲の様に対峙して勝ち進む 正義の武士スタイルしか望まない民族だった。
それは「卑怯者」と言われる事が 大嫌いな恥の文化圏を作っていたからだ。

686: 名無しさんAA:17/10/12 21:47
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 327-----------

 この様に日中関係は最悪の状態になる前のこの時期にはロシアさえ武器供与を止めて
いる。理由は鉄道建設負債が未払いだったからだったが米英も国際連盟の合議に基づい
て、この中国大陸から一時離れて日本の動きを一端見守ろうと言う中で、ドイツが違っ
てどんどん武器輸出し軍事応援していたのは、白人諸国の中で大戦で敗れた劣等感と日
本に対する恨みや羨望であったといえる。日中戦争(支那事変)中の1937年(昭和12年
)12月に遂行された南京戦において発生したとされる南京事件における虐殺の存否や規
模などを論点とした論争である。当時のオスカー・トラウトマン駐華ドイツ大使の名を
取って、こう呼称されるトラウトマン工作と言う最高の譲歩であった協定も前述の通り
で何故だか承知していない。これは世界大戦時の終了協議工作をロシアに頼んだ様に、
全く裏を知らない日本政府がドイツにその和平協議を頼んだ為だった。全く裏の一番の
反対者にその仲介を頼んで そうした交渉が出来る筈はなかったのだ。こうして努力も
虚しく日本は戦争に突入していくのだが南京大虐殺が起こったのには訳がある。日本の
靖国神社には、現在で日清、日露、第二次世界大戦などの戦争で犠牲になった軍人らの
約247万人予の英霊の御霊が祀られている。その中に台湾人の英霊が2万7000人
朝鮮人も2万1000人祀られている。そしてその中には支那事変や日中戦争で活躍し
た「金錫源」(きんしゃくげん)という人もいます。陸軍幼年学校から士官学校へ進み
最終的には陸軍大佐となっています。中国との戦いで朝鮮人として初の功三等金鵄勲章
を受けています。ちなみに息子さんも陸軍に入隊しておりフィリピンで戦死され靖国神
社に祀られています。大日本帝国陸軍の韓国隊の少佐にもなっているのですが、現代の
韓国では「売国奴」のような酷い扱いを受けている。事実は此の様に日韓併合以前から
以後は特に韓国人や朝鮮人も軍部では 多少は不平等もあったかも知れないが志願兵や
招集兵でも日本人同等の扱いを受けていた。ところが2・26事件の原因であった統制
派の活躍で皇道派は大衆動員令を止める事は出来なかった。つまり此処に現場に意味の
解らない統率出来ない朝鮮人の兵士が紛れ込んでいたのだ。日本人として送り込まれて
来たので当然勝者側ではある。この祀られた人達の様な志願兵や日本の留学しての士官
候補生ないし兵士なら当然教育されて日本語が理解出来たのだろうが、一般招集兵なら
全てに規律は求める事は不可能でありそれが出来ない事情がここにあったのだ。中国側
も同じに共産党兵は只の戦乱に乗じた盗賊団であったのだ。日中友好時日本に最大の賛
美を言った。「日本が戦争してくれたおかげで我々の党がある。」とまるで平和を好ん
でいなかったのだ。

687: 名無しさんAA:17/10/12 21:47
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 328-----------

元ニューヨーク・タイムズ記者、ティルマン・ダーティン氏は語った。
 ――『安全地区』には何人くらいが集まっていたのでしょうか。――
「私の当時の推定では約10万人だったと思います。しかしここにも日本軍が入ってき
ました。中国兵が多数まぎれこんで民間人を装っていたことが原因だといえばいえます
。そのために日本軍に『安全地区』に入って捜査をする口実を与えてしまった。兵隊な
らば衣類を脱ぐと、銃や背嚢(はいのう)をかついでいた跡が半分タコのようになって
体に残っているのがわかるとというのです。」「12月15日に南京市内を広範にみてまわ
った外国人たちは、民間人の死体があちこちにあるのを目撃した。犠牲者のなかには老
人や子供もいた。警官や消防夫がとくに攻撃の標的となった」(1937年12月18日付報道
)「興奮や恐怖に駆られて日本軍の近くを突っ走った中国人はすぐに狙撃された。明か
に背中から射たれた老人の死体などが、うつ伏せになって歩道によく横たわっていた」
(1938年1月9日付報道) 「日本軍は上海周辺など他の戦闘ではその種の虐殺などまる
でしていなかったからです。上海付近では日本軍の戦いを何度もみたけれども、民間人
をやたらに殺すということはなかった。漢口市内でも日本軍は中国人を処刑したが、そ
れでも規模はごく小さかった。南京はそれまでの日本軍の行動パターンとは違っていた
のです。南京市民にとっても、それはまったく予期せぬ事態でした。」
――南京の中国民間人は虐殺があるとは思っていなかったということですか。―― 
「南京の市民や周辺の住民は中国軍にすべてを焼き払われ、戦闘が長く続き、日本軍が
南京を制圧したときには一種の安堵感をおぼえていた人も多かったのです。日本軍の占
領をあきらめからにせよ、歓迎しようとする市民たちもいたのです。それまでの2、3
0年間も中国の軍閥に支配され、搾取(さくしゅ)され、軍閥同士の戦いで被害を受け
、という状態で、別に支配者が日本軍になってもそう変わりはしない。日本軍でさえ、
またやがては去って行く。戦闘を終了させたことだけでも日本軍を歓迎してもよいでは
ないかという、そんな受け止め方が多かったのです。まさか日本軍が民間人を虐殺する
などとはまったく考えていなかったのです。もしそんな心配が前からあったなら、民間
人はみな市内から逃げていたでしょう。」ダーティン記者は12月18日付記事では「数千
人にのぼった」と報じている。


688: 名無しさんAA:17/10/12 21:57
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 329-----------

 米国スタンフォード大学歴史学部長のデビッド・M・ケネディは7月に北京郊外で発生
した盧溝橋事件での衝突から上海戦にいたる経緯について、
「中国の国府軍の将軍たちや中国共産主義者たちの圧力下にあった蒋介石は、日本の侵
略者たちと対決して決着をつける機会を待ち兼ねていた。しかし蒋総統は、北京周辺で
日本軍の主力と戦うよりも1932年のシナリオ(第一次上海事変)を再現させることによっ
て戦闘の舞台を中国南部に移すことをもくろんだのである。蒋介石は、上海の約3万人
の在留邦人に脅威を与えることによって、北支の日本軍を、蒋介石の主たる政治基盤で
あり最も安全と考えられていた揚子江下流の地域におびき出せると読んだのである。そ
して この囮作戦は成功した。」と評している。研究者東中野修道は、日中戦争は日本
が土足で侵略したのでなく、第二次上海事変で「中国が先に日本人居住の租界地を襲撃
した事で全面戦争となった事。」についてあまり知られていない事を批判した。自衛隊
の航空幕僚長だった田母神俊雄は演説でこの事件を触れていない風潮を批判しており、
蒋介石軍の攻撃を「米軍基地に自衛隊が攻撃を仕掛け、アメリカ兵及びその家族などを
暴行、惨殺するようもの」と述べている。北村稔は中独合作でドイツは国民党に多くの
軍事顧問を入れ中国は自国のタングステンなど、希少金属を提供しているような緊密な
中独武器貿易があった事があまり知られていない事実を指摘している。日中両国ともに
歴史教育では多くが戦争の発端を盧溝橋事件と教えており、中国では抗日記念館の中で
盧溝橋事件であると強調し、第2次世界大戦の際の無差別爆撃でもこの事件を触れては
いない事もある。(これは中国共産党の意図して隠してきた事だった。)また、現在の
国民党政府が支配する台湾でも、盧溝橋事件を強調している。参謀本部第二部の欧米班
にいた杉田一次少佐は、「ドイツが早くより有力な軍事顧問団を中国に派遣し、長期に
亙って軍事援助を行い、日本を相手とする国防充実に手を貸していたことに日本は全く
無知であった。」と述べている。これは言い過ぎかも知れないが強いて言えば「知って
はいたが 過激なテロを繰り返す人民に一般紛れた共産党員にどうする事も出来なかっ
た。」と言うのが正しいだろう。何故なら先の、ティルマン・ダーティン氏が言う様に
欧米の新聞記者はそうした人々を匿いながら治外法権の外交官事務所に多くが出入りし
日本軍には地元紙は愚か遠い欧米の主要な新聞紙面で叩かれ続けたていたからだ。彼ら
は日本の新聞以上に「面白可笑しく 更に過激に書く事が義務付けてられていたからだ
。正しく報道する事以上に紙面が売れる事で給与が与えられていた限界だった。それは
国際連盟を脱退宣言をしていない中で「国際連盟いざさらば。」と表題が付いた様に。

689: 名無しさんAA:17/10/12 22:04
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 330-----------

シーメンスの中国支社トップとして南京にいたラーベは、ナチス南京支部副支部長に就
任していた。1937年、日中戦争が勃発し、日本軍による南京攻略戦の際に、他の十
数人の外国人と共同で組織した南京安全区国際委員会の委員長となって、中国民間人の
保護に努めた。自分の所有する土地にハーケンクロイツ旗を掲げ、602人といわれる
避難してきた民間人を戦禍から守ろうとした。南京陥落後は、約20万人ともされる中
国人避難民が殺到した安全区(南京城内の北西部に設置された、外国人の施設や邸宅が
多くある地区)の代表として、非人道的行為の防止に尽力した。とされるが これは逆
に大使館や中国軍事顧問団からの要請の共産党をパルチザン応援をした形だったのだ。
ダーティン記者のインタービューに戻ると
 ――さてまず中国軍の捕虜に関してですが、南京を守っていた軍隊の人数はそもそも
   どのくらいだったのでしょうか。
 「唐生智将軍の指揮下に約5万人だったと思います。日本軍の南京総攻撃が始まる直
前、私は市内をあちこち走りまわって防衛軍の状況を調べました。 市内には軍隊があ
ふれていた。唐生智司令官にインタビューして「城壁内にこれだけの部隊を入れて守る
作戦はわかったが、日本軍は当然、城壁を包囲するから、もし負けた場合にはどうやっ
て撤退するのか」と質問したのものです。唐将軍は「われわれは死ぬまで戦う決意だ。
撤退は天に向かってのルートだけだ」と豪語していました。しかし実際には将軍は日本
軍の一部が城壁を越えてすぐ、部下には何も告げず、市外へと逃げたわけです。」
 ダーティン記者は1938年1月9日付の記事でも、中国の南京防衛について、合計
16個師団だが、1師団の兵力は2千から3千人程度に減っているので総計約5万人と
推定している。同記者にはその同じ記事のなかで、中国軍の死者数について 日本軍が
南京への本格的攻撃を開始した12月上旬から市内を占領して3日目の12月15日ま
でに3万3千人が死んだと伝え、そのうちの2万人が処刑されたとみられる、と報道し
ている。当時進軍に参加した北九州の朝鮮系の老人でも言っていた。我々は先頭に近か
ったが入場した時幾らかの中国軍は撃たれて死んでいたが 殆ど無血入場に近かった。
と私は聞いていた証言と全く同じである。つまり場内の兵士達は将軍に連れられ場内ま
で来ていたが 唐将軍が逃げ出した時既に一緒にちりじりに逃げたり隠れたりして民間
人に変わったのだ。


690: 名無しさんAA:17/10/12 22:15
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 331-----------

 その意味ではラーベの日記は醜悪な改竄された日記であり、第二のシオニスト底本で
ある。事実でもない事が真実の様に 現代で語られて居る事は全く現代の「黄禍論」の
世界が今だ作ろうとしている。としか考えられない。ラーベはシーメンス社として何を
売っているのかはよく知らなかったとは考えにくい。更にドイツ軍事顧問の下の筈で、
命令で動き自動的にナチス党員になっている事で思想教育はされている筈だ。ドイツの
持つ総動員令は海外でも発動されるからだ。第二次世界大戦の間、クルップ社は軍艦・
潜水艦・戦車・軍用トラック・重砲などをあらゆる兵器を製造していた。クルップ社が
建造した80cm列車砲「シュベーレ・グスタフ」は会長であった彼の名に由来する。又
この労働力に、被占領国国民や強制収容所の収容者に強制労働をさせ、情け容赦なくこ
れを行った。そしてシーメンス社の販売窓口と共にクルップ社の窓口でもあったのが、
彼のいた南京カルロヴィッツ商会であった筈だ。
「メトロポリタン・ホテルはまず中国兵に、その後日本兵によって根こそぎ略奪された
。米国領事館の前では中国人市民が四名、長江ブリッジ・ホテルの前ではおよそ二〇名
が日本兵に射殺された。福呂ホテル(オーナーはカルロヴィッツ商会の買弁)の前に爆
弾が落ち、それで一二月一二日朝に一〇名の中国人が命を失った。シュペアリンク氏は
、榴弾の破片で手に軽傷を負った。一二月一五日、外国の記者団は、日本軍艦に乗って
南京から上海へ移動する許可を日本軍より得た。その後、英国軍艦が同じ航路をとるこ
とになった。われわれは、桟橋付近に集合せよとの指示を受けた。出発までに予想以上
に時間がかかったので、われわれは調査をかねて少しあたりを歩くことにした。そこで
われわれが見たものは、日本軍が広場で一千人の中国人を縛り上げ、立たせている光景
だった。そのなかから順次、小集団が引きたてられ、銃殺された。脆かせ、後頭部を撃
ち抜くのである。その場を指揮していた日本人将校がわれわれに気づくと、すぐに立ち
去るように命じた。それまでに、われわれはこのやり方での処刑を百回近く観察した。
他の中国人がどうなったのかはわからない。
 このインタビューで解るのは 彼らは憶測で数字を書いている事だ。更に少ない数が
新聞本社で更に先に出された情報に合わせて記事作りされた事である。もっと言えば、
彼がインタビューした唐生智将軍の指揮下に約5万人いたが日本軍との戦闘がそうなく
南京入場し その時の残虐行為部隊が本当に帝国陸軍の部隊だったのか。と言う事だ。
何故なら そこに司令官や軍曹が居なかったと言っているからだ。


691: 名無しさんAA:17/10/12 22:18
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 332-----------

 イギリスがフランス奪還をを果たしたノルマンディ上陸作戦は熾烈な戦いだったろう
。だがその裏に 国家規模の騙し作戦を知る者は少ない。少し前にあったディエップ上
陸作戦は、1942年8月に行なわれた連合軍のフランスへの奇襲上陸作戦だった。正
式な作戦名は「オープン・ジュビリー作戦」はイギリスに近いフランスのカレー半島に
上陸の突破口を開こうとする物だった。不充分な兵力と作戦のため最初から勝算は薄か
ったと言われるが、最大の失敗は事前に作戦実行の秘密がドイツ側に漏れていたため、
連合軍は大損害を受け、完全な敗退と失敗に終わったのだった。この事を受けて英国は
諜報部MI5に創設されたB1A〜B5Bという組織を幾つも作った。エニグマ解読に
先鞭をつけたポーランドの暗号局「ビュロ・シフルフ」の手元には、すでに市場に出回
っていた商業用のエニグマがあった。また、フランスがスパイを通じて入手していたエ
ニグマの説明書も入手していたものをイギリスは独自に取り寄せていた。更に捕獲した
潜水艦から本物のエグニマを摂取していた。後は、暗号化の際に使われた鍵(スクラン
ブラーの位置)をどう割り出すかであった。エニグマ導入直後のドイツ軍は、毎日のエ
ニグマの初期設定を指定した「日鍵」を設定して運用していた。英国は天才数学者アラ
ンチューリングにコンピューターを作らせた。最初は機械式だったが終戦前には電気式
で80分あれば全ての暗号が解読されていたと言う。1944年に完成したコンピュー
タの先駆け「コロッサス2」を開発し、真空管を使用した電気回路によって鍵の設定を
はじき出させていた。ブレッチェリーパークに作られたMI1もルーム40とした政府
の通信本部だがこれも多くのこのMI5の再編から生まれている。この時WX(ダブル
クロス)作戦を敷いた。そこにBIAと言う民間組織を作ったとされる。英国二重スパ
イ・システムであった。「アプヴェーア」は第一次世界大戦前から国際的戦後契約に対
しての情報収集の為に作られていたドイツの諜報機関だった。中でもヒューミントは、
人間を媒介とした諜報活動のことだが駐在武官としての実行部隊だった。ドイツに対し
て英国はホーチチュード作戦を創った。この二重スパイシステム(ダブルクロスシステ
ム)の運営を任されていたのがMI5に創設されたB1Aという組織。責任者はター・
ロバートソン。30歳という若さで、魑魅魍魎が蠢く二重スパイシステムの管理者に抜
擢された。彼自身が選んだ、チームメンバーは軍や、諜報機関という観点からみると、
実に風変りな面々だ。サーカスの興行主、タイムズ紙の所有者アスター卿の息子、弁護
士に大学の教授、美術史の専門家など、どのメンバーを見てもスパイの素人なのだ。


692: 名無しさんAA:17/10/12 23:04
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 333-----------

 だが英国はスパイに対してのダブルクロスシステムの運営は 驚くほど効果を得てい
た。それはまずナチスのスパイはその地位で安全な暮らしを得る為に従事しているので
あって別にドイツに忠誠を建てていた訳では無かったからだ。そして忠誠のあるスパイ
は英国スパイになる事を承知しなかった為次々に殺していた。更にエグニマ解読の成功
によりそれが二重スパイなのかどういう活動と地位であるかは手に取る様に解っていた
。領土拡大と新たなスパイ勧誘によってナチスは惨憺たる情報に振り回された。そして
その給与となる資金繰りに苦慮している。ベン・マッキンタイアー『ナチが愛した二重
スパイ 李国諜報員「ジグザグ」の戦争は、その悲哀を描いている。大戦初期、英国で
金庫強盗団に加わり、フランス沖の英国領の小島の刑務所に入れられ、保釈されるが、
ドイツ軍に占領されると今度は破壊容疑で逮捕され、パリの要塞に収容され、逃げたい
一心でドイツのスパイになることを申し出て、スパイを欲していたドイツ諜報機関に拾
われ、スパイ教育を受けて、英国本土に飛行機で送られるやいなや英国官権に名乗り出
て、二重スパイとなって、今度はポルトガル経由、パリ、ベルリン、オスロと動き、再
びパリから英国に戻り、活動するという信じがたい冒険を描いている。英国の犯罪者が
、英国のもっとも優秀な二重スパイに変身した物語である。孫子の具申の「聡明な君主
や智謀に優れた将軍だけが、非凡な知恵者を間諜として敵国の中枢に送り込んで、必ず
偉大な功業を成し遂げることができる。こうした間諜こそは、軍事戦隊の枢機であり、
全軍がそれを頼りに行動する道標なのである。」とほめている。このスパイにプジョル
がいた。彼はスペイン内戦で共産党を憎み英国にスパイの申し出をして断られていた。
だがイギリススパイがよっぽど憧れだったのか、ドイツのスパイになってイギリスに行
く事になる。だが驚く事にイギリスには全く行けずにスペインの田舎でイギリスに行っ
た事にした嘘の情報をまことしやかに流し続けた。彼の作った諜報機関こそイギリスに
網羅された妄想の架空の諜報機関だった。つまり勝手に新聞や書物をあさりドイツ諜報
機関を創り上げて暗号で報告していたのである。70年前の1944年6月6日、ナチ
スを打倒するために米英カナダを中心にした連合軍が敢行したノルマンディ上陸作戦は
史上最大の作戦と呼ばれる。アイゼンハワー最高司令官のもとに、17万6000の兵
員、5000隻の艦船と輸送船の大船団、9000機の爆撃機と輸送機が投入された。


693: 名無しさんAA:17/10/13 07:40
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 334-----------
 アイゼンハワー将軍は欧州戦線で300万人からなる連合軍を指揮していた。米軍の
みでも170万、英軍とカナダ軍100万、その他フランス、ポーランド、チェッコ、
ベルギー、ノルウェー、オランダの派遣軍から構成された中、ノルマンディ作戦には、
その半数が投入された。陸揚げされた装備と物資も巨大だったー戦車、トラック、装甲
車、ジープなどの総数5万台、タンカーと貨車2万台、鉄道機関車1000台である。
この作戦は、その圧倒的な物量ではじめから連合軍の勝利は確実だった、と多くの人々
は考えている。しかし、それは後知恵だろう。当時成功20%さえいう者もいたのだ。
ホーチチュード作戦(不屈の闘志作戦)はそのまま運用された。あの日、連合軍の気象
専門家の予測がはずれ英仏海峡が暴風雨になっていたら、英国情報部MI5の二重スパ
イの超弩級の偽情報がベルリンに探知されていたら、歴史の流れは変わっていたかもし
れなかった。そうした状況に英国は必至に贋作戦を撃ってでていた。まずロンドンに送
りこんだ敏腕スパイ・アラベルとは何者か。何処にいるかを掴みロンドンへは行かず、
ポルトガルのリスボンから情報を送る男を掴んだ。図書館で、英国の観光ガイドブック
、英海軍に関する刊行物、新聞・雑誌を読んで、詳細なレポートを送り続けた。ヒット
ラーの側近がこの情報の信憑性を疑っていた可能性はある。が、彼をヘッドハンテング
した中継支部のカナリスハも又同じナチスを嫌う者で自分の地位や安全を保つ必要があ
った。そうしてしだいに、彼はマドリッドのドイツ情報部の信頼を得るようになるのだ
が。途中コンタクトを取り情報の内容を、事実と虚偽のカクテルに変えた。幾つかの正
確な情報を与えたのである。こうして1942年、プジョル(本名)はMI5に再び、
コンタクトをとり、英国のスパイになりロンドンで活動することになる。晴れて希望の
二重スパイとなったガルボは、彼の工作指揮官のトマス・ハリスと組んで、幻のナチス
・スパイ網をつくる。二人は想像力で実在していない英国に点在する27人のスパイを
創りあげ、“彼らが集めた情報”をマドリッドのドイツ情報部支局に送り続けた。画家
のハリスの芸術性とガルボの燃えるような創意工夫の組み合わせで書かれた、この報告
や手紙はドイツ情報部へ1500通以上だった。膨大な情報に翻弄されながら大西洋の
壁建設は進んでいた。ヒットラーの司令でロンメルの指導の下に沿岸の1300キロの
大西洋岸をコンクリートの壁とトーチカと地雷原で守りを固めていった。1943年末
、大西洋の壁を強化し難攻不落にするその任務に全力をつくしたのだ。「壁」の建設に
は何百万トンのセメントと鉄鋼が使われ50万人(ノルマンディ地方の人々など)が動
員され、機雷を付けた海中障害物を50万、あらゆる種類の地雷500万個を設置し連
合軍の侵攻に備えていた。

694: 名無しさんAA:17/10/13 07:45
「大西洋の壁」は連合軍の攻撃をはじき返すための強力な防御施設であるとされ「ドイ
ツの背後を突こうとする連合軍を、大西洋に叩き返す」と、内外にプロパガンダされて
いた。それを現実のものにするため、ドイツが注いだ力は凄まじいものだった。ドイツ
の拡大占領政策は1941年バルバロッサ作戦開始の号令にドイツ軍東部戦線配備には
兵員300万人,戦車3580両、火砲7184門、車両60万台、騎馬75万頭。更
に航空機1830機を投入していた。対峙するソ連軍は、兵員450万人、10個軍だ
ったが、湿地帯の攻略にてこずり極寒の冬を迎えてモスクワ・レニングラードは陥落せ
ずバルバロッサ作戦のレニングラード包囲は失敗した。体制を立て直して、南方に重き
をなすブラウ作戦を立案し、石油や鉄道のロシア基地のスターリングラード攻防戦を目
標にし、5個軍、89個師団と言う実にドイツの7割の120万の兵と4千両の戦車3
千機の飛行機火砲1万問を投入しするに至った。当初スターリングラードは2、3日で
陥落するとの見込みであったが、既にロシアは新型T−3戦車を投入し、ドイツの3.7
センチ対戦車砲では、重装甲戦車を貫通することは出来ず「聴診器」と揶揄されるごと
く全く早期攻略どころか、戦闘は激しくなる一方で敗走の危機に瀕する中にあったのだ
。こうした中のイタリア防衛にも1944年初めに22個師団、フランス、低地諸国を
含む西部戦線に60個師団を送っていた。それは南アフリカからの退却をそこで砦とし
たからだ。こうして兵力が無い中にスカンジナビア半島からドーバーの海を超えスペイ
ンの角まで凡そ5〜6q置きにトーチカを築き機銃、対戦車砲、軽野砲が収納された。
海岸部には地雷原および対戦車障害物「チェコの針鼠」が設置され海にも機雷が置かれ
た。対してノルマンディー上陸を支えた欺瞞作戦は4年もかけて積み上げられた上に、
作戦が練られていた。今だ米軍が届かぬ中で統合連合国第一大隊司令部が置かれ英国の
国策としての嘘を大々的に行う方針が取られた。だがドイツで鉄やコンクリート資材が
整わず居る中で、イギリスでは偽造のハリボテの戦車を作る木材すら供給できなかった
1942年のアフリカ戦線の第二次エル・アラメイン会戦での成功からイギリス軍のダ
ッドレー・クラークが指揮し、彼によって数々の諜報や情報によって陽動作戦が取られ
た。戦火の無いチャンネル諸島のフランスに最も近いオルダニー島の防御が特に強化さ
れ大西洋の壁に使用される鉄鋼およびコンクリートの一割をチャンネル諸島に使用し、
沿岸防御砲が配置されたが、10門中7門がノルウェーに配置され、連合軍が上陸した
フランスに配置されたのは3門しかなかった事は、その諜報戦の成果であったが、なぜ
人々はこうまでして ユダヤ金融資本を助けるのか。それが英国の無知であった。融和
や話し合い 世界の共通常識の「正義」が英国に無かったのだ。今のEC離脱と全く同
じだ。

695: 名無しさんAA:17/10/13 07:49
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 336-----------

このノルマンディ上陸作戦は史上最大の作戦と呼ばれる。ドワイト・アイゼンハワーを
最高司令官にして、17万6000の兵員、5000隻の艦船と輸送船の大船団、90
00機の爆撃機と輸送機が投入された。この作戦に連合国軍の4割の軍を投入していた
。地中海に2割太平洋に3割とされる兵員からすれば、如何にこの上陸に賭けていたか
が解る。この作戦を引き受けた連合国軍のアイゼンハウワーの戦闘司令部は、サザンプ
トン郊外のトレーラーハウス(移動住宅)に設置された。参謀たちとの会議は隣のテン
トで行われあくまでも欺瞞作戦での本部より小さく見えさせた。彼は5月の段階で上陸
作戦は6月5,6,7日の3日間のうちに敢行すると決めていた。パラシュート部隊と
グライダーで空輸される歩兵部隊が奇襲を成功させる為の遅い月の出と、早朝で、海上
から上陸する部隊が敷設された障害物が見える干潮時が満たされる日と言う二つの条件
を叶えるのはこの3日間しかなかったからだ。対してドイツは上陸される事は解っては
いた。問題は何時何処で行われるかを作戦本部は丹念に知らせる事を要求していた。が
ヒットラーの独り相撲に既に上層部は愚か末端の部下まで厭戦気分が蔓延していた為に
正確な情報や有益な情報は採られる事はなかった。ヒットラー自身暗殺に追われていた
為正常な判断も出来ない状態だった。6月4日の朝は嵐だった。アイゼンハワーは作戦
の24時間延期を決定する。6日、7日に決行できないとすると、7月まで待たなくて
はならない。それまで、作戦のブリーフィングを受けている20万人が秘密を保てるの
か。ドイツの偵察機とスパイがこの作戦を嗅ぎつけるにちがいない。その日は高ぶった
神経を抑えるためにキャメルの煙草を4箱も吸った。嵐が続くその夜、アイゼンハワー
は司令官と参謀長とともに気象専門家の報告を聴いた。天候は一時的に好転し風はおさ
まり、5日は晴れ6日の朝まで続くが午後には再び悪化する、という。アイゼンハワー
は司令官一人ひとりの意見を聴いた。英軍総司令官バーナード・モントゴメリーは6日
上陸に賛成したが、成功の確率は20%良くて50%と言う者もいた。全員が発言した
あと、長い沈黙があった。アイゼンハワーは「断行すべきだ思う。もう待てないのだ。
選択の余地はない」と言い6月6日のDデーが決定された。Dデーの前夜、プレス・リ
リース用の声明を手書きで綴った。ポケットから取り出した紙に「上陸作戦は失敗し、
部隊を引き上げた。わたしの攻撃決定は、入手できる最上の情報によってなされた。陸
、海、空軍は勇敢かつ献身的にその任務をはたした。この作戦に関する責任はすべては
わたしにある。」と書かれていた。が幸いにも使用される事はなかった。


696: 名無しさんAA:17/10/13 07:56
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 337-----------

 こうした人を騙す国を騙す作戦は、戦争では常套手段の様に思われがちだが、それは
違う。戦争が勃発する前から平和の時代に於いても 常にプロパガンダ作戦と仮想敵国
の消滅作戦を行っている。それは今まで休む事無く殺戮を繰り広げた歴史からの警告が
欧州社会にあったからだ。だがドイツや日本はそれには及ばなかった。平和の意識や意
志が高かったからだ。そもドイツでの改革の遅れは そこに集まって来た民族の調和に
時間がかかったからとも言える。特にベルギー以下ルクセンブルクなどは古民族と言え
る逃げ延びてきた現地人と言われるほど風雅な人達で 音楽や建築或いは芸術に長けた
人が商売していたと言われる。ケルトと混血になったゲルマンとされるガリア人の子孫
で日本にやって来たポルトガル人とされる。言葉は各々違うがフランス人に近く比較的
大らかな民族で真面目であった。日本も又同じで鎖国時代に培った文化は遠い飛鳥時代
から引き継いだ「和を以て貴しとなす」と言う意識が強く 戦争となれば真面目に戦略
を説き悲痛な結果を産んだ。というのも、日本陸軍でも、逆に米国の暗号を殆ど解読し
ていた事実がある。それは第1次大戦後の1922にはポーランドの暗号専門家であっ
たコワレフスキー陸軍大尉を日本へ招いて研究させ、両国将校の交流を行うなどして、
暗号技術水準も高かったと言われる。米国の暗号解読も積極的に行っており、帝国陸軍
は太平洋戦争前の米国国務省暗号のほとんどを解読していたことが戦後判明している。
ただ イギリスやドイツの様な機械化はしていなく多分手作業で2・3日間はかかって
いたであろう。更に国際条約の制定でも 欧米列強では簡単に解約できるその場の約束
事と言う認識が強いが 日本人は国際関係を保つ未来永劫の礎と捉えている。この認識
の違いは大きく今も尚変わっていない。よくドイツは何回も憲法を変え兵力を盛り返す
に至っているのに日本は今だ自衛隊で軍隊を持たない中にいる。と批判されるが、それ
がこの国民性であろう。欧州では独立投票の様に、全員が賛成すればそれは憲法でも、
変えていいと思いあがる。だが日本人はそれが例え全員の賛成でも過去の英霊や今後の
子孫に悪い物であれば例え賛成があっても変えてはならない物との意識をもっている。
それは子孫にまで制約を果たす奴隷契約と産れた子に罪は無いとする無条件主義の違い
でもある。此処に戦争の敗因がある。更にこれが海軍の離反を招いたとも言える。つま
り米英に騙されていた多くの海軍将校がいた事実である。人は戦うべきだが大義を知る
人間であるべきだ 今も昔も欧米に大義があるとは思えない不信感が私にはある。

697: 名無しさんAA:17/10/13 08:10
 それらの違いは かつても今も 日本が世界には出て行けない事を示唆している。か
つて日本が国連の常任委員会の主要5ヶ国から7ヶ国に拡大に打診された事があった。
ドイツと日本を含めた国連運営が期待されたのだ。だがその要望を入口で小泉氏が切っ
て放り捨てた。「軍隊が無い日本が出来る筈はない。軍隊を新たに作る気か。」という
趣旨だった。その馬鹿男が後で首相となってイラク侵攻をいち早く賛成し、PKOとし
てイラク派兵を推し進めたのである。笑止千万彼には真摯に恥を知る知恵が無い。それ
は又今の日米防衛委員会がこの国を治めて居る姿の現実でもある。英国は昔から諜報戦
には長けていた事で知られている。二枚舌の外交もしかりである。かねてからアメリカ
の独立戦争はこの矛盾に遭遇しても解決していないままだ。ベンジャミン・フランクリ
ンは落雷が電気である事を発見した科学者で雷鳴轟く中の凧揚げは有名な話だが、これ
は彼の親の話だ。独立憲章を起草した一人で彼は「幸せは自由にか存在せず 自由は独
立の中にしか存在しない。」との考えの人だった。その為にイギリスからの独立に情熱
を注いでいた。その時この自由を守る二つの条件を説いた。一つは自衛の武器を持つ権
利と二つめは国に軍隊を持たせない権利だった。それは他国から攻められた時は国民が
武器を手に取り、自由に参戦すると言う趣旨だった。そもそも独立宣言は茶会事件から
始まる。1763年、フレンチ・インディアン戦争が終結しイギリス国王ジョージ3世
とグレンビル内閣は、本格的に植民地アメリカへの課税と支配を強化した。時の財務大
臣チャールズ・タウンゼンドは、ユダヤからの借りた金の返済に追われたからだ。日本
の国債の予算と同じに議会の英国放漫経営の末の結果だった。植民地に輸入された茶、
紙、塗料、鉛、ガラスといった品々に税金を課す案を練った。いわゆるタウンゼンド関
税である。この税はアメリカに限った税ではなかった。だが これらの品々は、北米で
生産されておらず、植民地はイギリス本土以外から購入することを認められていなかっ
た。JA全農の様に。この本国政府による圧迫策は、次第に植民地住民の本国に対する
不満を鬱積させていた。「耐え難き諸法」「世紀の悪法」などとと言われたこの税は、
これまでのインディアン戦争による虐殺戦争の支出に基ずく 財政上のものだった。が
やがて1770年のボストン虐殺事件に単を欲して労働者の不満は発展した。関税の一
部撤廃の動議を諮り新しい導入税のほとんどは撤廃されたが、茶への課税は継続された
。1773年の茶法によって東インド会社のお茶が安く植民地に流入することになると
植民地商人の怒りは頂点に達し、年末にはボストン港停泊中の東インド会社船に暴徒が
乱入し、積載されていた茶を海に投棄した。この結果この弁済をイギリス本土が求めた
のである。この時も裏にユダヤ資本が暴動を動かしていた。

698: 名無しさんAA:17/10/13 08:26
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 339-----------

 元々各地の植民地やアメリカ国内とタウンゼンド諸法のような法律を通したイギリス
帝国議会とには意識の乖離があった。当然と言えば当然だが。大英帝国は植民地を維持
するための費用について 植民地に対する税は公平な負担分を払わせる法的手段である
と考えていた。植民地の抗議によって、印紙法やタウンゼンド諸法の悪法は撤廃された
が、議会は1766年の宣言法において「どのようなものであれ」植民地に対して本国
は立法する権利がある。という立場に固執して声明も出していた。少し前までは人頭税
すら国王の承認のもと諸侯が行う事や 魔女狩りや人民裁判の行われた程の思想社会だ
。しかし、植民地側にはイギリス帝国とは異なる考え方が反発を形成していた。イギリ
スの憲法議会の下でイギリス臣民の税という形の負担を、植民地人が議会に代表を送る
形での同意もなくての税の徴集はできない。という論である。それゆえに議会への直接
代表の議員派遣が植民地に認められない以上は、議会も植民地に税を課す権利はないと
の主張が植民地に生じていた。この見解は「代表なくして課税なし」というスローガン
に表された。白人社会にしてこうした弱肉強食が産まれた中にあった。タウンゼンド諸
法の後で何人かの植民地論客がこの考え方をさらに進めて、議会が植民地における法的
司法権を そもそも持っているのかを問題にし始めたのだ。これが黒船の日本の不幸と
も繋がっている。植民地における議会の主権にまで及んだこの疑問はアメリカ独立とな
るものの伏線となる問題だった。この論理はすごく正しく思われた。だが一方ではこの
後起こった独立戦争で独立を成し得た後は 同じように米国と言う国は、南米やアジア
諸国に対して頭越しの外交取引と原住民虐待がなされ、次々と植民地化政策を進めた。
独立宣言は、リチャード・ヘンリー・リーが提案し「これらの米国内の個々の植民地は
自由で独立した国であり、そうなるべき権利がある。」と宣言した。独立決議案をアダ
ムズは支持し、大陸会議によって採択されるまで推進し、各連携を得た。アダムズはト
ーマス・ジェファーソン、ベンジャミン・フランクリン、ロバート・リビングストンお
よび ロジャー・シャーマンらと共に5人委員会に指名され、アメリカ独立宣言を起草
した。この宣言は主にジェファーソンによって書かれたものではあるが、その採択に関
する議論ではアダムズが前面に立った。長い年月の後にジェファーソンはアダムズの事
を「会議場における(独立宣言)支持者の柱であり、その最も有能な提案者かつそれが
遭遇した多種多様の攻撃に対する守護者だった」と称賛した。

699: 名無しさんAA:17/10/13 08:31
ベンジャミン・フランクリンは当時としては珍しい「道徳的完全に到達する大胆で難儀
な計画」を思いついた。この理想を実行するため、自らの信念を十三の徳目にまとめ毎
週、一週間を徳目の一つに捧げて、年に4回この過程を繰り返し自分の行動を戒めた。
1.節制  飽くほど食うなかれ。酔うまで飲むなかれ。
2.沈黙  自他に益なきことを語るなかれ。駄弁を弄するなかれ。
3.規律  物はすべて所を定めて置くべし。仕事はすべて時を定めてなすべし。
4.決断  なすべきをなさんと決心すべし。決心したることは必ず実行すべし。
5.節約  自他に益なきことに金銭を費やすなかれ。すなわち、浪費するなかれ。
6.勤勉  時間を空費するなかれ。つねに何か益あることに従うべし。
     無用の行いはすべて断つべし。
7.誠実 詐りを用いて人を害するなかれ。心事は無邪気に公正に保つべし。
口に出だすこともまた然るべし。
8.正義 他人の利益を傷つけ、あるいは与うべきを与えずして
人に損害を及ぼすべからず。
9.中庸 極端を避くべし。たとえ不法を受け、憤りに値すと思うとも、
激怒を慎むべし。
10.清潔 身体、衣服、住居に不潔を黙認すべからず。
11.平静  小事、日常茶飯事、または避けがたき出来事に平静を失うなかれ。
12.純潔  性交はもっぱら健康ないし子孫のためにのみ行い、これにふけりて頭脳を
     鈍らせ、身体を弱め、または自他の平安ないし信用を傷つけるがごとき
     ことあるべからず。
13.謙譲  イエスおよびソクラテスに見習うべし。
とわざわざ書いて 自らを諫めて 生活している。そこには今の米国のねじれた思想が
浮かび上がる。自由の権利として銃器拡大し 個人に銃を持たせ その上国家としても
世界最大の軍隊を保持していなければ、不安で仕方ない。がそれによる事件事故は日夜
起こる。アメリカ国内において銃器による死亡者は3万1千人交通事故死亡者3万5千
人より少し少ない位だ。一方日本では4千6百人の交通事故死があり銃器による死亡者
8人である。1日単位にした場合、毎日約85人が銃で死んでいる中、53人は自殺で
あり、未成年の子供も含まれている。銃の無い日本と比べて当然と言えば当然だが米国
の勧める文明国家像が銃社会や車社会で見える。この悲劇の数は 未開地の人の死亡よ
りも、多くの不道理に満ちているがその社会悪を、それを今各国に輸出している。

700: 名無しさんAA:17/10/13 08:42

陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 341-----------

 アメリカ合衆国が理想である「自由・平等・博愛」の白赤青の国旗を掲げているのは
フランスと同じに個人尊重を掲げたからだ。ベンジャミン・フランクリンの国家の軍隊
を持たない。と言う思想が具現化できなかった事で米国はねじれたまま発展した。元々
ロバート・リビングストンやロジャー・シャーマンと言った実業家は船会社や鉄道運転
での先進技術で儲けていた人々で彼らが軍船などを必要と叫んだのは想像できる。当時
は民間船に砲台のある貨物船や客船があった時代だったからだ。鉄道にしろ色々な妨害
で現金輸送が襲われたりし そうそう簡単には発展しなかった。石原莞爾はインタビュ
ーで「私が現役に止まっていたら、あなた方アメリカ人にもっと金を使わせたでしょう
。戦線を縮少し、アメリカの補給路を延長させ、日華事変を解決すればもっとうまくや
れたと思う(中略)。日本の指導者たちがミッドウェーの敗戦の意義を埋解し、ソロモ
ン群島の防衛線を強化していたら、太平洋の広さが日本に味方していたにちがいない。
山本五十六大将らは誤りを犯した。どこに根拠地を求めるかを知らなかったからだ。サ
イパン失陥を聞いたとき、私は敗戦を覚悟した。」と言うのは思いであって現実ではな
い。何故ならそこに陸上と海上の違いがあった。が本国に帰ってマーカス・サミュエル
ロンドン市長になったのは1902年(明治35年)である。サミュエルが市長になっ
てその年1月に「日英同盟」が結ばれた。彼は就任式に、日本の林董駐英公使を招いて
、パレードの馬車に同乗させる程の親日家だったからだが この日英同盟の堅持を貫く
事の大事さが失われた事が大きな要因なのである。日英友好によって昭和天皇の留学が
行われる信頼が産まれた。Uボートとされるドイツ海軍の保有する潜水艦は第一次世界
大戦では既に建造されていた。第一次大戦で、約300隻が建造され、商船約5300
隻を撃沈し、第二次大戦では、1131隻が建造され終戦までに商船を約3000隻、
空母2隻、戦艦2隻を撃沈する戦果をあげて、引き換えに850隻のUボートの損失を
出した。と書かれる。第一次世界大戦は1914年からとされるが、1915年ドイツ
はイギリスに向かう商船に対する無制限潜水艦作戦を開始した。その為に3ヶ月後の5
月に戦時禁制品の火薬類運送を行う英国船籍の、豪華客船ルシタニア号を無警告で、こ
のU20で撃沈すると言う行動を取った。1198人の犠牲者を出したがこれが潜水艦
の最初の攻撃であった。つまり、英国封鎖にドイツは隠密行動によって 隠れて民間や
戦艦構わず撃沈する事を目的に出来た代物だったのだ。北朝鮮の潜水艦造船はその踏襲
をしている


続きを読む
掲示板に戻る 全部次100 最新50
名前: E-mail(省略可): ID非表示