指導改善研修の実態 横浜市


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指導改善研修の実態 横浜市

1: 横浜人権侵害都市:13/12/16 16:56
年明けの2013年1月24日 分会長のU教諭と共にいる前で。NH校長の不適切且つ違法な言動について。
○文部科学省、横浜市の指導改善研修の規定によると、元来指導力不足教員に該当しないにもかかわらず私を「指導力不足教員として申請書をすでに出すことにした」と暴言を吐いた。  
療休の診断書を2月の半ばに出しますから異動対象者名簿から私の名前を取り下げてくださいとお願いすると。校長はこれを2度拒否。東部学校事務所のOさんの指示に従って校長に事前にお願いしようとしたが拒否をする。校長としては本来診断書を受理する義務がある。「異動対象者名簿から取り下げない」などと無謀で一方的な発言を繰り返した。
仮に、「指導力不足教員として認定されなくとも、私はあなたを、教育委員会預かりにしてやるつもりだ」などと暴言を繰り返したものである。これらの発言は全て裁判上の証拠となる音声記録にも保存されているもので、事実である。NH校長が私を何としても異動させてK校から追い出そうとしていた、つまりパワーハラスメントを繰り返していたことは事実である。
○以降私は、疲弊しきっていたため、精神科で受診し、適応障害との診断を下された。寝付けない日々の中、なんとか学年末までやり終えることができた。午前中2時間年休を取得したり、休んだりすることが多い中での勤務で相当大変な思いをしたが、指導力不足教員の認定審査会では、H課長から、「すぐに休む」という点を指摘された。NH校長は心配するどころか、私に不利になり得るものは、療休であろうが構わず、悪いニュアンスで「すぐに休んでしまう職員」という言い方をしていたのである。前日に断裂症で休んだり、適応障害のために精神的に疲弊して午後から病院に行ったり休んだりした職員を捕まえて「すぐに休むダメな職員」という評価をして、教育委員会育成課に書類を提出し、強制的に指導改善研修に送り込んだのである。
当該NH小学校校長は、公務員に関わる諸規則、倫理規定、職務規定に該当し、自治会長から金銭を授受し、飲み食い等に充てるなど不適切に浪費した件に関して教育委員会から指導を受けている。2013年4月1日以降、強制的に指導改善研修に行かされている。

2013年9月18日(水)下校時の児童指導に立って児童に挨拶等をしていたが、不当にも、明日からは立たなくていいと発言。職員である者にこうした制限を設けるのは合理的理由がなく、パワーハラスメントである。

2013年9月、所属校研修ということでK小学校で勤務していたが、該当する場面がなく、学校長からの具体的な指摘もない事項について、不当に評価を低くつけられた。例えば、「採点ミスが多い」「市販テストで安易な評価をする」という場面そのものがなかったにもかかわらず、評価は「時々見られる」となっているのである。該当しない事柄までも、評価されているのであり、不実記載である。18項目中7項目(全体の38%)も本来該当することがないにもかかわらず、時々あるとされたのである。パワーハラスメントである。
 11月7日(木)に、学校長によるパワハラに関する訴えを労災として申請。本日付にて学校のメール便で送付。翌週11日(月)には届いているはずである。


801: 名無しさんAA:17/10/28 23:03
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 443-----------

 ところが清国の外交音痴によって中国国内では大変な事が起きていたのである。ヴォ
ルガ全域で起こったコサックの共和国建立をする為の反乱はそのまま中国清王朝とロシ
ア帝国との領土争いで極東まで及ぼしていた。このステンカラージンの戦いはそのまま
アムール川流域のやウスリー川流域で起こっていた。これまで緩い朝貢での清国領土と
認識していた土地であったが、急速に進んだ欧州内の工業発展にロシアは不凍港を求め
大航海時代に乗り遅れまじと南下政策に転じていたのである。この混乱や領土争いは、
そのまま無知なる中国大陸を治めていた清国に影響を及ぼした。かつて明は「駅站」と
呼ばれる駅伝制度を敷いていた。それは6世紀頃にも日本に伝わり8世紀頃に完成した
と言われる通行機関だった。日本書紀に大化2年(646年)の詔勅に 「初めて京師を修
め、畿内の国司、郡司、関塞、斥候、防人、駅馬、伝馬を置く」とあり、大化の改新に
際して、政治・軍事と共に交通制度の全国的連絡網の整備を行うことで中央政権を作っ
てきたシステムだった。だが明王朝時代に情報の大切さを捨てたのか 崇禎帝の時代に
経費節減のため廃止された。こうして駅站廃止で失業した者は路頭に迷い、農民反乱を
起こす。延安府米脂県(現在の陝西省)出身の李自成もその中の一人であったが、天啓
7年(1627年)・崇禎元年(1628年)に陝西で起きた大旱魃をきっかけに反乱が頻発し
、李自成もそれに参加した。その間に朝廷は満州族対策に追われてしまい満足には反乱
対策を行えなかった。これに乗じて反乱は勢力拡大し、山西を制圧し、北直隷(河北省
)まで迫る。北京を陥落させて崇禎帝を自殺に追い込み、明を滅ぼした。李自成の軍が
北京城に入城した際には、市民のみならず官兵まで崇禎帝を見捨て、隊列をつくってこ
れを歓迎した。北京に入城した李自成たちは、ここで皇帝となる諸手続きや儀式の用意
をし。入城後は、殺人鬼の張献忠の軍が合流し 厳正であった軍規も次第に無くなり、
略奪・強姦・殺人が横行していた。その頃、満州族は1616年に満洲において清を建国し
ロシアからの侵略に次第に南下して中国を攻めて行った。こうして李自成軍を滅ぼして
1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝を作った。首都を瀋陽
を置き、後に北京に置かれ中国を安定に向けた。満洲族は愛新覚羅氏が建てた征服王朝
で、外来王朝として存在した。これまで明王朝が采配して止めて置いた騎馬民族モンゴ
ルの満州族がロシア皇帝から逃げて来たコーカサスの民に浸食された始めたからでもあ
ったと言える。


802: 名無しさんAA:17/10/28 23:18
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 444-----------

 清国建立されると19世紀から20世紀初頭にかけては、清王朝には災難が押し寄せ
る。早速外国船が交易にやってきては砲艦外交に及んだのである。今だ内乱が収まらな
い中でアヘンが販売され人民は愚民になった。アヘン戦争や太平天国の乱やアロー戦争
(第二次アヘン戦争)による清国内の混乱に乗じた列強の圧力は強かった。列強から結
ぶことを余儀なくされた仏英などの不平等条約に対して、遅れてやって来たロシア帝国
は仲介に入って、東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーが、停泊中
のロシア軍艦から銃砲を乱射して、調印しなければ武力をもって黒竜江左岸の満洲人を
追い払うと脅迫し、清国全権・奕山に認めさせた。こうして列強と結ぶことを余儀なく
された不平等条約がアイグン条約と1860年の北京条約であった。この条約で確定され、
条約によって1689年のネルチンスク条約以来、清国領とされてきたアムール川左岸をロ
シアが獲得し、ウスリー川以東の外満州(現在の沿海州)は両国の共同管理地とされた
。また、清国はロシアに対してアムール川の航行権を認めた。それらは現在でもロシア
連邦と中国の極東部での国境線は、このアイグン条約と1860年の北京条約で確定された
ものが基本となっている。こうして南下政策で清国からまんまと不凍港域をせしめた事
が勢いづかせ、金角湾建設の為にロシアは対馬占領に出た。実は日本人はかつてツング
ース族との交易にウラジオストックに日本人街を持ち金角湾と称していたのである。こ
の湾は現在も東のゴルドビナ岬と西のチグローヴイ岬の間にあり、北西はシュコタ半島
に囲まれた絶景地である。湾の長さは7km、幅は2kmで、水深は20m〜27m湾の両側
は丘陵に囲まれた穏やかな土地だ。海岸線には今や埠頭や造船所が、丘の上には住宅地
がびっしりと続き、最奥部の丘の上にウラジオストク市街中心部がある。波から守られ
た天然の良港で、ウラジオストク市街は湾を挟んで二分されているため交通の便が悪い
状態が続いている。かつての金氏の土地の角地と言う意味で金角湾と呼ばれていただが
、この地の本格的経営をロシアが乗り出した事で、此処に対馬事件が起こったのである
。だがこの事で ロシアは日本人から恨みを買った。強奪や婦女暴行など蛮行が起こっ
た事で一部の人間がこの対馬から逃げて日本本土に渡ったし 当時の瓦版でもその様子
は後に「御露西亜おそろしあ」と噂が流れ、それがロシア皇帝を襲った津田巡査の大津
事件を引き起こして、日露戦争の賠償金拒否まで及んだのである。


803: 名無しさんAA:17/10/28 23:26
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 445-----------

1861年の時代は桜田門外の変によって井伊直弼が暗殺され幕府の威信は揺らいだ。
そんな中、倒れかけた幕府を立て直すために老中・安藤信正はひとり気を吐き、日普修
好通商条約の締結に際して外国奉行の堀が、安藤の逆鱗に触れ切腹した後は、小栗がそ
の後任として外国奉行に就任したのである。この頃は外国人が上陸を許可され日本の事
情を知らない外国人の蛮行に各奉行所は手を焼いていた。そんな幕府に立て続けに起こ
った事件が薩摩藩士によるアメリカ公使の書記官ヒュースケンの殺害事件と対馬占拠事
件だった。ヒュースケン殺害事件はアメリカのみならず各国の通訳をしていた為各国か
ら非難が巻き起こり、一斉に各国の公使館が江戸から引き揚げた。幕府はこの件を解決
するために銀貨1万ドルを遺族に支払う事になった。薩摩藩はこの件を黙殺し、反省も
なく後に生麦事件を引き起こして再び幕府に尻拭いをさせた。対馬占拠事件は1861
年2月3日に、ロシアの軍艦ポサドニック号が突如対馬の西海岸に停泊し、乗務員を上
陸させ対馬の領主・宗義和に面会を強要した事に始まる。対馬藩は10万石の外様大名
で、とてもロシアの軍艦を追い払える筈もなかった。ロシアとの領土問題は、安政元年
(1854年)の日露和親条約によって決着していたので、幕府にとっては「寝耳に水
」であった。対馬はイギリスが対馬の租借権を要求した事もある要所で、強引に対馬の
測量を行った時もあった。この時もロシアはもしもイギリスが実力で対馬を占拠した時
は、日本と共に協力してイギリスを撃退して良い、との申し出もあった。幕府は直ぐに
外国奉行の小栗を対馬に送り込ませた。が、小栗が5月10日に対馬に到着したときは
、すでに艦長のピリレフは対馬に兵舎の建築などを始めていた。対馬の住民との間では
一触即発の緊張が漂い、しかも、対馬の家老は、勝手に藩主との面会約束をしていた。
小栗とピリレフと会談は再三に渡り行われ、ピリレフは家老との約束を盾に藩主と面会
を要求したので、江戸に伝え老中に指示を仰ぐが、返答は即刻破棄だった。この第一回
の会談でロシア側は贈品謝礼を口実に藩主への謁見を強く求め、小栗は謁見を許可する
旨を回答。第二回の会談で小栗はロシア兵の無断上陸を条約違反であるとして抗議。第
三回会談で藩主謁見の実現を求めるビリリョフに対し小栗は(老中安藤信正に謁見は対
馬居留を認めることになるので許可できないといわれたので)前言を翻し謁見はできな
いと回答。話が違うとビリリョフは猛抗議を行ったが、小栗は「私を射殺して構わない
」と言い切り交渉を押し切った。さすがのピリレフもその小栗の姿勢に対して敬意を抱
き、さすがに小栗を討って事を運ぶわけにはいかないと藩主との面会は断念することで
、対馬会談は終了した。

804: 名無しさんAA:17/10/28 23:42
 だが事態の推移は膠着のままで5月19日に小栗が対馬をたって江戸にもどったが、
ロシアの軍艦はまだ対馬に居座ったままだった。帰途の途中、小栗は事件の解決方法と
日本という国が抱える外交政策の重要な問題に対して思いを巡らせていた。江戸に帰っ
た小栗は次のような報告を幕府に提出した。「ロシアの軍艦を追い払う能力が対馬にな
い以上、ロシア領事を通じてロシア本国に外交ルートで抗議を行うより他はない。それ
でも解決しない場合、国際世論に訴えて、国際正義の立場からこれを解決してもらうよ
り手はない。そして、今後にもこのような事態になった場合、日本は軍事力によってこ
れを排除できるように一刻も早く軍事力の整備を行うより他はない。」と提言した。こ
れは対馬のみならず、今後も幕府を通さず藩主と直接交渉しようとする事態が起こらな
いとも限らない。直ぐに島嶼地域の対馬を幕府の直轄領とする事と同時に、外国に対す
る幕府の権限を各藩に示しその範囲を明確にしておかなければならない。と考えた。が
、対馬の直轄領化は見送られたし、軍事力の整備や軍隊や軍船を作る造船所すらなんら
動きはなかった。小栗は盛んに老中に話すが埒が明かず、遂に外国奉行の任を辞した。
それでも老中は外国奉行として函館に行きロシアとの交渉を行うように命じたが、函館
奉行は、小栗が最も信頼していた村垣淡路守であり、面目を潰すことになると考えた為
小栗は、村垣に全て任せるように幕府の要人に伝えて、自分の屋敷へ籠ってしまいまし
た。思いあぐねた老中安藤信正に、一計を用意したのが、勝麟太郎だった。安藤はその
策を受け、表では函館奉行とロシア公使の交渉を行いながらも、裏ではイギリス公使を
呼び、対馬におけるロシアの状況を伝えた。かつて、対馬を租借しようとした経緯のあ
ったイギリスは直ちに行動を移し、7月20日には軍艦2隻を対馬に送り込んだ。そし
て幕府の役人や通訳も同乗してのイギリスはロシアの話し合いがあり、厳重に抗議され
たピリレフも又、ここでイギリスの軍艦と事を構えるわけにはいかないとやむなく退去
した。だがこの時も文久2年(1862年)1月に、和宮降嫁問題によって恨みを抱いてい
た尊王攘夷派の水戸浪士の襲撃を受け、負傷したが一命は取り止めている(坂下門外の
変)。しかもその直後、包帯姿でイギリスの公使ラザフォード・オールコックと会見し
ているのだった。このとき、オールコックは負傷しながらも幕府の権力者として意地を
見せる信正の姿に感嘆したという。後で、勝は『氷川清話』の中で「彼をもって彼を制
す」と胸を張ったが、しかし、イギリス公使オールコックの報告書では、イギリスも又
機会さえあれば対馬を武力で制圧し拠点にしようとしていた事が記されている。そして
、今回の事件はその絶好の機会だったことも記されていたが その頃植民地の軍事予算
に追われていた本国は穏便に済ます事を支持し平和裏に進める事を命令していた。当時
の日本が綱渡りにも似た如何に危ういバランスの中で、成功していたかが伺える。

805: 名無しさんAA:17/10/28 23:46
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 447-----------

 小栗上野介は三河以来の由緒ある名門の出で、本人も秀でた能力を持つエリートでし
た。又彼ほど明治政府の為になった徳川の幕臣もいないだろう。勝海舟は旗本とはいえ
41石の貧乏旗本にすぎませんでした。常に正攻法で行動する小栗に対して、能力を磨
くだけでなく下から這い上がるための力を身につけなければならなかった勝海舟とでは
、同世代の人間としてはかなり違った人生を歩んだ。この事件は、その性質の違いが出
た一つ事件だったともいる。「幕府の運命も難しい。費用をかけて造船所を作っても、
完成した頃に幕府がどうなっているかわからない」。そんな言葉が小栗に向けられてい
たが、元治元年(1864)、勘定奉行の小栗上野介忠順は、幕府の財政が逼迫していること
を承知の上で、あえて製鉄所(造船所)建設を幕閣に提唱します。製鉄所建設は、日本が
近代化に向けて必要な工業力の源になると考えたからでした。しかし、「幕府の屋台骨
が揺らいでいる時に、将来への投資などできるか。」という反応は当然返って来ていた
。これに対し、小栗は言います。「仮に幕府の運命に限りあるとも、日本の運命には限
りがない。私は幕臣である以上、幕府の為に尽くすべき身分だが、それも結局は日本の
為である。幕府のしたことが長く日本の為となり、徳川の仕事のおかげだと後に言われ
れば、徳川家の名誉ではないか。国の利益ではないか。同じ売家にしても土蔵付き売据
えの方がよい。」と持論を展開した。小栗の先祖は家康以来、代々徳川家に仕える譜代
の家臣だが、その小栗家の当主が、幕府の為よりも日本の為になるか否かを最優先事項
として考えていたのは先見的視野だった。小栗の提案は承認され、フランスの協力を得
て慶応元年(1865)より建設が始まった。蒸気機関を動力とする横須賀製鉄所(造船所)で
は、小栗の読み通りその後はこの製鉄所から日本の近代化は始まることになったのです
。一方で小栗は、次のような言葉も発しています。
「病〈やまい〉の癒〈い〉ゆべからざるを知りて薬せざるは孝子の所為〈しょい〉に
あらず。国亡び、身倒るるまでは公事に鞅掌〈おうしょう〉するこそ、真の武士なれ」
(親の病気が、もう治る見込みがないからといって、薬を与えないのは親孝行ではない
。たとえ国が滅びても、この身が倒れるまで公事に尽くすのが、真の武士である。)と
この場合、親というのは、肉親のことではなく、徳川幕府を指しています。今の日本に
必要なのは近代化であり、幕府が倒れるか否かが問題なのではない。だが一方で自分は
幕臣である以上、無節操に幕府を見限ることはしない。幕府が幕を下ろす最後の時まで
、最善を尽くすのが真の武士ではないか…。小栗上野介忠順とは、そんな男でした。


806: 名無しさんAA:17/10/28 23:52
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 448-----------

 こうして慶応3年(1867)、最後の将軍・徳川慶喜は、京都で大政奉還を行ない、自ら
幕府政治の幕を引きました。これに対し、薩摩藩を中心とする討幕派は、御所を固めて
「王政復古の大号令」を決行。クーデターでした。さらに新政権には慶喜を参画させず
、辞官納地を要求します。陰謀の中で新政権を誕生させ、さらに挑発する薩摩に旧幕府
側は激怒し、戦端を開いたのが翌慶応4年1月の鳥羽・伏見の戦いでした。ところが薩摩
・長州らの新政府軍が、偽造した「錦の御旗」を掲げると、前将軍慶喜は腰くだけにな
って、将兵を置き去りにして江戸に逃げ帰ってしまった。これで慶喜以下、旧幕府側は
賊軍の汚名を着せられました。事の成り行きを江戸で知らされた小栗は、はらわたの煮
え返る思いであったでしょう。「幕府政治ではもはや立ち行かないことは、我々幕臣も
承知している。だからこそ上様は大政を奉還申し上げ、近代化にふさわしい政体を求め
ようとされた。それを薩長の者たちは、上様を締め出し、戦いへと誘い込んだあげく、
旧幕府側を朝敵呼ばわりするに至った。こんな姑息な手を用いる者たちに、日本の近代
化など託せようか」。そんな心境であったはずです。慶喜の江戸城帰還後に行なわれた
1月12日の評定で、小栗は徹底抗戦を主張しました。「このまま、旧幕府側が賊徒と
され、260年間の治世も否定されたあげく、黙って新政府軍に討たれるなど、全く筋
の通らぬ話。武士の心も踏みにじる汚い者たちに、近代国家の何たるかなどわかるまい
。無理は押して通せぬことを、我らが知らしむべきであろう」。そんな思いから、次の
ような作戦を言った。「新政府軍が箱根の関内に入ったところを陸軍で迎撃、同時に、
榎本武揚率いる幕府艦隊を駿河湾に突入させて後続部隊を艦砲射撃で足止めし、分断。
箱根の敵軍を孤立させて殲滅する。」と。実際、この話を後に聞いた新政府軍の指揮官
・大村益次郎は、「もし、その策が実行に移されていたら、今頃、我々の首は胴から離
れていただろう」と戦慄したといいます。しかし、前将軍慶喜は首を縦に振ることはな
く、そそくさと評定の場を立ち去ろうとしました。小栗は慶喜の袴のすそをつかみ、「
上様、お待ちくだされ。ご決断を」と訴えると、「無礼者」と慶喜は小栗の手を払い、
奥へ消えました。ほどなく小栗は御役御免となります。免職となった上野介は、彰義隊
や会津藩への協力を誘われますが、「新しい政府に内紛が起こり、国内が混乱し外国に
乗じられるようなら自分の役目もあろう。その心配もなく過ごせるならば、前政府の頑
固な一人として静かに世を過ごすつもり」と言って断りました。

807: 名無しさんAA:17/10/28 23:56
小栗にすれば、「国亡び、身倒るるまでは公事に鞅掌するこそ、真の武士なれ」の実践
をした。ということだった。やるべきことをやり、その結果、主君に疎まれたのならば
、もはやこれまで。後は領地の上野国権田村に退いて、静観するのみ。と心に決めて隠
遁生活に及んだのだった。前将軍の徳川慶喜は非常に頭の良い人間だったに違いない。
イギリス公使オールコックは元々は長崎の公館にいた。それが横浜に開港されて横浜の
東禅寺を公使館として使用し、その後も江戸幕府により品川御殿山に公使館が建設され
ていたが、完成直前の1863年1月31日(文久2年12月24日)に高杉晋作らによる焼き討ち
にあって(英国公使館焼き討ち事件)、使用されることはなかったが、こうした民衆の
崇めた景観の良い一等地を使用していた。彼自身はそうして風光明媚な土地を訪れる事
が好きだったようだ。この横浜公使館の江戸に帰る際、幕府は安全上の懸念から海路で
の移動を勧めたがこれを押し切り陸路で出発。江戸に戻るまでに、京都見物、富士山登
山などを経て江戸に到着した。これは日本の庶民に反感を持たせた。まず京都の寺院で
の参詣も霊峰富士の登山でも その頃の庶民にとって大和民族の心の礎であり、外国人
に土足で入り込むその行為は死罪に値した。事実日本人でさえ罪人や馬上では入れない
神域であった。これを難なく横暴に入り込む様は日本人には許せない行為であった。そ
こに事件が起こった。水戸藩を脱藩した攘夷派14人が150名前後の警備兵により守
られていた公使館に侵入し襲撃した。特に富士山は古くから霊峰として崇められてきた
日本のシンボルで富士山信仰のある中で「神の国日本が穢された」と感じ、襲撃を決意
したと言われる。浪士が携帯していた襲撃を決した書面には「尊攘の大義のため」と書
かれていた。この東禅寺事件が起こった後も一時は公使館を変えていたがまた戻した処
に第二東禅寺事件が起こった。第一次の襲撃だったのに対し第二次事件は一人によって
なされたが松本藩士・伊藤軍兵衛は東禅寺の警備兵として、その任が藩の多大なる負担
に耐えかねて犯行に及んだ。夜中にニールの寝室に侵入し暗殺を試みますが警備のイギ
リス兵2名に発見され戦闘となり、この警備兵2名は伊藤により絶命。自身も負傷し、
一旦松本藩番へと逃れ後に自刃しました。こうして遺書を書き「国中のため、ご藩主様
の御為と想い、偉人を打取ろうと思い狙っていた処四方神力の恵みにより首尾宜しく打
ち取ることができました。恐れながらご公儀に御届け申し、心のまま申し上げ、その後
いかなる罪にても仰せこうむります。これに付き、ご藩主様へ何かあっては不忠第一に
なるので屋敷を出奔し、浪人となります。ご詮議があればこの通りにお答えください」
と書き綴り遺書内には、「警備をおおせつかって向かったが、婦人をつれて江戸見物を
するとのこと、誠に心外」と伊藤のイギリス公使館に対する怒りが綴られてもいた。

808: 名無しさんAA:17/10/28 23:58
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 450-----------

 前将軍の徳川慶喜の前に立ちふさがっていたのは賠償金問題だったと言える。この時
の事件でも賠償金を伴う事件となり、第一次に対して1万ドル、3億7500万円(1
両5万円計算)、第二次に対して1万ポンド、15億円もの金額が支払われることが要
求されている。更に薩英戦争での30万ドルや長州の馬関戦争で300万ドルと言う、
多額の賠償金問題が発生していた事だった。更に各地で起こった欧州人の襲撃事件が幾
多もあり、この事を充分に承知していたと言える。全体に500万ドルとすれば2千5
百億円程度の金が賠償金で仏英米から請求されていた事になる。当時、第一次東禅寺事
件で罰せられた水戸藩浪士の残党が再度襲撃をするという噂が流れてた上に、英国新聞
にもこの事件は記事なり、当然イギリス公使オールコックは日本での英国大使が退任さ
れ新たにラザフォード・オールコックから当時の中国公使をしていたハリー・パークス
に変わった。パークスはかなりの人と会って日本の現状を知る者だった。家族を迎える
ための上海に向かう途上は、長州藩の高杉晋作や伊藤博文と会談し、1866年の米仏
蘭と幕府との改税約書に調印した後は。グラバーの仲介で鹿児島に行き薩摩藩主・島津
茂久や、その父・島津久光・西郷隆盛・寺島宗則と会見している。第二次長州征伐勃発
直後は、フランス公使レオン・ロッシュと共に、下関で長州藩桂小五郎・伊藤博文らと
、小倉で幕府老中小笠原長行と会談し、両者の調停をはかった。その後も、宇和島藩を
訪問し、前藩主・伊達宗城らに会っている。年末に、公使館を横浜から江戸の泉岳寺前
に移転し、翌年江戸で米価高騰による米騒動を目撃すると、幕府に勧めて外国米の輸入
販売を許可する布告を発布させた。箱根に旅行。大坂で徳川慶喜に謁見しこの時、慶喜
はまだ勅許を得ていなかったが、期限どおり兵庫を開港することを確約した。と言われ
る。パークスは、このときの慶喜の印象を「今まで会った日本人の中で最もすぐれた人
物」と語り絶賛した。敦賀視察の後、大坂から海路江戸に帰ったがイギリス海軍教官の
受け入れ準備のため軍艦奉行・勝海舟と交渉し、軍艦スナップ号(後にバジリスク号)
で箱館から日本海を南下し、新潟・佐渡・七尾を視察した後に、長崎を経由し大坂に行
っている。察するにこの大坂で徳川慶喜に謁見した時に、この賠償金問題と開港問題に
スムーズに行かなければ中国の様に本国から占領ないし攻撃命令が出る事を示唆したと
思われる。つまり徳川慶喜は無駄に日本人同士が戦い、更に外国人の攻撃や敵対国を受
け入れて中国の様な内乱になれば 植民地化する事を大阪城の謁見により悟ったと思わ
れるのである。又パークスはそれだけオールコックより日本に親しみがあったと言える


809: 名無しさんAA:17/10/28 23:59
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 451-----------

 こうして徳川慶喜の判断で小栗は生まれ育った江戸を離れ、その家族・家臣が住んで
いる権田村(現在の倉渕村)の東善寺に3月1日入った。小栗は村の若者達を教育して、
国際化する新時代に役立てたいと考えていました。しかし、到着早々、不穏な状況とな
る。小栗が所有する莫大な財産を奪おうと、博徒らが焚き付け近在の村の者を集めて、
その数千人近くに達して襲って来たのだ。もちろん小栗にめぼしい財産などなく、恐ら
く小栗の権田村退去を軍事作戦の一環として新政府軍の何者かが背後にいたのでしょう
。あれだけの戦略を披露したのだから、それだけ新政府軍にとって小栗は怖ろしい存在
であったに違いなかった。しかし、小栗らは家臣全員で僅か20人でそこへ暴徒と化し
た千人が、襲いかかってきた。すぐさま小栗は村の若者たちの応援を得た上で、フラン
ス式調練を受けさせていた家臣らと共に鉄砲で先制攻撃をさせた。正確な射撃で暴徒ら
が次々と撃たれると、彼らはクモの子を散らすように逃げ去りました。こうして窮地を
免れた小栗らでしたが、これが新政府軍の口実となった。その後、小栗らは自分たちが
暮らす屋敷を建て始め、年老いた母や身重の妻らも、少しずつ山村の生活に慣れていき
ました。しかし屋敷の建て前も間近という閏4月1日、突如、高崎、安中、吉井三藩の
使者が小栗を訪れ、新政府軍の回文を見せた。そこには東山道総督府の名で、三藩の藩
主に、小栗が陣屋や砲台を築いて容易ならぬ企てを抱いているので、その追捕し手に余
る場合は討ち取るべしという命令が記されていました。小栗は使者に身の潔白を訴え、
養子の又一に高崎藩主に説明させることにした。しかし、又一は高崎で捕らわれの身と
なり、5日小栗は東善寺を囲んだ東山道総督府指揮の三藩の兵に有無をいわさず捕縛さ
れた。そして翌日朝、小栗は家臣3名と共に取調べもないまま水沼の烏川河原に引き出
され、「小栗上野介 右の者朝廷に対してたてまつり大逆企て候明白につき 天誅をこ
うむらしめしものなり」という無実の罪を着せられて、斬首されたのです。享年42歳
だった。3人の家臣も、また高崎で捕らわれた又一と家臣も処刑されました。小栗はも
とより、彼らには何の罪もありません。罪人として首を打たれる時、果たして小栗はど
んな心境であったのか、小栗本人にしか知る由はない。その後明治38年(1905)の日本
海海戦で勝利した連合艦隊司令長官東郷平八郎は、自宅に小栗の子孫を招き、「日本海
軍が勝利できたのは、小栗さんが横須賀造船所を建設してくれていたおかげ」と言って
、感謝したといいます。小栗へのせめてものはなむけかもしれません(Wikipediaより)


810: 名無しさんAA:17/11/05 18:32 ID:LUE
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 452-----------

 小栗は最後の将軍慶喜に信頼されて外国奉行や勘定奉行を要職を歴任して財政の建て
直しを図り横須賀製鉄所の建設、日本初のフランス語学校を設立などに手腕を発揮して
いる。鳥羽伏見の戦いに際しては主戦論者でしたが、主戦論者は小栗以外にも大勢いた
。小栗はその後罷免されて領地の上野の権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町権田)に一
族とともに静かに暮らしていたところへ新政府軍が来て捕縛し、取り調べもせずに斬首
となった。小栗は安政7年(1860年)、遣米使節目付(監察)として、正使の新見正興
が乗船するポーハタン号で一緒に渡米している。2ヶ月の船旅の後、サンフランシスコ
に到着するが代表の新見より目付の小栗が代表と勘違いされる程の威厳があった。行く
先々で取材を受けたが勘違いの理由として、新見をはじめ同乗者の多くは外国人と接し
たことがなく困惑していた為と言われる。小栗は詰警備役として外国人と交渉経験があ
る為落ち着いており、代表に見えたとされ「目付とはスパイのことだ。日本(徳川幕府
)はスパイを使節として同行させているのか。」という嫌疑さえを受けたという。フィ
ラデルフィアでは通貨の交換比率の見直しの交渉に挑んだ時。「これは日米修好通商条
約で定められた交換比率が不適当で、経済の混乱が生じていたためである。」と小栗は
小判と金貨の分析実験をもとに主張の正しさを証明したものの、比率の改定までは至ら
なかった。しかしこの交渉に関して、多くのアメリカの新聞は絶賛の記事を掲載する。
また小栗はワシントン海軍工廠を見学した際、日本との製鉄及び金属加工技術などの差
に驚愕し、記念にネジを持ち帰った。こうした事で文久2年(1862年)、勘定奉行に就
任し幕府の財政立て直しを指揮する。当時、幕府は海軍力強化のため44隻の艦船を、
諸外国から購入しており、その総額は実に333万6千ドルに上った。と言われる。こ
の時の購入は1千5百億円である。この売買に当時の幕閣が汚職や賄賂があると見た者
がいても不思議ではない。又小栗が、駐日フランス公使レオン・ロッシュの通訳メルメ
・カションと親しかった旧知の栗本鋤雲を通じて、ロッシュとの繋がりを作り、製鉄所
についての具体的な提案を練り上げた事に、英国は腹立たしい思いがあったのだろう。


811: 名無しさんAA:17/11/05 18:32
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 453-----------

この頃から既に坂本龍馬がグラバー邸を通じて時のフリーメイソンからの資金を得てい
た事と当時フランスとイギリスが戦争していた事を思えば それが裏にイギリスの影響
があったと考えてもいいだろう。この後徳川慶喜や幕府閣僚、会津藩主の松平容保らは
死罪になっていない。恐らく新政府が英国の影響が多分にあり新政府も又英国の援助に
気を使っていたからだろう。幕府に最後まで抵抗して戦った榎本武揚・大鳥圭介も死罪
にはならず投獄され、その後に許されて明治政府に出仕している事から、一つは隠され
た財宝の噂とイギリスの意向が無かった事が裏にあると言える。逆に言えば勝が助けな
かった為だろう。この取り調べも裁判もない斬首の死刑は 地元に反対者が多くいた筈
だが、時の東山道総督府指揮板垣退助に誰もまず彼の延命の嘆願をしてない。更に彼の
防備が銃によるものだった事が新政府には脅威だった可能性も高い。後で明治政府の要
職についた大隈重信は「小栗は謀殺される運命にあった。何故なら明治政府の近代化は
、そっくり小栗のそれを模倣したものだったからだ。」と語っている。暗に東征大総督
有栖川宮熾仁親王(皇族)参謀 正親町公董(公家)、西四辻公業(公家)や東山道先
鋒総督府参謀 板垣退助(土佐)、伊地知正治(薩摩)奥羽鎮撫総督 九条道考(公家)
同副総督 沢為量(公家) 同参謀 醍醐忠敬(公家)同下参謀 大山綱良(薩摩)世良
修蔵(長州)などを批判しているのだが、この公家達が疎ましく実力の無い事に易癖し
ていた新政府が、模索して得た功績は小栗の功績そのものだったと言える。近代日本の
建設に大きな役割を果たした横須賀造船所を創設した小栗忠順の功績を認めたくはなか
ったのだろう。また小栗忠順は官軍との徹底抗戦を主張していたが、勝海舟は幕府を平
和のうちに滅亡させて徳川家を存続させたいと奔走していた。その為にどうしても彼が
生きて居る事が邪魔で排除したかったなどの説がある。小栗忠順という気宇の存在を否
定した明治政府、徳川家存続のため彼が邪魔だった勝海舟、薩摩藩邸焼き討ち事件など
で小栗を恨む勤皇の志士達、彼らは全てが、英国支援のコネクションによって結びつい
ていた事などが、決して小栗の処刑を止める人間はなかったということになる。また、
小栗が領地に莫大な埋蔵金を隠していたとする説が処刑当時から根強くある。これは、
財宝・軍資金を必要だった官軍側が「一戦交えようとの企てがある」という疑惑をして
処刑の斬首を後押しした可能性も高い。その後埋蔵金にかかわる証拠は見つからず、当
時逼迫していた中で幕府の金蔵に持ち出せる大金などあろうはずもなく、小栗の「理由
なき処刑」を正当化するために流された流言蜚語だったという悲しい現実だった。


812: 名無しさんAA:17/11/05 18:32
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 454-----------

更にこの小栗斬首がフリーメイソンからの司令である理由はもう一つある。フラデルフ
ィアでの通貨交渉である。交換比率の見直しの交渉に挑んだ時。「これは日米修好通商
条約で定められた交換比率が不適当で、経済の混乱が生じているための交渉である。」
と小栗は小判と金貨の分析実験をもとに主張の正しさを証明し、比率の改定を求めた。
これは最終的に比率改定に至らなかったが、至極正論で理路整然とした会議であったろ
う。しかしおそらくユダヤの金融資本や米国政府の金庫番には2割ほどの減額になるこ
の申し出は全く恐ろしい話であった。そしてこの交渉に関して、多くのアメリカの新聞
は絶賛の記事を掲載した事が多くの者の耳に入ったはずだった。恐らくこの江戸幕府だ
けがユダヤに支配戦略である「背後からこれらの対立を操縦することで、金融資本家は
世界秩序を維持してきた。世界秩序は、世界を実体とみなすあらゆる力と実体を否定し
ている。テーゼ(正)−アンチテーゼー(反)−ジンテーゼ(合)の原則に基いて機能
し、前もって決められた結論(合)に向けてテーゼ(正)とアンチテーゼ(反)が対立
して終わる。世界秩序はユダヤ人グループを組織して資金を提供する。次に、反ユダヤ
グループを組織して資金を提供する。また、共産主義グループを組織してこれに資金提
供し、反共産主義グループを組織して資金を提供する。必ずしも世界秩序がこういう、
グループ同士の対立を煽る必要はない。彼らは赤外線追跡ミサイルのように相手を見つ
け出し、確実に破壊しようとする。それぞれのグループの規模と資源を調節することで
、世界秩序は常に前もって結果を決めておけるのだ・・・・サットン 『連邦準備銀行
の陰謀』より」の攻略が出来なかった唯一のものだったかも知れない。それは蒸気船の
時代まで この国は自力で船をこさえ兵器を作り 各国との調和を果たし植民地になら
ず済んだ唯一の国だったからだ。他はトルコが帝国としてあったが日本の様な小国では
ない。この決められた結論である「植民地」や「傀儡国家」にならなかった国が何度も
米国から攻められている認識が途絶えて 第二次世界大戦で敗戦の憂き目にあったのだ
この中にある金融資本家は災害によって今後一気に冷え込むアメリカの経済に一体どん
な手立てを打つのだろうか。横断鉄道インフラも犯罪抑止の銃器削減プログラムも政権
の汚職や権力を取り締まる格差是正も全くない中で 何処に正義が求められようか。


813: 名無しさんAA:17/11/05 18:37
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 455-----------

 この明治移行期に英国公使について居たのはサー・ハリー・スミス・パークであった
。キャリア・ディプロマット(職業外交官)の名声をほしいままに持っていたのは 彼
が清国で捕縛までされながら貫いた意志の強さからであった。彼の外交スタイルは正に
威厳を地で行く「怒号外交」と言われた。パークスの権限はぞの情報の密なるをもって
支えられていた。それは前任公使オールコックに代って、至ってシンプルに中立を行い
諜報員への精悍な統率力は秀でていた。オールコックは目にみえて統治力の低下して行
く幕府よりも上の政治的権威をもったミカドが存在しその強権での開国を迫る事を望み
その為に薩長両藩に対しても戦闘し優越出来る外交方針で臨んでいたが バークスは、
本国指令に忠実に、軍隊を展開した政治的勢力を求めず、単にに貿易の発展のみを求め
る姿を求めていた。その為より客観的な視野の開国を迫っていた。江戸城無血開城の裏
に働いたパークスの官軍に対する抑判行動や兵庫商社を設立して貿易独占を企てた幕府
に激しく抗議した事などはその良い例であろう。情報については薩摩藩士が兵庫開港に
反対する上書を朝廷に提出した写しまで入っていると言う緻密さである。だがパークス
赴任当時から「長官がいつも使うあの傲慢な言葉の通訳をつとめることにはいささか参
っていた。」と通訳のアーネストサトウはその気苦労を吐露している。こういうパーク
スの威嚇と互角にわたり合えることは、だから日本の外交当局者たちにとっては一つの
試練であり課題であった。造幣局の開業日の時には、喜んで出席したにも拘わらず、祝
辞の終りで「当局の措置宜しきを失し、貨幣の真価を紊(みだれ)るような事があれば
、国家の信用を破壊すること正に斯の如し」といって手にもっていたシャンペンの杯を
卓上に投げつけ木端微塵に打ち砕いたという逸話さえある。伊藤博文はその姿に「彼の
吾輩等に対する態度は、まるで教師が生徒に対する態度じゃった。文明の政治というも
のはこういうものじゃぞと言いたげな風で、すっかりその指南役に成りすまして居った
。」と述べている。がそれでも日本政府は 外国文明を導入する必要性は高く切実であ
り、鉄道・電信どれ一つの施設をとっても、西洋諸国の斡旋が必要であったし、制度・
文物をとり入れるにも「お雇い外国人」を紹介してもらわなくてはならない。そうして
やっと日本の開国化はそのまま条約改正の悲願達成につながるものだ。と知っていた。
威嚇を楯に不平等条約をあくまで押しつける彼にも西洋嫌いの国粋主義政治家らに対抗
して、英国本国の指令を全うし、威厳を用いて身を守る必要があった事も確かだった。

814: 名無しさんAA:17/11/05 18:37
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 456-----------

明治維新後の軍部は、西郷隆盛の薩摩閥と大村益次郎の長州閥が勢力を二分したが、西南戦争で西郷隆盛と共に桐野利秋・村田新八・篠原国幹ら薩摩閥を担うべき人材が戦死、大山巌や西郷従道は残ったものの長州閥が俄然優勢となった。長州藩の木戸孝允・大村益次郎・伊藤博文は文民統治を重視したが、運よく奇兵隊幹部から長州軍人のトップに納まった山縣有朋は木戸の死でタガが外れ、長州閥で陸軍を牛耳り政治に乗出して軍拡を推進、伊藤の没後は直系の桂太郎・寺内正毅・田中義一を首相に据え政府に君臨した。外征志向の山縣有朋は強大な軍隊を志し、プロシア流の皇帝直属軍すなわち「天皇の統帥権を大義名分とする自律的な軍隊」の建設に邁進、軍事予算の獲得と外征に励みつつ軍部大臣現役武官制などで文民統治を排除した。「金があれば早稲田の杜を水底に沈めたい」ほど政党嫌いの山縣有朋は自由民権運動の弾圧に執念を燃やしたが、これも「国民の軍隊」を作らせないための自己防衛であった。大村益次郎の遺志を継いだ山田顕義と三好重臣・鳥尾小弥太・三浦梧楼・谷干城らはフランス流の市民軍を構想し「外征を前提とした軍拡は国家財政の重荷となりむしろ国力を弱める」と正論を説いたが、山縣有朋は官有物払下げ事件に乗じ山田一派を追放、思惑どおり政府や国民の干渉を受けない自律的な軍隊を作り上げた。山縣有朋は死ぬまで極端な長州優遇人事を貫いたが、優秀な野津道貫・児玉源太郎らが死ぬと人材が枯渇、山縣の死の前年に「バーデン・バーデン密約」を交し長州閥打倒で結束した永田鉄山・小畑敏四郎・東條英機・石原莞爾ら中堅幕僚「一夕会」が下克上で陸軍を乗取り満州事変・日中戦争・仏印進駐・対米開戦へと暴走した。一方、当初陸軍の一部だった海軍では、薩摩人の山本権兵衛が西郷従道を擁して大胆な組織・人事改革を行い日清・日露戦争の活躍で陸軍から完全独立、出身地に拘らない人材登用で加藤友三郎(広島)・斎藤実(仙台)・岡田啓介(福井)・米内光政(岩手)・山本五十六(越後長岡)・井上成美(仙台)・鈴木貫太郎(下総関宿)らを輩出したが、後継指名した伏見宮博恭王が艦隊派首領となり対米開戦を主導した。


815: 名無しさんAA:17/11/05 18:39
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 456-----------

明治維新後の軍部は、西郷隆盛の薩摩閥と大村益次郎の長州閥が勢力を二分したが、西
南戦争で西郷隆盛と共に桐野利秋・村田新八・篠原国幹ら薩摩閥を担うべき人材が戦死
、大山巌や西郷従道は残ったものの長州閥が俄然優勢となった。長州藩の木戸孝允・大
村益次郎・伊藤博文は文民統治を重視したが、運よく奇兵隊幹部から長州軍人のトップ
に納まった山縣有朋は木戸の死でタガが外れ、長州閥で陸軍を牛耳り政治に乗出して軍
拡を推進、伊藤の没後は直系の桂太郎・寺内正毅・田中義一を首相に据え政府に君臨し
た。外征志向の山縣有朋は強大な軍隊を志し、プロシア流の皇帝直属軍すなわち「天皇
の統帥権を大義名分とする自律的な軍隊」の建設に邁進、軍事予算の獲得と外征に励み
つつ軍部大臣現役武官制などで文民統治を排除した。「金があれば早稲田の杜を水底に
沈めたい」ほど政党嫌いの山縣有朋は自由民権運動の弾圧に執念を燃やしたが、これも
「国民の軍隊」を作らせないための自己防衛であった。大村益次郎の遺志を継いだ山田
顕義と三好重臣・鳥尾小弥太・三浦梧楼・谷干城らはフランス流の市民軍を構想し「外
征を前提とした軍拡は国家財政の重荷となりむしろ国力を弱める」と正論を説いたが、
山縣有朋は官有物払下げ事件に乗じ山田一派を追放、思惑どおり政府や国民の干渉を受
けない自律的な軍隊を作り上げた。山縣有朋は死ぬまで極端な長州優遇人事を貫いたが
、優秀な野津道貫・児玉源太郎らが死ぬと人材が枯渇、山縣の死の前年に「バーデン・
バーデン密約」を交し長州閥打倒で結束した永田鉄山・小畑敏四郎・東條英機・石原莞
爾ら中堅幕僚「一夕会」が下克上で陸軍を乗取り満州事変・日中戦争・仏印進駐・対米
開戦へと暴走した。一方、当初陸軍の一部だった海軍では、薩摩人の山本権兵衛が西郷
従道を擁して大胆な組織・人事改革を行い日清・日露戦争の活躍で陸軍から完全独立、
出身地に拘らない人材登用で加藤友三郎(広島)・斎藤実(仙台)・岡田啓介(福井)
・米内光政(岩手)・山本五十六(越後長岡)・井上成美(仙台)・鈴木貫太郎(下総
関宿)らを輩出したが、後継指名した伏見宮博恭王が艦隊派首領となり対米開戦を主導
した。

816: 名無しさんAA:17/11/05 18:40
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 457-----------

バーデン=バーデン密約はドイツのフリーメイソンが仕組んだ日本のメイソンリー結成
の狼煙であった。岡村寧次は日本の歴史上最大の馬鹿であったのだろう。早稲田中学校
、東京陸軍地方幼年学校を経て1903年(明治36年)、陸軍中央幼年学校を卒業し。明治
37年10月に陸軍士官学校を16期生として卒業し11月に歩兵少尉に任官、歩兵第
1連隊補充隊付を命ぜられた。同期には岡村を含めて三羽烏と呼ばれた永田鉄山中将・
小畑敏四郎中将の他、土肥原賢二大将・板垣征四郎大将・安藤利吉大将など売国奴が並
ぶ。この年代は世界の緊張の中で平和のマンネリズムの中で大正ブルジョアジーの中心
になった今の昭和の団塊世代の様な者が多かったのだろう。1907年(明治40年)、陸軍
中尉・陸軍士官学校生徒隊付を命ぜられた時、既に陸軍は自立の経済基盤をもっていた
。岡村は士官学校在学中には中国研究を専攻したが、この時の生徒隊では中国からの留
学生の教育を担当していた。1910年(明治43年)12月に陸軍大学校に入校する。在校中
に大尉に昇級する。こうして1913年(大正2年)11月、陸軍大学校25期生として卒業す
る原隊である歩兵第1連隊中隊長に補された。大正十年秋、ベルリンの大使館に岡村寧
次が立ち寄った。 、陸士十六期、陸大二十五期の中堅将校だった。 歩兵第十四連隊付
の肩書でヨーロッパ出張を命じられ、ベルリンに来たのだ。中国の駐在を終えて、とく
に目的もなく「ヨーロッパを見てこい」と送りだされた旅行だったと言う。軍内要職に
進む者に必須のヨーロッパ見聞旅行であったが彼はそれを情勢分析や把握に使わなかっ
た。1920年代にはアメリカ合衆国では、司法長官パーマーが、通称赤狩りと言われ
る、共産主義者などの逮捕を始めて、そうした危機感から国際連盟成立しヴェルサイユ
条約が発効する頃だった。ドイツ国内でもドイツ労働者党が国家社会主義ドイツ労働者
党に改称し共産化しての改めて新党で国内掌握に向かい始めてナチスの台頭があってい
たし 日本でも尼港事件で駐留日本人が大虐殺にあっていた時期だった。だが彼ら全く
無頓着にもドイツの持つ国民総動員令にしか興味を示していない。出張中の岡村寧次、
スイス公使館付武官永田鉄山、ロシア大使館付武官小畑敏四郎の陸軍士官学校16期の
同期生が南ドイツの保養地バーデン=バーデンで来たるべき戦争に向けて、@人事刷新
と軍制改革を断行して、A軍の近代化と国家総動員体制の確立、真崎甚三郎・荒木貞夫
・林銑十郎らの擁立、B陸軍における長州閥打倒、各期の有能な同志の獲得・結集など
の陸軍の改革や、満蒙問題の早期解決、革新運動の断行を誓い合ったとされる。



817: 名無しさんAA:17/11/05 18:40
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 458-----------

閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう)は日本の皇族にして陸軍軍人で
、日本赤十字社総裁であった。伏見宮邦家親王第116王子。階級は元帥陸軍大将大勲
位功一級である。言わば最高位の軍人皇族で最古参でもあった。三条実美の二女・智恵
子と結婚し日清戦争では当初第一軍司令部付大尉として従軍、鴨緑江岸虎山付近の戦闘
の際、伝令将校として弾雨の中馬を馳せ、その任務を達成し、「宮様の伝令使」のエピ
ソードを残した。その後、騎兵第1連隊長、参謀本部に勤務の後、1901年(明治34年)
に陸軍少将に進級し騎兵第2旅団長に就任していた。。幼年学校の同期には明石元二郎
、由比光衛等がいる。1883年(明治16年)、幼年学校を卒業するやフランスへ留学し、
サン・シール陸軍士官学校、ソーミュール騎兵学校、フランスの陸軍大学校を卒業し軽
騎兵第7連隊付を経て明治24年に帰国している。日露戦争で本渓湖の戦いに会い旅団
を敵の側背に進出させ、不意討ちの攻撃し、ロシア軍を敗走させた。またこの時のアイ
デアで機関銃に三脚架を付けて進軍するなど、機関銃を巧妙に活用し大いに貢献した。
その後満州軍総司令部付きの武官として従軍し、戦後、陸軍中将に進級している。言わ
ば旧来の戦争では実力派でもあった。だが皇太子・裕仁親王の欧州外遊に随行した頃か
ら彼は邪魔な雲の上の貴人であった。1932年(昭和6年)に参謀総長に就任して、
髭の参謀総長となってからは、皇族の出自もあり、傀儡として政治利用される事に振り
回された。関東再震災の後は派閥争いの激しかった陸軍内部で皇道派と統制派が競争し
、独断で実務を切り回す皇道派の真崎甚三郎を嫌い、いわゆる統制派に近い立場を取っ
た。この事が二・二六事件を引き起こした。荒木貞夫が陸相を辞任した際、真崎が後任
候補に上がった。だが林銑十郎を推し陸相に就ける画策をした。こうして従来とはなら
ない先例を作り真崎は教育総監に回った。だがその後も真崎が教育総監を追われた際に
も、渡辺錠太郎を通じて強く林に働きかけて真崎の追い落としをした。二・二六事件で
渡辺が凶弾に倒れたのは、載仁親王が皇族であり手出しが出来なかった為、身代わりの
標的として襲撃されたと推測される。又この二・二六事件発生時には、その対応の拙さ
から、かつて自らが教育した昭和天皇の叱責を受けた。とされこのとき親王は70歳で
、天皇は僅か35歳であった。つまり海軍の連合艦隊司令長官であった東郷平八郎大将
並みの陸軍の老害であった。

818: 名無しさんAA:17/11/05 18:41
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 459-----------

 日本では 年金問題でも議員歳費でもそうだが過去の栄光の者をかなりに起用して、
新たな道を模索させない。50歳や60歳を過ぎた人間達を平気で経営者や社長として
会社を存在させ、又社会もこうした壮健な老人を十分に老人扶養をしない。これが今も
又社会的老害を引き起こし若者の無能化を引き起こしているのが現状だ。平和であれば
あるほど、若年令化した機動力のある富国を目指すべきだが 何故だが国際進出もまま
ならないのが現状だ。真崎甚三郎はその意味不幸な中間期の将校であった。真崎農園の
長男として佐賀県に生まれ佐賀中学を卒業後、士官候補生を経て1896年に陸軍士官
学校に入学した。陸士第9期卒後に陸軍大学校に入学したが日露戦争が発生したために
歩兵第46連隊中隊長として従軍したという 辛い過去を持つ。日露戦争時の一兵卒は
将校とは言え捨て駒の存在であり、先の閑院宮載仁親王1865年(慶応元年)生まれと、
真崎の1876年(明治9年)でたった10年の違いだが、この日露戦争で死んでいった友
の悲惨さは身を持って知っている者しか解らない。陸大第19期を恩賜の軍刀を拝領し
卒業した。首席卒業の荒木貞夫の他、阿部信行、松木直亮、本庄繁、小松慶也などと同
期であるが本庄の方は日露戦争を理由に中退となり、歩兵第20連隊中隊長に任ぜられ
、戦地に於いて大尉に進級し、10月に戦傷し帰還している。1905年(明治38年)1月
から陸軍省出仕の辞令が下り大臣官房附となって負傷兵として活躍している。参謀本部
附を経て参謀本部員の資格で北京・上海に駐在し中佐進級の後、ヨーロッパに出張した
後参謀本部附で張作霖軍事顧問に就任し少佐を経て軍事参議官となっていて、本庄は、
石原莞爾によく利用された軍人であったが 真崎はその姿を見ていた。高級参謀の板垣
征四郎から緊急の電話で全軍出動をした後、現地に向かう軍用列車の中で「大丈夫か」
と石原に尋ね「絶対に問題は起こりません。関東軍司令部条例第三条、軍司令官の管外
出兵権条項に基づくものです」と答えを得たと記録される。その後は奉天は関東軍によ
って占領され奉天特務機関長の土肥原賢二大佐が奉天臨時市長に就き、その他満鉄沿線
地帯もまた占領されていった。参謀本部はこの件につき「関東軍の出兵は自衛権の発動
であるから認めるが、これ以上は武力行使を拡大しない。」という方針を後から決定し
、政府もこれを追認して閣議決定した。関東軍の軍状について天皇に拝謁し奉告する。
天皇の下問の中に「柳条湖事件は関東軍の陰謀であるという噂を聞くが、真相はどうか
」とあった。これに対し本庄は「関東軍並びに司令官である自分は絶対に謀略はやって
おりませぬ。」と答え、天皇は「そうか、それならよかった」と述べられたと言う。

819: 名無しさんAA:17/11/05 21:55
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 460-----------

 この時の柳条湖事件1931年(昭和6年)と全く同じ時に1931年8月、本来なら、真崎
が関東軍司令官に任命される順番であったが、本庄繁が関東軍司令官に任命された時で
あり、これにより真崎は台湾軍司令官に任命された。「陸軍の異端児」石原は明治22年
(1889年)生まれで日清日露の戦争には従軍してはいない。板垣征四郎らと満州事変を
実行したとされるが、恐らくロシアの起こした工作に際し事件後の占領が見事だったの
だろう。昭和天皇が1901年〈明治34年〉生まれだから石原莞爾は一回り年上であった
つまり昭和天皇が35歳石原莞爾が47歳更に真崎甚三郎が58歳親王は70歳と言う
、何とも皮肉な世代背景があったのだ。この事はかなりの辛辣な意識の世代間格差を産
んでいた。真崎は1932年、犬養内閣の陸軍大臣であった荒木貞夫の計らいで参謀次
長に就任した。皇族である閑院宮載仁親王が参謀総長であったので、慣例にしたがって
真崎が参謀本部を取り仕切った。この頃から荒木とともに国家革新を図る皇道派が形成
された。派閥の勢力伸張を図り、大尉クラスの青年将校を中心に信望を担ったが、党派
的な行動が反発を買い統制派との対立が発生した。この時閑院宮載仁親王が皇道派を推
せばいいのが閑院宮載仁親王は全く時代にそぐわない人間だった。真崎が陸軍の枢要で
ある軍務局軍事課長をした折り、田中義一がシベリア出兵時の機密費を流用して立憲政
友会への持参金を持って行ったと言う噂が流れた。大正政変後、公家出身の西園寺は、
大正天皇以下宮家の金庫番だった。望まれた第3次桂内閣への協力を拒否し日本政府は
本格的な政党政治に入っていった。1918年の国連から「革命軍によって囚われたチ
ェコ軍団を救出する」という大義名分でシベリア出兵に出た日本は多大な戦費を必要と
した。これで今まで行っていた宮家縁戚への賄賂は遮断されてしまったのである。ここ
で対米協定の出兵論を唱えていた、元老山県有朋および憲政会総裁の加藤高明ならびに
立憲政友会総裁の原敬達は苦境に立たされていた。第一次世界大戦中は久留米俘虜収容
所長もつとめた真崎甚三郎は収容所の環境整備のために努力し、従来禁止していた所内
での音楽などを許可した。衛戍司令官柴勝三郎中将から批判されると、「ドイツ人にと
っての音楽は、日本人にとっての漬物類と同じことで、日常生活の最低不可欠なもので
あります」と答え、了解を求めていた。ヴェルサイユ条約の締結により、捕虜の環境は
劇的に良くなり。捕虜らの処遇の調査目的で収容所の視察が実施されたが。詳しい協議
が随所で行われた結果、捕虜たちの訴えの多くは正当なものだが、日本側も環境改善に
尽力したという結論が得られている。


820: 名無しさんAA:17/11/05 21:55
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 461-----------

 このシベリア出兵の、陸軍機密費の不正蓄積についての疑問を持ったため、機密費の
適正な使用と管理について意見を具申したところ、突然近衛歩兵第1連隊に転出させら
れた。この当時、軍の機密費を取り扱っていたのは田中義一陸相、山梨半造次官、菅野
尚一軍務局長、松木直亮陸軍省高級副官の四人であった。その時真崎甚三郎は あらぬ
詮索として左偏されていると考えても良いだろう。真正直な彼には軍人気質があり、そ
れが他の者に疎まれたし 逆にその疎まれる人間がいる程陸軍は堕落していたのである
。そしてその究極の理由が宮様への忖度であり、その具現対象が東久邇宮稔彦王であっ
たし晩年の西園寺公望であった。田中義一の政界入りに出兵時の機密費を流用しての、
立憲政友会への持参金にしたとの風説は国会でも追及されたが灰色のまま時は過ぎた。
菅野尚一も陸軍少尉として日清戦争に従軍し、1899年(明治32年)12月に陸軍大学校
(13期)を卒業した。歩兵少佐として日露戦争に出征。日露戦争時では大本営参謀の一
人。奉天会戦にて乃木希典の第3軍の参謀も務めている。1917年(大正6年)の石井・
ランシング協定締結の際に、石井菊次郎大使付きの首席武官として竹下勇海軍大将(当
時中将)と共にアメリカへ随行していて、竹下勇大将の取り成しで、セオドア・ルーズ
ベルト元大統領と親交を結んでいる。その後、軍務局長、第20師団長、台湾軍司令官、
軍事参議官などを歴任。台湾軍司令官時代に、当時としては最年少で大将に就任した。
教育総監就任目前で上原勇作らの反長州閥派の妨害に遭い、陸軍を退陣して、代わりに
就任したのは武藤信義であった。以後は、公の場には一切顔を出さす事はなかった。こ
こでおわかりの様に、宮家と本当に日本を思う将校との間に確執があった。この事が、
2・26事件を起こした。此処に江戸末期に起こる薩長土肥の裏にいた宮家が徳川幕府
を追い詰めた構図と全く同じ馬鹿な事がが繰り返されていた。満州事変の原因を、国家
革新の熱病に浮かれた軍部の若い幕僚連が、理想の満州国家に作り、そこから逆に日本
改造に及ぼすために引き起こされた物と見抜いていた真崎は、事変不拡大・満州事変は
満州国内で収める事を直ぐ様決めて基本方針として収拾に当たった。又続いて起こった
第一次上海事変の処理では、軍の駐留は紛争のもととして一兵も残さず撤兵させている
。熱河討伐では、軍の使用は政府の政策として決定し、天皇の裁可を経てから実行され
るという建前から、万里の長城を越えて北支への拡大を断固として押さえつけた。有利
な戦機を見逃して二カ月以上も出動を押さえたとして、拡大派や国家革新推進派からは
非難を浴びたが彼は曲げなかった。

821: 名無しさんAA:17/11/05 21:56
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 462-----------

こうした満州事変後の幾つかの不穏な動きと軍の動きに不満を持つ昭和天皇からは真崎
は繰り返し叱責された。通常間を置かず裁可される上奏も、真崎の場合には、必ず数日
留め置かれた。真崎は天皇へのとりなしを梨本宮守正王や伏見宮博恭王のルートを通し
て試みたが上手くいかず、最終的には自分が重臣元老(に加え天皇からも)誤解されて
いると上奏したところ、天皇は「非常な御不興」を示し面目を失った。さらに原田日記
によると、真崎は当時第5旅団長であった東久邇宮稔彦王に対し、「天皇陛下が参謀本
部の意見を理解されるよう助力して欲しい」と依頼し、それを筋違いであるとして拒否
されると、「ここの宮さんは国家観念に乏しい」と不満を述べている。此処に汚職官僚
達の勝手さがあった。本科長、教授部長兼幹事を経て校長をつとめた4年間の陸軍士官
学校時代に、真崎は教育家としての評価を高めた。この時の生徒に安藤輝三、磯部浅一
らがいた。安藤輝三は二・二六事件に関与した皇道派の人物ので、軍法会議で首謀者の
一人とされ死刑となる。最終階級は陸軍大尉であった。安藤輝三は陸軍少尉になって、
歩兵第3聯隊付となった。この時秩父宮雍仁親王とともに勤務して親しく交わった。中
隊長となるにあたっては、部下、同僚からの信望が厚い一方で過激な青年将校たちと関
係する安藤を危惧する連隊長の井出宣時大佐に対して、「誓って直接行動は致しませぬ
」との証文を提出した。秩父宮からの口添えもあった。こうして連隊長になり、秩父宮
は「安藤、第六中隊の伝統を守ってくれよ」と激励した。また、元連隊長の永田鉄山軍
務局長は「ほう、第六中隊長か。早いものだな。お前もとうとう中隊長か。歩三を立派
な連隊にしてくれ、頼んだぞ」と喜んだ。と言う。秩父宮雍仁親王は昭和天皇の弟宮で
、1902年(明治35年)に産まれ学習院初等科入学し、学習院中等科二年ののち、
皇族身位令に基づき陸軍中央幼年学校に入学。その後大正9年、陸軍士官学校に入学し
た。そうし服部卓四郎、西田税などがて同期であった。卒業後は陸軍少尉に任官された
。陸軍大学校に入学、昭和6年に卒業し43期陸大の卒業生となった。成績優秀であっ
たため慣例に反して恩賜の軍刀を与えてはとの議論が教官の間である程だったという。



822: 名無しさんAA:17/11/05 21:56
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 463-----------

1922年(大正11年)20歳で成年式を行い、宮家「秩父宮」創立、宮号の由来は
、秩父嶺が帝都所在の武蔵国の名山であり、雍仁親王邸の西北に位置したことにちなみ
選定された。昭和3年、松平節子と結婚。成婚にあたり皇太后(九条節子)に遠慮して
勢津子と改名した。当時は「世紀の大恋愛」と報道されたが実際には自由恋愛ではなか
った。昭和6年より第一師団歩兵第3連隊の中隊長を務め、歩三時代には安藤輝三など
とも交流を持ち彼らの革新思想の影響を受けた。本庄日記によると、この頃に秩父宮は
昭和天皇に対して「親政」の必要を説き、「憲法停止」も考えるべきとの意見したため
激論となった。昭和天皇は鈴木貫太郎侍従長に対して「秩父宮の考えは断じて不可」と
述べ、さらにこれを受けて昭和7年に宮内大臣官邸において、一木喜徳郎、木戸幸一、
近衛文麿、原田熊雄が「秩父宮の最近の時局に対する御考がややもすれば軍国的になれ
る点等につき意見を交換」している。秦郁彦は谷田勇から聞いた話として、秩父宮が、
村中孝次に同行し北一輝の自宅を訪問していたとしている。昭和天皇からの内意により
青年将校から引き離すため同年9月に参謀本部第一部第二課(作戦課)に転補された。
昭和10年に弘前市の歩兵第31連隊第3大隊長に任ぜられた。勢津子妃も同行して 
弘前市紺屋町の菊池長之の別邸に居住した。1936年(昭和11年)2月26日皇道
派青年将校らによって二・二六事件が発生した。朝に高松宮から連絡を受けた秩父宮は
連隊長の許可を受けた上で、翌日の27日に奥羽本線、羽越本線、信越本線、上越本線
経由で上京した。平泉澄が群馬県水上駅まで迎えに行き車中で一時間半ほど会談してい
る。平泉はのちに「みちのくのつもる白雪かき分けていま日の皇子は登りますなり」と
歌を詠んだ。秩父宮は夕方に上野駅に到着し憲兵の護衛を受け参内し昭和天皇に拝謁し
たが、翌日谷田には「叱られたよ」と語っている。同日に歩三の森田利八大尉を介して
青年将校らに自決せよと伝えた。木戸日記によると、昭和天皇は「秩父宮は五・一五事
件の時よりは余程宜しくなった」と広幡忠隆侍従次長に述べている。戦後は療養生活を
送りながら皇族として執筆を含む活動を行った。(昭和27年)に静岡県御殿場市から
神奈川県藤沢市鵠沼別邸に移った。同年暮に病状が悪化し(昭和28年)1月4日に薨
去した。遺書の中で「遺体を解剖に附すこと」、「火葬にすること」、「葬式は如何な
る宗教にもよらない形式とすること」を指示していた。勢津子妃が勅許を求めたところ
、昭和天皇は「秩父宮の遺志を尊重するように」とこれを即座に許可、皇族としては、
異例の病理解剖が行われた。


823: 名無しさんAA:17/11/05 21:56
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 464-----------

この葬儀に、昭和天皇は出席しなかった。これは天皇が親王など「目下」の者の葬儀に
出席した前例がなく、皇室喪儀令(廃止されたが、基準となっている)にも規定がない
ため、天皇が出席することで仰々しくなり秩父宮の遺志に副わないとの懸念から、出席
を断念した。ただし、天皇・皇后は何度も、遺骸と会いに行った上で、翌13日には、
墓参に訪れている。また秩父宮存命時の見舞いも、天皇が見舞うのは危篤の場合のみと
いう前例から、結局果たせなかった。目上が下を見舞う事には過去の暗殺の事例からの
祭祀的な危機管理であろう。この点でも昭和天皇と共に悲しい帝位のものではある。
日米開戦の4年前の1937年(昭和12年)に兄・昭和天皇の名代としてイギリスの
ジョージ6世国王の戴冠式に出席し、その後は静養地としてスイス、その他スウェーデ
ンとオランダを訪問した。当初の予定にはなかったが、ヘルベルト・フォン・ディルク
セン駐日ドイツ大使の要請によりドイツを訪れ、日独親善の証としてニュルンベルクで
行なわれていたナチス党大会に来賓として出席した。ヒトラー総統とニュルンベルク城
で会談を行なった。ヒトラーはソビエト連邦の指導者ヨシフ・スターリンを激しく罵り
、「私は彼を信じない、また憎みます。」と口にした。これに対して秩父宮は英語で、
「お互いに一国の責任者として、民族を指導し、世界の平和に貢献しなければならない
重大な責務のある貴方のような方が、他国の代表者を、そのように毛嫌いしたりまた憎
んでもよいものでしょうか?」と返した。この面会について秩父宮は、付き武官の本間
雅晴に対して「ヒトラーは役者だ。彼を信用することは難しい。」と述べている。昭和
天皇独白録によると、日独伊三国同盟の締結が議論されていた1939年(昭和14年)、
同盟に消極的な兄・昭和天皇に対して週に3度参内して締結を勧めたが、「この問題に
ついては直接宮には答えぬ。」と天皇に突っぱねられている。二・二六事件は皇道派の
影響を受けた陸軍青年将校らが1483名の下士官兵を率いて起こした日本のクーデタ
ー未遂事件である。とされこの事件の結果岡田内閣が総辞職し、後継の廣田内閣が思想
犯保護観察法を成立させた。「昭和維新・尊皇討奸」をスローガンに、武力を以て元老
重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し、彼らが政治腐敗と考える政財界の様々な現象や
、農村の困窮が収束すると考えていて)「帝都不祥事件(ていとふしょうじけん)」と
と一般的には呼ばれていた。


824: 名無しさんAA:17/11/05 21:57
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 465-----------

 二・二六事件では安藤輝三大尉は、部下に銃を構えさせて、石原の登庁を陸軍省入口
で阻止しようとしたが、石原は逆に「何が維新だ。陛下の軍隊を私するな。この石原を
殺したければ直接貴様の手で殺せ」と怒鳴りつけ、参謀本部に入った。反乱軍は、石原
のあまりの剣幕と尊大な態度におされて、何もすることができなかった。とある。また
、庁内においても、栗原安秀中尉にピストルを突きつけられ「石原大佐と我々では考え
が違うところもあると思うのですが、昭和維新についてどんな考えをお持ちでしょうか
」と威嚇的に訊ねられるも、「俺にはよくわからん。自分の考えは、軍備と国力を充実
させればそれが維新になるというものだ。」と言い、「こんなことはすぐやめろ。やめ
ねば討伐するぞ」と罵倒し、石原の凄まじい気合いにおされて、栗原は殺害を中止し、
石原は事なきを得ている。と言われる。だがどうもしっくり来ない。石原莞爾は近衛首
相自ら南京に飛び、蒋介石と直接会見して日支提携の大芝居を打つ。これには石原自ら
随行する」と進言したものの、近衛と風見章内閣書記官長に拒絶された。戦線が泥沼化
することを予見して不拡大方針を唱え、トラウトマン工作にも関与したが、当時の関東
軍参謀長・東條英機ら陸軍中枢と対立し、9月に参謀本部の機構改革では参謀本部から
関東軍へ参謀副長として左遷された。と言う。この時真崎甚三郎は裏の黒幕とされたが
これもしっくりしない。更にこの前に五・一五事件が起こってる事も不思議である。五
・一五事件は、1932年(昭和7年)5月15日に武装した海軍の青年将校たちが総理大臣官
邸に乱入し、内閣総理大臣犬養毅を殺害した事件だ。1929年(昭和4年)の世界恐
慌に端を発した大不況により企業倒産が相次いで 社会不安が増していた。犬養政権は
金輸出再禁止などの不況対策を行うことを公約に1932年(昭和7年)2月総選挙で大勝
をおさめたが、一方で満州事変を黙認し、陸軍との関係も悪くなかった。しかし、1930
年(昭和5年)ロンドン海軍軍縮条約を締結した前総理若槻禮次郎に対して不満を持っ
ていた海軍将校は若槻襲撃の機会を狙っていた。1931年(昭和6年)には関東軍の
一部が満州事変を引き起こしたが、政府はこれを収拾できず、かえって引きずられる形
だった。とされる。1936年(昭和11年)2月26日皇道派青年将校らによって二
・二六事件が発生した。

825: 名無しさんAA:17/11/05 21:57
謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 466-----------

 農本主義とは「農は国の本(基)」(のうはくにのもと)という短句により表現され
る思想である。近世(江戸時代)において幕藩体制維持のため農業・農民の重視・保護
を主張した農本思想が、歴史として位置づけることができる。明治維新以降、産業革命
や工業化の結果、農村社会の解体が進んだ為、これに対抗し農業・農村社会の維持存続
をめざす運動が起こり農本主義が成立した。第一次世界大戦後、特に1920代末に起
こった世界恐慌に端を発する農村恐慌のもと、日本では自作・小作農が存続の危機に立
たされ、この結果、農本主義者は反近代主義・体制批判的な性格を持つ新たなタイプの
農本主義となった。それらは超国家主義と結びついて発展していった。兵農一致による
体制変革を主張し五・一五事件に参加した橘孝三郎、農村自治の確立をめざす権藤成卿
らの思想は、多くの場合中小農出身者を多く含む軍部内の青年将校に大きな影響を与え
、二・二六事件の重要な思想的背景となったとされる。また満州事変以降、中国大陸へ
の侵略が拡大すると、これと結びついて農民を国策の先兵として動員していく運動が現
れ、特に加藤完治に指導された満蒙開拓移民の運動はよく知られている。日露戦争で、
力の旗手であった若い男手が居なくなる中で軍部に行く者は多く 娘は相変わらず喰い
ぶち減らしに町に売られて行く様が数多くある世界だった。石原莞爾が板垣征四郎と共
に柳条湖事件を起こし、これを奇貨として満州事変を実行したとされたが、この時の状
況は赴任して3年しか経ってない中だ。「この爆破事件は中国軍の犯行によるものであ
ると発表された。このため、日本では一般的に、太平洋戦争終結に至るまで、爆破は張
学良ら東北軍の犯行と信じられていた。しかし、実際には、関東軍の部隊によって実行
された謀略事件であった。」と解説されるが、建設資金を全く返却しない中国に苛立っ
たソ連側が運行中止の目標で計画を立ててそれを行った事が詳細に解っている。これに
対して日本側はその情報が入っていて ソ連側は国際条約の足枷に領事館の要望の軍を
出動しなかった事まで解っているのである。それはソ連も又貧困の中にあったのだ。


826: 名無しさんAA:17/11/05 21:58
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 467-----------

19世紀の間は中国はロシアと常に戦っていた。それはエリンギ族即ち糞族が勇ましく
影の様に小部族の集まりだったからだ。今の韓国人がその糞族の子孫と言われているが
彼らにとっては国や家族と言う集団よりは、戦いや賭け事などの遊びが優位であった。
自然の中に生きてきた彼らを利用して、双方にロシアも漢も戦っていたと言える。19
世紀が終わって清やロシアが常に彼らの領土をして略奪に及んでいた時20世紀前半に
突然満州国が産まれた。こうしてロシアと、満州国および大日本帝国の間には、現在の
中国東北部で接する国境を巡って高い緊張状態が出来た。中国東北部には、満州と極東
ロシアを結ぶ東清鉄道という鉄道があり、それはソ連の資金で中国が運営していた。そ
こから南に伸びる支線が南満州鉄道が日本のものである。この南満州鉄道は、日露戦争
、そしてそれに続く日中戦争へとつながっていく幾つかの事件、そして日ソ国境紛争の
原因になった。またその舞台にもなった鉄道である。1929年の中ソ紛争、1931年の日中
間の満州事変などがあった。張鼓峰事件は、このような歴史的経緯から互いに不信感を
抱く日本とソ連という二つの強国が戦った戦闘である。そもそも清は、日清戦争は戦争
する金は持たなかった。密約としてロシアに大きな権限を与えて北洋艦隊の資金を得て
いた。従って日清戦争直後の日本の遼東半島の領有をロシアやフランスに頼り三国干渉
によって阻止させた。その見返りとして清国の李鴻章より満洲北部の鉄道敷設権を得る
ことを正式に決定し露清密約を結んだのだった。1896年6月3日。これが国際的違法であ
った事は充分承知で密約としたのである。その中でロシアは、建設困難なアムール川沿
いの路線ではなく、短絡線としてチタから満洲北部を横断しウラジオストクに至る鉄道
の敷設権を獲得を譲らず、1896年12月、露清銀行によって「中国東方鉄道株式会社」、
清朝側の名称では「大清東省鉄路」という鉄道会社を設立させた。経営の最高機関は、
ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクに置かれて 現地には経営権がない状態だった
表向きは露清合弁であったが、ロシアの発言権が強く、清朝は全く経営に関与できてな
かった。この時、露清銀行から供与された資金は、フランスの投資家からロシア政府に
貸し付けた4億ポンドからのもので、これによって露仏同盟が結ばれていた。


827: 名無しさんAA:17/11/05 21:58
謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 468-----------

 ロシア帝国は1891年2月にシベリア鉄道建設を正式決定し、5月よりその建設に着工
した。工事には捕虜であったコサック部隊とドイツ農民朝鮮人農奴中国人苦力が連行さ
れ開始された。1897年にウスリー線(ウラジオストク〜ハバロフスク)が開通、1898年
3月、旅順大連租借条約が結ばれると、ハルビンから大連、旅順に至る南満洲支線の敷設
権も獲得した。続く1898年には中部シベリア線(オビ〜イルクーツク)、1900年にはザ
バイカル線(ムィソーヴァヤ〜スレチェンスク)もそれぞれ開通し、シベリア鉄道全線
開通まで残るはアムール線(スレチェンスク〜ハバロフスク)およびバイカル湖周辺の
みとなっていたが、そのどちらも地勢が大変険しく建設が困難な状況であった。南満洲
支線772kmも1903年1月に完成している。最後の大興安嶺トンネルが完成しシベリア鉄道
と完全に連結したのは1904年2月であった。ところが、日露戦争勃発し。その後日露戦争
(1904年2月 - 1905年9月)が勃発し、日露戦争でロシアが敗北した後の1905年9月5日
、ポーツマス条約により長春以南の南満洲支線は日本に譲渡され南満州鉄道(満鉄)と
なったのである。又その後1911年、辛亥革命によって中華民国が成立しても、ロシアに
よる東清鉄道の利権は譲ることなく継承された。これらの債権や借金はユダヤ資本から
せっつかれてのソ連邦の成立であった。1917年ロシア革命後、ペテルブルク本社の理事
会は機能を停止した。現地の最高責任者であるホルヴァート管理局長が実権を握ったが
彼が1920年に中国軍に放逐されると、奉天軍閥が影響力を強める。また1919年から1922
年にかけては、日米などが参加した連合国鉄道管理委員会がその経営に干渉した。特に
、ハルビンに駐在した委員会技術部長のスティーブンスは、革命後の混乱した経営の立
て直しに辣腕をふるった。ソ連も、1919年の第一次カラハン宣言でいったんは東清鉄道
を放棄することを表明したにもかかわらず、方針を転換させて、北京政府や奉天軍閥に
経営への参入を粘り強く求めた。その後1924年5月、中ソ両国は国交回復のための協定
に調印し、この中で東清鉄道の利権を確認した(北京協定)。また同協定に不満を持つ
東三省の張作霖政権は北京政府とは別に、同年9月奉ソ協定を結んだ。1925年1月20日、
日ソ基本条約が締結された。だが1925年4月9日、ソ連側が権限を超越して第九十四号命
令を行ったため、中華民国側が反発した。此処に柳条湖事件や1928年、張作霖爆殺事件
が起こったのである。

828: 名無しさんAA:17/11/05 22:05
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 469-----------

第九十四号命令又は東支鐵道管理局長示達第九十四號とは、1924年の奉ソ協定に基づき
中ソで共同運営されることとなった東支鉄道会社内において、ソ連から派遣された共産
党員イワノフ東支鐵道管理局長が1925年4月9日に出した通達例規の一つである。九四命
令とも呼ばれ、奉ソ協定では、管理局長の権限は理事会が決定することになっていたが
、管理局長が理事会を無視してこの命令を行うという越権行為を行った。第九十四号命
令の内容は、白系ロシア人に対してはソ連国籍もしくは中華民国国籍の取得を迫り、も
し取得しない場合は解職することを要求すると言うものであった。又他に使用人規則の
改定つまり社員や駅員の処遇も厳しく制限され命令遂行に任務を取り入れた。中華民国
側の東支鐵道臨時提督代理の呂榮袞はソ連側の東支鐵道副理事長ボズジェーエフに対し
、白系ロシア人を擁護するわけではないとしながらも、白系ロシア人に有要人物が多い
ことや、白系ロシア人が中華民国国籍を取得したことを理由に管理局長により解雇され
たこと、管理局長が財政を理由に中華民国側の従業員を解雇しながらもソ連側の従業員
を増やしていたことなどを以って管理局長の行為を問い正した。こうした行為にソ連側
は権益保持を理由に1928年、張作霖爆殺事件を起こした。その後沢山の共産党員によっ
て日本軍による爆破との記事や流布を起こさせてロシアの関与を隠した。ところが1929
年7月、張学良はソ連側の協定違反を理由に鉄道権益を武力回収を試みるに至ったが、
既にソ連側は多くの共産党員を軍として引き入れていた為 張学良は攻撃に敗北した。
最初の中ソ紛争である。勝利したソ連は、1929年12月にハバロフスク議定書を結ばさせ
、回収された利権の原状回復を認めさせた。こうして鉄道の運行も翌年から平常化した
。一方、国民政府は議定書を奉天軍閥の越権行為と見なし批准しなかった。そのため、
中ソ両国の直接交渉がモスクワで始まり、中国側は鉄道の売却を迫ったが、その中での
1931年の満洲事変の勃発により交渉は打ち切られた。こうして中国側の交渉はどうして
も譲らないソ連との交渉に妥結する事はなかった。元々こうした条約は北京条約であっ
ても、この管理鉄道利権であっても ロシア人の請求に理は無く南下政策の下で強引に
中国利権を求めて来たもので、そこには朝鮮人達の勝手な権利主張の代理権や隣国とし
ての調整権利としてずうずうしく入って来た条約相手でその強さに押し切られた形だっ
た。駅員としてのロシア人が礼儀正しかった事で野蛮なロシア人を受け入れてしまった
のである。

829: 名無しさんAA:17/11/05 22:06
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 470-----------

当時の中国では、主な鉄道は外国資本が経営していたが、東清鉄道は唯一ソ連が、第一
次カラハン宣言でいったんは手放し 北京政府や奉天軍閥によって運営される鉄道だっ
た。列強各国が争って清朝から鉄道敷設権を獲得した中で、又ソ連に権利を認めた事は
鉄道会社にある単なる鉄道経営以外にもさまざまな特権が与えられていた権利も認めた
事を意味していた。その中でもロシアが満州(中国東北部)で建設した東清鉄道では、
鉄道附属地という、鉄道会社が沿線で「絶対的かつ排他的な行政権」を有する区域が、
更に存続させると言う極めて危険な行為であった。東清鉄道はバイカル湖から中国領内
の満州里、ハルピン、牡丹江などを通ってウスリー川へ至る路線である。1896年に
モスクワで結ばれた露清同盟密約で建設が決まり、現在のシベリア鉄道はロシア領内だ
けを通っているが、当時はこの東清鉄道がシベリア鉄道の一部だったが中国領土を通っ
ていたのである。つまりロシアにとってはモスクワと沿海州を結ぶ大動脈であり、自国
内を走るのと同じような条件で鉄道を建設し列車を走らせようようとした。北の大地に
は困難がある為に勝手に路線変更していながらも、無事東清鉄道は1903年に全通し
た。1898年にはロシアが関東州を租借したため、ハルビンから分岐して長春、奉天
を経由し大連へ向かう南部線も建設した。この事がロシアを中国に執拗に権利を主張し
続ける理由でもあった。この東清鉄道には鉄道附属地で認められる「絶対的かつ排他的
な行政権」が認められ、本来は鉄道の建設や運行に必要な敷地の土地管理権のことだが
、しかしロシアはこれを徹底的に拡大解釈して、鉄道警備のための軍隊の駐留権や警察
権、司法権、徴税権、郵便局や電話局の運営などの通信権、インフラ整備や衛生、教育
、事業認可などの行政権・・・・などなど、鉄道附属地をほとんど租界と変わらないよ
うにし、経営権参画でそれを発令したのである。司法権も、当初は「ロシア人による犯
罪はロシア側が裁き、中国人による犯罪は中国側で裁く」という不平等条約に基づいた
治外法権と同じだったが、ロシアは吉林省の将軍と交渉して、鉄道附属地に住む中国人
もロシア側が裁けるように権限を拡大したので、租界以上に中国政府の権限が及ばない
ようになってしまい、ソ連側の目論見通りになっていった。

830: 名無しさんAA:17/11/05 22:16
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 473-----------

 だがソ連軍の経済的損失も大きく中東鉄道を売却を決定。当初は中国政府へ売却を打
診していたが、32年に満州国が建国されると、中東鉄道は満州国との合弁の北満鉄道
とも呼ばれるようになり、35年にソ連は1億4000万円で満州国(実際には日本)
へ売却。満州国鉄となって、その管理・運行は満鉄へ委託された。こうして東支鉄道は
日本のものとなった。この時代金を株で買ったやったのが旧幕府の徳川氏といわれる。
朝鮮との併合問題が起きると正式な安奉線が出来た。安奉線とは、朝鮮との国境の安東
(現在の丹東)と満洲の鉄道の要衝・奉天との間の路線で、日本・朝鮮と満洲・中国を
結んだ陸の大動脈だった。日露戦争中に日本陸軍が軍用軽便鉄道として建設し1907
年に満鉄へ譲渡されて本線並みに改軌された。この安奉線も沿線に約500万平方mの
附属地を擁していた。もっともこれは清朝との条約に基づいた附属地ではなく、日露戦
争中に日本軍の「実力」で買収・接収したもの。日本はこのうち半分弱を「やっぱり不
要」だとして清朝に買い取りを打診したが、清朝は「附属地すべて返さない限り応じら
れない」としたため、そのまま既成事実として満鉄に引き渡された。 満鉄付属地 は、
日露戦争で日本がロシアを破ったため、日本はロシアから関東州の租借地のほか東清鉄
道南部線の長春〜大連間とその支線を譲り受け、1906年に 国策会社の南満州鉄道
(満鉄)を設立して経営を引き継いで膨大な物となった。沿線の鉄道附属地もそっくり
引き継ぎ、「満鉄附属地」と呼ばれるようになった為既に満鉄帝国とまで揶揄されてい
た。満鉄になってから附属地はさらに拡大された。なにしろ鉄道附属地は租界と違って
「ここからここまでを附属地とする」という定めはなく、中国側との協議なしに設定す
ることができたからだ。満鉄が中国人地主から買収したり賃借した土地は片っ端から、
附属地になって、日本側の行政権が適用されていった。逆に満鉄が「この土地はもうい
らない」と中国人に売却したり賃借停止した土地は、附属地から外れて中国側の行政に
戻ることになった。このため、各駅の附属地面積は増減を繰り返していたというのだ。
つまり 必要な土地 必要な利権 などは既に取り入れていた状態で 租界よりも強く
租界よりも調整され 租界よりも街づくりが出来ていて中国人にも中国の共産党は勿論
国民政府よりも愛され助けられ、必要となっていた満州鉄道会社だったのである。これ
は既に満州国樹立は 日本人より地元の愛新覚羅を含めた満蒙人の夢としての建国だっ
た。


831: 名無しさんAA:17/11/05 22:22
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 471-----------

 その鉄道附属地だが、どうせ駅構内や線路など鉄道用地のことを指すのだろうと思う
とそれは大きな間違いである。密約には「鉄道の建設経営および保護のために必要なる
土地」とあったが、当時列強国では拡大解釈して、機関車が使う石炭を掘るための炭坑
や、枕木を作るための森林、砂利を掘るための河原・・・と、あちこちの土地を附属地
にしてしまう行為は当然だった。保線に関わる全ては鉄道会社に優先されるべく権利を
想定していたのである。さらに「鉄道の利用促進のため」ということで、主な駅の周り
には広大な商業用地や工業用地も確保。沿線最大の中心都市だったハルピンでは、市街
地全体が鉄道附属地といっても良いほど広大だった。 ハルビンの地図(1919年)
「租借地境界線」と書いてあるのが、実は鉄道附属地の境界線で、旧市街の傅家甸を除
いて全て付属地であり当時はすでに9割程東支鉄道だった。各附属地の行政は東清鉄道
民政部が担当し、1908年から主要都市で東清鉄道の監督の下での自治制が敷かれる
ことになり、ハルピンや満州里、ハイラル、昴々渓、横道河子、博克図、綏芬河では、
国籍に関係なく年間10ルーブル以上の納税者が選挙で選出する市議会と市役所が設置
された。簡単に言えば国の中にあった別の国の飛び地であり自治都市国家として機能し
ていたのだ。清朝が滅亡し中華民国が成立すると、東清鉄道は東支鉄道または中東鉄道
と呼ばれたが、17年のロシア革命でボルシェビキ(ロシア共産党)が政権を握ると、
大打撃を蒙った。中東鉄道のロシア人労働者や駐屯部隊の兵士たちは 労兵ソビエト人
は評議会を組織して赤軍(革命軍)を支持し、白軍(旧帝政軍)支持の白系ロシア人の
経営陣と対立し、中東鉄道ではストが頻発し、ストに怒ったチェコ軍団がハルビンでは
布告を出して、鉄道や附属地を武力支配しようとするなど混乱が続きた。ここに国連の
主導で、列強各国のシベリア出兵により、シベリア鉄道は日本軍が、中東鉄道はアメリ
カ軍が一時管理する事態になったのだった。革命政権によってサンクトペテルブルグの
本社が閉鎖され中東鉄道は、本社を北京に移して経営陣はシベリア各地に成立した白軍
政権側が握っていたが、1919年にオムスク(東ウラル)の全ロシア臨時政府が崩壊
するとこの後盾を失い、一方で民族自決、不平等条約撤廃の世論に押された中国側は、
これを契機に中東鉄道附属地の回収に乗り出した。だが中国側も国民政府としては3つ
の政府がお互いに譲れない利権としてあり 広東政府か国民党政府か満蒙が造った政府
なのか分かれて統一見解はなかったのだ。広東政府はロシアに借金があったし国民党政
府は新たな国交樹立の制約があった。唯一の満蒙の作った政府は買い取れる状態だった
が日本の傀儡である事はわかっていた。

832: 名無しさんAA:17/11/05 22:35
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 472-----------

 モスクワで新たに成立した、ソ連政府は「帝政ロシアが中国で獲得した租界や権益、
治外法権などの特権を放棄する」と発表したため、これに力を得た中国は、1920年
9月に帝政ロシア大使館の承認を取り消し、天津と漢口のロシア租界を接収。翌月には
中東鉄道の監督権を取得した。オムスク政権の総動員令で中東鉄道沿線の白軍がシベリ
アへ狩り出され、治安が悪化したことを理由に、中国側は1920年3月には駐屯権と
警察権を回収し、10月には司法権を回収。次いで21年には中東鉄道が運営していた
郵便局を、22年には電信局を接収していた。また21年、中国側は中東鉄道の附属地
を東省特別区に指定して行政長官を任命し、自治体のない附属地での行政権を接収した
。1924年に中国政府はソ連を承認したが、直奉戦争に勝って、中国政府を支配した
満州の軍閥・張作霖は馬鹿な事に、ソ連による後盾を強化しようと 奉ソ協定を結んで
中東鉄道を中ソ合弁とした。この事で、白系ロシア人の経営陣は排除され、ソ連からの
派遣された幹部に入れ替わった。中東鉄道の経営範囲は商業活動に限定され、これによ
り、鉄道用地以外の土地は中国側へ返還されて、中東鉄道附属地は消滅していた。この
後もハルビンなどでは東清鉄道以来の自治制が続いていたが、26年にはロシア人議員
が過半数を占めていたハルピン市議会で「議会での公用語をロシア語から中国語へ変更
する議案」が否決されると、市議会と市役所を解散させ、中国人主体の市自治会(議会
)と市政局を設置した。こうして新たなロシア人主体の市自治会と市政局を設置した。
この時解散前の市会議員 ロシア人34人 中国人18人 日本人5人 英米仏各1人
だったが解散後の市自治会議員は中国人40人 ロシア人2人 その他の外国人6人(
民族別の議席数をあらかじめ規定)に変わったが、ロシアはそれには不服であった筈だ
。その後、張作霖爆破事件が起こり翌年1929年には張学良軍が中東鉄道の全面接収
を狙ってソ連軍と衝突する事件が起きた。が、結局ソ連は内政を優先させるために送り
込んでいた共産党軍によって彼らを撃退して守っている。この事は利権譲渡を公言して
いながら張学良軍中国に取られまいとして戦い その権益を手放さない共産党と張作霖
の奉天政府はもとより中国本国の正当な北京政府とも険悪な仲になってしまった事を示
していた。


833: 名無しさんAA:17/11/05 22:36

陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 473-----------

 だがソ連軍の経済的損失も大きく中東鉄道を売却を決定。当初は中国政府へ売却を打
診していたが、32年に満州国が建国されると、中東鉄道は満州国との合弁の北満鉄道
とも呼ばれるようになり、35年にソ連は1億4000万円で満州国(実際には日本)
へ売却。満州国鉄となって、その管理・運行は満鉄へ委託された。こうして東支鉄道は
日本のものとなった。この時代金を株で買ったやったのが旧幕府の徳川氏といわれる。
朝鮮との併合問題が起きると正式な安奉線が出来た。安奉線とは、朝鮮との国境の安東
(現在の丹東)と満洲の鉄道の要衝・奉天との間の路線で、日本・朝鮮と満洲・中国を
結んだ陸の大動脈だった。日露戦争中に日本陸軍が軍用軽便鉄道として建設し1907
年に満鉄へ譲渡されて本線並みに改軌された。この安奉線も沿線に約500万平方mの
附属地を擁していた。もっともこれは清朝との条約に基づいた附属地ではなく、日露戦
争中に日本軍の「実力」で買収・接収したもの。日本はこのうち半分弱を「やっぱり不
要」だとして清朝に買い取りを打診したが、清朝は「附属地すべて返さない限り応じら
れない」としたため、そのまま既成事実として満鉄に引き渡された。 満鉄付属地 は、
日露戦争で日本がロシアを破ったため、日本はロシアから関東州の租借地のほか東清鉄
道南部線の長春〜大連間とその支線を譲り受け、1906年に 国策会社の南満州鉄道
(満鉄)を設立して経営を引き継いで膨大な物となった。沿線の鉄道附属地もそっくり
引き継ぎ、「満鉄附属地」と呼ばれるようになった為既に満鉄帝国とまで揶揄されてい
た。満鉄になってから附属地はさらに拡大された。なにしろ鉄道附属地は租界と違って
「ここからここまでを附属地とする」という定めはなく、中国側との協議なしに設定す
ることができたからだ。満鉄が中国人地主から買収したり賃借した土地は片っ端から、
附属地になって、日本側の行政権が適用されていった。逆に満鉄が「この土地はもうい
らない」と中国人に売却したり賃借停止した土地は、附属地から外れて中国側の行政に
戻ることになった。このため、各駅の附属地面積は増減を繰り返していたというのだ。
つまり 必要な土地 必要な利権 などは既に取り入れていた状態で 租界よりも強く
租界よりも調整され 租界よりも街づくりが出来ていて中国人にも中国の共産党は勿論
国民政府よりも愛され助けられ、必要となっていた満州鉄道会社だったのである。これ
は既に満州国樹立は 日本人より地元の愛新覚羅を含めた満蒙人の夢としての建国だっ
た。

834: 名無しさんAA:17/11/05 22:42
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 474-----------

 中でも炭坑の町・撫順の附属地は60平方kmに達したというから日本なら1つの市
がすっぽり入ってしまうほどの広さだった。沿線の主要都市では鉄道開通前からあった
城内(旧市街)を除けば、市街地の大半が満鉄附属地となったが、その大部分は鉄道と
は関係ない土地で、奉天(現在の瀋陽)の満鉄附属地は面積11・6平方kmのうち、
実際の鉄道用地は7%にすぎなかった。このように満州では都市住民の多くが中国側の
管轄が及ばない附属地の住民となり、とりわけ日本人やロシア人など外国人のほとんど
は安心できる附属地で暮らしていた。満鉄附属地では軍隊は関東軍が、警察は大連にあ
った関東州庁が、司法は各都市の日本領事館が担当し、満鉄は土木、衛生、教育などの
行政を担当した。満鉄は公園、図書館、病院を運営し、小中学校はもちろん大学の設立
まで行い満州医科大学まで経営していた。これらの経費は満鉄附属地の住民から税金を
徴収して充てたのだが、そのかわり住民は中国側へ国税や地方税を納税しなくて良かっ
たので、かえって税金は安かった。行政運営は満鉄の地方部が行ったが、小さな附属地
では駅長が担当し、つまり駅長さんが「市長」を兼ねていたようなものだった。附属地
ごとに議会に代わる諮問機関として地方委員会が設置され、当初は満鉄がそのメンバー
を任命していたが、後に一定額以上の税金を収めた附属地住民による選挙が実施される
ようになった。鉄道附属地の内外に関わらず、日本人に対する司法権は中国との不平等
条約によって日本側にあったが、附属地内に住む中国人への司法権は、本来なら中国側
にあった。しかし東清鉄道と同様に日本は「実力」で司法権を及ぼしていた。附属地内
に住む中国人が附属地の外で犯罪を犯した場合や、附属地外の中国人容疑者が附属地へ
逃げ込んだ場合は、中国側警察の求めに応じて日本側の警察が容疑者を中国側へ引き渡
すこともあったが、この辺の取り扱いはかなり曖昧で取引が生じていた。1926年に
奉天の附属地に住んでいた張作霖の第五夫人(中国人)が家賃を滞納したことで、日本
人大家に家財道具を差し押さえられたことを不服として裁判が起こった。奉天の日本国
領事裁判所で起こした訴訟では、「奉天の如き鉄道都市は法の空虚地帯なり」と言い、
ギブアップ宣言とも言える判決が出た。これによって張作霖も 中国北京政府の利権も
奉天政府としての権利も 帝国陸軍は解さないと言うよりタッチ出来ない程満鉄経営は
利潤を上げていたのである。


835: 名無しさんAA:17/11/05 22:52
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 475-----------

ところが1932年に満州国が成立すると、この絶大な治外法権を持つ満鉄付属地は、
日本の「友邦」たる満州国の首を絞めかねない存在になった。なにしろ満州国は首都・
新京をはじめ主要都市の中心部はことごとく満州国の法律が及ばず、そこに住む住民や
企業も満州国に税金を払わずに満鉄に納税していた為だ。このため満鉄が年間3億円の
売上げを稼ぎ、列車の運航経費や付属地でのインフラ整備などの費用を差し引いても5
000万円近い利益を上げて、日本送金するその大部分の株主へ配当金として支払う一
方で、建国しても主要都市でも税金を集められない満州国の税収は年間4000万円足
らずに過ぎず、アヘンの専売権などの収入を加えても国家歳入は1〜2億円程度だった
のだ。つまり満州国より満州鉄道が売り上げ2倍利益3倍をなし、結局、日本政府にと
っても満鉄付属地は非常に厄介な地域になり、1937年には満州国へ返した。満州国
運営には海との接点である港が重要だった。昔からの遼寧半島の付け根にある営口とい
う港町があったが営口から遼河を遡った牛荘は古くから満州一帯の海の玄関口としては
古くから貿易が盛んな場所でだった。清朝時代は牛荘を開港場に指定したのだが、ここ
に租界を作ろうとしたイギリスは、牛荘より河口に近く貿易に便利な営口を「牛荘」だ
と称して領事館を勝手に設置していた。しかし営口は直ぐに河口に土砂が堆積しては、
大型船が入りにくくなり冬は港が凍結してしまうことで、新たにロシアがダルニー(後
の大連)を開発して玄関口がそちらに移った。イギリスが租界を作るために借りた土地
では地盤沈下で沈んでしまったことなどで、結局イギリス租界は作られず徐々に寂れて
いったのである。ところが、日露戦争が始まると営口は日本軍の上陸拠点の基地となり
、営口の町外れにあった駅一帯には、新しい日本人町ができて多くの日本人が住み着き
始めた。中国人やイギリス人が住む港に面した古くからの営口に対して、駅前の新しい
日本人街は「新市街」と呼ばれ発展するようになった。日露戦争が終わってからは、日
本は清朝に圧力をかけて奉天、営口、安東などに日本租界を開設することになったが、
結局ここの租界は作るのはやめてしまった。なぜかというと、1つは、営口に古くから
進出していたイギリスが日本に乗じて租界を作り、満州に本格進出してくるかも知れな
いと懸念した為だ。そしてもう1つの理由は 軍部が反対した。租界の中の行政は領事
館つまり外務省が担当することになるが、軍部は新市街を満鉄附属地にして、自分たち
の息がかかった満鉄を通じて支配したいという思惑があったからだった。と言われる。


836: 名無しさんAA:17/11/05 23:01
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 476-----------

こうした軍部と外務省との対立の結果、新市街はとりあえず租界でも満鉄附属地でもな
いタダの新市街となったが、日本政府が組織した居留民団が行政を掌握して租界と変わ
らない統治をそのまま行ったと言われる。これに対して中国側はたびたび抗議していた
が、日本側はそれを無視し続けた。それは中に朝鮮系の日本人が多数いて軍ではないと
収拾がつかなかったからだ。しかし満州の開発が進むと、営口港はやがて満鉄が経営す
る撫順炭鉱や鞍山鉄鋼所の重要な積出港となり、クーリーが増えて1923年に新市街
は満鉄附属地に編入されて行った。ちなみに日本が支配したアヤシイ新市街は、鴨緑江
を挟んで朝鮮との国境に位置する安東(現在の丹東)にもあって、ここも営口の新市街
と同じように 日露戦争の時に建設され、1923年に満鉄附属地となっていた。こう
して満鉄付属地が有効な土地を増やし輸出入にまで転じて国家経営が出来て来ると線路
の改造問題が持ち上がっていた。日露戦争の以前は、奉天からハルビンへ向かう鉄道は
一直線に敷かれていて、寛城子駅からが長春の最寄駅だったのだ。日露戦争後にロシア
は寛城子駅から南の鉄道を日本へ譲ることになり、満鉄が経営することになった。しか
し東清鉄道のレールの幅はロシア式の広軌(1520mm)だったのに対して、満鉄は
獲得した路線のレールの幅は、中国本土や朝鮮と同じ標準軌(1435mm)に直して
いたので列車の直通運転はできなくて、乗り換えが必要になっていた。兵士などの人の
輸送には自分から歩くので問題は無かったが 貨車などの資材の運搬には積み替えが必
要になって負担や混乱が生じていた。そこで満鉄は 1907年に寛城子駅と市街地(
城内)との間に新しく長春駅を建設し、ここで2つの鉄道の乗換駅にした。長春〜寛城
子の間は満鉄と東清鉄道のレールが並んで敷かれ、東清鉄道も長春駅まで乗り入れを開
始した。一方で、貨物は寛城子駅で積み替えを行った。同時に満鉄は長春駅の南側の土
地を買収して新たに日本側の鉄道付属地を作った。こうして長春駅は1912年に吉長
鉄道(吉林〜長春)も乗り入れてターミナル駅として発展したが、寛城子駅の方は市街
地との間を、長春駅で分断されてしまい、ロシア側の付属地にはロシア兵と鉄道職員が
住むだけで寂れていった。やがて35年にソ連が北満鉄道(東清鉄道→東支鉄道の後身
)を満州国へ売却すると、満鉄は長春改め新京以北のレール幅も1435mmへ改軌し
て、大連・奉天からハルビンへの直通運転をスタート。新京駅でいちいち方向転換して
いては面倒なので、新京駅の東側から北へ向かう新線を建設して、S字形で直行できる
ようにした。一方の寛城子駅はロシア人がいなくなり、新京から内モンゴル方面へ向か
う京白線のローカル駅に転落して、ますます落ちぶれてしまったのでした。

837: 名無しさんAA:17/11/05 23:11
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 477----------

当時のチェコはオーストリア帝国の領土であった。チェコ人はオーストリア軍として第
一次世界大戦に参加したが、オーストリアの敗戦によるチェコスロバキアの独立を夢見
て、5万人のチェコ兵が同じスラブ系民族のロシア軍に投降してこの領土建設に駆り出
された。又連合軍にも加わって東部戦線で戦ってもいてスラブ人は分断して戦争で対抗
して最前線にいた。しかしロシア革命の勃発でロシアがドイツと停戦したため、チェコ
軍団はしかし捕虜となったチェコ人はシベリア鉄道で沿海州へ向かい、連合国側のチェ
コ人は日本、アメリカを経由し地球をほぼ一周してフランスの西部戦線に加わることに
決定した。ところがシベリア鉄道の運行が混乱してなかなか先へ進めなかったため、怒
ったチェコ軍団は沿線各地で反乱を起こしながらウラジオストク(浦塩)へ集結。反革
命政権の主力になった。日本や米英仏などがシベリアへ出兵したのは、当初は「チェコ
軍団の救援」が大義名分だったが、ところがチェコ人も又人種ではなかった。チェコと
言う場所に住む人たちだったのである。かつて千年前ボヘミア公国を建国され、その後
無くなったがハプスブルク家が出来の権威が失墜すると、オーストリア・ハンガリー帝
国という事実上の連邦国家が成立し更にそれが没落して、チェコ人と言う自治民族が出
来てチェコ軍が出来ていた。だが当然ながら民族的な繋がりよりは、チェコ語を話せば
スラブ人でもロシア人でもユダヤ人でもロマ人でも、国内に住み日常の習慣が同じであ
ればチェコ人だったのである。こうしたこの中で ロシアに対抗してシベリア出兵に合
わせて 日本の陸軍は関東軍を作って朝鮮経営に乗り出していたのが、当時の状況だっ
た。この時造ったのがそれが先の狭軌の鉄道だった。関東軍と言う名は中国の中で、こ
の関東州を治めた軍隊だった。関東州は大連、旅順などを中心とした遼東半島の先端に
あった日本の領有地で国際的にも認められたところだった。「関東」とは山海関(万里
の長城)の東側の意味で、本来なら満州全体を指す歴史的な言葉である。ウラジオスト
ックは、ロシアが造った新しい土地だったが、アメリカ経由してわざわざこのウラジオ
ストックに派兵し出来たばかりのシベリア鉄道によって第一次世界大戦に加わっていた
。ところがこの大陸横断のシベリア鉄道は霜のせいで上手く運行が出来ずにいた。そこ
に物資を送る日本の関東軍の鉄道と馬車がハルピンから乗り入れてる形だった。

838: 名無しさんAA:17/11/05 23:16
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 478----------

日清戦争後の下関条約(1895年)で、日本は清朝に台湾とともに 遼東半島(営口
・鳳凰城・鴨緑江を結ぶラインより南側)を割譲させたが、ロシア・フランス・ドイツ
によるいわゆる三国干渉で清朝へ返還した。すると3年後にロシアが清朝からこの遼東
半島の先端を租借し、拠点としてダルニー市(大連)を建設した。日清。日露の戦争は
この部分の攻防だった。日露戦争後には この租借権は日本に引き継がれ、ダルニーは
大連と名を変更し統治したが、それでもロシアは引下らなかった。本国の革命で国際的
取り決めも従う気も無かった上にその指令すら伝達が滞っていたのである。日本は朝鮮
総督府や台湾総督府に相当する植民地の統治機関として、関東都督府(1919年以降
は関東庁、34年に関東州庁と改称)が置かれたが、都督府は関東州の行政だけでなく
、満鉄付属地(日本の国策会社・南満州鉄道が主な駅周辺で統治していた治外法権地帯
)の行政や、日本の治外法権に基づいた満州各地の警察業務なども管轄した。この間協
定で関東州はロシア時代から輸出入に関税がかからない自由港(フリーポート)だった
が、日本もそれを引き継いで自由港としている。しかし大連港に陸揚げされ満州へ運ば
れる商品等には中国の関税がかかる。関東州と満州の間で再び貨物検査をするのは面倒
だったので、大連港には中国の税関当局が(満州国成立後は満州国の税関)が設置され
、満州向けや他の船に積み替えて中国本土へ発送される貨物から関税を徴収することに
なっていたが、此処に中国本国の体制とは遠い中国税関があったようだ。先の張学良軍
の軍閥である。つまりその税が張学良軍の費用であり中国政府の収入とはならなかった
のである。中国政府自体はロシアからの借金で鉄道建設費用を支払いする約束だったの
で支払いのないロシアは爆破し運休を迫る判断だった。張学良軍と政府とに連絡が疎通
で、暫くするとそれは抜け穴も多い環境に密貿易の拠点にもなった。元々関東州にいた
漢民族は少なく、もとから住んでいたのは満州族や朝鮮人だった。朝鮮や台湾、南樺太
など他の植民地と違って、日本政府は彼らに日本国籍を与えなかった。関東州はいずれ
中国に返す(ことになっている)租借地なので、彼らは中国国籍のままとされた。19
25年(大正14年)『『関東庁要覧』の人口統計によれば、日本人8万8336人(
うち内地人=現代でいう日本人8万7572人、朝鮮人764人)に対して、支那人(
満州族、モンゴル族)は63万7110人、他の外国人(主にロシア人)が416人だ
った。

839: 名無しさんAA:17/11/05 23:29
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 479----------

張作霖爆殺事件ソ連特務機関犯行説は、1928年6月4日発生した張作霖爆殺事件の通説の
河本大作の創作した日本人軍人策謀説ではなく、ソ連赤軍特務機関による犯行であると
する真実である。この主張はロシア人歴史作家のドミトリー・プロホロフが最初に表明
した。ソ連崩壊以前から旧ソ連・ロシアの特務機関活動を専門に執筆活動していた彼は
、2000年に共著によって『GRU帝国』を出版したが、そのなかで分析の結果として、
張作霖殺害にソ連の特務機関が関与していることを唱えた。それは、ソ連の職業諜報員
だったナウム・エイチンゴンが日本軍の仕業に見せかけて実行したという説である。こ
の後2005年に出版された ユン・チアンとジョン・ハリデイの共著による『マオ誰も知
らなかった毛沢東』にも、張作霖謀殺に関して「張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行
したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところ、実際には、
スターリンの命令にもとづいてナウム・エイチンゴンが計画して、日本軍の仕業に見せ
かけたものだという。」との記述がある。プロホロフによれば、日本の支援で満州を支
配していた北京政府に、ソ連政府は張作霖の奉天政府とに1924年9月に「中国東北鉄道
条約」を締結し友好関係を結んでいた。しかし張作霖の鉄道代金未納が1400万ルーブル
に及んだ為に、ソ連政府が鉄道使用禁止を通達したが、張作霖はソ連人の鉄道管理官を
逮捕し、実効支配した。としている。これら張作霖の反ソ的な姿勢に加え、ソ連が支援
した対中国国民党に対する軍事行動に失敗したことから、1926年9月に張作霖排除を決
定し、決行をフリストフォル・サルヌインが立案し、特務機関のレオニード・ブルラコ
フによって奉天にある張作霖の宮殿に地雷を敷設して爆殺する計画を立てたが、ブルラ
コフらが逮捕されたため失敗した。だが、張作霖が1928年に反ソ反共の満州共和国創設
を日本政府と協議したことから、ソ連特務機関は再度暗殺計画を立案し、実行責任者と
してナウム・エイチンゴンが任命され爆殺に成功したとしている。また、プロホロフは
極東国際軍事裁判(東京裁判)で関東軍元幹部が犯行を認める証言をしたことについて
「その幹部は戦後、ソ連に抑留され、ソ連国家保安省が準備した内容の証言をさせられ
た。日本が張作霖を暗殺しなければならない理由はなく、ソ連が実行した」と主張して
いる。なお、プロホロフは2009年12月に訪日している。またアパグループの元谷外志雄
代表はプロホロフの住むサンクトペテルブルクを訪問し彼と対談しているが、そのなか
で実行犯の名指しこそしていないが、日本軍の仕業に見せかけるために「日本軍に属し
ていたエージェント(ソ連の工作員)が、サルヌインの指令を受けて、爆弾を仕掛けた
と考えられます」と主張している。

840: 名無しさんAA:17/11/05 23:47
 張一族は、最初からの北洋艦隊からの軍閥ではない。清王朝時代、皇母西太后による
垂簾朝政下で曾国藩・李鴻章ら太平天国の鎮圧に活躍した「穆党」の漢人官僚が、力を
得て北洋艦隊などの軍閥を形成していったのだが、政治・行政面では積弊を露呈してい
た。この時清朝では、旧体制を放置したまま、先ずは産業技術に於いて西欧の技術を導
入する洋務運動を開始している。又この頃対越南(ベトナム)宗主権を維持しようとし
て清仏戦争に突入して失敗し、清仏天津条約によって冊封国「越南(ベトナム)」は、
フランスの植民地となり更に混乱をきたした。又 1886年、緬甸(ビルマ)は3度目の
イギリス軍の侵略を被って滅亡し、いよいよ西洋列強は中国大陸に進出しようとしてい
た時と重なった。従来からの清への臣従を拒む勢力が関東州には台頭していた。属国化
していた朝鮮に対しては、宗主国として内政権を持ってはいたが、壬午事変(1882年)
、甲申政変(1884年)甲午改革(1894年)などが続けて起り、清王朝側は鎮圧をする為
派兵したものの、李氏朝鮮の内情が頼る国を巡って分裂していた。こうして日清戦争で
敗北し下関条約によって遼東半島および福建台湾省の割譲と、朝鮮が自主国であること
を承認させられた。この時張一族は台頭して来ていた。建国以来維持していた李氏朝鮮
に対する広範な支配権も、清朝は失いながら朝鮮は独立国として大韓帝国内に清領租界
を日韓併合後も確保して影響を維持していた。こうした事から日本軍は張一族を支援す
る事を本格的に決めたのである。その後奉天軍閥として満州全域を支配するに成長して
山海関を越え、北京にに拠点を構えた。元々が清王朝は外来政権で満州族の王朝であっ
た。この為満州域は無主の地だった。アジア覇権を握って、中華思想に基づいて、歴代
王朝の皇帝が『天下』を支配し、冊封体制の下で東アジアの国際秩序を維持するものと
考えて清王朝は存在していた。18世紀後半の、西欧諸国が産業革命と海運業発展によ
りアジアに進出して来た時、イギリス商人は西欧の対中国貿易競争に勝ち残って、中国
の開港地の広州で茶貿易をしていた。また、アメリカも独立戦争後の1784年と言う
早い時期にも、商船エンプレス・オブ・チャイナ号が広州で米清貿易を開始していた。
この時は米清貿易により清は金属・オタネニンジン・毛皮を、米国は茶・綿・絹・漆器
・陶磁器・家具を得て全く正常だった。つまりアヘン貿易するまで日本の鎖国開港の様
な開港貿易をしていたのである。この中で1793年、イギリスは広州一港に限られて
いた貿易の拡大するため、ジョージ3世は乾隆帝80歳祝賀使節団としてジョージ・マ
カートニーを派遣した。工業製品や芸術品を皇帝に献上したが、中国にとって商品価値
を持つ英国製品は無く、結果「自由に皇帝に敬意を表してよい」という権限を貰っただ
けであった。こうして対中輸出拡大を望むイギリスの試みは失敗に終わった後 イギリ
スはアヘンを持ち込んだ輸出に転じたのである。

841: 名無しさんAA:17/11/05 23:52
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 481----------

 この事は清の危機感の無さが亡国にした。英国と清の貿易では、清の商人は銀での支
払いのみを認めることとなったが、当時のイギリスは、茶、陶磁器、絹を清から大量に
輸入している中で、中国に輸出する商品を欠いていて、英国に毎年大幅な貿易赤字とな
って蓄積していった。又世界的に、イギリスはアメリカ独立戦争の戦費調達や産業革命
の資本蓄積のため、銀の国外流出を抑制する必要があり、商人はインドの植民地で栽培
した麻薬アヘンを中国に輸出することで三角貿易を成立させる事を実行した。清国では

842: 名無しさんAA:17/11/05 23:53
した麻薬アヘンを中国に輸出することで三角貿易を成立させる事を実行した。清国では
アヘンの輸入を禁止したが、アヘン密貿易は年々拡大し、中国社会でのアヘンの蔓延は
清朝政府にとって無視できないほどになっていったのである。また、17世紀以降の、
平和な清の国内の人口の爆発的増加に伴い、民度が低下し、自暴自棄の下層民が増加し
た事もアヘンの蔓延を助長させた要因であり 属国から西洋列強の攻撃に避難して来た
人間も多くいた。このため、1839年林則徐を欽差大臣に任命してアヘン密貿易の取り締
まりを強化し、歴史的大事件が数々と起こり、不平等条約を締結して行った。この事が
日本の開国時の不平等条約の見本になった。もし祝賀使節団の時清王朝が鉄砲なり軍艦
なりを購入する事をすれば英国交易も全く変わっていただろう。更にこの外来王朝によ
って北京から南部は漢民族の施政であり北部は属国領として歴史的にモンゴル人や朝鮮
人達の自治を任せていた地域であった事が奉天軍と言う張作霖を作った元となっていた
。当初1901年、袁世凱は清朝の北洋通商大臣に就任し、西洋式の新しい北洋軍とい
う新軍を設立して清国を守る為に編成した。だが拡大はしたものの、各地方にも鎮守す
る程の力はなかった。辛亥革命により、袁世凱は革命軍に協力して、清朝を打倒して、
中華民国の樹立に協力したため、彼は中華民国の臨時大総統に就任した。こうして北洋
軍は年々拡大し、地方を根拠地とする背景勢力により各個の軍隊が作られた。戦国時代
の群雄割拠の様相だったのである。1916に袁世凱が死んだ時北洋軍閥はその背景勢
力の違いにより、直系(直隷派)、皖系(安徽派)、東北の奉系(奉天派)、晋系(山
西派)、馮系(西北派)の各分派に分裂した。以後は、分派間や同一派内の有力者間で
抗争を繰り返し、北京政府の政権を争ったが 奉天派はこの中で異色の経済隊だった。
清朝は総理各国事務衙門を設置し、その下に三口通商大臣と五口通商大臣を置き、対外
通商と外交事務を担当させたていたが 冊封によって朝貢してくる国との通商事務が、
この礼部が、外蒙古・青海・西蔵・新疆といった藩部やロシアとの通商外交は理藩院が
、唯一外国との交易を許した広州での貿易事務(広東システム)は両広総督が担当して
いたのである。この総理各国事務衙門の一部が冀東防共自治政府だった。

843: 名無しさんAA:17/11/05 23:53
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 482----------

通称モンゴルは、東アジア北部に位置する国家として存在しているが昔から境界を持た
ない遊牧民の国だった。東と南を中華人民共和国(中国)・内モンゴル自治区と、西を
中国・新疆ウイグル自治区とカザフスタン・東カザフスタン州、北をロシア連邦とそれ
ぞれ接する内陸国となって、首都はウランバートルになって定住するようになったが、
モンゴル民族の居住地域であるモンゴル高原のうち、清国支配下で中国語で外蒙古され
る場所と呼ばれたゴビ砂漠以北の一帯にほぼ該当する領域を国土とした。これに対し、
南部の一帯が内蒙古とされる場所は、現在は中国領とされており、「蒙古族」とされる
中国国籍のモンゴル人のための「民族区域自治」単位として内モンゴル自治区等が置か
れる事で実効支配されている。冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)は、
このモンゴルが出来る前からある清国時代からの漢民族不侵入地域であり、過去300
年前から漢民族には入場制限が課されていた場所だった。モンゴルと言っても5系統の
凡そ50種族があり、ヌルハチのいるモンゴル系女真族がこの清王朝を建てたが、その
庇護下のモンゴル系8民族がこの周辺を回遊民族として生活していた。今解っている中
ではモンゴル国には8割弱がハルハ・モンゴル族、残り2割強にその他モンゴル系、テ
ュルク系民族の16部族が居住するとされる。1920年3月7日、ロシア・ソビエト連邦社
会主義共和国のソビエト政権が日本のシベリア出兵に対峙すべく極東共和国を建国した
、事で1922年11月19日まで存在した短命な極東の緩衝国家だが、この時期に張はロシア
側のスパイとして活動し、日本軍に捕縛されたが、張に見所を認めた時の陸軍参謀次長
・児玉源太郎の計らいで処刑を免れた。この時、児玉の指示を受けて張の助命を伝令し
たのが、後に首相として張と大きく関わることとなる田中義一(当時は少佐)である。
とされる。1875年、遼東半島の付け根に位置する海城県で生まれる。生家はあまり豊か
ではない上に、1889年に実父・張有財と死別。獣医の継父から乗馬を習った。気が合わ
ず、家を飛び出したとも言われている。その後吉林省に渡り、馬賊に身を投じて、営口
市高坎鎮一帯で生活し、非合法な朝鮮人参やアヘンなどの売人をしていたと伝えられる
。この時児玉や田中の頭にあったのは 予想のつかない馬賊の動きであったのだろう。
まず清が指導している訳でもなくロシアに従っている訳でもなく 時には単発で時には
集団で襲ってきたからだ。更にロシアの改革で全く相手が見えなかったのである。

844: 名無しさんAA:17/11/06 00:01
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 482----------

通称モンゴルは、東アジア北部に位置する国家として存在しているが昔から境界を持た
ない遊牧民の国だった。東と南を中華人民共和国(中国)・内モンゴル自治区と、西を
中国・新疆ウイグル自治区とカザフスタン・東カザフスタン州、北をロシア連邦とそれ
ぞれ接する内陸国となって、首都はウランバートルになって定住するようになったが、
モンゴル民族の居住地域であるモンゴル高原のうち、清国支配下で中国語で外蒙古され
る場所と呼ばれたゴビ砂漠以北の一帯にほぼ該当する領域を国土とした。これに対し、
南部の一帯が内蒙古とされる場所は、現在は中国領とされており、「蒙古族」とされる
中国国籍のモンゴル人のための「民族区域自治」単位として内モンゴル自治区等が置か
れる事で実効支配されている。冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)は、
このモンゴルが出来る前からある清国時代からの漢民族不侵入地域であり、過去300
年前から漢民族には入場制限が課されていた場所だった。モンゴルと言っても5系統の
凡そ50種族があり、ヌルハチのいるモンゴル系女真族がこの清王朝を建てたが、その
庇護下のモンゴル系8民族がこの周辺を回遊民族として生活していた。今解っている中
ではモンゴル国には8割弱がハルハ・モンゴル族、残り2割強にその他モンゴル系、テ
ュルク系民族の16部族が居住するとされる。1920年3月7日、ロシア・ソビエト連邦社
会主義共和国のソビエト政権が日本のシベリア出兵に対峙すべく極東共和国を建国した
。緩衝国家としての役割で1922年11月19日まで存在した短命国家だった、この時期に張
はこの属国のロシア側のスパイとして活動し、日本軍に捕縛されたが、張に見所を認め
た時の陸軍参謀次長・児玉源太郎の計らいで処刑を免れた。この時、児玉の指示を受け
て張の助命を伝令したのが、後に首相として張と大きく関わることとなる田中義一少佐
である。とされる。1875年、遼東半島の付け根に位置する海城県で生まれるが生家はあ
まり豊かではない上に、1889年に実父・張有財と死別している。獣医の継父から乗馬を
習った。気が合わない家を飛び出した。と言われている。その後吉林省に渡り、馬賊に
身を投じて、営口市高坎鎮一帯で生活し、非合法な朝鮮人参やアヘンなどの売人をして
いたと伝えられる。この時児玉や田中の頭にあったのは 予想のつかない馬賊の動きで
あったのだろう。まず清が指導している訳でもなくロシアに従っている訳でもなく 時
には単発で時には集団で襲ってきたからだ。更にロシアの改革で全く相手が見えなかっ
たのが現状だったが、ひょこり「極東共和国」なる国家が出来上がっていたのである。


845: 名無しさんAA:17/11/06 00:11
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 483----------

 張作霖爆破事件も柳条湖事件もソ連軍からやって来た日本陸軍の朝鮮兵がやった事件
ではある。そして彼らを匿っていたのも日本のコミンテルンつまりは赤化兵士達だった
。では日本政府は何故日本軍が疑われる事になるこの事件を止めなかったのか。それは
止める理由が無かったのだ。日本政府は北京の各国公使団からも、再三再四「日本の力
で北京を戦禍から守ってほしい。」と強い要請を受けていた。張作霖の奉天軍が北京に
いると、南軍と激戦になり、在留外国人や中国市民が巻き添えを食うことは目に見えて
いたからだ。事実張作霖の私邸は2〜3回爆破未遂事件があっていた。又南軍迫るの報
に、済南事件の惨状を知った北京城内では、外国人・中国人を問わず恐怖に怯えきって
もいた。執拗に続くソ連の領事館指導の赤軍や毛沢東の共産軍がかなり溢れていて判別
出来なかった事もある。今後の虎の子の満州の経営を維持するのに、張作霖はマイナス
だという空気が関東軍に強くなった。というのは張は満州族じゃなく漢民族(実は朝鮮
族)で、満州は単なる根拠地にしているだけで、どうしても北京に出て中国本土の覇権
を握りたい。としていた。元々権益について広東政府からでて来た北京政府とは軋轢が
あった。そのためしばしば国民党軍と戦う。その軍費調達のために重い税金をかける。
それだけでは足りなくて、なんの裏付けもない紙幣を乱発する。そうすると満州はイン
フレになる。このまま張にまかせておいたら、満州は経済的に破綻しかねない。と言う
中にあった。この頃満州国はまだない。先に記述の「鉄道附属地」と言う名の自治防衛
権のみだった。そこで軍は息子の張学良への政権交替を企んだ。学良は重い阿片中毒で
、統治能力はないと見ていた。張作霖の側近には、幸い日本の陸士を出た優秀な幕僚が
いる。彼らに実権を握らせれば、日本には今は好都合だと考える部分もあった。問題は
今の冀東防共自治政府の地位にあった。日本が満州鉄道の地域として満州国を建設した
時、満蒙開拓団と言う一般の農民兵と共に婦女子の受け入れは既に計画されていた。従
って陸軍は、中立地帯としてソビエトの極東国の様な緩衝部分を策定し中国の華北五省
(察哈爾、綏遠、河北、山東、山西)を中立地帯として計画した。その為に陸軍の華北
政策として華北に向かって進軍した。当時、遼寧省と河北省の間に熱河省があり、ここ
が満州国が国際連盟で大問題となっていた場所になった。熱河省の省都・承徳を関東軍
が占領、更に長城を越えて北京のすぐ近くまで軍を進めそしてついに、5月、関東軍は
中国軍との間に「塘沽停戦協定」を締結して、中国軍の非武装地帯を作り終えていた。


846: 名無しさんAA:17/11/06 00:21
元々満州国樹立を宣言しても、そう日本にメリットは無かった。いやデメリットの方が
多かったとも言える。まず権益や税金の問題でも既に先の満鉄附属地があって、満州国
を作っても早々変わった所はない。それどころか軍部や行政の満州国経営によって、こ
の満州鉄道の持つ行政や安い税金での生活が奪われる事になったし、満鉄そのものの、
事業権や法人税や事業税の確執やこじれが生じていた。こうして満州国行政自体の収益
が必要になる中で 今度は付随して設立されていた企業群にも同じ不都合が出来ていた
。これまで正規の半分以下の安い住民税で住んでいた場所が廃止され会社自体や国民に
も税金が課されたのだ。そこでこの企業達は「塘沽停戦協定」で作られた冀東防共自治
政府に目を付けたのである。つまり満州が独立した事で輸出入のこれまでの特権がなく
なった事で冀東防共自治政府と言う中国自治区としての地位を改めて作られた中での、
経済改革である。それは、かつての満鉄附属地と同じに中国政府の立ち寄れない、日本
の軍隊の駐留権や警察権、司法権、徴税権、郵便局や電話局の運営などの通信権、イン
フラ整備や衛生、教育、事業認可などの行政権を自治会が持つと言う とっても都合の
良い処だったからだ。こうしてそこにも生活があり「自治」と言う華北経済圏の独立し
、すなわち「第二の満鉄附属地」化を担って行った。こうしてかつての満州日本軍特務
機関から金と武器を支給された「自治」運動が続出し、1937年11月、河北省東北部の非
武装地帯に、殷汝耕を首班とする冀東政権が冀東防共自治委員会を経て、翌月自治政府
に改組し作られて行った。12月には中国中央政府からなかば独立して河北・察哈爾両
省を管轄する冀察政務委員会(委員長宋哲元)が成立した。その上張作霖の肝いりで、
この熱河省はケシの巨大栽培が試みられていたのである。当然裏には日本の商社がつる
んでいたし、そこにはその後の戦後の自民党を支えた者達がいた。又非武装地帯には帝
国陸軍の権限が棚上げされていた。ここに関東軍でも満鉄でもない三井資本の経営する
阿片栽培の無法地帯が出来上がってしまったのだ。又ここが中国領土と認めていたので
ここを拠点にした密貿易は横行し、中国全土に製品は回っていった。こうして関東軍は
膨大な利益をあげた。それは阿片・モルヒネ・コカインなどに限らず資源や電気すら軍
の下の企業が売り、得た資金を軍の裏金、活動資金にした。一例が関東軍参謀田中隆吉
などがこの資金を蒙古の独立運動につぎ込んだとする裁判である。東京裁判では田中は
天皇を守ることを決意して、検事側証人として出廷した。この時の人間関係の不満によ
り、旧陸軍の内部告発をしたとする批判の人間である。かつての上司である東條英機、
木村兵太郎にとって不利となる証言を次々とした。そのため、田中に対して「裏切り者
」「日本のユダ」という罵声を浴びせる者もいた。

847: 名無しさんAA:17/11/06 00:26
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 485----------

 東京裁判の、特に7月6日の公判において、橋本欣五郎・板垣征四郎・南次郎・土肥
原賢二・梅津美治郎などを名指しで証言した際には、鈴木貞一は、その日の日誌に、「
田中隆吉証言。全ク売国的言動ナリ。精神状態ヲ疑ワザルヲ得ズ」と記し、板垣征四郎
も日記に二重丸をつけて「人面、獣心ノ田中出テクル。売国的行動悪ミテモ尚余リアリ
」と書き、重光葵はその時の心境を「証人が被告の席を指さして 犯人は彼と云ふも浅
まし」と歌に詠んだ。元々、内大臣秘書官長であった松平康昌から「昭和天皇の日本人
は戦犯として裁判を受けるとのことだが、彼らは自分の命令で戦争に従事したのである
から彼らを釈放し自分を処刑してもらいたい」という発言を聞かされて、連合軍の目に
とまりGHQに召喚され、ジョセフ・キーナン主席検事から昭和天皇の戦争責任を回避
するための協力を求められたからだった。田中は被告人側の証言にも立っている(木村
兵太郎、梅津美治郎、東郷茂徳、畑俊六の四名)。これについて人から問われると「自
分は検事団に雇われているわけではない。事実を述べるのに検事側も被告側もあるか」
と意にも介さなかった。東京裁判での田中の言動を「米国流の司法取引」と評している
のは当然だった。「田中の軍歴が示す通り、全てが計算された戦後における謀略であっ
た」と指摘されている。川島芳子と出会い、男女の仲になる。川島をスパイの道に引き
入れる。川島芳子とは清朝の皇族・第10代粛親王善耆の第十四王女で、本名愛新覺羅
顯好(あいしんかくらけんし)、字は東珍、漢名は金璧輝、俳名は和子。他には芳麿、
良輔と名乗っていた時期もある。8歳のとき、粛親王の顧問だった川島浪速の養女とな
り日本で教育を受けた。1927年に旅順のヤマトホテルで、関東軍参謀長の斎藤恒の
媒酌で蒙古族のカンジュルジャップと結婚式をあげた。だが彼はは、川島浪速の満蒙独
立運動と連携して挙兵し、1916年に中華民国軍との戦いで戦死したバボージャブ将軍の
次男にあたり、早稲田大学を中退後1925年「韓紹約」名で陸軍士官学校に入学していた
。このバボージャブ将軍こそ満蒙独立運動の旗頭で、1904年からの日露戦争では日本側
の募った義勇部隊「満州義軍」に参加したモンゴル人だった。日露戦争が終わって満州
義軍が解散すると、彰武県へ戻り巡警局長を務めていた。辛亥革命が起こり外モンゴル
でボグド・ハーン政権が樹立されると露蒙中の三国会談で、モンゴルは強制的に中国の
宗主権を認めさせられた。これに対してバボージャブは配下の2人を日本へ派遣して、
軍資金や武器弾薬の援助を日本に求めた。また清王朝の残党とも協定し日本側から川島
浪速の援助を得て戦ったのである。

848: 名無しさんAA:17/11/06 00:36
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 486----------

 川島をスパイの道に引き入れたとされる田中はかなり真正直な人間で諜報員やスパイ
と言うまでは無かったと言える。つまりその後に中国国内に男装写真を新聞に出したり
国民党軍に川島芳子が捕まった事からもそういう事が苦手では無かったろうかと推測す
る。東條内閣になって外務省とは別に大東亜省を設置すると主張する主張し、外務省と
対立していた。だがこの事は如何に東条英機が国際音痴であるかを物語るものだった。
大東亜省の設置の際、9月1日に外務大臣東郷茂徳は辞任したがその時田中は兵務局長
にあり相談を受けている。田中少将は「東條首相は速やかに首相を辞めて第一線に出る
か、或は引退するのが国家ならびに本人のためである」と答えていた。既に政治家東条
を見切っていたのだ。そして9月22日には田中自身も又東條首相に辞表を提出した。
東郷外相が東條に敗れたら、田中少将も辞任すると約束していたので、実行に移したと
回想録では述べているが、田中少将と東條首相との度重なる意見の相違の結果でもある
。谷田勇は田中と広島幼年学校以来の旧知の仲だった。田中少将が陸軍省を追われて、
国府台陸軍病院の精神病棟に入っていることは承知していたが、長岡の旅館で会ったの
には驚いたようだ。その時、田中少将は「開戦を決心する時は、省部の会議は開かれな
かった。東條大臣と武藤軍務局長と田中新一作戦部長との間で急遽、開戦を決した。己
を知らぬ馬鹿な奴らだ」と吐き捨てる様に言ったという。「日本軍閥暗闘史」によると
陸軍「3月クーデター事件」があったがは宇垣一成大将を首班とした組閣が立案されて
の事だった。これは失敗したが、民間側の指導者、大川周明博士は後に、宇垣大将を「
大嘘つき」と罵倒したことがあった。大川が推薦した白鳥敏夫氏を次官にすると約束し
ながら、宇垣が外相になってもそれを実行しなかったからだ。伊豆長岡の大和屋温泉で
会食した時真っ赤になって「なるほど、君から白鳥氏を次官に採用せよとの要求はあっ
た。自分はただ承りおいたのみで、ただの一回もその実行を約束した覚えはない」と言
った。その時承知したというからそういう人物だと大川と同席していた田中少将は思っ
たに違いない。早速陸軍省の局長会報で兵務局長の田中少将は「この内閣には癌がある
。それは星野、鈴木、岸の三人だ」と一矢を放ったが、東條首相は歯牙にかけない風を
示したという。ただ東条はこの時、別の事に熱心になっていたのかも知れない。

849: 名無しさんAA:17/11/06 00:41
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 487----------

 昭和19年、木戸内大臣と会談した田中少将は「何が故に重臣は東條を推薦せりや?
」と問うた。木戸は「それは東條が陸軍大臣になってから、珍しく統制がとれたので、
東條ならば陸軍部内の主戦論を抑えて、戦争の勃発を回避し得ると思ったからだ」と答
えたが 既にこの木戸もだらしない汚職官僚の一人だった。木戸幸一は学習院高等科で
は原田熊雄、織田信恒などと同級だった。近衛文麿は1学年下にあたる。「学習院高等
科から出た者は、東京の大学が満員だから全部京都大学へ行けというような話」があり
、木戸、原田、織田は京都帝国大学法科大学政治学科に入学し、マルクス経済学の河上
肇に私淑(密かに師と仰ぐ)した。卒業後は農商務省へ入省した。農商務省が農林省と
商工省に分割の際は、商工省に属することとなる。つまり経済学の専門家で国際戦況や
国策には全く素人だったのである。昭和15年から内大臣を務めたが、元老西園寺公望
や元・内大臣牧野伸顕に代わりの昭和天皇の側近として宮中政治に関与し、宮中グルー
プとして、学習院の学友である近衛文麿や原田熊雄らと共に政界を動かしていた。親英
米派でも自由主義者でもなく、親独派として知られた事から恐らくはドイツの工作員の
いいようになっていたとも思われる。又この頃までも明治時代と同じ様に米国よりはド
イツ留学やドイツ視察が陸軍の流れであった事が日本に暗雲を垂らしていた。彼自身は
几帳面な官僚主義的性格の持ち主で、天皇の信頼は厚かった。又木戸にすれば機密費が
天皇に奉上出来る内閣であれば良かったのだ。田中はこうした重臣の軍の統制に対する
無知に驚いたと言う。昭和16年10月、田中少将は下志津飛行学校幹事の中西大佐を
訪れ、「米国の航空機に対して、日本の航空機の現状を持って果たして勝算があるか」
と聴いている。中西大佐は「質、量、共に勝算なし」と極めて明白に断言した。その翌
日、上京中であった石原莞爾中将から木村代議士を通して田中少将に会いたいとの伝言
があった。会ってみると石原中将は開口一番「石油が欲しいからといって戦争をする馬
鹿があるか。」と言った。「南方を占領したって、日本の現在の船舶量では、石油は愚
かな事。ゴムも米も絶対に内地にもって帰ることは出来ぬ」と一流の口調で言った。更
に石原中将は「ドイツはロシアに勝てぬ」とも言ったのである。この年12月8日午前
6時、田中少将は陸軍省から電話を受けて真珠湾攻撃が成功した事を知った。正午にな
って宣戦の大詔が発せられ午後1時陸軍省の大講堂で、東條首相の訓示があった。東条
には、絶対勝つと言う自信があったが、今もまだ 新型爆弾の明瞭な報告は来なかった


850: 名無しさんAA:17/11/06 00:49
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 488----------

 この訓示に田中少将は武藤軍務局長と隣り合って聞いた。訓示の直前、武藤軍務局長
は落胆する田中少将に「これで東條は英雄になった」と言った。田中少将は「国賊にな
らなければよいが。」と言った。すると武藤軍務局長は「そうだ、しくじったら 国体
破壊まで行くから正に国賊だ。然し緒戦が巧く行ったからそんなことにはならぬ」と答
えた。9日午後に至って、真珠湾及びマレー沖海戦の戦果が明らかになった。田中少将
は部下に「この戦争を甘く見てはならぬ。この戦争は独ソ戦争の帰趨が決するまでは始
めてはならない戦争であった。もし万一ドイツが負けたら日本は亡ぶ」と言った。田中
少将の言葉は忽ち部内に伝わり局長として許すべからず悲観論として喧々ごうごうたる
非難を受ける事になった。田中新一は進駐時の武力行使の責をとり更迭された富永恭次
の後を受け、参謀本部第1部長に就任。対米関係が悪化する中、交渉の中止と開戦を強
硬に主張し、慎重派の武藤章軍務局長と対立した。武藤章は昭和の熊本の陸軍軍人で、
最終階級は陸軍中将になっていた。統制派だったが後に東條英機との対立で逆に皇道派
の山下奉文の部下に転じたとされる。武藤が中将に昇進した時、近衛内閣末期であり対
米関係が極度に悪化していた。近衛文麿首相は内閣を投げ出し11月に東条内閣が成立
するが、既に組閣に当って天皇より、「開戦を是とする帝国国策遂行要領白紙還元の御
諚」が発せられていた。東條英機首相も姿勢を対米開戦の回避に改めたという。武藤は
これを受け、開戦に逸る参謀本部を制して最後まで対米交渉の妥結に全力を尽くした。
開戦後は戦争の早期終結を主張し、東條や鈴木貞一、星野直樹らと対立、リヒャルト・
ゾルゲにかねてから軍務局長の名で全面的な情報提供を命じてたことから1942年(
昭和17年)4月にゾルゲ事件の発覚等により更迭され、近衛師団長となっていた。同
師団はスマトラ島メダンで作戦中、1943年(昭和18年)6月に近衛第2師団に改編され
た。その後1944年(昭和19年)10月に第14方面軍(フィリピン)の参謀長に就任した。
これは第14方面軍司令官に任命された山下奉文の希望によるもので、フィリピンの地
で終戦を迎えた。終戦の際は、山下に共に切腹することを提案するが、説得され、現地
で降伏。山下らが起訴されたマニラ軍事裁判では、逮捕起訴されないどころか、弁護人
補佐として出廷し山下らの弁護につとめた。この訓令の頃既に伊十三型潜水艦(いじゅ
うさんがたせんすいかん)は拿捕されていたのである。大日本帝国海軍の潜水艦の特殊
攻撃機「晴嵐」2機を搭載する「潜水空母」である。巡潜甲型改2とも言われるこの艦
は、実は特殊な任務を負っていてその試験航行だったのだが 武藤はその報告を受けて
いなかったのだ。

851: 名無しさんAA:17/11/06 00:54
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 489----------

 こうして武藤は東京裁判で死刑になるが、死刑の理由については、田中隆吉元陸軍少
将の「あの男が軍中枢で権力を握り、対米開戦を強行した」という証言に、検察側の隠
し玉的証人として法廷を驚かせた。また「開戦時の東條の腰ぎんちゃく的存在だった」
とみられた。しかし前述のように東條と武藤は開戦後すぐに仲たがいしており、死刑を
免れた鈴木貞一や星野直樹らの方がよほど東條のイエスマンであった事が解っている。
東條英機は判決後、武藤に「巻き添えにしてすまない。君が死刑になるとは思わなかっ
た」と意外の感を漏らしたとも言われる。また武藤と田中隆吉は互いに相手に対しては
嫌悪感をいだいており、これが田中の証言につながったというふうに説明されることが
多いが果たして真相は解らない。1948年(昭和23年)12月23日に巣鴨プリズンで絞首刑
に処された。辞世の句は、「霜の夜を 思い切ったる門出かな」「散る紅葉 吹かるるま
まの行方哉」であった。不思議な事だが1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件に際して
は、参謀本部作戦課長としては、不拡大方針をたてた上司の作戦部長「石原莞爾」とは
反対に対中国強硬政策を主張し、12月には中支那方面軍参謀副長として現地に赴いて
いる。ここでもう一人の戦犯田中新一は新潟県村松藩士の農業田中寅五郎の長男として
北海道釧路で生まれる無謀な軍人がいた。3月に陸軍省の軍務局課員、同年8月に兵務
局兵務課長となったが1937年(昭和12年)1月の宇垣一成への組閣大命降下に際しては
、陸軍実力者による掣肘を嫌う石原莞爾参謀本部作戦課長らと陸軍中央を説得していて
、陸相を推挙させずに宇垣内閣を流産させる程 高邁な戦略者だった。此処にこうした
国際音痴の状況知らずの強硬軍人の群れが見える。軍務局軍事課長に就任し7月7日の
盧溝橋事件発生に当たり、武藤章参謀本部作戦課長と連携し不拡大方針をとる石原莞爾
参謀本部第1部長を 軍務規定を違反し押し切っての5個師団10万人規模の北支増派
を決定させている。これが後で北支事変に至る結果になった。国際視点のない暴走軍人
の姿がそこにあった。1939年(昭和14年)2月に駐蒙軍参謀長となり、同3月、陸軍少将
に進むと、1940年(昭和15年)には、北部仏印進駐時の武力行使の責をとり更迭された
が富永恭次の後を受け、参謀本部第1部長に就任。対米関係が悪化する中、交渉の中止
と開戦を強硬に主張し、慎重派の武藤章軍務局長と対立しそれを推した。1941年、陸軍
中将に昇進。無謀なガダルカナル作戦に消極的な東條首相を面罵して、辞表を提出して
南方軍総司令部付とされ、陸軍中央から遠ざけられた。牟田口廉也軍司令官(前第18
師団長)がインパール作戦を立案した際もこの作戦を無謀と断じた参謀長の小畑信良少
将を避けて賛成し同じ様に非道の悲劇を産んでいる。

852: 名無しさんAA:17/11/06 01:03
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 490----------

 こうして見ると、田中少将は「開戦を決心する時は、省部の会議は開かれなかった。
東條大臣と武藤軍務局長と田中新一作戦部長との間で急遽、開戦を決した。己を知らぬ
馬鹿な奴らだ」と吐き捨てる様に言ったというが、恐らく田中新一が勝手に暴走した。
と言える。つまり一国の興亡をたった一人の国際音痴の馬鹿が策略を張り巡らして行っ
たていただろうと言う事になる。では一体何故この田中新一をこうした要職につけたの
のか。それは木戸内大臣と会談した田中少将の落胆と同じである。田中が木戸の様な、
無知の重臣の軍の統制に対するいい加減さに驚いた様に、そのいい加減さに国民は死ん
でいったのである。このお友達人事、縁故人事を行って行政が腐れて行く様は安倍政権
でも、充分に見て取れ、これが民主主義を取り入れ議会政治を取り入れた人類の悲劇で
もある 直接の要因だった。1947年(昭和22年)の暮れの東京裁判に於いて、木戸幸一
担当の弁護士が、東條に対して「木戸に天皇のご意思にそむくような行いがあったかど
うか」と質問をした。その時東條は、「いやしくも日本人たるもの、国民の一人といえ
ども陛下のご意思に反して行動するがごとき、不忠の臣はおりません。いわんや文官に
おいてをや。」と大見得を切って言った。だがこれは素直な愚直な程の東条英機の心情
を吐露した物であったのだろう。こうした発言を受けて、GHQを始め天皇や皇族など
こぞって戦々恐々とした。アメリカの新聞は「東条、天皇の戦争責任を証言」と書きた
てた。これを受けてさらに、ソ連の検事が正式に天皇追起訴を提言してはキーナン主席
検事に迫った。キーナンと田中は、天皇は開戦の意図を持っていなかった天皇には責任
はないという立場だったしGHQもその方向の統治方針を決定していた。ここに、如何
ににして東條に再度言明させるかを深夜まで協議をし、更に木戸幸一や近衛文麿などを
内密に動かし東條の秘書を通じて東条へ接触して、東條への工作は成功した。1948年(
昭和23年)1月6日の午後の法廷において、東條に「2、3日前にこの法廷で日本臣民た
る者は何人たりとも天皇の命令に従わない者はないと述べたことは、単に個人的な国民
感情を述べたにすぎず、天皇の責任とは別の問題であり、大東亜戦争(太平洋戦争)に
関しては、統帥部その他自分をふくめて責任者の進言によって、しぶしぶご同意になっ
たのが実情である。」と発言させることに成功した。これにより、この危機は救われた
。だがこの言葉も又嘘では無かった。此処に田中隆吉が武藤章を執拗に死刑に持ってい
く発言をし田中新一を裁判すらかけていない理由が見える。つまり国民に知らせてなら
ない重大な事項に こうした二人の田中の様な小さな裁判で漏れてはならない配慮があ
ったのである。

853: 名無しさんAA:17/11/07 10:16 ID:2Hw
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 491----------

大正デモクラシーで軍人蔑視の風潮がおもわれ、山梨・宇垣軍縮への不満渦巻いてきた
。そうして陸軍各所で中堅将校の「勉強会」が萌芽して、永田鉄山らは河本大作(15
期)・板垣征四郎・土肥原賢二(16期)・山下奉文(18期)ら同志20人と渋谷「
二葉亭」で会合を重ね二葉会を作り、石原莞爾(21期)・鈴木貞一(22期)らの、
年少組の「木曜会」と合体し「一夕会」を結成した。その後も、武藤章・田中新一(2
5期)・牟田口廉也(29期)らも加わった勉強会が。僅か40人ほどで一夕会が出来
た。だが、このあとも陸軍を動かす面々が悉く名を連ね、第一回会合では、@陸軍人事
の刷新をよびかけ、A荒木貞夫・真崎甚三郎・林銑十郎の非長州閥三将官の擁立し、B
満州問題の武力解決、C国家総動員体制の確立の大方針を決め、陸軍中央の重要ポスト
掌握に向け策動を開始していた。この彼らの中で熱血開戦派が主要な意見をいい急先鋒
が東条英機と田中新一であったと言える。こうして田中新一は東條英機と共に石原莞爾
・武藤章から主導権を奪い、無謀な米ソ二正面作戦を唱えて 亡国の対米開戦を主導し
た陸軍暴走の牽引役を果たしている。もともと昭和の軍事史は、「一夕会」「統制派」
を率いた永田鉄山こそが最重要な人物だった。「陸軍の至宝」とされ「永田の前に永田
なく、永田の後に永田なし」と称された逸材で「永田がいれば大東亜戦争は起きなかっ
た」とさえいわれている。陸幼・陸士(16期)・陸大を最優等で卒業した永田鉄山は、
事務能力も抜群で陸軍の綱紀粛正・教育制度改革(軍隊教育令)を主導し一般学校の軍
事教練(陸軍現役将校学校配属令)も創始し、病弱で実戦経験は無いが、部隊に出れば
謙虚・公正・合理性で「陸軍一の名連隊長」と慕われ、少壮から陸軍を背負うべき人材
と輿望を集めた。第一次大戦前後の欧州情勢視察に任じた永田鉄山は、これからの総力
戦時代を痛感し「国家総動員」を提唱、同志のエリート将校を一夕会に組織化し、林銑
十郎を陸相に担いで陸軍省枢要の軍務局長に就き長州閥から主導権を奪取させていた。
永田鉄山は、国力の乏しい日本は総力戦に備え中国大陸の軍需資源を利用すべしと主張
したが、非合法手段や派閥争いは認めず、十月事件では橋本欣五郎(23期)の極刑を
主張し、石原莞爾(陸士21期)らの満州事変では暴走抑止に努めた。その後一夕会系
は「陸軍三長官」を独占したが為に、統制を重んじる永田鉄山を統制派とし実力行使も
辞さない皇統派を作り内部対立が発生した。真崎甚三郎の教育総監更迭を巡っては抗争
が激化すると皇統派の相沢三郎中佐が おくびも無しに簡単に永田鉄山斬殺事件を起し
、勢いづいて皇統派は巻返しを図り青年将校グループが二・二六事件を引起した。

854: 名無しさんAA:17/11/07 10:38
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 492----------

 永田鉄山は超が付くほどの秀才であったらしい。1904年陸軍士官学校、1911
年陸軍大学をそれぞれ主席で卒業、その後第58連隊中隊長・軍事研修でドイツ・北欧
などに駐在したが士官学校では「お願いだからせめて勉強してる振りでもして欲しい」
と言われて過ごしていた。1934年、陸軍省軍務局長等歴任した永田は、若き頃から
将来の陸軍大臣といわれていた。当時陸軍は東条英機・永田鉄山などの統制派と皇道派
に分かれてたが、その中での大きな原因でもあった。何故なら永田が属する統制派は、
地上兵力4個師団9万人ほどに削減して近代的戦備(航空機・戦車・火器など)の充実
に力を注いで、その中心人物として永田は陸軍省を大きく切り回していたからだ。永田
は現実的な合理主義で、これまでの馴れ合いの徒党を組むことを嫌い、政治的器量と存
在感は当時一番だったと。だがそれだけ敵対する皇道派の陸軍将校は多く、相沢曰く「
永田は重臣、財閥、政党の手先となり皇軍を私兵化しょうとしている統制派の元凶であ
る。」としている。それは量が必要な軍の中で偏狭な考えであった。2.26 事件へと
発展の端緒になったのは、事件の発端となった教育総監真崎甚三郎や、刺殺を決行した
相沢三郎中佐は より清廉潔白な人柄に映り誰一人として彼らを悪く言う者はいない。


855: 名無しさんAA:17/11/07 10:38
無口で微動だにしない重厚な人格と温厚で愛国心に満ちた思想には、共感者も多くいて
青年将校からは軍人の鏡で兄貴のような熱き存在であった。又謙虚で誠実な人柄で相沢
や真崎は決して兄貴ぶることはなかった。人心に訴える人格者で“武士たる軍人”を志
した相沢三郎は仙台陸軍幼年学校、陸軍士官学校、そして少尉に任官して朝鮮や台湾の
任地を経験してきていた。日本に戻り、仙台歩兵第二十九連隊に赴任し、連隊長を務め
東久邇宮稔彦と出会った相沢は、宮の薦めで北山の輪王寺に入門、参禅することにした
。ここは仏門一筋に修行する者でさえ辛さに耐えきれず”ね”をあげる過酷な修行に、
逃げる仏僧弟子も多々あった。その為寺の和尚は相沢の入門を断っていた。それでも、
相沢は感服するほどの精進ぶりを見せ、ついに軍務と修行を両立し、禅によってある種
の境地に達していた。この頃から相沢の剣術は凄味を増した。以後、陸軍戸山学校剣術
教官、陸軍士官学校剣術教官と剣一筋の道を歩んでいる。相沢の腕前は永田鉄山の遺体
を検死した医師たちによって「今までお目にかかったことがないような見事な斬り口」
と感嘆したとされた。相沢三郎は他人に対しては丁重、慇懃であり、皇室や国歌に関す
ること以外は人と論争したことはなかった。約束したことは絶対に守り、偽りを言った
り駆け引きをしたりすることもなく、少年時代より毎朝皇居の遥拝を欠かさず、それは
獄中でも変わらなかった。しかし相沢は多くの人と一座する場合でも誰かが陛下に関す
る話題では、自分が相手になっていなくとも、直ちに姿勢居住まいを正して正座謹慎を
していたといわれる。



856: 名無しさんAA:17/11/07 11:01
二・ニ六事件の前年に起こった相沢事件は青年将校たちに大きな衝撃を与えていた。又
二・ニ六事件は逆に相沢事件の真相を隠してしまった。此処に二・ニ六事件の真の真相
がある。1936年8月12日、相沢三郎は永田鉄山のいる軍務局長室にノックをせずにス
ーッと入った。部屋の正面にはついたてが立っていた。相沢はついたての手前で抜刀し
た。その時、永田は大きな事務机の向こう側に座っていた。机の前には憲兵大佐が苦心
して回収した「粛軍に関する意見書」が入っていた。相沢は机に向かって右側から永田
の左に襲いかかった。永田はとっさの出来事に驚いて、ついたての反対側から腰を浮か
して逃げようとした。相沢は追いすがるように「天誅」と心の中で叫びながら一刀を振
り下ろした。そして、相沢は止めの一刀を忘れなかった。アッという間の出来事であっ
た。部屋の中には憲兵大佐が腕に負傷して気を失って倒れていた。相沢は静かに軍刀を
鞘に納めて部屋を出た。一瞬にして修羅場と化した軍務局長の部屋には、異変を聞いて
知っても誰一人駆けつけるものはなかった。日本を国家総動員体制に変え軍主導の国防
国家とし、すでに戦争計画書まで作り上げ、支那大陸への戦争を目論んでいた統制派の
ドンともいえる永田鉄山が此処に血の海に倒れていた。ここに天才と秀才の死闘が見え
る。かつての桜田門の変やその他の江戸時代と同じ様に、平和を愛し天道に生きる事で
人を救わんと生きる者が、運命に贖う事も無く天才に溺れて国家の王道覇道をして職業
と割っての職分を切って抗した姿があった。こうして相沢三郎の手によって果てた永田
惨殺が相沢事件であった。だが永田こそが、その後の戦争を推し進めることになる軍部
の代表で、その後の軍国主義の台頭を止める存在でもあった。が、彼には皇道派の存在
はどうしても邪魔だった。それは意味を解せず烏合としての支那の戦争を食い止めよう
としてきたのが皇道派であったからです。皇道派は「ソ連と赤い手先」こそ日本の本当
の敵だと主張し、支那とは戦争すべきではない。と大きく反対していたからだ「天皇陛
下に申し訳ない」としながら、明治時代討幕派と戦った幕府軍であった者や国民の感情
があった為、これが兵之助の口癖であった親は、どこの息子でもそうして育っていた。
特に三郎には「天皇陛下には命を捧げて絶対の忠誠を誓うように」と尊王精神を幼い頃
からたたき込まれていた。死刑に際しても天皇陛下万歳をする程尊王絶対だった。これ
が日本の悲劇であった。そうして第一師団司令部内で相沢三郎の裁判が始まった。相沢
の弁護人は鵜沢総明と満井佐吉だった。満井は「相沢が永田を殺したという事実認定の
みで背景が審議されていない。永田の背景には大陰謀がある。この陰謀をたくらむ者達
は前教育総監・真崎甚三郎大将を更迭し、皇道派弾圧人事の陣頭指揮を執り、その中心
が永田鉄山である」と言った。そして大動員令を掛けても戦勝に誇りたい者らの「平和
だと言って国防をおろそかにする国は、亡国となる。」と言う常識的思想も溢れていた

857: 名無しさんAA:17/11/07 11:16
 第一師団司令部内で相沢三郎の裁判が始まるが、相沢の弁護人は鵜沢総明と満井佐吉
だった。満井は「相沢が永田を殺したという事実認定のみで背景が審議されていない。
永田の背景には大陰謀がある。この陰謀をたくらむ者たちは前教育総監・真崎甚三郎大
将を更迭し、皇道派弾圧人事の陣頭指揮を執り、その中心が永田鉄山である」と言った
。2月25日、公判で満井は統制派の背後にいる大財閥を攻撃した。三井財閥の大番頭
である池田成彬に対して次のように追求した。「池田は宮中に関わる重臣はじめ官僚、
各政党、マスコミに絶大な影響力を持ち、これらの面々が自陣営の意に添うように働き
かけた」「永田鉄山の死後、永田の遺族の面倒をなぜか三井がみている」「池田が永田
と築地の料亭で密会し皇道派人事刷新について話し合っていた」「永田の叔父が経営す
る業績不振の新聞社が三井に買収されていた」「永田の同郷の先輩が 三井の弁護士で
永田と密接だった」などなど三井が裏の黒幕である事が次々と暴露されて行った。相沢
三郎の義憤が知れ渡るようになって相沢裁判は徐々に優位になりつつあった。しかし、
 翌日の2月26日突然、二・ニ六事件が起きて一変し、その後、相沢は死刑の判決を
受けることになったのである。つまり偽装革命や反乱分子一掃策が、眞崎甚三郎と共に
大尉クラスの青年将校を中心に信望を担った者らを叩く口実作りが何処かで動いたのだ
。党派的な行動が反発を買い 商社と暗い闇を持つ統制派との対立が発生し左偏にあっ
ていた中である。基本的に皇道派は旧体制派と言っても良い。それまで荒木陸相,真崎
参謀次長,柳川兵助陸軍次官,山岡重厚軍務局長,松浦淳六郎人事局長,小畑敏四郎参
謀本部第三部長,秦真次憲兵司令官,持永浅治東京憲兵隊長など、天皇畏敬の皇道派が
陸軍の要職を占めていた。その下に平野助九郎や満井佐吉ら佐官級軍人,荒木の革新的
姿勢に期待を抱いた急進的な隊付青年将校もこれに連なった。しかし,荒木に強くみら
れる観念的な「日本主義的革新論」や「対ソ即戦」的見解などが宮廷グループや政財界
の危惧を招いていた。こうして派閥的人事に色合いが強く陸軍部内の反発も強かった。
又永田鉄山に繋がるドイツ式の最新の体系的考えや技術の刷新がその為に遅れをとって
いて 此処に日本の迷走が始まっていた。33年、荒木が陸軍予算を海軍に譲ったこと
を一因に,陸軍部内皇道派の信望は衰えて、荒木辞職後就任した永田鉄山軍務局長は、
幕僚層を中心とする反皇道派勢力 所謂統制派の反撃にあって皇道派系要人は相次いで
左遷した事務を執り対立を深くした。こうして皇道派は平沼騏一郎擁立運動を行うとと
もに,反対派を「国家社会主義」として非難し実行に移るのだった。両極の不勉強が国
を危うくし、敗戦に追い込んだが それは今の若者の無茶苦茶な行動と全く同じだった


858: 名無しさんAA:17/11/07 11:28
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 495----------

 その頃庶民の間には、一次大戦前からの遺族の間に鬱憤や不満が溜まっていた中に、
大正デモクラシーと共に社会主義的考えが移入して来ていた。美濃部達吉によって代表
される様に急遽出来ていた「大日本帝国憲法(明治憲法)」の解釈をめぐる一学説に改め
て変化が生まれていた。それが「天皇機関説」である。この学説は、「統治権は天皇に
最高の源を発する」という形で天皇主権の原則を認めるものの、しかしながら同時に、
天皇の権力が「絶対的無限の物」に反対し「国家の為の」と言う制限を問い、すなわち
統治権は天皇個人の私利の為ではなく、国家の利益のために行使される。と言う 国体
主権論でその利益を受け取る事の出来る法人格をもつ物と言う考え方だ。よって統治権
の主体である天皇は、法人としての国家を代表し、憲法の条規に従って 統治の権能を
行使する最高機関であると規定する。と言う責任経営者論であった。従って軍部が天皇
の言葉であるとか、天皇の意向である。と言うのは国民議論ないし議会議決なり討論な
りが含まれなくては私語の物として制限されると言う事だった。だがこれは今や三井な
どの商社でも軍部の総動員令を発しようとする軍令部には いささか壁になっていた。
その主張に対する中に蓑田胸喜がいた。彼は元慶応大学専門部倫理学教授で反マルクス
運動を展開し自由主義学者を攻撃していた。蓑田は学者を動員し「原理日本社」を設立
し活発な活動をしていた。陸軍の皇道派将校たちは「我が国体と皇軍」であるとした、
基盤を揺るがすような天皇機関説には猛然と反撃していた。蓑田胸喜は近づいて、菊池
議員に「今度、美濃部をやり玉にあげませんか」と持ちかけた。保守の菊池はリベラル
の美濃部と肌が合わないのでその話に乗った。1935年1月、陸軍中将で男爵の菊池
武夫は貴族院での美濃部学説を攻撃し岡田内閣に迫った。その中で次のような発言があ
った。「陸軍の統制派は政治のファッショ化、軍の政治的独裁を目的とし、それを防ぐ
真崎の追い出しを計画し、真崎の責任になるような刑事事件として十一月事件を構想し
、青年将校を扇動し、一方では床次五十万事件、天皇機関説問題をもって内閣打倒を計
画し、その倒閣の陰謀が真崎から出ていると宣伝した。」と発議した。つまり相当な事
が既にこの菊池は解っていた事だ。又美濃部が赤化共産党と組んで「天皇機関説」を唱
えていた事が気にいらなかったのだ。だがこの説は、学生や官界、宮中方面からも妥当
と受け入れられていた。そして帝国大の憲法講座でも、「天皇は国政運営に必要な一つ
の機関である。」と講義していた美濃部であった為、ここに吊し上げる事にした。

859: 名無しさんAA:17/11/07 11:35
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 496----------

 皇道派とされる「尊王皇道」を説いて来た軍部でも自由主義的「天皇機関説」が出て
来ると、これまでの「国体明徴」を改めて説く必要に迫られた。第一師団長の柳川平助
は真崎教育総監と林陸軍大臣に「機関説問題をこのまま放っておくと軍隊が動揺する。
早く善処の方法を講じて問題が政治化することによって若い将校が影響を被り動揺しな
いように厳重に抑制する必要がある」と発議し。さっそく陸軍大臣(林銑十郎)や、参
謀総長(閑院宮)、教育総監(真崎甚三郎)の三長官会議で天皇機関説への軍部の動揺
を取り上げ話し合った。そこでは「問題が思想関係のことであるから教育総監の名で訓
示を出す」ことに決定した。こうして教育総監である真崎甚三郎は「尊王を絶対の美徳
とし、天皇忠勤」を強調し、4月、全軍に「国体明徴」を訓示した。これこそは林陸相
が永田鉄山の意向に沿って真崎に国体明徴を訓示させた行為だった。こうして訓示が伝
えられると「真崎を罷免させ、荒木はじめ皇道派を覆滅すること」と言う声が上がった
正にドイツ思考の永田鉄山の狙いはそこにありました。そうした策謀の手先として傀儡
の役目を背負わされたのが林銑十郎陸相であった。真崎は天皇機関説問題を「国体観念
にもとるものである」と言ったが、軍隊における教育の根本は精神教育での統率であり
、その拠り所は軍人勅諭でした。その勅諭を下賜される陛下を「只の上層機関」とする
ことなどは、軍部が国体をゆがめてしまいかねない行為であった。真崎が教育総監とし
て教育上の立場から反対するのは当然でもあった。その時の通達した訓示は以下の物で
あった。
「恭しく惟るに、我国体は天孫降臨の際降し給へる御神勅に依り明示せられる所にして
、万世一系の天皇国を統治し給ひ、宝祚の栄は天地と倶に窮りなし。然れば憲法発布の
御上諭に『国家統治の大権は天皇之を祖宗に承けて之を子孫に伝ふる所なり』と宣ひ、
憲法第一条には『大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す』と明示し給ふ。即ち大日本
帝国統治の大権は儼として天皇に存す事明なり。若しも夫れ統治権が天皇に存せずして
、天皇は之を行使する為の機関なりとなすが如きはこれ全く万邦無比なる我国体の本義
を誤るものなり。近時憲法学説を繞り国体の本義に関聯して兎角の論議を見るに至れる
は誠に遺憾に堪へず。政府は愈々国体の明徴に力を致しその精華を発揚せん事を期す」
と言う物であった。つまり「万世一系」「統治の大権」「国体の本義」を明らかにした
もので、交替自由な最高権力体とは解することは出来なかったのは当然だった。

860: 名無しさんAA:17/11/07 11:45

陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 497----------

 しかし、これに公然と異を唱えたのが統制派の軍務局長永田鉄山だった。真崎教育総
監が全軍に国体明徴を訓示したことを逆手にとって、「機関説問題は真崎によって引き
起こされたものだ」とプロパガンダし逆宣伝した。此処に老獪な永田鉄山がいた。宮中
や官界、財界にも人脈があり、このために永田の発言は強力な重みがあった。「真崎が
機関説問題を起こして自ら国体明徴を訓示した」と永田によって流布されると、宮中、
官界、財界共に天皇機関説の信奉者であった彼らは真崎に反発し、真崎罷免へ議論させ
ていった。こうして4月、真崎教育総監を辞めさせる意向の情報が伝わった。その理由
は、「政府において天皇機関説問題、在満機構問題に真崎教育総監が妨害して困る。ま
た天皇機関説に訓示を出したりして真崎がいては困る為。」ということだった。5月に
、永田鉄山は林銑十郎陸相と朝鮮、満州の視察旅行に出かけた。視察旅行は表面上での
理由で、実際には朝鮮総督の宇垣一成や満州の関東軍司令官の南次郎に会って、8月の
定期異動について、特に真崎教育総監を罷免する打つ合わせであった。そして、1935年
7月15日、真崎教育総監が更迭が決定された。だがこの更迭の経緯にも禍根が残った

861: 名無しさんAA:17/11/07 11:45
7月15日、真崎教育総監が更迭が決定された。だがこの更迭の経緯にも禍根が残った
。通常の如く、三長官の席上、林陸相と参謀総長・閑院宮親王は真崎に教育総監を辞め
るように言った。真崎は当然いわれなき辞任などは拒否した。そのため林と閑院宮の二
長官で陛下に上奏御裁可して罷免を決めてしまったのだ。三長官の人事は三長官の合意
の下で陛下に御裁可せねばならなかったのが通例であった。しかし、二長官のみの意思
で上奏御裁可を経て、勝手に真崎教育総監を強制罷免して統制派の渡辺に代えた。これ
は統制派の商社権益を守る為の独裁政治支配を目的としたものであった。永田軍務局長
グループの策謀に踊らされ、永田ら幕僚の思想や国家改造が何であるかを知らず宮中、
元老、重臣、政財界の全てが操られ、真崎を軍から追放するために此処に狂奔した。御
裁可を受けに参内した林陸相に陛下は質問している。「この任命の結果が陸軍の統制に
波紋をおこすようなことはないか」と言われ「波紋を起こすようなことはありません。
かえって真崎を止めさせなければ大部分の不満を大ならしむるの情勢にあります」と答
えていた。この事は真崎教育総監の更迭は皇道派将校を憤激させた。十一月事件で釈放
された皇道派の村中孝次と磯部浅一はその事情を知り直ぐに『教育総監更迭事情』を発
表した。7月25日には維新同志会の名で『軍閥重臣閥の大逆不逞』を流布した。これ
らを全国の同志に発送して、統制派の情報工作による情勢判断に誤りのないようにした
。しかし、村中と磯部は『粛軍に関する意見書』『教育総監更迭事情』の文書配布で、
部内統制をみだしたという理由で8月2日付、官報によって免官となる。陸軍からの追放
であった。


862: 名無しさんAA:17/11/07 11:56
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 498----------

こうして相沢三郎の義憤にかられた惨殺事件が起こるのだが、この事件にも相沢は何故
か問い合わせをしている。1934年12月30日、相沢三郎中佐は末松太平中尉、大岸頼好大
尉と共に仙台に行った。31日の年末の夜、末松中尉が寝た後に相沢は大岸と二人で話
し合った。二人ともきちんと向き合って正座していた。後輩に対してもいつも丁寧な相
沢だが、大岸にはかねてから人生開眼の師として尊敬していたため、大岸先生と呼んで
“ハイ”、“ハイ”と聞いていた。この時、相沢は「今度の上京を機会に永田鉄山を斬
ろうと思うがどうか」と相談した。相沢は十一月事件の村中孝次大尉、磯部浅一大尉ら
の拘留の背後には永田がいると判断していた。「辻政信もその謀略の手先に過ぎない。
そして問題は村中ら三人だけではなく、いずれは全国の同志にかかわることだ。今永田
を斬っておかねば将来の禍害ははかり知れないものがある。」と問うた。しかし、大岸
は大反対した。相沢は「千古賊名甘受」と紙に書いて大岸に差し出した。大岸はその紙
を向きを変えて相沢に返し、相沢への反対意見を言いはじめた。相沢は握りこぶしを両
ひざの上において“ハイ”、“ハイ”と、目には涙を浮かべて大岸の反対意見を聞いて
いたという。東京に着き、翌19日を迎えると「お前、あわてるな、いたらぬことをす
るでない・・」と自分に言い聞かせていた。厳しい戒めの言葉が聞かれる気がした。「
斬るのはやめよう」それよりも永田に会って真心こめて自分の考えを述べてみよう。そ
れがものの道理だと思い直した。しかし、永田に会うことはそう簡単にできないことを
相沢は知っていた。これまでも青年将校たちが何人か面会を申し込んでいるが皆断られ
ていることを相沢は知っていたのだ。その頃の陸軍大臣秘書官は有末精三少佐だった。
有末とは青森の連隊で一緒に大隊長をしていた仲であった。相沢は靖国神社に参拝した
後、有末のいる陸軍省へ向かった。有末は相沢の申し出を聞くと、「今あなたが永田少
将に会うことは穏当ではあるまい」としきりに止めた。しかし相沢はひるまなかった。
 と相沢の物語は綴っている。しかし 此処には永田の国民も国体も馬鹿にしきった様
な理由が「ユダヤの思想」である自分本位である事が記されていない。つまりドイツに
行った将校たちいずれもが、ドイツの兵法と共に多民族国家として生きる屈折した思想
に出会っていたのである。それはあたかも江戸時代の開国時の日本人の突然に開国して
西洋文明を取り入れた時の「国体保護の愛国主義」と「西洋文明の開眼的支配主義」の
葛藤とも言えた。又朝鮮半島での「日韓併合」で発展する国民社会に、教育ある若者の
バカ騒ぎの抗日主義と 全く似た様なものだった。

863: 名無しさんAA:17/11/07 12:07
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 499----------

ついに有末は相沢の熱意に負けた。その後、相沢と永田の会談は午後3時から5時まで
続けられたというから相当話し合った。「林大臣の近頃のおやりになっていることは、
間違いが多い。閣下は大臣にとっての最高の補佐官であり、責任の中心であられるのだ
から、責任を感じてお辞めになるのがよろしいでしょう」相沢は永田に再三にわたって
軍務局長を辞職するようにすすめた。「君の注意は有難いが、自分は誠心誠意大臣を補
佐しているつもりだ。大臣が聴かれればよし、聴かれなければ何とも仕方がない。」と
会談の終わり頃には幕僚が二、三度永田に車の準備ができたと呼びに来たが、それを無
視して永田は腰を上げなかった。ついに永田は腰を上げた時、「初めて会って話しただ
けでは君の考えもよくわからないから、あとは手紙でなり、今度東京に出て来た時なり
に君の考えをよく聞こう」と言った。相沢は永田の印象を温和な親しみのある人と思っ
た反面、永田は所詮「尊王絶対」のわからぬ責任を徹底的に回避する人と思った。もう
話す気も起らなかったし手紙を書く気にもなれなかった。相沢の心は絶望に近かった。
と言える。相沢はさびしい気持ちで東京を去って任地の福山に戻った。福山に戻る前に
相沢は西田税の家に行った。そこには大蔵栄一もいた。その夜はだいぶ暑かったので、
冷たいものを飲みながら雑談にふけっていた。雑談はいつか宮中における天皇周辺の人
物論が話題になっていた。「明治天皇時代、西郷隆盛や山岡鉄舟など得難き諍臣(そう
しん)によって王道が堅持されていたのに比べ、今は佞臣(ねいしん)だけが跋扈して
暗澹たる妖雲となっている。日本の不幸はすべてここに起因していると言わねばならぬ
」というような話題が熱を帯びてきたときである。相沢の後輩である大蔵栄一は、「相
沢さんみたいな人が侍従武官にならんとどうにもならんな」と言った。相沢は急に目が
光り、姿勢を正してこう言った。「大蔵さん、あなたは何ということを言われますか、
慎みなさい!」後輩の誰にも丁寧な口を聞く相沢は怒って言う。「そんなことは私議す
べきではありません。二度と口にすべきではありません」一座は相沢の激しい怒りにシ
ーンとなった。大蔵栄一は著書でこの時のことをこう書いている。「私が相沢中佐にた
しなめられたのは、あとにもさきにもこれが初めで終りであった。・・・私は相沢中佐
のその一喝にふるえ上がった。・・・」と語っている。この日本人主観が日韓併合と共
に大量の朝鮮人から贋日本人が発生し、この頃急速に消えて行こうとしていた事で人々
は深層心理に深く「昔がよかった。」と言う懐古主義の風潮もあったのだった。更にこ
の暗黙の規定主義や戒律主義が常道だったのが突然切られる事件が各個に起こっていた


864: 名無しさんAA:17/11/07 12:11

陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 500----------

相沢は福山に戻ると村中孝次大尉から『教育総監更迭事情』と『軍閥重臣閥の大逆不逞
』が郵送されてきた。それから間もなく、8月1日の定期異動が発表された。相沢は台
湾歩兵第一連隊付、台北高等商業の配属将校に転任することになった。翌8月2日、村
中と磯部が『粛軍に関する意見書』と『教育総監更迭事情』の文書配布で部内統制をみ
だしたという理由で免官となった。相沢は「このままの状態を後にして自分が台湾に赴
任することは御奉公を欠く不忠だ」と思った。こうして二度目の訪問をして事件を起こ
した。相沢事件直後、真崎甚三郎を罷免して教育総監になった渡辺錠太郎は身の危険を
感じて、機関銃を持った護衛の憲兵を自動車の前後につけて役所に出勤したという。身
に覚えがあるということだろう。だがそれ以上にこの人員の配置こそが日本を駄目にし
た元凶でありそれを作ったのは他ならぬ天皇であり三井などの陸軍についた商社であっ
た。こうして政権は徐々に開戦主張の東条英機の環境に近づいて行った。二・二六事件
以降は皇道派将校の 救済の意味も持つようになり、真崎甚三郎の救済にも熱心だった
近衞は、首相就任前からこれに共感を示していた。しかし、西園寺公望は、荒木が唱え


865: 名無しさんAA:17/11/07 12:12
以降は皇道派将校の 救済の意味も持つようになり、真崎甚三郎の救済にも熱心だった
近衞は、首相就任前からこれに共感を示していた。しかし、西園寺公望は、荒木が唱え
だした頃からこの論には反対であり、結局、大赦はならなかった。東條英機は、永田鉄
山・統制派のために奔命するも作戦畑には進めず、皇道派に恨まれて、日陰のポストを
転々とさせられた。才気煥発で自負心も強い石原莞爾にすれば 東條英機など取るに足
らない先輩であり、劣等視された東條は石原を敵視し、石原が日中戦争不拡大を唱える
と拡大派の武藤章を支持し石原一派を陸軍中央から追出した。この功績が永田鉄山であ
った。しかし関東軍参謀副長に左遷された石原莞爾は参謀長の東條英機を公然と無能呼
ばわりし聞こえよがしに「東條上等兵」「憲兵隊しか使えない女々しいやつ」などと、
挑発を止めなかった。怒り心頭の東條は石原を閑職に飛ばし、間もなく予備役編入に追
込んで報復した。軍務を離れた石原莞爾は言論・教育活動などに従事したが、東條英機
は得意の憲兵で執拗に石原を監視した。そして日本の敗戦となるなか、石原莞爾に師事
する柔術家の牛島辰熊と津野田知重少佐による東條英機の暗殺計画が発覚したが、両名
の献策書の末尾には「斬るに賛成」との石原の朱筆があったと言う。この後2・26事
件は起こったが、とても不思議な事件だった。つまり先の真崎甚三郎左遷によって義憤
にかられた相沢三郎の惨殺事件が起こって後の一応の反応は相沢に同意があった中だっ
たからだ。先の認証に於いて林陸相が陛下が質問した「この任命の結果が陸軍の統制に
波紋を起こすような事はないか」と言う疑問にきっぱりと「波紋を起こすようなことは
ありません。かえって真崎を止めさせなければ大部分の不満を大ならしむるの情勢にあ
ります」と答えていた事からも、この林陸相らの陰謀とも取れる部分が多々がある。


866: 名無しさんAA:17/11/07 12:14
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 501----------

この頃、東京憲兵隊の特高課長福本亀治少佐は、本庄侍従武官長に週一度ぐらいの割合
で、この青年将校達の不穏な情報を報告し、事件直前には、今日、明日にでも事件は起
こりうることを報告して事前阻止を進言していた。又事件後憲兵の尋問に「十月頃から
内務大臣と総理大臣、または林前陸相か渡辺教育総監のいずれかを二人、自分ひとりで
倒そうと思っていた」と磯部は答えている。又磯部は川島陸軍大臣を官邸に訪問し「青
年将校が種々国情を憂いている」と磯部が言うと、「青年将校の気持ちはよく判る」と
川島は答えた。「何とかしてもらわねばならぬ」と磯部が追及しても、「そうかなあ、
しかし我々の立場も汲んでくれ」と答えた程度だった。再度磯部が浪人森伝とともに、
川島陸軍大臣と面会した際には渡辺教育総監に将校の不満が高まっており「このままで
は必ず事がおこります」と伝えている。それでも川島は格別の反応を見せず、帰りに、
ニコニコしながら一升瓶を手渡し「この酒は名前がいい。『雄叫(おたけび)』という
のだ。一本あげよう。自重してやりたまえ。」と告げたという。この時既に渡辺教育総
監は危険をひしひしと感じ護衛まで付けて通勤してるはずなのだ。磯部は、第5回公判
で「私は真崎大将に会って直接行動をやる様に煽動されたとは思いません」と述べ、第
6回公判で、「特に真崎大将を首班とする内閣という要求をした事はありません。ただ
、私が心中で真崎内閣が適任であると思っただけであります」と述べている。また村中
は「続丹心録」の中で、真崎内閣説の如きは吾人の挙を予知せる山口大尉、亀川氏らの
自発的奔走にして、吾人と何ら関係なく行われたるもの、と述べている。実はこの頃は
陸軍は非常に悩ましい企画があった。それは1938年1月に、ドイツの科学者のオットー
・ハーンとフリッツ・シュトラスマンの論文により、ウラニウムの核分裂反応が発見さ
れて、既に原子爆弾の利用が検討されていたからだ。彼らは、ウラン235の原子核に
中性子を衝突させて分裂させることに成功したし、そのニュースはいち早く御前会議に
も一つの議題として上がっていた筈である。又同時に昭和天皇は「こうした残虐非道の
大量破壊兵器の研究は、世界を揺るがし国体を揺るがす行為となる。」と真っ赤になっ
て強く反対した為却下になっていた。ところが石原莞爾は元々世界末法思想の持ち主で
日本が勝って秩序ある世界を築くべきとしていた為に この却下情報に憤慨していた。


867: 名無しさんAA:17/11/07 12:17
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 501----------

この頃、東京憲兵隊の特高課長福本亀治少佐は、本庄侍従武官長に週一度ぐらいの割合
で、この青年将校達の不穏な情報を報告し、事件直前には、今日、明日にでも事件は起
こりうることを報告して事前阻止を進言していた。又事件後憲兵の尋問に「十月頃から
内務大臣と総理大臣、または林前陸相か渡辺教育総監のいずれかを二人、自分ひとりで
倒そうと思っていた」と磯部は答えている。又磯部は川島陸軍大臣を官邸に訪問し「青
年将校が種々国情を憂いている」と磯部が言うと、「青年将校の気持ちはよく判る」と
川島は答えた。「何とかしてもらわねばならぬ」と磯部が追及しても、「そうかなあ、
しかし我々の立場も汲んでくれ」と答えた程度だった。再度磯部が浪人森伝とともに、
川島陸軍大臣と面会した際には渡辺教育総監に将校の不満が高まっており「このままで
は必ず事がおこります」と伝えている。それでも川島は格別の反応を見せず、帰りに、
ニコニコしながら一升瓶を手渡し「この酒は名前がいい。『雄叫(おたけび)』という
のだ。一本あげよう。自重してやりたまえ。」と告げたという。この時既に渡辺教育総
監は危険をひしひしと感じ護衛まで付けて通勤してるはずなのだ。磯部は、第5回公判
で「私は真崎大将に会って直接行動をやる様に煽動されたとは思いません」と述べ、第
6回公判で、「特に真崎大将を首班とする内閣という要求をした事はありません。ただ
、私が心中で真崎内閣が適任であると思っただけであります」と述べている。また村中
は「続丹心録」の中で、真崎内閣説の如きは吾人の挙を予知せる山口大尉、亀川氏らの
自発的奔走にして、吾人と何ら関係なく行われたるもの、と述べている。実はこの頃は
陸軍は非常に悩ましい企画があった。それは1938年1月に、ドイツの科学者のオットー
・ハーンとフリッツ・シュトラスマンの論文により、ウラニウムの核分裂反応が発見さ
れて、既に原子爆弾の利用が検討されていたからだ。彼らは、ウラン235の原子核に
中性子を衝突させて分裂させることに成功したし、そのニュースはいち早く御前会議に
も一つの議題として上がっていた筈である。又同時に昭和天皇は「こうした残虐非道の
大量破壊兵器の研究は、世界を揺るがし国体を揺るがす行為となる。」と真っ赤になっ
て強く反対した為却下になっていた。ところが石原莞爾は元々世界末法思想の持ち主で
日本が勝って秩序ある世界を築くべきとしていた為に この却下情報に憤慨していたと
おもわれるのだ。


868: 名無しさんAA:17/11/07 12:26
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 502----------

 1940年(昭和15年)9月に出版された「世界最終戦論」の題名は、最終戦争論と
して日本に広く読まれた。最終戦争では航空機や大量破壊兵器によって殲滅戦略が実施
され極めて短期間のうちに戦争は終結することになる事を示唆していて、この最終戦争
を戦う国としてはブロック化したいくつかの勢力が列挙できる様相も示唆している。こ
うして日本は優位につくべきだ。とした論理は、ドイツ留学時にベルリン大学教授であ
ったハンス・デルブリュックの殲滅戦略と消耗戦略の類型化を学んだ結果で、戦争を、
決戦戦争と持久戦争に分類していたからだ。この頃にドイツの優性民族論の様に国柱会
は「大闘争が発生して世界が統一されるという予言を得た。」とする狂言仏教にはまり
、「キリスト教国を仏外の外道国として悪国指定」していた。その信者として、対米悪
感情の面でも共鳴している。国柱会入会直後、石原は「大正9年7月18日の夫人への手紙
」で、白人を「悪鬼」と述べまた「この地球上から撲滅しなければなりません」と憎悪
を著わしている。ゆえに野村乙二郎は、「重圧としての対米観があった」とこれを説明
している。この世界最終戦論では、「人類が心から現人神(あらひとがみ)の信仰に悟
入したところに、王道文明は初めてその真価を発揮する。」といい「最終戦争即ち王道
・覇道の決勝戦は結局、天皇を信仰するものと然らざるものの決勝戦であり、具体的に
は天皇が世界の天皇とならせられるか、西洋の大統領が世界の指導者となるかを決定す
るところの、人類歴史の中で空前絶後の大事件である。」と石原莞爾は説いている。実
に的は得ていた。その後は莞爾は1928年関東軍作戦主任参謀として満州に渡り、1931年
には満州事変を実行し、満州を占領し。石原は満州を独立国としようとして活躍した。
1936年の二・二六事件では、反乱軍の鎮圧の先頭に立って対処しているが。これは既に
ナチス・ドイツ政権下で、1939年9月末からドイツ国防軍兵器局のもとに原爆開発の為
の実験が試みられるようになっていた頃だ。当時は、ユダヤ人系の学者は追放、または
亡命していたので、残っていたドイツ人学者によって開発が進められたのだろうが、一
部は日本に来ていた。その後、1940年4月に密かに陸軍航空技術研究所所長の安田
武雄中将が部下の鈴木辰三郎に「原子爆弾の製造が可能であるかどうか」について調査
を命じている。がこれは、天皇の意志を裏切るものだった。つまり作戦本部は、満州国
政府樹立と原子爆弾対応との中で天皇の激烈な反対に会って、このとんでもない大事に
、戦略方針の改定と戦局分析の作業中止を起こしてしたのが実情だったのだろう。


869: 名無しさんAA:17/11/07 12:31
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 503----------

 青年将校は相沢裁判を通じて、相沢三郎を救うことに全力を挙げていたのに、突然そ
れを苦境に陥れるような方針に転じたのは、2・26事件により相沢を救いだせると、
何人かに錯覚に陥れられたのではないかと考えられることや、西園寺公が事件を予知し
て静岡に避けていたこと、2・26事件は持永浅治少将の言によれば、思想、計画共に
十月事件そのままであり、十月事件の幕僚が関与している可能性のあること、2月26
日の昼ごろ、大阪や小倉などで「背後に真崎あり」というビラがばらまかれ、準備周到
な事、などから幕僚派の計画であると考えられる事を示唆されている。磯部浅一の法廷
の対決において、磯部が真崎に彼らの術中に落ちたと言い、追求しようとすると、沢田
法務官がすぐに磯部を外に連れ出したことを、真崎はその裁判の中で述べている。「二
・二六事件に関連し起訴中の参謀本部付陸軍歩兵大尉田中彌は10月18日正午ごろ自
宅において自決せり。」と陸軍省から発表された。田中大尉は「帝都における決行を援
け、昭和維新に邁進する方針なり」と各方面に打電し、橋本欣五郎、石原莞爾、満井佐
吉らが帝国ホテルでの画策にも係わっていた事が解っているとしているが、多分戦後の
作文だろう。何故ならその行為が解っているなら死刑の筈だ。田中大尉は十月事件以来
、橋本欣五郎、の腹心の一人であった。事件の起こる直前に全国の同志に向かって決起
要請の電報を発送しようとしたが、大量の為中央郵便局で怪しまれて、大量の電報が差
し押さえられ、その事実が裁判で明るみに出る事になっていた。だが田中大尉は一切の
責任を自分一人で負って自殺し、その背後関係は闇に葬られた。この「昭和維新断行・
尊皇討奸」を掲げて起こしたクーデター未遂事件は「朕(ちん)の軍隊が命令なく自由
行動を起こした事は反乱軍と認める。反乱軍である以上速やかに討伐すべきである。と
発したと言う。この日本を震撼させたこの事件は、陸軍の青年将校に率いられた約1500
人の反乱部隊が首相官邸などを襲撃し、襲撃を受けた岡田啓介首相は無事で、高橋是清
(たかはし・これきよ)蔵相、斎藤実(さいとう・まこと)内大臣ら9人が殺害された
結果となる反乱部隊は陸軍省、参謀本部、警視庁などを占拠、永田町周辺を封鎖して、
部隊を指揮した野中四郎大尉ら青年将校たちは、「昭和維新」を掲げて陸軍部内で国家
革新を目指した「皇道派」で、天皇親政を実現するのが目的とされてた。しかし、昭和
天皇は「最も信頼する老臣を殺傷することは真綿にて我が首を絞めるに等しい行為。」
と激怒、鎮圧の為の拝喝も勅使も許されなかった。こうして東京市に戒厳令がしかれた


870: 名無しさんAA:17/11/07 17:52
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 533----------

 日本人は開戦時、少なくとも主観的には、中国をアメリカ・イギリスによる植民地支
配から解放したいと考えていた。しかし、後発資本主義国である日本には、帝国主義時
代の条件下で欧米列強の植民地になるか、植民地を獲得し帝国主義国となって生き残る
かの選択肢しかなかった事が日本の選択出来る範囲でしか無かった。従って、中国大陸
を期間限定で植民地にするが、それは将来中国を植民地から解放する為である、という
理由と言説を日本は展開した。これは中国人からすれば、受け入れがたい論理であった
のだろう。この時、日本がアメリカ・イギリスと戦争をしなくてはならなかった論理も
大義も、きちんと存在する。1941年12月の開戦直後、当時の政府は戦争の目的と
してそこに至った経緯を国民に対して論理的かつ実証的に説明することを試みた。その
1つが大川周明によるNHKラジオの連続講演(全12回)だ。この速記録には翌月(
42年1月)に「米英東亜侵略史」という単行本として上梓され、ベストセラーになっ
た。本書を読めば、日本が何故にアメリカ・イギリスとの戦争に至らざるを得なかった
かがよくわかる。さらにその内容が、客観的事実に基づいた冷静な主張であることにも
驚かされる。そこには「鬼畜米英!」などといった過激なプロパガンダも見られない。
 開戦直前の東條は首相(兼陸軍大臣)ではあっても、統帥部の方針に容喙する権限は
持たなかった。東條が戦争指導者と呼ぶにふさわしい権限を掌握したのは、1944年2月
に参謀総長を兼任して以降である。海軍の作戦スケジュール詳細は開戦1週間前に知っ
た状況だった。開戦時の東條は、政府の最高責任者の地位にはあっても海軍と統帥部を
管轄する権限は持たず、海軍による真珠湾攻撃や外務省による開戦通知の遅れは東條の
責任に帰することはできないものであったとも言える。この充分に米日戦争は想定され
、何年かけても何回やっても敗けると解っている米国との戦争に、陸軍が強きに出て、
更に永田鉄山没後の陸軍をして、強硬派の一員であった武藤章が、東条英機の訓示に際
して、今だ原爆が使える事と思っていたとしか言いようがない。重光葵は「東條を単に
悪人として悪く言えば事足りるというふうな世評は浅薄である。彼は勉強家で頭も鋭い
。要点をつかんで行く理解力と決断力とは、他の軍閥者流の及ぶところではない。惜し
い哉、彼には広量と世界知識とが欠如していた。もし彼に十分な時があり、これらの要
素を修養によって具備していたならば、今日のような日本の破局は招来しなかったであ
ろう。」と評している。日本と共に揺らされた一個人の有様だった。


871: 名無しさんAA:17/11/08 13:24 ID:1OU
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 534----------

国際法学者ハンス・ケルゼンは「戦争犯罪人の処罰は、国際正義の行為であるべきもの
であって、復讐に対する渇望を満たすものであってはならない。敗戦国だけが自己の国
民を国際裁判所に引き渡して戦争犯罪にたいする処罰を受けさせなければならないとい
うのは、国際正義の観念に合致しないものである。戦勝国もまた戦争法規に違反した自
国の国民にたいする裁判権を独立公平な国際裁判所に進んで引き渡す用意があって然る
べきである」と敗戦国の戦犯裁判を批判した。だが多くの場合敗戦国に犯罪の処理とし
て引き渡した時 敗戦になった恨み怨み(うらみつらみ)は多くの犯罪人を産むであろ
うと思えるGHQのチャールズ・ウィロビーはレーリンク判事に「この裁判は歴史上最
悪の偽善でした」「日本が置かれたような状況では、日本がしたようにアメリカも戦争
をしていただろう」と述べたという。国務省ジョージ・ケナンも東京裁判については「
法手続きの基盤になるような法律はどこにもない。戦時中に捕虜や非戦闘員に対する、
虐待を禁止する人道的な法はある。しかし、公僕として個人が国家のためにする仕事に
ついて国際的な犯罪はない。国家自身はその政策に責任がある。戦争の勝ち負けが国家
の裁判である。日本の場合、敗戦の結果として加えられた災害を通じてその裁判はなさ
れた」として、戦勝国が敗戦国を制裁する権利がないというわけではないが、「そうい
う制裁は戦争行為の一部としてなされるべきであり、正義と関係がない。またそういう
制裁をいかさまな法手続きで装飾するべきではない」と批判した。正に戦争であれば、
国家犯罪は敗戦そのものが、国としての犯罪の罪であり裁きであり量刑での結果と言う
考えだ。従って敗戦国は刑の環境の中にいる事になる。だがそれはそれで正義がない。
ケナンはさらに国務省宛最高機密報告書のなかで、この裁判は「国際司法の極致として
賞賛されている」が、「そもそもの最初から深刻な考え違い」があり、敵の指導者の、
処罰は「不必要に手の込んだ司法手続きのまやかしやペテンにおおわれ、その本質が 
ごまかされて」おり、東京裁判は政治裁判であって、法ではないと批判した。ただし、
ケナンは日本人への同情から述べたのではなく、この裁判を支えている正義を理解する
能力が日本人にはないとも述べ、戦犯は終戦時に即刻まとめて射殺した方が適切であっ
たとものべている。だがそれを行ったのが中国共産党であった。裁判も良心もない自国
の占領に没頭し国民を欺いて今日に至った。その為毛沢東以上の良識も常識も全て一掃
され、国民に平和の中の食糧供給すら出来ない様にして苦しめたのである。


872: 名無しさんAA:17/11/08 13:29
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 535----------

 だがこの戦勝国イベントとしてのプロパガンダ茶番劇は裏付けのないまま幕は開いた
のである。極東国際軍事裁判所条例は国際法上は占領軍が占領地統治に際してハーグ陸
戦条約第三款においても許可されてきた軍律審判に相当し、軍律や軍律会議は軍事行動
であり戦争行為に含まれる。だが尤も、高級軍人等の交戦法規違反について審判する点
についてはまだしも、言論人や国務大臣等がそれらの立場で過去におこなった行為や共
同謀議、あるいはその思想に対して審判が行われたことは異例であった。又戦争犯罪の
処罰についてはポツダム宣言10項で予定されてはいたが、国際法上認められてきた従
来の戦争犯罪概念が、大幅に拡張され検討されたことに特徴がある。なお、仮に国際実
定法上に根拠がなく前例のない国際刑事法廷であったと仮定した場合、法廷そのものの
管轄権に実定法上の根拠がない「事後法」により設置され、また連合国側の戦争犯罪は
法廷では提訴される機会がなく「法の下の平等」がなされていない問題がある。また、
この裁判では原子爆弾の使用や民間人を標的とした無差別爆撃の実施など連合国軍の行
為は対象とならず、証人の全てに偽証罪も問われず、罪刑法定主義や法の不遡及が保証
されなかった。こうした欠陥の多さから、極東国際軍事裁判とは「裁判の名にふさわし
くなく、単なる一方的な復讐の儀式であり、全否定すべきだ」との意見も少なくなく、
次段のとおり国際法の専門家の間では本裁判に対しては否定的な見方をする者が多い。
当時の国際条約(成文国際法)は現在ほど発達しておらず、当時の国際軍事裁判におい
ては現在の国際裁判の常識と異なる点が多く見られた。マッカーサーは上院軍事外交合
同委員会において、資源の乏しかった日本が「原料の供給を断ち切られたら、一千万か
ら一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていた。したがって、彼ら
が戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要性に迫られてのことだった
。」と証言し、この発言はマッカーサー自身が、大東亜戦争は日本の自存自衛のための
戦争であったことを認めたとされる。またマッカーサーは同委員会で「我々が過去百年
間に太平洋で犯した最大の政治的過誤は、共産主義者達が中国に於いて 強大な勢力に
成長するのを黙認してしまった」ことにあるとも述べている。小堀桂一郎はこの発言を
「東京裁判は誤りだった」という認識の、もう一つ別の表現だったと解釈している。

873: 名無しさんAA:17/11/08 13:29
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 536----------

 正にこの誤りこそが 今の国際社会の直面する多くの問題の核心であろう。北朝鮮の
核ミサイルも中国の台頭もおよそ中東の戦争までも 西欧列強の「内憂外患」の放置か
ら産まれて、又その為のユダヤ金融や軍需産業や経済問題、人種差別、就業問題、等々
全てをからめとって今を成している。多くの間違いはその共産思想と自由主義にある。
 遅きに失した政体の改造に、聡明な東条の登場でも何ら陸軍の強気と海軍の弱気には
変わる事は無かった。東条政権誕生では皇居での首相任命の際、天皇から対米戦争回避
に力を尽くすように、と直接指示される。これを持って天皇への絶対忠信の持ち主であ
った東條はそれまでの開戦派的姿勢を直ちに改めた。外相に対米協調派の東郷茂徳を据
え、一旦、帝国国策遂行要領を白紙に戻す。この時、陸軍省に戻って来て執務室までの
道中「和平だっ、和平だっ、聖慮は和平にあらせられるぞっ」と叫びながら歩いたとい
う程の短絡的私情派だった。さらに対米交渉最大の難問であった中国からの徹兵要求に
ついて、すぐにということではなく、中国国内の治安確保とともに長期的・段階的に徹
兵するという趣旨の2つの妥協案(甲案・乙案)を提示する方策を採った。またこれら
妥協案においては、日独伊三国同盟の形骸化の可能性も匂わせており、日本側としては
かなりの譲歩であった。もしこの時東条が石原莞爾にこの方針での画策を頼み軍務総務
にでも置けばそれはそれで回避策を講じた可能性もあったろう。だが長年の開戦路線を
根こそぎ変える事は不可能である事は明らかであった。東條が率いていた陸軍は、かね
てから中国からの撤兵という要求を頑としてはねつけており陸相時の東條は「撤兵問題
は心臓だ。米国の主張にそのまま服したら支那事変の成果を壊滅するものだ。満州国を
も危うくする。さらに朝鮮統治も危うくなる。支那事変は数十万人の戦死者、これに数
倍する遺家族、数十万の負傷者、数百万の軍隊と一億国民が戦場や内地で苦しんでいる
」「駐兵は心臓である。(略)譲歩、譲歩、譲歩を加え、その上にこの基本をなす心臓
まで譲る必要がありますか。これまで譲り、それが外交とは何か、降伏です」「支那に
対して無賠償、非併合を声明しているのだから、せめて駐兵くらいは当然のことだ。」
とまで述べていたからだ。つまり内閣組閣後の東條の態度・行動は、この陸相時の見解
とは全く違ったものであり、昭和天皇の意思を直接告げられた忠臣・東條が天皇の意思
の実現に全力を尽くそうとしたことがよく窺える。外相の東郷が甲案・乙案をアメリカ
が飲む可能性について疑問を言うと、東條は「交渉妥結の可能性は充分にある」と自信
有り気だったという。


874: 名無しさんAA:17/11/08 13:29
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 537----------

 東條は首相・陸軍大臣・内務大臣を兼ねて絶大な権力を一手に握り、「東條幕府」と
揶揄された。組閣の大命を受けるにあたって昭和天皇から対米交渉の継続を示唆された
後には東條は、その意を体して交渉派の東郷茂徳を外務大臣に起用するなどしており、
東條による3ポスト兼任も、日米交渉が日本の譲歩によって妥結した場合に予想される
社会の動揺を警察と陸軍の力で抑え込むためであるとする見方がある。陸相の兼摂は、
木戸の提案であり、対米交渉妥結時に大陸からの撤兵を確実に行わせる意図によるもの
とされる。木戸は後に「あの期に陸軍を押えられるとすれば、東條しかいない。東久邇
宮以外には宇垣一成の声もあったが、宇垣は私欲が多いうえ陸軍をまとめることなどで
きない。なにしろ現役でもない。なにしろ現役にも非ず。東條は、お上への忠節ではい
かなる軍人よりも抜きん出ているし、聖意を実行する逸材であることにかわりはなかっ
た。…優諚を実行する内閣であらねばならなかった」と述べている。裏に新型爆弾開発
を止める行為があったと仮定すれば、全く頷ける話ではないか。恐らくこの木戸幸一こ
そが全てを知り、全てを放置し、全てを黙認した者であろう。かくして11月末、アメ
リカ側はソ連のスパイだったハリー・ホワイトのもとでハル・ノートが提示されて、日
本側の新規提案は甲案・乙案ともに問題外であり、日本軍の中国からの即時全面徹兵だ
けでなく、満州国の存在さえも認めないという最強硬な見解を通告してきた。ただし、
ハル・ノートには満州は含まれていないという説がある。がどっちにしても東条が自ら
乗り込んで米大統領に会談しない限り、米国内の主要な政府首脳は欧州戦線に向けての
日米開戦の方向に固まっていたのだった。広島や長崎に「ピカドン」が落とされると、
すぐさま仁科研究所の職員を調査に行かせた。原爆投下の翌日、仁科や荒勝などの物理
学者は専門家らによる緊急対策チームを立つ上げ、投下から1日経ってから、ようやく
初歩的な分析で「これがウラン235を用いて製造された原子爆弾である」という正確
な答えを導き出し報告した。そして自分たちの経験から、ウラン235の生産は非常に
高コストであることを知っていた為、アメリカが保有するウラン235による爆弾は、
「恐らくこれ一つだけであるだろう。」と判断していた。しかし、原子爆弾「リトルボ
ーイ」が8月6日広島に投下されて後8月9日、正式な報告書を発表する時にもう一つ
の原子爆弾「ファットマン」が長崎に投下された。そして現地に行った仁科の研究員は
驚愕して目を見張った。そして「これはプルトニウム型の爆弾である。」と発表したの
であった。

875: 名無しさんAA:17/11/08 13:30
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 538----------

 実は公式には1950年代から原子力の平和利用が始まり、1951年にソ連のオブ
ニンスクの黒鉛炉式発電所が初めてとされている。モスクワの南西 約100kmにあるフィ
ジックス・パワー・エンジニアリング研究所が、ソ連最初の動力炉建設の責任を持つ事
で、1951年に原子炉設置場所の掘削を開始し、建設から3年を経て1954年5月
に臨界を達成し、6月に世界最初の原子力発電所が運転を開始したのである。ソ連は3
年足らずの間に最も複雑に絡み合った設計、建設及び運転の科学的及びエンジニアリン
グ問題を解決し、原子力が人類に貢献できる可能性を証明したのだ。だがこの世界初の
原子炉は商業原子炉を作らせなかったアメリカ軍部に対しての圧力だった。従ってこの
時の原料は米国から送られている。アメリカサンフランシスコに本拠を置き、総合建設
業を営む多国籍企業で、米国最大の資産家とされるのがベクトルなのだが、建設部門で
名を馳せ、石油コンビナート、発電所、ダム、空港、港湾などの大型建設を請け負う、
世界最大級の建設会社である。創業者ウォーレン・べクテルは、オクラホマ州で牧場経
営に失敗した後、1898年、急成長中であった鉄道産業の使用人として事業を開始した。
それから20年間、ウエスタンパシフィック鉄道をはじめとして鉄道や高速道路建設を請
け負ったりして。1919年以降、共同事業者とともに高速道路・水道トンネル・ダムなど
を建設している。アル・ゴアの真実像は、ウランとプルトニウムを精錬し、核弾頭の原
料を製造するアライド・ケミカル社のオーナーであった。 このアライド・ケミカル社
に原料を供給しているのがアメリカ・ロシア社を始めとして多くのウラン鉱山を持つ、
バーナード・バルーク。 バルークは、アメリカ最大の、ウラン鉱山の所有主であり、
シベリアにもウラン鉱山を所有しており、 そこから産出されるウランは、バルーク自
身によって、冷戦時代、敵国ソ連にも販売され続けて来た。このシベリア鉱山の開発会
社の名が、アメリカ・ロシア社。名前の示す通り、バルークと、ソ連共産党政府の「共
同出資」会社である。そしてバーナード・バルークは、かのIAEAの創設者でもある
。ここにウラン・ビジネスとIAEAの正体、そして冷戦を(表面的に戦った)アメリ
カとソ連の恊働関係が見て取れる。アル・ゴアの長女:カレナ・ゴアは、このクーン・
ローブの経営者ジェイコブ・シフの曾孫アンドルー・シフと、結婚した。アル・ゴアの
環境保護の「自己宣伝」として不都合な真実を書いた。そして環境保護投機会社の経営
資金も、クーン・ローブから出ている。

876: 名無しさんAA:17/11/08 13:30
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 539----------

 此処で問題なのは、長崎の現地に行った仁科の研究員達が驚愕して目を見張った事だ
。そして「これはプルトニウム型の爆弾である。」と発表したのであった。元来ウラン
にはプルトニウムは存在しないからだ。1939年8月2日、ユダヤ人アインシュタインは、
フランクリン・ルーズベルト大統領に宛てた手紙、通称アインシュタイン=シラードの
手紙で、「大量のウランが核分裂連鎖反応を起こす現象は、新型爆弾の製造につながる
かもしれない。飛行機で運ぶには重過ぎるので、船で運んで港湾ごと爆破することにな
る。アメリカで連鎖反応を研究している物理学者グループからなる諮問機関をつくるの
がいい」と進言している。まだ日本との開戦前の話である。1939年9月1日、第二次世界
大戦勃発すると 1939年10月21日、アメリカはウラン諮問委員会を設置した。1940年4月
10日、イギリスが、第一回ウラン爆発軍事応用委員会(MAUD委員会)の会議を開催した。
1940年4月に、理研の仁科芳雄がウラン爆弾計画を安田武雄陸軍航空技術研究所長に進
言する頃、仁科研究室は研究費不足にあえいでいた。原因は輸入物資が止められたから
だ。1940年4月 、安田武雄中将は部下の鈴木辰三郎に「原子爆弾の製造が可能であるか
どうか」について調査を命じた。その後1940年6月、鈴木辰三郎は 東京帝国大学の物理
学者嵯峨根遼吉(当時は助教授)の助言を得て、2か月後に「原子爆弾の製造が可能で
ある」ことを主旨とする報告書を提出1939年10月11日にはアインシュタイン=シラード
の手紙がフランクリン・ルーズベルト大統領に届けられていたが改めて1940年7月6日、
理研の仁科芳雄等が、イギリスの学術雑誌ネイチャーに1939年に既に投稿してあったで
あろう『Fission Products of Uranium produced by Fast Neutrons(高速中性子によっ
て生成された核分裂生成物)』と題する、2個の中性子が放出される(n. 2n)反応や、複
数の対象核分裂を伴う核分裂連鎖反応(臨界事故)を起こした実験成果が掲載されたのだ
。この実験では臨界量を超える天然ウラン(ウラン238-99.3%, ウラン235-0.7%)に 高速
中性子を照射したわけだが、そのことによってプルトニウム239が生成されることや
、核爆発を起こすことがこの時理論上に知られる結果になっていた。日本でのこの研究
の発表は、当然英国やドイツの科学者達に知られた。だが既にドイツでは戦争に入って
その実地実験は出来なかった。英国も同じで、その為にロスアラモスの原爆実験に多く
の欧州の科学者達が詰めかけていたのである。このプルトニウム型の核爆弾こそが恐れ
ていた製造設備によって安価に出来る爆弾だったのである。

877: 名無しさんAA:17/11/08 13:30
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 540----------

 戦時中の当時に日本でも原子炉の検討は一部ではあった。特にこの理研の仁科芳雄等
が進めていた革新的技術ではあった。だが東京帝国大学の物理学者嵯峨根遼吉助教授な
どは、放射能の人体影響の研究者であって、放射能の影響に強い懸念を持っていた人物
だった。ウェスティングハウス・エレクトリックは当時斬新なアイデアで次々と新しい
物を世に出して事業を広めた会社であった。19世紀後半に、エジソンと同時代の発明
家だったジョージ・ウェスティングハウスは、その発明を事業化して始まった会社だが
、創業期においてはウィリアム・スタンリー、ニコラ・テスラら天才的な技術者を多数
擁護し抱えてエジソンと競った。交流、特に三相交流発送電による電力事業を開拓し、
その技術を確立した。これをイギリスのチャールズ・マーズが採り入れようと長いこと
政治の世界と綱引きをして、やがてナショナル・グリッドという全国的送電網を企業体
として成立させる流れにつなげた。このイギリスとの繋がりは1950年代以降の加圧水型
原子炉(PWR)の開発・製造で独占的地位を占めるに至った。しかし、1980 年代頃から
それまでの中心事業の売却や分離が相次ぐようになる。1997年には放送以外の大半の事
業を売却し、社名も伝統的なウェスティングハウスからCBSコーポレーションへ変更
し、1998年には最後に残っていた製造部門である原子力部門も英国核燃料会社社に売却
している。ロスアラモス研究所はマンハッタン計画の中で原子爆弾の開発を目的として
創設されたアメリカの国立研究機関で、戦後所長は、チャールズ・マクミランがなって
いた。自由な原子力研究に1943年に設立したつもりが、政府は「プロジェクトY」とい
う、コードネームで呼ばれていた秘密の研究所だった。当初設立は初代所長はロバート
・オッペンハイマーが、亡命で集まった21名ものノーベル賞受賞者を擁する科学者な
どがいた。マンハッタンプロジェクトで開発やら製造された原爆が、広島に投下された
「リトルボーイ」、および長崎に投下された「ファットマン」である理論を確立した。
当時機密保持を要請していた軍の締め付けに多くの科学者は反対していたが、戦後の赤
狩りによって、オッペンハイマーを始め多くの科学者は排除される憂き目にあっている
。公式には1939年にドイツのオットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマンによって、
核分裂反応が発見されているがその連鎖反応にはレオ・シラードが先行した理論をもっ
ていた。なかでもコロンビア大学の亡命イタリア人エンリコ・フェルミの研究はぬきん
でており、連鎖反応の着想者である亡命ハンガリー人のレオ・シラードの協力も得て、
1941年には基礎的な理論は完成していた。


878: 名無しさんAA:17/11/08 13:32
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 541----------

これらの研究は1942年に発足したマンハッタン計画に大いなる影響を与え、ドイツより
先に原爆を作る気運の中で、マンハッタン計画組み込まれ、研究の場をシカゴ大学に移
し本格的な研究がスタートしたのである。その中にハンガリーからの亡命学者レオ・シ
ラードがいた。既に1933年、ドイツを逃れてほどなく、中性子による核連鎖反応の可能
性に思い至り、以降核物理学の研究に没頭している。そうした中でシカゴ・パイル1号
(Chicago Pile 1、CP-1)が造られ、歴史上初めて臨界に達した最初の原子炉の名称と
なった。CP−1はウランから原子爆弾材料のプルトニウム239を取りだす生成用原
子炉で、実用炉を設計するための実験炉として開発された。このCP−1の成果を元に
つくられた原子炉で生成したプルトニウムは1945年8月9日の、長崎に投下された
原爆に利用され、数万人が死亡した。こうした原子炉が出来ていた事に、長崎の現地に
行った仁科の研究員達が驚愕して目を見張ったのである。CP−1はその名前の通り、
黒鉛ブロックを積み上げた小型原子炉で、形式としては黒鉛減速空気冷却炉であった。
初期の原子炉は全て黒鉛炉だったこともあって、パイルと言う言葉は原子炉と同義とな
っていた。炉心を構成する黒鉛ブロックは木枠で支えられ手積みで組み上げられた。使
用された黒鉛ブロックは350トン、全体の大きさは直径7.5m、高さ6mで、小さな二階建
ての家ほどだった。核燃料として35トンのウランを用い、三本のカドミウム製制御棒を
持っていた。うち一本は緊急停止用で、上からロープで吊るされており、異常があれば
ロープを斧で断ち切って炉心へ落す仕組みだった。またカドミウム塩溶液が準備されて
おり、制御棒の故障時には炉心内へ流し込むことになっていた。1942年5月に炉の
設計が開始され、同年11月にはシカゴ大学のフットボール競技場スタッグ・フィールド
の観客席下にあったスカッシュ・コートに極秘裏に建設が開始された。1942年12月2日
8時30分より実験が始まり、科学者の一人ジョージ・ウェイルの操作により 制御棒が引
き抜かれ、原子炉は臨界に達した。この様子を見守っていた科学者のバーナード・フェ
ルドは「制御棒を引き抜くとルルルルルルルル…と音がして計器の針が振り切れてしま
った」と回想している。すぐさまワシントンの計画本部の ジェームス・B・コナント(
ハーバード大学学長)へ暗号電が発せられた。曰く「イタリア人の航海士が新大陸へ達
した。現地人は友好的だった。この実験の成功は米国政府を驚かせた。短期間でこうし
た実験が成功した事は日本政府も作っているかも知れないと予想させたからだ。


879: 名無しさんAA:17/11/08 13:33
 早速1941年に完成するグランドクーリーダムを電力ダムとしてアルミニウムの精錬な
どに利用するための電力を発生することが第一とされ、当初の目的であったかんがい用
水の整備は一時見送られた。この電力は最高機密であったマンハッタン計画の一部分と
して、ハンフォードにあるハンフォード核施設のプルトニウム生産用原子炉と再処理工
場の稼働用の電源として利用された。CP−1を大型化したプルトニウム生産炉とプル
トニウム抽出工場が、ワシントン州リッチランド北部のコロンビア川沿いの土地にハン
フォード工学工場として建設された。最初のプルトニウム生産炉であるハンフォードB
炉は1943年9月から建設が始まり、翌1944年9月に運転開始、同年12月28日に臨界に達し
た。続くハンフォードD炉も1944年12月17日に臨界に達した。遅れて三基目のF炉は、
1945年2月に運転を開始した。グランドクーリーダムも1941年に 当時世界最大のダムと
して完成しいる。プルトニウム生産炉は黒鉛減速軽水冷却原子炉で天然ウランを使用し
、プルトニウム生産専用で発電系は備えていない。コロンビア川は原子炉からの温排水
で常時湯気を立てるようになったといわれている。原子炉で燃焼した天然ウラン燃料は
プルトニウム抽出工場でウラン238から転換したプルトニウムを抽出、精製された。
だが完成すると、レオ・シラードら68名の科学者が日本への原爆投下に反対して大統
領へ請願書を送り、ロスアラモス研究所は世界で最初の反原爆運動の舞台ともなった。
第二次大戦後はソ連の脅威に対抗するためエドワード・テラーらが水素爆弾の開発を行
ったが、一方でオッペンハイマーらは原子爆弾の廃絶を訴え、マンハッタン計画を推進
した科学者たちはテラー派とオッペンハイマー派に分かれ、それぞれ独自の研究所をつ
くった。だが国も又サンディア国立研究所を作るなどして、新たな核兵器開発を担った
サンディア国立研究所はアメリカ合衆国エネルギー省が管轄する国立研究所で。ニュー
メキシコ州アルバカーキとカリフォルニア州リバモアの2箇所に施設がある。ここでは
核兵器の開発と管理、軍事科学、安全保障の全分野などについて、国家機密に属する先
進的な研究が行われている。2009年3月31日には 世界最大のレーザー核融合施設である
「国立点火施設」。実験装置の一部には、HOYA USAから、大型レーザーガラスが導入さ
れている。また、磁気浮上式鉄道の一種であるインダクトラックの研究も行われている
。現在、研究所施設は政府の財産であるが、管理・運営は請負契約を結んだサンディア
社のロッキード・マーチン社の 100% 出資子会社が行っている。この運営形態は GOCO
軍産共同と呼ばれる。ニューメキシコ州サイトの研究所建屋はカートランド空軍基地の
敷地内に有り、訪問者には基地の東側に所在するオフィスで入構証を発行してもらう。
2012年、116番元素は、当研究所の名にちなんだ「リバモリウム」と名付けられた。

880: 名無しさんAA:17/11/08 13:33
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 543----------

 当初は、軍部(主に大日本帝国陸軍)は新爆弾投下に関する情報を国民に伏せていた
が、広島及び長崎を襲った爆弾の正体が原爆であると確認した軍部は報道統制を解除。
11日から12日にかけて日本の新聞各紙は広島に特派員を派遣し、広島を全滅させた新型
爆弾の正体が原爆であると読者に明かした上、被爆地の写真入りで被害状況を数々と詳
細に報道していた。これによって、当時自国でも開発が進められていたもののその詳細
は機密扱いであったこともあり、一般にはSF小説、科学雑誌などで「近未来の架空兵
器」と紹介されていた原爆が発明され、日本が攻撃を受けたことを日本国民は初めて知
ったのである。なお、この原爆報道によって、新潟県は8月11日に新潟市民に対して
「原爆疎開」命令を出し、大半の市民が新潟市から脱出し新潟市は無人都市になった。
その情報は 8月13日付の読売報知新聞に記載された。これは新潟市も原爆投下の目標リ
ストに入っているらしいという情報が流れたからである。原爆疎開が行われた都市は新
潟市だけであった。また東京でも、単機で偵察侵入してきたB-29を「原爆搭載機」稲光
を「原爆の閃光」と誤認することもあった。こうして先々恐々の中1945年 8月15日
の終戦の日を迎えた。その午前のラジオ放送で、仁科芳雄博士は原爆の解説を行った。
さらに8月15日正午には、戦争の終結を日本国民に告げるために行われた ラジオ放送
(玉音放送)がなされた。原爆について「敵ハ新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シテ無辜ヲ殺傷
シ惨害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル(敵は新たに残虐な爆弾を使用して、罪もな
い者たちを殺傷し、悲惨な損害の程度は見当もつけられないまでに至った)」と詔があ
った。正確な犠牲者数などは、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ / SCAP) 占領下では
言論統制され、日本が主権を回復した1952年に初めて報道されたのである。この時の、
二つの原子爆弾が落とされた事は世界大戦の中でも最も異常な事ではあった。なぜなら
この爆弾によって「日本本土への上陸作戦(ダウンフォール作戦)による米兵の新たな
犠牲は百万人と推定され、戦争の早期終結のために原子爆弾の使用は有効であった。」
との説明が全くの事実無根の嘘である事が明らかであるからだ。これはその後東京裁判
にも紛糾させている。事実上陸作戦においても焦土作戦においても日本は既に降伏条項
の交信を行っていたからだ。通常であれば停戦合意があった中と解するべき状態で戦争
をやりたかった。としか思えない状況下なのだ。更にこの原発が同型撃弾ではない事だ
。威嚇や威力による戦勝誇示なら一発でも充分であった筈だし、長崎型爆弾で充分な事
である。此処にアメリカ合衆国の虚実が浮かび上がるのである。


881: 名無しさんAA:17/11/08 13:34
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 544----------

 極東国際軍事裁判(東京裁判)において連合国側はニュルンベルク裁判と東京裁判と
の統一性を求めていたが、ラダ・ビノード・パール判事は、日本軍による残虐な行為の
事例が「ヨーロッパ枢軸の重大な戦争犯罪人の裁判において、証拠によりて立証された
と判決されたところのそれとは、まったく異なった立脚点に立っている。」と批判した
。戦争犯罪人が、それぞれの司令を下したとニュルンベルク裁判で認定されたナチス・
ドイツの事例との重要な違いを指摘したうえで、「(米国の)原爆使用を決定した政策
こそがホロコーストに唯一比例する行為」と論じ、米国による原爆投下こそが、国家に
よる非戦闘員の生命財産の無差別破壊としてナチスによるホロコーストに比せる唯一の
ものであるとした。同趣旨の弁論は他の弁護士によってもなされた。ベン・ブルース・
ブレイクニー弁護人は 1946年5月14日の弁護側反証段階の冒頭で、アメリカの原子爆弾
投下問題をとりあげ、「キッド提督の死が真珠湾攻撃による殺人罪になるならば、我々
は、広島に原爆を投下した者の名(ポール・ティベッツ)を挙げることができる。投下
を計画した参謀長(カール・スパーツ)の名も承知している。又その国の元首の名前も
承知している。彼らは、殺人罪を意識していたか。してはいまい。我々もそう思う。そ
れは彼らの戦闘行為が正義で、敵の行為が不正義だからではなく、戦争自体が犯罪では
ないからである。何の罪科でいかなる証拠で戦争による殺人が違法なのか。原爆を投下
した者がいる。この投下を計画し、その実行を命じ、これを黙認したものがいる。その
者達が裁いているのだ。彼らも殺人者ではないか。」と発言した。なおこの発言が始ま
ると、チャーターで定められている筈の同時通訳が停止し、日本語の速記録にもこの部
分のみ「以下、通訳なし」としか記載されなかった。更にブレイクニー弁護人は、1947
年3月3日にも、原子爆弾は明らかにハーグ陸戦条約第四項が禁止する兵器だと指摘した
。またイギリスのアーサー・S・コミンズ・カー検察官による「連合国がどんな武器を
使用しようと本審理にはなんらの関係もない」との反駁に対し、日本国はそれに対して
報復する権利がある、と主張した。またパールは1952年、広島市を訪問し、講演「世界
に告ぐ」では「広島、長崎に原爆が投ぜられたとき、どのようないいわけがされたか、
何のために投ぜられなければならなかったか」など、原爆投下を強く非難した。


882: 名無しさんAA:17/11/08 13:34
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 545----------

講演では、「いったいあの場合、アメリカは原子爆弾を投ずべき何の理由があっただろ
うか。日本はすでに降伏すべき用意ができておった」「これを投下したところの国(ア
メリカ)から、真実味のある、心からの懺悔の言葉をいまだに聞いたことがない。」、
連合国側の「幾千人かの白人の軍隊を犠牲にしないため」という言い分に対しては「そ
の代償として、罪のないところの老人や、子供や、婦人を、あるいは一般の平和的生活
をいとなむ市民を、幾万人、幾十万人、殺してもいいというのだろうか。」「われわれ
はこうした手合と、ふたたび人道や平和について語り合いたくはない」として、極めて
強く原爆投下を批判した。日本本土への上陸作戦「ダウンフォール作戦」による米兵の
新たな犠牲は 100万人と推定され、戦争の早期終結のために原子爆弾の使用は有効であ
ったとの説明がなされており、この論文は原爆投下を妥当であったとするアメリカ政府
の公式解釈を形成する上で重要な役割を果たしている。しかし、スティムソンの見解は
スタンフォード大学のバートン・バーンスタインによって、厳しく批判されている。バ
ーンスタインはまた、原爆投下の目的が「一般市民への殺戮」かつ、「日本への懲罰」
であることを明らかにしている。原爆投下問題を再検討するアメリカの研究者の間では
、「原爆の投下は、日本への上陸作戦を避けるためにも、早期に戦争を終結させるため
にも必要ではなかった」、「原爆投下によって回避されたとされる犠牲者の公式解釈で
の推定数『50万人』あるいは『100万人』には根拠がない.」などの点でほぼ合意に達し
ている。またバートン・バーンスタイン教授は被爆したアメリカ兵捕虜について扱って
いる。原爆投下の直前、アメリカはイギリス情報部から「広島にアメリカ人捕虜がいる
」と通告を受けていたがこれを無視され、アメリカ戦略空軍司令部の極秘電報(1945年
7月30日付)によると同司令部は長崎には アメリカ人捕虜収容所があることを確認され
、ワシントンに打電されたが、投下は強行された。結局、長崎の原爆は目標を少しずれ
たため、約1400人のアメリカ人捕虜は助かった。アメリカ政府が被爆死したアメリカ兵
捕虜の事を秘密にしていた理由について、同教授は「アメリカ国民の大半が支持した原
爆投下でアメリカ兵が殺されていたとなれば、世論は批判に変わり、第2次大戦直後の
冷戦激化の中での核戦略に重要な影響をもたらす、と懸念したからではないか」と語り
、「一般市民はもちろん、味方の軍人まで犠牲にしても平気な“戦争の狂気”を告発し
たい」と述べている。


883: 名無しさんAA:17/11/08 13:36
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 546----------

『第二次大戦 殺人兵器』(銀河出版)の中で、ナチスの 原爆開発に関して次のように
書いている。「ドイツが原子爆弾の研究を英米より2年も早く着手し、しかも相当進ん
でいることは英米側ではっきり確認されていた。さしあたりドイツが占領していたノル
ウェーの重水工場の機能を奪って、貴重な重水を使わせないようにすることがイギリス
戦時内閣の最大の課題であった。ノルウェーに潜入させていたスパイからの報告による
と、重水の生産は急速に増加し、毎月ドイツに向かって輸送中だという。もう一刻も猶
予はできなかった。…その後、スイスの情報機関を通じて入手した情報では既に、ドイ
ツの研究は核連鎖反応の段階に達していることがわかった。もう猶予は許されなかった
。同じ様に 哲学者、篠原正瑛氏は「ドイツは原爆の研究を進めてはいたが、技術的に
はまだ完成の段階には達していなかった」という意見が大勢を占めているようだ。しか
し私自身は、あの当時ベルリンで耳にした噂や情報などを総合的に考えてみると、どう
もドイツは、原爆完成の直前にあったのではなかろうか」という気がする。と書いた。

884: 名無しさんAA:17/11/08 13:36
し私自身は、あの当時ベルリンで耳にした噂や情報などを総合的に考えてみると、どう
もドイツは、原爆完成の直前にあったのではなかろうか」という気がする。と書いた。
、ドイツの著名な歴史研究家であるセバスチャン・ハフナー(ユダヤ人)は、著書『ヒ
トラー注釈』の中で次のように述べている。「ヒトラーの反ユダヤ主義によって、ドイ
ツの科学がこうむった頭脳の流失は相当のものだった。アインシュタインを初めとして
ユダヤ人の科学者が亡命しただけではなく、ユダヤ人でない著名な科学者もユダヤ人の
同僚や教師のあとを追った。そしてそれまで群をなしてドイツ参りをしていた外国の科
学者も来なくなった。ヒトラー以前には核物理学の研究では世界の中心はゲッティンゲ
ンだった。それが1933年にアメリカに移った。ヒトラーの反ユダヤ主義がなかった
ら、アメリカではなく、ドイツが最初に原子爆弾を開発する国になったかもしれないと
いうのはなかなか興味をそそる推測である。」結局のところ、ナチスの原爆開発がどの
程度まで進んでいたか不明である。しかし、戦後、連合国側が捕らえた科学者たちの証
言では、「最も難解な過程」は乗り越えていたらしい。イギリス情報局もこの証言を裏
付けるような情報を得ていたという。例えば、次のような情報がある。「『カイザー・
ヴィルヘルム研究所』で原爆リサーチを行っていたナチスの科学者たちは、戦後にイギ
リスへ連れて行かれ、『ファーム・ホール刑務所』へ一時的に拘留された。その時に、
イギリス情報局は当然これら科学者の監房に盗聴器を仕掛けておいた。1945年8月
6日に広島に原爆が落とされた時、そのニュースはラジオを通じてこれら科学者達にも
知らされた。彼らの反応が興味深かった。盗聴されているとは知らずに彼らは広島に落
とされた原爆についていろいろな反応を示したが、ひとつだけ一致した反応があった。
それは『なぜドイツが作った原爆が友好国日本に落とされたのか』という驚きの反応だ
った。これによってイギリス側はドイツの原爆開発がいかに進んでいたかをつかんだの
である」


885: 名無しさんAA:17/11/08 13:36
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 547----------

 これらの事を考えると ドイツでも一発位は核兵器は出来ていたとも考えられる。事
実ベルリンではナチス・ドイツが核兵器開発を実用化直前まで進め、核実験も実施して
いた−との新説を紹介した本「ヒトラーの爆弾」が十四日、ドイツで出版され、信ぴょ
う性をめぐり論議を呼んでいる。著者のベルリン・フンボルト大学講師の歴史家ライナ
ー・カールシュ氏によると、ナチスは一九四四年から四五年にかけベルリン近郊に原子
炉を設置し、濃縮ウランを使った小型核兵器を開発。四五年三月三日、ドイツ東部テュ
ーリンゲンで核実験を行った。被害は半径約五百メートルにわたり、近くの強制収容所
の収容者ら約五百人が犠牲になった。開発は、ヒトラーらナチス指導層も承知していた
という。新たに発見された旧ソ連軍の史料や証言記録、実験場所とされる土壌から放射
能が検出されたことなどを「核実験説」の根拠としている。ドイツでは一九三〇年代か
ら核開発が進められたが、ナチスは兵器化に熱心ではなく、ナチスの核兵器保有を懸念
した科学者らの訴えを聞いた米国が先んじて、原爆を開発した−というのがこれまでの
定説だった。独メディアは新史料発見を評価する一方、この「核実験説」の説得力不足
を指摘している。このドイツの歴史学者ライナー・カールシュ氏は、主にロシア、旧東
ドイツ、西側などの公文書館で発見した「新史料」に基づいて本を書いたとのことであ
る。彼の説の概要は、以下のようなものであるという。@ドイツの核兵器開発計画は、
主流派のハイゼンベルクよりも、非主流のディープナーの下の小グループの手でより実
り多く進められていた。Aベルリンの南、ゴットウ村の陸軍研究施設に建設されたディ
ープナーの原子炉が運転を開始した。B1944年10月、バルト海リューゲン島で核
実験が行なわれた。C1945年3月、テューリンゲンのオードルーフ演習場で核実験
が行なわれ(「閃光と高熱、放射能」を伴う2回の爆発)、捕虜数百名が死亡した。D
ドイツが核兵器を実戦に投入しなかった理由は、量産が困難だったことと、起爆装置と
運搬手段に重大な問題が残されていたためである。と言う事のようだ。資料ではナチス
.ドイツの軍需大臣アルベルト・シュペーアがオットー・ハーンとヴェルナー・ハイゼンベ
ルクから原爆開発に、「生産技術的には遅くとも2年後には製造可能だろう」という返
事を得た為それをヒトラーに報告すると、彼は「それは既に別の研究機関にまかせてあ
る」と答えたきり、二度と触れようとはしなかったという。これは既にこの最終兵器に
賭ける事の不正義に悩んでいた事が解る言葉だ。

886: 名無しさんAA:17/11/08 13:37
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 548----------

1940年6月、ドイツ軍がパリ入城したが、この時に ジョリオ・キューリー博士の
「原子核研究装置」を没収している。更にドイツ軍は、ベルギー・オランダ・ルクセン
ブルグを攻撃し、地球上のウラン産出地域を占領したので、ウラン資源が米国側に渡る
こともなく原爆の製造条件は、全てドイツの手に独占されていたようでもある。その上
重水素を既にスエーデンから陸送していたとなると 充分に原爆は早々作っていた筈だ
。米国はどうして日本に2つのタイプの原爆を投下したのだろうか。しかも先に投下し
たウラン型の原爆は、実験すらしてないのに。ウラン型原爆は現在開発されていないま
まで、広島に投下された原爆は、人類に対する最初にして最後の原爆だったというのは
どうしてもしっくりこない。これまでの米国内の核実験はプルトニウム型だけである。
さらに不思議なのは、なぜドイツではなく日本に原爆が投下されたのかということだ。
ドイツと戦っている段階で米国は原爆投下目標地点を日本(日本軍)と決めていたので
ある。科学者らは、ナチスを潰すために原爆開発に協力したのに、それがなぜドイツで
はなく日本なのか、と。こう抗議したが、米国政府はこの抗議を無視している。原爆開
発は「マンハッタン計画」として天文学的な資金を飲み込み、ここに「水爆の父」エド
ワード・テラーが参加しながら「SDI計画」、さらには「冷戦」をも産み出したとい
えるだろう。「マンハッタン計画」がスタートしたのはルーズベルト大統領のもとであ
るが、この責任者だったのはボーンズのヘンリー・スチムソンである。日本への原爆投
下は、このスチムソンの決定と言える。そして、最終的なゴーサインを出したのが虚弱
なトルーマン大統領となる。トルーマン大統領は、「私は広島・長崎の原爆攻撃を指令
したあとに、良心のとがめを少しも感じなかった。これからも万一の場合、水爆使用は
たしかだ」と語っている。トルーマン政権以降のアメリカとソ連は、熾烈な核軍拡競争
に明け暮れ、20世紀の末までに米ソ両国は合わせて4万発以上の原爆・水爆を製造し
、1700回以上の原爆・水爆実験を実施した。では、2回の世界大戦とはなんだった
のか。ナチとはなんだったのか。そしてヒトラーは何者だったのか。本当かどうかは知
らないが、ナチ(NAZI)の本当の意味は、国際シオニスト連盟(National Associa
tion of Zionist International)だという「話」もある。

887: 名無しさんAA:17/11/08 13:37
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 549----------

つまり ナチは、シオニストの別働隊だったのではないかという疑惑になる。ヒトラー
を「戦争代理人」だったと理解すれば、ナチもそのために誕生したという理解になり、
「そのため」とは、世界大戦の為となる。こうなると全く国際的陰謀論は既にシオニス
トの手に落ちていた事になる。馬鹿なチャーチルを代理人として登場させ、賠償金拒否
をしたドイツを世界を跨いで請求したと言う事だろうか。ヒトラーとしては最終兵器を
使ってまで拒否する理由はなかったのかもしれない。良心があれば昭和天皇と同じに 
軍部に中止をさせたとしても可笑しくはない。だが最近面白い記事が載った。第二次世
界大戦末期、敗戦濃厚となるとナチス・ドイツは、世界各地から強奪した財宝を列車に
積み、山中地下の秘密基地に隠したと考えられている。ナチスの「黄金列車」伝説であ
る。今でも、多くのトレジャーハンターたちは、それを血眼で探し回っているのである
が。ところが現在、とあるドイツ人男性がナチスの「財宝」ではなく「原子爆弾」を見
つけてしまったとして大きな話題となっているのだ。凍りつくような恐ろしい発見は、
今月12日、ドイツ紙「Bild」が報じた。ナチス製原子爆弾を発見したと主張しているの
は、元機械エンジニアのペーター・ローアさん(70)。現役時代に培った技能を活かし
、退職後にナチスの財宝探しを開始したローアさんが、目をつけた同国中部テューリン
ゲン州「ヨナス谷」を地中レーダーで探査中、モニターに5つの不思議な影が写り込ん
だのだという。「これはもしや」と思い、さらに3D解析を進めたローアさんは凍りつ
いた。なんと地中にある謎の物体は、金属製で、戦中・戦後にかけてアメリカやソ連が
開発を競っていた原子爆弾そっくりの形をしていたというのだ。5つの影のうち少なく
とも2つはナチス製原子爆弾であると確信したローアさんは、恐怖に打ち震えながらも
事態をすぐさま州当局に通報、「金属が腐食すれば、第2のチェルノブイリともいうべ
き恐ろしい事態になるだろう。直ちに処理班を組織し、脅威を取り除くべきだ。」と。
ところが、返ってきたのは開いた口が塞がらないほど呑気な答えだったという。「ただ
単に当局は、これ以上調査を続けるなと言ってくるだけでした!」そして、話を真剣に
取り合おうとしない当局にしびれを切らし、彼はメディアを通して危機を訴えることを
決意したというわけだ。ナチス・ドイツが原子爆弾をはじめとする大量殺戮兵器の開発
に邁進していたことは、史実としてよく知られるところである。“ほぼ完成状態にあっ
た”とも囁かれるそれらの兵器が、実は完成していたとしても不思議はないのかもしれ
ない。

888: 名無しさんAA:17/11/08 14:07
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 550----------

 広島に原爆が落ちた時の「原爆投下秘話」として一通の手紙がある。広島に原爆が投
下される瞬間を眼で追い、観測していたのが独立高射砲第22大隊本部の加藤恒太隊長
であった。この人の証言では「キノコ雲の高さを測らせたら九千五百メートルであった
。キノコ雲を背景にして三個のパラシュートが黒い物体をぶら下げてゆらゆら流れ落ち
ている。その高度は七千メートルくらいであった。」ここにある「三個の黒い物体」は
ノンフィクション、『もはや高地なし』によると「同じ瞬間、併走機「グレート・アー
チスト」の爆撃士ビーハンがボタンを押して同機の爆弾投下室のドアを開いた。三つの
物体が飛び出し、数秒後にはパラシュートが開いた。」と書いている。「グレート・ア
ーチスト」は原爆を投下した「エノラ・ゲイ」の後方を飛んでいた支援機の名称です。
「三つの物体」とは爆圧を測定するラジオゾンデでありました。「装置の主要部分は無
電受信機と自動フィルム記憶装置であった。消火器ぐらいの大きさの円筒をつけた三つ
のパラシュートを攻撃目標付近で落とし、円筒内の無線送信機がデータを飛行機に送っ
てくることになった」この機材を準備したのが、アメリカ本土からテニアン島に飛んで
きたカリフォルニヤ大学のルイス・アルバレス博士と二人の助手、アグニューとジョン
ストンであった。この三つのうちの一個が広島の北に位置する亀山村の山林に落ちた。
「不発弾が落ちた」と、村では大騒ぎになった。報告を受けた陸軍がこれを回収して、
「有末調査団」に引き渡したが、直径20センチ、長さが2メートルほどの円筒であり、
中から音がするので、生きているようで気持ちが悪かったそうです。「有末調査団」の
一員である新妻清一技術中佐は、「一見してラジオゾンデであるとわかった」と言って
ますから、さすがに専門家はちがいます。この円筒の表面には一通の手紙が貼られてい
た。手書きの英文のコピーで、「To Prof R Sagane(サガネ授宛)」と書いてあった。差
出人は「三人の学友より」とあって、名前は書かれてなかった。長崎に原爆が投下され
たときにも、一個のラジオゾンデが回収された。これにも同じ文面の手紙が貼り付けて
あった。「サガネ教授」とは当時東大の物理学教授であった嵯峨根遼吉博士です。日本
の物理学界の父とも言われる長岡半太郎の五男に生まれ、嵯峨根家の養子となった。東
大を卒業した後にイギリスとアメリカに留学し、帰国後に理科学研究所に入り仁科芳雄
博士の下で原子物理学を学んだ。昭和18年からは母校の東大に戻り、「この戦争が終
わるまでにはどこの国も原子爆弾を作ることはできない。」と、原子爆弾の開発に見切
りをつけて、レーダーの研究に取り組んでいたのでした。


889: 名無しさんAA:17/11/08 14:07
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 551----------

 手紙には原子爆弾の破壊力の大きさと、アメリカが実験に成功し、生産段階に入った
ことを知らせ、「あなたがすぐれた原子核物理学者としての社会的な影響力をもって、
日本国の参謀たちに、これ以上戦争を続けるならば、日本国民が決定的な損害を受ける
、というおそるべき結果が起こることを知らせて欲しいのです」と書いてありました。
また、「現在、私たちは科学者として、これを平和的利用にさし向けることを研究して
おります」とあり、戦後の平和利用を訴えてもいました。嵯峨根博士が手紙の存在を知
ったのは、日本の降伏直後、長崎の被爆調査を政府から依頼されて長崎に赴いたときで
した。広島の手紙は憲兵隊が押収し、長崎のは海軍の佐世保鎮守府がひそかに保管して
いた。戦後になって判明した差出人は、彼がアメリカのカリフォルニヤ大学放射線研究
所に留学中に知り合った ルイス・アルバレス、フィリップ・モリソン、ロバート・サ
ーバーの3人の科学者であった。原爆の破壊の大きさを知る彼らは、戦争の早期終結を
嵯峨根に訴えようと相談して手紙を書き、アルバレスがテニアン島でラジオゾンデに、
こっそり貼り付けたのです。ちなみに1958年にアメリカの物理学者たちが発起人となり
、国連に「核実験の即時停止を要請する請願書」を提出した。その発起人の中に、フィ
リップ・モリソンの名があります。原子爆弾を開発した科学者を非難することはたやす
い事です。しかし、多くの科学者が「愛国心」と「人道的呵責」の間で心が揺れ、悩ん
でいたのでしょう。人間の心は竹を割るようにすぱっと「右か左か」に割り切れるもの
では在りません。科学者だって人間です。悩みながら、ズルズルと原爆開発に関わって
いた科学者もいるでしょう。戦後の日本の科学技術を立て直したのは嵯峨根博士である
といわれます。GHQは兵器開発につながるとして、日本の科学研究を抑えようとした
。「日本は文化国家になるべきだ」として、科学研究に良い顔をしなかったのだ。この
ときに嵯峨根教授を応援したのがアメリカの物理学者たちだった。彼のすぐれた業績は
アメリカでも知られていたのです。ところで、この手紙ですが、嵯峨根博士は戦後に渡
米したときにアルバレスに「返してくれ」と言われて、返したそうです。アルバレスも
この手紙が公表されて、「友情美談物語」として喧伝されるのが照れ臭かったのかも、
しれいない、国家反逆罪の罪に問われるの可能性があるかもしれない。当時米国では、
ケネディ暗殺の頃まで赤狩りの最中とも言えるだろうから。


890: 名無しさんAA:17/11/08 16:50
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 552----------

1982年9月20日に、NHK特集「私は日本のスパイだった−秘密諜報員ベラスコ
」が放送されたので、ベラスコの名前を知っている日本人は多いだろう。この番組は、
「昭和57年度芸術祭大賞」「第15回テレビ大賞優秀番組賞」「第22回日本テレビ
技術賞」を受賞し、現在は「NHK特集名作100選」に選ばれている。このベラスコ
証言から多くの日本人が「何故2つもの原爆が落とされたのか」の理由が説明できる。
と感じたであろう。第二次世界大戦中、一流スパイとして活躍したべラスコは、ユダヤ
系スペイン人(スファラディム)で、スペインの「ファランヘ党」の設立者の1人であ
った。本名は、アンヘル・アルカサール・デ・ベラスコである。大戦中には、スペイン
は中立国だったので、連合国や枢軸国のスパイが情報収集のために暗躍していたのだが
、ベラスコは「TO諜報機関」という対英米スパイ機関を創設して、日本の在スペイン
公使の須磨弥吉郎に、英米情報を提供していたのである。組織の資金は日本公使館から
送られていた。恐らく武藤が起こしたゾルゲ機関との取引であったろう。スペイン自体
はフランコ政権の中立政策によって、ドイツ、日本には友好的だった。「TO諜報機関
」の組織網はスペイン国内、南北アメリカをカバーしていた。米国の三沿岸の大都市の
ニューヨーク、ワシントン、ニューオリンズ、サンフランシスコ、ロサンゼルス、サン
ディエゴには、機関員合計6人の情報員を配して、マドリードの本部の方で直轄管理、
その6人の周辺にさらに数人、ときには十数人の端末部員を配したという。その意味で
ベラスコは完全な職業スパイで、金で動きドイツの諜報機関のためにも働き、ヒトラー
から厚い信頼を得ていた。そういうこともあって、ベラスコはナチスの秘密や第二次世
界大戦の真相(舞台裏)、そして世界権力の実態について知り尽くしていたと言われて
いる。ベラスコは1945年4月までドイツにいたが、ベルリンにソ連軍が侵入する時
直前にミュンヘンに脱出、リヒテンシュタイン経由でスイスに逃げた。広島、長崎への
原爆投下と日本の敗戦はスイスで知ったという。戦後になってスペインに舞い戻ったが
ベラスコは、「スペイン陸軍省情報部」の特別顧問に迎えられ、優遇されている。この
時ドイツ側のベラスコに対する対応も同様で、元ナチスの大幹部たちはベラスコに南米
逃亡の手助けを委ねている。


891: 名無しさんAA:17/11/08 16:50
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 553----------

アウシュヴィッツの大虐殺は、ためにする伝説だ。いつまで作り話を楽しんでいるのだ
!」特異な世界の住人ベラスコは、そう吐き棄てて、いっそうソファーに体を深く沈め
た。 不機嫌なベラスコへの高橋五郎氏のインタービューは、そうやって始まっていた。
左翼はすでにご存知の人が多いようですがナチスのユダヤ人大虐殺は眉唾物で広島原爆
はナチス製というのは、今や世界の定説になりつつある。この情報が日本人の高橋さん
という人が当時ドイツの日本側のスパイだったというベラスコという人に1980年代
前半に接触して分かって来たものでおそらく同時期に取材しドキュメンタリー賞を受賞
したNHKの取材陣も時期が同じなので知っていたのでしょう。スペイン人のベラスコ
氏は当時ナチスドイツの日本側のスパイでヒトラーの側近までしており、かなり有力な
情報を駐スペイン公使館の三浦文夫さんとやり取りしていました。その辺のやりとりの
模様をNHKが取材していたのである。この放送ではナチス製原爆の事は出てきません
。定説を覆すのは問題があったのでしょう。その核心的言葉は終始通った事実だった。
これから記すのは、1982年のとある日の午後、スペインはマドリード旧市街にある
マヨール広場のカフェテラスでべラスコと交わした、ナチス原爆に関する対話のである
。(広島に落とされた原爆は、本当にナチス製なのか。アメリカ軍がナチス製の原爆を
転用した、ということか)「そういうことだ。実際のところ、アメリカの原爆は未完成
だったのだ。それで、ドイツ軍の原爆を使って日本に投下したのだ」(ドイツの原爆を
アメリカに渡したのか)A「そのとおりだ」(ドイツ原爆の情報を、いつ、どこで、ど
うやって知ったのか)「1936年、リスボンに滞在中のウィンザー公夫妻をドイツに
誘拐する作戦があった。その作戦会議の合間に、ドイツ国防軍情報部長官カナリス(ウ
ィルヘルム)とSS情報将校のシュレンベルグから聞いた。彼らは原爆とはいわなかっ
たが、なんでもドイツは想像を絶する新型兵器を手にしたという。私はその情報を、ド
イツ軍情報部アプヴェールの諜報部員やイギリス諜報部員らも知っているかと尋ねたが
、シュレンベルグもカナリスも答えなかった。そういえば、マーヘンという物理学者が
いた。彼はヒトラーの友人で、新型兵器とその製造に精通していた男だった。私は新型
兵器が製造されているらしいことを、マーヘンの言動から感じていた。カナリス長官と
シュレンベルグが、私に明かした新型兵器の一件を私は信じた。そのときは製造場所ま
では聞かなかった。当時、チャーチルは 全欧破壊計画 とノルウェーの 重水炉施設の
粉砕命令を下していた。


892: 名無しさんAA:17/11/08 16:55
ドイツ国防軍情報部のアプヴェールにもその情報を渡したが、そちらからもな
んの返事もなかった。1940年、日本はすでに対米戦に突入していた。日本はナチス
が新型兵器を所有したことについては知らなかっただろう。私が日本のためのスパイ役
を引き受けた頃のことだったから、新型兵器の情報は日本に伝えた。当時にはすでに、
英米共同で原爆開発に着手していた。実験はイギリスで繰り返されていたが、使える様
な原爆にはならなかったのだ。」(ドイツがその新兵器を製造したのはいつごろからか
)「1940年代の初めごろからだ。その新兵器はまだ不完全だったが、驚異的な破壊
力の爆弾らしいと聞いた。私の周辺の諜報員らは、その新兵器が爆弾なのかどうかすら
知らなかった。爆弾の実験はチェコスロバキアで実施したと聞いた」(チェコでの実験
詳細は知っているか)「知らない。その事件を知っている人間は、世界中でほんの数名
しかいないだろう。数名というのは、実験に直接携わった人間のことだが。」(では、
新型爆弾が原爆だったと知ったのはいつごろなのか)「そいつがとてつもない威力のあ
る新兵器で、それを使えば戦争を終わらせるのも可能だということだった。1943年
、私はアメリカに潜入したが、実はそのときアメリカの原爆開発の様子を知り、初めて
あのドイツ製新兵器が原子爆弾だったと確信できた。私は普段は、マドリードとドイツ
の間を往復していた。私が渡米するときは、部下に暗号文を手交するか、直接会話を必
要とするときに限られていた。これは話しておいたほうがいいと思うのだが、1941
年から43年の間に、私がアメリカに入国した回数は3回、正式入国が2回で、残りの
1回はメキシコのティファナからテキサスに密入国した」(1943年までにナチス原
爆が完成したことを、イギリスは知っていたか)「ノー。イギリスはドイツが原爆を開
発中だとは知っていた。ノルウェーの重水炉施設で、原爆製造のための重水を貯蔵して
いることも知っていた。だからチャーチルは、特殊部隊をノルウェーに潜入させて、重
水貯蔵所を破壊しようとしたのだ。だが、原爆が完成したことまでは知らなかっただろ
う。」(ドイツ原爆の完成と実験成功を、いつごろ知ったのか)「覚えていない。時期
は忘れたが、その数が2個だということは知っていた。2個のほかにも原爆があったに
せよ、それらはソ連が持ち帰ってしまったのだろう。ドイツ軍は2個をリエハ(ベルギ
ー)に運んだ。そしてそれをロンメル将軍に手渡した事実は後で知った。」(2個の爆
弾が原子爆弾だと完全に知ったのはいつか)「1945年だ。1944年ごろには、も
はやドイツ軍は崩壊同然だった。ヒトラー政権はすでに力を失っていた。ヒトラーの周
辺では、1944年に戦争終了させる計画が謀られていた。その年に私がベルリンに行
った時、どうして2個の原爆をイギリスに投下しなかったのか、私はドイツ軍上層部に
噛みついたのを覚えている。」

893: 名無しさんAA:17/11/08 16:55
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 555----------

(もう一度聞く。2個の新型爆弾の完成情報はあなたの耳にどう届いたのか)「いつ完
成したのかは正確には知らない。しかし完成爆弾をベルギーに運んだこと、数回の実験
で多数の死者が出たこと、その2個の新型爆弾が敵軍のアイゼンハワー将軍に渡された
ことは聞いた。」(新型爆弾つまり原爆の製造場所はどこか?)「ペーネミュンデだ」
(工場の規模は?)「大規模だった。そこでは、V1・V2ロケットなどが製造され、
ロンドン攻撃などに使われた。チェコ以外の諸工場で製造された新兵器類の肝心な部分
は、そのペーネミュンデ工場で組み立て、完成されていた。ドイツ軍は“UFO”も、
ここで製造していた。当時、すでに時速3000キロの推力をもつ別の飛行体もそこで
製造されていた」(ペーネミュンデの工場に入ったことは)「ない。場所は知っていた
が」(なぜ2個だったのか)「2個のほかにも新型爆弾は製造されていた。爆弾の改良
と完成を急ぐ計画があった。完成ずみの原爆2個の存在は、その計画の全貌を知ったと
き、納得できた」(2個の原爆の完成は軍事機密だったのか)「当然だ。製造責任者ら
は新兵器の完成を、ヒトラーに口頭で伝えていた。書面で報告すれば秘密は漏れる。」
(イギリス情報部はドイツの新型爆弾の完成情報を入手していたのか)「それは先ほど
答えた。ありえない。われわれはイギリス側に新型爆弾へのアプローチなど絶対にさせ
なかった。彼らには知り得ないことだ。とはいえ、秘密工作活動の内容を一般人に説明
したところで、誰も信じまいが。」(ペーネミュンデで製造に携わった人物たちの名前
は)「ハベルムルの名前しか覚えていない。たとえ知ったところで、それが本名だとは
いえまい。製造関係者らは皆、それぞれ偽名を使っていたからだ。たとえば、そのうち
のひとりはイタリア人だとわかっていたが、それ以上の手がかりはなかった。工場周辺
の町には、OSSやKGBが潜り込んでいた。だが、技術者らは情報を漏らさなかった
のだ」(ドイツ原爆がたどった経緯は?)「完成後はベルリンからの命令を待った。そ
して2個の爆弾をベルギーに移した。ベルギーの戦場のどこかでアメリカ軍に引き渡さ
れ、本国へ運ばれていった」(ベルギーのどの地域のどんな場所に保管されていたのか
)「保管場所は知らない。いずれにせよベルギーは小さな国だ」(だれがどんなルート
でベルギーに移送したのか?)「ドイツ空軍機を使った」(だれの命令でベルギーに移
したのか?)「ゲーリング元帥だ」(どんな目的で移したのか?)「イギリス投下には
、ドイツからよりもベルギーのほうが近い。つまり、射程距離が短い場所を選んだのだ
ろう」(ベルギーへの移転配置をヒトラーは知っていたか)「もちろんだ。ベルギーに
移したのは1944年4月だと思う」

894: 名無しさんAA:17/11/08 16:55
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 556----------

(ベルギーへの爆弾移動はロンメルが担当したのか)「いや違う。ペーネミュンデで、
完成した爆弾は、ゲーリングの指示でベルギーに運ばれた。ベルギーで原爆を受け取っ
て保管したのがロンメルだ」(実験現場をチェコスロバキアに定めた理由は?)「それ
は知らない。ただ、チェコにはペーネミュンデと同様の工場があった。そこで部品なり
を補う必要があって、それでチェコが選ばれたのかもしれない」(なぜ、ロンメルは米
軍に渡したのか。彼の裏切りはいつ頃から考えられていたのか)「ロンメルの動機やそ
の実行タイミングについては、何も知らなかった。もし事前にその企てが耳に入ってい
れば、ロンメルに実行を断念させることができただろう。(ロンメルが敵に原爆を渡し
た謀反をいつ、どうやって知ったのか)「実行されてしばらく後のことだ。ドイツの、
ガルミス・パルテン・キルヘンで仕事中に、仲間のオベルべイルがその一件を伝えてき
た。ロンメルが爆弾を渡した数日後に、連合軍の総攻撃が始まったのだ。」(アメリカ
軍は原爆をどんな方法で本国に移送したのか)「当時、欧州戦線でのアメリカ軍の動き
を知るのは不可能に近かった。われわれの暗号電波はキャッチされ、身動きもできず、
仕事にならなかった。おそらく、ベルギーで受け取った原爆を、アメリカ軍は船舶では
なく空輸で本国に送ったのだろう。」(ドイツ製爆弾2個が、間違いなくアメリカ軍に
渡されたと断言できるか)「断言する。しかし、アメリカ側はこの事実を無視するか、
または否定するだろう。なぜなら、この2個の原爆がアメリカ国内に運び込まれるまで
、アメリカ製原爆は未完成だったからだ。ナチス原爆が実在したというビッグニュース
を知ったら、きっと日本人は驚くことだろう。この事実を世界が知れば、トルーマン大
統領が捏造した原爆神話は根底から崩壊するだろう」(ロンメルの処刑はヒトラーの命
令か)「ヒトラーが自ら命令を下したかどうかは知らない。SSのシュレンベルグの命
令だろう。ヒトラーはロンメルが処刑された後に、ロンメルの裏切りの事実を知らされ
たかもしれない」(ドイツは結局、原爆を使えなかったが?)「当時のドイツ空軍は、
イギリス空軍に制空権を奪われていた」(原爆とロンメルとの関係は?)「ロンメルは
当時、ベルギー方面担当の司令官だった。彼は保管中の原爆を米軍に渡した。その秘密
を知るドイツ軍人はいなかった。裏切ったロンメルは処刑された」


895: 名無しさんAA:17/11/08 16:56
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 557----------

(ロンメルはチャーチル首相にではなくて、なぜアイゼンハワー将軍に渡したのか)「
わからない。ただ、チャーチルは反イギリス的精神の持ち主だったと思う。チャーチル
はノルウェーの重水炉の破壊命令を出した際、同時に欧州全都市の破壊もつけ加えてい
るからだ。チャーチルは欧州人の無差別殺戮を命令した男だ。そんな男にではなくて、
アメリカに渡すほうがまだましだ。ロンメルはそう考えたのだと私は思いたい」(アメ
リカに渡った爆弾はその後どこへ?)「ロスアラモス。アメリカ西海岸にある原爆研究
所だ」(これまでの原爆情報は日本の諜報機関TOのエージェントが確認したのか?)
「そうだ。この点は白か黒かの単純な答えですむことだ。連絡メモは使わなかった」(
では、原爆がロスアラモスに届いた事実をどうやって確認したのか?)「まずは暗号無
線だ。入手した情報を、通常はロスアラモスの近郊からメキシコのティファナに向けて
、即座に発信した。その電波を大西洋上に待機させた船上で中継し、さらにスペインに
転送する。これが私の組織の通信回路だった」(原爆情報を伝えた電波は、スペインで
キャッチして確認したのか?)「いや、私は1944年6月以降、ベルリンにいた。ロ
スアラモス発信の一報を受信した、ティファナの部下から連絡があったのだ。それをマ
ドリードからベルリンの私に無線連絡してきた。急遽スペインに帰国して、あらためて
ティファナに無線で情報内容を確認した」(無線はどう伝えてきたか)「詳細は忘れた
。アメリカに爆弾が運ばれてきたことを知らせてきたのだ。私は即座にその内容をベル
リンと日本側に報告した。」(アメリカに運ばれてきた爆弾が、ドイツ製原爆だとエー
ジェントは事前に知ったうえで、それで打電してきたのか)「そうだ。フライデーと呼
ぶ有能な修道士が、その情報を入手して送電してきたのだ。」(その修道士は西海岸に
配置したエージェントか)「秘密情報員が修道士に化けていたのではない。本物の修道
士をエージェントに使っていたのだ」(どうやってその修道士は、その爆弾がドイツ製
で、ドイツから送られてきたものと判断できたのか)「教会の懺悔室だ。われわれは、
すでにドイツ原爆の完成を知っていた。しかるに、その一件はわれわれの仕事の最重要
事項として扱っていたからだ。牧師は懺悔室で科学者や軍人から情報を取った」(では
、原爆がベルギーから大西洋を渡った時点の情報もキャッチしていたのか)「いや、ア
メリカに爆弾が届いた時点の情報だ」(原爆は最初にアメリカのいったいどこに届いた
のか)「ニューヨークだ」

896: 名無しさんAA:17/11/08 16:56
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 558----------

(アメリカ内にドイツ原爆が到着した情報を、日本側に伝えたときの日本の反応は)「
私はまずベルリンに知らせた。当時は戦況が深刻な状態だった。それでベルリン(日本
大使館)はひと呼吸おいてから、東京に知らせたのだろう」(ロスアラモスに2個の、
ドイツ製原子爆弾が届いたとする情報は、確定情報として、日本側に発信したのか?)
「いや、仮定、つまり推測としてだ」(では、ロスアラモスの部下から大西洋を越えて
、ベルリンのあなたのもとに無線で届いたその情報も、仮定推測の情報だったのか?)
「現物を確認していないから、そのとおりだ。むろん、東京にはわれわれのほか、例え
ば、イタリアやオーストラリアやその他の国々からのも、情報が届いていた事だろう。
しかし、その時点で、日本は何をする術もない状態だったのだ。反応も何もなかった。
(ドイツは完璧な原爆実験をしたのだろうか)「さっきの話を思いだせ。だれがベルギ
ーから原爆を運んだにせよ、当事者は、自分たちが運んでいる荷物の中身が何なのかも
知らずにいたのだ。結局、広島・長崎に原爆が投下されて、初めてその荷物が原爆だっ
たと知ったのである。製造に携わった者たちも、それは同じだ。新兵器(原爆)の精度
や実験成果は、別の人間のみが知ることだからだ。(ナチス原爆の完成を知る存命中の
学者、軍人ほかの人物をあなたは知っているか)「ジャーナリストは、いないだろう。
開発製造に関与した学者(従事科学者)は大勢生存しているはずだ。中にはアメリカや
イタリアでも生きている。しかし彼らは、自分たちが、どんな爆弾を完成させたのか、
当時はあまり知らなかっただろう。結果的に広島、長崎の原爆投下で初めて知ったのだ
と思う。」(2個の原爆以外のドイツ原爆がソ連に渡ったというのは本当か。)完成し
た爆弾をソ連が持っていったのではない。製造のノウハウ(人的資源)を持ち去ったの
だ。終戦間際になって、ペネミュンデの工場からは完成した原爆ではなく製造者らを、
自国の原爆開発に活用するために連れ去ったのだ。」(ソ連が持ち去った時期はいつか
)「戦史年譜を見よ。盗んだのではなくて、ソ連軍がドイツを占領したからだ」(ベル
ギーでナチス原爆がアメリカ側に引き渡されるときは、だれかが手伝ったのか)「知ら
ない。なぜなら、最高機関は自前の組織でやるものだからだ」(ベルギーでアイゼンハ
ワーは原爆と知って受け取ったのか?)「アイゼンハワーであれパットンであれ、彼ら
の受け取ったものが原爆だと知っていたわけではあるまい。新型の驚異的な兵器だろう
程度の認識はあっただろうが」


897: 名無しさんAA:17/11/08 16:57
陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 559----------
(ナチス原爆はなぜ、西海岸のロスアラモスに届けられたのか?)「アメリカの原爆開
発研究所がそこにあったからだろう」(アメリカ政府や情報機関の関係者以外、民間人
で原爆移転を知る人は)「知る人間はいるだろう。だが、私はその人物がだれだかは知
らない。もちろん、ルーズベルトの周辺には多少存在しただろうが、そういた人物たち
を私は知らない」(チェコ、ベルギーのその場所を地図で指してほしいのだが)「自分
に対してでさえ、疑いをもつのが私の職業だ。私にその職場を案内しろというのか。考
えておこう」(ナチス原爆の開発と移動の決定的情報を、あなたと交換した相手はだれ
か)「ドイツ国防軍情報部長官カナリスや科学研究者マイヤーらドイツ人だ。1943
年4月か5月、マドリードのアプヴェールの隠れ家で、SS情報部長シュレンベルグも
同席した場で、新型爆弾の話を彼らは私に話した。だが戦後の今となっては、どうやら
彼らはその話をわざと私に囁いたような気もする。というのは、彼らはボム、つまり新
型爆弾とはいったがアトミック(原爆)とはいわなかった。私はヌークリア(核)とア
トミック・ボム(原爆)についての知識を、クラウスから後で教わった。カナリスとシ
ュレンベルグらが私に漏らした新型爆弾とは、やはり原爆のことだったのだ。重大機密
だというよりも、私がこの新型爆弾の存在を日本に伝えるのを見込んで、あえて私に原
子爆弾といわずに新型爆弾だと語ったのだろう。通信傍受はお手のものの彼らだから。
アメリカへの移動確認は、私の組織によるものだ。原爆がアメリカに移送された時は、
もう、その新型爆弾が通常の爆弾であれ 原爆であれ、何もかもがその時点ですでに終
わっていたのだ」(マドリードに置いたアプヴェールの隠れ家は、今でもあるのか?)
「残っている」(カナリスは、よくスペインに来ていたのか?)「そうだ。カナリスと
はよく会った。カナリスはフランコ総統と会うために、戦闘機を自分で操縦して、よく
来ていた)「チェコで実験開発された新型兵器(1943年4月の実験)の成り行きは
、絶えず監視していたのか?」(必要なときにする会話ですむことだ)「チェコでの実
験データを、戦後、アメリカは押収しているのか)「いや、それはないだろう」(資料
・記録・メモ何でもいい。アメリカ軍があの日(8月6日)に、広島に原爆投下するの
は不可能だった、と証明できる手がかりはあるか)「いったい、何回問えば気がすむの
だ。すべてノーなのだ。お前は私の呟きまで疑うのか。私には、私の発言を保証する 
証拠など不要なのだ」(私は自身の常識を疑わざるを得なくなるが?)「それはお前の
勝手だ。私は世界連邦政府主義者だ。どこの民族も愛するし、疑いもする。文句はある
まい。」ここで録音テープは切れた。「ナチス原爆の追加情報は文書でほしい。」筆者
の注文にべラスコは頷いた。

898: 名無しさんAA:17/11/09 09:36
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 560----------

 もうそろそろ陰謀論の世界も止めようとおもう。既に戦後70年経って、戦前に疑問
であった数々の行為が、こうして平和になって初めてあきらかにつながりがあった事が
判明し謎が解けたからだ。今や人類は未来を手に入れた。これまでは「神から選ばれた
民」としてユダヤが選民としてフリーメイソンクラブを作った。選民思想で彼らに指令
しているのは「人類殲滅」「人口抑制」である。だが一方で日本は神から選ばれた民で
はない。「日子族」であり神の子であり神そのものである。そうして万世一系を唱えて
「人類融和」と「自然崇拝」を説いているのである。日本は一点の恥のない文化を持つ
国民だ。世界大戦に於いて原爆をこの日本に落とした罪ははそのまま世界人類の破綻を
浮き彫りにしている。それが中東問題であり中国問題であり北朝鮮問題でありテロ問題
である。この問題を解決するのは英国を始めとするヨーロッパ諸国であり米国なのだ。
今やこの核問題に於いても、中国問題でも世界は滅びゆく一歩前に来ている。地球温暖
化は勿論早々人間の活動だけではない今や小氷河期を終えて、太陽光が強くなる中には
ある。だが自然林伐採が広範囲で巨大である中では恐らく人類は耐えられない地獄をみ
る。それを止めるのは日本人しかいない。かつて西洋の植民地を奴隷を止めたように、
今又格差社会、貧困社会と闘うしかないのである。結局原爆は、昭和天皇はその研究さ
え遮り、ドイツのヒットラーは落とす事を考えてなかった。のだ。そして帝国陸軍も、
ナチス党も、開発し、いずれ落とすだろうと日本はドイツが ドイツは日本が落とす事
を待っていたような様相だったのだろう。本当に落とす気であれば完成した爆弾が、ゲ
ーリングの指示でベルギーに運ばれる時もロシアに向かって落とせば済む事だったし、
V1・V2ロケットに積み込んでも良かった筈だ。わざわざチェコに隠した理由がない
。また潜水艦であっても運べる頃の開発である。そこには忌まわしき放射能や最終兵器
としての悪魔的野心が無かった事の証明でもある。つまりヒットラーも又ナチス党の暴
走に止める術を持たなかったのだろう。ユダヤ人を収容所に入れたのは殺す為でもなく
当初は移動の為だったのだろう。だが衣食住が供給出来ない中では収容所は病人ばかり
になるのは当然だった。ベラスコ氏が言う言葉は根拠となる証拠はない。だが歴史真実
は変わる事はない。しかしナチスの「黄金列車」伝説にトレジャーハンター達が探しだ
した宝は恐らくトンネル内に隠した残りの新型爆弾であろう。今後発掘されればこれが
日本から来た設計かドイツから来た設計かが解るだろう。ともあれアメリカには作れな
かったのは当然の理由があり、日本やドイツが使えなかった当然の理由がそこにあった
。この事をよく人類は知るべきだろう。

899: 名無しさんAA:17/11/09 10:05
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 561----------

 世界人口は長く緩やかな増加を続けてきたが、19世紀末から21世紀に至るまで「人口
爆発」と呼べるほどのスピードで急増した。西暦1年頃に約1億人(推定)だった人口は
1千年後に約2億人(推定)となり、1900年には約16億5千万人にまで増えた。
その後の20世紀、特に第二次世界大戦後における人口の増加は著しく、1950年に
25億人を突破すると、50年後の2千年には2倍以上の約61億人にまで爆発的に増
えている。国連人口基金は、2011年に70億人を突破したと推計している。21世
紀初頭では、アジアやラテンアメリカをはじめとする多くの発展途上国で出生率は低下
してきており、世界の人口増加率は減少する傾向にあるものの、中東やアフリカ地域の
出生率は依然高く、人口増加は続いており、西暦2038年には90億人を突破、さら
に2056年に世界の人口は百億人に達することが見込まれている。しかし世界の人口
増加率は1970年の2%をピークとして減少し続けており、人口増加は続くものの、
人口爆発の危機は遠のいたとされ、今後は世界レベルでの高齢化、人口ボーナスの活用
、地域間の格差と移民が人口問題の焦点になってきている穀物の生産が増加したことが
、人口増大の制約を緩和したという見方がある。イギリスにおける農業革命や、20世
紀における自由貿易の進展のほか、1944年に始まった緑の革命により穀物は低コス
トで大量に生産されるようになった。これが発展途上国における人口扶養力の増大をも
たらした。と考えられている。大陸の人口は幾度も増加と急減を繰り返してきている。
まず、統一的な政権が生まれ統一的な政策が打たれることで、生活の改善が図られ人口
増大が始まる。人口増大と生産増大はやがてずれ始め貧困が発生する。飢饉と世直しを
目的にした内戦により人口が急減する。また統一政権の下で人口増大が始まる。このよ
うなサイクルが繰り返されてきた。特に砂漠のある地帯の中国や中東やアフリカなどで
躇著にそれは現れている。一般に産業革命で人口爆発が起こったと考えられるが、格差
の広がりで生命の危機とされる悲壮感が漂う社会が或る時は、よく子供が増えるようだ
。アフリカ基金などと言うのは欧州の間違った考え方だ。アフリカを救いたいとするな
らアフリカに入り共に生活し、その上で意識革新と技術提供とをすべきで、闇雲に資金
や食糧を提供すればいいと言うのは思い上がりで、政権に武器提供して喜んでる資本家
の馬鹿と同じである。我々が観光旅行でもTVCMの飢餓を救う映像でも、我々が故郷
や生活に生活基盤があるからであって 何も今の様な日本の中に格差を産み貧困がある
中で募金する馬鹿がいると全く腹が立つ程だ。そうした西洋式の考えは改めるべきだ。


900: 名無しさんAA:17/11/09 19:34 ID:XMs
 陰謀論の世界   (フェイクニュースの虚像と現実) 562----------

 今無駄な夜景の風景が美しいなどと盛んにPRしている。旅行がいいイベントがある
と言っては食レポートなどと称して 映像を映す。これが全く卑しいTVにしている。
かつて、自分の親の歴史も知らない堤とか言う坊ちゃんがNHKのテニス選手権が時差
があって困る実況中継しろ。などと言って迫っていたが、本来の日本人は自分のやるべ
き職務を正確に知っていた。ところがどうだ、今の日本に経営の意味を知る経営者が、
一体どれだけいるだろうか。政治家に至っては皆無ではないか。それがTVメディアの
馬鹿さにある。著作権限でもそもそもJASRAC側には著作権限はない。あくまでも
作曲家や作詞家による曲に彼らの代理請求者としての集金が任せられた事務団体であり
彼らが音楽教室や映画館やホールでの物真似イベントまでに請求できる筋合いはない。
彼らの事務所は公共福祉に携わる。と言う趣旨で社会的に存在しているのであり、もし
そうした教育的配慮や社会常識がない集団であれば例え事務所の方針であっても詐欺罪
が適用される。それは当然、国家の法律や、人としての社会生活の法律が適用されるか
らだ。そもそも今の裁判所自体が可笑しな発表や審判をしているが 現実主義の中であ
っても基本の国体の持つ理想は守るべきであり 野放図な権利意識は間違っているが。
はたして、世界的にそうした人間しかのし上がっていない。ここにヒットラーや天皇の
苦悩があったのかも知れない。だが今の日本人のリスクを取らない大企業病は逆に大き
なリスクを取っている。三洋やシャープでも東芝でもリスクチャレンジャーでもないに
も関わらず世界に抗せず今やかつての覇様や意気込みはない。今や市や町は全く行政を
しない自治体になっている。ヘイトスピーチにしろセクハラにしろパワハラにしろ、昔
は良識があっての悪口だったし それなりに言った者や行った者も恥ずかしさがわかる
文化であったし そうした者はまず社会的制裁を受けた。だが第二次世界大戦からは、
人が変わった。全くやっている事に教育は行き届かず責任も知恵も無かった。わずかに
東京裁判において、悪くもない時代に流された者はこの戦争責任と言うより敗戦の責任
によって自殺したが、本当の悪い者は生き延びて財産を築いた。それが政治寄り実業家
達であり、吉田内閣から繋がる鳩山や安倍や麻生から戦後内閣である事は間違いない。
本来なら教育があって日本の基盤がしっかり出来てやれるものが 結局は何もやれなか
った。敗戦後は彼らは悲惨さ故に日本の立て直しに真剣に取り組んだだろうがそれだけ
の事で戦前以上の教育水準も江戸期以上の思想の支えも明治期以上の生活も造れなかっ
た。あったのは技術革新による大きな恩恵のみで電気水道ガス道路などの贅沢な生活で
ある。勿論それが何もない戦後世代の夢ではあったろう。だが本当に何もなかったか。


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