指導改善研修の実態 横浜市


@3ch掲示板 > 指導改善研修の実態 横浜市
全部1- 101- 201- 301- 401- 501- 601- 701- 801- 901- 1001- 1101- 1201- 1301- 最新50

指導改善研修の実態 横浜市

1: 横浜人権侵害都市:13/12/16 16:56
年明けの2013年1月24日 分会長のU教諭と共にいる前で。NH校長の不適切且つ違法な言動について。
○文部科学省、横浜市の指導改善研修の規定によると、元来指導力不足教員に該当しないにもかかわらず私を「指導力不足教員として申請書をすでに出すことにした」と暴言を吐いた。  
療休の診断書を2月の半ばに出しますから異動対象者名簿から私の名前を取り下げてくださいとお願いすると。校長はこれを2度拒否。東部学校事務所のOさんの指示に従って校長に事前にお願いしようとしたが拒否をする。校長としては本来診断書を受理する義務がある。「異動対象者名簿から取り下げない」などと無謀で一方的な発言を繰り返した。
仮に、「指導力不足教員として認定されなくとも、私はあなたを、教育委員会預かりにしてやるつもりだ」などと暴言を繰り返したものである。これらの発言は全て裁判上の証拠となる音声記録にも保存されているもので、事実である。NH校長が私を何としても異動させてK校から追い出そうとしていた、つまりパワーハラスメントを繰り返していたことは事実である。
○以降私は、疲弊しきっていたため、精神科で受診し、適応障害との診断を下された。寝付けない日々の中、なんとか学年末までやり終えることができた。午前中2時間年休を取得したり、休んだりすることが多い中での勤務で相当大変な思いをしたが、指導力不足教員の認定審査会では、H課長から、「すぐに休む」という点を指摘された。NH校長は心配するどころか、私に不利になり得るものは、療休であろうが構わず、悪いニュアンスで「すぐに休んでしまう職員」という言い方をしていたのである。前日に断裂症で休んだり、適応障害のために精神的に疲弊して午後から病院に行ったり休んだりした職員を捕まえて「すぐに休むダメな職員」という評価をして、教育委員会育成課に書類を提出し、強制的に指導改善研修に送り込んだのである。
当該NH小学校校長は、公務員に関わる諸規則、倫理規定、職務規定に該当し、自治会長から金銭を授受し、飲み食い等に充てるなど不適切に浪費した件に関して教育委員会から指導を受けている。2013年4月1日以降、強制的に指導改善研修に行かされている。

2013年9月18日(水)下校時の児童指導に立って児童に挨拶等をしていたが、不当にも、明日からは立たなくていいと発言。職員である者にこうした制限を設けるのは合理的理由がなく、パワーハラスメントである。

2013年9月、所属校研修ということでK小学校で勤務していたが、該当する場面がなく、学校長からの具体的な指摘もない事項について、不当に評価を低くつけられた。例えば、「採点ミスが多い」「市販テストで安易な評価をする」という場面そのものがなかったにもかかわらず、評価は「時々見られる」となっているのである。該当しない事柄までも、評価されているのであり、不実記載である。18項目中7項目(全体の38%)も本来該当することがないにもかかわらず、時々あるとされたのである。パワーハラスメントである。
 11月7日(木)に、学校長によるパワハラに関する訴えを労災として申請。本日付にて学校のメール便で送付。翌週11日(月)には届いているはずである。


1001: 名無しさんAA:17/12/13 23:01
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 659----------
 この中国と同じ様に三国通商条約をまとめた時 ソ連との中立条約もドイツとの通商
条約もアメリカ政府を始め大きな反日運動に繋がった。ここでも松岡洋右は世界を見誤
ったのである。日露戦争後アメリカの鉄道王ハリマンが来日し、日本の元老たちと接触
していた。ハリマンが、資金の提供とともに、日本と南満州鉄道を共同経営することを
持ちかけてきたのは、ソ連の大陸鉄道にユダヤ金融は大きな投資をしていたからだ。そ
れは東欧の地のユダヤ人救出にあったのは確かだった。実は白系ロシア人によって1931
年に成立したロシアファシスト党は指導者ウラジーミル・レーニンのボリシェヴィキ党
より更に過激な共産党であった。ハルピンでは白系ロシア人の青年層は失業率が高く、
ユダヤ人コミュニティを目の敵にし複数のファシスト集団を結成し、人質交換で資金源
を経ていて張学良の裏社会とも思われた。黒百人組はペテルブルクで創られた2つの集
団、神聖旅団とロシア会議が黒百人組の前身と考えらた1900年に結成されたこの2つの
団体は、反動的な知識人・政府高官・聖職者・地主代表を惹きつけて組織的政治闘争の
テロリスト集団であった。今のKGBや秘密警察の前身で地方版とも言える。元々は、
他集団からの自衛団だったと目されるが、この頃には黒百人組こそがポグロム遂行の為
に犯罪者を雇うロシア正教会の影の組織だった。革命時の自警団は「正教・専制・国民
性」を標語として紋章と旗は教会に飾られ、政府の支持や資金得ていた。正教会と皇帝
と母国への愛着を謳い、反ユダヤ活動を保持して会を存続させていた。ユダヤ人問題の
解決方法として、強制移住・物理的殲滅を論じていた黒百人組の指導者たちは、ナチス
の先触れで、これをドイツは真似ていた。ペテルブルクのロシア人民連合やロシア人連
合・ロシア帝政党などなどは、モスクワの対革命闘争活動協会でオデッサ「双頭の白鷲
」などの、多くの右翼集団は1905年革命後に作られた。これらの政治団体によって組織
されたテロリスト集団は、小商店主・浮浪者・職業的犯罪者の混成で成り立っていた。
ハルピンのユダヤ人指導者アブラハム・カウフマン博士は極東ユダヤ人会議議長となっ
て記者を通じ、日本への警戒心を緩めるようアメリカ社会に説いたが、フランクリン・
ルーズベルト大統領の側近となっていた、世界ユダヤ人会議議長のスティーヴン・サミ
ュエル・ワイズは、「ユダヤ・日本間の如何なる協力も非愛国的行為だ」とする 強い
見解を示した。これはロシア系ユダヤ人で大富豪のヨゼフ・カスペの息子が殺害された
時の日本側の対応が、ハルビン在住のユダヤ人に不信感を抱かせて起こった悲劇だった
。こうして米国指導部のメイソン協会のメイソンガーと一般団体のフリーメイソン協会
のメイソンリーの意見の相違は、日本の悲劇でもあった。元々ユダヤのラビの地位を得
た指導部会員界に逆らえる筈もない話ではあったが、ここにハリマンの怨恨もあった。

1002: 名無しさんAA:17/12/15 06:10 ID:1E.
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 660----------

 河村愛三が、ハルビン憲兵隊本部の特高課長であった時、アブラハム・カウフマンは
ハルビンのユダヤ人コミュニティーのトップとして率いて演説をした。「ハルビン・ヘ
ブライ協会」が設立されてその指導者となったカウフマンは、反ファシズムを訴える大
会開催を要請し、樋口も演説した。樋口は、ユダヤ人に安住する国がない事を嘆いては
いたが、「ユダヤ人に安住の土地を与えよ」と演説し、ユダヤ人を感激させ満州国建国
時に、1万人以上にもなっていたユダヤ人社会を何とか他の地にとも思っていた。先に
述べたようにユダヤ人社会も一つでは無かったのだ。ドイツ系ロシア系スラブ系英国系
それぞれに言語も習慣も違っていた。更にユダヤの系統すら違っていた。スファラディ
系ユダヤ人(スファラディム)とアシュケナジー系ユダヤ人(アシュケナジーム)では
格差もあった。シオニズムと言う王国醸成を掲げたユダヤ指導者階級は、ロシア、ポー
ランドを中心とする東欧系ユダヤ人(アシュケナジーム)とその子孫が多い。これに対
し中東と北アフリカのアラブ諸国から難民として流入してきたユダヤ人(スファラディ
ム)は、イスラエル社会の底辺を形成する者だったが、上海ではサッスーン家によって
逆転していた。この時欧州からやってきたアシュケナジー系ユダヤ人は「エレツ・イス
ラエル(イスラエルの土地)にユダヤ人国家を復興させる」という高い理念に燃えてい
てキブツ(社会主義的ユダヤ人共同体)運動との実践や確執もあった。白人系の多いこ
のアシュケナジー系は遊牧民系のスファラディ系のサッスーン家の繁栄に嫉妬もあった
。アブラハム・カウフマンはその名の通りペルシャ系だがサッスーン家はアラブ系だっ
た。更に殺されたヨゼフ・カスペはロシア系でスティーヴン・サミュエル・ワイズは、
ハンガリーのスラブ系だった。イスラエルでは一般に、セファルディムがアジア人また
は中東系ユダヤ人、アシュケナジム(ヘブライ語でドイツを意味する)が白系ユダヤ人
を指す語として大雑把に使われるが、これはオスマン朝からイギリス委任統治期を経て
イスラエル共和国建国後に至るユダヤ教の宗教行政において「オリエントのユダヤ教徒
」とひとくくりにした結果であった。当の本人達は明確な違いを認識していた。元々、
オーストリアのユダヤ系思想家であるナータン・ビルンバウムが、シオニズム指導者と
なるまでは「ユダヤ人」や「シオニスト」や「シオニズム」などと言うのは存在しなか
った。1880年代にユダヤ教徒を「民族」として定義し、ディアスポラ民族主義からの離
脱を進め、指導大学を作った為このナータンによってこうした問題が出来たのである。

1003: 名無しさんAA:17/12/15 06:10
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 661----------
ナータン・ビルンバウムは最初のシオニズム指導者であり、ユダヤ人を民族として定義
した人物であった。「シオニスト」や「シオニズム」などの用語を考案したのちには、
シオニズムではなくディアスポラ民族主義(現在の居住地でユダヤ教徒の権利を獲得し
、独自の文化を発展させていく)に傾いていったのだがそれは、共産主義にも影響した
。1881年〜1882年頃のロシアにおけるポグロムには、ウィーンのユダヤ人社会や世界に
衝撃を与える程だった。ブロディ(現ウクライナ西部の都市)などに難民が殺到したが
、ナータン・ビルンバウムはそれらの中から活動を起こして共済主義を説いていった。
1882年、ペレツ・スモレンスキンらと共にオーストリア初のユダヤ人「民族主義」的な
大学知識人の団体「カディマ」を創設し、この組織名はqadimah(東方へ)とkidumah(
前進)合成した名だが、その後カナンの地の建国が合言葉になったが本来は只の旧約聖
書の教徒に過ぎなかった。旧約聖書のみを信じるとしたユダヤ教徒の生活に出会い、こ
の考えに感銘を受けた彼は、それまで "Pollak(ポーランド人)"とか"Litwak(リトア
ニア人)"、「ロシアのユダヤ人」「東欧のユダヤ人」「ガリチア人」など と呼ばれて
いた、非ドイツ語圏に居住しイディッシュ語を話す数多くのアシュケナジムに初めて「
東方ユダヤ人 Ostjuden 」という名称を与えた。彼はユダヤ人を民族として捉え、「東
方ユダヤ人」が 非ドイツ語圏においてのイディッシュ語の保持、敬虔な信仰・思想と
生活、伝統的価値観を保持していると考えるに至っていた。満州国建国直後は全員貧し
かったため問題はなかったが、経済的成長を遂げると次第に流浪の民がユダヤ人として
押し寄せて来て、既存移住者と新規移住者の両者間のギャップは社会的差別となって、
表面化した。シベリア横断鉄道が出来上がって職がない人も遠くウクライナ付近からの
逃げて来るロマ人もクーリーもユダヤ教に染まった者もいた。現代に於いてキリスト系
の新興宗教が多いのはその為でもある。1942年にマイジンガー・プランなるものを
ひっさげて「ワルシャワの屠殺人」の異名を取ったヨーゼフ・アルベルト・マイジンガ
ー大佐が「ユダヤ絶滅計画」に沿った「ゲットー建設要請」を持って政府首脳部にやっ
てきたのだが、幸いにも日本政府や日本軍は、これには同意しなかった。しかし形式的
同盟に沿って1943年に、殺人収容所の代わりに虹口の共同租界の一部に救済施設を設け
た。それは提籃橋の日本人居住区の直ぐ東隣に、国籍の無い“難民のための指定地区”
を設定していて、そこに多くのユダヤ人を押し留めた。この区域は西は公平路、東は通
北路、南は恵民路(旧Baikal Road)、北は周家嘴路(旧Point Road)に囲まれた地域
だった。“ユダヤ難民隔離区―ゲットー”の成立である。その時上海にいたユダヤ人は
2万5千人。日本軍はこのゲットを約3年間管理した。

1004: 名無しさんAA:17/12/15 06:17
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 662----------

 この上海ゲットーは膨れ上がっていった。第二次上海事変の結果、この地域が大日本
帝国に占領されたが、日本軍と南京国民政府はパスポートに関する社会体制を整えなか
った。この為上海港は世界中で唯一ビザ無しで訪れることのできる場所となった。中国
と列強の不平等条約は続いており、上海を訪れるには欧州からの旅券を見せるだけで良
かったのである。こうして「無国籍難民限定地区」として知られてナチス支配下にあっ
たドイツ、オーストリア、ポーランド、チェコスロヴァキア、リトアニアなどでの迫害
の地から逃れて日本に訪れたユダヤ人は、日本が当時公表していた“無国籍難民の定住
と商売の制限に関する声明”によって日本占領下の上海に移住してきた。ゲットーには
正しく無祖国難民の限定地区として機能し、2万人以上のユダヤ人難民や10万人の中
国人などが定住し、貧しい難民が難を逃れ上海に移住するために押し寄せていた。現地
のユダヤ人家族と米国ユダヤ人の慈善団体は彼らを保護し、食事と衣服を与え続けた。
日本に敗戦に近づき 次第にいろいろな制限を強めていったが、最後まで生活環境は、
劣り悪くになってもゲットー封鎖がされる事は無かった。現地で中国人居住者も同様に
生活水準は悪くなった。だが、去る事は無かった。ユダヤ人の多くは能力のある専門家
で、教師、編集者、レポーター、作家、画家、音楽家、スポーツマンなどであった。彼
らは隔離区域で学校を開設し、劇団を組織し、移動図書館を作り、音楽バンドを編成し
、フットボールチームまで作った。時代の困難な状況下で、数十種の新聞雑誌が発行さ
れた。粗末なビルの一角で、130人ものプロのオーケストラさえ、直ぐにに編成でき
た。といわれる。上海のユダヤ人の歴史と遺産提籃橋の街角には、オーストリア人の、
パン屋があり、ウイーンの人々が強いコーヒーを啜っていた。或る者は、地元のドイツ
語の新聞を読んでいた。(ポーランド語、ロシア語、イーデイッシュ語の新聞さえ発行
されていた。)コーシャフード(ユダヤ教の食物規定に基づく食物)の肉屋やドイツの
デリカテッセンも近くにあり、聖日に使うお祭り用の蝋燭もアブラハム乾物屋で売られ
ていた。1945年第二次世界大戦が終ると、上海のユダヤ人は大部分上海を去り、イスラ

1005: 名無しさんAA:17/12/15 06:18
パン屋があり、ウイーンの人々が強いコーヒーを啜っていた。或る者は、地元のドイツ
語の新聞を読んでいた。(ポーランド語、ロシア語、イーデイッシュ語の新聞さえ発行
されていた。)コーシャフード(ユダヤ教の食物規定に基づく食物)の肉屋やドイツの
デリカテッセンも近くにあり、聖日に使うお祭り用の蝋燭もアブラハム乾物屋で売られ
ていた。1945年第二次世界大戦が終ると、上海のユダヤ人は大部分上海を去り、イスラ
エル、米国、その他の国々へ散っていった。 第二次世界大戦以降には、ユダヤ人達は
ほとんど上海に残らなかった。上海のユダヤ人の歴史と遺産虹口区提籃橋の摩西会堂は
、市政府の記念館として公開され、当時の生々しい記憶を今に伝えている。すぐ近くの
スラム化した旧ユダヤナ難民収容所も、ユダヤ難民が暮らした3階建てのアパートが残
り(舟山路59号)も当時の面影を残す。カーター時代の前米国財務長官ブルーメンソ
ール国務副次官補(経済担当)として大使級通商交渉大統領特別副代表などの公職と、
民間部門で相互に働いたが、このアパートの2階に10年間も暮らしていた。当時難民
の老人、子供で溢れていた霍山公園には、ユダヤ難民記念碑が建っている。舟山路を歩
くと、当時の光景が亡霊のように立ちのぼってくる。


1006: 名無しさんAA:17/12/15 06:20
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 663----------

 上海のユダヤ人の歴史と遺産は、いま虹口地区では、ユダヤ資本を入れて町の再開発
が始まっている。かつてそこで過ごしたユダヤ人だけでなく、全てのユダヤ人達が彼ら
民族の虹口での歴史を保存しようしている。CJSSのパンフレットによれば、いまも
ロスアンゼルスには、かつて虹口にいたユダヤ人の団体が発行する新聞や倶楽部が存在
しているという。中国にとって、エネルギ資源と絡むアラブ諸国との関係から、対イス
ラエル政策は微妙だ。ユダヤ教は今も、正式な活動を認可されていない。21世紀にな
って経済躍進が続く上海で、ユダヤ人は新たにどのような活動をするのであろうか。又
新しい歴史が始まろうとしている。このブルーメンソールはコンピューター革命時ユニ
シスを立ち上げてCEOになっている。ユニシスは年間売上高105億ドルでIBMに
次ぐ世界第2位のコンピュータ企業ともなった。ユニシスは1986年9月に、元アメリカ
合衆国財務長官のマイケル・ブルーメンソールによるメインフレームメーカーのスペリ
ー社とバロース社の合併(バロースがスペリーを48億ドルで買収)で設立された。合併
当時は 120,000人もの従業員を抱えていた。ユニシスのシステムは、銀行業務、小切手
処理、所得税処理、航空機予約、生体認証、新聞コンテンツ管理、港湾出荷管理、気象
情報サービスなど様々な用途に使われている。アメリカ国立気象局の ドップラー気象
レーダーシステム NEXRAD のソフトウェアもユニシスが開発しており、レーダーや気象
衛星などからの気象データを提供している。また、アメリカ軍の世界最大のRFIDネット
ワークの運用も担当しており、25カ国にある1,500箇所の拠点で年間900万個のコンテナ
の追跡を行っている。南アフリカ共和国では一般市民用の汎用的身分証明書の作成を請
け負っていた。バロース社は元々はタイプライターの老舗であった。「言語指向システ
ム」という哲学に基づき、3つの非常に革新的なコンピュータ・アーキテクチャを開発
した。この命令セットは ALGOL、COBOL、FORTRANといった高水準言語を念頭に置いて設
計されていずれもメインフレームクラスのマシンを動かした。バロースの大型メインフ
レームは1961年から始まったが、1980年代のAシリーズへと続いた時、小型機用のマイ
クロプログラム方式が主流に代わり、各プロセスをそのプログラミング言語に最適なア
ーキテクチャの仮想マシン上で動作させることが可能な設計で書き換え可能なコントロ
ールストアを採用して拡張型OSに変わった。この事がIBMのOSを可能にして追い
抜かれた。実はこれらOSには上海からの米国人のガレッジホビーが多くの寄与があっ
たのだ

1007: 名無しさんAA:17/12/15 06:21
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 664----------
 多くのアメリカに於ける研究者は、シオニストイスラエルに対しての支持基盤が事実
的にはキリスト教原理主義者だから仕方ない。博士は言う。又専門家の分析では、アメ
リカ国内のキリスト教原理主義からのシオニストイスラエルに対する支持が揺らぐ事は
ないという判断をしている。理由は簡単だ。彼らは指導者から、キリストが地上に再臨
するまでに「イスラエルが完全なものになる」ことが必要だと教えられているからだ。
ダービーの聖書の“世界”はイスラエルを支援して、最終的にかつての地位を再現する
ことが出来れば、それがメギドの平野での最後の戦いへと繋がるというものだ。最後の
戦いとはつまり「アルマゲドン」のことで、その戦いには世界の主要大国の全てが参加
する。そのあとは、壊滅的な飢饉と疫病に襲われるが、キリスト教徒はそれを「終わり
の時の印」として、そして間違いなくキリストの再臨が近いことの印として歓迎すべき
である、というのである。これは完全な終末戦争を意味し「末法思想」の何物でもない
。このユダヤ思想が不当なパルフォア宣言を利用し、それを国際連盟の文書にもぐりこ
ませて、委任統治権をあたえたことは、中国以上の歴史改竄であったと言える。いくつ
もの証拠が示すように東ヨーロッパおよびロシアのユダヤはその大半がハザール系であ
ることに間違いはない。従って論理的に言えばヨーロッパユダヤの先祖はパレスチナや
ヨルダン地方からではなく、黒海とカスピ海の間、及びヴォルガ川沿いの地域からやっ
てきた事は間違いない事実だ。故にヨーロッパならびにアメリカにいる現代のユダヤ教
人口は大半がカナン人ではないこと、すなわちパレスチナにルーツをもっていないこと
が証明される。むしろ現代のユダヤはハザール系であるとする意見は、ほぼ正しい事は
明らかなのである。ところが研究者がそれして、ヨーロッパユダヤ、アメリカユダヤの
大半がアブラハムやイザクやヤコブの種だという主張の正当性に疑問を唱え始めた時に
途端にイギリスにはドイツとの戦争の正当性が失われる事でその研究者は暗殺されるは
めになる。元々イギリス王室が唱えたプロテスタント教会はカトリックの様な中央集権
的宗教ではない。特にアイルランドなどの先住民ケルトなどに取り入れてもらうには、
霊的宗教習慣が大事だった。1400年代にアイルランド系住民で起きた信仰回復、新
しい教会運営に関する方法論を模索した活動でしかない。イスラム教の開祖ムハンマド
の死後、ムハンマドの代理人としてイスラム共同体の後継指導者のカリフたちがそれぞ
れ闘いながらイスラム国家群は大きく拡大した。ムハンマド以来のこのイスラム共同体
にローマ帝国はカトリック教会に聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを
目的に十字軍として遠征軍を派遣する事を考えたのである。これらの戦いは公式非公式
含めてかなりの兵員を要した。

1008: 名無しさんAA:17/12/15 06:26
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 665----------

 この十字軍の遠征は各国諸侯にとっては都合の良い異端者払いだったし、国内の宗教
戦争や隣国の境界争いや商売の住み分けなど、全く都合が良い戦争だった。又これまで
襲われる紛争では自分達には期日や集会など出来なかったが、遠征ともなれば集会での
人集めや熱き兵士達を輝かしく送る事も出来て一石二鳥も三鳥にもなった話だったのだ
。ところがこれには金が要ったし、収穫期の人手不足も問題だった。そこでヴォルガ川
沿岸やヨルダン地方の残兵者など集めて、金の工面もする集団が現れる。イスラム世界
とキリスト世界で共通の認識だけ選び出すとすれば「旧約聖書」とされる部分だけだ。
これが原理主義集団とされるかけがえのない共通認識となる。ならばその部分だけの、
お題目を唱えた宗教に属すれば事は早い。と当初のユダヤ教とは全く離れたユダヤ教が
出来上がったとしても不思議ではない。元々ユダヤ教はユダの流れの子と言う蔑む言葉
が発祥だった。こうしてユダヤ教徒のかれらの祖先はヨルダン地方やカナンではなく、
コーカサス地方からやって来たことになっても全く不思議ではなかった。コーカサスと
いえばかってはアーリア人発祥の地と考えられていた所であり、遺伝的に言えばハザー
ル人はアブラハム、イサク、ヤコブよりもフン族、ウィグル族、マジャール族に近いの
であるが考えて見れは当然でもある。と言うのも「旧約聖書」と言う最も古い歴史教書
を崇め乍らもキリスト教やイスラム教などより最も新しい教団でこれだけ 商売上手な
宗教で権力基盤に組み込まれる宗教が、大航海時代に日本にも香港にもインドにも全く
無かったのである。それはソ連の共産党とや第一インターナショナルなどと言う新思考
と同時に現れた商売の為の教徒達であり人種だったのである。元々こうした原理主義に
基づいた考え方はジョン ネルソン ダービーやらアンソニー ノリス グローブスな
どで唱えられていて カトリックから分かれてプロテスタントが起こった時既にあって
ロシア正教会すらもその時代に起こった宗教だったのである。こうして千年も経った今
では実態であれ虚像であれ存在しては 我々を惑わし恐れさせる力を持ったのである。
ロシアにおける帝政やボリシェヴィキ党などのポグロムから逃れてきたボヘミアンでも
ロマ人でも程度の差はあれ旧約聖書を知る者であり、日本人から見ればハルピンに押し
寄せて来たユダヤ人であったのだ。ソ連となったロシアは次々とシベリア開発民として
ユダヤ自治州に人を送り込んだ。一説には20年間800万人である。そして境界を越
えて中国人に変わって、米国に出ていった。


1009: 名無しさんAA:17/12/15 06:27
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 666----------

ジグムント1世老王は「ユダヤ人の自由に関する一般憲章」(一般的には「カリシュ法
」として知られる。)の「カリシュの法令」を宣言した。1264年9月8日、カリシュの地
において大ポーランドのボレスワフ敬虔公によって発布されたこの憲章は、ポーランド
の国内でユダヤ人の法的地位の根拠となり、これによって「国民内国民」とも言えるよ
うなイディッシュ語話者による自治組織が創始された。今のイスラムの難民や移民の様
に陸続きで不穏な輩の集団移住は、元からいた居住民には恐ろしかった為それぞれの村
で自警団が組織され村外者には冷たく暴行事件すら多数あったと言える。この厄介な者
らを取り締まる事はそれも又手間だった。その為こうした法を発布するに至ったのだっ
た。この憲章は1795年の第3次ポーランド分割まで存続した。この憲章によってユダヤ
人に関する事案はユダヤ人の裁判所のみが取り扱うことになり、ユダヤ人とキリスト教
徒が関わる事案については別個に独立した法廷で取り扱うことになった。この法令は同
時に、ユダヤ人の安全と個人の自由を保障しており、これによりポーランドのユダヤ人
たちは安心して自分たちの信仰を守り、商売を行い、旅行をすることができた。カリシ
ュの法令は1334年にカジミェシュ3世大王、1453年にカジミェシュ4世王、1539年には
ジグムント1世王によって、それぞれ改めて承認されている。こうして「のけ者」「裏
切り者」「異端者」「異質者」と言う意味の「ユダ者」が農奴と言う農家の奴隷の下に
住み着いて良いとする存在が認められたのだった。そこに「ポグロム」とされる猟奇的
差別が起こっていたのは当然だったかも知れない。言語も習慣も違い何よりも食糧供給
すらままならなかったのだから。ディアスポラ後も、ユダヤ人のほとんどは地中海世界
のちのイスラム世界に住んでいた。それに対し、アルプス以北におけるユダヤ人の起源
はない。7世紀に中央アジア西部のコーカサスからカスピ海北岸にいたハザール王国の
住民とされ、ヨーロッパに西進し移住したわずかのコーカソイドの一派のユダヤ教徒の
子孫だとする説、またはローマ時代イスラム世界から商人としてヨーロッパを訪れたと
する説、イタリアからアルプスを越えてやって来たとする説などいずれも最もな説はあ
るが、単一の起源ではないとし、9世紀頃に民衆がユダヤ教に集団改宗した黒海北岸の
ハザール汗国の子孫だとする主張が最も考えられる。いずれにせよ、8世紀から9世紀
には北フランスにアシュケナジムらしきユダヤ人の記録が見える。彼らはドイツ中部の
ライン川(ライン地方)、ブリテンなどにも広がった。


1010: 名無しさんAA:17/12/15 06:27
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 667----------

 アシュケナジムはユダヤ系のディアスポラ(定住者)のうちドイツ語圏や東欧諸国な
どに定住した人々、およびその子孫を指す。語源は創世記10章3節ならびに歴代誌上
1章6節に登場するアシュケナズから来ている。単数形はアシュケナジと言う。アシュ
ケナジムとセファルディムは、今日のユダヤ社会の二大勢力である。アシュケナージは
、ヘブライ語でドイツを意味する。イスラエルでは一般に、前者が白系ユダヤ人、後者
がアジア人、南欧系及び中東系ユダヤ人を指す語として大雑把に使われる場合があるが
、これはオスマン朝からイギリス委任統治期を経てイスラエル共和国建国後に至るユダ
ヤ教の宗教行政において「オリエントのユダヤ教徒」がセファルディムの主席ラビの管
轄下に置かれていたことに起因する。しかし、それ以前の歴史や人種的にはっきりした
ことは不詳で、現在も論争がたえない。1881年・1882年のロシアにおけるポグロムでは
ウィーンのユダヤ人社会や世界に衝撃を与え、ブロディ(現ウクライナ西部の都市)な
どに難民を殺到させた。ナータン・ビルンバウムはそれらの中から活動を起こしていっ
た。1882年、ペレツ・スモレンスキンらと共にオーストリア初のユダヤ人「民族主義」
的な大学知識人の団体「カディマ」を創設した。この組織名は(東方へ)と(前進)を
合成した言葉である。この段階での基本的綱領は 後のシオニズム指導者テオドール・
ヘルツルと一致していた。またこの団体で東方とモラヴィア、ウィーンのユダヤ人が顔
を合わせた。またカディマの団体歌を作詞した。これはオーストリア・ハンガリー帝国
のユダヤ教徒社会を象徴する光景ともとらえられる。党名はヘブライ語で前進を意味す
る。当初は国家責任党という名称が検討されたが、同名称では省略すればNPPとなる
ことから、国家宗教党(NRP)が激しく反発し、最終的にカディマに落ち着いた。ま
た、「カディマ」の名称に対しても、カディマがヘブライ語で「前進」を意味するとこ
ろから、ベニート・ムッソリーニがイタリア社会党に所属していた際に同党の機関紙・
「アヴァンティ!(イタリア語で前進の意)」の編集長をつとめていた経緯から問題視
する声が上がったが、これは大勢にはならなかった。シオニストとはシオニズムを信奉
する人びとであり、シオニズムとはエルサレム神殿があったとされる「シオンの丘」へ
戻ろうという運動で。この用語はナータン・ビルンバウムが1893年に初めて使ったとい
うが、近代シオニズムの始まった年とされているのは、セオドール・ヘルツルが『ユダ
ヤ人国家』を出版した1896年だ。こうした運動を強く支援していた富豪のひとりがフラ
ンスのエドモンド・ジェームズ・ド・ロスチャイルドだと言われている。


1011: 名無しさんAA:17/12/15 06:37
 しかし、その前に「ユダヤ人」をパレスチナへ「帰還」させようという運動を始めた
人物がいる。スコットランド人のジョン・ネルソン・ダービーだ。救世主の再臨を実現
するために「ユダヤ人」をパレスチナに「帰還」させ、最終戦争を実現する必要がある
と彼は考えたという。彼らの声が恐らくチャーチルなどに聞こえたのだろう。ドイツの
ユダヤ収容とイギリスのユダヤ人送還などは、時を同じにしている。ダービーは1859年
から72年にかけてアメリカで布教に努め、その流れの中から聖書根本主義派(キリスト
教系カルト教団)が生まれた。ジェリー・ファルウェルやパット・ロバートソンもそう
したカルトに属している。こうしたキリスト教系カルトとジャボチンスキー派は1970年
代に手を組み、アメリカでの影響力を増しただけでなく、イスラエルで主導権を握るこ
とにも成功した。議会はともかく、イスラエルに好意的なアメリカ大統領は少なくない
。例えば、ルーズベルト。アメリカで活動していた二人のラビ(ユダヤ教の聖職者)、
ステファン・ワイズとアッバ・ヒレル・シルバーがメディアを使ってルーズベルトは、
シオニストを支持していたという話を広め、それを信じている人もいるようだが、実際
は違う。中東に混乱をもたらすとして、イスラエルの建国には反対していた。ドワイト
・アイゼンハワーや ジョン・F・ケネディもイスラエルには批判的だ。イスラエルが領
土拡大を目指して第3次中東戦争を引き起こしたのは、議会で親イスラエル派を率いて
いたリンドン・ジョンソンが大統領になった為だった。建国の直後、1949年からイスラ
エルは核兵器の開発に着手しているが、そのプロジェクトに協力したのはアメリカでな
く、フランスだった。開発資金を提供していたのは欧米に住むユダヤ系富豪、例えば、
アメリカのエイブ・フェインバーグやフランスのエドモンド・アドルフ・ド・ロスチャ
イルド。エドモンド・アドルフはエドモンド・ジェームズの孫に当たる人物で、ヘンリ
ー・キッシンジャーと親しい関係にあると言われている。これらからスエズ運河の利権
とパナマ運河の建設などが深く関係している事は確かと思われる。そして日本も又無関
係ではなかった。「オトポール事件」でも当時、満鉄本社総裁室の文書課にいた庄島辰
登氏の体験によると、樋口少将よりの情報に接した松岡洋右総裁は運転司令に対して、
救援列車の出動を電話で命令した。そこで、文書課で作成した命令電文を庄島氏が電報
局へ行き、奉天鉄道総局へ打電したという。救援列車出動の理由を聞くと、一週間に客
車と貨物車が各一回の運行であったからという。これ以降は、客車以外に貨物車の乗務
員控室などにも便乗させて常に運んだようだ。かくして、四月末までに数車両を無料で
運んだ様だ。無料は松岡総裁の指示であって松岡以降の東条なども同様であった。ただ
、担当者が後日の証拠として記録し、ユダヤ人協会が精算したときいているという。が
実は関東軍も上海に送らねばオトポール他ハルピンでも警備軍兵は全く不足だった。

1012: 名無しさんAA:17/12/15 11:29
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 669----------

1933年(昭和8年)2月21日、日本政府はリットン報告書が連盟総会で採択された場合は
代表を引き揚げることをすでに事務局決定していた。 2月24日、軍縮の分館で行われた
連盟総会で報告書は予想通り賛成の圧倒的多数で可決・採択された。3月のオトポール
事件では松岡や東条達は樋口季一郎と協力してユダヤ人難民を保護している。これは、
ちょっと不思議な事になる。つまり日本とドイツとの友好を進めたのははこの松岡洋右
総裁である。敢えて言うならユダヤ迫害のドイツに賛意を示した者であるし、国連脱退
の人間である。国連総会で日本政府のスポークスマンとして英語での弁舌に力を発揮し
、またその時同じ随員であった近衛文麿とも出会っている。帰国後は総領事として再び
中華民国勤務となるが、1921年(大正10年)、外務省を41歳の若さで退官して満州入
りしているのである。彼がこのソ連の動き、つまりユダヤ人達が強制収容され北方開発
にアムールに送られ、ピロジャンと言うユダヤ人街が出来て、そこからオトポールやハ
ルピン多くのユダヤ人とおぼしき者が溢れてしまっていた事は知らない筈はない事だっ
た。もっとも、帰国途中ロンドンでは満州における日本の行動に抗議する英国市民に遭
遇して、松岡は「日本は賊人の国だ」とののしられた上、本人は「日本の立場を理解さ
せることが叶わなかったのだから自分は敗北者だ。国民に陳謝する」と至らなさを痛感
したのコメントを出してはいる。外国通の英語を話す彼すらこうだったのだ。1940年(

1013: 名無しさんAA:17/12/15 11:30
したのコメントを出してはいる。外国通の英語を話す彼すらこうだったのだ。1940年(
昭和15年)近衛文麿が大命降下を受け、外務大臣として松岡を指名し内定した。松岡は
「私が外相を引き受ける以上、軍人などに外交に口出しはさせません。」と大見得を切
ったが、松岡は外相就任当時、「独逸人ほど信用のできない人種はない。」とも語って
おり、ドイツに対して好感を持っていたわけではなかったし、ソ連も又信じるに値しな
いと踏んでいた。だが既に包囲網は敷かれ就任当初からドイツ・イタリア・日本による
三国同盟を唱える陸軍の使者が松岡の元を訪れ、三国同盟を推進するよう働きかけてき
ていた。ドイツ留学が多い陸軍の接客と「議論」を行う中では、三国同盟に傾斜してい
る将校が多く又ドイツの発達した技術や科学には侮れない魅力もあった。一方で松岡は
、伊藤博文の影響もあって昔から親ロシアを唱えており、伊藤門下の親露派の首領を自
ら任じてもいた。つまりユダヤ選別のポぐロムの集団移住政策を是認していたのである
。日ソ中立条約締結前、イギリスのチャーチルは松岡宛に「ヒトラー(ドイツ)は近い
うちに必ずソ連と戦争状態へ突入する」とM16から仕入れた情報を手紙として送って
いた。だが松岡はこれを無視し日ソ中立条約を締結した。これは後年、極東国際軍事裁
判の公判でイギリス側の証拠としてこの手紙が提示され明らかにされた。青年期の松岡
の苦学、そして当時の米国における人種差別は想像を絶するものであろう。とはいえ又
それは彼が白人世界の人種差別の是認でもあった。一つ確かなことは、日露戦争の講話
締結に貢献した金子堅太郎(1853〜1942)のように松岡は日本の国益増進の為に米国留学
経験を活かすことはなかった、ということである。


1014: 名無しさんAA:17/12/16 05:47
 三国同盟は松岡の意図する道では無かったのだろう。昭和10年、第7回コミンテルン
総会で人民戦線テーゼが採択され、国際的に連帯し共産革命を推進することが決議され
た。同年イタリアではエチオピアに進出し、国際連盟と対立、翌年エチオピアを併合す
る事変が起きる。同じ頃、満洲事変後、華北地方を国民政府から分離して日本の支配下
に置こうとする華北分離工作が関東軍を中心に推進されていた。昭和11年にはベルリ
ンオリンピックが開催され、ドイツの急激な発展が目を引いた。そして共産党の脅威に
対抗し、同年11月に、日独防共協定が締結されたのである。当時、それと共にドイツと
イタリアも連携を深め、翌年には日独伊の3国による防共協定が成立した。この事によ
ってイギリス・フランス・アメリカの警戒心を喚起し、第2次世界大戦への道筋が出来
上がった。盧溝橋事変から3年後に、日独軍事同盟締結を至上目的とする第二次近衛内
閣が発足した。松岡は外相として再び外交の表舞台に立つこととなるが、日独伊三国防
共協定が軍事同盟である三国同盟に発展したのは、松岡が外相就任してからわずか2ヶ
月後の昭和15年9月である。即ちヨーロッパにおける第二次世界大戦開戦から1年も
経過した時点で、ドイツが西部戦線でベネルクス三国のみならず、フランスをも屈服さ
せる戦況の最中での出来事であったのだ。松岡は外相就任直後に三国同盟締結に障害と
なる親米英派の大使、公使など40名を更迭するという空前の人事異動を実施している
。このことは昭和16年12月の日米開戦の布石になり大きな誘因になったのは言うま
でもない。これまでも三国同盟に対してルーズヴェルト米国大統領は、屑鉄や鉄鋼など
、日本にとっての欠かせない原材料の輸出を次々と禁止し、厳しい経済制裁を加えては
いた。こうして短期間のうちに日本とアメリカの対決はのっぴきならない決定的なもの
に陥ったのだ。それがきっかけで日本は石油などの天然資源確保のために、これまでの
華北分離工作に象徴される北進政策から、南進政策へと傾斜していった。ドイツに叩か
れて弱体化した仏印、蘭印への侵攻に踏み切れば、当時米領のフィリピンの安全保障は
脅かされ日米開戦は不可避なものとなる。欧州は疲弊して原因は言うまでもなく第一次
世界大戦にある。戦後の混乱を終結するため、イタリアでは大正11年にムッソーニが
、ドイツでは昭和8年にヒトラーが政権を握り、独裁体制を作りあげていた。昭和7年
に五・一五事件、昭和11年に二・二六事件が発生する。日本でも欧州でも政治的に病的
な状況が進行していたのだ。昭和16年4月、松岡外相はモスクワにて日ソ中立条約を
締結。日独伊三国同盟にソ連を協力させる松岡の多元外交は、あたかも英米への頑強な
牽制力形成を実現したかに見えたが、その幻想はあえなく崩れた。2ヵ月後、ドイツは
突如ソ連に進攻。ソ連を加えた4国でアメリカに対抗しようとする松岡の構想はついに
崩壊したのである。

1015: 名無しさんAA:17/12/16 05:47
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 671----------

松岡は日英同盟廃棄以降の非常に不安定になっていた日本のポジションをはっきりさせ
る意味合いで三国同盟を考えた。のみならずソ連をも後ろ盾にした米英との交渉を展望
していた。よく評価すれば極めて複雑な多元外交をやろうとしたと言えなくもない。が
しかし20世紀初頭、パクス・ブリタニカの時代の日英同盟は国益増進に資するもので
あったことを鑑みれば、個人的な英米コンプレックスや片意地で多元外交に突き進んで
しまうことは、独立独歩に欧米風情のない日本が情報不足に危うさの中にあり、極めて
大きな壁を感じざるを得ない。その意味ではパクス・アメリカーナの戦後、日米同盟は
我が国において長期間にわたって平和と繁栄をもたらしたことはいうまでもない。松岡
が日本外交の表舞台に立った時代は、パクス・ブリタニカからパクス・アメリカーナへ
の移行期でもあったとも言える。そしてそれは一種のヘゲモニーの空白時代であった。
その空白を埋めるための松岡の多元外交は複雑極まりなきものであると同時に、成功を
したとしても実に脆いものであったはずで、実は第一次世界大戦で戦勝国としての振る
舞いは、各国共に常にこの危うい中の綱渡りに過ぎなかったと言える。敗戦から半世紀
以上を経た現代日本において、パクス・アメリカーナがいずれは終焉し、世界的なヘゲ
モニーの空白期到来を予見し、もしくは期待する人々から、東アジア共同体構想が喧伝
されるようになった。地政学上の位置、国力からして、果たして我が国が多元外交に適
した国家なのかどうか、この松岡外交の歴史から再考する必要が生じている。戦前には
北伐が開始されると、中国ナショナリズムの勃興により従来の権益を失うことを、日本
は非常に恐れた。その為、事あることに上海租界に対する干渉を繰り返した。それは、
植民地支配の他アジア自体の民族の生死に関わる人口増加や糧自給や産業育成にも関わ
っていたからだ。1931年の満州事変と翌1932年の上海事変を経て、傀儡の満州国建設を
手始めとして、1937年には日本人の認識に関わらず、ついに中国との全面戦争に突入し
た。中華民国は奮戦したが、共産党テロに屈して、南京、武漢を相次いで失い、上海よ
り長江を2000キロ遡った重慶に立て籠もる。租界都市上海は日本軍占領地に浮かぶ孤島
と化した。1941年12月に太平洋戦争が勃発して、共同租界とフランス租界が、日本軍に
接収されるまでの4年間を、中国では「孤島期」と称している。上海では「孤島期」こ
そは、戦争景気によっての大きく一時的な繁栄を誇った時代だった。太平洋戦争以後は
急速にさびれて、上海の工業消費電力は、1936年を100%とすると、1942年には52
%、1943年には37%であった。


1016: 名無しさんAA:17/12/16 05:48
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 672----------

 更に日本の敗戦前1943年には、共産党の躍進で全市の中国人経営の工場の内約3分の
2が倒産し廃業した。当然1944年末以降、日本の敗戦が確実になると、大部分の中国人
工場主は日本との合作を願ったが、共産党による国民党撤退で断り始めた。1945年にも
なると、上海の中国人経営の工場の生産は事実上停止し、餓死者もでた。日本資本での
工場の稼働率も戦前の生産能力のわずか4分の1に過ぎなく、実質生産は10分1とな
った。この時朝鮮半島のみが稼働できたのだ。遡ること1943年1月には、日本は南京の
汪兆銘政権に、アメリカ・イギリスは重慶の蒋介石政権に対し、それぞれに租界返還と
治外法権廃棄をそれぞれ宣言していた。そして、日本の敗戦後の1945年、国民党政権は
全上海を接収し、ここに100年に及ぶ租界の歴史が終結した。だが 不思議なのは、
そうした生産が開始されない中でも、中国共産党と中国国民党は米英の支援を得て戦っ
ていたのだ。国民党台湾国民政府は、1949年10月の中華人民共和国成立によって
崩壊状態に陥った南京国民政府を、蒋介石が台湾に移転して再編成したことによって、
成立した中華民国政府を移転して戦っていた。既に日本では玉音放送の調印されたポツ
ダム宣言を、1945年8月15日に日本が受諾して第二次世界大戦が終結する宣言を
公にし、同年9月2日に日本政府は降伏文書に調印していた。ところが中国国民には、
毛沢東は予言者として戦いは今からだ敗走するであろう。と宣言したのだ。そして又、
周恩来はこの日本軍撤退を受けて、その後の中国建設の話し合いをしたいという、テロ
軍団の毛沢東の声に蒋介石の代理として会いに行き拉致されてしまうのだったのである
。玉音放送を得て、1945年9月9日に中華民国政府は南京で日本の現地軍からの降伏文書
を受領した。そして、10月25日、台湾省行政長官に任命された陳儀は連合国の代表者と
して台北市の台北公会堂(現在の台北中山堂)にて安藤利吉台湾総督からの降伏を受領
し同日、中華民国政府は台湾・澎湖諸島に対する領土の主権が回復されたことを宣布し
たのである。しかしながら、国民党政府は台湾地元民の政治参加を拒否するのである。
こうして政治参加を拒否されたことによって不満を持った民衆が国民党政府と衝突した
事件が1947年の二・二八事件である。二・二八事件が起こった事で、中国大陸では
国共内戦で共産党の支持が起こっていた。1949年になると、毛沢東率いる中国共産党軍
が中華民国の首都・南京を制圧し、南京国民政府は崩壊状態に陥った。しかし、その際
に南京国民政府の 前総統・蒋介石が崩壊状態にある南京国民政府を指導した為、国民
政府は広州、重慶、成都を経た上で台湾に移転することに成功した。この全てが周恩来
が拉致された事に起因していた。

1017: 名無しさんAA:17/12/16 05:48
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 673----------

 近衛文麿、総理大臣に任命された時 松岡は次々と失敗して日本を苦難に陥れた。そ
れは1940年の出来事に象徴される。ドイツは、オランダ、フランスなど西ヨーロッ
パの各国を屈服させ、パリを占領する。このドイツの快進撃を受けて、日本国内では、
陸軍を中心にアメリカとの戦争を覚悟してでも、再びドイツとの同盟を強化し、立ち消
えになった三国同盟を見直すべきだという機運が高まる。7月17日、近衛文麿が総理
大臣として組閣の命を受けた。近衛は、新内閣の外務大臣として、松岡洋右を抜擢する
。新内閣の外交方針の話し合いの席上、松岡は、「まず、ドイツとイタリアとの関係を
強化すべきだ。アメリカに対しては、無用の衝突を避けるよう努力する。しかしながら
、アメリカが、力をもって干渉してきた場合には、断固これを排除する」と主張した。
さらに、「日本がこれまで敵対してきたソ連をも、三国同盟に組み込みたい。ドイツと
ソ連はすでに不可侵条約を結んでいる。日本が、さらにソ連と協定を結べば、相手が4
国では、アメリカも手出しができないはずだ」これが、松岡の外交方針の思惑だった。
7月22日、近衛内閣が発足。松岡は、次の約束を取り付けた。「外交に関しては、全
て自分に一任してほしい」と。松岡は、外務省の大改革を行う。大使や公使など、40
人を更迭するという空前の人事異動だった。三国同盟の障害となる、外務省の親アメリ
カ、イギリス派を一掃したと報じられた。これが松岡の大きな失敗だった。ただでさえ
正確な情報がない中で、更に情報が偽情報に埋まった形で、まともな情報や助言が切れ
たのである。途切れていた同盟の交渉を再開したいという松岡の呼びかけで、ドイツか
らスターマー特使が来日し9月9日夜、極秘の交渉が行われた。当時、ドイツの外務大
臣だったリッペンドロップも、ソ連を加えた4国同盟の構想を抱いていた。松岡の気が
かりは、目論見どおり、ソ連と協定を結べるかどうかだった。スターマーは、次のよう
に約束した。「ドイツは、三国同盟締結後、日本とソ連とを結ぶ、誠実な仲介者となる
用意がある」と。松岡は、ドイツはやがてイギリスを落とし、ヨーロッパ全体を手に入
れると予想していた。事実ドイツの勢いは相当な物だったが、イギリスは、そうはさせ
なかった。


1018: 名無しさんAA:17/12/16 05:49
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 674----------

モスクワで松岡とスターリンと会うとき、ドイツ軍がソ連に進攻していくとは全く思え
なかった。1940年9月19日、宮中で、三国同盟締結についての御前会議が行われ
たのだが、席上、原枢密院議長は、次のような危ぐを述べた。「この条約の発表によっ
て日本の態度が明白になれば、アメリカは日本に対して経済圧迫を加えて、石油、鉄を
禁輸、長期に渡って日本を疲弊せしめ、戦争に耐えられないように謀るものと思われる
。」と発言した。数多い情報が原の下にあって、それは真子う事ない米国の姿勢だった
。だが松岡は答えた「今やアメリカの対日感情は、極端に悪化していて、わずかの機嫌
取りくらいでは、回復するものではない。−−ただ、我々の毅然とした態度だけが、今
後戦争を避け締めうるであろう。」と言った。松岡の勧めてきた日独伊三国同盟案は、
今後の欧州構図の不明の中で、過去の経過などから、何故かついに了承されたのである
。1940年9月27日、ベルリンのヒトラー総統官邸で、日独伊三国同盟の調印式が
行われドイツからは、リッペンドロップ外務大臣、イタリヤ、チアリ外務大臣、そして
日本の来栖ドイツ大使が次々とサインする。ついに、日独伊三国同盟が締結された。こ
の事は直ちに、東京の外務大臣官邸に伝えられて、松岡は、ドイツ大使やイタリヤ大使、
そして日本政府の要人を招いて、盛大な祝賀会を催した。しかしここで、恐れていた事
はことが起こったのだ。原議長の危ぐのとおり、三国同盟に対し、アメリカが厳しい経済
制裁で日本に答えてきた。ルーズベルト大統領は、鉄鋼やくず鉄など日本にとって欠か
せない原材料の輸出を禁止。日本とアメリカの対立は、決定的なものになった。この結
果打開策に1941年3月26日、松岡はドイツベルリンを訪れる。松岡はヒトラーを
訪問、日本とソ連との仲立ちを、ドイツが努めるという約束の実行を迫った。ところが
ドイツは交渉の仲介を拒絶したのである。この時ヒトラーは、ソ連攻撃を決意し、ひそか
にその準備をすすめていた。松岡にはそれを知る由はなかった。だが基本的には、仏英
両国を敵にして、ドイツの資源や経済はソ連からの物流で成り立っているはずだった。
松岡は何とかしてソ連を味方に引き入れなければならない。と思って帰途についた。4
月7日、松岡はモスクワに乗り込み友好的な条約を結ぶための交渉を始めた。1941
年4月13日、日ソ中立条約が結ばれた。日独伊三国同盟に、ソ連を協力させる松岡の
構想は大きな前進を遂げたかに見えた。その幻想はあえなく敗れた。わずか2ヵ月後に
ドイツは、突如ソ連に進攻し、ソ連を加えた4国で、アメリカに対抗しようとする松岡の
構想はここに崩壊したし、その後の日本の敗戦時の停戦や終戦の要請にも日本の裏切り
として相手されなかったのである。

1019: 名無しさんAA:17/12/16 05:50
 日本が国際社会で信任を失い続ける様に、松岡個人も又当然の如く、政府内で信望を
失っていた。7月16日、近衛内閣では、アメリカに対し強硬姿勢をとりつづける松岡
外務大臣を除くため一端総辞職する事になった。松岡は近衛がアメリカとの交渉継続を
図ろうとする中で方針を全く変えないままでいたのだ。11月26日アメリカは、日本
に対し、「中国からの全面撤退や三国同盟の否認など」の要求が突き付けられた。日米
両国の妥協は絶望的となった。こうして、明けて41年の雪解けとする春に、かねてか
らの軍の要求であった日米開戦の決定をし、秋にはそのまま遂行する事決めたのである
。1941年の12月8日太平洋上の空母からとびたった日本軍攻撃隊はハワイ真珠湾
を急襲し、アメリカとの戦争が始まった。その日開戦を知った松岡は、友人にこう語っ
たという。「三国同盟の締結は、僕一生の不覚だったことを、いまさらながら痛感する。
これを思うと死んでも死にきれない。」と後悔しているが、同じ頃、戦場を南雲中将に
任せて、神戸の軍艦上に商人と話している山本五十六が同じ様に、今後の日本の国体を
危惧して、サッスーン家の執事と会って酒を手に話していた。その後アメリカとの戦争
で初戦は有利だった日本も、やがては各地で敗退を繰り返し日本本土は、激しい空襲に
さらされるようになる。ヨーロッパでも、ドイツ・イタリヤは敗北を続けて1943年
には、まずイタリヤが降伏、1945年5月には、ドイツも降伏した。日本だけが、なぜ
か引きずられて開戦し今だ終戦に至らずただ一国で戦い続ける事になった。3ヶ月後に
ソ連は欧州の全軍の戦車を列車で送り込み8月8日に有効期限のあった日ソ中立条約を
無視して日本に宣戦布告し満州や朝鮮半島に侵入した。これらは国際関係を知る者では
シナリオ通りの凄惨な出来事であった。「日本が海戦で敗れる」事も「原爆が開発され
使用される」事も「ドイツが資源枯渇で敗ける」事も日本の有識者では常識だったので
ある。従って松岡の新聞などの烏合の衆の戯言に踊らせられた外交をし、日米開戦が起
こった時殆どの外事通の者は田舎に疎開した隠居生活に陥ったと言う奇妙な現象が起こ
っていた。後になって、松岡が三国同盟の締結を「一生の不覚」と嘆いたが、その通り
で後の祭である。松岡を中心とした「日本外交の甘さ」や「情報不足」からくる「見通
しの甘さ」を物語る歴史的事実であると言わねばならない。20世紀アメリカの世紀で
あったという。1次、2次世界大戦を通じて一人勝ちし、社会主義の崩壊など世界情勢
は変わったが、アメリカだけは、パンアメリカンを謳い、この世紀全く変っていない。
日本は、戦後、この一人勝ちの国アメリカに盲目的追従し経済発展を遂げた。21世紀
の日本は、このままでいくのか現在の日本外交の現状を見るにつけ、21世紀の日本は
政治も経済ものみならず文化も、世界全体に目を向けて、先を見通した毅然とした外交
を行っていくことも必要だろう。

1020: 名無しさんAA:17/12/16 05:50
 日本の大きな失敗は、近衛文麿が総理大臣に任命された時 次々と失敗しては日本を
苦難に陥れた松岡洋右を抜擢した事だった。松岡洋右の家柄は、吉田茂などの資産家の
末裔ではあったが とても貧乏で努力して彼は留学していた。1880年(明治13年)3月4
日に山口県熊毛郡室積村(のち光市室積)にて、廻船問屋の四男として生まれている。
洋右が11歳の時、父親が事業に失敗し破産した事で、思い余って親戚が既に渡米してい
て成功を収めていた噂などから1893年(明治26年)に留学のため渡米している。アメリ
カでは親類縁故がそう大しては成功したとも言えず、使用人としてのノルマをこなしな
がら学校へ通わなくてはならなかったと言う。黒人奴隷と同じく、たびたび人種差別の
被害にあった。この頃の体験が「アメリカ人に、たとえ脅されたとしても、自分が正し
い場合は道を譲ってはならない。」との信念が出来ていた。周囲の人々からキリスト教
の影響を受け、入信に至り来日経験のあるオレゴン州ポートランドのアメリカ・メソジ
スト監督教会牧師メリマン・ハリスのあたたかい信仰に見守られ、日本自由メソヂスト
教会の指導者となる河辺貞吉から大きな影響を受け、洗礼を受けた。実はこれが間違い
でもあった。既に1800年代から米国始め各国には倶楽部が林立していてキリストの
宗派内での金融調達を行う教徒会が大手を振っていたのだ。そこにには新しいブラザレ
ンムーブメンントが既に起こっていたのである。ティーパーティの原型である。そして
このブラザレン(同胞組合論)の思想と「エクレシア」(教会)のもともとの「呼び集
められた者たちの群れ」をさす「集会」と言う考えに変わっていたのである。内村鑑三
は明治のキリスタン思想家だが、明治11年(1878年)に、アメリカ・メソジスト教会の
M.C.ハリスから洗礼を受ける。洗礼を受けた若いキリスト者達は、日曜日には自分達
で「小さな教会」と言う集会を開き、幼いながらも真摯な気持ちで信仰と取り組んだ。
こうした真面目な宗教はキリスト教徒達のみであり、ユダヤ教徒内ではテンペラ―騎士
団や紅バラ団や双頭の鷲団など十字軍遠征の人集めをやっていた後継のクラブが金融の
投資家としての情報倶楽部を設置していたのだ。これがアメリカ開拓と共に瞬く間に、
フリーメイソンのロッジ経営をして大きな集団化したのである。元々がこの倶楽部の歴
史は幾つも系統があった。組合組織として発展したギルド系先の騎士の編成として奴隷
市場系統或いは税や公国経営の議会としてのフリーダム系統やパルチザン系統共同体と
して貸し借りの講の様な銀行倶楽部系統と、あったのがその頃はアメリカ独立戦争を得
てフリーメイソンの政治化したロッジ経営が盛んになっていたのだ。彼がもし天皇やら
白井の様な藩主だったりどこかの大企業の息子であれば、相当な会費でこの会に入会を
強いられたであろう。又そうした事で吉田茂の様なアメリカの別の友達が作れただろう
が、彼にはその財力も暇も無かったのである。

1021: 名無しさんAA:17/12/16 05:51
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 677----------

 だが、学生時代もしかしたら外国人だったので、そうした勧誘でのいさかいが少しは
あったのかもしれない。だが彼は敬虔な最も金満欲のない政治主張のない霊感や感性に
高いメソジスト教であったのだ。これが政治家として日本には致命傷であった。真に信
に願うばかりでは先に進まなかったのだ。特に醜悪なメイソンリーのユダヤのシオニス
ト達の暴言に近い悪意の中には、彼の行動は目に余る物だったであろう。ここで世に言
う日本語的に「魚心あれば水心」である。彼が正面突破しようとすればする程その壁を
厚くして攻撃が多かったのだ。それが逆に「花に嵐」であって「魚心あれば水心」の逆
作用になったのである。此処に忖度があった。この流れに山本五十六は多分南雲中将に
それとなくハワイ攻撃では空母攻撃に専念して、給油施設には言及していなく、更に又
下の心の通える者に絶対油タンクは攻撃するな、後で接収する為にと命令していたはず
だ。でなければどう考えてもこの燃料を叩かない事は理由がつかず、更に2年目には、
休戦ないし停戦合意をすると言う約束が陸軍もしくは大臣とに約束があったとしか考え
られない。でなければ南方を攻撃するにしてもフランスやイギリスであり米国のもつ、
フィリピン領ではない。確かに戦いの領海争いや植民地としてのフィリピンで戦闘は起
こるだろうだろうが別に宣戦布告をする程でもないのである。又天皇の告示をわざわざ
米国などの海外特派員に示してまで開戦しながら奇襲攻撃と言われている事はそのまま
反論出来る筈だがそれすら戦後でもやっていない。ここに天皇のイルミナティ会員であ
ったのでないかと言う理由がある。1921年(大正10年)3月3日から9月3日までの6ヶ月
間、当時皇太子であった裕仁親王(昭和天皇)によるヨーロッパ各国の歴訪した。日本
の皇太子がヨーロッパを訪問したのは初めてのことで、日本国内でも大きな話題となっ
た。らしい。、アメリカ合衆国の外交官ジョセフ・クラーク・グルーは日米開戦時の、
駐日アメリカ合衆国大使であったが、日米開戦回避に努めた。開戦(1941年12月)後は
日本国内に抑留され、外交官交換により帰国(1942年6月)した。帰国後には国務次官
となり、占領政策立案・終戦交渉に尽力した。終戦と同時に国務次官を辞任し、私人と
して講演活動などを通じ、日米両国の親善に尽した。吉田茂は、グルーは「本当の意味
の知日家で、『真の日本の友』であった。」と高く評価した。他方、グルーの日本理解
には限界があった、あるいは彼は政治的にきわめて保守的であったことを指摘する見方
もある。 グルー家は、植民地時代初期時代に、イギリスからマサチューセッツに移住
したカルヴィン主義ピューリタンで 真の開拓移住者の清教徒であり頑ななアメリカン
スピリッツがあったと思われる。

1022: 名無しさんAA:17/12/16 05:51
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 678----------

 松岡洋右が如何にアメリカへの留学経験があったとしても、満州国での満鉄総裁とし
て弐キ参スケの一人に数えられたとしても力不足であった。日本の国際連盟脱退、日独
伊三国同盟の締結、日ソ中立条約の締結など第二次世界大戦前夜での日本外交の重要な
局面に、代表的な外交官ないしは外務大臣として関与し打開策に奔走して成功したが、
その成功にドイツや軍部が増長し、日本が戦争に走っていったのである。正に木を見て
森を観ずという大局観の無さとアメリカ嫌いが日本を苦難に陥れた。敗戦後に極東国際
軍事裁判の公判中に病死したが。外交官同士のジョセフ・グルーと親交があったのは、
グルーが彼を崇めていたからでもあった。グルーは第一次世界大戦後エドワード・ハウ
ス大佐に同行してアメリカ全権団書記官としてパリ講和会議に同伴出席している。
1924年2 月、国際連盟でのアメリカ合衆国を代表する任務を終えて本国に戻った時に、
グルーは自分が国務次官に任命されたという電報を受け取った。だがこれはロジャーズ
法が成立し、外交職と領事職の間の格差を失くす、外交官制度の改革の試みが始まって
いた事からだった。ロジャーズ未だ日本にも採用されていない外交に、自国の意思を表
明して接受国と交渉に当たる事と、接受国についての情報を収集し自国に報告する機能
と、領事職である自国民・自国企業等の行政事務・手続きをして、相手国のサービスや
ビザの発給・文化交流などに関わる事をの統合し、その評価基準を設けるものだった。
新規採用における競争的試験を実施、能力による昇進、65歳定年の実施などを定めて
ジョン・ジェイコブ・ロジャーズらからの提案だった。かつて地中海はバルバリア諸国
の支配下にあって、ヨーロッパ諸国は手のつけられない存在として恐れられていた。こ
のバルバリア海賊はアメリカ商船などに通行料を取り、又不払いになるとキリスト教徒
達を人質にして身代金を取って代価を得ていた。これに対してトリポリやチュニジアに
宣戦布告して海戦したのがアメリカであったのだ。当時オスマン帝国が勢力を伸ばして
いたが、海戦でもあった為か介入しなかった。アメリカ合衆国の要求を承諾したため、
1805年6月10日、講和条約が締結され、第一次バーバリ戦争は終結した。だがアメリカが
戦争に勝った事は、バーバリ諸国に通行料を上納していたヨーロッパ諸国に大きな衝撃
を与え、その後のアメリカ合衆国の北アフリカ、中東のイスラム諸国に対する外交方針
に大きな影響を与えてた。この時の提督として活躍したのがジョン・ジェイコブ・ロジ
ャーズの家系だった。


1023: 名無しさんAA:17/12/16 05:52
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 679----------

 父のウィリアム・レッドヤード・ロジャース(英語版)(海軍兵学校(アナポリス)
1878年組)も米西戦争で活躍した。母方の曽祖父は黒船来航のマシュー・ペリーであり
、初期の航空パイロットであるカルブレイス・ロジャースはいとこにあたる。ロジャー
スはいわば「サラブレッド」であった。ジョン・ジェイコブ・ロジャーズはそうした、
権威すら持つ家系で一方のジェームス・ド・ロチルド男爵のひい孫でもあった。元々、
ロスチャイルド家はフランス語でロートシルト家であり、フランス屈指の銀行家であっ
た。ナポレオン戦争後、フランスにブルボン家の復古王政が樹立され、追放されていた
貴族たちが続々とフランスに戻ってきたが金融の調達管理が出来なかった。そこに目を
付けたジェームスは彼らの財産管理の相談に乗ることでロチルド銀行を作り顧客にして
いった。 1821年8月21日にはオーストリア帝国から総領事の地位を与えられ、1822年に
はハプスブルク家よりジェームスを含めたロスチャイルド一族全員に男爵位が授与され
た。同年、ロシア皇帝からも聖ウラジーミル勲章を送られ、翌1823年にはフランス政府
からもレジオンドヌール勲章を授与された。1830年の7月革命でブルボン家の復古王政
が倒され、親ブルジョワ的なオルレアン家のルイ・フィリップがフランス国王に即位し
たがこの革命熱はブリュッセルにも波及し混乱を来した。こうしてベルギー独立闘争が
起こり各国が反フランス包囲網を作り、戦争ムードになった。がこの時、ジェームスは
「ロチルド銀行は戦争の為には一銭も出さない」と宣言することで各国を牽制して戦争
を阻止し、もってベルギーの独立を助けた。ジェームス・ド・ロチルド男爵は、ヤーコ
プ・マイアー(Jakob Mayer)と名乗っていて、フランス移住後にジェームス(James)
と改名した。こうしてユダヤ金融の大家となり、フリーメーソンが設けるフランスの、
グランドロッジの監査役でパリ倶楽部の会員となった。1792年にロートシルト家(ロス
チャイルド家)の始祖であるマイアー・アムシェル・ロートシルトの五男(末子)とし
てフランクフルト・アム・マインに誕生。初名はヤーコプだったが、フランス移住後に
ジェームスに改名した。これは英語風の名前にすることでロンドン・ロスチャイルド家
との繋がりを強調し、商売をやりやすくするためだったと見られる。ジェームスは新国
王のルイ・フィリップとも親密な関係を保った。そのためフィリップ王はロチルド銀行
にフランス国債を独占的に任せ、また国王個人の投資事業も委ねた。この頃鉄やガラス
が発見され産業が移って行った。


1024: 名無しさんAA:17/12/16 05:53
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 680----------

ジェームスはルイ・フィリップの治世から鉄道への投資を熱心に行い、1837年にはパリ
〜サンジェルマン間、1839年にはパリ〜ベルサイユ間の鉄道建設に尽力した。1846年に
は北部鉄道を設立している。この頃からジェームスは鉄道王と呼ばれるようになった。
1836年にロンドンの兄ネイサンが死去するとロスチャイルド家全体の家長的存在となっ
た。1848年革命でフランスは共和政となり、11月にはナポレオンの甥にあたるルイ・
ナポレオンが大統領に当選した。51年にクーデタを起こして翌年には、フランス皇帝
ナポレオン3世を名乗った。ナポレオン3世にはジェームスとライバル関係のユダヤ金
融業者アシーユ・フールがスポンサーとして付いていた。その関係からフールには大蔵
大臣になる確約があり任命された。この人事を聞いたジェームスは「ふーん、新しいワ
ーテルローの臭いがするね。」という感想を言った。この頃にユダヤ金融業者ペレール
兄弟がこのフール大臣の肝いりで投資銀行の先駆けとされるクレディ・モビリエ投資銀
行を立ち上ていた。ジョルジュ・オスマンのパリ改造を支援したり、鉄道をはじめとす
る各分野に積極的な融資を行い、商業銀行業務が中心に堅い営業を続けたロチルド銀行
と競合するようにまでなっていた。クレディ・モビリエは無謀で投機的な投資を手当た
り次第に大臣と共に行った。だがやがて長続きせずクレディ投資銀行は、凋落の様相を
呈した。苦境打開のためにフランス国債を独占的に任せてほしいとナポレオン3世と、
フール大臣に要請したが、フールはこれを蹴った。ナポレオン3世に見捨てられたクレ
ディ・モビリエの株価は下がり続け、1867年には倒産した。1860年代後半に、ナポレオ
ン3世がテュイルリー宮殿で催した晩餐会に出席した際に、ワルツ『平和なくして帝国
なし』の曲がしつこく流れた。が、この時ジェームスはこの曲についてナポレオン3世
に「お分かりですか」と念を押したという。しかしナポレオン3世には分かっていなか
った。彼はジェームスの死後の1870年にフランスを破滅的な戦争へ導くことになったの
であった。最晩年の1868年にブドウ園シャトー・ラフィットを購入した。同年76歳で
死去したが。最終的にジェームスの資産は6億フラン以上だったと見られている。彼の
ロチルド銀行は他のフランス主要銀行の資産を全て合計した金額よりさらに1億フラン
も多く持っていた。5人の子供がいたが第1子(長女)シャーロットは英国ロスチャイ
ルド家のナサニエル・ド・ロスチャイルドと結婚した。第2子の長男アルフォンスは、
パリ・ロチルド家第2代目当主として跡を継いだ。次男のギュスターヴ、三男のサロモ
ン、四男のエドモンといたがそれぞれ第一次普仏戦争では兵士として戦っていた。


1025: 名無しさんAA:17/12/16 10:36 ID:Svw
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 681----------

 四男のエドモン・ロスチルドはジャコブ・マイエール・ド・ロチルドとベティ・フォ
ン・ロチルドの末っ子として誕生した。彼はフランス第二共和政とフランス第二帝政の
時代に育ち、第一次普仏戦争では遊撃隊の兵士として戦っていた。1882年夏、パレスチ
ナへ入植したユダヤ人の代表としてヨーロッパに派遣されたヨーゼフ・ファインベルク
及び同行していたロシア人ラビと面会する。1924年新たにパレスチナ委員会を創設して
「パレスチナユダヤ植民教会」と名付けた活動をした。この頃パレスチナのユダヤ人植
民者の数は4500人も満たなかった。彼らは土地を耕し、肉体も精神も健康な新たなユダ
ヤ人を作ろうとした。彼らは最初のユダヤ人民族主義者だった。彼らは「シオンの恋人
」と呼ばれスルタン制度下の移民だった。19世紀末のパレスチナにいたアラブ人の農
民、彼らは最初のユダヤ人植民者がやってきたとき、何も疑わなかった。彼らは数世紀
にわたって、封建制度に従って、スルタン(皇帝)の臣民として暮らしていた。土地は
全て、有力者やスルタン、あるいは豪族のものだった。ベドウィンと農民はそもそも何
も所有していなかった。ただ土地で自立の生計をたて、村は彼らの家であった。ここに
何人かのロシアのロマン主義的なユダヤ人の若者達が、シオニズムを発明したロシア人
ラビとフランス兵がやって来た。彼らはイスラエルに帰還しようと主張していた。戦禍
の中にあって欧州各地に納税出来ない無政府居民に対する弾圧や虐殺が行われていた。
「テオドール・ヘルツル」はそうした事件を追っていた記者だった。ハンガリーのブダ
ペストに生まれて、ウィーンに育った記者であった。フランスで起きたユダヤ人軍人が
スパイとして冤罪事件となったドレフュス事件を扱った後、彼はこのように書いている
。「啓蒙のフランスさえも、ユダヤ人の死を望むならば、私たちは自分たちの土地を持
たねばならない。私たちが主人になれる国家が必要だ。」 彼らは フランスで起きた
冤罪事件をも、イスラエル侵略の口実として用いようとしていた。彼は1987年スイスで
、最初のシオニスト会議の議長を務めた男だ。フランス国内では「反ユダヤ主義」と「
ユダヤ資本主義論」が巻き起こり民間資金は「パナマ運河疑獄」も飲み込んでいたのだ
アルフォンス・ド・ロチルド男爵は、フランスの銀行家、貴族でパリ・ロチルド家の第
2代当主。ジェームス・ド・ロチルドの長男としてバクー油田の権益に関わり1982年に
発行されたイスラエルの旧500シェケル紙幣に肖像が使用されている。

1026: 名無しさんAA:17/12/16 10:37
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 682----------

ナポレオン3世は1853年に勃発していたクリミア戦争に翌年より介入し、かつてモスク
ワ遠征でナポレオン1世を返り討ちにしたロシアに対して勝利を収めた。1856年にはパ
リで講和会議を開催するなど中心的な役割を果たし、帝国内外に彼の威光を知らしめた
。かつてのナポレオンがそうであったようにヨーロッパにおけるナショナリズムの擁護
者であろうとし、1859年のイタリア統一戦争にもサルデーニャ王国を支援して参戦した
。途中でサルデーニャの意向に反しオーストリアと単独講和に至ったのだが、しかし、
その姿勢は変わらなかった。又理念はヨーロッパ外では適用されるものではなく、イン
ドシナ、アフリカにおける植民地の拡張に尽力して、アメリカ大陸においてもメキシコ
出兵を行いナショナリズムの高揚を求めて一気に戦争世界を作りだしていた。こうした
あいつぐ外征は、ナポレオン3世の威光を維持する上で必要不可欠であったが、当然な
がら外征の失敗は彼の威信と国家財政破綻をおとしめることにもつながった。この時に
はまた、日本の戊辰戦争においては、徳川幕府側を支援していた。市民革命を得てコミ
ューンの共和政に移行したのだが1870年に起こったプロイセン(普国)とフランス
(仏国)の戦争では敗れた結果において悲惨な事だった。鉄鉱石と石炭の豊富なアルザ
ス=ロレーヌ鉱山地帯を失い、莫大な賠償金を課せられたフランス経済は大きな困難に
直面してしまったのだ。国内経済の不振で資金は有利な海外投資に向けられ、ロートシ
ルト(ロスチャイルド)などのユダヤ系の金融資本が国民の零細な貯蓄を投資に引き入
れる事しかなく、東ヨーロッパなどへの投資を行っていた資金は底をつく状態に近い。
1882年には金融恐慌が発生して。多くの投資銀行が破産に追いやられた結果、貯蓄をな
くした人々は金融界を牛耳るユダヤ人への憎悪を昂らせ、反ユダヤ主義が高まったので
ある。一方、保守派と軍部はドイツに対する報復と熱狂的な愛国主義を煽り、1880年代
後半には、ドイツへの復讐を叫ぶブーランジェ将軍が右翼・軍部の支持の下に独裁政権
の樹立を図る事件も起こし失敗していた(ブーランジェ事件)こうした政府不信と財政
悪化は数々のユダヤ民圧迫に押し入っていた。この時次男のギュスターヴはアメリカの
未来に託し、三男のサロモンは英国に嫁っていたロスチャイルドに頼ってフランスの中
に貯まっていた金塊資産を密かにを送って動かしていた。それはドイツのユダヤ追放や
排除が既に行われていたからであった。


1027: 名無しさんAA:17/12/16 10:38
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 683----------
 ペリーは1794年、アメリカのロードアイランド州ニューポートに生まれていた。
アメリカの独立宣言(1776年)から18年後である。兄と同じく草創期の海軍に入
ったペリーは1837年、アメリカで初めて造られた蒸気軍艦の艦長に就任し、アフリ
カ艦隊、メキシコ湾艦隊の各司令長官など要職を歴任して世界を回り「蒸気軍艦の父」
と呼ばれた。正式な名はマシュー・カルブレイス・ペリーで、アメリカ海軍私掠船長の
クリストファー・レイモンド・ペリーと、妻セーラの間に3男として生まれた。兄の方
のオリバー・ハザード・ペリーの方が有名で、英雄として知られる。当初、アメリカ大
統領フィルモアは、日本の開国と通商関係を結ぶことを目指した船団には、東インド艦
隊司令官の代将であるジョン・オーリックに任務を与えた。1851年に蒸気フリゲート艦
「サスケハナ」は東インド艦隊の旗艦としてアジアに向けて出発したが、サスケハナの
艦長インマン海軍大佐とトラブルを起こしたことで、広東で病と言う事で解任されて、
代わりにマシュー・ペリーが東インド艦隊の代将に就任した。大西洋を渡って、マデイ
ラ諸島・ケープタウン・モーリシャス・セイロン・シンガポール・マカオ・香港へ航海
し1853年5月4日には上海に到着。サスケハナなど東インド艦隊と合流すると、マカオで
は漢文通訳のウィリアムズを雇って、5月にサスケハナを旗艦として、まずは琉球に向
かった。この時、大統領はすでに民主党のピアースに代わり、ドッピン海軍長官は侵略
目的の武力行使を禁止したが、航海途上のペリーには届いていなかった。北米の大西洋
岸にイギリスが建設した13の植民地が独立した後、アメリカ北部では産業革命が進み
、南部では綿花の栽培が拡大し奴隷取引が横行していた。1828年、初めて西部出身
の大統領としてジャクソン(第7代)が当選しました。ジャクソンは西部でフロンティ
ア(開拓)を推し進め、30年には「インディアン」と呼ばれた アメリカの先住民を
強制移住させる法律を公布して、これまでの協定を破りアメリカはメキシコ領だった、
テキサスの併合に乗り出し、これに反発するメキシコと戦火を交えます。この時には、
ペリーは浦賀にもやってきた「ミシシッピー号」に乗艦して戦功を立てている。その後
アメリカは対メキシコ戦争(1846〜48年)に勝利して、カリフォルニアを獲得す
ると、そこに金鉱が見つかり多数の人々が殺到しました。あの有名な「ゴールドラッシ
ュ」が起こっている。その頃のアメリカは今の中国と同じに「膨張を続け、デモクラシ
ーを広めていくのは、神から与えられた天命で宿命である」と考えていた。そしてここ
に選ばれし我々は、「この選民思想による使命感は、やがて西部全域でインディアンが
抵抗できなくなるまで虐殺し、さらに太平洋上の島に及び、アジアにも広がるべきだ。
」とした思想が蔓延していたのです。

1028: 名無しさんAA:17/12/16 10:39
 1868年8月8日、ロスチャイルド財閥創始者マイヤー・アムシェルの5男でパリ在住の
銀行家ジャコブ・マイエール・ド・ロチルドは、ヴィンテーンベルグ家から競売に出さ
れていたシャトー・ラフィットとシャトー・カリュアド(後にラフィットと統合される
)を444万フランの大金で競り落とし、新たな所有者となっていた。一方米国では、
無法地帯だった西部の開拓民は、余りにも戦争が続いていた事で、不埒者が多く自分の
身は自分で守るための自警団を組織し、武器が普及してしまってした。武器所有の権利
を保障するアメリカ憲法修正第2条は、銃火器の回収をこの新しい連邦政府が事実上は
放棄したことを意味した。ここには、今も悲劇を生む、銃社会・アメリカの源流がある
思想が垣間見える。さて、ペリーに話を戻しますと、ペリーの日本遠征は、こうした、
アメリカの「西へ、西へ」の版図拡大戦略の流れの中にありました。特に当時は、カリ
フォルニア併合により、対中貿易拡大を目指す太平洋航路の起点として、サンフランシ
スコが大いに注目されてた。こうした航海や防衛を可能にしたのが「腐れない水」とし
て重宝されたのがワインであった。新地に井戸がある訳でもなく又長い航海にも、人に
水は欠かせない物だった。食糧は海では魚が取れ、空の鳥も陸上の牛も干し肉とすれば
永い間保存できたが、水は違っていた。なお、シャトー・ムートン・ロートシルトはロ
スチャイルド家の別の系統の一族が所有している。ヤーコプ・ヒルシュ・シフ。別名、
ヘンリー・シェフは高橋是清の求めに応じて日露戦争の際には日本の戦時国債を購入し
た。勲一等旭日大綬章を明治天皇より贈られる。初代マイアー・アムシェル・ロスチャ
イルド時代に「グリューネシルト(緑の盾)」と呼ばれる建物にロスチャイルド家と共
に住んでいた。フランクフルトの古いユダヤ教徒の家庭に生まれる。代々ラビの家系で
、父は銀行員だったが。元々はそこは、1370年からのフランクフルトのゲットー(
強制収容施設)であった。1865年に渡米したが、ニューヨークに着いた時はほとんど無
一文だった。はじめ銀行には出納係に就いたが28歳の時、クーン・ローブ商会に就職
して1885年、ソロモン・ローブの娘・テレサと結婚している。ロシアでポグロムに苦し
むユダヤ人の多くを解放するために尽力した。ロスチャイルド家は英語読みでドイツ語
読みは「ロートシルト」フランス語読みは「ロチルド」だがその家系は宮廷金融家であ
り、宮廷ユダヤ人と呼ばれていた。ヨーロッパの財閥、貴族。門閥として名高く。ロマ
ノフ家とは三度にわたる結婚を介して家族関係にある。また、ベアリング家もギネス家
を介してやはり家族関係である。モルガン家やゴールドシュミット・ファミリーとも、
親密であり、1001クラブ等の広範なビジネスコネクションをもつ。内側から外資を誘導
し、地中海クラブでクレディト・アンシュタルト(オーストリア国立銀行)が世界恐慌
で破綻したときに独墺関税同盟を破棄させた。

1029: 名無しさんAA:17/12/16 10:39
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 685----------

 タイタニックは20世紀に建造された豪華客船。処女航海中1912年4月14日深
夜、北大西洋上で氷山に接触し、翌日未明にかけて沈没した。船が沈没し始めた時に、
スミス船長は、「女性と子供を優先して救命ボートに乗せよ」という指示を出した。ア
メリカの実業家で億万長者のジョン・ジェイコブ・アスター4世は、妊娠5カ月の妻を
4番目の救命ボートで送り出した後、ペットの犬を連れて甲板に立ち、葉巻に火をつけ
た。乗員がボートに乗るよう促したが、彼は「私は最初の呼びかけの、弱者を優先に保
護する言葉に従います。」と頑なに拒み続け、救命ボートの席をアイルランド人の女性
に譲った。数日後、彼の遺体が収容された。当時の彼の資産はタイタニックを10数隻
も建造できるほど莫大なものだった。初代ジョン・ジェイコブ・アスターが生まれた時
はヨハン・ヤーコプ・アストルと呼ばれていた。彼はアスター一族の初代となる著名な
一員であり、アメリカ合衆国では最初の百万長者になった草創期の資産家だ。アメリカ
では初めてトラストを創設し、毛皮貿易、不動産およびアヘンなどからその資産を築い
た。アスターはドイツの貧しい家の出であり、ロンドンに、続いてアメリカ独立戦争後
のアメリカに移民した。五大湖やカナダに跨る毛皮貿易帝国を作り上げ、後にはアメリ
カ合衆国西部や太平洋岸まで拡大した。1800年代初期、ニューヨーク「ウォルドルフ」
とは、アメリカ最初の億万長者であるアスター家初代当主のジョン・ジェイコブ・アス
ターの出身地、ドイツのヴァルドルフに由来する。このタイタニックで死んだアスター
家の4代目ウィリアム・ウォルドルフ・アスターは、1893年13階建ての「ウォルドルフ
・ホテル」を建設した。その隣に従兄弟のジョン・ジェイコブ・アスター4世が1897年
に建てた17階建ての「アストリア・ホテル」がその起源としてロスチャイルド家とも
近かった。ジェイコブは、ヘブライ語起源のヤコブに由来する英語の姓である。この初
代アスターが死んだのは、1848年、南北戦争の前だった。その当時、アメリカ最大の資
産家が、このアスターであった。銀行業が盛んになると、ニューヨークは急成長した。
相当の土地を持つアスターは、この時ニューヨークの王様となった。ちなみに、ウォー
ル街の「ウォール」とは、インディアンの襲来から身を守るために築いた“砦”に由来
する。その後、三代目、四代目になると資産は膨れ上がった。ニューヨーク一のホテル
ウォルドーフ・アストリア・ホテルを建設した。死んだ四代目の資産は、今から八十年
前で、一億ドルに達していた。楽に、一般市民の“十万年分”の生活費となる。
 

1030: 名無しさんAA:17/12/16 10:40
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 686----------

アスター家が毛皮で成功したのは、毛皮だけでなく、アメリカ・ロスチャイルド家二代
目ウォルター・ネイサン・ロスチャイルドと、銀行家ワーバーグ、そしてルーズヴェル
ト大統領が一族であったからである。ネイサンは初代ロスチャイルド男爵ナサニエル・
ロスチャイルドとその夫人エンマ・ルイーザ・フォン・ロートシルトの間の長男として
ロンドンに生まれている。弟にチャールズ・ロスチャイルドがいる。赤のロスチャイル
ドは1905年に死去しパリ・ロチルド家の家督は 長男エドゥアールが相続したが。緑の
ロスチャイルドは既にアメリカに渡り資産を積み上げていた。かつてのポーランドにお
いてハザール帝国の移民が多く物語を持っていた。古来からロシア人は戦闘的、革命的
な要素をもたない民族であった為初代ロマネフ王朝のロシア皇帝はタッチしなかった。
一方、ユダヤ教徒ハザール人にとってロシアは敵国であり、ロシア文化は敵国の文化で
あった。したがって、彼らはロシア国家に対しては常に戦闘的、革命的であった。ユダ
ヤ教徒ハザール人たちは、古い過去の歴史をすぐに引き合いに出す。現在の歴史と古い
歴史を同じように並べたて、3500年前の「出エジプト」(エジプトで奴隷となって
いた古代ユダヤ人がモーセに率いられてエジプトから脱出した)の事跡などを持ち出し
て権利を主張していた。ユダヤ人は過去の怨恨の中に生きているといってもよいだろう
。だからこそ、ユダヤ教徒ハザール人は、かつてロシア人がハザール王国を崩壊させた
ことをよく覚えて、伝えている。そのためユダヤ人の中には、常にロシアに対する復讐
の思いがある。ロシアで革命を起こし、国家を転覆させることは、ユダヤ教徒ハザール
人にとって最も重要な目的であった。当時のロシアの知識人の中には、すでにそうした
ユダヤ教徒ハザール人の動きをキャッチしていた人々がいた。たとえばロシアの作家、
ドストエフスキーの著作は、彼は繰り返し「ユダヤ人は革命を起こすだろう、ユダヤ人
はロシアの中に入った毒であり、悪魔だ」と強調している。ドストエフスキーは「必ず
ユダヤ革命が起きる」と断言していた。しかしロシア政府は、そうした動きをまったく
感知していなかった。そして、ほとんどのロシアの知識人たちは、ユダヤ人と戦わずに
ユダヤ人と一緒になって革命を準備したのだった。日露戦争はユダヤ人の画策により、
隣同士の2つの国が衝突することになった戦争である。当時、イギリスがフランスから
や資産を持ち込む為に、仏国の目を盗む為ドイツに対抗して英国ユダヤ人が挑発的な行
動に出て、日本もロシアも知らないうちに戦争に巻き込まれていった、と言える

1031: 名無しさんAA:17/12/16 10:41
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 689----------

 日露戦争当時、ユダヤ人たちは「ロシア政府の敗北」というスローガンを掲げて革命
運動を展開した。このスローガンは明石機関も関わっていた。ユダヤ人の革命家たちは
、ロシア政府の敗北を望む日本やアメリカから革命資金を導入することを容易にもした
のであるが、日本の資金力はそれほど大きなものではなかったため、主にアメリカ資本
が投入された。アメリカの大資本家であり、アシュケナジー・ユダヤ人であるヤコブ・
シフが、ロシアのアシュケナジー・ユダヤ人の革命家たちに多額の援助を与えたことは
良く知られている。こうして第一次ロシア革命の嵐がロシア全土を襲い、1906年5
月、ロシア政府はストルイピンを首相とする新政府を構成していた。だがこのストルイ
ピン首相も、民族主義者であり国家主義者であった為、強固な反ユダヤ的な政策をとっ
ていた。今までの革命運動を鎮圧してレーニンもジュネーブに亡命する程だった。スト
ルイピンは「強いロシアをつくろう」というスローガンを掲げて、今日風ののロシアの
「改革」とはまったく異なる、ロシア人によるロシア人のための政治・経済改革を進め
ていった。ロシア人によるロシア人のための政治・経済改革を進めたストルイピン首相
だったが所詮ロシア人は都市部の僅か1割の国民に過ぎず他は多民族の労働者であった
。しかし残念なことに、1911年9月、ストルイピン首相は暗殺されてしまった。ス
トルイピンがキエフに行った際に、ニコライ2世とともに劇場でオペラを見ていた時の
事である。彼の席の近くにボグロフというユダヤ人がいた。彼は反体制派、社会革命党
の党員で政府の警察のエージェントでもあった。彼はストルイピンの席近くへやって来
るや、ニコライ2世の面前で、ピストルを2発、ストルイピンめがけて撃ったのである
。元々19世紀の終わりからロシアは「内憂外患」にさらされ続けていた。国家内部で
は革命運動という名の内乱、外的には日本とドイツとの戦争です。この絶え間ない波状
攻撃その疲弊によってロシア国家は転覆させられていきます。だがその裏にあったのは
他ならぬ「鉄の革命時代のユダヤ金融」であった。アゼルバイジャン共和国の首都の、
カスピ海西岸に突き出したアブシェロン半島南岸にバクー油田はある。このカスピ海周
辺の大量の石油が埋蔵されている事は古くから知られていて、ノアの箱舟でのアスファ
ルトもここの油の乾燥した塊ではないか。とさえ言われているはやくも9世紀頃の書物
には浮かぶ油を壺にいれ灯されたりして、10世紀には小さな油井が掘られていた。


1032: 名無しさんAA:17/12/16 10:42
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 690----------

実1873年には、当時知られていた中では世界最大の油脈であると王立研究所は公表し、
この地方での近代的な油田の開発が始まりは1878年にはアルフレッド・ノーベルが投資
し二人の兄と共にノーベル兄弟石油会社を設立したが、そのノーベルのほかにも、のち
にカルースト・グルベンキアンを生むグルベンキアン家もバクー石油の有力な企業家だ
った。1900年にはバクーには油井が3000本掘られ、そのうち2000本が産業レベルで石油
を生産していて活況だったのだ。バクーは黒い金の首都と呼ばれ、世界で最も豊かな土
地に生まれ変わったのである。そこにいたのがパシチューンユダヤであった。スファラ
ディ系ユダヤ人は(スペイン行人)と対してアシュケナジー・ユダヤ人(オリエント行
人)の差はそのままキリストの原理主義教団とイスラムの原理主義教団の違いがあった
。元々ペルシャ帝国やオスマン帝国などイスラムのスルタンの下でユダヤ教徒ハザール
人は住んでいたのだ。石炭から石油に変わって行く中で欧州白人系はこの文盲率の高い
中で「旧約聖書」しか信じない人達に目を付け「ユダヤ教徒」との名称を付けた。こう
して「旧約聖書」は、「ユダ人の書」と言う「不信心の中途半端な民の書」から一躍、
「ユダヤ人の聖書」に格上げされた。これは印刷技術に依る物だった。ここでポグロム
(погром パグローム)とは、ロシア語で「破滅・破壊」を意味する言葉である
事を知らねばならない。特定の意味が派生する場合には、加害者の如何を問わず、ユダ
ヤ人に対し行なわれる集団的迫害行為(殺戮・略奪・破壊・差別)を言う言葉に変わっ
たのだ。チェコ語には同系のポフロマという言葉があり、不時の災難を意味する。歴史
的にこの語には、ユダヤ人に対して、自発的計画的に広範囲に渡って行われる暴力行為
と、同様な出来事について使われている。ポグロムは標的とされた人々に対する物理的
な暴力と殺戮を伴っている。13世紀のカリシュの法令によって権利および安全をシュ
ラフタ(ポーランド貴族)および ポーランド王の庇護のもとに保障されたことから、
ユダヤ人はポーランドに集まり生活していた。1543年にプロテスタント運動の創始者の
一人であるマルチン・ルターが示した著書では「ユダヤ人と彼らの嘘について」におい
てはユダヤ人への激しい迫害及び暴力を理論化し熱心に提唱している。魔女裁判の時代
である。17世紀に入ると、ウクライナ・コサックの「フメリニツキーの乱」で起こっ
たポグロムはその犠牲者の数で最悪のものとなった。無政府主義者の群れは無法地帯化
を産みこの鎮圧が見せしめに変わったからだ。


1033: 名無しさんAA:17/12/16 10:45
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 690----------

実1873年には、当時知られていた中では世界最大の油脈であると王立研究所は公表し、
この地方での近代的な油田の開発が始まりは1878年にはアルフレッド・ノーベルが投資
し二人の兄と共にノーベル兄弟石油会社を設立したが、そのノーベルのほかにも、のち
にカルースト・グルベンキアンを生むグルベンキアン家もバクー石油の有力な企業家だ
った。1900年にはバクーには油井が3000本掘られ、そのうち2000本が産業レベルで石油
を生産していて活況だったのだ。バクーは黒い金の首都と呼ばれ、世界で最も豊かな土
地に生まれ変わったのである。そこにいたのがパシチューンユダヤであった。スファラ
ディ系ユダヤ人は(スペイン行人)と対してアシュケナジー・ユダヤ人(オリエント行
人)の差はそのままキリストの原理主義教団とイスラムの原理主義教団の違いがあった
。元々ペルシャ帝国やオスマン帝国などイスラムのスルタンの下でユダヤ教徒ハザール
人は住んでいたのだ。石炭から石油に変わって行く中で欧州白人系はこの文盲率の高い
中で「旧約聖書」しか信じない人達に目を付け「ユダヤ教徒」との名称を付けた。こう
して「旧約聖書」は、「ユダ人の書」と言う「不信心の中途半端な民の書」から一躍、
「ユダヤ人の聖書」に格上げされた。これは印刷技術に依る物だった。ここでポグロム
(погром パグローム)とは、ロシア語で「破滅・破壊」を意味する言葉である
事を知らねばならない。特定の意味が派生する場合には、加害者の如何を問わず、ユダ
ヤ人に対し行なわれる集団的迫害行為(殺戮・略奪・破壊・差別)を言う言葉に変わっ
たのだ。チェコ語には同系のポフロマという言葉があり、不時の災難を意味する。歴史
的にこの語には、ユダヤ人に対して、自発的計画的に広範囲に渡って行われる暴力行為
と、同様な出来事について使われている。ポグロムは標的とされた人々に対する物理的
な暴力と殺戮を伴っている。13世紀のカリシュの法令によって権利および安全をシュ
ラフタ(ポーランド貴族)および ポーランド王の庇護のもとに保障されたことから、
ユダヤ人はポーランドに集まり生活していた。1543年にプロテスタント運動の創始者の
一人であるマルチン・ルターが示した著書では「ユダヤ人と彼らの嘘について」におい
てはユダヤ人への激しい迫害及び暴力を理論化し熱心に提唱している。魔女裁判の時代
である。17世紀に入ると、ウクライナ・コサックの「フメリニツキーの乱」で起こっ
たポグロムはその犠牲者の数で最悪のものとなった。無政府主義者の群れは無法地帯化
を産みこの鎮圧が見せしめに変わったからだ。


1034: 名無しさんAA:17/12/18 17:40
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 691----------

1648年、まだウクライナがポーランド領であった頃、ウクライナ・コサックによる
ユダヤ人虐殺事件が発生した。いわゆる「フメリニツキーの乱」である。ボグダン・フ
メリニツキーのもとに集まったウクライナ・コサックは、ウクライナとポーランドの行
く先々でユダヤ人を襲い、金品を略奪したあげく虐殺した。約50万ものユダヤ人が殺
された。ボグダン・フメリニツキーは、ロシア史においては、コサック農民にとっての
反乱指導者として、ウクライナをポーランドから解放し、ロシア支配に至らせたとして
高く評価されている。しかしその反乱において、ユダヤ人を虐殺し、ユダヤ人共同体を
破壊したために、ユダヤ年代記では「邪悪なフメル」と記されている。虐殺は、ガリチ
ア地方(西ウクライナ)を中心として、ベロルシア、さらにウクライナ南東部にも及ん
だ。この虐殺と破壊によって、ユダヤ人共同体は、崩壊的危機に立たされた。ロマ人や
ユダヤ人ボヘミアンと言った施政から離れた農奴以下の者は落穂拾いで解るように勝手
に人の物を施しを受けていい様になっていた。それは日本のお寺の坊主の様な存在だっ
た。違うのは彼らは乞食であって修行僧の様なルンペンでは無かった事だ。こうして、
1795年に起こった戦争処理の第三次ポーランド分割によりポーランド・リトアニア
共和国が完全に消滅した。その東部の旧リトアニア公国領がロシアに併合された事で、
もはや消滅したポーランド国家による庇護を受けることができなくなったユダヤ人達は
ポーランド人やリトアニア人としてハプスブルク家に庇護を求めた。しかし、ウクライ
ナ人・ベラルーシ人にはこの行為は裏切り行為と受け取られた。元々ポーランド継承戦
争と言われポーランドでヤゲウォ王朝が断絶し1572年から選挙王制となっていた。
1700年に始まった北方戦争はロシアとスウェーデンの王権対立であったが、ポーラ
ンドもロシアと結んで戦った事でロシアが敗北するとスウェーデン軍がポーランドに侵
入して、親ロシアのポーランド国王は追放されたのである。親スウェーデンの国王即位
以後、国内では議会で自由拒否権を行使した権力争いが起こり、次の国王の選出に周辺
の国のロシア、プロイセン、オーストリア、フランスなの介入が起こっていた。実はこ
の頃のポーランドは東欧一の農工業地帯で食糧生産地として各国の供給母体の地であっ
た。この国家の統一の維持が次第に困難となっていった中で、終止符を打ったのがこの
ハクスブルク家の大きな王権だった。ポーランド王国政府自体が当事者能力を失った中
周辺の絶対王政に分割統治する事で食糧調達利権を分けたのだ。だが此処に来て産業革
命は強化した諸国の餌食とされてしまった。


1035: 名無しさんAA:17/12/18 17:56
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 692----------

1819年、ドイツのヴュルツブルクでポグロムが発生すると瞬く間にドイツ圏の全域に、
大規模な反ユダヤ暴動が広まった。「ヘプヘプ・ポグロム」と言われる。1821年「オデ
ッサ・ポグロム」と言われものも起こった。理由は簡単だった。1795年に残された
国土はロシア、プロイセン、オーストリア三国が分割しポーランドは消滅したからだ。
フランスが持つ住民意志の「自由・平等・博愛」に諸侯は徹底的対策が迫られた。1819
年のイングランド・マンチェスターのセント・ピーターズ・フィールドで発生した民衆
弾圧事件も同じだった。選挙法改正を求めて集会を開いていた群衆に騎兵隊が突入して
鎮圧を図り、多数の死傷者が出る惨事となった。ピータールー虐殺事件、マンチェスタ
ー虐殺事件とも言われる。ナポレオン戦争が終結したことでイングランドでは記録的な
高失業と、食糧不足による飢餓の時代を迎えた。穀物法の高税制定が、米国穀物輸入を
止めた。この「虐殺」は4年前に起きた仏国ワーテルローの戦いと皮肉な対比を成すも
のとして「ピータールー」と名付けられる事になる。民衆蜂起のイングランド内戦の途
中の事だった、清教徒革命におけるイングランド騎士党(国王派)と円頂党(議会派)
の間で行われた軍事衝突での内乱は海外からの安い穀物に頼っていた。これに疲弊経済

1036: 名無しさんAA:17/12/18 17:57
のとして「ピータールー」と名付けられる事になる。民衆蜂起のイングランド内戦の途
中の事だった、清教徒革命におけるイングランド騎士党(国王派)と円頂党(議会派)
の間で行われた軍事衝突での内乱は海外からの安い穀物に頼っていた。これに疲弊経済
に議会は高関税をかけて財政を補い、治安維持目的に次々に弾圧立法を制定したのであ
る。改革封じ込めが原因で、各国で米国の安い穀物が売れていた。だがフランスで戦争
が維持され国を超えアメリカとフランスの穀物取引をイギリス商社が担う事になった。
。自由の女神像はフランス系フリーメイソンリーとアメリカ系フリーメイソンリーの間
に交わされた贈り物であった。その為に台座の記念盤には以下の文言が刻まれている。
(この地にて 1884年8月5日、「世界を照らす自由の女神」の像の台座の礎石は、ニュ
ーヨーク州メイソン団のグランド・マスター、ウィリアム・A・ブロディーによる式典
とともに設置された。グランド・ロッジの構成員ら、合衆国およびフランスの政府の代
表ら、陸軍および海軍の将校ら、諸外国の使節団の構成員ら、ならびに名高い市民らが
参列した。この銘盤は かの歴史的事件の第100周年を記念してニューヨークのメイ
ソン団により捧げられる。)英国政府は破綻し1783年にアメリカ独立戦争を終結さた。
そしてアメリカの植民地をアメリカ政府に売るパリ条約を、フランスの仲介で発効させ
た。1881年ロシア皇帝暗殺からポグロムが続発した理由はそこにある。ロシアユダヤ社
会が現実には東欧だが、食糧も仕事も無く浮浪者となったからだ。ユダヤ人の大移住が
始まり19世紀の終わり、ほぼ全てが定住し住んでいた5百万人強のハザール・ユダヤ
人達が追われ1881年から1910年までに300万人近くのユダヤ人が欧州へと移
住したのである。つまり約2百万人が米国へ、特にニューヨークへと移住した。だがA
言われなき迫害に革命への積極的参加をロシアに残ったユダヤ人は行う、とりわけ貧乏
で金の無い青年は、迫害を受けるユダヤ人が自由と権利を得るためと革命運動に参加。
トロツキー、カーメネフ、ジノヴィエフ、ラデック、さらにメンシェヴィキのマルトフ
など、革命指導者のほとんどは、ユダヤ人で革命参加者の中にも多数のユダヤ青年が存
在している。



1037: 名無しさんAA:17/12/18 17:59
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 693----------

 こうして考えられたのがB当時オスマン・トルコ帝国下にあったパレスチナにユダヤ
人の国家の建設である。国家樹立こそ迫害の唯一の解決と考え、シオニズム運動を展開
した。米国独立戦争は英国の権利は制限されたが、英国の世界戦略に影響を及ぼす事も
無く、勢力は維持され逆に仏国は、北米植民地戦争の借りを返すことに成功したが、国
家財政は破綻し困窮を極めた。一方米国大陸では、独立戦争で自信を深め、仏国革命の
連鎖により、民主主義自由主義をかざして世界支配を目論み、民衆も同じ様に民主主義
自由主義をかざして中米、南米でも独立の機運が高まっていた。19世紀後半になると
そこにシオニズム運動が開始され国家樹立する機運が産まれていた、旧リトアニア公国
の領域(ベラルーシ・ウクライナ・モルドヴァ)では、ウクライナ人・ベラルーシ人農
民は貧困に仰えぎ、コサックなどの一揆はそのままひろがった。この際にもユダヤ人が
襲撃の巻き添えとなった。1881年にアレクサンドル2世が暗殺されると、こうしてロシ
アで反ユダヤ主義のポグロムが起こりロシア帝国をはじめとして、各国でのユダヤ人に
対したポグロムが広がり盛んに行われたが。バクー近郊の機械掘削の油井は、アメリカ
油田の発達と共に歴史が出来上がる。1848年ごろにアメリカ合衆国のカリフォルニアで

1038: 名無しさんAA:17/12/18 17:59
襲撃の巻き添えとなった。1881年にアレクサンドル2世が暗殺されると、こうしてロシ
アで反ユダヤ主義のポグロムが起こりロシア帝国をはじめとして、各国でのユダヤ人に
対したポグロムが広がり盛んに行われたが。バクー近郊の機械掘削の油井は、アメリカ
油田の発達と共に歴史が出来上がる。1848年ごろにアメリカ合衆国のカリフォルニアで
起きたゴールドラッシュは世界の銀行を変えて、一連のゴールドラッシュは世界のマネ
ーサプライ(紙幣発行流通額)を急増させた。フランス銀行の発券高は1850年の4億5千
万フランから1870年に15億5千万フランとなった。プロイセン銀行の方は1850年に 1837
万ターラーだったのが1870年には1億6326ターラーに達した。金 準備の増加は中央銀行
の再割引も促進した。イングランド銀行の場合、1847年10月の830万ポンドが 1852年の
第3・4半期僅か半年で平均で2180万ポンドに増えた。フランス銀行の場合は増加率が
5倍近く、1847年の1億2260万フランから1852年の5億8480万フランにまで膨れたのだ。
これがフランスの疲弊や自由運動を助けたのだ。アメリカ開拓使で全く出てこないのが
ソ連だった。ロシア皇帝はこのバルカンの民衆や朝鮮半島の民衆を引き受けて動ごけな
い状態に陥った上に、ロシア特有の意識から北米開発はカムチャッカ半島やアラスカの
地から始まってしまったのだ。その為に、シベリアで失敗し北海道で失敗しカナダでも
失敗した。それらの失敗は全て人の居ない土地での人殺しと言う何とも占領するに理由
の無い行為だった。当初は毛皮や木材や海産物などで商売になったが、威圧の為の虐殺
や戦争は占領を無意味な物にした。そこにシベリア横断鉄道の負担があった。その負担
を支えたのがユダヤからの接収した油田でありユダヤ民の金融資本でありユダヤの労力
だった。ここでポグロムが労働収容所に連行する事に変わった。元々捕虜がなかった訳
ではない。だが鉄道が通り列車の運行が出来ると人々は 過酷な生活から逃げて行く事
が可能になった。それが1890年代から起こったのだ。



1039: 名無しさんAA:17/12/18 18:00
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 694----------

タイタニックは、イギリスのホワイト・スター・ライン社が北大西洋航路用に計画した
ものだ。当時のホワイト・スター・ラインは当時白熱していた北大西洋航路における中
の「ブルーリボン賞」と呼ばれるスピード競争にはあまり関心を示さず、上質でゆった
りと快適な船旅を売り物としていた会社でその評価を上げていた。従って、タイタニッ
ク号もスピードより設備の豪華さに重点を置いて設計する様に要請されていた。また、
当時としては最高の安全対策にも力が入れられており、防水区画が設けられての設計が
なされていた。それは価格にもあった特等室や1等船室では他にない価格だった。だが
大型船舶を作るに当たって、この造船を頼んだのは、沈没時に運命を共にしたことで、
有名になったトーマス・アンドリューズでお高く止まった設計にホワイト・スター・ラ
インとは折り合いの悪かったのだった。室内装飾は贅沢な造りであったが、船体下層の
客室にはレシプロ蒸気機関の振動が響くなど、全く快適とは言いがたい環境であった。
この船は、計画された3隻のオリンピック級客船の2番船であった。姉妹船にオリンピ
ックや、後に病院船として運航されたブリタニックがある。主任設計技師はアレクサン
ダー・カーライルだったが、当時としてはそう新しい設計思想は持ってなかった。知っ
ての通り、処女航海中の1912年4月14日深夜、北大西洋上で氷山に接触して、翌
日未明にかけて沈没した。犠牲者数は乗員乗客合わせて1,513人( 他に1,490人、1,517
人、1,523人 1609人 など様々な説がある)であり、当時では世界最悪の海難事故であ
った。タイタニック号の船長であったエドワード・ジョン・スミスは、この航海を最後
に引退しようと考えている程のベテランで、スミス船長の船にしか乗らないと言う人々
がいたほど、彼は経験豊かで高い名声を誇っていました。1881年にアレクサンドル二世
暗殺されて以降にはロシア国内が白衛隊が奮戦するも、ポグロムが続出し赤兵の暴動事
件は収まらなかった。そして革命時の政権のストルイピン首相は1911年9月暗殺さ
れてしまったのだ。、ロシア人によるロシア人のための改革も終わってしまった。」(
イワノフ氏)ストルイピンが暗殺されるとユダヤ人たちはもう一つの革命の準備に入っ
た。1917年11月6日の「10月革命」である。この10月革命はユダヤ人による
革命であった。これは疑いの余地がない。いうまでもなく、革命を指導した者のほとん
どがユダヤ人だからである。10月革命の前に、トロツキーをリーダーとする70人の
ユダヤ人グループが、ニューヨークからやって来ていた。アメリカのユダヤ人資本家ヤ
コブ・シフは、このトロツキーのグループを支援していたのだった。

1040: 名無しさんAA:17/12/18 18:00
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 695----------

 1879年の、ベルリン会談終了直後、ビスマルクはオーストリア=ハンガリー二重帝国
外相アンドラッシーとの間で対ロシア同盟交渉が行なわれたが、此処にユダヤ資本の立
ち入る隙はなかった。内容は、同盟国中の一国がロシアに攻撃された場合、他の同盟国
は援助のため参戦し、個別講和は行なわない。ロシア以外の第三国に同盟国が攻撃され
た場合、少なくとも好意的中立を守る。しかし、ロシアがその第三国に加担した場合、
同盟国は共に戦う。以上がその内容で軍事中立同盟の申し合わせだった。 ビスマルク
は、普仏戦争でプロイセンが勝てたのはロシアの好意的中立あってのことを知っていた
、それにもかかわらずビスマルクがイニシアチブを取ったベルリン会議では、戦勝国で
あるロシアの権益を大幅に削ることになった条項は、ロシアに対する裏切りであり、こ
れを不満に思ったロシアがフランスと結び、ドイツに軍事的圧力をかける可能性を危惧
していた。そこで、先手をうってオーストリア=ハンガリー二重帝国と同盟を結んで、
自国をロシアの脅威から守るよう、画策していただった。当然ながらその自衛はオース
トリア=ハンガリー二重帝国が今や落ち目のオスマン・トルコ帝国から、さらにもっと
バルカン半島の権益を奪おうとしていて、その際にビスマルクに便宜を図ってもらおう
という腹で、アンドラッシー自身も同盟には乗り気でした。ところがロシアの方では、
この頃本格化してきた革命運動の萌芽、「ヴナロード運動」と言う民主主権に手を焼い
ており、革命の本家本元であるフランスに対して不信感をつのらせていた。さらに外交
上の孤立は、戦術上の勝利をも無効にしてしまうことを、今度のベルリン会議でいやと
いうほど味会っていて、むしろドイツより他のヨーロッパにおける同盟国を探っていた
のであった。この時期ロシア外交を握っていたのは外務官僚のニコライ・デ・ギールス
、その名の通りドイツ系プロテスタントのロシア人で、ドイツに対し極めて好意を持つ
人物だった。そこでギールスの意向もあって1880年、ロシアからドイツに対してこの同
盟締結の提案があり、同盟国が増えるのはビスマルクにとっては喜ばしいことですから
、先に結んでいた三帝同盟の更新といった意味で、ロシアの同盟参加も極めて乗り気で
あったのだ。



1041: 名無しさんAA:17/12/18 18:00
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 696----------

 ところがこれに関してオーストリア=ハンガリー二重帝国が猛反対であった。理由は
、イギリスでは親トルコ・親オーストリア的な保守党党首ディズレリが内閣を組織して
いる限りイギリスの庇護の下オーストリア=ハンガリー二重帝国と友好関係にあるわけ
で、これ以上ロシアを加えなくてもオーストリア=ハンガリー二重帝国は十分安全であ
る、という事があった。又同じくバルカン半島の権益に関心を持つロシアが同盟に加わ
ってしまうと、バルカン半島での進出がやりにくくなるということと、投資の石油資本
が出来つつある中で、既にユダヤ金融資本がローマクラブやロンドンクラブやパリクラ
ブで国家経営資本として活躍していた事が理由であった。ところが1880年四月、総選挙
では、ディズレリ率いる保守党が簡単に破れ、かわって組閣したのは自由党でトルコ寄
りの第二次グラッドストン内閣だった。グラッドストンは典型的な自由主義・合理主義
・経験主義の家風だった。宗教にこだわりと厳格を求めていた。「諸君が地図の上に指
を置いて、ここでオーストリアがよいことをしたといえるような地点は、地図上に一点
もない。またオーストリアがよいことをしたという実例は一つもない」と総選挙中の演
説で訴えた人ですから、さすがのオーストリア=ハンガリー二重帝国もドイツとロシア
と連合を組む決心を固めたのです。つまりこうして、オーストリア・ドイツ・ロシアの
協商関係は成立寸前でした。対イギリス対フランスによってだがロシア内のポグロムが
続出し収まらなかった。更にドイツ国家内でも大きく起こる事になった。ハザールのユ
ダヤ人たちの大量海外移民とシオニスト運動が開始されて、それがやって来たのだ。共
にソ連でもハザールユダヤ青年層を中心とし革命運動が活発となり、革命を喧伝する政
党が次々に誕生しますした。1903年それらの多数派(ボリシェヴィキ)の赤兵隊は少数
のユダヤ指導者とてモスクワに入り取り仕切ったそれがレーニンでだった。ビスマルク
は"誠実な仲介人"を自称し中立を宣言していたが、ベルリン条約でロシアが得た利益を
認めたものの、ロシア南下政策を否定するイギリスを終始支持した。ドイツは、1882年
に三国同盟を結成してフランスを孤立化させ、1885年に日本にメッケルを派遣してロシ
アの東アジア進出を牽制し、狙い通り日露戦争でロシアの進出を阻むことに成功した。
1890年にビスマルクが引退してベルリン条約の秩序が再び崩れると、ロシアは普仏戦争
以降孤立化していたフランスに接近して1894年に露仏同盟を結び、対独包囲網の結成を
模索していた。スラブユダヤはそうした動きに右往左往するのを止めて新天地に向かっ
ていた。


1042: 名無しさんAA:17/12/18 18:01
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 697----------

 上海にドイツ・オーストリア系ユダヤ人が流入したのは、ナチスがオーストリアを合
併した1938年秋であり、イタリア商船コンテ・ビオレ号から上海に上陸したのが、
最初であるとしている。その中で当時、ユダヤ人が希望する米国等はビザ発給が制限さ
れており、実態的には入国拒否に近かった。非人道的行為まであったという。だが実情
はもっと違っていただろう。と言うのはハザール帝国のユダヤ人たちの数は八百万人か
にのぼる数でそれらが半数は残っていたとしても半数はシベリアのユダヤ自治州に送ら
れたであろうと思われるからだ。更に大半が強制労働で死を迎えたとしても一割程度は
逃げたであろう。そう考えても八十万人である。そしてその動きはもっと早い時期に、
起こっているのだ。少なくともシオニスト集会では新天地を求めている。8世紀以前の
世界にはごくわずかな混血者を除いて、白人系ユダヤ人はほとんど存在していなかった
。それがなぜか8〜9世紀を境にして、突然、大量に白人系ユダヤ人が歴史の表舞台に
登場したのである。いったい何が起きたのか?ロシアとユダヤのはじめの衝突はロシア
帝国VSハザール王国(アシュケナジー・ユダヤ人)であり、それは8世紀までさかのぼ
る。12世紀にユダヤ教徒ハザール人が、ロシアアンドレイ・ボゴリュプスキー皇帝を
暗殺したことをきっかけに、ロシアにおけるユダヤ人弾圧が始まった。ロシアから追放
されたユダヤ教徒ハザール人たちは、そのほとんどがポーランドに移っていった。ハザ
ールは6世紀のビザンツ史料において、サビル(英語版)(サベイロイ)と呼ばれてお
り、『戦史』の著者プロコピオスによれば、「サビルはフンの一族であり、カフカスあ
たりに居住し、多数の首長のもとに適当に分かれている」という。このサビルとハザー
ルがまったく同一の民族であったか否かは確定できないが、少なくとも10世紀のアラ
ブの歴史家マスウーディーは『黄金の牧場』の中で、ハザールをテュルク系サビルとし
ている。また、サビルの名が6世紀末からほとんど現れなくなるのは、サビルと呼ばれ
る部族が改宗しハザールと変化しただろうことを示すからであろう。その後西突厥の支
配下にあったと言われる。しかし、ハザールはおそらく6世紀末にカスピ海沿岸および
カフカスからアゾフ海のステップに進出したが、その時期はまだ西突厥の勢力が強大で
、その宗主権のもとに置かれていたが、626年に、東ローマ帝国のヘラクレイオス1
世は帝国の北東国境を守るために「東のテュルク」と同盟を結んだ。この「東のテュル
ク」の主力をなしていたのがハザールであり、東ローマ帝国は彼らと共にペルシア(サ
ーサーン朝)支配下にあったカフカスを攻めビザンチン・サーサーン戦争を起こし、第
三次ペルソ・テュルク戦争で、大きな戦果をあげた。とされる。

1043: 名無しさんAA:17/12/18 18:03

陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 698----------

つまりササン朝ペルシャと戦ったカスカフ部隊であったのだ。この事はローマ帝国時代
の勇猛な戦士として、出稼ぎに兵士となり、用が済めばカスピ海周辺で暮らしていた事
を物語っている。「ロシア革命」は「ユダヤ革命」だった、ユダヤ人たちは1917年
11月6日の「10月革命の準備に入った。(第一次世界大戦)ハザール王室直系の子
孫、カガノビッチの暗躍する10月革命以降は、特に1920〜1930年代にユダヤ
人はロシアで「国家内国家」をつくっていった。一般に「スターリンの独裁」ハザール
人の支配したハザール王国の指導者による独裁だったのである。ロシア文化を徹底的に
破壊しハザール系ユダヤ人ロシアの優れた頭脳と称して、ロシアの文化人も、優秀な実
業家も、伝統的な農民、習慣、歴史と、それを存続させている貴族を徹底的に破壊しよ
うとしたのだ。ロシア正教を90%を破壊しそれを又改宗し利用した。1953年6月
26日ジューコフ元帥軍事クーデターを起こし、これに成功する少なくとも1960年
まで、ほとんどの政府機関からユダヤ人が一掃された。従ってウクライナやカザフスタ
ンに核を置き軍事の基幹を置いた。カガノビッチはどのようにしてロシアの国家内国家
、すなわちユダヤ国家を指導していったのだろうか。共産党に頼ったのではなかった。
共産党も表向きの形式にすぎなかっただろう。実際には裏の組織があった。それが国家
保安省(後の国家保安委員会=KGB)である。国家保安省の幹部のすべてがユダヤ人
だった。トップだけではなく、中間層も下層も、ほとんどがユダヤ人で占められていた

1044: 名無しさんAA:17/12/18 18:04
破壊しハザール系ユダヤ人ロシアの優れた頭脳と称して、ロシアの文化人も、優秀な実
業家も、伝統的な農民、習慣、歴史と、それを存続させている貴族を徹底的に破壊しよ
うとしたのだ。ロシア正教を90%を破壊しそれを又改宗し利用した。1953年6月
26日ジューコフ元帥軍事クーデターを起こし、これに成功する少なくとも1960年
まで、ほとんどの政府機関からユダヤ人が一掃された。従ってウクライナやカザフスタ
ンに核を置き軍事の基幹を置いた。カガノビッチはどのようにしてロシアの国家内国家
、すなわちユダヤ国家を指導していったのだろうか。共産党に頼ったのではなかった。
共産党も表向きの形式にすぎなかっただろう。実際には裏の組織があった。それが国家
保安省(後の国家保安委員会=KGB)である。国家保安省の幹部のすべてがユダヤ人
だった。トップだけではなく、中間層も下層も、ほとんどがユダヤ人で占められていた
。国家保安省に、ベリヤというきわめて危険な人物がいた。彼はユダヤ人(母親)との
ハーフで、グルジアの北コーカサス出身のユダヤ人であった。ベリヤはカガノビッチの
従兄弟にあたる。カガノビッチはベリヤ、すなわち国家保安省を通して、ロシア=ハザ
ールの幹部となっていたのだ。またその頃、ユダヤ人は国家保安省の中に「収容所」と
いう新しいシステムをつくった。ソルジェニーツィンの著書「収容所群島」には、この
システムについて詳しく述べられている。各収容所の所長には9割がユダヤ人だった。
収容所システムを初めに導入した人物は、フレンケルというユダヤ人の革命家である。
収容所はロシア人の奴隷を収容するためにつくられた施設だった。革命が成功すると、
ユダヤ人たちはロシア人を完全に支配下におこうとした。そのためにはロシアの「頭」
を切り落とさなければならない。「頭」というのは日本でいえば天皇であるように、ロ
シアでいえばツアー、すなわち皇帝であった。ハザール国家を作りソ連を支配していっ
たのであった。つまりユダヤ人はユダヤ人を支配下に於いて行く事も厭わない人種に変
化していたのだ。古代にフン族を改宗させてハザール帝国を作った時からロシアは狙わ
れた国だった。そして彼ら砂漠のバッタの如く他の国に浸食しようとしている。それが
今のイスラエル国家の状況であろう。仲間さえも信じない。この世の地獄の釜の仲間を
して地獄の釜に変えているのである。幸せを持たない宗教人種これがユダヤだった。




1045: 名無しさんAA:17/12/18 18:06
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 699----------

コーカサス山脈はロシア語でカフカース山脈と言われ黒海からカスピ海まで東西に走る
走る山脈である北の大カフカース山脈と南の小カフカース山脈と区別して呼ばれている
。ギリシア神話では、コーカサスは世界を支える柱のうちの一つでゼウスがプロメーテ
ウスを鎖で繋いだ場所でもある。ウラル山脈、カスピ海とともにアジアとヨーロッパの
境をなすと言われる。山脈の北は北コーカサス地方とよばれロシア連邦領、南は南コー
カサス地方とよばれて、水源がある為比較的肥沃な大地でありジョージアとアゼルバイ
ジャンの領土となっている。西側にヨーロッパ最高峰エルブルス山(5,642m)やカズベ
ク山(5,033m)などの高峰が集まる。アルプス・ヒマラヤ造山帯に含まれる新期造山帯
である。南部の領有アルメニア北部を通る山脈で、カピジク山(3,904m)が最高峰だ。
ただし、やや南にあるアラガツ山(4,090m)やアララト山(5,165m)も小コーカサスに
含めることがある。異論は色々あるが「使徒言行録」のガラテヤの信徒への手紙」は恐
らくこの地に住んだ人達を諫めた様なパウロの手紙であろうというのが大方の見方だ。
その書によればガラテヤの共同体はパウロ自身が創設したもので、信徒たちはかつては
異教徒であったものがほとんどであったが改宗したと言う。この共同体はパウロが離れ
た後で、「異なる福音」を伝えるものたち教師が現れ、信徒の間に混乱をひきおこして
いたとして手紙を出した事になっている。パウロはこのような教えに耳を貸さないよう
ガラテヤの共同体のメンバーたちに強く求めている。書簡にあらわれる「反対者たち」
の教師たちがどのような人々だったのかは意見が分かれ、パウロの言葉からその思想を
再構成するしか方法がないが大方の見方は彼らが「ユダヤ教から改宗したキリスト教徒
」であったということである。彼らは異教徒から改宗したキリスト教徒に対し、ユダヤ

1046: 名無しさんAA:17/12/18 18:07
。ギリシア神話では、コーカサスは世界を支える柱のうちの一つでゼウスがプロメーテ
ウスを鎖で繋いだ場所でもある。ウラル山脈、カスピ海とともにアジアとヨーロッパの
境をなすと言われる。山脈の北は北コーカサス地方とよばれロシア連邦領、南は南コー
カサス地方とよばれて、水源がある為比較的肥沃な大地でありジョージアとアゼルバイ
ジャンの領土となっている。西側にヨーロッパ最高峰エルブルス山(5,642m)やカズベ
ク山(5,033m)などの高峰が集まる。アルプス・ヒマラヤ造山帯に含まれる新期造山帯
である。南部の領有アルメニア北部を通る山脈で、カピジク山(3,904m)が最高峰だ。
ただし、やや南にあるアラガツ山(4,090m)やアララト山(5,165m)も小コーカサスに
含めることがある。異論は色々あるが「使徒言行録」のガラテヤの信徒への手紙」は恐
らくこの地に住んだ人達を諫めた様なパウロの手紙であろうというのが大方の見方だ。
その書によればガラテヤの共同体はパウロ自身が創設したもので、信徒たちはかつては
異教徒であったものがほとんどであったが改宗したと言う。この共同体はパウロが離れ
た後で、「異なる福音」を伝えるものたち教師が現れ、信徒の間に混乱をひきおこして
いたとして手紙を出した事になっている。パウロはこのような教えに耳を貸さないよう
ガラテヤの共同体のメンバーたちに強く求めている。書簡にあらわれる「反対者たち」
の教師たちがどのような人々だったのかは意見が分かれ、パウロの言葉からその思想を
再構成するしか方法がないが大方の見方は彼らが「ユダヤ教から改宗したキリスト教徒
」であったということである。彼らは異教徒から改宗したキリスト教徒に対し、ユダヤ
教の律法を完全に守るよう要求していた。書簡からは、割礼、安息日の遵守、モーセの
律法の遵守などを巡って意見が戦わされた。パウロの言葉から推測すると、ユダヤ教か
らの改宗者たちはアブラハムを引き合いに出して、契約のしるしとしての割礼の意味を
強調している。さらに彼らはヤコブに従うエルサレムの教会を支持することでパウロの
使徒として正統性に疑義を呈していたことがうかがえる。また、教師たちの言動がガラ
テヤの信徒たちに大きな動揺を引き起こしたこともわかる。研究者によれば当時、異教
から改宗したキリスト教徒たちは「アイデンティティーの喪失」に悩み、律法の完全な
遵守という明快な指針を示した「教師たち」に魅力を感じていたと考える。パウロは、
ガラテヤの人々の精神的動揺を叱咤している。彼は自分の伝えた「律法からの自由」で
あったことを思い出させる。パウロは自らの改心の経緯と使徒としての資格の正当性、
さらにエルサレム教会との関係について詳しく述べる。パウロは自らアブラハムの物語
の意味を再解釈して人々に伝えている。

1047: 名無しさんAA:17/12/18 18:08
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 700----------

 6世紀後半、突然中央アジアのヴォルガ川流域に強力な民族が台頭しはじめた。のち
の世にハザール(カザール)王国を形成するハザール民族である。一方、当時はロシア
もまだ帝国としては存在していなかったが、ロシア人はすでにキエフなどに定着してい
た。6世紀から8世紀にかけて、ハザール民族はカスピ海の北方に進出すると、ロシア
人とたびたび衝突するようになった。ハザール人はロシア人を支配下におき、奴隷にし
て、カスピ海の北にあるイティルというハザール人たちの首都に連れて行った。イティ
ルでは当時、ロシア人の奴隷がいとも安価で売買されていたという。イティルに住む民
は多様であった。ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒、シャーマニズムやペイガ
ニズムの信徒がおり、ハザール国外からの貿易商も多かった。各宗教集団は独自の聖堂
を持ち、住民の争いの解決の為には7人ほどの判事が各宗教集団から選ばれた(2人の
キリスト教徒、3人のユダヤ教徒、2人のイスラム教徒、ロシア正教などから1人)。
その後8世紀になり、ビザンチン・キリスト教とイスラムの圧迫を受けたハザール民族
は、王から奴隷にいたるまで国を挙げてユダヤ教に改宗し、ハザールはその法令におい
てユダヤ国家となった。そして彼らは自らをユダヤ人と名乗るようになったのである。
現在、世界のユダヤ人の大半を占めるアシュケナジー・ユダヤ人は、このハザール人の
子孫であると言われる。8世紀から9世紀にかけて、ロシア人の侵略にハザール王国は
数回にわたって戦争をした改宗を迫られた。965年、ついにロシア人がハザール王国
を占領した。その後キエフ大公国のスヴャトスラフ1世はハザールをことごとく破り、
968年(または969年)にハザールの同盟都市もボルガ流域のイティルの街も占領されて
略奪され廃都市の運命を辿る事になる。首都イティルの、ほとんどを壊滅させてしまい
以来、ハザール国家は再びかつてのような強国となることはなかった。13世紀には、
今度は、タタール(モンゴル)がハザール王国を完全に滅亡させたからだ。ユダヤ教徒
のハザール人(アシュケナジー)はロシアに逃げ込み奴隷になるしかなかったのだ。近


1048: 名無しさんAA:17/12/18 18:10
今度は、タタール(モンゴル)がハザール王国を完全に滅亡させたからだ。ユダヤ教徒
のハザール人(アシュケナジー)はロシアに逃げ込み奴隷になるしかなかったのだ。近
かったのでその多くがロシア領内に逃げ込み住んだ。その後ロシアの中のユダヤ教徒は
ハザールの怨恨の火を絶やさなかった。12世紀には、ロシア国家の中でロシアに対す
る陰謀を画策するように増えていたし、重税や虐げられたままだった。そして1174
年、遂にロシアの皇帝、アンドレイ・ボゴリュプスキー皇帝を暗殺したのである。当時
のロシアはまだ国となってはいなく、寒い中の多くの集落の小国家集合体だったのであ
る。それぞれの国が皇帝を名乗り集まり会議が行われていた。その結果において彼らは
ロシアに移入して来たユダヤ教徒ハザール人を弾圧することは決定していた。食糧も猟
も不審者でしかなかったからだ。こうして多数のユダヤ教徒ハザール人が殺されること
になっていた。これがポグロムの元になった。



1049: 名無しさんAA:17/12/18 18:11
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 701----------

 日本でも太平洋戦争は陸海両軍がそれぞれ威信をかけての、米英はじめとする連合国
に戦争をしかけていったのだが、それは「奴隷」と「植民地」と「食糧」への危機感か
らだった。日本でも外地従軍は食糧に於いて補給は充分でなく現地調達での進軍だった
。ただこの時代は他の国には大王なり皇帝なりの領地争いだったが、日本では天皇を掲
げてはいたものの、軍においてはそれは市民革命軍だった。天皇は地位の上に指導をお
こなっていただろうが、日本政府や軍に限れば、他のアジア諸国の様な民族虐殺になら
ない為の国家経営の進軍であった。と言える。だがそこに意思統一は無かった。中には
無謀な兵将も多く、日本人としての誇りよりも勝つ事が全てであり戦場を進軍する事に
重きをしていた。ただアメリカ軍が勝った理由は原爆でも物量でも無かった。移民の群
れであったからだった。殆どの国は戦争は自衛の為だったがアメリカのみが拡大の為で
あった。特にアジアにおいてはそれは徴躇であった。この特徴的戦争形態は他にない。
欧州社会であっても、ドイツが拡大政策を採らなければ、欧州の悲劇は起きなかった。
つまり防備の為の外交だったのだ。ところがドイツやロシアにすれば拡大しなければ、
自分達の食糧や経済は破綻する物だった。そして日本も同じに満州や朝鮮半島は、既に
日本経済の支えともなっていたし、東南アジア圏内では今も昔も変わらずに経済圏であ
ったのだ。だがアメリカだけは違っていた。アメリカは国内の独立戦争を終えて国民の
反乱を止めるべく政府は動いていた。つまりカナダもメキシコもキューバも原住民はい
たし、更に移民を連れて来て作った国だった。到底国内統一は出来ないまま各州がそれ
ぞれ独立をして連携を図っていたのである。ここに外敵の必要があったし軍事産業とし
ての経済活動があったのだ。そして日本も中国大陸に進駐した時、満州と朝鮮の平和は
必要最低限の防衛であった。日本は自らに自国を守る必要があったのだ。米国の平和裏
の原料供給がなければ、自前補給しか日本経済は回らなかったのだ。こうして、第一次
大戦が終わった時、ドイツ領が手に入り太平洋を管理とした為に、この後戦線は次第に
拡大し、西はインドシナ半島とビルマ、南はインドネシアのほぼ全域とニューギニア、
東は中部太平洋に浮かぶ島々まで、実に壮大な範囲を占領するに至った。もしサミエル
商会などが東南アジアに油井が見つからなければ、米国は大陸までは足を延ばす合意に
は至らなかっただろう。


1050: 名無しさんAA:17/12/18 18:12
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 702----------

1898年4月25日、キューバ独立革命をきっかけとした米西戦争が勃発する。その直前、
香港でアメリカ合衆国との間に独立援助の密約を取り付けていたアギナルドら亡命指導
部は、マニラ湾海戦での米艦隊大勝を経て、米軍を後盾にフィリピンへの帰還を果たし
た。だがフィリピン独立革命は失敗に終わった。理由としては、もちろん中途介入して
きたアメリカとの圧倒的な軍事力と欲望からだ、フィリピン側にも多少の問題はあった
が、より以上にアメリカは危険な債権国策を望んだ。そもそも米国建国ではインディア
ン人の生活にスペイン人は鉄砲を持ち込んで領土をほしいままにした。その後イギリス
は十字架を掲げて乗り込んで来し、フランスは奴隷を連れて乗り込んで来た。その後も
何処からもやって来ていた。アメリカ政府は当時州境の協定をこなし自治国経営を行っ
ていた。次々インディアンを始め大陸から追われた人が西南に逃げ延びて西南戦争が起
こった西部劇である。こうして荒れ狂う中にかつて世界の覇者としての植民地は独立と
敵対するイギリス・フランスなどと共に戦争の費用がかさみ、イギリスは独立を許し、
スペインは、ニューメキシコを売り渡す事にした。ガズデン購入である。その時アメリ
カは自国がユダヤ金融と連れ立って世界を征服出来ると信じたし、それだけの力を持っ
た。アメリカで始まったオイルポンプジャック方式はユダヤ資本は直ぐにバクー油田に
取り入れて、安価な石油をアメリカに搬入して大小の国内石油を手中に収めた。その後
はイギリスのペドロと共にメキシコ湾の油田に着手していたのである。此処に搾取され
ていた原住民の独立や革命が起こっていたのである。此処に避難用の東南アジア油田が
開発されていた。メキシコやキューバの休戦協定と共にスペインの持っていたフィリピ
ンの権益と共にアメリカが買ったのである。此処にスペインの植民地は大西洋沿岸特に
アフリカモロッコやブラジルなど以外の権益を完全に失ったのであった。これには理由
があった。アメリカの新聞が読者数を伸ばそうとしていた時期と一致して、1897年の「
アメリカ婦人を裸にするスペイン警察」という新聞記者による捏造記事のフェイクニュ
ースをきっかけに、各紙はスペインのキューバ人に対する残虐行為を誇大に報道し、ア
メリカ国内のスペイン人の排除運動があったのだ。先行入植者としてインディアン側に
ついていたので敵対されたのだ。これはかなりの人道的感情を刺激した。そしてキュー
バへの介入を求める勢力の増大を招いた。こうしてイエロー・ジャーナリズムは力を持
った。


1051: 名無しさんAA:17/12/19 00:26
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 703----------

1898年6月20日、アメリカ海軍の巡洋艦チャールストンおよび輸送船3隻の艦隊が当時
スペインの植民地だったグアム島をカノン砲で砲撃し、これを占領しようとした。がス
ペイン側の司令官は戦争が始まったことを知らず、司令官自身がチャールストンに現れ
て降伏の意思を伝え、島にいた54名のスペイン兵は捕虜となり、グアムは占領された。
その為方々で開戦への他の圧力をかけていた。事実、アメリカ海軍は開戦の1年以上前
にフィリピンでスペイン軍を攻撃するための国内計画を作成していた。西部への拡張、
および、アメリカインディアンとの大規模交戦の終戦条約協定後はアメリカ陸軍には、
任務を減少させ軍の減少を招き、軍の指導部は新しい任務を望んだ。早期からアメリカ
人の多数は キューバが彼らのものであると考えており、マニフェスト・デスティニー
に関する理論はちょうどフロリダの沖合に非常に魅力的に見える島を作った。キューバ
の経済の多くは既にアメリカの手にあり、ほとんどの貿易(その多くは闇市場だったが)
はアメリカとの間のものであった。何人かの財界人は、開戦を同様に要求した。ネブラ
スカ州の上院議員ジョン・M・サーストンは「スペインとの戦いは、すべてのアメリカ
の鉄道ビジネスおよび所得を増加させるだろう。それは、すべてのアメリカの工場経済
を増加させるだろう。それは、産業と国内通商のすべての流通を刺激するだろう。」と
明言していた。太平洋を渡ってマニラまで2ヶ月はかかる時代であったが、開戦からは
わずか約2週間後の5月1日に、マニラ湾海戦が勃発した。これによりフルーツコードの
レモン計画グレープ計画は実行終了し、新たなカラーコード計画がなされた。最も不思
議な事は初期のこのフルーツコードでは、ブドウのマークであるギルド系ユダヤ金融の
排除であったしレモン印の騎士団系政治結社の排除であった筈だった。フリーダム系統


1052: 名無しさんAA:17/12/19 00:26
の経済の多くは既にアメリカの手にあり、ほとんどの貿易(その多くは闇市場だったが)
はアメリカとの間のものであった。何人かの財界人は、開戦を同様に要求した。ネブラ
スカ州の上院議員ジョン・M・サーストンは「スペインとの戦いは、すべてのアメリカ
の鉄道ビジネスおよび所得を増加させるだろう。それは、すべてのアメリカの工場経済
を増加させるだろう。それは、産業と国内通商のすべての流通を刺激するだろう。」と
明言していた。太平洋を渡ってマニラまで2ヶ月はかかる時代であったが、開戦からは
わずか約2週間後の5月1日に、マニラ湾海戦が勃発した。これによりフルーツコードの
レモン計画グレープ計画は実行終了し、新たなカラーコード計画がなされた。最も不思
議な事は初期のこのフルーツコードでは、ブドウのマークであるギルド系ユダヤ金融の
排除であったしレモン印の騎士団系政治結社の排除であった筈だった。フリーダム系統
のクラブがそれがひっくり変わって集合統合したフリーメイソンの支部に変化した事だ
。実は此処に日本がいた。つまり不思議だが明治時代大西洋航路よりも太平洋航路の方
が発達していたのだ。我々はどうしても西洋人がアメリカ移住を果たしたのは欧州から
と考えがちだが、それは全く違っている。香港から横浜や敦賀からのこのスラブ系人種
もかなり移民として渡ったのである。アムール川の支流のこの黒竜江域は、最も肥沃な
大地であり極寒の地でもあったが春ともなれば住みよい場所でもある。ハバロスクや、
ピロジャンやダマンスキー島(中国語名珍宝島)などのホーカン周辺は南北に流れるこ
の川の為に東西に中国とソ連に分かれていた。黒竜江省だけでも行政区画は12の市や
1つの自治地区の下に19の県級市・46の県・1つの自治県が設置され、日本での77
の県区域に分かれる広大な土地だ。対して人口は3689万人で相当少なく漢民族を中心に
、満州族・朝鮮族・モンゴル(蒙古)族・回族・ダフール(達斡爾)族・シボ(錫伯)族・ホジョン
(赫哲)族・オロチョン(鄂倫春)族・エヴェンキ(鄂温克)族・キルギス(柯爾克孜)族 などが
居住しているがこれにソ連地区を兼ね合わせてモンゴル系のパオ集団の移住を考えれば
800万人の半数400万人が此処に連れられてそのまま米国に逃げたとしても、別に
おかしい事はない。


1053: 名無しさんAA:17/12/19 00:27
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 704----------
ところがこのウラジオストックの北側は秋あらに越冬する遊牧民の場所だったのだ。と
言うのもこの川の魚などが豊富だった事と干し肉などの越冬の動物を寒い風から逃れて
死なす訳に行かないからだ。そこで秋に川の水が少ない内に対岸に行き 日本海側の風
や寒さが少ない場所で越冬し、川の氷床が融ける前に又モンゴルに帰って草原の放牧を
行わならなければいけなかった。更にこの習慣は何千年も前からの風習でもあった。
中ソ国境紛争は1969年3月2日、15日にアムール川(中国語名は黒竜江)の支流ウスリー
川の中州であるダマンスキー島(中国語名珍宝島)の領有権を巡って大規模な軍事衝突
が発生した事で起こった(珍宝島事件、ちんぽうとうじけん、ダマンスキー島事件)。
同年8月にも新疆ウイグル自治区でも軍事衝突が起こり、中ソの、全面戦争や核戦争に
エスカレートする重大な危機に発展した。同じ共産党独裁国家でありながら、かつては
蜜月を誇った中国とソ連の対立が表面化した事件でもあった。1950年代後半のニキータ
・フルシチョフ首相によるスターリン批判以降、ソ連と中国の間では関係が悪化してい
た。中ソ対立により両国間の政治路線の違い・領土論争をめぐって緊張が高まり、1960
年代末には 4,380kmの長さの国境線の両側に、658,000人のソ連軍部隊と814,000人の中
国人民解放軍部隊が対峙する事態になった。在北京ソビエト連邦大使館に対する紅衛兵
の襲撃や、国境地帯での発砲事件など両国の小規模な衝突は度々起きていたものの、本
格的な軍事衝突は起きないままでいた。1969年3月2日での、極東のウスリー川の中州・
ダマンスキー島(珍宝島)ではソ連側の酔っ払い警備兵と中国人民解放軍の農民兵士に
よる衝突が起こった。これに関しては双方とも「先に相手が攻撃を仕掛けた」と主張し
ている。また、中国人民解放軍部隊が民間人・農民・家畜に部隊を囲ませながら前進す
る戦術を取ったという。中国側の記録にはソ連軍に大きな損害を与え、自軍の死者はご
く少なかったとある。なおこの時、少なくとも1輌のT-62が中国側に鹵獲されている。
(中国はT-62を1輌公開している。)。7月8日には,中ソ両軍が黒竜江省同江県に属する
黒竜江(アムール川)の中州・八岔島(ゴルジンスキー島)で武力衝突し,8月13日には
新疆ウイグル自治区タルバガタイ(塔城)地区チャガントカイ(裕民)県の鉄列克提(
テレクチ)でも武力衝突が起きるなど、極東及び中央アジアでの更なる交戦の後、両軍
は最悪の事態に備え核兵器使用の準備を開始した。こうした最中、1969 年9月に北ベト
ナムのホー・チ・ミン国家主席が死去し、ソ連のアレクセイ・コスイギン首相はハノイ
での葬儀に列席した後北京に立ち寄り中国の周恩来首相と会談して政治解決の道を探り
、軍事的緊張は緩和された。国境問題は先延ばしされたが、最終的な解決には至らず両
国とも国境の兵力配置を続けた。

1054: 名無しさんAA:17/12/19 00:27
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 705----------

 明治期1900年頃、大阪商船では日露戦争後に北米航路の開設が企画され、明治40
年(1907)1月に蘂取丸による試験航海が行われた。翌 明治41年(1908)にはシカゴ・ミ
ルウォーキー・エンド・セントポール鉄道会社と連絡輸送の契約を結ぶと共に本航路用
に6,000総トン級の大型貨客船6隻を発注した。当時の資本金の3分の1にあたる巨費
を投じて開設された本格航路 (ピューゼットサウンド線〜香港/タコマ線 )は、同社の
命運握った初の本格的な遠洋航路であった。明治42年(1909)7月3日第1船たこま丸が
香港を出航、寄港地は香港/門司/神戸/四日市/横濱/シアトル/タコマで当初は使
用船3隻により4週に1回の定期サービスとし、航海奨励法の適用を受けた。明治43年
(1910)1月1日より逓信省の命令航路となった。日本郵船も実はこのシアトル航路には早
くから目を付けていた( 明29.8.1(1896)開設大正期−昭16.7.17(1941)休航−昭 26.10
(1951)再開−昭35.10.5(1960)終航。早くから桑港( サンフランシスコ)線に着眼してい
たものの多大な資金を要する船の購入には社内や日本政府の後押しが必要だった。この
頃は、高価な石炭や石油の供給が不可能で日本政府の軍船がやっとの時代だった。その
為当時はパシフィック・メイル社(Pacific Mail Steamship Co.)やO&O社(Occidenta
l & Oriental S.N.Co.) が独占的優位を占めていた。海外での物資供給の確約とグレー
ト・ノーザン鉄道会社(Great Northern Railway Co.)の提携申し入れを受けてやっと可
能になり、まずシアトル航路を開設した。当初は汽船3隻(三池丸、山口丸、金州丸)で
毎月1回のサービスとし寄港地は香港/下関/神戸/横濱/ホノルル(臨時)/シアトル
とした。明治34年(1901)加賀丸型の就航後は6隻体制となって (加賀丸、伊豫丸、金州
丸、信濃丸、旅順丸、土佐丸)で2週1回のサービスとなった。この成果は石炭の 安定
供給や安価な中国産などよって客船の定期運航はかなり簡単になりアジア近海から遠洋
航路に移っていった。こうして大阪商船では日露戦争後すぐに北米航路の開設が企画さ
れてのち日本郵船と共に東洋汽船も桑港( サンフランシスコ)航路 明31.12.15(1898)開
設していた。−大正期−大15.3(1926)以降日本郵船が継承東洋汽船を設立した淺野総一
郎はP.M.社(Pacific Mail Steamship Co.)、南太平洋鉄道(Southern Pacific Railway)
との交渉後、太平洋航路用に3隻の新造船を英国で建造した。航海数は4週に1回とし
、寄港地は香港/長崎/神戸/横濱/ホノルル/桑港。明治32年(1899)7月10日に政府
から特定補助航路の命令書が下付された。

1055: 名無しさんAA:17/12/19 00:28
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 706----------
こうした航路は順調に行き日本郵船では明治45年(1912)には就航中の因幡丸と丹波丸が
補助船の資格を失うため明治43年(1910)に代船として計画されたのは荷客の動きとパナ
マ運河開通後を考慮して6200総トン級の純貨物船2隻であった。しかし明治44年(1911)
11月に従来と同様な貨客船に設計変更がなされて横濱丸と 静岡丸が明治45年(1912)5月
以降に順次竣工した。日米間の太平洋航路は、パシフィック・メール汽船会社によって
の1867年1月1日の一番船「コロラド」の出航から始まったのだが、22日後の1月24日
横浜到着、そして最終目的地の香港には1月30日到着したのであった。これによってこ
の航路が1ヶ月の航路が完成していた事が伺い知れる。こうして1896年には日本郵船が
シアトル航路を、1898年東洋汽船がサンフランシスコ航路を開始して各日本船社の参入
となった。そして、1941年の日米開戦で中断した太平洋航路は、戦後になって復活した
ものの、戦争中の航空機の技術革新により、太平洋の連絡の役目において客船の活躍は
急速に衰退していった。パシフィック・メール汽船会社が設立されたのは合衆国がメキ
シコからカリフォルニアを併合した翌年である、1848年のこの航路はパナマ・オレゴン
・カリフォルニアで一番船の「カリフォルニア」は、大西洋岸からカリフォルニアへの
回航される際に、同年に発見されたカリフォルニアの金が目当ての男たちを乗せていた
。1849年2月サンフランシスコに到着しカリフォルニアへ向かう男たちは、合衆国の東
部からの幌馬車隊でのロッキー越えをする男と全く同じ気持ち乗り込んでいて、このル
ートと並んで、パナマ経由で太平洋を上るこのパシフィック・メール便が花形ルートで
あった。1855年にはパナマ地峡にパナマ鉄道が開通し、このルートは至便を極めるにい
たった。しかし、1869年ユニオンパシフィック鉄道とセントラルパシフィック鉄道の、
ユタ州のプロモントリーで締結、すなわち大陸横断鉄道の完成で主要ルートが陸路鉄道
経由に変わり収益がなくなると、パシフィック・メール汽船会社の関心も太平洋の対岸
に向いてきて1867年元旦のこの太平洋横断航路の出発式であったのだ。ところが、
実は1875年時代には熾烈な運行争いが鉄道にも船便にもあって経営拡大闘争を繰り広げ
られていた。それは金鉱脈から掘り出された金の流通量の拡大と貸付の拡大更に人の移
動の拡大が共に影響しあっていたのである。これによってユダヤ金融は欧州金融から、
世界金融に発展して行ったのである。これにはアメリカ政府の主張した国家の自主発行
券権利を拒否する力も必要になった。此処に大不況がおきるのである。つまり言わば今
発効しているユダヤ紙幣は実は金交換の兌換券で引換券だったのだ。金を持ち今紙幣の
回収をしなければ、政府が勝手に発行し流通した時彼らはその債権と同じく財産没収は
免れないと踏んで回収し始めたのである。

1056: 名無しさんAA:17/12/19 00:29
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 707----------

 ところが、アメリカ移民はユダヤ金満家やアメリカ政府が思う以上に大きかったので
ある。シティー・オブ・ペキンとシティー・オブ・トウキョウの4000トン級の新造船が
完成し、会社の経営も大陸横断鉄道との提携運輸とパナマ経由の安価貨物の輸送で好調
であったパシフィック・メールも、太平洋を渡ってきた荷物を自社益の多いパナマ経由
で運ぼうとして、鉄道会社の反発を買い、ユニオンパシフィック鉄道とセントラルパシ
フィック鉄道の陸海制覇の欲望のために作られた別の汽船会社の、「オクシデンタル・
アンド・オリエンタル汽船をによって、3隻の用船「オセアニック」、「ベルジック」
、「ゲーリック」などが就航し1875年より太平洋横断航路を開始した。このの運
行開始時点までは既にPMとの協調が確認され、あたかも1つの会社のような営業形態
があったが 次第に減退する乗客に1906年まで続けてO&Oは消滅する結果となった。
日本による遠洋航路は1893年11月7日神戸発ボンベイ行き廣島丸から始まり、1896年の
日本郵船欧州航路、シアトル航路に続いて1898年東洋汽船が「日本丸」、「香港丸」、
「亜米利加丸」をしてサンフランシスコ航路を開始していた。 米国商船TKK、PM、O&O
は3社共同9隻でサンフランシスコ航路を運営していた。PMは1902年に千トン級の「
コリア」と「サイベリア」を、更に 1904年にはPMは13000トン級の大型船「モンゴリ
ア」、「マンチュリア」をこの航路に投入して、船舶の大型化を計った。TKKもこれ
に続き、12000トン級の「天洋丸」、「地洋丸」、おくれて「春洋丸」を1908年から191
1年までに投入した。 1915年にはグレースライン汽船会社に全株式を売却した老舗のPM
から、「パーシャ」、「コリア」、「サイベリア」を購入して輸送力増強を計りながら
も、第一次大戦後の船腹過剰で「日本丸」を売却している。 東洋汽船も、O&O汽船とPM
汽船会社とともにサザンパシフィック鉄道との連携輸送契約を結び、またサザンパシフ
ィック鉄道は大陸横断連携運輸をユニオンパシフィック鉄道、シカゴ・ノースウェスタ
ン鉄道と結んでいた。その後は過当競争で太平洋航路は収斂され国際航路は世界一周の
船旅に変わり米国標準船の502型を16隻を投入して、ホノルル・横浜・神戸・上海
・香港・マニラ・シンガポール・ペナン・コロンボ・スエズ・ポートサイド・アレクサ
ンドリア・ナポリ・ジェノア・マルセイユ・ボストン・ニューヨーク・ハバナ・バルボ
ア・ロサンゼルスを回る世界一周航路と変化していた。こうした中で明治政府は「命令
航路」によって国内航路の運行を維持していた。


1057: 名無しさんAA:17/12/19 00:29
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 708----------

ある日東条英機に昭和天皇は問うた。「何故こんなことをしたのか。つまりこの戦争の
目的はなんだったのか。」と。戦線開始の責任者である東条英機に対して昭和天皇がこ
う下問した時。すると東条は俄には答えることができなかったという。そして「いま研
究中ですので、追って奏上申し上げます。」といったそうなのである。世界中で第二次
世界大戦で5千万人以上の死者が出たとしている。第一次世界大戦前では殆どが軍事施
設が乗っ取られ軍人達の戦争だったが ポログラムに怒ったユダヤ人(ユダヤ教徒)は
革命に転じていたのである。そしてロシアをターゲットに選んでいた。フランスの実業
家、フェルディナン・ド・レセップスが、パナマ運河を起工し、ロシア帝国・清間での
イリ条約締結した頃ロシア国内はどうしようない混乱にあった。ロマノフ朝第12代皇
帝アレクサンドル2世が暗殺され、翌日アレクサンドル3世が第13代皇帝に即位した
。1912年からの、バルカン諸国とオスマン帝国の間で第一次バルカン戦争が始まっ
ていたが、ルーマニアは中立を維持した。その戦後処理をめぐる対立で勃発した第二次
バルカン戦争では、ルーマニアはブルガリア王国に侵攻し、南ドブロジャを獲得した。
此処に停戦協定がなされてルーマニア王国成立し初代国王カロル1世の治世の破綻が始
まっていた。既にこの地区の自然破壊は、鳥の様に寄ってくる移民を受け入れる程の豊
かさを持ち得なかった。このバルカン戦争において、共産主義や無政府主義ははびこり
そこにきて ドイツは国家間競争で囲まれては人種の絶滅戦争に追い込まれた。それは
自らにウィルヘム2世が発した「フン族を絶滅せよ。」の合言葉を使った戦争からだっ
た。こうしたオスマン帝国の衰退と共に石油戦争が起こっていた事に日本人は知らない
事実があったのだ。日本に黒船来航した時既にアメリカ移民は多くの事を知り、国家の
形成に国際法を武力と妥協で作り上げ、クリミア戦争などの国家間の世界戦争を経験し
て凌駕していたのである。あの悲惨な世界を分けた第二次世界大戦の一方の戦争当事者
の最高責任者が、この始末である。狐につままれた様に、或いは狸に化けられたように
、日本は戦争にはまって行った。日本がこの戦争を合理的な作戦に基づいて、西洋的に
履行する可能性ははじめから低かったと言う事は誰もが証明できる。彼ら指導者は目的
も明らかではなく、また展望も持たない中で、やみくもに戦争に向かって突進し、挙句
の果ては強大な敵を前にしてあえなく敗退したというわけだ。だからといって、これを
笑い話として済ますわけにはいかないだろう。実際には、満州事変から支那事変を経て
全面的な戦争状態に陥った中国との関係の延長線上に、対米戦争をせざるを得ない羽目
に自ら陥っていった。というのが正直な話である。

1058: 名無しさんAA:17/12/19 00:56
謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 709----------

 では、果たして日露戦争以降この戦争が止められたのか、と言う答えは恐らく無理だ
った。と言うのが正解だろう。日韓併合以来こうなる事は確実であったと言える。何故
か。それはアメリカとの戦争が何を意味するか、と言う事に繋がる事だ。よくハリマン
の申し入れを受けて居ればない様な話がある。だがそれは全く違っている。そうなれば
今や日本人は日本語さえ話せない程の混乱した社会を呈していたであろう。民族壊滅の
撲滅主義者などと言う怖い思想が日本人には全くなくそうした事に対応できなかったか
らだ。それは少なくとも海軍の方は分かっていた。アメリカとの戦争は長期的に見れば
勝ち目はないし、かと言っておめおめ米国の言いなりには日本人が許さない。何故なら
近代的戦争は総力戦の形をとるのであり、国力において圧倒的な差があるアメリカに、
勝てる見込みがない。もしその可能性があるとすれば、短期間でアメリカを完膚なきま
でに叩き潰し、その戦意を喪失させ、他の国から調停されて中止を探る以外に方法はな
いからだ。米国の多民族国家の形態の醜悪さは死ぬほど見ていたに違いない。その意志
は攻撃的で国外に戦争を持ち込まなければ平和の保たれない社会であった事も知ってい
た。幸い海戦時点での戦力に限って言えば、日本はアメリカにまさるものを持っていた
し、短期的な戦争に終われば、つまりアメリカがあっけなく停戦なり休戦を申し入れば
、日本にも勝てる見込みがある。アジアの長として植民地解放に動くのは使命であり、
宿命でもあった。それは連合国のその長としての米国に対抗できる国は、既に当時何処
にもいなかったのである。だがそれは逆に悲劇的に調停者がいない事を意味していた。
つまり、国や民族が潰れるまで双方がもういいと言うまで戦い続ける事が宿命つけられ
た戦いだったのだ。考えて見れば戦後の戦争は常にそうした戦争である。シリア紛争を
見てもそうだ。NHKを始めとした日本のマスコミ全てが報道している「内戦の続くシ
リアでは・・」の枕詞のもと報道されている。しかし当初は「シリアの圧制者アサド政権
に対し民衆が立ち上がった」と、いい芙蓉花革命などともてはやされたが革命と言う物
がそもそもそうした国民からは可能なのだろうか。それは不可能だ。不満があっても一
国の政権を侵略なしに転覆させる行為は在り得ない。その国の政権以上の力なくしては
転覆するはずがないからだ。これは革命が下から起きるのではなく、上から落とされか
横から誘導させられるかで起こるものだからだ。ではそこに何があるか。それに支援が
ある。つまり自由化やら大国の利益やら国民の悲惨さへの救済など何らかの要因からの
軍事支援なのである。又大国の戦略と一致しなければ支援すらないのだ。この時日本は
革命の出来ない国内革命の最中だったのだ。

1059: 名無しさんAA:17/12/20 14:59
支援や援助の無い孤高の国際化の国内革命の最中だったのだ。


1060: 名無しさんAA:17/12/20 15:00
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 710----------

76年前、真珠湾攻撃が行われました。戦後書かれた日米の戦争に関する記述は、内外
を問わず、ほとんどが真珠湾事件から始まっています。ところが不思議なことに「なぜ
日本が真珠湾を攻撃しなければならなかったのか」についての因果関係が、全くと言っ
て良い程論議されていない。突然意味もなく、日本が国家意思をもって、ハワイにある
米軍の軍事施設である真珠湾を攻撃するなど、ありえないことです。さらに「米国は真
珠湾を攻撃されたから日本を懲らしめるために戦争をしたのであって、軍隊は暴力装置
であり、日本はその装置が暴走して無謀な侵略戦争を挑んだ。」とさえ書いているもの
もあります。しかし少し頭を働かせれば誰にでも解る程理屈に合わない。第一には日本
の軍隊とは大日本帝国の正規軍でそして日本はアジアで唯一国際連盟にいた近代国家で
す。その近代国家の正規軍は国家の意思がなければ動けませんし、動きません。どこぞ
の国の軍閥ならいざ知らず、一国の軍隊が何の理由もなく勝手に戦争を始めることなど
不可能な話だった。第二に、日本が米国に対する侵略意図があったのなら、真珠湾にお
いて、日本軍はほぼ無傷で米太平洋艦隊を壊滅させるという快挙を果たしたはずなです
。又ビッグチャンスに、そのまま米国本土まで攻撃に行かなかったのでしょうか。米国
本土とまではいかないまでも、どうしてハワイ全土やメキシコを占領しなかったのでし
ょうか。日本は、真珠湾攻撃で、米軍の艦船を攻撃しただけで、そのまま綺麗さっぱり
と引き揚げています。つまり、日本には「米国を侵略」する意図など、皆無であった。
ということである。第三に、戦争が何の脈絡もなく、突然はじまるものではない、とい
うことです。戦争には戦争目的があり、その目的を生むだけの経緯があるものである。

1061: 名無しさんAA:17/12/20 15:01
ということである。第三に、戦争が何の脈絡もなく、突然はじまるものではない、とい
うことです。戦争には戦争目的があり、その目的を生むだけの経緯があるものである。
米国の歴史家として有名なモーゲンソーは、「近代ではすべての戦争責任は敗戦国に押
しつけられる慣習になっている。」という。戦勝国で自国に都合の悪い歴史研究は喜ば
れないから。(モーゲンソー著『真珠湾』)しかしその事実さえ解っていた日本政府が
そのまま日米開戦に及んだのである。つまりは、意図的に隠されている事は当然だった
のです。そこで真珠湾攻撃をちょっと遡ってみると、知らない事実がぞろぞろと出て来
て驚くのである。開戦前11月には、ハルノートによる対日要求がありました。7月に
は、米国の日本資産凍結やABCD包囲網がありました。5月には、支那南部における
米陸軍航空隊の義勇軍を偽装した宣戦布告のない対日攻撃が行われています。それだけ
ではありません。昭和14(1939)年には、米国は通商航海条約を一方的破棄しています
。昭和12(1937)年には、支那事変が勃発しているのですが、このとき日本は、事態の
穏便な解決を図るために、日支講和のための仲介を米国に依頼していますが、米国は、
これを拒否して米国は日本と敵対する蒋介石に対し、15億ドルという途方もない大金
を与え、蒋介石にその後も継続して軍事援助を行う約束までしています。細かなことを
あげると、さらにもっともっと沢山の米国による工作活動がぞろぞろと出てきます。



1062: 名無しさんAA:17/12/20 15:03
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 711----------

米国政府は反日外交を繰り広げたのだ。戦前も今も日本の対米政策はまさに「友好」一
辺倒の世界観である。世界各国との対立を好まず、あくまでも相互の和を求めようとす
るのは、いま以上に経済的に国際化したばかりの日本外交の根本姿勢です。ワシントン
の桜は有名です。これは戦前に日本が日米友好のために贈ったものです。また米国産業
界にとっても日本は、貿易規模第三位の国でした。しかも他の諸国と異なり、支払いで
まったく問題を起こさない、まさに上得意先でした。日本の対米輸出は、現在と違って
生糸ぐらいしかなかった時代です。当然、米国の対日貿易収支は、大幅な黒字だった筈
です。にも関わらず、米国は牙をむき出し、次々と日本を追い詰ようとしたのである。
それだけなく戦争が始まると、無差別空襲し米国は日本に原爆まで落としました。同じ
第二次世界大戦でも、日本とともに連合国と戦ったドイツやイタリアには、原爆の投下
はされていません。イタリアに無差別空襲はありません。ドイツに原爆投下の計画さえ
ありません。けれど日本には、早くから原爆投下が計画されていました。ドイツ降伏前
に米国は、日本に非情な計画を既に立てていた。多くの高校や大学の歴史授業では日米
関係史において、パーセプション・ギャップ(誤解)が原因であったと教えています。


1063: 名無しさんAA:17/12/20 15:03
日米が互いに政策を誤解して戦争になったというわけです。しかしこれはおかしな話で
す。誤解があるなら、話し合えば良いだけのことで、すくなくとも日米開戦前までは、
ちゃんと外交ルートは確立していたのです。誤解などではなく、追いつめる意図がなけ
れば、そもそも戦争など起こるものではありません。ヘレン・ミアーズ女史は著書に、
「戦争前の外交記録を調べれば、米国が日本を一方的に圧迫したことは、誰の目にも明
らかである」と記しています。(アメリカの鏡日本)更に公けに発端の真珠湾事件に関
しては、日本にいたグルー大使が、日本が真珠湾を攻撃する準備をしているという警報
が、既に米国政府にもたらされています。それは、実際に攻撃が行われる前、十か月も
前のことで、日本の新聞でも御前会議の意向を色々推し測って書いてあります。さらに
米国は日本の暗号も解読していました。つまり米国にとって、真珠湾攻撃は「奇襲」で
もなんでもなく、既知の出来事だったということです。米国政府は、「日本が真珠湾を
攻めて来る」ことを知っていて、対する対抗準備をとっていたが真珠湾の駐屯艦隊には
知らせていなかったのです。簡単にいえば、真珠湾に駐留していた米国人の大事な兵士
たちを、米国政府が国家意思として見殺しにしたのです。砂漠の中の原子爆弾実験と同
じ様に。そうして米国は着々と、対日戦争を準備していました。そして奇襲攻撃と発表
し戦後で経過が明らかになっていても「奇襲攻撃でハワイがやられた。」と言う記述を
曲げません。



1064: 名無しさんAA:17/12/20 15:04
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 712----------

 「戦争が外交(国際戦略)の延長である」と言うのは、ドイツプロイセンの戦略家の
クラウゼビッツの言葉です。そしてそれが国際社会の常識なのです。ではなぜ米国では
反日運動を起こし日本叩きに終始し日系人収容所まで作りドイツのゲットーより酷かっ
たのか。その動機は何だったのでしょうか。その対日攻撃政策は、どこまでさかのぼる
のでしょうか。これについては諸説あります。黒船来航の時以上という説もあります。
私は白人の人種差別による黒人奴隷時代。即ちナポレオン時代までさかのぼると思って
いる。勿論「米国は満洲と中国大陸が欲しかった。」と言う理由も頷けます。「植民地
の放棄を要求したから」と言うのも頷けます。更に他の列強との競い合いがあったから
と言うのも頷けます。しかし「今日の現状」この一点で、米国の対日敵視政策の謎が解
けるからです。当時の米国は、白人の「植民地主義国」の一つです。アフリカにせよア
ジアにせよ、そこにあるのは蛮族のテリトリーであり、近代国家とは認識されてはいま
せん。その蛮族は、人でさえありません。猿の一部であり、ヒトモドキです。たとえば
「黒人は刺しても殴っても痛みを感じる神経を持たない」などと、真剣に信じられてい
た時代です。そして近代国家は、そうした蛮族を支配し、使役することが、世界の常識
となっていました。欧米諸国における当時の「民主主義」は、もちろん「人間は平等で
ある」というものです。けれどこれには但し書きがつきます。すなわち「有色人種は除
く」というものです。米国は、他の欧州諸国同様、アジアに植民地を欲していたのです

1065: 名無しさんAA:17/12/20 15:05
。米国の極東進出戦略は、明治32(1899)年のジョンヘイ国務長官の「支那門戸開放機
会均等」宣言に始まっています。米国は西部開拓が終わると太平洋に進出し、ハワイを
占領し、スペインから独立したばかりのフィリピンを武力占領して植民地にしました。
そして次の標的が清朝滅亡で統一政権が失われて軍閥が割拠していた支那満洲だったと
されています。日露戦争当時は、米国は日本に好意的でした。けれど、国際関係におい
て、そこには目的と利害があります。つまり国益がそこあるのです。しかしながら日本
人や日本国は、「人間として当然の好意で先進諸国の常識」と勘違いしていたのです。
日露戦争は、ロシアが満州全土を占領しようとしていた中にあったのです。そうなれば
、満州を米国が支配できる日は、まず永遠にやってきません。米国はロシアの南下を防
ぐために日本に手を貸したのであって、好意や共産対策だとか、そうした情緒的なもの
は、そこに一切関係がありません。日露戦争後、ポーツマス講和条約が交されました。
南満州鉄道の権益は日本に割り当てられました。米国はこれを取り上げるつもりであっ
て小村全権の帰国に際し、米国の鉄道王ハリマンが日本に対して、南満州鉄道の買収を
申し出ていて、それは揺るぎない歴史的事実で常識でとなっている。つまり米国は取り
たい物は取る。嘘ついても戦争してでも人を殺してでも国民に嘘をついてでも。と言う
国だったのである。



1066: 名無しさんAA:17/12/20 15:05
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 713----------

日本政府は、小村の意見具申によって、米国の申し出を断りました。するとこれを境に
、米国の対日姿勢がガラリと反日に転換しています。ハリマンの提案自体は、単なる一
企業のビジネス上の利益を求めた提案です。米国はそうした一部のエスタブリッシュメ
ントが政治を牛耳る国に変わっていたのです。満州は、米国本土から八千キロも離れて
います。そこに米国が直接介入することは、米国民をなだめてこれを正当化するのは、
難しいことです。そこで米国は、支那の軍閥をひそかに援助すると言う、対日条約違反
行為をやっています。日本は、何度も協定違反を米国に抗議しましたが、まったく放置
されています。米国の元外交官マクマレーは、大戦後の極東情勢を正確に予測しては、
日米戦争の回避に努めたことで有名な人です。彼は、「1920年代のワシントン体制
を一番守ったのは日本であった。」「これを破壊したのは米国であった。」と明確に述
べています。日本は、張学良の排日行為の激化により、昭和6(1931)年の満州事変で、
治安維持上やむをえない措置として張学良を満州国外へ追い出しました。すると、米国
は早速、スティムソン国務長官が満州国否認宣言を発表しています。昭和7(1932)年。
満洲にこだわっていた米国の意思がわかります。そして同年、米国は国際連盟を通じて
日本に、満洲の白人植民地宗主国による共同支配を要求しました。松岡全権は、これを
断固拒否して、国際連盟を脱退しました。松岡全権の国連脱退劇は、日本の軍国主義の
象徴などではなく、軍事力を背景とした横暴に対する、日本の国家意思としての抗議だ
ったのです。この後米国は、昭和7(1937)年、ソ連が蒋介石を使って支那事変を起こす

1067: 名無しさんAA:17/12/20 15:05
と、日本の講和仲介を断るだけでなく、反対に蒋介石に、当時のお金で15億ドル現在
価値で30兆円くらいという、途方もない金額の軍事援助を与えました。まさに火に油
を注いだのです。満洲獲得のために、先行して日本を戦争に駆り立て、日本を疲弊させ
ようとしたのです。また支那事変後にひとつ顕著になったことがあります。日本が占領
した地域では、中国人同士の暴力行為が禁止され、きわめて高いレベルでの治安が維持
されていたということです。このことの何が問題かというと、それまで中国社会の混乱
に乗じて、また外国の白人勢力と組んで暴力や麻薬の売買で大儲けをしていた中国のあ
る少数民族の利権が失われたということです。このことは、中国国民にとっては、とて
も良かったのだが、しかし、特殊な利権を失ったその一族にとっては、重大な利益喪失
事項だったのだ。その一族は、中国国民党にも、毛沢東の八路軍にも一族を送り込んで
いました。そして双方が戦ってくれれば、武器や弾薬を白人から調達し、そこでも大儲
けしていました。ところが日本がやってきて、彼の地に平和と安定をもたらしてしまっ
たわけです。つまり彼らにとっては、日本はまさに「憎むべき侵略国」でした。



1068: 名無しさんAA:17/12/20 15:07
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 714----------

そこでその一族が行ったことが、米国での反日活動です。彼らはその年のうちに米国に
上陸すると、昭和8年(1938)7月には、米国内で「日本の侵略に加担しない米国
委員会」という組織を立ち上げています。発起人には、YMCA北米同盟のマーガレッ
ト・フォルシスや、作家のヘレン・ケラー、パール・バック、『ネイション』副編集長
のマクスウェル・スチュワート、『アメレジア』編集長のフィリップ・ジャッフェ、や
元国務長官のヘンリー・スティムソンなど層々たる人物が名を連ね、理事長には元在の
漢口アメリカ総領事のロジャー・グリーン、事務総長には、元北京大学教授のハリー・
プライスなど、著名人がズラリと顔を揃えました。面白いことに、女性の方は別として
、男性の発起人や理事、あるいは彼らの用意したパンフレットに名を連ねた、60歳以
上の米国著名人男性たちは、いずれも20歳前後の中国の若い女性があてがわれていま
す。そしてこの「日本の侵略に加担しないアメリカ委員会」の主張は、その1年後には
米国内の主流派の意見となり、ルーズベルトは、こうした反日世論を巧みに利用して、
平和主義者を装いながら、実質的な対日宣戦布告ともいえる 日米通商条約破棄という
暴挙を実行しています。ChineseマフィアとChineseコネクションが手を結んだのです。


1069: 名無しさんAA:17/12/20 15:07
日本人は、テレビの影響もあってか、スパイというと裏方で工作活動をする忍者の様な
工作部隊の存在をすぐに想像してしまいます。しかし世界における一流のスパイと言う
ものは、実はきわめて有名な著名人で、大富豪であるのが世界の常識です。これは当然
のことで、影響力がなければ工作にならないし、工作する膨大な資金を賄い膨大な利権
を転がらせて分配しなければならないからです。ちなみに戦後においても米国政府要人
には、Chinese の若い女性があてがわれ続けています。誰とはいいません。調べれば、
いくらでも出てくることです。要するに国や政府に関係なく、Chinese なら一族の繁栄
、米国なら米国企業のスポンサー(株主)となって、米国経済を牛耳る人たちにとって
、日本よりも中国や満洲の市場の方が、おいしくて立派に見えたわけです。実際に付き
合ってみれば、お金は払わないし、約束は守らないし、とんでもない連中とわかるでし
ょうが。しかし、だからこそ武器を突きつけて言うことをきかせるのだし、そのための
武器がまた売れるわけです。日本人ではそうはいきません。日本人は約束を守るから、
武器を突きつけるわけにいかないし、そもそも武器を買ってくれません。逆にいえば、
いま日米関係が比較的良好なのは、日本が米国製の武器を買う顧客だからです。損か得
か、儲かるか儲からないか、彼らにはそういう視点しかないのです。又儲かる事が正義
であって、人気でありその為に人がどれだけ死のうが、彼らには関係の無い事として、
いつの間にか政府を乗っ取り変えてしまっている国だったのです。「清教徒の夢の国」
では無かったのです。


1070: 名無しさんAA:17/12/20 15:08
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 715----------

 ところが世界はもっと複雑だった。チャーチルの予測通りにソ連は原爆を気にしてい
なかった。昭和20(1945)年に日本が降伏すると、米国のお金持ちたちは、これで中国
大陸が手に入ると期待しました。米ルーズベルト大統領は、ヤルタ協定でスターリンに
帝政ロシアが持っていた支那利権を認め、スターリンが満洲を占領することも認めて、
しかる後に、その後蒋介石を傀儡政権に仕立てて、支那満洲を支配しようとしました。
国連加入にも中華民国を日本の代わりに入れました。そのスターリンは、権益を手に入
れると、あれほど堅く約束したヤルタ協定をあっさり破って、満洲を蒋介石ではなく、
毛沢東に渡してしまったのです。米国大統領特別補佐官アルジャー・ヒスは、ソ連の筆
頭の工作員です。米国政府内の厭戦気分を知っている。米国が、直接満州や支那に反撃
にでることはない、と踏んだのです。この結果昭和24(1949)年、支那満洲全土では、
勢いよく共産化し、米国は19世紀から営々と築いてきた支那の全拠点から追い出され
てしまいました。その上朝鮮半島にまで手を付けました。これについてはマッカーサー
も、「支那の喪失と共産化は、米国太平洋政策百年の最大の失敗である。」と総括非難
しています。要するに、日本の占領は、それ自体が米国の目的ではなかったことがここ
にわかります。米国の占領政策は、これを機会に、日本の武装解除から時を待たず自衛
促進にガラリと方向性が変わりました。もちろん朝鮮戦争への日本の参戦期待もありま
すが、一石が二鳥にも三鳥にもなるようなものが政策となるのです。そして米国にとっ
て、支那満洲進出が不可能になった以上、日本の占領は米国に何の利益もなく、却って
日本の国防代行が負担になってしまう事態となりました。そこで日本を早期に再軍備さ
せようとしました。ところが吉田首相は朝鮮戦争で、新たに編成された新日本軍が国連
軍の名で朝鮮半島に送られることを警戒し、詭弁を弄してダレスの再軍備要請を断りま
した。そして必要な人員は沖縄に移住させて米国民として派兵する事で折り合いをつけ
ました。こうして米国の外人部隊募集が戦後の新聞に載りました。その結果日米は安保
条約を結び、今日に至っています。ところがソ連は他にも次々に手を打ってました。一
つは国際金融機構についての協定である。「アメリカ合衆国ドルを基軸とした固定為替
相場制」であり、1オンス35USドルと金兌換によってアメリカのドルと、各国の通貨の
交換比率(為替相場)を一定に保つことによって自由貿易を発展させ、世界経済を安定
させる仕組みであった。アメリカはこれによりドルの基軸通貨の地位を得るがソ連でも
アメリカの「ゴールドラッシュ」の恩恵が無かった外貨に一定の通貨価値を持ったのだ


1071: 名無しさんAA:17/12/20 15:13
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 716----------

国際通貨基金(IMF)、国際復興開発銀行(IBRD)の設立を決定したこれらの組
織を中心とする体制であった。この協定は1929年の世界大恐慌により1930年代に各国が
ブロック経済圏をつくって二度目の世界大戦をまねいた反省によっているだけでなく、
第二次世界大戦で疲弊・混乱した世界経済を安定化させる目的があった。と聞こえはい
いが要はユダヤ資本のソ連への貸付の金の価値の清算だった。又革命で金額の乱高下し
貸した金がドイツの様な無価値の返済になる事を恐れたのだ。かつてはドイツの返済し
た国債が直ぐに無価値に近い紙屑になりウォール街に悲劇が起こったのである。この時
の返済はソ連も日本も平成まで続いていた。この体制はブレトンウッズ制による金本位
制とされたが、日本が真面目に復興し71年のニクソンショックが起こる事は既に英国
王立研究所などでは予想されていたのだ。早くからキッシンジャーは中東と手を結び、
ソ連を黙らせる事に苦心していた。1973年には本格的に変動相場制に移行し、ブレトン
・ウッズ体制は完全に終結した。もう一つはコミンテルンの世界会議と共に国際旅団と
言うゲリラ支援組織による後進国支援である。チェ・ゲバラは、「もし我々が空想家の
ようだと言われるならば、救い難い理想主義者と言われるならば、出来もしないことを
考えていると言われるならば、何千回でも答えよう、「その通りだ!」と。」答えてい
る。つまりあのチェ・ゲバラさえ共産党革命を望んではいなかった。ただ米英の抑圧か
らの解放にソ連の武器の支援を求めていただけだったのである。ソ連は抜け目なく米国
が自由主義や議会制民主主義を掲げるならいいだろう。我々も又自由主義とやらのその
自治に介入するまでだ。と言っていたのだ。ソ連がユダヤ資本で真の革命が更に覆えさ
えた経験を充分知っていて大量のスパイを全世界に送っていたのである。この事で固い
マッカーサーは、本国議会からは召還命令が出て昭和26(1951)年に更迭されました。
これも、彼の失政によるというより、国際情勢の中の赤軍の役割による変化だったので
す。マッカーサーが議会で大東亜戦争を日本が自衛のために行ったと述べたのは、個人
的な歴史観ではなく、米政府から指示されて日本の再軍備を促進するために行った発言
でもあった。彼の占領統治によって、軍事力恐怖症に陥った日本人を、あらためて覚醒
させるためのものでもあったが、この一強軍事力の恐怖は日本だけではなかった。原爆
を作った科学者達さえも、そうした米国ユダヤの傲慢に危険性を悟り早い段階で自ら進
んで情報をソ連に送っていた。こうなっては米国の極東政策の変更は仕方ない所となっ
た。日米戦争の原因や経過はユダヤ金融資本からは無に帰した。がそれでもユダヤにと
っては、全く損はなかった。それは米国紙幣と言う基軸通貨を手に入れていたからだ

1072: 名無しさんAA:17/12/20 15:15
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 717----------

 米国は表面的には大きく変わりましたが、自国の利益を追求すると言う意味では一貫
しています。以上の日米戦争の原因と今日にいたる経緯ではハザール帝国の国家思想が
何百年も続いていて、今やアメリカと言う地を得て寄生虫の様に牛耳っている事が解る
。戦前、米ソの傀儡であった蒋介石は、戦後米国から役割終了で一度は見捨てられた。
その後冷戦で関係が改善して蒋介石は言った。「米国という国は、それまでの関係にこ
だわらず、一夜にして百八十度の政策転換をする国であるから常に注意する必要がある
。」と。李登輝総統は1984年蒋経国により副総統候補に指名され、第1回国民大会の、
第7回会議選挙の結果、第7期中華民国副総統に就任した。蒋経国が、登輝を副総統に
抜擢したことについて登輝自身は「私は 蒋経国の副総統であるが、彼が計画的に私を
後継者として選んだのかどうかは、本当に知らない。しかし、私は結局彼の後を引き継
いだのであり、これこそは歴史の偶然なのである。」と言っている。だが彼の人生を見
ると彼は非常に真面目な中華民国の国民党を担うべき人材であった事が解る。と言うの
も彼は在住の客家の家柄で産まれ日本の建てた台湾大学を出て居る。その後日本の皇軍
に入り終戦で米国に行きロックフェラー財団及びコーネル大学の奨学金を得てコーネル
大学に留学している。同大学では農業経済学を専攻し、農業経済学で博士論文までだし
ている。要請で台湾に帰国するが帰国後間もなく、所属していた新民主同志會がその後
に共産党に吸収され共産党軍に入る。だが、「共産主義理論をよく理解しており、共産
主義は失敗する運命にあることを知っているので、共産主義には長い間反対していたの
で離れた。」とインタビューで言っている。全米農業経済学科賞を受賞し、1971年にコ

1073: 名無しさんAA:17/12/20 15:15
離れた。」とインタビューで言っている。全米農業経済学科賞を受賞し、1971年にコ
ーネル大学出版社から出版され博士号を受けていながら尚、1968年に台湾に帰国したの
は、日本の大学を卒業した翌1947年、二・二八事件が発生した時、登輝は台湾人および
日本人としての経歴から、この事件で粛清の対象になる可能性が高かったため、呉克泰
などの知人の蔵に匿われて出国していたからだった。呉克泰の証言では、登輝は台湾に
帰国後間もなく、彼の要請を受け、台湾大学教授兼農復会技正(技師)に就任していて
この海の物山の物とも解らない登輝を副総統にするのは誰もが反対だったが、蒋経国の
強い支持だった。この頃は日本人も国際関係の冷厳さを知り大いに国際的世論に訴えよ
うとする人達がいた。だが、福田や田中や中曽根と言った親中派と言われる人は何故か
この共産党中国と昔の中国とを勘違いして望郷の念や残留孤児の哀れさで見て居て国交
樹立に動き、台湾を捨てた。日本が一日も早く、真の独立自尊を回復しなければならな
いのは、あのユダヤ人と言われようとも救出する様な自由を持たなければならない。現
在の米国も、それを求めています。世界が、その日を待っているのです。

1074: 名無しさんAA:17/12/20 15:16
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 718----------

 ユダヤ人救出においては当時、日本はドイツと防共協定を締結していた為から、当然
ドイツから、また日本の外務省から猛烈な抗議が来た。対して東條は「当然なる人道上
の配慮によって行われたものである。日本はドイツの属国ではない!」と一蹴したが。
それから2年後の1940年7月から9月にかけてリトアニアの駐在領事代理の杉原千畝の
「生命のビザ」が6,000枚発行している。本の中では、著者は、「東條や、樋口、
安江、杉原によって救われて満州国に入国したユダヤ難民のうち4608人、が日本に入っ
てきた。上陸した港、敦賀の銭湯・朝日屋は無料で彼等を招待して入浴させた。苦難の
旅をしてきたユダヤ難民たちが、かれらにとって全く異郷の地であった。日本の人々の
親切心によって、どれほど慰められたことだったろうか、このような善意こそ国際瀬が
高いというべきだ」「杉原は日本においても、ユダヤ人を救った人道主義者として賛美
されている。それならば、どうして 東條や、樋口や、安江を同じように称えることが
出来ないのだろうか。私は東條や、樋口や、安江も同じように扱われるべきだと思う。
」「もし東條の名がゴールデンブックに刻まれていたら、国際的イメージが大きく変わ
っていたに違いない、そして世界中のユダヤ人から助命嘆願書が、マッカーサー元帥の
もとに寄せられたことだろう。そして連合国をひどく困惑させたに違いない」と結んで
いる。此処に贋ユダヤの存在がある。1920年代のソ連では、各地には自治共和国や
自治州など民族の自治行政単位が次々とそのまま創設された。ソ連国内には昔からあま
たの民族が共存していたが、ところがユダヤ人と他民族との違いは、本来は人種でもな
い宗教団体がユダヤ人と唱えた為にユダヤ人だけが土地を持っていない、ということで
あった。ソ連政府は、急速にユダヤ人に土地を与えるプランを練り、1928年3月に
「ビロビジャン計画」を決定したのだ。この為各地からシベリア開発民としてユダヤ人
が集められた。ソ連政府は政治的同情と経済援助を受けられることを期待し、「ユダヤ
人の歴史上初めて自分の故郷の建設、自らの民族国家の成就への燃えるような要望が満
たされた。」と大々的に誇大広告した。こうして「ビロビジャン計画」が宣伝されると
、入植者が殺到した。「ビロビジャン計画」に熱狂した者が、ポーランドやアルゼンチ
ン、アメリカからさえもやってきた。だが、それも始めだけだった。なにしろ寒い気候
、沢山の雨、沢山の虫、それに補償や補填はなく自前で家は木を切り倒して建てなけれ
ばならない時代だった、そこから撤退する者も沢山いた。

1075: 名無しさんAA:17/12/20 15:25
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 719----------

 この東に作られた「ユダヤ人自治州」=ビロビジャン共和国で、1939年の国勢調
査によれば、ユダヤ人自治州の人口10万9000人のうち、基幹民族たるユダヤ人は
1万7695人(16%)にすぎず、しかも大多数が都市部に集中していた。1928
年から1937年までの10年間で、およそ四十万三千人のユダヤ人がビロビジャンに
移民している。が、その過半数は短期間で立ち去ったことがわかる。だがそうして減少
するシベリア開拓民を補充する様に1937〜38年の大粛清やスターリン晩年期など
までに、「民族的偏向」の咎めを受け、弾圧された者を送り込んだ。ビロビジャンでは
ユダヤ文化が繁栄したが、自由に発展を許されたわけではなく、言わば公的農奴以下の
苦民の刈り出した、収容都市だった。当然年間10万人補充し10万人が逃げたり死ん
だりを繰り返して都市を形成して行った。1928年から日本が敗けた1945年まで
何らかの形でソ連の強制入植地から脱出した人達が、満州国と国境を接した ソ連の「
オトプール」で、吹雪のため立ち往生していた事件は早くからあったと言える。彼らが
、強制入植地のピロビジャンから満州里を経て上海へ脱出しようとしていたルートは、
実は少し遠回りだが近くの街ハバロスクに行って川沿いにハルピンに行かなかった為に
起こっているいた事だった。ハルピンに着けば鉄道があるので犬ぞりでハバロスクの川
に沿ってハルピンまで二日のルートだったのだ。その為の人の運搬屋がいたと言われて
る。実は私の叔父もそのルートで帰還している。イスラエル共和国では1967年6月
の第三次中東戦争以来、ヨルダン川西岸ガザ地区を占領し続けてその結果に、多くのパ
レスチナ人たちを国内に抱えるようになった。この為イスラエルの指導者達が、数十年
後にパレスチナ人達のほうがユダヤ人よりも多くなるのではないかと心配し懸念した。
その時声を掛けたのがソ連だった。シャロン国防相は、ソ連の軍高官と秘密理に接触し
ソ連のユダヤを受け入れた。1981年に開かれたイスラエルソ連の秘密会議では、ア
ラブ人口とユダヤ人口の逆転を防ぐため、ソ連政府による計画移住の出国ユダヤ人達は
、ソ連政府の発表で120万人にのぼるロシア系ユダヤ人を送り出している。1989
年から2010年の 11年間にイスラエルの西岸地区へ移民させることに同意したの
だ。この話からしてビロビジャンに送られたのはそれ以上の人数と思われる。即ち年間
5万人が日本や満州入りして来たと思われるのだ。この本にある「然しながら、満州国
が入国を拒否したため、進むに進めず引くに引けぬと、二進も三進もいかぬ状況に陥っ
たのである。」と言うのはちょっと考えにくく、そうした状況はドイツが敗戦しソ連兵
が駐留してからの事だったと思われる。

1076: 名無しさんAA:17/12/20 15:26
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 720----------

即ち満州人なりモンゴル人なら金さえあれば簡単にソ連から出てこれたと思えるからだ
。つまり金が無くハルピンで列車に乗れなかった人がいた。と言う事だろう。日本はソ
連とは終戦間際まで友好中立条約があった。つまりドイツに真似た収容所で管理しない
限り中国国内に逃げて来れたのである。現在もこの「ユダヤ人自治州」=ビロビジャン
共和国は、ロシア連邦極東地方に残る唯一の自治州として存在する。面積は3万600
0平方キロで、1995年現在の州人口は21万2000人。そのうちユダヤ人は70
00人以下しかいないという。我々日本人がシベリア鉄道と言えば一本の首都モスクワ
から、ロシア連邦東部のウラジオストクまでを繋ぐ鉄道である。と連想する。だが正確
には、この連想する本線と他にもう一本シベリアの中に並行して街を行くシベリア鉄道
の方がより使われている。正確にはバイカル・アムール鉄道通称バム鉄道である。シベ
リア第二鉄道とされ1880年代にシベリア鉄道が計画された時、バイカル湖の北側を通る
現在のバム鉄道に近いルートが挙がり地元は要望していた。しかし、この時期には国家
建設が急がれて最終的には、候補から外れてウラジオストックに早急に繋げる工事が、
優先とされた。元々バム鉄道の計画は、満州事変が起こった翌年の1932年にはソビエト
連邦により極東の防衛に備える目的で既に立てられていた。そして、東西両端から建設
が始められていた。しかし、かなりの難関工事であり、人員が第二次世界大戦の独ソ戦
が勃発するとそちらの方へと人員を注ぐため一時建設が凍結され、戦局がソビエト連邦
優位に転じたところで日本との戦争に備えるべく建設を再開して出来たものだ。この対
日参戦の直前に1945年7月末に、東部のコムソモリスク・ナ・アムーレからワニノ港ま
での一部区間をやっと運行を開始したが、その為に投入された労働者がユダヤ人だった
。樺太を対岸に要するワニノ港は間宮海峡に船をつける為の必要からアムール河畔都市
とやっと結んだ形だった。西部区間でも1947年にはタイシェト〜ブラーツク間はモンゴ
ルの北側の高地でー40℃の極寒で日本にやって来る寒波を作る所で此処に戦後日本人
抑留者が20万人が強制労働させられ鉄道輸送を開始している。その輸送は約3ヶ月と
言われている4ヶ月としても一ヵ月5万人である。先の太平洋航路が月2回4船会社の
8回の航路で一回1500〜2000人だった。仮に千人としても8千人が1ヶ月の移
動の民となる。一年で一万二千人である。1900年から20年間となれば16万人だ
それに1870年代から外国企業による運航まで入れ更に香港などの直行便ともなれば
かなりの数がアメリカの住民となったのだろう。

1077: 名無しさんAA:17/12/20 15:28
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 721----------

 このバム鉄道の建設にはシベリア抑留で捕らえられた日本人も多く使われ、犠牲者も
多く50万人が投降し従事させられ、何百人しか生きて日本の地に帰れなかったという
。しかし、ヨシフ・スターリンが1953年に没すると建設工事は中止され、その後はソビ
エト連邦の投資方針が変わったこともあって残りの部分は長らく建設されないままであ
ったが建設が再開されるのは、中ソ対立によりダマンスキー島事件(珍宝島事件)など
が起こり再び極東の軍事強化が必要とみなされるようになってからだ、1960年代後半で
あった。特に中国国境に近いシベリア鉄道の代替路線として戦略的に重視されている。
このバイカル・アムール鉄道は、今や繋がりロシア連邦東部のシベリア地方にある鉄道
路線。略称バム鉄道シベリア鉄道との分岐点イルクーツク州タイシェトからバイカル湖
の北を通り、日本海沿岸のソビエツカヤ・ガバニへ至る約4,32kmを結ぶ。先に開業して
いたシベリア鉄道よりも600kmから700km北を並行するルートを進むため、第2シベリア
鉄道としてかなりの極寒の地を走る。このルートは騎馬民族から逃げたロシア人居住地
の村を巡っているのだ。逆に最初のシベリヤ鉄道は騎馬民族と定住者のその境界沿いに
ある。騎馬民族とされテュルク系モンゴル民族と言われ 中国に万里の長城を作らせ、
ボルガのほとりを火の海にして、ウラル土民に蛮族と言わせ、エルサレムでガラテヤ人
と言われたは一体誰なのか何のか。テュルクが→トルコになったのまでは解る。だが、
日本で突厥(とっくつ)、鉄勒、ウイグル(回吃音)、カルルク(葛邏禄)、バスミル
(拔悉蜜)、沙陀族などを一括りにした呼称」としている元騎馬民族でフン族と言われ
雇用兵の国家ハザール王国とは一体何のだ、このユダヤ教に改宗した人達は白人ではあ
るが欧州ギリシャ人でもない。タタール人とされゲルマン人とされ右に左に国家破綻を
招いては次に移る。まるで砂漠のイナゴの様に。確かにDNAではGやJ1はトルコを
中心にある。ではトルコ人の祖先は一体何処にあるのだろうか。この騎馬民族の王国に
アッティラと言う幻の王朝がある。この王朝(Attila、406年 - 453年)は フン族と、
その諸侯の王で構成される。中世ドイツの「ニーベルンゲンの歌」などの叙事詩では、
エツェルの名で登場している。現在のロシア・東欧・ドイツを結ぶ大帝国を築き上げ、
西方世界の「大王」を自称した。またローマ帝政末期に広がっていたキリスト教の信者
からは「神の災い」や「神の鞭」と恐れられた。出自についてはフン族全体と同じく詳
しくは分からないが、名前や風貌の伝承などからテュルク・モンゴル系民族に属すると
思われている。

1078: 名無しさんAA:17/12/20 15:35
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 722----------

 つまり日本人は「ユダヤ人自治州」=ビロビジャン共和国の中をユダヤ人と称しては
、次々と国境を超えて押し寄せて来て、中国大陸に居つき或いは米国に行った人は誰な
のか。日本人は全く知らないままに、中国駐留やアメリカ移民として扱っていたのだ。
アッティラは兄弟さえも手にかけて権力を手にした極悪非道な男… のようにイメージ
される。それは、フン族自身が記録を残さず、文字による証言が侵略側に因るからとも
言える。敗戦に敗戦をかさね、和睦のための高い金を支払わされていたローマ側からは
、フン族を良く書く理由は全くない。フン族は確かに、ローマを引っ掻き回し、多くの
小国を叩き潰した。その記録は正確だ。フン族の支配下に置かれ、ローマから分捕った
金で豊かに暮らせた少数民族もいたがそれは一部に過ぎない。時代的に彼らはもしかし
たら、アッティラを恩人か主君として崇めていたかもしれない。「ニーベルンゲンの歌
」や、「エッダ」の中のエピソードは、物語は最初、民間口伝として発達していった。
それを物語にしている。残されている物語では、全ての人民がアッティラを悪く思って
はいない。ちなみに「アッティラ」とは、「おとっつぁん」のような意味の親しい言葉
で、本名ではないらしい。本名は分からない「おとっつぁん」と呼ばれていた大王なら
、意外に慕われていたかもしれない。歴史ではフン族は突如として西洋世界に現れた「
野蛮人」である。ゴート族も易々と破る騎馬民族だ。文明を知らぬフン族は、人馬一体
となり、獣の群れのように押し寄せた。それはあくまでローマ側の言い分ではあるが。
そもそもフン族に歴史を記録した文字も伝承も見つから、最初に記録に現れるのは37
5年の頃だ。突然、東のほうから押し寄せて、あっという間に東ゴートの王国を破り、
その勢いで突然東ローマにも押し寄せた。最初の激突で死亡した東ゴートの老王の「エ
ルマナリク」の悲話から始まる。以降、東ゴート族は征服され他の部族同様に、フン族
の下について戦いの先頭に参加する事となる。物語の中で、東ゴートの王・ディートリ
ッヒが客としてアッティラの元に居たのは、東ゴート族がフン族の元に身を寄せていた
という時期があったからだろう。ただディートリッヒ自身は、アッティラが死んだ後に
生まれている。アッティラが登場するのは434年。以降、453年までの19年間、王位にあ
った。フン族の王国は、アッティラ大王のもとで最大に達する。一度など、はるばると
フランスのオルレアンまで遠征している。迎え撃ったのは西ローマ軍と、スペインあた
りに住んでいた西ゴート族だった。ブルグント族などと連合軍を組んで戦った。

1079: 名無しさんAA:17/12/20 15:35
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 723----------

 この戦いによって、西ゴートの王テオドリックは死亡している。また、ハンガリー、
イタリアにも進軍したが、教皇レオ一世が介入して、とりあえずローマからは退かせて
いる。なお、このときヴェネト地方の人々が建造を開始したのが今のヴェネツィアの町
だったという。この運河の街を作る技術の高さは何処にあったのか不思議な事だ。そう
した遠征を繰り返したのち、東ローマに攻め入ろうとした矢先にアッティラは急死する
。偉大なカリスマを失ったフン族の帝国は、これにより崩壊。やがて四散霧散して消え
ていった。これも不思議なものだが突然にこの帝国は無くなったのだ。アッティラの死
は突然だったが、その状況もまた特別だった。王は、妻に迎えた西ゴート族の王女の、
ヒルディコとの初夜の床で死んだのだ。彼女による暗殺なのか、それとも単なる病死な
のかは知る術はない。ただ歴史上は、「血まみれになった王の側で、若い娘が1人泣い
ていた」とのみ伝えた文書が残っている。おそらく無理な生活がたたっての死だろうが
、伝え聞いた人々はそうは思わなかったらしい。「神の鞭とまで呼ばれた絶対的な王者
、誰ひとり止めることの出来なかった男が、か弱く若い小娘によって殺されたかも知れ
ない」として謳われる。このドラマチックな出来事を原型として、人々は無限の想像力
を羽ばたかせ、物語として語り継いでいく。驚異的な王アッティラの死には、エルマナ
リク王と同じく、美女による報復死の噂が死の直後から絶えなかったようだ。しかし、
60過ぎのジジィが若い花嫁もらって、初夜の床で鼻血出して死ぬとか言うのは、全く
何処まで欲情のある爺いの話なのだろうか。アッティラが実に欲深い人間的人物だった
。と言う事なのか。そこは人の胸に刺す人生の終焉である。又フン族�ア奴、という説
は定説ではなく、実際には証拠や確証がほとんどない、曖昧な話ではある。匈奴は、主
に中国の漢の時代に名をはせ、一時は首都にも迫るほどの勢いを持っていた遊牧民だ。
ちょうどフン族が東西ローマ帝国を追い詰め、ローマの町まで迫っていたのと同じよう
に。勢いを持っていた時期に周囲の少数民族を従え、一大帝国を築いたものの、短期間
で崩壊し四散していく仮定もそっくりである。しかし、それは同じ騎馬民族だからとい
う類似点に過ぎないのかもしれない。フン族が、東のどこかからヨーロッパにやって来
たかは不明だが、アジア系の民族だというのは間違いない。しかし、それ以上のことは
分かっていない。フン族自身、自分たちの歴史を知らず、定住地を持たず、特徴的な風
習や文明も持ってない。こうした人々の痕跡は、遺跡としても残らない。足取りは辿れ
ない。スキタイなどは、特徴的なアクセサリーや墓があるのだが フン族は全く不明だ

1080: 名無しさんAA:17/12/20 15:36
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 724----------

不思議なのは、フン族が、東のどこかからヨーロッパにやって来たアジア系の民族で、
同じ時期に、匈奴の一部が漢との接触を断って西へ消えてから、フン族が突然現れるま
で、約200年間の空白がある事だ。漢と駆け引きをし、堂々たる国を築いた匈奴は高
い文化水準を誇ったはずだが、嵐の如く東ゴートの国に押し寄せたフン族と同じにそれ
が無かった。もし匈奴=フン であるならば、空白の期間に、彼らは一度手にした文明
を「失わなくては」ならないのである。更に何故か水の都ベネチィアを作り上げる能力
を持っていた。あの水辺でどうしようもない海辺の沼地に石を積み上げた建物を作った
のだ。匈奴の一部が「西へ」消えたこと、消えた時代は確かにフン族の到来より前の事
だが、同じ騎馬民族ということもあり、フン族とイコールで結びたい気持ちは分からな
くも無いが、それはあくまで状況証拠。具体的に匈奴とフン族の間に共通する文化が何
も見つからないのでは、今の段階では別物と言うしかない。東ゴートのディートリッヒ
の原型の、テオドリクの祖先はたまたまフン族の進軍する場所にいたために、最初に、
フン族の急襲を食らってフルボッコにされたのだが、彼らと対峙していたローマにとっ
ては「今度はアイツらをどうやって懐柔しようかな攻めてこられるとイヤだなあ。」と
思っていた矢先、いきなりその強敵が、何処からともなくやってきた新参者に敗北した
のだからビックリだったろう。375年、東ゴートの国はフン族の急襲によって陥落。
しかし、この事件は、特別な意味を持って時の詩人達に語られた。勇ましきゴートの王
エルマナリクは、戦いによって命を落としたのではなかったからである。エルマナリク
は、伝説によれば110歳。フン族の押し寄せる中、彼は、城の中で血まみれになって
息絶えていた、という。自殺とも、暗殺とも言われる。その真偽を確かめることは今や
不可能だがこの老王を賛美している。また物語は、朽ちた羊皮紙の間から鮮やかに語り
続ける。猛き王の命を奪った争いには、美しき姫君スニルダの処刑と、その兄弟たちに
よる報復があったのだ、と―― 当時、ローマにとって蛮族であり、手におえない存在
であったゴートの国の、あまりにあっけない滅亡。この出来事は、その後の百年も衝撃
的な出来事として語り継がれ、それを成し遂げたフン族とは、文明国にとって、もはや
悪魔以外の何者でもないと思われた。「文明とは、略奪すべきもので決して身を浸すも
のではない。」と言う司馬遼太郎氏からこの言葉を借りるならば、フン族の戦士ら異邦
人としての使命である破壊と強奪を欲しいままにしていたと言う事なのだろうか。

1081: 名無しさんAA:17/12/20 15:37
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 725----------

ところが、それより古いガリア戦記によれば同じ様な話が別の形で出て来る。ガリア・
キサルピナは現在で言えば、北イタリアで、その名の通りガリアのこれより北は他の国
だった。従って他を知るには遠征に行くしかない。として進軍する話だ。「アルプスの
向こう側のガリア」はガリア・トランサルピナ、と言われトランサルピナよりさらにも
っと北側のガリアはガリア・コマタと呼ばれそこまでしか知られて居なかった時代だっ
た。このギリシャ社会の中で北の境界線はアルプス山脈で、南はアルノ川とルビコン川
を結ぶ線で遮られていた。よく戦いにルビコン川を渡ったと言うのはこの川の事だ。ポ
ー平原を主な区域で属州の首都はムティナ(現モデナ)があった。紀元前58年に、ガ
リア・キサルピナの総督となったカエサルはガリア・キサルピナを拠点にしてガリア戦
争へ乗り出した。ガリア・キサルピナは紀元前43年から42年頃にオクタウィアヌス
によってイタリア本土へ統合されていた。その時にスペインをスパニア人としイギリス
をブリテン人フランスにブルゴー人など称していて、ウォセグスの戦いではガリア戦争
中紀元前58年にスエビ族出身のアリオウィストゥスが指揮を執るゲルマニア人とガリ
ア総督ガイウス・ユリウス・カエサル率いるローマ軍の間で行われた戦いを描いている
。ゲルマニアは、古代ローマ時代の地名で、おおよそライン川の東、ドナウ川の北の地
域を指し、現在のドイツ、ポーランド、チェコ、スロバキア、デンマークとほぼ重なる
一帯と思われる問題の地だ。紀元前の時代に既にゲルマン民族と呼ばれていたのである
。なお、中世前期ゲルマニアの諸地方のうち最も広い地域を占める東部のスラーヴィア
地方(ポーランドを中心とした一帯)では、中世やそれ以前の欧州において「ゲルマン
人」はゲルマン語諸部族の外ゲルマニアの東部地方に住むスラヴ語諸部族の両方を意味
していたことを示唆している。此処に原点を見る。つまりガリア=イタリアでありなが
らドナウ=ドイツでゲルマニア=スラブ地方だったのだ。古代のペルガモン王国やアッ
タロス朝ペルガモン=ベルギーなどあったのだ。その中にトラキアと言う国が、バルカ
ン半島南東部の歴史的地域にあったとされる。現在は3か国に分断され、西トラキアが
ブルガリアの南東部とギリシャ北東部の一部に、東トラキアがトルコのヨーロッパ部分
となっている。つまりトルコ=トラキアだった。ではこのユリウス達が何故かその北や
東の地に遠征にいかなかったのか。何故西の遠征を止めたのか。それが騎馬民族サルマ
タイの恐怖があったからとされる。つまりゲルマン民族大移動など出ては来ない代わり
に「サルマタイの恐怖」の伝説がでてくるのである。

1082: 名無しさんAA:17/12/20 15:52
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 726----------

サウロマタイは、紀元前7世紀末頃からウラル南部部族が紀元前4世紀頃東方から移動
し、遊牧民が加わって形成されたとされる。ウラル南部〜黒海北岸にかけて活動した、
イラン系遊牧民集団といわれ黒海北岸をちなんでサルマティアと呼んだいた。サルマテ
ィア人とも呼ばれ、古代の黒海北部に住んでいたイラン系部族連合で、紀元前5世紀に
ヘロドトスがスキタイ人やアマゾン族の末裔として初めて紹介している。2世紀のゴー
ト族出現まで存在していたとされ、歴史記述が様々に切り貼りされた結果、ポーランド
を築いたポラン族(ポラニエ)は古代サルマタイ人の子孫であり、このアジア起源の好
戦的な部族が北東ヨーロッパに移住したという伝説がつくられていた。サルマタイは、
トルコが起源ともされて、アマゾン族の末裔とされる。アマゾネス社会は母系社会で、
兵士としては男女雇用し、女性は乳房を邪魔になる為切り落とした社会であったとされ
ている。サルマタイはギリシア語であり、ラテン語ではサルマタエとなる。不思議にも
「マタイによる福音書」は、イエスがキリスト(救い主)であり、この系図によれば、
これこそがユダヤ民族の父と呼ばれているアブラハムの末裔であり、またイスラエルの
王の資格を持つダビデの末裔として伝えられる。イエス理解の中では、ユダヤ人キリス
ト教徒を対象に書かれた。伝承では最初アラム語で書かれ、ギリシャ語へと翻訳された
とされている。がしかし、「マタイによる福音書」がアマゾネスのアラム語で書かれた
なら、シリアなどには他にもよく読まれた「ヘブライ人の福音書」などがあったろうが
、「マタイによる福音書」だけが飛び越えて西方で受け入れられている。ギリシャ語の

1083: 名無しさんAA:17/12/20 15:52
、「マタイによる福音書」だけが飛び越えて西方で受け入れられている。ギリシャ語の
古い版を見ても、翻訳らしいことはほとんど見つけられていない。つまりアラム語族の
アラム語の「マタイによる福音書」はイスラエルでは発見されていないのである。これ
は不思議でマタイがユダヤ人を対象として福音書を書いたとはいえ、福音書が書かれた
頃にヘレニズム世界に住むユダヤ人の多くにとって、もっともなじみ深い言葉には、ギ
リシャ語で、特にエジプトのアレクサンドリアのユダヤ人共同体は世界最大規模であっ
たが見つからない。例外的にエルサレムがあり、そこではさまざまな文化的背景をつユ
ダヤ人達が暮らしたが、アラム語が共通語となっていたと言われる。だがユダヤ人対象
に書くにしろあえてアラム語で書く積極的な理由が無かった。そう考えるべきなのか、
初めからギリシャ語で書かれていた。新約聖書冒頭のマタイ(紀元85年までに成立),
マルコ(紀元65〜70年頃),ルカ(紀元80〜150年頃),ヨハネ(紀元100年頃)の4福
音書は成立年代が異なる。新約聖書の成立過程でこのような並び順になった理由ははっ
きりしては居ない。年代から言えばマルコによる福音書が最も古いとされるが、ヨハネ
を除く3福音書は共通部分が多く、聖書学によっては共通部分を「共観表」としてまと
めているところから「共観福音書」と呼ばれている。



1084: 名無しさんAA:17/12/20 15:53
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 727----------

トルコ近くの考古学では、ガラティア王国やポントス王国が出て来る。ポントス王国は
紀元前 281年〜紀元前64年の現在のクズルウルマク川が発祥の地だ。当初アケメネス朝
のペルシアの属国的な位置として出現した。古代文字の解読でペルシア系の王朝として
、ミュシアにあったギリシア都市キウスを治めていたアリオバルザネス1世やミトリダ
テス2世が初期の王として出て来る。ディアドコイ戦争ではアンティゴノス1世に服属
し、アンティゴノスの戦死により、ミトリダテス2世は紀元前 281年にポントス王ミト
リダテス1世と称して、独立した。ディアドコイ戦争は後継者戦争で、アレクサンドロ
大王が急逝後、その配下の将軍たちが大王の後継者(ディアドコイ)の座を巡って繰り
広げた戦争とされる。アレクサンドロス大王死去直後の紀元前323年から、紀元前281年
の間に大戦争になりコルペディオンの戦いの勝利によりセレウコス朝シリアが一時的に
覇権を確立するまでの実に40年の闘争が繰り広げられる。紀元前323年6月に、ア
レクサンドロス大王はついに後継者を明示せずバビロンで死去する。熱病によって臨終
の床にあった言葉は「最強の者が帝国を継承せよ」というものであった。この為皮肉に
もこの言葉はディアドコイ戦争の動機かつ最終目標として内紛になった。後継者の候補
とは王妃ロクサネが身ごもっていた赤子と側妾バルシネが生んだ庶子ヘラクレスがいる
のみであった。この為マケドニアの貴族、軍人たちは一斉に集って大王死後の国家体制
を話し合うことに決して会議をバビロンで開いた。会議の場では将軍ネアルコスがヘラ
クレスを推したが賛同者は全く無かった。将軍メレアグロスが大王の異母兄弟アリダイ
オスを推し、大貴族ペルディッカスはロクサネの出産を待つべきだと主張した。エウメ
ネスの仲裁もあってか彼らは妥協し、アリダイオスをフィリッポス3世として即位させ
ペルディッカスが後見人となり、ロクサネの子が男子であるならば彼を共同統治者とす
る。と決定した。やがてロクサネが産んだ子は男子であったため、このアレクサンドロ
ス4世とフィリッポス3世が共同統治者となった。そしてペルディッカスがアレクサン
ドロス4世の、また声望の高かった将軍クラテロスがフィリッポス3世の後見人にそれ
ぞれ就任し、将軍らは領内各地に太守として封じられる。二人の新王のうちフィリッポ
ス3世は精神に障害があり、アレクサンドロス4世は未だ幼少であったためペルディッ
カスは事実上の最高権力者の座に就いていた。会議終了直後に反抗の兆しをみせたメレ
アグロスとその一派三百人を処刑するなど当初からこの権力基盤には磐石とは言い難い
内紛状態にあった。

1085: 名無しさんAA:17/12/20 15:54
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 728----------

ガラティア王国はアンキュラ(現在トルコの首都アンカラ)を首都とし、北はビティニ
アとパフラゴニア、東はポントゥス、南はリュカオニアとカッパドキア、西はフリュギ
アに接する。フリュギア東部とともに、ヨーロッパから侵入したガリア人(ガラティア
人)に支配され、ガラティアの名もガリア人にちなむ。彼らは紀元前3世紀に支配者に
なった。このガリア人たちは、当時トラキア・マケドニア・ギリシアに侵入した人々の
一部であるとされる。このグループは紀元前279年、トラキアに移住し、彼らはさら
に紀元前278年から翌年にかけアナトリアに現れた。これはビティニアの王位争いに
引き入れられたものであるが、その後も彼らは勇猛な戦士として尊重され、ペルガモン
王国などアナトリア諸国をめぐる戦いに傭兵あるいは同盟軍としてしばしば参加する。
彼らは約1万人の戦士、およびその家族などからなり、3部族に分かれていた。マケド
ニア・ギリシアに侵入したグループはまもなく敗走し撃退されたが、アナトリア中央部
に移住したガリア人は、もとのフリュギアの東部に定住し王国を建て、ここがガラティ
ア国と呼ばれることになった。紀元前2世紀初めには、セレウコス朝のアンティオコス
3世に同盟するが、シリアの戦争でローマに敗れた。これ以降軍事力が低下し、しばし
ばポントゥスに屈服するが、ポントゥス王ミトリダテス6世の時代に反抗し、ローマを
支援して解放される事になる。紀元前64年にローマの同盟国(属国)となり、旧王国
は解体されて3人の部族長が支配した。しかしまもなくその中の1人のデイオタルスが
支配者となり、ローマからも王として認められた。こうしたローマ以前の前史時代から
のスラブの戦いの続きに巻き込まれ、こうした古代から続く戦争の歴史がまさか日本の
世界大戦に続いているとは、思いもしなかった日本人が多い。又それは戦争当事者天皇
も同じ様に思っただろう。いやユダヤを調べた東條や、樋口や、安江も同じ様に思って
いたといえる。誰もその頃に、米国の金を調達したユダヤ金融が裏にいて、あのヒット
ラーが憎んだ様に民族間の永年の恨みや裏を思ったりはしてはいないだろう。それでも
日本の日露大戦に融資した事は事実であり、ドイツと同盟しユダヤ闘争の中心に躍り出
た事実は変えられない。ただソ連の共産党政権での融資を知った情報通であったなら、
別だろう。明石機関は革命時にその行為の馬鹿さを嘆いた。そして安江などのユダヤ民
の探索に同意した。彼らが何処までこのユダヤの真相を探り当てたのかは不明のままだ


1086: 名無しさんAA:17/12/20 15:56
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 729----------

西アジアの歴史をひもとけば、メディア王国というのは、イランの北西部のザクロス山
脈の山岳地帯から興り、紀元前7世紀頃には、イラン・アッシリア・カッパドキア・バ
クトリアをも領した広大な王国の名前である。メディア人は、もともとは南ロシアのス
テップ地帯で半農半牧の共同生活を営んでいたが、次第に南下して、オリエント世界に
進出してきたイラン系民族の一部族であり、後にペルシャ帝国を築いたペルシャ人とは
極めて近縁の部族である。メディア人たちは、紀元前14〜15世紀頃にはザクロス山
中に住んでいたが、紀元前8世紀に現れたダイウック(ギリシャの歴史家ヘロドトスが
伝えるディオケス)が、メディア人諸部族を統一し、エクバタナ(現在のハマダン)を
都とし、メディア王国の基礎を置いた。しかし、その頃、オリエントはアッシュルから
興り巨大な版図を擁した軍事帝国アッシリアの支配下にあり、そのため、メディア王国
もアッシリアの一つの属国に過ぎなかった。ダイウック (ディオケス) の跡を継いだ
フラオルテスは東に南に王国の拡張を図るが、戦場で命を落とす。その子キュアクサレ
スは、紀元前612年、大帝国アッシリアの都ニネヴェを、カルデア王国(新バビロニ
ア)と共同で襲撃して陥落させ、遂に、アッシリアを滅亡させる。こうして、オリエン
トは、メディア・カルデア(新バビロニア)・リュディア・エジプトの4つの王国の併
立の時代を迎える。そして、メディア王国の領土は、現在のイラン・アフガニスタン・
パキスタン西部・トルコ東部にまたがるものであった。しかしやがて、王国の東南部パ
ルサの地にいたペルシャ人たちは、アカイメネス家を王にいただき、次第に王国を形作
ってゆく。その4代目のカンピュセスはメディア王家の王女マンダネを王妃に迎え、そ
の間にキュロス二世を儲ける。そのキュロス二世が紀元前550年、祖父の国メディア
を戦いに破って併合してしまい、ペルシャ人の独立を獲得したのみならず、さらに、こ
れを契機として、またたく間にリュディアを滅ぼし新バビロニアを滅ぼし、エジプトを
除くオリエント世界を征服し尽くして、古代史上最後にして最大の帝国の基礎を築いた
のである。このようにして、メディア王国は史上から姿を消し、メディア人たちも、同
じイラン系民族であるペルシャ人の中に吸収され一体化してしまう。いま、メディアと
云う言葉を口にする時、この古代オリエントに栄えたメディア王国を連想する人が、ど
れ程いるのであろうか。

1087: 名無しさんAA:17/12/20 15:59
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 730----------

サルゴン2世はその紀元前7世紀頃の紀元前700年の新アッシリア王国時代、その絶
頂期を統治したアッシリア王の一人である。アッカド語ではシャル・キンと表記され、
「確固たる王」を意味する。なお、古アッシリア王国時代のサルゴン1世に対する2世
であり、アッカド帝国創設者のサルゴンに対する2世ではない。彼はティグラト・ピレ
セル3世の息子として生まれ、紀元前722年にアッシリア王位についた。かつては、
彼が王位を簒奪した新王朝の創設者であったという説が唱えられたが現在では主流派で
はない。しかし、彼が王族の人間であったとしてもその即位名でわざわざ「確固たる王
」と称するなど支持基盤が、脆弱であったことを窺わせる節があり、即位すると寺院や
有力者の歓心を買うために、減税処置を行うなどの無数の努力を強いられたと言われて
いる。彼の即位直後、メロダク・バルアダン2世がエラムの支援の下でバビロニア王に
即位し、アッシリアから離反した。紀元前721年の事だ。更にシリアの諸王国も連合
してアッシリアに離反した。この困難な事態に対し国内情勢からか、サルゴン2世はこ
のメロダク・バルアダン2世のバビロニア王位を認め、彼との和平を締結したのだが、
それはその後のサルゴン2世を悩ませ続けた。だが決意して、シリア地方への遠征に乗
り出し紀元前721年にはイスラエル王国を滅ぼして後に、その上層民を帝国各地に 
強制移住させ、他の地方の住民をイスラエルに入植させた。こうして西方での反乱を鎮
圧した後、紀元前710年にはバビロニア支配権の奪還に乗り出し、迎え撃つメロダク
・バルアダン2世を敗走させた。敗走したエラムへと逃れ、バビロン市はアッシリア軍
によって占領され、サルゴン2世がバビロニア王に即位した。紀元前720年の戦いに
は東のエラムともデルで戦っている。この戦いの記録ではアッシリア、エラム双方とも
に勝利を主張していて詳細は不明であるがバビロニアの年代記にはエラムの勝利として
記録されている。メロダク・バルアダン2世はエラムの庇護を受けて機会を待ち、サル
ゴン2世が紀元前705年に死去するとバビロンに再び進軍しアッシリアの新王センナ
ケリブは再びバビロニアを支配下に置くべく軍を差し向けキシュ平野で激突したが、バ
ビロニア軍は敗走した。メロダク・バルアダン2世は戦いの最中、戦車や馬などを置き
去りにして逃走し、センナケリブは彼を追撃したが湿地帯に逃げ込んだメロダク・バル
アダン2世はアッシリア軍の追撃を逃れ再びエラムに身を寄せた。


1088: 名無しさんAA:17/12/22 15:06
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 731----------

聖書ではヒデキヤ書でこう伝えている―‐‐そのころ、バラダンの子であるバビロンの
王メロダクバラダンは、手紙と贈り物を持たせて使節をヒゼキヤにつかわした。これは
ヒゼキヤが病んでいることを聞いたからである。ヒゼキヤは彼らを喜び迎えて、宝物の
蔵、金銀、香料、貴重な油および武器倉、ならびにその倉庫にあるすべての物を彼らに
見せた。家にある物も、国にある物も、ヒゼキヤが彼らに見せない物は一つもなかった
。その時、預言者イザヤはヒゼキヤ王のもとにきて言った、「あの人々は何を言いまし
たか。どこからきたのですか」と。ヒゼキヤは言った、「彼らは遠い国から、バビロン
からきたのです」。イザヤは言った、「彼らはあなたの家で何を見ましたか」。ヒゼキ
ヤは答えて言った、「わたしの家にある物を皆見ました。私の倉庫の内には、私が彼ら
に見せない物は一つもありません」。そこでイザヤはヒゼキヤに言った、「主の言葉を
聞きなさい、『主は言われる、見よ、すべてあなたの家にある物、及び、貴方の先祖達
が今日までに積み蓄えた物は、バビロンに運び去られる日が来る。何も残るものはない
であろう。また、貴方の身から出るあなたの子供達も連れ去られ、バビロンの王の宮殿
で宦官となるであろう』」と。ヒゼキヤはイザヤに言った、「貴方が言われた主の言葉
は結構です」。彼は「せめて自分が世にあるあいだ、平和と安全があれば良いことでは
なかろうか」と思ったからである。(口語訳聖書:列王記下20章12-19節)とある。が、
この聖書は歴史の後に作られた可能性が高い。つまり毛沢東と同じくあった事を後の世
で予言が当たった、神の言葉通りになった。として書いたか又は歴史書として書かれた
と言う事である。「サルゴン王朝」は一般にアッシリア王による王碑文は前任者に言及
するものであるが、彼の王碑文ではそれが見られないため、彼が簒奪によって新王朝を
建設したという説もあった。この説に立つ学者は以後滅亡まで続く事になる王朝をその
まま「サルゴン王朝」と呼んでいた。しかし、サルゴン2世は正当な王位継承者ではな
く、ティグラト・ピレセル3世の息子であることを示す碑文が存在するため、彼の即位
はアッシリアでよく見られる王位継承争いに過ぎず新王朝と呼ぶにはあたらないとする
説が有力となった。バビロニアにはバビロン幽囚記によってキュロス王が浮かび上がる


1089: 名無しさんAA:17/12/22 15:06
キュロス王はヘロドトス『歴史』巻一に描かれるドラマである。このドラマにには、
宗教的には旧約聖書的ものよりは、ゾロアスター教(拝火教)の物語風情や心理が背景
にはあるようだ。又このヒデキヤ書の交流が故に襲われて無くなる現実は鎖国から解か
れた日本の今の苦悩と同じ模様が此処にある。戦争によって自由化社会を押し付けられ
その保障に、金塊もアメリカに引き揚げられ武器は作る事もできなく、政策すら法律は
押し付けら防衛すらままならない日本になったのである。



1090: 名無しさんAA:17/12/22 15:07
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 732----------

ペルシアの地を支配していたメディア王国の国王アステュアゲスにはマンダネという娘
がいた。或る時メディア王は娘のマンダネが放尿して町中に溢れ、さらにアジア全土に
氾濫するという夢を見た。マゴス(占い師)の夢占いで将来に恐怖を感じた国王は、こ
れが自分がアンダネの子に襲われる予兆の夢だと解した。そこでマンダネをメディア人
ではなくペルシア人のアケメネス家のカンビュセスという男の嫁とした。その後マンダ
ネが妊娠したとき、国王はまた夢を見た。マンダネの陰部から一本の葡萄の樹が生え、
それがアジア全土を覆うという夢である。マゴスたちの夢判断は、マンダネが生む子は
国王に代わって王になる筈だという物だった。国王は驚いてマンダネをペルシアから呼
び戻し、いよいよその子キュロスが産まれるとハルバゴスという一族の者に殺すことを
命じた。赤児を渡されたハルバゴスは自分で殺すことができず、牛飼いの男に山中で殺
してきてくれとたのむ。赤児を抱いて家に帰った牛飼いは妻に相談した。ちょうど牛飼
いの妻は子供を死産した後だった。妻は死んだ我が子の代わりにキュロスを育てようと
夫を説得し、牛飼いは死んだ我が子にキュロスの着ていた着物を着せ、ハルバコスに見
せた。こうして牛飼いの子はキュロスとして葬られ、本当のキュロスは別な名で牛飼い
に育てられることになった。牛飼いに育てられた少年キュロスが10歳になった時、回
りの子どもたちが彼を王様に選んで遊んでいた。王様役のキュロスが、命令に背いた子
供を撲ったところ、悔しいと思ったその子はメディア王の重臣の子だったので父を通じ
て国王に訴えた。訴えを受けた国王がキュロスを訊問すると、子供に似合わぬ風格があ
り、しかも自分に似ていることに気がついた。そこで子供の父親という牛飼いを捕らえ
て拷問にかけて白状させ、我が子が生きていたことを知る。国王は命令に従わなかった
ハルバコスを呼び、我が子が生きていた祝宴にハルバコスの13歳になる子を参加させ
るように命じた。罰せられなかった事を喜んだハルバコスが息子を宮中にやると、国王
はその子を殺し、手足をバラバラにして調理し、何も知らない父にまず頭以外の肉を食
べさせた。満腹したところで頭の覆いを取り、国王はどんな獣肉か判ったかと聞いた。
父ハルバコスは自若として「判りました。王のなされることにはどのようなことでも、
私は満足でございます」と答えると、残った肉を持って屋敷に帰った。


1091: 名無しさんAA:17/12/22 15:07
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 733----------

 国王はキュロスをどうするか、マゴスに聞いたところ、子供の遊びと言えキュロスは
一度国王になっているので、これ以上禍を及ぼすことはない、という意見であった。国
王は安心してキュロスをペルシアに返すことにした。ペルシアのアケメネス家に戻った
キュロスは成人すると、武勇に優れ人望有る人物となった。ある時キュロスの元に兎の
体に隠された密書が届いた。それは我子をメディア王に殺されたハルバコスからのもの
で、メディア王の苛政に苦しむ人々を救うため、謀反を起こすことを促すものであった
。「ペルシア人はすでに以前からメディア人に支配されることを快く思っていなかった
。ここに勇猛果敢で知性溢れる指導者を得て、欣然として自由を獲得する戦いに臨んだ
のである。キュロスの率いるペルシア軍がメディア軍を攻撃すると、キュロスに内通し
たハルバコスが率いる部隊がペルシア軍に寝返った。その為、メディア軍は総崩れとな
った。国王アステュアゲスはキュロスを放せと彼に説いたマゴスたちを串刺しの刑に処
し、町に残った者たちの老若を問わず武装させペルシア軍と戦かわせたが敗れてしまう
。その後、国王も捕虜となり、メディアはペルシアに支配されることとなった。こうし
た戦いの結果、ユダヤ人を「バビロン捕囚」から解放しキュロス2世はペールス北部の
パサルガダエに壮麗な新都を築き、碑文を遺している。そこには宗教的信念を表明する
文は見当たらない。しかし、宮殿遺蹟には二基の石の台座があって、これはゾロアスタ
ー教の火を祀る祭壇と推測される。従ってキュロスは、メディア王国時代に既にイラン
東北の中央アジアからイラン高原に及んでいたゾロアスター教を信じていた、と考えら
れる。しかし新たな征服地にその宗教を強制することは無かった。その寛容の恩恵を受
けたのがユダヤ人であり、彼らはバビロン捕囚から解放されてイェルサレムに戻り、神
殿を再建することを許された。この事はユダヤの歴史上「人類の宗教史にとっては特殊
な例」であったが、ユダヤ人はその後もキュロスに好意を持ち続け、キュロス自身を、
「救世主(メシア)」と讃えている(『第二イザヤ書』)。その中の「わたし(ヤハウ
ェ)はよろずの物を造り・・・わたしは地を造って、その上に人を創造した。天よ、上
より水を注げ、雲は義を降らせよ。・・・」などの詩句はゾロアスターの聖典『アヴェ
スター』と驚くほどよく似た聖文で讃えている。キュロス王の寛容が、ゾロアスター教
の影響をユダヤ教に及ぼしたと考えられる。


1092: 名無しさんAA:17/12/22 15:08
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 734----------

 キュロス2世は、こうしてアケメネス朝ペルシアの初代国王として、古代エジプトを
除く全ての古代オリエント諸国を統一して空前の大帝国を建設した。現代のイラン人は
、キュロスをイランの建国者と称えている。ヘロドトスは著書『ヒストリアイ』の中で
、キュロスは、トミュリス女王率いるマッサゲタイ人との戦いで戦死したという説を伝
えている。しかしすでに一部の統治権を譲渡されていたこともあり、皇太子カンビュセ
ス2世への政権移譲は滞りなく行われていた。カンビュセス2世は紀元前525年に残
る大国であるエジプトを征服し、オリエントに広大な統一帝国が誕生することとなった
。キュロスの死とその墓はは、王都パサルガダエに築かれた。この陵墓は現在でも残っ
ており、2004年に「パサルガダエの都市遺跡」の一部として世界遺産に登録された
。記録ではキュロスは、帝国の北東の国境を脅かしていた同じイラン人の半遊牧民であ
るマッサゲダイ族と老齢を鞭打って戦いで死んだ。彼の死体は典香で詰めされて御棺に
入れてパサルガダエに戻され、そこの平野に今も残っている墓に安置された。と言われ
る。ゾロアスター教では死体は汚れた物とされるので、人の手には触れられず、風葬に
されるのが儀礼であったが、後のアケメネス朝やササン朝の王も香詰めにされているの
で、これが先例になったと思われている。風葬ではなかったがキュロス王の墓ははるか
高い六段の石段の上に、厚い壁、窓もない部屋に置かれて人が触れることができないよ
うにし、その戸口には不死の象徴である太陽の彫刻が施されている。後継者カンビュセ
ス王はこの墓前で毎日羊と馬の供儀を続け、その後の王によっても200年にわたって
続いたが、アレクサンドロス大王がペルシアを征服したときこの墓は暴かれ「金の寝台
」などが持ち去られたという。こうしてユダヤさえも許したキュロス王が作った都が、
アレクサンドロス大王の遠征によって破壊され、墓石のみの残る都市になったのだが、
ペルシア帝国に建てられた最初の都だった。ペルセポリスの北東87Kmに位置し、紀元
前に、キュロス2世の手によって建設が開始され、キュロス2世の死により町の建設は
途中で終わったとされる。パサルガダエ考古遺跡は、建設者のキュロス2世の墓と伝え
られる建造物は丘の近くにそびえるタレ・タフト要塞と2つの王室の庭園から構成され
てイランに見られる最初の四分法に基づいて建設された墓所だ。ペルシャ式庭園で最近
の研究ではこの遺跡は震度7の地震でも耐えうるだけの設計を施されていたことがわか
っている。キュロス2世の墓の中には、金色のベッド、杯とテーブル、金色の棺桶、高
価な宝石がちりばめられた装飾品と墓碑を見つけ出されましたが、現在はそれらの痕跡
は残されてはいない。

1093: 名無しさんAA:17/12/22 15:08
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 735----------

パサルガダエは、イランのファールス州にある古代ペルシャの都市遺跡です。ペルシャ
帝国の最初の首都で、紀元前546年に建設が開始された都市だ。イランは日本の面積
4.5倍もの大きさがあり、地方によっては気候も様々である。イラン全土に共通して言
えることは、イランは日本と同様はっきりとした四季がある。3月後半〜5月の春の季
節や10月〜11月の秋の季節は、日本同様で過ごしやすい気候の季節となる。しかし
、北部と南部では気候の変化が激しく日本の九州と樺太ぐらいの差がある。イランには
地域ごとにカスピ海温暖気候、山岳気候、砂漠・半砂漠性気候と大きく3つの気候に分
けることができる。砂漠地帯では雨の心配は無いあまりが降るときはかなり危ない。他
の地域では年間を通して雨も降りやすい地域もある。また、イランの夏はとにかく暑く
、皮膚には乾燥や日焼けが死をもたらす。また、冬は寒く、首都テヘランでも雪が降る
ところがある。防寒対策をしっかりしないとかなりやばい所でもある環境だ。ペルセポ
リスはいまだ謎に包まれた都市だ。ペルセポリスは紀元前7世紀、現在のイランの地に
大帝国を築き上げていたのがメディアだ。この配下にいたペルシアのキュロス2世は紀
元前550年にメディアを滅ぼし、パサルガダエ(世界遺産)を首都にアケメネス朝を
建国しようとした。鉄器を備えた騎馬軍団を中心とする「不死身の1万人隊」を中心に
各地に攻め込み、チグリス・ユーフラテス川を支配していた新バビロニアと、トルコを
支配していたリディアをも滅ぼし「諸王の王」を名乗る。続くカンビュセス2世の時に
エジプトを征服し、アッシリアに続いて古代オリエント統一に成功。ダレイオス1世は
さらにギリシアにまで攻め込み、最大版図を獲得する。このダレイオス1世の時代はこ
の地の全盛期だった。君主となったダレイオス1世は、まず全土を20前後に分けて州
を置き、各州にサトラップ(総督)を置いて各地を治めさせた。サトラップが反乱を起
こさないよう監察する「王の目」部隊と秘密の情報収集機関「王の耳」部隊を置いて、
統制を果たした。更に地方との結びつきを強くする為「王の道」を整備して、途中には
いくつもの中継点を置いて早馬を待機させ、駅伝制を敷いて全土から情報を集め、いち
早く指揮を下した。ローマ帝国の基礎が此処に整備されていたのである。


1094: 名無しさんAA:17/12/22 15:09
 当時この地に流行していた宗教が「ゾロアスター教」だ。光の神アフラ・マズダと闇
の神アーリマンによって世界は支配されているとする善悪二元論の宗教で、この2神は
言ってみれば神と悪魔。その力はほぼ対等で、常に戦い続けているのだが、最後にアフ
ラ・マズダが勝利して、悪は滅び、救世主のもと世界が再建され、すべての命が復活し
て楽園が造り上げられるという。一見すると、ユダヤ教やキリスト教、或いはイスラム
教の「最後の審判」そっくりなのだが、実はその意味に於いて戦う事に正義を於いてい
る事が違う。又成立はゾロアスター教の方が古いため、これがルーツなのではないかと
いわれている。「ペルセポリス」の名がギリシア語であるように、その詳細には、古代
ギリシアのクセノフォンやローマ時代のプルタルコスらの著書か、ペルセポリスにある
石碑の文字を解読するしか方法がないのだが、その量はけっして多くはない。実は当時
この都がこの地でなんと呼ばれていたかすら、まだまだよくわかっていない。それらの
記録によると、アケメネス朝の王たちは、春はスーサ、夏はエクバタナ、冬はバビロン
ですごした。とある。つまりペルセポリスは宮殿でありながら、長期にわたっては住ま
われた場所ではない。此処に放牧民の面影が見え隠れする。現在有力な説は、当時ペル
シアに信者が多かった宗教「ゾロアスター教」(拝火教)の正月(春分の日)の祭りで
あるノー・ルーズを祝う場所だったのではないかという説だ。ノー・ルーズの日には、
古代オリエント各地から諸王がこの聖都を訪れ、「諸王の王」といわれたアケメネス朝
の大王に謁見し、各地の名産品や金品を献上した。謁見の様子はいまもレリーフに見る
ことができる。レリーフによると、各地の王が土産物を手にアケメネス朝の大王に謁見
に訪れた都がペルセポリスだとされる。ペルセポリスは約450×300mの長方形の
大基壇で持ち上げられたその上に、様々な宮殿が建てられていた。その中の入り口にあ
る大階段に諸王たちは入場した。階段を昇ると登場するのが万国の門があり、クセルク
セス門がある。この門には、翼を持った牡牛の身体に人間の頭がついた「ゾロアスター
教」のレリーフ有翼人頭像があり、諸王たちを見下ろしていた。後に偶像崇拝を嫌った
イスラム教徒によって頭部が破壊された。門を右に回るといよいよ謁見の間アパダナが
ある。アパダナはさらに高い基壇の上に建立された宮殿で、基壇の壁が一面レリーフで
覆われている。レリーフには人々と貢ぎ物の隊列が克明に描かれている。アパダナには
柱が立って残っていて、柱の上の柱頭には牡牛やグリフォンと言うワシの頭と翼を持つ
ライオンの胴体の生物が彫られ、諸王を見下ろしていたと思われる。中央には正方形の
広間があり、ノー・ルーズはここで祝われたといわれている。神々の像で諸王を威圧し
ているようにも見えるが、実際アケメネス朝は柔軟な外交政策をとっていたようだ。

1095: 名無しさんAA:17/12/22 15:10
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 737----------

 「ゾロアスター教」は寛容の宗教だった。ユダヤ教徒をバビロン捕囚から解放したよ
うに、税さえ払えば各地の宗教と文化を認め、諸民族間の融和を押し進めていた都市が
ペルセポリスである。此処には膨大な財宝が収められていたにも関わらず、強固な城壁
も深い堀も広大な軍事施設もない。このアパダナで、諸王たち同士で語らい合い、平和
を論じ謳歌していたのかもしれない。アパダナの南には、中央宮殿トリピュロン、ダレ
イオス1世の宮殿タチャラ、クセルクセス1世の宮殿ハディシュ、そしてハレムが並ん
でいる。ハレムの東にあるのが宝物殿だ。いまはその跡をとどめるだけだが、マケドニ
アのアレクサンドロス(アレクサンダー大王)がペルセポリスを破壊した際、一万頭の
ロバと五千頭のラクダで宝を運んだといわれるほどの財宝が収められていたらしい話が
伝わる。その北にあるのがアパダナと並ぶペルセポリスのハイライト、百柱の間で玉座
殿とされる。かつては10×10の百本の柱があり、ペルセポリス最大の宮殿だった。
残念ながらいまは柱は立っていないが、数多くの門や壁が残っており、王の玉座のレリ
ーフや、クセルクセス1世がライオンと闘う有名なレリーフを見ることができる。百柱
の間は軍隊に謁見する場所だったといわれている。クーヘ・ラハマト山の山腹には、北
の砦やアルタクセルクセス2世の墓、東の砦などがある。アルタクセルクセス2世の墓
周辺からペルセポリスとその周囲を一望でき眺められる。パサルガダエ遺跡の1.6q
2 におよび、ペルシャ式庭園はパサルガダエ遺跡とは別に世界遺産に登録されている。
や要塞、キュロス2世の墳墓などから成っています。 パサルガダエ遺跡がイランで発掘
調査にキュロスはペルシア帝国の建国者として賞揚されるようになった。このキュロス
の円筒印章を「史上最初の人権宣言」と呼んでさかんに宣伝したのもこの時期のことで
あった。1971年にキュロスのアケメネス朝建国2500年を記念してペルセポリスで、
盛大なイラン建国二千五百年祭典を開催し、パサルガダエのキュロス2世の墓において
も国王の演説が行われた。またこの時にイラン暦の紀元がキュロス即位が紀元前559
年に変更されてイラン皇帝暦と名を変え、ヒジュラ暦に代わって国家の公式な暦となっ
た時期があった。この暦が公式に施行されたのは翌1976年であったが、このため、
西暦1976年は皇帝暦2535年となり混乱を来した。しかしイラン革命が起こってパフラヴ
ィー朝の王制が廃止されると、このキュロス紀元も廃止された。


1096: 名無しさんAA:17/12/22 15:10
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 738----------

 なぜ私がこの古代宗教まで語るのか。それはこの「ゾロアスター教」(拝火教)こそ
我々が知るべき起源だからだ。日本の国家神道である吉田神道も日本仏教も此処に起因
している。その意味ではユダヤ教やキリスト教或いはイスラム教などは派生した邪教で
あると言える。光の神アフラ・マズダと闇の神アーリマンによって世界は支配されてい
るとする善悪二元論の宗教と言われているが、その解釈は間違っている。この宗教では
この2神は言ってみれば神と魔だが。その力はほぼ対等で、常に戦い続けている。のだ
、そしてこの戦いこそが正義でありやがて善が勝つ事を信じて居るしやって来るとして
いる。此処に違いがある。此処には終末戦争などは語られてはいない。継続や伝承に於
いて勝つとしているのは、その精査つまり篩い分けを人が人に行うとしているのだ。こ
の為に人は、善言善行善意による人間と社会を目指すべく説いているのである。死ぬ事
も病気も或いは、不便も便利も正義でも悪でもないのである。では何が悪なのか。それ
は悪意こそ悪とし諸悪の根源としているのだ。人はこれに帰るべき時に来ている。キリ
ストやイスラムの枝葉を取り除いてユダヤ教になる様にユダヤから枝葉を取り除けば「
ゾロアスター教」(拝火教)になるのである。人は何故産まれ人は何故生きて何に生か
されるのか。この答えを明快に説いている。人は既に仕事も金も要らない世界にいる。
いや逆にあってはならない世界に到達している。地球自体が人類の知性を疑う中にいる
。馬鹿げた事に金融界でゴールドラッシュ以来紙幣の流通価値の操作に戦々恐々として
、現代経済学はマネーサプライの供給量増減を政策の柱にしているの一途に人の幸せを
置いている。だが、その上に人口増加による人間活動を心配しているのである。これは
不思議な事だ。中国では一人っ子の政策で人口減少は起きなかった。だが自由化解放路
線を敷いた途端に金満家が出現し、人口減少とスモッグ社会が出現したのである。この
理屈は現代の知識では理解出来ない物だろう。だがそれが人をも自然との共存共栄の種
とすれば直ぐに理解できる。砂漠バッタが転種する様に、人は破壊的破滅を予想すれば
子供さえも老後の生活の保険の様に産み仕事に従事させるのだ。更に逆に子供に楽をさ
せたいなどと言う親は何も苦労をしなかった人生経験の無さに悪党にしか育たないのだ
。つまり成金坊ちゃまの不良化である。此処に神を崇める元がある。形式でも物真似で
も貧乏で無ければならず、神を拝して親孝行をしなければならないのである。



1097: 名無しさんAA:17/12/22 15:10
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 739----------

 多くの研究者はゾロアスター教の開祖といわれるザラスシュトラの活動がやゾロアス
ター教の成立に関して居る様に理解している。しかしそれは少し違っている。ゾロアス
ターつまり拝火教も5つの系統に分かれて居るアフリカに残るもの2系統ペルシャ系統
インド系統更に中国系統である。そして中身は微妙に違っている。そして、今なお不明
なところが少なくない。イラン高原北東部に生まれたザラスシュトラは、従来インド・
イラン語派のなかで信じられてきた信仰に、善と悪との対立を基盤に置いた世界観を、
提供し、また、きわめて倫理的な性格をもつ宗教に改革したといわれる。これらが主流
とはなっているが火を求めて森林を伐採し煉瓦を作ったバビロンのゾロアスターは既に
もう衰退期に入っていた。本来のゾロアスターは中央アジア近くの地下からの天然ガス
による炎から生じて居る。従って「大地から何もかも産まれるものだ。」と言う説話か
ら始まっている。更に太陽が照り付ける高い温度の夏場の時の勢いから「光が炎を上げ
る。」と言う事象が正しい事であるとあるとした。ザラスシュトラ以前のアーリア人(
インド・イラン語派)の信仰においても、すでに「三大アフラ」として叡智の神アフラ
・マズダー、火の神ミスラ、水の神ヴァルナが存在していた。そのため、単にアフラ・
マズダーまたはミスラを信仰しているというだけで、厳密にいえば、ゾロアスター教徒
とはいえない部分がある。「異教蔓延時代」と呼ばれる移住イラン人と区別するための
判断基準は、ゾロアスター教の真の信仰者かどうかであった。信仰告白であるフラワラ
ーネにあらわれている。そこでは5つの条件が挙げられている。すなわち、
1. 創造母神アフラ・マズダーを礼拝すること。
2. 指導者ゾロアスターの信奉者であること。
3. 世俗的で好戦的で不道徳な神と敵対すること。
4. アフラ・マズダーが創造した偉大な6柱神を信じて7つ神の霊魂を礼拝すること。
5. すべての善をアフラ・マズダー(大地の神)に帰すること。である。
 この中でアフラ・マズダーは、創造主ではない創造母神とした事は、従来の神々であ
る神の創造主神話と違うところだ。その後の創造神や唯一神を産むきっかけを生んだの
だろう。更にこの6柱神信仰がインド・イランの八百神信仰なったろうが、それがまた
異なる点でもある。実際ゾロアスター教自体は、紀元前1千年紀の前半、イラン東部か
らアフガニスタンを含む中央アジアの西部でかなり発達し、その後、アケメネス朝の時
代にはイラン高原にも浸透するようになっていたものと推測されている。


1098: 名無しさんAA:17/12/22 15:11
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 740----------

 ゾロアスター教においては、世界は、光明をつかさどる善神のアフラ・マズダーと闇
の世界を支配する悪神アンラ・マンユの闘争の場と見なされ、火はアフラ・マズダーの
象徴として特に重視された形態である。だが現実にもこの地球上の生命は太陽の光なく
して生き残る事はできない。また緑の大地なくして生活は出来ない。この基本に忠実あ
る事が大事なのである。重婚の進めでも実は教義の中には無いDNAが母体依存にある
からだ。つまり日本他一夫多妻の制度は実は父系維持の為に日本の天皇制の基本となっ
ている。ゾロアスター教の聖典は『アヴェスター』と言われ、それに用いられた言語を
古代アヴェスター語と言う。日本語では梵字である。ゾロアスター教の根本聖典「アヴ
ェスター」は日本に3回やって来たとされる。それは紀元前の時代と仏教伝来の少し前
である。そして山岳信仰の山伏が形成された。それはそのまま星の動きと風を読むとさ
れた陰陽道やこの天童神道や海童神道に利用された。火渡りや火の祭事は殆どはこの拝
火教に起因して行われたとされる。そして最後は密教系の修行僧最澄や空海などが持ち
込んだ。こうして護摩焚きや梵字の旧いしきたりの魔符が新たになって広まったのであ
る。仏教では大日如来をアフラ・マズダーとしている。かつて神道では日子とされてい
る最高神である。スプンタ・マンユの「聖霊」とされるものは天の使いとされた。アフ
ラ・マズダーである大日如来と同一視される神々の事である。そもそも日本の天照大神
もその同一視される神なのだ。イザナミとイザナギは共に風と潮の神である。ヴァユの
(風の神)ティシュトリヤ(雨の神)はさしずめ江戸時代の風神雷神とも言える対象神
ではなかろか。天空、水、大地、植物、動物、人、火の順番で創成した、世界の管理者
とした創造神はそのまま自然信仰から始まっている。だが彼らを滅ぼした文化すなはち
偶像崇拝を悉く嫌った信仰は その豊かな土地を灌漑や農耕と称して開発し不毛の砂漠
に変えた。つまりかつて世界紀元前後では一番豊かな森だったこの地は地震と共にその
まま砂漠になってしまった。つまりペルシャ湾から天山山脈にかけての農地はすべてが
このユダヤ教やイスラム教によって失った緑地だったのだ。日本でも東西日本の津波の
被害が大きかった理由は行政の悪さだと言う指摘はある。もし過去の日本の様に、農地
改良や町内土地開発などを行っていなかったなら大木や雑木林によってその被害は四割
に収まっていた筈だという。つまり自らに浜の鳥や渡り鳥さえ街路樹しか止まれない様
な街作りしかできて居ない。これは石造り欧州の街並みが戦後さえ元に戻しローマ帝国
で緑を失い滅びたとされ事でそれを学習している社会とは対称的である。

1099: 名無しさんAA:17/12/26 19:34
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 741----------

 矛盾と謎だらけの「いにしえ」の「聖典神話」はローマ帝国時代紀元3世紀頃編纂さ
れた。世界の神話は伝説であり、文学であり、歴史でもあり、西洋の祖先のエネルギー
ともなった。ギリシアに前8世紀前後に天才的な詩人ホメロスが出現し、トロイア戦争
を扱った「イリアス」とその後日譚「オディセイア」を歌った書が登場する。ホメロス
と大体同じ頃ヘシオドスと言う詩人が「神統記」と「仕事と日」という詩を残している
。「神統記」には、カオス(巨大な裂け目)が、ついでガリア(大地)タンタロス(奈
落の底)、エロス(愛)の全部で4つ詩編のが最初に世に生じたことになっています。
こうしたギリシャ神話は前5世紀の世界のギリシアでは、市民の一般教養として神話の
知識は文化や言語の基本となっていた。その後、アレクサンダー大王が前323年に亡
くなって後のヘレニズム時代築くのだが、このころからギリシア神話そのものの性質も
、また神話を伝える文学も次第に変化していった。そうした中で「旧約聖書」が成立し
、そしてエルサレム神殿が再開された。エルサレム神殿は前955年頃、ソロモン王が
完成させたと言われていますが、彼らユダヤ人自体の歴史は紀元前1800〜1700
年頃までこの地に残っていた民もいたとも言われる。とりわけユダヤ人の持っていた神
話「旧約聖書」は、そのローマに受け入れられた。と言うよりユダヤ人が政権の取り巻
きになって進言した。こうして現在においてもその神話に則りイスラエルの民は他国、
とりわけパレスチナ・アラブ人達などを選民主義のもと、虐げてもよい 他民族であり
奴隷である。として争いを繰り広げているのであります。何千年前の話をそれも創った
物語で、まことしやかに論争の俎上で戦わせるなどは、神話も学校で教えてもらえない
我々日本人にとっては到底考えられない「狂気の沙汰」と映るののだが しかし、彼ら
イスラエル・ユダヤにとっては、神話の世界も現在の生活もつながっていて同等と言っ
てはばからない。そこに日本の不理解の馬鹿さがあると言っても過言ではない。それで
は、そのユダヤ人達の神話「旧約聖書」なるものは何か、そして西洋においての原点と
も云われるその歴史を少しおさらいし遡ってみたいと思います。この書いてある事が、
かつての 日本の「第二次世界大戦」のとりわけ太平洋戦争に持ち込んだ原因でもあり
中身であると思いながら見つめながら。



1100: 名無しさんAA:17/12/26 19:34

陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 742----------

 物語は創世記神話に逆昇る『創世記』はヘブライ語では冒頭の言葉を取ってベレシー
トと呼ばれているおり、これは「はじめに」を意味する。また、ギリシア語の七十人訳
では、(ゲネシス)と呼ばれており、「起源、誕生、創生、原因、開始、始まり、根源
」の意で日本では訳される。
1日目 神は天と地をつくられた。暗闇がある中、神は光をつくり、
    昼と夜ができられた。(つまり、宇宙と地球を最初に創造した)
2日目 神は空(天)をつくられた。
3日目 神は大地を作り、海が生まれ、地に植物をはえさせられた。
4日目 神は太陽と月と星をつくられた。
5日目 神は魚と鳥をつくられた。
6日目 神は獣と家畜をつくり、神に似せた人をつくられた。
7日目 神はお休みになった。
此処に既に問題がある。最初の一日目に既に天と地を別けて光を創りあげ2日目には大
地の上に更に天を創り更に4日目に又太陽と月と星を作ったのである。これには理由が
ある。この聖書が完成する頃人々が信仰していたのは、ゾロアスター教(拝火教)から
派生したミトラ教であったからだ。紀元前1世紀頃のヘレニズム時代になると、古代の
アーリア民族の宗教で最も活発だったのは、ゾロアスター教ではなくミトラ信仰をして
押し寄せてきていたからである。その頃太陽神信仰であるミトラ崇拝は、ちょっと以前
のアケメネス朝時代からイラン高原西部に浸透していて紀元前1世紀以降は、メソポタ
ミアから小アジアまでかなり拡大していた。ミトラ派の神官達はアフリカ地方にも活動
の場を広げていたが、紀元前1世紀頃になると、彼らの文化がギリシアの影響を強く受
け、その結果、ミトラ神をギリシアの「太陽神ヘリオス」と同一視した新たな信仰」が
生み出されていた。1世紀後半に西北インドに興ったクシャーナ朝に伝えられて後、こ
の神は「太陽神ミイロ」となり、後にはこれが仏教に取り入れられ「弥勒菩薩」となっ
たとされる。



続きを読む
掲示板に戻る 全部次100 最新50
名前: E-mail(省略可): ID非表示