1つめの記念スレ


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1つめの記念スレ

1: 騎士剣:05/11/09 17:24 ID:A/yxhPTA
勝手にスレを書き込んで勝手にレスをつけてくれぃ

2: 騎士剣:05/11/09 17:49 ID:A/yxhPTA
ジサクジエンだ    ノノノ
          (・∋・)
         (⌒)  (⌒)
         ( )_ ( )
         (___⌒)/    ムキムキーン!!!!!!       

3: :05/11/10 10:20 ID:MQ54ktpI
あらま

4: 騎士剣:05/11/10 18:55 ID:A/yxhPTA
あはははは

5: 騎士剣:05/11/10 19:02 ID:A/yxhPTA
   ∧_∧
  ( ´∀`)
  (    )
   | ||
  (__))_)

6: 名無しさんAA:11/01/11 05:49 ID:CI
んんんんんんん

7: 名無しさんAA:11/04/03 21:30
あのう 黄泉の国物語を書き入れてもいいですか


8: 名無しさんAA:11/04/04 01:37
書きマ〜〜〜〜〜す  ヨ*

9: 名無しさんAA:11/04/04 01:37
書きマ〜〜〜〜〜す  ヨ*

10: 名無しさんAA:11/04/10 09:38
黄泉の国物語01


現世において何もかも無駄にすごした輩が まさしく狂気に満ちたままの妄想の中で個
人勝手に自らを顧みることなく ありのまますらも受け入れられず 幽界を虫のごとく
にふらふらとしておった。薄暗い闇夜にぽつぽつと見える青い光は時としてボボッーと
急にその辺を明るくしたりしていたが それをめがけて何やら黒い影が ささっとと手
に取っては咥えて 赤い目をした羽の生えた小人みたいなものが まるで木の実でも食
べるように取っては食い取っては食いしていた。中にはまだまだ生体の格好のあった光
は ギャーと蛙の最期のような声をあげるかのように揺らいだが赤い目のそれは気にす
る事もなく 蝶が花の蜜に探しまわるように次々と跳んで言っては喰らい猫のように笑
う。そうした中を老婆がとぼとぼと片手に杖を片手には子供を連れて歩いてきた。この
 死界をさまよえる幽霊達は 今だ魔界にも瞑想界にも入れなく 時々現生界に降りて
は 生首の魂を食らう悪さをしては 喜んでおる。門番たる閻魔大王の判決を知ってか
あるいは地獄の怖さを知ってか 三途の川の前の 泣いている迷子の稚児を連れて行く
老婆からののしられながらも 幽体のまま 浮遊しては遊んで川を渡ろうとしない。
が そろそろその体も重くなり 足が地面から浮遊できなくなれば まるで草を切るよ
うに簡単に 荷車引きの御爺が 石ころの川端を白馬と共にやってきては ごみを拾う
かのように 後ろの荷乗せに足の無い体を乗せる。そのたびに 水をくれ喉がかわいた
痛い痛い死ぬように痛い と 山のような死人がうめき声を上げる。時々すぐ後ろにあ
る死体が手を伸ばそうとすれば すぐに 二頭の白馬は荷馬車を止め その手を食らう
 マントを深々とかぶった 爺じいは にやりと笑い 「ふん おめえも 生きている
うちに 遊びまわってろくでもない事にその人生を費やした口だろう。それとも笑ろう
て何もせぬまま過ぎた口か このろくでなし野郎が。」とぴしゃりと 手に持った鞭を
その男の顔面に入れた 黄色い泡吹いた血がふわふわと 空中に丸くシャボンのように
弾くとそのまま空中のかなたまで風に揺られて飛んでいく。その分小さくなった男は上
に乗った死体の重さで さらにゴリゴリと骨がきしむ。「まあまあ この痛さもすぐに
おさまる。どうせお前らは 地獄の釜に放りこまれるでな。ヒヤヒヤヒヤと笑った。
 

11: 名無しさんAA:11/04/10 10:29
萬字の蛭子幸一は表上要と言われているが張り子の虎
おそらくは萬字の最強は斡島義旗
元屍のリーダーあ゛〜ちゃんこそ真の愛すべきリーダーだぜ

12: 名無しさんAA:11/04/10 10:36
流星群

13: 名無しさんAA:11/04/18 00:27 ID:DA
黄泉の国物語 02

 暗い暗い深蓑の暗闇でも まるでカラスのように 時々浮遊して来る緑の泡をたべて
青白い火の玉が時折 ぼうあっと大きく明るくなる中 川の畔に泣いている半幽体が
足も脚も見えるか見えないか暗いの中 ただただ嗚咽し泣いてばかりの女がいた
そこへ 例の御婆が小さな子供を引き連れて 川の水もいとわず近づいて言った。「
これ。これこれ そこのお女中 もし もしお女中。」と声をかけるとしくしく泣いて
いた髪の長い女が 少し泣き止みこっちを見た。「おお お女中 ちょいと頼みがある
だでな。」と御婆は こっち来いと手招きした。それでも女はまるで母に隠れる子供の
ようにちらっりと見ただけで又川の中央のほうに向き直り泣いていた。少ししてのち 
そばで手をつないで一緒についていた幼い子供が同じ真似をしたかったのか ばいばい
ともこっちこいとも言えない手を振っていたが 又こっちをそれこそ幽霊みたいな長い
髪の片隅から覗いた目に 少女は怖くも無くにこりと笑う。この暗闇に来て 初めて
自分のいる川の中の冷たい暗闇にいる位置を知ったのか はたと又子供を見据えた女は
やっと御婆の声が聞こえたようだった。「これ これ まんずは こっちさ来て話を聞
いてくれさな〜〜。」と少し声を大きくした。女はやっと立って御婆に近づいて来た。
すると そうっれっと 子供を背におぶって 川からあがるでとすたすたと大きな石に
向かった。女も後ろをついてくる 火の玉もついてくる。おそるおそる興味深げに後ろ
を見る子供はちらりと見るなり御婆の背の中にうずくまった。よーし着いたでと熱心に
石塔を作り遊んでいた子供二人の所の石に腰掛けた。女は静かに御婆のそばにより顔を
向けた。その顔は腫れて 緑の泡がほわほあと上がり 喜んで火の玉が喰ろうておった
「やっぱり そうか 事故でもあったかい かわいそうにのう。ほれここに腰掛けてや
わしが 少し手当てしてやるがに。」と懐から何やらだした。普通に見たらぎょっとす
るその形相と容貌は 少し和らいで見えた。
 

14: 名無しさんAA:11/04/18 01:02 ID:DA
黄泉の国物語 03

 長い髪の女は その見るもおどおどしく顔を上げてたが その顔も体もこの世にその
残忍な姿は死体でしか見られないものだったが 落ちる球を手で支えながらも よだれ
の垂れる口がこちらを向いた時 きっとしたもう一つの血眼で今にも零れ落ちるかの様
な まなこを老婆に向けた。その眼光の異様さに圧倒されたか老婆もしばし口をつぐみ
暫くして「今しがた何を泣いておったか知らぬが まずは手をこの上にのしてみい。」
と懐からだした布切れを両手に持って差し出した。女は恐る恐るその手の上の布に手を
重ねた。「ようしようしいい子だいい子だ。」と老婆は目を閉じて暫く呪文を唱えた。
後ろに泣き出しそうな顔をして 怖いもの見たさの子供は肩の後ろから指を咥えて覗き
見していたが その口がぽかんと開き不思議そうな顔をした。さもあらん 腫れていた
女のあのむごたらしい顔や体が 見る見る間に治っていく頭にあった傷や今にも落ちそ
うになっていた眼球 裂けて物言えぬ口ひん曲がりあざだらけになっていた頬に向かっ
ていた鼻 ちぎれた耳。それらはまるで踏みつけられ刈り取られた草がその内花が咲く
草原になっていくように あれよあれよと見違える綺麗な顔となり その頬はいままで
青白かったのが嘘であったように血色が戻り 赤みすらさしたように見えた。が今添わ
せている腕の黒ずんだ模様は消えなかった。「おおお・・又あの妖魔がいらん事をしお
ったか。うーむ 仕方がないで おーいキヨ・・キヨおいで」と叫ぶと 今まで石塔を
作り遊んでいた子供の一人が小走りに駆け寄ってきた。「帰るでな 仕度しろ。」「・
うん・・」と女の顔を見ながら ややあってうなずくと 他のこちらを見てる 二人の
幼子の所に戻り手をつなぎ戻ってきた。そばに置いていた小枝を拾い「ほれ菊おんぶ」
と片手を背なにすると今まで 恐る恐る近づいて女の顔をしげしげと見ていた石の上に
いた子がぴょんとおんぶされた。「ほな お前さんもついてきなされや。」とよたよた
と石ころだらけの道もない所を歩きだすと 手をつないだ3人とさっきまで泣いていた
女は おずおずとついていった。それはまるで 洋館に向かう召使とその後をついて行
く理科室にある人体模型のようだったが 一つだけそれが髪の長い幽霊に似ている事が
ちがっていた。あたり一面真っ黒な薄暗い中でのこの異様な光景は まるで漫画絵のよ
うに あたり一面無いにも無いもので 暗い砂漠よりも異様に写る。それは 風も香り
も全くもって空気さえももないように感じた世界だった。


15: 名無しさんAA:11/04/18 03:36
みなみの島の天使たち Tremors - Mr Keaton and reba shooting the basement worm
パート1バートガンマー

16: 名無しさんAA:11/04/18 03:43
みなみの島の天使たち  Tremors (1990) 4/10
遭遇編 

17: 名無しさんAA:11/04/18 03:45
みなみの島の天使たち THE BLOB

18: 名無しさんAA:11/04/18 03:48
みなみの島の天使たち The Blob pt10
黒皮ヤンキー編

19: 名無しさんAA:11/04/18 03:51
The Blob part11a

20: 名無しさんAA:11/04/18 03:53
カモーン!!!

21: 名無しさんAA:11/04/18 03:59
みなみの島の天使たち
Demons (1985) Part 5
激逃パニック集団

22: 名無しさんAA:11/04/18 04:03
デモンズ1ってもっと暗い印象があったけど
この明るさなら多少見れんでもないな

23: 名無しさんAA:11/04/18 04:04
グロすぎて買うのやめた作品の一つ

24: 名無しさんAA:11/04/18 04:05
キャラは際立ってたけど

25: 名無しさんAA:11/04/18 04:07
自動映写機だ
なんてこった

26: 名無しさんAA:11/04/18 04:12
みなみの島の天使たち
From Dusk Till Dawn

27: 名無しさんAA:11/04/18 04:21
個人的に最近手に入れたホラービデオが
邦題デーモンナイト DEMON KNIGHT
俺の大好きな闇世界の匂いがプンプンするこの作品
一度見てみるといい



28: 名無しさんAA:11/04/18 04:22
Tales from the Crypt: Demon Knight Trailer

29: 名無しさんAA:11/04/18 04:25
The Beheading Of The Crypt Keeper (The Final Cut)


30: 名無しさんAA:11/04/18 04:27
そうゆう偏見はいかんよチミ
みたまえあの美女の姿をなんとビューティフル


31: 名無しさんAA:11/04/18 04:31
まったく宗教思想は何千年たっても考えが変わらん
こんなに犠牲が出てるのに子どもは飢え殺され女は売られ
豚にされ喰われるそれなのにまぬけにも神よ!神よ!と叫び続ける人間はどこまでも愚かな生き物だ

32: 名無しさんAA:11/04/18 12:46
ばかもの!にがもの!オレがただの馬鹿でこんな掲示板にしているとでも思ったか!
時にこの掲示板のかき込みは東スポのように刺激的だ
話題はサンゲリアにはじまりひょっこりひょうたん島まで幅広くカバーしている
東スポすらも封印したような恐ろしい話題のオンパレード!
そんなのあるのかよッとんでもねえ話だッ話題沸騰ッ
スピードとタフさかもしだすこのメッセージ性がッ
この掲示板の最大の魅力なのだッ
時に人々の娯楽を求め人の弱みを知りたがるタフさはッ
法律や多数決をも覆すパワーを噴出するのだ!!
どうだまいったかだてや酔狂の城持ち大名じゃねえぞ

33: 名無しさんAA:11/04/18 12:48
ズバリ勢い 


34: 名無しさんAA:11/04/18 12:49
徳側を最大に畏怖させる俺の武器それは
勢いっなのである{涙
どうだまいったかこんな魅力はおまえらにはないだろ!
藤村甲子園なめんじゃねえぞ

35: 名無しさんAA:11/04/18 12:51
あらゆる防御網をも突破する必殺の魔球ックワッ
128話2 日本を驚かす必殺の大リーグボール2号!!

36: 名無しさんAA:11/04/18 12:53
大リーグボールだとそんなばかなっ

37: 名無しさんAA:11/04/18 12:55
ボールが消えた!

38: 名無しさんAA:11/04/18 13:00
全国の野球ファン!TVの前の皆さん!奇跡の魔球か!
およそ野球史上はじまって以来の恐るべき魔球が!後楽園球場に姿を現しました!

39: 名無しさんAA:11/04/18 14:11
昇竜デイトナUSA

40: 名無しさんAA:11/04/18 14:14
火柱 大文字 焔 立つ 

41: 名無しさんAA:11/04/18 14:16
上ノ国町 エゾ地の火まつり2010「龍焔太鼓」.mpg

42: 名無しさんAA:11/04/18 14:18
龍焔太鼓

43: 名無しさんAA:11/04/18 14:20
戦代継承の舞!!!

44: 名無しさんAA:11/04/18 14:23
黒蜘蛛大蛇乱打

45: 名無しさんAA:11/04/18 14:27


46: 名無しさんAA:11/04/18 14:30
台灣劇場 優人神鼓 -- 金剛心

47: 名無しさんAA:11/04/18 14:33
度肝抜かれるような太鼓打ちいないかなw

48: 名無しさんAA:11/04/18 14:34
鼓動を超えるといったら
空響しかない

49: 名無しさんAA:11/04/18 14:37
早い話が剛鬼の太鼓

50: 名無しさんAA:11/04/18 14:42
Hono o Daiko
最近は女の方が馬鹿にならん

51: 名無しさんAA:11/04/18 14:46
爆炎龍

52: 名無しさんAA:11/04/18 14:49
heaven and earth 天と地と

53: 名無しさんAA:11/04/18 14:51
Heaven And Earth: Total War Music Video (With Sounds)

54: 名無しさんAA:11/04/18 18:09
黄泉の国物語 04

 暗闇の中 6人はゆるりと歩いていた。ぽつぽつと遠周りに青白き火の玉がついて
いく様は まるで異様であったが 途中で「おや いかん だいだら坊がやってくる
やも知れん。これお女中 ちょっと小走りになるでよ 見失わんようにこの子らの手
を取るがよい。」「そうそう じゃあキヨ少し走るでな。」と言うとあれよあれよと
暗闇に消える。あれ〜と女は思ったが その少女達も恐ろしく早く すぐに御婆に追
いつく速さで走り出し女のよたよたの足は既に空を駆けていた。見れば自分自身も宙
に浮いて走ってる。すごい早さだが周りの景色や風がないのでそれが感覚にはない。
それでも何とも身軽であったし動悸も打たなかった中で。ただただ今まで見えていた
石ころが飛ぶ速さで足下を通り過ぎる。前を向けば火の玉が最も少ない所に向かって
いる たどり着けば それこそ他のところより火の玉も小さく 全く明るさも少ない
中で 先に着いた御婆が鞠子や鞠や叫ぶ。するとそれこそ大きな岩かと思われた所が
 音もなしに横に車の車輪のように 回転しながら横に開き人がしゃがんで何とか通
れる洞穴がそこに続いていた。先に老婆が入り皆が入ると「はよう入れ。」女はしっ
かと腕を引かれよろけるように入ると 今までの幼児とは 格段に年上であろう女か
男わからない風貌の少年風の人間が その車輪のような石を閉めている所だった。
とすぐに今までまるっきり音のない世界が まるで風に鳴る電柱のような 低い低い
ビューともブーと言えない音が始まり 雷鳴や地響きが ドスと聞こえ間をおいて又
ドスと聞こえた。その音がどんどんと近づいて来て その不安は始めて女が動悸を打
つ事からもわかり 子供たちはしゃがみ込んで耳をふさいで震えていた。が不思議に
も子供たちは しっかり耐え悲鳴一つあげなかった。それが何回も聞こえただろうか。
体が揺れるほど地が揺れ始め もうこれまでかこれまでかと女は覚悟した頃合いには
今度は どんどんと遠くになって やがては消えていった。「ほー 間に合ってよか
ったワイ。」とため息つくと「じゃあ奥に行って 暖でもとろうかの」とすたすたと
奥に行った。が 女は腰を抜かしたのか容易に立つ事が出来ないでいた。


55: 名無しさんAA:11/04/18 18:30 ID:DA
黄泉の国物語 05

もうええかえ。と声が聞こえた所に杖を肩にしゃがみ込んでいた老婆がいた。暫くの
間待っていたらしい。それはずいぶんと長い間だったがそれでも時間は皆目解らない
 よいしょと ゆっくり壁を背にして杖を頼りに立ち上がり 狭い洞窟の暗闇に 何
ともか細い光が灯った。おお鞠か よく気がきくね。と老婆に差し出したのは 少し
小さすぎる 一本の奇妙な松明のようなものだったが それは犬の食べる骨に近い姿
であった。遠くの光が近づき何だこれはと思う暇無く さあ行くよ。おいでと言う時
既にどんどんと奥に行く御婆と子供の影があった。おいていかれそうになりながら
やっとここさついていくと ずいぶん奥には何とも広くなって行く そして大広間に
たどり着くなり 「よいしょっと さてさて お前らは もう寝ろ。」と言えば子供
達は各自に奥の土で出来たベットのような所に干草を編んだような布団にみんな固ま
り横になった。「おーい鞠子・・」「う・・」「おお鞠や 奥の部屋から首輪を持っ
て来なさい。・・・それから・・爺じいは。」「う・・・」「そうか まだ地獄の釜
場から帰って来ていないか。ちょうど良かったの よいしょ。と」と言うなり 少し
歩いて 真ん中に行ってしゃがみ込んだ。独特の臭い匂いが部屋に充満したが時間と
共にそれはなくなった。ぱーっと明るくなった部屋は それは薄気味悪いが以外にも
何もない泥とも石とも言えない壁で囲まれた部屋で 当然と言えば当然だった。少し
してキラキラした光るものを手にして戻ってきた。わあ綺麗とその手につかんだもの
を見て驚いたが その持ってきた少年とも少女ともつかぬ子の顔を見てさらに驚いた
「きゃっー。」と少し悲鳴を上げたかもしれない。女の顔は引きつった。」それを見
て「何も怖がることはない お前さんも さっきまで同じ顔をしとったのだ。こいつ
の方が少しばっか酷いが大して違わんがな。あはははっは。」と笑い飛ばした。鞠子
は だらんとぶら下がった方の目玉を手にとって 又目の中に入れ込んで 女のほう
に向けた その後黒まなこがその女に向いた。それは普通で言う 睨み付けたと言う
やつであったろう。その上かの少年は皿屋敷同様顔半分は醜い吹き出物と痣で覆って
いた上に あの首借り族同様の色々の色が出ていた。中でも黒い青のあざに緑色の膿
と少し流れた赤い血さらに膏薬なのか白い粉の上に褐色化した黄色の縁取りで それ
は明治の頃の女郎部屋の仕置きに泣いた女の顔さながらであったのだ。と「さあさお
女中。さっきのように手をこの上に載せなさい。」そう言うて老婆がさっきと 同じ
ように手を伸ばし今度は老婆は強く女の片手を引っ張り無理して乗せた その布の上
にはさっきの五角形の光るものが乗っていた。それは手をかざすと少し暖かく気持ち
よく癒された。そして女の顔は何故かしらどこからとも言えず随分変わって行く。

 

56: 名無しさんAA:11/04/18 18:30 ID:DA
黄泉の国物語 05

もうええかえ。と声が聞こえた所に杖を肩にしゃがみ込んでいた老婆がいた。暫くの
間待っていたらしい。それはずいぶんと長い間だったがそれでも時間は皆目解らない
 よいしょと ゆっくり壁を背にして杖を頼りに立ち上がり 狭い洞窟の暗闇に 何
ともか細い光が灯った。おお鞠か よく気がきくね。と老婆に差し出したのは 少し
小さすぎる 一本の奇妙な松明のようなものだったが それは犬の食べる骨に近い姿
であった。遠くの光が近づき何だこれはと思う暇無く さあ行くよ。おいでと言う時
既にどんどんと奥に行く御婆と子供の影があった。おいていかれそうになりながら
やっとここさついていくと ずいぶん奥には何とも広くなって行く そして大広間に
たどり着くなり 「よいしょっと さてさて お前らは もう寝ろ。」と言えば子供
達は各自に奥の土で出来たベットのような所に干草を編んだような布団にみんな固ま
り横になった。「おーい鞠子・・」「う・・」「おお鞠や 奥の部屋から首輪を持っ
て来なさい。・・・それから・・爺じいは。」「う・・・」「そうか まだ地獄の釜
場から帰って来ていないか。ちょうど良かったの よいしょ。と」と言うなり 少し
歩いて 真ん中に行ってしゃがみ込んだ。独特の臭い匂いが部屋に充満したが時間と
共にそれはなくなった。ぱーっと明るくなった部屋は それは薄気味悪いが以外にも
何もない泥とも石とも言えない壁で囲まれた部屋で 当然と言えば当然だった。少し
してキラキラした光るものを手にして戻ってきた。わあ綺麗とその手につかんだもの
を見て驚いたが その持ってきた少年とも少女ともつかぬ子の顔を見てさらに驚いた
「きゃっー。」と少し悲鳴を上げたかもしれない。女の顔は引きつった。」それを見
て「何も怖がることはない お前さんも さっきまで同じ顔をしとったのだ。こいつ
の方が少しばっか酷いが大して違わんがな。あはははっは。」と笑い飛ばした。鞠子
は だらんとぶら下がった方の目玉を手にとって 又目の中に入れ込んで 女のほう
に向けた その後黒まなこがその女に向いた。それは普通で言う 睨み付けたと言う
やつであったろう。その上かの少年は皿屋敷同様顔半分は醜い吹き出物と痣で覆って
いた上に あの首借り族同様の色々の色が出ていた。中でも黒い青のあざに緑色の膿
と少し流れた赤い血さらに膏薬なのか白い粉の上に褐色化した黄色の縁取りで それ
は明治の頃の女郎部屋の仕置きに泣いた女の顔さながらであったのだ。と「さあさお
女中。さっきのように手をこの上に載せなさい。」そう言うて老婆がさっきと 同じ
ように手を伸ばし今度は老婆は強く女の片手を引っ張り無理して乗せた その布の上
にはさっきの五角形の光るものが乗っていた。それは手をかざすと少し暖かく気持ち
よく癒された。そして女の顔は何故かしらどこからとも言えず随分変わって行く。

 

57: 名無しさんAA:11/04/18 18:51
黄泉の国物語 06



女は花園での 何やら金木犀の香りの中なのか そよ風と木漏れ陽の中でうたたねし
ている夢を見ていた。それは正座でもない何とも奇妙にも横になり赤子を見ながらの
あどけなく 言葉もしゃべれない立てない幼児と 話しながら幸せと不幸を見ていた
 「ふーん・・・・そうかい・・やはり・・」と手を重ねながら一人考え込む老婆に
正気を取り戻したのか 少しあざが薄くなっていく その声に目覚めた女は少しして
自分が洞穴の中に駆け込んできた事を思い出し 言った。「おばあさん・・少し聞い
ていいかしら。」「おや 少し気を取り直したかい。」「ええ ずいぶんと良くなっ
たわ。ところで此処は何処かしら。」「おやおや まだまだか。まあ後二三日は必要
だろうな。・・・・ああ 此処は 俗にいうあの世とこの世の境目だよ。ここが地獄
と天国の分かれ道の袂ってわけだ。」「〜ん・・・」「お前さんはな 現世でな男に
突然に事故で殺されて此処に来たのさ。更にな本当はこんな中州でなく もっと天国
に近いところに降り立ったはずじゃが お前さんはまだ生きたいなど 我欲があって
な 子供をと思っていたから あの見返りの松の付近で そこを止まり木にしている
妖魔が悪さして 残った怨念を喰らいに来て お前さんを咥えたまま地獄の山まで飛
んでいこうとしていた訳さ。じゃがそれをこの胸飾りが助けたわけだ。」と女の首に
かけられた小さな銀色に輝く十字架に似た法輪を見た。その胸元のそれを改めて女は
しげしげと見た。「恐らく貴やつは・・いや妖魔はやけどして死んだだろうがな。あ
ははは。いい気味じゃて」「へ・・・〜え」「であの重酷の川に落ちたのだろうて。」
「あの川は三途の川じゃないの。」「ああ俗にいう三途の川というは もっと向こう
のその見返りの松がある中を抜けねばいけぬ ずいぶん遠い所でな。じゃが妖魔は飛
んで行けるのでな。あ そう そういい忘れておったが 此処では決して勝手な行動
は謹んでおくことじゃて 決して勝手な行動はしてはならぬ。お前さんはここでは
ちゃんと治療して4・5日したらすぐに天国に旅たつ事が出来るようになるからな。
間違えても妖魔や魔怪道にそそのかれて地獄へ覗きに行ったり 遠回りして日を稼ぎ
旅立てない用になってはならん。言うたように お前さんに この子ら達を天国まで
保護して連れて行ってくれないと困る事がおこるでな。なあに それは心配するには
及ばない。この事をお頼みしようとお前さんを呼び止めた訳があってな。天国それが
お前さんの行く道じゃて。なあに心配いらねぇお前さんはきっと天国に行くて。何が
あっても地獄には行かせない。たとえ夜叉や鬼や妖鬼が来てもだ なあにこのお婆が
その道は教えてやるがに この子もそれなりの呪文を知っ取るがて。お前さんが現生
のののしりや恨みすら無くなると すぐに天国への旅に出れるさ。」とまじまじと女
を見た。


58: 名無しさんAA:11/04/24 22:10
黄泉の国物語 07

「お婆さんは 一体誰 イタコなの。」「いいや違う・・・ぬ・・鞠、鞠子や 爺じい
が帰って来るみたいだ 戸を開けに行きな。」「お婆さんは あの子達と此処に暮らし
ているのじゃないの。」「暮らしているかって ああそうだな 暮らしているといえば
3千年も 嫌になるぐらい 此処に留まり暮らしているさ 今でも天国に行けずにね。
・・ま最も地獄に行かないだけいいかも知れんがな。・・」「あの子は お婆さんでも
直せないの。」「ああ鞠子の事かい。直せるさ ただ時間はかかっているがね。じゃが
と言うワシも又同じような病じゃったで 前のオババから百年経けてやっと治してもら
ったのがの〜 ま最も此処で百年たとうが千年たとうが 現生では一時の事だろがね。
あの子も生きとった頃の時の事がよっぽど脳裏に焼きついて どうしようもなくなって
おってな このわしと同じでな 気長に暮らせば時が直すじゃて まあその頃はわしの
妖力も無くなるだろうが仕方がない まあそうさな この川の守番として調度ええ交代
ができるがのう。あ さ〜そろそろ追い出された神様が来るで。 」「えっ、」「あ 
あの河原で会うた爺じいの事だわさ ヶヶこの世界というか 地獄や天国を作った本人
だがよ。物凄い妖力をもっとるだに じゃがその内鬼達にも神達の仲間にも嫌われての
じゃが今や この世界を変えようとはせぬ あいつは既に5万年ぐらいも此処におる。
ちいう話だがや まあ よっぽどここが気にいっとるだがに。」と気味悪く笑った。
 目の前にいた鞠子と呼ばれる子供は無言のまま じぃ〜と彼女を見ていたが 婆の声
を聞いて 置いていた手を離しすう〜と離れて 部屋を出て行った。「さ そろそろ 
あのおいぼれとっちゃん 追い出された神様が来るで。 」「えっ、」
「あ あああの爺じい様の事だわさ この世界というか 地獄や天国を作った張本人だ
がよ。物凄い妖力をもっとるだに注意したがええが したらが その内鬼達にも神達の
仲間にも嫌われてのうここにやってきて置いてくれ言うからおいとるんじゃがの 今や
慣れて この世界を変えようとはせぬ あいつは既に5万年ぐらいも此処におるちいう
話だがや まあ よっぽどここが気にいっとるだがに。」というと 奥のほうから何や
らやって来る。「御爺かい。どうだったかな 地獄の釜は。」とお婆は手を はなして
音の聞こえる方に見やった。すると女も振り向きざま「まあかわいい。」と立ち上がろ
うとした。そこには奥のほうから駆けてくる 一匹の角の生えた白馬が入り口にいた爺
さんを追い抜こうとした正にその時「そいつに触るでない。」と大声が誰かが叫び。爺
は大きな大きな影のような正体のわからない 黒き醜い牙を持つ姿に変化した。その姿
は見る見る内に大きく コウモリの羽を持ち蛇の尻尾が二股に分かれ目や手はワニの姿
の上目は眉のない猫のように睨んだ。大きく開けた口はさめさながらに白い歯と赤い舌
をもち 仰々しいしほどに悪意に満ちた姿だった。「止まれ。」と脳裏に聞こえた途端
その一角の白馬は空中で止まり 「キャイン。」といなないては その場に倒れもがい
た。


59: 名無しさんAA:11/04/25 02:29
黄泉の国物語 08



その時女は「サタン・・・。」と小さくつぶやきへたへたと座り込んで気を失った。
その後 やっと頭部を起こした白馬は立ち上がると 頬ずりを爺さんにしてはすごすご
と奥に帰っていった。真っ赤な顔をしたばあやが駆け寄った。「鞠子や鞠子 またお前
は性悪をしたね。」とばあさんは女を抱えながら怒りを隠せないでいる。すぐに元の姿
に戻ったニコニコ顔で 「おお客人がおったか 仕方ないのう許せ。鞠もこの女を見て
どうせ又母親の思いでも感じたのだろう。許してやんな。」と温和な顔は相変わらずも
ニコニコ笑っていた。「いんや・いんや 為に何ねいだ。あの子が現生を遠く思うこと
ばかりでは わしの治療に病気の治りが遠のくでな。」と怒りは隠せない「まあまあ。
今日は 鬼っ子を沢山もらったで たずなを握り損ねたのだろうよ。ほうれ幼い子供で
手が足らんでのう ワシが渡さんかったら良かったでな 許してくりょ。な 許せよ」
と言っては そこいらに積みあげている木に変化した人の足の形の薪を足した。火は又
大きくなりずいぶんと明るくなった。
 「ほほうで何匹ほど来たのかい」「そうさな10匹もくれたでな。当分は飯の種に
は事欠かないだろう。」「ほうずいぶんじゃのう。」「何でも今は。ちょいとかわっ
ていて 自殺して死んでいるのに 生きたがっていたものや 物の執着もないが腐れ
物や意志のないままの悪ごろが多くて とても罪人が多く釜が足りない程だと嘆いて
いたさな。〜〜」「そりゃあの青鬼やらも そいで飯やら罪人やらが増えれば鬼っこ
が増えすぎて困るだろうにのう。」「そうじゃ じゃからわざわざ鳴きながら母鬼は
 わしに渡しざま つぶやいて泣いておった。」「そうかい 現生界も大変な時期と
は噂には聞いていたがそんなに性悪な民が増えたか。」「なあに あの戦争の頃より
はましさ あの頃はお前さんが手伝っても荷車が足らんかったしな。」「ほんになあ
 そうだったそうだったのし。そげに死なんでも良かったろうにのう」と女を見た。
そしてつぶやいた「ほうこれが 西洋でメジィゥサと恐れられた妖怪か。めんこいの
に解らないものだの。」「ああもう既に50回以上も転生して 今回も仏に行き損ね
ようとしとるでな。」「また ばばあのおせっかいかい。」「何か文句でもあるか。
」「いいやええじゃないか。ただもう又事件が起こらんとええがな。と思ったまでじ
ゃ。」「なにぬかしょおる。おめいさんが一番の事件の張本人でねえか。」ときりっ
と 爺やを見た婆やはその顔を見るなり 立ち上がりすたすたと歩き去った。「ほう
こいつが鬼子母の神とはのう〜〜知らんかったが さてさてどうなるものかの〜〜。
としばし顔を覗いて しばらくして男も其処を立ち去った。」



60: 名無しさんAA:11/04/25 18:08 ID:ew
黄泉の国物語 09


  干草のかすかな匂いが心地よく まるで春日の中の縁側で日向ぼっこをしてるよな
そんな感じで額から 温かい温度を感じて 彼女は目が覚めた。その目の前には御婆の
額に手をかざし 怪訝そうに覗き込む顔があった。「ああばあさん。ええと私は・・」
と土で出来干草が敷いてある中起き上がったが 突然 壁まで逃げて「サタン・・悪魔
・・・」と言いながら 強く手を払った。その後ややあって「私は・私は食べられるの
」と御婆に聞いた。「あははは 大丈夫さ・・神はお前を食ったりしない。」と薄気味
悪く笑った。「神・・神だって・・・。」「そうさな 彼はこの地を作った全知全能の
神というのが彼だよ。」「おやおや かつては西洋ではメディゥサとして恐れられ南米
ではブードゥーの魔神として人を喰らい。暴れていた割にはしおらしいではないか。仏
から鬼子母神として悟りと転生を教えられて やさしい人の心を持つに至ったか。あは
ははははは。」とあけっぴろげによろけるほど大笑いして笑った。
更に首をかしげ 思い悩む彼女に 言った。「おや 世界を作った神の話を知らないの
かい。ほれ あれだよ 第一日目に月よ出でよといい 天地分け 二日目に火を使いそ
の地を確かめ 三日目に水を飲み一服した 次の日に混沌とした闇の川べりに木を創造
して そうしてやっと木が育つ為の光を創造し 輝く光の下に大地を作って休みを得て
やっと安堵の眠りに入ったという神だ。 ある時はエホバと言われ ある時はアッラー
とも言われた。又もっと前にはゼウスと呼ばれた時もあった。みんなあの爺さんの呼び
名だ。うん。」「うそ・・。」と絶句した。彼女はますます此処を悪魔の巣と確信した
「そんな尊厳な偉い人が何故こんな所にいるの。なぜ悪魔の顔や姿に変わるの。」と顔
を赤くして反論する。「もちろん 彼が悪魔 サタンと呼ばれる事もあったさ。ここに
あの門番が来る前はな。」「門番・・。」「門番って。」「いいかい よく聞くがいい
ここは創造の前の地であるのさ。だから木も動物も太陽無い世界なのだよ。だから彼は
神であり悪魔であるのだ。そこに仏陀の使いが時空を越えてやってきた者がいたのだ。
火の玉を手にかかげながら。」「それが閻魔様なの〜。」と傍にいた女の子がいた。「
ああそうだよ。そう彼もまた 下界に行っては死神とかイエスとかマホメッドとか色々
と呼び名を持っている。」「・・・何それは・・解らない・・・ここは一体何なの。」
「言いかえよーく聞くんだ。此処は魔界という あの世とこの世の分かれ目の土地だ。
此処から出て天国に行きたければ橋を渡り 閻魔の所まで行く事だ。地獄に落ちたけれ
ば 此処で何をしても構わぬが 妖精いやここは妖鬼と言ったが良いだろう。もちろん
お前さんは 掟に従い生きて来て間違って此処に来たのは知っておる。が・それも運命
ならば お前さんが滅多に会えない神と会い わしの言うことを聞いて天国
まで行くことも又定めだろうて。・ふはは・・」と 奇妙な顔をして二人して笑った。
 「ええか よーく聞いちょれ。此処で守ることは 3っつだで。一つはむやみに何
でも触ったらなんねい。特に川の水やら そこに生えた怨念の古木 いやこの人の木
なぞは触っては何ねい。もし喉が渇いても川の水を飲んだ日には 美味しくて止めら
れないようになりお前はもう動けぬ体になる。がそれはもう この魔界で自分で歩く
事が出来ないならば その内根が生えうちの爺に足切られて荷車さ乗せられて 地獄
の釜の湯に放り込まれるのが落ちだがや。なあんぼ妖力があっても地獄さいくやつは
わしゃ助けられねえだ。ええか。この爺やの鋸鎌に足さ切られぬようにな。二つ目は
まんずは 天国に行くことを考える事だ。


61: 名無しさんAA:11/04/25 18:10
黄泉の国物語 10


ここは創造界と言ってなお金でいう 下界での感覚と 表と裏の間だ。何も思っては
なんねい。何も感じてはなんねい。お前さんが痛いと思ったら痛いし 暗いと思った
ら暗い逆に明るいと思ったら明るい。何でもおみいの思いのままだがや。じゃっどん
だから怖いことに 昔生きていた頃が懐かしいとか ここが気楽でええとか思ったら
大きなまちがいだで。まずまずそう思うたらお前さんは その意思に曳かれて現世に
戻り あの川の水を売り怨念を買い付ける幽霊になるが。又此処がいいとでも思った
ら此処から離れられなくなる。幾ら生きている時精進を積んで自分の重荷を軽くして
いたとしても 大抵のものが ふわふわと魂だけ浮いてあの妖鬼のようになり 食い
物が無くなって おいしい川の水を飲んで足が動かんであの枯れ木の足のようになり
こうしてちょん切られて ここの焚き火になるさに。だからお前さんはまんずはあの
天国の明るい所の花園の中で 今まで死んで行った親父達と遊ぶことでも思うて此処
にいろや。なあにすぐに慣れるさ それに慣れた頃には親父に会いに行く事ができる
。決して妖鬼の口車に乗って 怨念の味快楽の味を知っちゃなんねい。酔って魔界を
出て現世で悪行を進めるのが落ちだ。お前さんには その意味が解るだろう。現世が
悪けりゃ此処は悲惨になる。今でも妖鬼や火の玉が多くて困っている。この木も藪が
出来ればわしらは歩く事すら出来なくなるでな 三つ目は大事な事だが 決して外に
一人で出てはなんネイ。妖鬼や火の玉やだいだら坊やら悪さしてちょっかい出す奴が
きっといるだに。このキヨか菊を必ず連れて行け どうせこの二人はお前さんと一緒
に天国に行く運命だで仲良くなっていいが。なあ わかったか。そんときゃこの子に
何でも訪ねるがいいもう何百年と年も取らずにここにいるで おおよその事は何でも
知ってるでな。ええか。」とじろりと彼女をにらみつけた。
「さあさ わかったらお食べ。」とそばの子供は 落ちていた金の牛蒡星のペンダント
をかがんで拾い それをつかんだまま碗とはしを大きく腕を伸ばし 女に差し出した。
女はそれを食べようと 椀を取ろうとしたが 急にそれを止めて又壁に後ろに反れ帰り
ぎょっとした顔になった。「ああ 心配せんでもいい。何ぼ肉がうまかってもお前さん
に 鬼っ子の肉なんぞは食わせはしない。安心しろ この子と同じ干草のスープじゃが
うまくは無いがまずまずは食えるはずじゃ。」それを聞いて まじまじと御婆の顔を見
つめたのち さあさとうなずくおばあに 後押しされて 恐る恐る子供の持っていた椀
と木のスプーンと箸を手に取った。と 同時にまた金のペンダントが落ちて その子は
拾いそれを御婆に渡した。「おうそうじゃったそうじゃった。この首飾りは お前さん
の十字架と同じに お前さんを助けてくれるもんじゃ。この家じゃ結界がはられて虫も
来んが たまにでも外に出るとなるとやっかいだでな。必ずはめよ。いいんや家の中で
も さっきのようなユニコーンが来たり あの片足の薪が生きておったらやっかいだで
これは肌身離さずつけておいてけりょな。御婆のおねげえとしてな。もしもお前さんが
天国に行く術でも失ったら もうここに留め置く事は何ネイからな。爺も泣く泣くお前
さんの足を切って体を地獄に持っていく事はしたくは無いだろうから。かならず着けて
おいてくりょ 幽霊でもなって下界をさまよう事でもなったら 泣くに泣かれんでな。
この餓鬼界からも一つ向こうの畜生界にでも行ったら お前さんはもうゴキブリやハエ
に生まれ変わるしかないでな。わかったな きっと着けておけよ。お前さんの為にな。
と言っては すたすたと出て行った。のこされた女の傍に キヨと呼ばれていた子供が
残って 地にすわり 女を見つめていた。


62: 名無しさんAA:11/04/25 18:24
黄泉の国物語 11


 「ねえ キヨちゃんって言ったかしら。いくつになったの?」とやさしく女は聞いた
。しばらく指を折ってはいたが そのうち「わかんない。」と甘えた声をだし首をひね
る。そして ねぇねぇ・そこに・来てもいい。」「あっ気づかなかった。おいでおいで
さあさこっちにお座りな。そしてここの話を聞かせて頂戴。」と女も子供もうれしそう
だった。「キヨちゃんはどのくらい此処にいるの。」「う〜ん う〜んと・・いっぱい
。」と上を向いて考えていたがすぐにあきらめたようだった。「へ〜えいっぱいか。そ
うかそうか。でもさ ここは御天道様の陽も見れないのに どうして一日が分かるのか
しら。不思議ねぇ。」と一人言の様に言ったがキヨには聞こえてたらしい。「あのねあ
のね。えーとね 一回寝たら一日が終わるって おばあが言っていた。」「あっそうね
すなのか〜」「じゃあ おねえちゃんは7回寝たから7日で丁度一週間だね。」と言え
ばすぐに「ううん 違うよ 二日だよ キヨはまだ一回しか寝てないもん。」「ええ〜
まだ二日なの・・・・そうなの・・」「うん まだ二日目 五日したらおねえちゃんと
天国にいくから 用意しとけって じっちぁんがいってた。だからまだ7日じゃないと
キヨはね キヨはそうおもう。」「そう そうなの・・」と落胆したが すこし考えて
「じゃ じゃあさあ ここにいるのは私たちだけ キヨちゃんと私と・・」「春ちゃん
も菊ちゃんも鞠子ねえさんもいるよ」「そう 菊ちゃんに鞠子ちゃんに春ちゃん・・ 
それにおばあさんおじいちゃん 7人それだけ。」「ううん 白ひげさんもいるよ。」
「白ひげさん・・て誰。」「キヨも良く知らない。一回しか会ったこと無いもの・」と
いう。「へーあんまり会えないんだ。」「うーん おばあちゃんが よるのしはいさっ
ていうえらいお坊さんだって。」「へえ お坊さんがいて よみのしはいしゃって名前
なんda・・え黄泉の支配者って。」「そんなことじっさまとばっさまが言っていた。」
「きよちゃんは そのお坊さんのいるところは知っているの。」「知らない。けど鞠姉
さんとなら何回か行ったことがある。」「へえ鞠姉さんは知っているんだ。」「ううん
違うよ。鞠姉さんはたぶんわからないと思う。キヨはね 鞠姉さんと一緒なら何処でも
いけるんだ。」「キヨちゃん そのひげのおじいさんはどんな人なの。」「う〜んと昔
からいて 何でも知っている えらいえらい人」「でもあの薪拾いのおじいさんだって
えらいんでしょう。」「うん でもおばあちゃんよりじいさんより 仏の閻魔さまより
偉い人だって。」「ええ〜〜閻魔様より怖いの。〜〜」「ううんず〜とず〜と優しいよ
だって キヨの頭をなでてくれて抱っこもしてくれるもの。」「へ〜え怖くないんだ。
」「うん そしていっぱい知ってるんだって、この世もあの世も知らない事は無いって
。」「へ〜それは誰がいったの。おばあちゃん。」「うんおばあちゃんもおじいちゃん
もせいきもだいだら坊も言っていた。」「えっ せいきって誰 だいだら坊とも話した
事があるの。」「あっ 」と少女は口に手を当てた。どうやら話してはいけない事にな
っていたらしい。そして小さな声で「内緒よ おばあちゃんにわかったらしかられる。
」「わかったわかった二人だけの秘密ね。でそのお話をおねえちゃんに聞かせて。」



63: 名無しさんAA:11/04/27 05:33
黄泉の国物語 12



「キヨや キヨ〜〜〜。」と婆様は叫んでいた。「ほんとに何処にいったのかね。さ
っきまでいたのに。」「鞠〜鞠子や〜キヨを捜してくれ〜。」と大きな声で叫んだ。
が物音一つしない。「うぅん。・・・・はて・・・・。」もしや・・と不安がよぎる
杖をつき 足を引きづりながら 女の部屋の前に来て覗いた。粗末な藁でつくった布
は女体の体型のままある。ほっと安心したのか 少しゆっくりして 女の傍に近づい
た。そしてそっとその布団をはぐり「そろそろ飯でも食わねばのう 腹も減ったじゃ
ろうに。」とささやいた。だが その手が震え 顔が青くなり がたがたと老婆は一
度は体を震わせて へなへなとその土のベッドに座り込んだ。その後下を向いて手は
握り拳がひざの上にあって そのまま震え涙がぽたぽたと落ちていた。それは此処に
来て初めてのくやし涙だったが それが何故だか解らなかった。そして口は何か聞き
取れないような声が発せられていた。「まだ、まだ2日しか立たないというのに ふ
ざけやがって ふざけやがって この御婆を この御婆おばをこけにしあがって。ま
だまだ教えてやらな いかん事があるていうに。あれほど天国が遠ざかると言ってお
いたのに。キヨまでもが ふざけやがって ちくしょう。ちくしょう・・・・・。」
と 小さい小さい声がそれでも力強くうなっていた。 そこにいつものように肩に脚
のような木切れを担いだ爺様がきた。「おいおい 此処にいたのか。・・・・おいお
いどうした・・・・何があった。・・・。」と言いながら横にすわった。そしてやお
ら肩の荷を降ろし その横に座った。そしてやおら改めて「おやおや おめえさんが
泣いている・・・いってい・・な。なにがあったっつううんだ。」とやっとただなら
ぬ事にわかった。そして 大きな声で「鞠子〜〜鞠子や〜〜〜。」「キヨ〜〜キヨ〜
〜〜〜。」と何回か叫んだが 何一つ音がしなかった。そして腹を立てたようにそれ
も小さな強い声で「おらぬ。誰もおらぬは あは 全く こげな仕打ちがあるかね。
だりもかりもおらぬは・・・は・・・あはぁはぁは あはぁは ・・」と大笑いした
。やっと上がった顔には 真っ赤になった目が腫れた状態であった。「おう おう
もう逃げたか はやっ さすがにメヂィサ 思わぬほど早いのう はやすぎるわい。
昨日やって来て 今日はいなくなるとはのう。」と少し一緒にぼっ〜と向こうの壁を
見ていたがやおら立ち上がって 「どれどれ こうしちゃおれんのう。」とうらの腰
から何やらナイフみたいなものをとり 横に置いた枯れ木の分かれた指の一番小さい
ものを残して 削いで その何やらを起用に使い火花を散らさせその木に炎をつけた
周りは細々とした炎で照らされたが その内それは明るくなった。そして すたすた
と爺はその火を持って 部屋を出て行った。
 



64: kkk:11/04/27 21:01
黄泉の国物語 13


 その直ぐ後 炎は直ぐ又明かりを共って あわただしくやって来た。「おいおい
メシークがいない。いないんだ。」と爺もまた大慌てで 婆様が座った部屋に戻って
来た。」「そうかい。」「なんだ 婆様は驚かないのかい。」「ああ 考えたんだが
きっと あの最果ての島に向かっているだろうとな。あそこに行くには ペガサスは
必要さ。海を越えねばいけないからね。その為にもあの子達をあの女は連れていった
のだろう。」「何いってるんだ さっきまで俺は手綱を持ってやって来たんだぞ お
前の妖力でこっちに返すぐらい出来ようぞ さっさとやってくれ。」「やだね 私は
今やっと怒りから帰って来て落ち着いたところで まだまだ難しい。それよりはお前
さんこそ 世界一を誇った全知全能の神ではなかったのかい。」「そうひねくれるな
。この間の最終戦闘で 随分と戦って起きれない位傷ついた事は知っておろう。」「
ああ知ってるさ。」「だったら・・・」「何言ってるんだ 死にそうになって帰って
きて ゾロアスターはもう来ないあいつを叩きのめした。って言ったんじゃなかった
っけ。」「ああ あいつも相当痛手を受けて わしと同じに精気を失って年寄りには
なったろうが こんどあいつとテレパシン争を起こしたらワシはもう粉微塵じゃて。
」「おうおう やっぱ弟子は師匠を超える事は出来んのかいな。」「そういじめなさ
んな。取り合えずあいつらが 今本当に島に向かっているのか確かめるぐらいはでき
ないか。」「ああ ええとも そこの水晶体を持って来な。ほれここの台の上に置い
てみな 見せてやるが。」「これか おおこれかこれか と又廊下に出て奥の暗い所
から 大きな球を抱えて持って来た。「おっもいな〜〜。」「おっと そうーとそー
とな。傷入れたらもう見ることは出来へんからな。そーとやでそーと置くんや。」と
まるで主人気取り あごで使う婆やであった。一応台の上に置かれたら よぼよぼと
台の前に腰掛をもって来ては座り 何やら懐からろうそくやら器やらを並べて配置を
決めるように あっちゃこっちゃを少しずつ触る 随分と時間がったったが その間
仕方ないといぶかしげに見ていたが辛抱を切らした爺が「まだかね。」とつい言葉を
もらした。それを聞いてじろっと睨んでまた正面に向き直ると 今度は何やら粉をふ
る。すると四方に置かれた職台は一斉に炎を開き明るくなった。その後さらに間の二
つずつが小さな炎を上げ更に上から粉を振りかけると 粉が瞬く間に光を発して 次
は球自体が青白い炎を上げた。そこにおばばの呪文のような声が聞こえた。



65: 名無しさんAA:11/04/28 12:32
創世より現在に至る格闘理論
その完成のひとつがプロレスである事は間違いない


66: 名無しさんAA:11/04/28 12:36
やだやだっ はなれたくないっ トラヒゲ

67: 名無しさんAA:11/04/28 12:38
マークケアーがつよかった

68: 名無しさんAA:11/04/28 12:40
全盛のマークケアーとブランコシカティックの驚異の試合

69: 名無しさんAA:11/04/28 12:43
Oleg Taktarov v Mark Kerr
UFCの寝技王オレッグタクタロフとマークケアーが戦ったら

70: 名無しさんAA:11/04/28 12:47
Dan Severn vs Oleg Taktarov


71: 名無しさんAA:11/04/28 13:03
ランデルマンあたりからあやしいフインキに

72: 名無しさんAA:11/04/28 13:11
直下ッ

73: 名無しさんAA:11/04/28 13:11
あとからじわじわきた

74: 名無しさんAA:11/04/28 13:11
あいにく直下は僕じゃありましぇ〜んご愁傷様〜

75: 名無しさんAA:11/04/28 13:13
お〜こられたおこられた〜

76: 名無しさんAA:11/04/28 13:16
そんなこといったって言ってなかったんだからしょうがないじゃないか

77: 名無しさんAA:11/04/28 13:16
日本に腹が立ったままドンと遭遇

直下ッ 

78: 名無しさんAA:11/04/28 13:17
きいてねえもんそんな話

79: 名無しさんAA:11/04/28 13:45
UAL II World Championship Armwrestling "Super Heavy Weight

80: 名無しさんAA:11/04/28 13:46
最終的にホンモノには勝てない

81: 名無しさんAA:11/04/28 13:47
小手先ばかり考えてるから局面さいあくな状況に


82: 名無しさんAA:11/04/28 17:32 ID:fo
ヨハネの黙示録666の正体
いったいどんだけやねん
どんだけ〜

83: 名無しさんAA:11/04/28 17:33
はなしがでかすぎるわっ

84: 名無しさんAA:11/04/28 17:35
どうかんがえても
神の目をを欺いてきた者たちの事としか思えん…

85: 名無しさんAA:11/04/28 17:36
プロテスタントもカトリックも関係ないってだから

86: 名無しさんAA:11/04/28 17:38
大義や神権を隠れ蓑に盾にし
共食い 戒律破り 姦淫 反逆 をしてきたものがいるのですッ
わからんかな 目の前におるやないか ほらほら〜ッ

87: 名無しさんAA:11/04/28 17:40
そいつらもう1000年近く汚職を繰り返してきてるで
それだけではない多くの滅びた惑星と国々に関わっている!
御国を中心に大きな亀裂が入っている

88: 名無しさんAA:11/04/28 17:41
のだよわかったかね

89: 名無しさんAA:11/04/28 17:43
総統閣下は青少年健全育成条例改正における違憲行為にお怒りのようです

90: 名無しさんAA:11/04/28 17:47
総統閣下は耳なし芳一の話にも恐怖しているようです

91: 名無しさんAA:11/04/28 17:53
ちくしょうめ〜〜ッ!
例によって非常事態宣言を発令する
典型的な便乗パターンだ…

92: 名無しさんAA:11/04/28 18:04
X JAPAN DAHLIA LAST LIVE DAHLIA?YOSHIKIドラム破壊

93: 名無しさんAA:11/04/28 18:06
ドラゴンドラム

94: 名無しさんAA:11/04/28 18:12
駆け抜けて隆星ッ

95: 名無しさんAA:11/04/28 18:14
健介怒る

96: 名無しさんAA:11/04/28 18:18
040807佐々木健介 vs 真壁刀義 (Kensuke Sasaki vs Tohgi Makabe)

97: 名無しさんAA:11/04/28 18:21
最近の試合速報
本流VSぬりかべ

98: 名無しさんAA:11/04/28 18:29
本流からはぐれるのがこわぃ w

99: 名無しさんAA:11/04/28 18:35
鑿のような男に育ってほしい

100: 名無しさんAA:11/04/28 18:45
僕はここでずっと修業します
ジャッキー酔拳演舞

101: 名無しさんAA:11/04/28 18:47
武闘のタイムマシン

102: 名無しさんAA:11/04/28 19:00
ヒューマン ウェポン 世界の格闘技 パンクレイション 1/5
会話がとびすぎて理解ができん

103: 名無しさんAA:11/04/28 19:04
luta livre
南米で発達したレスリング主体の格闘技

104: 名無しさんAA:11/04/28 19:06
ブラジリアン柔術の影にかくれているが世界的なシェアを誇る

105: 名無しさんAA:11/04/28 23:21
そうかもしれんもしかしたら
上の人間は遊び呆けてどうしようもないかもしれん
しかし!伝統と敬う心なくして
出世できんことはまちがいない

106: 名無しさんAA:11/04/28 23:22
縦社会は
部長課長となれば必ず必要となってくる社会だ

107: 名無しさんAA:11/04/29 00:00
まちがえてチャーシューとして食べちゃったならわからんでもないけど
無理だろっ更生なんてっ社会的に回りの負担大きすぎるわ

108: 名無しさんAA:11/04/29 00:00
無理って

109: 名無しさんAA:11/04/29 00:02
だってそうじゃねえかっ
だれがそいつをかばうわけ?
だれがそいつに飯くわせるわけ?
飯も自分でついで持って行って福まで着せてやらんといかん
我が子でもそんなのしないのにましてや他人に
戦国乱世でそんな気の長い人みたことないって


110: 名無しさんAA:11/04/29 00:03
できるわけねえじゃん

111: 名無しさんAA:11/04/29 00:03
夜な夜な土蔵に殿さまが飯を持って行って食わせてるのを
想像してみろ〜化け物屋敷の比ではないぞ

112: 名無しさんAA:11/04/29 00:04
本当だからしょうがねえじゃねえか


113: 名無しさんAA:11/04/29 00:05
戦場では演習もあるんだぞ雨の中する事もある
疲れ果てて城にかえってそんなただ飯ぐらいの顔見てみろ


114: 名無しさんAA:11/04/29 00:20
ぜってえ無理そんなの
おれだったら我慢できんね

115: 名無しさんAA:11/04/29 02:10 ID:Zs
黄泉の国物語 14

すると 突然その水晶の玉は青白い光を放って 影が現れた。そしてそこには多くの
火の玉が集まって大きな人形を作るようになっていくのが 写しだされていた。更に
それに向かい合った どう見ても強靭な体の巨人がいた。そして おおきな岩陰から
除く子供がと女がいた 一人は肩に一人は腕に抱かれ他の2人は腰に手を当てながら
その向かい合う 巨人と巨人の姿をした炎を見ていた。「ほおれみろ 云わんこっち
ゃない。いまだ精気が抜けない女の匂いに 火の玉が食べに続々と現れておる。子供
らももはやきやっらの生餌となるに違いない。おばばも今までの事を無にしたな。」
と 爺さんが言う。「いいんや そうでねい。よく見るがいい あのだいだら坊が何
故だかこうして守っている。そしてそれはわしらが見慣れただいだら坊ではないよう
じゃ。」と御婆が言うように 青い光と対峙した 大きな巨人は体や顔が どんどん
と赤くなり 炎を上げ始め まるで風船かシャボン玉のように 後ろの少女達おも囲
んだなにかがあった。その為に火の玉は盛んに近寄ろうとするが その度に炎は巨人
の形が無くなっては後ろに下がり改めて人形に変わっては又対峙していた。対するこ
の巨人は睨んだまま 微動だにしない。「おおお〜〜これはどうした事だ。」と爺は
叫んだ。「おめ〜さん今なら取り返しにいけるんじゃないかい。」と婆は皮肉った。
「又そったらことを・・・。」と言ってる間に光の矢が火の玉の後ろからやってきた
。羽を生やし角をもった牛のような馬だった。それは声は聞こえないが 一回嘶くと
ぽとぽとと小さな青い火は地に落ちては更に消え尽きようとした。残った大きな火も
随分と痛手を受けたようで その勢いはさっきよりは数段小さくなった。が馬はそう
した中を全く気にしないで 角で火の玉を拡散させる。一度逃げた火の玉が散り馬は
そのまま突進して巨人の脇をすり抜けた。そしてそのまま 少女達の前に来て鞠子に
なついて首を傾けた。「おねえちゃん メシークが乗れって言ってるって鞠ちゃんが
言ってるよ。」とキヨが言う。「えっ ああそう。」とここは仕方がないと 彼女は
抱っこしていた子を馬に乗せ それからおんぶしてた子も乗せた そして「鞠ちゃん
もキヨちゃんも乗って。」「おねえちゃんは。」「私は最後に乗るから 早く早く。
と言って やっと乗り終えたころ。キヨがそっといった。「メシーク 重いだろけど
ゆっくり飛んで お願い。」と言った。そこへ何処から来たのか青い子供の鬼が言う
「大丈夫さ メシークは強いんだ。」「あ青鬼さん。お願い私たちを 果ての島まで
連れて行って。」「ああ 任せとけ。」と空中を走り出して 浜辺を抜け 海の上を
飛んだ。


116: 名無しさんAA:11/04/29 07:45 ID:Zs
黄泉の国物語 15

 それでも 火の玉は今度は鳥の形に変化して 白い白馬を追った。「ああ追いつか
れる。」女が叫んだとき 「だいじょぶだあ〜。」といつの間に乗っていたのかその
女の後ろに 後ろ向きにちょこんと座る小さな鬼がいた。そして そのパンツのした
をまさぐって袋をだし その袋からなにやらゴマ粒のような小さなものを 小さな手
が握った。そしてまるで鯉にえさをやるかのように 右に左に降った。するとどうだ
ろう。その度に 上空高く行く鳥の翼の形はばらけて下に落ちていく火の玉がある。
そうしてどんどん小さくなって 袋の中身を使い果たす頃にはわずか数えるほどしか
居なくなった上 その袋を逆さにして その全てを追い払った。それを見極めると鬼
の子は 更に向き直り 「ああ思った通りだ ほら あの光の島が 最果ての島だよ
そろそろ 着く頃だと思った。メシーク お疲れ もう少しだ がんばれ。」という
 漆黒の闇の中に ほんのり薄く島が どんどんと近づいたが 近づくにつれ水晶球
から その姿は消えていった。「おいおい 見えなくなったぞ。」「そうさな妖力は
ここまでしか届かない。あの島だけはまるで見えない。まあ死ぬ気になれば 少しは
見ることは出来るが 命を縮めるだけ無駄であろう。どうせあの 白ひげの狸親父が
こっちを振り向いて 何か仕掛けるだけで 下手すりゃこの水晶球すらヒビがはいり
かねないからのう。」「そうかい。まあ仕方ないであろうの。困ったもんだ。」「な
〜に 心配いらね。〜子供らは嫁さいったと思えばいいさ 又気が向いたら帰ってく
るべ ま当分はわしら2人になったがの。爺さも 他の馬を探せばええさ。鬼っ子の
所にまだいるべいなかったら 又昔のように鬼っ子を借りたらええではないか。」
「そんな簡単な事でねえ。又世界が変わると思って心配しちょるのだ。又ここが変わ
るだろうとな 心配なんだ。・・ あいつと戦ってすでに7千年か・・仏が来て5千
年・・いまだ人は増え続けわしらにこの闇夜を闇のままにしておかぬ。」「わしゃ2
百年しか生きてない。そんな昔を言ったってわからぬわい。もう疲れたから横になっ
てもええか。」「ああ 勝手にしろ。8千年も前は 俺とおやじの天下だったがのう
。」「おや おめえさん 親父さんがいたのかえ。」「ああ あの醜く巨大化しただ
いだら坊は 実は親父の体に仏の魂が刺さった病身の姿だ。」「おや そうだったの
かい。ほう あのだいだら坊がな。」「ああ白ひげの爺さんに 閻魔の弟子のやろう
が何やらわしのわからぬ方術を教わってのう。 今じゃあわれにもこの有様さ。」「
そりゃ初耳だったわ。 復権のきっかけを待っているのはわかっていたがのう。」



117: 名無しさんAA:11/04/29 14:47
黄泉の国物語 16

 島の上空から 静かに降りてきた白馬は ゆっくりと小さな島を回りながら降り立
った。それらはまるで 異常に大きいストーンサークルが何重にも張られているよう
な感じに見えた。その中へ通じる4つの門に走る道路がまるで十字架のように見える
。そうしてその中の一番長い道路の端の砂浜に降り立った。よく見ればそれは今まで
いた所と全くちがっていて 地上のように草が生えていてそれらが光を放っていたの
である。「ああ御花が咲いてる。きれーい。」と直ぐに馬から降りてその花に近寄ろ
うとする子供を抱きかかえた白髪で白ひげの長身の白い布をまとった老人が立ちはだ
かり「おおっと その石の上を歩いて下されや このかわいい草花達は私の仲間でな
 彼らが私に何でも教えてくれる。気のいい話し相手じゃけに。」と彼女に話しかけ
た。全くではないものの風も光もない中だったが 何故か海辺のうららかな春風の中
の気配が感じられた。かの老人は背が高く その肩に子供を乗せ手に又子供を連れた
姿はすごく懐かしいと思いながら この姿は何処で見た光景なのだろうかと想いなが
らも全く思い出せない自分に少しいらだたったまま白い馬に乗ったまま後をついて行
く自分がいた。前に座っている鞠子を青鬼が「あれ〜〜まりたん〜〜」と肩をたたく
すると「なあに。」と初めて彼女の声が聞こえた。不思議と彼女はその子を見た「は
っ。えええ〜〜〜」と少し驚いた彼女は 「もう痛くないでしょう。体が軽いのね。
」とつぶやいた。「うん 随分気持ちいい。」と馬にまたがったまま見上げた顔は 
なんと美しい顔に変わっていく最中であった。あの目玉はちゃんとまぶたの中に黒い
瞳として輝き 焼け爛れたような体は まだまだ跡形は残るものの 随分黒い皮膚は
抜け落ちて ひらひらと周りを舞っていた。あの青白い顔の鬼さえも 当たり前の深
緑の落ち着いた顔に変わっていたし 痩せて少し傷ついたようにしていた馬も又今や
軽い足取りになっていった。それよりは肩を落とし少し猫背であった彼女さえ若々し
い金髪の美人に変わっていて 殻が抜けたように体が軽かったのである。石で作った
簡単に柱に横たわる石を乗せたような門を何回かくぐりぬけ中にあるモンゴルのパオ
のような布で出来たような八角堂についた頃は 誰もかれも全く笑顔がかわいい子供
と白馬に乗る美人がいるという 何か昔の現世を思わせるような風景の感じに変わっ
ていた。そのパオまで少しある最後の門の手前で 子供を肩から下ろし「娘や馬から
降りて来るがよい。そこから先はその馬は来れぬ。」と言った。手から離れたキヨは
「まりちゃん〜〜 えっ よくなったんだ〜〜。うふふふ うふふふ。」と二人顔を
合わせて笑い声が響いた。


118: 名無しさんAA:11/04/29 14:52
(衝撃映像)核兵器、水爆、原爆の実験映像
とんでもねえことなと??
いいんだよおまえらには関係ないことだ

119: 名無しさんAA:11/04/29 17:12
黄泉の国物語 17

少し行くと そこにには 今までとは少し違う石柱が まるで作ったように精巧な
8角形をして高くそびえ建っていた。そのひとつに手をかざし 老人は下を向いて
何やら呪文を唱えた。「我を守りし精霊達よ。今我は この子らと出会う境遇を得た
。今までも今からも我は正義の使徒としての務めを守り かの地が永遠に安らかなる
地になるまで 戦わん事を新たにここに誓う。・・と頭に水を切った。その不思議な
動作にこの石柱は答えるかのようにその炎のマークは少し赤みを帯びて光った。手を
離し 改めて彼は石の上に座り深々と頭を下げ立ち上がり中に入る。子供もその後に
同じ事をして続く。女も又そういう事かと同じ事をして続いた。天幕の中には火がか
かげてあり 井堀が大きい為か中にあるその火は炎は優しく感じるほど小さかった。
そうした直ぐ傍に老人は座った。「やあ よくきたな。」とまじまじと彼女を見た。
「随分人間らしくなったな。結構結構。あはははは。」と笑う。その顔をしげしげと
見るが どこかで会ったような会わなかったような思い出せなかった。「おおう女よ
ところで、危険を冒してまであの全能の神世から逃げたのは何故なのかい。」と火の
守をしながらチラと女を見て言った。が女は火を見ていて何も答えられずにいた。そ
う思い出そうとする何かがこみ上げては来るがそれが何かがわからないし 言うべき
言葉すら見つからなかったからだ。「此処に来たのはわしに何か聞きたいからではな
いのかい。」と言えば 火を見ながら彼女は大きく目お開き。「私は一体誰。ここは
一体何処なの。」と言い涙を流した。「ほう まだアーマニャーの娘の物語を聞かさ
れずこの地に降り立ったのだろな。そうさな。さてさてどうしたものか。」と火に小
さな割り箸のような石をくべながら火を焚く。「ねえ・・・キヨが聞いていい あの
ろくちゅうごくうの話がききたい。」「ろ・くちゅうごく・・」「ほほうキヨはあの
話が気にいったのか。」「うん。」「そうかそうか。」「そのろくつごけって何。」
「う〜む。そうさな わしが何故ここにいるのか 少し話したがよいみたいだな。」
「わしの名は 最初の神の使い ゾロアスターと地上では言われていたアスロンとい
う成り上がりものじゃ。まあ8千年も前の話だがな。・・・。」


120: 名無しさんAA:11/04/29 18:26 ID:M.
そう兵器の進化は2011年になりついに
破滅兵器へと成長したのだ!

121: 名無しさんAA:11/04/29 18:26
もはや破滅を超える破壊力は存在しない

122: 名無しさんAA:11/04/29 18:28
力なき者もまた無力よ…

123: 名無しさんAA:11/04/29 18:31
第一シーズン”死体くさい〜息詰まる食卓”


124: 名無しさんAA:11/04/29 18:36
Denis Cyplenkov vs John Brzenk - The 6 rounds in one Video - ( Vendetta Las Vegas 19/06/09 )

125: 名無しさんAA:11/04/29 18:38
アームレスリング

126: 名無しさんAA:11/04/29 18:40
世界選手権 IN JAPAN



127: 名無しさんAA:11/04/29 18:42
う゛ー!ヨイショッ!!!

128: 名無しさんAA:11/04/29 18:44
破壊狂気

129: 名無しさんAA:11/04/29 18:47
覇王金剛

130: 名無しさんAA:11/04/29 18:48
広島OP 金井vs田中

131: 名無しさんAA:11/04/29 18:48
金井重紀VSジョンブルザンク

132: 名無しさんAA:11/04/29 18:49
ジョンブルザンクVS 金井義信

133: 名無しさんAA:11/04/29 18:51
第一シーズン”死体くさい〜息詰まる食卓”

134: 名無しさんAA:11/04/30 04:11
いったいなんなんじゃ… 
いったい…
バルドラの野原で小さな虫たちを食べて生きていた
一匹のサソリのはなしを聞いた事があるの
そのサソリがある日イタチに追いかけられて井戸に落ちた時言うの
「ああ… わたしは今まで 幾つの者の命を取ったかしれない
ああ… どうして私は私の身体をだまってイタチにくれてやらなかったろう 
そうしていたらイタチも一日生き延びたろうに
どうか神様わたしの心をごらんください
こんなに虚しくいのちを捨てずどうかこの次には
真のみんなの幸せの為に私の身体をお使いください…」
そうしたら何時かサソリは
自分の身体が真っ赤な美しい火になって
夜の闇を照らしているのを見ていたんですって…



135: 名無しさんAA:11/04/30 08:49 ID:F2
黄泉の国物語 18


 「まあまあ座って白湯でも飲みながらよーく理解しながら聞くがよい。それはそれは
長い長い話でな 多分お前さんは飽きるであろうが それでも聞きたいじゃな。なにせ
お前さんの出生の秘密だろうからな。」と言って湯の入ったカップをそれぞれに渡した
。「まあ今から1万年も前の話からつづくものだと思ってな。かつて空から降ってきた
といわれる太陽神ラーというのが 私の始祖と言われていてな わしが生まれた頃は何
故か長生きの長老ばかりがいたのだ。彼らは自らを選民としていたが がそれでもその
中の一人だけが一子相伝としてマギの秘法が代々受け継がれて来ていたのだ。他は例え
わしらの一族であったとしても その頃はマギ一族と言われていたが 他はあやかれぬ
のだが そうした中でまあイエスが現れる6千年も前に生まれたと思ってよいが わし
の爺さんは当時は全くそうした秘法にあやかれぬ子として生まれた。じゃがのうわしら
神の子供とされる一族も人同様腐れてしもうてな その子の能力よりは血縁を大事にし
てしまうような人間に変わっていってな 二つの勢力に分かれたのじゃ。それは正当な
権威をもって国を治めようとする力と 他の一族ともに平等に生きることを望んだ輩と
に全く分かれてしまったのだ。当然おじから親父の頃には 権威についた方はバビロン
の宮廷を作り人々に脅威と畏怖を与え続け 又一方では 一緒に生きようとしたものは
その部族の秘密の儀式を公然と他の人々に向けて教えたし 他の部族にまでその宗教的
哲学を教えていった。」と深いため息をついた。「そう そうこうしてそれが醜い争い
にならない訳はなかった。権威は今まで 部族の子供の手相から次の指導者を決めてい
たがいつの間にか王家の一族が回りを固め バビロンの大宮の中で栄華に明け暮れた。
一般に広めたマギも又 これを理解する者も理解しない者も悪用する者も構わず教えた
ので その噂で持ちきりとなり 遠くエジプトやローマ あるいはトルエンの都からも
やって来たのだ。それは時の大王家を助ける大きく繁栄させる事に寄与しただけで 真
のマギ一族の安泰にはつながらなかった。そしてまあ今よりは小さいものの世界戦争が
起こった。そしてこの大宮を壊す為に核兵器すらも使われたのだ。これが紀元前の千年
戦争と言われるものだが その時研究して使われた時空間シェルターが このあの世で
も現世でもないこの地だ。当時は多くのマギ族の多くの者が此処に避難したが ここは
まだ完全に完成してなくてな。ひとつの欠陥があったのだよ。」

 



136: 名無しさんAA:11/04/30 09:50 ID:F2
黄泉の国物語 19

「欠陥。」「そう欠陥だ。」「けっかんってなあに。」「欠陥とは間違いの事よ。え
そっれって 此処が間違いの土地って事。」「そうだ。間違いの地なのだ。」「それは
一体何。」「まあそう急ぎなさんな。君は パラレルワールド 近格子世界って知って
いるかい。」「きんこうしせかい。」「そう 互いに同じように同じところで繋がって
いながら 全く違う世界。という事だ。」「たとえば ミカンを食べた事があるだろう
。あのミカンの皮を向けば 幾つかの袋が現れる この袋が世界という入れ物でその一
つずつの粒粒が人でありそうした中にある果汁が人の命といえる。世界は そうやって
皮一枚で繋がっていながら全く違う世界にいる。更にミカンの木は幾つもの果実を木に
ならせるがこれは枝で繋がっているが 宇宙も又同じでこの見える宇宙と同じ宇宙が別
の所に又あるだ。この土地はそうした 滅びた住民がいた 時空軸の中心の土地だった
のだ。いわばミカンでいう木の枝や幹の部分なのだ。」「へえ ここが枝や幹。」「そ
う 此処に来ることが出来れば時間軸を乗り越えて 未来にも過去にも行ける十字路の
土地なのだ。」「えっ 未来や過去に行けるの。」「そうお前さんもすでに35回もの
往復をしている。自分では判らないだろうがな。」「35回。」「そうそれが輪廻とい
う掟なのだ。」「掟・・」「まあ判らぬでもよい。それはそんなに重要でない。この世
界というよりは 隠れ部屋とでも言ったほうがいいかも知れないが この部屋がいつで
も入って出るという事は 知らないものには大きな脅威であったし 誰もがこの部屋の
秘密を知る事になる。という事だ。それは何の進歩でも同じなのだが 便利と脅威とが
混在し 悪用とその対策に明け暮れた便利社会が出現するいう奇妙な事が起こる。紀元
前に現れた 電気や錆びない鉄や原爆も鉄砲も総じてすべてが そうした混乱社会をつ
くりだしたのじゃ。」「それは仕方のない事。」「そう それは仕方のない事ではある
しかし それでは済まされぬ現実が横たわっていたのだ。」「此処に生きたものが来て
未来や過去に自由に行き来したとして 宇宙から来る時間という格子が一つの次元世界
を保てなくなるということが起きる。」「どういうこと。」「そうさな例えば御穣ちゃ
んが絵本を見ていながら 気に入らない所で絵本の中にはいり 絵本の物語を変えると
言った事をしだしたら それは紙に印刷した絵本ではなくなるし そこを消そうとした
消しゴムは この絵本を切り抜くはさみに変わってしまった。とでもいえようか。」

  



137: obaka:11/04/30 12:27
黄泉の国物語 20

「そう その絵本に自由に入れる主人公はいいとしても 絵本の中にいて大事に物語を
守っていた元々の主人公は おおいに困ってしまったのだ。そこで そうした人が集ま
り知恵を絞ってこの部屋に錠をかけだしたのだ。今まで自由に出入りしてきた人々は 
もちろん大いに反対し怒った。又この部屋の錠をかけ出した人の中にも隠れてそうした
事の特典つまり開ける鍵を独り占めにしようとする人々もいた。ここに争いが起きない
訳がない。つまり自由と制限の戦いだ 第二次紀元前戦争 日本での世界大日如来戦争
だ。ここで使われた原子爆弾は 滅びていくバビロンの人々の言葉を無くすに十分だっ
たしそれによって サハラとタクラマタンを砂漠に変える事は充分すぎる量で人々の大
半はここで死んでいった。
これが親父達の戦争だったが それからのちは生き延びた人々が 各地に住み着いて又
栄華を誇るようになったのだが 此処で又時空をさかのぼる技術が出来たら今度はわし
が出て 又戦わねばならん。」「・・・・・・・・・・。。。」「おうおうお前の話が
出てこなかったな。この世界がまだ明るかった時 わしは親父と共にこうして天井をつ
け部屋にしたのだが この時手伝ってくれたのがだいだら坊 西洋のアトラスなのだが
この時少しだけ 地上世界に出た事があってな。つまり絵本の中身を変えてしまった事
が昔あってな その時この地から一緒に下界にでていったのが お前さんが知るエホバ
やラー或いはイエスやマホメッド或いは御釈迦様だと親父は言っていたがね。かれらが
生まれた時や生きた年代は全く関係ない。さっき言ったように時間をさかのぼれるから
な。問題はこのマジック。マギの秘法をいつ仕入れて どう使おうとしているかだ。」
「それは何故。神としての責任。」「あはははは。神だって。われわれの一族は見ての
通り長生きはしている。だが神ではない。たまたま人類を導いたであろうラーの直系で
先祖がえりの集団だが それはわれらのみの事ではない。何処の国でもどの種族であっ
ても抜きん出てこうした頭の良い人たちはでる。」


138: obaka:11/04/30 13:28
黄泉の国物語 21

「その戦争の最中に私は父の言いつけで 現世に戻っていった時私は君に会ったのだ。
そして 孤独にも一人で旅する私を助けてくれたのだ。」「私が 助けた。」「そう
お前さんがまだ幼かった頃 一族の長老の子でな裕福に育っていたのだろう。が君は
ある男 それはそれは貧しい青年であったが 心のりっぱな青年で彼に恋をしたのだ
 そしてお前さんは親の反対を押し切って結婚をしたのだ。」「。」「そうさ それ
自体は何処にでもある話しで ただ美しい王女が貧しい青年と駆け落ちした話だがの
。話はそれでは終わらない。その王女は青年と共に違う町でそれはそれは幸せな暮ら
しをしていたが 戦争の影響かある年大きな洪水が村を襲ったのだ。その時は助かっ
たのだが 男が田舎の災害を伝え聞き母の安否を尋ねる事を申し出したんだ。子供を
授かったばかりで君は更に身重で ついていけない。一度は反対しても彼と喧嘩をし
てまで送り出すことはしたくなかったので しぶしぶ賛成した。」「。」「が運悪く
彼は 母が元気である事を確かめたあと 帰り道で又降って来た雨の起こした洪水に
遭難して世を去ったのだが 愛して止まない君は その彼が死んだという噂を信じな
かったし 自らの目で確かめるべく子供を連れて彼を探しに行った。」「・・・・」
「そして貴方は大変な危険な目に会いながら彼の流された川辺についたのだが 季節
はずれの大雨に 二人の子供を死なせてしまった。そうした悲しいままに彼の母の郷
里に着いたが 彼の身内もまた流されてしまって 部落の人も散りじりに山に住んだ
という噂に山に篭もった。しかしして 子供がいない寂しさや出産後の精神の不安定
さから君は生きていけない事を悟ったのだろう。ある時命を救い親切にしてくれる旅
人を殺して食べてしまった。それはすでに里に出ては子供をさらい○肉を食っては 
生き延びて来た君には その悪行がわからなかったのだ。そこにやって来たのが 私
の弟子だった仏陀なのだが。少しは思い出したかい。」「はあ・・。」「そして そ
の時君に助けられて君に慕っていた子供らが この子達だ。その時最愛の止まないで
その正気を取り戻させた赤子が 今君が離れて来たあの御婆なのだ。そうその時の旅
人とに出来た子供だがね。」


139: 名無しさんAA:11/04/30 13:44
ゾンビが全力で追いかけてくる映画「28週後...」日本語予告編

140: 名無しさんAA:11/04/30 13:47
地獄っ

141: 名無しさんAA:11/04/30 13:48
sojitz_MSCB 双日は地獄だぜ!

142: 名無しさんAA:11/04/30 13:54
あの呪いの動画にアクセスしたキーボードクラッシャー

143: 名無しさんAA:11/04/30 14:07
ゾンビが全力で追いかけてくる映画「28週後...」日本語予告編

144: 名無しさんAA:11/04/30 14:09
「デイ・オブ・ザ・デッド」予告編

145: 名無しさんAA:11/04/30 14:10
まるで疫病のようにころす… ガクブル

146: 名無しさんAA:11/04/30 14:11
憑依するってのが史上最強のゾンビ

147: 名無しさんAA:11/04/30 14:12
Evil Dead 2 - Trailer

148: 名無しさんAA:11/04/30 14:14
史上最強の感染兵器

149: 名無しさんAA:11/04/30 14:15
死霊のはらわたVS悪魔のいけにえ

150: 名無しさんAA:11/04/30 14:17
入り込んでくる
エクソシスト.リチャード ベイマン

151: 名無しさんAA:11/04/30 14:24
死霊のはらわた現象が
ただの思いすごしだなんて言ってる神学者の
頭を疑うね俺は

152: 名無しさんAA:11/04/30 14:24
おまえら本気で言ってるのかと

153: 名無しさんAA:11/04/30 14:25
あれを見てあれがただの精神疾患に見えるか?
あの疫病みたいになってる人間が悪霊かなんかか?
どうみても感染してるだろッこれは医療的な問題だ

154: 名無しさんAA:11/04/30 14:27
医療的に見て脳の変異 感染症 癌 合併症に侵されている

155: 名無しさんAA:11/04/30 14:28
思い込みなんかで解決できるわけがない

156: 名無しさんAA:11/04/30 14:28
もはや社会で解決できる範疇を超えている

157: 名無しさんAA:11/04/30 14:30
払いもちゃんとやらんと意味ない気が

158: 名無しさんAA:11/04/30 14:35
64年前のヒロシマ、ナガサキ Hiroshima,Nagasaki 64 years a
そして我々の行く手にはさらなる困難が待ち構えている

159: 名無しさんAA:11/04/30 14:36
衝撃映像)核兵器、水爆、原爆の実験映像

160: 名無しさんAA:11/04/30 14:37
レッドコードが裏目にでた

161: 名無しさんAA:11/04/30 14:38
一言もしゃべるなッ

162: 名無しさんAA:11/04/30 14:38
やべぇ神体実験と引き換えに
世界が滅亡する

163: 名無しさんAA:11/04/30 14:39
早く死ねーゆうとんじゃッ!
・・・
ど  どうすんだ…

164: 名無しさんAA:11/04/30 14:39
ど どど どうしよう…

165: 名無しさんAA:11/04/30 14:40
そんなもんだおまえの上なんて
まあそれはよしとしてッ
命は粗末にしない方がいい気がしてきた

166: 名無しさんAA:11/04/30 14:41
こりゃこれから先何が起こるかわからんぞ

167: 名無しさんAA:11/04/30 14:41
この世からなくそうじゃなくて
この世がなくなる

168: 名無しさんAA:11/04/30 14:42
・・・・・

そ〜っ・・・

169: 名無しさんAA:11/04/30 14:43
だからこの世がなくなるって!

・・・
さいならっ!

170: 名無しさんAA:11/04/30 14:44
ゾンビが全力で追いかけてくる映画「28週後...」日本語予告編

171: 名無しさんAA:11/04/30 14:45
(MAD) ミスト

172: 名無しさんAA:11/04/30 14:48
又思い込み
もう思い込みなんざどうだっていいんだよ!ばかァ!


173: 名無しさんAA:11/04/30 14:49
バカたれが…
あの異形が何者なのかわからんのか
あほう 
みんな急ぐぞ撤収だ
このまぬけどもめ

174: 名無しさんAA:11/04/30 14:50
タタリ神だァ!!

175: 名無しさんAA:11/04/30 14:52
Princess Mononoke

176: 名無しさんAA:11/04/30 14:53
ヘドロタタリワールド

177: 名無しさんAA:11/04/30 14:54
Godzilla vs Hedora

178: 名無しさんAA:11/04/30 14:56
ヘドロゴッド

179: 名無しさんAA:11/04/30 14:57
ヘドロバグシックゾンビ

180: 名無しさんAA:11/04/30 14:57
泣きっ面にハチのトリプル往復びんた

181: 名無しさんAA:11/04/30 15:00
肥だめに落ち上からかけられ

182: 名無しさんAA:11/04/30 15:02
すさまじい新世界の神

183: 名無しさんAA:11/04/30 15:02
そんなもんいやじゃあ!

184: 名無しさんAA:11/04/30 15:03
【アニメ】 まんが日本昔ばなし 「牛方と山んば」.avi

185: 名無しさんAA:11/04/30 15:35
まんが日本昔ばなし 「一軒屋の婆」

186: 名無しさんAA:11/04/30 16:36
42作ぼくの伯父さんオープニング

187: 名無しさんAA:11/04/30 16:40
Tora-san is Eternity

188: 名無しさんAA:11/04/30 16:47
宇宙人だよ! 寅次郎! 男はつらいよ

189: 名無しさんAA:11/04/30 16:56
ゲゲゲの鬼太郎 80's

190: 名無しさんAA:11/04/30 16:57
おそ松くん OP - 正調おそまつ節 / osomatsukun OP

191: 名無しさんAA:11/04/30 16:59
おそ松君11-1

192: 名無しさんAA:11/04/30 17:07
ちょい見せ 「天才バカボン」

193: 名無しさんAA:11/04/30 17:08
ちょい見せ 「チエちぇん奮戦記 じゃりン子チエ」

194: 名無しさんAA:11/04/30 17:10
パタリロ ED クックロビン音頭

195: 名無しさんAA:11/04/30 17:15
nagareboshi-gin EP01 1-3

196: 名無しさんAA:11/04/30 17:24
アニソン あしたのジョー ロングバージョン OP

197: 名無しさんAA:11/04/30 17:31
破邪大星ダンガイオー

198: 名無しさんAA:11/04/30 17:35
蒼き流星SPTレイズナー OP

199: 名無しさんAA:11/04/30 17:37
Urashiman OP

200: 名無しさんAA:11/04/30 17:47
イタダキマン
天から降ったか地から沸いたか三千世界を乱すやつイタダキマンだ!

201: 名無しさんAA:11/04/30 17:51
Marvel2
アメリカンコミックの世界

202: 名無しさんAA:11/04/30 17:53
American HEROS Grraphics

203: 名無しさんAA:11/04/30 18:57 ID:fA
南こうせつ 妹

204: 名無しさんAA:11/04/30 19:00
妹 / かぐや姫(伊勢正三 南こうせつ 山田パンダ)

205: 名無しさんAA:11/04/30 19:17
夕焼小焼

206: obaka:11/04/30 19:36
黄泉の国物語 22


「あの御婆が 私の子供。」「そうだ お前さんがこのパラレルワールドを行き来し
ほとけが隠した子供を見つけようとしてる間に子供は年を取ってしまったのだ。」「
そう時間は誰にでも 均等に等しく動くと勘違いしている人間にはわからないかも知
れないね。」「此処が黄泉の国だから・・・」「いいや違う 君が必死に探したから
だ。」「探したから・・・私が若い・・・」「此処は観念の世界だから具象化するの
は簡単だが 現世でも同じだ。脳に操られる人の体は体内時間を操る。よく眠りよく
考えるものは 過去の脳幹も新しい被服される脳も 我らのマギのというよりは最初
に地球に降り立ったラーの精神が蘇るはずだ。そしてこの地やあの世や現世を行き来
すればその分時は止まってしまう。だからお前が子供を見つけれずにある世界で悲し
みメドゥサとして塞ぎ込んでしまった時は 誰もがもう手がつけられないと思ったろ
う。」「石になる熱い視線・・・」「そう物質を変えるのではなく。動きが止まるこ
のマギの秘法を知ってな あの世も現世も此処も何処でも出入りしては壊してな。手
がつけられなかった。」「はあ。」「それを救ったのがこの青鬼さんだ。」「鬼の子」
この子は 仏がお前の赤子の婆を隠した時 代わりにそっと置いていった赤子だ。」
「この子もかわいそうな身の上でな 鬼っ子の世界ではやさし過ぎて生きていけない
身の上でだいだら坊と同じに下界で どっか生きて行ける所はないかと探していた時
お前に預けたのだよ。じゃが 人間世界も又鬼の世界と同じでな 中には気にしない
者もおるが 容姿の違う彼らは受け付けられなかったというのが素直な感想じゃて。
更にお前が あっちこっち駆け回るで 付いていけない子供らが此処に残り乳飲み子
であるあの青鬼の子だけが お前さんの腕に抱かれて輪廻の世界を駆け回ったってい
うところだ。」「輪廻の世界。」「ああそうだ わしが6柱5宙の法をもってやっと
ここの地を納めることが出来るようになったが それまでは此処をして人は輪廻の中
で都合がいいところに降りて行く事が出来たのだ。さっき言ったように此処は概念の
世界だ 誰もが花園と思えば花園が広がり 暗黒と思えば暗黒が広がる世界なのだ。
これをマギの秘法をもって 閻魔を遣わして花園と暗闇の世界に変えたのはここ最近
の1千年ぐらいしかならぬのじゃ。

 


207: obaka:11/04/30 20:17
黄泉の国物語 23


 まあ それでもわしはまだまだ わしの最後の弟子である釈迦王子の手の平の中に
立っているのがやっとじゃがな。はははっは。」「釈迦王子ってそんなに偉いの。」
「ああ あいつが来なければ この火を守る秘儀もマギの秘法もゾロアスターの教義
も只の伝統でしかなかったろう。わしの親父の頃から色々な者が弟子入りしたが本当
に哀れみと悲しみをもって人類を救おうとこれを会得した者は後にも先にも彼一人だ
った。イエスもマホメットもいやエホバもアッラーもゼウスも創造主と言いながらも
彼らが神にはなっても 世界中のすべての民衆上を救う事は出来なかった。それが仏
だけがこれを救えるのじゃ。ん。」「何故・それは何故なの。」「それはのうここの
完成と管理が出来たからだ。ここに屋根をつけ暗黒としたために 時を封じ込め一方
方向にしか通れなくしたからだ。他の神々と称した者は誰もが 自らのその能力をひ
けらかし 過去も未来も自由に見せる事で 人々を先導した。それが偉さだったのだ
が 釈迦王子のみは自らが 過去も未来も行ってはその中身を知っても決して強いて
人に畏怖させてまで話そうとはしない。いやそれどころか 自らもまた長生きはして
も不死の命を望まない事を此処で誓ったのだ。それにわしは感心したし閻魔は花園の
管理人を自ら望んだのだ。それが証拠に彼らは何処でも信者を率いているが仏の信者
のみが 大きくはならずいる。つまり戦いが出来ないままに争いがない所にいる。
隣人を愛し悪人すらも愛せよなどと説く馬鹿は誰もいなかったが 仏はそれを説く事
で 命を決めたのだ。そう人が誰もが 生まれて死んで行く事に時間を与えたのだ。
他の神々は伝説になる事で年を取らず 息子や意思を受け継ぐ事で古くならぬ事を模
したのだ。が苦労して作った完全なその仕組みこそが 一番古くなる命だったのだ。
対して仏は死者を蔡らうことに何の恥らいはない。生まれて死ぬことは個人のものだ
と決めて 時間が止まることもさかのぼる事も無い事を悟る事で 短くも長くもある
と説いたのだ。そして観念の世界が闇の世界に変えた事で人は騒がなく目の前の暮ら
しを大事にしだしたのだ。」「それって・・」「そう わしが教えたマジック 罪の
あがない 罪深き人々を裁き 正しき人を手伝う事は必要なかったって事さ。」




208: obaka:11/04/30 21:05
黄泉の国物語 24

「まあそう言う事でわしの親父はあきれていたがな。」「あきれていた。・・」「ああ
この拝火の祈り ゾロアスター教はゾロアスターがそれを会得した時誰もまだ宗教家
ではなかった。だからヒンズーもバラモンもキリストもマホメットもこの教義のもつ
力にあこがれてその哲学を学び会得した。が釈迦のみは会得しても尚悩んでいた。あ
る時言ったものだ。6柱秘儀 7神5宇の法儀は きっとお前を強くし悪と戦うに大
きな武器となるであろう。とな。だが彼は静かに いや私は戦わない。ときっぱり言
うのだ。だから親父は怒ったよ このマギの秘法は悪と戦うための秘儀であってその
為にこれを教え広めているし善良な善人を増やす事にそれが意味があるのだ。とね。
不思議な事をいう男として見ていたが ある時例え善の為の戦いであったとしても、
或いは全くの悪を討つためであっても それが滅していなくなる事はあろうかと説い
た。これにばか者といって棄てる事は簡単だったが父は少し考えて 「それはない」
と答えた。すると「ならばその悪は悪人は何処からか湧き出して何処から染まってき
て其処にある。」と言い「その流れてくる悪を善とする事は出来まいか」と聞いてき
たんだ。なあ不思議な男だろう。」「・・・その6柱秘儀や7神5宇ってなあに。」
「ああマギの秘法か。ちょっと見せてやるか。」とたちあがり 大きく手を振った。
すると ちょろちょろと燃えていた火は 大きくなり 高く高く炎が伸びたところで
伸び切ったところで 龍の形をして大空を飛び交い その炎の龍は彼女らを襲うよう
にも大きく口を開け ぱたと消えた。次には柱の頂上に赤い炎や黄色や緑や青が灯り
辺り一面を照らしたかと思えば 次はその火の中から噴水のような水が上がったが不
思議にも中央の炎に向かっても何ら炎は消えない。次に敷石の隙間から生えていた草
は勢い良く生え伸びて それはまるでジャックと豆の木ように天高くのぼったが 雪
が降って黒くなり 枯れてはそのまま風に飛ばされて消えた。やがてはその隙間から
茎が又伸びては花が咲き その花は色とりどりの光を発していた。「どうかね。」と
白髪の老人は笑った



209: 名無しさんAA:11/04/30 23:36
どうしようもないほど引きずりこまれて
地獄の底まで付き合わされるという大変なはなし

210: 名無しさんAA:11/04/30 23:38
稲川淳二 〜城址にて〜

211: 名無しさんAA:11/04/30 23:58
本こわ
叫ぶ廃病院

212: 名無しさんAA:11/04/30 23:58
ウぇあ〜

213: 名無しさんAA:11/05/01 00:03
ドブはどんどん行くんだどんどん行って
見えなくなったんだ…

214: 名無しさんAA:11/05/01 00:05
これって主演がすげえつきあいにくそうな奴

215: 名無しさんAA:11/05/01 00:08
でたあ!

216: 名無しさんAA:11/05/01 00:10
よくこんな不気味なもの見れるよな
貴重な情報源だ真実を見極めない限り死中に活は見いだせんからなっ

217: 名無しさんAA:11/05/01 00:23
めを合わせん方がいい
最悪な判断をしてしまっている事に気づかせた方がいい

218: 名無しさんAA:11/05/01 00:24
Zombie News WZMB
終わりすぎっ

219: 名無しさんAA:11/05/01 00:28
Dawn Of The Dead Extended Version Part 1
何十年も前にこのレベルの会話がされてるのに

220: 名無しさんAA:11/05/01 00:31
意見がまとまらねえほうがまだ良かったんじゃねえか今思うと…

221: 名無しさんAA:11/05/01 00:33
こんなTVのセンター情報なんて誰が見るんだ!バカらしい!


付ける薬もない どう しようもない… ぱあだ

222: 名無しさんAA:11/05/01 00:36
ヘリがある脱出しよう
みんなを置いていけないわ
なんとしても生き延びるんだ…

223: 名無しさんAA:11/05/01 00:52
だってゾンビなんて説明できない事がたくさんある
なぜゾンビ同士では共食いしないんだおかしいだろ
ゾンビはある特定の生き物を狙っているのサようするに政治的な狙いがある
それでも人間を喰うのに共食いしないのはおかしい
ゾンビ同士は腐敗しているから喰いあわない人間の新鮮な肉を好む
なんで発生したんだなんで
脳に対する放射線か電波の影響あるいは感染病
意味が分からないなんでそうなるなんでこんなことになる
細胞が変異し拡大した感染病や脳の奇形による影響で生命の細胞事体の構造が変異した


224: 名無しさんAA:11/05/01 00:59
例えばスライムは細胞事体の形状が人間のそれとは異なる
細胞の形によって成長する生き物も変わってくる
あるいは細胞よりもっと小さい原子や粒子のレベルで変異したのかもしれない
その影響が人間の形状を変貌させた

遺伝子の形が急激に変異するなんて

しかし我々は一夜にして内臓疾患を起こしたりウィルスによって
皮膚炎症を起こしたりするではないか

政治的な狙いってなんだ政治的な狙いって

おそらくこの問題の発生した原因は計算外予測不能な事態によって引き起こされた事故にある
あるいはこのウィルスはこれ以上の事態に陥る事を防ぐための破壊プログラムだろう


225: 名無しさんAA:11/05/01 01:02
ある惑星の高度な科学力を持つ生命体が
戦争になり追い詰められ最後の力を使ってこの破壊ウィルスを放った
ウィルスは暴走し世界を喰っている

226: 名無しさんAA:11/05/01 01:02
おそらく神すらも止める事は…

227: 名無しさんAA:11/05/01 01:06
やけくそ潔癖症ッ ww

228: 名無しさんAA:11/05/01 02:19
ものまね / コロッケ傑作選

229: 名無しさんAA:11/05/01 02:24
Betsy & Chris White color is lover's 白い色は恋人の色

230: 名無しさんAA:11/05/01 02:34
大魔神逆襲_予告篇

231: 名無しさんAA:11/05/01 02:39
妖怪百物語 妖怪大戦争 妖怪お化け道中

232: 名無しさんAA:11/05/01 02:46
三丁目のゴジラ

233: 名無しさんAA:11/05/01 02:48
ZOMBIE 予告

234: 名無しさんAA:11/05/01 02:51
世界を引き裂くスーパー残酷リマスター


235: 名無しさんAA:11/05/01 02:51
ザ・クレイジーズ 予告編 - The Crazies - DVD trailer

236: 名無しさんAA:11/05/01 02:59
空の大怪獣ラドン(1956) 予告編 HD 1080p BD [RODAN] trailer

237: 名無しさんAA:11/05/01 03:04
Superman returns trailer

238: 名無しさんAA:11/05/01 03:07
トランスフォーマー3「日本語予告」

239: 名無しさんAA:11/05/01 03:12
Last Action Hero trailer

240: 名無しさんAA:11/05/01 03:15
The Neverending Story Trailer

241: 名無しさんAA:11/05/01 03:16
こんなのが仕事ですけど


242: 名無しさんAA:11/05/01 03:16
宇宙レベルでみたらせこくって

243: 名無しさんAA:11/05/01 03:18
ナルニア国物語 第一章:ライオンと魔女  予告編(字幕版)

244: 名無しさんAA:11/05/01 03:21
Harry Potter and the Sorcerer's Stone Trailer

245: 名無しさんAA:11/05/01 03:25
ちょっと期待させすぎたかな
The Fog (1980) - Official Trailer

246: 名無しさんAA:11/05/01 03:31
マゴリアムおじさんの不思議なおもちゃ屋

247: 名無しさんAA:11/05/01 03:32
いいんだよ誰に特定していってるわけじゃないんだから

248: 名無しさんAA:11/05/01 03:33
だってそうやってムキになって否定するじゃないの

249: 名無しさんAA:11/05/01 03:33
ならまだ安心できん
マゴリアムおじさんの不思議なおもちゃ屋

250: 名無しさんAA:11/05/01 03:35
店は各々で出せる
そんなのあたりまえじゃないか
商店街なんだから

251: 名無しさんAA:11/05/01 03:35
ムキになる意味がない

252: 名無しさんAA:11/05/01 03:35
己の店に自信がないからそうやってぇきみらぁ

253: 名無しさんAA:11/05/01 03:36
そんな天の雲の上の出来事なんて考える必要はないでしょ

254: 名無しさんAA:11/05/01 03:37
この商店街を仕切るということは全世界のシェアを仕切るにも等しい事であると思う
いくらなんでも隠して全部手に入れるなんて欲のいいすぎ

255: 名無しさんAA:11/05/01 03:38
欲の皮のつっぱりすぎそれ
無茶やぜ…

256: 名無しさんAA:11/05/01 03:39
だから…
わかってないからこうやって
言ってるんじゃないの

257: 名無しさんAA:11/05/01 03:40
何度も何度もきみらぁ
言うな言うないうから余計に不安が出てくる
ほんまにわかっとるのかなと

258: 名無しさんAA:11/05/01 03:43
俺からいわせりゃ幼稚な子どもの会話だね
さっきから聞いてると
こうしてる間にも誰かがその世界に入り込むかもしれない
成長は誰にも止められない
それなのに古い意味の分からない事にこだわりしがみついて
なんら徳川と変わらんじゃないか俺はそんな惨めったらしいものに
しがみついてお宝を見過ごすなんてできないね
誰が あなんと言おうとこのお宝は 

259: 名無しさんAA:11/05/01 03:44
10年もあったのにそんなレベルなんて
まったく世の中はどうかしてるよ

260: 名無しさんAA:11/05/01 09:01
新しい時代に合わせた興業を打ってか無いと飢え死にする

261: 名無しさんAA:11/05/01 09:02
空の大怪獣ラドンしかない

262: 名無しさんAA:11/05/01 09:02
空の大怪獣ラドン(1956) 予告編 HD 1080p BD [RODAN] trailer

263: 名無しさんAA:11/05/01 09:03
日本には老いたりとはいえ
いい作品がたくさんあるんだぞ

264: 名無しさんAA:11/05/01 09:03
そんなもんはせん…


265: 名無しさんAA:11/05/01 09:04
そんな事ばっかり言ってるから情けない興業しかうてんのだ

266: 名無しさんAA:11/05/01 09:04
明智小五郎対怪人二十面相

267: 名無しさんAA:11/05/01 09:06
これは興業戦争だ
ドリフターズとクレイジーキャッツ
新日本プロレスと全日本プロレス
紅白歌合戦とレコード大賞
そして西暦2011年
日本娯楽番組と世界ハルマゲドン

268: 名無しさんAA:11/05/01 09:07
この市場に入っていかなければアッとゆう間に大差をつけられるどころか乗り遅れて
戦争非参加国 中国と同じ目にあうことになぁる
それでいいのか太平洋戦争参加国の日本が
中国だ!ええ!それでいいのかっ!

269: 名無しさんAA:11/05/01 09:07
春馬の歴史 ( 相川泰 役)

270: 名無しさんAA:11/05/01 09:09
否!これは日本だけではない!
すべての国々が取り組まなければならない重要な事なのだ!

271: 名無しさんAA:11/05/01 09:10
俺は絶対にこの興業を止める気はない
そして!必ず俺が宮崎にプロ野球団をひっぱる!
わかったか君らの底辺のレベルが

272: 名無しさんAA:11/05/01 09:14
フッフッフフ ハッハッハッハ
だれだ… 何がおかしいッ


273: 名無しさんAA:11/05/01 09:14
明智探偵!!!


274: 名無しさんAA:11/05/01 09:17
めちゃイケ 新メンバーオーディション


275: 名無しさんAA:11/05/01 09:17
勢いだけ組ww

276: 名無しさんAA:11/05/01 09:19
これおもしろかったな結構
マニアックなのがいっぱいうけてた


277: 名無しさんAA:11/05/01 09:21
是調べたらいろんなの出てんだろうなっ多分っ

278: 名無しさんAA:11/05/01 09:23
オーディションの内容が濃すぎてギャラが払えないから
メンバーにならなかっただけだったらしいデキレースみたいな

279: 名無しさんAA:11/05/01 09:24
またやってほしい
ずっとやってほしい

280: 名無しさんAA:11/05/01 09:27
これはもうすごい思い出になったよな

281: 名無しさんAA:11/05/01 09:29
よく見ると結構な人が

282: 名無しさんAA:11/05/01 09:30
ぼんちおさむっ

283: 名無しさんAA:11/05/01 09:32
たむらけんじww

284: 名無しさんAA:11/05/01 09:32
いやわからんぞこんな状況だからこそ
どないな業界人があらわれるかわからん

285: 名無しさんAA:11/05/01 09:33
ぬらりひょんとか来るかもしれん

286: 名無しさんAA:11/05/01 09:35
やろうや〜も〜つまらんわ〜
もうやろうや〜

287: 名無しさんAA:11/05/01 09:49
お笑いコンビ元「極楽とんぼ」の山本圭一(42)さんが、フジテレビの人気番組「めちゃ×2イケてるッ!」の新メンバーオーディションに参加していた、と報じられた。

キコれおもしろいナw全然つかわれなかったんだ

288: 名無しさんAA:11/05/01 09:52
めちゃイケ フジTV警察 ダウンタウン浜田vsナイナイ岡村 2/ 2
ぜんぜんのろうとしない冷笑のダウンタウン浜田

289: 名無しさんAA:11/05/01 09:57
当然の冷わらいがえしっ

290: 名無しさんAA:11/05/01 10:00
めちゃイケ フジTV警察 ダウンタウン浜田vsナイナイ岡村 1 /2
こ この番組はたーにんぐぽいんと

291: 名無しさんAA:11/05/01 10:02
一体 てめーら どういうつもりでこのスレに
書いてんだ。メチャイケなんていう人形芸人の話して

292: 名無しさんAA:11/05/01 10:02
これたしかナイナイとダウンタウンの深夜番組やったのに
ナイナイはタンバリン係にされたという

293: 名無しさんAA:11/05/01 10:03
あの頃は若かった‥
けど確か結構からんでたフインキ固まってたけど

294: 名無しさんAA:11/05/01 10:05
どだい 生産の無い人々は どこででも
たとええらい先生でも 大金もちの芸人でも
人のおかげで生きてるっていう 御蔭持ちなのじゃ

295: 名無しさんAA:11/05/01 10:06
なんでそんなに冷がえしww

296: 名無しさんAA:11/05/01 10:10
いけるって めちゃめちゃイケるって
おまえらめちゃめちゃイケるって
めちゃめちゃイケるって
昔は…  とぶくすりの岡村隆史やったかもしれんけど…
今は…  オールナイトニッポンの岡村隆史やろっ

297: 名無しさんAA:11/05/01 10:12
矢部ってこうゆうときすっごい不細工になるな

298: bakabonn:11/05/01 10:13
しゃいな 病気持ちの 病院でねてられへんって
いう。全く非人間的暮らしを背負った芸人が
なんで イケテルってか。TVに犯されるのもいい加減
やめたらどうだ 

299: 名無しさんAA:11/05/01 10:14
だから松本監督のダウンタウンやから
とんねるずとも共演できる

300: 名無しさんAA:11/05/01 10:15
だ・・・・どういうことなん、これ?

301: bakabonn:11/05/01 10:15
ダウンタウンなんて すでに日本の恥さらし
TV局が使ってること自体が非常識

302: bakabonn:11/05/01 10:21
そもそも 吉本興業の現社長は 笑いの最大値を
捨てて 個人主義に走った 大笑いの敵ではないか
現代をこんなに 笑いの無い 馬鹿騒ぎの人間に変えた
という 正統な御笑いからは 全くの犯罪者的アウトロー

303: 名無しさんAA:11/05/01 10:24
刑事物語2 りんごの詩 (1983) - 劇場予告編

304: bakabonn:11/05/01 10:24
お笑いは 馬鹿騒ぎとは違う
クレージー キャッツが笑えたのは
彼らは 技術があって演奏が出来た上に
落としを行ったからだ。今のお笑い界に
あの山城新吾みたいな 学をちらつかせた
落ちのある話しがあるか 全く無いではないか

305: 名無しさんAA:11/05/01 10:26
刑事物語3 潮騒の詩 (1984) - 劇場予告編

306: bakabonn:11/05/01 10:26
つまりは お笑いではなく
只の お祭りでありデレクター以下
勝手に個人放送に贅にいっているだけのスタジオ
を放送しているだけ。


307: bakabonn:11/05/01 10:34
吉本興業が悪いわけではない。
TVの頭の中 理性の無さ デレクターの犯罪性
が 全く今の社会をリードしていく使命感を
もってしているのか。ということ

308: 名無しさんAA:11/05/01 15:27
笑っていない視聴者の笑ったかのような
音声まで入れて 笑ってるのはカメラ以下
理解できてる身内のみ 一般では不可解
この 書き込みみたいに

309: 名無しさんAA:11/05/01 15:28
笑っていない視聴者の笑ったかのような
音声まで入れて 笑ってるのはカメラ以下
理解できてる身内のみ 一般では不可解
この 書き込みみたいに

310: 名無しさんAA:11/05/01 16:01
なんだソレ!!!!!!

311: 名無しさんAA:11/05/01 16:02
おまえもっとましな返答できねえわけ!!!!!
なんっだソレ!!!!!!

312: 名無しさんAA:11/05/01 16:02
・・・

313: 名無しさんAA:11/05/01 16:03
てめえらそれだけの大法螺こいて!!!!!!!
バカみたいな町内放送の繰り返しか!!!!!!

314: 名無しさんAA:11/05/01 16:04
バカみたいな町内お悔やみ放送のw

315: 名無しさんAA:11/05/01 16:04
なんっだソレ!!!!!!!!!!!!!

316: 名無しさんAA:11/05/01 16:05
・・・
腐敗は死ねっちゅう事です

317: 名無しさんAA:11/05/01 16:07
死んでるってぇだから‥
死んでるって〜そいつ
わからんのかなあマイクパフォーマーッ

318: 名無しさんAA:11/05/01 16:07
腐敗は死ねっちゅうことです…

319: 名無しさんAA:11/05/01 16:08
なんっだソレ!!!!!!!!!!!!!!!!!!

320: 名無しさんAA:11/05/01 16:09
ねぼけてんじゃねえ…

321: 名無しさんAA:11/05/01 16:13

これもダメなのかよっ

322: 名無しさんAA:11/05/01 16:13
なんだよおまえら…  なんなんだ…

323: 名無しさんAA:11/05/01 16:13
ぼけてんじゃねえ…

324: 名無しさんAA:11/05/01 16:21
だって俺沼に落ちて行くの見たんだもの

325: 名無しさんAA:11/05/01 16:21
助かるわけがねえ

326: 名無しさんAA:11/05/01 16:23
死んでるっ…

327: 名無しさんAA:11/05/01 16:24
しっ死んでるっ…

328: 名無しさんAA:11/05/01 16:24
【初音ミク】家の裏でマンボウが死んでる【オリジナル曲】

329: 名無しさんAA:11/05/01 16:25
屍の山

330: 名無しさんAA:11/05/01 16:26
ふざけてねえっばかっ
俺が生きてる理由がわからねえじゃねえかその心はっ

331: 名無しさんAA:11/05/01 16:27
ということは
やっぱりなんにもねえんだよ
あほう考えてみろあれだけの構成員が死んで末端に居る俺が
助かるわけねえだろうがようするにやはり
破壊法は存在したその証明になるじゃねえかッ

332: 名無しさんAA:11/05/01 16:28
脳死

333: 名無しさんAA:11/05/01 17:56
小便の溜め池に飛び込んでガブンガブン飲んでる

334: 名無しさんAA:11/05/01 17:59
fj?&?#ξ  もうるせーッ

335: 名無しさんAA:11/05/01 17:59
ぜぇ…  ぜぇ…  
意味分からんのじゃドボケが

336: 名無しさんAA:11/05/01 18:00
ゴチャゴチャぬかしゃがって馬鹿 ぜぇ‥ぜぇ‥

337: 名無しさんAA:11/05/01 18:02
せーッ!=◎》

338: 名無しさんAA:11/05/01 18:04
倒壊パーンチ!!!

339: 名無しさんAA:11/05/01 18:05
狂うて病院に連れてかれたのはおまえだろ馬鹿〜
ぼけてんじゃねえぞ!!

340: 名無しさんAA:11/05/01 18:06
あほのひとつ覚えみてえな書き込みばっかり連発させやがって
ぜぇ… ぜぇ… 

341: 名無しさんAA:11/05/01 18:08
クレージーキャッツ タモリ (3/3)
もっと右もっとそこっそこそこをよ〜くみて 

342: 名無しさんAA:11/05/01 18:08
うぜぇ!!!

343: 名無しさんAA:11/05/01 18:12
やっぱ息があうなこれな

344: 名無しさんAA:11/05/01 18:15
新・人類滅亡

345: 名無しさんAA:11/05/01 18:16
【MAD】ネオマキシマ砲で人類滅亡

346: 名無しさんAA:11/05/01 18:19
なんか全員集合が遠くに聞こえる

347: 名無しさんAA:11/05/01 18:20
8時だヨ!全員集合ハプニング

348: 名無しさんAA:11/05/01 18:24
ナイト・オブ・ザ・リヴィング・デッド 6

349: 名無しさんAA:11/05/01 18:29
ナイト・オブ・ザ・リヴィング・デッド 7

350: 名無しさんAA:11/05/01 18:31
現在の技術では防ぐことはできない

351: 名無しさんAA:11/05/01 18:32
あっちこっちから発生する
感染ルートも特定できてない
終わりだよ…

352: 名無しさんAA:11/05/01 18:34
ちょっと邪魔だから…
それで ?

353: 名無しさんAA:11/05/01 18:36
海兵隊もやられた
プロでも対応できないかもしれん‥

354: 名無しさんAA:11/05/01 18:36
映画 「死霊のえじき(Day of the Dead)」 予告編

355: 名無しさんAA:11/05/01 18:37
まるで疫病のように広がってる…

356: 名無しさんAA:11/05/01 18:40
Alien - Extended Chestburster

357: 名無しさんAA:11/05/01 18:41
現実を知らなってのはおそろしいよ
何も知らない豚みたいなもの

358: 名無しさんAA:11/05/01 18:45
Doom Trailer

359: 名無しさんAA:11/05/01 18:48
電波ジャック

360: 名無しさんAA:11/05/01 18:49
NO!理解ラナイ!

361: 名無しさんAA:11/05/01 19:33
黄泉の国物語 25

 「まあお嬢さん達には 只の奇術でしかないがね。うん・どうした婆がお前の子供
と聞いてがっかりしたか。うん。」「・・・」「うん どうした そうか 少しずつ
思い出したか。」「白ひげさん 白ひげさんは何でもわかるの・・」「いいや何でも
わかる事はない。ただ 必要な大抵のことはわかるがのう。」「・・・」「どうした
。そうか 今までの事におののいたか。・・・まあ自分がわかったところで お前さ
んは あの婆に言われた天国に行く気になったかい。」「私は ・・あの王女のまま
お城にいたらよかったの・・・」と涙目で老人を見た。「そうか まだまだいまだに
行く気にはなれぬか。それは門番の閻魔に話さねばならないからかな。・・ところで
見てみな・・」見れば子供たち5人は勝手に走り回り遊んでいた。「よーく背なを見
てみな。」「あっ・これは。」「そう 彼らこそは 神の選んだ先祖帰りの者達でな
本来は天使たちなのだが 親に嫌われてしまい殺されるか捨てられるかする運命の者
たちだったのだ。なぜ 仏がお前に預けたのかわかるか。実はのう このパラレルの
世界でさえ時の流れそのものは変えられぬじゃ。」「でもいま」「そう昔に戻れる。
だがそれは 新しい昔に行き着いた事で 何も同じ世界の中の昔に遡る事ではない。
もともとが実体のある姿が表した時点でそれは新しい過去なのだ。アインに聞きたけ
れば此処に呼んでもいいがな。仏となって最先端の未来に行っても同じ答えしかでな
い事はわかっておる。・・つまりお前さんが王女のままでは違う世界がそこに広がっ
た事は事実であろう。じゃがそれでも お前が此処に来る事には全く変わりが無い。
という事だ」「そうここで わしとお前の出会う あるいは今逃げてきた爺さんや婆
さんと わしが戦う事は 宿命のように変わる事はない。そんなに悲しい顔をしなさ
んな。爺さん達と又戦うのはまだまだ千年も先の話だ。今はまだずーと先の話だ。と
ころであの天使達の事だが お前には何も教えられては居ないようだな。あいつらは
ここの主でな この6柱の主なのだ。風と光と水と土 これらは この地球という中
では必要不可欠の要素だが その大本の概念体なのだ。この地でも そう特に花園を
持つ閻魔の里では全く必要不可欠の者なんじゃが ある時忽然と花園から消えてな 
これらは居なくなったのだ。まあ大地があるのであいつらの仕業とはわかっていたが
。そこでじゃが ・・さてさて ・・そうだな・・どうしたものか・ 」「・・・」


362: 名無しさんAA:11/05/01 21:04 ID:/c
キングアルティメットギドラ

363: 名無しさんAA:11/05/01 23:24
いかに君たちが想像を膨らませても辿りつくことがない
決定的な違いがあるそれは
人喰いウィルス新種誕生

364: 名無しさんAA:11/05/01 23:25
拒絶反応!世界にはけして許容できる決定的な差があるのだ
DNAの違い人とそして神とでは所詮遺伝子構成が違う

365: 名無しさんAA:11/05/01 23:26
結果生まれたのがゾンビウィルスなのだ

366: 名無しさんAA:11/05/01 23:28
俺はかつての神魔大戦においてのあらゆる想定を繰り返し
世界最大の大戦をシュミレーションし破壊法を作り上げた
すなわち!コノ俺の造り上げた世界は史上あらゆる破壊力をも勝る

367: 名無しさんAA:11/05/01 23:29
わかったかねこの俺が余裕のよっちゃんである所以が
そうなのだよ俺の勝ちが動かない確固たる確証それは
この俺が史上最大の破壊力を手に入れたからなのだ!

368: 名無しさんAA:11/05/01 23:29
ばかめおろかものめが
さすがにここまでは神様でも想定外

369: 名無しさんAA:11/05/01 23:31
俺はそして現在も一秒単位で成長し続けている!
けして誰も大空を高くもっと高く飛び続ける俺に
とどきはしない

370: 名無しさんAA:11/05/01 23:31
どうだまいったかねッざまあみろってんだ

371: 名無しさんAA:11/05/01 23:33
何十年前にどうだとか日本軍が計算して小手先の馬鹿
シャルアップ!!!

・・・

372: 名無しさんAA:11/05/01 23:33
どうだまいったかね

373: 名無しさんAA:11/05/01 23:34
肥だめに落ちた糞みたいに

374: 名無しさんAA:11/05/01 23:34
だお〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜だまいったかねッ


375: 名無しさんAA:11/05/01 23:35
大人をなめるんじゃないよきみぃ

376: 名無しさんAA:11/05/01 23:35
坊主め

377: 名無しさんAA:11/05/01 23:36
ぼうずじゃないよ髪の毛きってないもん

378: 名無しさんAA:11/05/01 23:36
わかったかねッ

379: 名無しさんAA:11/05/01 23:36
疫病の渦

380: 名無しさんAA:11/05/01 23:37
下痢便みたいな

381: 名無しさんAA:11/05/01 23:38
素手で戦争に勝てるわけねーだろ考えりゃわかるだろ

382: 名無しさんAA:11/05/01 23:39
ぱーちくりんのとーへんぼく

383: 名無しさんAA:11/05/01 23:39
現実みろ
さあ!寝るとするかね!
わかるかね!

384: 名無しさんAA:11/05/01 23:41
小便の溜め池をガバガバ飲んで

385: 名無しさんAA:11/05/01 23:42
ばかじゃないのかね
さあ!あほうはほっといて寝るとするか!
いやあセイセイした!

386: 名無しさんAA:11/05/01 23:43
頭蓋骨が変形しとるくせに
さあ!!こんなどうしようもないのはほっといて!

387: 名無しさんAA:11/05/01 23:44
共食いはやめたまえ


388: 名無しさんAA:11/05/01 23:44
なんかわるかったねッ
水を差しちゃったみたいで!
ワアハアハアーッと

389: 名無しさんAA:11/05/01 23:47
混血のおまえこそ典型的な日本人じゃねーか
徳川家康ですらできそこないの遺伝子を後生大事にしてたぞ

390: 名無しさんAA:11/05/01 23:47
このっ
ひょっとこ野郎っ
ダ――ッハッハッハ
おどってんじゃねえゾw
ダハハハ

391: 名無しさんAA:11/05/01 23:48
そんな面倒くせえ生活なんてしたかねえんだと
ダ―――ッハッハッハww

392: 名無しさんAA:11/05/01 23:49
ばかか
ダハハハハハw

393: 名無しさんAA:11/05/01 23:50
ドジョウすくいでもやってろっw
ウハハハwめいげんッw爆笑オンパレードッw

394: 名無しさんAA:11/05/01 23:52
どじょうすくい ユーチューブ
ドジョウすくいとはこうゆうものをいう

395: 名無しさんAA:11/05/01 23:52
説明してんじゃねえゾっww
カハハ ww 

396: 名無しさんAA:11/05/01 23:55
Fit's ダンス ロッテ pv 佐藤健
どうもどうも いったい何事?

397: 名無しさんAA:11/05/02 00:02
伝説のタッグチーム復活!BI砲Fit's!!
どうしたんだよ いったい どうしたんだよ なんだよΠ

398: 名無しさんAA:11/05/02 00:03
永田ダンス!
いったいなにがっ いったいなにがどうしたんだっ!

399: 名無しさんAA:11/05/02 00:08
ちょっとまって

400: 名無しさんAA:11/05/02 00:33
ジーパン刑事 松田優作

401: 名無しさんAA:11/05/02 00:36
そのことは
いい思い出にしとこう…

402: 名無しさんAA:11/05/02 00:39
こんなのそっとしといたほうがいい

403: 名無しさんAA:11/05/02 02:26 ID:NE
落日を拾いにいかむ海の果て

青いの青い男の青の依頼

404: 名無しさんAA:11/05/02 02:44
時の間に 過ぎ行くものぞ 我ら哀れ同学

405: 名無しさんAA:11/05/18 03:11
物まね中国の危険性 14


このところ中国の情報が少ない。だがサーチナなどの国際ニュースは漫画より
面白い記事で溢れている。事食品に至ってはすごい。こうした話は
そこいらの 吉本他の芸人の話も負けてしまっている。

まずはあいも変わらぬ リサイクル油の話から

・“下水油”をエコな燃料油に…村で実験失敗、16人中毒=中国(
・発がん性の再生油売る業者「取り締まり? 知らんねえ」=南京(2010/08/19)
・「下水油」の名で国民関心―中国政府が「生ごみ再生の食用油」厳禁(2010/03/19)
・冷凍エビ:氷で極限まで「水増し」、薬剤も使用=中国(2011/03/31)
・有機野菜“お粗末”認定書…実質ともなわずに高価販売=中国(2011/04/12)
・街の中の「ごみの山」、羊飼い大喜びで「餌場」に=山西(2011/04/12)
・中国の飲食店に“魔法の薬”…90分で豚肉が牛肉に、発がん性も(2011/04/14)
・それでも食べる? 骨なしチキン製造現場 .口で租借の加工食品
・合成にせ豆腐:中国の省6割超で流通、包装は先進技術で識別困難(2010【中国ブログ
・燃え上がる朝鮮冷麺に「添加物のせいでは」の声=中国(2011/02/25)
・有機野菜“お粗末”認定書…実質ともなわずに高価販売=中国(2011/04/12)
・上海:「染色マントウ」で5人を拘束…期限切れ“リサイクル”も(2011/04/14)
・中国黒ごまクッキング「水に浸して墨汁完成」…業者“お粗末”否定
・今度は「毒もやし」…有毒添加剤使用、25トンを押収=中国
・中国各地で出荷前キュウリに「経口避妊薬」塗布か=北京で実態調査
・スイカが次々に爆発、畑が「地雷源」に…膨張剤原因か=江蘇


406: 名無しさんAA:11/05/20 18:54 ID:0s
物まね中国の危険性 15

【大紀元日本5月20日】「中華電信」が最近、同社の衛星を通して中国大陸向けの放送
を行っている中国語衛星放送局・新唐人テレビ(NTDTV)に対して、技術的な問題を
理由に衛星の使用契約を更新しないと通告した。それにより、今年8月から、新唐人
テレビの中国向け衛星放送が完全に中止されてしまう恐れが出てきた。−−−−−−
 中華電信は民営化された台湾の元国有企業であり、政府交通部はその筆頭株主である
。そのため、本件の最終決定権は台湾政府にある。ニューヨークを拠点とする 新唐
人テレビは、海外の中国人が運営している衛星放送局である。2002年に設立され、
中国当局が封じ込めている国内外のニュースや情報を中国向けに衛星放送しており、「
中国の上空に開いた自由の窓」と評価されている。−−−−−−−−−−−−−−−−
同テレビ局広報によると、これまで中国当局から度々妨害を受けてきた。がそれでも果
敢にあくなき自由の戦いに対峙して放送を続けてきた。その為現地の特派員やカメラマ
ンが中国当局や共産党員に見つかって逮捕されたり囲まれたり威圧される事は数知れず
これまでも幾度となく妨害工作があったとされる。−−−−−−−−−−−−−−−−
がここに来てこの展開に米国議会は この中国政府からの指導による衛星使用の不許可
であるだろう事を見越して政治問題化しそうである。米国議会議員は語る−−−−−−
 「台湾政府が中国国内での思想の自由のための戦いを支持しなければ、米国も台湾を
支持する必要はないであろう」。世界報道の自由の日に当たる5月3日の前日、米下院
外務委員会の調査チームの主席ダナ・タイロン・ローラバッカー氏が、台湾の 馬英九
大統領に出した手紙で、このように綴っている。−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ローラバッカー議員は米国連邦議会上院の「国会台湾連線」の創設者で、米議会では
屈指の「台湾通」である。米国の 台湾への支持に 重要な影響力を果たしてきた。
ローラバッカー議員の同書簡は、台湾最大の電気通信事業者「中華電信」が最近下した
ある決定は、馬政府の対中国大陸政策を反映しているのではと強い口調で問い詰めて
いる。

としている。


407: 名無しさんAA:11/08/07 21:22
物まね中国の危険性 61

中国の悪行は続く
 ソマリア、エチオピア、ケニヤなどアフリカ大陸北東部の国では、過去60年間で
最悪の干ばつに見舞われ、少なくとも1200万人が飢餓の危険に晒されている。
この被害について、ドイツのアフリカ政調担当は、中国企業による大規模な土地買収
が起因していると指摘した。中国当局は「全く根拠がない」などと反発している。
 つまりこれについて中国外交部(外務省に相当)は同日、「中国は海外の土地を大量
購入する計画を立てたことはなく、またアフリカの土地を大量に買ったこともない」
とAFP通信の取材に対して、書面でヌーク氏の指摘を否定したのである。
 がしかし 国内向け発表は全く違っている。
 北京の週刊経済紙「中国観察報」は2008年6月、「中国の海外農業計画の希望と
試練」と題した記事で、中国当局が食糧安全保障に向けて、海外の土地を買収・賃借を
予定していると報じている。 その記事には、「農業部(農林水産省に相当)が、中国
国内の企業に海外の土地を買収・賃借を奨励するような法案を立案した」とあり、さら
に5つの主要な中国国営の農業企業には、投資先として、アフリカ、中央アジア、東南
アジア、ロシア、南アメリカの5地域を指定したという。

現実に2007年の中国穀物部門全国協会の調査によると、国内の大豆の年間取引量は
7500万トンで、うち4600万トンが輸入によるものだ。同会孫副会長は、大豆の
自給自足を図るためには、あと1330万ヘクタールの農地が必要だと発表している。
という。 中国の食料安全保障について多くの専門家は、遠くない将来、中国は食料の
需要供給バランスを失うと考えていて 北京東方アグリコンサルタント(BOABC)の
アナリストは、約6年〜8年で食物供給が中国では非常に難しい状況になる、と予測
している。また、中国農業科学院の研究員は中国観察報の取材に対し、「中国の土地
資源と人口は不釣合いである」とし、「食糧安全保障を確実なものにするために、海外
投資は不可欠であり ほか手段はない」と話している。

 また 重慶地方局が農民へ、アフリカへの大規模な移住を促していたことも当時の
報道により明らかになっている。

             大紀元 抜粋。


408: 名無しさんAA:11/08/07 21:23
物まね中国の危険性 62

高速鉄道事故に対して 「共産党政権、改善の可能性なし。」の文字が躍り人民を落胆
させている。特に高速鉄道を頻繁に使うビジネスマンには恐怖に写る。

 今回の事故で世に晒された共産党政権の荒唐無稽さ。その政権の中枢にいる温首相で
さえも、少しの良識ある行動をとれば封じられる。これについて、米国在住の中国問題
専門家・張海山氏は「政権内の改善は望めない」と断じ、「共産党政権の存在そのもの
が中華民族にとって巨大な災難である」と指摘した。
かつて昔 毛将軍が生きていたころの 悪態とそっくりなのだ。
 1957年に毛沢東が発動し、55万人の被害者を生んだ反右派闘争は、後に数千万
人が餓死したとされる「大躍進」へと続く。更に「大躍進」事件はさらなる災難である
「文化大革命」への踏み石となる。その後、共産党政権は「徹底的に文革を否定する」
と宣言したものの、今ではその時代の革命ソング「紅歌」が中国全土で鳴り響く。
 今度の 四川大震災で起こった「おから学校」の下敷きになった子ども達のリストと
調査報告を出版しようとした譚作人氏は「国家政権転覆罪」で投獄され、彼を応援した
艾未未氏も拘束された。又CCTVが宣伝した粉ミルクを飲んだ子どもたちが結石とな
り、親らが訴えるも TV局自体が有罪となり 粉ミルク会社は不明のままだ。
 そして今回の事故。同じ轍を踏む共産党政権。中国の庶民は、今までにない勢いで
インターネットでこの政権を罵倒すると同時に、共産党の党員らやその関連組織のメン
バーが組織からの離脱を声明する。

「水能載舟、也能覆舟(水は舟を浮かばせることもできれば、舟を覆すこともできる)
」と評される。中国のこの諺は、すでに1億人を目前とする脱党(関連組織)のうねり
が中国共産党を解体し、共産党政権を覆すことを予言しているようだが さてさて今後
一体いつまで中国人民は共産党の悪態と付き合い 何時まで死者を葬る騒ぎの渦中にい
らせられるのか。


409: 名無しさんAA:11/08/13 07:34 ID:agw
物まね中国の危険性 63

中国当局は およそ20日も経つと言うのに 今だ高速鉄道事故の真相どころか乗客
名簿の開示すらなされてはいない。およそ70人と噂される死者数と5人ほどの白人
と10人ほどの東洋系外国人の名前すらわからず 恐らくは2人程は含まれていただ
ろうとされる日本人もしくは日系人は どこの誰だかわからないままである。中国特
有のひた隠し主義と嘘つき方便主義は 今だ実在しているようで 生きたまま埋め殺
された人々が掘り起こされては 今や共産党指導のまま あの忌まわしい解体解剖の
専門の 標本屋に叩き売られたらしい。更に声を荒げてあれほど病院の何処に行って
も家族がいない と騒ぎ立てていた遺族も当局の手にかかり 投獄もしくは買収され
共産党ならではのもつ秘密警察によってもみ消されて工作に消えてしまい 今や中国
国内ではこの忌まわしい事故さえなかったような装いである。この事故の詳細は正確
には不明だがニュースの映像を見る限り4両が落下1両はぶら下がり一両は停車中の
車両に乗り上げている。停車中の車両が4両とすれば計10両100人ぐらいの満席
だったとしているから 事故に出遭った人はおよそ千人である。その中の半数は負傷
もしくは死亡として死傷者数は500人程度となる。中でも車両がニュースが伝える
通り300Km/h以上の速度だとして およそ50人程度は死亡したと推定される。
とても36人の死傷者ではない。この高速鉄道は一般ではあまり乗る事は少ないもの
とされている。多くは外国人観光客と裕福になった中産階級の乗客であるとされる。
それには理由がある実は国内的にはかなり高いとされ 更にこの乗車券をとるのには
パスポートの提示や高額所得の明示が必要らしい。つまりこのチケットにはちゃんと
した乗客名簿がつけられている。とされるのが多くの中国通の見方ではあるが それ
を当局は決して発表しない。それは結局はなんら故障の原因どころか乗客の状況や病
院での救命さえも分析・調査・究明をする気はないとされるのだ。これは日本におけ
る毒入り餃子事件や南米の鉛入り玩具或いは機械油脂オブラート事件メラミンミルク
と殆ど変わりない。共産党にとって反対体制派の人が犯人であり罪人である。本当に
原因を作った人はどうでもいいのである。国内が静まれば人民を黙らせらればそれで
いいのであって 今後の事故も本当の原因も命の尊厳も必要ではないのだ。


410: 名無しさんAA:11/08/13 19:55
物まね中国の危険性 64

物まね中国の危険性は 中国人民の危険性もさることながら 日本国民の日本という
国にとっても 大きな危険性がある。かの昔からの大国主義覇権主義を取って省みな
かった中国は どの時代をみても何一つ反省した進化はしていない。漢王朝からみて
漢民族一等主義は 遊牧騎馬民族の餌食になったし 近く大航海時代でも大英帝国の
侵略にいとも簡単に侵略され国内は混乱した。又世界大戦時でも日本の忠告を無視し
ロシア帝国とドイツ更に英国・フランス・アメリカと八方外交を繰り返しそれは朝鮮
半島と共に戦乱の地にしてしまう愚虚をして自らの王と共に政朝を消してしまった。
それゆえに今でも共産国であり 北朝鮮ともども政策の見えない自由主義とも共産主
義にもなれない国民に一体性のない政策が アフリカと同じように威嚇と強行で民主
主義に似せた政治が行われているのである。このとんでもない政権の下に経営者達は
銀行と共に馬鹿なほどなびいてしまったのである。政冷経熱などと揶揄して大陸に渡
った。この20年ほど前ある者は中国のホテルで突然死しても遠い異国の地の病死は
全く不明であったが全く新聞もTVも取り上げられる事はなかったが それは今でも
同じである。はびこって監視する共産党下部党員はあの漁船と同じであり党員として
食べているのであり 漁業は世をしのぐ仮の姿言うなれば遊びなのである。この構造
は創価学会とまったく同じであり 生活とは異質でありながら現実社会で深く利益を
得ている全くの裏社会と同一の仕組みで社会を混乱させて止まない。今日本社会では
数多くの紙幣流通が叫ばれて久しい。現実に管理型の中国紙幣は紙屑ながらも価値を
謳歌し需要を満たしている。が本来ならこの良質な信用ある日本紙幣はそれ以上に流
通するほど発行させなければならなかったのだが 此処にきて日銀は信用収支に疑問
があるので慎重さを決めて動かない。何故なら政府が中国への開放政策を進めた為に
此処で大量発行すれば 中国人に日本国土が覆われる危険があるからだが これを進
めた経営者達はその為に50円に近づいても 自らの首を絞めた大陸流通の罪を負わ
ねばならない羽目に陥っている。なんと馬鹿な日本人と 世界通貨が笑っているがそ
れは仕方の無い事になってしまったのだ。


411: 名無しさんAA:11/08/13 19:55

物まね中国の危険性 65

通常人は 物に投資はしない。物は買ったその場から価値は半減していくのが相場な
のだ。対して人に投資をして利潤をえる。働くと言う事や売るという行為作るという
行為そうしたものに投資して結果 そこからの返済を得るのが慣わしである。だがこ
こ日本ではそうではない慣習が長い間銀行が作られた後の大戦後あたりから あまり
人の知恵や人の行為に人の信用に貸付しなくなっていった。代わりにリスクをはずす
行為病院で言えば手術失敗しても責任を問わないような無意味で違法な契約書みたい
な行為を政府も警察も見逃して来た。そしてそれは銀行も又同じで勝手に決めた担保
設定を政府を挙げて整理させ流通をなし崩し的に壊して止まなかった。此の為に今や
銀行は大銀行と化し 貸すと言うよりは預金とりに奔走し アメリカ流の贋経済学を
持ち込んだ竹中氏は更に金融貸しつけ規制を強固にし担保設定を過敏にしたのだ。そ
の為無理に銀行に貸付した政府の金は銀行の余剰金過剰を持ち過去最高の収益のもと
 投資先である中国などをうるおしその分日本を疲弊させたのだ。そこで起きた町屋
崩壊と言われる町工場の閉鎖と商店街過疎は一気に列島を襲ったのである。本来なら
国鉄解体時やプリペードカード発表時などの余剰金があるときの方策が金融の国際化で
疲弊した時それを行って 立ち上がる頃に行い不況を更に引き伸ばしたのである。
結果は見ての通りである。改革でむちゃくちゃになった日本社会は今や高齢化すらも
対応できず少子化対策を打っても 成人が就職できない社会を産んでも 何ら対策を
打てないままなので 税収が上がらず税率を上げる話まで出てくるしまつなのだ。
健全な税率で景気さえ良ければ出てくる収益が政府自体が持たない結果を産んだのだ
これは簡単な話である。若者や海外労働者を格安賃金で働かせる。或いは就業させな
い。と言う事はまずは食べる為の流通がやっと出来ているだけで 高い給料で払うだ
ろうとする社会福祉の為の税金が納められないのだ。物納をしても担保をとっても 
それは売れて他が使って価値を見出した時の話で身体一つであれば特に何ら払えない
状況なのだ。これが不況なのだ。今や倒産件数は戦後最大に昇ってしまった。


412: 名無しさんAA:11/08/13 21:45
物まね中国の危険性 66


 およそ20年前から始まった 中国の開放改革路線は 結局は我儘御都合主義だが
このいい加減な自分の都合にあう主張は 軍拡競争において先進国ではといい拡大の
一途を辿る国家予算を食いつぶし ODAは今だ未開地のごとく後進国とする声明に
よく現れていて 世界をリードすべき国連総会では戦勝国としてソ連と共に色々な議
案には否決主義を通している。と言って日本も又アメリカ追従主義で大きく独自の意
見が出た試しはあまり無いが。それでも各国にこのご都合主義は 駆け巡った事は明
らかである。というのも自作自演と呼ばれる911事件も アメリカ内にある二枚舌
外交とこの中国産ご都合主義の行き着いて融合した結果が産んだ悲劇であろう。とも
あれブッシュは2年の歳月をかけてその裏を探る人々を抹殺し戦争に及び結局は国際
社会はこれを受け入れざるを得なくなったのである。もともとG7から以降ソ連や他
の国特に自由主義陣営の要にもならない大蔵官僚や首相が会うことに何ら意味はない
。確かにソ連に貸付していた中央銀行はソ連崩壊は大きな痛手ではあったろうが土地
が動くわけではない。生産されるガスや石油は今でもヨーロッパでは供給されなけれ
ば不足がちだし 今後も購入続けなければうまく事は運ばない。又アフガンやイラク
を攻撃し破壊したとて米国に何のメリットがあろうか アフガン人の怒りはそこにパ
イプラインを作らせる事はないしイラクで盗人のごとく自国に向けて輸送されたとし
ても残された家族のアメリカ打倒への怨念は消える事はなく 今後のヨーロッパ人と
りわけキリスト教とユダヤ教対イスラム教やタリバンやPLOなどの闘争は変化した
厳しいものになる可能性が高くなるだけである。更に今は中国は平然と平和な自治市
民であるウイグル人やチベット人台湾人などを抑圧して止まないが それは神も人間
も続ける事を許さない。その厳しさは結局は自国民の今回事故などの死を呼ぶ理由で
もあり 又能ある者の流出させて止まず発展を阻害する要因でもあるのだ。


413: 名無しさんAA:11/08/16 22:56 ID:70Q
物まね中国の危険性 67

 今日のロンドンのニュースは もっぱらヨーロッパが日本化していると報じた。一
体何の話かと思ったら 要はデフレ克服に至ってない日本は 全く動けない日銀と政
府と更にもっぱら安近短で済まし買わなくなった国民を揶揄していたのだ。あげくに
yes we kanと菅首相をもじっている。と言うのである。しかし皮肉な事に
この動けない政府化しているのは何も欧州や日本だけではない。アメリカから起こる
ドルの紙屑化現象は世界を覆う。オバマは必死に取り繕うが ばら撒き財政で戦争を
起こした共和党ブッシュの穴埋めには遠く及ばないであろう。更にその目減りするド
ルに戦々恐々としているのは中国政府である。正常な会計で言えば既に破綻寸前に陥
った国家財政に いかに取り繕うかを悩んでいる状態らしいのである。鉄道局は2億
元の債権発行を決めた。今や2兆元越えた負債だが更に今後は5年間に7千元を超え
る投資を行い「高速鉄道」による輸送を磐石なものにしたいと思っているらしい。が
BBCの分析は将来国による補填で穴埋めするしかないと見ている。つまり鉄道部の
この巨額な債務は払えないだろうと見ているのである。その補填するだろう中国中央
債公司も又同日に、総額220億元の地方政府の債券を発行するというのである。
中国地方政府も厖大な負債を抱えている。中国国家審計署(会計検査院に当たる)が
6月末に全人代に提出した報告書によると、2010年末の時点で、地方政府の負債
総額は10.7兆元に上るという。だがそれでも米国の大手格付け会社は試算データ
を分析した結果、3.5兆元の地方政府の負債が報告書に盛り込まれていないと指摘
している。ムーディーズなどは7月、この現状に警告を発し、中国国内の銀行の不良
債権は8〜12%に達すると指摘、中国政府が有効な措置でこの問題を解決しなけれ
ば、中国銀行の信用格付けがマイナスに転じる可能性があるとしている。それでも、
中国側は各地方政府の負債総額は返済可能である。発表し強気の対応なのである。


414: 名無しさんAA:11/08/16 22:57
物まね中国の危険性 68

この中国の格付けどころか 裏打ち資産のない元紙幣は 今や風前の灯なのだがそれ
でも日本人は 中国生産に足かせがあり 国内流通に元と円の交換は欠かせない位置
にある。そもそも 今起こっているストレイドと呼ばれる固定化現象は西洋的自由化
した信頼のある国内の消費主義を信用のままならない国外の共産主義に持ち込んだ為
に起こっている。この事は例えば 国際基準ないし国際標準にそった帳簿が整理され
公表されているかと言う事に他ならない。つまり今や金本位制による兌換紙幣は存在
しない。つまり地球の価格が今やあって無いようなものであり 各国が発行する紙幣
を国際機関が一定の目途をつけた形でしか物の価値を決定できない。つまり良識と信
用での紙幣価値しかそこにはなく一方的に発行し みんながだませると思った国が山
のように高額紙幣をすればその国の印刷局は地球全部を買うことが可能になる時代に
なったのだ。このニクソンショック以来の杞憂は 実は何年も前から経済学者に語ら
れ伏せられていたのである。そしてその時落ち着いた意見は市場原理放任主義である
。つまり信用や信任を得るほどの強い通貨を持つ国は 押しなべてそれなりの良識や
技術や民主化の進んだ国であり 暴利にむさぼって世界を買いあさる事はないだろう
という予想論の下で 各国は一致したのである。それは逆に今やアメリカドルが金と
の交換を出来ない代わりに石油というエネルギー資本を金に換わるからいいではない
か。というごり押しの中の理論に追随した結果だったのだ。しかし今だ枯れることの
無い無尽蔵に近い石油が世の中に有数しかない希少金属の代わりの役目を担えようか



415: 名無しさんAA:11/08/17 22:13
物まね中国の危険性 69

 その担えなくなったドル紙幣を中国は今でも買わなければならない。というのも国
外はもとより国内でも貧富の格差を是正すればするほど 中流層や高級官僚達は国外
の製品の良さを認識し出しているからだ。粉ミルクに象徴されるように今や海外から
の食料品調達のみならず その他の機器にしても国産品を買うのはもっぱら貧民から
抜け出せた人か海外のインドやアフリカの人達なのだ。海外で売るにしても海外から
購入するにしても自国通貨は今までは レートが買い圧力によって上がっていったが
それはあくまでも対ドルレートにおいての話なのだ。今やこのドルの信認を受けた形
で保有するドル資産が目減りをきたしている中にあって頼みの日本のODAも政府が
批判されるほどいつたち切れられるかわからないままに 国内投資額は地方共産党の
要望も高く軒並み倍増要求となっている。今回の高速鉄道においても今だ複線化した
駅構内での退避すらしない駅員や運転手の教育程度を見て解るように 日本のように
背負った人の命というものや公務の使命感というものは皆無に等しいのである。その
態度は人民にとっては不満であっても 殆どの人民はこの共産党システムを受け入れ
ている。それは長年にわたって正義の雄弁者達は今や殺されたり海外逃亡したり亡命
したりして全く居なくなったのだ。だからこそかつては中国国内にあった良識や紀律
はいまや全く無くなってしまい汚職に賄賂にペテンに嘘つきという集団になってしま
っているのである。今回の高速鉄道事故も又多くの遺族は高圧的態度の加害者共産党
と本当の話し合いが行われた形跡は全く無く又今後もその原因調査を行うとは言いが
たいのである。それどころか死者や行方不明者などの真相解明すらままならないのだ




416: 名無しさんAA:11/08/31 04:00
物まね中国の危険性 70

 とはいえ 高速鉄道の高架橋を見ると 日本よりはるかに贅沢に作ってある 基礎
がいいのか地盤がいいのか解らないが日本で行えば九州新幹線に比べておよそ3倍弱
は価格であろうこれほど必要かというほどのコンクリートのボリュームである。高さも高く
幅も広く長さも長く 日本の高架が貧弱に見える。何処からこんな資金が出るのかと
思うほどである。写真で見る限りではあるが 全てが高架下を道路がいつ出来ても良
い状態であるスパンを充分に取っている。更にその高さも 大型クレーンがいつでも
通行可能で たとえ三連式バックホウを乗せたトレーラすら自由な往来が可能であろう。
だが道路やビルを見ても かつての韓国でデパートの地下に すっぽり建物が壊れて
落ちたという事件があったが それを想像するほど 重量が大きく立派に見えすぎる
ビル群やアパート群である。この豊かに資材を使い ばら撒きに近いこうした工事を
する国が 今又完成した空母に沸きあがり今後も何艘も建造すると いきまいて発表
している。この海外からどうかしている。と周りからいぶかしがられる国に さらに
輪をかけて支援を予定している国が韓国と日本である。韓国は北朝鮮問題で日本は輸
入問題で離れることが出来ない運命を築いてしまった。が日本はこの中国の血に塗ら
れた歴史を全く忘れてしまったようである。なぜ大陸進出してまで戦争を起こしたの
かという理由である。今の中国政府が全く過去の正当な政府で無いばかりではない。
かつての漢王朝他表立った正当な地主であるおおよそ20万人が人民裁判で農地を取
り上げるために15年かけて殺されたのである。これは中国そのものの生き残りとい
うつまり正統な賢明さをもつ遺伝子DNAはもはや中国にはない事を示している。結
論からいえば今の中国人民には明日はない。培ってきた歴史の賢人達の子孫を根絶や
しして無法者や徒党の輩を利用して そうした第二次世界大戦ですら平和であった村
々を文化大革命の名の元に恩顧の農民すら本当の地主達を自らの指令で殺して今を築
いたのだから。自ら滅びの道を助けた日本は馬鹿としか言いようが無い。日本もまた
アメリカの行った極東軍事裁判や敗戦などで 本当の中国史や大陸史を教えなかった
というより 教えても 戦中で教育のなかった時代の田中角栄や中曽根などが首相に
なったのだ。



417: 名無しさんAA:11/08/31 04:01
物まね中国の危険性 70

かつてアヘン戦争や辛亥革命時代から第一次世界大戦まで 中国は全く発展しなかった
。それは時の政権である清朝や国民党軍が国や政府として動けなかったからに他ならな
い。その理由が今の共産党の抵抗運動である。都市においては高利貸しをはびこらせて
貧民を救えないばかりか工場では労働者に工場休止を叫んだ。そのために多くの人々は
牛馬と同じ扱いをうけ ますますアヘン販売と高利貸しが幅を利かした国になったのだ
。これを憂いて日本に留学し学んでいたものは 日本での高い思想や技術を中国に持ち
帰って更に革命を続けるロシア帰りとの軋轢を生んだと言われている。そこに共産思想
と日本のような自由民族主義が相容れる素地は全くなかったのである。共産党の誤った
その強権姿勢は街では全く受け入れられなった。この受け入れられなった理由が日本人
がやったように見せかけた虐殺である。かくして国民党軍を支援していたが日本もまた
苦境の中にあってロシアやドイツのスパイ活動の暗躍によってなかなか正確に上層部に
実態の把握を報告できなかった。ゾルゲ事件にわかるようにコミンテルの活動や共産化
運動は今の鳩山氏のように実態のない博愛主義の妄想であり 創価学会の貧民救済を謳
いながらお布施をむさぼるようなもので全く理のない虚構癖の弁論でまやかし師である
ことを学のある人民は見抜いていたと 当時の中国を知る人は口々に語っている。がそ
うして山に登った共産党軍は田舎で多くの農民と山村生活をして耐えたという。がそれ
は長くなかった。すぐに原爆が落ちソ連から日本が負けるはずだという伝令が 来ると
山を降りてソ連の支援を受け国民党軍と戦ったのである。そうして敗戦から一年後には
国民党軍は圧倒的火力と副総統の裏切りを前に台湾に逃げ延びた形になったのである。
がそうした共産党軍の無知さはその後の中国に数々の歴史を作ってきている。日本人が
雀を益鳥とした為共産党は雀を害鳥とした国策で雀退治をする。と途端に農作物は次の
年から生産が落ちたという。又先に言ったように地主を血祭りにあげてみんなのものと
するためにわざわざ偽の告白者を作り公開処刑をした。その褒章として人民公社のもの
にしてその党代表としてそこの権力者としたのだ。今賄賂が多いのはその邪まな人間を
して国家を築いたのだからその中枢が邪ま事で大きくなった人達ばかりなのだ。つまり
仕方がないのである。


418: 名無しさんAA:11/10/10 17:30 ID:WIw
物まね中国の危険性 71

 もう中国批判は書くまいと思っていたが 日本が限りなく中国風になって来ているの
で、書かずにはいられない状態だ。最近ではアグネス・チャンがソマリア友好大使とし
て45億募金の呼びかけをネットでしたそうな。そしてそれには やはりソマリアなど
という遠い国よりは 国内の震災募金が先だろう。との考えを中心に非難号々とある。
さすがに中国人的発想である。もとより彼女らのような裕福な人に痛みがわかるとは私
は思っていない。従って日本のこの震災の復興が遅れているのは何も金がない為や大き
さが広い為だとは思っていない。つまり痛みや苦しみがそこそこの人間でしか分らない
からで 議員やら首相やら公務員達には露ほども理解してはいないのだろう。通常6カ月
もあれば それらの兆しぐらいは見えそうなものが やっと今復興特区構想で法人は税
を軽減などと言う体たらくである。一体これまでの国会や復興会議はなんだったのだ。
と言う話である。放射能問題すらも同じである。かつて福知山線脱線事故で馬鹿ほどに
レーザーによる測量の現場保存で事足りるとした 全くナンセンスな結論をだした公明
党と同じである。だからこそその後もTS装置不備などが新聞に躍りでたし 又未だに
その原因究明と対策は取られてはいない為に 頻繁に乗務員の居眠りや酒酔いがニュー
スに上がる。更にJR西日本が社内あげて保証し潰れたなどという話もない。それさて
おき こうした日本の現状をあざ笑うかのように日本買いは進められているようだ。中
国当局が認める機関投資家(QDII・適確国内機関投資家)に限られてはいるが資金流入
を諸手をあげておいでおいでしている為、次から次へと中国に資金が流れ込む構造には
当面変わりはないだろう。実際、こうしたカネ余り現象を背景に外貨準備高は上昇の一
途を辿り、いまや3兆ドルに迫る勢いである。そうして国内的には人民はインフレにあえ
でいる。こうした資金の一部は、中国の政府系ファンド・CIC(中国投資)が海外投資
する際の原資となっていることに加え、人民元の国際化を進めるために、中国では「走
出去」と呼ばれる海外企業へのM&A(合併・買収)も積極的に進められている。つまりは
国内はさておき海外進出して莫大な富と権力と蓄積された技術やノウハウを濡れての粟
で掴もうというのである。一方国内はそのインフレに立ちむかう為北朝鮮同様の事件が
多発しだした。地溝油という廃液油の復活や段ボール肉まんやら殺鼠剤入りのインスタ
ントあるいは洗剤に浸したエビや野菜あるいはあの何とか入りのミルクやらである。す
なわち又何でもありの貧民窟に後戻りした現象が起こり始めていると言うのである。



419: 名無しさんAA:11/10/19 14:37
物まね中国の危険性 72

 今中国で騒がれているのが 2歳のやっと歩ける幼女が車に轢かれた事件であろう。
これは中国国内において日常茶飯事の事件であるはずなのだが 国内外で問題視されて
いる。多くの人がこの重症の少女を見つけながらも無関心に通り過ぎて行く人を映した
監視カメラの映像を見ただろう。これが中国人の深層心理であり教育の成果なのである
。10月17日付けのAFP通信によると中国南部、広東(Guangdong)省仏山(Foshan)
で、車に2回はねられて路上に倒れ込んだ2歳の少女を通りかかった十数人の人びとが無
視したと、国営の新華社(Xinhua)通信が17日、報じた。という
 この出来事に中国の人気ソーシャルメディアサイトでは激しい怒りの渦が巻き起こっ
た。防犯カメラは、親の店の前でよちよち歩きの幼児がバンとトラックにはねられ そ
の後ユエユエ(Yue Yue)ちゃんの前を 見ていながら通り過ぎる人びとの姿を記録し
ていた。中国ではほとんどの人が ”触らぬ神にたたりなし”の状態を黙示する。それ
は 一見人情的であるかのような中であっても 赤といわれる共産党諜報部 いわゆる
秘密警察やら通報果貰(奨金稼ぎ者)が数多くいて 事実過去戦後に5回ほどあった
政変時には 数多くの有識者が逮捕され殺されたのである。粛清と称した毛沢東の一声
は 全く無知な労働農民を暴動化させ 言われもなき汚名や罵倒の中証拠もなしに日本
の将校の裁判を真似した土地の搾取者(昔からの名家や領主ではない共産党の特命配下
員)がその権威をもった如くに人民裁判を繰り返し その土地を痩せた荒地や貧困地に
変えたのである。そこで日本に泣きついて援助を申し出たのである。周恩来や江沢民な
ど王氏など数多くの古き人々はそうした昔の中国を知っているはずなのだ。毛沢東は決
して自由主義陣営に頭を下げなかったが 代わりに政敵になるだろう人たちを日本への
使者として 隠れて援助を貪ったのである。が代わり出来た中国人民が 今の非道すら
物おじしない悪魔のような 関心のある無感心人間で 政府批判も出来ず改革も出来ず
いわば同志のような手を差し伸べた日本に敵国だの非道だの愛国心からだだの 馬鹿も
過ぎる言い訳をしてデモを起こす人々だったのだ。この事がいかにつまらぬ事で意味の
ないことかは 高速鉄道事故や今回のビデオあるいは万博事件でわかると言えよう。
こんな泥棒のような詐欺師のような人民がそれが当然という意識で各国にやってきたり
生産したり加工したり輸出したりするのだ。隣国にとっては北朝鮮より頭がいたい話で
ある。



420: 名無しさんAA:11/10/19 23:20 ID:55Q
物まね中国の危険性 72

 この事件を 大紀元はこう伝える。
 現地メディアが本件を報道してから、中国社会で強い反響を呼んでいる。「恐ろしす
ぎる。わが国の人間性、道徳はとうとうここまで堕ちてきたのか」「引き裂かれたのは
この女児だけではなく、いまの社会の良識だ」「このような国民、このような国、金が
あっても強くなっても、なんの意味があるのか」「罪悪が満ちるこの社会制度こそ、こ
のような残忍無情な運転手と通行人を作り上げたのだ」とネットユーザーらは憤慨する。
 「映像を見て、強烈な民族コンプレックスに打ち砕かれた。このコンプレックスは
18の天宮1号(中国初の無人宇宙実験室、先月末に打ち上げられた)を打ち上げても
解消できない」。俳優の袁弘氏は微博にこう書き込んだ。
 英紙デイリー・テレグラフの北京駐在記者はこのように綴った。
「これは大勢の中国人に不安をもたらすニュースだ。人々はある憂慮すべき問題に直面
している。つまり、30年間の経済発展は道徳の空白を導いたのではないか」





421: 名無しさんAA:11/10/19 23:21
 米VOAは「『驚愕』という言葉を使わざるをえない」と評した。「中国の経済成長は
驚愕的。中国の食品安全状況も驚愕的。中国の金持ちの奢侈品購買力は驚愕的。社会
主義を建設し、最終目標を共産主義とする中国での富の一極集中の早さと規模も驚愕的
。そして13日、中国はふたたび国際社会を絶句させる衝撃的で悲痛な『驚愕』を作り
上げた」
 VOAはさらに中国古来の「見義勇為(正義のために勇敢に戦う)」「惻隠之心(惻隠
の情)」といった美徳はすでに根絶に瀕していると指摘した。「これは文化的事象では
なく、政治的事象だ。中国共産党とその政権が一貫として政治や法律の手段で『見義勇
為』の士と『惻隠之心』を堅持する人を残酷に弾圧してきたためだ」と評論家の見方を
引用して、中国での「驚愕事件」の根源を指摘する。
そしてこう結んでいる。
悦悦ちゃんを助けた19番目の通行人で、廃材拾いの女性陳賢妹(58歳女性)さんは
殺到するメディアに対して、「助けることは極当たり前のこと。何も深く考えなかった
」と淡々と話した。記者は、人を助けたら後に加害者として損害賠償を強請られる可能
性もあると質問したところ、陳さんは、「私は心配していない。普段、道端で老人が転
んだのをみたら、私は必ず助ける。だれかが助けなければならないから」と答えた。
と つまりこの18人の非道な通行人は普通の人だが中国自身のもついい加減な法の
損害賠償請求によって 知らないふりした事を示唆している。いい加減な法を極めた
共産党の勝利がこうした非道であった事は 中国人民自身が認めなければ未来はない。




422: 名無しさんAA:11/10/25 21:50 ID:DkY
物まね中国の危険性 73

 タイの洪水は 深刻である。もちろん 数年に一度の大雨被害であり 水が引けばそ
れなりに 急速に復旧に向かい どの街も又活気ある都市に戻り 何もなかったような
生活が再び始められるであろう。がしかしこの気候の変化は著しく気に掛けねばならな
い。すなわち少しずつ変化してきた年間気温はそのまま エルニーニョやラニィーニョ
現象として 亜熱帯気候に温帯を変化させてきた。それが今や一気にこの亜熱帯をも変
化させようという環境にあるのだ。つまりこのタイの大雨洪水は 工場があることのみ
ならず日本は他人事ではない事になる。今まではたぶん あのタイと中国をはさむ山脈
を軽々と越して行った雲も今や タイも中国も大きな変化の中で排気ガススモッグのよ
うな重い雲はその山脈を越えないどころか 中国で起こった文化の変化すなわち車社会
の出現はおそらくはこれから消えることはない。その産業の活気によって上昇気流は今
やこのタイからの熱を取る風が取れないままに韓国に向かう。この光化学スモッグはこ
こ4・5年間急遽壱岐対馬に到達して工場のない島を悩ませる。がその風や空気は北風
を遮り日本上空を絶え間なく覆って 温室効果を果たす。この事で昼や夏期の気温上昇
と夜や冬期の日光不足や寒暖差が大きくなると推測される。これにより日本人の体力は
大きく損なわれ かつての不治の病である風邪が大流行の兆しがあるしサーズやエイズ
あるいはOー157やら鳥インフルや豚インフル又は耐性菌などの未知のウイルスの繁
殖などの危険性がかなり高くなってきたのである。



423: 名無しさんAA:11/11/22 02:53 ID:x5M
物まね中国の危険性 75

 中国の惨状は日に日に酷くなる一方だ。と悔やむ中国人がいた。およそ15%のイン
フレ率と60%以上の負債を抱え さらにビル建設の利益率が他国で概ね10〜15%
であるのに対して5〜8%で推移した状態の中で民間の貸付利率は3%以上であるとい
う。つまりは 造っても収益のないものを造り続けている。と言う話である。更に問題
なのは 中国が大国のままにある事という。つまり日本を含めた東南アジア各国の持つ
経済モデル「内需拡大と輸出バランス」によって貿易収支の黒字を国内に回すという事
は不可能に近いと言えるのだそうだ。つまり経済的にもまだまだ購入すべきものの多い
若夫婦が 部屋が広い家賃の高い賃貸マンションに引越して来て 共働きしても家賃は
払えず 高熱費と食費に消えている現状と同じだ。というのである。事実アメリカ・ロ
シアなどの人口も国土も広く持った国々は 高度化するほどに赤字体質が消えない事は
よく知られている。それは家族に大食漢を養い 部屋を数多く取る事でプライバシーの
確保がやっと取れる理屈と同じで 国土保全や人民教育にかかる経費が出ない上に軍事
に膨大な予算を組んでしまうからだ。この大国病とも言うべき大国モデルで失敗したの
がソ連である。今も又国内資源のガスや石油を海外に売って資金を調達しているがその
枯渇がくれば悪化は避けられない。つまりはあまり経済を煽って活動してはいけない国
の顔がそこにある。事実アメリカ国内でも 今やそうそう消費文明を謳歌するほど経済
は良くならならない事は既に解っている事実だ。その為連邦を分解し各州ごとの法律に
よって保たれる経済があるが グローバル化の波で その手法も限界がきている。ただ
先進国であった事が幸いしている。それは安い賃金と品不足に納品する価格の安い輸入
品に対してもそうそう購入するほどの後進国でなく 科学技術と一定の基軸通貨として
の役割を持っているからでありそれが又国を保っている。だが中国は違う まだまだ 
資源とエネルギーに対しては潤滑ではなく 教育もインフラも今やっと進めている現状
だ。国内格差は拡大する一方なのはアメリカに流入してくる移民と同じだが だが中国
人民は先祖代々からのそこに住んでいた民なのである。


424: 名無しさんAA:11/11/27 20:47 ID:3WM
物まね中国の危険性 75

 韓国で放射性セシウムが検出された。どこかの原子炉が事故を起こしたらしい。との
情報があった。情報で一番怪しいのが過去に5回ほどの事故があったとされる 中国の
田湾原子炉である。ロシアの技術提供を受けそのプロジェクトは8基の100万キロワットの
大型原子炉が並んでいるという。この原子炉で変圧器の事故が起こったとされている。
 2007年から運営が始まった田湾原子力発電所は、中国の原子炉としては単機容量が最
も大きく、1基あたりの出力が106万キロワットに達する。ウクライナで製造された1号
機ユニットのメインユニットがそれぞれA、B、C相変圧器に分かれ、今回1号機のB相が
爆発により破損した。現在、事故の原因については調査中という。との記事である。
 今中国では 急激なエネルギー需要で 慢性化する公害が発生している。露天掘りで
有名だった炭鉱も今や地下深く下層まで掘る業者が現れ その汲みあげる井戸によって
近くの農地や住宅の陥没や干ばつなどが現れ 更に石炭火力による煤煙公害は黄海沿岸
部は 大きく被害を受け 北朝鮮を中心にその喘息や呼吸器障害に悩む患者が増え続け
ているというのである。多くは噂ではあるが 北朝鮮はこの事に抗議を計り金をせしめ
る事にどうやら失敗したと言うのである。更に2030年のソ連の報告書では すでに
北朝鮮という国自体が消滅しているという話である。だがしかし人類そのものがこの地
球の難儀に対して耐えられるだろうか。およそ地球上の4分3が未だ貧困にあえぎ3分
の1がこの消費経済の恩恵に突入しようとしている。今現在の四倍の食糧生産とエネル
ギー保有が必要になる。その最先端に中国がいるのも又現実でもあるのだ。この事には
イギリスの王立アカデミーは警告を発しながらも、何故か香港・マカオを正当な契約者
たる台湾の国民党に返還せず 今の中国の独裁者共産党に返した形を取ったのである。
そういう馬鹿をして世界を混乱させるのは日本も同じでれっきとした日本の持ち物とし
て預かっているはずの朝鮮の民族史書を返したのである。




425: 名無しさんAA:12/02/07 01:19 ID:kfY
私の番組評82

 土曜の朝 少し遅刻しそうになった。なんとサワコの朝なる番組にうっかりみとれた
事が原因であった。なるほど これまではNHKで間寛平やたけしの番組と渡り歩いて
いた彼女が 徹子の部屋みたいな 冠番組をもつに至ったのであったのを知らずにいた
のである。そのすがすがしさつまり我儘気ままでさらりと話すその姿に見とれていたの
だった。深夜のも又同じにナダールの穴なるものに見入った事がある。別になんという
事ではないのだが 彼女や彼らの真面目さにちょっとした面白さがある。この個性が 
まるで昔何て言うことの無いぬいぐるみの小さなちょっとした動物やらの人形を大事に
して飾っていたような感覚があるのだ。私的意見だが このサワコの朝を深夜に再放送
でもしてもらいたいものだ と思うのだ。まあ見てもいない放映のおねだりとは何とも
さもしいものだが 一回ちゃんと見てみたい録画せよ・・そんな意見がありそうだが
それもそうだが それほどの番組なのだろうか。というよりお客相手のお話番組なので
その時の会話しだいであのサンマの部屋みたいなものでその時々で価値が変わるのだが
・・・うーむ・・・でも 一回はちゃんと見てみたい。


426: 名無しさんAA:12/03/02 19:49 ID:bNk
まね中国の危険性 76


 今 世界中で混乱しているのは 日本人を見る目が少し変わってきた事だ。ひとつは
偽日本人とまでは言わないまでも 同じ東洋人として日本人と偽ったり あるいは祖国
の国籍を事無げに簡単に捨てては日本国籍を取っては渡米していく人が数多くいたりし
ているからだが これは日本政府が中国人などの日本国籍への移籍審査を比較的簡単に
した為に起こった大量移民の群れなのだが。これに対して対テロ予防をする各国は日本
国籍のこうした人達に困惑している。更に平和ボケした日本国民はまるでヒョウの如く
に狙われ 拉致・監禁・殺人と行方不明者は後を絶たず 更にそこまでは無くとも盗難
は日本での盗難率よりも数十倍高くその中にはパスポートの入ったバックを そのまま
すられる者も数多くいる。従ってそれによって入国審査はかなり厳しくなったようで、
そのとばっちりは かつて名誉市民や優秀有色人種として誉れ高き名声も今や影がない
状態である。この日本人の姿に目開いて動向をじっと見つめている国々の中に米国は今
かつての鳩山時代に社会党が言った「米軍基地国外退去論」を吐き 米軍普天間基地の
返還を求めた言葉を頭に刻んだまま 日本人を注視している。即ちかつて武士道を持ち
自らを切り開く事を誇りとし 勇ましく米兵を驚愕に落としたほどの猛攻を見せた日本
の兵隊・・即ち自決までする本当に決死の覚悟の国民達に 安心して日本の統治を日本
人自らに任せたのだが 今やその 自由主義国家の尖兵たる日本を 自らに守る意思が
あるのかそうした決心をしてるのか と言う不安視している。

 


427: 名無しさんAA:12/03/02 19:49
物まね中国の危険性 78

 SKEの南京公演が延期になった。万歳である。元々この無知なる人民に付け込んで
嘘の歴史をでっち上げ日本の資金を得てより強固に固めた南京大虐殺の影響は大きくこ
の国の中国共産党の作り上げた思想教育の成功の代表として党内有識者で語られていた
伝説の神話でもある。此の思想教育は毛沢東の肝いりだったし、そうした近代史を探る
為の日本の学者が研究の為に大陸に渡る許可は決して叶わなかった。もちろん南京事件
はあったろうし 殺人が無かったなどという気はない。戦争中である国内外を問わずに
そうした殺人行為はあったのが当然である。だがその強固に誘導した偽りの歴史を進め
る為に行われた粛清は その事件以上の死者を出した。というのが現状であり今尚その
血に塗られた政府が起こした革命の反省はないし 粛清にて死んでいった同胞であろう
100万人の記録すらない中でひたすら 日本軍の暴虐として批判し反論しているので
ある。韓国の慰安婦問題と同じく時の時流とやっかみの中売られた娘が日本軍の相手を
したことは当然あったろう。即ち進駐軍相手の売春婦や売春宿は日本の戦後すら32年
の赤線廃止まで公然と花街が各所にあって潤っていたのだから。だがだからと言ってこ
の売春婦達が慰安婦として行動に出ていていても日本軍下の政府の仕事をしていたなど
とお門違いを主張している事と同じである。竹島問題や尖閣諸島問題も同じである。あ
のソ連が既成事実を作ればいいとした共産党思想の誤った考え方で 人類の未来の多く
を悲しみのドン底に突き落とした。それが中国の核ミサイルであり北方領土問題であり
森の悲劇でもある。そしてそうした行為を見て真似たものがこの竹島と尖閣であろう。
確かに世界大戦前まではその国の境界や先住民の生活などは尊重されなかった。しかし
今やもし華民族も鮮民族も漢民族も自らの生活の場を安泰としたいのなら平和に寄与す
る 隣人を尊重する考え方を持たねば明るい明日は来ない。




428: 名無しさんAA:12/03/06 05:54
新 国際町民 51

 ロシアのプーチンは涙ながらに勝利宣言をした。傍らにメドベージェフを引き連れて
。此の選挙にロシア国民は賢明な選択をしたというべきだろう。つまりは更なる混乱と
より以上の強権国家を作らない意思を示したと言っても良い。だが度重なる自由の声を
止めた行為と腐敗が進行する国内情勢には 極めて大きな態度で阻止すべきであろう。
中国でも同じだが こうしたカビを食い止めるには白日の下にさらして風通しをよくす
る事を行わなければ 家の中はカビだらけで病人ばかりの住まいになって 家がもたな
い。中国も今や北朝鮮と同じ強盛大国の道として軍事費を拡大して止まないが それは
いずれ指導部や政治家の身を危険に晒す事だという事を知ることになる。文化の低い国
で軍事に頼り 人民に隠し事を行うというのは 数多くの国であることだがその行為自
身が国を滅ぼす要員の一つである。日本でも人事特に公務員人事においては闇のままで
ある。大阪の交通公社の改革では この度この求人した履歴書の中に色々な添え書きが
あって裏に幹部やら議員やらの推薦があり 面接時の大きな不平等性と闇に隠れた贈答
なり収賄なりがあって公務員法に抵触した行為が日常茶飯事にあっていて今の公務員と
言う高級官僚が出来上がっている事が明らかになりつつある。カビが影に隠れて繁殖し
ていて有毒化している状況だ。中国では此の有毒な共産党を追い出して 正に村の規定
に従って初めて公正な選挙を実施した村が出現したとしてニュースになったが此の賄賂
根絶や自由化に全人代会議で一応は応援し報道の自由を認めている形だが 裏ではこの
動きが広がる事に強く反発する地方府や旧来の汚職にまみれた共産党幹部やらを応援し
軍部や警官を多数配置して警戒している。この形は日本の警察でも同じらしい。今回の
長崎でのストーカーの殺人事件では全く三重県警や長崎県警更に習志野のある千葉県警
との連携はとれておらず そこにはそれこそ議員や公務員や先輩と呼ばれる退職者など
の口利きで入った人が年を経て無能な上司となって指導力もなくノンキャリでもキャリ
アでも新入社員を通り一辺のマニュアル通りの指導で日々を過ごしているのだろう。
 恐らくどんな体制であっても このカビの繁殖を抑えるは白日にさらす自由がどれだ
け大事かを国民自ら自覚し知ると言う事とそれをしないと言う強い決意しか無いのだろ
う。その意味で共産主義は独裁主義と共に もはやこの世に存在してはならないものと
なったようだ。
 


429: 名無しさんAA:12/03/17 06:01
新 国際町民 55

 北朝鮮は又ロケットを発射し衛星を打ち上げたいとしている。おそらく今後北朝鮮は
自らの国民を鼓舞する為にも衛星打ち上げが失敗しようとも成功しようともロケットを
飛ばす事になるだろう。がアメリカはこれを叩かざるを得なくなる。というのも 今や
イランの核開発は国際社会の深刻な問題となりつつある。此のイランが国際社会に向か
って言わんとするのは 同じアラブ人を虐げるイスラエルの我儘を許すなという事だろ
う。しかし当然ながらアメリカを牛耳っているユダヤ人にとっては総本山としての意味
合いがありキリスト教で言う。ローマの中のバチカン市国みたいなものなのだろう。戦
後に生まれた此の国が追い出したPLOを更に過酷に追い出そうする行為に必ずや報い
を。と報復に何十年何百年かかろうと行うべきとの闘志を燃やしている。そうした中に
多くの流浪する難民を受け入れたいたのがイラクであった。そして911テロ事件には
お悔やみをも電文を売ったアメリカ寄りの此の国を叩いたのである。この非道によって
アメリカが決してアラブ人を受け入れない国である。とアラブ人の大多数は決意した様
に思えるのだ。アメリカがイチャモンつけた長距離ロケットも核兵器も何も見つからな
い此の国は古来アラビアンナイトの頃より旅人のオアシス都市としてバクダットなどが
歴史を壊され今や悲惨な生活の中にある。自爆テロも辞さないこの国民が戦争を逃れて
イランに来たのは当然だが ここに新たに正々堂々とIAEを受け入れて原子力開発に
名乗りを上げた。これに私は酒を飲んで酔っ払い刀を振るうが君は酒を持つなと先進国
は後進国に勝手な権限を取り上げた声明を発している。イランはホルムズ海峡を閉鎖し
てでも核開発を遂げようとしている。そして世界の先進各国の貿易や経済制裁があって
も彼らには 中国や北朝鮮などの後進国の後ろ盾があるものと見ている。即ち北朝鮮の
長距離弾道弾の技術と核技術があれば後は中国の大国外交の中にあるだけで世界の一極
の軸となり得ると考えている。現実にも過去の歴史においてオスマン帝国他此の大陸の
勢力が世界を覆った時期も何回も起こっている。



430: 名無しさんAA:12/03/18 02:47 ID:FYw
新 国際町民 56

ある人がこう言った。「生活保護期22年度で3.3兆円。このうちご覧いただくとわ
かりますが、仮試算で120億円弱も 外国人に払っております。その保護率は日本人の2
〜3倍、3分の2が朝鮮半島出身の方だそうです」と言う。その朝鮮半島は今やその日
本に刃を向けて声明を出している。にも関わらず 日本人の国会議員達は 更につけあ
がる民族に甘やかし放題の付き合い方を 法律で決めてしまう。対して他の異邦人達は
一斉に意見が出る。こうした人達を税でまかなうためだ。例えば塾と同じ扱いのはずの
特殊学校にまで給付しようとしている事にも 他の異邦人には何と馬鹿な。という思い
は強い。「海外にある日本人学校でも学費かかるのに、なんで日本にある一部の外国語
学校を無償にするか否か議論してんの?アメリカンスクール、インターナショナル・ス
クール、中華学院、中華学校、インディアン インターナショナルスクールその殆どは
学費払ってるよ?」「子供に民族思想を学ばせたい外国人は子供連れて帰国してるよ?
難民でもなければ、国から拒否されてるわけでもなく、日本に生きるのを選択したなら
、その国で甘えちゃダメでしょ。日本は外国人に十分配慮してる方だよ? 今の日本は
学校通わせるのに苦労してる人もいるの。同じ想いで苦労する気が無いの?」 とこの
正論は 日本の税の持つ公共サービスを 保険や教育でも 民間企業と同じ経済活動の
一つと安易に見ている事の間違いを指摘している。つまり税はあくまでも自治活動の費
用であり自治活動とは その自治に入る人達の生命と財産保護と 最大幸福の為の行為
或いは不幸に入らない為の工夫や処置にある。つまり人生のガードレール設置と同じ事
のみであり それは住民サービスとは言っても本来のサービスでは無く集団権利の行使
なのである事を示している。つまり国歌・国旗・言語すらも認めない人達にはその権利
の行使は出来無いのであるし そもそも日本人集団にならないと主張する人達に一体何
を持って税を使う価値があるのだろうか。



431: 名無しさんAA:12/03/18 04:48
新 国際町民 57

「誰かを非難しするつもりもない…外国人であれ、日本に生きている以上、日本人が
いま苦境に立たされてることを理解して、その想いを分かち合っていくのが真の共生。
私が伝えたいのは、どの国籍であれ、利益だけを求めて日本に寄生しようとすれば共感
は得られないよ。」と説いた。本当に今日本は苦境の中にある。それは経済的ものより
は 日本人がいつの間にか質を変えて世界の中では 韓国や中国や米国に肩を並べる程
の 物質文明の唯物主観論に転じて品位や善行を見誤った合理主義に陥ったからである。時を同じくして NHKはマイケルサンデルを登場させ 教育倫理・道徳的価値・市場
原理・公共サービスと政治・生命原理・職能と命・といった現代社会の苦悩を巧みな話
術で議論しようと試みている。そして今の市場原理や金融経済のみでは正しい社会や善
い社会は生まれないとして 人々の善き行いも正しい生活も無い。と結論づけている。
そこで我々は共にそれを議論し再び問い直さなければならないとしている。そこには図
らずも言葉の持つ魂 言霊や霊魂を見る想いである。例えば今「草食系の男子」などの
言葉が新聞や他盛んに言われる。貧相にもそれは流行の如く人々の脳裏に宿す。が多く
はこの意味を間違えて 男が優しくなったと勘違いする。しかし真実を知るツイターの
言葉はそれに踊らされれない「草食系男子が増えたって思ってないよ。肉食系女子?な
んだがこの言葉で括ると女性がたくましくなった印象だけど、要は我儘でガメつくて男
が引くような女ってことでしょ?男が女をハントしない理由はさ、いい女がいないから
だよ。それでも上から目線で、度胸の無い男が増えた〜とか言ってんだろうな…」 と
ズバズバと発言するツイーターもいる。つまり よく専門家だの評論家がしった風に言
い政治家がさも世情をわきまえた政治をやってるかの様なワイドショーやら新聞の論評
だが この通信技術の発達に置いては 人々は真実を探す心の旅立ちをしたかのようだ
。そして渡り鳥が一つの木の小実を全部食い尽くすかのように 事真実ではない事には
厳しい視線を送り 今まで曖昧模糊で良かった行政や政治には決別をする姿に変わった
。これにより より混乱しより扇動に弱くより内戦やデモ状態に近くなったようだ。


432: 名無しさんAA:12/03/18 04:49
新 国際町民 58

 つまり いままで まるで民衆を知ったような顔をしていた政権は常に 民衆の本心
を聴くなり 民衆への情報発信や間違いのない発言が求められ その姿や誠意の無い政
治家や行政はいつでも切り捨てられ 同時にその責任を持つ事が求められているのであ
る。今や国民や政権或いは国家さえも経済から或いは流通から金融から締め出され干さ
れかねない状況に立ち至ったのだ。そうした事は同時に かつての人類の愚行であると
されていた 魔女狩りや地域先導主義或いはやがてナチスを生んだ全体主義の時代背景
と全く同じ 権利意識の高まりである。ただ一つの違いは近年の技術の発達で大きく外
に直ぐに伝達される情報網と透明性の仕組みにあるだけで 仮にカーテンを引けばあの
相場状況のように 疑心暗鬼からすぐにでも内乱や革命が起こりそれは直ちに巨大な力
を持ちかねず、戦争ともなれば核と言う途方もない破壊力がそこにあることである。国
民と国家がそうした一触即発の戦闘状態にある事が 今ではどこの地域でもどの国でも
ある。その理由は どの国でも未来資本に対して食いつぶし借金をしてしまった事に端
を発している。後進国は先進国からの搾取に踊るか 共同開発するかを求められ 先進
国は其の資源の供給とその為の金を未来への借金である国債によってそれをまかなう。
が技術や進化は 悪貨は良貨を駆逐するの言葉通り どんどんと格安の市場へと変化し
返済が長くなるほどその負担は重く金利どころの騒ぎではなくなる。更に金利も貸付も
競争原理でより簡単になる。が此の貸付も借主も現代に住む人々で 自らに自らの足か
せを計り真綿で首を絞める行為を行なっては苦悩しているのである。そうした自虐行為
を行う社会はそこにいる民衆、即ち現代人の我々そのものが心の病を持ち先の道徳観念
のない品位無き指導者を輩出する教育やら社会性やら一般社会やら常識がはびこらせて
それに対処していないからなのである。


433: 名無しさんAA:12/03/18 09:30
新 国際町民 59

 こうした事は 時代の要請なのだろう。と深く感じる事がある。今税の抜本改革が議
論されようとしている。しかしよくよく考えれば 全く上げる理由はない。かつて地方
に回したとされる地方交付税交付金を削ってしまえばそれだけで良い話だ。例えば福岡
の場合福岡市は一体福岡県にどれだけ寄与しているのだろうか。地方から若者を集めて
悪態化が常駐した状態で金をドブに捨てるような話ばかりである。県も又同じで一方で
森林税などというふざけた税を取りながら一方で河川やその他大きな事業には殆ど木々
は切りたくり改悪を繰り返して改修したなどと馬鹿な行為を賞賛するのである。国も全
く同じである。こうした考えない行政にメスをいれたのが原発事故である。本来の津波
被害ならば多分に福島や茨木あたりが一番早く復興し それを真似た対応が他の県へと
拡がり 今ではそうした結果が見える時期にあったはずが 全くそうした気配はなく、
遅々として進んでいない。その姿は政治家の議論が遅々として進まない事と同じである
。多分地球自体が憂いて嘆いた状態なのだろう。有明海のサルボウの死滅問題は深刻で
今後日本の山が酸性雨による立ち枯れを起こすだろう予想を起こさせる。更に地震残骸
の所謂がれき処理の他の自治体に回すという憲法違反は 引き受け自治体の廃棄物処理
が滞るもしくは活発になって恐らく管理できない状態に変わる事になる。更にこの酸性
雨は中国からやってくるが全く日本は手出し出来ない上 東京の環状線道路の劣化に更
に拍車をかけそうしたインフラ予算が国民を苦しめるだろう。これは政府外交のミスリ
ードが日本の足下を掬い正に政府が立ち枯れ状態で国民の首を絞めた状態といえよう。



434: 名無しさんAA:12/03/18 17:25
新 国際町民 60

 この国際分業して 核開発のイラン・ロケット開発の北朝鮮・部品供与とバックアッ
プとしての中国に 大国ロシアやアメリカは只黙って見ている。ロシアにとって中国が
大きくなる事は 悪い事でもいい事でもある。存在感や国境問題ではなかなか良くはな
い。が同じ共産党の一方の極であり同盟国だからだ。更にその基盤となる技術は旧ソ連
の対戦車用だかのロケットであり大した問題でなく 中国で作れない部品が中国経由で
供給する事もあるかも知れないのだ。つまりは痛し痒しの事なのだ。更に中国で今や残
虐行為の元となる民族問題は いわゆるチベット国とウイグル国更に内モンゴル地区の
少数民族の問題がある。これに加われば ソ連内のキリギス問題に火がつく恐れがある
のだ。此の痛し痒しはアメリカにとっても変わらない。北朝鮮を叩くとなれば韓国がま
ず前面部隊として戦う事になる。だがこの朝鮮族には妙な繋がりがあり同族である。そ
の上同族意識が自由主義史観より高くあまり信用出来ないのである。加えて難民が出る
。この難民の行き先は7割程度が中国である。残り2割も又韓国内に留まるとは限らな
い。中国や日本経由で米国内までやって来るのだ。僅か1割程度しかロシアのほうには
行かないだろうと推測される。今でも南米からの移民やイスラム系の移民が犯罪集団と
つるんでは犯行が行われている兆しがあり 麻薬やテロに過敏なのだ。中華系も日本を
信じていたが 今や日本人を名乗った中華人が氾濫して職を圧迫してる。つまり日本を
守り朝鮮半島を守ることに疑問符が付き出したのである。彼らが勝手に内乱を起こせば
良いと。更に中国とは仲良くはしたくなくても経済活動では入り込み 軍事力行使には
国際世論の批判は覚悟しなければならないからだ。こうした中 日本の見解なり方針、
或いは後押しがなければ この極東の軍事動勢に対応出来ないとした姿勢である。が、
その中心の日本は今や ふにゃふにゃの民主党政権であり見えない野田内閣なのだ。




435: 名無しさんAA:12/03/24 01:17
新 国際町民 61

 北朝鮮がロケット打ち上げを発表した事で 日本は又円高に陥るかもしれない。つま
り此の打ち上げに 日本はおろかアメリカも中国も韓国も怒ってしまっただろう事だ。
「どうやら北朝鮮は沖縄の駐留米軍に的を絞ったようだ。」とある専門家に言わせる程
このコースの衝撃度は高い。勿論南に中国北にロシアを抱え打ち上げコースが日本に向
い打ち上げざるを得ない事は事実であろうし かつて打ち上げた衛星はそのロケットの
破片を日本海と太平洋沖に落として衛星の打ち上げは成功したと報じられた。がその2
日後地球周回に至らず 北米で落下し自爆時旅客機に命中したのではないかとの推測も
あったぐらいに その衛星がどんなものか不明である。この時もグアムやアメリカ本土
まで達する事の出来るロケットを持ったと言うアピールだとまで言われたがその真意は
今だ不明である。が とりもなおさず このロケットが飛ばされるだけで米国の国際的
威信は失墜するだろうし 又そこを狙った打ち上げであることは確かだろう。しかしこ
うしたコースの行為を考えたのが仮に高級幹部であったとしても その承認をしたのが
金正雲であるとしたら 余程の馬鹿か知恵者であろう。即ち中国や米国そして韓国と日
本にあからさまに敵対しかつ方便をする国にしてしまう行為だからだ。先ほど米国が人
道的配慮として米の支援を決めたばかりの中 米国の人道支援家や親朝派の顔に泥を塗
る行為をして衛星だと言い張るのである。これに国際社会はどう対応するかというか米
国や日本そのものがどう対応するのか固唾を飲んで見守り その上イージス艦や迎撃砲
が効果が無いとしたら 物笑いの種として残り 此の北の試験的行為を中国決して止め
る事などしないだろう。なのにこうした中 輿石・鳩山は 友愛の海などと能天気な思
想をもって訪中しているのである。今行くべきは訪米でありオバマ大統領としっかり握
手した写真を撮らせ 確実な迎撃体制を整える事なのである。


436: 名無しさんAA:12/05/03 04:41
新 国際町民 83


 満州国は、わずか13年間の王国だった。この世界史上、類のない奇跡の国に 日本は
かなりの投資を行った。満州の総面積は、日本の領土の約3倍もあり、盗賊的な軍閥に
支配され、民衆は搾取にあえいでいた。中国全土が荒ていたが この地に、鉄道、道路
、港湾、空港のほか、上下水道、治山治水、電力供給など、様々な国土開発計画を実施
し整備された。 首都・新京は、じつに先進的な100万人都市として建設され、路面は
すべてが舗装され東京にもなかった「下水道」も設けて、「水洗便所」が使用された。
又、以前は鍋・釜しか製造できなかった満州は、やがては自動車や飛行機まで製造する
一大産業国家に大変身した。 治安がみごとに確立され、つぎには近代的な司法制度、
法律が完備され、賄賂の悪習の追放もされた。貨幣の統一もわずか2年間で達成された
し、日本人以外は字も読めない人々が殆どであった為教育もなく、国家の理念すら理解
されていなかったが、日本はそこに学校を建て、教育を普及させる。病院を建ては、風
土病や伝染病を駆逐していった。満州国では「五族協和」を掲げていた。色々な民族の
人々が、満州国の平和と繁栄に憧れ、自分もそれにあやかりたいと競ってやって来た。
そして彼らにより、この何もない原始的だった50万に満たない地が、きわめて短期間の
うちに近代的な法治国家として成長した。そこは搾取や略奪のない、生命・財産の保護
される平和郷であり、周辺地域から比べれば非常に優れたアジア人の王道楽土となって
いた。日清戦争で人が減り続けた地だったが満鉄敷設と同時に増え始め 建国時には20
00万人を超えていた。更に建国以降も、年間100万人を超える人々がなだれ込んだ。193
2年の建国宣言時に約3000万人だった満州の人口は、終戦時の1945年には、4500万人以
上にも増えていた。現在の日本の人口の約半分もの人々が、集まりそこに暮らしていた
。 もし今日の中国人が言うように、「当時の満州が略奪と虐殺の地獄だった。」なら
このような現象はみられなかったはずである。 ヨーロッパの大思想家カントやモンテ
スキューは、哲学や法学の大著の中で、「中国人は嘘つき」と説く。中国共産党は現在
も、たとえば「日本軍による南京大虐殺」という「かつて自分たちが中国民間人に対し
て行なった殺戮」を、すべて日本軍のしわざと、厚顔無恥に叫び続けている。 なぜな
ら、去勢され、日本人としての気概を失ってしまった大和民族は、何を言っても謝らせ
、搾り取ることが出来るからである。



437: 名無しさんAA:12/05/03 04:41
新 国際町民 84

 「ほら見ろ言わんこっちゃない。」と日本国民は政府の馬鹿さにあきれている。中国
韓国の単独FTA交渉である。元々 その政権の根拠が無い日本の戦争時代の遺産を、
終戦後 自動的に搾取して建設経営してきた 北朝鮮と同じ国である。勿論フィリピン
や台湾などでも 同じように軍のやった治水や道路建設 治安や家屋の多くは搾取され
てそのまま使用されたであろう。しかしそれでも 殆どの国はあの米国下の トンガの
酋長さえも米軍の日本批判用の調査に「日本軍は 指揮の取れた軍隊で我々を教育し此
の島で道路建設などをして文化向上をしてくれた。一部の島民が殺されたかも知れない
が それは戦争だからだ。日本は全く悪いことはしなかったし 我々は日本に感謝こそ
すれ批判する事は米軍にはあっても日本軍には何もない。」と語った事が映像と共に残
っている。元々彼の中華朝鮮はベテンを絵に書いたような国である。国際的に道義や責
任や意思が無く 未来創造に欠けた時流に大声をまくし立てる国なのだ。それが為に北
朝鮮も又身動き取れない状態なのだ。中国が拠出金やODAには後進国だと言い張り 
議決や日本やドイツの国連理事国入りには先進国並の発言で猛反対しては アフリカ内
戦国ではその資源供給から我々は先進国としてのノウハウがあるとして支援国に回って
いる事は有名な話である。韓国も又同じでつい最近この国のウォン暴落に日本円の保障
をして貰い多大なスワップ枠を設けたニュースから一年経たないのに 後先のないこの
だらしない政策なのだ。日本はこうした節操も品位も常識もない国とはそろそろ手を切
って独自の未来像を描かねば明るい未来が来ない。





438: 名無しさんAA:12/05/07 23:00 ID:jM2
新 国際町民 85

 フランスで革命的な選挙結果が出た。オランド候補が大統領になったのである。緊縮
財政を手堅く収めていたサルコジ大統領に対して 拡大交付富裕層増税論を引っさげて
若者に支持がもたれたようだ。だがこれによってフランスも又劣化国債に泣く国に転落
しないか心配である。勿論増税や拡大財政での社会福祉も又その声に反対はしない。だ
がこの国の富裕層との格差はアメリカや中国或いはチリなどの南米に比べたら微弱であ
りそうそう富裕層が楽な生活をしているとは思えない。更に事情は投資家達がスペイン
やギリシャのユーロ不信にやっと矛先を収めている中であったのだが 果たしてこれで
一層のユーロ安が出現したら世界は立ち直れない事が此の馬鹿理論を掲げるオランド氏
に理解できているのかが心配だ。やっと支援の枠が決まったのに緊縮財政にNO突きつ
け更に貧困になろうとするギリシャやスペインの国民と同様ドイツでは何故他国の支援
をしなくてはならないのかと言う声もくすぶり続け もしフランスが支援の手助けの仲
間から外れでもしたらユーロそのものが空中分解し紙くず同様に変わる危険性があるの
だが これによって中国は全く国内事情とアフリカ事情に更に欧州事情と言う3重苦に
襲われる事になるが果たして持ちこたえる程の資金や産業を持っているだろうか。それ
は日本や東南アジアにとっても他人事ではない。今や静かに国内では不動産バブルがは
じけてその影響が産油国やロシアに及んでいる。勿論日本も今や観光客どころか円高の
早い進行によって産業界やは大打撃であるはずだが 経済界の銀行などは手数料高や貸
し渋りなどで国難をしのぎ 税金投入による公共事業発注などで やっと景気の下向き
が横ばいに変わったぐらいで 以前のような勢いが見られないままである。今後イラン
への爆撃やホルムズ海峡封鎖があれば 恐らくアメリカも大きく後退局面に入るだろう
。アフリカが早く立ち直り イランや北朝鮮が自由社会の仲間入りして核を手放してく
れる事を祈るばかりである。まさかフランス国民がこんなに馬鹿だったとは信じられな
いと国際社会は落胆しているであろうが仕方がない。




439: 名無しさんAA:12/07/05 03:19
物まね中国の危険性 82

 今 ロシアのメドベージェフが北方4島に視察に来た。北朝鮮に似たアピールの仕方
で ロシア国民に向かって ロシアの領土を1cmも渡さないと吠えている。こうした様
は 日本の企業家達が遠因になっている。ロシアや中国と国交は再開されてはいるもの
の 日本人はこうした共産党と言う世にも奇妙なオウムにも似たテロ宗教と関わり合い
を持つことは従前から恥としてきたはずだ。その掟を破る行為が 橋下内閣以降続けら
れ橋下氏がロシアを助けた事は人道的にかなうものであろうが 中国進出する企業群は
全くの不道徳極まりない企業であると言える。只々自らの会社の延命や売上の為に海外
に出て行ったのは構わないが それが売国行為を行うためとなればそれはやぶさかでは
ない。播磨造船などは 日本国政府はかつての戦艦大和からも培われた造船技術をいと
も簡単に本社機能工場機能を移していることは全く5兆円規模の制裁金をかけてもいい
程である。他にも色々うごめいていて軍事転用が可能な半導体製造装置のプログラムを
無許可で中国に輸出したとして、県警外事課と伊勢佐木署は4日、外為法違反(無許可
役務取引)の疑いで、東京都品川区の中古半導体製造装置販売会社「インターテック」
と同社役員の男性(53)を書類送検した。輸出先には宇宙航空や軍事関連を扱う研究所
も含まれていた。と言うニュースや大量破壊兵器の開発に転用可能で輸出規制がある磁
気測定装置の無許可輸出事件で、外為法違反罪に問われている貿易商社「大協産業」(
東京都渋谷区)と、同社社長の武藤裕彦被告(58)=練馬区=の初公判が8日、横浜地
裁(久我泰博裁判長)で開かれ、武藤被告は「共謀も故意もなく、事実ではない」と無
罪主張した。ニュースがある。こうした会社は最低でも1兆円位の課金をかけて良い。
とするのが正しいやり方である。政府がもたもたしている間に財界人達は身勝手な共産
主義を日本に持ち込み そして勤勉で大人しい社員達が築いた財産である技術や工場を
事なげに経営者だからと言う理由で叩き売りし 福祉施策の不備や道徳教育の無さなど
で 老年の技術者を生活補助しない為に そうした技術者やOBさえも事なげに日本を
売る行為に走っている。一般的他国では考えられない行為なのである。



440: 名無しさんAA:12/07/19 03:42

 新 国際町民 56

 オスプレー配備問題は 多分中国の動きがあわただしいからであろう。最近北朝鮮に
対して 自らの改革開放をしてしっかり民主化していると言うアピールが 中国側から
あったのではないか。と推測され 北朝鮮は軍事強硬路線を少し文化融合路線に切り替
えようとした節がある。これに因って 中国側が新たな国家戦略を敷いた様に見受けら
れるのだ。尖閣諸島での反日運動も台湾活動家と名乗って 中国国旗を掲げると言う茶
番をやり 都の購入に黙認を示していたが国が購入とした事に大きく我が領土を購入と
は茶番劇だと居直った。更に日本の丹羽大使にして 大きく中国側が反対している匂い
を嗅がせては 反対の意見に賞賛の声を上げた。これは潜水艦問題として良く知ってい
るとも見える。つまり既に日本の深海よりも深く潜る潜水艦を作る能力を持った事で、
秘密裏に多数のその造船を行なっているらしいが この対潜哨戒機を派遣する事は極め
て 米国側には大事な事だからだが それでも此の機体の危険性は完成度の低さから、
沖縄や岩国などには厄介で危険な機械である。ここで日本が提案すべきはオスプレイの
改良であろう。随分と秘密部分があろうが 此のヘリコプターは多分垂直離陸機VOT
Lの後継機として発展したものであろう。このブロペラ機に小さな尾翼ヘラを取り付け
て安定度を増すことは可能の様に思える。勿論試験運行も必要だろうが。基本的には、
此の上昇用がそのまま前進用とするにはかなり無理がある。操作が空中バランスの問題
に起因していると思えば 何らかの形で前進機能をそのままに上昇安定性を高くすれば
事足りる話に見える。問題はそうした開発をアメリカがOKするかであるが せざるを得ないはずだ。何故ならそのままでは戦時突入には不適格な機体であろうからだ。




441: 名無しさんAA:12/07/27 19:15
物まね中国の危険性 83

 案の定 中国は今や人の住むべきところでは無くなった。大紀元の報道によると今回
の豪雨は北京を直撃したらしい。

 北京に甚大な被害をもたらした7月21日の豪雨。政府は死者37人、被災者190
万人と発表したが、その後、数字が更新されていないことから、市民からの不信が高ま
っている。インターネットでは、死者が1000人規模に達しているとの憶測が飛び交
っている。その一方で、25日に北京市長、副市長の突然の辞任が発表された。災害で
市責任者の辞任まで発展するのは極めて異例で、今後の政局に影響を及ぼす可能性が出
ている。 死者は1000人以上?
 海外華字ニュースサイトはネット利用者(ID:栄栄田)の情報を引用し、特に甚大な
被害を受けた同市房山区では、100台あまりの自動車が引き上げられ、市バスも含ま
れており、1000人以上が死亡した。多くはバスに閉じ込められたまま亡くなったと
伝えた。もう一人のネット利用者(ID:NUSKIN LI)によると、同市豊台区南崗?だけで
200人の遺体を収容したという。
 さらに、政府が37人死亡と発表した3日後、父親の遺体を発見したとある ネット
利用者の書き込みもあった。いずれもネット情報ではあるが、死者が37人を超えるの
はほぼ間違いがない。北京政府は24日、「情報隠蔽をしない」と表明し、「現在は、
遺体の身元を確認中」としている。
 しかし、市民らは市の対応に強い不信感を抱いている。米VOAの取材に対し、北京
市民の胡佳さんは「身元確認と死者数の発表は別々の問題であり、身元確認できなかっ
たからといって、死者数に入れないとでも言いたいのか」と疑問を呈している。とある
ネット利用者は「情報操作の時間稼ぎだ」と市の言い分を一蹴した。
  個人的な感想では 多分千人以上が死んでいると思われる。と言うのも 北京には
多くの地下壕がある。歴史的には 政権維持の為の地下都市だが 一般的には毛沢東の
 ゲリラ抗争で使った後として知られている。が 此の地下に最近は田舎からの出稼ぎ
難民達は住んでいた。これらの人々が3千人とも5千人とも言われながらも 全く政権
は把握していない。所謂ほったらかしである。あの高速列車事故と同じく 当局には、
そうした事の事件事故や災害の処理は全くやる気はなく又やる方法も持たないのである。


443: 名無しさんAA:12/08/02 19:44
 新 国際町民 57

 オリンピックで これまでの期待どおり内村航平の金メダルが出て来た事で やっと
本来のオリンピックになったようなIOC委員会の動きである。見るものが見たら彼の
つま先まで伸びた姿勢の美しさは世界一と驚嘆するに値する。だが団体戦で うるさく
かき乱すアナウンスと調子の狂った音楽の中で彼はクレームをつけてやっとの銀メダル
を獲得した。それはあのウクライナの選手と同様に あまりにもおかしなイギリスの金
メダルであったし 落胆にへこんでしまったのだろう。突然の観衆の雄叫びやら甲高い
音楽更になりふり構わずのアナウンス まるで田舎のお祭りイベント会場を思わせる程
気持ち悪い悪ふざけの国際競技場の有様であった。がその為に英国人を初め我々全てが
彼の 難度の高い技である平行棒の屈伸ひねりや 鉄棒のコールマンなどの技が見れな
い羽目に陥った。それは全く惜しく見逃したものとなったのだが 本人も又その本意で
はなく不満ながらの金である。こうした背景には意地でも金に固執した結果なのだが、
それは他の大会でも数多く見られる。柔道でも今や点数制にして日本の持つ柔術の精神
すなわち正々堂々戦って負けるに潔しの風格がその試合会場にはない。技の掛け合いよ
りは有効で逃げる選手が数多い。女子柔道の韓国の選手などはまるで喧嘩かプロレスと
間違えた試合ぶりだ。そうした事はバトミントンで如実に現れる。平和の祭典スポーツ
の最高峰とされたこの大会に 全く姑息にも試合せずの選手は失格となった。いずれも
中国で言う 喰えないならば豚になる。と言うしみったれてでも金を狙う戦略だったろ
うが その五輪精神に反した行為は韓国国内では国の恥だと批判され 中国選手は素直
に知らなかった間違っていましたと平謝りしている。だが批判以上に双方の国の国民は
、そうした世界の常識ないし良俗公序のない反道徳性が自国の文化にある事を自覚して
もらいたいものだ。




444: 名無しさんAA:12/08/10 22:20 ID:h2o
 新 国際町民 58

 李 明博大統領が 竹島に降りた。勝手な国境を引き 歴史書の中に 自らが言って
いた独島の名前の土地が本来の済州島よりずっと韓国に近い島である事が判明している
。が韓国政府は 自らの古文書を強制収容して廃棄したのは去年の話しであった。そう
した自らの民族図書すら焼き捨てる習慣の中でも 日本は馬鹿正直にも韓国王朝が貢物
として日本に捧げた書物を 国民や天皇になんの相談もなく返してしまったのだ。もち
ろんその事で友好が図られればそれはそれで結構な事だが こうした事で逆に全く日本
を軽々しく見られている。中国でも今や義勇団が城兵といったいわゆるプライベート・
アーミーが武装強化軍事化しては 中国に分裂の兆しが去年から来ている。 いわゆる
日本で言う”役座”や”適屋”と言う”縄張り”をする無頼集団で日本語では「城管」
と訳され彼らは村々の賄賂代わりの”諸場代”をせびると言う考えられない集団なのだ
が それでも彼らはれっきとした法の権限の配下にあるという。このところ彼らの情熱
が情報化の中で消化されず 愛国心の声をかたに近隣各国を威圧するに至っている。
日本はもとより 北朝鮮・韓国・台湾・ベトナム・フィリピンとチベット・ウイグルは
いずれも この無頼の徒が暴徒を進めて止まないのだ。つまり尖閣と同じく管理されな
い公務員の権限を持つ民兵を先発隊としてわざわざ問題を起こさせて領土拡大を図ると
言う工作を公然としては 各国を悩ましているのである。その事で大いに愛国心を煽ら
れた国民は 国の代表を強く非難するも 中国と戦争覚悟で物が言える立場でない事が
解っている。そのため同じ行為でも殺されないであろう日本を選んでアピールする按配
なのだ。とはいえ韓国大統領が竹島に来る事はおおいに間違えているし このまま日本
は 韓国との通貨スワップをご破算にするぐらいは軽くやらなければ その後ロシアや
中国が更に暴挙に出ることは 容易に想像できる。もしその判断すら出来ないのなら
民主党は解散どころか即解体しなさい。と多くの国民は思っている。




445: 名無しさんAA:12/08/12 17:27
新 国際町民 59

 世界が今一番警戒している事は こうした中国国内の斜陽化で起きる武装化である。
人民解放軍が国が統率して以来その監理監督をして 下部組織の地方共産党は対抗でき
ないほど規制をして現代に至っている。今ある人民武装警察が別にある理由はその統率
であった。この二つの軍は開放軍225万人武装警察隊66万人予備兵50万人とされ
公式発表している。しかしそのいずれにも中には入っていない「城市管理行政執法局」
という部署が今や武装化していて その上その発言力は強い。又指揮命令もない自警の
集団としてあるが れっきと権限を有し同国国内法が定める中に この「城管」の存在
している。仕事は驚くほど多岐にわたり、環境衛生から始まり、違法建築、公道違法占
拠、無許可違法営業、公共事業管理、駐車管理、公園緑化、環境保護、工事現場管理、
節水管理、湖水管理、違法車両、無許可観光業など各方面の違反を取り締まりしては、
その資金源である違約金や反則金や罰金を徴収しているとされる。「総合的行政執行を
管理する」と規定されている為に今までに誰も太刀打ちできないでいたが 更に武装化
した自警団の「城管」という名の「民兵」と言える形が整う事になる。これらが各自に
独自行動と独自規制での徴収している罰金が、今や武装化によって、中国特有の「権力
は銃口から生まれる。」としての自衛権を行使しその国の法よりは地域の言い分が優先
されだしてきたのである。言うなれば今だ民主化されないロシアの軍と同じにある。
 薄熙来が失脚した裏には 中華人民共和国の国防法・兵役法で言う「軍事機関の指揮
の下で戦備勤務、防衛作戦任務、社会秩序の維持と補佐を担う」と言う武装力を地域が
持てる事を利用して「民兵」を育てた。とされる事に強い危機感が中央にあったからだ
と言われている。事実この経済の高まりを享受しながらも党や中央政府の批判は根強い
。更に人口出生率から見れば ちょうど日本のバブル期と同じピラミッドからつぼ型に
変化する時期に面していて 国民自身が国の斜陽化を体験してる最中にあるといえる。
 欧州のような伝統尊重の精神もなくアメリカのようなスピリットもなく日本のような
協調意識もない。そうしたこの国民が 世界での横暴を早め またぞろ朝鮮ロシアなど
の共産化思想に酔いしれた行為に 発展しかねない事が一番世界で最も危惧される事だ
ろう。

 



446: 名無しさんAA:12/08/12 18:22
新 国際町民 60

 アジアの恥さらし国韓国はまたもや 独島はわが国と書いた旗をオリンピックに掲げ
前から用意していたものでは無い。などと言い訳をしている。用意出来ないものが何故
ここにあるのか。更に先のバトミントン試合と同じにどうもこのオリンピックを普通に
世界大会と勘違いしてるらしい。恐らくこの分ではオリンピック精神だとかオリンピッ
クのクーデルタン男爵とかナチスのドイツ大会とかを全く知らないままの只のサッカー
馬鹿の選手であったのだろう。更にオリンピック委員会も即韓国チームの金メダル剥奪
を行うべきであろう。そもそも平和の祭典としての意義あるものが 全く出鱈目認識の
権利すらない国が今の竹島占領を正当化するという行為で 戦争を煽っているの中にあ
るのだから。つまり全くの嘘を そこいらのヤクザと同じに言いがかりや難癖つけては
自分のものと言い張ったのである。 この戦争をなくしてスポーツで戦いましょう。と
いうオリンピックの会場で言ったのだから。又この五輪の歴史の中でも 日本選手とし
ての登録で済州島からあるいは朝鮮本土からも選手は採用されて 出場してる事すらも
知らないのではないか。そも韓国皇帝から対ロシアの凶行に日本に助けを求めその土産
として貰ったものを勝手に日本政府は贈ったが その意味を解さない馬鹿国民ぶりは、
かつての明治時代と同じではないか。そも日本を戦争に引き込み その上敗戦時はしっ
かりした日韓併合の解約調印は全くなさなかった為に 北朝鮮の国旗をもった中国人民
兵がソウルを襲った時それを退けたのが 国政連合多国籍部隊ではなかったか。更にそ
の中の日本の数多くの特別警察隊は命を代償として働いたはずだが 歴史に埋もれ表に
出ない話だったとは言え 全く勝手に境界線を変えて自分のものと言うのは つくづく
身勝手な民族であろう。と自ら自覚すべきである。
  




447: 名無しさんAA:12/08/14 14:58
新 国際町民 61

 そもそも この韓国人の憂うべき態度は 中国人が韓半島に攻めては その属国とし
ての年月を重ねて 自国のプライドと言うものが無いのは知ってはいたが ここまでと
なると 日本は近隣国としての友好は捨てていいのではないだろうか。、日本以外には
友好国として認めてもらえない韓国を相手に愛知万博では韓国人の入国ビザを免除した
り、万博終了後のビザ免除の継続を検討したり、韓流ブームを人工的に起こしてみたり
、 両国の文化交流を推し進めるべく多大な努力を払ってきた結果が未だに出ないのは
もう難しいとあきらめたが良い。「隣国を愛せよ」とばかりの友好路線を敷き、韓国が
国内の借金や外国からの借金を返せなくなって破産しかければ肩代わりし、韓国が通貨
危機に陥り経済破綻しかければ単独国家としては世界最高額(アメリカの2倍)を気前
よく出したりもしていたが。全く意味のない北朝鮮との交渉と同じではないか。日本は
、以前から元より世界でも珍しい親韓の国なのだとは思っていたが ここまでの馬鹿を
やる国民を一体どうするつもりだ。韓国特有の「ことわざ」の中にしみ込んだ韓国特有
の非情さは 同じ儒教を宣布しながらも全く彼らを 道徳的得心を持たせる事が出来な
いでいる黄ばんだ国民である 「他人の牛が逃げ回るのは見ものだ。」「他人の家の
火事見物をしない君子はいない。」 「姑への腹立ち紛れに犬の腹を蹴る。」「川に落
ちた犬は、棒で叩け。」と言ったことわざが堂々と言われ ヨーロッパの有名な観光地
では韓国語で「韓国人御遠慮願います。」と書かれネパールのシェルパ組合(エベレス
ト登山の案内人)は 「ささいなことですぐ殴る。」と言う理由で 「今後、韓国人登山
客の道案内はしない」と公式に表明させた、最近『スマトラ沖地震義援金』を10分の
1に値切って話題の国だ。 もともと 韓国では日韓基本条約すら最近まで国民に公開
されていなかったし 今でも政府のする中国流の嘘の歴史を丸呑みしてお祭り騒ぎして
中国内の反日運動でも 過激に鶏の首を切ったりしては煽っていたと言うのだし ここ
は一つ 中国と韓国とは外交を控え 入国者を規制すべきである。



448: 名無しさんAA:12/08/14 14:59
新 国際町民 62

 つけあがる隣人に手を焼くことは無い。日本との交流を無くせば 今の中国も韓国も
即座に資源が足りなくなるはずだし 偽札同様の管理されない元やウォンの価値など全
くただ同然であり資源の輸入は出来なくなるはずだ。そも中国人や韓国人は世界各国で
断られている中で、マナーも良く静かで金払いも確かな日本人が海外で入場を断られる
ことはほとんど無いのだが、韓国や中国では日本人が断られることがあるのが可笑しい
。そも韓国併合は世界に認められた併合であり 敗戦後の日韓友好条約も又 日本側は
その一国だけの繁栄を嫌って 個人補償までも提案したが、韓国政府の方から 個人と
国家の補償をまとめて全額受け取りたいと申し出たのである。それを受け、その希望通
りに全額まとめて完済済みなのである。さらに、強欲な韓国は北朝鮮の分もまとめて要
求したのでそれも又全額支払った。と言う経過がある。しかもその金額たるや充分どこ
ろのレベルではない。国民が受け取らずに韓国政府が勝手に内戦で使い切っただけであ
り、多すぎるほどなのである。(ちなみに北朝鮮の分も韓国が使い果たした)この時の
「日韓基本条約の関係諸協定、日韓請求権並びに経済協力協定」第一条では 日本は、
無償援助1080億円(3億$)、有償720億円(2億$)、その他民間借款で3億
$もの大金を拠出している。 現在価格にすると『2兆円以上相当』の援助である。
(当時の韓国国家予算の1.5倍)当時は復興中で本当に「貧乏だった日本」が、こう
した巨額の補償を捻出したのだである。 しかも戦後補償はそれだけではない。日本人
もあまり言及しないことだが、日韓基本条約締結の時に、「日本が敗戦する以前に持っ
ていた朝鮮にある資産や債権を全て与える」という“超・破格”のプラスαの補償をし
ているのである。従軍慰安婦問題では 当時には日本では公娼制度があり、法律で認め
られた管理売春が合法的に存在した。各国が軍内に慰安施設を持っていたのに比べては
日本のみは娼婦がいて「日本人5・中国人2・朝鮮人2・その他1」で、現地の女衒(
娼婦の管理者)と契約したため強制連行など必要なかったのである。それは高い給料(
陸軍大将の月給が 110円の時代に慰安婦の月収は150円〜1350円)を支払らわ
れて、無給で兵士と慰安婦の性病予防のため健康管理を軍医が担当していたのが現実だ
。つまりはやさしい日本人は他国以上の誠意で戦争し 超破格の賠償も国家元首の謝罪
も両国の合意による条約締結」も結び国際的合法以上の処置で、「道義的にも法的にも
完全に解決済み」であるはずなのに、馬鹿仙石のように今でも敗戦国のうしろめたい気
持ちから抜け出せず未来を無くす発言をし 馬鹿隣人を炊きつけ先人や英霊の行った、
破格の賠償も完全に済んでいる事を 無にしているのである。

449: 名無しさんAA:12/08/14 18:39
新 国際町民 62

 腐れ外道の韓国の李明博大統領は、天皇陛下の韓国訪問に関し「独立運動で亡くなっ
た方たちに、心から謝罪するのであれば訪問するように。」などと頓珍漢な事を言って
いると言う。独立運動などと言うのは とんだ嘘歴史も甚だしい話である。韓王朝は
韓民族の始祖である。その王朝が滅んだのは他ならぬ 清王朝とロシア皇帝の間にはま
って外交を八方美人で いい加減な外交に終始したからである。そも清王朝が中国大陸
にあったこともこの大統領は知らないのではないか。清国が英国と戦っても小指ほどの
力の成さに倒れ辛亥革命が起きた。そうして清王朝は国民党軍の国に変ったのだ。その
時も支援を求めたのは日本であり 宮崎涛天など福岡から熊本の維新獅子達はかなりの
支援をしている。これに対してロシアの南下政策は全く強化されたままであった。その
為仕方なく日本は日清・日露の戦争に突入したのである。独立運動とは全く無縁の人物
の暗殺商売で伊藤博文を暗殺した安氏を持ち上げては 勝手な歴史を作文しては後世に
嘘や出鱈目を残し 時の本当の政府であった韓王朝やら李総統の国民党軍を否定しては
漢民族や韓民族の誇りも伝統もない哀れな無学の者でしかない。ただただ国民の心熱き
する愛国心に吼えて ナショナリズムを持ち出し嘘や方便を高らかに言う姿は今の韓国
の国情が全く 自由とか人権とか正義とかが無い実情を示している。そういえば裁判所
も又 国の行いにまるで革命のように嘘を主張せよと言わんばかりの判決を出したよう
で 何故国際裁判所にちゃんと提訴せよと言う判決を出さなかったのか。それは簡単だ
自らの裁判所自体が不当で悪質な不穏な場所である事を認めているからであろう。こう
した腐れ国民や腐れ国家とは手を切らなければ 日本も又腐れてしまう。 悪魔は友と
悪戯するを喜ぶ。と言うことになるだろう。馬鹿民主党はさっさと強気に出なさい。い
つまで信任のないまま日本自体日本国民を愚弄する気だ。支持率は一桁以下になるぞ。





450: 名無しさんAA:12/08/14 19:28
新 国際町民 63

 しかしIOCもなめられたもんだ。メダルはく奪といえ選手は祝賀会やら歓迎会又は
記念会など次々と出席しているではないか。更に過去の白頭山は我領土とした女子サッ
カーもあり 全く確信犯ではないか この時も開催国中国の強い抗議とオリンピックが
北京での不名誉にIOCとの中を取りなしをしたと言ういわくつきではないか。こうし
た馬鹿者を作り出す韓国メディアも大きく報道の意味が無くただただ商売しているだけ
ではないのか。も少しメディアの責任をもって報道しなければ 煽るだけならかつての
軍事下の新聞と同じではないか。そもそも政府高官たる 大統領の臣下が汚職で捕まる
あるいは過去は議員である金大中が訪日では連れ去れる元大統領が捕まると言う事件が
多発しこれをもってしても 韓民族のがさつさが見える。大体経済界や産業界がこうし
た国と取引している事が解せない話しである。かつて労使交渉には社長が日本人経営者
を拉致監禁して脅迫までもしている事があったのは そう遠い昔の話しではない。今の
韓国心情も全く同じで そこいらの乞食と同じ精神だし盗賊と同じ行動を取っている。
今回のサッカー事件も謝罪したい気持ちがあっても 韓国人自身がメディアも含めて、
謝罪させてくれない環境なのだろう。更にこうした五輪を冒涜した選手を批判もできず
まともな神経の記事をかけない新聞社ばかりなのであろう。今起こっているヨルダンの
アサドの国と同じに抑圧と圧政でしかこの国民は納められてないのかもしれない。まあ
ここで どれだけ反省をうながしても 韓国民が自らの恥を知らない限り無駄なのだろ
うが それでも隣国にははた迷惑な国で 全く前向きな平和思想がなければ付き合って
られないはずで 日本政府も自らの支持率の無さが何処にあるのかを良く知るべきだ。
鳩山・菅・野田と 国際社会に先行して発表するような いい加減に対応する党や議員
は日本国民には要らないのだ。




451: 名無しさんAA:12/08/17 05:22
新 国際町民 66


 韓国の李明博大統領が竹島訪問や天皇陛下に謝罪を求める発言をするなど日本に対し
て強硬な言動を繰り返している。更に19日再度竹島での自分の名を書いた石碑の除幕
式にて竹島を自国の領土として守る決意を示すとしている。とんだ茶番劇だ。人の土地
の庭に隣人が勝手に銅像を建てるようなものだ。が この恥さらしの行動に韓国人は全
く気にならないらしい。
 今月10日の大統領による島根県・竹島への上陸強行したが 日本政府は13日は、
「これまでに韓国と合意した金融協力を変更せず、維持する方針を明らかにし、李明博
大統領が島根県・竹島に上陸したことで日韓間の緊張が高まっているが、両国経済の相
互依存が深まっていることを配慮し、国際的な合意を順守することが、関係改善にも重
要と判断している。」としていたされる。それでも李大統領は14日、韓国・忠清北道
の大学の会合で、「(天皇陛下が)韓国を訪問したいならば、独立運動をして亡くなら
れた方々のもとを訪ね、心から謝罪すればいい」「遺憾」の言葉ぐらいなら来るなと迫
った。」対して15日には、野田首相も、首相官邸で記者団に対し、大統領の発言を「
理解に苦しむ発言で遺憾だ」と批判し、外務省の杉山晋輔アジア大洋州局長は同日、在
京韓国大使館を通じて 韓国側に抗議の意を伝えた。その後の天皇の訪韓要請に関して
藤村修官房長官は15日午後の記者会見で、「こちら側から訪韓したい趣旨の発言はな
いとし日韓の通貨交換(スワップ)協定の見直しや、首脳による相互訪問(シャトル外
交)の一時中止など対抗措置の検討も始めたとされる。そうした中スワップ協定を見直
す可能性について聞かれ、「今後さまざま検討することはあり得る」と否定しなかった
が、「まだ検討には入っていないということだから、あんまり先の話を勝手に想定して
もらっても困る」と語った。しかし自民党は16日こうした日本に対して強硬な言動を
繰り返していることを受け、日韓通貨スワップ協定の更新見直しを含めた対韓国政策の
総合的な見直しを求める声明を発表し、みんなの党渡辺氏は「全ては民主党政権の外交
無策のなせるわざだ。弱腰で足元が見透かされている」と厳しく批判した。


452: 名無しさんAA:12/08/17 05:22
 そんな中で 外交部会と領土に関する特命委員会の合同会議の議論を受け、石破茂同
特命委員長、小野寺五典外交部会長らが声明を発表した。この合同会議では、平沢勝栄
衆院議員、片山さつき参院議員がスワップ協定の見直しの必要性に言及。菅原一秀衆院
議員は「日韓スワップ協定は即時停止、日本政府が持っている韓国国債も全部売るべき
だ。それぐらいのことをやらないと国際世論には訴えられない」と主張した。対して、
会議に出席した財務省の中村修・国際局地域協力課長は、日韓スワップ協定について、
昨年10月に1年間の時限措置としてスワップ枠を130億ドルから700億ドルに拡充したと
指摘。その上で「この取り扱いについてはグローバル経済の今後の動向や通貨金融市場
の動向、韓国経済の今の状況、そういったものを総合的に勘案して検討しなければなら
ない」と述べるにとどめている。それでも韓国は強気だ。 李明博(イミョンバク)政権
は「発言を自制して未来志向で行くことを望んだが、むしろ状況が悪化した」と語った
といい。さらに、日本が韓国への対抗措置として、日韓の通貨交換(スワップ)協定の
見直しも検討しているとされる点に関し、同高官は「日本との通貨スワップがなくても
、韓国ウォンの価値が不安定になる状況ではない」と強調し「(同協定は)両国の相互
利益のためのもので、(昨年10月に)スワップ枠を拡充した際も日本側が先に提案し
た」などと説明した。これに対し報道には「野党には、通貨危機などの緊急時に外貨を
融通し合う「日韓通貨スワップ協定」凍結を求める声もあるが、経済関係への波及には
 日本国内の反発も予想される。」と報道。している。いいではないか米国のアーミテ
ージ長官が言うようにここでは一流国で行くか二流国で行くかの問題だ。韓国ウォンが
どのくらい強いのか盗人の三流の国がこうした他人の土地を支配する事がどんな結果を
産むのか とことんまで突き放して ウォンの原価0.04円まで行くまでやればよい
そして竹島を売りなさいと言えばいいのだ。これまで何年間国際司法裁判所への提訴を
待ったか 韓国民は知らないらしいし 今後もこうした偽慰安婦歴史と盗賊領地支配で
強気で行くはずだし 今もロシアが共同戦線張りましょうという掛け声の下で 動かさ
れているのである。今後ロシアも資源の売り先がなく日本への嫌がらせは続くはずだ。
ここらでバシッと竹島を米軍駐留基地として貸し出すから出て行けと言えばいいのだ。



453: 名無しさんAA:12/08/17 05:23
 今問題の竹島も尖閣も 今度配備されるオスプレイの駐留基地にすればいいはずだ。
竹島をいくらで吹っかけられるかしらないが どうせ岩国やら今の沖縄本土では飛ぶ事
は不可能である。まず騒音と風災害が今のヘリコプターよりはすさまじいらしいのだ。
 対してこのオスプレイは片羽根では飛べない。つまり飛行機の滑空機能もCHヘリの
ようなオートローテイション機能は付いていない。勿論セットさせればそれなりの安全
機能が似たものとしてはあるのだろう。しかし力学的にはスリーローターとしなければ
この手の空間を行くものは不可能に近い安定性である。それは陸上における二輪と同じ
で車が左右の車輪で平面状は安定し上下をもう一輪で取り最低でも自動車に3輪必要だ
と言う事と同じでもちろん運動を起こせば 硬貨だけあるいは2輪車であっても航行可
能といった具合と同じだ。まあ充分でないこうした代物は時代を超えておいおい完成に
近づくのは歴史上も殆どの機械で見られる現象だが このオスプレイが老朽化したCH
機より10倍の事故率である。これまで普天間での事故を見るように 一度事故が起き
れば それは相当に日米安保にひびく話しとなり 両国ともそうなれば大きく痛手を負
うし 国民の反感を鎮めれないかもしれない危機が訪れる。それから考えれば多少出費
が重んだとしてもこうした無人島を街に広げることは 安い安全対策費であろう。今後
もオスプレイに限らず危険な新型機は数々開発され 対共産と対峙するわが国にはより
性能の良い危険なものがやってくる事は覚悟しなければならないはずで 平和ボケの中
わが国は このアメリカに頼らず国際社会でやって行く事は不可能であることは火を見
るより明らかである。又米国も日本やアジアを放任して対共産や対アラブの政策は出来
ない。






454: 名無しさんAA:12/08/17 19:42
[憂鬱人敵165]

 日本政府は一体何を考えているのか。卑怯な韓国が国際裁判所に出ることに応じる訳
がない。さっさと日米合同演習の弾道目標物にすればいいではないか。もともとこの国
が今いじめや暴力的経営問題などさまざまな問題があるがその多くの部分で 海外から
の故国を棄てて慰留してくる帰化人の2世3世の人々が その蛮行の渦中にいる。本人
は日本人とおもっているが その考え方やその触手の触れ合いは 日本人の忌み嫌う集
団化し徒党を持って悪意の悪行を張る行為である。もちろん帰化人の殆どは不良ではな
い。だが中にはいるのである。それは日本人でもいる。だが割合が非常に高いのだ。つ
まり日本人ほどの心の余裕がないのであろう。今回の中国船上陸にも 侵犯して確信犯
である人間に 法律の処罰を重くしてとの声を松原大臣は声明を出した。いくら法律を
陳べても 日本人以上に優しく裁判もせず政府がお構いなしに帰すなら同じことだ。又
防衛に鑑みて これからのこうした団体をどう食い止めるか。などと国防を司る防衛省
は大臣が発言したが 逮捕拘留し頭を冷やさせ 得と根を詰めて説き伏せる事が大事で
ある。例え得心までいかなくとも 平和な日本で一年以上の拘留をしてのその間の活動
の停止処置は大事な事で 騒々しい運動から離れてはそう度々捕まることはしないはず
だが こうして早期に強制送還すれはすぐにでもやって来ては 更に過激になることは
想像に難くない。こうした事が出来ない政府が問題なのだ。北朝鮮での会合でも 勿論
拉致事件に触れることは大事であろう。しかしまだ日本に大使館すらない状態での遺骨
収集が大儀名文である。そこから活路を双方に開く事が大事な事で 北朝鮮が今や人民
の食料が無いことは自明の理で 正に日本の為の北朝鮮に発展させる事に心血を注ぐ事
はあながち無駄とは言えない。


455: 名無しさんAA:12/08/17 21:56 ID:Glo
[憂鬱人敵166]

 我々 は不法な人間を捕まえて 又来て下さい。と言わんばかりの対応をする人の為
に 高い高い税金を払っているつもりはない。更にそうした不埒者を優遇し国民を冷遇
した法律を 大事にしてきたつもりもない。 国会議員と言うバッチも総理大臣と言う
バッチも そうした汚点を残した弱腰の人間に与えたつもりもない。



456: 名無しさんAA:12/08/17 22:43
[憂鬱人敵166]

 我々 は不法な人間を捕まえて 又来て下さい。と言わんばかりの対応をする人の為
に 高い高い税金を払っているつもりはない。更にそうした不埒者を優遇し国民を冷遇
した法律を 大事にしてきたつもりもない。 国会議員と言うバッチも総理大臣と言う
バッチも そうした汚点を残した弱腰の人間に与えたつもりもない。野田氏は全くの
出鱈目うそつき人間だ。法に乗っ取って粛々とやると言っていたはずが 全くの違法
行為を総理大臣がやっているではないか。脱法である。こんどから野田総理大臣は国民
からは犯罪者と呼ぶべきであろう。法律に乗っ取って全く行っていない。更に玄葉外務
大臣は馬鹿ではないか。けが人が出ていないから公務執行妨害に当たらないから返した
という。バカも馬鹿 けが人や死人がでたら遅いんだ。ここを東京都にさっさと任せて
日本の政府はタッチしないように先にやらないと 国対国ではキスギスしすぎるだろう
。だいたい今谷垣君はTV向けに声明を出すべき時だろう。全く陰に隠れて自民党の
総裁の器でないとは思っていたが ここまでひどいとは。石原さんとっとと東京都で買
って中国人をどんどん裁判しなさい。国民の95%は応援しますよ。今のみずぼらしい
心根の腐ったような政権など捨てて。だが韓国の安全理事国入りは賛成すべきであり、
中国が狙っている事は 韓国に解らせるべきである。




457: 名無しさんAA:12/08/18 05:33
新 国際町民 70

 今回起こった尖閣事件や李明博が行った行為は 今までなかったかのような日本人の
誇りや民族意識などの わざわざ眠らせていたアイデンテティを叩き起した。こうした
危険な昇日龍の尾を踏んだ事は 今後のアジア情勢が多分に容赦ない国際社会の荒波に
韓国・中国が向かえた事を意味する。既にスワップ破棄宣言によって韓国の全ての銀行
が連鎖倒産の危機にあえぐ事になり 今後その影響は中国内の株の暴落に歯止めがない
状態になる。もともと組立て工場である中国は その多くの半機器製品は安い 韓国の
作った加工品を供給して作っている。そしてその中の重要部品の大半が精密加工を得意
とする日本の中小企業から用立てしている。日本の中小企業も韓国との取引がそう多く
は無くとも 日本にとってはお客さんだから出荷していて喜びそうだが安い単価と買い
上げする購入金の保障がそこに無かった。そこで日本政府が信用保証として 変動され
ないよう相互補完の資金保障としてスワップを行っていた。それは韓国銀行に外貨準備
が全く無かったからだが ここでその資金が引き上げられたら 国内ウォンは国家が補
填しても円やドルに対しては補填される事は出来ない。つまり外国に発して借りている
もしくは調達している金は どこまでウォンが持ちこたえれるかにかかっている。が
既に 多くの韓国大手銀行が次々と営業停止になって来ている。どこの国でも銀行が自
国通貨を回せないとなれば あとは実質破綻するしかない。ほとんどの専門家は 日韓
スワップ協定破棄したら、途端に韓国の産業が完全に終わりを遂げるのではないか。と
の懸念を示している。グリーンスパンの回顧録は語る。「我々が知らない事実があって
、すぐに明らかになるのだが、韓国政府はこの外貨準備を流用していた。保有するドル
の大半を国内の銀行に売るか貸し出していて、銀行はこの資金を不良債権を支える為に
使っていたのだ。FRBの国際経済専門家、チャールズ・シーグマンが感謝祭の週末に
韓国銀行の幹部に電話して、「なぜ外貨準備を使わないのだ」と質問したところ、
「残っていないからだ。」という答えが返ってきた。公表されていない外貨準備は既に
に、使い道が決まって固まっていたのである。」こうした事はグリーンスパン前議長が
回想録に書かなければ、外貨準備高の流用は、韓国の国家機密として伏せられていただ
ろう。だが暴露された事実を、韓国銀行は不快感をにじませつつ事実関係を認めている。


458: 名無しさんAA:12/08/18 05:38
新 国際町民 71

 こうした事で始まった 韓国銀行の連鎖破産は恐らく誰も止める事は出来ない。韓国
の国民が作った嘘で始まったもので その嘘の上を歩く事を 国民も大統領も五輪選手
も その賛意と共に総意として決断し その境界線を踏み外したのだから。韓国新聞は
伝えている。
「釜山地方裁判所は16日、債務超過に陥った釜山貯蓄銀行に対し破産を宣告しました。
去年2月17日に営業停止処分を受けたのに続き、去年4月29日には、BIS=国際決済銀行
による自己資本比率がマイナス50.29%と、健全性を示す基準の1%を大幅に下回ってい
たため、不健全金融機関に指定されました。釜山貯蓄銀行の資産総額は1兆3千億ウォン
借金は3兆5000億ウォンで、資本金の増額や第三者による買収など経営改善の可能性も
低いことから、管財人が清算に向けて破産を申請していました。5千万ウォン以下の
預金資産や優良資産などはすでにブリッジバンクのイェソル貯蓄銀行に引き継がた。」
「今後破産宣告により、釜山貯蓄銀行に5000万ウォンを超える預金を預けている預金者
と後順位の債権者は、破産手続きによる配当を受けることになりますが、残った資産を
処分しても、配当として受け取る資金はほとんどないものとみられます。ただ、5000万
ウォン未満の預金者は、今後もイェソル貯蓄銀行の管理のもとで、金融取り引きを続け
ることができます。」と更に
「これに先立ち、今月14日には第一(チェイル)、第一2、プライム相互貯蓄銀行が
ソウル中央地方裁判所に破産申請を行っており、トマト貯蓄銀行とパランセ貯蓄銀行
もすでに先月、裁判所に破産を申請しています。」
 この貯蓄銀行業界10位以内の大手3行と小規模行1行の計4行が今週末に営業停止処分
を受ける見通しとなった事で すでに韓国各所で取りつけ騒ぎが起きて混乱し始めてい
る。と報じている。
 そしてこの騒動は恐らく取引している中国国内の銀行を揺れさせる。只でさえ株価や
地価の暴落で疲弊しかかった中 今回の豪雨の復旧さえままならないほど外貨準備金を
売りに出す事でしか止められない。裏付けのない中国元を刷り過ぎた事が中国政府を
苦しめるだろう。





459: 名無しさんAA:12/08/18 06:01
新 国際町民 71


 こうした事では 今までは日本が窮状を救いに出かけて行ったのだが これだけ反発
があれば 助ける事は国民が許さないであろう。韓国では貯蓄銀行業界で 資産規模1位
のソロモン貯蓄銀行の本支店では、取り付け騒ぎが起き、預金の払い戻しが普段の5百
倍の500億ウォン(約35億6000万円)以上に達したといい、同行の株価はストップ安を
記録した。他の貯蓄銀行などの他行にも預金者からの問い合わせが相次いだとされる。
今後は 預金者保護の対象にならない劣後債が5000億ウォン(約356億円)あり、この
営業停止処分が決まり大きな影響が予想される。と伝えている。つまりは ここで日本
の外貨を借りて営業停止を回避すれば持ちこたえられるが 今回はどうしよもなく愚民
の行為で そのままアジアに波及するだろう。と予想され 今度は日本の円安が起きる
だろう。と言う見方が強い。中国元も韓国ウォンも 多くの預金者は日本に預けていた
円を引き揚げて生活するしかないからだ。欧州投資家が日本に回避していた預金も今回
のアジアに広がる危機ではドルに頼るか 母国に帰るしか方法は見つからないと言うの
が相場であろう。欧州の信用危機もこのところ落ち着いて来たし 日本の輸出の落ち込
みは 中国・韓国の落ち込みほどではないにせよ 既に生産したものを 輸出して稼ぐ
時代を越え金融が金を産む時代も過ぎたのである。今後はエネルギー自体を開発しては
自国で自国の自立をする時代に入ったと言える。その兆しが 日本への原発発注であり
日本近海の資源発掘であり 都市鉱山の開発である。既にとうもろこしによるガソリン
やらシェールガスで一歩リードした米国ドルに 人気が出るのは当然の話であろう。



460: 名無しさんAA:12/08/19 16:47
新 国際町民 72

 【大紀元日本1月10日】によるとどうも中国大陸から世界危機が起こりそうだ。と警告
を発し 中国の地方政府の債務返済遅れ状況は深刻化している。と伝えていた。かつて
の リーマンショック時に発行した国内浮揚策としてバンバン地方に貸付し大盤振る舞
いして今度の欧州危機に対しては 国内では流動危機から海外まで貸し付けした。その
影響が今中国を襲う。貸付した多くの地方の債務問題について、中国国内の経済専門家
郎咸平氏は「4兆元の景気刺激対策の投資は中国の債務危機を誘発するという私の予測
は的中した」とミニブログで書き込んだが 一月のブルームバーグ19日の報道による
と、既に2012年末に返済期限を迎える債務残高は2.62兆元(約31兆8800
億円)に上ると発表していた。それが今同じ8月13日の報道では仏誌で、中国は3年間
で国内総生産(GDP)に占める負債の割合が220%に達し、新たな経済危機に発展
する恐れがあると中国経済の現状について分析した。と言う記事をのせた。地方の負債
を隠し対GDP比96%に2012年は中国に金融危機のリスク=米研究者の発表とある。
先のブルームバーグ誌によると「最悪のケースは、2012年ごろの大規模な金融危機だ」
と指摘し「中国の景気減速は2年間、またはそれ以上続く」との見通しを示す。2011年
に中国の債務残高は39兆8380億元(約517兆円)に達すると試算。また、国際通貨基金
(IMF)は今年の中国の債務残高(地方政府の負債は含まない)対GDP比を22%と予測し
た。今年の国別債務残高の対GDP比について、IMFはスペインが69・6%、米国が94%、
ギリシャが115%、日本は227%と予想している。ここに問題がある。中国政府は今後
景気刺激政策の一環として、融資枠の拡大を行ってきた 地方が持つ財政悪化を試算
にくみいれれば 恐らく20%〜30%は増える。その結果、42〜52%となるであ
ろう。今はまだ景気減速で10%増で済んでいるとしているが 今後の豪雨災害やら
公害やらの被害拡大で どう転ぶかがわからない状態なのだ。




461: 名無しさんAA:12/08/19 16:48
新 国際町民 73

 中国政府発表の経済指標を見ると、「中国経済はすでに軌道に戻っており、4兆元の
景気刺激策以外の政策は当然不要だと思われるが行う。と言う姿勢だが、政府幹部連中
が財政状況に悩まされている事実は隠せない。先週、温家宝首相は「われわれの財政は
消沈状態」と政府高官に告げている。財源確保のため、9千5百億元の国債発行が今後
数年間予定されている。と言う
 大方のアナリストは 今年度上半期の税収は昨年比2.4%減で、GDPの目標成長率8%
からは程遠く、第二四半期の公共投資は予想を上回り、6月の税収状況も多少は 改善
されたものの、ほとんどが単発的な土地の売上げで、今後の税収改善の因子とは 全く
ならないものだと見ている。北京駐在のBNPパリバのアナリストであるアイザック氏は
、最も楽観的に見ても、今後3年間の財政赤字は5%前後になると予想している。
 今後 中国の財政問題は、隠れた不良債権が表面化する事で深刻な国際危機にある。
財務高官は今年始め、地方政府の負債は既に4兆元で、GDPの16.5%と推定している。
さらに、銀行の不良債権4000億元、不良債権として隠蔽され資産管理企業に譲渡されて
いる1兆元などが最終的には 一挙に全て中央政府の負担となる事は確実な情勢である

 中国の法律では、銀行の地方政府への融資は固く禁じられてはいるものの、地方政府
は財源が無い為、法律の抜け穴を利用し、信託会社の介在で株主資本として銀行資金を
入手している現状がある。 地方政府が債務に債務を重ねる結果を生み出している事が
今後明るみに出て公になることは確実である。又政府主導の太鼓判を押す 構造基盤の
プロジェクト関係の銀行投資にも問題がある。上海駐在のスタンダード・チャータード
・バンクのエコノミストは、政府発行の債務を、どう控え目に見積もっても今年度だけ
で1兆7千5百元としており、 これは政府債務のGDP比をさらに一割上乗せさせる
に等しい数値である。としている。中国の週間経済情報紙「経済観察報」は、地方政府
による不透明でレバレッジの高い融資を「債務の時限爆弾」としているが、こうした国
内の膨張するリスクについて、中央政府の銀行業務監督機関が信託会社と銀行に警告を
出し始めたと報道されている。



462: 名無しさんAA:12/08/19 16:49
新 国際町民 74

 こうした負債の超過は 中国の地方政府が中央政府に頭の上がらない話しとなる。加
えて国内事情で全人代等に今や指導者の交代期にある。今回の尖閣問題は 日本側には
通常の活動家の上陸問題と観ている節があるが 現実は中国における日本戦略の試金石
なのだ。つまり江沢民率いる強行武闘派集団と胡錦涛率いる文化戦略派の闘いの中で、
どう国内世論の賛意を受けるか。と言う問題となる。中国国内でも日本債権と同様に国
の債権を国民の富民、万元戸集団に背負われている事も多い。事実TVクルー率いた 
民間団体とは偽りの地方政府主導のこの活動家は 実は中国のそうした経済落ち込みに
よって台頭して来た在来の華僑集団の金を利用している。この為俗に言う太子党と上海
幇の対立が第三世代で起きていると言う形だが 構図はそう簡単では無い。本来ならば
その解析に今回の船長以下の上陸を果たした逮捕者から見えてこなければならないのだ
が その名称からはそうした国外にいて成功した華僑集団と自らの反日集団の橋渡し役
が存在してボスになろうとしている意図がある。この江沢民派の戦略は醜悪である。ま
ず資金集めにして「中国に愛国心が無いのか」と反日感情を盛りたてる。例え親日派で
あっても彼らには税金や違約金を自由に取り立てる権利がある。そうやって国内からの
資金を見せては海外の成功者の寄付を取り立てる。更に今回の尖閣上陸も 捕まり収監
されれば 国内での政府の対応を批判しては軍隊を出せと言うだろうし 拿捕されなく
て帰還しても資金集めの行動は行った事を認めさせられるし 我々は国旗を揚げたのに
政府は何もしていない。と国内世論や地方政府を焚きつけては この経済悪化の中での
生活費をしのぐのである。




463: 名無しさんAA:12/08/19 20:35
新 国際町民 74

韓国の外交専門家は「大統領の独島訪問は、我が政府が対内外的に独島領有権を主張す
ることが唯一できる最大のイベントであると同時に、韓日の葛藤時に出すことができる
最高のカードだったが、李大統領が電撃訪問してしまったせいで韓国政府はもう独島関
連の韓日間の葛藤でできることがあまりなくて指だけ吸わなければならない状況になっ
た」と話した。と言う。更に彼は「盧武鉉大統領など歴代大統領達が 全く独島に行か
なかったのは、日本政府の植民地支配や慰安婦問題謝罪などが韓日間の懸案事項として
は決して何の解決にも役に立たないとの判断のためだった」と言ったようだ。韓国政府
高官は「日本は韓国の最も重要な友邦のひとつであり、韓日間の対立をこれ以上あおる
措置は取らない方針と語った」と言ったという。だがそのそばから韓国慶尚北道では
19日、日韓両国が領有権を主張する島根県の竹島で李明博大統領直筆の石碑の除幕式
を行ない孟亨奎行政安全相や金寛容同道知事らが出席した。と慶尚北道が明らかにした。
そして先の専門家は「当分韓日間の葛藤の長期化が不可避であるように見えるのに、
現政府は冷静な対処を呼びかけるだけで何も言わない。」とし「出口戦略の用意と輸出
入など経済的被害と僑民の身辺保護など、もしもの事態に徹底的に備えなければならな
い」 と強調した。 今回の事について、北朝鮮は李明博政権の人気取りと批判している
。と言ったままだが韓国の論調は「4月のミサイル発射以降、核実験を行うか注目され
た北朝鮮は、近ごろ対外的に目立った動きを見せていない。一連の日韓関係悪化は、国
内問題のために時間を稼ぎたい北朝鮮側が、韓国をけしかけて日本と争わせたという見
方もできなくはない。」と 早くも他人のせいにした論調を掲げだしている。日本人は
実はこうした優柔不断で困った馬鹿をする韓国人よりは 馬鹿なりにも必死に国際社会
にアピールしながら耐えている北の住民に深く慈愛の心情を持っている。中でもこれま
での戦後保障は実は韓国よりは北朝鮮に対して行いたかったのである。ただ不遇の国で
戦後は共産主義を持ち込み今は拉致事件を起こし 喉に骨が刺さったように動け無いの
が 両国の心情であるのも確かなのである。




464: 名無しさんAA:12/08/19 21:36
新 国際町民 75

今度の竹島上陸・天皇謝罪要求などの大統領発言で 韓国は完全に日本人を敵にした。
この事で 同じ中国に領土問題を持つベトナムに賞賛の声が挙がっている。それは東シ
ナの占領に鑑みて会議をしベトナム国内で情報通信省が韓国ドラマや中国ドラマの規制
を敷いた。からだ。それは今の無能で恥のない日本政府やNHKや民放連への批判でも
ある。現在日本の対韓国輸出の対GDP比は1.12%、輸入が0.68%、貿易黒字
が0.45%。ぐらいしかなく 加えて交流が深まるほど先端技術の漏洩が日増しに強
く日本ほどの技術のないままに 物まねLEDや贋物リチュウム電池などが世界を回る
果たして、これが領土問題という国益を害してまで守らなければならない「経済」なの
でしょうか。 とある人は問う。そして そもそも、韓国の大手輸出企業は日本企業の
完全な競合相手です。韓国経済が混乱に陥り、日本からの資本財輸入が困難になり、大
手企業の輸出が困難になると、日本の大手輸出企業をその分だけ利するだけの話です。
と斬る
 別に、国家資本主義的あるいは重商主義的な政策を採れと言いたいわけではありませ
んが、少なくとも日本における韓国経済の「重み」は、領土問題とは比較にならないほ
ど「どうでもいい話」だということを、いい加減に日本の政治家にも理解して欲しいと
思います。 三橋氏ブログより と書き入れている。事実我々は自尊心すらない易々と
嘘をつき主義主張もいい加減な国は嫌いな国民だ。ロシアを嫌いなのは 戦線布告もな
く終戦後のドサクサに北方領土を盗られ帰還する兵隊や人民5〜8万人程(未定)が、
その日本へ行く船と嘘をついてシベリア収容所に送られたからだ。ロシア議会が終戦日
をどんなに変えようとも第二シベリア鉄道はそうした日本人の過労働によって作られて
いて その殆どは帰還できなかったのである。が今やそのロシアの占領した北方領土で
さえ この韓国人はなにもいとわずに ジャンジャン開発にいそしみ何処に友好の同胞
と言う形があろうか。韓国人は世界戦争に至った経過も今の北朝鮮であった5つの戦争
の悲劇を全く知らないまま 学習も反省もなく反日を言えば良いとする無駄人間なのだ
ろう。事実そこで戦ったのは哀れにも8割以上はすがりつかれた日本人が殆ど死んでい
る現実がある。もう韓国や中国を相手に 欧米列強との橋渡し役をするのは止めてもい
いのではないだろうか。


465: 名無しさんAA:12/08/19 22:32
新 国際町民 76

 対してベトナムは賢く 日本人が驚嘆するくらい明るく 更に日本人のように真剣で
ある。かつて清国に英国が攻め込んできたときも ベトナム人は戦火を広げなかった。
塩やお茶など中国から買っていたときですら それを種に世界を股にかけて船を出す。
なんてことは無かった。それでもちゃっかりと日本人村が出来るほど貿易していた。そ
れは世界大戦時でも同じだった。終戦時には時の大統領や首相はパリまで足を運び情報
収集や英国や仏国の動向を伺い また独立を堂々と願い出ている。又戦後の南北戦争も
彼らの知らない所で泥沼化していて 共産軍ポルポト派は国外に締め出し戦い中国の越
境にも10万人が60万人の正規部隊を撃破している。更にゲリラ作戦で手を焼いたア
メリカが枯葉剤散布に陥ったのも 武器も持たず勝つそうした強さや賢さに悩んだから
でもある。そして戦争が終わった今でも 決してそうしたソ連や中国あるいは米国に対
して賠償を請求することはない。もちろん世界大戦時の日本の軍隊が蹂躙した事もタイ
やマレーシアやフィリピンなどと共にアジアの独立を助けたと 正式な歴史を学ばせて
いるのである。こうした 中国や韓国以上にはるかに早い時期から苦難の歴史を背負い
又その後も 民族が一つになっていながらも 東西冷戦に引き回されて2国に分離され
ながら 統一した国の独立を果たした。極めて強い礼儀のある民族であったのだ。
 日本が今もって 北朝鮮に死亡した日本人の遺骨返還についての協議を持ちかけるな
ど、歩み寄りのポーズを示している理由はそこにある。半ばやっかみで北との個別会談
に批判的にあったり 急激に反日色を強めたふりをする韓国政府の、そのスタンスが誰
を利するのかを 韓国民や中華民は よく考えるべきである。 そして政府の間違いは
正すべき それを放任する事は今のシリアの内戦と同じことが起こりうるのである。


466: 名無しさんAA:12/08/20 03:51
物まね中国の危険性 84


この広い中国大陸で大いに独創的なのが 人体売買である。ここが何でもありの中国で
あるからこそ 臓器売買 あるいは死体の売買は横行している。全世界で開催展示して
いる「人体の不思議展」はギュンター・フォン・ハーゲンス(Gunther von Hagens)氏
にであるがこのハーゲンス氏が1999年に大連で設立したのが 世界最大の人体標本
製造会社「ハーゲンス生物塑化公司」である。だが実はその名前のみ使われていたのだ
ろう 実質的には隋鴻錦氏がその会社の責任者であった。うま味を知ってかその一年後
、隋氏は独立して大連医科大生物塑化公司を設立し、プレミア・エキシビション社に次
々と人体標本を提供していた。という。つまり、"世界の人体標本展"で展示されている
人体標本のほとんどが、この大連市の2つの死体加工会社の工場が製作し提供したもの
であったのだ。そしてこの2つの会社が設立された1999年と2000年の大連市で
は薄熙来氏がトップとして旺盛を極めた頃だった。ハーゲンス氏は、国内外のメディア
の取材に対して、「現地政府の支持、優遇的政策、格安な人件費、豊富な死体提供」な
どと設立の理由を挙げたのだが。その後批判があがり操業停止に陥るが 会社の正門に
は2012年2月29日付けの封印が貼られている。この日付は、重慶市元公安局長・
王立軍氏が米国領事館に駆け込んだ2月6日や、薄熙来氏の解任が発表される3月15
日とも重なる。と伝えられる。更にこの時期は江沢民前主席が法輪功弾圧を始めた時期
とも重なるとしている。薄熙来氏はその弾圧を強く支持・執行した一人だったとされ、
当時 大連市は法輪功迫害がもっとも凄惨な地域の1つになっている。と大紀元は明か
す。又情報によれば、薄氏とその妻の谷開来被告は現地の公安、裁判所、刑務所と結託
して獄中で死亡した大勢の法輪功学習者の遺体を高値で死体加工会社に売り飛ばしては
、巨額な金銭利益を得たとされ、死体標本一体あたりに100万ドル以上の売値が付い
ていたという。谷開来被告はこの取引の中で金銭管理や国内外の宣伝、販売ルートなど
の開拓などを担当し、谷被告に殺害されたニール・ヘイウッド氏はこの死体販売の秘密
を知っていたという。そして今この江沢民氏派がその矛先を目騙しにか 尖閣上陸を支
援しては 若者を暴動に焚きつけては 国内治安の悪化で胡錦涛派を揺さぶっている。



467: 名無しさんAA:12/08/20 04:18
物まね中国の危険性 85

これまで 中国で労働集約型産業を支えてきたのは、農村出身の民工達だった。と言
う。ちょっと前には「職にありつければそれでいい」と黙々として働いた かつての
日本での東京オリンピック以前の「物言わぬ労働者」と全く同じでもあったからだ。
 ところがその労働者が、1980年代、90年代生まれの「80后、90后」世代に代替わり
するようになってから、様相が一変した。彼らは教育を与えられ、「IT武装」し、職
を選ぶ世代である。携帯電話やインターネットを駆使して全国各地の賃金情報を入手し
、現状より好待遇の職場が見つかるとさっさと転職する。前世代の労働者・民工達は
「堪え忍ぶしかない」「諦めるしかない」と我慢してきたが、それに対して新世代は、
「自由」「人権」「平等」を唱え、労働法を熟知した法律意識の高い世代が台頭して来
たのである。中国のサイトによれば、「一世代前の民工が、『権利は国から与えられた
もの』と理解しているのに対して、新世代の民工は『人が生まれながらに持つもの』と
認識している」という。そこには天と地ほどの差が存在する。そんな新世代が権利主張
の根源とするのは「労働契約法」である。この法を盾に、群れを成して抗議活動に出る
。ここ数年における権利要求や陳情、スト、暴動など労働紛争の増加は、新世代の民工
の権利意識と決して無関係ではない。そして権利意識の目覚めには、「ゴネ得」という
中国人の独特の慣習に基づいた現実的な一面が垣間見られるのだ。「騒げば金が取れる
、会社が金で解決する、そんな打算が人々を覆う。しかも、それが日本企業であれば、
なおさらだ」と苦々しく語る 多くの中国通の日本人経営者がいる。領土・領海で日中
が対立を深める今、日系企業の経営環境には冷たい逆風が吹く上に 国内不況が騒動を
後押しする。更に「不動産投資という甘い汁を吸った彼らには、もはや地道にコツコツ
働こうなどというマインドはありません」とも言われる。「労働は尊いものだ」と教え
ても馬耳東風。不動産価格が暴騰し「濡れ手に泡」を手に取った彼らにとっては、今や
額に汗して労働に励むことに価値は見出せない。それが頂点から下層まで踊っている。
このバランスを逸した中で 軍拡や強国請求のみが 一人走りしているのである。





468: 名無しさんAA:12/08/22 05:30
新 国際町民 78

  シリア・アラブ共和国(シリア・アラブきょうわこく)、通称シリアは、中東・西
アジアの共和制国家としている。北にトルコ、東にイラク、南にヨルダン、西にレバノ
ン、南西にイスラエルと国境を接して そもそもの東西ルートの交差点にある国家だ。
地中海に面する所に首都を置くダマスカスは周辺のレバノンやパレスチナの紛争地域の
取材には 平和だったこの国が取材陣の拠点となる事が多かった。が全く大統領が国民
に向けて銃を向けると言う全く手がつけられない紛争地帯に変ってしまった。
 そうした中ロシアの南下政策は止まらない。アレッポでは今や内戦というよりは虐待
に近い。無防備の市民に向かって 銃の乱射である。この所ロシアはアフリカで起きた
ジャスミン革命に劣勢のままであった。だがこのシリアが落ちれば国内に真の自由主義
がもたらされ 自国に雪崩込む事は必至である。従って是が非でもアサド大統領には生
きて守ってもらわねばならない。そこにアサド氏はたくさんの要請をしている。つまり
兵器や武器弾薬と兵隊の三点セットの要求である。もちろんロシアは快く受け入れたも
のと見られる。国際連盟での拒否権までつけて快諾しているらしい。本来なら停戦協定
を受け入れた中では 国連監視団に銃撃があるとは思われない。しかし首都ダマスカス
に着く前に この監視団も遠い国境線沿いのアレッポで襲われている。このアレッポの
内情が良くはわからない。この昔は一番の安全だとされた拠点だったアレッポで20日
、独立系通信社「ジャパンプレス」所属の女性ジャーナリスト、山本美香さん(45)
が死亡した。政府系民兵集団とみられる迷彩服を着た一団に遭遇した直後に突然の乱射
らしい。同行していたジャパンプレス代表の佐藤和孝さん(56)によると、今回の取
材はトルコ南部の町キリスを拠点に日帰りで行う予定だったと言う。16日にシリア北
部のアザーズを取材し、20日はアレッポで日帰りで取材をしようとの予定だったらし
い。本来比較的難民の多い場所は国境に近く難民キャンプにあふれ安全と思われる場所
だったはずだが 全くシリア国内は今や戦場の常識が通用しない本当の無法地帯になっ
たらしい。 難民が溢れかえるという姿も爆撃で逃げ惑う姿もなく 国境検問の近くに
は行列があるという姿もなく 淡々と一般的な生活がなされている。




469: 名無しさんAA:12/08/23 04:39 ID:vU.
新 国際町民 75

 韓国は 大統領が上陸したのは竹島でなく独島だとして 日本の首相が渡した信書を
突っ返すとした声明を発した。これほどの非礼があろうか。全く友好国ではない。
こんな信じられない国や民族と価値観を共有した戦略的互恵関係にあるパートナーなど
よく 日本政府も最高議会で返答したものだ。と改めて思う。それでもいいではないか
。上陸した地が違っていると言い張るのならそれはそれで 独島が 日本のかぐや姫の
伝説の舞台でないと言い張るなら 我々は竹島に上陸すればいい話であって 自衛隊に
可及的速やかに軍事演習拠点として攻撃すればいい話である。日露戦争の記録にもこの
地で ロシア艦隊を待つ時に上陸させた記録もあることだし かぐや姫の出身地である
伝説もあることだし どんどんジェット機を飛ばし 音速による低空飛行を試みれば、
ここの領空権が日本にあることがわかるだろう。基本あんな孤立した軍事施設など韓国
が死守出来る場所でない事ぐらいロシアは見抜いている。震災時に日本上空を視察し 
いつでも日本侵略が出来るよう計画を練っていて 最初に獲られるだろう国土が この
竹島や済州島である。つまり日本を狙うとき 韓国が威張って自国の領土とすると所を
軍事拠点にする攻略である。それはかつての満州国がソ連進出の拠点とした事と同じで
ある。つまり韓国がぎゃぎゃあ言っても 国土とは名ばかりで一向に守る力もその気も
ない事が日本のみならず諸外国でお見通しなのだ。だからこそ日露戦争も大東亜戦争も
起こったのであって 全くその時代に既に植民地化された諸外国と同等であった事や 
そうした戦争の悲劇に翻弄された過去を 全く韓国民は背負ってないような行動とその
無責任さぶりなのである。アジアの盟友として日本は幾数百万人の犠牲を強いて死守し
独立国家としての繁栄の礎を築いた事を全く無視して そも世界大戦が無かったかのよ
うな口ぶりで 今までの日韓協定を隠し竹島占領し戦争賠償を要求し貰えないから従軍
慰安婦問題があると脅し 更に天皇に詫びろという。言われる日本政府も なんという
外交力の無さ。これも東アジア構想などで平和主義を声高々に言う無学の鳩山お坊ちゃ
まのせいだろうが 馬鹿な○女史のような者をTV界で担いだ事も大きな要因である。
日本が米国の核の傘の下にいて韓国が今でも徴兵制度によって兵力を頼んででも戦力が
なく米国に頼っている理由が全く解っていないらしい。


470: 名無しさんAA:12/08/24 19:16 ID:YDQ
新 国際町民 76

 シリアで日本人記者が殺された。同行の記者の映像には 国の民兵が端から外国人記
者達を狙い撃ちしては狙撃して殺戮している様子がうかがえる。多分内気で和平協定の
席につこうかと言う大統領を強気で行けと後押している軍部もしくは赤の兵隊であろう
。日本人には自国の国民を殺戮しや自国の繁栄の街並みを破壊する国の指導者など考え
られない行為である。この姿の真実を外国人記者でなく あえて日本人の目で覗きその
実態を放送するとした 崇高なジャーナリズム魂のかけらを持って現地でアサドの凶弾
に倒れた。この姿は実は今なりふり構わず自国の愛国心に酔いしれて踊る韓国の李明博
政権とほとんど同じに見える。シリアはジャスミン革命が吹き荒れる中で自由化透明化
を拒否し対立するデモ隊に警備する民兵が発砲したの事の発端である。つまりアサド氏
は国を守る民衆を守る事を潔しとせず自らの保身から海外との戦争に備えた軍隊をして
兵器を持たない一般市民への戦闘開始を指示したのである。韓国もまた同じに政権内部
の乱れからレイムダックと言われた死に体内閣が起死回生の道として 今まで嘘に凝り
固まった竹島の占有を自国領土にしようとあられもない発言と行為を繰り返すのである
。およそこの世の中で信書を送る行為は これまでは友好国ならずとも戦争する敵国す
らその国際的慣習に従い受け取るものである。それを廃棄しようが棄却して意に介せず
行動しようがそれは勝手な事だが その入り口である文書を開封して送り返すという事
は 今までそうした信書を介して救われたとする米ソやその他のあらゆる国際社会の国
々のその常識を持った文明国を侮辱しては止まない行為なのだが 一向に構わないらし
い。つまり自分の言い分しかないと言う国際監視団すら射殺して止まないシリアやかつ
てドイツのナチスの総督と全く同じに見える。だがこれが今まで日本を苦しめて止まな
かった在日と言われる人達の声なのであろう。恥も外聞も常識も教育も無いと言う只々
生きるに欲する世界で 芥川龍之介描く地獄の釜に降りてきた蜘蛛の糸さながらの有様
なのだ。




471: 名無しさんAA:12/08/24 19:52
新 国際町民 77

 先のシリアで自国の非道な内情を国際社会に知らしめたくは無い為に これまで外国
の報道陣は50人ほど殺されている。報道陣の宿命であったとは言えこれは世界人類の
悲劇である。一方の韓国の この平和理に紛争を収めようと国際裁判所を世界が作り育
てこの運用によって 平和を保とうとする行為に 敢えて反論もなく抵抗する様は全く
世界の常識を逸していて この国が中国流の一等国を目指す負けん気の強い国だとは、
全く見えない事は 本当に残念な事だ。紛争によってこれまで東西南北の大国に左右さ
れて国土が蹂躙された歴史を 更に又繰り返しても構わないとする態度には唾を飲む。
 大統領は もう一度ゆっくりと本当の東アジアの歩いてきた道を問い直すべきである
。もちろん常軌を逸したこの行動を取る大統領に声援を送る韓国民も又冷静に考えて、
そろそろ これまでの虚言や妄想の癖から脱して 国際社会の仲間入りした発言をすべ
き時なのである事を自覚すべきである。西洋文明から一番遠かったこの東アジアが国際
社会に認められた時は計らずも それより西域のアジアは植民地化され黒人は云えも無
い奴隷市場に身売りしていた時代だったのである。清王朝が巨大であった為に影に隠れ
朝鮮王朝とわが国日本はかろうじてそうした列強の魔の手が及んではいなかったものの
清王朝は英国のアヘン貿易の中で領土を盗られる中にあったのだ。西洋に一度は簡単に
負けて香港島を明け渡した中で強国になり西欧列強の仲間入りする為に考えた結果 清
王朝は朝鮮半島を英国に手渡す代わりに列強の近代兵器である大型船の造船技術や製鉄
技術や武器弾薬の供給を求めたのである。その勝手な英国の手先としての 清の侵攻に
朝鮮王朝は全く歯が立たない事を見越して 日本に代理戦争を起こさせたのが日清戦争
なのだ。現実に香港島が返還されたのはついこの間であったのだ。それにより日本は清
に朝鮮の独立国としての地位と戦争の賠償を請求した。この事で清王朝が疲弊したのだ
が 朝鮮はこうした戦争を利用して他国の衰退に二匹目の泥鰌を狙いロシアを引き入れ
たそれが日露戦争である。この時も日本とロシアが共に疲弊する事を望んだのだ。



472: 名無しさんAA:12/08/24 20:25
新 国際町民 78

 東日本大震災が起きて日本人が暗くなり 欧州危機や原子炉事故によって国中が暗澹
たる気持ちでいる中で 久々に明るい話題としてオリンピックで少し明るい兆しが見え
てやっと平穏な日々が来るなと 国民が喜ぶ事も束の間で サッカー選手が竹島問題を
世界に訴え 韓国大統領が気が触れたように 数々の非常識な行動をしや言動を浴びせ
るに至った。そしてそれに乗じるように全く権利のない中国はさも台湾の活動家を装い
尖閣諸島に上陸した。歴史的に見て 先の朝鮮王朝が日露戦争を画策したがそれにより
自国は焦土と化し誰も得する事はなかった。みるに見かねた英国が仲裁に入り終戦とな
ったが ロシアでは弱体した皇帝が革命によって廃位を余儀なくされたし日本では戦費
により国家予算は火の車である上に軍部の圧力は強くなっていた。朝鮮半島は焦土化し
た後の復興に頭を痛めていた。それでも日本は朝鮮を棄てては更なるこうした戦争が起
こる事を確信した為に 朝鮮半島の建設に着手した。朝鮮の勝手な外交を閉じ工場建設
と鉄道建設に莫大な投資を行った。そうした事で朝鮮王朝は日本に建設を委せた形とな
り日韓併合が行われ その建設した鉄道や工場は微々たるものだったが殖産産業と灌漑
農業土木によって収益が見込まれたので満州鉄道を興し 日本商社を引き入れて更なる
発展にその力を注いだ。だがこの時期に 朝鮮に格差社会が生まれ日本進出を快く思わ
ない者も現れ 逆に日本に渡り帰化しては成功するものも現れたのである。がロシアの
国内が不協和の中で軍部のスパイやら 中国政府国民党が中国を掌握出来なかった為に
その共産党と通じるもの などが 暗躍しだす結果を産んだ。日本で有名なゾルゲ事件
は その飛躍的発展するアジア の盟主としての日本が確固たるものになって行く事で
西欧から羨望された結果なのである。何故なら西欧においては 敗戦国のドイツからの
製品還流による賠償金の清算がはかどらなかったからだ。




473: 名無しさんAA:12/08/24 22:45
新 国際町民 78

 この時世界の趨勢を握っていたのが 数々の王家に貸付を起こしていたユダヤ資本家
と言われる投資家達である。ブルボン王家や凶弾に倒れたハクスブル家など名だたる皇
帝と付き合いがあった彼ら達は キリスト教徒からは疎まれていたがそのネットワーク
が所持する資金量ははるかにしのぐものがあった。というのも著名な発明家や企業家は
その資金によって興し成功しその清算をするたびに増やしたからで 製鉄技術硝子工芸
陶器布とあらゆるものが機械化する過程にあり その恩恵に預かったのは殆どの新しく
出た技術で王家は翻弄しの後に出きた国々はその栄光の下にいた。もちろん日本も又 
その中にいたはずだ。実はこうした技術革新と繁栄を極めた時 何処の国や地域でも 
表われるのが経済格差という生活水準の違いである。第一次第二次と起こった世界大戦
は その格差そのままにのし上がろうとする勢力やその差を無くそうとする勢力の争い
であった。いままで高らかに笑い異人を奴隷として行っていた作業から 機械化しては
より高い文化でしか行えない作業に移行し 更に資源やエネルギーが国の繁栄を支える
事で争いは絶えなかった。朝鮮半島も又そうした近代化を持ってきた外国人特に日本人
には羨望と愛憎の的にしかならなかった。今の中国人が日本製のビデオを持って刺身を
美味しいと言いながら反日運動に声を上げるのと全く同じである。ドイツが第二次大戦
でユダヤ人虐殺に及んだのもこうしたいわれのない 羨望と愛憎の反ユダヤの国民感情
を利用したからであって 今の中国や韓国の大統領がやっている反日感情を利用したこ
の底なしに危険な妄想教育は その後世界大戦でそのままヨーロッパがドイツ帝国で統
一されると信じた妄想と全く同一である。それは世界が危険である前触れでもある。



474: 名無しさんAA:12/08/25 04:09
新 国際町民 79


これまで 世界の人類は平和の為の色々な方策を講じ 色々な仕組みを作ってきた。が
これら(シリアや韓国)の流れを見れば それを改め 正義の方策を行い結果平和が訪
れるということに気がつかねばならない。イラク戦争が正義の戦いなどとふざけた戦争
を米国が仕掛けたが 結果今イラク人は日々の生活に貧窮し 米国はトラウマのように
小さくなり 世界はそうしたテロの脅威に苛みて 暗澹たる中に地球が陥ってしまった
事でそれが 全く嘘っぱちの正義であった事が判る。先の混沌とした技術革新の中で暗
闇から人はこれまでの人種の差別も権力の差別も経済の差別も能力の差別も無い世界を
目指して進む事が唯一の道だとして意識も又変った。それによって各国の黒人奴隷達は
開放され植民地は無くなり資源獲得よりは 技術革新に向う形を示した。その最たる物
が原子力爆弾であり原子力発電であろう。そうした中にありながらいまだに ロシアは
南下政策を止めずその物まねで中国が領地拡大を目指し韓国が竹島にへばりついて物笑
いの種となっている様は人類の悲しい哀れな現実の一面でもある。こうした現実は、こ
のアサドと言う一人の征服者が権力の椅子から離れる事を恐れて 国民の命すらいとわ
ないで内部紛争に明け暮れる舵を取った事や 中国が派閥対抗策の中で国民教育を人質
にしては抗日と言う嘘の歴史であっても無理に海外に目を向けさせる手法で国内を保つ
方法や あるいは勝手に占領した島に人気取りにあやかっては戦争をもいとわない風に
隣国を棚に上げては国内向けに愛国主義をあおり嘯く姿にあるなどと言う 全く不思議
な世界が其処に現れているが それら3つは全く同じ論理”強気の保身”で行われてい
る。これらは 全く過去の大戦と同じ”今の権力の保持”と”新しき意識”との戦いを
人々が能力の差はあれ認めていない所にある。国際社会はそれでも”今の権力の保持”
勢力に平和の解決を委ねた国連安保理に その平和の警備を任せているままなのだ。 
そこで今後は自然と言う”神”は人類に問うだろう。”激動の拡大社会”か”安定の縮
小社会”かを選びなさいと。”激動の拡大社会”は今や核兵器での戦争や排気ガスによ
る温暖化による天災を受け入れなければならない破目になるだずだし。”縮小の安定社
会”は 縮小ゆえの経済危機や新しき技術発展はまずは挑めなくなり 豊かさへの感謝
も当然のごとく人は心に残らず。今までの知恵を置き去りにする行動に人類自身が嘆く
だろう。



475: 名無しさんAA:12/08/25 05:05
新 国際町民 80

 戦後日本は この第二の道”縮小した安定した社会”を選んだはずだった。日本人の
多くは農耕民族として或いは鎖国した江戸時代を知りえていて それが性分に合ってい
たのであり 敗戦の混乱はあったが多くの国民はこの忌まわしき戦いに焦土と化した目
の前の不幸に 色濃く反省していたのである。だが以外にも神は 朝鮮半島から上がる
戦争の狼煙の前に 米国進駐軍に蹂躙して止まないこの敵国に武器弾薬の供給をさせた
。その為の 機械やら設備やら技術更に文化や考え方や管理方法は 色や形を変えては
いたものの 日本人の得意とするものであったのだろう。瞬く間に東洋の奇跡を生んだ
。この事は幸か不幸か 日本が更なる開国に世界が迫る結果を産んだ。ブレトンウッズ
が目した管理通貨は崩れ ドルレートは瞬く間に円高を生んだ為更に 日本人は過酷な
技術向上を求められ 結果名だたる排気ガス規制を超えた車や 最新鋭LSIの開発や
いろんな技術が メイドインジャパンとしてのトップブランドのごとく世界に広まった
。敗戦からこの方 アメリカはこの日本という国の貴重さや驚異に感嘆しながら核の傘
の下においた。それは対共産の自由社会防衛の為であったり革新技術の自国保護の為で
あったり兵器開発の優位性保持の為であったり 様々な利点が合致したからではあった
が ソウル五輪の頃から少し変って来た。日本の最新鋭技術は事の外共産国からも欲さ
れ自由社会での需要のパイの減少から輸出する事が度々起こり ソ連解体にはアメリカ
自身も核拡散防止の為に手助けする事が必要だったからだ。国際社会の協調は多くの事
を 困難にさせた。相対的アメリカの絶対的地位の低下や最貧国だった国の台頭やその
活動と共に起こる公害の拡大や温暖化 或いは日本など先進各国の少子高齢化などだが
これらは杞憂しても仕方が無い程の必要悪として今や君臨しようとしている。この中に
恐らく東アジアで誰もが認識を共有していると思われていた日本の歴然としていた領土
領地が 友好国に侵されてはデモを起こされ政府まで後押しすると言う失態である。恥
を文化とする日本においての 前代見聞のこの現象は日本が再び軍事国家として東アジ
アの盟主として立ち上がる事を後押してしまう危険を挑発して止まないのである。




476: 名無しさんAA:12/08/25 19:58 ID:yxs
新 国際町民 81

 どうも近頃は変な新聞の論調が目立つ。特にこの竹島問題には及び腰である。例えば
”日韓の両首脳は少し頭を冷やし 両国民は弱腰外交と批判されて陥りやすい、もっと
先にある関係悪化による外交対話の道を細くしたり閉じられたりする事の無い様配慮し
 日韓の対立が中国や北朝鮮を利し、地域の安定を損なうことを強く懸念する。との声
が多い。が である本来領土権を持たない中国が台湾沖にガス田を設置しては人の土地
の資源を盗み掠め始めたのはいつの事か。もう10年は経つ 更に同じように尖閣諸島
の日本漁船や台湾漁船が 中国や韓国の民兵漁船に嫌がらせを受けて 網が要れなくな
ったのははるか25年も前からの話しである。又今回レンガを投げつけて不法に尖閣に
上陸しては強制送還と言う日本経費でヒーロー気取りの船長らを帰し 日本の首都を守
る首長をして調査船を出すに許可を出さないと言う政府を 弱腰外交と言わずして何を
もって当然の法の管理者となり得るのか。全く間違えているとしかいいようがないでは
ないか。更によく歴史認識という言葉が踊るが 歴史認識でなく完全な過去の歴史が今
の中国や韓国にその存在権のない クーデター政権でしかない事は自明之理である。そ
して”この竹島をめぐる摩擦は、東アジアを混乱させ、日米韓の連携を台無しにしてま
で激化させるべきものか。両国指導者は考えてほしい。”と言う事は韓国や米国に叫ぶ
べき課題で 日本は太古の昔の今昔物語の頃から済州島やうるるん島まで日本の領土で
あったし 流刑の島で日本にやって来て訪問する通信使の頃からも壱岐の守や対馬の守
の支配島であり博多沖ノ島の筑紫の神が宿る島としていた所だったのである。もちろん
日本の寛容な精神は今まで一度もその事で騒いだ事も無く 静かに島の良民の平和のみ
に心していた優しい国民性が放置を許していた。がそれが間違えたシグナルを送ってい
たとするなら即刻それは正さねばならない。いつまでも何処までもあられもない言いが
かりをつけ 正に今までの在日と呼ばれた人のような 全くのでっち上げのわがままな
言い分が流布して広がりを見せる そうした偽りには毅然とした態度 即ち国交閉鎖す
ら構わない態度で臨むのが国際社会のマナーである。それは韓中のような戯言にちゃん
と対処してこそ国家たる所以なのである。そうした正義を守る気概こそ日本国民の持つ
本来のあり方なのである。



477: 名無しさんAA:12/08/26 09:45
新 国際町民 82

 この 韓国世論を焚きつけているが ロシアからの秘密警察らしきものの動きである
。現実的に言えば 我々は韓国人と北朝鮮人を区別しているだろうか。逆に朝鮮人その
ものがこの国境線で割れた国の制度の違いは認識しても民族としての違いを把握しては
いないと言える。それはかつて世界大戦前に起こった事ともつながっている。そも清国
が近代化した巨大な列強国を押さえる事は不可能に近かった。その為に属国として追従
する朝鮮の割譲を勝手に模索更にその朝鮮も又日本と戦わせる事でその窮地をしのごう
としたが日清日露の戦争で日本が戦勝国となった。この事で中国・朝鮮・ロシアは大き
く国内世論の攻撃を受け ついには王朝は衰退し今の政権の元となった。日本が満州鉄
道を整備し満州国を建設したのは 旅順の港にその中心を据えたからに他ならない。今
も昔もこの付近が中国と北朝鮮の境となっているのである。それは何故か川が人を明確
に隔てたのである。その後朝鮮半島で起きた技術革新の鉄道事業を日本が受け継いだ。
地方の軍閥の群雄割拠の時代にどこそこにも村を治める民兵や義勇軍が出現し鉄道破壊
をもくろんだ事で日本はこの鉄道の警備の為に関東軍の前身となる守備隊を置いた。と
ころが呼応したように袁世凱や張作霖などが力をつけては旧皇帝を領主や軍属が食いも
のにしたのである。この時の満州鉄道などの検閲権租借権などの相手はロシアだった。
つまり清や朝鮮にとってはそうした新しい技術を貰うにロシアから日本に代わっただけ
に映っただけだったのだ。だが日本は旅順港の地を中心として多大な出費をして整備し
た殆ど何も無かったこの一帯に道を作り工場を作り河川整備をして町を大きくした。
この時の朝鮮半島は中国系農民とロシア系農民更にそれらから追われて生活する海洋系
住民と九州系住民にはっきり分かれていたと言うのである。これは今でも韓国内で選挙
を行えば直ぐに地域分布に応じて戦っている事から同じらしい。



478: 名無しさんAA:12/08/26 09:46
 今ツイッターで囁かれる事が 昔発行していた中国国内の地図や中央政府の公式案内
の中やスローガンに明確に尖閣諸島が出ていて日本領としていた事が話題になっている
。「微博」で「1949年から71年まで中国政府は釣魚島(尖閣諸島)を日本の領土
と認めていた」と異例の発言をし日本領有を示す53年1月の中国共産党機関紙、人民
日報の記事や、複数の公式地図などをその根拠に挙げている。微博では中国国内からの
感情的な反論に加え、「知識のない大衆が中国共産党に踊らされたことが分かった」と
賛同する見方も広がっていると言う。恐らく昔からの中国人はその嘘を解っている。
だが最近の中国に帰化した朝鮮人やロシア人或いは田舎から出てきた労働者は その祭
りみたいな抗日の声が消える事には反対してやまない。


479: 名無しさんAA:12/08/26 09:47
新 国際町民 83


更に軍事技術の無い韓国企業サムスン社がアップル社と裁判を起こしている不思議があ
る。ソウル地裁はアップルがサムスンのデータ送信などに関する特許2件を侵害し、計
4千万ウォン(約280万円)の賠償を命令。サムスンもアップルの操作性に関する
特許1件を侵害したとして、2500万ウォンの賠償を命じた。と報道される。と同時
にモスクワからはロシア海軍太平洋艦隊の大型揚陸艦「アドミラル・ネベリスコイ」が
25日、 第二次大戦の戦没者慰霊などを行う記念航海のため極東ウラジオストクを出
港した。インタファクス通信が伝えた。来月17日までの航海で北方領土の択捉島、国
後島を訪れるとしている。 航海中には、ロシアが事実上の対日戦勝記念日に定めた9
月2日も含まれており、この日はロシア極東各地で戦勝記念式典が行われている。との
報道も飛び交う。これに対して日本の国会議員達は全く仕事をしない。まず中国や韓国
のパクリ文化と称される物まねや偽の標章登録は全くまともな審議の中にない。その中
でそうした自由社会の世界統一の見解や指標が 国内法律でどうにでも出来ると思って
いる軽さがある。これが竹島問題であり尖閣問題の本質である。その最たるものが今の
ロシアで戦勝記念日の日程挿げ替えであり 中国の嘘の歴史記念館であり韓国の反日教
育である。共産国が巨大な為にそう簡単に正義が全う出来るとは思わないが それでも
シリアのような内戦をしたくなければ本当の真実と影でうごめく者の規制は必要だろう
終戦時に連合国のポツダム宣言は7月26日に発表されたのだが。日本政府が一旦は 
これを「黙殺する」と声明し、ソ連に対して和平を斡旋してくれるよう依頼した。とこ
ろがこの「黙殺」は海外では「無視」と誤訳されて報道され、8月6日広島に原爆投下
される。更に斡旋を頼んだ相手のソ連は日本が敗戦に向うと見るや否や 日ソ不可侵条
約を破って既にドイツ敗戦以降から大陸鉄道で送っていた兵士達を ドイツの収容所で
ドイツ兵並びにドイツ国民を1000万人を殺戮する部隊をそのまま送り9日参戦した
。この日長崎にも原爆投下。すなわち 8月 15日の正午の玉音放送を得て終戦を向
かえたのだが こうした勝利に踊りくるる殺戮部隊を止める事はなく8月28日以降に
北方4島において占領戦争が開始された。



480: 名無しさんAA:12/08/26 16:08
新 国際町民 83

太平洋戦争終結(1945)において起こった事は 戦争より忌まわしい数々の反乱である。
 韓国でも日本でも歴史教育現場では、日本人を「加害者」、朝鮮人を「被害者」とい
う側面でしか捉えていない。だがこの敗戦に乗じて幅を利かして乱暴を行ったのが在日
と言われる 朝鮮の流入難民達である。彼らは全てにロシア人から調達した武器を持っ
て日本船を分捕り 数々の帰国する日本人を乗せてはハバロスクやウラジオストックに
送っては 収容所送りにした張本人である。片言の日本語で 日本行きこっちこっちと
乗船させては 航路を知らないので下関近くまできて舞鶴沖に来て能登半島を過ぎてか
らユーターンして連れて行ったと 言われている。又戦後に朝鮮人が「戦勝国民」だと
して「朝鮮進駐軍」を結成し自称して日本全国で狼藉を働いたことは 有名な事実だ。
 朝鮮半島でも日本国内でも 武器調達を果たした朝鮮人が多くの日本人に対し虐殺や
強姦などしていた加害者としての歴史がある。日本が敗戦した後、日本国内にいた朝鮮
人達は、「我々は戦勝国人であり、連合国人である。」と称して、「われわれは二等国
民であり、日本国民は四等国民となった。したがってわれわれは日本国の法律に 従う
義務はない。日本国民より優遇されるのは当然であることを、あらゆる方法で日本人に
知らせなければならない。」と宣伝した。更に「戦争中われわれを虐待した日本人は、
戦犯として制裁を加えなければならない」と称し、彼らは武装解除された日本軍の武器
と軍服を着て武装し徒党を組み多くの日本人を無差別に殺した。かなり遅くやって来た
GHQの記録に残ってるだけでも その犯罪は4千人以上の日本人を餌食にしている。
 各地における暴行、略奪、窃盗、官公署への横暴な態度と不当な要求、建築物の不法
占拠、汽車、電車、バスなどの不法乗車、人民裁判などであり、それは酷いものであっ
たと言う。朝鮮人達がやりたい放題やって、駅前の一等地を占領した事すらある。実は
和平協定では こうした事実も双方とも知っていて「戦争は双方ともの悲劇だった。」
と首脳達は紳士的に対応したのである。



481: 名無しさんAA:12/08/26 16:42
新 国際町民 85

 この横暴さの習慣がそのまま残り 北朝鮮は金日成が死んでいくまであったのが北の
不幸である。つまり金正日は 望むと望まないに関わらず そうした日本人拉致の首謀
者にならざるを得なかったのである。が ここは過去にこだわっても未来は無い。今少
し明るい兆しとして 藤本氏が帰国を果たし 金正恩が親しき仲の親交が今だある事を
示した事である。恐らく金氏は一族の背負った国の責任に於いて 此の国を普通の国に
したいと願っているだろうし その中に日本のとの国交樹立と支援があればとの期待も
又持っているだろう。此れ迄6ヶ国会談では全く進展のないまま うやむやに過ごして
きた。金正日は拉致された曽我ひとみさんを始め6人を帰国させた事で 日本は少しは
和らいだ事が出来ると思っただろうが この時の小泉訪朝団が一時渡航から勝手に帰国
にすげ替えられてたと言う 世論の力がその後の親交を狭め 次の訪朝時には大きな会
談は果たせなかったのである。そこには北朝鮮内の国家と軍のプライドも又あった為と
推測される。だが日本は臆することなくどんどんとパイプを通じて 自由捜査権と国交
を持つべきであろう。韓国に対しても常に国際裁判所への提訴を進めるべきであろう。
又尖閣でも台湾が共に国際裁判所に提訴したいと言ってくれるならそれはチャンスと見
るべきで中華人民共和国が又中華民国にどんな圧力をかけるか解らないのだから今その
申し出は受けるべきである。申し出がなければ進んで その外交を仕掛けるべきである
。確実に今後軍国化するであろう中国は今や歯止めが効かない程画策している流動期で
ある 東アジア安定を願うのであればそうした平和の調停を行う事は最も大事な事だ。
そして北朝鮮を危険でないちゃんとした国にする事は中国にもロシアにも韓国にも日本
にも大きな意味がある行為である。邪な人気取りの国は置いといて 新しき指導者を得
た此の国に政変が起きずにそのまま平和裏に自由主義国の仲間入りを果たさせる事は、
中国のこの崖っぷち経済を安定させるにも役に立つであろう。


482: 名無しさんAA:12/08/26 18:12
新 国際町民 86


結局韓国当局の間違った歴史教育のせいによって
今の韓国人や学者と称する者達がありもしないことをあったと思い込んだり
日本の統治時代の善政を知らなかったりしてこんな大きな反日になってる
だから 日本の外務省が正しい歴史を簡単にまとめてハングルに翻訳して韓国人
に教えてあげたほうがいい
その昔は朝鮮が清の属国だったり文化も技術も遅れていて貨幣経済すら無かった事
日清戦争は明らかに朝鮮を清から独立させる為に日本が戦ってあげたこと
清から独立後の李朝と両班はメチャクチャな政治をして国は借金だらけになった事
その後の人民や庶民は 全く搾取されてまともな国家運営が出来てなかったこと
朝鮮の方から 日本に併合を申し込んでその為日本が合法的に併合してあげたこと
日本の統治時代は日本が善政をして日本が朝鮮を搾取どころか、逆に日本の国家予算
を磨り潰した膨大な金で資本投下し 朝鮮のインフラを整備してあげてやっと朝鮮人
の生活が良くなって人口増加に至り 2倍に増えていたこととかこういう本当のこと
を外務省が韓国人に教えてあげるべき 外務省は弱腰外交で 本来の友好国として
韓国の教科書が日本の併合時代のことを間違って教えていたらクレームを付けるべき
このままだといつまで経っても韓国の間違った歴史教育のせいで 韓国人の不幸な反日
が 広がってなくならない かつて赤狩りと称して親日家を殺戮した時代と同じだ。



483: 名無しさんAA:12/08/26 18:15
韓国語訳



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484: 名無しさんAA:12/08/26 18:31
 個人的な見識で悪いが 
 戦後2年もかけてシベリアから帰還した叔父は言った「ロシアのシベリヤ収容所は 
収容所とは名ばかりの 木を切って鉄道のレールを敷くだけのための山小屋だったとい
う。日々死んで行く仲間は あの船にロシア人が乗っていたと知っていたなら乗らなか
った。あいつらが東洋系の顔で日本人と思っていたが 朝鮮人の船長の船だったとは
悔んでも悔やみ切れない。と言って死んでいったよ。」と語ってくれた事がある。


485: 名無しさんAA:12/08/27 12:04 ID:Rmk
新 国際町民 87

 韓国のTV局は何処まで腐れきっているのだろうか。韓国高官も又同じに「これから
は日本の怒るような事は自粛する。」とした談話を発表した矢先にバスケ試合である。
この嘘つきを断罪するどころか 韓国のYTNテレビは26日、北京の北朝鮮関係筋の
話として、日朝両政府が29日の北京での予備協議を前に20日、シンガポールで実務
接触を行ったと報じた。ただ、日本外務省幹部はこれに関して「事実に反する」と否定
した。同筋は、シンガポールでの接触では、国交正常化に伴い 日本側が支払う資金の
金額や支払い方式のほか、南浦市の経済特区に対する日本からの製造設備の移転などに
ついて話し合ったとしている。 とまるで3流のバラエティや4流のワイドショーすら
やらない 意味不明の報道をしている。さらに 北朝鮮は日本側に300億ドル(約2兆36
00億円)の支払いを要求し、日本側は、北朝鮮に電子・電気機器などの製造施設を移転
することで、現金支払比率を減らすことを希望したという。すっぱ抜きと思うぐらいの
なんら合意に達していない協議の内容まで公開している。これは外交儀礼を著しく阻害
するばかりか 韓国国民が平和よりは戦争を望んでいる象徴とも言える事件である。こ
の内政干渉にも似た記事には韓国政府は 正式に謝り処罰をしなければならない。それ
は結局は合意するにせよしないにせよ この事が憶測記事でも架空記事でもなく 只の
外交阻害記事でしかないからだ。こうした事には日本政府は断固として韓国首脳にその
情報公表の経緯や釈明や意図を責めなければならない。それがないのであれば国交断絶
しても良い。何故なら既に日本の外交がこうした敵国に似た悪意の情報操作で左右され
るとしたら日本国内の国会はこれから立ち行かない。
  



486: 名無しさんAA:12/08/27 18:26
新 国際町民 88

 かつて日本人がイエロージャップと蔑められた。それは戦前にイエローモンキーと言
われた東洋人に向けられた視線と同じである。そのイエローモンキーにして自由主義の
恥とされる韓国と西洋の肥え溜とされた中国は その理由が こうした礼節のない外交
非礼と人や国を選んで 強い者には猫なで声で 仲間になれば虎の威を借りたキツネと
変貌しては歴史すらも挿げ替えて嘘をつく性質の悪さからだが もうそろそろ国際社会
の紳士的取り決めに準じた 国内を築くべき時に来てるだろう。今シリアのアサドの率
いるシャリー派は国内状態を他国や国際社会に観させない為にあらゆる手を尽くして、
殺戮に明け暮れている。反対派が旅行者を引き入れようとする土地はランダムではなく
丹念に無差別殺人を起こしている。更には国際機関の国連監視団すら攻撃し ジャーナ
リストに至っては狙って狙撃している。こうした事は今の中国に起こっている 本当の
歴史である90年代まで中国国内で公式に日本領とした尖閣諸島であったとする微博の
ツイッターの記述が消される事と全く同じ思想であり 李明博大統領の竹島問題に至っ
ては 自分の都合と国の都合で嘘をつく事を行い強行した点で全く同じである。そうし
て韓流スターを応援する馬鹿な国内のおばさんは それらの事がいかに息子や娘を戦争
に向かわせる行為なのか知る好しもなく反論する。もし日本人であれば 隣の子供が遊
びに来て悪さするのに叱らない事があろうか。それは国家間でも同じである 隣国中国
や韓国の歴史も知らない若者が声を上げて嘘をつくのは 堂々と諭してやる事は大事な
作業である。更には隣国がかわいそうなくらい罵倒され蔑まれた生活の中にあれば、そ
れは出来る範囲であろうが支援の手を延ばす。それが日本人である。中国や韓国へのそ
の付き合い方は 欧米の人から見れば中国は共産国であり敵国である、更に韓国に至っ
ては敗戦と同時にソ連に寝返って反日となった国家である。考えられない程の手厚い日
本の援助だと批判があった。だがそれが日本人であったし 戦争もまたその日本観に基
ずいた正義観から起こったもので 日本人の当然の帰路だったのである。




487: 名無しさんAA:12/08/28 02:17
新 国際町民 89

 北京の日本大使館によると、27日午後4時(日本時間同5時)過ぎ、北京市内の環
状道路上で、丹羽宇一郎駐中国大使が乗った公用車が2台の車に強制的に停車させられ
、中国人とみられる男にフロント部分に立ててあった日の丸を奪われた。丹羽大使にけ
がはなかった。
 この事件を受け、日本大使館は中国外務省の羅照輝アジア局長に対し厳重に抗議し、
再発防止と刑事事件として捜査するよう求めた。羅局長は「このような事件が発生した
ことは極めて遺憾である。中国政府としては事件の再発防止に全力を尽くしたい」と
謝罪。法に基づいた対処を約束したという。
 沖縄・尖閣諸島(中国名・釣魚島)問題をめぐって日中関係が悪化しており、中国国
内では香港の活動家らによる尖閣諸島上陸以降、中国の領有権を訴える反日デモが各地
で続発している。大都市での抗議行動は中国当局に押さえ込まれてきたが、今回の事件
も尖閣問題に絡む抗議行動の一環である可能性が高い。
と 報道された。 もちろん日本人であろうが中国人であろうが不逞の輩はいる。だが
そうしたやつらに わざわざ火をつける行為をして止まない中国政府は日本に 公式に
謝罪し1900年代から続いていた 中国の公式古地図を公開し 更に今まで「194
9年から71年まで中国政府は釣魚島(尖閣諸島)を日本の領土と認めていた」とする
「日本領有を示す53年1月の中国共産党機関紙、人民日報の記事や、複数の公式地図」などをその根拠に挙げているツイッターなどの復活させる事を約束させるべきである。
これまでの中国への借款の事実や無償供与は 決して中国国内での反日感情を煽る為に
我々は貸したりくれた訳ではない。それを反日抑揚に使った事を中国政府は公式に謝罪
すべきである。



488: 名無しさんAA:12/08/28 19:40 ID:IY6
新 国際町民 90


 多くの日本人は中国や韓国が 何故いつまでもこうした 3等国民のままでいるのか
不思議に思っている。丹羽宇一郎駐中国大使の乗った公用車が中国人とみられる男に襲
われ、日の丸を奪われた事件だ。中国外務省は28日までに、国営新華社通信を通じて
「真剣な捜査」を進めていることを強調したが このところの沖縄・尖閣諸島(中国名
・釣魚島)問題に絡んで反日感情が高まる中、“英雄”の摘発は当局批判に転化しかね
ず、捜査は難航していそうだ。もともとの賄賂国家で著しく不正義の国ではあろうが、
こんな外交非礼がまかり通る事は許される話しではない。既に大使館側は、日本側は 
公用車の走行を妨害した2台の車のナンバーを控え、写真も撮影し、その情報はすでに
北京市公安局に提出している。捜査機関が本当に正常に機能し真剣な捜査されていれば
、偽造ナンバーでない限り、犯行に使用された車両の特定には100時間もは かから
ないはずだ。これに対して「あなたたちは民族の英雄だ」といい。微博上では、日本の
対応への抗議と受け止められ、男を「日本に報復した愛国者」と評価する声が殺到する
有様。嘘つき党機関紙、環球時報にいたっては 事件について、「襲撃は外交の助けに
ならない」「子供のような行為」と戒める姿勢を若干見せては、堂々と「もし男が中国
人だと確認されても、男が精神状態に異常をきたしていたかどうかは不透明」など情状
酌量を嘆願。中国当局に寛大な措置を求め、犯人の責任能力の有無を論じて、今後の曖
昧な終結を示唆する。更に日本の自衛隊派遣に「もしも今、中国と日本の間で新たな戦
争が起こったら、それは中国人にとって数世紀にわたる恥辱を洗い流すための戦いとな
るだろう。このような形で清算したいとは思っていないし、中国世論はずっと日本への
恨みを抑えてきた。それなのに、日本は何度も自衛隊の出動を口にした。中国政府は「
海軍」の「か」の字すら発したことはない。」と堂々と嘘を書き込んでいる。まず世論
と言うのを勘違いしている。世論は抑えられるものではない。更に中国海軍はこれまで
何回も事前通報無しに 沖縄を通過している。どこに海軍の「か」の字がないか。更に
中国国民は日本に アヘン戦争後の植民地の解放国家として捉えるべきで恨みの対象で
はない。それを軍国主義そのままに 恨みの対象として教育した事を何故批判しない。
その批判がないことが 今の反日ブームであろう事は国際社会の全世界の常識である。



489: 名無しさんAA:12/08/29 18:51
新 国際町民 91

韓国人には 出来事への尊敬や畏敬の念という 日本で言う卓越したものを尊ぶという
のがないのだろう。つまり共産国のように 1に国家2国家34を置いたら5に民族と
いう考えなのだろう。こうした国から国連事務総長なんて出ていることはそら恐ろしい
現実なのかもしれない。現に今のシリアに何ら掛け声も身を挺しての対話も聴こえない
。2CHでは韓国で学べる「世界五大文明」というものを紹介している。「んあだ?」
思って覗けば なんとまじめな教科書がそうだそうだ。世界で言う「世界四大文明」に
1つ増やして教えているとか。メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明・黄河
文明(中国文明)の4つを指す4大文明。しかし韓国ではこれにさらにもう1つ加わり“
コリアン文明”なる聞いた事がない文明が追加されると言う。そもそも世界的な間違い
の無い考古学の世界に 全く世界に記録に無い文明を韓国では“コリアン文明”と名付
け学ばせている実情は 全く自由主義の国家といえるだろうか。全く歴史の冒涜であり
不謹慎で極まりない。そしてそれはスポーツもしかりである。
韓国サッカー協会は29日、W杯ブラジル大会アジア最終予選第3戦のウズベキスタン
戦(9月11日、タシケント)に臨む代表メンバーを発表。FWパク・チュヨン(アー
セナル)ら23人が選出され、Jリーグ所属選手ではC大阪のGKキム・ジンヒョン、
広島のDFファン・ソッコが招集された。日本とのロンドン五輪3位決定戦で試合後に
竹島(韓国名・独島)領有を主張するメッセージを掲げたMF朴鍾佑(釜山)も代表に
名を連ねた。と報道している。つまりルールを重んずるスポーツの世界にルール無用の
国際批判もオリンピック精神も何も無いのだ。勝手をやってやり放題で 勝手にやって
ないと言い訳をしては罪にも謹慎もさせないという 全くルールは参考のみのならず者
の国家を自認するのである。
全く 恥も外聞もない厚顔無比 さらに反省も進化もないましてはまともな世論もない
他人や他国に文句をつけるのみ みずからを改める事まず無し。これを世のおばちゃん
がスターと騒ぐ気がしれない。夫や息子がこうした国の台頭で汲汲と貧しくなっている
のに である。
  



491: 名無しさんAA:12/08/30 19:59
新 国際町民 92

 どうも 中国政府も韓国政府も日本国民もちょっと間違えてる節がある。今 問題に
なっている竹島や尖閣問題だが 実はその小さな島そのものは別に日本人の多くはそう
そう関係あるところにいない。本当に問題なのはその違法性とその異様性に反旗をあげ
ているのである。例えばちかごろのサーチナに載った記事がある。
 30日付の韓国紙「東亜日報」が、新党「国民の生活が第一」の小沢一郎代表が2009年
12月に民主党代表として訪韓した際、李明博(イ・ミョンバク)大統領に竹島(韓国名
・独島)の領有権を放棄する意思を伝えていたと報じたことについて、韓国大統領府は
「事実無根」と否定した。複数の韓国メディアが報じた。 とある。
 誇大妄想もここまで来ると犯罪である。竹島の実行支配や尖閣問題も又同じである。
日本人が日本人として言いたい事は只一つ あなたたち韓国人や中国人も自由や先進国
の技術や贅沢な暮しが欲しいでしょう。子供達が可愛いでしょう。ということだ。今の
日本で起きていることは 過度の流入移民の為か母国の民度の低さの為か 日本の日本
らしい美しさや質実剛健の精神が蝕められてしまっていることだ。ゴミ収集ではとある
棟だけ”のべつくまなし”にゴミが捨てられ分別さえままならない。花見となればその
収集に幾多の費用をかける事になる。夏ともなれば暴走族や勝手な花火大会と若者の暴
挙更に麻薬や拳銃など裏社会をみれば 必ずそそのかす韓国人や中国人がいる。その非
常な考え方は何処からそんな嘘がと思う。すると母国ではそれがまかり通るという世界
である事が見えてくる。今度の高速バスの事故を見ても同じである。通常のバスが2つ
に裂けるはずはない。とやはり中国製や韓国製のバスなのだ。何故そんな技術の無い国
にいると言う自覚がないのか。爆発炎上する安物機械で 日本の国内産業はそうした競
争に痛手ばかりである。その上保護や援助を惜しみなく政府が行う。隣国に発展はいい
事である。だがそれは正常な日本と同等の道徳観念があっての事で 歴史すらまともに
教えない国であっては困るのである。平和を推し進める国としては国家利害はあっても
国民教育ぐらいは まともであって欲しいのだ。だから意見するのである。




493: 名無しさんAA:12/08/31 11:54
新 国際町民 94

 そもそも 韓国は日本政府と共に謝るべきは そんな戦争中の話ではなく戦後になっ
てから 勝手に突然李承晩ラインを敷いては 発砲し漁船を沈めたり拿捕したりした事
ではないか。それは領土を守る行為や、旗を掲げる行為とは明確に違い、言うなれば、
戦争中さえ起きなかったその土地で生活していた民間漁船への虐待や殺人なのだ。それ
は日本漁船が操業する銀座通りで 言わばあの歩道に車で突っ込みナイフを振り回して
アーケードで無差別殺人を起こしたような行動だった。たった外国人だからと言って許
し自衛隊も派遣しなかった日本の自民党政権の 呆れるほどの土下座外交だった事だ。
 それから韓国の竹島を不法占拠が起こり、韓国側は竹島近海で操業する日本漁船に対
して、銃撃や拿捕を繰り返すようになった。日韓漁業協議会の調べでは、1965年に日韓
基本条約と漁業協定が締結されるまでには、拿捕された日本の漁船は328隻、抑留さ
れた船員は3千929人、死傷者は44人に上ったのだ。当然国会でも問題になったが
強硬論の前には社会党や共産党はもとより公明党他の野党が立ち塞がった。
 1953年9月に拿捕された第28海鳳丸の久保田伴良・船長は、帰国後の国会の席
で当時の体験談を証言したが、それは壮絶な投獄体験であった事が全国に解った。
”済州島周辺を航行中、韓国海軍の巡航艇に大砲2発を発砲されて 停船し拿捕された
海鳳丸だったが、そのまま船に乗り込んできた軍隊は 船長に小銃を突きつけ拉致られ
た状態になった。そのままの状態で軍幹部に反論し、警察尋問では拳銃で脅されながら
自分の証言と調書の違いを主張するなど、抵抗を示した。そうした真実を言う為に 彼
は2か月以上勾留された。留置場の様子をこう述べた。
「留置場は1部屋4畳半くらいで多いときは1部屋10人もおり、超満員になっていて寝る
事もできなかった。 食事は丸麦1合くらいを1日2食しか与えられず、おかずは大根
の葉っぱの塩漬を毎日毎日73日間も食わされた。」
 また出鱈目な裁判では罰金刑を受けたが、 船長は「今後は国際裁判で正当な解決を
してもらうことにして一同涙をのんで翌日判決を承認して」帰国したのである。
 そして船長は国会で言った、「この事件について考えさせられますことは、我々第一
線に働いている漁船船員に対してまだ政府は何ら安心して働けるような保護対策のない
ことであります」と訴えている。だがこの人はまだいい方だった。



494: 名無しさんAA:12/09/01 18:56 ID:eeU
新 国際町民 95

 もともと韓国反体制国家として 国際社会には名高い。かつて一次大戦前に訪れたユ
ダヤの資本家は誰一人として そのまま朝鮮人に投資しようという人はいなかった。ま
ったく信用がなかったからだ。対して中国も又同じだったが香港島にいた英国人の仲立
ちによって投資が行われた。日露戦争後ポースマス講和条約を終えた小村寿太郎に擦り
寄ってきたのは鉄道王ハリマンだった。その頃から既に朝鮮人は蔑まれていた。今で言
う韓国人である。万宝山事件はこうした軽蔑されている朝鮮農民と国境を境にした中国
人土地の水争いで対立が起こったとされる。一応は日本人憲兵においてその場は納まっ
たがその後も朝鮮には共産化した愛国主義者の集団がいた事で中国人街が襲撃を受ける
といった事も起きた。とされる。この時既に朝鮮皇帝の権威は失墜していたが日本軍の
応援を得てやっと体制が整え出していたとされる。がもともとこの朝鮮半島は中国人に
は中国の持ち物で属国であるという意識が強くあり 朝鮮人には日本軍の下で戦勝国だ
という意識があって 今の負けん気の強い言いたい放題の人種の性格そのままに その
反感意識は強く 日本が満州国を作った経緯はともかくとしても五族協和の崇高な精神
などというのは全く遠い世界に見えたのだが 日本人は何故だが理由の無い平和主義者
である。中国も朝鮮半島も西洋列強の文化や発展にともなった進化や文化的生活になれ
ばきっと理解するはずだと 何故だかせっせと投資に次ぐ投資で農地改革開放河川や道
などのインフラ整備その上工場建設と満鉄の収入以上の投資を行った。だが 今の竹島
や尖閣諸島同様に 温和で平和な建設的行為には とんと無頓着どころかそのやさしさ
につけ込んでは権利や主張や妄想がより過激になるだけの文化しか持ち合わせていない
のであったのだ。そも日本人のような 侘しさや淋しさが判らない”わびさび”のない
鬼畜の世界の住民なのだ。所定無常の響きなどとと言って 人はいずれ死ぬと諭した処
で だから何だ。関係ない今が良ければ始まりや終わりはどうでもいい。という世界に
いる人間に 一体何をば言えよう。金慶珠を観て判るだろう全くの嘘や出鱈目の分析を
堂々と日本人に言う。こんな人間が博士号を持ちTVに出るのだ。全くどうかしている



495: 名無しさんAA:12/09/01 20:52
新 国際町民 96

「高校無償化」制度が朝鮮人をいらだたせている。朝鮮高級学校にのみ適用されていな
いと勝手に問題にしている団体がある。「全国学校法人朝鮮学園理事長連絡会」関係者
らの面々である。8月30日、文部科学省を訪れ、制度を速やかに適用するよう求める
よう要請を平野博文文科相宛の書面を提出した。と報道される。日本国憲法では八十九
条で 公金や公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持の為、
又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はそ
の利用に供してはならない。と規定している。2CHらーは正に朝鮮学校への公的援助
は憲法違反であると決め込んでいる。多くの日本人は状況に関わらず治外法権的教育に
治安維持や日本の伝統的習慣に馴染んでこそ帰化人と思っている。帰化もせず国籍も取
らず日本語も取得しない人間に 国内にいてもらいたいと思うの人はほんの一握りもい
ないであろう。各地の朝鮮学校関係者らは 何度も文科省を訪ね、一刻も早くの制度の
適用をくり返し訴えてはいるが、適用先延ばしは、朝鮮学校にも民族教育に対する偏見
をもつ日本人にも為にならない。朝鮮学校への教育補助金を凍結する地方自治体も現れ
た。というがもともとその支出は法律違反である。差別が新たな差別を生む深刻な状況
にあるというがそれは可笑しな言い分である。何故特殊な私設の外国語学校のような、
日本で言う教育機関に属さない街中の私塾のような簡単に出来た朝鮮学校を公的支援を
すべきなのか。生徒や保護者、関係者、朝鮮学校を支援する日本市民の怒りと悲痛な思
いと言うがそれは間違っている。勿論日本の私立高校や大学もそうした明確な規律の中
にないものも数多くある。がそれと同等にと言う声は全く間違いでそうした私立の補助
こそ無くすべきなのである。文科省担当者の「朝鮮学校については繰り返し、規定に従
い厳正に審査を行っているが、まだ結論が出ていない」という生半可な回答をしている
。これに対して神奈川朝鮮学園の禹載星理事長だ。「『無償化』制度について初めて世
に知れ渡ったとき、大いに期待をしていたが、それはやがて失望になり、いまでは怒り
に変わりつつある。いま各地の地方自治体で朝鮮学校への教育補助金の凍結が相次いで
いるが、文科省のあいまいな態度がそのような状況を生んだと指摘する声がある。アジ
アの中の大国の一つである日本が人権侵害を容認してはいけない」と脅迫する。法を犯
してまで補助をもらおうとする朝鮮学校は義務教育を棄てた所にあり 一般日本人の今
までを大事にしてきた公や法を守ると言う意識を攻撃し そのごり押しした公的支出に
よる人権侵害を押してやまない。


496: 名無しさんAA:12/09/01 23:48
新 国際町民 97

 韓国・中国・ロシアと 今日本には鳩山前首相の幻覚おたわむれ外交で難題が押し寄
せて来た。この難題は領土問題でもなければ 中国や韓国の反日運動でもない。実は一
番厄介な日本人としての誇りを傷つけられた事によるナショナリズムの高まりや珍毛な
愛国心が震災と共に芽生えだしては 指導者や偽善者達を許さない姿勢が強くなった事
である。私自身もこの他の国に対して比較するによりよい国だと思っていながらも、こ
のいつまでも続くデフレ不況と共に頻繁で身近に迫る少年達の無節操な非行行動に政治
の不満はそのまま理不尽な海外の剛突く張りの論調に怒りが止まないのである。そもそ
も朝鮮人は在日の大統領を担ぎながら なぜ自ら主張の非道がわからないのか。歴史上
日韓併合が無かったとでも言うのか。そもそも中国は悪あがきも大概にしろ。自らの書
にあるいは声明に尖閣は日本の領土でアメリカが統治している。としていたではないか
漁業協定の公式文書すらその合意で書き込まれているのに 何故日本の報道機関は冷静
な対応や経済的影響などと平和論を掲げるのか。そも北方四島はソ連の行った非道に対
してロシアはもうそろそろ返還してよさそうなものだろう。ロシア人そのものが第二次
大戦の中立国であったことは認めていたではないか。ソ連自身がドイツと日本に不可侵
条約を結んでいたではないか。ドイツはそれを破棄して攻撃しろうが日本は全くやって
ないどころか戦争の終結を頼んだのをいいことに ソ連の方から正当な理由なく攻撃を
仕掛けた戦争が日ソ戦争である事は周知の事実ではないか。日本の敗戦によってソ連は
南サハリンとクリル(千島)列島を取り戻した。と言うが、その領土のすべては、必ず
しも日露戦争(1904〜05年)で失ったものではないどころか 過去の統治すらあいまい
なものではないか。間違いなく条約違反をして窃った不名誉な島々に更にシベリア抑留
という非人道的な強制労働を行わせた反省もせず、戦後の旧日本軍の軍人、民間人が拉
致され 最も少なく見積もっても、抑留者数約56万人(約60万人以上という説もある)
のうち、全ての抑留者の帰還が終わるまでに約5万3千人が死んだ。更に帰還者の話では
氷点下70度になる場所もあったような極寒の地で 全く満足な食事も与えられず、風が
通る山小屋に隔離され 森林伐採や鉄道建設などの過酷な重労働をさせたのではないか
そうした当時でさえ国際法違反や非人道行為が認められるのに 一体どの顔して北方4
島は私のものだといいはるのか。バム鉄道の永久凍土部分は日本人の血が流れていて、
それを知るソ連人の口からさえ”その枕木の本数は抑留者の墓標の数だ”と言われくら
い過酷であった事は知っているはずだろう。


497: 名無しさんAA:12/09/03 21:26 ID:48o
新 国際町民 98

 今回の日中関係の悪化は、石原慎太郎東京都知事が、都による尖閣購入計画を打ち出
したことが発端だとしている。又これを受け、野田佳彦首相は何をとち狂ったか7月に
、「平穏かつ安定的に維持管理する」として尖閣購入国有化の方針を示した。反中国的
で挑発的な姿勢のある石原氏の都が購入するより、国有化した方が 平和的、安定的に
尖閣の実効支配を継続できるとでも判断したのだろうか。だが、現実的には複数の関係
筋によるとこの国家による買い上げは 日本と中国の関係を今以上に困難にさせると観
ている。国有化に向けて、地権者に20億円の買い取りを提示して、本格的な交渉を始め
たが まずこの交渉そのものが日本人の多くの国民には納得が行かない話しである。何
故なら政府担当者は今まででも中国の強硬姿勢を受け、尖閣を管理する事を怠ってきた
上に、必要性を認識したからといって 日中国交の足枷を外すほどの交渉の見通しは、
全く立っていないからだ。中国では5年に1度の共産党大会が今年10月にも開会する
。習近平氏をトップとする党の新指導部が発足するに当たり、旧指導部特に江沢民派の
執拗な攻撃は、国内向けに日本政府を叩く事を主眼としている。それは唯一彼は日本軍
の下で働いた国民党軍の指導者だったからだ。つまり中国人特に共産党員にとっての対
日批判の強さを知る唯一無二の指導者であり、又逆に日本非難反日感情の利用に一番長
けた指導者なのである。この老獪な長老は今子飼いの弟子すなわち強力な従来の共産主
義の申し子のような重慶市トップの薄熙来氏が妻と共に殺人の裁判が行われ 夫人のみ
の有罪確定だったが6人組とされる首脳部入りのその座を取り逃がしたからだ。胡主席
直系で広東省トップの汪洋氏と共に最高指導部を形成する政治局常務委員の次期候補と
してライバルであったとされる中で、スペイン国家法廷は既に、前国家主席・江沢民を
含む中共政権の高官5人に対して、「ジェノサイド」(集団虐殺罪)と「拷問罪」など
で起訴することを受理していて。法輪功を迫害する専門機関である「610弁公室」の
トップ・羅幹の彼は中国国内では、広く恐れられている。他の国々のような、国家代表
の個人制を敷いていない集団指導体制の中国で胡錦濤国家主席(66)の後継候補であ
る習近平国家副主席(56)が政治局常務委員から最高指導部入りを果たしても彼が背
負うものは国の方針や行く末でなく 現在の安定と指導部内の駆け引きでうかつに足を
引っ張られない事でしかないのである。


498: 名無しさんAA:12/09/03 21:27
新 国際町民 99

 こうした事で明らかに 中国指導部は 日本国が公式に買わない事を願っているし、
又出来れば 石原氏の購入よりは中国人の縁故の日本人が購入する事を狙っていたのだ
。国有化すれば 明らかに良好な日中関係の維持とは両立しない。尖閣問題はさらに今
後こじれてしまう。それは、中国国民が国有化を容認できるかどうかだ。都であればそ
れは日本と言う対象ではない。東京都と言う対象であって中国指導部も相手が政府では
ないと言い訳が出来るが 国有化すればそうは行かないのである。従って国有化方針の
公表直後、中国共産党の機関紙、人民日報や、その系列紙、環球時報は国有化を激しく
批判すると言うシグナルを出した。中国は公式的には、都の購入にも国有化にも反対す
る立場だ。だが「島を(国が)購入するという問題は中国国民に強い憤りをもたらした
。両国関係の障害となっている」「一部の人の思惑通りに進めば、釣魚島問題は(今後
の人民活動が)制御不能になり、平和と安定を取り戻すことができなくなる」との危惧
を示している。事実今日に至っては 共産党指導部は、明らかに何かに取り付かれたよ
うに怯えて出している。「あらゆる『混乱』に恐れている。」と北京の知識層は語る。
7月の江蘇省南通市啓東の「王子製紙」工場の排水計画に反対する住民1万人超による
大規模抗議は「反日デモ」の形はとっているが、実際には地元共産党・政府を狙ったも
のというのが大方の見方である。去年の土地収用への不満から広東省烏坎村の村民抗議
事件は投票と言う選挙によるリーダー決定をして終わった。これを契機に、四川省での
大規模抗議が起きる。更に7月には、金属工場の建設に反対する数千人の若者らが立ち
上がり、啓東のデモと同様「群衆の不理解と不支持に鑑み、プロジェクト停止」を決定
。この「民意」という壁にぶつかる時代に入ったことを今や中国政府も認識している。
これまでの「プラス」と勘違いしてきた「幹部との癒着度」が、今や命取りになるぐら
い民衆の鬱憤が溜まり 洪水や公害や交通事故などを含めた社会現象の変化と経済格差
とが国土を襲うなか 又同じように対日批判でそれは乗り切れない事は承知していても
民衆は愛国無罪の声は止まない。改めて転換点に来ている事を知るのは政府高官と日本
人だけであり、その中で中国の軍部や海上警備当局への強い批判圧力が上がる事は 極
めて憂慮する事態なのである。日本政府は尖閣に上陸した香港の活動家ら14人を逮捕後
、速やかに強制送還して早期決着を図った。これは日中関係の一層の悪化を避けるため
処置だが、これこそが全く愚劣な措置だった。と言われる。



499: 名無しさんAA:12/09/05 23:31 ID:iHA
新 国際町民 100

 嘘つきロムニー氏が正式に共和党候補に指名された。企業経営をもこなす大物議員で
あるが 彼の手のひらにあるのは カトリックでもプロテスタントでもない。したがっ
て日本流に言えば八方美人のお坊ちゃま議員で あの鳩山氏を思わせる。先週の共和党
の全国党大会は 「壁のない党大会」と銘打ち 会場にいる人だけでなく、会場に来られ
なかった人をも、大会に参加してもらおうという狙いを、打ち出した。用いられたのが
ソーシャルメディアです。インターネットを通じて生中継して、それをツイッターなど
を通じてコメントをつぶやき、会場の大型スクリーンで紹介するという。まるでNHK
のWEBニュースばりの近代化をした大会だった。会場で共和党関係者が有権者と行っ
た討論会の様子が動画投稿サイトで公開され、見た人は自分の意見や感想を自由にサイ
トに書き込みましたという。何とも今や政治手腕は刻々国民受けPRに偏ってしまった
ようだ。貧民は相手にしないとばかりに経済指標として金のないやつはアメリカに来る
なと真実の声を出していたのが顰蹙を買って 今やより取り見取りの薔薇色未来を言う
姿に変ってしまった。だが彼を支援してる人々は特段の寄付も出来ないが 全国民保険
による徴収されて 自らの加入している任意保険によって保護されていて オバマ政策
に反対する半富裕層なのだが がこのオバナ政策は病院などの福祉支払いにほとほと困
るアメリカ経済の予算にはかなりの福音であったはずなのだが 全く人はその正当評価
はしない。その裏ににはアフガンやイラクの戦争にかなりの失政を行ったブッシュ旋風
の傷跡がかなり残っているからだ。政権を揺さぶる軍産複合体は常に悪行を隠している
が 恐らくこれまでの様な日本からの支援は無いどころか日本を支援しなければならな
い程日本は落ち目である。友好国やら同盟国の美名の下で他国を吸い尽くした経済が今
地球の殆どの国の負債として重くのしかかる。


500: 名無しさんAA:12/09/07 04:09 ID:JgA
新 国際町民 101

 日本に対して、李政権というよりはイ・ミョンバクが行なった竹島上陸や尖閣諸島は
今まで無頓着を決め込んでいた日本国民に 領土と綿々と続いてきた国民歴史を改めさ
せた意義は大きい。かつて普天間問題で日米対等などと大言を吹いた鳩山発言以上に、
日本人の持つ誇りと恥の持つ文化がまぎれもなく邪悪が蠢く国際社会に整然と正義の旗
振りする使者となる覚悟が今又目覚めた様なのだ。そもそも日本人が第二次世界大戦に
駆けつけたの米国の経済制裁と言う新たな火種をつけたからであったが その本意はソ
連の執拗な南下政策を打ち止めにする不可侵条約にこぎつけたための ドイツとの三国
同盟にあったと言われている。が世界の趨勢は日々辺境にあり 多くの日本人が敗戦な
どとは想像すらしていなかった頃日本政府はソ連に米英との終戦調停を頼んだとされる
。一方でその懇願を聞き入れながらソ連では既に18年11月、米英ソのテヘランでの
会談に、ドイツ降伏後の対日戦参加を明言していた。と言う。その後の「ヤルタ協定」
成立後は対日戦略の基本構想を決定し、日本の敗戦後の千島列島全部と北海道の島の大
半をソ連の担当地域だとして、終戦を認めず攻撃続行を宣言したのである。 だがその
参戦も昭和20年8月9日の一方的なソ連側の日ソ中立条約を破棄である。その後満州
において、樺太において、攻め込んできたのはずっと後であることを知る人は多いだろ
う。千島列島の占守島で戦闘があったのは、既に日本がポツダム宣言を受諾した後の話
である。 一方のソ連側は、降伏文書が調印される9月2日より前に、北海道北半まで
を武力占領すること政府指令として戦っていたが、それはかなわなかった。と言うそれ
はこの占守島の戦いで 日本軍が少数であったにも関わらず果敢で勇猛な戦いに恐れた
からとも言われている。が北でそうした事が行われていた時 中国では正当政府国民党
軍が北の猛威に追われだしたのである。その後朝鮮半島は占領され共産主義の卑怯な占
領は続いた。それにに気付いた米軍が奪還を狙ったのは戦後1年も過ぎた後で 盛んな
空爆と地上部隊の投入でやっと38度線まで押しとどめたというのが歴史である。


501: 名無しさんAA:12/09/07 04:10
新 国際町民 102

 ここに韓国や北朝鮮そして中華人民共和国が 全く新しい国家であり領有を宣言する
そうした歴史を持たない国家である事が見て取れる。だからこそ彼らは 今だに領土の
安泰には至っていない。日中国交正常化はそうした歴史認識のないままに田中氏や金丸
氏などの重鎮達が 不幸な残留孤児やらシベリア抑留者などの帰還業務と漁船操業にと
平和や安全を願って その場の現状維持の黙認であっても争いのない世界にいようとい
う意思の下に行われたのである。その当時にしてソ連やロシア側の大臣が北方4島に乗
り込まなかった事も、竹島に大統領が上陸しなかった事も台湾が尖閣で問題としなかっ
た事も 希求する平和維持に固い決意と多くの心を両国が持っていた為でもある。日本
人は過去3千年有余の固有の領土が他国に侵される事があっても 世界に正義はある。
絶対に戻ってくる。と信じて これまで幾度かの憲法改正の機運があっても その世界
の正義に賭けている平和憲法をそのまま維持していた。それは中国や韓国或いはソ連す
らも観ている中の 必死の固持であったと言える。ドイツのように侵略に次ぐ侵略は全
く行っていないと言う自負があるし特定の人種に対して収容所を作った事もなかった。
 それは偏見の無い目と 単民族ならではの協調主義が 礼節と人権を重んじた姿勢を
かもしだしていたからだが 悲惨な事や非人道な事が無かった訳ではない。日本人達は
韓国人や大陸人を平等以上に優しく受け入れると共に 日本人にも強い治安維持の為の
法を強要したのである。しかしそれでも 他の国々よりはずっと少なかったと言える。
 それでも非道には殊の外厳しい目を持って接していたので 我慢強く国際社会の正義
を信じていたし今からも信じていくであろう。それは何よりも韓国やロシアの不等占拠
や中国の違法介入はその国そのものの非道さの証明であり その国の人民が不幸である
証しなのであるからだ。



502: 名無しさんAA:12/09/07 19:06
新 国際町民 101

 日本に対して、李政権というよりはイ・ミョンバクが行なった竹島上陸や尖閣諸島は
今まで無頓着を決め込んでいた日本国民に 領土と綿々と続いてきた国民歴史を改めさ
せた意義は大きい。かつて普天間問題で日米対等などと大言を吹いた鳩山発言以上に、
日本人の持つ誇りと恥の持つ文化がまぎれもなく邪悪が蠢く国際社会に整然と正義の旗
振りする使者となる覚悟が今又目覚めた様なのだ。そもそも日本人が第二次世界大戦に
駆けつけたの米国の経済制裁と言う新たな火種をつけたからであったが その本意はソ
連の執拗な南下政策を打ち止めにする不可侵条約にこぎつけたための ドイツとの三国
同盟にあったと言われている。が世界の趨勢は日々辺境にあり 多くの日本人が敗戦な
どとは想像すらしていなかった頃日本政府はソ連に米英との終戦調停を頼んだとされる
。一方でその懇願を聞き入れながらソ連では既に18年11月、米英ソのテヘランでの
会談に、ドイツ降伏後の対日戦参加を明言していた。と言う。その後の「ヤルタ協定」
成立後は対日戦略の基本構想を決定し、日本の敗戦後の千島列島全部と北海道の島の大
半をソ連の担当地域だとして、終戦を認めず攻撃続行を宣言したのである。 だがその
参戦も昭和20年8月9日の一方的なソ連側の日ソ中立条約を破棄である。その後満州
において、樺太において、攻め込んできたのはずっと後であることを知る人は多いだろ
う。千島列島の占守島で戦闘があったのは、既に日本がポツダム宣言を受諾した後の話
である。 一方のソ連側は、降伏文書が調印される9月2日より前に、北海道北半まで
を武力占領すること政府指令として戦っていたが、それはかなわなかった。と言うそれ
はこの占守島の戦いで 日本軍が少数であったにも関わらず果敢で勇猛な戦いに恐れた
からとも言われている。が北でそうした事が行われていた時 中国では正当政府国民党
軍が北の猛威に追われだしたのである。その後朝鮮半島は占領され共産主義の卑怯な占
領は続いた。それにに気付いた米軍が奪還を狙ったのは戦後1年も過ぎた後で 盛んな
空爆と地上部隊の投入でやっと38度線まで押しとどめたというのが歴史である。


503: 名無しさんAA:12/09/07 19:07
新 国際町民 102

 ここに韓国や北朝鮮そして中華人民共和国が 全く新しい国家であり領有を宣言する
そうした歴史を持たない国家である事が見て取れる。だからこそ彼らは 今だに領土の
安泰には至っていない。日中国交正常化はそうした歴史認識のないままに田中氏や金丸
氏などの重鎮達が 不幸な残留孤児やらシベリア抑留者などの帰還業務と漁船操業にと
平和や安全を願って その場の現状維持の黙認であっても争いのない世界にいようとい
う意思の下に行われたのである。その当時にしてソ連やロシア側の大臣が北方4島に乗
り込まなかった事も、竹島に大統領が上陸しなかった事も台湾が尖閣で問題としなかっ
た事も 希求する平和維持に固い決意と多くの心を両国が持っていた為でもある。日本
人は過去3千年有余の固有の領土が他国に侵される事があっても 世界に正義はある。
絶対に戻ってくる。と信じて これまで幾度かの憲法改正の機運があっても その世界
の正義に賭けている平和憲法をそのまま維持していた。それは中国や韓国或いはソ連す
らも観ている中の 必死の固持であったと言える。ドイツのように侵略に次ぐ侵略は全
く行っていないと言う自負があるし特定の人種に対して収容所を作った事もなかった。
 それは偏見の無い目と 単民族ならではの協調主義が 礼節と人権を重んじた姿勢を
かもしだしていたからだが 悲惨な事や非人道な事が無かった訳ではない。日本人達は
韓国人や大陸人を平等以上に優しく受け入れると共に 日本人にも強い治安維持の為の
法を強要したのである。しかしそれでも 他の国々よりはずっと少なかったと言える。
 それでも非道には殊の外厳しい目を持って接していたので 我慢強く国際社会の正義
を信じていたし今からも信じていくであろう。それは何よりも韓国やロシアの不等占拠
や中国の違法介入はその国そのものの非道さの証明であり その国の人民が不幸である
証しなのであるからだ。



504: 名無しさんAA:12/09/07 20:43
新 国際町民 103

 日本の無様な様は今更の事ではないが それにしても 歴史の歯車とは是ほど人を苦
しめるものだと言う事を我々は改めて認識しなければならない。日本語には馬鹿という
言葉がある。人の行動を蔑んだ言葉だが この由来は遠く中国の三国志時代まで遡る。
かの時代国を帝の威信を持って支える極悪なる宦官がその威光を我が物にしていた時代
その宦官をもって駄馬を捧げて「これは珍しい高貴な鹿というものである。」と幼帝に
捧げ幼帝もまたその権力に楯突く事が出来ず「立派な鹿だ」と馬をして言った事を起因
とする。つまりは時流や権力によって自らの正しきを排して邪な異論をさも正論である
かに示す行為が馬鹿という行為である。とされる。今中国人や韓国人はその正当な日本
の権利をそうした馬鹿の流れに従い お経のように自国の物だと唱えている。そうして
この馬鹿の頂点にいるのがこの李大統領であろう。かれは在日と言えども 多分にこの
本当の歴史を教えない朝鮮学校の出身なのであろう。この事によって日韓の今までに積
み上げた数々の友好のシステムは多分に洩れず水泡に帰すであろう。この大きな失態の
責任を朝鮮学校の学校長ないし事務局などは一体どうあがなうつもりだろうか。死んで
もあがなえるものではない程にこの朝鮮学校の悪意と罪は重い。そもアジアで起きた最
初の欧米列強との戦いは 清国と英国によるアヘン戦争である。この戦争に簡単に負け
て尚復活しようともがいた清国がその賠償金として差し出す物が属国の朝鮮半島であっ
た事が大きな原因である。日本人は”義を見て背去るは勇無きなり”との教えが息ずく
国であった。この朝鮮王朝の窮地の願いに独立国に自ら派兵して戦火を交えたのが日清
戦争なのだ。そして独立を果たした朝鮮国は卑怯にも独立した王朝としてロシアの南下
政策強権外交に当時の中国国境筋である今の北朝鮮をロシアに渡してしまう密約を結ぶ
。この事で日露戦争が起こったのである。当然ながら朝鮮王朝には戦う能力も武器もな
く経済すらなかった中での日本の派兵である。英国仲裁の下で何ら賠償金のない勝利は
日本にとっては何の意味もなかったが その後せっせと韓半島の安定を目指して投資に
次ぐ投資をして満鉄が出来上がったのである。この時の節操のない八方美人の朝鮮王朝
と鳩山外交とは奇妙に類似している。すなわち足元の基軸を無くしては何も無い。更に
この馬鹿の民衆と祭り上げた国では今のアサド政権同様 民衆に向かい武力を使い理不
尽な内乱が起こる事は 過去の歴史からも明らかだ。


505: 名無しさんAA:12/09/07 20:47
新 国際町民 104

 そうした現実的方程式にも関わらず 政官業共に間違えた対応をしている事は明らか
である。今回の尖閣の国有化は事を著しく複雑にして過去に遺恨を残す事は明らかだ。
にも関わらず 新聞各社やTV局は至ってまじめに尖閣の国有化で国際協調や中国との
軋轢が嵩じないで 穏やかに領土問題が落ち着く事を願って止まないみたいな言い方で
ある。これは平和基調の日本人の意思とは明らかに反している。今までも今からも中国
や韓国は明らかに反日と排斥の憎悪を増大させる政策を全く顧みる事無く進めてきた。
例えば靖国問題でもおなじである。戦後一貫して英霊を祭りその鎮魂にひれ伏して御参
りする事は日本の死人に対する礼儀であり美徳とする行為であった。そしてそれは献花
して葬うキリスト教と同じものであって 諸外国から何ら問題視されたり言われる事も
無かった。ところがある日周恩来の書簡を持って胡耀邦が来日した。中国は粛清の嵐の
後であり折からの中ソ冷戦の中で国内が疲弊しきっていたのである。すなわち国内貧困
対策に無償借款の増額依頼であった。時の中曽根はそれに即座に応じて中国を助けた。
だがこれに対して中国国内は噛み付いた。特に江沢民一派など毛沢東子飼いの共産党の
長老達の反発はどうしようも無かったと言う。それに火に油を注ぐべく報道したのが今
の日本の新聞各社であると言われている。これをして中曽根の靖国参拝を取りやめさせ
こう言わしめた。「(私の靖国参拝によって)友人で親日派である胡耀邦が中国共産党
内の批判にさらされて失脚する可能性があったからだ。それはどうしても困ることだっ
たから私は取りやめる。」と。さてさてこれが中国なのだ。他国に国家の為にと命を賭
して頭をさげ金を借りに来たのに、そのOKが取れるや否やその使者の足元を掬う為に
奔走し あげく日本は気を使った優しい心遣いは 全く気に留めず 今でもその醜辣な
行動は止まっていない。つまり日本の心である信義礼智忠清孝悌などの人徳は全く中国
には無いし育たないのである。そして今回の尖閣諸島の買取をして中国との交渉を穏便
に済まそうと言う政府の方針は 過去の歴史の教訓をなんら学んでいない行為なのであ
る。

506: 名無しさんAA:12/09/08 06:59 ID:nFg
新 国際町民 105

 北朝鮮の最近の映像がTVニュースのトップを飾る。この国は中国ほど情報隠しは無
いようだが その貧困の度合いは日々大きくなっていると言う。そもこの国の指導者の
金正恩はどこかあどけない。かつて藤本氏にこの国は何故貧乏なのか。何故他の国の様
な豊かさや明るさが無いのか。と聞いたらしい。あまりにも悲惨な貧困にあえぐ国民の
為に一体何が出来るのか 改めてかの青年指導者は模索しているかのように見える。し
かし、もしこの国に日本との拉致問題などの軋轢が無かったなら恐らく今まで飛ばして
いたロケットも核弾頭も早々と完成して もっと危険な瀬戸際外交を続けていたのだろ
う。そう言う意味では中国のような嘘つき外交は出来ない立場にある。中国でも先に言
ったような ソ連と境界線で揉めてインドとの戦争にインド側に兵器を売っていた事実
から中国がソ連との国境を本来の黒竜江川岸までとしtのである。この時も中国国内の
鬱憤は高く国外との摩擦を際出させて国内の混乱を鎮めようと画策したようだ節がある
そうした時日本に支援を求め、日本が支援したばっかりに此れ以降は 靖国問題を日本
の新聞社から提起され中国が今のように何でもかんでも反日でつつく事が鬱憤の晴らし
処となった。中曽根時代の話だ。その頃の中国は日中国交を果たしたといっても今の北
朝鮮に非常に近く ソ連からの支援が無くなり東側陣営として農民の鍬や鎌を鍋やかん
で製鉄しては 更に禿山となり疲弊していった頃だったのだ。そうして起こっている事
は尖閣問題に限っていない。ガス田問題も立ち消えのままだ。更に山本太郎などは脱原
発などでデモを起こしているが、何故尖閣の国の購入を反対デモしないのだ。基本的に
この反日の中通常ミサイル3千発核弾頭2百発が日本に向けられている中での弱腰外交
は 正に先に言った馬鹿の極みであるはずだ。




507: 名無しさんAA:12/09/09 07:55 ID:AEM
新 国際町民 106

 そもこの韓国や中国問題は第一次大戦後のベルサユ条約にさかのぼる。すなわち英国
の仲介を得て日露大戦を勝利したものの その賠償問題は頓挫する。ロシア皇帝がビタ
一文払わない領土の1ミリたりとも譲らないとしたので 時の外相は協定が頓挫した。
 そしてこのニコライの頑なな態度は訪日した大津事件に遡る。1891年(明治24年)日
本を訪問中のロシア帝国皇太子ニコライ(後のニコライ2世)が、滋賀県滋賀郡大津町
(現・大津市)で警備にあたっていた警察官・津田三蔵に突然斬りつけられ負傷した、
暗殺未遂事件である。更には、その津田三蔵は 江戸期のポチョムキン事件に遡る。更
にその前に江戸創期の松前藩時代に遡るのである。つまり北周り船が就航していた頃は
ロシア皇帝或いはアイヌ人も全く領土と言う意識は無かったのである。ところが北海道
に松前藩が出来た事で アイヌと交易をしていたツングース族は江戸幕府の許可が必要
になった上に 徳川幕府は大型船を持つ外国船を危険視して大型船建造の禁止と外国船
打ち払い令を出した。当然大木に恵まれて船を作り北方の民と交易していた者は食いつ
なぎにアイヌの民家を襲った。この討伐の為に地図を作る事が肝要として間宮林蔵に日
本地図の作成を命じた。その頃拿捕されたのがゴローニンである。ゴローニンは松前藩
の牢に長らく幽閉された。この報復として(1812年)嘉兵衛は国後島で副艦長のリコル
ドにより捕えられカムチャツカ半島ペトロパブロフスク・カムチャツキーへ連行される
。この嘉兵衛は、翌年帰国。帰国後の嘉兵衛は松前奉行を説き伏せ、ロシア側に侵略の
意図が無いことを納得させ、人質解放に尽力したがこの時嘉兵衛と一緒の水夫は幾人か
死んでいる。又高田屋を弟の金兵衛が継いだが この人質解放に疑問視していた幕府は
密貿易の疑いをかけ、全財産を没収し高田屋は没落したのである。斬り付けたこの津田
三蔵も又この混乱期のあおりを受けて親族を無くした身内であると伝えられる。



508: 名無しさんAA:12/09/09 07:56
新 国際町民 107

 そうしてベルサユ条約で日本が発した言葉は 欧米列強には耳を疑う言葉だった。基
本的には欧州の国境決めではあったが 太平洋並びに大陸の権益にロシアの介入阻止を
求めていた日本は強く 欧米列強の植民地政策の放棄を求めていた。つまり唯一の戦勝
国側の有色人種として 朝鮮独立を求めていた。があくまで属国と思っていた中華民国
はそれに調印しなかった。がドイツ問題を抱えていた以上締結は決定された。その内容
はドイツはヨーロッパや条約締結国における、又自国領域外にある権益・特権の一切を
放棄する。ただし膠州湾租借地と、それに関連する特権は日本に譲渡する(山東問題)
。また従来の植民地はすべて放棄する。というものだった。この宣言で第一次世界大戦
は終結し、ヨーロッパの君主制は消滅した。旧世界の秩序が決定的に破壊に至った。そ
れは同時にドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ロシア帝国の
4つの帝国の分離消滅であり。ホーエンツォレルン家、ハプスブルク家、オスマン家、
そしてロマノフ家の4つの王家の権力が、この戦中あるいは戦後に没落した事を意味し
た。この時の欧米列強の植民地奴隷化政策の放棄を叫んだ事はそのままアメリカ国民の
黒人奴隷による産業維持を全く否定するものだった為に 米国にこの時から反日思想を
持たせた。それはルーズベルトの対日経済制裁と戦争おびき出し作戦の思想に通じてい
て戦後に朝鮮人開放を謳った宣言に示される。GHQはかつての日本領土だったところ
は至る所にその日本人の奴隷化政策を探した。だが太平洋諸島では尊敬されボルネオ島
では感謝されフィリピンでは反米がありベトナム・タイ・シンガポールに至っては全く
白人がアジア人を奴隷化した政策が色濃く出てきたのである。そして日本では各所で暴
れだした韓人によってGHQは朝鮮人取締りに出ざるを得なくなったのが実情だった。


509: 名無しさんAA:12/09/09 13:45
新 国際町民 108

 こうした日本に起こったイスラエル建国みたいな アメリカの2枚舌外交は英国の庇
護の下建国を果たしたアメリカ人の持つ一つの国内アピールから発している。戦前日本
のスローガン鬼畜米英に対してアメリカではならず者日帝だったのだ。つまり西部劇さ
ながらに日本は韓国・中国を奴隷化しているというのが国内主張に使っていたのである
。だがその証拠集めに奔走していた進駐軍も 出てきたことは自軍の婦女暴行や酒乱事
件更には同じ同士として靖国神社に朝鮮人も中国人も神として祀られて敬礼敬拝されて
いる実態だった。又全く食料すら無い中の日本人のその礼儀正しさしか無かった事だ。
その後多忙の中資料を散々読み漁って発した言葉が「日本の戦争はそのほとんどが安全
保障上の必要に迫まれた戦争であった。」と上院議会で発言し 東京裁判ではパロ判事
が「この裁判は最初から日本が侵略戦争をしたと言う前提に基づいて審議を行って人心
を支配しようとした行為は歴史の改竄である。」と批判しその後の回想録ではキーナン
判事や裁判長も「この裁判は全く間違いであった。」と言わしめた。そしてビルマにて
は「50年前ビルマは三回もの対英戦争においてその独立を失った。英国の略奪的野望
を以ってこれらの戦争があったのはその後の支配で明らかだがここにビルマ人はアジア
を結合し救う指導者として大日本帝国を発見しこれに待望し独立を果たした。ビルマに
対して最大の貢献をした日本に永久に感謝の記録を保持せんことを願う。」としている
そして「日本人に戦争責任を問う者がいるならば その以前に起きていた 西欧列強の
非人間的な支配と略奪と搾取を続けた宗主国の責任はどうなるのか。我々アジア人達は
日本が来た事で その多くの植民地支配の文化と猿とされた人権のない社会から解放さ
れ 近代化した歴史を知っている。」としている。今でこそ華僑と呼ばれる人達の世界
は認められた社会で成功を築いているが 実は戦前においては便を垂れていようと裸で
いようと白人にとっては 黄色い褐色の小人は別世界の生物としていたのであってその
使用人として、世界の奴隷の仲間入りにアヘン戦争の頃から欧米社会にあったのが始ま
りである。



510: 名無しさんAA:12/09/09 15:47
新 国際町民 109

 そもそも 中国人や韓国人の大きな間違いは 西洋東洋問わずして戦争の禍中にあっ
た当事者として争いのない社会を探そうとしている中に 全く当事者じゃないとして、
加害者でないとしているところにある。ある時は敗戦国として被害者と言い又ある時は
戦勝国として賠償のごとく領土主張を行う。こんな事が許されるはずはない。そして日
本は全く毅然とした態度を取っていない。実は南方戦線にもあるいは ビルマ戦線にも
少数だが中国人も韓国人も日本国籍の人間としていたのである。更に戦後の朝鮮戦争や
越境によるベトナム戦争やビルマ戦争には中国人や韓国人兵士の行った殺戮は日本兵の
行った事などはるかに及ばない 道徳において許されない不当で残虐な行為であった。
が国内では批判されていない。もともと2国とも国内の粛清では何万人が殺されている。
【済州島四・三事件】
1948年4月3日に在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁支配下にある南朝鮮(現在の大韓民国
)の済州島で起こった島民の蜂起にともない、南朝鮮国防警備隊、韓国軍、韓国警察、
朝鮮半島本土の右翼青年団などが 1954年9月21日までの期間に引き起こした一連の島民
虐殺事件を指す。韓国政府側は事件に南朝鮮労働党が関与しているとして、政府軍・警
察による粛清をおこない、島民の5人に1人にあたる6万人が虐殺された。また済州島
の村々では70%が焼き尽くされた。一説では親日家が多くロシアの指導があったと言う。
【保導連盟事件】
1950年6月25日の朝鮮戦争勃発を受けて、李承晩大統領の命令によって 韓国軍や韓国警
察が共産主義からの転向者やその家族を再教育するための統制組織「国民保導連盟」の
加盟者や収監中の政治犯や民間人など、少なくとも20万人あまりを大量虐殺した事件。
「朝鮮戦争前後民間人虐殺真相糾明と名誉回復のための汎国民委員会」の研究では60
万人から120万人が虐殺されたと言われ 通称赤狩りの名の下に自由主義資本家を根
絶やしにする作戦だったらしい。

511: 名無しさんAA:12/09/09 15:48
【国民防衛軍事件】
朝鮮戦争中の1951年1月に、韓国の国民防衛軍司令部の幹部らが、国民防衛軍に供給さ
れた軍事物資や兵糧米などを横領した事件。この横領により9万名余りの韓国軍兵士が
餓死したとされる。この事で韓国陸軍本部では李承晩への反感が高まった。李承晩はこ
の韓国民の不満をそらすために1952年1月18日にアメリカ等の国際的な反対を押し切
り、国民を外国に目をそらすよう李承晩ラインを一方的に宣言した、この時から竹島の
不法占拠を開始した。だがそれは 本来の竹島であるウルルン島や済州島などを自国の
領土でないと米国から指摘された事だとも言われている。こうした事や時の朝鮮戦争で
大勢の人達が日本へと避難してきては住み着いたのである。これが在日という不法集団
の始まりである。山口組田岡組長は戦後の敗戦時に 戦勝国国民として無法の限りを尽
くし 順番を守らない朝鮮人を注意した列車の車掌が叩き殺されたり 食堂を不法占拠
しては娘を犯した事に警察が取り調べしようとした警官がなぶり殺しにあったりしてい
た事を見て、同じ日本人で警察を助けよう。と呼びかけ義憤で立ち上がり任侠道に走っ
ていったとされる。今でも昔であっても警官は国家権力の前に無力であったのである。
こうした経緯の中で 本来の敗戦被害者としての在日は一人も居なくなって 後から増
え続けた不法移民の群れが その特権をそのまま受け継いで今の在日コリアンなる根無
し住民になっているのである。韓国側は国民を兵役を徴兵して特別な免除でないかぎり
その兵役訓練に一年間従事しない限り国民とは認めてはいない。対して日本は税金免除
を受けた住民登録によって国民としている。したがって2重国籍の上税金を払わず保護
や補助金を受けるこうした者が後を絶たず 日本に深くねじれた文化を作り出している



512: 名無しさんAA:12/09/09 19:20
新 国際町民 110

福沢諭吉一門『脱亜論』(時事新報、明治18年(1885年)3月16日)

 近代文明や国際法の重要性を知りながら,それでも中華思想、小中華思想に耽溺して
日本や欧米を「禽獣」と見下し、その傲慢な人種差別思想を正当化するために捏造歴史
に血道を 上げるのが支那と韓国である。 教育といえば儒教を言いながら、しかもそれ
は表面だけの知識であって、現実面では科学的真理を軽んじる態度ばかりか道徳的な退
廃をももたらしている。たとえば、国際的な紛争の場面でも「悪いのはお前の方だ」と
開き直って恥じることもない。この東亜細亜を例えれば、一つの村の村人殆どが無法で
残忍で狂っておれば、例え一人がまともでそれを咎(とが)めても、村の外からはどちら
も同じに見えると言うことだ。実際に亜細亜外交を評する場面では、このような見方も
散見され、日本の一大不幸だと言わざるを得ない。もはや、この二国が国際的な常識を
身につけることを期待してはならない。「東アジア共同体」の一員として、その繁栄に
与(あずか)ってくれるなどという幻想は捨てるべきである。日本は、むしろ大陸や半島
との特別関係を絶ち、先進国と同じように進まなければならない。ただ隣国だからとい
う理由だけで特別な感情を持って接してはならないのだ。この二国に対しては、国際的
な常識に従って国際法に則(のっと)って接すればよい。悪友の悪事を見逃し関係を保つ
者は、共に悪名を逃れ得ない。私は心において「東アジア」の悪友と謝絶するものであ
る。
 はるか明治の時代に福沢諭吉がこう言ったと2チャンネルは報じている。アラビア石
油の創業者も似たような事を言っていた。商売するに交易相手国の人種的誠実さ大事で
あり信頼を醸成し商売を成就していくには崇高な思想が背景になければ成功しない。と


513: 名無しさんAA:12/09/09 19:21
新 国際町民 112

 米国はそろそろ過去に行った第二次世界大戦の過ちを正す行動をしなければならない
。それは南砂洲諸島のベトナム帰属と東砂洲のフィリピン帰属である。更にうるうん島
と竹島および北方四島竹島の日本帰属である。それが行わければ 多分に中華難民とイ
スラム過激派の結託が より大きな試練を米国にもたらすだろう。それは今までのテロ
の比ではない痛手となるであろう事は必然だ。日本がインド洋上給油を止めた事で大き
く出た中国艦隊は第二防衛線を引いた。これは中国国内の強硬派を納得させ軍部を喜ば
せたのは他でもない。だが今回のアジア太平洋経済協力会議(APEC)の席上で中国
の胡錦濤国家主席は8日、最高経営責任者(CEO)サミットで講演したが。講演内容
は、欧州債務危機を契機とした世界的な景気減速により「中国経済は著しい下振れ圧力
にさらされている」と指摘したとされている。そして景気の持続的な回復を実現するた
めに「インフラ投資を一段と強化する必要がある」と強調した。と言う。だが今でさえ
リーマンショックでの投資が国内の貧富の格差と貧困や離職者増加を産んでいる事を考
えれば 更に貧困者増大と暴動的混乱が溢れる事が予想される。多分に洩れず中国の今
の状況は国の失策により 日本の高度成長期から成長維持期に移ってデフレ圧力のもと
となった事と同じであろうと思われる。中国的特長は日本と違って共産主義の中の汚職
と言ういわゆる便宜供与と土地所有に自分のものとならない事での経済活動が強いられ
 先に富める者は富めそして後を援助すればいい。と指導者が言ったらしいが国民常識
には、今が良ければ良く羨望の目がより多く集まる事は素直に危険が漂う。つまり腐敗
経済下ではいつ何時拘束され身分剥奪と財産没収の上殺されるか判らないとする国には
生活しては居られないのである。したがって貯金を国際銀行に預け 自らは下見で海外
旅行し 定住地を見つけたら移民権を得て家族を呼び寄せるのが習慣になっている。こ
の事で疲弊するのは国内である。ある日突然経営者は金を持って国外逃亡した形であり
一般的労働者や投資者や賄賂で潤う取り締まり共産党員などが急激に貧民に変り得るの
だ。一方政府は国家予算を使って下支えするものの そうした企業の贋物まがい物は全
て粗悪品で橋の落下を始め色々な障害に見舞われていて 日本のオイルショックとは大
きく違っている。


514: 名無しさんAA:12/09/13 21:53
新 国際町民 114

 見え隠れする中国苦悩の中でこの習近平氏のこれからの態度が以外にもロシア経由で
洩れ出ている。すなわち一説には20万通にも及ぶ外交文書や情報がアムニマスがハッキ
ングしていた。としてアサンジ氏を逮捕していたが このアサンジ氏が逮捕拘留さらに
謹慎させている間に 中国やら韓国の内情がにわかに険しくなった。軍部では予算獲得
競争が火花を散らし 国内は手抜きのインフラに対してメンテナンスが押し寄せて来て
その上水害に公害である。鬱憤の溜まった民衆は反日やらデモに勤しむ中で薄煕来事件
はその一派の頑なな凶悪事件に発展しかねないようだ。一方ニューヨークタイムズなど
、ウィキリークスの機密文書なしでは成り立たないのではと思えるほど、ウィキリーク
スの機密情報に頼る記事が次々と現れているらしい。ところがちょっと変った事が起き
ている。北朝鮮がにわかに今のシリアなどを反面教師にしてか 遊園地建設に向かった
。つまり国民の娯楽は大切だ。と言う事だ。一般的に食料が足りないと思われている中
で どうも国交往来を増やす予定ではないかと推測する。つまり今や人民と軍では人数
が変らないかもしれない程脱北者や死者が多くて この国に生きている人は暮らしの中
では住む所さえあれば そうした他国に言った親戚身内からの援助で喰って行けるとも
思ったのかもしれない。偽札が流通する中では 多分中国で何でも買えると勘違いして
いるかもしれない。となれば後は軍人達の平和教育である。つまりは冷たい訓練訓示を
行うよりは 人並みの楽しみで家族や情けを教えたが良い。と考えたのかもしれない。
この事は韓国や中国を驚かせているかもしれない。が 日本との交流には拉致問題の解
決しかなく この解決には人道主義の合意を軍に判らせることしか方法が無いと言うの
もうなずける。つまり同じ土俵の考え方を持たないと交渉にならないし 無理な交渉を
して軍部がとち狂ってもいけないのだから この遊園地事業で観光客が中国から韓国か
ら或いは他の国からでも来ればそれはそれで外貨獲得のチャンスでもあるし国民教育の
場にもなる。とも考えられる。



515: 名無しさんAA:12/09/13 22:31
新 国際町民 115

 今日本国内では 各党の総裁選が華々しくあっているが 恐らく民主党は野田氏とな
り自民党は安陪氏となるであろう。そして相変わらず国会は全く議論は進まないだろう
が、国家防衛の論破者石破氏と革命的異端児維新の党橋下氏が今後国民にどう受け入れ
られるかは ちょっと心配な所である。がこの予想が当たっていたなら北朝鮮に逸早く
安陪氏には訪朝してもらい この拉致問題解決の糸口を見つけてもらいたいのである。
日本側の条件はたった一つでいいと思う 日本政府の朝鮮国内の自由捜査と双方大使館
の設立でいいと思う。でお土産にダチョウを5匹ほど持っていったらどうだろうか。と
思う。日本側の料理人として藤本氏をこっそり連れて行ったら意外とすんなりと話しが
通るのではないだろうか。勿論一回の訪朝で合意などは取り付けられないであろうが、
この交流は東アジア全体の平和には大事な事である。つまり今韓国と北朝鮮が向かい合
って居る事はまったく冷戦状態そのままであり 軟化した状態を少し作る必要がある。
更には中国の動向が頑なに共産主義を掲げている事も 大きな心配である。もう少し国
際的理解の出来る国にしなければ 中国の暴走がいつ起こるか判らない状態にある。つ
まり今イスラム圏での暴動の飛び火がいつ襲うか判らない状態は危険性が高いのだ。国
際社会は今やシリアの内乱を食い止められない状態にある。国連の潘基文国連事務総長
は今や無力に徹している。シリアどころか竹島や尖閣の日本の正当性を母国に説いて回
るべきなのだが 全く動こうと言う意志がない。更にロシアや中国にシリアのこの内乱
状態が今や度を越して危ない状態だと説かねばロシアや中国の賛意は得られないであろ
う。更に又映画問題でアラブ世界で反米感情が高まりつつある事は 大きな心配事であ
る。又ロシアの極東領域での人口減少は歯止めが利かないだろうが それでも北方4島
が日本に帰属する気配がない。このままでは日本人の国連などへの拠出金は止まる畏れ
がある。それほど日本は貧乏になったのだ。今度増税が始まれば恐らくそうした声が出
るそうなれば国連の活動資金は底を突く可能性すらあると思われる。韓国や中国が果た
して見合う金を出せば問題は起こらないだろうが そう言う気配はない。





516: 名無しさんAA:12/09/14 19:34
新 国際町民 116

 世界が又動くようだ。リビアで米国大使館が襲われ大使館員が殺害された。これはま
るでスーダンでの忌まわしいラジオ放送を聞いて起こったツチ族とフツ族の内乱と同じ
である。イスラム教の聖人ムハンマドを 人間ムハンマドとして捉えた意欲的な作品で
イスラムの世界を他の宗徒まで知ってもらおうとした作品だったと言う。だがイスラム
での偶像崇拝を禁じている中で反響以前にイスラム原理主義者の目に止まり猛反発を招
いた上でいつの間にか そのストーリーもシチュエーションもナレーションも書き換え
られて、全イスラムが反発するような展開でダイジェスト版が画像ネットに搬出された
と言う。日本人にとっては 今は生きても居ない人間に対しての パロディ化もしては
いない作品であり、そう怒って大使館員を殺害する事も無い事だろうにと思うが それ
は我々日本人が寛容な民族だからであろう。考えれば戦前では現人神として祭り上げら
れた天皇は今も国家の元首として国民の象徴とされ崇められる存在である。にも関わら
ず隣国の大統領は言うに事欠いて「くびきをして膝を枉げ 許してくれと言うのであれ
ばこの国に来ても良い。」と言ったのだ。これは間違いなく国家犯罪的発言なのだ。先
のリビアの事件が 文盲のなせる技で無知無埋の野蛮なこの人の群れをよくぞカダフィ
大佐は束ねていたものだ。と感心もするが 今や韓国はそれ以下なのだろう。何故なら
清国の属国としての身分の中で独立国に変えるに戦い 更にロシアからの殖民地政策に
同胞の国民をして幾多の人柱として命をかけて守ってやり 今を作る元のインフラ整備
まで国家予算をつぎ込んで整備した。と言うのに その隣国に対しての発言なのだ。そ
してそれは今の竹島問題も又 そうした義に対する仁も礼も無い民族の始末故なのだ。
我々が日本の地にいる感謝とともに 韓国人は日本人以上にその安泰に感謝すべきで、
ああした 韓国人朝鮮人がこの世から居なくなって差しつかえ無いごとき発言は慎むべ
きである。がこの文盲を利用した者は恐らくは戦争を欲している輩で、嫌われ者の死の
商人か軍部か或いは 今ならアラブを叩けると思ったイスラエルか 敵対するオバマの
対抗陣営か 或いはニュースを持って雲隠れしたい国々であるシリアや中国や韓国なの
かは不明だが これをもってオバマ米大統領が窮地に追い込まれるのは必死であろう。


517: 名無しさんAA:12/09/16 09:46
新 国際町民 117

 これは大きな事件だ。 中国の李保東国連大使が潘基文事務総長に沖縄県・尖閣諸島
(中国名・釣魚島)を中国領と主張、領海関連の海図などを渡したことについて、国連
報道官は14日「事務総長の役割は偏向をできるだけ避け、受け取った情報を取り扱う
ことに限定されている」と指摘、尖閣問題について潘氏が特定の立場を取っていないこ
とを強調した。と言う。こんな平和を軽んじた国連対応は見たことがない。かつてのア
ナン事務総長やその前の事務総長なら一喝していたであろうし 受け取り拒否において
世界平和をアピールしたであろう。事実中国国内的にも1985年まで国内のあらゆる
書物には 尖閣諸島が日本の領土である事を明記していたし 教科書すらそうであった
。党機関紙も台湾との摩擦を論調にしたものは明快に日本領土として意見している事実
がある。がこうしたいい加減な政策は 更に中国国民を苦しめる。今の中国の問題は、
中国人自身がこの国の未来を信じていない。そうした中国人が殆どということである。
 かつては日本において、経済成長に伴う賃金の上昇やオイルショック或いはドルショ
ックで為替レートが円高に振れた時は、徹底した企業努力でその競争力を維持してきた
。しかし汚職高官のみならず中国の場合はある程度財を積み上げれば見切りをつけてそ
の金を持ってを国外へ逃げる事は 中国人の常識なのだ。今後に大規模な財政出動をし
て経済発展を促そうとすれば、幾ら刷るだけの人民元でも予算はいくらあっても足りな
い。国際収支では元の帳簿が合わなくなろうし、一人っ子社会の中での高齢化にも大き
な問題を与え、個人消費の刺激には低賃金労働者の消費が不可欠だからだ。年金や医療
保障制度欠かせない問題でこの原資が今や中国で使われない状態なのに、更に悪化しよ
う。この潘基文事務総長の こうした平和を軽く見た姿勢は 未だシリアが内乱の中に
ある決定的理由でもある。すなわち国民の命や生活を尊く思う姿勢がその支配者に必要
である。と言う訴えがない事で 今の韓国大統領の竹島訪問と同じく どの民族が何処
でどう暮らそうが境界線が何処にあろうが構いなしと言う事が戦争を導いている事を全
く無視していて その事で境界線住民が常に危険と脅威にさらされる事は全く理解して
いない行為である。




518: 名無しさんAA:12/09/16 15:52
物まね中国の危険性 90


オーストラリア防衛アカデミーのキャリル・A・セアー博士は「中国は自分の手で中国
脅威論を復活させつつある。」と言いその事で自国人民の首を絞めていると思っている
 チベットから台湾、南シナ海まで、あらゆる国境地帯で主権を主張することは中国の
ナショナリストにとってすべての問題に優先する最重要課題だった。しかしそのせいで
、周辺の国々は中国の台頭が恩恵をもたらすものなのか、それとも不協和音の原因なの
か見極めがつかずにいる。
 今回の中国デモや尖閣問題はこの傾向を強めるだけだ。これは皮肉なことだが、特に
その戦略が正しいわけではないのに、正しいと勘違いしている。アメリカにはこの段階
で2つの大きな利点を得ている。1つは近隣諸国が中国との間に距離を置くようになる
こと。もう1つはアメリカ政府のやることや言うことは中国に比べればずっと害がない
ことだ。中国政府は自国の成長力が大きいゆえ、台頭に伴って起きる摩擦を自国で処理
できる、と単純と妄想を抱いているのかもしれない。しかし現在の中国はアメリカに対
する自国の国力を過大評価する一方で、ほかのアジア・太平洋地域の国々やインドなど
をアメリカに接近させかねない自らの影響力を過小評価している。
 もっと言えば、中国は違った思想と自国経済のアジア・太平洋地域経済などの今後に
及ぼす影響力が、共産党政治を強くする。国民をも変えることができる。などとと誤解
している。しかしそれは全くの誤解で反日教育を続ければ続けるほど、中国国内は今も
起きているが かなりやっかいな国内対立・国内矛盾に直面することになる。すなわち
搾取と放出に関する輸出入の調和である。工場の公害も人民の人件費も生産する農作物
などの食料調達にも その数値の正しさを検討する参考を持たないのである。それらは
統計学以前の問題として この強権主義の大中華中心思想が相容れないからである。



519: 名無しさんAA:12/09/16 22:01
物まね中国の危険性 91

 世界はまたもや 悠久の時の中で虚ろいだ時間をまどろみ人を困惑させ恐怖の踊りを
踊らせるようだ。この中国国民が韓国系中国人に唆されているのは紛れも無い事実だが
独島問題と尖閣問題は大いに違う問題だが 最初の旗には独島の韓国ものだという旗も
あった。がそれはともかくとして 中国社会がもはや現代文明である消費社会からの後
戻りも困難であろう。人間は偉いとした間違えた高慢ちき路線を敷いた国は全てに困難
が待ち受ける。便利さに飢えた人々は米国を筆頭に先進国も後進国もなく、自然の脅威
からも、この人の欲望からも逃れられない。シリアも又同じでアサドは自分が偉いと死
んでたまるか、と勘違いして強行姿勢のままであろう。それは今の中国政府と同じで今
暴動を抑え込み 日本は大事な隣国だと言わないかぎり 反日デモはエスカレートする
。さらにそれは中国政府へとやがては矛先は行く。そうなれば シリアと同じに人民に
銃口を向けた展開が予想される。過去の天安門事件と同じであろう。日本のように特殊
な尊厳の観念を持ち合わせない至って普通の国は その後の展開は見えている。更にそ
の結果が平和理に終わったとしても韓国と北朝鮮のような軋轢が産まれ 韓国流の卑屈
な論理でごり押し勢力が生き延びる結果を産む。そうして今のように戦勝国側だが原爆
の責任など負わない。日本の敗戦に一緒の国ではないが従軍慰安婦がいた。などと矛盾
を言うのである。もし日本が植民地化した奴隷政策を行っていたなら柳条湖事件などは
起こらなかったろうし 満州国など建設せずとも良かったろう。極端に言えば中国朝鮮
を自国のものとすれば 同じ植民地を持つ仲間の国として欧米からの仲間はずれも無か
ったであろう。この優しさゆえに世界大戦に巻き込まれ敗戦し今の日本の苦労がある事
やその優しさ故に 今の人類の発展に寄与する先進国としての日本がある事を 中国も
韓国も隣国として良く知るべきだし もう少し学ぶべきである。この東アジアの平和が
この極東の安心が 自らの国に大きく貢献している事実を知って欲しいのである。



520: 名無しさんAA:12/09/17 03:31
物まね中国の危険性 92

「この十年以内に核攻撃で日本などを消滅させ、中国が世界人口の中で大きな比率を占
め、人類の進化の過程で有利な位置を占めるようにする」 この驚嘆すべき発言は、
中国国防大学院長の朱成虎少将のもの。国防大学防務学部の内部会議での講話を、中国
事情に詳しい記者が入手していた。
約九千字からなる朱成虎の言い分は「人口増加により資源が欠乏し戦争が勃発した後、
一部の人口が消耗して均衡が保つ」と。その人類の歴史の発展の中で「中国は後手に回
って討たれるよりは、主導的に討つて出る方がいい。核戦争は人口問題解決に最も有効
だ。中国は全力で核戦争を行う準備を整えるべきと決めつけ、「大切なのは、我が中国
がこの競争において機先を制し、他国・他民族の人口をできるだけ減少させるやう努め
るとともに、自国の人間が数多く生き延びるようにする」と述べた。
「愚かな計画出産政策を放棄して、できるだけ多くの子供を産み、計画的に周辺諸国に
浸透させる。周辺諸国への密入国を人民に奨励する」と中国人の人口膨張を推進する。
さらに、攻撃対象として日本などの.国々を挙げている。その方法として、「機が熟し
たら、果敢に猛烈な勢いで、全面的な核攻撃を発動し、相手が反撃に出る前に、その人
口の大部分を消滅させるよう努める」と言い、最後に、「中華民族が手に入れるのは
世界全体である」と締括る。
 こうした 中国軍部の考え方は 大きく流布され講演も公開され さらには一人っ子
政策に不満を持つ中国人に かなり賛同を得ていて これは中国の本流の考えとなって
いる。 これが尖閣問題の本質であり中華中心主義の本音であり東シナ海の悪意である
。そして今までの中国外交はすべてにこの精神に基づいて行動し 結果の可否判断の成
果も民衆心理も全てに及んでいる。世界平和を希求する日本と相容れないこの考えには
国際社会は全く無対応どころか 韓国の様にそれをあおりながら自国の領土拡大を目指
す国もある。自国の民衆を嘘の歴史主観で洗脳し 戦争をけしかけ自国内の民衆の過酷
な生活の現実を見させない考えさせない。とし改善改良しない。それが許されるはずも
ない。




521: 名無しさんAA:12/09/17 11:01 ID:TwM
新 国際町民 117


 中国のおバカな漁民は 今度は尖閣近くの魚を根絶やしにしようといきごんでいる。
中国の海洋調査船などと言うものは 全く海洋保全を判らずに 頻繁に無駄な油を使い
日本近くまで来て 黄海で行っていたようにゴミの海洋放棄を是認する。すなわち漁民
が怖くて手をつけられないのだ。金を持ち上司を取り巻きにしてる漁民に盾つかない。
今度の日本の尖閣諸島国有化への対抗措置として、中国の大漁船団が17日にも尖閣海域
に向けて出港する見通し も全く中国政府の指導であり 漁民の憂さ晴らしを認めるか
どうかだけで決定するだろう。すなわち外交問題ではなくあの竹島と同じ内政問題なの
だ。浙江省の港では、16日正午に出漁式典が開かれました。この港には3000隻もの漁船
が 所属していて、尖閣海域に漁に出る一大拠点となっている。 中国の漁師は「政治は
国のことです。我々は漁師だから当然、魚を取りに行く」「日本の船は怖くない。我々
は彼らとけんかするまでだ」と嘘を言う。事実この船の撮った魚は 今では5割ほどの
国内需要があるもののつい20年前までは8割方が日本向けの魚であった。彼らの習慣
に胡椒はあっても醤油がなかったからだが 今や刺身を堂々と食べる中国人も増えた。
ところが幼魚や稚魚のふるさと言われる黄海は 魚もいないが居ても重金属のヘドロの
餌でいまや奇病が後を絶たない。そうした中成魚や大漁を求めるなら尖閣海域に行くの
が一番だというのだ。又国もガス田問題で故中川氏が指摘したように国際的資源価値が
認められて領域を増やす事には余念がない。この歴史資料館と言う嘘博物館の撤回を求
めODAの打ち切りまで示すべきとした時執拗に反対したのが公明党であり人道的賛同
としたのが社会党なのだ。この事で当時幼児だった青年が今このデモと言う名の暴動に
はしゃぎ回っているのである。だがこの御馬鹿な漁民は自分達が魚を根絶やしにしては
食料を減らしている事を何とも思ってない。つまり少ない程高価で効率のいい職業に変
るからだ。おかげて300隻が今や3000隻なのだ。だが中国国内はそのインフレで
人民は更に暴れくる時代を切望するのである。



522: 名無しさんAA:12/09/17 15:08
新 国際町民 118

 これは完全に中国政府が狂ってしまったとしか言いようがない。かの周恩来すらも生
きていた頃に残留孤児支援での連絡部局の中国人は「中国では今だモノクロのTVすら
未だ行き渡らない生活をしている。」と嘆いた。その声は副首相に返り咲いたケ小平と
既に相談役に退いた松下幸之助会長まで届いた。大阪府茨木市のテレビ工場を訪れた際
には、出迎えた松下幸之助氏(当時相談役)に「中国の近代化を手伝ってくれませんか
」と堂々と頼んだのが発端だ。すぐさま幸之助氏は「できる限りのお手伝いをします」
答え、その態度が双方に紳士的で威風堂々としていた事を思い出す。翌54年には北京
に駐在員事務所を開設し62年にはブラウン管製造の合弁会社を北京に設立、日本企業
の数入る経営者が未だ引っ込み、進出すべきか遠ざけたままでおくか思案の中で、戦後
初めて中国に工場進出した。その後も次々と合弁会社の設立を進めた。他の者は結構に
反対論者が多い中の決断だった。更に後に追従する会社の為にも失敗は許されないとい
う大きなプレッシャーがかかりながらの運営だった。これ以降やっと日本企業の進出が
出て 欧米からの投資が始まったとされる。つまり今の北朝鮮状態であったのだ。それ
から30年後の平成20年はその事を忘れていた日本人に 来日した胡錦濤国家主席が
ちゃんと大阪府門真市の松下の本社を訪れた。そのとき、胡主席は予定にない行動に出
た。出迎えた松下正治氏(当時名誉会長)に歩み寄ると「中国の発展に尽くしていだた
き、ありがとうございます」と感謝の言葉を述べたのだ。その時の 胡氏の振る舞いは
まさしくあのケ小平や周恩来が言った「我々中国人は井戸を掘った人を忘れない。」と
する言葉を地で行く姿だった。今時代なりふり構わずデモに明け暮れる中国の若者は、
自らが従業員として働く歴史すら学ばないらしい。日本人であれば 例え同郷の友人で
あろうが 大切にすべき生活の糧ともなるものなら命に変えてでも守る気持ちがあった
ろうが 残念な事だ。これもまた江沢民の力なのか。




523: 名無しさんAA:12/09/18 16:23
新 国際町民 119

 こうまでして執拗に自国の生産ラインを壊すのには訳がある。と新唐人TVは言う。
今中国は壁の中にあり 民衆が共産党を利用し共産党を悪者にしようとしている。とい
う。すなわちまともな経営者は海外に出て 国内では賄賂と規制と権力で国民の未来が
見えない。建設し豊かになれば 手抜きや事故や事件で人の生存の危険が溢れだした。
というのだ。そしてこうなる事は解っていた。というのである。「ケ小平が先々までの
見通しを立てた」と讃え、これらの為の戦略を持って「もしも、我が中国人民達が歴史
の舞台から退場するくらいの戦争が起こるのなら、中国共産党の運命が消えて平和理の
拡大を選んだほうがまだマシだ」と言ったとしている。すなわち核戦争を起こすのは、
海外の圧力よりも国内の圧力によって起こるだろうと示唆して死んでいったとされる。
そしてその遺言的政策は 全く今の中国を自由化社会に組み入れる方策であったとされ
る。もっと後になると思われていたが、薄熙来の更迭や盲人弁護士・陳光誠さんの脱出
事件は、今や中国共産党に未曾有の危機である事を示した。北京の消息筋からの情報と
して、共産党指導部が四つの重要事項について合意し、第18回党大会で公表する予定だ
と報道した。この合意した四つの重要事項とは、新憲法制定委員会を立ち上げて自由が
保障される社会を目指す。とした事だ。そして第二に執政党としての中国共産党の役割
の終了宣言である。すなわち一党独裁の体制から行政府を乖離させて他の党を認めた州
の自治を新たに決めると言う作業である。言うなれば敗戦時の玉音放送である。そして
3つ目が人権尊重宣言である。天安門事件、中国の民主化のために尽力した団体や、冤
罪による死亡者、高速鉄道の事故者。受難者の名誉回復および国による賠償金の支払い
。などの大きく犯罪に関与している者を裁き 不埒を許さない姿勢で望むとする事だ。
更に4つ目が軍の国家化を実現する。今ある各自治ごとの武装兵や革命軍を解除する。
と言う事だった。だがこれに大きな3つが立ちはだかった。一つは江沢民派の執拗な反
対である。2つ目が予想を越えた北京の洪水である。更に尖閣問題と言う日本の茶々で
ある。中国首脳は こんなにも他国を偵察もしない馬鹿国家があろうか。と歯軋りして
日本を恨む。



524: 名無しさんAA:12/09/18 17:02
新 国際町民 119

 今度の中国のデモで軒並み日本の円が叩き売られるだろう。セブン&アイ・ホールデ
ィングスは、北京と四川省成都にあるイトーヨーカドー15店舗、セブン―イレブン
198店舗の休業を決定。 ユニクロなどを展開する衣料大手「ファーストリテイリン
グ」も、中国にいる邦人社員約200人を自宅待機とした。北京と四川省成都などの
39店舗で終日休業した。 トヨタ自動車は18日、中国国内の一部工場で操業を停止
。反日デモで、15日に山東省青島の販売店が放火される被害が出たため、従業員の安
全に配慮した。 日産自動車も17〜18日、広東省と河南省の工場で操業を休止して
いる。三菱自動車は湖南省の工場で18日、操業休止したほか、邦人従業員を自宅待機
とした。 ホンダは「納車が望まれる環境にない」(広報部)として、生産調整のため
、広州などにある乗用車の組み立て工場5か所の操業を18日から2日間、停止する。
 こうした デモの負の遺産は 国民の熱狂がいかに危険なものか 或いは朝鮮人など
の通洲事件で煽って起こった残虐非道な行為が 何時でもどこでも簡単に起きる事を
示している。が同時にこうの工場や販売店がこれらの立地で出来るまでおよそ25年の
時の経過と粘り強い日本と中国の親愛なる交友がやっと築いた実績でもあった訳だが、
アウディの社員は「中国人が草場の下に眠ろうとも日本人は根絶しせよ。自身の国を滅
ぼしても魚釣島を取り戻どせ。」との常識な横断幕を貼った。この販売キャンペーンに
日本人は驚嘆するかもしれない。「文字通り、大量虐殺を提唱している」といいながら
彼らはホンダやトヨタの 暴動デモの中にたったのだから。つまり同じ中国人という事
よりは商売仇としてデモに望み興奮して 自らの横断幕のその非常識さが見えないほど
の中にいたのである。もともとアウディや欧米車そのものが 売るだけの日本のような
研修し教育して販売する中にない。その上欧州危機で売れない中にいた。日本車叩きは
彼らの欲する中にあったのだ。



525: 名無しさんAA:12/09/19 04:46 ID:sMM
物まね中国の危険性 94

 いま 尖閣問題で注視しているのは 中国や日本国民だけではない。アメリカもまた
非常に注視しているし とりわけ南沙諸島の島々を奪われた国々は その正義のあり方
を日本に求めている。つまり漁船や公船の一つとも戦わずして 島が取られる事があれ
ば 今度は日米の鳩山崩壊と日ソの菅崩壊更に日中関係の野田崩壊から 次に東アジア
で更に日本離れが躇著となろう。大体鳩山などというバカ首相を産んだ民主党をおだて
た日本国民が一番悪いのだが それを産んだのは自民党の腐敗政治である。その自民党
も今やこの中国の蛮行に対して一番早く 能無し政策を行った輩なのである。いやはや
勇ましい論調はいいが 本当にこの不法な漁船や監視船を撃沈させることが出来るのか
。もともと中国にはこの東シナ海には全く航海できる権利を有さない。つまり台湾こそ
が正当な中華の政権であり 柳条湖事件や世界大戦による被害者としても台湾しかその
権利を持たない。今の中国はそうした被害者をソ連と共の更に追いやった 非道極まり
ない暴力政権でしかなく それを継承しているからこそ今でも全く正しい歴史も日本と
の共生の道も東アジアの平和もない。もともと日本は このソ連から広がった共産主義
の南下政策と戦う反共勢力だったのだ。これに対してイギリスやアメリカはユダヤ資本
の仲介による中立の反共勢力であり 言わば中共勢力であった。これが日本敗戦となり
朝鮮半島が占領されて初めて この共産勢力のしたたかさに触れてあわてて反共主義と
なったと言う経過がある。今でも日本やらフィリピンあるいは東欧州などの緩衝地帯と
離れているから 未だ中国などと手を握るが 仮に日本や韓国がロシアと組みする事と
なれば 今のイスラム主義以上にヒステリックな外交で戦争を起こすはずだ。その事を
もっと日本人も又米国はじめ英国などの主要国もよく考えるべきなのである。つまりは
正義をどう具体化して現実社会に取り入れるかはそれぞれの知恵でありその知恵がなけ
ればいずれ人類自身が滅びに転じるのである


526: 名無しさんAA:12/09/20 00:56 ID:E0k
物まね中国の危険性 95

 どうも 中国政府は今度のデモによってとんでもない方向に舵を切ったようだ。そし
て日本政府は馬鹿も馬鹿大馬鹿のようで その中国の渦中に利用された形でのめり込ん
だようなのだ。つまり 習近平首謀者論である。もともと彼は江沢民系の上海閥系とさ
れあまり海外の事には目を向けていない。今までの温家宝の平和外交とする外交姿勢を
見下している。弱腰の平和外交の反対者であったようだ。そも小沢派100人にも及ぶ
議員を連れて訪中したのは一体何だったのかが気がかりだ。現共産党批判を言える習氏
自身を現実を直視するリベラル派とみなす見解があるのに、一方では対米・対日強硬派
とする見解もある。すなわち46時中抗日戦線の嘘歴史をあがなったドラマで成長した
世代と言うわけだ。訪米の折ウイグル事件の収束を担ったとされてその虐殺行為に批判
があった。人権問題を巡る中国批判があがったこの時、習氏は外遊先のメキシコにて、
「腹いっぱいでやることのない外国人(これは米国人を指す)が、中国の欠点をあげつ
らっている」と愛国心を全面に押しだし、米国による人権問題批判に反論した。200
9年である。この物議を醸した発言は、中国国内では愛国的発言として英雄的に受け止
められたが、国外の海外のメディアには中国を危うくする者として批判的に取り上げら
れている。この外遊時にイラン問題やリビア問題欧州危機などを抱えた米国のクリント
ン氏は 「今は中国を歓迎しているけれど公海上で日本との争いが起きたら 有無を言
わさず日本に味方するのではないですか。」との問いに「米国は片方の肩を持たない常
に中立だ。」との返事を得て 南沙諸島を「中華人民共和国政府は南シナ海を『自国の
主権および領土保全と関連した「核心的利害」地域と見なしている』との立場だ。」と
公式に通知した。更に今回の尖閣諸島問題は この時の約束に従って沖縄までをも中国
のものとする計画を海軍と共に策定した。とされる。過去に中国に送還されたウイグル
人3千人は、送還後に、勾留、投獄、刑の宣告、拷問、処刑、行方不明になっている。
しかし日本が中国から先の正当な中国系統者としての台湾におおぴらに外交関係が結べ
ない事をいい事に 盛んにエールを送る大陸人がいる。中国中央テレビは18日に、中
国共産党序列4位の賈慶林ジアチンリン人民政治協商会議(政協)主席が 台湾の連戦
・元副総統と南京で同日会談し、中台双方が尖閣諸島問題で共闘すべきだとの考えを
表明したと報じた。

527: 名無しさんAA:12/09/20 00:58
物まね中国の危険性 96

しかしこの賈氏と言う人は、日本の尖閣諸島国有化について「中台双方の民族感情を著
しく傷つけた。中台は違いを乗り越え、それぞれのやり方で領土を保全し、民族の共通
利益と尊厳を共に守ろう」と述べたと言う。之に対して連氏は「台湾と大陸の人々の気
持ちは一致している。われわれの主権を守る立場は疑いようもない」と応じたという。
しかし これが自身の保身の為である事は明確である。中国発刊の雑誌の報道によれば
今回中国でこれまで最大規模の不法臓器売買事件の訴訟が始まっているとしている。そ
の起訴された16人の容疑者の中には元締めやブローカー、医療関係者が含まれており
、北京解放軍304病院泌尿科と山東省地方裁判所の関与も報じられていて別の法廷で
は「遠華密輸事件(アモイ事件)」の首謀者・頼昌星の法廷審理が4月初めに開始する
とされている。この事件発生の当時の福建省トップは賈慶林氏であり、同省ナンバー2
の省長は賀国強氏だった。いずれも江沢民国家主席(当時)の側近であり今の習氏と共
に暴漢に襲われたとする 党中央幹部である。「胡錦涛・温家宝・習近平にはすでに見
えています。第18回党大会の前に徹底的に江沢民系の罪を清算しないと、中国は将来、
随時崩壊の危険に直面します。」と解説者は言う。今回尖閣諸島事件のデモは中国人か
ら言わせれば 村の人民開放軍もしくは公安局などの公権の火遊びであろう。という。
現在 江沢民、習近平のバックアップを得て呉勝利が、海軍トップまで上り詰めている
。知る人は好戦論者で荒れ狂う鮫のような性格である。と言う。この春に中沙諸島にあ
るスカボロ礁(中国名・黄岩島)の領有を巡って フィリピンとの関係が悪化した時、海
軍を出動させ、フィリピンとの海戦を主張したほどだった。この時は梁光烈国防大臣が
訪米し、アメリカからフィリピンに圧力をかけて事を収めて小さな銃撃戦のみで今に至
っている。この事から今回訪問中のパネッタ米国防長官は18日、中国の梁光烈国防相
と北京で会談し、尖閣諸島国有化で緊迫している日中関係について協議した。と伝えら
れ、中国国際放送などによると、尖閣問題に「過熱化の責任は完全に日本にある」と日
本を非難し、米国の対日防衛義務を定めた日米安保条約第5条の尖閣諸島への適用につ
いては、「断固反対する」と述べたと言う。その後に米中関係筋によると、パネッタ長
官は、中国の次期最高指導者となる習近平国家副主席と19日に会談する他、中国海軍
の重要拠点である山東省青島を訪問するとしている。がどういう魔法か日本では急速に
オスプレイの飛行認可が下り脱原発が止まり 中国のデモが鎮火して事は収まった形に
なった。


528: 名無しさんAA:12/09/20 00:59
物まね中国の危険性 97

海外メディアは 人民日報の社説をそのまま引用し どうしてこんな報道するのかを
日本人ならずとも 多くの日本居留外国人はいぶしがっている。ロバート・キャンベル
などは 一番優秀な特派員すら中国内での自由な論説や社説が出来ない事を嘆く。
NYタイムズには「どうして日本は新たに失われた10年を求めるようなことをするの
か。20年も歴史を遡るようなことをしようとするのか。中国は常に経済カードを非常
に注意深く切ってきた。しかし、主権をめぐる争いで、もし日本が挑発を続けるならば
中国もその戦いに立ち上がるだろう」キャンベル教授によると、優秀な記者が書いたと
はお世辞にも言えないバランスを欠いた記事だ。ニューヨークタイムズもこの程度かと
落胆する。 しかし、ニューヨークタイムズばかりではない。イギリスのタイムズも又
18日付の反日デモに関する記事ではこんな 見出しを付けた。と言う。
「日本の短気で性急な言動は日本全体に冷たい風を吹かせている」とだが これが中国
国内の覇権争いの顛末であったとはとても書けない実情が裏にある。つまり前代見聞の
中国の巨大腐敗構造である。ある在日中国人から言えば 日本で言うヤクザや 海外の
マフィアの世界と考えたら分かり易いと言う。つまり山口組総局が中国に変っただけで
各自治省なり自治州が各自に国とは違って治安局や軍隊があり共産党がいて 一番羽振
りのいい勢いのある各省の党第一書記が中央に出る方式で例え汚職があろうと賄賂に絡
まり人体実験と揶揄された武装集団であろうと 人気や勢いがあれば中央に乗り込める
と言う仕組みがあり それがそもそも汚職を誘発していると言うのである。組でいえば
各地で上納金を一番納めるものがヤクであろうが賭場であろうが縄張りの上納金であろ
うが構わないというのである。だがこの国の周りの国はいい迷惑なのだ。日本では官製
談合と言われる入札の話し合いすら危険視される中ここでは デモすら官製デモなのだ
。そして対抗する平和や友好のシンボルが20年かけて築き上げたものが一夜にして灰
になったのである。「日本人は皆殺し」と書かれた横断幕が中国のAudi販売店前に掲げ
られ、今後東アジアでは特に日本ではアウディは誰も買わないだろう事と同じように、
今後誰も中国で商売しようと言うのは よっぽどの馬鹿か変ったひとたちであろう。




529: 名無しさんAA:12/09/20 03:34
新 国際町民 122

 又中国は自国の恥とするアイディンティを打ち出した。
 中国メディア・鳳凰網は18日、中国の民間学術団体が日本の尖閣諸島国有化への抗議
と日本による 「琉球の植民支配」をやめるよう求めた「9・18宣言」を発表したことを
伝えた。 「宣言」は中国国内で「国恥記念日」とされる18日に合わせて中国政策科学
研究会国家安全政策委員会が発表したもの。日本による尖閣諸島の国有化に対する抗議
とともに日本の軍国主義に対する対決姿勢を8条にわたって記述し、カイロ宣言やポツ
ダム宣言などの国際法律文書の順守を求めた。その中で、「釣魚島(魚釣島の中国名称
)は琉球に属さない。琉球もそもそも日本に属さない」とし、沖縄は日本が何の法的根
拠もなく盗み取ったものであるとの認識を示し、日本に対して「直ちに琉球の武装占領
と植民統治をやめること」と要求した。また、「琉球人民の独立自主を断固支持する」
と沖縄の住民に独立を呼びかけた。国家安全政策委員会は2002年に設立された民間学術
団体で、軍事関係機関OBや学者などによって構成されている。
 今や中国国民すらも こうした発表に茶番であるとあきれている。中国では日本人は
危険すぎて歩けないが 日本ではこんなに安心して安全である。中国では近海の黄海は
既に魚が取れないが 日本の東京湾や伊勢湾などは今もかなりの漁獲高である。中国人
が国外逃亡を図っている事からでも 沖縄人が日本に帰属したいことは明らかだからだ
。今や沖縄どころか台湾すらも大陸から離れて日本に帰属したいと思う人もいるだろう
と言う。それは香港人やチンタオやマカオも同じだ。それはあのチベットやウイグルの
ように漢民族の無頼の武力弾圧や人権侵害に対して利用されたくない。と思っているか
らだ。香港人の意見も聞かず 中国に帰属させたイギリスに実は大いに不満があるのだ
。だが 一国二制度と言う譲歩によって近寄り 気に入らない香港人は国外脱出によっ
て身の安全を図ったのがじつじょうなのである。中国人は共に生きる同じ世紀の地球人
として平和理に穏便に過ごす事を忘れた 中華拡大主義を棄てない限り戦乱の血に飢え
た民族だ。とその人は自認している。それは共産党を棄てない限り この古びたプロパ
ガンダの手法を使い 猫なで声の友愛や平和思想と近寄った者は誰彼構わず食いちぎる
武装抗争とは 毛沢東以来の伝統的手法だからだ。この発表と共にマイクロソフトのも
つXチップによる何処でもドアはサイバー攻撃をかけるだろう。と彼は言う。



530: 名無しさんAA:12/09/20 05:11
新 国際町民 123

 そもそも 柳条湖事件は朝鮮系農民と中国系農民の水争いが発端なのである。もとも
と辛亥革命以降 中国は群雄割拠の時代を迎えていた。直隷派・安徽派・奉天派などの
中で張作霖が安直戦争などで勝利した事で勢いをつけた中 国際条約である日本との日
清条約の付帯事項破棄を宣言し投資先ロシアをして満鉄の平行線建設を進めた事で起こ
ったのである。蒋介石による北伐運動が実施されると日本軍はその応援部隊を投入して
満鉄を守りこの張作霖の息子張学良が白旗あげて国民党軍に入党して以来 またもや条
約拒否と排日闘争に転じた事が満州事変の元となる爆破事件が起きたのである。これは
関東軍の独断によるゲリラ対策として行われたのが一般的な見方であるがこれ以降は全
くと言っていいほど歴史は繰り返される。国民党軍が毛沢東軍と戦った時も同じであり
世界大戦以降も又こうした敵対する軍閥が寝返り 世界的条約や協定を勝手に破っては
中華中央主義で領土拡大思想を以って戦い チベット・モンゴル・台湾・香港と自領の
安定や安心が図られる事なく中国民はその常々に華僑となって他国に渡っては避難民の
手伝いをしてきたのである。香港の殆どの旧香港民が多国籍民族である事はそれを物語
り証明している。そして今平和になったとして 中国に戻って中国の為にと開いた帰郷
した日系中国人は 今回も又同じようにデモの騒乱の標的にされ長年の築いてきた友好
の歴史を破壊したのだ。今起きてる南沙諸島問題尖閣問題も全く同じで政変の中の強行
派の歯止めが無く TVや反日教育で愛国教育などで 法治国家とならず その為に無
法地帯となる中 今や通行人が死んでも全く気に止めない程の 非情な無慈悲な社会を
作りだしたのだ。この事を充分理解するならば国際的取り決めや 領土などの既成問題
は大事に扱い 自国内の興奮したデモ工作や他国への威嚇工作をやめさせ平和な人民を
教育し共存を図ることこそ安定社会幸福国家が出来上がる事を知るべきである。



531: 名無しさんAA:12/09/20 20:10
新 国際町民 125

 どうも中国国民は大きく誤解している。デモという行為も又暴動と誤解しているが、
日本という国についても大きく誤解している。ルックイースト、あるいは東洋の奇跡、
金満国家 経済大国 と聞こえがよく先進国としてありがちな羨望の目と戦後の恨み節
みたいな目で見ているようだが 実は違うのだ。もちろん繁栄にありがちな物が溢れて
ネオンで輝いていてど派手な服を着た情緒ある町とはみえるだろう。だが見れば良い。
地図を見て小さな島国で 今度の地震を見ても津波や火山の噴火台風更に飢饉や餓死者
も昔はかなりあった国なのだ。ただ有史以来それらの困難な対処を一つ一つ丁寧に取り
除いては考え克服してきた小さな国なのだ。もちろん大陸と同じように内乱もあり同じ
ように覇権争いもあったし 海外からの黒船が来て開国を迫りそれなりに色々な事件は
勃発していたのだ。日本が植民地にならなかったのは決して強いからでも文明文化が進
んでいたからではない。日本文化が運を託して人生を生きるという術があったからだ。
色々なことわざが日本にも中国にもあるだろう。だが日本人はその運があって生きてい
る。強運だから今と対面出来ている。と言う境地に達していたからである。戦争の兵士
にも御武運を。と言う挨拶や 御蔭様でという挨拶をよく理解して欲しいのである。無
理じいはしない。だが人は生きても百年。座って半畳寝て一畳の世界なのだ。どう転ん
でも見えるもの感じるものの一日が24時間を超えないのである。他人や他国への威圧
や威嚇が喜びというのは 人として国として小さすぎる世界ではないか。それを常識と
して江戸も明治も今も生きてきている国なのだ。質素で豊かな貧乏国家 これに感動が
あった。そして温かき手を差し伸べられた。だから植民地にならなかった。ただそれだ
けなのだ。今も是からももっと中国は自信を持って武器や好奇の目を捨てるべきだ。日
本人が持っている自信はただ神に祈る正しい心のみで 中国人には理解されないだろう
だが例え敵でも死んだ者を尊ぶ心は学んで欲しいのだ。だから戦争で有った事が全て嘘
とは言わないまでも 毛沢東軍と戦ったのは国民党軍であり日本軍は南方に行く経路と
して道を通っただけなのだ。台湾が今も国としてない様は日本人にとっては痛いのであ
る。



532: 名無しさんAA:12/09/22 19:12 ID:tYk
新 国際町民 126

 国際社会もアメリカも 中国を魅力的市場だとか豊富な資源需要の高い地域だと 夢
を見ている節がある。だが中国国内では5将軍が主戦論者であり例えアメリカがやって
きても勝てる準備は整っている。と豪語する。それは中国側は 周到に対抗措置をして
いて漁船3千隻を自由に操り、拿捕してくる時は先兵として海洋調査船「海監」と配置
更に攻撃がない時は『漁政』も投入して 日本側からの発砲とさせる用意があり、先月
からの太平洋上に演習終了で引き上げてくる15隻の中国艦隊をフィリピン沖に配置し
ているからだ。彼らのもっぱらの活動はフィリピン海から日本にかかる水中レーダの探
知である。かつて竹島沖に潜水艦用の海中レーダーを破壊切断して 竹島を実行支配し
ている韓国のやり方を踏襲して 日本の監視がなくなった頃にすぐさま軍用基地を作る
算段である。ただ米国が出てきた時は本格的戦闘になる恐れがあり 一時的には勝って
もその後の戦乱を考えればフィリピン領の南沙諸島ベトナム領の西沙諸島のようにはい
くかを心配しているのだ。その問いにアメリカのパネッタ国防長官は訪問し、明快に「
両国の話し合いによる平和的な解決を望む」としたうえで、尖閣諸島は日米安保条約の
適用範囲内だと直接説明し「アメリカは安全保障条約の責任がある」と言ったという。
それを受けて「中国ASEAN博覧会」の開幕式に出席する習近平国家副主席は、21
日、中国広西チワン族自治区会場で開かれたフォーラムで 「周辺国との領土や領海、
海洋権益をめぐる争いを平和的に解決する」と述べたと国営中央テレビが伝えている。
だが 日本人は騙されては行けない。温家宝が言うように中国は領土放棄は絶対しない
。譲歩をする気も全く無い。何かの拍子にアメリカがその保障内である事の放棄の時を
狙って チャンスを見ようというだけである。そして国内では公害や災害あるいは事故
などで 3%ぐらいに何らか異常出産や病気が回り、一人っ子政策のままの身寄りの無
い若者が増えつづけ アナーキリズムが蔓延して行こうとしているのである。つまりは
政府の強気は退けない事情になっているのだ。


533: 名無しさんAA:12/09/22 19:13
新 国際町民 127

 この物わかりの悪い人民をして 人口8億人なのである。右に行けば右に行きすぎて
左に行けば左に行き過ぎる。という何とも指導者の心理は穏やかではない。それに対し
て 日本はアメリカからの核ミサイル配備や大型潜水艦導入そして西側陣営の前線部隊
としての機能性のある変更を 再三再四求めているが その返答には国内世論も政府内
議論も 平和主義を貫く態度を頑として崩さない。ミサイルどころか原子力発電所すら
この地に建設や再稼動を認めようとしないほど臆病な和平追求民族なのだ。だが今まで
ほとんどの戦争が 平和主義者がその戦争の原因を作っている。かつての日本も同じだ
。更に今の憲法9条は1928年不戦条約を踏襲している。これまで不戦条約は第二次大戦
を引き起こした原因でもある。チャーチルは「平和主義者が戦争を起こした」と言って
晦んだ。それはヒトラーが平和主義を利用して勢力を拡大していき ヴェルサイユ講和
条約を破棄し再軍備したとき、既に一部の民衆はこの平和主義の圧力に疫僻していた。
ラインラントに進駐しズテーテンラントを要求したがいずれも周辺諸国は”平和”に縛
られて、その頃は弱かったドイツ軍を一掃出来たはずだが、全く軍隊を使わなかった。
結果、ヒトラーは戦力拡充に成功し、第二次大戦に至った。平和主義者は戦争を招く。
戦争をしてでも守る決意のみが戦争を防ぐ。これが第二次大戦の教訓である。現実問題
もし平和主義というのであればこの際軍備を充実し およそ五千万人いたとされる法輪
光愛好者が天安門事件以降国内では1400名が臓器移植の為虐殺された、とされ、更に海
外でも次々に変死している。共産主義という宗教の信者になる事のみを恐怖心を搦めて
進めているこの国の現実を問うべきだ。国内およそ2千名変死スペインでは大量虐殺の
罪が確定していて他カナダ・アメリカ・オーストラリアなどでおよそ5百人位が自殺や
事故や変死などに会っている。日本でも移住し和名になり不明だが 八王子殺人事件や
身元不明死体など検察が調べるに多すぎる無縁仏がかなりある。それも天安門事件以降
急激に増えたのである。この真相解明と江沢民他の刑の実行とチベットやウイグル台湾
などの独立国としての地位や自治の確定を ちゃんと外交交渉に持って批判してこそが
平和主義者と言えるのである。




534: 名無しさんAA:12/09/25 04:34
新 国際町民 129

 更に「尖閣諸島周辺で水産資源やガス資源が豊富なことが判明して初めて、中国は領
有権を主張したと日本は言う。だが、中国人にとってこの島は侮辱の象徴なのだ。日本
は1931年に中国北東部を占領し、その後東沿岸全てを支配。このときから中国への侮辱
が始まったと中国人はみている」。「ところが日本は戦争での残虐行為すべてに対し今
まで誰も責任を取らず、『あれは戦争だったから』と過小評価する との論理を展開し
てるがそれも間違えている。フランスのル・タン紙も、ブルーノ記者に言わせている。
「結局、第2次大戦は終了していない。アジアでは、いつも、ある出来事が巨大な争い
に発展する可能性が潜在的にある。それは、日本が全く戦争を反省せず、日本の歴史の
中で最も暗いページの部分を認めようとしないからだ。そして今、中国共産党はこの戦
争に根を持つ『日本人嫌いの感情』を最大限に利用している」としているが、彼らには
本当にナチス・ドイツの誤りが清算されたと思っているのだろうか。本来忌まわしい物
や出来事は正確に記録して後世に伝え さらに日々の生活から記憶が薄れる事で世代の
波の中に埋没する。それが戦争の清算となる。今度のデモを見て判るように 戦争はお
ろか自国内に粛清が起こり働き手がいなくなり農業生産が滞り 貧困が起こりあらゆる
鉄を集めては自家製鉄をさせ 更にその貧困は増えて餓死者まで出て来た時代の事を 
このデモをする若者やデモを指導する者は 全く知らないであろう。中国通にいわせれ
ばその時国境紛争でソ連からの援助も遠のき周恩来の進めで日本に追加援助を求めて 
やっと安堵の域に着いたと言うのである。日本人も中国人も或いは韓国人も物事を乞う
と言う形や支援する援助される或いは志しを受け取るという事を 現代人は特に非常に
嫌うし何故かプライドや誇りを傷つけてしまうものの様に教育されている。が実はそれ
は違っていて 人は人に乞う事こそ大事な事でそうした援助と言うものが世界を巧くす
るコツなのだ。今中国人の一人っ子でありながら人口増加によって資源争奪している事
は 実はこの乞う姿を許さないとする共産思想が根ある。つまりは他人の力を借りない
とするものだが 今日本では省エネでシェアする。と言う事が流行っている。つまりは
独個主義で権力で奪い獲る事に根ざせば国も地球も持たない。人それぞれが出来る事で
それをやりこなし 更に共有や幸せを増やす為に夢を託し 乞う事は恥ずべき事ではな
く 奪い取った権力の下で 暴力的に不平等を行う事こそ恥ずべきものだ。


535: 名無しさんAA:12/09/28 19:09 ID:IY6
新 国際町民 131

 今回のニュースをみて腹がたった。この非国民達は日本を一体どうしようというのか
。日中国交正常化40周年に合わせ訪中した河野洋平前衆院議長をはじめ日中友好団体
の事である。会長らと会見するため27日、北京の人民大会堂に現れたのは全国政治協
商会議主席、賈慶林(か・けいりん)とも会談している。とある中国共産党筋は 日本
政府の尖閣国有化後、「釣魚島(尖閣諸島・魚釣島)は中国にとって資源だけでなく、
軍事的には太平洋への出口という意味がある。国民の愛国心をまとめるのにも 非常に
有効だ」と本音を述べている。と伝わる。つまり、強引な宣伝戦を行ってでも尖閣奪取
の機会をうかがうことは、中国にとって至上命令というわけだ。こうした画策を承けて
中国内の過激派は 尖閣などの無人島を奪取しても意味はない沖縄こそ中国の領土であ
る。と声高々に中国国内では宣伝している。中国政府自体こうした愛国無罪の犯罪には
どうしても手を打つ事が出来ない。デモの取り締まりですら大衆を目の前にして敵とは
出来ないのが今の政権なのである。ここに今ショッキングな映像がある。今まで生きて
わめいていた死刑囚を首を刺し血を抜き事なげにまるで魚や鳥を調理するように四肢を
切り落とし体を4等分してはナイロンの袋に詰めて冷凍保管し着られた首は髪が切られ
穴から脳みそをすすり 彼女が身ごもっていた胎児は皿にそのまま載って食べられる。
という映像である。あまりにもショックで言葉が出ないものだが 古来よりの中国の風
習といえばその通りである。日露戦で勝った為に田○中将をもてなした上海財閥も又こ
の時北京ダック他を出した後最高級料理として猿脳料理をだした。生きた猿の脳みそな
ど食習慣のない日本人は怒って帰ろうとしたが それが本当の最高級ではないとみたの
かちょっと待ってくれと椅子に強引に座らせ 次にやってきたのは髪を着られた美女の
奴隷だったと言う実話がある。考えればつい2・30年前まで人民裁判などと称しては
公開処刑をわざわざ大きな集会場でやる民族なのだ。この女性も四川大地震で夫が死に
夫の親を面倒見ていたが 村役が金が貰えるとそそのかし親が法輪光の信者と売ったと
される信者だそうだ。雲南でつかまり重慶で処刑されたというが この法輪光信者を徹
底して処刑せよという指令が江沢民によって叫ばれ周永康・中央政法委書記で捕まえて
それを、賈慶林が普通の肉として人肉を売りさばいたとされる。こういう事実により、
今やスペインで裁判中なのを この河野洋平以下の訪中団はどこまで知っていて行くの
か。さらにこの記録映像は中国国民に威圧する為に政府が流したものとされる。


536: 名無しさんAA:12/09/29 01:00
物まね中国の危険性 105

 日本が猛反省すべきは 日本と言う国の平和に安住している絶対平和主義者っていう
人の群れであろう。戦後からの欧米流の平和教育によって洗脳された人たちなのだろう
が、こうした人達に輪かけて先導したのが日教組と言われる人達であろう。彼らに発言
の機会や行動の自由をして 赤軍派や今の道徳観念や国家主観のない経済主義にして、
殺人ゲームのTVゲーマーやゆとり洗脳教育などノンヒューマ・ストーカー(興味主義
者)を産んだのだろう。この人たちは「戦争のことは考えてもいけない」「平和以外は
悪」「世界平和こそが善」「戦争は過ち」などなど一方的な主張をしまくり、少しでも
戦争の正当性の意見をする人々に「軍国主義者!」や「右翼!」罵詈雑言を浴びせる。
だがこの人達は、北朝鮮や中国の現状と現状からくる挑発には口をつぐんで何も言わな
いし彼らの平和主義はひたすら日本の自制と過去の戦争は過ちだった。と言って憚らな
い。こうした異常な付き合い方が中国や韓国を過激化凶暴化させ国民を勝手な暴論者に
育てあげ 近隣国を困惑させている現実を 一体どう思っているのだろうか。人間は正
しくある為には厳正な「必賞必罰」が必要である。例え理由があろうが 悪い行為は悪
いと姿勢を正し助言し、正しい行為は素直にほめる。それこそが正しい国の外交である
。すなわち 国連で嘘をつかれ 親友と思っていた台湾から漁船団が出た。このことで
日本は「ODAの打ち切り」をはっきり宣言し 今回の台湾の行為に正式に台湾と話し
合いをもつべきである。そして台湾の馬英九など 人肉煎餅屋とつるんだような政権な
どとは相手にせず台湾建国の祖である李総統と今後の対処の仕方について話あうべきで
ある。今や、台湾人の多くも中国に毒されていて 現実歴史の重みや平和の重みを忘れ
てしまっていて嘘の歴史に洗脳されているようなのである。





537: 名無しさんAA:12/09/29 01:28
新 国際町民 132

 今度の尖閣問題は平和論者や日本政府は小さな問題として捉えている事に危惧してい
る。多くの論者は 中国を逆撫でせず平和理に文化交流やあらゆるパイプで事を収めよ
。と言う論調が目立つ。だがそれは大きな間違いである。今やるべきはアメリカを立た
せて中国をピシリと南沙諸島西沙諸島の軍拡活動を止めさせる事である。もし それが
出来ないとなれば 中国のこの論調は止まる事はない。よく面子がつぶれたからとか、
説明が不足していたからとかを言い訳のように論評しているアナリストがいるが それ
は少しはあっても大きな問題ではない。国内の反日教育と軍拡主張の大方の中国内強硬
姿勢や思考であって まちがってもパイプや面子の問題などではない。このまま平和な
外交などを作れば 大量に刷った元をもって沖縄を買われ 今でも先導者としてはいり
込んでいる帰化人達が 混乱させてはいずれ日本の湾にいつの間にか空母がはいり ミ
サイルによって焦土となる確率が高い。なぜなら中国にはそうせざるを得ない事情を、
かなり多く抱えているのである。共産主義体制を棄て中国人民が自由になっても この
愛国主義から生まれた強硬派は消えない。軍事予算にして日本の2倍人口にして8倍の
国が20倍の国土を牛耳っているのである。混乱して当然でそのはけ口がチベットであ
りウイグルだったし台湾だったのだ後はベトナムかソ連か北朝鮮か日本である。ベトナ
ムとは戦争出来ない以上日本を乗っ取る事しか頭にはない。特に今回の計画が習近平氏
先導で行われた事が明るみに出た以上は 我々日本人は相当に戦略的にしたたかに日本
奪取を図っていると考えられる。今後10年間のこの体制の行動が変わらない強硬派の
論理で動くとみれば 例えどんな重要な閣僚とパイブがあっても足かせにはなっても、
有効な対策とはならない。中曽根氏が靖国訪問を止めたように中国国内動向は変えられ
ず失脚するのがオチであって これは学生のいじめ構造と同じ赤組織論の基本である。



538: 名無しさんAA:12/09/30 12:34 ID:y7Y
新 国際町民 133

 今回の一連の尖閣諸島購入に際する一連の事件で 不思議な事は数多くの日本企業が
ひしめく大連では 何らデモがなかった事である。そこには薄熙来の更迭を行った政府
当局の したたかな判断が見てとれる。すなわち中国全土に行われた官製デモは大連に
おいては禁止されたのである。この事から2つの事が見てとれる。一つは中国政府自体
は 今だに人民を利用し扇動し管理出来ると思っていた事だ。二つ目は取り締まりした
官僚達は実にこの薄熙来という人物が優秀な人物であったかがこの市内のほうぼうに見
てとれると言う事だ。すなわち進化した現代において共産主義も自由主義もない世界で
ある事を彼は体感していたのであろう。そして逆に言えばこの経済発展と共産愛国主義
が実は全く二律背反のものであり 一部共有する部分があるとすれば それは集団化さ
れない所にある人間の個の救済 すなわち弱者の救済である。共産党の躍進であれ自由
の進化であれ 人間が行う人間の救済が人間に共感されて社会が出来ている。という中
にあると言う事なのだろう。この事から 今や中国は国家主観すなわち中華の民という
概念を捨てて地球人としての誇りと文化を形成する時期にたった。と言えるのだろう。
つまりは尖閣など小さな事や資源争奪などの争いに生きてはこの国家は退廃文化を形成
する事に至ると言う事だ。欧州で出た技術革新は人間の平等化によってもたらされる物
すなわち幸福感を人々に与えた。そしてアメリカで発展した消費文化は物質が豊富な事
で更に優越して安心感がある事を認めさせた。やがて日本に来たこの消費文明は変貌し
地球内での需要と供給のバランスの他に調和のある発展社会を人間に警告し 温暖化や
金融危機、差別や格差社会をして 厳然と人々に忠告をしている。それには核・通信・
電脳機器などがそれぞれに反映されてはいる。


539: 名無しさんAA:12/09/30 12:35
新 国際町民 134

 これまでの豊かな繁栄の中の国家としてこれからも生きようとするならば 日本も米
国も中国もそれぞれの役割を甘んじて承けねば世界中が貧困にあえぐ事になるだろう。
すなわちアメリカは世界中に目を向けなければならない中で 毅然ととして正義を伝え
国内に流入する間違った不平等な考えを更に正す活動を行い共産主義との対決をする。
という事だ。間違えても溶鉱炉や最新鋭の機器を中国などに売る事は出来ないはずだ。
 そしてそれは日本も全く同じで 法と正義の秩序でしか平和が無い以上 この小さな
島国はその平和でしか存在できないものだ。オスブレイ反対や脱原発などは 全くその
切り込み方が間違っていて 危険であれば危険でないものに改造すべき力を持つ事を、
考えるべきであろう。今回の事で大きく中国は衰退する事は見えている。だがこの大連
に学ぶ所は多い。すなわち腐敗官僚悪徳城官の排斥である。強硬に進めるに当たって、
彼は人民の信認を得た。この事で彼は貧民層の為のマンションを建てその地位を磐石な
ものにした。と言われている。今回彼の党員剥奪を得て中央集権化する北京は安心した
ようだが それは間違っていてこの地方で熱い信認を得たものだけが中央政界に進出し
更にその声援に危険視して失脚を狙うというのは 全く解せない話しである。実はこの
仕組みの上で成り立っている政府だからこそ 尖閣のように全く根拠のない言いがかり
の占領を試みた発言と その発言に狂気乱舞する国民がいるのだ。シリアのアサドを支
援し今だに国連軍の停戦団を受け入れない理由がここにある。つまりは今中国は悩んで
いる中にあると言っても過言ではない。




540: 名無しさんAA:12/09/30 17:08
新 国際町民 135

 連日の中国の反日デモをして、数多くの評論家は「デモが暴徒化している」というよ
り、「暴徒がデモをしている」と思わざるを得ない。と言わせせしめた。だが当然であ
る。これまで隠された数々の事件は目を覆うほどのものだが 隠し続ける事で起きてい
る事は不埒な輩の暗躍であり これらがそうした隠れる技術を駆使して国を動かしてい
る。その一つに核問題がある。これまでに32年間核実験46回、129万人が被害を受けた
とされ、うち75万人死亡したとされる。 高田純教授の話を信じれば、核被爆を受けた
国はソ連や日本或いは米国だけではないと説明する。中国では、新疆ウイグル自治区(
東トルキスタン)の楼蘭付近で、1964-1996年に46回、総出力20メガトンの核実験を行い
、周辺住民への甚大な健康被害と環境汚染をもたらしていたと言う。その後1981年まで
継続的に降下した大量の核の粉塵によって、胎児に影響を与えて奇形の発生や、今の若
い世代の白血病や癌の発生を引き起こすなど現地住民への大きな健康被害が多数発生し
た。しかし、中国共産党政府は核実験のことを全く公開しない上に、核実験による被害
の事実を極秘に隠蔽した。この事がウイグル虐殺に通じている。つまりはウイグル人の
口封じをして渡航や中国国内の通行さえ閉じ 仕事が無くなった人に漢民族からの人間
を集めて工場を作っては雇ったが ウイグル人そのものは高い知能と教育があったが、
工場とは言えない程の生産設備の無い状態は 漢民族が指導して物を製品にするほどの
会社は全くなかった。つまり 国の政策によって 金を落としてしぶしぶ作った工場だ
ったからだ。つまりは彼らはチベットと同じく半殺しの状態に置かれたのである。中国
はその核物質隠しで住民は独立も出来ず 病院の手厚い検査どころか その日の暮らし
すら 経済封鎖に似た状態の中にあり 民族自立どころかかつての民族自治はおろか、
民族の存続さえままならない状態にあるのだ。



541: 名無しさんAA:12/09/30 17:08
新 国際町民 135

そも中国がかつてから 敵を作る事を必要としている。そしてその敵は小さくて中国よ
りは弱い国でなければならない。それは扇動して戦争したがっている者を連れてくる為
である。更に国内事情や共産党に不満の目をそらす為だが、そういう意味では戦後事情
の台湾がアメリカが支えた為ベトナムに行きアメリカと手打ちしチベットを占領した。
そしてその後は、この核実験を実施する意図をもって ウイグルを占領したとされる。
した最大規模の核実験は4メガトンにまで達したが、その威力は旧ソ連の核実験を上回
った10倍の威力である。実験により大量に落下した「核の砂」と放射汚染は周辺住民計
19万人の命を一瞬にして奪った事もある。と言う。放射線汚染の影響を受けたと言う。
面積は東京都の136倍に相当、中国共産党の内部極秘資料によると、75万人の死者が出
た。当局は1964年〜1996年、の0・2〜4メガトン級の核実験を46回行って、地面、空中
、地下にてそれぞれ爆発した。中国当局は現地を封鎖して、調査を遮断した上に核実験
による被害データも公開しないため、被害状況はいまだに全く不明の中にある。高田氏
は言う。「核を持ち、核実験を実施した国はいくつかあったが、人口密度のある居住区
で大規模な核実験を実施する悪行は中国だけだ、周辺環境への影響をまったく考えずに
、まさに悪魔の仕業と言っても過言ではない」と述べ更にその調査さえもさせない姿勢
に全く住民は不安や疑問を越た怒りがある。シンポジウムに出席した日本ウイグル協会
会長は「旧ソ連でも 最低でも核実験を実施する地域を封鎖して、人の出入りを禁じた
。しかし、中国の核実験は現地住民に内緒でした、被害者はウイグル人だけではなく、
現地の漢民族も犠牲にされたはずだ、人の命の尊さを無視して実験台のモルモットのよ
うに使っている」と述べ、核兵器の被害者となった日本の理解と世界に被害者の声を伝
えることの協力を強く求めた。こうした非情さが今の尖閣問題の本質なのだ。



542: 名無しさんAA:12/09/30 18:50
新 国際町民 136

 盗人猛々しいとは 正にこの事だろう。中国の国連声明である。中国そのものが台湾
政府である中華民国の国民党政府から盗んだ国土であって 毛沢東の持ち物でも住民の
投票での信任も又歴史上の王家としての血統も全く持ち合わせてはいない国なのだが、
それを知る政府は逆にその為の蛮行をしてフィリピンやベトナムの領土を侵しウイグル
やチベットを我が物としている。だがこうした行為も今後50年も過ぎれば悲鳴に変化
するであろう。今回の日本で観測される気象異常は大きくこのウイグル核の問題にある
。つまり今や砂漠化が急速に進行し 特に地中内微生物の死滅が甚だしい事が観測され
たのである。この事で大きな核実験は今になって子孫を残せない昆虫にその食にありつ
けない小動物がかなりいる事がわかる。とりわけ人間にとってはモンゴルの定住化政策
もあいなってこのところの気象変動と土壌異常はかなり広範にわたるとされる。ここで
起こる数々の水問題は地下水の低下と大洪水や長雨による被害拡大は未曾有の国内混乱
を満たすとしている。興味深いこの資料ではいまや胎児の3〜5%が異常のまま産まれ
て来ている。一人っ子政策内での資料と考えれば日本人で言えば1割の割合とみてもい
いほどの公害率だというのだ。更にいまや砂漠に埋まった核物質はそうした乾燥化によ
って中国大陸の北側半分に汚染される傾向が顕われだして来たというのだ。すなわち土
や砂埃・枯れ葉・渡り鳥・水などに付着し広範囲に降ってきだしたというのである。こ
の現実には北朝鮮や韓国や日本も影響を受けていると言われている。かつて福島の原発
での水素爆発ですら 東京の片隅が風で溜められて焼却灰が高濃度として問題になった
ほどなのだ。それが原子炉など格納器の無い状態の核実験なのだ。どれだけの量かは、
推して計るべし量である。それが大小合わせ46回なのだ。その廃棄物が黄砂となって
中国韓国に降っているはずだ とこの報告書は語る。



543: 名無しさんAA:12/09/30 20:23
新 国際町民 137

 戦前の歴史が教えるように、世界が不況に陥ると、自分たちだけが生き残ろうとして
、ナショナリズムが高まる。ますますもってイヤな感じだ。と言う日本人は多い中で、
「こんなタイミングで安倍が出てくるのだから絶望的な気分になってくる。と 筑波大
名誉教授の小林弥六氏がこう語ったとされる。「中国は資源があるし、欧州とのつなが
りもある。日本を相手にしなくても困りません。安倍さんのやりたいことは『戦後レジ
ームの脱却』や『憲法改正』。自民党が政権に戻り、橋下・維新の会と連携でもしたら
、この国は独裁的な戦時中の国家に逆戻りしてしまう恐れがある。 米国でさえ中国と
うまく手を組んでやっている。世界は、平和的に外交の道を探っているのに、日本だけ
が例外の要注意国家になってしまいます。」と危惧する。がこの危惧は全く当たってい
ない。これは全く逆の話しである。欧米各社がここは人間動物園であり人権や話し合い
などのない猛獣の檻の中だ。とさっさと工場を引き払い母国に戻る中で日本人経営者達
は残り物に副が在るとばかりに進出していったのである。数ある企業の中のユニクロを
見ても判るように 日本で成長した企業が日本人を酷使して人間使い捨てで企業存在さ
せるほどの苦境かと思いきや まさしくこうした奴隷化させたコンビにやチェーンサプ
ライの数ある企業が日本を捨てては 日本の技術と共にかの退職したOBのように利益
もしくは生存を求めて大陸に行ったのである。しかし多くの日本人は今回の暴動騒ぎは
あってしかるべきものとして受け入れ 丁度いい時期と思って比較的のんきなものだ。
日中40周年をイベントとして今後も急速な企業進出があれば日本の産業空洞化はより
深刻になり持たない。更に今であれば国交断絶しようが軽い傷ですもうが 人権問題や
こうした強硬論をそのままにしては いずれ争うのは火をみるよりは明らかだからだ。
その為にはタカ派の着実な路線とその為の強固な国内整備を求める声や風潮は 当然の
帰結であり TVのみならず 新聞やゲームソフトやアニメや政党などの正しい認識と
国民生活の指導が求められ その為の貧富のよりよい格差是正や公俗意識の良化は何よ
りも大事な事だ。
 





544: 名無しさんAA:12/10/03 06:48 ID:48o
新 国際町民 140

 中国では国慶節の旅行シーズンに突入した。だが尖閣問題のために日本旅行の ドタ
キャンが相次いでいて日本の観光業は大打撃を受けている。台湾・今日新聞が伝えた。
中国人観光客のキャンセルラッシュは、昨年3月の東日本大震災に次ぐ大きな打撃を
もたらしている。とチャイナ誌が伝えた。震災後に回復した外国人観光客は中国人が約
40%を占め、まさに日本観光業の救世主となっていたが、尖閣問題をきっかけに中国
からの観光客は途絶えてしまった。と言う。しかしどこからこうした嘘が出てくるのだ
ろか。中国向けの中華中心主義の主張だろうが全く当たってない。実際は今までもぐり
の業者として暗躍し中国からの観光客を格好の餌としていた中国旅行社が行き詰った。
と言う事だけであり、一般の日本人はここで心置きなく品のよい自国民の文化と接する
ことが出来て喜んでいる。もともと中国国内に日本の旅行会社の設立はおろか営業所の
配置すら認めていない。そこで乱立する中国人の旅行会社はコネクションを通じた旅行
とは名ばかりの観光コースを設定しては中国人に中国で作られた粗悪品を日本の土産物
として売っていた。鮨詰め状態でバスによって高速道を走り 時間を短く設定しては、
辺鄙なみやげ物店で美味しくも無い日本料理を出しそこで輸入土産物を買わせては帰ら
せると言うシステムだ。何故こうした事がはびこったのか。それは勝手な割安料金を設
定していた事に起因する。日本の旅行会社が下請けとして入らない以上はホテル他手配
は自らしなければならないからだ。更に中国人特有の質の悪さにある。一流ホテルでも
泊めさせようならタオル・石鹸はおろか灰皿・急須にTVに至るまで持って帰るのだ。
共産主義は皆の物は自分の物所有権は無くとも自由な使用権が自分にあると言うのであ
る。土産物屋もレストランも中国人が来るとなれば気が気ではない。見張って注意しな
ければならず、いちゃもんも多い。今日本に来れない大陸人は香港島にごった返しで行
っている。ここには乱闘・死傷者・事故死者などが多発している。来なくなって良かっ
た。良かったというとこか。つまりキャンセル料踏み倒しが痛いのだ。



545: 名無しさんAA:12/10/03 20:14
新 国際町民 141

 このところ中国は、増強著しい軍事力を背景に、著しく東南アジア諸国に対する圧力
を強めて来ていた。昨年中国の国防費852億ドルは、東南アジア諸国全体の国防費329億
ドルの2.5倍余りある。東南アジア諸国全体の陸上兵力や、作戦機の数、艦艇の総トン
数がそれぞれ153万人、1050機、60万tなのに、中国は160万人、2070機、135万t。更に
、中国の国防費の伸び率は年2桁の伸びのまま今年は更に差は開いていると言わる。
(2011年概数)。こうした事で日本はかねてから、自民党時代には韓国に呼びかけては
中国の法の遵守の呼びかけを行ってはいたのだが 韓国は全く相手にせず 米国は消費
大国としての意味合いから相手にしなかった。この事で身動きできない日本では民主党
政権に変わった。そして今や圧倒的な海軍力が東南アジア諸国へ威圧外交を支え、中国
海軍は人員22万人、艦艇1088隻を擁した中、目覚ましい近代化を遂げている。フリゲー
ト艦は、ヨーロッパ諸国から学びロシアのハイテク技術を引き入れ そうして出来あ
がった艦船であり最新鋭の高いステルス性を持っていると言われる。2011年2月25日に
起こった南沙諸島のジャクソン環礁事件では、フリゲート艦が密かに近づきフィリピン
漁船3隻を威嚇射撃によって追い払うという事件があった。3月2日には、哨戒艇2隻が
南沙諸島のリード礁でフィリピン政府から許可を得ていた資源探査船の作業を妨害し、
衝突寸前となった。現場はフィリピンの排他的経済水域(EEZ)内である。過去中国の
資源探査船が、フィリピンが自国の領海だと主張する海域で探査活動を繰り返すことは
あっても、フィリピンの探査活動の妨害に出た事がない。がその後5月31日には、中国
海軍の艦船が、フィリピンが領有権を主張するパラワン島沖のイロコイ礁近くで建築資
材を降ろし、ブイや杭を設置し 同様に、同年5月26日には、中国艦艇3隻が南シナ海の
ベトナム近海でベトナムの資源探査船の海洋調査を妨害し、船で曳航していたケーブル
を切断した。ここもベトナムのEEZ内である。6月9日には、今度は中国漁政局の監視船
に護衛された中国漁船が、南沙海域でベトナムの資源探査船のケーブルを切断した。
すなわち原子力船の音波探知を切ろうというのである。こうした蛮行に対しフィリピン
もベトナムも「領海侵犯だ」と強く抗議したが、逆に中国は「我が国の領土、領海だ」
と開き直った。そうした対立にアメリカは仲裁に走って紛争を免れた。がそれをいい事
に、今年6月21日、領有権を争う南沙・西沙・中沙諸島を施政下に置くと宣言「海南省
三沙市」なるものを設けることを一方的に発表したのである。こうした蛮行を行わせて
はアメリカもアメリカたる資格が無い。


546: 名無しさんAA:12/10/07 12:58
新 国際町民 142

 このところ韓国は間違いばかりの政策で なんとニューヨークのど真ん中に嘘丸出し
の巨大広告をして自国を卑下民である事をさらけ出している。日本ではここんところ、
「スワップ手放しもいいけど、韓国国債大量買いして円安に持っていくべきかな。〜」
なんて言う声も聞かれる。というのも隣国である事が動きようも無い事実だからだが、
「一番いいのは、ウォンで竹島を売るって話しをさせることだがなあ。韓国国債買って
ウォン高になって困るのは韓国の方だし、戦略的に韓国国債購入はものすごい効果的な
円安だけど 紙屑になるウォンを持ってもなあ。まあ都合が悪くなれば韓国国債売り払
えばいいだけだけど。」なんて声も囁かれだした。だがそもそも韓国は常識から離れた
政策だらけで失敗ばかりしている。日本では「最後に勝つのは善人である。」とばかり
に盛んに救いの手は差し伸べてはいるものの 全く間違えて竹島やウルルン島を自分の
ものにしている。正に「悪の栄えた試しなし」である。東日本震災がおこった時も2ch
ネットでは散々に天罰が下った類の言葉とざま〜見ろの意見が上り ここで一気に日本
以上の経済大国になれると信じて疑わない人たちであふれた。設備投資や新規委託にふ
っかけての生産を開始したが、何のことはない日本は持ち前の協調主義と驚異の回復力
でより以上の技術製品が席捲したのである。更に韓国の機械産業は、震災直後の3月こ
そ一時的に輸出は増えたが、それ以降は半導体製造装置と工作機械などの主要品目で生
産と輸出につまずきが生じてより増える事はなかった。韓国の機械産業は対日依存度が
高いため、日本の内需が増えると部品調達が困難になったためだ。今回韓国機械研究院
が発表したした政策分析レポート8月の骨子は、日系装置メーカーの韓国進出が加速し
ているとはいえ、主要装置・材料の脱日本≠実現するのが困難である。と結論づけ
しているし、経済指標では「日本は名目GDP(国内総生産)で中国に 抜かれ、中国経済
にどんどん飲み込まれて、きっと生活は貧しくなる」と悲観する意見があるが、ほぼ間
違いであり、中国が経済成長を続ける一方で日本の成長がマイナスになっているならば
いざ知らず、GDPも外貨準備高も増えている。日本経済は後退などは全くしていない。




547: 名無しさんAA:12/10/07 12:59
それに、2011年10月、中国ではここ10年で初めて公示不動産価格が下落。無茶苦茶に
GDP成長率8%を死守してきたのに、2012年1〜6月期はついに7.8%と8%割れが確実
となったように、中国経済のスローダウンはすでに始まっている。更にあれだけウォン
安政策で国内インフレのリスクを取っても輸出に傾注しているのに、対日貿易で黒字に
なったことは過去一度もない。震災でわかったように、日本からのコアパーツの輸出が
止まれば、サムスンはスマートフォンの製造もできない。ウォン安・円高の中どんなに
購入価格が高くなっても日本製の部品が必要不可欠なのだ。韓国はデフォルトを懸念し
てか、日韓通貨協定での緊急支援額の増額を要請してきて、一挙に130億ドルから700億
ドルへ増額している。これが韓国経済の信頼性に寄与している現実は、言葉では言い尽
くせないほどで、韓国経済の生殺与奪権は日本が握っているのは現実である。」とエコ
ノミストは言い、日本人はそろそろ“自虐経済観”を捨てて田舎通貨のウォンが紙くず
にするつもりかこのまま通貨のままでいるつもりかを 韓国政府に問いただすべきだ。
と進言している。



548: 名無しさんAA:12/10/07 17:21
新 国際町民 143

 まるで TVゲームの世界のように なんでもありの嘘が突然やってきては言いがか
りをつける。これが今の韓国の実態どころか歴史上のこれまでもそれが実体だったのだ
ろう。正に一事が万時である。今回のヘリコプターの韓国「無断侵入」も難癖でしかな
い。、実際には日本側は事前に通告、韓国軍側も 了解していたし 日韓双方の複数の安
全保障筋によって護衛艦はウラジオストク沖での日露合同捜索・救難訓練に向かう途中
の公海上でヘリ発着訓練をもともと予定していた事を知っているものだったからだ。
だが韓国ニュースは”速報”あるいは”特ダネ”として伝える。
 KBSの4日夜のニュースで報道した内容によると、先月21日に竹島から54キロ
の 水域に接近した護衛艦を発艦した海自のヘリが竹島上空の韓国側防空識別圏に
「無断侵入」。韓国側は戦闘機を出動させたがヘリは竹島付近の上空に5分ほど留まっ
た後、警告を受け圏外に出た、と報じている。KBSは「他国の防空識別圏に入る場合
、事前の許可を受ける必要がある」とし、日本側の「手続き無視」を問題視した。また
その後の韓国メディアは一斉にこうした事の同様の内容を報じたのである。どこからこ
うした嘘が出てきているのか不明だが 韓国政府は突然に「作戦区域に入った」と抗議
してきた。のだ 
そもそも防空識別圏はは領空ではない。自国の領海領空とは異なり、たとえ事前通告が
なく入ったとしても、国際法上は全く問題はない。防空識別圏は各国の領空の外側にあ
る緩衝地帯で任意に定めて、航空機が圏内に入った場合の事故対応する為のものだから
だ。故意や悪意の侵入でないことが確認できれば問題なく航行を継続させるのがルール
のはずだが 彼らにはその国際的道徳ルールが理解できていないのである。この道徳か
ら来る慣習のルールが守れない事で歴史は捻じ曲げられ竹島やウルルン島を実行支配し
ているのである。又そうした事でウルルン島までが猿脳料理で客をもてなしたという。



549: 名無しさんAA:12/11/24 02:32 ID:YDQ
新 国際町民 79


大統領自ら竹島に行き 天皇を拝する日本国民を著しく傷つけた韓国は今や大変である
「韓国の不動産価格が今後50%下落する可能性もある。株式市場は今後2−3年で暴落し
、韓国総合株価指数(KOSPI)が1000ポイントを割り込むのではないか」とさえ言われる
。デント氏は季節に例えると、世界経済は「初冬」だと指摘した。一世帯の消費は子ど
もが高校を卒業するころ、すなわち世帯主の年齢が46歳前後にピークを迎え、それを過
ぎると減少する。米国の場合には1946−64年生まれのベビーブーム世代の消費が2007年
ごろにピークを迎えた。デント氏は「ベビーブーム世代が消費を減らす2020年までは
バブルは消え続ける。政府がいくら強力な景気浮揚策を打ち出しても、年を取ると小型
車に買い換えるといったライフサイクルに起因する消費減少を防ぐことはできない」
と指摘した。これは当たっている。日本のデフレ不況にあえぐ中で少し遅かったベビー
ブームは日本の観光客とそのままの援助や支援の金で国内は潤ってきたが 今やその
最後のお年寄りが万里の長城で死んで行くような時代が終わったのである。続いて中国
も追っかけるように一人っ子政策の陰りが今後の経済に影響を落とす。どこかの経済の
学者の言うように 人口縮小や人口比の変化と経済拡大との因果関係は決して同じでは
ない。つまり少子高齢化と不況とは重ならない経済モデルもかなりある。がしかしその
モデルは完全に自由化した人々の発想と縛られない政府の経済政策があっての事だ。
重要な事は軍事費に回すべき金を絞ってでも 経済発展と国民の流通経済の消費に寄与
した方策に手を打てば、の話しである。が今 中国も韓国もそうした事には無頓着であ
りミサイル駆逐艦の就航や国防費にかなりにつぎ込んでいるしこれからもつぎ込む意思
を明確に打ち出している。韓国人アルバイトの46.8%が「最低賃金ももらっていない」
との民衆の声が上がる中1681人を対象に実施したアンケート調査の結果は勤労基準法違
反は著しく多く 正当な弱者と強者の契約履行はなされていない。更に勝ち逃げを決め
込む多くの企業家は拠点を東南アジアに移そうと画策して 更に国内の産業空洞化運動
をして労働賃金からの消費経済を縮小させて止まない。今や中国の反日不買運動と同じ
に国内疲弊を加速させているのである。


550: 名無しさんAA:12/11/28 02:47
新 国際町民 79

東洋経済に「不倶戴天」の敵?韓国家電との戦い。という記事が載っていた。これは全
く興味深い記事で恐らく今の日本の苦悩を示している。日本人は性善説で何事も考える
傾向にあるが、海外市場では性悪説でないとサバイバルできないことを長く現地に住ん
でいる韓国人のセールスマンたちは良く知っている。だから現場、現物、現実を大切に
していると聞いている。と説く。中でも長年の技術の蓄積が簡単に韓国にリークされて
いる事実は看過しがたいが、日本の一流技術者が大量に韓国に流れている事は止めよう
がない。これは昔、日本がアメリカの半導体の技術を学びコピーさせてもらったことと
同じだから、仕方のないことだ。言うこの人はアメリカが日本が最初にICを完成させ
た事から軍との対抗策でLSI技術の委託生産させられた事を知らないらしいが それ
は兎も角スピリッツ精神、や開拓魂が今や企業も個人も無くなって来ていて、今では安
定生活を望み、「わざわざ外国まで行っても良いことがないいし、留学なんかは就活に
は不利じゃね?」という狭い見方の若者が多い事に現れている。と言っている。正にこ
の目は正しいのかもしれない。日本と韓国との違いを見ると、視野の広さとハングリー
精神の違いだと思わざるを得ない。昔は日本人にも、結構ハングリー精神があふれてい
たのだが、と嘆いているが この安定している平和である日本国内が一番と思っている
事が 既に不安定で戦争の兆しを持ち日本国内こそが一番の就職難でありながら成功の
ない世界である事を今だ若者は理解していないらしい。どこかで何かの教育が間違えて
いる現実がある。日本製品の数々は今や日進月歩の技術革新で世界での日本の基礎技術
や素材技術では韓国よりも10年から20年は日本が先を行っていると思う。としながらも
日本人の性善説思考は国際社会での地位を危うくしているのは 今に始まった事では無
い。


551: 名無しさんAA:12/11/28 02:48
方や韓国は既に1)グローバル化しなければ生きていけない国内市場にあり2)そ
の為の多言語の国内語学教育や商社や支店の駐在派遣も長期間にわたりシステムを充実
させていて3)既に国内競争は捨てて海外市場で売れやすくするための研究を何時もし
ている。としている。その結果4)三現主義や戦略的少投資で駐在員を置いている。と
分析している。アラブ市場に冷蔵庫を売るため、日本の家電メーカーは他社に負けない
ように常に世界最高の機能を装備し、競合メーカーよりも保証期間も長く、価格競争力
のある価格帯に抑え、アラブの金持ち相手に売り出したが たった一つの簡単な機能で
あえなく負けて撤退したという 例を持ち出している。技術条件は日本が優れているの
になぜ、韓国品だけが完売したのだろうか?それはマレーシアでもタイでもブラジルで
も頻繁に起きている現象だった。つまり現地人の苦悩に即して製作・販売していなかっ
たのである。


552: 名無しさんAA:12/11/28 20:01 ID:IY6
新 国際町民 80

 福沢諭吉「脱亜論」 1885年3月16日 時事新報

日本の不幸は中国と朝鮮だ。この二国の人々も日本人と同じく漢字文化圏に属し、同じ
古典を共有しているが、もともと人種的に異なるのか、教育に差があるのか、日本との
精神的隔たりはあまりにも大きい。地球規模で情報が行き来する時代にあって、 近代
文明や国際法について知りながら、過去に拘り続ける中国・朝鮮の精神は千年前と違わ
ない。国際的な紛争の場面でも「悪いのはお前の方だ」と開き直って恥じることもない
。 もはや、この二国が国際的な常識を身につけることを期待してはならない。  「東
アジア共同体」の一員としてその繁栄に与ってくれるなどという幻想は捨てるべきであ
る。 日本は、大陸や半島との関係を絶ち、 欧米と共に進まなければならない。ただ隣
国だからという理由だけで特別な感情を持って接してはならない。この二国に対しても
、国際的な常識に従い、国際法に則って接すればよい。悪友の悪事を見逃す者は、共に
悪名を逃れ得ない。私は気持ちにおいては「東アジア」の悪友と絶交するものである。

2Ch「新脱亜論」 

この脱亜論が出たのははるか昔 明治の初頭である。がしかし 朝鮮の為に戦い。中国
の為に大東亜共栄圏構想を敷いて 欧州の西洋列国に対応しようとしたものの 呼応し
世界の理不尽な奴隷制度や植民地制度と戦ったのは インドを初めとするマレーシア・
インドネシア・フィリピン・ベトナム・ビルマ・南洋諸島といった 他の国々だった。
中国では国内に毛沢東がロシアを引き入れて反乱を起こし 朝鮮では金一家が赤の部隊
を率いて日本に反旗を拡げ 朝鮮皇帝が日本に帰化したにも関わらず中国の最後の皇帝
を暗殺しようとまでするに至ったのだ。情愛の念が深い伊藤博文が暗殺されても尚朝鮮
の近代化建設に奔走した日本政府と言う過去があっても尚 朝鮮人の目には何ら映らな

553: 名無しさんAA:12/11/28 20:05
世界の理不尽な奴隷制度や植民地制度と戦ったのは インドを初めとするマレーシア・
インドネシア・フィリピン・ベトナム・ビルマ・南洋諸島といった 他の国々だった。
中国では国内に毛沢東がロシアを引き入れて反乱を起こし 朝鮮では金一家が赤の部隊
を率いて日本に反旗を拡げ 朝鮮皇帝が日本に帰化したにも関わらず中国の最後の皇帝
を暗殺しようとまでするに至ったのだ。情愛の念が深い伊藤博文が暗殺されても尚朝鮮
の近代化建設に奔走した日本政府と言う過去があっても尚 朝鮮人の目には何ら映らな
かったのだろう。今でも同じように 今や中国には5〜2兆円x30年間の無償投資が
政府から行われていた事を 中国国民の何割がしっているだろうか。或いは朝鮮との友
好の為にこれまでどれだけ国際社会から白い目を向けられていても 同胞アジア人とし
て自由社会の開門に後押ししたか知れない。日露戦争も日清戦争もあるいは第二次世界
大戦も戦後の朝鮮戦争も これまでどれだけの 平和で律儀な普通の日本人兵士が矢面
に立たされて命を削り散り逝ったのか。英霊として祭り上げられた同胞は数知れない。
にも拘らず この竹島問題同様 ウォンのスワップ保障や 当時の天皇家に友好奉納さ
れた朝鮮王室儀軌の友好の為に無償返却しても尚 この有様なのだ。

 支那、朝鮮とは 関わり合うなと忠告しておいたのに。。。。これが歴史のつぶやき
である。






554: 名無しさんAA:12/12/02 10:55 ID:AFA
新 国際町民 81

 支那、朝鮮とは 関わり合うなと忠告しておいたのに。。。。これが歴史のつぶやき
である。今頃は福沢諭吉や二ノ宮尊徳は 草葉の蔭で開いた口が塞がらない状態だろう
。ロシアから 洋上カジノ船として購入した船を本来の空母に改造し「遼寧」として蘇
らせた中国は艦を就航させた。今や艦載機の着艦訓練をして戦闘訓練にいそしんでいる
が この嘘つき中国が今やから「木材運搬車」だとして輸出していた 16輪大型トレ
ーラーが北朝鮮軍事パレードでの新型弾道ミサイルの発射台車両として映像公開され、
中国の企業から輸出され 北朝鮮への軍事物資輸出は安保理決議で禁止されている行為
をしたとして 国連安全保障理事会の北朝鮮制裁委員会で説明を強要されている。この
常任理事国でありながら安保理決議に自ら違反したことは、国連瓦解という大きな意味
を持つ。習氏は一昨年、朝鮮戦争への中国義勇軍参戦60周年に合わせ、「中国国民は
両国国民と軍隊が血で固めた偉大な友好を忘れたことがない」と述べて、これまでの間
、北との関係を「唇歯の関係」「血の友誼」と表現されるほどの血盟関係をしてをその
言葉を使われる事を避けていた前政権の中国の立場とは異なる発言で一昨年は、朝鮮戦
争への中国義勇軍参戦60周年に合わせ、「中国国民は両国国民と軍隊が血で固めた偉
大な友好を忘れたことがない」と飾った。温家宝は政権発足時日本のNHKの軍事費の
増加の懸念に「中国は他国に戦争に出かけて行ったり 戦争をけしかけたりはこれから
もこれまでも一度たりともしない。」との立場だったのだが 明快に交戦しこれからの
覇権主義を貫くと 習氏は叫んでいる。このままだと江沢民派は更に増長し彼は暗殺さ
れ更に世界を戦争に向ける軍事に近い全体主義政権が出来る事は必須であろう。これを
見た北朝鮮が「人工衛星」と称する長距離弾道ミサイルの打ち上げを予告した。表向き
軍備拡張を進める中国自身にも矛先が向きかねない。として北に対する嫌悪感を隠さな
いが、これは 中国・韓国が指導した発射実験であろう。
                          


555: 名無しさんAA:12/12/02 10:55
                          中国の部品で失敗した前回か
ら今度は精度の高い韓国・日本の部品に変え それを煽る形で韓国は宇宙ビジネスに参
加したいとロシア製宇宙船を韓国初の人工衛星搭載ロケット発射打ち上げ延期となった
「羅老(ナロ)」(KSLV−1)は、当分の打ち上げが事実上不可能になったばかり
である。ロケット打ち上げに関しては ソ連でもアメリカでも同盟国にその技術の開示
は絶対しない。中国では中ソ対立が起こった為に ソ連から体制亡命で来たソ連技術者
には退去命令が出た。その為長征二号は新たな開発となったとされる。1980年代か
らこれまでに幾度もある中国のロケット打ち上げは失敗の連続だったが、中でも、最も
悲惨なものがU−Tで紹介された。1996年2月14日に打ち上げられた『長征3号』は発射
直後に傾きだしそのまま近くの村に落下。落下した村は焼け野原、建物は倒壊という大
惨事になった。これを受けて中国は厳戒令を敷き 人民軍に片付けをさせ国家ぐるみで
もみ消しに当たったとされる。またそのときに発射場の近くにいた外国記者メディアは
外部へ出ることを許されなかった。打ち上げ場に数時間も軟禁されて、外部への情報を
一切遮断。打ち上げ失敗の証拠隠滅は徹底していた。ロケットが落下しただろう村は5
百名の死者と5千名の避難者がでるという前代未聞の悲劇となったと言われているのだ
が。こうした新型エンジンの開発には数多くの国が似たような惨劇を味わっている。が
唯一わが国のみが神経質な設計と海洋国である為被害を少なくして成功に至っている。
1990年以降の中国では人工衛星を飛ばし 有人宇宙飛行を成し遂げたとしている。
が軍事技術の転用からは免れず 日本のような精度の高い軌道投入にはなっていないの
ではないかと言われている。従って北朝鮮のロケットに中国の技術者が飛行技術の試験
に参加しているのではと疑わざるを得ないのである。だが問題は飛ばされる方向にある
わが国やフィリピンなどの有害物質での燃料での落下機体の土地である。失敗に終わっ
た北朝鮮による4月の長距離弾道ミサイル発射実験では、事前にミサイルの一部が領土
領海内に落下するとされていたため、フィリピン当局は当時、該当海域や空域で、船舶
やら航空機の運航を制限し その軌道下の安全に努めたのだが。 国家災害対策本部の
幹部は1日、共同通信の取材に「まだ報道ベースでしか発射予告は知らない。フィリピ
ン周辺に落ちないことを祈るが、4月と同じ状況なら万全の態勢を取る」と語ったとい
う。


556: 名無しさんAA:12/12/02 14:15
だいたい孫崎享のような 過去の歴史もあまり顧みない馬鹿日本人が多すぎるのだ。今
何故中国が尖閣の主張をしてるのか全くわかっていない。そもそも尖閣沖を国境線にし
ていた事実は確定している。だが中国や韓国民には 日本と言う国の認識は無いに等し
く、中華中心主義の中で日本なんぞは国と思っていないし自国領土と思っている。同じ
漢字圏同じ儒教圏として身内感覚で横取りしても構わないとする風潮なのだ。つまりは
クェートを攻めたイラクと同じ感覚なのだ。更に悪い事にこの国には今だ殺人も強盗も
体制側につけば何をやっても構わない共産主義なのだ。既に漁業権や商業権に行政権で
は共有化している。よっぽどの無い限り国内法を適用し かなりの領海侵犯をしない限
りは外国船の違法操業とは認定してはいない。EEZからみればガス田よりはるか中国
側に境界線はあるのだ。更に今回までの漁船長すら拿捕して捕まえても逮捕拘留までで
服役に即した刑を執行した経過は全く存在しない。それをいいことに今でも尖閣諸島の
海域を縦横不断に跋扈し威圧し自国領と唱え アメリカにはハワイから西は中国の権益
の領土とし日本列島や沖縄は今は日本人に貸しているだけと言う認識なのだ。だからこ
そ今回の尖閣国有化が 民間や右翼などとの摩擦が無い様に国が買った事は知っていな
がらその為の説明や釈明を放棄しデモによる国内扇動を起こしたのだ。つまり常日頃か
ら憎き日帝として教育し 時が来て隙あらばと狙っていて きっかけが石原氏や野田政
権の購入であったとしても いずれ沖縄まで分窃る算段は常にもっていたのだ。こんな
狂犬病をわずらったような国家はやはり常に噛み付き病気を流行される危険がある。国
際社会に病院があれば入院させるべきだが かつて日本に危険だとして平和憲法を押し
付け様に 今は中国や北朝鮮あるいは韓国社会がまともな法と秩序と常識のある社会に
自助努力してもらうしか方法はないのである。ここに日本の苦悩があるしその中華中心
覇権主義に賛同する者は大馬鹿者で不見識な者でしかない。


557: 名無しさんAA:12/12/02 18:15
尖閣問題にみる中国  53

【新華網】 ドイツ紙は29日、「ここ数年、中国は自国軍事力の増強に乗り出してい
るが、中国は世界で平和を最も愛する大国であり、中日両国間で衝突が起こることは懸
念していない」とのドイツのヘルムート・シュミット元首相の談話を掲載した。
同氏によると、「中国は大規模に軍備を拡張しているが、戦争する野心はない」という
。11月29日、ハンブルクで開かれた独中経済会議でシュミット元首相は、「中国は
世界で平和を最も愛する大国であり、これからのこの伝統は変わらない」と語った。
過去数年間、中国は軍事力の増強に取り組んでいる。先ごろ、初の空母「遼寧」を就航
させたが、同氏は、「中国は他国を侵略した歴史もなければ、他国を殖民統治した歴史
もない」と強調する。ドイツ国防長官を務めた経験もあるシュミット氏は、中日両国の
領土紛争に懸念を抱いてはいない。今夏、シュミット元首相は計12日間にわたって中
国とシンガポールを訪問し、現在は中国に関する新書を執筆している。

と伝えたとしている。こんな馬鹿をドイツ国民は首相にしていたのだろうか。中国その
ものが侵略した地にたった政権というのである。かつての中国の歴史上も始皇帝の時代
から戦争に明け暮れて、最後の清王朝まで一体どれだけ侵略戦争を繰り返した事か。そ
うした侵略し膨張した為にいまのような大きな領土を持つに至ったのである。そうして
その正統な革命者としての末裔は台湾でしかない。中国は貧民層からやって来た女がソ
連の部隊の暴行事件で産み落とされた毛家の末裔の毛沢東が共産党をバックに麻薬栽培
をして大金を掴み脅迫と殺人と麻薬と汚職に盗賊とあらゆる手段を使い 戦後に国民党
軍を追い出した結果の国なのだ。もともと国連の中に中国は含まれず台湾がいたのだ。
それはアメリカが日本から支配された奴隷の解放を謳い第二次世界大戦に参加したから
だが 国民党軍が負けてもソ連の手前アメリカは支援しなかった。その上に田中角栄が
残留孤児の哀しさから 日中国交樹立をしたので 日本の席は台湾から中国に移ったの
だ。



558: 名無しさんAA:12/12/05 23:37
新 国際町民 82


 我々日本人は今度の衆議院選挙に少し感謝しなければならないかも知れない。つまり
英霊が多数死んだ敗戦国家であったとしても こうした形ばかりの選挙と言えども自由
な選挙で右派、左派或いは保守・革新と言ったバラエティに富んだ意見の候補者がここ
に今出揃っている。確かに批判や罵声或いは力量不足の人達もいるだろうししがらみも
又あるかも知れない。しかしお隣の韓国のように血生臭い匂いのする退陣もなければ、
秘密裏に上層部の政権闘争の上の決定と言うヤクザのような指導者選びもなく北朝鮮の
ような政権とった家系が全ての実権を握ると言う 江戸時代の徳川氏のような体系では
さらさらないからだ。何故だか近頃急に 中国国民の悲しみが聞こえて来たように見え
る。ネトウヨ論によれば 関わり合いを持たない事に尽きると言う。しかし柳川に残る
安東省庵の逸話では、京都において松永尺五の下で学問を修めている間、日本に亡命し
てきた明の学者、江川入徳(中国名:陳入徳)から、朱舜水の人徳を知り彼の亡命帰化
に力を注いだ。1660年、安東は長崎に赴き、朱と会談し、師弟の交わりを持った。この
時、安東は日本に留住できるよう長崎奉行に働きかけ、6年間もの間少ない自分の俸禄
(200石)の半分を朱舜水のために使ったという。また、寛文3年(1663年)に長崎での
火事が起こり、朱の家が焼けたときも家を新築し、焼け残った書物や日用品をそこに収
めて無事を祝ったという。その為、当初は朱子学一辺倒であった日本で、朱舜水に諭さ
れ、陽明学なども学び その後の柳川藩財政を劇的に向上させた三鼎立法のもととなっ
たとされる。又これによって、日本での陽明学やら他の学門が広く世間に流行し幕末の
洋学編纂や自由貿易や自立自尊の海外からの博愛主義や自由民権運動やら米国独立運動
やら大統領選挙などの情報が容易に理解されたとされる。



559: 名無しさんAA:12/12/05 23:37
新 国際町民 82

そうした情報を得て 早くから支那朝鮮とは関わり合いを持つなと提言したのが福沢
諭吉その人である。がそれでも 南国薩摩の男おいどん西郷隆盛よろしく九州人は何故
だか この大陸に近いせいか、動きに影響があるせいか異常に優しい視点がある。過去
に置いても朝鮮百済が滅亡の時は百済王を受け入れ日向に匿った。とか 秦の始皇帝が
使い徐福が降りたと言う伝説も九州には多い。戦前伊藤博文が暗殺された後も又九州の
鉄道網を作ったとされる山縣有朋は 内務卿として伊藤を補佐し、市制・町村制・府県
制・郡制を制定していたが、あの征韓論者の西郷隆盛に城山の戦いでは、西郷へ自決を
勧める書状を送ったり切腹を説きながら内閣総理大臣に就任(第1次山縣内閣)しては
、超然主義をとり日本最初の帝国議会に臨んで、軍備拡張を進めたとされる。第1回の
帝国議会では施政方針演説において「主権線」(国境)のみならず「利益線」(朝鮮半
島)の確保の為に軍事予算の拡大が必要であると説いた事は 有名な話でそれはかつて
、長州征討で高杉と共に活躍し、戊辰戦争では北陸道鎮撫総督・会津征討総督の参謀と
なった時の盟友としての言葉であったのかもしれない。日清戦争では、56歳にもかかわ
らず第一軍司令官として自ら戦地に赴きて作戦の指揮をとったと言われ、日露戦争では
参謀総長として日本を勝利に導いたとされる。その為伊藤博文が暗殺された事も加わっ
ては、明治末期から大正初期にかけて山縣の発言力非常に増大し軍閥を形成させたと言
われ その事が同時に反感反発も大きくなり その後当時新聞記者だった石橋湛山には
山縣の死を「死もまた、社会奉仕」と評したほどである。と書かれている。病没した大
隈重信の葬儀は国民葬とされかなりの民衆の参列だったが、彼は国葬としてそう多くの
国民的支持を得なかったとされるが それでも生前は「元老中の元老」として隠然たる
影響力を保ち、「日本軍閥の祖」とまで言われる程だった。その彼にしても この大陸
の動向には 日本の未来にしてやむなし。の結論を得て 朝鮮に満州経営の為の工場群
を投資させたのである。


560: 名無しさんAA:12/12/08 02:19
新 国際町民 83

スイスの国際経営開発研究所(IMD)のレーマン名誉教授は12日、同紙に寄せた寄
稿文で、日本はアジアでリーダーシップを発揮できずにいるとし、「過去の蛮行に対し
驚くほど良心の呵責を感じていない。」と驚くほど痛烈に批判した。また、周辺国との
平和的な関係にないことを指摘し、「最近の日本の行動は世界とアジアの隣国にとって
、深刻な安保上の脅威だ」とまで主張した。これは今月9日の同紙に掲載された、米国
コンサルティング会社、ユーラシア・グループのブレマー代表らの寄稿文に反論したも
のと言われる。ブレマー代表らは、正確に分析した結果の、中国の台頭が米国の重大な
挑戦を見抜いて、「米国は新しい世界秩序のため特別な関係を結ぶ必要があり、日本が
そのパートナーになるべきだ。韓国は地政学的に米国の必須のパートナーにはなり得な
い」と提言主張したもので、これに対し、レーマン名誉教授は、ブレマー代表らが提案
した日米の関係について、「初めから成功する可能性はない」との反論したのだ。だが
理由として、言っている主張は偏見に満ちている。


561: 名無しさんAA:12/12/08 02:20
 「米国が第2次世界大戦後のように日本の責任に目を向けないまま、アジアの中核的
な同盟国に組み込めば、アジア地域の状況をさらに悪化させる」といい。また「日本は
他のどんな国より内向きな国になり、国際問題に日本がどういう立場を取っているのか
、誰も知らない」と指摘したのである。その上「ある外交筋は、女性の人権問題である
旧日本軍の従軍慰安婦問題について、「日本の非常識な態度が、日本の国際的な立場を
弱める要因になっている。」とまで話した。しかしこれは日本人の考え方や日本の気候
風土更に日本人の仕組みとその心を全く触れないで知らず判らずに、韓国や中国のプロ
パガンダに乗せられて、闇雲に反論しているとしか言えない言葉である。 世界大戦後
からこれまで行く度か危機は訪れた。だが日米安保と共に日本と米国は手を組み 肩を
並べてからもそれらの国際的危機を回避して今がある。更に 中国の台頭は今始まった
問題ではない。国際連合から国際連盟に和名は変わったが実は米ソ冷戦時代に台湾代表
から今の中国代表に変わった。本来座っていた日本が敵対国となり敗戦国となった為だ
が この事実からも日本についてのレーマン教授の言い分は言いがかりとしか言いよう
がない。更に慰安婦問題だが 日本は今沖縄での米兵暴行事件が後を絶たない事に苦慮
している。日本で娼婦がいた時代は世界中に娼婦は公然といた。この現実を黙秘しては
正しい歴史ではない事は自明の理である慰安婦があったが其れが軍が関与していたとし
てもそれは各国同じであったはずだ。だが日本では特に恥の文化から優秀な管理によっ
て表も裏も民間がやっていた事は事実であるだろう事は論理的に簡単な解答だろう。



562: 名無しさんAA:12/12/08 03:35
 基本的に召集令状ではあっただろうけれども 一般人の収入のおよそ3倍から5倍の
給金で外地に赴ねいた兵隊は高級取りとは言われたが その兵隊の一ヶ月分を娼婦達は
一日で稼ぐほどだったと言われている。当時はまだ丁稚制度が残っていた時代で 男も
女も身売りされたし 手に職をもち一人前になる為にはおよそ5年間ぐらいは盆正月の
里帰り金ぐらいしか与えないで働かされていた時代で ほとんどの学問のない平民では
食わせて貰い有り難いと言う時代であり 金その物が成功した人達やら公家や伯爵地主
などの家系のものしかあまり持たないもので それこそ学校出と言われる人しか給料が
もらえる商店にはいけなかったのだ。だがその給料より高い兵士のその上を行く娼婦達
が如何に人が群がったかは想像だに固くない。命をかけた兵士達より給与が高い事は、
兵士の特攻隊が安い事でも知られている。それを世話する年長兵あるいは指揮官の方が
大抵は高い給与と言う体系だったが 権利義務は幼年兵や志願兵の方が強かったのだ。
つまり 威張れる人は金ではない誇り高い意識で戦っていたのである。今の経営者が一
般労働者の給与や会社経営に自宅を担保に金を用立てするように 日本人の気質はそう
したものなのである。



563: 名無しさんAA:12/12/16 08:51
新 国際町民 186

 北朝鮮のミサイル打ち上げが成功した。実はこの成功に中国の影が見え隠れしている
。知っての通り 北朝鮮にあるスカッドミサイルは今やロシアから直接買取ではない。
中国のとある軍部を通じて買っている。その為に移動式になる下のトレーラーの架台も
中国メーカーからの購入となった。北朝鮮では黄海内の漁業操業では中国と韓国の間に
圧されて全く不漁に近くなりつつある。この事で韓国・中国間では海洋警察が不法漁民
に殺される事件すら発生している。その境界付近での岩礁に領有権問題の発生はかなり
の深刻な問題だったが 中国領と何故だかその強気の主張を今回取り下げた。韓国外交
部は、「中国側が『蘇岩礁を管轄範囲に入れる意思はない』と伝えてきた」と明かした
。中国メディアが先月、中国政府が遠隔操作で上空から海域の様子を監視・観測できる
無人航空機を投入し、蘇岩礁(離於島)を含む「すべての管轄海域」の監視を強化する
方針だと報道し、これを受けて韓国政府は中国側に公式見解の表明を求めていたのだ。
 これに対し、中国外交部は「海洋巡視機関の担当者の個人的見解」と回答し、中国が
蘇岩礁を「管轄範囲」に含めたとの報道を受けた韓国では「韓国の排他的経済水域に対
する管轄権行使を守るため、全力で対処する」と強い反発が起きていたが その矛先を
収めた形だ。ここに中国と北朝鮮のタッグが見れる。




564: 名無しさんAA:12/12/16 08:52
先の天安艦沈没の事件の真相は、
あまり見えないが 北朝鮮はその海洋の自給食糧に必死であるとされ このまま韓国と
中国の乱獲競争で北朝鮮領内の少ない漁獲高が無くなれば 北の窮鼠猫を噛む行為に及
ぶ可能性も高い。これに対して中国は韓国内の反中ムードは域内経済から芳ばしくない
し北の今の実験の不成功も危なくて仕方ない。そこで対日で統一戦線を張り 中国はこ
の尖閣を領有する事での漁獲拡大と北朝鮮に技術者を送る事でその失敗の無い発射指導
に至った。又韓国に対して域内経済を拡大し領有権問題を棚上げする事で決着をみた。
 韓国は知っての通り 相も変わらず北と中国・日本と米国を行ったり来たりの主張を
して 安保に竹島で反発しては 更にはロシア製のロケットを購入して飛ばそうとして
いたが その為に国内経済は行き詰まり 米国日本からは信用を無くし 北と中国に又
いいようにされて 貿易赤字を繰り出しては 国内疲弊や銀行破たんを繰り返ししそう
だ。


565: 名無しさんAA:12/12/16 11:22 ID:edI
 今や中国経済も先が無い。信用のない通貨元が世界に出回った事で 欧州社会が疲弊
したが 又欧米の経済が盛り返した事をみれば、地球上に出回っている金すなわち市中
の紙幣が信用の無いアジア紙幣を一掃するのに成功したのかもしれない。上海指数のみ
単独の動き、中国政府の介入が示唆され やっと持ち直したみたいだが、この度米議会
の犯罪活動の資金洗浄の温床と指摘されていたHSBCなどのメキシコやケイマン諸島
から各国への送金がやっと止まったのかもしれない。HSBCが十分な資金洗浄防止策
を取らず、経済制裁を行っているイラン関連の取引にも関与したとする報告書を公表し
、HSBCも不備を認め謝罪し、罰金を司法省などに支払うことで近く和解する見通し
がついていたものだが。付随して調査を受けた三菱東京UFJ銀行も ミャンマーへの
支払いが発覚し 米国の経済制裁対象国に違法な送金をしていた可能性があると発表さ
れている。米財務省は(約6億9000万円)の違約金支払いで、和解合意している。



566: 名無しさんAA:12/12/16 11:23
又中国の台頭から格付けを適当にしていた格付会社の検査が 2010年4月から日本
でも順次実施されていて やっとまともな判断材料を提供してきた事も欧米の景気に拍
車となっている。2011年末の対外純資産が253兆円というデータは「断然トップ
の海外純資産保有国の日本でありながら、勝手に”日本が危機”ということをあおり、
資金のレパトリ(引き上げ)を起こさせて、その結果に欧米の主要国が危機に陥ったの
は全くのこのS&Pなど信用格付け会社が、検証や更新を適切・継続的に実施するため
の業務管理体制の整備が影響力に対して不十分な様だったからだからだが、同委員会は
、住宅ローン会社や連邦監督当局、米金融大手を対象に2年間にわたり金融危機につい
ての調査を続けていてやっと犯罪を明白にした。同委員会報告書によると米格付け会社
ムーディーズ・インベスターズ・サービスとスタンダード・アンド・プアーズ(S&P
)は07年に、ゴールドマンやスイスのUBSなど8社以上の金融機関から圧力を受け
、証券の格付け方法を変えたとしている。この2社は複雑な住宅ローン担保証券の安全
格付けを引き上げるよう金融機関から求められ、規則に例外を認めた。このこの事で、
米国金融危機を招く一因になった事が判明している。




567: 名無しさんAA:12/12/16 11:55
 しかし HSBCはめげないらしい。日本で買収は不必要、独自路線で成長目指す。
=HSBC会長発言としている 2012年9月20日、香港上海銀行(HSBC)は、中国2012年9月
製造業購買担当者指数(PMI)の初期値を8月より0.2%高い47.8%と発表していたがその後
10月53.511月52.1としている。PMIは50を水準ラインとして、100に近いほど経済が
拡大、0に近いほど萎縮していることを示している。中国のPMIは11カ月連続で50%を割
り込む見込みとしているが正に上昇機運である。そこから経済悪化傾向には歯止めがか
かると予測されている。しかし米ISMが発表した11月の製造業部門景気指数は49
.5と、10月の51.7から低下したHSBC発表だったが、マーケットが発表した
11月の米製造業PMI改定値は52.8で、速報の52.4から小幅上方修正され、
6カ月ぶりの高水準に戻した。HSBCが発表した最終の中国製造業PMI改定値は1
1月を50.5となり、1年1カ月ぶりに節目となる50を上回ったと言う。ユーロ圏
製造業PMI改定値は46.2で、景況感の分岐点となる50を16カ月連続で下回っ
た。ただ、10月の45.4よりもやや改善した。インドや韓国などが、43・48な
どをみればその他のアジア諸国の見通しはさえない中 中国の数値は全く考えられない
架空の数値といえる。


568: 名無しさんAA:12/12/16 15:18
新 国際町民 187

 野田佳彦首相は4日、東京都内のホテルで中小企業経営者約20人と懇談した。経営
者側から足元の円高への対策を求める意見が出たのに対し、首相は「むしろ円高を生か
してやっていくしかない」と語り、経営戦略の転換が必要との認識を示した。出席者に
よると、首相は環太平洋経済連携協定(TPP)への交渉参加問題と、消費増税と社会
保障の一体改革を挙げ、「先送りせずにやっていく」とあいさつした。という。彼があ
の菅内閣時蔵相になって途端に円高が進んだ時、根回し連絡をせず通貨介入に走った。
彼自身はこの行為は自我自賛したが日本非難に繋がった。この時ももし根回しした後の
ドル購入であれば日本はより少ない資金とより効果ある成果が上げられたはずだった。
その時のドル安円高が日本産業にとっては異常であるとの発表が いつの間にかこうで
ある。尖閣問題も同じである。東京都は公明正大に発表し公けにしている。
論文「『丸山眞男』をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」を発表したフリーライターの赤木智弘さん(37)。アルバイトをしながら執筆活動を続けるポストバブル世代だ。
 論文では「きわめて単純な話、日本が軍国化し、戦争が起き、たくさんの人が死ねば
、日本は流動化する。多くの若者は、それを望んでいるように思う」と、若者の貧困化
と右傾化を分析した。あれから5年余。赤木氏は「景気が良くならないまま、年齢が上
がった分だけ私たちの状況は悪化している」と話す。「バブル崩壊後に社会に出ざるを
得なかった私たちの世代には『置いて行かれた』という思いが強い。何年か早く生まれ
ていたらと思ってしまう。だから『取り戻す』という言葉に、胸の奥底を揺さぶられて
しまう。」と。がそれは日本人でなく中国人が何よりも思っている事だ敗戦国日本の様
に自由になりたい。と




569: 名無しさんAA:12/12/16 17:05 ID:edI
新 国際町民 188


 中国脅威論が今や現実となっていく中、その最前線に立つのが台湾だ。かつて台湾の
民主化を指導した李登輝・元台湾総統が、尖閣諸島の問題において日本がとった外交の
まずさを指摘している。* * * NESポストセブンでの書き込みは的を得ている。
 2010年9月に起きた、尖閣諸島沖の漁船の蛮行については、米・国務省が「尖閣諸島
は日米安全保障条約の範疇である。尖閣諸島は日本に属する」と明言しています。です
から国連はそれ以上、言及しないでしょう。その意味では、尖閣諸島の問題はけりが 
ついたと考えていいと思います。 とはいえ、ここで日本の外交問題のまずさが露呈し
ました。中国は、台湾と日本との関係を切り裂こうと目論んでいるのです。当然、船長
は軍人であり漁民などではありません。国境侵略行為に対して早々に釈放せずに、法的
措置を取るべきでした。外交の立て直しが急務です。
 今後 中国を相手にするには、恐れず、怯まず、強い姿勢で臨むことが重要だろう。
かつて、私が台湾の民主化を遂げた時もそうだった。1996年の台湾総統選挙で私が優勢
になると、中国は台湾海峡にミサイルを撃ち込んで威嚇したが、米国が空母2隻を派遣
すると、途端に押し黙った。こうしたやり方は中国の常套手段だ。(中国は)まずは「
ミサイルを撃ち込むぞ」と脅して出方を観察し、相手が怯えて自分が威張れそうならば
無理難題を通そうとするが、毅然とした態度で対応されて不利となると、それまで威張
っていたのが嘘のように平然と矛を収める(国)なのである。
 竹島や尖閣諸島の周辺海域について橋下徹大阪市長などは「共同管理」を唱えている
というが、極めて危険な発想で、(これまでも)日本が譲歩すればするほど、中国は、
周辺海域を我が物顔で航行するようになったし、「共同管理」が合意されれば それを
理由に尖閣に上陸し、。米国と肩を並べたがっている中国の太平洋進出戦略を通すだろ
う。そして米国は日本と中国の戦いに出れなくなる。尖閣から日本領土の侵略そして、
華人の越住が始まるのだ。



570: 名無しさんAA:12/12/22 18:38
新 国際町民 144

 日中国交正常化当時条約局長だった栗山尚一前駐米大使は過去の行為にこう語った。
「歴史問題に関しては、毛沢東、周恩来は争点にしなかったんです。それをやると、肝
心の正常化自体がごたごたするし、田中さん、大平さんが日本に帰って窮地に立つだろ
うという判断があったんですよ。おそらく。だから 72年のあの場で田中さんをこの
問題で追いつめることはしなかったんですね。40年前にやったことは正しい。日本に
とっても正しかったし、中国にとっても正しかったのは、その後の40年の日中関係の
発展ぶりが実績でもって示している。日本と中国が利益を得たばかりではなくて、アジ
ア全体に経済、安全保障、政治でも アジア地域が安定して、戦争をしないという状況
が続いているということで証明されていると思うんです。」と言い切った。が、果たし
てそうだろうか。中国にとってはその進歩から正解だったであろう事は言える。だがし
かし 周辺国の日本ではどうだろうか。特に台湾などは今や吸収されるほど異様な威圧
の中にいて 自由陣営の中で唯一 最先の前線の中にいる。この栗山氏の間違いはもし
日中国交が結ばれず 中国が破綻した国家並みの中に陥ったとして 一体戦争になった
のだろうか。と言う事だ。北朝鮮と同じような大国になってはいただろうが 韓国が今
北朝鮮と戦争していない理由は只一つ 韓国のほうが経済的にも軍事力でも或いは技術
学術においても 北朝鮮をはるかに凌駕した地位にあるからだ。では中国はどうだ。今
までは 他の国々にチョッカイを出せるほどの地位も力も無かったが今やフィリピンや
ベトナムマレーシアタイ台湾日本更には南アフリカナンビア他多数の国民が その覇道
の末の末世崩落思想に悩んでは抗議しているではないか。何とも奇妙な説話を堂々と言
う日本高官のOBには嘲笑される言葉を良くしゃあしゃあと記事にさせたものだと思う
 過去の間違いが今の現状を産んでいる事は全く異論のない答えと言う事が判らない程
馬鹿を政府は給与を払っていたのである。これこそ無駄金というものである。



571: 名無しさんAA:12/12/22 19:07
新 国際町民 145

 もし 中国人を無条件に愛するならば この経済発展で幾ばくかの人々は 平和理に
幸福の人生の中を歩いている。もし日本人としての 次世代の憂いがないのであれば、
それはそれで結構なことではあろう。しかし現実にはこの震災にも原発事故にも雇用の
問題やら社会保障の問題でも フィリピンや台湾が日本に与えてきたお返し、すなわち
円借款の返済よりは 勝れてはいないどころか 日本の技術・人脈・システム・機械・
顧客・地位と数限りなく盗まれた上に 日本国内の精神構造やら自然の中の緑さえもが
全く迫害をうけるに当たったのである。この結果を一体どの議員が良かった日中国交の
恩恵だなどと言うのだろうか。毒入り餃子やら高い猛毒付の野菜や玩具を輸入しては、
輸出する数々の品物は全く見分けのつかない模造品として国内販売され 挙句のはては
資金提供する日本人の 最も愛する中国の風物詩としての情緒ある町を作って営々と営
んできた水辺の暮らしを 大型機械で立ち退き用の補償もなく強権的に壊され追い出さ
れ、観光すらままならない様相に変え その資金提供の国を敵視した嘘の歴史で固めた
戦争博物館などという全くの贋物を堂々と使い迫害の教材に仕立てては人類共通の苦し
みや脅迫を国家としてやる国を どうしてそうも礼賛し賛辞を述べて 御輿のように祭
り上げる事ができるのか 不思議である。ミサイルというすなわち国家の剣が日本に向
かい矛を収めていない国に 何ら腰につけず楯も持たず話し合おうと近寄る愚民は世界
のなかでは 日本をおいては他にはいない。更には 日本の指定暴力団の多くの関わり
ある 麻薬取引 売春婦の人身売買 武器弾薬の密輸入に 中国韓国などの違法外国人
がかなり多数暗躍しているのは 周知のとおりであり これらを後ろからあおっている
中国共産党に 何故そうもこびへつらう経営者や報道機関や議員がいるのは 全くどう
言う了見の基にあるのかが 全く私には理解不能である。中国の人道的正常化へ道はま
ずない。もしあるとしたら そうした今平和理に幸福の中に走り込んだ人達の行動でし
か中国の人情の再生や経済の創造はない。

 


572: 名無しさんAA:12/12/23 02:10
新 国際町民 145

アメリカ東部の小学校で男が銃を乱射し、児童ら26人が死亡した事件のあと、銃の規
制強化を求める声が高まっている。このことを受けて、銃規制に反対する有力な団体で
ある 大きな政治力を持つことで知られるNRA=全米ライフル協会は、21日、首都
ワシントンで記者会見を開き極めて強く銃の規制に強く反対しました。
この中で、NRAのラピエール副会長は「メディアは、さらなる銃規制がわれわれを守
るという間違った考えを言い続けている。子どもたちをどう守るのかという最も大切な
ことを誰も話していない」と述べ、アメリカのメディアや規制強化を求める人々を批判
しました。そのうえで、「銃を持った悪人を止めることができるのは、銃を持った善人
だけだ。すべての学校に武装した警察官を配置するため、必要な措置を今すぐに取るよ
う議会に求める」と述べて、銃の規制ではなく学校の警備こそを強化するべきだと強調
しました。
 こうした意見は 欧米流の極めて多数の間違えたすり替え論理の象徴である。全米に
広がっているこの危険性は 2つの意味合いを持つ。一つはこの教育と言うシステムに
子供を使って銃を乱射させて 公然と強者の論理を蔓延らせている面である。すなわち
このNRAはそもそもの 人殺しの道具に対しての非人道な行為の為の方策を日常化さ
せる事を 何の躊躇もなく声明を出している事だ。例え警察であろうと裁判官であろう
とも絶対的善人すなわち神のようのな警備員がいようか。いるはずは無い。又逆にこの
子供らの中に次の銃乱射事件が起きたとしても 銃を持つ警備員がいたから止まるとい
うものではない。現にこの事件後には幾多の場所で 学校に銃を持ち込んだ子供が「今
回の事件のような事があると怖いので自己防衛の為に持ち込んだ。」と言って捕まって
補導されている。もう一つの間違いは こうした間違いの論拠を正すべき教育の場が今
狭まれている。と言う現実だ。コンピューターと通信が今や統合的役割を持つのが当た
り前になり 人々が内向きの娯楽に走り 内面的精神が病む傾向にある。この学校制度
も今や各国で破綻寸前で 何とか共通の善公共の理を教えてはいるものの その危うさ
は これまでの大戦以前状態とも言える。この二つの問題を大きくするのがこうした銃
剣類の所持である事は間違いない。麻薬にも似たこうした人を有頂天の特権を与えるも
のは ある意味死を選んだ時なら誰でも陥る錯覚と倒覚を起こさせて止まないはずだ。


574: 名無しさんAA:12/12/24 21:46


”自民に入れたウヨは発狂モノだろうけど、このぐらいのバランス感覚でちょうどいい
。今更竹島が返ってくるとは思えないし、揉めたいわけでもないしね。調子こかない程
度に牽制しておいてくれればイイって国民がほとんどなんじゃないかな。 ”
”日本側は配慮してるのに、馬鹿チョンは自分たちの要求が通ったと思い込むんだよな
ぁ。 で、配慮をやめたら逆ギレ。 いい加減、一方的配慮は無断だってことに気づいて
欲しい。”
”自民党が譲歩譲歩の繰り返しで在日朝鮮人の帰化条件が簡単になり韓国、北朝鮮建国
後に密入国してきた朝鮮人にまで在留を許可しその子孫には国家試験、教職に就ける権
利まで与え 終いには民主党を応援する財力まで与え、ここまで優遇した見返りが野党
暮らしのプレゼント馬鹿じゃね。民団に対して何もやり返す様子もなければその親玉の
韓国政府にいきなり譲歩と来たもんだ。飴と鞭なら理解するが飴、飴、飴の糞配慮いい
加減に米ソ冷戦時代の反共韓国優遇政策から卒業して欲しいわ脳ミソが冷戦時代で止ま
ってるんだよ老害政党戦後何代まで韓国のケツを拭いてやらないといけないんだよ”

すなわち 一つでも譲歩すれば5つも6つも威嚇や物乞いしてくる国とは 全く当たら
ず触らず 国交断絶とは言わないまでも 敵視しないまでも冷遇したままで付き合うべ
きで 貿易も経済も全く近付けさせない事が肝要である。 という話しである。



575: 名無しさんAA:12/12/30 17:44
新 国際町民 146


STXグループは28日、「STXフランスが米ロイヤルカリビアン社から22万50
00トン規模の超大型クルーズ船2隻を受注した」と明らかにした。今回受注したクル
ーズ船は、STX欧州が09年と10年に建造した「オアシス・オブ・ザ・シーズ」「
アリュール・オブ・ザ・シーズ」並みの世界最大規模。全世界で運航中の20万トン以
上のクルーズ船はこの2隻だけだ。STXグループが受注したクルーズ船はサッカー場
3・4面ほどの大きさで、全長361メートル・幅66メートル、高さは72メートル
で16階建てビルとほぼ同じ。船室は2700室で、乗客・乗務員など最大9400人
を収容できる。船上には長さ135メートルの船上公園もある。この船はSTXフラン
スのセント・ナザレ造船所で来年9月から建造される予定。と発表された。
 今や韓国の企業に買収されたSTXが安い韓国鋼材による造船を格安大型クルーズ船
を建造しようと発表されたが 本体の韓国国内では造船不況のあおりで戦後初の首切り
をしてこの不況を乗り切ろうと躍起になっている。つまり今後も伸びるだろうウォン高
は多分この企画を駄目にする可能性大である。円安によるハイテク日本部品は安くはな
るだろうが今や風前の灯である。現代重工業は、世界1位の造船メーカーで、ポスコは
世界の鉄鋼業界で粗鋼生産能力4位、競争力は1位と評されていたが、この超優良企業
でさえ 今までのウォン安の政府主導の格安製品で力をつけてきた為最近は不況で大き
なダメージを受けている。昨年までは 国内5大造船会社(現代重工業・三星重工業・
大宇造船海洋・現代尾浦造船・STX造船海洋)の他の会社も昨年までは受注目標を大
きく超えてその忙しさは不夜城とされる韓国南海岸の造船ベルト地帯は大賑わいだった
。だが今や仕事が急減して先月20日夜、慶尚南道統営市道南洞。例年の“不夜城”と
なるこの街は閑散とし、ほとんどの飲食店が“開店休業”状態だと言う。




576: 名無しさんAA:13/01/02 18:41 ID:P/2
新 国際町民 147

 今世界が見守っているのは 少子高齢化した日本経済のデフレ脱却という壮大な実験
である。アベノミックスと言われるインフレターゲット論は 日銀買い入れと同時に多
くの投資家から受け入れられ 今や株高と円安に少し日本の中小企業には 安心感が起
こった。本来であるアメリカの進める加工貿易立国を目指す事の障害と見られがちだが
今はまだ文句をつけてはいない。と言うのも恐らくアメリカにとっては円安だろうが円
高であろうがあまり関係が無い事に気付いたのだろう。問題なのは対ユーロであり対元
なのだ。すなわち円はその指標である単位に過ぎず 円安も円高も米国経済には一向に
関係なく輸出も輸入も変わらなかったのである。それは日本人が進めてきた現地化政策
現地生産方式によるものであり 企業はこれによってつまりは利益が左右されてもその
大幅な変更のない流通に乗って生産しているのである。つまり幾多の部品の一部が安く
なろうが他の部品が高くなり あるいは一部が高くなっても安くなる部分において結局
は車や他の品物でもそうした集合体においては何ら変わることが無かった事だ。問題は
毒のついた粗悪品である中国の品物に如何対処するかでありその意味では米国も日本も
同じ構図の中にいる。すなわち円安でも円高でも いずれにもメリット・デメリットが
あって、特にエネルギーと言う基幹部分の輸入に対処しなければならない問題だ。原発
が稼動しないままの日本では更に厳しく 物価が上がってデフレ脱却となっても現実の
国民所得が上がらず給与の上昇が見られなければ 国内需要に消費が上がらず今以上の
デフレ突入に入り 政府財政すら破綻する可能性が高い。その意味では米国はより安い
円安にはまったく至らないと見ているし 株価も急激な高い位置に来たが より以上の
上昇は不可能と見ている。つまり実質経済が伴わない乱高下ではバブルの再来となると
の危惧があり 安倍氏はアベノミックスを唱えるだけで 実質に財政出動させる事は大
きく国家財政を破綻させる。それが解っているはずだとアメリカ筋は見ている。つまり
はこの今の発足時経済を維持させる事で2年続けば そのままきっと良くなると判断し
ているのである。



577: 名無しさんAA:13/01/03 18:45 ID:hso
尖閣問題にみる中国  71


 「ひかりの輪」代表を務める上祐史浩さんは、昨年末に上梓した『オウム事件 17年
目の告白』のなかで、自らの経験と重ね合わせ、加熱するナショナリズムに警鐘を鳴ら
しています。「独善的な思想を持つ者は、宗教であれ、ナショナリズムや経済思想であ
れ、みな敗者となったのではないか。最近の外交問題の背景にもナショナリズムがある
と言われる。国家神道だろうが、中国の中華思想だろうが、韓国の小中華思想だろうが
、自国を他国の上に置くのであれば、オウムのようなカルト教団と似てくるのではない
だろうか」とかつての凶悪犯罪事件オウム事件のフロントを務めた彼の口さえも心配す
る言葉が出るほど日本は岐路にいるのだろう。が 日本が軍事を拡充して対処する事は
王道である。近隣を外交によって銃を下させる事も大事であろう。が韓国や中共などが
相手ではそれはアメリカのスクール事件の狂人と同じであり相手する事そのものが異常
な事の入り口であり相手しないに限るのだ。特に韓国などは あの北斗の拳ではないが
安倍政権が出来た時点で「既に死んでいる。」経済の中にある事に現代以下主要財閥は
日本の財閥企業に日参すべき時期にある。だが多分に自己保身と妙な自信過剰な誇りを
持っていてそれは出来ないだろう。更に何と言っても日本人や日本企業はそうした会社
の買収や合併には不得意である。弱い敵に更に叩いて買い取るなど非情な禿タカバンク
のような事はしたことが無い。だがこの優しさがが逆に中国や韓国を苦しめる。つまり
対日抗戦とした批判の矛先とならないのだ。もし日本企業が現代財閥を買い取るのであ
ればそれこそ徹底して日本批判が生まれるであろうが そうはいかないのだ。日本が関
わらない限り批判は当たらない。もともとあのアジア危機で韓国経済が落ち込んだ事さ
え日本が手を差し伸べなかった。と批判するほどの他人のせいにする民族なのだ。



580: 名無しさんAA:13/01/04 11:23
 これらの悪辣な反日論説が 北朝鮮との壁を払うべき努力をしているKCIAがらみ
の中国ないし韓国の諜報活動部員で発しているロビイストである事は その論説の趣意
からわかる。又時期を同じくして北朝鮮は今や新しい韓国大統領に融和政策を懇願する
ような発表をし韓国も又次にやってくる核実験に戦々恐々と次の出方を考えている。そ
こにあるのは対日批判か対米批判しか合意に達するものは無いのが現実である。対米を
強硬すれば今やミサイルの脅威に襲われる米国民が戦争は公共事業とする体質で狙われ
かねない。一方対日本では批判して戦後補償を取れればそれはそれで結構な話である。
と朝鮮人は考えたのだろう。輪をかけて 今や中国の尖閣問題と韓国の竹島問題では、
経済が冷えて対日からの投資はなくなり 今や憎き日本の国民感情がある。更に安倍氏
になった事で、これまで竹島問題を国際調停裁判に上奏するとした政権が振り出しに戻
ったのである。これを契機に安倍政権を叩いておく事は日韓関係を有利に進めるには、
最も都合良い時期であり 今回の新大統領に強硬な対日姿勢を貫いてもらわなければ、
この韓国や中国の軍事費の削減すら行いかねない。額賀特使もやってくる前である。そ
の中で片や仲良く片や威圧し やさしい日本を揺さぶって譲歩を引き出すというのは、
この大陸側の主要な姿勢 常套手段なのだ。その政治的陰謀にNYタイムズが乗せられ
ている事は 日本にとっては厳しい現実なのである。
  


581: 名無しさんAA:13/01/04 18:53 ID:WCc
新 国際町民 150

 石破茂自民党幹事長が12月下旬のテレビ番組で円相場について「1ドル85円から
90円くらいにどうやって収めるか考えなければならない」「円は安ければ安いほどい
いのかというと日本の産業構造上、そうではない」と述べたことが大きく報じられた。
この発言後 安倍政権が出来ると言う事が決定になった時点で安倍氏と日銀総裁の会談
があった。こうした流れを受けて市場関係者は野田氏の政策を尻目に好環境が来るとし
相場と外為が動き出した。この石破氏の発言が経済界と一致した意見である事は大きく
影響してバランス感覚を持った政府高官が存在することは市場関係者から好印象材料で
は日本をバランスのある市場形成に向かわせた。今や全世界が製造や輸出のパイを取り
合う形で、世界経済の成長率が低下している現状を見る限り、日本企業を取り巻く環境
かなり厳しいと考えるのが自然だろうが こうした状況下で 今後の円安によっては、
企業収益が増加するといった予想がある程度実現されるにしてもそう甘くはないと言う
。その先の「所得増」「消費増」「物価上昇」の好循環にまで至るのかどうかは、先の
プラザ合意後のデフレを見る限り、少なくとも景気回復局面の経験を考えれば、かなり
に怪しいところである。と言える。それでも「円安・株高」が続いている限り、物価が
上がらないことを思い悩むようなムードにはならない。それは日本企業にとっての憂慮
すべき最優先である低コスト体質がデフレや円高を容認させてきたからだ。つまり事実
上の名目ベースのドル円相場の下落も物価下落も又逆の物価上昇も過度に電力不足やら
円安推移が無い限り恐らくない。つまりこのまま放置したらそのままの現状維持となる
可能性が強い。この事は恐らく日本には好都合でありあまりの変化は対応させなくする
。来年にかけて90円台をめざすぐらいで丁度いいのである。



582: 名無しさんAA:13/01/05 00:15
新 国際町民 150
2chでは 2013年1月4日 辺 真一 日中の綱引きで、韓国は中国の手を上げた!との
コラムが上がった。
 日中間で綱引きをしていた靖国神社放火事件の(:2011年12月に靖国神社に放火した
とされ、その後、ソウルの日本大使館に火炎瓶を投げ込み実刑判決を受けていた)
中国人容疑者を韓国政府は、 ソウル高裁の判決を理由に中国に引き渡すことにした。
 昨年、この件に関連して「韓国は絶対に、日本には引き渡さないだろう」と、断言し
ていたが、予想通りの結果となった。今回の一件で日本政府も国民も、韓国が日中のど
ちらをより重視しているか、思い知らされたことだろう。日本と韓国は国交を結んで今
年で48 年。それに比べて中国と韓国との修好は半分にも満たない21年。中国は共産党
一党独裁社会主義体制下にあるが、同じ資本主義の韓国と日本は3権分立の民主主義
体制下にある。まして日本と韓国との間には犯罪人の引き渡し協定があるが、韓国と
中国との間にはない。 常識からして、日本に引き渡すのが筋である。この中国人は、
韓国でもよりによって日本の大使館に火を放そうとした言わば「放火魔」である。
初犯ならまだ情状酌量の余地もあるが、二度となると日本としては黙っている訳には
いかない。日本政府が犯罪人引渡し法に則って引き渡しを求めるのは当然のことである
。 しかし、残念なことに事はそう単純ではない。 日本政府は、民主主義という共通の
価値観から韓国を重要なパートナーとしてみなしているが、韓国は実利、国益の観点か
ら日本より中国のほうが「より重要なパートナー」と捉えているようだ。 何よりも、
韓国は日本とは「未来志向のパートナー」のレベルで留まっているが、韓国は中国に
対して「戦略的パートナーシップ」の構築を求めている

 このなりふりかまわぬ道義も責任も持たない韓国民への抗議などどうでもいいではな
いか。日本は竹島を国際裁判所に届出をするとしていたのだから それを実行すべきだ



583: 名無しさんAA:13/01/05 04:04
新 国際町民 151

 多分にやっと今年からは日本の時代がやってくる。中国が尖閣を横取りしようと画策
し、韓国が竹島にしがみついてはなれない為に 日本には大きな経済的チャンスが巡っ
てきた。アメリカの財政の壁や欧州危機はいずれ訪れるとはわかっていた事だ。問題は
日本が如何国際社会を歩くかである。かつての新渡戸稲造の様に 日本人の日本的様が
今解き放たれ融合し 日本を高めようとしてくれている。かつて国際連盟が発足して、
ユネスコに受け継がれたとする非戦の精神論は日本の和の精神である。だが第一次大戦
以降もそうした国際活動を無にするように 日本は朝鮮半島や中国大陸を統治はできな
かった。マレーシアやフィリピンなどでは明治の頃からも共存共栄出来ていたので出来
ると信じていたが それは今の額賀大臣を前に割腹自殺をする者がいる様に かつても
伊藤博文を暗殺し辛亥革命に資金提供しても尚そのままロシア共産党にあるいはドイツ
にと擦り寄っては日本を敵対し日清戦争を仕掛けたような事が数多く存在する地域であ
り、中東が世界の火薬庫ならば朝鮮半島や中国大陸は世界の中で唯一の精神の病んだ人
の集まる病院だったのである。今回もどういうつもりで額田氏を特使として派遣したの
か知らないが悪戯に大事な隣国だの友好国だの協調だの言わないほうがこの国のみなら
ずかの国の為にもならない。これから沈んでいくだろう国を救おうというのなら尚更に
無理な話である。それよりも北朝鮮に出向いて 日本と如何妥協していくのか探り今の
拉致問題の解決を探る為の祝電をいれたほうが より賢明である。良ければ何もせずに
訪日してきた時のみ相手すればいい話しである。過去の歴史がその民族の性癖を表して
いると考えれば 如何転んでもその性癖が直ったようには見えない。



584: 名無しさんAA:13/01/09 20:50
新 国際町民 152

 
 安倍首相は、韓国の朴槿恵パククネ次期大統領との間で日韓関係の改善を目指してお
り、韓国の反発が予想される単独提訴は得策でないと判断した。とニュースは伝えた。
 政府は、2012年8月10日の李明博イミョンバク大統領による竹島上陸を受け、
対抗措置の一環として、日韓両国によるICJへの共同付託を提案したが、韓国が拒否
したため、単独提訴を目指して準備を進めてきた。しかし 安倍政権としては、ICJ
での決着が望ましいとの立場は変えないものの、単独提訴は先送りし、今後の韓国の対
応を見極める方針だと言う。 安倍首相は、民主主義や市場経済など価値観を共有する
韓国との関係を重視している。2月25日に予定されている 大統領就任式に合わせて
訪韓し、日韓首脳会談を行い、関係改善を進めたい考えだ。 関係を改善することで、
沖縄県の尖閣諸島をめぐり圧力を強める中国をけん制する狙いもある。と記事は伝える
が 果たしてこうした日本の配慮が理解する国民性のある国であろうか。ここが疑問だ
。闇雲に敵対してはいざこざを起こし 国交断絶するに至る事はないだろうとは言える
。だが 日本にとってそうした隣国を配慮するあまり 日中国交では台湾との国交断絶
があったし この竹島もまた漁船を包囲し銃弾をあびせては船長拉致した歴史の中では
信じられる国としての隣国ではない。そも国会や政府は過去からの引継ぎをこうも簡単
に変えられるのだろうか。と素朴な疑問が走る。国会と言う場は多分にこの引継ぎの為
の合意の場所ではないのか。仮に与党となり前政権の培ってきた記録や意思や伝統が受
け継げないのだとしたら 全く選挙のみで与野党討論の必要が無くなる。又民主党の今
の敗北はこの全く異世界としての自民党意思の空間と民主党意思の空間になって、日本
の慣習法と言う法律よりは自らが発言したマニフェストの方がより高く大事とした間違
いこその結果である。すなわち自民党も又国会や政府の継承すべき事としなくて良い事
とをまだまだ曖昧にしたままで 今船出しようとしている。これこそが大きな間違いだ



585: 名無しさんAA:13/01/18 03:08 ID:8AY
新 国際町民 153

 利用される国賊鳩山氏 そんな構図が伝わってくる。中国政府はまともに日本政府と
交渉や会談をして この冷え切った日中関係を良くしようなんて事は全く無い様だ。こ
の鳩山氏も馬鹿丸出しで 自らの叔父が軍靴の中の軍需特需のゴム製品で名を挙げ末代
の基礎を築いたのだが その財力にどっぷり使っていながらこの体たらくである。全く
恥も外聞も無い目障りな国賊である。元首相でありながら世界情勢から人間心理から全
く軌道を外れたこの有様は同じ日本人として憤慨この上ない。今や議員でもないのに、
様々な国害的招待にのこのこ出かけて行き堂々と罠にはまり 日中戦争で旧日本軍によ
る南京占領で起きたとされた 贋の「南京事件」の資料などを展示する江蘇省南京市の
「南京大虐殺記念館」を訪問しこの戦争記念館に手を合わせて 更なる戦争をあおる。
 前のニュースをたどれば、鳩山由紀夫首相は6月2日夜、自身の辞意表明について「
国民が(鳩山の言葉に)聞く耳を持たなくなってしまったとすれば、立ちゆかなくなる
。やはり自分が身を引くことが結果として国益につながると判断した」と述べ首相を辞
めたが同じ年10月18日、、舌の根も乾かぬうちに政界引退を正式に撤回した。又、
今回の衆院選不出馬を周囲に伝えた時でも、地元北海道の有権者からは「驚きはない」
などと自身の後援会役員会でも厳しい見方が相次いだ。事実出馬予定だった北海道9区
、室蘭市の男性は「鳩山さんには求心力がない。支援者も離れてきていた。」といい。
他の男性も「落選しそうだと思っていた。報道で知った客からは『戦う前に逃げたので
はないか』という声が出た」と話し、驚いた様子は全くなかった、と言う。つまりは、
自らに議員立候補で落選の汚点がつく前に さっさと引き上げた戦う前に逃げた犬であ
り それが今更ながら負け犬の遠吠えを 国際社会にさらけ出しそれを恥としていない
のである。こんな金持ちの道楽で首相までやらせた民主党とは一体何様のつもりなのだ
ろうか。というのは私だけの思いではないだろう。今やっと鳩山・小沢氏が抜けて当た
り前の普通の政党になり野田氏などが表に出たというのに 全く支持がないというのも
不憫な話でこれが日本の現状である。



586: 名無しさんAA:13/01/20 03:02
中央日報日本語版 1月19日(土)14時0分配信 ソ・スンウク東京特派員に正しい日本語
を教えてやろうと思う。

 安倍晋三首相の人気が凄まじい。今や日本国内は彼の独壇場だ。安倍氏は「日本を取
り戻す」というスローガンで先月の総選挙で圧勝した。最近のTVでは彼の経済回復戦
略の話ばかりだ。お金を刷ってデフレと止めるというアベノミクスだが、7年ぶりの大
雪で東京がまひしたり、日本人がアルジェリア武装勢力の人質になるという事件が な
ければ、テレビのトップニュースは紛れもなく安倍首相のこの戦略の話しだけだろう。
 彼の思惑通り、株価は上昇し、円安が進んでいる。勢いづいた安倍首相は当然の極左
事業で得た既成事実見直しにも手をつけ始めた。集団的自衛権の行使、新しい歴史談話
の発表、改憲などだ。結論は夏以降に出すというが、その準備は着々と進行中だ。
 安倍首相は最近、「誤ったメッセージとして伝わるおそれがある」とし、記者の即席
官邸前の質問に野田氏同様に応じないことにした。その代わりフェイスブックにコメン
トを載せ始めた。大手マスコミの厄介な記者を相手にするより、ネットユーザーと直接
疎通するということだ。 安倍首相にとってインターネットはどのような空間なのか。
日本でインターネットは言論の遊び場だ。総選挙前、野田佳彦首相の討論申請に、安倍
自民党総裁は「インターネット生中継でしよう」と答えた。すると野田首相側は不快感
を示した。
 “ネット右翼”と呼ばれるインターネット右翼集団と言われる集団は今のところ安倍
首相の強力な後援者だ。彼らのインターネットは、「外国人に勝手にを奪われている」
という現実と事実から始まった。韓国人と中国人に対する理性的な嫌悪感の表出が彼ら
の言葉だ。先日、高額収入を得ている芸能人の母親が国から生活保護を受けて問題にな
ると、彼らは「在日らが日本人よりも生活保護費をたくさん受けている」と攻撃の対象
を事実に即して補正し、また、「キム・ヨナが優勝すれば太極旗掲揚式を全面中継する
が、浅田真央が優勝しても日の丸掲揚式をカットし映像化する。」「アンケート調査を
操作し、日本人が最も好きな食べ物をキムチチゲと発表した」などの事実を受けて、韓
流ドラマを放送する放送局を抗議したりした。

587: 名無しさんAA:13/01/20 03:03
(続)

 河野談話の修正、極左教育の廃止など安倍首相のメニューはまさにネット右翼と呼ば
れる人のメニューを掲げた。安倍首相の総選挙公約集の表題「日本を、取り戻す。」は
、「日本を取り戻すために特定アジア(韓国・北朝鮮・中国)を無視する。」という
ネット右翼の言葉とほとんど変わらない。インターネットだけで満足せず、オンライン
で集まって太極旗を踏みにじり、安倍首相を批判した報道機関の前で抗議集会を行う集
団も、すべてネット右翼だと目されている。
 安倍首相はいま好調を迎えている。彼が“最高の友人”と考えている米国の中央政府
と地方政府、メディアが、従軍慰安婦問題をはじめとする安倍首相の歴史認識に警告状
を送り始めた事で手腕を発揮できるからだ。安倍首相の歴史認識を地域と世界の平和を
害するこれらの要素と対決出来るのだ。 偏狭な左翼の番長に立ちふさがるのか、あるい
は打ちのめし尊敬されるグローバルリーダーになるか、審判台に安倍首相が立っている
。(終)


588: 名無しさんAA:13/01/20 18:32
新 国際町民 153

 今度の日揮のイナメナスガスプラントのテロ侵入事件は不幸な出来事である。と言う
にはショックが大きすぎる。そもそもこのアルカイダを反政府テロリズムに追いやった
のはアメリカの湾岸戦争でありソ連のアフガン侵攻であったと言う当時の志願兵達が今
のアルカイダの基礎を築いたらしい。やっと右腕とされたビンラディンを海葬したとい
うのは最近の話しである。よぼよぼな病人と化した彼を執拗に追っていたアメリカ海軍
は強襲をして捕まえて本国につれて帰る事無く葬り去った。その話には裁判にかければ
軍を陥れる真実が隠されているからとまことしやかに囁かれた。そうした中日本がシー
レーンから撤退するや否や中国のアフリカ進出は目覚しく 民主党政権によって3年間
の国際社会からの協調離脱の中で軍事政権の国であれ、あるいは反政府ゲリラであれ、
なりふり構わず外交戦略を敷いた。それは万博・五輪と勇ましいまでの国民発展に鉱物
資源や石油資源の制限がかかることを恐れた一党支配の共産国ならではの危機感からだ
が それは今の軍備増強とも全く同じ論理で 中国は強くならねばならない。中華は世
界の中心国家とならねばならない。とする幻想でも思想でもない中国流常識の脅迫観念
からだ。旧代の電子機器をうりはらい電波塔を建設して、韓国製の製品と共に世界に供
給してきた。結果チュニジアから端を発したアフリカ革命ジャスミン革命と呼ばれる物
がエジプト・リビアと色々な所で起こった。今のアサド率いるシリア内戦もその一端だ
。国連で執拗に反意をして国連部隊を遠ざけているのはそうした権益の為の投資がある
からとされ マリでも反政府組織にかなりソ連製の兵器を買い付けては贈っている。と
される。そも中国国内にも大勢のイスラム勢力はいる。日本人には漢民族国家に写るが
事実は世界中で一番砂漠の民に古くから近かった国である。砂漠の民そのもののアラブ
国家と違いその交渉術は一番長けていると言えよう。そのマリのゲリラを撃とうと仏国
が掃討作戦をした。追われてこのガスプラントを楯に抗戦しようとしたのだろう。この
支援する中国にフランスは最新兵器の潜水艦や武器を堂々とうっているのである。
 かつてヒットラー時代日独軍事同盟を進めていた平沼騏一郎は、ドイツがソ連と突然
不可侵条約を結んだことに衝撃を受け「欧州情勢は複雑怪奇」との言葉を残し、内閣を
総辞職した。以降欧米大陸は中国を含め国益のみで動き依然として複雑怪奇である。



589: 名無しさんAA:13/01/21 05:21
新 国際町民 154


 今や中国は「世界の工場」から世界一の資本輸出大国へと変貌しつつある。という。
2012年、中国は、世界141ヶ国4425の企業に資本を投下している。これまでの累計でも、
世界の海外純資産規模はアメリカをしのぐとしている。水曜、北京で行われた記者会見
で、中国経済産業省のシェン・ダニヤン報道官が伝えた予測によれば、2015年、中国の
外国投資の総額は1500億ドルに達する。
 そして同時に状況は既に、中国の外国市場進出が本質的に新たな段階に入っていると
されることの、ひとつの宣言をなしている。2012年における中国の外国資本投下の成長
速度は、それでも欧州危機や世界経済の鈍化と共に3.7%低下した。と伝えられる。しか
しそれでも企業、工場、生産地、その他資産の買収については、前年対比で28.6%の猛
成長を遂げている中にあり、他の追随を許さない中にある。米国への中国資本流入の道
は政治的な障碍に阻まれているとされるが、尖閣諸島を巡る日本との領土紛争は、中国
による米日への資本投下の拡張に全くといっていいほど悪影響を及ぼしてはいない。こ
の事にも注意が向けられている。
 これは今や中国は 輸出入が政府がコントロールできる範囲を既に超えて需要と供給
に汲汲としている事を示している。すなわち 鉱物資源もエネルギー資源も今や地球上
で開発せずに安易に横取り供給してきた対応が これからは更に酷くなる事を示してい
る。エネルギー分野では 中国は隠れた供給バランスを取っている。すなわちキルギス
やカザフスタンと言う旧ソ連共産圏からの買い付けである。これにより今回のマリなど
のイスラム原理主義に迂回資金として流れていった経緯がありその金はそのままリビア
のカダフィ遺産としてる最新武器弾薬の買い付け資金となったと見られている。又その
流通ないし権益確保にもシリアのアサド政権は 倒れてもらえば困る国だとされる。そ
れが米国の中東諸国との接点にサウジアラビアがあるように中国ロシアの中東アフリカ
の接点としてシリアは非常な重要拠点にあるからだ。このシリア内乱の中ロシアは黒海
での艦隊の軍事演習を決めたとの情報さえある。



590: 名無しさんAA:13/01/26 02:58 ID:EWM
新 国際町民 154


 アルジェリア南東部で起きたイスラム武装勢力による外国人拘束事件では、邦人保護
の難しさが改めて浮き彫りになった。とニュースは伝えている。事件があったアルジェ
リア・イナメナスの天然ガス関連施設の事件については、10人もの邦人が殺された形
ではあるが、外務省は渡航者に注意を呼びかける「渡航情報(危険情報)」のレベルを
、危険度が最も低い「十分注意」としていた。ただ、より危険度が高い情報を発出した
からといって、不測の事態が避けられるわけではない。としている。それは最も危険な
「退避勧告」でも強制力はないからだ。という。渡航情報は、危険度が高い順に(1)
退避勧告(2)渡航延期勧告(3)渡航の是非を検討(4)十分注意−の4段階の中で
、今回の現場周辺では、2011(平成23)年のリビア内戦終結後の国境地帯の治安
悪化を受けて、同年11月にリビア国境からアルジェリア側30キロ程度の地帯を現在
まで「十分注意」から2段階引き上げ、「渡航延期勧告」としていたがイナメナス市街
地はこの30キロの範囲に含まれているが、プラント施設は国境から約60キロの地点
で、「十分注意」のままだった。という。が これは本来政府が強く渡航延期勧告を行
うべき場所とすべきで こうした場所での フランス軍のマリへのアルカイダ一掃作戦
の事前通告を政府も日揮も知っていて本人に知らすべき場所であろう。そうした事が無
かったとするならこれは危機管理の怠慢であろう。が それはそれとしてそれがあった
としてもこの事件が起こらなかったとは言えないのが現実だろう。2CHや他のネット
の論争では日本の4条規定の自衛権や小泉内閣においての日本国のアメリカ追随姿勢が
この事件の結果に影響しているように言われるがそれは暴論であり 多くの誤解である
。そもこの事件は起こるべきして起こったものでたまたまBPの工場でありその建設に
日本人がいただけで 最貧国マリでのアルカイダは宗教的公共事業の一角にある。この
共同主義的発想が貧困住民を惹きつけて武器をもたせイスラム革命を洗脳させている。
指導者にとって厳格な貧民のアラーへの祈りを望む以上 共に自由主義で豊かになろう
とする政府や海外投資事業者はどうしても敵である。更にこの地が一つの革命の為の収
益ポイントと見た節がある。とういうのもカダフィの持っていた油田プラントも勝手な
稼動に今やいそしんでいる。

591: 名無しさんAA:13/01/26 02:59

             欧米側主導であれ新政府側主導であれイスラム狂信者主導
であれ 貧困の中の利権は狙われる所大である。特に今やシリアの内乱によってアラブ
の資産家や王家からの支援が断ち切られて イラン国内でも核開発のうねりの中で全く
自由主義的資産家がいなくなり 富者としてのイスラム教徒は今や原理主義派を糾弾し
ていた中にいる人が多く 自らに商売して資金を得る方法を探るに至る所に来ている。
事実イエメンでの一掃作戦でアメリカは成功し アメリカや体制派を脅かす結果に程遠
い。その危機感から相当前からこの占拠に向けた作戦をやっていた可能性があるのだ。
 結果如実に日本人が最多数の被害者となったのである。実はこの10人に黙祷を捧げ
るべきは 民主党以下平和を希求して活動する日本の団体の戒めとならねばならない。
というのも 今尖閣問題で中国が威嚇している話しと この全く話し合いすら出来ない
武装グループの日本人を襲う話しの構図は全く同じである。詰まるところ日本人のお人
よしで反撃をしないだろうと言う 大方の国際常識がこの武装集団にとっては人質での
金銭要求に対してより簡単な交渉となるとして選択しただろうと思われる。そしてそれ
は 押せば退くだろうと見た領土問題である竹島・尖閣の中国・韓国に強硬姿勢に出さ
せたのである。この事で 日本においての日米安全保障が揺らいでもいないものを搖ら
いだとみせたメディアや小沢氏をはじめとする民主党議員は多くの犯罪的政治員であっ
たのだろう。日本人は普天間問題でも国家の威信をどこに置くかと言う事にもっと統一
した意思をもつべきであろう。

592: 名無しさんAA:13/01/27 19:01
新 国際町民 188

 安倍政権は自衛隊の国防軍昇格を訴えている。が私はこれには反対である。自衛隊は
自衛隊のままに新しい国防軍を創設する事を進める。自衛隊の今の任務とする災害支援
や復旧復興派遣で行く自衛隊はそれはそれでいいと思う。その他に内閣直属の国防軍を
新たにその自衛隊の上に国防軍を創設するばいいと思う。つまり私は昇格に反対で更に
第3の軍の創設が必要であると思っているものだ。そもそも軍隊の無い国は日本だけだ
。もともと自衛隊はその名の通り自衛の為に出来た自治保安官である。すなわち日本で
言う警察でありアメリカの沿岸や国境警備隊であり 世界のPKOや多国籍国軍に組み
込まれ後方支援が出来るのは その警官隊として優秀だったからだ。そしてそれは今で
も変わらない。事件が起きれば 警察がでる。海上であれば海上保安庁である。その後
要請によって自衛隊がでる。だが武器はそれぞれに携帯しているものの その使用はよ
っぽどでない限りは出来ない。実はそれによって保たれている平和もある。不祥事やら
産業スパイ疑惑などの噂なども在る中では この国防軍を発足ないし昇格するに当たり
よっぽどの少数精鋭部隊の編成が必要である。それを考えればPKOないし海外向けに
送る軍隊のみを国防軍として 編成すればいいことでありこの為の法律を作るべきであ
る。と私は思っている。ずなわち 自衛隊が手に負えないもの その為の軍隊を作る事
は召集令状をもって国民を集めた時代から進化したものとしていい事ではないかと思う
。又中国や韓国は盛んに右翼化などと危険性を表明しているが 自国の軍隊の法律を差
し置いて 平和憲法の下の友好関係を損なわした責任を取らねばならない事を知る事だ
。自国内の報道すら自由に取材をさせず 軍隊を闊歩させておいては他国の法律に批判
をするは 外道以下ではないか。



593: 名無しさんAA:13/01/27 19:56
新 国際町民 188

 甘木経済担当相はダボス会議に出席して 日本の今後の方針 いわゆるアベノミクス
の内容の説明や解説と理解の筋道を建てた。各国から懐疑の視線はあったものの大筋で
合意を取りつけ、カナダを始め今の世界的不況の打破の期待に賛同を得た。しかし日本
が今欧州と同等に崖っぷちの道を歩いている事には変わりない。すなわち中国同等に、
今回の大出費は日本の起死回生の政策との意気込みであるが それでも多大な財政出動
には危険性と黄色信号が点滅する。慎重に運ばなければ それは日本はおろか世界経済
の杞憂するブラックマンデーの2の舞を起こす可能性がある。そこに懐疑や懸念の意見
がある。中国経済は かつてのリーマンショックや欧州危機に応じて同様の内需拡大と
言わんばかりに大きな財政出動をした。この事で中国社会は発展するかに見えたが、実
はインフラ整備によって起こった事は共産党政権の過大な責任と課題である汚職の拡大
と民衆の重税であった。そして今大きくこの欧州危機による投資控え輸出減少は中国を
間違いなく追い詰めている。今後日本でもこの輸出入の滞る事になる事が懸念や疑問や
危険視される材料になっているのである。つまり物価に対しての2%の上昇と共に2%
の円安であれば輸出入に対して何ら国民生活には影響が無い。がそういう事はあり得な
い市場期待と外貨操作はこのところ各国とも必要以上に繊細に事を行うしかないのだ。
 事実なぜかしら 何らやっていないアベノミクスは野田政権の解散総選挙宣言以来か
ら期待値のみで株価はウナギのぼりで円安基調はほぼ全開である。これをもって日本企
業の復活なるかはわからないが少なくとも 悲観的状況からは一歩抜け出した景気状況
に変化しようとしている。経済学者の言う「気分が景気を支える。」と言う現象だ。
 

594: 名無しさんAA:13/01/30 21:47 ID:UxI
だが 報道やTV関係者はこの日本の価値が下がって行くことに と言うよりは海外
の物が高くなっていく事に大いに反対であろう。韓国ドラマをはじめ 海外ロケや取材
が高くなり海外からのニュース映像でさえ高くつく情報になるからである。実はこの事
は一つの甘えがある。すなわち国内やらの人材を自らに築かなかった事や育てなかった
甘えが問題を大きくしている。更に海外拠点を作り海外CMを取りつけ運営する行為は
恐らく全くやって来なかったのだろう。すなわち円高の上にあぐらをかいたまま10年
過ごし円高でスポンサー撤退に右往左往する10年を過ごした。この事で自らの安穏に
放送しては お笑いバラエティなどで安易に時を過ごして価値創造に闘わなかった結果
がホリエモン事件などを引き起こしたのである。世紀の闘拳試合と言われたパッキャオ
の試合も今のところ日本のTVではそう話題性なく放映されなかったが こうした世界
の多くの出来事も又配信に対価を払っている。よく100円以上に円安になるような噂
があるが それは無いだろう。恐らくここ一年は90〜100の間でしか推移しない。
日本人にとってみればリーマン以前の110〜120円代が本来の姿であるだろうとい
う 国内的には大方の常識的数字だろうが 今やアメリカも中国もリーマン以降の技術
的革新も経済的浮揚もなってはいない。これまでの自動車産業がリーマンショック時に
赤字に陥り政府の擁護によって立ち直ったかに見えるがそれでもそれは中国経済と円高
に支えられての話しであり 日本の技術以上に一歩も二歩も進んだ技術を持っていると
は言いがたい。すなわち100以上になればいつでも国際社会は日本をあらぬ批判し更
にはよこしまな横槍の意見や声明が出されると共に 円高反転の兆しに投資家が殺到し
だすと考えられるのである。



595: 名無しさんAA:13/01/31 00:42
尖閣問題にみる中国  84

 アメリカのルース駐日米大使は日本との会談で、沖縄・尖閣諸島周辺での中国の挑発
活動に「中国機に自制的に対応している。警戒監視を強化し、国際的な基準で対処する
。」と述べる小野寺氏に対して、「尖閣諸島は日米安全保障条約の適用範囲だ」としな
がらも「話し合いで事態の沈静化に行くこと望む。」として その点で日米が連携して
いくことで一致したとの声明を発した。この日中双方の折り合いを求めるとした方針は
米国オバマ大統領の方針であり 現米国の総意として変わらない方針ではあろうが、そ
れでも同じ米国のカート・キャンベル米国務次官補は、沖縄県の尖閣諸島問題について
「平和的に解決する必要がある。」との認識と共に突発的な事故での紛争のきっかけが
起こる事を危惧している。その為に会談後、記者団に「静かで実効性のある外交を望む
」との考えを岸田氏に伝えたことを明らかにし 両氏共に「沈静化していくことが重要
」との意見を伝えている。しかしながら 北朝鮮が国際社会に対抗してアメリカに挑発
な言動と核開発と大陸間弾道用のミサイル発射実験をしているように中国は日本を挑発
して止まない。中国の大衆紙は今か今かと固唾を飮んで戦争突入に余念のない記事を書
き国民をあおり 国民はそれに戦々恐々として見守っている。その視線を感じているの
か軍部は その突発的事故の挑発に誘い出す為に海上に空中に或いは国内動員にデモに
とあらゆる手を尽くし 今では老いた日本の用なしのかつての要人や元首相を招いては
中国寄りの言動を取りつけ 国際世論にはアメリカの無智議会に日本批判用の慰安婦や
贋の歴史問題をアピールしては日本からの謝罪を取りつけようとロビー活動をしている
。日本はと言えば かつて駐留米軍が敗戦時に300件もの婦女子暴行事件が明るみに
出た事もかつてCHQが札束と外米で要請した強制売春宿も或いは明白に一般人を殺し
た原発投下にも 一切アメリカに謝罪要求を議会で多数決を取った試しはない。それど
ころか核兵器廃絶の為に運動する 原爆の写真展すらもアメリカ国内では自由な活動を
制限されていると言う有様に反発した 議会決議もない。この挑発にも動じず公明正大
なる意志のアピールすらしない寡黙な平和国民の国にアメリカ議会はどう考えて慰安婦
と言う前代未聞の嘘の歴史を真に受けた議決などを行っているのだろうか。中華民族と
共に全く不思議な白人社会の国民議会の話しである。


596: 名無しさんAA:13/02/03 10:48
新 国際町民 189

 このまま行けばという前提だが 恐らく今世紀中に北朝鮮という国は無くなるだろう
。イランの核開発に多くの先進国は殺気だった反応を示している。一つは西側諸国の持
つ意識や感覚或いは自由主義文明と言う世界標準の基準を共有をしていないからだが。
 これに敵対するイスラエルは苛立ちながらも耐えている状態だ。何故なら今もし米国
や欧州が支援したとしても イランとの戦争状態になれば 一斉に周りの中東諸国から
袋叩きにされかねないほどの 今度のアフリカ発芙蓉花革命はイスラム文化圏を強固な
イスラム主義国に変えたからだ。更にまだシリア内乱は続いていて 強硬なアルカイダ
に似た原理主義思想や自虐的保身強化主義に陥ったままで世界戦争になりかねない様相
に蠢いている。この中で強硬に核開発とロケット開発を 全く手放さない。そしてその
その技術の提携国として北朝鮮がある。この北朝鮮にイスラエル以上に米国は我慢して
6ヶ国協議や核査察などの対応をしてきた。イランが動物の宇宙圏飛行を成功させた事
はかなりの衝撃である。アメリカが同じ成功をしてから10年でその技術の確立したア
ポロ計画を成功に導いた。中国では7年で有人飛行までこぎつけている。つまり今後5
年以内に彼らのロケット技術は完結する。事実半年前まで失敗していた北朝鮮は一年を
待たずして(有害な毒薬燃料であったとしても)今回成功させている。この成果は当然
国際社会そのものを敵対化させた。そしてこの後ろ盾となっている 中国や韓国もそう
した懸念に反対しているが 中国国内は今や住める状態ではなく同じように今世紀には
毒素の蔓延する土地として見向きされない砂漠化した都市になる。汚染水ばい菌か農薬
で汚染された食品さらに播き散らかされた公害はスモック排煙と海洋汚染水に囲まれて
しまっている。韓国はそうした中の日本と同じ被害者となるであろうが今後の経済悪化
は免れない。それは追い上げし追い越すだろう東南アジア諸国に比べて人格に問題性が
あるとされているため その分散拠点の集積港としての地位すらも無くなる可能性は依
然として高い。



597: 名無しさんAA:13/02/07 05:15
尖閣問題にみる中国  88

 中国で春節(旧正月)期間中に大量に使われる爆竹や花火の煙が「大気汚染に影響す
る」と考える上海の住民が64・2%に上る一方、「それでも爆竹や花火はやめない」
との回答が71・3%に及んだとするアンケート結果を、6日付の上海紙、東方早報が
報じた。と伝えられる。同紙が265人の住民に聞いた。調査によると、「やめない」
派のうち3人に2人が「以前より使用量を減らす」と答えている。だが、春節の期間中
に、大きな音で邪気を追い払い、福の神を迎えると信じられている爆竹や花火は、一般
家庭や商店では欠かせない風習。上海市当局は、花火や爆竹の使用量を減らすよう呼び
かけてはいるが、おいそれとはやめられないようだ。
 これが中国人の本質だろう。悪いとわかっていながら止められない。ほんの数日前に
病人が死人になるほどのスモッグであっても他人事なのだ。その上外務省報道官の様に
知らなかった。というのであれば その報道官としての発表の席に立つ事はない。知ら
ない政府指導できない政府であれば 他国に接して外交する資格など全く無い。つまり
この国に ガバナンスと言う公的道徳や、統治された意見、或いは世界の約束事などは
到底無理なのだ。つまり国連などと言う だいそれた席に着席する資格がないのにも関
わらず 数々の国際会議の席上では 秩序や意見の総意をかき混ぜて対立を煽り、自国
でさえ苦悩するようなシステムを画策するのである。全く彼らに常任理事国などおこが
ましいのである。この影響を受けたシリア国民はかわいそうである。同じ独裁システム
を持つ国を応援して 国連が機能しないまま殺されているのだから いたたまれない。
このままであれば 国際社会は第二第三のヒットラーやカダフィを産むに違いない。
 


598: 名無しさんAA:13/02/12 20:38 ID:F.U
新 国際町民 190

 韓国人はどうしてこうも異常なのだろうか。スイス・ローザンヌのパレスホテルで開
かれた国際オリンピック委員会 ‘独島表示問題’の懲戒委員会に出席してと関連し
て積極的に説明した後、「誠実に調査に臨んだ。良い結果を期待する」と伝えた事だ。
1時間の間、当時の状況を全て説明したし、IOC委員らも聞かなければ ならない話は
全て聞いた」として「人事を尽くして天命を待つ姿勢で結果を待つ」と明らかにした。
この日、非公開で行われた懲戒委員会には、約20人以上の日本の記者たちが集まって
パク・ジョンウの懲戒に大きな関心を現わした中にあって、日本の記者たちは「所感は
どうか」、「どんな結果が出るだろうか」等々の質問攻勢に返事したらしいのだが、一
部の記者らは懲戒委員会を終えて出てくるパク・ジョンウに「なぜ日本に対しての謝罪
発言しないのか」と、問い詰めるように無礼な質問を投げて毒々しい眼差しを浴びせた
というのだ。その時パク・ジョンウは韓国語で「誠実に臨んだ」という言葉だけ残して
、会議場を離れた。というこの姿勢の何処が誠実なのか。世界の人にはわからない。更
にこの韓国の新聞は日本の記者たちの質問に”無礼な質問は今回が初めてではない。”
との意見を言う。昨年、Kリーグオールスター戦‘Again 2002’に参加するために韓国を
訪れたフース・ヒディング監督に向かって香川真司に対する質問をしたという。特に
この場はKリーグオールスター戦の公式記者会見であっただけに、場所と時期に合わな
い質問で毒々 しい眼差しを浴びせたことがある。一方、IOC執行委員会は13日、マーク
・アダムス・スポークスマンを通じて懲戒結果を発表する予定だ。というがこのクォン
・ヨンジュン記者というのは常識しらずなのだろう。まず懲戒処分の検討になった行為
というものを理解していないらしい。通常社会の違反者は犯罪者なのである。スポーツ
にもルールと言うものがあるのだ。そのルールを無視して違反したのである。その違反
行為に対して同じスポーツ人として その行為の対象である日本人に謝罪してこそ誠実
というものであろう。それを行わない姿は例え誠実を装ってもそれは不義な姿勢という
ものだろう。更にKリーグであろうがJリーグであろうが国際的活躍の選手の意見を聞
くと言うことが他のバスケットやらバレー選手ならいざ知らず 同じサッカー選手の話
で 聞く事がおかしいという話は そういう視点こそおかしい話でありJリーグの中で
あれ韓国内の活躍選手の話題はしてはならないとでもいうのだろうか。全く道理のない
意見を良く公表できるものだ。韓国人というのは理解しがたい。信じられない中華人と
全くもって世界に中で異常である


599: 名無しさんAA:13/02/14 21:46 ID:nl6
 IOCオリンピック委員会も馬鹿な判断をしたものだ。大体近代5種やレスリングを
人気が無いとして競技種目からはずしたら オリンピックとは言えないだろう。そも、
テコンドーなどを残して空手や剣道が入ってない事には全く言われるように 「メダル
より何より強い金の力」「金よりもお金が大事IOC」と日本では川柳が読まれていた
が本当であろう。サマランチ会長の息子がいくら金を貰い 韓国のロビー活動でどれだ
け金をばら撒いているのかは知らないが 全く五輪の委員会が腐れていると言うの噂は
、どうやら本当らしい。公平なジャッジを理事会でしてもらった。などと殊更公明正大
との声明を出したが 地球上の殆どの人がこのIOC委員会はかねて「魑魅魍魎(ちみ
もうりょう)の世界」とも言われていただけに誰ものが納得はすまい。特にその一端が
13日、明らかになった所を分析すれば、IOCがまとめたロンドン五輪実施26競技
の評価報告で、レスリングは人気度やFILAの組織体制などで低い評価だったことが
判明したとされ。人気度は10段階の5を下回り、テレビ視聴者数やインターネットの
アクセス数、メディアによる報道も少なかったと判定されたという。さらに、FILA
の意思決定機関に選手代表が入っておらず、女性委員会はなく、理事会に医事専門家も
いないとの指摘もあり過去の前IOC会長の故ホアン・アントニオ・サマランチ氏の息
子とされる国際近代五種連合副会長のサマランチ・ジュニア氏(53)自身がIOC理
事の立場を利用し、00年シドニー五輪から採用されたテコンドーが、判定問題や展開
の分かりにくさ、発祥国の韓国にメダルが偏ったことで常に除外候補の最有力に入って
いた為、論文盗作もものともしない韓国のIOC委員、文大成(ムン・デソン)氏(20
04年アテネ五輪にテコンドー韓国代表として出場し金メダルを獲得。08年北京五輪では
アジア人初のIOC選手委員に選出され任期は16年まで。)が西側との太いパイプを使
い実弾を備えたロビー活動を盛んに行ったとされる。更に今やイスラム圏化する欧州や
米国では肌の露出する競技ではTV視聴率は取れないとされ、通常の文化人ではインタ
ーネットのある家庭が多くTVの視聴率に反映されない。このロビー活動を展開したの
は間違いないところだが、ただ“逆転劇”には「韓国マネーが動いたのではないか」と

600: 名無しさんAA:13/02/14 21:47
ーネットのある家庭が多くTVの視聴率に反映されない。このロビー活動を展開したの
は間違いないところだが、ただ“逆転劇”には「韓国マネーが動いたのではないか」と
もっぱらの噂だが 日本のハンマー投げの室伏広治のIOC入りを拒んだのも韓国から
罠にはまったのではないかと思われるふしもある。ともあれこの結果に寝耳に水のレス
リング協会はシドニー五輪の金メダリストのルーロン・ガードナー氏(41=米国)の
「いきなり死刑を宣告されたようだ」と同じくショックと絶望感は大きく、それは地球
上の殆どの五輪ファンと同じ感情だろう。この払拭や納得させるには恐らく委員会は今
後大幅な事務手続きやこうした透明化が図られなければ 誰もがスポーツの魅力からは
はずれて行くであろう。



601: 名無しさんAA:13/02/16 04:01 ID:u0A
新 国際町民 192

 北朝鮮はまたもや不毛の核実験をした。国際社会は大いに問題であろう。米国を目の
仇にした声明も出している。中国はと言うよりは習近平は国連非難決議の最終採決には
地下核実験の反対を表明した。が この北朝鮮問題は兎にも角にも中国問題でもある。
年間を通じて支援する食糧と物資更には資金と技術で 今まで中国が日本にやって来た
裏切りと同じように 全く国際社会を裏切る形で軍事力を高めてきては、今や大陸間弾
道弾の自国生産までこぎつけようとしている。これにより 韓国の竹島問題ロシアとの
北方問題更に中国との尖閣問題という 第二次世界大戦の流れでアメリカが日本に押し
つけた5大国決着の遺恨が芽を噴いてきた形である。これらの国は戦後に出来た新しい
若い頑固な共産党思想と言う精神病を病んだ国家でもある。韓国を自由主義陣営からの
国家だと思う人も多いがこれらの国々は 北朝鮮同様に自国経済の中では極寒の地のり
の中にあり著しく経済効率の損耗の激しい地でもある。日本やアメリカが どんなにか
消費の浪費経済を構築してきたとしても彼らの国の生産と消費の差には到底おぼつかな
いであろう。一方質素を生業としているイスラム教徒も又 同じように熱い砂漠の中で
不毛の大地に細々と水と食糧を得る生活からでた 頑なな姿勢の生活模様を変える気配
がないまま 現代地球は 飛躍的な情報化社会を築いてきている。この過去からの自立
の為に起きる質素で倹約する精神と 華やかな欧米社会が築いた消費経済の技術は今や
原油などの地球資源の枯渇に拍車をかけそうである。苦悩するイランと提携した北朝鮮
は若い指導者を経て 路線変更を指導したかに見えたが かつての金正日の誕生と同じ
に軍部指導と国家運営に苦慮して止まないらしい。それはかつての西側と言われた国家
も同じだが 少なくとも市民による軍部への文民統制は平和維持に貢献し それが今回
レーダー照射した中国艦艇が沈む事無く 戦争が起きてない証として物語っている。少
なくとも情報規制と軍人の独断を許す中国には 常に紛争や戦争の危機がついて回る。
北朝鮮もそうした中国と同じになるとしたら 穏やかではない。



602: 名無しさんAA:13/02/19 02:45
新 国際町民 193

 今世界で不思議な事が起こっている。中国人による中国資産の中国への持ち逃げであ
る。とある中国市内である女子大生がひき逃げされた。当初は軽く跳ね飛ばされた程度
でかの女子大生は立ち上がろうとしたそうだ。それを、バックミラーからみた運転手は
再度バックして轢いて完全に殺したと言うのである。事はこれだけに終わらない。一人
の同乗者とする者が警察に捕まった。がこれが真っ赤な偽物らしいのだ。更に運転手と
される人物は貸金業を営む中国マフィアとされる。被害者も報道機関も争って事の真実
を確かめようとしているが全く手がだせない。24時間の監視カメラの映像も出さない
し電話取材すら受付も出ないという始末である。そして中国人の命は安いと人民は嘆く
のであるが 実はまだまだこの話は裏がある。この中国マフィアの連中はほとんどが今
や中国に在籍していない。というよりは あらゆる有力地方企業の重役となっている。
仕事はトップの意向もさることながら 共産党幹部や城官達とのパイプ役である。つま
り彼らは今や国際企業の一員でありスイス銀行に多額の預金があり 国を操るほどの金
を持ち更に全国にネットワークを持ち 企業経営の相談役として中国社会に根ついてい
るのである。どこかの大学の先生がネット検閲のプログラムで名をあげたがそれが薄氏
と非常に仲のいい仲間であったとされるように その仲介役で資金を潤沢に流していた
のがかのマフィア組織とされるし 官製デモでも企業デモでもかれらはうようよいたと
言われバスを貸し切り旗を振り人民解放軍すら操れると言われる。軍部予算を高くした
とも言われ更に臓器売買からチベットウイグル問題まで幅広く問題を作る事にたけてい
る。今回スモッグにも石油国営企業が悪質油のせいだと言ったが自ら名乗り出ては政府
に石油料金の上乗せを認可させた。恐らく今や習近平は今や張り子の虎ならぬ絵に描い
た豚に等しく首を振る張り子の虎は軍部であろう。で軍部を牛耳っているのはブラック
な高収益企業にいるこのマフィアと言う貸金業者であろう。彼らは中国から海外に拠点
を移したと見せて更に海外からの投資を装い 無利子無担保更に無税の企業の帰郷に成
功した人達なのである。実にGNP6割がこうして闇の世界の資金源となっているとい
うから驚きである。



603: 名無しさんAA:13/03/28 08:23
新 国際町民 156

 北朝鮮の領主様はやはり若かったのだろう。今の時期は農民層に手伝いしても食糧の
種まきをすべき時である。昨年の核実験以来馬鹿騒ぎしては国際社会の目を引かせては
子供のだだこねと同じように 物資の人道援助を求めているようだが 幼い考えでは、
これを引き出す事はこの瀬戸際外交では難しいであろう。この若造は軍部や胡麻刷り幹
部の言いなりの上に 政権というものの本質もその運用も出来ない人間なのであろう。
 しかし金日成や金正日に比べて金正雲は時代がさせたのではあろうが どの国からの
支援もなく可哀想ではある。中国はもとよりロシアも今ではそうそう共産思想の統一な
り固い結束を望んではいない。それよりは商売相手としての他国の懐具合を見ている。
又これまでの 赤十字やら人道支援団体やらは数々のやり過ぎで今や機能するに至らず
経済制裁のまま国民は餓死を背にさまよい 脱北者としての身分に変わっている。今や
イラク戦争や9・11以降は人道と強権に修まりが無い。ブッシュJの行ったおぞまし
さはそのままショックを引きずり人々の心を大きな情けで強権を容認してはいけない。
と言う教訓を残したのだ。これまでは実験や言葉遊びで過ぎてたものも、ここ今に至っ
ては容認しがたい状況にあるのだ。だが西側陣営はこの将軍様の悪遊戯を止めねばなら
ない宿命にある。金氏も日本の天皇やイギリスの王室のように 一定の領地と使用人を
もって国費によって養われる身分で権力を捨てる方向に行くべきだろう。中国やロシア
との境界線に緩衝地帯を作り米軍駐留をし朝鮮半島を今一度朝鮮の統一国家とすべきか
も知れない。がその際済州島や竹島は 歴史が示すように日本に返還するべきであろう
。それが流れなのか いまのまま西側と東側の緩衝地帯の国として生き続け その地の
管理人となるかは あまり変わらに事かも知れない。結局は中国の流す廃液や廃棄ガス
などの浄化場所であり 中国自体が今や公害大国に堕ちる思想しかないままでは身動き
はできない。


604: 名無しさんAA:13/03/28 10:20
新 国際町民 157

 そも日本が戦争に陥った理由はドイツと同じである。つまり自由主義思想と共産主義
思想の狭間の中の大国だったからだ。後になって公式に西側自由主義陣営と東側社会主
義陣営とくっきり分かれたが、当時は王国が衰退しては経済をどういう形で国民に流し
国家運営するのかは議会すらもわからないままであった。そうした中に日本は大陸経営
に挑んだのである。仮に統一朝鮮を旗印に韓国と北朝鮮が手を握ろうとする事は幻想で
ある。ドイツと違い彼らが統一民族統一国家とした時点で第三の中国第二の北朝鮮が生
まれて経済の成り立たない国が大きく出来上がるだけである。ドイツ人は第二次世界大
戦では戦ったと思っているし敗戦国と思っている。更に偽のフランス人偽のイギリス人
になり済ます事などしない。自国に誇りがあるのだ。もし朝鮮民族が民族の誇りをもっ
ているのであれば 今の様なアップルとの裁判もないし日本人が嫌う何でも自国発祥の
物まね主義も横取り経済も無かったであろう。そうした大国と言うよりは寒くて共同で
の協力無くして成り立たない自制社会主義と農業さえも努力しなければならず努力して
は勝ち取り個人で防衛までもしなければならない賭博自由主義の狭間に確固とした信頼
の秩序主義を持った国が双方相手に戦ったのである。結果は見ての通り今や東南アジア
は世界の3分の1の地球の資産や流通を担うまでに至り 中国もロシアもその仲間入り
を狙い欧州への資源供給を太平洋側極東に移そうとしている。それどころか米国主導の
TPPもその流れでしかない。つまり今や敵を作らずとした大東亜共栄圏構想が実を結
び結実した形となったのだ。加えて言えば中国や北朝鮮がもし共産主義や革命などと言
いだす事なくそのまま満州国が存在し続けていたらこの経済発展は地理的には北朝鮮を
中心に繁栄する第3世界を築いていた事だろう。がそれが出来なかった理由はそのまま
韓国や中国経済が成り立たない理由でもある。





605: 名無しさんAA:13/03/30 11:16
尖閣問題にみる中国  97

 韓国人が 日本人になり済まし日本の風景や日本の名称を勝手に使って悪事や生業の
糧を得ていた事は誰もが知っている。その行為に指導学習に当たったのが中国人である
。盧溝橋事件がきっかけで日本と中国は全面戦争になったのだが これは小さな出来事
でしかなかった。がそれは大々的に宣伝され 盧溝橋事件は日本側が仕掛けた悪事だと
歴史上されている。ところがである。この盧溝橋事件を仕掛けた真犯人は中国共産党員
だと自分自身で白状した事件も又戦後起こっている。それは中国共産党員エージェント
が日本軍をあおって盧溝橋事件を引き起こしたという内容だった。戦禍が拡大すれば、
中国社会が混乱する。そうして国民党軍時の中国政府が弱体化する。との判断で党を挙
げてゲリラ活動の一環として行ったと自ら公表したのだ。事実、そうなったしその混乱
に乗じて中国共産党が日本軍が後押ししていた中国政府の体制に反体制の思いを植え付
け困惑する民の日中友好を裂き 弱体化した中国領土を乗っ取り共産主義国を建国した
。そして、更には世界大戦が終わっても朝鮮まで進出しては人々に考える暇などは与え
ぬとの言葉通り民を戦争に駆り立てる事に没頭させた。米国が出てきて米ソ冷戦時代を
迎えて平和となるかと思われた時代でも 中国共産党は粛清を開始し大陸全土を人権の
ない地獄の世界に変えた。それらはすべては共産主義者のシナリオどおりに20世紀は
終わらせる左翼の党首達のずる賢い国家体制を築くためだったとされる。国家転覆を常
に狙っては台湾海峡での砲撃戦を演じた事もあったが この台湾は先の香港島と同じく
自由社会の恩恵の上に 立派な自立した経済活動を行っていたが 最近では中国の影響
を受けて そのまま共産独裁主義者の言いなりの市長や党首やらを輩出し今や賢明な国
民は悲観に暮れているような声が漏れている。




606: 名無しさんAA:13/04/01 13:34
新 国際町民 158

 今ちょっと危惧する動きがある。それは反韓やヘイトスピーチと呼ばれるものだ。
ニュースでは”東京の新大久保と大阪の鶴橋で、嫌韓団体によるデモと親韓団体による
デモが行われた。複数の韓国メディアが報じた。「反韓デモは日本の恥、親韓デモ隊」
などの見出しで伝えた。嫌韓デモ隊とこれらに反対する団体数百人が対峙した。日本の
右翼らが「韓国人は出て行け」、「慰安婦は嘘」といったスローガンを叫んで反韓デモ
を行い、一方で、人種や民族差別に反対するデモ隊も積極的に対応に乗り出したと韓国
ニュースは解説した。 また大阪市のJR鶴橋駅前で31日、「在日特権を許さない市民
の会」約40人が街宣活動をした。その横では「日本・コリア友情のキャンペーン」街宣
活動が行われ、市民ら200人が参加したと伝えた。”とサーチナなどが伝えている。
 成程右翼左翼と言う言葉があるが これらは適当ではない。日本に人種差別はない。
とする外国人もかなり多くいるが 自立する独立国家はその国家観がそこにある。よく
中国の尖閣問題或いは韓国の竹島問題を討議するに 中国側は伝々韓国側は伝々と言う
説明がある。しかしそれは道理ではない。つまりその意見して代弁する人は弁護士でも
無ければ裁判所でもない報道の中での事だ。日本人の心ある者であれば そうした悪人
の言い訳など無用の産物と意識している事は当然である。殺人者が「だから殺した。」
などと言う言い訳に聞く耳など持たないのは古今東西賢人の姿である。歴史を塗り替え
更に集団に物を言わせる事は一番忌み嫌われる国でその賢人達が多数いる事が ここで
証明される。対してその暴徒の輩は自国や集団の中の暴虐を正さない。そこに腐敗と欺
瞞とがあり友好を損なわせている事に気付いても その国家や集団などと言う大きな物
に立ち向かい正義を盾に闘わない。この事において日本では卑怯者の一団として関係が
ないとされる者も受け付けない。それは当然である。助長し創価学会流の 仲良く平和
にと言っては自分の都合のいい位置に組織の巨大化を図り陰謀策略の粋を込めて動くか
らだ。つまりは今の韓国・中国の発展は創価流に習ったやり方であり顔さえ味方のふり
をすればうまく立ち回り美人スパイのごとくに罠を容易くかけられるからだ。負ける戦
いはしない。平和ボケもしまい。その意志はそれが大戦での敗戦であり教訓なのだ。


607: 名無しさんAA:13/04/01 14:17
 見た目には 誰がみても 仲良くしようなどと言うスローガンが正しい事に見える。
だが 多くの犯罪者にあるように「何処に証拠があるのだ。」「証拠もなしに疑るな。
」とか言うのと同じで 全く犯罪者と言う低姿勢など無いのが犯罪者である。もし問題
も無く事が過ごされたのならば そうしたデモも起きない。つまり問題が起きた事に、
対処しての意見がそこで 人権や平和や正義の声でかき消されるのである。これは振興
宗教団体の声だかに 崇りや呪いや苦行や苦難や運命を言う事と同じである。基本的に
宗教などは無い方が本来の人間性がある。が中にそうした悪い者が育つ事を阻止してこ
そ宗教がある。つまり道徳の定義である。経営者の労働基準法無視や機械の安全操作の
廃棄と同じだ。何のためにそれを行うかそれは 目先の利益や効率化を少し避けてより
高度な効率化や より安全で快適な暮らしを目指す為にそれを行うのである。それが全
く解らない宗教はこれまでの既存宗教を理解せずに抜け出す或いは創作する又は罵倒し
敵対するのである。原理主義者の台頭はそこにある。人が生きる上の飢餓に如何に耐え
忍ぶかを自らに課すそれが宗教原理の本質で間違っても対人や対宗教を犯す事は本質で
はない。がその中に侵される考えや習慣にかなりの拒否を行う。日本人はそれに寛容で
あった。神教徒でありながら仏教を受け入れ更にはクリスマスやバレンタインだのホワ
イトデーだの言って喜んでいるのである。その日本人のお人好しにつけ込んで自国内に
勝手な組み立てた歴史と間違えた戦争観を持ちこんで教育された者が反日運動で竹島を
占拠して 税金で運用される数々の仕組みを悪用し懐に入れる様は見逃せない事実だ。
所謂在日とされる本来の戦後の引揚避難者は今は全く生存してはいない。つまりは盗人
猛々しい行為は義を持って正す事は 日本人の誇りと一緒なのだ。


608: 名無しさんAA:13/04/01 14:29
                              だがこれは危険な予
兆と言わねばならない。郷に入っては郷に従え と言う事が解る程の日本人通であれば
この どうしようもない馬鹿騒ぎの日本人と全く日本の在日韓国人の地位や名誉を考え
ない竹島の不当占拠や自領宣言や全く根拠のない慰安婦問題などは在日からも圧力をか
けて止めさせるべき話である事は 自明の理である。真の友好国となる為に。



609: 名無しさんAA:13/04/01 22:01
新 国際町民 159

 TPPと言う得体の知れないこれからの条約は グローバルの相互乗り入れと同じに
勤労しない所得者の更なる欲望である儲けを望むだけでグローバル企業からは更に国家
が小さくなる。税金は取りにくく 各国にある独特な障壁が自国内と同じとせよと言え
る。この事は国家で統制出来た物が出来ないという事を意味する。そして近年あった不
況や先端工業の発達による安価で大量解雇の問題は 国内の金融政策や財政政策を圧迫
するの事は間違いない。結果起きる事はグローバル企業の国家脅迫であり 実質経済で
の人間の奴隷化に他ならない。その途中に例の金融不況やタイなどの国際マネーショッ
クやリーマンショックその他である。そしてそうした投資家達のマネーを誘わない事に
は成り立たない社会構造を作った。これは逆に今の欧州危機の中のイタリア・スペイン
或いはロシアンマネーが逃げて行くキプロスを見てわかる様にTPPはそのまま米国内
でも又、中国マネーや日本マネー或いは ロシアマネーに毒される危険性とブレーキや
ギヤのない国内経済を産む危機を作りだす事になる。例えば北朝鮮が隠れた会社を作り
全く判明しない偽札を大量に国内流通に乗せたとして協力した企業があった時 米国で
その影響力が巨大だったら いろんな手が打てるだろうか。名目上自由化社会を標榜し
法に触れない場合これが更にTPPでは第三の加盟国を通してグローバル企業にさせる
事ができるのだ。つまり今以上に米国は関税職員と暗躍するエージェントを5倍程投入
せざるを得なくなる上およそ税収は半分になる。そして他の国も頼りにならない国に変
わるだろう。つまりは横暴な敵対国がより巨大になるのである。そして突き詰めれば映
画のような一大コルンテルンに支配された国民に政府はなすすべを無くすのである。こ
れは図らずも第一次世界大戦前の無能な国王の元にいた金持ちの武器商人がいた頃と全
く同じ社会なのであって そのままでも人口増加で疲弊している地球人民が更に生活の
圧迫が予見され 耐えられる事であろうか。日本企業は全くその事を考えていない。




610: 名無しさんAA:13/04/05 03:02
新 国際町民 160

 経済軍師黒田は この賭博経済社会に大見えを切ったが この度胸に日本経済は好転
するだろう。白川前総裁のやり方と黒田氏のやり方がそう変わりあるわけではない。が
この発表の仕方と政府の信頼度と共に自らの日本銀行の信用度を高めるサプライズ効果
は莫大で日本の歩く闇夜を照らす大きな光源となっている。多分白川総裁でも同じよう
にこのどんつまりの日本経済での金融緩和策をいやいやながら踏襲していたであろう。
それだけ今までの日銀もこれからの日銀も或いは日本国内も生産調整も価値もかわない
しっかりした経済がある。にもかかわらず 勝手な格付け会社の思惑で格付け順位が上
がったり下ったり或いは外国特にドル資本が上下させては 日本を円高にし株下げ効果
が持続した。リーマンショックたるや最たるもので 日本の生産高や売上がそう変わる
ものではない。問題なのは偽物の襲来と過度の隣国の寄り付きで これまで国家政策と
したウォン安を容認してきただけの話である。ここに大きな違いがある。全く自国防衛
にたじろぎのない安倍政権の信認とインパクトこそ信条とする黒田会見に市場関係者は
120%の満足を得たようだ。事実今の現状で当然の位置であり正常な含み資産のある
会社経営或いは保険や銀行規模と言えるだろう。国債市場を考えれば 国債と言う国の
借金と銀行券と言う自国通貨としての借金にそう変わりあるものではない。帳簿上議会
の税の収支と発行する日銀の収支が変わるのみで もっと言えば円高でドル買いしての
価値と円安で貿易黒字での価値に変わりあるものじゃない事が前提として市場がある。
その意味では 日本の技術は落ちていないし日本の置かれた国際信認度も変わりある様
には思えない。良く言えば150円当時から100円までの間に変わった事は隣国事情
でしかない。後は惰性で80円まで上がっただけだ。解りやすく言えば家庭の給与を持
ってくる夫が会社を変わっても彼の持つ技術料が変わらず 政府という会社の事情だけ
が政権が変わって見下していただけだ。つまりは株価や円安と言う店頭価格を安くする
事は仕入れを高くする可能性が高く国内事情が通常では悪くなる店が 逆に品質が良く
バカ売れする八百屋みたいなが日本なのだ。



611: 名無しさんAA:13/04/05 03:03

                これまで流通国債も外国人投資家の利殖食いにされ
ると危険視されるが日本は逆のまま預貯金で銀行や会社の資産としてのものが多く本来
の売買の海外マネー流入は僅か1割か2割と言われている。さて本番は今後の安倍氏の
手腕だろうが ここまで戻れば増税も政策も必要なく 金持ちの資産課税の収入は増え
る。問題は中国元で買い占めてくる外国人の資産課税の収入が本当に手に入れられるか
である。何故たったこれだけの事が民主政権に出来なかったのか本当に疑問である。



612: 名無しさんAA:13/04/05 13:08
新 国際町民 163

 今度の北朝鮮の威嚇は裏が解らない。というのが西側諸国の困惑であろう。がしかし
本格的威嚇をすれば アメリカは当然自国防衛を盾に戦争に突入する事は解っている。
この時勝算のない戦争を北朝鮮は行うだろうか。問題は中国の本心である。本当にどう
思っているのだろうか。確実に北朝鮮はアメリカの最新迎撃ミサイルの模様を図る計画
に出た。死ぬ気でやれと国民や兵士の尻を叩いた以上ミサイル発射は止めれられない。
その上でアメリカは名指しで攻撃すると宣戦布告された以上 迎え討つしかない。それ
は成功しようが失敗しようが知らんぷりしようが非難はされるだろう。問題はその後で
ある。止められない中国政府と今反感を持たれているイスラム社会更に流動的アフリカ
情勢がアメリカの足かせになる。イランの核開発を盛んに国際的新聞は報じていたが、
既に成功した北朝鮮には何ら心配をしていないというユダヤ独自のイスラエル守備体制
であった。がこれらの一連の事件は 911という失敗の表れでもある。ブッシュJの
アフガン叩きとイラク制裁戦争は今だ終結していない。すなわち自由主義陣営の役割を
演じてはいないどころか 資金的にも感情的にも極めて強くアメリカを悩ましている。
これが軍産複合産業の狙いであったのかもしれないが その分アメリカ国民を含めて地
球上の人間は不幸を背負った事になる。出入国にはボディチェックが付き軍事産業はよ
り高価な兵器開発に勤しみ 無駄にみせびらかしては威嚇する。そうした外交が機能し
ない状態に陥ったのである。これはどうしてもアメリカの情報収集能力の陰りである。
本来ならロシアと中国が表にたっての意見がでるところだが 潘ギブン国連総長の全く
能力のない為に中国軍部は大笑いし北朝鮮の大はしゃぎに税にいっている。しかめつら
するのはロシアであろう。これから平和構築においてお客となる極東に戦争状況が一度
起きれば 国内資金需要の外貨獲得は対共産の風を受けて欧州に頼ざるを得ない事にな
るからだ。




613: 名無しさんAA:13/04/05 19:32
新 国際町民 164

ニュースは伝える。北朝鮮に対する制裁強化に消極的だった中国が、米国主導の北朝鮮
制裁決議案への同意に転じた。度重なる自制要求にもかかわらず、北朝鮮が長距離弾道
ミサイル発射や核実験を強行し、メンツをつぶされたことが大きい。中国はまた北朝鮮
による「朝鮮戦争休戦協定の効力の全面白紙化」の表明にも強く反発しているとみられ
、中朝国境の物資輸送を規制するなど独自制裁も取りざたされている。
 休戦協定は1953年、米軍を中心とする国連軍と北朝鮮の朝鮮人民軍、中国人民義勇軍の3者が結んだもの。中国は協定締結の「当事者」だ。北朝鮮の突然の白紙化表明は、後ろ盾となってきた中国の顔に泥を塗る行為だ。と 中国外務省の華春瑩報道官は6日
の会見で「休戦協定は朝鮮半島の平和・安定維持に重要な役割を果たしている」として
、北朝鮮へのいらだちをのぞかせた。中国共産党機関紙、人民日報傘下の国際情報紙、
環球時報も6日の社説では「このような反応は常軌を逸している」と強く非難。
中国の国際問題専門家も「現在の緊張した雰囲気では対話再開は困難」と指摘する。
これは 過去においての休戦協定が連合国軍と朝鮮解放軍更に中国解放軍の3者合意の
もとであった為と言われているが この若き北朝鮮のリーダーが知らないはずはない。
又朝鮮が戦うに孤立して対等に米軍或いは日米韓と戦う力がある。など思っているとは
とても思えない。つまりは周囲又は隣国からそそのかされてとやっているとしか 考え
られないのである。、事実、習氏は一貫として度重なる軍視察の中で「軍事闘争の準備
を整えよう」との指示を出していた。たとえば2月初旬、彼は内陸部の軍施設を視察し
た際、「部隊は『招集されたら直ちに駆け付け、集まったらすぐ戦える状態にし、戦争
には必ず勝利する』よう準備せよ」と、事実上の臨戦態勢を指示したことが報じられて
いる。北朝鮮も又同じだ。金正恩第1書記は22日、朝鮮人民軍第1973軍部隊指揮
部を視察し「戦争になれば(韓国の)統治機関を電光石火で攻撃しなければならない」
と指示したと伝えられている。この2つの言葉は暗に国内の政治をほったらかしにして
戦争や紛争で海外に目を向けさせようと言う意志の表れだけでははないと勘ぐるのは私
だけだろうか。


614: 名無しさんAA:13/04/06 08:04 ID:rp6
新 国際町民 165

 中国は完全に外交防衛に失敗した。六ヵ国協議時点で 中国は既に北朝鮮を見切って
いたかのように 北朝鮮にとっても米国にとっても或いは日本や韓国にとっても都合の
いい八方美人の外交をしてきた。韓国には企業誘致や部品供給をし日本にはODA中国
予算の廃止措置をし北朝鮮には援助目的の人的交流をして米国にはハワイ以西の制海権
を求めロシアには今の浮揚経済の国の勢いをして領土問題を片づけ手を取りあった。そ
うしたままに時は過ぎたが 中国にとってこの今の先進文化を取り入れ繁栄をもたらし
ている都市型経済を棒にふるような行為はとても同志同盟の北朝鮮であっても出来る事
ではない。従ってアメリカが中東に目を奪われている中で世界の中で盤石の地位をもっ
てより高く強い軍事力をして外交を牛耳る事を目指し極東の覇者とならん事を密かに望
んでいたとしても不思議ではない。が習氏が新体制に臨んだ時5つほどの問題が彼をし
ばっていた。1つは早すぎた発展とその力についていけない民衆の格差である。高速鉄
道事故では如何に安全や人権を気にしない発展をしてきたかがそこに表れて来ていた。
二つ目は現代社会が如何に浪費癖のある発展を止めて行く事に研究開発してきたかとい
う実績がなかった事である。長らく前近代的文化で暮らして来た人民はそのまま物まね
主義で世界を席巻した。その労せずして手に入れた技術は盗み取り真似すれば出来る物
と信じて止まない。その為電気水道ガス車通信機器食糧農業とどれをとっても満足いく
調和は全くない。それどころかこれらの産業で起きた数々の公害も賄賂の金で口を塞が
れたままの状態で物が言えない国に変貌した。三つめは外交・防衛の国際批判が予想以
上であった事だ。粛々と軍備増強を図るもののその根底は経済力拡大の結果でしかない
のである。今日的国際状況はそうした嫌われる社会が世界で信望を得られるほど優しく
ない。GDP世界1でも或いは今より2桁増えても 今までの人民では人口13億の民
を満足させる社会は実現しないのである。が人民を変える為の社会システムは中国にと
っては選ばない選択なのだ。


615: 名無しさんAA:13/04/06 08:04
新 国際町民 166

そうした足枷はそのまま四つ目のハードルとなる。賄賂・汚職 などの城官の織りなす
数々ののものは まさにその能力・品格・文化・芸術・智良は民衆からかけ離れ伝統の
中の過去の栄光すらも共産党自身が壊したものだったのである。こうした中に五つ目の
隣国付き合いアジア外交問題が噴出してきたのである。国内問題を封じ込めたように、
その外交問題も又経済力や驚異の発展力で抑え込む事は出来るものとして進んできた。
だが作ったばかりのマンションやアパートが倒壊し各地の公害はとめども無く噴出し、
独自技術として物まねから租借した技術に変わっていると信じていた殆どの新技術には
全く芯が抜けている事を高速鉄道事故は露呈した。更に尖閣問題によって暴動が自制や
指導出来ない事が解った。レーダー照射問題では全く文民統制出来ない事は明白である
。更に法輪功問題或いは人体模型問題・臓器移植問題では 全く民衆に人権どころか、
本来の生存権なども全くない無法地帯であって 江沢民が創った反日・抗日運動は全く
この汚職であれ権勢であれ共産党高給幹部や経営金満家とならなければどこぞの大学病
院のモルモットと同じであると言う事が 今になって改めて中国国民に解ったのである
。こうした事のあおりを食ったのは北朝鮮である。中国からの公害で大気汚染も海洋汚
染もすべてが北朝鮮にやってきた。ふと気付けば 中国は最新鋭設備で魚を取りまくり
漁民は韓国側に行かざるを得ないが行ってもめればそれなりの制裁強化で支援物資すら
手に入らない。中国ルートで手に入る粉ミルクを始め色々な毒性食品は軍人の指揮すら
落とした。それに国内生産は一向にうだつが上がらない上に アフリカのような難民支
援やボランティアの農業指導すらやってこない。情けない程の貧民暮らしなのだ。




616: 名無しさんAA:13/04/06 08:05
新 国際町民 167

 米国では、朝鮮半島情勢がこの数年で「最も不安定で危険」(サーマン在韓米軍司令
官)になっているとの認識が広がる一方、北朝鮮は「クレージーだが、自滅的ではない
」(政府元高官)との見方が強い。 軍事行動に踏み込む可能性は低いものの、新型ミ
サイル発射などの挑発は続くとの見通しが主流だ。先制攻撃の可能性は低いとみられて
いる。ただ、専門家が不安要因として口をそろえるのが、予測が困難な金正恩第1書記
の方針決定だ。と伝える。
 がこれは ワシントンの大きな間違いである。今北朝鮮はクレージーであり自滅を望
んで止まない。地理的には中国と韓国の境界に阻まれて公海上に行くにもなかなか難し
く交易する相手或いは物すら そうたいしたものはない。かつて小泉訪朝時には北朝鮮
の最高級松茸が3箱ほどおみやげに送ったが それこそがはかつてない大きな商品では
なかったのか。そうした細々と国家経営する中において金正日は逝去した。 金正雲は
かつて長崎のハウステンボスにヤーさん風護衛と共にやってきていた事がある。かなり
の普通の少年だった。私が話かけた時すぐに先に行っていていた それこそ気の利いた
お兄ちゃんが連れ戻しに駆け寄ってきて 私と話したいとした子供は手をひっぱり先に
進んだ。その時びっくりしたのが他に3人もの黒いサングラスをかけた男が護衛してい
たのである。少し睨まれた形だったが今にして思えば 多分その後料理人に言ったとい
う。何でわが国には先進国のように 豊かな生活が出来ていないのか。と言うことだっ
たが 正日は文人であるが正雲は武人であるとしている。が多分に習氏も金氏も国を治
めると言う事に関しては全くお手上げ状態ではないか。日本の政界がしがらみで既成の
体系を変えれないように。



617: 名無しさんAA:13/04/06 17:31
新 国際町民 169

 そうした北朝鮮は今ややり過ぎたようだ。日本海側に米グアムを射程内に入れる中距
離弾道ミサイル「ムスダン」(射程2500〜4000キロ)を配置するなど、軍事的
圧力をかけ続けているが 既にアメリカに休戦白紙状態を宣言した事は 正雲氏が既に
暗殺対象者となった事を意味する。今や彼は自分の立つ位置と発言の影響度を考えては
いないのだろう。北朝鮮の報道もこのネットと同じく何を言ってもいいという事はない
 米政府は、北の核・ミサイル活動の監視するため、無人偵察機グローバルホークを置
き 米軍三沢基地(青森県)に暫定配備する方針。レーダーに探知されにくいステルス
性能を持つ米空軍のB2戦略爆撃機も待機させている。これだけでなく、これから米軍
はあらゆる手段で北の封じ込めに動くとみられ、「当然、正恩氏が潜伏する軍事拠点へ
のピンポイント攻撃や、正恩氏の暗殺も視野に入れている」というのは現実だろう。米
海軍特殊部隊シールズによる、ウサマ・ビンラディン容疑者の暗殺をしたように。作戦
は、米軍やCIAによって簡単になされるだろう。つまり今後も順次、敵に察知されな
いようにステルス化された『ブラックホーク』ヘリの投入「F15E戦闘機などに搭載
できる地中貫通爆弾(地中三十数メートル、コンクリートも十数メートルまで打ち抜け
る)『バンカーバスター』さらに性能が増した後継弾。あるいは無人偵察機から更に発
達した無人爆撃機、これらの兵器を使ったピンポイント攻撃弾 レーザー誘導による照
射型焼夷弾などの投入を行うだろ。本当の開戦であれば2日ともたないで北朝鮮は陥落
する。問題は旧型ミサイルの発射である。精度の低い旧型ミサイルは的を貫通させない
代わりに自身も軌道がふらつく為にやられ難い。そして地上には落ちるのだ。それと金
氏自体の捜索である。アフガンでも結局はビン・ラデンもオサマールもtvに出る様な
発見はなかった。本人か影武者か或いは全くの赤の他人かは不明なのだ。




618: 名無しさんAA:13/04/08 04:36 ID:ZF2
新 国際町民 170

 こうした事を見ると 今や北朝鮮は四面楚歌の八方塞がり状態であろう。この緩衝地
を中国は手放したくはないはずだし 国民には何とか納得させたい欲望がある。北朝鮮
は米国側が第一砲に出てくる事を待つだろう。この事は同時に中国も同じだ。形の上で
は中央政府は6ヵ国協議で今まで通りの状態に戻る事を期待しているが 軍部は本当は
領土拡大につながる事を希望している。つまりは国民アピールであるが底には尖閣問題
を意識している。つまるところ黄海を西側の監視が無い状態にして海軍増強を図りたい
のである。それにはアメリカの発砲と同時に協力参加するよう中国軍を国境線まで召集
する事は同じだ。その上に長男金正男を今警備し待機させとく事は最も重要であると考
えられる。と考えると正男氏がこの北朝鮮の総書記になろうとも民主主義にはほど遠い
傀儡政権国家となり なかなかこの地の国家運営は大変に思われる。一つだけいい面が
あるとすれば この政権交代劇が成功裏に終われば、日本との拉致問題で止まっている
国交樹立が図られるかも知れない。という期待はある。だがそれは台湾同様中国の圧力
の下での話である。だが隣の韓国はこれにより統一朝鮮は全く出来ないであろう。だが
中国型共産国の仲間入りしたような国であり 中国の意向を汲んでと言う事であれば、
可能性が無いわけではないだろうが。が国際社会でこの共産国家が主要な地を占領する
事をみすみす見逃すだろうか。特に自由社会を標榜するアメリカや日本にとっては手痛
いことではないだろうか。それでも今の馬鹿な国連総長は 何ら踏み込む姿勢も声明も
ない。自国の生まれた地が混乱にオチイロウというのに。である。



619: 名無しさんAA:13/04/08 09:39
新 国際町民 171

近藤大介曰く 大陸に位置する中国は自然環境が厳しく、頻繁に外敵に襲われました。
そのため、男性のように勇敢であることが必要でした。これに対し、日本は周りを海で
囲まれているため、外敵が侵入しにくい。そのため、女性のように繊細な文化が育まれ
ました。そのためか、日本では男性に中国好きが多い。と分析している。更に過去に鎌
倉幕府が誕生した当時、日本は伝統的な「武士」を主導とした軍事国でした。それが、
明治維新以降、「武士」の地位は「兵士」に取って代わられ、第2次世界大戦以降は「
兵士」が「企業戦士」になり。そして、バブル崩壊後は「失われた20年」や 東日本
大震災を受け、「企業戦士」から「草食男子」になりました。ですが、日本女性は「草
食動物」を飼うことに嫌気がさし、最近は隣国のマッチョなイケメン男性に熱い視線を
送るようになったようです。と言っている。はたしてそうか。歴史的事実はそうだろう
。だが私は逆に見える。つまり中国社会は毛沢東が共産国になって以来女型の噂社会に
変わったと言える。つまりソ連化である。意地を通して密告による処分や死刑地域社会
の孤立主義の台頭によって村八分される危険そうした諸々の隔離社会で今世紀まで過ご
してきた。従って多様性のある基礎研究や正確な歴史把握や道徳教育が無視というより
阻害され今でも思想教育の労働教練所が収容所のごとく各地にあり上層部は臓器売買に
勤しんで殺人を行っているのである。つまり中国は昔から女々しく国の動向に寄り添う
人間を育てる事で維持してきたのだ。対して日本は常に地震や台風など災害の中で嘘で
も明るく立派である事を有無を言わさず強いられたのだ。つまりは家を建てるとして、
その建て方はどういう形であれ結果は 台風にも地震にも或いは津波にも風雪に強いも
のが求められたに違いないのだ。では中国はどうか 中国はそうした造りよりは造り方
によって盗賊やら国に目を付けられない事を気にする民族でだからこそ紫禁城があると
も言える。



620: 名無しさんAA:13/04/09 23:24
新 国際町民 172

 今回の北朝鮮の動きの前哨戦として 韓国サイバーテロが上げられる。韓国内での
偽物のOSを使っていた事も理由としてはあるが それと同時に中国内のサイバー部隊
が北朝鮮軍部にかなりテコ入れした様子もうかがえられる。CNNの報道からもかなり
深刻でやっかな部分があって 韓国政府はあわてて北朝鮮から中国経由のウイルスであ
る事を発表するや否や まだ解明には時間を要すると訂正発表に切り替えた。日本の多
くのTV局が黙して語らずの偏向報道に徹していて日本国民に知らせないでいいること
が多々あるようだ。それが次のような内容なのらしいので驚きである。
  @38度線の監視システムも停止しており、何者かの痕跡があった模様。
  A約3兆ウォン≒2400億円の預金データが忽然と消失した模様で回復が問題化
  B一部放送局の放送システムが初期化され復旧の目処が立っていない
  C最新鋭イージス艦のシステムも 大きくダウンしたことを認める件がある
  D企画財政部は約5人(5万人?)分の預金データが消失したことを正式に発表
  E国防部は戒厳令と動員令の発令を大統領府に要請したと発表
  F企画財政部は混乱による物価上昇を抑えるため物価統制令発令を検討した
  Gソウル市で引き出し騒動鎮圧のため治安警察が出動され一部預金者が不満に走る
  H軍事用航空管制もいくらか影響があったようでシステムダウンしたか疑問視される事実は不明だが韓国KBCより放送され 海外CNNでも放送された。が問題は軍部の
中枢をも探りを入れたサイバーテロだったという面と アメリカ内のサイバーテロの中
のブラックBOXの開け胡麻入りのICの攻撃が非常に近い日の内に行っている事だ。
つまり今までは情報引き出しにサイバー攻撃がなされていたが 今回は情報記録の消滅
とコンピューター内の指令の無能化を目的としていた事だ。ここでも北朝鮮の実質発動
と裏で中国の画策の痕跡があるのだが、一部の噂では中国が北朝鮮を煽って韓国と戦争
させ南北朝鮮を戦わせると同時に中国が朝鮮半島を制圧するそれは 今世紀半ばまでに
韓国は消滅させて中国の一部とすることが決まっているとされる。理由は一つ食糧自給
特に黄海内の漁獲と海洋資源の独り占めだと言われている。



621: 名無しさんAA:13/04/24 21:56
新 国際町民 181

 バーンズ国務長官は全く アジア諸国を解っていない。この程度の知識や見識では、
イランの核開発も何故起きているのかよく理解はしていないであろう。北朝鮮の挑発も
中国と米国が近寄ってしまった事に遠因があるのだが この事に注視していない事には
ちょっと憤慨である。そもそもフィリピン沖で起きた岩礁占領事件では 武器をも持た
ない漁民に簡単に発砲し死亡させて占領している。この事でフィリピンは海軍を派兵し
ようとしたのを抑えたのは他ならぬアメリカだったはずだ。南沙諸島問題と中国拡大主
義に対して尖閣問題が明日の南沙諸島としているのは 日本人ではなく他ならぬ中国の
指導部や軍部である事は明白である。この事に全く言及せずに ただただ北朝鮮の脅し
に屈して中国や韓国の融和の話し合いへの扇動や挑発に懐柔している事は全く世界平和
を脅かしている根本原因なのだ。この事を全く理解しないでこれまで交渉に当たってき
た事に大きな問題があり今後もこうした事を続ける事は 遅かれ速かれ第三次世界大戦
を起こす種となる事には間違いない。 過去から毎年の様に中国は軍事衝突は止む事は
全くない。朝鮮戦争・越中紛争・中ソ領土紛争・チベット占領・台中紛争・ウイグル侵
略1995年 ミスチーフ環礁事件 1997年: スカーボロ環礁問題 南沙紛争 西沙占領
更に国内では虐殺・公害・取締まり・隠蔽工作・人造実験・人体標本・人肉食宴・情報
規制・サイバーテロ・特許悪用・毒素製品制作・贋物制作と全くありとあらゆる悪行の
見本市を成している上での どうにもならない国なのである。ここにまともに会談して
交渉を行う事の無意味さをもっと知るべきである。もちろん独裁主義政権は東南アジア
にはかなりあったし其れなりの国内問題はかなりであったろう。今でもミャンマーは軍
事政権のままである。が表向き米国の様な民主主義で自由国家である様に振舞いながら
共産党国家独自の醜悪な政策と指針をもって国家経営を進めて居る事を知らなければ、
今後のアジアの平和どころか世界の平和はない。それは勿論アメリカやイギリスも遠い
国としての存在ではない。


622: 名無しさんAA:13/04/27 18:35
 今後の国際社会


 おそらく 日本も同じだが 今後大きく気候変動する中において大きな損失を被る事
が予測される。が日本は今でもインフラ整備の中身があのドイツのような100年継続
メンテフリーの方針や思想が無い事による。だが極めつけは中国であろう。アメリカが
これまで絶対壊れる事のない貿易センタービルを自ら破壊しそのままである事には仰天
するがそれ以上に2・3年前に建てたビルが欠陥として壊されたり或いは震度5ぐらい
でかつて6以上の地に建てて7をも持つとしたビルが崩壊している現実も日本人にとっ
てはかなり異様である。そうした中で中国は既に失政によって経済的斜陽化を果たして
北朝鮮と同じように 国の外に資源も経済も技術も食糧も求めるしかない状況のようだ
。極めて不憫な事だ。多くの日本人は中国と中国人にかなりの懐かしく心地よい情感を
持って優しく接していたはずだ。それはまるで我が子や故郷をみるような目や感覚で。
だがここ30年の行方は全くまちがった韓国の行政のように感謝や愛情や共生を一切捨
てた非情な嘘で塗り固めた反日教育をして国を治めて来た上に中華中心主義の軍国主義
が台頭し共産党独裁と言う麻薬の中で今や中毒を過ぎた虚ろな狂人化した国家になり下
がった。この先国際社会で発言力や信望を集めるとしたらおそらく百年先であろう。つ
まり台湾やチベットやウイグルから尊敬をされた時である。そこで次の世界を担う発展
国はと言えばロシアとインドしかない事になる。が ロシアも気候変動と共産体質には
今だ有効な手立てを持っていない。インドは自由化社会を標榜するも階級社会の壁とさ
らに宗教対立からは抜け出してはいない。特に世界の中では少数派となるヒンドゥ教は
あまり理解されてはいない様に見える。そこでみえるのが 今回家が崩壊したバングラ
デシュとかつてビルマと言われたミャンマーである。この地区はアフリカと同じく忘れ
られた国だったが今後は目覚ましい発展が予測される。だがここでも問題はある。貧困
から正当に取り組む政権が出来て立ち上がるか。と言う疑問である。北朝鮮の一連の奇
行も軍事政権故の出来事であり隣国に中国や韓国と言う奇行に手助けする政権がある事
はそれも又不幸でもある。


623: 名無しさんAA:13/04/28 03:24
 今後の国際社会02

 仮に今最も成長率と成長の見込みのある所はと言えば シンガポールやマレーシアで
あろう。先に述べた様に まるでウルトラマンでの地球の侵略者みたいなバルタン星人
と見まごうばかりの中国の資源奪取と情報規制は 全く間違って地球を進化させ続けて
いる。この事はとても大事な事で 中国が今まで作って築いて来たであろう4千年の国
の歴史や文化を自らの手で打ち壊し破壊続けて 現代は加速度的に退廃させ続けている
。この大きな流れは 中国人はその阻止を対外国にそれを求め 国際社会はその国の持
つ自制心に求めている。このいい加減な行為は神は決して許さないであろう。経済では
言い様に利用し軍事では互いに野心をはばからず更に文化では自国の持つ気候風土もま
ったく顧みる事無く 他国の持つハイカラなオシャレな営みに惚れ込んで様式を変えて
贅沢で豚が服を着て真珠を食べる生活をしようとしている。このおかしな姿は 既に今
北朝鮮と言う 核弾頭を背負い貧民に鞭を振るって世界を渡り歩く生産のない旅人を作
った事で よくわかる。情報では今や種播き用に管理していた米すら軍部が金正日死亡
と共に起こった催し物として取り上げられたと言う。今後この種籾すらない状態で人民
の食糧調達はほぼ不可能と見られ 更に一層の上層部の圧力が強くなるものと思われる
。そして中国でも電子化情報化社会の到来で今や人民は多くの事を知っているが その
不満は至り所にはけ口を求めている中で日々貧民化する中にあり これを国外に隠しな
がら国外に活路を設けようと 必死に戦争の元を創りだそうともがいている。漁船団の
根こそぎ漁 軍部の法外拉致 言論や情報の報道規制 食品や公害などの安全無視 更
に教育や産業においての党員絶対主義や 日々の賄賂常態化 など全く戦時中さえ無か
ったような非道を産んでいる。こうした国が大きくなった試しはない。いや大きくなっ
た後の取り締まりは 人類自らの戦争と言う大きな危機をもたらし2度の世界戦争を引
き起こして その反省から現在の秩序があるのだが 今や世代交代によってその真の歯
止めとなるべき 平和へのキビツは既にタガがはずれてしまっているのである。


624: 名無しさんAA:13/04/28 18:40
 今後の国際社会02

 もしプーチンが2島返還と平和条約を求めているというのであれば 安倍首相はそれ
を受け入れるべきであろう。4島返還は日本の譲れない希望ではあろうがそれは実務的
には不可能である。しかしその平和条約後には 収容所送りになった所謂シベリア抑留
者の解明と今後の残りの2島返還交渉には対応を行う旨の内容が必要であろう。もしも
これが現実にできれば それはロシア国内では相当な風圧をプーチンは受ける覚悟をも
辞さず望んでいる事になる。もしそうした意気込みがあるとすれば日本は答える義務が
ある。残りの2島返還が無理ならば残りを千島と共に共同管理として日本の法律を適用
するとすればいいではないかと思われる。この事は今の北朝鮮の拉致問題と同じである
。日本人的心情からすれば 既に年を追って帰還出来ない住民をこのままにはしてはお
けないのが現実で殆ど半数以上が今や高齢化し死亡したと思えるのだ。又ロシア国内で
も開発発展に今や海外の企業を入札して行っている。これは既に経済的破綻がそこにあ
る事を意味している。極寒の上に地震地帯である。医療や教育或いはライフラインなど
には 今や莫大な予算出費になっていると思われる。ロシアは領土は欲しいが人の生活
の面倒には力不足である。つまりロシア側からは軍事的に平和で保たれていれば 何も
無理して維持する必要もない。その上今やロシアも少子高齢化の波は押し寄せている。
此処で極寒の僻地において自治管理出来ない場所が出来る事は 大変なリスクであるし
半分民営化させた大企業が乗っ取り アメリカに対抗した組織でも出来れば否応なしに
苦境に陥るのである。それは潜水艦の廃船において海洋廃棄した様な事柄でもロシアの
知らない間に 天然資源が絶滅する危惧さえあって 食糧調達さえ今やズアイ蟹の密漁
に手を焼いているのだ。この監視と漁船自体の密漁は今や北朝鮮や中国船に対応するに
も平和で強硬しない日本漁船の協力をおいて他にないのである。







625: 名無しさんAA:13/04/28 21:30
 今後の国際社会03

 ダイヤモンド紙に”中国経済を「通過」せよ!2015年、中国バブルは崩壊する――大
和総研チーフエコノミスト熊谷亮丸に聞く”という記述があった。中身は衝撃である。
さすがにエコノミストの分析である。基本的に的を得た話の連続で、楽天イーグルスの
田中をして野村監督が言った言葉を思い出した。すなわち彼は160kの直球をして制
覇し楽天を優勝に導くつもりだったが 結局は2年目の145kの的確なコントロール
した変化球の方が遥かに固く勝機に結びついた。と言う話である。「技術で勝って商売
に負ける。」という言葉はすなわち高い技術と言う直球を持っていても コントロール
のいいその場に合った変化球商売に負けているのである。だがそうした中であっても、
日本人は中国に目を向け希望を託した様な誤まった判断を進めてやって来たのである。
今後中国の6つのリスクを考えれば まずはチャイナプラスワンを目指して中国経済の
巨大化と言う幻想は捨てて 通りすがりとして素通りしたが良い。と提言している。そ
れは隣国として 友好も敵対もしない国として扱うべきという事になる。”今後、日本
が必要以上に 中国を挑発することは控えるべきですが、「反日デモ」にビクビクして
中国の顔色を伺うような外交だけはやめた方がいいと思います。「反日デモ」の本質は
あくまで中国の国内問題であって、「反日」という要素は単なる口実・きっかけに過ぎ
ません。”と言うのである。そのリスクというものは言わずもがな共産党と言う@政治
リスクであり、隣国と言うA軍事リスクである。更には今やバブルとなったB不動産リ
スクがある。として通常2割から3割程度のGDP割合がこの国は不動産関連金融6割
から7割とされる。更にC行政リスクとして少子高齢化は一人っ子政策で今や日本以上
に進展しているという。他に既に始まった人件費高騰などのDインフレリスクは始まっ
ていて、所得格差以前に人道的見地からは更に習慣の違いからのE文化リスクも高い。
この文化リスクは今の鳥インフルや公害や更には高速鉄道事故などでも解るものだろう
。こうした事で 真面目に考えて今後の日中関係に関しては暗く、あくまでも利潤商売
の原理原則を貫くことと、リアリズムのバランスを取った「プラグマティック(実利的
)」な対応を講じることが最大のカギです。それは日本人が大切にしてきた「中庸の道
」にこそ、日中間の懸案を真に解決する知恵が隠れている。と締めくくっている。この
「中庸」の「中」とは、偏らないもので、決して中間をとる事を指してはいなくて物事
に対して過不足なく対応する。と言う高度な判断をいうのである。


626: 名無しさんAA:13/04/29 03:51
・[憂鬱人敵251]

 さてさてユニクロは世界同一賃金制を打ち出した。これまで人的労働力のモジュール
化を図って来てその後 一律化したマニュアルでの出店を目指した。数ある衣料品の中
でそれこそ大きさや体型や色合いや柄や様式や生地や縫い合わせと言った千差万別の品
物を整理統一化する事で 利潤を大きくし更に幅を多用途幅と言う一般好みに絞っては
更に安価に提供して話題を呼んだ企業が 今や国際化から人の絞り込みに徹する方向性
を打ち出した。これはナチスに劣らぬ排除効率化である。しかし誰もこれを止められな
い。何故ならもともと会社システムが軍隊式のピラミッド構造の効率化によって事業の
体を成していたのだからだ。例え社外にその労働力を置いた企業であれ派遣や下請けで
の企業体であれ 殆どの会社つまり戦後においての安川電気や出光興産や石川島播磨の
ような企業を除けば今やこの上意下達のピラミッド構造を無くしている会社なぞ存在は
していないに違いないと思われる。で国際社会そのものもこうした形のイメージで現在
進行形でその上位に置こうとしているかに見える。今回行われるアベノミクスもTPP
も実はその一環なのかもしれない。だとすれば日本は早急に軍需産業を育てるべきとの
結論に至るだろう。核ミサイルはもとより新型軽量戦車や次期支援忍者戦闘機などの、
ありとあらゆる日本の技術と資材を結集した防衛開発を産業化して行うべきである。何
故か。今日本は通貨安戦争には加わらない決意をし経過や結果として円安に振れる事は
仕方がないとしている。が現実には中国元の存在は世界の通貨の半分まで印刷している
としている。勿論その裏には買いたたきしたドルやアメリカ国債などの預金があっての
印刷だろうがこの紙幣発行の元となる帳簿は誰も見た事はない上に中国資本のおよそ2
百兆円は賄賂官史や万元戸によって海外に持ち出されているとしている。グローバルな
経済の中で例えば町内会で町内会を渋る隣の加工食品の社長さんが空手形を切って八百
屋に仕入れをさせている様なものだ。其処には勿論町内大手スーパーの手形も確保して
いようがと言うところだ。で問題はこの小さな八百屋さんはどうすべきかである。戸締
りをしっかりした防衛体制をしかねばそこのスーパーは安いアルバイト店員しか置いて
いない状態かも知れず 更にスーパーに対抗して安売りしなければいけないかも知れな
い為に 市場で保存のきく資源や資材を信用のあるうちに買って取って置かねばならな
いのである。


627: 名無しさんAA:13/04/29 09:02
 今後の国際社会04


 やはりというか何んというか。キチガイ印の中国人が爆発的に海外を汚染し始めてい
る。これは世界的に危険すぎる傾向だ。FBIによると、数人の警官が人肉食を試した
いとの謀議でバーレ被告を逮捕し自宅から謀議の詳細を明かした電子メールやメッセー
ジを発信したのを突き止めた。今年9月に捜査を開始。捜査筋はCNNに対し、被告と
別れた前妻が被告のコンピューター内にポルノがあるのを発見し、通報してきたことが
きっかけで明らかにった事を話している。訴状によると、被告が今年7月に作成したと
みられるコンピューター文書には一部の女性の人肉を食べる行動計画が記されていた。
共犯者とみられる人物とのネットでのメッセージ交換では「被害者1」と する女性に
ついて「おいしそうだ」などとの表現があった。また、別の共犯者とみられる人物とは
今年2月、被告が頼まれた女性の拉致についての値段を交渉。被告は5000ドル(約
40万円)を要求し、値切ろうとする共犯者に抵抗したという。FBIなどはこの被告
が作成したリストに載っていた女性100人の身元を調べる作業を続けている。身元が
判明すれば今回の犯行計画などについて連絡するとしている。これらの被害者は警察の
データーベースから抜き取られた事も解っていて年齢や住所と共に仕事場や日常の行動
まで網羅されているものもあったと言う。一方香港(CNN)からは 中国の上海中心
部の黄浦江でブタ約6000匹の死骸が回収された問題で、国営新華社通信は14日、
浙江省嘉興市にある養豚場が死骸を同川に投棄したことを認めたと伝えた。ブタの耳に
あったラベルの内容でブタが嘉興市で生まれたことが解っていたという。同市は上海の
南方に位置する地方都市だが 黄浦江で発見されたブタは法や規則の順守を重視しない
養豚業者がいる地方から流れ付いたとの見方を既に伝えていた。同市では実は今年初め
の段階で、粗野な養豚技術や過度の悪天候の影響で計7万匹のブタが死亡したと報道。
ただ、死骸は安全に処理されたとも伝えていた。だがこの中で浙江省では13日、病気
のブタの肉を売ったとして46人に6カ月から6年半までの禁錮刑が言い渡される判決
がでているがその中の30%は中国国内であるが残る60%は日本に送る加工食品をも
取り扱う業者に売られている。当局者は死骸の発見はさらに増えると予想しながらも、
上海市内の水質に問題はないとも主張している。



628: 名無しさんAA:13/05/07 05:50 ID:jM2
ぽかすかじゃん 48

 つい30〜40年ほど前には 中国には鍬や鎌さえも没収されては 精錬に回されて
60Kgの鉄製品から40k程の使えない鉄の塊を作り 大々的に鉄が鋳造されたとして
広告し世界の嘲笑を買った時期があった。その後船を造るのにもモルタル製の泥船が主
流で細々と魚を捕って暮らしていた漁村から 一人の中国人が福岡にやってきた。その
男は魚介類の業者の伝手を頼りに 裏社会の人間が金を用立てて 海に沈められて魚巣
となる船を買い付けにやって来たのであって 裏社会の人間は麻薬の密航に船が欲しか
ったし漁民は日々暮らすに魚を捕る船が欲しかったからだった。だが今やそんなさびれ
ていた漁村も大きく様変わりしている。3千隻以上の魚釣り船や掛網船が並び かつて
の小さな漁船がいた村ではない。黄海に面したその村で更に驚くのはその暮らしぶりが
日本以上の贅沢な暮らしをしている事であろう。鉄筋コンクリートの3階建ての邸宅の
ある広い宅地には塀で囲まれ外車が並んでいる。そんな漁村は日本では数少ないのだが
、中国では東シナ海に面した漁村も相当以上にこうした村は点在する。で注ぎこむ川も
また多く大きく中州も広い。その中に播磨造船が建てた工場もある。今近年においての
日中摩擦の原因がここにある。日本においての敗戦は規制が規制とならなかった原因で
もある。この共産主義者との戦いという事は今や声を上げて日本に進言して止まなかっ
た米国さえ忘れた感がある中で 中国はこの普通の船を造る造船技術を盗んで止まない
。そうして中型船であれば 数多く作ることが容易に出来る施設を持つに至った。いか
にも貧相な技術であったが、今やスパイやサイバーテロからも機密情報を盗んでまでも
その技術を高めては製造出来る実力に喜び沸いている感のある国内である。その中に今
の巡視船クラスの海洋船の領海侵犯がある。これはアメリカが日米安保条約を持って親
日国家であるに関わらず 第二次世界大戦でヨーロッパ大陸のドイツ侵攻に悩んでは、
日本を国際連盟から脱退させた以降一つの過激な原理主義者に惹かれて政策を打っては
参戦し世界を逸脱した為である。がその方向を日本人は何も知らずに大陸進出の夢を、
大陸での華僑のような商売の夢を今も輝かせて中国や韓国あるいは北朝鮮との友好を信
じている。日本そういうおひとよしの馬鹿な国民なのだ。これは自覚して自戒すべきで
あろう。

629: 名無しさんAA:13/05/12 11:38
 人一人 07

平成の怪僧「最福寺」(鹿児島市)の池口恵観(えかん)法主(76)が北朝鮮との窓
を針の一穴でも開けておきたいとの願いから朝鮮総連ビルの入札に5億円の資格権を支
払い451900万円で落札したが金融機関からの融資不履行で断念する頃中坊公平氏
は逝去したと伝えられた。片や大きな政治カを持つ政治家との交友関係や北朝鮮とのパ
イプすら持つと言われる怪僧と庶民弁護士の旗手として73年に森永ヒ素ミルク中毒被害
者弁護団と千日デパート火災テナント弁護団の団長などに就任し豊田商事の破産管財人
になっては、従業員給与の所得税の返還を実現したり、瀬戸内海の豊島に産業廃棄物が
大量に不法投棄された事件で住民らと共に、撤去など解決に尽力したが一方では96年、
公的資金が投入された住宅金融専門会社(住専)処理に当たる住宅金融債権管理機構の
社長に起用されて、人々にその名を知らしめた。99年に改組された整理回収機構の初代
社長にも就任して司法制度改革審議会や警察刷新会議の委員も務め、裁判員制度の導入
や組織刷新などを引っ張ったが 整理回収機構の無理な徴収を受けて弁護士権のはく奪
をされて 旧来の修験道者の宿泊から旅館に変わった実家に引いた生活をしていた。こ
の二人を見てはやはり日本仏教の形のない変幻自在の仏心に想いが募る。かの怪僧は、
貴方は右翼ですか左翼ですかとの問いに仏翼ですなどと答えているが、この中坊氏も又
巨悪や劣悪に対しては 法が許しても我々は人情として許されない事には引き下がらな
い。との言葉を発して 法が間違っているのであれば人々が法のあり方を変えるべきだ
。との持論を持っていた。その為に陪審員制度を提唱し広く国民の常識に照らして法は
執行されべきと闘っていた。こうした希有な存在者こそ 日本人は尊ぶべきでああろう




630: 名無しさんAA:13/05/25 01:44 ID:Pb.
新 国際町民 181

何が悲しくて日本に住まなあかん。と思っていたらチベットなぞはもっと悲しい世界の
ようだ。がそのチベットを更に上回る中国の悲しい現状が更に知らされる。言論統制の
闇の中でも 人民の悲鳴は聞こえてくる。全くあの悠久の歴史の大陸が何時の間にか、
共産党に浸食されて 今や世界の恥辱の果てとなっている悲しい姿である。ニュースは
伝えている。山東省の農家がショウガの栽培に「アルジカルブ」入りの農薬を用いてい
たことが判明。アルジカルブは体重50キロの人がわずか50ミリグラムで死に至る程
の猛毒で、中国でもショウガの栽培などには使用が禁じられている代物だ。アルジカル
ブ系農薬をめぐっては2009年には、既に京都府で中国産冷凍ポテトから基準値の3
倍に達する「アルジカルブスルホキシド」が検出されて、相当な問題になったが 中国
当局はあまり気にしていない状態だった。その為に蔓延して毒性の強い農薬に次々に人
は使用薬種を変えて行った。中国人ではなくとも本来の害虫や病原菌には耐薬品性での
子孫が出来ては困らせる為に 次々と強毒性になるのは常である。07年には米カリフ
ォルニア州で中国産ショウガから同じ系統の物質が検出され、州当局が「大量に摂取す
ると吐き気やけいれん、呼吸困難を引き起こす」と警告。こうした“前科”があっても
一向に改善が進まないずさんな実態が、山東省の件で浮き彫りになったのだが。日本で
の検疫にはすり抜けて流通しているのが実態だそうだ。もっと厳しくすべきでありその
流通の中で針の穴を通す程でも一度すり抜ければ 彼らは一向に構わず大手を振っての
その大胆な 人間用の殺人食糧調達での外貨獲得に勤しみトンずらしては海外生活に走
り 原因どころか流通経路も手口もその本拠地も不明のままで 噂が消えた頃又行うの
である。そうしていまや、中国産の猛毒食品は日常生活に深く浸透している。スーパー
の野菜売り場を眺めると、問題になったショウガのほか、タマネギ、ニンジン、ニンニ
ク、シイタケといった多くの商品が並ぶ。水煮のタケノコ、山菜のゼンマイなどには弱
い中小日本企業が積み替えて中国産をパック詰めして売るのが一般的なのだ。危険を感
じつつも、スーパーの強い価格要請や非情な契約履行で店頭を飾らせ 安さのあまりに
つい手を伸ばすそうした客を手際良く掴む。そうした商売のやり方をする店は多い。



631: 名無しさんAA:13/07/09 21:32 ID:4uo
新 国際町民 182

 エジプトは新たな局面に発展したようだ。エジプト軍によるクーデターで、同国最大
のイスラム原理主義組織ムスリム同胞団は民心をつなぎ留められず、選挙で得た「力」
を喪失した。とニュースは伝えている。だがどうも違うようだ。もともとムスリムが一
般にはイスラムの穏健派とされているが それは違っている。かつてはムスリム同胞団
は 1954年当時それまで協力関係にあったナセル首相(後に大統領)と宗教色の強
い憲法改正に強硬姿勢対立した。そして直ぐに団員が起こしたとされるナセル暗殺未遂
事件が起こり非合法化されて地下にもぐった過去がある。その後当局の徹底弾圧を受け
、幹部は軒並み投獄され処刑や服役など経た歴史を持つ。その後70年代になりサダト
元大統領が、幹部らの釈放を進め今日に至ってはイスラエルからの空爆やPLO援助な
どからの経験から貧高層などに対して慈善活動を強化して今の支持を集めていたのであ
る。日本的に言えば批判ばかり強く自らの政権運営の出来ない社民党や公明党のような
存在なのだが 中でもその芯にある一神教で排他主義を教えるイスラム教は国際社会の
持つ通念はない。したがってシリアでもイランでもあるいはイスラエルさえもこの狂気
に似た熱心な宗教家が多数存在している事は中国共産党と共に厄介な代物の土地柄であ
る。1950年代の大弾圧以来イスラム教圏内では唯一の石油などの輸出資源のない国
として決して富んではいない中で自由がある国として観光資源を経済の中心にして発展
した国が サダトからムバラクまでだが前任がアフリカ革命に敗れてモルシが登場した
事自体が 多分に今日が起きる予感があったと言って良い。ムスリムを否定する国民は
いない。だが同じように賛意があるかと言えば其処にはない。何故なら観光収入のない
まま強いイスラム教国家になるそうした決意や境遇にはイランと違いこの国にはない。
何故なら彼の国は自由主義国家資本主義国家としての末席でも座っていたからこそ観光
を資源として収入として成り立つ自由主義経済国家で発展してきたからだ。



632: 名無しさんAA:13/07/10 16:58 ID:VCA
なかなか対応されないのと2chの規制長すぎる

633: 名無しさんAA:13/07/10 17:00
日本に住む以前に説明が無いんだよな?
今迄そのせいで滅茶苦茶だった

634: :13/07/11 16:52
日本一は良いがある意味寒過ぎ

635: :13/07/11 17:09 ID:VR.
アクセて言われても知らないし関係無いんだが?

636: :13/07/11 18:19
不条理だからM呼ぶは?
て言ったらどうなる?

637: :13/07/11 19:10
逆アクセス規制が必

638: :13/07/11 22:59
妄想では無くてこれらは事実だからこそ

639: :13/07/12 01:34
目標は見えなくても不安になる事は無いよ?
生きている内に目標はできる
絶対やらないとダメてくらい己追い込める
それが今普通に戻す事がキーワード
普通で無かったからって不安になるだろうか?
焦る必要あったら即刻だな

640: :13/07/13 19:15 ID:M6s
市鉄はちゃんと生きてるか?

641: 名無しさんAA:13/07/14 11:25
反応が無いのが困った物だ

642: 名無しさんAA:13/08/04 21:09 ID:636
・[憂鬱人敵273]

 金 慶珠は全く間違った解約をしている。今度のサッカー観戦の横断幕は まさしく
民度の問題で 韓国人にも批判的意見を持つ者がいると言うが その考え方はよくある
韓国人の上っ面の言い訳でしかない。何故なら通常なら民度と言われて政府が国を侮辱
したなどと公式発表はしない。また旭日旗は今だ日本の国旗でありそれを批判している
のは韓国と中国のみである。更に従軍慰安婦問題・靖国問題も又同じこの2国のみであ
る。ではなぜ2国間に こうした問題が残るのか。民度の悪さは政府がそれを煽るから
に他ならない。中国も70年代既に毛沢東が牛耳っていたにも関わらず 靖国神社には
多くの中国人韓国人は靖国参拝を参詣客として訪れ行っている。それを日本が追加融資
つまり援助の枠を広げた時 日中国交に批判的だった輩が親日派を追い出そうと利用し
歴史資料館などと言う嘘で固め TVでは残虐非道の日本兵を描いては国民受けを狙い
煽りたてて 既に30年以上が過ぎた。ここで多くの問題は、指導者の道徳心のなさが
そのまま国家の性格を決定し 国民が民度のない生活習慣に生きて生活し「恨み節」を
当たり前の思想としている事にある。ある種アメリカが原爆展を出展させない事と同じ
に自分の都合の悪い事は隠し通せるとする国家観である。今回 映画監督のオリバー・
ストーン氏(66)がこのほど、米カリフォルニア州で琉球新報のインタビューに応じ
た。とされる。「米国は建国や憲法の精神として民主主義や公平さを掲げているにも関
わらず、沖縄では戦後約70年にわたり米軍基地の過重負担を放置し、日米地位協定で
米軍を国内法の枠外に置いている。」このことを踏まえて「二重基準だ」と強調した。
「こうした矛盾の放置は耐え難い」と米国の対外政策を批判したが これは日本人が言
うべき言葉だが それが言えない理由に国際社会を背負うアメリカ国民の矛盾がある。
この独立国だった沖縄が日本の侵攻を受け、第2次世界大戦を経て、今や在日米軍基地
の集中が続いている歴史の中にいて「沖縄の人たちは『私らは本当は日本の一部でも、
米国の一部でもない。島の住民なんだ』という明確なメッセージを発するべきだ」と述
べ、覇権主義や大国の論理に左右されない自己決定権獲得への運動が重要だと主張した
が 果たして日本人は歓迎するが他の国特に米国人や中国人は歓迎するだろうか。スト
ーン氏は4日に来日し、原爆投下から68年を迎える広島、長崎に続き、東京を訪れ1
3日に来沖する。


643: 名無しさんAA:13/09/29 18:30
・[憂鬱人敵305]

 音楽業界はいつの間にかインターネット上のダウンロード音楽を違法な音楽とした法
を作った。これはおかしな行為である。確かに著作物で著作権はあろうが音楽そのもの
の音階やメロディは誰の物でもない。例え先行して先人達がある種のイントロやリズム
を作っていたとしても その後の人が同じ様なリズムやイントロを発見創造する事も無
いとは限らない。更に言えば こうした映像や音楽に対してソニーはアメリカ国内での
裁判で一般利用は著作権や肖像権に当たらないとの判決を受けて家庭用VTRの販売を
物にしている。そして其れが一つの基準として育ち 現代のインターネットまで発展し
たのである。基本的にレコード盤がセルドイロの時からコピーはコピーとしての使用し
た文化があったしそれがあったからこそ音楽部門は発展し人気を博して来た。その音楽
という分野からそのコピーして楽しむ行為を取り上げたらば 多分このCD業界は潰れ
てしまうだろう。まずラジオやTVだけで流される音楽でも基本生活には充分なのだ。
だが 町中や人々に溢れた音楽があってこそ好きな音楽や好きなメロディがあるのであ
って好きなものがない状態で果たして音楽と言う分野の文化が育つ程商売が成り立つと
は到底思えない。それは本という出版部門にも言える。かつて無かったコピーや電子出
版と言う機能が高まり人々は文字に近づいたが 果たして出版部門は乗り遅れまいと、
かなりの幼稚な出版が盛りだくさんある。がそれでも決して売れているなどとは思えな
い。つまり人が欲しいとするその本を探せ出せなくなった事と本自体の品格の無さから
である。ある種多様化社会はそうしたものが安価や無料に供給しなければまずブームと
言えるほどの熱気は産まれない。それは逆に そうした事に触れる機会を無くす事をも
示唆している。車業界がそれである。中古車や軽自動車があってかろうじてスポーツ車
に興味示している。一方鉄道ファンは見る撮る聞く乗るは安価で鉄男鉄女はウナギ登り
である。その人気は今や文化となりある種の商売すらも支えるに至っている。




644: 横浜市人権侵害都市:13/12/19 16:16
2013年1月下旬、校長のパワーハラスメントへの抗議を浜教祖分会長と共に行う席上、いきなり恋を荒げながらお前を指導改善研修送りにすると暴言を吐く校長。こういう校長が横浜市には、多く存在するのである。
5:横浜市人権侵害都市 12/16 17:43
校長が気に入らない職員をターゲットに指導改善研修送りにする場合、まず行うことは、アラ探しである。校長はお前を指導改善研修送りにしてやると豪語する。しかし元来指導改善研修対象外の教員にとってみると、そのようなことは不可能であると感じるものである。もともと不適格教員に該当しないからである。そこでこう尋ねる。認定審査会に上げても指導力不足教員には認定されませんよ。するとこう答えてきたのである。申請すれば100%通る。つまり横浜市では、校長が気に入らない職員がいたら、100%認定されるのである。そこには、人権というものは存在しないのである。
6:横浜市人権侵害都市 12/16 17:47
続き
認定審査会に上げても指導力不足教員には認定されませんよ。するとこう答えてきたのである。申請すれば100%通る。つまり横浜市では、校長が気に入らない職員がいたら、100%認定されるのである。そこには、人権というものは存在しないのである。
仮に認定されなければどうなるのですか?と訪ねるとこう答えた。教育委員会送りにするよ。横浜市の校長はこんなレベルなのである。
7:横浜市人権侵害都市 12/16 17:48
教育委員会送り
つまり教育委員会預かりというのである。

645: 名無しさんAA:14/07/05 05:06 ID:MKg
私の番組評 173

 カンブリア宮殿にサラヤの社長が出た久しぶりの登場である。かの会社は必要不可欠
 を求め業績が良い。仕事というのは 金もうけにあらず。人間を作ること社会を作る
 事。経営の原点は人間尊重である。世の中の中心は人間であり金や物じゃない。と言
 い切る経営姿勢には見習う物がある。好い物を世に出す。この日本人観がかの会社を
 産んだとも言えるが それにしても創立から一貫して変えない人々の為にというのは
 感心する。人間というのは、苦労して鍛錬されてそして学んではじめて人間になる。
 金や物や組織に引きずられはヤクザや暴力団である。そういう奴の行く道を極道と
 呼び、役座としている。彼らは金の奴隷、物の奴隷、組織の奴隷の拡大を図り攻撃
 している。我々真っ当な国民市民は断じて闘って 平和で愛する社会を築く力を持っ
 て生きる資格となる。
 総じて今やコンピューターなる電脳機器の発達によって 管理強化をされて来ている
 だが 本来人間の仕事は 世界の中で生物の頂点として自然の監理からしてそう多く
 仕事する必要は無い。というよりもどんな生産をおいても 植物の育成や一年の季節
 が変わるものではなく魚や動物さえもその成長は変わる事はない。つまり如何に害と
 なるものの排除や不足となる物の補充しかないのが 現状でそれが食料生産となって
 いるにすぎないのである。つまり一日4時間の江戸時代の働きで人は生きられるのだ
 だが 今の日本の団塊の時代の人間の一部には何らそうした自然現象や歴史や人生に
 言葉にこだわりのない馬鹿がいる。
 例えば日本には駄馬と言う言葉がある。駄とは無駄とか駄賃とか駄目とかに使われる
 勢いのない姿で つまりは走るが気ままな老いて仕事にならない馬のことだが。今回
 催し物としてはミスター長島と金田投手の対決は見ごたえものだろう。がこれがニュ
 ースとして取り上げた上に名勝負などと戯言を言うキャスターなんぞTVとしての。
 全く品位のない報道である。良く考えろTV局もっと電波使用料を払って質の高い物
 を流せ。

646: レミー:14/11/13 22:14
貴方に幸運を与えます。
0155-25-1284まで
お電話お待ちしてます。

647: 名無しさんAA:14/11/14 02:31 ID:08s
 老境の至り

 かつての昔 今だ車が走るのを見て喜んでいた田舎の時代に 私は育った。その頃
50ともなれば 年金生活の第二の人生として 財を成したところでは家や土地を買い
田畑を持った人は小さくとも自作農に 人に作物を地域の年寄りや仲間に分けていた。
年金生活者ともなれば よもやま話で日課を過ごし日々に地域奉仕の活動をするのが、
たいていの場合であった。しかし欧米流の考え方が来てからはどうも年金を与えるより
は 巨大公共事業によって地域のインフラと称して 林や藪や河川を貫通させては緑を
奪い 人々の家を壊しては庭の無い手入れの要らない新しい家を作る事に専念している
。そもそもこの頃の増税論議は全くおかしな話になっている。政治家が自らの政策とし
て国家予算を借金の形に流してる中において 利子が増えてとか 少子高齢化で支えき
れない福祉需要からとか 次世代にツケを残さない為に だとか言っている。だが田舎
をみれば一目了然 都市化する為にどれだけ金を使っているか 市庁舎や職員の家を見
てはそのハイカラさに呆然とするはずだ 企業でも民間で潤っている企業はみんな政府
の後押しのあるものばかりで 本格的にプロとして商売を成り立たせいる企業は貧粗な
たたずまいか綺麗でも小さいものである。だいたい 例えば道に煙草の吸殻があったと
しよう。すると欧米流思想では 罰としての吸殻を拾う行為や清掃活動若しくは道路の
管理者としての活動であるし 犯人特定しなければ何も動かない。だが日本人感では、
次の通行人が気持よく歩く為に 或いは自分の家先が綺麗であるために清掃活動をする
。つまりは前者はあくまでもその行為の者を詮索特定して後を辿らなければならない。
が後者であれば次からの行為や次の人の為に其処を美しくしようというのである。だが
今やこうした明日向き前向きの善良なる市民の考え方が少なくなった。大体よわい50
ともなれば 身体的特徴は既に老いの中にある。それは誰がどう考えてもどんな行動を
とっても老いの中にあるのだ。その老いというものを今や社会的政治的理由で75に変
えようというのである。議員は一体常識を一体どうかんがえているのだろうか。かつて
会計検査院を創設した大隈重信はこう言った。人は成長期の5倍しか生きれない。成長
期とは思春期の終わりを言う大隈は25歳の5倍125歳が人の最高寿命としたのだ。


648: 名無しさんAA:14/11/14 19:49
 老境の至り02

 大体 今の増税論議自体が間違っている。やおら過去の偉人が規制してた国債発行を
政策もなしに 人気取りに発行して来て其れが為に 政策不履行に陥っては金利に追わ
れる中にある。そも白川総裁以降 日銀の総裁は馬鹿ばかりであったのだろう。いまの
政策としての金融緩和と円安誘導を行えば事足りたはずなのに 福井総裁なんかはTV
やら声明などは全くトピックにならない位しか声の小さい物だったのだ。加えて自民党
も野党もいまもって馬鹿な国会解散論議をしている。解散する事がどれだけ金のかかる
ものかは知っての意見だろうか。この国家予算の切り崩しが出来ずに積み上げては、無
駄使いのように工期の短縮の建設や無能コンサルタントの呼びかけにゼネコンによる巨
大インフラの整備なのだ。これは間違っている。地域発展を願うなら地域ゼネコンによ
るプランと充分な討議があって建設されるべきで そもその地に税を落とさない企業が
何故建設するのか意味不明なのだ。その上競争入札という最低価格申し入れでは破局を
作るのは火を見るより明らかだ。談合問題を突き付ければ一体誰がその土地の発展を担
うのかが全くおろそかになっている。「地位が個人に魔力を与える。」これは竹久夢二
の言葉である。そも公務員の贅沢は目に余るものがある。地方に行けば直ぐにわかるが
議員の贅沢にはじまり 議員の口利きで入った無能な公務官僚更に政治に左右されての
福祉や教育や宗教への手厚い融資である。街路を行けば少し立派なものと言えば公共の
施設かそうした医療や介護或いは教育や宗教の施設と相場が決まっている。それはとも
かくとして一番気がかりなのはこのまま選挙戦に突入したら恐らく自民党は大敗するだ
ろうと言う事だ。多分小さな政党が乱立しては政治に収拾がつかなくなる。何故なら今
でも自民党の支持率は37%位で4割を切っているというのも同数の無党派で選挙に関
心のない人がいるからだ。だが今そうした人も中小企業もこの円安政策と増税のあおり
を喰って怒り心頭なのである。アベノミクスは失敗も成功もしていない。唯一黒田総裁
が行った円安誘導でデフレ脱却の道が見え始めただけで 定数削減も税収増も支出削減
も何もおこなっていないまま 大量の国債に頼った政策だけなのだ。震災時に一時しの
ぎに削った議員報酬も今や人事院勧告で上がる環境なのだ。これでは自民党に票は入れ
ないとする大多数の意見も頷けるというものだ。大義なき増税と解散に多分来年の国策
は何も出来なくなるだろう。


649: 名無しさんAA:14/11/15 03:58 ID:6Ic
 老境の至り03

 世の中には 幽霊や火の玉或いはUFOや宇宙人など色んな事を信じる人がいる。が
こうした人は結局は現代の死霊に取り憑かれている人である。と考えていた。事実 私
自身もUFOも火の玉を見た事はあってもそれがそうだと確信は持てないで生きて来た
。だが老いるとどうしたものか そうしたものを信じたくなってしまっている自分に気
付く。だが考えてみれば 人の一回の男子の射精すら3億匹の精子の塊である。正に知
らない生物知らない世界があっても当然ではある。私自身何十回ともなく夢が正夢とな
ったし知らない土地で迷わず行きついた場所もある。不思議な事と言えば不思議だが、
現代の脳科学では全く不思議ではないだろうとされる。基本的に精子一個に頭脳があり
ちゃんと膣内の卵子と結びつく事の方がよっぽど不思議な話だというのだ。事実いまや
細胞一つ一つに神経や脳があり判断して動いているというのが最近明らかになってきた
。かつて先輩が「清く正しく美しく生きる。」と宣言して止まなかった。所謂議員など
の座右の銘というのである。そこで私は3年かかって「無欲の欲・情熱の知恵・無償の
愛」を唱えて生きる事にした。ある時不思議な人と会ってそれは摂取不捨・宝言・慈愛
で仏心を持っていなさるなどとおだてあげられたが その人の名刺には「朝に礼拝夕べ
に感謝。」と書かれてあった。その人の言うには 人生の道は何処にも分かれ道はある
とされる。だが生きて行く上にどの道を歩こうとも行きつく先は同じで 遠いなだらか
な道を行くか 急峻な坂道を登るかの違いで気にする事はない。山頂が同じだからだ。
そうあせりなさんな。と言われた。が振りかえってみると既に駄馬の頃合いなのだ。こ
れには困ったものだと考える。青年よひかりある内に進め。という本があったが本当に
少年老い易く学成り難し。である。がその学というのが良くは解らなくなってしまった
生きる術なのか人を助ける為のものか欲を満たすべきものなのか。ただ一つ言えるのは
バランスで人は生きていると言える。これに欲を掻く人々が大勢いてどうにもならない
現代模様があって 先のノーベル賞の博士の様に本を読むから間違える。などというの
は全くの幸せ者の戯言で 一般の我々の環境ではないとも言えよう。ただ情報は間違い
だらけというのも これだけ進んだ中では頷けるものがある。



650: 名無しさんAA:14/11/15 03:59
レミーさんは何を言いたいのかな〜〜
こんな誰でも見えるものに 電話番号なんか書いていいのかな〜



651: 名無しさんAA:14/11/16 07:06 ID:d..
 老境の至り04

 中国密魚船の話題は かれこれ20年以上も前からあったが 今になって赤サンゴが
乱獲されると 希少性のサンゴ礁が全く無くなるだろうと 躍起になっているが今まで
一体 日本の政府も外務省も水産庁も一体何をして来たのだろうか。それとも、やっと
中国が気に止めてくれたなどと思っているのだろうか。大体こうした密魚船団やら不法
入国船団に何故蛍光弾やら威嚇射撃をやらないのだろうか。日本においても中国におい
ても本人や船が特定されなければ その違法船を野放しにしている事になる。我々が、
中国船と頭の中で描いているとしても その船が中国国旗をふり中国語を話し中国方向
に逃げたとしても これが韓国の船か台湾の船か中国の船かは 相当に不明のままだ。
更に仮に中国の船だったとしても その寄港地やら本拠地やらが特定されなければ犯人
の頭領である船長や経営者は捕まえられないだろう。特に報道では全く偽の船名と番号
をつけて走っていると言うのだから 一挙に掴めなければ今一意味が無い。200隻の
船団なのだからすくなくとも半分でも100人は逮捕しなければ この乱獲での消滅の
危機には対処出来ない。中国流に僅か数人を捕まえては見せしめとしただけでは 全く
効果はない。一次的に赤サンゴ漁には来なくなっても尖閣沖と同じ様に隠れては金儲け
して噂が流れればまた数年後に違法船が大挙してやってくるのである。日本流に言えば
逃げ得を許さないとした政策をや具策を思い立たなければ 真の対策には全くならない
 今の小笠原沖での問題はすでに 15〜10年前には沖縄沖や台湾沖での減少問題に
なっていたのだが 尖閣での衝突問題で一気に消えてしまっていた。事実台湾沖では、
既に取り尽くされてしまっているし 沖縄沖でも希少な浅瀬の赤サンゴは消えている。
よくTVでは水深が深い所にあるのが赤サンゴと言うがそれは違う 多くは深い所での
生息域ではあるが 中には浅瀬でも偶然にも 濁りや潮の加減で偶然にも水深の浅い物
もあったりすることがある。たまたまの稀な存在だがそれらも獲られればまずは育たな
い。今や中国のみではない 国土交通省も農林省も まともな町の記念樹や大樹を道や
護岸の建設の為に切って捨ててしまっているその上に緑のキャンペーンをする。無駄金
を推進する立場だと言うのである。馬鹿垂れな議員や官僚が増えすぎて困ったものだ


652: 名無しさんAA:14/11/16 11:31

 老境の至り05

 惜しい事に、錦織圭はジョコビッチに負けて全英国際大会であるウインブルドンのワ
ル−ド優勝を逃した。だが彼が世界順位5位から3位に登りつめた事は確かであろう。
 だがこの試合の負けた理由は屋内大会であったがためだ。NHKの解説や松岡氏など
の解説では 戦略的や技術的或いはテクニック的なゲーム内容での失敗を言う。だが実
際はちがっている。この室内でのテニスは動体視力も極端に認識能力が落ちる。それが
どんな人間でも起こる現象だ。その意味ではユニクロのユニホームの違いは大きい。つ
まり白の錦織選手は直ぐにキャッチできるが紺色のジョコビッチはその差が0.001
秒の違いでも脳の認識の違いがそのまま勝敗を分ける何故なら筋肉が同時記憶をするか
らである。所謂条件反射である。カマキリが草の色に変わり 更に虫が飛んできたもの
を瞬時に捕食する力もその認識は目から情報である。もう一つは帽子の違いである。彼
は屋外では無い為に帽子をかぶる必要は無かったのだが帽子をかぶっていた。屋内では
強風も或るいは温度変化も無い。室内温度が唯一の世界だ。通常人間は何も考えないマ
ラソンですら身体の熱は皮膚で放射しながら 脳の熱は頭の上の毛髪の発汗から放熱を
している。従って脳内バランスから言えば 男の秘物と同じに冷えた形で常温に保たれ
る必要がある。日光と言う大きな熱量を持つ熱射や輻射熱があれば帽子はかなりの必要
性があるが この室内ではどうだろうか。眩しいのであればサンバイザー程度が良かっ
たのではないかと思われる。野球では帽子は常に被るではないかというが屋外前提だか
らである。更にテニス競技はサッカーと同等に走る競技で 本人の発熱量や発汗量など
は予想以上に大きい。つまりその意味では今回の錦織はジョコビッチよりは身体が小さ
いので本来なら屋内の熱気がその分受けないとすれば相当に有利だったのが、この服装
では一転して不利になったとも思われる。体力や技術や運が無かったから負けたと言え
ば簡単な事だが そうでは無くただただ服装と飲料水の差であるとしたら惜しいと思う
まあ 錦織にしても 初めてのベスト8入りだろうから 先発の既に壁となり立ちふさ
がったジョコビッチやらフェデラーやらの慣れのある選手と これだけの差があるのは
当然なのかもしれない。今後の体力作りと共にそうした人体の保温環境やら精神的安定
も考える必要性があるだろう。アジア人の体力維持年齢期間は他民族より短いと見られ
る。急いで優勝を目指すべきであろう。今後の日本の期待の星の一人であるガンバレ


653: 名無しさんAA:14/11/29 19:07
 老境の至り06

 とうとう国会は解散してしまった。自民党も馬鹿な事をしてしまったものだ。政治の
中で一番大事な事は経済よりは 人を治める事だ。治めると言う事は治療と言う言葉に
表される様に 人間としての人間性を取り戻させる行為なのだが いやはやもはやこう
も投げやりでは全く政治ではないし 国民から政治不信を言われても答えられないだろ
う。良く経済諮問会議などと言っては 増税どうしましょうか的な質問があるが全くも
って意味不明な話である。どう考えても貧しい者は払わない方がいいに決まっている。
得に高給取りと言われる中産階級以上を優遇した今の税体系では一般人の負担は思いの
外に重い。例えば厚生年金資金にしても社会保険にしても 全く手厚い事は何一つない
上に今度は単会計を行っているのか次々と値上げをしている。更に少子高齢化などと言
っては税を上げようとしてるが全くおかしな話である。というのもそもそも政府の発行
するお金も国債も言わば国の借金なのだ。人々が使う銀行券として世に出すか債券とし
て世に出すかの違いでしかない。殆どの国でその発行元が違うのは政府の行政や経済の
政策と金融政策の権限を分けているに過ぎない。つまり今や親会社政府が発行する約束
手形並みのの借金を子会社である日銀が信用ある日銀小切手全て買い取った形で既に全
てが回収された形である。ここで問題となるのは日本経済の必要とする銀行券がその需
要に対し数多く供給された場合なのである。正にその限界を探る事がGDPやGNPな
どの数値を駆使して探して管理しているだけなのだ。しかし700億円もかかる選挙を
只々国民に信を問うだけの作業の為に支出するのだ。全くナンセンスな話ではある。今
世界中で経済の価値観が変位する中で日本だけがどう言うわけか先駆者としての方策を
練っている。少子高齢化デフレ克服災害対応など特殊事情が今や日本に押し寄せている
からでもある。だがアベノミクスを信じよと言う自民党ともはや議論にならないくらい
先が無い又失敗だ失敗してるぞと叫ぶ野党も全く話にならない。本来第三の矢であるこ
のインフレを良いインフレとする国庫収入の増加と国民給与の大幅な上昇は一体何処に
なにを求めて達成させようと言うのだろうか 誰も答えていない。にも関わらず信じよ
などと言うのは 全くの暴言である。



654: 名無しさんAA:14/11/30 08:34 ID:NlA
 老境の至り07

 この価値の変位は どうも産業革命以来培ってきた技術にあるようだ。地数学的に言
えば 国家と言う概念と各自の持つ集団の観念の違いにあるようだ。欧州域で起こった
経済の杯の拡大化はアメリカをして戦後は海を渡り日本にやってきた以降アジアを今や
巻き込んだ全世界的形になったが その膨張する経済は常に収縮の危険と隣り合わせで
やって来る。それが神の怒りなのか運命なのか地球温暖化と言うかつてない 全地球民
の同時意思が必要となる危機に陥っている。IPCCの発表ではおよそ3度以上の温度
変化があり今後5度以上になれば 海が押し寄せ嵐が来ると言うが 人々は恐れないま
ま今だ増え続ける新興国の排気ガスよりは自国の経済が大事であるかのようだ。近頃の
世界の風潮は「信じる力」を試したような政情不安が多い。突如と起こったアラブの春
革命は次々と政権を担う独裁政権が倒れれば明日が開く未来が拓けるかの様な錯覚にお
いて其れを信じた結果が 今の悪化した社会である。アメリカのテロ以降の心理も又同
じである。イラクやアフガン崩壊へ行った行為は「以降は平和になる。平和な自由主義
が起こるはずだ。」と言う安易な信心である。だがこれを起こしたのはあのナチスの仕
組みそのものなのだ。この「信じる」と言う事で一番解るのは中国共産の焼身自殺者と
共産党の悪行である。チベット高僧の自殺は人の尊さを信じて身を挺して世界に発信し
共産党員は「信じない」を信じて汚職を蔓延し「金」を信じて海外移住を決め込んでい
る。アメリカでは警官の暴挙に正義を求め香港では民主化の縮小に座り込み、台湾では
中共寄りの馬英九の馬鹿さに反対票を投じている。震災以来人を信じよ仲間を助け合お
うと言う声は強くなった。だがおかしな事にそれは共産主義である自立自尊の潔白心が
努力を引き出し能力を高める。そして初めて国が豊かになる。今度の消費税問題も同じ
でアベノミクスを進めると思うのなら たった9千億円程度の食料品の低減税率を嫌だ
など言わず1割に上げて食料負担を減らせば良かったのである。公務員の給与は全体で
27兆円企業の内部留保金は295兆円配布地方交付税25兆円公共事業費96兆円。
この一部にもならない金額で景気浮揚が計れる事にもめる理由があるのだろうか。事実
海外からの声は公務員給与の削減や議員削減が問われ公共事業費の内容のない安売り合
戦と円安の株に禿鷹が喰いつく事に日本が苦しんでいる。と苦笑いしている。今や米国
の安定基調にファンド経営が行き詰る形が出来上がりつつあるからだが黒田バズーカは
日本を壊したのかもしれない

655: 名無しさんAA:14/11/30 18:49
 老境の至り08

 壊すと言えば 香港の自由市場を大陸中国が壊そうとしている、そこに出て来たのが
民主化学生活動である。もし本当に民主化を進めたいとすれば 学生は民主化の署名を
集め米国に渡るべきだろう。もし100%の住民が民主主義のままを望むのであれば、
英国政府の了解と米国政府の軍事力に頼る事が今の香港に出来る事だろう。これには、
台湾で起こるであろう新政府との連携をして 新しい国を国連に認めさせる事が大事で
ある。勿論 今でも台湾は独立国とは求められてはいない。しかし現実的にも歴史的に
も米国のかつての国連代表団の中国というのは 台湾政府時の国民党軍で在った事は、
事実である。この事から打開策が産まれるであろう。もうすでに大陸中国の共産党は、
確実に香港島民を排除しかつ拉致して収容所に送り 隠れて大陸の人民を大挙に入れて
工作を行っている。もし学生達が民主化の成功を目指すなら 隠れてその方向を探り、
表立っては 中国政府が民主化しなければ 共産党も生き残れない程環境汚染や海外か
らの支援が受けれない現実を解くべきであろう。更に共産党支配が続く事があらゆる事
や意味で不可能と言う事を 対峙する香港政庁に具体的に教える事が大事である。即ち
民主化への目覚めである。今やオペックも又原油価格が下がって来ている中でも減産は
出来ないでいる。この事は、負い風である。サウジはイスラム国にもイランにも原油の
利益で国が大きくなる事を好まないし 更に原油高騰によって技術が進み更なる石油離
れが起こる事を懸念しての事と言われる。これにより米国経済は最低でも横ばいで進み
中流階級他経済的難民が救われ中国対策に専念出来る可能性は高い。対して中国は安い
石油は買えない。それは既に天然資源の多くは ロシアを始め価格据え置きでの契約を
進めて資源確保をしているからだ。スポット買いなら少しは安いだろうが 海外への元
通貨流通と中華人民の為の原料買い付けは既に約束された価格や海外投資でしか胃袋も
足も満たされないように大掛かりで大量なのである。それは仕方の無い現物の先物買い
といった所だろう。


656: 名無しさんAA:14/12/07 02:05
 老境の至り10

 今やJリーグ人気は不動のものとなったようだ。女子のなでしこリーグと共にもっと
人気があって収入があればとの想いも強いものがあるようだ。が野球とちがってサッカ
ーは日本人の国民的スポーツではない。いや野球でさえも国民的イベントではない。あ
の渡辺氏が仕掛けた戦後の欧米流文化への親睦と日本の復興を噛みあわせ仕組んだた結
果あの川上監督を初め王や長島などの国民的スターキャラクターを作りだした。日本人
は結構こうした生業物(なりわいもの)を好む性格らしく 良く江戸の喧嘩も大阪浄瑠
璃も生活実感のある興行スターには盛んな拍手を贈る。更に舶来物好物や流行り物嗜好
には定評の農耕型民族である。これを踏まえて言えば何んと民主党は馬鹿な主張を行い
維新の党は勿体ない選挙の仕方をするのか 折角の好い主張もこれでは国民の共感は得
られない。しかしJリーグも阿保だ。今回ガンバ大阪が優勝したが toto籤までも
発行しての予算集めの中でのリーグ戦なのだ。これに優勝したと言って何故ビール掛け
を行えるのだろう。野球場と違いサッカーの多くは公共施設でありその維持管理の多く
は税金で賄っている。もし野球の様に全てが民営の経営手腕の上での優勝であればその
ビール掛けは正当であろう。例えばある種のレースでも只々国際大会として走るのみに
終始して全て観客やら広告や協賛金収入で運営していても 優勝者の表彰式のビール掛
け位だ。これを批判せず報道するTV局も常識をいかに逸脱しているがわかるものと言
えよう。人気があるから何でもして良いなどと言うのなら日本国民ではない。安倍氏の
アベノミクス批判はあるのは確かだ。だが今の野党の云う様に今批判すべき時では無い
。日本の浮沈に関わる重要局面で解散総選挙に打って出る馬鹿政権も馬鹿で首相も首相
だが これに対して国民世論を味方に付けきれない野党も野党である。素直に安倍氏の
政策に賛意を示し「だが我々ならもっと時流にのって更に消費者を味方にして増税先送
りを8%で行った。或いは軽減税率をやっていて今では好景気に沸いたであろう。など
とは言えないのか。その悩ましい根本が 議員怠慢の元流であり自らの分析力や指導力
解決力のなさである。これに国民は全くため息ばかりなのだ。国民の不幸はまだまだ続
く。




657: 名無しさんAA:14/12/07 11:57 ID:9HQ
老境の至り11


658: 名無しさんAA:14/12/07 11:57
 ニューヨークのガーナー氏事件は全く大きな問題だ。今回国内に黒人への人種差別の
問題と無能警官の殺人問題更に法治国家としての大陪審の不正義不審問題が大きくクロ
ーズアップされているが この映像と映像を撮った現場に居合わせた撮影者の証言でも
彼は喧嘩を止めただけで 警官が大勢取り巻き彼を殺してしまっている。今のアメリカ
は今だ人種差別と偏見を捨てていない中に 差別主義者人権侵害派の好いように固まっ
てしまっている。即ちオバマ大統領と言う 黒人大統領を出した事でまるで人種差別が
終わったような見せかけと 更にオバマ氏が動けない事を好い事に黒人大統領無能説を
証明した形となっていてKKKの隠れた集団組織は大喜びしている。この暗躍する集団
が不幸にも兵器や武器の軍産複合産業が持つ集団で一部のロビイストとも繋がっていて
それを知る大統領府は 全く動けない無智に入ってしまっている。今米国で株式が高騰
しているが全くのバブルの中にある。景気工業指数は全く平行線のままで株の様には、
上向いてはいない。更に就業人員も更に小売店販売指数も危うく下降線になるものが保
たれた形でしかない。にも関わらず日本で選挙戦を仕掛けた為に円安が一気に動いた。
リーマンショック時の変化と同じで ここには悪質なファンドの悪あがきに似た仕掛け
がある。従来から日本の年末収支決済は翌年の年度初めとなる三月末をして 年明けの
景気占いとなる。従って今の時期に景気が良い事をアピールし更に株価を上げ収益を高
める行為になびかれるのである。だから3〜4・5月期は全くのドル安の流れが出来る
。こうした悪態は日々の子供にに顕著に影響して来ている。過激な販売合戦と便利追求
の利益合戦である。頭が悪ければ生きる資格はないのか身体能力が低ければ社会にいて
はいけないのか。其処は違うだろう。欧米の選民主義の間違いがここにある自らが地上
の覇者や神と同様かの様に勘違いしている。公害を見る限り人間は猿よりも頭の悪い存
在であるし社会性の名の下に自らに自由を縛っている。東京八王子の息子殺害裁判では
暴力的息子に対して父親は明快に「妻と娘を守る義務がある。」と主張している。この
悲劇は今の選挙戦真っただ中の議員達一人一人に責任がある。会社員の真面目一徹の親
がもし学校にもやる事無く家庭内で教育していたならこうした暴力に感化された人間に
は育たなかったろうし日本が中国から輸入食を入れなかったならこうした脳味噌を傷つ
けたような若人は居なかっただろうと思われる。それは毒入り餃子や危険薬物の症状で
簡単に証明される。



659: 名無しさんAA:14/12/07 19:12
 老境の至り11

 もともと広島市や広島県は地方交付税を貰うほどの行政能力が無いのだろう。この地
かつては 神社の管理地なのだがいつの間にか歴史の遍歴と共に明治の政府の持ち分と
して民間に移されたと考えられる。災害後の解体状況を見ても分別も搬出もなく解体し
今やその崖や谷には家が無い状態になった。ここいらは昔は野焼きや備長炭などの炭焼
きでも有名なところだったのだが その理由がこの山林が誰でもが入れる共有地だった
からだがいつの間にか個人の土地か公有地かに区分され開発されてしまっていたのだ。
それは紛れも無く市町村や国や県の怠慢なのだ。この地に立つアパート群すらも軍が民
から接収した軍用地の転用でしかない。夏目漱石なる作家が書いた「こころ」と言う、
言わば立体5次元構造経済推理小説では こうした災害が溢れる事がかなり明確に計画
されている事を示唆している。夏目漱石に曰く「恋は罪悪ですよわかっていますか。」
と言った上に更に「土地と家屋は財産ですよ。」と財を持った青年が全くの浮浪の体で
下宿し凝り固まった固い財布は我が身を守るものとして生きて行くのだが それでも、
懇意にする清廉潔白な哲学者たるKは「薄志弱行で到底行き先がないから自殺する。」
との遺書を残し死に至るし、敬愛する先生は殉死だ殉死だと明治天皇崩御に際して叫ぶ
。私の知る乃木希典将軍も柳川の飴屋に宝剣を譲った後は この時自害したと言う。か
つての日本の儒教の長子要の中にあっての核家族の先駆けであった時代でさえこうであ
る。自由・独立・自尊ほど淋しい人生はないだろうが 日本人はそれを選びその責任を
負いながら自分で償う道を選んだのである。今の現代に起きた災難は地震であったとし
ても地域のものだが 日露戦争と言う幕末からの敗退でできた明治政府の災難はかなり
の異常な国変であったと言えよう。ともかくそれでも日本の大和民族は生き残ったのだ
から 今後も意気盛んに民主主義資本主義の進歩に邁進せざるを得ないのだが この、
公害や災害や国害を克服する道こそ 一番の政治の行く道であろう。


660: 名無しさんAA:14/12/25 19:39 ID:XsA
 クリスマスと言うキリスト祭礼日に人々はこぞって商戦を繰り広げている。だが日本
において この聖書から発展したキリスト教をよく知るものは如何程いようか。と疑問
である。そもそもキリスト教は 新約聖書派と旧約聖書派がいる。知っての通り旧約聖
書と呼ばれるものは本来伝説の歴史小説でしかなかったのである。紀元前時代にこれを
宗教として人々に教え初めたものが ナダレのイエスと呼ばれる物知り風の浮浪者達が
かなり多くいたとされる。その頃の市民には色々な歴史書が各自に存在していた。この
書物に革命をせまったのがローマ帝国とされる。ヘレニズム文化の中では 即ち人々が
人間賛歌をして芸術的暮らしの中には全くキリスト教どころか旧約聖書を手にしたユダ
ヤ教さえあまり人々には関心が無かったと言われる。だが紀元前に行われたローマ帝国
との攻防で人々は浮浪者となった。今で言う被災民である。この時イエスと呼ばれた男
の多くは殺された。その後キリスト教の信条の一つ。ニカイア信経が創られるニカイヤ
会議が開かれた。これによってマグダラのマリアの福音書やペトロの福音書ペトロ行伝
トマスの黙示録イスカリオテのユダの福音書などの多くのパピルス製福音書や各地の人
間賛美の下にあった宗教書の特にグノーシス派と呼ばれた神秘主義の宗教が黙殺された
。コプト語によるこの多くの経典は最初の宗教弾圧として焚書されて焼失したが近年に
なって壺に入ったパピルスの複写聖典が見つかり論議を呼んだ。基本的にイエスの娼婦
とされたマグラダのマリアや裏切り者のユダの福音書などというのは論外などというの
が普通のキリスト教信者の意識なのだろうが 実は彼らや彼女らこそが本来のイエスの
意向を知った者の発言であり意志であった為時のローマ帝国はそうした者を排除した、
統一の聖典を公式の聖典として今のローマ法王の地位が出来上がったと言われているの
である。だが何故日本人の私がそれをいうのか。実は日本の神教は何処から来たのか。
それが紀元前のこのキリスト教と深い繋がりがある事が今の縄文文明に発見されている
。もともと青森丸山古墳や日本のピラミッドなどと称される中に、今の遺伝子研究との
解析で非常に興味深い現象がある。つまり言い伝え古伝の真意が明らかにされた部分で
ある。日本の新嘗祭とアメリカの感謝祭は同一の起源で同一のものだし その祭りの中
に参加出来なかった貧民に時の金貨なり貨幣を煙突から投げいれた物が干していた靴下
に入ったというのがこのクリスマスの起源であるとされる。これにイエスの誕生をくっ
けたのは 日本の聖徳太子がうまやどのおおじとされた事と同じである。世界は狭く収
まっている事を知らないのは人類自身のようだ。


661: 名無しさんAA:15/02/26 22:31
風立ちぬの応援スレでは大体恋愛の話で、
アンチスレではほぼ軍事関係やゼロ戦の話をしてる。
監督ももっとゼロ戦のことを描きたかったと思うけど
いろんな人が見る映画だとなかなか自由に作れないのかもしれないね。


662: 名無しさんAA:15/05/11 15:31
マネーマネーものまねー 08

 中国経済が世界をどん底の淵に追いやる。との意見が巷を巡っている。なかんずく今
の経済を支えているのは アメリカのしたたかな戦略かもしれない。金融緩和の締め切
りが時々話題にのぼる中 中国はアジアインフラ開発銀行なる国際銀行を立ち上げると
発表した。パキスタン地震にこの銀行が一体どの位投資若しくは融資するのか見てみよ
う。まさかのゼロ融資はないだろうとは思うが 中国国民自体が今や自国の銀行に見切
りをつけて資産を何処に移そうか悩んでいると言われる。共産党が気分次第で法律を変
え財産を没収というのは日常茶判事の事だからである。数年前から、中国のATMから
は偽札が出てくる事件が多発している。銀行側は「ATMから100%偽札が出てこな
いなんて保証はしてない」と発表し、国民を激怒させた。今や自分の持っているお札は
偽札かもしれないという不安を常に持っての生活になったのだ。一部の中国国民は偽札
だと銀行に行って話すれば即座に逮捕され拘置される事件も珍しくない。言いがかりだ
とも言わずその真相を探る訳も無く 一般市民が文句言えば逮捕拘束の上殴打されての
3ッ日後の帰還なのだ。こんな異常な国が国際機関としての役割を持つ国際銀行設立に
動いたのだ。こんな落語や漫画よりおかしな話が今や国際情勢の中に住み着いてしまっ
たのだ。こんな中国に今月5日、自民党の高村正彦副総裁ら超党派訪中団が出発した。

663: 名無しさんAA:15/05/11 15:31
動いたのだ。こんな落語や漫画よりおかしな話が今や国際情勢の中に住み着いてしまっ
たのだ。こんな中国に今月5日、自民党の高村正彦副総裁ら超党派訪中団が出発した。
よせばいい物を又鴨の葱背負った話が共同通信社から漏れる。『中国人民解放軍系のシ
ンクタンク「中国国際戦略学会」の軍幹部がとの会談で「米中の新たな形の大国関係の
中で、米国の後だけについていくのなら日本に未来はない」と述べていたことが10日
、日中関係筋の話で明らかになった。』と言う発表だ。大体中国国民党を代表して会談
に出向いて周恩来は「将軍は寝返って共産軍に入った」と毛沢東のこうしたデマ宣伝で
台湾の李政権に帰れなくなったのだ。全く心根のよろしくない国にどうして当り前の国
の様に相手するのか不思議でたまらない。今回全人代で李克強首相は「環境汚染は民生
の患い、民心の痛みである」と述べて 汚職・金融・環境の三つの健全化を言い放った
が虎も蠅も叩くとした前回から 多くの汚職共産党員から習政権は睨まれる結果になっ
た為李克強首相もすげ替えられるだろうともっぱらの噂である。国家躍進に寄与し北京
国家体育場(鳥の巣)を建設した建築家・艾未未氏すら四川大地震で多く被害を独自に
調査し汚職で手抜き工事が行われた事を突き止めた為、共産党の反発を買って軟禁され
た上、銀行口座も凍結されました。そして脱税の冤罪を被せられて1200万元もの罰金を
強いられたのだ。メディアや市民に「APECブルー」と皮肉られたまともな空やまと
もな社会や仕組みを中国に求めてはいけないのである。



664: 名無しさんAA:15/05/14 14:43 ID:08s
マネーマネーものまねー 09

 世の中には不思議な事があるものだ。今回 宣伝の為か中国天津市の企業グループの
「天獅グループ」。創設20年を記念しが大型連休中に、約6000人もの人間を連れ
て社員旅行した。行き先はフランスで高級ホテルの部屋を大量に予約し、1300万ユ
ーロ(約17億5000万円)もの金を使ったと話題になっている。一人当り30万程
度の小遣いだからと思わない訳ではないが それでも6千人全員ともなれば異常である
。これに輪を掛けたおもてなししたのが時のフランス政府である。軍をあげての歓迎式
と大通りを解放しての一文字写真更には、140のホテルに一斉に泊まり、ニースでは
近隣の四つ星、五つ星ホテルの計4760部屋を予約してのお泊りである。計84機の
旅客機に分乗してのフランス旅行だが、その中国国内では 半分が偽札だろうとされる
お国柄だ。おおよそこの中での国内流通紙幣でのカード換金だろうが これで欧州経済
は行き詰る事は必死であろう。もともと今やヨーロッパ社会はアフリカ移民で大変であ
る中で贋金換金では浮かばれないが、それでもかつての「世界の工場」の無残りで欧州
の流通物品の3割程度は粗悪な中国製品で溢れていると思っていいだろうから。だが、
そうした中国元の通貨のいち早く認め解放したアメリカは 今や大砲と呼ばれるフリー
オンセキュリティプログラムを入れた出回って数々の秘密情報が抜きとられ更に代わり
の代用数字が織り込まれて困っているらしい。秘密裏にこうして織り込まれたプログラ
ムはかなりの痛手を負うはずだ。まるでサイバー攻撃であろうが列車飛行機原子炉一般
製品と至る所にある電子機器に応用可能らしい。そうした国に昨年上場したアリババが
最高の利益確定して株を賑あわせている。あんな格安通販がホンマかいなと空恐ろしい
気がする。だがそうした中でも米国民主党はTPP交渉において 相手国の外為通貨の
勝手な操作で自国が損をするとして難色を示している。偽札大国の中国を引き入れた世
界経済を模索していながら 何をいまさらの気がするが可哀想なのがロシアである。旧
ソ国の求心力になろうと必死だが 東欧や中東或いは中国に近づけば近づくほどロシア
は弱くなるのだろう。今更世界は資源や軍事力を求めていないのだから。中国崩壊は既
に始まっているし 金本位にしがみつくしかないロシア経済では恐らく又食料不足の上
内乱となるであろう。問題は中国が買い占めたドイツやフランスの食物問屋の采配だろ
うがドイツとてイスラム系難民はシリアからだけで16万人が欧州にきているのだ。自
国の食べる分をさしおいてロシアへ輸出はさせないだろう。

665: 名無しさんAA:15/05/18 17:54
老境の至り29

 大阪で貧民施設で火事が起きた。ほぼ放火であろうと目される燃え方だ。違法外国人
も多くなる中では こうした馬鹿げた事も起こるであろうとは思われるが それにして
も痛ましい事件だ。生活に追われ疲れた人が 眠りに就いた安堵の中で放火殺人である
。なんとしても犯人を上げてほしいが 大阪では偽の犯人が捕まるのが落ちであろう。
福岡と変わらないくらいの住民意識とおもわれるからだ。今度行われた新都市構想の中
で大阪の大胆な縦割り行政打破を自らの手で却下したのだ。こんな馬鹿な市民しかいな
い中で当り前の行政なんて言うのはあり得ない。事実新都府を作った或いは大阪市が無
くなったとして何が変わるか。何も変わらない。変わるのは市議会議員や市庁職員が居
なくなるだけで大きな節約行政と共に大きな市民サービスが出来るだけの話だ。この事
が解らないで 生活の糧にしているそうした特別な市民が勢い反旗をひるがえしてのこ
の合意選挙の反対運動なのだ。あの風見鶏議員の社民党が応援してる事からでも言うだ
け議員ばかりの事からでも解り得る話だ。本来ならこうした格安労働者を提供する施設
こそ大阪の活動の元なのだから このスプリングシャワーなど市の予算でつけてやる位
の補助があってしかるべきだが そういう事は今までもしていないし今からもしない。
赤字バスの運行・刺青職員の優遇・議員歳費の超過と 普通の地方の公共自治と同じく
大型税収の予算の垂れ流しで甘い汁を吸う事に余念がないのである。困った事にそうし
た自治体を政府は何故か支えるのだ。なぜか産業を栄えさせる。技術を向上させる。と
いった手腕はない。代わりに町を綺麗にする。地方交付税を消化する。自分達の特権を
強化する。という税金を上げては懐を潤す事ばかりなのだ。これでは自治じゃないこの
事が解らない大阪市民であった。



666: 名無しさんAA:15/05/19 01:48
 大体この大阪市の 統一構想に対する賛否投票選挙は 全く法に触れる馬鹿げた選挙
である。もしこうした構想での投票なら大阪府民としての投票すべきで 周りの人材や
住環境や交通を送り出している筈の他の市町村も入れた選挙であらねばおかしな話であ
る。それは沖縄の新空港反対と同じで代替え案も提示せず 嫌な物は反対でいいのなら
誰もゴミ焼却場やし尿処理場或いは自衛隊演習場更には原子炉施設は反対するに決まっ
ているのが相場である。なおかつ自分の市の収納が良いからと言って県税を無くして、
自らの市の充実に与えようと言うのは税の公平を激しく逸脱している。馬鹿げた話でこ
んな行政の初歩もない税の再配分の拒否をするのは 全く政治ではない。中国大陸が自
分の国の話だと排気ガスやら公害やらを出して規制しない事と同じである。国がちがえ
ど近隣である為に麻薬や危険薬物或いは食料や旅行客マナーなど至る所で影響があるの
に。これが国であるからまだしも お隣の自由に行ける市町村では厄介な話で商取引き
としてはドンドン勝手な行為をし中には盗品売買や良からぬ暴力団まで動き回る中で、
ストロー効果で優秀な人員を集めては 疲弊させ町特有の都会病まで持ち込んでいて何
故私達は自分達の財源が欲しいので特別自治体としての行政が欲しいなどと言う我儘が
いえるのか。本来なら個人が税を払う様に そうした大規模の政令指定都市は交付税は
要りません。県税府税はどうぞよそで使って下さい。と言うのが本当の行政である。そ
れが出来ていない政令指定都市はその時点で 既に無駄が多く不祥事をだしている欠陥
行政を行っている失格都市であると言わざるを得ないのである。こうした馬鹿市民を育
てた理由がそこにある。もしそうした事がないなら全く他の市町村から食料や流通をす
るな。田舎はそもそも自給の上に経済生産をしている。只々今の消費社会が生産価格に
安値をつけて流通や卸売に単価を上げて税をむさぼっているだけなのだ。それが少子化
の基本原因である事がなぜわからないのか 不愉快な話である。


667: 名無しさんAA:15/05/19 12:36 ID:zOQ
 老境の至り30

 
  BA韓国はまたもやおかしな発言をしている。核拡散防止会議の中で 各国指導部
が広島長崎を訪問する文言を 中国が消した事で日本は戻すよう働きかけしてる中で、
おかしなことに その訪問の文言はこの会議に必要ないとの姿勢を示した。全く馬鹿の
民族としか言いようがない。お隣の北朝鮮の核開発を奨励するかのような中国の行動に
賛意し自らも それを賛美しているのである。核の悲劇を伝え非拡散の目的に全く反し
たこの行動や発言は 結局は北の核開発の抑止に努めようとしているアメリカや日本の
行為を無にし 更には自国に間違えて落とされる危険すら犯そうというのだ。韓国国民
はそうした事を奨励しているのだろうか。まず6ヵ国協議の発展が無い事もこうした全
く日米安保に反した支離滅裂な行為が事をおかしくしているのが全く解っていないのだ
これでは東シナ海の安全は無いだろう。極東が戦場になれば一番苦しむのは自国である
事に必死さは全く無いのである。事実同盟国であろう竹島を乗っ取り間違いだらけ嘘だ
らけの慰安婦問題をでっちあげ、その実であるベトナム戦争時に国家を挙げて慰安婦を
創り輸出した人身売買の事実が今や明るみに出ている。こうした隣国の非道に安倍氏は
果敢に政権運営をしているというのに 社民党はおろか民主党も自民党そのものさえも
全く不勉強すぎる議員ばかりだ。歴史にしても社会通念にしても安保や原子力の安全に
しても全く烏合の衆以下の話ばかりで 善後策とか未来構築の礎としての議論は皆無で
あって一体日本を何処にもって行こうとしているのかが全く解らない話になっている。
とりわけ沖縄の安全基地運営は民主党政権発足で10年はおくれたし 民主党時代の政
権で円安誘導や円札の拡大発行にはPR不足で今や日本債権は拡大の一途のままである
。なぜ民主党は間違いは間違いとして正す力がないのか。今の沖縄県知事と同じくまる
で幼児の行う聞かん坊のだだこねりばかりだ。地理的要因や時代的背景今の現状の分析
がまるでないのだろう。こうしたキチガイのような無能知事をなぜ沖縄県民は選ぶのか
なぜTVニュースは伝えてるのかが解らない。どんなに泣こうがわめこうが沖縄が今の
中国と接する境界線上の島であり中国が日本攻撃には一番に占領しようと狙ってしまう
土地は 全く変わる事がないのにである。まるで馬鹿の言い分である理屈も計算も全く
通らない話は世論は全く無視すべきであるし 国家予算も与えるべきではない。



668: 名無しさんAA:15/05/19 14:57
こうした可笑しな発言は韓国内の世論のせいだろうし その世論を形成しているのが
マスメディアの可笑しな考え方や論説に起因する。あのセオール号の沈没事件からの教
訓を得て少しは変わったかと思えば 全く反省も訂正もないお国柄らしい。良く評論家
は一般国民は違うなどと言っているがなかなかどうしてその一般市民が世論を作り選挙
をして代表を選んでいるのである。この国は恐らく今後も全くこうした事故や危険を全
く顧みることなく進む民族なのであろう。その意味ではISILと全く変わらない妥協
や分析あるいは話し合いの出来ない方向転換のない国で行きつく所までいくのであろう
。が韓国ばかりは言っていられない。日本も又同じ様な可笑しな世論をマスメディアは
作ろうとしているかに見える。ニュースにしても解説でも少しだが利己主義的である。
更に今や切れる子供の大きな原因は 貧困家庭の若者を救えない程の忙しい時間も経済
もない社会環境にある。つまり大人がおかしくなってしまったのだ。これは大店法改正
からの伸び率であろう。確かに少年犯罪や凶悪犯罪が無かった訳ではない。更にその件
数の推移はそうそうおかしくは無い。が日本の特殊事情や人間性をみれば オーム真理
教が蔓延った頃の狂躁主義のままである。従ってこの異様な日本社会は今だまともには
戻っていない。このオーム事件の頃私が思ったのは「なんと自覚のない人々の群れか」
と思ったのである。人として或いは人間としての自覚である。この切れる子供の症状に
みると、その殆どが他人との関係に頭を冷やす時間 或いは静観する動作の余裕がない
などの頭脳の沸騰に対しての自分の操作コントロールが出来ない事による。ここに自覚
である学生は学生らしく子供は子供らしく大人は大人らしくある為の行為や勉強が不足
している。おしめを終えた幼児におしめが可笑しいと冷やかせは幼児は次から決してし
ない。それは身体上漏れたとしてもやらないのだ。これが人を大人にする理由で教育の
基本であろう。今話題のゴミ屋敷や少年少女の殺人事件も今の性不一致問題も実はその
倒覚や錯覚の自覚不十分から来ている。実はそれは議員や公務員或いは経営者やTV局
もそうした自覚のなさが大きな欠陥を出してきている。沖縄県知事などは兆著に その
知識と人格と地位が逸脱していて大きな日本人としての自覚のなさが見えるの普通であ
ろう。それが今やジャーナリストやメディアの人々に見えて無い事に間違いがある。



669: 名無しさんAA:15/05/19 18:33
 しかし この国際社会の世論とは今だ可笑しなものだ。全く正当性が無い事も平気で
言う。例えば今度の和歌山県太地町の追い込み漁でのイルカ捕獲を正当とは認めないと
の通達だ。日本程動物愛護の国は無い。かつて食べもしない鯨やイルカを追いかけ殺戮
し自らの国が かつての旅行鳥の絶滅や希少種の野牛のまで今や絶滅させていながら、
世界動物園協会は 日本を眼の仇にして日本の動物園協会に脱会処分まで示唆している
。歴史的にこの太地町の追い込み漁は 室町時代には既にあったとされかなりの伝統漁
のはずである。更にそのイルカが例え30頭だろうが50頭だろうが殺傷して食肉とす
るのは僅か2・3頭で更にそうした水族館に流通するのも僅かの数だ。幾ら先進国で、
やっと繁殖させて固体番号の識別をさせるようになったとはいえ 日本は今だ水族館が
ショーによる愛好家育成から動物飼育に変化しててきたのは戦後の混乱期を過ぎた70
年代からである。戦前からの専門家を育てて最新鋭機器を搭載した船まで持った専門家
集団をもっている各国との比較を考えれば一定のそうした調査の差が出る事も仕方ない
し又アメリカの様な募金による保護活動が大きな企業のスポンサーを持って行える環境
が無い中では仕方ない話である。あの馬鹿なシーシェパードと言う全くのPR過激派を
も産むほど進んだ投資文化はないのだ。更にそのPR不足での今の米大使館員としての
親日派のケネディ夫人すらも日本の環境のこの過酷な自然との闘いの中での伝統生活を
今だ理解していない状態なのだ。そうした中で魚食文化のこの国は魚は大事にしてきた
しイルカも又そうした意味では アメリカ社会が原生の牛を追いかけて食にしたカーボ
ーイ文化や白鯨油や鯨紐の為に世界に取りに行った捕鯨文化よりは より大事な自然と
の向き合いをやって来ている筈だ。こうしたその後の対策までを取ったこの事実や伝承
を無視して自然保護の掛け声逞しく批判するのは最も愚かであり もっと欧米文化であ
った遊びの狩猟や銃社会或いは商魂たくましい中国のサンゴ漁や象牙密輸の方を規制の
対象とすべきはずなのだ。勿論日本の動物愛護のイルカ研究がこのままでいいとは思わ
ない。しかしTV局や解説者が一様に 日本のこのイルカ流通を批判しているのは筋ち
がいであるし もっとその筋違いの世界世論に反発した意見を言うべきである。



670: 名無しさんAA:15/05/21 00:16 ID:4DY
 しかし この国際社会の世論とは今だ可笑しなものだ。全く正当性が無い事も平気で
言う。例えば今度の和歌山県太地町の追い込み漁でのイルカ捕獲を正当とは認めないと
の通達だ。日本程動物愛護の国は無い。かつて食べもしない鯨やイルカを追いかけ殺戮
し自らの国が かつての旅行鳥の絶滅や希少種の野牛のまで今や絶滅させていながら、
世界動物園協会は 日本を眼の仇にして日本の動物園協会に脱会処分まで示唆している
。歴史的にこの太地町の追い込み漁は 室町時代には既にあったとされかなりの伝統漁
のはずである。更にそのイルカが例え30頭だろうが50頭だろうが殺傷して食肉とす
るのは僅か2・3頭で更にそうした水族館に流通するのも僅かの数だ。幾ら先進国で、
やっと繁殖させて固体番号の識別をさせるようになったとはいえ 日本は今だ水族館が
ショーによる愛好家育成から動物飼育に変化しててきたのは戦後の混乱期を過ぎた70
年代からである。戦前からの専門家を育てて最新鋭機器を搭載した船まで持った専門家
集団をもっている各国との比較を考えれば一定のそうした調査の差が出る事も仕方ない
し又アメリカの様な募金による保護活動が大きな企業のスポンサーを持って行える環境
が無い中では仕方ない話である。あの馬鹿なシーシェパードと言う全くのPR過激派を
も産むほど進んだ投資文化はないのだ。更にそのPR不足での今の米大使館員としての
親日派のケネディ夫人すらも日本の環境のこの過酷な自然との闘いの中での伝統生活を
今だ理解していない状態なのだ。そうした中で魚食文化のこの国は魚は大事にしてきた
しイルカも又そうした意味では アメリカ社会が原生の牛を追いかけて食にしたカーボ
ーイ文化や白鯨油や鯨紐の為に世界に取りに行った捕鯨文化よりは より大事な自然と
の向き合いをやって来ている筈だ。こうしたその後の対策までを取ったこの事実や伝承
を無視して自然保護の掛け声逞しく批判するのは最も愚かであり もっと欧米文化であ
った遊びの狩猟や銃社会或いは商魂たくましい中国のサンゴ漁や象牙密輸の方を規制の
対象とすべきはずなのだ。勿論日本の動物愛護のイルカ研究がこのままでいいとは思わ
ない。しかしTV局や解説者が一様に 日本のこのイルカ流通を批判しているのは筋ち
がいであるし もっとその筋違いの世界世論に反発した意見を言うべきである。



671: 名無しさんAA:15/05/21 00:17

 しかしこの世界動物園協会もおかしいものだが この日本動物園協会も又おかしい。
かつて昔 秘密の様にして隠し撮りし 和歌山の追い込み漁は悪意に満ちた編集の上に
映画「ザ・コーヴ」という米映画に仕上げられた。このいわくつき映画での危惧された
ドキュメンタリ仕様のコメディ映画が馬鹿な事に アカデミー賞長編ドキュメンタリー
部門賞を受賞した映画となったのだ。白人優位主義の主張が自然保護プロパガンダ映画
として通ったのである。そもそもこの他国の文化を尊厳しない行為や態度は米国亜流の
自己欺瞞である。特にこの中に登場するコバニーなる人の滑稽な無知さは全くのお笑い
映画なのだが彼がかつてのイルカ捕獲者であった為の自虐私観からの保護活動であって
、一般の人たちは「あるかもしれない」程度にしか思っていないとする『近い将来は起
こるだろう大量絶滅』への警告に大真面目に戦おうとしている。だが現実は、「観客に
環境汚染や希少動物の市場などの実態をつきつける」行為は、例えば希少種であるとさ
れる揚子江にしか生息していない揚子江河イルカの絶滅対策とかやアムール虎の保護な
どの一番すべき事には逃げている。更に今や海の生物の85%はイルカによって荒らさ
れているであろうとする論文や検証は反故にして ただただ見た目が可愛いから殺すの
を止めましょう食べないでと言うぐらいで 狂暴だとするサメの200倍もの大食漢の
イルカや鯨の捕獲を目の仇にしている。特に「イルカのショーを見に行かない運動をし
よう。」と呼びかける当りは 自らの映画がイルカのショーとして資金を得ている事と
自己矛盾した論理である。この可愛いから可哀想と言うのはかなりの感情論で全くの根
拠はない。それが今この動物愛護団体の長である組合でまかり通っているのだ。科学的
論拠も学術的価値も無い事が。特に近年ではイルカが増えすぎて他の種が無くなる現象
は特に増えていて自然の弱肉強食の摂理からイルカ同志に弱いもの虐めをやり先頭イル
カが浜に打ち上げられる現象は世界各地に起こっている。こうした海の集団自殺と言わ
れる現象はどの魚でもその種の大量発生からの自然現象な事は解っている事のはずだ




672: 名無しさんAA:15/05/21 00:19
 話がそれたが「地球という船を立て直すよう促したいと決意している運動」と捉えが
ちだが こうした理念のスローガンは少し見誤ると日本は大きく間違いやすい。日本人
は真面目な民族なのでそうした理想のスローガンには誘いに乗りやすい。がその乗りや
すい性格の為か視点も又多様性に甘くさえある。もう少し言いたい事の本筋からそれれ
ばこの映画が放映される時日本の中では上映会館に反対運動があった。この時『ひろゆ
きが語る「ザ・コーヴ」の問題点 』では一般的見方を鈴木邦男が代弁している。即ち
どんな多用な考え方や視点もあっていいのではないか。と言う見かたである。だがこの
害は殊の外今に現れている。違法運転を映像を流して面白映像としてYOUチューブで
資金を得る。と言う犯罪だ。これは人間の性が基本興味本位でしか動かないから教育や
訓練或いは習慣で良くしなければ世界平和は来ないと言う教訓であろう。現に今や兵士
が世界各地で集められ残虐映像をして更に広範囲に人狩りをしだしたISILは 今や
国際法なんぞないイスラム教布教の虚言映像と化して人類に不幸の奈落を見せつけてい
るつまり何の罪も無い殺害される人はただただ「イスラム教」でないからと言う理由だ
。更にこうしたプロパガンダ映像ならずともドキュメンタリーと言えども或る思惑があ
って作られる。意志や主張或いは企画そのものがそうした文字と違う敢て感性に訴えて
の表現をやっている。それが良い物か悪い物かの判断を個人に問うとしても 直線的人
或いは幼児化した大人には間違いが多い。その効果から刺激的映像に特化したショービ
ジネスが今や個人で始まろうとしている。官邸のドローン事件ゲーム化人間の殺人事件
はその現象であろう。更にこうした事の効果が中国問題であり慰安婦像問題であり今の
水族館問題であろう。水族館側も何故早くこうした似非愛護団体のロビー活動に手を打
たなかったのだろうか。支持者に活動資金を呼びかける「大事なお金もうけのための手
段」のシーシェパードの捕鯨船襲撃事件やシークアリウムのシャチのロリータ事件に日
本の環境省は全くいけんしてない。それどころか今この日本動物園水族館協会は全国の
賛否を集めていると言う不思議さである。この環境保護対策に対応すべきは 環境省の
行政であろうその取扱い予算であるはずがなぜか省がちがうのだ。全く馬鹿げている




673: 名無しさんAA:15/08/01 23:14 ID:5Hc
私の番組評 202

 NHK「ちゃんぽん食べたか。」が終わってしまった。「カステラたべたか。」の後
継ドラマで さだまさしの自伝小説のドラマ化であったのだろう。これまでもHNKは
武田鉄也のものや その他幾多の物を出している。だが どうしてかNHKならではの
手法で物語で終わり ドラマまで行ってない。大河ドラマでも言える事だが どうもこ
の手の撮影や構成では 高揚な芸術性ばかりを狙ったような作りである所に視聴者の私
はつまらなさを見る。その点民放はサービス精神旺盛にも その周りの背景すらも取り
入れ盛り上がらせる。例えば日曜美術館と世界の名画案内との違いや かつての時代劇
と大河ドラマの違いみたいなものだ。今回もせっかくのいいドラマなのだが かつての
さだまさしの初期の頃の歌が飽きる程に出しても良さそうなのに続いて出ないまま終了
している。この俳優達に歌わせる事を厭がっての事だろうか。かつてのオーケストラの
ドラマ「のだめカンタービレ」との違いがまざまざと出ている。事実普通のドラマでも
効果の為にBGMはつきものだ。この歌手の人生の雰囲気はそのままドラマの中での演
出であり九州臭さの人間像であるはずで それらを歌いだした歌が頻繁にでてきても、
それはそれの構成であろうはずだが さだ氏のPRにならない為にと言う配慮なのか 
そういう尻切れトンボで終わっている事に違和感がある。ミュージックビデオの歌番組
では逆に歌のみに関わらず 母校やストリートミュージシャンだった時代の街並みまで
紹介しているにも関わらずである。日本の和流ロックスターの忌野清四郎の歌ではその
人間ドラマとしての経歴まで紹介しているのだ。それはそれで感動の為に構成なのだろ
うから批判には及ばないのだが 惜しい事にちゃんぽん食べたいは そうした民放の持
つ人間臭さの音がないままに さわやかな人間ドラマでドヤ顔してるようで一つの味気
をなくしている。それがいいのか悪いのかは別問題だはあるのだが



674: 名無しさんAA:15/08/02 21:58
 私の番組評 203

 この処 安保法案がらみで戦後70周年を鑑みてという 話や言葉が良く出ている。
が 議員の質の悪さ特に野党の平和ボケさは異常者の範囲にある。国際社会が既に戦後
体制が崩れさる中にあって日本はどう生き残れるかの問題であるのが本質だ。その意味
ではマスメディアが 戦勝100周年を見ずして 瑞穂議員のような「イラク戦争は間
違えた戦争だったはずだ云々。」などと言うが この言葉これこそ策士策におぼれるの
通り矛盾である。戦争そのものは どんな戦争であってもやるべき物ではない随って、
戦争そのものが間違いで 間違えた戦争んなどない。だが現実的に米国の起こした戦争
を 兵力も無い日本は止める事も出来なかったのだ。この落胆や力の無さをどう考える
のか。集団的自衛を憲法違反とする理由は一体何なのか。もし仮に日本が他の国に左右
される事のない江戸期のインドのような植民地ならまだしも 独立国であり独自の文化
がある事を誇りとするなら 集団的自衛権は当然のごとく有し行使する権利を持つ。只
それを行わないとする宣言や法律は 敗戦後のその未来に対する希望と誇りであったの
だ。当然その宣言や法律を却下しない中での国の経営である以上整合性を保っていると
言う考え方があって当然だろう。そもそも論で言えば 東京裁判があったのだが満州国
建設を共同運営としないとした日本側に怒ったルーズベルトこそ 平和を犯した罪の中
に重要参考人として立ち会うべきであろう。資源のない日本に海上封鎖で滅びるとした
作戦は世界大戦前に既にルーズベルトを擁立したユダヤ系研究機関で発表され戦争と共
にH・アーノルド中将の日本総合打倒計画なるものが公表された。これに従う様な中国
広州の軍用基地が出来ていた。戦争と共に日本軍によって破壊されたが同じ主旨による
B29の開発が既に実験段階で成功を収めていたのである。ドイツ用に開発された原爆
や広域活動軍用機潜水艦などなどは既に日本向けに特化していた。そもそもが欧州戦線
に立ち入りイギリスを救いドイツの横暴を止めん為に日本を戦争に巻き込んだ思想は、
そのまま人として日本国が決して承服や受諾しないだろうとする「軍艦建造規制」「経
済資源封鎖」「原爆実験」「無条件降伏」等々の全く同じ人類としては報われないとす
る方向に追い込んだのである。この事実や歴史が何を意味するのかを野党は考えるべき
だ。これが戦争なのだ。「後世の日本人よ 決して負ける戦争はするな。」これが日本
の生きる道で 島国日本は争うだけで孤立するし物資の補給すら出来ない状況にある。

675: 名無しさんAA:15/08/02 21:59
る方向に追い込んだのである。この事実や歴史が何を意味するのかを野党は考えるべき
だ。これが戦争なのだ。「後世の日本人よ 決して負ける戦争はするな。」これが日本
の生きる道で 島国日本は争うだけで孤立するし物資の補給すら出来ない状況にある。
オイルラインと呼ばれる物資の補給路である東シナ海の覇権はかつてルーズベルト時代
にユダヤ人が中国に教えた方法論である。これが今や実行されようとしているのだ。「
戦争や政治を通す事無く 人として自由に交流される事を望む。」ある捕虜の言葉だ。



676: 名無しさんAA:15/08/17 19:33 ID:C.w
老境の至り39

 鹿児島の桜島が噴火しそうである。要注意警報から避難警報に変わった。これを受け
て鹿児島市は避難先検討に大わらわである。ニュースによると10K下のマグマがマグ
マ溜まりに集まって来ているが 火口を蓋をした状態なのでそのまま地震が多発して、
山が盛り上がる状況らしい。つまり大正噴火以上の噴火もあり得ない話ではない。との
話だ。一方川内原発は呑気に再稼働して再臨界に到達したとの報告である。これは全く
九州電力に危機管理能力が無い事を示している。本来なら自社の安全基準を作り桜島を
初めとする火山の状態ををして 一応の緊急停止をして再発電の準備に取りかかる為の
燃料棒取りだしにかかるべきだ。火山活動を甘く見過ぎている。恐らく地震によっての
本体異常はないであろう。だが周辺機器の異常だけでも大災害が発生する可能性はこれ
までのフクシマ原発や他の原発をみて火を見るより明らかだ。大事を取って何事も無く
なれば再稼働する。そうした事をやるのが公益企業の在り方だ。それが出来なければ政
府は再稼働の禁止の通達もしくは安全行動基準不適格を通知してすぐさま緊急停止命令
を出すべきである。大体電力事業体は一体何を考えているのか。臨機応変に何にでも対
策を打ち出し それなりに地元民や国民を安心させ納得させる行動こそが広報のよりよ
きPRになるはずだ。何も金を使ってポスターや小冊子などを配布だけが人々の理解を
産むものではない。誰もが当然と思う行動や仕組み或いは組織となっている事が大事だ
。そもそも東京電力の福島原発事故も地震前に停止しその後1日置いて再稼働するとい
う簡単な操作手順だけでこうした大災害にはならなかったし 水に浸かる部分に発電機
を置いている事の危険性を東電社員全員が共通認識としてあったなら問題のない対応が
取れてたはずだ。それがなかった思い上がりこそが事故の最大の原因であり機械との真
摯な向き合いと誰に媚びる事無い素直な自然現象に謙虚な対応こそが大事なのである。


677: 名無しさんAA:15/08/17 19:33
 「成功している組織には、あえて人を助けようとせず、人付き合いもよくない上司が必ずいる。愛想が悪くいつも不愉快そうでありながら、だれよりも多くの人たちを教育し育成する人、最も好かれている人よりも尊敬を得ている人がいる。部下と自らに厳しくプロの能力を要求する人がいる」(『現代の経営』)
 そのような人は、高い目標を掲げ、その実現を求める。誰がどう思うかなど気にしない。何が正しいかを考える。頭のよさより真摯さを重視する。
 ドラッカーは、この真摯さなる資質に欠ける者は、いかに有能で人付き合いがよくとも、組織にとって危険な存在であり、上司として、紳士として不適格であるという。真摯さに欠ける者が跋扈するとき、組織は死への道をたどる。


678: 名無しさんAA:15/08/25 07:59
守銭奴哀歌 01

 まさかというか やっぱりというか 世界同時株安が起こった。リーマンショック時
に比べれば 比較的小さいものの この動きは大きい。リスクオフの理由が解らないと
するアナリストやエコノミストは多い。ファンダメタルズとする基礎的諸要件は変わら
ず市場の狂気な叩き売りによる相場だとしている。基本的に村上ファンドの様に株をし
て儲けて何が悪いとする姿勢が産んだ現象だろう。面白い事にあるニュースで女性に愛
とは何と思いますか。と聞いた時その女性は少し考えた後「やはり信用信頼」と答えた
。経済にとっても人の生活の上にある以上それは信用や信頼の上にある。今回の下落の
そもそもの原因は二束三文の上海株価や中国元が力をつけて来た事に問題がある。そし
てきっかけはこのところの中国国内の不穏な状況であろう。共産党の暴力的人民支配は
今に始まった事ではないが、このところの工場や集積場の爆発はかなり多く大きい物だ
がその大きさが天津港湾施設ではまざまざと見せつけられた形だ。この住宅集積工場と
渾然一体となった都市計画のない広過ぎる程の広域な都市化形態は一体何なんだろう。
かつて北京市街には街路樹や公園さえない状態だったが この住環境や景観或いは住民
の公共意識の無さは韓国と共に一体何なのだろう。と思って市内観覧したのは私だけで
はないだろう。もともと不用意で突然進化しては先進国に追いついた様に生活する形態
はこの民族特有の現象で常に突然政権交代をしては非情なまでの戦いをしている歴史が
ある。そうしたアジア特有の中国覇権の巨悪に自然は多分に対応しない。食料・資源共
にこんな出鱈目に贅沢な使用は許さない。更に汚染や毒物公害に地球は持たない。人類
全部が国際化や高速化巨大化でその罰を受ける。それが今回の要因だろう。事実米国内
での機械化されたリスクヘッジは利益を取るか損を出さないかに設定され 人の見る目
の様な思惑は全くない。つまりは本来の会社や産業を育成し世の為に成長させるという
投資家の夢を完全に消した形の投資によって株価は依存している形である。これでは世
界は持たない。利益のみそれも価格のみであれば中国型上海型の株価操作が一番だろう
だが産業は無くなる。事実今回は情報公開もない事実無根の数値発表で人権無視した国
では全く自由化経済が成り立たない事を示している。投資家の信用が無い株式がある事
自体が問題なのだ。こんなに下がった上海株価でも高すぎると言う声がある。当然の事
である。誰も信用のない手形は貰いたくないであろう。それは価格の信用でなく生活や
産業しいては会社の信用なのだから

679: 名無しさんAA:15/08/25 14:12
守銭奴哀歌 02

 今度の株安はコンピューター買い付けによるCTAの悪戯であろうと 多くのエコノ
ミストは見ている。事実ついこの前まで言われていた 虚偽の電脳空間が実質社会を飲
みこんだと騒がれていたが実際はそれが今回初めて人類が出会った大きなIT空間と言
う事だろう。日本では多くの若者が生産よりはスマホのゲームに夢中になって生産量が
かなり低くなっている。がこのゲームに熱心な若者と同じ様に 株のディラーも又今や
このよりよい投資プログラムに沿ったものによって買い付けや売りを行っているようだ
。この投資プログラムは、投資の基本となるであろう経済のファンダメンタルズなどと
は本当に一切の無関係に構築されていて どの株式を買っても同じプログラムで判断さ
れる。つまり規格化した企画の下で機械化した取引をしているのである。恐ろしい事に
、CTAが六つの投資ポジションで市場を保っているため、どこかで異常が起きれば、
瞬時にほかの市場に伝播する。自動的にリスク回避のプログラムが働き、計算式に応じ
た予想をたて ファンダメンタルズとは全く関係なく、いっせいに売るか買わない仕組
みになっている。値上がりすればそのまま 相場トレンドに追従売り買い積み上げて利
益を追い 多少の乱高下では瞬時の判断で上昇・下落トレンドの反落反買を利用しては
売り買いする。一瞬の高値を超えると更に買いを入れるし一瞬の超底値を超えると売る
モメンタムと言われるその市場の出来高・相場の方向性で激しく売り買いそれらは一斉
に行われるのである。かつても人は好いと言えば一斉に集団行動を取り、利益となれば
貪るほどだった歴史はある。ゴールドラッシュがそうであり 端島の炭鉱跡地軍艦島の
様相がそれを物語る。日本でもオイルショックでは紙や砂糖さえ品不足となった経験を
している。今の世紀を正常に分析しあるべき投資をするという力が無くなり、ある種の
権力維持の思惑の中で全く関係無しに株価や国力を動かしている姿がある。これは面倒
な事に戦争や紛争にしかならない。中国が紛争が起ころうが押さえようが人々が住めな
い所になるそれは汚染が大きすぎるからだが自然がどれだけの回復力を持ってるかは不
明だ。そしてそれはISISも同じである。戦争する武器でさえ資金がいるはずだ。イ
スラム教の派閥争いと簡単に済ますべき戦争にアメリカがしゃしゃり出て凶悪化社会を
築いた。北朝鮮と同じく人々はこの差別化すべき社会の反乱に経済的制裁しかない。


680: 名無しさんAA:15/08/25 14:12
守銭奴哀歌 03

 茶番劇の板門店会議が終わった。抗日戦線70周年に朴久恵大統領が出席を発表した
途端に地雷事件が起こった。会議は@地雷爆発事件について「遺憾」の意を表明しA「
準戦時状態解除」を明確にしB韓国側は11年ぶりの拡声器による宣伝放送を中止を約
束C更に南北離散家族再会事業の継続や赤十字実務協議を再開する事を確認しD今後に
南北交流を再開させ活発にさせるとしている事で同意し閉会した。北朝鮮は すぐさま
韓国側の発表と同じに合意したと放送し韓国側は核開発やミサイル発射問題も討議した
と米国の関心にも応じた発表をする。一体何なんだこれは。と思う。この間株価は下が
りぱなしである。だいたい全く戦争する気も金も無い国が祖国統一のみにかけて戦争し
たがっているのである。この不可思議は他に見られない。もし本当に朝鮮半島統一を願
っているなら潜水艦をそのままアメリカ本土まで行かせてミサイルを撃てばいいのに。
と思うのだが。一色即発かと思われる日々を過ごす事より そのままどちらかが占領さ
れる事で一つの国になるであろうと思われるからだ。ところが今の中国も北朝鮮も韓国
も現状の贅沢に満足しているのである中 戦争で荒廃してからの支援は今やどの国であ
っても経済的に出来ないであろう事は解っているから停戦休戦状態のままなのである。
対してクリミア半島を奪われたウクライナは大変である。天然ガスがあるとしてもただ
の集積地なだけで本来の農業国である姿には戻らないらしい。EUも東欧諸国もロシア
の軍事力の前に易壁しているだろうがどうしようもない隣国なのだから仕方ない。この
ロシアも今後自由社会からの食糧援助がなければ建っていかないであろう。今後の温暖
化現象は食料地図を書き買える可能性は高く更に災害や疫病の蔓延が予想される。原油
は50$を切れば採算が取れないとされるがおそらく30$を切る。理由は需要の無さ
である。エネルギー分野は日本の原子力同様に実は足りている中で安値在庫をあるいは
値段の乱高下を押さえる為に保存している。今のISISが無くならない限り誰も必要
としない。必要とする顧客が貧民や難民では買えるものではないからだ。EU自体北上
してくる難民で溢れてしまうであろう。あの金満国アメリカでさえメキシコからの不法
移民は返すぐらいの事をしていたのだ。如何に自国教育の無い他国人が不必要な存在か
が解る話である。


681: 名無しさんAA:15/08/26 06:49 ID:Vlk
守銭奴哀歌 04

 この国を捨ててやって来る人々を「経済難民」と称している。戦争で追われた「戦争
難民」と区分けする為であろうが 現実的には生活出来ないから逃げて来た形であろう
。そもそもこうした国を捨ててくる人々と彼らの生活を奪ったISISなどの兵士やら
ウクライナ国内の乱暴な愛国主義者とどう違うと言えようか。どの国でも同じ事なのだ
が経済破綻するのは人々の人類あるいは地球人という集団の帰属意識の薄さからである
。集団への帰属意識がISISなど軍にあるように見えるがそれは違っている。もしも
人類に帰属し人間社会に帰属する意識が高ければ それは平和と共に未来建設を担う為
の意識であるはずだ。チンケなイスラム教徒或いは我が国ロシア国家などと言う狭義の
ものでは人一人も守れない事は明らかだ。まずもって人そのものが大木の緑の吐く酸素
を吸いどこかで生きて来た動植物を喰らいて生命を維持している。水一滴さえも人は今
もって何も無い所からは造りだせない。それが運命であり宿命である。だとすれば人は
そうした物を利用して有難く頂く事で社会を築いてきた。だからこそその基準としての
通貨或いは紙幣がありより広く平等に集める事に株を作ったのである。その付随効果と
しての利益は求めるにしてもそれは単なる利子であり効果の一つに過ぎない。そもそも
の生活が成り立たない或いは株価暴落で社会が存在しないとなれば本末転倒な話である
今回の上海の株暴落を受けて 日本株や米国株まで下がり 円が対ドル120円を越え
た。予想はしてたものの急激すぎる変化である。だいたい上海株が下がるのは先物市場
からも示唆されていた筈だ。が少し下がった所で中国の馬鹿高官は政府は買い支えしな
い旨の発表をした。この事が一般投資家に大きな引き金になって更に暴落をさせている
。金融当局の今回の市中銀行への金利値下げの発表も遅すぎる発表であろう。少なくと
も初回の一ヶ月前の国際通貨レート下げも一般投資家は少ないとみている。本来ならば
今こそ対ドルレートを下げて輸出を促したいところだが そうなれば原料高でたちいか
ないと言う所で 今後の中国政府は小刻みな慎重な通貨運用が続く事になる。世界中が
凝視する中での発表はかなり疲れる作業となる。まずは世界規模の恐慌は起こさないと
する事が大事だ。


682: 名無しさんAA:15/08/30 21:22 ID:t/s
守銭奴哀歌 05

 だがこのチャイナショックはかなりのインパクトのある事件である。中国政府が意図
するしないに関わらず 世界は中国を一つの柱として動いている結果がでているのだ。
中国が チベットや香港或いは台湾問題を国内問題と発表してもそれは何ら解決には結
びつかない。或いは海洋資源に着手して汚染やガス田を増やす事は国策だと言っても、
それは世界に通用しない言い訳である。温暖化は日増しに増えておりいままで10万年
で平均温度2℃の上昇が今後100年単位で4℃上昇する。と言うのが定説となってい
る。異論や他の諸説はあるものの温度上昇がもたらす気候変動は既に加速度的に起こっ
てしまっている。アメリカやオーストラリアの山火事と台風洪水の様に極端な干ばつと
洪水が起きている。実はこうした状況は西側は初めてだが、共産国側では多々あった。
特に中国国内では北京オリンピックや上海万博時分には 大きく国内不作に覆われてい
た事を外交や外国からの輸入で乗り切っていたのだ。では中国共産党はその干ばつ洪水
の被害を克服したのか。実は全く放置のままなのである。この中国の現状が地球全体に
蔓延する可能性が指摘され出している。加えて日本化現象という政府が財政破綻に近く
動けない状況が各国に起きている。この原因が資源の高搾取化である。機械の進化によ
ってかなり高い需要を支え加えて高エネルギーを必要とする文化的暮らしと消費経済が
世界をリードしているからだ。従って細々と地域化での自給自足の生活者が貧困化して
いるという。実は各国の出す債権は殆どが次の世代への借金である。この借金経営の国
に対して次世代の国民が払い続けると言う構図だが 安定化する企業や産業はその若者
を必要としながらも費用の工面が出来ない。つまり高騰化する人件費が払えない状況だ
。それを加速させたのが競争入札制度の導入である。もともと本来なら税金の投入はそ
の地域の活性化に働くものに投資すべきだったはずが コンクリートから人へなどと言
う馬鹿なスローガンで多くの利益を失した。その溜まった付けは消費税という厄介な物
品税で払われる。つまり貧乏人は物を買う名と言うわけである。これでは社会の存立は
ない。更に低所得者住宅高齢化支援施設など 利益の出ない事業で民間からの吸い上げ
を期待している投資しかしていない。本来と真逆の行為である。これでは難民より悪い
が それが今の日本の現状なのである。

683: 名無しさんAA:15/08/31 02:00
守銭奴哀歌 06

 「間違ってならないのは 基本的に各国の金融政策はその国の為の政策であるという
事で FRBの金融緩和の打ち切りで利上げがあっても それはアメリカの為であり、
それは自然な流れで阻止するようなものではありません。」などと竹中氏は平然と嘘を
つく。およそ日本が失われた20年は本来南米危機の後に対ドル政策に円安誘導を阻止

684: 名無しさんAA:15/08/31 02:01
事で FRBの金融緩和の打ち切りで利上げがあっても それはアメリカの為であり、
それは自然な流れで阻止するようなものではありません。」などと竹中氏は平然と嘘を
つく。およそ日本が失われた20年は本来南米危機の後に対ドル政策に円安誘導を阻止
されたからであって 丁度EUも米国も双子の赤字において 日本の貿易黒字に対抗心
や敵対心があった頃でその為に日本は大きく成長を逃したのである。基本的にG8など
と言う会議はそうした金融問題の国際間問題を討議しその度に日本はいい鴨にされて来
た。事実第二次世界大戦の国際間会議もそうであったし日本の大店法改正や金融ビック
バンも保険の旧株保有問題も日本は平和の中で自由貿易の恩恵があるつもりで受けて来
た。だが実質問題は欧米の働かずに食っていける金利の高いハイリターン貸付で潤う、
ゴールドカラーの我儘さだった事が既に露呈している。これらの資金がノンバンクから
の融資でヘッジファンドなどの大きな原資となって成長しそれが今や世界を覆っている
。つまり正規の銀行間にどんなに規制をしても マネーロンダリングやリバリッジやら
ファンドやらの資金は金利の高い物に飛びつこうと今か今かと狙っているのに戦々恐々
と国家運営をしているに過ぎない。基本的に全地球資産は人がどんな生活しようとも、
どんなに増減しようとも変わる事はない。問題の人の為の生産活動だけが見た目に変わ
るだけだ。それが今のチャイナショックの本質だろう。よくこの中国経済の減速に資源
輸出国である例えばインドネシアだとかブラジルだとかの経済が悪くなるとされるが、
それは全く間違っている。確かに中国融資が滞り中国輸出が減る事はあるが それらは
国の決めた計算上のGDPが下がるだけで 食料自給のある国では意外と関係はない。
金利負担にあえぐ中の政策が次の融資のない為の高金利政策が打てないだけで貿易黒字
であったら国力を阻害するものではない。問題はギリシャの様な自給力の無い中の赤字
国家である。中国その物がその貿易赤字すれすれの経済活動で中国投資していた企業の
赤字が問題でおそらくエコノミストはそれが日本企業とみて 日本の株式投資を引いた
形なのだろう。上海株式が大幅値下げする中東南アジアからの株の多い香港株式はあま
り乱高下していない事がその証左と言える。が現物相場は過去から相対的にバブル的要
素は強くアメリカ経済がそんなにリーマンショックから立ち直れたとは思えない。この
投資会社は事実上投資存続はしていなく それだけ利益の還元が米国にはなされてはい
ないはずだからだが 代わって投入された中国人投資家は利鞘稼ぎの金融投資だけで、
現物投資しての影響はなかったかと考えられる。もっとも戻って来た製造工場の稼働が
アメリカを支えだした感はある


685: 名無しさんAA:15/09/13 18:11

  守銭奴哀歌   08

 いやはやこれから世界は一体何処へ行くのやら。三万人の避難民が東欧で足止めされ
たがこれまでに三十万人ほどが受け入れられる。だが本当の難民は三百万人程度は軽く
いるだろうとされる。そもそもつい先ほどには日本社会はゼロサム社会を温存している
などと経済学者が言っていたが、何の事はないアルカデアの選民思想の下資産や資源を
分捕り合戦つまりゼロサムゲームをしている。としした方が簡単な説明だからである。
 それは産業革命や日本の開国や或いは全世界の文明開化や近代化や機械器具の発達な
どを全く無視したものと思っていた。が今や色んな進化はあるものの進化以上の贅沢と
人口増加をもって資源枯渇が気になる事になってしまったようだ。基本的にこの流入す
る難民達はかつて十字軍或いは第一次世界大戦で戦いに明け暮れたイスラム教徒の群れ
なのである。それをキリスト教徒が受け入れる形である。これは一体何を意味するのだ
ろうか。馬鹿げた事にキリスト教徒とイスラム教徒が交じ会う事は出来ても融和して暮
らして行く事は可能だろうか。かつて民族大移動以前にはバビロンの城内で暮らしてい
たとは言え 経済学で言うゼロサム社会は成り立たない。アメリカで黒人支配で農園を
開いていた人達は結局はユダヤの金融資本に吸い上げられた。第一次世界大戦時の物資
流通にアメリカのユダヤ資本が活躍していた事は有名な話だ。がこの資金が1990代
には双子の赤字として国の経済が成り立たなくなった。それは農業進化による。大型化
と大量の薬品投入によって収穫量がUPしていたのが土地が痩せる事でぴたっと止まり
更に洪水や旱魃の被害が続出し低下の一方なのだ。海の資源も同じだ。日本漁船が活動
の全盛期に一度収穫量の低下が起きたが 減船と漁獲量規制で持ち直した所に中国船が
海洋資源を根こそぎ壊した形なのだ。そういう事で日本には余力がないままアメリカの
双子の赤字と同じ結果を残した。一方中国はと言えば贅の限りを尽くし軍事費も使用す
る資源も活用効率が先進国の10倍以上悪い結果が光化学スモッグに表れている。そし
てそれは中東でも同じだ。幸い中東のこの難民達を始めつつましやかな暮らしをしては
資源浪費を少しだけ押さえている形だが 宗教戦争での破壊はその進化に逆行する。






686: 名無しさんAA:15/09/16 20:00 ID:iLM
 老境の至り39 

 日本人はいつからこんな馬鹿になったのか。安全保障関連法案を何故戦争法案という
のだろうか。今までも日本人は朝鮮戦争を経験している。その中では警察予備隊が出来
自衛隊の前身が固まった。さらに5人もの警官は朝鮮戦争の任務についている。つまり
既に日本政府は今の憲法上の反対派の云う違憲とされる行為は起こっている。ホルムズ
海峡の地雷撤去もイランイラク戦争が休戦はしても終戦とはなっていない中で行われた
。人々が行く韓国旅行も同じである。実は戦争地なのだ。更に武器弾薬の後方支援にも
先のアフリカのPKOスーダンでは 韓国の弾薬が尽きそうだからと供給している筈だ
。更に邦人救出に武器携帯は当然であろうし アフリカでの日本企業がパイプラインや
天然ガスや製油所建設をしながらも危機に陥り死者も出している。人質もNPOでの人
材派遣での拉致監禁が中東で起こり南米で日本大使館などで起こっている。つまり野党
の言う外交努力だけで何とかなると言うのは卓上論で論外の話である。更に自衛隊派兵
に於いて平和の日本ブランドに傷つくなどと言っては 米軍協調路線が世界の中でより
敵対視され攻撃され易いと言うが 既にISISは日本を名指ししているし中国の海洋
進出は紛れも無く環境汚染をまき散らし底なし漁獲や海洋資源の無駄取りをしている。
 大体憲法学者も本当の学者なら国が無ければ憲法も守れない事に一体どう考えての、
整合性をいうのだろうか。そも自衛隊が違憲であろうながら法理に叶った活動状況であ
り かつて野党が言った違憲合法論の根拠は何処に何があると言うのだろうか。そもそ
も先に言った様に 日本政府の政府見解と解釈において勝手に集団的や個別的と分けた
自衛論であり更に核の三原則も今までの政府見解であり 政府が代わればどうにでもな
る代物だったのだ。この政府で変わる勝手な行動を規制する為に今回の関連法案の整理
なのであって何ら批判する事はないはずなのだ。 今の災害救助もヘリコプターも一体
何処で所有し管理するつもりだろうか 平和主義・民主主義・立憲主義が壊されるなど
というのは言い間違いとしか考えようがない。こうした反対こそが今の日本の築いて慣
例化して保っている平和主義や民主主義を犯している。もし立憲主義というのならそれ
こそ自衛隊の行動規範の明確化はすべきで在り この事に維新の会が民主党寄りしたの
は全く間違えた行動だ。殆どの国民は不満でなく不安があるだけでその不安は 決して
今の憲法にでは無く この憲法改訳すらしなければならない特アの情勢に不安なのだ。


687: 名無しさんAA:15/09/20 17:47
 馬鹿の八景 06

 「カネ カネ」と叫んでいたペルーの青年が捕まった。日本で稼いで母国で店を出す
のが夢だったらしい。ペルー人、ナカダ・ルデナ・バイロン・ジョナタン容疑者の事件
は日本人にとってはかなりの衝撃のはずだ。ナカダ容疑者の実兄がペルー史上最悪の殺
人犯としても同じである。それはカネも無い身寄りも無いましては言葉も通じない人々
は日本では生きていけないと言う証となっている事だ。今や養老院での事件は多発して
いる。大阪では「介護に疲れた。」として殺人未遂事件が起こっている。この現象は得
てして今風の状況と思われがちだが大正時代や昭和前半も外国人でのこうした放浪殺人
とも言える事件や老人介護を捨てた見せかけや介護放棄殺人が起こっていた。つまりは
日本で軍事需要で成り金が作られる中でも庶民の中では こうした悲惨な事件はあった
のだが がこうした貧困層を無くし五族協和を旨とし共済と救済のある国づくりに我々
日本人は努力を惜しまない事を明治天皇や大正天皇或いは昭和天皇と共に誓って国際社
会に出たはずだったのだ。情けや優しさは別段人を苦しめる存在ではない。勤しむ事や
努力に何ら人は批判すべきではない。この男の心を癒し食を与える事が出来なかった。
その事は戒めるべきだ。日本人はともすれば何らかの理由を建てては人を苦難に貶める
。がその事には理由がない。この介護士も或いはこのペルー人も又国立競技場の金額も
何ら理由がない苦痛である。時間や金は人に平等にあるべきとしていた思想が村上ファ
ンドの様な欲垂れ思想の下格差が広がる事に手を貸した政府の行政やあり方がこの不幸
を呼んでいる。確かに儲けて悪い事は全く無い。問題は会社や集団が最高効率を求めて
能力のある物は能力の低い者の能力を削がない事を規定し更に上は更なる上を目指しな
がらも国や経済界は逆に低所得者や勤労者に負担を多く掛け税率を高くしては 法人や
力ある成り金や経営者にはあまい汁を何倍も注ぎ込んでいるという矛盾だ。国連でもそ
うした矛盾つまり核をもとの軍事力に応じた分担費負担を強いるべきなのだがそれを発
しないと言う事が大きな問題だ。やさしい地球環境をやさしい人間の生育環境が無けれ
ば地球自体がISISの様になる。更に言えば欧米や日本もその半分を足を踏み入れた
形だろう。これは是正しなければならない。時間が許す限りゆっくり生きる仕組みこそ
が子孫繁栄のコツである。


688: 名無しさんAA:15/09/22 19:33 ID:X.U
歌麻呂劇場


 かなしいだろう みんな同じさ 
 おんなじ夜を迎えている。
 風の中を 一人歩けば
 枯葉が肩で ささやくよ




 生きて行くのはみっともないさ
 あいつが死んだ時もおいらは飲んだくれてた 
 そおさおいらも罪人の一人さ嗚呼
 ああ又あの悲しみを
 置き去りにしたまま〜〜〜


 吉田拓郎の歌から


 痩せ蛙 負けるな一茶 ここにあり。

 

番組内容:ホンジュラスで貧しい子供のために1つの村を作った日本人2時間SP
出演:ユースケ・サンタマリア、杉崎美香、渡部陽一、たかのてるこ、三浦理恵子、はるな愛、東貴博
世界ナゼそこに?日本人 ホンジュラス 9月21日のバラエティ動画

 世の中にはすごい奴もいるものだ。がんばれ〜〜〜〜涙しかない。


689: 名無しさんAA:15/09/24 20:53 ID:K6w
いざ酔い いざ並み いざ晒場 42

 さすが中国馬鹿もこれだけ明言すれば人々はあっけに取られてしまう事だろう。今回
アメリカ政府は人権とサイバー攻撃に晒されている事に大きな批判展開を予定していた
はずだ。言われも無い記者達やエコノミストへの突然の拉致は国内の自由行動の規制を
勝手に引いていてちゃんとした区画や明示された文言はない中で起こる。更にサイバー
攻撃の追跡プログラムで89%と言う高い確率で北朝鮮と中国となっている。我々も同
じサイバー攻撃の被害者だと言う事はあり得ない話ではないが中国から盗む情報などは
たかが知れていて政治指導者の動きくらいがせきのやまであろう。そうした中で大手の
ボーイング社とアップル社を訪ねて中国進出の確約を取り付けたい意向の様だ。それは
とりもなおさず日本の有数な播磨造船誘致と同じく技術盗難又は経済的急結展開を求め
ての話であろう。そもそも中国にも国際的に飛行機を作って売っている会社は幾らでも
ある。自国の戦闘機も国産と威張っているし常に事故を起こして問題な旅客製造公司も
ある。あえてボーイング社に300機を発注し自国に生産工場を作らせる意図は日本の
新幹線技術を盗んだ手法と同じである。サイバー攻撃で色々な特殊技術の図面や設計図
は盗んでも今だ航空技術を確立出来ない中で各種実験装置やその方法或いは大きな確定
した航空機製造過程のノウハウが無いのである。更に生産設備が整った時点で中国の一
人勝ちで精密機械や特殊工具は一切持ち出せない。この時点でいつでもボーング社は中
国から撤退したとしても中国には痛くもかゆくも無く大喜びで終わるのである。日本の
播磨造船が中国に生産拠点を置いた時には中国も日本人もお祝いムードその物だった。
勿論播磨重工は撤退なんて考えてはいないであろう。何故なら今や日本漁船を追いかけ
回す程の次々と大型漁船や中国艦船を手掛けていて経営的も中国人への販売を抜きには
会社は存立しない。更に広大な敷地で今までの培ったノウハウを一挙に集大成させた新
工場はコストパホーマンスにも優れたものだからだ。それは日本が投資した農業施設も
言える。だが日本の民から言えば国賊会社でしかない。金に心奪われ良心のない天然資
源の乱獲者を作っては喜ばせているだけの話だからだ。それほど世界にパイはない。又
価値の無い元紙幣では例え300機だろうが3000機だろうが現政府が購入しても、
中国側からは只でダイヤを拾うぐらいの話である。全く損が無いのだ。米政府やボーイ
ング社の機密を知り又労働者も養え更に世界の飛行機の経済戦に頭角を現わせられるの
だ。


690: 名無しさんAA:15/09/24 23:25

 馬鹿の八景 06

 近頃「意志の高さ」と「言葉の力」と言う事が頭から離れない。ドイツに流入するべ
き政治避難民は今や慌てだしたEU内で足止めを喰らっている。心にも無い寛大で寛容
なドイツ首相の主婦的意見からだが 彼らは一体何を求めているのか。戦争戦闘状態の
国内からの避難だとすればEUは受け入れると言う大きな間違いを犯している。自らの
国や土地や生活を守れない人々つまり今のイスラエル人みたいな共和精神の無い人々を
救える筈はない。国内ではペルー人のナカダ・ルデナ・バイロン・ジョナタン容疑者の
驚異的な狂気が目を見張る。ナカダ容疑者の実兄が殺人犯としてペルー最大の殺人事件
を起こしたショックよりは 同じ同僚のペルー人にそれが知れた事が原因の様だ。多分
殺された親族の中に同じ日本に来ていた者が彼を執拗に追いかけ回したあげく彼は動揺
と不安更に経済的失意に打ちのめされての犯行だろう。つまり誰も助ける言葉を掛ける
事が出来なかった事が原因で遠因としては日本社会の閉鎖性や居留異国民のネットワー
クの悪さであろう。若者の爆発的不良化も同じくソーシャルネットの不純性にある。こ
れらは今の大人の頭の悪さや他に優しくない性質による。彼の昔の日本人はこうでは無
かった。などと悔やんでも仕方ないが日本人の心もさびれたものだ。その多くはメディ
アいい加減さにもある。スポーツ選手やちょっと優勝候補になってスポットを当てれば
全く連鎖的報道に明け暮れあろうことか スポット選手は全く成果が出ない。それだけ
CMやニュース或いは追っかけに追われる。近頃少年が「ナイフでメッタ刺しにして殺
しますよ。児童ポルノを認めないと君のアグネス御殿は血まみれになりますよ。」など
の書き込みで捕まったが「慈善活動をしているのに、豊かな生活をしているのが許せな
かった」と容疑を認めている。と言う何んとも不可解な不快事件が発生している。かつ
て元ボクサーの大学院生が、弁護士・A氏のペニスを切断した傷害事件が起こったが、
この原因がTVでのブラックマヨネーズの心無い一言でそれを実行したのである。こう
した言葉の力・尊さが全くTVが解っていない事に驚くが これが日々のTVの現状だ
簡単に政治家が言う様な 絆とか 花は咲くとか 復興でなく・・・とか多すぎる美麗
美句が並べられるが はたして普通の言葉が言えないのか。
 


691: 名無しさんAA:15/09/27 09:30 ID:75Q
いざ酔い いざ並み いざ晒場 43

 全く日本は一体どうしたんだ。アベノミクスは増税を掲げる限り失敗する。馬鹿とい
える。このいい加減な自民党に野党は全く歯が立たない。松野を代表した維新の会はも
はや詐欺的会になった。芯のない烏合の衆となったような民主党にすり寄り現実社会の
掟である自由社会の死守を捨てている論調で誰がたなびくというのだろうか。誰もが戦
争を嫌い原発を廃止したいとは思っている。だが馬鹿げた事に日米安保を捨てて自国防
衛と個別自衛のみを掲げ自衛隊反対と言う全く出鱈目の話で辺野古の滑走路反対なのだ
。こんな無茶苦茶な話は中華民族や朝鮮族ぐらいしか言わない話である。つまり自分の
みで他はどうでもいい。と言う事の極論である。確かに国際社会は横暴にも中国の勝手
主義とアメリカの二枚舌外交で混乱はしている。南沙諸島や西沙諸島の4つの島はもは
や滑走路や港湾建設は完成完成真近の最後の追いこみで 後は軍事用兵器持ち込みを待
った状態にある恐らく来年3月までには全ての完成が出来て完成式典にアメリカを招待
して来るだろう。今回もBB会議などと言う後進国会議を呼び掛け後進国のニーズにあ
った投資や開発を呼び掛けている。全く馬鹿げて世界大戦前夜の混乱した欲垂れ意識を
国際社会に持ち込もうと必死である。中国元が日本円にしていまも100円=1元の価
値しかない紙幣が今や世界市場では1$=6元もするのである。つまり100円=5元
なのだ。確かに中国の潜在成長率は高い。だがそれはアフリカやブラジルなどの後進国
全てで在ってロシアやブラジルやアフリカなどの資源国からは程遠い価値である。人民
が多く国土が広いという大きな魅力なのは解るが そもそもの人権や自由あるいは法治
国家としての約束を守る行為のないロシアや中国では外交はしても交易はできない。仕
事のパートナーとして約束の反故やルール無視や殺人までOKとしたらとても仕事では
ない話だ。大体アメリカのクエートが侵攻したとしてイラクを撃ちビンラディンを匿っ
たとしてアフガンと戦うのなら東シナ海のベトナムやフィリピンの領土を犯して建設し
た中国や日本の竹島を奪った韓国を叩くのに何のためらう事があろうか。世界の警官を
自認してベトナム戦争まで起こしていた国が突然身を引く事が許される筈はない。特に
西側の盟友としての誇りがあるならば 特に中東での意味の無い開戦よりアジアの和平
の継続の為の開戦の方がよっぽど価値がある。


692: 名無しさんAA:15/10/01 22:22
いざ酔い いざ並み いざ晒場 44

 なぜ アベノミクスは失敗するのか。実は現代経済学では人間の本質から外れた様な
数値数式に捉われてしまったからだ。TVを見る限りより過激なより本能的な物に特化
しては売上を上げては貧相な幼態に人間社会が戻って行っている様な感覚を受ける。そ
してその理由が今の中国の進歩とデフレの正体であるようだ。まず日本において1970年
代に比べて日本の企業が今や半分程度である上に一人親方の農業従事者も3分の1程度
と思われる。正確な資料を求めれば多分全体で1/3程度の雇い者雇い人に変わってい
る事だろう。だがそれでも企業そのものが大きくなっている為その使用社員数は大きく
は下がってはいないかもしれない。それは全労働者数で1/3x2=2/3と言う計算
式が成り立つ。事実1970年代1億人を超えて2008年1憶2800人をピークと
して今や9900万人と言われるがその中での年代人口推移から若者が35%から25
%に推移している。つまり単純計算で1,3x35=45,5 0,9x25=24,75
という55%の就労人口に変わっているのである。更に10%位は高齢就労しているだ
ろうと加算しても60〜70%なのだ。それでもリーマンショック時の卒業時求人は不
足だったのである。更にそうした中でもGNP若しくは生産や流通の総金額は増えてい
るし物品の工業品指数も増えている。つまり農業工業海産物共に生産は増え続けている
のである。漁獲高は減ったはずと思っている人も多いが金額や 他の魚や海苔や加工品
目を見ればわかる様に金額は高くなりそんなに多くは減っていない。つまり市中の人々
の労働市場の広さは狭くてより高度な効果で大量で高価な物を扱いながら市場の物品を
供給してきたという事になる。この狭まった労働市場は競争により安価でできるだけの
奴隷的人間を雇う事を今の経営者は目論んであのキャノンの御手洗会長のような非人間
的人間失格者を産んでは会社を拡大し存在を大きくしてきた。海外では今度のフォルク
スワーゲン社に見る様に大きく検証が難しいものでも民間団体が査証しては厳しい判決
をさせて、より公平で平等な社会を会社や国家にまでさせる仕組みを持つが 日本は今
だに無い。と言うよりは逆に消費者省を作ったり或いは民間活用と言っては偽りの民間
会社を作り天下りに権限を持たせると言った方法で後退してしまっている。



693: 名無しさんAA:15/10/01 22:23


こうした中でも 震災支援税を撤廃し更には アベノミクスの第二幕などと呑気を言う
。だが国際情勢はそうは甘くない。まずアメリカは今後発展した中国からの粉塵から、
大型ハリケーンによる大雨がやって来る。それと同時に雨による影響で北極海の真水化
が海流を変える。それは又日本の水害も増える事を示している。又経済的には日本が幾
ら技術を積んで安価で便利な物を生産しようとも世界の消費は低迷を続ける。今の株価
と円レートを支えるのが精一杯であろう。ヨーロッパではカダフィの予言通り彼の死後
難民が今や200万人やって来る途中であり今後500万人に膨れ上がるかもしれない
。というのもロシアがシリア空爆を始めて参戦に踏み切ったからだ。まず北部アフリカ
で起きた芙蓉花革命と呼ばれた紛争はイラクからの中途半端な教育の無い難民によって
起こったと言える。更に自由化を叫ぶ彼らに兵器を与えた事で起こった悲劇は先進国の
愚かさである。これによりエジプトを始めイスラム教徒の流派対決を産んだ。こうした
経緯からもロシア国内も他国に戦争を始めないかぎり国民の不満を和らげられないプー
チンはクリミヤ半島を手にしがウクライナとの戦争は今も起こっている。この中でキエ
フ地方での兵員の大量死を今だ発表していない。この地が自由主義に落ちればとの心配
からの戦いだろうがまずウクライナの民衆を惹きつける事は難しいだろう。これまでに
シリアに供給していた兵器の代金はアサド政権が倒れれば請求出来ない。従ってアサド
を死守するに至るが米軍から兵器を供給される自由シリア軍はとんだとばっちりで空爆
で急襲された形である。これはISISが利する事になる。これには手を焼いていた米
国も黙っていないはずだ。この難民達はウクライナ軍に編入され大きな戦いになる可能
性がある。更にイランとの核合意が出来た以上イランは動かない。となればロシアとシ
リアに勝ち目はない。問題は仲の良い北朝鮮の動きだが核開発は進めるだろうがロシア
自体は北の核発には反対した経過がある。つまり核ミサイルを売る事は出来ない。中国
にも今のこうした事で亡命してくる兵士達が入り込む。つまり内乱は避けられない。今
後中華の爆発事件は頻発して多くの生産は無くす。問題は山積みだが中東のテコ入れか
らは米国は離れられない。かといってECはまだまだ株価も通貨も下がりそうだ さて
さてどうなることだろうか。ロシアの意図する冷戦時代に後戻りするのだろうか



694: 名無しさんAA:15/10/04 12:14 ID:83g
いざ酔い いざ並み いざ晒場 44-3


 こうした世界の動きは実は古くから知られていた。つまり創造神と破壊神の交代劇だ
が、それらは何千年前から伝えられ今ではマックスの悪魔とカタフトロフィジャンプの
ある数式として科学式になっている。紀元前5世紀頃にはオルフェウス教団にギリシャ
神話によって唱えられた魔界又は霊界とする冥界への階段を降りたとした神であるオル
フェウスはバッカスと言う酒の神との繋がりが強いとしている。この神は妻がゼウスと
の密会で死んでしまいそこで地下の暗黒の魔界から連れ去ろうとする。だが人間界にで
ていたと思っていたが今だ魔界からの境界を出ていなかった妻は約束を違えたオルフェ
ウスの行動でとうとう連れだす事が叶わなかった。だがそれは地下で知恵を貰い地下の
人を助けて地上に舞ると言うあの世に行った最初の人間と言う設定である。この構図は
日本の神話にも現れる。いざなぎいざなみ二新物語も火の神を産んで死んでしまった妻
を連れて帰って来ようとするが失敗し甘木の山で一日千人殺してやると言う追いかける
鬼に変わリ果てた妻に一日千五百人産んでやると叫ぶのである。戻って西洋神話でも、
淫乱の神であるデオニソスやこのバッカスとの繋がりが語られる。だが知性の神とされ
るアポロンこそがこの世を治める未来の神だと言う事に落ち着いている。こうした黄泉
の国へ行く話は実は紀元前20世紀ぐらいには作られたと推定されこの話がキリスト教
になって 天に昇って更に人に復活すると言う話になったとするのが定説のようだ。こ
うした話をした理由は、実は今人の中にニューハーフ現象つまり性の乱れが生じている
と思われるからだ。世界中でLGBTが流行し更にその人権を訴えては獲得している。
ある日SMの穣王様が何人かいる中での話は全く異質の殺人狂の話と同一な事に吃驚し
て聞き入った。つまり今のISISの行いは今や世界中の不埒者を集めた多国籍外部隊
に変わってしまっているようだ。これらの若者達は結局は教育の無い人の心を持たなか
った人の群れと見なせるだろう。つまり現代人は人間と言う箍や鎖を外しては本能の持
つ快感に酔い浸る日々を求める様になり 今までの知性の組み立て遊戯の楽しさを忘却
しようとしていると思われるからだ。それこそがイスラムやキリスト教或いはユダヤ教
などの宗教の持つ悪夢の思想である。


695: 名無しさんAA:15/10/04 12:15
いざ酔い いざ並み いざ晒場 44-4


 NHKにオイコノミヤと言う番組がある経済論の話なのだがここに最近話題の又吉が
出演しているが 彼の答えが一般的答えと違っていて理論と違う事が面白いと思って見
ているのだが 彼は非常に良く本を読む読書家である事がそうさせていると思う。実は
前に山城新吾や毒蝮あたりが読書家であったが彼の演技や意見がそうしたものだった事
を思い出す。そうした知性を持った人の一番の特徴が踏み出さない踏み外さないと言う
事だ。つまり一番の狂気や異常を演じれるのは一番の知性や教養を持つ者だと言う事の
証であって 人が暇になって周りに何も無くなってしまった時何に遊びを見出すかとい
う事である。幼児教育すなわち赤ちゃん教育に於いて最も大事な事は興味本位に動かさ
ない事 すなわち一瞬でも止まる事動作や休むこと教える事が大事だそうだ。その上で
興味をくすぐる色や音楽や物語や食を与える事が英才教育の基本だと言われる。しつけ
というものの大事さである。その意味ではゲームや漫画や情報機器に操られる現代人の
殆どは人間失格者と言える。つまりは我に返る瞬間を作れない人々であるといえるのだ
。現実的に色んな実験から細胞そのものが脳であり知性である事が知られ 筋肉であれ
骨であれ頭脳であれ 仕事や運動を細切れでさせてはそこに休息をはさむ事で進化する
事が知られている。それは人の歴史も心臓の鼓動もそうした周回する波によって動きを
持っているからだろう。それがエネルギーの本質かもしれない。そうした中に人が今は
忌まわしい本能のしがらみに弄ばれて生きる時代に入ったようだ。つまりかつてのユダ
の陰謀論とされた人間の持つ本能の5欲をニンジンとすれば民衆は愚かにもどうにでも
利用できる。と言ったものだが食欲・性欲・支配欲・物質欲・集団欲に鎌掛け情緒に訴
えた夢をぶらさげる行為だが こうした事が1600年代既に完成された帝王学として
もてはやされそれをヒットラーは利用した。そして愚かにも今やテレビをみればピンク
と食と旅とスポーツで構成されかつての時代劇やドラマは敬遠される中にある。この傾
向は世界的に同じでローマ帝国の傾斜時と同じだ。


696: 名無しさんAA:15/10/04 13:38
 いざ酔い いざ並み いざ晒場 44-5

 だが最近この「シオニストの陰謀」がぐらついては 色めき立っているようだ。馬鹿
にも程があるようにユダヤ資本の代表のような米国金融家或いはイギリス金鉱家あるい
はエネルギーメジャーが自ら唱えた理想が間違い出会った事の様に衰退している。例え
ば中国大陸進出は欧米ことごく失敗し大きな出費の上自国の失業という痛手を負ったま
ま退却した。折角軍部がプランニングした911以降の経済も戦争経済で潤うと思って
いたがアメリカの財政赤字が消える頃で国民が反発し兵士の病理が進みその為の金融界
の引き締めはリーマンショックまで産んだ。こうして中産階級まで消失するのをやっと
食い止めている状態だ。そうした中でギリシャショックやチャイナショックが起きてい
る状態だ。更に不可思議な事だが今だにこの景気悪化に軍事強化で経済失速を止められ
るとでも思ってる節がある。現実には知っての通り中国経済も軍事財政の圧迫のあおり
を受けて今や50年は持つとされた不動産も5年で破綻をしインフレ経済と産業停滞を
して標準指数以下で人民デモの最中にある。欧州でもISISのあおりで難民が発生し
当初は安価な労働力として期待していたドイツも二千万人という途方も無い数の流入者
がECに入る事は年間2万人程度ならまだしも20万〜200万というイスラム教の入
国には住民が危機感を募らせて国内不安が高まっている。更に悪い事にソ連にもこの危
機がある。ウクライナにおける領土のせめぎ合いに戦争請負人の黒い武器商人はほほ笑
んだようだが現実にはISISから頼られる筈のサウジからはいつまでもイラン攻撃が
なくイランと米国のウラン協議は合意に達したしイエメンの過激派もISISと結びつ
きイエメンの反政府軍へ攻撃するより仕方がなかったようだ。だがこれでドバイ開発な
どで資金のひつような中東の原油価格は更に増産されては安く売る事になる事でBP石
油などの北海油田まで影響を受け ロシアは更に空爆などの軍費消費に向かう羽目に陥
った。この事はイランとイスラエルには大きな困惑である。又こうしたイスラムの各流
派の避難民が錯綜するトルコではアサド政権が倒れる倒れないに関わらず戦争が長引く
事で過去の約束が反故され安全が脅かされる。更にクルドの独立運動が国際的に高まる
事でトルコには災難が及ぶ。トルコの不安は今も独裁の国王国家の中東全域に及ぶ。そ
れは平和の中にいるヨルダンやアラブも同じ崖っぷちに居る事を示している。



697: 名無しさんAA:15/10/08 00:23 ID:bZk
 いざ酔い いざ並み いざ晒場 44-6

 こうした国際的負荷を柔らげるべき時にインドネシアは可笑しな行為をしている。
つまり日本の新幹線技術を尻目に中国との高速鉄道技術が劣ると見ると通常列車の路線
に切り替えるとして白紙に戻した。その後突然ロハでのインフラ整備の計画に乗った形
で中国との契約を結んだ事を発表した。又その見返りにだろう中国の作ったAIIBへ
の出資にへ3兆7300億ルピア(2億6192万ドル)を拠出するとナザラ財政局長
が発表したのである。こんな馬鹿げた事が通用してはインドネシア自体が持たないだろ
う。日本が発展した理由はアメリカの出資を受けて日本が技術進化した点にある。決し
て自国以下の文化や技術の所である 中国や韓国或いはソ連などから出資してもらい自
国の技術に取り入れた事はない。つまりは時の最先端を持つ文化との融和なり溶融なり
は無い事になり自国の発展は進まない事になるのだ。この理屈が解らないでは国は成り
立たない。今回TPPが発効する協議が無事終わった。金融工学的に言えば立体幾何学
モデルではないとカタフトロフィジャンプが出来ない。つまりJカーブ理論で言う行き
詰まりを突破出来ないと言う事になる。この中国のやっている独裁的一党支配の経済は
こうした純粋な単一循環をした平面経済で進化しない。これは大変危険な事である。我
々人類は歴史上戦争をくぐり抜けて人々は生き延びて来た。この立体幾何学的進化は、
底の多様化を意味しそれこそ情報自由化と人格権の自由化が必要で 過去の歴史からも
独裁もしくは一党独裁や軍事政権などでは決してあり得ない事が解っている。その究極
が地球の自然界なのかも知れない。この何百万年間に植物は植物なりに地球を支配して
行こうとしたが酸素過多で生きられない事を悟り魚も魚なり生き延びる為に水中から水
面に水面から陸上へと生活を変えて今に至った。そしてそれは昆虫も又同じに捕食され
続ける身でありながら生き延びて今に至っている。我々が見れない細菌の世界も同じで
その形態が解るのはほんの一部であり、今回細菌学でノーベル賞を貰う先生もその一部
の世界を有用に変えた先駆者として賞を得るのだが これを探し当てるまでは根気のい
る気長い探索の作業が必要な程 地球自然は多様性に満ちた世界になっている。ある意
味では地球が産まれて数十億年を経て 初めて出会い発見されたとも言えるのである。


698: 名無しさんAA:15/10/09 23:18 ID:5Qo
時流 世情 批判


  酔い奴彼(よいどれ)の舟歌39

 およそ15年前頃に切れる子供がより幼児化していると警告を発した教育研究者がい
た。そしてそれはニュースソースとしてのTVでの報道だったが 私はその話を簡単に
受け流して聞いていた。近頃になってやっと解った事だが日本人の不思議さは地方自治
のい

699: 名無しさんAA:15/10/09 23:18
た。そしてそれはニュースソースとしてのTVでの報道だったが 私はその話を簡単に
受け流して聞いていた。近頃になってやっと解った事だが日本人の不思議さは地方自治
のいい加減さにある。福岡県は自然重視を唱えながら今も街の大木を切ってはコンクリ
ート護岸や道路を造り続けているし 佐賀県では健康福祉を唱えながら違法な労働市場
を造り出して大学を運営する。それらは何処の地方も同じだが 簡単な有力者や有識者
と呼ばれる者達の独占場として 非常識な大きな共同作業のような権益の擁護者として
の発言しかしていない事にある。国際社会でもフォルクスワーゲン社やFIFAや国連
にその汚職性が問題視されているが日本に於いてはより深刻な状況である。つまり国際
社会ではそうした疑わしい事には大いなる市民活動や告発や啓発があるが 日本国内で
は五輪会場に見える国立競技場問題の様な 権威を利用した意味の無い会議や天下りさ
せては人件費削減して懐である給与はそのまま上昇させてその下請けに一任しては事業
費で本来の事務費や人件費を支払うと言う全く間違えた対応をして日本は進んで来た。
およそこの中で消えて行ってしまっているのは善玉と言われる未知の細菌類であろう。
今度のノーベル賞で結果的に検証されたのは人間は自然と共にあると言う事だ。この自
然の宝物を今だ手に取らないままに今の公務員や裕福な人々は無駄に殺して来たのだろ
う。都市化や近代化或いは綺麗や手間要らずなどの美句によって農薬や洗剤或いは猛毒
を事をいとわず使いエネルギーを金に換えては税として無駄遣いに終始している。今回
なぜ子供が切れるのかと検証すれば簡単に食生活の貧しさが浮き彫りになる。昔なら地
域性のある症状も 今や広く薄く大胆に早くかつ広範囲で国際的に食生活の乱れがある
。コンビニに何処の誰が造ったのかも解らないままに中国などの薬剤入りの加工食品は
美味いと言う感覚で売り上げを占めている事は それだけ奥の深い静かな人間を捨てる
事になり異常な今までにない病気をまき散らしている。脳障害は決して診察では解らな
い。それは科学的にも絶対に見つけられない。それが化学薬品類の進化である。それを
農協を始め政府共に安全の認識が薄いままに使うのである。馬鹿げた事に今や純粋な飲
み水同様な水で稲作を作っている農家は極稀である。人の持つ毒素排除機能もついてい
けなくなれば 当然婦女子に影響はあろう。特に過酷な現代では生活すら同じである。
そこで人は異性に興奮しない結婚しない子供を創らない子供は育たない切れる習慣がつ
いて当然となる。といった現代の流行が存在するのだ。心の病ではない。単に見つから
ない脳障害であろう。食生活と環境が悪いだけなのだ。それを理解出来ない大人が多い
だけなのだ。


700: 名無しさんAA:15/10/11 09:36 ID:MH6
 老境の至り 41

 今回全く科学的文化的調査も無しに 中国の嘘に固められた南京虐殺文書なるものを
ユネスコの記憶遺産とした。かつて広島の原爆ドームを記憶遺産としての指定を申請し
たが文化遺産にそぐわないとして却下された経緯がある中での出来事だ。これに対して
日本政府はユネスコ分担拠出金や限定特別補金の提出を止める事を決めた。これは当然
の事ながら嘘の発表を続ける中国政府を後押しし 正確な日本政府の意見を聞かず中国
の一方的な意見でその決定したと言う不公平な不平等行為に対する処置として当然であ
る。そもそも世界大戦の大きなきっかけはこうした不公平不平等な国際社会機構の私物
化がドイツにヒットラー総統を創り出しアメリカに謀略を巡らせ日本を戦争に追い込ん
だのである。その意味でも今の日本はユネスコ資金減額でなく凍結し 先の国連事務長
の中国軍事パレード出席と共に国連資金凍結を即時出すべきなのだ。およそ中国や韓国
にテコ入れし現代文明の為の技術や資金援助をしてした理由は 今の様に日本が軽く見
られあしらわれる為に行って来た事では無い。江戸時代の黒船来航以来アジア民が遅れ
て西欧列強の中で 過去のしがらみを捨ててアジア民の不幸を避けて五族協和にて世界
に一つの崇高な社会秩序を得たいとの意志がらで それは明治時代の文明開化以前から
脈々と受け継がれているDNAである。大和民族の日本国が他より優れている訳ではな
い中に必死になって今日の時代を築いて来た事は他の地域に比べ極東地域が戦争や紛争
が少なく日本近隣で無かった事でも解るはずだ。こうして他より遅れを取らずに平和を
追求してきた民の一員として 奴隷制度や人種隔離政策が在る中で日本人のみを一等国
有色人種として除外された先人達の知恵や苦労やその功績を今や無にしている状態は、
全く不満である。勿論南京城が侵攻された時後から白旗持ってやって来た兵士達の食料
供給には問題があり捕虜2千人の半数が殺された事はあったのだろう。だがこの戦争時
日本人さえも飢えに苦しみ 戦いの行軍には半数以上が行き倒れになり病気になり時に
盗賊と同じ現地調達の自給が強いられたのだ。政府が悪い戦争が悪いと言うのは簡単だ
だが 今のシリア情勢はどうだ。米国やロシアを入れたシリア民は結局は難民と逃れる
術しか無いではないか。その光景にユネスコが他の良い策をあぐねたと言う話はない。
中華の民そのものが 不平不満の中で英国や日本或いはソ連を受け入れて 今の奇妙な
赤党の独裁政権を打ち立てて 法律や道徳や人道や自由を犯しているではないかそうし
た現実のその後ろ盾となる事は当然ユネスコのモラルや意志に反している


701: 名無しさんAA:15/10/11 17:51
いざ酔い いざ並み いざ晒場 45

 とうとうロシアのKGBが動きだした。アサド親衛隊はおそらくロシアに参加応援を
頼んだのだろう。ロシアは義勇軍を出す可能性を声明をだし更に撤回したがこの行為は
おそらく既に出して戦っている事を示しているのだろう。クリミア半島以来米国の及び
腰が目に見えて酷く映る。もし仮に米軍がシリヤ国内に派兵して乗り込んでいたならこ
うも悪くはならなかっただろうがそれでも米国は財政事情が又も双子の赤字になる事に
なったではあろうが。もともとロシアはシリアの軍事指南役を果たしていたし武器供与
も行いこの地の覇権を狙っていたのである。当然といえば当然の成り行きといえる。ソ
連邦解体時にかつてのキリギリスタンやトルクメニスタン或いはウズベキスタンなどと
共にソ連侵攻でアフガン戦争まで行ったあおりで同時離脱の道に入ったがその後我々の
見えない所で次々とかつての権益復活を行って行った。米国のアフガン作戦に北の入口
として空港使用と共にロシア権益の保持が密約されかの国々は米国の広報との2枚舌外
交に唖然としたのである。そしてその侵攻の具合のそれが見えたのが今のウクライナ紛
争であろう。これによって解るのはトルコが危ないと言う事だ。トルコも内情も勢力と
してはイスラム圏のシーア派もスンニ派もいる。つまりISISともシリア国王派とも
繋がっているし反体制派とも繋がっているのだ。幸いにして民主化している為に多くの
不満は積もらないがそれでもクルド人にとっては虐げられる国や社会の中に居る。この
クルド人の独立を願うデモは頻繁に起こっている。というのも湾岸戦争以降トルコは非
情な態度でクルドと接して来ている。米国支援であれISIS攻撃であれクルド人陣地
への空爆を欠かさなかったからだ。ロシアがISISを叩くと言いながら反体制陣地を
叩く事と同じだ。次の11月に総選挙を控えたトルコでは、2年も続いたクルド人との
武装組織「クルド労働者党」との停戦協定は既に崩壊し国内では政府軍の戦闘が再開し
て治安部隊に140人を超える犠牲者が出て今ではそうした政府は報復の空爆で1700人余の
クルド人戦闘員を殺害したと公式発表している。ここに目をつけて活動しているのが敵
の敵としてロシアKGBの支援である。事実クルド人集会が在るたびにテロで集会に来
たクルド人が何千人と殺傷される事件は頻繁に隠れて起こっている。



702: 名無しさんAA:15/10/13 00:47 ID:PRM
いざ酔い いざ並み いざ晒場 46

 環境問題にお気楽極楽な先進国に比べて 後進国にも当らない国々はより真剣に取り
組んでいる。が本当の影響は先進国にしか起こらないのが現実だろうが 先進国は至っ
て楽観的で新しい技術で何とかなるだろうと思っている。そうした中でのウルグアイの
「世界で最も貧しい 大統領」と評されるホセ・ヒムカの演説はそうした意識が 如何に
幻想にすぎないかを指摘している。以下は国連の各国の人権演説の後の演説で在る。

ずっと話されていたことは持続可能な発展と世界の貧困をなくすことでした。これは私
達の本音でしょうか私達の本音は何なのでしょうか?それは現在の裕福な国々の発展と
消費モデルを真似することでしょうか?例えばドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車
をインド人が持てばこの惑星はどうなるのでしょうか?今まで行われて来た西洋の富裕
社会が持つ傲慢な消費を世界70億人ができるほどの原料がこの地球上にあるのでしょ
うか?否 なぜ私たちはこのような社会を作ってしまったのでしょうか?近来のマーケ
ットエコノミー・資本主義の子供達、即ち私たちが間違いなく この無限の消費と発展
を求める社会を作って来たのです。マーケット経済がマーケット社会を造り、国際化は
世界のあちこちまで原料を探し求める社会にしたのではないでしょうか?今やこの残酷
な競争で成り立つ消費主義社会で「みんなの世界を良くしていこう」というような共存
共栄な議論はできるのでしょうか?今の我々の前に立つ巨大な危機問題は環境危機では
ありません、危機的な政治問題なのです。現代に至っては、人類が作ったこの大きな市
場や消費の勢力をコントロールしきれていません。逆に、人がこの消費社会にコントロ
ールされているのです。私達は発展するために生まれてきているわけではありません。
幸せになるためにこの地球にやってきたのです。人生は短いし、すぐ目の前を過ぎてし
まいます。命よりも高価なものは存在しません。ハイパー消費が世界を席巻し世界を壊
しているのにも関わらず、高価な商品やライフスタイルの為に人生を放り出しているの
です。消費が社会のモーターの世界では私達は報われず 消費をひたすら早く多くしな
くてはなりません。消費が止まれば経済が麻痺し、経済が麻痺すれば不況のお化けが皆
んなの前に現れるのです。石器時代に戻れとは言っていません。マーケットを又コント
ロールしなければならないと言っているのです。



703: 名無しさんAA:15/10/13 00:48
 昔の賢明な方々、エピクレオ、セネカやアイマラ民族はこんなことを言っています。
「貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくら
あっても満足しない人のことだ。」と日本語で云う「足るを知る」と言う事である。
 私のスピーチの中には耳が痛くなるような言葉がけっこうあると思いますが、皆さん
には水源危機と環境危機が 本当の問題源でないことを分かってほしいのです。根本的
な問題は私たちが実行してきた社会モデルの存在なのです。そしてそれは今や、改めて
見直さなければならないのは私たちの生活スタイル 営みの姿だということなのである
。働き者の我が国民は一生懸命8時間働きます。最近では6時間働く人が増えています
。しかし6時間労働の人は、その後もう一つの仕事をします。なぜか?バイク、車、な
どのリポ払いやローンを支払わないといけないのです。毎月2倍働き、ローンを払って
行ったら、いつの間にか私のような老人になっているのです。私と同じく、幸福な人生
が目の前を一瞬で過ぎてしまいます。そして自分にこんな質問を投げかけます。「これ
が人類の運命なのか?」

 今の私の言っていることはとてもシンプルなものです。発展は幸福の対抗や対角軸に
あってはいけないのです。本当の発展というものは人類の幸福を目指さなければならな
いのです。愛、人間関係、子供へのケア、友達を持つこと、必要最低限のものを持つこ
と。幸福が私たちのもっとも大切な「もの」だからなのです。幸福が人類の一番大事な
原料だということを忘れてはいけません。

と演説した。日本はかつて国債償還を果たせる時期が何回とも無く訪れた。だが自民党
はその度に議員達は政府に反対し意見を言い政府は折れた。今も同じだ震災用の法人税
は人気取りの為に止めては個人向けの消費税の増税をやろうとしている。世界の殆どの
経済学者は馬鹿な事と言っているのだ。つまり企業収益が過去最高に達していながら売
れてないとか 銀行は手数料をたらふく取っても尚金利を上げて企業融資に取り組みリ
スクを抱える事をしないのだ。これがおかしな事で在るのは当然だが日本は先んじてこ
の国債という後世の人へのツケを更に増やしながら運営している。これは議員失格の最
たる結果である。それは当然国民全体にツケが回るのである。今の不況やデフレもその
一つなのだ。


704: 名無しさんAA:15/10/18 09:09 ID:4GI
いざ酔い いざ並み いざ晒場 46

 とうとうクロアチアまでEU移入難民の通行止めをした。沖縄では辺野古空港建設を
翁長知事が工事差し止めの決定をした。つまり要望でなく止めた事で全面対決した形で
ある。だがこんな筋違いな話はない。つまり対外外交や軍事防衛に関してはどの国にあ
っても国の専権事項である。それらが沖縄に権限は何一つない。例え国連総会で演説し
たとしても沖縄県人としての演説ではない日本国の日本国民としての立場があって演説
する権限をもつのだ。台湾が今でも中国として取り扱われない事の方がよっぽど人権問
題のはずなどだ。さらに深刻なのはシリアのアサドと同じく知事と言う立場を利用した
沖縄県人全てが反対している様に言っている事で自治独立権を主張しては国と対立した
形を取った事だ。これを許せば各自治体どころか地方の一部落にもそうした国の決定権
に反対して良いようになる。福岡大分の九州縦断高速道路での強制収用を見てほとんど
の国民が違法と思える行為をする勝手な地方自治公共団体は後を絶たない。その中の一
つとしての沖縄県であろうが このゲバタリアン思想の蔓延りには蔓延する意味不明の
殺人事件と同じ思想が見え隠れする。国際的流行なのだろうが日本では許してはならな
い。イラク難民問題にしても実は多くの国が国の政策として移動の阻止をしてフェンス
を張ったり国境警備をしたりしているが実はこれは日米の防衛問題が大国中国ロシアな
どの異質で異様な共産主義対応に苦慮している事と同様に EUのイスラム文化圏との
対応問題であってそこの方針が今だ決定していない事に問題があるのだ。この日本同様
に人権問題とその攻撃的敵愾心を持つ国民をどう処理するかの問題だ。ある意味欧州は
過去からもその戦いに終始した歴史を織りなしている。今回の南京事件のユネスコ問題
も同じで何故ユネスコはこんな馬鹿げた物を世界遺産にしたのだろうか。南京入場時に
は激戦があってほぼ5千人規模の兵士は死んでいる。更に戦いの前に南京城から逃走し
ていた住民や兵士達は山にいたが山から下り5千人程が白旗をして降伏してきた。捕虜
として飯にありついた時続々と1万5千人が更に山から降りてきた。狙いは食料維持の
為である。だが日本軍そのものが食料を持たない現地調達の軍だったのだ。そこで先の
捕虜を交えて半数を河畔で殺す政策を取った。この時半数の生き残り或いはその策を奉
じた中国人を生かした事で対日感情の元を造った。だがその時の毛沢東の八路軍は日本
軍以上に食料を持たなく次々と占領しては殺しおよそ20万人〜50万人を殺している
。つまり一般人を盾にして自国民を人質にする様な汚い政策にどう対応するか又そうし
た思想教育を受けたような全く危険な馬鹿相手に何ら出来ない人間達に人権は与えれる
のか。である。

705: 名無しさんAA:15/10/25 10:41 ID:xVI
いざ酔い いざ並み いざ晒場 48

 いよいよ中国経済の破綻が明らかになったようだ。今回イギリスに習近平が来訪して
原子力発電の投資と各英国の最先端利益企業を狙い撃ちした投資を約束した。ロンドン
タクシーにチャイナマネーが流れてから僅か3年のうちにイギリスの経済界の乗っ取り
を始めた形である。同時にイギリスで人気のコミッター通信トークトークを混乱させて
中国悪評を消しユーザーの個人記録の傍受やデーターの盗難というサイバー攻撃がしか
けられた。同社によると、攻撃があったのは21日。流出した情報には顧客の名前や住所
、生年月日のほか、クレジットカードや銀行口座の情報、電子メールアドレスや電話番
号も含まれている。現在の顧客だけでなく、契約を解除した顧客の情報も流出した可能
性がある。と伝えている。まず原子力発電だが中国にノウハウはあるのか。残念ながら
ない。事実今の国内の稼働している原発は延べ十五基で発電能力合計はわずか 1252万
キロワット。日本の五十四基、4885万キロワットの約四分の一、世界最大の米国の104
基、1憶0534万キロワットに比べれば、僅か九分の一強の規模と言われている。江沢民の
時代には2つの原子炉が吹っ飛んだとされ、更に三峡ダム建設時には長江中流域の湖北
省の下流地帯には地下水断水が起き その為3つの原発が故障したと噂されていた。真意
はともかくとしてフクシマ原発事故当時でもフクシマより広州空港の空間線量が高いと
言う現実があったのである。経済規模やエネルギー消費量からみて原発の利用が遅れて
いることは歴然としている。更に二酸化炭素などの排気ガス問題から原発推進は既定の
路線であった。そこで中国は次作るのは核融合炉だなどと言っていたが、現実路線とし
の今後50基の原発建設の予定を政府は決定した。そこでフランスの仏エネルギー大手
EDFが進める英南西部ヒンクリーポイントの原発新設事業に対し、中国国営の中国広
核集団(CGN)が60億ポンドを投じて事業体の株式33.5%を取得する。その上
でイギリスでの英南西部ヒンクリーポイントの原発新設事業に対し、中国国営の中国広
核集団(CGN)が60億ポンドを投じて事業体の株式33.5%を取得したいとした
のだ。かつての原発事故以前に浜岡原発を有する中部電力が再生ウラン契約をした英国
との契約だ。つまり核廃棄物の再生まで通して英国などとの協力を得て技術獲得を目指
すとしたのだ。更に先のインドネシアの新幹線の白紙と中国高速鉄道輸入でも 基本的
に技術を持たずに商契約をしている。つまり曲がる事のない線路建設での中国鉄道であ
るのは誰もが知るところだ。そこで日立の現地指導している英国のノウハウやデーター
をサイバーテロしようと言うわけである。


706: 名無しさんAA:15/10/25 16:52
いざ酔い いざ並み いざ晒場 49

 我々日本人には 中国製原発の安全性には強い心配がある。又それ以前の教育不安も
ある。中国の原発安全性はこれまでロシアの指導で建設してきた。秦山原発1号機を除
いてこれまでは外国製の原発を導入していた。フランスのアレバ・グループやロシアの
アトムネフチ、などだがそうしたものの基本設計や最重要の圧力容器、蒸気発生器など
は当然ながら外国製を利用していた。だが中国政府自身は高速鉄道を見る様にこうした
導入技術をベースに国産化を図る技術戦略がをとっている。原発の国産化もまさに同じ
路線で、広東核電集団がフラマトムから導入した原発を改良した「CPR1000」を
開発し、又中国核工業集団はウエスチングハウスが開発した「AP1000」をベース
に「CAP1400」を開発したという。が、福島第一原発事故があって後中国政府は
突然、国内の新規原発に「1400」の危険性を認識しウエスチングハウスの「AP1
000」にまとめる方針を打ち出した。関係者によると、原子力専門家自身が安全性に
疑問を呈した為という。だが現実的には原発の安全性のカギを握るとされる圧力容器に
いては簡単な鉄鋼容器では無い。先に黒竜江省の大吊橋が折れて橋が落下した事故が起
こったが実は原子力容器については放射線の金属劣化が伴うその為特殊鋼材の精製とそ
の鋼材による加工とが必要となり全世界でも完全に安心なものは数か所でしか制作でき
ないとされるものだ。日本でも2箇所で出来るとされるがその技術は今も極秘のままで
国家機密の国さえある。その安全性の上にさらに機械的制御技術があっての安全なのだ
が 高速鉄道事故を見る様に その制御システムの理解と人材育成更に事故対応力には
中国は著しく劣る国で そうした国に建設負担をさせるという判断を英国は行ったので
ある。これまでの英国の経済失政は目に余るものが多々ある。もともと彼らに紳士精神
がなければ 世果中で最も過酷な社会生活をしていただろうと言われている。ヒットラ
ー曰く英国人の非情さは人より金に執着して産業革命を興した。としている。そもそも
アジア特に東インド会社以来この極東の支配権に於いて混乱の素を創りだしたのはそう
した奴隷貿易やアヘン貿易を正当化した人や生活より経済や利己主義の思想なのだ


707: 名無しさんAA:15/10/26 18:23 ID:26I
  守銭奴哀歌   11

 EUはやっと合意が出来たようだが ちょっと馬鹿だ。もし私がEU議長であるなら
国連事務総長と会談しリビアに空港建設を予定する。つまり難民村をリビアに建設する
のである。確かにリビアには危険性が高い地域である。だが本来リビアもカダフィ大佐
の独裁していた土地ではある。だがだからこそこの地に平和を築く事は大事なのだ。
実はリビアに難民村を築く事は以外に簡単な事だ。つまり欧州NOTO軍と国連監視団
を駐留させた要塞を砂漠に作ればいいのであり ヨーロッパから特にフランスからは以
外に近い。更にこの南アフリカはかつての第一次第二次と大戦の前には地理的には住め
る所で在る事が証明されている。物資補給と家がさえあれば簡単に災害が少なく住みや
すい所である。この地が平和になり大きな街が出来れば全く 気候的にはイラクやシリ
アなどに似ていてそうそう苦になる事はないであろうし民主主義が成立すれば それは
大きな成果となるはずだ。ただ一つ気がかりなのはイスラム特有の民族紛争であろう。
日本でもトルコの総選挙に国外投票が出来る為に オスマンの後を継ぐ政府系トルコ人
と常に侵略されていたクルド系トルコ人に東京の大使館前は2度も乱闘騒ぎが起きた。
今回の総選挙が数日前の総選挙でクルド人議員の大躍進に独立を危惧した現政権が再度
の総選挙をした事が原因だがトルコ国内の紛争を国外まで持ち出した形だ。トルコ国内
でもクルド人の自由を叫ぶデモで爆破事件で30人程の一般人の死傷者が出た模様だが
これも政府系の明らかなクルド支援団やクルド票の減少を謀っての事でありそうした人
が日本までやってきてクルド人を痛めつけている節がある。これはドイツのユダヤ殺戮
と同じで最下位層の創出で人心を獲ろうとする明らかな悪意ある政策であるのは間違い
ない。じつは現シリアのアサド政権の打倒も実はそこにある。アサド氏自体はどういう
人間かはよくは解らないが イラク崩壊の移入民にイスラムのシーア派とスンニ派の争
いがありそこに他の分派や過激派がクルドの独立の愛国心を利用した節がある。そして
実はイラク戦争そのものも又このクルドの愛国心での国内争乱にアメリカが正義の鉄拳
と言うお題目をつけた形で利用しサダムフセインを打倒したのだ.実はその嘘をイスラ
エルのロビイストがPLO対策に行なったのである。これに馬鹿Jrが飛び付いたのだ
。アメリカも軍事産業の言いなりなのだ。だが今度の難民問題はEUはそうした事でも
しない限り各地での混乱は免れない。つまり日本的仏教や神道に改教してもらいそうし
た平和な難民村建設して新しい国家なり社会なりを築かなければ400万人の受け入れ
は出来ないだろう。


708: 名無しさんAA:15/11/04 19:10 ID:m5Y
 老境の至り 44


709: 名無しさんAA:15/11/04 19:10
 だいたい韓国は自国を守ってくれたマッカーサ像やマッカーサの記念日や記念碑を持
たずに 慰安婦像などと言う姑息な過去を引っ張り上げて一体何を考えているのだろう
か。それとも感謝を知らない民族だと行き恥を晒す事に誇りでも持っているのだろうか
笑止千万である。実は日本も似たような状況が産まれている。今回の勝手に行った郵政
民営化の株式売却である。何故震災復興の為の法人からの税金を捨てて売却せねばなら
ないのか。全く持って不可解というより違法なやり方である。安倍政権は必死に首相と
しての演説をしているが 国民が期待していたもの安倍氏ならば出来る事自民党だから
出来る事の半分もやってない。どうしてこの政権がそんなに人気なのか。それは維新の
党の悪さであろう。松野氏以下期待のない責任感も道徳観もない人選での幹事長という
のは際立って国民の声を無視している。馬鹿げた事にあの妄想政権での失敗続きを又も
同じ様にちゃんとした主義主張の無いままに寄り集まり所帯を作ろうとしている事に、
国民は呆れかえっているのだ。今回のシーレーン上の南沙諸島の中国政府の軍事基地の
建設は自由主義貿易にとってはかなりの痛手で深刻な問題である。そしてそれを作った
原因こそが日本のインド洋上給油の中止であり それを決めたのが民主党であるのだ。
この痛烈な失敗は我が日本国民は全く過去の歴史の教訓を生かせない党国際問題に不勉
強で学習しなかった党として末代までも世界中から笑われるはずだ。そんな党にすり寄
って共闘を進める事は全く 結党の意志からは外れた選択であってここのところを理解
していない卑国民である事を恥じるなら 松野氏は即刻辞めて各維新の党首脳部は退陣
すべきなのである。何故だかこう言う構図は日本に多すぎる本末転倒の議論を本人達が
堂々というのだ。8%増税時にも我々は税収が上がるとは考えていないとか景気下降に
向くとの声にその為の優遇措置で金をばら撒く用意があるとかである。全く馬鹿げてい
る。経済を甘く見ているし後世の若者が不就労の上結婚出来ずにいる現状を理解してい
ない。全く自民党の馬鹿さには情けないが民主党はそれを上回ったのである。この事が
日本という国が病んでいる原因である。今回の杭問題も何故建築全体を知らない不動産
屋や杭や基礎屋が何でTVの中であんな記者会見するのだろう。本来設計管理の建設主
体と設計事務所が表に出て記者会見しないのか。更にこうした一業者の戯言でTV局は
ニュースとなるのかが不思議である。地下の強度問題は今だ学会では未知部分の多い中
にある。その上に立てば国土交通省はおかしい行為を多々している。住民も自らが選ん
で買ったのだ。かつて公明党はフロッピーによる建築申請時には幾ら言ってもそういう
個人問題は自己責任と言い放ち相手にしなかったではないか。可笑しな事ばかりだ。


710: 名無しさんAA:15/11/07 02:38 ID:VHU
 不思議な事だが ほとんどの報道機関で中国は良くも悪くも計画通りに進んでいる。
と説明している。だがこの説明は中国政府の発表通りである事に違いない。かつて中国
の経済指標は「李克強指数」で解るとされた。つまり今の李克強首相が遼寧省トップを
務めていた時代に、経済状況を測る物差しとして3つの統計を重要視して説明出来ると
されていたことに由来する。その3つとは、電力消費量、鉄道貨物輸送量、銀行貸出で
ある、この指数からのエコノミクスがこれら統計に基づいて経済分析などを行うと、全
くナンセンスな数字が出来上がる。算出した指数によると中国が目標とする7%や発表
した6.9%はるか及ばない3%をやっと超える位である。そしてこれは正しい方向で
あると分析される。確かに中国では悪辣な投資はさまざまな段階で行われており、生産
過程より以前の生産設備を作る過程ですら利益重視で行われそれ故に米国や日本より悪
くバブル的投機による一斉流行がこの国の経済状態には多い。さらにその大半は債務で
資金調達されている。こうしたプロセスがある種間違いなく正しい監理の世界に変わる
のはいいニュースだろう。ただ、中国政府の発表や新聞や各種メディアの論調に浮かれ
進出してきた企業には痛い出費である。多くの経済エコノミストの予想では操作されて
いようがいまいがデータから見える重要なのは、投資主導の経済から国内消費の内需へ
を返還する経済への移行が、現在進行中であるということらしい。中国の李克強首相は
「中国は大規模な市場を持っており、可能性もある。潜在的な消費力は完全には発揮さ
れていない」とアピールし習近平国家主席が「ニューノーマル(新常態)」と名づけた
より持続可能な成長へと自国経済のリバランスだ問題ない。としてもそれは中国国内の
問題が解決できる範疇にあると言うだけのようだ。過去15年間、世界経済の成長要因
であり続けた中国は、他の経済国が苦境にあえぐ中での利益押し上げを求める大企業に
とっては「天の恵み」だったに違いない。国際的企業の多くはその一部でも中国消費や
中国輸出に利益の一部を見通しての決算予想だったがこれが軒並み下方修正に陥ってい
る。欧州のファッション業界豪州の食品業界米国の機械業界日本の電子業界韓国の組立
部門それぞれにネットワークでつながっている以上1〜2割が利益圧縮が予想されこの
急激な中国減速に頭を抱えている。日本の貿易赤字は予想外に輸出の伸びの鈍化が赤字
を作りとりわけ韓国経済界ではマイナス幅を今後は記録更新するとしている。確かに、
この李克強指数がわずか1%水準だった年度明けほど状況は悪くないように見える。だ
がこの3%の成長率も今後来年度期にはー0.5が予想され国際的企業群は軒並み戦略
転換を迫られている。とどのつまりは経済界は勝手に中国成長や中国消費を拡大予想し
ていたのである。政治不信や体制不審を隠しながら売上増の夢を追っていたのである。


712: 名無しさんAA:15/12/04 00:18
 鎮魂哀歌  ( ・・・レクイエム)

 騒々しい喧噪の都会に 今も君は住んでいるのか
 忙しく移ろい行くネオンの下で 今も君は働いているのか

 日々に追われ まとわりつく 贅沢な夢と言う欲望の亡霊に取りつかれ
 今だ女々しく捨てきれない人生に 喜びを持っているのか

 馬鹿な事にもう若くは無い事を忘れたのか
 20歳にもなっても 今だ悩み多き中にいるのか

 あれほどいずれ天国にか地獄にか死んでいくのに
 あれほど人として人となり生きる事を教えたのに



 まばゆいばかりの太陽の下で 君は一体何を探し求めているのか
 はかなく花も散る程季節が過ぎて 何回とも無く過ぎて行く春日に

 北風さえも秋日を吹き払っては 木々のこの葉を揺らして教えているのに
 今だ雄々しく活きれない人生に 悟りを開く事を望まないで

 馬鹿な事にもう既に決まった命を忘れたのか
 20歳という老人なのに 今だ若くありたいと望むのか

 あれほど今が憶万の幸せの絶頂にあるというのに
 あれほど今を大事に生きて慎重に歩めと望んでいたのに


713: 名無しさんAA:15/12/06 16:33
 私の番組評 204

 そこまで言って委員会は早く辛抱次郎を司会からはずすべきだ。全く面白くない。
かつての やしきたかじんの崇高な反骨精神が見えず 茶化して軽はずみな発言ばかり
これでは 真意のない只の芸能娯楽番組である。ニュース解説すらならない討論ならば
全く意味が無い。又要らない話が多くて 本当の貴重な意見や高僧な学者的意見の付加
が見えない。つまり折角の日本のオピニオンリーダーの思考をみる時間に見えなくして
時間を無駄して討論番組とはなっていないのである。子供達は大事な番組として この
TV時間を離れようとはしない。がもしそうした番組になりたいなら真摯な状況を作る
べきだ。その意味では正しい言葉正しい進行素直な映像とすべきで常識番組としては、
先のはげちゃびん司会の方が正しい選択ではないのかと思われる。


714: 名無しさんAA:15/12/07 19:24 ID:VHU
  酔い奴彼(よいどれ)の舟歌 48

 馬鹿げた事に政府は今度民泊という 訳の解らない処置までして外国観光人客の訪日
を進めようとしている。外国人が7日以上泊る事と付近住民の衆知を前提としての事で
条例が出来れば特区として認めるなどとしている。だがこれだけ国際的にテロ防止の必
要性が叫ばれる中で何んとも馬鹿もほどほどにしろと言いたい位の悪質な法転用である
。まずこれによって今でも多くある外国人犯罪はより悪質で捕まえられない事になる。
更に携帯電話ですり抜けていた多くの犯罪者はこの抜け法によって転々と各所に逃げ回
る。更に問題なのは今でも本当に老人の失態とは思われない火災が多い中で不審火が全
く多くなる。大体旅館業法で不特定多数の食品の安全性や建築の安全性更に経済合理性
や犯罪規制の幅を大きく制限や規制をしていて、ただただ自らの政府の都合の言い時の
みにその規制のない民家も活用させると言うのは その場しのぎの大きな失策である。
もし本当に観光客を呼び込みたいなら今活用できる職員住宅なり失業者住宅なりの鉄筋
コンクリートのアパートメントハウスを政府の第二雇用措置で管理人や消防法に通った
建物に改造してホテルにすれば事足りるのである。収入があるからその家を貸すのであ
って収入があるのなら採算はとれるはずだ。無駄に作り無駄に壊し100年と持たせら
れない建物など作らないが良い。そもそも今のインフラ整備に一体どの位の年月を耐用
年数としているのか。これだけの無金利時代に昔のような帳簿計算の減価償却方式をし
ては次々と都合のいい税金使いを行っている事が前代未聞の話である。すなわち経済と
言う物がかの奈良時代から浮き沈みのある波の形態をもっているのは衆知の事だ。この
不況時代で アメリカが金利を上げれば当然しわ寄せは中国を始めとする東南アジアや
そのほかの後進国に及びサウジが更に原油の増産に走らねばならない事は必須だ。この
事で日本やEUに影響がでるのは必然である。つまりは今のうちに人々の給与と購入品
の差額を稼ぐ事で景気を浮上させるべき時に増税論議などしている阿保さがこんな法律
を作るのだ。今は食料品を5%に下げてでも日本のデフレ脱却の糸口を掴むべきなのだ
。2%のインフレなど観光客が来れば品不足で後で直ぐに上がる。だが問題は日本国民
の暮らしぶりなのだ。特に収入の無い田舎や老人所帯の生活費の供給工面である。もし
このままの離職者数のまま浮浪者のみではこの国は立っていかない。現に今の若者は今
の給与で子供どころか結婚さえ出来ないほど収入がない。昔の様な自給のある消費社会
ではない。殆どが消費文明の下で暮らしているのである。よくよく政治家は考えよ。


715: 名無しさんAA:15/12/25 04:18
【 路心要憂 】85

 フクシマ原発事故以来原子力政策には厳しい目が向けられて来た。核燃料サイクルが
夢のエネルギーとして研究されて来た中で 高速増殖炉には厳しい目が向けられ始めた
らしい。相次ぐ不祥事にNHKを始めとするメディアの論調の多くは今の規制員会の出
した結論に同調したような危険性を危惧する意見の上に核燃料サイクルの見直しを謳い
廃止ありきの論調である。だがしかしそれはちょっと違っている。まずウランから取り
出されたプルトニュームは発電用ではあるが軍事転用可能である事が憂慮されるのだが
その為の国としての資質が問われ持っている事が日本を高めている事を知らねばならな
い。なるほど高速増殖炉「もんじゅ」や「ふげん」が失敗におわり東海村の臨界事故を
見る限り内部関係者の職員資質や教育や能力に問題があり検査委員の言う通りに考えれ
ば見直しは当然である。だが科学技術の進展や国際化社会の日本の立ち位置からすれば
当然日本はアメリカの様な多様性を求めた自由奔放な搾取消費国家或いは中国のような
いい加減な人権蹂躙の共産管理国家でなく自由な技術立国であるべきなのは明らかだ。
それは縄文時代から綿々と受け継がれて来た思想である。その意味では全くこの原子力
に前進がなく核融合炉建設すらおぼつかないのは歯がゆい限りである。今や電子レーザ
ー砲すら日本の技術では出来る中でこの福井に小さな融合炉ぐらい作っても良さそうな
ものだが そうした動きがない。そんな中で福井地裁は高浜原発の運転差し止めの仮処
分を解いた。これはおかしな事だ。今年は暖冬で原油も安いこうした中でこの欠陥品の
ような原子炉を再稼働させたのはキチガイ沙汰である。未だ安全のリスク回避は明快に
発表されてない。例え原子力規制委員会の許可があったとしてもそれは安全委員会の様
な保証とはならない。「起こりうる」前提で安全対策を講じる姿勢がなく、地震などの
リスク回避の為の解釈も発表が無い。更に事故時の住民避難などについては重層的対策
を講じるべきだと言う事に対して 今だ県外までも含めた避難路や独自の放射能汚染の
地図や予防や対策更に年間風向の予想図は配布していない。こんな馬鹿げた裁判所は、
中国韓国のいい加減裁判以下のレベルで多くの日本人はこのぶざまな反応に悲しんでい
るであろう。原発推進するなら推進するが故に もっと安全配慮があってしかるべきで
あろう。

716: 名無しさんAA:15/12/27 12:01 ID:xeE
【 路心要憂 】86

 この裁判所の判断は大きく裁判官個人の見識に左右されるらしく 今の裁判長である
林潤裁判長になって再稼働関電は「事実誤認がある」として異議を申し立てていた事に
呼応したものだ。高浜のこの二つの原発をめぐっては、西川一誠知事が既に同意し再稼
働に地元同意手続きは終了している形をとっている。最終確認の使用前検査を受け関電
は直ぐに燃料を装荷し、1月下旬にも再稼働し、3号機以降4号機も月2月下旬には再
稼働したいとの工程を示している。こうした一連の動きを見ているともはや犯罪である
。再稼働差し止めを命じる決定を出した樋口英明裁判長は既に名古屋家裁に異動し決定
に「事実誤認がある」と猛反発の関電の圧力がかかった物と判断される。事実先の安全
対策の不備や規制委の新規制基準の不合理性を指摘した画期的見識の高さは未来を見通
すものとして万人の考える判断であったと言える。安全委員会委員そのものが「法に乗
っ取った安全を審査するもので これが安全稼働の保障とならない。」と明言している
。事実今の稼働反対派も稼働容認派も今一歩高いリスク回避と供与メリットの計算式を
出していない。それは国の政策の官僚主体の曖昧模糊とした行政判断と政治家の優柔不
断な八方美人嗜好の政策にある。消費税で税収が上がれば遊び呆けた不良のごとく使い
海外からの意見には何にでも頭を下げては合意する。国内政策では技術革新とか新時代
とか現代に合わせとか言っては 昔の営みを消してしまう。食育などと言っている大人
の方が利益や仕事や時間を縦に生活を変えてしまい自分を失った行動をしている。この
今回の判断はその特徴が極まっている。一体何処に未来への指針を置くかが定まらずし
て日本丸は先に進む筈はない。更に事業レビューで高速増殖原型炉などの使用済み核燃
料を運ぶ運搬船「開栄丸」がほとんど使われていない実態が批判され文部科学省は突然
の開栄丸の使用を終了して、建造維持を委託している民間企業との契約解除を明らかに
した。全く馬鹿げている。今や運ぶべき放射能は数多くなっている。除染で出た土や水
などや一時保管としている青森の再処理用などだ。基本的に安全委員会の指摘は当然な
意見だ。だがだからと言ってレビューでは指導はなしで予算削減のみに焦点を当て更に
文部科学省のいい加減な方針発表など全く帝国陸軍より悪く怪しい裁判判断など大戦時
の判断より悪い。

717: 名無しさんAA:15/12/27 23:23
  酔い奴彼(よいどれ)の舟歌 50

 今年はデズニーが少しニュースからそれた。それはテーマパークの双壁USJが復活
したのである。復活した理由は若者主体だった映画イベントを日本アニメのイベントま
でを手掛け更にファミリー層にまで手を伸ばし変えて本場アメリカすら難題だったあの
ハリーポッターのフォグアーツ城を成功させた事にあるとされる。これは一人の若者を
再建マネージャーとして送り 彼がマーケティング理論に基づき現場を周知した事での
計画にある。送られたのはCMOの肩書きを与えられた森岡毅という若者だったという
。実は他にも九州のテーマパーク長崎オランダ村の閉鎖で悩んだ後のハウステンボスが
今や黒字回復に向かって行っている。これも数々のホテルなどの復活をさせた一人の男
が再建を引き受け今に至っている。実は今日本は静かだが確実に歴史を動かしている。
ラクビーのワールドカップを見てつくづくそう思うのだ。サッカーが情熱で世界水準と
なるのは解るが身体が一回り小さい日本と言う小さな島国が陸上のプロレスとされるラ
クビーでW杯に出る事や南アフリカに勝つ事など思えなかった。今やアイススケートを
初めサッカー・ソフトボール・テニス・体操・・・と結構日本代表のスポーツが世界の
水準を底上げしている。更に今年のノーベル賞は以外にも日本人の偉さに感じ入った。
文学賞候補の村上龍が多分彼は国際的標準文学で地域性や独自性を主眼とするノーベル
賞は殆ど難しいだろうなと思っている最中であったが為により鮮明に感じた。ここには
ラクビーの言葉ではないが「同点では歴史は変わらない。」とする意気込みが溢れてい
る。この点で日本は爆買いや移民の無い事でのラッキーな運だと海外では見ているが実
はそうではなく、中国での南シナ海の暴挙や韓国の御馬鹿外交アメリカの邪なTPPな
ど苦労して平和に暮らしている現実が光っているのである。ここには日本の食文化発展
や高度成長の奇跡或いは技術の進展は日本においては「ルーティンの奇跡」と言われる
くだらないシキタリや方法或いは決まり事をやり尽くす忍耐の賜物であるだろう。「奇
跡と言っても簡単には起きない。奇跡は入念に準備された中からしか起きない。」サッ
カーのオシム監督の言葉である。



718: 名無しさんAA:16/01/01 00:51
 酔い奴彼(よいどれ)の舟歌 52

 しかし人間はなんと体たらくな社会を作ったものだと思う。日本では今女性の社会的
活動の幅を広げようと政府が提言している。だが馬鹿な行為であろう。そもそも生物は
生きる為に仕事をし子孫の為に蓄えをしようとしている。そしてそれは有形無形の文化
や伝統としても或いは食料調達や金銀財宝や家や車と言う物質としても後世に残して、
より快適で平和な世界を築こうというのである。これが過去からの積み重ねで現代があ
ると言う現実なのだ。それがどうだ今や日本における労働生産力は世界一にあるに関わ
らず労働賃金が最低に位置する。例えばパートやアルバイトに於いて日本では自給80
0円良くて1000円程度だがアメリカでは2000円から2500円である。多少の
違いは円ドルレート差があって仕方ないであろうが2倍から3倍と言うのでは全く政治
の体たらくと言うしかない。更に求人の就業者数の低下は失業者がおよそ米国と同じと
なっているが不法移民すら多い米国と退場に自殺を選ぶサラリーマン大国の日本では全
く異なったものと思える。つまり日本は人間的に最低生活に陥っていて独立開業すらも
おぼつかない中にあると言える。女性の社会進出を声高に叫ばれるが そもそもが生物
の対応する行動期と言うのは交尾期である。つまり社会の安定は子孫への教育しかない
中でなんと不可逆的意見であるかと言う事だ。大統領さえ淫靡な不摂生で異常な浮気の
国ならいざ知らず日本のように厳格さを求める国民感情の中において 仕事に生きては
子供が作れないと言うのは当然であり 子供を作り育てるからには社会が女性を母親と
しての仕事をさせて当然である。社会に迷惑が掛らない立派な独立した青年を育成して
当然なのである。そしてそれは親としての無償の愛である慈愛でしか育てられない。こ
の慈愛による教育は 学校であれ地域社会であれ子供に接する心で在るべきだが 今や
義務教育はある種の軍事教育みたいに競争原理と優位権悦論で人をまくしたてている。
これでは帝政時代の権力者への帝王学と同じで治世にはならない。事件や事故が多く疑
心の中で詐欺的生き方を強いては 未来がないし その為の対策は膨大になるのは必然
である。つまりこうした馬鹿げた提案は一体日本政府の何処からやってくるのだろうか



719: 名無しさんAA:16/01/04 17:48
 いざ酔い いざ並み いざ晒場 57

 そも日本人は馬鹿みたいな政治の中にいる。そうした中で爆買いをする中国人を筆頭
にインバウンドと言う日本への旅行者は減る気配は全く無い。去年の訪日外国人観光客
数が2千万人を越えたそうだが今年は3千万人をこえるかも知れない。中国経済の減速
を背景に今年こそは減るだろうと期待していたが、むしろリピーターが増え更に人口も
金も土地も10倍の国である減る要素が無いだろうと友人が言うのである。更に欧州は
今や難民が押し寄せて本来の観光客はちょっと身を引いたらしく フランスなどへの渡
航がおそらく日本へやって来る可能性が高いとみられるのだ。世界の旅行客は試算では
2010年で約10憶人弱2020年で14憶人2030年で18憶人に達するだろう
と言われて経済の中で7兆ドル(900憶円程度)の産業だそうだ。世界の自動車産業
に近い数字らしく経済の一翼を担う一大産業なのである。が それはそうだが日本人は
はたしてそれを認めるだろうか。中国の爆買いでおよそ1千憶円の売り上げに利益は1
〜2割と言われこれに市町村の看板書き換えやパンフレット優遇される留学生にインフ
ラや公益法人の呼びこみ用資金などがその1,2倍で結局は赤字なのだ。まあ一時的に
初期投資と考えれば安いと言う見方もあるらしく確かにその伸びに対して港湾整備など
の投資はその後の客船の為に行う物ではない。今後はアジアや中東、アフリカなどの客
の拡大が予想され新興国や地域の経済拡大で、海外を含む旅行に需要が見込まれるとさ
れ、観光市場をけん引していくと見られるらしいが これと共に疫病の輸入や日本的物
や文化の気薄さがベルギー並に言葉の通じない交流文化が産まれるとも推定される。今
ベルギーの国内の文化は武器にしろイスラムのスラムにしろ昔の都市化で言われた無関
心主義の差別のない格差社会らしく 本来のベルギー人は居なく本来のベルギー語もな
い社会だというのである。もっともこの文化醸成がなかったのは観光客のせいでは無く
2度に渡る世界大戦のドイツとフランスの領土分捕りの渦中の国であり更に南北に伸び
るイスラムとキリストの交流交通地であったが為にロシアの関与さえあった国だからだ
が。エジプトがアフリカ革命で落ち今度はフランスが落ち更に今度はイランとサウジの
喧嘩が表面化しそうだし中国は今でも独裁のままで韓国や東南アジアは未だ品格がなく
公害問題や健康問題がある。これでは日本だけが株価も観光客も上がる要因ばかりであ
ろう。キューバやブラジルが少しは補うだろうが 麻薬でメキシコ始め中南米は危険の
ままでそう多くは増えず豪州も今後の台風や豪雨では日本以上に大変でそうそう観光客
は行こうとしないだろう。


720: 名無しさんAA:16/01/04 17:49
 いざ酔い いざ並み いざ晒場 57

 今後はアジアや中東、アフリカなどの客
の拡大が予想され新興国や地域の経済拡大で、海外を含む旅行に需要が見込まれるとさ
れ、観光市場をけん引していくと見られるらしいが これと共に疫病の輸入や日本的物
や文化の気薄さがベルギー並に言葉の通じない交流文化が産まれるとも推定される。今
ベルギーの国内の文化は武器にしろイスラムのスラムにしろ昔の都市化で言われた無関
心主義の差別のない格差社会らしく 本来のベルギー人は居なく本来のベルギー語もな
い社会だというのである。もっともこの文化醸成がなかったのは観光客のせいでは無く
2度に渡る世界大戦のドイツとフランスの領土分捕りの渦中の国であり更に南北に伸び
るイスラムとキリストの交流交通地であったが為にロシアの関与さえあった国だからだ
が。エジプトがアフリカ革命で落ち今度はフランスが落ち更に今度はイランとサウジの
喧嘩が表面化しそうだし中国は今でも独裁のままで韓国や東南アジアは未だ品格がなく
公害問題や健康問題がある。これでは日本だけが株価も観光客も上がる要因ばかりであ
ろう。キューバやブラジルが少しは補うだろうが 麻薬でメキシコ始め中南米は危険の
ままでそう多くは増えず豪州も今後の台風や豪雨では日本以上に大変でそうそう観光客
は行こうとしないだろう。あ〜あ あまり来ないで〜と言う悲鳴が日本人の本音だろう
が まあ工場の海外化よりは日本の販売量の消費増大の期待でインフレ気味になるかも
しれない。およそ5〜3分の1つまり観光客4千万人は日本人で五百万人の人口増加と
同じ消費効果があるそうで移民負担からすればかなり有効な経済政策だそうだ。これは
少子高齢化は全く吹き飛ばすのかもしれない。

721: 名無しさんAA:16/01/17 09:13 ID:wTY
 いざ酔い いざ並み いざ晒場 58

 サウジの狂騒でどうも世界経済が危うくなりそうだ。北朝鮮が水爆実験に成功したと
自ら発表した。色んな思惑があるようだが この実験の主体は中国人科学者であろうと
思われる。と言うのもこのところ「中国国内での江沢民派が反撃し始めたようだ。」と
の報道が見られるからだ。香港発刊の『争鳴』によると、2015年8月初めの北戴河
会議で、軍隊改革が提出され軍の紀律委員会や軍の政治法律委員会軍の科学技術委員会
の改革が行われると決定された。改革後には軍紀律委員会書記は劉源が唯一の候補とし
て決まっており、その後の中共18期5中全会にて中央軍事委員会のメンバーへ昇任す
る事にとなっていた。と言うのである。この唯一無二の規律改革の旗手とする劉源氏が
退任する事になってしまったのだ。これは習近平が江沢民の逮捕において優柔不断な姿
勢であったが為に起こった悲劇らしい。近頃の腐敗撲滅では習近平が劉源を頼りにして
徐才厚と郭伯雄を失脚させたと言われるが、これらの事で軍内の江沢民派を完全に粛清
した潰したわけではない。国際批判の強い南シナ海の人口島開発がそのまあ継続されて
いる事からでも軍は完全に習近平がコントロール出来ないでいることを伺えるのだ。こ
の中共の体制を解体しない限り、江沢民派は腐敗のままこの体系を用いて硬軟入り混ぜ
てしかも最も残酷なやり方で習近平への報復を果たすだろうと見られている。この劉源
氏の退任に慰労の宴があったが参加メンバーは、習近平と李克強外には中央軍事委員会
の常務副主席の範長龍氏の出席がなかったとしている。代わりに副主席の許其亮がでた
と言うのは 如何にこの中央員会より軍部が強いかを示している。今や中国はエネルギ
ー政策に関して核融合炉を模索していると言われ 今回の北朝鮮核実験には中国との取
引に北の資源とIC関連機器とのバーター貿易している為と言われ先のフランボン楽団
の帰国もこの中国内の軍と中共との不和の一例と思われる。こんな中で台湾は民進党が
勝った。当然である。今や朝鮮半島も中国大陸も決して近寄るべきではない。交流は愚
か口を聞き話す事もすべきでない。それ程危険な場所になったのである。価値のない紙
幣猛毒の空気何一つ改めようとしない党や政府諌めようにも拉致や死刑で対応される国
民や海外からの特派員。こんなどうしようもない国に何を期待できようか。貧民は今や
シリアより死人は多く悪いのである。

722: 名無しさんAA:16/01/17 18:03
 酔い奴彼(よいどれ)の舟歌 53

 今年の景気についてがっちりマンデーではニトリの社長のみが低迷すると予想してい
る。この理想や希望など捨てた超現実主義はどこから来るのだろうか。1万7千を越え
るかと言う頃だが日本の株価も1万3〜6千代に落ちると言う。中国景気が低迷し米国
経済の持ち直しも厳しくEUではシリア問題から難民問題が更に加熱し世界経済悪化は
避けられないとし 避難港の日本円は図らずも円高となってそれにより株も下がる。と
彼は予想したのである。彼の企業が中国進出を決定し売り場を作る中に中国の景気後退
を受け入れている。なんとも大胆な発言だ。よく家庭内暴力がニュースに掲げられる。
暴力の連鎖である。そしてその暴力は弱い相手にしか向かわない。そしてそれは最終的
には子供にかかるのである。それは簡単で陰湿で幼稚に出来るから容易なのだ。そして
そうして出来た大人が、今やIS兵士や自爆テロの温床となっている。イスラム教も貧
困や格差社会という環境は正にこうした不況から成り立っている。がかといって好景気
時代に人類はこの格差社会を減らすようなたゆまぬ努力をして来ただろうか。それはオ
イルショック時に会社が赤字であったとしても給与を上昇させ払い続けた戦前戦中派世
代の気質と違い 国の為の税金すら出来るだけ納めようとしない濾す垂れたしみったれ
戦後世代の馬鹿2世時代に望めそうな世界では無い。だがらこそ馬鹿な派遣労働市場と
言う奴隷主義に似た遡り法律を作ったのだろう。本当に馬鹿げている。人が家庭や家族
を大事にするのは当然だが 生きているだけならそれは生物学的ヒトであり人間や人類
とは程遠い。今回のスキーツアー客が大勢死んだ事故程そうした政治の間違いを指摘し
ている事故は無い。まず未来を背負うだろう優秀な学生将来のオピニオンリーダー達が
事故で亡くなったのである。そして運転していたの今だ大型バスに乗った事の無い65
歳の高齢の老人運転手だ。安倍氏が提唱する一億総活躍活躍社会の華々しい一端である
。更に最新鋭の三菱フソウのバスの車体で 今だハイドロ現象で一般人ではブレーキは
かけすぎて国道や峠などは走れないと言われる車なのである。高速で行けば問題が無い
のだろうが この土地狂ったおっさんは 何故だか多数の若者を載せて天国まで行った
のである。こうした格差社会事故が これが今後何処の国でも何処の地方でも沢山出て
きては社会を停滞させるであろうと思われる。アメリカの銃社会でケネディ暗殺があっ
た事と同じだ。

723: 名無しさんAA:16/01/19 04:38 ID:E4E
 いざ酔い いざ並み いざ晒場 59

 どうもこのところ中国は勘違いしている思想が強烈に世界を混乱させている。国際化
に乗りだし 世界の覇権国家を目指し「中華の夢」である中華中芯主義を考えていたの
だろうが 全く金融市場すら何たるかを知らない民族のようだ。かつてアフリカで起こ
った「紙幣を沢山刷れば皆んなの懐に通貨がはいり皆んなが得する。」とでも思ってい
たような 至って単純な思考のままの国策が多すぎる。恐らくこのまま国内の自由発言
を規制し国際的ジャーナリストを追い出し 透明で公正な発表数値の裏付けのある日常
が実現出来なければ 手ひどいしっぺ返しが来るであろう。つまり日本円で10円もな
い紙幣が一京桁のお札を刷ったあの国のような混乱が起こる。つまりは上海株も香港株
もまだまだ雲の上のお祭り通貨の地位にあり 鼻取り紙にもならない程通貨が下がる様
な雰囲気なのだ。もともと株にも為替にも共通して中国政府は対症療法すら知っていな
い。自ら決めた新たなルールであった管理通貨制を敷いて言わばかつて日本の360円
=1ドル時代の様なドルペッグ制を敷いていたのだが、今やAIIB(アジアインフラ
投資銀行)を作りSDR(特別引き出し権構成通貨)入りを果たしIMFの持つ世界の
中央銀行の交換準備通貨にはいり 先進国の持つ交易交換通貨の仲間に人民元が入った
のである。これを持って管理体制が株価同様に買い付け人相対者の腹の探り合いの中で
の操作に代わったのである。これは秘密があったり国際的不合理や道義的不信感或いは
共通の国家帳簿が指標の一つとして利用されると言う事になる。すなわち対国家路線か
ら対国際路線という相手する権力者とも企業者とも投資家とも付き合わなければならな
いと言う厳しい相対作用を伴うのである。このリスクやプレッシャーは相当な文化や歴
史を持って経験が無ければ殆ど無理であろう。それをここ10年や20年の電撃的発展
で大きくなった経済に経験の無い国内役人にさせようと言うのだ。土台無理な話である
。サーキットブレーカーすら使い方が解らず 海洋進出が何たるかすら知らない国が覇
権海洋国家として強権を揮わす事は 恐らくは自然破壊そのもので国際政治を一次大戦
前に引き戻すぐらいしか出来ず 人類共通の未来の夢を見る事は恐らくは無いと思われ
る。あの欧州と長年の付き合うロシアですら 資本主義を履き違えて外貨準備が不足し
ていると言われ 中国が今持っている外貨を全部出しても インフレ下落は止められな
いだろう。さてさて EUに続く厄介な問題をIMFはどう処理するつもりだろうか。



724: 名無しさんAA:16/01/22 22:49 ID:dPI
 馬鹿の八景 11

 小中学校の教科書会社12社が検定中の教科書を教員らに閲覧させて検収してもらい
現金や図書カードなどの謝礼をやっていたとみられ問題になっている。2009〜14
年度までの調べで延べ5147人の教員が関わり、このうち3996人が受け取ったと
みられ、各自治体で使用する教科書の採択に関与した教員さえもいたとみられる。言わ
ば恒常化される悪態である。今度の電力自由化も全く同じ理屈だ。電気といういままで
安全規制の厳しい中で日本を支えて来た技術やシステムを捨てると言うのである。今回
のバス事故や甘利大臣の疑惑も全く同じである。このバス会社の存在自体が嘘の様な利
益誘導体と言う罠を張った会社であり労像基準局が甘く全く機能しない中で、陸運局や
ら国土交通省などの勧告など気にもしないブラック企業の最たる物であったのだ。可哀
想なのはそうした企業群の入り込みで運輸業界自体が深い蟻地獄の底に突き落とされた
事だ。今回の事故そのものは運転手の未熟な運転操作であった事は間違いない事実であ
ろう。しかし、したくもない大型バスの乗客の命を背負わされた老人の生活の為の苦肉
の策としての勤務会社であったろう。そして乗客は「若者が安い運賃を選んで旅行する
事には間違っていない。安全をも軽んじて運行するバスに問題がある。」などと馬鹿を
言う消費者に甘い言葉を囁いては 今後の日本を担うべき若者の命さえも奪う。事実は
安い理由は「危険汚い不便」であるからに違いないのである。安くて良い物を目指して
はいようが安価な物はどんな形であれ危険は当然なのだ。食品であれ建物であれ服であ
れ殆どが危険か不便か汚いのである。今回の事故で15人が死亡し27人が重軽傷を負
ったとされる。一人1億としても15憶位の給与補償となるだろうが日本国にとっては
10人以上である為特殊な計算ではおよそ1兆円程度の損失である。もしこの中にノー
ベル賞なりの研究開発の出来る人材がいたとすれは全人類にとっての数兆円の損失とい
う事になる。これは痛い話のはずだ。こうした悪態を進める議員が多くの業界優先の口
利き議員達である。甘利氏はダボス会議にTPP署名まではと思っているだろうが、こ
んな馬鹿な議員を押す国民性こそが問題で大きな悪趣味である。秘密の集金が録音され
写真取られて至って困惑している様だが甘い。議員の職業は公明正大に堂々と録音され
てもいい話を常にすべきである。そして僅か2年前の話が思い出せないとは議員失格と
取られても仕方無いであろう。




725: 名無しさんAA:16/01/24 13:42 ID:3to
 老境の至り 47

 TPPの始まる前から甘利大臣には無理だ。と言う声は大きかった。やはり今に来て
馬鹿さと卑国民性が表に現れ始めた。谷垣大臣は余人を持って代えられない人材である
。と評したがそれは違っている。大体自分がやった僅か2〜3年前の事を取材されなが
ら忘れているとか、主要閣僚として安倍内閣の足を引っ張っている事に忸怩たる思いと
か言うのは 常軌を逸した発言で可笑しい事だ。そもそも国会議員は国の為に国会に集
い話合う権利を持ち日本を進めているのである。安倍政権を支える為とか安倍氏を好き
でというのは私見の範囲内であり 安倍氏の考え方や方向と言うのであればそれは自民
党の方向で考え方と言うべきなのだ。その自民党そのものが野党と共に腐れてしまい、
国会発言で財政健全化や議員報酬削減や赤字債券の発行禁止などを決めていながら景気
対策を言い訳に無駄使いに終始している。そもそも消費税は国会費用や税収をあてがう
為にやってはいなく、少なくとも表向き国民には全てを福祉目的税として使うとされて
導入されたのである。更にアベノミクスはデフレを絶ち切り景気浮揚の為の対策だとし
ていたのだ。それがどうだ 今国会ではアベノミクスでの増収分は一時的なものだとか
消費税値上げ分の増収がどこまでか解らないからとか とんだ茶番劇である。だいたい
この日本の法人税収入の低さは何だ。教育上の利用料の高さは異常だ。最低収入の金額
は統一労働価格にしてアメリカの2〜3分の1議員報酬は1,5倍更に企業利益率は比
較にならない低さだ。それでも天下り法人と予算補助の脱法法人や国の融資先法人は抜
きんでて高収益の人件費のみの企業となっている。それに伴って相対する大きな企業は
収益に企業としての担保基金や内部留保金がどんどん積み上がっている。この異様さは
今の国会が行っている議論の全てである。元々この赤字国債は解消するとして発行を許
した議会が自らの議員報酬も下げず景気浮揚策も駄々漏れ格差社会の縮小も進むどころ
か拡大し教育衰退・健全財政の立て直しもおぼつかず 赤字国債は金利が少なく日銀買
い支えに終始しその為の株価下落に年金機構を使って止めて回遊出来ない鯨状態と言わ
れ全く資金運用もいい加減なのだ。もっと国債返却し国債金利を上げない限り日本経済
は立ち直れない。



726: 名無しさんAA:16/01/24 16:36
  御馬鹿のぬくもり 02

 かつて大正時代決して主流になれないものとして平家海軍国際派と言うことばがあっ
たと言う。1860年日本に洋風料理としてごった煮カリーの登場の頃 明治の新政府
が文明開化として1871年から岩倉使節団として、アメリカ合衆国を始めヨーロッパ
諸国に派遣した大使節団をして日本を開国し国際化した日本帝国を創り上げた当時から
の井の中の蛙の大きな障壁である陸軍を批判して日増しに壁が高くなる事への非難の言
葉だったと言われる。つまり就職や出世の主流は源氏陸軍民族派だと言う当時の世間の
声に嫌になったかつての西洋化に力を注いだ偉人が吐いた言葉らしいのだが。ここ近年
日米安保強化策の政治に対してつくづく思う事は何故だか 政府が最もらしいこの国際
派である事を盛んにPRし始めた事である。そもそも論で言えば政府の勝手な国債発行
が日本を悪くしたのは言うまでも無い事だ。政府予算が膨張するにつれ実質経済は悪化
するのは当然である。何故なら経費と言う事務処理費や国会などの諸費用が比例して大
きくなるが経済実体の生産は全く気候より変動しない中にある。成程今回TPPで農業
に利益を求め5次元産業と言う生産者直売の利益還元を目指そうとしている。が実はこ
の行為は今の補助金対策と同じに全く生産者の増産には直結しない。それどころか貧困
の基になる。これまでも農業対策補助金は多くの土木を潤し大農業経営者をはばからせ
一般の農業者を追いこんだ。その姿は米国手法で農民が居なくなった農業大国アメリカ
と全く同じなのだ。これにより井戸が枯れトウモロコシは遺伝子操作され大豆すら枯れ
た国となったのである。勿論日本は島国でアメリカの山火事や洪水被害干ばつ被害の様
な大きな物はないだろうがそれでも年越し派遣村のような若者すら労働場所のない高付
加生産の高負荷社会が起きる事は当然だろう。そもそも建築土木或いは衣食住に於いて
事足りる事は安価を示し、それが安全安心の基準であったのだ。今の様に危険汚いきつ
いと言う中には無かったのだ。だから明治維新も戦争も高度成長も乗り越えられたのだ
。今の日本の国民にそんな余力が思想にも経済にも日々の生活にもあるとは思えない。
そもそも税金の要らない社会を目指していた筈の明治の思想が今や廃退し節税などと嘘
をついてまで脱税する国民性は卑しい国民にいつからなり下がったのか。これは公務員
教育の無い証としての振舞いであろう。ここを歯止めさせていかなければアベノミクス
は失敗であろう。国際派も民族派もない 公明正大にして正義である国民性が大事だ


727: 名無しさんAA:16/01/24 18:47
ナチュラル 30

 西暦1901年の2月 奄美大島に雪が降った。それ以降100年ぶりの寒気が奄美
に雪を降らせそうだ。アメリカニューヨークは観測史上3番目の記録的豪雪で地下鉄す
ら不通になっている。今後3日間続くとしている。地球温暖化もここまで来れば嘘の様
に見えるがこれが逆に温暖化の為の現象だと聞いたら視聴者は驚くに違いない。という
のも空気中の微粒子の塵が多すぎてこうした豪雪になるのであって別に気温は零下にな
ればさほど零下にならなくても良いのである。今から100年前夏目漱石先生が留学中
の頃がイギリスの産業革命を経てこうした現象があった。それが1901年だったのだ
。日本では日露戦争後の話し合いがつかず伊藤博文が日露協定による通商条約など交渉
の打ち切りを決めて通告した。その頃ロシアでは「肉がないないらパンをかじればいい
。」などと言ったとロシア革命を進めるエスエルの社会主義革命党が風評と革命の手腕
を広げていた。日清戦争の賠償により日本は「鉄は工業の母、護国の基礎」のスローガ
ンを掲げ本格的な製鉄・鋼鉄の一貫製鉄所である官営八幡製鉄がに開業させ日本の小さ
な鉄鋼製鉄業をリードするべく一躍大産業としての地位を高める基礎を築いた。一方の
中国の清や朝鮮半島は不凍港戦略での盟友ロシアの低迷で支援が滞り行き場を失って、
辛丑条約に調印したと言われ、この北京議定書により西洋列強の英国・仏国・米国・ロ
シア・ドイツ・日本などの外国軍隊の北京駐留を承認したとされる。後の中国で無税の
優遇自治地租界の始まりである。この年以降各国は愛国主義に走る模様が映像でも確認
される。不遇や異様な冷酷世界に目を向けては自国の有難さや感謝よりは自衛を考え始
めたのである。今回の異常気象がどんな社会的影響を与えるのか不明だが今の異常気象
がイラク戦争と中国などの排気ガスなどの光化学スモッグである事は判明している。つ
まり微粒子による湿度保全効果が無く早い時期に空中から雨粒の落下が起きる事で干ば
つ被害が起き 低温時には空中の光の拡散化が出来ず温度の均衡化が出来ない事でこう
した豪雪現象が出来るとしている。更に曇りの時間の多大化で地上の静電気と空中の電
荷の異常が起き更に近年の小さな木々すら伐採する都市化現象で田舎さえ清浄化が無く
なってしまっていると言われる。つまり海中酸性化と同じ様に 変わった物質量の変化
が起きており 今後の人類発展の阻害をする事は多くの科学者が危惧している。


728: 名無しさんAA:16/01/24 21:02
ナチュラル 31

 現在でも良く知られていないのが 東南アジア同様の酸素供給を行っていたと言われ
ていたロシアツングースの森林や中国国内の森林である。中国やロシアの経済成長と共
にこの自然資産は急速に失われてしまったと言われるが その実体は良く解ってはいな
い。それは共に共産圏であり自由な学問研究が出来ない為に国内国外共に政府批判に通
じる予算はおろかその研究や発表も許されていないからだ。そうして今回の寒波がやっ
て来たのだが幸いにして日本での寒波の死人や資源枯れはあまりないであろう。日本の
TVでは廃棄物横流しのニュースが駆け巡っているが驚くのはそうしたメーカーと言わ
れる量産工場の品質の高さと同時に廃棄物管理の甘さである。通常こうした工場では共
同経営する畜産小屋や放牧場を経営するのがかつての常識だったのだが どうも新規者
や代替わりで究極の分業体制の中にあるらしく全くの不可解な大量横流しが判明してい
る。この食品衛生業違反の糞爺いの最もらしく「我々の世代には食べられる物が捨てら
れると言う勿体ない事なので横流し売った。」などと言うのは全く無責任な他人事の様
なセリフだ。成程勿体ないには違いないがそれは排出する企業を非難すべきで自らの行
為を正当化は出来ない。と、話を戻して 今年はのっけから異常な驚きが多い年のよう
だ。そして一つは寒波でありもう一つはその寒波前に北は水爆実験に成功したと発表し
した事だ。恐らくこの実験は、弾頭の爆発実験と言うよりは小さな理科室的反応試験み
たいなものであったろう。とは言え成功を発表した事は中国には大きな衝撃だ。そして
この冬の寒波は恐らく日本より早くに中国や北朝鮮にやって来ていた筈で今年も両国で
は凍死者や餓死者を数多くだした筈だが一向にそうした報道は報道管制から聞こえて来
ない。それどころかこの反応試験結果を共有するであろうイランで 核開発問題で米国
との交渉が終わった事でいち早く中国の習近平主席が来訪して会談し協定を交わした。
この動きの不自然さは当然アメリカの疑心やロシアの関心を寄せる事だろう。東シナ海
問題以降西側との対立悪化が予想されるが 中国が今のロシアの様に経済制裁国になる
事を予想しての訪問か或いは北の武器の売り込みに 率先して何かを提言したかは定か
ではない。ただイランが原子炉を欲していて中国はその建設売り込みをする国である事
は確かだ。


729: 名無しさんAA:16/01/25 09:47
  御馬鹿のぬくもり 03

 そもそも生産性拡大は必要だとしても 生産調整などというふざけた政策は何なんだ
。農業補助金をしこたま出していて地元の農業委員会や河川委員会の理屈の無い無能さ
は一体何なんだ。それにも増して国が地方債の発行を規制していない事が問題だ。本来
は廃藩置県時の権利が無くなった日本国なのだがそれが今も生きている事は悪くはない
が国はその管理はすべきである。管理しないとなれば地方交付税などは配布しなければ
いいのであって一体国は各県各市町村をどう考えてどう言う位置付けにしているか改め
て問われる。今回の食品横流し事件は多くの事を示唆している。まず日本人は今や病気
中の存在なのだろう。この病気にさせた原因ははからずも政府がやった製造日印刷の不
要にある。いわゆる狂牛病など海外の食品輸入に当って勝手に消費者をだます為に法律
を変えた。それは警察の普通免許に4トン車を乗れなくした事と同じだ。全く見識も無
く知識も知恵もない勝手な独裁的独善法を作って国会を通したのだ。それによって消費
期限と賞味期限とを作ったのである。こんな馬鹿を全くいまもって改めない。企業に取
って問題が無いように消費期限を取る事はあっても もともとの腐敗菌のいる乳酸品や
乾燥加工をして日持ちさせた食品に賞味期限をつけた事は全くおかしな話で食べれる物
を食べさせせず新しく買わせると言った妙な細工をしたとしか言えないのである。こう
した悪法を次々に作りだす日本の国会は全く病気としか言えない。その病気の一つがT
Vでの罰ゲームだ。全く健康被害もはなはだしい辛味食品を食べさせたり苦みの青汁を
飲ませたり一時は盛んだった。そのワイワイ感こそが悪の温床である事は解っていなが
らである。今都会ではピザの耳を食べるか食べないかを論争してると言う話であるが、
イタリア人が耳を残すなどと嘘を言っている。本当のイタリア人はローマ支配での貧乏
な中から抜けて生きて来たのである。従ってヘリなどはヨーグルトなどを浸けて食べて
いたのである。パンの耳を食べないなどと言う日本人は馬鹿である。本場フランスパン
の固さは デッサンの木炭すら消せる程固い。日本人も正月飾りの日干しイカのスルメ
や昆布のチップを正月に食べるのは習わしだった。これは歯を固めドライマウスを無く
す為の儀礼であり 健康を保つ工夫であった筈だ。こうした昔からの工夫を国会自らが
壊しつまらない新生活と称した殺人者や罪人作りに徹しているのはおかしな話であると
言える。


730: 名無しさんAA:16/01/26 12:10 ID:wpI
ナチュラル 32

 近頃少し世界に変化が見えて来た。世界中で日本人が活躍しだした様に大相撲にも、
今大会日本出身力士琴奨菊が優勝した。又ソマリア沖にての海賊退治にすしざんまいの
木村社長がマグロ漁や買い取りなど指導し平和に貢献しているとの口コミである。この
間にもスキージャンプでは高梨沙羅選手が出たりテニスの錦織選手やラクビーの五郎丸
選手アイスの羽生選手や体操など世界的に活躍しだした年 のようだ。とは言えやはり
日本は弱小国島国の国家ではある。いくら活躍などと言ってもゴルフや野球では米国の
様には行かず、中国の様に世界に散らばって儲けているとも思えない。今年の展開は少
し暗い。年明け早々世界の株価下落が起き今後の展開を暗示している。インドはパキス
タンやアフガニスタンなど目をくれず欧州での兵器買い付けをしようと画策しISIL
は今だ中国共産党の物真似して資金を減らしていない。とりわけイラク市民の信じがた
い程の迫害と暴力苦は中国人民にひけを取らない。同じ国民でありながら親をも密告し
殺したと組織的に広範囲にその悪名を轟かせた共産党だが、今やISILはそっくりに
国際人権法も人道法に違反して戦争犯罪の真っただ中にいると国連調査員は言う。それ
は「集団虐殺に該当する行為」を平気でアメリカのブッシュ大統領が見せつけたからだ
。ISILは家屋、資産、土地、家畜、禁制品(たばこや酒類)、車両、現金の押収は
反対派圧力として「没収」と呼んで収入とする。デリゾール行政区では家屋80軒、車
90台、現金50万ドル以上が没収され、女は奴隷市場と同じに取引され子供は兵士と
して連れ去られ洗脳教育させられる。少しでも抵抗があれば見せしめの銃殺や、斬首、
ブルドーザーや車で轢かれ、生きたまま焼く、ビルの上から落とすなどの公開処刑が待
っている。標的には、ジャーナリストや警察官、医師、法律家、旧イラク軍兵士、外国
人と恣意的に選ばれる。まるで邪悪な映画の様だが少し前の中国共産党のやりかたなの
だ。一時期生きた人の脳を食べる中国人が多発したが 文化革命のその後食糧ののない
飢餓状態の名残りで今でも子供がさらわれるのは未開の文盲人と変わらない集団性があ
るからだ。こうした阿修羅の世界を創り出した米国はこのイラクやアフガンをどう解決
するつもりだろうか。中国に取り入り中東を攻撃した過ちはそのまま今や欧米に難民と
してやって来る人達の世話に繋がっている。今年はその総決算の年となるだろう。



731: 名無しさんAA:16/01/26 12:11

というのも 本家本元の中国経済が落ち込んでいるからだ。もともと中国人経済は集計
など存在しない。かつて1983年10%の経済成長としていたのだが日本ですら3%
なのだ。あの国家経済時代にそんなに輸出し輸入し経済発展していたとは思えない。も
ともとGDPそのものに私自身はTVの視聴率同様にそんなに意味のある数字とは思っ
てはいないが それでも比較研究の対象とはなり得るだろう だがそれは正確な数字の
場合の話である。大体倍にして一割足しの数字が中国の常識だから恐らく3%前後成長
であろう。だが問題は今年1%を切るかどうかの問題だ。日本の場合進化した技術と過
去の伝統に支えられた環境や産業が育成されていて蓄積していた為デフレ内成長があっ
たが中国にあるのかが不安である。その不安の上に中東のいがみ合いが続いている。か
つて米国の盟友と囁かれたサウジの独裁政権も王子の在位でロシアに近づいている。折
しもイランとの核合意が出来た最中にイランシーア派の聖職者を処刑したことからイラ
ンとの対立が表面化し国交断絶にまで至っている。こうした中東情勢なのに日本は8割
の石油依存を中東に向けているのだ。こうした中シェール石油の稼働率は下がったもの
の原油先物相場(WTI)が一時1バレル26ドル台まで値下がりするなど今後上がる
見込みがない。中南米の石油産出国は安売りに今後の市民の暴徒化に備えなければなら
ない。移民政策では頭を悩ます米国は陸続きの移民の高まりにEU同様の社会不安がま
とわり憑くのは必至だろう。つまり今までやっと息をついた就職率も下がるしニューヨ
ーク株価も下落を覚悟しなければならない。中国に対して楽観的なIMFも世界的不安
の助長には耐えられないだろう。更に中東サウジやイランに異変が起これば激震は免れ
ない。日本の円高傾向でリスクオフのつもりだろうが逆にリスクインともなりかねない
。少量の原子力や太陽光発電に期待があるがそれでも電力の数%に過ぎない。要は政府
指導して中南米石油をどれだけ供給出来るかの問題かもしれない。そうした心配を他所
に中国主席はいち早くイランに渡航し高速鉄道整備やインフラ資金支援、核エネルギー
の平和利用協力など、17の合意文書に署名している。中国の三流原発を2基輸出しよ
うと躍起である。今の一帯一路の政策に合致し初のAIIBの資金発動に準備している
のかもしれない。だが水の無い戦争地帯には あまりにも無謀で危険な発電所であろう


732: 名無しさんAA:16/01/26 16:30
ヘーイヘイヘヘヘヘイ

五月ごろミカンが食べたくなったがあるはずもないので 明治のミカンの缶詰を買いに
行った。家に帰ってその時一缶は日曜だったので朝晩で分けて喰ったもののもう一缶が
普通の日に開けて少し食べて人が来たのでそのまま冷蔵庫に置いていた。なんと半年の
ちは真っ黒な「べっちゃり」になっていてそれが美味しい事おいしい事。御飯にも酒の
つまみにも料理の肉やキノコとの炒めでも たべてみんか。腹は下さんで〜〜〜〜


733: 名無しさんAA:16/01/26 19:12
 とはいうものの米国がイランとの合意に至った理由はイランが今だ未開地だからであ
ってイスラエルや南米の様な開発の既に行われて問題がある所なら何ら合意に精力的に
はならなかったであろう。サウジがイエメンを襲いフーシ派を敵対させても尚危機感か
ら徹底して叩く姿勢は、国際社会では見て見ぬふりをしている様に見える。更に今回の
サウジのシーア派の聖職者を処刑した事は全くの間違いだ。表向きではあるが彼は国家
転覆を図った事はなく自由化のデモを行っただけなのだ。実はここにおかしな壁がある
。今は死んだがビンラディンはアラブの中の米国というものに批判した。我々が間違え
やすいのはアラブ人と言うのはサウジアラビア人を指しアラビア半島の住民を指してい
る事だ従ってイラン人はイスラム人だがアラブ人ではないと言う事だ。又イスラム人と
言う言葉は存在せずイスラム教徒をムスリムと呼んでいる。とされる。このイラン人の
シーア派と言うのは極めて寛大なものであり厳格な意識を持つのである。あの女性のか
ぶりものであるブルカの禁止でフランスは矢面にたったのだがこのブルカはネッカチー
フの様なものでこれがアラブでは口さえ隠すヘジャーブとなりアフガンではチャードリ
ーと言う目さえも隠すものとなる。つまり女性蔑視はイランよりサウジが酷く更には、
アフガンの方がより厳格に女性の肌の見せない方向なのだ。つまりその為に女性の教育
や女性の権利はインド大陸の方がより厳しいものになって発言し戦っていると言える。
日本人は「イスラム世界」と「中東」が同じ意味に聞こえるが、実はこのアジア地区の
マレーシアとパキスタンが一番多く更にイスラム原理主義は中国内の方が多い。中東地
域だけではなくアジア地域にも多くのムスリムがいてこのイスラム教徒の人口は世界人
口の約半分の半分つまり1/4を占め16億人といると言われていてキリスト教で3割
と言われ近い将来は3割を超えこのキリスト教と並ぶとされる。だがそれは大枠であっ
て確実にシーア派とスンニ派の双方の長としていがみ合っている。そして今厳格な宗派
の風潮に流されてアラブがとち狂っている振舞いをしているのである。アラブの春を利
用してシリアを襲うが自らの国の自由化にはその可能性の芽を摘む。ハーレビ国王排除
の後は微々たる石油の利潤であったがイランでは政教分離をして大統領を輩出している
が 対してサウジは今も潤沢な資金を握っているのは独裁国王であり石油で潤った経済
のみで国を造って来た。果たして今後この地域の行方は誰も解らない。


734: 名無しさんAA:16/01/31 15:50
  御馬鹿のぬくもり 04

 日本銀行がマイナス金利を打ち出した。馬鹿げた事だ。一体黒田総裁は何を考えてい
るのだ。確かに銀行が民間にリスクを取った融資をせずに日本銀行に預けているだけで
低金利ながらも利益をあげていた事は全く馬鹿げた運営方法で 全く日本の銀行が利益
のあがる大手企業のみの貸し付けでリスクの高い小口投資や海外展開企業の後押しなど
をして来なかったツケは今の日本の痛みでもある。だが国際状況は今微妙な時期にある
。このマイナス金利はEUも行っており世界中が今や経済縮小に及ぶ可能性がある中で
ちょっと危ない話である。これにより本来の110円から120円代が為替レートとな
る。これは日本からの輸出が増えアメリカの輸入が多くなって今だ停滞している米国は
今後のドルの利上げに全く手が打てないだろう。まあ実行の効果がどれだけかが問題だ
が それ以上に今や世界中の資産価値が無くなってしまった中で紙幣価値だけの話だろ
う事が一番の問題だ。つまり日本が国債を発行しない正道の真っ当な政治決断がない限
り仕方がないかもしれないが 電算化社会でお金が今や数字だけの世界になってしまい
現実社会が中国失速と言う中では全く資源に価値が無くなってしまったのだ。どこかの
アフリカの国の様に単価はどれだけ高くても低くても関係なく 人々は食べる為に働か
させられる中に突入したのである。つまりは全く技術や労働に無意味な環境が出来つつ
あるのだ。今後はアメリカは伸ばないし石油や資源は安くなり造った製品は飽和状態で
安く豊富にある状態になる。そうして政治が対策を行わない温暖化や公害や災害が全く
容赦ない状態で人々を叩くであろう。今の難民問題と同じ様な間違えた行動はそのまま
間違えた結果を出し 困惑と非情を産むだけだ。汚職で甘利大臣が辞めたがロシアもこ
のままブーチンの死後は大きな体制闘争で内乱起きる可能性が高く そこには又ISI
LやKGBに似た組織が全く暗い世界情勢を産むかも知れない。だが負けてはいけない
。我々が生きているのは人類が生きて発展してきたのは実はこの正義の推進の為だ。こ
の道義上の正義を貫徹しない限り人の価値はない。明るい未来楽しい社会を造る源は、
不安を知った上での対策である。不幸を知った上での幸福である。もともと現代の喜捨
である銀行券と後世に負債した債券しか無い中の情報化の中の物々交流に対する苦肉の
策ではあろうが。

735: 名無しさんAA:16/01/31 15:51
  御馬鹿のぬくもり 05

 困った事にこの状況は 産業革命時代以降の容赦ない大航海時代の非情さに似た社会
を造り出してしまった。つまり情報革命時代になって意識が大世界航海をするに至って
国賊主義が動き出して来たのだ。年末のETVの日本のジレンマの討論(とは言っても
討論というより現代解説)では若者風の理解や解説はかなり貴重な意見だろう。日本は
この大世界の思考大航海時代と言える時代に資本主義のもつ資本の増殖や政治の自由化
や経済の自由化には乗っかれない。と言う意見である。その理由が買い手よし売り手よ
し世間よしの三方よし思想があるからなかなか行動に移せないし世界の不平等な競争に
は負けるからだ。と言うのである。成程と思う。今や世界は阿修羅のごとき様相の中に
いるフランス大統領が「フランスは今やテロとの戦時中の中にいる。」と発表した事が
日本人ならたった数回のテロ事件で更にイラク国内では毎日何千人と死んでいる中では
言えない言葉であろうと言える。この優しさや奥ゆかしさが日本を守ると同時に日本人
臆病にしてを行動させない原因なのだろう。事実海外の諸外国は直ぐに切れるし熱情的
に間違えた政策を行う。日本人の言う辛抱さはそこには全く無い。時は金なりとばかり
即断即決即行動を行い多数の大量虐殺を産むを言わさず行う。先進社会の特に資本主義
を受け入れた多くの国々にはそうしたマヤカシを見抜けず挑発する国民が居る。911
事件の貿易センター破壊が今だ深層が闇の中でイラクは破壊されシリアは戦争に巻き込
まれアフガンの不安は大きくなった。根本的に地球資源の資産価値は変わらない。変わ
るのは人間の評価価値なのである。がこの技術の高まりや溢れ出た物品と情報経済構造
で米や家よりも兵器や電話や車の方が大事になってしまったのである。この状態を受け
て世界は需要と供給のバランスが崩れたのはリーマンショックの頃の筈だ。只中国の膨
張する経済に隠れて見えなかったが今になって見えて来たのである。安倍政権によって
日本円の増刷の発行効果がやっと出て来たのだが 増税による支出減や企業の増益の中
で給与所得の低所得者増加に拍車をかけて今やジミ係数まで登り出したのである。この
中で世界の「日本化現象」と言うデフレ現象が起こりつつあるのだ。これは格差社会で
既にこれ以上の価値搾取が全人類内では危険と言うレベルに達した事を示している。


736: 名無しさんAA:16/01/31 15:52
  御馬鹿のぬくもり 06

不思議な事にこのETV討論では、この自由主義資本社会は「共生社会」を標榜すべき
か「競争社会」での自立を目指すべきかを問い共に「共生の目的」「競争の目的」とい
うものが「人類が生き残るため」と言う答えをしている事だ。国の政策は大きく3っつ
しかない。一つは法による支配であり一つは予算による配分であり最後の一つは国の形
の提示である。これには思想設計をして制度設計を行い未来創造をしなければならない
。この意味では今だ世界は大前提である「人にいいことしよう」と言う思想設計が確実
に合意出来ていない状態にある。特にサウジアラビアのサージ家のアラビア世界が独裁
主義で戦争の為の武器商人の溜まり場である事はあまり知られていない。裕福な独裁国
家が経済悲鳴が聞こえる時の試練は大きな問題であろう。だがイラン統治の果てに王家
を排除し混乱を起こさせたのは大戦後のイギリス統治の考え方であり在り方である。更
にそれを支援していた米国の傍若無人な兵力行使である事は間違いない事実だ。中東の
あらゆる面でこのフランスが言った「戦争状態」宣言はイスラム相対主義の代弁であり
人類のフランスに求めた「自由・平等・博愛」の精神からは逸脱している。ここが大き
な問題である。日本でも北朝鮮問題に闇雲な共同合意を取り付けたが実は何処が「解決
した」の到達点とするかを明確にしていないし 今回の避難民問題の元であるシリアの
空爆も「戦争の解決」を一体何処に設けて居るのか不明のままの空爆でフセイン大統領
やカダフィ大佐の退陣では解決出来なかった様に恐らくシリアのアサド退陣でも大きく
は違わないであろう。問題はISILがイスラム教徒でありイラクの新体制がアラブ社
会主義復興党(バース党)を勝手に排除してしまった事である。いまのペルシャ民族の
シーア派が主流のイランは欧米の標準や常識と逸していて強制的共生にいた者達であっ
たが実はアッシリア族の子孫で共生しながらも自立的である。対してサウジのアラビア
人で構成するスンニ派は経済的に安定し統治の安定はしているものの同じ強制的共生の
中での怠け者の中にある。彼らこそは砂漠の通商の民で定住化した王族は近年の話であ
る。このイスラム内の対立は実は根深く彼らの内にアッラーの言う「人々を憎悪するあ
まりに、正義に反してはならない。正義を守りなさい。それこそ最も篤信に近いのである.
(コーラン 5:8)」を守るなら他宗教に寛容であらなければならない。


737: 名無しさんAA:16/02/02 01:15 ID:UQM
ヘーイヘイヘヘヘヘイ みんな食べてる〜〜02

 やっとまともに美味しい御飯が食べれる様になった。なんと長い月日だったろうか。
私は貧乏人育ちで別に冷や飯でもいい方だが この冷や飯が美味くない御飯は美味くな
い。米を研ぐなどと言うが実は研が無い方が美味しい事が解った。流れる水に晒すので
ある。最初に少し研いで粗の米粉つまり白い研ぎ汁を捨てたなら冷たい井戸水に2時間
くらい米が泳ぐくらい晒すのである。そして新しい米は規定値通り古い米には多い量の
美味しい水を入れて炊くのである。そして炊いた後は炊きあがりに「シャリ切り」を行
い保温を止める。これが正解なのである。だが口で言うに行い難し 実に5年がかりで
やっと昔風の美味しい米が食えた。


738: 名無しさんAA:16/02/02 23:43
 酔い奴彼(よいどれ)の舟歌 55

 こんな悲惨なむごたらしい行為が世の中にあっていいものか。「これは人間のやる事
ではない。」事件を担当した関係者が言ったそうだがまさしくそうだ。上村君殺害事件
は少年事件とは言えないものだ。更に言えば日本の刑法ではこうした人間が裁かれた試
しはなく あまりにも悪魔的独善的非道である。寒い空の下に裸で3回も泳がせ両手を
縛って仲間でいたぶる。これを許した世間でも死刑であろうに この仲間であった人間
達は無期懲役にもならないだろう。更にこの少年Aは死刑であっても軽すぎる。全くの
弁護の余地のない人間である。こうした人間を作り得た学校は廃校とすべきだし親兄弟
はマスコミに住所や顔写真は公表すべきである。全く日本は甘い。本来この日本の真面
目さや几帳面さ或いは清潔感や安全性などの日本の住みよさや進歩性は 日本人のお人
好しの性格が産んだ社会だからだ。だがそれを全面否定した今回の事件は全く各家庭が
どういった教育をすべきかを悩ませるものになった。よく知らない人には声を交わすな
と言う不思議な話がある。子供に知り合いかどうかの大人のような詳細な認識は少ない
。そうした中でも「おはよう」や「道案内」などの挨拶や優しさは基本的に行うべき行
為で疑心暗鬼の中で「隣の友達さえ敵と思って殺すか殺されるかの中で生きよ。」など
として教育は出来ない。又そうした事でヤクザが教育した結果が 今だ5歳の愛妻とも
すべき同居人の子を足蹴りし殴りいたぶり殺した。言い訳が「がん見した。」と言うも
のだ。まるで子供の精神より幼稚である。更に「我が人生に悔いは無い。」などとほら
吹いているという。馬鹿を地で行く馬鹿である。大体悔いの無い人生など神すらもない
。生きる資格のない人生である。希望も欲も無い上に自分の行為に考えが無く考慮や反
省も改善も無い事を示し そうした「どうしたらいいのか」の悩みも無いなら 全く生
きるなさっさと死になさい。と言いたい それこそその裁判の少年Aも全く同じで他人
への思いやりや思いやりが無い為に起こる数々の気罰の悪さや社会悪を 全く感じない
人間だったのだろう。スマホやパソコンでゲームを年から年中打ってる世代を作り学校
は全く対策を行っていないのだろう。いつからこんな不毛な社会にして行く風潮になっ
たのだろうか。


739: 名無しさんAA:16/02/04 03:49 ID:Wu6
 酔い奴彼(よいどれ)の舟歌 56

 こうした中 警察関係は「大きく昔より犯罪が減っている。」と発表している。だが
実際はそれだけ警察内部が腐っていて 検挙がなされていない事を示している。古物の
販売に2つの資格がいる。それは物品販売業の許可と古物取引業の許可である。これに
よって管理されているはずが今やインターネットでは盗品や個人のものが溢れかえって
いる。ゲームの販売や企画にも許可がいる。公衆道徳の推進啓蒙の法律関係で公共施設
と同じに位置されるからだ。飲食業もおなじだ。更に他人を泊らせる事も同じだ。福祉
タクシーに至っても福祉士の資格と二種運転の資格更に一般人乗車運転の車両運行法の
タクシー営業の資格である。これらの無資格者には緩いが実際には昔ならかなり厳しく
取り締まりして指導があった。だがそうしたものが今や何故が派出所も少なく駐在所も
かなり廃止されて住民のプライバシーの問題で訪問資料すら作っていない。だが昔の方
が子供の人口が多かった事を思えばかなりの労力をもって市役所以上の資料があったの
だろうと言える。更に暴力団は今や民間会社に化けて より巧妙により暴力的になって
いる。白骨化した死体自殺する人の数ルール無視する一般人の数常識を教わらない子供
どう考えても今の方が多いはずだ。更に外国人や車の多さ工事量や資金移動量でも全く
昔の形を残さず多くある。更に事件の質が昔は飲食店を初めとする事件で酒や女や金の
絡みが多くあったろうが 今や罠をはり いたぶる様な外国風の自分の楽しみの狩猟型
で見つけにくい。更に子供のしつけや礼儀がもはや日本の風格が無いに等しい教育であ
り男女同権とか子供の人権とかを子供に教える始末だ。実は大人がもっと自覚すべきで
あり更にこうした人権問題はPRよりは 環境や心身の変化で起こる我が身の機能不全
に対処すべき優しさが大事である事を教えるべきだろう。そして現実的な警察の対応が
不可欠で民事不介入などと言っていては 不明な白骨死体や古民家の火災や狛犬の盗難
などが日常茶判事に逢ってる中で 犯人逮捕など全く出来ないだろう。この事を念頭に
本当の犯罪件数を出すべきである。多分今の発表は裁判で有罪にならないと言う理由で
というより証拠探しをしていない為3割以上見逃している節がある。これでは 日本は
大和民族は末代までの恥のままである。



740: 名無しさんAA:16/02/05 00:51
 酔い奴彼(よいどれ)の舟歌 57

 全く馬鹿げている。シャープは台湾企業ホンハイグループからの資本出費の方に決定
したと言うニュースだ。これは野球番長の麻薬事件と共に夢の無い話で衝撃的だ。この
決定は表向き何ら決まっていない。との社長の表明だがこの所こうした大きな企業の何
らかの苦境が伝えらる事が多い。国会は相も変わらず野党はTPP功労者である甘利氏
の秘書汚職を追求している。馬鹿げた事だ。基本的に国会議員は口利きしかしていない
。本来のの役職は国の在り方や行方なのだが 地元のインフラ整備に票民の苦情処理係
と化している。これを止めるべきなら堂々と議員の予算案審議を本当の審議にすべきだ
。そもそもURに問い合わせをしている事自体がおかしいのであって それだけURは
議員に弱かったと言う事だ。これがおかしいのである。今度のホンハイ精密工業の出資
もよくよく政治的な問題だ。まず日本の不景気の元デフレの遠因は海外からの資本投下
が少なすぎる事だと言われている。つまり経済理論で言えば今だ日本はガラパゴス状態
で世界の好景気に販売がついていけないからだとも言われている。韓国やシンガポール
は別にして普通の先進国では15%前後が海外資本だとされる。だが日本は3%前後に
留まっている。更に言えば多くの国は自国産業育成と共に先端技術の流出には歯止めが
ある。つまり米国には海外資本の投入やM&Aには米国の貿易促進権限を大統領管轄で
止める。従ってTPPニュースには「米上院の与野党は13日、環太平洋経済連携協定
(TPP)妥結に不可欠とされる大統領貿易促進権限(TPA、通称ファストトラック
)法案の審議開始に必要な動議の採決を14日に行うことで合意した。」などと言う報
道が出てくる。つまり勝手な合弁企業や資本出資が出来ないでちゃんと届け出出して認
可が必要である。としているのだ。それでも海外からの資本投下量も多くその為かサイ
バーテロの元を絶っていない。対して日本はどうか。国家戦略局などと聞こえのいい様
な部局は作ったが そこが何しているのかどんな法律で権限があるのか全く国民に見え
ない。更に今回の都合のいい相性のホンハイグループの出資に対して 何ら声明やら発
表やらはしてはいない。つまり全く音無しの構えの一点張りだ。これでは国会も政府も
要らないのではないか。国民に説明し更に法を整えてこうした技術流出や軍事転用まで
可能な技術などの歯止めの 何らかの線引きを発表すべきなのである。詰まる所通産相
ではなく国家の判断は何処でどう考えるかかが全く考察されてないのである。



741: 名無しさんAA:16/02/07 17:12 ID:WlY
 酔い奴彼(よいどれ)の舟歌 58

 54年の国交断絶を絶ち切ってキューバはアメリカとの国交樹立である友好条約を結
んだ。たぶんこれは資本主義自由民主主義の終焉と共に共産主義社会主義同盟との遮絶
の意志の現れであろう。不思議な事にTPP締結と供給多過の資源低迷に重なった形で
ある。医師から貧困にあえぐ国民に革命児となったチェ・ゲバラはカストロと共にキュ
ーバ―革命を起こして成功した。そのゲバラを見習って同じイギリス植民地の下で貧困
に喘ぐ民にを新社会主義を打ち立て革命を起こしたのがリビアのカダフィだったと言え
る。リビアとキューバの違いは政権に日本人の意見が関わったかどうかしか違わない。
キューバはソ連支援の下で革命を果たしたもののキューバ危機からは更なる貧困が待ち
受けていてゲバラは先進国豊かさの姿と同じ工業化を目指していた。だが彼が国立公園
を計画した時やんわり断った日本人がいた。「花と革命」の著者竹内憲治である(日本
語出版 :学苑社)「日本には花より団子」と言う言葉があります。今はまだ国民の腹を
満たす事が必要かと思います。と言ったそうだ。それは日本の江戸時代の鎖国のような
生活が待ち受けていた。今は解放されて逆にレアな中古車などがかつての栄光の米国風
な風景を見せ観光に適した避暑地の賑相を見せている。アフリカやアラブ革命と欧州で
喜ばれた騒乱もアラブ諸国には大きな迷惑だったに違いない。もし日本人の助言者が傍
にいたら大きく違った結果があったに違いない。カダフィは直接民主主義を信じた。彼
の書いた『緑の書』は議会民主主義が本質的に腐敗していると信じて止まず 多数決の
議決そのものが少数反対者を押しこむ独裁主義で党や集団こそ責任を取らない偽政者の
群れとしている。更に労働者や取り分け家事の使用人のメイドと執事は近代化した奴隷
制度として投げ捨てている。とりわけ託児所や幼稚園などは、家畜のように孵化した鶏
がつめこまれる養鶏場に等しく子供は養鶏場のような場所で育てられるべきものではな
く、本物の母性愛、父権、兄弟愛が息づいている家族のなかで、母親の手によって育て
られるべきものである。と説いている。又経済についてもイスラム法に則った銀行経営
が求められ利子の運営や債券の発行を許していない。世界で唯一、人民主権による直接
民主制をとり、ローンは全て利子0%と法律で決めて 農業化を志望するリビア人には
、土地、家、器具、家畜、種子が無料で支給される。無から金を作り出す必要がない国
だったと言う。更にアフリカ唯一の識字率78%イスラム教唯一女性の人権重視社会を
作っていた。

742: 名無しさんAA:16/02/07 17:12
。又経済についてもイスラム法に則った銀行経営
が求められ利子の運営や債券の発行を許していない。世界で唯一、人民主権による直接
民主制をとり、ローンは全て利子0%と法律で決めて 農業化を志望するリビア人には
、土地、家、器具、家畜、種子が無料で支給される。無から金を作り出す必要がない国
だったと言う。更にアフリカ唯一の識字率78%イスラム教唯一女性の人権重視社会を
作っていた。21世紀にロスチャイルド家が中央銀行の所有権を持っていない国は、世
界中でアフガニスタン、イラク、イラン、北朝鮮、スーダン、キューバ、リビアの七ヵ
国だけとも言われ かなりの敵対化された政権ともされていたのである。

743: 名無しさんAA:16/02/09 16:41
なしてなんで

744: 名無しさんAA:16/02/12 23:37 ID:qJo
 酔い奴彼(よいどれ)の舟歌 59

 アメリカで大統領予備選が始まった。新進気鋭の大富豪トランプ氏が出て話題を呼ん
でいる。だがどんな事を言っても共和党である。「中国も日本もメキシコも貿易で打ち
負かそう。」と相変わらずアメリカナイズされた外交無知の強気発言で人々の支持を掴
んで離さない異常な人気である。がそれ以上に嘘つきサンダースが出来もしない夢のよ
うな政策を言い酷い事を言うが その罠にかかった若者の支持を得て大本命のクリント
ン陣営を悩ませている。そもそも実力未知のの全く政治に関わらない人々の意見を聞く
その耳がある事が不思議な話だが それにもまして自由民主主義を謳う事で反対してい
た国民皆保険をやっと通したクリントンに超リベラルを評して嘘つきサンダースは上層
部の人間政府系の人間と酷評して超優遇低所得者福祉を私はやれると妄言した。なんと
も新機軸のないまま暴言王のトランプ以上の暴言主の前にさすがの有能なヒラリー女史
もたじたじの様子である。それだけ馬鹿な国民が多く多数決では全く予想だに出来ない
アメリカ大統領予備選が幕開けたのである。一方石油は高くても35ドルを超える事は
まず無いと言う事で軒並みニューヨークは株安が続く。この株価の下がりに日本も何故
か下がる要因も無いのに下がる。黒田バズーカなどともてはやされた割には全く世界の
事情に疎い方のようである。まず日銀がまともに金利ゼロ又はマイナス金利などと言う
当り前の事をやるから 日本の円や国債が安全な寄港地としてもてはやされる。ここは
危機感を持って利上げする。と言えばやっぱり米国追従でやばいかもとされて 株安や
円高にならない物を。馬鹿げている。逆に利上げしていれば例え円高や株安になっても
すぐさま逆行して行えば良いし 更に政府が利子補給で今の福祉政策が立ち消えたまま
およそ予算の3割以上が無駄予算になっていて健全財政に立ち戻る大事さを国会に認識

745: 名無しさんAA:16/02/12 23:38
黒田バズーカなどともてはやされた割には全く世界の
事情に疎い方のようである。まず日銀がまともに金利ゼロ又はマイナス金利などと言う
当り前の事をやるから 日本の円や国債が安全な寄港地としてもてはやされる。ここは
危機感を持って利上げする。と言えばやっぱり米国追従でやばいかもとされて 株安や
円高にならない物を。馬鹿げている。逆に利上げしていれば例え円高や株安になっても
すぐさま逆行して行えば良いし 更に政府が利子補給で今の福祉政策が立ち消えたまま
およそ予算の3割以上が無駄予算になっていて健全財政に立ち戻る大事さを国会に認識
させる事だ。それが一番大事な事だ。日銀があまりにも信用され過ぎて円高が起こり、
こんなにも馬鹿げた予算案にも 世間は国際社会は日本買いをしているのである。がそ
の金は株か円の国債かに動くだけでなんら他の要因がない。中国元はまだまだ下がり続
けるだろうが原油はすぐにでも上げる事は可能である。つまり元の代わりは他の国に沢
山あるが原油の代わりは他の国でも原油しかないのである。イランとサウジが宗教対立
を止めればすぐにでもOPECは話し合いが出来るつまり多くの石油メジャーは株価を
下げていない理由は新しい採掘探査をしないだけで輸送コストや精製コスト内であれば
利益があると言う事なのだ。本来日本円は上がる理由が無いし日本株は下がる理由がな
い。それはニューヨークも同じだがヨーロッパのみが違う。ロシアの空爆が止まればお
そらく原油も株価も少しだが安定するだろう。つまり今は未だ逃げて見えない中にある
シリア難民の金を イスラム教のムスリムが管理しているからだ。


746: 名無しさんAA:16/02/13 19:46
 酔い奴彼(よいどれ)の舟歌 60


 全く北朝鮮も馬鹿げた事をしたもんだ。どんなミサイルを作ってロケットと称しても
その技術の高さは日本やソ連或いはアメリカには敵わないのは解っているはずだがそれ
でも果敢に有害物質を満タンにした前時代のエンジンで空に飛ばす夢を追いかけて止ま
ない。この姿は一体何なのだろうか。三男坊のわがままであろうが全く間違っている。
私がハウステンボスで見た時には幼いままで二男にひきつられて観賞する風景ににもせ
わしなく追いたくられる事に困惑する幼児だったのだが今や悪魔の最高位につく位の威
厳を無理して行っている様な模様に見える。大体その昔我が国は何故発展しないのか。
我が国は何故他の国の様に自由に裕福になれないのか。との素朴な疑問を持った少年が
今や先の将軍である金日成どころか金正日より悪い政治をして止まないのは宿命なのか
。大体金日成も金正日も日本を崇拝し何んとか国交樹立を願っていた事が日本の金丸訪
朝団時の会見で見えていたのだが 今や少なくとも金丸氏の裏金は在日帰化韓国人達の
高級官僚に役職によって暴かれてしまい戸口が無くなった事はいがめないがそれは時代
の流れで仕方ない事でもある。今国会で育児休暇を願い出た若手議員が手厳しい法制の
中の摩螺管理が必要とする道徳的制裁が今や当然の常識に代わった時代に入ったのだか
らそれと同じに汚職や裏金が許される日本ではない。だが本来当り前の外交であれば、
日本が友好条約の前段階の日朝協定を結んだ時点で特別訪問として日本を訪れて北の代
表達も日本国民の歓待を受ける算段をすべきで例え拉致被害者が疑惑と怨念の目を向け
ても「私の生きてる限り誠心誠意最後の一人まで帰国させます。」などと嘘でも日本で
発表したなら拍手喝さいで北朝鮮を支援する日本であったろうにと ほどほど正道を行
かず邪道でアメリカの気を引く政策に終始する馬鹿な行為に愚かさどころか馬鹿さまで
感じ入るのであるが これが姑息な朝鮮半島の住民の性格なのかもしれない。だがかつ
て、この北朝鮮の大部分と中国国内の北の部分は満州国の跡地であり 更にかつての清
王朝の末路である愛新覚羅溥傑(あいしんかくらふけつ)を擁立してはこの国に革新的
な新生活や西洋的最新文化を作った場所なのだ。もう既に第三世代の戦前戦後が無くな
りつつある。朝鮮王朝の文氏すらも知らない韓国人も多い事だろうが今のうちに恒久平
和の礎を 例え平身低頭しても次の時代に渡す覚悟を金正雲は考えるべきであろう。自
分を応援しているだろう国民の為にも。


747: 名無しさんAA:16/02/14 11:19 ID:IpA
 酔い奴彼(よいどれ)の舟歌 61

 がっちりサンデーでは 今回着物の再販システムや固定電話型携帯電話更に親の雑誌
というものが取り上げられていた。いずれも江戸時代に流行り出来た文化システムだ。
もともと日本は資源が限られていた中で 格差社会を広がせないこうした工夫は大きく
人々の平等と博愛を産んでいた。まるで現代が作る江戸期模様と言った所だが案外この
やり方は主流になるかもしれない。もともと反物(たんもの)で長い布(きれ)での客
との応答販売が着物の世界で これを常用定価販売と客に左右されない価格にしてその
接待を一元客すらも売っていくと言う事をやった。実はそれまで一般市民は信用や紹介
がなければ呉服屋を出入りする事はかなわなかったのである。そして大量入荷一括仕入
れ売れ残りそうだと大安売りとした今では当り前の事を当時では三井呉服店が画期的と
して大店になったのである。それでもこの江戸からの着物業界の相対売りという販売は
根深く残っていたらしく 現代でも着物専門の古着屋がバーコード管理するのは新しい
としてなかなか活況のようだと報道している。正に江戸時代は「子供叱るな年寄り敬え
いつか来た道いずれ行く道。」と教育に特化して金をかけた時代で「白い米と江戸の空
」と言うぐらい食費が安く 物品の再利用が行われていたのである。質屋が多かったの
も質屋は時の道具屋的もので 老いて仕事が出来ないと道具を売り長屋の葬式は寝具を
売って行ったと言う風習だったのだ。そうした江戸時代には今の様な情報ツールは無い
に等しく噂話や瓦版によって得ていた。この親の雑誌は遠く郷里や町に置いて来た親を
見守る会社が時折の近況報告の電話に老人の話が興味深く面白い事が多くて知ってもら
おうと発刊した小雑誌であるらしい。本来の前進する井戸端会議や地域の歴史的物合い
がここにあると言える。実はこうしたガラパゴス的日本人思考はかなり人類の大事な物
の一つだろう。インド派生の仏教文化が日本で大事に使われていて人の為に働く意義で
掘削重機が今やカンボジアの地雷除去に活躍しているのである。食べ物が無い中海藻す
ら食べ始めた日本食は今やおにぎりやうどんなどは和食の伝統的な基本調味料の味とな
って世界に広まっている。窮地や悲しみを技術で超えて行く文化は大事なものだとつく
づく思うのである。食の次は日本語を世界に広めようではないか。


748: 名無しさんAA:16/02/14 18:09
 酔い奴彼(よいどれ)の舟歌 62

 北朝鮮の話題で持ち切りだが かつての国を支えていたと目される リ・ヨンギル、チャン・
ソンテク、キム・ヤンゴン、カク・ソルジュなど 民主的反対派は全てが統率の名のもとに粛清で政権ど
ころか命さえ失ったらしい。こんなむごたらしい北朝鮮にロケット技術や経済支援を行
う中国も世情と政情が分裂してしまっていて 発表では腸が煮えくりかえる程だと怒り
を表現したが世間ではこれまで冷え込んでいた中朝国境線は北の経済特区構想で 今や
北朝鮮の物流の8割を担う大きな貿易場所で無煙炭や鉄鉱石やニッケル亜鉛と鉱物資源
を材料にして売り中国の欠陥工業品や技術を買いながら成長している。不思議な事には
あれほど経済制裁していたイランは 北の労働者とロシアの食品で大きく経済発展して
民主化を果たし 欧米はサウジを切ってはイランとの取引に応じようとしている事だ。
サウジ家のアラビアとされるサウジアラビアはその名の通り王家の独裁国家である。考
えればこの北朝鮮と全く違わないシステムの中で石油資源の利潤のみで高福祉国家を築
いているだけなのである。この所イエメンでの代理戦争は落ち着いたが落ち着けば落ち
着いた事でISIL信奉のタリバンやらアルカイダが徘徊する厄介な問題がある。この
所の難民問題はEUばかりに気を取られがちだが 実はサウジ国内でも難民移民の問題
は深刻な事で 原油価格暴落で労働者が浮浪者となりこれまでの移民達もこれまで通り
の裕福な経済下の生活は不可能に近い。それでも宗教統一と厳しいイスラム主義の遂行
で何とか成り立っているのが現実だが 北朝鮮が完成した原爆ミサイルをイランに売り
付ければ恐らくイランは精製したウランを横流しするだろう。となれば応援する中国も
なかなか政府は反対しても人民は経済事情に流れて中国国内は北を応援するに違いない
。更にサウジはパキスタンの核ミサイルを手に防備する。これにアメリカが入り込む隙
間があるとは思えない。イラクやシリアはそうした貧困と世代間格差移民格差の前哨戦
であり空爆だけでは 難民が増え続けロシア・EU諸国・サウジアラビア・パキスタン
更に近郊の中東諸国のつらさを産むだけで終わる可能性が高い。果たして難民の次世代
が自爆テロに奔走する中でここいらの国家は国家を保てるか疑問だ。それこそISIL
の思うつぼである。


749: 名無しさんAA:16/02/14 21:29
 酔い奴彼(よいどれ)の舟歌 63

 かつて私の学生時代友人から「人類はいつも世界中のどこかでは戦争しているよ。」
と言われからかわれた事がある。確かに世界のどこかで戦争しているのかも知れない。
だがそれは同時にどこかで争いの愚かさを解らない人が育っていると言う親の教育不足
の証明でもある。確かにそうした知恵や知識或いは精神の不足者は出る事がある。だが
それの理由は只一つ自分が正義を貫かないから起きてるもので例え悲劇が起きて悲しみ
恨みや思惑があったとしても一つ一つの生き方や判断が正しければ自分を誹謗する自分
は居ないのである。近頃がんばれ負けるなケースの生き方賛美の歌が多いがしかし私は
それが嫌いだ。特にNHKなどが万人からわざわざ法規制までして視聴料を集金してい
ながら「花は咲く」などと放送しだした様は愚弄に等しい行為と言える。どう考えても
悲しみも喜びもあるのが人生であり世間である。希望は自分で見つけるもので希望を捨
てるなと応援する事は正しい行為だが それが公共放送でのCMとなればいささか違う
。相手の事を考えようとしている公共広告機構のCMと同じで 相手を考えて困る事に
面白味を見つける子供達に更に焚きつけた形のCMと同じくやっちゃえ日産の殺せ殺せ
と扇動するCMと同じである。基本的に自分を律する事でその苦しみを知るのであって
それが他人への優しさに繋がるのである。これが古来よりの日本人の持つ知恵である。
今の放送のBPOはその意味ではどうもおかしい。倫理上の自主規制としてで言葉規制
をしてはその他のCMやゲームなどはほったらかしである。一時期高利貸CMで溢れた
時があったがそれが典例である。CMそのものは優しく綺麗なそして悪くないにも関わ
らず年から年中ローン会社のCMが無い時間が無いくらいだったのだ。こうした全くの
おかしな規制に溺れている。「名こそ惜しけれ」という恥の文化こそ日本の潮流なのだ
。世界でもドイツが難民や移民の政策に陰りが見え 中東に核戦争の兆しが見えても、
日本は正しい視点で物を言うべきなのだ。EUにはいる移民は女子や子供を主体として
教育や福祉を考え スマホや電話やイスラム教は取り上げて固定電話に変えて難民施設
を作るべきで難民は奴隷のような労働者でも労働力でもない。かれらは戦争から逃げて
生活の園を築きに来た新しき国民なのだ。政教分離の自由の中での崇拝であり偶像崇拝
として他の宗教に敵対する姿勢はあってはならないのである。



750: 名無しさんAA:16/02/17 23:13
 酔い奴彼(よいどれ)の舟歌 64

 今年は去年までのツケが正月から世界的に大きく足を引っ張っている経済状態の様だ
。原油安が資源安を産み中国の低迷にアメリカの利上げが不安を誘うのだが全く日本の
大企業も恐らく利益が無い状態の様だ。日本マグドナルドを筆頭に東芝は2016年3月期の
決算の最終赤字額を7100億円に修正し知っての通りシャープ本体に成長資金3千億円の
調達に右往左往し世界的エアバックメーカータカタは最終55憶円の損失を計上した。
もちろん200憶近い利益を出している中ではそうないだろうがそれでも日本の税収は
その損失で大きく損なわれる。免震ゴムの東洋ゴム問題も特別損失304億円を計上し
て営業利益550億円と過去最高利益を圧迫した。三井住友不動産も旭化成建材と共に
大きく損失計上して利益の圧迫をするだろう。こうした中での日銀のマイナス金利政策
である。あまりにも政府寄りし過ぎている。かつて丸三証券の飛ばしでも銀行や証券は
このマイナス金利と言う手数料や不良債権などのリスクオフに子会社を使い好決算を装
った中で政府は非情にもたった1兆円を貸し出ししなかったその為国の資産は30〜4
0兆円の目減りとその後の経済損失500兆円が襲いデフレ経済に陥ったのである。も
ちろんこの時は海外からの日本虐めの様相から来ていたのだが今回は世界不況直前問題
なのだ。今問題なのは公官庁の指導力の無さと詐欺的給与体系なのだ。健康食品一つ取
っても特保など新しいものを作っては認可してるが今の流行の詐欺的健康食品会社を一
つも潰す事をしない。それは今回の3人も殺した介護職員も同じだ。この建物の立派さ
は一体どれだけ儲けているのかと言う程だが中身は暴力団以下の管理も老人介護どころ
か職員把握すら出来ていない会社だったのである。これらをみるかぎり今や企業はもう
社員教育を止めた様だ。というよりは人間を機械の様に稼ぐ奴隷として扱いだした様に
見える。機械と人間との違いは 機械はある種の規則に添ってしか動かない。従って規
則に反した動きは壊れてたり事故を起こしたりするのである。つまり一定の環境下での
性能なのだ。だが人間は逆にある種の規則で狂ってしまう。過重労働やら低賃金形態や
過食や摂生食などで体調不全が起こる。それは逆にストレス下での狂気といえる。この
日本が国際化や巨大化や迅速化に様変わりする事はそれだけ病人を増やすことであり、
インフラ整備だの街の発展だのやっている開発は その分人を貧しくし重い課税負担を
強いているのだ。この事を政府は何も思わないで行ってるのは悪態としか言いようが無
い。



751: 名無しさんAA:16/02/18 20:38 ID:aIk
 酔い奴彼(よいどれ)の舟歌 65

 いつから日本のマスコミは こうした意味を変えて発表するようになったのだろうか
野党も議員ならもう少し見識があってもよかろうに。とため息をつく。そう丸山議員の
言葉不足の発言である。彼の言わんとした事は オバマ大統領は黒人で大統領の座につ
いている。こうした事はアメリカの建国当時は黒人は奴隷として扱っていたアメリカ人
には考えもつかない程の変化であろう。このように米国はダイナミックに変化を起こし
て近代化している国なのに我が国は全くそうした人種的心境や移民の定住する為の変化
や動きは少ない。とこう言いたかったのであろう。が問題はその言葉を発した意見が一
体何の話の時何の説明の為にこうした話が出て何を言いたかったのかと言うのが全く見
えないのはニュースにした記者の馬鹿さであろう。そしてそれに乗って批判している野
党は一体中学校を出たのだろうか。人の意見に一部だけ取ってあげ足取りしていて日本
に将来はない。特に今やマイナス金利と言う今までない様な経済世紀時代なのだ。事実
こんな政治のふしだらさが国民の不信を買い縮小経済や不況に陥るのである。野党はも
ちろんだが与党もこの種の人種差別発言に当らない事を何故ちゃんと守らないのか。彼
曰く「あえて政局という意味で(発言の意図を)無視して批判するということであれば
怒りも覚える」とも語った。と伝えられ当然である。まるでユーチュウブの性質の悪い
クレーマと同じでここで彼を批判する議員が居れば早急に名前を明かして報道はその人
を次回選挙で意見を解らない無能者とちゃんと批判すべきである。報道にはその責任と
力があるのだ。つまり裁判所の判事と同じで そこが公明正大に正義がなくやっかみや
ニュースにしたいと言う報道記者の欲望と言う極小さな意志で動いているとしたら全く
道徳のない報道機関でありBPOはこのニュースに関してニュース報道を精査しなけれ
ばならないはずだ。なぜなら歴史的に奴隷はあったしオバマ氏は黒人であることには全
く間違いのない事実で「だからなんだ。」と言う中身こそが意味がある物のはずだから
だ。ともかくこの頃メディアは映像も報道も全く間違っている。意見があって当然だが
場違いな勘ぐりは避けて 大道を論じるべきである。


752: 名無しさんAA:16/02/18 22:39
丸山発言要旨
これは憲法上の問題もありますし、ややユートピア的かもしれませんですけれど。たと
えば、日本がアメリカの51番目の州になるということについて、憲法上どのような問題
があるのか、ないのか。そうすると集団的自衛権、安保条約ってまったく問題ありませ
んね。 たとえば、今拉致問題ってありますけど、おそらく起こっていないでしょう。
それから、いわゆる国の借金問題についても、こういう国の行政監視が効かないような
ズタズタの状態には絶対になっていないと思うんですね。これは日本がなくなるという
ことではなくて、アメリカの制度であれば人口比において、下院議員の数が決まるんで
すね。→・・・→するとおそらく日本州というのは、日本もいくつかの州に(わけたり
しても)、十数人の上院議員もできるとなると、これは世界の中の日本というけれども
、ようするに日本州の出身がアメリカの大統領になる可能性が出てくるということ(に
なる。)ということは、世界の中心で行動できる日本という、日本とはそのとき言わな
いですけれども、それも(そういうことも)あり得るということなんですね。

私見

(結局今日本はアメリカの意向に添って米国内の最後の州と同じ事をするのなら、51
番目の州になった方が早いのではないか。と言いたのだろうか。対中対朝鮮政策として
も・・・だが・・それは日本人が大統領になった時の仮定であって大和民族は先の戦争
時でも 憎むべきドイツ人や相対した共産国ソ連人には強制収容所や財産没収などは全
く無かった。そして黒人すらも。日本人のみが虐げられたのだ。これは人種差別の偏見
と共に宗教的異質や勤勉性へのやっかみもある。今でも白人警察官が無抵抗の黒人青年
を殺したりしている。やさしい日本人としては 銃を手から離そうとしない人種の坩堝
の国でそうした阿修羅の様な国の中に入る事はまず 追従はしてもあり得ない話であろ
う。そういう性格だからこそ安保問題があるのであって米国から指導された法律だから
とか強く核を持った国だからとか そういう問題でもないだろう。)


753: 名無しさんAA:16/02/20 04:14
 酔い奴彼(よいどれ)の舟歌 66

 カナン人の悲劇は続く。カナン人の悲劇は聖書以前の時代にさかのぼる。つまり有史
以前の時代からに既に彼らは国内外の侵攻勢力に戦う事に宿命つけられたていたのかも
知れない。近代では世界大戦後にソ連邦に組み込まれ共産主義の手に落ちて小さな国々
が東欧人として生活してきた。五輪や万博をし経済大国として中国が巨大化して来た中
で2009年7月突然異様な発表が行われた。欧州の最貧辺境国モルドバ共和国に、中
国が巨額の借款を与えると約束したのである。インフラ整備資金としての借款する。こ
の事自体は異様ではない。だがその額が10億ドルなのだ。しかもこれはあくまで当初
の供与額で、先行報道によればクレジットライン(与信枠)は必要に応じ拡大し得る。
という発表だ。かつてソ連邦時代では機械農業にて食物の生産工場として幾らかの地位
はあったものの今や自由化した中で農業国としての地位は高い方ではない。1960年
国境紛争により中露関係は冷え切っていた。だがプーチンが境界線を中国に譲って近年
は蜜月関係を取り戻しつつあったのだ。この時極東開発と共にモルドバ建設の話し合い
が持たれた。日本の北方四島と同じく開発を商売に長けた中国資本に任せて権利をその
ままロシアが持ち利益を二分して利を得ようと言う話し合いだ。かつて中国の東北三省
旧満州も、満州族が建国した清朝にとっては聖なる土地であった。東北地方への漢民族
の入植を固く禁じていたが、清朝の命令すら簡単に破られ、山東省などから東北に漢族
農民が移住して開墾を行う歴史が続いたのだ。正に漢民族のなりふり構わぬ拡大主義の
象徴的現象である。極東開発はソ連時代も幾らかテコ入れしてはいたがはばからなかっ
た。今回は韓国人を雇い入れ資源を中国の商業流通圏に組み込み船積みによる物資補給
で盛況でその中にはロシア企業も組み込まれ極東は開発された。つまりロシアはマージ
ン取りに徹した大屋であり店をだし商売する中国人だがその中身は韓国人の店子と言う
構図だ。だがモルドバの悲劇はそこがモルドバ共和国の土地だった事だ。プーチンは一
時シベリア開発を日本に持ちかけた時があったが全く同じで農業開発も日本に持ちかけ
ていた。つまりは今プーチンはかつてのソ連時代の共和国群を中世時代の植民地同様に
経営しようとしているのである。かつて清王朝が朝鮮半島を勝手に大英帝国に売ったよ
うに。土地の権限は武力をもって支配しその中身は現地民が勝手にやる共産党ならでは
の考え方で 兵力こそ武力こそ我が国としているのだ。そこにモルドバ中央銀行の融資
する金10憶が忽然と消えていたのである。欧州の貧困国、モルドバにとってかなりの
大金で、第二のウクライナとして騒がれだした。

754: 名無しさんAA:16/02/21 07:03 ID:E0Y
 老境の至り 49

 今国会は本当に国際情勢に疎い野党の質問と危機感のない与党更に考慮や考察のない
まことアイデア不足に悩む政府の答弁で 世界はアベノミクスの終焉を報じている。が
それは黒田総裁が悪いしもともとアベノミクスなど造語であって通常のデフレ対策の中
の至極当然の通貨政策と金融処置を取っただけで大騒ぎする程の事は無かったのだが、
それが大騒ぎになった原因は野党民主党の経済失政にある。全く烏合の衆的意見の散逸
で国際合意が取りつけられないまま円ドルレートを変えようとした事が大失敗だったの
だ。がその後与党自民党政府も馬鹿げた事に税収が自然増してる中で水を差すような失
政ばかりだ。8%増税は全く時期が早すぎて折角の好景気の兆しを遮ったし、その後に
法人の震災特別税を震災復興が今だ半ばの中で切ってしまったのだ。馬鹿げていて話に
ならない位の低能政策が続く。馬鹿げていると言えば野党の5党結束などと称した自民
党打倒のみに終始した合意である。今国際政治の中でそうした本来の指標ない連合が全
く害になっている事情はニュースでもわかりそうなものだが それでも国民に「こうし
た政策をします。」と宣言もできず合意している。本当にいつからこんなに馬鹿議員の
質を持ったのか。EU合意も全くイギリスさえも離脱を言いアフリカやシリアなどは、
市民革命と称した武装闘争がそれこそ反政府の一点でクルドも穏健派もISやアルカイ
ダもシーア派もスンニ派もバース党も一蓮托生になってシリア国王バッシャール・アル
=アサド大統領を独裁者と非難し攻撃した。その結果がこの状態なのである。われわれ
日本国民は一度ぐらい民主党に政権を持たせろ。と言う声に政権を任せた。これは民主
が自民に選挙で勝ったと言う事ではない。又今も自民党が民主党に選挙に勝ったという
事ではない。政権すなわち国策を任せたと言う事であって日本人はどうも其処を勘違い
している。国会論戦も同じだ。攻撃と応対に終始していて ここはこうだからこうだ。
と言う明確な疑問や質疑あるいは応答が全くない。もう少し自民党は頭を垂れて次世代
を考えよ。野党はもっと頭を使い経済でも政治でも画期的提案を考えよ。例え与党寄り
野党寄りとしても国民経済を格差解消を考えねば 既成格差で日本は馬鹿揃いとなる。


755: 名無しさんAA:16/02/24 19:19
幸運を呼びます。
0155251284まで電話下さい。

756: 名無しさんAA:16/03/04 19:14
幸運。そんなものはない。あなたが今生きている
そして見て聞いてしゃべり行動をする。生活でも
社会活動でも それがあなたの幸せであり今こそが
最高の幸運なのだ。逃げても追っかけても止まっても
今は今しかない。それが現実でありその現実を見えている事
それが最高の幸運なのだ。あなたを産んだ親あなたを育んだ環境
あなたを活かしている社会 あなたを必要とする隣の人や兄弟姉妹
それがあるそれがいる こんな幸運があろうか
あなたに食べられる生命の末梢あなたを生かしてくれる水
それが大きな幸運だ




757: 名無しさんAA:16/03/05 04:30
 老境の至り 51

 アメリカ帝国主義すなわち世界ナショナリズムは結局は米国の独りよがりの勝手な事
を世界に見せつけただけである。911ショックは米国人においては大きな意味を持つ
が世界はこれがブッシュの犯したヒットラー演説と時の軍部が犯したナチス行為でしか
無い事が解っている。大量破壊兵器があるといい攻撃し フセインの振舞いは許せない
と勝手な個人的意志を国家意志にして爆撃しては911の百倍もの人間に死を至らしめ
、自由を犯す国を他国が許してもアメリカだけは許さないと戦車を入れて街を国を組織
を壊し続けこれで法を犯し人を殺す自由が出来たので私達は引き揚げると言うのである
。この悪魔的な無法者ブッシュを今だアメリカは犯罪者としない病理が眠っている。更
にこうして起こった石油利権の獲得に勝ち「ブッシュ万歳」を叫ぶ国民が殊勝にもこの
911の悲劇に我々は何が出来るのか。を問うたと言うのである。たったビル2棟が倒
壊しそれも非現実的に左右のビルを壊さず横転させずまるで爆破による解体工事のよう
なあり得ない形の倒壊をして何故他国の他人が飛行機をぶつけて倒壊したとするのか、
地球物理学でも自然科学でも建築工学でもあり得ない情景がTVの生放送で映画の様に
見せつけた演出でも誰もが疑わずアフガンにもイラクにも軍隊を声援し送ったのである
。これが多民族国家の在り方としては極めて残酷なリーダーシップと言うのである。全
く精神病院が患者の為に医者が街に出て通行人に麻薬の注射を打つ様なものであるが、
それでも欧州も日本も中国もロシアも何も文句を言わないで旗振り役を選んだのだ。こ
の姿は国際社会の有様としては可笑しな話なのだが それが今の馬鹿な議論の大統領選
を起源にした人気投票の結果なのだ。つまりは文明と言う物が文化と言う物が浄化され
純粋に固有種となれば老いが来ると言うのは間違いだ。多民族国家だから人種の坩堝だ
から多様性のある社会だからこんなに街が生き生きして若いのだ。なんて言うのは思い
違いもはなはだしいのである。ただ単に人を追いたくり困難に追い込みなりふり構わず
働かせる環境に追い込んだだけで 緻密に洗練された技術と人情のある国家とならず、
結果今のトランプのような政治音痴の立候補者や今だ卓越者とならないクリントンの様
な指導者が現れるのだろう。結果日本の安倍氏の様にある種勝手な経済などの手の上で
踊った様な政治が産まれ人を更に苦しめるのだろう。後世の人類は後始末が大変である



758: 名無しさんAA:16/03/05 04:38
沖縄と国が和解し 辺野古基地工事を休止した
なぜ和解するのか なぜ裁判所は沖縄の地勢見解を
出さないのか。裁判所が日本国の責任のない和解などという
法令違反を自ら行う これは一体何なんだ
国の自治下に沖縄県がある。一般国民の訴訟ならば考えるが
自治体が国の自治を裁判する・・これは純粋な政治の話である
のが いつの間にか行政でなく司法の話になっている
立憲政治法治国家ではないのか。



759: 名無しさんAA:16/03/06 09:07 ID:ego
ナチュラル 37

 今回安倍内閣は安保法制の整備をしたが 今後改憲を目指すと言う危険な賭けにでる
としている。更に馬鹿な与党議員達は浅はかにも電気事業の自由化を推し進め又も莫大
な日本資産を食いつぶそうとしている。そもそも論で言えばアメリカから叩かれ東京中
焼かれ沖縄まで占領された国が占領した国の馬鹿げた論理を受け入れるのだろうか。今
大事なのは現実を見て間違いの無い決断を下す事だ。その意味では今や日本が崖っぷち
に立っているにも関わらず全く議員達の不勉強や負勤勉には呆れるぐらいである。まず
再生可能エネルギーと言うのは聞こえが良いが電力自由化には今自然エネルギーの本質
である「継続安定性」が大問題になっている事があげられる。蓄電池性能の高まりはあ
るしダム水の汲み上げによる余力残しは扱ってはいるものの それは原子力発電時でも
扱っていた物だ。経年過ぎた高浜原発を今だ動かそうと言う関電などは政府指令で中止
宣言を出させるべき事態なのだがそれを行わない。沖縄海兵隊問題も朝鮮人の様に話合
いで決めていたゴールを沖縄県知事は次々に遠くに伸ばしては裁判して民主主義を問う
形を取り入れている。これは日本の危機と言う以外に他はない。20年前の沖縄自身の
発案と予算の成立で辺野古沖を提言しては住民説明をして来た知事が最低でも県外など
の反対声明を出すと言う奇妙さは盧溝橋や柳条湖事件と全く変わらない性質の悪い物だ
。政府は強権発動でも工事休止など受け入れてはならなかった筈だがそれを犯したのだ
。今度のエネルギー形態の社会形成は大きな国家の背骨のはずだが全く馬鹿げた行為だ
。大店法改正で日本国中の中規模店舗が潰れた事と同じに大きく日本は崩壊するだろう
。話を戻せばスペインから始まった自然エナジー助成はドイツでも大変な流行だが今や
その経費の高さに電力料金の値上げが続いている。今やフランスの倍額で移民反対にも
色濃く出ている。勿論地産地消は当然の帰却だがその点原子力は国際変動を受けにくい
中間点の地位にある。がと言って原子力を推している訳ではない。先の不安定性に水素
社会の実現と言う要素が出て来た事を推進すべきだと言っているのである。つまりエネ
ルギー貯蔵の水素化で流通や自国産出や貯蔵蓄積が出来る事で不安定性の解消がある。
つまり逆流電気による貯水ダム変換をする無駄を省けるのだ。つまり太陽光発電会社の
認可には水素化を義務付けてこそ当然だろうがそうした国家戦略としての安全審査を全
くしていない事が問題なのだ。これがアベノミクスの軽薄さと同じで方向は良いのに今
一つの着眼と仕様が欠落しているのだ。


760: 名無しさんAA:16/03/07 02:10
 いざ酔い いざ並み いざ晒場 60

 又ぞろイギリスは馬鹿げた事を言いだした。EU各国が難民移入に頭を抱えている中
イギリスはEU離脱を言いだしたのだ。ロンドン市長はこの離脱にもろ手を打って賛成
してもっと交渉しようと言っている。馬鹿げた事だ。かつての世界大戦がこうした国々
の勝手な言い分で、領地争いが第一次世界大戦を産み、その後敗戦国ドイツへの制裁が
第二次世界大戦を産んだというのに今だ歴史に学んでいない欧州人がいるのだ。そして
民主主義の元人気投票で要職についている。イギリスは先のスコットランドの独立投票
でも解る様に勝手な言い分と勝手な妄想で愛国心を煽った分離独立などの夢物語をいい
、それに酔いしれて現実を忘れてしまう性癖があるようだ。つまり野心ある独善的解約
の強制行使である。この最も無知なあり方に国益が大きく振れるのである。だが最も国
益優先で現状以上の生活が大事ならEU離脱やスコットランド造反などははあり得ない
のであるがそれでも何故だか時の議員や有力者の言葉に騙されて夢を見る国民が4割も
いるのである。現実に銀行が離れ株価が無価値になり物価が相当上がる事を覚悟するな
らそれでもいいだろうがイタリアやらギリシャの批判をしながら自らがそうした独個の
環境を望むのは可笑しな国民である。香港の中国返還やら米国同盟軍のイラクアフガン
戦争を支持したり古くは東インドの奴隷貿易やら最近ではチューニジアやカダフィ大佐
への空爆やら全く世界を混乱させてばかりの国民性である。この強ければ何でもありの
思想は社会革命といえる戦場がなくアイルランド闘争に明け暮れた月日がもたらした欺
瞞なのだろう。本当のアイリッシュ人である言わば海賊の血統は今も息づいていて貿易
に明け暮れていた頃平和を切望する清教徒は団体でアメリカ移住を果たしたのはそうし
た性格のその息苦しさからでもあろう。中国人と一番早く結びついた欧州人としての気
概がここにあるのは解るものの先のフォークランド紛争での圧勝も結局はアルゼンチン
との話し合いをしなく南米での権益を捨てなかっただけの話で、西側同士の戦争という
近代史稀に見る近代戦の先駆けとなる汚点を残している。

761: 名無しさんAA:16/03/09 15:26
 いざ酔い いざ並み いざ晒場 61

 映画「カサブランカ」は良く見る映画だ。第二次世界大戦にアメリカが参戦した年に
製作が開始され公開されたというステージ映画だが、かなりの意味深な言葉や仕草が続
く。アフリカのフランス領モロッコのカサブランカ市を舞台にしたラブロマンス映画と
されているが、現実は時の地下組織レジスタンスという自由の為に抵抗する者の悲話を
コミカルに描いている映画であり 芥川龍之介の蜘蛛の糸のような内面を描いている。
本国フランスがドイツに占領されて このフランス領モロッコにもドイツ兵による占領
政策がなされる中自由の国アメリカを目指す政治避難民がここを通じてアメリカに亡命
する中での酒場の物語という背景を忠実に守っている。アメリカに逃げるフランス人に
は「俺達にはパリがある。」と往時のパリの奪還を策するのだが、既に反ナチス運動家
を次々に捕まえては強制収容所へ送るドイツ支配下の親ドイツのヴィシー政権の批判さ
ながらに「君も隠れた愛国者だ。」と最後はビジー政権が供給するフランスの水を飲み
干して警察署長は主人公と共に地下組織に逃げ込むと決め込んだ事で「通行証を発行し
てくれるのか。」「ああ2人分な。」との会話は既に国際社会でもアメリカが立ち上が
らない訳にいかない事を示唆し「孤立主義はもはや流行遅れだ。」と言う言葉と共に意
味深である。近年のイラクやシリアの難民問題は馬鹿げた事にEUの特にイギリス当り
が無関心のまま過ごした事に端を発している。もともとがイスラエルを建国し中東国境
を作ったのが欧米の列強国であった誇りと責任を今無責任にも捨ててしまっている事が
これだけ問題を大きくしたのである。本来中国観光客が飛行機したでで大挙フランスに
押し寄せたりイギリスに原子力発電所の投資などを取り次いだ時国連常任理事国として
の在り方を中国に忠告し 同時に国連軍での派遣しての停戦や内戦監視業務を直ぐにで
も行うべきだったのである。今でもトルコに派遣して自由を守りクルドの人権などを強
く主張して過激なエルドアン政権を諌めるべきなのだ。新聞社を叩きクルド独立闘争に
火を付けシリア紛争を焚きつけているのは何もISILだけではないはずだ。今のトラ
ンプ候補のようないい加減な知識や放言では世界は第三次の世界大戦になりかねない危
惧がある。経済疲弊と格差貧困更に温暖化による飢饉と国際化による不労と教育低下は
かなり人類には痛い中混乱させれば 暗黒の死の商人や裏社会が蔓延して助長させる。
何でもかんでもテロやテロ対策を口実にすれば事足りるとするのは間違いだ。もっと真
剣に取り組み国連事務総長やスイスの人権委員会は不埒な韓国の暴言に惑わされるな。


762: 名無しさんAA:16/03/15 21:09 ID:Nu6
 酔い奴彼(よいどれ)の舟歌 71

 清原が麻薬浸けになっていて巨人軍時代からと言う事で唖然とする中に今又巨人軍が
神聖なマウンドでくだらない賭けごとの賭博場にすり替わっていた事が判明し更に開い
た口が塞がらない中に至った。日本野球機構(NPB)と言う中に各球団がいる。この
NPBは日本プロフェッショナルベースボール連合と言うものの略称らしい。がこの度
の不祥事は全くのプロの話ではない。まず選手と言うのは商品でありそして成績は商品
の品質である。この不祥事はそうした商品の品質以前の問題で今だ水洗いをしていない
虫つき泥つき野菜をして球団と言う商品棚に並べて汚したようなものだ。これではその
商品に見向きをしないどころか触る事もしないのが消費者であろう。その球団という商
品棚を管理運営しているのこの日本野球機構である。この野球機構は陳腐な事に新規参
入に際して新規にチームを結成し加入する場合は60億円、既存球団の株式譲渡を受けて
加入する場合は30億円の「加入料」を払うことになっていたのである。ホリエモン事件
の2004年の再編問題からこの制度が見直されが、それでも新結成・譲渡の如何に関
わらず30億円を「預かり保証金」としてを支払う事になっている。そのうち、25億円
が預託金で、譲渡されなかった場合に預託金は返還される仕組みとした。残り5億円が
日本プロ野球組織への支払いとなり、そのうちの1億円は加盟に際しての事務手続きの
手数料、4億円は野球振興基金への寄付としている。これだけステータスを整えながら
この馬鹿さは一体何様なのだろうか。もしプロ野球と称するならこの巨人軍というのは
一度解体し3年間の公式戦撤退命令を出すべきである。そして各地にある独立リーグの
優勝チームを吸い上げるべきである。大体野球発展などと大それた宣伝広告を謳いなが
ら日本野球の面汚しを自ら進めている様は野球ファンならずとも日本国民からはスポー
ツ界からの撤退TV映像からの永久追放をすべきと言う声が多い。特に今やサッカー人
気やラクビー人気が出て来た中でも、花形然として今まで他のスポーツに対して全く歩
み寄りも寄与もしないでスポーツ界で高校野球の少年時代からTVニュースとなってい
るこの王様感覚での国民スポーツと吠えていてそれに呼応していたメディア体質である
これを一度見直し もっと常識的法律解釈や社会作法やスポーツ歴史とかちゃんと知る
べきで知れば巨人ほど野球を愚弄している。黒鉄ヒロシは全く間違っている法律論だ。


763: 名無しさんAA:16/03/16 07:23
ナチュラル 39

 大阪の教育委員会は大阪市立の寺井校長が「女性は2人以上産まなければ日本は続か
ない。出産はキャリアより尊い。」と中学生相手に離したとして話題になっている事に
「個人の意見を公けの立場で言うのは良くない。」として処分を検討すると発表した。
全く馬鹿げた判断だ。経済的に立ちいかないから日本を支える為に産みなさいなどと言
うのも可笑しい話だが この話が個人的見解だと言うのも 変わった偏見に満ちた意見
である。そもそもの、人の道。人が生きている資格。人が生きて来た歴史。は先祖にあ
る。学校で人を教育する理由は子孫繁栄の平和な暮らしを願うからに他ならない。まず
今の平和や安全或いは幸福や生きている証は 過去の苦労して積み結んだ事の結実体と
して現代がある事による。それは不幸であれ仕組みであれ物であれ言語であれ地理であ
れ社会であれ過去無くして有り得ない。だからこそ逆に未来へ繋ぐ存続させる夢を育み
希望を与えると言うのは今にある我々の使命であると言える。キャリアがどうだとか、
出産がどうだ、と言う前に子供は人類の宝であり 人が子供を産み育てる事は命の尊さ
の第一の要件なのだ。人が居て平和があり社会があり仕組みがある。そうした中の事で
キャリアや資格があるのであって根本の出産育児がある事が本来の人の幸せの最大の物
なのだ。それは年金問題や経済問題や少子高齢化問題以前の 人間として生き物として
の大きな意義なのだ。そうした意識なくして愛も恋も話としてはないし結婚なんて更々
ない事になる。人が自分だけでいい自分さえよければいいとすれば社会は存在しないし
学校も金も要らない。それこそISILと同じな人身売買の上に女性蔑視や人間差別の
世界の構築に繋がるのである。強ければ好い人殺しも好い金さえあれば好いの権力の上
の階級社会にすり替わる。この危険こそが人類が最も敵対している思想なのだ。その意
味では大阪教育委員会は全く処罰し解体すべき反応である。そもそも教育委員会は独立
した社会基盤としての教育理や共済思想は無いのか。もしあるなら教育意義に子を産み
育てる事の貴さや尊さがあって当り前の話である事は解ろうと言う物だ。ただ人が増え
る事が日本が続く事経済や年金が続くと言うのはちょっと違っている話ではあるが。



764: 名無しさんAA:16/03/25 03:13
 いざ酔い いざ並み いざ晒場 62

 シャープの先行きが今なお不透明らしく、2月の取締役会で台湾・鴻海(ホンハイ)
精密工業の資本導入で傘下入りを決めたシャープだが、途端に債務リスク浮上買収条件
見直し などのいちゃもんや難題を迫られた。対案だった政府系ファンドからの、産業
革新機構買収案を支持したシャープの社長や幹部達だったが、最終契約の為の株主やら
外部取締役への了承が得られなかった。今や「決めた取締役は責任をとれ」と怒り心頭
だがこれが中国人のやり方である。つまり人の時計を見て「それは私のだ」といちゃも
んをつけ、「何を馬鹿な事を言っている。」と言う持ち主に、「では、話し合いしまし
ょう。」と言う泥棒共産社会の常識を投げかけるのである。かつてそれらの習慣を知ら
ない銀行は全く無知にも盛んに優良な中小企業に大陸進出を進めた。この事で日本経済
の半分が中国に盗まれた。この責任を取る事無しに 銀行の業績悪化を盾に国は統廃合
を進めては日本潰しをそのまま見逃し その後の国会答弁でも「中国を脅威としない」
などと答えていた。この馬鹿さ加減は当然銀行を有頂天にさせた。その後の銀行収入は
史上空前の利益になった。それもそのはずそうした罪を見逃した上に銀行に大きな資金
投入やら貸付や日銀の利下げを行っては肩入れしたのだから。その御馬鹿な政策の仕事
しない放漫経営浸けのまま今の日銀の逆利があるのだから。中国も共同経営者を法律で
作り最終的には日本人経営者を追いだした。日本からの投資で日本からの生産機械やら
生産技術を横取りし最終的には日本の持っていた顧客まで盗んだのである。そりゃ中国
の発展は目を見張る物があろう。当然である。何も無い所に家や資材更に教育に御客と
全てを只で物にするのだから。そしてとどのつまりは官製デモと尖閣諸島など領海襲撃
である。赤サンゴ・ウナギ稚魚・回遊魚の根こそぎ獲り・海水汚染・空気汚染・軍事威
嚇と数限りない悪の大元は日本の銀行陣の呆れた指導だった訳である。そしてそれを後
押しした自民党に怒ったのだが事もあろうに新しい内閣民主党は議員大団体で訪中団を
をして下戸をしたのだ。全く自民党が銀行からの借金が多いと聞いてはいたものの日本
は何処に正義を持つのか。先の中国流出で日本の産業5割は廃業した。そして経験のな
い進化した技術は社会的使い方を知らない為今やチャイナショックである。この中で今
安倍政権は増税すると言い出したのだ。キチガイ沙汰である。今や世界経済の落ち込み
は推計ではあるものの あのリーマンショックを2割方超えている。それだけ消費需要
より貨幣価値や資本価値の方が流通しすぎているのだ。消費社会の中で消費がないのだ
どうせこのシャープの決断も銀行のよこしまな考え方が壁になったのであろう。

765: 名無しさんAA:16/04/06 23:22 ID:ego
 追憶の彼方から26

 ドイツ進撃が止まったのは アメリカのパットン先発隊が老兵を持っていたからだと
言われている。つまりアラクールでの戦車戦でおよそ75%のドイツ戦車隊が若い司令
官の無茶苦茶な指令で打ち負かされたのである。勿論アメリカのパットン戦車隊も又2
割程の多大な被害を受けた。この戦争は第二次世界大戦の最大規模の戦車戦と言われた
フランスのロレーヌ地方での攻防戦である。主砲パンター戦車を主力とするドイツ軍と
、シャーマン戦車が主力の米軍とが激突したとなった。そもそも戦車の歴史は紀元前の
騎馬戦と言われる。だが今の鉄製ボディの火砲と自走を持つ形になったのは第一次大戦
の土豪戦の行き詰まりからである。間に合わせの農業トラクター改造しキャタピラーを
つけて砲の直撃弾を受けない限り壊れない鋼鉄の箱の自走車を作ったのだ。マークTと
呼ばれたこの敵陣突破の切り札「戦車」が誕生した瞬間だ。そのため、敵の攻撃を気に
せず歩兵隊が前進でき、機関砲で敵兵をなぎ倒すこともできた。こうして、行き詰って
いた領土の取り合いだった第一次大戦はドイツの敗戦で幕を閉じた。その後も砂漠での
高射砲に鉄製の盾を取り付けたトラックが活躍するなどあったがその鉄骨生産を敗戦国
ドイツに任せた事でパンタ―戦車が産まれた。この生産の成功でヒトラーの気合いの入
った演説とともに、歴史上最大の「バルバロッサ作戦」が始まった。ドイツ軍は全兵力
の三百万もの大軍を投入し、ソ連軍もほぼ同数で迎え撃ったとされる。ベルリンモスク
ワ間千六百kmにわたる長大な戦線で大軍が激突したのである。途中の中堅都市はことご
とく戦禍に巻き込まれたのだ。ところが快進撃だったドイツ軍も秋になってモスクワの
傍では見た事もない戦車に敗退する。T34の量産戦車だ。第18装甲師団は迫り来る
ソ連機動部隊にV号戦車で応戦したが、主砲の50ミリ砲が命中しても、はね返される。
反撃され、V号戦車は火だるまになった。そこで、ドイツ軍は最強のW号戦車を投入、
75ミリ砲で砲撃したが、結果は同じ。ありえない ・・・ ドイツ軍はパニックに陥った
。それでもW号戦車の機動性をいかし、敵戦車に近づきキャタピラに命中させ、やっと
進撃を停止させた。とされる。T34は氷上走行を想定していて接地圧を高くする為に
キャタ幅が広く重かった。更に量産に届いたとは言え鋳造の為大量生産まで至らなくて
メンテの少ない燃費の良いディーゼルであったと言われるが各隊別での燃料調達量は少
ない勝手に引いて防衛戦を敷く事に回ったと言われる。幻の戦車戦と言われる所以だ。


766: 名無しさんAA:16/04/06 23:22
 ここでドイツはその情報からスペックの高い重戦車を制作する。「タイガーT極初期
生産型戦車」である。絶大な攻撃力と防御力にを誇るスペックでその名を刻んだ。ソ連
のT34の最大装甲厚は52mmだが、タイガー戦車は100mm。2倍の厚さの鋼板をつけ88ミリ
の主砲を付けた。だが常識外の装甲は、当然重く56トンで、T34の2倍。大出力エンジン
を乗せる事でも動きは最低だった。650馬力のガソリンエンジンが搭載されたてはいた
が力不足で速度は遅いし、悪路はめり込んで動かなく、機動力はなく更にメンテナンス
は複雑だった。1942年、チュニジアのロンメル将軍率いるアフリカ軍団に渡されたもの
だが、複雑怪奇なこの戦車は真っ白な砂漠では全く使い物にならなかったらしい。当初
イギリス軍がM3と呼ばれるアメリカ南北戦争時に活躍したとされる歩兵隊用の戦車で
イタリア軍を圧倒し僅か一個師団しか残って居なかったとされる。だがこのM2も銃撃
戦用に開発されたM1戦車を単に相手とされる普通の高射砲を乗せたトラック部隊であ
るような粗末な戦車だったが 其処が機動力に優れていたのだろう。モンゴメリー将軍
はイギリス陸軍の代表としてこの砂漠での勝利がすぐ目の前である事を確信していたに
違いない。だが2月中旬にロンメル将軍は先に着任していた。彼の持つ先頭師団の戦車
連隊がトリポリに上陸したのは、三月も中旬になってからであったがイギリス軍はこの
キレナイカの追撃で態勢立て直し中だと判断し三月には自軍を使わずイタリア軍に用意
させたアフリカ軍団の機甲師団だけで偵察的反撃にでた。だがこれが功を奏して英軍は
最近占領したばかりのキレナイカを全部すてて敗走するに至り ここからドイツ進撃が
始まったのだが ここでタイガーの砂漠作戦に異常事態が起こる。チュニジア戦線には
米英軍の補給拠点であるアルジェリアの要衝テベサ(fr)を陥落させてそこから地中海へ
北上し、米英軍と後方のアルジェリア諸港を遮断して壊滅させることを提案したがアル
ニムはそのような野心的な作戦を実行できる戦力は無いとして反対していた。これを統
一させる事無しに当初は戦勝していた為に後ではことごとく米英の空軍混成作戦にやら
れてしまう。もともとロンメル到着と共に米英も戦力の態勢増強図るに間に合わなかっ
ただけで ドイツも基本はイタリアの防衛の為の戦線として物資補給や増強を考えては
いない中での伸びきった兵站と強硬作戦に疲弊しきっていた事も原因だと言われている


767: 名無しさんAA:16/04/06 23:23
だが実はこの北アフリカ戦線の快進撃こそがそもそものドイツ参戦失敗と戦争の縮図
のようなものである。ロシア戦線で冬将軍の洗礼を受け敗退を余儀なくしたドイツは、
次にはフランスへと進軍しパリ陥落をさせた。そうしてロケットによるロンドン攻撃と
イタリアなどの地中海防備と米軍守備の為に Uボート増強と北アフリカの領土侵略を
図ったのだ。そして其処に最新兵器への奢りからロンメルの左遷からアフリカへの命令
があったとされる。実はロンメルは第一次大戦時からの兵士であり司令官である。当時
のドイツ国民にはヒットラーよりも人気ある神格化される人物であったと言える。だが
このロンメル将軍は戦闘に勝つ事だけを求め究極的な戦争の勝利や政治的野心は無いと
言う人だったらしい。つまり命令で戦い、戦いだから勝つ工夫をするという気骨の人物
で国民やら戦争の悲劇には極力見ない言わない人だったのだ。この時ドイツはパンタ―
戦車を量産し現場に送っていた。対してイタリアを進撃するに連合国はシャーマン戦車
でカナダ軍を入れた。シャーマンの砲撃は新型パンタ―Dには手も足も出ない程の性能
の良さだった。まず13発〜20発を喰らったドイツのパンタ―戦車の鋼板にはT34
から取り入れた鋭角の傾斜装甲板をつけ、全て跳ね返されたというのだ。対して大きく
長くなった砲身は強力な70mm仕様をしタイガーの88mmには及ばないもののシャ
ーマンの薄い装甲板を突き抜け後ろの装甲板まで抜けて爆発する有様だ。840両ほど
造られ2キロ先の戦車を打ち負かした。D型さえそうだったようで改良されたA型G型
には攻撃力防御力機動力全てが備わり時の戦車の機能は世界一に代表される程だった。
だがその為にドイツ軍は敗走する羽目になったと言われている。つまり最新技術や世界
一の強さの戦車に人の持つ感性や戦術が追いつかなく更にその為に経験値ない若者を多
様しては使いこなさない老いぼれと老兵を追いやったのである。この最新科学や技術へ
の過信が満身創痍を産んだ。この事はドイツに限った事では無い。日本も戦艦大和や武
蔵を建造し世界一のバラスト付巨砲艦を作り大和が沈む時は日本が沈む時だとまで言わ
しめた程の威信があった。ゼロ戦も又開発され造られた当時は戦闘機としては最高の物
で攻撃力小旋回による回避力航続距離など優れていた。だが時はそうした物を留まらせ
るほど単純で動きの無いものではない。戦艦は空母第一主義の戦法に代わり戦闘機も又
防御や安全或いは高高度が求められた。戦車も又重装備で破壊力が強くても機動力での
小回りで果敢にキャタピラや回転砲台を狙われる事で幾度もの破壊がされて敗因となっ
たのである。つまり完全は何処にも無かったのだ。核を持ったアメリカさえベトナムに
負けたのだ。歴史は言う時を制する者はいない。過去を知る者こそ未来を知る。と。


768: 名無しさんAA:16/04/06 23:59
このドイツにしろ英国にしろロシアにせよ米国にせよ 軍備を整い最新のスペックを
持つ戦闘機器を開発した国が負けてしまうの事件は殆どの国の宿命である。どんな機器
が最新鋭になったにせよ なった途端に人はその機器に頼ってしまった社会や仕組みに
合わせなくてはならないからだ。それが戦争兵器となれば尚更である。不思議にもこの
人の最新鋭機器を持つ国の敗戦は不幸にも今も続いている。高度に発達すればするほど
人はその高度さについていくしかないからだ。ドイツが戦車戦で負けた様に大航海時代
から巨大帆船を作ったギリシャが負け其処に砲台を乗せたスペインが負け蒸気船に変え
た英国が負けた。潜水艦とは言えないもののUボートのドイツは負けて核を作った米国
はベトナムを敗退する羽目になった。それを真似たソ連はアフガン撤退に力を注ぎ解体
に陥りロシアに変わる。そして多分今後はアメリカの軍産産業を牛耳て止まないユダヤ
はその母国イスラエルが相当に小さくなるであろうと思われる。何故か。今のイスラエ
ルに謙虚さや人の命の尊さの教育の無い鬼道社会に達しているからだ。アメリカの理由
無き殺人の様に路上での勝手な銃殺を繰り返す兵士を制止する事が出来ないという国家
としての態が無いからだ。政治家がパレスチナを悪として右派発言を繰り返しその事で
この殺人狂兵士の処罰に住民は無実のパレスチナ人を銃殺して当然である。とまで言う
のだ。従ってかつて平和を願い米国でアラファト議長と協定を結んだロビン首相を暗殺
した時以上に過激な戦争思想が渦巻いている。過剰武装で石投げの青年に戦車で応戦し
ている事自体がおかしな話だがそれでもそれを当り前と住民は思っているのだ。これは
北朝鮮の核武装以上に陳腐な論理である。国際社会がイスラエルに原爆を落とせと言う
のも頷ける話である。がそうした戦争以上に国内の波乱に止められない国のみじめさは
イラクやシリア或いはパキスタンやスーダンで目にするのだ。つまり難民として平和な
生活普通の家庭を求めて移住する人々の群れである。現実論として人は生きる権利を持
つ。武器も無くただただ食糧や安住の地を求める人々には 敵も味方も無くやって来て
いるのだ。だがキリスト教圏とイスラム教圏の仕組みや常識や言葉や感覚は大いに違う
。良く多様化文化の受け入れなどと言うが 人を殺してでもいい人と限りなく人権重視
する生活が同居して生活は出来ない。双方に理解すべき学習は必要だがそれでも非人道
な行いは正しても許されるべき事ではない。これが最新鋭兵器の国の事実で負ける理由
である。人道に劣った鬼畜の行為は国を滅ぼすそれが如何にスマートな装いでも 人を
差別するからだ。其処には支配と言う快感と被害者と言う悲惨さは同居出来ないのだ。


769: 名無しさんAA:16/04/08 03:39 ID:FGE
 遠藤大臣は賭事をした選手にオリンピック出場はない。ときっぱりと明言し馳文部科
学大臣は選手は何故スポーツをやっているのか勝負に勝つ事以外に大きな意義がある。
と問うた。成程・・・と思うがこれらは大臣の言うべき言葉ではない。特に遠藤大臣は
事の真意を確かめる立場にありながら 事無げにオリンピック出場は無いと明言した。
それはおかしい話だ。誘われたのか陥れられたのかたまたまの一元客か常連客だったか
そこいらの判断では違うだろう。又賭け事がいけないなどと言うのではパチンコはどう
だ競馬はどうだ競輪は競艇では・・TOTOは宝くじはどうなんだと言う事になるはず
だ。公営ギャンブルだからいいと言うのは理由にならない。あくまでも賭け事には人は
そうそう目くじら立ててはいない。特にアマチュア界ではプロの様なスポーツそのもの
で上達し稼げとの意見は無いはずだ。あくまでも五輪出場を目指せと言う事だろう。で
は問題は何処にあるか。つまりこの裏カジノと言う社会通念で許容できない物の存立に
お客として関わっていた。という事が問題なのだ。知らないまま賭けないままで出入り
する事もあるならば 其処は認めるべき事だろうし こんな事実関係もうやむやのまま
で大臣が「いかん」と発言するような軽い意見は要らないのだ。TV局も大臣も全くは
き違えたいけんである。プロ野球の賭け事と同じ視点とすればそれはおかしな話である
。視聴者でも どこかの議員の様に甲子園で負けろなどと吠えるような悪態を 国民は
つかないだろう。やはり出場してもらいたいし出る以上は勝って欲しいのである。出場
選手枠も各委員会で色々あるがまず五輪用に世界ランキング制を敷いての選手枠とした
柔道はかなりいい だがこれにも20歳枠を付けてほしいのである。15〜25までの
若い人々に夢を繋ぐ人材として活躍して欲しいのである


770: 名無しさんAA:16/04/10 09:44 ID:ulc
プロ野球の賭け事と同じ視点とすればそれはおかしな話である
。視聴者や愛好者であってもどこかの議員の様な「甲子園で負けろな」どと吠える悪態
をつかないだろう。同じ国民として やはり出場してもらいたいし出る以上は勝って欲
しいと願うのである。だがこのNTT東日本は大きな間違いをしでかしている。まずこ
のバトミントン競技会の既に世界大会に出ては国民に五輪の期待を持たせる倶楽部なの
だ。広告塔や看板の一貫ではあったとしても管理が悪すぎる。12年ロンドン五輪代表
の田児選手達ののカジノ出入り時に止めるべきだろうし、桃田選手はNTT東日本の倶
楽部に入らなかったなら大手を振って五輪に行ったのかもしれないのだ。ここにきて日
本スポーツ振興センター(JSC)の「アスリート助成」の交付対象から外れる事を発
表している。これは又おかしな話である。五輪強化指定選手から外れている中の倶楽部
を応援してtoto収益金の交付を決定する権限を持っている。バトミントンの交付金
とその打ち切りはかつての銀行の勝手な強制貸しと貸し剥がしの暴挙と同じ悪態である
。全く間違えている。大体JSCも出場選手枠が各委員会で色々あるが、まず五輪用に
世界ランキングを日本流で敷いて発表し選手枠とし、その中で選考大会を決めるべきだ
更にこれに25歳までの枠を付けて次世代の五輪選手の育成をするべきなのである。


771: 名無しさんAA:16/04/17 09:09 ID:wTY
 老境の至り 56

 しかし このTV中継はなんと貧相な言葉使いだろう。まるで日本語ではない。映像
もズーム切り替えが早すぎて 見るに耐えない。感覚が麻痺していて恐らくカメラマン
としても記者としても最低クラスの人達であろう。若者が意味が伝われば良いとした安
易な言葉の早口羅列の流行やTVゲームの感覚言葉によるものだろうが いやらしくて
汚らしく 全く聞けない位だ。が不思議な事にラジオによる言葉が意外に正当性のある
日本語を使っている事に驚く。視聴者からの手紙やマイクとの付き合いが多く映像がな
い中にあるからだろう。その意味ではラジオの下積みを2〜3年させたアナウンサーを
起用すべきであろう。ニュースがお笑い番組仕様では視聴者は見る気も失せ 放送局の
権威もすたる。それどころか放送局事業そのものが仕事になってない事になる。

 瓦が崩壊→瓦が散逸落下 若しくは屋根の崩壊  大きい土砂→大量の土砂 又は大
 きな土砂崩れ  救助に向かう者ら→救助の人々助けに行く人達  コンクリートの
 道路 → アスファルト道路  天窓がガタガタと轟音→天窓がガタガタと大きい音
 が轟音の様に  無残ながれきが見えます→無残にもがれきになってしまった物が見
 えます。   一階が完全に押し潰され倒壊しています。→崩壊した建物は一階が押
 し潰されています。
 大体轟音とは地響きするもので天窓などはうるさいだけで轟音ではない。救助に行く
自衛隊や消防隊に者らなど 読み言葉を使うのはおかしいし瓦礫というものはそもそも
がゴミで無残なものでも尊いものでもない。揺れて倒壊して押し潰されたのであって、
押し潰されて倒壊したのではない。

772: 名無しさんAA:16/04/17 21:04
老境の至り 57

 国土交通省は一体なにをしているのだろうか。3日もたつというのに 新幹線の見込
みも空港の一時使用も高速道路の復旧もない。これは東北大震災より悪いのではないか
。まずは佐賀空港やら鹿児島空港などの活用して 他の県外との連帯と安定した一時の
住居を予定し移住させるべきである。更には今後の大分災害関西災害を考えれば、客船
などの停泊する一時避難の為の船を考えるべきであろう。島原の土石流の時も関西大震
災時にもこうした提言はしたのだが今だない。大体河野太郎は何をどう考えて原子力用
の運搬船を廃止しようとしたのだろうか。用が無い船があるとしても 新しい救護用の
船を用意させて実質活用を提言すべきで この意味では今東北大震災での道路復旧に対
して談合があったなど刑事罰しては こうした死人の出ている災害救助を送らせている
様は何んとも言えない馬鹿さがある。勿論汚職となれば別だが 国土交通省の考えた復
旧の為の管理契約ともなれば別の話のはずである。しかし声や発表や会議は多いが発動
や行動が遅い。重機の乗り入れもオスプレイ利用も遅すぎる。更に石破氏は一体何故に
こんな時にTVなんぞに出ているのだ。地方創生に県が指導取るべきが全くお粗末なま
ま推移している事を隠れてでもよく現場視察すべきだろう。これでは自民党に任せられ
る筈が無い。野党では尚更であろうが 日本人は一体どうすべきなのだろうか。


773: 名無しさんAA:16/04/21 14:04 ID:E0Y
いざ酔い いざ並み いざ晒場 65

 地震の震源地が宇土市でなく八代市に移った。これは断層シュミレーションと少しだ
が違う。勿論別府〜雲仙地溝帯の天草〜四国ライン上ではあるにしてもこの違いはちょ
っと以外性が高い。東シナ海のガス田の為だろうか。阿蘇山雲仙桜島 共に小規模噴煙
のままで圧力が逃げていない中に南下が大きい・・言った所か。インドでは又も熱波で
40度を超える日が続きそうだ。ムンバイ他での死者が出るなどその兆候に危ぶむ声が
ある。アメリカではあの西部劇のテキサスで豪雨だったらしく大水被害が出ている。例
に漏れず今や地球上は鼠の集団自殺の様に天変地異の時代に入った。この異常気象時代
に自爆テロなどと言う全く意味不明の攻撃型自殺者も多増しているという 何んとも言
えない言語道断な国際情勢なのだが 驚くのはこうした震災時や災害時でも株価は上が
り米国・日本共に原油取引がまともになったと歓迎している事だ。即ち正常に戻りつつ
ある。と人類は認識しだしているのだ。が それもそのはずだろう。今回の熊本地震は
日本人の学習能力の高さ 生存適応の高さが如実にでている。今や官民問わず支援をし
段ボールベットや畳などの防寒や防音用の物資が支援され 一時は混乱してたものの、
余震の続く中でも 水や食料や生理用品が運び込まれ 隣県でのストックヤード倉庫を
作り各所からの支援物資を小分け場所に配送し車の渋滞解消に一役買っている。更には
いつものコンビニは一週間で既に98%の再開店をし生死に関わる部分は一応は納まっ
た形で 今後もトレーラーハウスや支援援助船や医療チームやボランティアが立ちあが
り生活再建への支援の流れは確実に目に見えて進んではいる。だが運の悪い事は この
地震が性質が悪い事だ。今の時期が阿蘇にとっては一番寒暖差の大きい時期の一つであ
り 阿蘇山が大きくは噴火していない。更に今後の雨季前の大雨時期なのだ。風も強く
春の花散らしの風は過ぎたものの 東京などのビルでは足場が倒壊する程の突風が吹き
更には温度差による小さな竜巻さえも発生する可能性もある。今後二次災害やら大きい
余震などが無い事を祈りつつ こうした全国からの支援の絆で熊本や大分の人達の強い
生きる希望があるままに推移し 安全で安定した生活が回復する事を願うばかりである。

774: 名無しさんAA:16/04/21 19:25
悪魔の聖杯 1066

 もし この夢想劇みたいな地球収縮論のような事が起こっているとするならば、今後
山登りが好きな人達は少し控えるべき時に来たのかも知れない。特にエベレストでは、
温暖化とマントル対流での影響が強いかもしれない。良くは解らないが この日本での
中央構造線の地溝帯に異変が起こっているのなら、今後は延長上だろう台湾やら中国の
雲南省などは影響があるはずだろう。とも思われる。



775: 名無しさんAA:16/04/24 00:22 ID:3to
 落ちる筈の無い橋げたが落ちた。この工事は一体何をしようとしていたのか。巨大で
はあるとは言え この手の工事は何処にでもある工事である。更に不満なのはこの橋脚
に橋桁は既に送り込んでいる状態である。全く広島交通公社の事故の教訓が全く生きて
いない。としか言いようがない。ジャッキの数量不備 予備的安全防護不備 更にこの
強風対策不備 としか考えられない。さらに言えばこの工事の設計仕様に片荷計算が出
来ていたのか気にかかる。そしてこうした経験値がない作業者がたまたま今まで成功し
てきた工事をしていたのだろう。更に言えば 事故当事者が又も三井住友建設である。
低価格入札で安全不備のまま高速道路を通行させたまま工事させている。と言ったお役
所の役人思想が見える。この愚とも思えるずさんさは日本人の性格なのだろう。安全に
は幾重でも稔を入れて無事故貫徹を指導する 通産省肝要りの西日本高速公社がこれで
ある。国民から言えば国の国土交通省すらも発注者責任を逃れられるものではない。法
的には責任が無いとは言え この事業自体が国土繁栄の施策の一環のはずだからだ。路
線にしろ開通時期にしろ工法にしろ 作業者のみならず建設従事者に権限はない。その
意味では 国の過失であり 大きく言えば総理大臣の失策である。広く大きくこうした
事故への施策が 締め付けにしか作用していない事がそもそもの原因である。従って、
今や建設の労働事故のみならず 交通の自動車でも 或いは経済や教育の死亡事故でも
医療や介護或いは食品の事故でも 何故だか増えている状況である。これだけ発展し機
械化し大型化しているにもかかわらず その形態が旧態依然として階級型経済合理性の
中にしかいないからだ。これは北朝鮮政策と全く同じで何ら進展していない。そして戦
前戦中の軍隊よろしく 知恵の無い権威主義の下の繁栄で済んでしまっている表われで
ある。格差社会の解消や差別の撤廃や 自由平等博愛の下の価値観 女性進出などまだ
まだ先の話としか 言えない。

776: 名無しさんAA:16/04/24 10:23
何故だろうか

 熊本地震で捜索や家屋倒壊などのTV放送にはやはり興味からか唖然としていただけ
の自分がいて避難者の苦労には大変だろうとの感はある。ニュースでも九州新幹線の開
通時のCMが今評判とあったが ワイドなショーでこのCMがかなり長く再生されたら
何故だか涙が出て来た。この涙や感情はなんなのだろ。新幹線の虹色がカッコよく見え
た。いままで昭和世代のダサい感覚に見えていたものが まるである時の生花の様に、
素晴らしく感無量であった。なんなのだろうか 解らない。今だ余震が我が家にも及ぼ
す中で 全く流す事のない涙が何故だか出て来た。このCMはすごい。そして全編での
映像に起承転結がある。


777: 名無しさんAA:16/05/04 10:40
悪魔の聖杯 1067

 熊本地震は今だ余震が続く中だが 今回桜島の昭和火口からの噴火が認められた。小
規模ながらも阿蘇山も又噴煙を上げ始めた。これで地下のマグマの圧力が逃げて削がれ
るならば 余震は次第に収まるであろうことが期待される。折しも梅雨前であり この
悲惨な惨劇の前に避難された方も多くが 又始まるだろう大きな余震が怖い中での生活
を強いられて来たのだ。体感が無いくらいの地震ならば気にしないで済むだろうが何回
も押し寄せては揺さぶられる家屋の中では生きた心地がしない思いで 到底生活の為の
インフラ復旧もかなり険しかった筈だ。この桜島などの火山の噴火で 地下の圧力が逃
げてエネルギーが削がれ地震の揺れが小さくなる事を願わずにはいられない。
 こうした中現地の写真を見ていると不思議な事に気付く。東北の津波跡でも見つけた
のだが 本当に昔造りをしている建物は倒壊していないのである。熊本城を見ても解る
様に明治から昭和の補修跡が全て壊れている。これは民家も同じでかなりに新耐震風の
建て物が壊れている。これは一つは木の強度と土地の堅結性によるものと思われる。土
地揺れに対して旧来の建て物は重さで持つ工夫をしており ボルトやナットによる堅く
結ぶ処置はしていない。だが近来では杭もコンクリートに巻きその基礎の上に土台を縛
る事を前提に構造計算がなされている。と言うよりそうする事を法律で規定している。
実はこれが大問題で今の免震工法も或いは新しいタワーもこうした揺れの力を逃がすと
言う古来工法を見本にして新しい物を強くしている。つまり今の様な鉄に頼り金具を多
用した特に国の公的資金貸し出し基準が一番もろい結果を見せつけている。更に酷いの
は土地開発に一部の議会や議員達の勝手な認証で行われて来た事がそれに拍車をかけて
いる。農地改良による雑木林の開発が東北大震災でも被害を大きくしたし 耐震化など
していなかった土蔵造りが津波に残っていた様に 今回の被害は阪神淡路以降の建物が
最も弱く それは地盤の揺れに追随してピン構造にならなかった事でかつての大きな土
台にほぞの栓までしていた建物は折れない柱である時はかなりに残っている。それは瓦
が泥下地に関わらず揺れがそのままずれとしかならなかった事で免れたと思われるから
だが それでも頭の揺れを支えきれない支柱構造では倒壊がより酷くなっている。


778: 名無しさんAA:16/06/11 19:11 ID:z2Q
老境の至り 60


 今年は日本にとっては非常に珍しい記念日的年なのかもしれない。戦後処理70年の
年であり水俣病確認60年であり高速道路50周年である。1964年に行われた東京
オリンピックは 当時164憶円かけた競技場などの施設整備費を計上し、大会運営費
94億円、選手強化費用23億円を計上した 281憶円の国家プロジェクトだった。
当初1200憶とされたものを切り詰めての大会運営だったのである。2025年に行
われる新東京オリンピックは一体どこにどう行きつくのか全く分からないが少なくとも
東京都知事の公私混同問題やイギリスのEU離脱問題も解決しブラジルの政務混乱も又
解決してリオオリンピックが終わり大きく飛躍した国である事を願うのだが。そんな中
ヘイトスピーチに対して法案が示され報道特集は大きくその現状を報告してはいる。が
内情としての安易な在日朝鮮人特例法が消えていなく 大手を振って日本人になり済ま
しては日本の義務教育も受けず反日に染まったままに税金も払わず姑息な生き方を選び
少年や青年時代の朝鮮人特有の恨や怨の感情のままに生きて日本に住み着いている事は
ちょっと考えてもらいたいものだ。この日本列島が他国民の文化に犯され浸食されてい
く事はグローバル化の波の下仕方のない事だが、それでもあの枡添都知事を見るように
日本人の価値観からは全く認めれられない判断と優柔不断な思考と全く暴虐武人な素行
と考えれば 相容れないアイデンティティがある事は明らかであろう。都議会が全くも
寓にもつかない事であの猪瀬知事を退陣させていながら 今度は選挙資金や政治資金の
借入ではなく使い方の公私混同ないい加減な税金の無駄使いに全く批判しないまま過ぎ
て都政をさせていたからお笑い草である。今回もなぜだか市民が大声を出して批判しな
けば全く 法的に問題ない処理をしている政治資金法に乗っ取った記帳をしている。と
大手を切って都知事のまま出来ると言う話であろう。が基本である政治資金規正法以前
の問題として 地方公務員法や選挙法あるいは民法や国民の税金の使用に対する民法や
他国体をなす日本国憲法に違反して居ていては話にならない話で 国民は等しく平等に
税金を納め 健全な社会を創造する目的を持って 生活しなければならないのである。
これを節税と言う脱税 情報保護と言う隠し財産あるいは非公表は許されないのである
。公人としての資質と能力 更に公人としての清貧なスター性やカリスマ性が今や自民
党にはないが、それは国民が自民党不要論を唱え始めた狼煙でもある。正に権力にしが
み付くさまは朝鮮人的すぎるのである。その意味ではヘイトスピーチ反対論者は殺人者
擁護論と同じ論理を展開していると言える。

779: 名無しさんAA:16/06/20 03:07
黄泉の国物語 115

 鬼っ子は揃って振り向き「白王様。」「白髪王」とそれぞれに呼びかけた。ただ茫然
と立っていた白髪王は突然よろけたが 白馬はすぐさま後ろに行ってその身体を背なに
受けた。「ああ・・」と言うなり座り込んだ白髪王に又口ぐちに呼び掛ける。「白王様
。」「ああ解っている この虹の龍からどうにか脱出せねばのう。」「じゃが手立てが
見つからぬ。更に常世の主が何物かが今だ解らぬ。」「・・・」「ああは言ったものの
さてさてどうしたものか。」「大丈夫ですわ 私らは今だこうして健在だし人間と違い
食べ物がいらない身体だから。」「ああ解っているだが問題はこれだ。」と石を手に持
ち投げた。投げた石は遠くまで飛んだが 虹と交わろうと言う所で突然消えた。時間の
壁に飲み込まれたのだ。「あの壁が動かない保証はない。今のところ動く気配も無いが
のう。」みな口をつぐんだ。「う〜ん。」と座り込んだ老人は「こりゃ^困った。」と
天を仰いだ。「あの 例の真実の木の葉は役に立たないの。」とそっと娘が言った。「
ああこの魔法のような木の葉も 魔法があってこその木の葉じゃけにのう。今やわしの
身体には 霊気も覇気も何も無い事が解ろう。わし自身このこの身体を保っているのが
やっとだわい。いや〜困ったのう う〜ん。」とうなった。「でもその真実の木の葉は
霊力で薬にもなるのでしょう。少し食べてみたら。」「おおそうじゃな 他人にはやる
が自ら飲んだ試しが無かった。少し噛んで落ち着いて考えてみよう。」「ええきっと何
か良い方法もあるはずだわ。あの幽霊のようなタコ坊主の言う通りにならなくとも。」
「ああそうだな。」「そうですとも。」
 その時一陣の風の様な物が吹いた。白いとも黒いとも言えないレンズ越しに見る世界
のように 周りの景色が揺らいだ。
「今だ この風に 我らの望みがある。さあ祈ろう 心を捧げよう。風の神我らを助け
よ。」そう叫んだ。


780: 名無しさんAA:16/06/20 17:19
  希望と光の間 70

 インカ帝国にスペイン人がやって来た時 馬と武器と伝染病がもたらされたと言う。
それは日本でも中国でもインドでもアフリカでも同じことだった。その時々の最先端の
人殺し道具と科学の知恵と更に悪習とを蔓延させた。がそれは数世紀もの昔の話である
。それでもその後も事ある度に色んな西洋式の邪な心や疑心暗鬼が悪い事を世界中に起
した。世界大戦もその一つだろう。そうした歴史の繋がりで最前線に現代がある。それ
でも今のISILや避難民やアフガン或いはイラクやシリアの現状は今の私たちの世界
が造り私たちの目の前にある苦難なのである。と言う事は 同時代を生きる世代として
そしてこの世界の先進国の一員として我々は平和や安定を取り戻す処理をしなければな
らない。そしてその中には日本国民も含まれるのである。で今や日本人は中国の馬鹿げ
たアフリカでのやり方にアフリカ人と共に怒るべきなのだ。と言う事で私は今度の参院
選や都知事選にはアフリカに出長所や支所を作る作業の出来る人を選びたい。事実今の
アフリカは例えばスーダン一国であろうがかなり大きい地域で本州がすっぽり入る程の
国土の大きさなのだ。つまり今や日本のインフラ整備は少しずれて来ているが この地
アフリカでは日本の技術や資金でまだまだ開発の余地は高い。そこでリビア砂漠の緑地
化を提案したい。具体的にはリビアのラスファンファ辺りの砂地に港湾施設と低床農地
を作り堤で囲い自衛隊を駐留させる。勿論病院施設と日本語学校も併設する。更にここ
からビッテイ山に向かって一直線に高速鉄道と道路と川を作るのである。リビアは知っ
ての通り今や石油を巡ってカダフィ大佐亡きあと体制派と逃げてきたISとが衝突して
今や第二のシリアの二の前になろうとしている。現実に避難民の多くは地中海をこの地
から船を出したりしているらしい。が考えようでは食料生産基地として成功すればこの
避難民は逆に今ISが逃げて来ているようにシリアの民さえ受け入れられるはずなので
ある。問題はその環境作りである。新しい街は塀もしくは崖で囲い日本の持つ生体認証
カードで管理し武器放棄した町にする事が大事である。後はEUや国連などからも支援
が必要だろうが 建設に対する仕事場が出来れば食料券と引き換えで労働力は充分であ
ろう。勿論大型重機やその設計は必要だが それは日本のお家芸である。問題は仏教徒
に変えるべき事である。イスラム教でいけない事はないがそれでは世俗派と原理派との
確執がありシリアの二の舞である。水と食料が襲われない。安全で平穏に暮らせるとな
ればイスラムを捨てても大丈夫であろう。



781: 名無しさんAA:16/06/20 21:38

 本末転倒 28

 英国がEU離脱で揺れている。が離脱派は大きく間違えている点が3つある。移民の
問題が離脱して減る。と思っている点が1つだ。もし離脱するとしたなら40万人の難
民は逆に単一になったイギリスにのみ押し寄せる可能性がある。今はまだEU全体での
対応で主にドイツに向かっているが今後イギリスが一国で処理できないとした時大群で
押し寄せる難民にはとても太刀打ちできないだろう。そうすると暗躍する渡航ビジネス
のIS資金はかつてベルギーを根城にしたように弱いイギリスを狙い撃ちするだろう。
更にこの対策にはイギリスは対応できないであろう。第二の点は多分今後離脱したとし
て経済的余裕や国家予算は悪化し難民に対する寛容さは今以上に無くなるだろうという
事だ。殺人事件との直接的関わりは無いにしても 過激な発言で煽っていた点は免れな
い。それがヘイトスピーチとその対策で追われ更にアイルランド問題がこじれた場合は
英国そのものが瓦解する可能性がある。つまり先のスコットランドとイングランド分裂
の選挙やアイルランドと北アイルランドの闘争が再びまきおこり自爆テロどころか戦争
にさえ発展しかねないのである。勿論最終的に勝者はイングランドであろうがそれでも
多分かなりの痛手を負う事だろう。更に3つ目はこうした分裂しその国々の意思が外交
や軍事力の駆け引きが横行し諜報戦などのカオス的混沌とした修羅場になる事だ。実は
この修羅場をなくそう国民を大事にして共産主義やモンロー主義独個主義を無くして、
むしろいがみ合いのない同じ目線で成長しようとした事から 食料調達やエネルギーの
調達さらに軍事や経済の協力姿勢が発展し金融を統一したEUが出来たのである。今後
もしイギリスがこの協調社会を拒否したばあいは 勿論EUもイギリスも経済の落ち込
みが発生し更にその落ち込みによってはイギリスには国外産業が一社もいない状態にな
りかねないのだ。あくまでイギリスに出張所を置いている会社はEU全体のパイを見越
して来ているのだから。つまりは離脱派の言う弁明には何一つ正確さがないし大義名分
がないのである。


782: 名無しさんAA:16/06/22 22:43 ID:dPI
閑話休題(国際経済問題)

 いざ酔い いざ並み いざ晒場 75

 クロコダイルがパンダの食欲に呆れている。そんな構図がアメリカFRB議長の言葉
に見え隠れしている。ウォールストリート・ジャーナルは「中国に迫り来る通貨危機」
と題するものがあった。大方の見方を確証するものだが大方の予想を裏切って今だ中国
危機(チャイナショック)の処方策は行ってはいないらしいどころか返って危険が増大
している破茶滅茶ぶりである。国際金融協会(IIF)がまとめた新興市場の負債報告
書では家計債務の対GDP比の増加率は、中国が3・59%で最も大きく2位が韓国で
3・45%増を超えているとしている。国際決済銀行(BIS)の統計によると、昨年
9月時点の中国の民間債務は21兆5160億ドル(約2417兆円)に達したとして
いる。15年9月末時点で205%と、ついにGDPの2倍を超えた。かつての日本の
バブル崩壊後の水準だが中国では今だバブルのままでこの水準だ。中国人民銀行は「企
業の借り入れを中心とする借入金のGDP比率は高過ぎる水準にある。」と現状を憂う
。経済協力開発機構(OECD)は、セメントや鉄鋼、石炭、板ガラスといった業種が
短期的なリスクを抱えていると危機感をあらわにした。現実に日本の大手商社は中国需
要に対抗した投資で大損している。チャイナショックで暗転した三井物産で最終損益の
見通しを1900億円の黒字から700億円の赤字に下方修正し創業以来初めての赤字
。三菱商事も当初の3000億円の黒字見通しから1500億円の赤字へ下方修正。こ
ちらも戦後初の赤字となる。住友商事も利益予想を2300億円から1000億円へ引
き下げて伊藤忠のみ最終利益は3300億円と最高益を更新するがこれには裏がある。
中国との競争ではなく中国企業に資本投下し距離を置いた為で今後の進展ではより痛手
が出る可能性もある。今年の中国の銀行の新規融資額は、前年から3割強増えたとして
、ロイターはコラムで「中国の債務負担は増加の一途をたどることになるだろう」と警
鐘を鳴らすが一向に見向きはしない。国内競争で鉄鋼の値段を下げ国外にそれを持ち込
み今や石油・食肉・農産物・鉱物・鉄・セメントと至る所にチャイナショックが発生し
て格安暗転時代を作っているようだ。これを受けてFRBは慎重にならざるを得ないと
いう経済模様である。


783: 名無しさんAA:16/06/22 23:40
 いざ酔い いざ並み いざ晒場 76

 とはいえ中国のみが危ない訳ではない。一番危ないのは韓国経済であるとの見方も今
や常識である。常に揺さぶりをかける北朝鮮に対してアメリカ・日本は今や人道支援も
やる事はない。この事が韓国人には不満である。と言うのも漢江の奇跡などと言われた
が現実には戦前の北朝鮮に置いてきた工場や技術や資材で北の財政が潤っていたように
日本から取りつけた経済支援や無償援助をそのまま漢江の工場群に投資し北から逃げて
来た旧日本の技術者教育を受けた者に最新の日本の技術を受け入れさせて大きくなった
のである。これを推奨したのが米国で日本は敗戦の痛烈な反省から喜んで国家予算の4
倍を投下したのである。中国も又同じで田中角栄の中国接近で欧州米国は出し抜かれた
と勘違いし盛んに投資した。そして危険が大きく利益が出ないとなると すぐさま日本
企業に売り払い日本の銀行は多くの支店を作り中小企業にまで投資をそそのかした。そ
の中で日本のメディアは中国政府の批判をしない実情の悪さを出さない約束で記事にし
更に政冷経熱などとして政府を突き上げた。結果的にこうした甘い馬鹿日本人が中国を
不法者に育てた。これが今の日本の商社や銀行そして家電の不調である。今や韓国企業
のみならず中国の国内企業すら国外に逃げている。最近では、貸し出し金利は4%台半
ばで、1年前の6%に比べて下がったが、製品の熾烈な価格競争で値下がり実質金利の
負担増はその比ではない。今実質金利は11〜12%で鉄鉱、家電、自動車、建設関連
など中国の過剰生産能力はすさまじく、製品価格は前年比マイナスが続き、しかも減少
幅は拡大する一途であるといわれる。つまり値下げ競争が止まらないのである。対して
債権証券発行や理財商品券で少しは持ちこたえているが多くは中国国家自身のテコ入れ
で外貨準備高は3兆1917億ドル(約330兆円)が、前月比べ279億ドル減少し
、一か月で27兆円減っている。更に人民元は対ドルで14年初の1ドル=6・0元近
辺だったが、今月15日には一時1ドル=6・6047元と、5年ぶりの安値を記録し
た。今後更に昔の1ドル10元程度にして輸出競争力を図りたいぐらいだが、それでは
国内の資本流出が止まらないと考えている。では逆に1ドル=5元ぐらいにと言えば、
今でもダンピング(不当廉売)となっている中では更に横行する可能性が高く 今でも
鋼材輸出の例をとれば、数量ベースで6・4%増えたのに、金額ベースでは22・4%
と大幅な売り上げ減を記録している。


784: 名無しさんAA:16/06/22 23:41
閑話休題(国際経済問題)

 いざ酔い いざ並み いざ晒場 76

 だがこうした 中国の中国流の海外からは 経済対策に取り組まないと言う 取り組
み姿勢は仕方がないとも言える。古来より中国王朝を始めロシア皇帝など多くの独裁の
集団は強権しか用いず 調整し思考を張り巡らし考えを改め試用すると言う事はあまり
ない。これまでの慣習と様式の中で国民に人気を得て牛耳るしか能が無く、加えて反発
した時の国民に共に切り拓こうなどと言う想いは無いに等しいのが現実だ。海洋国家日
本では江戸時代の黒船来航が大きなインパクトとなって これまでの士農工商や飢饉や
地道な藩制改革などが吹っ飛んだ形で明治になった。それでもそれまで培ってきた技能
や食文化や勤勉さへの賛歌や教育文化や仏教思想は削がれても維持し続けた。その為に
明治初期には空白で荒れていた国内も、文明開化や富国強兵、憲政樹立など近代国家が
もつ様々なものを取り入れては研究し咀嚼して自分のものにした。当然ながら西洋人を
先生として乞いその後その成果として東洋人でも数々の近代国家の形が実現できること
を実証した。又戦後には日本はソ連邦の様な過激な世界革命を起こさなくとも経済成長
で自らの国が豊かな国になれることを証明し更に独立国家としての輝く未来建設に参加
する資格である同じ意思や仕組みや思想を持つ大切さを見せつけた。が一方の大陸側の
中国は残念ながら韓国を含めて、西洋文明の精神は学ばず、技術だけを借用しようとし
て失敗している。これは中国流の考え方中体西用(ちゅうたいせいよう)」という誤魔
化術の体得である。習近平国家主席の演説では、専制主義、自由主義、ソ連東欧型社会
主義と色々試してきたが行き着いたのが「中国の特色のある社会主義だ。」と言ってい
るのである。いわゆる中華中芯主義「中華の夢」の世界征服の体現である。これは永遠
に先進国家に民主主義国家になるつもりはない。という宣言に他ならないし国民もその
方向に動けという言葉になる。これでは常に日本が進出したら官製デモ米国進出が来た
ら大望協定 欧州が来たら利権視野での妄想詐欺をするばかりであろう。が実に この
人の欲望をくすぐる詐欺は結構うまく行っている。つまり欧州豪州では既に7割の流通
に中国人の商社が権利獲得していて 現実に一割程度は中国の意のままだと言われる。
メディア王マードック氏の妻が中国共産党の最先端スパイだった事は知っての通りで、
今も彼らは暗躍続けている。


785: 名無しさんAA:16/06/26 09:20
 いざ酔い いざ並み いざ晒場 77

 大体において議会での勝手に離脱の利を言う野党に国民投票すると簡単に言った事が
問題だったのだろう。民衆がもっと賢く残留を選ぶ事で野党の不満の間違いを正そうと
したキャメロン氏のこうした計画は稚拙なロンドン市長や馬鹿な野党党首で全く世界を
敵にした。これで世界の大不況がやってくる。すると又浮浪者が極右を支援しEU離脱
に動くだろう。世界動乱経済破滅の始まりとなる。これで世界は英国国民を下等国民と
して最低の国とするだろう。世界の激震はリーマンショックの比ではないだろう。今後
米国日本豪州カナダ共に英国を見限るしかない。自ら地獄に落ちる選択をしたのだから
。これで世界は変わる。全くEUは信じてもイギリスは信じれられない事が証明された
。イングランド銀行は金融産業からの退場を迫られ英国の世界的地位は全く落ちてしま
う。教育機関の大学もどういう教育をしているのだと世界から問い詰められ 世界の今
のランキングしている多くの格付け機関の信用もまた同じように地に落ちたも同じだ。
 かつてギリシャ危機の時EUからの支援や国際銀行IMFとかからの支援に支出を減
らし公務員給与を下げる。などという制約に 新首相は国民投票によって決めると一端
反故にして自国に持ち帰った。そして国民投票の前後にはデモや暴動と警察による鎮圧
によって平穏が保たれたが結果的に国民投票を反故にして受け入れるしかなかったのだ
が、この時世界中がギリシャ国民は馬鹿だ阿保だと言った。更にスコットランド独立闘
争を国民投票にした時も英国銀行は大きくポンド安を引き起こし銀行間では大英帝国の
憂き目(国民の作った災難)と揶揄された。そうしたことで英国民は学習したはずだが
それでも離脱派が大手を振って票を取った。これでは世界中に私は大馬鹿ですと言わん
ばかりの判断だろう。たぶん今後100年はポンドは値上げは出来ない。今後産業構造
は大きく雇用のない社会となる。安い中国の鉄鋼で加工した粗悪品を細々と10倍程の
EUの裕福層に売りつけEU国内の安い食料品を高い値段で買い付けて食っていく事に
なる。ロシアのルーブルの様な金資産や木材や鉱石資源があるわけではない。今後EU
はドイツ・フランスの元大きく飛躍するだろう姿を眺めているしかないのである。失敗
ではすまされない舵取りを英国国民自らが判断したのだ。これでアフリカ以下の生活が
英国には待っている。ロシア程に自国で食えるはずがない国なのに。こうした頭脳も学
習もない行儀の悪い国民の中での英国企業は株価も紙幣と同じに紙クズ同然の価値とな
り世界の人々の怒りを背負い更に下がる。そしてそれは一世紀続く怨念であろう。



786: 名無しさんAA:16/06/26 09:21
閑話休題(国際経済問題)

 いざ酔い いざ並み いざ晒場 77

 だがイギリスはいつも混乱の素である。中東問題の全てがイギリスがやった過去が災
いであり今でも亡霊のように付きまとい それが今の難民や移民の問題になって押し寄
せているのである。今からちょうど100年前の5月16日に締結された『サイクス・
ピコ協定』なる密約が取られた。イギリス・フランス・ロシアが、中東のオスマン帝国
滅亡を前に分割を秘密裏に決めて協定だ。この事が先進国とりわけ時の軍事大国の利害
が民族の居住地域と関係なくなされ 今も中東で続く混乱の原因となった。実はその時
の分離線がシリアとイラクとイランの国境線であるとされる。つまりシリアから北を仏
領の植民地とし南を英国そして東をロシア領とした協定である。これが今のクルド人の
居住を三っつにも四っつにも分けた原因だった。第一次世界大戦の最中の両国の外交官
が本国の意向に添ってイギリスのサイクス氏と、フランスのピコ氏が代表して、こう呼
ばれている。この後日本がロシアに勝った事からロシアはイランのパーレビ国王の独立
をフランスはヨルダンやトルコの独立を認める結果になった。更にイギリスはアラビア
のサウジ一家との盟約でクエートの権益を確保しロシアはアルメニア等の東欧州より東
を収めた。今のイスラエルはクエートイラクの間の中立線同様のイスラムとの共同統治
を図りメッカなどの諍いを無くす協定をしたが同時にメッカ周辺以北のベイルートなど
のフランス統治を許している。これがそのまま国境線として張られ今の状態なのだが、
これにより一番平和な民族として戦闘に加担しなかったクルド人はその枠から外され、
その為その後第二次大戦ではドイツ軍も打ち破る攻勢に出たが大国は利用だけに留まり
悲願の自治領を認められなかったのである。今回のEU離脱も3枚舌の上にある。まず
この国民投票そのものがEUに対する圧力として行ったもので、かつてのギリシャ危機
の投票と同じく全く意味の無い要求なのだ。更にEU離脱はもともとかつてのEC時代
に統合された欧州連合は国家主権を奪っていけない。との強い英国の反対で、今の様な
中途半端な武力や通貨や経済などの分離した事細かな決め事に走って その権力強制力
を奪っている。その事をいいことに勝手な振る舞いをしているのである。更に災害公害
或いは世界的変動や共産国武力の対処などに大きい経済圏で対処しようと言い出したの
はイギリスがドイツのロケット弾の攻撃を受けてフランス奪還にイギリス系カナダ人の
兵士を数多く死亡させ非難を受けての戦争しない為の防備としての発足なのである。


787: 名無しさんAA:16/06/26 09:47
いざ酔い いざ並み いざ晒場 78

 この腹立たしいイギリス行為は 国際社会から非難されるべきものだろうしロンドン
市長の馬鹿な声明と中国からの賄賂的投資は全く許されるものではない。そもそも移民
や避難民を生んだイギリスはドイツ以上に受け入れるべきだと言うべきだろう。それが
全く拒否したい或いは移民を受け入れないなどと言う宣言に等しい行為は、まず原因を
作った国民の言う事ではない。人間の顔をした悪魔と言われても仕方ないだろう。この
ロンドン市長を応援した若者も全く同じだ。トランプ氏と同じく究極の身勝手主義を今
許そうとしている事は この自由主義の公衆道徳に反している。民主主義は全ての民衆
がルールを守る事で成り立っている。民衆をそそのかし人気を得て人々の欲望をくすぐ
り更に大きな他国や協調を壊して戦争に導き漁夫の利を得ようなどと言う魂胆は 全く
許してはならない。それこそがドイツヒットラーの行いであり 国内さえが良くその外
がどんなに迷惑しても どんなに悲しい目にあってもよそ事だなどと言う感覚は許され
ない。それは北朝鮮が核ミサイルをアメリカに打つような行為と同じである。この思想
こそが許してはならない事で 英国は香港を台湾に返さず非人道国家中国に返し更には
中国から紙屑同然の紙幣で投資を受け入れ 更にその恩恵で景気を復活しようなど言う
悪魔的計画は捨てるべきである。まずは中国国内の基本的自由や人権の確保更には兵力
などの武力弾圧による領土領海の拡張主義を止める事が大事で その弾圧に支援する。
応援して自国も独裁主義を打ち立て資本主義の中で巨万の富で自分がなろうとするのは
自由・平等・博愛の精神から 大きく外れた欧州の気品が崩れる事を意味する。今後は
EU離脱には戦争抑止の為の経済圏設立なので共産国ロシアや中国かなりの危険な要因
をはらんだ英国運営のはずだ。つまりEU理事会は巨大な課徴金をポンド若しくは金で
支払いEU圏内輸入に高い関税障壁とNATO強制離脱を働きかける必要が出てくる。
つまりイギリスの勝手な行動をする為の離脱はEU全体の連帯や協調でエネルギー供給
をしているEUの当然な危機に英国は事前に違約金を払うべきで 早急にEU内の意思
の統一と 会議の組織表や権限の確定を急ぎEU議長選出の仕組みを確実にすべきであ
る。


788: 名無しさんAA:16/06/26 12:05
いざ酔い いざ並み いざ晒場 79

 多くの英国人の中で 特に若者はEU内の移動や就職が望みで将来を見据えていた。
従ってEU離脱などはあり得ないだろう。と見ていた投票日には雨が降りそうした中で
投票に行くのはおっくうだった。だが僅差の接戦で離脱派が大手を振った形だ。がこの
票数は離脱に反対姿勢をも明確にしている。つまりこの未知の危険な崖を飛び降りるか
進まずEUと共に従来通りに並んで歩くかの判断は5分5分の意思だったのだ。そこで
すぐさま 英国下院の請願サイトで26日未明までに、投票のやり直しを求める署名が
250万人を超え インターネット上ではロンドンの独立とEU加盟を求める署名活動
も展開され、約15万人の署名が集まった形になった。常にEU形態への懐疑的な見方
で知られる大衆紙デイリー・メールあh、「英国、よくやった!」の見出しで伝えた。
記事では「現実を知らない政治家や思い上がったEU官僚らエリートに、日ごろもの静
かな英国民が立ち上がった日だ」と離脱の選択をたたえ、独立記念日とすべきという声
もある。だが多くの人はこの行為に「これは独立ではなく孤立の道だ。」と怪訝さを隠
せない。更にこの大英帝国自体が分裂の危機に瀕する危うさを持つ。事実この国民投票
は国民投票で分離独立が出来る自由が手に入れられると言うまやかしを生んだ。この国
はもともと、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国でスコットランド・イング
ランド・ウェールズ・北アイルランドのかつての公国の寄せ集まりで世界大戦時はそれ
に植民地が加わっていて大英帝国となっていたのである。この英国EU離脱は、英国の
終わりであり欧州の衰退と世界の停滞をもたらす。との見方が強く 今後急速に英国が
EU残留を決定しなければ ずるずると各地方の独立を誘いポンド暴落を招くであろう
と見られ、更にドイツ以外では国内にEU離脱派を持つ他の国々が持たない可能性を秘
め英国の離脱問題どころではないであろう。仮にキャメロン退陣後まで尾を引けば、こ
の英国の国内問題は取り返しのつかない程英国の地位を下げ こぞって英国を信じられ
ない国に変貌させる。これはロシアや中国など拡張軍国主義派すなわち明確な共産主義
の国には答えられない喜びでもある。先進国側が一等国を二流市民とすれば自国陣営と
の交易には有利であるし何よりもかつての日本のような右も左もない第3勢力となるか
らだ。孤立した国にちょっかい出すのは共産国としては赤子の手をひねるようなものだ
。甘い言葉で誘い 軍事力を傘に一刀両断の外交政策がとれるからだ。今のアジアの様
に。


789: 名無しさんAA:16/06/26 14:04
 いざ酔い いざ並み いざ晒場 80

 ドイツでは「愚民を踊らせよ。」と言うヒットラーの格言があったが、殆どの民衆も
情報もなくその予想する現実も体感出来ずに投票に行けば 人は大勢になびいてしまう
。その大勢も声大きい人に惹かれてしまう。中国では「市に虎有り(いちにとらあり)
」とか「三人市虎を成す(さんにんしこをなす)市虎三伝(しこさんでん)」とか言い
意味は一人が街に虎が出たと言っても信じないが3人がそれを言えば嘘でも信じてしま
い間違いを犯す。と言うことわざである。トランプ理論を信じるも信じないも勝手だが
これだけ進歩して噂されて信者が増えれば 周りは例え嘘であっても判断が鈍り勝手事
でいい加減な政策であっても支持してしまうのである。こうして孤立主義が賛美されて
第二次世界大戦が始まったのである。今回の国民投票はあの2枚舌外交を繰り広げ中東
に「平和は私が守る。パレスチナ人は大英帝国が守る。ユダヤ人の入植は決して脅威で
はない。」とチャーチルが演説したしたように ロンドン市長が嘘の独立して権限が戻
る演説をし 移民対策として離脱を言う。が英国民から見れば アメリカや豪州カナダ
などは兄弟国であり旧植民地が縁戚の国となる更にEUのフランスやドイツなどは友人
でありライバルでしかない。と言うブリティッシュ精神つまり大英病が根強くある。更
に先に言ったように寄せ集めの連邦国でありながら拡大した連邦には離脱すると言う何
とも不思議な精神だ。更に移民へ不満や移民への批判が噴出するがもともと英語圏内の
民しか押し寄せて来ておらずそれは取りも直さず 過去の植民地領の人々が盟主の元に
駆けつけて来て食料のお目こぼしを貰う為就職している状態なのだ。つまり先人達の広
めた戦争や紛争で得た植民地の親戚達が食いぶち稼ぎと平和や安定を求めてやって来た
形なのだ。自分達は何の非もない他の国を兵器を持って攻めては、地元の財宝や食料や
労働力を略奪して大儲けして今を築いていながら そうした事で非道理な国境を作って
は過酷な生活と崩壊の国を作っていながら そこから助けを求めてやって来た人達を非
難するという行為は 特に教育を受けた指導者が先導するというのは まずはズルイ事
で悪魔的所業と言われても仕方ないだろう。これらは40年も前からブーメラン現象が
起こるとして予想された出来事でもあるのに 今更移民に不満と言うのは政治家が言う
事ではない。不勉強も甚だしく身勝手もいい加減にしろと言うのが国際社会の言い分だ



790: 名無しさんAA:16/06/26 15:07
 いざ酔い いざ並み いざ晒場 81

 大体一般的日本人からすれば、英国民の過去の栄光に群がる英国病は白人の一般社会
にありがちな名誉主義なのか全くわからない。当然明治時代の産業革命からの すごい
社会は勿論歴史に残る事だろう。が 今はどうだ。国内産業のGDPの半分以上はEU
圏内での販売を目論み出店している企業が産業を起こしているし更にその半分は移民の
大きな労働力と購買力に依存している。この現状認識が欠けていて更にそれを勧めてい
る中国の政策を更に招きいれようとしている。これらの国内政策は極めて英国民の体質
や言動に或いは行動や幻想によってなされているのであり 英国民自体が考えるべき物
であり 別にEUのやり方や体質や運営が悪いからではない。迷惑なのはそうした国内
批判がEUの他の国にもたまっている事だ。英国と言うEU圏内の優等生ですら離脱と
なれば他の国々での鬱憤も花開き瓦解し今の中東情勢ごときになる可能性すらあるので
ある。そういう意味では米国や日本他豪州カナダも非常に憂慮しているのだ。更には今
の経済の共生状態のみならず 今後の社会発展期すだろう学術研究の部分でも離脱が起
こると見らる事だ。つまり英国は今や自国民はあわれにも国内需要では働かないで稼ぐ
という愚民から更にその稼ぐ糧である技術や最新学術でも共有を捨てて眠った状態に陥
ろうと言う事になる事だ。今の日本では例えば携帯電話スマホなどの機器は最新科学と
産業技術の結晶だろうと思われる。がこれが今後のEU離脱では英国で生まれる可能性
が全くではないにせよ少なくなるのは当然である。更に問題なのはそうした移民や避難
する民に責任を取らない姿勢である。これだけ産業や科学が進歩し、自由や博愛・平等
を鼓舞し吹聴し自由貿易を推進しながら これらを捨てた行為は歴史的背景からも許さ
れない所業である。かつてアメリカもカナダもオーストラリアも英国に組した理由は戦
争と言う行為を憎んだのではない。ドイツを倒す為でもない。平和で自由な社会を取り
戻したい幸福な国際社会を築きたいからだ。その為に日本も戦争に巻き込まれたのだ。
事実屑鉄や石油輸入がストップしなければハワイ島攻撃も日米開戦も無かった。それは
仕組まれた罠だった事は今では歴史的事実なのだ。他の中東諸国もそうした複雑な経緯
で避難民いわゆる一般市民が生き延びる為に新天地に逃げてくる事になったのである。
英国国民は移民政策に逃げてはいけない。ちゃんと使命と責任は果たすべきなのである



791: 名無しさんAA:16/06/28 06:58
閑話休題(国際経済問題)

 いざ酔い いざ並み いざ晒場 81

 殆どの予想を裏切って英国民が離脱投票をした為に 世界のマーケットが揺れ動き、
世界の株価が落ち込んでいる。ここに来て離脱票を入れた英国民までが離脱するとは思
わなかった。と悔やんでいる。悔やんでも悔やみきれないのは18歳以下の投票出来な
い14歳くらいの若者だ。「これからの人生の長い若い私達の意見よりも老人の意見が
何故大事なのか。」「もし私達に選ぶ権利があれば結果は変わっていただろう。」と答
えている。そして明らかに離脱派が言っていた拠出金が週3億5000万ポンド(約4
80億円)に達すると主張していた事が間違いでボリス・ジョンソン前ロンドン市長ら
がには批判が殺到している。中でも全国遊説バスの側面にこの巨額の拠出金を「国民医
療サービス(NHS)の財源にしよう」と言うのが根拠のない嘘だったと怒っている。
ジョンソン前市長の家の前では護衛がつき 周囲では「恥を知れ」との怒号が飛んだ。
更には大方の国民のスマホなどの会話にキーワード検索では「EU離脱とはどういう事
か解らなかった。」と言う事が最大キーワードとして置かれ、これからの離脱の道のり
や予想図が描けない状態になっている。こうした国内で混乱する英国が良き見本となっ
たのかスペインでの出直し総選挙は先の議席以上に保守勢力が多くなった。「こんなに
揺れ動く時に危険な賭けをしない。」として演説してきたラホイ首相が率いる中道右派
の与党・国民党が前回以上の支持を得てたのだ。EUとの協調路線に対して不満とEU
離脱をほのめかした急進左派の新興政党を一応押さえた形でひとまず決着がついたのだ
。この事はEUにとっては喜ばしい事でドイツのメルケル首相は「離脱手続きは申請が
ない以上急がない。」と他のEU代表をなだめて 英国民が頭を冷やす期間が必要と暗
に押さえた。今だ波乱の収まらない英国に対し格付け機関は「3Aの資格を失った。」
と叫び かつてエリザベス女王が言った「離脱して何が好くなるの 手短に3つ言って
」と言う答えを 未だ離脱派は話していないし その為にロードマップすら描けないで
いる。只一つだけ言えるのはどうもEU領域になりながら頑なにEU加盟に賛成しない
小国家ノルウェーを目指していたようだ。がこの高福祉で取り沙汰されるこの国も実は
石油資源に頼り民主主義が根付かない。と環境保護団体は「くそったれ。」と揶揄する

792: 名無しさんAA:16/06/28 06:58
小国家ノルウェーを目指していたようだ。がこの高福祉で取り沙汰されるこの国も実は
石油資源に頼り民主主義が根付かない。と環境保護団体は「くそったれ。」と揶揄する
。産業育成や技術革新更に貿易と自治の持つ決定権などが阻害されイノベーションが出
来ない苛立ちがあるのだ。ノルウェー首相は「おやめなさい、ノルウェーモデルは好き
になれないでしょう」と言い、離脱派の「ノルウェーが大丈夫だから、きっと僕たちも
やっていける。」と言う声に ノルウェーの新聞紙は「英首相が残すのは国内分裂とE
Uの不確かな未来だ。」との論説でノルウェーは石油資源でかろうじて独立性を保てて
いる。と批判している。このノルウェーからやってきている移民も又「国内で移民排斥
が高まって英国にいられない 自国に帰る。」と嘆くのだ。おそらく今後は世界の株価
がどうしようもなくなるまで下がり ポンドが紙屑になるだろう。それはロンドンをバ
チカンのような独立した市としての声があがり、更なる国民投票で欧州連合(EU)か
らの離脱を確認しようと言う声があるからだ。スコットランドや北アイルランドでは 
からくも残留支持が多数を占めた事で、両地域で長年くすぶってきた英国からの分離や
独立を求める声が高まっている。ここに来て議会や各政党の分裂どころか英国の分裂が
進む可能性すらあるのだ。こうなれば英国を束ねる象徴である王室が声をだすしかない
。「これ以上のEU離脱や国内独立の分裂を意味する議会は 国王は認めない。」との
声明である。更にキャメロンに「もう一度国民投票で確認して辞任しなさい。」と一喝
するしかないのである。


793: 名無しさんAA:16/06/29 01:04
 いざ酔い いざ並み いざ晒場 82

 イギリス労働党コービン党首にとっては このEU離脱騒動はとんだ災難だろう。党
内部でも離脱派と残留派が争う中で 彼は自分が残留を希望しているとしか言わなかっ
たのだ。これで離脱を落胆している人にとっては 彼を残留に力を入れなかったとして
退任要求は当然だろうが が党を二分して縮小させる行為は誰が党首でも出来なかった
であろう。日本の消費税増税と同じである。与野党共に増税の反対派賛成派がいたのだ
が結果的には日本では与野党が共に共謀して増税を図った。それも党首討論で増税をす
る約束で時の民主党野田政権は退陣したのである。この日本的な事と明確に対照的なの
が劇的なこのキャメロン退陣表明である。サッカーEU大会でイングランド選手が「今
週は二回も欧州から離れる事になった。参った全く恥ずかしい限りだよ。」と言った事
が印象的だ。もともと英国民には許されざる「大英帝国国民」というプライドがあるら
しくEU議会に対して特権的席についていた。EU通貨ユーロを使わず圏内の自由移動
を保証しているシェンゲン協定にも英国入国に審査権限を持ち EU拠出金では特別な
戻し金が置かれていたのだ。これが逆にイギリスの離脱に繋がっている。つまりユーロ
通貨を使わない事でドイツの様な製品価格の利潤を得られず 各国の収める一様なEU
拠出金で高いなどと言う不満が割戻金などと言う帳簿整理型を使い誤解を産んで移民の
政策でもそれだけ権限移動がなされていながら 移民反対を叫ばせている自治の悪さが
そこにあるのだ。これだけの距離感はEU議会の当然の反感があり 今行われるEUの
総会ではイギリスからのEU議員は「なぜそこにいるのだ。」などと怒号や批判が起こ
り「移民は出ていけ 我らは離脱を選んだ。」との落書きが出るほど離脱派を 勢いづ
かせているのである。これは気位の高い主人を間違えた野良犬である。地理的歴史的所
謂地政学的物は全く変化がないのに離脱を願うのである。これにはドイツは困ったもの
だろう。今やフランスやイタリアは大国でも経済的地位がない。がドイツにとっても、
この地政学的地位は当然同じなのに この欧州委員会の盟主とならなければならないの
である。つまりなりたくない自治会の会長に躍り出た形だ。今まで英国と仏黒言う陰で
副会長みたいな立場でよかった事が 一身に背負う国に代り良くも悪くもドイツ帝国と
見られる可能性が出てきたのだ。これも又ハタ迷惑な話である。


794: 名無しさんAA:16/07/02 04:55
 ディノン・ディノン 16

 元ロンドン市長はイギリス首相選挙には出馬しない事を発表した。EU離脱を叫びな
がら時期候補の一人として熱烈に応援した人々の落胆は非常に大きいものだった。が、
国内では 英国の連邦としてのかつての公国の多くの地域が分離独立してEUに残留し
てそのままでいたいとの希望で 分裂する心理が表れている。国内の国民の分裂は憂う
もので 移民問題と対EU交渉での強い対話姿勢で残留を思っていたのか ちょっと前
に離脱派となった彼は 今後の首相の重荷や重責から逃げたとの見方がもっぱらである
。この風見鶏的性格に英国民が、「恥をしれ。」「卑怯者。」との罵声や罵りを叫ぶ。
 だがこれは英国民に限った話ではない。日本でも今や憲政与党の自民党だと胸を張る
議員達も 全く本当に日本を考えているのか疑問である。夢や理想もいいが現実路線で
地道に日本を安全に導いて来た『平和憲法』を金科玉条のごとくかざす事に 横で笑う
が実際の国際社会で武力なしでは世界に打って出る事は出来ない現実に果敢に挑戦して
いく努力を 今捨てては今後の日本は本当に危ういのではないかと思う。改訳憲法で今
や理屈や理由の統合性がとれない所まで来ていて 精一杯の違憲と合憲の狭間ではあろ
うが さりとてそれを批判出来るほど日本は強くなれるのだろうか。米国のごとく領土
領地が核弾頭が飛んで来たとしても大丈夫な程は大きくないし離れてはいない。その為
土地も資源もない中で知恵や文化で大国にのし上がったのである。これからそれを捨て
て国際社会で生き残れるとは思えない。英国のEU離脱で生き残れるとは思えない事と
同じ様に。それでも憲法改正を叫ぶ自民党にうんざりである。「中国を脅威と思わない
のか。」の質問に「脅威としない。」ときっぱり言った自民党は今や尖閣問題すら解決
していないまま軍拡競争に陥ろうとしている。この事は大事な戦争の惨劇の教訓を学ん
でいないとしか思えない。中国が「中華の夢」を掲げて大国化しようとスローガンを掲
げれば、日本は「強国日本」を掲げて国民を煽る。それは世界大戦前と同じではないか
。確かに占領は怖い。が多分今では国も又境界は要らない所まで来ていて それに人が
ついて来ていない事が 人を色めき出させているのだろう。今後も日本では全く説明に
ならない説明文が商品について回り、いまいち不明の日本語が氾濫し意味さえ通じれば
いいような国際化の中に溺れるだろう。だがそれでも移民や日本帰化人に対応するしか
ないのである。


795: 名無しさんAA:16/07/03 19:19
( 戦争の 傷跡 )

 追憶の彼方から 30−1

 BBCはオバマ大統領の政権が失政だったか成功だったかの討論されていた。がこの
討論は不思議なものだ。恐らく全人類史上初の頭の良い平和主義者で最も大統領らしい
大統領だろう。この議論がロンドンで行われている事にも驚くが、このロンドンで前ロ
ンドン市長が離脱派のリード役をして国民投票で離脱を決定し、それを受けても自ら出
馬辞退表明をした愚かさにも驚く。このリベートが指導者層に対する幻想が人々に多く
リーダーシップに対して日本人の思う姿とあまりにもかけ離れ辛辣だった事に驚く。お
よそ政治の世界で何もしないと言う事は時間や波が許さない中だろうに。もしも何も出
来なかった大統領だとしても刻々過ぎる社会情勢に予算案を通過させ官僚が行政を行う
事は最終的には大統領なり首相が担う責任でもある。日本の健康保険の国民皆制度のあ
る日本に習いオバマケアなるシステムを興し世界が大不況になろうとする中GMなどを
国家をあげて助けた功精は 例えブッシュ時における策定であろうとも彼の判断の良さ
が世界を救ったと言えるだろう。彼が政権について中東への弱腰でイラクやシリアでの
失敗を掲げる人がいるがそれは違うだろう。そうした中で『ソンムの戦い』の追悼行事
が行われている。かつてこの地域を治めていたのはローマ帝国だった。がオスマン帝国
との戦いでかなりの疲弊をしてその土地の有力者に自治を任せる事になる。公国の出現
である。かつて紀元前から栄えていたローマ帝国が江戸時代まであったとするのも驚き
だがこの共和制独裁というのは今の中国の様な体制だったのだろう。公職の第一線を退
いた元老院の長老が権威を持ち法を裁く裁判官役を担っていたと言われる。身分闘争に
はある程度終止符が打たれたと言われるが人々の中の階級制度は定着していたし何より
も食料が溢れていたわけではない。基本的にはゲルマン民族が追われ西ローマが滅んで
イスラムのオスマンに一度は滅んでしまっていた。だがローマ帝国がキリスト教擁護の
帝国で在った為か オスマンもロシアもその他の国々も全てがローマ皇帝の後継者を名
乗り統治しようとした。中でも東欧のルーマニアは「ローマ人の国」と言う名称であり
国歌もそのこだわりが入っている。


796: 名無しさんAA:16/07/03 19:22
 この神聖ローマ帝国を壊したのは イギリスから始まった産業革命という科学的視野
の成果である。もともと交易船はどの国でも発達はしたが それらに大砲が積まれ鉄船
として機関車のような水蒸気船として発達した事は 従来の帆船での人員確保から比べ
て食料や水の貯蔵に大きな違いがありこれにより世界を股にかけた黒人奴隷を使った船
が登場し階級格差のある多くの王に魅力的な世界産品を売りさばく利を得たのである。
そうしてかつての地中海貿易のローマ帝国から発展しした各地の有力諸侯がその帝国の
承認を得やキリスト教教会からの信任を得て活動し公国に巨万の富を確保することに、
成功したのである。暗い中世の農奴制や封建制の社会が一躍資本制になり変った時代と
も言える。ロシア皇帝のみならずドイツ皇帝フランス皇帝など全てに今の貨幣価値の源
である金銀財宝の流通が出来るようになった事でそれが世界的等価交換と貯蓄が生まれ
たのだ。これによって保管や管理しうる保険や情報の価値が付随して生まれ出た。そし
てそれはそれまで閉鎖的領土主義の中職業の無かったユダヤ人などを潤した。船舶保険
を始めとする保証制度 鉄やガラスなど最新鉱物資源などの情報管理 更に投資しては
金利を取る銀行業などが出来て それがそのまま国威となった。この新産業にはそうし
た新興公国の後押しを受け、日本でも江戸時代黒船到来で一変した世界が造られたのだ
ったのだが、どの国でもそうした新たな人類生活の波が押し寄せては その余波は公国
そのままその公国にまでブーメランのごとく押し寄せた。それらは オスマントルコが
支配した時多くの産物と近代的考えがもととなっているのだが、それまで技術者の職人
集団としての組合であったギルドが王公諸侯に雇われ支えらていた事から解体の危機を
迎えいまのイルミナティなどの結社クラブに代って行った。イスラム教がもたらした、
新たなローマ時代の石作りのアーチがモスクのような巨大な建造物に代り石作りの教会
へと進展させ 募金や税の氾濫をもたらした。それにより中産階級である市民階級が増
えて職人が一時的には増えたがその後は生かせず崩壊して行く時代となり多くの労働者
が職にあぶれて市民革命がうまれた。更にオスマンで流通した銀貨がこれまでの鉛と金
の文化から一転して中国やインドからの物産までをも流通させたと言われる。錬金術と
して培った研究成果はそのまま科学技術に活かされた。オスマン時代には交易路の確保
が主流であり通行税の徴収での帝国の存在だったが遺産をそのまま受け継いだ地域とし
て ナポレオンなどの領地戦争を尻目に、ハプスブルク家は「神聖ローマ皇帝」という
「至上の地位」を得て台頭した。



797: 名無しさんAA:16/07/03 19:23
 追憶の彼方から 30−3

オーストリア帝国は1800年代から多民族国家形成の国として その後ハンガリー帝
国への改組まで続いた名門なのだが、オーストリアのハプスブルク=ロートリンゲン家
オーストリア皇帝として多くの交易を支配し大きくなった。前身だった神聖ローマ帝国
と言う呼び名はローマ帝国やオスマン帝国から押し出される中にゲルマン民族など吸収
し集団化した軍隊生活で新しい文化を取り入れたフランク族をしてフランク王国を打ち
立てた社会が存在した事でそれを又凌駕してローマ人と名乗った事に由来する。その有
力な構成国の覇者としてオーストリア大公国時代封建制の中の名だたる君主国としてハ
プスブルク帝国と総称されるまで至ったのだが、現実はハンガリー王が戦死して、皇帝
カールの弟としてハンガリーとボヘミアの王位を継承しただけでありオーストリア大公
フェルディナント一世の統治は地元任せであった、事実上はハンガリーと言う領土その
ものは帝国の領域外にあり、ハプスブルク家はその土地の皇帝とではなくて、あくまで
ハンガリー王の資格をもって統治下に置いていた形だ。このハプスブルク家と言う神聖
ローマ皇帝位を事実上世襲しての領土統治は現在のドイツを中心とする帝国の領域君主
であり、フランク王国同様一家の領土が単一の国家として統治することは極めて困難で
あったといえる。17世紀においては各地域にハプスブルク家の一族がそれぞれ配され
、それぞれがあたかも自己の所領として統治を行っていたのだが事実上は1つの国家と
して機能したと言われ 平和の中で次第に国民には中産階級になり暮らしが良くなって
来た様に見えた。だがこの時地球は大変な時代を迎えていた。1780年代 日本では
江戸期だが餓死者が出る天明の大飢饉が起き ロシアでは食料供給に南下政策が取られ
た当時のシベリア東部では、冬の厳しさは相当のものであったと言われ、フランスでも
フランス革命以前の10年ほどにわたる時代の気候は不順で、厳しく寒い冬や冷夏など
それにともなう旱魃がくりかえされていた。フランスでの飢饉は 1775年、178
5年、1788年から89年にかけてと、当時三回程起り 当時の庶民に鬱積する怒り
があったと言える。

798: 名無しさんAA:16/07/03 19:28
 追憶の彼方から 30−4


 フランス革命前夜は既に気候変動の序章があったものと思われる。日本では1783
年(天明三年)夏に、浅間山が大噴火し噴煙が成層圏にまで達したと言われ、1783
年と翌84年にアイスランドのラーキ火山が、大噴火している。この噴火が地球規模の
寒冷化をさらに進めたと言われている。宗教的にはロシア正教やキリスト教プロテスタ
ントが出来てローマ帝国が庇護していたカトリックのローマ教会の権威が失墜していく
時期だったとも言える。『1804年の元老院決議』によって、これまでのナポレオン
・ボナパルトは軍人から終身第1統領と言う軍最高責任者である元帥の様なものから、
皇帝に即位した事になる。革命移行はこうした食料危機からか遠征に次ぐ遠征で戦いに
明け暮れる事になる。「フランス共和国第1帝政」は、国民投票を11月に行い、国民
投票の過半数の賛成を得て、正式なフランス共和国の皇帝に即位したことが追認された
。12月には皇帝ナポレオン一世の戴冠式がおこなわれフランス皇帝となった。この事
は各国に脅威に思えたフランス革命は世界史上の代表的革命と言われ前近代的な封建制
や農奴制や奴隷や植民地など排他的世界に嫌悪観が出て共生思想が芽生えた頃である。
こうした革命が自国へ及ぶ恐怖に加えて、軍事面での脅威も加わることになった列強各
国はすぐさま対仏大同盟を結成して帝国への対抗を始めた。だがフランス国内において
は、この皇帝の誕生させたフランス帝国の出現は、革命によって国王ルイ16世を処刑
して共和制を打ち建てて理想郷を造るという過程からは逆行して新皇帝を作っただけと
する批判が多く、国内の反発をも招いていた。この事が ナポレオンの遠征の多さにも
繋がっている。この天才的な軍事的才能を持つナポレオンを後ろ盾とした軍事国家フラ
ンスは同時に対抗したライン同盟の結成でかつてのフランツ王国の消滅を示している。
ハプスブルク家はこれにより「神聖ローマ皇帝」という「地位」を失い、オーストリア
大公でハンガリー王、ボヘミア王と言う諸侯の地位と同じ一領邦君主になったのだ。こ
の時フランス革命を押したのがブルジョワジーと呼ばれた人々で、革命の主体となり、
それまでの貴族や聖職者が主体であった体制を革命によって転覆させたと言われ、後の
共産主義者では資産階級とされた既得権益者だが この頃は社会的な市民を指していた
言葉であったのだ。


799: 名無しさんAA:16/07/03 19:30
 追憶の彼方から 30−5

 一揆では、金持ちたちの城館の焼き討ち、農民たちに対する封建的義務にかかわる文
書の廃棄、穀蔵の解放、牧場の占拠、穀物の安い設定などが実現されている。「悲惨な
収穫に終わった後ににおける最悪の時期は、常に翌年の初夏に起こった。このころに前
年に収穫された穀物が底をついているのに、その年の実りはまだだからである」という
。1789年7月14日にバスティーユ刑務所の襲撃から始まったがフランス革命直前
のフランス農民の大部分は貧農であった。穀物の数年分の貯蔵などとても不可能なこと
であり単年度であっても、農作物の不作がいったん起こると人びとの暮らしは極端に悪
くなり、飢餓状態にすぐにつながった。1812年にナポレオンはロシアに遠征に失敗
したのだが1810年代ののヨーロッパは、厳しい寒さにおおわれていた。こんな気象
条件の中で、ナポレオンはロシア遠征を決行したのだから、当初予定されていたように
短期決戦でロシアを屈服させられなかったのは、大きな誤算であったのだ。戦争と気象
の関係が、1812年におけるナポレオンとアレクサンドル一世との対決にとっては、
決定的な役割を果たしていると言える。1808年にナポレオンはスペイン・ブルボン
朝の内紛介入にナポリ王に就けていた兄ジョゼフをスペイン王に就けた。これに対する
スペイン国民の反発は激しく、スペイン独立戦争が起こり、蜂起した民衆の伏兵による
抵抗が出来これが後のゲリラの語源になった。このゲリラにフランス軍は苦戦を強いら
れナポレオンの栄光のターニング・ポイントになった。この強国フランスが大陸封鎖策
としてのロシアとの交易禁止を政策としを取ったので当然ながらいくら重農主義の仏国
でも同盟国や植民地の食料調達にはおぼつかなかった。この時一緒にやって来たオスマ
ン帝国の衰退がバルカンの火薬庫に火をつけたのだ。1800年代イギリスは産業革命
に成功し海洋進出に於いて先行していたスペインポルトガルを凌駕し植民地戦争に勝っ
た。この事で後進国アジアアフリカオセアニアアメリカが苦渋の選択に迫られた。その
文化を100%受け入れるか反発して戦いを挑むかである。この時の結果は現代社会の
国際情勢の素になっている。その中でアメリカ原住民は白人社会に領地を盗られ南米や
インドなどは金銀や貢物が交易で奪われた。アジアでは半植民地化に向かいスラブ社会
は実質的なオスマンの庇護が抜けて独立の機運にフランス革命が拍車をかけていた。


800: 名無しさんAA:16/07/03 19:34
 追憶の彼方から 30−6

 これがアジア・アフリカにとっては苦渋の時代の幕開けであり、トルコ、タイ王国な
どの国で西欧文化を取り入れ近代化が試みられた時だ。清国の半植民地化が実質的に始
まったのは、アロー戦争敗北後に天津条約、北京条約を締結してからである。オスマン
帝国もヨーロッパ諸国による介入でギリシャ独立戦争において敗北し、ムハンマド・ア
リーのエジプトでの台頭を止めることが出来なかった。インドではイギリスが19世紀
にマラーター戦争やシク戦争を行いインドの植民地化に成功した。1857年に大反乱
が勃発したが、それでも翌年にイギリスはこれを鎮圧し、ムガル帝国は終焉を迎えた。
これが第一次大戦前夜の状況だ。オスマン帝国内で青年トルコ革命という革命が起きて
各国が競っていた近代化競争に自ら乗り込もうとしていた。これは「青年トルコ」とい
う青年団が、専制の廃止や憲法の復活など、様々な近代化を目指した革命だったが結果
は愛国心からかこうした混乱したトルコの状況に乗じて、各地でさまざまな動きが出て
独立を果たしていく。オスマン帝国の自治領だったブルガリアが完全独立しオーストリ
アが、ボスニア=ヘルツェゴヴィナを併合した。ブルガリアは露土戦争後サン=ステファ
ノ条約を結びオスマン帝国から自治を獲得する。ボスニアヘルツェゴヴィナはその後の
ベルリン会議でオーストリアが行政管理権を獲得したがこの状況下での、オーストリア
がボスニア=ヘルツェゴヴィナを併合した。この事はセルビアや白ロシアなどでのパン
=スラヴ主義の国々を相当に怒らせた。これら地域でのナショナリズムは利用されては
勢力拡大を目指すロシア帝国はパン=スラヴ主義の代表格とも言える。さらに虎視眈々
と旧領主としての資格からドイツ帝国やオーストリアハンガリー帝国のパンゲルマンの
西欧統合主義が、以後この地をめぐって激突する。1912年ロシア帝国の世話を受け
バルカン同盟が結成されパン=スラヴ主義(スラブ語族の連帯と統一)をめざす思想運
動はそれ基づく同盟で、トルコやオーストリアを打倒するために結成され セルビア・
ギリシア・ブルガリア・モンテネグロが参加した。同じ年バルカン同盟がオスマン帝国
に宣戦布告し、第一次バルカン戦争が起こる。ロシアはバルカン同盟を支援し、オース
トリアはオスマン帝国を支援したが、最終的にオスマン帝国が敗北してロンドン条約が
結ばれた。



801: 名無しさんAA:16/07/03 19:35
 追憶の彼方から 30−7

 だがロンドン条約の結果の領土分割に関してのバルカン同盟内での内紛が起こるのだ
。ブルガリアの獲得した領土が多すぎるという不満が理由で、今度はブルガリアに対し
てのセルビア・ギリシア・モンテネグロ・ルーマニア・オスマン帝国が共同で宣戦して
第二次バルカン戦争が起こした。この二つ目の戦争後、ブルガリアは多くの領土を失い
、ドイツ・オーストリア側傾き最後に鞍替えした。バルカン同盟内の主要な一員だった
ブルガリアがドイツ・オーストリア側に鞍替えしたことで、ドイツが狙っていたバルカ
ン半島に新しい勢力圏を得ることになり。食料供給のドイツの南下政策の実現可能性が
高まった。このドイツのヴィルヘルム2世のとった帝国主義政策の中で、ベルリン−イ
スタンブル−バグダードを鉄道や道路で結び中東に進出すると言う事は、ロシアの南下
政策と対立した。そこでこれに対立している海洋艦隊を持つ英国のアフリカへの進出を
策定した3C政策を進めるイギリスと手を組みロシアは南下政策を進め激しく反発した
。このドイツ・オーストリアの対立が欧州内で更にに激化していく中。バルカン半島を
めぐる複雑な状況は第一次世界大戦を引き起こした。ボスニアヘルツェゴビナは、この
1908年当時の時点でオーストリアに併合されてい統治されていた。だがこの地域は
多民族国家で形成されスラヴ系民族も多く、彼らはスラヴ統合主義のもとオーストリア
の支配に対しては猛反対をし 英国やロシアから支援され運動を繰り広げていたのだ。
1914年6月28日には、オーストリアの皇位継承者のフェルディナント大公夫妻は
領地視察と陸軍の演習視察のためボスニアの州都サラエヴォを訪問した。大変な悪路の
中で馬車より遅い最新の自動車を使った訪問だった。オーストリア当局は充分な護衛の
もとに行っていた来訪行事だったが この日はセルビアにとっては重要な祝日である聖
ヴィトゥスの日(Vidovdan)にあたる日でもあり、1389年においてセルビアがオス
マン帝国に敗北を喫した敗戦のコソボの戦いの行われた日でもあった。更に南スラヴ諸
国への統合を望んでいたセルビア人ボスニア人コソボ人などの大いなる鬱積した不満も
高まっていた中だった。このため、こうした形のこの日の皇太子夫妻の訪問は地域住民
の神経を逆撫でする結果ともなっていた事は充分予測されていた。こうして反オースト
リアでの政治運動結社「黒い手」のメンバーだったセルビア人に簡単に暗殺されてしま
う。これでバルカンを押さえていたハプスブルク家は幼少の皇太子を残して瓦解に向か
う。


802: 名無しさんAA:16/07/03 19:36
 追憶の彼方から 30−8

 ドイツヴィルヘルム2世は、第9代プロイセン王国国王・第3代ドイツ帝国皇帝を継
いだ。全名はフリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトル・アルベルト・フォン・プロイ
センで 宰相ビスマルクを徴用したプロイセンのフリードリヒ3世とイギリス王女であ
ったヴィクトリアの長男としてベルリンに生まれている。祖父ヴィルヘルム1世や、父
フリードリヒ3世が相次いで死去したことで29歳でドイツ皇帝・プロイセン王に即位
したが この激動の時代でロシアの南下政策とフランスの市民革命バルカンの愛国主義
更にイギリスの華麗な孤立主義がこのドイツを包囲していた中での立ち位置は険しかっ
た。前皇帝が今まで結んでいたロシアとの協定はそうしたドイツの地理的要因の妥協策
であった。ロシアが要望する継続を新皇帝は蹴ってイギリスとの同盟を望んだが 中国
でのアヘン戦争で日本との同盟を築き対ロシア政策を取ったのである。ドイツ国内問題
でも台頭を効かす共産主義の排除政策をこの皇帝は継続しなかった。こうして1866
年に共産主義社会同盟が独立を叫びプロイセン・オーストリア戦争が勃発する。イタリ
アはプロイセン側に味方し、勝利してオーストリアよりヴェネツィアを獲得し独立する
ことに成功した。そして小国国家群の中でイタリア統一目指したガリバルディが次には
プロイセン・フランス戦争で引き続きプロイセンに味方して勝った。かつて盟主フラン
スに反旗を翻した形だ。これでかつて1849年ローマ共和国を建国したものの、フラ
ンス軍に鎮圧されフランス軍が引き続き駐留していたこの半島が本当の独立を果たした
事になったのだが穏やかでないのはローマ教皇達である。バチカンの丘に於いて立て篭
もり防戦して体面を保った。こうしたイギリスの覇権主義はスペインから持ち込まれた
南米の黄金財宝が発端となっている。日本でも1853年ペリーの浦賀来航で江戸幕府
に開国を認めさせ、欧米が中心となっている世界経済の中に投げ落とされた。長らく続
いた幕藩体制は崩壊し明治維新によって新政府が出来て、欧米文化を摂取した急速な近
代化を目指すしか道が無かった。この近代化に成功したおかげで日本やタイ王国などの
一部の国は、西欧列強の強い影響下に置かれ 植民地にされなかったもののかろうじて
独立国家の道を歩いている状態だった。多くのアジアや南米アフリカは植民地として、
悲惨な目にあって第二次世界大戦まで突入している。




803: 名無しさんAA:16/07/03 19:38
 この近代化に苦しむアジアやアフリカなどの後進国と共に 西洋列強は国の生存の為
の熾烈な領地争いが絶えまなかった。アメリカに移住した清教徒と呼ばれる開拓者達も
銃に追われたり 宗教対立の中で次第に カナダなど寒いところでの平和な暮らしを求
めた。更に産業革命に成功したイギリスの技術は 鉄鉱石や石炭石油などの工業化資源
を求めた列強の利権争いまで発展した。更に十字軍などの宗教衝突が解決しないままに
蒸気船の発達は 遠洋航海による奴隷商人を造り出し それを労働力とする人に選民思
想を与え人種差別を産んだ。フランスの七月革命が成功しヨーロッパ内での革命により
近代的な国家が生まれる機運は。そのまま西欧や東欧に影響を与え自由主義とナショナ
リズムを広がらせたのだ。、ナショナリズムの高揚によりドイツ、イタリアなどの新た
な統一された国家が登場し、ナポレオン戦争による混乱に乗じてラテンアメリカ諸国が
あいつで独立し、裏では列強の植民地争奪戦が行われていた19世紀中頃に起こった事
はイギリスに続いてドイツ、フランス、アメリカ合衆国、ロシアなどが産業革命を成し
遂げ政府の強力なリードのもとで産業育成がなされた国家の台頭だった。19世紀の末
には資源の豊富なアメリカ合衆国や重化学工業分野が成長したドイツの発展が著しくあ
ってこれは 事実上イギリスの覇権の衰退だった。これにより列強の植民地争奪競争が
日本にも及び日清戦争、日露戦争などが起こったのだ。こうした植民地争奪戦の終結こ
そが第一次世界大戦の希望だった。こうした中に帝国主義ドイツと民衆が産んだ皇帝主
義フランスが戦い裏にロシアとイギリスが絡んでいた。ソンムの戦いはこうした中で起
こっている。ドイツ軍はフランスを短期間で撃破しようと試み、中立国ベルギーを突破
して北フランスからフランス全土に侵攻しようとした。マルヌの戦いなどのフランス側
の反撃が始まると、ドイツ軍の進撃は止まり、西部戦線は膠着し 塹壕戦となって行っ
た。ヴェルダンの戦いや、ソンムの戦いでは両陣営が冷たい雨が流れる大きな側溝の中
にうずくまり銃撃戦を繰り返し、甚大な被害を出しても尚決着がつかず双方陣営は画期
的勝利の為の兵器を考え出そうとした。両軍が塹壕を使い機関銃の投入によって防御側
の優位性が高め、両軍が睨み合い長期化して行く中で兵士の病人は増え続けた。 この
ヨーロッパ戦線では、戦車、毒ガス、潜水艦、飛行機、機関銃など様々な新兵器が投入
され、戦死者の数は年々増加していき、次第に国力をかけた総力戦になった。この為各
国は相手陣営の経済を疲弊させるため、海上封鎖などを行い連合国側に制海権を握られ
たドイツ軍は、1917年に無制限潜水艦作戦を行うに至った。傍観を決めていた米国
はフランスへの貸付金の関係からユダヤ資本家の助言を聞き入れ参戦した この事でや
っと決着がついた。

804: 名無しさんAA:16/07/04 05:11
 追憶の彼方から 30−10

 このソンムの戦いを始めとする第一次戦争は、映像で調べられる最も古い戦争であろ
う。更に近代化に長けていた欧米列強が織りなした 近代化兵器の幕開けでもあった。
その時の民族の持つ醜悪な性格が今も続き その前後に各国間で密約が飛び交った事は
今の時代に似た様子であり 昔のままに共産国から今に蘇っている事に驚く。特に中東
でのイスラエル建国はユダヤ人の為に建国させたわけではない。当時人々に迫害される
ユダヤをみかねての中東での生活を願った民を許したのだ。が今や彼らは大手を振って
家や土地を奪いPLOを攻撃し人殺しをしているのだ。ナチスに匹敵する所業するこの
ユダヤ人に唖然とするしかない。この第一次世界大戦に於いてのソンムの戦いは歴史の
分枝点の原点として人類の今までの忌まわしい過去の記録の集大成として行きつくが、
それまでの戦争とそこからの戦争が 如何に醜辣さや人道上の違いがあったかが解る。
アメリカの記録映画と違い イギリスのマーリンズのこの記録映画は興行収入を得てい
た。それは民間人からみた人間模様の記録映画である。この戦争で解った事は かつて
中東やアフガンでは アラーの神に祈りを捧げながら鉄砲を撃っていて祈りの時間はそ
のまま休息の時間だった。だが今や無人殺戮兵器が空を飛び無差別的爆弾が落ちラマダ
ンの中で自爆テロが起きる。これは合衆国ブッシュ大統領が起こした戦争の仕方の革命
でもある。そして我々人類が危惧する事は こうした多様主義を認めない新しい文化が
創造される度に、この覇権主義に陥った人々が その便利な利権を求めて勢力争いが行
われると言うことだ。そして人々が犠牲になると言う事だ。この かつて「華麗なる孤
立主義者」「利に目ざとい風見鶏国民」と揶揄された英国民の腐れた性格が世界に拡散
してしまったのだが、今回の英国の国民投票はその性格が全く変わらず出て来ている。
ドイツから出る姑息な集団管理の規律主義と相まって世界はおおらかな人間を造らなく
なってしまった。特にに「牧場農園政策圏」とされる共産国と「永遠の夢追い」北朝鮮
や「豚の人民劇場」と言う中国政策は 段々とエスカレートしそれを米国や英国が後押
ししている現実は 一次大戦前夜と全く同じなのである。



805: 名無しさんAA:16/07/12 22:42 ID:3m6
 ニュースによると 東京都知事選の告示まで2日に迫って、自民党東京都連は11日
、増田寛也氏の推薦を決めると同時に、所属する国会議員や地方議員に対し、党が推薦
していない候補者を応援した場合に除名などの処分を科すとする文書を配布した。自民
党衆院議員の小池百合子元防衛相(63)が出馬表明しており、組織を引き締め、分裂
選挙の影響を可能な限り避ける狙いがあるとみられる。
 文書は「都知事選における党紀の保持について」と題して、都連会長の石原伸晃経済
再生担当相、都連幹事長の内田茂都議らの連名で出された。都知事選を「東京オリンピ
ック・パラリンピックを控えた都政のかじ取り役を決める重要な戦い」と位置付け、
(1)党の公認・推薦候補者を応援し、党公認・推薦候補者以外の者を応援してはなら
   ない
(2)反対党の候補者を応援し、または党公認・推薦候補者を不利に陥れる行為をして
   はならない
(3)各級議員(親族含む)が非推薦の候補を応援した場合は除名等の処分の対象とな
   る
−−などとしている。
 これは自民党が政治結社である事を証明した書類となる。政治結社とは政治上に於い
て 憲法に認められる個人の自由を奪う会を言う。つまり明らかにこれは日本国憲法を
逸脱した行為であり 安倍首相を天皇の名の元に収監し 更に自民党都議連全員とこの
文書発布の責任者はすぐさま逮捕し裁判されるべきものだ。この罪名は別にして 多く
の国民の下で裁判員裁判でいいが 恐らく永年収監とすべきものだ。公安委員会並びに
警察は逮捕もしないとなれば税金の無駄使いと言われても仕方ないないだろう。この手
の巨悪こそが 日本が撲滅すべきパワーハラスメントであり 差別社会の根源である。
裁判所並び自衛隊は即刻 非常事態宣言をすべしである。憲法の心や政治と言う国民の
よりどころを犯した罪は大きい。これは大問題であり自民党はオーム真理教と同じであ
る。公明党はなぜ物言わぬ。おかしいじゃないか。戦時中の軍国主義が起こらない事を
主眼を置いた平和政党などと言いやがって。こんなおかしな政党は政党じゃない。自由
の基本は 個人の公徳心の尊厳と思想の自由である。友人知人を応援していけないなど
する理りは何処にもない。経済活動でさえ同業者に葬儀にでるのだ。ましてはそれを守
る政治なのだ。この文書を下に警察は取り締まるべきである。



806: 名無しさんAA:16/07/12 23:28
 都連の石原伸晃会長らの名前で配ったとされるこの文書は「挙党一致で勝利を目指し
て奮闘しなければならない」と強調しているというが まさしく軍国主義そのままであ
る。まず自民党員が自民党を抜けなけば 他党の本当にその部署にマッチした良い議員
を選べないというのは共産主義そのものだ。自由主義では思想信条の自由を認め 特に
公務員となる議員にはその度量や器量が求められ 政策は町であれば町民全員の国であ
れば国民全員の為の方策を考えるのが政治である。政治家のみが官僚のみに於いて富を
むさぼるなどとは許されない。更にその為に会議や意見や多数決は党議党則で縛られる
ものであってはならない。その個人の自由が公に奪う党則のある事が政治結社である。
従ってイギリスのEU離脱について労働党も保守党も郷土党も各党共に離脱派と残留派
がいるのである。これこそが民主主義であって 党議党則を闘争の道具にしている事は
赤軍派以来の事である。これこそあの日本を戦争に誘い込んだ小泉劇場の違法なやり方
だったのだ。日本国民は決してそれを認めてはならない。許してはならない。それが今
の敗戦国日本のもたらした知恵のはずで先人の学習した遺産のはずだ。それが偉さであ
り賢さであったはずだ。これを無くした石原などは 日本人ではない。



807: 名無しさんAA:16/07/15 07:21 ID:hXE
 御馬鹿の八景 21

 ニュースによると 東京都知事選の告示まで2日に迫って、自民党東京都連は11日
、増田寛也氏の推薦を決めると同時に、所属する国会議員や地方議員に対し、党が推薦
していない候補者を応援した場合に除名などの処分を科すとする文書を配布した。自民
党衆院議員の小池百合子元防衛相(63)が出馬表明しており、組織を引き締め、分裂
選挙の影響を可能な限り避ける狙いがあるとみられる。
 文書は「都知事選における党紀の保持について」と題して、都連会長の石原伸晃経済
再生担当相、都連幹事長の内田茂都議らの連名で出された。都知事選を「東京オリンピ
ック・パラリンピックを控えた都政のかじ取り役を決める重要な戦い」と位置付け、
(1)党の公認・推薦候補者を応援し、党公認・推薦候補者以外の者を応援してはなら
   ない
(2)反対党の候補者を応援し、または党公認・推薦候補者を不利に陥れる行為をして
   はならない
(3)各級議員(親族含む)が非推薦の候補を応援した場合は除名等の処分の対象とな
   る
−−などとしている。
 これは自民党が政治結社である事を証明した書類となる。政治結社とは政治上に於い
て 憲法に認められる個人の自由を奪う会を言う。つまり明らかにこれは日本国憲法を
逸脱した行為であり 安倍首相を天皇の名の元に収監し 更に自民党都議連全員とこの
文書発布の責任者はすぐさま逮捕し裁判されるべきものだ。この罪名は別にして 多く
の国民の下で裁判員裁判でいいが 恐らく永年収監とすべきものだ。公安委員会並びに
警察は逮捕もしないとなれば税金の無駄使いと言われても仕方ないないだろう。この手
の巨悪こそが 日本が撲滅すべきパワーハラスメントであり 差別社会の根源である。
裁判所並び自衛隊は即刻 非常事態宣言をすべしである。憲法の心や政治と言う国民の
よりどころを犯した罪は大きい。これは大問題であり自民党はオーム真理教と同じであ
る。公明党はなぜ物言わぬ。おかしいじゃないか。戦時中の軍国主義が起こらない事を
主眼を置いた平和政党などと言いやがって。こんなおかしな政党は政党じゃない。自由
の基本は 個人の公徳心の尊厳と思想の自由である。友人知人を応援していけないなど
する理りは何処にもない。経済活動でさえ同業者に葬儀にでるのだ。ましてはそれを守
る政治なのだ。この文書を下に警察は取り締まるべきである。


808: 名無しさんAA:16/07/15 07:21
 御馬鹿の八景 21-2

 都連の石原伸晃会長らの名前で配ったとされるこの文書は「挙党一致で勝利を目指し
て奮闘しなければならない」と強調しているというが まさしく軍国主義そのままであ
る。まず自民党員が自民党を抜けなけば 他党の本当にその部署にマッチした良い議員
を選べないというのは共産主義そのものだ。自由主義では思想信条の自由を認め 特に
公務員となる議員にはその度量や器量が求められ 政策は町であれば町民全員の国であ
れば国民全員の為の方策を考えるのが政治である。政治家のみが官僚のみに於いて富を
むさぼるなどとは許されない。更にその為に会議や意見や多数決は党議党則で縛られる
ものであってはならない。その個人の自由が公に奪う党則のある事が政治結社である。
従ってイギリスのEU離脱について労働党も保守党も郷土党も各党共に離脱派と残留派
がいるのである。これこそが民主主義であって 党議党則を闘争の道具にしている事は
赤軍派以来の事である。これこそあの日本を戦争に誘い込んだ小泉劇場の違法なやり方
だったのだ。日本国民は決してそれを認めてはならない。許してはならない。それが今
の敗戦国日本のもたらした知恵のはずで先人の学習した遺産のはずだ。それが偉さであ
り賢さであったはずだ。これを無くした石原などは 日本人ではない。増田氏は選挙の
本人として こうした自民党の推薦など蹴らねば全く話にならない。東京の問題は正し
くこのいい加減な人間さえ大物にしてしまう自民党の体質そのものである。この東京の
問題は そのまま自民党そのものの問題で 大きな日本の問題だ。区長会やら都議員に
都知事が調整して話し合いし立候補しなければならないなど全くの弊害そのもの軍国時
のやり方で不平等そのものだ。そのまま何のしがらみもなく立候補するほど壁がある。
などいうのは立候補者の権利を踏みにじりそのまま人権無視なのだ。これこそ自由の対
する独裁なのである。宇都宮氏は即刻こうした「政治結社」の証明であるこの文書を持
って裁判所へ駆けつけるべきである。


809: 名無しさんAA:16/07/17 11:13 ID:0tM
ピーターのつぶやき 029

           魚を与えるな 釣るを教えよ   老子 
           敵は本能寺にあり。       明智


 なるほど 人は如何に悲しい世に生きているのだろうか なんとさもしい世であろう
。と悩む事も多い。が 今人類は月に行き南極でも住んでいるご時世である。今年は雪
がすごく北海道の寒い地吹雪の中での死亡者も多い。がそれでも人はこうした極寒の地
でも賢く生きている。この何と勇ましく雄々しい姿は 時に見過ごされがちだが日々に
生活している。我々はかなりに自然に頼りながら自然を壊しては生きている。今回南沙
諸島に軍事施設が完成した事は中国は会心の出来事としているだろう。が他の国には大
きな迷惑である。自然を犯し自国経済すら成り立たぬまま軍事優先の独裁主義はその考
え方でも中国にとっては悪い事をしている事を解っていて行っている確信犯なのだ。そ
してその国内混乱は他に布教しては他の国々が混乱すれば利を取れる。としているのだ
。全く愚劣極まる行為である。この中国が安全保障理事国として先進国が信奉する戦後
の国連に牛耳っているいちぶなのだ。もし地球の安全を図るならばこの中国の息の根を
止める事こそ大事であろう。今イスラムのテロの危険が叫ばれる。だがこのテロを煽っ
たのは中国人の隠れた行動とその屁理屈に似た理論である。もともと中国共産党という
のは中国国内では正式政党とはされていない。にも拘らずソ連は台湾の国民党を否定し
共産党中国を押したのだ。この交差した縮図はそもそもが米国の共産主義打倒で始めた
第二次世界大戦に自国参入に日本を敵対させて欧州戦線に駆けつける策略をめぐらせた
事にあるのだ。そしてその罠に真面目な日本人首脳はかかってしまいドイツと協定を組
む事になったのだ。日露不可侵条約と共に。過去の歴史はさておいて中国に今教えるべ
きは良識と良心である。国として見てはいけない。今だ精神異常の軍事国家なのだ。


810: 名無しさんAA:16/07/24 09:50
追憶の彼方から 31
 そうだ みんなで アフリカへ行こう 02

 今年はビートルズが来日して50周年を迎えたと言う。この時英国がEC離脱で新首
相が生まれた年だというのは不思議な因縁を感じる。考えれば革命一番手の仏国が「自
由・平等・博愛」を彼らが掲げ国を成した時独国は恐怖し英国は尻込みしながら横目で
見ていた状況だった。そして英国王室はそのまま維持し国民が議会によって統治しては
若者がある時つぶやいたのは「愛と平和」である。その中でビートルズが発表した日本
語で「愛こそ全て」が売れたのは冗談の様なレコーデングと一時しのぎのグループだっ
たと言われる。が来日した時は既に、押しも押されぬ国際的大スターになってやってき
たのだった。多くの古典的大作曲家から言えば全くキチガイの奏でるメロディと酷評さ
れる中で、実験では現実的にサルやチンパンジーやゴリラに聞かせて狂ったと言う研究
結果は白日の下試された結果をだした。が、それでも全英は勿論全欧州全米のヒットチ
ャートの連続一位を記録し 彼らの歌は当時の若者には大受けし、莫大な稼ぎを産んだ
。それで熱烈なファンを虜にして彼らは来日した。1966年6月29日に訪日し公演
は次の日から3日まで日本武道館で行った。前座で尾藤イサオや内田裕也、ルージーン
ズ、ザ・ドリフターズなどが舞台に上がっているという。勿論我々は田舎の貧乏人であ
って彼らの来日は小学4年生の頃 映画鑑賞で見たぐらいでそう熱烈に面白いとは思わ
なかった。こののめり込む人達の輪が奇異にみえたのが印象である。がそれでも日本人
のファンが行儀よく立ちあがる事も規制されている中ではビートルズ本人はかなり戸惑
う様なファンの姿だったと言うのである。その後日本はその熱はそのままアメリカナイ
ズされて 演歌中心の歌謡曲からバンドのあるリズム&ブルースそしてタンゴからフォ
ーク・ロックと進み若者は自由なヒッピーとして「自由と平和」をキーワードに活動し
ていくのである。そしてフランスの(自由・平等・博愛)は英国で(愛・平和)が標榜
され米国で(自主・独立・平和)になったのである。そしてこの自主独立は自由と解さ
れそのまま日本の学生運動と連動した平和運動に結実したのだ。

811: 名無しさんAA:16/07/24 09:50

追憶の彼方から 31
 そうだ みんなで アフリカへ行こう 03

 その後の1960年代〜1980年代は 自虐史観に彩られた日本の指導者層と自由
と希望に燃えるように熱くなった若年世代の攻防の歴史であっただろう。こんな時にあ
の田中角栄が起こした不祥事は日本にとってはかなりに痛手の航路であった。まずは輸
入の賄賂を受け取ったとする国際航路を受け持つ日本航空は国策企業ではあっても一般
の一民間企業であったし、更に海外通貨の預金である外為法違反などはその後に作られ
た法律で裁かれたのである。又ロッキード事件そのものが海外事件であり日本政府内で
討議されるものではなかったのだ。1976年の米議会から発覚したこの献金問題は、
角栄首相に行った「丸紅ルート」、橋本運輸相に問われた「全日空ルート」などがあっ
たがそのいずれもがロッキード社と丸紅とボーイング社。全日空へのトライスター導入
に当時首相だった田中氏に丸紅側が請託し、73年8月〜74年3月、4回にわたり計
5億円の賄賂を渡した。とするものだ。田中、橋本両氏ら5人は公判中に死亡他は全員
の有罪が確定した。この事件当時は恐らく戦中派のあくなき「恒久平和願望」があった
。この平和願望も米国の「世界の警官」としての覇権主義にさいなまされ特に指導者達
は共産党思想すら必要としていた時代と言える。そうした悩みはそのまま赤軍派べ平連
などデモやハイジャック事件や三井物産ビル爆破事件でも 日本人の葛藤として色濃く
残っている。中でも角栄の敵はそうした潔癖症たる日本人の気質と貧乏を差別化してで
も経済大国になろうとする力だったのだろう。田中は言う「何にもしないで民主主義が
根づく訳ないのであって政治が「よし世話してやろう。」とやらないかんのです。」と
更に「良いも悪いも金の力は巨大でこれを利用しなきゃどうしようもないでしょう。」
負けたらいかんのであって、良き事するにへこたれたらいかんと即断即決で即実行です
よ。」とも話す。事実彼の唱える列島改造論は仮の姿であって日本の不平等の悲しみを
無くす事が原点にある。コンピューター付ブルドーザと言われたのは土建屋精神の誇り
がにじみ出ていたからであろう。それが逆に金脈政治と言われる手法であったのだろう



812: 名無しさんAA:16/07/24 09:51
追憶の彼方から 31
 そうだ みんなで アフリカへ行こう 04

 世界中で悲惨なテロがあり隣国では威嚇がある日本が それでも平和なのは田中政治
が作った戦中派思想が色濃く残っていたからであろう。つまり恩情にもろく強くあれと
願う優しさである。その頃の戦中派のその優しさは万博建設にも表れている。万博を押
した大阪府知事は左藤義詮(さとう ぎせん)は1899年三重県出身とされる。父左藤了秀
は真宗大谷派僧侶で大谷学園を作った創立者の一人とされる。大谷派は戦前から国際色
豊かで特に今だ国になっていない植民地であるアジアの情報に長けていた。既に仏教界
では日清戦争以前から日本の開国によって釈迦仏教の祖を祭らんとした動きがあって、
その為にチベットやイランまでその経典や遺跡などを確かめる人々が多くいた。これは
仏教特有の布施や募金などの収集がかなり出来た為であろう。彼は神戸高等商船学校の
教授を経て知人の勧めで第22回衆議院議員総選挙に日本自由党で出馬し、衆議院議員を
一期務めている。まだ敗戦の色濃く残る第2次岸内閣では防衛庁長官として初入閣して
。航空機購入問題で現役閣僚として証人喚問を受ける事もあった。田中角栄時代の幕開
け時である。1959年に赤間文三の後を受け、大阪府知事選挙に出馬し初当選て3期目の
在任中に大阪万博を開催した。この大阪万博は次世代の旗手が数多くの活躍を見出し、
奇抜なアイデアやほとばしるデザインを駆使して大盛況のうちに幕を閉じた。当時世界
は日本を「エコノミック・ミラクル」として日本復活の速さに東洋の奇跡として相当な
危機感を抱いていたと言われる。特にアメリカでは自動車や繊維業界に圧力をかけては
国内産業空洞化の危機をしのごうとしていた。その繊維業界が米国との交渉を重ねてい
る苦境の中で万博は開催された。その後活躍の場を広げた横尾只輝は一所懸命説明する
も繊維連盟の会長はこう言った「君の言っている事は全く解らない。だが君の迸る熱意
は解った。君の自由にやりなさい。やりたいようにやりなさい。支援は約束しよう。」
とこの言葉に戦時を知る者或いは明治人の気骨さを知りその日本人の若者を育てようと
いうやさしさに「気概 志 心意気」と言うものを感じたと語った。今の老人にその気
概があるだろうか。特に今の経団連は 若者を選んで育てて この日本を進ませようと
いう気はあるのだろうか。国際化もいい勿論経済利益も大事だろう。だがその犠牲とし
て子供の教育や生活環境や働く職場の賃金が生活にゆとりのない場を与えては本末転倒
である。


813: 名無しさんAA:16/07/24 13:47
追憶の彼方から 31
 そうだ みんなで アフリカへ行こう 06

その後の中曽根が田中曽根政権として安定した政治は日本に田中の剛腕ぶりの象徴だろ
う。その後竹下氏が首相になり竹下派七奉行と言われたが地元還元金権政治で迷走を続
ける。国際社会では「多様性の尊重」と言い国内的には「消費税設置」や「国鉄解体」
が日本をデフレ社会に持ち込んだ。馬鹿な事に「地方創生」を掲げてばらまき経済を試
みたものの成果は逆の東京一極集中を加速し中央集権を巨大化させた。それは金余りの
経済の中に金満家に更に金を浴びせた結果だったのだ。これで一挙に物価統制が出来な
くなってバブル化とバブル崩壊になったのだ。この時代を見つめないいい加減な経済実
態を把握しないままのやり方は竹中を含め現代まで続いている。当時竹下時代は機械の
電脳化が進みプリペイドカードが出回る産業進化があったのに ばら撒きを始めたのだ
。これでは実体経済が狂乱の内に疲弊し弱者の痛めつけになるのは当然なのである。万
博が成功裏に終わった事には裏がある。当初いままで万博は結構各国でやってはいたが
そうそう盛況ではなかった。勿論それなりの採算度外視のお祭りではあるが実は大阪は
万博の前まで西日本一の地位を福岡に追いつかれそうな都市状態だったのだ。この万博
を任されたのは新井である。財団法人日本万国博覧会協会の会長理事は石坂泰三、事務
総長理事は初代は新井真一だが新井はあまり乗り気ではなかった。テーマ館の方向を探
る訳だがブルッセル万博「科学文明とヒューマニズム」の中で「万博は人の未来の夢と
共にその影も又投影する。」という言葉を聞いてテーマを「人類の進歩と調和」を掲げ
テーマ館の総合プロデューサーを岡本太郎に依頼、奔走した。総合プロデュースはなら
なかったものの彼の太陽の塔は今も現存し内部の生物の進化を辿った「生命の樹」は人
に未来の謎を示している。この大掛かりな祭りは他にも興味深々な事が沢山ある。スポ
ンサーである企業は新進気鋭の者を軒並み採用して各館の展示を決めたのだ。建築家は
勿論アニメーターや作家更にファッション業界と幅広く若い日本人の才能を開花させた


814: 名無しさんAA:16/07/25 03:47 ID:bqU
追憶の彼方から 31
 そうだ みんなで アフリカへ行こう 07

 この万博からの日本は奇妙な事に大きな事件が続く。それでも日本は経済大国への道
を崩さなかった。ニクソンショックや日米貿易摩擦は日本人の謙虚で真面目な性格は他
の国の道しるべにもなった。今安倍首相が「国民一億総活躍社会」を掲げ「安全保障の
中の改憲」を掲げている。がこんなものは政治上当たり前の話であって 掲げるような
スローガンにはならない。が逆に言えば今まで政府は企業を優遇しすぎて来て社会貢献
の無いお馬鹿の経営者をのさばらせしすぎた。今でこそ総会屋の話はあまり出ないが、
実は早い段階で労働者の厚遇と自らの引きしめを図るべきだったのである。国鉄解体に
埋もれたJR北海道の自然に弱い企業になった理由はそこに資本投下した技術革新を怠
っていたからだ。オーストラリアではどんな線路であろうが劣化した線路はレール取り
換えを行う。そしてそれは自動化した機械による下請け企業なのだ。世界で一つしかな
い作業列車によるが これにより大幅な労働力改善がなされている。この所建築解体も
大掛かりな機械による簡単な人の作業に切り替わっているが 実はそれは進化した姿で
あろう。この万博から出てきた思想は今や実用化されてかなり活かされて来ている。例
えば人間洗濯機はそのまま老人介護の為の入浴施設として改良された。自己診察電算機
は手軽な血圧計や磁気スキャンに替わったがそれでも思想そのものは活かされている。
動く歩道はそのまま空港などで使われ、自動運転やロボットの作る料理は冷凍食品での
食生活で我々の生活そのものだ。更に携帯電話や小さな映像ブラウン管やリモコンなど
、そのままその時の夢が 少年の心を奪い研究され実用化になったものは相当に多い。
当時流行っていたウランの脅威と活用は「鉄腕アトム」でも「8マン」でも「ゴジラ」
でも啓蒙啓発が見られたが今でも危険性と活用の悩みは尽きない。丁度アポロ宇宙船の
月面着陸が世界的に流れた一年後だった為にアメリカ館・ソ連館などは、競って宇宙科
学の展示になったが中でも月の石の展示など人気の館には長蛇の列で、この異常な混雑
に「人類の辛抱と長蛇」の残酷博だ。とある週刊誌は書いた。国際博覧会史上で初めて
の黒字となったし 又アフリカや海洋諸国などの後進国が渋々ながら参加した事で過去
最高の77ヶ国4国際機関の出展となった。このイベントは一般の日本人が肌を触れ合
って知る海外だったが 同時に海外から日本と言うものを知ってもらうに良いお祭りに
なったと言われる。

815: 名無しさんAA:16/07/25 04:42
追憶の彼方から 31
 そうだ みんなで アフリカへ行こう 07

 そうした万博の未来科学の夢と不安を表した中に ロボット技術がある。核技術も大
変なものだが このロボット無くして核はできない。つまり電算化された制御技術の中
でしか行われない。そうした危険な物から手軽な物までコンピューター処理技術は活か
されて情報化社会の進展を引っぱっている。が車の自動運転に着手して開発した状況判
断に対して今だ試験走行に関わらず既に各社とも小さな事故を起こしグーグル他3件の
重大事故を引き起こしている。そして今までも飛行機や列車の金融機関のATMなど人
に身近なリモートコントロールは一時ストップや重大事故など大問題を幾つも乗り越え
て今に至っている。これは人と機械の交差には判断が出来ない事が挙げられる。将棋で
あれ碁であれ所謂常道定石と言うセオリーを守る行動には認知と共に強い判断が出来る
が異常な事には異常な動きを示す事が解っている。それは今や機械言語が統合と速さの
理由で自らの認識して覚える言語に変わったからだ。今までは命令形の指令言語だった
が今はしっかりした初期命令でファジーな概要を複数回で煮詰めて認識する事が可能に
なったからだ。それは日本人が造った時間を埋め込む事でチューリング機械の停止性問
題を解決しゲーデルの不完全性定理の不完全を取り除いたからだ。論理矛盾だが、その
個体がEかEで無いかを判断するにEで無いと言う証明はEであると言う証明と同一で
E以外の物を全て確認できなければ出来ないのである。と言う規定の大幅な改良だった
。論理はともかく過去の蓄積される情報と比較される判断に一定の枠の中でしか判断し
ない。どんなに計算が早くともその量が莫大になっては整理するしかないのである。そ
こでAIの将棋や碁やチェスは画面認識の選択を狭めた中で勝利の最大率を取る事に画
期的な枠を使ったのだ。そうした進展により今や人を凌駕している。それを可能にした
のが情報を駆使した通信電卓はソーシャルゲーマーの発掘に勤しんで発展したプログラ
マー達である。がここに来てこの通信から離れた位置情報によるゲームが出来たのだ。
ポケモンGOである。まるで昆虫採集のようなこのゲームはキャラクターの人気からか
世界中のゲーマーを変える勢いである。今までゲームセンターでのゲームの様な室内型
から歩きスマホの奨励板に変わったのだ。これが今後の社会的影響をどう変えるか不明
だが こうしたものが売れればそれになぞった似た物が出てくるのが通例である。



816: 名無しさんAA:16/07/25 10:06
追憶の彼方から 31
 そうだ みんなで アフリカへ行こう 08

 日本語には達観者と言う言葉がある。戦後すぐは、胸の張り裂けんばかりの悲しみを
知っていた人達が社会を作っていたのだろう。だからこそ平和や伝統や子供や年寄りを
大事にして生きて来たのだろう。人は育て方で2種類に分かれるのだろう。親の言う事
を聞いて素直に育ちそのまま嫁を取り優しい家庭を作り次の子孫に託せる人と 親には
反発しても社会で失敗を知りそうした悲しみを知ってやさしい人になって子孫を残す人
と。だがいずれにしても そうした人達は先代や先々代の持つ知恵を知るような頭のい
い人で在る時その人生を知るこの達観者に為らねば 先代の時代以上の社会にはできな
い。この所の科学技術は進歩はあるもののまるで中世時代のガリレオ裁判のような体質
に変わってきている。そういう時は魔女狩り的気風も生まれ差別主義が色濃く反映する
事件が多発する。海外の警官発砲事件で黒人のデモが起きたり、日本のDVやストーカ
ー事件や親や祖母殺し事件は、そうした差別主義で優位を決める風潮が学校教育や社会
にその背景があるからだろう。経済差別の貧困問題はおそらく古来より日本には無かっ
たと考えられる。身分制度はあったとしてもそれは他の国と違った意味で侍を規制した
ものであり庶民は不作や飢饉の方がより怖かったに違いないし 強さと言うものはそも
そもの剣術や体力の強さであり貧困と同時に教育も何もかも生活基盤が無くなる現代と
はかけ離れたものだったと言える。そうした物が明治までも昭和までもついて来て温情
の世界を築いてきた文化が日本にはあった。が近年のスマホやゲームは一変して壊した
のは間違いない。恐らく昔の様に山で一人で暮らせるほど大人びた或いは仕事の出来る
子供は一人としていないだろう。体力も無く知恵も無く知識も生活に根差すことなく、
学習能力も程々で 只々遊びに興じた世界楽しみの世界を夢に考えて育っている気がす
る。そしてそれは世界に蔓延しだして 欧米流の隠れた差別主義が今のIS問題の本質
にみえる。そんな中日本人がテロは起きない被害者にならない。と言う感覚は間違いの
中にある。それが田中の言う「隣の国とも仲良く出来ない国が世界平和ったって世界か
ら笑われてしまう。」と言う意味だったのだ。が やはり隣とはいえ信仰心もなく道徳
もなく共産主義独裁政治の国であり 全く支援はどぶのボウフラを増やす様なものだっ
たのだ。




817: 名無しさんAA:16/07/25 14:55
憶の彼方から 31
 そうだ みんなで アフリカへ行こう 09

 大体中国を応援するなどと言うのは 世界大戦の間違いを又犯したようなものだった
のである。明治以前から日本は、朝鮮皇帝をどれだけ応援してきたか 辛亥革命の孫文
をどれだけ応援して来たか。勿論地理的要因はあったにせよ 人物金をどれだけ費やし
て西欧列強のやる植民地になる事を防ごうとしたか それは欧州の世界大戦の死者数と
費やされた兵器の金と比較しても島国日本の資産からして相当な額だった。結局は大陸
を死守なんぞする必要はなかったのだ。そして今後も面倒をみる必要もないのである。
現代に於いては世界は狭くなったのだ。ここいらで落胆してはいけない。隣がだめでも
世界中貧困な地域や国はいっぱいある。特にアフリカは早くから西欧文明に接している
のだ。「女房と離婚していながら、ご近所の夫婦喧嘩をまあまあと収められないでしょ
。そうでしょ。」と田中は笑ったが いいじゃないか 世の中にはキチガイもいるのだ
から。人生には失敗もある。人類の歴史も又失敗は多々ある。そうした時は出来る限り
早く手を引いて 負の遺産や国の傷口を広げない事が 生きて行く為の知恵だ。日本人
は平和を希求する国民で在り続けなければならないのである。今ヨーロッパを襲うテロ
に我々は大きく悲しい事だと怒りや戸惑いを覚えるのだが現実にはイラクやシリアでの
市民の方がもっと大量な人が無くなりもっと悲惨で可哀そうな事件と現実に遭っている
のである。更に言えばリビアのカダフィ大佐失脚には石油決済をドルからアラブ通貨に
変えようとした事件がありロスチャイルド系中央銀行つまりイルミナティの思惑が絡ん
でいると噂され現実には国連の飛行制限可決の拡大改訳で空爆したのである。決議内容
は「リビアにおける停戦の即時確立を要求し、文民を保護する責任を果たすために、国
際社会によるリビア上空の飛行禁止区域の設定と、外国軍の占領を除いたあらゆる措置
を講じることを加盟国に容認する」と言う内容で国連の持つ武力行使否認の中の決議文
なのだ。これにアメリカが地中海にミサイルを飛ばしランスと英国が突出して積極的に
追随して空爆をして国家転覆を謀ったのであり仏国英国などのテロは想定内かもしれな
い。ただ国連審議でも、ロシア、中国、ブラジル、インド、ドイツの5ヶ国が拒否権を
行使しないものの棄権をした事をみれば。ドイツ他NATO全体はかなり引いていたと
もいえる。がそれでも欧州全体で空爆反対のデモで騒乱が起きるほどではなかったのだ


818: 名無しさんAA:16/07/29 02:03

いざ酔い いざ並み いざ晒場 82-2

 又馬鹿げた政策を安倍氏は発表した。日銀総裁も物価目標が達成できずと発表した。
当然である。全く間違ったやり方ばかりやっていて景気が良くなるはずは無い。まずは
日銀緩和策であるマイナス金利施策は全く日本の諸事情にも世界的時流にも合って無い
。やった時期も政府の甘利大臣の記事撹乱との意味合いでも全く突然で何にも効果がな
い時である。伝家の宝刀とはあるぞ抜くぞという噂の中で 抜かずに奥の蔵に締まって
おくものだ。これが出来なきゃ日銀の格は上がらないし政策効果もない。更にあれだけ
少子高齢化が問題と囁かれながら更にばら撒き給付に終始しようと言うのは全く、又も
より一層の少子化が人々が行う事になる悪循環だ。負債が増え行政予算が更に圧迫され
一向にやるべき施策が満足になってないのである。アベノミクス3本の矢が解らないの
であれば解らないとして現状を見て考えるべきである。よく現場をみれば直ぐに解る筈
である。シャッター通りで物が売れないのではなく物を売らなくなっているのだ。更に
はコンビニ大型ストアなどの統合化現象で中小弱小企業が生きられない状態になった事
だ。メーカーなどの経営者が悪すぎるのと共に銀行の合併統合化が弊害となって融資に
広さがないからだ。これは馬鹿な竹中理論が減少数値論を展開して政府の強行した為だ
。インフレーション理論では圧縮すれば爆発するのは当然でその為には自然淘汰すべき
を強制排除する事はより短期間に出来ると思ってしまう。だがそれは見せかけの現象の
一部であり更に生物学や人間社会では学習能力や余剰排他で疲弊し時間が短くより効率
が上がるほどその見せかけ効果と実質的希望効果に差が出来る。当然である世代交代の
波と同じである。戦争などの強制的に交代に対して江戸時代などの暖簾分けとの違いが
そこにあり新しきものは排除効果摩擦効果で恐らく2倍ほどその速度が速く効果が4倍
程ない。今度の直接的ばら撒きも同じで8倍ほど経済効果はない。当然である経済生産
はなく消費のみだからだ。そこが日本人の馬鹿な所だ。本当の効率は副産効果を産んだ
生産で裾野のある機械産業の様に流通も同じに途中経過した諸経費の中間費用効果を今
抜いている事にある。厳格な労働環境規制や積載超過規制或いは労働時間や支給状況や
自由契約や相手先利益確定をした安全率を加算しているか環境保護をしているかの問題
である。つまり今や役所から競争入札し大型機械化した高効率ロボット化は全く生産経
済になってないのだ。それは輸入品安売りする国際化でも同じ物価上昇など言う方が頭
おかしい話なのだ。


819: 名無しさんAA:16/08/06 00:16
閑話休題(国際経済問題)

 いざ酔い いざ並み いざ晒場 83

 夏が来てお盆が来る。いつもの様に広島の日長崎の日が来て 先人の慰霊に明け暮れ
終戦と共に英霊達の時代の困難の日々が思い出され偲ばれる様に 日本人は常に この
忌まわしい現実に目をそむけること無く反省を新たにしている。被爆者団体は今後国際
的な署名活動をすると発表した。実は原爆の廃止問題は沖縄問題と同等の人の知恵の輪
の解決と同じ様に絡まっている。核廃止運動は全人類が被爆し放射能という今だ自由に
出来ない絶滅すら手の上にある様な厄害兵器を持って保持する馬鹿さにはつらい物があ
る。沖縄米軍問題も又同じである。そもそも国はその自衛能力こそが独立国の証でもあ
る。家庭も又家族に安心や安全を保障する最小集団であって初めて意味がある。だが銃
社会アメリカの家庭にはそうした自立自尊の独立心は、日本の様な法の遵守よりは銃を
持つ事から始まりそれを隠し持っている事で安全とされる。昔の日本の二本刀のような
もので象徴的威厳のものの一つであろう。ただ日本刀と違うのはそれが飛び道具であり
、銃の腕前よりは銃の性能の方で遥かに差がつくことだ。実は軍事力や核兵器能力も又
同じで そうした物を使用する国家力はそのちゃんとした法規制なり審査力である所謂
シビリアンコントロールの効く国である事が大前提のはずだったのだが 中国の台頭で
これが崩れてしまったようだ。経済大国化を目指す中国は国際法も近隣善隣条約も守る
意思は無く更にその国力保持に国民に圧政を敷き国際社会に武器輸出を益々増している
。はたしてこれが許されるのだろうか。との問いは多い。だがそれでも国連常任理事国
なのだ。数年前にこの理事国入りを問い合わせられたが偏屈な小泉首相は断ったしその
後のそうした機運も韓国の事務総長の誕生で消えてしまったのである。そもそも戦勝国
会議である事から今だ抜け出し切れないこの国連に日本の安全保障は大きく依存してい
る。敗戦国となった日本は歴史的に当然な事だが この事が沖縄の米軍基地問題に憲法
に色濃く反映されている。憲法前文に言う様にそもそもの国際社会の平和への希求とそ
の善意に依存した社会形成が完成されているからだ。それでもそれが形ばかりで裏打ち
のない言葉である事は明白で それが核兵器の傘原子力発電運用米軍駐留沖縄新飛行場
建設をさせている事実は 今も核禁止条約は批准していない苦悩でもみてとれる。この
現実をわからない沖縄県知事は馬鹿か日本人ないかのどっちかだろう。

820: 名無しさんAA:16/08/07 17:01 ID:WlY
追憶の彼方から 31
 そうだ みんなで アフリカへ行こう 12

 ローマの歴史の攻防を見てみるとローマは如何に都市国家だったかが解る。フランス
に葡萄を持ち込みワインを作らせて輸入し、スペインには土木事業を持って金を採掘し
金貨を流通させた。逆に中東からは石造りの伝統を持ち込んではコロセウムや水道橋を
作った。アフリカにはオリーブを持ち込みオリーブ農園でオリーブの実や油を入れた。
当時世界一であったろう公衆浴場があり 国際的港町として機能していたのだろう。こ
うした事から見えてくのは、人の持つ要望はその生活であり営みであると言える。この
事は幼稚園児の泥饅頭の遊びと同じで「今が大事」の生活をして発展していた事による
。人の大事さは「今を生きる」事も大事だが今を辛抱して「明日に生きる」事の希望を
掴む事も大事な事である。ローマ帝国は西洋史の中で大きな位置にある。従って人類史
の中では重要なテーマを持っている。ローマが帝国となったのはオリンポスやアテナや
或いはスパルタなどの地中海域内の小国家を束ねて争いを収めた事にある。血で血を洗
う中で人々は船を作り都市国家群をして競っていた。こうした闘いの時都市国家の争い
を戦争で無く競技でと始まったのがオリンピックと言われる。言わば国際版相撲大会と
でも言えるのだ。日本人の場合は諸侯や藩主のお抱え力士の戦いで安泰や安寧祈願の神
事と変化したのだがローマはそれをそのまま国民不満のはけ口として利用しより過激な
戦闘競技にしてローマ帝国を造った。その古代競技を近代オリンピックと復活させて今
ブラジル大会が始まっている。このローマの歩んだ道こそ今の現実社会に似ている危惧
がある。人間社会の営みもさることながら国家運営に重きをなし 常に拡張主義の基に
対外進出侵略戦争をしてその支配地域を拡大した。がそれによってインフラに保守管理
がずさんで国内の緑地は畑となり街となり自然破壊が進んで更に人々の不安が大きくな
った。そこで格闘技イベントはそのまま死闘に替わってしまい、信じられていたこれま
での伝統宗教は国家宗教として書き換えられのキリスト教に統一された。死闘は飢えた
猛獣まで出されキリスト教は戦士と共に宣教師と言う形で最初に地に普通に布教活動と
して江戸時代まで続けられた。そしてその持ち込まれた技術や兵器や考え方はそのまま
戦争の原因となっていた。

821: 名無しさんAA:16/08/07 17:02
追憶の彼方から 31
 そうだ みんなで アフリカへ行こう 12−2

 そうした記憶が色濃く残るのがアフリカである。そして今その剛腕な手法は受け継が
れアテネオリンピックは財政赤字による世界経済の不況さえ招く事態に陥っている。又
技術や近代化社会のもたらした人口増加は自然破壊の一途で地球温暖化まで引き起こし
し人類を悩ましている。ここで人類は一つの飛躍を考えるべき時かもしれない。中東や
アフリカはキリスト教社会の支配に対抗した。エジプト文化はその対抗社会としての古
代国家群を造ろうとしたがピラミッドを背にして終焉をした。中東は遅ればせながら、
徘徊の民の遊牧民や行商隊の中にモハメッドであるイスラムの行儀主義を持ち込むのに
成功し欧州文化との交易の一端を開いた。がもともと砂漠の民にとっての異邦民の技術
は殆ど必要もない愚行でしかなかったようだ。だからこそ世界大戦までは領土の維持の
中での自由通行の確保でしかなかった。だが第二次世界大戦後は逆に中東の地が要衝の
石油地帯でこの地に富が舞い降りる結果を産んだ。この事で中東も又幾つもの文化衝突
が産まれた。かつてはアラブ人としたイラン人も今はイラン人イラク人となりアラブ人
もサウジ人やエジプト人と国ごとに境界ある種族が出来るようになった。この事で人類
は混迷の中を行く事になる。つまりイスラムの指導者を名乗る争いの中に陥ったのだが
そんな事も勉強しないブッシュ政権はイラクを叩きフセインを排除し英国やフランスは
ヒーローだったカダフィを追い落とした。この事でイスラエルはユダヤの本質を現した
。つまり排他選民主義における民族でアルカディア思想の基幹である自分こそが神の中
で生き延びる事を許されたとする思想でISILを創り上げたのだ。このモサド特殊部
隊の動向は今では分析されていて彼らがイランまで視野に入れた対策だったとされる。
 問題はこのISILなるものが異物な就業を共にしたイスラムと離れた宗教活動をし
被害国にテロ活動と言わせている事だ。がどうもこのモサドもかなりのブレがある。イ
スラム原理主義聖戦派とされるビン・ラディンの傭兵達はこのイスラムを理解せず戦士
となっている。日本人が自然崇拝のままで文化を育み勤しんで来たのだがそれを理解せ
ず欧米列強の植民地主義に対抗して軍国主義を盛り上げたように。

822: 名無しさんAA:16/08/12 23:07
 御馬鹿の八景 24

 リオオリンピックが開幕し 小柄な島国の日本人でもメダルが取れる事を又証明する
様にメダルが各所で獲得していて喜ばしい限りである。がこのリオでの危険性は決して
減っていないようだ。報道陣が乗ったバスは銃弾で窓ガラスが割れ スリや強盗対策で
私設警備の人間が足りないとの情報もある。警察は相変わらず金が足りず今後リオ市や
リオ州は赤字で政府に頼らざるを得ないであろう。と言われこのリオに限らず、今度の
中国の買い付けが引き起こした資源安価策でブラジル経済は疲弊の一途となる。と欧米
のアナリスト達は見ている様だ。こんな中でトランプは言った。「クリントン政権が出
来て銃規制法が提出されれば終わりだ。どうする事もできない。だが今銃を持ってる人
々なら何とか出来るかも知れない。」と演説したのである。全く言語同断である。今や
彼がここまでやって来るに暗殺があったのかと思わせるに十分な発言で一体彼に人間と
しての資質があるのか疑われる発言だ。メディアは暗にクリントン暗殺をそそのかした
言葉として批判しているのだが 実はそのそそのかした言葉以上に彼の銃に対する姿勢
である。つまり自分以外で銃撃戦で死者が出る事を喜んでいる事である。通常兵器とい
うものは勿論殺す事に開発されたものだがそれ以上その威力で留まり防衛して守る事が
主眼である。核兵器にしても銃にしてもその悲惨さを回避する意思がなく中国政府の様
に突っ走っては意味のないのが軍事力というものである。つまりこの思想の違いこそが
リーダーとなるべく資質である。灯篭のカマキリの様に重機に人は飛び込まない。それ
は死を意味するからだ。そしてその思いは重機でなくとも小さな二輪車であれ怪我しな
い回避をするのが人間のあるべき姿である。が尖閣問題でも「日本は日本で守ってもら
い核も持ってもらっても構わないし戦争が起こってても仕方がない。だってやる時はや
るものだろう。戦争とはそういうものだろう。」とも言っている。つまり自分が一番で
他が死んでも戦争起こしても構わない。つまり孤立主義によってパックスアメリカーナ
或いはアメリカイズナンバーワンで我々は行こう。と呼びかけそれに賛同しない者は殺
せ除外しよう。という悪魔のような考え方なのである。この危険性は既に2・3世紀前
からそれが全く意味のない進歩のない世界戦争の道筋であった事は人類史が証明してい
る。にも拘わらず彼は学習してないのか無能者なのか言い放って人気を得ているのであ
る。

823: 名無しさんAA:16/08/13 08:40
 御馬鹿の八景 24-2

 この危険なアメリカの生活も今や日本以上に警察力が問われ 連邦警察では科学捜査
が徐々にではあるが取り入れられ確固たる証拠や検証が正確に行われだしている。この
手法は州警察にも順次取り入れられIT化の最先端を行く都市も現れた。これらはテロ
対策の必要と黒人差別による警察の暴力を携帯カメラなどで撮影されだしたからだとも
言われる。つまり行政の一環である警察の上層部も出来るだけ早く正確にその事件に於
いての確固たる物証を手に入れ原因の検証と対策が必要になって来たからだ。更に南米
の麻薬組織の巨大化や移入中国人の近代化した犯罪にも対処する為だと思われる。片や
日本ではこれだけ国際化する中でも今だ警察体系は整っていない。細分化すべき対処が
逆に経費節減の為に統合化合同化して巨大化し更にそれを指導すべき日本の検察も透明
性は全く無く違法な控訴取り下げばかりしている。タクシー強盗や交通事故に威力を発
揮しているドライブレコーダーすら警察の全車両に設置していないし、一時停止違反や
信号無視も警察官の勝手な感覚を基にして検挙している有様である。更に言えばガスや
電気など公共サービス会社についても言えるのだが こうした自治体の機能については
日曜祭日などの行政サービスを全面的に休みにしている事はおかしな話である。更にそ
の発注者たる公共機関の大きな工事類が休みもなく騒音振動を起した工事を行っている
のだ。正しく国民祝日とするならば およそ国の予算をいくばくかでも使っている企業
や団体や国会議員達は休日とせねばならない事を声高々に唱えるべきなのだ。そしてこ
の営業が仕方ないとするならばちゃんとした2交代制を引いて現代時間を入れで日祭日
も休まず一般の窓口を広げるべきなのだ。今の様などっちつかずで税収や電気料金電波
など使いっぱなしをさせていながらその集金窓口は閉ざすと言うのはおかしいはずであ
る。大体「一億総活躍社会」なんて皆んなは望んでいない。それはくたびれた老人や生
活弱者にもっと働け。と言う勝組みといわれる成功者の成り上がった態度でしかない。
つまり犯罪も増えれば死人に口なしなどと言う馬鹿が増えて行く社会は望まないのだ。
もうすぐ東京オリンピックと言うのに今だ犯罪者対応システムや警察規制のシステムが
確立せず更にこんなに観光立国の政策を進めながら 予算も法案もいい加減で犯罪者の
資料共有システムばかりが発展して 真実を知る。或いは権力を統制するITが不備の
まま科学捜査や検死処置もないままの事件捜査放棄での検挙率とは情けない限りである。

824: 名無しさんAA:16/09/13 03:24 ID:yAs
 争乱を焚きつける14

 今回北朝鮮は国際社会にかなりの兆発的行為に及んだ。北朝鮮が9日に行った5回目
の核実験には「核弾頭の量産化体制を整えた」と発表した。国連安保理は緊急会合を開
き、「国際平和と安全保障への明確な脅威」だとして強く非難する声明を発表したのだ
が相も変わらず国際社会は無力のままだ。中国は一応は避難した姿勢は示しているもの
の裏では細く笑っている。何故なら韓国の迎撃ミサイルのレーダーすら大声で反対して
いながらこの核実験やミサイル発射には中国技術の供与が見て取れ この発射台兼用車
が中国製品であることはまごう事のない事実である。地球規模でいえば大きく3つの事
に制裁が必要だ。一つはロシアのクリミヤ半島武力併合である。この制裁にはトルコの
エルドアンがクルド攻撃や政教分離しない政策である以上シリアの反政府軍に対空砲の
供与を考えるべきであろう。つまりロシア軍が黒海艦隊からのミサイルやミグの空爆機
を上げている以上撃ち落とす権利をシリア国民に与える事は別に非人道的ではない。二
つ目は中国の南シナ海や東シナ海の越権進出である。これには中国への経済封鎖が必要
だ。国際裁判所の判決もつばを吐きつけ人権も命の尊重も無く国際社会に寄り付いた行
為どころか香港返還についての英国との条約にも違反した行為がまかり通り国外ジャー
ナリストや日本の商社マンすら簡単に拘束監禁し拷問し裁判にならない不公平賄賂裁判
を当たり前の事で行っているのだ。これは国際的に全く話にならない根深い問題だ。国
連の常任理事国の任を解き経済封鎖し各国の協調によって「孤立化」若しくは「鎖国」
に追い込むしかない。つまり中国は大国として歴史からも国際社会からの全く学習能力
のない国なのだ。盗む脅す蹴散らかすと言う言わば悪の代表としての行為しか人民には
ないのである。三つ目は このアメリカ大陸まで届くだろう核弾頭実験の成功である。
この危険性を国際社会は危惧するが中国は喜んでいる。何故なら既に中国は北朝鮮に対
して無力であるに関わらず中国の存在認識カードとしての価値を持つからだ。経済封鎖
します油供給をストップしますと口約束ができるのだ。が現実は全く北への介入は出来
ない。それどころか北との商取引による生活者が多数で更に西側との緩衝国として必要
不可欠なのだ。この事か祖国統一を阻害してるのは当然なのだ。ならば北朝鮮を無くし
た方がよい。中国との国境を原爆封鎖するのが人類には正しいやり方である。国際世論
はどう反対しようとも 今や共産圏との決別は必要不可欠であるのは間違いない。

825: 名無しさんAA:16/09/13 03:24
 争乱を焚きつける15

 この中国には、というより中国人民には二つの野心がある。一つは人間としての人格
が持つ自由度だ。つまり権力欲である。中国人であれば誰でもが権勢の中にいたいとい
う古典的な感情を持つ。つまり痛めつけられるよりは痛めつける側にいたいとする感情
と行動だ。それほど狭心症弊害を持つ国である。だから逆に権勢側権力側では 何でも
ありと思っているのである。これは中華の夢を習氏が語った事で更に焚き付けられた。
南シナ海や東シナ海の問題もこの中にある。更にそれらは中国だけの問題ではない。特
に米国の911事件後の「対テロ戦争」宣言も全くおかしな論理だが米国民は沸いた。
対テロが取締まりでこそ無くなるもので戦争として攻撃しては更にテロリストを作り更
に大きくなる事は既に周知の事実だろう。この大馬鹿者ブッシュJrが発した言葉は、
この中国まで及んで対テロ戦争とすれば如何な者でも殺してよい様な風潮で流行の様に
どの国でも使い始めまるで正義の行使の様に使われた。このテロとの戦いとすれば何で
もできるという魔法の言葉はロシアでもトルコでも中国でも使われ簡単に体制側の犯罪
に利用され多くのジャーナリストが死に至ったのである。こうして中国は西洋物真似で
生き延びてきたがその本質は軍国主義拡大主義権力主義覇権主義に基づいた行動である
。中国人民も最も問題なのは歯止めの無い貪欲な拡大主義で自制心の欠片すらない行動
である。この自由さは無法地帯の拡大でしかない。現に中国の法律は幹部共産党員の言
葉でどんな物も違法か適法か勝手に決められ 外国人特派員であれ日本人ビジネスマン
であれ勝手な難癖つけては拉致監禁拘留更に刑の執行までできると言う至って野蛮な国
最も遅れた放置国家なのだ。そこに習主席は中華の夢で焚き付けたのである。これでは
人民も恐れを知らない怪物にのし上がる。この事は全人類の最も忌した危険な行為に他
ならない。現に海に山に空にこの破天荒で大掛かりな自然破壊は凡そこれまでの人類の
やった事の無い自然破壊でどんな科学でも補修出来ない程のものだ。それにより熾烈で
過酷な極少生存社会を作った中の地獄の様な多様化を拒否した社会に人類を閉じ込めよ
うとしている。毛沢東が作った共産思想は理の無いわがまま国家に作り替えたのだ。




826: 名無しさんAA:16/09/20 01:48 ID:1qU
争乱を焚きつける16

 だがこの野心大きい中国が今や世界経済をリードしているから 厄介な事である。今
北朝鮮は5回目の核実験に及んで核弾頭の小型化は完了した。今だ広島原発程度の規模
の威力ではあろうがそれでも充分に完成したものと考えていい。この卑劣極まりない物
を持ってアメリカと対峙する姿は中国が大きな土地と多くの人民と更に近代化した兵力
とでアメリカに対峙してる姿と全く同じである。がこの5回目に核実験した後やってき
た台風は甚大な洪水を二つの国にもたらしたようだ。その為9月14日に金正恩政権は


827: 名無しさんAA:16/09/20 01:48
を持ってアメリカと対峙する姿は中国が大きな土地と多くの人民と更に近代化した兵力
とでアメリカに対峙してる姿と全く同じである。がこの5回目に核実験した後やってき
た台風は甚大な洪水を二つの国にもたらしたようだ。その為9月14日に金正恩政権は
北朝鮮援助をベトナムなどのアジア9か国に向けて要請をしたという。がその異様な事
はその対象国の中に中国が欠けていたという。つまり同じ災害がある国で更に国際社会
で核実験反対の姿勢を置く中国に配慮した形だが果たして北朝鮮政府や中国政府は自国
の人民をそうした勝手な政治方策で救うことが出来るだろうか。全く出来ないであろう
。事実各地で城管と呼ばれる自治職員の暴力行為を撮影した動画をネットに投稿されて
、動画を削除するよう迫られたが学生や市民が、更に大勢の城管から暴行を受けるなど
の事件が頻繁に起きている。この中国の発展を見るに 山肌を緑のペンキで塗った事件
を思い出した。中国の郊外の山間地域で、露わになった山肌が鮮やかな緑色に塗られ、
「これが中国なのか」と大きな衝撃と違和感を覚えた。ネット上を探せば、今だにも 
この浅はかな行為をニュースがある、見栄えだけを良くしようとする輩がいるようだ。
一方 中国メディアは、「日本人が12年かけて甘粛省の荒れた山に造林を行った」と
するニュースを伝えている。甘粛省蘭州市で2004年から12年間行われてきたとす
る「日中緑化プロジェクト」が完了したのである。甘粛省人民対外友好協会の会長は「
生態環境が脆弱な当地において、日本の友人が苦労を恐れず、報いを求めず、甘粛省で
緑化プロジェクトを進めたことは、人びとを敬服させ、感動させた」とし、「植えられ
た苗木が必ずや両国の代々にわたる友好の象徴になると信じている」と語ったという。
この生態系破壊或いは環境配慮のない猛進発展はこの山肌を塗るような行為で明らかに
中国人民の未来を奪っている。自由選挙での村長を決めたの烏坎村が一躍脚光を浴びた
が今や住民は散弾銃やゴム弾で数十人が負傷し血まれ状態で80歳過ぎのおばあちゃん
も打ち殺され、子供も含め数十人が逮捕された。2011年に土地の強制回収が起こり
、林祖恋をリーダーとする土地返還運動が巻き起こって、数年後の抗議活動の解決がこ
の国家権力による公僕の暴力と殺人であったのである。これでは経済問題も環境問題も
ない。政治も文化もないただの野蛮な集団としての国なのである。つまり国際社会に認
可されたISILだとも言えるのだ。この国を信任する英国は一体どの顔で人権を問う
のだろうか。

828: 名無しさんAA:16/09/28 01:29 ID:yCc
争乱を焚きつける17-2

 この中国人民さえも目をかしめるこの公害や毒入り多大な農薬入り食品は ある意味
日本人の甘さが中国人を選ばず教えた結果である。官製デモと同じく日本が無公害化の
システムを輸出する為のはずの技術と補助が中国国内では何の事はない 粗悪石油精製
での追加施設にそうした金が充てられていたのである。これは政府の甘い管理責任から
出ている。今回の豊洲市場移転の混乱も全く同じで行政組織としての在り方の甘さが、
今の日本の危機を招いている。つまり今の国会も今まで培われてきた日本的精神の議会
運営を壊した責任を取っていない。そもそも国債発行を国民は許している訳ではない。
三公社五現業の民営化も放漫運営での経済損失であり それを行っている為の国益損失
を明らかにはしていない。NHKで縮小日本の衝撃なる現況レポートの放送があったが
これは全く自治体の行政の放棄でしかない。例えばあの債権都市夕張市だが 団地を今
壊してインフラ維持費の放棄を考えて住民を死に追いやってまで行っている。これは全
くおかしい。次世代に夢や未来を託す考えが全くない。これは鬼畜に劣る非道である。
鈴木市長は若い為かこの市の将来性に全く一生懸命でのない。空室の多い団地があると
するなら 壊す金があるなら産業を興すべきだ。太陽光発電を入れて室内野菜の育成し
その集荷と出荷までし販売策を創ればいいのである。今や農家すらIT時代でインター
ネット販売を行っていく時代なのに 若者定着に高校生に育成補助金などと言うの愚策
である。自らに産業を興す気概がなければ市長をやるべきではない。首相や大臣も同じ
で経済に振り回されて国土や国民を切り売りして命拾いするような愚策はやるべきでは
ない。黒田総裁もインフレ2%に固執してデフレ脱却にマイナス金利政策に力を入れた
表明だがそれは未来的建設的対応ではない。やるべきは0.5%金利に戻し国の行って
いる数々の人件費の削減とストーミングイニシアチブである。つまり経済施策を具体的
に政府に要望することである。特に年金の支給額の上乗せと国家の国民への生活保証が
インフレを興すかどうかの問題だ。今や日本は老後の安心どころか子供を持つ安心を超
え夫婦になる生活安全すら消えていっているのだ。少子高齢化を対策するならば まず
生活保障である。海外などより国民に生活の潤いを与えよ。人は一日たりとも食わずに
生きて行く事は不可能なのだ。来年の希望に今年は飯を食わせないという話はご法度だ


829: 名無しさんAA:16/10/24 18:36 ID:dKY
(人間不信 殺人事件の深層)
 馬鹿の八景30

 宇都宮市本丸町の宇都宮市城址(じょうし)公園で23日に爆発物で自殺したとみら
れる栗原敏勝容疑者(72)=同市針ケ谷町=は陸上自衛隊を退官後、自ら開設したと
みられるブログや本人のアカウントとみられるフェイスブックなどへの書き込み 自ら
「自暴自棄」などの書き込みもあり、心境の変化が事件の背景になったとして報道され
ている。これはちょっと奇妙な事だ。まるで自殺と断定したかの様な記事である。まず
かつて 宇都宮でギョーザパーティを開こうと集まった2家族が火事で死んだ事件があ
った。この時もこの家族の落ち度でテーブルコンロの操作ミスの様な記事だった。が後
で横浜・大阪・広島・福岡と相次いで同じ餃子で不審火が続いた。これは結局中国から
の殺鼠剤の毒入り餃子をJTが輸入し味の素が販売していた事件であった事が判明した
。有名な毒入り餃子事件である。この時も司法解剖し米国の様な不審死として胃の内容
物なり血液検査なりやれば判明出来たはずだが 日本の警察は こうした科学的処理を
しないままごまかして今日に至っている。今回も家を爆破し自家用車を爆破して自らも
まるで自爆テロに似た爆死である。更に奇妙な事に靴底に遺書があったとする。誰がど
う考えても自殺ではないであろう。まず「栗原容疑者は退官後、支援団体の相談員とし
て精神障害者と家族の支援に取り組んでいた。」とする優しい人柄である。ブログなど
でもその様子が報告されていたが、今年に離婚され、宇都宮家庭裁判所の裁判官や調停
員への批判が次々と書き込まれるようになったり最終的には、「債権差し押さえ命令で
生活資金を没収された。住居も競売される」とも記し、金銭面で苦境に立たされている
こともうかがわせた。と書かれている。が自宅を持ち老人である。如何に債権があろう
とも最低の生活は出来るはずである。又幾ばくかの年金はあるはずで こうした爆弾を
手製で作り得るとは思えない。更にこの高齢の貴名者が靴底に遺書を残すだろうか。こ
れはどう考えてもおかしい。更に迷惑を掛けて死ぬとすればこのお祭りの大名行列最中
に爆破するのが筋だ。つまりこれはタイマーか遠隔操作でしか爆破していない事になる
。更に日本人には思いもつかないが海外映画では指紋や痕跡を隠すために自宅の爆破と
車の爆破は常套手段である。全く日本人的でない。更に奇妙な事はこの老人に爆破関連
の経歴が無い事だそして最後の自分が死ぬのに何故行列が来る前に爆破したのか。であ
る。自殺を断定するとすればこれは警察の怠慢で全く日本ではこうしたテロの予行演習
を解明できない馬鹿者と笑われよう。

830: 名無しさんAA:16/10/24 19:17
(人間不信 殺人事件の深層)
 馬鹿の八景30-2

 まず警察は この御老人が死んでから爆破したのか生きたまま爆破させたのかの違い
を見極めねばならない。考え方を変えれば薬物を打たれていたかもしれないし操作ミス
であったかも知れない。そして何故自家用車まで爆破する理由があったのかである。こ
の大名行列にテロの如く事件を起こすなら彼はベンチで爆死する理由は何一つないのだ
。この自動車爆発が全く行列の無い時に爆破され 自宅・自動車・ベンチと三か所での
爆破する理由が見当たらない。本来なら自宅で爆死しても問題が無いのにわざわざこの
公園まで来ている理由がないのである。更にもし最大の効果を狙うのなら自動車一つで
突っ込んで爆死してもいいはずだがそれが優しい人だからと言うのであれば差し押さえ
された家は借金の肩代わりでありその金銭の質とする家を燃やす必要は全くない。それ
どころか早々と弁護士を通じてでもこの精神薄弱者の支援団体にそのまま寄付する事も
在り得るはずだ。更に離婚裁判や薄弱児の支援裁判の怨恨であれば こんな一般市民よ
り裁判所内で自爆するのが筋で これだけ几帳面で理屈の解る人がどう恨んでも赤の他
人にぶつける人だとは思われない。と推測すれば 誰かが彼の持つ資料なり証拠なりを
消そうと躍起になったとしか考えられないのである。成程72の御大である。生活苦で
自殺はするかも知れない。だが彼自身体の衰えは感じていた事だろう。であるならば、
こうした形の勝負をしても違った状況のはずと思えるのだ。まずこうした三つ分の大量
の火薬が買えるのかという事だ。どこかにつながりがあって仕入れたとは思われるが、
この温厚で几帳面で善悪を判断する老人が闇の世界と繋がっていたとはとても思えない
。では表向きのただの友人から手に入れたのだろうか。大変危険なこんなものが友人で
あればこの几帳面な老人であるきっと詮索するはずでどこかで止めに入ったと思える。
それがこんなにやすやすと三カ所で単独爆破が成功するとは考えられない。自宅爆破ぐ
らいならガス漏れで爆破させてもよさそうなものなのだ。

831: 名無しさんAA:16/11/01 18:43 ID:UP.
閑話休題(国際経済問題)

 いざ宵い いざ波 いざ晒場 87


 多くの賢者が危惧したように 米国大統領選は今や泥仕合である。かつては米国では
民主主義と言うのは ボスは仲間が決めると言った仕組みさ。とある米国人が言った。
だがこのトランプとクリントンの声明ではまるで相撲大会にキックボクシングを行って
いるようだ。普通な作業に関して如何にリーダーが頭がいいか労力を下げた。この所、
恐らくはこのままクリントンで決まりかと思われた中で突然FBIリークでメール問題
が再浮上した。クリントンの私用電子メールサーバー使用問題で調査を再開することを
発表し、選挙戦に大きな変化が走っている。これに大きく反論しているのはヒラリーの
選挙陣営である。「奇妙なだけでなく、前代未聞で大いに問題がある」と述べた裏には
司法や捜査当局の政治介入をしないとする良識を逸脱しているからだ。実は共和党出身
の最高裁判事がいなくなる可能性があるからだ。知っての通り今迄銃器所持法は何回も
無差別殺人の度に銃規制をし一般的所持を禁止し日本の様な安全な国にしようと叫ばれ
てきた。米国民のほとんどは既にこの銃規制に賛成している。にも関わらず一部の強行
派によってロビー活動が活発になり事件からの恐怖心から逆に販売量が伸びるという現
象が繰り返されて来た。そして米国の兵器産業は今や世界一でありその中の銃器の持つ
割合は金額こそ少ないものの生産個数は世界最大のままである。この銃器産業が抱えた
雇用もさることながらFBIなどの調査局が心配しているのは潜入捜査官が素人として
潜入捜査するに銃を持てない危険性である。更に人権派団体などの人権防衛強化に反対
している。クリントンの持つ私用サーバーは政府の持つメールサーバーが検閲や盗聴の
ウイルスが憑いていると言われ、よりサイバー攻撃に強いとされる。基本的に公的物は
最新型には買い揃える事は不可能な事が多い。古いプログラムで動いていた重要資料が
あったり、使うコンピューターが多かったりして予算が無かったりとかである。更には
各種の対策や対策費も安く簡単である。連動がなく簡単に切る事が出来るからだ。この
便利さは、中国からの攻撃対象としても入らず有効で攻撃があっても対処しやすい。こ
れが中国系米国人や中国からの潜入した2重国籍のスパイには我慢ならないとしている
。ヒラリーが不運なのは 大統領候補として新しい女性候補ではなく一持的であれ国務
長官時代があったことだ。これが反体制派の格好の材料として利用されている事だろう


832: 名無しさんAA:16/11/01 18:43
 この米国より早く女性大統領を誕生させた韓国では 心からの相談相手である崔氏が
国の重要機密すら解っていたとして 検察に逮捕されたらしい。国家機密漏洩罪である
。しかし韓国はどうしてこれが批判の的にあるのか実際の所 日本人の私にはあまり解
らない。国会対策にしろ外交政策にしろ 韓国の一般的意見を代表する行動の中にある
。この一般意見を取り入れるに一般人しかいなかった。という事だろう。両親を若くし
て目の前で暗殺され心からの友人が傍にいる事がどうしてこうも反対されるのであろう
か。政治行政の中でおかしなことが起こっているなら兎も角 朴氏がやった事であれ、
朴氏を操った崔氏がやった事であれ そうそうおかしな行政はなかった様に見える。そ
れどころか先の李明博大統領のきちがいみたいな行動や言動に比べれば良い方だろう。
今までのタブーを破った竹島上陸や天皇侮辱発言など何かと物議をかもして、汚職問題
でも告訴された李前大統領である。この国家検察の大統領府さえ家宅捜査するという、
大統領以上の権限を有する形が 勝手に行ったリークとも言える。それはヒラリーの、
今回の選挙前の再捜査と同じで 退任一年前程度で自らの保身の為にこの検察力を誇示
するのは韓国の定番らしい。韓国人ももう少し解るべきだ。国民がこうした違法検察力
に踊らされている限りこの国が何ら進展する事はないだろう。何とも可哀想な国柄であ
る。この韓国人の騒動は全くおかしな事で 慰安婦問題と同じく対国外交と言う「怨」
や「恨」の性格の極みで 日本では最も忌み嫌われる感情論の世界である。まず未来が
全くない。更に一貫性が無い。更に更に意味がない。何故朴大統領が国家機密を漏洩し
ていたとしてもそれが悪なのか。何らかの形でこの国が変わったのか。悪くなったのか
。全く影響があったとは思え無い。それよりは機密漏えいの無い李前大統領こそが逆に
国民受けする態度で 日本とのこれまで培って来た親交を駄目にしたし、中国寄りに誘
って今の不況を作り更に朴政権の道を大幅に縮めてしまい米国との外交すらまともには
出来ない事になった。漁業権問題でも中国とはうやむやのまま警官は死んだし北からの
攻撃を簡単にした。恐らく今の韓国の国民性や騒動を細く微笑んでいる事だろう。


833: 名無しさんAA:16/11/03 06:26 ID:A8k
閑話休題(国際経済問題)

 いざ宵い いざ波 いざ晒場 88

 今後一段と石油が下がり 米経済が下降しそうだ。鉱工業指数が高いはずだが何とも
石油や農業が足を引っ張る様な数値がアメリカのみならず 欧州各国も日本も出て来て
エコノミストはビクついているのである。かといって為替や株式に冒険する国は日本も
含めて全て退場しだしたのだ。何故か。何故だか原因は解らない。だが考えればこの所
景気を押し上げていたのは中国資金による株需要であった。アメリカがドルの引き揚げ
を行いながら好景気と言わないまでもそこそこの景気状態にあるのは中国から避難して
来る預金的投資の中国マネーが膨大だったからである。事実日本でも爆買い現象で観光
資源が復活してまずは一安心の経済に戻ったのだ。質は悪いとしてもその量足るや一言
で言えば「凄まじい。」と言うしかない。中国企業の欧州社員旅行を見ても習政権外交
の飛行機買い付けにしても莫大なもので 今後一帯一路政策で更に海外に出ていく展望
がある。にも関わらず経済悪化が叫ばれるのだ。それは一つはロシアにある。中国国内
の需要を当て込んだロシアの資源外交は成功したものの 国内での思ったほどの伸びが
なかったのだ。外貨獲得にはそこそこだったが実は中国やロシアででも今回の地球温暖
化の影響があって かつての欧州や米国などの西側農業生産が悪い時は東側が良く東側
が旱魃では西側は豊作だ。と言う構図が成り立たなくなってしまったのである。更には
かつての工業化で進んできた農業労働の集約化は既に限界で大量生産方式も生育しての
収穫であり世界的な農業収穫量の低下はコーヒー農園どころではない量である。海洋資
源も同様であり僅かながら食肉加工や冷凍技術更に食生活の減量化や日本化などで生産
減少の支えになっている。こうした事に煽りを食っているのが砂漠の避難民達である。
国際赤十字や国連難民支援センターや人道支援NPOなどは戦争当事者や欧州各国に批
判声明を出しているが餓えてしまう難民は増える一方である。そうした中中国当局も指
を銜えて待ってはいない。段々と国外流出資金への規制強化と回収を強めて成功し出し
ている。とは言え国内の株や不動産は確実に危険水位を超えたバブルだとアナリストは
言うのである。何とか軟着陸を模索するも規制すればするほど世界経済は冷え込み国内
はその影響を受ける。その理由は先進国の技術を真似たのでなく盗んで追い落とした事
後進国向けの資金提供と後進国向け技術での流通で国内還元させて来た事が祟っている


834: 名無しさんAA:16/11/04 03:38
 馬鹿の八景31

 米国民トランプを推してはならない理由 すなわち嫌いでもクリントン女史が大統領
になるべき理由が5つほどある。それらは全てに場当たり的討論に終始したトランプの
性格と知識があまりにも乏しい事に起因する。その一つが経済失政が予想される事だ。
多くの者は大統領になればそれなりの知識層が取り巻き教えてくれるはずと期待する。
が今でも失業率が低いのにも関わらず無就職の白人の不満は高いのに今後不況が来れば
米国がどう動くか予想つかないのだ。知っての通り彼の会社は2度も破産寸前に追い込
まれ今でも特別減税の中にいる。そしてその彼の会社に奉仕しているのは他ならぬ米国
の救済策で会社の破産ながらも倒産を免れているのである。大統領ともなれば社長業や
経営者と違ってトランプカジノを売ってトランプタワーを共同経営者を作ってなどとと
言う策は出来ない。更に法の許した所での合法だとして税を納めないなどと国連や世界
銀行の拠出金を出さないなどとは出来ないのだ。当然それらは馬鹿ブッシュの政策のご
とくに国民債務に跳ね上がる話なのだ。第二は外交音痴である。人は頭が良い育ちが良
いそれだけで資質があるとはならない。問題は愛情や寛容さが備わっているかである。
残念ながら米国民自身少ない中更に希少である。それはトランプ自身の言葉にも性格が
表れている。シドニーで行われたイベントに出席したトランプは壇上からこう述べた。
「人には仕返しをしろ。侮辱されたら、10倍にして侮辱し返せ。本当にそうすべきだと
思っている。」と 今でも彼はそうした強きの人でなしの言葉を次々と吐いている。更
にこの大統領出馬そのものが かつての民主党議員が融資を断った事への復讐心からで
ある。911のタワー崩壊後のブッシュと同じでそれが今ISILのテロが蔓延し世界
を脅かす時代を産んだ。つまりブッシュの自作自演の米国民への復讐心を煽って起こし
た政策が今も尚中東の混乱を拡大し混迷させている要因なのだ。外交の失敗そのものだ
。三つめがこの外交の失敗の起因である国際情勢国際社会への無知である。そも国境線
に壁を築くと言ったこと自体が無策である事をさらけ出している。アメリカが戦争でな
いテロ退治だ。と叫べばロシアも中国もトルコもイスラエルも各国真似てテロ対策だと
殺し合いを正当化した。その為ウクライナ問題が起こった。今度は国境閉鎖だと言った
事で欧州各国はEUの取り決めを破る国境線閉鎖に及んだ。害獣の被害対策と同じ感覚
で正当化出来るとしたのだ。これでは困るのだ。3っつ目は中国対策である。わざわざ
ヒラリーは私的アカウントで対策を講じたがアメリカのサイバー防備は不完全のままだ
対共産主義国はこぞってトランプを賞賛する。それはヒラリーが手ごわいからに他なら
ない。

835: 名無しさんAA:16/11/11 18:24 ID:dHM
 法相は馬鹿か
 土人とは「土着民」の通用語で単に短く言う言葉であり差別用語ではない。更にシナ
人と言うのも勝手に差別用語にしただけで 本来チャイナ人の事が日本語的漢字で支那
人となっているのだ。シナ人が差別用語であれば東シナ海或いはシナべニアなども同じ
差別用語になってしまう。今でこそチャイナが中国と自国を読んでいるが古来より英語
表現でチャイナであり日本語でシーナであるのは周知の事実でことさら差別用語に仕立
てているのはおかしな事だ。表現の自由や基本的人権からシナ人土人と呼んでも 殊更
目くじら立てる方が差別である。そんなことより厚生労働省の煙草のにおいがすると言
って遠回りされる喫煙者の自由を奪う事こそが人権侵害であり差別だ。かすかなにおい
が強制的に排除されるのなら 車社会を一掃すべきで 排気ガスは発がん物質どころか
猛毒成分すら含んでいるのだから。電車の鉄粉やある種の塗料や油も全く使えない事に
なりうる。コンピューターすらにおいはある。労働者に嫌がらせするようなこんな厚生
労働省など要らないのである。全く労働環境を逸脱した行為であってもっと過酷な環境
の労働者を救う事が出来て 初めてそうしたルールを決めるべきで違法も違法でこんな
馬鹿げたルールの厚生労働省なら又殺傷事件が起きても不思議ではない・


836: 名無しさんAA:16/11/11 23:19
日本近況
小南の邪推  12

 福岡で落盤事故が起こった。地下鉄延伸工事に伴う工事で岩盤に隙間があったのだろ
う。ここで市長は言った「前代未聞の事故が起こった。あってはならない事故だ。」と
。果たしてそうだろうか。まず前代未聞とは言え 以前の地下鉄工事でも岩田屋工事で
も多くの地盤の陥没事故は起こっている。福岡の地質が起こしやすい岩盤の上の粘土と
その上に砂質土が乗った極めて普通とはちょっと違った普通の構造の地質である。通常
粘性土の下が岩盤と言えば粘性土の上に潟土や有機土が乗る事はあっても砂質土が乗る
事はあまりないが 昔の川底であったり山があった場合に多い。この地がそうした傾斜
のある土地であったのだろう。その事で過去の地下鉄線工事では4回もこうした陥没は
起こっている。更にこの岩盤の強度は極めてもろく過去にクレーン倒壊まで起きている
。つまり前代未聞ではないのである。更にあってはならないとしている点でも現代科学
の最先端科学でも地中の中の事は良く解ってはいない。特に表面表層にアスファルトが
あり下を固めその下にNTT通信線電線水道管更に下水道管下水道中管雨水側溝などが
張り巡らされている中では 非常に解りずらいはずだ。又都市化の波によって道路拡幅
の工事などがなされている場合木杭コンクリート杭を問わずこの岩盤に到達させていて
岩盤を壊している場合も多々あるのである。更に熊本地震や鳥取地震があった中で地中
も揺れている可能性は高い。こうした中で今回の工事は行われていたのだろうと推測さ
れる。確かに安全は大事だ。だが絶対安全を取るのであれば工事などしない事になる。
事実地下鉄七隈線が途中に止まっていた事はそこの地中の複雑さにあったもので安易で
安価で出来るのなら最初から開通していたはずなのだ。つまり「あってはならない事故
」と言うのは言うは易しするは難しと言う卓上論でしかない。勿論事故を想定した安全
第一の取り組みは必ずすべきものだ。だが点検しいち早く水漏れを発見しすぐに道路を
封鎖し一人の死傷者を出さずに物損のみで終わった事は むしろこの現場担当者の機転
効く独断での処理でありその点は褒める事はないにしろ過失があったとは全く思えない
更に議員立ち入り時の写真を見ても安全を充分に考慮した進め方でこれは現代工法の中
での一つの超えられない壁であり 市民や市長は驚いただろうがより以上を求め今以上
の安全が確保できなければ進めないと言うのは行き過ぎた意見である。安全は充分取り
組んで進めての結果で 事故は当然謝るべきものだが誤った工法ではなくむしろ市の金
額や工期を短縮した24時間稼働という事を批判すべきであろう。


837: 名無しさんAA:16/11/17 23:49
 そうだ みんなで アフリカへ行こう 1%

 TV仮想番組 所たけしと有吉の アフリカ冒険隊 はこれは面白い企画だ。まず
スタジオは3人の真面目なトークから始まる。所とたけしはスポンサーとして有吉が
隊の参謀長らしい。今回は総勢20人の2年契約である。多くは仕事の無い若者が多い
ようだが中にはシニアの土木専門家や海外派遣リタイヤ組もいそうな雰囲気だ。と突然
TV局の司会者が出て来た。海外ボランティアについて滔々と話しかける。でまずは1
週間に渡る研修会から映像が始まる。まずはスポンサー探しに駆け回る事1ッ月さらに
ボランティア活動団体からの講習が週1回と言う更に人の役割分担らしい。先行して、
ビニールハウスと重機とセメントサイロと側溝の鉄製型枠などの手配をするらしい。で
何をするのか。なんと水作りらしい。そして農業らしい。で更にその研修を一か月他の
英会話出来るものは何と海外情報を外務省や国連などに問い合わせしている。これはも
う冒険隊でなく体験隊であり実務部隊のドキュメンタリーであろう。井戸堀りや学校作
りは見たがちょっと違うようだ。なんと行動人類学の先生が総支配人で来ている。砂漠
に村を作るというのである。場所はサハラ砂漠と言うどこだろうか。総勢25人で地質
学者まで交えた討論だ。何とモロッコとモーリタニアの国境線沿いだ。この間まで武力
闘争のあったところで何もないところだ。確かに道路だけはある西サハラの海岸端でも
あるが全く何にもないじゃないか。こんなところで2年間生きていけるのか。何自衛隊
を正式派遣・・さらに1週間ごとに食糧補給そうかモーリタニアの港を借りる事が出来
たのか。そしてシリア難民から日本語の出来る人員を募集して補給する。本当に砂漠を
農地に出来るのか。なんとその後鉄道敷設まで考えている。まるで満州国建設みたいな
ものだ。まずはトマトを作って欧米に輸出だと・・その後もドキュメンタリーは続くと
番組は謳う。


838: 名無しさんAA:16/11/18 11:30
  ディノン・ディノン23

 日本と中国と米国に明確に対応の違いを見せているドテルテ大統領が帰って行った。
国民性の違いがここに明快に見えるのだろう。歴史的に見てこの違いが見て取れるのは
国や領地の対応であろう。日本では敵に塩を送る話は有名な話である。かつて戦国時代
仏教に興じた世界での理想郷建設を武闘神毘沙門天に願う上杉と山奥で八方を交易海路
ふさがれての領地に新しき広がりを求めた甲斐の武田とが戦ったのである。双方ともに
この領地堺の千曲川と犀川が合流する三角洲の川中島で互いに5回も戦ったのである。
こうした争いの最中に遠江の今川と相模の北条の両氏から、経済封鎖をされ塩不足に陥
った。この困窮する武田領内に長年敵対関係にあった上杉謙信が塩の流通を認め助けた
のである。これを日本では「敵に塩を送る。」と言う話となっている。悪い状態の人は
例え敵であっても「武士は相身互い」で助けよ。と言う意味とされる。が中国の諺では
日本語で言う「傷口に塩を塗る。」意味である。つまり中国では世間に叩かれ藁にも縋
る想いの人間に縋りつかれる前に非情にも叩いて沈めよ。と言う冷酷無比の諺である。
この四面楚歌での訴えに滅びた中国の国は多い。日本でも敗戦時の終戦調停をソ連邦に
願い出て逆に追われ満州の一般人は過酷な労働の為のシベリア収容所送りとなったのだ
。この阿修羅の地獄の様な国際社会から今やっと人情味のある情報で恐慌や戦争を起こ
させない人類の為のシステムが次々と生まれている中でも 今も尚イスラムや共産党が
付け込んできている。アメリカ社会は今や銃と麻薬に汚染されていると言って良い。こ
れが治安の悪化を招いている。これは禁煙活動による為だろう。そもそもこうしたもの
は人格破壊を止めるものだ。つまり痛み止めの幻覚剤なのである。従ってアメリカ保健
局は人格的欠陥でなく慢性的脳損傷による欠陥としている。だが 日本の厚生労働省は
どういう訳か煙草の受動喫煙規制に躍起になっている。これはおかしな話である。金属
毒物入りのウナギや殺鼠剤入りの餃子農薬入りの野菜の多くを検査もせず輸入販売して
いる中でなぜそうした昔からの習慣の方を変えたがるのか。中国側も厳格な検査による
安全品の輸出で伸びる事を期待しているだろうに何故か日本側はこの検査体制はお粗末
なままなのだ。こうした麻薬や銃や食品のチェック体制がしっかりしてこそTPPなど
を論じられるのだが 今だ国民は安全な食を得ていないし、危険とされるものをタダで
チェックして貰える機関すら整っていない。



839: 名無しさんAA:16/11/18 17:29 ID:Q2c
 今 小池氏は大変な間違いを犯している。 豊洲市場が盛り土されなかった事が
まるで犯罪かの様な様相で世論操作し 処分や懲罰を行おうとしている。盛り土を
しなかった事は 全く問題ではないし 水が溜まっている事も問題とはならない。
問題は その結果や仕様が建設部門の意向に反して都のホームページや他の土木部
門に全く伝わらず 都民に嘘をついた形になっている事だ。嘘をついたのでなく、
嘘をついた形になっている。この事が問題なのだ。更に今移転日を決めない或いは
更にこれまでの都の説明した予定が変わってしまっている。この事も嘘をついた形
であろう。ザハ案廃棄も今の競技場問題も嘘になってしまった建設計画である。と
言う形が都民や国民にとっての問題だ。検討や見直しは必要である。がそれが遠の
昔に決定すべき事を今ぶり返してまるで五輪の準備委員会の一部である事を忘れた
かの様な発言が犯罪的なのである。東京都の都議会はこの意味で全く犯罪者集団と
言える。
 今回 東京都の豊洲市場(江東区)への移転延期を巡り、現在の築地市場(中央区)
の水産卸売業者7社などでつくる「東京都水産物卸売業者協会」は、延期に伴う損害額
を4億3500万円と試算した。市場側による損害額の試算は初めてで、都に補償を求
める方針との事。つまり一次の卸元だけで一ヵ月4億円である。二次の仲買人はその倍
位の損失であろうし3次の小売り元となれば凡そ4倍のはずだ。となれば4.5億+9億
+13億となる。更に東京都の経済活動としての損失が足される。つまり一ヵ月30億
+aなのだ。これを一年後と言う。つまり12ヵ月X30という事は凡そ360億以上
の損失という事になる。更に福岡の陥没事故を見るように通常行政損失には慰謝料追加
は当然である。勿論東京電力の様に原因を究明出来ない以上突っぱねる事も可能ではあ
るがそれでは国民は疲弊するばかりだ。問題はこの360億の損失は税の支出として認
められるのかという事だ。全く認められるものでは無いだろう。つまり当然ながらこの
損失は止める責任を持つ小池氏の私財で埋め合わせるべきものであろう。環境影響評価
(アセスメント)の安全性が確認されてないというが現実的に建物が出来ている事での
予想評価は全く無駄であろう。では使用に対する影響はと言えば安全評価であり空気中
の微量の水銀成分となっているが蒸着する恐れが無ければOKであろう。



840: 名無しさんAA:16/11/24 04:10 ID:OG2
安倍氏を始め メディアも 日露交渉も 先行したトランプ会談も良い事だなどと言う
。全く逆だ ロシアは日本人が怒らないお人よしのを見て 平和条約を迫る度に 北方
四島の固定化を図っているし エリツン以来 島民補充 施設補充 港湾強化 基地の
増強 ミサイル配備と 全く馬鹿政府である。 トランプに会った事で強硬派の指導の
下危機感から TPP廃棄の先行発表なのだ。 全く阿保官邸である。



841: 名無しさんAA:16/12/13 18:30
 魔法使い あららとおろろ 06

 日本人の馬鹿さは今の安倍政権の人気度であろう。仕方なしに自民党政権を希望する
ものの 今の拙速なIR法案や駆けつけ警護まで出来る様になったとは言え今のスーダ
ンの戦闘地に適用と言うのはチョット敷居が高すぎる。更にふるさと納税が人気だが、
これは行政詐欺と言うものだ。産業の無い国が課税回避地に丸々無税に近い法人会社を
簡単に設立させては賄賂や麻薬などのマネーロンダリングのいい拠り所であるがこれが
パナマ文書としての話題になったのは衆知の通りである。だいたい1万円の寄付で8千
円の贈答品が貰えると言うの事自体が解せない話であり、送る自治体も自治体である、
地元民みんなに同じ金額の税負担で同じ様な贈り物をやっているのか。全くしていない
。それどころかそうした金持ちのいる都市部では 幼児の託児所も保育園もままならな
い中で他の自治体を店の如く選んでいるのである。選ばれた自治体も自分たちの給与が
そうした発送作業や事務経費をもって行われ何ら地元に還元されない税収として扱われ
ているのだ。こんな無駄な不正義は過去をもってしてもあまりない。そうした事ならど
こかのNPO団体への寄付が無税になると言う方がよっぽどいいのだ。民間であれば、
それ相応の儀礼的贈答品は考えられるが これは公けの金持ち優遇の収賄罪であるのだ
。これが日本国憲法の同じ税を納める市民との格差を生み差別している事は充分な違法
である事は明白である。東京都は又馬鹿をやって無電柱化に街路樹の銀杏の木を伐採し
た。これも同じ違法なのだ。そもそも変化の無い生活に勝手に変化をさせるにはそれら
の法令を遵守すべきだ。法は慣習法と記述法があってそのまま慣習を変え美観を変える
事は違法なのだ。更に伐採と言うのは予算を削った結果であり 無電柱化に撤去しても
同じ樹木をそのまま移植すれば事足りる話でそれすら出来ないなら無電柱化する必要な
どないのだ。それは国立競技場も同じである。ザハ案が高い高額だとか 他のオリンピ
ック競技場がどうだこうだと東京都がいうのは勝手な言い分で筋違いもはなはだしい。
まず発案に際してザハ案の決定権は五輪準備委員会にあっても廃案にして新たな案にす
るとうのは現職の総理大臣すら権限はないのだ。それこそ天皇が言うか選挙で問えばそ
れなりの権限が発生するだろうが 決定に際して国民総意で反対が無かった事はその時
点で決定があり覆される事は出来ない話なのだ。予算はそれなりの変化があろうがマス
タープランを作りそれを行う承認があれば やる為の準備をするのが準備委員や都の行
うべきことなのだ。つまり無電柱化と銀杏並木の伐採には何ら関連がない。あるのは予
算を作らなかった東京都の不手際なのである。

842: 名無しさんAA:16/12/15 03:47 ID:1Eo
世界の潮流    (未来への社会性や投資について)

 希望と光の間 74-14

 全く馬鹿げたTV局だ。プーチンと80分も語ったとするTV局だ。余りにも不見識
で国際馴れのない記者でインタビューとしては最低のインタビューアーである。これな
ら青山氏を何故連れていかなかったのだ。これではプーチン安倍会談をぶち壊しに行っ
たとしか考えられない。日本は戦争したのである。強制抑留で50万人が死んだとされ
るのである。何故サンフランシスコ条約や原爆後戦後の占拠が起きた事を聞かないのか
何故「千島列島全体が一八五五年に江戸幕府と帝政ロシアが結んだ日魯通好(和親)条
約と、七五年に明治政府と帝政ロシアが結んだ樺太・千島交換条約とにより、戦争では
なく平和的な交渉で日本領土として確定」した全島返還を言わないのか。更にその後の
平和的解決で日露戦争で千島列島と樺太も日本の物だったと主張しないのか。おかしい
ではないか。少なくともプーチンは日本国民のメディア代表として観察しているはずだ
。更にプーチンは日本がどの程度の独立国かを覗っているし領土問題を解決して平和条
約を締結したがっているのである。その為には日本国民はもとよりロシア国民も又納得
させ得る解決でなくてはならない。つまり日本人全体が樺太を含めた全島返還を求めて
こそ引き分けで4島返還がなされるのである。即ち国民が納得しなければ例えプーチン
でさえ動けないのである。今回のインタービューがロシア国内で流れたとすれは 彼は
全く日本人のこの無神経さにげんなりしたであろうし 期待した経済発展の密約も果た
せないと思ったであろう。中国ロシア間の契約を聞いているが全く無知のままの質問ば
かりである。今まで自由主義で民主主義が当然出来上がると思われたロシアはソ連邦の
解体から始まった。今のロシアはそのソ連時代に戻る様な社会現象の中にある。これを
打開したいとおもってのに、今や米国主導の経済制裁で経済が立ちいかない中で資源安
で更に苦しい中にあるのだ。これを知って訪露してインタビューすべきである。この大
統領が言うように「引き分け」と思える解決でなくてはいけないのである。そして当然
日本側がそういう声を出さない限りは 交流での自由な法治国家の姿を見せるぐらいし
か手が無いのである。

843: 名無しさんAA:16/12/15 04:24
 希望と光の間 75−2

 今回の来日に右翼が「樺太を含む全島を返せ。」「強制抑留者に手当せよ。」と横断
幕を掲げて プーチン来日を歓迎しなければ恐らくロシアも日本も苦境に陥るだろう。
 というのも日本も又自由主義民主主義国家の法治国家でなければならないが。米国一
辺倒ではこれからの国際化時代には乗り切れない。八方美人とは言わないまでも共産主
義の悪さを直し民主主義の不合理さを直す努力は必要なのだ。つまりパワーバランス的
に沖縄問題でも北方問題でも平和主義はその間にか立てれないからだ。そもそも米国で
も中国でもロシアでも 日本の10倍〜20倍の国力である。国土面積でも兵力でも、
更に科学技術でも。日本が優れているのは美しさやバランサーとしての感覚のみである
。基本的に今回のインタビューTVは意見を言いすぎで質問になってない。認識や知識
が不足しすぎていて全く話にならない。国際問題なら 或いはシリア問題ならどう解決
するつもりですか。と聞くべきで 全く領土返還に固執しすぎていながら領土の歴史を
全く言ってない。江戸以前から間宮林蔵がその境界を発見しているのだ。その意志足る
や凄まじい意気込みであったはずだ。インタビューの中にすごいインタビューをしてい
ると言うそうした強い意志が見れないで そこいらの日本の評論家の討論会の様な質問
で全く訪露してまでのインタビューとは思えない位当たり前の話ばかりである。この今
の世界の頂点にアメリカがあるなら一方の頂点の国の長なのである。そのチャンスを何
故生かさないのか不思議である。今回の訪日もたぶんこれでは何の話にもならないどこ
ろか平和ボケした日本人に 北方四島のミサイル配備を遅らせるぐらいしか合意しない
であろう。多分この馬鹿なTVのインタビューで配備を決めたのだろう。日本人として
の自覚の足りなさを痛感すべきである。国家なくして国民はいないのである。シリアか
らの難民でそれを知るべきで 日本が平和だからそんなのは知らないと言うのは恥しら
ずな考え方である。

844: 名無しさんAA:16/12/29 20:58
 魔法使い あららとおろろ 11

 全く政府は何を考えてるんだか。何故リニア鉄道が北海道に設置されないか不思議だ。まず 本州の鉄道網は既に充分である。こうした事で税金を本州に落とすとなれば更に
他の山間地はさびて行く事になる。本州を更に便利にする理由はどこにもない。それど
ころか国土強靭化を図るのであれば 名寄りから札幌や旭川から網走までなど一直線に
建設すれば用地コストも断然下がる。更に今や北海道JRの苦しさの保安点検も磁力線
で浮いて走る以上は保線管理も格安化される可能性もある。雪による豪雪対策も空中に
底なしの路線を作る事で雪の自然落下を利用した安全なものが出来る可能性もある。一
番問題なコンクリート亀裂の氷雪劣化が問題なのだが これも今や超強度コンクリート
と言う樹脂型のコンクリもある。何よりも今や赤字続きの辺境地対策は北方四島どころ
ではない。人がいなくなる事を防がなくてはいけない。そもそも議員を人口比で割って
いる事自体が国家存亡の危険性が高く違法性が強い。一票の格差是正というのであれば
議員数が地方との格差がある事が格差であって 人の投票効果とその存在意義において
人権問題である。政治には経済比率と言うのがあって東京都の人の立つ面積と田舎の人
の面積は変わらないにも関わらず高い土地に公共投資して高い事業費を払っているのだ
。これは当然ながら経済格差によるものだが人の空気を吸う量や食べる量が等しいから
起こる現象であって これが高い土地であれば食べる量も多く人の図体が大きいとなれ
ば解るがそうではない。つまりその差の利益率が高いから人が集まり便利だから住むの
だ。原発で解るようにそうでありながら贅沢にも電気エネルギー量や使用量消費量売り
上げなど貯めこむことのできる物量は流通量も膨大なのだ。そのしわ寄せを田舎にして
いる以上は田舎を疲弊させては都会も建たないのは当然で もっと平等な格差を行うべ
機なのである。極寒地や辺境地を人の住める場所にして大事にしなくては日本ではない
。およそ人は そうした都会の盗人猛々しい咆哮の中に沢山暮らさせるべきではない。



845: 名無しさんAA:17/01/05 03:16
夢の中の夢

  ディノン・ディノン24

 権力者に真実を言う事をためらわないで。聞く気の無い耳を貸さない反対者に説明を
するのは骨が折れる。用意も準備も内情も不明のまままま離脱派が力を入れて運動した
のには悪意と嘘がある。これらは全て離脱準備に一番ふさわしいとしていたEU議員の
イギリス代表を辞任させられてしまった英国のロジャーズ駐欧州連合大使の辞め時の話
である。小池百合子都知事は 盛んに都民ファーストを叫んでいるが そうした意志が
あるなら 何故新しい議員を擁立するのか。つまりこれは中東型の改革でしかない。こ
れでは劇場型即ち昔の3文劇場の大根役者の敵か味方かの紋切型の敵討ち物語でしかな
い。大体東京都民は日本的に言っておかしい。トップダウン方式の有無を言わせぬ言葉
と判断で 築地市場の移転を止め更にオリンピック会場の選定を遅らせた。これは議会
よりは民主主義を逸脱している。日本式のボトムアップ的意見から何でも決まると言う
事がこの中に無い。確かに少数意見が取り上げられない方向で自民党がこうした無理を
してはやり越し 全く公示と時間を割かなくなって ちゃんとした世論の合意を取り付
けせずに政治を行ってきている事は確かである。が政府がこうしたミスリードするから
都政も又言いたい放題で 選挙に勝てば何でもやっていいとするなら 議会なんぞ要ら
ないのである。みんなで考えよう。国民総意を取り付けよう 良い知恵もあるだろう。
と言うのが話し合いの在り方で それが無ければ国会はムダ金である。小泉氏のように
全く郵政民営化など 全く日本の政治経済に関係ないものを審議し 原子力の問題視し
た質問には はぐらかした上で 辞めてから原子力反対などと言う 到底受け入れられ
ない行動にはあきれるが 今の安倍氏が野党の腑抜けを良い事にのさばった自民党を全
く取り締っていない事は 一体何なんだ。これが政治になら全く馬鹿みたいな話である
批准するTPPさえ今だ中身が明らかではない。経済に関しては全く海外の流れ頼み。
国内産業は赤字債権での公共工事の積み重ね。全く財政再建の力は無い。これはなんな
んだ。戦争への準備だけはしっかりする。公明党も自民党にすりよった形のまま。大体
沖縄問題は鳩山も馬鹿だったが公明党も同じ様に「米軍県外」に煽った結果だろう。全
く無責任のままだ。福山の原子力材料は早く取り出さなければ又地震が来て水が無くな
ると大きな問題にある。使用済み燃料取り出しはもっと早い工程を組むべきだ



846: 名無しさんAA:17/01/05 21:12 ID:L.w
 魔法使い あららとおろろ 12

 私は今だ現代科学は発展途上であり 信じるに当たらない偽物と考えている。特に人
の体に於いては 今流行りになっている特保とか健康飲料或いは煙草の害などは全く嘘
だと信じるに足りうる証拠が多々ある。だがそうした証拠以前の問題として人は贅沢し
ない無理のない伝統的生活をすれば 癌も腫瘍もない健康的に暮らせると信じているが

847: 名無しさんAA:17/01/05 21:12
だと信じるに足りうる証拠が多々ある。だがそうした証拠以前の問題として人は贅沢し
ない無理のない伝統的生活をすれば 癌も腫瘍もない健康的に暮らせると信じているが
今の現代では不可能だ。問題は自然界の猛威である。だが今のご老人は無茶苦茶で我が
強い。65以上ともなると信じがたい程いい加減で仕事も粗く 体も動かぬ癖に口ばか
りは強く若者を教育する優しい目や科学的視野や 本当の合理性や秀逸な眼石を全く持
たない。それは「団塊の世代」と言う多すぎる競争社会で必死で生きて来たからだろう
。又それを次世代に強要する事を当たり前と思っている。腹立しい。この度「日本老
年学会」などは、「現代人は心身が若返っている。65歳以上とされる高齢者の定義を
75歳以上に引き上げるべきだ。」などとする馬鹿な提言を発表している。現代人の何
人を見て言っているのか。交通事故のブレーキの踏み間違いは45歳からでも起こって
いる。更に高齢者雇用を促したために昨年1月に15人が死亡した長野県軽井沢スキー
ツアーバス事故が起こっている。死亡した土屋広運転手(当時65歳)にバス運行会社
が不慣れなまま運転させていた疑いとして県警は、社長らを業務上過失致死傷容疑で長
野地検に書類送検している。確かに不慣れで運転ミスもあっただろう。しかしそもそも
旅行バスなる物は常に行き先が違う環境での運転であり、高齢者には「環境変化に追従
出来ない。」と言う致命傷がある。心身が若いと言うのは見せかけだけで、身体老化は
昔も今も全く同じだ。徳川家康が75迄達者だったし私の知る限り80や90の爺さん
が昔もバイクに乗って飛び跳ねていた人もいたのであり 今日的に食事の栄養バランス
がいいだけで ちょっと油身やったり刺激物或いは糖分が多いバランスの無い生活を、
一年でも過ごせば直ぐに薬に頼る生活になる。こうした提言は 結局医療費が多くなり
人々のバランスのある生活が犯され保護家庭が増えるのみである。バスのみをとっても
重大事故5千件で人身被害千七百人の重傷者死者八百人程でその9割が45歳以上の老
齢者であり、法律規定である、連続運転最大4時間休憩は30分。や一日の運転限度は
二日平均で9時間、一週間の平均運転時間は最大44時間、4週間の平均週間拘束時間
は最大70時間=4週間で最大286時間、一日の拘束時間は最大16時間=終業後8
時間休ませれば16時間運転手を拘束できる。などとした法に応じた会社の使い方に 
ついていけなかった人達である。経済都合主義でのこうした提言が 如何に自然の中の
理不尽な提言で 何も仕事をしない馬鹿達の提言であるか。人の命や生活や社会を軽い
視線での発言かがしれる。もう少し恥を知れこの馬鹿垂れ共は 全く科学的根拠もなし
に言うな。と言いたい。


848: 名無しさんAA:17/01/06 19:54
 魔法使い あららとおろろ 13

 新年を迎えて 「賀詞交歓会」「年賀名刺交換会」など経済界の交流会が数多くある
中を TVニュースは今年の予想などを聞いて回っている。多くの答えは「トランプの
台風がどう動くかで変わる。」と発言している。こんな先の見えない人達が経営者達で
あり全く日本は腐れかかった船の様に社会が出来上がっている。と友人が嘆いて観てい
る。この理由は明確に日本人の職務放棄の姿である。マラソン大会では警察がランナー
の安全を確保していない。公権力がそこいらの警備員でも出来る事を出来ないでいるの
だ。裁判記録では黄色信号無視の為に裁判した男はドライブコーダーの映像を見せろと
言っているのに検察も警察もそれを明示しない。その為裁判所は検察敗訴になり上告す
ると言う。これはおかしな話だ。検察は警察を指導する立場にある。今時タクシーすら
暴行事件や交通事故にこの映像を証拠としている。これは大事な事だ。公権力で逮捕や
拘留或いは違反を叫ぶにはそれなりの論拠を示すことは国民に対する当然の責務である
。この責務を行いなさいと言うのが検察のある理由だ。それを共に隠し提出も公示もし
ないで反則切符のみを強要している事は広域暴力団そのものだ。更に民営のタクシーす
らついている物が全車両についていないと言うのは全く組織の怠慢としか言えない。こ
うした怠慢劇は警察に限らない。消費者相談センター或いは児童養護や保護の施設或い
は市役所などの行政に裁判所すらも可笑しな論理を通したものや事件が多い。議員や市
長などの問題行動は後を絶たないし沖縄県知事や東京都知事は全く独断での発言ばかり
で県民や都民の代表などと到底言えない無法者である。それらを支える経営者群が正に
この有様である。そもアメリカの景気は既に復興して去年は一昨年を雇用生産販売共に
順調に少しだが伸びている。これらは今年止まる事は恐らくない。という事は誰がどう
なっても金利を上げるつまりドルの利上げがある。そこに来てトランプは移民に困る中
壁を作ると言いながらメキシコに工場作るなと言う非常識な馬鹿なのだ。つまり今後は
中国には極端な不況が来る。ドル高で生産品がアメリカにと言うのは逆で彼らが今まで
巨大な中国人民の為に購入を約束した資源が輸入される度に外貨が無くなり韓国経済と
同じになる。という事だ。その事で中国輸入品の多いロシアは景気が良くなるのである
 

849: 名無しさんAA:17/01/06 19:54
 魔法使い あららとおろろ 13-2

 だがロシア人は今プーチン大統領の指導下にあり 頭の良いプーチンが中国製品の買
いたたきするのは当然である。という事は当然世界の胃袋がおかしくなる事に世界は狂
う事になる。今中国は空中ではスモッグ地下では地溝油や毒井戸水地上では多農薬野菜
と偽装が溢れている。輸出入に対しては偽装物や発火品や毒塗装品が蔓延している。又
社会的には今だ共産党支配の強硬政治で正義は通っていない中人々は交通違反のままで
走り続けていて外交的には国際法違反の行動ばかりで格差は広がる一方である。交通に
対しては驚くほどの過積載と整備不良のままの車が多く更に広い道幅の為に暴走行為と
市中街路での抜け道の無い事の慢性的大渋滞である。それは物価高が招く経済的余裕が
市民生活に無い為である。その為当然ながら凶悪犯罪も多く 子供誘拐や臓器狩り国家
では誘拐逮捕拘留という 何ともこの世ではない世界が繰り広げられている。これに対
し日本の進出企業はそうした悪に加担し、中国経済を良くしようとしているのだ。これ
は可笑しなことで 今中国を援助する事は決して世界の為や中国人民の為にならない。
そしてそれを今過大に行っているのは英国企業である。つまり中国不況は英国が一番の
影響を受ける。それは人権無視のまま非人道社会に加担した罪であろう。日本社会も又
その影響を受ける。今英国はそれでなくともEU離脱でこれまで築き上げた品格による
権威や資産価値を無くそうとしている中である。ロシアが微笑み英国が泣くのというの
はまだまだイスラム教徒が勢力を増し欧州各国が泣くという事である。そうした中での
トランプ政権は 更に欧州社会の穏健派を更に縮小させるだろう。世界が過激になれば
なるほど潤うのは 暗黒社会しかない。まともな経営が苦しむことになるのは目に見え
ている。即ち今の温暖化対策や自然保護や未来投資の為の研究開発費がしぼみいい影響
はないという事であり どんなにいいトランプ政策でもアメリカ自身しか良くならない
。それどころか政策が間違う率が高く 経済損失が起こる恐れが高いと言う事である。
つまりせっかく作ったオバマ政権の見えない資産を喰ってしまう可能性が高い政権で、
景気が良い程 来年が悪くなるであろう。と今年は日本は動いてはいけない年であると
予想されるのだ。

850: 名無しさんAA:17/01/06 21:04
 魔法使い あららとおろろ 13-3

 だがこうした状況は 正しい勤労国日本にとっては はなはだ良くない状況だろう。
まずアメリカが好景気だと 世界のどこかで戦争が起きる。戦争は米国の公共事業と言
われる由縁である。日本で言う公共投資や地方交付が無い分軍事産業の開発費に使われ
完成するとその実証試験をそのまま戦地で試用するからである。そうした開発費なり、
戦地調達費が出来る事は米国のこうした悪を勢いつかせる。今沖縄のオスプレイ問題も
実はこのヘリが未完成品である事の問題である。まずこのヘリは架空の垂直離陸機とし
て開発された代物でヘリの揚力を利用し飛び上がりそのままプロペラ機並みの飛行機と
して活躍させる欲から開発されたもので、それがやっと実現したと言うだけの厄介な物
で本来なら胴体か羽にもう一つの穴を開けたファンがなければならないのが未来の姿で
あろう。だが揚力と飛行機の合間を縫って穴を開けるのはかなりの創意工夫がなさらな
ければ無理だろう。つまり安定に欠けたままで操縦するしかこの飛行機は飛べないのだ
。と こうした寄り道はしないで経済的世界の動向だけ見ればこの厄介な存在は米国に
限らない。お隣韓国はお馬鹿な事に 今だ慰安婦問題を解決できないである。この国の
集団化しすぎる悪意や嫌味や動向は今政府の私的内閣化した存在にわめいている。実は
こうした民族性こそがこの慰安婦の徴用がこの国自身で起こした原因なのであって当時
の貧しさを考えれば当然の悲劇で 別に日本軍が出て行かなくても充分に市民が作れる
のである。つまり品格の無い国の品格の無さが起こした歴史的事実を品格の無さで否定
して世界にその無さを披露しているのだ。そして品格の無さどころか 不良少年なのが
中国である。将来性が高いものの不良息子を抱えた親みたいに日本にとっては不愉快な
存在だ。援助すれば経済力がつき悪さが天井知らず、援助を切れば共産党の独裁は軍事
力に頼り欲望のまま国民のみならず隣国日本さえ目の敵とするだろう。更に知らん顔で
もしようものなら 過酷な状態は自国の文明すらない子供さえ食糧と言う非人道を拡大
するそれが今までの歴史が教えている。まず指導するしかないが 日本の力はそう大き
くない。要するに金をせびり父親殺しをする道楽息子たる姿と同様なのだ。これは至っ
て真面目に日本にとっては苦難の道なのだ。という事で今年は全く良くない。もし良く
するのであればアフリカに日本人町を作り 今の欧州の避難民を働かせる事位だろう。


851: 名無しさんAA:17/01/06 22:50 ID:Qn.
 魔法使い あららとおろろ 13-4

 そもそも何故人類は「共産主義社会経済」と言う邪悪な共同体を創ったのか。それは
今日本の専業主婦問題と全く同じであろう。つまり人はある時は自由を謳歌する事を望
むが大体の人生は指令なり託されたものや職務と言われる手順なりを行うの事の方が正
しく又単純で安心なのである。更に社会経済の説く平等の生活は弱者救済には経済が許
せば必要不可欠な救済である。人生で自分で考え自分で道を切り開くと言うのは 殆ど
皆無な事で、もしあったとしてもそれは殆どが道徳的ではないし醜悪な物である。とい
うのも 人の生活にそれがまともな社会的行動とするには、100年以上の時間多世代
間を費やした思考が必要なのである。革新技術が正当な物として登場するは 現実には
その長い歴史上の考査と願いがあってのことなのだ。そしてそれに馴染むのに時間が必
要で 今日の自動車事故や麻薬の拡散或いは不祥事の複雑化などが証明する。その意味
では女性が家を守り男が外で仕事をして稼ぐのは至って合理的社会システムでその専業
主婦を守る法律や家庭内同一苗字は法理にかなってる仕組みなのだ。この豚の農場とさ
れる共産化社会は実は生活の為の福祉や食料供給は欠かせない物だ。つまり常に人への
贈答を国がしてやらねばならない中にいる。そして人はその発展を他に頼り自己改革へ
の挑戦を止めるのである。北朝鮮の人民統制やソ連邦崩壊更に中国の醜悪事情はそれら
を物語る。賄賂が下から上のみならず上から下へも必要だし秘密裏での恐怖政治などは
如何に人心を掴むことが不可能かを物語っている。そしてその失敗例が中国の抗日番組
の嘘や韓国の歴史教科書などだろう。兎にも角にも反日抗日で洗脳し自国優位を説くし
かないのだ。日本の明治期と江戸の文化の教科書も又そうした嘘の印象操作が明るみに
出ている。これに対して「資本主義自由経済」も又失敗した文明だろう。と言うのも、
ローマ帝国の流れで帝国が行った覇権主義そのままに奴隷貿易の性格を人道主義に少し
軌道修正したままで 利益重視の博打経済学を隠れて取り入れている事は、ピケティの
経済学で解るように資本家即ち金持ちがより大きく金持ちになるシステムしか作らなか
ったのだ。そこで全く予想だにしなかった様に独裁者の為の経済仕組みに 大戦前から
方向付けが出来上がってしまった。日本では財閥解体が行ない叩きながら一方で勝手に
他国に戦争するブッシュJRの様な白雉主人が号令する社会を築くに至っているのであ
る。


852: 名無しさんAA:17/01/07 05:48
魔法使い あららとおろろ 13-5

 そも人々の活気と経済の景気は殆ど大きな相互の関係性が満ちている。が不思議にも
熱気があるのに不景気な国がある。それがお隣韓国である。では何故か。そうそれこそ
が教育なのである。間違った考え方間違った手法で間違った人間性を国民に植え付けれ
ば どんなに熱気や活気があっても景気は良くならない。そこに良くならない仕組みが
出来上がってしまうからだ。だが人間はそうしたものを見抜けない。時間が経って解る
位である。そしてそのままどっぷりこの韓国の様になろうとしているのが中国やロシア
なのだが 逆に韓国がそれに近づいているのかもしれない。いずれにしろ「民衆の声」
を盾にポピュリズムと言われる姿は 悩ましい程間違いがある。にも関わらずに日本で
でも「都民ファースト」などとぬけぬけとウソを言っている指導者がいるしそれをその
まま解説するTVもある。都民の全てが統一した認識と見解を持って全く同じ意見なら
、それは単一民族と言えども許しがたい悪魔のような洗脳社会である。あり得ない事を
言うこの指導者に「少数意見に耳を貸さない」と言う権力主義が透けて見えるはずだ。
がそれでも人間はこの興奮や熱気が好きなのだろう。韓国も米国も英国もEUも日本も
今や己を忘れる位の興奮の声に惑わされて喋っている癖に冷静に分析したかの様な話を
する。それは北朝鮮の民衆と同じに「我々は将軍様が言われるなら 例え地球が割れて
この世が無くなり宇宙にほおりだされて命が無くなっても 駆けつけて守り抜く覚悟で
あります。」と 敬礼し大真面目に言うのである。この気持ちにバカ息子は「うんうん
」と満足げにうなずく異様さはTVに映るのだが トランプを推す市民や朴大統領をこ
き下すデモも又全く同じで「官製デモ」と称された中国人民の哀れな姿と何一つ変わら
ない暴徒の群れ白雉の群れなのだ。これで世界や地球が発展するはずはない。只、単に
自らの生活を守って生きているに過ぎない。それならアンデスの山々の自給自足で暮ら
す原住民の方が遥かに楽しい暮らしをしている筈だ。だがそうした人は自然災害に弱い
。が過去に一つだけ違った社会で管理出来た国がある。それが日本の不思議な文化だろ
う。戦乱がなかったとは言わないが江戸時代200年室町時代鎌倉時代それぞれ230
年平安時代に至っては390年ほぼ四百年と続いた政権がある。江戸は黒船来航によっ
て室町時代は火薬発達によって鎌倉時代は蒙古襲来によって平安時代は仏教寺院の僧兵
文化によってそれぞれ国内変化が起きてそれぞれ散ったが その時の民衆は偉人だった
とも言えるのだろう。それぞれに閉じた流通経済が成り立っていたのである。


853: 名無しさんAA:17/01/19 20:20 ID:dAI
魔法使い あららとおろろ 16

 いよいよ馬鹿トランプがアメリカ大統領になる日がやってくる。どれくらい馬鹿かと
言えば「メキシコ国境に壁を作る。」「自動車工場は雇用の創出の為米国に置け。」と
つぶやくぐらい馬鹿なのだ。アメリカが豊かになる事はいいし グローバリズムを鎮め
る事も私は賛成である。だがだからこそメキシコには産業が必要なのだ。そもそも今の
不法移民はメキシコより米国がいい。と思って来ているのだ。文化でも生活でも就労で
も経済でも最低でいいから銃で殺されてもアメリカに住みたいと来ているのだ。その理」由は産業の無さや就労地がない為だ。更に言えば今でも国境に壁はあるし中立地も確保
されている。警備もされていれば密入国管理もされているし税関もあるのである。それ
でもそこを抜けてやって来るにはそれ相応のメリットがあるからであって アメリカが
それこそ強権的にメキシコ産業や経済を衰退させる方針で進めば進むほど 教育の無い
ハチャメチャな移民が増えるのである。更に関税障壁を更に高くするというのである。
それは結局はアメリカが高い品物を買う結果しか残らない。今までも中南米他の植民地
政策は自国の物として税のかからない安い労働市場の物品を入れる為にその政策が続い
たのである。海外の高いものより自国の物が安ければ誰も買うはずはない。では自国で
の生産は安くなるか。なる筈はない。今でも充分に不法労働者を使って差額を作って、
やっとこさサービス産業なりロボット化した工場を支えている労働者になっているのだ
。自国に白人の正統なアメリカ人が奴隷の様な安い給金でそれこそ不法労働者単価との
就職争いをする訳がない。給与は高く購入品を安くと言うのであれば 物作り工場は外
で行い 頭脳や資本として本社を自国に置くと言うのは自然な流れである。それを止め
よ。と言うのである。外に労働市場を置くなと言うのだ。可笑しな話である。ではその
対処やその代用の提案があるかと言えばないのだ。それもそのはずである。自ら税収と
言う国の為の貢ぐ資金は出さないで負債や倒産させといて 一方で無税のままで国に補
助なり援助してもらい高額所得者と言う地位を保つ事を 頭がいいいいからと言う馬鹿
さなのだ。要するにルンペンかホームレスの類の物貰い乞食が突然立派な服を来て立派
な物言いをして 自分は偉いと言うのである。馬鹿者も此処まで馬鹿だと哀れである。


854: 名無しさんAA:17/02/23 20:56 ID:./o
 魔法使い あららとおろろ 18

 世界が戦争するのに理由は要らない。言い訳が通用しないからだ。人々が悲惨な中に
勝手に放り込まれただけでよい。野望は強欲を呼びそして混乱が起きる。それだけで良
い。「お前はクビだ。」トランプの決め台詞だが トランプこそ人間を辞めるべきだ。
トランプ氏は司法省トップのイエーツ司法長官代行を解任した。イエーツ氏は難民やイ
スラム圏7カ国の出身者らの一時入国禁止を命じた大統領令を支持しないよう同省に命
じたと伝えられている。又移民税関捜査局トップのラグズデール長官代行も解任した。
理由は明らかにしていない。だがこれは今流行りの「パワーハラスメント」という現代
カースト制の意識にある。即ち権力者の暴力そのものなのだ。かつて昔欧州社会の中で
プロテスタントとカトリックが戦った時がある。文化歴史学は人類の持つ無知の暴力を
ことごとく洗い出す。社会構造学とも言えるこの文化人類学の歴史の中には 殆どが、
この格調高い儀式を利用した権力者が敵を見出した時暗黒時代の幕開けとなる。そこに
は、宗教改革と言う意識変更が伴い 非情な別次元の生きる為生き抜くための知恵とし
て暴力称賛の言葉が鼓舞される。国外に於いての戦争や紛争は 凡そ大国の私利私欲に
依って引き起こされたと言って過言ではない。それは権力者が人間としての人情希薄に
追い込まれるからだ。それはかつての植民地の流れでも良く解る。ソ連やアメリカ或い
は中国の最近の動きはとてつもなく恐ろしいものだ。プーチンは勿論習近平そして今の
トランプとこの3人に共通して言える事は頭のいい割に強硬派で頑固な事だ。彼らが若
い間は良いだろうが今や海外まで及ぼしている 意に添わない者への排除主義は欧州の
中までもが影響を及ぼしている。そしてその政府に妄信した期待で盲信した仲間内内閣
でおよそ国家との体を成していない。がそれでもその期待とそうした中の地位 或いは
妄信して将来や地球全体を考えたくない人は今や世界中の半分を占める。その中での国
家主義愛国主義は相当に地球全体の嫌悪の中にある。そうした強権的頭脳派のずる賢さ
は結局人類の墓穴を掘る事になる。そうして出来たのが核兵器なり無人兵器なのだ。つ
まり自分が使うにはかなりの力だろうが 同時に人が使うにどうしても止めれられない
物であり 次世代に困った社会を作っては翻弄させてしまい世界を破滅に追い込むのだ
 

855: 名無しさんAA:17/02/23 20:57
 魔法使い あららとおろろ 19

 トランプ政権発足で混乱する国際社会の中で 北朝鮮長男の正男が殺害された。人は
神様では無い。従ってどうしても弱い所や悪い所があって 過去に間違いがあった歴史
を作る。それは人の人生でも国家でも同じだ。だから人はそれを補い合い支え合い色々
励まし合って生きて行くのが普通だ。が である。中にはそうした相互扶助を違反とし
犯罪とする国がある。中国社会の大国の中で培われた文化には強権役人の下では卑屈に
も生きる知恵として「溺れるサルには頭を叩け」と言う教えを受け継いでいる。今回、
金正男が殺されその犯人が北朝鮮の金政権の指令での暗殺であった事は確かだろう。5
年前から彼には帰国命令と共にそれに従わなかった違反が付きまとっていた。かつての
金日成でも金正日でも政権移行時には親族の暗殺は行われている。だがそれは政権争い
でありこれほど政治から離れていながら暗殺される事は無かった。つまり北朝鮮は末代
になるほど残酷になっている。という事になる。更に今や北朝鮮に人道支援行為すらも
少ない。そしてここに来て2つの事情が重なった。一つはミサイル開発が順調に行き、
中国指導部も喜んでいる事だ。つまり今や多段式移動型ミサイルが成功し この成果は
中国を除いた近隣諸国をかなり深刻な悩みの淵に追い込んだ。今回の実験成功には各国
は非常に驚いている。これまでの矢継ぎ早に放たれたミサイルは精度はおろか燃料供給
すら実戦には使えない代物だった。それがいつの間にか多段階発射の固体燃料式に切り
替わり 車両は悪路走行や水平維持も出来る無限軌道車つまりキャタピラーに変化し、
かなりの安定した超高度飛翔体に切り替わっていたからだ。これには中国の科学者達の
指導が良く効いていると思われる。この発見しにくく更に核弾頭まで詰めて精度の高い
ミサイルには先制攻撃しか手が出ないが現状であろう。これによって北朝鮮は更に各国
から悪者退治の標的化を強めた形である。2つ目はならず者国家と認定し更に解除した
馬鹿なブッシュから動けなかったオバマに代わり今回物言うトランプ政権に変わった事
だ。2つの中国を認めた事には減成りしたがそれでも北朝鮮からすれば戦争し現政府が
破壊された時新北朝鮮国の亡命政府として担ぎ出され収拾がつけばこうした身内には、
戦々恐々の中にある。更にこの空港での殺人事件は全く同じ様に似た顔の一般人が2人
づれの女に殺され 当時の女は全く同じに悪ふざけと称し男に操られたと証言し国外追
放を受けた。どこの国の空港だったかは忘れたが 多分に殺人請負女子である。



856: 名無しさんAA:17/02/23 20:57
 魔法使い あららとおろろ 20

この金正日の長男の正男が殺害された事は、韓国にとっては大きな痛手であろう。特に
KCIAは北を攻める手立てを失ったとも言える。かつて金正日はこの長男に期待して
いた。何故なら金正日にとっては長男の上金正恩は第二国人つまり朝鮮原住民の子だっ
たからだ。どんなに頭が良かろうが馬鹿は馬鹿で性格がわるいのだ。この事は知り得て
いたにも関わらず、この正男はその独裁政権を嫌い世襲主義の3世の政権を認めない事
が信条にしていた為に自らが3世である事で拒否し 親の病気に駈けつけなかった。こ
の時日本で捕まったのである。もし田中真紀子外相がもっと頭の良い寛容な人間だった
のなら丁重に自宅に泊めて北朝鮮の事情や本人の吐露する心境を「聞いたであろうが、
彼女田中角栄の威光を継いだ只の人間だった。すぐさま追い返してしまっただけだった
のだ。恐らく韓国ではこの殺害させた事は祖国統一の機運を捨てた事になる。そして、
米国では北への攻撃があのイラク様に収拾が付かない無政府状態に送る事になる可能性
が強い。が北に取っても金正恩政府は当然海外預金が宙に浮いた状態で決定的に手に入
らない事になったはずだ。これは2005年の最初のロケットと称したミサイル実験か
ら金融制裁として国際的な資産凍結からの流れで隠し財産があぶり出された事による。
2013年の韓国の発表には 北朝鮮が中国などの複数の銀行に偽名や借名の口座数十
件を保有し、数億ドル以上を預け入れていることが判明した。としている。マカオ銀行
のバンコ・デルタ・アジアのみに預けられているものでも金正日総書記の統治資金とし
て約24億円以上とされ 他の欧州のスイス銀行でも恐らく同程度以上の預金があるは
ずだ。この国家は指揮系統と命令系統が分かれている。更に予算に至っては国家予算と
金氏の政府を個人とした予算と軍事予算とそれぞれが独自にある。これらは かつては
麻薬の密輸や偽造通貨、他国間武器販売といった違法手段を通じて外貨を稼いでいた。
今も無い訳ではないが多くの資金は40ヶ国と相対契約した当事国同士の労働者派遣で
本国送金に当てられて 日本の派遣会社が国になった形での「人身売買」で外貨獲得を
していると言われている。だがそれが不幸と決めつけるのはまだ早いと思える。日本も
今ブラック企業が時間労働者を雇いその生活を見ていないからだ。日本に於いて不思議
にも金が無ければ水道電気ガスは止められ生活保護が無ければ生きられない。逆にその
生活保護を貰わないと頑張っている低賃金労働者は今や年金すら取り上げているのだ。

857: 名無しさんAA:17/02/23 20:58
 魔法使い あららとおろろ 22

 長幼の候で有名なのは暴れん坊将軍で有名なのは徳川徳川 吉宗(とくがわ よしむね
)が行った家重世襲である。江戸幕府第8代将軍に迎い入れられてから精力的に財政再
建に挑んで大奥改革や沼地開発などを民間利用し大いに赤字を埋めて財政を潤した。が
頭を痛めたのは長子である家重がドモリのある幾分か知能遅れとされた事だ。利発で利
口な次男三男の徳川宗武(田安徳川家)や徳川宗尹(一橋徳川家)を担ぐ声が大きかっ
た中それでも自分が後見人として支えて長男にした。この逸話は当然先の金正日は知っ
ていたし自分もそうそう頭が良い人間とは思っていなかったので長男にと考えていた節
がある。が長男正男はこの父親の思いより自由化された社会を愛していた 更に病身に
なった頃は傍に付いていなかったのだ。日本への調査が日本側外務省が拉致被害者がい
る中で追い払い策を行った頃だ。逆に言えばこの時外務省内にも北のスパイは日本の生
活をし素知らぬ顔で自分が北に連れ戻らされ仕事が無くなる事で画策した可能性すらあ
る。今度の事件も北の独自情報よりは韓国内のKCIA内の北のスパイが漏らした情報
で金銭トラブルから起こった可能性が強い。恐らく正恩が政権移行した時には彼は金の
動きは知らなかったのだろう。この国家予算と金一族の為の資産と更に政権把握の軍用
予算がそれぞれに裏金として北朝鮮に入金されては資産運用していた筈だ。が全く不明
だったこの資金が2009年の通貨切り下げや 米国の資産凍結や中国の銀行の取引停
止などで 移さざるを得なくなってそれらが明るみに出た可能性がある。そして後見人
である 張成沢 の処刑の全容が見えた時この海外送金の一部を牛耳っている事の重さが
そこに見え、その処刑のむごたらしさが浮かび上がった。(銃殺台のすぐ側に張成澤を
座らせ、2人の部下に向かって重機関銃を連射した。弾丸直径が20ミリもあるので、彼
らの身体は一瞬で肉片となり、それが張成澤に降りかかった。張成澤は、恐怖と嫌悪感
でその場で気絶したがその後同じく重機関銃で殺しその肉片は腹を空かした犬に食わせ
た。)そしてその処刑の理由は金家への海外送金を手放さかった事と3世代世襲を許さ
ないとした中国やロシアに「急速に何とかする。」と答えて帰って来た事だった。と言
われている。


858: 名無しさんAA:17/03/06 20:43
 ベッキーの娘  01

 それはそれは 古い昔の話でござった。ある時「白兎の国」に手紙を持って来た異人
が来てのう。とゆらゆらと光が揺れる焚火の中で少女を前に 乞食の様な姿をした老婆
が深い皺をゆらしながら話始めた。「はくとのくに?」「おおそうじゃった。はくとの
国といってもわからんじゃろうな。お前さんがこれから見に行くと言う燃えた街でな。
あの忌まわしい大船が来なければ大きな街だったが随分燃えてしもうたのじゃがのー。
ここらは古来より大黒様を助けたとされるしろうさぎの地と言われていたんじゃ。昔は
山も近いが海が波をたてずに泥の多い浜に葦の多い所でのう。嵯峨の大君と都の大君が
闘ったのだが那珂の川で筑紫の大君が間に立ったとされ それより何百年もの間大宰府
政庁を於いて都に従ってきたのじゃが。ある日突然武人の従者を連れて来た夷狄の者が
海からやって来たのじゃ。そして「神の大国蒙古の皇帝から日本国王に逢いにはるばる
やって来た。」と言い「大蒙古皇帝は天からの使命によって大領土を支配してきている
はるかに遠き国々もすぐ傍の高麗国も我々の皇帝を恐れうやまって家来になっている。
お前達日本人も又この皇帝の心広き中で 恐れ敬い子弟となり家来となって 隣人とし
て交易や人の行き来いを為そうではないか。と言ってきたんじゃ。」「ふーん。でおば
ばが馬鹿こくでない。とやっつけたの。」「ああっははは。いやいや姫まだまだおばば
が生まれる前の話だで。いやおばばどころかおばばのその又ばばがいた頃より昔の話で
な。その私の婆から語り継がれた話じゃでのう。」「へーえ。こうらいこくって何。」
「高麗国はのうこの海の向こうには行き宗氏国があってのう その向こうの大きな大陸
の仏がいた百済国の向こうにあった国だ。実はのうその巻物を持ってきたのが高麗国の
やつらだったのだ。宗氏はここの殿様にいつも頭を下げにやって来ておってのう。その
奴らが来る前から対馬宗家から救援依頼で多くの家来を送っておってのう。高麗国が今
その蒙古の奴に攻めたてられて今や国王は斬首の刑にされたと聞いておりどうするもの
かと思案しておってのう この者らがやって来る前に既にこういう事は大宰府の御上も
知っておる事だったのじゃ。そこでこの者らには磯宮を通じて関東の将軍様に送る事に
決めていたのである。






859: 名無しさんAA:17/03/06 21:23
 ベッキーの娘  02

 それは文永五年(1268年)に起こった事だった。当時賑やかだったとする博多の港
に異人船がやって来た事は大きな話題になっていた。当時西国の国人の迎賓館としてい
ただろう鴻臚館(こうろかん)に案内したのは 恐らくは中国博多商人の一群だったと
思われる。この頃はイタリアのベネチアの商人マルコ・ポーロの行った東方旅行体験談
を、ルスティケロが物語作者として旅行記があるように ジンギスカンの行った世界征
服で多くの国に移民が出ていて奴隷化した労働者の群れがあった頃だった。その為欧州
からも多くの南蛮船が交易に出て来ては商品を持ち帰って来ていた。かつて北宋時代は
日宋貿易として高句麗を経由しながら貴族たちの欲求に朝廷・大宰府による貿易統制を
行われていたが時と共には徐々に崩れていった。その流れは平氏政権の成立とともに更
に加速し、平清盛は日宋貿易を国の財政の根幹とするべく一時福原京に遷都したのだが
室町幕府になり北九州の守護大名の日明貿易、対馬と朝鮮の間の交易再開などによって
下火になっていった。交易された物は宋から日本へ絹・陶磁器・薬品・書物・経典・銅
銭などが送られ、日本から宋へ金・銀・真珠・硫黄・工芸品・木工品などが送られた。
世界的には南宋の交易相手として最も重要なのは北宋を滅ぼし華北を支配した金だった
、そしてその金を滅ぼし最後は南宋を滅ぼした元(モンゴル帝国)である。北宋時代に
関係があった高麗や西夏などとは地理的に離れたことにより関係が薄くなる。逆に海上
技術が進んだこと、平清盛の登場などにより日本との関係は盛んになるがこの事が逆に
日本の国が黄金の国に吹聴された原因ともなる。何故なら金を送って銅を輸入している
極めて稀な国だったからだ。これが元寇を産んだし女真族の海賊を招いた。女真族とは
放牧・漁労・山架・狩猟に従事し街に薬草や朝鮮人参・毛皮を売って暮らしていた者と
され朝鮮半島領域で永らく統一されなかった民族と言える。日本で頻発して荒らし回っ
た海賊を高麗軍の入寇とされるが、1019年においては対馬、九州の大宰府を襲ったのが
「刀伊」(朝鮮語で外様を意味する)という海賊集団で、女真系の一部族が主体で高麗
人や契丹人なども混じっていた事が解っている。




860: 名無しさんAA:17/03/06 21:24
 ベッキーの娘  03

 「おお姫君空は満天の星模様じゃ。太古の昔からこの光とこの風の中にあったろう。
ほら水平線の向こうが少し白い。じきに夜が明ける。そろそろ草の者が馬を用意してこ
こにやって来るだろう。直に出立が出来よう。これ留・・留吉。」と叫んだ。すると、
草影の奥から若いと言っても既に成人を過ぎた2人の肌の黒い立派な男が出て来た。「
はっ 何か。」「うむ。追っつけ不知火からの連れが警護しょうが 今が一番大事な時
。いっときしたなら空が明るくなる。これから姫を連れて芥屋に向かうが、波多江を過
ぎれば安心だろう。が それまではアゲハの者には充分注意せよと伝えよ。そして露払
い者に誰にも見つからぬ様に船を用意させよ。特に太宰少弐や竜造寺の手の者に見つか
らぬようにな。又あの異人かぶれの大友やつらにも見つかってならぬ。くれぐれもな。
空が少し白ばんだ頃「では姫行きましょう。」「ああ。」と姫と呼ばれた子供は眠たそ
うに立ち上がった。その姿は全く姫と言うよりは若殿と言える身なりで 立ち上がると
すぐさま手に抱えていた刀を腰の帯に留めそのまま脇差とした。髪も姿も少年剣士その
ものだった。空が明け始め鳥がさえずり出す頃 3匹の馬を携えた武士が3頭やって来
ていた。「おお 与助ご苦労だった。姫を頼むでな。」「はっ」「では道々詳しい事情
を聞こうかのう。追っ手の方はどうだ。」「黒アゲハの者が始末したかと思います。い
ずれ此処にやって来ましょう。ささこれを。」「おおむしろ着まで用意されたか。これ
はいい。」「ささ 姫。夏だとて寒い風邪を引いてはなりませぬ。いささか汚いがこの
みの傘とみのを着てたもせ。上ににむしろ着を羽織りませ。朝は朝露で濡れるゆえに、
まだまだ寒くなりまそ。」眠たそうにした姫とよばれた若き武者姿の者は 言われるま
まにおばばの着せる箕の傘を被り莚の様な藁の着物を覆い箕のを背に羽織った。その姿
はよく顔を見ない限りそこいらの野良仕事させられる百姓の子同然だった。しわくちゃ
の婆が愛おしくその子の身なりを整えると「いいか。与助」と言うなりひょいと抱えて
与助の前に持ち上げ与助は与助で鞭を手から離し手首にぶら下げたままその子を取って
自分の馬に乗せた。婆も他の一頭の手綱を取るとひょいと馬に乗った。その後使いの者
も次々に乗っては 馬に乗ったまま歩き出した。


861: 名無しさんAA:17/03/06 21:25
 ベッキーの娘  04

 倭寇の構成員の多くは私貿易を行う中国人であったとされる。これと対立していたの
が松浦水軍と村上水軍だった。かつての源平合戦時代から平家の松浦・源氏の村上とい
った色濃い流れの中で元寇の使いが国書を持って来たのである。1180年平安時代末
期にかけての6年間にわたり貴族を守って来た侍が主家を守り勢力を取ろうとして起こ
った大規模な内乱が源平合戦であったが その後打ち立てた鎌倉幕府も荘園公領制の維
持により成り立っていたのである。だが不幸な事に世界的不作は大陸で起こっていた乱
と共に刀伊の入寇において対馬、九州の大宰府などが襲われていて人々は海から来る海
賊の襲撃にこの新たな幕府に対応を求めていた。「刀伊」(朝鮮語で外様を意味する)
という海賊集団は、朝鮮半島にまで送った諜報員からアムール川水系女真系の一部族で
朝鮮族の高句麗より北方の丹国や切丹国や熟女直の者達という事まで判明していたのだ
。こうした事で海賊退治や未開地開拓に平家も源氏も九州出向して九州争乱時代が幕開
けのお膳立てとなった。元寇の使いが最初に来たのは1266年だったが日本では不幸
な事に鎌倉時代から室町時代に移行する内紛に陥っていた。モンゴル大帝国による高麗
侵攻は1231年といわれ、その後高麗の降伏と離反が数度繰り返された後、1259
年をもって反モンゴル帝国の急先鋒の政権がとうとう倒れた。そこで高麗はモンゴル帝
国に降伏した事になっているが31年〜59年の28年間には反モンゴルののろしを挙
げた戦いの中日本が高麗国の支援や情報を得ていたし その反乱分子たる高麗人を日本
へと運んでいた。交易していた対馬宗家はその意味ではいち早く察知し手を打って日本
への侵攻を止めていた。日本の室町時代から江戸時代にかけての海賊船は通称し「八幡
(やわた)船」と呼ばれた。倭寇が「八幡(はちまん)大菩薩」の幟を好んで用いたの
が語源とされるが、実情はちょっと違う。柳川は昔江曲の地と言われる川の多い所で昔
からの館があった大きな清水寺の門前町だったとされる。この為瀬高口田の町から水田
までの間の米は鷹尾城からの出荷で京の都まで送っていたと言う。これは皇祖神功皇后
以来続いて来た伝統だった。その為の久末より八女にかけては彦山系山伏の拠り所とし
て行基を祭る陰陽道派の寺院が天皇のお墨付きを持って栄えていた。だが南北朝時代以
前に多くの海賊が押し寄せて来て破壊され燃やされている。この海運や交易を一手に守
っていたのが「大内家」であり平安時代から中国九州地方の西部を支配していた名家で
あったのです。


862: 名無しさんAA:17/03/11 09:19
 ベッキーの娘  05

 「おばばあそこに見えるのが われらの筏船じゃて」「ふむ。あれは又大きく長いの
う。」「はあ 水縄の地の孟宗竹で長門石の職人に特別に作らせた船であの筏は下に木
を通しておりびくともしません。」「おおそうか。じゃが見つかる事も簡単ではないか
。」「そこんところは大丈夫 見つかっても筏船はしょっちゅうここいらは通っており
ます。更に海の上では船でしか近づけません。それも筏が行く位の所は早々深い所では
ないので南蛮船でも近づけません。武装した小舟なら小人数のはず来たらすぐさま私が
切って追い払いましょうぞ。弓もちの奴らも乗っていますから火矢も用意しております
。」「おおそうか準備万端整っておるか。」「は。兵糧もこの通り10人が20日程も
持てるかと。七輪と炭更に釣り竿に網まで用意はあるので 魚でも釣れば更に20日は
持ちましょう。」「うむそれは在り難い。ご苦労じゃったな。でこの馬は。」「一頭は
載せますが 他は又城まで戻そうかと。」「うむ 2頭は無理か。」「いや暴れなけれ
ばいいのですが 2頭ともなれば徒越えだすので。」「そうか 遊んで暴れれば無理だ
ろうのう。」「それに先に行きつけば彦太郎が又馬5頭用意させていますので。」「そ
うか ならばそうしよう。では姫いざ行きませう。」と砂浜から頃良い岩場にやって来
た小舟に乗り込んだ。3艘の船は少し沖にいた筏につけてはそのまま縄を筏に結んだ。
「おばばえっかー。」「ああ 出してよか。」「じゃー行きませー」と二人の竿持ちが
左右で留ていたであろう竹を次々と引き抜いていった。最後の竿で海底を押したようで
筏は音も無く流されるように 先に進んだ。そして浜の丁度真ん中ぐらいになると突然
早く沖合に出ようと進んだ。それはまるで魔法を見るかのようだった。少し太陽が上が
りじりじりと照り付けると暑かった。だがその為に出た汗の中潮風が心地よく顔をなで
た。莚着のなわを解くと「おうおう姫気付かず悪申した。もうその箕のは脱いで下され
。そしてこちらへどうぞ。腹も減ったでしょう。太助が土竈の火を起こすで 直ぐにで
もそこの魚が焼けるでしょう。ささ水でも飲んでゆっくりなされ。留吉。水筒をこれへ
。」と言うと乗ったばかりで 色々荷物の仕分けを指導していた者が「へへい。」と、
すぐさま二つの竹筒を持ってきて「これに。」と婆と幼い若武者に手渡した。栓をあけ
口に含むと 海の波が心地よく流れ 島影が遠くになって行く事に旅情があって何とも
言えない感情がうまれていた。」

863: 名無しさんAA:17/03/13 03:25 ID:1BM
 ベッキーの娘  06

 海賊に襲われて各地から問注所に届け出が出ても この「大内家」が下関や門司港を
支配している間は九州の奥にいた老舗の老将菊池氏が松浦水軍や村上水軍と縁故をもち
平和であった。だがクビライが日本に欲をだし使節を派遣するに至り急変した。それま
で南北朝時代の足利氏が九州下向し又京都まで登って朝廷を掴んだのは一重に同じ日本
人同士の戦さだったからだ。元寇の契機となったのは、1265年高麗人趙彝(ちょう
い)が日本との通交を進言したことが発端であるとされる。そしてモンゴル帝国は正式
な国書を持って使いを出す1268年より前に既に1264年に樺太から北海道蝦夷地
を襲っていて1266年に続けて高麗に国書を持たせた使いを出し日本を襲うように命
じているのである。使節団が高麗に到着して、高麗王・元宗に日本との仲介を命じて、
高麗人案内人の枢密院副使・宋君斐と侍御史・金賛らと朝鮮半島東南岸の巨済島までは
行ったものの海が荒れて危険など難癖つけて使節を追い返したと言われる。そこで使節
団が高麗の官吏と共にクビライの下に帰朝し報告したと伝えられる。だがクビライも又
「風浪の険阻を理由に引き返すことはないように」とくぎを刺していたと言われ激怒し
次は高麗が自ら責任をもって使節を派遣し、日本側から要領を得た返答を得てくること
を約束させたとされる。これには訳がある。中国大陸では漢が滅びて戦乱が続いく五代
十国時代が幕開けていたがそれを終わらせたのは北宋を打ち立てた趙匡胤である。中国
の5大偉人の一人だが唐代から戦乱の原因になっていた地方の力を少しずつ削いでいき
北宋が金国に攻められた後も南宋として、南遷して淮河以南の地に再興し中国の王朝を
保っていたのである。華北を支配した金はその後元に滅ぼされ最後は南宋を滅ぼすのだ
が、高麗はその北宋時代に大きく関係し友好を保っていた国だったのだ。長年の戦いで
反モンゴルの意気も強く更に国民全体の経済は南宋との貿易に頼っている部分もあった
。更に薄々は日本を平らげ 日本の船で南宋を叩く事は知られていてその意味でも元の
この覇権に立ち向かえないものの その先頭に高麗軍が立たされる事は解っていたから
だ。つまり高麗にしても元に下ったとは言え隣国とは争う事は自国の消耗を意味してい
たのである。


864: 名無しさんAA:17/03/13 03:26
 ベッキーの娘  07

 「おう焼けた焼けた。」と割に小兵の男が嬉しそうに叫んだ。「おお留吉。飯の用意
は出来たか。」「へいこの通りでっさ。」「おお太助もみんなみんなで一緒に喰らおう
。」「はっ。」とそこに用意していた者や回りを見張っていた者がやって来た。「七郎
と五郎太は船頭として付けて於こうと思います。」と破れ着物を着ながらも一人の凛々
しい男が上司に言うかの様に答えた。そこは見れば囲炉裏のような小さな箱になった火
鉢が二つあって中は灰の上で火が起きていた。上にまるで焼き鳥の様に串刺しになって
いた燻製の魚と今まで生きていたであろう魚とが交互に並べてあり頃よく焼き上がり、
上手そうな匂いを漂わせていた。「さてさて姫 気が重いがこれからこの筏船が我らの
住まいとなる。何分海の上じゃて波が強うなる事もあるので端に行くことは合いならん
。厠はあの後の船頭の後の空いた竹の間に御頼み申す。」「・・・」「それとな 夜は
突風が吹くし寒くなる。ほれそこの簗木行李の箱が三つ縛ってある。蓋は簡単にあくで
その中から莚なり茣蓙なり出して使ってくりょ。その箱の蓋はしっかと押さえつけて、
しっかと閉めて風に飛ばされぬようにな。しっかとな。」「婆は何でも知っとるんやな
」「あ・・あはは、お嬢も何回か乗れば直ぐに解りまっへ。」と皆で大笑いすると何や
関西風の言い方で傍の男が口を出したのだった。」「ところで大阪の方はどうやった。
」「ああ大阪は相も変わらずですが、やはり沖合には南蛮船が出入りしていると言う噂
で何でも三河の商人が南蛮銃を織田信長と言ううつけ武将に一個しか売らずに一向衆に
大量に売る約束したとかで話題は持ち切りです。」「ふーむ。その 織田の馬鹿殿とは
どんな風だ。」「いやーうちの大友様と余り変わらぬようで業突張りの廃殻好きで興味
深々で何にでも首を突っ込みたがると言う話じゃが 相も変わらず信濃のにらみ合いが
今も影響していて どうも今年当たりまたやりかねぬとの噂です。」「そうか向こうも
九州と同じか」「はっ京の向こうは今だ膠着状態ですが 向いの周防の大友晴英様が何
やら毛利の罠にはまっているかと聞こえます。」「ああ何でも陶氏も晴賢に改名したそ
うじゃが 策士策に溺れるの諺通りに 恐らく大内の残党どもが内通でもしておろうよ
殿も宗像騒動があって菊姫も無き後では ここも危ないと踏んで この地から遠ざけて
おるのじゃろう。我が家中も一本にまとまってはおらぬのでのう。ここはしばし中立の
松浦水軍に頼ろうと言うのが本音であろうて この正千代君の命を守る為にも。」

865: 名無しさんAA:17/03/13 03:27
 ベッキーの娘  08

 知っての通り日本にやって来た元寇は執拗に2回もあった。モンゴル帝国第5代皇帝
クビライが日本宛に作成させた蒙古国書の冒頭に「大蒙古国皇帝」との漢語から蒙古襲
来と言われが それまでの蒙古の元が起こした戦乱で追われた者が海賊となって日本付
近を荒らして回った刀伊の入寇や凶徒の賊とは分けて呼んでいる。このモンゴル帝国の
狙いは実は経済的恵まれいた南宋であったとされる。南宋は陸路海路共に貿易が盛んで
モンゴルはその行商人の通行税で成り立っていたからだ。日本が黄金の国と言われて、
更に攻める理由になったのだろうが 実は南宋攻撃の為にこの後ベトナムまで行ってま
でも敗退している事から本当の事だろうと言えそうだ。が九州にとっては3回もやって
来た日本中の防備の武士がひしめいた事で多くの混乱が起きた。1274(文永11)
年の 文永の役と言われる第一回の攻撃より前に海賊の防備の為に鎮西府を派遣した。
かつての源平合戦時代南北朝時代と九州争乱が絶えない中で更に大きな争乱の幕あけだ
った事は言うまでもない。、900隻、4万人の元軍が対馬と壱岐を攻略し長崎の鷹島
に上陸し拠点のなって博多湾まで進出した。幕府の下知に応じた九州の御家人が陣を構
えて、前もって防衛にあたっていた。従って京都は戦乱に巻き込まれる恐れはなかった
。が京都では、それでも神頼みを始めとするパニック状態に陥ったと言われた。怒濤の
勢いで渡ってきた元高麗軍は、10月博多湾の沖合いに集結し、翌20日早朝を期して
一斉に上陸を開始した。具体的状況は主力の元軍二万は箱崎・博多方面に、高麗軍は西
の西方の早良(麁原)にそれぞれ上陸した。とされる。迎え撃つ日本軍は筑前で鎮西守
護として大将を仰せられた少弐景資が本拠を箱崎に置き、そこから西方にかけておよそ
一万ほどの九州勢を陣を構えさせ、元寇を待ちかまえた。両軍が接触したのは午前十時
頃だったが、当初日本軍士気は頗る高かったが、物の小一時間で博多湾岸沿いの長大な
戦線の各所で負傷者がでた。炸裂音と喊声があがる度たちまち劣勢に陥った。これまで
侵略戦争に従軍して手慣れた戦いの上火薬を使った近代戦争に全く手に負えなかったの
だ。これは幕府軍の予測を遙かに上回って精強であったし戦法の違いは武士の日本軍に
は全く混乱のままだった。


866: 名無しさんAA:17/03/13 03:28
 ベッキーの娘  09

 「そろそろ太吉も起こして 飯でも喰わせた方が良いかな。」と権蔵と呼ばれる男が
留吉に聞いた。「おう そうするが良い。」と答えると後の方へと下がっていった。日
は傾きかけたとは言えまだ高い。波間の照り返しも強く船ならば船室に行くところだが
そうは行かなく 低い屋根の掘っ建て小屋風の荷物置き場の方へ行って三人程を呼び出
した。乗って気付かなかったが簗木籠の荷物の隙間には人が寝ていたのである。そろそ
ろとこちらに寄って来てもう一つの竈を囲んでいる中に座った。がたいのいい褐色の色
は如何にも強そうに見えた。それを見ながら婆は白湯をすすりながら言った。「さて、
お嬢にはそろそろこれから行くところを説明せねばならんな。」「はは。お願いします
る。」と目を合わせた。「うむわしから話そう。実はな千代姫殿知っての通り今や大友
の大殿が伴天連の異教徒によって腑抜けにされてしもうておる。南蛮渡来のアヘンなる
ものによってどうにも収拾が付かない位酔狂に走り 先の大殿の義鑑様は家督を譲らな
いと申されてな。それ程粗暴で病弱な義鎮君だったのだが この廃嫡に対し策を練られ
たがそれが決まらぬ内に露呈してな。本家筋は塩市丸を推したが回りの御家人地頭豪族
は大内氏の衰退を見ていていたがいくらかの大内家と繋がりある故 側室が長子義鎮公
をさし置いて塩市丸に家督を譲る事はそりゃもう反対でな。家老衆の斎藤や小佐井殿は
一晩考えるとして席を立ったがその時の家老4人は大殿の命で殺されてしもうたのじゃ
。それは既に周防が毛利氏の勢いで村上水軍まで味方につけた今となってはいくら南蛮
渡来の鉄砲を持ってしても闘う事は得策でないと判断しての事じゃったろうが いくら
大殿が側室の塩市丸を溺愛し推していたのじゃったとしても 家老を切り捨てた事は全
く合点がいかずとなったし、他に重臣だった斎藤と小佐井は逆にこっそり2階にいて塩
市丸や側室や息女や大殿を殺したのじゃ。また呼び出された側近の中の津久見衆や田口
衆は既に薄々察知しておって登城せず大殿と見合わせなんだも、危ないと逃げていてな
別府遊覧に来ていた義鎮に直ちに伝えてたのじゃ。起こった殿君は我が殿の戸次鑑連と
斉藤鎮実にこの乱発端となった申し渡しした家老の入田親誠の誅伐を命じたのじゃが。
実はこの入田は縁戚でのう。自分の城だった津賀牟礼城へ逃げこんでいたが殿が菊池氏
の縁のある阿蘇惟豊へ逃がしてやった訳じゃが。菊池氏から丁度奪い取った肥後地方で
阿蘇氏も大友氏と戦さを避けたいが為に 阿蘇氏は彼誅討し首を送り返して来たのじゃ
。これで今の大友家の大殿が21代目の当主となったんじゃがのう。殿にとってはそれ
も又気鬱な事で 今でも南蛮かぶれは治らんのじゃ。」

867: 名無しさんAA:17/03/18 20:31
 ベッキーの娘  10

 そもこの大友家も関東武者の一武将であって 九州の大豪族菊池氏や格式高い宇佐神
宮を守っていた大神氏や山岳信仰の宮地獄総本山の阿蘇氏などとは比べられない位地位
の低い武将だった。相模国大友郷を所領として、その土地の名をとって大友氏を名乗っ
ていたが平家狩りに大友能直は勅命を受けそのまま居着いて源頼朝から豊後国の守護職
を受けて大きくなった豪族だった。だが時代を追うごとに詫間氏・一万田氏・鷹尾氏・
田原氏、戸次氏・木付氏、入田氏といった地方の豪族や自らの縁戚を増やして一大勢力
となったのである。平家が多い九州で源頼朝の東国御家人による抑えの必要からそのま
ま京都からの天皇の命を出した形で居たのだが、南北朝時代に九州における南朝勢力の
懐良親王が下向して菊池氏が護衛したが その征西府を討伐に足利幕府が今川氏をもっ
て派遣すると、大友氏は接近して所領を拡大し南北朝時代の終わりと共に九州が平定さ
れ大内氏とともに讒言で、今川氏を失脚させている。その後大内氏とは縁戚となるが、
室町時代から戦国時代まで大友、大内、少弐の抗争は続く。その原因がこの元寇がやっ
て来た事なのである。一回目の蒙古襲来時は手柄を立てたのは 菊池一族であったとさ
れる。島田伝承では菊池氏は筑後の武将もかなり集めて向かっている。大友氏、少弐氏
を警戒してかかなり後ろに陣を張っている。日本軍の劣勢の中で菊池武房は猛将が百騎
あまりで敵陣に突入しモンゴル兵の首をぶら下げて帰陣。更に追いかけるモンゴル兵を
今の鳥飼の潟などの沼地に誘い出して一網打尽に動けなくして首を取ったといわれる。
更に後ろから僅か5騎で追い打ちをかけ沼地に押し入れ水を入れたとされる。この時の
モンゴル兵は小さいながらも2倍の飛距離の毒矢と陶器に石と火薬を詰め導火線と紐を
使った「てつはう」を使い言わば紐をつけた手投げ弾で物凄い音と炸裂片を産んだと言
われ 当時は見もしない武器だった。この勇み足のモンゴルの大将級を取った事で夜に
小舟で母船に帰参した兵は逃げる事になったと言う。だがその前に当時には珍しい台風
の影響下夜は高波波浪の中母船同士は鎖でつながれていて船はあっけなく浸水を起こし
ていた上に兵士の船酔いは凄まじかったようだ。この時対馬からの婦女子などの捕虜は
手に穴が開けられて前線の矢面に立たされていたとされ 幾何かの生き残りは母船の火
薬に火をつけたとも言われている。


868: 名無しさんAA:17/03/18 20:32
ベッキーの娘  11

 「じゃが 忌まわしき事に この南蛮かぶれの大殿さまが 儂の臣下ならば 信をと
って皆の者は伴天連の教徒なって働けとの仰せなのじゃ。」「え・・ばてれん経を読め
と。」「そうじゃ 今じゃ宇佐神宮も形無しじゃ。宇佐はまだいいで。町の神社仏閣は
打ち壊しや火付けまで始まっとる噂だで。いよいよもって殿も頭を悩ませとるのじゃよ
。」「前には青い目の茶髪夫人を側室にしたとか噂でしたのに。」「そうじゃ。」「殿
は 千代君を男として育てていたのは知っての通りじゃが 去年8つになった折にこう
申されてな。」「もう直ぐ政千代も10才になる そろそろ元服の用意をしておかねば
のう。」と申されてな。「げんぷく・・」「そうじゃ。大殿も千代姫が女である。道雪
の子が娘である事は充分承知じゃが 敢えて殿は男でござる行く末は我が城主とする。
と大殿には申し上げている次第じゃが 元服には大殿の前に出ねばならん。女子が元服
しその上仏教徒となればいつ首をはねられるか解らんのを 気がもやいでおいでじゃっ
たのじゃ。」「はあ」「そこでじゃ わしが言うたんじゃ。取りあえずは娘はさておき
バテレン教の信者キリスタンになされば。と。すると そうかキリスタンなら首を取ら
れる心配はひとまずないかもしれないのう。と申されてな。」「はあ」「実は前に城中
で大きな事件がありまして 舶来品の取り合いでの刃傷沙汰になったのです。ですが殺
した方の女も宣教師の口添えで無罪となったのです。それはバテレンでは等しく天子様
の子供で例え殺し合いしてもキリスタンでは懺悔すれば許されるそうじゃ。」「・・」
それにその黒塗りの宣教師が言うには懺悔した者を殺しは愚か批判しても地獄に落ちる
と言うそうじゃつまり 懺悔したならすべてを許す事が信者の務めとな。つまり実は、
大殿も早いうちから洗礼されて信者でな。」「おやおや少し早いが潮目が良いようだ。
 取りあえずこの竹影で夜をすごせそうだ。此処なら風も無く暖かそうだ。」そう言っ
てそこにあった小枝を折り 焚火の上に足した。男達は小舟に乗って川の上を登って、
少しして小枝や食べられそうな野菜を持って戻って来た。「ほほう 夜はカニずくしの
様じゃな。」「はい近くの小屋でもいいのですが ちょっとここいらは六角氏の残党が
いるんでここが安全かと。そうじゃな ここでは岩陰と竹藪で風も吹かないようじゃか
らの。



869: 名無しさんAA:17/03/24 19:38

 この蒙古退散の一回目はクビライからは当然な事と思えたのだろう。つまり小手調べ
のつもりと高麗軍の強さの試したと言える。モンゴルの将も大した奴は乗せなかった。
というのもクビライの目下の目的は目の前の南宋陥落である。海と言う未知数の戦いに
頼りになる手下の兵をむざむざ海に沈められたら困るのである。更にはこうした威嚇で
日本が折れて 元軍の力を知って傘下に墜ちるかも知れない位に高麗軍は威張っていた
のである。又朝鮮特有の誇張の報告は益々クビライにはまだ大量の船や兵士を入れれば
日本が簡単に落とせる様に思えたようだ。日本では元寇が二回となっているが実は五回
程襲っているようだ。最初はアイヌの地次が蝦夷地そしてこの長崎から博多の地と次の
博多から門司の地そして最後は琉球の地である。琉球の状態はマルコポーロが書いてい
るような状態だったと思われる。いずれの場合も元は周到な用意を発令し貿易していた
反体制派から連絡が来て様子が探られてそれなりの用意が出来る所はしたようである。
そして天候に左右されながら引き揚げている。この大きな文永の役という大きな戦いを
1274年に戦いながらも 次の年には又国書を持った通訳つけ5人を使者として送っ
ている。モンゴル人を正使とし、唐人を副使と警備の者をつけ通訳に高麗人とする使節
団である。クビライは南宋を睨みながらもすぐさま日本再侵攻の準備を進める事にして
いるのである。この時既に7回目の使者であり この事は日本の室町幕府をいらだたせ
た。この使者達は室町幕府によって首をはねられてしまっている。何故ならこの6回目
までに朝廷も室町幕府も充分に討議し戦う事を決定していたからだ。その為に東国御家
人には異国警固を目的に鎮西へ下向を命じていたし高麗史では慶尚道安撫使・曹子一と
いう日本から貿易船が通じていたとして捕まり密かに日本船は出港したものの元からの
高麗軍民総管・洪茶丘はこれを聞き、直ちに元のクビライに連絡し無実を訴え解放を求
めていた曹子一を処刑している。そして総大将として洪茶丘は日本を襲っているのだ。
この時京の町は大変な混乱であった。実は先に言ったように米が送られて来なかったの
だ。海賊船で奪われた後元寇があり元寇のちは漂着した多くのクビライ軍や高麗人が悪
さをしだしたのだ。と言うより海を知らない兵が丘に上がり喰うために強盗を働いた。
と言った方が正しいかも知れないが多くの人が襲われた。又更に使者が来た事で幕府は
幕府は異国警固番役を強化し、九州御家人に元軍の再襲来に備えて沿岸の警固に当たら
せ更に防塁を作らせた。異国警固番役季期交代で春夏秋冬で分け春は筑前・肥後国、夏
は肥前・豊前国、秋は豊後・筑後国、冬は日向・大隅・薩摩国といった様に九州の御家
人に異国警固番役を担当させた。その本陣場所こそ警固公園なのである。


870: 名無しさんAA:17/03/24 19:39
ベッキーの娘  13

 「婆よ そのバテレンの教えとは頭に水をかけて呪文を唱えるとかする異様で奇妙な
物と聞いたが。」「ああそうじゃ。じゃが驚くことは何もない。数珠をロザリオという
十字の首輪に替えるのみの事じゃ。まあ仏教の律回衆のようなものだ。中にはその精進
に普化宗門徒の様に出家を誘う事も有るらしいがそこまで信者にならぬでも良い。ただ
単に教えを聞ける宗徒になればそれでいいのだ。なにせ大殿が機嫌が悪くならない程度
にのう。それに仏教徒であれば宗門には入っても尼寺しか行かれないがキリスタンでは
、おなごもおとこも同じらしいからこの留吉らと同じに聞けるで安心じゃ。何も心配す
る事はない。」「おお皆の者 日が傾きかける頃には蚊帳掛けをして夜の準備をしとく
様に少し早くても構わぬ それから船頭になるものは頃良い場所があったらそこに留よ
。解ったか。どうせ逆波の長旅じゃ見つからん事が肝心じゃ。」実はこの筏は本来潮の
瀬で北に向かうべきものだが 陸に打ち付けた逆さ潮流に乗って南に下ると言う事で、
岸辺近くを行くしかないのである。ただ潮風が午後からは「はえんかぜ」と言われる南
向きの風が吹けばこの蚊帳や帆をつけて沖でも南にいけるのである。更に船底が浅い分
潮流を受けず櫓を漕いででも南に行ける。「ばあ もう一つ聞きたいが 今行く領主は
大村様か。」「ああそうだ。」「わざわざ宇佐の岬の教会でなく大村様に行くからには
よっぽどの人物じゃな。」「いや姫実はわれも余り知りません。が先に行った彦佐と
彦太郎の手紙では 随分と優しい武将の様で 秋月氏と親交が厚いので頼って行く所で
す。岬の教会も良かったがこれがとても危のうございまして密偵の話では住民が あの
一件以来二手に分かれてまして 親兄弟とて信用されず 夜な夜な人切が流行っている
との事でしたので。」「そうか仕方ないのう。」と 少しがっかりした様子であった。
夜は満天の星であった。流れ星と共に 虫や多く蛙などのの声が聞こえた。時折静か
になれば ギャンとも何ともつかぬ声が聞こえては 鳥が羽ばたく音が聞こえた。遠く
で犬の遠吠えも聞こえた。すぐ傍の川の流れも石に当たってせせらぎの様に聞こえる。
 早いうちから用意していた為か蚊帳の中には虫が寄って来ない。筏の上には野良犬さ
えも寄っては来ない。勿論寄って来ても 刀で刻まれては食肉になるだけではあろうが


871: 名無しさんAA:17/03/25 22:46
ベッキーの娘  14

 一回目の元寇襲来の時幕命を受けた少弐資能は、戦時に備えて豊前・筑前・肥前・壱
岐・対馬の御家人領の把握のため、御家人領に対して名字や身のほど・領主の人名を列
記するなどした証文を持参して大宰府に到るように、これらの地域に動員令を発した。
困った事に 蒙古・高麗連合軍の侵攻を撃退した鎌倉幕府は、そのまま高麗へ侵攻して
逆襲することを計画し その勅命を発した。その為大宰府を仕切る少弐資能は高麗出兵
計画は再度の元の襲来に備えるための石築地(元寇防塁)の築造と同時に進める事にな
り、高麗出兵に動員される者を除いた鎮西の者が石築地の築造に当たることでその出兵
の準備を進めた。船の漕ぎ手である梶取(かんどり)や水手(かこ)は鎮西諸国を中心
に召集し、不足である事で山陰・山陽・南海各道からも召集するよう御家人に命じた。
更に幕府は動員催促した武士に対して 水手、梶取りなどの年齢や動員数、兵具、船数
などを振り分け、逃亡者には厳罰を科すなどして着々と出兵準備を進めた。がこれは、
菊池氏や陶氏など古来より土着していた民の不平につながった。何故なら多く土着民は
山に住み 更に先の戦さでの死亡者すら確認できぬ中での発令で 恩賞すら関東武士や
京都武家の中にはあっても それは土着民の領地を削る事であり 皆無であったからだ
。そうした不平の中で京都や関東では米の献上が滞り食糧が不足していた。年を超えた
頃突然出兵計画は中止となった。詳細は不明ながら、同時進行で進められていた土塁築
造には多大な費用と人員を要したことと、兵船の不備不足などが明るみにでた事と、多
く博多商人が商売を無くしてしまった事で計画は実行するに資金や資材人材が不足が予
想され厳罰を科す事などできぬという致命的内情があった。そこで突然出兵計画は中止
となった。幕府内の詳細は不明ながら計画は実行されなかった。この幕府の転々と変化
する指令に九州は翻弄された。この時菊池軍と下向して来た一族との確執が起こった。
元々村上水軍は松浦水軍の端流で日宋貿易に熱心だった平清盛が肥後守に就任して後の
専属だった。だがこの松浦水軍を率いていたのが阿蘇を本拠にしていた菊池氏族だった
とされる。その為九州の河川の方々に菊池氏の鷹家紋を残している。安曇の磯良丸の伝
説からでも神功皇后の箱崎宮伝説の武内宿禰と武振熊命の子孫であるとしている。

872: 名無しさんAA:17/03/25 22:46
博多商人が商売を無くしてしまった事で計画は実行するに資金や資材人材が不足が予
想され厳罰を科す事などできぬという致命的内情があった。そこで突然出兵計画は中止
となった。幕府内の詳細は不明ながら計画は実行されなかった。この幕府の転々と変化
する指令に九州は翻弄された。この時菊池軍と下向して来た一族との確執が起こった。
元々村上水軍は松浦水軍の端流で日宋貿易に熱心だった平清盛が肥後守に就任して後の
専属だった。だがこの松浦水軍を率いていたのが阿蘇を本拠にしていた菊池氏族だった
とされる。その為九州の河川の方々に菊池氏の鷹家紋を残している。安曇の磯良丸の伝
説からでも神功皇后の箱崎宮伝説の武内宿禰と武振熊命の子孫であるとしている。朝廷
を守る事を約束した一族だからこそ南北朝時代にも彼らを頼って下向しているのである
。が時の平家政権から認可を受けその後打ち立てられた源氏の政権の流れとした事から
廻りに関東武士団を置かれて幕府の牽制を受けていた。1333年菊池武時は少弐貞経
や大友貞宗の誘いに応じて阿蘇惟直と共に博多に赴いたのだが、これは阿蘇惟直などの
謀り事であり、や鎮西探題内で善戦空しく戦死した。こうして縁戚で家老であった阿蘇
氏との袂を分けた。


873: 名無しさんAA:17/03/25 22:47
ベッキーの娘  15

 「大村氏はかつて菊池一族の草のものでのう。菊池水軍の盾であった松浦水軍の本流
じゃ。」「ええっ。では海賊の家系か。」「あっはは。そう驚かぬでよい。この婆あも
お前も この家系を辿れば一族じゃ。」「・・・・」「姫も殿の別杵道雪の名も別所の
臼杵の意味じゃて。」「ええ それは知っとる。」「では 殿の親である戸次親家様が
前のお城大森城いや今言う鎧岳城主であった事は知っておるな。」「はい。うちの御舘
様が産まれた所とか。」「そうじゃ、そうじゃ烏帽子山の傍のお城じゃ。でな本家筋は
この九州の一番古い土着民の大神氏一族の端流でな分流の臼杵氏のその又分流じゃての
う。そうこのおばばは昔から聞いとる。でこの古くからの一族には一つの繋がりが今で
もあってのう。」「つながり・・」「ああつながりじゃ。わが一族はこの地に於いては
宇佐の神より古く居着いて 山を守る神に仕えたとされていた。只の山奥の土俗信仰と
言われ山岳信仰と揶揄されても 毎年欠かさず日子の祭りを取り行っていた一族じゃ。
かつて昔は天皇家とも戦い或いは大和朝廷とも戦っても、綿々と受け継がれ守って来た
この地の山神信仰は 今の大友の臣下となり生き延びようと画策していたが今度の異国
のバテレンかぶれの大殿のせいで朽ち果てたのじゃ。」「では・・」「ああ殿はと言う
より大きくは今まで大友を守っていた家臣の筆頭津久見達は首を取られたのじゃ。が、
内の殿は何とかかろうじて命拾いした訳じゃが その意志は継がねば仲間内には申し訳
ないと申されてな。」「そこでよくよく考えて姫様を 大神氏の一字を貰った大村氏に
預ける事にお決めなされたのじゃよ。菊池一族の草の民として長崎氏に縁故を持ち早々
とバテレンの仲間入りしてキリスタンになったが そもそも南蛮渡来の鉄砲や国崩しを
手に納めんが為の事と聞き及ぶで そうに悪くはなかろうと。それに秋月氏の後ろ盾も
あるでにのう。殿も大殿に睨まれて立花山に左遷されたてはいるが 先の大殿や塩市丸
が殺された以上もはや大友様の言いなりじゃろうと いつ切腹を言いつけられるかは解
らぬ運命じゃからのう。」と言った。それは暗に今の殿様この政千代姫の親爺が企ての
黒幕を匂わせる物言いだった。「では殿のお命も危ないのか。」「ああ今の戦乱で戦さ
の間は殿はお強いので良いかも知れんが、大殿の義鎮君も若いと言ってもあなどれない
したたか者じゃて いつ何時難癖かけられるかは解らぬ。現にもし姫を男として育てて
いない事になっとれば 今どきはあの異人館の中で人質同然の暮らしであろう。まあ時
をみていずれは と思ってはいようがのう。今のところ国人衆が我が殿についていって
来れるで安心じゃが。京も九州の田舎も今や火縄銃の真似で大わらわの中だが一息つけ
ばこの世がどう変わるか解らぬ。」とため息ついた。

874: 名無しさんAA:17/03/25 22:48
ベッキーの娘  17

この筏船による長旅は 夏時に入ったとは言えかなりの疲労を要した。その上思うよう
にはこの船は進めなかった。途中小さな筏船が沖合からやって来た。「おーい御鶴殿、
おつるさーーん。」と波の音に遮られながらも、かすかだが 叫んでいる声が聞こえた
。すると与平治が手を振る。その筏船は次第に近づき姿を大きく現した。その上に載っ
て居たのは2人の農作業していたような若者だった。だが百姓でもなく腰には短い刀を
一本差し首にはロザリオを下げていた。そして後ろの方につけると ひょいと飛び乗り
この大きな筏船と繋げた。櫓を漕いでいたもう一人の男も櫓を持ったまま飛び乗ると、
すぐさま婆の所に行って、腰を下げ侍の様に腰に手をやり挨拶した。「突然ながら失礼
します。我ら御鶴殿の警護役ととして 鷹島よりやって来た 弥助と田湖八と申す者で
 そこの筏職人の与平治とは幼馴染の久留米水島の者でございます。」「おお与平治の
在郷の幼馴染のものか。」「はい。で早馬で鶴城内が少し内紛状態の知らせと駿府の殿
が今川衆を破ったとの知らせを持って来たのでお伝えに来た所でございます。」「そう
か。」「じゃがそれは 出立の時に聞き及んでいるがのう。少し進展でもあったか。」
「実は織部殿のおのこが何者かに切り付けられたとの事。」「何。諏訪の宮を寄進して
奉じたあの織部殿か。」「はい。」「それは縁戚である大村の本家筋も嫁をだした長崎
家も大変じゃのう。」「で、それは何時どこでじゃ。あまり詳しくは知らんのでのう。
」「はっ。御存じかと思われますが 加賀で始まった蓮如なる親鸞の教えはかなりにお
いて浸透して、荘園の領主の庇護を受けて一揆を止める様に言いながら組織を作ってい
た事は従来通りであります。比叡山が法論で論破されたと激怒し、日蓮宗が「法華宗」
を名乗るのを止めるよう室町幕府に裁定を求めた後 武装・合戦を禁止して派閥・徒党
を組む事をしない。更に年貢不払いの禁止を約束して無罪放免になりましたが それを
良い事に三好氏や六角氏が我が物顔でのさばっていましたが 近頃南蛮渡来の鉄砲を寺
に入れているとかで徳川や信長が宗門と争っていると。やはり周防での国崩しの砲撃は

875: 名無しさんAA:17/03/25 22:49
た事は従来通りであります。比叡山が法論で論破されたと激怒し、日蓮宗が「法華宗」
を名乗るのを止めるよう室町幕府に裁定を求めた後 武装・合戦を禁止して派閥・徒党
を組む事をしない。更に年貢不払いの禁止を約束して無罪放免になりましたが それを
良い事に三好氏や六角氏が我が物顔でのさばっていましたが 近頃南蛮渡来の鉄砲を寺
に入れているとかで徳川や信長が宗門と争っていると。やはり周防での国崩しの砲撃は
かなり衝撃で広まったかと伊代や村上ならず南の琉球や島津の薩摩水軍までこれを載せ
ると息巻いているようです。」「近頃の伊賀屋まで来ていた六角氏の群れはどうした事
じゃ。」「何でもその鉄砲を買う金で信者や門徒或いはお布施の取り合いで敗れたとし
て九州に信者を増やす為だとか。」「とすればこの地にも。」「ええ既に長崎氏の近辺
では海賊がでて女をさらっている事件が噂されてます。」「つまり阿蘭陀が近郊にいる
と。」「ええ だから私達がここまで案内役で来ました。」「長崎がもう危ないとでも
」「そうです近頃怪しい南蛮船同士が撃ちあいまして それからは海賊が出て来ていま
す 近くに我らの島の者が待機しておりますに 安全な島が傍にあるので直ぐに案内さ
せましょう。」「ああ」と今度は遠くだが小舟が何艘かいるようだ「彼らは大丈夫です
。」「そうか。では そうしよう。」


876: 名無しさんAA:17/03/28 14:41
ベッキーの娘  16

 2度の元寇が押し寄せた後は 南北朝時代にはいるのだが 多くの九州御家人達はそ
の後でも防塁建設による苦役と 戦いによる戦死者を出した中でのその人員削減による
食糧減産に追われ その後の朝廷や幕府との権力争いに一族の不満を吸収した運営を迫
られたのだった。中でも守った京都の天皇や鎌倉幕府からの恩賞がなかった為に 都へ
の兵糧の献上が見送られた。そうした不満を受けて足利氏が新たに光明天皇を擁立して
対抗して既存の後醍醐天皇は京都を脱出し吉野行宮に遷った。両朝はそれぞれの正統性
を主張して幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地方でも守護や国人達は、
それぞれの利害関係から南朝の後醍醐天皇と建武の新政から離反した北朝の足利尊氏の
いずれかに与して戦乱に明け暮れたのだった。そこには多くの元寇時の移民が携わって
いた。後醍醐天皇は足利氏の追討を命じ、新田義貞を送ったが 箱根・竹ノ下の戦いで
破られ追撃され京都の陥落と確保に迫った。がこの時楠木正成や北畠顕家らと連絡した
宮方勢が駆けつけ京都とその近辺で勝者となったが 尊氏は海路西走し、途中播磨国の
赤松則村らに助けられ、九州に下った。尊氏は、味方となる肥前国守護の少弐頼尚らに
迎えられ再興を図った。一方、宮方に味方した肥後国の菊池武敏をはじめ、筑前の秋月
種道、肥後国の阿蘇惟直、筑後国の蒲池武久、星野家能など、九州の諸豪族の大半は正
統な南朝の宮方に味方し、その軍勢は2万騎を超えたという。勢いを増した宮方の軍勢
は博多を攻め、少弐氏の本拠大宰府を襲撃して陥落させ、少弐貞経を自害させる事まで
いったのだが菊池軍に大量の裏切りが出て戦況は逆転し菊池軍は総崩れで敗走するに至
った。これは1333年の大友氏と少弐氏とで謀り菊池武時の首を取った事の恨みから
の菊池一族の意地がこの1336年の派兵にあった。その後菊池一族はかなりの戦死者
を出し武敏は敗走し、故郷に帰るも縁戚で最も大きい阿蘇惟直が戦死しかてを失ったと
言う。この多々良浜の戦いは皇室の愛民精神にも学ばず、道義のかけらもない私利私欲
だけの北朝のもとでは国が治まらないきっかけの一つであった。室町幕府は権力も権威
も失い、その後戦乱の世が永く続いたのであった。しかし謀事とは言え菊池一族2百名
余りもの者が討たれた後の今度の戦は 更に菊池氏一族を衰退させた。



877: 名無しさんAA:17/03/28 14:43
 ベッキーの娘  18

 大内氏の家臣名門陶家は この大内氏を背信し裏切る前は留守を守る家老だった。朝
廷の外交を一手に背負い平安期以前からの名門である。福岡に本拠を置く多々良氏など
多くの家臣団を持ち陶氏もその一つと言われた。が平安混乱期には左田氏と右田氏と言
った九州勢と本州勢の対立に翻弄されて縁戚関係を持ち 足利氏時代に一緒に京に登り
盛り返した。この時既に陶氏も又この大内氏の身内であり大友氏も婚姻関係を持つ中だ
ったとされるが 南蛮船到来からは日宋貿易から南蛮貿易に切り替えた事で陶氏は莫大
な権利と反感が生じた。これを嫌った伊予水軍は毛利と手を組んだとされる。こうして
村上水軍は真二つに割れた伊予を攻めた。この割れた事の事件は大友氏と毛利氏の戦に
なり当然縁戚である大内氏とも闘う事になった。この時出て来たのはオランダ船とポル
トガル船と宋船の三つ巴の戦いであった。西洋社会ではマルコポーロの「東方見聞録」
で爆発的な東洋ブームが起こっていた。今まで生臭かった肉がインドからの胡椒で格段
においしい肉となったし貯蔵も出来る事になった。こうした大航海時代の幕開けこそが
ベニスの商人の時代で既に小さくなったとは言え東ローマ帝国の支配下でイタリア地方
の商人がイスラム圏とキリスト圏更にアラビア圏エジプト圏などを交易しては財を成し
ていたのである。だがオスマン帝国支配により海洋権益は荒らされ 神聖ローマ帝国、
カトリック教皇、フランス、スペインの4者同盟をむすんで ヴェネツィア共和国の末
裔達のヴェネツィア領土内の財産を没収した。1516年にヴェネツィア商人は外交で
の失地回復を行ったがイタリアでの支配権はとりもどしたものの、海洋国家としての地
位は回復できなかった。ここにイスパニアの大航海時代に寄港した土地の征服が始まっ
たのである。元々この時教皇の許可において第二次世界大戦まで他国領土略奪と植民地
政策が始まったのである。イエズス会は、キリスト教カトリックの男子修道会なのだが
フランシスコ・ザビエルらによって創設され、世界各地への宣教に務め日本に初めて、
キリスト教をもたらしたとされるが1521年、セブ島にポルトガル人のマゼランが率
いるスペイン艦隊は、当時ヨーロッパ人として初めてフィリピンに到達しマクタン島の
首長ラプ・ラプに攻撃され戦死している。だがこれは既にムスリムの領主ラプ=ラプが
キリスト教に反抗したから戦ったとされ 既にイスラム圏内では大航海時代は始まって
土着民を従わせていたのである。

878: 名無しさんAA:17/03/28 14:44

 ベッキーの娘  19

 筏は小舟に囲まれながら 島の転々とある中の比較的大きな島に着いた。そこには、
この大きな筏が止められる桟橋も小舟も止められる砂浜もあった。「ここは唐の津浜は
既に過ぎたと思っていたが。ここは どこじゃ。」「ここは唐軍が上がった浜からもっ
と西の九州の最西端の一部と思われる島です。古来より松浦水軍の本拠地とした薄香湾
で向かい側は 難破した南蛮船が到来して少し騒動している所です。」「な なんとな
。」「いや大丈夫です 彼らはバテレンと違って南宋貿易しているムスリムと言うもの
の船で既に残っているのはバラモン教の奴隷級の奴らばかりで ここにいたいというの
で通詞としておらせているのです。」と浜を歩いていくと小さな洞窟が幾つか見つかっ
た。「ほう よく自然に出来ておるのう。」「いや これは我々の先祖が掘ったもので
す。」「これは人が掘ったものか。」としげしげと眺めながら見て歩いた。「菊池一族
に土蜘蛛と言う部族が穴掘りが得意とは聞いていたが」「その子孫か。」「そりゃわか
りませぬが 昔々海賊が多い頃村があまりにも襲われるので 此処に移ってひっそり暮
らし始めたと 親からは聞いております。」「そうか。」と向こうが見える大きな穴の
中の一つの筒抜け穴に向った。他を見渡しても穴はあるが絶壁である。その上えぐり取
られ人の穴と思えなかったそうした穴の比較的小さな穴に向かった・他に比べて小さか
った上にその中に横穴があるとは見えないよう 岩が立って為全く穴があるとは気付か
ない工夫があった。やっと通れる穴を進むと真っ暗な広い空間が広がっているようだっ
た。穴の中には小さな神社が飾ってあった。松明を灯すとその横を抜けた裏には階段が
あった。だが天井は抜けていない。一人の先導役は先に登りつめ他の何かに口笛を鳴ら
した。すると扉が開けられた。それでも暗かった。ところが幾つかの光が見える。どう
やら家の中らしい。目が少しずつ慣れると 藁置き場の小屋の様だ、これでは危なくて
松明も焚けないだろうと思われた。が そこの藁の上から何かが歩いて行って扉を開け
た。直ぐにまぶしい光が飛び込んできた。そこには見た事も無い黒い肌の男が扉を持ち
立っていた。

879: 名無しさんAA:17/04/03 13:24 ID:6IE
 ベッキーの娘  20

カピタン(甲比丹、甲必丹、加比旦)とは、東インド会社が置いた商館の最高責任者「
商館長」のことでポルトガル語で「隊長」を示し江戸時代の言葉だ。日本は初めにポル
トガルとの南蛮貿易をした事で、西洋の商館長をポルトガル語の Capitao(カピタン)
で呼ぶようになったと言う。蒙古襲来は1274年と1281年に起きたのだが、その
事で京都は大混乱に陥った。その後都にも田舎の荘園にも武士と言う警護役がついた。
そして足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立し対抗したので、後醍醐天皇(南朝
側)が京都を脱出し吉野行宮に遷った1336年だ。正しく日本版の革命政権が出来た
瞬間だろう。大事な事はこの西日本地方に推定だが最初4万人次に7万人の規模の人間
が押し寄せ更にその対抗する為最初に2万人更に4万人規模を順次この地に向かわせた
上に更に西日本の現地人も多くを武士に変えた事だ。恐らく20万人の中で半数以上は
死んだのだろうが生き残りが生活し子供が出来たとすれば恐らく50万人規模が増えた
と考えられる。この結果来たのは食糧増産と生活圏の奪い合いであったと言える。農業
生産は生産地を拡大するしかなく残りは森林伐採での農地拡大だろう。すると当然漁業
の海への進出も増える事になっただろう。そんな中に田手畷の戦い(たてなわてのたた
かい)は、起こったのだった。1530年に(享禄3年)起きたこの佐賀での戦いは、
北九州の主に筑後平野の供給食糧の京都や奈良そして関東の取り合いだったのだろう。
この集荷出荷の取り扱いする政庁の大宰府内でのいさかいから 京都からの天皇の勅命
を受けた周防国の大名大内氏と鎌倉幕府の使命をして下向した関東武士の守護大名少弐
氏やに関東からの土着した大友氏と更に旧来の九州豪族の菊池氏などの覇権争いの中に
起きた戦いである。もともと菊池氏は源平合戦に平家方従軍したものの、壇ノ浦の戦い
には源氏方に寝返り御家人として名を連ねた。それは平家の海賊に悩まされた事からだ
が、この揺れ動いた事で疑念を招き、恩賞は守護に任じられた少弐氏や大友氏・島津氏
に遠く及ばず、逆に多くの関東系御家人を支配地を取られ周囲に配置され、その牽制を
受けていて 反目政権だったのだ。つまり二百年の間で九州は朝廷や幕府の混乱で大き
く揺れ動くまま戦国時代に入ったのだ。

880: 名無しさんAA:17/04/03 13:24
 ベッキーの娘  21

 真っ暗な所から開けられたドアは回転する扉だった。そしてその向こうは 鮮やかな
草原の広がる台地だった。空はどこまでも青く雲は沸いていてそれはそれは美しすぎる
光景がドアの向こうに広がっていた。明かりが広がったこの部屋も周りは暖炉の様な中
の石の壁の中に居た。「ささ姫様もばっさまも先に先に。」と後ろから留吉の声が聞こ
えた。先に与平は歩き出して外の光の中で背伸びした。「姫 婆 此処は快適でござる
ぞ。」と振り返って大声で言った。外にでると筏の上と違った磯の香りよりは草の香り
に包まれた風が 弱く強く弱く強くと波打って吹いていた。この風は少し乾燥している
のか今までの汗を乾かし本当に心地いい涼しさだった。「おおこれこれ。」と後ろの方
が騒がしかった。それは4日も動けなかった馬のうれしさだったろう。軽く行列の後ろ
を歩き回っていた。「ええぃ」と一人の男がたずなを取り乗ると 他の者は離れた。馬
は軽やかに走り廻りその喜びようは皆の心と同じだった。遠くなる小屋は殆どぼろくて
藪の中にあったのだろう。その明るい日差しの中に歩いていると駆け寄って来る者が前
に行くものに近寄り耳打ちしていた。すると馬を引いていた若者に手で合図をしていた
「ささ急ぎましょう。」「どうやら少し勝手が違うようになっているようじゃ。」「さ
あ。お乗り下さい。」と馬のたずなを他に渡し姫を持ち上げ乗せた。「ばっさま 乗れ
るか。」「ああ馬は得意だでのう。」とひょいと乗った。勿論連れて来た土馬で背は低
いものだったがそれでも見事だった。「おお見事見事。」「よし多吉共に走ろうぞ、」
と少し駆け足になった。崖から離れ裏の雑木林の一つには細い道があった。そしてその
先は窪地になってかなり立派な2階建てが立っている。が近づけばそれは城の様に高く
見た目よりかなり大きかったし高かった上に 壁に張り付いた集落でもあった。「おば
ば、おばば」と 頭上から聞こえる声がした。ずずーと壁を滑る音がして一人の老人が
滑り降りてきた。他のものは腰の短刀の柄に手を置き急いで近寄って来た。あわや切り
合いかと言う時「儂じゃ儂じゃ清ノ輔じゃよ 赤星の清ノ輔。」きょとんとする中で「
あ・ああ 赤星家の甘えん坊 清ノ輔。あ解った解ったのすけ坊。ええっ なぜこんな
ところに。」と驚いた。「あはは あっはあっは。いやいや訳あってここを任せられた
のじゃ。」と髭もじゃの老人は高笑いした。



881: 名無しさんAA:17/04/03 13:25
ベッキーの娘  22

 日本で1523年に勘合貿易の争いが起きた。細川氏と大内氏が朝貢使節をそれぞれ
派遣していたが 浙江省寧波で克ち合い日本の代表にどっちが偽物かを争う事件が起こ
った。寧波の乱である。これにより明は勘合貿易を中止した。貿易が途絶した途端倭寇
を通じた密貿易が盛んになって中央では倭寇の取り合いが起こった。そうした中で将軍
家の家督争いから応仁の乱が起こった、そこで再び倭寇の活動が活発化する事になる。
足利義政は30歳になっても本妻や側室に子供が無く実弟に政権移譲して隠居する事に
決めた。実弟は拒んだが執拗に譲る話で証文まで書いた。がその後直ぐに本妻富子に子
が生まれたのである。この為本人はもとより家臣団は真っ二つに割れたのだ。そして、
後見人の家臣団の畠山氏や斯波氏、富樫氏、小笠原氏、六角氏などでもお家騒動が起こ
ってしまい下剋上の戦国時代が幕開けしたのである。対立は激化し将軍家の家督争いは
全国の守護大名を動かした。九州では大阿蘇の宮司の阿蘇氏が菊池氏の家臣団の筆頭だ
ったが大友氏に近づき菊池氏は没落した。縁戚だった赤星氏が菊池氏のあとを継いだ形
となったが 彼は菊池城を求めず隈部城に拠った。此処に隈部一党の悲運が又始まって
しまう。大友義鎮が家督を継いだ次の年には大内義隆が重臣陶晴賢の謀叛で殺害されて
しまう事件が起こる。晴賢は義鎮の弟の義長を迎えて大内氏の家督としたものの、陶氏
は執政となって実権を掌握した。これで大内氏と大友氏の事態は新たな局面を迎えた。
筑前の原田氏や筑紫氏、さらに秋月氏らは大友氏の動きを睨みながらも、毛利元就と陶
晴賢が安芸の厳島で激しく戦ったが晴賢は負けて自刃して果てた。この時海から村上水
軍が協力して厳島に攻め寄せていた。毛利元就はそのまま大内義長討ち取るべく長門の
城に迫った。元々周防国・長門国に一大勢力を保とうとして大内義隆は姉の子を猶子と
いう相続権のない子として迎えていた。先の一条兼定から養嗣子として迎えた晴持とは
全く意味が違っていて、政略上の養子であり事実上の人質なのである。先の大内晴持は
尼子氏との戦いで溺死してしまってこの大友晴英を迎えていたが 大友にも大内にもか
なり不要扱いだったに違いないと思われる。

882: 名無しさんAA:17/04/03 13:28
 ベッキーの娘  23

 集落の家の中には静けさの中に 遠くの波の音が聞こえていた。パトパチと小さな音
を点てた炎を見ながら廻りに婆と立派な男が相対していた。そこには若い武将の姿の姫
もいた。一段下がった処ににも一つの囲炉裏があって大勢の者が取り囲み莚の上に座っ
ていた。何人かの女子衆が お椀を渡して廻り「さあ皆の者 食べようぞ。」とガタイ
の良い男は叫んだ。「おーお。」と言うなり一斉に食べ始めた。すると先ほどの老人が
すり寄って来た。「大変な時を迎えたのう。」「ああ じゃがこれも定めかも知れん。
大友が国崩しを揃えてからは 我が殿は仕方ないと見ていたようじゃで。」「それで、
政松姫をおのこにして旅立たせたか。」と傍にいた頭領らしき男が口をはさんだ。「さ
すがに王直、南海の海賊殿じゃて。」「な、なんだお婆は知っていたんか。」「あは〜
さすがお婆も松浦水軍富来氏の末裔じゃな。如何にも我は王直じゃ。今回は残念じゃっ
たのう。さすがにこの水軍も 伊予水軍と村上水軍と川野水軍と三者が集まってはどう
でもできんかったのじゃ。」「あんにゃ それはどうでもいい。 あのバテレン好きの
大殿が男好きで 海賊を舐めた事が間違いじゃ あんたには非はない。じゃが問題はこ
れからであろう。大友も腐っても鯛じゃて 狂ったように反撃にでろう。」「ほうー。
それもあるかもしれん。じゃが既に周防の大友の方は国崩しにあって自害したと報告を
受けている。」とにゃっと笑った。「国崩し。国崩しにあったとはどういう事だ。大友
以外も持っていたという事か。」と婆の皺くちゃの顔が 大きく目を開いて見つめた。
「いや何でもない ただ大船から撃たれたと聞いている。その船も何故かバテレン船の
イスパニアのでなく宋船と言う事じゃ。」「ほほう それは又変わった事で で一体そ
れは何処の武将の囲い者かの。」「それが解らぬので困っとる。今博多商人と一生懸命
に探索しておる最中だが。解れば追っ付博多商人からでも報告がはいる筈じゃ。」「此
処に来る前に落城したとは聞いてはいたがそういう状況だったとはのう。・・神屋氏は
うぬらの手合いかい。」

883: 名無しさんAA:17/04/03 13:28
に探索しておる最中だが。解れば追っ付博多商人からでも報告がはいる筈じゃ。」「此
処に来る前に落城したとは聞いてはいたがそういう状況だったとはのう。・・神屋氏は
うぬらの手合いかい。」「それは。・・」と言葉に詰まった頭がいた。「もう一つ悪い
知らせが届いとる。毛利氏は先の水軍を束ねた事で どうやら大友を討つ算段じゃ。儂
の所にも八咫烏の証文を送って来た。それに知らせではお主の殿は、大殿に浮ついたこ
の博多商人の大名は全て攻めよと仰せだそうだ。その国崩しを載せた宋船をどうも秋月
の配下の者と見た様じゃがのう。」「殿がわしの古巣を討つとな。」「ああ の赤星の
忍びが伝えて来ている。明の貿易船からのものだ。」「何故に。」「他にも歩が悪く、
今海賊退治に宋の朱将軍に任命して その朱の使いをして大友とは昵懇の仲になった。
と噂がある。」「・」「明もたまげたようだ。」「何でも青い目の御女郎を献上たのは
宋の朱の采配だとか こちらの動向が知られてはまずいが 中々の者らしい。」


884: 名無しさんAA:17/04/04 12:00
ベッキーの娘  24

 祚原八幡宮は宇佐神宮が豊後一宮の資格を得た事から その別館として八幡宮社とな
ったが実は宇佐神宮より古いのではないかとされる小さな神社だ。ここに子宝を祈願し
ていたことから、幼名を八幡丸とした夫婦がいた。由布惟常の娘と戸次親家である。2
人とも体が弱く由布氏は早くに死に父は病いに伏せていた事から臼杵長景の娘・養孝院
から養育を受けた。傳役(もりやく)の海老名弾正が彼の後見人となっていた。だが、
1526年、今だ元服前の14歳の時、大内氏が佐野親基と問田重安を豊前国に侵入し
要である馬ヶ岳城を占拠すると、「我が父上の名代として出陣致す」と自ら志願して、
家臣の老兵の補佐を受けて初陣した。二千名の兵を指揮して、大内氏の豊前・馬ヶ岳城
を攻めた。この時の奮戦が地の利を生かし見事だったとされ、5千名と言われる大内勢
に勝利して大内義隆より降伏同然の和睦を引き出す手腕を見せた。これが戸次鑑連(立
花道雪)その人であった。その時は別杵孫次郎と名乗っていたがこの時親の一字を取り
戸次親守と改名して闘った、この戦いの直後に父・戸次親家が見守るように死去して、
覚えよろしく主家・大友義鑑にその偏諱を賜って元服して鑑連と名を変え家督を継いだ
のだった。この時の馬ヶ岳城は二瘤駱駝の様に二つの丘でこの地を納めていたのが橘氏
族だった。橘諸兄が有名な様に大宰少弐・藤原広嗣とは少なからず因縁のある橘宿禰の
系統の由緒ある家柄であった。藤原純友は平家時代に瀬戸内に跋扈する海賊を鎮圧する
海賊退治の筆頭であったが、名門藤原氏の中でも末席であった為伊予から帰らず朝廷か
ら追討を受ける事になった。この時従兄弟である伊予守藤原元名の跡を継ぎ海賊筆頭と
なり伊予水軍の頭になった。この事から純友追討の為に小野好古、源経基、藤原慶幸、
大蔵春実などの兵を差し向けたが、摂津国・播磨国・淡路国・讃岐国と国府が次々に襲
われて ついに大宰府まで襲われたのである。この時この襲われた国府側も兵を持って
対応し橘遠保や島田氏やなどが活躍し博多湾の戦いで、純友の船団は追捕使に討たれた
のだった。その後伊予国警固使の位を得て橘遠保の子孫がこの山に暮らしていたのであ
る。この事が大きく別杵氏を左右した。立花氏族も橘氏も同じ縁戚であり彼らの家紋の
下に同族を誇っていたからだ。ここで金の指揮旗を振って橘氏地頭の下の者と大内氏部
隊の増強のものと分けて 橘氏を味方につけ奮戦し 交渉をしたとされる。


885: 名無しさんAA:17/04/04 12:01
 ベッキーの娘  25

 「さてどうするかのう。王直様。」「どうもしないさ。」と見上げると「見ての通り
我らは本業は漁師じゃ。ただ元寇以来やれ南蛮船ややれ宋船が来たと 本葬したからの
う。ひやひやして早めに戦い 外国船に挑んでは叩いたり融和して生きて来た。その内
資金調達に招かれ諸侯に仲介しだけの話だ。まっ、もっとも全てのわしらの仲間が平和
に暮らせたならいい。と そうした思いだけとは限らないがのう。」「少なくとも此処
にいる奴らは生きて飯が食えればいいと思っているし家族の方が大事だ。」「あいつら
もアヘンさえ持ち込まねばのう。「まだまだ対話の余地のあるが。」とするめを噛んだ
。「ただ、今では明でも手を焼いて王が逢いたいと言ってきておる。まあ罠なのかもし
れんがのう。」「お頭。」と隣の者が少し物乞い状態だった。「なんだ。いやいやまだ
まだ会おうとは思わん。安心しろ。がいずれは誰か逢いに行ってこのアヘンの事情をな
んとかせねばなるまい。」「まあそれでも五峯の本拠地である以上は 他の者にも五峯
の新しい頭に建てて顔見世し 少なくとも大村氏や益田氏など他の四衆の船団に挨拶が
終わねばのう。」「それより 南からの早船は何処の者かわかったか。」「どうも薩摩
島津のものでキリスタンを嫌った者の様です。「深堀と伊佐早はまだ因縁のままか。」
「は、益々熾烈になって 今や同盟国長崎氏をも陥れているようです。」「困ったもの
よのう。」とじろり婆あを見つめた。実は二十年程前に菊池氏を襲い滅ぼしたのは他な
らぬ大友氏のこの別杵の親爺達であったのだ。それはかつての叔父を追って討てと言う
大友宗麟の命令からだ。大阿蘇の宮司をしていた阿蘇氏も又家老ながら城主を殺め内紛
の上やっと国を治めた所で、助けるなどとは言えない状況にあった。菊池一族はこの事
でバラバラになっていた。こうした中で肥前綾部氏の一族は再興を願った。北朝時代か
ら あれほど杉峰城の城主として西郷家は菊池に尽くしていたのにと言う思いだ。九州
探題、征西宮、足利直冬の三者が九州に鼎立したが、西郷氏が足利直冬の執事的位置に
あった中で縁戚小俣氏の連合と合戦した為にしこりを残しそのまま逃げるしかなかった
。終焉の22代菊池氏時代は殆ど内乱の時代だった。大友に従うか島津に従うかだが、
この時隈部一党は大友の非情さを知っていた。だが隈部は大きく応戦したものの赤星家
にやられた。がその後その傷が元で菊池家も滅びるに至ったが赤星家も又その後大友氏
に攻められ相良家に頼った。ここで伊藤家と仲があった家臣は又争乱になった。此処に
九州中部の南の確執が起こっていた。この時深堀と諫早の間に西郷が割り込んでいた。


886: 名無しさんAA:17/04/04 12:01
 ベッキーの娘  26

 大友家の後継者争いによる「二階崩れの変」がおきた時彼は別府の湯屋へ大友宗麟の
側居として湯場守役にいた時であった。この時戸次鑑連は、大友宗麟の廃嫡を画策した
仲間とも見られていた。それは嫁の父である入田親誠がこの重臣達である斉藤播磨守、
小佐井大和守、津久見美作守、田口蔵人佐、などのの筆頭家老だったからだ。そもそも
「義鎮」を廃嫡にし、寵愛する後妻の子である「塩市丸」を後継とする事を決めたのは
大殿「義鑑」の腹つもりであって「入田親誠」は反対も賛成もしなかった所にいた。だ
が強いて言えばこの大友家の家風が嫌いであり大内氏や菊池氏にいた大友の縁戚の方が
よく 直系などどうでも良かったとも言える。頃は戦乱の最中であり毛利氏に押されて
いるとは言え 自らの仲間である筑紫氏や宗像氏更に秋月氏などの安定には大内氏との
和平は不可欠であったし後方憂いである菊池氏との和平も又不可欠であったからだ。近
で戦乱になれば又太宰少弐氏の時代に又戻る事になるのである。それは又厄介な事だっ
た。がそれよりも何よりも大きな事はすり寄って来たスペイン人貢物のアヘンであり青
い目の女であり鉄砲であったのだ。だが此処に一つの間違いが起こった。入田親誠の知
らない所で後継者を宗麟にする騒動がおきて そのまま「塩市丸」も後妻の大内の娘も
大殿も重臣達も、殺し合いをしてはいなくなってその黒幕に仕立てあげられたのだった
。実は大友の家臣団は次男の晴英を推していて「塩市丸」を推していたの誰一人居なか
ったのである。ともあれ別杵道雪は叔父の「入田親誠」の誅伐を命じられた。入田親誠
は直入郷入田の居城「津賀牟礼城」へ逃亡、さらに「阿蘇惟豊」のもとへ逃れても討た
れた。こうして嫁の父である入田親誠を成敗すると、けじめをつける為に妻とも離縁し
たのである。この時この妻が宿していたのが政千代姫であった。妻は離縁状を突き付け
られても今更「津賀牟礼城」に帰る事は出来ないのは当然だった。泣く泣く妻の親を打
ち取りに行く宗麟だったがそれは主君の命令として心を鬼として押し寄せた。勿論この
津賀牟礼城を守る者も居て切り合いにもなった。その中には日頃から可愛がってくれた
年配者も数多くいたのは確かだった。離縁状を突き付けるに当たり産母と側妻に付き添
いを頼んでいた。更に先に親爺殿を討ち入りに行くかも知れない事はこの妻の使用人か
ら連絡はしていたが それが裏目となった。逃げる入田を追わねばならぬ羽目に陥った
のである。




887: 名無しさんAA:17/04/04 12:02
 ベッキーの娘  27

 「泣く泣く追われた大神家としては切なかろうが、ここは宗像氏も助ける事はかなわ
ぬことじゃて。」「ばっさま。」と政千代姫が優しく声をかけた。そのあどけない顔の
目に映ったものは 白い髪にしわがれた顔の中ほほを伝う涙だった。大神氏は宇佐氏よ
り古い豪族だった。代々山の神を祀り予言をして仕えていた民だった宇佐氏の本家と言
っても過言のない格式のある家だった。「なあに時代の流れじゃて、我が大神家と臼杵
家は縁戚じゃったが同じ様に疑われて今や臼杵氏によって首を取られ排斥じゃ別杵の殿
とて同じじゃての。」「姫子殿、姫子殿の叔父貴が親爺に殺されたのも運命じゃったの
かのう。」と次第に小さな声になって震えていた。別杵鑑理は別杵道雪の父であったが
臼杵鑑速や吉岡長増と共に重臣「斉藤播磨守」とも仲が良い中であった。が斎藤が大殿
の幼い塩市丸を次に譲位する意志を諫めたのは、暴君大友宗麟を持ち上げる為ではなか
った。その時は大内氏の養子として人質となっていた長男がいた。が大内家には実子が
出来て帰って来ると言う期待がそこにあったのだ。それに対して青い目と黒人少年に目
がなかった大友家はアヘンにやられた息子や帰ってくる次男よりは赤子の男の子が安心
であったのだ。それというのもその時大友藩内にはとんでもない事が起こっていたから
だ。それは座礁した西洋船と宋船から取り出した色々なものの中に、鉄砲や大砲である
国崩しがあり人間も又紅毛人や南蛮人大黒人などがいたからだ。中でもアヘンと宣教師
と医者や黒人奴隷はかなりの奇妙奇天烈な事件だったのだ。博多の攻防戦は室町時代を
通して大内氏との対立だった。が尼子戦で多くの犠牲者を出し弟の晴英(大内義長)を
大内氏の養子に送り込んだ事で対立に終止符を打つ事になった。この手打ちで北九州に
おける大内氏側の国人が同時に大友家にも服属することになり、周防・長門方面に安全
も影響力も確保した。この事で特に博多商人を得たことは、大友家に多大な利益をもた
らした。その中に南蛮貿易があったのだ。そして南蛮船との交易を得たのである。だが
その大内大友の和睦体制もわずかな期間だった。大友宗麟時代になって裏切られるので
ある。 大友宗麟は当初は禅宗に帰依していた。その時つけた名が宗麟だった。が 後
にこの南蛮貿易で次第にキリスト教への関心を強め、ついに自ら洗礼を受けた。ドン・
フランシスコの洗礼名を受け キリシタン大名の先覚となった。この時が最盛期であり
九州六ヶ国を支配して版図を拡げていた。しかし領内を「キリシタン王国」建設間近で
その非情さから統率が取れず絶えず戦いに明け暮れ 島津の進出を許してしまうのだっ
た。

888: 名無しさんAA:17/04/04 12:03
 ベッキーの娘  28

 南北朝時代には醍醐天皇は征西大将軍として九州に皇子・懐良親王を派遣し、彼を奉
じた菊池武光は、高良山・毘沙門岳に城を築いて征西府を置いて南朝方として覇権を担
っていた。一方北朝方の足利氏は少弐氏を大宰府に派遣してその制圧に出た。1359
年、既に日本国内に南朝側で北朝に対抗しうる武力勢力は、九州の懐良親王と菊池一族
のみとなっていた。筑後川をはさんで南北朝の双方が天皇の御旗を旗印に対岸に並んで
相対していた。延文4年/正平14年 8月6日夏の蒸し暑い中だった。南朝宮の陣には
懐良親王、菊池武光、赤星武貫、宇都宮貞久、草野永幸、大野光隆、西牟田讃岐守ら4
万幾余騎とされ高良山を背に南岸に 一方筑後川の北岸に陣を張り大宰府を本拠とする
北朝・足利勢の少弐頼尚、少弐直資の父子、大友氏時、城井冬綱ら約6万と対峙して、
両軍合わせて約10万の大軍が戦ったと言われる。菊池氏は正確にはこの筑後川と宝満
川を挟んで何回か戦っていて大原合戦、大保原の戦いと言われる。だが一大激戦を過ぎ
て双方に数多くの殉死者がでた。懐良親王が手傷を負ったものの一応は甘木まで敗走す
る北朝勢を追いかけ太刀を洗った所が太刀洗とされる。この筑後川の戦い後、懐良親王
は大宰府に入り11年間であるが、統治権者として征西府の九州治世を実現した。ここ
にその後も次々と一色氏や細川氏斯波氏渋川氏細川氏など派遣したが同じ様に敗走した
だけと言う、三代将軍足利義満の権威や威信の低下と 菊池家のかつてない誇りと備え
が見える。将軍執事細川氏は、その後の九州制圧に足利一門の今川了俊を推挙したので
ある、了俊は中国の毛利・大内らの中国勢力と九州の武家方と周到に工作し大宰府奪還
を図った。大宰府を追われた懐良親王と菊池武光であったが、高良山は要害の地であり
、いかに今川探題とはいえ容易に攻める事は出来なかった。また武光も武政や武安に命
じて筑後川北岸に陣を敷いた探題軍を攻撃させたが、筑後川を渡河する事が叶わず、両
軍は膠着状態に陥った。この高良山攻防戦の最中に武光は死去し今川氏は帰京命令がで
るのである。この時大友氏に逃げていた少弐氏は武藤氏と名を変えて筑後に迫っていた
筑後では懐良親王が「大塔の宮」を冠していた事から大塔氏に名を変え家臣は鷹尾神社
から木元氏や目野氏石橋氏大橋氏地元の橋本氏藤丸氏宇都宮氏が守っていたと言われ、
渋川氏や武藤氏などが取り囲んでいたまま南朝は消滅したのである。この現状のままに
戦国時代が幕開け肥前姉川城は仁比山城と共に少弐氏に突然襲われた。


889: 名無しさんAA:17/04/06 15:49
 ベッキーの娘  28

 南北朝時代には醍醐天皇は征西大将軍として九州に皇子・懐良親王を派遣し、彼を奉
じた菊池武光は、高良山・毘沙門岳に城を築いて征西府を置いて南朝方として覇権を担
っていた。一方北朝方の足利氏は少弐氏を大宰府に派遣してその制圧に出た。1359
年、既に日本国内に南朝側で北朝に対抗しうる武力勢力は、九州の懐良親王と菊池一族
のみとなっていた。筑後川をはさんで南北朝の双方が天皇の御旗を旗印に対岸に並んで
相対していた。延文4年/正平14年 8月6日夏の蒸し暑い中だった。南朝宮の陣には
懐良親王、菊池武光、赤星武貫、宇都宮貞久、草野永幸、大野光隆、西牟田讃岐守ら4
万幾余騎とされ高良山を背に南岸に 一方筑後川の北岸に陣を張り大宰府を本拠とする
北朝・足利勢の少弐頼尚、少弐直資の父子、大友氏時、城井冬綱ら約6万と対峙して、
両軍合わせて約10万の大軍が戦ったと言われる。菊池氏は正確にはこの筑後川と宝満
川を挟んで何回か戦っていて大原合戦、大保原の戦いと言われる。だが一大激戦を過ぎ
て双方に数多くの殉死者がでた。懐良親王が手傷を負ったものの一応は甘木まで敗走す
る北朝勢を追いかけ太刀を洗った所が太刀洗とされる。この筑後川の戦い後、懐良親王
は大宰府に入り11年間であるが、統治権者として征西府の九州治世を実現した。ここ
にその後も次々と一色氏や細川氏斯波氏渋川氏細川氏など派遣したが同じ様に敗走した
だけと言う、三代将軍足利義満の権威や威信の低下と 菊池家のかつてない誇りと備え
が見える。将軍執事細川氏は、その後の九州制圧に足利一門の今川了俊を推挙したので
ある、了俊は中国の毛利・大内らの中国勢力と九州の武家方と周到に工作し大宰府奪還
を図った。大宰府を追われた懐良親王と菊池武光であったが、高良山は要害の地であり
、いかに今川探題とはいえ容易に攻める事は出来なかった。また武光も武政や武安に命
じて筑後川北岸に陣を敷いた探題軍を攻撃させたが、筑後川を渡河する事が叶わず、両
軍は膠着状態に陥った。この高良山攻防戦の最中に武光は死去し今川氏は帰京命令がで
るのである。この時大友氏に逃げていた少弐氏は武藤氏と名を変えて筑後に迫っていた
筑後では懐良親王が「大塔の宮」を冠していた事から大塔氏に名を変え家臣は鷹尾神社
から木元氏や目野氏石橋氏大橋氏地元の橋本氏藤丸氏宇都宮氏が守っていたと言われ、
渋川氏や武藤氏などが取り囲んでいたまま南朝は消滅したのである。この現状のままに
戦国時代が幕開け肥前姉川城は仁比山城と共に少弐氏に突然襲われた

890: 名無しさんAA:17/04/06 15:51
 ベッキーの娘  29

 そこには少し暑い苦しい風が青葉を揺らしていた。「今日は気持ちいい日じゃのう。
」「おお婆さん もうそろそろ 昼いくべ。」と言った。この頃普通に人は二食しか食
べなかった。仕事も明け六つに起きて一時半を朝の食事時間にしていて薪割から火を起
こし食べていたので凡そ今で10時に食事が終える。更に暮れ六つには家内労働が始ま
るか遊びに行くかと言う事で日が暮れる前に食事の片づけが終わらねばならないのだ。
それは食器洗いや片づけ掃除布団敷きなど多くが日中の明るい時間に終わらせる為だ。
従って夏時間と冬時間は大きく違っていた。がそれでも感覚的には3時には食事が始ま
っていたと考えてよい。日陰でゆったり縄を因っていた婆も「そうじゃのう。」と立ち
上がり巻いていた紐の手毬を座っていた莚に隠し、「おうそじゃ。忘れるとこだった。
と日なたに出て そこいらに干していた雑草を幾らか手に取っては束ね「よいしょ。」
と肩に担いで 縄を縛り杖を持って坂道を下って行った。その道には多くの若者老人が
歩いて帰途の途中だった。「ばばあ。」と息を切らして姫がちかづいて「ほら。今日は
うんと釣れたでよ。」と腰の籠を見せた。そこには程良い小魚がいっぱいいた。「おお
うまそうじゃのう。」と顔を見て笑った。「じゃあ留の爺に先に行って渡してくるけ。
」と先に走って去っていくと「姫も楽しそうで何よりじゃ。」と後ろか声かけた。ひよ
いと振り返ると与平治がいた。「おお与平治。無事帰ってきたか。」「はい。」「で、
彦佐と彦太郎には会えたか。」「ええ与助を残してきました。」「もうにひと月もここ
に足止めされていると言うに まだ長崎には行けぬか。」「それが余計悪い模様になり
ましてのう。まあ着いてから話しますが。それよりは立花氏や宗方氏はどうやら死んだ
らしいです。」「・・・・そうか」「それと今後ここも少し危ないかも知れません。」
「ん。何故じゃ。」「例の海賊は鍋島かと思われる。」「鍋島じゃと・・がそれは・・
「嵯峨の領地に肥前国彼杵荘戸八の深堀氏という物がいます。どうやら其の者が西郷を
味方につけ伊佐早も制したようで長崎氏も又寝返った模様です。」「その西郷とは強者
か。」「ええ 別杵の叔父貴の叩いた相良氏の家臣だったようで領地を追われて深堀が
拾ったとか。」「示現流の隼人侍か。」「それは何とも、ただ琉球のガマ者を連れてい
る。とか。」「ガマ」「ええ。良く良く聞けば疾走する弁財船の事で 一寸変わってい
て莚帆ではなく布を張り逆風に走る船で恐ろしく早い船だとか。」「ほう。それは手強
い。王直が我らを出らせない筈じゃな。う〜〜〜ん。」と家の前に着いて荷を降ろした



891: 名無しさんAA:17/04/06 15:52
。海上にはかなり変わった弁財船が出没していた。小型のガレー船である。ガレー船と
は筏に近い普通の船に帆をつけた船だ。日本の弁財船も殆ど同じではあったが 通常の
小さな船は莚の帆船であり櫓は漕いでもオールは漕がないものだったからだ。更に帆の
数が違っていて、ガレー船は三つ以上の綺麗な帆をして逆風にも動いていたのだ。


892: 名無しさんAA:17/04/06 15:52
 ベッキーの娘  30

 大航海時代前半に遠洋航海の基礎を築いたのはキャラック船で 和名奴隷船である。
船の形状は帆船ではあったものの何人もの奴隷がオールで漕いで船旅するもので櫓を海
面に付ける為に船体は広く更に舟艇はそう低くならなかったし代わりに高い船倉で言わ
ば日本の千石船に近かった。宋船はそうした。代わって登場したガレオンは、大航海時
にふさわしい船体で遠洋航海の基礎を築いた。キャラック船では船体の高さから甲板に
しか大砲は置けず先頭に真ん中に一つの砲台だった。がこのガレオン船は深く水に沈め
横に砲台をつけて安定を増して荷物を多く乗せるいた。ポルトガル海上帝国の基礎がバ
スコ・ダ・ガマによってインド航路が開かれマゼランが世界一周を果たしたとされる。
がマゼランはフィリピンの小島で酋長に襲われそれが傷で死んでいる。それが帰路まで
出来たのは船団だったからである。即ち船長はその船ごとにいて彼らはその船団の隊長
だったのである。そんな時代に活躍していたのはナヴィオ船4隻とキャラック船1隻と
言うのが一般的だったのだ。ナヴィオ船はナオ船とも呼ばれキャラックの小型船であっ
た。宋船については日本でも同じ船を造っていた。元寇以来途絶えていた交流を博多の
復興の為に博多商人は幕府に認可を求めていた。博多商人の至本を総司として推挙し貿
易の成否に関わらず、帰国時に現金五千貫文を納めることで翌康永元年に元へ渡航した
。この時の天龍寺船と言いは莫大な利益を上げて帰国。このときの利益を元に天龍寺の
建設が進めらたと言う。この時の元への航路は住吉神社を寄港地として元に行ったのだ
。この事から元により消失した博多の復興や後の住吉神社にも寄与が及んでいたと考え
られる。摂津国・播磨国・長門国・筑前国・壱岐国・対馬国の筑前の国の住吉大社だっ
たと言える。元々は博多の神社は海神を祭る神社が多く旧くは神功皇后が三韓征伐の折
り息子の棺を香りのいい椎の木で作らせたとする香椎宮かこの海からの津波を操るとさ
れる海神の棟方大神しか奉納していなかった。これに住吉社が加わったのは神功皇后の
家臣が武内宿禰が女好きで 船団を造ったとする安曇磯良丸に出会ったからだとされ 
船大工で船長だった安曇磯良丸は風浪宮社に祀られたとされる。大川柳川地方でのその
海童神社は日本最古の市を開いていた可能性は高い。


893: 名無しさんAA:17/04/06 15:52
 ベッキーの娘  31

 「今日も似た飯じゃが ささ皆で食おうぞ。」「所で菊蔵あさんはこの所の報告では
バテレン船が増えてきちょるというが どうか。」「へい あっしの見立てじゃどうも
此処も危ないぐらい多くなった様に思う。」「佐吉は何か文句あるみていだな。」「い
やなにあれほど 大村のとんさんはわしらを守るといいなさったのじゃが。」「さきち
。とんさんは守ってるだがや。じゃが手の者が追い付かんからしょうがないやろ。」「
じゃば おらたちも助けに行かねばなんねいべ。」「さきち、今いったてどうしようも
ないやろ。長崎様と大村様は従妹だべ義理の兄弟だべ 儂らが入ってどうなるものじゃ
ない、」「だども。甚左衛門様を頼めば何とかなるちゃなかか。」「お頭も連絡はつけ
てるべ。それにあの織部様も諏訪神社を勧請して後は、京都東山の麓に祀って帰って来
ないっちゃ。どうしようもあんめい。」「お頭。今長崎はどんな具合かのう。」「おう
珍しく心配か。」「馬鹿今は噂通りによそ者は町中は歩けん状態じゃ。」「おうそうよ
大村様がキリスタンとなってからバテレンが強くなって 仏舎を焼き払いしたり信者を
強制して入信させるもんで 兄弟姉妹で殺し合いしょるがに おめえも身内の心配よっ
か兄弟に殺さる心配したがよかでて。」留吉と婆はお互いに見合った「いずこも同じか
。困った事じゃの。」突然奥の若者が声を上げた「じゃどんガスパル様は儂の足を直し
てくれた。妹の命も救ってくれた。」「おう。おう。今更バテレンの味方かい。」「そ
れに噂じゃ診療所も設けちょる。いくさが終わったら・・」「いくさは終わらん。こげ
に毎日ひどうなろって終わる訳なか。」「おう」「おい そこまでにしとけ。西洋人の
進んどるこつは皆んなわかっとる。じゃからして面倒に鉄砲だの医術だの薬だのを餌に
我らを食い物にしちょるんぢゃ。が此処に来て厄介にも お頭に教会を平戸に作りたい
と言ってきちょる。あの諏訪神社を奉納した折の仕事からじゃが、仕事するには洗礼を
受けねばならんし、断れば大村様とのつながりも断ち切れる。その瀬戸際でお頭は皆の
思いを聞こうとしてるんじゃ。」「お頭。」「与助が言った通りじゃ。知っての様に、
ここ一ヵ月此処の客人達は 大村様は初の教会トードス・オス・サントス教会堂を建設
して布教なさって名声が高い。じゃが今までの仏教の教えと反する事もわかり軋轢もあ
る。今や伴天連と宗門とは相いれない仲じゃ。それに京都じゃ伴天連の鉄砲で一向宗が
戦ったが藩主は宗門本山を山ごと焼かれて多数の死者が出とるそうじゃ。どうしようも
ない。更に一回でもキリスタンとなったら戻れんと来とる。よう考えて決めねばならん
。」と莚に座った。


894: 名無しさんAA:17/04/06 15:53
 ベッキーの娘  32

もそも京都から一色氏と言う鎮西奉行の長官とし九州探題を置いた事が間違いだったの
だ。大宰府政庁が機能していなかったとはいうものの、九州探題は備後、安芸、筑前、
筑後、豊前、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩の守護も兼ねたというのである。これはか
なりの強力な権力であったし、それが菊池氏に渡せなかった事は争乱の基となるのは、
足利氏には理解の上だった。内紛のままに後醍醐天皇の皇子である懐良親王が菊池氏に
迎えられ、大宰府を奪還して九州に南朝勢力を築いたが、京都ではそのまま手打ちが行
われ第3代将軍足利義満時代を迎えたその後斯波氏経、渋川義行が任じられ鎮西府鎮西
奉行として大宰府を牛耳っていた。京都や幕府からは 南朝勢力の掃討、御家人の守護
被官化をし、了俊に朝鮮からの使者を迎える権限を持たせた。海外からは倭寇討伐要請
などを受け幕府の日明貿易(勘合貿易)開始に迫られたからだ。だが京都や関東に輸送
するに大内氏の手を借りる事しか出来なかった。世襲していた渋川氏もこの後ろ盾は、
大事な事だったが、菊池討伐などで少弐氏と通じて大友の策略にもはまった形になった
。南北朝時代が終わりを遂げ戦国時代に入ると 元々九州では争乱に明け暮れていた中
だったので力の無い渋川氏などは直ぐに 天文3年(1534年)には大内氏に討ち取られて
最終的に天文24年に最後の探題の持つ天皇領であった筑前姪浜が大内氏によって接収さ
れて、事実上その役目を終えた。だがこの鎮西将軍としての名は外交するに必要だった
。田手畷の戦いはこの外交特権の攻防で 大内義興は少弐政資を滅ぼし、かつては鎮西
の覇者であった少弐氏を肥前の一地方勢力に転落させることに成功した戦いだった。大
内方は北九州の諸将を率いさせ、資元の居城肥前勢福寺城を攻撃させた。少弐方の諸将
龍造寺家兼や馬場頼周などが奮戦するが、兵力で劣勢の少弐勢は、敗色が濃厚であった
。しかし、鍋島清久・清房父子や石井党らが率いる赤熊奇襲隊の活躍もあって、遠征し
てきた大内氏大将の筑前国守護代杉興連を敗走させた。大内方は横岳資貞・筑紫尚門な
どが戦死して痛手を負ったものの、勢いづいた少弐氏が逆に大宰府に侵攻すると、大内
家の周防国守護代陶興房が九州に乗り込んで来て再び劣勢になり、さらには大内義隆が
自身で大軍を率いて攻勢をかけて、少弐家兼にも見放され資元は自刃し少弐氏は滅亡し
た。

895: 名無しさんAA:17/04/06 15:53
 ベッキーの娘  33

 「殿、入田親誠を討ち漏らし申した。討ち入りに行きましたが 既に家臣団と逃げて
いてもぬけの殻 今家の者を集めて探索中でございます。」「なに〜い。逃がしたじゃ
とう。 うぬらはこのどさくさに紛れて親爺だからと謀ったか。刀を持て〜。」と傍の
黒人の少年に目配せした。恐る恐る持って来て、刀をとりカチャリと音がすると名刀の
刃が暗い中できらりと光った。「あいや殿 お待ちくだされ ちょっとお待ちを。」「
この肥田の命を賭して申し上げます。かの別杵氏はここの名門の間柄決して情に移って
親爺を取り逃がした事とは思えませぬ。別府の湯殿から駆けつけて2日更に状況を知る
に半日更に大殿が先に殿の排斥を申し合わせしたのがその前日ともなれば すでに四日
は経ち申す。これでは敵を逃がした鑑直殿を責めるのは酷と言う物。又ここで鑑直殿の
首を取れば この先又入田などの反感手勢が増え申す。どこでどう襲うのかも解りませ
ん。」と肥田蔵人が言った。続けて奏孫六と言う老人が言う。「殿今はまだ生き残りの
家臣達に動揺が広がっています。刀を納め申して この爺の言う事も聞きもうさぬか。
今性急に自分の側の付き人を疑心してもつまらぬ事 更に事を悪くします。それにこの
「別杵鑑直」は先の大戦では手柄をたてて猛将となるであろうと噂がしきりの者 この
味方の手練れを殺したとあればこの大友氏に取っては損。大損する事でありましょう。
それよりはこの入田が逃げる所所詮大友の威光に反対する裏切り者の筈。この別杵に追
わせて首を取るよう命じたなら首を取って来るまでこの地に踏ませぬならいい事。別杵
にしても首を取らぬ限り身も晴れずどこまでも追いかけましょう。その内にこの藩中の
立て直しを図る事が肝要かと思われます。」「・・・」「今だまだ この藩の殿として
の位の移譲の祭事もしておりませぬ故に藩中に反感買うのはどうかと。」「はは。はは
ははは。それもそうじゃの。ふむ。」と振り上げていた刀をビューと一振りすると カ
チャリと刀を納め「相分かった。これより入田の探索を命ず。必ずや此処に首を取って
帰って来い。ここで首検分を行うまでお主の首は保留じゃ。」「ははっ・・」と傍にい
た小姓に刀を渡し 「小娼 褥の用意じゃ 青目も寄せよ。 」と奥に入っていった。
そこには切られた者は片付いていたもののいまだ大殿の血染みの畳に残っていた。


896: 名無しさんAA:17/04/08 22:22 ID:1OU
ベッキーの娘  34

 家督問題で嵐の如く入田親誠を追って討伐にいくのだが、かつて大内との戦いも又全
く勝手な内紛のあおりを受けての戦であり諸侯は戦さをさせられていた。それだけ菊池
家との繋がりが深く諸侯は納得していない中だった。大友宗麟の叔父の菊池義武も又反
大友派の一員であった。かつて菊池の当主である菊池政隆を支持するも多々良浜の戦い
以来家臣団は大友に頼った。此処に大友は当主の座を狙う阿蘇家を入れ菊池武経を据え
たのだがこの時大友義長は大友義鑑の弟菊法師丸(後の義武)を送り入んだ。この頃権
力闘争は止まらず正統な菊池武経は嫌気が差し弟に譲って一時矢部に逃亡したのだ。そ
の後弟の阿蘇惟豊が仕切ったのだが既に家臣団を菊法師丸擁立に丸めていた。この大友
氏の策略が内紛の基だった。それは武経の跡は詫摩出身の縁戚菊池武包に継がせその後
菊法師丸がして継ぐ密約があった。その為武経を詰めたのだ。その後大友義鑑は策を弄
して又家督を弟の阿蘇惟豊から奪還させたが、義長はその僅かに5年後1515年には
病死してしまったのだ。こうして菊池武包が家督を継ぎ弟の阿蘇惟豊は追われてままに
なった。死んだ兄の子の菊池惟前に追われる身だったが赤星家などの力を借りて追って
いた兄の子の堅志田城を落として手に入れ敗走させた。阿蘇氏の分裂に事実上の終止符
を得った。だが「大友二階崩れ」で大友宗麟が当主になりこの事で入田親誠が逃げ込ん
できたのである。菊池武包から家督を譲られて菊池氏当主となった大友重治は兄の大友
義鑑の方針に従って城氏・赤星氏・隈部氏と言った菊池氏庶流の重臣を老中(家老)か
ら外してしまい大友氏加流の重臣の鹿子木氏や田島氏などの菊池氏系国人と関係ない中
から老中を任用した。その為危機感や反感で阿蘇惟豊は仲間を得て矢部地域の城を奪還
していたのだ。こうして菊池義武は大友の方針の上にはいたが 叔父である自分を置い
て長男宗麟が当主になった事は合点が行かなかったし、更に大内氏からの筑後国守護職
にと言う誘いもあっていた。天文3年(1534年)菊池義武に名を改め大内義隆や相
良氏と勝手に同盟を結んで反抗した。相良氏や宇土氏ら肥後南部衆の支援を得て大友方
の国人衆と戦い勝利するも、隈本攻めで敗北した。一方、この時大友義鑑は直接統治を
決意し、天文12年幕府に働きかけて肥後守護職を獲得したが。その2年後には、この
二階崩れの変で大友宗麟の時代に代わると再度隈本城を手に入れ、相良氏・名和氏・三
池氏・溝口氏らの肥後南部・筑後南部の国人衆連合して肥後全土の制圧を目指した。が
危険とみた宗麟はすぐさま一族から義絶する旨を表明して討伐を図った。果敢な別杵道
雪らの攻撃で隅本は落ちて夢かなわず敗走に至ったのである。

897: 名無しさんAA:17/04/08 22:22
 ベッキーの娘  35

 てくてくと歩く行列に突然馬が止まり、後ろにいた馬が「ひひ〜ん。」と一声鳴いた
。「おい大丈夫か。」と佐伯惟教は後からの馬を待って、臼杵鑑速に話しかけた。「何
がだ。」「前の大殿はわしら他紋衆の言う事は悉くはねつけられていたが 今度の殿も
 今や後を付いてくる別杵の叔父を追討せよとの御命令だぜ。」「それが、どうした。
」「いや儂ら他紋衆には冷たくないか。どうも目をつけられておるようじゃ。」「う〜
ん。そうじゃな。じゃが大友の旗の下じゃ仕方あるめ。」「何考えてんだか。」「そう
じゃのう。お前の祖父の惟治殿も あらぬ疑いで自害に追い込まれたのう。」「そうじ
ゃ。何でも蒲池氏に甘い。嵯峨に連絡取ったなど言われてのう。」「実際はどうなんじ
ゃ。」「あの竜造寺親子の情報を取って来いとは大殿の仰せで 問注所氏に話を聞いた
だけなのだが 何が気に入らんのか難癖つけられた。と親爺は言うておった。」「うむ
」「そりゃうちの藩内には富来氏がおるがお前が知る通り 今や毛利の水軍の強さは大
内を上回っているのは確かだ。どうしようもない。」「そうだな。」「俺の場合爺じが
死んだのは悔しくてなんねぇが親爺がいたんでいいが 別杵の場合は嫁の親爺で後見人
だぜ。余りにもむごすごる。」「わしとて力なく忸怩たる思いだが じゃが彼奴の命乞
いだけで精いっぱいだった。今もじゃがの。」「そうやな 同紋衆とてびくびくしとる
中では儂らの命などあって無い様なもの。・・か。」「うーーん。西洋かぶれの殿じゃ
がキリスタンになって人を殺してはのう。」「なあに戦国時代仕方ない。キリスタンに
なったのも只の小心者なだけだ。とは言え、我らが大殿様じゃけにのう。」「そうじゃ
のう 小原の様になっても のう。」と呟いた。「じゃがどうにもならん。大殿の遺書
に連ねたのが見つかったらしいからのう。」「何に署名したんじゃ、。」「いや何って
 お前は書いとらんのか。えええ。ああそうか。お前はまだ加判衆じゃないからか。そ
うか。」と黙ってしまった。義鑑の遺書にとは幼齢の「塩市丸」がよっぽど可愛かった
らしく自分が死んでも家督を塩市丸に相続させる事。というのものだった。これを大友
義鎮の加判衆になるに署名させていたのである。雄城治景・吉岡長増・田北鑑生・臼杵
鑑続・志賀親守と。小原右並などが連署して大友義鎮の加判衆(家老)となっていたの
である。

898: 名無しさんAA:17/04/08 22:23
 ベッキーの娘 36 

 1557年3月尼子氏への侵攻で勝利を得て後方憂いを取り除いた後は、大友との密
約を持って三っつ水軍を得た。この事で毛利氏は防長経略で、山口へ侵攻。義長は寡兵
をもってよく防戦したが、結局高嶺城を放棄し、重臣・内藤隆世の長門且山城へ敗走し
た。しかしすぐに毛利軍の福原貞俊により且山城を包囲され、隆世は義長の助命を条件
に開城し自刃した。義長も長門長福院(現在の功山寺)に入った後に毛利軍に囲まれて
自刃を強要され、陶鶴寿丸(晴賢の末子とされる)らと共に自害した。この頃大航海時
代の始まりとともにアジア地域に進出してきたポルトガルやイスパニア(スペイン)イタ
リヤやイランなどのヨーロッパ人や日本の博多商人とも密貿易を行っていたとされる。
後期倭寇の頭目には、中国人の王直や徐海、李光頭、許棟などがおり、王直は日本の五
島列島などを拠点に活動し種子島への鉄砲伝来にも関係していた。その後毛利氏が豊前
・筑前に進出するようになると、秋月文種(種方)は毛利氏に通じて大友氏に反旗を翻
した為に元服して戸次氏の家督を相続した親守にこの鎮圧を向かわせた。1546年の
事である。この大友義鑑の命令は、佐伯惟教、臼杵鑑速、吉弘鑑理など大友諸将と共に
筑前古処山城へ出陣して鎮圧したのだが その豪傑達を避けるかの為の様な戦いだった
のである。と言うのも狡猾な大友は既に自らの家督を継ぐに 親の信頼する家臣団は既
に殺していて 今支えているのは戸次家などの古くは菊池家との繋がりが濃い 新しい
家臣団であり その菊池家もついこの間戦って家を滅ぼしたばかりであった。言わば、
疑心暗鬼の策略で繋がりを徹底的に切る為に動かされていたのである。十四歳で戸次氏
は家督の相続したが、その五年後には大友家内紛で大友義鑑が死んで次の年大友氏と対
立してきた大内氏が陶氏に代わり実弟が周防の守りとなった。これでもう安堵かと思う
前に、たった二年で1555年に厳島の合戦が始まり 毛利氏の率いる水軍に破られた
その後は門司地域の攻防が始まるのだ。掌握した元就は、豊前や筑前への進出を企てる
ようになった。これにより弘治三年1557年夏毛利氏の動きに古処山城の秋月文種、
肥前勝尾城の筑紫惟門ら呼応し反旗を立てたとして 鎧岳城主・戸次親家の次男として
産まれた別杵道雪は。豊前苅田、松山城、柳ヶ浦と転戦しては毛利の兵を破り、やっと
大友宗麟の信任を得て戦功により賞せられた結果に加判衆の一員になったぐらいだ。


899: 名無しさんAA:17/04/08 22:23
 ベッキーの娘 37 

 「伝令〜伝令。」と馬が走ってくる。「隈本城開門ならず。とのこと 更に失礼千万
今は城主は菊池義武である。阿蘇惟豊など知らぬ。との事であります。」と伝令が腰を
下げて報告し後に下がった。「なぬ菊池義武・・よしたけ。・・・聞かぬ名じゃな。」
「誰かきくちよしたけを知ってるものはおらんか。」と志賀親守は佐伯氏や臼杵氏の顔
を見た。「誰も知らないようじゃの。アゲハ者どうじゃ。誰も知らんか・・草の者を呼
べ。」「ははっ」と一人の者が駆け出して言った。振り向き「佐伯殿、臼杵殿、この前
の隈本城攻めでは遂に開ける事は出来なんだ。今回もてこずるやもしれん。それに兵も
三日も歩き詰めのはず、早めの陣所を作ろうと思うがどうじゃのう。」「それは名案。
後についてくる別杵も余り乗り気でもないはず。何せ親爺が死んで遺言に託された叔父
を撃ちに行くのじゃからのう。」「うむ拙者も長期戦に備え少し隈府から少し離れた所
に陣所を置いたが良かろうと思う。この前の様では負け戦になりかねぬからのう。」と
そこに黒ずくめの男が音も無くやって来て何やら耳打ちした。「あい解った。」と言う
と「ここは一端 内牧城に引き返しましょう。」「さっきのアゲハが言うには菊池義武
なるものは大友親治昔の菊法師丸様らしい。」「まさか菊法師丸様が。先代の弟君では
ないか。又か何故に。」「こりゃあ 如何宗麟に一敗喰され申した。そうか甥が跡継ぎ
で不満と言うのは根強い。前の時にも大友様の反乱じゃったで。」「それに盛んに筑後
肥後の国人衆に伝令を送っておるらしい。」「こりゃ うかうかしてられぬで。前ので
は筑前の者が呼応したというでな。隈府落とす事よりどこか山城に籠らななんねいのう
。」「まあ後何日かはかかろうが 本家筋もこの情報は入ってるはず。問題は増援が来
るかどうかじゃ。」「それに 恐らく既に入田親誠や惟豊殿は阿蘇家に舞い戻って逃げ
てしまっているはず。と黒の者は申していた。」「ふむ 相容れぬ仲じゃてのう。が、
筑後の国人衆が集まると手強い。特に蒲池殿が動かぬ様に何とかせねばなるまい。」「
ま今日は朝だが 引き返して 陣屋を整える事も大事じゃろう。」「うーむ本腰入れて
考えねばのう。」「皆の者引き返して 先の内牧にて陣屋を張る 諸将は適当な砦を見
つけよ。」と叫んだ。「最近菊池武包殿が打ち取られたのにのう 隈府も呪われとるわ
い。」と誰かが言った。

900: 名無しさんAA:17/04/08 22:26
ベッキーの娘  38

 
 大友家のその非情さの一端が弟の大友晴英を捨てた時だ。大内義隆は尼子氏との戦い
で既に、跡継ぎの大内晴持が死んだのだが、そこに協定を持ち込んで大友氏は晴英を形
だけの養子として差し出していた。宗麟の親の時代だったのが。その大殿が次男を忘れ
た様に、塩市丸を世継ぎと決めたのである。それは既に大内氏に懐妊し実子の装いがあ
りとして、大友家の家臣団がこぞって呼び戻しの声もあった中だったので帰参する段取
りの中にいた。親子の西洋かぶれに家臣団も嫌気があったのだ。その為家臣団は諫言を
して諫めた形だったのだ。だが諫言を嫌った大殿は先に手元の世継ぎを決めて遠ざけよ
うしたのである。更に既に親子には互いに疑心もあった。その後実子・大内義尊が生ま
れると、速攻で実家の大友家に送り返されてしまう。それは大友晴英が人心を持った将
の器にあったから大内氏に取っては煙い存在だった。だがそれが災いをした。大友晴英
と親交が厚かった陶氏は、実子に代わる事を見て大内義隆を打ち取ったのである。つま
り既に実家に帰れない環境になっていた晴英を知り尽くしていた。そうした藩主殺害で
の家臣団の押さえと大友との憂いの取り払いで 彼は当主の密約をしていた。「この要
請を断り中傷を受ける事の方が悔しい。命は惜しくない」と正式な当主としての儀礼を
する事を条件に飲んだのだ。こうして陶氏の要望と本人の強い意志から再度大内家に入
ったが、毛利との熾烈な戦いに家臣団はついて行かなかった。既に傀儡の当主であり、
戦力はなくなっていた。厳島合戦で陶晴賢が毛利元就に敗死した後大内氏は敗走する。
大友に援軍の掛け合いをするが馬鹿な大友宗麟は既に毛利氏と関門海峡で分ける盟約を
していた。つまり大友も又家臣の反乱を気にしていたのだった。こうして大内家の衰退
を止めることが出来ずに自刃して果てたのだった。この時大内義長の助命と大友家に逃
げた大内輝弘と言う大内の弟との交換を毛利氏は提案したが大友宗麟は毛利元就が先に
手に入れていた大内氏の家宝「大内筒(大内瓢箪茶入)」を所望したと言う。こうした
非情さや冷たさに離反が続き 更に大友宗麟の男好き南蛮好きは多くの反感を買った。
まずは博多商人を束ねて領主となっていた秋月氏の縁戚だったのである。先に言った様
に秋月文種は大友宗麟の猛攻を受けて自害したが、種実は家臣に連れられて古処山城落
城寸前に脱出し、毛利氏を頼って周防国山口に落ち延びていた。


901: 名無しさんAA:17/04/08 22:26
ベッキーの娘  39

 「どうしました。佐伯殿。」「いやなに 大友親治いや菊法師丸様が入ったという事
は隈部一党は許さない筈じゃ 恐らく三池氏あたりはわしらの味方。」「そういやそう
だな。昔大殿に家臣団は起請文を出した事があったな。」「ああ大殿の横槍で 確か城
氏・赤星氏・隈部氏ら昔からの菊池氏の重臣が二十人ほどいたような。」「あああの時
無理矢理とは言え、正統な当主政隆公を排して縁戚の惟長を菊池家の城主になったと、
噂になった事件じゃな。」「そうだ。あの時当主は幼少でのう。仕方がなかったという
話じゃ。」「いいやそれは儂が聞いた話とちょっと違う。隈部や赤星に守護代が行かぬ
よう大殿が 肥後守護職を内の手の者にしたかったからじゃ。いくいくは菊法師丸にと
な。だが幼少で政隆殿が出来んものが菊法師丸もいいはずないからな。」「なぜ赤星や
隈部ではいかんと。阿蘇でも条件は同じのようだが。」「ああそれは、いい加減だから
じゃ。」「いい加減。」「ああそうだ。当時は、いや今でも赤星家は真面目な気質で、
蒲池氏にも近い。筑後と肥後が連携したら豊前だけじゃひとたまりもない。」「隈部は
」「ああ隈か。これは問題外、隈部一党は強者揃いで何処にどれだけいるか見当もつか
ぬ。敵では手強く味方では思うようにならん。阿蘇氏なら女遊びの体たらく温泉好きで
大殿の遊び仲間じゃ。」「それに阿蘇氏なら都の天皇も覚えが早い。それに宮司上がり
じゃて話もあう。」「で阿蘇の宮司の惟長をたてた。」「しかし弟の惟豊様を立てても
良かったろうに。」「いやいや惟豊様はここが良くてのう。良く出来たおむつは大友の
大殿様は嫌ろうたんじゃろう。」と頭をさした。「もっとも隈部や赤星の方でも馬鹿の
方が都合が良いだろうしな。」「じゃが後で惟豊様に変わったのは。」「うちと同じよ
。女癖の悪い奴は素行が悪く、横暴で家老は軒並み排斥じゃ。重臣は鹿子木氏や田島氏
などよそ者ばかりで、今じゃ島津勢と筑後勢が睨みおうて話にならんと嘆いているち話
じゃ。」「別杵殿はどう思う。」「う〜〜ん、ああ佐伯殿の思っている通りに、今はそ
の本筋の政隆公のいる阿蘇神宮に籠るべきかと。」「さすがに 八田の息子。もとい、
別杵殿じゃ、流石に話が早い。」「弟に禅譲しながら又追い出している。元の菊池政隆
殿を助ける者はいないだろう。」「いやいや詫摩の爺っ様が城主になった時既に死んど
る。そして今じゃ菊池義武殿じゃ。じゃがあの阿蘇神社こそ本宮と共に砦に最高の所。
急いで攻めれば 直ぐに手に落ちましょうぞ。」


902: 名無しさんAA:17/04/09 15:58
 ベッキーの娘  40

 この敗走した大友親治こと菊池義武も又叔父ながら大内氏の宗麟の兄弟と同じく悲運
の中の人生であった。幼い頃から大友本家から外されて 藩主の政略のみで生きて来た
人生を送ったのだ。如何に血縁があろうともそこにある習慣と文化に馴染み更に地政学
的位置や今後の生き抜く方策だったり守ってくれる国人衆を束ねるとなれば反抗も仕方
ないものであったに違いない。そしてこの時大友宗麟さえ居なくなれば九州は早く平和
が来たかも知れないとも言える。が宗麟も又覇者で君臨すれば平和が来ると思ってた。
 大友氏の筑後支配は応永二十三年(1416)に始まる。と言われる。守護直轄の守
護領制を取って守護大名を設置したのは鎌倉時代だったが それは幕府による守護大名
による領国支配の体制をして管理する為だった守護領国制のそれ以前に既に天皇直轄地
では神域としての御供田制で都に米を送っていた。それが平安期に荘園となり寺領とな
り侍の受け持ちとして守護領を認めた形になった。鎌倉幕府によって新たに探題を置き
、幕府の出先機関として六波羅探題の執権と連署を認めた。日本の北と南にはより大き
な権限が置かれ鎮西探題は広範囲な裁判権、軍事指揮権を持つ職として探題の名が与え
られた。元寇後は九州探題と名を変え防備を基準と考えた形式になった。九州探題とな
った今川了俊は、当時の京都における著名な文人であった。同時に政略を備えた武人で
あり九州に下向すると征西宮懐良親王と菊池氏を太宰府から追放し、九州三人衆と称さ
れた島津・大友・少弐氏を担いだ。だが少弐氏は大宰府役人としての地位から非協力で
あった為謀殺したが仲を取り持った島津氏にも離反された。幕府の威光を示しながらも
将軍義満が了俊に警戒心を抱き、応永二年に了俊は九州探題職を解任され京都に召還さ
れた。了俊の後任の九州探題には、渋川義行の子の満頼が任じられ以降世襲で受け継が
れたが次第に力は無くなっていた。、了俊はかなりの人間で九州探題を罷免された後、
遠江と駿河の半国守護を命じられ、それぞれ弟の仲秋、甥の今川泰範と分割統治する事
となった。が了俊が希望でなったと勘違いされていた。更に後任の探題職を望んでいた
大内義弘は大友氏や了俊に対して連合を持ちかけたり 渋川氏失脚を持ちかけるが、頑
として了俊はこれを拒絶し、守護職として駿河の統治に専心した。がそれでも天皇義満
は討伐命令をだして失脚をはかる。この時甥や弟や関東管領上杉氏などの嘆願で赦免さ
れている。だがこの時九州探題赴任中は備後、安芸、筑前、筑後、豊前、肥前、肥後、
日向、大隅、薩摩の守護も兼ねたというのである。


903: 名無しさんAA:17/04/09 15:58
 ベッキーの娘  41

 「殿 既に布陣を終え 各自山に籠っております。」「おおそうか。」「更に既に、
蒲池氏は進軍中との事。殿どういたしましょうか。」「・・・」「蒲池氏から後ろの迫
られたら内は動けません。」「臼杵殿と佐伯殿はどう申しておる。」「大丈夫だと申せ
と。伝令が。」「なら大丈夫だろう。」「ですが 早く開門させ首を取ったなら大内氏
の加勢がいると 本館からは知らせが来たとの事。」「ああ陶隆房から城にも来ておる
そうだ。じゃが今はここが大事じゃ、周防も手勢が少ない中で毛利と闘っていようがの
う。毛利が渡って来たと言うなら又連絡が来ようぞ 秋月文種や肥前の筑紫惟門も何ん
とかしようぞ。大内とも親しいはずし それに大殿からの命令も出ようぞ。」「ですが
明日の夜には蒲池氏が到着します。今だ隈府の援軍なのか我が方の援軍なのか不明のま
ま。」「蒲池殿の意向は聞いとらんのか。」「それが今の将は若家老のようで田尻氏が
ついているようです。」「何。田尻。あの竜造寺を助けた甘ちゃんか。」「はあそのよ
うで。」「まあ仕方ない。援軍でも敵方でも 隈府を囲う事であろう。どうせあの蒲池
の若殿の事数に圧倒されたら何もできぬまい。」「それに前の時は あれだけ戦っても
相良の方に逃げていたんじゃ首も取れない。で。」「はあ。」「蒲池が動いたという事
は、島津も動いたという事じゃ。」「はい。」「直ぐに南の動きを探索せよ。相良の方
に逃げ込むのは必至。その相良氏は菊池が居なくなって島津と大友に揺れ動いとる筈。
先の逃げ込みで 相良も相当しんでるからのう。今回は 島津が潰す事も考えねばのう
。う〜〜ん。」「よし 直ぐに問注所に文を持たせよ。島津が攻めてくる故蒲池氏をし
っかり守る様にとな。」「えっ。」「いやいいのだそれで 恐らくは叔父貴殿は矢部方
に落ち延びているはず。ここで島津を隈府が引き入れたら一大事。先に島津を引き入れ
ぬように問注所にこそっと合図を送るのじゃ。家臣の田島氏まで届くはずじゃ。」「は
」「更に陶氏が負けるようだと 竜造寺が又勢いずくはず。ちょっと早く終わらせねば
のう。」「はあ。」「何。姉川氏は少弐氏の流れつまり大内とは反発して土橋と共に、
村中竜造寺の城を奪ったが今や水が江城と共に龍造寺隆信の物じゃ。大内が居なくなれ
ば毛利の独擅場じゃ。そうなれば筑前も揺れ動く。豊前もおかおかしていられぬぞ。後
は島津次第じゃ。」「敵の敵は味方。」「そうじゃ 一時的でもな。」


904: 名無しさんAA:17/04/09 15:59
 ベッキーの娘  42


 筑後蒲池氏には上蒲池氏と下蒲池氏の二つの系統があった。蒲池の領主もまたこの時
の藤原純友追討に功のあった橘公頼の子孫であるとされる。鎌倉時代に嵯峨源氏の源久
直(蒲池久直)が蒲池の地頭職になって赴任して納めた。藤原純友の乱の時には、大宰
府を落とした後、柳川に迫った純友の弟の藤原純乗の軍勢を、橘城で迎え撃った。その
功により橘公頼の子孫は、筑後国蒲池の領主となる。だがこの時の橘城は柳川市の御花
付近の弥次郎町でおやしろ町が弥次郎町となったとされる伝説だ。この時この古城であ
る矢留は多くの矢を止めたと言う。そして火の海となり一時鷹尾城に逃げて難を逃れた
。蒲池城を藤原純乗が築いたが、橘家は城を築いて対抗し対峙したとされる。大蔵善行
は下向した菅原道真と共に出世が適わなかった人の一人だが当時の学界の双璧で「天神
」道真に対して「地仙」善行と呼ばれた人だが 彼の門下生の多くも又筑後の地に居た
。唐名は蔵外史大夫。筑後大蔵神社は小さな祠ではあるがそこの田園の守り神だったと
される。この大蔵氏の流れに秋月氏や原田氏或いは日田氏など大宰府の官僚が手伝って
この蒲池の地を奪還し蒲池氏が出来たのだろうと推測される。田尻・三原・原・江上・
鞍手・岩戸・美気・山崎・古賀・枝吉・米倉・小金丸・波多江・海頭・別府・安永・天
草・山鹿・坂井・粥田・砥上など ここら近辺の筑後の人殆どに縁戚がある家系だろう
。その後に平家の落人伝説ろっきゅうがある。肥後路逃避を行った時、落武者6名が、
(難波善長、加藤権内、浦川天ヶ左衛門、鳴神藤助、是永多七、若宮兵七)はその後に
柳川沖端に移り住み漁業をはじめ街造りをしたという。こうした中で久留米側から南下
する上蒲池氏軍と大牟田側からの北上する下蒲池軍に海賊も対抗する術は なかった。
こうして藤原純友の乱の時、大宰府を落として柳川に迫った純友の弟の藤原純乗の軍勢
を、蒲池城で討伐し、その功により橘公頼の子孫は、筑後国蒲池の領主となったという
。この橘公頼の子孫であり、鎌倉時代に嵯峨源氏の源久直(蒲池久直)が蒲池の地頭職
になり筑後橘氏の娘婿となり、その勢力を背景にして蒲池氏を名乗っていたが この時
から海運の中にいた。そうした事で別杵氏は新たにこの橘氏を味方にした後 金の指揮
旗を振って大内氏部隊と地頭の下の増強部隊と分けて奮戦し交渉をしたとされる。こう
して5千と言われる大内勢に勝利して大内義隆より降伏同然の和睦を引き出す事に成功
したが これは藩政には良かったが大友一族にはかなりの反感があった。


905: 名無しさんAA:17/04/09 15:59
ベッキーの娘  43

「鹿子木や本郷や田島に直ぐに伝令せを送れよ。儂らは豊福城に参ると。」「わしらが
行くまでに さっさと開城しないと 儂らが攻撃するとな。」「はっ」と伝令が駈けて
言った。「さあ 明朝は早めに出立じゃ。今日は兵を休ませよ。」「騎馬隊をこれえ。
」「はっ」ざざっと数名の者がそこに出て来た。「おう、この中に前の肥前攻めの戦に
出て来た者はおるか。」「はっ私を含めて12名程。」「それはよかった。この辺の道
や地理に詳しいものを6名ほど選んだら 今から蒲池の軍勢の所へ駈けていけ。わしら
は明日の夜には豊福城にいるはずじゃ。戻ってくる時はそっちに頼むでのう。恐らくは
姉川の合戦での落ち武者で蒲池の爺いはいないはず。そこでじゃ。これを蒲池の舟奉行
の西牟田と溝口に届けよ。そしてきっとした返事をもらって来い。いいな。これは船を
所望しておると書いてある。そこで此処にくる日と時間だ。豊福城はしってるはずで、
良ければ豊福城の北か南かの返事ももらえればもろうて来い。多分10日もあれば用意
致すであろうが。船は直接来れば尚更よい。冨来の若者を一緒に連れていけ帰りの船に
乗せる為じゃ。いいかくれぐれも気取られるな。冨来の者をこれに」「はっ では。」
 これには理由があった。豊福城は平地にあった山城だが隅本から少しはなれた宇土市
にある。先の合戦では 南からの兵に因っててこずり隅本城を囲むのが遅くなった。そ
してその分揺れ動く諸侯を 相良氏が説き伏せてしまう事で困難を極めたのだ。島津氏
が出て来ることが無くて助かったものの一時は総崩れになりそうだったのである。そこ
で南に下り天草ルートのその中心にある豊福城を押さえてから そこから相良氏の出鼻
をくじき 国人衆を味方につけて兵を増やして隅本城に南から攻めようと言う訳だった
。更に毛利が勝ち先の嵯峨での田手畷の戦い(たてなわてのたたかい)では竜造寺氏を
受け入れた事は如何に肥前を睨んでの蒲池氏の領主経営してるかであり 今だ城が出来
て居ない中に大友から寝返る事はない筈だった。逆に言えば大友には決して服従もしな
いが敵対もしない方針のはず。と睨んだのだ。今は兵を温存する腹でそれ程肥前姉川城
の戦いは熾烈を極めた極めて影響の大きな戦いだったと蒲池氏は思っていたのである。


906: 名無しさんAA:17/04/28 19:02
 ベッキーの娘  43

 初陣を果たした別杵氏は 新たにこの橘氏を味方にし金の指揮旗を振って大内氏部隊
と地頭の下の増強部隊と分けて奮戦し 大内勢に勝利して 大内義隆より降伏同然の様
な和睦を引き出す事に成功したのは これは大友の藩政にはかなりの成果があったのだ
が しかし大友一族にはかなりの反感があったし 他の他紋衆にも嫉妬のような反発が
あった。菊池にも大友にも養子をいれていたし菊池大友が潰れても 他が敵となるのは
この下剋上の戦国時代には当然の理であった。ならば与しやすい小さいが強い隣国の方
が大友にはよかったのである。更に他紋衆でも熾烈を極めた戦いはしこりが強く嫌って
いたのだ。だが別杵氏は若く城主として成りたてであり更に実父は病身で戦場にはいな
かったのだ。今の大友には藩内のキリスタンが問題である事を気付かない別杵であった
 この作戦には小守り役の海老名弾正の知恵があった。それは家臣団に十時氏・由布氏
・内田氏・小野氏などいるが 海老名氏は小野氏の役職名であり村上水軍の長である事
を示していた。つまりほとんどの家系が伊予水軍とは別系統の伊予警護役の系統であっ
たのだ。この事は橘氏を解きほぐすに大きなチャンスでもあった。こうして地元の国人
衆と大内氏からの増援部隊を分けて戦う事ができたのである。1526年にこうして、
戦勝を報告してからは大内氏からの筑後守護職を餌に1534年に菊池義武に名を改め
て相良氏などとと同盟を結んで反抗しったので討伐に命が下った。相良氏・宇土氏・肥
後南部の国人衆と戦う事になる。だがこの間にも彼は命令で この九州北部博多地方を
納める為に転々としているのである。博多には「博多の三傑」と呼ばれた博多商人がい
た島井宗室・神屋宗湛・大賀信好(のぶよし)である。大賀氏その後代々福岡藩黒田家
の国元御用商人をつとめその子は、茶人でもあった大賀宗伯として有名になった。実は
この大賀氏は栂牟礼城大神氏の直系の流れを組む家系だったと言われる。この栂牟礼城
の大神氏こそは九州の庶家とする氏族の総本家であった。が、1527年に大友義鑑は
謀反の企てありとして臼杵長景に命じ、2万余の軍勢を引き連れて攻囲させたのだった
。大神氏の庶家とするのは優に100氏族を超えるとされる。それ程古く一説では天皇
家より古いかも知れない。この中で、賀来氏は姫岳を本城にしていた。高崎山と津久見
山更に別杵氏の居城の鎧ヶ岳城の山の中心にあった一族なのだ。ちなみに家業が財をな
したのは戦乱以降である。金融業を主として名を馳せ大名貸しで 肥後細川藩、高鍋藩
秋月家などにとり入っていて、博多商人の家格においては「大賀格」となった経歴であ
る。

907: 名無しさんAA:17/07/18 16:00
 ベッキーの娘  44

 別杵の狙いは正に的を得ていた。この作戦で先の隅本城を囲んだ時より多い兵力が参
戦し取り囲むに至ったし 戦場での戦さも小競り合いのままで そう多くの被害者は出
ていないまま時をすごしていた。更に南に陣を張った事で北の陣地は混乱も無く蒲池勢
が陣を張る事が出来ていた。この軍の総大将は佐伯氏がいたが 彼にはかなり本館から
即ち大友宗麟から伝令が来ていた。早く攻め入って掃除して帰って来いとせっつかれて
いたのだ。が彼はそうあくせくはしていなかった。そして別杵は、今回の不審な事のみ
で首を討てと義理の息子の自分に打ち取りを命じると言う事に 改めて大友宗麟の異常
さや不審さを知った形であった。更にあの重臣のただ諫めただけの斉藤播磨守は別杵に
取っては優しく教えを乞う中だった。その彼が死に あれだけ大友に尽くしていただろ
う小佐井大和守、津久見美作守、田口蔵人佐、などが死んでいるのだ。只の大殿の家督
の勝手な委譲と今回の新しい大殿の疑心暗鬼だけで これだけ大友家は混乱し衰退して
の戦いとはなんであろうか。これからも別杵には転戦が多くあるだろうが 今後は一時
も気を休める事無く戦う羽目になった事になるのだ。叔父貴を殺す事よりも そうした
今まで仲間であり、信頼を築き戦場で助けられたり助けたり出来なくなる事が恨めしか
った。数日たつと「殿 西牟田と溝口の使いと称して土橋という者が御目通り願いたい
と申しております。」「おお来たか。で何人じゃ。」「三人程ですが。」「なにたった
の三人か。で冨来は。」「いや居ません。」「ふむ 地蔵堂にでも少し待たせておけ。
兵を10人程つけてな。」「はっかしこまりました。」「アゲハ。土橋とは何者ぞ。」
「土橋とは少弐氏の縁故に 竜造寺の家臣にいましたが 詳しくは解りません。嵯峨に
詳しい者に少し聞いてみましょう。伊賀屋者が数名いますから何か知っているやもしれ
ません。」暫くして後「どばし氏とは少弐氏に仕えた雑賀衆で伊賀屋村の頭領だった者
我らと同じ影の者で 村中竜造寺に仕えた強者だったようです。しかしして京にて石上
本願寺での戦で鉄砲買付けに足止めを余儀なくしている内 村中竜造寺は水ヶ江竜造寺
に取られた為同族の筑紫推門を頼ろうとした所黒木氏臣下辺春氏の囲いになった者との
話で今や溝口氏や西牟田氏に出入りする喇叭者で動いていると言う話です。」「ほう。
面白い。会ってみよう。」「ただ。」「ただ。何じゃ。」「堺からかなりの数の火縄銃
を仕入れたとかの話もあります。お気をつけなされ。「解った。黒の者をして周りを固
めよ。」「ははっ」



908: 名無しさんAA:17/07/18 16:00
 ベッキーの娘  45

 この大神氏の栂牟礼城を襲った事こそが大友氏の大きな失敗だったとされる。栂牟礼
山は標高223mで佐伯惟治が1521年に築城したとされるがそれは間違いである。
 1527年(大永7年)、に大友義鑑は謀反の企てありとして臼杵長景に命じてこの
城を攻めた。それは賀来氏が古来より海運を司って巨利を得ていたからだ。凡そ百年前
1435年(永享7年)、大友持直が四国の姫岳城に拠った際に賀来六郎、賀来五郎と
賀来次郎が姫岳城軍に加わった。城は持ちこたえず大内軍に敗れその後大内氏と大友氏
の和議が成立したが この時大友氏の為に四国を守って来た者達だったのだ。加来氏は
加来(かく)と呼ぶが字の如く家来の意味で言われ大神氏の分流の戸次氏または佐伯氏
の支流とされる。加来氏は角氏と同じく伽羅人が住み着いた時からとも伝承があり角氏
は(すみ)氏と呼ぶ。こうした変化に富来氏がいる。古典に岐部氏、櫛来氏などと共に
出展があり、富来氏も加来氏も大和朝廷時代の渡来人だと思われる。富来氏は富来浦を
拠点として伊勢氏・姫島氏らの小土豪水軍衆を配下におさめ、岐部氏とともに大友水軍
の中核をになって活躍した。富来鑑秀のあと守秀、鑑忠と続き、鑑忠は家督を弟の実直
に譲り、自らは府内に住して大友氏の側近くに仕えたとされる。又富来城を築き所領支
配を安泰させたのである。富来氏の初代である永井石見守実貞は、武内宿禰の後裔永井
造酒正紀祐安の子である事から分家を富安とも呼んだ。この冨来(とみき)氏も又別杵
氏や臼杵氏の配下として活躍したと思われる。この冨来氏が筑後蒲池氏の下についてか
ら本筋である上蒲池家以上の財をなしたと言われる。中国地方の覇者となった毛利氏が
豊前・筑前に進攻してきた時毛利氏が豊前香春岳に兵をたてた。この時義鎮の命を受け
て鑑忠も出陣、ついで宇佐の大宮司と戦って、それらの功により1552年(天文21
年)、国東郷半郷役を与えられ、さらに筑後秋月などの内に所領を給わっている。これ
は1527年にこの事で別杵氏や臼杵氏などの討伐を受けて逃げる事になったのである
。そして多くは角牟礼城へ移り、一部蒲池氏に仕えて蒲池氏は大きくなったのだった。
こうして栂牟礼城(とがむれ)は臼杵氏が支配となりその後大神氏の流れの佐伯惟治氏
が佐伯城を移し堅固な城に替えたのである。

909: 名無しさんAA:17/07/21 11:39 ID:YHg
僕は ブログを始めたい。誰か金をくれ。裕福な億万長者様
           tomiysu @ outlook.jp


910: 名無しさんAA:17/07/21 15:25
 ベッキーの娘  46

 地蔵堂は先の戦で大勢が死んだことで 近くの村人が建てた小さな祠であった。その
小さな祠の回りには屈強な野武士が周りを囲んでいた。更に又何人もの人間を引き連れ
て別杵はやって来た。その地蔵堂の前に 誰かが持ち込んだ折り畳みの椅子が人の背丈
ほど離れて二つ置かれた。一人が出て「土橋うじこちらに。」と一つの椅子に案内し座
ると、別杵は地蔵堂に座ったその両脇からずらっと武者は円陣で囲んだ。その後案内し
た者は椅子に座った。「お主が土橋と言う者か。」「ははっ。」「で西牟田殿と田口殿
はどのような回答か。」「ははっ 我が方も蒲池氏と共に参陣しており 留守居役牟田
口氏も城を守る事が肝要で 人が裂かれず辺春氏に応援を要請され 配下の私共が参陣
を承った次第でございまする。」「たったの三人でか。」「いや配下の者五十名を連れ
て駈けつけた次第。」「ほう。船の調達以外に儂の兵を持って来た。ならば陣に加勢を
するとな。」「はっ。お望みとあらば参戦いたしまする。」「威勢が良いのう。ところ
で土橋殿 お主は少弐氏ゆかりの影の者と聞いておるが。」と土橋氏はみるみる青くな
った。」「はっ。」「竜造寺配下の者だったとは聞き及んでおるが 大友に反旗の者が
よくぞ出てこれたのう。はっははは。その肝気に入ったぞ。で 何故に此処に居る。」
「はっ 少し前に村中竜造寺は水ヶ江竜造寺と家督争いの上 我が土橋家は浪々の身と
成り果て草場氏のつてにて辺春殿に身を寄せている次第。」「ふーむ。」「もし参陣と
あらば 仲間の者鉄砲二十丁を持って参陣する次第にございます。」「ほう。何故に、
他に臼杵氏や蒲池氏もおろうに 何故儂じゃ。特に蒲池うじなら竜造寺再興の立役者で
あろう。同族としてはその方が信用があろう。」「はっ 蒲池氏こそは我が村中一族を
滅ぼさんとした憎き隆信を復活させたもの 配下になる事は我が衆人が許さぬ故不可能
な事。更に我が集団は火縄を使えるもの二人。今だ鉄砲隊とは言えずこの火縄銃を取り
上げられお役御免になるのが落ちかと。」「て筑紫推門の下に行くのをやめたか。」「
は。」「ははは。面白い奴よのう、儂に二十丁の火縄銃をくれると申すか。」「はい。
御所望とあらば。」「なぜ大将の臼杵氏やいや大殿の大友の配下を望まぬ。儂はまだ大
友では平兵同様ぞ。いやそのまま黒木氏や草場氏或いは西牟田氏や辺春氏では良いでは
ないか。」

911: 名無しさんAA:17/07/21 15:25
 ベッキーの娘  47

 こうして栂牟礼を追われた大神氏は角牟礼城に移ったのだがその理由は幾つかあった
。一つは立花山の城である方向に高橋氏や立花氏筑紫氏宗方氏などが今だ大内氏や毛利
氏に重きをなした不穏な動きがあったからだ。と言うのも博多商人は京の都や鎌倉まで
この瀬戸内航路は第一の路線であったからだ。1526年馬ヶ岳城を攻め1527年は
栂牟礼城を攻めた。更に京都では西国最大の大名・大内義興に擁された将軍足利義稙が
上洛した煽りを受け、京を追われ、近江に座していた将軍・足利義晴は兵を挙げ、求め
に応じた朝倉宗滴・朝倉景紀・前波氏らに兵1万を率いさせ出兵していた。管領・細川
高国らと合流し洛中に進軍する事件が起こり、洛中を支配していた三好元長ら諸軍勢と
の桂川で合戦し勝利する事件が起こった。その後の反撃をも撃退し京都を将軍家・細川
家・朝倉家の下に実効支配して新しい年号となった。しかし細川氏内紛が起こり天皇家
を補佐していた管領・細川高国は追われ落ち延びる結果となり、中嶋の戦い及び大物崩
れで敗れて自害するまで混乱は続いた。この足利義晴の親子を匿ったのが六角氏であり
細川高国が天皇から離れた後も天皇は実権が全く無かった。細川氏朝倉氏三好氏の管領
の実権で幕府は動いていた。事実上の九州三人衆と称された島津・大友・少弐氏だった
が彼らも朝廷の混乱は、より自分の領地を守る事に専念する必要に迫られた。南北朝の
時代南朝が敗北する中で九州だけは菊池氏を始め・原田氏・伊東氏・秋月氏・島津氏・
三原氏・草野氏・松浦氏・星野氏・平戸氏・千葉氏・大村氏・山鹿氏などの九州の有力
諸氏を従えた7万騎と号する大軍であったとされる。その頃菊池氏は神崎に仁比山城を
構えた。一色父子・斯波氏経・渋川義行と相次ぐ探題の任務失敗で、名将と名高い今川
了俊を新探題として派遣するこ。幕府への援軍を請い、今川仲秋を肥前方面へ今川義範
を豊後方面に遣わすなど策を講じた。九州・中国諸氏の軍勢を合わせて圧倒的な大軍と
なった今川探題の前に、懐良親王や武光らは大宰府に篭城しつつも高良山へと敗走する
事で事実上崩壊した。懐良親王入府以来11年であった。だがその後も筑後に逃れて、
その守りとして「菊池武安」によって建てられた肥前姉川城は仁比山城の支城とし存在
していた。


912: 名無しさんAA:17/07/21 15:26
 ベッキーの娘  48

 土橋は別杵をいぶかしく見ていた。この異様な堂々とした若者は噂にたがわぬ強者で
あり強情だった。普通なら前の戦さで隈城は落ちていない事で猫にも手を借りたい位の
はずだが 簡単には我らを信用してはいない。と感じていた。別杵も又土橋を年上なが
らどう対処したら良いか迷っていた。下手に参戦させ仲間に入れても 臼杵氏から大友
に知れたらそれこそあらぬ疑いが掛かる事に発展しかねない。更に竜造寺の非道は噂に
なって知れ渡ってはいたものの我が大友も又同じで、いやもっと酷くあるかもしれない
。その不義理に愛想をつかして嵯峨から外れた者を更に大友から離反させては更に大友
の危機になるかもしれないし 我が別杵藩の危機になるかも知れなかった。とは言え、
この者は使えるし わが方の大きな戦力にもなり得る。ここはひとつ腹を割って話すし
かないだろうが 今日初めて会った者だ。そうそう信用も出来ない。と見ていた。ここ
に来て迷いがあった。「では 臼杵殿になぜ参陣せぬ。」「実は嵯峨に鉄砲を納める前
に鷹尾付近の村に寄り 矢部川を登ったのですが耳納の森の探索から帰って来た所矢部
の百姓から 臼杵氏が今や大友の敵として見なされているとの情報を得ましてな。臼杵
氏や別杵氏は今や大友の本筋からは離れていて佐伯氏や吉弘氏の様には大友に近くない
との話を聞きまして矢部氏に会った所 このまま草場氏や問注所氏と出会えば蒲池氏の
配下になると言う事が解りました。そこでこれでは耳納の森を抜ける事は不可能かと思
い悩んで居た所に矢部氏から入田親誠様を紹介され申した。」「なに。入田殿に会った
とな。」「はっ 禿の親爺じゃったが実に信用の出来る人で 恐らく別杵が追ってくる
だろうから そこに行くが良いと申されてのう。」「ふ〜む。流石に先を読んでおられ
たか。となると隈府には居ない事は、本当だろう。」と呟いていた。それに入田殿が信
用した者なら間違いない。と突然「土橋殿も長旅で疲れたであろう。参戦の話は又明日
にでも話をしようぞ。どうだ湯屋は御好きか二人で風呂にでも入らぬか。」と、立ち上
がった。他の者が「殿。」と言った時土橋氏は手で押さえて「御伴しましょう。」と言
った。「他の者は船にでも待機か。腹も減ったであろう。これ岐部。この二人に馳走で
も持て更に 後でもよいから 二人に案内させ使いの者に握り飯と白湯を持たせもてな
すようにせよ。これは命令である。儂はこれから佐間の湯屋に行く。そこにも宴席を用
意せよ。」と言った。「さあ湯屋でも入りゆるり腹を割りと話そうぞ。」とすたすた歩
いていった。

913: 名無しさんAA:17/07/21 15:26
 ベッキーの娘  49

 南北朝時代には醍醐天皇は征西大将軍として九州に皇子・懐良親王を派遣し、彼を奉
じた菊池武光は、高良山・毘沙門岳に城を築いて征西府を置いて南朝方として覇権を担
っていた。一方北朝方の足利氏は少弐氏を大宰府に派遣してその制圧に出た。1359
年、既に日本国内に南朝側で北朝に対抗しうる武力勢力は、九州の懐良親王と菊池一族
のみとなっていた。筑後川をはさんで南北朝の双方が天皇の御旗を旗印に対岸に並んで
相対していた。延文4年/正平14年 8月6日夏の蒸し暑い中だった。南朝宮の陣には
懐良親王、菊池武光、赤星武貫、宇都宮貞久、草野永幸、大野光隆、西牟田讃岐守ら4
万幾余騎とされ高良山を背に南岸に 一方筑後川の北岸に陣を張り大宰府を本拠とする
北朝・足利勢の少弐頼尚、少弐直資の父子、大友氏時、城井冬綱ら約6万と対峙して、
両軍合わせて約10万の大軍が戦ったと言われる。菊池氏は正確にはこの筑後川と宝満
川を挟んで何回か戦っていて大原合戦、大保原の戦いと言われる。だが一大激戦を過ぎ
て双方に数多くの殉死者がでた。懐良親王が手傷を負ったものの一応は甘木まで敗走す
る北朝勢を追いかけ太刀を洗った所が太刀洗とされる。この筑後川の戦い後、懐良親王
は大宰府に入り11年間であるが、統治権者として征西府の九州治世を実現した。ここ
で三代将軍足利義満の執事細川頼之は、九州制圧に足利一門の今川了俊を推挙するので
ある、了俊は中国の毛利・大内らの中国勢力と九州の武家方と周到に工作し大宰府奪還
を図った。大宰府を追われた懐良親王と菊池武光であったが、高良山は要害の地であり
、いかに今川探題とはいえ容易に攻める事は出来なかった。また武光も武政や武安に命
じて筑後川北岸に陣を敷いた探題軍を攻撃させたが、筑後川を渡河する事が叶わず、両
軍は膠着状態に陥った。この高良山攻防戦の最中に武光は死去し今川氏は帰京命令がで
るのである。この時大友氏に逃げていた少弐氏は武藤氏と名を変えて筑後に迫っていた
筑後では懐良親王が「大塔の宮」を冠していた事から大塔氏に名を変え家臣は鷹尾神社
から木元氏や目野氏石橋氏大橋氏地元の橋本氏藤丸氏宇都宮氏が守っていたと言われ、
渋川氏や武藤氏などが取り囲んでいたまま南朝は消滅したのである。この現状から肥前
姉川城は仁比山城と共に少弐氏に突然襲われた。

914: 名無しさんAA:17/07/21 15:27
「いやーいい湯ですな。」「ああいいだろう。この湯屋は急遽作らせたが 豊前と違っ
て肥後はこうして 夕日が見える。夕日が海に落ちるのを見ながらの湯屋というのも、
なかなかだろう。そうだろう。そうだろう。」そこへ4人程若い娘が裸で入ってきた。
「おお気を効かしたか。 ささ は入れ は入れ。まあ下衆の趣向だが 土橋殿も日々
の汗を流したら疲れも取れようで。」「はあ。」「そうじゃ おれの一物とどちらがい
いかこの娘所に品評会でもしてもろうではないか。」「はあ・・」「ささ此処にこられ
よ。そうそうここでまあ固いが仰向けに寝られよ。」と大きい一物をぶらせげながらも
屈強な禿の若者が仰向けになった。すると少し皺の多い土橋も同じように横に並んだ。
「よし我慢比べだ。土橋殿も手を頭の下に。そうそう おい一緒に一様にやるんだぞ。
と睨んだ。すると「解ってるわよ」と言わんばかりに年増の女合図して若い娘を腰の傍
に置いた。そして幼げなおんな二人は二人の股間に手を於いてしごいていくのだった。
空が次第に暗くなって星が見え始めていた。白い物が宙を舞った。「別杵様のまけ〜。
」と叫ぶと又白い物が宙を舞った。「若いからのう〜。やはり負けたか。」と言った時
手桶でお湯が駈けられ娘たちは布で体を洗う。「入田殿に会ったと申されたのう。」と
上向きに暮れ行く空を見ながら言った。「で 入田殿はどう申されたか。大友を討つと
申されたか。」「いや 別杵殿に会えたなら娘を宜しくとだけ伝えてくれと。」「やは
りそうか。だが親爺の首を持って帰ったなら華千代はこぞって悲しむであろうぞな。」
「心中はお察しいたします。」と静かにいった。土橋は入田から追手が娘婿と噂は聞い
て解っていた。と話した。そして「入田殿と斎藤殿と別杵殿は馬が合う仲で婚姻したと
聞き及んでおります。」と言った。「儂と今の内助は幼馴染でのう。親爺同士が仲が良
く早くから婚姻を決めておった様じゃった。まだ弥七郎を名乗っていた頃の話だがある
時疱瘡にかかってのう。わざわざ入田殿は我が家に断りを入れに来た。「げにげに申し
交わせしは忘るべくも候はねど、その後、妹は痘瘡を煩いて、以ての外みぐるしくなり
ぬ。中々かれが有様にて見届けらるべきにあらず。今にては参らせん事叶い難し。とな
(見せられぬ姿になって申し訳ないが婚儀の約束は反故にして欲しい)とな。いやあ今
の妻の立派な事はあの親爺にして解ろうものだったが、長い幼馴染の儂には勿体ない位
の事。」「そこで言ったのさ。人間は所詮人間 容姿が変わったとて人は変わりませぬ
私が妹御を妻にと所望したのは、その心根であって容色ではありません。斉藤家といえ
ば代々武勇誉れ高き武人の流れであればこそ、拙者の嫁にと所望しておる事。故に武人
として婚儀を進める事一向に構わないでもらいたい。とな。」「随分立派な方でしたか
。」「ああ出来すぎだが それも今度ばかりは離縁せねばなるまい。運命とは真恨めし
くあるものよのう。」と裏返しに寝返った。

915: 名無しさんAA:17/07/21 15:28
 ベッキーの娘  51

 元々嵯峨は嵯峨源氏の末裔を示し肥前/松浦氏の松浦水軍も筑後/蒲池氏も源流は源氏
としている。だがこの地は元々北島家の支配するところだったと言われる。かなり古い
時代から出雲大社との繋がりがあって治めて居たと言われる。その後大宰府が出来肥前
国神埼荘を領し、神崎氏を大宰大監平季基の子の兼輔が名のったと云う。又平家もやっ
て来て大蔵氏はこの地で江上氏を名乗ってその後八田氏や高木氏鍋島氏竜造寺氏久良木
氏など地名から置き換わったとされる氏族が現れた。大宰府にやって来た少弐氏は時と
共に庶家が分かれ出て、馬場氏、筑紫氏、横岳氏らは少弐氏をしのぐ力を持つようにな
っていた。筑紫満門は馬場頼周にとって岳父(嫁の父)であったが大内氏に通じる変節
に怒り孫が病気と偽り、綾部城に誘って謀殺した。少弐資元は管領細川氏に通じて大宰
少弐に任じられ 大宰府を追われ滅亡しかけていた少弐資元は大友氏の支援を受けて再
興しを図り、勢福寺城を落とし居城とした。こうして宮方の菊池武安が造った城は次々
と落とされる中で少弐氏と竜造寺氏が争った。大内氏は資元を討つため、杉興運を大将
とする軍勢を肥前に送った。迎え討つ形で少弐勢は江上元種龍造寺家兼小田政光らが布
陣していた。1530年田手畷の戦いである。、一進一退の激戦だったが、小土豪だっ
た鍋島清久の率いる面浮立の赤熊軍団と言う異様な集団によって大内軍はさんざんに、
撹乱されて少弐方の大勝利となった。だがこのあとには1535年に大内義隆に通じて
竜造寺氏は主君の少弐氏を裏切り、自害させて大内氏庇護のもとに独立した。その後は
しかしこの下剋上に義憤を感じ、その拡大を恐れた家臣団は馬場頼周を中心に調略にの
上に追い出されてしまった。村中竜造寺も水ケ江城龍造寺もこの内紛の上を殺害されて
、龍造寺一族の殆どの勢力は一時的には壊滅した。だが家兼は老体に鞭討って鍋島など
の応援で1546年、水が江城主馬場頼周を討って龍造寺氏を再興したものの93歳の
高齢で死去し、曾孫の龍造寺隆信を還俗させて後を継がせる事になった。がそれは家臣
の土橋栄益などの不満によって追い出されてしまう。こうして一族の内紛で肥前を追わ
れて後田尻氏のいる筑後に逃げ、家兼と同じく蒲池鑑盛の手厚い保護を受けた。この頃
筑後に割拠していたのは国人領主達で、筑後南部では蒲池氏、田尻氏、黒木氏が、筑後
北部でも蒲池氏、星野氏、草野氏、問註所氏などが独自の共和を作っていた肥前に住む
で姉川氏と名乗っていた少弐氏家系も追われ野田氏として筑後に行った。


916: 名無しさんAA:17/07/21 15:29
 ベッキーの娘  51

 「土橋殿 実はこのおなご衆も実は入田殿が集めたおなご衆でのう。」「ほう。」「
我が娘が 余りに醜くある故 夜の褥がうまくいかぬならと側室としてどうかと差し出
された者らでのう。」「ほほう まっこと近しい間柄でござったのじゃな、」「そして
のう 更にこのおなご衆達も 入田の親爺が戦いの上で 首を取りうち果てた敵の大将
の子供らでのう 自らが憎まれる事を承知で連れて帰って来たと 聞き及んでおる。」
「・・」「どうじゃのう。いつ背後から刺されるかも知らぬ者をお主なら連れて帰るか
。」「既にいつ死んでも良いとの考えからであろうなあ。」「じゃがのう これらが又
逃げもせぬのじゃ。」「わしも正室の他の者から子孫を残したなら可哀想であろう。」
「だがらこうして遊んでおる。こいつらも他にいい男が居たらいつでも嫁がすつもりじ
ゃがいかんせん戦国時代でのう。若い者と駆け落ちもせぬみたいじゃ。あははは。」「
人間とは悲しい物よのう。産んで生まれてはめでたいめでたいと言いながら 既に往く
ゆくは死を覚悟する世界からは逃れられぬ。」「正にその通り。」「こいつらも他で食
う道がないとちゃんと知ってきちょる。だから年増や妙に幼い子なのじゃ。」「ああ、
成程のう。」「どうじゃ土橋氏も一人ぐらいもろうてくれんか。近頃少し大殿から目を
つけられてのう。日増しにきついお言葉じゃ。」「この年で私がですか。」「いや、あ
の蒲池公が 大友の大公がカンカンに怒るとわかっていながら竜造寺のクソ爺を 武士
は相身互い と匿った事は子供が出来て今にして解る。人を信じるという事はどうでも
自分の目を信じるということじゃてのう。」「昔のう儂の親爺とよう酒を酌み交わして
言いようった。人生は運と感 それに縁じゃ。運は天から授かるもの 感は地で養うも
の 縁は自分で咲かせるもの。とよく言われた。いつも精進せねば感の花も開かぬと。
近頃は この入田の親爺が言っていた事が少しだが解った気がする。」


917: 名無しさんAA:17/09/12 10:19
  去華就実  01

 アドルフ・ヒットラーは 当時当たり前になっていた礼儀正しい戦争に 戦争とは汚
いものだ。と言う事を知らせる と言う事に主眼を置いた。第一次大戦では兵士たちは
諸侯の言いつけで戦争に出かけて行った様な物だった。人が増えすぎ物が偏りドイツで
の世襲制の中のヴィルヘルム2世のプロイセン皇帝とフランスでの市民革命の英雄ナポ
レオン皇帝の領地争いであった。この頃には戦争に勝つ事が領地を制し、戦勝国が賠償
金を貰い 人質である農奴を奴隷として豊かな資源を手にすると言う事が常態化してい
た。この時ベルギーの高原ではイギリスとフランスの戦いである百年戦争の禍根が渦巻
いていてイングランドのノルマンディー上陸が成功したもののフランスのジャンヌダル
クが出て奪還を果たしたりしての王家乱立状態で日本の戦国時代みたいな物だった。が
この頃実はキリスト教に改宗しない浮浪者が大勢いたのである。それは十字軍の遠征か
ら始まる雇い兵の人間の子孫達だった。その頃ベネチアはこの時イスラムとキリストの
交易が無かった為双方に日本の鎖国の様な状態だった。そこで両方に人材派遣して顔の
効くハクスブルク家が栄えたのである。元々はハクスブルク家は王家ではない。中世の
血縁制度を利用した政略結婚により、次々と広大な領土を獲得し、縁戚が南ドイツの肥
沃な作物で代表する大貴族に成長したもので王家は他にあった。神聖ローマ帝国を継い
だフランク王国である。フランスは今でこそ平地開発が進んでいるが昔はガリアとして
ケルト人の里とされるがノルマン人との戦いに明け暮れていたのである。西フランクが
フランスとなり東フランクがドイツとなったがその頃は海辺の民の大航海時代を開くべ
く船の改造と城の襲撃による兵器開発で新しい物が産まれそれが産業革命として英国の
中で大きな産業となっていた。この英国の歴史こそがこの戦争の発端であった。ドイツ
にある塩と石炭の炭鉱である。塩は海からも取れる様にはなったが木の代用品の石炭は
出来なかったのである。船を動かし 鉄を作り 内燃機関を作る高発熱の石だったが、
近年までも黒いダイヤの様相があったのだった。


918: 名無しさんAA:17/12/29 23:40
 極寒の砂金 01

モリソン号事件とは、1837年(天保8年)、日本人漂流民(音吉ら7人)を乗せたアメリ
カ合衆国の商船を日本側砲台が砲撃した事件だった。当時幕府の要職にいた鳥居耀蔵は
、幕府の教育部門を代々司る林家の出身であった。儒教を尊んできた徳川時代で儒学の
中でもさらに朱子学のみを正統の学問とし、他の学説を非主流として排除してきた家柄
の出身だった。こうして「モリソン号事件」が明るみに出ると、天保年間(1830年代)
にで盛んになった蘭学が新知識の研究と交換をする機運が高まって、既に医療でも蘭方
医とは別個に、更に欧州文化を取り込もうとする一つの潮流が出来つつあった。渡辺崋
山などはその指導者で、高野長英・小関三英は崋山への知識提供者であった。この潮流
は旧来の国学者たちからは「蛮社」と呼ばれ、南蛮の学を学ぶ同好の社中。「蛮学社中
の徒」と蔑まれ異端として見られていた。弾圧の首謀者となる鳥居耀蔵は、幕府非難の
他の学説を非主流として排除してきた中に、この事件が起こった。鹿児島湾、浦賀沖に
現れたアメリカの商船「モリソン号」に対し、なりふり構わず薩摩藩及び浦賀奉行太田
資統は異国船打払令に基づき砲撃を行ったのである。江戸湾で砲撃を命ぜられた小田原
藩と川越藩はこの船に対しての対話はなく沈めたのである。しかし、このモリソン号は
マカオで保護されていた日本人漂流民の音吉・庄蔵・寿三郎ら7人を乗せて日本に送っ
てくる途中だったのである。モリソン号はこの日本人漂流民の送還と通商・布教のため
に来航していた事が1年後に分かり、またモリソン号は非武装で、当時のイギリス軍艦
と勘違いされ砲撃を受けていたのである。こうして異国船打払令に対する批判が強まり
、この事件を批判する『慎機論』を著した渡辺崋山、『戊戌夢物語』を著した高野長英
らが幕府の対外政策を批判したため逮捕されるという事件「蛮社の獄」が起こったので
ある。だがこの日本の動きは理由があった。当時世界的な動きがあって、中国大陸を含
む東南アジアに、黒人奴隷から物分かりいい東南アジア人特にインド人奴隷を利用した
奴隷船貿易の実態が押し寄せて来ていたのである。1840年(道光20年)には阿片戦争に
よって、清王朝は欧米列強と外交政策で対峙する必要に迫られた事は、その渦中に投げ
出された事を物語っている。既にこの蘭学主義者でなくとも漢学派であっても、西洋列
強の非道なアジア支配への戦略は海を超えて耳には入って来ていたのであって、日本が
鎖国によって何も伝わらなかった事では無かったのである。ただ問題はその欧米文明の
利器たる兵器開発や技術が国内には全く無かったのである。

919: 名無しさんAA:17/12/29 23:41
 極寒の砂金 02

 中国大陸に起こった官僚と知識人による洋務運動は、1860年代から1890年代にかけて
発生していた。欧米の知識を導入して殖産興業・富国強兵を目指す政治活動は日本の明
治時代と全く同じに提唱されていた。しかしながら、清王朝内部では、この運動は北宋
より続いてきた文官偏重の伝統的な政治体制の中の対立に過ぎなかった。改革は限定的
なもので、さらにその後の、1894年(光緒20年)の日清戦争で日本に敗れ洋務運動の中
の限界点が露呈することになった。この大きすぎた国では、王朝内部の家臣団すらも、
統制など取れないでいた。と言うよりは統制すればするほど閉鎖する社会となり実情か
ら目を遠ざける結果を産んでいたのである。これに対して、日本の明治維新をモデルと
した立憲君主制を維持しながら政治・社会制度に大幅な改革を求める内容の上奏を行い
、康有為を中心とする改革派が、1895年に光緒帝の支持を獲得、1898年(光緒25年)し
戊戌変法が実行されたが、しかし、大国内では改革は急進的なものとされ、保守派の反
発は大きく、この改革は僅かに百日で失敗、改革派は海外亡命する羽目に陥ったのだっ
た。こうして1900年(光緒26年)に義和団の乱が発生したのである。義和団の乱は当時
輸入の中継地として発展していた山東省の中でのドイツと英国の覇権争いに、自治防衛
を行う少林寺などの拳法僧侶の対抗したアヘン問題で発生した事件だった。乱の主体と
なった義和団では、ドイツの進出が目立つようになりそれに伴う事件が頻発するように
なった事で特定の武術組織がそれぞれに商社の防衛にあたっていた。元々中国には、か
なり古くからキリスト教が伝来していた。そして、多くの信者を獲得することなく清朝
時代に至っていた。この事態に相次ぐ西欧列強との貿易が変化をもたらしたのである。
キリスト教が広がらなかった背景は日本同様に時の権力者の布教活動の禁止あった。よ
くは知られてないが中国国内でも禁教令と共にキリスタン弾圧は相当強いものだった。
山東にあった武術組織の大刀会は初め盗賊を捕まえて役所に突き出すなど、郷土防衛や
治安維持を担った自警団だった。だがカトリック信者と一般民衆との土地争いに介入し
1897年にカトリック側を襲撃するに至った。こうして、教会の破壊や神父の殺害を決行
し曹州教案が起こった。この動きに対してのドイツの抗議をうけ清朝が弾圧を開始し、
一旦納まっていた。しかし1899年になると、そのころ別の武術組織の神拳一派と合流融
合していった。


920: 名無しさんAA:17/12/29 23:43
 極寒の砂金 03

山東省は国家権益の観点のみならず、孔子の生地である曲阜があり中国国内の伝説上の
土地柄だ。こうした地の中でキリスト教布教者は最初の上陸基地として重視されたた事
で中国のエルサレム化を起こしていた。その山東省での熱烈な布教活動は反動も大きく
民衆の排外的な感情を呼び起こし、時を追うごとに高まっていった。この武術組織体は
、極めて強い宗教的性格を有し、内部では儀式や祭りも行い教義的な拳法にも由来し、
団練という地方官公認の自警団でもあった為、かなりの熾烈さがあった。出来がった義
和団は、 太平天国の乱の拝上帝会のようにその起源を単一のものに特定できない。 太
平天国の乱は広東省花県の客家出身である洪秀全は、上帝ヤハウェと思われる気品漂う
老人から破邪の剣を与えられた夢から起こった。イエスらしい中年の男から妖を斬る手
助けを受けたという洪秀全は病が癒えてプロテスタントの勧誘パンフレット『勧世良言
』を入手し、以前に見た不思議な夢の意味を「理解」し、キリスト教に目覚めてキリス
ト教の教えの中でも特に上帝が唯一神であることを強く意識し、偶像破壊を熱心に行っ
た。元々多神教的な土地柄である中国では儒教・道教・仏教にまつわる廟が多かったが
、それらを破壊し、ただ上帝だけをあがめることを求めた。そのため郷里広東省で効果
的な布教方法を模索せざるを得ず、「原道救世歌」や「原道醒世訓」という布教文書を
著し1847年、太平天国の前身組織拝上帝会を広西省桂平県金田村に創設した。数少ない
賛同者の1人であった馮雲山が布教活動を行い、約3千人の信徒を獲得し、洪秀全を迎
えて立ち上げ乱を起こしたのであった。その乱の最中で起こっていたアヘン戦争とその
後の不平等条約締結で、布教活動が条約港に限り認められ、アロー号戦争(第二次アヘ
ン戦争)後結ばれた天津条約では、清朝内陸への布教を認める条項(内地布教権)が挿
入されており、以後多くの外国人宣教師が内地へと入っていった。この結果、キリスト
教は次第に信者を獲得していった。外国人宣教師たちは、宗教的信念と戦勝国に属して
いる傲岸さが交じった姿勢で中国社会に臨みその慣行を無視し事件は各地に起こった。
しばしば地域の官僚・郷紳と衝突し、事態を複雑にした。キリスト教会の飯を食う者の
存在は、飢饉などの天災により寄る辺をなくした民衆などが「宣教師の慈善活動」に救
いを見出し、家族ぐるみ・村ぐるみで帰依していた事であった。また当時の内部対立の
結果、社会的弱者となった人々も庇護を求めて入信し、クリスチャンの勢力拡大に寄与
した。



921: 名無しさんAA:17/12/29 23:44
 極寒の砂金 04

義和団の母胎となった白蓮教徒は、官憲の弾圧から逃れるためにキリスト教に、一部は
一団で入信していた。対立の構図は複雑怪奇で外国人宣教師やその信者たちと、郷紳や
一般民衆との確執・事件を仇教事件と言うが、殆どが教会や神父、信者を襲い、暴力的
に解決しようとする中にあって、太平天国平定の功労者であった曾国藩ですら、もし、
外国人の方に非があったとしても、公文書に記載し事を大きくしてはならないと述べた
程の確執があった。こうして外国人は官僚より三等上という認識が広がっていった。当
初の義和団を称する秘密結社は排外運動に活路があったが、1900年(光緒26年)に西太
后がこの叛乱を支持して清国が欧米列国に宣戦布告したため国家間戦争に変わっていっ
た。しかし、宣戦布告から2ヶ月も経たないうちに欧米列強国軍は、首都北京及び紫禁
城を制圧した。この事で、清朝は莫大な賠償金の支払いを余儀なくされる。禁圧の過程
でイギリスとドイツは、清の許可を得ずに上海=北京間、膠州、威海衛、旅順に於いて
電信ケーブルを敷設した。この為に、この乱の後、西洋的方法を視野に入れた政治改革
の必要を認識した西太后は、かつて自らが失敗させ皇太子光緒帝は監禁されて実権を失
い、変法派の主要人物は処刑した戊戌の変法を手本としたいわゆる光緒新政を開始した
。戊戌変法の間には、日本の前首相・伊藤博文が中国を訪問していた。伊藤が到着後、
変法派の官吏は話し合いをし、反変法派の楊崇伊は「日本の前首相伊藤博文は権限を恣
にする者であり、もし彼を重用するようになったら、祖先より受け継いでいる天下を拱
手の礼をして人に譲るようなものだ。」と西太后に上奏した。光緒帝に「臣は請う:我
が皇帝が早く大計を決め、英米日の三ヵ国と固く結びつき、“合邦”という名の醜状を
嫌う勿かれ」と上奏し、西太后に、「来訪の目的は、中、日、米および英と連合し“合
邦”することにあり。時代の情勢を良く知り、各国の歴史に詳しい人材を百人ずつ選び
、四カ国の軍政税務およびすべての外交関係などを司らせる。また、兵を訓練し、外国
の侵犯に抵抗する。・・・皇帝に速やかに外務に通じ著名な重臣を選抜するよう請う。
例えば、大学士・李鴻章をして李提摩太と伊藤博文に面会させ、方法を相談し講じさす
。」と進言した。だが西太后は紫禁城に行き、「あたかも中国の軍事、税務、外交の国
家権限を外国人に渡そうとしているかのようである。」と即断し、クーデターを起こし
て自ら政権の座に戻り、変法自強運動に終止符をつけた。


922: 名無しさんAA:17/12/29 23:44
 極寒の砂金 05

山西省聞喜出身の楊 深秀(よう しんしゅう)は、この時清末の変法派の官僚として、
張之洞より徳堂の院長に招かれ、進士となり、刑部主事、郎中、東道監察御史を歴任し
、ロシアが旅順と大連の租借を要求すると、イギリス・日本と同盟して要求を拒否する
ことを上奏し、人々は楊深秀の学識の高さと世界情勢の明るさに皆を感服させていた。
戊戌の変法の際には、徐致靖とともに八股文の廃止を主張し、これは礼部尚書許応によ
って阻まれた。訳書局の設置を上奏し、皇族の外国訪問、留学生の派遣を主張し採用さ
れたが、一日二十人の官僚を面接し、才あるものを登用し才なきものを罷免したため、
不満を引き起こした。その他にも改革を実行する者を援助し、湖南巡撫陳宝箴が守旧派
から弾劾された時には弁護している。しかし戊戌の政変で西太后が政権を奪回すると、
直ぐに主犯として楊深秀は捕えられ、譚嗣同・楊鋭・林旭・劉光第・康広仁とともに斬
られた。彼らは「戊戌六君子」と呼ばれていた。こうして日本の「蛮社の獄」の様な、
西洋学者の排斥が国家権力で行われた。日本と中国の違いは日本は寛容であった事だ。
こうした逸材の天才や秀才達に獄死はあったものの首謀者渡辺崋山が田原で蟄居させら
れている様に終身刑としての永牢や遠島所払いや身分剥奪に終わっていて斬首や死刑で
はなかった。この事が大きく違っていた。その後英国などの進駐した八箇国連合軍によ
って、北京は占領されるという事態が発生する。それまで改革に慎重であった保守派の
に改革の必要性がようやく認識され、戊戌変法と同様の改革案が提出・実行された。が
憲政移行の方針を定めた『欽定憲法大綱』を発表し、内閣が設置された時、既に登用す
べき人材は居なく、内閣成員の半数が満洲人、内皇族が5名を占める皇族内閣であり、
憲政移行を求める知識人や民衆には失望しかなかった。こうして西洋排斥運動であった
義和団の乱は、皇帝の廃位を行う西太后のクーデターに変化し北清事変となり義和団鎮
圧のために軍を派遣した列強は八カ国あり、その内訳はイギリス、アメリカ、ロシア、
フランス、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリアら欧米七列強と日本での北京
制圧となり、総司令官にはイギリス人のアルフレッド・ガスリーが就任し清朝の混乱を
さらに拡大させることで終わった。日本は各国からの派兵要請によって大量派兵の決め
たが、その一因は欧米列強ともいえども世界中の覇権争いの戦争を各国が戦っていた為
派兵要員が居なかった為だった。日本軍は陸軍大臣の桂太郎の命の下、第五師団(およ
そ八千名)を派兵し、その指揮は福島安正に委ねられた。彼は英語・フランス語・ドイ
ツ語・ロシア語・中国語に堪能で、当時ロシアや清朝を調査する旅行から帰国したばか
りであった。その経験を買われて指揮官に据えられたのである。

923: 名無しさんAA:18/01/01 17:18 ID:mb2
 極寒の砂金 06

この日本の海軍陸戦隊の派兵は様々な思惑があった。公使館保護は無論であるが、中国
の日本権益拡大や、西洋列強が清朝を叩くことで列強支配の向上は、相対的に日本の国
権の国際的地位確立する必要があった。特に大軍を送る「極東の憲兵」としてロシアへ
の牽制の為に、列強側に立っての存在感を持たせて対抗する為に、より多くの大軍を送
り誇示し、交渉中の不平等条約改正へ目的もあった。一妻九妾で17男14女の子を設
けた精力絶倫男「袁世凱」は、辛亥革命の混乱の中で朝廷と孫文ら革命派との間で巧み
に遊泳し、中華民国大総統となって革命派を弾圧した男だが、この頃の清朝内では顕在
化していた派閥争いの中核にいた。権力争いする清廷内に、戊戌変法を支持した光緒帝
を廃位しようとする計画が進められ、その障害である列強や李鴻章や一部の親王でなど
は、この男にとっては関係なかった。1899年末、毓賢が欧米列強の要求によって更迭さ
れた時、排除強行派の袁世凱は赴任し義和団を弾圧して名声を得ていた。しかしそれは
表向き山東省外への排斥であり、排斥運動の義和団は裏では拡大する結果を放置してい
た。もとは官僚を志し科挙の挑戦者だったが2度も試験及第しない者で、断念し軍人と
を志し李鴻章幕下の淮軍に身を投じて、朝鮮に渡っていた。任地で発生した壬午の変や
(壬午事変)・甲申の変(甲申政変)で閔妃の要請の下で巧みな駆け引きで鎮圧に貢献
した、とされ情勢に長けた者だった。閔妃は、李氏朝鮮の第26代王・高宗の妃とされ
明成皇后と呼ばれた。属国としてあった朝鮮が独立するのを彼が止めて、清に有利に導
いたとされる。事実上の朝鮮公使として李鴻章の監督の下、朝鮮の内政にも干渉できる
ほどの権限を持った事が大きかった。清国の為対抗する日本勢力を排除しようと考え、
特に経済的には一定の成果を挙げて帰国した。しかし、貧しさと圧政に喘いだ朝鮮民衆
の甲午農民戦争を起こした時には、朝鮮が清に軍の派遣を要請た為に、日本も対抗して
派兵し日清戦争が勃発する羽目に陥らせたのである。つまり現状無用論の人で彼の進言
で列強排除に義和団を利用した。つまり列強に対しては義和団を充てる一方で、列強に
妥協的だという理由で李鴻章らを媚外として批判したのである。こうして取り立ててく
れた李鴻章が没するに当たって、袁世凱は北洋通商大臣兼直隷総督を引き継ぎ、袁世凱
は政治家としても活躍し、いわゆる、明晰な官僚を処刑した光緒新政の中で、中心的人
物となっていった。こうして義和団及び列強連合軍に対しどう対処するかについて、4
度御前会議が開かれた末、清朝の列強への「宣戦布告」が決定は決定されたのである。


924: 名無しさんAA:18/01/01 17:19
 極寒の砂金 07

宣戦布告に先だって、最高権力者であった西太后は「中国の積弱はすでに極まり。恃む
ところはただ人心のみ」と述べたと言われる。最も決定的だったのは、大沽砲台問題と
いわれ、この大沽砲台は海河河口に備えられて、北京や天津へと遡航する艦船への防御
の要となる砲台であった。だがこれは以前から列強の司法への介入、山東巡撫の更迭要
求等のいくつもの列強の圧力の中で列強への引渡しを求められていた。清朝側が拒否後
は義和団に占拠されていたのでもないにもかかわらず攻め落とされてしまったんだ。交
戦状態でもないにもかかわらず列強の手に落ちていたのだ。こうした事は「累朝の積憤
」と言われ(積もり積もった怒り。剛毅の言)が清廷内の排外主戦派を勢いづかせてい
て、西太后の決心を促した。さらに言えば、当初から袁世凱などの、官公認の自警団に
求めるた行政には、義和団の素地があり、これらは直隷省(現在の河北省と北京)へと
展開し、北京と天津の地帯で義和団が溢れかえる事態に至った時には、収拾不可能な事
に陥っていた。直隷省は山東省以上に、失業者や天災難民が多くおりそれらを吸収する
ことによって義和団は急速に膨張し、そして外国人や中国人キリスト教信者はもとより
、舶来物を扱う商店、果ては鉄道・電線にいたるまで攻撃対象とし、次々と襲っていっ
たのだったのである。そのため北京と天津の間は寸断されたのも同然となり、更に義和
団が我が物顔で横行するようになって行った。不測の事態が発生し清朝を慌てさせたが
それは遅く、1900年6月には、20万人の義和団が北京に入城するに至っていた。甘粛
省から呼ばれて北京を警護していた董福祥が配下の兵士に日本公使館書記官の杉山彬が
殺害され、ドイツ公使クレメンス・フォン・ケーテラーが義和団に殺害された。既にこ
の暴動に、北京駐在公使は要請をしていて、五月末より列強の連合軍は軍事介入を計画
して動いていた。六月初旬にはイギリス海軍中将シーモア率いる連合軍約2000名が北京
を目指したが、義和団によって破壊された京津鉄道(北京−天津間)を修繕しながらの
進軍だった。その歩みは遅く、また廊坊という地では義和団及び清朝正規兵、董福祥の
甘軍によって阻まれて、天津への退却を余儀なくされた。つまり清朝の宣戦布告以前よ
り、列強は中国に軍隊を派遣し義和団掃討作戦を実施していた。6月17日の天津の大沽
砲台の攻撃について、清朝は「無礼横行」と非難し、宣戦布告をする重要な動機の一つ
となってはいるが 日本の下関砲撃事件の様な事が想定され、外交の要の作戦だった。


925: 名無しさんAA:18/01/01 17:20
 極寒の砂金 08
西太后が「宣戦布告」の上諭を出して列強への態度を明確化した頃に、両江総督劉坤一
や湖広総督張之洞、両広総督李鴻章ら地方の有力官僚達はは、この上諭を偽詔とした上
で従わない旨宣言して回った。そして義和団の鎮圧に先行して動いた。また列強各国領
事と「東南互保」という了解を結び、義和団の騒擾を中国北部に限定するようし向けた
。具体的には、盛宣懐や張謇が地方大官と各国領事の間を奔走し、「保護南省商教章程
」9か条と「保護上海租界城廂章程」10か条を結び、外国人の生命及び財産を列強が
進攻しない限り保護することを確約した。この「条款」は、中国東南に位置する地方の
総督や巡撫といった大官と列強との利害が一致したため成立した協定でもあった。いわ
ば、清朝の地方の大官僚達が、先に結託して地方の利害を優先させ、義和団の影響が及
ばないよう先手をうったといえる。それは郷土が踏み散らかせれる事を阻止するに最大
の防御となった。だがこれは明らかに西太后の命に背くものでもあった。剛毅らは弾劾
上奏を行ったが、西太后は特段処分を下さなかった。それは西太后の保険であった為で
あるとされる。今後列強との戦争の雲行きが怪しくなった場合に備え、この「東南互保
」を暗黙裡に認め、敗戦の総責任が及ばない様に 皇帝側の意向を明確にしないという
政治的駆引きの一つであったとされる。実際後述するように西太后は、義和団の乱に関
して何ら責任追及を受けていない。以後義和団は清朝をも敵にまわし戦闘せざるを得な
くなった。それまでは「扶清滅洋」を旗印にしていたが清朝に失望し「掃清滅洋」(清
を掃〔はら〕い洋を滅すべし)と変えるに至った。これは後述する北京議定書によって
過大な賠償金を強いられることになった清朝が、その負担を庶民に転嫁せざるを得なく
なったことも大きな理由であるとされる。西太后は北京から逃走する途中では、義和団
を弾圧する上諭を出した。同時に列強との和議を図るよう李鴻章に指示した。その時に
後々有名となる次のことばを用いている。「中華の物力を量りて、與国の歓心を結べ」
(「清朝の〔そして西太后の〕地位さえ保証されるなら金に糸目はつけるな)。列強と
の交渉は慶親王奕及び直隷総督兼北洋大臣に返り咲いた李鴻章が担った。敗戦国という
立場から列強の言いなりで、非常に厳しい条件が付せられた。それは西太后の地位を守
るための代償でもあった。こうして義和団の乱の責任は端郡王載や剛毅ら数人の重臣と
地方官僚50人ほどに帰せられ、処刑もしくは流刑を言い渡された。1901年に締結され
た条約で過酷だったのは賠償金の額であった。清朝の歳入が8800万両強であったにもか
かわらず、課された賠償金の総額は4億5000万両、利息を含めると9億8000万両にも上っ
た。このしわ寄せは庶民にいき、「掃清滅洋」という清朝を敵視する声は義和団以外に
も広がりを見せるようになった。

926: 名無しさんAA:18/01/01 17:22
 極寒の砂金 09

 義和団の乱において直隷総督配下の近代化軍隊は連合軍に敗れて大きな打撃を受けた
。この時、袁世凱の軍だけは義和団を叩いたのみで、直接列強との戦争に参加しなかっ
た。敗ける事が解っていたのだ。そのためほとんど無傷であった。こうして清朝内で、
隠然たる影響力を持つに至った。同時期に、李鴻章や劉坤一、栄禄といったこれまでの
清朝の実力者が次々と死去するという「幸運」もあった。老害を取り除いた中で清朝一
の精鋭部隊を率いる袁世凱は、それを政治資本として有効に働き それを盾に活用して
いった。それはやがて袁世凱を李鴻章の後任として直隷総督へと出世させ、さらに辛亥
革命後の中華民国大総統、中華帝国皇帝(洪憲帝)へと押し上げる原動力となったので
ある。付言すれば、漢民族である袁世凱が衰退した清朝にあっても、最強兵力を保持し
続けた事自体が、満漢対立という民族間の軋轢を増す不安定要因となっていった。北京
議定書によって、北京や天津に外国の駐兵権を認めて、巨額の賠償金によって外国によ
る財政支配(海関税・常関税・塩税が支払われるまでの担保として押さえられた)を、
受容した清朝は、新しい中華民国と共にもはや独立国としての体裁をなさず、半植民地
ともいうべき状態に陥っていた。北京における駐兵権容認はやがて平和を希求した日本
軍にも銃口を向けた盧溝橋事件の引き金ともなるのである。北京陥落後あっさり義和団
を切り捨てた清朝・西太后の姿勢は大きな失望を一般民衆に与えた。最も大きな影響は
、こうした民衆の不平不満の矛先が列強よりもむしろ清朝自体に向けられるようになっ
た事であろう。さらに北京議定書によって定められた巨額の賠償金は、過大負担を民衆
に強いた。人々が清朝を見限るのには決定的な理由となった。孫文は中国で何度も革命
を行おうとして失敗していた。その度に無謀だと周囲から冷笑された。しかし義和団の
乱以後民衆の中で傍観者的な雰囲気が消え、孫文たちを積極的に応援する風向きが出来
た。この時にわかに急激に支援する民衆が増加したと述べている。すなわち義和団の乱
は辛亥革命に至る重要な伏線となったといえる。辛亥革命は、1911年から1912年にかけ
ての、清(中国)で発生した共和革命であった。北清事変が勃発した様相と全く同じに
袁世凱がその要席にいたが、それは海軍の指導者としての地位にあったからだ。名称は
、革命が勃発した1911年の干支である辛亥に因む。この結果、アジアにおいての史上初
の共和制国家である中華民国が誕生した。この時日本ではアジア支援の第一号であった
為明治新政府は、喜んで祝電を打っている。


927: 名無しさんAA:18/01/01 17:23
 極寒の砂金 10

清が打倒されて古代より続いた君主制が廃止され、共和制国家である中華民国が樹立さ
れた。勃発日の10月10日に因んで、「双十革命」とも称される。又、民国革命の中で、
辛亥革命は第一革命とされ、袁世凱に鎮圧された第二革命、更には護国戦争が第三革命
として続いていったとされる。辛亥革命のスローガンは「駆除韃虜、恢復中華、建立民
国、平均地権( 打倒清朝回復中華、樹立民国地権平等)」だった。狭義では、1911年
10月10日夜に発生した武昌起義から、1912年2月12日の最終皇帝の宣統帝 (愛新覚羅
溥儀)の退位までの期間を指す。だが、中国では広義に、清末期からの一連の革命運動
から中華民国成立までの、比較的長期間の政治的運動を示すものとしている。辛亥革命
の理念と成果は、袁世凱を中心とする北洋軍閥により撤回された。地権平等(四民平等
)も実現しなかった。只この革命はアジアで初の共和制国家を樹立し、古代より続いた
君主政の伝統を終わらせ中国の歴史に画期をもたらした。辛亥革命により元号は改めら
れ、民国紀元が採用された。こうした中国大陸が変遷している中で、明治33年(1900)
に日本政府は露西亜調査の必要性が問われていた。義和団を称する暴徒によって北京が
陥落し、これを受けて 近隣の当事国である日露が交渉をする事が迫った為だった。同
年10月に36歳となった明石はロシアとの交渉のために北京に派遣された。この時に、
明石は2人の伴を連れての旅をしている。が、道中は暴徒によって鉄道が破壊されてい
たせいで、散々な目に遭いながらの旅だった。伝記では明石が誰と何の話し合いをした
かは記されていない。おそらくは日露を始めとした清国居留の外国人たちの安全の保証
や、日露の軍事行動についての事前の打ち合わせがされた。と思われまている。しかし
、有色人種で小国の半文明国という扱いだった日本に対して、ロシアがどこまで対応し
てくれたかは推して知るべしといったところと思われます。さて、そんな折に旅費が底
をついてしまった明石一同は道中に知り合いから百円の借金をします。ここで、明石は
半分の50円を旅費として使い残りは自分の懐に入れてしまいました。この明石の行いに
は流石に随伴者も閉口したようですが、一行は無事に下関まで戻ってくることができま
した。下関に着くや明石は旅館で芸者を3人呼んで、お供の2人をねぎらう為と無事の
帰国を祝して宴会を開いたのでした。五十円をちょろまかしたのはこの時に使う為だっ
た訳です。ただ、実は明石は芸者が好きではなかったようで、「人が大事な話をしてい
る時に口をはさんで邪魔をする」と台湾総督時代に人に語っていた。伝記で伝えられる
明石を見ていると、恐らく明石は女の子とイチャイチャするよりも男同士でつるんでい
る方が好きなタイプだったと思われる。

928: 名無しさんAA:18/01/01 17:24
 極寒の砂金   11

 この明石には「私利私欲」で何かをするということはない人でした、あまり清廉潔白
というお硬い人というわけでも無かったが 結構律儀な人間味のある上司だった様だ。
 さて、明石が下関でどんちゃん騒ぎをしていた同じ頃、明治33年(1900)11月には
ロシアと清国との間で第二次露清密約が結ばれてしまい、満洲がロシアの勢力圏となり
ました。ついにロシアはその版図を広げ、朝鮮半島までその手をのばそうかという位置
にまでやってきていました。幕末以来、最大最強の仮想敵国とされていたロシアが、つ
いに日本の目の前まで迫ってきたのです。この時、明石は36歳、日露開戦の3年前の
出来事でした。歴史資料では、明石元二郎は、1864年9月1日に産まれ(元治元年8月1日
) - 1919年(大正8年)10月26日)日露戦争中に、ロシア革命支援工作を画策し、多大
な成果をあげ、日露戦争の日本勝利に大きく貢献したことで有名となっている。ドイツ
皇帝ヴィルヘルムは「明石一人で、大山率いる二十万の日本軍に匹敵する戦果をあげた
」と称賛していたといいます。日台史によれば、明石元次郎は1918年(大正7年)
、第7代台湾総督をつとめ、台湾電力を設立し水力発電事業を推進し、日本人と台湾人
が均等に教育を受けられるよう法を改正したことで、台湾の人の知名度も高いようです
。明石元次郎は急死するまで一年余の総督でしたが、1919年(大正8年)に「台湾
教育令」を発令している。これがその後の台湾の発展に大きく寄与したといわれており
、台北師範学校、台南師範学校、台北工業学校、台中商業学校、農林専門学校をはじめ
多くの学校が開校されていきました。台湾総督府は、明治28年(1895年)に調印された
下関条約によって、台湾及び澎湖列島は日本へ割譲され、日本は台湾を領有することと
なった為に出来たものだった。初代 樺山資紀 以降 桂太郎 乃木希典 児玉源太郎
佐久間左馬太 安東貞美 明石元二郎 と彼まで爵位の人の英傑で統治しその部下にも
児玉源太郎が後藤新平を民政長官に抜擢した様に、文官治領時代をして建国していた。
8代総督・田健二郎になって1921年(大正11年)には日本人と台湾人の、共学を
可能とする法を決めた。これにより台湾人にも帝国大学への道が開かれます、李登輝元
総統は京都帝国大学出身です。1928年(昭和3年)には台北帝国大学が設立されま
す。これは大阪帝国大学、名古屋帝国大学よりも先に開設しています。当たり前の話で
すが、当時台湾は日本であり、日本の植民地ではありませんでした独立国だったのです



929: 名無しさんAA:18/01/01 17:26
 極寒の砂金   11

 この明石には「私利私欲」で何かをするということはない人でした、あまり清廉潔白
というお硬い人というわけでも無かったが 結構律儀な人間味のある上司だった様だ。
 さて、明石が下関でどんちゃん騒ぎをしていた同じ頃、明治33年(1900)11月には
ロシアと清国との間で第二次露清密約が結ばれてしまい、満洲がロシアの勢力圏となり
ました。ついにロシアはその版図を広げ、朝鮮半島までその手をのばそうかという位置
にまでやってきていました。幕末以来、最大最強の仮想敵国とされていたロシアが、つ
いに日本の目の前まで迫ってきたのです。この時、明石は36歳、日露開戦の3年前の
出来事でした。歴史資料では、明石元二郎は、1864年9月1日に産まれ(元治元年8月1日
) - 1919年(大正8年)10月26日)日露戦争中に、ロシア革命支援工作を画策し、多大
な成果をあげ、日露戦争の日本勝利に大きく貢献したことで有名となっている。ドイツ
皇帝ヴィルヘルムは「明石一人で、大山率いる二十万の日本軍に匹敵する戦果をあげた
」と称賛していたといいます。日台史によれば、明石元次郎は1918年(大正7年)
、第7代台湾総督をつとめ、台湾電力を設立し水力発電事業を推進し、日本人と台湾人
が均等に教育を受けられるよう法を改正したことで、台湾の人の知名度も高いようです
。明石元次郎は急死するまで一年余の総督でしたが、1919年(大正8年)に「台湾
教育令」を発令している。これがその後の台湾の発展に大きく寄与したといわれており
、台北師範学校、台南師範学校、台北工業学校、台中商業学校、農林専門学校をはじめ
多くの学校が開校されていきました。台湾総督府は、明治28年(1895年)に調印された
下関条約によって、台湾及び澎湖列島は日本へ割譲され、日本は台湾を領有することと
なった為に出来たものだった。初代 樺山資紀 以降 桂太郎 乃木希典 児玉源太郎
佐久間左馬太 安東貞美 明石元二郎 と彼まで爵位の人の英傑で統治しその部下にも
児玉源太郎が後藤新平を民政長官に抜擢した様に、文官治領時代をして建国していた。
8代総督・田健二郎になって1921年(大正11年)には日本人と台湾人の、共学を
可能とする法を決めた。これにより台湾人にも帝国大学への道が開かれます、李登輝元
総統は京都帝国大学出身です。1928年(昭和3年)には台北帝国大学が設立されま
す。これは大阪帝国大学、名古屋帝国大学よりも先に開設しています。当たり前の話で
すが、当時台湾は日本であり、日本の植民地ではありませんでした独立国だったのです
。実は台湾は中華民国が出来る前からイスパニアやポルトガルに守られた独立国だった
のである。


930: 名無しさんAA:18/01/01 17:36
 極寒の砂金   12
 この明石元二郎は1919年7月、原因不明の発熱で倒れ、一時回復するも内地で開
かれる演習の視察の為に帰国し、途中に容態が悪化し、郷里の福岡で帰らぬ人となりま
した。明石元二郎は生前より「もし自分の身の上に万一のことがあったら、必ず台湾に
葬るよう。」と遺していた。つまり、台湾に骨をうずめる覚悟で台湾総督の任務に着い
ていた。任務に命をかけていた明石元二郎の遺骸は、台湾の日本人墓地に埋葬される事
になるが、明石総督を尊敬してやまない台湾から多額の寄付金が寄せられ「軍人中、皇
族方を除いては明石のような墓を持ったものはない。」と言われるほど立派な墓が建て
られました。死後に彼は男爵の地位が与えられたのはその尊大さが宮中まで知れた事で
なった。大東亜戦争の国共内戦に敗れて 国民党軍は台湾にやって来る事になったが、
やって来た華中難民は日本人墓地にバラックを建てて住みはじめた。1994年になっ
て陳水扁台北市長(後、総統)は彼らを立ち退きさせ、1997年に明石総督の墓は掘
り起こさ、明石総督の遺族らが見守る中で発掘された。墓の移転先候補には多くの台湾
人が名乗りをあげた。その中には高砂族の方もいらっしゃいました。多くの意見があっ
たが中で、交流協会の後藤大使は頭を抱えたが、台湾北部の三芝郷のキリスト教墓地に
決まり、明石総督のお墓があった元の場所は整備される結果となった。三ヶ国語で書か
れた碑文を建てて明石の「余は死して護国の鬼となり、台民の鎮護たらざるべからず」
の言葉を彫り込んでいる。明石がブラゴヴェシチェンスクに行きたいと願ったのは、他
でもないロシア人と違った民族がロシアにいたからだ。実はブラゴヴェシチェンスクは
先の辛亥革命でも義和団の乱の時も 多くの著名な革命家が落ち延びた所で、孫文も又
ここから再起を図り革命決行に至っている。明石が訪れようとした時もこの地は封鎖の
憂き目にあって行く事が出来なかったのである。ライチヒンスクはその頃は只の平原だ
った。ロシア南東部に位置しアムール州の都市となって州都ブラゴベシチェンスクの、
東南東約 150kmのゼーヤブレヤ平原にある。1933年にソ連政府は此処に石炭が埋もれて
居る事を掴んだ。こうして地元組織を作り、褐炭田の開発に伴って街を作った。露天掘
りによる採炭が行われる事でシベリアの産業の起爆点を目指した。少しばかりの変圧器
,建設資材などの工業を立てた。石油の時代になっても暖房用石炭として近郊から重宝
された。此処はブレヤでシベリア横断鉄道から分岐する支線の終点で,ブラゴベシチェ
ンスクとハバロフスクを結ぶハイウェーが通る所となったが、石油の時代に変わってい
た。44年アムール石炭社などが褐炭の露天掘りが残るだけのマイナーな都市として残
っている。機械工場などもあるが、経済は沈滞気味で、人口も低下傾向にある。いかに
もと言う人口約2万5千のさびれた鉱業の街だ。

931: 名無しさんAA:18/01/04 09:54
 極寒の砂金   13                  1781年

 この少し南にクリンと言う小さな町がある。本当のクリン公国はモスクワの北に大き
くあった。クリンが記録に初出するのは1317年と早い。そこは要塞の町だった。クリン
はモスクワとトヴェリの間の争奪の対象となっており、1482年にトヴェリ大公国がモス
クワ大公国に編入されるとクリンもモスクワ大公国の一部となった。1781年にクリンは
市となり、新古典主義建築による都市計画が施行された。1851年のモスクワ・サンクト
ペテルブルク鉄道建設でクリンの産業は発展し、ソ連時代には化学工業が集積する産業
都市となった。1941年暮れ、独ソ戦のモスクワの戦いでは、クリンはモスクワに迫ると
、ドイツ国防軍と防衛する赤軍との間の激戦地となった。11月23日にドイツ軍はクリン
を占領したが、12月15日に赤軍西部戦線の攻撃により奪還された。この戦いでクリンは
大きく破壊された。クリンに位置する聖堂でも最も有名なものには、生神女就寝修道院
の一部で16世紀に建てられた生神女就寝大聖堂(しょうしんじょしゅうしんだいせい
どう)や、1712年に建てられたロシア・バロック様式の復活大聖堂がある。クリンでの
有名な住民に、作曲家ピョートル・チャイコフスキーがおり、後半生にはクリンで『眠
れる森の美女』や『くるみ割り人形』を書いた。その旧宅は現在も公開され博物館とな
っている。クリンを順えたトヴェリ大公国はトヴェリを首都として成立した、ルーシの
諸公国の一つであった。1247年に分領公国として成立しのちに大公国を称した。1485年
にモスクワ大公国に組み込まれ消滅したが、公国の地はカスピ海とバルト海をつなぐ、
ヴォルガ交易路に面し、交易路自体はトヴェリ公国成立時には多数の都市を有していた
。そのうちカシン、ミクリン、ホルム、ドロゴブージなどはトヴェリ公国に属する分領
公国を領して、カシン公国、ミクリン公国、ホルム公国、ドロゴブージ公国の首都とな
った。公国の北部はノヴゴロド共和国と接している。ノヴゴロドから見た最前線の都市
はトルジョーク、西部にはスモレンスク公国があり、その分領公国であるルジェフ公国
領を、15世紀の一時期併合して大きくなった。南部、東部にはペレヤスラヴリ・ザレ
スキー公国、ロストフ公国、モスクワ公国が位置して大きく栄えていた。生神女就寝大
聖堂は、生神女就寝祭を記憶する正教会の大聖堂だ。ロシア語の前半部のカタカナによ
る転写からウスペンスキー大聖堂あるいはウスペンスキー寺院とも呼ばれる。これは、
「永眠」を意味するロシア語で、ロシア語に代表されるスラヴ語圏とは別の言語系統圏
に属する正教会である

932: 名無しさんAA:18/01/04 09:56
 極寒の砂金   14                 1859年

グルジア正教会、ルーマニア正教会、ギリシャ正教会などでは、生神女就寝大聖堂の名
称を「ウスペンスキー大聖堂」とは呼ばす「生神女就寝」を表す為に各々の国の大聖堂
が現わす各国の語での表記を日本でも訳して用いている。生神女就寝祭(しょうしんじ
ょ しゅうしんさい)は、イイスス・ハリストスの母である 生神女のマリヤの永眠を
記念する正教会の祭日である。正教会の十二大祭の一つ。毎年8月15日に祝う。ここで
は「就寝」はギリシア語の訳語となる。ローマ・カトリック教会の聖母被昇天の大祝日
(8月15日)に対応するが、正教会ではローマ・カトリック教会のような聖母被昇天の
教義は無い。元々聖書には対応する記述がなく、伝承に基盤を持つ日で、その伝承によ
れば、マリヤはその晩年をエルサレムで、天国に入ることを望みつつも平穏に暮らして
いた。が、ある日、己の死が数日後に迫ったことを悟り、望みがかなう日が近いことを
知って喜び、家を片付け、持ち物を施して、死の訪れを待った。ただ、彼女が子とも友
とも慕うイエスの直弟子たち、十二使徒が宣教の旅にいて会えないことが残念に思われ
た。ところがその日エルサレムにトマスを除くすべての使徒たちが戻ってきたのである
。マリヤは喜び、悲しむ使徒たちを慰め、みなに別れを告げて平穏に眠りについた。三
日後トマスが到着し、使徒たちとともに墓を訪れたところ、そこに葬られたはずのマリ
ヤの身体はすでになく、天より現れたマリヤが、己が天の生命に遷されたことを告げた
。使徒たちは歓喜し、マリヤを賛美した。おそらくエルサレムで祝われるようになった
のが始まりであろう。4世紀の文献には見えず、西方では最初1月に祝われたと文献に
残る。6世紀初めから7世紀にかけて、何故だか8月15日に定着した。十字架出行祭の、
(8月1日、ユリウス暦使用教会では8月14日に相当)当日から、生神女就寝祭に備える
斎に都合が良かったのだろう。ナホトカは日本人抑留者が最初に連れて行かれたとされ
る収容所がある場所だ。1859年にロシア帝国の東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフ
=アムールスキーがこの地域を探索し、天然の良港であるこの土地にナホトカ(ロシア
語で「発見」「掘り出し物」の意味)と名付けた。1860年にこの地域が清からロシアに
割譲されると、西側のウラジオストクの機能を補完する港としての開発が始められた。
の後はソビエト・ロシア経済の停滞の影響を受け、1990年にゴルバチョフ政権がウラジ
オストクを開放した事で商港ナホトカとしての重要性は低下した。1970年代、ナホトカ
湾内のウランゲリ湾において、極東最大のヴォストーチヌイ港の建設が始まった。だが
ナホトカは、自由経済地帯の地位を得て、今でもロシアが極東に向ける重要な窓口とし
て機能している。

933: 名無しさんAA:18/01/07 00:18 ID:2Hw
 極寒の砂金    15                    1918年

シベリア出兵は1919年に「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義
名分のもと行われた。しかし、実際はソビエト政権打倒を目的としたシベリア出兵であ
り、とても日本軍には収拾不可能な戦争だった。 第一次世界大戦に出て居ない日本
の軍事力保持を懸念したアメリカは、国連軍として陸軍主力を派遣しシベリア出兵に、
主力になるように打診した。日本政府側は、出兵という点では一致していた。しかし、
積極的出兵論と消極的出兵論で対立していた。積極的な出兵論は、イギリスやアメリカ
の考え方に関係なく日本は主体的に大規模に出兵を断行せよ。という意見で参謀本部や
外相の本野一郎や内相後藤新平の出兵論であった。対して消極的な出兵論は財政を預か
って政局運営していた、元老山県有朋や憲政会総裁の加藤高明や立憲政友会総裁の原敬
達などの、責任ある者の重鎮達だった。対米協定に基づいた出兵であった為見解が分か
れたまま対米協定に流される様に妥協が形成され、出兵に踏み切った。兵力7万3千人
(総数)を送り込み、4億4千万円から約9億円に跳ね上がった戦費で、当時の巨額な
外債と外資を保全を必要となった。結果3,333人から5,000人の死者を出し撤退したもの
の最終的には同盟国に置き去りにされた形でより死者がでた。アメリカ軍が 7,950人で
、イギリスが1,500人、カナダが4,192人、イタリアが1,400人の兵力を投入した事に比
べ如何に大きかったかが解る。ソビエト・ロシア側の兵力・死者・損害は現在でも尚も
不明のままだ(後述する1920年「四月四・五事件」だけでも5,000名以上が殺害された

934: 名無しさんAA:18/01/07 00:19
不明のままだ(後述する1920年「四月四・五事件」だけでも5,000名以上が殺害された
とされる)。また別資料では、死傷者8万人、6億ルーブル以上の被害とされる。現実的
にはソ連軍との戦闘ではなく現地人の殺害に終始していて日本は壁だった。レオナード
・ハンフリーズは「当時の日本側の事情として、領土獲得への野心、日露戦争後に失っ
た利権の奪還、地政学的な理由(日本はロシアと地理的に近く、さらに日本の利権が絡
んだ満州、日本統治下の朝鮮半島は直接ロシアと国境を接していた)等の他、政治的・
イデオロギー的な理由もあった。すなわち、日本の政体(国体)である天皇制と、革命
政権のが相容れない以上、共産主義が日本を含めた同地域に波及することを何としても
阻止する必要があったのである。」と記述する。1919年1月から既に、労働者・農民な
どで組織されたパルチザンによる遊撃戦に苦戦していて。次第に交通の要所を確保する
のが精一杯の状態で、度重なるパルチザンのゲリラ攻撃に可能性が有る村落への懲罰攻
撃しかやれなかった。「師団長の指令に基いて」の残虐行為だった。この時、日本軍は
無謀にも米国や英国にそそのかされて、諜報や諜作に揺り動かされて方針が決まらない
まま出兵させていたツケだった。実は連合国はその頃70兆円〜300兆円といわれる
ロマノフ王朝の財宝接収のみが目的で日本側は全く知らない所だった。従って、10倍
の兵員は米英国の動きや連合国司令や命令と日本側の意志とは全く異なり、異様な状態
で、悲劇のみが残る戦争となった。その上ロシアの体制や気性すら知らなかった。

935: 名無しさんAA:18/01/07 00:20
 極寒の砂金   16                  1919年代

 1919年2月中旬、歩兵第十二旅団長山田四郎少将は「師団長の指令に基き」次のよう
な通告を発している。「 第一、日本軍及び露人に敵対する過激派軍は付近各所に散在
せるが日本軍にては彼等が時には我が兵を傷け時には良民を装い変幻常なきを以て、其
実質を判別するに由なきに依り今後村落中の人民にして猥りに日露軍兵に敵対するもの
あるときは日露軍は容赦なく該村人民の過激派軍に加担するものと認め其村落を焼棄す
べし。 」 またウラジヴォストーク派遣軍政務部長松平恒雄の内田外相宛の電報「別電
一五九号」には次のように記されている。「最近州内各地に於いて過激派赤衛団は現政
府及日本軍に対し、州民を煽動し向背常なく、我軍隊にして其何れが過激派にして 何
れが非過激派なるか、の識別に苦ましめ秩序回復を不可能ならしめつつあるが斯くの如
き状態は、到底之を容すべからざるものと認め 全黒竜州人に対し左の通り通告す。
一、各村落に於て過激派赤衛団を発見したる時は広狭と人口の多寡に拘らず之を焼打し
て殲滅すべし 。」と こうして同年1月アムール州「マザノヴォ」という村では日本軍
「現地守備隊」の掃討作戦に耐えかねたパルチザンが蜂起したが、近隣の村落も巻き込
んで大規模な戦闘が始まり、日本軍は零下42℃という過酷な気象条件のため一時撤兵し
、村は一時赤軍パルチザンにより解放された。しかし「守備隊長マエダ大尉(前田多仲
大尉)の率いる討伐隊が再度来襲し、道すがら手当たりしだい村々を焼き、農民を虐殺
し、蜂起民が逃げ散った「マサノヴォ」を再占領。さらに「ソハチノ」という近隣の村
に到着するや、女子供も含む逃げ遅れた村民全てを銃殺し、村を徹底的に焼き払った。
とされ、この内、日本軍の『出兵史』に「 同地には我が守備隊よりの掠奪品を隠匿し
ありしを以て懲膺の為過激派に関係せし同村の民家を焼夷せり」とあり、掠奪、ゲリラ
作戦への懲膺を理由として村の全民家を焼夷したと記されている。同年2月13日インノ
ケンチェフスカヤ村における掃討作戦では、「同日第12師団第3大隊第8中隊は同村
を早暁襲撃し、パルチザンが逃亡したのち、女子供を含めた無抵抗の村民をパルチザン
のシンパとみなして手当たり次第に百名以上刺殺・銃殺し、他方で将校や下士官は日本
刀による据え者切りなどを行った。その後、物品略奪・食料徴発・家屋放火などの蛮行
を行った。」と報告し、「組織的な虐殺・略奪はパルチザンに対する報復措置であると
同時に、敵愾心にももとづく」とする意見がある。また同年3月22日にはイワノフカ村
「過激派大討伐」を敢行しイワノフカ事件を起こしていた。


936: 名無しさんAA:18/01/07 00:20
 極寒の砂金    17                 1920年代

 同村はもともとボリシェヴィキ派の勢力が強く、反革命派の武装解除要求にも従わな
かった。そこで ロシアの反革命派は日本軍の応援を頼み、この村を強制的に捜索し、
武器の押収、革命分子の逮捕・銃殺を行う事になった。しかしこうした抑圧政策は村民
を憤激させ、逆にボリシェヴィキ派勢力をより多くさせる結果となり、この情勢を察知
した日本軍「討伐部隊」は1919年2月25日に襲撃を再開したが、地形を熟知したパル
チザン部隊によって追い詰められ、田中勝輔少佐率いる歩兵第72連隊第三大隊は同月26
日「最後の一兵に至るまで全員悉く戦死」したとされる。アムール州中部地方第12師
団歩兵第12旅団(師団長大井成元中将)は不名誉な敗北の汚名をそそぐべく「過激派
大討伐」作戦を敢行。しかしパルチザンに対する数度の作戦は全て失敗し損害を拡大さ
せて終わった。そこで同旅団は「村落焼棄」へと作戦を変更。ウラジヴォストーク派の
遣軍政務部が事件後村民に対して行なった聞き取り調査にもとづく報告書の一節には「
本村が日本軍に包囲されたのは三月二十二日午前十時である。其日村民は平和に家業を
仕て居た。初め西北方に銃声が聞へ次で砲弾が村へ落ち始めた。凡そ二時間程の間に約
二百発の砲弾が飛来して五、六軒の農家が焼けた。村民は驚き恐れて四方に逃亡するも
のあり地下室に隠るるもあった。間もなく日本兵と『コサック』兵とが現れ枯草を軒下
に積み石油を注ぎ放火し始めた。女子供は恐れ戦き泣き叫んだ。彼等の或る者は一時気
絶し発狂した。男子は多く殺され或は捕へられ或者等は一列に並べられて一斉射撃の下
に斃れた。絶命せざるもの等は一々銃剣で刺し殺された。最も惨酷なるは十五名の村民
が一棟の物置小屋に押し込められ外から火を放たれて生きながら焼け死んだことである
。殺された者が当村に籍ある者のみで二百十六名、籍の無い者も多数殺された。焼けた
家が百三十戸、穀物農具家財の焼失無数である。此の損害総計七百五十万留(ルーブル
)に達して居る。孤児が約五百名老人のみ生き残って扶養者の無い者が八戸其他現在生
活に窮して居る家族は多数である。」とある。こうして特にその中核である日本軍がバ
イカル湖西岸までにいたるシベリア鉄道沿線を中心とするロシア極東地域を占領して行
った。しかし日本が支持した白軍の主力たるコルチャーク軍が1920年1月、赤軍ならび
にパルチザンの攻勢により瓦解すると、アメリカの圧力等も加わり 日本政府の態度は
動揺を始め、シベリアからの撤退も検討されはじめた。



937: 名無しさんAA:18/01/07 00:21
 極寒の砂金   18
 他方、ソビエト政権は国内行政機構および経済機構の混乱のため、ならびにポーラン
ドとの間に高まりつつある戦争の脅威のため、日本との直接対決を避ける必要があった
。また辺境地帯に対する自治または独立の承認(例えば、ポーランド、バルト三国、フ
ィンランド、ベッサラビア等)は、ボリシェヴィキ政権の政策と実践に硬く根を下ろし
ていたために、ブルジョア民主主義を掲げた緩衝政権の樹立を構想し、クラスノシチョ
ーコフを首班として、社会革命党などの協力を得て成立させるに至っていた。しかし、
コルチャークと戦った指導的な赤軍将校ブリュヘルが共和国軍の最初の司令長官となっ
たことからも明らかなように、実際にはボリシェヴィキの影響力が強く、占領を続ける
日本軍との対決を続けた。その後、1922年10月にウラジオストクの陥落後、日本は、北
サハリンを除く地域から撤退。この共和国は存在意義を喪失し、ソビエト政権へ統合さ
れる事となった。この時日本軍は4つの失敗を犯していた。一つはアメリカと共に進軍
しているにも関わらず全く無計画で無謀な出兵だった事だ。二つ目は未だロシア帝国の
影響のない村が多かったと言う現状が見えて無かった事だ。そうして案内ないし要請を
する住民がボリシェヴィキ派なのか帝国派なのか赤軍派なのかは全く不明であった事だ
。つまりは味方として日本軍に加わった現地兵は村民を皆殺ししなければ自分の命が危
なく、村から戦争を連れて来たと非難される地位にあったのだ。この三つに加え惨殺や
処刑した事で村民を又敵にしてしまった事が更に失敗であった。この失敗の連鎖は南洋
での第二次世界大戦と同じだった。ザバイカル共和国はチタの北側に位置する日本が作
った最初の属国だった。バイカル湖はシベリヤ南部の湖で、モンゴルの首都ウランバー
トルの北1,000kmくらいのところに位置してます。世界で一番深い湖で傍に、バイカル-
アムール鉄道というのがあって、文字通りバイカル湖の北岸からアムール川下流のコム
ソモリスク・ナ・アムーレまでをつないでいるロシアの極東の鉄道がある。1852年12月
、専制政治に対応して暴動を起こした十二月党員デカプリストの一人が、牢獄から逃れ
バイカル湖にたどり着きます。舟でさらに故郷に向かいながら歌ったものです。しかし
、家にやっとの思いでたどり着くと、もう、家族は死んでいた、というストーリーが続
きます。ザバイカルと言う歌が作られたとされる。しかしこの悲劇の前には、農民から
も水兵からも囚人からも慕われたムーヒンやクラシノシチョコフと肝胆相照らす仲のア
レクセーエフスキーなどが、極東共和国より前に自治国体制で、国連や日本が支援さえ
すれば、極東の平和国家として成り立っていたのだ。だが欲深い連合国は中国の様な、
棚からこぼれ出る財宝を虎視眈々と狙ってバルト三国に主力部隊を極東に予備部隊を送
って待ち構えていたのだった。

938: 名無しさんAA:18/01/07 00:21
 極寒の砂金   19                 1920年代

ロシア革命干渉戦争では、日本の他に、米・英・仏・伊・中・カナダの各国がシベリア
・極東地方へ軍隊を派遣しているが、日本以外は1920年初頭にほとんどが撤退した。し
かし、日本だけはその後も大軍の居座りを続けていた。1920年3月、コルチャーク軍を
撃破して極東へ進撃してきた赤軍部隊は、ヴェルフネウヂンスクの占領後、これ以上東
へ向って進むことができなくなった。日本軍が集結していたチタを攻撃すれば、日本軍
と衝突することになり、日本とソヴェト共和国との公然の戦争となることは明らかであ
ったからである。当時、ポーランドと軍事的緊張状態にあったソヴェト政府としては、
極東での混乱を回避したかった。2個師団程度の赤軍で日本軍に対抗することは困難で
あり、日本軍との直接の戦闘がはじまれば、日本はより大量の軍を派遣できることを承
知していた。そこで、ロシア共産党中央委員会とソヴェト政府は、日本軍との直接的な
軍事衝突を避けるため、その緩衝の役割を担う 「緩衝国家」 を設立することを決めた
。これによって、日本軍との間に停戦条件を協定し、中立地帯を定めて、バイカル湖の
西への日本軍の進攻を食い止めようとしたのである。このロシア革命干渉戦争は日本で
はシベリア出兵とされる。ザバイカルはその少し前の清朝末期に起った排外運動である
は、1898年「義和団の乱」 と呼ばれる大乱になった。 1900年(明治33年)に義和団の
乱が起こり北京・天津に波及し、保守排外的な傾向に傾いていた清国政府が倒れる頃の
話である。当時「扶清滅洋(清をたすけ西洋を滅ぼす)」をスローガンとした義和団が
立ち上がった事で清国政府はその後押しをて、列国に対して宣戦を布告した。直ぐさま
、列強8か国(ドイツ・イギリス・フランス・ロシア・アメリカ・イタリア・オースト
リア・日本)は連合軍約2万でこれを鎮圧したのである。こうして清王朝は格段の不条
理な条約が飲まされた。内政反乱である義和団事件と海外列強に押され都落ちする西太
后の北清事変である。この北京の他に満洲では、これを契機に満洲侵略を目論むロシア
軍と清国軍が衝突していたのである。此処ではアムール河(黒龍江) を哈爾浜(ハルビン
) に向って航行中の軍需品を満載したロシア船舶が愛暉の河岸近くで清国兵に銃撃され
たことに対してロシア軍の報復が始まり、1900年7月16日、ロシア領内にいたと
言う3千の清国人を老若男女を問わず虐殺してアムール河に投げ込んだのだ。石光真清
はこのときの惨状を「惨殺死体が筏(いかだ) のように黒竜江(アムール) の濁流に流さ
れれた。」 と大きな悲しみとため息をついて表現している。


939: 名無しさんAA:18/01/07 00:22
 極寒の砂金   20

 その日以降はこの境界では兵が対峙したが惨劇は止まず、「ブラゴヴェヒチェンスク
の大虐殺」、「アムール河の流血」 事件、「黒龍江上の悲劇」 として語り継がれてい
る。その後の露満国境でのロシア軍による清国軍掃討によって、その数2万5千とも言
われる避難民が虐殺された。だが北京紫禁城では既に西太后が追われて、北清事変は終
わり、1901年(明治34年)9月に北京条約の最終議定書が結ばれた。そしてちゃっかり
とロシアはアグイン条約である国境線画定を行ったのである。この義和団事件では事件
の首謀者たる者は捕まらなかった。日本でもシベリアのウラジオストックやハバロスク
や尼港(ニコラエスク)に乾物やら毛皮などの商売で移住して生活している者も数多く
いた。その中で義和団事件以降のロシア人が赤化し反政府主義から共産党ボリシェビキ
の蛮行が始まっていた。しかし中国清朝政府は何ら構う事はなかった。西太后は北京か
ら逃走する途中で義和団を弾圧する上諭を出したが、同時に列強との和議を図るように
李鴻章に指示を出していた。そして次のことばを用いている。「中華の物力を量りて、
與国の歓心を結べ」(「清朝の〔そして西太后の〕地位さえ保証されるなら金に糸目は
つけるな)と。列強との交渉は慶親王奕及び直隷総督兼北洋大臣に返り咲いた李鴻章が
担ったが、敗戦国という立場上列強の言いなりとならざるを得ず、言われるままの条約
締結に至った。この義和団の乱の責任は端郡王載や剛毅ら数人の重臣と地方官僚50人
ほどに帰せられ、処刑もしくは流刑を言い渡された。いずれも宦官の下で働くものであ
り、反乱軍制圧ではなく反乱軍制圧出来なかった罪とも言えた。1901年9月7日に締結さ
れた北京条約は先に結んで破棄に至ろうとした天津条約の数十倍の物で、英国に香港島
仏国に越国割譲が更にロシアにはアグイン条約で清露両国の雑居地であった外満州(現
在の沿海州)を、正式にロシアに譲る事や日本海沿岸と朝鮮半島の権益の放棄があり、
5港開港から更に10港開港と増やされ治外法権の確立や外国船の安全な自由航行権や
人の自由移動権がなされ布教活動も港湾都市以外に自由布教が認められた。賠償金も又
巨大になり4千万両から4億5千万両、利息を含めると9億8千万両にも上った。この
過酷な賠償金は交渉に向かった公使の使節11人がそのまま拉致され拷問の上殺された
遺恨があった為だった。他にも義和団に惨殺させられた人の慰霊金も含んでいた。更に
占領直後から連合軍による略奪が開始され、紫禁城の秘宝などはこれがきっかけで中国
外に多く流出するようになり、連合軍の暴挙によって王侯貴族の邸宅3年かけた頤和園
などの文化遺産が掠奪・放火・破壊の対象となって、奪った宝物を換金するための泥棒
市が立つほどであった。と言われる

940: 名無しさんAA:18/01/07 00:25
 極寒の砂金   21

 此処で人々が考えるべきは、この清王朝の金庫が銀の山がアロー号事件以来、英国に
持ち去れている事だ。1860年、連合軍は北京を占領し、10・11月にロシア公使ニコライ
・イグナチェフの調停の下に、英仏遠征軍司令官と恭親王との間に北京条約が締結され
た。この条約により清は、天津の開港、イギリスに対し九竜半島の割譲、中国人の海外
への渡航許可などを認めさせられた。1856年の夏には、日米和親条約の規定に基づき、
アメリカ合衆国の領事であるタウンゼント・ハリスが、伊豆の下田に着任した。ハリス
は、日米修好通商条約の締結に当たって、アロー戦争とインド大反乱を引き合いにしつ
つ、イギリスが日本に出兵する可能性をほのめかして、江戸幕府に圧力をかけ続けた。
又その後のロシアとのアイグン条約以後の2年間で、清露両国の雑居地であった外満州
(現在の沿海州)を、正式にロシアに譲る事になった。特にロシアは沿海地方に軍港の
ウラジオストックを建設してロシア太平洋艦隊を常駐させ、シベリア鉄道建設を行い、
大規模な兵の陸送を迅速化させようと計画し実行していた。この事は後の日露戦争の原
因ともなった。その後もロシア革命時のシベリア出兵(1919年)では極東共和国の成立
もあった。極東共和国は1920年3月の革命前夜に、赤軍の征東を止めたコルチャー
ク将軍が作ったロシア白衛軍の自治国であったが当時、この辺の開発にロシア皇帝は、
清国政府の開発に危機感を抱き、スラブのユダヤ民族を送って極寒の地の開発を行って
いた。革命政府の赤軍は撃破して極東へ進撃してきたが、ヴェルフネウヂンスクの占領
後、これ以上東へ向って進むことができなくなった。当時、ザバイカル州以東に数万の
強力な日本軍が散在して駐留しており、日本軍部隊が集結していたチタを攻撃すれば、
日本軍と衝突することになり、日本とソヴェト共和国との公然の戦争となることは明ら
かであったからである。極東共和国は、1920年4月6日にヴェルフネウヂンスクで、そ
の成立が宣言された。7月27日に極東共和国の臨時政府は、「極東共和国の国体である
新しい共和制に、外見上相応しい紙幣を以って、共和国内に流通している各種様式紙幣
と交代するため」、新しい様式の紙幣として、極東共和国信用券を額面1、3、5、10
、500、1,000ルーブルで発行し、コルチャーク政権下で発行された 「シベリア紙幣」
などの旧来の紙幣の流通を停止して、それらの旧紙幣200ルーブル当1ルーブルの引換を
相場で無条件に引き換えた。これらの新しい様式の紙幣は、流通地域が日本軍との緩衝
地帯となっていたため、一般には 「緩衝紙幣」 と呼ばれた。 こうした流れである。

941: 名無しさんAA:18/01/07 01:58
 極寒の砂金   22

露清銀行(ろしんぎんこう、中国語: 華俄銀行)は、ロシア帝国の中国(清王朝)にお
ける権益を代表するために設立されたフランスの銀行銀行だった。1894年に露仏同盟が
締結された上、下関条約の賠償金を払うために清国が借款を募集した際に、それを露仏
銀行団が引受けた。これらを契機として設立された露清銀行は、目的を露清間商取引の
決済やシベリア鉄道の完工などとした。創業資本金は六百万ルーブルである。そのうち
5/8 がオタンゲルなどのオートバンクとベルギーのソシエテ・ジェネラルによる出資で
、3/8 がディスコント・ゲゼルシャフトからロシア系銀行家を通して払い込まれたもの
であった。パリバとクレディ・リヨネもフランス側出資団に参加した。上述の出資割合
にかかわらず、露清銀行は定款で業務において相当部分にロシア蔵相の認可を必要とし
た。1896年9月8日、許 景澄と サンクトペテルブルクで東清鉄道の敷設に関する協約を
結んだが、この鉄道会社に露清銀行が資本金五百万ルーブルを全額出資し、鉄道の建設
を取り仕切ることが決められた。一方清国では鉄道経営に参加するため五百万の庫平銀
を露清銀行に出資して、年末に全額を払い込み何とか清が参加した。だが後で資本金は
九百万ルーブルとして主権をロシアは保持し、準備金二十八万ルーブル、総資産三千八
百八十二万ルーブルに伸ばし、支店は国内外に18ヶ所を展開した。露清銀行は1898年
の京広線契約と敷設借款に関するベルギー資本や債権を預かり、清国の金融取引を担い
ベルギーの関係したため、2年後クレディファイナンスからフランス人取締役が任命さ
れた。こうして1898年6月、1万2000株の増資を決定、さらにそれをロシア帝国国立銀行
が全て引受けて1900年6月 においてロシア勢は4割、フランス勢は2割の株式を保有す
る。この時フランス勢からソシエテ・ジェネラルとクレディ・リヨネは脱落している。
代わりに李鴻章やホープ商会が加わり、ディスコント・ゲゼルシャフトなどのドイツ個
人銀行が名簿に出てきている。ホープ商会は南海泡沫事件を生き残ったオランダ企業で
当時南海銀行が奴隷貿易や富くじなどで勢力を伸ばしイングランド債を時価総額で株式
交換すると言う荒業をやった。時価が高い為投資家は額面で買い付けそのまま株式を額
面買い取りした。つまり20円の時価なら10円の額面英国債を買えば株に交換し10
円の原価と10円の額面株価が残ったのだ。ところが3年後南海銀行はつぶれて銀行の
連鎖破綻が起こった。バブルだった。リスキーな国内事情の中でホープ商会だけ残った


942: 名無しさんAA:18/01/07 01:59
。露清銀行は、ロシア勢のイニシャティブで同じパリバの由来のインドシナ銀行とは、
中国市場を分割しあうような競争を展開した。インドシナ銀行は植民地用の事業投資の
銀行だったが事業シンジケートが存在し始めてその競争から競う事になったのである。
その後、露清銀行は、勧業銀行の協力で長崎に続いて横浜と神戸に支店を開いた。資本
は長崎5万円に対し横浜・神戸がそれぞれ20万円であった。1904年2月上旬 日露戦争
の開戦で日本の全支店を閉鎖した。翌年12月に横浜支店再開。1920年に神戸支店再開。
長崎はついに再開せず。長崎ではホーム・リンガー商会へ代理店を委嘱して退去した。
江戸が開かれた当時は、一匁で人は暮らしていた時代だ。一銭銅貨で家が建つと言われ
る程物価は安かった。だが国外の金銀の交換レートは1ドル=1円=1ルーブルである
。如何に安い日本の金銀が高く海外で売られていたかが解る。更に金換算量で更に0.
5=1.5=0.85程度であった如何にドルやポンドの信用があったかが解る。南の
方でのインドシナ銀行と近代の中国分割を競った北の露清銀行は、創設時にパリ割引銀
行の上海支店を吸収したが、用に足りず外灘29号のインドシナ銀行ビルでも経営を行
っていた。1898年インドシナ銀行と営業圏住み分けを協定し、翌1899年に15号地を購入
、1902年までに中華人民共和国上海市外灘地区に位置するイオニア式建築物を建てた。
上海では番地で呼ばれることも多く外灘15号とも称される。広さは5018m2。で新古典
主義建築的な構造をしている。三階建て。イオニア式の円柱で装飾されて立派である。
その後1926年に露清銀行は世界不況に勝てず、1910年8月 北方銀行と合併し露亜銀行と
して倒産した。ロシア革命により支店が整理統合された折は、1917年12月の法令で露亜
銀行は2ヶ月ほどかけて国立銀行に編入された。ペテルブルク国際銀行も同様である。
露亜銀行資本金の3/4を保有するフランス資本は 死に物狂いであった。義和団事件の債
権の賠償金がボリシェビキに渡らぬよう中華民国に弁済を要請した。他に中国関税収入
協定の香港上海銀行の1/3の権益、1916年 に契約した東清鉄道敷設経営借款引き受けの
確保などだが、シベリア出兵と並行して銀行経営が分裂し、結果としてパリ支店が本店
に格上げされて終わった。又1924年9月22日、張作霖 が勝手にソ連と協定した事で、露
亜銀行が決めていた東清鉄道の経営陣がソ連政府の派遣したメンバーにそっくり変わっ
た。これをきっかけに満州支店では取り付け騒ぎとなり、年明けに資金は枯渇しのだっ
た。これによりもはや銀行業務や利益をフランス資本に取り戻すことは困難となって、
フランス人役員はロシア人に席を譲る事になった。


943: 名無しさんAA:18/01/07 02:36
 極寒の砂金   23                    1907年から

 オリエンタル・バンク張りの経営拡大を見せた露清銀行だったが、1903年に極東支店
の放漫経営が視察により明らかとなった。日露戦争中も1割近い配当を出すほど利益を
あげた。1907年恐慌で経営危機に陥いり経営危機を自力で切り抜けることが不可能にな
る。こうして露清銀行は、他行と合併での打開を考えた。まず、シベリア商業銀行との
合併が検討されたが、最終的に実現しなかった。1909年のシベリア商業銀行頭取は同行
創設者の息子であり、過去には露清銀行で会計係を務めていた。露清銀行はコネクショ
ンを頼ってシベリア商業銀行を模索した。1872年6月 に資本金を二百四十万ルーブルで
エカチェリンブルクに設立されたロシアの貴族用投資銀行だった。こうして増資を繰り
かえして1909年1月 には1千万ルーブルとなった。新株のプレミアムが充当され積立金
は五百万ルーブルになり、さらに特別積立金が百三十万ルーブルあった。主要株主は、
ドイツ銀行であり、議決権はドイツのユダヤ資本が握っていた。だが1909年10月にシベ
リア商業銀行との合併案は決裂に終わった。翌月から北方銀行との合併が検討されるよ
うになった。北方商業銀行におけるコネクションは、設立時に 経営委員会はロシア人
が占めるものの、役員会はソシエテ・ジェネラルの支配下にあったからだ。北方銀行も
ソシエテ・ジェネラルのロシア子会社であった。1901年9月18日 に資本金五百万ルーブ
ルでサンクトペテルブルクに設立されて、パリバとパリ連合銀行の協力も得て1906年に
資本金を倍増させた。同年から露ウェスティングハウスによるサンクトペテルブルクの
市電の敷設をファイナンスし利益を得た。そして1909年までに49もの支店を次の地域
に展開し、サンクトペテルブルク周辺の他、南から順にウズベキスタン、アゼルバイジ
ャン、ジョージア、モルドバ、ウクライナ、ベラルーシ、リトアニア、ラトビア。その
後の中央アジアに事業を展開していた。1910年8月 北方銀行と合併し露亜銀行となり、
役員を露仏でほぼ半数ずつ分け合った。しかし重要ポストは、やはりフランス勢が占め
ていた。そして、ロシア軍事産業の基幹部を次々と支配下におき、顧客にバクー油田の
石油会社やシベリアの金鉱山会社などをもつ様になった。こうして裾野が広い営業を展
開し、1911年にレンスキー金鉱山会社の株式を購入し、もともと、経営に参加していた
ギンツブルク商会とシンジケートを組んで株式分割し、後に露亜銀行はペテルブルク国
際銀行と共にレンスキーの経営を掌握した。英国と米国の独立戦争には、フランス銀行
が大きく関わってアラスカの売買交渉をまとめた。



944: 名無しさんAA:18/01/07 02:39
 極寒の砂金   24                 1917年代

 やがてロシア革命により支店が整理統合された。1917年12月に出された法令で露亜銀
行は2ヶ月ほどかけて国立銀行に編入された。ペテルブルク国際銀行も同様であった。
露亜銀行資本金の3/4を保有するフランス資本は死に物狂いになった。まず 義和団事件
の賠償金がボリシェビキに渡らぬよう中華民国に弁済を要請した。他には次を例とする
権益を守らなくてはならなかった。中国の関税収入を協定により香港上海銀行と露亜1
対香上2で分け合うもの、そして1916年に契約した ハルビン-ブラゴヴェシチェンスク
間鉄道の敷設経営借款引き受けといったものである。シベリア出兵と並行して銀行経営
が分裂し、結果としてパリ支店が本店に格上げされた。1924年9月22日、張作霖 がソ連
との協定を勝手に進めたので、露亜銀行が決めていた東清鉄道の経営陣が ソ連政府の
派遣したメンバーにそっくり入れ替わる事件が起きた。これをきっかけに満州支店で取
り付け騒ぎとなり、年明けに資金は枯渇した。これによりもはや銀行をフランス資本に
取り戻すことは困難となり、フランス人役員はロシア人に席を譲るようになった。1926
年9月26日 パリの外為市場で五百万ポンドの損失を出して、2日後には露亜銀行は清算
される事になった。1917年、ロシア帝国で革命が起こり、内戦が始まった。アレク
サンドル・コルチャーク提督は、ボリシェヴィキと戦ったグループの一つを率いていた
。その為白衛軍を指導出来ていた。1918年、コルチャーク提督はロシアの最高執政
官となり、そして国の金準備の大部分がコルチャーク提督の手にわたったといわれる。
第一次世界大戦前では、ロシアは金準備高で世界第3位だったのだ。だが、まもなくし
てコルチャーク提督は逮捕され、銃殺された。しかしコルチャーク提督の持っていた金
準備金塊は、約2億3600万ルーブル分が不足していた。これらがどこへ消えてしま
ったのか、研究者たちは謎として調査している。古文書によると、金の一部を軍事に費
やした。とも言われるが一部は盗まれた、またコルチャーク提督が隠したなど、黄金に
まつわる伝説はたくさん存在する。さらには、黄金はバイカル湖の底に眠っている、あ
るいはシベリアの町チュメニあるいはスルグトに隠されているとも言われているほかに
、シベリアの小さな町タイガ近郊に隠されたという伝説もある。こうしてフランスから
出てベルギーからフィンランドなどのバルト三国の資本家に下ったのは、ロシア皇帝の
貯めていた財宝を安全な国の下に秘密裡に確保したいと言う問い合わせだった。と言わ
れる。

945: 名無しさんAA:18/01/07 03:07
 極寒の砂金   25                    初めに

 今やロシアでは、ロマノフの財宝以外にも平均して約2年に1回は「とある秘宝が見
つかった!」というニュースが飛び込んでくるそうだ。最近では、今年3月に、サンク
トペテルブルクの 大貴族ナルイシキン家の元邸宅で、銀器など数千点が見つかった。
と言うのが記憶に新しい。ロシアで今も捜索されている未発見の秘宝ご紹介しようとも
思うのだが、この極寒の地が広大な国土を持ち、そして戦乱に陥り、政変や革命などが
打ち続いた激動の歴史を持っている。と知る日本人は少ない。こうした時、人々はしば
しば金や財宝を地中に埋めたのだ。ロシア革命後に亡命したと言う「ナルイシキン家」
の秘宝がいい例だろう。銀行制度の発達が西欧より遅れて、更にこうした交通の便すら
気候に左右された不便な生活環境では、体制への疑心暗鬼とタンス預金した自らの財宝
の管理の傾向は助長された中にあった。恐らく、実際には、この手の秘宝はもっと頻繁
に見つかっているのであろう。と思われる。発見者が口をつぐんでいると考えられるか
らだ。これには、国家と体制更に発見者との法的分配方法が関係している。ロシアの中
の法律では、財宝が見つかった場合、土地所有者と発見者が半分ずつ折半する。もし、
それが文化財、歴史的遺産としての価値をもつ場合には、半分が国家の所有となり、残
り半分を地主と発見者が分け合うことになる。ところが、この財宝の評価額の定め方に
は問題があり、発見者はふつう、実際の価値のごく一部しかもらえない。更に巨大な秘
宝や財宝が見つかったとしても 公けにする前に地方では噂され噂の中心人物が秘密理
に暗殺される場合も多い。共産主義の国家では報道関係者ですらもある種の事件の取材
は知らぬ間に身の危険が迫っている事が多々ある。つまらない些細な雑事の事件で大ぴ
らに、駐車していた車が勝手に盗まれようとして爆破した事さえ多い。だが、とまれ、
宝を隠す人々、探し続ける人々は絶えない。目当ては金だけではない。歴史のロマンが
宝探したちを引き付ける。彼らはいつの日か、数十年にわたって捜索されてきた秘宝を
掘り当てることを夢見ているのだ。だがここいらで、少しこのロシアに於ける歴史的な
事情を知る事も大事な一面でもあろうと 此処に少しこうした財宝事件の裏の国家事情
の背景を見てみようと思う。

946: 名無しさんAA:18/01/09 23:37
 極寒の砂金   26

ロマノフ王朝は、1613年から1917年までロシアに君臨したロシアの歴史上最後の王朝で
あった。1613年にロマノフ家のミハイル・ロマノフがロシア・ツァーリ国のツァーリに
即位して成立した公国だった。ツァーリはロシアタタール族の言葉で皇帝を意味し、こ
の地のロシア正教の守護者として当初雷帝がこのロシア皇帝と名乗ったとされている。
。その後1721年にピョートル1世がインペラトール(全ロシアの守護主)を名乗り
体制をロシア帝国に改め西欧化を推進し、1917年にロシア革命で滅亡した。政体として
はロシア王国とロシア帝国に分かれ、首都はモスクワからサンクトペテルブルク(ペト
ログラード)に遷っている。また王家はロマノフ家からドイツ貴族のホルシュタイン=
ゴットルプ家に男系が移っており、ピョートル3世以降はホルシュタイン=ゴットルプ
=ロマノフ王朝と呼ぶのが正しいとされる。このように歴史学上では区分されているが
、1913年に「ロマノフ王朝三百年祭」が挙行されるなど、ミハイル・ロマノフからニコ
ライ2世まで連綿と続いた王朝であるという認識を当時の人々は持っていた(ハプスブ
ルク家とハプスブルク・ロートリンゲン家、ハノーバー朝とウィンザー朝)。現在でも
単に「ロマノフ朝」といえば「ミハイル・ロマノフからニコライ2世まで連綿と続いた
ロシアの王朝」と指すのが一般的である。
1613年 ミハイル・ロマノフがリューリク家のイヴァン4世の後継者として皇帝(ツァ
    ーリ)となる。皇位継承問題でスウェーデン王やポーランド王が皇位継承を
    主張したが、ロシア人による継承が決定し、ロマノフ朝が開始された。
1652年 モスクワ総主教ニーコンにより、ロシア正教会の奉神礼を同時代のギリシャ系
    正教会に合わせる改革が始められる。この改革以降、反発した保守派が古儀式
    派を形成していく。
1654年 ポーランド領に侵攻。ポーランドでは、「大洪水時代」と呼ばれ、北東欧州
    では、北方戦争の時代に入る。
1682年 ピョートル1世即位、ただしイヴァン5世と共同統治。
1689年 ピョートル1世、イヴァン5世を廃し単独即位。
1697年 カムチャツカ半島を領有。シベリア遠征の終了。
1700年 大北方戦争( − 1721年)。
1712年 ピョートル1世、帝都をモスクワからサンクトペテルブルクに遷都する。


947: 名無しさんAA:18/01/09 23:38
 極寒の砂金   27

1721年 大北方戦争に勝利したピョートル1世、元老院から戴冠され、大帝となる。
1721年 ピョートル1世により、モスクワ総主教庁が廃止される。代わって俗人の統括
    する聖務会院が置かれロシア正教会を統括。ツァーリによる教会統制の完成。
1755年 エリザヴェータ女帝、モスクワにモスクワ大学を建てる。
1762年 エカチェリーナ2世即位。啓蒙主義をとる。
1772年 ポーランド分割開始( − 1795年)。
1780年 エカチェリーナ2世による武装中立同盟。アメリカ独立革命。
1801年 アレクサンドル1世即位。
1811年 アレクサンドル1世がナポレオン1世の大陸封鎖令を拒否。翌年ロシア遠征。
1815年 ナポレオン戦争に勝利。ウィーン体制。
1825年 デカブリストの乱。
1853年 クリミア戦争( − 1856年)。
1861年 アレクサンドル2世が農奴解放令発布。
1878年 露土戦争でオスマン帝国に勝利。バルカン半島の覇権を握る。
1881年 アレクサンドル2世暗殺。
1891年 ニコライ皇太子(後のニコライ2世)、日本で襲われる(大津事件)。
1905年 1905年革命、血の日曜日事件起きる。
1914年 第一次世界大戦勃発。連合国側に参戦。
1917年 ロシア革命勃発。ニコライ2世退位。ロマノフ朝滅亡。
1918年 革命軍により逮捕。皇帝一家銃殺され帝室断絶。
2008年 ロシア連邦最高裁判所、ロマノフ家の名誉回復を認める
1600年代にロシアのロマノフ朝の繁栄を出現させた皇帝のピョートル大帝以降に。
ロシアの専制君主政治であるツァーリズムの体制を完成させ、ロシアの大国化路線は、
18世紀後半のエカチェリーナ2世に継承されていた。

                         <ロシア皇帝 物語 03>


948: 名無しさんAA:18/01/09 23:38
 極寒の砂金   28

 この中でアレクサンドル2世( ロシア語:アレクサンドル・ニコラエヴィチ・ロマノ
フ)は、ロマノフ朝第12代ロシア皇帝は、ニコライ1世の第一皇子であった。母方が
はプロイセン王女のアレクサンドラ・フョードロヴナ皇后だったので、プロセイン皇帝
との縁戚となっている事が解る。戴冠式で家族から祝福を受けアレクサンドル皇帝2世
となったが、幼い頃から未来の皇帝の地位を約束されていたアレクサンドルは、有能な
為政者になるべく帝王教育を受けて来ていた。帝国を統べる為に 必要なドイツ語・フ
ランス語・英語・ポーランド語をマスターし、実際に政府機関に勤務して軍事・外交・
財政などの政治的教養を身に付けていった。1855年、クリミア戦争が起こった時、
セヴァストポリ要塞の激戦を迎えている最中にニコライ1世が崩御した。この為、皇帝
の座についたが、戦局は悪化の一途をたどり、翌1856年3月にロシアは敗北を認め
、パリ条約を結ぶに至った。このクリミア戦争の敗北は、ロシア国内の支配階級に、大
きな危機感を抱かせ、帝国の弱体化の責任が漫然と抱く「既存の国家体制の立ち遅れ」
に求められた。欧州の様な、資本主義化・工業化のような経済発展、自由主義的な社会
改革こそがロシアを救うと考えられ始めた。農奴制について述べた「下から起こるより
は、上から起こった方がはるかによい」という言葉が示すとおり、アレクサンドル2世
自身はこうした国家の西欧化改革を慎重に採用していく事で、伝統的な専制政治を延命
させることが出来るという思想を以って緩やかな改革に臨んだ。このため自由主義者と
は改革に対するヴィジョンには、最初から齟齬や軋轢があった。しかし改革にその時間
は無かった。皇帝はロシアの孤立状態を危ぶみ、外相アレクサンドル・ゴルチャコフの
協力で対ヨーロッパ国際協調路線を模索したが、フランスへの接近は失敗に終わって、
イギリスやオーストリアとは強い敵対関係から脱却することはなかった。結果として、
プロイセンとの友好のみが考えられ、1873年、バルカン半島をめぐってライバル関係に
あるオーストリアを含めた三帝同盟が結ばれる事になった。この孤立した外交にロシア
はその後も憂鬱が続いた。クリミア戦争以後にロシア政府は、バルカン南下政策に慎重
になっていた。しかし、スラヴ主義者のキャンペーン活動に後押しされる形で、1877年
にブルガリア保護の名目でオスマン帝国に宣戦し、露土戦争では、9ヶ月もの戦いの後
にアドリアノープルを陥落させて、やっと敵側から降伏を引き出した。こうして1878年
2月のサン・ステファノ条約では、ロシアの衛星国とすべく、ブルガリア公国の形成と
自治権をオスマン側に大きく認めさせた。

949: 名無しさんAA:18/01/09 23:39
 極寒の砂金   29                1855年

しかしながら列強はこれに猛反発していて、同年7月に開催されたベルリン会議では、
こぞってロシア影響力を殺ぐ方向で条約内容が大幅に修正された。このベルリン条約に
は国内の不満を高めるものだったし、日本での日露戦争の様に多数の死傷者を出しなが
ら全くの権益上の優遇が無かったのだ。ロシア側はブルガリア公の即位に、皇后の甥の
親露派のアレクサンダーを推すことは成功したものの、この事でベルリン会議を主催し
たプロイセンとの同盟関係に疑念を呈する声がスラヴ主義者の間で上がることになった
。産業革命は本来はイギリスの機械化であったが、カフカース地方に資本の手が及び、
大国ロシアにコーカサス戦争(1817年−1864年)をもたらした。ロシアの支配下に入っ
ていたカフカース地方では、バクーの油田における利権がヨーロッパ諸国の企業家の中
で注目の的になり、スウェーデン出身のノーベル家がこの地の開発を引き受けて、巨万
の富を築いていたからだ。この事から、アレクサンドルの治世には、中央アジアへの本
格的な進出や開発も始まった。トルキスタン地方ではブハラ・ハン国(1868年)、ヒヴ
ァ・ハン国(1873年)を次々に保護下におき、1876年にコーカンド・ハン国を滅ぼすと
、この地域でもロシア化政策と経済開発が推し進められた。この地域は綿花栽培および
綿工業の中心地となり、モノカルチャー化が進んでいった。東欧のクリミア戦争の敗北
でバルカンへの進出に失敗したロシアは、東アジア進出により積極的な帝国拡大の可能
性を見出して行った。アロー戦争によって忙殺されていた清国と、1858年アイグン条約
および天津条約、1860年の北京条約を次々に結び、沿海州(現在の沿海地方)を獲得し
て不凍港ウラジオストクを建設出来る事になった。こうして帝国東部地域の開発が進む
なかでは、多くの解放農民がシベリアへと移住した。また、極東における領土の整理も
行われた。1867年には、開発の困難なアラスカ(現在のアラスカ州)をアメリカに売却
する事を決め 720万ドルで譲渡した。1875年の日本特命全権大使・榎本武揚との交渉で
樺太・千島交換条約を結び、日露間の国境を確認した。日本との関係で言うと日本政府
とペルー政府との間におこったマリア・ルス号事件では、1873年から1875年にかけて開
かれた国際仲裁裁判の裁判長となり、日本に有利な判決を出したといわれている。この
皇帝アレクサンドル・ニコライ2世が日本にやって来た時、大津事件で息子の皇太子が
切りつけられる事件が起こっている


950: 名無しさんAA:18/01/09 23:40
 極寒の砂金   30                   1865年

 この皇帝アレクサンドル・ニコライ2世には妾がいた。つまりもう一つの家庭である
、「カーチャ」ことエカチェリーナ・ドルゴルーカヤ公爵令嬢と二人の子供ゲオルギー
と、オリガを養っていたのである。1841年、ヘッセン大公ルートヴィヒ2世の末娘
マリーと恋愛結婚した。マリーはその母親ヴィルヘルミーネの不義の子だったのだが、
アレクサンドルはそれを承知の上で妻に迎えた。最初に会ったのは父の領地を訪れた時
で、この時に彼はまだ12歳の少女を心に留めることはなかった。1864年の秋に、
アレクサンドル2世はスモーリヌィ女学院を公式訪問した。16歳になったエカチェリ
ーナと再会して一目惚れをした。「中背で洗練された容姿をしており、柔らかな白皙の
肌、怯えたガゼルのような眼、官能的な口元、明るめの栗色をした豊かな髪の持ち主」
だったエカチェリーナを散歩や乗馬に連れ出した。エカチェリーナは学校での生活の中
で自由主義的思想を持ち、度々アレクサンドル2世と議論を交わすぐらいだった。その
後、アレクサンドル2世はエカチェリーナを結核に悩む皇后マリア・アレクサンドロヴ
ナ付きの女官に任命した。アレクサンドル2世が1865年に後継ぎの長男ニコライ・
アレクサンドロヴィチ大公を亡くし、また暗殺未遂にも遭遇して、すっかり気落ちして
いた。皇帝の嘆き悲しむ姿に心を動かされたエカチェリーナは、1866年7月にアレクサンドル2世の愛人になった。母ヴェラはその2カ月前に死去したが、彼女はその日の最後
の日記に「皇帝はエカチェリーナに言いました。『あなたは秘密の妻です。私がもし自
由になったなら、必ずあなたと結婚するでしょう』」と記している。エカチェリーナは
1872年に長男ゲオルギーを出産したのを皮切りに、皇帝との間に4人の子供をもうけた
。二人の関係は、皇后マリアが病気を理由に医師からアレクサンドル2世との性行為を
控えるように忠告されてから始まったという。マリーはカトリックだったがロシア正宗
改宗してマリア・アレクサンドロヴナと名乗った。しかし結婚後、アレクサンドルの妻
への愛情は急速に冷め、間に8人の子供を儲けつつも、今度は他の貴族女性との性的関
係を繰り返し、3人の私生児を作った。また、1865年の皇太子ニコライの急死は皇帝を
ひどい鬱状態に陥らせ、妻や家族など周囲との溝をさらに深める原因となった。

951: 名無しさんAA:18/01/09 23:41
 極寒の砂金   31                   1881年

 1866年、48歳になったのアレクサンドル2世は、没落貴族の娘でスモーリヌイ女学
院の女学生だったエカチェリーナ・ドルゴルーカヤ公爵令嬢(愛称・カーチャ)と出会
い4人の子供が生まれて幸福な「家庭」生活を築いていた。アレクサンドル2世はエカ
チェリーナと子供たちを傍におくことを主張してはばからなかった。彼は週に3度ない
し4度はエカチェリーナと会い、その時はエカチェリーナが警護官に先導されて冬宮殿
の皇帝の居室にやってきていた。それ以外の日は毎日手紙を書き、互いの愛情について
語り合った。二人の関係は公然の秘密だったが、互いに本名で手紙を書くことはなく、
2007年には二人の手紙は競売にかけられている。だが当然ながらこの関係は明るみに出
て、皇太子アレクサンドルを始めとする多くの人々の非難を受けた。皇帝は既に、常に
暗殺の脅威と隣り合わせの暮らしをしていた。1880年、冬宮殿の近くで爆発が起きて、
正餐室が揺れたとき、アレクサンドル2世は「カーチャ!愛するカーチャ!」と叫びなが
ら階段を駆け上がってエカチェリーナの部屋へ走った。エカチェリーナは無事であった
が、一方で正室マリアは朦朧として爆発にも気づけない状態だった。居合わせたマリア
の兄アレクサンダー・フォン・は、妻のことを気に掛けない皇帝の振る舞いを見て激怒
した1880年5月に皇后マリアが没するが、皇帝は教会法や家族の反対を無視し、カーチ
ャと再婚を強く進めるに至った。この貴賤結婚は、当然ながらロマノフ家の人々の容認
するところとならず、爆発のちょうど1年後の1881年3月1日、エカチェリーナは胸騒ぎ
がしてアレクサンドル2世に出かけないよう懇願したが、彼は妻を宥めて外出した。1
時間もしないうちに、重体になったアレクサンドル2世が宮殿に運び込まれたが、彼の
もとに駆け付けたエカチェリーナの前には、すでに息絶えた皇帝の遺体だった。遺体に
取りすがり「サーシャ!サーシャ!」と叫びながら号泣したが、葬儀で、エカチェリーナ
と子供たちは教会の入り口に立たされ、皇族の席を与えられなかった。また、エカチェ
リーナ母子は皇族による皇帝追悼の聖体礼儀に出ることも禁じられた。皇帝の死後には
、カーチャとその子供たちは340万ルーブルの年金を与えられ、ニースに追い払われ
た。エカチェリーナはパリとリヴィエラに住み、この地の社交界で洗練された女主人と
して有名になり、20人の使用人と私用の鉄道馬車を抱える暮らしを送ったものの、自
身で財産を管理せねばならず、子供たちには贅沢をさせられなかった。


952: 名無しさんAA:18/01/09 23:42
 極寒の砂金   30                   1865年

 この皇帝アレクサンドル・ニコライ2世には妾がいた。つまりもう一つの家庭である
、「カーチャ」ことエカチェリーナ・ドルゴルーカヤ公爵令嬢と二人の子供ゲオルギー
と、オリガを養っていたのである。1841年、ヘッセン大公ルートヴィヒ2世の末娘
マリーと恋愛結婚した。マリーはその母親ヴィルヘルミーネの不義の子だったのだが、
アレクサンドルはそれを承知の上で妻に迎えた。最初に会ったのは父の領地を訪れた時
で、この時に彼はまだ12歳の少女を心に留めることはなかった。1864年の秋に、
アレクサンドル2世はスモーリヌィ女学院を公式訪問した。16歳になったエカチェリ
ーナと再会して一目惚れをした。「中背で洗練された容姿をしており、柔らかな白皙の
肌、怯えたガゼルのような眼、官能的な口元、明るめの栗色をした豊かな髪の持ち主」
だったエカチェリーナを散歩や乗馬に連れ出した。エカチェリーナは学校での生活の中
で自由主義的思想を持ち、度々アレクサンドル2世と議論を交わすぐらいだった。その
後、アレクサンドル2世はエカチェリーナを結核に悩む皇后マリア・アレクサンドロヴ
ナ付きの女官に任命した。アレクサンドル2世が1865年に後継ぎの長男ニコライ・
アレクサンドロヴィチ大公を亡くし、また暗殺未遂にも遭遇して、すっかり気落ちして
いた。皇帝の嘆き悲しむ姿に心を動かされたエカチェリーナは、1866年にアレクサンド
ル2世の愛人になった。母ヴェラはその2ヶ月前に死去したが、彼女はその日の最後の
日記には「皇帝はエカチェリーナに言いました。『あなたは秘密の妻です。私がもし自
由になったなら、必ずあなたと結婚するでしょう』」と記している。エカチェリーナは
1872年に長男ゲオルギーを出産したのを皮切りに、皇帝との間に4人の子供をもうけた
。二人の関係は、皇后マリアが病気を理由に医師からアレクサンドル2世との性行為を
控えるように忠告されてから始まったという。マリーはカトリックだったがロシア正宗
改宗してマリア・アレクサンドロヴナと名乗った。しかし結婚後、アレクサンドルの妻
への愛情は急速に冷め、間に8人の子供を儲けつつも、今度は他の貴族女性との性的関
係を繰り返し、3人の私生児を作った。また、1865年の皇太子ニコライの急死は皇帝を
ひどい鬱状態に陥らせ、妻や家族など周囲との溝をさらに深める原因となった。


953: 名無しさんAA:18/01/09 23:43
 極寒の砂金   31                   1881年

 1866年、48歳になったのアレクサンドル2世は、没落貴族の娘でスモーリヌイ女学
院の女学生だったエカチェリーナ・ドルゴルーカヤ公爵令嬢(愛称・カーチャ)と出会
い4人の子供が生まれて幸福な「家庭」生活を築いていた。アレクサンドル2世はエカ
チェリーナと子供たちを傍におくことを主張してはばからなかった。彼は週に3度ない
し4度はエカチェリーナと会い、その時はエカチェリーナが警護官に先導されて冬宮殿
の皇帝の居室にやってきていた。それ以外の日は毎日手紙を書き、互いの愛情について
語り合った。二人の関係は公然の秘密だったが、互いに本名で手紙を書くことはなく、
2007年には二人の手紙は競売にかけられている。だが当然ながらこの関係は明るみに出
て、皇太子アレクサンドルを始めとする多くの人々の非難を受けた。皇帝は既に、常に
暗殺の脅威と隣り合わせの暮らしをしていた。1880年、冬宮殿の近くで爆発が起きて、
正餐室が揺れたとき、アレクサンドル2世は「カーチャ!愛するカーチャ!」と叫びなが
ら階段を駆け上がってエカチェリーナの部屋へ走った。エカチェリーナは無事であった
が、一方で正室マリアは朦朧として爆発にも気づけない状態だった。居合わせたマリア
の兄アレクサンダー・フォン・は、妻のことを気に掛けない皇帝の振る舞いを見て激怒
した1880年5月に皇后マリアが没するが、皇帝は教会法や家族の反対を無視し、カーチ
ャと再婚を強く進めるに至った。この貴賤結婚は、当然ながらロマノフ家の人々の容認
するところとならず、爆発のちょうど1年後の1881年3月1日、エカチェリーナは胸騒ぎ
がしてアレクサンドル2世に出かけないよう懇願したが、彼は妻を宥めて外出した。1
時間もしないうちに、重体になったアレクサンドル2世が宮殿に運び込まれたが、彼の
もとに駆け付けたエカチェリーナの前には、すでに息絶えた皇帝の遺体だった。遺体に
取りすがり「サーシャ!サーシャ!」と叫びながら号泣したが、葬儀で、エカチェリーナ
と子供たちは教会の入り口に立たされ、皇族の席を与えられなかった。また、エカチェ
リーナ母子は皇族による皇帝追悼の聖体礼儀に出ることも禁じられた。皇帝の死後には
、カーチャとその子供たちは340万ルーブルの年金を与えられ、ニースに追い払われ
た。エカチェリーナはパリとリヴィエラに住み、この地の社交界で洗練された女主人と
して有名になり、20人の使用人と私用の鉄道馬車を抱える暮らしを送ったものの、自
身で財産を管理せねばならず、子供たちには贅沢をさせられなかった。


954: 名無しさんAA:18/01/09 23:43
 極寒の砂金   32                    1825年

 この暗殺には過去の大帝の改革からの流れがあった。1825年にアレクサンドル1世が
死去した時に彼の子は全て夭折していた。弟のニコライ1世が継いだが立憲君主制を求
めて諸侯はデカブリストの乱が起こした。この時からバルカン半島には不穏な火が吹き
クリミア半島でスラブ人とロシア人の攻防が続いていた。ニコライ1世はこれを厳しく
弾圧して行き、力の圧政を敷いてその座について居た。この時既に起こっていたユダヤ
人への排斥であろうポロシェビキは段々と過激になり、以後には皇帝の極端すぎる保守
・絶対政治が行なわれていた。これに対してユダヤ金融家は海外支援によってロシアを
包囲する事をしていた。ニコライ1世も近代化と積極的な対外進出は必要としてそれを
目指したが、志半ばで1855年に死去した。跡を継いだアレクサンドル2世も近代化の妨
げとなっていた農奴制に農奴解放令をだして、解放した近代化を進めた。だがポーラン
ドでの反乱や後継者の早世で失意に陥った。もともとこの農奴解放には資金を持つ物の
土地購入の権利を認めただけで意味は無く 逆に欲深い地主を増やして農奴を更に困憊
させていた。海外との提携もままならず、こうして最期には1881年に没落した貴族階級
のポーランド人の「人民の意志」党員イグナツィ・フリニェヴィエツキによるテロで暗
殺されたとされる。暗殺事件後に後には、跡を継いだアレクサンドル3世は、保守政治
はなおも続けるも急速な工業化を推進してロシアの近代化を軌道に乗せた。アレクサン
ドル2世と皇后マリア・アレクサンドロヴナの第2皇子。兄ニコライが22歳で早世し
たため、皇太子となった。妻は兄の婚約者であったデンマーク王クリスチャン9世の第
2王女マリー・ソフィー・フレデリケ・ダウマーで、ニコライ2世をはじめ4男2女に
恵まれた。1894年に跡を継いだニコライ2世はよき家庭人ではあったが、歴代のような
資質に欠けていた。日露戦争では日本に敗れ、この戦争中に起こったロシア第一革命で
絶対君主制から立憲君主制へ移行することを余儀なくされた。だが立憲政治は名ばかり
で実態が伴わず、貴族や地主らによる保守政治がなおも続いた。その中で行われたとさ
れるピョートル・ストルイピンの反動政治はロマノフ朝から知識人や国民を離反させ、
反体制グループが台頭する一端を成した。1914年からは第一次世界大戦に参加し、それ
によって国民生活はますます困窮した。そして1917年、ロシア革命で君主制そのものが
打倒されてロマノフ朝は崩壊した。2007年の世論調査でロマノフ朝の復活に賛成の国民
が37%、反対が7%と君主制支持が多くなってきている。それはロシアの深刻な格差
社会は、土地柄として極寒地での保護や支援が必要される要因が原因であるともいわれ
る。

955: 名無しさんAA:18/01/09 23:43
 極寒の砂金   33               1881年

 エカチェリーナが宮廷から去ったあとも、ロマノフ家の皇族たちは相変わらず彼女を
軽蔑していた。継息子のアレクサンドル3世は彼女を秘密警察・オフラーナのスパイに
監視させ、その行動を逐一報告させていた。そして、母親との暮らしに辟易した息子の
ゲオルギーが帝国海軍への入隊を希望した時も、ロシア国内に入ることを一切許さなか
った。アレクサンドル3世の三男のゲオルギー・アレクサンドロヴィチ大公が、病気を
口実に彼女と親交を深めるのを忌避した。一方、ニコライ2世はエカチェリーナと息子
らに対しては寛容で、ゲオルギーをロシアに住まわせたが、エカチェリーナの娘オリガ
が詩人アレクサンドル・プーシキンの孫のゲオルク・ニコラウス・フォン・メレンベル
ク伯爵と結婚する際に、父親代わりを務めてほしいとエカチェリーナに頼まれたが、母
のマリア・フョードロヴナ皇太后の反対にあって断らざるを得なかった。エカチェリー
ナは1922年に年金を使い果たして死んだ。エカチェリーナにはアレクサンドル2世との
間に4人の子女をもうけていた。子供たちは、ユーリエフスキー(ユーリエフスカヤ)
公爵の姓を名乗っていた。ゲオルギー(1872年 - 1913年)、オリガ(1873年 - 1925年
)はゲオルク・ニコラウス・フォン・メレンベルク伯爵と結婚した。ボリス(1876年)
、エカチェリーナ(1878年 - 1959年)は アレクサンドル・バリャティンスキー公爵と
初婚、セルゲイ・オボレンスキー公爵と再婚(1924年に離婚)。母親の死後、歌手として
生活する。後にイギリス王妃メアリー・オブ・テックの庇護の下でイギリスに定住した
。その後その地で亡くなっている。1600年代にロシアのロマノフ朝の繁栄を出現さ
せた皇帝のピョートル大帝以降に、ロシアの専制君主政治であるツァーリズムの体制を
完成させて築かれた、ロシアの大国化路線は、18世紀後半のエカチェリーナ2世に継
承されイングランド銀行がその管理を行っていたとされた。ロマノフ王朝のアナスタシ
ア皇女は最後のロシア皇帝ニコライ2世とアレクサンドラ皇后の第四皇女であった。そ
の財産の大半をイギリス銀行国立に預託していた事から、皇帝一家の殺害から数年たっ
て、ドイツにアナスタシアと自称する女性が現れた。そこでは皇帝の財産を巡って長年
裁判が争われました。その人が本物ならイギリス銀行の皇帝の預金を、すべて相続する
からである。結局決着が付かないうちに本人は亡くなり、死後のDNA検査では偽者と
発表された。その後75年間の保守義務が終わって、イギリス国立銀行は第一次大戦の
戦費のためにロシア皇帝は預けてあった資産をすべて戦争中に引き出していた。と発表
したのである。


956: 名無しさんAA:18/01/09 23:45
 極寒の砂金   34                 1895年

 この発表に虚実を見るが歴史の本によると、預けていたのは今の貨幣価値にすると、
数百億ポンドと推測されて居る。話はかつてのソ連邦建設時代に遡る。第一次世界大戦
から1年。ロシア政府では皇帝二コライ二世の許可を得て、ロマノフ王朝の財宝と国立
銀行の正貨準備金(今で言う外貨準備金)を列車で安全な場所へ疎開させることを決定
した。正貨準備金は28の貨車に分けて積み込まれたカザンへと送られた。その後直ぐ
に三百年の栄華を誇ったロマノフ王朝が、あっけなく滅亡した。最後のロシア皇帝ニコ
ライ2世とアレクサンドラ皇后のいた家族は1917年の二月革命で成立した臨時政府によ
って家族とともに監禁された。翌 1918年7月17日に、エカテリンブルクのイパチェフ館
においてヤコフ・ユロフスキーが指揮する銃殺隊によって超法規的殺害(裁判手続きを
踏まない殺人)が実行され、家族・従者とともにわずか17歳の若さで銃殺された。こう
して 2000年にロシア正教会によって新致命者として列聖された。「明石元二郎の生涯
1891年(明治24年)〜1918年(大正7年)」ではこう書いている。1905年1月9日(グレ
ゴリオ暦 1月22日)、数万の労働者とその家族が皇帝ニコライ2世の冬宮に、生活条件
改善を訴える嘆願書を手渡すために大勢の者が集まったが、当局の回答は、残虐な弾圧
だった。その結果、千人以上が死亡したと推定され、この日は、「血の日曜日」として
ロシア史に記録された。」と。明石元二郎大佐は、平和なデモを行ったにすぎない市民
の死を悼んだかもしれないが、自身の任務の 見事な遂行ぶりには満足だったろうか。
ロシアの革命は現実となり、これは日露戦争での日本の勝利を確実にした。20世紀を
迎えた時、ロシア帝国は繁栄のピークにあった。中央アジアの征服は成功し、ブルガリ
アはトルコのくびきから解放されたのである。1895年には、フランスとドイツと共に、
国際的影響力を行使し、日本に対しても、いわゆる三国干渉を行い、遼東半島を中国に
返還させた。(日本は、1894〜1895年の日清戦争での勝利後、下関条約により、中国に
遼東半島を割譲させていた)。ロシアは世界の列強の一角に確固たる位置を占めたかに
見えた。ところが、多くの専門家が確信するところでは、ロシアは粘土の足の上に載っ
た巨像にすぎず、その足のうちの一本は、1902年にロシア帝国公使館付陸軍武官に着任
していた明石元二郎にほかならなかった。明石元二郎は既に大国の構造の脆さを見抜い
ていたのだった。この時同じ様にこの赤軍も白衛軍も日本軍もロマノフの財宝がある事
が解ってしまい、連合国との諜報と諜作などが過激になったのである。


957: 名無しさんAA:18/01/09 23:47
 極寒の砂金   35                  1902年

 ロシア陸軍は、ナポレオン戦争時代の古びた理論に依拠していたが、明石は他の多く
の者より深くそのことを知っていた。当時、世界の先進国の軍隊には、機関銃や速射砲
が配備されつつあったのに、ロシアの歩兵は、敵の砲火の着弾距離内でも 密集隊形を
とっていた。また明石は、露軍がフランスの最新の野戦砲を採用したことも知っていた
が、これはヨーロッパの平野では十分有効でも、極東の丘陵が連なる地帯ではほとんど
役に立たなかったのも解っていた。肝心なのは、ロシアで政治的危機が深刻化しており
、革命の瀬戸際にあったことを明石がよく弁えていたことだ。それというのも、皇帝と
その一家眷属は大地主であった為、ロシア経済の持つ、農業、資源に依存した性格をそ
のまま維持しようとしていた姿があったからだ。その頃は、ロシアと言えば、バターの
輸出を誇っていた。が、同時に輸入は、電気製品、プラントから果てはミシンにいたる
まで、当時のハイテク製品はすべて輸入し、その上果実と肉と野菜まで輸入していた。
又輸入する製品も、実は外国企業がロシアで現地生産して加工を回して組み立てしてい
た。つまり労働者は外国企業に養われていた事になる。しかもこの事には、農業部門の
伝統的な低賃金が帰順で、工業部門でもそれに揃っていた事で輸出も輸入も商社や企業
の海外金融が潤っていた。貴族経営者以外の普通の労働者の給料は常に不満であったし
、高価な電気製品は農民を圧迫していた。社会構造変化は緊張を増す方向に急激に傾い
て行っていた。これを明石は充分解っていたのだ。一方、海外企業家のほうも、皇帝一
族に対する苛立ちを募らせていった。金融資本がユダヤ系で、国内事情としてユダヤ民
は最低の人権すら認めて居なかったからだ。また、ロシアの周辺部の各民族も、ロシア
皇帝の専制への不満を強めつつあった。近代化した民が、農機具や機器などを高価な物
品すぎて購入できす、フランスやドイツ向けで売っては、生産された農作物が安価な物
として輸入され、機械化の広がりが無かった。当然この労働力の価格差が売り物でもあ
ったが 関税の対象に繋がらない限り輸入も国家の収入にもならず 又企業も拡大して
の収益も当てる事が出来ないでいたのだった。都市が集中させる若い労働力は地方での
労働力の破綻を意味していた中で、移民者はボヘミアンやロマやユダヤと同じに税もな
かったが隣人対象の法的地位もなく、集団暴力や排斥運動の対象でしか無かったからだ
。そして、民族主義と反政府の運動には密接なつながりがあり、そのコーディネーター
の一人が明石だったという次第だった。

958: 名無しさんAA:18/01/10 00:00
 極寒の砂金   36                  1904年

 しばしばロシア皇帝は「粘土の足」と呼ばれた。土着にしがらみがあったからだ。そ
れはロシアが農業に従じた政策しか打ち出せず農業の成否が皇帝の安泰の目安だったか
らだ。この足は既に農協生産では壊れかかっていた。明石は1905年の初めにフィンラン
ド革命党の 組織者にして指導者であるコンニ・シリヤクスや、グルジアの社会連邦の
革命党の指導者の一人、ゲオルギー・デカノゾフに渡りを付け、知り合ってその現状を
分析していた。彼らの積極的な支援を得て明石は、1904年にロシアの野党のパリ会議、
1905年にジュネーブ会議を開催した。明石はロシアでの破壊工作に、日本の参謀本部が
支出した約百万円(1990年当時の3500万ドルに相当)を費やしたとしている。だが彼の
努力の主な成果は、日露戦争に際してロシア社会のかなりの部分が、むしろ日本に同感
したことだ。1905年、ロシアでは「ロシア陸軍の将校に告ぐ」と題されたパンフレット
が非合法で広められたが、そこにはこう記されていた。「諸君の勝利はすべて、ツァー
リの専制を固める恐れがあり、逆に敗北はすべて、解放の時を近づける。ロシア人が、
我々共通の敵の成功を喜ぶとは驚くべきことではないか。」と。つまり敗けたが好い。
と宣伝していたのだ。ロシア皇帝が紛争で次々に敗北を重ねるようになると、国内の状
況は急速に悪化していった。既にスラブ戦争でに食物を取り上げられて小麦がなく「血
の日曜日事件」の前年も直訴していた。この「血の日曜日事件」が実際に起こって発砲
で死人が出た時に、この国家国民を守るロマノフ朝の巨像が倒れた。アメリカの歴史家
アーサー・ブラードの意見では、「ロシアの革命政党のほとんどは日本の援助を受けて
いた」と発表した。この援助はとくに、イギリスからフィンランドへの、船舶「ジョン
・グラフトン」号による武器供与や、ロシア将兵の捕虜に対する、日本での革命プロパ
ガンダとなって現れ、結局のところ、ストライキやデモが多発し、革命的組織の文書が
蔓延することになった。そして、ロシアと欧州の「活発な非合法のルート」は、日本の
諜報活動の手段となったと、ブラードはみている。1月9日の「血の日曜日」以後は、
無秩序はたちまちロシア全土と周辺部の各民族に広まり、ツァーリの政府は、日本との
講和を結ばざるを得なくなった。1905年8月23日(9月5日) ポーツマス条約が調印され
た。それによってロシアは、日本の朝鮮半島における優越権を認め、旅順・大連を含む
遼東半島南端部の租借権を日本へ譲渡し、東清鉄道のうち、旅順−長春間の南満洲支線
と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡、さらにサハリン(樺太)の北緯50度以南の
領土を譲渡した。こうして日露戦争はロシアを、20世紀の世界の資本主義システム中枢
から弾き出し、東アジアにおける工業化のリーダー役は、長く日本が担うこととなった

959: 名無しさんAA:18/01/10 00:28
 極寒の砂金   37              
 だが久留米においての明石大佐の評価もその後の記録もそうした諜報活動も支援活動
も全く記録はしていない。勿論明石機関は存在していた。だが知っての通り、日本支援
にドイツ生まれのアメリカの銀行家で慈善家のヤーコプ・ヒルシュ・シフ(生まれた時
の名前即ちドイツ名)が高橋是清の求めに応じて、日露戦争の際には日本の戦時国債を
購入して応援していた。この事で奔走していたのである。明治天皇は元々日露戦争には
消極的であった。実は日本では軍費の相当部分をドイツ帝国から調達していたのだ。そ
のドイツはロシア中央銀行経由で露清銀行を勢力下において発行されていた、こうして
同行の活動が日本が清国へ進出したことによりかなり妨げられたのである。ロシア帝国
は、不凍港を求めて積極的に南下政策を採用し、露土戦争などの勝利によってバルカン
半島における大きな地歩を獲得した事は明治政府にも情報が届いて居た。このロシアの
影響力の増大を警戒するドイツ帝国の宰相ビスマルクが列強の代表を集めてのベルリン
会議を主催し、露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約の破棄とベルリン条約
の締結に成功した。これによりロシアはバルカン半島での南下政策を断念して、進出の
矛先を極東地域に向けることになった事に危機感が募っていた。朝鮮を属国としていた
清との日清戦争に勝利し、朝鮮半島への影響力を排除したものの、中国への進出を目論
むロシア、フランス、ドイツからの三国干渉によって、下関条約では、ベルリン条約と
同じに割譲を受けた遼東半島は清に返還される事になった。此処に明石の活動があった
日本の世論においてはロシアとの戦争も辞さずという強硬な意見も随分出ていたが、当
時の日本には列強諸国と戦えるだけの力はない事が解っていて、明治政府は伊藤博文ら
戦争回避派が主流を占めていた。ところがロシアは、鉄道建設と共に露清密約を結び、
日本が手放した遼東半島の南端に位置する旅順・大連を1898年(明治31年)に租借し、
急速に旅順に太平洋艦隊の前線基地を造るなど、強力に満州への進出を押し進めていた
。1900年(明治33年)に、清で発生した義和団の乱は、この混乱収拾の為にロシア軍の
満洲への侵攻を許してしまい、中国全土を占領下にしてしまった状態が作りだされてい
たのである。元々支那人の性格はあの精力絶倫男「袁世凱」の様な、虎の威を借りて人
の褌で相撲をとり、自分さえ良ければどうでも良い様な性格であった。1886年(明治19
年)8月に長崎に来航した清国北洋艦隊水兵が起こした暴動事件の長崎清国水兵事件は
その表れでもあった。明石はコンニ・シリヤクスを通じてユグノー信徒を知ったのだ。
その迫害はユダヤより激烈で新しく、資金を持った更に斬新な自由な資本論であった。
彼らは王政とは人民との約束で支配していて 約束を破れば当然王は替えられるとした
考え方だった。そこで武器支援を申し出てジョン・グラフトン号事件が起こっていた。

960: 名無しさんAA:18/01/10 00:29
 極寒の砂金   38                  1902年

 中国に於いて、アジア初の最新鋭艦を手にした清国海軍では、ロシアに威嚇する為の
演習に日本海を北上し演習していた。この北洋艦隊のうちの主要艦船である定遠、鎮遠
、済遠、威遠の四隻の軍艦が勝手に長崎港に入港したのは途方もない暴挙だった。清国
人にすれば、これまで西欧列強に抑えられた鬱憤が、この艦隊をして屈強の仲間に入っ
た自国の権威を、暴挙と横暴さで見せつける事は必要不可欠な事だった。何故ならそれ
が騎馬民族の風習だったからだ。野蛮さこそ雄姿であり 強さの誇示はロシア・日本に
対して行いながら、米英に対する防衛の一つだったのである。こうして長崎事件が起こ
ったのだが、その強気が義和団の乱ではそのまま北清事変に変わったのである。又その
時にこの艦隊は、全く砲台が乗っ取られようとも紫禁城に攻めようとも抵抗しなかった
1900年(明治33年)に、清で発生した義和団の乱では、この混乱収拾の為にロシア軍が
満洲へ侵攻して全土を占領下に置いてしまっていた事を英米には見抜けなかった。同時
に起こった清王朝の北清事変は、西太后がこの叛乱を支持して清国が欧米列国に宣戦布
告したため国家間戦争となったのだが、宣戦布告後2か月も経たないうちに欧米列強国
軍が首都北京及び紫禁城を制圧し、北京条約によって、清朝は莫大な賠償金の支払いを
余儀なくされる事になった。この禁圧の過程でイギリスとドイツは、清の許可を得ずに
上海=北京間、膠州、威海衛、旅順に電信ケーブルを敷設したが、ロシアもその後独自
に交渉し沿海州を手に入れ、更に満州での境界決定にアグイン条約を取り付けていた。
本来なら日本もこの時朝鮮を手に入れれば問題無かったのだろうがそれは信義に反する
として日本は全く行わずにいる。こうして、ロシアは満洲や朝鮮の植民地化を既定事実
化しようとしたが、日英米がこれに抗議しロシアは撤兵を約束した。ところがロシアは
履行期限を過ぎても撤退を行わず駐留軍の増強を図ったアグイン条約締結に圧力をかけ
続けていたのである。ところが英米は批判するのみだった。それは植民地でボーア戦争
を終了させるのに戦費を調達した為に、国力が大きく低下していて 欧州の争いや中東
の領土争い、米国の独立の混乱などアジアに大きな戦費や国力を注げない状況であった
のである。この状況にイギリスは、ロシアの南下が自国の権益と衝突する危機感から、
1902年(明治35年)に長年死守していた栄光ある孤立と言う孤立政策を議会は捨てた。
この事で日本との同盟に踏み切って日英同盟は、順調に行われたのである。こうして、
日清日露の戦争が明け暮れや第一次大戦のシベリア出兵につながっていくのである。


961: 名無しさんAA:18/01/10 00:29
 極寒の砂金   39                   1918年

 ニコライ2世一家が処刑されて凡そ百年が経過した今でも、何人がこの事件に関わっ
たのかさえわかっていない。8人という説もあれば、被害者の人数と同じ11人という
説もある。中心的役割を果たしたのは、ユロフスキーとメドベージェフ・クドリンだ。
両者は、一家を銃殺した夜について、詳細な回顧録を後に記した。そして歴史上の自分
たちの役割に誇りを持っていた。両者は亡くなるまで、高い役職につきソ連社会の尊敬
される一員であった。ヤコヴ・ミハイロヴィッチ・ユロフスキー(1978〜1938)は1918
年、皇帝一家が幽閉されたエカテリンブルグ市のイパチェフ邸の警備隊長を務めていた
。銃撃隊を率いて、ユロフスキー自身がニコライ2世を殺害したと証言している。ユダ
ヤ人であるユロフスキーが関与したことから、民族主義者に「我が皇帝を異民族が殺し
た」と言わせるきっかけを与えてしまった。だが 実際には異民族は、ユロフスキーと
ラトビア人の射手ツェリムスの2人しかいなかったし、ツェリムスの関与は完全に証明
されていない。ちなみに帝政ロシアも又多民族国家であった。ユロフスキーは、宝石商
だったため、銃撃した夜には皇族の宝石も探そうとしていた。実際にそれは見つかって
いた。処刑後に遺体を調べていると、皇后の服には 総重量半プードがあって(約 8.19
キログラム)もの貴重品が縫い付けられていたと言う。ユロフスキーはすべての貴重品
を、モスクワ・クレムリンの管理者に渡したと言う。最初のボリシェヴィキ達は無欲な
人々だったが、皇后の遺体から大量の宝石やニコライ2世および皇族の未知の遺品があ
ると思い差が下とても残酷な人達でも合った。ユロフスキーが務めた役職は、ウラル県
非常事態委員会会長、貴金属・貴石フォンド金部門長、モスクワの技術博物館館長だ。
これらの役職はソ連政府初期において、非常に高い、戦略的に重要な地位である。ユロ
フスキーは、選ばれた特別な政府高官しか入ることのできなかったクレムリン病院で、
穿孔性十二指腸潰瘍により亡くなった。関係者の証言によると、苦しんで亡くなったと
いう。皇帝一家が幽閉されたイパチェフ邸では皇帝の処刑者らは仲が良く、互いの家に
遊びに行っていた。ユロフスキー、ゴロシチョキン、メドベージェフ・クドリン達は、
いつもお茶を飲みながら、当時の話について議論していた。特にあの夜誰が最初に銃撃
を始めたかについての議論は好まれた。ユロフスキーはある日、嬉しそうにやって来た
。彼がニコライ2世を殺害したと書いてある、西側諸国で出版された本を受け取った為
だった。「俺が皇帝を殺した!」と書いてあったのである。


962: 名無しさんAA:18/03/13 08:54
極寒の砂金は ちょっと休憩  余りにも コピペが増えて書けない(事実が結構でているからね〜〜〜記録が少ないものじゃない。

963: 名無しさんAA:18/03/13 08:55
  富安君を探せ              < その 1 >

 その昔仁和3年 (887年)の事だが、安倍の清明の恩師加茂氏は陰陽道をして、式使
式神をして土御門家を束ねていた。しかし光孝天皇が重態に陥り、後継を指名しなまま
に床に臥せた。実力者の基経は天皇の内意が、貞保親王ではなく定省にあるとして動い
た、自身も陽成天皇の弟であり、甥でもあるが、それ以上に非常に仲の悪い妹藤原高子
の子である貞保親王は避ける為に、定省を天皇としたいと発議し 朝議には一決した。
こうして定省は8月25日に皇族に復帰して親王宣下を受け、翌26日に皇太子に立て
られた。もともと定省は基経の異母妹である尚侍藤原淑子の猶子(ゆうし)で、兄弟・
親類や他人の子と親子関係を結ぶ制度の藤原氏だった。後宮に強い影響力を持っていた
淑子は賢い定省を後継に熱心に推薦していた。しかし基経自身は特に定省を気に入って
いたわけではない。また、定省には、同母兄の源是忠がおり、兄を差し置いて弟が立つ
と言う問題もあった。その為慎重に、基経以下の群臣の上表による推薦を天皇が受け入
れて立太子を行うと言う形が取られた。すなわち天皇以下重臣の命令で皇太子にした。
だが皇太子にしたその日のうちに光孝天皇が崩じたため践祚(ばっさ・崩御による譲位
)し、こうして宇多天皇(うだてんのう)となって11月17日に即位した。だがこの時に
当然乍ら、清和天皇の第四皇子として誕生していた叔父の貞保親王には反感があった。
宇多は即位後間もない11月21日に、基経に再び関白としての役割を果たすよう勅書を送
ったが、しかし、この手続きの際に貞保親王と仲の良い左大弁橘広相の起草し、「宜し
く阿衡の任をもって卿の任とせよ」の文言を入れた。これに基経が立腹し、政務を拒ん
で自邸に引き籠もってしまう。翌年6月になって宇多はついに折れ、勅書を取り消した
上に広相を解官せざるを得なかった。寛平3年 (891年)1月に基経が死去するに及ん
で、ようやく親政を開始することが出来た。なお宇多が勅願寺として仁和寺を建立した
のはこの阿衡事件の最中の仁和4年のことだ。この弔いに際して天皇は基経の嫡子時平
を参議にした。一方で、源能有など源氏や菅原道真、藤原保則といった藤原北家嫡流か
ら離れた人物も抜擢し改革を試みた。この期間には遣唐使の停止、諸国への問民苦使の
派遣、昇殿制の開始、日本三代実録・類聚国史の編纂、官庁の統廃合などが精力的に行
われた。また文化面でも寛平御時菊合や寛平御時后宮歌合などを行い、これらが多くの
歌人を生み出す契機となった。


964: 名無しさんAA:18/03/13 09:18
   富安君を探せ             < その 2 >
 定省尚侍の藤原淑子の子で、光孝天皇の第七皇子であったが、母が桓武天皇の皇子で
仲野親王の娘・皇太后班子女王と言う強い立場だった。父の光孝天皇は即位後、関白の
藤原基経の妹の藤原高子の子であり陽成天皇の弟であった、叔父の貞保親王をはばかり
、元慶8年(884年)6月に26人の皇子皇女を臣籍降下させて源氏として皇族外にした
。定省王もその一人であったのだ。つまり爺さんは色気が多く、兄弟が多かったので、
朝廷が持たなかった。こうして従弟は全て源氏に一端降格させて皇籍を取り除いて、そ
の後又皇籍に戻す作業を行った。その為、源定省(みなもと の さだみ)と称した。臣
下時代である。話では殿上の御椅子の前で平城天皇の孫の在原業平(ありわら の なり
ひら)と相撲をとり、椅子にぶつかり手すりが折れた。という猛者だった。天皇になり
宇多天皇(うだてんのう)は皇位について次々と改革を行ったのだが当然敵もできた。
ところが、宇多は寛平9年7月3日(897年8月4日)突然に皇太子敦仁親王を元服させて、
即日譲位させ醍醐天皇の治世に代えた。この宇多天皇の突然の譲位は驚いた。が、かつ
ての指名のない移譲で自分が思う様に行かなかった理由と、天皇が藤原氏の制約から、
政治的自由が無かった為にこれを行ったという。自分は仏門に帰依し仏道に専心するた
めと偽った。事実は、後継として前の皇統に連なる縁戚皇族から皇位継承の要求が出る
直前で、これを実子譲位につなげ己の皇統の正統性を示したかったから、と言われる。
『寛平御遺誡』に右大臣源能有の死に強い衝撃を受けたと書かれている。同じ文徳天皇
の皇子である惟仁親王(清和天皇)の兄でありながらも、生母の身分が自分と同じ低か
ったので、早い段階で除外された人だ。本来第一親等の皇族だが、仁寿3年(853年)に
時有・本有・載有ら兄弟と友に源姓で臣籍降下していた。能有の多くの兄弟が同様の道
をたどって、子孫は後世文徳源氏と呼ばれた。だがこの能有は信任は厚く又能有も能力
が高く信頼されていた。その能力は藤原基経からも評価されて、娘を娶っていた。元慶
元年に従三位、元慶6年中納言と順調に昇進するとともに、左兵衛督・左近衛中将・左
衛門督・検非違使別当と武官も兼帯した。宇多朝に入っては、引き続き寛平2年正三位
になり、大納言になり昇進していった。宇多天皇の能有に対する信任は厚く、符宣上卿
(太政官符を発給上卿)として28回も名を連ねて、左大臣源融や右大臣藤原良世の先
任上卿をさしおいて撰国史所総裁を務めさせたし、それが出来る人だった。朝廷の儀礼
や政務に通じ有能な人物で、菅原道真と親しかった。政務として「寛平の治」進めた時
、平季長に命じて現地を視験させ、その報告で農民保護政策を打ち出して、院宮王臣家
による土地の不法拡大を禁じる太政官符を出した。しかしそれは貴族の猛反対を産んだ
、その後は心労で、53歳で病により薨去した。

965: 名無しさんAA:18/03/13 09:19
  富安君を探せ               < その 3 >

 こうして信頼していた源の能有が薨去した事で譲位し、新たに即位した醍醐天皇だっ
たが、天皇には自らの同母妹・為子内親王を正妃に立て、その時の抵抗勢力だった藤原
北家嫡流が外戚となることを防く事に重きを置いた。また譲位直前の除目で菅原道真を
権大納言に任じ、その頃の大納言で太政官最上席だった藤原時平の次席としたうえで、
時平と道真の双方に内覧を命じ、朝政を二人で牽引するよう命じた。しかしこの人事は
権門の公家には全く不評で、公卿が職務を拒むという事件に発展した。道真は宇多に願
ってかかる公卿らに出仕を命じてもらい、ようやく新政がスタートした。藤原時平は先
の藤原基経の長男として生まれていた。父の基経は陽成天皇を廃し、光孝天皇を擁立し
て太政大臣として朝政を執り絶大な権力を有していた為に、光孝天皇は常に基経の意を
迎えて。仁和2年 (886年)の16歳で元服するには、光孝天皇は直々に宮中でも最も
重要な仁寿殿で式を執り行わせた。自ら加冠の役を果たし、この少年に正五位下を授け
て、その告文は学者で知られた参議・橘広相に起草させたのである。その後の宴の祝い
には、仁寿殿の庭に祝いの金銀で飾られた品々が並べさせ、雅楽が演奏され清和天皇の
第八皇子・貞数親王を始めとする上卿の子弟が舞を演じた。これは基経の権力の絶大な
ることを示す儀式となっていた。この事から後任として来た菅原道真の下には付けない
性格の持ち主だった。当然藤原時平の次席とした事や藤原家の反抗勢力も彼を嫌い執政
に不和があり滞る事になっていた。父・基経の死の時点では、まだまだ若年であった為
何とかなったが、宇多天皇が譲位し醍醐天皇が即位すると、皇親である源氏を束ねて、
学者の菅原道真を起用して道真とともに左右大臣として並ぶと、次第に対立し遂に道真
を讒言して大宰府へ左遷させる事に至った。宇多上皇は新帝に「時平は功臣の子だが、
年若く素行が悪いと聞く、朕はそれを聞き捨てにしていたが、最近は激励して政治を習
わせるようにしている。そのために顧問を備えて、よろしく輔導すべきである。」と戒
めていた。それにより、醍醐天皇は権大納言の官職にあった道真を起用して、時平とと
もに内覧を任せた。しかし、前年の藤原良世の致仕(引退)によって空席となっていた
藤氏長者によって時平は補員され昌泰2年(899年)時平は左大臣に任ぜられるが、同時
に道真も右大臣となり太政官の首班に並んでいたのである。藤氏長者の仕組んだ事だっ
た。宇多は譲位後も道真の後ろ盾となり、時平の独走を防ごうとしていたが、一方では
仏道に入ってから時間が無くなっていった。


966: 名無しさんAA:18/03/13 09:55
   富安君を探せ              < その 4 >

 宇多天皇は上皇にはなっていたが、10月24日には出家し、東寺で受戒した後、仁和寺
に入って法皇となった。さらに比叡山や熊野三山にしばしば参詣し、道真の援助を十分
に行えなくなった。昌泰4年(901年)正月に、道真は、宇多の子で自らの婿でもある
斉世親王を皇位に即けようとしていたという嫌疑が、突然かけられた。そうして裁く事
が決められた。この嫌疑の知らせを受けた宇多は急遽内裏に向かったが、宮門は固く閉
ざされ、その中で道真の大宰府へ左遷される処分は決定してしまったのである。宇多は
朝廷の安定の為に藤原氏排除に動き、自己の皇統の安定の醍醐の皇太子決定を急いでい
た。結果的に当時男子のいなかった醍醐の後継をその弟から出すことを考えるようにな
った。皇太子を決める事は大事な事で既に決まっていても良かったが、独裁の反対派の
醍醐が引き伸ばしていた。醍醐天皇は自分が許した基経の娘・藤原穏子の入内にも反対
された為に、これに反発していたのだ。これに時平はすり寄ってき醍醐は法皇の代弁者
とみなされた道真を、失脚させる企みを企画したのだ。それでも 晩年には病気がちの
醍醐天皇に代わって、実際の政務は宇多は上皇がみていたのである。延喜元年(昌泰4
年を改元)12月13日、宇多は東寺で伝法灌頂を受けて、やっと真言宗の阿闍梨となった
。これによって宇多は弟子の僧侶を取って灌頂を授ける資格を得た。こうして、宇多は
弟子になった僧侶を使う資格を得て、彼の推挙によって朝廷の法会に参加して手足にな
って情報に接する事が可能になった。しかしその後は天台宗に比べて希薄であった真言
宗と朝廷との関係強化や地位の向上につながってしまい、本来の国家神道や道徳を付す
道教や儒教が廃(すた)れていった。特に、天罰を基礎とする陰陽師の式神を宿して、
「艮の金神」(うしとらのこんじん)の社を祭る、祈祷天神は廃れてしまったのである
。対して並行していた仏教徒格段に増え、小さかった真言宗の発言力は高まりを見せて
、宇多の朝廷への介入や影響力を回復させる足がかりになっていった。延喜21年 (921
年)10月27日に醍醐から真言宗を開いた空海に「弘法大師」の諡号(しごう)が贈られ
ているが、この件に関しては、宇多の直接関与の証拠はないものの、醍醐の勅(みこの
り)に太上法皇(宇多)が空海を追憶している事を理由にあげている 延喜13年3月13日
(913年4月22日)には 後院の亭子院で大掛かりな歌合「亭子院歌合」を開いた。これ
は国風文化の盛行の流れを後押しするものとなった。延喜11年(911年)6月15日、亭子
院の水閣を開いた時、臣から酒豪を選んで宴に招き、酒を賜り酒量を競わせた。亭子院
酒合戦である。こうして派閥争いの貴族文化に現代の夜の飲会の様な会議の席を設けた
。限定されるものの 一定の和を求め人となりを調べたかったのであろう。

967: 名無しさんAA:18/03/13 10:03
 この頃、伝教大師最澄と、弘法大師空海の持って来た物は、京の町に大きな文化を創
っていった。味噌や醤油や酒や塩や砂糖 更には香木や金銀や鉄や薬やお茶やその他を
大きく広めたのだ。元来からあったものもあったが、彼らは密教としてアヘンさえも使
う事を知り、鉱脈さえも知る知識を得ていたのである。宇多天皇の頃は、陽成上皇との
関係は微妙だった。宇多は皇位に即く前に陽成に仕えており、神社行幸の際には舞を命
じられたこともあった。『大鏡』には、陽成が宇多のことを、「あれはかつて私に仕え
ていた者ではないか」と言ったという逸話が残っているが、陽成が復位を画策している
という風説は宇多を悩ませていた。『長秋記』(保延元年6月7日条)によれば、陽成上
皇が宇多天皇の内裏に勝手に押し入ろうとした時、上皇といえども勅許なく内裏に入る
事は罷りならないとこれを退けていた。後に昌泰の変が起きた際には、醍醐天皇に菅原
道真の左遷を止めさせようとして内裏に入ろうとした宇多上皇に、この自身の先例を盾
にそれを阻まれたという記載がある。「艮の金神」は、日本に古くから伝わる陰陽道の
神様で、修験道の祀る神だった。「金神」とは“祟り神”のことで、また「艮」(うし
とら)とは東北の意味で鬼門とされる。陰陽道では、鬼が出入りする方角であるとして
、万事に忌むべき方角としている。他の方位神とは異なり、鬼門は常に艮の方角にある
。鬼門とは反対の、南西(坤、ひつじさる)の方角を裏鬼門(うらきもん)と言い、こ
の方角も鬼門同様、忌み嫌われる。南東(巽)を「風門」、北東(艮)を「鬼門」とし
た。「ひつじ人良しさるによし」とは日光の当たりが強く、体に良すぎて悪いと言う意
味で猿とは猿田彦の神の方向とされる。陰陽道においては、北と西は陰、東と南は陽と
され、北東と南西は陰陽の境になるので、不安定になると説明される。これは中国から
伝わったものとされるが、実は違っていて修験道の岩屋の文化である。家相や鬼門に関
しては諸説あるが、日本の鬼門思想は中国から伝わった思想とは大きく違った思想で、
風水とは全く違う物だ。風水に鬼門思想はなく、日本独自の陰陽道の中で出来上がった
物で恐らく金産出工程の中での一つの公害対策であろう。だが湿気の多い日本の中では
、家屋の作りに日本独特のこの思想が最適だったと考えるべきである。十二支で鬼門は
(丑寅)とは反対の方角が未申であることから、猿の像を鬼門避けとして祀ったりした
といわれている。代表的な例が、京都御所で、京都御所の北東角には軒下に木彫りの猿
が鎮座し、鬼門に対抗し、築地塀がその方位だけ凹んで、「猿ヶ辻」と称されてきた説
がある。古来より、縁起を担ぎ、家の北東、鬼門の方角に魔よけの意味をもつ、「柊」
や「南天」、「万年青」を植えたり、鬼門から水回りや玄関を避けて家作りしたりと、
根強い鬼門を恐れる思想がある。だが、基本は泥棒避けや病を避ける為のものであった。

968: 名無しさんAA:18/03/13 10:11
   富安君を探せ              < その6 >

 北野天満宮の祭神・菅原道真は九州ではちょっと違った説がある。今や太宰府天満宮
(だざいふてんまんぐう)は、福岡県太宰府市宰府(さいふ)にある神社で社格は官幣
中社で、現在は神社本庁の別表神社となっている。又神紋は梅紋であるとされる。しか
し大宰府天満宮はもともとは祭神は菅原道真ではない。今では菅原道真公を祭神として
祀る天満宮の一つで天神様のお膝元とされ、初詣の際には全国から毎年二百万人以上の
参詣者がある屈指の神社になった。現在、京都の北野天満宮と共に全国天満宮の総本社
とされ、また菅公の霊廟として篤く信仰されている。しかし私が知る限り、都府楼庁舎
であり西の聖都と名で知られるこの場所は、奈良・平安時代を通じ、わが国の西の守り
として、既に国府庁舎としてお宮はあったのである。福岡には概して思わぬ古い神社は
多い。武内宿禰(たけしうちのすくね)は、記紀に伝わる古代日本の人物されるが、実
はこの武内宿禰を祭ったものが玉垂れ宮の起源とされる。伝説記上の天皇として景行・
成務・仲哀・応神・仁徳の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えたという伝説上の
忠臣だが、紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族の祖ともされる。
筑後の伝承では仲哀天皇の頃神功皇后が三韓征伐に向かった。博多に於いて一泊し船を
求めて柳川の地にたどり着いた。最初に八咫烏(ヤタガラス)とされるカチガラスを見
つけ辿りついたのが清水山と言われる。そこで山都の地をみつけ降り立ったのが鷹尾神
社とされる。その頃既に水田の地から米を収穫し大和の倉から船で奈良まで送っていた
とする。その棚田が棚町でありその役所が久末だったとしている。瀬高の老松宮はもっ
とも古く邪馬台国時代からあった神社だったとされる。その老松宮が方々にあってその
一部が大宰府にあったとされる。都府楼は、そこが首都とした名残りの名前である。そ
の神功皇后が求めたのは安曇野磯良丸である。今や大川の風浪宮は大きな大社だが、紀
元は柳川の細工町の神社が本宮である。そしてそれは日本の船の起源とされ、彼を崇め
て無事を祈り、−−−丸と言う名をつける習わしになった。ちなみに海外は‐‐‐号で
ある。「安曇野」と言う名前は刺青を入れた部族の意味だそうで、磯を良く知る者と言
う名前らしい。「野」と言うのは紀伊半島を示す言葉で近畿との往来した者を指すと言
われている。彼らを呼んで磯宮に呼んだのが二ッ河小学校の地である。田畑の地に降り
立つ鳥が白く白鳥と命名し、磯に降りた鳥を磯鳥と命名した。ちなみに彼らの船を集め
て三韓征伐に行こうとしたが博多の地で子供である仲哀天皇が病の為崩御した。そこで
香りたつ霊木の椎の木で棺を作り一時的に祀った。それが香椎の宮の始まりである。と
伝えられている。

969: 名無しさんAA:18/03/13 10:21
   富安君を探せ              < その7 >

 では何故ここまでやって来たのか。実はこの筑後の地は稲作発祥の地とされる。さら
に柳川は瀬高清水山の門前町であった。今はないがその証として国立病院前はお寺が大
きく広がっていて、日本では珍しい立花ハゼの原木があって その実がこの地の和蝋の
産業として紀元前から成り立っていたとされる。だが倭寇が盛んな頃に、防戦するも、
矢留のやしろの町は大火となってしまった。と言われる。僅かに残ったのが西門とされ
今の西日本ガスの付近で筑紫橋とされるのはそこが筑紫の君小磐井の別所だったからと
されている。鬼堂町(おうんどまち)は決して鬼が出る町でなく、そこに強い者がいた
からだ。この鬼こそ陰陽道の安倍の清明が従える鬼であった。とされる。瀬高の本郷に
は行基橋がある。この行基(ぎょうき)は役行者(えんのぎょうじゃ)として全国的に
有名だったがかれが本郷に在住してかれら強者を従えていた。とされる。江戸時代の本
居宣長はこの上妻下妻の地こそが卑弥呼のいた地だと言っている。何故ならこの地が、
物部氏の本拠地で元々は兵器の製造・管理を主に管掌していたが、しだいに大伴氏と並
ぶ有力軍事氏族へと成長していった。5世紀代の皇位継承争いにおいて軍事的な活躍を
見せ、雄略朝には最高執政官を輩出するようになった。物部氏は解部を配下とし、刑罰
、警察、軍事、呪術、氏姓などの職務を担当し、一説には盟神探湯の執行者ともなった
とされる。また、奈良県天理市街地周縁にある「石上・豊田古墳群」「杣之内古墳群」
の被葬者は物部氏一族との関連が指摘されている。この時蘇我氏物部氏と書けば家系の
一族と見られ易いが、実はちょっと違っていて朝廷の官位であった。と思われる。とい
うのも筑紫の君磐井もこの蘇我氏について居るからだ。彼らは或る時大宰府の勅令に反
して兵をあげた。だがこの時物部氏が鎮圧にきたのだ。板付の乱だ。528年継体天皇
22年に九州北部で起こった磐井の乱の鎮圧を命じられた。これを鎮圧した物部麁鹿火
(あらかい)は宣化天皇の元年の7月に死去している。この鎮圧者物部氏は保守的だっ
た。物部守屋と中臣勝海は蕃神(異国の神)を信奉したために疫病が起きたと奏上し、
これの禁止を求めて天皇は仏法を禁止したのである。守屋は自ら寺に赴き、胡床に座り
、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、馬子や司馬達等ら仏法信者達を
面罵した上で、達等の娘善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら3人の尼を捕らえ
、衣をはぎとって全裸にして、海石榴市(つばいち、現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連
行し、群衆の目前で鞭打った。とされる。稲作を伝え手であった秦氏は当然中国からの
者で仏教信者であった。蘇我氏はその報を聞いて兵糧の輸送を止めて大宰府との戦いに
勝っていたのである。筑紫の君磐井の墓の埴輪はその中国礼賛の文化を現わしている。

970: 名無しさんAA:18/03/13 10:45
 筑後伝承では秦氏は、秦の始皇帝が、不死の妙薬を探して大勢の者を鳳来山に向けて
出発させた。徐福伝説では一回目はこの佐賀に付き二回目は八女に着いたとされる。最
初は大嵐によって干潟に乗り上げて諸富あたりに着いたとされ、その富が多く諸富との
名だと聞く。そのまま金立付近に住み着いた。だが数隻は大牟田から八女にたどり着き
、その後二回目は安曇族に捕まったのである。そこで筑後川を挟んで争いが起こったが
、当然筑後側が勝った。何故なら筑紫の磐井は既に熊本の熊襲の人間まで一つになって
いたからだ。そうした秦国の末裔で、秦氏(はたし)と名乗ったのである。先の三韓征
伐を少し説明すれば、朝鮮に三韓時代と言うのがあった。「馬韓(ばかん)」「弁韓(
べんかん)」「辰韓(しんかん)」である。馬韓は実は中国に着いたイスラム系の人達
であった。彼らはとても商売好きで親日でもあった。弁韓は殆ど日本人と変わらず魚を
食し言葉のみ繋がらない人達だった。彼らこそ仏教を伝えた日本人とされる。いずれも
遣唐使の船のコースで自由往来では黄海を湾としていて船は日本海側に行かない限りは
朝鮮半島は二つの国だった。しかし朝鮮半島の山を越えロシア側は辰韓と言う国だった
。この国には文字も言葉も違い冬には寒く、時折日本に遭難した難破船や海賊行為の村
は、彼らがやって来たとされる。モンゴルに鮮卑族が大きく力をつけると彼らは追いや
られやって来た。日本は新羅王や百済王と取引していた為、三韓征伐要請があって兵員
を集めたのである。ところがこの時代に応援に駆け付けれなかったこの国では新羅では
半分が百済では大部分が日本に逃げて移住してきたとされる。新羅の王達は先の先住の
中国人と諍いが起こって熊本の天草に降り立ち宮崎の山に居住し、百済の者は朝廷の認
可を求めて京都奈良に居住したのだ。これが応神14年 (283年)百済から日本に帰化
した弓月君(融通王)が祖とされたり、今の蘇我氏になったりしたといわれている。元
もとこの八女の天孫降臨説は今の天皇の神話とは別系統と称される。八女の天満神社は
、そうした不思議な伝承多い。もともとここの竈神社(かまどじんじゃ)は、竈本庁と
も称され総本社と言う。この土地に来て男の子岳と女山から 人々の竈(くど)から煙
が立ち上るのを見て安堵しここで安らぎを得た事で神社を祭ったとしている。物部氏は
、河内国(かわちのくに)の哮峰(いかるがのみね)に、天孫降臨したと伝えられる。
この「ニギハヤヒ」を祖先とする氏族とが秦氏と言われ、古代、日本に渡来してきたと
考えられている氏族の中で 彼らがいたのが鷹の秦家=高畑とされている。この神功皇
后遠征で来た鷹尾神社は伝説から言えば最も古く、その鷹尾と言うのは高良山の神紋で
熊本の菊池家の紋章が鷹の羽印だった。からその意味では三柱神社が鷹尾神社の領地分
で鷹の紋の秦家がいる場所が高畑だった。と言う説も頷ける。又神功皇后のこの時の船
が秦氏であったのではないか。とも推測される。

971: 名無しさんAA:18/03/13 11:25
 かつて昔、大川の木室には大木の下に暮らす民がいた。古墳時代の頃と言う伝承に、
歴史の先生は「そんなことはないでしょう。昔海だったろうから。」とにべにもなかっ
た。だが九電の変電所工事によって弥生土器などが見つかり住居跡がでてきたのである
。三潴が昔は水沼が訛り水間となっていまの三潴になったとされた事は解っている。八
女の霊厳寺は中国の霊厳寺の和尚がここで布教したと言う。お茶やみそや醤油などを、
ここに渡来して教えてきた学び舎だったと言われる。奇岩で有名だが実はこの道は大分
へや大宰府へなどの行く大きな通行の要所であったとされる。ここから今でこそ、ここ
から上陽の峠には細い道しかないが久留米や小郡(おごうり)甘木を通っていたと言う
実は大宰府政庁が都府楼とされる頃既に九州は大陸文化を受け入れて駅舎制度があった
とされる。その為新たに便利な国分寺制度が作られて寺を興したとされる。741年(
天平13年)の聖武天皇が仏教による国家鎮護のために、日本の各国に建立を命じた寺院
制度である。寺は国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれる
がいずれも新たに日本古来の山岳仏教から離れて町の為の仏教を興す為であった。そう
して藤原氏の時代になり宇多天皇が現れたのだ。中国の山東省済南市長清区にある霊巌
寺(れいがんじ)は、中国でも仏教寺院としては古いものだ。中国各地の名山中でも屈
指の名刹として知られ、玉泉寺・棲霞寺・国清寺とともに、天下の四絶の一つに数えら
れている。霊巌寺近郊への仏教流入は、五胡十六国にまで遡り得る。それは、後趙・竺
僧朗が、寺を建てたとする記録に相当する。竺僧朗は、仏図澄の弟子であり、冉閔の乱
(中国で後漢末期以降に統一した晋が滅亡前に匈奴漢が内紛を起こし幼王が次々に殺さ
れた事件。石虎の崩御後石世←石遵←石鑑←石閔がそれぞれ殺害し代わり最後には漢人
至上主義を標榜し同族の異民族大虐殺を始めた為に前燕東晋に攻められ滅亡する事件)
を避けて、351年(皇始元年)に泰山の金輿谷(朗公谷)に精舎を建立したという。又。
古刹の中の国清寺(こくせいじ)は、中国浙江省の天台山にある仏教寺院。天台宗の中
心的な寺院として知られる。中華人民共和国全国重点文物保護単位に指定されている。
天台仏教が昔からの流れで日本に於ける山岳仏教として定着したのはかなり古くある。
日子宮(英彦山)の修験道は何故だか座主を三潴の玉垂れ宮の傍に置いた。座主とは、
中国の科挙における試験官を指す言葉である。科挙受験後、合格者は選抜してくれたこ
とへの感謝の意を込めて担当試験官を訪問し、そこで師弟の契りを結ぶ。その時、試験
官をその場の主と言う意味で「座主」と呼んだ。座主は皇帝であるから、日本御座主は
修験者の皇帝であり、日子山の長老であったはずだ。彼の居住地が玉垂れ宮なのだ。

972: 名無しさんAA:18/03/13 15:14
  富安君を探せ              < その9 >

 富安家は現和歌山県と三重県南部である紀伊国日高郡富安村が起源(ルーツ)である
。宇多天皇の皇子敦実親王を祖とする源氏(宇多源氏)という話。早世が多かった宇多
天皇の皇子では唯一長命を保ち、内外から重んじられた存在であった。和歌・管弦・蹴
鞠など諸芸に通じた才人であったが、とりわけ音曲に優れ源家音曲の祖とされる。藤原
忠房が作曲した舞楽曲の胡蝶や延喜楽に振り付けを付けるなど、日本の音楽史上重要な
人物である。勅撰歌人として、『後撰和歌集』に和歌作品が1首のみ採録されている。
宇多天皇は多色家でもてたらしく20人くらいの子がいる。宇多天皇の若年時からの妻
は藤原胤子・橘義子などで、宇多天皇が臣籍降下し源氏となっていた頃に生まれている
。第一皇子・敦仁親王はのちの醍醐天皇になったが・第二皇子斉中親王は5歳で元服し
たが7歳で夭折し薨奏は行われなかった・第三皇子斉世親王は生誕時は源氏であったが
11歳の時に大学寮において講書初めが行われ13歳で11月に元服した。その後には
兵部卿・上総太守などを歴任し斉世親王になった。しかし延喜元年(901年)に、岳父
の菅原道真が、斉世親王の兄である醍醐天皇から斉世親王に譲位させようとしたという
嫌疑で九州大宰府に左遷される(昌泰の変)と、出家して仁和寺に入って真寂入道親王
(しんじゃく にゅうどうしんのう)となり、真寂と名乗った。その後は欣求修行につ
とめて7回の灌頂を受けた。三品に叙された。その後、女御藤原温子がついた。温子は
関白藤原基経の女で、宇多天皇即位後に入内した。女御藤原胤子が病没後に、皇太子の
敦仁親王の養母となり、醍醐天皇即位に伴い、皇太夫人となった。晩年は東七条宮とし
て「亭子院」に住んだため、東七条后、七条后とも呼ばれた。橘義子所生の斉世親王は
、菅原道真の女を妻としたことから、後年菅原道真の誣告に際してその名が取り沙汰さ
れた。また女御菅原衍子は道真の女である。宇多天皇の孫は、ほとんどが源氏の姓を賜
り、臣籍降下した。こうして宇多天皇から出た源氏を宇多源氏といい、宇多氏の従弟は
桓武天皇の子であり桓武平家となった。敦実親王から出た系列が最も栄えた末席に富氏
がいた。「貞盛、将門の謀叛を予言しける事」には逸話も伝わっている。仁和寺に籠っ
ていた時御許に将門が郎等五・六人を連れて参入して来た。つづいて貞盛が参入してき
たため、将門と貞盛は門ですれ違った。このとき貞盛は郎等を連れていなかった。そこ
で貞盛は御前に参って「今日郎等を連れていなかったことが、残念です。もし郎等を連
れていれば、今日殺していたことでしょう。将門は天下に大事を起こすことになる者で
す」と申し上げたというものだ。


973: 名無しさんAA:18/03/13 15:15
  富安君を探せ              < その10 >

『大和物語』は面白い事に雑事を扱った和歌だ。当時の貴族社会の 和歌を中心とした
歌物語で、平安時代前期『伊勢物語』の成立後、天暦5年(951年)頃までに執筆された
と推定されている。登場する人物たちの名称は実名、官名、女房名であり、具体的にあ
る固定の人物を指していることが多い。だが主人公はいない。通常では、内容は173
段に区切られる。約300首もの和歌が含まれているが、『伊勢物語』とは異なり統一
的な主人公はおらず、各段ごとに和歌にまつわる説話や、当時の天皇・貴族・僧ら実在
の人物による歌語りが連なったいわばオムニバスの構成となっている。現代風の和歌だ
。第140段までの前半は物語成立の近年に詠まれた歌を核とし、皇族貴族がその由来
を語る歌語りであり、その後141段からの後半は、悲恋や離別、再会など人の出会い
と歌を通した古い民間伝説が語られて、説話的要素の強い内容となる。二人の男からの
求婚された乙女が生田川に身を投げる「生田川伝説」や、「姥捨山伝説」などがある。
また「伊勢物語」にあらわれる「筒井筒」と同じ話が「大和物語」にも出てくるなど、
「伊勢物語」の影響は色濃い。「後撰和歌集」や「躬恒集」「檜垣嫗集」「公忠集」な
どの和歌が「大和物語」に出てくることから、これらの作品も何らかの関係があろう。
ラ変動詞「あり」「居(お)り」の尊敬語である「いまそかり」が数多く使われているも
似ている。尾形 月耕(おがた げっこう、)は江戸の終わった安政時代のに生まれて、
大正9年まで活躍した浮世絵師だ。日本の明治から大正期の浮世絵師で日本画家の尾形
月耕の『大和物語』の木版画は海外にまで行って散逸している。しかし同じ歌物語の、
『伊勢物語』は多いが『大和物語』については絵画化の例はほぼ皆無であり、月耕の作
は珍しい例といえる。内容は、『日本古典文学大系』9などが詳しい。彼は葛飾の地主
だった父の強い奨めにより絵を独学で学び、京橋弓町で提灯屋を営む一方、「絵ビラ」
を描き絵草紙屋を周って、錦絵を描かせてほしいと頼み歩いて始めている。吉原遊廓の
絵びら、人力車の蒔絵、七宝家濤川惣助の輸出向けの陶器、漆器の下絵などを描いて、
画技を磨いて行った。そうした中で明治10年(1877年)ごろ『征韓論』と称される三枚
続りの時事物錦絵を自費出版した。評判になって、河鍋暁斎の目に止まりその推薦を受
けた。名鏡正之助の名は少しずつ知られるようになると、琳派の系統尾形光哉の家姓を
襲名して尾形を名乗る。明治15年ころより尾形月耕名で単行本やボール表紙本の挿絵を
はじめ、「絵入朝野新聞」など新聞の挿絵を手掛けて当時の浮世絵師の細見で23人中
7番目の絵師とされた。此処に富安のルーツが忍ぶ

974: 名無しさんAA:18/03/13 15:32
  富安君を探せ              < その11 >

 菅原道真が大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後天変地異が多発し
たことから、朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学
問の神として親しまれている。だがもともと遣唐使の長として集められていた。寛平6
年 (894年)には正式に遣唐大使に任ぜられていた。だが、唐の混乱や日本文化の発達
を理由とした道真の建議により遣唐使は停止されてしまった。その後、延喜7年(907年
)に唐が滅亡したため、遣唐使の歴史はここで幕を下ろすこととなった。寛平7年(895
年)参議在任2年半にして、先任者3名(藤原国経・藤原有実・源直)を越えて従三位
・権中納言に叙任してめちゃめちゃ恨まれてはいたのである。またこの間、寛平8年の
(896年)長女衍子を宇多天皇の女御として、寛平9年(897年)には三女寧子を宇多天
皇の皇子・斉世親王の妃とするなど、皇族との間で姻戚関係の強化も進めていたので、
この大宰府左遷は彼には予想していた事だった。昌泰2年 (899年)右大臣に昇進して
、時平と道真が左右大臣として肩を並べた時、儒家としての家格を持っていた道真が、
家柄を超えて大臣に登るという破格の昇進に対して妬む廷臣も多くて、翌昌泰3年(900
年)には文章博士・三善清行が道真に「止足を知り引退して生を楽しむよう」諭した。
しかし、道真はこれを容れなかった。とされる。昌泰4年(901年)正月に従二位に叙せ
られたが、間もなく醍醐天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀ったと誣
告され、罪を得て大宰員外帥に左遷される。宇多上皇はこれを聞き醍醐天皇に面会して
とりなそうとしたが、醍醐天皇は面会しなかった。また、長男の高視を初め、子供4人
が流刑に処された(昌泰の変)。この事件の背景については、時平による全くの讒言と
する説から宇多上皇と醍醐天皇の対立が実際に存在していて、道真が巻き込まれたとす
る説まである。左遷後は大宰府浄妙院で謹慎していたが、延喜3年(903年)2月25日に
大宰府で薨去し、安楽寺に葬られた。享年59歳だったとされるが、実は密かに筑後川の
越えて、高良大社に、移り住んで時を過ごしたとされる。正室の島田宣来子は島田忠臣
の娘だったが、島田家も当然白い目で見られる為多数の従者を九州にお供させていた。
子は長男・高視や五男・淳茂をはじめ男女多数。子孫もまた学者の家として長く続き、
特に高視の子孫は中央貴族として残り、高辻家・唐橋家をはじめ6家の堂上家(半家)
を輩出した。高辻家からは明治時代に、西高辻家が別家し、太宰府天満宮の社家として
現代に至る。水田天満宮も又そうした菅原道真が一度は立ち寄った場所とされる。


975: 名無しさんAA:18/03/13 15:47
 道真が京の都を去る時に詠んだ「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主な
しとて 春な忘れそ」は有名。その梅が、京の都から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ
飛んできたという「飛梅伝説」も有名である。だがそれは 匂いと荷追い 梅と産め 
花と鼻 春なと遥縄 を掛けていて こっちから呼んだら荷物共に遥かな水縄(耳納連
山)に送れと言う意味とされると言う。大宝元年 (701年)春日氏の一族の山上憶良は
、第七次遣唐使の少録に任ぜられ、翌大宝2年(702年)唐に渡り儒教や仏教など最新の
学問を研鑽する人だった。彼も左遷され、神亀3年(726年)ごろ筑前守に任ぜら任国に
下向している。神亀5年 (728年)頃までに大宰帥として大宰府に着任した大伴旅人と
ともに、筑紫歌壇を形成した。 天平4年(732年)頃に筑前守任期を終えて帰京して、
天平5年「老身に病を重ね、年を経て辛苦しみ、また児等を思ふ歌」を、また同じ頃に
藤原八束が見舞いに遣わせた河辺東人に対して「沈痾る時の歌」を詠んでいる。だが 
少し逆昇ると「青丹よし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり」と、小野
老朝臣が神亀五年四月頃、少弐として大宰府に着任したころの歌を謳っている。奈良遷
都から20年くらい経って詠まれたもので、都の活気に溢れたようすを「花がにおうよう
に」と表現したと言う。万葉集では「にほひ」は、「赤黄白の鮮やかに映ゆる様子」を
いうそうだ。小野 老(おの の おゆ、生年不詳とされ - 天平時代又は奈良時代の歌人
で貴族であったろう。と言う。系譜は明らかでないが一説では中納言・小野毛野の子。
官位は従四位下・大宰大弐であったとされる。『万葉集』には、この老の歌につづけて
詠まれた防人司佑大伴四綱、大宰帥大伴旅人、観世音寺別当沙弥満誓・筑前守山上憶良
の4人による計9首が収載されている。つまりいずれも九州には縁の深い人々の詠み歌人
である。伝説によると、遣唐使や遣隋使は決して博多港から出港はしていないらしい。
実は天台宗がそのこの船便の買い取りを仕切っていて、その多くは、瀬高清水山か鷹尾
神社で必ず旅の安全を祈願して行ったという。それは今の甘木山つまり大牟田の唐船が
船が出る所だったからだ。勿論そこは玉垂れ神宮からの船便もあった筈だ。その昔は歩
く事よりも、船頭の渡し船の方が便利に今のバス停に止まるバスの様に動いていた。と
され、船頭は半農半漁の村人で案内人であった。今の原鶴温泉も、実はかつて日本武尊
時代に天皇の食卓に鵜の取った魚を料理して 天皇から首を切られた鳥飼氏が死んだと
言う名所と伝えられ、当時は山の筏の集積した出荷場所だったと言う。それが朝倉の名
の始まりでもある。浮羽とは杯の事と言われている。まあそれは兎も角、その天台宗の
最澄が帰って来てその無事の感謝に掘ったとされる千手観音を今は祀って瀬高清水寺の
本尊としている。古代山岳宗教の様式そのままに二の眼造りで、ちゃんと2階を、仏様
の目線を入口とした大きな秘仏である。

976: 名無しさんAA:18/03/13 15:52
  富安君を探せ              < その13 >

 従って当時はこの清水山の領地としてみやまや柳川大牟田はあったとされその門前町
として柳川は栄えていた。柳川の「やな」は実は柳の字ではない本来は竹の籠を指す篭
の漢字である。つまり竹や柳の枝などの織物加工が盛んだったのである。当時の皇族や
貴族は、遣唐使によってもたらされた周(武周)の武則天や唐の玄宗の文化を積極的に
取り入れた。これによって花開いたのが、天平文化である。因みに、唐からの文化移入
には特に大宰府の果たした役割はかなり大きかった。 一方で 国衙(こくが)・国分寺
などに任命された国司(貴族)・官人や僧侶などは有力な伝達者になって地方にも新し
い文物がもたらされた。このようにして、中国風(漢風)・仏教風の文化の影響が列島
の地域社会へ浸透していった。シルクロードによって西アジアから唐へもたらされたも
のが、遣隋使や遣唐使を通じて日本にやってきたりしたがその本当の玄関口は大牟田で
あったのだ。だがやはり大規模に真似て権力があったのは京都奈良であった。平城京に
は碁盤の目のような条坊制が布かれた。そこには多くの官衙(役所)が立てられ、貴族
や庶民の家が瓦で葺き、柱には丹(に)を塗ることが奨励された。また、飛鳥に建てら
れた大寺院が次々と移転された。このようにして「咲く花のにおうが如く今盛りなり」
と歌われた平城京が出来上がった。聖武天皇により諸国に僧寺(国分寺)・尼寺(国分
尼寺)を建て、それぞれに七重の塔を作り、『金光明最勝王経』と『妙法蓮華経』を一
部ずつ置くことにした。その総本山と位置づけられる国分寺・総国分尼寺が東大寺、法
華寺であり、東大寺大仏は、鎮護国家の象徴として建立された。この大事業を推進する
には幅広い民衆の支持が必要であったため、行基を大僧正として迎え、協力を得た。こ
の時の行基こそ本郷の行基橋の名の素になった陰陽師であった。行基は奈良時代の高僧
である。俗姓高志 (こし) 氏。15歳で出家して薬師寺で義淵らについて法相 (ほっそ
う) を学んだとされる。法相とは大乗仏教の唯識で「存在の理由」の抽象理論の完成で
ある。平たくいえば、自分や回りが何故存在すのかを仏教理論で解くやり方である。こ
の独特の考えを完成させた華厳宗などがあるが、それらはインド瑜伽行派(唯識派)の
思想を継承する物とされる。孫悟空で有名な玄僧三蔵法師のモデルとなった玄奘が求め
た法典とされ、645年(貞観19年) 中インドから玄奘が帰国し唯識学が伝えられること
になり、その玄奘の弟子の慈恩大師基が開いた宗派で唯識宗・慈恩宗・中道宗とも呼ば
れるものだった。その後 705年に華厳宗が隆盛になって、宗派としては消えた。しかし
、日本仏教に伝わる法相宗は、玄奘に師事した道昭が法興寺で広め、南都六宗の一つと
して、8世紀を過ぎて隆盛を極めた。

977: 名無しさんAA:18/03/13 15:59
  富安君を探せ              < その14 >

 法相(ほっそう)は、存在のあり方を指している。個々の具体的存在現象のあり方だ
けでなく、一切の事物の存在現象の区分やその有様をも指している。実際に、存在現象
そのものに関して、阿毘達磨(あびだるま)文書が伝わり、仏陀の説く真理や仏陀自身
の言葉を「ダルマ」(真理)と解し、その考え方の幾つもの解答「アビダルマ」(対法
)が伝わり日本では「アビダルマ」(論)が「論蔵」となり、経蔵・律蔵・論蔵の三蔵
が成立した。これら「説一切有部」(せついっさいうぶ)などは各派に分かれた部派仏
教を中心に集められ研究が進められた結果と言える。存在現象のあり方を、我々人間が
どのように認識しているのか、という研究が進められた。更に、最終的には一切の存在
現象はただ識に過ぎないとする解法である。さらに三性説を立て、人間が縁起の理法に
気付く(覚る)までをダイナミックに分析する。三性とは、事物は縁起に依るという「
依他起性」、それに気付かずに執着するという「遍計所執性」、縁起を覚って円らかに
なる「円成実性」と分けている。これは西洋科学では「行動原理」と「相互依存」と「
相互調和」の経済学みたいなものである。こうして基は師の玄奘が訳出した『成唯識論
』を注釈し、一切法の相を五位百法に分類し分析的に説明した。この相と性を学ぶこと
を合わせて性相学とした。こうした「唯物行動学」基本的に一回しかない日々の行動学
の社会理論を身に着けた後、さらに山林で禅定 (ぜんじょう) を修した。禅定は仏教の
三学の戒・定・慧と言う、仏教においての(戒律を守ることと禅定と智慧とは一体)に
なった中の行動学で、何にも捉われずに足を掬われない生き方の仏教科学の実践である
。つまり戒律と知恵と行動の乖離しない生き方を修行として、山などで人に頼る事なく
実践する修行である。こうして自然の中の知識と人の行動真理と仏法の戒律を修めた後
母の忌服を終えると諸国を遊歴して自行化他 (じぎょうけた) に励んだ。自行化他は、
みずからのために仏道修行し、さらにその得たところをもって他を教化することで、他
で言う勤行(ごんぎょう)の、「勤(つと)めて善法(ぜんぽう)を行うこと。」を、
自然の中や村々を回って行っていた。しかしこの結果これに従うものは千人とも1万人
を超えたとも言われている。弟子を連れて各所において橋を造り、堤を築いた。瀬戸内
海に五泊 (ごとまり) を開いたのもその一例であるとされ、各地に布施屋 (無料宿泊所
) をつくり、摂津に田 150町歩もの開墾し、各地に道場 (僧尼院)を建てて畿内にあ
るものだけでも 49ヵ所に及んだ (四十九院) 。つまり仏教学の究極の実践であった。
西洋の経済学に劣らないこの「説一切有部」と三性説の「遍計所執性」「円成実性」を
行動したのである。

978: 名無しさんAA:18/03/13 16:22
  富安君を探せ              < その15 >

 行基のこの行動は朝廷を震え上がらせた。一介の名も無き高僧が、朝廷の威光よりも
強く全国に広まり実践した修行が社会資本の充実だったからだ。更に彼らの唱えたもの
は天皇が今まで礼拝した神道でもなく、奨励し国分寺を立ててまで広げようした仏教で
もなく、祭りと相互扶助と生活利便を基にした陰陽道というものだったからだ。この行
為によって国家の混乱が収められたが朝廷は認めなかった。この宗教活動に朝廷はきび
しい弾圧で接した。養老1(717) 年4月の詔となって各所に発布された。詔には行基や
弟子たちが巷でみだりに「罪福」を説き、家ごとに説教して歩きまわり、施物を強要し
て聖道と称して民衆を惑わした。と断罪し民衆が生業を捨てて行基に従ったのでこれを
禁止する。というものであった。しかしながら、朝廷は彼らの勢力を無視する事は出来
なかった。天平3(731) 年においては陰陽道に「修業するもので、男は61歳以上、女
は55歳以上のものに限り入道を許すことを行基と結んだ。同15年、彼は当時行われ
ていた東大寺大仏造営のための、諸方を勧誘して歩く事になった。仏教でお布施と寄進
が商売の様に行われていたが、陰陽道は導師による先達によって新たに創られた田園や
橋や湖などの水理の供給などで、信者の帰依が豊富であった。従って陰陽道は、祝いや
祭りによっての賽銭でも充分な資金をもっていたのである。こうして彼が以前から民間
に培っていた勢力が、大仏造営に利用された。彼の従えた者たちは多くは鬼と呼ばれた
強力な剛腕の職工集団であった。従って彼ら無しは建設土木に錺工事も設計も全く出来
なかった。遂に同年1月21日前例のない大僧正に任じられ,宗教上の最高の地位に立
った。同21年に聖武天皇に菩薩戒を授けて、菅原寺の東南院で80歳の生涯を閉じた
。彼にまつわる多くの霊験譚が伝えられ、また当時の人々は彼を行基菩薩と称した。最

979: 名無しさんAA:18/03/13 16:22
。彼にまつわる多くの霊験譚が伝えられ、また当時の人々は彼を行基菩薩と称した。最
古の日本全図は彼が作ったと伝えられ、又彼らの弟子もそれぞれ崇められ同じ様に地域
に即した土木工事をして民を豊かにし同じ様に行基の姓と聖(ひじり)の役職を民は与
えた。聖というのは、元来「日知り」を意味し、太陽の司祭者を指したとされる。仏教
伝来後は聖の字があてられ、学僧を聖と呼ぶようになった。日子山が彦山となり英彦山
となった様に、平安期に末法思想などが仏教で広まると、それに伴って信仰を庶民に普
及する僧たちを、念仏聖呼んだ。寺院に定住せず深山の草庵に住んだり遍歴しながらの
修行僧の半僧半俗の存在の高徳者として聖としたのは平安中期とされる。聖は、それま
で寺院学僧に相対し、寺院経済を支える禅徒の立場で、客僧に過ぎない地位にあった。
その為に、聖たちは、仏教では寺院から離れ別所と呼ばれる場所に集住し、活動の拠点
としていた。本来は、聖(ひじり)のその語源は仏教伝来以前の民間信仰の司祭者とさ
れ仏教でない拝火教から陰陽道に変化した時の呪術者の名で祈祷師達の事だった。仏教
がここに飲み込んだ形で定着した。こうして日本において諸国を回遊した仏教僧をいう
言葉になった。


980: 名無しさんAA:18/03/13 16:27
  富安君を探せ              < その16 >
 当然ながら各所に聖(ひじり)の本拠地があるように筑後にも各所の寺の別所として
、存在した。実は清水山が天台宗の秘境寺であった事は意外に知られていない。その為
に鷹尾神社と清水寺更に霊厳寺の間にそれぞれ行基を祭る寺院があった。八女の祁答院
や筑後の善法院などがそれで、瀬高の今や筑後広域運動公園になっているが、本来は、
こうした歴史の宝庫の部分は史歴の里として 過去の立花藩同様に残しておくべき場所
だ。幸作橋はその名の通りこの川の制御によって柳川や大和の地が災害が無くなり耕作
地が広がった事を示している。その名を止めたのが五拾町付近の聖川(ひじりかわ)で
ある。今や見る影もないが実は昔は沖の端川は存在しない小さな川だった。聖河は行基
橋からすぐに五拾町と御仁橋当たりを流れて賽満神社や日吉神社の裏を流れていたのだ
。地名からも解る様に御仁橋は本来鬼橋であり賽満神社は災難神社であり日吉神社は、
日枝神社であった。これは中山の藤から六郷当たりまで一つの島であったと考えられる
。大将軍通りに太閤秀吉がやって来て名前を変えたのだが、それまでは六郷も陸郷であ
り棚町も田の町だったと思われる。会談したとされる久末は相当に古く平安以前の地名
とされ、鬼橋というのは当然ここに橋がありその向こうに鬼と言われた陰陽道の信者が
いたと思われる。何故こうした事にこだわるのか。実は富安の始祖とされる七条后と呼
ばれたその子橘義子の斉世親王は、真寂入道親王になったが、それは岳父の菅原道真が
、斉世親王の兄である醍醐天皇から斉世親王に譲位させようとしたと嫌疑を掛けたから
だ。九州大宰府に左遷されるされ天皇の兄に勘当されるその前には兵部卿・上総太守な
どを歴任したと言う非常に人気のある慕われた人事の長であった。斉世親王は仁和寺(
にんなじ)に入って真寂と名乗ったが、実はその仁和寺は丹羽氏の鉱山の山師の職業僧
に繋がっている。丹羽氏は赤土を意味し金貨つくりや銀貨の掘り出しなどは彼らが山を
見なければならなかった程見識があり弘法大師の空海も帰国後には、さきの錺職人によ
って商を興す為には必要不可欠の一族であったとされている。にわ氏は一つの血統では
なくその鉱物選別の学を修めた者の職業や役職としてあったと考えられる。こうして、
仁和寺(にんなじ)は、京都府京都市右京区御室にある真言宗御室派総本山の寺院とし
て、号を大内山と称する。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は宇多天皇。「古都京都
の文化財」として登録されている。皇室とゆかりの深い寺(門跡寺院)で、出家後には
宇多法皇が住したことから、「御室御所」(おむろごしょ)とも称された。その後皇族
がいなくなり「旧御室御所」と称するようになった。しかし当然ながらこの出家後に、
宇多法皇が真言宗に帰属したとして天台宗は勢力を阻められた。これは宇多法皇の失敗
であろう。開祖空海ですら天台宗門の仏僧であったのだから。

981: 名無しさんAA:18/03/13 16:41
 日本は不思議な国で、平安時代には恐らくインドや中東の宗教は中国を通じて全てが
入って来ただろうとされる。聖徳太子が厩屋の皇子としてキリスト教の宗門だった事は
明らかであるように、バラモン教ヒンズー教イスラム教キリスト教儒教と色々入って来
たが、全ての流入宗教を外国の耶蘇教として仏教の流派とした。国家神道として山岳宗
教の拝火教(原始ゾロアスター教)やら地方の地場信仰をやっと統一してその後の仏教
と折り合いを付けた頃だったからだ。斉世親王の兄である醍醐天皇から斉世親王に譲位
させようとしたと嫌疑を掛けられて家臣が移り住んだ場所が富安郷とされる。和歌山県
御坊市湯川町が富安発祥地とされ。鎌倉時代からは記録のある地名だが同地に分布があ
るのはそこで鉱脈からの金山の流れがあったからだ。佐賀までやって来た六角氏は近江
源氏として名高い佐々木氏の嫡流とされる。佐々木氏は宇多天皇の皇子敦実親王が子の
源雅信の子扶義を養子とし、その扶義の子成頼が近江国蒲生郡佐々木庄に居住し佐々木
氏を称したのが始まりといわれる。しかし、佐々木庄には大彦命の後裔といわれる佐々
木貴山氏という古くからの豪族もあり、両者の間には錯綜したところがあって、確実な
ところは分からない。富安家も宇都宮氏の流れがあり、熊本の豪族菊池一族の家臣にな
った時、鷹尾神社の座主となった田尻氏と縁戚にもなっているという。田尻氏は 豊後
大神氏の一族で緒方氏同様に宮崎に新羅人が数多くやって来た時に、その地を追われて
薩摩国伊作田尻村を領した者と菊池の地を領地とした2系統になった。が平安期に阿蘇
山や降雨の災害によって山の住処を追われ鎌倉期に三池を領地とした。鷹尾の神主は、
もともと秦氏の下で加茂氏の管理だったが、久留米の宇都宮氏が蒲池氏を名乗る頃に、
玉垂れ宮座主と神官北島氏の関係で秦氏より蒲池氏のものとなって勢力が移った。こう
して田尻氏が移り住んだがこの頃大変な事が起こった。河野氏は海賊退治に出かけて来
た一族だ。河野氏(かわのし)は、伊予国(愛媛県)の有力豪族で、越智氏の流れを汲
むとされる。彼らも清水の麓に住み着いたのだ。河野宗家は、代々湯築城を拠点として
いた者の外に湯築城へ移転するまでは、善応寺の双子山城を本丸として支城に恵良山城
、鹿島城、大山寺城、高縄山城などを有し、河野家の兵力は、瀬戸内最大規模の水軍と
なり、日本一の水軍となっていた。だが本来は、代々安曇族の松浦党配下で日足紋の地
で菊池氏要する村上水軍の縄張りであったのだ。形式的には今や河野氏は配下であるが
、独自で磯良丸起源の海童の地で老舗の村上氏の聖地であった。協調はしても従属関係
にあったわけではない。伊予水軍は大三島の大山祇神社を崇拝したのは、この地の海人
族が三島神社の祀りを執り行う習いを真似た事であったし、そも筑紫大伸宗像氏からの
報もなかった。


982: 名無しさんAA:18/03/13 16:53
  富安君を探せ              < その18 >

しかし、それは仕方が無かった。日本各地でそれも瀬戸内海でさえも海賊が出現してた
 刀伊の入寇(といのにゅうこう)である。寛仁3年(1019年)に、女真族(満洲民族
)の一派とみられる集団を主体にした海賊が壱岐・対馬を襲い、更に筑前に侵攻した事
件で刀伊の来寇ともいう。かれらは残虐でこの有明海にもやって来ては村々を襲った。
これに菊池軍も田尻氏や緒方氏や詫間氏を向かわせた。ところが彼らは残虐で火を放ち
弥四郎町の城は焼けた、多くの火矢が矢留町に止まり寺前や鬼堂町から筑後の国とされ
た柳川市街は殆どが焼け落ちたとされる。これによって京に送る久末の米は無くなった
それどころか船さえも無くなったのである。もともとは筑紫の国は大宰府ではない。こ
の有明海は「しらぬいのうみ」とされ「白い波がうねる美しいうみ」で筑紫の冠はその
海の色をして「つくしがたい美しさ」を意味する。大牟田の「牟田」も同じで緑の田畑
の美しさを謳った言葉であった。これにより藤原氏全盛の時代は終ってしまう。兵力で
ある武士団の兵糧が賄えなかったからだ。こうして武士も独自の神社荘園の護衛に付き
力を付けた。保元の乱(1156)で藤原氏全盛の時代は終り、貴族の手足として働く
存在だった平清盛と、源義朝が率いる武士団の実力は次第に影響力を強め、更に平治の
乱(1159)によって権力が平氏に集中、貴族に代って清盛の率いる一族が支配者と
なる。しかし関東の武士団にとっては支配層が貴族から平家に変っていただけだった。
この時戦いを率いたのが六騎とされる。この正伝では壇ノ浦で敗れた平家の落人達の、
肥後路へ逃避したものの行きついた為とされる。だが現実には彼らは平家ではないのだ
落武者6名(難波善長、加藤権内、浦川天ヶ左衛門、鳴神藤助、是永多七、若宮兵七)
は、柳川沖端に移り住み漁業をはじめたといわれているが、もっと早い時期の話である
。正伝では1185年檀ノ浦で破れた平家の落人は肥後路へ逃避した、しかし源氏の追求は
厳しく平家の末路は哀れで、人跡未踏の深山に身を隠しましたが淋しき山間の生活に堪
えかね各地を流浪し馬に乗って柳川の地に流れて来た。落武者の隊長は難波善長(平益
信) 加藤藤内(平正勝)、浦川天ヶ左衛門(平高矩) 鳴神藤助(平親英)、是永多七(平政
直) 若宮兵七(平清貞)とされ 当時の人々は平家の身分の高い人達として六名の騎馬武
者を『六騎』(ろっきゅう)と称した。有明海沿岸の地に身を隠し細々と生きて子孫を
遺してきた『六騎』でしたが、戦国時代には日本国中が乱れ特に九州地方の海岸沿いは
海賊の被害が甚しく有明海岸にも来襲して来たと言う。だが伝え聞く話は平家の落人は
「井上氏池末氏矢部氏大渕氏」などの祖先であってかなりの数になる。又、海賊で源平
合戦になったのであって、源平合戦から海賊が出たのではない。

983: 名無しさんAA:18/03/13 17:05
  富安君を探せ              < その19 >

 又別に立花藩の馬頭観音の山では平家の落人の里があり、平家の弓教経の剛弓がある
教経は弓の使い手で、大人二人かがりでも彼の弓を引けなかった。と言われている。弓
で有名なのは「扇の的」を射抜いたとされる屋島の弓人「那須与一」(なすのよいち)
の弓を祭った真弓神社のある里がある。源平合戦では源氏軍が意外にも少数だと知ると
、平氏軍も猛反撃に出ていたが船の攻防戦も一時休止状態に陥る。そして時は夕刻。休
戦状態となった戦場で、平氏は余興を始めます。突然、美女の乗った1艘の小舟が現れ
、「この扇の的を射ってみよ!」と挑発してくるではありませんか。「外せば源氏の名
折れだ!」と義経に無茶ぶりされた那須与一。「南無八幡大菩薩、我が国の神明…。こ
れを外せば自害して…」と覚悟を決め矢を放つと、見事扇を射抜いたのです。これには
、源氏も平氏も拍手喝采した。もともと源平合戦は清和源氏と桓武平氏の戦いである。
源氏と平氏の始まりは、桓武天皇が平安京に都を移したころにさかのぼる。清和源氏と
か、桓武平氏とか、頭にくっついているのは天皇の名前で、どの天皇の氏族から出た一
族なのかをあらわしている。当時天皇家の血筋を引く物が多く皇子を建てるのに一般的
に殆どを庶民に格下げした。その上で権力ある者や人気や実力ある者を任意に引き上げ
て皇太子になり皇位に戻していた。この格下げて朝廷が面倒見ない者に平家や源氏の冠
を付ける事を認めた。つまり天皇の血筋を公けにしても良い制度である。だが源氏が多
く在る中で平家を名乗る者が出て来た。それが桓武天皇の血筋だったのである。だが、
現実的には時の有力者に左右されてそれぞれがそれぞれを名乗った。しかしその前に、
筑後の状態を考える事が大事だ。海のそばの島のある沼地にそれぞれの島が村を作って
いた。それらが次第に平野になっていた。そんな中に海人族が住み着いていた。海人系
豪族は、古くは記紀にその先祖が登場し、中世になると水軍として、戦国大名の強力な
戦力となっていった。特徴的なのは時の為政者、天皇に、膳夫として御贄(食事)を献上
し、舞を舞うという従属儀礼を行って大和朝廷の一員となり、子々孫々までも大膳職・
内膳司や日本古来の皇室系・神道系の祭祀用歌舞の教習などに奉仕した人だ。内膳職の
代表が阿曇氏と阿部氏系の高橋氏とされ、両氏が内膳の長官を務める時には。特別に、
奉膳(ぶうぜん)といい、他氏が長官の場合は内膳正を称したという。このように阿曇氏
・高橋氏は嫡系として区別されていたという。歌舞の教習については、殆んどの海人族
が日本の伝統芸能に深く関わっている。と言う事になる。清和源氏と桓武平氏の戦いで
宇多源氏は又違った活動がそこにあった。真言宗と天台宗の宗門の戦いである。この地
にはその戦い以前に菅原道真以下先の下向組が存在していたのである。

984: 名無しさんAA:18/03/13 17:19
  富安君を探せ              < その20 >
またこの筑後には、闕史八代と言われる実在が否定される天皇(2〜9代)の子孫が多い
ということ。これらの天皇は、どうも創作の匂いは強いが史実の神社も多い。10代崇神
朝の四道将軍(四方の征討に派遣されたという将軍)の末裔が多いというのも特長的であ
る。北陸使の大彦命は阿倍氏を名乗り、東海使の武渟川別命は大彦命の息子も阿倍氏、
西道(山陽)使の吉備津彦命は吉備氏、丹波(山陰)使の丹波道主命は息長氏と、海人系の
有力豪族とされる。彼らは恐らく皇子ではなく、この4つの地方に独立した「海人の王
国」の首長であったと考えられる。この筑後も同じで大和朝廷の天皇らは、彼ら海人の
首長達と婚姻関係を結ぶことによって、その勢力を取り入れていったのだと思われる。
倭建命がこの四道将軍の投影だとすれば、熊襲(久米氏・阿曇氏)や出雲(賀茂氏)も又、
「海人王国」であったと思う。ところが加茂氏と安倍氏が仲違いしている。陰陽道の宗
家のひとつ。天文道を伝える安倍氏に対し、暦道を伝えるのが賀茂氏である。本来は、
賀茂氏は安倍氏の師匠筋であり、古代にあっては安倍氏より優位にあった。室町時代に
賀茂在方の子在貞・在長(在豊・在成とも)が勘解由小路を称した。勘解由家は鶴紋を
家紋としている。室町時代の終わりに勘解由小路在富(かげゆこうじありとみ)が左馬
頭や宮内卿なども兼務しながら、陰陽頭を大永2年(1522年)、暦博士を天文2年(1533
年)を務めた。この間の享禄4年(1531年)には従三位に昇る。また、大永2年より、
天文6年(1537年)まで宮内卿を務め、陰陽師としてだけでなく後奈良天皇の側近とし
ても活躍したが、彼が賀茂氏系勘解由小路家の事実上の最後の当主で没して後途絶えた
。藤原氏一族の藤原北家の流れだが、同じに藤原道兼の曾孫を称する藤原宗円が源頼義
、義家の、奥州安倍氏討伐(前九年の役)の際に安倍氏に一矢報いた。この功により、
藤原宗円は宇都宮を領地として授かり宇都宮家と名乗った。この宇都宮家は源頼朝をし
て「関東一の弓取り」と言わしめた宇都宮朝綱を産んだ。第3代宇都宮氏当主である。
第5代宇都宮頼綱(藤原頼綱)は武人で奥州藤原氏討伐にも功績があったが、鎌倉幕府
から謀反の嫌疑をかけられたのを機に法然に帰依して出家、実信房蓮生と号して京に隠
棲して宇都宮歌壇を確立した。こうして日本国土の治安維持を司った名家で国司や守護
も歴任し、現在では戦国大名とも評された。宇都宮氏は各所に念仏堂を建立し、現在も
それぞれ入逢山西方寺、梅田山西方寺、芳宮山清巌寺に受け継がれている。柳川の西方
寺も又宇都宮氏を受け継ぐ蒲池氏の建立と思われる。この加茂氏が鶴紋を掲げ立花旧家
も鶴紋を掲げたと言うのは藤原氏真夏流の日野氏や南部氏は甲斐武田氏の一族で島津氏
の旗紋というのは源頼朝の奥州征伐以降何らか功を貰ってとの事だろう。日足紋又鷹羽
の紋或いは巴紋、梅耀波紋と言うのが普通だからだ。

985: 名無しさんAA:18/03/14 07:40
  富安君を探せ              < その21 >

 この海神族の松浦党は柳川に於いて蒲池氏と名乗り村の族長となっていた。蒲池氏(
かまちし)は、鎌倉時代に筑後国の一族となったが。鎌倉時代は地頭職、室町時代は大
身(たいしん:複数の国衆を持つ身分)の国人領主となり、また戦国時代は筑後十五城
の旗頭の大名分で柳川城主となった。蒲池氏は歴史的に見ると、嵯峨源氏そして嵯峨源
氏渡辺党松浦氏族の「前蒲池」時代(鎌倉時代〜南北朝時代)と、藤原氏系宇都宮氏族
の「後蒲池」時代(室町時代〜戦国時代)がある。蒲池氏の祖ともいうべき祖蒲池時代
の出自の伝承としては複数説がある。1.古代の多氏の子孫説 2.藤原純友の子孫説 3.
橘公頼の子孫説だ。彼は多くは松浦党の左三巴紋を家紋にしていた。だが比翼鶴紋も又
家紋としている。たぶん日足紋も又あったはずだ。なぜこうも紋を変えたか。それはこ
こが九州で戦乱の境界地だったからだ。多氏の子孫説は、阿蘇神社古文書によると阿蘇
氏の祖とされる多氏は神武天皇の子の神八井耳命(かむやいみみのみこと)の子孫とさ
れるが、神八井耳命の孫の速瓶玉命(はやみたまのみこと)の奥方(妃神)が阿蘇国造
神社の主神である蒲池媛(かまちひめ)であり神功皇后に仕えたとされ、その子孫とい
う伝承である。蒲池氏の源流については、九州の古族説があるが、その場合、この説は
もっとも有力な根拠とされている。この多氏は他氏の当て字であろう。古族多氏の子孫
は、多朝臣、意富臣、小子部連、坂合部連など中央豪族で繁栄した系統、火君、大分君
、阿蘇君、筑紫三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余國造など九州を中心
に繁栄した系統、科野国造、道奧石城國造、常道仲國造、長狹國造、伊勢船木直、尾張
丹波臣、嶋田臣など東国に繁栄した系統があり、国造になっている例も多い。神武天皇
は即位して伊須気余理比売命と結婚され、日子八井命、神八井耳命、神沼河耳命の三柱
の御子をもうけられた。とされる。しかし、『先代旧事本紀』には、日子八井命は弟・
神八井耳命の御子とある。更に神八井命(かむやいのみこと)が神武天皇の御子となり
。神八井耳命と神沼河耳命の兄弟が、腹違いの兄・多芸志美美命を殺し、その時、神八
井耳命は臆したため「我は兄なれども、上位に立つべきにあらず。汝が天下を治めせよ
。我は汝を扶けて忌人ととなりて仕えよう」と申され、弟の神沼河耳命が皇位を継いだ
。神八井耳命は、こうして弟の「神沼河耳命」が下で働いた。その後日子八井命が皇位
を継いだ事になっている。


986: 名無しさんAA:18/03/14 07:58
 多氏(おお・うじ)はある意味、秦氏よりも謎の多い氏族である。どこから彼らが大和
に来て、どうして大和で祭祀者として根付き、どうやって『古事記』を編纂することに
なったかということも、まだ充分にわかっていない。また、彼らの分派氏族がなぜ北関
東や九州や信州などに拡大して行ったか、なぜ天武天皇の最重要な騎馬氏族となったか
など、史学では一向に明確にならないまま、ただ時が過ぎている。多氏のうち、畿内の
本流一族は大和国十市郡に移り、同地の飫富郷に住む。多氏といえば、まず太安万侶(
おおの・やすまろ 養老7年7月6日(723年)には、奈良時代の文官と記録)というこ
とになる。そしてその父であろう美濃の多臣品治(おおの・おみ・ほむじ7世紀後半の
人)が知られている。安麻呂はもちろん『古事記』編纂で、品治は天武壬申の乱でそれ
ぞれよく知られる存在である。だが、この氏族のほかの人名をよく知る人はそうはいな
いだろう。多氏は太氏、意富氏とも表記されて記録に登場する。読みは「おふ」つまり
「おお」である。久安五年(1149)の「多神宮注進帳」によれば、安麻呂は表記を「多」
から「太」に改めるとある。しかし子孫はやがてまた「多」に改めている。宝亀元年(
770 )10月23日以後のことだ。少なくとも天武壬申の乱の頃には父・品治の姓は「多」
となっている。祖神は神八井耳命(かむやいみみのみこと)である (『古事記』『日本書
記』『新撰姓氏録』に共通。)安麻呂はその十五代であるとされている。また安麻呂か
ら51代目が現在の多神社宮司の多忠記(おお・ただふみ)である。これ以後の人名をこれ
から列挙するが、これ以前は神話的な伝承の名前しかわからない。古族多氏の子孫は、
意富(おふ)臣、小子部(ちいさこべ)連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連
、雀部(さざきべ)臣、雀部造、小長谷造、都祁(つげ)直、伊余國造、科野国造、道奧石
城(みちのくのいわき)國造、常道仲(ひたちのみちのなか)國造、長狹國造、伊勢船木直
、尾張丹波臣、嶋田臣など、全国にわたり国造になっている場合が多い。又、飫肥城の
名もひっかかる。飫肥城(おびじょう)は、宇佐八幡宮の神官の出で、日向の地に武士
団として勢力を伸ばした土持氏が南北朝時代に築城したのが始まりと伝えられ、飫肥院
とも呼ばれていた。時代は下って、九州制覇を狙う薩摩の島津氏が力をつけ、鎌倉時代
から日向で勢力を蓄えていた伊東氏の南下に備えて、志布志城主で島津氏の一族である
新納忠続を飫肥城に攻め入り九州戦国時代にはいる。和歌山県御坊市湯川町が富安発祥
地とされるが。大和国十市郡に移りの飫富郷に住む太安万侶の一族であった可能性も又
捨てきれない。飯富氏(おぶし)は、上総国望陀郡飯富庄を任官の地で、初代は源義家
の孫にあたる飯富源太忠宗(源忠宗)ともされる。富氏が登任してその名になった、。
とも言える。こうして各地に行った中で人々や自分から分ける為の苗字をつけたのだろ
う。

987: 名無しさんAA:18/03/14 07:59
  富安君を探せ              < その23 >

伊東氏の飫肥城にかける執念は凄まじく、何回も伊東氏による大きな戦争が飫肥奪還と
して断続的に続けられることとなる。その中に大友氏と島津氏の耳川の戦いにおいても
、蒲池氏は三千の兵を率いて大友方として出陣している。最終的には飫肥を失った伊東
祐兵が羽柴秀吉に仕え九州平定に参加し、九州平定軍の先導役を務め上げた功績により
再び飫肥の地を取り戻し、大名として復帰を成し遂げた。太安万侶の彼がいなかったら
、古代史は今のような形で伝わっていなかったかも知れない。『古事記』をはじめ、『
日本書紀』の編纂にも関わったとされる文官の、その墓が発見されたのは1979年、茶畑
の斜面にて。直径約4.5mの墳墓に収められていたのは墓主を明らかにする墓誌をはじめ
、火葬骨や真珠などが発見された。この墓誌の文字から成る銘文には「太朝臣安萬侶」
の名のほか、居住地や位階、死亡年月日などが記されていた。奈良時代の上級官人の墓
が、このように規模や構造、遺物の出土状況等が明らかにされた例は極めて少ない。こ
の太安万侶は奈良時代の元明天皇の頃に活躍した文官(ぶんかん)だが、元明天皇の命に
より稗田阿礼(ひえだのあれ)の読む今は無き歴史書「帝紀(ていき)」「旧辞(きゅうじ)」を太安万侶が編纂(へんさん)してつくったのが「古事記」で、日本最古の歴史書と言わ
れる物を書いた711年の最も古い文献とされる。ちなみに墓所の「太朝臣」と書かれ
た板は、のちに国の重要文化財に指定される墓誌でした。左亰四條四坊従四位下勲五等
太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳と書かれており、太安
万侶の住んでいた場所や位、亡くなった年月日が記されています。、「太安万侶は伝説
上の人物で、実在しなかった」という説も一部ささやかれていた事情を考えると、大き
な発見と言える。瀬高でもこうした物は沢山でていた。しかし奈良と違うのは、人々の
歴史に対する意識であろう。農作業のとある老人はちゃんと届け市職員はちゃんと対応
したのである。安万侶の祖父は多臣将敷(コモシキ)、百済王豊璋が帰国するとき、将
敷の妹を妻としたとあります。そのためか、多氏は百済系とか新羅系とかいわれること
もある氏族ですが、磯城の豪族で、多神社の祭祀を司った一族である。父の多臣品治(
ホムチ)は壬申の乱の時に大海皇子側に付いた人物です。祖父も父も共に“多姓”を名
乗っています。太朝臣はもと多朝臣で、安麻呂の登場後に多朝臣から太朝臣に変わり、
宝亀元年十月以降再び多朝臣に戻る。多はそこにある多坐弥志理都比古神社二座の祭祀
を司った一族。多氏はもと臣姓で、天武十三年に朝臣となった。


988: 名無しさんAA:18/03/14 08:02
  富安君を探せ              < その24 >

 蒲池氏の藤原純友の子孫説では、蒲池城の築城者が藤原純友の一族であり、その子孫
が三潴郡蒲池邑の領主だったという伝承から純友の子孫と柳川では語り継がれてもいる
。しかしこれらはいずれも伝承で間違いが多い。蒲池城の築城者は、藤原純友一族では
なく、大宰府をめぐる戦いで純友の弟の藤原純乗の軍勢を迎え撃った大宰権帥の橘公頼
であり、その子の橘敏通の子孫が蒲池城に拠り蒲池の領主となったとする説が信じれる
、だがこれも伝承の域を出ない。大治元年(1126年)に長壽院(天台宗)を建立したの
が僧侶・慈光の俗名は「蒲池右仁」と伝わるが、地名の蒲池を号とした最初の人物とさ
れる。物証から言えばこの僧侶と門前の一族の寺を作ったのが最初と考えられる。地元
の関係寺社に伝わる伝承によれば、蒲池氏は古代以来の名族であり、その名跡を、多氏
、藤原氏、嵯峨源氏、嵯峨源氏渡辺氏、宇都宮氏その他の多くの氏族が、婿養子などの
形で継承したのではないかともいわれる。私見では秦氏が保護していた加茂氏の縁戚で
は無いだろうか。と思う。というのもこの頃仏教の布教が広まり朝廷すらも上皇や法皇
として祀る神社や神道より仏閣を上意としていたからだ。それが譲位するに都合がいい
状態だったからだ。だが先に言った様に、通訳や占い卜部を基調に勢力を保った物部氏
はこの頃から途端に勢力どころか名前すらない状態だ。国民の識字率が上がり地方でも
会話が繋がったのだろう。各地でその地方の盟主としての名称を付けた。先の多氏の自
出も十市郡飫富郷(奈良県)で「大和志」では飯高村(現田原町飯高)に比定する。東方
に隣接して多村(現田原本町多)があり、多坐弥志理都比古神社も鎮座するので、郷域
はそこまで及んでいたと思われる。つまり富の郷の安万侶が富安になった可能性が強く
そのまま移民にならなかった人は富の郷の本家として富本と呼んだ様である。これも又
国家神道が廃れて仏教に変わった時代だった。蒲池氏と名乗った時既に海賊による柳川
の大火後には再建の道にはいっていた。1101年に奈良では大地震、興福寺金堂・大門倒
壊する。更に興福寺と金峰山の僧徒争った。1102年には村上源氏が公卿の過半数を占め
て村上水軍の力もついた。869年の貞観(じょうがん)地震や津波(貞観11年)は 東日
本大震災と類似するとされる。大地震は平安京(現・京都)を舞台に都会的な貴族文化
を享受していた人々の安全意識を一掃し、政治面でも藤原氏中心の摂関制が確立される
など貞観(859〜877年)期を得て波乱時代を幕開けした。この時代に空海、最澄らが、
中国から仏教文化を持ち帰り花開き中国の文学などを学ぶ紀伝道、漢詩集の編さん、曼
荼羅(まんだら)といった密教文化が花開いた。


989: 名無しさんAA:18/03/14 08:04
  富安君を探せ              < その26 >

 多分この時の田尻氏は鷹尾神社にやって来たものと思われる。宮崎でも大きな災害と
桜島他火山活動が活発になったと考えられるからだ。仏教文化が一気に花開いたのも、
布教活動よりはこの危機の回避の安全祈願が主な要因で、今まで神道で祈願していたが
地震がやってきた事で、離れていった。とも考えられる。貞観文化は豊満で神秘的な仏
像などが特徴。仏教への帰依による安心感から「安全神話」も広がっていたという。し
かしそれでも地震は収まらなかった。三橋中山藤棚の向こうに曼荼羅版が出てきた理由
でもある。地震災害が起きる度に、まず参考にするのが「歴史のなかの大地動乱(保立
道久著 岩波新書 2012.8)」でろあう。今の地震、火山噴火などの自然災害の
発生は古文書などの解析から9世紀に酷似している。この本では肥後国の地震である。
それによると、熊本、大分付近では肥後地震が744年M7.0、869年にも発生。
阿蘇神霊地噴火が864年、阿蘇山噴火867年、豊後鶴見岳噴火772年、同じく8
67年にも噴火している。つまりかつては必ず噴火も一緒に起きているのである。現在
では、熊本地震は震源域が大分にも延び、専門家は中央構造線に沿い拡がるのではない
かと恐れられているがかつては起こっていた地震地である。この時代は清和天皇の時代
だった。こうしていろんな自然災害が発生したために「大地の呪われた天皇」とも言わ
れている。この貞観地震(869年)に誘発されて7月には肥後国に地震・風水害、同
じく大和地震で今の桜井市で6m隆起、断層が露出した。今言われている奈良盆地東縁
断層帯が動いたらしい。更には、京都でも827,851,868,880年と群発地
震が頻発に起こった。しかし群発地震といってもM6.5〜7だから大きい地震であり
家屋倒壊は頻繁に起こった。風雨災害も多くて京の市民は大いに疲弊した。1番心配さ
れる関東地震との関連だが、878年に南関東地震M7.4が発生し、京都でも感じた
という記録が古文書から分かるらしい。当時、富士山周辺も心配する動きがあったよう
だが噴火には至らなかったが、その後781,800,801,864年には噴火して
いて宮地嶽教によって収めようと言う動き、その為浅間神社が出来たといわれる。富の
辻は、そうした事で元下級貴族が貧困になった地域で、それが巨大な派閥の中間であっ
たのは当然だったろう。家が無くなり食や衣服にも事欠いては貴族の官位よりは魚釣り
や農業の方が大事だったのかもしれない。そして武士も又同じであったのである。


990: 名無しさんAA:18/03/14 08:15
  富安君を探せ              < その27 >
 荒津の海や荒津の崎の言葉は、古く娜の大津(なのおおつ)・娜津(なのつ)とも呼
ばれて大宰府の外港として発展して来た。往来は多く国内外の官船が発着した。場所は
福岡市中央区の西公園や大堀公園あたりと言われる。大きく南に湾入していた荒津の海
は、福岡城北堀と大濠公園に通じていて海だったとされる。荒津には、外国使節や官人
接待用の「筑紫の館」(つくしのむろつみ)が設けられていた。筑紫の館は、平安時代
になれば、「鴻臚館」(かうろかん)が置かれそのままその場所をそう呼んだ。大宰府
に付設された迎賓館として、大宰府設置にともなって創設されたと言われている。山上
憶良は、60才代後半を、筑前守としてすごすが、かつて、42才頃、遣唐少録として
唐に渡ったときも、風浪のため、大宝元年(701)から翌年にかけて、かなり長い間この
筑紫の館に厄介になっていた。つまり、憶良は、20年前にすでに筑紫を見聞していた。
『万葉集』には筑紫問答歌とみるむきの歌がある。玉の緒の 現(うつ)し心や八十梶
(やそか)掛け 漕ぎ出む舟に 後(おく)れて居らむ とかだ。「玉の緒」は、緒に
貫いた玉が多く連なり並んでいることから、「現し心」にかけた枕詞とされる。「八十
梶」は、多くの梶を舷側に取り付けることで、遣唐使や遣新羅使などに使われる官船で
、大きな船であることを示す多くの櫂が見える様である。神さぶる 荒津の崎に 寄す
る波 間(ま)なくや妹に 恋ひ渡りなむ。西公園の展望台に、この万葉歌碑がある。
遣新羅使の土師稲足(はにしのいなたり)の歌とされる。つまりここから出ていたのは
新羅への船だったのである。朝廷は遣唐使の船は出せなかった。唐や隋とは新羅とは仲
が悪く戦争状態だったからだ。ここに玉垂れ宮が或いは高良大社が高麗大社とされる由
縁がある。僧侶・慈光の俗名は「蒲池右仁」の寺の自出には次の様な事が書かれる。「
邑里(むらさと)の寺を大治元年(一一二六)蒲池氏源姓古仁(みなもとせいの旧き人
が、背振山の慈光和尚に覚雄山大日寺として大願により草建。中興参河守久憲の嫡孫、
右馬太輔繁久は大日尊を守仏にし尊信し当寺を浄光院の隣境に移し、堂院を造立し大日
尊を荘厳し、伝来の宝剣を摩利支天と名づけ軍陣の守護神とした。その時世、長順坊快
彰法師の守護せる。この僧、道徳ありて九十才をを過ぎたり。繁久、常に会語し老僧を
尊み、また蒲池家の繁栄をあらわし「長壽院」と改号し覚雄山大日寺長壽院として再興
し寺領を寄付した。これより代々蒲池家の祈願寺となり、繁久の嫡孫筑後守治久(兵庫
守親久の長子)ことに大日尊を崇敬し仏法への帰依、深く摩利支天堂を新たに建立す。
享禄元年、柳河城を築き、その後、蒲池家ますます栄えて、筑後十五城二十四人の旗頭
として武門大いにするのである。」とその後、立花家の代となり元禄十年、昔蒲池家の
古寺の跡に移り湯尾山大林寺長壽院として今日に至るのである。

991: 名無しさんAA:18/03/14 08:41
つまり蒲池氏城が祈祷寺であった。というのだ。摩利支天(まりしてん)と名づけ軍陣
の守護神を別所で祭った。と言うのである。これは不思議である。護身、蓄財などの神
として、毛利元就や立花道雪は「摩利支天の旗」を旗印として用いたとされ中世以降に
信仰を集めたとされて立花道雪などずっーと後の時代だからだ。侍島はその名の通りに
侍島だった。津村氏は津とされる桟橋の役人だった。西牟田氏も系図では、その3代後
の西牟田彌次郎家綱入道藤原行西は、嘉禎年中(1235〜38)に、豆州三島より三瀦郡、
西牟田村に地頭として赴任し、村の名前を取って「西牟田氏」を名乗ったとされている
。 筑後市西牟田にある寛元寺や三潴郡蛭池村の三島明神などの社寺の正式な「縁起」
「開基帳」にも同様の内容が記されている。初代家直の時には既に筑後国西牟田之邑へ
下向したこととなっていて、比べると九州へ移った時期が相当早い。彼もまた藤原北家
の亜流で宇都宮氏の子孫である。菅原道真が下向した時和邇氏系の小野妹子、粟田真人
、山上憶良、小野篁、阿倍氏の阿倍仲麻呂、吉備氏の吉備真備、賀茂氏の賀茂吉備麻呂
、息長氏の霊仙三蔵、佐伯氏の空海、中国系海人族である三津氏の最澄、等が通った道
を行ったとされる。いずれも海人族とされる。吉備真備の時代遣唐使として唐に行った
人は多い。法律を造る為だ。彼の政策で言えば、743年に制定された墾田永年私財法
なんかは吉備真備が唐で得た土地制度の知識が生かされていると言われる。だが橘諸兄
が台頭する以前に、既に朝廷を支配していた藤原氏はその傾向があった。その素行の悪
さから太宰府へ左遷させられていた藤原広嗣(ひろつぐ)は、書面で聖武天皇に訴えた
。「吉備真備や玄ムなど、出自のわからん輩などを重用するから世が乱れるのです。」
とこうして反乱を起こした。その後吉備は遣唐使となり754年に帰国した。帰りの船
では嵐に遭遇し多くの人が命を落とした中での命がけの帰国でしたが、吉備真備が命が
けの遣唐使の任務を成功させましたが、一方の朝廷では藤原仲麻呂という藤原氏勢力が
権力を振るい、吉備真備の席は無かった。当然、藤原氏側から見れば吉備真備など邪魔
だった。吉備真備は藤原仲麻呂によって左遷させられ 遣唐使の任務を終えた吉備真備
は朝廷には戻らず、太宰府へと赴く。しかし、唐への渡航経験を持ち、その事情に精通
した吉備は、朝廷に欠かせない人材だった。太宰府へ赴いた吉備真備は太宰府の防衛力
の強化に努め、太宰府内でも昇進を果たす。760年、天皇の母である藤原光明子が亡
くなると光明子の後ろ盾により権力を独占してきた藤原仲麻呂の勢いにも陰りが出る。
次の孝謙上皇により、吉備真備は再び中央政権へ復帰する。764年の話で吉備真備は
既に70歳である。この後藤原仲麻呂が反乱を起こしたが吉備真備の巧みな戦略により
藤原仲麻呂は手も足もでないまま孝謙上皇軍に敗れる。吉備真備は唐で兵法を学んでい
た。老兵は死なずである。

992: 名無しさんAA:18/03/14 08:56
  富安君を探せ              < その29 >

この筑後平野の多くの人々は、古代海部族の系統をひく水軍の末裔とも言われているが
、詳細は不明である。生活状態は、数艘から数十艘にて集団を形成し「家船」と称する
筏の上の小屋で、本拠地を中心として周辺の水辺を移動回遊しながら生活を送り、潜水
や鉾を使った漁で魚介類や貝や米などを採集する生活で、漁業を営なみながら、1週間
から10日おきに近くの桟橋で物々交換に近い交易をしていたと言われる。家船がこの
地で漁獲品を水揚げする姿は明治期でも、しばらくは筏で見られていた光景の地があっ
た。莞(おおい)は筏溝(筏溝)の地名の様に不断川は水が切れる事はなく水辺の民は
水さえ綺麗な物が手にはいれば、ザリガニ、蛙、魚、貝が豊富にあれば生活が出来たの
である。この時、筑後の水天宮が米を売り瀬高津島で塩を得ていたと言われる。不断川
から侍島や蒲池などはそうした場所だった。筏は上手い具合に一周していたというから
驚きである。この水辺の民に大勢が押し寄せた。それが柳川の大火であった。船さえ作
れれば、何処かで食べられたのだろう。有明海に行けば外洋に出る恐れがあるが、本当
に必要な物は本来の船で陸揚げされたはずである。筑後から久末或いは大和の豊原にか
けて江曲(えこん)とされた地域はそれなりに生活しやすかったと言える。柳川伝説で
はよく言われるのは、「昔は瀬高の清水の入り口まで海じゃったげな。」である。確か
に海の水が引くまで遠浅の海が大きかっただろうし、その中の平地は山だったのだろう
。藤丸家はかの昔藤原家の藤を受け継いだ家柄だ。大和町の藤井氏や松藤氏や藤木氏も
同様だ。この中で松藤氏のみが家臣ではない。というのも従属の従者は貰った藤はおそ
れ多いので前に付けたが、地場では通用しない。つまり「藤原氏を待つ」人だった訳で
ある。藤井氏は多分に井戸水を差し出し、藤木氏は中山の大藤でも見せて喜ばせたのだ
ろう。藤丸氏は本丸の住居を世話したり、船を調達したのかも知れない。和歌山県御坊
市湯川町富安はその名の通り 御坊と言う高貴な者が出家して家来を連れて作った町だ
。隣に丸山氏も野口氏もここがルーツとされ、その為今は少ないがそれでも仏閣は多い
。又港町で外国交易を古くからやっていた形跡も数多くいる。田尻氏や湯浅氏もこの地
から発祥している可能性すらある。、義家の、奥州安倍氏討伐(前九年の役)の時には
武士として加茂氏の応援要請があったと思われる。この時当時住んでいた場所が富安と
いう地名から宇都宮家から富安家に変わった。同族から多数の兵が肥後の菊池氏と共に
宮側として関東武士団と戦った。と、記録は伝えている。この為この時この地に来たと
言える。そしてこの時船を操る事や外交がある事で蒲池氏に起用され家老となった。


993: 名無しさんAA:18/03/14 09:23
  富安君を探せ              < その30>

源氏に鎮守府将軍、陸奥守に任ぜられた父・頼義が安倍氏と戦った前九年の役があった
。陸奥国の土着で、有力豪族となった安倍氏は、陸奥国の奥六郡(岩手県北上川流域)
に柵(城砦)を築き、半独立的な勢力を形成していた。11世紀の半ば、安倍氏が朝廷
への貢租を怠る状態になった為、永承6年(1051年)、陸奥守・藤原登任が数千の兵を
出して安倍氏の懲罰を試み、玉造郡鬼切部(おにきりべ)で戦闘が勃発した。租税がな
かった。と言うよりは自領の不作で陸奥に頼ったのだ。先の説明の様に天変地異は続き
朝廷も厳しく取り立てたのだ。この鬼切部の戦いでは秋田城介の平繁成も国司軍に加勢
したが安倍氏が勝利し、敗れた藤原登任は更迭され、河内源氏の源頼義が後任の陸奥守
となった。その後、永承7年(1052年)、後冷泉天皇祖母・上東門院(藤原道長息女中
宮藤原彰子)の病気快癒祈願の為に大赦を行い、安倍氏も、朝廷に逆らった罪を赦され
ることとなった。安倍頼良は、陸奥に赴いた頼義を饗応し、頼義と同音であることを遠
慮して自ら名を安倍頼時と改めたという。天喜元年(1053年)になって源頼義は鎮守府
将軍となった。玉造郡鬼切部(おにきりべ)の戦いの禍根は終わっていたが、だがその
後に新たに阿久利川事件が起こる。頼義の陸奥守としての任期が終わる天喜4年(1056
年)2月、頼義が胆沢城(鎮守府)から多賀城(国府)に戻る為に、阿久利川の河畔に
野営していると、密かに頼義の元に密使が来て、「(頼義配下の在庁官人)藤原光貞と
元貞が野営していたところ、夜討ちにあって人馬に損害が出た。」との情報が伝えられ
たのだ。さらに光貞は「以前に安倍貞任(頼時の嫡子)が自分の妹と結婚したいと申し
出て来たが、自分は安倍氏のような賤しい一族には妹はやれないと断っていた。だから
今回のことは貞任の仕返しに違いない。」と頼義に答えた。そこで怒った頼義は貞任に
出頭を命じたが、頼時は貞任の出頭を拒否し、安倍氏と朝廷の戦いが再開されることと
なった。とある。だがこれは一般的に今まで蝦夷地として税の取立を止めていた地を、
又朝廷配下にしようとした行為からであろう。また頼時の女婿ながら国府に属していた
平永衡が陣中で、きらびやかな銀の兜を着けているのは敵軍への通牒であるとの讒言を
うけ、これを信じた頼義は永衡を殺害した。永衡と同様の立場であった藤原経清は累が
自分に及ぶと考え、偽情報を発し頼義軍が多賀城に向かう間に安倍軍に帰属した。税収
がないままでの銀兜には腹がたったのだろうが、縁戚はそれ以上に家禄の確保が大事で
あったのだろう。阿久利川事件は、頼義による謀略説の他、藤原説貞(光貞、元貞の父
)など反安倍氏の在庁官人による謀略説がある。

994: 名無しさんAA:18/03/14 10:01
 富安君を探せ              < その31 >

 天喜5年(1057年)5月、頼義は一進一退の戦況打開のために、安倍氏挟撃策を講じ
、配下の気仙郡司・金為時(ためとき)を使者として、安倍富忠ら津軽の俘囚を調略し
、味方に引き入れることに成功した。これに慌てた頼時は、7月に富忠らを思いとどま
らせようと自ら津軽に向かう。が、富忠の伏兵を受け、深手を負って本営の衣川を目前
に鳥海柵(胆沢郡金ケ崎町)にて死去した。頼時の跡を継いだのは貞任であった。頼義
は同年9月朝廷に頼時戦死を報告したが、論功行賞を受けれなかった。11月、頼義は
再び陸奥国府(現在の宮城県多賀城市)から出撃した。この時の頼義の兵力は、最大に
見積もっても国衙の兵2,000名程度と、傘下の武士500名ほどであったと推測されている
。対して安倍軍は河崎柵(現在の一関市川崎村域)に4000名ほどの兵力を集めて、黄海
(きのみ、現在の一関市藤沢町黄海)で国府軍と激突した。こうして黄海の戦いが始ま
る。冬期の遠征で疲弊し、補給物資も乏しかった上に兵力でも劣っていた国府軍に安倍
軍は大勝。国府軍は佐伯経範、藤原景季らが戦死し、頼義自身は長男の義家を含む七騎
でからくも戦線を離脱した。頼義が自軍の勢力回復を待つ間、康平2年(1059年)ごろ
には安倍氏は衣川の南に勢力を伸ばし、朝廷の赤札の徴税符ではなく経清の白札で税金
を徴するほどであり、その勢いは衰えなかった。とくに、国衙兵は鬼切部、黄海の二度
の敗戦で補充が思うに任せなかった。そのため、頼義は関東、東海、畿内の武士に働き
かけを行い兵力の増強に努めた。康平5年(1062年)春に、任期の切れた頼義の後任の
陸奥守として高階経重が着任したが、郡司らは頼義に従い、経重には従わなかった。そ
の為経重は帰洛して解任され、再び頼義が陸奥守に任ぜられた。苦戦を強いられていた
頼義は一計をして、中立を保っていた出羽国仙北(秋田県)の俘囚(ふいん)の地方豪
族である清原氏の族長清原光頼に、朝廷の命令を楯に参陣することを強く要請し、その
上に「奇珍の贈物」を続けて、参戦を依頼した。これを聞き入れた清原光頼が7月に弟
武則を総大将として軍勢を派遣した。源頼義率いる軍は三千人人ほどであったが、一気
に朝廷側の兵力はおよそ1万人と推定され程になった。清原氏の参戦によって形勢は一
気に逆転し、朝廷側有利となり緒戦の小松柵の戦いから朝廷軍は優勢であった。同年9
月17日に安倍氏の拠点である厨川柵(岩手県盛岡市天昌寺町)、嫗戸柵(盛岡市安倍
館町)が陥落(厨川の戦い)。貞任は深手で捕らえられ巨体を楯に乗せられ頼義の面前
に引き出されたが、頼義を一瞥しただけで息を引き取った。経清は苦痛を長引かせるた
め錆び刀で鋸引きで斬首された。こうして安倍氏は滅亡し戦役は終結した。

995: 名無しさんAA:18/03/14 10:06
 こうして康平5年源頼義は朝廷に騒乱鎮定を上奏して終わった事を報告した。しかし
康平6年の除目では頼義は意に反して陸奥守ではなく正四位下伊予守となったのだった
。安倍貞任の弟宗任らは伊予国のちに筑前国の宗像に流された。このことは『平家物語
』にも記述される。清原武則はこの戦功により朝廷から従五位下鎮守府将軍に補任され
て奥六郡を与えられ、清原氏が奥羽の覇者となった。経清の妻であった安倍頼時の息女
は夫と兄の敵として戦った清原武貞に再嫁し、経清の遺児(後の藤原清衡)共々清原氏
に引き取られた。この時安倍富忠らは国府軍に調略があったとは言え寝返っていて難を
逃れていたが、源頼義が陸奥の守ではなく伊予の守となった為に彼らはそこには、いら
れなかった。一族郎党紀伊の富安郷に移り住み田尻氏と縁戚関係をもった。そうして、
この地にやって来た、北流藤原家も又富安と名乗った。瀬高の大人形祭では「源時任」
と「安倍宗任」の股をくぐる。安倍 宗任 (あべ の むねとう)は、平安中期の武将。
で陸奥国の俘囚の長とされる豪族だが、安倍氏の安倍頼時の子で、鳥海柵の主で鳥海三
郎とも呼ばれている。だが彼こそが嫡妻であった清原氏の子として嫡子格の地位にあっ
た清原氏の長でありこの時戦った安倍貞任の弟であった。又源義家は随分と活躍するが
当時の法制度からは、定められた官物を収めて、受領功過定に合格しなければ、新たな
官職に就くことができず、義家は官位もそのままに据え置かれた。更に紛争は常に私領
分の領土争いだった為に、義家自身が国解の中で「政事を留めてひとえにつわもの(兵
)を整え」、と述べている様に、闘わなければならない立場にあった。嘉承元年には(
1106年)には別の息子の源義国(足利氏の祖)が、叔父で義家・義綱の弟・源義光等と
常陸国において合戦し、6月10日常陸合戦で義家に義国を召し進ぜよとの命が下され
る。義国と争っていた義光、平重幹等にも捕縛命令が出る中で義家は同年7月15日に
68歳で没している。先の大戦に寛治元年11月に義家は出羽金沢柵にて清原武衡・家
衡を破り12月、それを報告する「国解」の中で「私くしの力をもって、たまたま打ち
たいらぐる事を得たり。早く追討の官符を給わりて。」と後付けの追討官符を要請して
も、朝廷はこれを下さず、「私戦」としたため恩賞はなかった。翌年(1088年)正月に
は陸奥守を罷免されている。又何よりも陸奥国の兵を動員しての戦闘でありと義家自身
が国解の中で述べて「政事を……」、と述べているように、その間の陸奥国に定められ
た官物の貢納は滞ったと思われ、その後何年もの間催促されていることが、当時の記録
に残る。つまり税金滞納の追伐だった本人さえも、税金を払えなかったのである。これ
を利用して朝廷が闘わせたのである。又この時の気仙郡司・源 金為時(ためとき)が
足柄山の金太郎と言われ、これも大人形さんに飾られる。

996: 名無しさんAA:18/03/14 10:18
  富安君を探せ              < その33 >

「義家朝臣は天下第一武勇の士なり。昇殿をゆるさるるに、世人甘心せざるの気あるか
。但し言うなかれ」と書くので、義家は相当の人情家であったのでは無いだろうか。事
件になる少し前、藤原氏縁戚では寛治5年(1091年)6月義家の郎党・藤原実清と弟・源
義綱の郎党・藤原則清が河内国の所領の領有権を争い、義家・義綱兄弟が兵を構える事
件がおこっている。義綱は同年正月に、藤原師実が節会に参内する際の行列の前駆を努
めた、翌寛治6年(1092年)2月には藤原忠実が春日祭使となって奈良に赴く際の警衛、
寛治7年(1093年)12月 には源俊房の慶賀の参内の際に前駆を努めるなどが公卿の日記
に見えるが、義家の方は長治元年(1104年)までそうした活動は記録にない。つまり既
に朝廷のいい加減さに気付いたのだろうし、朝廷はこの強い源氏を京から出したかった
。寛治7年10月の除目で、義綱は陸奥守に就任。翌8年(嘉保元年・1094年)には出羽守
を襲撃した在地の開拓領主・平師妙(もろたえ)を郎党に追捕させ、従四位上に叙され
て官位は兄と並び、翌嘉保2年(1095年)正月の除目で、事実上陸奥守よりも格の高い
美濃守に就任する。ところが、その美濃国における比叡山領荘園との争いで僧侶が死亡
し、比叡山側は義綱の配流を要求して強訴に及ぶ。関白・藤原師通は大和源氏の源頼治
と義綱に命じてそれを実力で撃退する。この時も比叡山延暦寺・日吉社側の神人・大衆
に死傷者が出、比叡山側は朝廷を呪詛した。さらに4年後の承徳3年(1099年)6月に、
当事者の師通が38歳で世を去ったことであり、朝廷は比叡山の呪詛の恐怖におののいた
。この件の影響か、この後義綱が受領に任じられることはなかった。義家は後三年の役
から10年後の承徳2年(1098年)に「今日左府候官奏給云々、是前陸奥守義家朝臣依
済舊國公事、除目以前被(そう)行也(件事依有院御気色也)、左大史廣親候奏」と『
中右記』に書かれ 白河法皇の意向と正月に陸奥守時代の官物を完済したこともあって
、やっと受領功過定を通って、4月の小除目で正四位下に昇進し、10月には院昇殿を許
された事がわかる。しかし、その白河法皇の強引な引き上げに、当時既に形成されつつ
あった家格に拘る公卿は反発し、中御門右大臣・藤原宗忠はその日記『中右記』承徳2
年10月23日条の裏書きに「義家朝臣は天下第一武勇の士なり。昇殿をゆるさるるに、世
人甘心せざるの気あるか。但し言うなかれ」と書く。つまり強い武者を昇級させたら他
の者の止められないのに何故そんな甘い判断するのか。と問いていて 随分と左遷させ
たが良い意識が朝廷内に多かった事が解る。


997: 名無しさんAA:18/03/14 10:22
  富安君を探せ              < その34 >

なぜ この二人が瀬高の祇園社と坂田神社の大人形祭に祀られた理由は、恐らく国が豊
かでなければ、したくない戦争も起きると言う戒めであろう。特にこの矢部川改造には
多くの苦労があったと思われるからだ。更に宇都宮家筆頭でこの地に移り住んだ人々は
田尻氏も含めて安倍氏の血統ではなかったろうか。戦った前九年の役では、勿論調略で
はあったろうが大勢が寝返っている。天皇の勅命だと言う事もあって鎮守府将軍、陸奥
守に任ぜられた父・頼義の臣下として「源八幡太郎義家」側についたのである。そこで
死んだ安倍氏は集団的な同族支配を行い陸奥(むつ)の 安倍頼時 (あべ の よりとき)
・貞任(さだとう)・宗任(むねとう)が上納米が送れず反乱を起こしたとされ征伐された
のである。日本古代においては、捕虜になるか降伏して国家支配下に置かれた地は蝦夷
(えぞ)(えみし)とされその民族を夷俘や俘囚とも称されていた。古代国家での国家
支配の外に立つ抵抗民たちは その領土とを国家支配の中に組織する事は大事で〈内民
〉〈内国〉に同ずることでの蝦夷経営の最終目標にしていた。この〈内なる蝦夷〉とし
ての俘囚の問題は,蝦夷経営問題の最終形態を示していた。最も古く捕虜になった蝦夷
は朝廷に送られ,佐伯部という大和朝廷武力集団に組織されたという伝えがある。蝦夷
開発は8世紀頃から律令国家に帰属した奥羽地方の蝦夷 (えぞ) として課役を免除して
諸国に配置していた。首長には位階を与えるなどの懐柔策をとっていたが、此処に来て
平安時代初期には俘囚計帳の作成を行ない平和的なものだったが、次第に弾圧政策をと
るようになりここに、出雲,上総,陸奥,出羽などで反乱が起っていたのだった。この
俘囚の乱こそが安倍氏を倒した前三年の役と、前九年の役であったのだ。そしてここに
やって来た多くの宇都宮支流は、その安倍氏の流れの縁戚や夷俘も含まれていたのであ
る。何故この新天地にやって来たのかは多くの事件が起こったからであった。只一つ言
える事は早くから稲作と水路の発展が水田中心にあった。この名が示す様に低地の湿地
帯であった。金森金遺跡はその水抜き場であり川をせき止めてその水の運用をしていた
。三友や枝光は、水止めるの古代用語であり、枝光は実は江田満つの代用漢字である。
と橋本文書は言う。つまり今や見る影もないが上妻小学校の水路が、祁答院がその水を
調整して花宗川に流す為のものだったのである。

998: 名無しさんAA:18/03/14 10:30
  富安君を探せ              < その35 >

 柳川には各所に多くのカッパ伝説がある。が有名なのは九千坊河童であろう。だが、
本来狗千坊河童であり「狗」は「く」とは犬の事で守りと言う意味である。つまり狛犬
と言う神社の守りとして置かれるの「守りのいぬ」であり本来は犬とならない。天狗の
意味である。天狗(てんぐ)とは当然天の守りと言う意味である。この天狗の里とされ
るのが英彦山神社だ。「英彦山」という山名は、社伝では天照大神の御子(日の御子)
である天忍穂耳尊を祀ることから「日子山」と呼ばれるようになったとしている。弘仁
10年 (819年)、僧法蓮が、山中で飛来した鷹の落とした羽に「日子を彦と改めよ」
と記されているのを見て嵯峨天皇に上申し詔によって[日子山」を「彦 山」に改めたと
される。英彦山は日本の三大修験道の道場と言われる。何故道場で山と言わないか。実
はこの英彦山の座主は一時高良大社の奥の天満宮社に置かれ、その後三潴の玉垂れ宮社
に又退いた。吉備真吉備の時代と南北朝時代である。千坊と言うのは「坊」はその神社
に集まる修験者達の宿舎の事である。そしてその「千」の名は多分「先達」の「せん」
であり長老を示し最も高位の修験者であると考えられる。つまり九千坊とは修験者だっ
たと言えるのである。こうした修験者達は実は朝廷の管理するところではない。何故な
らその頃の在住の人の管理はお寺の持つ氏子調(うじこしらべ)または氏子改(うじこ
あらため)の人別帖で苦役や税を決めていた。従って人別帖の無いと言う寺は寺社格は
無く寺院でしかなかった。こうした中この修験者達は別格だった。こうして何か事ある
度に山の住民は増えて行ったのである。英彦山参道の左右には山伏の住居「坊」が数多
く残っている。徒歩で奉幣殿まで行くと、この石畳の道が途中から石段へ変わるがそれ
でも続く程だ。普通の天狗の姿は狗賓(ぐひん)とされる。狼の姿をしており、犬の口
を持つとされる。著名な霊山を拠点とする大天狗や小天狗に対し、狗賓は日本全国各地
の名もない山奥に棲むといわれる。また大天狗や烏天狗(からすてんぐ)などが修験道
や密教などの仏教的な性格を持つのに対し、狗賓は山岳信仰の只の土俗的な神に近い。
所謂魔除けである。天狗としての地位は最下位だが、それだけに人間の生活にとっては
身近な存在であり、特に山仕事をする人々は、山で木を切ったりするために狗賓と密接
に交流し、狗賓の信頼を受けることが最も重要とされていた。と言う。だが河童伝説に
は、全くこの天狗は出ない。先の天変地異から魔界よりは現実の水害の方がひどかった
からと言える。さらに名も無き修験者はこの災害には無力で大勢流されたとも言える。

999: 名無しさんAA:18/03/14 10:36
  富安君を探せ              < その36 >

 東に関八州・利根川の「祢々子河童」(ねねこかっぱ)があるならば、西の河童の横
綱は九州有数の大河・筑後川に居を構える「九千坊河童」(くせんぼうかっぱ)こそが
九州最強最大の軍団であった。「九千坊河童」は元は中国の生まれだと言われ、仁徳天
皇の治世の頃に一族郎党を引き連れて海を大遠泳の末に熊本・八代の浜辺に辿り着き、
其処から九州一帯に勢力を広げて行ったと伝説では語られている。その為、熊本では八
代の地を“河童渡来の地”と定め、記念の碑が建てられている、仁徳天皇は、応神天皇
の崩御の後、最も有力と目されていた皇位継承者の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)
皇子と互いに皇位を譲り合ったが、皇子の薨去により皇位についた。とされる『日本書
紀』では仁徳天皇に皇位を譲るために自殺したと伝え、その後即位したという。仁徳天
皇(にんとくてんのう)は、神功皇后摂政57年でなった伝説記上の天皇と実物天皇の
丁度境目の頃の天皇だ。仁徳天皇在位87年とされ、日本の第16代天皇とされ善政を
敷き、大規模な土木事業を行ったと伝わる。名は大雀命(おほさざきのみこと)『古事
記』では、大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)『日本書紀』では大鷦鷯天皇(おほさざき
のすめらみこと・聖帝『万葉集』では難波天皇とされる。彼は難波に都を定め、人家の
竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除し、その間
は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかったと言う記紀の逸話(民のかまど)
に見られるように、仁徳天皇の治世は仁政として知られ、「仁徳」の漢風諡号もこれに
由来する。この話によれは戦乱の大陸から多くの移民がやって来て土木工事に従事した
と考えられる。「九千坊」の名は、彼の一族が九千匹も存在した事に因む命名である。
海を大遠泳した末の繁栄振りからも彼等の膂力の強さが伺えよう。日本に腰を据えてか
らの彼等の傍若無人振りはなかなかだった。向かう所敵無し、常勝不敗であった為に、
「九千坊」は名を轟かせた。そんな彼らでも生涯に2度だけ大敗を喫した。一度目は、
前述の「祢々子河童」の一族と、利根川の所有権を巡って争いになった時で、この時の
事は河童同士の事とて、記録には詳しく記されていないが、兎に角「祢々子河童」が、
「九千坊」を打ち負かした事だけは明らかになっている。そしてもうひとつの黒星が、
猛将・加藤清正(かとう きよまさ)との争いに敗けた事だった。と言われている。

1000: 名無しさんAA:18/03/14 10:58
加藤清正の伝説では、各地に散らばった「九千坊」の手下の狼藉に業を煮やした清正は
、あるとき、自分の小姓が河童に殺された事を理由に全軍を挙げて河童を攻め立て、遂
には、河童が最も苦手とする猿の大群を用いて「九千坊」を捕らえようとした。度重な
る清正の猛攻に為す術も無く敗走を続け、「九千坊」が逃げ込んだ先は、有馬公が統治
する福岡の筑後川であったと言う。有馬公は寛大にも「今後人畜に悪さをせぬと誓うな
ら、以後、我が領土にて暮らす事を許してつかわす。」と「九千坊」に申し渡した。「
九千坊」は有馬公に感謝し、以後、水天宮(水の神様)の眷属として領民を水害から守
る事を誓ったと言う。「九千坊」にまつわる伝説の背景には、戦国時代に九州各地で猛
威を振るっていた、渡来民を先祖に持つ海賊の存在があったと伝えられ、有馬公が「九
千坊」を調服したと言うエピソードには、そうした海賊を自身の配下に加え、戦力の強
化を狙ったと言う真実が隠されていると言う説がある。「九千坊」を始め、九州の河童
に多分に任侠じみたイメージが付き纏うのも、恐らくその所為だろう。だが柳川伝説は
もう一つ違う逸話が残る。先の金丸川の地に多くの民が田畑を興し、この祁答院が戦乱
の末廃れて、筑後川と矢部川が水争いをした。ここに藤丸氏がいた。藤丸氏は早くから
の住民で藤丸氏の始祖は大川から大牟田までの名も無い豪族で安曇磯良丸の子孫であっ
たとされる。神宮皇后時代に応神天皇が崩御した折に香椎の木で御棺を造るのだが、そ
れは桶形だった、その為造るまで箱崎神宮で急拵えの小舟の御棺を用意したのが藤丸氏
だったとされる。したがって、その時藤をして飾りたてて葬式した場所が箱崎神宮と言
う事になる。実は他の八幡社に対して恐れ多いが、何故筥崎八幡でそうした事が行われ
たかと言えば かの神社が八幡社の走りであったからだ。三つ巴紋の家紋は実は波の紋
渦巻き紋である。海人族のそれも古い渡来系の家紋である。彼らの集まる所或いは交易
の市場であった事が色々事実としてある。船の調達にはここが一番であったのだろう。
しかし藤丸家の家紋は大方は4分木瓜紋である。実はこれは5分木瓜と大きく関わる。
つまり藤丸氏は十字架の流れのキュウリ紋で彼らを従えたのだ。そしてその渡来系の人
をして土木建築に関わらせた一族であったのである。古さからもその地方の豪族として
名の無い大きな支配者であった。しかし彼らも又、時代と共に争いの中に入り込むのだ
。加藤清正は柳川の立花氏とは盟友でもある。これは、蒲池氏時代に遡る。知っての通
り蒲池氏は大友宗麟の外国かぶれに疫癖している所に、嫁のァ千代氏の父親である竜造
寺にやられてしまう。その頃は蒲池氏は高良大社の領地を支配していた。その時まで高
良大社や玉垂れ宮をして陰陽道と連絡したのが藤丸氏である。藤丸の丸は海人族の祖の
「安曇磯良丸」の丸だったのである。又清正の話は成富茂安の話と同じである。

1001: 名無しさんAA:18/03/14 21:16
加藤清正の伝説では、各地に散らばった「九千坊」の手下の狼藉に業を煮やした清正は
、あるとき、自分の小姓が河童に殺された事を理由に全軍を挙げて河童を攻め立て、遂
には、河童が最も苦手とする猿の大群を用いて「九千坊」を捕らえようとした。度重な
る清正の猛攻に為す術も無く敗走を続け、「九千坊」が逃げ込んだ先は、有馬公が統治
する福岡の筑後川であったと言う。有馬公は寛大にも「今後人畜に悪さをせぬと誓うな
ら、以後、我が領土にて暮らす事を許してつかわす。」と「九千坊」に申し渡した。「
九千坊」は有馬公に感謝し、以後、水天宮(水の神様)の眷属として領民を水害から守
る事を誓ったと言う。「九千坊」にまつわる伝説の背景には、戦国時代に九州各地で猛
威を振るっていた、渡来民を先祖に持つ海賊の存在があったと伝えられ、有馬公が「九
千坊」を調服したと言うエピソードには、そうした海賊を自身の配下に加え、戦力の強
化を狙ったと言う真実が隠されていると言う説がある。「九千坊」を始め、九州の河童
に多分に任侠じみたイメージが付き纏うのも、恐らくその所為だろう。だが柳川伝説は
もう一つ違う逸話が残る。先の金丸川の地に多くの民が田畑を興し、この祁答院が戦乱
の末廃れて、筑後川と矢部川が水争いをした。ここに藤丸氏がいた。藤丸氏は早くから
の住民で藤丸氏の始祖は大川から大牟田までの名も無い豪族で安曇磯良丸の子孫であっ
たとされる。神宮皇后時代に応神天皇が崩御した折に香椎の木で御棺を造るのだが、そ
れは桶形だった、その為造るまで箱崎神宮で急拵えの小舟の御棺を用意したのが藤丸氏
だったとされる。したがって、その時藤をして飾りたてて葬式した場所が箱崎神宮と言
う事になる。実は他の八幡社に対して恐れ多いが、何故筥崎八幡でそうした事が行われ
たかと言えば かの神社が八幡社の走りであったからだ。三つ巴紋の家紋は実は波の紋
渦巻き紋である。海人族のそれも古い渡来系の家紋である。彼らの集まる所或いは交易
の市場であった事が色々事実としてある。船の調達にはここが一番であったのだろう。
しかし藤丸家の家紋は大方は4分木瓜紋である。実はこれは5分木瓜と大きく関わる。
つまり藤丸氏は十字架の流れのキュウリ紋で彼らを従えたのだ。そしてその渡来系の人
をして土木建築に関わらせた一族であったのである。古さからもその地方の豪族として
名の無い大きな支配者であった。しかし彼らも又、時代と共に争いの中に入り込むのだ
。加藤清正は柳川の立花氏とは盟友でもある。これは、蒲池氏時代に遡る。知っての通
り蒲池氏は大友宗麟の外国かぶれに疫癖している所に、嫁のァ千代氏の父親である竜造
寺にやられてしまう。その頃は蒲池氏は高良大社の領地を支配していた。その時まで高
良大社や玉垂れ宮をして陰陽道と連絡したのが藤丸氏である。藤丸の丸は海人族の祖の
「安曇磯良丸」の丸だったのである。又清正の話は成富茂安の話と同じである

1002: 名無しさんAA:18/03/14 21:17
  富安君を探せ              < その38 >

 八女の霊厳寺は中国の霊厳寺とも関係は深い。中国には中国天台宗の宗祖として国清
寺もある。国清寺は智によって建設がはじめられたが、その没後、隋の開皇18年(
598年)に完成した。はじめの名前は天台寺と言ったが、のちに国清寺に名を改めた。
会昌の廃仏毀釈でいったん廃止されたが、大中5年(851年)に再建された。国清寺は隋
以来たびたび天災・人災に遭い、何度も再建されている。現在の建築は清の雍正年間以
降に再建されたものである。文化大革命でも大きく破壊されたが、周恩来の命令によっ
て再建された。この中国の災難によって日本にやって来たとされるのが、河童たちだ。
彼らが天台宗で日本と言う情報や天台宗で救われたのは当然だった。河童がどこから来
たのかは諸説がある、又地域によって様々な伝承が残される、代表されるのは八代河童
の大陸渡来伝説だろう。八代の河童を束ねていたが「九千坊(きゅうせんぼう)」とさ
れ仁徳天皇の時代(313年〜399年)に大陸から九千匹の部下を引き連れて渡来し
、住み着いたのが緑川や球磨川のほとりに住んだといい熊本では「ガラッパ」または「
ガワッパ」と呼ばれている。つまり加藤清正が退治したのは八代であったと言うのであ
る。ここには二つの石を組み合わせて河童渡来之碑。を祭る。石の表面には、「中国か
ら九千匹の河童が海を渡って八代にやってきた」書かれている。この大陸から渡ってき
た河童は捕まり、「この石(渡来碑)がすり減るまで悪さはしない」と誓った。とされ
る。九州のカッパは、亀のような甲羅を背負い、頭に皿を乗せた現在一般的な姿とは違
った川の中の猿という姿である。降参した河童たちは熊本を追放されて久留米(福岡県
)の有馬公の許しをもらい田主丸に住みついた筑後川に移り住んだ後、改心して水天宮
の使いを果たすようになった。と言われ、その後黒田の福岡城の夜の工事を果たしたと
言われる。碑の傍では5月5日に「オレオレデーライタ川祭り」がある。オレオレデー
ライタとは「呉(中国)からよくいらっしゃいました」というような意味だそうだ。河
童がイタズラをしないなら代わりに供え物をすると約束したのが始まりと言われ、子供
の水難防止を祈願するものだ。しかし、柳川では立花氏は久留米有馬藩と佐賀鍋島藩と
に境界争いが起こったとされる。多くは、その頃徳川の献上品が貧乏だった鍋島藩は、
有明の珍味として「海茸(ウミタケ)の干物」を送っていたとされ、それを柳川近くで
取ったからだ。とされる。だがこの漁民の争いはどうも反射炉問題があったようだ。


1003: 名無しさんAA:18/03/14 21:17
 富安君を探せ              < その39 >

 そこでは、柳川の津村氏が水天宮に決めてもらうと公平だと言いだしたと言われて、
久留米藩を巻き込んだ境界決めに至る。水天宮宮司が芝花を川にに流しそこが境界にす
る事になった。三者同意の上で流しそれが今の県境とされる。だが何故か双方に入り組
んでいる。それは堤防決壊に悩んだ成富茂安は対岸に水流が行く様に盛んに蛇籠堰と言
われる羽だし制水提を作り双方が作り出したからだ。と言われる。この技術に石橋氏が
いた。滑らかに蛇籠石とされる石垣を造る技術は、村上氏の家系である石橋氏が始祖と
される。熊本のこの石積技術は高く、双方がその技術を求めたがそれらの技術は更には
熊本城の反りの技術に繋がったとされる。その為熊本城より古く久留米篠山城は早くか
ら精密ではなかったが反りを入れた城壁を作ったとされている。恐らく日本最初の反り
であろう。何故ならその後も土庚呂で造船施設の様に床石まで貼ったとされる。そこは
かつて成安と戦った石丸城跡の墓所となったと言う。多分成富茂安と闘った人の墓だろ
う。成富茂安は江上一族の人だ。江上氏はその名の通り江曲(えこん)河とされる海の
入り江の上座に座った一族とされる。その為山の大きな戦乱と戦禍に巻き込まれ十数種
の家紋を有していた。同じ姓でも出自やいわれが違いまたその時々で大将を変えたから
だ。江上氏は覇瀾の将とも言える。江上氏は九州大蔵氏の流れで、他の大蔵一族と同様
に代々通字として「種」の字を用いていた。大蔵氏の祖先は漢の高祖といい、大化年中
(645〜649)に日本に帰化した人とされる。最後の帰化人で漢氏を名乗った一族の後裔
と伝えられる。「漢」は後漢帝国に由来し、霊帝の末裔を称している。新羅征討計画の
際には兵器の製作を担当し、崇峻天皇暗殺の際にも東漢氏の東漢駒(東漢直駒)が暗殺
の実行役だった。蘇我氏の臣下だったが、壬申の乱の際には、蘇我氏と袂を分かれた。
奈良時代以降も武人を輩出し平安時代初期には蝦夷征討で活躍した坂上氏の坂上苅田麻
呂・田村麻呂親子も一族とされる。大和朝廷では官物を納めた蔵の護衛である大蔵に仕
えたことから、大蔵を氏として朝臣の姓を賜ったといわれる。大蔵氏が九州と関わりを
もったのは、天慶四年 (941)に起った藤原純友の乱で、大蔵春実は源経基・小野好古
らとともに、乱の鎮定のために出陣した。乱後、軍功により原田の庄を賜り太宰府の中
で府官に任ぜられ、子孫が鎮西各地に広まった。原田家もその流れであると言う。



1004: 名無しさんAA:18/03/14 21:17
 富安君を探せ              < その40 >

『城島町史』によれば、純友の乱で軍功をたてて、江上の地に住んだ。二代長種には二
子があって長子を四郎種冬、次子は三郎忠種といったという。忠種の孫氏種(一本では
種宗)の時、元冦の役に遭遇して出陣、軍功により肥前国神埼荘地頭職を賜ったことか
ら肥前と関係をもつようになった。という南北朝時代は江上近種(えがみちかざね)の
時代だが、近種は元弘三年(1333)、菊池氏同様、二品親王(護良親王)の命を奉じて
宮方として行動した。しかし中世以降の鎮西の争乱で江上氏の動向については必ずしも
片方についてはいない。筑後の国衆として勢力を維持し大きくなったが、天文年間に、
(1532〜55)における筑後国には、上蒲池・下蒲池・問註所・星野・黒木・河崎・草野
・丹波(高艮山座主)・高橋・江上・西牟田・田尻・五条・溝口・三池の大身十五家が
あって結束を固め、これを筑後の十五城と称した。しかし元寇の後の軍功で江上・高橋
の両氏の領地は筑後に限らず、のちに肥前・筑前側の領分にも民を配していて実際には
十三城であった。南北朝時代を経て室町時代に至ると、幕府管領畠山氏や斯波氏の家督
争いが起り、幕府の威信は翳りを見せた。さらに、将軍継嗣問題から、応仁元年(1467
)に応仁の乱が起ると、極めて不穏な世の中に、群雄割拠する戦国時代となった。室町
時代の九州は、九州探題に渋川氏が任じられ、それを周防の大内氏が支援するかたちで
豊前・筑前の守護職に補任され中国武者に北九州に勢力が奪われていた。これに対して
、鎌倉以来の鎮西の名族少弐氏が大友氏と結んで菊池一族と対立するという構図になっ
ていた。永享五年(1433)、少弐満貞は菊池氏を諜報を謀り衰退に追い込んだが、大内
持世と戦って敗れて自刃した。翌年、少弐満貞の弟の横岳頼房は、探題渋川満直を攻め
、これを肥前神埼で討ち取った。江上氏十二代の肥前守常種も頼房に味方して活躍し、
勢福寺城を新たな本拠にして少弐氏を助けつつ、国人領主として勢力を拡大していった
。ところが、文明二年(1470)常種は大内氏に近づき一揆と戦って討死し、子の興種の
は少弐氏に攻められて福寺城を失った。この為小田氏の蓮池城を頼って蓮池城に移った
。その後、大内義興が豊前・筑前への支配を強め、豊後の大友氏は穀倉筑後を征圧して
、少弐氏は肥前を本拠に筑前の回復を企てていた。十四代元種は少弐氏を援けて勢福寺
城に入り、天文八年(1539)、東肥前に侵攻してきた大内氏の大将陶興房(道麒)と戦
った。この戦いで江上勢は、太鼓を打鳴らし突然に鬨(とき)の声をあげて攻めかかり
、それに驚いた大内軍は散々な敗北を喫した。翌年、ふたたび軍を起した陶氏道麒は、
まず筑後に打入ると久留米安武城の豊饒美作を攻略、敗れた豊饒が肥前東津(鹿島)に
奔ると、これを追撃して筑後川を押し渡り肥前になだれこんだ。

1005: 名無しさんAA:18/03/14 21:18
  富安君を探せ              < その41 >

少弐氏は資元・冬尚父子の代で、江上元種は資元・冬尚父子を護って勢福寺城に立て籠
った。これに少弐氏恩顧の諸将が続々と馳せ集り大内軍を迎え撃った。このときもっと
も活躍したのが龍造寺家兼で、大内軍は散々な敗北を喫して潰走した。度重なる敗戦に
業を煮やした大内義隆は、みずから三万の大軍を率いて筑前に出陣してきた。これには
さすがの少弐方も打つ手がなく、龍造寺家兼らの意見もあって資元・冬尚父子は勢福寺
城を明け渡した。しかし、義隆は追撃の手を緩めず、多久に逃れた資元は切腹、冬尚は
筑後に逃げ落ちていった。だが毛利氏勢は富安城白鳥城大津山城小岱山城と攻めて、こ
うして、大内氏の勢力が北九州の殆どを席巻した。筑後に逃れた冬尚は、その後、蓮池
の小田資光を頼って再起をねらった。冬尚は龍造寺家兼の佐嘉水ケ江城を訪れて協力を
請い、家兼の尽力で勢福寺城への復帰がなった。そして、家兼は弟の龍造寺家門を執権
とし、それに江上元種、馬場頼周を補佐と定め、少弐冬尚は一応の安泰をえた。天文十
年、冬尚は大友義鎮と筑前で会合し、大内氏への対抗策をこらした。冬尚は家兼の支援
によって勢力の回復をえたものの、父資元は滅亡し、龍造寺家兼が大内氏に通じた結果
という思いが捨てきれなかった。そこに、龍造寺氏の台頭を危惧する馬場頼周が、謀略
をもって龍造寺氏を排斥しようと企てていた。天文十四年、馬場頼周は冬尚を説き、自
城の家門ら龍造寺一門の主だった六人を謀殺した。思いがけない非運に見舞われた家兼
は、筑後の蒲池氏を頼つて肥前から逃れ去った。家兼をはじめ龍造寺一門は少弐氏の中
で柱石であり、この一挙は、少弐氏自滅の原因となった。翌年、鍋島氏の活躍で肥前に
復帰した家兼は、仏門に入っていた孫の法師丸を還俗させて龍造寺家を継がせた。法師
丸は胤信(のち隆信)と名乗り、天文十六年、大内義隆と結び少弐氏追討の軍をおこし
た。冬尚は江上元種をはじめ譜代の武士を集め、龍造寺軍と戦ったが目達原の合戦で敗
れ、元種は冬尚を守つて筑後に逃れ江上城に隠居した。元種のあとは、武種が江上氏の
家督となって少弐冬尚を支えた。天文二十年(1551)、大内義隆が陶隆房の謀叛によっ
て殺害された。大内氏も陶氏は柱だったが大友氏の諜略に乗った形だった。こうして又
北九州の情勢は大きく動いた。俄然大友氏の勢いが強くなり、少弐冬尚も大友氏と結ん
で龍造寺隆信討伐の軍を起こした。江上武種も神代・小田・本告・犬塚らの諸氏ととも
に冬尚に加担した。


1006: 名無しさんAA:18/03/14 21:19
  富安君を探せ              < その42 >

 これには、さすがの龍造寺隆信も力及ばず、降伏勧告を受け入れて佐嘉城から落ちて
いった。隆信を肥前国内から追放した冬尚は、龍造寺鑑兼を龍造寺家の当主に据えて、
土橋栄益を家宰とし、神代勝利・高木鑑房らに佐嘉城を守らせた。江上武種は、冬尚の
執権となって神埼・三根の二郡を領した。丸に隅立四つ目結の旗印はのちに梅鉢紋に代
えて用いた。筑後の蒲池氏のもとで庇護を受けていた隆信は、永禄元年(1558)、少弐
氏討伐の軍をあげると勢福寺城を囲んだ。江上・神代らの少弐勢は隆信の猛攻をよく防
いで、城は容易に落ちなかった。やがて年末に至り、隆信と少弐・千葉・江上氏らとの
間に和議がなり、龍造寺勢は城の囲みを解くと佐嘉へと帰陣していった。しかし、翌年
永禄二年正月、突如として軍を起こした隆信は神埼口より城原に攻め入り、勢福寺城を
包囲すると四方より攻撃を加えた。少弐・江上方は虚を衝かれて防戦も思うにまかせず
、ついに江上武種は切腹しようとしたところを鍋島信昌に止められ、隆信に降って筑後
へ落ちていった。少弐冬尚も武種に去られては万事窮すで、ついに冬尚は自刃して少弐
氏は滅亡した。その後、江上武種は龍造寺氏に属したが、大友氏の来攻にあたって隆信
が救援の約束を守らなかったことで肥前佐賀と離れ、大友氏に従った。しかし、大友軍
が撤退すると、今度は龍造寺方から攻められ、重臣執行氏の進言で和議をとりつけた。
その結果、武種は隠居し、隆信の次男家種を養子にして江上家の存続をはかった。戦国
時代後期の中で九州は、大友宗麟が最大の勢力を有し、南九州の島津氏が、北上作戦を
展開するようになった。これに肥前東部を征圧した龍造寺隆信の勢力が絡まって、三者
鼎立状態となった。そのような天正六年(1578)、大友氏と島津氏が日向で戦い、大友
氏は壊滅的敗北を喫した。にわかに勢威を失墜した責任が龍造寺と接していた筑後蒲池
氏に及んだ。日向の伊東氏と島津の攻防は昔からだった。これが戦好きの大友宗麟が仕
組んだ伴天連の神の国作りの妄想だったからだ。父蒲池鑑盛は「義心は鉄のごとし」の
人間で彼と縁戚に任せて 居城を守る事にしたかったが大友氏はそれを許さなかった。
飫肥城の戦いは熾烈を極めて蒲池鑑盛は戦死した。鑑盛は宗麟からの命を受けて数々の
戦功をたてていた。中でも龍造寺氏の村中城攻略戦では、田尻氏と共に数十隻の兵船で
筑後川を渡り、合戦への参加したりして宗麟からの感状を幾度も受けている。しかし、
この日向国での耳川の戦いには、初老の身で病身だった上に、今回が毛利氏と竜造寺と
島津氏が幾らかの協定がある事が伝え漏れていた。嫡子の鎮漣や三男の統安と共に3千
の兵を従えて出陣したが想いあぐねていた。既に家督を継いでいた鎮漣には大友氏から
離心しており、病気を口実に2千の兵と共に柳川へ帰城して防備を固めた。

1007: 名無しさんAA:18/03/14 21:20
  富安君を探せ              < その43 >

 父鑑盛との話し合いの結果の帰城だった。鑑盛は大友氏の軍に留まり、開戦後は大友
軍総崩れの状況下、直属の兵約1千を率いて島津氏の本営への突入を試みるなど奮戦し
たが大勢は揺るがず、統安と共に戦死した。「湊川の戦いの楠木正成の壮烈な最期にも
比せられる」と記された戦いだった。やはり、竜造寺氏はこの好機を逃さず攻め込んで
きていた。柳川城は、蒲池治久により築城された城郭で城下町は現在の柳川市の元とな
っていた。舞鶴城(まいづるじょう)とも称された濠の3重に囲まれた城で難攻不落の
城とされた。蒲池氏の城主時代に「柳川三年肥後三月、肥前、筑前朝飯前」と大友氏の
陣中で歌われた戯れ歌にもあるように攻略には3年かかるという九州屈指の不落の城と
謳われた。城壁の石垣は石橋家の反りの石積みが震災にも耐えたと言われている。蒲池
鎮漣が帰城してすぐの時、龍造寺隆信や鍋島直茂が2万の兵で柳川城を攻めた。僅か手
勢数千の騎馬を集めて秘かに合図して、蒲船津城に兵を置いた。2万の兵は白鳥に陣を
しきその城下町の周りを取り囲んだとされる。対して高畑を中心に三百の陣を敷いた。
水門を閉め、二つ河堰をせき止め、磯宮堰も閉めた。7日程過ぎた時朝鮮松原では石の
動かしが完了していた。堰は開けれて程なく白鳥の陣は水没して行き、ずらりと並んだ
2万の兵は戦わずして豪雨に流される事になった。移動する肥前軍には蒲船津からでて
来た追手が切りかかり高畑にも近づけなかった。ぬかるみにはまった兵は多くは溺死し
残った武者も追ってに惨殺された。今でこそ宿場町の中の今古賀や下久末だが、実はわ
ざと低地にできた街筋だった。こうして一万人規模が流され馬上の兵士も勝手が解らず
大きく敗走していた。2回3回続いては、肥後勢は2千ぐらいの将と怪我と負傷者5千
になっていて士気はなかった。仕方なしに竜造寺勢は引き揚げたのである。こうして1
年かかってもその城下町すら入れなかったとされる。柳川鍋はその時対岸で真勝寺裏で
兵が佐賀の兵に勝って対して祝宴にナマズとドジョウを食べた事から始まったとされる
。こうして戦さでは落城させることができなかった。がその後孫の祝いとして蒲池氏に
佐嘉神社を建てて暗殺を謀りそれが成功した。その時近侍の侍は蒲池氏を守り本庄を抜
け追ってを切り殺し鹿の子まで逃げ延びた6人は総勢数百に取り囲まれて討ち死にした
。その時には富安氏も蒲池氏を守り死んでいる。鹿の子の応戦である。その魂の弔いに
鹿の子神社と、お寺がたてられた。


1008: 名無しさんAA:18/03/14 21:21
  富安君を探せ              < その44 >

 叔父の田尻鑑種の仲介で龍造寺隆信と講和しての佐賀入りだったが、既に龍造寺隆信
の娘の玉鶴姫を鎮漣の妻にしていて、肥前を訪問することを要請していた為、嫌々なが
ら応じた鎮漣には佐賀にて謀殺される可能性に、この時鶴姫は一足早く佐賀入りして、
その報告に江上周りで帰郷したが一足遅かったと伝えられる。鎮漣殺害後、龍造寺隆信
は柳川の鎮漣残党退治を命じ、田尻鑑種がその尖兵として柳川に兵を進め、塩塚城に籠
もった鎮漣残党を駆逐し独立勢力として戦わせた。こうして下蒲池は滅亡した。その際
、龍造寺四天王の一人百武賢兼は、裏切りを働いたとはいえ蒲池家は龍造寺氏にとって
大恩ある家であり、これを滅ぼすことについては疑問を抱いたと言われている。鎮漣の
弟の蒲池統安は耳川の戦いで討ち死にしており、嫡子で塩塚城主だった蒲池鎮貞は龍造
寺氏との柳川の戦いで討ち死にしたが、次男の応誉は僧籍にあり、瀬高上庄の来迎寺の
第四世住職を勤めていたが、柳川藩主となった立花宗茂に招かれ、宗茂の正室のァ千代
の菩提寺である良清寺を開き、その初代住職となった。鎮漣の嫡子で柳川落城の際に殺
された幼い宗虎丸(蒲池統虎)は養父に預けられ鶏の籠の中に隠れた。しかし白浜の音
の中で夜明けに鶏が啼いて、暗闇の中で見つかって殺されてしまった。その為二の宮社
付近では昭和時代まで鶏の肉は決して食わないと言う風習が残っていた。そしてカゴメ
の詩が十時氏によって作られた。また蒲池久鎮は上蒲池氏に行く為に三潴まで逃れたが
運悪く大善寺橋にて大雨で渡し船が出ず玉垂れ宮の対岸で捕まってしまったとされる。
その為大善寺橋は代々そのずげかえには、その不幸の為にこの橋が作られたと明記され
ていた。柳川の蒲池氏滅亡後は、蒲池氏時代の造作のままの柳川城に龍造寺氏の武将で
ある鍋島直茂や龍造寺家晴が入り、居城とした。大友氏の勇将立花道雪は、柳川城を懸
命に攻めたが落とすことができず悔しがったという。鎮漣の兄で、鎮漣と同じく肥前で
討死した家老の蒲池鎮久の子の熊千代は柳川落城の時は塩塚の民家に逃れ、成長して蒲
池貞久と名のり龍造寺家晴の配下となる。家晴は龍造寺隆信とは異なり、大恩ある蒲池
鑑盛の血筋を残そうとしたのだった名跡は一族の蒲池鑑続が継ぎ、系譜上では蒲池嫡流
(下蒲池氏)の子孫とされた。こうして、龍造寺隆信は大友氏の敗戦を好機として筑後
・肥後に侵攻、飛躍的に勢力を拡大させ、ついには三州二島の太守と呼ばれるまでにな
った。

1009: 名無しさんAA:18/03/14 21:22
  富安君を探せ              < その45 >

しかしそれは長く続かなかった。天正十一年、隆信の残忍性を危惧した有馬氏が島津氏
に通じ、龍造寺方の深江城を攻撃した。その為翌年には、隆信はみずから三万の大軍を
率いて、有馬氏討伐の軍を発した。江上家種は弟で後藤氏を継いだ家信とともに出陣、
龍造寺軍の左翼を形成した。ここで戦いは島原半島の沖田畷で行われ、島津・有馬連合
軍の計略によって龍造寺軍はまさかの敗戦、隆信は戦死を遂げてしまった。父隆信戦死
を聞いた家種は有馬勢に突入して鬼神の働きをしたが、龍造寺軍は混乱して僅か七名の
従者とともに死地を脱して撤兵した。このときの戦いで、家種に従った江上衆の将士の
ほとんどが討死した。隆信戦死後は、すぐさま柳河から鍋島信昌(信生・直茂)が帰り
佐嘉城に移り、執権として体制の立て直しにつとめ、柳川城には龍造寺家晴と成富茂安
が残ったた。一方、島津軍が南から出て来ると 大友軍勢は久留米近郊で島津軍の得意
とする野間伏にあって大敗した。島津の傘下として江上家種は江上城から蒲池城に入り
、筑後の治安にあたった。が危機感を感じた龍造寺家晴が佐賀に帰る事を望み成富茂安
と袂を分けた。城を出た家晴は高島近くで江上氏と戦い全滅した。その後天正十五年に
豊臣秀吉の九州征伐が行われると、成富茂安は間隙を撃って江上城を奪いその後久留米
の笹山城に籠った。江上家種は立花宗茂、鍋島信昌ともに、先陣をになって島津軍討伐
に活躍したが、久留米の笹山城は落とせなかった。九州を平定した秀吉は九州仕置を行
うと、立花宗茂は筑後柳河を賜り、龍造寺政家は佐嘉を安堵させたが、久留米の成富氏
が佐賀に帰参する事を拒んだ。家晴を見限った事の恨みである。その為その後、秀吉は
政家に隠居を命じ、軍役を免除し鍋島氏と交渉した。そして成富茂安を鳥栖近郊に置き
やっと有馬氏を久留米藩に据える事が出来た。要害の久留米を他に差配させることには
できなかったのだ。朝鮮の役には、直茂が出陣が命じられ、龍造寺家臣団は直茂の下に
編成され、鍋島氏との主従関係が醸成された。この状態を家種は快く思っていなかった
ようだが、化け猫騒動などや朝鮮の役に出陣して釜山において死去したが、家種の死は
病死・狂死・戦死など諸説あり、無念の死であったようだ。有馬氏は5系統とも言われ
久留米藩に入ったのは摂津有馬氏、赤松有馬氏とも呼ばれ摂津有馬氏で赤松氏(村上源
氏)の庶流とされる。室町時代に摂津国有馬郡を拠点とし有馬重則は播磨国美嚢郡に進
出していて、その子の則頼は豊臣秀吉に従い後に御伽衆に列する程親しかった。則頼の
子豊氏は豊臣秀次の側近までなっている。



1010: 名無しさんAA:18/03/14 21:38
  富安君を探せ              < その46 >

 水沼大君伝説では玉垂れ宮には、良き娘がいた。水沼大君はかつて邪馬壹国の卑弥呼
・壱與と倭の五王(讃・珍・済・興・武)との間に在位した九州王朝の王の一人だった
と言う。石上神社(奈良県天理市)に伝わる七支刀は、かつて瀬高のある祠に飾られた
物が江戸末期学者によって持ち去れれたものとされる。その銘文中に見える「倭王旨」
を指摘された(旨は中国風一字名称)。七支刀の銘文によれば、この刀は、泰和四年(
東晋の年号、西暦三六九年)に造られ、百済王から倭王旨に贈られたものだった。そう
すると、先に報告した玉垂命(初代)が水沼に都を置いた年(仁徳五七年・西暦三六九
年)と七支刀が造られた年が一致し、その倭王旨は初代玉垂命の神官水沼大君の娘と同
一人物ということになる。というものだが。玉垂命が筑後国神名帳には「玉垂媛神」と
なる様に少し名が変わる。この理由は解らないがこの水沼氏には大和朝廷からの求婚の
申し出が相次いであったとされる。だが何とか 娘をやりたくない水沼氏は色々と考え
て手を尽くしたと言う。泥のパックで見にくい顔に化粧させ、部屋に腐った魚を置いて
は汚い娘に見せたりしてた。そして都大和朝廷の使者はやって来た。直ぐに違う娘と見
合いさせて騙す事ができるかと思われた。ところがやって来た若者は評判と違う事を見
抜いていた。物置部屋の臭い部屋にに誰かいる。と察知して水沼神君に伝えると、時々
鬼がいて危ないから部屋に近づかない様に注意したが、私が退治してあげましょうと、
気安く鬼火を炊き煙でいぶして部屋に煙を入れた。奥にいた姫はたまらず外に出て見つ
かってしまい。その上に煤で黒くなったと顔を若者が拭いてやると娘は美しい顔がのぞ
き、直ぐに朝貢となり縁談がまとまった。腐った魚はそのままいぶされ、宴会の席とな
り簡単に婚儀が終わる。これによって玉依姫命となって、大和朝廷と九州の朝廷が結ば
れた。これは大和朝廷と九州朝廷の間を取り持った宗像氏のはからいでもあったという
。こうして玉垂れ宮は、玉依姫命を祭る神社となった。玉依姫は綿津見大神(海神)の
(風浪宮の主神)子で、豊玉姫(南国の主神)の妹である。豊玉姫が、彦火火出見尊と
(山幸彦)の間にもうけた子である鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)を養育
し、後にその妻となって、五瀬命(いつせ)「九州南部」、稲飯命(いなひ)「阿蘇部
」、御毛沼命(みけぬ)「筑後部」、若御毛沼命(わかみけぬ)「筑紫部」と手を組み
朝鮮征伐が出来る様になった。とされる。末子の若御毛沼命「中国地方部」が、神倭伊
波礼琵古命(かむやまといはれびこ、後の神武天皇)「近畿部の王」となった。

1011: 名無しさんAA:18/03/16 11:52
  富安君を探せ              < その47 >

 ところが九州神話は少し違う。天照大神のもとに双子の中の雉啼鳥命(神名は不明忘
れた)がやって来ては姉がいないので探してくれと頼んだ。そこでの猿田彦と少彦名の
神をして探しにいかせたところ、帰って来て豊葦原の向こうにそっくりな国があって、
力づくで取っていけ返さないとの伝言だった。そこでその方向に我方に正義あらば的を
射よと雷鳴命に弓をひかせた所 矢はこの神を射抜いて平らげて無事かの姉を救った。
その功で、猿田彦の意見を聞いて豊葦原を広げる為に大国主と少彦名は旅に出た。とい
うものだった。一般には猿田彦の神は、「邇邇芸尊が天降りしようとした時、天の八衢
(やちまた。道がいくつもに分かれている所)に立って高天原から葦原中国までを照ら
す神がいた。そこで天照大神と高木神は天宇受売命(あめのうずめ)に、その神の元へ
行って誰であるか尋ねるよう命じ、その神が国津神の猿田彦で、邇邇芸尊らの先導をし
ようと迎えに来た。」と言う物である。又、少彦名神は、古事記では神産巣日神(かむ
むすひのかみ)の子、日本書紀では高皇産霊尊(たかひむすひのみこと)の子。とされ、
体の小さい神で、大国主神と協力して国づくりを行い、のち、常世国(とこよのくに)に
帰った。医薬の神とされる。先の雉名鳴女を使わせた話では三番目に派遣されたのが、
武門の神様である建御雷神で、建御雷神(たけみかづちのかみ)は、出雲国の小浜に降
りると、十掬剣(とつかのつるぎ)を逆さまに立て、その切先にあぐらをかいて座り、
大国主に、「汝がこの豊葦原を、我が御子の天津原をと天照大神が仰せである」と、国
譲りを迫る事になっている。大国主は「二人の息子と相談し、長男の事代主大神は、た
ちどころに了解したが、次男の建御名方神(タケミナカタ)は、建御雷神に、力比べを
挑み、あっという間にやられてしまい、諏訪にまで逃げてしまった。と言う物だ。まあ
詳細は不明だがいずれにせよ大和朝廷と九州朝廷では神話すらも違っていた。ただここ
10年位で小中学校や高校の古本は無くなり、当の伝説は今や見る影もない神社も多い
。アメノワカヒコの死を嘆くシタテルヒメの泣き声が天まで届くと、アメノワカヒコの
父のアマツクニタマは下界に降りて葬儀のため喪屋を建て八日八夜の殯をした。シタテ
ルヒメの兄の味耜高彦根命(アヂスキタカヒコネ)も弔いに訪れたが、彼がアメノワカ
ヒコに大変よく似ていたため、アメノワカヒコの父と妻が「アメノワカヒコは生きてい
た。」と言って抱きついた。するとアヂスキタカヒコネは「穢らわしい死人と見間違え
るな」と怒り、神度剣を抜いて喪屋を切り倒し、蹴り飛ばしてしまった。喪屋が飛ばさ
れた先は美濃の藍見の喪山だという。


1012: 名無しさんAA:18/03/16 11:53
 この神話では真意はともかくとして、建御名方神や事代主大神(コトシロヌシ)のい
た天若彦が死んだ「宗像」と葬儀のためにやって来た味耜高彦根命のいる天津原では、
噂が聞こえる位置にあった。つまり多少の交流があった。と言う事がわかる。少彦名命
と大国主神と協力して国づくりしたのが出雲であれば、天稚彦の父のいた天津原(あま
つがはら)は九州か大和になるが、建御雷神と建御名方神の力比べで諏訪に逃げたとい
う記述からは、九州でなければならない。わざわざ天津原の方向に逃げる筈もないから
だ。つまりは、出雲の国作りに大国主神も少彦名命も励んだのだが、天照大神の国に盗
られた。それは九州勢の事だった。と言う事になる。当然海外の窓口が早く開けていた
中で、後から大和朝廷が出来た。そして今の様に正当な日本の歴史の中心になって行っ
た。ここに戦争や色々な交渉が起こらない筈はない。それが神功皇后の三韓征伐だった
。高良山と基山に挟まれた小郡のあたりは「隈」の地名が無数に集中する。隈は隈祖と
して只隈姓がある。只隈氏はかつて立花氏に追われた隈部一党が柳川で果し合いがあっ
た一族の子孫である。隈氏は、日本の中では相当に古い種族であり、シュメール文化を
持ち込んだ先住民の流れがあるのかもしれない。というのも 鱗紋の存在である。鱗紋
は魚のウロコを紋章にしたものと言われる。それは魚に留まらず、蛇、竜迄広げている
。実はこれは祖母山系霧島の紋とされる。菊池氏流れ緒方氏や越智氏流れ河野氏あるい
は宇都宮氏流れ小田氏筑後川の境でもめた江上氏流れ大詫間氏など三つ鱗紋は多い。こ
こで解る様にその家主の主流でなく全て亜流で本流でなく奔走していた支流派なのであ
る。室町時代に入った源氏流れ北条氏は特によく知られている。巴紋が水神のシンボル
マークである渦紋であるならこの三角飾りは龍神のシンボルの鱗紋とされる。良文流の
大木氏が亀甲に一つ鱗、三浦氏が角の内二つ鱗。秀郷流の中村氏三つ鱗を用いている。
平良文(たいらのよしふみ)は、平安時代中期の武将とされ、桓武天皇四世平高望の五
男とされ、生母は高望の側室である藤原師世の娘とされる。官位は従五位上を授かり、
陸奥守となり鎮守府将軍となった人だ。この子孫として大木氏がこの地にやって来た。
やって来たのは南北朝時代と思われる。その後の、元弘3年(1333年)に鎌倉幕府北条家
の悪政に困り御醍醐天皇の討伐の呼び掛けに応じたのが「新田義貞」挙兵 150騎であっ
た。この時東北からついてきたのである。鎌倉へ進軍中、幕府への不満を募らせていた
この時「足利尊氏」の軍も加わり兵は60万数千騎の大軍となり、鎌倉幕府は滅亡する。
北条高時らは自害したがこの北条氏も鱗紋だった。新田義貞は1334年「建武の新政」で
は「武者所頭人」となるが足利尊氏と対立して追われる。1338年、新田義貞は、北陸で
戦力を整え出直しを用意しますが、越前灯明寺畷藤島で足利尊氏の軍と出くわし合戦と
なり新田軍は破れて義貞は、38歳で生涯を終えた。

1013: 名無しさんAA:18/03/16 11:53
  富安君を探せ              < その49 >

 鱗紋の発生には祖母山の白蛇伝説がある。御崎神社は 708年に創建されたと伝えられ
ている断崖絶壁にある神社。参道は両側にソテツなどの亜熱帯性の植物がしげり、まる
でジャングルのような絶壁にたたずむ神社だ。観光遺産に指定されている御崎神社のあ
る都井岬には、「大蛇退治」の話が伝えられている。かつて、人々や家畜に危害を与え
た「大蛇」を村の人が集まって、退治しようと計画し、蛇は火を恐れることから、若者
たちが全員手に松明を持ち、大蛇が岩山に追い込み、松明を大蛇の口に投げ入れました
。大蛇は、口から火炎のような血潮を吹き出し、息絶えたと伝えられています。この話
をして松明を投げ入れるダイナミックな火の祭り「都井岬祭り」が開催されています。
しかし、これは岬の話で山に入れば少し違う、平家物語「緒環」での、緒方氏大蛇の子
孫伝説である。平家物語では、世情に対して神さえも助けられない世の中でどうして人
が助けられようか。との話し合いの中で 緒方三郎維義の話が出てその出自を記述する
。緒方三郎維義というのは恐ろしい者の子孫である。昔、豊後国の山里に女がいた、夫
もいないこの一人娘のところへ、ある男が夜な夜な通い、女は身ごもった。母親がこれ
を怪しみ「おまえのところへ通って来るのは何者か」と尋ねた。娘は「来るのは見るけ
れども、帰るところを見たことがありません」と言う。「では、朝帰ろうとするとき、
印をつけてみなさい」と教えた。娘は母の教えに従い、男が朝帰ろうとするとき、水色
の狩衣の襟に“しずのおだまき”というものを付けた。糸を頼りに男の行方をたどると
、豊後国と日向国の境、優婆嶽(嫗岳)という山の裾にある大きな岩屋の内へとつなが
っていた。女が岩屋の入口に佇んで耳を澄ますと、大きな唸り声が聞こえた。「お姿を
見たくて、私はここまでやって来ました」と言うと「おれは今、人の姿をしていない」
と返事し、「おまえがおれの姿を見たら、気を失ってしまうぞ」、「身ごもったのは、
男の子だろう」「弓矢や太刀を持たせれば、九州・壱岐・対馬に並ぶ者のない男になる
」と教えた。女が重ねて「たとえどのような姿でも、日頃のよしみをどうして忘れられ
ましょう」「姿を見せてください」と言うと「そう言うなら」と、岩屋の内から、出て
きたのは、とぐろを巻いた姿は五六尺ほど伸びれば十四・五丈もあろうかという大蛇が
、体をうねらせて這い出てきた。女は気を失いそうになった。連れてきた十余人の従者
たちは絶叫して逃げてしまった。襟に刺したと思った針は、大蛇の喉笛に突き立ててい
たのだった。女が帰ってほどなく産んだ子は男子であった。


1014: 名無しさんAA:18/03/16 11:54
 富安君を探せ              < その50 >

母方の祖父が「育ててみよう」と育てたところ、まだ十歳にも満たないのに、背は高く
、顔も長かった。七歳で元服させ、母方の祖父を“大太夫”というので、この子に“大
太”と名づけた。夏も冬も手足にはびっしりとあかぎれができて、ひび割れていたので
“あかぎれ大太”と言った。かの緒方三郎維義は、この大太の五代の孫にあたる“恐ろ
しい者の子孫”だからか、国司の仰せを院宣であるとして、九州・壱岐・対馬に回覧状
を回すと、有力な者たちは皆維義に従った。その大蛇は日向国において崇められ、今、
高千穂の明神の神体であるという。以上が平家物語の「緒方三郎維義(惟義)(惟栄)
の由緒とされる話だ。中世12世紀末、源平が争っていた頃、豊後国大野荘緒方郷の(
豊後大野市緒方町)を拠点として活躍した武将だが、彼が鱗紋を旗印に使った代表的な
武将であろう。だが地元で聞いた伝説はもっと変形していて村は戦で女しかいなかった
り女が身籠ったのは、白蛇が寝ている隙に入り込んだとかである。そもそも優婆岳(う
ばがたけ)というのが乳母の名から祖母山になったのは何頃からなのか不明だ。優婆塞
はサンスクリット語ウパーサカの音写で、在家の男性仏教信者、優婆夷はウパーシカー
の音写で、在家の女性仏教信者をいう。原義は「そば近く仕える者」の意で、在家信者
は出家者に近づいて法話を聞き、出家者の必要な生活物資を布施して仕えるのでこのよ
うにいう。在家信者となるには三宝(さんぼう)に帰依(きえ)し五戒を保つことが必要で
、また六斎日(ろくさいにち)(毎月の8、14、15、23、29、30の各日)には八斎戒(はっ
さいかい)を守り、とくに身を慎むことが勧められる。優婆塞・優婆夷は、仏教教団を
構成する四衆(ししゅ)、七衆(しちしゅ)のなかに数えられる。祖母山は宮崎と大分県境
にそびえる秀麗な山である。祖母山の霊記伝承では、神武天皇東遷の船軍が、和歌山県
・紀州沖で嵐に遭ったとき、故国の添利山(そほり山・祖母山)の神霊に、海の平穏を
祈念すると、荒れた海が静まった。以来祖母嶽大明神がまつられたという。祖母嶽神社
の由来である。祖母嶽神社と宮地嶽神社は古い由緒ある神社だ。今や宮地嶽神社(みや
じだけじんじゃ)は、大太鼓や大注連縄で有名な福岡県福津市に所在する神社を本宮と
しているが歴史的にはちょっと可笑しく宮地嶽神社の創建は社伝では約1600年前にさか
のぼるとされ、息長足比売命(神功皇后)が、三韓征伐の前にこの地に滞在し、宮地岳
の頂に祭壇を設け祈願して船出したのが始まりといわれる場所に再建したのだった。



1015: 名無しさんAA:18/03/16 21:15 ID:Svw
 富安君を探せ              < その51 >

そもそも御嶽神社(みたけじんじゃ)は、蔵王でも権現を祭った神社である。金峰神社
・金峯神社(きんぶ、きんぷ、きんぽう、みたけ)ともいう。総本社は吉野金峰山寺の
蔵王権現堂とされる。山に対して礼拝するお堂であり権現様が後世になって七尾狐など
になって商売の神様とされたが、御嶽教も宮地嶽教も神紋が松の木紋様で解る様に、山
を崇めた自然崇拝の神社であり宗教である。この松の木や龍の鱗と言うのはシュメール
文化の影響が濃い物とされる。シュメール語は孤立した言語であり続けた、たとえば、
アッカド語がセム語族に属するような形での近縁関係にある言語が傍にない。新石器革
命(紀元前一万年)以降にティグリス・ユーフラテスに囲まれた「肥沃な三日月地帯」
に生まれ、これまでの狩猟と採集の生活から、牧畜(牛・羊の飼育)と農耕(麦類栽培
)を起こした生活に変わった時の文明だ。この時の宗教は旧拝火教で死者の弔いは風葬
であったとあったとされ、その時の墓標が今の日本の鳥居の原型とされる。原エラム文
字と言われる文字が、紀元前三千年頃に出来てメソポタミア文明最盛期が訪れる。これ
が世界最古のシュメール文明と隣接し原エラム文字はインダス文字に非常によく似て姿
で近代の発掘で解った。時の言葉をドラヴィダ語としインダス文明で使用されていた言
語との関連性は非常に強く、その後ドラヴィダ語はセイロン島で発達したので海洋を通
じて日本にやって来たと考えられている。インド大陸のほくろとされる島で起こったこ
の言葉は、和語とされ今の日本語ではない。旧態日本語で海路なら当然宮崎鹿児島から
伝わって行っても当然とされ鹿児島弁が近いのではないかとされる。鱗紋様は五芒星と
同じく外に向けた六角星になれば六つ鱗(むつうろこ)とされ、鱗紋のひとつで清明鱗
(せいめいうろこ)との俗称もある。、安部清明が使用していたという記述は見つから
ないがこれが中東のシュメールでは王の旗ダビデの星となる。又、鶴紋や鷹の羽紋も又
当時の拝火教(ゾロアスター教)の守護霊の、「プラヴァシ(人善鳥)」の紋様の名残
りとされる。拝火教は中国では「祓教」とされ日本では「呪詛教」とされた。その後に
密教系の「護摩焚き」の原始となった。六根清浄は六神善行の言い替えである。ところ
が石積の文化を持つ南方アジア人達と混じり合い日本にはいった。神籠石は筑後・高良
山神籠石を「霊地として神聖に保たれた地を区別したもの」として紹介し注目された。
高良山の山頂に立つとする高良大社は西暦400年の創建といわれ、奥宮は「高良廟」
「御神廟」とも称し武内宿称の葬所と伝えられ、高良山信仰の中で高良山神籠石は高良
縁起にも記載される。


1016: 名無しさんAA:18/03/16 21:16
 富安君を探せ              < その52 >

神埼荘(かんざきのしょう)は、平安時代〜室町時代にかけて肥前国にあった荘園だ。
神崎荘とも書き出雲系の皇室領とされた。吉野ヶ里遺跡でも解る様に筑紫平野佐賀平野
は肥沃な耕作地帯であった。承和3年(836年)に勅旨田になった690町が起源とされて、
長和4年(1015年)以前に立荘、皇室領として歴代天皇・上皇に相伝された。この皇室簿
には皇室領が(後白河法皇→後鳥羽上皇ら)→三浦氏(三浦泰村)→皇室領(後嵯峨上皇ら)
に代わりこの嵯峨上皇の名から佐賀の名が広がった。だが元寇の文永・弘安の役で恩賞
地配分の対象とされたため細分化され、南北朝時代には名前だけを残して荘園としての
実態は大きく削がれ北島家のみに限られた。その管理に大宰府から竜造寺氏が下向して
差配していた官使として管理していた。佐賀城は水ケ江城とも亀城ともされた湿地帯の
城だった。佐賀竹崎が元寇によって肥後国竹崎郷(現熊本県宇城市松橋町)を追われた
菊池氏の一族で、熊襲や地震問題で同族内の所領争いに敗れて所領を失い、没落した「
無足の御家人」の竹崎季長が報奨所領として肥後の竹崎に所領安堵となると肥前竹崎は
その防備の場所となった。竹崎観音寺は古寺で「九州西国霊場」22番札所となってい
る。709年(和銅2年)に行基菩薩によって開基された。本尊の千手観音は、雲巖寺の本尊
などと一木同作といわれる「行基七観音」の一体とされる。この寺には平安時代の頃に
柳川の結婚したての若殿様が朝廷の命で海賊退治に朝鮮出兵したが、船は沈没して帰郷
出来ずに僧になった悲話がある。壊滅した船団で今まで話さなかったが、ある日和尚に
初めてその前が殿様であった事を明かして、毎夜泣いて灯篭流しをしていた新妻の姫に
その生死が伝わると姫は周りが止めるのも聞かず会いに旅に出たが、門前で女人禁制と
今や仏僧としての徳を説かれ顔も見れなかった。悲嘆にくれた姫は竹崎の沖で身投げし
て死んで行ったのである。この時この二人を合わせようとした家臣が柳川氏であった。
とされる。これが柳川に伝わる竹崎悲話である。柳川氏は海の民で江上氏に近い。


1017: 名無しさんAA:18/03/16 21:16
 富安君を探せ              < その53 >

 その後も南北朝時代には同じ事が起こる。九州においては、懐良親王(後醍醐の皇子)
が南朝興国三年(1342)に九州に上陸し南朝正平三年(1348)に菊池氏に身を寄せて以来、
南朝方が侮れない勢いを示していた。建武三年(1336)に諜略により多々良浜合戦で九州
を制圧した足利氏だったが、直後は仁木義長・一色範氏を代官として後詰させていたも
のの一色氏は直義派と直冬派に分かれ内紛を起こし、直冬が鎮西探題に任じられ範氏の
立場は更に弱められる。そもそも、探題職といっても在所も不定で博多聖福寺に寄宿し
ている有様であり直接の家臣も僅かしか存在しておらず、それで現地の有力者に睨みを
効かせるのは無理があった。これを契機として南朝方は大宰府を陥落させ九州全土を支
配下に置く事となった。その後渋川義行が探題となるが、九州に渡ることすら不可能で
あったという。そこで登場したのが家門・力量・経験とも卓越した今川了俊であった。
今川了俊は用意周到に一族による側面からの手も打って、子の義範に豊前・豊後を仲間
に取り入れ高崎から上陸した。当然警戒していた菊池軍は高崎城に攻撃をかけている。
しかし了俊は安芸守護にも任じられていて、毛利氏・熊谷氏・阿蘇氏を取り込み、弟・
仲秋と周防・長門の有力者・大内氏とを通婚させて後ろ盾を得て長門国府を楯に肥前松
浦党をも味方につけさせていた。こうした一族の結束を利用した慎重な手回しが成功し
筑前麻生山の多良倉・鷹見嶽を陥落させ、天拝山を陥落させ、大宰府が了俊の手に落ち
た。懐良親王と菊池武光は高良山に逃れて大宰府奪回を狙う体勢に出たが、了俊も肥前
城山に陣を布いて高良山攻めを行う。こうして双方に攻めあぐねた攻防戦が敷かれたが
、その裏で肥前制圧を行い、翌七年には大友一族の内紛を抑えていた。こうした中で、
応安六年に菊池武光が死去し、翌七年には後継者の武政も後を追った。こうして菊池一
族は菊池の地に後退して行くしかなかった。高良山を陥落させ菊池勢を肥後菊池まで追
い落とし、更に菊池氏の息の根を止めるべく肥後国内に軍を進め要害の、隈部城を中心
に外城と守りを固めている菊池氏を取り囲んだ。大友親世・島津氏久は参陣したものの
、少弐冬資は動かなかった。そこで島津氏久を仲介に冬資を招き少弐冬資を誅殺した。
理由は簡単だった。筑前・豊前・肥前・対馬・壱岐の守護を歴任し、九州における豪族
達の訴訟準備手続きを扱う権限も認められていたし大宰府を通じて海外交易からも大き
な利益を得る為の、交易権限を持っていたからだ。しかし島津氏久は面目を失ったとし
て領地に引き上げて了俊に反逆。大友氏に対しても恩賞を約束し何とか味方に留めた。
この機に南朝方は攻撃に転じて、手痛い打撃に大宰府に一端後退するしかなかった。


1018: 名無しさんAA:18/03/16 21:17
 富安君を探せ              < その54 >

建武の新政の政権期には足利尊氏と結び北朝政権成立後は九州探題と主導権を巡り対立
して、時には少弐冬資や少弐直冬は南朝と結んで利権拡大を図っていて、地方の要だっ
たが、交易の要でもあった。少弐氏が討たれると、直ぐに京の都は和睦に走っていった
。米の移送と海外からの舶来品が滞ったからだ。南朝方も力を失い明徳二年(1392)に南
北朝が統一すると、九州探題も軍事より行政に重点が置かれるよう事になった。応永二
年(1395)に出された法令には所領安堵・恩賞授与の権限が探題にあることが明記され、
、感状は将軍から直接出すものとすると明快に分離されて、今川了俊が九州で現地豪族
と主従関係を構築するのを警戒した令がなされた。更に九州の豪族からも奉公衆(将軍
直臣、徳川政権の旗本・御家人に相当)を組み入れられる措置が取られ、足利方による
直接の九州支配に向かっていた。こうして突然了俊は探題を解任され京に召還された。
了俊は島津氏の平定が完了していない事から、再度の九州探題に任じられる事希望した
。しかしそれは認められず遠江・駿河半国の守護職を与えられたのみで、後任の探題は
渋川満頼が当たった。了俊の前に探題に任じらても九州に入れずに終わった義行の息子
である。了俊の屈辱感は大きかった。この突然の解任劇は、了俊自身は探題職を望んだ
大内義弘の暗躍によると考えていた。だが話はそう単純ではない。まず、自立傾向の強
い九州豪族にとって強権を振るい、巧みに九州経略を確立させた了俊は煙たい存在で、
中央への働きかけがあったのは間違いない。更に、中央から見ても了俊がいる限りは、
島津氏の帰順が難しいと判断される。そして、了俊が現地で将軍代理として振舞う状況
は、一種の独立王国にも似ており義満にとっては新たな脅威でありそもそもその排除で
菊池氏を叩いたのだ。特に一国の代表者で外交や巨大な利益のある交易の権限を了俊が
握っているのは認められない事であった。また、大友氏大内氏の密約にも毛利氏がいた
中で彼らからは邪魔だった。こうして二十五年ぶりに遠江に帰った了俊であるが、報わ
れる事なく職を解かれた不満は大きかった。この後外交権を持った大内義弘に足利義満
は警戒した。しかし圧迫を受けた大内義弘が挙兵し足利満兼もこれに呼応して出兵した
が、大内義弘が堺で義満の軍勢に敗れ戦死したため引き上げている。「鎌倉大草子」に
よればこの時に義弘と満兼を仲介したのが了俊であるという。義満がこの直後に関東の
上杉憲定に了俊討伐を命じている事から、おそらくはこれも事実で諜殺されたのであろ
う。

1019: 名無しさんAA:18/03/16 21:17
 富安君を探せ              < その55 >

 こうして、次々と外交交易特権は代わっていった。だが鎌倉時代末から南北朝時代に
かけては、有明海は松浦党の縄張りで、肥後のこの辺は伊佐早(いさはや)氏の領地だ
った。応安六年(1373=文中二年)今川了俊(いまがわりょうしゅん)が来た時は、み
ずからが伊佐早城、宇木城を攻めて来た。そしてこれにより、伊佐早右近五郎(いさは
やうこんごろう)と西郷藤三郎(さいごうとうざぶろう)が軍門に下った。という。こ
の時から実質の外交交易の鍵を握ったと考えられる。ただこの時の伊佐早城の位置は、
不明であり、伊佐早氏についてもよく分っていない。この伊佐早氏は藩政時代の諫早氏
とは全く別で、いつの間にか歴史の舞台から消えていった。しかしその後にも隈部城を
攻めて島津征伐を執拗に要望した事からも、天草や筑後に消えた体制外貿易集団だった
事は間違いない。一方の、宇木城主の西郷藤三郎のほうは、のちに、高城を居城とする
西郷氏の一族であるかもしれない。西郷氏の出自は明らかでないが恐らく島原半島北部
の高来郡西郷(現在の雲仙市瑞穂町西郷=島原鉄道の西郷駅付近)を本拠地とするのは
疑問の余地がない、と言われるが私は疑問視している。高来郡西郷の杉峰城(すぎみね
じょう)は、南北朝の頃に、西郷次郎という人物が城主であったが、観応三年(1352=
正平七年)に九州探題一色範氏(いっしきのりうじ)が小俣氏連(おまたうじつら)を
派遣して落城させたという。西郷氏は、肥後菊池氏の一族という説もある。実は村上皇
時代から刀伊の入寇以外に倭寇は暴れていた。西郷という地名は珍しくない。西郷があ
れば必ず東郷があるわけだが、この場合は高来東郷(たかくとうごう)と高来西郷(た
かくさいごう)があり、それらは高来郡(たかくぐん)のうち伊佐早庄(いさはや)を
除いた地域であり、ほぼ島原半島を東西に分けた呼称であったと考えられるそうだ。実
はこ200年ほど前「太宰管内志」よれば、「肥前国風土記」の中「草横山(くさのよこやま)」は九千部山を言う。この名の起こりを伝える民話がある。むかし天暦5年(951年
)頃、隆信沙門という若い僧侶が苦しむ村人のため山頂で法華経を49日間で一万部(1
万回)読踊する決心で山に籠ったが、あと7日目という夜に白蛇に遭遇、その後美しい
女の幻に誘惑され負けてしまう。満願の50日目に僧侶を探しに来た村人は、谷の岩陰
で骸となった僧侶を発見する。こうして読踊が「九千部」に留まったため、これが山名
となったという。なお、村人が山中の谷で僧侶を見つけ葬ったとされる場所の近くには
、経塚と供養塔が所在する。九千部山は背振山系でこの山の傍に権現山がある。


1020: 名無しさんAA:18/03/16 21:34
 富安君を探せ              < その55 >

 こうして、次々と外交交易特権は代わっていった。だが鎌倉時代末から南北朝時代に
かけては、有明海は松浦党の縄張りで、肥後のこの辺は伊佐早(いさはや)氏の領地だ
った。応安六年(1373=文中二年)今川了俊(いまがわりょうしゅん)が来た時は、み
ずからが伊佐早城、宇木城を攻めて来た。そしてこれにより、伊佐早右近五郎(いさは
やうこんごろう)と西郷藤三郎(さいごうとうざぶろう)が軍門に下った。という。こ
の時から実質の外交交易の鍵を握ったと考えられる。ただこの時の伊佐早城の位置は、
不明であり、伊佐早氏についてもよく分っていない。この伊佐早氏は藩政時代の諫早氏
とは全く別で、いつの間にか歴史の舞台から消えていった。しかしその後にも隈部城を
攻めて島津征伐を執拗に要望した事からも、天草や筑後に消えた体制外貿易集団だった
事は間違いない。一方の、宇木城主の西郷藤三郎のほうは、のちに、高城を居城とする
西郷氏の一族であるかもしれない。西郷氏の出自は明らかでないが恐らく島原半島北部
の高来郡西郷(現在の雲仙市瑞穂町西郷=島原鉄道の西郷駅付近)を本拠地とするのは
疑問の余地がない、と言われるが私は疑問視している。高来郡西郷の杉峰城(すぎみね
じょう)は、南北朝の頃に、西郷次郎という人物が城主であったが、観応三年(1352=
正平七年)に九州探題一色範氏(いっしきのりうじ)が小俣氏連(おまたうじつら)を
派遣して落城させたという。西郷氏は、肥後菊池氏の一族という説もある。実は村上皇
時代から刀伊の入寇以外に倭寇は暴れていた。西郷という地名は珍しくない。西郷があ
れば必ず東郷があるわけだが、この場合は高来東郷(たかくとうごう)と高来西郷(た
かくさいごう)があり、それらは高来郡(たかくぐん)のうち伊佐早庄(いさはや)を
除いた地域であり、ほぼ島原半島を東西に分けた呼称であったと考えられるそうだ。実
はこ200年ほど前「太宰管内志」よれば 「肥前国風土記」の中「草横山(くさのよこや
ま)」は九千部山を言う。この名の起こりを伝える民話がある。むかし天暦5年(951年
)頃、隆信沙門という若い僧侶が苦しむ村人のため山頂で法華経を49日間で一万部(1
万回)読踊する決心で山に籠ったが、あと7日目という夜に白蛇に遭遇、その後美しい
女の幻に誘惑され負けてしまう。満願の50日目に僧侶を探しに来た村人は、谷の岩陰
で骸となった僧侶を発見する。こうして読踊が「九千部」に留まったため、これが山名
となったという。なお、村人が山中の谷で僧侶を見つけ葬ったとされる場所の近くには
、経塚と供養塔が所在する。九千部山は背振山系でこの山の傍に権現山がある。


1021: 名無しさんAA:18/03/16 21:35
  閑話休題    ねずさんの 刀伊の入寇 から-----1

 寛仁3(1019)年といいますから、「この世をば吾が世とぞ思う望月の・・・」と読ん
だ藤原道長が全盛を極め、紫式部が『源氏物語』を書いた平安時代の中頃のことです。
壱岐島に突然、50隻ばかりの船がやってきました。ひとつの船の大きさは、だいたい
15メートルくらいです。その船に約60人ずつが分乗していました。壱岐に上陸した
彼らは、100人単位で一隊をつくりました。戦闘隊の20〜30人が斬り込み隊の役
目で、後ろの70〜80人が弓や盾を持っています。彼らの持っていた矢は、長さ4〜
50cmの短いものですが、楯も射通すほどの貫通力があったといいます。彼らは上陸と
同時に、民家に襲いかかりました。そして牛馬を盗み、切り殺して食い、老人と抵抗す
る者を殺し、女を犯し、生き残った者たちを船に拉致しました。彼らは「牛馬を切って
は食い、また犬を屠殺してむさぼり食らう」と記録されています。船上では、病人は簀
巻きにして海に投げ入れて殺したと記録されています。略奪後の民家はすべて焼き払い
、穀物も奪っています。「暴徒上陸」という知らせを受けた国司・壱岐守藤原理忠(ふ
じわらのまさただ)は、ただちに147人の手勢を率いて征伐に向かいました。けれど
も敵は3000人の大部隊です。衆寡敵せず玉砕してしまう。藤原理忠を打ち破った賊
徒たちは、壱岐島の真ん中にある、国分寺(嶋分寺)に攻め込みました。寺には島民た
ちも逃げ込んでいました。そして常覚和尚(じょうかくおしょう)の指揮の元、僧侶と
島民たちで応戦し、なんと賊を三回まで撃退しています。戦闘が膠着状態になったとき
、常覚和尚は島を脱出して、状況を大宰府に報告に向かいました。残された僧侶たちは
必死に戦い続けました。そしてついには全滅し、嶋分寺も全焼させられてしまっていま
す。島から女子239人と、若干名の男子が連れ去られました。壱岐島で生き残った者
は、わずか35人だけでした。4月7日、対馬からも大宰府に対馬の危急の知らせが届
きました。このときの対馬守遠晴からの報告です。
**対馬に刀伊国(といこく)の者が50隻あまりの船でやってきた。彼らは殺人や
放火をしている。彼らは隼のように迅速で、数が多くて、とても対抗できない。
  壱岐では壱岐守理忠が殺害され、ほとんど全滅状態である。彼らは博多警固所と
  目と鼻のさきの能古島まできている。                 **
知らせを受けた大宰権帥の藤原隆家は、すぐに京都に緊急事態を伝える飛駅便を飛ばす
とともに、応戦のために九州の豪族や武士非常招集をかけました。しかし翌8日には、
賊が筑前・怡土郡(福岡県西部)に上陸してきます。


1022: 名無しさんAA:18/03/16 21:35
  閑話休題    ねずさんの 刀伊の入寇 から-----2

 彼らは筑前の沿岸部を制圧し、牛馬や犬を殺して食い、老人や子供を皆殺しにしたう
え、おびえる男女を追いかけて、4〜500名を捕らえて船に乗せます。また、かず知
れない米穀類を略奪しました。この時点で戦力の不足した藤原隆家は、少数の精鋭を率
いて、個別撃破を狙い、敵の不意をつく戦法で戦いを挑みました。この作戦は有効で、
賊は崩れ、この日の夕方には海に逃れて能古島に去りました。翌9日の朝に、刀伊は、
藤原隆家軍の本拠である大宰府警固所を襲撃してきました。しかし、藤原隆家は寡兵な
がらも勇敢に戦い、逆に賊を追い詰めました。賊の生き残った者は、能古島に逃げて行
きました。そして神風が吹きました。10日には、波風が強くなり、船が足止めとなっ
たのです。賊たちは身動きできないでいました。一方、藤原隆家のもとには、非常呼集
に応じてくれた近隣の豪族たちがから、兵が集まりました。11日午前6時頃、賊が、
再び大宰府に上陸してきました。藤原隆家は、上陸した賊を皆殺しにし、敵の生き残り
二人を逮捕しました。一人は傷つき、一人は女でした。13日、賊徒は、今度は肥前国
松浦郡の村里を攻めてきました。ここではすでに知らせを受けて、待ち構えていた前肥
前介・源知という武将が、賊徒を殲滅しました。そして敵の生存者一人を逮捕します。
こうして賊は、恐れをなして、半島に帰国しました。帰国途中、高麗がこれを待ち伏せ
、戦力の減った残りの賊を全滅させ、日本人捕虜270人を助けて、日本に送り返して
くれました。この事件による日本人被害者は、殺害365名、拉致1289名、牛馬3
80匹殺生または行方不明、家屋45棟以上全焼というものです。とくに女子供の被害
が目立っていたといいます。拉致された1289名のうち、高麗によって保護され帰国
できた者以外の千余名は、船上で殺されています。この一連の事件の発生から、その中
盤にかけて、日本側は何者が攻めてきたのかさえ分からない情況でした。逮捕した三人
の族は、三人とも高麗人でした。その三人は、口をそろえて、「自分たちは被害者であ
って、高麗を襲った刀伊に捕らえられていたのだ」と申し立てました。そこで記録上は
、賊徒は刀伊(とい)ということになりました。刀伊というのは、女真族のことを言い
ます。女真族は、モンゴルと朝鮮の間に挟まれた地域に住む、半遊牧民たちのことです
。高麗からは生存者を送り返してもらっているし、日本としてもあらためて高麗と事を
構えたくない。ですから、これは高麗よりももっとはるかに北側の、満洲よりも北側に
住む刀伊たちが起こした事件に違いない、ということになったのす。ですから、この事
件は、いまでも「刀伊の入寇」と呼ばれています。


1023: 名無しさんAA:18/03/16 21:35
  閑話休題    ねずさんの 刀伊の入寇 から-----3

 時代背景を見ると、この少し前の時代、朝鮮半島の北側には渤海国が栄えていました
。渤海は、交易で栄えた国で、『新唐書』には渤海について「新羅の8倍、高句麗の4
倍の領土を誇った海東の盛国」と書かれています。ちなみに渤海は、日本の東北地方に
住む人たちと盛んに交易を行っていました。渤海には、シルクロードの交易商人たちに
よって、支那の産物だけでなく、アラビアやヨーロッパからのめずらしい品が入ってき
ます。一方、日本の東北地方は大量の金を産出します。そしてこの時代の東北地方は、
まだ大和朝廷には服しておらず、アイヌなどの豪族たちが割拠している情況です。そし
て、日本の東北を含む蝦夷地との交易は、渤海に大量の金をもたらし、その入手した金
によって、渤海は経済的な大発展を遂げていたわけです。ところが経済重視で、軍事を
ややおろそかにした渤海は、10世紀のはじめ頃には契丹(遼)によって 滅ぼされて
しまいます。このため、渤海を追われた女真族の一部が、船で朝鮮半島方面に逃げて、
これが朝鮮半島の日本海側の沿岸部を荒らしながら南下し、高麗人を捕虜にして、奴隷
兵とし、壱岐、対馬を襲撃し、さらに海を渡って日本まで攻め込んできた、というのが
、刀伊の入寇になるわけです。このことは、日本に攻めてきた賊徒が手にしていた弓が
、騎乗からの射撃に便利な短い弓であったことも、証明のひとつになろうかと思います
。この時代の遊牧民たちの戦いは、攻め滅ぼした町で略奪した人々は、最下級の奴隷に
なります。その奴隷兵たちは、最前線で戦わせられます。戦いに勝利すると、新たに獲
得した奴隷たちが、その奴隷の下になります。つまり、すべての兵に上下関係があるわ
けです。言うことを聞かず、戦いを拒否すれば、後ろから弓で射られて殺されます。大
陸での遊牧民の戦いは、進撃していく前線の軍団の後ろから、大量の家畜が付いていき
ますから、食料は羊や山羊が主な食料となるのですが、日本にやってきた刀伊と呼ばれ
る人たちは、船ですから、家畜がありません。自分たちの食料や奴隷たちの食料確保の
ためには、常に村々を襲って、新たな肉を確保しなければなりません。つまり、最下層
の新しい奴隷(捕虜)というのは、単に捕虜というだけでなく、その上の階層の人達の
食料でもあったわけです。この人肉食には、ルールのようなものがあって、病人は食べ
ません。病人を食べると病気が伝染ると考えられたからです。ですから、健康な者を食
べます。食べる順は、子供→女性→男の順番でした。



1024: 名無しさんAA:18/03/16 21:35
  閑話休題    ねずさんの 刀伊の入寇 から-----4

整理すると刀伊の入寇は、次のような事態になります。渤海国を築いていた女真族(刀
伊)は、契丹に攻められ、国を失いました。国を追われた刀伊たちの中で、船で海に逃
れた者たちは、朝鮮半島の日本海側を転々と南下し、その間に住民を皆殺しにしたり、
捕虜にして食料や奴隷にしていきました。こうして、徐々に大きな軍団となり、彼らは
ついに3千人の大軍となったのだとされています。ここは重要なポイントであり、いち
ぶ割愛され省略された話です。というのは、逆に言えば、もともと渤海を追われて船で
逃げ出した女真族(刀伊)は、もともとは決して大きな人数ではなかったということだ
からです。おそらくはせいぜい100人か200人位の敗残兵たちであったことでしょ
う。人は食べなければ生きていけませんから、自分たちの自給の道を断たれた刀伊たち
は、朝鮮半島に至る道中で村を襲ったであろうことは容易に想像がつきます。ただ、遊
牧民というのは、基本的な行動パターンとして、生き物を大切にします。もともと家畜
とともに生きる人たちだからです。その意味で捕虜は家畜のうちですが、移動に際して
生きていれば、動物にせよ人間にせよ、自分で歩いてくれるのです。死んだら、ただの
荷物です。そういう思考が彼らの世界であって彼らの思考です。ですから刀伊が朝鮮半
島の沿岸を移動しながら、もともと100人か200人しかいなかった集団が、いつの
間にか3千の大軍団に増殖したということは、ひとつには朝鮮半島沿岸部の人たちが、
捕虜や奴隷になって行ったことを示すとともに、今度は逆に人数が増えた分の食料確保
の必要が生じたということです。そうなると捕虜となった人たちは、自分たちが食べら
れないためには、もっと別な村を襲い、そこの住民から食料を奪い、またそこの住民を
食料にする必要が出てきます。ですから壱岐対馬を襲撃した「刀伊」というのは、女真
族の集団ではなくて、女真族(刀伊)を頂点としながら、9割以上が朝鮮半島の人たち
で構成される集団だったということです。彼らはまず、小さい方の島である壱岐を襲撃
し、住民たちを奪いました。このときの彼らの行動は、1 牛馬を盗み、穀類を奪い、
犬を屠殺してむさぼり食った。2 老人と抵抗する者は殺した。3 女は犯し、生き残
った者は船に拉致した。4 船上では、病人は簀巻き(すまき)にして海に投げ入れて
殺した。5 略奪後の民家はすべて焼き払った。というものです。



1025: 名無しさんAA:18/03/16 21:36
  閑話休題    ねずさんの 刀伊の入寇 から-----5

 人の肉を食べるという民族的習慣は、遊牧民のものではありません。もともと飢餓に
際して人肉食をあたりまえに行っていた支那人と、その隣国であって同じく収奪国家で
あった朝鮮半島人固有の習慣です。その人肉食の習慣を持つ支那朝鮮には特徴があって
、病人は食べない。老人も、肉が少ないので、他に食べ物があれば、食べない。また、
犬を食料にすることでは、最近でも、赤系の犬の行方不明が相次いでいる事件が日本国
内で起きていますし、中国では隠れて高値の取引があり年一回の赤犬の日の祭りがある
集落も沢山あります。朝鮮では何故赤犬の肉を日本人が喰わないのか不思議がられたり
しました。また、略奪のあと、民家に火を付けますが、これは焼き肉のためでもあった
習慣で、いまでも特に半島人は、なにかにつけて、爆破や火をつけます。爆竹の習慣で
もそれは想像できます。こうした民族的傾向というか特徴というのは、普段は埋没して
いるけれど、いざ危機状態になるといかんなく発揮されるものです。そして彼らの戦い
というのは、そもそもが食料を得るための戦いですから、相手が無抵抗であったり、又
寡兵で弱いと見れば徹底的になぶり殺しにします。相手が強ければ、そくさくと退散す
る。それが鉄則で諺では「溺れて藁おも掴む者は頭を沈めて殺せ」で「藁おも掴む者は
助けろ。」の日本とは大違いの風習なのです。戦いの目的が、政治的なものであったり
、主張を通したりするためのものではなくて、あくまで食料確保のため、生きるためだ
からです。自分が死んだら食えなくなるどころか、食われてしまう。そういう世界だっ
たのです。刀伊の入寇が起きたのは、11世紀のはじめです。元寇よりも250年も昔
のことですが、パターンは元寇と実はよく似ています。どういうことかというと、元寇
に先立って、モンゴルは朝鮮半島を従えようとしました。ところが当時の高麗の王族た
ちは、自分たちだけ離島にサッサと逃げています。モンゴル軍団は馬を使いますが、島
に逃げれば彼らは海を渡れないからです。このため朝鮮半島内は無政府状態となり、三
別抄といういわば暴力団が跋扈します。そこにモンゴル騎兵達が攻め込んできたわけで
す。ところが高麗国そのものは、まるで無抵抗です。というより逃げてしまっています
。結果、朝鮮半島内では、普通にはありえない、不思議なことが起こります。朝鮮半島
内に侵攻したモンゴル騎兵達が、朝鮮半島内の民衆を保護するために、朝鮮人の三別抄
という匪賊たちと戦うことになったのです。


1026: 名無しさんAA:18/03/16 21:37
  閑話休題    ねずさんの 刀伊の入寇 から-----6
 こうなると一般の朝鮮の民衆からしてみれば、モンゴル騎兵は自分たちを保護してく
れる神様のような存在となります。結果、モンゴル軍団が帰るとき、朝鮮半島内の民衆
60万人が、モンゴル軍団に付いて大陸方面に移動してしまうのです。当時の朝鮮半島
の人口は約2百万人です。つまり、人口の約3分の1が、朝鮮半島を捨ててモンゴルに
付いて行ってしまうのです。モンゴルは、こうして付いてきてしまった朝鮮人たちに、
いまの満洲南部あたりの土地を与え、そこで自活し生活するように命じます。そして、
その後、高麗王朝がモンゴルに降伏する。降伏した高麗は、モンゴルのハン(大王)で
あるフビライに、「我々の土地には何もないが、海を渡った向こうには巨万の富を持つ
国がある」と、日本を攻めることを進言しました。このことはマルコ・ポーロの『東方
見聞録』に記述があります。
**ジパングは東方の島で、大洋の中にある。住民は肌の色が白く礼儀正しく偶像
   を崇拝している。ジパングには金(Gold)があり、彼らは限りなく金を所有
   している。この島の君主の宮殿は、屋根がすべて純金で覆われ、床も約4cm
   の厚みのある金の板が敷きつめられ、窓もまた同様である。また、この島に
   は赤い鶏がいて、すこぶる美味である。多量の宝石も産する。フビライはこ
   の島の豊かさを聞かされてこれを征服しようと思い、二人の将軍に多数の船
   と騎兵と歩兵を付けて派遣した。                ***
要するに自分が助かりたいがために、南の島の日本にたいへんな富があるとホラを吹い
たわけです。その結果、元寇でやってきたのは、元の軍団と高麗の軍団ということにな
っていますが、これはまた、すこし言葉が足りません。ここでいう元の軍団というのは
、先にモンゴルについて、満洲南部に移動した元高麗人たちです。その元高麗人たちは
、高麗国に残った人たちよりも「先にモンゴルの子分になったから、自分たちは高麗兵
よりも偉い」として、高麗兵に対して居丈高になっています。彼らの考え方は、上下関
係がすべてなのです。ですから、日本にやってきた元寇は、モンゴルと高麗の軍団では
なくて、実は元高麗人と、現高麗人、つまり指揮官を除き、兵はことごとく朝鮮族であ
ったということです。そして彼らは壱岐対馬を襲い、住民を皆殺しにして食料にしまし
た。繰り返しますが、遊牧民は人殺しは好みません。元来、人は生かして使う、という
のが彼らの発想です。だからこそ、朝鮮半島から60万人がついてきたのだし、高麗の
住民をモンゴル族が皆殺しにしたり食料にしたという記録はありません。ところが支那
人や朝鮮族は、相手が弱ければ殺して食べるというのが風俗習慣です。ですから壱岐対
馬を襲っています。

1027: 名無しさんAA:18/03/16 21:37
  閑話休題    ねずさんの 刀伊の入寇 から-----7

 つまり、250年後に起きた元寇と、11世紀初頭の「刀伊の入寇」は、実はきわめ
てパターンの酷似したものであるということができます。元寇も、元、つまりモンゴル
による日本侵攻とされていますが、実体は朝鮮兵による日本侵攻です。刀伊の入寇も、
女真族(刀伊)による日本侵攻とされていますが、実体は朝鮮兵による日本侵攻です。
同じなのです。おもしろいのは、日本国内では、この「刀伊の入寇」をきっかけとして
、平安中期の武士団が形成されていきます。そして武士団が勢力を増し、源氏と平家の
二大勢力を生み、源氏による鎌倉政権ができて、武士による政治がおこなわれるように
なったとき、元寇が起き、元の大軍は駆逐されています。それにしても・・・。「千年
経っても忘れない」どころか、数年で朝鮮や中国の実態を忘れてしまう日本人は 一体
いつになったら、大陸の隣国の正体を見つける事ができるのでしょうか。「千年経って
も歴史の事実を忘れてはいけない」のは、むしろ日本の方といえるのではないでしょう
か。その点 朝鮮征伐を行った羽柴秀吉はその事は忘れなかった。奈良にある藤丸正伝
では多くの九州人がそうした 海賊によって海辺の民が襲われていた。更に戦国時代に
は村人も戦乱で飢えた子供を抱えていた。そこで修験道の山法師は子供を連れて 山の
寺などで生活させていた。そうした中で尾張では古くから開墾されながら放棄地が多か
ったと言われる。そこで奈良に集められた子供は尾張藩に多くが乞われて百姓で入植し
ていた。秀吉もそうした自出のない子供として育ったとされる。又家康も松千代君時代
にさらわれて代用に君をたてた双子の一人で後の日光東照宮を指揮してたてた天海和尚
がその双子の片方で、大阪城攻めで再会したとされる。この元寇なり刀伊の入寇などの
こうした海賊行為は まったく止まる事は無かった。それは世界大戦前も同じであった
。終戦後の韓国の竹島占領や、うるうん島の人肉事件や済州島の惨劇あるいは漁船襲撃
や船長拉致のこうした朝鮮からの事件は、多くの日本人には「またか・・」の言葉しか
なかったのだ。今の日本政府は馬鹿にも程がある程中国や韓国を育てた。それが先の、
江戸時代の壱岐対馬の悲惨な苦労の学習だろうが、秀吉の朝鮮征伐も又その学習からだ
った。

1028: 名無しさんAA:18/03/16 21:52

 今やTV局も馬鹿げていて この「溺れる者は沈めよ」と言う思想を韓国ドラマなど
を買って 盛んにPRし日本人を洗脳している。かつて「身は仏すがるは助けよ。」の
思想はどこにもない。一体何の為に生きて居るのか。特にソフトバンクなどはいまでも
詐欺のような商売して恥ずかしくないのだろうか。人間のやる事ではない。




1029: 名無しさんAA:18/03/16 21:57
 富安君を探せ              < その52 >

松は縁起の良い木とされる。何故松の木は縁起が良いか。それは松の木が弱いからだ
。老松神社は天神の第一の眷属(けんぞく)とされる。通常「老松」を荘園鎮守社とし
て人々は古来より祀った。通常日本の「社」(やしろ)は村の話合いの場であった。南
洋でも酋長や族長が会合を言う場所がある。今で言う公民館である。それが老松神社で
紀元前からのものと思える。それはそこに大木があり目印とされる。つまり村々は大木
を目印に往来をしていたのである。その為にある一定以上の大木は皆御神木であった。
松の木には 100種類以上の樹種があるそうですが、一般的にはクロマツやアカマツが松
とされている。能や狂言の舞台には必ず松が背景として書かれて、日本のあちこちで松
は見られ「白砂青松」(はくさせいしょう)という日本の美しい海辺を現した言葉があ
るくらいだ。中でも日本のクロマツ(雄松)は、汚染と塩害に強く広くしっかり根を張
り、砂地や岩ばかりの所でも育ちます。しかも、しなやかで風にも強いので、街路樹や
海岸線の防潮林としても積極的に植えられる。しかし、気候的な制限で、黒松は日本で
は本州、四国、九州に分布し、国外では朝鮮半島南部の一部でしか見られない。代わり
に、北海道はトドマツやエゾマツ、沖縄はりゅうきゅうマツなど違った種類の松が自生
している。そんな馴染み深い松が、なぜ縁起物になったのか。それは日に弱く虫にも弱
く冬でも青く常陽樹で雪を貯めないからだ。また大きくなる事も成長が少なくほぼ姿を
変えない。老木が常に青々としているその姿は、不老長寿の象徴としてふさわしい物と
日本人は捉えたのである。菅原道真は病弱であったこともあり松を大切に育てた。枝は
折れやすく土が固くなれば枯れ水気の絶やさない場所しか生き残らない。道真公が元服
した時は「久方の 月の桂も 折るばかり 家の風をも吹かせてしがな」と詠んでいる
。まつの呼び名は、久しく齢(よわい)を保つことから「たもつ」が転じて「まつ」に
なったという説や、葉がまつげに似ているから「まつ」である、神が木に宿るのを「待
つ」などがある。しかし一番の神木としての地位は目印であり墓地では必ず入口には、
松があり濠が掘られる。それは入口であり見返りの松として故人が目印とするものとさ
れるものだからだ。農耕に欠く事の水はそれを祀る老木のかの存在が移民してくる民族
の水神として崇める元になった。つまり飲める水のある所しか松は生えないのである。
それまではあまり使用されていなかった鱗紋が室町時代突然多用されるようになった。
これはこの松の木が多用されたのと同じに蛇を神格化した気風からである。


1030: 名無しさんAA:18/03/16 21:57
 富安君を探せ              < その53 >

日本では龍「引き両紋」大蛇「杉紋」葵、雷「賀茂神社」鱗、巴などがシンボルマーク
とされるが 龍は水神でもあり多産の神でもあり武闘の神であり道案内の神でもある。
1619年、ヌルハチがサルフの戦いで明軍を破ると、後金国の勢力圏は遼河の東方全域に
及ぶに至った。その子のホンタイジは山海関以北の明の領土と南モンゴルを征服した。
1636年に女真族、モンゴル人、漢人の代表が瀋陽に集まり大会議を開き、そこでは元の
末裔であるモンゴルのリンダン・ハーンの遺子から元の玉璽「制誥之宝」(本来は大官
任命の文書に押される印璽である上、偽物である可能性が高い)と護法尊マハーカーラ
像を譲られ、皇帝として即位し、女真の民族名を満洲に改めた。順治帝のとき、中国で
は李自成の乱によって北京が攻略されて明が滅んで、清は明の遺臣で山海関の守将であ
った呉三桂の要請に応じ、万里の長城を越えて李自成を破った。こうして1644年に清は
首都を北京(京城)に遷し、中国支配を開始した「清の入関」である。が、中国南部に
は明の残党勢力がくすぶり、鄭成功は台湾に拠って頑強な抵抗を繰り広げていた。清は
、初め摂政王ドルゴン(ヌルハチの子)によって、のち成長した順治帝の親政によって
中国南部を平定し明の制度を取り入れて国制を整備した。このドルゴンは英名ドラゴン
の元になった。大竜を連想させたこの名の皇帝は非常に頭よく制度を建て、少数派の異
民族である満洲族の支配を可能にした。中国文明圏で圧倒的大多数を占めていた漢民族
が比較的容易に受け入れた背景には、清が武力によって明の皇室に取って代わったが、
強圧姿勢をとらず、明を滅ぼした李自成を逆賊として討伐したという大義名分を得てい
たことで、「天人相関説」である「天帝の子が天子として王を認め王位は家系によって
継承されていが、王家が徳を失えば新たな家系が天命により定まる」という。思想で、
得なくば天命により除かれる思想にマッチしていたからだ。更に今までの皇帝の自殺に
追いやられた崇禎帝の陵墓を整備し、科挙などの明の制度を存続させるなど、あくまで
明の衣鉢を継ぐ正当(正統)な中華帝国であることを前面に出していた事で反感があま
り表にでなかったからだ。減税・特赦を行うなど明の遺民の心情を慰める一方で、満洲
族の風習である辮髪を漢民族に強制し、「髪を留める者(頭を剃らない)は首を留めず
」と言われるような苛烈な政策で支配を固めた。又清が北京に入城し、中国の大部分を
統一した1644年、皇帝である順治帝(愛新覚羅福臨=フリン)は6歳を皇帝とした
。この後ドルゴンが死ぬと順治帝の親政が始まり。彼は風習であった先代の王を嫁とる
行為でドルゴンが順治帝の母親を妃にしていたのが許せませんでした。そこでドルゴン
の配下を次々に排除した。そこでも大勢の者が日本にやって来た。

1031: 名無しさんAA:18/03/16 21:58
 富安君を探せ              < その54 >

板付遺跡は日本での発掘遺跡の中で最古のの稲作の遺跡群とされる。しかしそれでも、
後で発見された佐賀の吉野ガ里遺跡より二百年ほど古く縄文晩期の遺跡とされている。
又東日本を中心に発掘されて来た銅鐸が、1950年代からの発掘物の分布によって、
瀬戸内海中心の銅剣文化圏と畿内中心の銅鐸文化圏がある、と考えられていましたが、
福岡県の遺跡で銅鐸が見つかっていたり、島根県の荒神谷遺跡とその周辺で銅剣、銅矛
、銅鐸がまとめて大量に発見されるなどしているため、最近の研究では覆っています。
島根の遺跡では、何でまとめて大量に発見されたのか。つまり、まとめて沢山埋められ
ていたのかはまだ謎とされる。銅鐸が神を祀る際の、祭礼用の道具か、強大な軍事力を
持つ為の道具かも不明で、こういった銅製品を鋳造する産地であった事だけが解ってい
る。小倉篠崎八幡伝記では、神社伝記を小倉市誌に、仲哀天皇九年熊襲討伐のさなか、
天皇は筑前国香椎宮で崩御された。その後、神功皇后が三韓を攻めて凱旋して、筑前国
宇美で皇子(後の応神天皇)をお産みになった。翌年、穴門(長門)の豊浦宮に向かう途中
、鷹尾(高尾)山にさしかかると、山頂の大石に皇子をたたせ、遥かに長浜や文字ヶ関(
門司)から穴門の方を望み、「穴門は近し」といわれたという。敏達天皇十二年(584年)
に勅命によって、この故事に基づき、鷹尾(高尾)山の麓の朝倉谷に、仲哀天皇、神功皇
后、応神天皇を祀り、葛城小藤丸を住まわせて祭祀に当たらせ『篠崎神社』とした。又
天平二年(730年)宇佐八幡宮から分霊を勧請し『篠崎八幡神社』としたとある。この時
も三韓征伐時の熊襲征伐にしている。しかし、多分にもっと古い時期のもので、長門は
久留米の長門石方面であり鷹尾は鷹尾神社地域と思われる。長浜は筑後の長浜地区で、
宇佐神社からの分霊で宇美地区で応神天皇を産んだ場所を祭ったと言うのはそこに無か
った神社だった事を示す。熊鰐は、「日本書紀」にみえる豪族で筑紫の岡県主の祖とい
われ仲哀天皇八年、天皇を周防の沙麼(さば)に出迎え、魚と塩をとる地域を献上、海路
を案内した、とある。一方には、熊鰐とは事代主の一族であり、天皇家を支える権力者
であるとされる。熊襲も和邇氏もかつては一つの豪族を始祖に置く事になる。坂田氏は
山門郡坂田村より起こり所領十八町。坂田遠江は蒲池氏配下の将だが遠祖は熊襲という



1032: 名無しさんAA:18/03/16 21:59
 富安君を探せ              < その55 >

 もともとは、姫木城(ひめのきじょう)や橘木城(たちばなきじょう)は、熊襲城(
くまそのしろ)とされ鹿児島県霧島市の国分平野北部にあった山城である。橘城、橘之
城、曽於郡城、剣之宇都城(けんのうとじょう)、神山城とも呼ばれたりして今に至っ
ている。この二つの山は西の城(にっのじょ)および東の城(ひがっのじょ)と呼ばれ
る二つの曲輪から構成される。西の城の山頂部には土塁に囲まれた本丸があり、南西へ
貫抜瀬戸と呼ばれる尾根を介して姫木城と接続していた。本丸の東側に大手門、西側に
搦手門を配し、北部に水源があった。東の城は北東に春山原と接しており、西の城と東
の城の狭間に岩戸坂と呼ばれる道が通じていた。この地、国分平野北方に広がる春山原
と呼ばれるシラス台地に位置する。城の基盤となる山体は岩戸火砕流による溶結凝灰岩
からなり、東西850メートル、南北200メートル、標高は170メートルで、東側、南側
および西側は断崖となっている。その頃東北部や関東部を蝦夷の地として異国扱いした
が、九州のこの南端も又異国として南夷(なんい)や南蝦夷(みなみのえみし)など言
っていた。景行朝の記述として、熊襲は頭を渠師者(イサオ)と呼び、2人おり、その
下に多くの小集団の頭たる梟師(タケル)がいたと記している。大和王権側は武力では
押さえられないので、イサオの娘に多くの贈り物をして手なずけ、その娘に、父に酒を
飲ませて酔わせ、弓の弦を切り、殺害した(ヤマトタケルが弟彦(オトヒコ)という伝
説記述がある。日本書紀には熊襲、古事記には熊曾と表記され、筑前国風土記では球磨
囎唹(くまそ)とされる。基本的に球磨とは地名で穴を意味していて穴倉の住民と言う
意味であろう。朝廷に抵抗する集団の長として、クマソタケル(熊襲建、川上梟帥)が
出て、こうして日本武尊に征伐されているが後世の作り話でどうもクマソの方が文字を
持っていた可能性が強い。つまり悪役の大和朝廷の作り話で文字を教わりに来ていた。
と考えられる。しかし朝廷は大宰府に武器を集め702年(大宝2年)8月、九州南部に兵
を送るとともに唱更国(はやひとくに)という薩摩国を設置し現地の支配体制を強化し
た。713年(和銅6年)には大隅国が設置され当時律令制導入の先進地であった豊前国か
ら5000人を移住させ指導に当たらせるなど支配体制がさらに強化されて、律令制、特に
国郡制の導入や班田収授法を推し進めようとする朝廷と、九州南部において共同体的な
土地利用形態を守ってきた隼人との間で緊張が高まった。この租税に720年(養老4年)
に起きた隼人の反乱において隼人側が立て籠もったのが、比売之城(ひめのき)で、こ
の橘木城と姫木城を合わせて指していたと考えられている。


1033: 名無しさんAA:18/03/16 22:00
 富安君を探せ              < その56 >

 七〇二年二月に、歌斐{かひ}(甲斐)国から五百張の梓{あずさ}弓が、翌三月には
信濃{しなの}国からも一千廿張の梓弓が大宰府に運び込まれた。梓は『万葉集』で歌
にも詠まれる弓の適材で、山梨・長野はその産地として知られている。それにしても、
遠路運ばれているところがらみると、大宰府では軍事的緊張が高まっていたのであろう
。それを示すような記事が八月に見える。そこには、「薩摩・多徴{たね}、化を隔て
て 命に逆らふ。是に兵を発{おこ}して征討し、遂{つい}に戸を校{しら}べて吏
{り}を置く」とある(『続目本紀』)。あまり長くはない記事であるが、時間的には数
ヶ月間にもわたる三つの事柄が継起した順に述べられている。すなわち、まず薩摩と、
多徴(たね)(種子島を主とした地域)が天皇の教化・命令に従わず逆らったこと。そこ
で朝廷では、兵を発してこの二つの地域を征討したこと、さらにこの地域の戸を調査し
(戸籍を作成)、吏 (役人)を配置した(国司・嶋司{とうし}の常置)。この三つの事柄
がらを段階的に追うと、少なくとも数カ月の期間を要した。とみてよいであろう。結果
的には、薩摩国と多徴嶋(「嶋」は国に準じたもので、他には壱岐・対馬がある)の成立
である。薩摩国は成立当初しばらくは「唱更{しょうこう}国」と呼ばれていたようで
ある。「唱更」は中国漢代の兵役の称で、辺境を守る意がある。その意からすると、防
人に類似 した兵士によって守られていたともみられる。この薩摩国(前身)は、おそら
くは日向国から分立した のであろう。というの は、同じ七〇二年四月の記事に「筑紫
七国」(九州の地域は七国)の語が見える。この表記からすると、のちの日向・大隅・薩
摩三国の地域は広く「日向国」と呼ばれた時期があり、八世紀になって、薩摩・大隅二
国が日向国から分立し、西海道は九国(名実ともに九州)になったと理解できるだろう。
薩摩、多徴への征討に従軍した軍士には、九月になって勲位が授けられているが、同年
(七〇二年)に作成された筑前{ちくぜん}・豊前{ぶぜん}の戸籍には勲位を帯する者
が認められる。とすると、この時の軍士は西海道諸国から徴集されていたのであろう。
その徴兵命令は大宰府から発せられていたと推測できる。ここでも、大宰府の権力が、
西海道諸国に浸透していたことが読みとれるようである。この頃になると、七世紀まで
の「阿多隼人」に代わって「薩摩隼人」の語が散見されるようになる。このことでは、
隼人の中心地域が阿多(のちの阿多郡の万之瀬{まのせ}川流域) から薩摩(薩摩郡の川
内川流域)に移ったことを示しており、薩摩の地域に国府が設置されたことに対応して
交流が進んだ事を物語っている。

1034: 名無しさんAA:18/03/16 22:00
 富安君を探せ              < その57 >

 ところで、薩摩隼人を征討するに当っては、「大宰所部神九処に祷祈{とうき}した
」との記事がある。戦勝のために大宰府管轄の九カ所の神に祈願したというのである。
が、この時期までに西海道に存在した神社で該当するのはどこであろうか。宗像・香椎
・筥崎・筑前住吉・宇佐・日子宮・高良・玉垂などと一応は挙げてはみるものの的確に
はわからない。また、唱更国司(のちの薩摩国司)から、要害の地に柵{き}を建て、藤
(兵士)を置いて守りたいとの要請が出され、許可されている。このような要請からみる
と、国府周辺にはいまだ不穏な空気があったのであろう。ここでも既に藤氏が既に護衛
の兵を意味している。この要請を受けてのことであろうか、七〇四年四月には信濃国か
ら献上された一千四百張の弓が大宰府に充てられている。なお、この時に設置された柵
の跡は、今ままでのところ発見に至っていない。薩摩国が成立する数年前には大宰府に
よって三野・稲積の二城が築造されているが、この二城の跡も未発見である。この二城
の場合も、とりわけ稲積城の場合でも、行政的性格を考慮することも、一応は必要であ
るがいずれにしても、国の分立・成立にともなっての住民の抵抗とその背景については
、のちの大隅国成立の際にも見られる。住民の心情的側面にまで踏み込んで、かれらの
武力蜂起にいたる事情の朝廷の関係があったであろう。なお、唱更国から薩摩国への名
称変更はいつごろであろうか。それに示唆を与えるのは、七〇九年六月の『続目本紀』
の記事に「薩摩・多禰{たね}両国司」の語句が見えることであろう。この記事からす
ると、七〇二年に唱更国が成立してから七〇九年までの七年間のうちに、名称変更があ
ったことになろう。しかし、この間のどの時点かについては史料が欠けるので、いまの
ところ確定できない。日向国からの薩摩国の分立がなぜ大隅国に先行したのか。それは
いくつかの理由がある。まずは、薩摩国分立に際しては抵抗する勢力があったことだ。
その勢力は大隅国分立の際に予測される抵抗勢力に比べると、まだ対処しやすいもので
あった。薩摩国の地域では各豪族勢力圏が小さい場合が多く、各豪族勢力圏がのちに郡
に編成されていくのであるが、まだ郡の規模も小さかったことが指摘できる。それらの
なかで、やや目立つのが薩摩君{きみ}の勢力圏で、川内川中流域から下流域にわたり
根拠地としてもっていた。朝廷では、この薩摩君の地域の分断策をとって二郡に分けた
(薩摩郡と高城{たかき}郡)にだ。北側を高城郡としそこに国府を置き、肥後国からの
移民を配置したのである。一方南に薩摩君をとじこめ、境界地にそって「柵を建て戍を
置いた。」こうして一時的に存在した「唱更国」という特別な国制も事情が背景にある


1035: 名無しさんAA:18/03/16 22:01
 富安君を探せ              < その58 >

 中国大陸と朝鮮半島をめぐる対外関係の要地に薩摩国が立地していた事は大和朝廷の
最大の関心時だった。各書の記述によるとこの点では、薩摩国と同時期に成立した多禰
{たね}嶋国が国制に準じた、種子島・屋久島を包括した地域で豪族がいたのは事実で
あり、かつ強靭な豪族のようだ。考えてみれば江戸幕府の開国時も薩摩や琉球は抜きん
でて諸外国の動向を知っていた。この先史時代も同じ事が起こっていたとも取れるだろ
う。薩摩国・多禰嶋国は、日本海と東シナ海に面しており、唐・新羅とは正に一衣帯水
の地政学的立地である。また、遣唐使船が、しばしば漂流あるいは難破する地域でもあ
ってそれが日本の大和朝廷以上に情報があったとも言える。このような要地は、大宰府
としては日向国府を介してではなく、直接掌握しなければならない要因ともなっていた
。その為にも、薩摩国の分立を先行させ、大隅国が遅れたのだろう。大隅には曽君{き
み}という強大豪族が根を張っていた。この一族を懐柔するには時間がかかり、また、
さまざまの手段を講じなければならなかった。という事情もあった。その一方で、大隅
の地域は日向国との地続きで日向国府(現・西都市)からの指示や措置が、薩摩の場合よ
りは対処しやすい点もあったとみられる。そこで大隅の強大豪族曽君への懐柔策は進ま
せていたのであろう。その成果は表れている。それは、七一〇年正月の記事に「続目本
紀」では、『日向の隼人曽君細麻呂、荒俗を教え喩{さと}して、聖化に馴れ服{した
が}はしむ。詔{みことのり}して外従五位下を授けたまふ。』と伝えて日本化や朝廷
の一角に入れる事に成功している。このことは注目される。曽君の一族のなかからも、
朝廷側について、自分たちの野蛮な習俗をあらためて天皇の徳化に早く慣れ従うように
周辺の人々に教え諭すものが出現したからである。それが「日向隼人」であり、曽君と
言う大隅の贈於の豪族であったはずである。しかし、大隅国成立の数年前で、日向に属
していたので、このような表記になったに過ぎない。やがては「大隅隼人」になる人物
である。既にこの頃曽君の一角は朝廷によって切り崩されていたのである。その誘因の
妙薬は外位(地方人に賜与される位階)ながら、「五位」という貴族扱いの位階のもつ魅
力であった。一方この懐柔に反対した勢力もあった筈だ。彼らの多くは海人(あまべ)
族で多くは東北の関東から津軽に移っていったとされる。黒潮海流に乗れば簡単な事だ
ったとも言える。しかし残った者もいた。それが先の反乱者隈部の一族だった。

1036: 名無しさんAA:18/03/17 15:00
 富安君を探せ              < その59 >

 この残った隈部の一部の多くは宮崎側でなく熊本側の住民であった。有明海もしくは
日本海域だった事が大きな要因であったのだろう。船で海を行くにしても陸を見ないで
行く事はない。経験と見える範囲で離れて海を行くだけの話だ。隈部も又松浦党と同じ
く隈部一党と呼ばれている。即ち血縁やイデオロギーやルーツはそう重要ではなかった
。言わば職能による生活の仕方が重要だったからだ。四石家紋石畳家紋とする安富氏は
言わば古代の隠れキリシタンで伊予の国にいた。石畳紋の言われは、四角い石を地面に
敷いた幾何学的な紋様から来ている。連続したものは霰(霰)模様といい、皆さんご存
じの「市松模様」はこれに当たります。シンプルかつ印象的な紋として、平安時代から
使われてきた。神社に石畳を使うところから、神官・氏子によく用いられたともある。
と説明される一つ石から九つ石までバリエーションがあるが耶蘇教はあくまで四石の話
である。佐々成正(さっさなりまさ)は信長時代では秀吉と同じ盟友として存在してい
た。本能寺の変が起きて、信長の変報が届くと 諸将は自らの領地へと引き上げ成政は
上杉家の反撃の対応に動く事が出来ず、豊臣秀吉に先を越されてしまっていた。その後
柴田勝家と豊臣秀吉との間で実権争いが起こると、勝家側についたが秀吉と家康の間に
和議が成立すると、進退が窮まり、家康に再び秀吉に対して挙兵を促したものの為らず
。抵抗した戦さは自城を取り囲まれたまま、ほぼ所領没収で実権を失い隠居状態だった
。こうした中での九州平定に参加していた。隈部親永は豊臣秀吉に対して所領安堵で開
城を行っていた。しかしこの佐々氏の働きに熊本所領を任せた事で秀吉は窮地にあった
。猛将加藤と貿易将小西行長の報償する所領が無かったからだ。本来なら島津氏を叩く
予定だったがちゃっかり帰郷し防備を固めていて秀吉軍が攻めるに兵糧に問題があった
。この時熊本の太閤検地ににおいての反対が出てきたのは、先行きの不安を作っていて
佐々氏の切腹は早くから決まってはいた。問題は隈部一党の処遇であった。どれだけの
家臣と仲間が九州に入るかが掴めなかったからだ。只隈氏は黒門橋の決闘とされる者の
一族だ。宗茂公は一応は島津軍を追いやって柳川に入場した。が、まだ所領安堵はして
はいない蟄居謹慎の頃だ。秀吉はこうして九州平定での隈部氏に、てこずっていたのだ
。佐々氏領地の隈部内で一揆が起こったのだ。本領安堵を持ち掛けて講話開城させたの
は他ならぬ立花宗茂だった。だが太閤秀吉は、それまでの経過から隈部一党の帰城は許
さず、一族解党領主の死罪を宗茂に伝えたのである。隈府本城と菊池城は加藤清正に、
熊本城小西行長に茶臼山の平山城を預ける事をやっと決定し、ここに菊池一族と一緒に
隈部一党肥後52人の国人衆の旗頭は行き場が無くなったのである。

1037: 名無しさんAA:18/03/17 15:00
  富安君を探せ              < その60 >

 これらが決定すると、天正16年5月26日、秀吉の使者により、柳川に入場蟄居中
の立花宗茂に隈部親永ら12名に対する処刑命令が伝えられた。検現役の上使として、
浅野長政が来柳していた。命令を受けた立花宗茂は辛い立場に立たされた。本領安堵を
信用して講話開城した隈部一党で菊池の国衆であったからだ。これを処刑にするのは騙
し討ちに等しい。宗茂には実父高橋紹運(じょううん)から引き継がれ、養父立花(戸
次・べっき)道雪に養われた信義を第一とする武門の血が流れている。恥ずべき騙し討
ちの汚名を隈部にも自分にも後世に残すことは断じて許されない。しかし、ながらもと
より、立花城や秋月城で島津に包囲されながらも、からくも命が助かり忠誠を誓った恩
ある秀吉の命令に背くことはできない。誉れ高い肥後武士である隈部一党の面目を立て
、かつ立花家の名誉を守る方策を想いあぐねた。討手にも甚大な犠牲を強いる手段であ
るが果たし合いにする事に意を決した。その夜、宗茂は検使役の浅野長政翌日の「放し
討ち」を願い出た。討手側にも大きな犠牲を出すかも知れない前代未聞のこの申し出に
長政は驚いたが、武士の信義を貫こうとする宗茂の決意に 心動かされ「放し討ち」を
許可した。来柳した上使が秀吉の正室(ねね殿)の妹婿、長政であった事も立花家に幸
いした。開けて天正16(1588)年5月27日の朝、黒門前の広場で 史上まれな
「放し討ち」の決闘が行われる事になる。立花家からも隈部一党と同じ数の12人の討
手が選ばれた。十時(ととき)摂津、十時伝右衛門、池邊龍右衛門、安東善右衛門、十
時勘解由、池邊彦左衛門、安東五郎右衛門、石松安兵衛ら、家老分や母袋(ほろ)分と
して宗茂の直下に仕える名だたる歴戦の勇者達であった。隈部親永以下12名は柳川へ
送られた正月以来、三の丸から中堀を隔た所に特別の屋敷を与えられ蟄居していた。罪
人とはいえ肥後52人の国人衆の旗頭と注目された隈部親永である。宗茂は彼らを武人
として手厚く処遇していた。山々の峰の端が白みはじめた頃、蟄居中の隈部親永の下へ
使者が派遣されて、隈部一党へ伝えられの身志度を整えた一同は登城した、帯刀を許さ
れて威儀を正して屋敷を出て使者の後に従い隈部一党が黒門橋を渡りと門が開けられた
やって来ていた。帯刀していたのは12人の立花武士だった。そこに彼らを待っていた
のは、立花武士だった。にわかに辺りは殺気に包まれた。戦いの場所は今の消防署前か
ら柳川幼稚園の間であった。


1038: 名無しさんAA:18/03/17 15:01
  富安君を探せ              < その61 >

十時摂津が進み出て作法に従い口上を言う「貴殿に私恨なき物だが、宗茂公御下命によ
り仕度候らえて御首を頂きに参上した次第、我ら此処に御命を御免まかり申す所存。」
「我らとて武士の端くれ、隈部親永有難くこの義受け給う所、かくなる上は返り討ちを
果たして我が身の潔白と隈部一党の猛者足るを秀吉公に知らしめるに望む所、思う存分
働きあるが良い、誇りと名誉に掛けて打ち果たして申そう。いざ勝負あらん。ござれよ
討ち果たさん。」と決闘の口上をして刀を抜いた。肥後の隈部・有働一族も名の勇者達
だったので騒ぐこと無く静香に太刀を抜いて身構えた。時は巳の刻(午前10時)、初
夏の空を太陽が照らし始めている。上使の浅野長政と城主立花宗茂は二の丸の辰巳櫓か
ら、今まさに始まる決闘を凝視していた。堀を隔てた隅櫓(すみやぐら)に立つ宗茂の
姿を見た隈部親永は、この処遇に対して深く感謝の念を持っていたであろう。と言われ
決闘は遂に凄惨な戦いの幕を開ける。立花家中きっての剛勇十時伝右衛門が隈部親永の
前に出て姓名を名乗り太刀を構えた、親永も刀を構えた。陽に照らされた双方の額に汗
が光る。すかさず伝右衛門の太刀が上段から勢いよく振り下ろされた。肥後国人として
戦国の世を豪胆に強く生き抜いた親永だったが、いまや囚われの身でまして高齢だった
更にこの度の戦いで足に傷を持つ身であった。だがじりじりと時が過ぎるに伝右衛門の
体力は衰え僅かな一瞬をとらえた一撃をかわす力はなく、振り下ろされた刀は身体を切
り裂き親永は絶命した。遠きには親永は抵抗しないで悠然と討たれた様に見えた。それ
に呼応するように各所で決闘が始まった。南北朝の騒乱以来、菊池家に仕え、戦国の世
にその名を馳せた隈部一党であった。肥後武士の豪腕さは立花勢に劣るものではなかっ
た。しかし戦いに敗れて囚われ困憊(こんぱい)し、刑場に引き据えられたも同然の身
である。今はただ無念と絶望の中での死に様を考える術しか無かった。家中でも指折り
の戦歴錬磨の気鋭の武士達である。決闘とはいえ戦いの結果は明白だった。刃と刃の鞘
当てもなく 音が響かぬままに血しぶきが上がる。そして隈部側の侍が一人、また一人
と倒されていった。それは不思議な決闘だった。半時も要せず決闘は終わった。広場に
は隈部一党12名の遺体が横たわっていた。立花家にも戦死者が一人出た。家臣の森又
右衛門である。残った者も大小の手傷を負い、息づかい荒く茫然と立ち尽くしていた。



1039: 名無しさんAA:18/03/17 15:01
  富安君を探せ              < その62 >

選抜された者は立花(戸次)道雪の時代から仕えそれでも肥後勢の中には、武士の意地
と本能で最後まで奮闘する者もいた。激しい息遣いと摺り足の砂音に混じり、耳を裂く
ような 高く上がった初夏の太陽はじりじりと容赦なく、戦う勇者達の顔を照りつける
。刀身が空に光り、各所で力の限りの刃合わせが行われる。前夜からぬれ刃を合わせ、
目釘を整えて入念に戦いの準備をしている前に居合抜きの達人ばかりの前には、歯がた
たなかった。このすさましい決闘の一部始終を目の当たりにした検視役の浅野長政は、
大阪へ帰った後、事の顛末を詳しく秀吉に報告した。世にも稀なこの「放し討ち」の話
を聞いた秀吉は宗茂の罪を問うどころか、さすが西国一の弓取りと誉め讃えたという。
この決闘で死亡した隈部側の遺体は黒門橋近くに立花家の名目で丁寧に埋葬された。そ
の後も線香の煙が絶えることがなかったという。それは柳川幼稚園と、日本で最初の印
刷所をドイツの紙幣印刷機械で始めたとされる堤氏の境界にあったて池末氏が葬ってい
たそれから四百年余りが過ぎ柳川城の広い内堀が埋められ、決闘が行われた三の丸広場
付近は城南まち交差点になっていて当時の面影を探すのは難しい。しかし小さく中堀は
今も残る。そしてその水面(みなも)の上には車道となった黒門橋が架かっている。そ
の横に「黒門前の戦場」と刻まれた石碑がひっそりと建っていると言う。そも隈氏は、
甘木在者で平野部の神奈備は山隈山に古神道の徒だった。筑後川流域にそれぞれに一郎
丸二郎丸〜九郎丸までがその地域の祈祷をして村を護っていた。神話の時代に佐賀部と
筑後部が筑後川を挟んで戦いその兵士となっていた。その頃高句麗の傭兵をも使って、
この地を平定した。その為高良宮は高麗神宮であった。しかし大和朝廷配下となった九
州の朝廷は奈良時代には都府楼を築き守りを固めた地が大宰府政庁となり、神職の長と
して大神氏が大和朝廷よりも豊かになって分身の宇佐神宮を築いて大きくなり高牟礼山
は英彦山の座主の山となり神格が英彦山より高くなった。その為古神道は大阿蘇に阿り
隈氏は隈部氏と名乗り阿蘇氏を頼り菊池氏配下となった。こうして祖は清和源氏で代々
菊池家の三執老として赤星氏、城氏、と共に隈部氏として仕える事になった。が、隈部
刑部介但馬守親永の代の頃になると山鹿郡の永野城(山鹿市菊鹿町)を本拠として勇躍
した。そのまま在住した者は磯良丸同様に五郎丸六郎丸と称してこの地に残った。その
縄張りが地名や橋に残り六郎五郎橋(ろくっころばし)や浮羽の五郎丸交差点は名残り
である


1040: 名無しさんAA:18/03/17 15:02
 富安君を探せ              < その63 >

 小西行長は南蛮貿易で一時代を築いた商人であったと思われる。堺の商人の出とされ
るが、実は博多商人であった。何故なら対馬宗氏と同じに立花氏と通じていたからだ。
宗貞茂・貞盛の時代から九州にも領地があり、本家少弐氏と共に、周防の国を支配した
大内家と抗争して敗北している。こうして九州内の領土を失ったが、しかし九州の米を
入れなければ対馬の生活は儘ならなかったのである。宗義智(よしとし)の時、豊臣秀吉
が九州を平定しこれに帰順したが、秀吉が無茶ぶりに朝鮮を侵略を宣言した。先陣を命
じられ先頭を切って戦う一方、その後の講和交渉に奔走し、秀吉の過大な要求と、朝鮮
を支援していた明からの条件との間の板挟みになった。これを助けたのが小西行長だっ
た。小西行長はクリスチャンであった。実は戦国時代には公に久留子紋は別名十字架紋
が現れている。ポルトガル人が来たからだ。十字架のことをクルスと呼んだからことか
らだが、室町末期フランシスコ・ザビエルが布教のために来日、これを仏教僧侶の横暴
を押さえたいと考えていた信長が利用する形で後援していた。たちまち西日本布教され
に広まっていた。その結果、武家の中にも大友宗麟などは家臣に強制改宗を指示してい
た。そのシンボルとして久留子紋が作られた。その後厳しい弾圧で、消えて行くのだが
、いわゆる隠れキリシタンが巧みに十字架をアレンジさせて祇園守の紋などになった。
戦国大名の小西行長や島原の乱の天草四郎一味が使ったことは有名であり、宗氏立花氏
もこのクリスチャン仲間であった事は当然だろう。ところが多分に小西は博多商人の中
には入れてもらえなかったであろう。その頃南蛮貿易が出来たのは松浦党の下有馬氏族
とされている。戦国時代有馬晴純が現われ島原半島を根拠に肥前一帯に一大勢力を広げ
、さらにポルトガルとの交易で最盛期を築き上げた。その子の有馬義貞は、龍造寺隆信
の圧迫を受けて衰退する。1584年、有馬晴信は島津氏と結んで沖田畷の戦いで龍造寺氏
を撃退し、後に豊臣秀吉の九州平定で本領を安堵された。宗氏も柳川氏も蒲池氏の家臣
である江上氏の流れである。蒲池氏が菊池一族の末席だったが、大宰府内に大宰権帥を
大内氏が任命されやって来て旧来の代々家系で受け継いでいた武藤少弐氏と争った事で
。それまで神崎の庄は出雲の管理地で出雲からの出仕管理の北島氏は柳川に逃げてきた
更に内紛で大宰府での竜造寺氏も又殺され子供を引き取った。つまりこの時蒲池氏は、
神事の持つ外交も仏事の持つ外交も蒲池氏の下に置かれたのだ。

1041: 名無しさんAA:18/03/17 15:02
  富安君を探せ              < その64 >

 日本書紀に「宗像三女神は水沼君が祀る神である。」と記される。三女神は航海神。
水沼氏族は江南への航路祭祀を行っていた。大善寺玉垂宮の大祝が「隈(くま)氏」で
あり、高良玉垂宮の神職にも「神代氏(くましろ)」がある。武内宿禰の裔を称して、
宿禰の神の如き働きを表して、神功皇后が授けた名とする。中でも玉垂れ宮の神祇絵巻
には神功皇后が征新羅勝利を筑前四王寺の峯の榊に、金鈴をかけて、七日七夜の間祈願
し、九月十三日になって、明星天子(住吉神)と月天子(高良神)が示顕した。武内宿禰の
請で藤大臣が参戦し、筑前の八女神のうち豊姫を竜宮に遣わせて借りた千珠・満珠をも
ってついに新羅王を降伏させた。藤大臣は中臣鳥賊津臣命とも、藤大臣連保のこととも
月天子とも、住吉明神の化身ともいふ。こうして神功皇后(じんぐうこうごう)の遠征
に大功のあった事で藤大臣(とうだいじん)は水沼大君に報告しこの玉垂れ宮に没した
とされ、改めて高句麗宮(高良大明神・玉垂命)からこの地に下り、ここで没したため
の法要をして塚崎に墓を建て祀られた。その後 奈良朝の白鳳元年(672)に、法相宗(
ほっそうしゅう)の僧・安泰(あんたい)が高良社阿弥陀堂の傍らに祭神を祀り、側に
一宇の精舎を開基し、これを御廟院高法寺と号したのに始まり、山岳地場信仰と古神道
と神仏混合が始まり、後に天台宗となった。平安朝の弘仁5年(814)嵯峨天皇の勅令を
受けた三池郡司師直(もろなお)が修築し、高良大菩薩の号を受け大善寺(だいぜんじ
)と改めた。古書では「隈(熊、くま)」地名は、忌避された狗人の住地に与えられた
名であった。それを施したのは韓半島の支配氏族とされる。弥生中、後期の頃筑紫平野
のこの地まで南下した狗人の勢力が、韓半島由来の勢力に駆逐されたとも言える。のち
の時代、筑後域に在って水沼氏族は異色である。日本書紀の雄略紀に「身狭村主青(む
さのすぐりあお)が呉から運んだ珍鳥を水沼君の犬が噛み殺した。」という記述がある
。「新撰姓氏録」では身狭村主青を「呉」の孫権の裔とする。つまり三潴は大陸交易の
拠点であったのである。既に中国の呉国と密かに海運交易を行っていた証左であろう。
大善寺の御塚、権現塚は水沼氏族の奥津城とされる。特異な様式をもち、5世紀後半か
ら6世紀初めの築造とされる。八女の筑紫君磐井の岩戸山古墳にも劣らぬ巨大古墳だ。
水沼氏は筑紫のみならず火(肥)や豊をも関係していた。磐井に隣接しながらも、磐井
の乱 (527年)を経て、その勢力を律令期にまで存続して、水沼氏は祭祀氏族として、
古代最大の戦乱を生き延びている。それは水沼氏族が多大な財と兵力を維持していたか
らだとおもう。その古神道の地位の丸を持った藤氏が藤丸を名乗ったのだ。五郎丸の様
に。

1042: 名無しさんAA:18/03/17 15:04
  富安君を探せ              < その65 >
 「旧事本記」の水沼氏の祖を物部阿遅古連とする。が、物部阿遅古連は磐井と戦った
大連、物部麁鹿火の弟であり、時代は全く合わない。それでもその記述は磐井の乱に拘
わった水沼氏と物部氏の関係を想起させる。大和朝廷の神道と九州朝廷の古神道が矛盾
が出来て諍いがあったのだ。かつて背振山の鬼と英彦山の天狗が争ったように。かつて
最盛期には衆徒四十五坊、社領三千町を有していたと伝えられる玉垂れ宮も、明治政府
の神仏分離政策により、明治2年(1869)廃仏毀釈(きしゃく)が行われ、久留米藩は
玉垂宮のみを残して大善寺を廃止した。大善寺は玉垂宮に奉仕する坊中一山の惣名(そ
うみょう)で、座主を東林坊といい、本坊は南向きで玉垂宮社殿の背後にあった。玉垂
宮の鬼夜は、もとは大善寺の修正会(しゅしょうえ)の行事であった。玉垂宮の境内は
、約1万5000u。本殿、幣殿、拝殿、楼門、惣門、回廊、神輿殿、石鳥居、社務所の他
鐘楼、阿弥陀仏堂がある。社宝に『絹本著色玉垂宮縁起』二幅(重要文化財)がある。
かつて藤大臣(とうのおとど)の没し地であり、古代海外航路の一大地点だったのだろう
江南への海路は、確かに博多湾、那ノ津よりも有明海のほうが有効であろう。古い時代
、有明海は三潴のあたりまで湾入していた。水沼氏の巫女信仰ともされた古い比神の
神祇は、5世紀の頃には大陸交易の航路の女神祭祀へと変質している。高良山の対岸、
北野の赤司では蒲池比が水沼氏によって「道主貴(ちぬしのむち)」として、三女神
の田心姫命(たゆらひめ)に習合していた。この北野天満宮縁起では「菅公は仁明天皇
の御宇、承和12(845)乙丑6月25日丑年のご生誕であり、貞観元年己卯月2月
乙丑、」として白牛が奉じている。「ご元服の夜、白牛が角をくじいて死ぬ悪夢を見ら
れた。たいそう気にされて自ら牛を画き、お酒を供えてご尊拝せられた。寛平5年癸丑
の9月、公は北山に茸狩りの宴を催されましたが、いずこからともなく小牛が宴席近く
寄り、頭を垂れて公を敬うがごとくでありましたので、公はたいそうお喜びになって、
御館に連れて帰りお可愛がりになりました。又、菅公が太宰府にご左遷の時は、道明寺
から、菰屋の里まで落ちゆかれる途中に、時平の命を受けた笠原宿禰等が後を追って、
道中に切りかかり命危うく見えた時、松原の中から白牛が飛び出て、宿禰の腹を突き刺
して助けた。よく見ると、道真公が都で御愛育した牛であった。道真公は「都にて流罪
極る前夜には、逃げ去って姿を隠し、度々に凶非を告げ、今度此の危難を助けし忠義の
牛だ、いざ筑紫まで伴わん。」と涙を流しお喜びになりました。これにより牛にお乗り
になって、御心安らかに旅立たれたのだが、久留米北野のこの地で没したのであります
。」とあった。その後太宰府の地においてひたすらに謹慎の意を表されておりましたが
、延喜3年( 903)2月25日の丑の日に道真公は薨去された。と言う

1043: 名無しさんAA:18/03/17 15:17
  富安君を探せ              < その66 >

 さて道真が追われた後、都では異変が相次ぐ。まず道真追放の主役を演じた藤原時平
が延喜9年4月に39歳の若さで死去、4年後には右大臣源光も亡くなる。又宇多上皇
を皇居に入れなかった藤原菅根も変死した。更には延喜23年3月には時平の妹穏子と
醍醐天皇の間の子の皇太子保明親王が21歳で死去、追い討ちを掛けて2年後にはその
保明親王と時平の娘との間の幼い新皇太子慶頼王まで亡くなってしまう。これを世の人
々は道真公が自分を追いやった時平公の縁者に祟っている。と噂した。醍醐天皇も恐く
り死んだ道真に右大臣に戻す詔を出したりする。しかし怪異は収まらず、とうとう延長
8年 (930)の6月26日、内裏に落雷があり大納言藤原清貫と右中弁平希世をはじめ何
人もの殿上人と女官が雷に撃たれて死亡する。この事件がショックで醍醐天皇は病に倒
れ、3ヶ月後この世を去った。人は道真公が雷神になったと口々にいい、味酒安行が祀
った小さな祠は延喜19年藤原仲平の命により大きな社殿に作り変えらた。その後やが
て都でも道真公を祀る大きな動きが出て来る。最初天慶5年 (942)京都の多治比文子と
いう人に「右近馬場に祠を建てよ。」という道真公の託宣を受けますが、庶民にはどう
にもならない。仕方なく自分の家のそばに小さな祠を建ててお祀りします。その5年後
今度は近江国比良宮の禰宜の神良種(みわ・よしたね)の子供の太郎丸にやはり同様の
託宣があり、その問題の右近馬場に一夜にして松が数千本生えるという奇跡が起きた。
その為、良種は文子とともに北野朝日寺の最珍に協力を求め神殿を建立した。久留米の
太郎丸はその子孫の地である。永延元年、一条天皇が勅命で道真公を祭るお祭りを行い
、これを北野祭と称して、その後この神社は北野天満宮と呼ばれるようになった。一条
天皇自身寛弘4年(1004)に行幸してその後京都にも分社が建てられた。大宰府天満宮は
、菅原道真公がお亡くなりになられたときに亡骸(なきがら)を埋葬しようと、「壱岐
真根子の娘の豊子姫の子」で公の門弟であった味酒安行(うまさけ やすゆき)が亡骸を
牛車に乗せて進んだところ、牛が伏して動かなくなった。これは道真公の御心によるも
のであろうと、その地に埋葬されることとなっていたが。延喜5年 (905)御墓所の上に
祀廟(しびょう)が創建され、延喜19年 (919)には勅命によって大宰府に立派なご社殿が
建立された。それが今の大宰府天満宮だ。その後、道真公の無実が証明され、「天満大
自在天神(てんまだいじざいてんじん)」という神様の御位を贈られ、「天神さま」と崇
められるようになりました。長い年月ご崇敬は絶え間なく続き、御墓所でもある太宰府
天満宮は全国約12,000社ある天神さまをお祀りする神社の総本宮となった。

1044: 名無しさんAA:18/03/17 15:33
  富安君を探せ              < その67 >

 菅公は古代の技術集団・土師一族の傍系で代々学問を持って朝廷に仕える菅原家に生
まれていた。とされる。土師氏はもともとは朝貢の人とされる。つまり渡来人で日本に
貢がれた人々だ。逆に言えば今の人物交流の留学生の様な立場で最新の中国技術師の家
の子孫であったと言える。だがそれだけに、一般的には卑下された視線があったと言え
る。葵(あおい)祭と壱岐若彦(壱岐のわかひこ)の話があるが、神事葵(あおい)祭
の起源は欽明天皇の時代に暴風雨が吹き荒れて五穀が実らなくなり、国民が困ってしま
ったときに、天皇は壱岐の若彦に「この悪天候はどうのようなことか。若彦一つ占って
くれ」と言われたので、若彦が占ったところ、「賀茂の大神のたたりである」という卦
が出た。と言う。そこで若彦は馬に乗り、イノシシの毛皮をかぶり、鈴を馬に付けては
賀茂の神の前を駆けた。するとびっくり、天気は雨もやみ太陽が照り始めた、五穀も実
り国民も安心した。と言うのが、これが勅祭・葵祭の始まりと言われている。だがそれ
は誰が聴いても嘘だろうと思う。壱岐の若彦は文字道理壱岐の人だ。更に先の道真伝記
での味酒安行も「壱岐真根子の娘の豊子姫の子」とされた。更に宗像氏に繋がる陰陽道
の門弟でもある。壱岐の人間である。此処に秘密がある。宗像の先に鐘崎という漁港に
織幡神社がある。かの「宗像大菩薩御縁起」によると、神功皇后の三韓征伐に際して、
宗大臣(ムナカタの神)が他の諸將とともに從軍し、大いに奮戦して武勲を輝したという
記録が残る。神社縁起では、その時、宗大臣は〈御手長〉を「捧げ来り」、これに武内
大臣(武内宿禰)の「織り持て」る「赤白二流の旗」を付けて、軍の前陣で「御手長を振
り下げ」「振り上げ」して敵を翻弄し、最後にこの『御手長』を「息(オキノ)御嶋に立
て置きたまえり」とある。この「息御嶋」は宗像の「沖ノ島」が祀る壱岐対馬とされる
。そして『御手長』については、「異国征伐御旗杆也」とあり、これが壱岐島の「天手
長男神社」「天手長比売神社」などで「織旗」が勝敗を喫した事から、この神社が祀ら
れた。とされる。私論だがこの紅白旗こそ船の帆ではなかったか。わかりにくいので、
わざわざ色を付けて船の乗り方を教えて征伐にいったのではないか。と思っている。戦
国期にはこの壱岐対馬は宗家の領地とされた。宗家の家紋では「隅立て四つ目結」か「
丸に平四つ目結」である。これは、早い時期にキリスト教が来た事を示している。また
対馬国を支配した氏族は、阿比留氏発祥の地が上総国畔蒜郡であるとされるが、1246年
に、阿比留親元が当時国交がなかった高麗と交易していることを大宰府が咎めた。朝廷
に従わなかったとして反乱者として太宰府の在庁官人宗重尚により征討されてしまった
事から宗家支配になった。これは阿比留氏が通訳出来た事を示している。

1045: 名無しさんAA:18/03/17 15:45
 富安君を探せ              < その68 >
 対馬市厳原町内山に所在する木武古婆(きむこば)神社は後に対馬藩主となる宗家の
初代当主、宗(惟宗)重尚を祀った神社とされる。宗重尚は、1246年には対馬島内最大
の在庁官人であった阿比留親元に対して、当時国交のなかった高麗と交易していること
を大宰府が注意したが従わなかった為に 大宰府の命令により討伐して対馬国主になっ
た人物とされる。「阿比留」そのものは平安中期から鎌倉期の行政実務を担当した地方
官僚の冠称であったという。ちなみに宗氏は鹿児島の島津氏と同じく渡来系の惟宗氏が
ルーツと言われる。重尚は晩年この内山に隠遁して当地で没した。その後 江戸時代に
なって異国船が現れだしてから1810(文化7)年に墓所に神社が建てられた。灯篭に「
文化七年」の文字が確認でき、阿比留親元時代まで、宗氏は配下として惟宗氏を名のっ
ていた事になる。惟宗は平安時代に始まる氏族で,秦氏の子孫で都では法律の専門家と
して、律集解・令集解の著などを惟宗直本として記述している。江戸期以前は各所から
各地の在庁官人達がここに宿舎を持って在住していた。島津氏や長宗我部氏も島では名
が知られた存在だったという。この中に蒲池氏配下に柳川氏がいた。福岡立花山を本拠
にし博多商人を束ねていた旧立花氏や宗像氏も又同じだった。朝廷はいつの間にかその
仕組みを忘れて、太宰権師(だざいごんのそち)を任命した。こうして明朝貿易の権限
を持つ朝廷が大内氏に委ねた頃、その処置を代理で大宰府で政治する陶晴隆に任せてた
。従って菊池氏や大友氏が猛反対しようが、大内氏に近づく事しかなく国長や国王を相
手と定めた勘合貿易の為に親書相手は天皇しか無かった。それはしかし、大友宗麟は、
独自に南蛮貿易をしていて、南蛮貿易にはそうした勘合符の相合のしきたりものなく、
又貿易の痛みも無く、気にする物ではなかった。博多衆が朝廷側に付く事を許さなかっ
た為に、戦乱期には覇者達が九州の各地を跋扈した。秀吉が九州平定した時、更に関東
や関西の商人を連れた秀吉の連れて来た武将達がそれぞれに貿易を始める事を狙ってい
た。中でも勘合貿易と南蛮貿易では、船は持ってもその権利の所在は大事な事だった。
それが宗氏と小西氏の手の中にあった。宗氏文書には、九州と朝鮮半島の中間に浮かぶ
対馬の苦悩が、貿易で島の経済を支えてきた事を表している。室町時代に朝鮮や中国沿
岸を荒らす海賊「倭寇」が流行する時も、元寇以前から朝廷は海の守りであり、対岸の
福岡から長崎までは避難地であった。しかし江戸幕府として落ちついて来た頃寛永10
年(1633)、江戸の藩邸で生まれ育った調興は「主君の宗義成が朝鮮外交に関する
国書を改竄している。」と幕府に訴える事件が起こった。柳川事件である。背後に朝鮮
通信使の道の改修などの労役や鶏など勝手に持ち去るなどの狼藉への苛立ちと彼へのそ
そのかしがあった。

1046: 名無しさんAA:18/03/17 15:56
 富安君を探せ              < その69 >
 倭寇に悩む朝鮮にとって、それを追い払ってくれる宗氏の役割は非常に役に立った。
江戸時代初期の弘前藩は、左近衛権少将 花山院忠長(猪熊事件)をはじめ、京都妙心
寺の東源慧等(紫衣事件)、肥後国人吉藩の相良頼兄(相良清兵衛騒動)などの流人を
受け入れている。罪人とはいえ、高貴の人や学問・文化の素養を持った人物がやって来
ることがあり、そうした場合、余り粗末な待遇はできなかった。対馬藩の家老柳川調興
(豊前素庵)も、厚遇された流人の1人である。九州と朝鮮半島の中間に浮かぶ対馬は
、貿易で島の経済を支えてきた。室町時代に半島や中国沿岸を荒らす海賊「倭寇」が流
行すると、島主の宗氏は朝鮮国から「図書」(渡航証明)の使用資格を得、使節や貿易
船を送り続けた。島の代表者は宗氏だが、実際の交渉は、柳川氏の補佐なしでは立ち行
かなかった。宗義調・義智父子を支えた柳川調信・智永(調興の祖父と父)の外交力は
内外に認められ、朝鮮国からも、別枠で貿易船を送る権利を与えらた。その経済力は宗
氏をも凌いだが、彼らはあくまでも主家を立て、自らは家老の立場に甘んじて、持ちつ
持たれつの関係を築いていた。国書改竄問題と柳川一件はこの関係を壊した。原因は、
長子で宗家の家老としての柳川家の家主でありながら帰郷したく無かった調興の我儘で
あった。江戸で生まれ育った調興は対馬を嫌い、独立して幕府直参になろうと考えた。
よっぽど江戸が良かったのだろう。彼の才気は自他ともに認めるところで、朝鮮使節も
その利発さに感心したという(田代和生『書き替えられた国書』)。又1歳年下の藩主
宗義成への侮(あなど)り軽んじていた。更に江戸期にまだ残っていた戦国の風潮に照
らし、実力があれば多少の無理は認められる、との判断もあったという。寛永10年(
1633)、調興は誰に唆(そそのか)されたか「主君の宗義成が朝鮮外交に関する国
書を改竄している」と幕府に訴えた。文言を削ったり印鑑を偽造したりしての、外交を
私物化している、という訴えをしたのだった。調興にとっては両刃の剣のはずだが、自
身の関与については巧妙に口を閉ざしての提訴だった。と伝えている。しかしこの期に
は朝鮮征伐での恨みが蔓延していて、更に貿易利得があったし、アヘンも入り込んでい
る。誰かが仕組んだ事件のにおいが強い。この一連の悶着は柳川一件と呼ばれた。朝鮮
通の柳川家の調興には支援者も多かったが、一方で、自身を棚に上げての主君の非を論
ずるやり方に憤慨し、熱烈に宗義成を応援する伊達政宗のような存在もあった。世評は
、宗義成派と柳川調興派に分かれた。寛永12年3月11日、2人は江戸城に呼び出さ
れ、3代将軍徳川家光の面前で対決した。家光は義成の言い分を大筋で認め、調興に敗
訴を申し渡した。おそらく、家臣が分(ぶん)を越えるという前例を作りたくなかった
のだろう。裏に賄賂を柳川家が出して宗家は出さないという事もあったのだろう。

1047: 名無しさんAA:18/03/17 16:22
 国書改竄問題と柳川一件の問題に幕府側は分けて考えられた。調興にとっては両刃の
剣のはずだが、自身の関与については巧妙に口を閉ざしての提訴だった。寛永12年3
月11日、2人は江戸城に呼び出されて、3代将軍徳川家光の面前で対決する事に至っ
た。家光は宗義成の言い分を大筋で認め、調興に敗訴を申し渡した。おそらく、家臣が
分を越えるという前例を作りたくなかったのだろう。更には徳川氏の朝鮮征伐以降の国
交回復に無理があった事も知っていたのであろう。その時助さん角さんで有名な佐々十
竹(ささじゅちく介三郎宗淳)と、安積澹泊(あさかたんぱく・覚兵衛)が下調べをしての
取り調べであった。調興自身は死罪は免れたものの、腹心の部下松尾七左衛門は死罪と
なり執行された。一方の義成はとがめなしとされたが、協力者である対馬府中・以酊庵
の名僧規伯玄方(方長老)も処罰され、盛岡に流された。ここでは、武家社会における
喧嘩両成敗の原則が適用されている。ここで裏に朝廷御用達の真言宗高野山と新興幕府
の天台宗比叡山を差し置いた禅宗系の法相宗や臨済宗へのやっかみもある様に見える。
更にキリシタンの存在がある。つまり 南蛮貿易では明朝貿易は邪魔ものだったのだ。
更に家光はこの時儒教を元にした書物を朝鮮から取り寄せ重視していた。今後の幕府の
安泰に1635年3代将軍家光は武家諸法度寛永令において大名統制のため参勤交代を制度
化し、大名は江戸と領国を1年交代で往復することを義務付け、妻子の江戸住みを強制
した。また、大船建造を禁止し数々の法令と関所などを設けた。丁度虚無僧が挨拶御免
を取ったという頃である。罰を受け弘前に入った調興には扶持米が支給され、城の南西
(現在の弘前市馬屋町)に広大な屋敷地が与えられた。和歌に秀で文学を解する教養人
の調興に、4代藩主津軽信政は、あれこれと気づかい、進物やあいさつを欠かす事が無
かった。弘前八幡宮祭礼に調興を招き、評定所前で見物させる事すらあった。(天和2
年8月15日条)。流人というより賓客扱いの待遇であったと言える。貞享元年(16
84)10月1日、調興は82歳で死去した。長勝寺(弘前市)の墓には戒名「松厳院
殿孤山初白居士」のほかに「柳河智保」と刻まれている。「智保」は、松尾七左衛門の
実名である。調興は晩年の手紙にこの名を用いたが七左衛門の死に負い目を感じていた
のかもしれない。なお、長徳寺(弘前市)にも、子孫が建てたという墓がある。流人の
妻帯は禁じられていたはずだが、ここでは柳川氏が妻と共に蟄居謹慎の客分として生き
ていたのである。この柳川氏は松尾氏と共に 基本的には三池氏の配下で熊襲である。
三池氏の出自もこの地の伝説で大蛇を蟹の挟みで切って残った胴体が池になった。それ
が三つの池だったからこの地を三池と呼んだと言う。この地三池の高田町は上楠田(か
みくすだ)には標高56メートルの小さな丘がある国指定史跡の石神山古墳(せきじん
ざんこふん)のある地で近くには唐船町という場所や甘木山もある。

1048: 名無しさんAA:18/03/17 16:26
 富安君を探せ              < その71 >

 石神山古墳(せきじんざんこふん)は、前長約58.5メートルの前方後円墳(ぜん
ぽうこうえんふん)で頂上(ちょうじょう)には全国的にも例の少ない武装石人が置(
お)かれ、その隣には大・中・小3基の舟形石棺(ふながたせっかん)が安置されてい
る。3つの石棺による直葬(ちょくそう)というのは大変珍しい物で、歴史的にも非常
に重要なものと言われる。武装石人とこの舟形石棺は共に国指定重要文化財となってい
て、いずれも阿蘇溶岩を丸彫りして作られている。武骨ながらもその存在感は心に迫る
ものがあり、見つめていると5世紀当時の情景が浮かんでくるようだ。古墳自体は小高
い丘の上だが、その麓には貝塚が幾つか出現している。だがこうした文化財を福岡県は
多くあって佐賀程には大事にしていない。甘木山展望台近くにも山頂からやや下った所
の南斜面に甘木山古墳群がある。稜線とほぼ平行に九基の古墳が分布して見つかってい
る。古墳の墳丘は、すでに削り取られその地元の管理の甘さが見れる。天井石を失い、
腰石だけが残っており、石室は、露出している。このために原形を推定できるものは、
少ない。石室は、玄室だけのものと前室と玄室に分かれているものがあり、玄室には、
正方形になっている。羨道(玄室への通路)は、玄室の幅と比べて広く、全体が短冊形
をしているのが特徴である。石組みは、自然石の巨石積みで、加工はあまりされていな
い。古墳群の正確な年代は、遺物が残っていないため不明であるが、古墳時代後期(六
世紀末)のものと思われる。又大牟田諏訪神社や四山神社近くにも古墳があったとされ
少し進めば江田船山古墳までいける。さらに「かむろ遺跡」とされた一般的にトンカラ
リン遺跡もある。江田船山古墳は、清原(せいばる)古墳群の中で最古・最大の古墳で
、日本最古の本格的記録文書である75文字の銀象嵌(ぎんぞうがん)銘をもつ大刀が出
土したことで著名である。出土品のうち銀錯銘大刀(ぎんさくめいたち)と呼ばれる直
刀には以下の75字の銘文がある。「台(治)天下獲□□□鹵大王世、奉事典曹人名无□
(利ヵ)弖、八月中、用大鉄釜并四尺廷刀、八十練、□(九ヵ)十振、三寸上好□(利
ヵ)刀、服此刀者、長寿、子孫洋々、得□恩也、不失其所統、作刀者名伊太□(和)、
書者張安也」   と彫られていた。この大刀の刀身の平地には片面に花と馬、片面に
魚と鳥が銀象嵌で表され、上記の銘文は棟の部分に銀象嵌で表されている。


1049: 名無しさんAA:18/03/17 16:27
 富安君を探せ              < その72 >

銘文解読には「獲□□□鹵大王」は、多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)
(日本書紀)または水歯別命(古事記)と長い間推定されてきたが、埼玉県行田市稲荷
山古墳から出土した金錯銘鉄剣に、1978年に「獲加多支鹵大王」という文字が発見され
たことから、この文言は「ワカタケル大王」と読むことが判明した。ワカタケル大王は
、雄略天皇に比定されている。この東西日本の古墳から同じ王名を記した刀剣が出土し
たことは、ヤマト王権の支配が広域に及んでいたことを示す。と言うが、これはこじつ
けだろう。想像ではこの刀は葬祭用に中国地方のどこかで作られたもので、全国に送っ
ていたものの一つだろう。その最も近いのがこの九州の玉名大牟田地区と思われるのだ
。又被葬者のムリテは雄略の宮廷で役所に勤務する文官「典曹人(てんそうじん)」と
して仕えた。とされるが一説では、只の葬儀用の官位か言葉であったとされる。また、
東国の稲荷山古墳の被葬者ヲワケは宮廷の親衛隊長「杖刀人首(じょうとうじんのかし
ら)」として仕えた。とあるがそれも同じに作法の様子とされる異説がある。単なる、
蝦夷地征伐の頭で、拝領した刀を持っていただけだと思われる説を私は取る。5世紀中
葉以降のヤマト政権は、各地域社会から出身の大・中・小首長達を宮廷に出仕させて、
王権が直接掌握し、倭社会を統治していたことが考えられる。と言われるがそれは関東
では、不可能に近くその後のその為の直接支配への動きも不思議になる。一般的に小さ
な船で関東には行けても、紀伊半島の奈良に戻る事は不可能だからだ。九州であれば、
それが出来るだろうが。往来してもせめて尾張の国までの話である。が逆に、北周り側
の日本海では出来る。海流が戻り海流があるからだ。ところで、この海人族は一体どこ
までどう行けたかは今だ確定出来ない。ではその頃の古代船はどんなものだったのか。
実は日本ではの古代日本から帆船はあったとされている。埴輪の準構造船はマストや帆
がついて居ないので手漕ぎの漕走船と思われているが、良く見ると船底に帆柱用の穴が
あったのである。しかしそれは、現代風の三角帆による風上への航海が出来る物であっ
たかは謎だ。古墳時代以前についてはまだ確認出来て居ないが 弥生時代の渡来人はジ
ャンク船で来たと思われている。古代木造船では全長20メートルで、ジャワ島・ボロ
ブドゥール遺跡の8世紀ごろのレリーフに描かれた古代船を基に復元したものは、くぎ
を1本も使わずにチーク材や竹などで造った。乗組員15人は大半がインドネシア人で
作られるが見事なもので外洋にも出て行ける。しかし、嵐も多い中ではなかなか無理な
話である。

1050: 名無しさんAA:18/03/17 16:27
 富安君を探せ              < その73 >

 7世紀の朝鮮半島の壁画には、帆が四角で無く三角帆で風上にも航行可能な船にがあ
った事が着目される。北九州市八幡の帆柱山は、神功皇后が三韓征伐に出航した時には
、響灘に帆柱が一斉に生えたことに因む地名となっている。又『三国志』の魏志倭人伝
では以下のとおり、日本よりさらに遠く太平洋の彼方、水行1年で辿り着く国の事が記
述されたとする説もある程だ。その説では太平洋を往復する航海術の存在を証明してい
ると言う。女王から4千余里に裸国と黒歯国がある。東南に船で一年で着く。曰く「去
女王四千餘里又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至參問倭地絶在海中洲嶋之上或絶或
連周旋可五千餘里」と書かれている。文字通り裸の国と御歯黒(おはぐろ)の国がそこ
にあったと言うのであるが、果たしてそうかは疑問だ。岐阜県大垣市の荒尾南遺跡の弥
生時代の方形周溝墓の溝から、1996年に出土した広口壺に線刻されていた絵画では
、3艘の船が描かれていて、中央の船は82本のオールを持つ大型船で、船の船首と船
尾は反り上がって扇形に広がっている。中央と船尾には2本ずつ旗がなびいている。も
しかするとこれは畳んだ帆かも知れない。この船の前後に小形の帆船が各1艘伴走して
いるように描かれている。前後の小型船の上に逆三角の帆の様な物が見えるが、もしも
三角帆であるなら風上にも進める江戸時代の打瀬船の様な船が、既に弥生時代から既に
あったことになる。そうなると弥生時代から北前船はあった事になるが、その真実はま
だ良く解っていない。しかし中国では弥生時代後期には確実に帆船(ジャンク船)があっ
たし木甲板を張って船全体を水密・強固にした渡海船が建造された。推進には櫂と帆を
併用するようにしている。」により、日本まで簡単に渡海出来た。実はかつて柳川の人
は明治期から昭和に入ってまでも、柳川では櫓をこいで小さな小舟で朝鮮まで往復出来
ている。戦後では数人だが藤井氏や待鳥氏や新聞で称賛されているが2ッ日もあればつ
いたと言うから驚きだ。帰りは福岡回りで3ッ日〜5日かかったとするが櫓漕ぎを熟練
し天候と湾岸流と波や風などを熟知した者の強さであろう。魏志倭人伝に触れれば対馬
やその他でも米が取れずに船で買い物をしていたと考えてよい記述がある。つまり日常
的も船が使われていたのである。そもそもこの魏志倭人伝そのものが船が無くては書け
ないものだ。大型船の船旅だろうがその他にも小型船でも朝鮮までぐらいの航路はあっ
たと言える。

1051: 名無しさんAA:18/03/17 17:21
 富安君を探せ              < その74 >
島主の宗氏は朝鮮国から「図書」(渡航証明)の使用資格を持っていて、使節や貿易船
を送り続ける事ができた。」とあり、島の代表者は宗氏だが、実際の交渉は、柳川氏の
補佐なしでは立ち行かない状態にあった。柳川調信・智永は調興の祖父と父で外交力は
内外に認められ、宗義調・義智父子を支えていた。朝鮮国から別枠で貿易船を送る権利
も与えられた。その経済力は宗氏をも凌いだが、あくまでも主家を立て、自らは家老の
立場に甘んじていた、それをわざわざ壊したのが調興である。寛永10年(1633)
、調興ははたして「主君の宗義成が朝鮮外交に関する国書を改竄している」と幕府に訴
えただろうか。「文言に削ったり印鑑を偽造したりして、外交を私物化していると申し
出た。」とされるが、そもそもが、それは秀吉の朝鮮征伐後に 家康に朝鮮外交の矢面
に立たされた宗氏の苦慮の策だったはずだ。頑なに敵視する朝鮮に彼を差し向けて、嘘
の文書で丸く収め、09年には己酉約条を結ぶことに成功して朝鮮通信使を再開したの
だった。こうして、貿易を再開したのは家康の命令であった。再開に際しては、通交者
を日本国王(将軍)と、宗氏および朝鮮官職の対馬の者に限定し、対馬からの船数を年20
隻に減らし、寄港地も釜山だけとすることが定められた厳しい内容だったが、ともあれ
この約条交換によって、宗氏は朝鮮外交の実務と貿易を独占を果たしたのである。その
課程で、早く条約を締結したための国書偽造が発覚し、朝鮮側も日本側も公然の秘密だ
った。面白くないのはキリスタン達やキリスタン大名だったと言える。そも伴天連禁止
令にはもし朝鮮征伐のままなら無理があった。海外の舶来品はおろか色んな国外事情の
見聞が無くなるからだ。この2年後には天草四朗の乱がおこっている。更に信長以来に
城が山城から豪華な今の様な城になり藩主は金や米が不足し物流は盛んになっていた。
ちょうどこの頃に海外の南蛮船の大船の到来時代に入っていたのだ。キリストを一気に
排除する事は難しい判断だが取り合えずに禁教とし西洋と敵対しない位で日本人を処罰
し他藩への自由往来を禁止した。その上で出島を作った。実は早くに禁教の徹底しポル
トガル関係を断絶したかった。しかし、現実には、ポルトガルの中国産の生糸などが、
日本にとって必要不可欠で、又オランダへの乗り換えに信頼を不安を感じていて、幕府
が躊躇する中でのポルトガルの対馬占領作戦ではなかったかと思える。こうした中柳川
一件は双方両成敗で柳川氏に処罰が下され柳川調興は罪人となり江戸時代初期の弘前藩
に送られた。罪人とはなっても厚遇された流人だった。しかし幕府はこの為にこれ以降
には、通信使の大手門からの往来は止められ、又朝鮮との交渉役の禅僧の景轍玄蘇を招
聘して公文書管理に朝鮮修文職が設けられた。更に通信使は翌年に、それまで柳川家主
導での対応が対馬宗氏によって招かれる事に変わった。

1052: 名無しさんAA:18/03/17 17:25
 富安君を探せ              < その75 >

しかし、これと同じ様な事件が瀬高大江神社縁起にあるとされる。実は阿比留氏には、
代々伝わったとされる独特の阿比留文字を持ち神代文字の一種がある家柄だが、これは
役職名であった。阿比留職は新羅文字のやりとりだった。文章道(文字博士)として、
大江匡房が大宰権帥(ごんのそつ)に進み対馬守・源義親が密貿易していると告白した。
つまり安倍討伐後に同じ様な事件が過去にもあったのである。源の義家時代康和3年の
(1101年)7月7日、次男の対馬守・源義親が、鎮西に於いて大宰大弐・大江匡房に告
発され、朝廷は義家に義親召還の命を下す。しかし義家がそのために派遣した郎党の首
藤資通(山内首藤氏の祖)は翌康和4年(1102年)2月20日、義親と共に義親召問の官吏
を殺害してしまう。12月28日ついに朝廷は義親の隠岐配流と資通の投獄を決定して義家
兄弟も又悲劇的だった。瀬高の大人形祭の祀られた人形の子孫の話である。対馬の経営
に際しては特に古代から紛争が絶えなかったらしい。特に海外外交の窓口の大宰府政庁
は出来て直ぐに、特にこの英彦山を通じた壱岐対馬との交流とその采配をしていた水沼
大君のいた藤大臣の墳墓とされる高良大社や玉垂れ宮社は厄介な存在だったと思われる
。何故なら京都平安京でも一方で租税措置として朝貢しながら、一方で海外の交易では
三潴の地の方が遥かに古くからの多くのルートを持っていたからだ。対馬などがはじめ
て歴史書に登場するのは知っての通り3世紀頃、中国の三国志時代の「魏志倭人伝」(
ぎしわじんでん)である。「始めて一海を渡ること千余里、對馬(対馬)国に至る。其
の大官は卑狗、副は卑奴母離と曰う。居る所絶島、方四百余里可。土地は山険しく深林
多く、路は禽鹿の径の如し。千余戸有り。良田無く、海の物を食べ自活、船に乗りて南
北に市糴(=交易)す。」と言う文言だ。地に平地なく断崖絶壁が多く、山が深く、道
は獣道のように細いとされ、水田が少なく、海産物を食して糧を得て、朝鮮半島や大陸
と日本本土を小船で行き来して交易をして生活していた。と書かれている。現在の発掘
では、対馬での最古の遺跡は上県町の越高(こしたか)遺跡であるが、紀元前6800年頃
の縄文時代の遺跡とされ、朝鮮半島の隆起文土器と、九州産の黒曜石などが同時に出土
して、その当時から朝鮮半島と九州の間で人・モノの流れがあったことを示している。
恐らくは文献上は一番古い歴史の舞台である。九州には高木神の「鷹」の子とされる佐
賀平野以西の人と「日(火)」の神祇に狗人とされる福岡熊本大分の人、韓半島由来の
為政者によって「隈」とされた神々が南部にある殊に、九州北域の大和域との三層構造
。それが歴史の正体になっている。高良玉垂命が出来た時こうして水縄神社(耳納山神
社)の武内宿禰が、その大和朝廷の臣下になった時戦争は終わったが争いが始まった。

1053: 名無しさんAA:18/03/17 17:37
  富安君を探せ              < その76 >
大和朝廷によって、外国との交渉の窓口として置かれた「大宰府政庁」が置かれたが、
当時は朱の柱に瓦が連なる豪壮な建物が建ち並んでいて、今に尚その立派な礎石が残っ
ている事で事実が知れる。菅原道真が「都府の楼はわずかに瓦の色を看る」と詠んだこ
の地は、本当は気持ちのいい場所ではなかったのかと思う。そしてこの大善寺に来て、
九州朝廷の仕事にリクルートされたのではなかろうか。と北野天満宮縁起では思うのだ
。そこには宮地嶽大社の松の紋章が見え、古代神道の老松宮の神文と同じだからだ。そ
うした疑問があったのか、嵯峨天皇時代に皇子により新たに玉垂宮の社堂が改築され、
大善寺となった当時、離れて鬼塚の前に道祖神が描かれていた為、大正元年に玉垂宮に
合祀された。この一本松(地名)の氏神道祖神とされ、その為陰陽石は、境内の一隅に
鎮座させた。天地間にお互いに反する性質の陰陽の二種の氣は陰陽道の基本である。そ
れが今は韓国国旗の太極旗とされる。道祖神は猿田彦の神とされ、必ずふんどしはめた
猿の束が組まれ猿の股から男根や股袋が見える事が基本とされる。織姫の布が男を包む
。とされた崇拝である。森羅万象は、。月と太陽、男性と女性、雌と雄、生と死の如く
、相互作用によって形成される。という概念は信仰の対象でもあった。人間の社会では
陰の代表が女性の性器である。産みの神、生産の神、受恵の神を崇め敬う幸の神、又は
妻の神の御神徳を蒙り奉らむと、祈願者はその奉賽に男性の相を献じて安産祈願を始め
、子宝授与、商売繁昌、蓄財増畜、生産繁昌の祈願としている。対して社(やしろ)跡
とされる矢留大神宮はちょっと違う。もともとここは五穀豊穣と天気の神様である。北
を向いた鬼門封じの「艮の金神社」(うしとらのこんじんしゃ)の祈祷の神社である。
。実は柳川にはもう一つの蒲船津神社も同じである。つまり箱崎宮に「敵國降伏」の御
宸筆を醍醐天皇が奉じたように、呪詛祈祷の場所だったのである。これは古代神道の流
れであり陰陽道に他ならない。だがこの宮も刀伊の入寇でと見られる賊徒が高麗沿岸を
襲い、対馬・壱岐にも現れた時に焼かれた。この時、壱岐国国司・藤原理忠は賊徒と戦
い、討ち死にして一通り略奪を繰り返した後は北九州に移り、そこで藤原隆家によって
鎮圧されるのだが、その後日を追って柳川もやって来て焼け出されたとされる。その時
、海賊からの矢を防ぐ為、板や筵(むしろ)を海岸に張り廻らせて矢を止めたことから、
この村は『矢留』(やどみ)と地名が付いた云われている。「六騎」が沖端漁業の基礎を
築いたので漁業者のことを「六騎」と呼ぶようになり、また産土神(氏神)を祭るに気
づいた「六騎」の一人は伊勢に参り、半鏡を授かった。するともまもなく、この矢留の
地から半鏡が発見され半鏡とつなぎ合せ不思議なことに一致して、大神宮様のお授けに
なったものである。と確信して、天照大神を奉祀し、再建した。

1054: 名無しさんAA:18/03/17 17:59
  富安君を探せ              < その78 >

 刀伊の船は長さ15m程度で櫂を3〜40も並べ、5〜60人を乗せて非常に速く走
った。上陸に際しては100人程で一隊を成し、皆楯を持ち、前陣の20〜30人は鉾
や刀剣で武装しており、これに弓矢を持った70〜80人が従っている。その類のもの
が十隊、二十隊とそこかしこを荒し回り、牛馬や犬を殺して食う。また、手当たり次第
に人を捕らえては、老人・子供は斬殺し、壮年の男女は船に押し込み、穀物を奪っては
民家を焼き払い、悪鬼の如く乱暴を働いた。例えば壱岐島では、400人の島民が捕ら
えられるか殺害されるかして、残る者わずか35人に過ぎなかったという。 賊上陸の
報告を受けた隆家は、直ちに兵士を派遣し、朝廷からの指示を待たずに兵を上げて博多
の守りを指令した。国家存亡の危機に対して、隆家はいち早く立ち上がったのである。
この兵たちと志麻郡の住人文室忠光(ふんやのただみつ)らが協力して防戦し、賊数十
人を倒して撃退した。無論、文室氏は武士化した在地豪族である。翌8日、賊船は那珂
郡能古島に現れ、隆家は前太宰少監大蔵種材(おおくらのたねき)や平為賢(たいらの
ためかた)などの武士や太宰府の官人たちを博多の警固所に急派して、防御に当たらせ
た。隆家は、自ら軍を率いて警固所に到り合戦したという。しかし京の都では道長がお
じゃるおじゃると言って和歌を詠んでいる時代であって、なんとも有能旺盛な貴公子で
あった。9日にも賊は再び警固所に来襲したが、激しい戦いの末、賊は遂に進み得ず、
船に退いた。翌10日から11日にかけて、海上は嵐となり戦闘も中断した。11日に
、志麻郡の船越津に現れ、12日午後に上陸してきたが、ここには既に兵士が派遣され
て待ちかまえていて、賊を水際で40人を討って退却させた。翌13日、賊は肥前国の
松浦郡を掠め、前肥前介源知(みなもとのしる)の率いる兵と戦って数十人の損害を出
し、そのまま北方へ逃げ去った。武士たちは船で賊を追っていったが、隆家は一方で、
高麗との外交問題に発展することを恐れて、追撃戦はあくまで日本国境内に留め、深追
いまではしなかった。この事が柳川の悲劇だった。豪傑の隆家の冷静さと統率力がその
後の小浜や柳川の戦乱の元だった。かくして4月7日に太宰府が賊襲来の報を受けて、
1週間後は、刀伊は日本海から南下し姿を消した。刀伊の来襲によって生じた被害は、
記録では死者365人、捕らわれた者1289人、牛馬は380頭に、対馬では白鳳以
来の銀坑が焼かれ、民家45軒も灰塵に帰した事になっている。しかし北九州各地でも
焼失家屋は多かった。柳川でも村は全焼失したが、未詳である。しかしもし隆家が適切
な対応をしていなければ、もし太宰府にいたのが隆家でなければ、この国は滅んでいた
かもしれないかなり大がかりな事件で元寇以上のものだったと言える。

1055: 名無しさんAA:18/03/17 18:01

  富安君を探せ              < その78 >

 その後朝廷はこの入冠に大きな被害を得て水軍を用意する。朝廷の水軍となったのが
河野一族である。河野氏は河野郷(旧北条市河野地区付近)を出自とする。当初は国衙
の役人として活動していたと考えられているが、治承・寿永の乱(源平合戦)で源氏に
味方したことで鎌倉幕府の御家人となり西国の部将でありながら大きな力をつけた一族
で、この水軍をの戦いをまねいた事こそが九州の悲劇だった。新羅の流入があり追いか
けて来た大陸の水軍は更に遊牧民を始祖とする鮮卑族をもやって来た。大陸での平安末
期には、大きなフン族の嵐が九州に波状攻撃で常にやって来たのだった。三条天皇の代
に起こったこの事件には、大宰権帥の任命を望んでかなえられ、大宰府に下っていたの
が、藤原道隆の四男(高階貴子を母とする兄弟では次男)の藤原 隆家(ふじわら のた
かいえ)だった。在任中の寛仁3年(1019年)4月、刀伊の入寇が起こったのはその後
である。これに応戦し権帥の任期が終わり帰京した寛仁4年に、都に疱瘡(今でいう天
然痘)が大流行した。と言われる。刀伊(女真族)が大陸から持ち込んだものが隆家に
憑いて京に及んだものと噂された。病名はともかく病が伝染したのは間違いないだろう
。大宰権帥を辞して帰京する折後任は藤原行成に任された。藤原隆家の祖父藤原兼家は
、策略によって安倍の清明に支援した花山天皇を退位させ、娘・詮子が生んだ一条天皇
を即位させた上自身が摂政・関白となった。その後には、息子の道隆にその地位を譲っ
て世襲を固めた。とされる。ここでも恐らく病の流行は止まってはいないと考える。以
後に、摂関は藤原兼家の子孫が独占し、兼家は東三条大入道殿と呼ばれて尊重されたが
、兄藤原兼通との激しい確執があった。とされる又跡を継いだ父藤原道隆も摂政関白太
政大臣・藤原兼家の長男として。甥の一条天皇の即位後は急速に昇進し、娘の定子を女
御として入内させて、後に中宮となしていた。父兼家が死ぬと後を継いで関白となり、
朝政を主導すると言う生粋の貴族だった。病気なったが病気する姿も美しいと言われた
美貌の持ち主で軽口を好み、おおらかで明るい風雅人だった。中関白家の華やかで派手
好きな家風は、道隆の性格によるところが大きいとされ、治安3年(1023年)中納言を
辞退し、代わりに次男経輔の右中弁に昇任させる。900年代の菅原道真時代と入冠後
とは国内は一変した。特に九州の諸将には、海外の残忍な行為や猛威の賊が伝わったか
らだ。そこに病が流行して 防衛に走る姿があった。


1056: 名無しさんAA:18/03/17 18:04
  富安君を探せ              < その79 >

 この非常事態を朝廷が知ったのは藤原隆家らが刀伊を撃退し、事態が落着した後であ
った。しかし朝廷は何ら具体的な対応を行わず、防人や弩を復活して大規模に警護を固
めた弘仁、貞観、寛平の韓寇の時に比べ、ほとんど再発防止に努めた様子もなかった。
この度の隆家らの活躍について、宮中では藤原行成・藤原公任が恩賞不要の意見を述べ
たりしていて全く意に介さなかった。「賞する必要はない」とする論拠は、賊を追い払
えば賞するという命令を出しはしたが、この命令が出された日付には、すでに現地では
刀伊を撃退していて問題が無かったからだ。こうして朝廷は迅速に外敵を退けたことを
称賛するどころか、命令が出される前の闘いは私戦であって、賞するに値しないと貴族
たちは言い募った。結局、藤原実資が反論して恩賞を与えるべきとの結論に達したとさ
れ、一部の豪族武士は昇格をするなどしたようである。しかし褒賞するなら、「司令官
」たる隆家を真っ先に刀伊を退けたと賞していいはずだったが、道長の宿敵であったと
される隆家を賞するべきと言い出す者はいなかった。こうして功績がありながらも隆家
は悲運にも病気になり死んで行った。勿論「この世をばわが世とぞ思ふ――」と権勢の
絶頂にあった道長になびくつもりのない隆家にはどうでも良かったのかもしれない。こ
れより少し前、古代朝鮮半島に栄えた王国新羅では流民や帰化人による犯罪に及び新羅
王の勅命による国家規模の海賊行為が起こった。新羅の入寇である。当時は「新羅の賊
」と呼ばれた。新羅寇とも言う。新羅の国内の混乱により、811年から新羅が滅亡す
る935年までの間に、度々、新羅の賊が日本各地を侵した。これが遣唐使に行けない
原因でもあった。新羅の賊は『三国史記』新羅本紀の記述からは、新羅国内では飢饉や
疫病が発生していた、社会が疲弊していたことが指摘され、755年には新羅王のもとへ
、飢えのため、自分の股の肉を切り取って父親に食べさせた男の話が伝わるほどだった
という。このときに、九州北部をはじめ、日本へ亡命し、帰化した新羅の民が多数いた
。しかし、その移民の数があまりにも多いため、759年、天皇は太宰府に、新羅から
の帰化人に対して、帰国したい者があれば食料等を与えたうえで帰国させよ。とする勅
を出した。しかし数は減らず翌年には、帰国を希望しなかった新羅人131人を武蔵国
に送還した。唐とは友好関係であったが、それ以外の周辺国である日本や渤海などとは
断交していた。一方日本は、渤海とは友好的であったが新羅との仲は険悪であった。三
韓征伐(新羅征伐・遠征)においての神功皇后の存在の証明できないが、三国史による
と、新羅建国時から日本による新羅への軍事的な侵攻が度々記述されている事で、倭国
から新羅(朝鮮半島)への大規模な軍事侵攻があったことは確認できる。

1057: 名無しさんAA:18/03/17 18:12
  富安君を探せ              < その80 >

 持統天皇3年(689年)にも投化した新羅人を下毛野に移し、翌持統天皇4年(690年)
には帰化した新羅の韓奈末許満等12人を武蔵国や、下毛野国に居住させる。霊亀元年
(715年)には尾張国人の席田君邇近及び新羅人74人が美濃国を本貫地とし、席田郡
に移される、天平5年(733年)も続いた。しかし、新羅が国力を高めて、735年(天平7
年)日本へ入京した新羅使が、国号を「王城国」と改称したと告知した、日本の朝廷は
無断で国号を改称したことを責め、使者を追い返した。両国関係は、朝鮮半島を統一し
国家意識を高め、日本との対等な関係を求めた新羅に対して、日本があくまで従属国扱
いしたことにより悪化したとされる。当時、渤海が成立し、日本へ遣日本使を派遣して
いることも背景にあるとされる。翌736年(天平8年)には 遣新羅大使の阿倍継麻呂が
新羅へ渡った。が、外交使節としての礼遇を受けられなかったらしく、朝廷は伊勢神宮
など諸社に新羅の無礼を報告し調伏のための奉幣をしており、以後しばらくは新羅使を
大宰府に止めて帰国させ、入京を許さなかった。また、阿倍継麻呂は新羅からの帰国途
中に病死し、残された遣新羅使の帰国後、平城京では天然痘とみられる疫病が流行った
。当時、この疫病が新羅から持ち込まれたと信じられた。この病変は少なくとも帰国前
前には流行していなかった言える。752年(天平勝宝4年)、新羅王子金泰廉ら700余
名の新羅使が来日し、日本へ朝貢した。この使節団は、奈良の大仏の塗金用に大量の金
を持ち込んだと推定されている。この際は王子による朝貢であり外交的には日本に服属
した形を強く出している。朝貢の形式をとった意図は明らかではないが、唐・渤海との
関係を含む国際情勢を考慮し極度に緊張していた両国関係の緊張緩和を図った。という
側面と交易による実利重視という側面があると分析される。金泰廉は実際の王子ではな
いと一部で出されているが、王子の朝貢を演出することによってより積極的な通商活動
を意図していた説には確証は無い。だが翌753年(天平勝宝5年)には長安の大明宮で開
催された唐の朝賀では、日本の遣唐使大伴古麻呂と、新羅の使者とで席次を争いをし、
意を通すという事件が起こった。この際 唐は日本側の新羅が倭の従属国であった事実
を受け入れて新羅を下位においた。その為この年の日本からの遣新羅大使は、新羅での
景徳王に謁することが出来なかった。この朝鮮半島の異変は日本を大いに変えさせた。
こうして 日本はたびたび大陸の戦乱から逃げて助けを求める者の救世主となっていた
。又その配下になった者の襲撃も多く その為新羅征伐や三韓征伐や朝鮮征伐が行われ
たと推測される。定期的な天候不順が彼らの食料を奪ったからであろうとも推測される

1058: 名無しさんAA:18/03/17 19:06
 天平宝字2年(758年)、唐で安禄山の乱が起きたとの報が日本にもたらされ、藤原仲
麻呂は大宰府をはじめ諸国の防備を厳にすることを命じて、天平宝字3年(759年)新羅
が日本の使節に無礼をはたらいたとして、仲麻呂は新たに新羅征伐の準備をはじめさせ
た。軍船394隻、兵士4万7百人を動員する本格的な遠征計画が立てられるが、この
遠征は後の孝謙上皇と仲麻呂との不和により実行されずに終わった。とされている。が
この頃から九州朝廷は病気に対して盛んに薬師如来の建設をしだした。弘仁2年(811年)
12月6日、新羅船三艘が対馬島の西海に現れ、その内の一艘が下県郡の佐須浦に着岸
した。船に十人ほど乗っており、他の二艘は闇夜に流れ、行方が分からなくなった。翌
12月7日風が止み、灯火をともし、相連なった二十余艘の船が島の西の海中に姿を現
し、これらの船が賊船である事が判明した。そこで、先に着岸した者のうち五人を殺害
したが、残る五人は逃走し、うち四人は後日捕捉した。そして、島の兵庫を衛り、軍士
に動員をかけた。また遠く新羅(朝鮮半島方面)を望み見ると、毎夜数箇所で火光が見
えると大宰府に報告された。大宰府は、事の真偽を問う為に新羅語の通訳と軍毅等を、
直ぐに対馬島へ派遣し、さらに旧例に准じて要害の警備につくすべき事を大宰府管内と
長門・石見・出雲等の国に通知した。弘仁4年(813年)2月29日、肥前の五島・
小近島(小値賀島)に、新羅人110人が五艘の船に乗り上陸した。新羅の賊は島民9人
を打ち殺し101人を捕虜にした。この日は、基肄団の校尉貞弓らの去る日であった。
また、4月7日には、新羅人一清、清漢巴らが日本から新羅へ帰国した、と大宰府から
報告された。この言上に対して、新羅人らを訊問し、帰国を願う者は許可し、帰化を願
う者は、慣例により処置せよと指示した。事後の対策として通訳を対馬に置き、商人や
漂流者、帰化・難民になりすまして毎年のように来寇する新羅人集団を尋問できるよう
にし、また承和2年(835年)には防人を330人に増強した。承和5年(838年)に
は、796年以来絶えていた弩師(どし)を復活させ、壱岐に配備した。弩師とは、大弓
の射撃を教える教官である。弘仁新羅の乱も起こっている。弘仁11年(820年)2
月13日遠江・駿河両国に移配した新羅人在留民700人が徒党をなして反乱を起こし
、人民を殺害して奥舎を焼いた。両国では兵士を動員して攻撃したが、制圧できなかっ
た。賊は伊豆国の穀物を盗み、船に乗って海上に出た。しかし、相模・武蔵等七国の援
兵が動員され追討した結果、全員が降服した。これは、帰化人に口分田と当面の生活費
が与えられたが、彼らはおそらく博多などに土着して本国と違法な交易を目論んでおり
、それを見透かされ東国に移されたことを逆恨みしたものと推定される。と研究者は分
析している。


1059: 名無しさんAA:18/03/18 03:56 ID:XP.
  富安君を探せ              < その82 >

 藤原純友は、藤原氏の中でもっとも栄えた藤原北家の出身であった。大叔父には藤原
基経がいるが、早くに父を失い、都での大きな出世は望むべくも無く 地方官となって
いた。当初の家系は父の従兄弟である伊予守藤原元名に従って伊予掾として、瀬戸内に
跋扈する海賊達を鎮圧する側にあった。しかしながら、元名帰任後も帰京せず伊予国に
土着してしまったのである。承平6年(936年)頃までには既に海賊の頭領となり、伊予
(愛媛県)の日振島を根城として千艘以上の船を操っては周辺の海域を荒らし、やがて
瀬戸内海全域に勢力をのばした。瀬戸内では、平安時代から通航する交易船や物流船か
ら「関銭」を取り、拒絶すると海賊に早変わりする者が沢山いた。因島や大三島などの
小島を根城としていて、因島水軍や、村上水軍などの大組織の海賊であり軍隊であった
民を引き抜いていた。「藤原純友」時代には海賊を知り尽くし、時には蛮勇を働いて、
大きな勢力で海賊退治をしながら頭領となっていた。平将門が東国で挙兵した時呼応し
て西国でも船で挙兵した。共に中央の「名目支配」に叛旗を翻した訳で純友は平の将門
によって兵が少なくなると睨んでの挙兵と思われる。しかし味方の裏切りで殺害され、
期待する効果を挙げる事なく終わった。その後この水軍は源氏について檀之浦で活躍し
その名を歴史に刻むのだがそれは一部だった。戦い方は主に矢戦で接近して相手の船を
沈める方法で、時代背景で源平合戦が船の上で合戦したり、平の将門が東国において兵
をあげるのは当然な事で、何故なら いつ襲って来るかも知れない賊に兵員を要請して
も待機して生活する事とは両立しなかったからだ。又、一度破壊された村落は二度とは
復旧せず、税収は減り続け朝廷の威光も同時に減る結果をもたらしていたからだ。だが
、この時から安富家が分家として成した。六角氏(ろっかくし)は、日本の氏族宇多源
氏佐々木氏の流れで、鎌倉時代から戦国時代にかけて近江国南部を中心に勢力を持った
武家(守護大名)。藤原北家流の公家・六角家とは血の繋がりは無いとされる。佐々木
六角氏はこの壱岐対馬の宗氏と同族の結び紋を家紋にしている。鎌倉時代、佐々木氏の
当主・佐々木信綱の死後、所領の多くは三男・泰綱が継承したが、寛元元年(1243年)
、信綱の長男・重綱の訴えを幕府が容れ、泰綱が嫡流である事は変わりはなかったが、
泰綱は有した近江の所領の一部を失った。近江の所領は兄弟で四分され、重綱と次男・
高信、末子・氏信はそれぞれ大原氏・高島氏・京極氏の祖となり、嫡流の泰綱の家系は
六角氏と呼ばれる。彼らが肥前六角川付近に進出し在住した。柳川市高島の地名は長門
の大内氏と 共にやって来たこの高島氏が祖とされて高島神社があるとされていた。


1060: 名無しさんAA:18/03/18 04:03
  富安君を探せ              < その83 >

「鷹の秦家」=たかはたけは柳川復興の頃は大きな痛手を受けて 対岸の新開氏に頼っ
た。秦家が貿易諸侯なら新開氏の祖先は一緒に来た土木諸侯だった。天武・持統朝以後
、辺地の開発のために移住させられた新羅系渡来氏族の秦氏と同じ自出とされる。秦氏
は農・工技術集団として信濃に入り、佐久・更級・東筑摩地方に広がり、地方豪族とし
て成長した。そして、その一派が武蔵国に移住し開発領主になったのは、平安末期の頃
でその頃から新開氏に変わった。埼玉の豊郷村大字新戒の古櫃神社の『神社調書』には
「祭神、大荒明神、創立年月日不詳、鎌倉右府のとき、秦河勝の末、新開荒次郎忠氏、
この地に要害を築き、祖神大荒明神を勧請し、伝来の武器を櫃に入れ社地の下に納むと
、古老の口碑に伝ふ(後略)」とあり、新開氏が祖を秦河勝と伝えていたことが知られ
ている。新開荒次郎忠氏の頃源平合戦時に「兵衛佐殿に相従いて山に籠りける者は、土
肥次郎実平・同男遠平・新開次郎忠氏・土屋三郎宗遠・岡崎四郎義実・藤九郎盛長なり
」と書かれ、源頼朝の旗揚げに最初から参加していた武士だった。元弘三年(1333)、
新田義貞が挙兵したとき、新開氏は北条高時の弟泰家入道の配下として、新田軍を分倍
河原に迎え撃ったが敗れている。鎌倉時代の終わりごろ、こうして新開氏は武蔵国から
北陸・南海道に逃げて、越中に入った新開氏は土肥氏を名乗り、四国に上陸した新開氏
は足利氏に味方し、のちに阿波守護となった細川氏に配属された。といわれる、新開氏
が阿波に移ってから観応二年(1351)、新開兵衛尉が阿波国牛牧庄雑掌定舜から乱妨を
訴えられたことが知られる。ついで、文和五年(1356)阿波守護細川頼之が新開真行に
書状を送っており、新開氏が阿波富吉庄の地頭職であったことがうかがえ、真行はその
後細川頼氏麾下の腹心の武将になっていた。新開忠氏は土肥氏一族と共に行動し、忠氏
は土肥実平の二男実重を養子に迎えていた。実重が忠氏の養子になったのは、頼朝の旗
揚げ前後の事で。鎌倉幕府成立後、土肥氏は源平合戦の功に対しては播磨・美作・備前
・備中・備後の総追捕使(守護)となり、大きく勢力を拡げた。新開氏も土肥氏の一族
として幕府内に一定の勢力を築いた。だが先の建暦三年(1213)の和田義盛の乱におい
て土肥氏らとともに義盛に味方して半ば潰滅した。その後の「承久の変(1223)」に際
して、新開氏は一族をあげて出陣し、宇治川の合戦において新開荒次郎が傷を負い新開
兵衛が討死したことで、この地に逃げ延びてきていた。こうして秦氏一門は中央では、
追われていった。追い込んで行ったのは鍋島氏であったと言われた。

1061: 名無しさんAA:18/03/18 04:04
  富安君を探せ              < その85 >

 鍋島氏の出自については数多くの諸説あり、不明だが宇多源氏佐々木一族の長岡伊勢
守経秀(つねひで)が、山城国から肥前国小城郡主千葉氏を頼って、下向したことには
じまると伝えている。鹿島縁起ではもともと茨木に住んでいた。茨木の鹿嶋の鹿島神宮
のそこに昔は「鹿島」と言う朝廷の政権の影響地になったばかりの地があったという。
そこで功績を得て佐賀鹿島の地が拝領出来たという。当初鹿島高津原の城内に加島城が
建てられていた。これが初代鍋島氏と言われている。鹿島鍋島藩の初代藩主、忠茂公が
千葉県の佐原市に在るとき、常陸の国鹿島(茨木県鹿島)の鹿島神宮の信仰が厚かった
ことから、加島城に帰ってから祠をつくり鹿島大明神を奉安して鎮守とされたといわれ
、そのことから「加島」を「鹿島」に改め、5代藩主の際に鹿島大明神の石殿を再建。
後世に今の城内に城を移築後に、北鹿島のこの地に鹿島大明神を勧請し、祠をつくって
祀ったという。更に今の祐徳稲荷神社(ゆうとくいなりじんじゃ)の場所は元は鹿島神
社があった所で市が開かれていたという。ところが武人でいながら僧でもあった竜造寺
家によって救い上げられ佐賀城の家臣の重鎮となった事や神仏分離で新たに移築された
。その後に鹿島藩主鍋島直は、後陽成天皇の孫・左大臣花山院定好の娘の萬子媛(まん
こひめ)を夫人として迎えいれ、朝廷の勅願所であった稲荷大神の御分霊を勧請した。
その時萬子媛が嫁ぐ際、父から稲荷大神の神鏡を授けられていた。その後鹿島仏院を、
貞享4年(1687年)石壁山に社殿を建立して、萬子媛は自ら奉仕していたが、宝永2年(
1705年)、石壁山窟の寿蔵にて、断食して入定を果たした。以降、萬子媛の諡名から「
祐徳院」と呼ばれるようになり、祭神の稲荷神とともに萬子媛の霊験により信仰を集め
た。この祐徳院はもともとは仏教寺院だったが神仏分離で祐徳稲荷神社になった。こう
して仏式の行事を廃し、祐徳稲荷神社に改称した。当初は鹿島神社の仏院として祀られ
、その後本宮移転して祐徳院の仏寺の修行院となりその後に神社になった極めて面白い
例であろう。だが安芸の宮島といわれる厳島(いつくしま)神社ももともとは自然崇拝
の仏閣寺院であり今や本寺はその奧の寺である。平安時代末期に平清盛が厚く庇護した
為大きく発展し、今や厳島の中心は厳島神社であり海上に浮かぶ朱の大鳥居と社殿で知
られいずれも国宝になった。この宮島と同じに今や祐徳稲荷神社(ゆうとくいなりじん
じゃ)は、佐賀県鹿島市にある中心神社となった。旧社格は県社だが別名鎮西日光とも
別称され。京都の伏見稲荷大社、茨木の笠間稲荷神社とともに日本三大稲荷の一つに数
えられて、年間三百万人もの参詣者が訪れる景勝地となっている。これは九州の神社で
は太宰府天満宮に次ぐ参拝客数である。

1062: 名無しさんAA:18/03/18 04:39
  富安君を探せ              < その86 >

 佐々木氏は神主系と、守護・地頭系の二家に分かれ、秀定の子行定は神主家のほうを
継ぎ、真野氏を称した またこれらの家は鎌倉幕府に直接仕え、平氏との合戦において
、源氏側で佐々木一族は大活躍をして 所領を貰い一大勢力となった。それぞれ大原氏
・京極氏・佐々木六角氏を名乗ってに分かれた。総領たる六角氏が他の3家を家臣団化
できず、六角氏の近江統一の障害となった。鎌倉幕府の滅亡時は当主・六角時信が六波
羅探題に最後まで味方し、敗れ降伏している。国内の同族の中には、高島氏・朽木氏・
大原氏など奉公衆として幕府の直臣化される者もおり、彼らは幕府からの直接の命令を
奉じて守護の命令には従わなかった。さらに領内には比叡山もあり、室町時代を通じて
その支配は安定せず、六角満綱・持綱父子は家臣の反乱により自害に追いやられ、持綱
の弟で後を継いだ久頼は京極持清との対立の末に心労により自害して果てている。この
六角氏平家退治に安富家がいた。対して逃げて来た平家に藤原北家があり富安氏がいる
。藤原北家(ふじわらほっけ)は、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。
藤原四家の一つである。藤原四家の中では最も遅い時期に興隆し、その結果として藤原
四家の中では最も栄えることになった。祖の房前は元正朝で他の兄弟に先んじて参議に
昇進すると、後に祖父鎌足以来の内臣となり、元正天皇の側近として長屋王と政権を争
った。聖武朝になると、神亀6年(729年)長屋王の変により政権を掌握し、藤原四子政
権でも中心人物として政権を主導したが、天平9年(737年)の天然痘蔓延により他の兄
弟とともに病没してしまう。他の藤原姓の堂上各家もほとんどが北家の後裔である。明
治維新時、137家ある堂上家のうち93家が藤原北家である(他は源氏18家、菅原氏6家、
平氏5家、卜部氏4家、藤原南家3家、清原氏3家、安倍氏2家、大江氏1家、丹波氏1家、
大中臣氏1家)。派生氏族は公家ばかりではなく、武家の道兼流宇都宮氏・小田氏、長
家流那須氏、勧修寺流上杉氏、山蔭流伊達氏、利仁流斎藤氏・加藤氏、秀郷流奥州藤原
氏・藤姓足利氏・小山氏・結城氏・佐野氏・小野崎氏など、主に関東・北陸・東北に勢
力基盤をもった多くの武家氏族が藤原北家の末裔と称した。この六角氏の征伐に向かっ
たの安富氏である。そう此処にもう一つの富氏がいる。どういうことか。それが先の、
神話時代にさかのぼる父系だからだが、この安富氏は、現れては消え消えては現れる。
結構政権の末尾についてまわり、平和期に追放にそそのかされている家系なのだ。富氏
は俗性だったろうが功績で安の一字を貰い富安も安富もつけた。大友についていけば、
加来(かく)氏になったように富来氏にもなった。そもそもが富の小路の震災孤児だっ
たとするのが正しいのかも知れない。

1063: 名無しさんAA:18/03/18 04:40
  富安君を探せ              < その87 >

 司馬遼太郎氏は、「歴史の中の日本」の中で「生きている出雲王朝」と題して出雲民
族について触れている。その中では国譲りの後では、天孫族と出雲王朝との間に協定が
結ばれ、新しい出雲王朝は永久に古い天孫族の政治に関わらないという事を約束した。
とされる。こうして哀れにも出雲王族は、身柄を大和に移され、三輪山裏にに住んだそ
うだ。それが三輪氏の祖先であると記述する。奈良県は元々出雲王朝の植民地的な存在
だったのだが、神武天皇が侵入して、出雲人が耕作を楽しむ平和な土地であったに相違
ない世界が変わる。税が加わったからだ。奈良県人は古来より神武天皇の橿原神宮より
も三輪山の大神神社を尊崇して毎日ツイタチ参りをする。彼らでは「オオミヤはんは、
ジンムさんより先や」という、先住民族の信仰は昔の記憶を現在の奈良人に受け継がれ
いるのかもしれない。三輪山は、山全体を神体としている、古神道の最古の形式を遺し
ている。日本の自然崇拝の祈り初めの形式である。この形式を甘南備山(かんなびやま
)という。出雲でも「出雲国造神賀詞」にはカンナビの話がやたらと出ている。出雲民
の信仰の特徴という。神武天皇は出雲神族と婚姻関係を結び、大和に来た出雲人に三輪
山信仰の祭祀を許したのである。三輪山の祭祀は、付近から発掘された縄文遺跡の陶片
から、2000年以上も遡ることが解っている。神事口伝では、この世界が一夜にして
氷の山になった。祖先のクナトノ大神は、その難を避けるため、一族を引き連れて移動
をした。東の彼方から氷の山を越え、海沿いを歩いた。そうして何代もかかってようや
くたどりついたのが出雲の地であった。(四000年前)クナトノ大神は、いろいろな
知識を持って、先住の人々に、鉄の採り方や布の織り方、農耕の方法などを教えた。糸
は、麻・綿、はたの木から作り、これをクリやシイの実で染めた。出雲人に戦いの歴史
はなかった。人々は生活を良くしてあげることで、自然についてきた。クナトノ大神は
、そうして王に推された。首長は「カミ」と呼ばれた。毎年十月に各国(各地)のカミ
が出雲に集まって、その年の収穫物の分配について話し合った。多い国は少ない国に分
け与えた。この時、我々は祖国を偲んで竜蛇(セグロウミヘビ)を祀るのが習わしであ
った。(神在月伝承)我々の祖国を、高天原と呼ぶがこれは遠い海の彼方だと伝えてい
る。ホヒト族は、次第に上手く良くようになったが、今度は神武が九州から攻めて来た
。勢力を回復していた我々は穴門(長門)で迎え撃った。神武は、防府、河内、熊野な
どで6人死んだが七人目の神武は強かった。人々は「カラの子」と呼んでいた。

1064: 名無しさんAA:18/03/18 04:43
 富安君を探せ              < その88 >

 朝鮮からヤタガラスが神武の味方ににつくと彼らは和解すると見せかけては、次々と
出雲人を殺していった。まことに陰険であり、残酷であった。王のトミノナガスネ彦は
傷つき、大和を神武にゆずって出雲は退いた。この王は出雲で亡くなった。神武は橿原
(かしはら)で即位し大和の王となった。出雲人は又、大和。出雲、北陸、関東、東北
などに分散させられた。神武から数代の王は、出雲の王家の娘を妻に迎えた。反乱を防
ぐ目的があったためでもあった。---(縄文時代の終了時代)上記神話と比較すると、
非常に近いそして確かに皇后は出雲から嫁いでいる。初代神武天皇(神話時代の天皇)
伝説上の天皇とも言われていますが、実在説も少数ながら存在する。------
 神話では、神武は天孫族の裔(すえ)である彦波瀲武鴨か草葺不合命(ひこなぎさた
けうかやふきあえずのみこと)と、竜宮竜族の娘である玉依姫(たまよりひめ)との間
に生まれた。当初は九州の日向国(ひむかのくに)を治めていたが、葦原中国(あしは
らのなかつくに)の統治を目指して東上し、難速国(なにわのくに)からの上陸を試み
た。しかし土豪ナガスネヒコの抵抗により断念し、紀伊半島を迂回して新宮から上陸。
熊野経由で大和をめざし、天照大神から降された神剣や高木神から遣わされた八咫烏の
助けを得て大和に盤踞(ばんきょ)する荒ぶる神たちを平らげ、畝火の白檮原宮(しら
かしはらのみや)(畝傍山の東南の橿原の宮)で即位した。皇后の父は、「日本書紀」
では事代主命、「古事記」では大物主神。なぜ、一つしかない歴史の話が違うのか腹立
たしいのでありますが、いずれも出雲の神でありともに大和盆地に祀られている。2代
目の綏靖天皇の皇后も事代主神の娘「五十鈴依媛命」(いすずよりひめのみこと)3代
安寧天皇は記紀には具体的なエピソードは何もない。皇后はやはり事代主神の孫の鴨王
(かものおおきみ)の娘「淳名底仲媛命」(ぬなそこなかつひめのみこと)を后として
いる。4代懿徳天皇はなんと兄弟の息石耳命(おそきみみのみこと)の娘「天豊津媛命
」を后に迎えている。富氏族は、出雲神族は神代文字を用いていました。神代文字は「
あらはばき」の記事の中で写真をUPしています。サンスクリットでも、象形文字でも
なく、パピルス状のものに、縦書にされていた。永く富家で保管していたが、大正15
年に帝室博物館が借り出し、いまだ返済しないといいます。解読され発表されればまだ
我慢できるが、行方不明らしい。公開できない理由があるのか元教授の家にでも眠って
いるのか不明だ。この時のトミノナガスネ彦は負けて死んだが他は臣下となった筈だ。


1065: 名無しさんAA:18/03/18 05:05
  富安君を探せ              < その89 >

 クナトの大神伝説は、「日本書紀」では「岐神」、「古事記」では「衝立船渡神」で
出雲井神社には「久那斗大神」として祀られている。「我々の大先祖は「クナト(岐神
」)の大首長だがもう一つの女首長に「アラハバキ(荒吐神)」があり、体制側によっ
てこれがこれが抹殺されようとした時、クナトは「地蔵」に「アラハバキ」は「弁才天
」へと変身したが。アイヌ語で「クナト」は男根、「アラハバキ」は 女陰の意味で本
来は一対のものだと言われているそうだ。これは、倶知安のアイヌの酋長菊池俊一夫妻
の学説だ。クナトノ大神は、幸の神、寒の神、道祖神、道陸神(どうろくじん)とも呼
ばれている。久那斗神社で検索すると一件だけ岩手県北上市和賀町の山に存在するが、
やはり道祖神のようだ。クナトは「狗那人」で天狗の海人でアラハバキは「阿羅覇場鬼
」で新しい山の住民では無かったかと思う。「アラハバキ」については時代的には律令
国家が出来る以前の話で、アラハバキは鉄の神様と言われる。出雲大社の御神体は釜で
あり、鉄に関わる。出雲神族が氷の山を越え現在の地に根付くまで行ったのは、塩釜で
塩作りを教えることだった。多賀城の荒脛巾神社は塩釜神社の末社だと言う。しかし、
鹽竃神社より荒脛巾神社の方が古い縁起がある。アラハバキは旅をして「迂回する神」
という性格がある。出雲国島根郡爾佐神社境外社事実「荒神社」はマロトさんと呼ばれ
ていた、という。マロトとは 門客人のことで、門客神とは、「客人神(まろうどがみ
)」のことで、「客人神」は地主神がその土地を奪われて、後からやって来た日本神話
に登場する神々と立場を逆転させられて、客神となったと考えられている。「あらはば
き」は言語的にはアイヌ語に照らし合わせたら、これは行く(発つ・出発する)・首領
(頭)などの意味になるらしい。博多=ハクト=長脛族=出雲人であった事は歴史的な
文献で歴史的事実とされる。その中で富一族は、占いのト部の一族や歴や暦博士の安倍
一族それを伝えて祭りを祭祀する加茂一族と同じ種のうらないや吉凶を提言する種族だ
った様だ。ここで謎がある。ではこの出雲族は、鉄器を持ち先進文化を持ち込んだ新羅
や百済或いは宋などの渡来民族であったのに、この旧来の天狗の比子や日子族或いは、
木山や鬼耶麻族に何故負けて譲歩したのか。通常鉄剣文化は青銅文明を征服するのが常
である。だがそれが日本文化の常だったのだろう。江戸期に鉄砲から刀文化に戻った様
に平和の中で彼らは青銅文化に戻り一方で他が鉄器に変わっていた。それがカンナビの
名に秘んでいる。神の頂点として平和を勝ち得ていたのだ。ではなぜこの渡来民は軍団
でなかったのか。大陸の方が、遥かに人が多いというのに。それは壱岐対馬からの移住
者だったと考えられる。

1066: 名無しさんAA:18/03/18 05:06
  富安君を探せ              < その90 >

博多人=長脛族=胸肩氏=宗像氏であり骨格の出来た大陸人だった。彼らをだまして、
隠れて、壱岐対馬の海人は博多を避けて出雲に住んだ人達であったのだ。粋や域の民で
南洋からの人達だったと思われる。だからこそ高い高い櫓の様な社を崇めて、常に島外
を見張り外敵や侵略者を恐れ銅鐸で連絡を取っていた人達だったのである。連れてきた
のが呪術師の富氏だった。要は移住して安心して暮らせれば良かったのである。朝廷に
羽向かう事無く組み込まれても、政権を作らないと言うの南洋人にとっては、当然の事
だった。先の壱岐若彦の話や菅原の道真の天神様の物語の中でも宮地獄神社起伝の松木
氏の話でも 祭祀者は彼らの一族であり天皇の剣持ち的役割であったと思われる。鉄剣
は強かったが戦がない限り無用の長物で雷の落ちる素だったと考えられる。平安時代の
初期に成立した日本最古の仏教説話集『日本霊異記(にほんりょういき)』の話には、
雷(いかづち)を捉(とら)へし縁が説話に載っている。
 「少子部(ちいさこべ)の栖軽(すがる)は、泊瀬の朝倉の宮で23年の間、天下を
治めた雄略天皇の護衛の武官で、腹心の従者であった。天皇が磐余の宮にお住まいにな
られたときに、天皇が后と大安殿で寝て婚合しなさっているときに、栖軽が知らずに参
り入ってしまった。天皇は恥ずかしくなって行為を止めた。丁度その時、空で雷が鳴っ
た。そこで天皇は栖軽に「汝は雷をお迎えして来られるか」とおっしゃった。栖軽は答
えて「お迎えして参りましょう」と申し上げた。 天皇は「ならばお迎えして来い」 と
お命じになって、栖軽は勅命を奉って宮殿から退出した。緋色のかずら(髪飾り)を額
に付け、赤い旗を付けた鉾を捧げて、馬に乗り、阿倍の山田の前の道から豊浦寺の前の
道を通って走って行った。軽の諸越(もろこし)の町中に着くと、叫んで「天の雷神よ
、天皇がお呼び奉る」と申し上げた。そして、ここから馬を返して走りながら「雷神と
いえども、どうして天皇のお呼びを聞かないことができようか」と申し上げた。走って
帰るときに豊浦寺と飯岡との間に、雷神が落ちていた。栖軽はこれを見て神官を呼び、
雷神を輿に乗せて宮殿に運び、天皇に「雷神をお迎えして参りました」と申し上げた。
そのとき、雷は光を放って照り輝いた。天皇はこれを見て恐れ、雷にたくさんの供え物
を奉って、落ちた所に返させたという。そこを今でも雷の岡(いかづちのおか)と呼ぶ
。とある。これは「いかるがの里」の命名伝記であり先住民を平らげた話ではなかろう
かと思っている。

1067: 名無しさんAA:18/03/18 05:09
  富安君を探せ              < その91 >
 雷の岡は古京(飛鳥の都)の少治田(おはりだ)の宮の北にあるといわれている。物
語はまだ続く。「その後、栖軽は死んだが、天皇は、勅を下して遺体を七日七夜お留め
置きになって、彼の忠信を偲んで、雷の落ちた同じ所に彼の墓をお作りになった。彼の
栄誉を長く讃えるために碑文の柱を立て、そこに「雷を捕まえた栖軽の墓である」と記
した。これに雷が憎み恨んで鳴り落ち、碑文の柱を蹴り踏み付けた。ところが、雷はそ
の柱の裂けた間に挟まれて捕らえられてしまった。天皇はこれをお聞きになって、雷を
放したので、雷は死なずに済んだが、雷はほうけて七日七夜地上にとどまっていた。天
皇は勅命を下して、再び碑文の柱を立てさせ、「生きているときも死んでからも雷を捕
まえた栖軽の墓である」と記させた。いわゆる古京のとき、そこを雷の岡と名づけた話
の起こりは、このようなことである。」
 以上が日本最古の仏教説話集の第1話。これは仏教の因果応報譚ではなく、神話的な
話である。天皇の交合が雷を呼んだのか。雷は天と地の交合であり、それによって稲穂
が実ると昔の日本人は考えていたし現実的には電気の刺激が育成に関わる事も解ってい
る。天皇と后の行為は農耕の豊穣を祈るための儀式であったとも考えられている。この
出雲族は習慣として高い高い社を作る事をお祭りとしていたはずだ。現実的に大木を3
つ束ねて柱を建てて、多くの木々より高い御社を作っていた事が近年の発掘調査で判明
している。こうした高い所に銅鐸をぶら下げ 御殿の中に銅鏡を飾って民衆を従えてい
たと考えられる。一つの威厳である。だがこれでは雷を寄せ付けるような避雷針の役割
を持つのが近代科学の常識である。雷と言うのは名もなき先住民の反乱部隊であったと
考える事も出来る。急に鉄器人が奈良の大和朝廷に従え。と言っても無駄だったろう。
しかし稲作を教えそれを高い倉に入れ人々に施しをして言語が通じたら話は別だ。この
神殿はその長がいるところで臣下たる少子部(ちいさこべ)の栖軽(すがる)はその神
事の担当者で天皇はその用心棒の様なものだったのかもしれない。とすれば相当古い、
奈良盆地の開拓先史としての話かもしれない。おまけのもう一つの神話和歌山県田辺市
秋津町1554にある豊秋津神社(とよあきづじんじゃ)にまつわる話。豊秋津神社は古く
は雲ノ森明神社といいました。ある夏の日、激しい雷雨があり、村の方々に落雷の被害
が出た。このとき、雲ノ森明神社の森にも雷が落ちた。これに激怒した雲ノ森の神様は
、地上に落ちてころがっていた雷を捕まえて縛り上げてしまった。「今後2度とこの里
に落ちないと約束するならば放してやるが、さもなければこのまま天には返さない」雷
は仕方なく「今後2度とこの里には落ちません」と誓約して、やっと天に帰ることがで
きた。それ以来、この里に雷が落ちることはなかった。と言う

1068: 名無しさんAA:18/03/18 05:17
富小路家(とみのこうじけ)は、藤原北家流の堂上家で元来は九条家の諸大夫だった。
富小路俊通が二条家の庶流を称する形で従三位に昇ったことが始祖だ。富小路俊通の子
富小路資直が従三位となり昇殿を許可されて以後、堂上家の一員となる。家格は半家。
堂上家(とうしょうけ、どうじょうけ)は、公家の家格の一つ。御所の清涼殿南廂にあ
る殿上間に昇殿する資格を世襲した家柄。また、公卿になれる家柄。同時に上級貴族と
も呼ばれる。だがこの富小路家はただ単に富氏がいた通りにあった藤原北家であったか
らだ。富小路は実は通りの蔑称であった。そこは新しい体制での端境を意味していて、
当時まだ乞食やかっさらいが多く紛争の絶えない所に面倒をみる者の所を富者と呼んだ
事からそういった。現実は普通より劣るくせに貴族張っている所が気に食わなかった人
がそう呼んだのである。事実彼らは何がしかの末裔ではあったが栄誉も権力も地位も富
も持たなかった。権力者が変わったからでは無く変わる事についても行けなかった。か
と言って、前代でもそう能力が高くなかった為捨てられていたからだ。この境目あるい
は異端者異教徒と言う境目の民は常にいた。しぶとく野を開き時の運に任せて生き抜い
ていた。時流に叩かれながらも時流に乗る事も無く熱狂の庶民でもなく冷ややかに耕し
食を得ていたのだ。それが富氏の流れだった。紀伊の国にはそうした者が沢山いた。実
は江戸時代になって大きな事件が一つ起こった。延宝七年(一六七九)、当時、江戸の
出版界では知られる存在だった戸嶋惣兵衛の店から、不思議な本が出版された。それは
『神代皇代大成経』という総題が付された一連の神書であり、神儒仏一体の教えを説く
ものであった。序文によると、その由来は聖徳太子と蘇我馬子が編纂し、太子の没後、
推古天皇が四天王寺、大三輪社(大神神社)、伊勢神宮に秘蔵させたものの復刻である
といい、さらにその原史料となった文書は、小野妹子と秦河勝が、それぞれ平岡宮と泡
輪宮で、神から授けられた土簡(タブレット)に刻まれていたという。古書の書き写し
だった。浮世絵師が出る頃で、日本でも木版による出版業界が出来ていた。これらは、
江戸のポスター的多色刷りをして大きくなる版木屋と対抗する為、貸本を基準に一色刷
で江戸をしのごうとする対抗策の書だったと言える。これには五部書が発刊された。『
先代旧事本紀大成経』『造伊勢二所太神宮宝基本紀』『皇太神宮儀式帳』などであった
。これは人気を博した。が厄介な問題を孕んでいた。『大成経』の本格的刊行が始まる
前に、延宝三年、経教本紀の中の「宗徳経」、翌四年には同本紀の中の「神教経」が刊
行されていて信用があった。延宝三年には、憲法本紀と同じ内容の本が『聖徳太子五憲
法』と題しても刊行されたが旧知と違っていた。版元はいずれも戸嶋惣兵衛であった。


1069: 名無しさんAA:18/03/18 05:47
  富安君を探せ              < その93 >

 これらは今で言う九州朝廷の成り立ちと言われる古式神道の統記がかかれていた。殆
どに、古事記、日本書記と同じだったが、若干の記述の違いが大きな意味を持っていた
。時の朝廷の進める形と違う物になっていたのだ。これらは物部神道(もののべ しん
とう)とされ、『先代旧事本紀大成経』の思想を基とする神道で大成経神道ともい名に
なり神・儒・仏を調和した神道とされた。こうして江戸期に大きな発禁大焚書事件にな
った。その五部書の一つの、『造伊勢二所太神宮宝基本紀』だけをとってもやっかいな
記述があり、それによると、往古より朝廷が伊勢神宮に祭祀用の土器を納めるに、内宮
・外宮・別宮と別に、「斎宮親王の坐す礒宮」にも八十口を納めたという記述があり、
今の解釈とは全く違っていた。古伝では、斎宮の礒宮は内宮や外宮と同格の社で大切に
されていた。さらに伊勢別宮の一つに伊雑宮(現三重県志摩郡磯部町)という神社があ
ったが、この社は『延喜式』や『皇太神宮儀式帳』では天照大神の遥宮とされ、祭神は
天照大神の御魂とされる。「遥宮(とうのみや)」とか「いそべさん」とも言われてい
る。しかし『倭姫命世記』ではこの宮の祭神を天日別命(伊勢国を開いた神)の子で玉
柱屋姫命としており、天武天皇をも祭神とするという説も出される疑問の多い神社であ
った。しかし、この伊雑宮(イザワノミヤ、イゾウノミヤ)という名は礒宮ともされ、
大問題が生じることになるのである。これまでも何故だか伊勢神宮からや九鬼水軍やら
から度々攻撃されていた。だがここに粘土で作られた石板の古文書があり、壊されたり
五芒星の社紋や誰も読めない文書が伊勢神宮から焼かれたりして歴史を刻んできていた
。伊雑宮の神人(守護の信者)は、所領回復のために明暦四年(1658)、「伊雑宮こそが
日本最初の宮で、のちに内宮ができ、次いで外宮が鎮座したので、内宮、外宮は伊雑宮
の分家である。」という主張して、藩に再建願いを出したのである。これを受け、もと
もと十別宮の一つである伊雑宮の事など全く歯牙にもかけていなかったし 本宮社とは
関係ない別宮であったが、伊勢内宮は、皇祖、天照大神鎮座社の地位を奪われかねない
事態の発生には、看過してはいられない事情になったのである。元号は変わった同じ年
の万治元年(1658)、内宮は上申書に添えられた証拠の神書を偽作と訴えて反撃に出た
。こうして、朝廷の裁定を仰ぐまで程の大事になった。朝廷側は、これまでも伊勢神宮
との相互の支援のもたれ合いをしていて、その申し出に「伊雑宮は内宮の別宮で、祭神
は伊射波登美命」との裁定が簡単に下された。


1070: 名無しさんAA:18/03/18 05:48
  富安君を探せ              < その94 >
 勝つ筈のないこの訴えは、その結果として、寛文二年(1662)幕府は伊雑宮を内宮別
宮の一つとして新造再建することで収める事にした。しかし、伊雑宮の神人たちにとっ
てそれは全く承伏できないことでもあった。他の権利者に神文粘土版が収まる事は承服
出来ないからだった。今度は四代将軍家綱に直訴に出た。しかし結果は最低だった。寛
文三年(1663)、直訴の連判の神官四十七人の神人が「偽書提出」の罪によって、伊勢
・志摩からの追放処分にあった。更に大成経などは、偽書と断定されで発禁処分と焚書
としての廃棄を求められるに至ったのである。つまり真実を願う熱意は混乱を嫌う体制
に押さえられたのである。此処で神文粘土版も廃棄された。こうして、偽書と断定され
今日まで来ているが、この本の著者は署名こそないが潮音がつくったとされる。延宝三
年に、憲法本紀と同じ内容の本が『聖徳太子五憲法』と題して刊行され、版元はいずれ
も戸嶋惣兵衛であり、作者が潮音(ちょうおん)だったからだ。偽書として彼の弟子や
知り合い版元や神官や信者の120人位がそれぞれに処罰の対象となった中で、潮音は
黄檗宗(おおばくしゅう)の高僧だった為減刑された。江戸時代の川柳には「山門を出
れば日本ぞ茶摘歌」という句がある。これは門をくぐっては別世界で日本かと思われた
が茶摘みの歌が日本語だった。と言う異和感を伝えた川柳であったのだ。黄檗山万福寺
は京都の宇治にあって、日本の中の異国とも言うべき不思議な空間であった。そこでは
隠元以来、歴代の住持を中国から招く慣習があったからだが。その頃で日本人が住持に
就任したのは、ようやく元文五年(一七〇四)の第十四世竜統元棟の代になってからで
ある。『大成経』偽作者の一人と目された潮音は、『総合仏教大辞典』(法蔵館)に次
のように記述してある。ちょうおん 潮音(寛永五年1628から元禄八年1695)
黄檗宗の僧。肥前小城郡の人。号は道海また南牧樵夫。承応三年(一六五四)に長崎で
隠元に会い、寛文元年(一六六一)黄檗山にいたり、隠元・木庵に師事した。上野館林
の藩主の帰依を受け、万徳山広済寺を開いて第二世となる。儒典を究めて神道を学び、
開山となること二十余カ寺、受戒者一〇万人余と伝える。著書、指月夜話七巻、霧海南
針一巻などを書くと。この潮音は真理を求めていた可能性が高く、逆にその為に仏教に
至り彼は神道も古神道も黄檗宗も関係が無かったではないだろうか。事実黄檗宗は普化
教と共に仏教では異端極まる仏教だ。その為、万福寺では、法式儀礼をすべて中国式に
よって行い、言葉も寺内では中国語を用いるしきたりがあった。先の川柳はその万福寺
の異国性を、有名な茶処である宇治の風景と共に詠みこんだものだった。当時は歴史と
宗教は一体で時の体制すら一体だったので、彼の歴史家としての追求と公表が絶たれた
のは当然だった。

1071: 名無しさんAA:18/03/18 06:01
  富安君を探せ              < その95 >

 かつてバチカンの聖書はローマ帝国によって編纂された。欧州の中でも方々で異端書
の摘発と焚書事件は起こった。それはことある事に、時の支配者や権力者や庶民との争
いであった。諸侯と帝国管理者の聖書の権威者と司祭と地方技官更に庶民と異端とされ
た正当な警護者と大衆宗門と更に宗派の違う宗教。それぞれがそれぞれと戦い傷ついて
死んで行ったのである。その姿は昔も今も変わらない様に、日本でも神道でも起こって
いたのである。黒い人々日本で言う忍者の存在や諜報者や工作者は何処の国にもあった
。例え民主主義と叫ぶ今の米国でさえも国民の指導と国の安寧は欠かせないものだった
。ここに富氏一族がいた。江戸時代に見つかった粘土を焼いて作った文書の原本の多く
は今やない。又見つかったとしても通常の人には日本語には見えない文字だったとされ
る。「伊雑宮」の社殿が朽ちて廃屋を守っていた信者は、伊雑宮の神庫を整理していて
発見され、神道の永野采女(うねめ・男性)を呼んで発見された。忌部(いんべ)氏と
ト部(うらべ)氏らが作ったとされた土文書は、この社に太古から神の魂霊として密封
されて御神体となっていた。と言う。こうして約50個の土簡(はにふだ・タブレット
)が持ち込まれ、解読に潮音などの海外文字や梵字を知る仏僧まで呼ばれた。その書は
初期の天皇は龍蛇族の特徴を備えていたと言う記述や五芒星のマークなどユダヤ教の匂
いが残っていた。とされる。延宝7年(1679)、江戸の書店で『先代旧事本紀大成経』
(七十二巻本)と呼ばれる書物が出され時、この大成経の内容が大きな話題となって、
学者や神職、僧侶の間で広く読まれるようになった。大成経の内容は伊勢神宮別宮の地
位でない伊雑宮こそが本宮である事を示し、幾つかの神職が主張して、伊雑宮が日神を
祀る社であり内宮・外宮は星神・月神を祀るものであるという説を裏づけるものである
ことの理由になっていた。こうして内宮・外宮の神職はこの書の内容について幕府にも
詮議を求め追い詰めた。天和元年(1681)幕府は『大成経』を偽作と断じ、禁書として
、その版本を回収し、戸嶋惣兵衛は追放、この本を版元に持ち込んだ神道家・永野采女
と僧・潮音や道海および偽作を依頼したとされる伊雑宮神官は流罪とし、関係者は雑言
流布の罪にかけられた。こうして『大成経』事件は一応の終結を迎えた。潮音は時の将
軍・綱吉の生母、桂昌院の帰依も厚い高僧であっため、彼は特に罪を減じられて、謹慎
五十日の上、上州館林の黒滝山不動寺(群馬県北甘楽郡磐戸 村)に身柄を移された。


1072: 名無しさんAA:18/03/18 06:30
  富安君を探せ              < その96 >

 こうしてこの本は当時、大変な反響を呼んだが貸本屋や売本とならず吐き捨てられた
。原本から取ったとされる天皇家の始まりを聖徳太子が編纂させた「先代旧事本紀大成
経」72巻はそうして消滅して行った。伊勢神宮側の猛反発で「先代旧事本紀大成経」
は禁書とされ、出版書店主は追放、永野采女や伊雑宮の神官らは流罪となり、更に又、
伊雑宮の扱いはかなり低いものになった。だが元々天照大神を祀っていたのは伊雑宮で
あり、その後に内宮・外宮が造られたと言うのは、あながち間違いではない。三井財閥
の三井家はその寄付の関係から、「三井文庫」に保存されている「伊勢両宮之図」の中
には、伊勢神宮の内宮と外宮の正殿はそれぞれ斜めに3つずつ描かれていて、古代にお
いて、神社はどこも正殿は3つあり、心御柱に相当するものとして三柱鳥居があったと
の事が記されていると言う。この三つ柱の鳥居の風習は古神道の二元論のしきたりでも
ある。又伊雑宮の御田植えの祭りの日には7匹の龍が、的矢湾から、川をさかのぼって
伊雑宮の大御田橋まで上がってくるという言い伝えもあり、津波の記録さえ残る。謎の
多い古い宮である事は確かの様だ。伊雑宮は縮小され、こうして表の世界から隠されま
しまったが、造営時から内宮や外宮より格上とする宮だった。とされては不都合だった
。この寄進にも、藤原不比等が関わっていた。彼の後ろには八咫烏がおり、日本の未来
に伊雑宮が重要な役割を果たす事が分かっていて、それまでは世界からこの宮を護るた
めに封印し小さな宮にしたものと思われている。「伊雑宮」は「いさわのみや」とも、
「いぞうぐう」とも呼ばれている。伊雑宮は伊勢神宮内宮の「別宮」の一つで伊勢神宮
からは遠く離れた志摩の磯部にあることから、「遥宮(とうのみや)」とか「いそべさ
ん」とも言う。しかし元伊勢と称する神社は27ヶ所もある中で、「本伊勢」と称した
神社は籠神社と、この伊雑宮しかない。そのどちらも裏社紋はカゴメ紋・六芒星であり
籠神社の奥宮の天真名井神社に立つ石碑には、かつてこのダビデの星が刻まれていて、
伊雑宮の鳥居の前にも六芒星を刻んだ石灯籠があったとされる。しかしあまりに噂にな
って違うものに変えられてしまった。本宮の指示や忖度もあったのだろう。籠神社と伊
雑宮は対称を示し紀元前の随分前に出雲の国を作った後、諏訪を平らげて、天照大神の
大和における最初の御神体の上陸地点は籠神社であり、最後の鎮座場所は伊雑宮だった
。と言う。伊雑宮にも内宮・外宮と同じように地下宮に心御柱に匹敵するものが存在し
十字架の上に掲げられた「罪状板」といわれるものがあったとされる。


1073: 名無しさんAA:18/03/18 06:30
  富安君を探せ              < その97 >

 この大成経では、縄文の晩期から弥生の初期に大陸回りで、または南からは海路で日
本列島に渡来して来たのが弥生文化の起こりとなった。その中の一団が富氏一族とされ
、その後、少し遅れて朝鮮半島経由で出雲に渡来したのが須佐族であり、南九州に上陸
したのが日子のいわゆる天孫族だった。この九州勢力の天孫族が出雲侵入の先遣隊とし
て一足早く出雲入りしたが、長髄彦の族が追った。この神話が史実かどうかはわかりま
せんが時代が下がってからの出来事を反映しているかもしれない。こうして基本的には
大和を平定した長髄族は博多まででそれより南部は日子族が固めていた。そこで先住民
の富族は追われて紀伊半島に逃げた。と言う事らしい。その後その長髄彦は二つに割れ
一つは蝦夷地に行き一つは日子と協定を結び大和朝廷を作ったとされる。その後神功皇
后が新羅征伐に出るのに一方の長髄族と日子の族を従えて行ったが新羅との戦いよりは
大和朝廷で日本を一体化させる事が目的だった。これにより神話が編纂されたが過去を
守って来た富族の伝承は捨てられてつくられた。と言うもののようだ。江戸時代初期、
伊勢神宮別宮の伊雑宮の神職が「伊雑宮が日神を祀り、内宮・外宮は星神・月神を祀る
ものである。」との主張はこの別宮が日子族の神社で、伊勢神宮は長髄彦の暗き祓い神
の為に鏡を祭る事になっていて、今に至ったというのである。先行民族だった。と言う
富氏は出雲から長髄彦の後に分かれた同じ一族の応援を取り付けた。その功で安寧の「
安」の字を貰った。が、その後の新羅征伐では意見が対立し富安氏と安富氏とに分かれ
た。富安氏は紀伊の土地に残ったが安富氏は東北や諏訪に行ったとされる。安富氏は、
鎌倉時代中期以降に幕府奉行人として現れ、安富長嗣・行長・高嗣ら一族の奉行人とし
ての活動は室町時代初期まで史料に残る。応永年間以降に史料に細川京兆家の重臣の、
(内衆)として現れ『相国寺供養記』では明徳3年(1392年)の相国寺落慶法要に際し
ては、細川頼元の「郎党二十三騎」として安富安芸守盛家・又三郎盛衡父子が供奉して
いるとの記述がある。盛衡の子と目される盛長は1460年頃に雨滝城を築き、一族は東讃
7郡を治める讃岐東方守護代を世襲していた。応仁の乱においては細川勝元の重臣であ
った安富民部元綱や弟の盛継らの一族が活躍した記録が諸史料に見える。細川政元の重
臣であった安富元家は、長享・延徳の乱における政元の六角高頼討伐に際して近江守護
代を兼任し、一時は政元の政務を代行するなど活躍した。惣領以外の一族も盛行が摂津
西成郡守護代を、盛光が備中守護代をそれぞれ務めるなど細川氏領国における守護代や
代官を広く務めた。しかし、政元暗殺後の細川京兆家の内紛と混乱に続く衰退とともに
安富氏の勢威も衰え、戦国末期には長宗我部元親に雨滝城を落とされ没落した。

1074: 名無しさんAA:18/03/18 06:42
  富安君を探せ              < その98 >

 一方の富安氏は、本姓は紀氏とあり、一族も紀姓を名乗っていた明徴がある。戦乱に
巻き込まれたくない富氏族がその地の名前に次々と名乗った。富田氏も現三重県である
伊勢国朝明郡富田荘が起源(ルーツ)であるとされ、桓武天皇の子孫で平の姓を賜った
家系である平氏(桓武平氏)。ほか古代氏族であり、美努(みの)王の妻県犬養(あがた
のいぬかい)三千代が橘宿禰(すくね)の氏姓を与えられることに始まる橘氏や、村上天
皇の皇子具平親王の子師房にはじまる源氏(村上源氏)、宇多天皇の皇子敦実親王を祖
とする源氏(宇多源氏)などにもみられる。元来紀伊半島では「の」を名乗った。野人
の意味で自分達の先祖は余り関係なく「万系一祖」の思想が強かったようだ。つまりは
富安でも安富でもどうでも良かった人達で固執しないのが生きる術としていた。紀氏(
きのうじ)は紀など所伝によれば、孝元天皇の子孫で、武内宿禰の子である紀角を始祖
とするが、この2代はともに母方が紀伊国造家の出自であったとされており、この関係
から紀氏は早くから武門の家柄として大和王権に仕えたらしい。雄略天皇朝の 小弓、
顕宗天皇朝の大磐、欽明天皇朝の男麻呂などが、朝鮮半島での軍事・外交において活躍
したと伝わる。葛城氏・巨勢氏・平群氏などと同じく武内宿禰系の豪族であるにもかか
わらず、大化前代に大臣を出していない。つまり大臣にはなれなかった。境目の下級民
だったからだ。先住民族として後からの帰化人よりも冷遇されていたのである。安富氏
の家紋は丸の内石畳である。これは十字架を示す。これは何を意味するかと言うのは、
海外からの一番乗りを果たした民族がユダヤ教徒に近い存在だったと言う証だろう。祖
先と思われる鎌倉・室町期の幕府奉行人を務めた安富氏が源姓を名乗っていた。安富氏
の出身地とされている下総は摂津源氏と歴史的に関わりが深かった。肥前国深江村での
安富氏の祖である頼清(泰嗣)が名乗っていた「三郎」も安富氏代々の惣領が世襲して
いる。おそらく元来は肥前国南高来郡深江村の安富氏と同族で源頼行の系譜を引くもの
と思われる。住んでる土地が示す様に高麗の人の土地の中である。海の民としての顔も
持っていた。安富氏は幕府奉行人時代は播磨国三日月郷に領地を持っており、同じ紀姓
を名乗る播磨の浦上氏とは、浦上則宗の養子に安富元家の子とも目される祐宗が入るな
ど室町時代を通して親密であったことから想像するに、堀田系図に「盛家が安富を嗣ぐ
」との記述があるように、本来は清和源氏頼光流だったものが、なんらかの理由で系譜
が断絶し浦上氏から跡継ぎを迎えたなどの関係があったために紀姓に変わったものとも
推測される。つまり富安氏そのものがどんどん婿入りし名を変えたと言える。下級市民
だったからだ。

1075: 名無しさんAA:18/03/18 09:35
  富安君を探せ              < その99 >
 菊池氏も元々地場の豪族で名も無い民だった。しかし遥か昔から横穴時代からの先住
民であり全く名がなかった訳では無かったろう。博多は時々大火になり町が無くなった
が古代から「はかた」は「はくと」の地で「長髄族」の地とされた。白徒というから、
幾分白かったのかも知れない。この博多が襲われる度に菊池氏は遠征して守りに行った
。かつて日子族と鬼族の戦いでも日子族が勝った伝承もこの菊池氏族は随分加勢に出た
からである。「魏書東夷伝」に登場するのは狗古智卑狗(くこちひくがは、狗奴国の官
として王卑弥弓呼より先に記されている。狗奴国の実権を握っていたとも考えられる。
その名前より「菊池彦」に通じるとし熊本県菊池郡との関連を指摘する説がある(倭名
類聚抄には「菊池」と書いて「久々知(くくち)」と注釈されている)。とある。勅撰
史書『続日本紀』には、文武天皇二年五月甲申に「令大宰府繕治大野基肄鞠智三城」(
太宰府をして大野・基肄・鞠智の三城を繕い治めせしむ)の記述がある。奈良東大寺が
大宅賀是麻呂(おおやけの かぜまろ)から進上された61名の奴婢を記録した『奴婢帖
』の中には「右京四條四坊戸主鞠智足人」の名が見える。つまり鞠智(くくつ)がきく
ちに変わったのである。大宅可是麻呂は奈良時代の大和国添上郡志茂郷の、のち大宅郷
の戸主とされ、東大寺東南院文書中に多数の奴婢(奴隷)の所有者として名を残している
。父は従五位下大宅朝臣広麻呂。大宅氏は和珥氏と同族で大宅郷(奈良市古市町付近)を
本拠とする雄族。初め臣,天武13(684)年朝臣となる。一族に推古朝の新羅遠征副将軍を
務めた小徳大宅軍・摂津守・大和守を歴任した従四位下大宅大国らがいる。天平の勝宝
1 (749)年奴36人、婢25人を東大寺に寄進している。しかし現実には彼らは賀是麻呂の
支配を離れて公民として暮らし奴隷としての実態はなかった。所謂修行僧になったのだ
ろう。時に賀是麻呂は散位寮散位大初位上の下級官人であった。だが貢賤について知っ
ていたのは、恐らく既に大陸からの襲来から貿易や奴隷制度をしっていたからだろう。
くくちと言うのは窟地の人当て字だろう。横穴古墳群の地の意味だろう。又日本武尊が
平定したり天皇行幸の際菊の御紋を与えたり伝説は多い。彼らは波入れ日足紋が本来だ
ったようだ。実は古代に丸三つ盛波紋から出来た紋で後世に三盛り洲浜紋に変化してい
る紋でやって来た。渡来人だったとも考えられる。言葉の通じない次々帰化人達は大和
朝廷との接触によって次第に言葉が繋がり統一化されたと言うのは自然な流れだろう。
その船の技術は村上水軍や松浦党に伝承されたというのも当然であろう。阿比留氏が、
阿比留文字を持ち先の異端史書が物部神道というのは、その通訳だと考えれば説明でき
る。州浜紋使用の諸氏は、巴紋を用いる宇都宮氏と祖を同じくする為巴紋の分布と一致
している。

1076: 名無しさんAA:18/03/18 09:41
  富安君を探せ              < その100 >

 中国の書物の中で一番古いのは『山海経』である。山海經とも書き その頃は日本は
まだ倭国として、背の低い人達の国として語られている。書曰く「蓋國在鉅燕南 倭北
倭屬燕」(山海經 第十二 海内北經)蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。倭は燕に属す。
としている。山海経の編纂された時代には、まだまだ地方の伝記的記述も多く同書には
、伝説集または神話集の体裁をとっていて「架空の国」や「架空の産物」が多く、史実
を忠実に反映した歴史とみなすことについては疑問視されている。それでも、倭は燕に
朝貢していたと考えられていた事がわかる。しかし、『山海経』第九の海外東經では、
東方の海中に「黒歯国」があり、その北に「扶桑」が生える太陽が昇る国があるとされ
ている。これが最も古い中国の書物の記載である。燕(えん)は紀元前1100年頃から〜
紀元前 222年頃まで、中国に周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在した国だ。春秋
戦国時代に興った十二列国の一つとされ、また戦国七雄の一つである。場所は河北省北
部、現在の北京を中心とする土地を支配していた。首都は薊(けい)で、現在の北京に
あたる。燕都・薊城の遺蹟は北京市西城区に所在する。これは何を示すのか。この蓋國
は既に交易し紀元前時代に燕国との流通を興していた。と考えられるのだ。燕国は斉に
一度やられた国だ。殷を倒して建てた周(しゅう)(紀元前 1046年頃〜紀元前256年)
の、中国古代王朝の文化と血統を持つ国だった。周を支えた伯爵が分裂時に建てて、周
辺を平定し一時は大きくなった。遠く内モンゴル地区にあったが国が栄えて北京に移っ
た。この時現地にあった韓侯国が入れ替わりに現在の陝西省に移った。燕に残った韓の
旧住民は多く「韓氏」を名乗った。西周時代、燕の東方(遼寧省朝陽市喀喇沁左翼自治
旗)に「箕侯」という都市国家があり、燕の属国であったが、春秋時代を待たずに北方
遊牧民に滅ぼされ、燕に亡命した住民が多かったらしい。春秋時代以降、燕の士大夫層
に「韓」や「箕」を氏とする者がみられる。しかし第2代の王の檜が堯舜に倣うと言っ
て禅譲を行い、これにより国内は騒乱状態となった (紀元前315年)ここに斉(田斉)
が付けこみ、兵を出して侵攻し、全土を併合したため一時的に滅亡状態となった。そし
てようやく一部が残り昭王は押し戻して領地を得た。この堯舜の書は柳川伝習館にそれ
が持ち込まれていた事は 経緯は解らないものの意外であり長幼の孝など漢詩となって
柳川の教育基本とされていた。その後日本風の漢字と要約を伝習館の誇りとした。更に
孔子廟を祀り管理には、十時氏を置き十時氏は小野和尚をして護らせたとしている。


1077: 名無しさんAA:18/03/18 09:45
  富安君を探せ              < その101 >

 昭王は、一時とはいえ燕を亡国に追い込んだ斉を深く憎み、いつか復讐したいと願っ
ていた。しかし当時の斉は秦と並んで最強国であり、燕の国力では非常に難しい問題で
あった。昭王は人材を集めることを願い、どうしたら人材が来てくれるかを郭隗に尋ね
た。郭隗は「死んだ馬の骨を買う」の故事を喩えとして話し「まず私を優遇してくださ
い。さすれば郭隗程度でもあのようにしてくれるのだから、もっと優れた人物はもっと
優遇してくれるに違いないと思って人材が集まってきます。」と答えた。宰相に先王が
たぶらかされたことによる苦労の経験があったにも関わらず、昭王はこれを容れて郭隗
を師と仰ぎ、特別に宮殿を造って郭隗に与えた。これは後世に「まず隗より始めよ」と
して有名な逸話になった。郭隗の言う通りに、燕には名将楽毅・蘇秦の弟蘇代など、続
々と人材が集まってきた。また、時期は不明であるが、昭王は不老不死の仙人を求めて
東方の海上に人を派遣したという。これらの人材を使い、昭王は燕の改革・再建を進め
た。その後十分に力をつけた燕は、斉包囲網を形成し、紀元前285年又は紀元前284年に
楽毅率いる5ヶ国連合軍50万が斉軍20万を撃破し、更に楽毅は斉の首都臨?を陥落させ、
(きょ)と即墨を除く斉の都市を尽く占領した。(この頃、燕は「朝鮮」を更に討って
朝鮮半島北部も領有した。また、南部の「真番」を略属させ、所々に要塞を築き官吏を
派遣して治めていた)。以後約5年間、燕は現在の河北省・遼寧省のみならず朝鮮半島
と山東半島のほとんどを併合していたことになり、『山海経』の「鉅燕」(巨大なる燕
)、『史記』の「全燕」(完全なる燕)とはこの時の燕の状態をさすとの説もある。そ
の後は秦が圧倒的に強勢となるが、秦との国境を接していない燕はその圧力を感じるこ
となく、むしろ隣接する斉や趙の圧力に対抗するために秦と結ぶこともあった。ところ
が、紀元前 228年に燕と秦の間の緩衝国的な役割を果たしていた趙が秦によって滅ぼさ
れると、燕は直接秦の圧力を感じることになった。この状況を覆そうと太子丹は、秦の
王政に対して荊軻という刺客を送ったが失敗した。この時、荊軻に同行した秦舞陽は上
述の秦開の孫である。激怒した秦王政に燕は攻められて、首都は陥落した(紀元前 226
年)。太子丹は殺され、燕王喜は遼東に逃れたが、紀元前 222年に秦の王賁将軍に攻め
られて王が捕虜となり、燕は滅んだ。この戦乱にも多くが九州に渡り渡来人となった。
この頃の文字はまだ亀甲文字の影響を取り除くに至ってない文字で一般には読めない。

1078: 名無しさんAA:18/03/18 09:53
  富安君を探せ              < その102 >

 その後に書かれた『三国志』魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)で「去女王四千餘里又
有裸國黒齒國復在其東南船行一年可」と書かれ、女王(卑弥呼)の国から4000余里に裸
国と黒歯国がある。東南に船で一年で着く。(よって『山海経』の影響を受けていると
言えるが、邪馬台国と黒歯国は異なる国という認識である『梁書』卷五十四列傳第四十
八 諸夷傳 東夷条 倭「其南有侏儒國 人長三四尺 又南K齒國 裸國 去倭四千餘里船行
可一年至 」で 南に身長三四尺の民の国があって、その南に黒歯国がある。倭から4千
余里。船で1年で着く。よって『山海経』の影響を受けていると言えるが、逆かも知れ
ない。しかしいずれも倭国と黒歯国は異なる国という認識である。百越人(特に春秋時
代の「呉」人)と倭人の後の関係を暗示する『山海経』関連古文書、この記述の影響に
よって、古代中国では「倭」(九州)が「太陽が昇り扶桑の生える」「九夷」として憧
れの地になっていた蓋然性もあることを示す関係古文書がある。『宋書』の楽志には、
「白紵舞歌」というものがある。その一節に「東造扶桑游紫庭西至崑崙戯曽城」(東、
扶桑に造りて紫庭に游び、西、昆崙に至りて曾城に戯る。)という下りがあって、この
「(白)紵」というのは「呉」(春秋時代)に産する織物であったことに加えて、最近
、遺伝子分析技術の発達によって、筑紫地方(『日本書紀』の「国生み」)と、呉人は
極めて関係が深いということが明らかになってきた。『日本書紀』の「国生み」での「
筑紫」の国名の命名では、そういった当時の背景の影響を受けたことは明らかである。
そういった影響を受けたものとして「漢委奴国王印」が発掘された志賀島一帯(「香椎
、カシ」は百越人地帯としての「越(コシ)」の訛り)は、春秋時代末期に「越」に、
よって滅ぼされた「呉」の海岸沿いの住人たち(入れ墨の文化があった)が海路、亡命
して漂着した所であることが、上記脚注のように、最近の発掘調査やDNA分析で明ら
かになってきた。(安曇族)『論語』子罕第九に「欲居九夷」「孔子、(その天性が柔
順な)九夷に居すを欲す。」とあること。『論語』公治長第五に「子曰く、道行われず
。海に浮かぶべし(子曰、道不行、乗桴浮于海)」(孔子が言った。中国では道徳が受
け入れられないから、東の海にある九夷にいきたい)とあること。『前漢書地理志』に
「然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。
楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見云。」「然して東夷の天性柔順、三方の外
に異なる。故に孔子、道の行はれざるを悼み、設(も)し海に浮かばば、九夷に居らん
と欲す。以(ゆゑ)有るかな。楽浪海中、倭人有り。分かれて百余国を為す。歳時を以
て来たり献見すと云ふ。」 とある

1079: 名無しさんAA:18/03/18 10:01
又『隋書』 東夷傳の倭の条に「…九夷所居、與中夏懸隔、然天性柔順…」「倭は…九
夷の居るところ。…その天性は柔順」とある。『漢書』地理志には楽浪の海を越えた所
に百余国に分かれた倭人の国があった。中国人の目には、少なくとも前1世紀に「国」
として映っていた。紀元前1世紀頃は日本では弥生中期に当たっている。つまり九州と
京都などの大和朝廷の発達は200年以上も差があって少なくとも従順な刺青した安曇
の族の国が既にあったのである。となればこの九州しかない。57年に倭の奴国王 (な
こくおう)が後漢(中国)に朝貢して光武帝から漢委奴国王印を印綬(後漢書-東夷伝より)
して博多湾の志賀島で漢の倭の奴国王の金印が出てそれが史実と合致するとして歴史上
の正史として登場する史物最初である。「山海経」では「蓋国は鉅燕の南、倭の北にあ
り倭は燕に属す」として蓋国(けいこく)と倭国(わこく)と黒歯国(こくしこく)が
ある事を示している。かつて中国では黒歯国(こくしこく)は遥か東方の国とされてい
た。鉅燕とは燕国が大きくなって中国を平らげ大きくなった燕国を示している。この南
の地と言うのだ。少なくとも蓋国(けいこく)は倭国より北にある事になる。つまりは
九州を倭国として中国地方は若しくは本州は蓋国(けいこく)の位置にあった。という
事になる。そして「倭は燕に属す。」とはいつか攻められる危機感から燕の属国になり
、その為 107年に倭国王帥升(すいしょう)が後漢に朝貢してして生口160人を献じて
いる。その後146 - 189年に倭国大乱が起こりの結果、卑弥呼が女王になり 邪馬台国に
都をおいた。としている。つまりはそれまでは邪馬台国は無かったが、新たに都を作り
女王をして治めたと言う事になる。倭国大乱は倭国内の対立や紛争としている事で鬼山
(きやま)と日子山(ひこさん)が対立していた事から鞠智(くくつ)の勢力が手伝い
八女の地に紛争処理の女王を置いたのだろう。「大野・基肄・鞠智の三城を繕い治めせ
しむ」というのは当然英彦山背振山祖母山の三山を支配して菊池があった事を示してい
て(文武天皇二年五月甲申に「令大宰府繕治大野基肄鞠智三城」)既に乱の以降は力が
あった国に変化していたのだ。奈良東大寺に大宅賀是麻呂(おおやけの かぜまろ)から
進上された61名の奴婢を記録した『奴婢帖』の中には「右京四條四坊戸主鞠智足人」
として既に大和朝廷において右京四條四坊の地位を持っていたと言える。太安萬侶墓は
奈良市此瀬町にある史跡では東山山中に所在する奈良時代の火葬墓で昭和54年1月 発見
されたもので、出土した銅製墓誌により、古事記の編者としても有名な太安萬侶の墓で
あることが明らかになった。墓誌には「右京四條四坊従四位下勲五等太朝臣太安萬侶以
発亥年七月六日卒之養老七年(723年)十二月十五日乙巳」の記載があった。天武天皇2
年は (673年3月20日)だから この朝臣の太安萬侶より大宅氏は古い。大宅氏は和珥氏
と同族で大宅郷とされている。この大宅氏が大川の大宅間の由来とされる。

1080: 名無しさんAA:18/03/18 10:17
 和珥氏(わにうじ)は太陽信仰の鍛冶集団とされている。実は丹生氏はこの弟子で仏
教伝来後に、鉱山師になったいわれていた。丹生が鉄鉱石の赤土を示すからだ。和珥氏
「和珥(丸邇・和邇・丸)氏は(わにうじ)とは、5世紀から6世紀にかけて奈良盆地
北部に勢力を持った古代日本の中央豪族と言われるが、実は元々は熊襲の民であるとさ
れる筑紫史談では肥後国人一揆で和仁氏は全力で戦い滅亡したとされる。菊池一族の長
隈部親永の開城によって多くは死に行き残りは天草に逃げた。秀吉による九州征伐では
、辺春・大津山氏とともに城を開き道案内をして本領を安堵された和仁氏ではあったが
、天正十五年、熊本の新国主として入部してきた佐々成政の検地に抵抗して、隈部氏を
盟主とした肥後国人一揆が起きると、これに荷担し、辺春氏を加えて籠城した。秀吉は
この事態を重視して、同十五年十二月、小早川隆景に直書を送って、今後の見せしめの
ために和仁・辺春の籠る城は攻め崩すか、干殺しにするか、一人も残らず殺すことを命
じた。攻城軍の大将は小早川秀包で、隆景を実質的総大将として久留米まで出陣を命じ
、安国寺恵瓊を参謀として、田中城を二重の柵で囲んだ。これを迎え討ったのが、城主
の和仁勘解由親実、弾正親範、親宗の三兄弟と、坂本城主辺春能登守親行ほか九百人で
あった。親宗の人相風体については身の丈七尺六寸もある大男で、顔は真っ赤、目は光
り輝き、手足は熊のように力強く、そのうえ、動作は機敏で、その風貌から人鬼と呼ば
れたと「和仁軍談」に記されている。この時の籠城に対して開城を交渉したのが立花宗茂
だったのである。最初の頃まで和仁氏と同じ鶴の紋を 旧立花氏は掲げていた同族だっ
たのである。本城の田中城(たなかじょう)は、別名を和仁城とも呼ばれ、中世に熊本
県旧三加和町一帯を支配した肥後国の国人和仁氏が本拠とした城とされる。現在の熊本
県玉名郡和水町和仁に位置する。宮本武蔵の生誕地区とされている。天正15年(1587年
)に発生した肥後国人一揆において、最後まで抗戦を続けた城のひとつである。「田中
城跡」の名称で今は国の史跡に指定されている。此処が古来より菊池氏族の一部であっ
た事は間違いない事実で和仁氏の里でもあったろう。和仁氏は古代文書にも多く出て来
る最も古い種族の一つである。その出自は紀元前にすらさかのぼる。大津山氏が戦国時
代史に最初に名を現しているのは、大永三年(一五二三)六月、そのころ北九州で大友
義鑑と争っていた頃、中国周防の大内氏の代官、陶美作守に味方して、三池氏ら筑後の
諸将とともに大友方の高良山(久留米市)を攻め落とした時である。この戦いで赤池城
(福岡県)を攻めた際、大津山刑部少輔は敵将城後親興と組み討ちして勝った。という
武勇伝が残っている。つまりは典型的な関東からの下向の武者集団として居ついた種族
だった。この時柳川もかなりやられていて三橋の花園氏や大橋氏など奮戦するも白鳥城
は毛利川を船でさかのぼってきた兵士達によって落城している。

1081: 名無しさんAA:18/03/18 10:30
  富安君を探せ              < その106 >

 古代に和仁氏は、日本の神話にも登場しているとされる。つまり日本神話で大国主の
命が助ける因幡の白兎の話である。この和邇氏は「倭人氏」につながる古い民である。
「昔々、隠岐の島に住む1匹の白兎が、ある姫神に会いたいと思い因幡の国へ行きたい
と考えていました。しかし、隠岐の島と因幡の間は海でとても自力では渡れません。そ
こで白兎はワニザメをだまして向こう岸に渡ろうと考え、『ワニザメさん、君たちの仲
間と僕たちの仲間とどちらが多いか比べてみようよ』と提案し、ワニザメを因幡の国ま
で並べさせ、その上をピョンピョンと渡っていきました。そしてもう少しで向こう岸に
着こうというとき、あまりの嬉しさについ、『君たちはだまされたのさ』と言ってしま
いました。それに怒ったワニザメは、白兎の体中の毛をむしり取り、あっという間に、
丸裸にしてしまいました。丸裸にされた白兎がその痛みで砂浜で泣いていると、そこに
大国主命の兄神様が大勢通りかかった。大国主命の兄神達は、隣の因幡の国に八上姫と
いう美しい姫がいるという噂を聞きつけ、自分のお嫁さんにしようと、因幡の国に向か
っている途中でした。面白半分に『海水で体を洗い、風に当たってよく乾かし、高い山
の頂上で寝ていれば治る』と言いました。白兎が言われたとおりにしてみると、海水が
乾くにつれて体の皮が風に吹き裂かれてしまい、ますますひどくなってしまいました。
」と言う話である。だがこの話は続きがある。因幡神話続きでは「あまりの痛さに白兎
が泣いていると、兄神達の全ての荷物を担がされて、大きな袋を背負った大国主命が、
兄神達からずいぶんと遅れて通りかかり、白兎に理由を尋ねました。そして、『河口に
行って真水で体を洗い、蒲の穂をつけなさい』と言いました。白兎がその通りにすると
、やがて傷が癒えて、毛が元通りになりました。たいそう喜んだ白兎は『八上姫は兄神
ではなく、あなたを選ぶでしょう。あのような意地悪な神様は、八上姫をお嫁にもらう
ことは出来ません。』予言を言い残し、自らが伝令の神となって、兄神達の到着より前
に、この事実を八神姫に伝えたのでした。これを知らない兄神達は、競って姫に結婚を
申し込みましたが、姫はそっけなく対応し、『私はあなた方ではなく、大国主命の元へ
嫁ぎます』と言って、兄神達を追い返したのでした。以上があらすじです。さて、白兎
は八上姫(やがみひめ)と大国主命との縁を見事に取り持ち、こうして鳥取県で『白兎
神社』の御祭神となった。と言う話である。これは実に奇妙な面白い話である。この中
のワニザメを多くの日本人が知っていないからだ。それにクロウサギでない点だ。大国
主は仏教で大黒天に訳される。大黒天はインド密教ヒンドゥーのシヴァ神の化身である
マハーカーラから来ている。マハーは(偉大なる)カーラは(暗黒)を意味する。

1082: 名無しさんAA:18/03/23 10:48 ID:oxM
 富安君を探せ              < その107 >
 ここで現わされられているのは4つの意味であろう。一つは博多の名が「ハクト」の
訛りであり「長髄族」の商売の本拠地であったのは、宗像3神の宗像氏の許可を得ての
事だった。宗像氏には田依姫と田上姫の2人姉妹がいたがその妹の方が留守の間に姉が
さらわれると言う事件が起こった。その為に出雲とは戦争に至ったと言う伝説がある。
実は白兎はこの白い国の軍団だった。とすれば話は解る。大国主(おおくにぬし)とは
八女なり熊本なりのまさに大国の息子であったのだろう。さて何処に妹は行ったのか。
それは多分に邪馬台国である。田上姫の田と言うのはここ三潴や筑後や菊池の或いは、
佐賀平野の田園の地を指していたと思われる。二つ目は背振山系の国と英彦山系の国は
戦争をしていた事である。古代に於いてこの戦争は倭国大乱とちゃんと書いてある事か
らでも争いは尽きなかったと言える。三つ目は多分にこの戦さの地は福岡側ではない。
久留米側すなわち筑後平野と佐賀平野 更には有明海で起こっていたと考えられる。三
つ目はこの鰐(わに)などいない日本で何故、伝説は鰐と兎の話なのか。と言う事であ
る。見た事もない鰐をどう考えるか。それは船を鰐にもじっているしか思えない事だ。
この説話は、「大国主の国づくり」の前に、なぜ他の兄弟神をさしおいて大国主が国を
もったかを説明する一連の話の一部である。この説話は、『先代旧事本紀』にあっても
『日本書紀』にはない。すなわち正史の『日本書紀』では、本文でない一書にある話だ
。しかし「ヤマタノオロチ退治」の直後に「大国主の国づくり」の話が続く話だ。また
、『因幡国風土記』は現存せず、『出雲国風土記』にも記載はない。更に先に来たのは
兄達は八十神としている。八十神とは日本語的には色々な神を八百神とされる中では、
ちょっと意味が変わる。つまり色々な神では無く一部の神を示している。さらに大国主
は荷物持ちで兎は求婚相手の知人なのだ。この事から大和朝廷の王ではない王族達が、
田上姫の心を射止めたと、考えられる。4つ目は因幡の白兎は決して「いんば」ではな
く「いなば」である。これは「稲場」を意味したものではないか。とも思う。更に「隠
岐の島」は「沖の嶋」という事で壱岐対馬の事ではないだろうか。かつては言葉は中国
から来た漢字を割り振り、意味とは関係なしに当て字を使って地元言葉に直したと考え
られる。古事記と日本書記の違いはそうして出来たと考えられ、新羅・百済系の言葉と
宋・唐系は言葉は同じでも漢字が違っていたと考えられる。更に「海で塩水を浴びて、
風に当たって伏した」治療行為と「水門の蒲(がま)の穂」をした行為の違いや原文が
「此大國主神之兄弟」が「大穴牟遲神」となっている事などが、無理に結びつけた神話
であるとの意味を持つようだ。この神話は少なくとも紀元前から一世紀の話であろう。


1083: 名無しさんAA:18/03/23 10:48
 富安君を探せ              < その108 >

 これは商売もしくは交易に関したものではないだろうか。「先代旧事本紀大成経」で
は紀伊半島で仲違いになった神は東北に行って塩の作り方を広めて人心をとり神功皇后
の新羅征伐の呼びかけに呼応したとなっている。博多は実は塩田の地でもある。かつて
の江戸以前から塩を内地に売る事で潤っていたとも言われる。つまり隠岐の島というの
は遥か向こうの島の意味であり外国を指し、それは新羅人が朝鮮から逃げてくるのに、
和仁氏の船団を騙して難民としてやって来た事を示し、彼らには塩を造る技術ぐらいし
か無かった。と言う事では無かったか。対して大国すなわちその奥にあった「燕の国」
や「宋の国」から来た「菰」や「稲」を育て食べる事の方が「兎の国」にとっては豊か
になった。と言う話ではなかったと推測される。安富氏が十字紋章の旗をかかげ島津も
十字を掲げ或いは立花氏も鶴の紋から十字の紋である祇園守の紋に変化している。小西
行長は博多商人だったが難波商人になり信長や秀吉にとり入った。彼の家紋は久留子紋
から中結祇園守の紋に変わった。鶴の紋は諏訪神社の紋で諏訪紋と言われる。この中世
の戦乱期の動きと紀元前の人の動きは少し似ていると言える。キリスタンが来た頃に、
スペイン・ポルトガル・オランダ・イギリス・ロシア・アメリカと言う順にやって来た
スペインは日本を占領しようとしていたが日本近郊で風雨によって難破したり沈没して
いる。これは日本人の奴隷積み込みを沖の方でやっていたからとされる。ポルトガルも
同時期の商売の船だが秀吉をそそのかして朝鮮貿易を崩して日本に進出した。それは、
布教活動に貪欲だったからと言われる。その為に大友宗麟には「国崩し」と言う最新の
兵器の大砲や絶世の美女とされた白い肌で金髪の青い目の娼婦とアヘンを万能薬として
献上している。代わりに藩内の布教と仏教寺の打ち壊しの権利を得ている。秀吉が小西
行長を重用した理由は麻に関する糸や布や袋、更に綿や砂糖や塩を明朝船から取り寄せ
でいたからだ。しかし南蛮船の到来と鉄砲取引で一転しポルトガル貿易に走って行った
。だがその後の家康は多くの書物が朝鮮で複写されたもので、これまでの技術が朝鮮や
中国から来たものである事を知っていた。更に海産物と農産物の取引が南蛮船では出来
なかった。銅銭問題もあった。日本が金銀を売って銅を買い付けた事に現代は驚くが、
実は量は少ないものの金銀の方がずっと簡単に抽出出来た。銅山や鉄鉱石には有害な煙
が発生し極めて抽出も簡単で無かったが、金銀は鉛に混ぜさえすれば、素焼きに吸い込
ませて取れ少量でも高く売れ、風遠しの良い鉱山の外で加工できたのである。これらを
南蛮船に頼る事には大きな不安を家康は持っていた。だがオランダは布教制約がなくて
取引できた。更に明朝との競合でも争いにならなかった。

1084: 名無しさんAA:18/03/23 10:49
 富安君を探せ              < その109 >

理由は宗氏にあった。つまり朝鮮は宗氏の関係に全幅の信頼があったのだ。つまり長崎
出島との商売ができなくとも、宗氏は中国明王朝や清王朝のみならず「越南」(ベトナ
ム「扶南」カンボジア「真南」マレーシア「比妃(ぴぴ)」のパラオや、ルソンなどの
交易路を持った中東商人とも取引していたからだ。つまり朝鮮の輸出輸入が例え日本と
の貿易に失敗しても戦争さえ起きなければ、宗氏が何とかしてくれる中にあったのだ。
蒲池氏が家は後世三つ巴の紋で渦紋とされ水軍の紋でもある。松浦水軍は三ツ星紋を掲
げていたが実際は三ツ星欠け紋様のはずだ。三重州浜紋に近かったはずだ。あとで彼ら
はその後渡辺氏の家紋同様「三つ星に一文字」に変わったからだ。これは毛利氏の紋と
同じである。つまり三ツ星は波であり一は風なのだ。毛利氏は松浦水軍と或る時から、
故知を得たのだろう。立花氏も、その旗の祇園守紋に変えたのは先代の前である。高良
山は耳納連山が筑紫平野に突出した先端にある。景行天皇の熊襲征伐においては高良行
宮が置かれ、神功皇后の山門征討では麓に陣が敷かれたと言われる。その為日足紋から
鶴紋そして鷹の羽紋に変わった。また、磐井の乱において最後の戦さの舞台となり、後
には南朝、懐良親王が征西府を置き、秀吉の九州征伐では本陣とされた。この山は常に
九州の軍事の要衝であった。実は蒲池家再興にはこの事が大きな意味を持つ。高良山は
古くは高牟礼山とされ大神氏の持ち分であった大分の宇佐神宮はこの宮の分宮の地位に
あったのだ。が、大和朝廷は古く奈良時代からもここを奉じた。平安時代でも道鏡の伝
承でも宇佐神宮を最高神位と変更している。裏に日子山が英彦山と名を変えた理由が、
そこにあったからだ。仏教の禅僧はサンスリット語即ち梵字が必要だったが、これらの
学校はかつては英彦山しか無かった。がその修行の門前研修施設は平地に置く必要があ
った。修験者以外に教える必要からだ。そこで宇佐神宮を建てその地位にあった。学問
は祝詞や言葉にあったのだ。蒲池氏は古くから清水寺や秦氏の荘園武士の一部として、
柳川や八女の地に来ていた。刀伊の入寇で柳川が焼かれた時の復興に既に彼らがいた。
それでも、その時今の柳川には清水山の門前町で市内には居住していない。寺前に於い
て蒲池城としたのである。その時富安家は、柳川蒲池城の家老に座っている。菊池一門
であったからだ。菊池氏が天皇の求めで京都遠征を決めた時奈良和歌山からの宇都宮家
支流も兵をあげたその中に富家氏がいた。多くは愛知で戦ったが、その後関東武士には
、六角氏の配下富安氏と六車の配下安富ががいた。


1085: 名無しさんAA:18/03/23 10:49
 富安君を探せ              < その110 >

四国の安富氏系は淡路守や讃岐守紀伊の守などを拝任していて結構旺盛に勢力を伸ばし
ている。民部太夫源安富照之から次々に政権に取り入ったからだ。富田中村城には縁戚
六車時茂がいることになった。大川の郷土史書と照らしわせると、紀氏から安冨に養子
に行くなどして紀伊の守となった。その後足利氏から功労で讃岐の守を授かり肥前の守
安富盛定、筑後の守安富知安、紀伊の守安富盛保、肥前の守安富盛方、筑後入道安富、
筑後の守安富元家、など次々に派遣している。大川町郷土史では 六車宗旦が安富氏の
長臣として、左衛門太夫朝満といい、その後宗旦(宗丹・惣丹・宗湛・宗探)と号した
。先祖は関東の豪族である。としている。しかし又この地にには、既に曽江山村六車家
系藤原氏安富姓がいて、この平安期からの伝統ある安富家と関東から来た安富家は中が
悪かった。別系六車氏として「阿波古文書 曽江山村六車家系 藤原氏安富姓」による
と、あとでやって来た六車氏とは別の六車氏がいた。藤原姓の安富氏から出ているとの
こととなる。讃岐の安富氏は本姓紀氏で東国の出。大和の安富氏、摂津の安富氏、大和
の安富氏、清和源氏の安富氏、石見の安富氏、大内氏系の安富氏がいるので、藤原系の
安富氏もあってもおかしくない。との記述になっている。又中国の石見銀山にいた安富
氏は、周防国大内氏に仕えた一族だが、石見国益田氏の一族である安富氏もいる。しか
も則宗は2人の子の死後には、わざわざ安富氏から養子祐宗を迎え自身の死の後には、
その祐宗に跡を継がせている。また安富氏の秀吉への従属により、同氏の勢力圏であっ
た小豆島も同年中には秀吉の支配下に入った。さらに永正8年には船岡山の戦いで元治
亡き後の安富氏を束ねていた安富元顕も戦死してしまう。寒川氏は昼寝城に退き兵糧攻
めにあったが落城せず、安富氏は退いた。元家は文明2年ごろから安富氏の惣領として
讃岐東方守護代を務めていたことが諸史料からわかる。こうして細川京兆家の重臣とし
て讃岐国東方守護代を世襲していた安富氏の惣領で続いた。また、安富氏は山城西岡の
野田氏らも被官化していたようで、元綱は彼らも率いて軍事行動をしていたことが諸史
料に見える。元政の頃は十河氏や安富氏と争っていた。香川氏は東讃の安富氏と並び、
代々讃岐国守護代を務めていた。その後も新見氏が地頭の地位を保つが、代官の地位は
垪和氏や安富氏などを転々とする。安富氏が細川・三好氏の援助を受けた十河氏によっ
て滅びると、若干の抵抗があったが讃岐国は三好氏の支配下に入ってしまった。四国に
おいては元亀元年に娘を安富盛定に嫁がせており、元亀2年前半頃に寒川元隣から大内
郡4郷を安富氏に割譲させて讃岐東部での地盤を強化している。


1086: 名無しさんAA:18/03/23 10:50
 富安君を探せ              < その111 >

 肥前国南高来郡深江の土豪にも安富氏がおり、江戸時代まで鍋島藩家老として存続し
た。安富氏は鎌倉時代中期以降に幕府奉行人として現れ、安富長嗣・行長・高嗣ら一族
の奉行人としての活動は室町時代初期まで史料に残るが、応永年間以降は史料には細川
京兆家の重臣として現れるようになる。応仁の乱の混乱に乗じて新見氏や安富氏が新見
荘の支配を企てたため、応仁元年以後、百姓は備中の土一揆を起こして東寺と結んで武
士に抵抗するが、後に新見氏ら武士勢力に排除された。それ以前に寛正2年、新見荘で
は守護被官安富氏の代官支配を退け、東寺の直轄支配を要求する土一揆が発生している
。塩ノ木合戦とは、雨滝城城主安富盛方が寒川元政所領の城を攻撃し、寒川氏は塩ノ木
で安富氏を追撃したものである。このため阿波国人と同様に讃岐国人も中央へ出る機会
が多く、香西氏、香川氏、安富氏、奈良氏の四氏は細川四天王と称されたという。戦国
時代には讃岐国の分郡守護代である安富氏と香川氏が東西で大きな勢力を擁していて、
両者中間の香西氏、阿野氏、鵜足郡に長尾氏、奈良氏、羽床氏など中小豪族が乱立して
いた。旧来から讃岐は東讃岐は守護代の安富氏が統括していたが、のち三好氏一族の三
好長正を迎え入れた木田郡・植田一族の十河氏が三好氏の代官として勢力を伸ばし、早
い段階で東讃岐を総括した。篠原自遁や東讃岐の安富氏も小寺孝高を介し、当時の中国
攻め羽柴秀吉に人質を差し出して従属した。天文9年には安富氏との戦いが激化した。
元政は居城を池内城から昼寝城に移して讃岐国塩木において合戦を行うが勝敗がつかず
、以降、約3年もの間、一進一退を繰り広げた。堀田正泰系の堀田氏は「寛政重修諸家
譜」において自らの出自を紀長谷雄の子孫とし、浦上氏・安富氏の本家筋にあたるとし
ている。この時の香川氏、安富氏、奈良氏は元々は讃岐の国人ではなく、細川氏の讃岐
入部に伴って香川氏と奈良氏は西讃、安富氏は東讃に入り、香川氏は西讃岐守護代、安
富氏は東讃岐守護代に任ぜられたが、香西氏の所領は安富氏を凌ぐものであった。が、
政元暗殺後の細川京兆家の内紛と混乱に続く衰退とともに安富氏の勢威も衰え、戦国末
期には長宗我部元親に雨滝城を落とされ没落した。永禄3年、十河一存が率いる讃岐衆
として香川氏、奈良氏、安富氏、寒川氏と共に岸和田城に入り、畠山高政と戦った。そ
して永禄6年、実休は香西元成を始め安富氏、十河氏、寒川氏など阿淡、東讃の兵八千
余人を率いて押し寄せ、一宮に陣をはった。その一方で、寒川氏に迫り讃岐大内郡4郷
を縁戚の安富氏に割譲させ三好氏の基盤を強化するなど強権をふるう三好長治に対し、
天正2年春、佳清は香川之景と連判で長治の実弟・十河存保に長治ら阿波勢を非難し、
離反を警告する申し入れを行った。

1087: 名無しさんAA:18/03/23 10:51
 富安君を探せ              < その112 >

『歴代鎮西要略』によると、天正5年、6月下旬、龍造寺隆信が伊佐早侵攻のため出陣し
てくることを知った純堯は、有馬氏に救援を求めたが、神代氏や島原氏、安富氏などが
龍造寺方に付いたため、有馬氏は純堯に援軍を出すことを断念した。香西氏は累代細川
氏に仕え細川四天王と称され、同族の新居氏、羽床氏、植松氏を従え、東讃の守護代で
あった。この勢力が安富氏を凌ぐ勢力を誇ったが、天文22年、先代・香西元政の時には
三好長慶の弟・三好実休、十河一存に攻められ降伏し、香西元載は十河一存に仕えた。
南北朝時代には、全国各地で南軍が劣勢に立たされる中、九州で圧倒的優位を誇る征西
府は、まさに南軍最後の希望であり、この時の東征軍は菊池・島津・伊東・原田・秋月
・三原・草野・松浦・星野・平戸・千葉・大村・山鹿などの九州の有力諸氏を従えてい
て、7万騎と号する大軍であったとされる。応永30年に渋川義俊が勝尾城を築いたと、
『肥前国史』にあるが、『歴代鎮西要略』では延徳3年に渋川義基が築いたとされる。
なお、『歴代鎮西要略』によると、天正5年、6月下旬、龍造寺隆信が伊佐早侵攻のた
め出陣してくることを知った西郷純堯は、有馬氏に救援を求めた。が、神代氏や島原氏
、安富氏が 龍造寺方に付いたため、有馬氏は純堯に援軍を出すことを断念している。
鎌倉時代は地頭職、室町時代は大身の国人領主、戦国時代は筑後十五城の旗頭の大名分
で柳川城主であった蒲池氏が、大友氏と島津氏の耳川の戦いに出陣し、蒲池氏は三千の
兵を失い、大友氏への忠義一筋の蒲池鑑盛が奮戦し討ち死にし、蒲池鎮漣(鎮並)が家
督を継いでいたからだ。、嫡子の鎮漣は喪に服す時で、戦を好まなかった。その後も、
大友氏からの独立の意志を抱いて結果、蒲池鑑盛は大友から天正8年に囲まれ、「先非
を改め、貞心を励ましむべきの由」を伝え帰順が認められ、再び大友氏に従臣し、動員
された龍造寺軍から度々離脱していたのだ。西洋かぶれの大友と万事蛮行に及ぶ竜造寺
に悩んでいたのである。この西郷氏への援兵の見送りはその後の松浦一党に亀裂を生ん
だ。もともと西郷氏は菊池氏の一族で、戦国時代の頃には、有馬氏配下とで肥前伊佐早
荘(現在の諫早市及び北高来郡)に勢力を持ち、有馬氏の東肥前に対する前線を守って
いた。しかし大友配下となり無理強いが多く有馬氏と対立させる大友の手に乗っていた
が龍造寺氏の勢力が増すと有馬氏から離反し、龍造寺氏へ従うようになっていたのだ。


1088: 名無しさんAA:18/03/23 10:53
 富安君を探せ              < その113 >

 これには理由がある。西郷氏は敬虔な仏教徒であった。しかし既に大友宗麟は、臣下
の仏教徒の抹殺に及んでいた。「これからはキリシタンの時代だ。」と叫んでいたのだ
。本来この諫早地区は有馬氏の下に大村氏や長崎氏諫早氏がいてその下に西郷氏がいた
。だがそれは緩やかな配下であって、必ずしも上下関係にあったわけではない。又本来
竜造寺氏は大宰府政庁の実務で少弐氏の配下であった。その為彼らの地区の間にには、
龍造寺の家老の鍋島氏が緩衝地域の将として存在し直接の指揮はそう高くなかった。だ
がそれが大友氏の策略で少弐氏が菊池氏を阿蘇氏をそそのかし滅ぼした事から、鍋島氏
も同じ様に竜造寺氏を滅ぼした。本来今までは城主は自害させても一家の家系を絶やす
行為はなかった。それどころか敵でも縁戚を擁したり自らの子を入場させ家督を継がせ
た。それが今までの習わしだった。だが大友時代に変わったのだ。下剋上時代の始まり
だった。仏教や儒教よりキリスト教がもてはやされたのである。大友対龍造寺の戦いは
世情や地政学的問題は全く関係なく、信長の天下布武に近い、天正創出であった。この
キリシタンの教徒による理想王国の建設だった。西郷氏への援兵の見送りはこうした、
言わば仏教徒を嫌った大友の意向が働いていた。共に戦った伊佐早氏や主君有馬氏遠く
は同じ松浦党の大村氏や長崎氏が援軍に来ない中四面楚歌の西郷純堯は自軍のみで龍造
寺勢を迎撃することとなった。龍造寺勢に宇木城を初め多くの支城を攻略される中、兄
より先に龍造寺氏に従属していた深堀純賢が調停に入り純堯の降伏が許された。降伏に
よって、純堯の嫡男・純尚は隆信から偏諱を受け信尚と改めた。純堯は隠居し、ほどな
く死去したとされるが。これ以後、西郷氏は有馬氏から完全に離反した。有馬義貞や同
盟関係にあった大村純忠がキリシタン大名となると離反し、後藤貴明や松浦氏と同盟を
結び大村・長崎へ侵攻した。しかし神代氏や島原氏、安富氏が龍造寺方に付いてはいた
が、彼らはキリスタンとの交易も求めていた。その後に家督を継いだ西郷純賢は長崎氏
を攻撃した。純賢勢は長崎氏領の商館や教会を焼きはらったが、武士や百姓からの激し
い抵抗を受け撤兵した。一方、伊佐早勢も大村純忠が戦死したとの噂が立つほどに攻め
立てるも、西郷氏は純忠の反撃を受け撤退している。


1089: 名無しさんAA:18/03/23 11:03
 富安君を探せ              < その114 >

ルイス・フロイスの『日本史』によると、フロイスに「伊佐早殿」と称される純堯は「
有馬義貞を家来同然に扱い」、キリスト教へ入信しようとした義貞は純堯を憚り入信を
逡巡するほどであった。そのためフロイスは、純堯について「詭計、策略、欺瞞の点で
は、他の殿たちの第一人者であった」と、厳しい評価を下している。やがて、有馬晴信
も龍造寺隆信に降ったが、隆信の残忍性を恐れた晴信は島津氏に通じて隆信から離反し
た。天正十二年、隆信は有馬氏を討つため三万の兵を率いて出陣、有馬・島津氏の連合
軍と沖田畷で戦って戦死した。沖田畷の戦いは、大友氏の無駄な耳川の戦いの敗北から
始まっている。勝利した島津勢は相良氏他龍造寺や大友氏になびく旧菊池兵の取り込み
にあった。間髪を入れず天正9年(1581年)、島津家は肥後に北上する。これに対して
危機感から龍造寺家も隆信の嫡男・政家と義兄弟の鍋島信生を派遣し、て島津方の赤星
親隆を下し、肥後北部の山本郡の内古閑鎮房を叩いて防護を謀った。この為肥後北部の
国人衆は龍造寺家に帰順するが、隆信は一方で目の前の筑後柳川の城を落とせず蒲池鎮
並一族を小河信貴、徳島長房によって諜某で暗殺して後を攻めさせた。この蒲池鎮並を
誘殺したことと、その後の悲惨さは過去の九州合戦に見ないものだった。特に塩塚城の
攻防は身内同士を戦わせ、周りを自陣で覆って殺戮をさせ降伏さえさせなかった。この
醜さや残忍さは諸将士の離反を惹き起こした、こうして筑後衆の中では隆信に叛く者が
秘かに出るにいたっていた。この中で有馬晴信の背信を知った隆信は天正12年(1584年
)、3月19日龍王崎から出陣し、翌3月20日には島原半島北部の神代に上陸するに至った
。有馬晴信は仔細を八代にいた島津軍に伝え援軍を要請する。当時既に島津家は肥後の
平定に着手していたが、龍造寺軍の主力が島原に到達したとなると放置もしておけず、
有馬に対してしぶしぶ援軍を送り出した。島津軍としては、主力が動けば、衰えたとは
いえ大友家が南下しかねず、相良義陽を戦死させた阿蘇惟光・甲斐宗運らの動きもあり
、島津義久は大軍を島原に送る事はできない中だった。弟の家久や頴娃久虎、新納忠元
、猿渡信光、伊集院忠棟、川上忠智らを大将にして送り出した。しかし兵力は島津軍の
5,000人にも満たなかった。幸いだったのは島津軍の到着が3月22日と龍造寺軍の前日で
あった事である。龍造寺軍を悩ませたのは、海の嵐が島津軍の渡海をも遅らせている事
と解して焦らなかったし、またこれにより龍造寺の大軍も送れなかったのである。又、
晴信自体行く先がなく、キリシタンながらも強欲な大友氏も残忍な仏教徒の龍造寺氏も
味方である地元も西郷氏帰順者も多く、地位の持つポルトガルの応援も望みが薄く、こ
れは決死の覚悟で島津応援を得た有馬晴信の最後の応戦であったのだ。

1090: 名無しさんAA:18/03/23 11:04
 富安君を探せ              < その115 >

 一方の龍造寺軍では、鍋島信生が主君の隆信に対して島津軍を警戒するように諌めた
。信生は、どうせいずれ島津軍と相対するものとして 長期持久戦に持ち込む事で島津
の援軍が肥後に撤退するのを待ってから有馬を攻め潰すように進言していた。しかし、
圧倒的な兵力を誇る隆信は傲慢になっており諫言を聞き入れなかった。それだけ兵力差
は歴然としており、又その後の上陸着参する兵の用意も出来ていたのだった。一方島津
・有馬連合軍は兵力的に圧倒的に不利な事から、有馬晴信は島津の大軍の後詰を待つ、
後詰決戦を主張した。しかし、これ以上の兵員の予備もなく、家久は積極的な防衛策に
よる龍造寺軍壊滅を策し、戦場は島原の北方にある沖田畷と定め策を練った。当時島原
周辺は海岸線から前山の裾野にかけて広大な湿地と深田が広がっており、前山と森岳城
との間にある道も幅が大変狭かった。沖田畷とは、その湿地帯を縦貫する畷であった。
天然の平城の外堀の様なものだった。連合軍はこの畷を封鎖するように大木戸を、森岳
城には柵を築いて防備を強化し、徹底的に守りを固めた。これらの防備は 3月23日の夜
までに完了したが、隆信の鈍重な進軍がもたらした幸運でもあった。この時の連合軍の
布陣は晴信を総大将にして、本陣は森岳城に置かれ、海岸線には伊集院忠棟ら1,000余、
内陸側の大木戸には赤星一党の50人、家久軍は伏兵として森岳城の背後に控え、新納忠
元ら1,000は前山の山裾に伏兵として潜んだ。野伏間の戦略に長けた島津の配置だった。
これに対して3月24日未明、龍造寺軍は沖田畷に進軍し、山の手を鍋島信生が、浜の手を
隆信の次男と配下の江上家種と後藤家信らが、中央は隆信本隊が布陣して沖田畷を中央
進軍し森岳城を攻撃することとした。隆信は森岳城を俯瞰する小山に上って、敵方の陣
営を一望して、その数の少ないことを知り容易に勝利を得ることが出来ると確信してい
た。辰の刻(午前8時頃)に戦闘が始まる。島津方は計略を用い龍造寺軍をおびき寄せ
る。応戦をせず敗北を装い退却し、追撃してきた龍造寺軍に弓や鉄砲を乱射した。先陣
は崩れ、これを助けようとした次陣も左右が深沼で細道の為次々に難儀をした。隆信は
使者に様子見に行かせたが、この使者は「命を惜しまず攻めるように」と触れて回った
。諸将はいきり立ち、無謀な攻撃を仕掛けた。だがそれまで潜んでいた島津方の伏兵が
弓と鉄砲を射掛けた。不意をつかれた龍造寺軍は深田に入り込み射殺されていった。未
の初刻(午後2時)、隆信は床机に腰掛けていたが、突然現れた島津方の川上忠堅に見
つかって、忠堅に切りかかられて隆信は首を落とされこうして、沖田畷の合戦は連合軍
の勝利に終わった。


1091: 名無しさんAA:18/03/23 11:06
 富安君を探せ              < その117 >

かくして尊氏は、一色直氏を九州管領に任じて九州の留守をまかせると、上洛の軍を起
し、京都を征圧すると足利幕府を開いた。こうして安富氏は要職に就いた。対して有馬
氏は藤原純友の子孫とされ、当初島原半島南部の一勢力に過ぎなかったが、有馬貴純の
時代になると島原半島内の諸勢力を制圧して、戦国大名へと成長していった。この時、
貴純は日野江城の支城として原城を築城していた。晴純の時代に有馬氏の版図は最大と
なり21万石を領するまでに成長していた。後ろ盾となっていたのが大内氏であった。
彼こそが大友の許可を得て、南蛮貿易の第一人者であったからだ。しかしながら有馬氏
も菊池氏と同じように宮方崇拝の正義と秩序を重んじている集団だった。菊池氏が破れ
大内氏が倒れると、執拗な大友氏の攻撃で下り、そのまま大友氏や龍造寺氏の圧迫を受
けるようになっていた。こうして13代目当主の晴信は、大友と同じにキリシタン大名
となり城下にセミナリヨを建設し、逆に寺社を破壊し城の築材とした。発掘調査で出土
した遺構では晴信の時代に金箔の瓦を葺いていた事が判明している。南蛮貿易で結構な
富を得ていたのである。これに島津も大友も龍造寺もこぞって目をつけていたのだ。し
かし長崎や島原の民にしてみれば、壱岐対馬の宗氏と同じく貿易が無くして成り立たな
い生活であって、この有馬氏の様に華々しく西洋化して他藩から魅力的で目をつけられ
る事は難儀な事だった。小西行長はこうした中で南蛮渡来品を京の町に売りつけていた
。これに目を付けたのが松倉家だった。松倉家は、当初は筒井順慶に仕えていた。筒井
順慶の没後、養子の定次が伊賀に転封されると、重政は大和に残って豊臣家の直臣とな
って、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは単身参陣して徳川家康に認められ、大和
の五条二見城主となった。五条では諸役を免除して商業の振興を図るなど城下町の整備
を行った。この商業復興に南蛮船の買い付けをしていたのである。この南蛮船は大型船
で黒人の船乗りを擁していた。。順慶没後、後を継いだ筒井定次が伊賀国へ転封となっ
た際に従い、伊賀名張に8千石余を領した。後、豊臣秀吉に接近し、大和国吉野に8千
石余を領したとの記録がある。こうして彼は伊賀者を使い、各地に配した。彼が拠点と
したの所は伊賀屋と称して女衒を使って 戦国時に女子供をイスパニアに奴隷として売
る事だった。当初は小舟で小さくあったが、秀吉が九州下向するとイスパニアもポルト
ガルと競った為に秀吉によって船長以下キリシタンとして処罰され残った船の運用に出
ていたのである。

1092: 名無しさんAA:18/03/23 11:19
 富安君を探せ              < その116 >
 裏話として、有馬家へ援軍を出す事を決定するも、どのようにするか決めかねている
島津義久が兵に相談する事にした。呼び込んだったのは島津の中では鬼武蔵(鬼とは強
いという意味で、武蔵とは正義の徒や義臣)の呼び名が高い、新納忠元でした。送れる
兵は寡兵(かへい、さして勢力のない一般兵、農民兵)、その場合の大将は島津義弘か
島津家久。この二人のどちらがいいか問いかけた。その時、忠元は即座に回答する。「
義弘様は『耳臆病、目かいがいしい大将。』家久様は『耳かいがしく目臆病な大将。』
今回送られるのは家久様にすべきです。」と言った。何だか意味不明な言葉ですが、義
久は、この忠元の言葉を受けて総大将に家久を派遣した。が、これが面白くないのが、
長男島津義弘である。「兄の自分に何が劣っているのか。」と忠元に直訴した。しかし
これに対し忠元歯に衣きせず、「逆恨みも大概にして下さい。私は私情を交えずお家の
為を思って言ったまで。」とにべにもなかった。この物言いに義弘も何も言えずに黙っ
た。おそらく忠元は、耳を情報、目を実際の戦場、臆病を慎重、かいがいしいを積極と
いい、情報を取っても疑い現場の状況を大事にする武将だとほめたのだろうと解した。
義弘は情報より戦場での直感で行動した天才肌の指揮官であり、対して家久は情報重視
し、戦場では事前の決めた策で慎重で大胆な采配を選ぶ指揮官だった。新納忠元は適切
な提言をしたのだ。この時龍造寺軍に多くの安富氏も出陣した。、それは1265年頃に、
元寇の警備のために下向し、その後肥前深江村に住み着き、地頭に任命されていたから
だ。いわゆる西遷御家人である。元冦の役に際して土着してのち戦国時代に及び、近世
では深江氏を称した。しかし深江氏は安富氏の九州下向以前から、在地の有馬氏一族と
しても深江氏がいたことが知られている。深江氏は、頼泰の時に島原半島以外にも多く
の地頭職を兼ね、泰長では深江の外一所の地頭職を兼ね、その子の泰重は深江の外加津
佐の半分、郡外天草と 数カ所の地頭職を兼ねた程だ。鎌倉後期になって、安富頼泰・
貞泰父子は前後してともに鎮西引付衆に加わった。この時、深江氏とも名乗り、そのま
ま乗っ取りに及んでいる。鎮西の戦乱期は、島原半島北部の島原・多比良・神代・西郷
の諸武士は敵方南朝方に属し、諸侯は征西将軍宮懐良親王を中心とする菊池一門であっ
た。一方、半島の南部、安徳・深江・安富・有馬の諸武士は、官軍に馳せ参じて足利尊
氏が醍醐天皇に叛旗を翻した手勢になっていた。京都に攻め上り尊氏は京都を征圧下に
おいたが、直ぐに、延元元年(1336)、北畠顕家らが新田義貞らと共に京都を攻め敗れ
て、尊氏は九州のこの地に落ちのび三月、筑前多々良浜において菊池氏・阿蘇氏ら九州
宮方と戦ってこれを破った。尊氏はこうして九州宮方の勢力を駆逐すると再び回復する
。これを機に安富氏は尊氏に帰服して武家方の筆頭の一つとなった。

1093: 名無しさんAA:18/03/23 11:28
 富安君を探せ              < その117 >

かくして尊氏は、一色直氏を九州管領に任じて九州の留守をまかせると、上洛の軍を起
し、京都を征圧すると足利幕府を開いた。こうして安富氏は要職に就いた。対して有馬
氏は藤原純友の子孫とされ、当初島原半島南部の一勢力に過ぎなかったが、有馬貴純の
時代になると島原半島内の諸勢力を制圧して、戦国大名へと成長していった。この時、
貴純は日野江城の支城として原城を築城していた。晴純の時代に有馬氏の版図は最大と
なり21万石を領するまでに成長していた。後ろ盾となっていたのが大内氏であった。
彼こそが大内の許可を得て、南蛮貿易の第一人者であったからだ。しかしながら有馬氏
も菊池氏と同じように宮方崇拝の正義と秩序を重んじている集団だった。菊池氏が破れ
大内氏が倒れると、執拗な大友氏の攻撃で下り、そのまま大友氏や龍造寺氏の圧迫を受
けるようになっていた。こうして13代目当主の晴信は、大友と同じにキリシタン大名
となり城下にセミナリヨを建設し、逆に寺社を破壊し城の築材とした。発掘調査で出土
した遺構では晴信の時代に金箔の瓦を葺いていた事が判明している。南蛮貿易で結構な
富を得ていたのである。これに島津も大友も龍造寺もこぞって目をつけていたのだ。し
かし長崎や島原の民にしてみれば、壱岐対馬の宗氏と同じく貿易が無くして成り立たな
い生活であって、この有馬氏の様に華々しく西洋化して他藩から魅力的で目をつけられ
る事は難儀な事だった。小西行長はこうした南蛮渡来品の物を京の町に売りつけていた
。これに目を付けたのが松倉家だった。松倉家は、当初は西三条家の分家で名家だった
。しかし落ちぶれて筒井順慶に仕えていた。筒井順慶の没後、養子の定次が伊賀に転封
されると、重政は大和に残って豊臣家の直臣となって、慶長5年(1600年)の関ヶ原の
戦いでは単身参陣して徳川家康に認められ、大和の五条二見城主となった。五条では諸
役を免除して商業の振興を図るなど城下町の整備を行った。この商業復興に南蛮船の買
い付けをしていたのである。この南蛮船は大型船で黒人の船乗りを擁していた。。順慶
没後、後を継いだ筒井定次が伊賀国へ転封となった際に従い、伊賀名張に8千石余を領
したの忍びの者の成果だった。後、豊臣秀吉に接近し、大和国吉野に8千石余を領した
との記録がある。こうして彼は伊賀者を使い、各地に配した。彼が拠点としたの所は、
伊賀屋と称した奴隷用の娘を買い取る女衒宿だったという。戦国時に女子供をイスパニ
アに奴隷として売る事で利益を得ていた。当初は小舟で小さくあったが、秀吉が九州下
向するとイスパニアもポルトガルと競った為に秀吉によって船長以下キリシタンとして
処罰された為、残った船で自らの運用に出ていたのである。

1094: 名無しさんAA:18/03/23 11:36
 富安君を探せ              < その118 >

 かつて日本には門松などは無かった。しかし冬の食料が無くなる頃に何とかしのげる
様に門松と言う物が出来て、縁起物として売り歩いた。又これをその藩主は奨励した。
こうしたものは不用品の藁や山に生える竹などでできるものだった。竹細工や和蝋燭や
薬や瀬戸物など一般的には行商人によって、村々の長者の家に届けられる物だった。物
物交換と日々の食と宿の提供である。商人が出るまでは仏僧がそれを行っていた。しか
し鉄砲伝来でその姿は大きく変わっていた。無頼の徒が多く出たのだ。更に鉄砲による
商売が巨万の富を得る結果となり、商人を擁した武家人はその情報屋としての地位にな
っていた。ポルトガルは平戸にあるオランダ商館を作っていた、この付近は商人地とな
っていたが、オランダ塀、オランダ井戸、オランダ埠頭、護岸石垣など商館時代の遺構
は現在でも残っている。当時イスパニアとポルトガルさえも競っていて、ポルトガル船
が種子島に着いた時イスパニア船も島原や天草近郊に現れていたのである。安田国継は
、織田氏の重臣・明智光秀配下の斎藤利三に仕えた。明智三羽烏の一人とされて、後に
長崎奉行になった寺沢広高と共に活躍していた。しかし天正10年(1582年)に光秀が
主君・織田信長に対して起こした本能寺の変では、その先鋒となり出陣し信長を槍で攻
撃し、行く手を阻んだ森成利(蘭丸)に十文字槍で下腹部を突かれるも、これを討ち取
る功を挙げたという武勇伝がある。が、明智氏が山崎の戦いにて敗走すると、出奔して
天野源右衛門と改名して浪人し、羽柴秀勝、羽柴秀長、蒲生氏郷と仕えたがいずれも長
続きしなかったという。その後立花宗茂に仕え、豊臣氏による九州平定にて功があって
文禄・慶長の役では朝鮮へ出陣していく。一方寺沢広高(てらざわひろたか)は、松倉
重信が大名として大和五条藩主となったのを機に、彼についていった。息子の松倉重政
(まつくらしげまさ)は、江戸期に肥前日野江藩初代藩主になり、寺沢広高は肥前唐津
藩の初代藩主となった。広高は技能優れた武士を愛した。広高時代の唐津藩には1000石
取りの家臣が40人もおり、その士風を慕い集まったという、当時は大きな経済商業主義
の藩だった。ある時「銭勘定も米の升目も知らなかった者が関ヶ原で潔く死に、この者
こそ真の武士である」と褒め称えていたのを聞いて、「それは違う。世を迂闊と心得た
役立たずだ。そうした者は生活に困って飢えをしのげず、武具も売り払ってしまう。む
しろ関ヶ原で死んで幸せだった」と時代の見えない精神だけの武士として批判したとい
う。唐津藩で新田開発を行う際、防風林を造成し手厚く保護したが、これも算段の上で
あったという。防風林は名勝虹の松原として現在まで存続している。

1095: 名無しさんAA:18/03/23 11:46
 富安君を探せ              < その119 >

 島原慣習や天草流儀と言われるものはこの頃に出来たものであったろう。伊勢(三重
)や天草(熊本)島原(長崎)では、その注連縄飾りや門松は「年中」ずっと飾る地域
として残る。伊勢は魔除けの意味あいとして、天草や島原はその昔キリシタンでは無い
事を示した名残が今も慣習として残っている。西郷純堯配下が荒らしまくったからだ。
カピタンと呼ばれた天草にはイスパニア商館も作られていた。黒田が中津に城を築き始
めた時肥後国人一揆が起きた。この時豊前でも野中氏をはじめ同じ隈部党が一揆を起こ
した。この時改易による伊予国転封の下命に3万石の城井鎮房が挙兵居城の城井谷城を
固めた。秀吉は黒田長政に鎮圧を命じた。岩丸山の戦いを行ったが一旦は鎮圧に失敗す
るなどしたため、黒田氏は持久戦策をとり兵站を断ち持久戦にした。それでも落ちなか
った。しかし貧窮はしていたのか、中津城が完成した時、嫡男・城井朝房と娘・鶴姫を
人質に出しての領地安堵の中で降伏し、城井鎮房が祝賀口上に来ていた。しかし、秀吉
の指示もあり、長政は中津城で城井を謀殺、郎党を攻め滅ぼした。天正16年の春だ。
こうして呪われた中津城が完成したが、この城井氏の傘下の水軍がついた事で思わぬ貿
易の道が開けた。その為秘密裏に亀甲船作りに専念し、天正17年には、家督を嫡男の
長政に譲り、孝高は秀吉の側近として引き続き仕える。中津城は殆ど長政に任せ、孝高
は猪熊、伏見の京屋敷や天満の大坂屋敷を拠点として貿易を影で行った。江戸幕府が開
かれた時に黒田家はへそくりの軍資金で、にわかに兵を集めた。他の藩が文禄の役、慶
長の役と2度にわたった朝鮮出兵で、莫大な戦費と多大な将兵の命を消費した時には、
黒田は朝鮮人に亀甲船を売り渡して資金得ていたのだ。この亀甲船は黒田の発案である
。船に屋根を張り囲ってその外に鉄板を覆って火矢にも対応して鉄砲をを持ち櫓ですす
んだ。この船は相当に日本軍を悩ました。加藤清正以下先発上陸部隊の兵站が断ち切ら
れて兵糧も兵員も送れなかったからだ。無敵とも思える亀甲船を破ったのが立花宗茂で
あった。亀甲船は2隻あったが、亀甲船にも食糧が運ばれている事を知って、それを襲
い夜陰に紛れて乗り込んで焼失させた。又もう一つは崖の下に誘い巨石を落として壊し
た。これは立花氏の手柄だった。そもそも黒田官兵衛は、平和な時代が来るとは思って
いなかった。秀吉がの備中松山城攻撃の陣中に「おお喰ろうておる喰ろうておるぞ。人
が人を煮炊きしておる。」と喜んでいた秀吉に「本能寺で信長公が死んだようだ。」と
本能寺の変の報せを話したのは黒田だった。さっと青ざめる秀吉「殿、いよいよ天下取
りに近づけますな。」とささやいているぐらいだ。秀吉は官兵衛に警戒心を持っていた
し、黒田官兵衛も又こんな非情な不条理者ばかりで世が回っているのだと自覚していた

1096: 名無しさんAA:18/03/23 12:03
 文禄の役では、黒田官兵衛は困った立場にいた。隠れて明朝貿易の巨利を得ていたか
らだ。穏便な戦略の総大将・宇喜多秀家の軍監として参加したした、小西行長などと激
しく意見が対立して日本軍は行き詰っていた。病を理由に帰国していった。亀甲船の出
現にそれを叩くとする事に反対し、進軍して王朝を叩くべきとの意見が通らなかったの
だ。日本軍は明軍の参戦と同時にこの亀甲船の攻撃で補給の行き詰まりにより、和平を
模索する方向に傾いた。黒田は秀吉の晋州城の攻略計画を反対して不合作の態度と表す
が、命令で再び朝鮮に渡った。しかし、三奉行との間に再び確執が生じ、東莱城より再
帰国した。秀吉からは軍令に従わずに戦線を離脱したと見なされたので、怒りを買って
追い返されてしまった。しかし内情が探られる事無く亀甲船が岩を落とされたり、燃や
されたりした為か、気を取り直し8月、剃髪して「如水軒円清」と号し、死罪を覚悟し
て長政らに遺書を残して拝謁した。これに、神妙として秀吉によって赦免された。もと
もと官兵衛には別の意図があった。既に秀吉には老齢の癖がでていてこの先短い。とな
れば次は天下とならずも九州ぐらいは盗れる。辛抱すればいいのだ。と踏んでいたので
ある。その為の資金が、朝鮮貿易であったのだ。慶長の役で総大将・小早川秀秋の軍監
として釜山に滞陣した。既に自分の懇意であった亀甲船がなく兵站を切る事は出来ずに
いた。黒田が流したかどうかは不明だが、明軍が駆けつけて苦戦し全軍退去のデマが流
れていて総崩れになったのは事実だ。第一次蔚山城の戦いにおいてこうして後塵の兵が
退去し加藤清正は籠城に至った。しかし九州勢の布陣の中に加藤氏の弟の伝令が来た。
全員が退去を決定する中でも、立花宗茂は猛然と救出を言い放った「我は日本の武士、
同志見捨てる戦いに義はなし。我は救出にいかん。」と 宇喜田氏がそこに指揮をとっ
ていたが、唖然とし自らも明軍に囲まれている中では、激を飛ばして自らの兵を勝手に
救援に向う後追うしかなかった。こうして後を追った。軍規では、相助け合う候事、こ
れ犯したるは処分する。」となっていたからだ。10倍もある軍勢に勝算はないように
思われた。しかし、立花勢の兵士は強かった。たった300の兵の救援だだったが、そ
の後追随した兵も駆けつけ千五百の兵で明の兵を蹴散らした。こうして加藤清正は救出
され、更に長政が留守にしていた梁山城が八千軍勢に襲われたてる中に攻撃をしかけ、
両城にて日本軍は大勝を収め帰参する事になった。今回の戦いのこれらは、逐次報告に
至っていた。石田三成や福原長堯などの軍目付たちは秀吉に報告していた。大阪城に登
城し謁見したときは、「立花宗茂は正に虎退治の清正に劣らず天下一双の猛者よ。」と
大喜びし、小早川秀秋、黒田長政、蜂須賀家政など、多くの武将が叱責や処罰を受ける
事となった。一方で、この軍目付たちは豊後国内に加増となった。軍目付の中に黒田の
長子の長政が豊臣秀吉の側近として仕えて調略などを支えていた。

1097: 名無しさんAA:18/03/23 12:09
 富安君を探せ              < その121 >

 こうして「如水軒円清」と蟄居謹慎後に隠居し息子に中津藩を預け、京都伏見の藩邸
で暮らしている事になっていたが、中津の城が彼の居城だった。しかし彼はしたたかだ
。徳川氏には前もって味方中津城の留守居を務める密約を結び行動している。石田三成
の挙兵の知らせを聞き如水は、中津城の金蔵を開いて領内の百姓などに支度金を与え、
九州、中国、四国からも聞き及んで集まった九千人ほどの速成軍を作り上げて近郊の城
を襲った。関ヶ原の戦いが起こった時、息子の長政は豊臣恩顧の大名を多く家康方に引
き込み、後藤基次ら黒田軍の主力を率いて、関ヶ原本戦で武功を挙げた。再興を目指し
て西軍に与した大友義統が毛利輝元の支援を受けて豊後国に攻め込み、東軍の細川忠興
の飛び地である杵築城を包囲攻撃した。これに城将・松井康之と有吉立行は如水に援軍
を要請。如水はこれに応じて、集めた兵力を率いて出陣した。それまでは三成の誘いに
対し、西軍に組する条件として九州7ヶ国の恩賞を求め、東へ向かう九州の西軍の部隊
を素通りさせ、準備期間を稼いでいたというのにである。この時豊臣恩顧の代表として
の手紙を送りながらも加藤清正や鍋島には九州共同征服を持ち掛けていた。この時立花
氏にも大友氏からの徳川加担の申し込みがあった。しかし忠臣義行の立花氏は加藤清正
から情勢を受けていたが豊臣方に要請に兵を運んでいた。黒田氏は早速諸城を攻略した
後、石垣原(現在の別府市)で大友義統軍と衝突した。母里友信が緒戦で大友軍の吉弘
統幸に破れる等の苦戦するも井上之房らの活躍もあって、黒田軍は大友軍に勝利した。
(石垣原の戦い)。富来城の攻略中に哨戒船が、東上中の城主である垣見一直からの一
通の密書を運んでいた船を捕えた。こうして西軍敗報に接し、如水は藤堂高虎を通じて
家康に領地切り取り次第を申し入れ、西軍に属した太田一吉の臼杵城(佐賀関の戦い)
などの諸城を落としていった。国東半島沖の豊後水道付近では水軍が、関ヶ原より引き
上げてきた島津義弘の軍船と戦い焼き沈めていた。10月14日、突如如水は兵5千を引き
つれ柳川へ派兵し、自身は西軍に参加した小早川秀包の居城である久留米城攻めへ向か
った。今や立花氏が留守だと知った為だった。更に鍋島直茂・勝茂父子が32,000の兵を
率いて久留米城攻めに参戦する。10月16日、こうして柳川城の支城である海津城を落と
す。その後、宇土城攻めを終えた加藤清正も参戦する。交渉の上、立花宗茂は降伏し、
如水軍に下った。そして11月に入り如水は宗茂、直茂、清正を加えた4万の軍勢で九州
最後の敵勢力である島津討伐に向かったが11月12日に肥後国の水俣まで進軍したとき、
家康と島津義久との和議成立による停戦命令を受け、軍を退き解散した。

1098: 名無しさんAA:18/03/23 12:10
 富安君を探せ              < その121 >

 立花氏が関が原の戦いに出なかった訳ではない。そもそも関が原の戦いは、天下分け
目の戦いとされているが、豊臣恩顧と徳川勢の戦いとして語り継がれるがそうしたもの
ではない。豊臣秀吉の死後、天下人の座を狙う徳川家康の謀略と、豊臣氏擁護や国家安
寧の平和の立場からの家康と対立する武将達のそれぞれの縄張り争いだった。ここにき
て石田三成ら反家康派の対立は、決定的だったものの、朝鮮征伐で疲弊し大砲の普及が
家康を押した。豊臣氏が死去した後、各武将集めて大阪城会議が開かれている。その中
では豊臣氏を頂点にやっていく事を各武将は確認しているのである。この中で徳川家康
は最も危ない武将として目されていながらも最も強い武将としても名が通っていたので
ある。しかし上杉氏が勝手に婚姻を決めたとして会津討伐に出て突然引き返して、大軍
を大阪に向けたのである。いわゆる本能寺の変の家康バージョンである。この時体制の
豊臣方の仕切りを行っていたのが石田三成だったのである。この豊臣体制には軍役があ
り、御下命による通知で兵を挙げたり、大軍を率いない決まりがあったのである。だが
家康は一切それを拒否したし、それに対する諸侯も又微妙な立場だったのである。そこ
に旧来の恩顧の武将というよりは、もう戦争をしたくない派は大阪に従い動いていた。
というのが実情だったのだ。立花氏は軍役会議の中で、徳川氏と相身まいる事は避けら
れた。そもそもが小藩で九州の藩だったからだ。従って関が原には約1万の兵で出兵し
最強と謳われながらも、島津や毛利など大きな諸侯の発言力が採用されていたのだった
。しかしこの大きな領地の大きな大将達は、全てが傍観者達だった。自領の領土や領民
達の安堵や藩の経営の方が大事だった為だ。その為小さな藩の信義を大事にした真田氏
などが勇猛果敢に戦っていたのである。大津城の戦い(おおつじょうのたたかい)は、
そうした中での関が原の戦いと同じに行なわれた戦いだった。石田三成は家康が会津攻
めに赴いたことを好機として、大谷吉継や毛利輝元ら反家康派の諸大名を糾合して挙兵
した。そして、家康が畿内を留守にしている隙をついて伏見城を落とし、次いで北陸や
伊勢国伊勢方面の平定に乗り出していたのだ。この北陸平定に、越前敦賀の大谷吉継が
担当することとなっていた。そして一員として、近江大津城の城主・京極高次が加わっ
ていたのである。ところが高次は吉継が北陸から美濃へと転戦する中に、突如家康の手
紙で東軍に寝返り、手勢3000名を率いて大津城に籠城し防備を固めたのだ。驚いた大坂
城側は使者を遣わし停戦・降伏を求めるが大津側は断固として拒否した。

1099: 名無しさんAA:18/03/23 12:13
 富安君を探せ              < その122 >

これこそが自らが軍を率いて大阪城を攻める為の、他の武将を他に向ける豊臣恩顧への
家康の分断作戦だった。こうして、豊臣側は、高次の裏切りに対する報復として、毛利
元康を大将とし兵を出すことにした。それに立花宗茂、小早川秀包、筑紫広門ら九州方
面の諸大名の軍勢を総勢1万5千人の軍勢をもって、大津城に対して包囲攻撃を開始し
たのである。しかし高次は城を死守し、容易に城攻めは捗らなかった。中でも赤尾伊豆
・山田大炊の活躍はめざましく、精兵5百を率いて城外の大軍へ討って出ては存分に暴
れ回り直ぐに城に帰るという事を繰り返していた。攻めあぐねた寄せ手は、十三日には
とうとう大砲を城内に撃ち込んだ。砲弾は天守にも命中しこうして攻防戦はやっと有利
になった。城内では大混乱となり高次も必死に防戦するが、ここに立花勢の先鋒大将・
立花吉右衛門が一隊を率いて城壁に取り付いた。京極勢も奮戦したが遂に力尽きて鬼弁
慶とされたさしもの京極高次も捕らわれ 9月15日に降伏して大津城を開城する事に
なった。その後高次は一命を助けられて、高野山に上って出家することとなる。家康が
関が原で勝ったからだった。歴史家達はこの頃の大砲があった事をひた隠しにする。そ
の為この戦いの仔細はあまり書かれていない。しかし、もっと前の大内氏が周防に籠っ
た頃から既に出回っていたのである。もちろんこの大砲は大友氏の頃九州勢が譲り受け
たものだった。ただ持ち運ぶには重く、火薬装填には危険が伴うもので誰もが使えるも
のではなかった。よく関が原で小早川の裏切りが出るが、実は、この大津城攻めに小早
川秀包を進軍させていたからだ。更に山に鉄砲を撃ったとされるが、鉄砲ではない。こ
の大砲「国崩し」である。つまり家康も又大砲を持っていたのだ。これらの大砲は、決
して海外製ではない。鉄砲が真似される中では、同じように大砲も作られた。実は鉄砲
よりは大砲の方が作り易かったはずだ。精度には欠けて多く正確にとはいかないまでも
、そこそこ飛んで大きな音を立てる大砲は作られていた。事実この後の大阪城攻めには
大砲は使われているのである。それを立花宗茂、筑紫広門は持ってきていたのである。
それは加藤清正からの助言でもあった。朝鮮征伐の折に碧蹄館の戦い(へきていかんの
たたかい)で軍律を破りながらも加藤清正の軍を助けに行った事は聞き及んでいてその
後は無二の仲間であった。

1100: 名無しさんAA:18/03/23 12:19
 富安君を探せ              < その123 >

 この大津城攻防戦は、戦術的には西軍が勝利したが、戦略的には西軍の敗北であった
。なぜならば、高次が大津城を開城した9月15日は、関ヶ原の戦いが繰り広げられた
当日だったからである。つまり、西軍は本来なら関ヶ原にあったはずの精鋭1万五千人
の兵力を欠いたまま東軍と戦うという不利な状況に追い込まれていたからである。特に
、家康がその武勇を恐れていた立花宗茂が関ヶ原の本戦に参加できなかったということ
は、家康にとっての作戦勝ちであり、西軍にとっては不運でもあった。もし、宗茂が1
万を超える大軍を率いて本戦に参加できていたなら、東西両軍の勝敗は大きく変わって
いた可能さえ指摘されている。ちなみに、宗茂は9月15日に大津城を開城させた後、
軍勢を率いて草津にまで進出していたが、そこで西軍の壊滅を知って大坂城に退却する
ことを余儀なくされ、戦後に改易されてしまった。なお、敗軍の将である京極高次に対
して、家康はあの立花宗茂をよく押さえてくれたということから、関ヶ原後に高次の弟
・京極高知を使者として高野山に派遣して、大名としての復帰を許しただけではなく、
若狭一国小浜城九万二千石の所領まで与えるなど、宗茂を大津城に引き付けたことを大
いに賞賛したという。京極家は近江の名族・佐々木六角氏の支流で、彼は高吉の子とし
て生まれた。当時は浅井氏が勢力を伸ばしており没落していた。そうしているうちに、
尾張の織田信長が進軍すると父高吉は臣従を誓って当時六歳の高次を人質に出したので
ある。彼の非凡さを見抜いたのは明智光秀であった。しかし本能寺の変では秀吉の臣下
になった。妹の松の方が人質として差し出され寵愛されていたからである。こうして、
彼女からの働きかけで徳川家康の助命嘆願の要請で命は助かり、浅井家の妹を娶った。
浅井家は時の敵将だったはずだがその長女こそ茶々様であり松の丸と宿敵だったはずだ
。だがこの名門の出を楯にしたのかとんとん拍子に出世して「大津宰相」と呼ばれるま
でになるのだ。周囲では功績がないままにのし上がった蛍大名と揶揄されていた。当初
西軍に属した高次は敦賀の大谷吉継から求められ北陸方面へと出陣した。しかし敦賀か
ら関ヶ原へ向かう途中、吉継に一日遅れで行軍していた。むろん大谷吉継もこのあたり
の事情は熟知しており、美濃への移動にあたって密かに朽木元綱を呼び、高次の挙動を
監視させていた。引き返して籠城し民家に柴の束や薪の束が積み上げられる事は直ぐに
伝えられて、大津城包囲にかかっていた。その時立花氏は城下が焼け落ちるまで多くの
日数がかかる事を見越して大砲を用意させた。

1101: 名無しさんAA:18/03/23 12:25
 富安君を探せ              < その124 >

 立花吉右衛門成家は、父・薦野増時と共に、豊臣秀吉に武功が轟き立花氏にも忠功多
くあった人だ。薦野増時は立花三河守を名乗り、息子の玄賀、賢賀、丹親次(薦野勘解
由鎮方)や、半右衛門(薦野増時の弟)などを率いて従軍していた。立花成家は(薦野
吉右衛門弥助、成宗、日玄、薦野増時の子)関が原合戦のずっと前に、一人立花軍議で
異論を吐いていた。「次の合戦の折は、他の重臣が豊臣方を賛するところではありまし
ょうが、増時はただ一人でも徳川方につく事を意見する。」「すなわち此度の合戦は、
必ずや徳川の勝利になりましょう。家康公においては、若き頃から強敵と戦いながらも
今だ敗れることを知りません。兵法に長け、事前に芽を摘む知将の類と見る。此度上杉
攻めに出陣する噂からは、上方の大乱を覚悟してのご出立と聞き及ぶ。上杉攻めは口実
にして必ずや軍を転じて歴戦の諸将を従えて行軍なさろう。もし上方への出発とあらば
、宇喜田・毛利をはじめ、その他、五奉行の面々が、たとえ秀頼公の御名で諸大名に下
知されても適いますまい。志一定せず勝利することは勿論戦うにも難儀な事で動けます
まい。幸い九州には黒田如水・加藤清正の両名は、必ず家康公につかれるはず。そこで
、殿にはこの地に留まり両将と協議して行動を起こされる事を望むものであります。さ
すれば、お家は安泰でありましょう。」と言った。そこで立花公はしばらくだまって、
考えていた。そうして重臣等の意見を聞いていた宗茂(統虎)は、「皆が話される事は
最もな事である。それは国を思っての事であろう。有難く思う。だが、自分は勝敗には
拘らない。武士足るは義を尊ばねばならない。皆が知る通り、故太閤殿下には深い御恩
がある。その為、自分は秀頼公について一方を受け持ち、忠義をあらわそうと思う。」
と語った。そういって増時の言を退け、城島城主だった彼に駿河の地での居城を認めて
、情報を集めさせた。また出陣には、加藤清正に柳河城の留守を伝え、軍勢を上方に送
った。実は薦野氏は俗称で、本来米多比氏(ねたみし)でありかつて茶臼山に「薦野城
」の領地として代々居住してきた氏族だった。宗像への押さえとしては大変重要な場所
でこの地に移ってからもその地を薦野村と名乗った。二十九代「宣化天皇」より出「上
殖葉王子、十市王、多治比王」と続いた子孫として薦野城主となった。としている。ち
なみに、宗茂は9月15日に大津城を開城させた後、軍勢を率いて草津にまでも進出し
ていて、そこで西軍の壊滅を知って大坂城に退却することを余儀なくし戦後に改易され
てしまった。もしもう少し長引けば江戸城をも落としていたかもしれなかったのである
。その為の大砲だった。この巧みさに直ぐさま、徳川は柳川の攻撃を黒田に伝令した。

1102: 名無しさんAA:18/03/23 12:27
 富安君を探せ              < その125 >

 薦野氏は立花配下となっていてからは、城島城主となっていた。全軍出陣となってか
らは、留守を小野和泉守に預けていた。佐賀鍋島氏は関が原まで動かなかったが敗戦の
一報を受けて急きょ黒田氏の後ろ盾に筑後を攻める事にした。関ヶ原で西軍主力敗戦後
、柳河に戻った立花宗茂は、九州北部を席巻する黒田・加藤氏、更に勝ち馬東軍に寝返
った肥前の鍋島氏と対峙する。俗にいう『八の院の戦い』である。成家はこの戦いで、
黒田如水の備えとして水田口の守備についていた。それは水田城の小野和泉が三潴を守
っていてくれたからだ。しかしこの主力苦戦の報を伝え聞いた成家は、独断で八の院に
転進、鉄砲・弓をを乱射させて鍋島軍の横合に押し入った。突如の新手の出現に鍋島軍
は混乱をきたした総崩れした為、その間に主力の小野和泉等は軍勢をまとめ無事に退却
することが出来たという。成家はなおも鍋島勢を追撃し、十分に押し返した後に反転し
退却にかかった。その時鍋島軍の放った銃弾が成家の頬を射抜き成家は落馬したが、従
者・安部惣右衛門がすぐさま駆け寄り彼を担いで退却した為事無きを得た。こうして、
立花勢は籠城を果たし、その周りを加藤清正が取り囲んだ。一見柳川城を攻撃する形に
見えたが、その実は黒田氏や鍋島氏から守る形だった。その後にらみ合いは続きこうし
た中立花氏は御沙汰を受ける立場だった。静かに本隊江の浦城まで大船をつけると後は
小舟で次々と沖の端に入り帰城した。しかし立花氏が城に入ると綿貫氏が待っていた。
10月14日、鍋島勢は既に繰り出していた一万二千は膠着状態として更に加勢一万騎を繰
り出した黒田兵も一万騎を出して山越えして駆けつけた。こうして二手に分かれて佐賀
を進発。そこで肥後勢も2万騎が八女の耳納づたいから柳川の本城の蒲船津から高畑の
三柱神社まで陣をはっていた。これに対し、立花勢は迎撃のために出陣するが、家康へ
の恭順を示すため宗茂は城に残った。立花勢13,000のうち、城を出て八院方面へ出陣し
たのは家老の小野鎮幸を総大将とする約三千騎であった。鍋島軍は、10月16日には筑後
川を渡河し立花方の海津城を落城させ、続いて19日朝には先鋒の3,000兵は立花成家200
兵の鉄砲奇襲を受け20余人が討たれたが城島城を攻略、翌20日には江上八院で立花勢本
隊と激突した。立花勢先鋒の安東範久(五郎右衛門)、石松政之(安兵衛)らは軍法を破っ
て独断で開戦し、次々と鍋島勢十三段の軍陣の中へ突入し、先鋒の第三隊立花統次(三
太夫、森下釣雲の三男、立花統春の養子、鎮幸の養子・小野鎮矩とは兄弟)はその九段
までも進んで奮戦した。鍋島勢の先鋒・鍋島茂忠は本陣の五反田へ撤退したといわれて
いる。

1103: 名無しさんAA:18/03/23 12:41
しかし、一騎駆で敵軍に突撃した立花統次の戦死を始め、先鋒の安東範久、石松政之は
たちまち反撃を受けた。そのために救援出陣の第二陣立花鎮実(戸次右衛門大夫、藤北
戸次氏の一族)と鎮実の若い次男立花親雄(善次郎)や新田鎮実(平右衛門、掃部助)
は横合から攻めかけ、敵を三町ばかり突き崩し、後を断たれて共に戦死した。後陣の矢
島重成(勘兵衛、剛庵、宗茂の側室・八千子の弟)と千手喜雲(六之允、筑紫広門の与力
)は戦を躊躇していたため、馬廻衆の安東幸貞、第三陣の若武者十時惟久(新五郎)、
先鋒の安東範久、石松政之も次々と戦死した。総大将の小野鎮幸は本陣前の橋を堅守し
て鍋島勢の包囲を受け勇戦奮戦したが、鍋島軍の反撃を受け、供回りが14、5人にな
るまで討ち取られた。小野自身も銃創と矢傷を負い、討死寸前となったが、水田方面の
黒田如水軍を偵察していた立花成家(吉右衛門、薦野増時の嫡男)が別動隊三百人を率
いて敢然と奇襲をかけ鍋島勢を混乱させた隙に無事撤退した。ひとまず撤退し柳川城下
にはいる場内の民は心配そうに小野氏を見ていた。登城し結果を立花氏に報告すると、
「そうか。無念。ゆっくり体を休めて養生するが良い。」と言った。綿貫氏の隣には、
見慣れない者がいた。「この機に及んでは、御立花公にありましても無血開城が一番か
と思うに、これ以上の場外の乱闘は駿府様が嫌われる事になるやも知れず。謹んでご沙
汰を待つように望むと、清正公も申しております。」と口上した。なんと立花吉右衛門
成家が一時城島に帰城した折に既に熊本の清正公の家来が数人入場していたのである。
「殿、これは一体。」「あいや済まぬのう、主らが出た折り返しに使者が参ってのう。
」「まあ、ありていに申せば、今や手勢8千騎となった立花様におかれましては、黒田
・鍋島・加藤の10万騎以上に手向かいして勝ったところで家康公に抗するは犬死に等
しいと言う話じゃがのう。」と使者はいうと、いきり立つ吉右衛門らに「まあまあ、こ
の使者は、静かにご沙汰を待たれるがよろしい。という清正公の、まっ、行ってみれば
忠告じゃ。ついては家康公にとりなしを尽くす。との口上じゃ。」と外をみた。「まな
板の鯉ですか。」と泣いた。「こうなったら徹底抗戦しましょう。黒田他目に、目にも
のをみせてやりましょう。」と言う家臣に「嫌、だめだ。わし一人ならいい。いや武士
はそれで死んでもいいだろう。しかしここで戦うならここの民百姓はどうする。残され
た家臣達の婦女子はどうする。もう戦の世に終わりが来てもいいだろう。例えここで戦
で勝っても又喰いつめ武士から領地争いが起こる。既に内府様の勝ちじゃ。お主らは、
この加藤氏について行って清正公の家臣となるが最善じゃ。もう臣下が死ぬのは見とう
ない。覚えがよければ、ぬしらも取り立てられよう。そう清正公は言っている。わかっ
たな。犬死は、御法度である。」とにらみつけ、その温情に家臣は泣いたとされる。

1104: 名無しさんAA:18/03/23 12:48
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------1

あまり知られていないが、北陸の小松城周辺でも戦局を左右する戦いが起きている。北
陸では金沢城主・前田利長が東軍に、小松城主・丹羽長重が西軍に与していた。7月26
日、前田利長は2万5千の大軍を率いて小松城攻めに向かう。対する丹羽長重は、兵3
千で籠城した。だが攻略は難しいとみた前田利長は、小松城を横目に西進する。石田三
成は、もともと濃尾地域での長期戦を志向しており、関ヶ原決戦は突発的なものであっ
たので、もちろん仕方のない話だった。しかし、立花宗茂のような武将は、前線におい
て活躍させるのが最も真価を発揮するのであって、決戦場から離れた後方の城攻めに用
いるのは、非常にもったいない兵法に外れた采配だった。その点家康は自ら その方法
を取らざる得ないように、大阪城内部にも、諸侯にも仕掛けをして罠をはっていた。も
し、ここで立花宗茂が出てこないとなれば、たぶん他の方法を用いていたに違いない。
 大津城攻めは他の部隊に任せて、立花隊だけ引っこ抜いて、大垣−関ヶ原ラインのど
こかに配置しておけば、突発的な戦闘にも対処させられるし、関ヶ原の決戦にも動員で
きたのできた。そもそも石田三成が家康が会津攻めに赴いたことを好機とした事に問題
がある。更に大谷吉継や毛利輝元ら反家康派の諸大名を糾合して挙兵する事は見通した
もので足止め分断作戦だった。又あの黒田如水ですら、東軍と西軍の戦いは半年から一
年は続くと見て作戦を立てていた。が、皮肉にも息子・長政の調略で西軍の小早川秀秋
が寝返り、一日で「関ヶ原」が終わった。大友義統の軍を破った後、黒田如水は合戦の
翌日 9月16日から改めて再開して進撃をした。1日で終わったと思っていなかったから
だ。17日から熊谷家臣の熊谷外記の守る安岐城を包囲して19日に開城させ、守備兵の殆
どを配下に加えた。23日より垣見家家臣の筧利右衛門が守る富来城を攻め、10月2日に
富来城を開城させ、ここでも城兵に自由を与えて自軍に加えた。ここで既に勝った事を
しる。が4日以降も北上を開始し、5日には毛利吉成の家臣毛利定房が守る香春岳城を
攻め、本城の小倉城も攻略した。合戦は増時の予想通りに進み、宗茂の活躍をよそに、
西軍は崩壊した。ほぼ無傷で柳河に帰りついた宗茂は、休む間も無くと東軍に寝返った
鍋島の軍勢と激戦を展開し、これを撃退していた。戦後この合戦の顛末を小野和泉に聞
いた宗茂は、的確な判断で立花軍の崩壊を防いだ立花成家の活躍が随一であるとして、
感状をもって賞した。朝鮮の役でも、金の軍扇をあたえ即座の賞とした。1600年の
大津城攻めでも功を上げ、「如意の甲」と「筑紫月毛」という筑紫広門が宗茂に贈った
名馬をそのまま賜っている。

1105: 名無しさんAA:18/03/23 12:50
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------1

あまり知られていないが、北陸の小松城周辺でも戦局を左右する戦いが起きている。北
陸では金沢城主・前田利長が東軍に、小松城主・丹羽長重が西軍に与していた。7月26
日、前田利長は2万5千の大軍を率いて小松城攻めに向かう。対する丹羽長重は、兵3
千で籠城した。だが攻略は難しいとみた前田利長は、小松城を横目に西進する。石田三
成は、もともと濃尾地域での長期戦を志向しており、関ヶ原決戦は突発的なものであっ
たので、もちろん仕方のない話だった。しかし、立花宗茂のような武将は、前線におい
て活躍させるのが最も真価を発揮するのであって、決戦場から離れた後方の城攻めに用
いるのは、非常にもったいない兵法に外れた采配だった。その点家康は自ら その方法
を取らざる得ないように、大阪城内部にも、諸侯にも仕掛けをして罠をはっていた。も
し、ここで立花宗茂が出てこないとなれば、たぶん他の方法を用いていたに違いない。
 大津城攻めは他の部隊に任せて、立花隊だけ引っこ抜いて、大垣−関ヶ原ラインのど
こかに配置しておけば、突発的な戦闘にも対処させられるし、関ヶ原の決戦にも動員で
きたのできた。そもそも石田三成が家康が会津攻めに赴いたことを好機とした事に問題
がある。更に大谷吉継や毛利輝元ら反家康派の諸大名を糾合して挙兵する事は見通した
もので足止め分断作戦だった。又あの黒田如水ですら、東軍と西軍の戦いは半年から一
年は続くと見て作戦を立てていた。が、皮肉にも息子・長政の調略で西軍の小早川秀秋
が寝返り、一日で「関ヶ原」が終わった。大友義統の軍を破った後、黒田如水は合戦の
翌日 9月16日から改めて再開して進撃をした。1日で終わったと思っていなかったから
だ。17日から熊谷家臣の熊谷外記の守る安岐城を包囲して19日に開城させ、守備兵の殆
どを配下に加えた。23日より垣見家家臣の筧利右衛門が守る富来城を攻め、10月2日に
富来城を開城させ、ここでも城兵に自由を与えて自軍に加えた。ここで既に勝った事を
しる。が4日以降も北上を開始し、5日には毛利吉成の家臣毛利定房が守る香春岳城を
攻め、本城の小倉城も攻略した。合戦は増時の予想通りに進み、宗茂の活躍をよそに、
西軍は崩壊した。ほぼ無傷で柳河に帰りついた宗茂は、休む間も無くと東軍に寝返った
鍋島の軍勢と激戦を展開し、これを撃退していた。戦後この合戦の顛末を小野和泉に聞
いた宗茂は、的確な判断で立花軍の崩壊を防いだ立花成家の活躍が随一であるとして、
感状をもって賞した。朝鮮の役でも、金の軍扇をあたえ即座の賞とした。1600年の
大津城攻めでも功を上げ、「如意の甲」と「筑紫月毛」という筑紫広門が宗茂に贈った
名馬をそのまま賜っている。その後清正から清を貰い配下は成清と名乗った


1106: 名無しさんAA:18/03/23 12:58
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------2

 西軍自体が負けてしまい、柳川へ引き上げたが、その後徳川家康は立花公の処置に困
っていた。それは小西行長問題だった。小西行長は和泉国堺の商人・小西隆佐の次男と
して京都で生まれた実は小西行重を兄に持っていた。小西行重は別名武藤行重といい、
少弐氏の家系の分家と思われていた。秀吉は一目でその才智を見抜きスカウトしていた
。豊臣政権ができると舟奉行に任命され水軍を率いていた。秀吉から豊臣姓を名乗る事
が許される程懇意であった。紀州征伐では、水軍を率いて参戦したが、雑賀衆の抵抗を
受けて一度は敗退するものの一方で、太田城の水攻めでは、安宅船や大砲も動員しての
攻撃で、開城のきっかけを作ったりしていた。天正13年(1585年に、小豆島で1万石を
与えられ、高山右近の後押しで洗礼を受けキリシタンとなっていた。天正15年の九州
平定、天正16年の肥後国人一揆の討伐に功をあげて肥後国の南半国宇土、益城、八代
の三郡20万石あまりを与えられて、島原の海運を担っていた。そしてかの水軍が大砲
を所持しているのは聞き及んでいた。又今回の大津城攻めにこの大砲が的確に城壁を撃
ち破っていた。つまり逆に本物の大砲で外国の司令官を持っている可能性があったのだ
。更に一連の動きが立花氏―小西氏がキリシタンでつながり小西―加藤が地域で繋がり
を持っていた。宗氏の外交事件でも小西が裏にいた事は明白だった。そして加藤―黒田
の線もでて来たのである。つまり黒田家すらも立花宗茂の恩赦の嘆願をしていたからだ
。実は今回活躍した黒田長政も伏見地震で怖くなった母の勧めでキリスタンになってい
たのである。こうして九州勢は総じてキリスタンになって行く中にあった。関ヶ原の合
戦の後には、徳川家康はまず長政に勲功として豊前国中津12万石から筑前国名島(福
岡)52万石への大幅加増移封をした。更に、井伊直政や藤堂高虎の勧めで、如水にも
勲功恩賞、上方や東国での領地加増を提示した。多くの反対の中に家康は言った。なに
あいつもわしも年じゃ。黒田長政が不都合が無ければそれで良い。と。しかし如水は、
これを辞退し、その後は中央の政治に関与することなく隠居生活を送ったという。これ
は税金徴収の問題だった。加増される地の日田などは、その頃災害でほとんど米が出来
ない中で、一様に幕府に納めてくれればそれが良かったからだ。如水は、東軍と西軍の
戦いが皮肉にも息子・長政の調略で西軍の小早川秀秋が寝返り、一日で「関ヶ原」が終
わり、落胆するも、すでに西海での領地切り取り次第を申し入れ家康に了承を取ってい
たから始末にわるく。瞬(またた)く間に、西軍に属する諸城を落として九州の北半分
を席巻した。が、それは又家康の疑心を持たせるものだった事も知っていたのだ。


1107: 名無しさんAA:18/03/23 13:06
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------3

 領地に帰り「関ヶ原の働きで家康様から加増を受けた。」喜んで如水に報告すると、
以外にも如水は「家康が握った手はどちらか」と問い、「右手です」と答えると「お前
の左手はその時、何故腰を取らぬ。腑抜けめ」と、なじりとがめた。息子長政は頭良く
すぐにその意味を察した。この時から親子は絶縁状態に陥った。息子はそのままうつむ
いて涙し顔起こして曰く「既に人生の山を越え死のうする老いぼれ爺いは、そんなにも
友が死に領民が死んで行く乱世が好きか。悪鬼千万。」と怒鳴って城に戻っていった。
関が原の前の福岡地域は、筑前の旧領主の小早川秀秋の領地であった。立花城が立花氏
の蟄居謹慎の地となったが、小早川の居た香椎宮と箱崎宮の間にある名島城は、実は、
立花城の出城だったのである。従って黒田氏の新しく加増された居城には狭かったし、
平城で時代にそぐわない者になっていた。小早川秀秋は播磨国の飛び地数郡以外の旧宇
喜多秀家領の岡山55万石に加増・移封された。そこで秀秋から秀詮へと改名している。
秀詮はこの国替えの際に前領地の筑前国より年貢を持ち去っている。この年貢が取り去
られた事件で黒田氏は苦境に陥っていた。それは、小西行長の要請で筑紫広門の手勢の
引き受けを了承していたからだ。如水と相談もしたかったが帰国早々縁を切った事態に
陥ったのである。筑紫広門は関ヶ原の戦いで、立花氏と共にあった。養子の主水正広門
が西軍となり京極高次が守る大津城を攻めていた。自身は東軍として筑後の居城で篭城
し鍋島軍を迎え打っていた。しかし西軍主力が関ヶ原で敗戦した後、鍋島軍の攻撃によ
り三潴の大善寺の城島城の居城はその出城はことごとく攻撃にさらされて獲られていた
。裏に黒田如水の援兵があったからだ。その居城が残ったのは加藤清正が守ってくれた
からだった。しかし改易にあって筑紫一門も多くは肥後に移り住むことになっていたが
、一部は立花氏が立花城に蟄居謹慎の為福岡城下に移り住むことが黒田氏の配慮で許さ
れたのである。立花氏は非常に慕われた殿様だった。立花山の蟄居謹慎の伝令は9月に
入ってからであった。黒田氏や鍋島氏の進軍が止まらなかったので寺沢広高を肥前に入
れて唐津の城主とさせ、松倉重政(まつくらしげまさ)を筑後に付けた。松倉は、一人
御家人からの成り上がりで落ちぶれた京都の宮家の血筋であった。その後日野江に入封
後にも苛政と搾取を行い、子の勝家と共に島原の乱の主因を作った。田中吉政が柳川入
城した時かれもこの地で勢力を持ち続けて、この地は再び血に染まった。それは田中吉
政がこの板倉氏の持ち上げで地位を得た御家人あがりで飾り大将だったからだ。

1108: 名無しさんAA:18/03/23 13:06
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------4

 そもそも田中吉政は飾り大将であった。尼子氏(あまごし)は、京極氏の一族で代々
出雲守護代を務めた。京極氏から室町時代中期に分かれた家であり、京極尼子家とも呼
ばれる。山陰地方で活動し、戦国大名となった一族である。京極氏時代に出雲守護代を
務めたのは平安時代の頃だ。室町時代に変わり、宗家京極氏が出雲の守護代と月山富田
城に拠った為。やがて出雲や隠岐の守護代として雲伯の国人掌握し、力をつけた。この
時雲伯の国人が身につけていたのは中国から入っただろう鋳造の技術だった。それも、
古代の金銀の抽出技術だった。丹羽氏が金銀の抽出法やその山の存在が解っても金銀は
取れなかった。それには鉛が必要不可欠だったからだ。金銀を含んだ土から加熱して集
めても金銀にはなり得ない。「かわらけ」に乗せるまでに非常に有害な鉛が必要だから
だ。雲伯の国人は銅の作り方も鉄の作り方も一子相伝でそれを知っていた。だが族長の
みで他はその手伝いに過ぎなかった。それが富氏だった。5年に一回や11年に一回し
か行われなかったその儀式は「まがたま」の行事だった。しかし尼子氏時代には金銀は
必要なく銅の売買だけでも充分だったし、鋼の製鉄だけでも食っていけたのである。こ
こに不思議がある。銅を作れば鉄と言う不用品が出る。銅と鉄を抽出すれば金銀と言う
不用品が出た。これが丹土だった。それが神社の赤の由来でもあった。松倉家はその名
の通りその雲伯の国人に薪を提供し粗銅や砂金の様な金銀を交換する役割だった。した
がって秘密裏の組織であり、筒井氏や明智氏より位が高いと思っていたし事実そうした
氏族であった。京都五条に在したが南北朝時代に追われ、筒井順慶に仕えていたがその
中でも食客身分だった。室町時代に筒井順慶は得度し荘園を持っていた。大和荘園には
「大和四家」と呼ばれる筒井氏、越智氏、箸尾氏、十市氏などのつわもので智慧者の僧
兵を擁していて策略家として領地を増やした。家老時代に順慶が明智光秀の斡旋をもっ
て信長に臣従した時には家老で同じ様に帰順した。その甲斐あって光秀の起こした謀反
には筒井に反対し追従せずにいる事を進言した。養子の定次が伊賀に転封されと、重政
は一人大和に残って豊臣家の直臣となる事を働きかけ、家老でありながらの松倉政秀と
松倉重政親子は本能寺の変の後に明智光秀と羽柴秀吉の軍が山城国山崎で、山崎の戦い
に秀吉方に加担して、末席に座った。こうして九州平定まで従軍していた。彼が使った
とされるのが伊賀の忍者集団だった。そして彼が祭りあげたのが田中吉政なのである。

1109: 名無しさんAA:18/03/23 14:59
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------5

 田中吉政は先祖には近江源氏高島氏の一族で田中城の城主であったされる。しかし、
織田信長が引き上げる頃は落ちぶれた百姓だった。吉政が家紋に「一つ目結い」紋(釘
抜き紋ともいう)を用いている。いわゆる鉄砲紋である。織田信長の高島郡進攻により
田中氏は当時は帰農していたとされる。吉政の出生地は浅井郡の三川村または宮部村(
現在の長浜市三川町、宮部町)で、吉政自身はそこに住む農民であったという説は有力
だ。浅井郡の住人に限られる竹生島の行事・蓮華会の頭人を柳川藩主となっていた吉政
が担ったからだ。三川村の田中吉政の出生伝承では、彼自身が宮部村の国人領主である
宮部継潤に仕えたとある。また吉政の母すなわち国友与左衛門(宮部継潤家臣)の姉は
宮部村と三川村にほど近い坂田郡国友村(当時有数の鉄砲の生産地。現在の長浜市国友
町)の出身などである。ただ、近江八幡時代以前の記録は少ない。つまり信長は鉄砲を
作らせていたのだ。こうして始め筒井順慶に仕えていた松倉政秀が豊臣家の直臣となっ
て田中吉政と出会ったのである。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは板倉重政は、
単身参陣して徳川家康に認められ、大和の五条二見城主に帰り咲いた。五条では諸役を
免除して商業の振興を図るなど城下町の整備を行った。その元になったのが国産の鉄砲
であった。しかし田中吉政の率いた鋳造の鉄砲は直ぐに古くなった上、長期の使用には
全く耐えられなかった。田中吉政の入国時の所領は、矢部川から沖の端川までである。
それは徳川氏が所領のない伊賀者を置く板倉重政に一応の食糧を与える為であった。が
これは大きな間違いだった。田中吉政はこの小さな領地に同じ量の税が江戸幕府に決め
られていた上に、更に松倉政秀は野心家であったのだ。つまり鉄砲輸入に踏み切ってい
てイスパニア船を天草に忍ばせて寺沢広高を連絡役にして密貿易を果たしていたのであ
る。女と米を送り続け、薬や武器を調達する事が、この集団の維持だった。しかしこの
地は伊賀者も英彦山の修験道者によって排除されていった。ここに大きな隠れた争いが
あったのえある。その上に、キリスタンである彼らの天草から阿蘇にかけての信者は、
伏見の大地震以来この地にやって来ていたのである。この背景が九千坊カッパ伝説の、
背景である。その時の大伝文記は「この地の人は二重の課された税に苦しみ、その解決
久留米や英彦山に求めた。」と言う。この二重の税の徴収に応じない村には松倉氏がや
って来て謀反人と思しき者の民を並べて、串刺し(三人を一気に槍で突く)、箕踊り(
蓑を着せて火をつける)、塩漬け(逆さで海水に磔)などをして検分した。これは高田
町・三橋町・大木町など各所で行われた。更にその妻や娘を西勝寺送りにした。


1110: 名無しさんAA:18/03/23 14:59
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------6

 もともと 西勝寺は東北で生まれた文化を親鸞において書き換えられた仏教である。
阿弥陀如来を一佛本尊とし、親鸞を宗祖とする浄土真宗本願寺派の系統とされる。当時
民百姓は子沢山で食べる事が必至だったが、ある年は震災や水害或いは冷害で食えなく
なる。すると修行していた僧も食べられなくなった。寄進や布施がないからだ。そこで
縁を基調にした一佛本尊教が出来た。縁があれば幸せになれる。一心に念仏を唱えれば
救われる。とそう言わなければ、その時の孤児や未亡人を引き取って、京の都へと連れ
て行く事が出来なかったのである。それには「阿弥陀如来の本願力によって信心をめぐ
まれ、念仏を申す人生を歩めば、この世の縁が尽きるとも浄土に生まれて仏となり、迷
いの世に還っても人々を教化する。」と、「たとえ死んでも天国に行くはずだ。」と言
ったのだ。当時には、姥捨て伝説や蛭子流し伝説が、現実にあったのである。そこでは
少量しか食べない信心深い老婆や、乳飲み子のいたいけない子供を捨てない様に、おし
んの物語のように連れていったのだ。それは田中角栄の時代つまり万博時代まで現実に
あった事だ。その頃の集団就職列車はその名残りでもあった。だが平安時代は、子猫の
避妊の様に娘や若者を引き取り全国の西勝寺の連絡網を通じて、養子縁組やら丁稚奉公
などの世話をして土着した寺となった。それは他の宗教の派生の様な 金鉱山から金を
作る技法も治水や土木の技術も、海の漁法操作もこの宗教は全く持ち合わせがなく 単
に祈って金を拝借するしかなかった宗教だったからだ。しかし長く続く戦乱の世では、
その孤児や飢饉で困った親が口減らしの為には役にたったのである。だが時代を超えて
、江戸初期の頃は、その女衒は闊歩していて商売の寺として別称女衒堂として広まって
いた。他と違い、祈祷も技術商売も体制批判もなかった為に、勉学堂としても、多くの
最初の孤児や通い塾はこの寺で行われた。更に西洋式の銀行や保険のもととしても村用
に報恩講と言う利子出し貸し借りが行われて相互扶助が促進された。五行思想の中で五
色(白・黒・赤・青・黄)の色にまつわる名称や伝説では方位を示す。これは今の(火
・水・木・金・土)の職業であり土は農業で中心とされる。この商工業者の代表達を子
として掛け金を回して殖産新興を行ったのだった。三井三菱においても、この金を元手
として京に店が出して成功したという物語のはずである。しかしこの松倉はこれを悪用
した。筑後では「佐賀者の通った後は、草木も生えぬ。」とは女子供が盗られて行った
歴史の事実の伝承で佐賀から「柳川の紋は銭の紋」とはそうした金や物資に窮していた
事を物語っている。伊賀屋に子供を売り渡していたのだから。

1111: 名無しさんAA:18/03/23 15:11
 そうした事で多くは有馬氏が保護して浮羽などに引き取った。しかし修験道との戦い
は熾烈を極めた。こうした中でも立花氏の立花山に米を送る地主もいた。池末氏や竹田
氏や井上氏矢部氏池上氏などである。立花氏はそれほど慕われていたのだ。立花氏がこ
の地を去るとき9月9日の重陽の節句であった。いわゆる老人の日であるが、かつては
神社に柳の木をかざり、菊の花形をした和紙をこよりで飾り、牡丹餅で祝ったという。
船で水門を抜け百丁を抜けて今の磯宮で降りて水田の水天宮を目指したと言う。途中に
夕刻前にもよりの神社はその多くが彼らをもてなし それをふるまい、旅の飯まで持た
せて涙して送ったという。従者は少なく多くは肥後に仕える身分となっていて方向が違
ったからだ。改易となり、その後は浪人へと落ちぶれて立花山に居住する。そこには、
黒田家と共に謀られたらたまらないとして寄せて、家康は独眼竜正宗に相談した。そこ
で徳川幕府も宗茂程の者を放っておけず、陸奥の国3万石の大名として執り成し近習の
客分とした。そしてそれは、後の大阪の陣で豊臣方との決着をつける為だったという。
その際立花が豊臣に味方したら厄介だったのだ。家康は宗茂を十分に説得した。結局は
徳川方として活躍し、10万石で柳川城に復帰する事となった。この慶長20年(1615年
)の大坂夏の陣に際しては、松倉政秀も大和郡山城の救援や、道明寺方面での後藤基次
勢との戦いのなど功によって、翌元和2年(1616年)に有馬晴信の旧領で肥前日野江の
4万3千石を与えられて移封した。家光の助言でキリスタン排除の為に行ったものだ。
家光公とは立花公は伊達正宗を通して何度かあっている。それだけ立花公は知識も魅力
があった。ある時まだ江戸に剣術指南役と言う物がなかった頃小野と言う者が大道で、
「天下一御免」の看板を掲げた。誰でも金を払い勝負をして負かしたら倍額払うという
商売だった。これまで手練者や道場周りで資金を得ていたが誰からも勝ち名が知れて、
相手にされなかったのだ。ところが家康はこれを重視して伊達に相談すると根来衆にで
も頼む方が良い。とにべにも無かった。そこで家康子飼いの蜷カに頼んだ。剣術家でも
あり兵法指南の柳生宗厳(石舟斎)は次々と刺客を送ったが全く勝てなかった。彼は、
影流居合抜きの綿貫氏と同じに長い剣で剛腕だったからだ。ある時は大道で、ある時は
寝所で勝ち天下一をはばからなかった。そこでとうとう彼を剣術指南役として採用した
。しかし一年もせず江戸城に退屈したのである。そこで立花公と合わせると、何と家臣
の指示だった。こうして彼は立花氏が又柳川に戻るのに着いて行く事になった。それが
黄檗宗の小野鐵文和尚で、彼が、その後の宗教相談役に天海和尚を引き入れ、天海は、
日光東照宮を作った。と言う。実は小野氏は山川の出で彼が帰郷したとき寺は廃屋とな
っていた。立花氏は城に菩提寺を建てその地に墓を建てた。と言う

1112: 名無しさんAA:18/03/23 15:30
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------8

 立花宗茂は、本田忠勝の推挙で江戸城に召し抱えらえ、宗茂の実力をよく知っていた
徳川家康から幕府の御書院番頭(将軍の親衛隊長)として五千石を給され、徳川秀忠の
御伽衆に列せられて陸奥棚倉に1万石を与えられて旗本大名となった。その後加増され
5万5千石の知行となり、慶長15年(1610年)には更に加増を受けて最終的に3万5
千石の領地高となり、幾らかの者を食べさせる事が出来るようになり、筑後の模様もし
る余裕ができた。大坂冬の陣では、大御所・家康に多くの示唆し、ことごとく予言した
事は的中した。豊臣秀頼が出陣しないことも、大野治房の軍勢動向も、秀忠軍の進退も
その中にはあった。又、初陣に於いて真田城により遅参した事での家康の怒りは、立花
氏の忠告を聞かなかった事だと言われる。その後には徳川秀忠も家康や立花氏の忠告が
効いたのか律儀を貫いた生活をした。徳川家康曰く「律儀すぎる。人は律儀一点張りで
はいかぬものだ。」とまで言わしめた。重臣の本多正信曰く「殿も時には法螺を吹きな
され」と言われるほどであったが、これに対し秀忠は、「父のウソを買う者はいくらで
もいても、私のウソを買う者はいないだろう。」と笑ったとされる。そのために関ヶ原
の戦いへの遅参があっても、将軍の座をしっかり後を継げたのである。と言われている
戦さは苦手で口下手だが、国内整備には、抜群の能力を持ち、これまでの過去の歴史上
の2代目の幕府継投者とは、雲泥の差があった。家康の路線を忠実に受け継ぎ、兄の・
徳川(結城)秀康を差し置いて将軍の座に就きながら大きな内紛には至らなかったのだ
。又期待通り、徳川秀忠は、父が死去すると、容赦ない改易を断行しても、幕藩体制を
揺るぎないものにしている。江戸幕府が長期政権になった最大の理由は彼の功績であろ
う。酒井忠世、土井利勝、安藤重信といった重臣を抱え支えられ、他方、自分に従わな
い弟の松平忠輝、譜代で家康子飼いの本多正純さえも改易した。外様有力大名の福島正
則(広島50万石)、田中吉政(筑後柳川32万石)、最上義俊(山形57万石)、蒲
生忠郷(会津若松60万石)を改易。最終的に大御所の時も含めると、彼は容赦なく、
外様23家、親藩・譜代16家を改易した。また、大名転封も多く、秀忠の時がピーク
である。こうして、親藩だろうが譜代だろうが外様だろうが、遠慮無く改易する姿勢を
出して、大名統制を確立し、幕府に刃向かいそうな芽はことごとく潰したのである。


1113: 名無しさんAA:18/03/23 15:31
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------9

 この律儀な二代将軍・徳川秀忠も人生で2つの不貞があった。一つは千姫事件である
。継室の浅井江の下に長女として一人の子供が産まれた。千姫(せんひめ)である。彼
女は山城国伏見城内の徳川屋敷で産まれ、千六百三年(慶長八年)に七歳で豊臣秀頼と
結婚し、大野治長(おおのはるなが)の母で千の乳母の刑部卿局と伴に大坂城に入って
いる。その後豊臣家と徳川家は対立し、千六百十五年(慶長二十年)の大坂夏の陣では
、祖父・徳川家康の命により落城する大坂城から救出される。この時千姫(せんひめ)
は十九歳、秀頼との間に実子は無かった。だが、この救出時、家康は「千姫を助けた者
に千姫を与える」と述べたとされ、これが千姫事件(せんひめじけん)の火種となった
。大坂夏の陣の大坂城落城後、元号を元和(げんな)に変え同千六百十五年は元和元年
に改められて千姫(せんひめ)は大坂城落城の翌年、桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多
忠刻と結婚した。この時、津和野藩主・坂崎直盛が輿入れの行列を襲って千姫強奪する
計画を立てていたとされた。そして千姫は、この夫の本多忠刻が寛永3年5月に家督も
せずに播州姫路の城中で死んだ。こうしてまだ30才で2度目の未亡人となりました。
将軍の家光はひどく姉の不幸に同情して、はじめ竹橋御門の屋敷に住まわせて、静かな
日を送らせようとしましたが、少しどうも豊満妖艶すぎる千姫は、近くに春日ノ局の屋
敷などがあって出入りとも幾分窮屈がるので、五番町に邸を得て、これに下屋敷を建て
て移り住ませることとなったが、この時に吉田御殿の黒い噂が流れたからに他ならなか
った。「吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振袖で」との噂である。吉田御殿は
千姫御殿の事三代将軍家光の姉に当たる。こうして「千姫には世にも恐ろしい吉田御殿
の話として伝説が残る。それによると「彼女は夫である秀頼を失ったあと吉田御殿で過
ごしていたのですが、このときに通りかかった美男子を呼び止めては弄び、飽きると井
戸に放り込んで殺していた」というのです。この噂は直ぐに広まった。と言うのは一人
の大工と、一人の武士が近くの沼で死体として上がった事で大騒ぎになったからだった
これを重く見た蜷カ宗矩は早速現地調査すると以外にも、坂崎直盛は宇喜多詮家で当時
宇喜多家直家から息子の秀家に代わり折り合いが悪く仕方なしに徳川方に付いていた事
がわかる。更に大坂夏の陣では火傷を負いながら千姫を救出した事実があり傷跡に恐怖
を抱き、その求婚も断られ京都の公家を使って千姫を再婚させようと画策した事が判明
したのだ。

1114: 名無しさんAA:18/03/23 15:46
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------10
 そこで困った蜷カ宗矩はかつて小野氏の処遇で相談した立花氏に、会った折その話を
した。坂崎直盛が徳川家康の元に送った事は事実であったようだ。更に陣中に婿になっ
てよいとした発言も公然の秘密であったからだ。又その功績によって坂崎直盛は津和野
城主になっていたのである。数日たって蜷カ宗厳のもとに宗矩と立花氏が一人の僧を連
れてやって来た。よく見れば小野鉄文であった。ギョッとしたあの小野の顔は忘れては
いなかったのだ。「おやじ殿。お元気か」と蜷カ宗矩が言った「何ようかな。お主には
似合わない連れをつれてきおって。まあ良い白湯でも進ぜよう。はいれ。」ともそもそ
と入って席についた。すると一つの書状を宗矩は差し出した。蜷カ宗厳は静かに開けて
中を読んだ。それは堀内氏善の書状であった。そこには連れ出して来たは大坂方の堀内
氏善であり、堀内氏久と直盛が知り合いであったので渡したと書かれていたのである。
当時には西側に属した首途(かど)で堀内氏善は、まだ紀伊国海部郡加田村に蟄居謹慎
の身で沙汰を待つ身であったのだ。途中「カッ」と目を見開いたが、読み終わると静か
に書を戻して蜷カ宗矩に返した。そして囲炉裏の枝を火にくべ「それでこれがなんだ。
」「いや何、坂崎殿とは懇意にしていると伝え聞いたので寄ったまでで、もの申す事が
あれば俺がまた聞きして伝えるよりは、この立花殿に直接聞いて貰うのが一番と思い、
ここに案内した。」しばらくして「・・・・ふふふ・・・聞きしに勝る宗茂殿じゃのう
。九州入り以来の拝顔ですのう。」と立花公と顔を合わせた。実は文禄3年(1594年)
5月、豊前国の大名・黒田長政が取成しで、京都鷹が峰や船小屋で徳川家康に招かれ、
家康本人を相手にして無刀取りの術技を示した事が昔にあったのだ。そして剣術指南役
として出仕を請われたが、この小野氏にことごとく負けて、宗厳は老齢を理由に辞退し
て、代わりに五男の柳生宗矩を推挙していたのだ。後に柳生に五百石の所領を受けたが
ずっと後だった。そして小野氏が立花公の持ち侍で勝手に護衛に来て家康に推挙されて
いたのを宗厳は知らなかったのだ。又この小野氏が小野一党として江戸にいた事すらも
解らずにいたのだった。「で、内府様はどうおっしゃられておる。」と聞いた。「いや
・・・」と話そうとする宗矩を止めて、「宗厳公がご健勝で何より、おなつかしゅうご
います。」「……何を白々しい……」「で千姫事件の噂はご存知かと思われるが、不遜
に当たるとお怒りなので 我々がこうして密命帯びて来た次第。正義を正すに悲しき定
めもあるかと暗い思いながらも、まずは御報告をと取り急ぎ来た次第。」といって互い
に顔を見ていた。宗厳は目がみるみる充血した。涙するを止めていたように見えた。「
いや忙しい所ご迷惑かけ申した。」と頭を下げた。「さあ皆の者かえろう。」と立ち上
がった。

1115: 名無しさんAA:18/03/23 15:47
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------11

 蜷カ宗厳はかつて筒井順慶の家臣となり、後に松永久秀の家臣となっていた。織田信
長の大和国入りの案内もしていた。しかし永禄9年(1566年)には久秀の配下として多
武峰衆徒と戦って拳を射られたり、永禄11年(1568年)には柳生谷への帰路で落馬して
重体に陥るなど、不幸もあって過ごしていた。かつては富田流の戸田一刀斎、次いで新
当流の神取新十郎に剣術を学んで名を上げていた。ところが永禄6年奈良の宝蔵院に出
向いた時、新陰流の上泉信綱と出会い、試合を申し込み、宗厳は信綱どころか、彼の弟
子・疋田景兼にすら勝てなかった。このため、宗厳は己の未熟さを悟って即座に弟子入
りし、永禄8年に免許皆伝し、元亀2年(1571年)、信綱から一国一人の印可を受ける
に至り、宗厳の孫の柳生利厳を流祖とする尾張柳生家は、新陰流の正統は宗厳が継承し
、疋田景兼は傍流とされた。この後に元亀2年(1571年)には嫡男の厳勝が辰市合戦で
鉄砲によって重傷を負い剣を振るう事が出来なくなってしまいほどなくして宗厳は柳生
に隠遁し、松永久秀が信長に謀反を起こした時は、その影響下から離れ、代わって大和
の支配者の筒井にも従わなかった。筒井氏と当時敵対関係にあった十市遠長と結ぶなど
独立体制を保ち、羽柴秀長が大和に入国すると、太閤検地の際に、所領を没収され浪人
となり近衛前久に寄食し松永久秀の家臣となってすごし、同志として家康についていた
。3人が外に出たとき、どこに潜んでいたのか、ばらばらと忍びの者が二十数名程「お
頭」と、小さい声で言っていた。「いや、ほっておけ。」と見上げると屋根にも潜んで
いて合図を送っていた。こうして数日後には、立花氏と蜷カ氏は坂崎藩江戸家老を江戸
城に呼び「詮議において、直盛に話が無く姫路新田藩主・本多忠刻との縁組が決まった
為、面目を潰された直盛が千姫奪回計画を立てた。この千姫(せんひめ)を強奪する計
画の露見により、その首謀者として坂崎直盛の処遇を問う。」とした。つまり、直盛が
切腹すれば家督相続を許すと持ちかけたのだ。しかし家臣たちは寝耳に水の話で「何を
証拠に」「あや、ここしばらくの猶予を、」と口を開き、我殿に至りまして濡れ衣でご
ざいます。」と言い「駿府殿はご存知か。」と聞いてきた。実は、秀頼死後に寡婦とな
った千姫を憐れんだ家康は、坂崎直盛に千姫の身の振り方を問うていた為、公家との間
を周旋して、縁組の段階まで話が進んでいたのである。そこに突然のこの話であった。
次の日も江戸家老がやって来て「御内府に御眼道りをつかまりたく。」と言って来た。

1116: 名無しさんAA:18/03/23 15:48
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------12

実は直盛は再嫁の話をまとめていた。しかし、千姫は嫌がり尼になると騒ぎ、結局は破
談したかったのである。このときに千姫は決して再嫁しないと蜷カに頼ったのだ。この
坂崎直盛は松倉政秀や蜷カと同じやり放題の筒井武士であった。板倉家は旧宮家とのつ
ながりはわずかながら四条家とあったと言う。蜷カ宗矩は「何用かまずは私が聞いて、
取り次ぎましょうぞ。」と言った。最初は直盛の切腹と引き換えに、弟大膳に跡目を立
てさせようと説いたが、意地になっている直盛が聞くはずがない。それではと、家臣を
説得して直盛を殺させようとしたが、これは君臣の道に外れるということで取りやめと
なった」と伝えた。「それで、」「・・・・」「秀忠様に直訴に参ったか。」「そう言
や板崎殿は先にも宇和島藩主である富田殿がが直盛の家臣を殺し宇喜多左門を匿っては
直訴に及びはねらたが結局富田殿は改易に及んだよのう。」「こういう話は殿も困る物
で、ああそうそう私の元に堀内氏善の上申書も来ている。これも真意を確かめて殿に報
告せねばと思っていた所。」とふみを渡した。中を読むと家老は見る間に青ざめていっ
た。そして言った「坂崎直盛は恥辱であろう、決死の働きで千姫(せんひめ)を救出し
たのでは無く、脱出して来た千姫一行にめぐり合っただけと言うのは。駿府様に嘘をつ
き、石見津和野4万3千石を盗んだとあらば、徳川家も恥じゃと殿は思われようのう。
」と言った。家老は直ぐに後ずさりして、「ははあ是非ご容赦願いたく。」「是非もな
い。これ以上恥をさらさぬよう殿の御用人としてここに申し伝える。改易をしかと用意
せえ。」と言い放った。実はこの石見津和野の地は石見銀山の地でご加増による過役に
訴えも出て居たのだ。伝説は、立花宗茂の計策により、柳生宗矩の諫言に感じ入って自
害したとも言われながら、柳生家の家紋を柳生笠(二蓋笠)として宗矩が譲り受けたと
も伝わっている。大名の坂崎氏は、この騒動の結果断絶したが、次男・重行の孫・中村
家初代の中村重豊が中村氏として坂崎氏の血脈を繋いだ。



1117: 名無しさんAA:18/03/23 15:48

当時江戸に滞在していたイギ
リス商館長リチャード・コックスの日記によれば、1616年10月10日夜遅く、江戸市中に
騒動起これり、こは出羽殿と呼ばれし武士が、皇帝(将軍秀忠)の女(千姫)が、明日
新夫に嫁せんとするを、途に奪うべしと広言せしに依りてなり。蓋し老皇帝(家康)は
、生前に彼が大坂にて秀頼様の敵となりて尽くしし功績に対し、彼に彼女を与へんと約
せしに、現皇帝は之を承認せずして、彼に切腹を命ぜり、されど彼は命を奉ぜず、すべ
て剃髪せる臣下一千人及び婦女五十名とともに、其邸に拠り、皆共に死に到るまで抵抗
せんと決せぬ。是に於いて皇帝は兵士一万人余人を以て其邸を囲ましめ、家臣にして穏
かに主君を引き渡さば凡十九歳なる長子に領土相続を許さんと告げしに、父は之を聞く
や、自ら手を下して其子を殺せり。されど家臣などは後に主君を殺して首級を邸外の人
に渡し、其条件として、彼等の生命を助け、領土を他の子に遺はさん事を求めしが、風
評によれば、皇帝は之を諾せし由なり。



1118: 名無しさんAA:18/03/23 15:49
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------13

 田中忠政(たなか ただまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将だ。
筑後柳川の第2代目の国主となった。供養塔が千光寺(久留米市山本町)にある。また
、お位牌が浄土宗 大本山 善導寺(福岡県久留米市善導寺町飯田)に祀られている。ま
たこの寺には、近年ァ千代姫(立花宗茂公の正室)の墓が確認できていて供養塔文字が
ある。忠政は早くから父の策略で江戸の徳川家康のもとへ人質として送られ、このとき
、家康の計らいで従五位下隼人正となっている。慶長10年(1605年)には江戸幕府2代
将軍・徳川秀忠の上洛に随行した。天正13年(1585年)の九州征伐に行く前に田中吉政
の四男として近江にて誕生している。慶長14年(1609年)4月3日、父の死により家督
を継いで入城となった。これは、忠政が家康と親しかったことに加え、長兄の吉次が父
の勘気を受けて追放され、次兄の吉信は亡くなっていて三兄の吉興も病弱で、家督を継
げないので継いだのである。ちなみに同年、秀忠の計らいで従四位下侍従となった。こ
の時は田中吉政が干拓整備に力を注いでいた為その後を続けている。江戸城西の丸の普
請には多くの費用を使い、柳河の開拓などで功を顕した。だがここでデウス号事件が起
こった。1600年の関ヶ原本戦では、家康の会津征伐に上方への残留を命じられてい
たが、進んで参戦した。小西行長に対して揺さぶりをしていた筒井残党は東軍に入り、
田中吉政、筒井定次らの部隊と交戦して奮戦する。しかし小早川秀秋らの裏切りで大谷
吉継隊が壊滅すると、続いて小西隊・宇喜多隊も崩れ、行長は伊吹山中に逃れ関ヶ原の
庄屋・林蔵主に匿われたものの、迷惑をかけるを好しとせず自ら竹中重門家臣に護衛さ
れ草津の村越直吉の陣に赴き、六条河原において石田三成・安国寺恵瓊と共に斬首され
た。これにより、イスパニア交易は完全に松倉政秀氏のものに移っていった。しかし、
それは奴隷貿易でありアヘン交易であった。先の西郷純堯以来、海賊の頻繁な出没には
秀吉以降長崎領主になったキリシタン大名有馬晴信も荒らしまくる海賊退治に強く捜索
をしているところだった。この時イスパニア船は世界的にはスペイン支配から独立した
オランダ船の攻撃にあっていた。そして東アジアに進出を開始し、武力でスペイン、ポ
ルトガルの通商拠点を脅かしていたのだ。有馬晴信の朱印船が占城(チャンパ)からの
帰途、風を失いこのマカオに寄港した。このとき偶然にも同地には、東京(トンキン)
からの帰途遭難し、中国船を略奪しこれに乗ってマカオに避難していた別の日本人の一
団があった。彼らはポルトガル官憲の制止をよそに、武器を携え市中を横行し、ついに
は日・葡商人間に商貨の買い上げをめぐって紛争を生じ、仲介に当たった陪席判事まで
負傷させるという事件が起こった。いわゆるマカオの日本人騒擾事件である。

1119: 名無しさんAA:18/03/23 18:22
 長崎の勝山小学校は、かつてサント・ドミンゴ教会の在ったところであり、その左へ
折れた所の県立美術館山はかつてのサンタ・マリア教会である。そしてこの2つは当時
イスパニア人(スペイン)とポルトガルの教会であった。この道を左へ折れ西へ向かえ
ば西勝寺だが、ここは、奴隷商人のスペイン商人が集めて来た者の集会用の洋館だった
。柳川三橋の西勝寺もその出先機関だったのである。アビラ・ヒロンは先の、そうした
商人の代理で来て日記を書き『日本王国記』の名で知られる長大な日本見聞記を著わし
イエズス会士の記録とはまた違った視点で描いている。日本ではマードレ・デ・デウス
号とノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号と同じに書いているが、実は二つは違う船で、本
来事件のあったのはグラサ号であり五島沖で沈められたのがデウス号なのである。アン
ドレ・ペッソアはカピタン・モール(総司令官)として任期1年で長崎に行きそして既
にこのマカオに帰ってきて母国に帰れるはずだった。ところがこの小西行長が死んで、
松倉政秀に船を盗られて日本上陸には至っていなかった上に、本国スペインとオランダ
は今だ戦争であり劣勢だったのだ。そして暴動を徹底的に鎮圧したのが、彼だったので
ある。ペッソアは直ちに日本人暴徒の一団を一件の建物に追い詰め、火焔筒で火をかけ
、逃げてくる日本人たちを次々と撃ち殺した。さらに彼は、首謀者と思われる日本人を
捕えるや、後日の日本政府への弁解のため、この事件の原因がすべて日本人にあるとい
う証言を強要し、そのあげく、男をその場で絞首刑に処してしまった。こうして翌14
年に日本航海司令官としてペッソアが長崎に来着した。ペッソアは長崎奉行である長谷
川左兵衛藤広に対し、前年の事件に関する調書を提出して、自身が徳川家康に謁見して
陳弁する事を強く申し出た。しかし長谷川左兵衛藤広はマードレ・デ・デウス号が天草
で座礁し、更に松倉政秀の下で密貿易をしている事を知っていた。又他の朱印船貿易か
ら有馬晴信の部下が捕らえられた事も噂が来ていた。そこでマカオでの事件の真相は伏
せてペソアの書記のマテオ・レイタンを代理人として駿府に遣わせるよう説得し向かわ
せた。そして使者が出ると一方で商品の先買権を行使して伽羅木の全量購入を買い付け
た。家康が委託していたのである。これに対してイスパニア商人たちが取引関係の改善
とペソアの直接の訴えを決議したが、ポルトガル商人のイエズス会士の勧告で制止させ
られたのである。そこにはオランダ人の進出があったからだ。長崎奉行が出来て従来の
慣行を破って取引方法を変更し、持込品の一方的に購入したりして、貿易を阻害されて
いたポルトガル商人には反感しかなかったのだ。一方で日本はマカオ貿易には常にポル
トガル主導で行われ、主要輸入品の生糸などはイエズス会宣教師言い値であった。この
ため日本側は、法外な糸値を吹っかけられたり、また望み通りの糸量を買えない場合も
多かった。この裏にあった密貿易に双方が疑心暗鬼になり戦国時代の世情だったからだ

1120: 名無しさんAA:18/03/23 18:22
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------14

今回の、ペッソアの来日は、自由貿易の保証とオランダ船の貿易阻止にあった。ところ
が先行買い付けの伽羅木を餌に藤広は、前年の事件に対する報復を考えていた晴信を、
教唆し、ペソア捕縛と商船捕獲とを家康に請願させて成功していたのである。こうして
使者は自由貿易の保証も失敗。オランダ人の日本貿易阻止もかなわず、日本船のマカオ
寄港を禁じる同年7月25日付の朱印状を家康から下付されたにとどまって帰ってきたの
である。更にペソア捕縛と商船捕獲とをも家康に請願させた。晴信にも伽羅木購入を委
託していた家康は、当初は報復行為によってポルトガル貿易が断絶することを懸念して
いたが、マニラ船のスペイン商人がポルトガル船積載生糸などを補完することを保証し
、またオランダ船の継続的な来航も期待できるようになったため、晴信に許可を出した
。こうして駿府から召喚の命が伝えられた。しかしいち早くイエズス会からの報告で、
生命の危険を感じたペソアは要請を拒否して船に籠って、積荷を載せたまま出港の準備
を始めた。その後江戸から帰藩し長崎に到着した晴信は、慶長14年12月12日(1610年1
月6日)に、藤広の支援を得て、兵船30艘と1200人の兵を動員し、デウス号を攻撃した
。4日4晩の戦闘の後、船は炎上。ペソアは火薬庫に火を放って商船を爆破させ、自殺
した。この戦闘の際、藤広の弟・長谷川忠兵衛(はせがわちゅうべえ)は、小船2艘を
並べ井楼を組んで1艘の船とし、デウス号に漕ぎ寄せて乗り移り、船主按針を討ち取っ
たという。船主按針は1609年、ドミニコ会のモラレス神父が、鹿児島を逃れるとき教会
堂を解体して、長崎代官・村山等安が寄進した土地に建てる事に寄進していた。この時
代の石畳や地下室、その後建てられた代官屋敷時代の井戸などが、小学校の建て直しの
際の発掘ででてきた。この事件で、ポルトガルの長崎来航が2年間中断しその後も度々
た欠航していた為、ポルトガルの生糸は、慶長17年(1612年)までの5年間日本へ輸入
されることはなかった。これは本来松倉政秀の意図するものだったが自船が座礁しては
運航が出来ず一回で終わり、その後オランダ船により攻撃された。またそれまで家康の
信任が厚かった通詞ジョアン・ロドリゲス神父の内通が知れ、藤広と長崎代官の村山等
安の中傷によって、慶長15年(1610年)にマカオに追放された。幕府はポルトガル商人
の長崎貿易における仲介者を失ったが、マカオ市は貿易再開のため、慶長16年(1611年
)にポルトガルの艦隊司令官のドン・ヌーノ・ソート・マヨールをゴアのポルトガル副
王の使節として派遣した。


1121: 名無しさんAA:18/03/23 18:23
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------15

使節は6月に薩摩に上陸し、島津氏の援助により徳川家康に謁見し、江戸で徳川秀忠に
も謁した。ゴアの副王とマカオ市参事会の書簡を差し出し、マカオでの騒擾事件に対す
るポルトガル側の措置について弁解し、同時にデウス号爆沈に対する損害賠償と長崎奉
行・長谷川藤広の罷免を要求した。しかし、日本側は強く、事件の責任は全てペソアに
あったとして取り合わなかったが、ポルトガルの貿易再開は許可し朱印状を渡した。
 律儀な徳川秀忠の憂いのもう一つは側室を持たずにいたが、一度だけ女性に手をつけ
たところだ、妻である織田信長の姪のお督に頭が上がらなかったのは有名な話だが、彼
もお督を愛していた。信長も秀吉も家康も多くの側室ないしお手付きの庶子はいた。又
お督と不仲になったところで秀忠の地位に影響は殆ど無く、側室を持つことは出来たは
ずである。だが彼は儒教や朱子学を重んじた家康の教育を受け入ていた。そこに秀忠の
律儀さの性格があり立花公とのつながりがあった。こうして後の保科正之が生まれてし
まい、お督の働きで会うこともせずに保科家に養子に出してしまっている。当時、側室
を迎えるには正室の許可や出自を整える必要があった。だが静は側室でなく只の下足番
の側室の下世話に過ぎなかった。従ってその手続きが行われておらず、正式に側室にな
れてはいない。静が正式な側室になれなかった経緯には謎が多い。徳川家康の側女の子
ともされる。生まれた子供が保科家の養子として育てられた後は、会津藩主、保科正之
となり、会津藩主として産業の振興に尽力しただけでなく、三代将軍の家光や四代将軍
の家綱に、優秀な補佐として仕えた事でも知られている保科正之は18歳の時に秀忠と
初めて対面した。しかし極秘で秀忠は家光に正之のことを告げないまま死去した。家光
鷹狩りの途中に立ち寄った所で、たまたま居合わせた保科家の菩提をつとめる住職が、
「良く似ている」と口が滑った所からその話を聞き、早速再対面を果たした。よほど嬉
しかったのか、正之を信州高遠3万石から、一気に山形20万石へ。さらに32歳の時
、会津若松23万石へ加増させている。また、正之は有能な人物で、さらに家光に忠勤
一筋で秀忠の性格を受け継いでいた。同じ母から生まれた弟の徳川忠長に対しては事実
上自害に追い込んだ家光であったが、忠長の時とは対照的に不和は起こらなかった。自
分に弟がいたこと告げず、秀忠が死んだのだが、家光が死去する時は保科を呼び、まだ
幼い息子・家綱のことを託し、手を握り、正之から「身命をなげうち、ご奉公致します
から安心してくだされ。」という言葉を聞き、「安心した。もはや心残りはない」と答
えると、そのまま昏睡状態に陥り、2時間後に死去したとのことである。正之はその後
、大老にまで上り詰め、幕府の中枢に参画し活躍した。

1122: 名無しさんAA:18/03/23 18:23
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------16

大坂の陣にて豊臣家を滅亡させた初代の将軍・徳川家康の死後、父である徳川秀忠によ
る単独の治世となりましたが、1623年に父が隠居し、将軍職が20歳の徳川家光に譲ら
れたが、将軍継承では、父・徳川秀忠が、徳川家光の弟である国松(徳川忠長)を溺愛し
たため、家光の家督継承を危惧した乳母・春日局が、ご隠居の徳川家康に願い出て、家
光の世継決定が確定した。このように万全な体制での後継ぎでないだけでなく、1624年
には、秀忠の考えで、公卿の娘の鷹司孝子(たかつかさ-たかこ)を 家光の正室にする
など、隠居した徳川秀忠は引き続き実権を握り二元政治をした。次男徳川忠長は利発で
兄家光は少し吃音があったと伝えられる。元和4年(1618年)10月9日、国千代の頃、父
を喜ばせるべく、自らが撃ち取った鴨で作られた汁物を父・秀忠の膳に供した。最初は
喜ばせたものの、その鴨は兄の竹千代が居住する西之御丸の堀で撃ち取ったものだとい
うことを知らされると、「江戸城は父・家康が修築され、後には竹千代に渡さなければ
ならない所である。国千代の身で兄である竹千代の住んでいる西の丸に鉄砲を撃ち込む
事は、天道に背き、父・家康への配慮も無いことで、たとえ悪意無くとも 将軍となる
竹千代への反逆に等しい」と、逆に秀忠の怒りを買い、秀忠は箸を投げ捨ててその場を
退出するほどだった。と言われる。イスパニア交易に松倉政秀の奴隷貿易は一回で終わ
っていた。しかし島原ではキリシタン大名である有馬晴信の所領で領民のキリスト教の
信仰の熱は冷まず盛んであった。慶長19年(1614年)この事件で有馬氏が転封となり、
代わって大和五条から松倉重政が入封した。重政は江戸城改築の公儀普請役を受けたり
、独自にルソン島遠征を計画し先遣隊を派遣したり、島原城を新築したりしたが、その
ために領民から年貢を過重に取り立てた。また厳しいキリシタン弾圧も開始、年貢を納
められない農民や改宗を拒んだキリシタンに対し拷問・処刑を行ったことがオランダ商
館長ニコラス・クーケバッケルやポルトガル船長の記録に残っている。次代の松倉勝家
も重政の政治姿勢を継承し過酷な取り立てを行った。それは当然でもあったこの筑後の
地でもさんざん過酷な取り立てをしていたからだ。家康が禁教令施行を決意したのは、
これによって大八事件が起こったからだった。晴信は、デウス号撃沈の功績による旧領
回復を試みたが、なかなか実現できず、周旋を請け負った岡本大八に多額の金品を贈っ
た。これが「岡本大八事件」の発端となった。伽羅木の購入で家康の覚えが良くなった
が、そのために藤広との関係は悪化した。

1123: 名無しさんAA:18/03/23 18:24
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------17

長崎代官の村山等安は長谷川藤広に奉行を譲った。その後も藤広は生糸の先買権を強め
ようとドミニコ会派に接近した。生糸貿易では中心的役割を果たしていたイエズス会派
は、イスパニアのみならずポルトガル商人との繋がりが強く、生糸などの取引で利益を
得ていた晴信にとって藤広の動きは脅威となった。これらのことから幕府側の長谷川と
長崎地の領主の有馬晴信との両者の間は「不倶戴天の敵」となり、それが岡本大八事件
となった。家康は慶長11年(1606年)3月に島津氏には、唐船が来着した場合には、
長崎奉行の指揮を仰ぐように通達していた。藤広もポルトガル商船に対しては、監視人
を派遣して乗船者の上陸を禁じ、これを拒絶されると荷揚げに対する監視人配置、積み
荷目録の提出、積み荷検分前の売却禁止を命じるなど、これまでの商慣習を破ってでも
奴隷貿易やアヘン密売を阻止していた。しかしこのことで商人の反発を買ってもいて、
常に綱渡りの世界だった。又有馬氏は幕府には朱印船貿易としていたが同じ長崎での商
品は競合していたのである。家康が晴信へ報復の許可を出した時。その見届け役に過去
に藤広の家臣であって、今や本多正純家臣となっていた岡本大八を送った。こうして、
ペソアの駿府への召喚を命じた。最終的には船と共に爆破となったが、藤広がデウス号
の出港停止と捕獲の時間をかけた攻撃に、「てぬるい」と評して怒鳴っていた為腹を立
てて「次は藤広を沈めてやる」と口走るほどであったと言う。事実積み荷の多くは灰塵
に帰した。大八はこうした晴信の思惑と懐疑につけ込みすり寄って所領の期待に応えて
いた。大八は晴信と同じくキリシタンであった。家康への報告から戻った大八に、晴信
は饗応した。この時大八は、「藤津・杵島・彼杵三郡を家康が今回の恩賞として晴信に
与えようと考えているらしい。自分が本多正純に仲介して取り計らう」と虚偽を語る。
、その仲介のための資金を無心し、晴信はこの大八の所望に応じてしまった。家康側近
の正純の働きかけがあれば、これらの旧領の回復は揺るぎないと考えたのだ。しかし、
大八は家康の偽の朱印状まで周到に用意し、結果6000両にもおよぶ金銭を運動資金と称
してだまし取ったが、いつまでも褒賞の連絡がないことに業を煮やし、晴信は自ら正純
のもとに赴いて恩賞を談判、大八の虚偽が発覚したのである。本田正純は駿府城で大八
を詰問したが、否認し続けるばかりで埒が開かなかった。また贈賄をしていた晴信にも
非があるとは言え、晴信の嫡男・有馬直純に家康の養女・国姫が嫁いでいた。こうして
一存では断罪できず、裁決を家康に委ねる事になった。家康は駿府町奉行彦坂光正に調
査を命じ、翌慶長17年、大八を捕縛するに至った。

1124: 名無しさんAA:18/03/23 18:30
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------18

 本田正純は家老本田正信の長男であった。本田正純は家康に仕えていたのだが、駿河
の厳しい拷問で、大八は朱印状の偽造を認めたが、晴信の「沈めてやる」と言う失言に
「晴信は長崎奉行の藤広の暗殺を謀っている」と虚偽をついた。とされる。岡本大八は
江戸の与力である岡本八郎左衛門の子として生まれている。キリシタンでもあり、洗礼
名をパウロという。岡本八郎左衛門の名は鎌倉時代の後北条家の家臣団の中にあり御朱
印状発行を担当していたので、岡本大八は正当な子孫であったのだろう。しかし武芸者
衆とは言え江戸初期においては庶民以下の生活状態だった。それでも当時はとりあえず
は与力大名の末席いたと思われる。本多正純家臣とは言え大本の江戸幕府の一角として
の役職上のもので上位加増に行くには賄賂はつきものだったのかもしれない。こうして
本田正純は大八を江戸に送り、また晴信も呼び出して、大久保長安邸で両者を尋問し、
晴信も藤広への害意を認めて、両者両成敗となったが、6000両と言えば大金である。こ
れがどう使われたかは判然としない。こうして大八は慶長17年、朱印状偽造の罪により
駿府市街を引き回しのうえ、安倍河原で火刑に処せられた。晴信も、翌22日、旧領回復
の弄策に夢見た晴信も、長崎奉行殺害企図の罪で甲斐国郡内に流罪を命じられ、晴信の
所領である島原藩(日野江)4万石は改易のうえ没収に処された。ただし、家康に近侍
していた嫡男・直純は、父と疎遠であることも理由に有馬氏の家督と所領の安堵が認め
られた。晴信には後に切腹が命じられたが、しかしキリシタンであることから自害を拒
んだ為、配所にて家臣に斬首させた。享年46歳。一方、藤広には咎めは一切なかった
。しかし裁決の判断に家康は秀忠に任せた。秀忠はこの二人がキリスタンである事に、
多くの疑問を持っていた。こうしてキリスタン追放を決意した。小西行長の斬首した時
から家康に反対は無かった。共に儒学や朱子学の徒だったからだ。こうして合意をつけ
ると、まず駿府の家臣団を検問し、キリシタンである者を検挙。信仰を捨てなかった者
は、容赦なく改易処分とした。ここで、天領である京都・江戸・駿府に禁教令を布告。
キリシタン寺院の破壊を命じ、布教を禁じた。この禁教令によって江戸・京都の教会の
破壊が行われ、武士のみならず一般庶民もキリスト教信仰が禁止された。また、前述の
改易されたキリシタン武士の抱え置きを禁止する旨を、全国の大名、畿内の社寺、京都
・長崎のキリシタン教界に通達された。1612年4月〜5月のことである。同年の9月には
、関東の幕領に対し、キリシタン禁制を含む禁令五箇条が発令される。これにより1613
年、江戸の鳥越で、浅草の小屋にいた22人のキリシタンが殉教するに至った。病人達
を収容した病院のような物であった。

1125: 名無しさんAA:18/03/23 18:35
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------19

またこの時八丁堀が整備された。江戸における与力は、同心とともに配属され、上官の
補佐にあたった。そのなかで有名なものは町奉行配下の町方与力で、町奉行を補佐し、
江戸市中の行政・司法・警察の任にあたった。南町・北町奉行所にそれぞれ25騎の与
力が配置されていた。与力は馬上が許されたため馬も合わせて単位は「騎」だった。与
力は役宅として八丁堀に三百坪程度の組屋敷が与えられていた。また、もめごとがおこ
ったときに便宜を図ってくれるように諸大名家や町家などからの付け届けが多く、裕福
な家も多かった。特権として、毎朝湯屋の女風呂に入ることができた。これは、八丁堀
の湯屋は特に混雑していたことに加え、当時の女性には朝風呂の習慣がなかったため女
湯は空いており、男湯で交わされる噂話や密談を盗聴するのにも適していたためである
。それでも女湯に刀掛けがあることは八丁堀の七不思議に数えられていた。与力は組屋
敷に廻ってくる髪結いに与力独特の髷を結わせてから出仕した。粋な身なりで人気があ
り、与力・力士・火消の頭は江戸の三男(えどのさんおとこ)と呼ばれてもてはやされ
た。与力には、町奉行個人から俸禄を受ける家臣である内与力と、本来の奉行所に所属
する官吏としての通常の詰め与力の2種類があった。内与力は陪臣で概ね禄高も低くか
ったが家禄であり中には違う者もいた。又奉行側近としても実力はむしろ大きい場合も
あった。つまり岡本大八にとっては6000両の賄賂は法外だったが旅費の手当てなど当然
の賄賂であり、本田正純の加増職にとっても不可欠の資金だったのが多すぎたのである
。それに対しての性急な有馬晴信の請求は考えも無かったと言える。正純は駿河での厳
しい拷問の後大八を江戸に送るのだが、又晴信も呼び出して、大久保長安邸で両者を尋
問したとしている。大久保長安は猿楽師の大蔵院流の雅楽を踊り春日大社などで踊って
いた中で、鉱山師の大久保家に引き取られた。武田氏の下で黒川金山の開発にいたが、
家康が侵攻した後甲斐の再建に本多正信に任じて、大久保長安や大久保忠隣の力を使っ
たとされている。こうしてその庇護を受け名字を賜り、姓を大久保に改めたのである。
その後佐渡奉行に任じられ、所務奉行や勘定奉行、年寄(後の老中)や伊豆奉行にも任
じられ転々とした。つまり長安は家康から全国の金銀山の統轄や管理を任されたのだ。
、ところがこの頃は全国鉱山の金銀採掘量は低下して家康の寵愛を失い各地の代官職を
罷免されていた。この大久保長安には20人にも及ぶ子がいたと言う噂だった。


1126: 名無しさんAA:18/03/23 18:41
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------20

ところが、大久保長安事件が起こる。この事件は、慶長18年(1613年)4月に起こった
江戸時代初期の粛清事件とされる。本田正純が尋問して僅か2年後キリスタン禁教令か
ら1年後である。大久保長安は、江戸幕府の代官頭として大きな権力を有していたが、
慶長17年頃より中風を罹患していた。、翌年駿府にて死去した為遺体を甲斐に葬ると
して急ぎ葬儀の準備が行われた。しかし、家康より近年の代官所の勘定が滞っている事
を理由に、中止が命じられたのである。家康は長安配下の勘定・手代を呼び出し調査さ
せ、過分な私曲を行ったことが発覚し、これに怒った家康は諸国にある長安の財貨を調
べることを命じた。この時長安配下の手代達は全て大名に預けた。この時家康は、長安
の息子達に代官所勘定についての報告を命じた。これに、輩故の能力不足で役目を果た
せないと答弁している。それに対しては、家康が命令を遂行できなければ迷惑は各所へ
広がるので、長安が支配した佐渡金山や石見銀山は勿論、関東に千石の知行も与えられ
ないと彼らを勘当を渡している。なお長安の長子藤十郎は関ヶ原の戦い後に、奈良奉行
の後の勘定奉行を務めている。長安の息子は7人いたがすべてに7月9日に切腹を命じら
れて長安の家系は断絶した。また手代は同日に、彦坂光正の下に置かれ、長安の財貨は
厳しく改められ、諸国よりの金銀は凡そ五千貫目余に達し、その上茶道具一式を始めと
する金製・銀製各一種類の各種道具も多数没収され、駿府の蔵に収められたとされる。
8月には長安の子を青山成国として養子にした青山成重が減封の上蟄居、10月には娘を
長安の嫡子・大久保藤十郎に嫁がせた石川康長が長安と共謀し知行を隠匿した廉で改易
された。とされる。これは一体どうしたのか。事件は更に続く。徳川秀忠が関が原合戦
に遅参した際に本多正純は、「秀忠公が遅れられたのは参謀たるわが父正信が謀を誤っ
た為であります。どうか父正信を処罰し、秀忠公の咎でないことを天下に明らかにして
頂きとうございます。」と言い仲にはいった。その言葉に秀忠は感謝し「よくぞ言って
くれた。そのほうの言葉、一生忘れぬぞ。」と言ったと逸話も残って居るほどだった。
石田三成の身柄を預かったときには、三成に、「貴殿も忠臣なら、なぜ潔く腹を切られ
なんだ。」と質問すると、三成は「大望ある者は、最後まであきらめず己の信念を貫く
ものだ。お主にはそれがわかるまい」と言い返されたとされている。家康と秀忠の二元
政治が始まると、江戸の秀忠には大久保忠隣が、駿府の家康には正純が、そして正純の
父・正信は両者の調停を務める形で、それぞれ補佐として従うようになっていた。


1127: 名無しさんAA:18/03/23 18:46
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------21

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の時、徳川氏と豊臣氏の講和交渉で、大坂城内堀埋
め立ての策を家康に進言したのは、正純であったと言われている。秀忠時代にはいると
元和2年(1616年)に、家康と正信が相次いで没した後は、江戸に転任して第2代将軍
・徳川秀忠の側近となり、年寄(後の老中)にまで列せられた。しかし先代からの宿老
である事を恃み(たのみ)権勢を誇り、やがて秀忠や秀忠側近から怨まれるようになっ
た。なお、家康と正信が死去した後、2万石を加増されて5万3,000石の大名となった。
元和5年(1619年)10月に福島正則の改易後、亡き家康の遺命であるとして下野国小山
藩5万3,000石から宇都宮藩15万5,000石に加増を受けた。これにより、周囲から更に
怨みを買うが、正純自身は、さしたる武功も立てていない自分にとっては過分な知行で
あり、また政敵の怨嗟、憤怒も斟酌し、加増を固辞していた。元和8年(1622年)に於
いて出羽山形の最上氏が改易された際、本田正純は上使として山形城の受取りに派遣さ
れた。9月上旬に最上領に入った正純は、周辺諸大名とともに無事に城を接収していた
。しかし疑っていたのか幕府は、そのとき数日遅れで遣わされた伊丹康勝と高木正次が
正純の糾問の使者として後を追っていた。伊丹らは、鉄砲の秘密製造や宇都宮城の本丸
石垣の無断修理、さらには秀忠暗殺を画策したとされる宇都宮城釣天井事件などを理由
に11か条の罪状嫌疑を突きつけた。正純は最初の11か条については明快に答えたが、
そこで追加して質問された3か条については適切な弁明ができなかった。その3か条と
は城の修築において命令に従わなかった将軍家直属の根来同心を処刑したこと、鉄砲の
無断購入、宇都宮城修築で許可無く抜け穴の工事をしたこととされる。しかし土井利勝
らの貶めであったことは確かであろう。その後は、先代よりの忠勤に免じ、改めて出羽
国由利(現在の由利本荘市)に5万5,000石を与える、という代命を受けていた。この時
には使者として赴いた高木正次、伊丹康勝らの詰問に、さらに弁明の中で、謀反に身に
覚えがない正純は毅然とした態度で応じて、その5万5,000石を固辞したという。これが
秀忠の逆鱗に触れ、高木と伊丹が正純の弁明の一部始終を秀忠に伝えると、秀忠は激怒
し、本多家は改易された。本多親子の後塵を拝して、正純の存在を疎ましく思っていた
土井利勝らと秀忠の謀略であったとも言える。しかしこうした謀略まで使っての排除は
一体何だったのかが不明のままだ。

1128: 名無しさんAA:18/03/23 18:47
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------22

本田正信に関ヶ原の後、家康は三成の嫡男・重家の処遇に悩やみ相談した。普通は敵の
大将の嫡男だから後世の憂いを除くために殺すのが当たり前だったが、重家は僧籍に入
って恭順を誓っていたにも関わらず周囲は従来の慣習にこだわっていた。家康は正信に
相談し、正信は「他の事情はどうあれ、重家には赦免する理由があります。親父の治部
は我が徳川家に大功を立てましたから、それを考慮すべきでしょう。」と言った。家康
が「大功とは何か。」と訊ねると、「治部は西国大名を糾合して関ヶ原という無用の戦
を起こし、そのおかげで日ノ本60余州は全て徳川家に服すことになったのです」と答え
た。家康は「わかった。佐渡(正信)の言うことには一理ある」と答えて重家を赦免し
た。秀忠は正純の処分について諸大名に個別に説明をするという異例の対応を取ったが
、その説明を聞かされた当時の小倉藩藩主・細川忠利は「日比(ひごろ)ご奉公あしく
」という理由であり、具体的には秀忠が福島正則を改易するのに反対したことと宇都宮
を拝領してから数年たって「似合い申さず」と言って返上しようとしたことを挙げてい
た、と父の細川忠興に書き送っている。正純父子は、牢にこそ入らなかったものの、逃
亡防止のために板戸で囲われて採光も不十分な屋敷からの外出も許されないという、過
酷な生活であったといわれる。 寛永14年(1637年)3月10日、正純は配所の横手で死去
した。享年73。又息子も 千姫事件の時、激怒した坂崎直盛が屋敷に立て篭もって幕府
に抵抗した事件に、「直盛の家臣を買収し、直盛に自害を勧めさせてはどうか」という
案が出た際、「主君の不忠を家臣の不忠をもって制するとあっては天下の政道が罷り通
らぬ」と敢然と不可であるを主張した、という。その為蜷カや立花氏に相談したと言う
 正純父子は、改易後、佐竹氏預かりとなった際、はじめは佐竹氏の好意もあり手厚く
もてなされたが、後にこれが幕府に知れることとなり、晩年は厳しい監視を受けながら
、釘付けにされた屋敷に幽閉状態にされたという。牢にこそ入らなかったものの、逃亡
防止のために板戸で囲われて採光も不十分な屋敷からの外出も許されない過酷な生活で
あったといわれる。 寛永14年(1637年)3月10日、正純は配所の横手で死去した。配流
の際、息子の正勝も同罪として出羽国由利に流されている。寛永14年(1637年)3月に
正純は生涯を閉じたが、息子の正勝はそれより7年前の寛永7年(1630年)、長い幽閉
生活で健康を害し、35歳で死去している。父・正信の権勢を得ると同時に大身になる
ことは怨みや嫉みを買い、身の破滅になると自戒し、嫡男の正純にも「3万石以上の知
行を受けてはならぬ」との戒めに従順だった武士だった。

1129: 名無しさんAA:18/03/23 19:20
本多正信に関ヶ原の後、家康は三成の嫡男・重家の処遇に悩やみ相談した。普通は敵の
大将の嫡男だから後世の憂いを除くために殺すのが当たり前だったが、重家は僧籍に入
って恭順を誓っていたにも関わらず周囲は従来の慣習にこだわっていた。家康は正信に
相談し、正信は「他の事情はどうあれ、重家には赦免する理由があります。親父の治部
は我が徳川家に大功を立てましたから、それを考慮すべきでしょう。」と言った。家康
が「大功とは何か。」と訊ねると、「治部は西国大名を糾合して関ヶ原という無用の戦
を起こし、そのおかげで日ノ本60余州は全て徳川家に服すことになったのです」と答え
た。家康は「わかった。佐渡(正信)の言うことには一理ある」と答えて重家を赦免し
た。こうした本多正信正純親子を先代よりの忠勤に免じ、改めて出羽国由利(由利本荘
市)の5万5,000石を与える、という代命の加増を固辞しての改易処分は心が痛んだのか
、秀忠は正純の処分について諸大名に個別に説明をするという異例の対応を取っていた
。その説明を聞かされた当時の小倉藩藩主・細川忠利は「日比(ひごろ)ご奉公あしく
」という理由であり、具体的には秀忠が福島正則を改易するのに反対したことと宇都宮
を拝領してから数年たって「似合い申さず」と言って返上しようとしたことを挙げてい
た、と父の細川忠興に書き送っている。正純父子は、牢にこそ入らなかったものの、逃
亡防止のために板戸で囲われて採光も不十分な屋敷からの外出も許されないという、過
酷な生活であったといわれる。 寛永14年(1637年)3月10日、正純は配所の横手で死去
した。享年73。又息子も 千姫事件の時、激怒した坂崎直盛が屋敷に立て篭もって幕府
に抵抗した事件に、「直盛の家臣を買収し、直盛に自害を勧めさせてはどうか」という
案が出た際、「主君の不忠を家臣の不忠をもって制するとあっては天下の政道が罷り通
らぬ」と敢然と不可であるを主張した、という。その為蜷カや立花氏に相談したと言う
 正純父子は、改易後、佐竹氏預かりとなった際、はじめは佐竹氏の好意もあり手厚く
もてなされたが、後にこれが幕府に知れることとなり、晩年は厳しい監視を受けながら
、釘付けにされた屋敷に幽閉状態にされたという。牢にこそ入らなかったものの、逃亡
防止のために板戸で囲われて採光も不十分な屋敷からの外出も許されない過酷な生活で
あったといわれる。 寛永14年(1637年)3月10日、正純は配所の横手で死去した。配流
の際、息子の正勝も同罪として出羽国由利に流されている。寛永14年(1637年)3月に
正純は生涯を閉じたが、息子の正勝はそれより7年前の寛永7年(1630年)、長い幽閉
生活で健康を害し、35歳で死去している。父・正信の権勢を得ると同時に大身になる
ことは怨みや嫉みを買い、身の破滅になると自戒し、嫡男の正純にも「3万石以上の知
行を受けてはならぬ」との戒めに従順だった武士だった。

1130: 名無しさんAA:18/03/23 19:37
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------23

 しかし、この処置は大きな間違いだった事が後に起こるのだが。少しその前の補足が
ある。当時、田中忠政は田中吉政の後を継いで筑後柳川32万石を受けた。しかし慶長
19年(1614年)からの大坂の陣では、冬の陣において徳川方として参戦し、翌年の夏
の陣でも徳川方として参戦しようとしたが、家臣団の一部で旧領主の豊臣氏によって、
もたらされた土地と言う事で豊臣方に与するべきという反論が起ったと言う。だがそれ
は違うだろう。既に世の趨勢が徳川時代だとは誰もが解っていた筈だからだ。豊臣恩顧
とは言え、徳川氏関が原の勝利の背景で入城しているのだ。現実はその時も柳川郊外で
は過酷な荷役と2重課税に大きな負担がなされ、その代表との戦いの中にあったのであ
る。二つ河地区の起田や鬼丸や小塚橋、鯖塚の伝承では富安城址を壊しその石を運んだ
し。中山を開墾しその土を運んだとされるのは江戸時代の伝承だ。又百丁地区や久末も
もっと地が高かったとされるの削って堤を作っている。久末の花園伝承は大雨でも大水
は来ずという地域だったが、今や違う。この時橋本氏は多くの英彦山の修験者を呼んだ
。そしてかなり大掛かりな土木工事を行って起田もこの時の農地だ。田中吉政の土木工
事は干拓工事であったが田中忠政はクリークの河川整備を行って成果を上げた。それが
九千坊とされるカッパ達である。田中忠政は4男で人質として家康についていたのだ。
その時、家康の覚えがよく家康の計らいで従五位下隼人正となっていた。つまり吉政と
は、大いに考えが違っていたと言う事になる。また、慶長10年(1605年)には江戸幕
府2代将軍・徳川秀忠の上洛に随行もしているぐらい力があった。松倉重政は元和4年
(1618年)、大坂夏の陣に際しての、大和郡山城の救援や、道明寺方面での後藤基次勢
との戦いの功によって、翌元和2年(1616年)に有馬晴信の旧領であった肥前日野江4万
3千石を与えられて移封されるまでここにいて非道を尽くした。旧橋本村とされる河北
村は筑前国早良郡橋本村に土着した人が来たとされるが、橋本氏自体の自出は神話の時
代からさかのぼるほどある。その共として付き添ったのが友添氏なのだが時代は不明だ
。一時期下川氏との戦になったともいわれ、この筑後柳川32万石が立花氏が戻って来
た時は10万石に削られた背景だ。弟の三池氏でも1万石加えられるだけだ。つまり、
南筑後(三池郡・山門郡・三潴郡・下妻郡)一帯で11万石しかなかった。大友氏時代
の推定45万石の久留米まで含めた旗国とは雲泥の差である。久留米藩は有馬氏とされ
るが実はこの頃は有馬氏ではない。成富茂安の調停がなく、城から出なかったからだ。


1131: 名無しさんAA:18/03/23 20:50
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------24

 成富茂安氏の元名は成富信安に始まる。今山の戦いの際にはまだ12歳であった為、
出陣の許可が出なかった。それに納得がいかなかったので、誰にも見つからないように
独断で戦場に赴き、物見を行ったという。この行いが主君・隆信の目に留まり、それ以
来小姓として側近くに仕えるようになる。元服すると隆信より一字を賜り「信安」と名
乗った。天正4年(1576年)、隆信が肥前有馬氏と戦うべく藤津へ進軍した際に、父と
もども同行し初陣を迎える。既に藤津崎の太良町付近で有馬氏と戦っていたのだった。
天正5年(1577年)、幼い頃から大人でさえも手のつけられない暴れ者であった。この
頃も村里を遊行し博打に興じるなど素行不良が改まらず、この年の籾蔵二つを博打のか
たに失うなどして一家が食べられないくらいだった。諫めても改まらない素行に、成富
一門は信安を殺すべきであると信種に相談する。しかし、信種がもう少し様子を見るよ
う一門を説き、素行の改まらない時は自らの手で殺すと述べたと言う。信安はそれによ
り改心し、その後は勉学や武芸に励むようになる。天正7年(1579年)、隆信にその勇
猛果敢な戦いぶりを認められ、「一日で十度の武功を立てた」ということにちなんで、
十右衛門の名を与えられた。と言う。天正12年(1584年)、柳川城には鍋島直茂がい
たが、島津氏が来襲する為、佐賀の守りに政家の叔父・信周は宿老と相談して鍋島直茂
は柳河より佐賀に戻した。結果龍造寺政家と有富茂安が留守を守る事になった。島津勢
が来た時、討って出る事を説くが、政家は籠城を主張し分かれた。沖田畷の戦いの兵站
から帰ってきていた茂安は江上城を盗りその後城島城と転々として秀吉の九州征伐には
、ちゃっかり八女地方付近で秀吉方に参陣していた。この頃信安から「賢種」(ともた
ね)に改名するのだが、これは政家が「鎮賢」(しげとも)と名乗っていた頃に「賢」
の字を与えられて名乗ったものとされる。しかし政家の方は一度は島津に包囲されて、
島津方についた為秀吉が来た時は更に秀吉に相対する先陣になって磯鳥高島付近で討死
した。久留米城での島津排除ではその戦いぶりから秀吉をはじめとする諸将から一目置
かれるようになり、これは幸いにして。同年、天草での島津征伐には龍造寺軍として、
の戦いに出陣し、加藤清正、小西行長を援護した功により、清正から甲冑を賜りその後
は、豊臣氏との外交を担うなど、次第に家中で重きを成すようになる。その後秀吉の朝
鮮征伐の文禄の役、慶長の役では、龍造寺軍の先鋒を務めた。この頃から龍造寺家の氏
筆頭家老の鍋島直茂に仕えるようになった。諱(名前)は、初名の信安から賢種を経て
、茂種、そして茂安と名乗ることとなるが、これは直茂から「茂」の字を与えられて名
乗ったものである。と言う

1132: 名無しさんAA:18/03/23 21:37
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------25

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの際には、伏見城の戦い、安濃津城の戦いに出陣す
る。その後、鍋島直茂・勝茂親子が西軍から東軍に寝返ったのに従い、筑後国柳川城、
筑後国久留米城を攻め落とす事になった。この時には、直茂に命じられて柳川城主であ
る立花宗茂に降伏を勧めるために折衝役を務めたという。この中身は今だ不明だが、こ
の時の話こそ百姓の処遇やキリスタンの処遇更には武将達の処遇の実務を果たしたと言
える。というのも一時期だが佐賀龍造寺家によって落とされた柳川城内に残って居たと
言う家老の何人かはそのままいた人達だったからだ。そもそも立花氏の柳川城入城は、
九州平定で豊臣秀吉の大軍を背景に平和裏に入城しているのだ。従って連れ添った者以
外はほぼ佐賀が攻めた後のままだったと言える。久末には大きな綿貫邸宅があった。か
つて鎌倉時代の久末城である。そして今は恐らく諸藤邸宅となっているであろう。とい
うのも諸藤氏は久留米において酒粕屋つまり造り酒屋の販売までしていた諸藤氏が祖先
で蓮池で始まった酒造りを城島に広げた家だったからだ。久留米は、御井郡と三潴郡の
境界にあたる。もともと久留米の名は「浮に酌め米の水」酒を交わした姿:うきは盃)
から来ている。古い天皇行幸の祭りをした所とされる。北部は、山本郡草野(現在の久
留米市草野町)を本拠とした草野氏が治め、平安時代末期以来、豊臣秀吉によって九州
仕置に際して草野鎮永が滅ぼされるまで約4百年間統治したとされる。又久留米地域の
南部にあたる三潴郡は多くは寺領や宮領の荘園だったが常に戦乱があり、平安期に海賊
退治にやってきた蒲池氏族が治め始め、筑後十五城筆頭柳川城主の蒲池氏が統治した。
天正15年(1587年)、秀吉の九州仕置によって筑後3郡の7万5千石を領することに
なった時まで、島津氏が落城させ入城したが、その後龍造寺の有富茂安に乗っ取られた
。佐賀鍋島氏が鳥栖一帯をしぶしぶ手放した事で、神崎地区に有富茂安の行き先が出来
小早川秀包は、久留米城に入城し居城と出来た。秀包は「羽柴久留米侍従」と呼ばれ、
文禄・慶長の役の戦功により13万石まで加増されたが久留米城の改修には大きな出費
がかさんでいた。しかし、関ヶ原の戦いの際に西軍に与したため改易となり、関ヶ原の
戦いののち、筑後一国32万5千石は田中吉政の所領となった。これはほぼ筑後平野の
殆どだった。吉政は柳河城を居城とし、久留米城には子の田中則政(吉信)を置いて、
子供は家康の近習となっていた。田中氏時代、久留米城の拡張が行われているが、慶長
20年/元和元年(1615年)の一国一城令により破却されている。

1133: 名無しさんAA:18/03/23 21:44
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------26

元和6年(1620年)、2代藩主田中忠政が病没すると、無嗣子により田中氏は改易とな
った。その所領は分割され、久留米を含む筑後中部・北部の21万石は有馬豊氏の所領と
なった。筑後南部には立花宗茂の柳河藩(10万9000石)と、立花種次(宗茂の甥)の三
池藩(1万石)が成立した。この有馬氏は他の有馬氏と区別し摂津有馬氏、或いは赤松
有馬氏とも呼ばれ、非常に運のいい氏族で変わっていた。一族からは久留米藩主家にな
る前は、丹波国福知山藩8万石の大名であった。有馬豊氏は、一挙に13万石の加増を
受け、久留米21万石の領主として入封した。大幅な加増は大坂の陣の功績とされてい
るが、有馬氏末裔の有馬頼底は「大した働きもしていないのに13万石加増になったの
は不可思議である」旨の発言をしている。実は有馬氏も源流は次々に断絶を果たしての
こった有馬郷の一族で赤松氏宗家が衰退すると、細川氏に接近し有馬郡の支配を維持す
る赤松家は当主の名を「有馬」と変える。有馬村秀は三好長慶の傘下に入り、同氏に従
属する国衆となるが、織田信長の台頭によって新たな支配を任された荒木村重と対立し
、有馬国秀の自害によって断絶し荒木氏として残った。従って佐賀の赤松町や荒木町も
本来は有馬郷の地族の有馬氏なのだ。一方伊予の藤原純友の末裔あるいは平直澄の子孫
とする肥前有馬氏がいた。戦国時代に有馬晴純が現われて島原半島を根拠に肥前一帯に
一大勢力を広げ、さらにポルトガルとの交易で最盛期を築き上げたが、その子有馬義貞
は、龍造寺隆信の圧迫を受けて衰退していた。1584年、有馬晴信が島津氏と結んで沖田
畷の戦いで戦功を立て龍造寺氏を撃退した為、豊臣秀吉は九州平定を行い、その功での
本領を安堵されていた。しかし江戸時代に入って、晴信が旧領復帰をあせり、岡本大八
事件を起こして切腹させられていた。晴信の子・有馬直純が日向延岡を与えられたため
、僅かに存続し外様大名でありながら、直純の後妻・国姫が徳川家康の養女(家康の外
孫である熊姫の娘)を娶り、後に幕府より許しを得て譜代大名に鞍替えしている(願い
譜代)。そのほかに古い時代に分かれた熊野有馬氏(くまのありまし)がいるが、熊野
の国人領主・熊野別当家の出と言われ、産田神社神官の榎本氏が有馬一帯に勢力をはり
有馬氏を名乗ったことに始まるという。この肥前有馬の一族をただ賄賂を贈った罪のみ
で喧嘩両成敗の一般的論理で改易させたのは、多分にキリスタン問題の解決を求めたか
らだろう。その同じ有馬氏族としての解決策を徳川秀忠や家康は望んだのである。


1134: 名無しさんAA:18/03/23 21:48
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------27

 江戸の町にキリスト教の布教が行えなかったのは、単に西洋文化の上陸地が九州であ
っただけの話である。もし西洋の大陸側がハワイの方向であったなら、九州の筑後での
悲劇はこんなには無かったろう。又元寇による関東武士が居ついた混乱もあまりなく、
平和裏の歴史が刻めていたろうが、歴史に「たらねば」話は禁物である。それを物語る
のが有富茂安の人生だろう。関ヶ原の戦いの後、知行高を4万石に加増されて目達原付
近から基山まで慶長8年(1603年)、武蔵国江戸に幕府が開府されると、江戸の町の修
復や水路の整備を行った。更にまたこの頃、山城国二条城、駿河国駿府城、尾張国名古
屋城、肥後国熊本城などの築城にも参加、この経験を肥前国佐賀城の修復に生かした。
慶長19年(1614年)から、大坂の役に出陣した。慶長15年(1610年)から没するま
で、水害の防止、新田開発、筑後川の堤防工事、灌漑事業、上水道の建設など、本格的
な内政事業を数々行っている。茂安の手がけた事績は、細かい物も入れると百ヶ所は優
に超えるともいわれ、三百年以上たった現在でも稼働しているものもある。民衆や百姓
の要望に耳を貸す姿勢は、肥前国佐賀藩の武士道の教書でもある『葉隠』に紹介されて
おり、影響を与えた。寛永11年(1634年)、76歳で死去したが家臣7人が殉死したと
いわれ、この頃の殉死は極めて珍しい異色のものだ。墓所は佐賀市田代の本行寺。この
茂安時代まで神崎の地は湿地帯でもあって、山が急峻に伸びているとはいえ筑後川は、
暴れ川として名を馳せていた。地図を見ればわかる様に三根町から急に曲がり千代田や
諸富は乾季と雨季では大きく土地が変化したものと考えられる。彼のこの川の制水事業
は凄まじいものだったと言える。だが幸いにして背振山系の水事情はそう大きくなかっ
た為に英彦山系の水に重視する事で収められたが、その技術は高く筑後側でも採用され
た。逸話として、肥後国の領主になった加藤清正は、その当時は二千石の侍大将だった
茂安を1万石で召抱えようとしたが、茂安は「たとえ肥後一国を賜るとも応じがたく候
」と応え断った。清正はその忠義に感涙したといわれる。彼がカッパとしての隈部から
離れた一族、或いはキリスタンとして逃げて来た農民を久留米の城の改修をやらせ、そ
の後自分の領地を改修させ黒田の福岡城に送り込み最終的に善導寺の寺領の浮羽に住ま
わせた可能性は強い。だからこそ田中吉政の寄進の東照宮を作りァ千代君の宝塔がたて
られている。と考えられる。又一方にキリスタン達は益田氏を頼った。益田氏は敗軍の
将毛利氏に仕えている氏族だが、もともと石見銀山系の氏族で代々石見国府の豪族とし
てあったという。


1135: 名無しさんAA:18/03/23 21:56
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------28

秀吉の九州平定では、秋月や朝倉などは太閤検地にならずいついたのである。朝倉は、
古くからの神社の荘園だった。秋月城は寛永元年(1624年)黒田長興によって築かれた。
長興は福岡藩初代藩主黒田長政の三男で、元和9年(1623年)父長政が没したとき、その
遺言により五万石を分知され秋月藩を興した。秋月藩黒田家は代々五万石を領して明治
に至っている。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの功により、筑前の一部を領有してい
た小早川秀秋が備前国岡山藩に移封となった。代わって豊前国中津藩主の黒田長政が、
同じく関ヶ原の戦功により、筑前一国一円52万3千余石の大封を与えられたことによ
り、当藩が成立したのである。国主、本国持の大名家である。つまりそれまでは小早川
氏の領地であり田中氏も及ばない所だったのだ。『朝闇(ちょうあん)神社』(朝倉町
大字須川字鐘突)「朝倉」の地名は、あさくら とも読めるこの神社から始まるそうだ
。この一帯は、斉明天皇が西暦 661年5月9日、一時的に “都” を置かれた場所であり
、その子供中大兄皇子(天智天皇)・大海人皇子(天武天皇)兄弟や中臣鎌足を始めと
した重臣、女官など大勢の都人が難波の港を出発した長旅のうえで、都を遷された場所
とされている。地名も「鐘突」とふつうではない伝承がある地である。小倉百人一首の
一番目は天智天皇の句ですが、それを詠まれたのがこの朝倉の地で、筑後川の山田堰の
駐車場にその石碑はある。中大兄皇子(のちの天智天皇)は朝倉の田植えの小屋にいて
、何を見ていたのか。『筑後川山田堰を支える岩盤をなす高台の「恵蘇(えそ)八幡宮
」へ』と詠んでいて、恵蘇八幡宮の境内には当時、皮が着いたままの丸木で建てた簡素
な「木の丸殿」があり、中大兄皇子はここで喪に服されたという。歴史の教科書に出て
来る有名な人たち。その中で福岡の人間として知らなかった日本を揺るがす非常事態が
朝倉を中心に起こっていた物語を告げる。恵蘇八幡宮は、中大兄皇子が応仁天皇を祀る
為に作られた祭殿で、その後ここから宇佐神宮に祭られた。川に突き出た丘陵を登りつ
めたところに古墳があり「斉明天皇御陵」となっている。円墳状の2基からなり、正式
な発掘はされてない上で5世紀頃の埴輪が出ている。斉明天皇は、天智天皇(当時は中
大兄皇子)・天武天皇の母。「斉明天皇陵墓」は現在奈良県にあるとされるが、ここは
御殯斂地とされ埋葬前に一時的に安置された場所との見解が主流だが、それはおかしい
。名前を知る斉明天皇が朝倉で亡くなられていたとは驚きだろうが、現実にはこちらが
正墓でもっと古い言い伝えがそうなったともいえる。こうして山田堰の「水神社」には
、中大兄皇子が母のために歌を詠まれた場所と言われる「月見石」が祀られている。

1136: 名無しさんAA:18/03/23 22:09
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------29

 この甘木の地には相当に伝説は多い。その中にはキリスタンの落人伝説もある。天草
四朗は益田 四郎(ますだ しろう)。諱は時貞(ときさだ)と言われ。洗礼名は当初は
「ジェロニモ」であったが、一時期表向きの棄教をしていたためか、島原の乱当時には
「フランシスコ」に変わっていたという。肥後国南半国のキリシタン大名で関ヶ原の戦
いに敗れて斬首された小西行長の遺臣・益田好次の子として母の実家のある天草諸島の
大矢野島(現在の熊本県上天草市)で生まれたとされている。豊臣秀頼(豊臣秀吉の息
子)の落胤であったとする伝説も多々ある。島原の乱ではカリスマ的な人気を背に一揆
軍の総大将となり戦場では十字架を掲げて軍を率いたとも伝わる。だが四郎本人はまだ
10代半ばの少年であり、実際に乱を計画・指揮していたのは浪人や庄屋たちであるの
は確かだ。四郎は一揆軍の戦意高揚のために浪人や庄屋たちに利用されていたに過ぎな
いと見られている。小早川本家は毛利氏一門から、豊臣氏一門の有力大名へと変化し、
関が原では寝返っている。その為秀秋の方は慶長5年(1600年)その功績により、徳川
家康により備前岡山51万石に加増移封されている。だが慶長7年(1602年)に21歳
で嗣子無く没して、養子の系譜の小早川家は名実ともに断絶した。久留米城に入城した
小早川秀包は旧名、毛利秀包で、1567年、毛利元就の9男として生まれた人だ。母方が
毛利元就の側室である乃美大方(みののおおかた)であった為小早川氏に預けられて過ご
した。1586年からの九州征伐で養父・小早川隆景の軍勢に加わって、豊前・香春嶽城を
攻略。その功績で、小早川隆景が筑前・筑後を領すると、筑後3郡に75000石として入り
、1587年には久留米城を改修開始した。この頃、正室に大友義鎮(大友宗麟)の娘・桂姫
(毛利 ドナ・マセンシア)を迎えている。桂姫はキリスト教が禁じられた後も、熱心に
キリスト教の信仰を続けた。その影響で、小早川秀包も洗礼を受け、洗礼名はシマオ・
フィンデナオとしてキリシタン大名の活動も目立つようになっていった。1587年の、佐
々成政の領地での隈部親永・隈部親泰父子が挙兵した肥後国人一揆では、立花宗茂や、
高橋統増、筑紫広門、鍋島直茂、安国寺恵瓊らを率いた討伐軍の総大将を任じられてい
る程だ。和仁親実らが籠城した田中城を立花宗茂と共に攻略した。この時、小早川秀包
は立花宗茂と意気投合し、戦勝祝いの席で義兄弟の契りを結んだとされる。この2人に
は1588年7月に、豊臣秀吉より羽柴氏を名乗ることが許される程の器量だった。更に、
立花宗茂には豊臣姓が下賜され、翌年の1589年7月13日に 小早川秀包(23歳)が侍従に任
官さると同時に小早川秀包にも豊臣姓が下賜されて、以後 羽柴久留米侍従 と称され、
1590年には、小田原攻めにも参戦している。なんとも仲の良い2人だったのだ。

1137: 名無しさんAA:18/03/23 22:37
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------30

 1591年、嫡男・毛利元鎮が誕生すると、キリシタンとの諍いで罵倒した高良山の座主
・麟圭(りんけい)・了巴(りょうは)父子を誘殺し、城下にキリスト教の天主堂を建て、
キリスト教信者は7000人になったと伝わる。この時久留米内乱が多発した。麟圭を殺害
したのは宗教対立からではなく、諏訪周辺から花畑の土地抗争であったとされる。秀包
は筑後統一にあたり、以前から権勢を誇る高良山の勢力を壊滅させることを考えていた
。神社領としての取り立てに領民が苦労し、当時の高良宮には僧兵や武士1500余を抱え
る一大豪族であり、板倉氏が隈部の残党を抱えようとして酌む様になろうとしていた。
その座主の麟圭の弟は、久留米城の側の城に居を構えていた。秀包の居城は現今の篠山
城とは少し離れた、蜜柑丸という東向きに築かれた城で、久留米大学医学部屋敷内だ。
秀吉の信頼を受け一切を託された久留米城主だったが笹山城が大きかった。統治は沽券
にかかわるものであった。戦をしても歯が立たず、高良山はどうしても秀包に従いませ
んでした。そこで、秀包から和議を申し出、座主の麟圭とその息子の良巴を城中の酒宴
に招いて、機を見て謀殺するつもりでした。しかし麟圭親子はそれを察知して酒宴半ば
で脱出を図りましたが、柳原に逃げた所で主従8人と共に惨殺された。柳原近村付近の
肥前路上の小森野の舟渡しの宿だったとされる所で討たれた。里人は座主たちの最後を
悼み、方々の殺害された遺体を集め、墓を立てて祀ったのが道頓堀商店街の片隅であっ
たとされる。今の西鉄久留米駅前である。墓石は高さ60cm、横50cmで、「八つ
墓所」と言われた。今は「八つ墓」と刻まれビル裏に移転されている。建立は嘉永4年
(1851)。手前の花立には玉椿社の字が彫られています。口伝によれば墓の傍の玉椿の
葉を取ると歯が痛み出し、お祈りすると歯の痛みが消えるという。毎年8月25日が祭
礼日で、玉椿の紋を描いた献灯が下げられて賑わったようです。この後には武力抗争の
結果であり宗教対立に持ち込まない為に、すぐに小早川秀包は麟圭の末子である秀虎丸
を高良山座主・尊能に改めて付けている。この異変で板倉氏の抗争が筑後に移ったから
だ。事実久留米は高良大社の門前町で発達していて久留米としての領地は殆ど寺社領の
荘園であったのだ。この後1592年からの文禄の役では千五百騎を率いて朝鮮に出兵した
。全羅道攻略の大鼓城攻撃で戦功を挙げ、碧蹄館の戦いでは、小早川隆景、立花宗茂、
宇喜多秀家、実兄の毛利元康と共に明の大軍を撃破している。その戦功により筑後久留
米のまま五万五千石を加増されて合計13万石となり、筑後守に叙任されている。

1138: 名無しさんAA:18/03/23 22:44
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------31

また第二次晋州城攻防戦では、明朝と朝鮮混合軍、琳虎の四万の兵を、小早川秀包は、
立花宗茂と共に四千の兵にて撃退することに成功したとされる。1594年に、豊臣秀吉の
養子・木下秀俊(後の小早川秀秋)が小早川隆景の養子となった為、小早川家の嫡流から
は除外された為、分家を創設した。1597年からの慶長の役にでも参戦し、竹島城と星州
谷城の防戦で戦功を挙げ、朝鮮出兵でも小早川の武名を轟かせた。兄と養父・小早川隆
景がここで死没した。以後は、毛利家同様に石田三成に協力し、1600年、関ヶ原の戦い
では西軍として、8月には大坂城の玉造口を守備していたが、9月には京極高次が籠城
した大津城を、兄・末次元康や立花宗茂らと共に出陣の司令によって赴いている。この
ときも近臣の6名の家臣を失い、3名の重臣が重傷を負うと言う苦戦を強いられた。が
猛攻の末に落城させた。しかし、関ヶ原本戦では、小早川秀秋の内応や吉川広家・毛利
秀元の静観により、石田三成の西軍が敗れた為、占領した大津城から撤退して立花宗茂
らと大坂城に戻っているのだった。大阪城では主戦論を唱えたが、9月24日に西軍・
総大将の毛利輝元が降伏した為、大坂城からも退去した。しかし九州の久留米では黒田
官兵衛らが西軍に味方し諸城を攻略して、10月14日に久留米城は黒田官兵衛・鍋島直茂
・加藤清正らが率いる三万七千の大軍に包囲されていまっていた。城代の宿老・桂広繁
と、白井景俊らは、わずか五百の兵にて数日間は城は持ちこたえていた。しかし多勢に
無勢で、やむなく降伏して開城した。小早川秀包の正室・桂姫と嫡男・小早川元鎮は、
黒田家の人質となり、桂広繁の四男・黒寿丸は鍋島直茂の人質となった。桂姫と小早川
元鎮は、久留米城の受け取り役で、同じキリシタンの黒田直之(黒田惣右衛門)の尽力で
脱出に成功し、小早川秀包のいる滝部へ逃れた。しかし、関ヶ原の戦い後は、徳川家康
から毛利家共々改易され、久留米の所領を失い、毛利輝元から長門に所領を与えられた
。義兄弟である立花宗茂も同じく改易されて牢人の身となり、敗戦の原因を作ったとさ
れる小早川秀秋が同じ小早川の姓名であった為、小早川姓から毛利姓に復し、毛利秀包
と改名した。その後、京都の大徳寺で剃髪して玄済道叱と称して僧侶になった。長門に
入ってからは体調が悪化し、長門赤間関の宮元二郎の館で療養したが、1601年に35歳の
若さで病死した。遺体は当時の毛利秀包の知行地で、館があった山口県下関市豊北町滝
部に葬られた。後に久留米に、毛利秀包を祀る小早川神社が建てられている。嫡男の毛
利元鎮は七千石を継いで、吉敷毛利家の始祖となり周防国吉敷郡吉敷村(現在の山口県
山口市吉敷地内)の城主となって守った。

1139: 名無しさんAA:18/03/23 22:45
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------32

徳川家康は、この毛利所領取り上げの時代には、かねてより益田元祥に着目していた。
益田氏を、徳川家康は元祥に内密に通達することがあるといい、大久保長安を仲介とし
て使者を送った。すなわち周防・長門の二国の身上となった毛利氏には、多くの家臣は
必要ないとして、毛利氏には元祥の子景祥を留めておきたかった。元祥自身は石見にあ
って徳川家に奉公すべし、というものであった。さらに、知行は、元のまま石見益田を
宛行うがどうか、という願ってもない通達であった。これに対して 元祥は「益田家は
毛利家の譜代の臣でもなく、先祖代々石見に住しており、そのまま石見に残って奉公を
申し上げたいが、毛利氏に対する恩義もありこれを果たしたい気持ちでいます」と家康
の好意を有り難く辞退したのである。家康は重ねて元祥を招いたが、元祥の気持ちは変
わらなかった。かくして、元祥は毛利氏の一家老として、これまでの十分の一にあたる
長門国須佐の知行地へと移っていたのである。結果論ではありますが、毛利家を支えた
智将・小早川隆景の後を、豊臣秀吉の縁者である金吾(小早川秀秋)が継ぎ、関ヶ原で、
徳川家康に寝返り、石田三成ら豊臣側は敗れた訳で、小早川秀包は自城がまさか黒田軍
に攻められるとは思っていなかっただろう。なぜなら九州平定後には睨まれ、病身の時
豊臣五大老筆頭の徳川家康をはじめ、浅野長政・増田長盛・長束正家・前田玄以・石田
三成のいわゆる「五奉行」に対して、秀吉の死の直前に、「豊臣家臣同士で私は派閥を
作りません。秀頼様が御成人されるまでは諸大名からの知行に関する訴えを取り次がず
、自分が仮に加増されても辞退します。」と大勢の大名の中で誓紙を出していたし、お
見舞いでも「安心あれ、わが身をもって豊臣天下を進めます。」と誓っているのだ。又
慶長3年(1598)8月18日。豊臣秀吉が伏見城で没した時ですらも、領国の豊前中津に
おいて20日に第一報を受けて、直ぐに行動の準備にかかるが、4日後に確報を得ると
親しくしている吉川広家へ、「自分は京で世間の様子を静観するつもりである」と準備
をしながらぬけぬけと書き送っているのである。しかし息子の黒田長政は「家康は関ヶ
原の勝利後、「代々黒田の家に対し疎略(そりゃく)有るまじき由(よし)仰(おおせ
)られ、諸人の見る所にて、長政の手を御とりいただき給う。」と長政は真から家康派
であり、如水と親子喧嘩をしていたとしても不思議ではない。家康にしてみれば立花氏
を良く知らなかった故に立花山においたのだろうが。従って、黒田藩が福岡城築城に旧
立花氏の残兵の割り振りや小早川秀包のキリスタンなどに有富茂安が間をとって采配し
たとしても全く不思議でもない。

1140: 名無しさんAA:18/03/23 22:46
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------33

 もともとの黒田の豊臣離反は朝鮮征伐にあった。釜山周辺には、既に文禄期から倭城
群が築かれていたが、新たに築かれる城はその外縁部に位置し、東から、蔚山城、梁山
城、昌原(馬山)城、唐島瀬戸口(見乃梁)城、固城城、泗川城、南海城、順天城の八
城であった。これら倭城群の最東端にあたる蔚山の地には、加藤清正自らが縄張りを行
い、慶長2年(1597年)11月中旬から、毛利秀元・浅野幸長・加藤清正の軍勢を中心と
して、久留の計をめざし本格的に蔚山倭城の築城を始めていたのである。ところが突貫
工事での完成が目前になると、築城が担当の毛利秀元は兵糧・武具類を釜山に輸送し、
蔚山を退去して帰国の準備に取り掛かかり。また加藤清正は西生浦に出張中の時に突然
明・朝鮮軍 計五万七千の兵が押し寄せたのである。他の城は戦わず帰参しその中で、
清正は蔚山倭城に向かったのだ。他の城の攻防は少なく蔚山城において明朝軍の囲い込
みの中清正の籠城戦が始まったのだ。次の日になって援軍を送るが、この蔚山救援軍の
陣所に一部の明軍部隊が攻撃を仕掛けたとき、先鋒の蜂須賀家政・黒田長政が「合戦を
しなかった」と豊臣秀吉に報告したのだ。この「黒田長政と蜂須賀家政は蔚山城の救援
に向かったが、臆病にも戦わなかった」。は、誰もが知るものであったが、その報告に
接した豊臣秀吉は激怒し、長政と家政は窮地に陥った。一方、秀吉没後もなお朝鮮にあ
った長政に対し、たびたび労いの書状を送ったのが徳川家康であった。もっとも「天下
惣無事」を度々話し、「大名間の領地をめぐる私戦は一切許さず、従わない者は天皇の
名において討伐する」と言う秀吉の大義名分は、もともと屁ともおもっていなかった。
官兵衛の思惑通り制約は死と共崩れ、戦国の論理が蘇えり、天下分け目の決戦が迫る。
この直感で官兵衛は九州で動いていたのである。その後慶長5年(1600年)の関ヶ原の
戦いで有馬父子は東軍に与し、その戦功から則頼は一族の旧領摂津国有馬郡三田藩2万
石、豊氏は丹波国福知山藩6万石に封ぜられる。慶長7年(1602年)に則頼が没すると
豊氏はその遺領を含め8万石に加増された。その後、大坂の陣においても徳川方として
活躍したため、元和6年(1620年)にはさらに加増移封され筑後国久留米藩21万石の
藩主となった。家格は大広間詰で、国持大名の扱いを受けた。久留米藩主としての初代
は豊氏であるが、「久留米藩有馬家」当主の代数は則頼を初代として数えらている。で
はこの時有馬藩は有富茂安を信用したか。実はなんの反対もしなかったはずだ。それが
この有馬氏の偉さであった。黒田如水の様な策略も立花氏の様なカリスマも清正の様な
剛腕なプライドも更に有富氏の様な細工もなかった。至って大河の様な運のある殿様で
あった。

1141: 名無しさんAA:18/03/23 22:47
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------34

しかし、久留米藩初代藩主有馬豊氏の三男の有馬頼次は徳川忠長に仕えた。その為1万
石を給されたが、徳川秀忠の徳川幕府将軍となって、忠長の改易に連座し父親預かりと
なった。元和3年(1617年)、7歳で将軍徳川秀忠に初謁し。翌、元和4年徳川忠長に
付けられて1万石を給されたのである。寛永5年(1628年)には従五位下加賀守に叙さ
れた。しかし、寛永9年(1632年)に忠長が改易されると、頼次も勘気を蒙り父の豊氏
に預けられた。寛永13年(1636年)12月10日に赦免され、寛永17年(1640年)10月15
日には将軍徳川家光に拝謁している。慶安2年(1649年)3月9日、39歳で死去。麻布の
祥雲寺のち渋谷に移転に葬られた。不思議な事にこの臨済宗大徳寺派寺院の祥雲寺は、
福岡藩主黒田長政(元和9年没)を追善しているのだ。嫡子忠之(承応3年没、法名興雲
院殿)が開基となり、長政が帰依していた京都紫野大徳寺の龍岳和尚を開山として赤坂
溜池の自邸内に龍谷山興雲寺と称して創建したという。寛文6年(1666)に麻布台へ移
転の上瑞泉山祥雲寺と改称、寛文8年(1668)の江戸大火により当地へ移転したとする
江戸期には塔頭6ヵ寺を擁していた他、臨済宗大徳寺派触頭として御府内にある臨済宗
大徳寺派寺院をまとめていたといい、福岡藩黒田家の他、秋月藩主黒田家・久留米藩主
有馬家・吹上藩主有馬家・柳本藩主織田家・岡部藩主安倍池・小野藩主一柳家・狭山藩
主北条家・園部藩主小出家など諸大名の江戸菩提寺となっている。つまりあの秋月朝倉
地域の打ち合わせ場所として管理していたのである。此処に善導寺に東照権現宮に立花
氏のァ千代君がいた理由がある。通常の殿様は江戸屋敷に人質代わりに居なくてならな
い。しかし、立花氏は側室を持たなかった為、江戸屋敷もその頃は小さかった。田中吉
政の子田中忠政は大阪夏の陣でも徳川方として参戦しようとしたが、父と同じくキリス
ト教に大きな興味を示して信者を手厚く保護し、家臣の一人がキリシタンを殺害したの
を知って激怒しその家臣を即座に処刑した事で、城内不和を起こし、さらに財政難など
もあって遅参した。このため、駿河にいる家康に謝罪し罪は許されたが、代償として7
年間の江戸滞留を命じられたと言う。元和2年(1616年)、家康が死去すると領内の山
本郡の善導寺に東照権現宮(東照宮に相当)を勧請した。しかし元和6年(1620年)8
月、36歳で死去した。嗣子が無く、柳河藩田中氏は無嗣断絶となり改易された。幕府の
禁教令の中でキリスト教を保護したのは稀有なことであり、その件が幕府の不興を買っ
て改易に結びついたとの指摘もある。この時善導寺の東照宮の完成には至っていなく、
立花氏が入城してその後を継いだのである。


1142: 名無しさんAA:18/03/24 00:33
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------35

天草四朗の乱は 本名益田四郎時貞(ますだ しろう ときさだ)と言われている。島原
はキリシタン大名である有馬晴信の所領で領民のキリスト教信仰も盛んであったのだが
、慶長19年(1614年)に有馬氏が転封となって一転する、代わって松倉重政が入封した
が江戸城改築の公儀普請役を受けたり、独自にルソン島遠征を計画し先遣隊を派遣した
り、島原城を新築したりしたり多くの乱財を使った。そのために領民から年貢を過重に
取り立てたが、それは既に筑後地方でやった手法と同じだった。また国内で禁教令が出
ると厳しいキリシタン弾圧も開始した。年貢を納められない農民や、改宗を拒んだキリ
シタンに対して非情な拷問・処刑を行ったとされ、オランダ商館長ニコラス・クーケバ
ッケルやポルトガル船長の日記や報告書にも記録に残っている。次代の松倉勝家も重政
の政治姿勢を継承し過酷な取り立てを行っていた。しかし『細川家記』『天草島鏡』な
ど同時代の記録かは、反乱の原因は年貢の取りすぎにあると記録し、島原藩主であった
松倉勝家は自らの失政を認めず反乱勢がキリスト教を結束の核としてある。と報告した
こうしてこの反乱をキリシタンの暴動との口実に江戸幕府を利用した。しかし実際には
、この反乱には有馬・小西両家に仕えた浪人や、元来の土着領主である天草氏・志岐氏
の与党なども加わっていた。1637年旧暦10月、うち続く大飢饉と年貢の呵責誅求
、そしてキリシタンへの厳しい弾圧、女房子供の身売りの強制、これに絶えかねた民衆
は、天草四郎を総大将に一揆を起こした。彼らが求めたものはデウスへの忠義、それと
地方政治への不満。こうして老若男女3万7千人余りの四郎軍は、12万5千の幕府軍
を相手に原城へ立て籠もるまでになった。という。だが華地蔵伝記では少し違う。彼ら
は実は座礁していた奴隷船のマードレ・デ・デウス号を乗っ取ったのである。天草にあ
った3年かけて座礁した船の修理が出来た為、又奴隷を集めた代官相手に開放したので
ある。カピタン・モール(総司令官)のいた商館を焼いてその後奴隷を開放して進軍し
た。そもそも持ち上げたのは16歳の少年である。更にキリストへの忠誠ならゼウスで
はなくエホバだったのだ。この言葉の違いは他ならぬこの船名にあった。マードレ・デ
・デウス号は、ルソンでペッソアに追いかけられるも、つかまる事無く船に待機してい
た小西行長から奪い取って、松倉氏が派遣していた日本人の船だったとされるからだ。
ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号は長崎に着いて船長と共に自沈したが、この船は座礁
してこの島影に隠れていたのである。


1143: 名無しさんAA:18/03/24 01:07
この船で他の藩は近づく事を避けた。しかし天草住民の願いも虚しく、帆船の操りはか
なり難しく、大砲は向けても火薬はなかったのである。こうしてイスパニア船はポルト
ガル船によって沈められたのだ。こうした宗教騒動は、実はこの50年以上も前に平戸
であったし、その前にも大友2階崩れで起こっていた。こちらは熱心な仏教徒が反乱を
起こしているのだが、体制側と、その部下と農民や商工民の構図は同じだ。永禄4年(
1561年 )の事だ。松浦氏の領土であった平戸の宮の前で、ポルトガル商人と日本人商人
の争論からポルトガル人の殺傷事件が起こると、ポルトガル人は新しい港を探し始め、
永禄5年(1562年)、大村純忠は自領にある横瀬浦の提供を申し出た。イエズス会宣教
師がポルトガル人に対して、大きな影響力を持っていることを知っていた純忠は、あわ
せてイエズス会士に対して住居の提供など便宜をはかった。この為、結果として横瀬浦
はにぎわい、大村純忠のこの財政改善策は成功したのだ。永禄6年(1563年)になると
、宣教師からキリスト教について学び、純忠は家臣とともにコスメ・デ・トーレス神父
から洗礼を受け、領民にもキリスト教信仰を奨励した。結果、大村領内では最盛期のキ
リスト者数は6万人を越え、日本全国の信者の約半数が大村領内にいた時期もあったと
される。だが、1474年頃から宇木城にいた有馬貴純の傘下の西郷尚善が、船越城に入り
伊佐早荘を納めていたが、伊佐早が攻められても有馬氏同様救援しなかった為、龍造寺
に西郷尚善は討死して、有馬貴明は敗走するに至った。その子西郷純堯は怨みがあって
同じ純忠に不満を持つ大村家の家臣団と呼応し反乱を起こして横瀬浦を焼き払ったのだ
った。それでも、元亀元年(1570年)に大村純忠は、今度はポルトガル人のために長崎
を提供していた。同地は当時寒村にすぎなかったが、以降良港として今の様な、大発展
をしていく。純忠の留守に、元亀3年(1572年)には松浦氏家臣の援軍を得た有馬貴明
の軍勢1500に居城である三城城を急襲した。城内には約80名しかいなかったが、
援軍が来るまで持ち堪え、やっとこれを撤退に追い込んでいる(三城七騎籠)。天正6
年には(1578年)に長崎港が龍造寺軍らによって攻撃される。しかし純忠は、今度はポ
ルトガル人からの支援によってこれを撃退した。こうして、天正8年(1580年)に、大
村純忠は長崎のみならず茂木の地をイエズス会に教会領として寄進したのである。とこ
ろがその後には、龍造寺隆信の重なる圧迫を受けて、喜前を除く3人を人質に取られた
。ほぼ従属状態にあり、沖田畷ての戦いにも龍造寺方として従軍している。純忠には洗
礼名を持つ4人の息子、喜前 (サンチョ)、純宣(リノ)、純直(セバスチャン)、
純栄(ルイス)がいた。が、この戦いには、親族である有馬勢との戦いには消極的で空
鉄砲を撃っていたといわれる。このため、隆信の戦死後は、大村勢は島津氏の追撃も受
けずに開放されたという。

1144: 名無しさんAA:18/03/24 01:08
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------37

 小早川秀包は旧姓益田家である。従って秀吉時代に多くの洗礼を行い益田家も洗礼し
たか、逆に益田の名をもらったかあるいは縁故になったかにした可能性がある。久留米
を居城とした後は大友宗麟の娘を妻とした縁もあり、子供に洗礼を受けさせ。洗礼名を
シマオとした。以後はキリシタン大名としての活動が目立つようになり、天正19年城下
に天主堂を建設して、キリスト教信者の7,000人を置いていた。その中心が アーケード
の久留米カトリック教会であったのだ。その後禁教令によって善導寺に移ったのである
。つまり、善導寺は実はキリシタンの隠れ蓑の為に寄進していた寺だったのである。し
かし禁教令以降も次々と困難はあって隠れキリスタンで行きたくない者は天草に行った
。その中に益田四朗時貞がいたのである。当時は久留米から筏でも宮崎までも行けたし
明治期は鹿児島まで小舟でも城島瓦を運んだ記録さえある。こうして天草がキリスタン
の天国になる頃松倉勝家が登場し、ただでさえ過酷な開拓農民はキリスタン狩りまでも
行ったのである。1637年旧暦10月、うち続く大飢饉と年貢の呵責誅求、そして、
キリシタンへの厳しい弾圧、これに絶えかねた民衆は、天草四郎を総大将に一揆を起こ
した。彼らが求めたものはデウスへの忠義、それとも地方政治への不満。老若男女3万
7千人余りの四郎軍は、12万5千の幕府軍を相手に原城へ立て籠もった。籠城3ヶ月
、旧暦2月28日、桜の花もほころぶ頃、ついに玉砕した。当初は板倉氏の加勢の要望
には耳を貸さなかった。幕府軍司令でものキリスタン制圧に付近の大名は数十人の兵し
か出さずにいた。それでも総大将を板倉重昌に決め、信綱は戸田氏鉄と共に一揆鎮圧後
の仕置・戦後処理のために派遣されていた。だが寛永15年(1638年)元旦に重昌が戦死
し。石谷貞清も重傷を負ったため、代わって信綱が幕府軍の総大将に就任することにな
って改めて要請をかけた。篭城する一揆軍は座礁したとは言え大砲を持っていた。だが
その内原城に立て籠る事になる。この時多くの忍びを使い諜報を行っていたが、方言と
オランダ言葉で意味が解らず混乱したりしている事が記録されている。こうしてオラン
ダ船の、デ・ライブ号に要請して援護射撃をさせる。細川忠利は「日本の恥辱である」
と批判した。信綱は城内のキリシタンに衝撃を与えるために行なった。と記録される。
しかし、この時オランダ側も2人が戦死し、矢文から城内の一揆側からも誹謗されて中
止に至った。

1145: 名無しさんAA:18/03/24 01:09
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------38

たかが百姓一揆とたかをくくっていた幕府は、次々に入ってくる報告を聞いて大慌てに
なっていた。 一揆を鎮圧するために、九州の各大名を島原に向かわせ、12万4千人
もの大軍を送りこむ結果になっていたのだ。何度か原城に攻め入ろうとしたものの、智
略にたけた浪人衆の指揮のもと、狙撃の名人や、石や糞便(ふんべん)攻撃など、武士
の方が負けている。甲賀忍者を送りますが、地元の言葉(方言)とキリシタン言葉では
意味不明のまま。 城壁に穴を掘って城内に進入しようとしましたが、早くも気づかれ
て出口で待ち伏られ、返り討ちにされてしまい、奇襲作戦も失敗し、矢文が交わされ、
両者の言い分を言い合いますが、お互いのことが信用できずに交渉は決裂し、幕府は、
人質に捕らえていた、四郎の家族や親戚を利用して、城内の非キリシタン(途中強要さ
れた農民信者)との交換条件を出しますが、一揆側は「城内にいるのは皆キリシタンで
ある」と言い、条件を拒んだ。 1月28日に副将格の戸田氏鉄が負傷するなど一揆の抵抗
も激しく、信綱は、立花宗茂、水野勝成、黒田一成ら戦陣経験がある老将達を呼び軍議
が行われて、兵糧攻めに持ち込む作戦に出た。この結果、2月下旬には一揆の兵糧は、
ほぼ尽きてしまい、寛永15年2月27日に最終決戦の火蓋はきられ、激しい戦闘にな
りました。死を恐れず、やみくもにに向かってくるキリシタンたちに、幕府の武士たち
は恐怖を覚え、一人も生かすことなく切り捨てました。翌日28日、四郎をはじめとす
る、約3万7千余人の命が天に昇りました。 後日捕らわれていた人々も、皆処刑され
てしまいました。この結果、天草と島原の地からは、ほとんどの人が消えてしまいまし
た。生き残ったのは、一揆の裏切り者といわれる程だった。幕府軍の戦死者1115名
、負傷者6761名(宮本武蔵もいる)、約40万両もの大金の出費がなされ徳川幕府
も大打撃となった。信綱は一揆の総大将である天草四郎の首実検を行い、さらし首とし
た。陥落させた原城を破却して捕らえた者は斬首してさらした。また松倉勝家・寺沢堅
高両名も一揆を招いた責任ありとして処罰を言い渡した。またその後、天草・島原には
多くの移民がなされ、この事件にこりた幕府は、翌年から鎖国(さこく)を開始した。
この乱の規模は幕府軍の動員数、双方の死傷者などからしても、あの西南の役よりも、
大規模な戦いであった。けっして、天草・島原地方の単なるローカル一揆ではなかった
のである。もちろん、この乱が天草歴史に与えた影響は、計り知れない。それまでの、
中世から近世へ大きな転換をしようとした事件で、日本初の自由民権運動だったとも云
われています。なぜなら彼らはただ、人間としての自由と平等を求めただけだったので
すから。

1146: 名無しさんAA:18/03/24 01:09
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------39

 決められた年貢を収めなければ、女は水牢に死ぬまで入れられ、男は『蓑みの踊り』
(手をしばり着せた蓑に火をつける)で、踊り狂う様子を見て喜んだという。キリシタ
ンであればなおのこと、火あぶりや、雲仙の地獄池に生きたまま突き落としたり・・・
などなど、残酷きわまるものでした。既に首を吊ったり餓死する人も多かったのです。
1637年旧暦10月、うち続く大飢饉と年貢の呵責誅求、そしてキリシタンへの厳し
い弾圧、これに絶えかねた民衆は、天草四郎を総大将に一揆を起こした。彼らが求めた
ものはデウスへの忠義、それとも地方政治への不満。老若男女3万7千人余りの四郎軍
は、12万5千の幕府軍を相手に原城へ立て籠もった。籠城3ヶ月、旧暦2月28日、
桜の花もほころぶ頃、ついに玉砕した。その後幕府はキリシタンへの取締りを強化して
封建集権政治を確立してゆく。しかし 隠れキリシタンは、明治6年(1873年)の
解禁まで潜伏し続け、隠れキリスタンとして復活の夜明けを迎えるまで潜み続けること
となった。その後珍事件として天草四郎の財宝隠しの十字架が上津浦の山麓の洞窟から
黄金の十字架が江戸末期に発見された事で多くの事件が起こった。十字架に刻まれた謎
の文「さんしある二 こんたろす五 くさぐさのでうすのたから しずめしずむる」と
「でうすの宝」が天草四郎軍資金となり、その埋められた場所が「さんしある二」や「
こんたろす五」であろうということで、天草の苓北町一帯や有明町の南蛮寺跡など半世
紀にわたって探され続けたが分からなかった。実は「さんしある二 こんたろす五」は
ポルトガル語の「聖なる遺物2個」「ロザリオ5個」という意味である。「でうすの詩
」なのだ。この十字架のことを知らず、最近でも金属探知機を持ち込んで探すというテ
レビ番組の企画さえもあった。この十字架は、おそらく1614年の禁教直後か163
7年の「天草・島原一揆」に参戦する前に刻み込んで洞窟の中に隠し込んだのであろう
。洞窟は上津浦の山麓のどこかにある。とされる。一揆は農民闘争とされ、乱は武士の
体制転覆の反乱とされる。その意味ではこの政治闘争のない武士の一揆だった。

1147: 名無しさんAA:18/03/24 11:23 ID:uH.
富安君を探せ              < その128 >

 光秀死後は秀吉の家臣となり、大和の所領は安堵されたが。天正12年(1584年)頃
から胃痛を訴え床に臥していた。小牧・長久手の戦いに際して出陣を促され、病気をお
して伊勢・美濃へ転戦。この無理がたたったのか、大和に帰還して程なく36歳の若さ
で病死した。筒井家は定次が継いで、その後も各所で転戦し活躍する。だが、筒井家は
順慶亡き後31年目に、定次が豊臣家への内通の疑いにより改易・自害させられ絶家と
なる。この時の家臣団は、古くからの家臣団はいなく離反していた。戦っていたのは、
強くて気まぐれ浪人の寄り合い所帯になっていて、集まって組織していたのは、結構な
非情なあらくれ武者が集まっていた。順慶の重臣だった島清興は順慶の死後、跡を継い
だ定次と上手くいかず筒井家を離れたが、後で石田三成の腹心となり、関ヶ原の戦いに
参加して勇名を馳せた。このおかげで筒井氏の家臣達は多くの利益を得た。松倉勝信(
かつのぶ)もその恩恵を受けたが最も非情だった。通称右近殿と言われた。嫡男は後の
肥前国島原藩主松倉重政となったのだ。筒井家の家老松倉政秀の次男とされるが、重信
と勝信は従兄弟だった。一族は、島清興(左近)と並んで筒井氏の両翼と目され「右近
左近」と称された。また森好之の森氏も加えて、「筒井の三家老」とも称されている。
本能寺の変の際には主君・筒井順慶へ有名な「洞ヶ峠の日和見」の献策をしたとも伝え
られている。つまり明智光秀が主君であったにも関わらず動くな参戦しないが良いと、
献上したのだ。これにより簡単に明智氏は撃ち討られた。この時明智氏は孤軍であった
とされる。筒井も動かない事は辛かったであろう。しかしこの頃既に武将達は人を殺す
事が商売であり、恩賞や報償がない限り動かなかったし、又秀吉は信長の髑髏杯の酒宴
より、水責めでは、場内の仲間内で人肉を喰らう様を見て、酒を飲みながら喜んでいた
とされる。それほど豊臣秀吉の方が怖がられていたのである。秀吉が九州平定に来た時
は、柳川は瀬高の矢部川添いを八女の方からやって来たとされ。ほとんどが従い小さな
戦乱が少しで、あまり大きな戦さはなかったという。柳川城の開け渡しは佐賀鍋島氏か
らのもので、秀吉は三橋庁舎付近を近づいて蒲船津城に陣を張った。その行軍した道は
大将軍通りと言われる。一方で家康は水田の方から進軍して旧二つ河小学校である水門
付近に陣を張ったが熾烈な戦闘が起こっていた。その道は権現道と呼ばれた。こうして
立花氏領となったが、家康はしたたかに加藤清正と立花宗茂の2人を天下一双として喜
んだ豊臣秀吉と違っていて、この剛者(つわもの)を置いとく事を危険として見ていた
。その後立花宗茂も関が原に出て居ない訳ではない。前述の様にもう一つの関が原の合
戦があったのだが、この時鎌倉さえも静かに迫って来た立花氏に青くなったのだ。

1148: 名無しさんAA:18/03/24 11:24
富安君を探せ              < その127 >

筒井 順慶(つつい じゅんけい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての戦国武将で
ある、大和国の戦国大名・筒井順昭の子として生まれ、母は山田道安の娘・大方殿であ
る。とされる。戦国大名としては少し違っていて、仏法で得度して順慶と称する前は、
室町幕府13代将軍・足利義藤(後の義輝)の偏諱により藤勝(ふじかつ)、藤政(ふ
じまさ)と名乗っていた。当時は、大和は「大和四家」と呼ばれる筒井氏、越智氏、箸
尾氏、十市氏や僧兵を擁した興福寺の勢力が強くて、守護職の存在しない国であった。
だが、信長が勢力を伸ばし永禄2年(1559年)から、三好長慶の寵臣である松永久秀が
侵攻し、永禄5年(1562年)には筒井氏と協力関係にあった十市遠勝が久秀の軍門に下
るなど、筒井氏にとって厳しい情勢に陥り、更に永禄7年(1564年)には叔父の順政は
死去してしまった。翌永禄8年(1565年)に、三好三人衆の一族は、松永久通を使い、
将軍足利義輝の暗殺に成功した(永禄の変)、同しかしその後は松永久秀は追われ三好
三人衆は決裂し、松永久秀は急遽、後ろ盾を無くした筒井順慶の基盤に奇襲を仕掛け、
居城・筒井城を獲った。(筒井城の戦い)。この時、箸尾高春・高田当次郎ら重臣は見
限り離れてしまった。居城を追われた順慶は、布施左京進のいる布施城に逃れ、しばら
く雌伏の時を過ごした。と言われている。後に順慶は布施氏の下で離反した高田城を攻
撃したりして筒井城奪還を試みたが何回も失敗している。しかし織田信長の台頭が著し
くなった頃、三好衆の仲たがいに乗じて奪還を果たした。永禄11年(1568年)に15代
将軍・足利義昭を擁立して上洛、三人衆を駆逐して影響力が畿内一円に及ぶようになる
。機敏な松永久秀は迅速に織田信長・足利義昭と誼を通じたが、対する順慶は久秀の打
倒に専念するあまり、情報に疎かった。しかし幾度かの戦乱の後順慶は明智光秀の斡旋
をもって信長に臣従し、久秀も佐久間信盛を通じて信長に臣従し臣下になった。筒井家
は元々興福寺の衆徒が大名化した家であった。仏教への信仰も厚く大和の寺院を手厚く
保護したとも言われている。順慶も茶湯、謡曲、歌道など文化面に秀でた教養人であり
、自身が僧でもあった関係で光秀とは親密な関係にあった。しかし一向一揆討伐などに
参戦して活躍したが、その後に明智光秀は本能寺の変を起こしてしまう。明智氏は順慶
の加勢を期待して、洞ヶ峠に布陣し順慶の動静を見守ったが、順慶は静観の態度を貫徹
した。洞ヶ峠への布陣は、順慶への牽制、威嚇であったとも解釈されている。その後、
誓紙を書いて羽柴秀吉への恭順を決意し、大和を出立して京都醍醐に向い、羽柴秀吉に
拝謁したものの、この際、秀吉は順慶の遅い参陣を叱責した為 これで病になり臥せた


1149: 名無しさんAA:18/03/24 11:25
富安君を探せ              < その128 >

 光秀死後は秀吉の家臣となり、大和の所領は安堵されたが。天正12年(1584年)頃
から胃痛を訴え床に臥していた。小牧・長久手の戦いに際して出陣を促され、病気をお
して伊勢・美濃へ転戦。この無理がたたったのか、大和に帰還して程なく36歳の若さ
で病死した。筒井家は定次が継いで、その後も各所で転戦し活躍する。だが、筒井家は
順慶亡き後31年目に、定次が豊臣家への内通の疑いにより改易・自害させられ絶家と
なる。この時の家臣団は、古くからの家臣団はいなく離反していた。戦っていたのは、
強くて気まぐれ浪人の寄り合い所帯になっていて、集まって組織していたのは、結構な
非情なあらくれ武者が集まっていた。順慶の重臣だった島清興は順慶の死後、跡を継い
だ定次と上手くいかず筒井家を離れたが、後で石田三成の腹心となり、関ヶ原の戦いに
参加して勇名を馳せた。このおかげで筒井氏の家臣達は多くの利益を得た。松倉勝信(
かつのぶ)もその恩恵を受けたが最も非情だった。通称右近殿と言われた。嫡男は後の
肥前国島原藩主松倉重政となったのだ。筒井家の家老松倉政秀の次男とされるが、重信
と勝信は従兄弟だった。一族は、島清興(左近)と並んで筒井氏の両翼と目され「右近
左近」と称された。また森好之の森氏も加えて、「筒井の三家老」とも称されている。
本能寺の変の際には主君・筒井順慶へ有名な「洞ヶ峠の日和見」の献策をしたとも伝え
られている。つまり明智光秀が主君であったにも関わらず動くな参戦しないが良いと、
献上したのだ。これにより簡単に明智氏は撃ち討られた。この時明智氏は孤軍であった
とされる。筒井も動かない事は辛かったであろう。しかしこの頃既に武将達は人を殺す
事が商売であり、恩賞や報償がない限り動かなかったし、又秀吉は信長の髑髏杯の酒宴
より、水責めでは、場内の仲間内で人肉を喰らう様を見て、酒を飲みながら喜んでいた
とされる。それほど豊臣秀吉の方が怖がられていたのである。秀吉が九州平定に来た時
は、柳川は瀬高の矢部川添いを八女の方からやって来たとされ。ほとんどが従い小さな
戦乱が少しで、あまり大きな戦さはなかったという。柳川城の開け渡しは佐賀鍋島氏か
らのもので、秀吉は三橋庁舎付近を近づいて蒲船津城に陣を張った。その行軍した道は
大将軍通りと言われる。一方で家康は水田の方から進軍して旧二つ河小学校である水門
付近に陣を張ったが熾烈な戦闘が起こっていた。その道は権現道と呼ばれた。こうして
立花氏領となったが、家康はしたたかに加藤清正と立花宗茂の2人を天下一双として喜
んだ豊臣秀吉と違っていて、この剛者(つわもの)を置いとく事を危険として見ていた
。その後立花宗茂も関が原に出て居ない訳ではない。前述の様にもう一つの関が原の合
戦があったのだが、この時鎌倉さえも静かに迫って来た立花氏に青くなったのだ。

1150: 名無しさんAA:18/03/24 11:27
富安君を探せ              < その129 >

 全く同じ様な事が源平合戦前鎌倉幕府成立前に、宮家の中での後継者争いに起こった
 病床の鳥羽法皇は源為義・平清盛ら北面武士10名に祭文(誓約書)を書かせて、美
福門院に差し出させた。為義は忠実の家人であり、清盛の亡父・忠盛は重仁親王の後見
だったが、法皇死後に美福門院に従うかどうかは不透明であり、法皇の存命中に前もっ
て忠誠を誓わせる必要があったからだ。法皇の容態が絶望的になった6月1日、法皇のい
る鳥羽殿を源光保・平盛兼を中心とする有力北面、後白河の里内裏・高松殿を河内源氏
の源義朝・源義康が、それぞれ随兵を率いて警護を始めた。崇徳上皇は臨終の直前に、
見舞いに訪れたが、対面はできなかった。『古事談』によれば、法皇は側近の藤原惟方
に自身の遺体を崇徳に見せないよう言い残したという。崇徳上皇は憤慨して鳥羽田中殿
に引き返した。鳥羽法皇は崩御した。葬儀は酉の刻(午後8時頃)より少数の近臣が執
り行った。だが、鳥羽法皇が崩御して程なく、事態は急変する。7月5日、「上皇左府同
心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という風聞に対応するため、勅命により検
非違使の平基盛(清盛の次男)・平維繁・源義康が召集され、京中の武士の動きを停止
する措置が取られた。翌6日には 頼長の命で京に潜伏していた容疑で、大和源氏の源
親治が基盛に捕らえられた。この事は、にわかに京の町が不穏な空気になった事を示し
た。法皇の初七日の7月8日には、忠実・頼長が荘園からの軍兵を集めることを停止する
後白河天皇の御教書(綸旨)が諸国に下されると同時に、蔵人・高階俊成と源義朝の随
兵が東三条殿に乱入して邸宅を没官するに至ったのである。没官は謀反人に対する財産
没収の刑であり、頼長に謀反の罪がかけられたことを意味する。藤氏長者が謀反人とさ
れるのは前代未聞であり、摂関家の家司である平信範は「子細筆端に尽くし難し」と、
慨嘆している。保元の乱について、少し説明が必要だろう。崇徳上皇がまだ天皇だった
時長きに渡って政治の実権を握っていた崇徳天皇の祖父、白河法皇が亡くなりました。
1129年のことです。ちなみに上皇とは、天皇の座を退くと上皇という位になります
。さらに上皇が出家して、仏教の道に進むと法皇となります。その頃政治は実権は崇徳
天皇の父、鳥羽上皇(とばじょうこう)の手に移り変わります。1141年。鳥羽上皇
は、藤原璋子(ふじわらのしょうし)の子である崇徳天皇に天皇の座を譲らせ、愛して
やまない藤原得子(ふじわらのなりこ)の子である体仁親王(後の近衛天皇)に天皇の
座を譲るよう言い渡す。こうして、崇徳天皇は上皇となり、天皇の座には近衛天皇が座
ることになった。

1151: 名無しさんAA:18/03/24 11:35
富安君を探せ              < その130 >
当時院政は上皇となっても権力を持ち続ける習わしだったが、近衛天皇は崇徳上皇の弟
として扱われて事が進んだ。その為院政ができずに事実上、崇徳上皇の権力は無かった
。その後、近衛天皇は17歳の若さでお亡くなった。次に天皇の座についたのは、崇徳
上皇の子ではなく、弟にあたる後白河天皇でした。自分の子が天皇に付くことが出来て
いれば、将来の院政で権力を振るう事も可能性を残したが、天皇の座に付いたのがまた
しても弟だった為その道は閉ざされた。ただ基本的に合議制で人選のみだったのだろう
し長男で先に天皇をついたのみで崇徳上皇のみではそうなかっただろう。だが今までつ
いて来た近習の友や配下の家臣は、はらわたの煮えくりかえる思いだったことだった。
 そして、ついに1156年です。鳥羽法皇が亡くなると共に、崇徳上皇が動き出した
のが保元の乱だった。崇徳上皇は、皇位を取り戻そうと藤原頼長(ふじわらのよりなが
)と手を組み、頼長も天皇側についていた兄の忠通(ただみち)から関白の座を奪い取
るには絶好のチャンスとなったからだ。源氏、平氏もそれぞれに分かれて激しく争うこ
とになる。こうして、崇徳上皇側 藤原頼長 源為義 平忠正 VS 後白河天皇側 藤原
忠通 源義朝 平清盛 の対立に収斂した。この時、活躍したのが後に名を轟かせるこ
とになる、源義朝(みなもとのよしとも)や平清盛(たいらのきよもり)だった。犬猿
の仲のような2人ですが、この時はまだ仲間同士だった。この保元の乱は、夜襲により
後白河天皇側の勝利となります。崇徳上皇は、長年の恨みを晴らすことなく負けてしま
ったわけだ。そして、この乱により見事活躍して見せた武士達が力を付けていく転機と
なった。元々は崇徳天皇を退位させる時、寵愛する藤原得子(美福門院)との子である
体仁親王(近衛天皇)を即位させたが、体仁崇徳の中宮・藤原聖子の養子であり本来は
「皇太子」の地位のはずだったが、譲位の宣命には「皇太弟」とされて実権の一部にさ
れた事が原因だ。この事で呪詛の嫌疑で待賢門院は出家に追い込まれ、崇徳の外戚であ
る閑院流徳大寺家の勢力は大きく後退し一方で、閑院流三条家や中御門流、村上源氏の
公卿は得子とその従兄弟で鳥羽法皇第一の寵臣の藤原家成に接近し、政界は待賢門院派
と美福門院派に二分された事に問題があった。つまり崇徳天皇の周りは八方塞がりの中
に追い込まれていたのだ。しかし藤原忠実の女・泰子(高陽院)が鳥羽上皇の妃となり
息を吹き返した。関白の藤原忠通は後継者に恵まれなかったため、異母弟の頼長を養子
に迎えたのだ。対抗して近衛天皇は元服の式を挙げると、頼長の養女・多子を入内させ
、女御となった。これに忠通も藤原伊通の女で大叔母にあたる美福門院の養女となって
いた呈子を改めて自身の養女として迎えたうえで、鳥羽法皇に「立后できるのは摂関の
女子に限る」と奏上、呈子の入内を示唆した。

1152: 名無しさんAA:18/03/24 11:35
富安君を探せ              < その131 >

 当の鳥羽法皇はこの問題に深入りすることを避け、多子を皇后、呈子を中宮とする事
などで双方を立て事を収めようとしたが、忠実・頼長と忠通の対立はもはや修復不能な
に入っていた。一連の忠通の所業を腹に据えかねた忠実は、大殿の権限で藤氏長者家伝
の宝物である朱器台盤を摂家正邸の東三条殿もろとも接収し、更に忠通の藤氏長者の席
を剥奪してこれを頼長に与え、忠通を義絶するという挙にでた。それでも鳥羽法皇では
忠通を関白に留任させのが精一杯で、頼長には内覧の宣旨を下した。ここに関白と内覧
が並立する前代未聞の椿事(思いがけない珍事)が出来することになった。こうして、
法皇は心痛に病の床入りして先の事態に陥ったのである。これが新体制の基盤がまだ固
まらなぬままの保元元年(1156年)5月の事だった。鳥羽法皇が病になり法皇の権威を
盾に崇徳・頼長を抑圧していた美福門院・忠通・院近臣にとっては重大な政治的危機で
あった。内覧となった頼長は旧儀復興・綱紀粛正に取り組んでいたが、その苛烈で妥協
を知らない性格により「悪左府」と呼ばれ院近臣との軋轢を生み、火に油を注ぎ、事実
上の失脚状態となっていた。忠実は頼長を謹慎させパイプ役である高陽院を通して法皇
の信頼を取り戻そうとしたが少し前に高陽院が死去したことでその望みを絶たれていた
。その後には鳥羽法皇の死に白河天皇の勅命・綸旨で厳戒令体制が用いられているが、
実際に背後で全てを取り仕切っていたのはこうした側近と推測され、この前後に忠実・
頼長が何らかの行動を起こした形跡はないが、頼長の命で 京に潜伏していた容疑で、
大和源氏の源親治が基盛に捕らえられたこの事は、いき追い又「悪左府」の粛清を呼ぶ
として危機感を煽らせた。こうして武士の動員に成功して圧倒的優位に立った現体制の
後白河・守仁陣営があからさまに挑発を開始したと考えられる。忠実・頼長は追い詰め
られ、もはや兵を挙げて局面を打開する以外に道はなくなった形で兵をあげた。頼長は
宇治から上洛して白河北殿に入り、謀反人の烙印を押され、挙兵の正当性を得るために
崇徳を担ぐ。白河北殿には貴族では崇徳の側近である藤原教長や頼長の母方の縁者であ
る藤原盛憲・経憲の兄弟、武士では平家弘・源為国・源為義・平忠正(清盛の叔父)・
源頼憲などが集結した。崇徳の従者である家弘・為国を除くと、為義と忠正の忠実の家
人達、頼憲が摂関家領多田荘の荘官でいずれも忠実・頼長と主従関係にあった私兵集団
に限定され、崇徳陣営の兵力は甚だ弱小で劣勢は明白だった。だが報を受け、清盛率い
る三百余騎が二条大路を、義朝率いる二百余騎が大炊御門大路を、義康率いる百余騎が
近衛大路を東に向かい、寅の刻(午前4時頃)には上皇方との戦闘の火蓋が切られた。


1153: 名無しさんAA:18/03/24 11:36
富安君を探せ              < その132 >

後白河天皇は神鏡剣璽とともに高松殿の隣にある東三条殿に移り、源頼盛が数百の兵で
周囲を固めた。その後鴨川を挟んで一進一退の攻防に攻めあぐねた天皇方は新手の軍勢
として頼政・重成・信兼を投入するとともに、義朝の献策を入れて白河北殿の西隣にあ
る藤原家成邸に火を放った。火が白河北殿に燃え移って上皇方は総崩れとなり、崇徳上
皇や頼長は御所を脱出して行方をくらました。天皇方は残敵掃討のため法勝寺を捜索す
るとともに、為義の円覚寺の住居を焼き払った。その後13日、逃亡していた崇徳上皇が
仁和寺に出頭し、同母弟の覚性法親王に取り成しを依頼する。しかし覚性が申し出を断
ったため、崇徳は寛遍法務の旧房に移り、源重成の監視下に置かれた。頼長は合戦で首
に矢が刺さる重傷を負いながらも、木津川をさかのぼって南都まで逃げ延びたが、忠実
に対面を拒絶される。やむを得ず母方の叔父である千覚の房に担ぎ込まれたものの、手
のほどこしようもなく、14日に死去した。忠実にすれば乱と無関係であることを主張す
るためには、頼長を見捨てるしかなかった。こうして崇徳の出頭に伴い、藤原教長や、
源為義など上皇方の貴族・武士は続々と投降した。その後の武士に対する処罰は厳しく
、薬子の変を最後に公的には行われていなかった死刑が復活し、28日に忠正が、30日に
為義と家弘が一族もろとも斬首された。死刑の復活には疑問の声も上がったが、法知識
を持った側近の信西の裁断に反論できる者はいなかった。貴族は流罪となり、8月3日に
それぞれの配流先へ下っていった。ただ一人逃亡していた為朝も、近江に潜伏していた
ところを源重貞に捕らえられて、武勇を惜しまれて減刑され、伊豆大島に配流された。
この乱で最大の打撃を蒙ったのは摂関家だった。忠通は関白の地位こそ保持したものの
、その代償はあまりにも大きかった。武士・悪僧の預所改易などで、荘園管理のための
武力組織はほぼ解体され、頼長領の没官や氏長者の宣旨による任命など、所領や人事に
ついても、天皇に決定権を握られることになり、自立性を失った摂関家の勢力は大幅に
後退する。忠通も保元3年(1158年)4月の藤原信頼との騒擾事件では一方的に責めを負
わされ閉門処分となり、同年8月の後白河天皇から守仁親王(二条天皇)への譲位に、
全く関与しないなど制約をうけ、周囲から軽んじられ政治の中枢から外れていった。
この時蟄居謹慎させられた 頼長に同心したが,忠通の計らいで刑を免れ知足院に閉居。この彼こそが知足院殿,富家(ふけ)殿ともいわれた人だった。


1154: 名無しさんAA:18/03/24 11:53
富安君を探せ              < その132 >

後白河天皇は神鏡剣璽とともに高松殿の隣にある東三条殿に移り、源頼盛が数百の兵で
周囲を固めた。その後鴨川を挟んで一進一退の攻防に攻めあぐねた天皇方は新手の軍勢
として頼政・重成・信兼を投入するとともに、義朝の献策を入れて白河北殿の西隣にあ
る藤原家成邸に火を放った。火が白河北殿に燃え移って上皇方は総崩れとなり、崇徳上
皇や頼長は御所を脱出して行方をくらました。天皇方は残敵掃討のため法勝寺を捜索す
るとともに、為義の円覚寺の住居を焼き払った。その後13日、逃亡していた崇徳上皇が
仁和寺に出頭し、同母弟の覚性法親王に取り成しを依頼する。しかし覚性が申し出を断
ったため、崇徳は寛遍法務の旧房に移り、源重成の監視下に置かれた。頼長は合戦で首
に矢が刺さる重傷を負いながらも、木津川をさかのぼって南都まで逃げ延びたが、忠実
に対面を拒絶される。やむを得ず母方の叔父である千覚の房に担ぎ込まれたものの、手
のほどこしようもなく、14日に死去した。忠実にすれば乱と無関係であることを主張す
るためには、頼長を見捨てるしかなかった。こうして崇徳の出頭に伴い、藤原教長や、
源為義など上皇方の貴族・武士は続々と投降した。その後の武士に対する処罰は厳しく
、薬子の変を最後に公的には行われていなかった死刑が復活し、28日に忠正が、30日に
為義と家弘が一族もろとも斬首された。死刑の復活には疑問の声も上がったが、法知識
を持った側近の信西の裁断に反論できる者はいなかった。貴族は流罪となり、8月3日に
それぞれの配流先へ下っていった。ただ一人逃亡していた為朝も、近江に潜伏していた
ところを源重貞に捕らえられて、武勇を惜しまれて減刑され、伊豆大島に配流された。
この乱で最大の打撃を蒙ったのは摂関家だった。忠通は関白の地位こそ保持したものの
、その代償はあまりにも大きかった。武士・悪僧の預所改易などで、荘園管理のための
武力組織はほぼ解体され、頼長領の没官や氏長者の宣旨による任命など、所領や人事に
ついても、天皇に決定権を握られることになり、自立性を失った摂関家の勢力は大幅に
後退する。忠通も保元3年(1158年)4月の藤原信頼との騒擾事件では一方的に責めを負
わされ閉門処分となり、同年8月の後白河天皇から守仁親王(二条天皇)への譲位に、
全く関与しないなど制約をうけ、周囲から軽んじられ政治の中枢から外れていった。こ
の時蟄居謹慎させられた 頼長に同心したが,忠通の計らいで刑を免れ知足院に閉居。
この彼こそが知足院殿,富家(ふけ)殿ともいわれた人だった。


1155: 名無しさんAA:18/03/24 11:53
富安君を探せ              < その133 >

 仁和寺(にんなじ)は光孝天皇の勅願で仁和2年(886年)に建て始められた。だが、
同天皇は寺の完成を見ずに翌年崩御した。遺志を引き継いだ宇多天皇によって、仁和4
年 (888年)に落成したが、本当の名は「西山御願寺」と称された天皇下皇族やその臣
下や縁故の為の寺だった。やがて年号をとって仁和寺と言われそのまま号した。本来は
光孝天皇は「天皇少く(わかく)して聡明、好みて経史を読む。容止閑雅、謙恭和潤、
慈仁寛曠、九族を親愛す。性、風流多く、尤も人事に長ず」と評されているほどの人で
。幼少より太皇太后橘嘉智子の寵愛を受けて、843年(承和10年) 父仁明天皇の御前で
元服して親王となり、四品に叙せられた。以後、中務卿、式部卿、相撲司別当、大宰帥
、常陸太守、上野太守と、親王が就任する慣例となっている官職のほぼすべてを歴任し
、882年(元慶6年)、一品に叙せられ親王の筆頭となった。自分が天皇になった時は、
他の者の皇位を全て下げて成りたいとの願いがあった。又他の臣下にも就学させたい。
との願いと、即位と同時に臣籍降下させらる子孫の皇位を継げない者の声も聴く為の、
祈祷と祈願所としたかったのだ。彼は家系がよく陽成天皇が母方の叔父である藤原基経
によって廃位されたのち55歳で即位している。藤原基経は母方の従兄弟にあたる。諱
は時康(ときやす)といい富家はその一字を貰って安富や富安としたとされる。宇多天
皇は出家後、この仁和寺伽藍の西南に「御室」(おむろ)と呼ばれる僧坊を建てて住ん
だ。その為「御室(仁和寺)御所」の別称がある。その頃まで光孝天皇の意志を継ぎ、
仁和寺の初代の別当は天台宗の幽仙であったという。勝手に宇多天皇の勉強する部屋だ
ったのだ。その後宇多天皇が真言宗の益信を戒師として出家した。それは他の宗派の知
見も見たいとする欲望があったからだ。だがそれを機に別当を同じ真言宗の観賢に交替
させて真言宗の寺院として定着した。その後は宇多天皇の子孫が別当を務めてきたが、
三条天皇の皇子である性信が別当の上に新設された検校に任じられて以降は、皇族達の
子弟が入る寺院とみなされるようになった。しかし本来は教法での人材育成を目的に建
てられたものだ。その教本となったの古記書を持って来たのが富家であった。持って来
たのが、奈良の知足院(ちそくいん)の教庫からのものであったという。知足院(ちそく
いん)は寛平2年(890年)に建立された。とされるが実は後々の再建でもあった。こうし
て仏教は、過去の神道記録を取り込んで、渡来のインド仏教とは異質の物語を創った。
それが日本仏教として成立した。


1156: 名無しさんAA:18/03/24 12:08
富安君を探せ              < その134 >

 知足院(ちそくいん)が、寛平2年(890年)に再建された理由は次の様な伝記がある。
平安末期、南都焼き討ちの平重衡(たいらのしげひら)の軍勢によって焼かれた大仏さ
んの再建で、造寺の長官を勤めた佐大辨の藤原行隆が大任を果たし、無理がたたって亡
くなった後に、嘆き悲しんだ娘が毎日お地蔵さんに祈っていました。すると7日目の朝
、お地蔵さんの手に手紙(文・ふみ)が握られていたので、びっくりした娘が文を取り
上げて見るとそれは紛れもなく父、行隆の字で、兜率天(とそつてん)の観音様の元に
いると書かれていたのその為建立された。と言うものだ。知足院本堂には、その文使い
地蔵が安置されていると言う。現在の本堂は1863年に建てられた再再建のものだ。この
知足院は本堂、鐘楼、庫裡があるだけの極々小さいお寺で、縁起も不詳だとされる。が
場所的に普段からここを訪れる人は少ない中、毎年7月の地蔵会には、東大寺の全山の
僧侶による法要が執行される。本堂は開放されて参拝者は入堂が許され、この日だけは
お地蔵さんファンで境内は溢れる。それでも、ここが法相宗の研究道場であった事は、
あまり知られていない。法相宗は日本仏教の中で、南都六宗の一つとして古来仏教の柱
として存在していた。遣唐使での入唐求法僧侶により数次にわたって伝えられ古典仏教
の中の禅宗である。653年(白雉4年)道昭が入唐留学して玄奘に師事して、帰国後飛鳥
法興寺などでこれを広めたと言う。唯識教学派で書物の記録を大事にしていた。法相宗
は隆盛を極め、多くの学僧が輩出した。ことに興福寺では賢憬、修円、徳一などが傑出
し、修円は同寺内に伝法院を創建、その流れは伝法院門徒と呼ばれた。だが 天台宗の
最澄との間で三一権実諍論で争った為に其の実権を削がれた。しかし山岳密教をも拝す
る天台宗も又共に民心が離れた。又、多くの学僧が輩出した事で山岳修験者は僧となり
普化宗になった。普化宗は禅宗のひとつとしての修行の姿とされる。9世紀に、中国で
臨済義玄と交流のあった普化を始祖とするため、臨済宗(禅宗)の一派ともされている
。普化は神異の僧であって、神仙的な逸事も多く、伝説的要素が強い。虚無宗(こむし
ゅう)とも言い、虚鐸(尺八)を吹きながら旅をする虚無僧で有名だ。虚無僧は「僧」
と称していながら剃髪しない半僧半俗の存在で、尺八を吹き喜捨を請い諸国を行脚修行

1157: 名無しさんAA:18/03/24 12:09
普化宗になった。普化宗は禅宗のひとつとしての修行の姿とされる。9世紀に、中国で
臨済義玄と交流のあった普化を始祖とするため、臨済宗(禅宗)の一派ともされている
。普化は神異の僧であって、神仙的な逸事も多く、伝説的要素が強い。虚無宗(こむし
ゅう)とも言い、虚鐸(尺八)を吹きながら旅をする虚無僧で有名だ。虚無僧は「僧」
と称していながら剃髪しない半僧半俗の存在で、尺八を吹き喜捨を請い諸国を行脚修行
した有髪の僧とされる。こうして尺八を吹く事から吹け衆と言われたとも称される。多
く小袖に袈裟を掛け、深編笠をかぶり刀を帯した。はじめは普通の編笠をかぶり、白衣
を着ていたらしいが、江戸時代に徳川幕府によって以下のように規定された。托鉢の際
には藍色または鼠色の無紋の服に、男帯を前に結び、腰に袋にいれた予備の尺八をつけ
る。首には袋を、背中には袈裟を掛け、頭には「天蓋」と呼ばれる深編笠をかぶる。足
には5枚重ねの草履を履き、手に尺八を持つ。と決められた。これにより、彼らは江戸
時代になっても皇室の裏紋を用いて拝礼御免と修業自由を得てたとして、各地の駆け込
み寺を設けて転々とした。




1158: 名無しさんAA:18/03/24 12:22
富安君を探せ              < その135 >

 法相宗も同じだった。法相宗の宗旨は、唐でできたものだが、印度のからの弥勒菩薩
、無着菩薩、世親菩薩によって大成され、護法菩薩等によって発展した唯識教学とされ
祈願寺としての地位にあった。紀元七世紀の初め、玄奘三蔵が印度での17年間におい
て仏教教義の修得に勤められた事に始まる。その間に唯識教義の研鑚に勤められてその
教義が日本に持ち込まれた。しかし帰朝後は翻訳に全勢力をそそがれ、教義の発揮には
門下第一の逸足といわれた慈恩大師に託されて終わっている。こうして慈恩大師は師よ
り伝授の法統を巧みに整理し法相宗を開創した。平安期には、こうした仏教が強くなり
又一般の天皇家以外の神道禁止や統一と古神道の封鎖などが重なり、朝廷が仏教を利用
した法会を行い治政を行った。此処に行基などの陰陽道の陰陽師はいずれかに帰依する
しかなかった。神道か仏教かを迫られたのである。こうして儒学模した古代の中国で生
まれたとされた自然哲学思想、陰陽五行説を、日本で独自の発展を遂げた呪術や占術の
技術体系で発展して来た道教教義は消えて行った。その後京都に都が遷ると知足院は、
建仁寺の開山・明庵栄西禅師の法脈・黄龍派を受け継ぐ龍山徳見禅師を開山とした、臨
済宗の塔頭寺院として建立されその後別院を建て「両足院」として存立した。黄龍派は
中国臨済宗の一派で五家七宗の一つとされる。黄龍派は宋の景祐3年頃に石霜慈明の弟
子の黄龍慧南によって開かれ、慧南が黄竜山に住んだのでこの名称を得たという。その
後約150年間法統が続いて絶えたが日本では栄西がこの一派の法統を伝えている。江
戸時代初期に来日した隠元隆g(1592〜1673年)を開祖とする萬福寺は、隠元の開いた
京都府宇治市の黄檗山(おうばくさん)として開山した寺だが明朝の動乱から逃れた多
くの中国人、華僑が長崎に渡来して在住した華人が京都に本山を持たず正統派の臨済禅
を伝えるという意味で臨済正宗や臨済禅宗黄檗派を名乗っていた中で出来た物だ。だが
日本の法相宗黄龍派とは違っていたものの混然一体となって発展して行き、禅の世界が
広まっていった。法相宗は海外のサンスクリット古文の通訳が必要だったが、空海出現
以降は密教すらインドから入り、禅宗は政権世界から遠のいた。しかし、幕末まで続く
対馬からの交渉事は以酊菴に輪住する和尚によって行われた。以酊庵とは、長崎の対馬
にあった寺院の名前で、朝鮮との通交の役割をしていたのだ。輪住する和尚は、2年の
任期で、五山の中から碩徳のある代表的和尚が勤めており、外交文書の交信、朝鮮通信
使の応接などが任務であり、この任を果たすことは、一代の栄誉でありました。

1159: 名無しさんAA:18/03/24 13:11
富安君を探せ              < その137 >
 ところが姉川氏は九州下向の少弐氏は藤原秀郷の末裔で、共に末裔であったという。
秀郷の後裔・嶋田二郎景頼が武者所に出仕して近藤武者と称し、景頼の子・頼平も武者
所に出仕し、「武者所の藤原」から武藤を称したが、その縁戚に菊池氏の一部がいた。
、1019年(寛仁3年)の刀伊の入寇に戦功のあった大宰権帥藤原隆家の孫とされる藤原
則隆が肥後国に下向して土着したとして藤原姓(藤原北家)を自称し、各種系図もこれ
に沿った内容となっている姉川氏である。つまり先の刀伊の入寇で対馬に於いて早々に
兵を挙げて博多を救った英雄の貴族の末裔だったのである。この時から菊池に助けても
らい菊池一族の末席を得ていた。対して、その後大宰権帥の座を代々譲って行く様にな
りその仕組みの家系やって後から来たのが武藤氏である。天慶2年 (939年)に平将門
が兵を挙げて関東8か国を征圧する(天慶の乱)と朝廷は討伐遠征を差し向けた。甥の
平貞盛・藤原為憲と連合し宇都宮氏の力を借りて襲撃し成功し、この功により同年3月
、従四位下に叙され、11月に下野守に任じられ武蔵守、鎮守府将軍も兼任するようにな
った。その後将門を討つ大功で、代々が武蔵国に知行を持ち、武蔵国の藤原から武藤氏
を称した。武藤資頼は平知盛に仕えた平家の武将であったが、一ノ谷の戦いの時には、
源氏方に投降し、その後に許されて源頼朝の家人となっていた。平家滅亡後に大宰少弐
に任じられ、平家方であった九州の武家に対する鎌倉方の抑えとして、鎮西奉行を命じ
られて九州にでてきて元寇が起こり、大宰府の責任者として子の少弐経資や少弐景資ら
とともに日本軍の先頭に立ち、九州を守った。つまり、もともと早く九州下向してきた
藤原氏が菊池家の縁戚の姉川氏であり、後から元寇の守りに藤原氏の暴れん坊武藤氏を
朝廷が送り込んでいたのだ。そして少弐を名乗ったのである。少弐資能の死後には、経
資と景資の兄弟間で家督をめぐり争いが起った。北条氏時代は新たに鎮西探題が設置さ
れ危機に至り、鎌倉幕府滅亡後は後醍醐天皇の建武の新政で足利将軍が追撃される。少
弐頼尚は尊氏に付き赤間関に迎えた。その時宮方の肥後国菊池氏は大宰府を襲撃し父の
貞経を滅ぼした。だがその後は天皇の勅命と偽って、頼尚は足利方とともに策略によっ
て多々良浜の戦いを仕掛けて菊池武敏らを破った。これは大友氏との謀略だった。大友
氏も少弐と共に元寇に於いては過分の働きがあっが、しかし報償は無く、依然として、
肥前・肥後・筑後の地頭で守護職は菊池氏であった。菊池氏も同じだった。その時大勢
居着いた関東武者達は加増地を待って居残った。これまでは押さえの効いた三池地方も
こうして大津山氏や小岱氏などと名乗って住み着いてしまい、この頃から不穏のままに
田尻氏は山を下りて大牟田や高田に来た。至って平地であった蒲池氏や大友氏にも大勢
の関東武士を受け入れる事になる。。

1160: 名無しさんAA:18/03/24 13:28
富安君を探せ              < その138 >
 こうして関東武士が住み着いた頃「阿比留文字」が九州にはあった。実は今神代文字
とされる物が7つある。しかし「阿比留文字」は只の朝鮮古語でしかない。九州での、
神代文字とされるのは4つぐらいでその一つは「出雲文字」の系統と「山窟文字」系統
である。山窟文字は山の猟師に伝えられ明治の頃まで八女などで伝えられていた。木々
に道案内する為に刻まれフェニキア文字に見える。出雲文字の方は修験者によって伝え
られていた仏教系の文字であり、いまでも古い祠にはそうした文字だが文様だか解らな
い物が彫られていて、その墓の由緒を記載されているのがある。「阿比留文字」は対馬
阿比留家に伝来して通詞の世界で使われた。所謂筆談である。いまのスマートホンの通
訳の様な形だろう。予想だがそれは新羅もしくは宋によって伝わった最も古い梵字であ
った可能性もある。また主に法隆寺、三輪神社、鹿島神宮に秘蔵され、現在確確認され
ているだけでも13種類の神代書体が存在する。また、出雲大社にも“出雲文字”と呼
ばれる書体がある。藤原不比等や平将門、源頼朝らがアヒル草文字で書かれた奉納文を
伊勢神宮へ献文している。しかし、いずれも戦前までそれらの存在は、写真や写しなど
で確認されていたのにも係わらず、なぜか現在では紛失している。つまり誰かが消した
。伝説では日韓併合時に朝鮮人教育の為に持ち去られて、朝鮮半島で使われ紛失した。
と伝えられる所もある。伊予城下八幡社(愛媛県)に伝承されたとする『秀真伝』 (ホ
ツマツタヱ)の、『フトマニ』(太占) は昔からの甲骨文字に近い形だ。海賊文字とも思
われ南国文字に近い。その後には丹後国の熊野郡鹿野村の旧家に伝わる「神事記」にも
用いられている。また、近江の散所村「三尾神技士」には『秀真伝』が所蔵されている
が、そこで用いられている“秀真文字”と書体は全く同じ物であるが、「秀真伝」を発
見した小笠原家の子孫は、伊予の出身であることから何らかの因果関係があることは否
定できないという。こうした伝承される文書を見る限り 水軍とされた貿易船は各国に
対応した言葉や文字が必要でそれぞれの習慣に合わせた対応が必要だった事が想像され
る。その為に時の王朝の文字や文化や言葉を伝承した水軍だけが生き残る事が出来たの
だろう。三嶋神社伝記によれば、この蒲池氏は結構菊池一族には冷遇されていたようだ
。そこで竜造寺を保護出来ている。竜造寺氏は元々松浦党の分家筋で菊池一族での村上
水軍の十二日足紋を使用している。日本の国旗の基になったとも推測されるが、元々は
日子神宮の神文だったという。菊池家も天皇家から菊の紋を賜るが、平安朝時代に禁止
された。その後は鷹の羽紋とした。鷹紋も又鶴紋の大宰府から譲られたものだ。『北野
天満宮縁起』の絵巻では古くから用いられていた家紋となっている。これらの文様から
の転化である。

1161: 名無しさんAA:18/03/25 22:19
富安君を探せ              < その139 >

鶴紋を使用する公家としては藤原氏真夏流の日野氏が知られていて、一門の広橋・柳原
・烏丸・北小路などの諸家も鶴紋を用いている。日野氏は藤原内麻呂の子の真夏の孫に
あたる家宗が、弘仁13年( 822年)、伝領地である山城国宇治郡日野(京都市伏見区)
に法界寺を建立して薬師如来の小像を祀った。その後代々この薬師如来を信仰し、永承
6年(1051年)、子孫の資業があらためて薬師堂を建立、この寺の別名を日野薬師とも
いった。これがその後資業を始祖とする門流の氏寺となり、家名も「日野」と名乗るよ
うになった。もともと野のつく姓は「紀伊からの人」と言う意味を持つ。この野の出自
は殆どは紀伊の人間だ。この柳川でも二ッ河小学校は戦後に「磯の宮の宮廷」を小学校
にしたものだ。此処は江戸以前は一つの島となっていた。その為島町としてその外周に
内濠と外堀があった。鬼丸はその鬼門であった。大塔の宮家が居住した地であったから
だ。目野氏は中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏で、九州下向についてきた
とされる家臣団である。野田氏は紀伊人の田の人と言う意味を持つ。野口氏もその入口
の人の意味だ大橋氏や川口氏石橋氏或いは新開や新谷はその当時の土木作業に携わった
人々だった。追ってである敵対したのは足利氏は阿志賀氏として残った様に竜造寺氏は
龍氏として残った。高橋氏や木元氏などは昔からいた人だろう。南北朝時代は九州にと
っては最低の時代だった。元寇の防備に指令が出て菊池氏が、少弐氏と大友氏の謀略に
謀られ赤坂警固あたりで暗殺されたからだ。たたら浜の戦いだ。その後もこの英彦山を
中心に結束していた北九州は島津と大友と少弐氏によって蹴散らされのである。あくま
でも宮家を奉じた菊池氏と領土を広げたい大友氏には確執があった。建武の新政で足利
尊氏が追放された時足利氏に兵を付けたのは大友氏と少弐氏であった。その大友の行為
を批判した大神氏は攻められて耳納を追われた。九州は外国に攻められ、その為に朝廷
側は大宰府に多くの人材を派遣しながら面倒は見なかった。その上朝廷が分裂し幕府が
出来ると更に幕府からも九州の守護大名を鎮西府として派遣した。その鎮西長官も又、
幕府がわれるとそれぞれに分かれた。厄介な事にその分かれた大名にそれぞれ水軍がつ
いて行った。大神氏は、この九州の英彦山を束ねた最も古い古処山から来た白蛇伝説の
氏族だ。長い間に各主要な豪族とは縁戚にあり42氏族と12分家を持つ中で現代では
九州旧称である地名に即したものは、ほとんどがこの大神氏の関わる物と言える

1162: 名無しさんAA:18/03/25 22:21
大神氏の庶家とする氏族に、阿南氏(豊後小原氏、大津留氏、武宮氏、豊後橋爪氏)、
臼杵氏(戸次氏(賀来氏)、佐伯氏(御手洗氏)、緒方氏)、大野氏、稙田氏(田尻氏
)、光吉氏、幸弘氏、吉籐氏、十時氏、三田井氏、朽網氏、由布(油布)氏、高知尾氏
、野尻氏、三重氏、野津原氏、高千穂氏、堅田氏、高野氏、松尾氏、吉藤氏、行弘氏、
太田氏、板井氏、釘宮氏、上野氏、早稲田氏 問注所氏などが解っている。立花氏も、
血統は違うが、家系や家門を残して生き残った氏族である。南北朝時代に、大友貞宗の
子の大友貞載が筑前国糟屋郡立花城に拠り立花を称したことより始まる。以来大友氏の
重臣として重きをなしたが、立花鑑載のとき大友義鎮(宗麟)に背いたため、同じく大
友氏支流の戸次鑑連(立花道雪)により攻め滅ぼされ、鑑載の子・立花親善の代で断絶
した。高良山は古く、高牟礼山(鷹群山、たかむれ)と呼ばれ、高良山の本来の祭神は
「高木神(高御産巣日神、高皇産霊神)」であったとされる。高木神の信仰は出雲大社
と同じに秦氏や新羅族の由来して「鷹」の神祇と呼ばれるものがある。鷹とは高木神の
「たか」に由来し、高上ゆえに天空高く在って疎薄、そして猛禽ともされた神の異名。
鷹巣や鷹取、鷹群など「鷹」地名を散在させる神祇が九州北半域に広がっている。この
鷹の羽紋にしたのが、菊の紋を禁止された菊池家だった。菊池氏は此処に祈る事を行事
とし 高牟礼の阿礼とされる年一回の行事であった。この習慣は古代バビロンの火祭り
の行事に近い。遊牧民が北の牧草地の後冬場に帰ってくるのだが、この時バビロニア王
はその税として払われる牛や金銀財宝に対して歌や踊りの饗宴でもてなした事に由来し
ている。だがこうした鷹神に祈る火祭り行事も、大友氏が全盛のころ大神氏が菊池氏を
もてなしたという、突然の言いがかりで高良大社から退去する事にいたる。古来は宇佐
氏もこの大神一族の分家であった。しかし神仏分離や天皇や朝廷の結びつきで、道鏡が
宇佐に代えた事から、英彦山の座主の地位にとどまり宇佐氏とは仲が悪くなっている中
で大友氏が居着いていたのである。大友氏は更に大内氏にも陶と毛利を仲違いさせたし
 菊池氏にも阿蘇氏と仲違いさせて大きくなって行った。竜造寺氏と鍋島氏の仲違いで
竜造寺氏に行く場が無い時、蒲池氏は、そうした大友氏を知っていた中で「武士は相見
互い」として竜造寺氏を過分に援助した。それが気に入らない大友氏は大神氏を高牟礼
山から追放した。高牟礼の阿礼の乱と言われる乱である。大神氏は神職として大友氏に
も菊池氏にも拝謁を許していた。だが南蛮船の到来で大神氏に節句寺で菊池氏から奉加
を受けて祝詞を上げたとして大群で取り囲み惨殺した。その後市内の神社仏閣には寄贈
を失くしこうして家臣団にキリシタンになる事を強要したのである。この時立花鑑載の
立花氏は祇園紋に替えた。だが立花氏の正当な子孫も、その後高橋紹運との戦いから絶
子となった。

1163: 名無しさんAA:18/03/25 22:22
富安君を探せ              < その141 >

 見方を変えれば、このキリスト教と言うのは、常に戦乱を引き起こした宗教で、この
戦国の開幕も、あるいは元寇や刀伊の入寇も、日本が開国を迫られた事例であろう。も
っと古い「白水の江の戦い」も全く同じであったに見える。近代戦争でも古代戦争でも
イデオロギーや宗教対立或いは家督争いとされるが、それはきっかけに過ぎない。基本
は庶民の不満と王の慢性的な治世不足である。いわば飢饉や飢餓の国情とそれに接した
国の傲慢さである。その為隣国は常に日本に開国を迫り蹂躙しようとしてきた。江戸の
幕府の鎖国政策も学校は強い政策の様に見えるが 実態は外国船うち払い令はずっーと
後であり、大型船の製造禁止も作っていた頃は早々と幕府の頃は天正使節団や慶長使節
を送って後の話である。開国は黒船来航と騒がれるが、歴史的には大きな転換点だが、
古来より朝鮮や刀伊或いは元などの攻撃に即した対抗戦力は海外から持ち込まれ作って
来ていたのである。ただ一歩遅れていた。白水の江では、馬がなく、刀伊の戦いに早船
を持たず、元寇では火薬を持たなかった。黒船も大砲は持っていたが雲泥の破壊力だっ
た。日米開戦も全く同じに石油確保した経済を、車や飛行機を持ちながら日本は持って
なかったのである。この致命傷の根源は日本人がきっちりした性格だからだろう。中途
半端で完成させない社会的性格がある。他国では人生も国家も経済も走りながら変化さ
せ完成させる。兵器も何もかもそれを許容している。しかし日本人はそれを許さない。
人を平和にしない幸せにしない満足を与えない技術に技術の資格はない。と思っている
のである。従ってあいさつやラジオ体操と新技術の例えばAIやEVなどとは同価値し
かない。と思っているのである。その視点や思考が江戸になって銃や大砲から又刀の世
界に戻ったのである。高橋 高種(たかはし たかたね)は、戦国時代の武将で筑後国出
身で大蔵姓高橋氏の当主であったが、のちに伊豆国に赴き、伊勢宗瑞(北条早雲)に従
った。筑後大蔵高橋氏の当主となったが、継母の讒言により父の不興を蒙り、その座を
捨てて、文明16年(1484年)母方の縁者畠山氏を頼り逐電した。その年、京都に上って
室町将軍足利義尚に仕えて盛り返していたが。文亀元年(1501年)に伊豆下田に城を築
くなど海岸の防備を強固にし、活躍した。この時には、高橋左近将監高種と改名した。
しかし中年より足病を発し、常に籠居していた。このため、永正12年(1515年)8月3日
に死去し没した。46歳。家督は長男の北条綱高(高橋種政)が北条氏綱の猶子となり、
別家を興したため、次男高橋氏高が継いだ。1500年は古いように思われがちだが、
世界的にはユグノー戦争が起こり、ドイツの30年戦争、イギリスの革命戦争、航海法
など今の第一次世界大戦の素になるものが蠢(うごめ)いている時代だ。

1164: 名無しさんAA:18/03/25 22:22
富安君を探せ              < その142 >

1567年、筑前の守護を任されていた大友家臣・高橋鑑種が、毛利元就の調略により豊前
・筑前・肥前ら国人と謀反を起こしたときは、父・吉弘鑑理や兄・吉弘鎮信と共に武功
を挙げている。なお、正室は斎藤鎮実の妹(もしくは娘)の宋雲院で、1567年に長男・
高橋統虎(立花宗茂)、1572年に次男・高橋統増(立花直次)が生れている。この斎藤鎮実
の妹は婚約中に疱瘡を罹い、容貌が悪くなったため、斎藤鎮実は遠慮して破談を申し出
たと言う。しかし、高橋紹運は容姿に惚れて婚約を決めたのではない、内面に惹かれて
婚約を決めたのだから、容姿が変わろうとも問題はない。と、そのまま正妻として迎え
、2男4女を儲けた。1569年、立花城の戦いのあと、毛利勢が九州から撤退すると、後
ろ盾を失った高橋鑑種が大友家に降伏する。大友宗麟は高橋鑑種による高橋家の名跡を
剥奪し、代わりに高橋紹運(22歳)に継ぐよう命じ、岩屋城と宝満城の城主となり、この
時、高橋鎮種と名を改めた。前述の通り、高橋家も九州からでた関東武士で、大友氏と
共に下向して来た家臣と言う事になる。しかしその忠節は高く猛者であった。1578年、
耳川の戦いで大友宗麟が薩摩・島津義久に大敗を喫した際には、兄・吉弘鎮信、妻兄の
斎藤鎮実、大友家重臣の角隈石宗、佐伯惟教、田北鎮周など多数の有力武将が討死。肥
前の龍造寺隆信や筑後の筑紫広門、筑前の秋月種実らの侵攻に対して立花道雪と奮闘し
守った。また、この年に剃髮して高橋紹運(31歳)と号している。男子のいなかった立花
道雪より再三に渡り、嫡男・高橋統虎を養子に出して欲しいとの要請があり、1581年、
子の高橋統虎を立花道雪の娘・立花ァ千代の婿養子とした。これにより高橋家は次男・
高橋統増が嫡子とされる。1584年、沖田畷の戦いで龍造寺隆信が討死すると、島津勢の
圧迫が強まったが、大友義統からの出兵要請を受け高橋紹運と立花道雪は、高牟礼城将
・椿原氏部を調略し、犬尾城主・川崎重高を撃破し、猫尾城を陥落させた。1585年には
、肥前・筑前・筑後・豊前の連合軍である龍造寺政家、龍造寺家晴、鍋島直茂、後藤家
信、筑紫広門、波多親、草野鎮永、草野鎮永、星野吉実、秋月種実、問註所鑑景、城井
鎮房、長野種信など 約30000を相手に、又、立花道雪と高橋紹運、朽網鑑康、志賀親守
ら9800は、筒川の戦いや久留米の戦いにて善戦し敵軍を退けた。 1585年9月、立花道雪
が陣中で病没するのを高橋紹運が見送ると、これを好機と見た筑紫広門が留守にしてい
た宝満城を奪取したため、高橋紹運ら大友勢は筑後遠征を中止して宝満城を奪還。のち
に筑紫広門と和睦すると、筑紫広門の娘・加袮(17歳)を次男・高橋統増(15歳)の正室に
迎え、筑紫家の持ち城となっていた宝満城は両家の城という事になった。

1165: 名無しさんAA:18/03/25 22:23
富安君を探せ              < その143 >

 九州制覇を目指す薩摩の島津義久は、島津忠長・伊集院忠棟を大将にした20万騎を
筑後 筑前に繰り出した。1586年7月、岩屋城・宝満山城のある麓の 太宰府に薩摩勢が
陣を敷くと、高橋紹運は763名にて岩屋城に籠城。立花家の家臣・吉田連正が約20
騎が援軍として駆けつけている。なお、宝満城には、高橋紹運の妻と、次男・高橋統増
や、岩屋城から避難した女・子供がを入れている。1586年7月12日に 島津忠長は降伏勧
告促した、高橋紹運(39歳)はこれを拒絶しては岩屋城の戦いとなった。しかし島津忠長
は、高橋紹運の器量を惜しみ3回も降伏勧告を行った。この時恐らく既に秀吉の九州攻
めの情報は双方共にもっていたと思われる。だが高橋は「主家が盛んなる時は忠誠を誓
い、主家が衰えたときは裏切る。そのような輩が多いが私は大恩を忘れ鞍替えすること
は出来ぬ。恩を忘れることは鳥獣以下である。」として断ったとされ、味方だけでなく
敵からも賞賛を受けたと言う。また、立花宗茂や黒田孝高(黒田官兵衛)からも、岩屋城
では防御が弱く、撤退するように。と促されたが、いずれも使者を丁重にもてなして断
っている。このように高橋紹運は大友家を裏切ることなく、徹底抗戦の意志を示した為
、戦いは約2週間に及び、最後には島津忠長が自ら指揮して総攻撃するまでに至ってい
る。衆寡敵せず、家臣らは次々に倒れ、ついに高橋紹運が指揮する詰の丸だけになった
ところで、1586年7月27日高橋紹運は高櫓に登って壮絶な割腹をして果てたと言う伝説が
残る。享年39。援軍の吉田連正も討死するなど、高橋勢で生き残った者はいなかったと
される。島津忠長と諸将は、般若台にて高橋紹運の首実検を行った際「我々は類まれな
る名将を殺してしまったものだ。紹運と友であったならば最良の友となれたろうに。」
と床几から地面に正座して、涙を流したと伝わっている。なお、大軍であった島津勢も
この岩屋城の戦いで、死傷者3000とも言う疲弊となった為、態勢を立て直すのに時間を
要し、立花宗茂が籠もる立花山城への攻撃も鈍る。そうこうしている間に、豊臣勢20万
が九州に上陸したため、島津勢は薩摩への撤退を余儀なくされた。こうして宝満山城を
守っていた次男・高橋統増(高橋直次、立花直次)は、家臣らの説得もあり、立花城への
退去の許しを得て島津勢の降伏勧告を受けた。しかし、島津勢は高橋統増(高橋直次)と
正室・筑紫広門の娘である加袮(養福院)が、8月6日に城を出た所を捕縛。天拝山の麓に
ある武蔵村・帆足弾正の屋敷に軟禁した。1586年9月から,九州に入った豊臣秀吉の九州
攻め(九州征伐)によって立花直次と加袮は解放される。この時有富茂安が助けたとされ
ている。

1166: 名無しさんAA:18/03/25 22:24
富安君を探せ              < その144 >

「これまでの苦労は大変だったであろう。父紹運殿が秀吉の為、島津の大軍を引き受け
て比類の無い戦をし討死された事は、忠功、感賞に堪えない。此の度、筑後国・三池郡
を与えるにあたり、今後とも統虎殿(立花宗茂)と申し合わせ忠勤に励んで貰いたい。
」が秀吉公の言葉だった。豊臣秀吉は父の軍功と兄の活躍を賞賛し、1587年、高橋統増
(高橋直次、立花直次)を筑後・三池郡18000石の江浦城主に取り立てた。そして、三池
に入った高橋統増(高橋直次、立花直次)は、戦死した父・高橋紹運と岩屋城で討死した
家臣の霊を慰める為、紹運寺を建立し、三池氏を従えた。また、柳生宗矩の門弟となり
「新陰治源流」を開祖した他、兄・立花宗茂の与力として活躍する。父と共に死ななか
った事を後悔していたようで、兄を深く尊敬し、戦場では率先して戦った言う。1600年
、関ヶ原の戦いの中では兄・立花宗茂と共に石田三成の西軍に与して、伏見城の戦い、
大津城の戦いなどに出陣した。そのため、立花直次も改易・領地没収となり、最初には
、八代にて寓居したあと、京都の北山に移り住んむなど浪人して、宗卜と号した。その
後、兄・立花宗茂と同様に徳川秀忠に召し抱えられて、1613年1月28日には 徳川家康と
の拝謁を許されている。1614年10月9日 に常陸・筑波郡内の柿岡に5000石を与えられて
徳川氏旗本大名となり、本多正信の勧めを受けて家号を高橋より「立花」に改めた。16
14年11月からの大坂の冬の陣でも出陣すると、徳川秀忠の危機を救う戦功を挙げている
。1617年7月19日に江戸・下谷邸にて死去すると 下谷・広徳寺に葬られた。享年46。
法名は大通院殿玉峯道白大居士。子の立花種次は、1621年に加増されて筑後・三池郡に
移封され三池藩1万石の大名になっている。4男・立花忠茂が兄・立花宗茂の養子にな
って、柳河藩(柳川藩)の第2代藩主になった。三池藩主・立花種周の孫が、一宮藩での
最後の藩主・加納久宜で、その末娘・加納夏子は、麻生グループ創業者の炭鉱王・麻生
太吉の子・麻生太郎(先代)の妻になっている。二人の間の長男・麻生太賀吉と、吉田
和子(吉田茂の3娘)の間に生まれた息子が、内閣総理大臣も務めた麻生太郎と言う事
になる。その麻生氏が頭が上がらなかったの炭鉱資金を貸し付けてた西牟田氏であった

1167: 名無しさんAA:18/03/25 22:27
 西牟田氏の自出はかなり古く 天孫降臨時代の薩摩に始まる。実は緒方氏と同じに、
祖母山系のどこかの山の領主であったが、大神氏の配下となって 新羅王を宮崎に置い
た頃から菊池一族の配下に大神氏や大阿蘇氏と同じに連なっている。本来は牟田氏だっ
たが大牟田に牟田氏がいたための大川近郊では西牟田氏と名乗った。この事から八女を
中心とした呼び名であった事がうかがえる。かつて平安期にはいると陰陽道の祁答院の
当主として祈りをささげる役で水田水天宮の月読姫神社を管理していた。この事から、
水田の管理母体であったとも言える。基本的に牟田とは水田の緑の美しい様を言う言葉
と言われる。三島神社縁起によると、豆州三島より三瀦郡西牟田村にこの神社を移して
きた。とされる。この事から豆州三島(伊豆の三島神社)が本宮社といえる。更に寄進
した宇都宮氏の一族が(地頭として)赴任し、村の名前を取って「西牟田氏」を名乗っ
たとされていることから古くから西牟田氏が在住していて縁故になったと思われる。こ
の時縁を結んだの富安氏である。「豆州志稿」は享保八年(1723)に秋山惣右ェ門の長
男として生まれました富南が編者となって作られたものだ。三嶋神社の主祭神は伊豆諸
島の開拓神である。社名の「三嶋」とは伊豆大島・三宅島等から成る伊豆諸島を指すと
言われ、その開拓神の姿は筑紫宗像神に似ている。この時の仲介した理由は同じ関東の
下向武家だったからだ。こうして近在の秦氏の氏子は鷹尾神社の田尻氏から蒲池氏の下
に入った。それは同じ菊池氏一族に列席したからだ。こうして柳川大火に駆けつけた緒
方(大潟)氏も宅間(大宅間)氏も一緒となって刀伊軍との戦いに参戦したのである。
薩摩にも島津義久の弟・島津金吾歳久を祖とする日置島津家の家臣に西牟田氏があるが
、これは現在の鹿児島県薩摩川内市の西牟田付近に勢力を持った別系統の氏族である。
とされるがそこも同じで菊池氏の配下として下った者と推定できる。すなわち刀伊海賊
を追いかけて居ついた可能性も強い。鹿児島西牟田城は久富川の左岸、祁答院ゴルフ場
の北東の丘陵に築かれている。主郭のすぐ近くまでゴルフ場となっているが、主郭から
北東側一帯の城跡は良く残っている。佐賀西牟田家の家系図によると筑後の西牟田氏は
、天児屋根命から21世の中臣鎌足、それから15代を経た権中納言藤原家房の子であ
る讃岐守家直を始祖としている。4代家綱以降の当主は、代々「彌次郎」を名乗った。
また、実名には「家」、僧名には「西」の字を共通して用いている。西牟田彌次郎家綱
を仁治2年(1241年)「三瀦荘領家下文」には「西牟田村名主行西」と書かれ、行西は
、鎌倉幕府の命を受けて西牟田村の地頭として赴任したのではなく、もともと三潴郡に
土着していた武士が西牟田村の「本名主」として所領を安堵され、鎌倉幕府の成立に伴
って地頭(小地頭)に任命されたと指摘している。

1168: 名無しさんAA:18/03/25 22:29
富安君を探せ              < その146 >

 しかしその三代も前の讃岐守家直も下向しており、筑後国への下向を鎌倉幕府の成立
前としても不思議ではない。ともかくこうして西牟田氏はこの頃は既に地元に定着して
地頭となっていたのである。しかし、この西牟田氏の立場は非常にあいまいな立場で、
あった。初代家直の時の筑後国西牟田之邑へ下向し築城に際しては筑後27騎の一つと
なっていながら室町時代の西牟田氏は、豊後国大友氏傘下のいわゆる「筑後十五城」の
城主の一人でもあった(江戸時代より前は、領主のことを「藩主」とは言わず「城主」
と表現した)しかし筑後の国人領主に対する大友氏の支配は、苛斂誅求を極めた。大友
氏は、領国中どこで戦いが始まっても彼らに出兵を命じ、筑前国、肥前国、肥後国はお
ろか豊前国や日向国の奥地までも従軍させ、南征北伐に駆り立てている。また、任官、
叙位、家督相続、城の移転、改造等についてすべて大友家の裁可を得なければならない
だけでなく、大友家発行の証札なしには他国はもちろん自国内ですら自由に通行ができ
なかった。と言う。その為、西牟田氏は、斯かる大友氏の支配に対し、しばしば叛旗を
翻している。天文3年(1534年)9月には、西牟田播磨守親毎・親氏父子が他の筑後国
衆とともに大友氏に背き、その大軍と戦って討死している。また、天文19年(1550年)
にも、西牟田鎮豊が反大友の軍事行動を起こし、鎮圧されている。それは蒲池氏も又同
じだった。天正6年(1578年)、肥前を平定した佐賀の龍造寺氏が筑後へ進出してくる
と、西牟田鎮豊は大友氏の傘下を離れて、龍造寺方に参陣したが、大友氏からはさらに
激しい攻勢に晒されるようになった。こうして天正7年(1579年)、西牟田鎮豊は新た
に堅固な本拠地として生津城を築き、そこに移ったし、蒲池氏も新たな柳川城に移転を
した。その双方が富安氏が家老であった。しかし耳川合戦の後は佐嘉の龍造寺氏に従い
、生津城を築いて移ったが、その後、大友氏によって攻められ西牟田家周は城島城へ落
ち延びたという。宇都宮系図(宇都宮氏は藤原氏裔)では「壹岐守義久ー久種(酒見弾
正左衛門、西牟田)また久種の兄家久(犬塚刑部太夫)ー家虎(山城守)ー家種(兵部
少輔、西牟田)とあるを以て、西牟田氏を宇都宮氏庶流と言う。これは壱岐守義久がい
る事から筑後領主附に、西牟田氏は「少貮末」とあり、また別の「蒲池末」とあるを以
て、西牟田氏を少貮氏や蒲池氏(いずれも藤原氏後裔を称す)と同族であったとする説
も、うなずけるものである。又上妻氏の系図にも吉田三郎家基と西牟田系図の吉田三郎
家實を同一人物とし、西牟田氏、上妻氏、吉田氏(いずれも藤原氏後裔と称す)を一族
と考える説がある。上妻氏は本郷上妻氏の流れで溝口氏や吉田家はその子族と言う。い
ずれも大神氏のながれで日足紋をもった日子族である。

1169: 名無しさんAA:18/03/25 22:30
富安君を探せ              < その147 >

その後に諸藤氏に白羽の矢がたった。勿論久留米藩との協議に於いて出てきたものだっ
た。諸藤氏は諸富の藤丸氏のから来ている。諸富も酒の「もろみ」からなる。かつては
矢加部に橋本神宮伝説があった。町で盗賊した後地蔵の前で信心して決して話さない。
と言う事を約束し地蔵様に誓った。この諸富の地の酒造家となり出世していた。毎年の
ある日に同じ様にお参りして帰っていったがその折弘法大師に出会って、つい30年前
のその話をして捕まったと言う話である。それが「縁の木」で今のハリウッド美容室の
前にあったのだ。そこから大川に渡し船がでていた。大川では布教を終えた後に「笹葉
が姿を変えたえつ」の伝説がある。この時の捕まった店を持った実業者こそ佐賀の造り
酒屋だったと言われる。橋本氏は非常に分布は広く日本各地にいる。橋本の由来は神聖
なる橋のたもとという意で、橋本=橋元=橋下といずれも同じ意味だ。全国各地の橋本
という地名は街道の宿場など交通の要衝であることが多い。その中に和泉国日根郡橋本
(大阪府貝塚市橋本)を発祥とする橋本氏に、橘氏を出自とする和田氏族と楠氏族がい
る。橋本さんのルーツをたどるものとしては、地名に残された橋本交差点ぐらいだが、
交差点の西300mほどの所にある丸山古墳は、古墳時代前期後半(4世紀後半)の築造と
される前方後円墳(国の史跡)。古墳の南側に位置する貝塚市立南小学校の敷地内から
は古墳時代中期5世紀の埋没古墳6基が発見され、丸山古墳を中心とした古墳群の存在
が判明している。このエリアが古くから拓けた地であることがよくわかる。さらに丸山
古墳は天正13年(1585年)の羽柴秀吉(豊臣秀吉)の紀州攻めの際に、秀吉自らがこの
古墳に本陣を置き、橋本の積善寺城を攻めたという伝承も残されている。ここが自出と
して有力である。又この一族はその昔、尾張国の国府があったのが尾張国中島郡(愛知
県稲沢市片原一色)に橋本氏代々の居城であった片原一色城を構えていた。神明社境内
一帯に築かれていたという片原一色城は、応永年間に橋本宣都寺が築城。戦国時代織田
信長に仕えた橋本一把(いっぱ)は、信長の鉄砲師範を務めたという。さらに、一把の
子・橋本道一(みちかず)は、豊臣秀吉に仕え、朝鮮の役では鉄砲頭も務めて、九州に
やって来た。その後片原一色城は慶長20年、一国一城令により廃城となっている。由
布惟信の勧めで、小野 鎮幸(おの しげゆき)は、立花氏に加わった。戦国時代の武将
として立花氏に加わったが、加藤氏の家臣だった。日本槍柱七本・立花四天王の一人に
数えられる。立花和泉守と名乗り、小野 和泉(おの いずみ)とも呼ばれていた。この
和泉の守の名の意味は、この地の守護名代であった事を示すものだった。

1170: 名無しさんAA:18/03/25 22:34
富安君を探せ              < その148 >
勧めた、由布 惟信(ゆふ これのぶ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将と
して名を馳せた立花氏の家老で立花四天王筆頭とされる、道雪七家老の第五座で、立花
氏時代の棚倉藩重臣。由布惟巍の子で、元々は大友氏の家臣で豊後国速見郡湯布院城主
であった。立花道雪に付き従う際に弟・碁晨に家督を譲り、残りの人生を立花氏のため
に尽くす。「天資英邁にして剛毅也」と伝わる、立花道雪の重臣として六十五回の合戦
に参加し六十五ヶ所の傷を受け一番槍、一番乗り、一番首は数知れず、感状は七十通ほ
ど賜るなど武勇を誇った。家中のに小野鎮幸と共に、立花道雪が孫子兵法の「奇正相生
」を引用しての奇と正の両翼として立花双翼と称揚され、惟信は正の将を任じた人だ。
その後高問橋門頭の家系として、唯一の城の登城する者を監査した。下に平井氏沖氏を
従えていた。一方西牟田氏や蒲池氏の家老としていた富安氏は、城島に落ち延びた後に
一部は造り酒屋を営んでいる。富安酒造本家は現代に残る一番に古い城島清酒会社と言
われている。その名が富安酒造本家である理由は各地にその技法をもって伝えられたか
らだ。つまり富安酒造が幾つも出来たのである。こちらは創業が1745年と伝えられてい
る。日田が天領になった時その清水を求めた後日田にも富安酒造ができた。この日田市
豆田は、江戸時代は九州エリアで幕府直轄地「天領」として栄えた町だが、九州北部の
交通の要所であり、江戸時代は九州のなかでも中心的機能を持っていた。更に西洋医学
の草分け的存在で特に北島眼類医としてはかなりに名が売れていたという。当時の日田
の経済を支えていたのは、大名に資金の貸し付けを行う「日田御金」。幕府から流れて
くる豊富な資金を活かして、金融の貸し借りで栄えていたらしい。江戸時代の九州の中
の中心的金融街的な存在に至っていた。それは、金山があったからだ。今はその文化的
景観は残して、小京都とも言われる観光地だ。江戸時代の面影の残る町の一角に「薫長
酒造」という酒造会社はある。天領日田のこの酒造も同じ冨安酒造がやっている。営み
自体は江戸時代後期から行われていて、門構えは大正のつくりのままで、実はこの薫長
酒造も代々冨安がやっている。昭和からで江戸時代は他に任せたが 又回収している。
富安酒造本家は富の寿を作っていた。目の酒造も又、同じ様に国の寿を作っていたが、
この酒造ののれん分けでもあったという。株式会社花の露はその経過を語っている。戦
国末期に西牟田氏の家老として城島に来た冨安氏族は、戦国が終わって久留米藩(有馬
藩)の時代に入ると、領主に上手に取り入りながら地域の庄屋としてこの地域の下見役
となった。金融業、庄屋の仕事、瓦を焼いて地域産業振興を図ったが。その中の事業の
一つに、当時事業として回りが良かった酒造業も行っていた、というのが酒蔵誕生の経
緯であった。

1171: 名無しさんAA:18/03/25 22:36

富安君を探せ              < その149 >

この花の露酒造も富安氏が代々酒蔵を継いでいる。佐賀の伊万里市にも造り酒屋として
松浦一酒造(まつうらいちしゅぞう)がある。創業は1716年。創業300年を迎える老
舗の造り酒屋です。ここは代々田尻氏が受け継いでいる。


1172: 名無しさんAA:18/03/25 22:37
 田尻氏の松浦酒造のホームページには、ミステリーツアー客へのの呼び込みがある。
「我が家には、伝説の動物とされるカッパのミイラが現存しています。そのミイラの姿
は、体調約70cm、頭がい骨が皿のようにくぼみ、背中は一見甲羅のように16個の背骨が
突出し、足が前後で4本、特に前足は指が5本に対し、後足には指が3本、そして指と
指の間には水かきがついています。見れば見るほど不思議な面相をしていて、昔から描
かれているカッパの絵によく似通った特徴が数多く見受けられます。さて、我が家にど
うしてこのような不思議なカッパがあるかと由来をたどってみますと、田尻家は私で17
代にあたりますが、昔から当家には何か珍しいものがあるらしいという言い伝えがあり
まして、それが何でどういうものかは皆目わからぬままに何代も過ぎて参りました。と
ころが、ちょうど昭和28年に母屋の屋根の葺き替え工事中に、大工の棟梁が「梁の上
にこんなものが…」と持ってきたのがボロボロの紐でくくった黒い箱。蓋をとると中か
らなんとも奇妙な動物のミイラが出てきました。最初は一同ビックリ仰天。更に黒い箱
を調べてみると、箱には「河伯」と 墨書きの二文字が書かれてあります。ものの本に
よればこれが本当のカッパという文字だということで、カッパであることが判明しまし
た。では何故、この田尻家にカッパがあるのでしょうか。話はさかのぼりますが、戦国
時代の田尻家は、筑後の国・田尻村の豪族で、当時、筑後のオオカミと呼ばれるほどの
勇力を持ち、肥前の竜造寺、豊後の大友氏との間に幾度かの戦いを繰り返しながら、今
から430年前に鍋島直茂公によって、肥前国下松浦郡山代村(現・伊万里市山代町)
に所領1650町歩を与えられ、定住の地とした訳です。ところで、この筑後の国田尻
村には飯江川という大きな川が流れ、この河には筑後川とともにカッパの伝説が数多く
存在します。その田尻村から山代村に移住するときに、このカッパのミイラを持って来
たのではないかと推測しています。山代村に移住した田尻家は、正徳6年(1716年)よ
り酒造りを営んで来ました。お酒には何と言っても、良いお米と綺麗な水がないと、お
いしいお酒は出来ません。当時は、井戸を掘ってきれいな水を掘り当てる以外に方法が
なかったと思いますが、カッパはきれいな水にしか生息せず、水の守り神として崇めら
れていたので、多分、きれいな井戸水を掘り当てる願いをかけて「水のお守り神」とし
て大切に保存されていたのではないかと思います。現在、田尻家は観光酒蔵として、こ
の水神カッパのミイラのほか古い酒造道具や農機具・民族資料など、二百点あまりを、
展示して一般の方々に無料でご覧頂いています。------と言うものだ。


1173: 名無しさんAA:18/03/25 22:37
富安君を探せ              < その149 >

 我が家の言い伝えでは、この田尻氏と目野酒造と富安家は縁戚になると言われていた
。どこでどうつながっているのかは不明だが、少なくとも蒲池氏の門下の武将だった。
と言うのは確かな様だ。筑後市西牟田の西牟田小学校の南側にある寛元寺は、初代西牟
田家綱が寛元元年(1243年)に建立した寺院で、西牟田氏の菩提寺となり、境内の片隅に
は永正9年(1512年)に造立された西牟田家綱夫妻の供養塔が残っている。富安家の供養
塔も吉開地区にあったのだが、なぜか突然壊されている。明治期には富安合名代表社員
として富安忠四郎がいる。大阪高工醸造科卒業した福岡県醸造試験所社長である。明治
15年、福岡士族・富安猪三郎二男の富安忠四郎で養子前名を、重尾を改むとあるから
子がいなかったのか婿入りしたかであろう。デパート旭屋取締役、富安合名代表社員と
している目野酒造は同じ様に大阪高工醸造科を卒業し1890年(明治23年)初代目野忠吉
により創業して清酒の製造を開始したという。当時はまだ清酒はガラス瓶ではない。陶
器か樽だ。吉開の墓碑は富安保太郎が議員としいたものでもっとふるい。富安保太郎(
とみやす やすたろう)は元治元年5月6日(1864年6月9日)に富安城下 とされる河北村
の吉開村に生まれた。当時河北は治水の要として、八女の千間堤や、船小屋に楠の木を
植林する作業を立花家には必要だった。代々富安家は蒲池家の家老時代から、その治水
に関しての管理を仰せつかる家にあった。新村開発に於いて2町を集めて三村としてい
たが対岸の村も合併し新村とした。橋本氏共に、この地の名主として立花氏の、御行幸
の茶屋処として、浄蓮寺は建てられた。本来この地の寺は運瑞寺だったのだが、富安城
解体に従い、高い堤防によってこの地に広い耕作地帯が広がったのである。富安水門は
その上流にあるが その時の外堀の要で立花農園と共に柳川の水利を一手に引き受ける
ものだった。だが聖川の入口として、行基橋傍の堰が作られて以来、通称カッパ堰かっ
ぱ水門が塩塚川の源流となった。この塩塚川の命名には塩塚何某の訴え話がある。当時
今の伝習館に代官所前として白洲があった。今の裁判所がある理由だ。ここで大和の地
に水が足りないとして一つの鍬幅の水路を通せないかと相談で一応の決着を見た。そこ
で掘られたのが大将軍道りの濠であった。この時の鍬幅が3mの鍬で四人が掘る特注の
鍬で、本来聖水路と並行に走る島田水路が埋められて困った農民の、花園まで通した、
塩塚川の話であったとされる。分流に蛭川があった。高橋商店脇の橋や久末地蔵は、そ
の当時の逸話で満ちている。



1174: 名無しさんAA:18/03/25 22:38
富安君を探せ              < その150 >

立花氏が再び入城した時かつての八女から三潴の地帯は柳川藩のものではなくなったの
で、当然柳川と筑後の境には治水をめぐる騒乱が幾つかあった。矢部川も暴れ川でこれ
を抑える為に船小屋の中の島が出来貯水池ができていた。本来は小島から同じように第
二の中の島が出来る予定だったがそれが江戸期に途切れたのである。こうして 新たな
治水計画や治水事業を行うべく図られた。それが聖川の遮断と塩塚川の引き込み 更に
八女の祁答院治水でなく、新たな矢部川の水量確保だった。そこで行われたのが、段々
掘りと言われる整流池だった。それが船小屋の今の駐車場、ベスト電器部分、ハリウッ
ド部分、更に西鉄駅裏、がその空掘池として作られた。通常は湿地の田んぼで大雨時に
は調整貯留池にして24時間かけて潮の満ち引きに合わせて海に流す工夫である。更に
柳川城外堀から南の両開はそれは狩場田地として、殿様の馬駈け鷹狩りの場として、そ
れこそ了解を貰ったもの以外の禁制地とされた。壇家はその段々濠とされた沼地の管理
の家柄である。川が出来ていた。そうした河川管理の家柄ではあったのだ。富安家の保
太郎も同じで、そうした河川整流の森林の係であった。今の松本木材は明治期に手離し
たものと言われ、楠木を無断伐採で大川箪笥に売り渡したとして処分されたものだった
。筑後国山門郡吉開村(現福岡県柳川市三橋町吉開)で、柳河藩士・富安昌太郎の長男
として生まれ東京法学院を卒業して政治家となった。実業家として衆議院議員に当選し
以後は、貴族院多額納税者議員とされ、博多商業会議所特別議員、福岡県教育会副会長
、瀬高銀行頭取、九州製油社長、博多築港社長、博多電気軌道取締役、九州電気軌道取
締役、日本毛織取締役、九州土地信託取締役、九州林業取締役、日本電報通信社取締役
、福岡日日新聞社社長などを務めた。政界では、福岡県会議員、同参事会員、同副議長
、同議長を歴任した。1908年5月、第10回衆議院議員総選挙で福岡県郡部から出馬して
当選して以後、第11回、第12回、第14回総選挙で当選し、衆議院議員を通算四期を務め
、立憲政友会院内幹事、同政務調査会理事、同協議員を歴任した。その為に1924年1月
、皇太子殿下(後の昭和天皇)御結婚賢所大前の儀に議員総代三名の一人(全院委員長
)として参列し。また、1926年11月24日、貴族院多額納税者議員に選出され、研究会に
所属して死去するまで在任した。この為富安家から近衛兵として天皇の護衛に当たって
いる。

1175: 名無しさんAA:18/03/26 14:53
楠木を無断伐採で大川箪笥に売り渡したとして処分されたものだった
その金で国会に出馬する事は地元の苦境を変える事にあった。玄洋社は熊本の博愛社の
前身と同じく士族解体に及んだ者の救済の為の相互扶助の組織だった。だが熊本は職能
教育やキリスト教化に及んだに比べて福岡の玄洋社は新聞「福陵新報」を創刊して、文
人や芸術振興に力を入れようとした。しかし体制批判が受けて政治団体に変貌した。こ
れに対抗すべく筑紫新聞が刊行され福岡日日新聞を設立しブロック化して西日本新聞社
が出来た。博多商業会議所特別議員として九州電気軌道に収拾がつくとこの社主となっ
た。筑後国山門郡吉開村(現福岡県柳川市三橋町吉開)で柳河藩士・富安昌太郎の長男

1176: 名無しさんAA:18/03/26 14:56
富安君を探せ              < その151 >
 三池物語の中では大きな大蛇を大きな蟹がその胴体を切った。とされるが、これと同
じ時期に竹取物語や桃太郎の物語がある。日本霊異記はそんな伝承が満載されるが、そ
れにこぼれた話も柳川の伝承だろう。そもそも柳川は瀬高清水の門前町として栄えた町
だ。行幸の折神功皇后は八田烏(カササギ)が飛んで行くのを見て清水山を目指した。
と言われ、清水には雉車なる民芸品を売っている。あの磯鳥や白鳥と名を付けた時に、
安曇磯良丸と出会ったとされるが、その時引き合わせたのが「弥永」氏だったという。
柳川では弥永とは「いよなが」と呼ばれるが実は古文では「やなが」と呼ばれる。竹網
などの細工を上手にし柳行篭(やなぎごうり)などを作るのがうまくイモ洗い水車など
がこの地区に多くあって「やながわ」の地名が生まれたとされる。つまりこの地を天皇
が彼らの土地として与え「弥永」と言う(先の広い末永い意味)の縁起のいい名を与え
兵として彼らは朝鮮征伐に同行する。しかし香椎宮で仲哀天皇が崩御すると帰郷となっ
たが野洲に住み込んだ。と言うものだ。弥永氏は、現福岡県北部の筑前国夜須郡弥永村
が起源(ルーツ)でとされ。蓮池藩、現東京都、埼玉県広域、神奈川県北部である武蔵
等にもみられる。近年、福岡県に多数みられる。「永」は長くのびている地形、器物、
生物などの意味。弥生式土器などはこの地名の弥生から来ている。その後仏教では弥と
いう字はナムアミダブツの弥とされ 根本言語(念仏の最初の言葉)とされた。又周辺
の集落を集められ河北村が明治期に出来るが、その時の初代村長は橋本氏とされたが、
その理由は至って簡単で河北村のほとんどはこの橋本氏だったからだ。だが何故橋本氏
のものだったのか。立花時代も橋本氏の名はそう多くは出ない。実は田尻氏だったと伝
えられる。田尻家は代々本流しか田尻を名乗らなかった。「藤原純友の乱」に「刀伊(
とい)の入寇」で下向した関東武者とされる。予国警固使橘遠保らの追討軍としてやっ
てきたのだ。大蔵種村の軍功があって大宰府の「府官」を世襲し土着したという。「田尻
氏系図」では大蔵春実8代目の長男が原田氏を継ぎ、次男が秋月氏、三男が田尻氏を、
四男が江上氏を五男が高橋氏の祖となった。としている。こうして平安時代の末期頃に
初代は筑後国三池庄田尻邑に住んだとされる。田尻三郎実種は源氏の大将源範頼(のり
より)に対する過言(悪口)の罪で鎌倉に召喚されたが、その罪を許されて、三池に帰
されたという。これより強く分流が田尻を名乗る事を止めた。そこで家人は鷹尾神社は
橋の側であった事から橋本氏と呼んだとされる。蒙古襲来に備えては、上陸をくい止め
るために、博多湾岸に石の防塁を築きことにした。この時筑後からは田尻・神代・黒木
・星野・河崎・西牟田・草野・酒見・末安らが参加している。いずれも菊池配下として
である。

1177: 名無しさんAA:18/03/26 15:21
 三池物語の中では大きな大蛇を大きな蟹がその胴体を切った。とされるが、これと同
じ時期に竹取物語や桃太郎の物語がある。日本霊異記はそんな伝承が満載されるが、そ
れにこぼれた話も柳川の伝承だろう。そもそも柳川は瀬高清水の門前町として栄えた町
だ。行幸の折神功皇后は八田烏(やたがらすカササギ)が飛んで行くのを見て清水山を
目指した。この古事から、清水には雉車なる民芸品を売っている。あの磯鳥や白鳥と名
を付けた時に、安曇磯良丸と出会ったとされるが、その時引き合わせたのが「弥永」氏
だ。柳川地方では弥永とは「いよなが」と呼ばれるが実は古文では「やなが」と呼ばれ
る。竹網などの細工を上手にし柳行篭(やなぎごうり)などを作りイモ洗い水車などが
この地区に多くあって「やながわ」の地名が生まれたとされる。つまりこの地を天皇が
彼らの土地として与え「弥永」と言う(先の広い末永い意味)の縁起のいい名を与え兵
として彼らは朝鮮征伐に同行する。この地でもそうした竹の編み物を「やな」と呼ぶ。
しかし行軍したものの、香椎宮で仲哀天皇が崩御すると帰郷となった為、多くが野洲に
住み込んだ。と言うものだ。弥永氏の多くは、筑前国夜須郡弥永村が起源(ルーツ)と
され。福岡は圧倒的に多い、「永」は長くのびている地形、器物、生物などの意味で、
弥生式土器などはこの地名の弥生から来ている。弥という字は仏教ではナムアミダブツ
の弥とされ 根本言語(念仏の最初の言葉)とされた。この柳川がその後地方豪族にい
たるが、明治期の周辺の集落を集められ河北村が出来る時は、その時の初代村長は橋本
氏とされた。その理由は至って簡単で河北村のほとんどはこの橋本氏だった。と言う物
だが、この時何故橋本氏のものだったのかが疑問だった。立花時代も橋本氏の名はそう
多くは出ない。しかし本流は田尻氏だった為と思われる。田尻家は代々本流しか田尻を
名乗れなかった。「藤原純友の乱」に「刀伊(とい)の入寇」で下向した関東武者とさ
れる。予国警固使として橘遠保らの追討軍としてやってきて警固に陣を敷いた。大蔵種
村はその後軍功があって大宰府の「府官」を世襲し土着した。「田尻氏系図」では8代目
の大蔵春実の長男が原田氏を継ぎ、次男が秋月氏、三男が田尻氏を、四男が江上氏を五
男が高橋氏の祖となった。としている。こうして平安時代の末期頃に初代は筑後国三池
庄田尻邑に住んだ。しかし田尻三郎実種は源氏の大将源範頼(のりより)に対する過言
(悪口)の罪で鎌倉に召喚された。その後罪が許されて、三池に帰されたという。これ
より強く分流が田尻を名乗る事を止めた。そこで家人は鷹尾神社に高い橋があった事か
ら分流が橋本と名乗った。と言う。蒙古襲来に備えては、上陸をくい止めるためには、
博多湾岸に石の防塁を築く為多くの人員を要した。この時筑後からは田尻・神代・黒木
・星野・河崎・西牟田・草野・酒見・末安らが参加している。いずれも菊池配下として
である。

1178: 名無しさんAA:18/03/26 15:23
富安君を探せ              < その152 >

 そもそも田尻城と鷹尾神社はちがっていて 今の奉仙寺を中心に作られていた。都留
集落から大きく二つに分かれたたように瀬高側に曲がって流れその一方は鷹尾神社より
ずっと向こうに曲がり中州状態で少し高い丘の上に城が築かれていたのだ。従って、橋
で行く事は当然だったのである。大友所領時には筑後には上蒲池(上妻郡)・下蒲池(
山門)・問註所(生葉郡)・星野(生葉郡、竹野郡)・黒木(上妻郡)・河崎(上妻郡
)・草野(山本郡)・丹波(高艮山座主)・高橋(御原郡)・江上(三瀦郡)・西牟田
(三瀦郡)・田尻(山門郡)・五条(上妻郡)・溝口(下妻郡)・三池(三池郡)の大
身15家があって、これを筑後の15城と言ったとされる。天文年間、非情な大友は、
筑後15城の旗頭の蒲池鑑貞は大友領国内の「八朔太刀馬の儀式」(毎年八朔 陰暦8
月1日)の日に、この参陣を怠ったため、府内に呼び出されて斬られたとされる。天文
16年(1547)11月、田尻親種(ちかたね)は嫡男宮七郎(鑑種)を伴い豊前府
内への家督相続の許しの御礼と義鑑より元服させてもらう祝いのため府内城に参府した
。参勤に行く際、近在の衆からの餞別の品について古文書記載から、蒲池本家の蒲池鑑
盛は太刀一腰と銭1万文を上蒲池の蒲池鑑広は縞織物2端を、蒲池伊豆守・蒲池肥前守
・安徳氏(島原の安徳城主)・名和氏(熊本の宇土城主)など遠方からの贈答者もあっ
た。地元板橋氏が選別として砂糖3斤を贈っている。田尻氏が大友義鑑に贈った進物は
、太刀類二十一腰・馬二疋・征矢こう百・鷹の羽二・扇二・黄金半数・黄金杯一・和銭
千疋・嶋織十五端・北絹五端などで、府内の重臣・恩顧の人々にも多彩な贈答品をあげ
ている。「参府日記」には親種一行が義鑑および家中関係者に対して鷹尾周辺地域での
栽培された木綿のほかに中国船やポルトガル船によって東南アジア、南アジアから日本
に輸入された大量の「嶋織」「嶋木綿」を贈っている。これは16世紀中頃以降、東南
アジア、南アジアから日本に輸入された木綿布で、左の地域からもたらされたことから
「嶋渡り」の木綿、「嶋木綿」と呼ばれたとみられる。染め糸による鮮やかなストライ
プが織り込まれており、上質で珍重されたが、ここに既に海外貿易があった事を示して
いる。その後秦仙寺と言う名前も 秦家の影響ないしつながりでこの地があった事を示
している。二つ河も全く同じに島町は川の中の中州状態の島だった。福岡の文化調査は
全く馬鹿の様に勘違いした遺跡調査をして、柳川市の勝手な工事は止めない。


1179: 名無しさんAA:18/03/26 15:25
富安君を探せ              < その153 >

 田尻氏の本拠となった鷹尾城は、有明海に面し、その上流の瀬高は、明国人・鄭若曾
が編纂した『籌海図編』(ちゅうかいずへん)にもみえる港町であった、天草・島原方面
との交易をおこっており、中世住居遺跡から出土した「青磁・白磁」や府内参府日記に
書かれた「嶋木綿・嶋織」などの輸入品が調達されており日明貿易・日朝貿易・南海貿
易(勘合貿易)によってもたらされるた舶来品を取引してた事が判明しているのだが。
『籌海図編』(ちゅうかいずへん)とは、中国の明代・嘉靖41(1562)年に地理学者の鄭
若曽が著した日本研究書である。13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島や中国大陸の
沿岸部や一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した海賊、私貿易、密貿易を行う
貿易商人の事を、「倭寇」と呼び日本では五島列島や薩摩を主な拠点として活動してい
た。その首領として有名なのが、中国人の王直なのだが、王直は日本の五島列島や平戸
に本拠を置き、東シナ海を縦横無尽に活動していた。と言われている。天文12年には
(1543)ポルトガル人が種子島に鉄砲を伝えた時、このポルトガル人達を船に乗せ
て案内したのが王直だったとされる。1500年代に「後期倭寇」の中国人を主な構成
員とした略奪や密貿易を行う集団の活動が始まると、中国の明政府は激しく沿海地域の
海防強化を迫られた。こうして嘉靖35(1540)年に、海防責任者に任命された胡宗憲の
配下にいた地理学者鄭若曽が日本島夷入寇之図では倭寇の侵入路を画き研究している。
王直は明政府の海防責任者・胡宋憲の計略にかかり、1559年に処刑された。王直は
あだ名で本名は汪徽(おうとう)と言い、徽王や老船主とも称したとされる。徽州歙県
(きしゅうきゅうけん、安徽省黄山市)に生まれた任侠の徒であったと言われ、若い頃
塩商を手がけ失敗するも。明が海禁政策を行うなかで葉宗満らと禁制品を商う密貿易に
従事した。双嶼(リャンポー、浙江省寧波の沖合い)港を本拠地に活動していた許棟、
李光頭の配下となり東南アジア・日本の諸港と貿易を行い、博多商人と交易して日本人
との信任を得た。1548年、密貿易を取り締まりで双嶼を攻撃すると、逃れて海賊集団を
組織し、浙江省舟山諸島の烈港を本拠に徽王と称し、徐海と並ぶ倭寇の頭目となった。
度重なる明の海禁政策で取締りを逃れ、1540年に日本の五島に松浦隆信に招かれている
1542年には平戸に移った。地方官憲の郷紳らと通じ、養子や甥の王汝賢ら幹部に密貿易
を拡大。 明の河川や沿岸地域に詳しいために倭寇の代表的な頭目となり、明の嘉靖32
年(1553年)に三十七隻を率いて太倉、江陰、乍浦等を寇し、同年8月に金山衛、崇明
に侵入した。その後度々海禁解除を主張し、管理貿易の官位の誘い舟山列島の港へ入港
し、1559年12月に王直は捕えられて処刑された。

1180: 名無しさんAA:18/03/27 11:32 ID:YYM
富安君を探せ              < その154 >

もし、瀬高の庭園造りに来るのであれば、天文19年(1550年)の京都妙心寺の住職就
任以降であろう。九州では、豊後守護・大友義鑑(おおともよしあき)が家臣に襲撃され
2日後に死去し、大友二階崩れの時である。6月平戸(ひらど)にポルトガル船が初来航
している。母方の興津氏は横山城を本拠に海運を掌握し海賊(水軍)も率いていた事か
ら田尻氏や奏氏や宗家と何等かのつながりがある可能性がある。不思議な事は大阪近郊
の摂津国池田で、にわかに植木・園芸業が盛んになっていることだ。ここは瀬戸内海航
路の起点で、淀川・大和川水系との結節点でもある難波津があり、津国(つのくに)と
呼ばれていた。鎌倉時代に、東大寺の重源が中絶していた大輪田泊の修築事業に乗り出
し、やがて兵庫津(ひょうごのつ)と呼ばれて国内第一の港として発展し、室町時代に
は日明貿易の拠点となっていた。室町時代からは、摂津の守護職管領として代々細川氏
が世襲している。しかし細川氏を牽制する意図から室町幕府は国内各地に分郡守護を設
置していた。このため、室町時代初期は各所各自の自治が行われ安定していた。分郡守
護が置かれていた所は細川氏の支配から欠けていたため、欠郡(かけのこおり)と総称
された。欠郡は嘉吉の乱後に細川氏の支配下に入るが守護家である宗家(京兆家)では
なく、庶流である典厩家が支配するなど異なる支配体制が取られていた。典厩(てんき
ゅう)家とは官位を持つ歴代当主の事でその中には武田氏や細川氏がいた。つまり宮家
の独立地域で幕府の及ばない貿易活動をしていたものと考えられる。平安時代末期に、
日宋貿易を重視した平清盛は大輪田泊(神戸市兵庫区)に着目し、湊の前面に人工島(
経が島)を築いて安全な碇泊地を設けようと、私費を投じて修築工事を行なった。大輪
田泊を見下ろす山麓に福原京を築き、平安京からの遷都を強行した。しかし11月には
又、京に還都となってかなわなかった。しかし東大寺の重源が大輪田泊の修築に乗り出
し、やがて兵庫津(ひょうごのつ)と呼ばれて国内第一の港として発展し、室町時代に
日明貿易の拠点となったのである。だが多分この港を使えなかったのが九州勢であろう
。すぐ後に大友が南蛮貿易に着手している事から、その視察なり偵察にこの雪舟は来た
のだろう。そしてその理由が 清水寺の庭造りであったとも考えられる。臨済宗の地位
というのはそうした事を可能にさせ、又その時になって水軍を従える力を持ったとも、
考えられる。

1181: 名無しさんAA:18/03/27 11:40
富安君を探せ              < その155 >
 こうして海外貿易の利権の争奪戦が過去に日本国中で起こって、戦国時代になったと
言う事実は、あんまり特別の事とは歴史家は見ていない。しかし九州爭乱の理由は京の
都のこの利権争いが権力争いになっていた事で九州に波及して、その中で海外からの侵
攻が襲った。これが日本の歴史の中枢にある。その拡張を目指したのが豊臣秀吉であり
そして終止符を打ったのが徳川家康であったのだ。しかし諦め切れなかったのが黒田氏
だった。黒田家には黒田騒動(くろだそうどう)と呼ばれる、福岡藩のお家騒動がある
。栗山大膳事件(くりやまだいぜんじけん)ともいわれる。伊達騒動、加賀騒動または
仙石騒動とともに三大お家騒動と呼ばれている。他の御家騒動では処分時に死者が出て
いるが、黒田騒動ではお預けなどはあったものの、死者は出なかったお世継ぎ騒動だ。
黒田如水の孝高は名軍師として名を挙げ、常に秀吉の側近くにいて豊前中津12万石の
大名となったが、秀吉が没すると家康に即座に乗り換えて、孝高の子の長政は関ヶ原で
調略でも武力でも大活躍し、家康から「忠節を感謝し、徳川家は黒田家の子孫を粗略に
は扱わない」との感状を得て、長政は関ヶ原の功で一躍筑前福岡で50万石余りを得て
、国持大名となった。長政が死去すると、その子の忠之が跡を襲ったが、この忠之の時
に黒田騒動が起きる。長政は生前に長男忠之の狭器と粗暴な性格を憂い、三男の長興に
家督を譲る。と決めて忠之に書状を送った。書状の内容は、@2千石の田地で百姓をす
るか、A1万両を与えるから関西で商人になるか、B千石の知行で一寺建立して僧侶に
なるか、を選べという非常に厳しいものであった。これに後見役の栗山大膳は、辱めを
受けるのなら切腹をとの対応を忠之に勧めた。それらの意志がないとみると、忠之をす
ぐに謹慎させ、同志を糾合して忠之廃嫡の事を改める確約に、600石以上2千石未満の藩
士の嫡子たちを集め、長政に対して廃嫡を取りやめなければ全員切腹すると血判状をと
った。この事態を重く見た長政は嘆願を受け入れ、大膳を後見役に頼んだ後に死去した
。こうして大膳は忠之に諌書を送ったが、これが飲酒の心得や早寝早起きなど子供を諭
すような内容だったため忠之は怒り狂ったとされる。十太夫は、小姓で眉目秀麗な忠之
の男色相手である。この頃の武士世界は男色は常識化で異常ではなかった。ただ忠之の
傾倒が異常だった。黒田家での栗山家は、播磨時代からの家柄で、大譜代や中津時代の
取立てを古譜代、福岡に入部後の取立てを新参と呼んで区別する中では、秀吉に仕える
前からの最古老で忠誠の功労者だった。栗山善助は譜代衆の中でも大きく、今日の黒田
家は栗山善助のおかげと言っても決して言い過ぎではないほどであった。数々の功労の
中に黒田家の恩人になる事件も多々あった。しかしそれは又煙たい存在でもあり、また
、新たな平和期には家柄家老の能力が低く、新たに有能な重臣を据えるに壁となった。

1182: 名無しさんAA:18/03/27 11:41
富安君を探せ              < その156 >

十太夫が小姓になった頃、倉八家の加増を受けていて千5百石くらい得ていた。十太夫
が忠之の小姓になると加増に次ぐ加増を受け、最後には9千石にまでなっていたという
。忠之が十太夫をいかに寵愛したかという話だ。十太夫はやがて家老職になるのだが、
十太夫が家老になった直後に大膳の父備後が死去した。栗山家には備後が如水から拝領
した合子の兜と唐皮威の鎧があった。どちらも如水が着用したもので、如水が死去する
ときに「この兜と鎧を我と思って長政をよろしく頼む」と付言した由緒あるものであっ
た。忠之はこの兜と鎧を大膳に返せと言ってきた。黒田家にとって由緒ある宝を備後な
き今、他家で私蔵するのは忍びないという理由であった。大膳はおかしいとは思いつつ
も、忠之の言うことにも一理あるので、これを返した。すると忠之は兜と鎧を十太夫に
下賜してしまった。十太夫も既に家老職にあり9千石の大身で、それなりの家宝も必要
であるとの理由であった。これを聞いた大膳は激怒した。十太夫の屋敷に自ら乗り込み
兜と鎧を奪い返して、本丸の宝物庫に入れてしまった。これだけのことをやるのに大膳
は一言も忠之に断らず、事件を聞いて忠之は一言も大膳にこのことを持ち出さなかった
という。嵐の前の静けさのような不気味が漂った。ただ十太夫は俗悪な奸臣ではなかっ
た、この事件のときも大膳の剣幕に押されたとはいえ拝領した兜や鎧を返しているし、
そのことを忠之に恨みがましく訴えた形跡もない。おそらく小姓上がりの人物が思いが
けなく出世し、精一杯肩肘を張って生きていた程度だろう。忠之と大膳が自分を巡って
対立している構図に辟易していたに違いない。又俗説では、大船鳳凰丸の建造も十太夫
の甘言に忠之が乗せられたものとされている。幕府の許可なく大船を作ることは違法で
あったがそれを敢えてした。という事件だ。このことは許可を受けていたともいうし、
よしんば許可を得なかったとしても十太夫ごときの責任ではなく、首席家老たる大膳の
責任である。ましてや大船の建造を首席家老が知らないはずはなく、のちに幕府が問題
にしていないことから見ても、許可を得ての建造であったと考えられる。しかし鳳凰丸
というのは藩政には何の役にも立たず、完全なる無駄使いとなった。その罪を十太夫が
着せられた可能性が高い。いずれにしても十太夫は奢り高ぶったのは事実ではあるが、
そんなに悪い人物ではなかった。十太夫は騒動が結着して高野山に追放されるが、その
後島原の乱の際には高野山を降り黒田家に陣借りしている。このことからも根っからの
悪人ではないことがわかる。一方栗山氏は大藩の首席家老ともなれば幕府の監視を受け
、その進退は藩主の一存では決められなかった。

1183: 名無しさんAA:18/03/27 11:52
富安君を探せ              < その157 >

 この寛永9年というのは肥後の加藤家が取り潰された時でもあった。加藤家は清正の
跡を忠広が継いでいたが、いわゆる豊臣系の大名であり、幕府にとっては取り潰したく
てしょうがない家柄であったと言う。もともと当時の幕府は、徳川家安泰の為には外様
大名はできるだけ取り潰し徳川氏に有利な配置というのが模索されていた。とはいえ全
く落ち度が無ければ取り潰せない。戦国期から3代目になると、次第にどこの藩でも綻
びがでて当主が平和の中で、狭器と粗暴な性格の当主が相次いで現れ、時の嫡子に異常
さがあって、家督争いや家老の派閥争いが起きた。それに目をつけ些細な落ち度を見つ
けては改易を行った。又時には落ち度を作らせながら、次々と家を御執り潰しとする政
策をも行い、幕府の中央体制に変えて行った。歴史解釈の中での加藤家の取り潰し理由
ははっきりせず、どちらかといえば落ち度を作って大げさに騒ぎたてた類の物であった
。それでもはっきりと加藤家は断絶した。この現実は、外様の黒田家も緊張を生んだ。
理由はどうあれ加藤家は取り潰される事になり、5月になると上使として老中稲葉正勝
が熊本に向った。この正勝というのは将軍家光の乳母春日局の子であり、したがって、
その力たるや大変なものであった。まもっとも他が行っても幕府の勅使で大変なものだ
が。正勝は5月下旬に黒田領内の遠賀郡山鹿を通過する。黒田家としても多いに機嫌を
取っておかなければならない。忠之は山鹿に接待の使者を出す事にして、正使に十太夫
を副使に黒田市兵衛を選んだ。十太夫は張り切って総勢350人という 大人数での山鹿に
入ったが、市兵衛の方はわずか38人という少人数だった。黒田家から挨拶の使者が来た
との報せに正勝は「倉八十太夫という名は聞いたことがない。黒田市兵衛は筋目のもの
と聞く。市兵衛だけを通せ」と言って、十太夫は会ってももらえず面目丸潰れとなった
。これに世間は噂は広がった。福岡に隣接する商人の博多の町では、話が絶えず寄十太
夫の話で冷笑になった。忠之は十太夫に箔を付ける為の行為であり、自分が冷笑された
も同然だった。忠之はもともと短気だったがこれはには逆上し、この話をしているもの
は見つけ次第に討ち取れと命じた。商人や漁師が討ち殺され、博多の町は一時期恐怖が
支配した。これらによって興奮した忠之は焚火の間に出て、黒田市兵衛らに大膳の邸に
行ってすぐに登城するよう申し渡せと命じた。ところが大膳は病を楯にして動かない。
これを聞いた忠之はますます逆上して意地でも登城させようとする。何度か使者が往復
し、つにに埒が明かないと見ると忠之は自ら大膳の邸へ押しかけると言い放つ始末だ。
老臣の井上道柏と小河内蔵允が急遽まかり出て、なんとか忠之を宥めた。この騒ぎの翌
日に大膳は剃髪し、さらに夫人と二男の吉次郎を人質に出した。

1184: 名無しさんAA:18/03/27 11:53
富安君を探せ              < その158 >

 寛永9年(1632年)6月15日、先日の騒ぎの翌々日、大膳の邸から飛脚体の者が出て行っ
たが早速目付が見つけて捕らえ、調べてみると懐中から大膳の書状が出てきた。宛名は
豊後府内城主竹中采女正で、「忠之が謀反を企み、それを諫言したところ不届きとして
成敗しようとしている。ここに至って、この大膳は公儀一途に思い、忠之を訴えること
にした。」と言う、とんでもないことが書いてあった。竹中采女正は全九州の目付役で
あり、いってみれば九州探題とも言うべき立場にあった。飛脚は取り調べに対しては、
昨日も竹中采女正のところに飛脚が立ったと述べた。これで大膳の処分は勝手にできな
くなっていた。それは処分をすれば公儀に対して罪を認める事になるからだ。訴えの内
容が事実かどうかは別として、公儀の裁決を仰がなければならない。となっている。こ
の頃キリスタン禁教令は日々強くなっていた。一六二五年冬、長谷川権六が江戸に上っ
たが帰途に着けなかった。長崎の宣教師イエズス会のベント・フェルナンデス神父は、
次のように書いている。「奉行は、町の人々に以後洗礼を授けることを禁じ、キリシタ
ンの祝日を知らせることも信者のしるしを示すことも禁じました。すべては神の御慈悲
に委ねられています。」とつまり布教出来ずに既に手も足も出ない状態になっていた。
ベント神父が恐れていた嵐は予想したよりも厳しかった。長崎には権六の代わりに家光
は忠実な旗本水野河内守を送ってきた。水野は奉行としての二年間(一六二六〜二八)
だけでだったが、家光の威光と権力を十二分に生かした。それまでしっかりと根付いて
いた長崎のキリシタンの組織を潰すことに成功した。踏み絵や拷問こそ無かったが、指
導者的信者を追放した。キリシタンの名主達はことごとく江戸に送り、小西行長と高山
右近の旧臣達はマカオに追放したのだ。続いて、信仰を棄てない一般の市民にポルトガ
ルとの接触を禁じた。この事で貿易に関与することを禁じると同時に町から離れること
も許さなかった。この二つの方法によってもう一つのことに成果をあげた。それは残る
わずかな宣教師にとって宿を見付けることがさらに困難になった。長崎と大村の市内で
は宣教師の殉教が目立っている。イエズス会の管区長フランシスコ・パチェコ、フラン
シスコ会のコミサリオ、フランシスコ・デ・サンタ・マリア、ドミニコ会のドミンゴ・
カステレッテがそれである。自殺を禁じたキリスト教に宣教師自ら殉教で死んだのだ。

1185: 名無しさんAA:18/03/27 12:12
 しかしこれが生ぬるいと思ったのか、幕府は老中土井利勝の時代となり急に竹中重義
(しげよし)を送った。通称竹中采女正(うねめただし)で豊後府内藩2代藩主となり
。初代藩主・竹中重利の長男で後を継いだ。豊後府内は大友宗麟の趣向でキリスタンが
多くいたが彼は容赦なく弾圧してその名をとどろかせていた。一六二九年水野が江戸に
戻り、竹中采女正が代わって長崎奉行となった。竹中は豊後府内の大名で悪名高い奉行
は至って簡単に弾圧した。豊臣時代の名将竹中半兵衛の養子の子で、堕落した私生活に
加えて野心家であり、残忍な性格を合わせもっていた。キリシタンを根絶するためには
丁度いいと家光が竹中を起用したのだろう。重義は、「踏絵」を初めて行いキリシタン
弾圧に非常に熱心に信者を火炙りや穴吊りなど苛烈な公開拷問を行っていた。彼がそれ
にうってつけの人物であることを知っていたのは不思議だが、それだけキリスタンにの
動向は徳川幕府の課題だったのかも知れない。水野が開いた道をさらに進んで、残酷な
拷問を行うようになって恐れられる存在であった。特に宣教師達に信仰を棄てさせるこ
とは主眼としてキリスト教は崩壊した。有馬藩では、徳川家光の圧力によって迫害者と
なっていた松倉豊後守と手を組んだ形だったが、多くは落ち延びていた。だが彼の出現
で遂に手中に落ちた宣教師は多数いた。宣教師アントニオ石田、バルトロメ・グティエ
レス、ヴィセンテ・カルヴァリオなどを、一六三一年十二月、数日間にわたって雲仙の
地獄で熱湯責めを行った。、全員がその責め苦に耐えて長崎に戻った。牢内で九か月間
留置され、西坂で一六三二年、火あぶりの殉教を遂げた。これは大きな禍根を残した。
采女正のもう一つの失敗は、同年西彼杵半島に見られた。それは、トマス・デ・サン・
アグスティノ金鍔(かなわに)のことであった。金鍔は采女正の奉行の馬丁(ばてい)
として働いた後、外海(そとみ)の山中の洞穴に身を隠した。数百名の役人が西彼杵半
島を面高から時津まで徹底的に探索したが、金鍔を見付け出すことができなかった。同
じように幕府側内に密偵をつかっていたからだ。それにひきかえ竹中采女正自身はつい
に家光の手に落ちた。弾圧の陰に隠れて密貿易をしていたのが明るみになったのだ。こ
れが切腹になった直接の理由で、しかも息子を巻き添えにした上、命を助けられた親族
も隠岐に流されてしまった。ここにマニラとの密貿易が将軍の耳に達する。家光は采女
正を解任し、切腹を命じた。こうして、幕府側の隠密とキリスタン側の密偵と長崎奉行
の手下と有馬藩の藩下の下人たちと、情報や諜報が図られていた。中でもキリスタンの
中には沖合からのバラモン教の奴隷のインド人たちすら泳いで来て助けを乞う有様とい
う伝説もある程だが、この重義の切腹は三年後の天草四郎の乱に集結を見る事になる。

1186: 名無しさんAA:18/03/27 12:37
富安君を探せ              < その161 >

忠之の取調べはこの18日と翌寛永10年(1633年)3月4日の2回行われているが、もともと
事実無根の訴えだからボロの出ようがない。徳川幕府もこの黒田藩問題と同じように、
新旧の交代を考えていたと考えられる。つまり捕えたかったのは生粋のキリスタン大名
だった黒田 長政(くろだ ながまさ)の方であり、息子がもし政権転覆や幕府批判のあ
る普通の知将で心ある城主なら、少しは幕府に報告がなされたかも知れない。だが黒田
家は先代から親子にそういう深い繋がりのない家訓の中にいた。さすがに徳川家康時代
の功臣は処罰できないし、ここ息子に至っては親を憎みや恨みも尊敬もない自立した、
当時としては異様な藩で田畑が無い中でも財政が良くも悪くもない藩だった。さらに、
忠之は暗愚ではないから 返答もなかなか見事であり、老中らも感心したという話だ。
こうして、もともと黒田家に対しては将軍も老中らも好意的であり、取り潰す気などは
毛頭なかった。と言うのが本音だったのかも知れない。この時立花山に米を送っていた
柳川の豪士が見つかり報告によって、田中氏によって橋本柳河刑場での斬首にされた。
この時幕府の狙いは、それはキリスタンの徹底排除であろう。しかし福岡市中には全く
といっていいほど居なかった。と言うのが本当のことであろう。一方、大膳の方はこの
年の正月10日に江戸に入っていた。君臣の対決が予定されたが、これには忠之が反発
した。「君臣の対決など古来から聞いたことがない。臣下と対決するような不面目なこ
とは忍びがたく、疑いあらば切腹して果てるのみ。」と毅然として言い切ったという。
これには列席の老中らも申し出でもっともということになり、君臣の対決はなくなった
。3月11日になって大膳と黒田美作、井上道柏、小河内蔵允らとの対決が行われた。
大膳は弁舌を駆使して黒田家の重臣らと対決し、ときにはやり込めた。だが所詮は事実
無根の訴えであり、状況証拠やこじつけ的なものばかりである。聞く側にも大膳の訴え
は事実無根というのが明らかだった。大膳対黒田家重臣対決の翌日の寛永10年(1633年)
3月12日、大膳一人が井伊家の邸に呼ばれた。ここで大目付から大膳に対して「謀反
の訴えは偽りと認む。なぜ事実無根の訴えをしたか。」と問い詰められた。大膳は涼し
げな顔で「忠之が諫言を聞かぬため、このままでは取り潰されかねないと考え、計略と
して訴えを起こした。さすれば忠之は成敗かなわず、公儀の面前で悪政を申したてられ
、深く反省することになろう。」と述べたという。さらに裁判の最初からこのことを申
し出れば、さほど苦労なく育った忠之の心根は改まらず、また諫言一つしない重臣ども
も無事に済んでしまうとも申し述べた。これを聞いて老中らは一様に感心し感動したと
いう。

1187: 名無しさんAA:18/03/27 12:48
富安君を探せ              < その162 >
3月16日に忠之は重臣らと供に酒井雅楽頭の邸に出頭を命ぜられた。忠之に対して、
「はなはだ仕置よろしからず。また君臣遺却の段、不届きにつき領地を召し上げる。さ
りながら代々忠節を尽くした家であり、筑前の国を新に賜う」という裁決が言い渡され
た。早い話がお咎めなしである。一方、同日大膳も井伊家の邸に呼ばれ、南部山城守へ
お預けの処分が言い渡された。ただし終生150人扶持を与えられ、4里四方お構いな
しという破格の処遇であった。大膳は南部家でも大切にされたという。しかし、もう一
人の役者倉八十太夫は高野山へ追放されたが、島原の乱が起きると山を降りて黒田家の
陣に加わったという。これが黒田騒動であるが、結末を見ても明らかなように悪者が一
人もいない。その裁決は減転封や切腹などがなく陰惨なものではない。唯一倉八十太夫
だけが追放されたが、本人は追放されなかったとしても黒田家にはいられなかったろう
。ただ江戸時代福岡藩では評判は悪く、栗山姓は福岡では名乗れなかった。主君を貶め
たということで評判を落とした例の読本までていた。長政が大膳に預けた家康の感状は
結局使われないままになった。この感状は黒田家家臣の梶原某に預けられ、のちに六代
藩主継高に献上されている。忠之の我儘は強く大膳つまり藩主と筆頭家老の仲が険悪と
いう構図で、大膳が忠之に謀反の気配ありと訴えでて、幕府の評定が行われる結果を生
んだ。と言われている。だが果たしてそうだろうか。大船の建造の鳳凰丸の存在だった
のではないだろうか。藩政には何の役にも立たず、完全に無駄使いであったとされるが
そうだろうか。黒田如水こと官兵衛は関が原の戦いで藩の金庫を開けてへそくりで雑兵
を雇い次々に近所の城を盗った。関ヶ原の合戦の後、徳川家康はまず長政に勲功として
豊前国中津12万石から筑前国名島(福岡)52万石への大幅加増移封をした後、井伊
直政や藤堂高虎の勧めもあり、如水にも勲功恩賞、上方や東国での領地加増を提示する
が如水はこれを辞退し、その後は中央の政治に関与することなく隠居生活を送った。と
される。これは一体と思う。つまり、黒田如水は本当に領地が欲しかったのだろうか。
天下は欲しかっただろう。しかし徳川の加増に辞退したのは良地でなかったからだと思
うしこれ以上増えて徳川に睨まれる事が嫌だった。と考えられる。そしてこの金庫を空
っぽにした責任を息子から問われた筈だ。こうして親子の断絶の中を過ごしただろう。
そして孫は自らの君主の貿易を考えたのではないだろうか。先の跡継ぎの時僧侶か百姓
か商人かと問われた時、商人を考えたのでは無いだろうか。更にこの福岡城建設には、
河伯伝説がうろついている。昼の建設の後夜にカッパが作業したと言う物だ。更に親の
黒田長政は、父の孝高と同じく部類のキリシタン大名であったが、棄教した。この船や
その出来事はその頃の話である。

1188: 名無しさんAA:18/03/27 12:54
富安君を探せ              < その163 >

 つまり 私は大勢のキリスタンや宣教師が博多にいた筈だ。と思っている。ここでは
全く そうした長崎のような悲劇の痕跡は伝わってはいない。つまりは、この船で逃が
したのではないか。と推測する。この船も忠之が作った事にしてるが忠政が作り、別に
遠くの中国や明やベトナムやフィリピンでなくとも、近くの小島や天草或いは壱岐の島
ぐらいでもともかく目立たせなくすればいいと思ったのでは無いだろうか。如水が勝手
に藩の金を使った様に、長政も勝手に船を作った。こう考えていいのでは無いだろうか
。忠之が作った船と噂されても本人は身に覚えが無かった。これが真相ではなかったか
。更に家老大膳は堅物でその責めを負わされる前に一芝居打ったのではあるまいか。も
しも竹中采女正が長崎の様に キリシタン弾圧を行い大勢の宣教師が市中を繋がれ拷問
にでもかけられたら、多分に博多商人の南蛮通商は無くなってしまう。いや、それより
居留する他の外国人のルソンやチャンバンや明の行商人すらもいなくなる。と考えた筈
だ。農地の少ない福岡藩にとっては通商の停滞は致命傷なのだ。壱岐の宗家は朝鮮征伐
以来人口が激減していた。特に男は1〜2割になっていたのだ。これでは外敵が来たら
対抗できない。これは福岡にしてもかなりの危険がある。と判断したと思う。そこで、
キリスタンでも落武者でも、区別なく受け入れた。しかし、こうした戦国時代後処理の
問題は黒田藩のみではない。お隣の佐賀藩でも起こっている。有名な化猫騒動である。
沖田畷の戦いで龍造寺隆信が敗死し、龍造寺政家が病弱だったため、国政は隆信の義弟
の鍋島直茂が掌握し、天正18年(1590年)には豊臣秀吉により、政家は隠居させられて
家督は嫡男の龍造寺高房が相続した。秀吉の死後も、徳川家康は龍造寺氏を無視した。
鍋島氏の肥前支配を承認し龍造寺高房は名目上の国主でしかない立場で、家康の監視下
に置かれた。絶望した高房は精神を病み、江戸桜田屋敷で妻を刺殺した後、自殺を図る
。家臣がこれを寸前で食い止め、医師が治療したため命を取り留めるも、その後妻の亡
霊にも悩まされるようになり半年後には他界した。又父である政家の心痛は深く、これ
に生来病弱な体が耐え切れず二ヶ月も経たず後を追ったのである。高房の後継者として
龍造寺を差し置いて家臣達は功臣として鍋島直茂の嫡男・勝茂を推挙し、幕府もこれを
承認し、鍋島氏が国主の佐賀藩が成立した。ところがそれから、無念の死を遂げた高房
の遺体は、江戸で火葬されたにも関わらず、泰長院に葬られた後には、高房の亡霊が白
装束で馬に乗って現れては、夜中に城下を駆け巡るようになった。という噂が立つよう
になった。更に、高房がかつて飼っていた猫が化けて出て、直茂・勝茂に復讐を企てた
が鍋島氏の忠臣によって最終的には退治されるという化け猫騒動の筋書きが起こった。

1189: 名無しさんAA:18/03/27 13:06
富安君を探せ              < その164 >

 しかし、なぜ龍造寺氏は知行に至らなかったのだろうか。実は、家督が嫡男の龍造寺
高房が相続した時、秀吉は高房に所領安堵の朱印状を与えている。しかし、同時に鍋島
直茂にも4万4千石、その嫡男である鍋島勝茂にも7千石の所領安堵を認めている。つ
まり鍋島氏は龍造寺氏の家臣でありながら、別に大名並の所領を秀吉から承認されて、
同時に国政の実権を握っていたことになる。また家督相続には高房の子・龍造寺伯庵と
高房の実弟・龍造寺主膳が生きていて。両者は当時は若年のため、無視される形で、伯
庵は直茂の命令で出家させられていたのだ。こうして寛永11年(1634年)、伯庵と主膳
は幕府に対して龍造寺家の再興を嘆願した。この訴訟は寛永19年(1642年)まで続けら
れたが幕府は認めず、伯庵を会津藩の保科正之に預け、主膳は大和郡山藩に預ける処分
を下し、事実上、龍造寺家再興の道は絶たれた。こうして実権を奪った直茂は元和4年
(1618年)6月3日に81歳で亡くなったが、直茂は耳に腫瘍ができ、高齢ながら大往生と
はならず激痛に苦しんだ上での半ば悶死となった。佐賀県は肥前国の東半分に当たる地
域で、江戸時代は南部を佐賀藩(35万7千石)、北部を唐津藩(6万石)が統治している
。つまり41万7千石だ。唐津と鍋島の12万石を引いても28万石近くの土地を幕府
は管理したかったのである。佐賀藩は慶長7(1607)年、鍋島勝茂を初代藩主以降は、
筑後川の堤防を築き、佐賀平野での新田開発を熱心に進めた結果、実質の石高は70万
石以上に達していた。九州でも有数の大藩となる。支藩が多かったため財政難に悩まさ
れましたとされ、江戸時代後期にやっと鍋島直正が藩政改革に着手し財政改革ができた
。それも陶磁器と鍋島織の輸出によってである。その後西洋技術を導入して日本初の鉄
製大砲を建造するなど軍備を近代化し、明治維新の際には新政府の成立に大きく貢献し
た。この化け猫伝説では「ある時、2代目藩主・鍋島光茂の碁の相手を務めていた家臣
・龍造寺又七郎が、光茂の機嫌を損ねたため惨殺されてしまい、又七郎の母は恨みを口
にしながら自害する。この時に母の死体から流れた血をなめた飼い猫が化け猫となり、
側室・お豊の方を食い殺して乗りうつり光茂に近づきます。それ以降、家臣が発狂した
り、奥女中が惨殺されたりと、さまざまな怪異が発生。光茂も苦しめられますが、最後
は忠臣が化け猫を退治して佐賀藩を救う」という話となっている。実は佐賀藩には他藩
にある鉱山がない。ところが陶磁器の絵付けには色や火の技術が必要だそこで柿右衛門
を八女から連れて来た。と言う話である。当時朝鮮征伐からの陶工の連行は立花氏しか
連れて帰らなかったと伝えられている。しかし閉門蟄居で佐賀に送ったと言われる。

1190: 名無しさんAA:18/03/27 13:17
富安君を探せ              < その165 >

もう一つの伝説は、藩主は光茂ではなく父の勝茂とされ、化け猫が姿を変えた側室・お
豊の方に取り殺される寸前まで追い詰められます。しかし、鍋島家の家臣で槍の名手で
ある千布本右衛門がお豊の方の正体を見破って成敗。夜が明けると屋敷の庭には、槍で
突かれた傷のある大きな三毛猫の死骸があったと言う話だ。しかしこれには裏がある。
天保 1年(1830年)2月 鍋島直正は、先代藩主がフェートン号事件で長崎警備の怠慢
と言う事で不始末の責任で謹慎蟄居が下されて、その為第10代藩主となった。しかし
大砲を持った船を防備しろと言われても土台無理な話で肥前鍋島藩は素直に幕府に訴え
たが、重鎮の大老を始め家老達には何一つ聞き入れてはもらえなかった。落胆の上に帰
郷した直正は一人で独学に励んだと言われる。長崎奉行を通じて西洋書を買い入れ通詞
を探し、自らが船を調達しようとした。そうした長崎との交流において古伊万里から分
かれた有田焼の皿を売った。それが成功したのを期にをして大量生産を行うべく川内焼
を整備し型取り、絵付け、など分業体制にして大川内焼をつくり白磁の絵付けをお茶と
共に海外に売って利益を得たのである。この時はまだ田中義衛門を大阪から引き入れる
前である。その内鉄砲用の火縄の改良にアルコールに火薬を混ぜて紙に浸して作る事に
なるが、このアルコール蒸留に失敗して火事を起こした事があった。幸い奉公人の早い
発見でボヤ騒ぎで終わったが、その時に猫が舐めて酔っ払って死ぬ事件が起こっている
。これが多分化け猫騒動の起源であろう。更にその噂の元は庶民への厳しい税収にあっ
た。改易を免れたものの多大の出費でもあったし、その後も日本初の西洋大型船を発注
しているのである。そうした時の鍋島直正の奇行は正に庶民の批判の的になっていたの
である。西洋への輸出が順調に行き、八女からのお茶の栽培も嬉野で成功したが、それ
でも高い年貢は維持されたし、直正以前の帳簿上の赤字はそのままご破算にされたまま
で、出入り商人は多大な損失のままだったのである。このアルコール蒸留技術は薩摩か
らの嫁取りの為そのまま反射炉技術と共に鹿児島薩摩藩に渡った。それが芋焼酎の起源
になったとされる。鹿児島の反射炉は比較的近い雄岳から運ばれたが、佐賀の反射炉は
遠い諫早から運ぶ事になった。福岡にも有名な小長井石である。その為船で運ぶ事にな
り、海岸で船のつく場所しか作れなかった。そこに早津江漁港が選ばれたのである。そ
こが三重津海軍工廠跡とされている。ここが選ばれたのも簡単な理由だった。小森野を
グラバー卿に差し出して資金を得ていて 佐賀の西洋文化の入口だったからだ。普通に
よく唐津が玄関口と思われがちだが、諸富早津江が佐賀城からは近く、山を越えて行く
には難儀で遥かに長崎との交流も簡単だったからだ。

1191: 名無しさんAA:18/03/27 13:26
富安君を探せ              < その166 >

 鳳凰丸(ほうおうまる)は、幕末に江戸幕府によって建造された西洋式帆船とされる
。幕末に日本で建造された洋式大型軍艦のなかで最初に竣工し、浦賀造船所で1853年10
月22日に起工されたとされている。江戸幕府の建造所の最初の船とされているが、とん
でもない誤解である。これこそが、福岡藩の志賀島で隠れて作り、後に徳川幕府に接収
された船であったろうと思われる。その頃の浦賀は、それほど整備されていなく、さら
に砂浜地帯だったからその選定さえも幕府は苦労している。そこで白羽の矢がたったの
がこの鳳凰丸(ほうおうまる)で、当時現存する西洋船の一般モデルとして参考にした
のである。こうして1853年から浦賀は開発されて始めたのである。当時には、まだ
西洋帆船の図面もなく直ぐに出来るものではない。さらにその後直ぐ後に出来た洋式の
軍艦の、観光丸(外輪船)に次ぐ臨海丸などとは作りがかなり違っていて、洋式のスク
リューを装備する船としては初の軍艦であったとされる。スクリュー船は入出航時に主
に使用され、航海中は抵抗を減らすため水線上に引き上げる構造にするしかなかった。
それが帆船の鳳凰丸をモデルに整備されたからであった。勿論似た所もあるが、これは
鳳凰丸も古くなっていて、その作りを見る為の補修が行われたからだろうと推測される
。姉妹艦には朝陽丸(旧称エド号)及び電流丸(旧称ナガサキ号)があるが、これも又
間違いで、そも電流丸は、佐賀藩が買い付けて この三重津に入れた軍用船なのであっ
て全く日本製でなくオランダ製で発注船である。推測だが築地反射炉は佐賀藩10代藩主
鍋島直正がつくらせた日本初の実用反射炉なのだが、多分失敗している。多布施反射炉
も作っている。これらが何故失敗したか。実は、『ロイク王立製鉄大砲鋳造所における
鋳造法』に記されている手法に基づき行ったがその手法は、まず鉄鉱石を溶鉱炉で溶か
して銑鉄を作り、それを反射炉で再溶解して砲身を鋳造し、それから鑚開台で砲腔を空
けるというものであった。しかし、日本でこれを読んだ者の多くは、原料は、砂鉄を原
料とする日本在来のたたら製鉄で十分だろうという認識であったため、反射炉の築造が
焦点となった。ちなみに、そのような中で南部藩の大島高任は当初から溶鉱炉の必要性
にこだわり、釜石・大橋において日本初の高炉の本格操業に漕ぎ着けている。つまり、
三重津の反射炉が先に作られ砂鉄で銑鉄を作って、その後多布施に送りやっと鉄が出来
てそれを穴を掘るのに水車が必要となり築地反射炉を作ったと考えるのが妥当なのだ。
というも、その先行例もなく、佐賀藩は試行錯誤を繰り返し、一つ一つ難題を超えて行
った。からである。ところがこの佐賀藩の苦労は薩摩藩で花開き、効率的な反射炉の鉄
の運用がなされ 開幕前に完成しその後の日本の強制的な西洋化に間にあったのである。

1192: 名無しさんAA:18/03/27 13:27
富安君を探せ              < その167 >

 ではその前に日本の大砲はなかったのか。実はあったのだ。ただし砲身は中心には、
竹筒が入りその周りを鉄を張りその外側には泥を埋めて麻縄を巻いていたものだった。
同じ様に飛ぶのは飛ぶのだがおよそ3発ぐらい打てば日本製は中の竹筒を変える必要が
あった。つまり仕組みとしては関ヶ原の合戦の後には、広く知られていたのである。又
大きさも最大の孟宗竹の大きさ程度の玉しか撃て無かったのである。その後に割り竹に
鉄板を貼り寄せて輪っ苛で樽方式のものも出来てていたがそれでもそう多くの弾は撃て
無かった。又砲身も短く音の割りには威力がなく、飛距離も精度もなかったと思える。
従って、合戦時は音を出す空砲の役割で使われていたと思われ多くは勿体なくて使わな
かった。従って徳川時代になれば各藩共に無用の長物であったと思う。又少ない砂鉄か
ら巨大な鉄の弾を造るより数十の刀を作った方が利口でもあったと言える。こうして、
大砲の文化が廃れる中、火薬の文化や技術は残しておこうとした事で日本では花火とい
う世界で稀なエンターテイメント文化が生まれた。これは社会を変えた。江戸文化の中
で「火事と喧嘩は江戸の華」が花火とダジャレの文化に変わったのだ。そうした中で、
打ち上げ花火が出来たのだが、打ち上げ花火そのものが、そうした「手筒」と言われる
日本製の大砲の伝承であろうと考えられる。手筒花火(てづつはなび)は、豊橋の吉田
神社の手筒花火は1mほどの竹筒に火薬を詰め、それを人が抱えながら行う花火の祭典
である。手筒花火は、打ち上げ式ではなく吹き上げ式の花火で、その火柱は大きいもの
だと10数メートルにもなるという。この吉田神社が手筒花火の発祥の地とも言われる
が、豊川市の進雄神社が発祥の地ともいわれが、この地が三河地方である事で発祥の地
にはならない。「三河国古老伝」には「永禄元年(1588年)天王祭礼祀ノ花火ト云フ事
始メル」とあり、また「吉田神社略記」においては、「花火ノ創始ハ羽田吉田綜録ニ、
永禄三申庚年(1560年)今川義元公」の発案とされている。つまり少なくとも永禄元年
には火薬がこの地に売られて集積して来た。と言える。1288年当時の青銅製銃身が発掘
されたことで、モンゴル支配下の中国が火槍から銃へ装備を変えたことは明らかになり
、これまで銃は西欧発明と考えられてきたが、銃はモンゴル帝国を通じて、ヨーロッパ
へ伝わったとされる見方が有力だ。日本でも1274年の元寇襲来でも戦い火薬は使われて
いて当然1560の初期鉄砲があったなら日本は急速これを取り入れたはずである。


1193: 名無しさんAA:18/03/27 17:40
 ちょっくら寄り道    1

 我々現代に至ってはTVによって、かなり異様な説明が学者によってなされる。科学
分野では新たな発見で訂正されるが、歴史の場合はなかなかそうはいかない。伝承が切
れ、物証の紛失が激しく、時には体制側や保管側に無知も多く、不合理なものは排除す
る傾向と、さらに古代になる程由緒も多いが小さく粗末である事が結構多いからだが。
 ひとくちに神社と言っても神宮や大社など呼び名は様々にある。多くの神社の名称の
最後につく「神社」や「大社」(たいしゃ)という称号を社号(しゃごう)といいます
。これには理由があって 本流の大和朝廷の流れか山岳宗教の流れかと言う分別である
「神宮」「大神宮」「宮社」「大社」「神社」「社」の六種類があり、他に歳神を祭っ
た「明神みょうじん」「権現ごんげん」といった社号もある。これらはかつての神仏習
合で多くに変遷がみられる。現在では通称として用いられる事も多くその真意は変わる
事で不確かさはある。しかしこれらの社号は適当につけられているわけではなく、その
神社の権威や歴史、祭神さいじんの性質などに基づいていることが多くある、たとえば
、「神宮」のばあい、正式には「神宮」と呼べるのは伊勢神宮(三重県)だけとされる
。「伊勢神宮」は通称であって、正式名称は「神宮」なのだと江戸期以降はなっている
。又建物も神宮作りと言う側面を三本柱という大きな柱で屋根を支え、壁や梁は柱には
荷をかけない独特な作りとなっている。ほかの神社は「神宮号」を僭称(せんしょう)
しているのかといえば、そんなことはない。鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)と香取神宮(千
葉県香取市)などの呼称も古く、延長五年(927年)に完成した『延喜式』の神名帳には、
およそ2,861の神社が記載されている。つまりもともと神宮と神宮社は存在していたのだ、ただ今の神宮を称しているのは伊勢・鹿島・香取の三社だけでここに権威付けが行わ
れたのである。どのような基準で「神宮」という称号がつけられたのか判然としません
が、皇室とゆかりの深い由緒ある神社にだけ許されたものであるらしい。「宮」は格式
は高く、あまり数は多くないが、香椎宮(かしいぐう福岡県福岡市)・筥崎宮(はこざ
きぐう福岡県福岡市)・天満宮(てんまんぐう)・東照宮(とうしょうぐう)どがあり
、その多くは、特別の由緒ある人の呪い除けの斎木の神社にのみ許されたものの側面が
強い。「大神宮」は伊勢神宮の出張機関ともいうべき東京大神宮の社号であり、時の権
力者が統廃合を進め、地方に社殿の階級をつけて奉納(税金徴収)の仕組みのある物と
したのである。

1194: 名無しさんAA:18/03/27 17:40
 ちょっくら寄り道    2

 「大社」は地域の信仰の中核をなした大神社で、地方豪族の政権主体であった。つ
まり大和朝廷とは別の地方での中央集権の象徴神社である。出雲大社・春日大社・松尾
大社・日吉大社・熊野大杜・多賀大社・諏訪大社などがあるが、いずれも古代豪族の由
緒として祀ったものだった。しかし明治時代に制定された社格制度で、神社の格によっ
てつけられる社号がある程度決められてしまう。戦後には、この制度は廃止されたが、
これを機に社号を変更した神社も多くある。この時社号とは別に、神社の位を示すもの
が作られた。これを社格といいます。この社格には古くから制度があり、古代や中世の
ものと、近代の明治期戦時期のものがあり、名称が類似しているので注意が必要である
。古代の社格は「延喜式えんぎしき」神名帳に基づくものとされる。しかし『延喜式』
は延喜五年1905年に編纂が始められた法律執行細則集で、本来もっと古くからあった。
そのなかの神名帳は朝廷から由緒正しいと認められた神社が記載されて米などの朝貢が
強制された。つまり、『延喜式』に記載されたということは、朝廷公認の神社とされた
ということであり、名誉あることとなっていた。こうした神社を式内社(しきないしゃ
)という。式内社は大きく官幣社(かんぺいしゃ)と国幣杜(こくへいしゃ)に分けら
れ、官幣社は中央から派遣された神祇官(じんぎかん9が直接管理をおこなう神社であ
り、国幣社は各地の国司(こくし)が司る神社であって地方豪族の荘園の奉納がなされ
た。官幣社・国幣杜はそれぞれ大社(たいしゃ)小社(しょうしゃ)があるが、これは
神社の規模や祭神の重要性などから決められた。すなわち、官幣大杜・国幣大社・官幣
小社・国幣小社・式外社の五つのランクに全国の神社は分類されて都の食料供給がなさ
れた。ちなみに、官幣大社は全部で198社ありました。その後には、これとは別に、
中世には一宮(いちのみや)制という物が行われた。これは管理が多くに出来た頃に、
境界の騒動が起こったからだ。各国ごとに一位の神社を定めるというもので、大和国は
大神神社(おおみわ)、摂津国は住吉大社、伊豆国は三嶋大社、信濃国は諏訪大社、常
陸国は鹿島神宮などが選ばれ、その境界を引く権限を持った。国によってはこれに準じ
る二宮にのみや・三宮さんのみやも定められ役場の働きをした。一方、明治に制定され
た近代社格制度は、官幣社・国幣社に分けるところは『延喜式』と同じに真似たが、そ
れぞれを大社・中社・小社の三段階に分けていました。さらにその下に別格官幣社があ
り、府県社・郷社からなる諸社をして分類した。

1195: 名無しさんAA:18/03/27 17:41
 ちょっくら寄り道    3

 ところが 飛鳥・奈良時代には 仏教が取り入れられた。この事は国民を疲弊させた
。つまり今まで自由に食っていた者が朝廷の下に租税の下に 苦役と税が徴収されたが
今度は仏僧が更に布施や寄進を強制したのである。そこで話し合いの上折り合いを付け
たのが聖徳太子だった。つまり仏教を朝廷が保護し、庶民に強制しない代わりに官使を
つけて調停すると言う事だ。それは飛鳥時代の開国政策だった。諸外国の宗教である、
慈悲や慈愛は日本にもあったが、稲作技術の普及や薬の調合や瓦や仏像或いは銅銭など
の導入は必要な仕組みだったからだ。庶民派の地方豪族物部氏は強く反対し、こうした
二重の租税の様な仕組みをやめるべきとして仏像排斥に訴えた。対して蘇我氏は古くか
ら渡来する新しいものに敏感で仏教崇拝も肯定する立場にあった。そもそも欽明天皇の
頃、つまり叔父が第29代天皇(在位539〜571年)は蘇我稲目の娘二人、堅塩媛
(きたしひめ)と小姉君(おあねのきみ)を妃とし、堅塩媛との間に炊屋姫(かしきや
ひめ)=後の推古、太子の父橘豊日皇子=後の用明天皇、小姉君との間に太子の母穴穂
部間人皇女、穴穂部皇子、泊瀬部皇子などの子を成していたが、既に蘇我馬子とは義兄
弟、父方からも母方からも太子の祖父にあたる事から、朝廷の天皇家の外戚が蘇我氏で
あり、ほとんど朝廷の意向は仏教崇拝であった。又仏教経典の転写は朝廷の仕事として
唐や隋の文化の取り入れの為の通訳養成に適していたのである。恐らくこの頃日本の中
の交通を制していたの秦氏であったと思われる。秦氏は新羅系豪族。秦は朝鮮語で「海
」を意味する。自出は秦国の逃避民であろう。秦国は統一から滅亡までの期間を紀元前
221年 - 紀元前206年 )を秦朝、秦代と呼ぶ中国南北朝時代の民だ。秦河勝は610年
新羅・任那使入京の際、導者となっている。この事からかなりの海外事情通だったと言
える。秦国は他国出身者を積極的に登用し、巧みな人使いと信義を守る姿勢で大きく覇
者となり、周辺の小国を合併して領土を広げて国力をつけた政権だ。政が実権を掌握し
た時、皇帝を冠位とした。過去の聖王である三皇五帝からとったもので、史記始皇本紀
は、大臣、博士たちが「古に天皇(テンコウ)、地皇、泰皇が有り、その内で最も貴い
泰皇を名乗りましょう。」と言ったが、始皇は「泰皇の泰を去り、古(夏、殷)の帝王
が名乗っていた帝を付し、皇帝と名乗ろう。」とした。とある。つまり中国さえ真似し
ようとした天皇を日本はいつの間にか真似たのである。




1196: 名無しさんAA:18/03/27 17:41
 ちょっくら寄り道    4

 通説では、『漢書』刑法志に、劉邦が関中に入った際、「法三章」を定めて治世を行
った。それは人を殺した者は死刑、人を傷つけた者と物を盗んだ者を罰するとしたもの
で、これまでの12章律(しょうりつ)の、前漢建国時に蕭何が定めた物を廃しての、
新法典「法三章」を定めて行ったとされる。こうして秦の過酷な法令を廃したが、世の
中の混乱は収まらなかった。その為蕭何が秦の法律の中から時勢にかなったものを選び
取って律九章を定めたとされる。更に時代が下り、唐代に編纂された『晋書』刑法志に
よれば、戦国時代の魏の李が定めた『法経』の6篇(盗・賊・囚・捕・雑・具)の行政
関係を主とした「事律」3篇(戸・興・厩)を蕭何が追加し、更に参夷(三族皆殺)と
連坐の罪を廃止して、部主(部下の犯罪で上司の監督責任を問う)と見知(犯罪の発生
を知りながら見逃した者)を罰する規定を設けて9篇にしたという。追加した3篇は戸
=戸籍・租税、興=建築・土木、厩=倉庫・厩舎のことであったとされている。なお、
同書が引用している『魏律(魏新律)』の序文では、ただ蕭何が6篇に3篇を加えたが
、本来最後に置かれる筈の具律も最後には移さなかったことが記されている。これらは
前漢・後漢を通じて最も基本的な法典の1つとして扱われ、儒家における経書に相当す
るということで、儒教の国教化に伴って儒家が司法の場に関わるようになったことも含
まれて、律経とも称されて多くの注釈が行われたが、南北朝の混乱のうちに散逸した。
つまりこの頃の法の基盤となっていたのである。これは日本にこうした法典の基盤がな
く漠然と捕縛や罪人を作っていた事を意味し、それを聖徳太子は明快にしたのだった。
 つまり、盗んだ者、殺した者拘束をした者追いかけ回した者嘘をついた者批判を挙げ
た者を犯罪者とした。更に戸数を改めて、戸籍と租税と労役と倉庫管理を決めたのだっ
た。ここに管理するためのものとして宮が置かれた。これが社であり府となった。江戸
期であってもこうした登録された人別帖は、神社から社寺に移って門徒管理をおこなっ
た。つまり荘園経営までは神社だったが、幕府が置かれてからは社寺となったのである
。と言う事は平安時代までは、神宮や社がそれを行っていたが、社寺に移行してからは
それが行われなくなった。悪党とは強い奴と同時に宮に届け出されない徒党であった。
と言える。


1197: 名無しさんAA:18/03/29 19:05
 ちょっくら寄り道    5

 基本的には日本では特に古代には家のない人も大勢いた。それで今の川縁での不法の
住民が大勢いたのである。大火でも震災でも不幸にも貴族でも家のない者になったのだ
。これではかわいそうだ、あるいは神社があったおかげで。などと言う事で寄進された
のが飛鳥時代以前の神社だった。こうした文化の中に朝廷が政治を行っていたのである
 元慶8年、文章博士菅原道真ら8名の有識者に「太政大臣の職掌の有無」が諮問され
た。8名の答申はさまざまで意見の一致を見なかったが、もっとも明確に結論をくだし
たのは道真の答申である。それは、太政大臣は「分掌の職にあらずといえども、なお太
政官の職事たり」というものであった。「令に太政大臣の職務権限に関する規定がない
のは、地位のみが高くて、実権のない官職だからではなく、太政官が管轄するすべての
職務について権限を有するために、あえて個別に例示する必要がないからだ。」という
のである。これを踏まえ、光孝天皇は同年6月に基経に対して、太政大臣は「内外の政
統べざるなし」との詔を発し、太政大臣が実権のある官職であることを保証した。しか
し、同じ詔で「まさに奏すべきのこと、まさに下すべきのこと、必ずはじめに諮稟せよ
、朕まさに垂拱して成るを仰がむとす」とも述べて、基経には太政大臣とは別の特殊な
権限があることも認めてながら、その方針をちゃんと言って行えと言った。藤原 基経
(ふじわら の もとつね)は、こうして平安時代前期の一般の公卿でも、摂政であった
叔父・藤原良房の養子となり、良房の死後、清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇
の四代にわたり朝廷の実権を握った。陽成天皇を暴虐であるとして廃してのち、光孝天
皇を立てて自らの身分に冠位を付けたのだった。関白・藤原基経亡き後の藤原氏にまだ
有力者がいなかったこともあり、宇多天皇は道真を用いて藤原氏を牽制した。宇多朝の
末期にかけて、左大臣の源融や藤原良世、宇多天皇の元で太政官を統率する一方で道真
とも親交があった右大臣の源能有ら大官が相次いで没した。寛平9年(897年)に藤原
時平が大納言兼左近衛大将、道真は権大納言兼右近衛大将に任ぜられ、この両名が太政
官のトップに並ぶ体制となる。7月に入ると宇多天皇は醍醐天皇に譲位したが、道真を
引き続き重用するよう強く醍醐天皇に求め、藤原時平と道真にのみ官奏執奏の特権を許
した。昌泰2年(899年)右大臣に昇進して、時平と道真が左右大臣として肩を並べた。
しかし、儒家として家格を超え大臣に登るという道真の昇進に対して妬む廷臣も多く、
昌泰4年(901年) 間もなく醍醐天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀
ったと誣告され、罪を得て大宰員外帥に左遷されるに至ったのである。

1198: 名無しさんAA:18/03/29 19:05
 ちょっくら寄り道    6

菅原道真が太宰府に配流(はいる)されて不遇のうちに死んだことはよく知られている
。「北の天神縁起」などによると、菅原道真が死んで幾月も経たないある夏の夜、道真
の霊魂が比叡山の僧坊に現れて、尊意(そんい。道真が仏教を学んだ師)にこれから都
に出没し、怨みを復讐ではらす決意を述べ、邪魔をしないようお願いをしたのだそうだ
。・・・・その後、道真の怨霊は暴れまくることになる。その後数年経った908年、
道真配流の首謀者のひとり藤原菅根(すがね)が54才でなくなったが、都では道真の
怨霊の祟りだという噂が流れたが、翌年、道真の怨霊はいよいよ核心に迫っていく。道
真左遷の張本人の藤原時平は、すでにこ病床にあったが、天竺渡来の妙薬も効き目がな
く、また陰陽師(おんみょうし)の祈祷の効き目もなかった。文章(もんじょう)博士
・三善清行(きよゆき)は、自分の長男であり当時都でもっとも有名であったかの浄蔵
(じょうぞう)に加持祈祷をさせることになった。ところが、4月4日のこと、清行が
時平のところに見舞いに来ると、道真の霊は、時平の左右の耳から二匹の青竜となって
現れ、次のように語りかけた。「無実の罪で配流となり、太宰府で死んだ私は、今や、
天帝(梵天・帝釈天)の許可を得たので、怨敵に復讐を加えようと決断をした。なのに
おまえの息子浄蔵は頻繁に時平を加持祈祷している。どうせ無駄なことだから、やめさ
せよ。」と言った。鬼神を操って冥界のことにも明るい清行は、即座に理解し、浄蔵に
時平邸からの退出を命じ、自分みずからも退出したのだが、まもなく時平の命は絶えた
という。時平の命を奪った道真の霊は、その後ますます激しさを加え、時平の子孫たち
を次々と死に追いやり、遂に923年、醍醐天皇の皇太子の命まで奪うに至る。そして
930年6月26日には、清涼殿(せいりょうでん)に落雷が起こった。これが凄かっ
た。昼すぎの頃、愛宕山の上より起こった黒雲はたちまち雨を降らせ、にわかに雷鳴を
轟かして清涼殿の上に雷を落とし、神火を放った。この結果、殿上の間に侍していた、
大納言藤原清貫は胸を焼かれて死亡し、右中弁平希世(まれよ)の顔は焼けただれた。
また紫宸殿(ししんでん)にいた者のうち、右兵衛佐美努忠包(みぬのただかね)は髪
が焼けて死亡、紀陰連(きのかげつら)は腹部が焼けただれて悶乱、安曇宗仁(あずみ
むねひと)膝を焼かれて倒れ伏すというありさまであった。この落雷で、天皇も病に伏
し起きれなくなったしまった。---おそろしや!おそろしや!---道真の怨念と噂された
理不尽な処置で人を死に追いやれば、その怨霊はその罪を犯した人すべてに報復を加え
、ついには最高責任者たる天皇をも殺しかねないのだという認識が当時の人々の間に、
すっかり定着してしまった。

1199: 名無しさんAA:18/03/29 19:06
 ちょっくら寄り道    7

 939年12月、かの平将門は新皇即位の儀式をするが、そのときにも道真の怨霊が
出てきて平将門をけしかける。と言う騒動になった。このように道真の怨霊は実に執念
深いのだが、人々の意識の変化とともに次第に怨霊の怨みもやわらいでいく。浄蔵の弟
・道賢は、わずか12才であったけれど、父清行の命で、・・・・吉野は・・・「役の
行者」ゆかりの金峰山(きんぷせん)に篭もり、父の死にも帰京せず26年間の修験道
に励む賢者の僧侶として名が知れ渡った。こうして道真の怨霊を鎮める為遣わされた。
文章(もんじょう)博士・三善清行(きよゆき)の長男であり、当時都でもっとも有名
であって、藤原時平の祈祷を青鬼の提言で辞めさせられた僧だ。この浄蔵に加持祈祷を
させることになった。オンボダロシャニソワカ・オンバサラダドバン・オンアビラウー
ンクハン・オンアメリタティー・ゼイカラウーンノウマクサマンダボダナンと祈祷は続
く。26年後やっと修験の効なって、「冥界めぐり」に成功したという。道賢は、道真
の怨霊の怨みを聞いてやる。神通力のある修験者に聞いて貰えれば道真の怨みもさすが
にやわらぐというものだ。となった。遂に、その後942年になって、道真の霊は多治
比のあやこという女性にご託宣を下し、道真の霊を祭らせる。天神の誕生である。こう
して北野天神社の創建へと繋がっていく。この御信託で北野天神社が創建されたのは、
946年である。こうして配所で薨去(こうきょ)された道真公の冤罪が晴れたことを
祝う明の祭は4月に行われた。このことから無実の罪に泣く弱者を救ってくださる神と
の信仰が生まれた。手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)は、奈良県奈良市に鎮座
する神社。手向山神社とも言うとされ。古今和歌集では菅原道真が「このたびは幣もと
りあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに」と詠んでいるという。しかしこの山もこの神
社も移転してここに来ている。何故なら天平勝宝元年 (749年)、東大寺大仏を建立す
るにあたって宇佐八幡宮より東大寺の守護神として勧請されて建てられているからだ。
八幡宮の分社では第一号であると言うが極めて疑わしい。当初は平城宮南の梨原宮に、
鎮座し、後に東大寺大仏殿南方の鏡池付近に移座したが、治承4年(1180年)の平重衡
による戦火で焼失、建長2年(1250年)に北条時頼が現在地に再建したとされているか
らだ。つまり当初の鎮座地とされる梨原宮の所在地は不明のままなのだ。

1200: 名無しさんAA:18/03/29 19:07
 ちょっくら寄り道    8
 ところが、不思議な事に手向山(たむけやま)は、北九州の小倉赤坂にある。高さ76
メートルの小さな山なのだが。小倉北区と門司区の境界に位置する山で、今は宮本武蔵
を顕彰する小倉碑文があることで有名だが、後年、宮本武蔵と佐々木小次郎ので有名な
決闘(巌流島の決闘)が行なわれたとされる場所だ。足立山系最北部に位置し、正面に
は関門海峡、彦島、巌流島などが見える。企救半島の付け根に位置し、小山ではあるが
企救半島と小倉平野を分断している。古くから見晴らしがいいので地政学上の要衝であ
った。明治時代は、関門海峡周辺の要塞化にともない、下関側の田の首砲台とともに、
要衝とされ手向山は最初に砲台の設置がはじまり、手向山は一般人の入山が禁止されて
。山は帝国陸軍下関要塞司令部によって1945年(昭和20年)まで管理されたほどだ。こ
の要地は古代では博多人と出雲人の交流し往来していたと考えられる。九州縦貫道の中
ではもっとも危険なカーブのある冨野パーキングエリアの古代の門司港の中心になった
とされる場所である。ここにある冨野と言う地名だが、ここで物々交換がされていた。
と考えられる。「たむけ」と言うのは九州弁で「ありがとう。」と言う見送りの言葉と
される。船の出港に手を振る辛い別れの様子である。もしここで菅原道真が「このたび
は幣もとりあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに」と詠んでいるというなら頷けるもの
が多々ある。急遽の左遷で九州下向してやっとここに着いて まずは地の神に手合わせ
した歌だった。とすればこの意味が解るのだ。内容が「今度の旅は急のことで、道祖神
に捧げる幣(ぬさ)も用意することができませんでした。手向けの山の紅葉を捧げるの
で、神様よ、御心のままにお受け取りください。」と言う意味だからだ。ここでも旅と
度をかけて詠んでいる。つまり暗殺すらもある京都から逃げるように九州下向してきた
のではあるまいか。歴史学者は「朝廷内の政敵・藤原時平に、過去(功績)と現在(権力)
を奪われただけである。」と、断じたが、左遷後わずか二年で亡くなっていることから
、ほとんど未来を奪われたようなものである。と考えられる。考えようによっては、こ
の少し前の、早良親王(さわらしんのう)よりも「史上最強の怨霊」にふさわしい理由な
のかもしれない。早良親王も、同じ様に母方が下級貴族であったために立太子は望まれ
ておらず、天平宝字5年 (761年)に出家して東大寺羂索院や大安寺東院に住み込んで
修行し親王禅師と呼ばれていた暮らしをしていた。しかし天応元年(781年) 兄の桓武
天皇の即位と同時に光仁天皇の勧めによって還俗して世俗に戻され立太子された。その
当時、桓武天皇の第1皇子である安殿親王(後の平城天皇)が生まれていた。即位は、
既に45歳を迎えていた桓武天皇が突然崩御して、安殿が幼帝となる事態を回避する為
ために行われた物だったのである。

1201: 名無しさんAA:18/03/29 19:07
 ちょっくら寄り道    9

 しかしまた記録では、皇太子にも関わらず早良親王が妃を迎えたり子を為したとする
記録が存在せず、桓武天皇の要求か早良親王の意思かは不明であるものの、不婚で子孫
が存在しなかったとされ、早良の没後に安殿が皇位を継げることも立太子された要因で
もあったと考えられている。桓武天皇は天応てんおう元年(七八一)に平城京で即位し
たが、すぐに遷都を計画した。延暦三年(七八四)六月には山城(やましろ)の国の乙
訓郡(おとくにのこおり)に長岡京の造営をはじめ、十一月、完成を待たずに遷都を済
ましている。ところが、ここで思わぬハプニングが起きている。翌年の四月、桓武天皇
が長岡京を留守にした隙をついて、何者かが、造都の責任者・藤原種継を射殺してしま
っている。下手人は『続日本書記』によれば、中納言・大伴家持が大伴氏と佐伯氏を巻
き込み、桓武天皇の実の弟で皇太子の早良親王をそそのかして、藤原種継を殺した。と
いう事になっている。早良親王はすぐに捕らえられ、廃太子はいたいし、淡路国に配流
がきまった。大伴家持は東北の地に赴任していたが、事件の直前に、すでに亡くなって
いて、死後追罰を受けた。遺骸の埋葬を許されず、官籍からはずされた。息子も流罪と
なった。この時の背景が、藤原種継の母は秦氏で、山城国の土地に根ざした渡来系豪族
だった事だ。長岡京遷都を急いだ桓武天皇は、秦氏と太いパイプを持つ藤原種継を重用
したのだろうし、こののち、秦氏の影響力が増していくことは、火を見るよりも明らか
だった。他の筆頭の藤原氏にすれば、これは面白い話ではない。又皇太子の早良親王が
大伴氏とつながっていたことも、藤原氏にすれば、許されざる事だった。もし早良親王
が即位すれば、藤原氏の地位が危うくなる。彼らの標的は、大伴家持でなく、早良親王
であったと言える。早良親王を抹殺するために、大伴家持が主犯格にでっちあげられた
と考えられる。ここで例えば佐伯氏は大分の名称であり 早良が福岡の名称である事は
重要だ。そもそも桓武天皇が即位したのは不思議だった。他戸親王を抹殺しなければ、
殆ど桓武天皇(山部親王)は即位できなかったのである。光仁天皇の正妃の井上内親王
との間に他戸親王(おさべしんのう)が、ちゃんと皇太子となっていたからだ。井上内
親王は天武系の娘で、バランスの中心的存在でもあった。しかし吉備真備は孤軍奮闘し
藤原氏に囲まれて、政争に敗れ、「長生の弊、この恥にあう」と述べ、朝堂から去って
いき宝亀元年(七七〇)、光仁天皇が即位していた。

1202: 名無しさんAA:18/03/29 19:07
 ちょっくら寄り道    10

『日本書紀』に従えば、天智天皇と天武天皇は実の兄弟だから、天武の王家が途絶えて
天智系の天皇が新たに立ったとしても、全く大きな問題はなかった。しかし、この入れ
替わりこそ、その後の歴史の怨念の連鎖と言っても過言ではなかったのだ。そもそもは
天智と天武は、仲の悪い兄弟で水と油の存在だった。天智天皇を推す藤原氏は天武天皇
を疎んだ。天武天皇を推す蘇我氏は、当然天智天皇を倒しかかる。かくして壬申乱は(
六七二)で大海人皇子(天武天皇)は甥の大友皇子みこを殺して玉座を手に入れたのだ
。天智天皇の王統は、ここで途切れた様に見えるが、天武天皇崩御すれば、直ぐに皇后
の野讃良(持統天皇)が皇位を「簒奪」してしまった。こうして混乱が生まれる。持統
天皇は天智天皇の娘であり、表向き持統は天武の末裔を即位させるための中継ぎだった
が、即位し持統を支えた藤原不比等は、「持統天皇から始まる天智系の王家の創立」と
確立目論んでいたと言える。そして出来た新たな王家の血筋は、藤原不比等の孫首の皇
子の聖武天皇が即位することによって、完成し安泰する筈であった。ところが聖武天皇
は、自分が「天武の子」であることに目覚めた。藤原仲麻呂(恵美押勝)との政争を、
始めてしまうのである。聖武の娘の称徳天皇は、恵美押勝を誅伐し、道鏡を皇位に就け
ようとまでした。これは道鏡は禅僧で物部氏の一族で、物部守屋と蘇我氏と血みどろの
抗争劇の再来を意味していたのである。言わば仏教と国家神道の攻防であり、それを又
繰り広げる事は、国民にかなりの危機感があったのだ。しかしそれはそれで秦氏をまだ
ないがしろにはできなかった事情もあった。この秦氏系の早良親王が流罪で淡路の国に
配流となったが、抗議の断食をして亡くなってしまったのである。これは長岡京に戦慄
が走る結果を生んだ。早良親王の祟りが襲ったからだ。延暦七年(七八八)のことであ
る。ここから先、桓武天皇の后・旅子、早良親王の母・高野皇太后、安殿や賀美能親王
の母で桓武天皇の皇后・乙牟漏などがつぎつぎに亡くなっていったのである。たまらず
桓武天皇は、早良親王の御陵のある淡路国府に命じ、御陵に塚守を置き、周辺での殺生
を禁じた。しかし、本当の早良親王の祟りの恐ろしさは、ここから始まった。延暦九年
の秋から冬にかけて、天然痘が大流行したのである。こうして安殿親王の体調が思わし
くなかったので、占ってみると早良親王の祟りと分かった。あわてて安殿は伊勢神宮に
参拝、桓武天皇は改めて早良親王を祀った。早良親王は崇道天皇と追号され、こうして
鎮められたのである。こうして桓武天皇は、都・長岡京を棄て、平安京を造営するので
ある。

1203: 名無しさんAA:18/03/29 19:07
 ちょっくら寄り道    11

 熊本市にある弓削神社には「道鏡が失脚した後この地を訪れて、そこで藤子姫という
妖艶華麗な女性を見初めて夫婦となり、藤子姫の献身的なもてなしと交合よろしきをも
って、あの大淫蕩をもって知られる道鏡法師がよき夫として安穏な日々を過ごした」と
いう民話がある。藤原氏にとって悪夢のような出来事だったのだ。称徳天皇崩御ののち
、藤原百川は、天智天皇の孫の白壁王しらかべおうを推した。すでに齢六十を超えてい
たが、危険を感じ、「酔いどれ」を装っていた人物だ。この人物こそ、桓武天皇の父・
光仁(こうにん)天皇である。天平宝字8年(764年)には藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の
乱)鎮圧に功績を挙げ、称徳天皇(孝謙天皇が重祚)の信任を得て、天平神護2年(766
年)には大納言に昇進した。だが度重なる政変で多くの親王・王が粛清されていく中、
白壁王は専ら酒を飲んで日々を過ごす事により、凡庸・暗愚を装って難を逃れたと言わ
れている。奈良時代に起きた恵美押勝の叛乱は、孝謙太上天皇・道鏡と対立した太師を
(太政大臣)藤原仲麻呂(藤原恵美押勝)が軍事力をもって政権を奪取しようとして、
失敗した事件であるとされる。飛鳥時代後期から奈良時代前期の阿倍比羅夫の子である
筑紫大宰帥の 大納言で公卿である阿倍 宿奈麻呂(あべ の すくなまろ)に算術を学び
非常に優れた人だったとされる文武天皇末年 (706年)に藤原南家の始祖である、藤原
武智麻呂の次男として生まれ、生まれつき聡明鋭敏であり、大抵の書物は読破していた
。とされる言わば天才か秀才である。別名恵美大臣とも呼ばれたと言う。この頃の体制
は仲麻呂の上位に外伯父の橘諸兄と実兄の藤原豊成が左右の大臣として並んでいた。と
され、東大寺の盧舎那仏像 の鋳造が完了し、藤原仲麻呂自身も仏教に 関心を示してい
たといわれ、仏教信仰に篤い光明皇太后を支援していた。こうして天平勝宝4年 (752
年)大仏開眼供養会が盛大に催されたりしている。だが急に橘諸兄が朝廷を誹謗したと
の密告があがって、聖武上皇はこれ許したものの諸兄は恥じて翌天平8年 (756年)に
左大臣を辞官した事で次々と事件が起こり始める。同年聖武上皇が崩御。遺詔で道祖王
が皇太子に立てられたが、道祖王は喪中の不徳な行動が問題視されて皇太子を廃される
。仲麻呂の意中の大炊王(後の淳仁天皇)が立太子されるた。この人は仲麻呂の長男の
真従が早世して未亡人(粟田諸姉)なった義姉を妃とし、仲麻呂の私邸に身を寄せる程
身の上であった。しかし5月には祖父の不比等が着手した養老律令を施行するとともに
、仲麻呂は紫微内相に任ぜられて大臣に准じる地位に就いたのだ。気に入らないのが、
橘諸兄の子の奈良麻呂だった。仲麻呂を殺害して天武天皇の孫にあたる皇族を擁立する
反乱を企てるが、密告で露見し。奈良麻呂他443人が処罰される大事件となっていた。

1204: 名無しさんAA:18/03/29 19:08
 ちょっくら寄り道    12
新帝擁立の候補者に名が挙がっていた道祖王や黄文王も捕縛され拷問を受けて獄死し、
反乱に関与したとして右大臣藤原豊成も左遷された。これが橘奈良麻呂の乱とされる。
こうしてこれによって仲麻呂は太政官の首座に就き、名実ともに最高権力者となったの
である。しかし、この年に、唐で安史の乱が起きた。との報が日本にもたらされていて
、仲麻呂は大宰府をはじめ諸国の防備を厳にすることを命じている。天平宝字3年(759
年)には新羅が日本の使節に無礼をはたらいたとして、仲麻呂は新羅征伐の準備をはじ
めさせている。軍船394隻、兵士4万700人を動員する本格的な遠征計画が立てら
れるが、この遠征は後の孝謙上皇と仲麻呂との不和により実行されずに終わる。しかし
当時とすればかなりの動員なのである。一方で、この頃病になった孝謙上皇は、自分を
看病した道鏡が気に入って、側に置いて寵愛するようになってしまった。仲麻呂は淳仁
天皇を通じて、孝謙上皇に道鏡との関係を諌めさせたが、これが孝謙上皇を激怒させ、
上皇は出家して尼になるとともに天皇から大事・賞罰の大権を奪うことを宣言する。こ
れが実現したかどうかは不明だが、これによって徹底した不和となり、更に孝謙上皇の
道鏡への寵愛は深まったとされる。天平宝字7年 (763年)には道鏡を少僧都とした。
対立が深まったまま仲麻呂は、天平宝字8年(764年)自らを「都督四畿内三関近江丹波
播磨等国兵事使」に任じて 国内の最高軍事司令官に修めた。これでさらなる軍事力の
掌握を企てた。しかしここでも謀反の密告があり、上皇方に先手を打たれて天皇のもと
にあるべき御璽や駅鈴を奪われると、仲麻呂は平城京を脱出するが、官軍に攻められて
敗北し琵琶湖にて更に逃れようとする中、官兵石村石楯に捕らえられて斬首された。安
史の乱は、安禄山の乱(あんろくざんのらん)とも言われ、唐の中央政権の疲弊からの
限界を示していた。唐は太宗の時代に大幅に領土を広げ、その領土を都護府・羈縻政策
・府兵制・鎮兵の制度をもって維持していた。しかし玄宗時代になると、従来の府兵制
が上手く行かなくなり、辺境以外にも藩鎮が設置された。この府兵制が行き詰まったの
だ。背景には、基になった兵制では兵の担い手が部族制の下で集団生活を行う牧畜民で
あったのに対して、唐の府兵制は定住して田を耕作する農民が兵を兼ねた。従って年間
に3ヶ月の軍事訓練の懲役は農業への負担が大きく、郷里と家族から離れての任務には
士気が低く戦闘に弱かった。辺境への赴任は兵役拒否も生み、負担に耐えかねて逃亡ま
でして、本籍地を離れた土地で貴族に囲われ奴婢となる良民もいたほどだった。節度使
は駐屯軍の将軍とその地方の財政官を兼ね、任地の税収を軍の糧秣と兵士の雇用に使う
制度で、初めの異民族対策として西北方面を中心に10の節度使が設けられていたが、
これも肥沃な土地と砂漠の土地や寒冷地では大きく問題があった。

1205: 名無しさんAA:18/03/29 19:08
 ちょっくら寄り道    14

 問題は、この唐から逃げた皇帝である。玄宗は蜀に逃亡し、皇太子の亨が皇帝に即位
し粛宗となった事だ。蜀は天然の要害であり、周辺からの侵攻の危険が少なく、塩・鉄
などの資源を豊富に有して古来より「天府」と呼ばれていた。この平和を求めて多くの
文化人・僧などが中原から蜀へ流れてきており、豊かな経済力を背景に文化の保護を行
い、木版印刷による儒教・仏教の経典の出版やこの地での絹織物の生産などの事業を興
していた。しかしその一方で、侵攻の危険性が薄い事から軍隊の目は内部への監視に向
いており、尋事団と呼ばれる秘密警察を作り、不満分子を圧殺していた文化があった。
日本と唐との接触は遣隋使船や遣唐使船で解ってはいるが仏教文化の伝来では唐ではな
くこの蜀の文化が色濃く、併せて儒教・仏教の経典の出版物などを取り入れていたのだ
。『藤氏家伝』は、ある日の宴会で激した大海人皇子が長槍で床板を貫き、怒った天智
天皇が皇子を殺そうとしたという話を伝える。藤原鎌足が取りなして事なきを得たとい
うが、天智天皇7年 (668年)のことと推測されている。この長槍を持ち出す程の事が
何だったかである。天智天皇10年( 671年)の正月に、天智天皇は大友皇子を太政大
臣に任命し、左大臣、右大臣と御史大夫を付けた。太政大臣は国政を総覧する官職で、
その職務は大海人皇子が果たしてきた仕事であった。この直後に東宮太皇弟が、冠位・
法度のことを施行させたと記される。「或本に云わく」として大友皇子が行ったとも注
記する。また他では大友皇子が太政大臣になったのは5年も前にさかのぼる。多くの歴
史学者はどちらを採るかを迷う。しかしともかくも天智天皇は、こうして大海人皇子を
朝廷から全く疎外した。これは天智天皇に、大友皇子をして皇位を継がせる意図があっ
たためと言われる。しかし、天智天皇は、病がいよいよ深くなった10年(671年)10
月17日に、大海人皇子を病床に呼び寄せて、後事を託そうとした。蘇我安麻呂の警告を
受けた大海人皇子は、皇后である倭姫王が即位し大友皇子が執政するよう薦め、自らは
出家してその日のうちに剃髪し、吉野に下ったと言われる。 天智天皇の死後、672年に
壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)を倒し、こうして天武天皇が生まれるが、持統天皇の
統治は基本的に天武天皇の路線を引き継ぎ、完成させたもので天武・持統朝などの言葉
で一括されるが皇族を要職につけて他氏族を下位におく皇親政治を確立し白鳳文化を完
成させた時代である。道教に関心を寄せ、神道を整備し、仏教を保護して国家仏教を推
進した。その他日本土着の伝統文化の形成に力があった。天皇を称号とし、日本を国号
とした最初の天皇とも言われる。ここに豪族の寄り合い所帯が日の元日本の朝廷になる


1206: 名無しさんAA:18/03/29 19:13
 ちょっくら寄り道    16

孝徳天皇が力を入れたのが一大土木工事を共なう都の整備で、溝造りに3万人、石垣造
りに7万人を使って、659年に石と水の都を建設している。(狂心の渠:たぶれごこ
ろのみぞ)などといわれても行ったのである。この大土木工事は豪族たちの反感を招く
ことになり、孝徳天皇の皇子で次期天皇の有力候補の1人有間(ありま)皇子のもとに
も政治への不信・不満を持った豪族たちが集まったという。しかし何故猛反対を蹴って
まで孝徳天皇は難波の都を作り遷宮遷都を強行したのか。それが唐の異変だった。朝鮮
半島では古来より、半島北方と大陸方面を領土とした高句麗と、半島南東部の新羅、南
西部の百済の三国がしのぎをけずっていたが、中国が五胡十六国の分裂の時代が終わり
を遂げ、隋による統一国家が成立し、朝鮮半島への出兵を行い覇権を行うようになって
いった。隋は高句麗に対する3度の遠征に失敗し4度目の出兵を計画するが、中国国内
に内乱が起こって自滅した。次の唐も高句麗へ3度の出兵を行うが成功せず、新羅と結
んで先に百済を滅亡させる作戦に出たのだ。 660年、唐は水陸13万人の大軍を動員し
て山東半島から出発し、新羅軍も5万人の兵で出陣した。新羅軍は黄山之原(現在の忠
清南道論山郡)で勝利し、唐軍は白江(現在の錦江の中流扶余邑付近の別称)つまり、
これまでの新羅・百済連合が新羅が裏切って唐に付いたのである。百済の滅亡後も、6
65年頃まで、王族の福信・僧道傑(どうちん)・日本にいた人質王族の王子豊璋など
が、高句麗や日本の大和朝廷の支援を受けて執拗に唐・新羅連合軍と戦っていたのだ。
日本からは3万7千人余りの軍を送り、663年に、錦江河口で2日間に渡り 唐・新羅の
連合軍と戦ったのだが大敗した。この場所の古名をとって、「白村江(はくそんこう・
はくすきのえ)の戦い」と呼ばれる。この時なお、多くの百済人が日本へ亡命してきた
のである。実はこの大量の難民がこの土木工事を行わせていたのである。彼らの勝手に
住み着いた地で、この地での土木工事と引き換えに百済救援を行っていたのである。こ
の移民達は問題も多く起こしていた。しかし、660年百済滅ぶ。659年、斉明天皇
は蝦夷を連れた遣唐使を百済と敵対する唐に遣わした。唐はこの時百済に攻め入ろうと
していた筈だ。百済は新羅へ再侵攻を果たしたが、唐の高宗は新羅の軍と百済の都扶余
(ふよ)に攻め入った。百済の義慈王(ぎじおう)は降伏する。こうして660年7月
18日、百済が滅亡した。この後、百済使が百済の滅亡を伝えに日本に来航し、当時の
日本(倭国)にとっては大きな衝撃を与えた。唐は百済を統治し始めるが、それに対抗
して、尚も百済の元有力貴族等が反乱軍を結成する。中心人物となったのが鬼室福信(
きしつふくしん)だった。

1207: 名無しさんAA:18/03/29 19:13
 ちょっくら寄り道    15

 吉野に逃れた時大海人皇子を、近江朝の人々は「虎に羽をつけて放ったようなものだ
」と評したといいますから、もし大海人皇子が譲位を受け入れていたら、おそらく謀叛
の濡れ衣を着せられ、捕らえられていたのでしょう。それくらいおかしな組織だった。
 同年12月に天智天皇が崩御すると、大海人皇子と大友皇子は一触即発となります。時
に大海人皇子41歳、大友皇子24歳。ほどなく大友側の不審な動きを察知した大海人
皇子は、翌天武天皇元年6月に吉野から東に向かって遁走、つき従うのは僅かな供だけ
でした。その直前、大海人皇子は配下に、先行して美濃の不破の関を塞ぐよう命じてい
ます。そして吉野から伊勢に抜け、美濃に至る過程で、東海道・東山道の諸勢力に使者
を派遣、これに多数が応じて出兵する。一方、大友皇子は筑紫、吉備、東国に援軍要請
を出しますが、西国は統括する者を動かせず、東国は大海人皇子方の軍勢に阻まれて、
ことごとく失敗した。7月2日、二方面に進軍を開始した大海人皇子軍は、大和方面で
近江朝軍を撃退。また近江方面では7月7日、息長(おきなが)の横河で近江朝軍を破り、
以後も連勝を重ねます。そして7月22日、瀬田の戦いで近江朝軍は大敗を喫し、翌日
、大友皇子は自害した。ここに壬申の乱は終結し、近江朝は滅亡し、翌天武天皇2年に
(673)2月、大海人皇子は都を飛鳥に戻し、即位しました。天武天皇となったのである。
壬申の乱はもちろん皇位継承の争いですが、その背景に天智天皇の強引な改革への不満
、身分の低い母親に生ませた大友皇子に皇位を継がせようとすることへの反発、さらに
白村江の敗戦から生じた天智天皇の遷都や国防施設の築造といった負担に対する、豪族
や民衆の離反があったといわれる。白村江の戦いは天武天皇32歳の時になる。倭国・
百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争のことで、天智2年8月( 663年10月)
に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われたとされる。655年、朝鮮半島
北部で、対立していた唐と高句麗が戦いを始めた為、南部で、百済を新羅が侵攻した。
新羅は唐とは同盟状態で唐の要請に応えたのである。倭国は大化改新の後、皇極天皇の
弟孝徳天皇が難波で即位していて治世を行っていた。653年、中大兄皇子は都を飛鳥
に戻すことを申し出た。政治の中心は中大兄皇子であり、その力は強大で孝徳天皇は飾
りにしかすぎなかった。それでも孝徳天皇は遷都に反対したため、皇子は母皇極上皇、
大海人皇子、間人皇后(孝徳天皇の皇后、中大兄皇子の妹)や従者を連れて飛鳥に戻っ
てしまった。翌年、孝徳天皇は難波にて崩御する。


1208: 名無しさんAA:18/03/29 19:14
 ちょっくら寄り道    16

孝徳天皇が力を入れたのが一大土木工事を共なう都の整備で、溝造りに3万人、石垣造
りに7万人を使って、659年に石と水の都を建設している。(狂心の渠:たぶれごこ
ろのみぞ)などといわれても行ったのである。この大土木工事は豪族たちの反感を招く
ことになり、孝徳天皇の皇子で次期天皇の有力候補の1人有間(ありま)皇子のもとに
も政治への不信・不満を持った豪族たちが集まったという。しかし何故猛反対を蹴って
まで孝徳天皇は難波の都を作り遷宮遷都を強行したのか。それが唐の異変だった。朝鮮
半島では古来より、半島北方と大陸方面を領土とした高句麗と、半島南東部の新羅、南
西部の百済の三国がしのぎをけずっていたが、中国が五胡十六国の分裂の時代が終わり
を遂げ、隋による統一国家が成立し、朝鮮半島への出兵を行い覇権を行うようになって
いった。隋は高句麗に対する3度の遠征に失敗し4度目の出兵を計画するが、中国国内
に内乱が起こって自滅した。次の唐も高句麗へ3度の出兵を行うが成功せず、新羅と結
んで先に百済を滅亡させる作戦に出たのだ。 660年、唐は水陸13万人の大軍を動員し
て山東半島から出発し、新羅軍も5万人の兵で出陣した。新羅軍は黄山之原(現在の忠
清南道論山郡)で勝利し、唐軍は白江(現在の錦江の中流扶余邑付近の別称)つまり、
これまでの新羅・百済連合が新羅が裏切って唐に付いたのである。百済の滅亡後も、6
65年頃まで、王族の福信・僧道傑(どうちん)・日本にいた人質王族の王子豊璋など
が、高句麗や日本の大和朝廷の支援を受けて執拗に唐・新羅連合軍と戦っていたのだ。
日本からは3万7千人余りの軍を送り、663年に、錦江河口で2日間に渡り 唐・新羅の
連合軍と戦ったのだが大敗した。この場所の古名をとって、「白村江(はくそんこう・
はくすきのえ)の戦い」と呼ばれる。この時なお、多くの百済人が日本へ亡命してきた
のである。実はこの大量の難民がこの土木工事を行わせていたのである。彼らの勝手に
住み着いた地で、この地での土木工事と引き換えに百済救援を行っていたのである。こ
の移民達は問題も多く起こしていた。しかし、660年百済滅ぶ。659年、斉明天皇
は蝦夷を連れた遣唐使を百済と敵対する唐に遣わした。唐はこの時百済に攻め入ろうと
していた筈だ。百済は新羅へ再侵攻を果たしたが、唐の高宗は新羅の軍と百済の都扶余
(ふよ)に攻め入った。百済の義慈王(ぎじおう)は降伏する。こうして660年7月
18日、百済が滅亡した。この後、百済使が百済の滅亡を伝えに日本に来航し、当時の
日本(倭国)にとっては大きな衝撃を与えた。唐は百済を統治し始めるが、それに対抗
して、尚も百済の元有力貴族等が反乱軍を結成する。中心人物となったのが鬼室福信(
きしつふくしん)だった。

1209: 名無しさんAA:18/03/29 19:15
 ちょっくら寄り道    17

 660年10月、鬼室福信は百済王朝を再建させるために、倭国に次のような要請を
してきた。「631年から人質として倭国にいる王子(豊璋:ほうしょう)を国王位に
つかせるため送還してほしい。」(倭国から百済復興のための援軍を送ってほしい。)
と、鬼室福信の要請に対して、斉明天皇は百済王朝再建を約束し、自ら飛鳥を出て筑紫
(九州)へ移ることにした。旧来の朝鮮征伐の手法である。筑紫への移動は、各地での
武器を調達し、兵を集めながらの長旅となった。同行者には、中大兄皇子、大海人皇子
、大田皇女、額田王、中臣鎌足の他、多数の従者。こうして飛鳥から筑紫への遷都とも
考えられる大移動となったのである。新羅の救援要請の唐軍は、百済が唐・新羅連合軍
によって滅ぼして、唐は百済の旧領を郡県支配の下に置いたが、すぐに百済遺民による
反抗運動が起きていたし、唐で高宗に代わり則天武后が権力を握り始めていた。則天武
后は637年、太宗の後宮に入り才人で武皇后の庶民の通名である 太宗の崩御にともない
、出家することとなったが、その後宮中は帝位を継いだ高宗のもと妃の対立が起こり、
高宗に勧められ入宮するに及んだ。入廷後は他をことごとく退けて武皇后は高宗に代わ
り、垂簾政治を行った、又配置する人材の採用に当たって、身分をいとわず才能と武皇
后への忠誠心を重視した重用を謀った。出自を問わない才能を発掘する一方で、底なし
の密告政治により反対者を排除した。こうして新羅の請願を容れ百済討伐の軍を起こし
、百済を滅ぼした。倭国(日本)・旧百済連合軍と劉仁軌率いる唐軍が戦った白江口の
戦い(白村江の戦い)にも勝利し、その5年後には孤立化した高句麗を滅ぼした。元々
法律に通暁した「酷吏」が、総じて反対派を監視する恐怖大獄を行った。この状況に、
高宗は、宰相を招いて武皇后の廃后を計画するが、武皇后は計画を事前に察知し、皇帝
の権力奪還を許さなかった。こうした武則天の専横に対して、皇族は男性・女性を問わ
ずに次々と叛乱の挙兵に動いたが、いずれも打ち破られた上に族滅の惨状を呈したのだ
った。民衆は武后に恐怖を感じ、朝政も生活を困窮に至らしめ多くの浮戸や逃戸を招い
たが、農民蜂起が起こる程の事は無く過ぎた。問題は排除された皇族が大勢浮戸や逃戸
を招いた事だ。王一族は罪を着せられ厳しい刑罰を科せられた後、刑死した。以後、一
族も追われ、姓も「王」から「蟒」(ウワバミ、蛇の一種)に変えられた。また、蕭淑
妃も武后によって捕えられ、極刑に処せられた。一説では、鞭で打たれた後に手足を切
断され、酒に投げ込まれたとも伝えられる。蕭氏(しょう)は「梟」(フクロウ、子が
親を食う不孝の鳥とされる)姓に変えられた。彼らは漢族99番目の一族で契丹にいた
種族であった。

1210: 名無しさんAA:18/03/29 19:16
 ちょっくら寄り道    18

 とりも直さず、 鬼室福信の要請に対して、斉明天皇は百済王朝再建を約束し、自ら
飛鳥を出て筑紫(九州)へ移ることにした。筑紫へは、各地で武器を調達し、兵を集め
ながらの長旅となった。同行者には、中大兄皇子、大海人皇子、大田皇女、額田王、中
臣鎌足の他、多数の従者。飛鳥から筑紫への遷都とも考えられる大移動となった。それ
は兵を挙て決死の物で、大掛かりなものだった。土木作業の者も入れて、大勢の百済人
が付いていた筈だ。
660年 12月、飛鳥岡本宮発つと、難波宮で武器の調達
661年1月6日、難波津(なにわづ)出発
    1月8日、吉備大伯海(おおくのうみ−岡山県邑久郡)
        (大海人皇子と大田皇女の間に大伯皇女誕生)
    1月14日 伊予熟田津(いよにきたづ:愛媛県松山市)着
          石湯行宮(いわゆのかりみや:道後温泉)で長期滞在
    3月25日 那大津(福岡県博多)到着
     磐瀬行宮(いわせのかりみや:長津宮ながつのみや福岡)に入る
5月9日 朝倉宮(福岡県朝倉郡朝倉町−博多湾からは約40q離れてた
          内陸部にある)に入る 
その後662年、大海人皇子と鵜野皇女の間に草壁皇子が誕生し、663年、那大津に
て、大海人皇子と大田皇女の間に大津皇子誕生した。恐らくこの朝倉宮は、大陸からの
大軍や朝鮮への前線基地として考えたのだろう。しかし朝倉宮は麻弖良布(まてらふ)
神社の神木を切って造営したため、宮に落雷があって、宮中に鬼火が出て多くの病死者
が出たり、数々のたたりが起こった。朝倉宮に来て2か月後の7月24日、斉明天皇は
68歳で急死してしまう。こうして後の指示を司ったのが木の丸殿の中大兄皇子だった
661年7月24日、中大兄皇子は皇太子として喪に服したまま長津宮で戦いの指揮を
した。(称制−天皇に即位するための正式な儀式を行わないで政務をとること)
中大兄皇子は戦いに備え、朝鮮式の山城を築くよう指示した。661年8月に前軍将軍
として阿曇比羅夫連 河辺百枝臣 他を決め、後軍将軍に 阿倍比羅夫臣 物部熊 他
として、百済の救援軍を送った。661年9月、倭国にいた百済王朝の王子、豊璋(ほ
うしょう)に倭国最高位の「織冠(おりもののこうぶり)」を授け、5000人の兵を
つけて朝鮮半島の鬼室福信のもとへ送ったのだった。


1211: 名無しさんAA:18/03/29 19:17
 ちょっくら寄り道    19

 この時中大兄皇子は1日を1か月分と代えて考え、12か月分の12日間を喪に服し
た。中大兄皇子が籠もった場所を木の丸殿という。後の時代に、木の丸殿跡に恵蘇(え
そ)八幡宮を建て、斉明天皇と天智天皇を祀った。恵蘇八幡宮(福岡県朝倉郡朝倉町)
はこうして建てられたものだった。その後中大兄皇子(天智天皇)は母斉明天皇を追悼
するための観世音寺を建てた。662年に発願し、完成は、746年の聖武天皇の代に
なってからとなったが、その後ここは九州にある寺院の中心的な存在となった。日本最
古の梵鐘があり、国宝となっている。こうして中大兄皇子たちが飛鳥に戻って入ったの
が飛鳥河辺行宮(あすかのかわべのかりみや)だった。658年5月、斉明天皇が大変
かわいがっていた孫の1人で、中大兄皇子の皇子の建王が8歳で亡くなる。この年10
月、斉明天皇、中大兄皇子らは和歌山県西牟婁郡にある温泉に出かけた。留守は蘇我赤
兄(そがのあかえ)が務めていた。この時、赤兄は有間皇子に斉明天皇の悪政を語り始
めたと言う。11月5日、今度は有間皇子が赤兄宅を訪問し、謀反の相談をした。その
為その夜、赤兄は物部朴井連鮪(もののべのえのいむらじしび)に有間皇子を捕らえさ
せ、9日、行幸先の温泉に連行した。11日、19歳の有間皇子は謀反の企てによって
処刑された。この時から渡来系豪族蘇我氏と地方豪族物部氏との仏教崇拝者と神道維持
派の戦いが綿々と家系が入り乱れて争う事になるのである。そしてその頂点が菅原道真
の時代だった。この白村江の戦いで、百済まで豊璋を護衛した将軍に阿曇比羅夫がいる
。長野県安曇野市の穂高神社には彼の像があり、境内の石碑に次のように記されている
。「大将軍大錦中阿曇連比羅夫(だいきんのちゅうあづみのひらぶ)は、天智元年(6
62年)天智天皇の命を受け、船師170艘を率いて百済の王子豊璋を百済に護送、救
援し王位に即かす。天智2年、新羅・唐の連合軍と戦うも白村江(朝鮮半島の錦江)で
破れ、8月申戌27日戦死する。9月27日の例祭(御船祭)の起因であり、阿曇氏の
英雄として若宮社に祀られ、英智の神と称えられている。伝統芸術である穂高人形飾物
は、阿曇比羅夫と一族の勇姿を形どったものに始まると伝えられる。」なお、飛鳥時代
の将軍阿倍比羅夫(あべのひらふ)は水軍を率いて蝦夷を平定した将軍でもあり、白村
江の戦いでは後軍の将軍として百済に派遣されている別人である。としている。

1212: 名無しさんAA:18/03/29 19:17
 ちょっくら寄り道    20

 こうして 今まで静かに暮らしていた日本列島で緩やかな交易で繋がりが、鬼室福信
などの要請で、この天智天皇と天武天皇時代に再び荒れた世界を日本に作ったのだった
。道鏡は俗姓から、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)とも呼ばれる。若い頃に、法相宗の
高僧・義淵の弟子となり、良弁から梵語(サンスクリット語)を学び禅に通じていた。
とされるから、彼には契丹にいた血があったのではないだろうか。「王」から「蟒」に
(オロチ、ウワバミ、蛇の一種)に変えられたが、宮崎や鹿児島の白蛇伝説では、例え
ば緒方氏は「御方」と言う海の向こうの人と言う意味だ。鱗紋が初代執権・北条時政が
江ノ島弁財天に子孫繁栄を祈願したとき、美女変身した大蛇が神託を告げ、三枚の鱗を
残して消えたことに因むというと言うが 北条氏も北上の意味とされ、宇都宮家も内の
宮が変化したと思われる。何故こう言う事が言えるのかと言えば、良く、日本の漢字が
中国から来ているとされるが、近年の研究では 逆に古来から日本の言葉や文字があっ
て、中国との言葉との融和を図ったとされる設がもはや常識となった様に数々立証され
ている。その為に中国語とは似ても似つかぬ言葉や意味が日本語に存在するのが当然と
言われているからだ。また、玄宗は蜀に逃亡したが蕭淑妃は武后によって捕えられ、極
刑に処せられた。一説では、鞭で打たれた後に手足を切断され、酒に投げ込まれたとも
伝えられる。蕭氏(しょう)は「梟」(フクロウ、子が親を食う不孝の鳥とされる)姓
に変えられた。彼らは漢族99番目の一族で契丹にいた種族であった事から、ウイグル
族であるのは当然だった。鬼室福信は、百済の王族・将軍。義慈王の父である第30代
武王(余璋)の甥とされ、鬼室氏の祖となるとしてい。る没した2か月後白村江の戦い
で倭国と百済の連合軍が大敗した。と言われる。鬼室福信ら遺臣は、百済復興の旗印と
して擁するため、倭国との同盟の人質だった余豊璋の帰国と、倭国の軍事支援を求めて
いる。斉明天皇・中大兄皇子は快くこれを了承し、積極的に百済復興を支援することと
し、筑紫へ遠征する運びとなったのだ。つまりその頃大和朝廷が作った日本の形態は、
寄り合い所帯の豪族がそれぞれに人質の形で京の都に住んでいて、これは、戦国時代や
徳川幕府の形態と全く変わらない形態だったのである。百済伝では、豊璋は翌662年5月
に入国した。このとき福信は王を迎えに出て、国政をみな委ねた。倭国はこの後も福信
あてに軍需物資を送り、福信も捕虜の唐人続守言らを倭国に送った。しかし7月、扶余
豊(扶余豊璋)は福信が自分を殺そうとしていることを察知し、逆に、これを殺した。


1213: 名無しさんAA:18/03/29 19:18
 ちょっくら寄り道    21

 6世紀頃に朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の三国が鼎立し、新羅は二国に圧迫され
る存在であった。倭国は半島南部に領有する任那を通じて影響力を持っていたことが、
『日本書紀』の記録から知られている。大陸側でも、広開土王碑400年条の中「任那」
の記述が出ている。475年には百済は高句麗の攻撃を受けて、首都が陥落し、その後
、熊津への遷都 して復興し、538年には泗批へ遷都した。当時の百済は倭国と関係が深
く、倭国朝廷から派遣された重臣が駐在していたと言う。また高句麗との戦いに於いて
度々倭国から援軍を送られている。一方で、 581年に建国された隋は、中国大陸を統一
し文帝・煬帝の治世に4度も大規模な高句麗遠征を行ったもののいずれも失敗している
。その後隋は国内反乱で 618年には煬帝が殺害されて滅んだ。そして新たに建国された
唐は、628年に国内を統一し二代太宗・高宗の時に高句麗へ3度(644年,661年,667年)
に渡って侵攻を重ね高句麗出兵を行い征服することになる。この時新羅は 627年に百済
から攻められた際に唐に援助を求めたが、この時は唐が内戦の最中で成り立たなかった
。しかし、高句麗と百済が唐と敵対したことで、唐は新羅を冊封国として支援する情勢
となり、善徳女王のもとで実力者となった金春秋(後の太宗武烈王)は、積極的に唐化
政策を採用して、654年に武烈王として即位すると、たびたび 朝見して唐への忠誠心を
示し派兵を要請していた。こうして648年頃から唐による百済侵攻が画策された。649年
、新羅は金春秋に代わって金多遂を倭国へ派遣している。この頃百済は 642年から新羅
に何故だか執拗に侵攻を繰り返している。しかし 654年に大干ばつによる飢饉が半島を
襲った際には、百済義慈王は飢饉対策をとらず、655年2月に、皇太子の扶余隆のために
宮殿を修理するなど退廃していたと言う。656年3月には義慈王が酒色に耽るのを諌めた
佐平の成忠(浄忠)が投獄され獄死した。日本書紀でもこのような百済の退廃について
「この禍を招けり」と記している。657年4月にも干ばつが発生し、草木はほぼなくなっ
たと伝わる。このような百済の情勢について唐はすでに643年9月には「海の険を負い、
兵械を修さず。男女分離し相い宴聚(えんしゅう)するを好む」(『冊付元亀』)とし
て、防衛の不備、人心の不統一や乱れの情報を入手していたようだ。659年4月に、唐は
秘密裏に出撃準備を整え、また同年「国家来年必ず海東の政あらん。汝ら倭客東に帰る
ことを得ず」として倭国が送った遣唐使を洛陽にとどめ、百済への出兵計画が伝わらな
いように工作した。と伝わっている。これは朝鮮の癖で虎の威を借りて加減無しに侵攻
する大陸バッタの様な性格を表している展開だった。


1214: 名無しさんAA:18/03/30 09:45
 ちょっくら寄り道    22

 しかし、道真が九州左遷の時、こうした歴史はどこまでどう理解されていたのか、私
はどうしても道真がそのまま悲嘆にくれて死んだとは思えないのである。伝説では左遷
が言い渡され、大宰府へと出発するまでに与えられた時間はわずか7日間。そして同行
者には幼い2人の子供と老僕1人、監視の左衛門少尉と2人の兵士、車につけた馬だけ
であったとされる。しかも、通過する国々にも道真に食料や馬を補給してはならない。
とされ、惨めで苛酷な大宰府までの旅でした。そしてやっと辿り着いた大宰府での暮ら
しもひどいものでした。用意された小さな茅葺きの官舎は空家のままに荒れ果てた状態
で、床は抜け落ちそうで、庭には草が生い茂っていた。垣根は所々破れて修繕が必要で
、井戸はふさがり修理しなくてはならない有様。そして待遇においても俸給も従者もな
し、政務を行ってもいけないというひどいものでした。虚弱だった道真は胃を病み、脚
気(かっけ)や不眠症、皮膚病に悩まされ、眠れぬ夜が続きました。そして心の支えだっ
た幼い2人の子供のうち男の子が亡くなり、道真の心は深く傷つき、我が身の悲運を嘆
きました。大宰府左遷後わずか2年、59歳でさびしく世を去った。と言う物だった。
菅家は、代々、書道の家柄です。家伝の筆法を伝授するよう帝からの命を受けた菅丞相
(かんしょうじょう)の地位だった。自邸にこもり心身を清めようと精進します。筆法を
伝授するに値するのは誰か。悩んだ末に、不義のために勘当した武部源蔵(たけべげん
ぞう)を呼び出し、筆に鈍りがないか確かめる。そして、彼は「伝授は、伝授。勘当は
、勘当」と踏ん切りして、筆法を伝授するのです。こうして道真は、筆道の奥義を伝え
られたことに胸をなでおろしたと言う。左遷の旅の途中、夢のお告げで安楽寺をたずね
ます。そこで一夜にして飛んできた梅の木を見ます。驚いているところに、梅王丸が、
菅丞相(かんしょうじょう)の命をねらう 鷲塚平馬と登場します。平馬の話によると、
流罪後も藤原時平は、丞相の命を狙っていることを知ります。さらに、時平は帝位も奪
おうと考えていることを知り、梅王丸に、その陰謀を都に知らせるように命じ、自らは
怒りに満ち雷神となって帝をお守りしょうと天拝山に駆け上がって都へ向かったとされ
る。大宰府に来た当初、京の都へ帰ることばかりを夢見ていた道真ですが、いつしか諦
めの境地となります。そして次第に仏への信仰を厚くしていくなか、「遺骨を京の都へ
帰すことを望まない」と遺言していた。とされる。現在、道真は日本史上屈指の大偉人
である。彼は昌泰(しょうたい)の変で罪人として処罰されたにもかかわらず、聖徳太子
・吉備真備・空海・清原頼業(きよはらのよりなり)・一条兼良・林羅山・吉田松陰など
など、日本史の並み居る天才たちを押しのけて「学問の神様」とされているのである。

1215: 名無しさんAA:18/03/30 09:46
 ちょっくら寄り道    23

 浄瑠璃「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」の登場人物で菅原道真
に仕える舎人(とねり)の、梅王丸は、松王丸・桜丸の兄とされる。第一幕ではその配員
が解る。春ののどかな加茂堤に一台の牛車、中に居るのは帝の弟・斎世(ときよ)親王
ですが、そこへ菅丞相の養女・苅屋姫がやって来て、牛車の中でしばしの逢瀬。若い二
人は恋仲ですが、なかなか逢うことの叶わぬ二人なので、桜丸とその妻・八重が秘かに
手引きしました。しかし見つかれば大変、やって来た追手を桜丸が懸命に追い散らす、
その隙を見て二人はどこかへ落ち延びて行きます。つまり道真は苅屋姫の恋仇が時平と
なっている。又筆法で一流をきわめた菅丞相は、その技を伝授せよとの勅命を受けたが
、勘当されていた愛弟子の武部源蔵をひそかに呼び寄せ確かめる。古参の弟子、左中弁
希世(さちゅうべんまれよ)は自らが受けるものと自認していますが、腕も素行も良く
ありません。そこへ呼び出されたのは武部源蔵。源蔵は菅丞相の家臣で弟子でしたが、
御殿勤めの、戸浪との不義で主家を追われ、今は夫婦で貧しい寺子屋を営んでいます。
その見事な筆さばきにより筆法は源蔵に伝授されます。出仕した菅丞相には太宰府への
流罪が告げられ、源蔵は子息の菅秀才を連れて逃げます。つまり息子をかくまうのだ。
菅丞相は太宰府へ流されて行く途中、伯母の覚寿(かくじゅ)の館の一部屋に身を寄せ
ています。一方、苅屋姫は一目会ってお詫びをと忍んでやって来ますが、覚寿(姫の実
の母)に杖で打たれます。すると部屋のなかから「折檻(せっかん)したもうな」と留
める丞相の声、しかし部屋に居たのは丞相が自ら刻んだ木像のみ。まさか木像が声を発
するとは・・・。そして夜も明けぬ頃、やって来た迎えに伴われて菅丞相が出発します
が、実は時平方がにせの迎えを遣わして丞相を殺す計略でした。やがて本物の迎えが、
やって来ると再び丞相が姿を現わし覚寿は驚きます。実は先程連れて行かれたのは木像
で、何と魂のこもった木像がまぼろしを見せて丞相を救ったのでした。この苅屋姫の母
はさも驚いたのか、道真の庇った仲間だったのか、いまいちわからぬままに物語は進む


1216: 名無しさんAA:18/03/30 09:46
 ちょっくら寄り道    25

 九州伝説では 雷の神に化身した天拝山付近に住したようで、京の都を呪い、禍いを
起こした。天拝山(てんぱいざん)は、福岡県筑紫野市にある標高257.4mの山である
。その名は、大宰府に流刑された菅原道真が自らの無実を訴えるべく幾度も登頂し天を
拝したという伝記に由来する。古名は天判山(てんぱんざん)。昔はススキだけで木が
無かったが、黒田長政の家来である、小河内蔵充が郡司となったときに植樹し、全山を
樹木に覆われる山にしたという。大宰府の都府楼とこの天拝山とには二日市温泉がある
。開湯は奈良時代以前と言われ。歴史上の記録では、万葉集に大宰帥・大伴旅人の詠ん
だ歌に初めて記されている。つまりこの菅原道真が来た時は既に開湯していた事になる
。立地は大宰府政庁における四神相応の南の朱雀に比定されるとも言われる。古くは「
次田(すいた)の湯」、「薬師温泉」、近世は「武蔵温泉」と呼ばれていた。とされ、
江戸時代には、筑前藩主黒田氏専用の「御前湯」が置かれ、「二日市温泉」と命名され
たのは、1950年(昭和25年)の昭和に入ってからである。道真公は、多分この湯に浸る
のも気が重かったかも知れない。
かるかやの 関守にのみ見えつるは 人もゆるさぬ 道べなりけり
(誰も刈萱の関の番人に見えたのは、配流の身ゆえか、人目憚る道を来たから)
と言うくらいだから。しかし、それでもめげずに この地にいる決心をしたはずだ。
霧たちて 照る日のもとは見えずとも 身はまどはれじ 寄る辺ありやと
(霧が立ち朝日の方向のは見えないが、我は迷わない。ここに拠り所はあるから。) それでも、幾つもの哀愁の歌を詠んでいる。
彦星の ゆきあひを待つかささぎの 門とわたる橋を 我にかさなむ
(彦星が逢瀬を待つ鵲の渡す橋を、私に貸してほしい。それで妻に逢いたい。)
 などと詠っているからだ。
京都かた菅原道真公が立ち寄られたとの伝承がある神社の旅程は殆ど海の航路だ。陸路
で松山市内に行かれ3年過ごした話などが伝承にはある。多くの寄港地候補があろうが
、当時の通常の航路から大きく変わる事は無い。山口防府から長府の間に九州の椎田な
どが入っているが、道真公が廃止した遣唐使とほぼ同じような航路となっている。この
間の冬の風向きや海流のせいで、昔の渡し舟程度の舟と航海技術なら当然であろう。

1217: 名無しさんAA:18/03/30 09:47
 ちょっくら寄り道    25

 九州伝説では 雷の神に化身した天拝山付近に住したようで、京の都を呪い、禍いを
起こした。天拝山(てんぱいざん)は、福岡県筑紫野市にある標高257.4mの山である
。その名は、大宰府に流刑された菅原道真が自らの無実を訴えるべく幾度も登頂し天を
拝したという伝記に由来する。古名は天判山(てんぱんざん)。昔はススキだけで木が
無かったが、黒田長政の家来である、小河内蔵充が郡司となったときに植樹し、全山を
樹木に覆われる山にしたという。大宰府の都府楼とこの天拝山とには二日市温泉がある
。開湯は奈良時代以前と言われ。歴史上の記録では、万葉集に大宰帥・大伴旅人の詠ん
だ歌に初めて記されている。つまりこの菅原道真が来た時は既に開湯していた事になる
。立地は大宰府政庁における四神相応の南の朱雀に比定されるとも言われる。古くは「
次田(すいた)の湯」、「薬師温泉」、近世は「武蔵温泉」と呼ばれていた。とされ、
江戸時代には、筑前藩主黒田氏専用の「御前湯」が置かれ、「二日市温泉」と命名され
たのは、1950年(昭和25年)の昭和に入ってからである。道真公は、多分この湯に浸る
のも気が重かったかも知れない。
かるかやの 関守にのみ見えつるは 人もゆるさぬ 道べなりけり
(誰も刈萱の関の番人に見えたのは、配流の身ゆえか、人目憚る道を来たから)
と言うくらいだから。しかし、それでもめげずに この地にいる決心をしたはずだ。
霧たちて 照る日のもとは見えずとも 身はまどはれじ 寄る辺ありやと
(霧が立ち朝日の方向のは見えないが、我は迷わない。ここに拠り所はあるから。)
 それでも、幾つもの哀愁の歌を詠んでいる。
彦星の ゆきあひを待つかささぎの 門とわたる橋を 我にかさなむ
(彦星が逢瀬を待つ鵲の渡す橋を、私に貸してほしい。それで妻に逢いたい。)
 などと詠っているからだ。
京都かた菅原道真公が立ち寄られたとの伝承がある神社の旅程は殆ど海の航路だ。陸路
で松山市内に行かれ3年過ごした話などが伝承にはある。多くの寄港地候補があろうが
、当時の通常の航路から大きく変わる事は無い。山口防府から長府の間に九州の椎田な
どが入っているが、道真公が廃止した遣唐使とほぼ同じような航路となっている。この
間の冬の風向きや海流のせいで、昔の渡し舟程度の舟と航海技術なら当然であろう。

1218: 名無しさんAA:18/03/30 09:48
ちょっくら寄り道    26

 菅原道真公の次男は菅原寧茂で、三男とされる菅原景行とされる。二人はそれぞれに
左遷されたが次男は駿河国在住した。関東に下向した平将門の御父君の平良将の根拠地
であった下総国豊田郡に程近い 常陸国真壁郡に移住しました。延長4年(926年)景行
公は将門の叔父・良兼公らと共に、真壁郡羽鳥に菅原天満宮を開いたとされる。こうし
て、この時代から坂東平氏と菅原家の深い繋がりが開始されたと推測されている。この
菅原氏と平氏の結びつきは当時の醍醐天皇の指令によるものだったとも言われる。常総
市の水海道の神職として真壁郡羽鳥(現:真壁町)に、菅原天満宮を開き居住したという
。菅原氏の多くは藤原氏の専横により官位こそ抑えられていましたが、醍醐天皇に登用
にされ有名な五男淳茂公をはじめ多くは朝廷にも残りました。そして後の坂東八平氏の
祖で 平将門公の叔父良文公も醍醐天皇に重用され、関東の賊を討て、と綸旨を頂き、
鎮守府将軍として東日本に下向し、旧鎌倉郡村岡郷、今の藤沢市村岡を本拠地にし関東
に武士文化の基礎を築いた。この綸旨の「賊」とは「平将門公」ではなく、親王赴任国
である上総国や下総国の荘園を支配する藤原氏の事だと思われ、つまり上総国下総国の
支配権を取り返し藤原氏の軍事的勢力を削ぐ意図があったのだと思われます。菅原家の
主君の醍醐天皇とその御先代 宇多天皇は藤原氏の専横に苦慮し御親政を取り戻すべく
菅原道真公を重用しましたが、藤原氏の策謀により道真公はハメられ目論見が頓挫した
経緯がありました。そこでは当時まだ亡くなれて間も無い道真公を祀る天神様をいち早
く常陸国に建立した事に、両者の結びつきの真意が現れている。平将門の乱は菅原道真
公の左遷と同じく藤原氏の陰謀によるものだったと思われる。こうして藤原氏の挑発に
乗ってしまい挙兵してでも反藤原連合を貫く将門公と、醍醐天皇の関東制圧の密勅も、
実質的に維持する為に体面上、藤原氏=朝廷に従属するかの政策的な対立を生み出すと
いう藤原氏の陰謀だったと考えるのが自然だ。結果、醍醐天皇の策謀と藤原氏の陰謀は
痛み分けで、藤原氏は関東の支配権を失い醍醐天皇も平将門公を失いました。しかし、
平良文公を鎮守府将軍に任命していた事により関東の臣籍降下貴族支配には成功した訳
になる。この流れを証明するように平将門公は当初朝廷公認での活動していましたし、
将門公に同調していたはずの良文公は後に将門公の支配域の多くの支配権を与えられ、
後々の坂東八平氏発展と鎌倉幕府御家人の基礎を築かれました。平良文公が、旧鎌倉の
藤沢を本拠地にしていた事と、菅原景行公と坂東平氏の関係が深かった事から、永谷に
移住した菅原道真公の御子息の正体は、三男の菅原景行公だった可能性は高いとされる

1219: 名無しさんAA:18/03/30 09:48
 ちょっくら寄り道    27

 津山市八出に住む須江氏は菅原道真の子孫と言い伝えられていたが、系譜調査の結果
、間違いないことが明確になった。と言う。菅原道真公は、何人かの子供がいた。そし
て須江氏は美作菅家7流の第7子の子孫と言い伝えられてきたが、それをはっきりと、
確認したものはなかった。その真相が判明したと言われる。道真公から7代目の菅原朝
臣知頼が承暦元(1077)年11月、美作国豊田之庄に下向し、美作守を称した。それは
藤原氏や朝廷の菅原氏に対する不当な処遇に対する強い憤りと、朝廷での前途に希望を
見いだせなかったからでもあった。美作国(みまかさのくに)に下った。美作国という
のはミサカ(御坂・三坂)に由来し、ウマサケ(甘酒)の産地であることに由来すると言わ
れる岡山地方の一部だ。この知頼がいわゆる美作菅家党の始祖となった。その後、その
子真兼が押領使(軍の司令官職)として父に従い、さらにその子尚忠の代に、開発領主
としての基盤を美作の地に確立した。さらに尚忠の第3子仲頼の子「菅原朝臣満佐(天
福2年 1234 9月亡)」が7人の男子をもうけ、美作菅家7流の祖となった。その第
7子が「江見丹後守資豊」で、その5代後の「江見和泉守菅原家久(建武2年1335、3
月亡)」が西暦1300年頃、美作国八夜御出村(現在の津山市八出)に移住土着し、
須江氏の大先祖となったことが須江本家に残された「過去帳」で明らかになった。この
江見氏は菅原朝臣家次(寛永18年 1641 6月亡)の代に「末氏」に改姓し、さ
らにその後寛保3年 1743 頃、内膳行久の代(宝暦14年 1764 2月亡)に現在の「須
江氏」に改姓した。末氏に改姓したのは末っ子の第7子だったからと言われており、又
「須江氏」は菅原(須賀原とも書く)の子孫という意味で「須」と、そのうちの江見の
子孫という意味で「江」を取ったとの説が有力だ。道真公の子孫が美作国に来てから実
に937年、菅家7流の江見氏が生まれて800年強、須江氏の大先祖 江見氏が現在の津山市
八出に移住土着して710年強、須江氏を名乗るようになって270年、この地に脈々と道真
公の命が受け継がれている。現在、須江本家からの分家は八出に5戸、瓜生原に1戸あ
るとされる。それぞれからさらに分流が派生しているので、血縁系は八出に11戸(含須
江氏以外2戸)、瓜生原に6戸等となっている。その八出には創建が天安年間(857〜9
)と推定(天安元年に道真公12歳の時、美作守であった父是善の病を見舞った際、里
人に残した木像が御神体)される八出天満宮(八夜出天神宮⇒八出天神宮⇒八出神社⇒
八出天満宮)があり、須江氏(当時は末姓)は天正16年 1588 3月から大正時代まで
神主家を務めていた。と言われる。これは又「陶」(すえ)にもつながるものかもしれ
ない。

1220: 名無しさんAA:18/03/30 16:26
ちょっくら寄り道    28

 九州下向して行く時、網敷天満宮には数々の逸話がある。大阪の網敷天満宮は、別雷
大神が、天神山におまつりされていたことに始まって、聖徳太子が御影石を発掘され、
倉稲魂大神をお祀りされていた。だが菅原道真公が別雷大神をまつるこの天神社に2度
参拝された御縁で道真公をお祀りしております。と言う。つまり天満宮の名を変えた。
と言う事になる。他でも大宰府に赴く途中暴風にあいこの浜にたどり着かれた。取りあ
えず漁船の綱をくり敷いて休んでもらった故事により「綱敷天満宮」と言われる。とい
う網敷神社故事は、道真公が大宰府への途上で立ち寄ったという伝承を持つ同名社は、
京都から九州太宰府間に点在している。曰く「この地に着いたところ、一本の紅梅が今
を盛りと咲き匂っており、しばしこの梅を眺めるため、船の艫綱(ともづな)をたぐりよ
せ、即席の座席としたことが「綱敷(つなしき)」の名の由来となり」という。綱敷天満
神社の中で、愛媛県今治市の綱敷天満神社は、「昌泰4年 (901年)菅原道真公が太宰府
に左遷される途中、予州の迫門(壬生川沖)において風波の難にて遭われて危うき時に、
広川修善(神社宮司)と里人が一行を助けた。この際に今の志島の東端に漕ぎ寄せ岩上に
御座所を設けたが、咄嗟の事にて敷物が無く漁船の綱を丸く巻き円座の替わりとしたと
いう。この古伝から「綱敷天神」という社名になったと云われている。菅原公は里人の
厚意に感激され、自ら梶柄に荒々しく御尊像を刻んで姓名を告げ、「後日私が帰洛した
ならこれを証として都を尋ねなさい。もし筑紫にて没したと聞けばこれを素波神(そば
がみ)として祭りなさい。」と申されたと云う。この御尊像を御神体としてお祀りした
のが「綱敷天満神社」の創始である。」としている。牛窓天満宮では山へ登り「磯山の
峯の松風通い来て 浪や引くらん 唐琴の瀬戸 」と詠み 硯井天満宮では「海ならず 
たたえる水の 底までも 清き心を 月ぞ照らさん 」と詠う。 冠天満宮、では神太夫
と言う者が我家にご案内し厚くもてなしました。一両日御滞在の後御出船のおり召され
たるお冠を神太夫に与えた。防府天満宮では船を勝間の浦につけ暫くご滞在になって、
酒垂山にお登りになり、「身は筑紫にて果つるとも、魂魄は必ずこの地に帰り来らん」
と誓ったと言う。、周防国分寺にて家宝の金の鮎12尾を国司土師信貞に託して寂しく
旅立たれました。ちなみに、周防国は菅原氏と同族の土師氏が支配していたと言われる
。福岡の椎田町では浜の宮近くに、暴風にたどり着かれ漁船の網の綱を敷いて休んでも
らった。そして村人はこの地に黒木の休所を造り、 しばらく休養され筑紫に向った。

1221: 名無しさんAA:18/03/30 16:26
 ちょっくら寄り道    29

 大分県の椎田から陸路で直接、太宰府に行くことは出来なくは無いが、北九州沿岸の
複数の神社の伝承を考えればあまりにも立ち寄りは多い。これは無視出来ない。また、
道眞公の歌に宗像大社の七夕祭や志賀島あたりを思わせる歌があり、海路で下関市長府
を訪れることは前提とも言える。しかし子供連れで家財道具を運ぶことまで考えれば、
なるべく海路を選んで急いで大宰府に着いた方が良かったはずである。愛媛県今治市の
綱敷天満宮の伝承は正しく、嵐で航路がずれたと考えるのが自然である事を考えれば、
簡単に大宰府には入りたく無かった。とも言える。又大宰府に入っても、閑職であり、
官位も職席も就けなかった。つまりぼろぼろの住居と僅かな俸禄だけだったと言われる
。しかし彼は太宰権帥として下向しているのである。彼が赴任する前には多分空席にな
っていたものと思われる。と言うのも宇多朝の寛平6年(894年)4月には新羅の入寇(
寛平の韓寇)が発生し、その討伐のために大宰権帥に任ぜられ、同年5月には従三位・
権中納言に昇進した藤原北家の藤原国経がいるからだ。長命を保ち、70歳を過ぎてか
らも寛平9年(897年)中納言、昌泰の変で右大臣・菅原道真が失脚した翌年の延喜2年
(902年)には大納言と昇進を続け、延喜3年(903年)正三位になり延喜8年(908年)6
月29日薨去し享年81歳だった。しかし度重なる韓寇うち「寛平の韓寇」は強大だった。
唐人も交えた新羅の船大小百艘に乗った二千五百人にのぼる新羅の賊の大軍が襲来し、
対馬に侵攻を始めた。9月5日の朝、45艘でやってきた賊徒に対し、武将としての経験
があり対馬守に配されていた文屋善友は郡司士卒を率いて、誘い込みの上で弩を構えた
数百の軍勢で迎え撃った。雨のように射られ逃げていく賊を追撃し、220人を射殺し
た。こうして賊は計、300名を討ち取った。また、船11、太刀50、桙1千、弓胡
(やなぐい)各110、盾312にものぼる莫大な兵器を奪い、賊ひとりを生け捕った。
捕虜の証言ではこれは民間海賊による略奪ではなく、新羅政府による襲撃略奪であった
事が判明した。捕虜曰く、、新羅は不作で餓えに苦しみ、倉も尽きて王城も例外ではな
く、「王、仰せて、穀絹を取らんが為に帆を飛ばして参り来たる」という。その全容は
大小の船百艘、乗員二千五百、逃げ帰った将軍は他3人いて、特に1人の「唐人」が、
強大で指揮していた、と証言した。この事で、大宰府の飛駅の使が撃退の成功を伝え、
遣唐使も中止されたし、また壱岐島の官舎が賊のため全焼したことを伝えている。実は
この遣唐使に出すつもりだったのが、九州下向と変わったのである。



1222: 名無しさんAA:18/03/30 16:26
 ちょっくら寄り道    30

 この後京の都では天然痘が流行する。つまり都で発生しているとすれば九州は尚多か
ったとも考えられる。日本には元々存在せず、中国・朝鮮半島からの渡来人の移住や接
触が活発になると、しばしば6世紀半ばに最初の流行罹患が見られた。と考えられてい
る。例えば新羅から弥勒菩薩像が送られ時も、敏達天皇が仏教の普及を認めた時期と重
なり、日本古来の神をないがしろにした神罰という見方が広がり、仏教を支持していた
蘇我氏の影響力が低下するなどの影響が見られたのである。又東山天皇は天然痘によっ
て崩御し、孝明天皇の死因も天然痘との記録が残っている。天然痘を擬神化した疱瘡神
は悪神のひとつとしておそれられ、日本各地には疱瘡神除けの神事や行事が今も数多く
残っている。疱瘡神は犬や猿、赤色を苦手とすると考えられた。しかし古来からウシの
病気である牛痘があり、人間も罹患するが、瘢痕も残らず軽度で済む病気にかかった者
は天然痘に罹患しないことがわかっていた。この研究で西洋では種痘法を発見発明して
今があるが、この牛に於いて罹患しない事は重要な事で、わざわざ道真公が牛を連れて
下向した理由でもあろう。この藤原国経と藤原時平とには面白い逸話が残って居る。『
今昔物語集』なのだが、国経が八十歳近くになる頃、二十歳を過ぎたばかりの若く美し
い年の離れた評判の妻がいた。この妻の美しさの評判を聞き、当時好色で「平中」と呼
ばれていた、兵衛佐・平定文も忍んで会いに行ったが、ものにできずに終わっていた。
同じく好色で有名であった大臣(藤原時平)はこの妻をものにしたいと思い、ある年の
正月に国経邸を訪問する。宴が終わって帰宅しようとした際、大臣はせっかく家礼のた
めに訪れたのだから、特別な引き出物が欲しい旨、国経に伝えた。国経は自分の持ち物
の中で最も優れたものはこの妻だと思い、酔いに狂った心のまま、この女を引き出物に
差し上げると言って、簾の中から妻を引き寄せて大臣に渡してしまう。大臣はこの妻を
受け取るとそのまま自邸に連れて帰ろうとして一緒に車に乗せたため、国経はどうしよ
うもなく妻に「私のことを忘れないでほしい」と言ったが、車はそのまま行ってしまっ
た。翌朝国経が目覚めると、昨夜のことが夢のように思われたが、やはり現実であった
。大臣が来訪してくれた嬉しさに舞い上がって自分がした行為を後悔する一方、大臣に
対しても酔っているとはいえこんなやり方はないだろうと思うが、どうしようもなかっ
た。妻を取り返すこともできないので、せめて妻に幸せになって欲しいとも思うが、妻
が自分のことを老いぼれと思っている様子もあったので、妬ましく、悔しく、恋しく思
った。傍目には、国経が自分の意思でやったことのように思わせたが、心中は辛く恋し
く思えるのであった。と言う話である。

1223: 名無しさんAA:18/03/30 16:28
 筑後の社伝では、かつて昔は 北島宮社であった場所に、後堀河天皇の勅命によって
菅原道真の後裔で菅原為長によって新たに水田水天宮が創建されたという。この当地に
あって荘園を支配した北島氏は、久留米の水天宮社の菅原氏の配下にあった。という。
太宰府天満宮の荘園で菅原氏一族の大鳥居氏が支配する「水田荘」があって、その鎮守
社であった。旧名は安楽寺所司神人所、老松宮など。太宰府に次ぐ九州第二の天満宮と
称する。」。つまり北島氏が老松神社を持って神職としていたが、それは久留米の支配
の下にあった。と言うのである。しかし、大宰府に左遷され貧困のなか亡くなった道真
の末裔が、なぜ荘園を支配できたのか。大宰府天満宮(旧名安楽寺)に対し、なぜ荘園
管理の権限が与えられたのか。辺境の地にある水田天満宮が京に位置する朝廷の勅命を
受けて居ながら、なぜ出現したのか。そして、水田天満宮の「祭り」は、なぜ発生した
のか。興味は尽きませんでした。安楽寺は大宰府安楽寺の事で全ての事象の根源があっ
た。実は菅原道真を祀る大宰府天満宮が明治5年の廃仏毀釈で神仏混沌の祭典を廃され
るまで大宰府天満宮の正式名称であった。政治的に怨霊を鎮めるために公的な権力で、
この神社は草創され、朝廷などの中央集権或いはその出先機関(大宰府)の外護を受けて
発展した。安楽寺の草創は、延喜元年(901)正月、時の左大臣藤原時平の讒奏(ざんそう
:人を陥れるため悪く奏上すること。)によって、参議の地位の菅原道真が 大宰府権師
として左遷された。この大宰府の配所(罪人が流刑地。)にて建てられた頃には、天皇の
持つ神道には、この禍いにはほとんど効かないとなって、今度は仏教の祈祷に変化して
流行し、それを朝廷も取り入れていたのである。ここにこの鎮める神社が寺でなければ
ならない理由があった。藤原菅根・時平が延喜9年(909)に没して、疾病・旱魃も続き、
延喜23年、皇太子が21歳で没すると、この道真の怨霊の力が盛んに喧伝され、道真には
生前の右大臣に復し、左遷を受けた時の詔書までも焼却されました。それでも京では、
道真が怨霊化し、その後も凶事が続きさらに神格化されて「安楽寺」が出来上がった。
つまり、道真の墓所や伝承地に霊廟を建てたのが天満宮でその祓い清めした安楽寺が管
理していた事になる。「安楽寺は、草創以来、公的立場として大宰府の協力な援助によ
って基盤を固めましたが、やがて蓄積された財力・僧兵による武力は十一世紀に入ると
自らの発展に向けられ、かつての最大の擁護者(大宰府)は最大の干渉者へと一変し、
大宰府(朝廷の出先機関)と安楽寺の軋轢(あつれき)が生まれ、長元九年(1036)に恒例の
曲水宴の最中に乱闘という形であらわれた。安楽寺が宋人と行っていた薬品取引に関し
て、外国貿易を取り締まる大宰府権師藤原実成が強権を発動し対立を招いたものとみら
れている。その後、実成は罷免(ひめん)されてしまい、大宰府(朝廷の出先機関)の
干渉に対して、安楽寺はそれらに対抗しうる勢力を有していました。」とあるのだ。

1224: 名無しさんAA:18/03/30 16:28
 ちょっくら寄り道    32

 当初、菅原道真祭神とする安楽寺は、道真の孫 平忠を初代別当とする僧官組織によ
って、運営された。安楽寺に下向していた別当は、鎌倉時代中期頃から下向しなくなり
、かわって安楽寺に設置されたのが留守別当で、これも菅原氏一族の大鳥居・小鳥居氏
がその後も35代任命され続けられた。安楽寺という存在が隆盛を誇る時代背景のなか
、安楽寺の荘園だったが、記述は「筑後國水田荘の成立時期は定かではありませんが、
建仁元年(1201)の史料には見当たらず、建長二年(1250)の史料にはでてくるので、それ
以前には荘園として成立していたことが判明しています。」と書かれている。又「安楽
寺は大宰府と結びつきを極めて強く、大宰府によってその存立、発展を計らなければな
らない寺院だった。しかし、十一世紀に入ると自らの力で急速に発展していく。それは
支えていた大宰府関係の官吏の寄進による寄進地系荘園であり、平安末期に至って最大
に達した。その広さは数十町から百数十町に及ぶ荘園三十余ケ所、末寺など数か所に及
び宇佐八幡宮などとともに九州の荘園領主の双璧にまで発展をみた。」とある。「水田
荘はその後、南北朝時代二百町歩余の荘園であったが、大鳥居信高の水田移住とともに
拡張され室町末期には、六百町歩におよんだ。安楽寺寺領のうちでもその経済を支える
最も重要な荘園となっていた。」水田天満宮の出現については、「水田天満宮社伝」や
寛文十年(1670)の「久留米藩寺院開基」などにみえる嘉禄二年(1226)創立という記述と
がある。それら伝承に出る菅原氏は、当時大蔵卿・式部大輔・豊前権守を兼ねていた非
参議の、正三位であった公卿の菅原為長と考えられている。この非参議である事は公卿
であるが参議でない事になる。公卿は、公(大臣)、卿(大・中納言・参議と三位以上の
公家)の併称である。道真以降では、菅原氏の中で、参議まで官位を昇りつめたのは、
道真・為長・長成(為長の息子)の三人だけである。この為長の時代、菅原氏と安楽寺が
隆盛を極めたことは間違いがなく、その影響力を駆使して安楽寺の重要な荘園であり、
菅原氏一族が掌握していた筑後國水田荘へ水田天満宮が造営された。と考えられる。「
その後の安楽寺は、荘園制の解体・崩壊という危機に直面し、社寺本来の信仰を広める
というところに立ち戻りる。中世末の動乱期に多くの寺院は滅亡・退転していった中で
安楽寺も 多くの寺領を失い衰退しつつも、なお存続しえたのは、神社としての天満宮
が意識され天満宮としてかつての大宰府文化の継承者としての責任に立ち返った。」と
言われる。

1225: 名無しさんAA:18/03/30 16:29
 ちょっくら寄り道    33

「隆盛期の安楽寺において、大宰府官人の保護のもと堂塔が整備され荘園も拡大してい
くと同時に「曲水宴」「残菊宴」「六庚申」などの年中行事や「神幸祭」「千灯明」など
の宗教行事が始められ、行事の始行を通じていえる特色は、それらは、宮廷貴族文化の
大宰府長官などによる直接移入であり、しかも文芸的色彩の極めて濃厚なものであった
。そして年中行事は何れも道真が宮廷における年中行事として参加し、詩に賦していた
ものばかりでありました。」と言う。こうして往時の宮廷文化を色濃く反映した行事が
安楽寺に根付いたことにより、いつしか水田天満宮にも文化移入されたという。しかし
伝説では、宮廷文化はこの水田水天宮から、大宰府に行ったのだ。とされている。実は
大宰府政庁は、単なる政庁であり、この地に朝鮮半島からの備えの大きな砦を敷こうと
考えた。と言うのだ。考えればこの菅原道真はこの藤原時平と本当に対立していたのか
。と思う部分がある。朝鮮からの侵略戦争に日本には危機感が走ったと言える。意見の
対立はあったとしても、当然官位は同じでも道真が家位が下でこの福岡の防備する家柄
になる。更に少し前に流行り病で九州で病人がバタバタと倒れたとなれば、真相究明が
大事であったろう。しかし道真は、寛平6年(894年)遣唐大使に任ぜられるが、唐の混
乱や日本文化の発達を理由とした道真の建議により遣唐使は停止されているぐらいに、
武功や旅行嫌っていたと考えられる。言わば行儀のいい官僚だった。対して藤原基経は
暴君陽成天皇を退位を迫る程能動的な人間だった。しかし地方口伝では京都を出るとき
は僅か数人だったが、この大宰府に着いた頃は60人程の従者が勝手について来たとも
言われる。彼らは旅芸人で先の傀儡子として浄瑠璃を社務所で演じて糧を得ていた。と
も伝えられる。水田天満宮の背景に伝統文化の多さがあった。筑後地区にはおよそ50
もの祭りが存在していたと言われる。「神幸祭・連歌祭(笠着の連歌)・千燈明・風流・
流鏑馬行事・稚児風流・千燈明などの「宗教行事・民族芸能」はどこでもあったという
神事だが その他に仏教の梵行祭(盆綱)御潮取り(綱引き)鬼叩き(土竜打ち)焚現
行(ほんげんぎょう:鬼火焚き)日子の火渡りなども、多くあったらしい。又節句行時
も多く元旦竹の節句・梅の節句(豆まき)・桃の節句(ひなまつり)・桜の節句(花見
)・菖蒲の節句(鯉のぼり)・柳の節句(さなぼり)・豆の節句(たなばた)・茅の節
句(なげし)・菊の節句(御接待)・栗の節句(月見)・芋の節句・松の節句 等々。
咲菜幟(さなほり)はこの地から日子山まで行く行為であったと言われる。


1226: 名無しさんAA:18/03/30 16:29
 ちょっくら寄り道    34

 こうしていつの間にか北島玉垂宮は「水田天満宮」となり、道真を祀った「神社」で
あり、大鳥居氏の「下向先」であり、室町初期には、均等名体制がしかれていた「荘園
を経営するための管理事務所」となっていた。当然ここは道長が死んだとして移り住み
経営した場所とされる。水田天満宮の南には、かなり古い月読み神社があり、『日本書
紀』によれば、顕宗天皇(第23代)3年に任那への使者の阿閉臣事代(あへのおみこと
しろ)に月神から神託があり、社地を求められた。朝廷はこの月神に対して「歌荒樔田
(うたあらすだ)」の地を奉り、その祠を壱岐県主祖の押見宿禰が奉斎したとされるが
ツクヨミは、月の神とされている。しかし「つきよみ」とは「次世見」のことであり、
次の時代の形を読み解き、人々に知らせる役割を持つ。「つくよみ」と書いても「次ぐ
・継ぐ世見」で同じ意味となる。古事記ではイザナギが黄泉国から逃げ帰って禊ぎをし
た時に右目から生まれたとされ、もう片方の目から生まれた天照大神、鼻から生まれた
須佐之男とともに重大な三神(三柱の貴子)を成す中の一神だ。実は古事記では「夜の
食国」、日本書紀では「日に配べて天上」を支配する話がある一方で、「夜の食国」や
「滄海原の潮の八百重」の支配を命じられている箇所もある。この支配領域の不安定さ
はアマテラスとツクヨミの神話に後からスサノオが挿入されたためではないかと考えら
れているが、この地では最初に稲穂を赤米から白米にした人物とされる。赤米は瀬高の
方で栽培されていたが、河野氏はそれを小豆を入れた赤飯と勘違いして盗まれた小豆と
して成敗した。と言う伝説が伝わっている。月読姫伝説では天皇が来た際に立派な料理
を出して大いに喜ばれたが、ある日その料理を取る畑が人糞で育てられた物だったので
憤慨して 首を落として一族と争いになった、天皇家は九州豪族と戦争になったが天皇
は頭を下げて、この地が大王と名乗る事を許したと言われている。この花かぐや姫の物
語も今のの荒木付近の伝説だったと古老は話してくれた。「筑後市史第三巻」の、千灯
明祭の紹介は「起源は明らかでないが、伝承によると約七百年前氏子が五穀豊穣を祈っ
て、ほたての貝殻に菜種油を入れた灯明を奉納したのが始まりとされている。この土地
は金森鐘麻呂なる者がいて八女に水利水路の堰を作り、鷹尾神社に米倉の金庫番であっ
たとされ、更に南国貿易をやっていた。と伝えられる。近年では宮古島では金盛氏がい
て仲屋金盛の墓と言い伝えている。墓の規模や形態は、大半が土砂に埋もれて明らかで
ないが、石棺の蓋と思われる縦210cm、横120cm、厚さ22cmの巨石が露出
している。そして不思議にも金盛が姓で仲屋が名前なのだ。


1227: 名無しさんAA:18/03/30 18:42 ID:gyk
富安君を探せ              < その168 >

 明治期に鉄道問題が紛糾していた。九州鉄道(きゅうしゅうてつどう)は、明治時
代に存在した九州の私設鉄道会社であった。北九州市門司区に旧本社の建物が残存し、
2003年から九州鉄道記念館として利用されている。明治20年(1887)松田和七郎
、藤金作、伊丹文右エ門、渋谷清六、白木為直、嘉悦氏房の六名が会社設立発起者総代
となり、福岡・熊本・佐賀の各県令に呼びかけて創立した。1888年(明治21年)、政府
に設立認可されたがそこに資金は底をついていた、初代社長には高橋新吉が就任した。
その頃はまだ三潴県令が福岡と合併したばかりで初代三潴県令は世界初の今の合板を作
った石井氏の先祖であった。又この頃は宮崎滔天は中国の辛亥革命の徒孫文を支援して
いて、それは日本の三大儒学者安東 省菴(あんどう せいあん)の流れであった。安東
は元和8年(1622年)に石高五百石の柳川藩藩士で重臣である安東親清の次男として生
まれたとしている。次男であったが、聡明で好学心が高く、器量があるので、寛永11年
4月2日に立花宗茂より分家の内意書を与えられる。立花忠茂の時代には江戸に呼び寄せ
られて近侍し、身内の安東助四郎は先の島原の乱で原城三の丸攻撃に参加して負傷した
。1660年安東は長崎に赴き、朱と会談し、師弟の交わりを持った。この時、安東は
日本に留住できるよう長崎奉行に働きかけ、6年間もの間少ない自分の俸禄の中(二百
石だが実質は八十石)の半分を朱舜水のために贈っていた。また、寛文3年(1663年)
のに長崎で大火事では、すぐに駆けつけ朱の家が焼けた家を新築し、焼け残った書物や
日用品をそこに収めて無事を祝ったとされる。元禄14年(1701年)に柳河で没するが、
79歳の高齢であった。明治44年(1911年)に従四位を追贈され、水戸の光圀との会談
には日本で初めてラーメンを食したと言われている。この宮崎家からは初代警察総監の
警視長として宮崎総監が鹿児島に刑務所を作った。又柳川は全国初の留置所として今の
私立図書館にあった。というのもここがドイツを真似た施設で目の前にペンテコステの
教会が建てられたからだ。それは江戸期の三池炭鉱に理由があった。炭鉱経営において
時の囚人を使っていたが彼らはある日逃げ出したのである。明治政府は囚人労働を採用
しが、囚人労働はすでに幕末期(1850年代)には白糠(しらぬか)炭鉱(北海道)や横須
賀製鉄所(神奈川県)で利用されていたし、明治以降は1873年(明治6)に三池(みいけ
)炭鉱(福岡・熊本県)で利用されたのが始まりで、これ以降に、高島炭鉱(長崎県)
、小坂鉱山(秋田県)、幌内(ほろない)炭鉱(北海道)で導入された。



1228: 名無しさんAA:18/03/30 18:44
富安君を探せ              < その169 >

官営時代の三池炭鉱では、1883年三池集治監が設立されて以降、囚人労働に依存する度
合いが増加し、官営最後の1888年には囚人坑夫の割合は全坑夫数の69%に達した。とさ
れている。この囚人の多さは、こうした書物が宝であった柳川市民を落胆させた柳川城
の炎上に原因があった。柳川城は幸か不幸か焼失して、幕末の混乱期を乗り切った。こ
の事は大きな禍いをもたらした。各地が廃藩置県に従い県令が置かれた治世となったが
、歴史上の教科書には徳川幕府の封建社会から明治の文明開化の時代に入った。などと
書かれるが実態は違っていて、散切り頭のおかっぱ武士。と言われるような異様な混用
の文化が生まれただけで 一般市民の生活がそんなに変わったわけではなかった。変わ
ったのは、今までの諸侯が食えなくなって、浪人武士が爆発的に増えた事だけだった。
確かに、横浜や長崎などでは異国人の往来が増えて、奴隷や西洋伯爵が往来したしかし
一般的には、庶民は百姓であり、能力は低く西洋文化に接して驚くぐらいでしかなかっ
た。ただそうした中柳川は活気に満ちていた。商人がどこからも押し寄せて来たからだ
。和蝋燭の立花ハゼの産業は一躍ドル箱となった。菜種油や椿油は発動機の原料となり
高価な木炭自動車まで開発された。柳川では堤印刷事件が起こった。柳川の内山田家は
西洋からのドイツの最新鋭の印刷機を入れていたのだ。これは政府がこれから紙幣発行
の印刷機を購入するのに対して一足早いものだった。この繊細な印刷が施せる印刷機は
明治政府の柳川への疑念を持たせていた。ここに内山田家のカッパ伝説が起きる。いつ
も悪戯好きのカッパが内山田家に新しい奥さん来た事で厠屋(かわや:便所の事)から
悪戯する。そこで気丈な若姫はある時刀を持ってはいり手が出てた時手首を切り落とし
た。そうして手首を旦那に見せた。その後ある日の事返してくれと雨の日にやって来た
ので返した。すると恩返しに次の日から紙のいらない様にふき取る様になった。との話
だ。この話はあまり伝わってはいない。クールファイブの内山田氏の祖先の話だが、こ
の話には辻褄が合わない。厠が怖い変なカッパの手が出るので切り落としたのに、その
後の恩返しが 用が終わった後の尻ふきとはなんとも異様な話の筋書きだからだ。これ
がすぐ傍であった堤印刷所の元になった倉庫の忍者の内偵にあった事が事件の本筋であ
た。だが明治維新以来にその西洋インクが政府からの用止めで発行されるのはずーと後
の軍用伝票となってからだったとされる。


1229: 名無しさんAA:18/03/30 18:45
富安君を探せ              < その170 >

 日露戦争(にちろせんそう)では、隠れた苦悩があった。乃木将軍は戦争後には立花
氏に足を向けて寝れない。とさえいい 塩田の東長の酒を手によくお花の館までやって
きたと言う。その理由が立花氏の起こした堤印刷所の藩札だった。と言う。実は日露戦
争は金のない戦争だった。しかし軍は食料供給に柳川の缶詰と大川のマッチを多用した
。立花氏はこの缶詰やその他の政府の強制供給には拒否した。もとより個人商店の産業
で明治政府になっては立花氏の知る所ではないからだ。ところが三池では枕木や鉄鉱石
を欲していたし軍艦は石炭の供給先でもあった。政府には拒否したが乃木将軍には応え
たのである。ここで藩札の増刷が決められ高椋銀行は難色を示しながらもそれを引き受
けた。本来政府からは止められた藩札だったからだ。だがその資本の回収は楽に行われ
た。当時日清戦争後の八幡製鉄所は、二束三文の葦の生える土地を 蝋の商売に貸し付
けて財をなした木下氏が騙されて買った土地だったからだ。つまり製鉄所の瀬高の煉瓦
もその土地も高椋銀行を抜きには語れない政府の重要政策だったのである。三池港も、
柳川も活況を呈した。そこに目を付けたのが、城島の富安酒造などの地場産業の名主だ
った。さっそく城島からの投資で山川銀行や佐賀からの投資で古賀銀行などが作られた
。明治4年(1871年)に明治政府が藩札の発行状況を調べたところ、全国の藩の約8割
に当たる244藩、14の代官所、9の旗本領が紙幣の発行を行っていた。江戸後期頃までは
西日本を中心とした銀遣い経済下の諸藩の発行が中心であったが、幕末の混乱によって
幕府の統制が減退・消滅し、諸藩は財政危機を紙幣発行により賄おうとした結果、関東
諸藩を中心に新規に発行する藩は続出していた。明治政府は廃藩置県の機に藩札回収令
を発布し、各藩札を新貨幣単位(圓、銭、厘)により価額査定し、実交換相場の藩札回
収を始めた。5銭以上と査定されたものは「新紙幣」(明治通宝)と、5銭未満のもの
は新貨(5銭銀貨等)と交換されることとなったが、新貨鋳造が間に合わなかった。旧
藩札に新価額を押捺して流通させる程だった。明治7年(1874年)には新貨幣の鋳造が
進みようやく交換が開始され、最終的に処理を完了したのは5年後の明治12年(1879
年)6月であった。1877年(明治10年)西南戦争に際して、西郷軍は、薩摩商人からの
軍費調達の必要が生じ、士族商社の「承恵社」「撫育社」によって発行された承恵社札
を用いて六万円を調達した。承恵社札は五円・一円・半円の三種があったとされる。し
かし、軍資金不足に陥った西郷軍が、1877年に更に「西郷札」を発行したが西南戦争の
敗北と共に政府は無価値として回収した。この札は、実際は布製の「布幣」であった。
寒冷紗を2枚合わせて、その芯に紙を挟み堅固にしたものであった。

1230: 名無しさんAA:18/03/30 18:47
富安君を探せ              < その171 >

鴻池 善右衛門(こうのいけ ぜんえもん)は、江戸時代の代表的豪商の一つであった。
摂津言えば鴻池と言う程に摂津の国大坂の両替商・鴻池家(今橋鴻池)は豪商であった
。鴻池善右衛門は鴻池家当で代々受け継がれる名前である。初代が始めるに当たっては
鴻池家の八男だった。伝説ではあろうが鴻池家は、尼子氏の家臣として名を馳せたとい
う山中鹿之助の子孫である。と伝えられる。彼は戦国時代から安土桃山時代にかけての
山陰地方の武将で銀山を管理する尼子氏に仕えていた。通説では鳴り響く豪傑であった
と言う。菊池氏旺盛の頃京都のつながりにしていた居城伯耆尾高城攻めを尼子義久が行
った折には、随行して菊池の剣豪菊池音八を一騎打ちで首を取り、名を挙げたと言われ
るこれにより菊池氏の南北朝時代からの京都の朝廷とのつながりが消え九州の守護職と
しての役割が大内氏と大友氏に牛耳られてしまう結果を生む。しかし大友氏も陶晴賢を
厳島の戦いで高波で水死させると毛利軍は従来から狙っていた銀山の権益確保に動いて
、尼子氏滅ぼすため出雲国へ進軍した。尼子氏の居城は瀬戸内海に遠く日本海の海産物
によって食料を得ていた。その為日本海に面した島根半島と月山富田城には要衝白鹿城
を置いて中継基地や食料庫の役割を果たしていた。これをめぐって攻防が続いていた。
しかし周辺の尼子氏の諸将を平らげながら進軍してくる大軍にもはや尼子氏の勝つ術は
なかった。こうして落城し敗退するが、その中でも山中幸盛、通称は鹿介(しかのすけ
は尼子十勇士の筆頭にして、尼子家再興のために「願わくば、我に七難八苦を与え給え
。」と三日月に祈った。と言う逸話が残る。鴻池家の始祖とされる鴻池新六はこの尼子
氏家臣の山中鹿介(幸盛)の子である。とされる。新六は、慶長年間には伊丹郷町にほ
ど近い鴻池郷で酒造業を行った。伊丹の酒はその頃は有名で室町時代から他所酒を流通
しその後生産し始めていた。と言われている。日本酒の趨勢としては僧坊酒が衰退する
と、こうした酒郷は奈良流の製法を真似て、当時の日本の酒市場で各地に台頭してきた
時代だった。伝説では振興の鴻池郷での酒はまずくて安くしか売れなかった。新六は、
慶長年間に鴻池郷ですでに酒造業を行っており、江戸へ酒を輸送して販売をおこなって
いたが給金も払えなかった。こうして新六の店の手代が叱責された腹いせに灰を投げ込
んだことで、室町時代からあった段仕込みを改良し、麹米・蒸米・水を3回に分ける三
段仕込み製法を編み出し、それが澄み切ったうまい酒となり清酒の一番乗りを果たした
という伝承が残る。この酒は江戸で売れに売れたという。こうして軌道に乗ると鴻池家
を名乗った。

1231: 名無しさんAA:18/03/30 18:54
富安君を探せ              < その172 >

 しかしこの頃、他の所でもこの3段仕込みは既に行われていた。と言うのが解ってい
る。ここで問題なのは多分灰をまぶしたコウジカビをそのまま倉庫内に保管した事で、
今までのカビ菌と違ったうま味が出た事と、安い酒に特化した作り方の考案であったの
だろう。とりあえず新六が改良した鴻池流醸造技術は清酒の大量生産を可能にし、一般
流通する契機となった。ここに慶長5年(1600年)に、伊丹の鴻池善右衛門が誕生する
。元和元年(1615年)、新六の次男・善兵衛秀成は大坂に移って、醸造業を広げ始めた
。元和5年(1619年)には新六も大坂内久宝寺町に店舗を設けて醸造を営むようになり
、鴻池一族の拠点は大坂に移動した。一族はやがて海運業にも進出した。鴻池村の本家
(鴻池村山中総本家)と醸造事業は七男の新右衛門元英が嗣いだ。大坂における醸造・
配達事業は、次男の善兵衛秀成、三男の又右衛門之政、八男の善右衛門正成がそれぞれ
引き継いだ。八男の善兵衛正成は九条島にて海運業を始めが、大坂から江戸への酒積み
が多量となり、陸路駄馬では間に合わず、自らの海上輸送を行うことにした。もともと
海運による江戸への供給は陸路よりは安く早く送れていた。しかし定期航路であり難破
した荷積みの保証はなく何時に船出出来るかは荷物次第であったのだ。海運業の創始に
よって、西国大名参勤交代の運輸や蔵物の取り扱いなど大名との取引関係が生じ、その
関係から大名貸が始まった。こうして明暦2年(1656年)には両替店を開店し、町人貸
しや大名貸しで繁栄した。寛文10年(1670年)には幕府御用の両替商として拡大し、
十人両替という地位にも就いた。鴻池は酒造・海運・金融(大名貸、両替商)という、
一見相互に無関係の業務を営む形態になった。その中に焦げ付き資金回収方に鴻池新七
と言う人足下番がいた。米麹の当時仕込みには多数の人手がいり番頭や蔵元が行ってい
るのが普通だったが、この鴻池氏は子供も多く一大財閥化していたので別会社の様な、
組織運営になったのだろう。その子に忠次郎と言う任侠士が居た。恐らく国定忠治や清
水の次郎長みたいに憧れて走った者であったろう。明治から大正、昭和の初期まで関西
の大侠客鴻池忠次郎は子分3千人余を従えて闊歩していた。その為幕末から明治維新に
かけての鴻池善右衛門家当主である10代目の幸富は、彼らに頼る事はできなかった。
鴻池一族から既に外れていたからだ。明治維新においては、鴻池家も大名貸を帳消しに
されて大きな損失を被ったとも伝えられた。しかし大きな痛手は蒙らなかったとも言わ
れるのは貸付の請求をしなかったからだ。しかしその為維新後に、金融業から他の事業
へ営業分野の拡大もあまり図らなかった。

1232: 名無しさんAA:18/03/31 00:38
 ちょっくら寄り道    35

 ここに水田の水天宮の由緒がある。酒の起源などは世界的には古いものだ。葡萄によ
るワインなどはエジプトの壁画に既にあって紀元前600〜400年位には既にあった
とされている。それらはパンの歴史にナンが焼パンとしてある様に酵母による変化には
古代人が恐る恐るでも試して伝わったものだろう。日本では大牟田にサル酒など言う物
が猿田彦神社には伝わっている。猿田彦神社は山の道祖神とされるが機織りの機織姫を
大事にした。この伝承は手力神や須佐王と同じ内容であまり詳しくは分析できない。と
いうのも今や古事記や日本書紀に偏った伝記に変わってしまっているからだ。久末口伝
では天の羽衣伝説に近いものがある。しかし羽衣伝説は日本各地にさまざまな話型で伝
えられているもので珍しくはないようだ。天界から飛来した天女が、やって来て女人の
姿となり、矢部川が美しく降り立ち休憩する。水浴びする羽の衣を脱いで水浴するうち
、それを盗み見た猿田彦が羽の衣を隠して意地悪をした。そのため幾人かの女人はもと
の白鳥へ戻ることができず泣いてしまった。そこで猿田彦は妻となれば帰すと約束する
。やむをえずその男の妻となり子をもうけるが、子供が大きくなると、男は約束通りに
隠した羽の衣を返して一緒に都に向かって旅に出た。と言う物だ。その旅に出るのに、
男はは謎かけを出し女が答えたので太刀を持ち一緒に旅にでたと言う物だ。オロチ退治
でも、天皇行幸の日本平定の伝記でも、酒は一つのアイテムとして宴には出て来る。そ
れは白酒や濁り酒と言う濾さない酒で所謂甘酒である。これを今の清酒として伝えたの
が杉丸とされる。柳川の杉氏は海産物の酒粕漬けを発明した人とされる。更に家紋が鱗
紋と言う奇妙さがある。自出は大分にあるようだが、分家筋が杉森氏がだったらしい。
大木町には「三八松」という地名の場所がある。この地の由来は明治時代。荒牟田村・
中村・吉祥村・野口村・中野村に鎮座する氏神の、三島神社・八幡神社・老松神社から
、一字ずつとって三八松とした。と伝えられる。この時の老松神社の口伝では、福岡の
道真公の口伝よりずっと古い。福岡近郊の老松神社の由緒は、菅原道真公が大宰府に向
う途中、今宮神社に参拝された際、松を手植えされた。都落ちした自分の無念を、「こ
の松が一夜のうちに成長し古木となることがあれば、後年自分の無実が晴れるであろう
」と念じて植えると、一夜で老いた松となった。この松は飛松と呼ばれ、この地の呼び
名になったという言い伝えだ。太宰府天満宮資料では菅原道真公の御詠歌の中に、「梅
は飛び、松は追い(老)・・」という一説があり、そこから老松という名がついた。つ
まり元来、天満宮の古い呼称は老松社(老松神社)とのこと。と言われる。

1233: 名無しさんAA:18/03/31 00:39
 ちょっくら寄り道    36
大木町の老松神社社伝では、創建年代については不詳であるが、この神社がある場所は
かつてオオクニヌシとスクナビコナが諸国巡回の折に逗留した地であり、その後に垂仁
天皇の時代に一族がこの地に出雲大社の分社として建立したといわれる。この大国主と
少彦名神/少名毘古那神は国作りの神で、日本書紀では高皇産霊尊(たかひむすひのみ
こと)の子とされる。体の小さい神で、のち、常世国(とこよのくに)に帰った。医薬の
神とされる。荒牟田村・中村・吉祥村・野口村・中野村のはそれぞれの神を祀っていた
が荒牟田村が八幡神社を吉祥村は三島神社を野口・中野が老松神社を祀り入り乱れての
産子(うぶこ)を取り合っていたのだろう。この時最後に寄進されたのが三島神社だっ
た。もともと八幡神社も三韓征伐で幡多を挙げて新羅軍に勝った事から出来た神社であ
る。つまり老松神社こそ地元のかなり古い神社と言う事になる。先の菅原道真が立ち寄
って神社の名前の多くが網敷天満宮に変わったが、恐らくは老松神社では無かったかと
推測する。更にこの神社は多分に甘酒の神様ではなかったかと思っている。彼が旅芸人
つまり傀儡子と呼ばれる人形浄瑠璃の一団と共に歩いたとすればことごとく納得がいく
。本来新羅からの多くの天然痘患者で死者のでた地区の現地視察だった。陸路で松山市
内に行かれ3年過ごしたお話しがあるのは、そこでの興行が成功した或いは興行を行う
用意をした。と考えられる。更にかつて讃岐守をしていた関係から牛窓(うしまど)で
小山に登り讃岐の島山を眺められ若き日の讃岐守の頃を懐かしみ何日か逗留している。
牛窓には、神功皇后が三韓征伐の道中、この地で塵輪鬼(じんりんき=頭が八つの大牛
怪物)に襲われたが弓で射殺。皇后が新羅からの帰途、成仏出来なかった塵輪鬼が牛鬼
になって再度来襲、住吉明神が牛鬼の角をつかんで投げ倒した。この場所を牛転(うし
まろび)といい、訛って牛窓になったという。伝説にまつわる浮かぶ島や神社等がある
。この牛鬼(うしおに)は西日本に伝わる妖怪で主に海岸に現れ、浜辺を歩く人間を襲
うとされている。猫のような体と1丈もの尾を持ち、体が鞠のように柔らかいので歩い
ても足音がしない姿で、妖怪絵巻では、牛の首をもち蜘蛛の胴体を持っている姿で描か
れその姿から「土蜘蛛」ともされる。つちぐもは八女地方の独特の伝説でもある。事実
福岡県久留米市の観音寺に牛鬼の手とされるミイラがある。康平年間(1063年)に現れ
た牛鬼のもので、牛の首に鬼の体を持ち、神通力を発揮して近隣住民を苦しめ、諸国の
武士ですら退治をためらう中、観音寺の住職・金光上人が念仏と法力で退治したものと
いう。手は寺へ、首は都へ献上され、耳は耳納山へ埋められたという。耳納山の名は、
この伝説に由来している。この地山門郡の名は、日本書紀に記された神功皇后が山門県
で土蜘蛛の田油津媛を討ったとされる山門県に比定される為にこの名が付けられた。

1234: 名無しさんAA:18/04/03 23:28 ID:6IE
富安君を探せ              < その173 >

維新後の起業の発起人には多く鴻池善右衛門(幸富)が名を連ねてはいるが、名声利用
の誘い込みであり、技術も手腕もない為に、自ら事業をする事は無く、常に投資でしか
なかった。こうして明治の鴻池家の営業方針は堅実で、政商との性格を色濃く持つ三菱
や、治金の技術を悪用した三井のようには、明治の時流には乗らなかった。1877年に、
善右衛門が設立した第十三国立銀行(鴻池銀行)も他の諸銀行に次第に抜かれ、一地方
銀行へと後退していった。一方初代鴻池善右衛門家には兄にはじまる栄三郎家(新七二
)新十郎家(新七三)や、善五郎家があった。新六が始めた酒蔵の事業を影で支えたの
が兄の新七であった。江戸晩期に離れて関西の侠客の徒となった忠次郎の家業は、鴻池
藤太郎が後を継いだ。もともと人脈のある家業だったらしく孫は実業家となって兵庫県
議会議員鴻池勝治となり大阪商人の娘三智子を娶った。終戦後山下汽船で下積みを終え
て家業の運送業、尼崎鴻池組、尼崎港運鰍作った。仕事と任侠とそして戦後を繋ぎ、
尼崎市議(一期)、兵庫県議(五期)などを務めた。その後自民党議員鴻池祥肇が生ま
れた。鴻池氏が在住した鴻池の地名は実は尼子氏一門の地ではなかった。794年の(
延暦13年)この時代には、八女地方には多数の荘園ができている。川崎荘・広川荘・
水田荘。(矢部・黒木は川崎荘)である。この時広川荘は川から北で今の八女地帯であ
り当然水田の荘はその南の水田神社の周辺と言う事になる。この境になるのが室園なの
だが古来より鵜池(うのいけ)と呼ばれていた。この鵜というのは普通の白鳥の類であ
る鵜飼いで有名な鵜は黒い物だが鳥の総称として呼ばれたのだろう。鴻池の鴻は大きい
鳥の意味でありここにやって来た渡り鳥が普通の大型の鳥より大きかったからだろう。
立花藩は江戸後期にこの鴻池氏と雲竜相撲の力士を通じて親交を持ち三千両の借り付け
を行い米相場を利用して財政改革を成し遂げた。即ち現物一挙買いと先物の一挙売買い
で市場を動かし巨利を得たのである。実はこの八女のここから大宰府政庁に米を送った
と伝えられ、ここが米相場の発祥の地ともされる。1158年(保元3年)平清盛が太宰大
弐に任じられてこの地にやってきた。平清盛は若い頃太政大臣になった。しかし太政大
臣は律令に基づいて置かれたが、中国官制には相当するものが全くなく、日本独自の全
国を掌握する為の官職として存在した。日本史上、太政大臣は大友皇子から三条実美ま
での95人に及ぶがその態様は一様ではない。最初は高市皇子が飛鳥浄御原令に基づく
ものが最初と推測されるが、それは京の守りの大将みたいなものだった。天皇の師範で
あり天下の手本となる者を意味し、唐の規定の丸写しで起こり、国家を治め道理を論じ
自然の運行を調和させる者を指名し「尋常の職にあらず」と説明されており、ふさわしい人物がなければ空席とされることになっていた。

1235: 名無しさんAA:18/04/03 23:30
富安君を探せ              < その173 >
 平清盛は平治の乱で勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任じられた。彼が
起こしたのは武家政治の経済改革と言っても過言ではない。日宋貿易によって財政基盤
の開拓を行い、銀の現物で宋銭を大量に買い付けて日本国内で流通させ通貨経済の基礎
を築き、日本初の武家政権を打ち立てたてている。平氏の権勢に反発した朝廷の後白河
法皇と対立したが、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治
の実権を握る。しかし、平氏の独裁は公家・寺社・武士などから大きな反発を受け、源
氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。保延3年(1137年)忠盛が熊野本宮
を造営した功績によって、清盛は肥後守に任じられている。久安3年(1147年)、継室
に迎えた平時子との間に宗盛が生まれるが、時子の父・平時信は鳥羽法皇の判官代とし
て、葉室顕頼・信西とともに院庁の実務を担当していたのである。熊野三山(くまのさ
んざん)は、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の3つの本宮神社がある。こ
の熊野三山の名前からもわかる通り、仏教的要素が強いが実は日本仏教の素となった。
中でも熊野神社は日本全国に約3千社ある熊野神社の総本社である。熊野本宮は鎮座す
る山神を祀り熊野那智大社はその修行道場だった。修行した後の宿坊以上の者の集まる
阿闍梨の勉学堂として熊野那智大社があった。平安時代に広まった刀伊入冠などで地震
や流行り病など大きな社会不安は菅原道真の怨霊伝説と共に国家神道は人々は支持され
なかった。この時僧侶が大きく信者を増やし、その中で新しく出た末法思想をして法華
経は大きく信者を得た。これにより熊野山中で法華経にまつわる不思議な経験をした事
を伝説に古くからの極楽浄土の土地とされたこの地を、極楽往生を望む僧侶にとって、
熊野を霊場として開発していったのだ。これに平氏は寄進を起こした。しかしこうした
仏教は殆どが天台宗の座主の許可の下に行われた。こうして熊野霊場を作り熊野権現と
して神話の耶蘇神論を広めた事から、当時の神仏習合の流れに合致した土地として急激
に権威ある大きな霊場と変化し京の朝廷の支援を得て更に大きくなった。この頃こうし
た神仏習合は多く祇園闘乱事件が起こっている。もともと祇園社は神話由来で天皇家が
祀った素戔嗚と言う力の神の庇護を願ったものだ。だがこの神仏習合で大きく天皇家の
拝礼の儀式も形式上の物として権威墜ちしてしまったのだった。久安3年(1147年)6
月15日、祇園臨時祭の夜に平清盛は宿願の成就を祈って、田楽を奉納しようとした。
田楽の集団には平氏の郎党が護衛として同行したが、祇園社の神人に武具の携行を咎め
られたことから小競り合いとなり、放たれた矢が宝殿に突き刺さり多数の負傷者が発生
する騒ぎとなった。その場は収まりその後暫くは何も無かったが、祇園闘乱事件に祇園
社を末社とする延暦寺は忠盛・清盛の配流を要求して強訴する。

1236: 名無しさんAA:18/04/03 23:32
富安君を探せ              < その175 >

この頃上皇が公卿を引き連れて比叡山に登っており、事件はそのまま立ち消えになるか
に思われたが、26日に法皇が御所に戻ると、祇園社の本寺である延暦寺の所司が参院し
て闘乱の事を訴えた。これに対して忠盛は先手を打って、下手人7人の身柄を院庁に差
し出し、法皇はこれを検非違使庁に引き渡した。が、しかし延暦寺は納得せず、28日、
大衆が日枝社・祇園社の神人とともに神輿を押し立てて、平忠盛・平清盛の配流を求め
、強訴を起こした。法皇は大衆の入京を阻止するため、源光保らの軍兵を切堤の辺に向
かわせて防備を固めた。大衆は徒党を組み、わめき叫ぶ声が洛中に響き渡ったという。
法皇は側近の藤原顕頼を奏者として院宣を下し、三日以内に道理に任せて裁決すると約
束したため、大衆は一旦引き下がった。30日の夕方、白河北殿に藤原忠通・藤原頼長・
源雅定・藤原伊通・藤原宗能・藤原顕頼・三条公教・徳大寺公能・花山院忠雅らの公卿
が集まり、祇園闘乱についての議定が開かれた。忠盛は事件に関知していないので責任
はない、下手人を尋問すべきという意見が大勢を占める中、頼長は本人が関知していな
くても山城国内にいて郎党が事件を起こしたのだから、責任を免れることはできないと
持論を展開する。顕頼は議定の結果を法皇に奏上し、ひとまず現場を検分する使者を出
すという方針が定まった。その日の夜に検分の使者が祇園社に派遣され、延暦寺の所司
とともに矢の突き刺さった場所、流血の痕跡、損失物などの調査を行ったが、主張と食
い違う部分もあったという。こうして強訴が取り上げられたが、鳥羽法皇は、延暦寺の
攻勢から忠盛・清盛を保護し、清盛の罪を贖銅三十斤という罰金刑にとどめたのである
。つまり比叡山延暦寺は既に神社仏閣の頂点にいたのである。平清盛の家は正室の母方
の後見で確かな家盛が家督を継ごうとしていたが家盛は急死したため、清盛の嫡流とし
ての地位は磐石となった。仁平3年(1153年)、忠盛の死後に平氏一門の頭領となり、
この後安芸守に任じられて瀬戸内海の制海権を手にする。このとで莫大な利益をあげ、
父と共に西国へと勢力を拡大した宮島の厳島神社を信仰するようになり、現在の海上に
立つ大規模な社殿が整えられた。社殿は現在、本殿・拝殿・回廊など20棟が作られて
平家の納めた平家納経を始めとした現在の国宝・重要文化財の工芸品などを多数納めた
。こうして平家一門の隆盛とともに厳島神社も栄えて平家の氏神となった。厳島神社は
飛鳥時代に厳島神社を創建したとされる佐伯鞍職に始まり、文献に記載のない期間を経
て平安時代以降は代々佐伯氏が世襲していた。佐伯氏はもともと大神一族の支流である
神紋「三つ盛り二重亀甲に剣花菱」はこの平氏時代からで波切三丸紋が本当だろう。

1237: 名無しさんAA:18/04/03 23:33
富安君を探せ              < その176 >

保元元年(1156年)の保元の乱は平治の乱とも言われ、清盛の立場は難しいものであっ
たが一門の結束につとめ後白河天皇側について勝利をもたらし、平家の武家政治の最初
であった。こうしてこの勝利で播磨守、大宰大弐となった。もともと祇園社事件の前に
保延3年(1137年)忠盛が熊野本宮を造営した功により、清盛は肥後守に任じられてい
ていて使いを出していたはずだ。院政時代全国からこぞって中央の有力者に荘園を寄進
してその庇護を受けて院の武者として勢力を拡大しようとした。4代菊池経宗・5代菊
池経直も鳥羽院武者と記録されて、菊池氏がその例に漏れなかった。このころまでに、
菊池氏一族の中に在地名を名乗る者が現れ、菊池氏一族が肥後国の在地勢力としては、
定着拡散して行ったことが分かる。平家台頭後は更に日宋貿易に熱心だった為、平清盛
が肥後守に就任するなど、平家による肥後国統制が強化されると菊池氏は平家の家人と
化した。その後太宰権帥として清盛がなったのを機にその守護豪族の地位は確立された
。しかし平家の家人となり治承・寿永の乱(源平合戦)に従軍したものの、壇ノ浦の戦
いで源氏方に寝返り御家人に名を連ねた。この源平の間を揺れ動いたことで頼朝の信用
は無く恩賞は守護に任じられた少弐氏や大友氏・島津氏に遠く及ばず、逆に多くの関東
御家人に周囲に配置され、その牽制を受けた。この後平家の平清盛以降に平氏の時代が
続いたなら間違いなく九州もそう大きな混乱は起きなかった。「大宰府権帥」と称され
る様になったのは平安時代だが、権帥(ごんのそち)は仮の長と言う意味でそのため、
朝廷からの権帥を気にするものもおり、平惟仲(たいらの これなか)のように懇願し
て大宰帥として任命されるものもあったが、多くは嫌った。しかし地元では、在庁官人
に頼る為権力が移って、保安年間の源重資を最後に権帥も遙任化していった。治承年間
に松殿基房が左遷によって大宰権帥となったり、その監視の為に藤原隆季が大宰帥に任
じられたりしていた。基房が途中の備前国で出家して同地に留まる事を許されたために
派遣が中止されている。平惟仲がこの大宰府に赴任した時、長保3年(1001年)にかつ
ての同僚で大宰大弐を勤めていた藤原有国の後を受けて、中納言兼務のまま大宰権帥と
して大宰府に赴任した。

1238: 名無しさんAA:18/04/03 23:33
富安君を探せ              < その177 >

 平惟仲は今で言う「現地妻」の子として生まれた。後に弟の生昌と共に都に上って、
大学寮に入り文章生となる。祖母の藤原元姫(藤原菅根の娘・中納言平時望室)が、女
官として宮中に出仕して冷泉・円融両天皇の養育係を務めていた経歴によって、外戚で
ある時の摂政藤原伊尹との関係を持ったことで、官僚の道を歩み始め順調な出世の背景
にはが大きいとされている。その後、美作・筑後・相模・肥後の受領を歴任し、勤勉振
りを伊尹の弟である摂政藤原兼家に気に入られたことから兼家の家司となり、永延元年
(987年)に右少弁次いで右中弁と弁官に抜擢され、同僚の藤原有国と共に兼家の耳目
として活躍していた。 990年の兼家薨去の際には長男の道隆を後継に推挙して彼からも
厚遇され、正暦3年( 992年)に、閣僚の一員である参議にまで昇進すると言う、地方
出身者としては異例の栄達を成し遂げている。また、この時期に、一条天皇の乳母で、
兼家の異母妹にして、彼の次男道兼の前妻の藤原繁子と結婚した。赴任後、歴代の権帥
や大弐が手を焼いた宇佐神宮の神人達の支持も取り付けるなどの行政手腕を発揮した。
長保5年(1003年)には従二位を叙される栄冠に浴する。しかし、宇佐神宮宝殿を封じ
たことが元で宮司に訴えられ、寛弘元年(1004年)の12月に大宰権帥を解任された。
その後病に伏し、翌寛弘2年(1005年)3月14日に大宰府で薨去。享年61。この後、荼毘
に付された惟仲の遺骨を弟の生昌が大宰府から都に持ち帰ったという。地方出身であり
ながらも、その身一つで都に上り、勉学で磨いた才覚を武器に中央政界を渡り歩いて、
兼家、道隆、そして道長と言った実力者達に重用され、遂には従二位中納言にまで上り
詰めたその姿は、当時としては正に異例とも言うべきもので、それだけ惟仲の異才ぶり
が、当時の世論の耳目を集めていた。兼家の家司として藤原有国と共に「左右の眼」と
いわれ重用されたが彼の時代珍しく朝廷内には波乱がなかった。兼家の後継者を決める
際に兼家が惟仲に相談しているが、長幼の序を理由に道隆を推薦した事で後に後継者と
なった道隆からも厚遇されたという。道隆薨去の後には、中関白家衰退の予兆を嗅ぎ取
り、道隆の末弟の道長に接近し道長の閣員として権中納言に昇格、その後も極官である
中納言にまで到達した。平は桓武天皇が建設した平安京にちなんで「平(多比良)」と
名づけたとすると言われる。だが実は逆ではなかったか。多比良と言う渡来人が大勢こ
の難波宮を作る前に居住していた。そして桓武天皇が難波宮を作る労役に使い その頭
として多比良を平としたのではないのだろうか。


1239: 名無しさんAA:18/04/03 23:33
富安君を探せ              < その178 >

平惟仲は高棟王流の平家四流の一つだった。出自は葛原親王長男の高棟王子孫とされる
。高棟王は天長2年 (825年)に賜姓を受けて平高棟となった。この流れは公家として
京に残り、平安時代末期に平清盛の正室平時子(二位尼)と、その弟で清盛の威勢によ
って正二位権大納言にのぼった平時忠、異母妹の建春門院平滋子が出た。時忠は壇ノ浦
の戦いの後、能登に流され没落したが、時忠の弟親宗の子孫(唐橋家)や叔父信範の子
孫(西洞院家・安居院家・烏丸家)は、鎌倉時代以降も公家として続いた。歴史物語の
今鏡に、「日記の家」と紹介されているように平記・兵範記をはじめ多くの古記録を残
している。江戸時代には西洞院家・平松家・長谷家・交野家・石井家という5家の堂上
家を出した。なお、時忠の子時国の子孫を称する家が能登半島で豪農(上時国家、下時
国家)となり、現在も続いている。しかしその多比良氏の祖先は、長崎に多比良町を作
っている。今も残る多比良町の近くには、多くの伝説が残っている。しかし多比良港は
不思議にも雲仙でも有明海に面した場所だ。 今から 千数百年前、仲哀天皇の御世に
、日本と朝鮮は国交が上手くいっていなかった。それで神功皇后は互いに仲良くするた
めに多くの兵を連れて朝鮮に行くことになった。ところがその頃、九州では熊襲という
悪者が村人を苦しめていたので、皇后は道すがら熊本地方まで足を運び熊襲を討伐した
。と言う物だ。その時に神功皇后が「何か困ったことがあれば言うように」と触れまわ
ったので、一人の男が「私どもの島原にも悪者がいて困っています。どうか討ち平らげ
て下さい」と言った。皇后は忙しい身ではあったが島原半島まで立ち寄ることに決めて
、船で出向くと大歓迎を受けた。そこで神功皇后は不思議な現象を目にした。海上に幾
千の火の玉が現れたのだ。皇后も兵に調べさせたが原因が掴めず、それを誰も知らない
火「不知火」と呼ぶことにした。それでその火より手前を、「火の前の国」、奥を「火
の後ろの国」と言う意味で、長崎を肥前、熊本を肥後と言うようになった。その頃村人
は武荘五郎という大変悪い熊襲に苦しめられていた。この武荘五郎は非常な大力で、誰
も歯が立たなかったという。この武荘五郎はかつて自分の力を部下に見せるために大き
な岩山を一本の棒で担い上げたが、そのはずみで棒が折れ、岩山の一つは海の中に落ち
てしまい児島なった。と言う程だった。神功皇后は村人の願いを聞いて、この武荘五郎
を退治することにした。武荘五郎も部下を従えて皇后を迎え撃った。武荘五郎らは思っ
た以上に手強く、皇后自身も弓矢をとって戦うも劣勢だった。そのとき何処からか住吉
大明神が現れ、神智により皇后軍は元気づき、ぐんぐん賊を追い詰める事が出来た。


1240: 名無しさんAA:18/04/03 23:34
熊襲の賊はたまりかねて山深く逃げ込んだが、ついに武荘五郎も力尽き皇后の部下に討
ち取られ平定を果たした。長い間村人を苦しめた武荘五郎もついに討ち取られたので、
村の人たちは喜んで武荘五郎の首を海岸まで板に乗せて引きずった。そして小高い丘の
上で首を焼き骨を埋めて塚を作った。それでこの地を鬼塚と呼んだ。村は平和になり、
人々は畑仕事に精を出せるようになった。皇后が去るときの見送りは村人総出のそれは
盛んなものだったという。武荘五郎は何者か。この周辺に多くある「みそ五郎伝説」の
元とされる。この「みそ」は「未曾有」がなまったものと解され「五郎」は「御霊(ご
りょう)」とされる。この頃の伝説には「阿蘇猛(あそたける)の大王」の話で日本武
尊(やまとたける)に勝ったという伝承が残る。これらを考えると仲哀天皇の崩御の元
はこの雲仙だったのかも知れない。かろうじて和議をした振りをし酒を飲ませて勝った
ものの、傷を負い香椎の宮で崩御した。と伝えられる。阿蘇猛の熊襲はこうして平定さ
れるが、その場所は熊本である。即ち不知火の火は熊本側のかがり火であったのである
。つまり大和朝廷の長崎国見岳と九州部族の熊襲の熊本国見山はお互い睨みあった事に
なる。では武荘五郎とは本当に何者だったのか。五万長者遺跡(ごまんちょうじゃいせ
きは雲仙市国見町高下名字平野山にある。本遺跡は、島原半島北部雲仙岳北麓の緩やか
な丘陵にある。遺跡一帯を大きくは、「高下名(こうげみょう)」といい、古来から、
「五万長者」伝説が伝わり、古くから古瓦を出土することで知られる本遺跡がその屋敷
跡と伝承されてきた。1970年には、地元の研究者である古田正隆氏を団長とする国見高
等学校・島原工業高等学校合同の「五万長者屋敷調査団」が発掘調査を実施している。
その結果、数カ所の柱穴跡を検出している。人工的に造成された版築状の遺構や土師器
杯を伏せた祭祀遺構と考えられる穴が検出され、古代の土師器、須恵器、瓦などの遺物
が出土している。出土している瓦については、研究によって、福岡老司瓦窯跡を標式と
する老司系瓦で、老司系とその亜型で8世紀中頃前後の年代を与えている。この遺跡が
「九州における老司系瓦の出土状況をみると、大宰府を除いて寺院跡以外の出土はなく
、建築物は寺院の可能性がきわめて高い。この遺跡は、五万長者廃寺跡と呼ぶべきもの
で」、五万長者廃寺を「高来郡の郡司が建立した郡寺と考えることができる」としてい
る。と発表された。百花台遺跡や筏遺跡は旧石器時代から続く有史前先人の遺跡として
全国的にも有名となった。この五万長者(一説には胡麻長者)遺跡は、高来郡を支配し
ていた郡司の寺跡と考えられ、近年調査された十園遺跡と共に高来郡郡衙の一部をなす
遺跡と考えられる。また、発掘調査において新たに前方後円墳(龍王遺跡)が発見され
るなど町内各地からさまざまな時代の遺跡が発見されており、当町の歴史の古さ、文化
の推移がうかがわれる

1241: 名無しさんAA:18/04/03 23:35
富安君を探せ              < その180 >

古代の歴史に残っているのは、神功皇后が時津から上陸して一泊し、「長い夜」といっ
たので、長与になったという話しがある。長い夜の話は何故なのか不思議だが、古代史
に残っているということは、昔から存在していたということである。古代、長距離の移
動には船が使われていたので、時津に上陸し長崎港まで歩き、そこから船に乗る道があ
ったようで、時津街道とも呼ばれている。時津と長与はすぐ近くなので、ともに栄えた
と思われる。少し離れて諌早に喜々津がある。 時津、長与、喜々津と並ぶ。 このパタ
ーンで行けば、長与ではなく長津のはずなのだが、そうなっていない。津というのは、
船着き場のことなので、長与は船着き場でなかったということになる。長与の「与」を
字は当用漢字をあてはめた漢字で、昔は「輿」という漢字を使用していた。つまり長輿
は「輿(こし)」の関連だった意味だった事は間違いないだろう。輿は轅(ながえ)と
称する2本以上の棒の上に人が乗る台を載せた乗り物の事で、嫁入りを輿入れと称した
し篭に乗る者が神なり貴人では御神輿(おみこし)や御輿(みこし)となる。博多の街
が伯太の人すなわち出雲からの長髄彦族の地に変わった事はよく知られている。長髄彦
は神武天皇に「昔、天つ神の子が天の磐船に乗って降臨した。名を櫛玉饒速日命という
。私の妹の三炊屋媛を娶わせて、可美真手という子も生まれた。ゆえに私は饒速日命を
君として仕えている。天つ神の子がどうして二人いようか。どうして天つ神の子である
と称して人の土地を奪おうとしているのか。」景行天皇の身長が、御身長一丈二寸、御
脛長四尺一寸と書かれている。1丈およそ畳一枚3m程度二寸は6センチとすれば、脛
の長さは1.2メートルほどである。だがこれは、近年計量法で決められた数字で、昔は
当然京間と言われる寸法もあった。太鼓や鼓など8寸を腕や撥(バチ)の長さで0,4m
である。これからすると巨人ではあるが1割は多い。つまり最大で2.8〜2.5mとすれ
ば、そうそう無かった話とはならない。もう一つの天孫降臨をした人物が長脛彦の一族
だと古事記には書かれている。天孫降臨した神様の名はニギハヤヒという。天孫降臨し
たニギハヤヒは物部氏につながり、大和、河内を本拠地にしている。長髄彦族は神武東
征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長で、中世に武将として台頭した織田家
(後に織田信長を輩出)や伊達家が長髄彦の子孫であるとも言われている。文字通りだ
と2,5m級の大男である。長髄彦をモデルにしたと言われている、長髄彦は反大和の背
の高い種族であったのだ。こうして長与の神社 戸隠神社 祭神は天手力男神である。
一方熊襲は土蜘蛛のはびこる未開の地として、武器こそもつが少彦名でも解るように。
入れ墨した小人(こびと)とされる倭人族だったのである。

1242: 名無しさんAA:18/04/05 10:21
 宣教師の時代       ーーー1

 良く間違えやすいのは、島原の乱で、天草四郎をはじめとする一揆勢が立て籠ったこ
とで有名な原城はこの雲仙であると言う事だ。もともとは、島原を拠点に長崎県全域に
勢力を伸ばした 有馬氏の城であった。当時は、沖合を渡る船が日没を忘れるほど美し
いお城だったといわれ、「日暮城」とも呼ばれていた。日野江城の支城として扱われて
いた。南島原市のほぼ中央、有馬川河口付近の小高い丘にある。南には有馬川が流れ、
東には大手川が流れている。縄張りは北西に三の丸、東に二の丸を配し中央の丘頂部に
本丸が置かれた連郭式平山城であったとされる。安土城にしか見られない直線階段や、
海外の技術を取り入れた石組み、金箔を施した瓦などが出土した。先進性や豊臣政権と
密接な関係を持っていた。1614年7月、日野江藩主・有馬直純が自らの志願で移封した
あと天領となっていた。だが有馬藩が徳川氏から移封され1616年に松倉重政が日野江城
に入城した。この時、松倉重政は島原城を築城開始したため、日野江城と共に原城も、
廃城となり、石垣や構築物は転用された。島原の乱は4ヶ月に及ぶ籠城戦の末、幕府軍
の総攻撃によって原城は落城。その後、見せしめとして城は徹底的に破壊された。今や
堀や石垣の跡を残すのみの、日本史に残る激戦の舞台を偲ぶのみになった。一揆が起こ
った時、島原藩は直ちに討伐軍を繰り出し深江村で一揆軍と戦い、兵の疲労を考慮して
島原城へ戻った。この時対岸の天草では呼応して、数日後に肥後天草でも一揆軍が蜂起
した。天草四郎を戴いた一揆軍は本渡城などの天草の拠点を攻撃、本渡の戦いで富岡城
代の三宅重利(藤兵衛、明智秀満の子)を討ち取り。勢いを増した一揆軍は唐津藩兵が
篭る富岡城を攻撃、北丸を陥落させ落城寸前まで追い詰めた。天草自体は小西行長の領
地であった為朝鮮征伐後に偽書事件の為徳川氏とは上手くいっていない。関ヶ原合戦に
よって改易となり、肥前国唐津に入部した寺沢広高の所領となった。が、宗氏の後見人
としての地位で安堵されていた筈だった。雲仙を秀吉時代に天領としていた頃までは、
上手く行っていたが、しかし板倉氏が来て過激な徴収に至ると直ぐに反発が起こった。
それまでは本渡城は、戦国時代の有力国人・天草五人衆の中で、最も勢力を有していた
天草氏の本拠地で、天生十八年(1590)には、本渡城主・天草種元と小西行長・加藤清正
らが激しい戦いを繰り広げる事になった。種元はドン・アンドレアという洗礼名をもつ
キリシタンであり、城内には宣教師や付近のキリシタンが立てこもりました。攻め手側

1243: 名無しさんAA:18/04/05 10:22
天草氏の本拠地で、天生十八年(1590)には、本渡城主・天草種元と小西行長・加藤清正
らが激しい戦いを繰り広げる事になった。種元はドン・アンドレアという洗礼名をもつ
キリシタンであり、城内には宣教師や付近のキリシタンが立てこもりました。攻め手側
の小西行長も敬虔なキリシタンであったために城攻めには消極的でしたが、加藤清正は
激しく城を攻めた。この天草五橋の最後の本渡島はキリスタンの聖地で陸続きではない
。富岡城はその又尖端にある城である。野心ある慶長10年(1605年)寺沢広高によって築
かれたが、これにより天草一帯は過酷な地と変わった。



1244: 名無しさんAA:18/04/05 10:24
 宣教師の時代       ーーー2

「北肥戦誌」に有馬晴純のことを「志自岐原 今の原城 城主」と書いてある。いまは
、原城と言うが実はかつては志自岐原城(シジキバルジョウ)と呼んでいた事になる。
お隣の加津佐町にある加津佐之古城跡は、ここにはかつてコレジヨがあったと言われて
いる。この口乃津と呼ばれるが久木の津がなまった言葉とされ九鬼の津が正式名称であ
ろう。九鬼水軍は別名織田水軍(おだすいぐん)・志摩水軍(しますいぐん)とも称さ
れる。頭首だった九鬼嘉隆は鉄甲船(鉄板で装甲した巨大安宅船)を建造したとされる
。九鬼氏の祖は、熊野別当を務め、熊野水軍を率いた湛増にさかのぼるという説がある
がそもそも熊襲の船旅係である。紀伊国牟婁郡九木浦を根拠地とし、鎌倉時代には既に
志摩国まで勢力を拡大していたといわれ、南北朝時代に志摩国の波切へ進出して、付近
の豪族と戦い、滅亡させた。天正12年(1584年)6月、九鬼嘉隆は伊勢白子浦から蟹江
浦に滝川一益の兵3千人を揚陸させているが、この海戦に敗れて嘉隆は大船を捨て小舟
で沖に逃れており、この時に沈没したとも考えられる(蟹江城合戦)。この嘉隆の大船
は、「大宮丸」、「日本丸」と命名していたと伝わる。文禄元年(1592年)からの文禄
の役では九鬼水軍の安宅船が数々の海戦に参加して、村上水軍を打ち破った。その為に
その後も九鬼水軍は、慶長の役、安濃津城の戦い、大坂の陣などに参加している。「多
聞院日記」によると長さ12〜13間(21.8m〜23.6m)、幅7間(12.7m)と記述されている
。これは天正元年(1573年)に琵琶湖湖畔の佐和山において、丹羽長秀の指揮のもと、
建造されたと推測される。反面、この寸法では大船よりも大幅に船長が短く、縦横比が
低いために航走には適さない。装甲本船は船体を厚さ3mm程度の鉄板で覆い、村上水軍
が得意とした焙烙火矢に対する装甲としたと伝わる。この船に「鉄の船なり。鉄砲通ら
ぬ用意、事々敷儀なり」という伝聞の記述をしている。第二次木津川口の戦いについて
詳細に記載しているオルガンチノの報告書では、「王国(ポルトガル)の船にも似てお
り、このような船が日本で造られていることは驚きだ。」とあるだけで装甲の有無には
触れておらず、『信長公記』においても装甲の有無については記載がない。このため、
鉄張り装甲を持っていた、という点には疑問があるものの倒伏型の大型帆船があった事
は事実の様だから鉄板貼の船があっても不思議でない。又原氏や志岐氏がこの城からの
自出であろう事も間違いない。


1245: 名無しさんAA:18/04/05 10:25
 宣教師の時代       ーーー3

 この戦国期の貿易は、もともと宣教師による布教は南蛮貿易と一体として持ち込まれ
たので、キリスト教を保護した領主の中には、あるいは洗礼を受けたキリシタン大名の
中でのみ、貿易の利を得る事が出来た為、利潤を主目的にしていた場合もあるだろう。
公権力が、キリスト教を弾圧した最初は、天正十五年(1587)六月十九日の秀吉による
宣教師追放令だった。つまり禁教令も秀吉時代はまだまだ弾圧まで至っていないのだ。
山田右衛門作は、1637年に勃発した島原の乱で天草四郎率いる一揆軍が全滅する中、唯
一生き残った(厳密には脱走した)南蛮絵師と言う。一揆軍の幹部でありながら幕府軍
側に内通していた裏切者で、彼の供述がなければ、天草四郎の存在が世に知られること
はなかったとも言われている。我が国最初のプロの洋画家で、世界三大聖旗の一つとい
われる天草四郎陣中旗は彼の作とされている。 山田右衛門作が絵をかく時に与茂作(
よもさく)と名乗って、この川の水を汲んだことから与茂作川と呼ばれるようになった
。現状ではポルトガルの貿易船(南蛮船)は1550年とされる。以来、松浦氏の所領であ
った平戸に来航していたが、1561年のポルトガル人殺傷事件(宮ノ前事件)をきっかけ
に、日本最初のキリシタン大名の大村純忠より提供された横瀬浦(西海市)に移った。
大村氏の内紛で横瀬浦が焼き払われると、今度は1565年に大村氏所領内の福田(長崎市
)に来航した。だが福田は外海で波も荒く港内も狭かったため寄港地としては短命に終
わっている。1567年には有馬氏を頼って南蛮船が口之津(南島原市)に来航した。しか
し、ポルトガル側は福田や口之津には不満が根強かったようで、より波静かな天然の良
港を開港するよう純忠に求めていた。これに応じて、1570年に長崎港が開港されると翌
1571年には最初のポルトガル船が寄港して、以後長崎が南蛮貿易の拠点として発展して
いくことになる。と言われる。しかし天草の河浦にコレジヨのカトリック教会の高等教
育施設は実はもっと古くあったという口伝がある。日本では天正8年 (1580) イエズス

1246: 名無しさんAA:18/04/05 10:26
 宣教師の時代       ーーー3

 この戦国期の貿易は、もともと宣教師による布教は南蛮貿易と一体として持ち込まれ
たので、キリスト教を保護した領主の中には、あるいは洗礼を受けたキリシタン大名の
中でのみ、貿易の利を得る事が出来た為、利潤を主目的にしていた場合もあるだろう。
公権力が、キリスト教を弾圧した最初は、天正十五年(1587)六月十九日の秀吉による
宣教師追放令だった。つまり禁教令も秀吉時代はまだまだ弾圧まで至っていないのだ。
山田右衛門作は、1637年に勃発した島原の乱で天草四郎率いる一揆軍が全滅する中、唯
一生き残った(厳密には脱走した)南蛮絵師と言う。一揆軍の幹部でありながら幕府軍
側に内通していた裏切者で、彼の供述がなければ、天草四郎の存在が世に知られること
はなかったとも言われている。我が国最初のプロの洋画家で、世界三大聖旗の一つとい
われる天草四郎陣中旗は彼の作とされている。 山田右衛門作が絵をかく時に与茂作(
よもさく)と名乗って、この川の水を汲んだことから与茂作川と呼ばれるようになった
。現状ではポルトガルの貿易船(南蛮船)は1550年とされる。以来、松浦氏の所領であ
った平戸に来航していたが、1561年のポルトガル人殺傷事件(宮ノ前事件)をきっかけ
に、日本最初のキリシタン大名の大村純忠より提供された横瀬浦(西海市)に移った。
大村氏の内紛で横瀬浦が焼き払われると、今度は1565年に大村氏所領内の福田(長崎市
)に来航した。だが福田は外海で波も荒く港内も狭かったため寄港地としては短命に終
わっている。1567年には有馬氏を頼って南蛮船が口之津(南島原市)に来航した。しか
し、ポルトガル側は福田や口之津には不満が根強かったようで、より波静かな天然の良
港を開港するよう純忠に求めていた。これに応じて、1570年に長崎港が開港されると翌
1571年には最初のポルトガル船が寄港して、以後長崎が南蛮貿易の拠点として発展して
いくことになる。と言われる。しかし天草の河浦にコレジヨのカトリック教会の高等教
育施設は実はもっと古くあったという口伝がある。日本では天正8年 (1580) イエズス
会士 A.バリニャーノにより豊後府内 (大分市) に創設されたが、これは他を真似ての
事だ。同14年島津氏の侵入によって焼失し、山口に移り、さらに加津佐 (島原半島の
南西端) ,天草を経て長崎へ移転している。聖職者の養成と、ヨーロッパ文化の伝達を
目的として,哲学,神学,一般教養を教え,教義書や辞書,物語などの印刷出版も行な
ったものだが、最初から豊後に入ったとは到底考えられない。

1247: 名無しさんAA:18/04/05 10:26
目的として,哲学,神学,一般教養を教え,教義書や辞書,物語などの印刷出版も行な
ったものだが、最初から豊後に入ったとは到底考えられない。更にユグノー教徒のラ・
ロシェルやボルドーにおける海上交易の発展にもユグノーは多大な力を持ち、ボルドー
においては主にイギリス・オランダとの交易を担い、ラ・ロシェルにおいてはナントの
勅令直前まで貿易をほぼ独占していた。つまり東洋交易において、イエズス会が最初の
日本上陸の筈はないのである。加津佐の港ではユグノーが上陸していた筈だった




1248: 名無しさんAA:18/04/05 10:34
 宣教師の時代       ーーー3

 富乃津とも言われた加津佐の港が、「より波静かな天然の良港を開港するよう純忠に
求めていた。」と言うのは間違いだ。口之津港は天然の港として古来より大型船の寄港
に適した有明海の入口だ。更に対岸の富の島富岡はキリスタンの天使堂には最適な場所
であったろう。島津氏が丸に十文字の紋をつけ秦氏流惟宗朝臣として旗上げししたのは
そんなに古くはない。源平時代に南九州にあった近衛家領荘園の後で島津院とされる荘
園の防衛についてからだ。ではそれ以前に住民がいなかったのかと言えばいたのである
。西郷氏は熊襲の中で菊池一族の西側の村の住民だったのである。文治2年(1186年)に
関東から下向し薩摩国山門院(鹿児島県出水市)の木牟礼城に入って荘園の守護武将とな
った。相良氏は相浦氏の言葉が変化したのだが言葉の通り海人族である。相とは出会い
を指すもので相浦(あいのうら)とは海で出会ったという意味のものだ。浦島伝説の、
浦島とは海と島つまり海上と陸上の間の人間で海人族そのものを指し太郎とはその頂上
にいる者である。つまり、亀に乗って竜宮に行き玉手箱を貰うのだが、もともとは化粧
道具を入れるための着飾る今で言うなら宝石箱である。この「玉櫛笥(たまくしげ)」
が玉手箱となった。とされる。島原伝説に竜眼伝説がある。昔、稲荷山の下で一匹の蛇
が子ども達にもてあそばれていた処、高田洞庵という若い町医者が通りかかり、その蛇
を助けてやりました。ある雨の碑、雨宿りを求め絶世の美女が洞庵宅の戸をたたきまし
た。その美女は洞庵といつしか気心が解け合い二人は夫婦となり、子どももできて楽し
い暮らしが続きました。ある日、洞庵は妻の姿が見えないので、裏の納屋を覗いてみる
と、大蛇がとぐろを巻いて赤ん坊に乳を飲ませていた。その大蛇は、以前助けてもらっ
たことを告げ、大事な子どもの為にと、くりぬいた目玉を渡して、雷鳴とどろく夕闇の
中へ消え去って行きました。その後、子どもはすくすくと育ちましたが、領主が不思議
な玉のことを聞きつけて取り上げてしまうと、その日から洞庵の子は泣き続け、痩せ細
って行きました。雷鳴がともに大蛇が現れ、もう一つの目玉を差し出して去って行きま
したが、だが、またもや領主がその玉を奪ってしまった為、突如として大轟音とともに
眉山が崩壊し、有明の海は大津波を起こし大惨事「島原大変」となった。と言う伝説だ
洞庵の子は、蛇体の母親の温情を後世に伝える為に、龍眼様の祠を稲荷山に建立した。

1249: 名無しさんAA:18/04/05 10:34
洞庵の子は、蛇体の母親の温情を後世に伝える為に、龍眼様の祠を稲荷山に建立した。
これが龍眼稲荷神社(現:正地稲荷神社 栄町竜王神)の由来とされる。ここで龍の目
と言うのは恐らく真珠の話であろう。古来より真珠は体内異物によって作られる。島原
雲仙は火山活動は活発で貝でも微量そうしたものが体内に残る事は多くあっただろう。
では亀とは何か。実は甕(かめ)の事で昔は深い海には重しや空気ツボが必要だったと
される。



1250: 名無しさんAA:18/04/05 10:35
 宣教師の時代       ーーー4

 近代真珠は、1893年、御木本幸吉が、世界で初めて真珠の養殖に成功し、それまでは
偶然の産物でしかなかった真珠は世界のすみずみにまで、その美しさを広めることにな
った。とされている。しかし中東では石油の前は養殖にまではいかないものの真珠産業
は盛んだった。日本のミキモト真珠の創業者の方が真珠の養殖法を発見して、これまで
高価だった真珠が安く採れるようになったために、中東の真珠産業が栄えなくなってし
まったのであって真珠の養殖技術そのものは違った形であったと思う。何故ならペルシ
ア湾岸では数千年にわたって天然真珠の採取が行われてきていて、その中でバーレーン
近海の好漁場には、質の高い真珠が採取されていた。この方法は少なくとも1000年以上
の間、ほとんど変化をしなかった伝統的なものだったと言われるからだ。その為真珠商
人たちも多く集まっていた。しかし記録では真珠貝の1万個に一個の真珠だったらしい
。1930年には約3万人の潜水夫たちがおり彼らが真珠で食べていたとすれば、かなりの
高価なものだったと言える。事実として、中国で実際行われた方法は乾道3年(1167年
)には『文昌雑録』巻第一にその記述があり。仏像真珠(胡州珍珠)と称されて、浙江
省で真珠養殖は、伝統的にされ続けてきたものであった。人工で作った珠を貝の中に入
れるという方法で、貝付き真珠、一種の半円真珠であるがそれらは流通していた。この
仏像真珠に関しては清に滞在したキリスト教の神父B.E.X.アントレコールが1734年には
フランス本国に報告している。これらの方法は天草にも秘伝としてあったと考えられ、
それらの海産物相手にイスパニヤ船は来航していたと思われるのである。但し真珠その
ものは高価で少量なので 水食糧の供給と真珠の交換ぐらいでは多分その寄港の日数は
少時間で少なかったと考えられる。これが富家の創始でったとも考えられる。というの
も対岸の熊本にはチブサン古墳や日岡遺跡があるからだ。チブサンにはオブサン遺跡の
壁画が今や見れないから不明だが7つの領域(7円)をめぐって角を持った王と白三角
の勢力と黒い壁を境に戦った歴史が見える。この7つの渦紋は日岡遺跡にも見られる。
赤三角どうし白三角どうしが(三角は家系の繋がり)戦い最終的に黒点の周囲に白丸が
周囲を囲んだ2つが中心になり黒三角が払われている。これは大和朝廷と九州朝廷を、
長脛族が擁立し 熊襲や疾風などの豪族は追い払われたと言う意味に解される。つまり
この天草や雲仙の地は太古の昔から この天草の乱の様な事が起こっていたと考えられ
るのである。又イスパニアがカピタン商館を建てている事は確かだろうが今一つはっき
りしない。

1251: 名無しさんAA:18/04/06 19:34
 宣教師の時代       ーーー6

 こうした事で拡大する中国はベトナムと戦争を起こしていた。1433年宦官鄭和は
の中国時代からもこの子孫や兵は日本に渡った後も馬場氏を名乗っていたと言われる。
太宰府政庁の龍造寺家や大宰少弐氏の家臣の馬場氏もそうした事で明朝貿易に関わって
いたはずだ。信長や秀吉によって天下統一による統一政権が日本に生まれると、交易統
制の必要性が発生し、近世ではじめに統一政権を樹立した豊臣秀吉は日本人の海外交易
を統制し、倭寇(後期倭寇)を禁圧する必要から、1592年に初めて朱印状を発行して、
マニラ、アユタヤ、パタニになどに派遣した。とされる。ポルトガルは、イスパニア王
現スペインの前身であるレオン・カスティジャ王国の一部、ポルトガル伯領として建国
されてた。その後王号を認められ、ポルトガル王国となった。その後1580年ポルト
ガルの王家の直系が絶えたため、スペイン王フェリペ2世が、母がポルトガル王家出身
を理由に、ポルトガル王位を兼ねた。しかしフェリペ4世の時代に、ポルトガルで、反
スペインの反乱が起こり、1640年外交的手回しにより、スペインからの独立に成功
している。つまり一時期1600年頃はスペインとポルトガルは戦争していたのである
。スペインとポルトガルの戦争は実は1630年のフランス・スペイン戦争の前哨戦だ
ったのである。ドイツとスウェーデンが同盟を組み、神聖ローマ帝国との関係を修復し
た。その為フランスの領土はハプスブルク家の領土に包囲されてしまったのだ。フラン
スはこの事に自由を危惧し、ハプスブルク家側のスペインに宣戦布告をしたのだ。こう
したハプスブルク家の企みの元に起こったスペインの内戦が、ポルトガルとスペインの
内紛だったのである。サン・フェリペ号はマニラからノビスパニア(メキシコ)のアカ
プルコに向かう途中で捕獲され遭難したのである。同船の船長はマティアス・デ・ラン
デーチョであり、船員以外に当時の航海の通例として七名の司祭はフランシスコ会員の
フェリペ・デ・ヘスースとファン・ポーブレ、四名のアウグスティノ会員、一名のドミ
ニコ会員が乗り組んでいた。フランシスコ会の基本理念は、貧しいイエス・キリストの
生涯を範として、その福音を使徒と同様忠実に生き、ローマ教皇に対してはあくまでも
従属であった。「托鉢修道会」ないし「乞食僧団」とよばれ、どの教会管区にも属さず
、ただローマ教皇にのみ属した、キリシタン迫害の時代には多くの殉教者を生んだ。人
びとに「神の国」を説き、その戒律は(服従、清貧、童貞)と徹底的に実行した。その
点では清貧の修道会であった。



1252: 名無しさんAA:18/04/06 19:34
 宣教師の時代       ーーー7

 つまり此の時すでにフランシスコ会は世界中に散って活動していたのである。その上
で秀吉に水先案内フランシスコ・デ・オランディアは憤り、世界地図を長盛に示してス
ペインが広大な国土を有し、日本がいかに小国であるかを語り、質問に答える間、スペ
イン国王はまず宣教師を海外に遣わし、布教事業とともに征服事業を進めるという意味
のことを語った。「スペイン国王は、まず宣教師を派遣し、キリシタンが増えると、次
は軍隊を送り、信者に内応させて、その伝道地の国土を征服するから、世界中にわたっ
て領土を占領できたのだ。」と通訳は話して、この時代には、スペインによって、まだ
征服されていなかった国は、東アジアでは、明(朝鮮半島含む)と日本のみとなってい
ることを示していた。このスペインの貨物船の、サン・フェリーペ号が遭難し、土佐の
浦戸に漂着したことは改めて秀吉を驚かせたに違いない。救助した船員たちを、秀吉の
五奉行の一人である増田長盛が取り調べにあたり、この驚くべき事実があきらかになっ
たからだ。これまで、スペインが日本に攻めて来たとしても、彼らは海を渡ってやって
きても、スペインとの直接対決ならば、海を渡ってやって来るスペイン人は、少数の為
南蛮船打ち払い令で、火力、武力とも全員が日本を守れると信じていた。しかし、スペ
インが今に明を植民地として、支配下に治めることになると、話は大きく違ってきくる
。数多くの鉄砲を日本が持っていても、スペインに支配された明の兵士たちが、数の力
にモノを言わせて日本に攻め込んできたら、これは大変なことになる。既に幾つか国崩
しが日本は買っていたが、交易で持つ位では歯が立たない。ならば驚異を取り除くには
、自らスペインよりも先に明を日本の支配下に置いて戦うしかない。豊臣秀吉が朝鮮出
兵には、大きな決断が必要だった。だが日本を押さえた今では、火力、武力に優れた猛
将達で、秀吉は今の兵力で充分可能な事だ。スペインの植民地支配に時間は待ってくれ
ない。よしんば万一、明まで攻め込むことができなかったとしても、朝鮮半島を日本の
下に明の緩衝地帯としておくことや、攻められる情報が分かれば、充分に地政学的には
日本の安全が確保されるはずだ。と考えたに違いなにはずだ。日本にしてもこの朝鮮出
兵が無かったら中国を攻める前に日本に軍艦を派遣しようとしていた可能性もある。そ
れが、ベトナムでの中国清王朝とイスパニア戦の負けである。もし、秀吉が朝鮮出兵を
行なわず、日本の国力をスペインに見せつけなければならなかったのである。こうして
ベトナムと日本は中国の元寇と同じに同じ境遇にあったのだ。実は九州征伐の折には、
既に朱印船貿易で日本にはそうした事の情報は小西行長によって伝わっていたのである


1253: 名無しさんAA:18/04/06 19:35
 宣教師の時代       ーーー8
 アレッサンドロ・ヴァリニャーノは1578年9月、ポルトガルが居留地を確保していた
マカオに到着したが、同地のイエズス会員のだれ一人として、中国本土定住が果たせな
かったことを知った。しかし日本に於いては、ヴァリニャーノが当時の東インド管区の
東端に位置する日本(口ノ津港)にたどり着いたとされている。ヴァリニャーノは1579
年7月、マカオ到着したルッジェーリと入れ替わるように日本へ出発した。こうして157
9年(天正7年)7月25日のことであった。この最初の滞在は1582年(天正10年)まで続
く。1581年、織田信長に謁見した際には、安土城を描いた屏風(狩野永徳作とされる)
を贈られ、屏風は教皇グレゴリウス13世に献上された。未だ不明のままだ。また、従者
として連れていた黒人を信長が召抱えたいと所望したためこれを献上し、弥助と名づけ
られて信長の直臣になっている。ヴァリニャーノは『日本巡察記』として日本の考察記
録を書いていた。本書は長らくイエズス会機密文書として眠っていたが、1954年に初め
て出版された。(第一章 日本の風習・性格、その他)日本人は他のことでは我等に劣
るが、結論的に言って日本人が、優雅で礼儀正しく秀でた天性と理解力を有し、以上の
点で我等を凌ぐほど優秀であることは否定できないところである。と言い(第三章 日
本人の宗教とその諸宗派)では仏教について「…(前略)…この釈迦は、非常に多くの
書物を記した。正確に言えば、その弟子達が、彼が民衆に説いた教義をそれ等の書物に
記したのである。これ等書物は、我等の間の、聖書のように、彼等の間に極めて多大の
信頼と権威を遺した。だが釈迦は賢明であったので、自ら企図するところを、最もよく
達成する為に、その教義を種々に解釈できるように説いた。と語る。又(第23章 日本
における司祭が修院の内外で守るべき方法)を、司祭たちが、弁明して、「日本人(の
あなた方)は、私達が異なった風習の中で育ち、日本人の礼法を知らなことを考慮すべ
きだ。」と述べた時に、日本人が度々私に答えたところであるが−彼等は次のように語
る。「このことに就いては、あなた方に同情するし、一年や二年なら我慢するが、幾年
も経っているのであるから我慢できない。何故なら、あなた方が日本の風習や礼儀を覚
えないのは、それを覚えようともしないし、それがあなた方の気に入らないからである
。それは私達に対する侮辱であり、道理にも反する。何故なら、あなた方が日本に来て
、その数も少ない以上は、日本の風習に従うべきであり、私達は日本の礼式をやめるこ
とはできないし、あなた方の風習に従うべきでもない。あるいはまた、あなた方が日本
の風習を覚えないのが、あなた方にその知力と能力が欠けている為であるならば、日本
人はそれほど無能なあなた方の教えを受けたり、あなた方を師とすべきではない。」と
記述している。つまり 此の本には日本人に対する傾向と対策を書いているのだ。

1254: 名無しさんAA:18/04/06 19:35
 宣教師の時代       ーーー9

 日本人がよく知るフランシスコ・デ・ザビエルは、スペインのナバラ王国生まれの、
カトリック教会の司祭だった。宣教師になってエズス会の創設メンバーの1人といわれ
る。バスク人でありながら。、日本やインドなどで宣教を行い、聖パウロを超えるほど
多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれて、カトリック教会の聖人の一人となっ
た。1548年11月にゴアで宣教監督となったザビエルは、翌 1549年4月15日、イエズス会
士コスメ・デ・トーレス神父、フアン・フェルナンデス修道士、マヌエルという中国人
、アマドールというインド人、ゴアで洗礼を受けたばかりのヤジロウら3人の日本人と
ともにジャンク船でゴアを出発し、日本を目指した。一行は明の上川島(広東省江門市
台山)を経由し、ヤジロウの案内でまずは薩摩半島の坊津に上陸した。その後許しを得
て、 1549年(天文18年)8月15日に現在の鹿児島市祇園之洲町に来着したという。この
日はカトリックの聖母被昇天の祝日にあたるために、ザビエルは此の日に、日本を聖母
マリアに捧げたという。1549年9月には、伊集院城(一宇治城)で薩摩国の守護大名・
島津貴久に謁見し、宣教の許可を得て布教活動にはいった。ザビエルは薩摩での布教中
、福昌寺の住職で友人の忍室(にんじつ)と好んで宗教論争を行ったとされる。後に、
日本人初のヨーロッパ留学生となる鹿児島のベルナルドなどにもこの時に出会う。しか
し、貴久が仏僧の助言を聞き入れ禁教に傾いたため、「京にのぼる」ことを理由に薩摩
を去った。ロレンソ了斎(ロレンソりょうさい)は、名説教家として知られ、精力的な
布教活動を行い、当時の日本におけるキリスト教の拡大に大きな役割を果たし、ロレン
ソ了西ともいわれ、日本人切支丹の第一人者だが、此の頃目が不自由であったため、琵
琶法師として生計を立てていた中で、天文20年(1551年)に山口の街角でフランシスコ
・ザビエルの話を聞きキリスト教に魅力を感じ、ザビエルの手によって洗礼を授かり、
ロレンソという洗礼名を受けている。ここで不思議な事は後発のヴァリニャーノ神父は
1579年(天正7年)の祭はちゃんと口の津港に入港し3回もマカオを往復している事だ
。更にインドのゴアに少なくとも一人のヤジロウなる日本人がいた事だ。又その後薩摩
は仏僧の意見を聞き入れ急速に禁教令を引いた事も引っ掛かる。この時期に鉄砲や大砲
を始め舶来品が欲しいと言うのが多くの戦国大名の持つ感覚だった筈だからだ。一向一
揆などで信長が台頭し戦国時代の真っ只中だ。室町幕府の室町時代でそのころの将軍は
13代将軍足利義輝の時代だ。九州では侵攻を開始した毛利元就と大友宗麟とが対立し
、、永禄元年(1558年)から永禄5年(1562年)までに豊前の門司城の戦いや、1567年
に大友家から離反した高橋鑑種討伐などに国崩しは使われ、既に日本に出回っている。

1255: 名無しさんAA:18/04/06 19:36
 宣教師の時代       ーーー10

 大友宗麟や毛利元就が使った此の戦争の情報は、とっくに島津勢には伝わっていた筈
だ。1570年に、蒲池氏が柳川城を作ったのは、実はこの国崩しという大砲の情報と海外
交易という事を重んじての事だ。従来の御朱印船貿易ならば、別に海岸上の船は必要で
はない。だが戦争の形態がここに来て変わったからだった。元亀元年(1570年)3月、
北九州の大友宗麟は肥前において勢力を拡大する龍造寺隆信を討伐するため、3千の兵
を率いて龍造寺領に攻め込んだ。龍造寺側は佐嘉城(のちの佐賀城)に軍を集めて篭城
を開始する。大友宗麟は高良山に陣取り諸将に攻略を命じたが、龍造寺軍の士気も高く
容易に敵を寄せ付けなかった。戦況は小競り合いを繰り返しながら数ヶ月が推移した。
とは言え、龍造寺側には長期の篭城戦に必須である援軍の見込みはなく、このままいけ
ば落城は必至の状況であった。大友宗麟は8月になっても勝報が届かないことに業を煮
やし、城攻めの大将とし弟の大友親貞を三千の兵で前線に送り出し親貞に総攻撃命令を
下した。17日には親貞は佐嘉城の北に位置する今山に布陣した、北側に布陣する大友
親貞は占いの凶兆を気にして直ちに総攻撃には踏み切らず、8月20日をもって佐嘉城
に総攻撃を開始することを決定する。ところが総攻撃の前日の夜には、親貞は今山の本
陣で勝利の前祝いとして酒宴を開き、軍の士気を緩めてしまい、その情報で夜襲を受け
寝返った者が出たと噂まで流したのであった。。大友宗麟は高良山に陣取ったままで、
佐賀城まで全軍進軍しなかった理由はここにあった。鉄砲や大砲が既に敵にある事を想
定する戦争しかなかったからだ。大友宗麟の命で大友親貞を総大将に、龍造寺隆信の佐
賀城を包囲した際には戸次鑑連、吉弘鑑理、臼杵鑑速らが、、蒲池鑑盛(53歳)は田尻親
種と共に、数十隻の船で筑後川を渡り、包囲戦に加わっている。しかし此の時今山の戦
いのまずさで大友勢が大敗を喫すると、田尻氏の進言を受け、蒲池鑑盛と嫡子・蒲池鎮
漣が龍造寺家との和睦を仲介している。その後1578年、北上する薩摩の島津義久・島津
家久らとの耳川の戦いでも、大友勢の田原親賢に従って出陣した。親子で出陣が命じら
れたが、途中から家臣の田尻氏が佐賀龍造寺とつながっており不安の為に帰っている。
耳川の戦いは凄まじい程の敗戦になった。川を挟んで対陣したがそれは大砲の届く距離
であり、船の鉄砲隊も待ち構えていたからだ。又島津は得意の野伏間の戦法で退路すら
挟まれていたからだ。

1256: 名無しさんAA:18/04/06 19:37
 宣教師の時代       ーーー11
 ヴァリニャーノの時代は、戦国時代が終わった後ではあった。三度に渡って来日して
、巡察師としての職命を帯びるということは、日本が宣教の地として可能性を秘めなが
らも困難な異教の地であることを知っていたからだと考えられる。巡察師というのは、
布教先における宣教師や会衆を指導し、その国の布教事情を調査し報告するために派遣
された者の職名である。ローマと極東の間の通信や連絡は容易なものではなく、報告を
作りその回答をローマから得るには数年はかかったと思われます。そのために、巡察師
の使命は強大な権限が与えられていた。日本イエズス会布教区の責任者はフランシスコ
・カブラル (Francisco Cabral) という司祭でだった。日本人の性格については偏見に
満ちた見解を持ち、日本文化に対して一貫して否定的であり差別的であり続け、他の例
えばインドなどと同じに異国人を言葉を話す家畜としていた。それはやがて日本人信徒
と宣教師たちの間に溝を起こした。カブラルは日本語を不可解な言語として、宣教師達
に習得させようとせず、日本人に対しても又、ラテン語もポルトガル語も習得させよう
とはしなかった。しかし、巡察師ヴァリニャーノは、日本文化の尊重という姿勢をとり
、外国人宣教師が日本語と日本人の礼儀作法を学ぶことの重要性を指摘し、カブラルを
強く批判して、やがて布教長のカブラルを解任までさせた。日本のイエズス会は、早く
からマカオにあったイエズス会に報告書を送っていた。ヴァリニャーノは、大友宗麟、
有馬晴信らの切支丹大名や織田信長、豊臣秀吉らにも謁見している。その後、本能寺の
変以降、豊臣秀吉の統治下になると日本の教会が不安定な状態に置かれるようになる事
を察知して、それゆえ、重要な文書を国内に留め置くことを避け、マカオで保存する様
な措置をとったことが記録されている。「日本巡察記」は、異邦人ヴァリニャーノが書
いた「日本諸事要録」といった報告書の一部であり、将来の布教の方針を決める際の、
重要な資料ともなったが、日本にとってもその頃の貴重な記録となっている。こうして
ヴァリニャーノから解任に至るまで批判されたフランシスコ・カブラルも戦国時代末期
の日本を訪れたイエズス会宣教師である。インド各地で要職を歴任したのち、コスメ・
デ・トーレスの後継者として日本に派遣された。1570年(永禄13年)、天草志岐に到着
。同行した会員の中にはグネッキ・ソルディ・オルガンティノもいたが、前年度に手違
いからインド管区長代理の権限がカブラルとオルガンティノに重複してしまい、これが
原因で両者は諍いを起こしていた。2人の対立は日本でも尾を引くことになる。日本に
到着後、ただちに日本布教区責任者となったカブラルは、志岐で宣教会議を行い、今後
の宣教方針を決定した。そこでカブラルの指摘した問題点は、「日本においてイエズス
会員が絹の着物を着ているのは清貧の精神に反している。」ということであった。

1257: 名無しさんAA:18/04/06 19:38
前任者トーレスは日本においては「身なりや服装がきちんとしていない人物は軽蔑され
る」という事実にかんがみて、宣教師たちにあえて良い服を着ることを奨励していたが
、着任早々のカブラルはそういった事情は考慮していなかった。と言われる。トーレス
はカトリック教会の司祭。ザビエルの意志を受けて18年間にわたって日本で宣教の活
動を行った。彼の目指した「適応主義」(宣教師が現地の文化に根ざして生きること)
は当時のヨーロッパ人の限界を超えた思想であり、日本におけるキリスト教布教の成功
をもたらした。コスメ・デ・トーレスの宗派はそうした事からある意味異端派にあった
。スペイン・バレンシア出身のトーレスは若くして司祭となり、故郷を離れてメキシコ
に渡った。さらにビリャロボス艦隊に同行して東南アジアまでやってきた。1546年に、
そこでたまたま同地に来ていたザビエルとのトーレスは運命的な出会いをする。ザビエ
ルに心酔したトーレスは共にインドのゴアへ渡り、同地でイエズス会に入会した。ザビ
エルや日本人ヤジロウと共に日本への宣教を志したトーレスは 1549年8月15日、ついに
鹿児島に到着し。ザビエルと同じように日本人に好印象を抱き、宣教への夢をふくらま
せた。一行は平戸の松浦氏の庇護を受けることが出来たため、トーレス自身は、京都を
目指したザビエルらと別れて平戸に滞在した。さらに1551年にザビエルがインド目指し
て出発すると、トーレスはザビエルから日本布教の責任を託された。トーレスの地道な
活動はかなりの実をむすんだ。山口や九州の各地で徐々にキリスト教が広まり始め、彼
は戦乱に翻弄されて九州地区を転々としながら、後続の宣教師たちを教育して、日本人
協力者を養成し、信徒の世話をし、仏僧たちの議論に答えた。1556年には南蛮商人だっ
たルイス・デ・アルメイダがトーレスの感化によってイエズス会に入会した。彼は最初
に病院を作った人だった。以後には宣教師としても盛んに活躍することになる。トーレ
ス自身も宣教を続け、1563年に大村純忠に洗礼を授けて、初のキリシタン大名とした。
またキリシタン布教と不可分の関係にあった南蛮貿易の拠点として横瀬浦(長崎県西海
市)(1562年)、ついで長崎(1570年)の開港に尽力した。ただし長崎に最初のポルト
ガル船が来航したのはトーレスの没後の1571年であり、彼自身はこれには立ち会えては
いない。

1258: 名無しさんAA:18/04/06 19:54
 宣教師の時代       ーーー13

松倉 重信(まつくら しげのぶ、)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将であ
ろう。筒井氏の家臣で松永 久秀(まつなが ひさひで)の下に、戦国時代には変節の上
暴れまくった。松永久秀は大和国の戦国大名として立ち上がり、通称は官位を合わせた
松永弾正(まつながだんじょう)の名で知られている。初めは三好長慶に仕えたが、や
がて三好政権内で実力をつけ、室町幕府との折衝などで活躍した。久秀は長慶の配下で
あると同時に交渉の一環として室町幕府第13代将軍・足利義輝の傍で活動することも
多く、その立場は非常に複雑なものであった。また、長慶の長男・三好義興と共に政治
活動に従事し、同時に官位を授けられるなど主君の嫡男と同格の扱いを受けるほどの、
地位を得ていた。三好長慶の死後は三好三人衆と時には協力し時には争うなど離合集散
を繰り返し、畿内の混乱する情勢の中心人物の一人となった。上洛後しばらくは他の有
力部将と共に京都防衛と外敵掃討の役目を任され、天文20年(1551年)7月14日には、
等持院に攻め込んできた細川晴元方の三好政勝、香西元成らを弟の長頼と共に攻めて打
ち破っている。相国寺の戦いである。大内政弘の加勢によって勢いをつけた西軍は、9
月の東岩倉の戦いで西軍を破り東軍を京都北東に追い込んだ。10月に西軍は更なる攻勢
に出て東軍が構える花の御所・相国寺・内裏に進軍を開始し、西軍の畠山義就・大内政
弘・一色義直らの軍勢が朝倉孝景らと合流して、相国寺及び周辺の東軍に攻めかかった
。相国寺には細川勝元の猶子細川勝之と勝元の家臣安富元綱・武田信賢らが守り、南方
の烏丸殿・内裏・三条殿には京極持清らが構えていた。東軍側は一旦退却したが、畠山
政長らの援軍を得て反撃に転じ、相国寺跡地に陣取っていた一色軍と六角高頼軍を急襲
して打ち破り相国寺を奪回した。しかし、再度孝景が率いる西軍の軍勢が相国寺の占拠
に成功し、一旦休戦となった。西軍は相国寺の奪取により東軍を追い詰めたが、双方に
多大な死傷者を出す消耗戦となった。消耗が激しかったこの戦い以降、両軍の間での衝
突が散発的になり、やがて戦争は京都から地方へと波及、相手陣営の有力武将の調略へ
と戦略が切り替わっていった。しかしこの時に相国寺は失火してほぼ焼けてしまった。
相国寺(しょうこくじ)は、日本の禅寺で臨済宗相国寺派大本山の寺である。史上最高
の伽藍があった。永徳2年(1382年)、室町幕府3代将軍・足利義満は、花の御所の隣接
地に一大禅宗伽藍を建立することを発願し10年もの歳月で出来た。義満によって応永
6年(1399年)に建てられた七重大塔も、応永10年(1403年)に落雷で焼失したがこの
七重大塔は全高109.1m(360尺)を誇り、史上最も高かった日本様式の仏塔であった


1259: 名無しさんAA:18/04/06 19:55
 宣教師の時代       ーーー14
名張城は天正13年(1585)大和郡山城から伊賀上野城に移封された筒井定次の藤堂
家邸重臣松倉勝重が、子の重政(後の肥前島原城主)の縄張りで築いた。だが慶長13年
(1608)藤堂高虎が伊勢・伊賀二国を与えられて津城主となると、名張城には家臣の
梅原武政を城代とし、元和3年(1617)には武政を罷免し、伊賀上野城代藤堂高清が
直接支配することになった。寛永12年(1635)藤堂高虎の養子で伊予今治城主であ
った藤堂高吉が伊勢2万石を与えられたが、翌寛永13中奥年(1636)名張に移り、
名張城内に居館を構えて名張藤堂家の初代となる。ところが、藤堂高吉は織田信長の重
臣丹羽長秀の三男であったのだが、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が柴田勝家に対抗するため
、丹羽長秀と縁を結ぶ為、幼名仙丸の頃を秀吉の異父弟秀長の養子として育っていた。
賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を滅ぼし、秀吉が天下を掌握すると、秀長の嗣子に秀吉の甥に
あたる秀俊を据えたため、そのまま仙丸は秀吉の家来であった藤堂高虎の養子となり、
名を高吉と改め伊予今治城主となっていた。ところが、藤堂高虎に実子の高次が生まれ
たため、高吉の運命は変わる。名張藤堂家の初代となったものの、高吉は藤堂高虎に仕
える身となってしまった。こうして高吉は戦国時代に翻弄され続けていた。参勤交代制
度が始まっても藤堂高虎は養子の高吉を藩内領主の扱いとしたため、大名の資格を得る
ことが出来なく、名張藤堂家は本家から独立しようとして徳川幕府に工作したこともあ
ったが、本家に発覚して家老が切腹し、事なきを得たという事件も起こっている。結局
、名張藤堂家は大名としての待遇を得られず、居館は名張陣屋と呼ばれた。藤堂高吉の
死後、次男以下3名に5千石が分知されたため、名張藤堂家は1万5千石となり、11
代続いて明治維新を迎えている。この名張城の築城を支えた財政が松倉勝重の奴隷船貿
易だったと思われる。この三好政権の中心にいた三人衆と松永久秀は政権の主導権を巡
って対立した頃、筒井順慶にその居城であった筒井城において筒井城の戦いで落城させ
たて均衡を図った。しかし此の事で筒井軍と連合で多聞山城の松永軍3千兵による抑え
撃ったもののを突破された。こうして劣勢を認めざるを得ず、久秀は津田宗達と会合衆
に仲介を申し出、堺を戦場としない、自らの敗北を認めるという条件で停戦を結ぶこと
になる。しかし三人衆は、足利義栄を新たな征夷大将軍としようと画策する中で、突如
松永久秀がいる信貴山城に三好義継が保護を求めてきたのである。こうして三人衆・筒
井連合軍は広芝、大安寺、白毫寺に布陣し、これに対して松永・三好連合軍は戒壇院、
転害門に軍を進めた。更に間合いを詰め、ついにこの日の夕刻より戦闘が開始された。
東大寺の南大門周辺で両軍の銃撃戦が繰り広げられ、真夜中になっても銃声が衰えるこ
とはなかった。と言われる。

1260: 名無しさんAA:18/04/06 19:55
 宣教師の時代       ーーー15

 此の時に東大寺は、多聞山城との間合いを詰めるべく、三人衆は東大寺に陣を進めた
いと考えていた事に対して順慶は当初反対していたが、こう着状態を避けるべく興福寺
を通じて東大寺への布陣の許可を申し出た。これに対して寺側は積極的に許可した。こ
れは順慶自身が興福寺側であったことと、松永・三好連合軍は戒壇院、転害門に許しを
得ず布陣している。『戦国合戦大事典』によると多聞山城の築城以降、久秀に対して寺
領が侵されるなど大きな不満が高まっていたと解説している。だが現実は鉄砲の運び込
みにキリスタンとのつながりがあったからだった。多聞山城と東大寺の許しを得た三人
衆の1人岩成友通隊は1万兵で東大寺へ軍を進め布陣した。これに対して松永軍も戒壇
院の防備を固め立て篭もった。両軍はかなり接近した位置に対峙することになる。この
時の状況を『多聞院日記』では、「 大天魔の所為と見たり」と記している 。池田軍は
着陣し、宿院城を攻城した。宿院城を抑えると北へ真っ直ぐ攻め上ることが可能になる
ため、重要な拠点と考えたと思われている。しかし松永軍も重要な拠点と考え、精鋭の
部隊を配置して頑強に防御し、逆に池田軍は多くの兵を失い西方寺側に退却した。一応
この日の戦いでは勝利した松永軍であったが、多聞山城の間際まで攻め込まれた危機感
を覚え、陣地として使用できそうな、般若寺文殊堂仏餉堂妙光院観音院が焼き払われ、
その次の日も宝徳院妙音院徳蔵院金蔵院が焼かれた。とされている。膠着状態の中、10
月10日に松永・三好連合軍は勝負に出るべく三人衆軍の本陣がある東大寺を奇襲した。
この時の戦いの状況を『多聞院日記』は、「今夜子之初点より、大仏の陣へ、多聞城か
ら討ち入って、数度におよぶ合戦をまじえた。穀屋の兵火が法花堂へ飛火し、大仏殿回
廊へ延焼して、大仏殿が焼失した。猛火天にみち、さながら落雷があったようで、ほと
んど一瞬になくなった。釈迦像も焼けた。言語道断」と記している。午後11時に戦闘が
開始され、戦闘中に穀屋から失火し法花堂それから大仏殿回廊、そして日をまたぎ翌日
に大仏殿が焼失したようである。ルイス・フロイスの『日本史』では違う内容で記載し
ている。「多聞山城を包囲した軍勢の大部分は、その大仏の寺院の内部とこの僧院のあ
らゆる場所に宿営した。その中には我らの同僚によく知られていた一人の勇敢な兵士も
いたのであるが、我らは世界万物の創造者に対してのみふさわしい礼拝と崇敬のことに
熱心な、誰かある人にたきつけられたからというのではなく、夜分、自分が警護してい
た間に、ひそかにそれに火を放った。そこで同所にあったすべてのものは、はるか遠く
はなれた第一の場所にあった一つの門、および既述の鐘以外は何も残らず全焼してしま
った」と書いている。

1261: 名無しさんAA:18/04/06 19:55
 宣教師の時代       ーーー16

 これの記述である「世界万物の創造者に礼拝と崇敬する者」はすなわち三好三人衆の
東大寺を防備する 隠れキリスタンの付け火だったのだ。永禄10年(1567年)のおよそ
半年間にわたる東大寺大仏殿の戦いの中の失火だったのである。これは何故か。実は、
信長より早くに朝廷は海外交易の巨利に目を付けていたからだ。事実コスメ・デ・トー
レスは、1559年にはサビエルの宿願だった京都での布教を果たすべく、満を持してガス
パル・ヴィレラ神父らを派遣している。トーレスの時代、戦国時代の相次ぐ戦乱は布教
活動において大きなマイナスであった。畿内での宣教は、やがて織田信長によって政治
的安定がもたらされることで軌道にのることになるが、九州では依然続く戦乱と政治的
不安定の影響でなかなか安定した活動が行えなかった。日本地区の布教責任者として、
各地を転々としての宣教に疲れ果てたトーレスは、1560年代のおわりにインドの管領長
官に新しい布教長の派遣を依頼。これに答えて派遣され、1570年6月に天草に到着した
のがフランシスコ・カブラル神父であったのだ。1570年10月2日(元亀元年9月3日) 天
草志岐(熊本県天草郡苓北町)で死去。トーレスが日本に来た時1人の信者もおらず、
1つの教会もなかったが、彼の死去時には京都、堺、山口、豊後、博多、肥前などに多
くの教会と多数のキリスト教徒が生まれていた。サビエルの夢を実現させたのは盟友ト
ーレスであったのである。と同時に天皇に近づくべく筒井家と近づき松倉重信などに利
用されて 奴隷貿易にも手を貸していたのである。1593年(文禄2年) フィリピン総督
の使節としてフランシスコ会宣教師のペドロ・バプチスタが来日し、肥前国名護屋で豊
臣秀吉に謁見した。その後インドのゴアでイエズス会に入会したガスパール・コエリョ
が同地で司祭に叙階され、1572年(元亀3年)に来日している。九州地方での布教活動
に当たり。1581年(天正9年)日本地区がイエズス会の準管区に昇格するとアレッサン
ドロ・ヴァリニャーノによって初代準管区長に任命された。こうして1585年(天正13年
)には宣教を優位に行いキリシタン大名を支援する為、フィリピンからの艦隊派遣を求
めていた。さらに日本全土を改宗した際には日本人を尖兵として、中国に攻め入る案を
持って来日していた。この案は多くの宣教師が共有していた案で海外派遣の至上目的で
もあった。1586年(天正14年)には地区責任者として畿内の巡察を行い、3月16日に、
大坂城で豊臣秀吉に謁見を許され、日本での布教の正式な許可を得た。

1262: 名無しさんAA:18/04/06 19:56
 宣教師の時代       ーーー17
しかし、ガスパル・コエリョなどのイエズス会の布教の認可を受けた翌年1587年(天正
15年)、九州平定を終えた秀吉は、ポルトガル商人が日本人を奴隷等として海外に売っ
ていた事を知ると、バテレン追放令を発布、布教責任者であるコエリョを召喚して叱責
している。コエリョ自身もヴァリニャーノが定めたキリシタン領主に過度の軍事援助を
慎む方針を無視し、フスタ船を建造して大砲を積込み、更にはそれを博多にいる秀吉に
見せるという行為などを行っている。高山右近や小西行長がこの行為を懸念し、コエリ
ョにその船を秀吉に献上するように勧めたが、これに全く応じなかった。ヴァリニャー
ノやオルガンティノによると、バテレン追放令はコエリョの こうした挑発的な行為に
主な原因を求められるとしている。この後(1592年)に始まって 翌文禄2年(1593年
)に休戦した文禄の役と、慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって再開された朝鮮
戦争が起こっているのである。この講話交渉の最中に、文禄5年(1596年)に 日本の土
佐国でのスペインのガレオン船、サン=フェリペ号が漂着した事件が起こった。、サン
・フェリペ号はマニラからノビスパニア(メキシコ)のアカプルコに向かう途中に、嵐
に会い航海不能となり、土佐の浦戸に達したところ、国主の長宗我部元親(ちょうそが
べもとちか)は、強引に浦戸湾内に入港させようとした。しかし船は座礁し修理が必要
になった。元親から南蛮船漂着の知らせを受けると、豊臣秀吉は増田長盛(ましたなが
もり)を奉行として浦戸に遣わし、同船の積み荷を没収し、その乗組員を拘留した。先
に秀吉はフィリピンのスペイン人総督に対し、日本では遭難者を救助すると通告してい
たので、船の修繕許可と身柄の保全を求める使者に贈り物を持たせて秀吉の元に差し向
け、船長のランデーチョは長浜に待機した。使者のだったファン・ポーブレが帰って来
ると、積荷が没収されること、自分たちは勾留され果ては処刑される可能性があること
を伝えた。先に秀吉はスペイン人の総督に「日本では遭難者を救助する」と通告してい
たため、まるで反対の対応に船員一同は驚愕した。増田らは、白人船員と、同伴の黒人
奴隷との区別なく名簿を作成し、積荷の一覧を作りすべてに太閤の印を押し、船員たち
を町内に留め置かせ、所持品をすべて提出するよう命じた。さらに増田らは「スペイン
人たちは海賊であり、ペルー、メキシコ(ノビスパニア)、フィリピンを武力制圧した
ように日本でもそれを行うため、測量に来たに違いない。このことは都にいる3名のポ
ルトガル人ほか数名に聞いた」という秀吉の書状を告げた。このとき、水先案内人(航
海長)であったデ・オランディアは憤って長盛に世界地図を示し、スペインは広大な領
土をもつ国であり、日本がどれだけ小さい国であるかを語った。そして増田らの一行は
積荷と船員の所持品をすべて没収し、航海日誌などの書類をすべて取り上げて破棄した。

1263: 名無しさんAA:18/04/08 11:35
 宣教師の時代       ーーー18

長盛は都に戻り、このことが秀吉に報告された。直後の同年12月8日に天正に続く禁教
令が再び出され、京都や大坂にいたフランシスコ会のペトロ・バウチスタなど宣教師3
人と修道士3人、および日本人信徒20人が捕らえられ、彼らは長崎に送られて慶長元年
12月19日(1597年2月5日)処刑された(日本二十六聖人)。ランデーチョは、修繕のた
めの船普請を早期に開始するよう秀吉に直接会って抗議しようと決めた。長宗我部元親
は12月にランデーチョらが都に上ることを許可した。しかし交渉の仲介を頼もうとした
フランシスコ会は捕縛された後であったため、船員たち自身で抗議を重ね、秀吉の許可
によりサン=フェリペ号の修繕は開始された。一同は1597年4月に浦戸を出航し、5月に
マニラに到着した。マニラではスペイン政府によって本事件の詳細な調査が行われ、船
長のランデーチョらは証人として喚問された。その後、1597年9月にスペイン使節とし
てマニラからドン・ルイス・ナバレテらが秀吉の元へ送られ、サン・フェリペ号の積荷
の返還と二十六聖人殉教での宣教師らの遺体の引渡しを求めたが、引き渡しは行われな
かった。とされるこの事件の裏には、秀吉の対明(みん)外交、イエズス会とフランシス
コ会の対立などいくつかの問題が関係しており、その真相を決定的に解明するのは難し
いものがある。まず日本の天草に商館を置いていたのはインドのイエズス会だったろう
。その後長崎に置きその後平戸に移っオランダ商館は同時にフィリピンにも商館を置い
ていたイエズス会であろう。イエズス会は先発のフランシスコ会の手を借りながら布教
していたが盛んに批判し、自らのコエリョの様なもヴァリニャーノが定めたキリシタン
領主に過度の軍事援助を慎む方針を無視し、フスタ船を建造して大砲を積込む船までも
作っていた。(天正15年)1587年和暦6月19日、ポルトガル船の司令官(キャピ
タンモール)が関白を訪問した。その同じ日関白は何の予告もなく、高山右近の追放を
命じた。秀吉は右近に使者を派遣し「予(秀吉)はキリシタンの教えが、日本において
身分ある武士や武将の間で広まっているが、それは右近が彼らを説得していることが大
きいと承知している。予はそれを不快に思う。なぜならキリシタンの間には血を分けた
兄弟以上の団結が見られ、天下に累を及ぼす心配があるからだ。また予は先に高槻で今
は明石の者を、キリシタンとなし寺社仏閣を破壊させたことを承知している。これらは
悪事である。もし今後とも武将としての身分に留まりたければ、直ちにキリシタンたる
ことを断念せよ。」と棄教を迫った。


1264: 名無しさんAA:18/04/08 11:36
 宣教師の時代       ーーー19

これに対しジュスト右近は臆することなく「自分右近が殿(秀吉)を侮蔑した覚えはない
。高槻や明石の家来たちをキリシタンにしたのは私(ジュスト)の手柄=立派な行為だ。
たとえ全世界を与えられようとも、棄教はしない。霊魂の救済と引き換えることはしな
い。よって私の身柄・俸禄・領地については殿の気が召すようにされよ。」と突っぱね
ている。関白は右近の果敢な返答に接し、恐れを知らぬジュストを見るのが重苦しく思
われ、意地の張り合いを避け、その決意を押し通す気なのか自分の言葉いかんでは後退
しキリシタンを断念するのか確かめようとして、再度使者を右近の元に派遣した。そし
て「当初の言葉にこだわるなら俸禄も領地も没収するが(それでも)肥後領主となった
ばかりの佐々成政に仕えることを許そう。」と。しかし右近は答えて当初と同様「現世
においていかなる立場に置かれようと、キリシタンを辞めない。勿論形だけ棄教し佐々
に仕えることもしない。霊魂の救済のためには、たとえ乞食となり追放されようとも何
ら悔いはない。」と返答を伝えさせた。そして、自ら関白の前に出て聖なる教えを説く
ために出かけようとした。だが同席していた親しい貴人武将家臣一族らはその行く手を
遮り「そうすれば関白は疑いもなく激怒し直ちに殺すように命ずるだろう、それは貴殿
が待望し貴殿の名誉にはなっても、関白に日本のキリシタン全員をさらに苦しめる機会
を提供する結果になることは自明だ。」と諫止してやっとのことで思いとどまらせた。
こうして関白は、次から次へと右近からの返事の伝達に、怒りをこめて多くの気違いじ
みたすざましい言葉を放ち、彼の追放を告知せしめた。フロイスはその後の文章に「こ
れによって霊魂の安らぎを得、かつ殉教の栄冠に浴したいとの欲望にとらわれた。」と
書いている。当時のイエズス会は、悪魔の反撃と殉教を何よりの喜びとし、これらを以
前から教育宣伝している。仏像を破壊し戦争に明け暮れる日々ですから今日のイスラム
原理主義と同じで、殉教は人が天国に行ける切符だとしているのである。又秀吉は、キ
リシタンからこの頭角である大黒柱を奪えば他の全員は弱化すると考えた事も見て取れ
る。この時点では秀吉周辺にキリシタンシンパはまだ多く、その筋の情報から秀吉本人
が判断したのだろう。折から右近と親しい異教徒の武将らが右近を訪れ、右近の自由で
断固たる返事を聞き、領地を失うことに心を痛め、老齢の両親・妻子・扶持する大家族
が収入を失わせ見捨てるような過酷なことはせず、関白と折り合いをつけるよう数々助
言したが、右近は固い決意を変えず、「デウスのこと、その教えに関しては一点とも変
えるわけにいかぬ。関白にはそのように伝えよ。それ以外の答えを言ってはならぬ。」
と繰り返した。

1265: 名無しさんAA:18/04/08 11:36
 宣教師の時代       ーーー20
19日の夜中、フスタ船で寝ていたコエリヨ(やフロイスら)のところへ突然、小西行
長アンゴスチーノの一家臣と関白側近シモン安威がやってきて、すぐに下船して海辺の
小西行長の宿所で尋問を受けそれに返答せよ、と関白伝言を伝えられた。使いの両名は
ひどく悲しげで当惑しており、関白が激高して数々述べたこと、特に次の3点を伴天連
に伝えるように命じたとのことだった。 1)キリシタンはなぜに人を扇動し寺社仏像
を破壊したのか。仏僧のように振舞わないのか。仏僧はその屋敷や寺院で教えを説くだ
けであり、汝らのように他国に赴き熱烈に説き扇動はしない。よって事後、汝らはすべ
て下(九州)地方に留まるように命ずる。また扇動的排他的布教も禁ずる。 もしこれが
不満ならば、汝ら全員シナ(マカオ)に帰還せよ。その際には都大坂堺の汝らの修道院
や教会は予が接収する。その家財は汝らの下へ送付する。もし本年シナから ナウ船が
来航せず帰還できぬならあるいは旅費がないなら予は約一万クルザードに該当する米一
万俵を付与する、と。しかしながら、この約束はことごとくウソであった。 2)汝ら
は何故に牛馬を食べるのか。これは道理に反することだ。・・もしポルトガル人が牛馬
を食べずんば生きられないというなら、全日本の主たる予は鹿猪や狐雉その他を狩らせ
囲い置くからそれを食するがいい。汝らは日本の土地を穢(けが)してならぬ。もし、
これを不服というなら、むしろナウ船が日本に来航せぬことを希望する。3)予は商用
で渡来するポルトガル人・シャム人・カンボジア人らが多数の日本人を購入し、彼らか
らその祖国・両親子供友人を奪い奴隷として彼らの国へ連行していることを知っている
。これは許すべからざる行為である。よって汝ら伴天連は、現在までに、インドその他
遠隔の地に売られていったすべての日本人を日本の連れ戻すように取り計らわれよ。も
しそれが不可能というなら少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せ
よ。その銀子は予が支払うだろう。とキリスタン側にと伝えている。これは文禄元年に
朝鮮出兵に際しては肥前名護屋城の普請を務め、出征諸将や九州大名への取次を担当し
、長崎奉行にまで出世した寺沢広高を始めとする伊賀の密偵による報告からだった。も
ちろん奉行時代の文禄3年(1594年)にキリシタンに改宗したが、慶長2年(1597年)の
日本二十六聖人処刑を契機に棄教。貿易統制から朝鮮に出兵した日本軍の補給や、兵力
輸送の任を務めた。小西行長と共にいわゆる武断派から憎まれた。こうして松倉勝重を
始めとする家系がその売買を行っている事を 宣教師の行為として報告させていたのだ
。あおりを食ったのは南蛮貿易まで行けなかった小西行長などであった。敵視されたの
だ。キリスタン大名が入信を先導しても 庶民を叩き売る事は出来なかったがその躊躇
する中で 板倉氏族はどんどんと西勝寺の和尚と共に売りさばいていたのである。

1266: 名無しさんAA:18/04/08 11:38
 宣教師の時代       ーーー21
こうした伴天連への質問に対するコエリヨは直ぐ回答をし。フロイスは記録している。
1)自分たち(伴天連ら)は天地創造主の教えと、魂救済の真理の道を説くためだけに
多大な困難危険費用を省みずに東洋にやってきている。東洋において日本人ほど自由で
理性を重んずる民は他になく、強制するものもなく手もかからず、本人の自由な道理と
真理による改宗である。自らデウスの教えを信じ神仏では魂が救われぬと信じて偶像を
破壊しただけである。自分たちは教えを説いて諸国を歴訪することは事実だが、外国人
で新しい教えを説く以上は他の方法はない。 2)牛は食うが馬や猫鼠狐を食う習慣は
ない。牛を食うのは世界で最も古い習慣であり、大量に飼育してまかなっているから、
農業に打撃を与えることなく国家に損害を及ぼすこともない。しかし、それでも畿内の
司祭らはこれを避けて日本人と同じ食事をしている。今後、来日するポルトガル人にも
このことは勧告しよう。だが、日本人が肉を売りに来る以上やめれるかどうかは保証で
きない。 3)日本人の人身売買は、殿下に禁止してもらおうと予定したことの一つで
ある。日本人は名誉を尊ぶ民であり人身売買は日本人の信用にとってもよくないことと
思っていた。(1570年にはイエズス会の働きかけで日本人奴隷禁止がポルトガル王
から通達されていた。)この日本人奴隷は下(九州地方)のみで広まったことで、他の
地方には見られないことだ。だが、大事なのは日本の港の殿たちが厳禁することだ。 
と返事を送っている。つまり諸侯がそれぞれ勝手に奴隷を送って商売し禁止すべき事だ
と思っていた。と言うのである。寺沢広高は行動派の人物で、「下に命令するところを
、自ら先に立って行う事を善しとす。身をもって教えれば、口でとやかくいうよりも、
下僕はよく従うものだ。」と語っている。かつて明智光秀に仕えていて正義感は強く、
仏教倫理のある者だった。こうして抜き打ちで、フスタ船を訪問して秀吉が関心を示し
たのをみて、小西行長や高山右近はコエリヨにそのフスタ船を秀吉に贈呈することを勧
めたらしい。しかしコエリヨは聞かなかったらしい。「神のものは神へ、カエサルのも
のはカエサルに」を行長や右近はちゃんと理解していた、しかしこの時点のコエリヨは
サラリーマンであって、ヴァリニャーノの指示の思いや、大変なお金がかかったことを
思いそれに踏み切れなかった、というところだろう。フスタ船は、数百トンクラスの帆
と艪の両方を持った喫水の浅い小回りの利く軍艦・探検船、これに数門の大砲と300
人(長崎)守備隊で十分に装備していた。艪は数十で奴隷を使ったらしいが、小さな帆船
でもある。「コエリヨはこのフスタ船であちこち出向き旗を飾り立て、海上から博多の
関白を訪問した。パードレコエリヨはまさに提督(グランデキャピタン)のようだった
。この様な船は日本では珍しかったので関白全軍は驚いた。」(ヴァリニャーニの記録)

1267: 名無しさんAA:18/04/08 11:40
 宣教師の時代       ーーー22

寺沢広高の時代には、慶長6年(1601年) 、関ヶ原の戦いの戦功報償として肥後天草を
加増されたおり、広高は天草の石高を合計約42,000石と算定したが、これは天草の実状
を無視しており、実態の倍という過大な値だった。このため以後の徴税が過酷となり、
その根本原因である過大な石高の半減を幕府に直訴していた。又それ以前は小西行長の
領地だったが、ほとんどが南蛮貿易にやってくる西洋商人を取り仕切ったイエズス会の
朝貢や取引税の収益で徴税が補(おぎな)われていた。従って小西行長には何としても
折り合いを付けたい重要事項だった。しかしして高山右近は形だけの棄教にも決して折
れず、コエリヨも船を献上して奴隷廃止には力を添える。と言った様な姿勢を示さなか
った。これは正に、秀吉のキリシタン武将の大黒柱右近の日本バテレンの動きを封じて
穏やかな外交したい意志と外れていた。責任者コエリヨも条件付で交渉を仕掛けたつも
りだったが、全く秀吉にとっては、右近回答もコエリヨ回答も無条件ゼロ回答にか見え
なかった。そして秀吉は、言い出した以上やむなく怒りに任せたように、伴天連追放令
に踏み切った。これは極端にキリスタンを嫌っていた板倉の思うつぼでもあった。それ
は何回も奴隷貿易の邪魔をキリスタンにさせられていたからだ。しかし歴史が示す通り
、秀吉にしては珍しく腰の入らぬ命令禁令だった。右近は主だった家臣らを呼び「今度
の事件の経緯は汝らも見ての通りだ。わが身に関する限り、予はいささかも遺憾に思わ
ず、己が信仰を告白できまた主なるデウスの名誉と栄光のために多年待ち望んでいた苦
しみを味わえる機会が与えられたことを非常に喜んでいる。だがこの際ただひとつ気の
がかりなのは汝らのことだ。予とともに天下の主に仕え危険に身命を賭し予に尽くして
くれた。予自ら恩返しが出来ぬ以上偉大なるゼウスの御手にゆだねるしかない。・・・
妻子や家族のためにそれぞれ求められるところにいくがよい。予の友人である武将の中
には予への好意から汝らを喜んで召抱え相応しい俸禄を付与してくれる人たちは少なく
ないと思うから。」と云えている。 ・(中略)・・・追放後も右近の友である大勢の、
異教徒の武将たちも博多の右近を尋ねてきた。彼らは右近がキリシタンを固持しむしろ
所領を失うことを望んでいることが理解できず、嘆願して「心中ではキリシタンであっ
てもいいから、外面だけキリシタンを断念したといって関白と折り合い卑下されるがよ
い。そうすれば自分たちが執り成す手段や方法を考えよう」と。しかし「好意を深謝す
るが、このことはこれ以上言及されぬようにお願いする」と繰り返すばかりだった。


1268: 名無しさんAA:18/04/08 11:42
 宣教師の時代       ーーー23

 高山右近は、洗礼名はポルトガル語で「正義の人、義の人」を意味するジュストであ
り、千利休の七高弟(利休七哲)の一人としても知られる。号は南坊と称していた。秀
吉はよっぽど追放したくはなかったと思える。その後しばらくは小西行長に庇護されて
小豆島や肥後国などに隠れ住むが、天正16年(1588年)に前田利家に招かれて、加賀国
金沢に赴き、そこで1万5,000石の扶持を受けて暮らしたがお咎めになっていない。それ
どころか、天正18年(1590年)の小田原征伐にも建前上は追放処分の身のままでありな
がらも前田軍に属して従軍している。金沢城修築の際には、右近の先進的な畿内の築城
法の知識が大きく役に立ったともいわれ、立花氏や伊達氏と懇意にしている。また利家
の嫡男・前田利長にも引き続き庇護を受け、政治・軍事など諸事にわたって相談役にな
ったと思われる。慶長14年(1609年)には、利長の隠居城・富山城の炎上により、越中
国射水郡関野(現富山県高岡市)に築かれた新城(高岡城)の縄張を担当したといわれ
る。加賀で暮らしていた右近は、幕府が徳川家康に変わり、家康によるキリシタン国外
追放令を受けて、人々の引きとめる中、加賀を退去した。長崎から家族と共に追放され
た内藤如安らと共にマニラに送られる船に乗り、マニラに12月に到着した。イエズス
会報告や宣教師の報告で有名となっていた右近はマニラでスペインの総督フアン・デ・
シルバらから大歓迎を受けた。しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の右近は
すぐに病を得て、翌年の1月6日(1615年2月3日)に息を引き取った。享年63歳だった。
マニラ到着からわずか40日のことだった。この頃大阪を賑わした男が他にいた。呂宋助
左衛門(るそん―すけざえもん)である。戦国時代に大阪・堺の貿易商・納屋才助の子と
して1565年に生まれた。本名は、納屋助左衛門(なやーすけざえもん)と言い、菜屋助左
衛門、魚屋助左衛門(ちや)と記載されている場合もある。彼は、早くからフィリピンや
インドシナ方面に出かけ海外貿易に乗り出していた。天正年間(1573〜1591)
しかし、助左衛門を一躍有名にしたのはルソン壺の輸入であった。本姓納屋より世に「

1269: 名無しさんAA:18/04/08 11:43
シルバらから大歓迎を受けた。しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の右近は
すぐに病を得て、翌年の1月6日(1615年2月3日)に息を引き取った。享年63歳だった。
マニラ到着からわずか40日のことだった。この頃大阪を賑わした男が他にいた。呂宋助
左衛門(るそん―すけざえもん)である。戦国時代に大阪・堺の貿易商・納屋才助の子と
して1565年に生まれた。本名は、納屋助左衛門(なやーすけざえもん)と言い、菜屋助左
衛門、魚屋助左衛門(ちや)と記載されている場合もある。彼は、早くからフィリピンや
インドシナ方面に出かけ海外貿易に乗り出していた。天正年間(1573〜1591)
しかし、助左衛門を一躍有名にしたのはルソン壺の輸入であった。本姓納屋より世に「
呂宋(ルソン)助左衛門」といわれるようになった。この名からもフィリピンとの強い
関係イメージが定着した。しかし呂宋助左衛門は、晩年日本を脱出し、カンボジアに渡
り、カンボジアの日本人町で過ごしたといた一般人だった。呂宋ともいわれ、小琉球と
もいわれたスペイン治下のフィリピンのルソンに1593年(文禄2年)渡り、159
4年(文禄3年)7月帰国した。当時堺の代官をしていた石田正澄(石田三成の兄)の
手を経て、ルソンより持ち帰った生きた麝香獣2匹、壺(ルソンの壺)50個、唐傘、
香料、蝋燭などを持ち帰って豊臣秀吉に献上し、この壺をみて秀吉は大変機嫌が良く、
これを大阪城西の丸の大広間に陳列し、上中下の三級にわけてその値段をつけ、希望者
に分け与えると言うと、諸大名が争ってこれを買い求め、これによって助左衛門は、一
躍名をあげ、有数の富商にのちあがった。


1270: 名無しさんAA:18/04/08 11:43
 宣教師の時代       ーーー24

 ところが、やがて、そのあまりに傍若無人な豪奢ぶりを豊臣秀吉に憎まれることにな
る。助左衛門は莫大な財産をもちその生活は奢りをきわめていた。堺の戎町の邸には、
その居室に七宝をちりばめ、庭園には珍奇な花卉を植え、当時の最高の画家の狩野永徳
の筆になる丹精をこらした襖絵で飾っていたのだ。豊臣秀吉に睨まれるとその権威に屈
せず、その壮麗な邸宅や財産を菩提寺の大安寺にすぐさま寄進し、海外へ脱出している
。その行き先は、カンボジアで、カンボジアに亡命した助左衛門は、カンボジア国王の
信任をえて、1607年(慶長12年)には、日本から渡航する貿易商人の管理する、
元締の地位を与えられたといわれる。カンボジアにあったオランダ商館の記録などによ
ると、朱印船貿易時代にあったプノンペンとピニャールの日本人町に住んでいた日本人
は3百〜4百人ともいわれ、ピニャールは、プノンペンの北約25キロで、メコン河の
支流トンレサップ川西岸沿いの港町で、17世紀前半から19世紀後半にかけ、当時の
都ウドンの水運の玄関として栄えていた。一方で、スペイン勢力の後退によって日本の
朱印船交易がカンボジアで盛んになる前の頃、16世紀末から17世紀初にかけては、
カンボジア情勢は、隣国アユタヤ王国との戦いや、マニラを拠点としたスペイン勢力の
干渉などで国情は混乱を極めていた時期だった。ビルマを撃破しアユタヤ朝を再興し、
1590年にアユタヤ国王に即位したナレスアン王(在位1590〜1605年)は、
1591年と1593年、カンボジアに進撃する。1594年、アユタヤ軍の侵略を受
けたカンボジアの都ロベックは陥落し、多くのクメール王家が住民たちとアユタヤの方
に連行されたが、カンボジア王サッタはベトナムのヴィエンチャンに逃亡する。アユタ
ヤからの進撃を前に、カンボジア王はマニラ総督に使節を送り、スペインの軍事支援を
依頼した。マニラのスペイン人は、艦隊をひきいてカンボジアに進撃、ラオス亡命で王
の不在時にタイ司令官から都を奪回し王位を簒奪したカンボジア王家の王子を殺したが
、これはカンボジア人の反感を買ってスペイン勢力は敗退する羽目になる。1598年
、スペイン勢力はふたたび新王の擁立をはかって、プノンペン宮廷のマレー人やチャム
人傭兵の反発を買い、スペイン勢力が擁立した新王やスペイン人たちは皆殺しにされて
しまっていた。こうした政治的混乱により、アユタヤ王国のナレスアン王は、サッタ王
の息子であるソヨポー王子を1603年カンボジア王に(1613年)正式に任命した
、ソヨポー王の後を継いだチェッタ王(在位1618〜1628年)が王都をウドンに
移している。尚、呂宋助左衛門がカンボジアに渡ったのは、日本を脱出してスペイン勢
力のカンボジア介入の時に、ルソンからカンボジアに渡ったものと見られる。

1271: 名無しさんAA:18/04/08 11:44
宣教師の時代       ーーー25

こうしてスペインがカンボジア内戦を上手く処理できずに疲弊していった頃にイギリス
の台頭が目立つ様になった。そしてアンボイナ事件が起こっている「アンボイナの虐殺
事件」は、1623年にインドネシア・モルッカ諸島のアンボイナ島(アンボン島)にある
イギリス館をオランダが襲い、商館員を全員殺害した事件である。別名はアンボン事件
。1512年にポルトガル人アントニオ・ダブリウが進出して以来、アンボイナ島の香料は
ポルトガルが独占していたからだ。しかし、1599年に、オランダ人ファン・ワールワイ
クがポルトガル勢を駆逐し、1605年、ニュー・ヴィクトリア砦を構築して支配権を確立
した。これに対し、イギリスも1615年に進出して香料貿易を行い、激しく競争していた
。この事態を収拾するため、英蘭両国の政府は1619年に協定を締結しようとしていた。
この頃、東南アジアには日本人が多く進出し、アユタヤやプノンペンには日本人町が形
成されるほどであった。アンボイナ島にも日本人が居住し、傭兵として勤務する者もい
た。1623年の夜、イギリス側の日本人傭兵・七蔵がオランダの衛兵らに、城壁の構造や
兵の数についてしきりに尋ねていた。これを不審に思ったオランダ当局が、七蔵を拘束
して拷問にかけたところ、イギリスが砦の占領を計画していると自白。直ちにイギリス
商館長ガブリエル・タワーソンら30余名を捕らえた当局は、彼らに火責め、水責め、四
肢の切断などの凄惨な拷問を加え、これを認めさせた。この為3月9日、当局はタワーソ
ンをはじめイギリス人10名、日本人9名、ポルトガル人1名を斬首して、同島におけ
るイギリス勢力を排除した。事件当時オランダの東インド総督であったヤン・ピーテル
スゾーン・クーンは、オランダの東インド貿易独占を主張し、政府の対応を弱腰と非難
していた。このため、事件は彼の仕組んだ陰謀であるとの説もある程だ。この事件は程
なくイギリス本国に伝わり、英蘭両国の間で進行していた東インド会社の合併交渉は、
この事で決裂、ついには外交問題にまで発展した。事件発生から実に31年後の1654年、
オランダ政府が8万5000ポンドの賠償金を支出することで決着した。事件をきっかけに
、東南アジアにおけるイギリスの影響力は縮小し、オランダが支配権を強めた。しかし
、かつて同量の金と交換されたこともあったほどの高級品だった香料の価格は、次第に
下落。それに伴い、オランダの世界的地位も下がり始めた。対して、新たな海外拠点を
インドに求めたイギリスは、良質な綿製品の大量生産によって国力を増加させた。




1272: 名無しさんAA:18/04/09 15:11
 宣教師の時代       ーーー26
 島原の乱は。寛永14年10月25日(1637年12月11日)勃発、寛永15年2月28日(1638年4
月12日)に収束とされる。島原の島民や天草の島民は南蛮船の到来を期待していた。と
される。しかしマニラのスペイン人は、カンボジア進撃でポルトガルに駆逐され、更に
イギリスと戦って日本どころでは無かったのである。又無知な農民はこのイエズス会と
フランシス会或いは新しい清教徒団体の違いなどは判らず、紅毛人と南蛮人更にエゲレ
ス人との違いを見分ける事は不可能だった。冨津港が口乃津となったのはその形状から
でもあったが、この南蛮船が到来しなく 加えて博多長崎の隠れキリスタンの商人達が
助けに来ないとも思っていなかった。もし秀吉時代のままならば例え家康の禁教令であ
ったとしても一大勢力を誇っていたかも知れない。しかし家康は周到に甲賀忍者も伊賀
忍者も他の九州武将にも圧力をかけていた。タイオワン事件(タイオワンじけん)別名
ノイツ事件は、1628年(寛永5年)に長崎代官の末次平蔵と、オランダ領台湾行政長官
ピーテル・ノイツ(Pieter Nuyts)との間で起きた紛争だった。朝鮮の役により日本は
ほぼ中国本土に寄港することはできず中継ぎ貿易として主な寄港地はアユタヤ(タイ)
やトンキン(ベトナム)などと台湾島南部に昔から明(中国)や日本の船などが寄航す
る港が存在した。しかし、日本、ポルトガル王国(ポルトガル)、ネーデルラント連邦
共和国(オランダ)、イギリス第一帝国(イギリス)の商人が東洋貿易の主導権争いを
過熱させ、1622年(元和8年)には明(中国)のマカオにあるポルトガル王国居留地を
ネーデルラント(オランダ)が攻撃していた。敗退したネーデルラント(オランダ)は
対策として台湾の澎湖諸島を占領し要塞を築いてポルトガルに備えて、明の澎湖諸島の
要塞を放棄する要請に応え、無主の島である台湾から貿易をすることにした。、2年後
の1624年(寛永元年)、ネーデルラント(オランダ)は台湾島を占領、熱蘭遮(ゼーラ
ンディア)城を築いて台南の安平をタイオワンと呼び始めタイオワンに寄港する外国船
に10%の関税をかけることにした。中国商人はこれを受け入れたが、浜田弥兵衛(長崎
代官で朱印船貿易家の1人でもある末次平蔵の配下)ら日本の商人達はこれを拒否した
。これに対し、オランダはピーテル・ノイツを台湾行政長官に任命し、1627年(寛永4
年)、将軍徳川家光との拝謁・幕府との交渉を求め江戸に向かわせた。ノイツの動きを
知って末次平蔵も行動に出て浜田弥兵衛が台湾島から日本に向けて16人の台湾先住民
を連れて帰国。彼らは台湾全土を将軍に捧げるためにやって来た「高山国からの使節団
」だと言い、将軍徳川家光に拝謁する許可を求めた。彼らは台湾全土を将軍に捧げるた
めにやって来た「高山国からの使節団」だと言い、ノイツの家光への拝謁を阻止するこ
とに成功し、ノイツは何の成果もなく台湾に戻った。

1273: 名無しさんAA:18/04/09 15:11
 宣教師の時代       ーーー27

しかしノイツは、帰国した先住民達を全員捕らえて贈り物を取り上げ監禁、浜田弥兵衛
の船も渡航を禁止して武器を取り上げる措置に出た。この措置に弥兵衛は激しく抗議し
たがそれを拒否し続けるノイツに対し弥兵衛は、終に隙をついてノイツを組み伏せ人質
にとる実力行使に出た。驚いたオランダ東インド会社は弥兵衛らを包囲するも人質がい
るため手が出せず、しばらく弥兵衛たちとオランダ東インド会社の睨み合いが続いた。
しかしその後の交渉で互いに5人ずつ人質を出しあい互いの船に乗せて長崎に行き、長
崎の港に着いたら互いの人質を交換することで同意して帰路についた。そして長崎で迎
えた代官末次平蔵らはそのままオランダ人達を拘束、大牢に監禁して平戸オランダ商館
を閉鎖してしまう。この事態に対応したのはオランダ領東インド総督ヤン・ピーテルス
ゾーン・クーンだった。クーンは状況把握のためバタヴィア装備主任ウィルレム・ヤン
センを特使として日本に派遣したが、平戸藩主松浦隆信と末次平蔵はヤンセンが江戸幕
府3代将軍徳川家光に会うため江戸へ行くことを許さず、将軍家光の名を騙った返書を
作成してヤンセンに渡した。その内容というのは主に、「先住民を捕らえ、日本人の帰
国を妨害したことは遺憾である。代償としてタイオワンの熱蘭遮(ゼーランディア)城
を明け渡すこと。受け入れれば将軍はポルトガルを憎んでいるので、オランダが貿易を
独占できるように取り計らう」というものでヤンセンは将軍に会えないままバタヴィア
にこの返書を持ち帰った。彼を迎えたのは新なオランダ領東インド総督であり、かつて
平戸オランダ商館で商館長(カピタン)を勤めていたヤックス・スペックスだった。長
年日本で暮らし日本と日本人を研究していたスペックスは、これが偽書であることをす
ぐさま見抜きヤンセンを再び日本に派遣した。オランダは「この事件は、経験の浅いノ
イツの対応が原因であるためオランダ人を解放してさえくれれば良い」とし、ノイツを
解雇し日本に人質として差し出した。日本側は、オランダ側から何らかの要求があるこ
とを危惧していたが、この対応に安堵し、これが後に鎖国体制を築いた時にオランダに
のみ貿易を許す一因ともなった。なお、ノイツは1632年から1636年まで日本に抑留され
ていた。

1274: 名無しさんAA:18/04/09 15:11
 宣教師の時代       ーーー28

1636年(寛永13年)、ニコラス・クーケバッケルの代理として参府したフランソワ・カ
ロンは、拝謁の際に将軍家光に銅製の灯架を献上。家光はこれを非常に気に入って返礼
として銀貨三百枚を贈った。この時、以前より平戸藩主からノイツの釈放に力を貸すよ
う頼まれていた老中の酒井忠勝がノイツの釈放を願うとすぐに許可された。カロンが献
上した灯架(燈籠)は、その後日光東照宮に飾られ、今も同所に置かれている。1632年
こうして(寛永9年)閉鎖されていた平戸オランダ商館は再開した。1634年(寛永11年)
には日本人が台湾に渡ることは正式に禁止され、その後は鄭氏政権が誕生するまでネー
デルラント(オランダ)が台湾を統治している。その後1637年(寛永14年)に天草四郎
に率いられたキリシタン一揆である島原の乱が発生した時、クーケバッケルはまず長崎
代官の末次茂貞(タイオワン事件の末次平蔵政直の息子)に手紙を送り、彼を通して、
長崎奉行に乱の鎮圧の協力を申し出た。しかし、茂貞はその申し出が遅かったとして、
使者として訪れた当時の商館次席フランソワ・カロンを非難した。しかしながら、松平
信綱はクーケバッケルに海上からの砲撃を依頼する。クーケバッケルは、砲5門を船か
ら陸揚げして幕府に提供した。さらに、1638年2月24日から2週間にわたり、原城に立て
こもった一揆軍を、デ・ライプ号とベッテン号から砲撃した。しかし、砲撃の目立った
効果も見られず、また外国人の助けを受ける事への批判が九州の諸侯から高まったため
、 3月12日信綱は砲撃を中止させた。この島原の乱への参加は、クーケバッケルの日記
によると、気が進まずまた効果も少なかった。実際、幕府はカノン砲による直射の効果
に満足せず、後にカロンに対し、曲射が可能な臼砲の作成を依頼している。しかしその
後、クーケバッケルが幕府側へ戦力を提供したことは、反乱軍へ与したと見られて追放
されたポルトガル商館に対し、少なくともオランダは幕府に逆らう意思はないものとみ
なされ、オランダ商館は幕府の海外事情の情報源としての価値から江戸幕府の幕末であ
る安政5年7月10日(1858年8月18日)の日蘭修好通商条約締結まで存在することとなっ
たのである。

1275: 名無しさんAA:18/04/09 15:12
 宣教師の時代       ーーー29

この時謁見したフランソワ・カロン(フランス語: Francois Caron、1600年 - 1673年4
月5日)は、オランダに亡命したフランスのユグノー教徒であった。彼はオランダ東イン
ド会社に30年以上勤務し、最終的にはバタヴィア商務総監という植民地総督の次席にま
で昇進している。後にはフランス東インド会社の長官を務めた。しばしば、日本に渡来
した最初のフランス人と称される。確かに当時南ネーデルラントに属したブリュッセル
生まれのフランス系の亡命ユグノー教徒であるが、実際にはフランス国民となったのは
、後にフランス東インド会社の社長になることを受諾したときである。カロンは、料理
人として1619年に平戸のオランダ商館に着任した。その後、1641年まで20年以上滞在す
ることとなる。この間に江口十左衛門の姉と結婚し、6人の子供をもうけている。1626
年には商館助手に昇進した。日本人と結婚したこともあり、日本語に熟達した。1627年
に台湾行政長官のピーテル・ノイツが来日し、台湾での貿易に関して、将軍徳川家光に
拝謁を求めた際には、通訳として参府している。当時江戸にオランダ語通詞はおらず、
ポルトガル語を経由して意思疎通を図っていたが、日本語が話せるカロンは非常に重宝
された。結局末次平蔵の妨害により拝謁は実現せず、ノイツは成果無く台湾に戻ること
になるが、その際にカロンも同行していた。その後、ノイツと平蔵の問題はタイオワン
事件へと発展し、平戸商館は4年間閉鎖されたが、ノイツを日本に人質として渡すこと
で交易は再開された。カロンはこの解決のためにバタヴィアと日本を往復している。そ
後1633年には次席(ヘルト)となり、1636年には館長代理となったが、この年にノイツ
の釈放に成功し、この年に、バタヴィア商務総監のフィリプス・ルカスから日本の事情
に関する31問の質問に回答する形で『日本大王国志』を執筆した。当初出版を予定した
ものではなかったが、1645年に東インド会社の社史の付録として出版され、1661年には
カロン自らが校正した上で単行本として出版された。1637年、長崎奉行榊原職直に対し
て、日蘭が同盟してマカオ、マニラ、基隆を攻撃することを提案した。その後まもなく
長崎代官の末次茂貞(末次平蔵の息子)から、商館長のニコラス・クーケバッケルに対
し、翌年にフィリピンを攻撃するため、オランダ艦隊による護衛の要請があった。これ
に対し、オランダ側はスヒップ船4隻とヤハト船2隻を派遣することとした。しかしな
がら、翌年に島原の乱が発生したこともあり、フィリピン遠征は実現しなかった。

1276: 名無しさんAA:18/04/09 15:12

 宣教師の時代       ーーー30

1639年2月12日にはクーケバッケルの後を受けて商館長となった。1627年に続き、1633
年、1635年、1636年、1639年、1640年、1641年に江戸に参府している。島原の乱の後、
1639年にポルトガル船の入港が禁止され、第5次鎖国令が出たが、それに先立ち幕府は
カロンに対してポルトガルに代わりオランダが必需品を提供できるかを確認している。
1640年、通商再開を願って来日してきたポルトガル人が全員死罪となった。これを知っ
たカロンはオランダに対しても厳しい運命が待っているであろうことを予想した。その
予想通り、同年に大目付井上政重と長崎奉行柘植正時が平戸に派遣され、カロンに倉庫
の破壊を命じた。理由は、1638年に建設された商館の倉庫に西暦が彫られているという
ものであった。カロンがこの命令に異議を唱えた場合、カロンをその場で殺害し、平戸
オランダ商館は熊本・島原・柳河諸藩により攻撃が加えられることとなっていた。この
行為は将軍家光の専断によるものであり、必ずしも幕府全体の意向ではなかった。がし
かし、滞在20年を超えるカロンは日本の現状を理解しており、命令に従って倉庫を破
壊した。この後、ポルトガル人が追放されて空いていた出島にオランダ商館は移された
。カロンのこの対応に感謝する意味もあって、その後井上政重は、オランダ人のために
便宜をはかるようになった。1641年、商館長の職をマクシミリアン・ル・メールに委ね
て、2月12日には家族と共にバタヴィアに向けて平戸を出帆した。カロンが商館長を
務めていたときに、商館員のハンス・アンドリースが日本人既婚女性と密通し、両名と
も死罪になる事件が発生している。また、幕府の依頼により、部下の鋳物師であった、
ハンス・ヴォルフガング・ブラウンに臼砲の製造を行なわせている。それは島原の乱の
際に、当時の技術では炸裂弾が使えないカノン砲(初速が速いため、対応可能な信管が
無かった)があまり役に立たず、幕府は炸裂弾の使用が可能な臼砲でカノン砲より低初
速であるが炸裂する砲弾に目をつけた為だった。1643年にはアジアでの新たな任務が与
えられた。セイロン島のポルトガル軍を攻めるためネボンゴの砦近くに上陸し、翌日攻
撃を開始した。戦闘は1日で終わりカロンは勝利した。カロンは占領した砦を補強し、
バタヴィアに戻った。ブラウンにより鋳造された臼砲は終戦まで靖国神社の遊就館で展
示されていたが、戦後米軍が押収しその後は行方不明となった。


1277: 名無しさんAA:18/04/09 15:13
1644年には台湾行政長官に任命され、7月5日バタヴィアを出発8月10日には、台湾のゼ
ーランディア城に着任した。到着後すぐに病気にかかったため、しばらく前任者のル・
メールが次席としてカロンを補佐した。この時1646年まで同地での東インド会社の最高
位にあった。この間に、カロンは米、砂糖、インディゴ生産の改善、硫黄の採掘、中国
の海賊との取引の緩和を行った。1644年には4隻、45年には7隻の貿易船を日本に送り
出している。バタヴィアに戻ったカロンは、1647年3月9日に植民地総督の次席にあたる
商務総監の地位についた。1649年、ブレスケンス号事件解決の謝礼を述べるため、日本
に特使を派遣することが決まった。このとき、カロンは特使一行に砲術士官のユリアン
・スヘーデルと外科医カスパル・シャムベルゲルを加えた。スヘーデルは臼砲の射撃を
披露し、その指導は 軍学者の北条氏長によって「攻城 阿蘭陀由里安牟相伝」にまとめ
られた。シャムベルゲルは多くの日本人を治療し、後にカスパル流外科術の祖と見なさ
れるようになった。両人は日本人から非常に歓迎されたが、これは日本人が何を好むか
を熟知していたカロンの功績と言える。1651年、私貿易を行ったとの訴訟を受け、オラ
ンダに召喚されたが、勝訴して名誉を保って会社を退職することが出来た。島原の乱の
終了後、新たに商館長となったフランソワ・カロンに対して、牧野信成を通じて臼砲の
製造が依頼されカロンはこの仕事を、部下の鋳物師であるブラウンに命じた。当時には
鋳物師は、平時には鐘や大型の料理用鍋、戦時には大砲の砲身を鋳造していた。ブラウ
ンは苦心の末、臼砲と炸裂弾の作製に成功した。1639年6月に、麻布の幕府鉄砲方の、
井上正継の射場において、牧野ら幕府の代表者らの面前で ブラウンが鋳造した臼砲の
試射が行われた。目標は400mほど離れた場所にある5軒の小屋であった。初弾は目標よ
り手前の水田に落ち、爆発した。2弾目は砲筒内で爆発し、砲手が大やけどを負い、治
療のために松浦家の屋敷に運ばれた。以降はブラウンが砲手を努めた。3弾目も目標に
届かなかったが、爆発で直径2.7m、深さ1.5mほどの穴を穿った。第6弾は目標に最も近
い、3mほど離れた場所に着弾した。合計11発を発射したが、結局目標には命中しなかっ
た。そこで、炸裂弾の威力を確認するため、砲弾を小屋の中において、導火線で着火し
た。大音響と共に、火焔が藁屋根を突き破って噴出した。幕府の担当者らはその威力に
満足した。家光はこの結果の報告を受け非常に満足し、3門の臼砲が幕府に献上された。
翌年には牧野の私邸で、火薬掛ユリアーン・ヤンスゾーンが炸裂弾製造の実演を行った
。しかし、信管装填の不手際から炸裂事故を起こし、牧野邸に少なからぬ損害を与えた
。しかし信成の好意的措置により大事に到ることなく処理された。また、同様に製造中
にはかなりのけが人などが出たようで、医師のハンス・パウツが契約期間を超えて平戸
に滞在していた。

1278: 名無しさんAA:18/04/09 15:19
 タイオワン事件(ノイツ事件)は日本語的には台湾事件である。この時の実行者とし
て船長に浜田 弥兵衛(はまだ やひょうえ、濱田彌兵衞、)がいた。弥兵衛は、江戸時
代初期の朱印船の船長で長崎の人とされる。1627年に起こったタイオワン事件(ノイツ
事件)の実行者の一人で1915年(大正4年)、贈従五位になった。寛永の頃までに日本
では朱印船貿易が盛んになっていたが、その交易先のひとつで明国との非公式な貿易を
行う際の中継基地的な重要性があったのが高砂(台湾)だった。そこにオランダ東イン
ド会社が進出してこれを占領(1624年)、ゼーランディア城を建てこの地における交易
には一律10%の関税をかけはじめた。寛永4年(1627年)、長崎の貿易商・末次平蔵の
朱印船の船の船長だった弥兵衛は、幕府の後援をうけて、オランダ総督ピーテル・ノイ
ツを人質にし、オランダに関税撤回を要求。オランダはこれをのみ、高砂を自由貿易地
にすることに成功している。末次氏が4代末次茂朝で断絶すると、浜田氏は大村藩に仕
えた。子孫の浜田謹吾は、15歳で鼓手として戊辰戦争に出征し、角館付近で戦死した
。現在角館に銅像が建っている。日本統治時代の台湾には、弥兵衛の事跡を記念して、
ゼーランディア城に「贈從五位濱田彌兵衛武勇之趾」と書かれた碑が建てられた。戦後
「安平古堡」と書き換えられた。1620年(元和6年)、平山常陳なる人物が船長をつと
める朱印船がマニラを出航して日本に向かっていた。平山常陳の朱印船がイギリス・オ
ランダの船隊によって拿捕されたのは、従来のスペインやポルトガルが保持してきた、
覇権を奪取しようと、新興のイギリス・オランダといった国々が艦船を投入し、互いに
しのぎを削っていた。このような状況下においてであった為だ。朱印船には日本人船員
のほかにポルトガル人とスペイン人数名が乗船していた。英蘭船隊は朱印船を伴って、
平戸に入港し、イギリス平戸商館は朱印船の積荷(生糸や砂糖など)を没収した。本来
、朱印船の積荷を奪うことは許されない行為であったが、イギリスおよびオランダ側は
「日本入国を禁じられている宣教師を乗船させていた」ことを理由に、積荷の没収の、
正当性を訴えた。一方、平山常陳はこれを「海賊行為」であるとして長崎奉行に訴えで
たため、調査が行われた。過酷な拷問と数々の証人、証言によってスニガ、フロレス2
人の宣教師もついに自白に至った。元和8年7月13日(1622年8月19日)長崎で平山常陳
、スニガ、フローレスの3名が火あぶりになり、船員12名が斬首となり、この事件で
幕府のキリシタン不信感を決定づけた。翌月に長崎で宣教師や信徒など教会関係者55
名が一斉に処刑される元和の大殉教が起こる。以後、諸大名も幕府の意を汲んで、各地
でキリシタンに対する迫害を強化徹底される結果となった。

1279: 名無しさんAA:18/04/09 15:19
 宣教師の時代       ーーー33
 フランソワ・カロンはユグノー教徒であったが、彼はもともとは料理人だった。この
後ユリアン・スヘーデルと外科医カスパル・シャムベルゲルを派遣してるが彼らも同じ
ユグノーではなかったかと思う。そもそもユグノー教徒とはカトリックの信者の中では
権威主義を行う宗派対立を嫌った信者の群れであり、教義その物には違いがない。一般
的信者で真面目な技術者集団で体制に嫌われただけだったと言うだけである。信心に執
着もないが敬虔な信者と言う事だろう。つまり司祭にはなれないものの、彼らは異端者
ではない。東インド会社でフランソワ・カロンが1619年から1673年までおよそ
50年間実質でも30年以上もの間東インド会社でいられたのは、ユグノー教徒として
日本に布教を無理強いしない姿勢でうまく調整出来た功績からであろう。幕府は、前年
にの島原の乱の苦い経験から、通常の大砲が役に立たない事が判明した。木造の家には
火矢でも充分だったのだ。攻城の為にこの炸裂弾と言う新種の武器に大いなる興味を示
した。オランダ人にとってこの技術の輸出は、鎖国政策を完結する最終段階に及んでは
、将軍の好意を得る打って付けの好機であった。1639年東京の麻布で、幕府の代表者ら
の面前でブラウンが鋳造した臼砲の試射が劇的に行われ、成功裏に終り、カロンの日記
や『徳川実紀』によれば、ブラウンは沢山の報奨金と褒美を得たと記される。しかし、
その後オランダ人が1640年〜41年日本国外追放の運命から逃れ、長崎出島に留まること
を許された一方で、日本に近代兵器の技術を提供するというと言う気力は、鎖国の完成
で益々失せていった。又1650年以来、平和の中に幕府の臼砲に対する興味も薄らいで行
った。しかし実際には火器は一般に幕府や大名、あるいは侍から拒絶された訳でなく、
16世紀から18世紀までは、日本における火器は各藩や各流派の極秘の知識としてのみ続
けられ、公にされてはこなかった。しかし、平戸の松浦史料博物館の展示される小臼砲
、城門破り用砲筒のように、こうして実際に所蔵されている例もある、その後も少しは
西洋の臼砲技術へ近づこうとしていたことが窺える。このハンス・ヴォルフガング・ブ
ラウンに関しては、彼が1640年以降にアムステルダムへ戻り、結婚し1649年から1653年
まで彼の故郷ウルムで暮らした。そのことは、ウルム市議会で裏付けられる。ブラウン
に関する最後の記述には、1655年再びオランダ東インド会社の任務でバタビヤ(ジャカ
ルタ)の市の城壁でcapo、すなわち大尉として重火器に従事していた。と書かれている
。以下のラテン語の碑文が、ブラウンによって最初に平戸で鋳造された臼砲に刻まれて
いる。 HANS WOLFGANG BRAVN VON ULM ME FECIT FIRANDO 1639 (ウルム出身のハンス
・ヴォルフガング・ブラウンが1639年平戸で製作した.) この臼砲は1930年代まで東京
の遊就館で展示されていた。

1280: 名無しさんAA:18/04/09 15:21
 宣教師の時代       ーーー34
オルガンティノは1570年6月18日に、天草志岐にその第一歩をしるした。着任後まず日
本語と日本の習慣について学び、1573年(天正元年)から1574年(天正2年)にかけて
法華経を研究している。 オルガンティノは、はじめから京都地区での宣教を担当し、
ルイス・フロイスと共に京都での困難な宣教活動に従事している。1577年(天正5年)
から30年にわたって京都地区の布教責任者をつとめが、持ち前の明るさと魅力的な人柄
で日本人に大変人気があった。パンの代わりに米を食べ、仏僧のような着物を着るなど
、適応主義を取ったことで日本人からの受けがよく、着任3年で近畿地方における信者
数を1500から1万5,000に増したとされる。一緒にやって来て、九州での布教責任者とな
っていたフランシスコ・カブラルが、大名の大村純忠を入信させたにもかかわらず、そ
の頑固で短気な性格から、多くの日本人を教会から遠ざけたのとは対照的だった。とさ
れる。しかしそれだけ九州がまだ混沌としていたのであろう。念願の京都で、1576年に
(天正4年)京都に聖母被昇天教会いわゆる「南蛮寺」を完成させたと言われる。1578
年(天正6年)、荒木村重の叛乱時(有岡城の戦い)には家臣と村重の間で板ばさみに
なった高山右近からは去就について相談を受けた。久留米の荒木と言う地名は彼ら荒木
氏族が移り住んだ地であった。1580年(天正8年)には安土に直接出向き織田信長に願
って与えられた土地にセミナリヨを建てた。オルガンティノはこのセミナリヨの院長と
なって働いた。最初の入学者は右近の治める高槻の出身者たちであった盛況であった。
第一期生の中には後に殉教するパウロ三木もいた。しかしながら、このセミナリヨはす
ぐに信長が本能寺の変で横死して、安土城が焼かれた時に放棄された。信長はこの信者
の信奉する全知全能の神を上回るとして、敵の諸侯の打ち取った生首から髑髏の盃を作
らせて酒をふるまった。それぞれには黒漆の髑髏盃、自分には黄金の髑髏の盃だったと
される。今の感覚では仰天する事だが、過去から日本は髑髏の木魚を見るように祈祷の
道具とされ、「あく」を叩く「わる」を飲む。として行事の一つだった。武将達は大い
に喜んだと言う。この横暴さに戸惑ったの明智光秀であったのだろう。1583年(天正11
年)には豊臣秀吉に謁見して新しいセミナリヨの土地を願い、大坂に与えられたが、結
局、右近の支配する高槻に設置された。1587年(天正15年)に、高山右近が側近から離
れ、亀甲船が行方不明になり、大砲付のフスタ船が手に入らないとなると、秀吉は苦渋
の末に禁教令を出した。小西行長はどっと疲れが出たに違いない。すぐさま京都の南蛮
寺は打ち壊され、高山右近は明石の領地を捨てた。オルガンティノは右近とともに表向
き棄教した小西行長の領地・小豆島に逃れ、そこから京都の信徒を指導したという。翌
年、右近が加賀国に招かれると、オルガンティノは九州に向かった。

1281: 名無しさんAA:18/04/09 15:21
 宣教師の時代       ーーー35

 後からやって来たイエズス会のガスパール・コエリョは、先発隊のユグノーに近い、
ヴァリニャーノよりは家柄が良くインドのゴアで直ぐに司祭に叙階された。ヴァリニャ
ーノなどが定めた規則よりは、イエズス会の暗黙の了解である新地占領政策に忠実だっ
た。その為キリシタン領主に過度の軍事援助を慎む方針を無視し、フスタ船を建造して
大砲を積込み、更には、それを博多にいる秀吉に見せるという暴挙を行った。それが、
大勢のキリスタンに暗雲が垂れる事は充分予測出来たほとんどの宣教師は暗い顔をした
。小西行長がこの行為を懸念し、高山右近に形だけの棄教とコエリョにその船を秀吉に
献上するよう、強くに勧めたのは当然だった。コエリョこれに全く応じない事も充分に
解っていた。つまり秀吉にしてみれば小西行長への踏み絵でもあったのだ。ヴァリニャ
ーノやオルガンティノによると、バテレン追放令はコエリョのこうした挑発的な行為に
主な原因を求められる。と思っているが一つのきっかけに過ぎなかった。この頃既に、
秀吉には朝鮮征伐が頭にあった。それは九鬼水軍から持ち去ったのが亀甲船が朝鮮人と
言う話だったからだ。フスタ船があればそれを回収する事も不可能ではない。と思案し
それが回収出来ないとなれば、大友宗麟始め、各主の大名武将を弱らせなけば政権弱体
につながると、危惧していたのだ。しかしコエリョはこの要請に大友宗麟や有馬晴信に
対して、キリシタン大名を糾合して秀吉に敵対することを求め、自身もその準備に乗り
出している、と主張し逆に反逆の勧誘をする。これにより有馬晴信や小西行長は双方の
板挟みになったし同様に彼を嫌っていた他の司教も苦境に陥った。その後、コエリョは
フィリピンへ援軍を求めるよう働きかけた。しかし拒否されると、1589年(天正17年)
にマカオに使者を送って天正少年使節を伴って再来日を伺っていたヴァリニャーノに、
各位に働きかけて大規模な軍事援助を求めるよう要請した。その間、全国のイエズス会
員たちを平戸に集結させ、公然の宣教活動を控えさせることにした。コエリョは1590年
(天正19年)に肥前国加津佐で没したが、困ったイエズス会の毒殺行為でもあった。こ
うして心痛から離れたヴァリニャーノは彼の要請と自らの安全の両立が不可能を悟って
小西との相談もしていた。機が熟してはいないと判断すると、彼が準備していた武器・
弾薬を総て売り払い、日本で処分するのが不適当な大砲はマカオに送ることを命じた。
しかしヴァリニャーノも彼と同様にその後もキリシタン大名へ支援して友好を続けた。

1282: 名無しさんAA:18/04/09 15:21
 宣教師の時代       ーーー36

 もともと日本は東方見聞録によって、古来よりヨーロッパで、金銀を豊富に産する夢
のような「金島」・「銀島」の伝説の地であった。この事が大挙して西洋人がやってき
た理由である。すでに日本で鎖国体制が完成し、1639年(寛永16年)にはポルトガル人
が追放され、1641年(寛永18年)にはオランダ人も出島に移され、そこでのみの交易を
許されていた中でも、日本に簡単にやって来る外国船は絶えなかった。1635年(寛永12
年)、平戸のオランダ商館の職員であったウィレム・フルステーヘン(後、商館長)は
、オランダ領東インド総督のアントニオ・ヴァン・ディーメンに宛てて、「日本の東方
北緯37度半、海岸からおよそ380〜390マイル」に金銀島があると聞いたと報告している
。この金銀島の報告であ、更に探検隊が派遣されている。最初の探検は、1639年(寛永
16年)にマチス・クアストとアベル・タスマンによってなされたが、当然ながら金銀島
は発見されなかった。1643年(寛永20年)2月、マルチン・ゲルリッツエン・フリース
を隊長とする2回目の探検隊がバタヴィアを出航した。探検隊はカストリクム号とブレ
スケンス号(船長ヘンドリック・コルネリスゾーン・スハープ)の2隻で構成された。
ところが、房総半島沖で暴風雨に遭遇し、ブレスケンス号は一旦千島列島沖まで北上し
た後に南下し、 6月10日に盛岡藩領である陸奥国山田浦に漂着した。こうして突然に現
れた外国人に村民は驚き、上陸してきたオランダ人を歓迎した。ブレスケンス号は水の
補給を受けた後、再び探検のため出航した。すでに日本では鎖国体制を発令した中で、
各藩の個々の港は開いてはいけない仕組みにあった。外国人上陸の話を村民から聞いた
藩の役人は、ポルトガル人の可能性があるとして、再度外国人が上陸した場合には捕ら
えるようにと指示した。 7月28日、ブレスケンス号が再度入港してきたが、この時遊郭
から女郎を呼んで乗組員を歓待した。すっかり安心していると、船長スハープ以下10人
の乗員はあっという間に捕縛されてしまった。当時の日本人が外国人との意思疎通に用
いていた言語はポルトガル語であった。幸い、スハープはスペイン語が話せたため、何
とか自分達がオランダ人であることを説明することができた。このため待遇は良くなっ
たが、さらなる取調べのため江戸に護送されることとなった。こうしてブレスケンス号
事件が発覚した。

1283: 名無しさんAA:18/04/09 15:23
 宣教師の時代       ーーー37

 島原の乱は、寛永14年10月25日(1637年12月11日)に勃発している。僅か2年後の話
には探検に来ているのである。もしこれが日本海側に来て佐渡島に上陸していたならば
話は大きく日本の歴史を変えて、もっと日本は苦しい立場に追い詰められたであろう。
捕えられた船員達は先ず盛岡城に連行された。船長スハープ達は領主の前に出るため、
様々な木のある庭園や、色々な店を連ねた大通りがあるこの美しい町を通って、町はず
れにある大きな屋敷の木造の高い門の中の離れに案内された。その後藩主の南部重直に
謁見した船員達は丁重なもてなしを受けた。藩主は当初彼らを密航した宣教師ではない
かと疑われた。通訳の役人に、ポルトガル人、スペイン人、フランス人、イギリス人、
デンマーク人、スウェーデン人、クレタ人(ギリシャ人)ではないかと質問させた。また
十字架を差し出して祈祷するように言った。彼らはこれらを拒否しオランダ人である、
と答え、また、皇帝(徳川家)の許可を得て長崎で交易をしたり毎年江戸で皇帝に拝謁し
贈り物もしていると答えた。藩主は更に彼らを試すため踏絵に用いる聖母マリアの描か
れた銅板を差し出し、これに接吻するはずだと言った。しかし船員達は反対に銅板に唾
を吐き、これを砕いてもよいかと尋ねた。これを聞いた藩主は大笑いし、彼らが宣教師
などではないことを確認した。また船員の一人はセイロン島でポルトガル人から受けた
傷を見せ、ポルトガル人はこういうことをする我々の仇敵であると答えた。このアピー
ルは藩主に気に入られた。その後二週間程盛岡に滞在した後、江戸へと出立した。スハ
ープの日記によると、滞在中彼らの身辺の世話をしていた役人は涙を流し別れを惜しん
だという。オランダ人が捕縛されたという話は、すぐに出島のオランダ商館にも伝えら
れた。このため、新旧二人の商館長ピーテル・アントニスゾーン・オーフルトワーテル
とヤン・ファン・エルセラックが例年より1ヶ月ほど早く江戸に参府し、宣教師の潜入
や日本への領土的野心を目的とするものではないと釈明した。これが受け入れられ、12
月8日に10人は釈放された。徳川家光の時代である。このポルトガル人か クレタ人かと
いうのは既にギリシャ人やスウェーデン人を知っていた事になる。この1643年(寛永20
年)のオランダ船ブレスケンス号は全長33m、幅7mの武装ヤハト船で、そう大きな
船ではない。乗組員が盛岡藩上陸後に捕縛され、しばらく後に釈放されたが、その後の
オランダの対応に対して幕府が満足せず、完全に解決を見たのは 1650年(慶安3年)に
なってからであった。

1284: 名無しさんAA:18/04/09 15:23
 船の歴史は古く、紀元前二千前の古代エジプトのピラミッドを作る時にも船は作られ
石が運ばれた。重たい石を運ぶためには筏では浮力が足りずに船底を半円にカーブさせ
て浮力を高めたのである。その後オールを使った海洋航法が取り入れられ、又帆船仕様
が出来たものと思われる。コグ船は、12世紀頃から広く使われた船であった。コグ船の
特徴は一本マストに、方向を変える横帆を備えたものだった。一般にバルト海沿岸地方
で豊富な木材であったオークで造られ、バイキングが使ったものだが多くは帆が四角の
形だった。この横帆のみでの装備では風上に向かって帆走することはできなかったが、
乗組員が少なくても操船でき、運航費用を下げることができた。この船は、中世ヨーロ
ッパの特にバルト海での主に海上貿易に使われた。この北方の荒海用の帆船発達に対し
て、地中海ではキャラベル船あるいはカラベル船と言われる小さい風や色々な風で動け
る3本マスト三角帆のセールの帆船が発達した。操作には難解な専門知識がいるが南洋
では風を受ける事より受けない事の方がリスクは高かく更に向かい風にも疾走する必要
があったのだ。一方中国では宋船や朱印船と呼ばれる荷物を運ぶ事を主流に作られる船
が出来た。所謂舳先が尖らない宝船である。大型木材で底を深くしたもので近郊の航海
に適したものだった。これらの物から二つの形態に分かれて進歩する。キャラック船は
遠洋航海を前提に開発されたヨーロッパでは初の船種であり、大西洋の高波でも船体の
安定を保つだけの巨体と、大量輸送に適した広い船倉を持つ大型船である。航行性能も
優れており、4つの帆を組み合わせて使えたため人手はいるが、風に対して適切な角度
を選択する柔軟性が高く、船尾と船首に付けた帆は回頭性の向上に寄与し、三角帆によ
って逆風状態での航行を可能にした。また、嵐の間にメインセイルは畳まれてそれでも
推進することすらできたと言われている。その後広い甲板により、戦闘用としても船の
安定性、ひいては甲板の安定性が高く、大砲を載せて甲板を砲台として用いることさえ
も容易であった。しかし甲板に置いた砲台は安定性を弱くし前方攻撃しかできなかった
。そこで砲台を船倉の中に入れたガレオン船が登場した。一方重く収用能力が高いこの
船は一方で船底が低く座礁の恐れも高かった。そこで出来たのがスヒップ船である。こ
の船は今のヨットの原型で早く簡単に探検出来る様に小型でオールで漕ぐ事も出来た。
しかし、探検にも荷物が必要であったし大型船の乗り込みにもオールが出来るほどの縁
の低さは難点であるため中型のヤハト船が出来た。更に砲撃を入れたフリュート船が出
来た。これらの西洋船は全て防水用のピッチが挟まれて繋ぎ外壁も塗っていて全ての船
が黒船であった。その後日本ではペリーの蒸気船が来て黒船と言われるが南蛮船は黒船
であり中国大陸からは朱印船であった。さらに中東からはガリー船と日本で呼ばれた。

1285: 名無しさんAA:18/04/09 15:24
 宣教師の時代       ーーー39

 バタヴィア古くはジャヤカルタ、ジャカトラなどと呼ばれていた。が、オランダ人ら
大量の冒険家がやってくると、西洋社会ではバタヴィアと呼ばれた。バタヴィアの名は
、古代ローマ時代に今のオランダにあたる地に住んでいたゲルマン人の一部族、バター
ウィー族に由来し、オランダ地方の古称でもある。この名称はオランダ本国でもフラン
ス支配下のオランダがバタヴィア共和国として使われたことがある程だった。ネーデル
ラント連邦共和国の崩壊後に成立した。オートリア帝国と緩やかな繋がりを持っていた
ネーデルランド共和国は文字通り8つの民族のいる11の州の集合体(ヘルダーラント
州、ホラント州、ゼーラント州、ユトレヒト州、フリースラント州、オーファーアイセ
ル州、フローニンゲン州のネーデルラント北部7州と、これにドレンテ準州、国境地帯
の連邦直轄領ブラーバント、リンブルフ、フランデレンの4州)であった。この国は、
革命後のフランスと、反革命を標榜する対仏大同盟の渦中にあって、フランスとオート
リア帝国の一連の戦争に厄介な内部紛争に陥っていた。当初はフランス革命に対する、
外国の干渉戦争であったが、気が付けば囲まれてしまっていたフランス革命軍は危機感
と新体制の確立から弱いネーデルランドに目を付けた。 1794年9月、フランス革命軍は
、オランダへの侵攻を開始し、10月2日にルール川を渡り、1795年1月にこうして衛星国
家としてフランスの傀儡国家バタヴィア共和国が宣言された。この後 1795年5月16日、
オランダはハーグでフランスと講和条約を結び、五百万フローリンの 賠償金支払いを
約束するまでフランスの衛星国になっていた。こうして、1795年から1806年まで現在の
オランダに存在したフランスの衛星国として不都合な商人は、ジャカルタに住み着く事
でバタウィアと呼ばれた。こうして17世紀末頃にはバタウィアは、優に80年の歴史を
刻み落ち着いた町に変化していた。城壁を巡らした地区のなかにはいくつもの砲塔を備
えた政庁があり、チャイナタウンやたくさんの倉庫も築かれ、街路には小さなテラスハ
ウスが無数に立ち並び、運河や酒場もあった。チャイナタウンがあるのは、当時オラン
ダが日本と中国の間で中継貿易を営み、日本に中国の品物を含めて輸送する役割を担っ
ていたからである。


1286: 名無しさんAA:18/04/09 15:24
 宣教師の時代       ーーー40

 この気候としては高温多湿の町でもあり、ここへ移住してくるオランダ人は、さほど
満足していなかったし、マラリア、コレラ、デング熱などの熱帯病に倒れることが多か
ったにも関わらず移住と発展が続いたのは、欧州の過渡期であって、本国が戦争に明け
暮れた世界だったからだ。つまりフェルディナンド・マゼランが1519年に始まる航海で
スペイン船の艦船隊を率いて世界一周に出かけたのは、1505年インド洋の覇権をポルト
ガルの物にするべくフランシスコ・デ・アルメイダの20隻の艦隊がポルトガルを出発
しマラッカ海峡を制圧したからに他ならない。フランシスコ・デ・アルメイダはその名
の通りカトリック教会に属する修道会の改革を希求したとする、ブルゴーニュ地方出身
の修道士モレームのロベールが開いたシトー修道会(シトーしゅうどうかい)別名ベル
ナルド会の持つサンティアゴ騎士団の出身である。当然この新しい改革を期待し付いて
いくユグノー教徒は多くいたのだ。そもそもこのシトー修道会やサンティアゴ騎士団が
同じ1550年代になるとカルヴァン派の中にあったのである。日本では、灯台の聖母トラ
ピスト大修道院を母院として、男子修道院が当別の他に大分県日出町に、女子修道院が
函館の他栃木県那須町、兵庫県西宮市、佐賀県伊万里市、大分県宇佐市にある。また、
大韓民国慶尚南道昌原市にも女子の子院がある。会員は各修道院の禁域のなかで、「祈
り、働け」をモットーにして祈りと労働の日々を送っている。実はこのシトー修道会は
古代欧州のミトラ教の宗門替えのキリスト教で聖母マリアの方が主体となる。したがっ
て彼らが、こうした遠征や派遣で布教した中には クッキーやバター、菓子パン、チー
ズなど食物に関連した物が多い。ここで東南アジアに来たのも恐らく胡椒などの香辛料
を求めて来たと考えられる。欧州で、古くからスパイス・アイランズ(香料諸島)と呼
ばれてきたのはインドネシアのモルッカ諸島であったからだ。モルッカ諸島は赤道に沿
ったスラウェシ島と、イリアン・ジャヤとの間の海域に位置する。日本語でもクローブ
の実は、「丁子・丁字(ちょうじ)」といい古くから愛されている。丁子はフトモモ(
蒲桃)科の熱帯常緑の高い木で、高さ数メートルに成長し、丁子の木に咲く花の蕾(つ
ぼみ)を乾燥したものを丁香(ちょうこう)と呼び、愛用された。丁香は古来より、香辛
料や生薬に利用されてきた。丁子は高貴薬で香料であることから、七宝の一つで紋章と
しても人気が出た。押小路、甲藤、新庄、松村、竹尾の藤原氏流の諸氏。真崎、志村、
幡野、石崎の源氏の諸氏。菅原氏系の 来栖氏、滋野氏系の望月氏などが使用している。

1287: 名無しさんAA:18/04/09 15:25
 宣教師の時代       ーーー41

曾我祐準は筑後国出身で柳河藩士・曾我祐興の次男だ。(そが すけのり)山縣有朋・
大山巌ら陸軍内の藩閥勢力に対し、三浦梧楼・谷干城・鳥尾小弥太と反主流派を形成し
た。家紋の右一つ丁子巴紋は、「華族家系大成」による。その他薩摩国出身。藩士園田
家や薩摩藩与力、川路利愛の川路家或いは、野口家や三条実美らもこの紋であったとさ
れる。日本画家英一蝶(はなぶさいっちょう)も本姓は藤原氏で、多賀の藩医の家系だ
。竹内綱の長男で吉田茂の長兄の竹内明太郎。実業家として小松製作所、日産自動車の
前身の快進社を設立したが、家紋は左三つ丁子巴紋だった。この人参をデザインした様
なこの紋の使用家は、九州全般、特に鹿児島県(16位)に多い。また、その他は富山県
(19位)が多い。おそらく 薬の名産地(富山の薬売り)と関係があるのだろう。スペイ
ンのフランシスコ・ザビエルは、日本を訪れる3年前の1546年に、モロタイ島と、アン
ボン島とテルナテ島を訪れている。既に日本人街があったとされる場所だ。1599年に、
オランダの遠征隊がマルク諸島に到着してきました。こうしてインドを通さず、日本と
欧州にこの香辛料は送られて莫大な利益をもたらした。しかし、1604年にイギリスの東
インド会社の遠征隊がマルク諸島を訪問して、この香辛料の宝島は一転する。1610年代
以降、オランダの東インド会社はジャワ島を含め、徐々にマルク諸島での勢力を拡大し
ていき衝突するに至ったからだ。1600年代を中心に、マルク諸島ではスパイスの権益を
めぐり、マルク諸島の住民を巻き込んで、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス
がこの地で領土権益抗争を繰り返しました。それらの大きな抗争は、スパイス戦争と呼
ばれた。従って、マルク諸島でのスパイスの歴史は、多くの島民、西欧人、そして日本
人の血も、流れた歴史でもあります。マルク諸島は、その後 300年以上を経て、1945年
8月にインドネシア共和国として独立した。実は、アジアの高価な物産を直接現地から
輸入して巨利を得ようと考えた9名の裕福なアムステルダム商人は、1595年に共同出資
で船隊を初めてアジアに派遣した。この航海が一定の利潤を得られる可能性を示すと、
オランダ各地に20近くの貿易会社が設立され、マルク諸島などからナツメグ、メース
、クローブといった高級香料などを競って輸入した。過当競争による利益低下を恐れた
国の指導者たちは1602年にそれらの会社を統合させ、ここにVOC(東インド会社)が
設立されたのである。


1288: 名無しさんAA:18/04/09 15:25
 宣教師の時代       ーーー42
 こうして1605年にはマルク諸島に要塞を築き、スペイン人やイギリス人などのライバ
ルと争いながら、現地支配者との戦闘や内政干渉を通じて支配を強めた。VOCは一部
地域で香料の強制栽培を開始したが、それだけでは生産が伸びないことを認識し、現地
で需要の高い産品の輸入に取り組んだ。特にインドの染織品にはマルクだけでなくイン
ドネシア諸島各地で強い需要があることを知ったVOCは、インドへの進出を加速した
。インドでは先来のポルトガル人から妨害を受けたものの、VOCは各地の領主と交渉
し、1606年以降ペタプリ、マスリパトナム、プリカット、ネガパタム、フグリなど各地
に商館を設置した。特に染織品の重要産地であるコロマンデル地方には多くの商館が置
かれ、インドにおけるVOCの染織品取引の中心となった。しかしこの時日本は越智氏
の一族が細々と高価なインディゴ綿の買い付けは行っていたのである。古代日本の伊予
国(愛媛県)の豪族の一つとされ。その由来は伊予守輩出や、南海道の伊予越智氏との
関係があったとする説もあるが、判然とはしない。しかし、古本には越智郡大領の先祖
である越智直(おちのあたい)が、白村江の戦いで捕虜になったが、観音菩薩の霊験に
より無事帰還することができ、観音菩薩を奉じて寺を建てたという話が日本霊異記に載
せられている。その後伊予史上では、神護景雲元年 (767年)に献物により叙位された
越智郡大領の「越智直飛鳥麻呂」と「越智直国益」が最初として出て来る。、伊予守「
源頼光」が「藤原道長」に土御門殿の家具一切を献上したとあり、それまで土御門氏と
仲が良かった事が解る。大和の春日社領荘園内の荘官、有力名主を白衣神人として任じ
たもので、末社神主でもあって興福寺の被官ともなっていた。越智氏はその代表といえ
る存在であった。白衣神人のほかに黄衣神人がいたが、これは春日社内の神人である。
家紋は『越智古老伝』には「揚羽蝶」、『越智氏系図』には「八角菱」などとなってい
て越智氏と言って一律ではない。『見聞諸家紋』には遠雁に竜胆(りんどう)である。
奧雲仙地方ではこの赤岩観世音様が祀られ、たいへん古くからお祀りしてあったそうで
す。大宝元年(七〇一)、行基(ぎょうき)という偉い御坊さんが、雲仙に温泉山・満
明寺をひらかれました。この時、行基上人は田代原にも、寺や僧坊を建てたいという願
いを込めて九千部岳で九千部経と言う苦行をしました。赤岩観世音さまは、この行基の
願いを助けてやろうとした。と言う伝説があります。この言い伝えから考えると、温泉
山よりまえ、今から千三百年も前に祀られたことになります。この赤岩観世音様に、お
参りすると、ご利益が多いせいでしょうか、魚洗川(いわれご)や八斗木(はっとき)
のひとはもちろん、島原や有明など、遠くの村からもたくさんの人々が、おまいりにき
ています。

1289: 名無しさんAA:18/04/09 15:26
 宣教師の時代       ーーー43

 夏吉(なつよし)=夏焼(なつやき)の土地の名前は、夏羽焼(なつはやき)、夏焼
(なつやき)と呼ばれていたが、。時代を超えて不吉な村名の「夏焼」を「夏吉(なつ
よし)」に改め現在に至ったとしている。『日本書紀 神功紀(太歳辛巳年=摂政元年
の前年、三月の夏羽)』の記述では「丙申(ひのえさる)に、転(うつ)りまして、山
門県(やまとのあがた)に至りて、則ち土蜘蛛田油津姫を誅(つえな)ふ。時に田油津
姫の兄夏羽、が軍を興して迎え来(ま)く、然るに斯の妹の誅されたること聞きて逃げ
ふ。」夏羽は、館に逃げ帰り篭っていたところを追ってきた神功皇后の軍勢に焼き殺さ
れた。焼き殺された場所が、この夏吉とされる。口の津と加津佐には、こうした名をも
つ場所がある。1602年には薩摩藩主・島津忠恒(ただつね)の招きに応じて、マニ
ラのドミニコ会スペイン人神父フランシスコ・デ・モラレスなど5人が、船長のレオン
喜佐衛門の案内で下甑の長浜に上陸しました。1605(慶長10)年には、甑島(こしきじ
ま)の手打に教会を建てましたが、台風のために倒壊し、その後 川内市京泊(きょうど
まり)に移り、1606(慶長13年)に、京泊にロザリオにささげられた教会と、修道院が
建築されました税所七右衛門敦朝(あつとも)は、1569年都城に生まれ、1596年、主君
・北郷加賀守三久に随伴して新しい領地平佐(現在の薩摩川内市)に移った。滞在中、
信者であった友人パウロ吉右衛門からイエスについて聞き、京泊の教会へ行った。京泊
の教会で 1608(慶長13)年7月22日に、洗礼を受け「レオ七右衛門」となっていた。洗
礼を受けたとき、主君はすでに家臣に対し、キリシタンになることを厳しく禁じていた
頃だった。熱心なキリスト教信者であった七右衛門は当主の北郷三久からキリスト教を
離れ棄教を促されましたが、従うことはなく、1608年11月17日、薩摩におけるドミニコ
会初の殉教者となったそうです。殉教した七右衛門は、京泊の教会に埋葬されたとあり
ます。2008年11月24日 徳と聖性が認められ、列福が承認されて福者と称される。 




1290: 名無しさんAA:18/04/09 16:15
 宣教師の時代       ーーー44

 ヤジロウ(アンジロー)の出自は良くわかっていないが、どうやら薩摩又は大隅の武士
だったようで、若い頃に人を殺害したため、薩摩や大隅に来航していたポルトガル船に
乗せてもらい、マラッカに逃れていたようだ。ヤジロウはもとは貿易に従事していたと
考えられている。フロイスの『日本史』では海賊(“八幡”(ばはん))であったと書
かれている。ヤジロウは薩摩国あるいは大隅国(両国とも鹿児島)の出身である。彼自
身やザビエルの書簡によれば、彼は若い頃に人を殺し、既に薩摩や大隅に来航していた
ポルトガル船に乗ってマラッカに逃れた。としている。その罪を告白するために、彼は
ザビエルに近づき訪ねたという。二人を引き合わせたのは、天文15年(1546年)に薩摩
半島最南部の山川にやって来たポルトガル船船長のジョルジュ・アルヴァレスである。
船長はマラッカへ帰る際ヤジロウを乗船させ、ザビエルを紹介した。ヤジロウはザビエ
ルから、日本でキリスト教の布教をした場合を問われ、スムーズに進むだろうと答えた
。ヤジロウの人柄と彼の話す日本の様子を聞き、ザビエルは日本での活動を決意した。
1549年4月19日、ヤジロウはザビエルに従いゴアを離れ、同年8月15日に鹿児島に上陸し
 ここに日本におけるキリスト教布教の第一歩を記した。「八幡(ばはん)」とは、か
つて倭寇が船旗に書いた八幡あるいは八幡大菩薩の神号を、「ばはん」と読んだところ
から生じた名称で、倭寇の異称であったが、江戸時代には、国禁を犯して外国へ渡った
り通商貿易をしたりしたことや、抜け荷買いや海賊行為全般にこの名称が使われた。山
から荷を出す作業を馬搬(ばはん)といい、山で木材などを馬に曳かせて搬出すること
をそう呼んだから似た名になったのだろう。その後のヤジロウの生涯については不詳で
ある。上記フロイスの記述によればザビエルの離日後、ヤジロウは布教活動から離れて
海賊の生業に戻り最後は中国近辺で殺害されたという。またフェルナン・メンデス・ピ
ントの『東洋遍歴記』、ジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』によれば仏僧らの迫害
を受けて出国を余儀なくされ、中国付近で海賊に殺されたという。甑島伝説では、1602
年にドミニコ会の宣教師が来航してキリスト教を広め、禁教令によって弾圧が始まると
1638年には信者が捕えられて処刑されたと言われている。そして、甑島にある天上墓は
、フランシスコ・ザビエルの通訳者だったヤジロウ(1511年?〜1550年頃?)の墓である
という伝説があり、キリスト教伝来期から信者がいた可能性がある。また、島原の乱(
1637-1638年)以降に甑島に逃れて来た隠れキリシタンの末裔であるという説もある。


1291: 名無しさんAA:18/04/10 22:33
 宣教師の時代       ーーー45

 鹿児島県の離島の甑島(こしきじま)片野浦のある小さな集落には、いまも隠れキリ
シタンがひっそりと暮らしているといわれ、数十戸の集落だが、住民全員が隠れキリシ
タンである。という。正確には数百年前まではキリシタンであったが、過酷な弾圧をお
それ、彼らはキリスト教を密封してしまった。十字架も聖画も聖書も讃美歌もカトリッ
クの儀式も、すべてを消してしまった。そして残ったのは形骸化し誰もその意味を理解
できなくなってしまった儀式と若干の役職のみである。彼らの信仰は「クロ宗」(くろ
しゅう)という。十字架をクロスと呼んだ名からそのままクロ宗クロ宗教徒とされる。
かつて、集落の住人は村外者を完全に拒む。取材にも一切応じない。「クロ宗」信者に
は集落内での出来事や仕来りを一切口外してはならないという鉄の掟がある。同じ島に
住む他村民はこう語っている。「クロの宗徒から、一連の話を聞き出すことは、絶対に
不可能だ。クロにしゃべれと言うたって、それは連中にとって死をかけることと同じだ
」とされていた。婚姻については村外者との結婚を認めなかった。近親者同士ばかりの
通婚を繰り返してきたが、さすがに現在ではよそ者との結婚を認めている。ただし条件
が付く。絶対に村の秘密を配偶者にも話さないこと、そしてもうひとつの条件が、どこ
か他所に居を構えなければならない。クロ宗の集落での夫婦の生活は認められないのだ
。このキリシタン遺物の一切ない同集落だが、例外としてただひとつだけ大切な物があ
る。それがこの島に、秘密の宗教をもたらした人物の聖なる墓とされる「天上墓」だっ
た。ヤジロウがザビエルとともに伝道をはじめたのは、聖母マリア被昇天の祝日にイエ
ズス会(耶蘇会)のザビエル一行が、ジャンクで同伴の信者で通訳のヤジロウの郷土で
ある鹿児島に着いた。とされ、日本へのカトリックの伝道はこの日に始まる。又島原・
天草の農民とキリシタンの乱は、寛永14年(1637)から翌年の足かけ二年である。その
おおよそ九十年も後である。しかし天草の落人が来たかも知れない。島原の反乱には当
然だがその関りは解っていない。島のキリシタンの教祖と考えられるヤジロウは薩摩の
武士だったようだ。ゴアに逃亡した後、同地でキリスト教に帰依し、イエズス会の学校
も卒業し、イエズス会士の日本へのキリスト教布教の必要性と意義を説きザビエルとと
もに鹿児島に着いた。


1292: 名無しさんAA:18/04/10 22:34
 宣教師の時代       ーーー46

ヤジロウたちは、熱心に布教につとめた。薩摩藩主の島津貴久は、当初は交易に利する
キリシタン宗の伝道を認めていたが、翌年には仏教界からの排訴を受けて、キリシタン
禁制と追放令を出した。ザビエルは平戸に逃れ都を目指す。ヤジロウ自身は薩摩に残っ
て秘密裏に布教を行ったが、仏教僧からの迫害を受け下甑島に逃れた。しかし、ヤジロ
ウは改めて伝道を続けたが、さらに厳しくなった迫害から逃れるために、下甑島の片野
浦に移り、クロ宗と改めて密教の集落を組織した。」とされる。そうして残ったキリス
ト教だった。島民は官憲による探索を避けるために、三方を山に囲まれほかの地区の人
たちを寄せつけない当地に、教祖ヤジロウを住まわせた。そして彼の墓がいまも現存す
る「天上墓」であると言われ続けている。その後日本の戦後昭和21年に、カトリック
鹿児島教区長の司祭が、CHQの米兵とともに片野浦の集落にやって来た事がある。そ
して「正統カトリックに復帰するように」と呼びかけを始めた。村落の主家である酒屋
の大毛(だいもう)は彼らを真宗の寺に案内し、自分たちは浄土真宗本願寺派の門徒で
あると主張し、お引き取りを願った。ジャーナリスト米村竜治はこの集落の立派な寺、
片野浦説教所を「住民の秘密を守る防砦でもある」と記している。又、その後昭和56
年2月(1981)、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が来日した。その折に、随伴した法王庁
の使節団から、片野浦のヤジロウ墓を訪問墓参したい旨の打診があった。法王庁でも、
ヤジロウ墓のことは公然の秘密でありながら知っていたのである。多分キリストの福者
に列席させたかったのだろう。だがしかし、片野浦の同村はにべもなく断った。彼らの
秘匿性は徹底していたのである。さてヤジロウは1549年、43歳の時に、同じイエズス会
のトーレス神父とフェルナンデス修道士、マヌエルと言う中国人、アマドールと言うイ
ンド人、ゴアで洗礼を受けたヤジロウ達日本人3人と共にジャンク戦で出発し、日本を
明を経由してヤジロウの案内で、薩摩半島の坊津に上陸した、とされる。その後許しを
得て鹿児島市に来着した。その上陸した日が、8月15日の被昇天の聖マリアの祝日だ
ったとされる。九州では古来より旧暦お盆と称して8月15日をお盆の日としている。
この云われについては仏教では説明しえていない。そもそも仏教にお盆はないからだ。
よく「夏に行われる日本の祖先の霊を祀る一連の行事。日本古来の祖霊信仰と仏教が融
合した行事である。」であるなどと真っ赤な嘘が説明される。本来は霊に対する供物を
置く容器が「盆」を意味し先祖供養は仏教では命日であるとされ、仏教全体は釈迦が説
いた花まつりの4月であるの先祖供養の常識なのだが、ほとんど日本では消えている。


1293: 名無しさんAA:18/04/10 22:36
 宣教師の時代       ーーー47

 実はこのお盆の日が決まったのが、この戦国時代からだ。前にも述べた様に平安時代
に神仏融合と神仏分離が繰り返されて来た。本筋は朝廷のもつ神話神道と輸入された仏
教と地域山岳宗教の祈祷である。言語もいまいち方言の多い中でそれらではじきだされ
たのが古来より祈祷をして自然崇拝していた拝火教であった。その流れを汲んだ自然崇
拝と火の神を拠り所にする信仰行事をその他が取り入れた。護摩焚きや蝋燭や線香など
の必需品のお祈りだ。更に密教系の印の結びもその多くは、その流れ汲んだ陰陽道から
来ている。しかし卜部や八卦道や陰陽道も、天皇の病死や災害の前に体制の庇護を離れ
が廃れた為、新たに真言宗の空海や天台宗の最澄は新たに唐へ渡り、又分派の法相宗や
黄檗宗などが起こった。しかしこれらは、もともと庶民の御祭りを指導する立場よりは
庶民救済と自己昇華の座禅行を基本としていたのである。がその中にも拝火教同様に、
古来から基督教的ものは聖徳太子時代から入ってはきていたのである。それが大日教の
大日如来崇拝の形として仏教に入り込んでいたし、比子宮として神道にも入っていた。
こうしてザビエル来日時、日本の教会を聖母マリアに捧げた事は、仏教界の新たな模倣
の始まりとなった。民衆はこれに飛びついたからだ。彼らはこうして受け入れられ薩摩
から京都を目指して行く過程の中で、各地で宣教活動を行った。それがお盆の行事でも
あった。フロイスの書によると、ザビエルがローマに送った手紙にも、日本の印象は、
とても良かった。と記されている。しかし、日本語への翻訳をしてくれる「ヤジロウ」
のキリスト教用語への理解不足から、相当苦労したとしている。当初、キリスト教の神
を「大日」と教えていた。多くの人が仏教の一派と勘違いすることがあり、後に「デウ
ス」と呼ばせるようになったことの記述もある。彼が日本に滞在したのは2年間でした
が、日本の教会の礎を造った人物として、日本の教会は祭日として祝っています。こう
して、日本における聖書の歴史は、1549年フランシスコ・ザビエル(1506〜1552)から
起こり、鹿児島に上陸した時に持って来た日本語に訳された「マタイ福音書」に始まる
とされている。しかし、現在記録の原書は残っていない。フロイスの『日本史』による


1294: 名無しさんAA:18/04/10 22:36
が、日本の教会の礎を造った人物として、日本の教会は祭日として祝っています。こう
して、日本における聖書の歴史は、1549年フランシスコ・ザビエル(1506〜1552)から
起こり、鹿児島に上陸した時に持って来た日本語に訳された「マタイ福音書」に始まる
とされている。しかし、現在記録の原書は残っていない。フロイスの『日本史』による
と、ザビエルがマラッカで出会った日本人ヤジロウの協力によって和訳をしていたこと
は確かである。フェルナンデスは四福音書の全訳を試みたようだが、それに関する詳し
いことは不明である。しかし、彼とともに同地に布教していたフロイスの記録によれば
、1563年肥前(長崎県)度島(たくしま)の教会の火災で、この稿本が無惨にも焼失し
たと言われている。その写本は柳川の伝習館に一時保管されていた事が解っていた。ペ
ンテコステ教会の古本である。英国国教会の信徒、船長のセーリスは『日本航海記』の
1613年10月9日に、「ミヤコ(京都)で新約聖書を日本語で印刷している」とも記して
いる。この京都版は、カトリック教会の記録にも裏付けられてはいるが、これ以上は、
今は不明だ。



1295: 名無しさんAA:18/04/10 22:37
 宣教師の時代       ーーー48

 そもそも仏教とキリスト教も根本道義は拝火教にある。だが仏教にはバラモン教の持
つ階級主義の打破と強い平等主義の布教があった。対してキリスト教はユダヤ教本であ
る旧約聖書と言う歴史神話から来た神道と同じ集団の結束を念じて出来ていて、自分の
ルーツとアイデンテティと言う立場主義を貫こうとしているものだった。更に問題なの
は拝火教から派生した同じ元の宗教の排斥を試みている事だ。前2世紀から後2世紀に
かけて、インド北部からイラン東部にかけての地域で、原始宗教はのミトラ教という、
インド・スキタイ人の文化(スィームルグ文化)の強い影響を受けた中に出来た。イン
ダス文明で紀元前のバビロニア時代には、インド・スキタイ人、パルティア人、バクト
リア人はなど、クシャスラパティと呼ばれる ミトラの代理人を領主としていた。その
理由は簡単だった。彼らは領主と言うよりは放牧民の長(おさ)であって、一年の中で
季節にしか居なかったからだ。この騎馬民族や放牧民に町を荒らされない様に税を取る
その契約が宗教だったのである。これが強いミトラ信仰の影響の土台であった。そして
これこそが仏教の弥勒信仰であった。仏教界において、釈迦牟尼仏の次に現われる未来
仏であり未来の救済者である。弥勒は現在仏であるゴータマ・ブッダ(釈迦牟尼仏)の
次にブッダとなることが約束された菩薩(修行者)で、ゴータマの入滅後56億7千万
年後の未来にこの世界に現われ悟りを開き、多くの人々を救済するとされる。それまで
は兜率天で修行(あるいは説法)しているといわれ、中国・朝鮮半島・日本では、弥勒
菩薩の兜率天に往生しようと願う信仰(上生信仰)が流行した。と言う。ちなみに弥勒
の下生が56億7千万年後とされているが、弥勒の兜率天での寿命が4000年で、兜率天の1
日は地上の400年に匹敵するという説から、下生までに 4000×400×12×30=5億7600万
年かかるという計算に由来する。対して大日信仰は平安時代に浸透した最高仏としての
位置づけられた。曼荼羅では、大日如来の智徳の面を表したのが金剛界の大日如来であ
り、智拳印を結んで周囲に阿しゅく如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来の四仏
を置いて。これを中心に大日如来を起き、金剛界五仏という、大日信仰が成立したのだ
。これは他ならない古代十字架の紋様に他ならなかった。尚、不動明王は、密教界では
根本尊である大日如来の化身、あるいはその内証(内心の決意)を表現したものである
とされ基本仏陀の現生界の借りの姿であり虚空界では、「あまねく万物の慈母」であり
、「万物を総該した無限宇宙の全一の仏」とされる。つまり神仏習合では天照大神であ
りキリスト教ではゼウスやエホバの全知全能の神なのである。そして弥勒は末法思想の
終末の救世主だったのである。

1296: 名無しさんAA:18/04/10 22:37
 宣教師の時代       ーーー49

原始ミトラ教は、拝火教が退廃して階級を作った事から分裂して生まれた。ゾロアスタ
ーはそれを体系化して新たにゾロアスター教とした。ゾロアスター教では、この世は善
(光明)の神アフラマズダと悪(暗黒)の神アーリマンが絶え間なく戦い、最後に悪は敗北
し、世界は大火災による終末を迎え、人は最後の審判を経て救済されるとした。この中
で6柱7神論を説き、その中で3善行の証文を司るのミトラ神であった。アーリア人の
宗教はこの神の一柱ミトラを主神とした宗教で、メソポタミア周辺に定住したアーリア
人(イラン・アーリア人)のミトラ信仰が元になって、原始ミトラ教が作られた。基本
的には日本では地獄に行くか天国に行くかを決める閻魔様(えんまさま)の閻魔帖の事
である。最後に悪は敗北し、世界は大火災による終末を迎え、人は最後の審判を経て救
済されるとした。ユダヤ人はゾロアスター教から二元論的終末論を採用し、ユダヤ教を
作り上げた。それがキリスト教にも受け継がれた。一方、インド・アーリア人は、ミト
ラ信仰を元に、土着の信仰を取り込んでバラモン教を作り出し、そこからヒンドゥー教
や仏教が生まれた。こうして仏教の「弥勒」の起源もミトラ神であるとされる。ユダヤ
教とキリスト教とイスラム教が同じ起源をもつことは知られているが、原始拝火教まで
遡ると、ヒンドゥー教や仏教まで同じ起源となる。つまり、儒教すらも、古代宗教の全
てが同じ起源だということになる。近代思想の起源はキリスト教だから近代思想の源流
は、全てに拝火教にある。そもそもミトラとは、「契約」や「約束」を意味するものだ
。拝火教=ゾロアスター教で善い行い・善い言葉・善い考えを火の神に約束させられる
。それがミトラの奉祭とされた事からミトラ教になった。拝火教では7柱神の中の一つ
だが基本神となる。だがアーリア人では最高神でミトラ信仰の起源となった。6000年前
の拝火教から原始ミトラ教の形をとるのは、3700年前とされる。放牧民にミトラ神を信
仰させた理由は税の徴収と町を荒らさせない為と旅の行商人の安全を図るためだった。
、その名は本来「契約」を意味するし、契約によって結ばれた「盟友」をも意味し、友
情・友愛の守護神とされるようにして、定住民と遊牧移動民との互いの商売をさせた。
従って定住者の王には 貢ぎ物と贈り物が捧げられ、代わりにその保護や庇護と民衆の
受け入れの徹底をさせたのである。その意味では日本の鎖国前の南蛮人保護と同じで、
金銭の交易を別にして 中国でも日本でもモンゴルでも基本は旅人にもてなし、旅人は
知り得た情報でも 持っている珍品でも献上した習わしがそこに出来た理由があったと
言える。


1297: 名無しさんAA:18/04/10 22:38
 宣教師の時代       ーーー50
 ところで、この二元論の拝火教は日本ではどうなったか。それが陰陽道であったとい
える。日本の山岳宗教は二元論の中で家庭を持つことも修行する事も一緒としていた。
従って出家と言う仏法方式は取ってはいなかった。キリストも修道士会には奉仕と学習
と禁欲を求めた戒律から出家と同じ境遇にあった。彼の宗教が子孫繁栄よりは人口抑制
を暗に支持していたからだ。対して拝火教のみが宗教の中では規制していない。しかし
その為に過酷な日常である善行修行を行う事を義務にしているのだ。これはある意味、
厳しい日本の封建的武家社会でもある。自分で正義と悪を決めて判断し間違えれば死さ
えも辞さない覚悟以上で生きる事を求めた社会の存在だからだ。つまり恥の文化である
。尚キリストでは教会内は司教冠(ミトラ)と、司教杖(バクルス)司教帽(カロッタ
)と言うコスチュームに徹している。陰陽道の中には、いざなぎ流(いざなぎりゅう)
と言う変わった民間信仰で残った物がある。土佐国物部村(現高知県香美市)に伝承さ
れているが、伝承によれば、天竺(インド)のいざなぎ大王から伝授された24種の方術
に基づくとする。法具は無く、儀式の都度にそれに応じた定式の和紙の切り紙(御幣)
を使う。民間信仰ではあるが、祭祀の祝詞・呪文は体系化されて定式的に伝承されてい
る。祭儀は太夫と呼ばれる神職によって執り行われるが、太夫は家元制度や世襲でもな
く、特定の教団組織もなく、男女の性別も問わない。地域の中の適格者と認められた人
物が膨大ないざなぎ流の祭文と祭礼の様式を伝承する。近年、物部村の民家から土御門
家からの免許状が発見された。祭文(さいもん)とは、神を祭るときに読む文。本来、
祭りのときなどに神仏に対しする祈願声文である。これが神職が行えば祝詞(のりと)
とされ、仏であれば御詠歌や巡礼歌であり僧が読めば念仏として用いらる願文である。
のちには信仰を離れて芸能化していったが、結局これらは和歌だったのだ。高知県香美
郡物部村に伝えられている民間信仰の陰陽道(おんみょうどう)のイザナギ流は、地域に
住む太夫(たゆう)とよばれる宗教者たちによって、師子相伝の形で伝承されている。こ
れは古代物部氏の世界である。いざなぎ流にはいつでも礼拝することのできる恒久的な
神像や仏像の類はない。祭儀になると和紙を切って御幣をつくり、神格の像として祀る
。御幣は二百種類以上もあり、これはまつるべき神格が多いことを窺わせる。現在最も
もっとも盛大に行われる儀礼が日月祭である。日月祭は、家の神の祭りや神社の氏神祭
りの折に行われるが、これらの祭りはほかの家の神、氏神をすべてまつらなければなら
ないので、およそ1週間がかりの大祭となる。日月祭には、三日月、十七夜、二十三夜
の3種があり、どの神を祀るかは、家あるいは神社によって決まっており、それぞれの
旧暦のその月の出をまつり、併せてお日様も拝む。

1298: 名無しさんAA:18/04/10 22:38
 宣教師の時代       ーーー51

 この雲仙には都呂々と天竺山山伝説がある。そもそも我々が言う天神様と言うのは、
「鍛冶神」『古事記』では岩戸隠れの段に登場する。「鍛人(かぬち)天津麻羅を求(
ま)きて」とあるだけで、何をしたのかは書かれていない。タタラ唄に『金屋子神の生
まれを問えば、元は葛城 安部が森』との言葉が残る。金屋子神(かなやごかみ、等)
とは、中国地方を中心に、鍛冶屋に信仰される女神。と一般的には言われている。金屋
子神の特徴としては、部下の村人が、麻につまづいて転んで死んだので麻を嫌うと言う
。また、犬に追いかけられ、蔦に取り付いて登って逃れようとしたが、蔦が切れたので
、落ちて犬に咬まれて死んだ事で、犬と蔦は嫌いとも言う。さらに、犬に追いかけられ
た時、みかんの木に登って、あるいは藤に掴って助かったので、みかんと藤は好むらし
い。桂は神木。死の穢れ(けがれ)には無頓着どころか、むしろ好むとされ、たたら炉
の周囲の柱に死体を下げることを村下達に指導したと言う。又、死骸を下げると、大量
に鉄が取れるようになったとも言われる。女性を極端に嫌う。自分が女性なので、嫉妬
であると言われているが、この為、鍛冶関係の作業場には女性を入れない掟があった。
とする。また、昔の人は、、女性が入った後のお湯を使ったりすることもしなかったと
言われている。この伝承では「一つ目」が「鍛冶神」で、あまりに熱い火を見て片目を
失い「ひょっとこ」はその風の係だった。とされる。この事で「天神」というものが、
菅原道真ではなく。基本的には天竺の事で、この天竺から鉄の技法が伝わったとされる
。そして「たたら」の語彙から「たたり」が出来たとも考えられる。福岡の多々良ヶ浜
は鉄の製鉄技法が始めて日本に伝わった所で、菅原道真は、最後の鍛冶の神の加持祈祷
の伝承者であった可能性は極めて高い。天竺であり訛って天神様になったと言う事は、
これまで青銅器を作っていた今までの神とは諍いは出来たであろう。もちろん天竺木綿
とされる綿布の技法も同じ時期なのかもしれない。布に関しても「幡多織(はたおりひ
め)」を祀ったであろう八幡社の起伝もある。「天神祭文」では次の要約を載せている
。「神代の日本で鍛冶が無い事を憂いた「しやらだ王」は、天竺に棲む「天神王」が鍛
冶を教えてくれる事を知り、天に上り修行し鍛冶を習得した。帰還した「しやらだ王」
は三振りの剣を作るが、金がうまく煮えず失敗する。鍛冶には「どろ」「らんごが浜の
小砂」が薬になることを知り、三振りの刀を鍛えた。やがて御子は三人の弟子に、鞴・
やりとり・蓋・たがね・やすり・金床などの鍛冶道具や鍛冶するときの炭・煙・火など
に神仏が示唆して来た。」とある。天目一箇神(あめのまひとつのかみ)は、日本神話
に登場する製鉄・鍛冶の神として登場する。

1299: 名無しさんAA:18/04/10 22:39
 宣教師の時代       ーーー52
 この雲仙には又岩戸山がある。肥前西郷氏の本拠地だったとされる西郷川の源流だ。
その袂の岩山の石崖の小さな岩窟(がんくつ)の中に祠(ほこら)がある。岩戸山は、
八女にも古墳群があって、6世紀初頭に北部九州を支配した筑紫君磐井(筑紫国造磐井
)と考えられている。文献から被葬者と築造時期を推定できる日本で数少ない古墳の1
つとされる。筑紫君磐井は『古事記』『日本書紀』に反乱伝承が記されていて磐井の乱
があった事が解っている。『筑後国風土記』には岩戸山古墳の状況や位置が記されてお
り、別区では裁判を思わせる記述もある。同文によると、磐井は生前から墓を作ってい
たが、戦に敗れ放棄したという。なお、古くは石人山古墳を磐井の墓とする説が主流で
あった。昭和31年(1956年)、森貞次郎が岩戸山古墳を磐井の墓に比定し、現在では定
説となっている。筑紫君磐井(ちくしのきみいわい)の墳墓は、6世紀前半の築造と考
えら、6世紀初頭継体天皇の時代、畿内政権からの独立を図ったとされる。その際に、
朝鮮半島に出兵する将軍・近江毛野臣(おおみのけなのおみ)を、新羅と組んでさえぎ
ろうとしたが、畿内から来た援軍大伴・物部の軍団に破れた。「石馬」の頭部が無いの
は、豊前方面へ逃亡した磐井が見つからないのに腹を立てた官軍の兵士たちによって、
この時石馬の首が落とされたと記されている。筑紫国造が成立したのは6世紀の後半と
も言われるが、5世紀後半には既にに肥・豊(肥前・肥後・豊前・豊後)にまたがる一
大勢力圏をつくっていたとみられる。磐井の乱の後も国造の存続を許され、白村江の戦
ののち唐に抑留されて天智10年( 671)帰国した筑紫君薩野馬はその後裔とみられる
。同族に筑紫鞍橋君・筑紫火君・筑紫火中君がみえる。八女丘陵上には、現在11基も
の前方後円墳を含む約150〜300基の古墳が発見され、その年代も5世紀中頃から6世紀
後半までおよんでいる。それでも福岡県は全く発掘整備は行わない。磐井の乱の以後も
連続して大形墳墓が造営されており、筑紫君一族が滅びることなく存続したことを物語
っている。日本書紀の継体天皇21年( 527)の記述は、大和朝廷で、新羅から奪われた
任那の地を奪還するため、近江毛野臣に6万の兵を率いて渡海させることになったが、
新羅は秘かに筑紫君磐井に賄路を送って毛野臣の軍の渡海を妨げることを勧めた。そこ
で、磐井は肥・豊(肥前・肥後と豊前・豊後)の二国をもあわせた勢力をもって、朝鮮
半島からの貢船を略奪し、朝延にたち向ったので朝廷は国家の大事として物部大連麁鹿火を遣わして討伐させたという。同22年11月、御井群(現三井郡)で激戦が行なわれ、
磐井は敗れて斬られた。同12月に磐井の子の葛子は、糟屋の地(現粕屋郡)を屯倉とし
て献上して父の罪に連座することを免れたという。「筑紫国風土記」逸文には、磐井は
豊前国上膳県(現豊前市)に逃亡したという別伝と、生前に彼が築造した自分の墓と、
そこに飾られた石人、石馬などのことが記されている。

1300: 名無しさんAA:18/04/11 14:52
この雲仙には又岩戸山がある。肥前西郷氏の本拠地だったとされる西郷川の源流だ。
その袂の岩山の石崖の小さな岩窟(がんくつ)の中に祠(ほこら)がある。岩戸山は、
八女にも古墳群があって、6世紀初頭に北部九州を支配した筑紫君磐井(筑紫国造磐井
)と考えられている。文献から被葬者と築造時期を推定できる日本で数少ない古墳の1
つとされる。筑紫君磐井は『古事記』『日本書紀』に反乱伝承が記されていて磐井の乱
があった事が解っている。『筑後国風土記』には岩戸山古墳の状況や位置が記されてお
り、別区では裁判を思わせる記述もある。同文によると、磐井は生前から墓を作ってい
たが、戦に敗れ放棄したという。なお、古くは石人山古墳を磐井の墓とする説が主流で
あった。昭和31年(1956年)、森貞次郎が岩戸山古墳を磐井の墓に比定し、現在では定
説となっている。筑紫君磐井(ちくしのきみいわい)の墳墓は、6世紀前半の築造と考
えら、6世紀初頭継体天皇の時代、畿内政権からの独立を図ったとされる。その際に、
朝鮮半島に出兵する将軍・近江毛野臣(おおみのけなのおみ)を、新羅と組んでさえぎ
ろうとしたが、畿内から来た援軍大伴・物部の軍団に破れた。「石馬」の頭部が無いの
は、豊前方面へ逃亡した磐井が見つからないのに腹を立てた官軍の兵士たちによって、
この時石馬の首が落とされたと記されている。筑紫国造が成立したのは6世紀の後半と
も言われるが、5世紀後半には既にに肥・豊(肥前・肥後・豊前・豊後)にまたがる一
大勢力圏をつくっていたとみられる。磐井の乱の後も国造の存続を許され、白村江の戦
ののち唐に抑留されて天智10年( 671)帰国した筑紫君薩野馬はその後裔とみられる
。同族に筑紫鞍橋君・筑紫火君・筑紫火中君がみえる。八女丘陵上には、現在11基も
の前方後円墳を含む約150〜300基の古墳が発見され、その年代も5世紀中頃から6世紀
後半までおよんでいる。それでも福岡県は全く発掘整備は行わない。磐井の乱の以後も
連続して大形墳墓が造営されており、筑紫君一族が滅びることなく存続したことを物語
っている。日本書紀の継体天皇21年( 527)の記述は、大和朝廷で、新羅から奪われた
任那の地を奪還するため、近江毛野臣に6万の兵を率いて渡海させることになったが、
新羅は秘かに筑紫君磐井に賄路を送って毛野臣の軍の渡海を妨げることを勧めた。そこ
で、磐井は肥・豊(肥前・肥後と豊前・豊後)の二国をもあわせた勢力をもって、朝鮮
半島からの貢船を略奪し、朝延にたち向ったので朝廷は国家の大事として物部大連麁鹿
火を遣わして討伐させたという。同22年11月、御井群(現三井郡)で激戦が行なわれ、
磐井は敗れて斬られた。同12月に磐井の子の葛子は、糟屋の地(現粕屋郡)を屯倉とし
て献上して父の罪に連座することを免れたという。「筑紫国風土記」逸文には、磐井は
豊前国上膳県(現豊前市)に逃亡したという別伝と、生前に彼が築造した自分の墓と、
そこに飾られた石人、石馬などのことが記されている。

1301: 名無しさんAA:18/04/11 14:52
 宣教師の時代       ーーー53

 物部の麁鹿火の時代は、既に朝鮮半島の引き渡しを迫られていた時代だった。『日本
書紀』の武烈即位前紀に大連として初めて名が上がるが、武烈天皇の崩御後、継体天皇
の擁立を働きかけて、その即位後に大伴金村と共に再び大連に任ぜられて地位の安泰を
見た。この継体天皇6年( 512年)に、百済へ任那四県の割譲の交渉に、麁鹿火は百済
の使者に割譲の容認を伝える宣勅使に任命された。しかし、妻からの諫めにより考えを
改め、病と称してその役を辞退している。継体21年( 527年)6月になって九州北部
で竺紫国造磐井の乱の征討将軍に就任、天皇から筑紫以西の統治を委任された。翌年1
1月に竺紫三井郡にて磐井を破って処刑し、磐井の乱を平定した。と書かれその時の剣
を洗った所が太刀洗とされる。その後の安閑天皇・宣化天皇の代にも大連を務め、宣化
天皇元年( 536年)7月に没したが、一緒に戦ったとされる大伴金村は、その後欽明天
皇の時代に、天皇と血縁関係を結んだ蘇我稲目が台頭、金村の権勢は衰え始めている。
つまり蘇我氏はこの戦いで弱体化してしまったのである。その後この地にカトリックの
教会が建てられ京都を目指し、そして新政権の名の下で排斥されたのは、地政学的には
そういう土地であった事を示している。長崎・鹿児島は人が少ない外国人の為の土地で
比較的中央の制限のかからない隠れ里的郷里だったのだろう。ヤジロウは格式のある身
分の薩摩の武士だったとされる。領主は十六代祢寝(ねじめ)重長で、明や南蛮貿易に
力を入れており、種子島家と親戚関係にあった海賊池端水軍の頭首だったとされる。早
くから種子島銃の薩摩国産化を図っていた中で、池端家は祢寝氏の分家であり、倭冦の
池端水軍をもっていたそうだから、主家ともども倭冦貿易に関係していた。この倭寇は
柳川とは縁が深く、矢留で大火にしたそもそもの賊であろう。と杉家文書では思われて
いる。「ヤジロウ」はその池端家の弥次郎重尚だと言われていて、弥次郎は祢寝領内で
人を殺した。当時は、罪人が世俗と縁の切れた寺社に駆込むことで救われるという風習
があり、彼は一旦縁切り寺へ逃れている。しかし弥次郎の生家は高野山系の真言宗系で
「宝蔵院」だったので、そこでは法相宗や普化宗系の駆け込み寺としての機能はなく、
主家に阿るものだった。こうして寺さえも彼を保護をできない状況だったので、錦江湾
対岸の山川港からポルトガル船に乗って外国へ逃亡した。としている。


1302: 名無しさんAA:18/04/11 14:53
 宣教師の時代       ーーー54

『禰寝文書』では最初の文書では、古代にあっては建部姓を取り、大宰府在庁官人であ
ったとされ、後に一族は郡司職についている。11世紀半ば過ぎに、禰寝氏初代清重に
遡ること4代前の藤原頼光に関わる史料がとして上げられている。建部姓の一族は武将
の守護荘園の主家の土地を名乗っていて、奥州でも清原氏が藤原姓を名乗っている。大
隅国にあって藤原姓を取っていた頼光は、子女に配分した所領は広大で、荘園としての
禰寝院(ねじめいん)を守護荘としていた。しかしその規模は増大し荘園主をはるかに
超え、絶大な権勢を保持した。禰寝清年(ねじめきよとし)が当主でなった 享禄3年
(1530年)、荘園主の肝付兼興は禰寝領へも侵攻を開始したが、これに立ち向かい撃退
することに成功してした更に大きくなった。その後天文12年(1543年)には種子島恵時
との戦いに勝ち屋久島を領地とするが、これは翌年には奪いかえされることとなり、以
後、種子島氏との対立が激化した。「根占(禰寝)戦争」と呼び重視し、池端水軍は力
を入れたが、本家筋の禰寝一族からこれに関わったの根占(禰寝)龍善の名は禰寝氏史料
からは消された。これは戦国時代の中で禰寝一族の中でも本家と分家の対立が生じてお
り、後に禰寝氏直系は本流を限定した可能性がある。とされる。池端重尚の名は「天文
十三年(1544)十一月五日付沙弥清本譲状案」にみえる。この譲状案は重尚の祖父
である池端清本が、重尚の弟にあたる又七に対し、池端氏代々の所領を譲ることを記し
たもので、書状の最後には、清本が又七に所領を譲渡することになった経緯が記されて
いる。これによれば、清本の嫡子であった清住は高岳城の戦いで討死。その嫡子・重尚
は小祢寝港で「唐人」と「南蛮人」が合戦した際に「手火矢」(鉄炮)にあたって討死
したため、清住の次男である又七に所領が譲渡された。とされる。この池端重尚が大隈
の小祢寝港において遭遇した「唐人」と「南蛮人」の紛争について、これと符合する記
録がヨーロッパに残されている。すなわち「エスカランテ報告」所収の「ガリシア人の
ペロ・ディエスの情報」に、ペロ・ディエスが日本で遭遇したポルトガル人と中国人の
紛争が記されているのである。ペロ・ディエスは、1544年五月、中国人のジャンク
に乗船して東南アジアの「パタニ港」を出港した。ディエスは、中国の寧波や南京など
で取引をした後に日本に向かったのである。入港した(小祢寝港)港には、パタニに住
む中国人所有のジャンク船五隻が停泊し、ポルトガル人が何人か乗船していたが。そこ
に百隻以上の中国人のジャンク船が襲い掛かってきた。これに対し、ポルトガル人らは
四隻の小舟と三門の火砲、十六丁の銃でもって応戦し、中国人のジャンクを敗走させて
多くの中国人を殺した。とするものだ。

1303: 名無しさんAA:18/04/11 14:53
 宣教師の時代       ーーー55

 ディエス情報には、紛争があった港についての記載はない。しかし、当時のポルトガ
ル人の来航は薩摩の山川など南九州に限られていたことから、南九州を代表する港の一
つであった小祢寝港である可能性は高い。時期も、ディエスが日本に来航した時期と、
譲状案が作成された時期とが整合している。ペロ・ディエスが伝える合戦の経緯は、当
時スペインの南蛮船と中国人のジャンク船がしのぎを削って日本に鉄砲に関した輸出入
があって事件や紛争があった事が解る。これらのことから、池端重尚は、天文十三年(
1544)の夏か秋ごろ、小祢寝の港において中国人とポルトガル人の紛争に巻き込ま
れ、鉄炮にあたって討死したということになる。種子島に鉄炮が伝来したのが天文十二
年(1543)頃なので、その翌年には南九州において日本人の目の前で鉄炮を用いた
大規模な合戦が既に展開された証明でもある。また討死した重尚は、当時既に父・清住
が戦死しているから、祖父・清本の後継者として池端氏当主を継ぐ立場にあったものと
思われるが、重尚がどのように紛争に関わっていたかは不明。ペロ・ディエスは、中国
人のジャンク船でシャム近海から中国東岸を北上し、双嶼とみなされるリャンポーに、
到着した。そして南京まで足を運んだ後に、双嶼から、155レグァの距離で北緯32
度に位置する日本の港に、1544年に渡来した。日本からの帰路は冬の季節風を利用
したジャンク船に便乗し、ボルネオ島に到達した。日本の港では、ペロ・ディエス同様
に、パタニの中国人のジャンク船で渡来していたポルトガル人を目撃した。そのジャン
ク船5隻に対して、別の100隻あまりのジャンク船が攻撃をしかけたところ、ポルト
ガル人が率先して大砲や銃で撃退した。同じ港に琉球から来ていたポルトガル人が集ま
ってきて、琉球で見た豊かな金銀情報を伝えた。ペロ・ディエス自身は、日本では金を
わずかしか目にしなかったが、その他の、銀・鉄・銅については潤沢であることを実見
し、特に銀塊が、取引の代価として日本で用いられることを伝えた。以上の情報によっ
て、天文13年(1544年)におけるポルトガル人の日本渡来状況は益々盛んになっ
た。ヤジローはポルトガル語がわかり、薩摩半島において貿易に従事していたが、ある
時仲間割れが起こり人を殺してしまう。役人から逃れるため、ポルトガル船に乗り込み
日本を出ていくのである。逃亡中の中国・寧波(ニンポー)で聖人ザビエルのうわさを聞
きつけたヤジローは、マラッカの「丘の聖母教会」で運命の出会いをする。洗礼を受け
「聖パウロ学院」で学ぶヤジローの聡明さに感銘をうけたザビエルは、このとき日本布
教を決意ししそして、ヤジローが案内人となりザビエルを伴い、マラッカから中国人の
アバンの海賊船に乗り帰国する。

1304: 名無しさんAA:18/04/11 14:54
 宣教師の時代       ーーー56

 南蛮人を連れ帰ったヤジロ-のうわさは町中に広がり,領主の島津貴久の耳にも届くと
ころとなり、そこからザビエルはキリスト教布教の許可を得ることとなる。その後一年
間、鹿児島で布教活動をしたザビエル一行は、ヤジローを残して平戸・京都・山口など
を経て、インドに帰った。残されたヤジローは、その後に起きた迫害の中で、キリスト
教を捨てたといわれる。彼の最後を記したものに「日吉池端古文書」である。そこには
「永録三年(1560年)、山川港と称寝(根占)港の中間で南蛮船と中国船との交易上の争い
があり、仲裁に入った池端弥次郎重尚が火矢弾に当たって死んだ。」とされている。こ
のペロ・ディエスについて言えば1542年第4回ヴィリャローボス隊員の、エスカラ
ンテの報告に記録されている(スペイン・セビリアの、インディアス文書館蔵)では、
「ロペス・デ・ビリャロボス」は1544年にアンボイナ島(アンボン島)の牢屋で死んだ
が、残った乗組員は生き残りって脱走してヌエバ・エスパーニャに戻った。とある。1
548年に、インド経由でリスボンに帰還。メキシコ出発時370人が、生還者147
人。「ヌエバ・エスパーニャ」とは現在のメキシコであるとされるが、同名の土地が東
南アジアに無かったとも言えない。メキシコであれば、その後何年も後か、まだ 記録
にない太平洋東行路で行った事も考えられる。インド洋・アフリカ南端経由で、さらに
メキシコへと戻る事も可能でもある。しかし、ヴィリャローボス隊のエスカランテ報告
は、メキシコ副王宛、1548年8月1日付け、ポルトガルのリスボン発の文書であり
、スペインの公文書館にあるので、一度どこかのスペイン領に帰っての帰郷だったのだ
ろう。日本発見後のポルトガル人の渡来に混じって、ペロ・ディエスというスペイン人
が来たのが、1544年、九州に渡来した。ところがこの雲仙の口の津では、大型船の
到来は早くからあって、その最初は不確かだが1530年代とも思える。ここから八代
船が出ていたからだ。八代船と言うのは通称弥次郎船で熊本八代と大分の屋代島と中国
を結んだ三角航路である。三角港の向こうにあり、三角港はこの三角交易から付いた名
前である。周防大島(すおうおおしま)は、正式には屋代島(やしろじま)と称するが
、他の周防国の中で大島であったから大島と言われ、こ周辺の小島を含めて周防大島と
呼ばれることが多い。古くから瀬戸内海海上交通の要衝とされた。本州沖約2キロメー
トルの瀬戸内海上にある。瀬戸内海では淡路島、小豆島に次ぎ3番目に大きい島である
。瀬戸内航路に税徴収や倭寇が多く出てから讃岐を通り抜ける事をやめたジャンク船の
最終地だったのだ。

1305: 名無しさんAA:18/04/11 14:54
 宣教師の時代       ーーー57

 外国船が、砲撃を行った門司城合戦なのだが、大内氏が朝廷の命で通行税を強化した
事から起こった。永禄元(1558)年3月8日門司要害(大里藤松の砦)を大内氏と
共に毛利方の土地の豪族が攻めたが、大友方は防衛に成功した。しかしその後水軍を率
いて6月小早川隆景、奴留湯主水正の守る門司城を攻めて落城させた。この後、門司城
は毛利方になった。12月29日に毛利氏は、仁保隆慰(大内氏の降将)に門司城番を
任せた。他の門司6郷を含む規矩郡は以前からの地頭が代官兼任していてそのまま続い
た。永禄2(1559)年6月26日大友義鎮は、このまま毛利氏の侵攻を食い止める
ため、幕府に願い出て、豊前・筑前・筑後・肥前の守護を追加させる嘆願していた。し
かしそれは名目であって実際は筑前・豊前は毛利方との境目であり、肥前は竜造寺隆信
が少弐氏を滅ぼし、台頭していた。9月26日守護が適い 大友方門司城を攻略する。
だがすぐに奪い返された。永禄3(1560)年毛利方が門司城の押さえを強化した。
その上で永禄4(1561)年7月大友氏の、中豊前に侵攻し、元就も自らも出陣して
の決戦を決意した、掘立直正を赤間関へ派遣し、8月元就、門司を守る兵に励ましの手
紙を送った。10月2日大友勢はこれに対抗し門司城を包囲し10月10日門司城に於
いて合戦10月25日には石見・尼子氏に文を送り 又ポルトガル船に砲撃を要請した
こうして門司城に於いて合戦したが、石垣に対して破壊力もなく毛利方が勝ってしまう
11月 5日には門司城に於いての合戦でも毛利方が圧勝して、毛利方の勝ちが決定し
た元就は、すぐさま石見・尼子攻めへ反転して行った。毛利に河野水軍がいて南蛮船の
効果は無かったのだ。永禄5(1562)年9月大友勢、筑前・苅田松山城を攻略した
が元就、出雲・白鹿城から冷泉元満(大内氏の降将)を門司要害へ派遣し、門司城防衛
に成功した。永禄6(1563)年には、大友宗麟、足利将軍家に働きかけ、毛利・大
友講和を頼んだ。交渉は豊前・筑前の守護である大友宗麟に有利に展開したが、元就は
最低限の条件として以下2つを確約させた。(1)門司・香春両城の確保(2)宝満岳
城主・高橋鑑種の身柄の安全であった。こうして香春城は廃棄し、筑後まで押し寄せて
いた兵を九州から撤退させた。毛利氏にとっては、門司城は毛利持ち、高橋氏も所領安
堵のまま大友氏配下にあるので何の損得もない物だった。その後輝元と宗麟の娘の婚約
し永禄7(1564)年7月25日大友宗麟は、元就・両川に起請文提出させた。こう
して7月27日講和成立して停戦になったが、この後国崩しは大友氏は購入している。



1306: 名無しさんAA:18/04/11 14:54
 宣教師の時代       ーーー58

 パタニ王国は、マレー半島に存在したマレー人王朝でマレー系王朝のなかでもいち早
くイスラーム化していた。マレー半島のマレー系王朝の中で一番歴史が古い王都とされ
。その領土は、現在のタイ王国パッターニー県を中心に展開した。14世紀頃には、日
本では大泥(たいに)とされて、日本からも朱印船が渡来し日本人街もあったという。
パタニ王国は香辛料獲得による大航海時代になって、西洋にも知られるようになった。
16、17世紀にはポルトガル、オランダ、イギリスが商館を構えて栄えたが、同時に中国
華南地方からの移住者(いわゆる華僑)が増えてアユタヤ王朝と反目した。又このよう
な状況下でスマトラ島北部のアチェ王国とも商売敵となった。特にラジャ・ウングとの
反目の時にパタニ軍と交戦したのがタイ政府が派遣した山田長政であった。山田長政は
1602年六尺(駕籠かき)をしていたが、その後1612年に朱印船で長崎から台湾を経
てシャムに渡った。スペイン艦隊の二度に渡るアユタヤ侵攻をいずれも斥けた功績で、
アユタヤー王朝の国王ソンタムの信任を得て、シャムの王女と結婚。第三位であるプラ
ヤー・セーナーピムックという官位・欽賜名を授けられ、チャオプラヤー川に入る船か
ら税を取る権利を得た。ソンタム王の死後、長政はソンタム王の遺言に従い、シーウォ
ーラウォン(後のプラーサート・トーン王)と共同でチェーター親王を王に即位させた
。しかし、チェーター王はシーウォーラウォンに不審を抱き排除しようとして失敗し、
シーウォーラウォンに処刑された。ジャンク船は13世紀以前にもあった様だがその名
が出来たのは中国船を「ザンク」とよぶ大航海時代からだ。船体中央を支える構造材で
ある竜骨(キール)が無く、船体が多数の梁と呼ばれる水密隔壁で区切られていること
によって、喫水の浅い海での航行に便利で耐波性に優れ、速度も同時代の南蛮と比べて
格段に優れていた。また、横方向に多数の割り竹が挿入された帆によって、風上への切
り上り性に優れ、一枚の帆全体を帆柱頂部から吊り下げることによって、横風に対する
安定性が竜骨帆船と比べ高く突風が近づいた時も素早く帆を下ろすことを可能にした。
帆桁をクレーンとして使った西洋帆船は船倉を深くする事ができ、船体構造物は上に伸
びるように発達したが、ジャンク船にはその機能がなかったため、船倉の深さに制限が
あり大型化は横に平べったくなるしかなかった。



1307: 名無しさんAA:18/04/11 14:54
 宣教師の時代       ーーー59

 「ヤジロウ」はその池端家の弥次郎重尚だと言われる。ヤジロウは格式の高い身分の
薩摩の武士だったともされる。倭冦の池端水軍をもっていたそうだから、主家ともども
倭冦貿易に関係している。領主は十六代祢寝(ねじめ)重長で、明や南蛮貿易に力を入
れていて、種子島家と親戚関係にあったので、早くから種子島銃の薩摩国産化を図って
いた。とも言われている。現在、山川(薩摩半島)⇔根占(大隅半島)間にフェリーが
就航しているが、ヤジロウの活動拠点は大隅半島根占港付近だったようだ。この頃大隅
と薩摩は争っていた。池端家は祢寝氏の分家であり、種子島の密貿易の利権者だった。
一方薩摩は琉球貿易を行い中国からの銃の大量買い付けを行える立場にもあった。越智
氏は広く海外との交易をおこなっている四国の豪族だったが一色氏が九州探題で大宰府
に派遣されるに至って菊池氏と敵対し騙し打ちの関係から対立していた。一色氏が大友
や島津に仲良く繋がっている一方で越智氏は菊池家の残党とのつながりが強かったし、
この頃既にルソンやバタニなどには、香木や香辛料や染料や苗木などを買い入れて買い
入れて屋久島などで栽培させていた。その理由は大和越智氏は体制に阿(おもね)る様
な交易ではなかった。一方薩摩の交易は朝廷への献上で権威の下賜(かし)を得て守護
職を守る為だった。1440年大和越智氏討伐のため出陣していた義貫は、6代将軍の
足利義教の命を受けた武田信栄に誅殺されるが、島津氏の弟の小笠原長春の若狭守護代
としての失脚からだった。この鎌倉室町時代に元寇襲来によって外洋航海は比較的安易
になった。それは火薬の出現で簡単に船が襲われなくなったからだ。「てつはう」は、
正式には震天雷や鉄火砲(てっかほう)と呼ばれる手榴弾にあたる炸裂弾である。容器
には鉄製と陶器製があり、容器の中に爆発力の強い火薬を詰めて使うもので、導火線に
火を付けて使用する。形状は球型で直径15p程度、総重量は7kg程度であって、これ
を持って外洋に出れば、外国のジャンク船からも恐れられるものだった。幸いにして、
日本ではその容器となる陶器も火薬も作る事が出来ていた。これに紐をつけハンマー投
げの様に投げて船に投げ入れれば5個程度で船を乗っ取り又は沈める事が出来たのだ。
従って弓や刀を持つ日本の船は強かったと言われる。この認識から海外交易が開かれて
いった。その先鞭が越智水軍だった。


1308: 名無しさんAA:18/04/11 14:55
 宣教師の時代       ーーー60

基本的な事だが 薩摩隼人と言うが、実はそうした事は無い。本来大隅隼人が正解であ
る。不思議な事だが薩摩族はもともとベトナムや台湾からの漂着民であったと言う。対
して大隅族は南洋の遥か遠くからの移民だし古くは琉球列島や八重島諸島の文化を持ち
朝廷では大隅隼人として古事記にも現れる。ところが早くから接していながらも、熊襲
つまり九州朝廷とのつながりが強く薩摩の大和朝廷とつながり下向してくる関東武家と
は一線を引いて歴史を織っていたのである。弥次郎は祢寝領内で人を殺した後。当時の
慣習の罪人が世俗と縁の切れた寺社に駆込むことで救われる為、彼は一旦縁切り寺へ逃
れた。といわれるがそれはないだろう。それは彼が武士だからだ。多分 身内に一応は
報告してその後の身の振り方を身内に相談し、その場所が寺に過ぎなかったのであろう
。その後、錦江湾対岸の山川港からポルトガル船に乗って外国へ逃亡している。この時
この山川には定期的にポルトガル船が来ていた事になる。わざわざ対岸まで行って船に
乗ると言うのはよっぽどの情報でなければならない。島津家は守護職を得てから攻勢が
続き禰寝氏内には菊池氏がいなくなり内紛が起こっていた。島津氏も又後継争いがあり
情勢は暗かった。もともと種子島氏など肥後からの下りの武将で上妻氏の子孫とされて
いる。屋久島や沖永良部島はその配下であった。種子島氏が禰寝氏とは、いろんな意味
で、深い関係があり南北朝期の中ごろまで、種子島の地頭職をめぐって肥後氏は禰寝氏
と争った経過さえある。そうした意味でも禰寝氏は大隅半島の古部族であり、古くから
の有力国衆であり、種子島における諸職を有していていた部族だった。室町時代になる
と禰寝氏姻戚関係を結び平和が保たれた。が種子島氏も天文十二年は、奢侈を諌めた弟
の時述を兄の恵時が疎んじたため、弟の時述は禰寝清年に通じて兄を攻撃する事件が起
きている。兄の恵時は屋久島に逃れ、嫡男の時堯は禰寝軍に敗れて自害を覚悟したが、
禰寝清年は恵時の悪政を正すことが目的で、子供の時堯は関係ないとしてこれを許した
。しかしながら、屋久三郡のうち一郡を合戦による犠牲者のためとして要求した。この
時、時堯の軍は一計を案じて、屋久三郡すべてを禰寝清年に譲渡したのだった。三郡を
与えれば禰寝氏の守備兵も散在することになり、のちの奪還に際して都合がよいと考え
たのである。翌年、兄の種子島恵時は肥後下野守時典に命じて屋久島の禰寝勢を攻撃し
た。禰寝勢は防戦したものの寡勢であり、ついに時典の降伏勧告を受け入れて城を開い
た。禰寝勢は与えられた船に載って大隅半島へと向かったが、その船には細工が施され
ていて、たちまち浸水、転覆して、禰寝勢は全滅した。かくして、種子島氏は屋久島の
奪還をはたした。とされる。

1309: 名無しさんAA:18/04/11 14:55
 宣教師の時代       ーーー61


 種子島氏が禰寝氏の攻撃を受けた天文十二年の時、種子島の西村小浦というところに
ポルトガル船が漂着した。その乗組員を引見した島主種子島時堯は、乗組員が持ってい
た鉄砲のうち二挺を買い上げ、火薬の調合を家臣に学ばせた。これがいわゆる鉄砲伝来
として知られる歴史的事件となっている。その後も種子島氏家中の侍たちは、使用法を
習い、製造法を教わったが、銃身と、銃底部分などの加工技術に不明な点があった。そ
れは、発射から着弾までの精度をあげる為の 銃身の内側に螺旋状の条溝を刻み付ける
ことが必要であり、銃底部分は、ねじを切って蓋をしなければならない部分であった。
しかし、そのような螺旋のねじの知識は当時の日本にはなかったため、種子島鍛冶らに
よって、改良・研究がなされ、ついに国産の火縄銃が完成したと言われている。その間
、鍛工八坂金兵衛は娘をポルトガル船長に娶せて、鉄砲作りの秘伝を得たと伝えられて
いる。以来、火縄銃は「種子島銃」として広まった。時堯は種子島銃を島津貴久に献上
し、貴久はさっそく天文十八年五月、加治木城攻めに当たって鉄砲を用いた。これが、
わが国における鉄砲の実戦使用のはじめであった。とされる。こうして種子島銃の威力
は、新しい戦国の新兵器としてまたたくまに有名になった、島津氏の三州統一は鉄砲の
お陰であったとさえいわれている。また、近衛前久を介して火薬調合の秘法を伝授して
ほしいという将軍足利義輝の要請をいれて、時堯は秘法を将軍に伝えたている。ところ
が、秘伝であるはずの鉄砲の火薬調合法が、義輝から上杉謙信に伝えられたことを暗示
する文書が「上杉家文書」の中におさめられている。すなわち朝廷は呑気にも時の朝廷
を担ぐ、有力諸侯に秘密理に教える為に聞いたのであったのだ。これは、上杉家の力を
背景として将軍家再興をめざす義輝が、謙信の歓心を買うために秘伝という禁を破って
伝えたものと解されている。いずれにしても、種子島銃の出現によって、合戦のありか
たは大きく変化し、この事は戦を大きくし戦国乱世は統一へも大きく前進したことは疑
いない。天文十二・十三年は禰津氏が殺害された年であり、ヤジロウが国外に逃げた年
でもあり。禰寝勢は防戦したものの、ついに時典の降伏勧告を受け入れて城を開いた年
でもあり、ポルトガル船が難破した年でもある。この一年間は戦国時代の影の戦争時代
でもあったのだろう。

1310: 名無しさんAA:18/04/11 18:10
 宣教師の時代       ーーー62

 天文十二年の戦い以降も、種子島氏と禰寝氏との間で戦いが繰り返されていた。十六
世紀から、薩摩・大隅・日向の統一を進める島津氏に対しては、有力国衆である蒲生氏
、肝付氏らも又対立した。禰寝氏は肝付氏と結んで島津氏に対抗しており、種子島時堯
は島津忠良の娘を迎えていて島津方であった。種子島時堯は島津氏配下として、弘治元
年(1555)、島津貴久に従って蒲生攻めに出陣し、その後の日向伊東氏との合戦では、
同三年にはふたたび蒲生攻めに参陣している。そして、永禄三年(1560)家督を嫡男の
時次に譲ったが、時次が早世したため、ふたたび家督となった。永禄年間は、毛利方が
門司城の押さえを強化した年で、九州を回っていた回曳船毛利の持つ伊予海軍河野海軍
が一つになって厳島神社をして水軍連合を作った年だ。これをしてポルトガル船の南蛮
貿易も又止まってしまい大友氏も又窮地に立たされていた。しかしこれは奴隷廃止の年
でもあった。徳富 蘇峰(とくとみ そほう)は、明治から昭和にかけての近代日本のジ
ャーナリストであったが、思想家、歴史家、評論家として知られ。『國民新聞』を主宰
した。一方で史実に基づいた『近世日本国民史』を著したことで知られ、これは大きく
日本を揺るがした。蘇峰は三国干渉の報に接し、「涙さえも出ないほどくやしく」感じ
て世界を回ってその真実を知り得て、いわゆる蘇峰私観と言う物を持ち官憲と戦いなが
らの文壇家、ジャーナリストを守って新聞発行に努めた。この徳富蘇峰の『近世日本国
民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのった。「キリシタン大名、小名
、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に
押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし」。ザヴィエルは日本を
ヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)達の
アルメイダは、日本に火薬を売り込み、交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売
りさばいたボスの中のボスであった。「行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目
につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだし
につながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の
伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人
文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石や
火薬の原料と交換し、インドやアフリカまで売っている」とこの事実に驚愕した事が、
「娘たちを火薬一樽で娘50人」が火薬の値段だった事は更に驚愕に値している。


1311: 名無しさんAA:18/04/11 18:10
 宣教師の時代       ーーー63

 実はヤジローが語学が達者で早くから中国・朝鮮・南方諸国との交易業に関係して、
ポルトガル語と中国語を話せたのは理由があった。大男だったヤジローの素晴らしい体
格と童顔の色男であった為、日本から海外に渡った後もDNAを求めて、諸国の大名家
の子女がお種頂戴と称してヤジローと交わり子を産んだと言う裏歴史説がある。これを
加味すれば、この任侠沙汰は好きな子女が売られて行くのを止めた事による物と考えら
れる。永禄九年(1566)禰寝重長が屋久島に上陸し、一方で口永良部島を攻撃して、口
永良部島は禰寝方に占領され、屋久島の一湊も制圧された。その後の元亀年間、禰寝氏
は伊地知、肝付氏らと結んで、兵船三百余をもって鹿児島に押し寄せた。書に曰く叛乱
である「元亀年中、禰寝氏、肝付氏、伊地知氏らが太守に叛きて冦を為す、彼の四家の
海賊のために種子島と鹿児島とを往来の船を掠められること四十艘ばかりなり(略)」
とあり、禰寝氏らの反島津行動に種子島氏も被害をを被っていた。これは婦女子が拉致
され南蛮船に乗せられて行くのを、みすみす見過ごせなかったからだ。しかし禰寝氏の
この攻勢に対して種子島時堯は、西村時典・上妻家続らに命じて屋久島永田城を補強す
るなどして、対抗策を講じている。その名の通り武将西村氏は肥前からや上妻氏は肥後
からの武将であった。しかし天正元年(1573)に至って、重長が島津氏と和を講じその
麾下(配下)に属したことで、禰寝氏と種子島氏との抗争も終結した。種子島時堯は、
天正七年(1579)に没し、そのあとは二男の久時が継いだ。久時は義久に属して、天正
八年の肥後攻め、十二年の肥前攻め、十四年の筑前攻めなどに家臣を派遣した。そして
、義久の豊後攻めにはみずから参陣して戦功があった。かくして、島津氏の九州統一戦
が進められ、種子島氏もその作戦に協力してきたが、豊臣秀吉の九州征伐によって島津
氏は大隅・薩摩・日向の一部を領する豊臣大名に位置付けられた。この一連の動きの影
に紀伊半島の有力御家人や京の都の公家の行う南蛮貿易の利用があった事は大友氏の、
数々の意味不明の出陣で判明する。かつて平将門が大阪を都として南蛮貿易の拠点を考
えた様に、信長も又琵琶湖畔に安土城(あづちじょう)を構えて世界進出を考えていた
、日本の城(山城)として西洋に負けないものをと思っていたのである。大友も同じに
宮崎にキリストの理想郷を築こうとしていたのである。秀吉の朝鮮征伐も、スペインの
イスパニアがこの南洋の琉球さえも中国からの攻撃で、奴隷船貿易の中継地になり得ず
、朝鮮や済州島に、その拠点としようとしていたからだ。


1312: 名無しさんAA:18/04/11 18:11
宣教師の時代       ーーー64

歴史教科書などではイエズス会をポルトガル人としている。だがこれは間違っている。
又キリスト教布教を西洋文化の伝来として扱うがこれも間違いでイスパニアの侵略でし
かなかった。信長にしても秀吉にしてもキリシタンに対しては最初は好意的だった。し
かし宣教師たちの植民地への野心を見抜かれて、信長はその威圧に走り天下布武を唱え
秀吉は異教徒排斥に走り朝鮮征伐を唱えた。既に朝鮮には熱狂のキリスト信者がいたか
らだ。家康に至っては切支丹弾圧まで行い鎖国に走るしかなったのである。この宣教師
たち植民地への野心を見抜かれて、危険視するようになり制限を設けたが、それは阿片
や銃砲を売り捌き、神社仏閣の破壊や日本人を奴隷として拉致監禁して輸送している事
が、発覚し秀吉の怒りに触れての弾圧だったのだ。この大西洋奴隷貿易時代の日本人奴
隷が大陸人の奴隷貿易に転化して行き、「弥勒下生運動」に変化する。中国王朝を揺る
がした白蓮教徒の乱(1796〜1804)は、朝鮮人特有のイエス信仰が「弥勒下生(みろく
げしょう)信仰」(弥勒仏が救世主として現れるという信仰)として秘密結社を中心と
する農民反乱として実を結んだ結果なのである。湖北・河南・陝西・四川・甘粛の各省
に広がった。反乱は9年に及び、清朝はやっと鎮圧したが、既にこの頃今の共産党思想
の元になる現政権や体制の崩壊や寺院や伝統的生活や醸成文化の破壊的摸倣自由主義は
あったのである。そもそもスペイン人の多くはスペイン王となったバンダル人での配下
であり、ゴート人の祖先とされる。バンダル人は破壊行為を意味するヴァンダリズムの
語源ともなっている。紀元前からロシア系ヴァンダル族は、欧州系スエビ族らを破り、
高原系フン族との戦いを行っていた。スエビ族はゲルマンの始祖的存在でヴァンダル族
はこのフン族を撃退した時のフン族の生き残りとされ混血は進んでいたものと思われる
その後ギリシアから派生したゴート王国が欧州の覇権を握りこれに朝貢した。ローマ帝
国が出来てイスパニア定住に至る西ゴート族の移動期には、アフリカに退去したが或る
時期にはスペインを乗っ取ってしまったのである。イベリア半島への入植が進んだゴー
ト人で、フランス北部では興ったばかりのフランク王国と争った。その後西ローマ帝国
は海上封鎖によって西ゴート族を飢えさせる作戦を取り、食料に困窮した西ゴート族は
ヒスパニアへと追われて海洋覇権に至ったのである。この破壊をシンボルに美しい物や
調和を否定しヴァンダリズムは今も作られるサグラダファミリアやピカソの絵に潜んで
いて人の矛盾の中の一つのエポックとなっている。



1313: 名無しさんAA:18/04/11 18:11
 宣教師の時代       ーーー65

 ここに家康時代に、九州の特に筑後での板倉氏による、子女が数々誘拐され、男達が
火達磨にされ、串裂きにされた理由がある。又それ以降はキリスタン弾圧とされて過酷
な労働を強いられての島原の乱の風景がある。ヤジローはその体格の良さから早くから
家系の持つ交易に従事し語学が達者だったのだろう。その為重宝されていたのである。
ザビエルは後で余助となる黒人奴隷を引き連れていたように、体格の良い物を従者とす
る習慣にあった。そこには威圧感があったはずだ。1549年秋には、伊集院城にて薩摩の
守護大名・島津貴久に謁見し、宣教の許可を得ている。その後、1550年夏に肥前平戸に
入って宣教活動を行う6年間の中でザビエルと袂を分ける決心をしている。その晩年に
ついては不詳であるが、フロイスの記述によれば、ザビエルの離日後、ヤジロウは布教
活動から離れて海賊の生業に戻り、最後は中国近辺で殺害されたという。またフェルナ
ン・メンデス・ピントの『東洋遍歴記』、ジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』によ
れば、仏僧らの迫害を受けて出国を余儀なくされ、中国付近で海賊に殺されたという。
一説によれば、ヤジロウは鮫島弥次郎(もしくは里見弥次郎)という、もと修験道系の
陰陽師であったともいい、もしここで奴隷船貿易の実態を知ったら当然敵側として運動
に走ったはずだろう。ザビエルはベルナルド、フェルナンデス修道士と共に京を目指し
て平戸を出発する。しかし、周防で大内義隆に謁見し、男色を罪とするキリスト教の教
えに大内義隆から激怒され、すぐさま岩国から海路で堺に上陸し、豪商・日比屋了珪の
支援を受けて、1551年、一行は京に到着し、後奈良天皇および足利義輝への拝謁を請願
した。日比屋了珪は堺でマカオ火薬の輸入などを商う商人であったとされ東京日比谷も
彼の子孫と目される場所だ。堺の富商であると同時に有数の茶人でもあったからだが、
しかし、献上の品が無かったため、この時は拝謁は叶わなかった。京都市中は荒廃して
おり、天皇の地位が失墜している事を知り、天皇から布教許可を得ての布教を断念した
。僅か11日間で離京すると山口に戻った。その後、平戸に置き残していた献上品を携
えて大内義隆に再度拝謁し、インド総督とゴア司教の親書の他、望遠鏡、洋琴、置時計
、ギヤマンの水差し、鏡、眼鏡、書籍、絵画、小銃などを送り、喜んだ大内義隆は廃寺
となっていた大道寺を与え、キリスト教の布教を許可するに至った。この時、ザビエル
の盲目の琵琶法師が聴いていた、後のイエズス会の強力な宣教師となるロレンソ了斎で
ある。


1314: 名無しさんAA:18/04/11 18:12
 宣教師の時代       ーーー66

 ザビエルは、初めて日本にメガネを持ち込んだとも言われ、1551年9月に豊後で大友
宗麟に拝謁した際、眼鏡を伝来させている。日本滞在は約2年となり、インドから連絡
が無いのが気になると、後継者であるトルレスに布教方針を授けて、ザビエルは1551年
11月、ポルトガル船にて日本を出発し、ゴアに帰還した。その後、日本全土で布教する
ためには、まず中国での布教が必要だと感じ、翌年1552年には、広東付近の上川島に至
った。しかし、中国への入国が思うようにいかない半ばに、熱病にかかると12月に病死
した。46歳であったと言う。しかし、永禄4(1561)には、大友氏はキリスタンとし
て周防をポルトガル船と共に国崩しで攻撃しているのである。ザビエルは偶然日本人と
あったのではない。ポルトガル人ジョルジェ・アルヴァレスの船に乗り、船長アルヴァ
レスからフランシスコ・ザビエルの業績などを聞き知り、キリシタンになろうと決意し
て会いに行っている。暴風雨に会い、中国へ流されたりして苦労を重ねながらも、マラ
ッカでついにザビエルと巡り合うことができたのである。ヤジロウは、その後の人生を
キリシタンとして生きようと決心し、船乗り仲間の間で有名なザビエルに会う計画を持
ち、意図を持って面会の目的を遂げたのである。何故か。1549年秋にザビエルが薩摩の
島津貴久に謁見したが、茶道関係文書にある「日比谷了慶」は堺の豪商で,1550(天文
19)年に来日中のシャヴィエルを自邸に迎えて庇護し、永禄4(1561)年には、宣教師
ヴィレラの堺布教にあたって邸内に教会を建て,自身も息子・了荷の勧めで洗礼を受け
たとしている。つまり最初の隠れキリスタンであったのだ。姓は佐々木名は日比谷了慶
後筑前の夜須郡坂根に住む後移動長者町寺曹洞宗開いたとしている。1564年受洗をうけ
。霊名は、ディオゴとしている。息子・了荷が1550(天文19)年に来日中のシャヴィエ
ルを自邸に迎えて庇護し洗礼を受けた為、1561(永禄4)年には宣教師ヴィレラの堺布
教にあたって邸内に教会を建て,自身も息子・了荷の勧めで洗礼を受けたとしている。
了慶は天正十四年(1586)、堺の商人・日比屋了珪の娘婿ルカス宗札の処刑に、ルカスは、
無実の罪で捕らえられ、秀吉は彼を水責めにして自白を強要 友人や親戚は疑いをかけら
れることも少なく、より安全に集合して、事件につき語り合い、種々の方策が講ぜられた
が、十一月、ついにルカスは磔刑に処せられた。


1315: 名無しさんAA:18/04/13 01:17
 宣教師の時代       ーーー67

 1548年十一月二十九日付アンジローの書翰には、「たまたま、私は、名前をジョ
ルジェ・アルヴァレスというある船の船長であるポルトガル人と出会った。」とあるか
ら、アルヴァレスがポルトガルの貿易商人兼船長であったことが分かる。アルヴァレス
の出身地は、かつて同僚であったメンデス・ピントの『遍歴記』によれば、ポルトガル
北部の、スペインとの国境に近い村フレイショ・デ・エスパーダ・ア・シンタとされて
いるが、確証はない。天文十五年(1546)春または初夏頃に、アルヴァレスは日本
に来航し、薩摩の山川に初冬頃まで滞在した。アルヴァレスが得た日本の知見では、1
547年十二月にアルヴァレスが執筆した「日本報告」から知ることができる。が半年
に満たない日本滞在期間中に地理や環境、風俗、生活習慣、宗教などを非常に細やかに
観察していたことがうかがえる内容となっている。この為薩摩山川への来航は初めてで
はなかったと言える。またアルヴァレスは、日本を離れる際、殺人を犯して役人に追わ
れていたアンジローを匿ってマラッカに同伴している。アンジローの書翰によれば、ア
ルヴァレスはアンジローをザビエルに面会させることを思い立ち、マラッカへの航海中
はアンジローに対してザビエルの行跡やキリスト教の教理などを教えていたようである
。こうしてアンジローを匿う一方でザビエルに引き合わせている事からも、ザビエルの
日本上陸が初めてのポルトガル船上陸ではなかった事が解る。強いて言えば宣教師とし
ても初めてではなかったのだ。イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルは、1548
年一月二十日付の書翰の中でアルヴァレスについて「非常に信用に値する人物」として
おり、ザビエルの同伴者であったアンジローも「(フランシスコ師の)大の友人」と記
している。ザビエルと深い信頼関係にあった人物であり、ザビエルの日本や中国での布
教を援助してもいる。しかし、アルヴァレスがマラッカに到着した際は、ザビエルは不
在であったため、アンジローは日本に帰国するためにいったん中国まで戻っていった。
翌1547年、再びマラッカに渡航してきたアンジローと再会したアルヴァレスは彼を
ザビエルに紹介し、アルヴァレス自身もザビエルに日本布教は大きな成果が期待できる
ことを説いている。先述の「日本報告」も、より詳細な日本の情報を求めるザビエルの
依頼を受けて執筆したものだったが、これがザビエルが日本布教を決意させ、アルヴァ
レスの活動も大きかったといえるだろう。同年、アルヴァレスは、アンジローを聖パウ
ロ学院のあるインドのゴアまで送り届けてたが。ザビエルは自分の乗ってきた船でアン
ジローをゴアに同伴しようとしたが、アンジローが、以前から名誉と友情を受けていた
ポルトガル商人との同行を望んだため、アルヴァレスの船に同乗することになった。

1316: 名無しさんAA:18/04/13 01:18
 宣教師の時代       ーーー68

 アルヴァレスは、その後も中国沿岸での貿易に従事していた。1552年、ザビエル
が中国布教のためにマカオ沖のサンシャン(上川)島に入港した際、この地に滞在して
いたアルヴァレスと再会している。アルヴァレスは以前と同じようにザビエルを援助し
、ザビエル一行に二ヵ月半ほど宿を提供した後、マラッカへと出港していった。既に、
この中国広東省の海島であるサンシャン(上川)島は、数多くの海外密航船で貿易の要
の地になっていた。ポルトガル人はサンシアン、イギリス人はセント・ジョーンズ島と
呼んだ古くから航海者や海賊の集結地であった。仮泊地となり,広東を追われたポルト
ガル人がこの島に拠ったこともある。1549年、日本にキリスト教を伝えたザビエル
の臨終の場所とされ、中国地図では、広東省の地図を見れば、香港のすぐ近くの島の中
に上川島を「発見」できる筈だ。こうしてジョルジェ・アルヴァレスはその後も日本へ
航海していたようだ。「1580年10月20日付、豊後発信、ロレンソ・メシア師の
、イエズス会総長宛、1580年度 日本年報」によると、信長に会いに行ったイエズ
ス会は数人の司祭と共に安土桃山城に登城して謁見を果たして幾つかの問答をしている
「オルガンティーノ師、その他の司祭らが幾度か訪問した時、彼(信長)は常に深い親愛
の情を示し、日頃、仏僧に対するのとは全く異なる方法と尊敬をもって遇したが、これ
は諸人が驚嘆するほどであった。とりわけ、彼は一度、自ら進んで我が教えのことども
を聴いて討論することを望み、多数の大身の面前でオルガンティーノ師とロレンソ修道
士に種々の質問を呈し、(室)外にいる人たちにも聞こえるようにするため、彼らがいた
場所の戸口をことごとく開けさせた。彼はかつて見たことのある地球儀をふたたび同所
に持参させ、これについて多く質問と応答を繰り返した後、司祭と修道士が答えたこと
に満足の意を表し、諸人の前で彼らを大いに讃え、司祭らの知識は、仏僧らのそれとは
非常に異なっていると言い、彼は(返答に)すっかり納得し満足したことを明らかにした
。しかし又、彼は、デウスと霊魂の存在について絶えず大きな疑問を抱いており、或は
司祭らもまた日本の仏僧が常にそうであるように、説いているのとは異なることを胸中
に秘め、来世と救いはあると説きながら、後に深く教えの道に進んだ者には、彼らが説
くことはすべて人民をよく導くためであって、この世以外に他の世界も来世もないこと
を明かすのと同じではないかと考えている。


1317: 名無しさんAA:18/04/13 01:18
 宣教師の時代       ーーー69

 結局、信長はオルガンティーノ師がヨーロッパから日本に来るまでに経た旅について
説明することを望み、それを知ると、非常に驚いて、このような旅は非常な勇気と強い
心を持った人でなければ実行することができぬと言い、司祭と修道士らに向かって笑い
ながら、汝らがかくも多大な危険と海を越えてきたからには、汝らは何かを求める盗賊
か、或は汝らの説くことが重要なるためか、と述べた。そこで、修道士は答えて、その
言葉通り司祭らが盗賊であるのは真実で、彼らはただ日本人の霊魂と心を盗むためにや
ってきたのであり、悪魔の手からこれらを奪って創造主の手に委ねるためである、と言
った。結局、信長は彼らと三時間過ごした後、別の機会に再び招いて我らのことを聴き
、我が教会ははなはだ立派であると諸人が言うので教会を見に行くことを欲すると言っ
て、彼らと別れた。」と書いている。この信長が宣教師が持ってきた地球儀を見ながら
、宣教師に色々と質問したことが載っている中で、「キリシタンの教えも、仏僧が説く
教えと同じように、説いていることと腹の中で思っていることが違っていて、来世や救
いが存在すると言っているのは、より多くの信者を獲得するため」だと考えている。と
書いた司祭のオルガンティーノの鋭く深い読みは正解だろう。又ヨーロッパから日本へ
の船旅についての話を聞いて、非常に驚いきそして冗談交じりに、「汝らがかくも多大
な危険と海を越えて来たからには、汝らは何かを求める盗賊か、あるいは汝らの説くこ
とが重要なるためか。」と聞いたのは、同じくらいの鋭い信長の読みであったと言える
だろう。イエズス会の真の目的が、布教活動をしつつ、その国のことを調査し、やがて
その国を侵略することであるから、司祭は言葉が詰まったに違いない、修道士のロレン
ソが応えているのはその証左だろう。信長は安土城に宣教師を招いて自ら接待し、宗教
談義を楽しんでいる。フロイスという宣教師とは何十回も面会している。彼と親しくな
った一人にイエズス会の宣教師オルガンティーノはイタリア人だが、はやりイエズス会
に属して日本の風土と日本人に魅せられ大の親日家となっている。彼はこう記している
。「われら(ヨーロッパ人)はたがいに賢明に見えるが、彼ら(日本人)と比較すると、は
なはだ野蛮であると思う。(中略)私には全世界じゅうで、これほど天賦の才能をもつ
国民はないと思われる。----日本人は怒りを表すことを好まず、儀礼的な丁寧さを好み
、贈り物や親切を受けた場合はそれと同等のものを返礼しなくてはならないと感じ、互
いを褒め、相手を侮辱することを好まない。」と。彼らは、自分が帰属する国家の利益
のために働いていたが、それ以上にローマ教皇への絶対服従を条件に、国を超えて「イ
エズス会の利益」のために働いていていて、彼らは、国家を超えた集団だった。

1318: 名無しさんAA:18/04/13 01:19
 宣教師の時代       ーーー70

フランシスコ・ザビエルらによる、イエズス会の日本布教は驚くほどの成果をあげてい
て、ザビエルが布教を開始したわずか13年後の永禄5(1562)年は、備前西部(長崎県
)を統治していた大名大村純忠(すみただ)は、鶴の一声で、なんと自領内の横瀬浦港
をイエズス会領として寄進してしまった。大村は、横瀬浦内の数ヵ所に教会を建てたし
、これらの教会に経済的利益を供与するために、港の周囲約10キロの土地と農民をも
教会に寄付した。ちょっと信じられないことだが、領民は大村の鶴の一声で教会の所有
となってしまったのだ。さらに、ポルトガルとの交易のために入港してくる商人に対し
ても10年間の免除を決定した。この政策により横浦港は急激に発展したのは言うまで
もない。寄進というのは「寄付」である。大村氏は日本初のキリシタン大名であるとさ
れる。しかし彼が洗礼を受ける事は、カルト集団の魔神に肢体尊攘する事に等しかった
。宣教師として日本で活動したルイス・フロイスの日本史には、その大村純忠が洗礼を
受ける下りが記録されている。
「大村殿は、尊師(コスメ・デ・トーレス神父)が彼に一つのことを御認めになれば、
キリシタンになる御決心であられます。それはこういうことなのです。殿は自領ならび
にそこの領民の主君ではあられますが、目上に有馬の屋形であられる兄・義貞様をいた
だいておられ、義貞様は異教徒であり、当下(しも:九州のこと)においても最も身分の
高い殿のお一人であられます。それゆえ大村殿は、ただちに領内のすべての神社仏閣を
焼却するわけにも仏僧たちの僧院を破却するわけにも参りません。ですが殿は尊師に、
こういうお約束をなされ、言質を与えておられます。すなわち自分は今後は決して彼ら
仏僧らの面倒は見はしないと。そして殿が彼らを援助しなければ、彼らは、自滅するで
しょう。」(フロイス日本史)これでわかるように、洗礼を受ける条件は神社仏閣の焼却
であり僧院の破却を要望していたのである。さりながら、大村家の事情により、すぐに
はそれはできないが、彼らが自滅していくように仕向けるという約束を大村は申し出て
いる。これにより仏教徒の西郷氏や伊佐早氏は、知行の領主としてはキリスタン大名の
大村氏や有馬氏を持ち上げる事は不可能になったのである。そしてそれは大分の大友氏
にも起こっていた。大村が洗礼を受ければ、日本初のキリシタン大名の誕生であり、こ
れには教会も興奮し、これこそに苦労してきた目的だった。

1319: 名無しさんAA:18/04/13 01:20
 宣教師の時代       ーーー71

 しかしこの報告を受けても、宣教師は焦らないで洗礼の条件をはっきりと告げている
。「時至れば、ご自分のなし得ることすべてを行なうとのお約束とご意向を承った上は
、もうすでに信仰のことがよくお判りならば洗礼をお授けしましょう」ここで宣教師が
確認している「なし得ることのすべてを行なうとのお約束とご意向」とは、「時がきた
ら神社仏閣のできる限りを破壊し、一切支援せずに自滅させる」というそもそもの洗礼
の条件のことだ。諸事情で、今すぐにそれが実現できなくても、かならずそれを実行す
るという約束するならば洗礼をさずけます。と言っているのだ。ここに登場する宣教師
は、彼に洗礼をさずけたコスメ・デ・トーレス神父である。ここに、イエズス会士たち
による布教という名の文化破壊が始まったのだった。これにより大村の家臣や住民にも
洗礼を受ける者が続出し、短期間のうちに 12000名以上のキリシタンが生まれた。この
中には勿論「教会のもの」とされた農民たちのように強制改宗させられた人々も多かっ
た。この翌年、ザビエルとともに来日したコスメ・デ・トーレス神父から洗礼をうけた
。トーレスはとともに日本に上陸した宣教師で、ザビエルがインドへ移動していった後
の日本を託された男だった。ザビエルの方が有名だが、実のところ、カトリック布教を
成功に導いたのはこのトーレスの功績である。実はこうした船団にはスペイン王家の許
可を必要としてた。その為船内の行動規範や海外の検分の報告や宝物の横取りなどの監
視役に宣教師や修道士を乗せなければならない決まりでその人数まで決まっていた。そ
れは船団の大きさによって違うがほぼ10人以上は船員ではなかったのだ。この日本で
の布教が出来たのはそうした大勢の宣教師が来た事だった。その為長崎では特に、隣接
する松浦氏が支配していた領地の平戸港で、ポルトガル人殺害事件が起こったことをう
け、彼らの保護と安全のために為されたことであった。が、この日本国内に「ポルトガ
ル領」が誕生したは確実だったし、こうして中には仏教棄教を迫る信者が出来たのは、
確実だった。ここはキリスト教の聖地となったのだから。このようなことは、天下統一
のための重大な脅威とうつったことは当然だ。コエリヨが大砲を載せた船を秀吉に得意
げに見せて、これに上機嫌であった秀吉であった。


1320: 名無しさんAA:18/04/13 01:20
 宣教師の時代       ーーー72

 これに上機嫌であった秀吉であった。が大阪に着いて直ぐに1587年、日本のキリシタ
ンたちは恐れに震える事態が発生する。豊臣秀吉によりバテレン追放令が発せられたの
である。蒲生氏郷、黒田孝高、小西行長などの代表的キリシタン大名達は表向き棄教し
、太閤の意志に準じる態度を取った。しかしこの命令をやはりと高山右近だけは徹底し
て拒絶した。表向きの棄教もせず、秀吉への服従すらゼウス神以下しかなかった。それ
どころか秀吉を信者にしようとまで思って、「自分から説きに行く」とまで言い放った
のを家臣などがやっとの思いで足止めさせている。右近にとって信仰は、所領や地位よ
り大切なものだったのである。彼は棄教を拒否して身を隠したそれが日比谷了慶の自宅
だったであろう。その頃、しぼしぼと帰宅した小西行長は秀吉の怒りを買うことを恐れ
、堺に戻り怯えていた。日本のキリシタン大名達の中でも地位が高く、政権の中枢に近
い行長の許へは毎日のように逃げてきた宣教師やキリシタンが助けを請いにやってきて
いた。その時、行長はそれを冷たくあしらい追い返していたのである。「助けるのは無
理と言う物。俺だって立場がある。」と言う理由だった。その行長の言葉に宣教師達は
絶望し、ほとんどのものが長崎に逃げていったと言う。しかし留まりなおしつこく行長
に会おうとする者がいた。イエズス会のグネッキ・ソルディ・オルガンティーノ神父で
ある。彼はイエズス会の良心ともされた。彼は危険をおかして行長の屋敷を訪問すると
行長と何時間も議論をした。そして行長に自分が殉教を覚悟していること、逃げるつも
りは全くないと言うこと、もちろん信仰を偽るつもりも、ごまかすつもりもないことを
語った。行長は、さながらペテロの様に肩を震わせ号泣した。そして現実に負けて信仰
を曲げた己を恥じた。しかし、オルガンティーノとなぜかその時やってきた高山右近は
、そんな小西を励ましていたのである。その後、小西はすっかり信仰を取り戻し、キリ
シタン大名として生きるために、秀吉の目をたばかり、ごまかし、色々やって、右近と
共に小笠原に渡っている。したが、それでも彼が最後まで地位や名誉を捨てることがで
きなかった。

1321: 名無しさんAA:18/04/13 01:21

アンジローやヤジローを乗せて匿ったジョルジェ・アルヴァレスの船も乗ってきた時に
は宣教師がいた筈である。それが日比谷了慶に洗礼をしたシャヴィエルや娘婿のルカス
であったと思える。実はシャヴィエルとは何人もいるスペイン人の姓でありザビエルと
もサビエルとも言われる。つまりフランシスコ・ザビエルは通り名の一つであったのだ
、弥次郎本人がローマに送った書簡が掲載されているので紹介したい(一五四八年十一
月二十九日付、ゴア発信、日本人パウロ(弥次郎)よりローマのイエズス会創立者メス
トレ・イグナティウス・デ・ロヨラその他、同会の司祭、修道士に送った書簡)
「(前略)私は、日本国において異教徒でありました時に、ある理由によって一人を殺し
、(役人の手から)免れようとして、我が国の修道者の僧院(当地の教会のようなもの)に
逃れました。この時、貿易のためにそこに来ていたポルトガル人の一船がありました。
彼らのなかに、私が以前から知っていましたアルヴァロ・ヴァスという人がおりまして
、彼は私のことを聞くと、自分の国に行きたくないかと問いましたので、私はそれを望
むと答えました。すると彼はまだ用務を終えておらず、なお逗留せねばならぬので、同
じ海岸の他の港にいましたドン・フェルナンドという貴人に宛てた書簡を与えよう、と
申しました。私は捕えられないようにと、夜中に出発してその人を訪ねましたところ、
思いがけなく、別の船長でありますジヨルジェ・アルヴァレスというポルトガル人に会
い、ドン・フェルナンドであろうと思ってその人にアルヴァロ・ヴアスの書簡を与えま
した。ジヨルジェ・アルヴァレスは私を同伴して大いに歓待し、その船で連れて行き、
彼の親友でありますメストレ・フランシスコ(・ザピエル)師に私を託そうと欲しました
。そしてその司祭様の生活と業績を私に語りましたので、私は大いにその方にお会いし
たいという望みを起しました。航海してマラッカに到着しましたが、ジヨルジェ・アル
ヴァレスは、その途中、キリシタンになることについて私に教えるところがありました
ので、私は洗礼を受けたい気持になり、その希望はますます盛んでしたから、マラッカ
に着きました時に、もしその地の司祭様が私に洗礼を授けましたならば、キリシタンと
なったでありましょう。ところがその司祭様は、私が何者であるか、また私の境遇は、
どうかを訊ねましたので、私はすでに結婚しており、また自分の家に帰ろうとしている
と述べましたところ、帰国して異教徒の妻と同棲してはならぬ、と言って洗礼を授ける
ことを禁じました。


1322: 名無しさんAA:18/04/13 11:24
 この時、我が国に向かう季節風期となりましたので、私はシナ行きの船に乗り込み、
シナからは他の船で日本に渡ることにしました。シナに着いて後、七、八日路(約二百
レーグアですから)(1レーグアは約5q程度)の日本への航海につき、すでに日本に近
づいて日本の海岸を離れること約二十レ―グアのところで日本を認めました時、陸地か
ら船首に向かって暴風が吹き、非常な暗黒となり、どうすることもできず、暴風は四日
四夜継続し、船ははなはだしい窮状に陥りましたので、私は主の御憐れみを大声で求め
、私たちは、先に出航したシナの港に帰るのやむなきに至りました。シナに帰って暴風
はやみましたが、私はキリシタンとなって信仰について教えを受けたいとの希望は変り
ませんでしたから、進退を決することができないでいましたところ、この時先に我が国
において、まず私と語り、私に南方へ行くように促しましたアルヴァロ・ヴァスに出会
いました。彼は私がマラツカから帰り、暴風のために自分と再会するに至ったことを驚
きました。そしてその船がマラッカに行く準備が整っていましたので、彼は自分ととも
に引き返すようにと勧め、ロレンソ・ポテリヨという人もまたそれを勧告しました。両
名ともに身分のある人で、彼らは、もしこんどふたたびマラッカに帰れば、メストレ・
フランシスコ師はすでにその地におられるはずであり、また司祭様の一人が、私といっ
しょに日本に行くことになろうと申しましたので、私は彼らの言うところはもっともで
あると思い、喜んでその航海につきました。マラッカに着き、最初に、私を伴いました
ジョルジェ・アルヴァレスに会いましたところ、彼は、すでに同地におられましたメス
トレ・フランシスコ師の許に私を案内し、聖母の教会で司祭様が結婚式を司っていると
ころで私たちは出会い、アルヴアレスは私のことを詳しく司祭様に語りました。メスト
レ・フランシスコ師は私を見、私を抱いて、非常にお喜びになりましたが、この事実は
デウス様の定め給うたことであると、私は心の中でますます感じるに至りました。私は
フランシスコ師に会って大いに慰められ満足いたしました。私はすでに少しばかりポル
トガル語を理解し、また数語を話すことができましたが、司祭様は私が前記のジヨルジ
ェ・アルヴァレスとともに、当ゴア市に来て、サン・パウロ学院に入るようにお命じに
なりました。フランシスコ師は、別の路を経てコモリン岬のキリスト教徒たちを訪問し
、そこから当学院に来られましたが、あまり遅れることなく、私が一五四八年三月の初
めに学院に着きました一方、その後、四、五日を経てメストレ・フランシスコ師が到着
されましたことは私の非常な喜びでありました。なぜならば私は、初めて彼に会った時
から、大いに感銘を受け、彼に仕え、決して離れたくないと希望するに至っていたから
でございます。

1323: 名無しさんAA:18/04/13 11:24
 宣教師の時代       ーーー75

当学院に入って学び、信仰のことについて教えを受けました後、本年五月、聖霊降臨祭
の祝日に、大司教座において、司教様から洗礼を授けられました。同じ日に、私が日本
から伴って来て当地に留まっています従僕一人も洗礼を受けました。私は万物の創り主
であられるデウス様と、我らを救うために十字架にかかり給うたイエズス・キリスト様
により、その栄光を高め、信仰を弘める身となることを希望し、限りない恩恵に浴し、
この信仰の真理であることを確信いたします今、まったき安らぎを覚えるのでございま
す。当学院の司祭様方が申されますように、私をして、容易に主なるデウス様のことを
心に刻み、これほど短期間に、よく読み書きを学び、聖マテオ福音書のように高尚な教
えを受け入れ、それを記憶に留める才能と記憶力、および意志を授け給いましたデウス
様の思寵を忘れることがないようにしていただきたいと祈り奉ります。右の福音書の要
点は、我が日本の文字でしたためて記憶の便を計りました。右の日本文字を尊師にお目
にかけます。我らの主への愛による尊師らのお祈りによって、主が私に与え給うた御恵
みを私が空しくすることなくその讃美と栄光になるに至らしめ給いますように。このこ
とが良い結果を収め、我らの主なるデウスが、ほどなく日本へ出発されることになって
いますメストレ・フランシスコ師を助け、また私にはその愛のため、もし必要ならば百
度生命を捧げるほどの 強い信仰の保持者とならしめ給わんことを。私にはメストレ・
イグナシオ(・デ・ロヨラ)師とメストレ・シモン(・ロドゥリーゲス)師、及びイエズ
ス会の他の司祭や修道士の皆様が絶えずデウス様にお祈り下さることが必要でございま
す。なぜならば、我らの主によって、日本において大いなる収穫を納め、私たちの生存
中にイエズス会の学院がその日本の地に建てられるのを見ることを期待し、デウス様が
大いなる栄光を受け給い、日本がイエズスによって信仰に進むよう望むからでございま
す。一五四八年十一月二十九日、ゴアのサン・バウロ学院より。 僕なる日本人バウロ
・デ・サンタ・フェ(弥次郎)」(完訳フロイス日本史第一章14−19頁)“
つまり、匿ってくれたアルヴァロ・ヴァスと船にのせたジヨルジェ・アルヴァレスの2
人がいたのである。更にドン・フェルナンドと言う者に宛てた手紙を薩摩川内で送って
いたのである。


1324: 名無しさんAA:18/04/13 11:35
 まずドン・フェルナンドとはフェルナンド大公即ちオーストリア大公であり、フラン
ツ・フェルディナント・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン 即ちハクスブルク家
の名であろう。なぜこの名が使われたのか、大いに謎だ。しかし本当の謎は、その名が
例え知れ渡っていたとしてもイスパニアの王の名で無い事にある。カストロやフェルナ
ンドが本来のスペイン国王の名で例え偽物の名でもスペイン王室の名で良かった筈だ。
だが、歴史的にカストロ王朝は、血縁がハクスブルク家のスペイン・ハプスブルク朝と
も言うべきもので、スペインの先住民の反乱を抑えて王家存続していたのである。当然
航海の資金を本家イタリアやベニスの商人達の支援を受けていた筈である。つまりドン
・フェルナンドの暗号はその船の資金者の合言葉みたいなものだったと考えられる。更
にこの船が同じ様に司祭や修道士を連れて居なければ航海出来ない規則なら、既に船に
はそうした司祭が布教を行っていた事になる。方言の性格からもその特質はある。この
鹿児島地方は、ずば抜けて非常に判りにくい。がこの事は逆にフランス人の移民が船長
していた可能性も強い。簡単にドン・フェルナンドと言える立場にあったともいえる。
後年、「本能寺の変」は、オルガンティーノ神父は「光秀には絶対に従ってはいけない
」という内容のポルトガル語の手紙をキリシタン大名に送っていた。、光秀が信用でき
ない人物であるとイエズス会に報告していたことを挙げていた。光秀が信用できない人
物であるとイエズス会に報告していたことは、単にキリシタン側が明智を敵視していた
だけではなかったと思える。というのは大和における、松永と筒井との抗争が、からん
でいた。松永と筒井は大和の守護大名になりたく領地を取り合い合戦を続けていた。そ
して、この戦いは、双方が織田の味方になっても続いた。この味方の武家2つが領地あ
らそいで戦いあっている中には、奴隷船貿易をしていた松倉勝重が一枚絡んでいたから
である。勿論朝廷である天皇家には大砲などは必要はなかった。従って50人もの奴隷
になる子女も必要とはしていなかった。それどころか朝廷はこの越智の朱印船船団の方
を使って古くから「キャラ香木」は仕入れてていて この南蛮船により多くの損害を被
っていて敵対していた事だ。しかし織田信長は、筒井と松永を仲直りさせるのを明智に
命じたのである。それは明智・筒井・松永ともが、敬虔な仏教徒と思っての事だった。
当然、憎まれる明智は双方の敵でそれは出来なかった。基本的に当事者同士であったか
らだ。シビレきらした信長は、大和の守護職を大和と無関係の原田直政にすえた。おさ
まらないのは筒井と松永で、その仲介役の明智までも、更に筒井と松永に憎まれた形で
ある。この貿易権利奪還に死守をする伊賀者によって原田は殺害され、さらに松永は、
この事に憤慨し反乱したが返り討ち、となり、織田信長は大和の守護職を筒井に任命し
たのである。

1325: 名無しさんAA:18/04/13 12:03
 直政は「塙直政(はなわなおまさ)」で当時は「ばん」氏と呼ばれていた。後に九州
の名族・原田姓を下賜されて原田姓になっていた。宿老クラスに勝るとも劣らない勢力
を与えられたが、大和の守護には、筒井は相当固執し恐喝して暗殺に及んでいる。信長
は筒井の大和で差出(検地の前段階施行)を筒井に強制させ一国一城をここだけ徹底さ
せた、大和は城を1つだけ残し壊させ、更に筒井に対して強硬な検地を強行した。意外
だが、松永はキリシタンに寛容でキリシタンの弾圧は、しなかった。一方、筒井は元は
寺社武装勢力が増大したもので仏教は保護したがキリシタンは敵視している。ここには
裏に東大寺僧とキリスタンの確執があり、キリシタンは松永の肩を持ったが、光秀が全
く松永に近づかなかった。と言う事情があるようだ。その後松永が織田に滅ぼされた。
こ時、当時明智は朝廷の奴隷船貿易を黙認し筒井と松永の仲裁に失敗していると言える
。しかし筒井の守護昇格にも反対で、貢献する事なく織田は筒井を脅して、筒井を大和
の代官のように召使った。中間管理は織田信長を主君とする明智だった。既に、筒井家
家臣では、かの有力な古参武将は居なくなって 新規の無法者ばかりでしか無かった。
そうした人達では、明智に対しても、全く恩も義理も欠いていて、奴隷船交易も止めな
かったし、その事の解らぬ明智の温さに織田信長は我慢がならなかった。明智光秀は、
1528年生まれたとされるが確証はない。その頃の風習では名のある武家は神社に預けら
れて9が10歳の成人式をもって自宅が引き取ると言う言わば、仏僧の寮制が習わしで
あった。これは荘園の護衛の悪(わる)、つまり無法の剛力者から逃れて子孫を残す事
と、荘園経営と教育に特化した姿だった。彼は若い頃は恵林寺で育ったが、焼かれる事
となった快川紹喜からも教えを受けた。その後武田信玄の寄進で再構されたが、快川紹
喜本人は姻戚関係の土岐氏出の僧であった。美濃国の出身ともいわれるが厳密には美濃
に近い為に土岐氏(ときし)から12歳で出家させられた僧であった。家紋は水色桔梗
紋で、白黒紋でなく彩色紋として知られ、土岐光衡が戦争で桔梗花を兜に挟んで戦った
のを記念して、家紋としたのが始まりであると言う。しかし伝説では、そも美濃の武士
は多くに越智氏の染料で多くがこの紋を使ったとする。美濃は大内氏、北条氏、宇都宮
氏、と守護職が変わっているが、それは四国の越智氏の物流に原因があった。天文14
年に快川は、母が亡くなり妙心寺の仁岫宗寿の法を継ぎ。美濃国の寺院を経て妙心寺に
就任した。崇福寺住職となったが、国主の斎藤義龍との間で宗教上の混乱が起こり、一
旦美濃を離れ、義龍の死去に伴い帰国した。その後永禄7年(1564年)に甲斐国の武田
信玄に招かれて恵林寺(甲州市塩山)に入寺し、武田氏と美濃斎藤氏との外交僧を務め
た。こうして甲斐では信玄に機山の号を授けていた。美濃源氏の流れをくむ土岐頼兼が
城を構え明智と名乗って居城として、彼らにその寺の庇護を受けていたのである。

1326: 名無しさんAA:18/04/13 12:04
 宣教師の時代       ーーー78

 斎藤道三は土岐守護の次男である土岐頼芸の信頼を得るに至った家臣だった。頼芸が
兄政頼(頼武)との家督相続に敗れると、道三は密かに策を講じて、機会を窺い、朝倉
氏や六角氏などを巻き込んで美濃戦争に落とし込んだ。1556年斎藤道三を討った斎藤義
龍が明智城を攻撃し、9月落城させて明智氏は、浪人となった。そうした中で1546年、
明智光秀が18歳のとき、最初の妻(正室)・千草(山岸光信の娘、16歳)と結婚していたが
、戦によって家族とは死別したようだ。又、この時叔父方の明智光安が討死し、明智光
秀は本拠地を失ったのである。その後困窮する生活の中、子の山岸光重は、既に母方の
山岸家の養子となって明智家の家臣に加わって助けていた。1553年、明智光秀26歳の時
には継室として煕子(19歳)と結婚し、浪人の頃は、妻・煕子は自分の黒髪を売って助け
たと言う。母方の若狭武田氏を頼り、のち越前国の朝倉義景に仕えた。1566年に、この
美濃戦争の仕掛け人の朝廷から、足利義秋(後の足利義昭)が、朝倉義景の一乗谷城に亡
命してきた。この時明智光秀(39歳)は足利義秋の幕臣となり1567年足利義秋と織田信長
を仲介して 1568年7月27日、足利義昭を立政寺で織田信長と会見させた。こうして一介
の浪人から織田信長に仕える事になり、卓越した才能は開花する。織田家の中で異例の
出世をして仕えた。しかし彼には義を重んじて憚りない性格があったようだ。突然に京
を追放された足利義昭は、当時は中国地方を支配する毛利輝元(てるもと)の勢力下に
ある鞆(とも)の浦(広島県福山市)にいたとされ、義昭が京に戻る際は協力する事を
になっていた。この確約を重治から示され、光秀も又、義昭と既に協力を約束している
ことを伝えた。最近見つかった書状は、天正10(1582)年6月2日の本能寺の変
から10日後の12日付で、返信とされる物が見つかった。「上意(将軍)への奔走を
命じられた事をお示し頂き、有難く存じます。しかしながら(将軍の)ご入洛(にゅう
らく)の件につきましては既に承諾しています。」としている。つまり御触れを出して
頂いた事の感謝と、入場は承知しているが迎えの兵がない事の窮状が示されている。

1327: 名無しさんAA:18/04/13 12:04
 「土岐氏の発生は、美濃の土岐川流域の土岐郡に土着して土岐氏を名乗った姓である
とされ、南北朝四代頼貞が美濃守護となって後 歴代美濃守護を継承して戦国時代に至
っている。尾張・伊勢の守護も兼ねるに至って、土岐氏は最盛期を迎えた。頼康の守護
在任は美濃四十六年間、尾張三十七年間、伊勢十六年間続いた間に、土岐一族はそれぞ
れ拠った地名を名字に冠し、新しい家を興しながら濃尾平野一帯に分派で蔓延した。一
族は百余家に至りその家に明智荘に拠った明智氏のような新しい名字が出てきたとされ
る。「土岐明智」とも称し土岐の名字を捨てなかった。土岐一族として共通の基盤を持
っていたこと、それが社会的にも認知されていたことを示している。


1328: 名無しさんAA:18/04/13 12:18
 宣教師の時代       ーーー79
 一族の発展は強固な結束があったとされ、それが「土岐桔梗一揆」で具現化している
。一揆とは「揆を一にする」つまり、目的のために一つに団結する。という意味がある
。各武士たちの戦闘単位も一揆といい、『太平記』には頼康率いる軍勢を土岐桔梗一揆
と呼んだ。土岐氏の家紋を冠した戦闘集団、それが土岐桔梗一揆の姿であった。しかし
頼康没後、土岐氏の勢力を恐れた三代将軍足利義満の画策し一族に内紛が起こされた。
そのまま室町幕府への反乱になり「土岐康行の乱」へと発展し、明徳元年(一三九〇)
に四代守護康行が幕府の追討を受けて没落した。以降、土岐一族の結束は崩壊し一族の
分裂や主家を捨てて幕府奉公衆となる有力庶家も出て、戦国時代にはさまよう。明智氏
も幕府奉公衆となって生きて来た。美濃守護職が斎藤氏に移った時は、もはや土岐氏に
一族としてのまとまりはなく、一五五二年土岐氏の守護頼芸が、斎藤道三によって美濃
を追われて、以来二百年間継承されてきた美濃守護土岐家は没落した。この土岐家は秦
氏の氏族とされる又越智氏も、共に秦氏の分家である。秦氏は中国秦王朝の始皇帝の流
れを称する古代氏族であり、飛鳥時代に秦氏の繁栄を築いた秦河勝の後裔が長宗我部氏
であるとされている。秦氏は聖徳太子の信任を受けており、丁未の乱( 587年)の聖徳
太子と蘇我馬子が、物部守屋を倒した際には、信濃国に領地を与えられた。子・秦広国
を派遣されて信濃秦氏が始まった。後年、信濃更級にいた秦能俊が四国にはいって初代
長宗我部能俊としてが土佐に居を移していた。これが長宗我部氏の始まりだ。こうして
、長宗我部氏(ちょうそかべし)は、武家の一つとして。平安時代末から戦国時代に、
土佐を統一し四国に進出した本格的戦国大名であった。この秦氏の危機が南蛮船の到来
だった。明智氏はこうして一部は秦氏家紋の、七つ酢漿草かたばみとなり政権に近づい
ても土岐一族の結束には至らなかった。ヴァリニャーノ神父によれば 信長より酷評さ
れる。「信長の宮廷に惟任日向守殿、別名十兵衛明智殿と称する人物がいた。彼はもと
より高貴の出ではなく、信長の治世の初期には、公方様の一貴人兵部太輔と称する人物
に奉仕していたのであるが、その才略、深慮、狡猾さにより、信長の寵愛を受けること
となり、主君とその恩恵を利することをわきまえていた。(織田)殿内にあって彼は余
所者(よそもの)であり、外来の身であったので、ほとんどすべての者から快く思われ
ていなかったが、自らが(受けている)寵愛を保持し増大するための不思議な器用さを
身に備えていた。彼は裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが
、己を偽装するのに抜け目なく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略
と策謀の達人であった。また、築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主で、
選り抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた。」と書いている。

1329: 名無しさんAA:18/04/13 15:22
 宣教師の時代       ーーー80

 その時、すなわち信長を打ち取った本能寺の変では、明智軍は四国平定を命令されて
軍を用意ししての時だったのは象徴的だ。もともと、織田信長と毛利氏は、阿波を本拠
とする三好氏に対する牽制の意味もあって、長曾我部と信長は仲がよく、互いに友好関
係を保持してきた。しかし、信長が上洛以来は「天下布武」を掲げて武断政治武闘闘争
を突き進み、瀬戸内海航路の制海権の掌握に活発に動いて軋轢に至った。明智氏がその
矢面にいたが、その仲裁を阻む形で秀吉が出て来ていた。三好三人衆は石山本願寺と戦
い、その航路の制海権制覇を目指して、秀吉は野田城・福島城の戦いなどをして、巨大
な毛利を刺激しないままに侵食の手を伸ばしていた。秀吉は、天正年間になると九州地
方の諸大名を伊賀に探らせて天正3年(1575年)には、大友氏・島津氏らに、毛利氏の
背後の圧力を加えようと企図し、三好氏を通じて関白左大臣の近衛前久を薩摩・肥後に
下向させて差配した。信長も1573年に室町幕府の将軍足利義昭を京より追放して、
越前を平定した秀吉に信頼を置き、自らの「天下平定」「天下布武」の最終目的には、
最重要課題が、政治的・軍事的にも、経済的にも、西国の平定は重要政策にあると認識
していた。しかし一方で、山陰地方ではすでに信長との約束に反して、毛利は以前から
尼子勝久・山中幸盛(鹿介)らの挙兵をひそかに支援して京に迫っていたのである。又
、京より左遷された義昭も、信長に対抗し輝元らに手助けし、信長に敵対する働きかけ
を進んで行い、征夷大将軍としての御内書を出して、大名の糾合を呼びかけ、信長包囲
網の形成に努めていた。その結果、信長と対立していた本願寺や武田氏のみならず、備
前国の宇喜多直家などがこれに参加して脅かすに至っていたのである。一向宗はもとも
と加賀での親鸞の血脈相承を拠所として宗門闘争であった。その中で蓮如は北陸の浄土
系諸門を次々と統合して傘下にして巨大組織を形成していった。そしてとうとう富樫氏
の内政干渉に及んで年貢米の拒否に出たのだ。この事がきっかけで宗門弾圧を謀ったが
逆に抵抗は広がり、この脅威に富樫氏は足利義尚に直訴し、一向一揆の討伐を検討され
た。しかしこれは力のない朝廷の足利氏は軍を整え威嚇に出たのみの行動だった、この
時の行動は、細川氏の意見で加賀一向一揆との和睦を成立させて、納めて京に帰ったの
である。しかし、この結果は逆にこの一向宗の一揆は全国に及ぶきっかけになった。六
角氏は時の六波羅探題となった佐々木氏の流れで常に朝廷側として戦っていたが、この
行為で下剋上の世界に朝廷も足を踏み入れた事を悟った。過去の地方豪族達は皆朝廷の
軽はずみの行為で衰退した。六角氏も土岐氏と共にあった事から反信長になったが、毛
利側の安宅船の漕ぎ手でもあったが衰退に及んだ。

1330: 名無しさんAA:18/04/13 15:23
 宣教師の時代       ーーー81

 これを見た毛利氏は、一向宗徒と鉄砲などの合意を得た。先の火薬の製法を加賀で行
われ成功をみたからだ。こうして紀伊の雑賀衆と連携し、天正4年7月の第一次木津川口
の戦いで織田氏に対し最初の戦闘をしかけた。児玉就英ら毛利氏警固衆、乃美宗勝らの
小早川水軍に因島・能島・来島の各村上氏を加えて淡路の岩屋に集結し、宇喜多氏をも
丸めて加勢させ、毛利水軍の兵糧船600艘と警固船300艘は、和泉貝塚(大阪府貝塚市)
に回航して雑賀衆の新手と合流して北上した。また、こうして火薬が手にいると木津川
の河口で焙烙玉を用いた攻撃などによって織田水軍の 安宅船10艘、警固船300艘を破り
、数百人を討ち取るという大勝利を収め、織田氏の海上封鎖を破って石山本願寺に兵糧
米をとどけることに成功した。この時、摂津・和泉の門徒も毛利方に加勢している。こ
の後中国戦線においては、毛利氏の播磨侵攻が本格化しており、これに対し信長は、今
までに重要としていた火薬の大量生産地の北陸戦線には、離脱し謹慎していた羽柴秀吉
を指揮官に任じて中国攻めを開始した。秀吉は、天正4年7月の時点で信長に中国攻略
を命じられてはいたが、そのときは作戦に専念できる状況になく、翌天正5年10月に、
ようやく播磨に入ったのである。秀吉は、すでに信長方に服属していた小寺家家老黒田
孝高の姫路山城を本拠にして播磨・但馬を転戦した。天正6年(1578年)1月、毛利輝元
は大軍を上月城に派遣した。その後、秀吉は山中幸盛に命じて上月城を守らせた。幸盛
は尼子勝久を奉じ、出雲・伯耆・因幡・美作などの牢人を率いて籠城した。秀吉からの
急報を受けた信長は、まず尼子救援のため摂津の荒木村重を送り、滝川一益、明智光秀
を増援して5月初旬にはみずからも出陣しようとしたが、佐久間信盛らに諫止されて、
ついで子息信忠・信雄・信孝を派遣した。地の利が悪い中で兵の数は約1万に過ぎず、
毛利の大軍に歯が立たなかった一時は中国地方に覇をとなえた大族尼子氏も再興の願い
むなしく滅んだ。これらの動きで、毛利水軍の 600余艘が本願寺へ大量の兵糧米を積載
して木津川の河口へ向かった。信長は先の大敗の経験に学んで急遽志摩の九鬼嘉隆に6
艘、伊勢の滝川一益に1艘の装甲をほどこした大型の安宅船(鉄甲船)を建造させ、7
月に和泉の堺に廻航させて海上封鎖にあたらせていた。鉄甲船には、大砲3門が搭載さ
れていた。11月には、織田水軍と毛利水軍のあいだで海戦があり、九鬼嘉隆が敵船を引
きつけて大将の船を大砲で撃破する戦法で毛利水軍を敗走させ、毛利・本願寺間の糧道
の遮断に成功した(第二次木津川口の戦い)。なお、これに先だつ3月には信長包囲網
の一画を占めていた越後の上杉謙信が春日山城(新潟県上越市)で死去している。


1331: 名無しさんAA:18/04/13 15:24
 宣教師の時代       ーーー82

 こうした事に「耶蘇会士日本通信」パードレ・オルガンチノの都より發したる書簡で
この模様を綴っている。「 當地の事は既に尊師に書き送りたるが、其後起こりしは昨
日日本の重要なる祭日(盂蘭盆会)に信長のフネ七艘が堺に着きたる事なり。右は、信
長が伊勢国において建造せしめたる日本国中で最も大きく、また最も華麗なるものにし
て、王国(ポルトガル)の船に似たり。予は行きてこれを見たるが、日本においては、
このごとき物を造ることに驚きを得たり。信長がその船の建造を命じたるは、四年以来
、戦争をなせる大坂で河口にこれをおき、援兵、または糧食を搭載せる船の入港を阻止
せんがためにして、これによりて大坂の市は滅亡すべしと思はるる。船には、大砲三門
を載せたるが、何地より来りしか考うること能はず、何となれば、豊後の王が鋳造せし
めたる数門の小砲を除きては、日本国中、他に砲なきこと、我らの確知する所なればな
り、予は行きて、(この目で)この大砲とその装置を見たり、また無数の精巧にして大
なる長銃を備へたり。 (後略)とこれが欧州の物であるかを確かめている。この後も、
毛利氏は陸路3路海路2路で侵入を試みたが悉く止められ此処にやっと先頭の膠着状態
に至った。上月落城後、秀吉は8月の櫛橋伊定とのあいだの志方城の戦い(加古川市)、
10月の梶原景行とのあいだで高砂城の戦い(兵庫県高砂市)によって三木城の孤立化を
めざし、播磨の再平定に努めた。上月落城後の毛利氏では、尚も小早川隆景がその勢い
で山陽道を東上を迫ったが国人衆の反対や毛利氏の合意がなく断念した。この間荒木村
重も離反し旧知の間である黒田孝高が幽閉され、信長は11月、宗麟の子大友義統に対し
、毛利氏支配下の周防・長門をあたえるとの朱印状を出しながら家臣になった宇喜田の
の堺の豪商小西行長は、秀吉の要請には秀吉の専断を叱責して答えている。この村重の
黒田氏幽閉は、村重と明智光秀などと共に第一次石山本願寺攻めの際の失策としての事
で、大坂方面軍司令官の地位を佐久間信盛に奪われ、中国方面軍の司令官の地位もまた
秀吉に奪われ、さらに信長の側近長谷川秀一の傲慢無礼な態度に耐えかねての事だった
とされる。秀吉も又、村重とは旧知の間である黒田孝高を有岡城に派遣したりしたが、
て村重の翻意を促したものの孝高が村重に捕らえられ幽閉される結果しかなかった。こ
れは明智や黒田にも言える事だった。

1332: 名無しさんAA:18/04/13 15:24
 宣教師の時代       ーーー83

 同じパードレ・オルガンチノの書簡はこう伝える。「毛利方よりは四月にあらざれば
援兵の来ること不可能なるが故に、此間に大坂は亡ぼさるべしと思はる。大坂の一向宗
の悪宗派はデウスの教が當都地方に於て有する不便妨害の中最大なるものの一なれば、
我等の主右の如く定め給はんことを祈る。信長は大坂市の周圍に蒔かれたる稲を刈るこ
とを命ぜんとすと傳へらる。之により大坂の日は終了すべし。既に右の船の噂を傳聞し
、此両日中に多數の人密かに大坂を出でたり。信長の重立ちたる部将の一人藤吉郎殿は
又播��に於て三城(野口、神吉、志方の三城)を占領せり。而してカンキ(神吉)の
城を取りたる後、之に近き三木の重要なる城を攻めんとす。かくて信長は其の大なる努
力と部将等の熱心なる盡力とに依りて既に占領したる諸國の外に播��を占領すべしと
思はる。」と一時は毛利によって収まっていた中国地方も、ここに至っては次々と食料
供給の兵站を絶たれても、籠城に至るしかなかった。信長は、豊後の大友義鎮(宗麟)
とも親交を結んで朱印状を与え、毛利の背後を脅かすことに成功し、毛利氏の重臣で、
豊前松山城(福岡県京都郡苅田町)の城主であった杉重良が大友側に通じて北九州での
挙兵し、これにより毛利勢の東上は阻まれた形にまでなった。杉氏は、大内輝弘の乱に
伴って毛利家につくか大友家につくかの葛藤の末に毛利家に従い、大友家援軍の大内輝
弘を攻撃し攻め滅ぼした。しかし戦功で徳地2000貫の地を与えられるが「徳地は公領」
という反対によりこれを返還し、代わりの土地の約束をとりつけた。翌年、毛利輝元に
その約束の実行を訴えたが、返答は空分となり秋月種実との人質問題によって豊前松山
城を退去し。豊前国蓑島城において毛利氏に反旗を翻して大友氏に寝返った。福原家は
は代々受け継がれる安芸福原氏当主でこの頃は毛利家の外戚となり乗っ取られていた。
基本的に安芸の水軍の長だったがこの娘と天正元年(1573年)と婚姻している。安芸の
宮島は勿論、響灘に浮かぶ六連島(むつれじま)諸島の、彦島や竹ノ子島(たけのこじ
ま)や、巌流島として有名な船島の3島を仕切り通行税の徴収の権限を持っていたのだ
。この徴収によって生計を立てていた杉氏は時の権力者の保護の下にその権限があった
。もともと「杉」は当て字であり「過儀」と言う通過儀礼の税徴収を意味していた。


1333: 名無しさんAA:18/04/13 15:30
 宣教師の時代       ーーー84

長谷川秀一は、尾張国出身で、織田氏家臣・長谷川与次の子で長谷川与次は長谷川与次
入道として呼ばれる程の非情な人間だった。とされる。息子を信長の小姓に差し出して
男色化の指南をしたとされ、甲州征伐においても信忠に従って従軍しては。3月には、
武田信豊の首級を信長の元へ届けるほどの強者だったからだ。その後も無抵抗の恵林寺
を焼き討ちを進言し、津田元嘉・関成重・赤座永兼らと共に実行し、寺中の人間を老若
問わずに山門に登らせると回廊から干草をうず高く積み上げて火を放ち、寺の快川紹喜
住職ら150名を生きたまま焼き殺した。とされる。この時から宗門と信長の軋轢が生
じている。この裏には、先の火薬の調合の調合の秘伝を種子島氏から伝えたとする僧が
この中にいたからとされている。つまり朝廷側の内通者がその時いたか、伊賀と甲賀の
攻防があったと考えられる。しかし、その後直ぐに大砲と共に火薬は南蛮貿易で手に入
れていた事からも、無駄骨だったこの明智光秀が教えたかであったろう。ここに、この
非常識な無法者の天下を危惧した明智の姿があったとも言える。秀吉は、結果的にこの
中国地方の入口の宇喜多氏を寝返らせてからは、毛利に中国領土を次々と攻め込んで行
っている。キリスタン商人小西行長の力添えがあったからだ。朱印船貿易を拒否されな
がらも秀吉についていった理由は、バテレン布教活動の不認可があった為と思われる。
平田砦の戦い以降、孤立無援となった別所方では兵糧が欠乏して三木城内からは餓死者
が出はじめた。天正8年(1580年)1月、正月であるにもかかわらず城内から煙がたたな
いのを見た秀吉は、1月6日早朝、三木城の背後の八幡山への攻撃を開始した(鷹の尾砦
の戦い)1月17日、丸裸になった三木城は陥落し、別所長治、弟友之、叔父吉親が城兵の
助命を条件に自害して、2年に及ぶ三木合戦が終わった。その後も兵站路や海路を遮断
して幾つもの城を落とし帰順させ、最後に難攻不落の要害とされる高松城にかかった。
、三方が深い沼、一方が広い水堀となっていて、城の周囲に築かれた堤防は、5月8日に
造成工事が始まり、19日に終え、作戦は、堤防内に城の西側を南流する足守川の流れを
引き込もうというものであった。秀吉は、救援に駆けつけた吉川元春、小早川隆景らを
将とする5万の毛利軍主力と全面的に対決することとなったが、折からの梅雨での城の
周囲は浸水し、毛利軍は手が出せない状況となり。こうしたなかで、秀吉は主君信長の
出陣を請い、信長は明智光秀の援軍派兵を決め、自らも中国・四国平定の出陣しようと
していた。そこに京都本能寺において明智光秀の「本能寺の変」が起こった。


1334: 名無しさんAA:18/04/13 15:43
 宣教師の時代       ーーー85

 そもそも明智光秀と織田信長は旧知の中で従兄弟であった。怨恨説・野望説・黒幕説
などあるが、美濃の土岐氏の支族で、土岐氏が斎藤道三にとって代わられ仕え頃に既に
知り合いだった。信長は短気で苛烈な性格であり、その性格を良く知っていた。光秀は
信長に「キンカ頭」と呼ばれて、(キンカ頭とは禿頭の意味)常々虐げられていた。実
は朝廷の足利将軍に仕えたのも信長の上に行く為だった。丹波八上城に光秀の母は人質
として預けられていたが、その無事は元城主が保障していた。しかし、この元城主を、
信長は勝手に殺害してしまい、怒った家臣は人質となっていた光秀の母を殺害してしま
い、その遺体は首を切られ、身体は風葬にさらされた。その上信長の近習で、男色家の
長谷川に恵林寺を焼き討ちを進言させられ、師と仰ぐ寺の快川紹喜住職ら150名を生
きたまま焼き殺したのである。これには憤慨改むるに、いずれは殺害するとの志はあっ
たはずだ。しかし、石山本願寺に戦いを挑む事になり、秀吉と言う学無き田舎者が戦功
を立てて、その上九鬼水軍には鉄甲船(鉄板で装甲した巨大安宅船)まで建造させてい
た。のである。これには長曾我部が持つ平家残党を束ねた越智水軍と言えども話になら
ない事であった。そもそも九鬼氏は地元領主らの連合である「嶋衆」(しましゅう)の
一員に過ぎず組合であり豪族でも武将でもない船大工が出来る単なる漁民衆だった。こ
の頃の別所長治・荒木村重の寝返りは、毛利軍の東上を期待してのものであって、それ
までも毛利は両氏に援軍を送っていし、それが杉氏や大友の旗上げやその他の事情で足
止めを喰らっていたのである。秀吉には、信長は、長曾我部征伐に光秀を行かせるから
そこで光秀に不穏な動きであらば信長自身が成敗する。と言う事が知らされていた。即
ち信長も毛利も双方ともに勝つつもりの先の算段を打っていた。こうした事は斎藤利三
の密告によって解っていて光秀は動きを探られていたのである。それと同時にその信長
の動向も長曾我部によって光秀に知らされていたのだ。信長と合戦になった場合の備え
として隠し玉の九鬼水軍と秀吉の九州作戦を持っていた。しかし光秀は単に信長の司令
で長谷川氏などに囲まれて排除計画が進んでいた中の防御に過ぎなかった。当時の毛利
古文書は、変節の宇喜多氏の動向抱えるていて、将軍足利氏の処遇更に同盟する諸侯と
の結束が討議されている。先の加賀での一向一揆以降、天正4年に、信長は荒木、細川
、明智、原田に本願寺攻めを命じてからは、一向宗門の反信長で固まり一向一揆の拠点
である摂津の石山本願寺攻めを決断したのだ。この4武将は恐らくこの悲惨さに嘆き、
その裏に見え隠れするキリスタンの影を知っていた。少なくとも一向一揆はこれまでの
窮状嘆願のうち払いの一揆と違い、バテレンが伝えた新しい形の武闘の一揆であった。

1335: 名無しさんAA:18/04/13 15:51
本願寺攻めの佐久間信盛折檻状でも「丹波の国での光秀の働きは天下の面目を施した」
と信長は光秀を絶賛した。この時もともと、和泉上守護家出身の細川藤孝(幽斎)は、
傍流の細川氏として足利義昭の側近としてその将軍職就任に尽力したが、義昭と信長の
対立以降は、長男の忠興(三斎)とともに信長に従い山城国の長岡を賜り名字も長岡に
改めて明智光秀の組下として活躍している。しかし、丹後一国を領した後は本能寺の変
で光秀に味方せず、羽柴(豊臣)秀吉に服した。この細川氏の裏切りが明智には信じら
れ無かった事だろう。長曾我部氏も実は天竺細川家だったからだ。細川吉田氏と婚姻関
係を持ち命令に従わない長曾我部氏を滅ぼし、四国全土を我が物とするための、信長の
策略であることは言うまでもない。自分を頼り、忠節を尽くしてきた長曾我部元親を捨
ておくわけにはいかない光秀と簡単に捨てて乗り換える秀吉とその声に傾ける信長との
違いがここに露呈し細川氏の為に立ち上がり細川氏が離反したのだ。これには明智光秀
も納得がいかなかっただろう。天竺氏・横山氏・山田氏ら周辺豪族を滅ぼし、勢力を拡
張し長曾我部を名乗って四国入りを果たし、信長に仕えていた長曾我部は、周辺豪族か
らも中央信長にも見捨てられた。宇佐山城に入った頃の光秀の身分は幕臣であった。滋
賀郡を与えられたのを機に織田家の家臣に編入されたが。同年冬に足利義昭に「先の見
込みがない」と暇願いをした。(曾我助乗宛暇書状)しかしこれを不許可としたのが、
細川氏である。又翌年元亀3年(1572年)4月、河内国への出兵に従軍するが、まだ義昭
方で働いていた。しかし、元亀4年(1573年)2月、義昭が挙兵。光秀は石山城、今堅田
城の戦いにおいて、きっぱりと義昭と袂を別って織田信長の直臣として参戦したのだ。
織田家には無かった軍法を、光秀が家法として定めた『明智家法』後書きに「瓦礫のよ
うに落ちぶれ果てていた自分を召しだしそのうえ莫大な人数を預けられた。一族家臣は
子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」という信長への感謝の文を書く
に及んでは、茶会でも「床の間に信長自筆の書を掛ける」とある。この光秀に執拗に近
寄ってキリスト教入信を迫ったのが高山右近や小西行長やパードレ・オルガンチノであ
った。もちろん秀吉にも近づいたはずだ。織田信長のキリスト信仰からである。しかし
快川紹喜住職に学んだ彼にはキリスタンになるなどはとんでもない話だったし、秀吉も
又戦争状態の敵に愛情もって接しよなど、自分たちも数多く海賊行為や奴隷刈でここま
で来てると、黒人与助が言っていたではないか。との思いがあった。本来秀吉が早くに
明智勢か織田勢の加勢を必要とすると明智は思っていた何故なら例え織田信長に名があ
ろうとも毛利500万に豊臣3万で中国地方が制圧されるとは思えなかったからだ。し
かし、信長出陣のこの時、既に明智は自分が責められ細川長曾我部氏攻撃の矢面になる
事は解っていた。

1336: 名無しさんAA:18/04/13 16:00
 宣教師の時代       ーーー87
石谷家は美濃国石谷郷(岐阜市石谷)を本貫(ほんがん)とする一族で13代足利義輝
に仕えたが、永禄8(1565)年、義輝が松永久秀らに暗殺されたことから、娘の嫁
ぎ先である長宗我部家を頼って土佐に渡った。その石谷光政の知行を、三好長慶が保証
している。「石谷頼辰は明智光秀と羽柴秀吉が争った山崎の戦いで敗れ、土佐に身を寄
せました。しかし天正14(1586)年12月、島津氏と大友氏が、大分で激突した
戸次川(へつぎがわ)の戦いで、信親とともに討ち死にし、家が絶え絶家となる。」こ
の後、後継者がいなかったため、光秀の重臣・斎藤利三(さいとう・としみつ)の兄に
あたる頼辰(よりとき)を養子に迎えた。つまり元親と利三、頼辰は義理の兄弟になり
、頼辰は明智と長宗我部を結ぶ実務者として、坂本城(大津市)と元親の居城・岡豊城
(おこうじょう、高知県南国市)を行き来したと考えられている。しかしもともとは、
長曾我部の領地であった。織田信長と長曾我部元親の関係は、当初は良好で光秀を交渉
の窓口にして、四国で元親が占領した分はすべて所領にしてもよい。とする約束を取り
付けていた。ところが、この長曾我部元親に対して、阿波の三好氏が秀吉を窓口にして
信長に急速に接近し、信長と元親の関係はしだいに悪化。ほぼ四国全土を手中に収めて
いた元親に、信長は土佐と阿波の南半分以外をすべて返還するよう命じたのである。こ
の経過から所領安堵を両方に取り付ける必要があったのだろうが、石山本願寺を挟み撃
ちできる地理関係にある四国の長宗我部との同盟は、有用なものだったのだが、本願寺
が織田に降伏した翌年には、信長は長宗我部との同盟関係を絶ち。阿波を巡った長宗我
部と対立していた三好康長に肩入れし、三好の阿波平定を支援する立場に回ったのであ
る。その上一方的に信長は、長宗我部の支配を認めるのは土佐と阿波の一部のみと通告
した。当初の約束をほごにされた長曾我部元親はこれに怒り信長の命令を拒否し、織田
と断交した。これにより信長は三男の神戸信孝や丹羽長秀らに四国征伐を命じていた。
この頃家康はこの年の三月に武田家を滅ぼした功績で、美濃から駿河国一国を加増され
て信長の喜びに付き合って上洛していた。先に返礼の宴会を美濃で行いその返礼に安土
城にやって来たのである。家康を信長はもてなします。饗応役には明智光秀が指名され
、彼は家康の接待に当たります。ですが、何故か今度は中国地方で毛利氏を攻めている
秀吉の援軍に向かうようにと命ぜられ国へ戻り、家康の接待役が変わる。丹羽長秀(に
わながひで)、堀秀政(ほりひでまさ)、長谷川秀一(はせがわひでかず)、菅屋長頼(すが
やながより)らである。この陣営で解る様に長谷川氏勢にやられたのだ。なぜこの長谷
川らにやられたか。長曾我部と明智の兄弟を戦さをさせる。それが非道の長谷川の魂胆
であったのだ。この計画に家康は加担した。

1337: 名無しさんAA:18/04/13 16:03
 宣教師の時代       ーーー89
 長宗我部氏、明智両氏は親族なのだから、信長の四国征伐を阻止する目的で、密約が
あったという推測もできる。最近見つかった文書では、「阿波の一宮、夷山、畑山の諸
城からは撤退するが、海部、大西両城は土佐の出入口にあたるので、このまま領地とし
たい。信長が甲斐の武田征伐から帰ってきたら、従いたい。」などといった内容の手紙
を長曾我部が送っているのが見つかっている。しかし長曾我部氏以上に明智氏族は問題
だった。それまでの約束が反故にされて面目はない。信用のない武家は今後地に墜ちた
地位になるのは必然だった。この中で、信長配下の有力武将は他の戦いに明け暮れて、
いまは、京都には誰もいないといった好材料が揃っていた。憎しみはあるものの具体的
計画のないままに、斎藤利三の忠告と後ろのない状況に今や立つしかない。こう説きほ
だされて、天正10年(1582)6月1日、申〈さる〉の刻(午後3時から5時ごろ)に、
居城である丹波・亀山城にいた明智光秀は家臣たちに出陣を命じる。だが、その目的地
は明かされない。軍勢が勢揃いした午後8時ごろ、はじめて重臣たちに重大な決意を告
げる光秀。重臣たちは驚愕するが、しかし光秀の想いを汲み覚悟を固めた。兵たちには
、今日よりして天下様になられる。出世は手柄次第だ。勇み悦べ!」と触れが出されて
本能寺の変(ほんのうじのへん)に及ぶのである。そして彼が欲しかったの3人の首で
あった。与助と信長と長谷川である。だが3人とも首が出てこなかった。これで失敗し
たのかと思考停止になったのだった。堺の代官である松井友閑(まついゆうかん)や、堺
の豪商の津田宗及(つだそうぎゅう)らの茶会に招かれていた家康の動向も又掴んで居な
かった可能性も多い。接待係だったのだから本来家康の首まで取る事があってもいいは
ずだがそれを行っていない事は突発的事件で用意していなかった事だったのだ。更に、
家康は信長死すの報を携えた豪商の茶屋四郎二郎(ちゃやしろうじろう)に出会ったため
に知ることができたとされる。そもそもこの茶会も奇妙な陣営である松井は足利義政に
仕えて以来、代々幕臣の家来である。しかし永禄の変で足利義輝が三好三人衆で暗殺さ
れ、織田信長の家臣となった。織田家で財務担当し、外交能力にも長けて、上杉謙信宛
の信長書状に副状を発したり、三好康長の投降交渉(高屋城の戦い)、本願寺との和睦
工作、謀反を起こした荒木村重や松永久秀の説得交渉、後期には伊達輝宗や大友宗麟ら
遠方の大名との外交交渉にも奔走しているのだ。宗及も永禄年間には石山本願寺の下間
丹後の一族と通じ、堺では三好政康を頼みとしていた。織田信長に接近すると明智光秀
の茶会にも顔を出していたが出さなくなった。後に実権を握った豊臣秀吉にも信頼を得
て茶湯者八人衆の一人としてちゃっかり座り、今井宗久、千利休とともに三千石の知行
を与えられると言う変節者だ。黒田如水とも永く親交があり策士でもあった。

1338: 名無しさんAA:18/04/13 19:43
 宣教師の時代       ーーー90

「信長公が死にました。」との報告に、黒田如水は「殿喜んで下さい。又一歩天下取り
に近づきましたぞ。」と言うぐらいで、世の動乱が好きな者であった。又中国大返しと
言う物は無かった。つまり既にこの時九鬼水軍の亀甲船を手に入れていた。と言える。
亀甲船そのものに乗らなくともそれら一連の艦隊に乗って大阪に帰って来て京都付近ま
で送ったと考えれば全く不都合ではない。つまり、この信長の死を知らせて来たのは、
信長を乗せて四国討伐に出るべき用意されていた船だったのだ。又、家康を逃がした茶
屋清延(ちゃやきよのぶ)は元武田氏に仕えた武将だった小笠原長時の家臣、中島明延
が武士やめて京都に店を構えたのが始まりとされ、将軍・足利義輝が、この中島明延の
屋敷にあった茶屋にてよく「茶」を飲んでいたことから「茶屋」が屋号になったとされ
る。伊賀ののものと好みを通じていた。その子茶屋清延は、若い頃は家康に仕え、三方
ヶ原の戦い等で活躍して「橘の家紋」を賜ったとされる。三方ヶ原の戦いは家康が馬上
で脱糞するほどの負け戦さであった。つまりはたはたと座り込む家康の世話をした御礼
と言うわけである。本能寺の変の際、堺に滞在中であった徳川家康一行に早馬で一報し
、後世に「神君伊賀越」といわれた脱出劇の際も、茶屋清忠が父の地盤を引き継いで、
徳川家御用達商人をつとめいた関係で、この京都の町の動きを逐一報告していたと言え
る。物心ともに支援を行った。この恩により、徳川家康の御用商人として取り立てられ
る。従って伊賀越えを先導するのはとうぜんだった。信長の方は博多の豪商・島井宗室
を正客に、京都・本能寺で自慢の38もの名物茶道具を披露した茶会を終えて、僅かな
手勢と共に本能寺に滞在していた。神屋宗湛・大賀宗九と並び「博多の三傑」と呼ばれ
る。「武士とキリシタンには絶対になるな」などの遺訓一七ヵ条をした人物だ。大内氏
時代の日朝貿易で富を得て、数奇者として朝鮮貿易業者として交歓しあった。京都大徳
寺にて出家し、名を宗室とした人だ。博多商人にして珍しい禅僧の商人だった。しかし
もともとは神社が海外貿易の中心だった。宗像神社、香椎宮、崇福寺、聖福寺、承天寺
、妙楽寺なども大々的に貿易をやっていた。博多宗金(そうきん)は遣唐使時代から、
代々の銅銭の輸入元だったと言う。神屋宗湛は祖父の神屋寿貞(かみやじゅてい)が、
石見銀山(いわみぎんざん)を開発し、採掘権を得て、銀を海外へ送り、輸入品にかえ
て成金になった海賊だった。日本がマルコ・ポーロ時代に「銀島」と言われ銀が豊富で
である。と言う偶像を作った先駆者だった。その銀で、中国朝鮮の高級織物、奢侈品に
かえて持ってきて朝廷に売っていた。大内義隆は筑紫商人の肥富(こいずみ)を代表に
将軍足利義満(あしかがよしみつ)に謁見させ、この進言で勘合貿易が始められた。

1339: 名無しさんAA:18/04/13 19:44
 宣教師の時代       ーーー91

 秀吉が入ってくる前の博多は、菊池氏との商人の協定自治都市だった。田畑の殆ど
は寺社領地であり、庶民は大宰府の直接支配の中にあったからだ。大内義隆と大友宗麟
が、博多を取り合うと、何回も大火に見舞われた。その為本拠地山口や大分の博多商人
が復興を掲げて、名代に家来を置き経営を担った為、元からの地元商人は協力するか、
長崎方面に出るしかなかった。従って博多経営は全てが遠隔操作みたいな都市に変化し
た。秀吉が、朝鮮出兵をする前の頃はただの野原の港町に変わっていたのだった。しか
し早々に博多を町おこししていた宗湛は、秀吉の九州平定に宗湛の茶室に秀吉を招いた
。そのときには、御家来衆が500人程いたが、全部入れて、お膳を500人分用意して馳走
を施したという。勿論宗湛の家だけでは、入りきれずに、そのとなりの豪商の家も3軒
4軒借りたという事だが、宗湛の家系はの神屋氏は、代々博多の貿易商人の家であり、
曽祖父の神屋寿貞は石見銀山を発見し、日本への灰吹法導入によって本格的開発に携わ
った人物であったと言う。博多の豪商神屋家5代当主・神屋紹策の子として誕生して、
同じ博多豪商の島井宗室と共に上洛し、時の天下人・織田信長に安土城にて謁見してい
る。その後秀吉は、「金はいくらでも貸すから大々的に商売してよろしい」と、宗湛に
言ったと言う。秀吉は、その当時日本全国の金(きん)を1人占めした財産家であった
。その秀吉から吻椴(ふんだん)に金(かね)を借すから商売を進めよ。というのだか
ら相当にもうけただろう。それでも、宗室、宗湛の家は広いことは広かったが、調度品
などは意外と質素だったようだ。天下を取ると、「筑紫の坊主はどれぞ、近うよれ。」
といって、非常に親しげに神屋宗湛を招じ入れて、並居る千利休や堺の商人を退けて、
歓待した。そのときは、石田三成(いしだみつなり)の給仕で料理を頂戴したという記
事が残っている。結局は先々博多の富や朝鮮征伐の軍需基地の下心があったのだろう。
秀吉公は御対面すると、「朝鮮出兵を思い立ったので其方を呼んだ、知っている通りを
述べよ。」という御言葉であった。宗室は、「朝鮮は韃靼(満洲)につづき、要害の地
であって、日本とは大変様子が違っている。出兵のことは断念した方がよいでしょう。
」と申し上げた。と言う。すると秀吉公は大変機嫌を悪くして、「自分が思い立てば唐
土四百余州を攻め潰すことも掌(たなごころ)を反すように簡単なことである。其方ら
は商人故に、それがわからないのだ。」と仰せられ、奥に入られてしまった。

1340: 名無しさんAA:18/04/13 20:48
 宣教師の時代       ーーー92

このことがあってのち宗室は秀吉公からは、うとんぜられるようになってしまった。と
茶話で嘆いているようだ。宗室の方は、嶋井家は代々博多で酒屋や金融業を営むかたわ
ら、寧波の乱で大内氏が東シナ海の貿易を独占すると明や李氏朝鮮とも日朝貿易を行な
って、巨万の富を築き上げた。大賀宗九(おおがそうく)は、博多商人として島井宗室
・神屋宗湛とともに「博多の三傑」と呼ばれる。名は信好(のぶよし)。子孫は福岡藩
黒田家の国元御用商人をつとめた。子の二代目は、茶人でもあった大賀宗伯。大友氏の
対馬奉行と共にしていた対馬国の宗氏の家臣で大友がキリスタンかぶれになったので離
れて商人になった、根っからの一匹狼の商人だった。時代の中で一代で商人として茶人
の千利休などと親しかったので宗室と共に高麗茶器などを仕入れて財を成している。黒
田氏と仲が良かったともされる。福岡城の建設には多くの資材を調達している。此処に
一つの仮説が成り立つ。彼らはキリスタン大名小西行長との関係である。瀬高の雀の湯
は古来この地の泉に雀が病気の治癒になった事から、その泉の源泉を掘り鉱泉を雀神社
として神泉水とした事に始まる。しかし一方で「雀」は「鎮め」(しずめ)が変化した
ものともされる。口伝によれば、崇神天皇の御代に豊城入彦命が西国鎮護のために勧請
した「鎮社(しずめのやしろ)」に始まるとされる。一方、天皇行幸の時代に出雲国の
出雲大社の分霊を祀ったことに始まるとする伝承もある。室町時代・戦国時代には荘園
公方家と神社荘園の境とされここでの話し合いが船上の宴となったことから。船を置く
小屋が作られたと言う。これが、瀬高船小屋の由来である。秀吉も参拝し「天下泰平国
土安穏」を祈願したとも伝えられ、その時に筑後羽犬塚に立ち寄り命名をしている。と
される。又この近くには津江や日之出町或いは川犬など地名も存在している。フスタ船
で寝ていた。コエリヨを秀吉が訪ねたのは1586年である。翌1587年(天正15年)に
、九州平定を終えた秀吉は、ポルトガル商人が日本人を奴隷等として海外に売っていた
事を知ってしまって、話しようと立ち寄った。しかしその大砲の正確な射的や船の確か
さに仰天して言い出せなく笑っていたのだろう。だが、それをそのままにはできない。
と、その後急遽バテレン追放令を発布、布教責任者であるコエリョを召喚して叱責して
いる。フスタ船を建造して大砲を積込み、更にはそれを博多にいる秀吉に見せるという
行為を行ったがコエリョ、それまで恐らく1年はかかったはずだが作り終えていた。コ
エリョは1572年(元亀3年)に来日して、何故か1590年(天正19年)に肥前国加津佐で
没している。


1341: 名無しさんAA:18/04/13 20:50
 宣教師の時代       ーーー93

 加津佐というのは、鎌倉期〜南北朝期に見える郷名肥前国高来郡のうち高来郡内で,
伊佐早荘を除いた地域を東西に分けた東側を称したものらしい。中世の神代村・土黒村
から有間荘・加津佐村・串山郷に至る広い範囲にわたっていた正応5年8月16日の、
肥前河上宮造営用途支配惣田数注文には、「公田分」として「高木東郷二百五十四丁」
とあり,本来国衙領で朝廷の地、幕府の地、であったことがわかる。とされる。これは
長崎を諫早から佐世保側と雲仙側に分けてみて、東の雲仙側の事で口の津の別名と言う
事になる。ではなぜ此処を本拠地として没したのか。実はもともとこの口之津がずっと
以前からの港としての外国船の寄港地だったからである。肥前の熊である龍造寺 隆信
(りゅうぞうじ たかのぶ)は1584年享年56歳で没したが、それは島原の地だ。
 天正8年(1580年)に2万の兵で柳川城を攻めた。しかし、九州屈指の難攻不落の城
であった為に、全く羽がたたず、又城方も城兵の疲弊が著しかった。、鎮漣の伯父であ
り、隆信側に立っていた田尻鑑種の勧めで和睦した。しかしその後すぐ、蒲池連並が、
島津氏と通謀していることが明らかになったとして、天正9年(1581年)に、隆信は、
鍋島直茂、田尻鑑種などと謀りて、和解の猿楽の宴と称して鎮漣を肥前に誘き寄せて騙
し討ちにして佐賀で暗殺した。その後も柳川に兵をあげ、残った柳川の蒲池氏一族も皆
殺しにした(柳川の戦い)。蒲池氏は龍造寺氏にとって大恩ある家であった。龍造寺四
天王の一人・百武賢兼は、この非情さに出陣を促す妻に対して「このたびの鎮漣ご成敗
はお家を滅ぼすであろう。」と答えてしきりに涙を流し、ついに最後まで出陣しなかっ
たという。また隆信の尖兵となった田尻鑑種も後には一時的にではあるが、隆信から離
反した。若い頃から肥前統一までは、英気にあふれた人物だったといわれる。しかし隠
居した後は酒色に溺れて鍋島直茂を政務から遠ざけるなど、乱行が目立ったとされる。
宣教師ルイス・フロイスの書簡によれば、隆信は肥満体のため六人担ぎの駕籠に乗って
いたという。隆信の残した言葉が「分別も、久しくすれば ねまる」というものがある。
「ねまる」とは「腐る」の意で、熟慮も過ぎると却って期を逃し、腐る結果になる事も
ある。」という意味である。この考えを実践した結果、一代で龍造寺家の版図を大きく
広げた一方、少しでも疑いのある人物は次々に処断し、人望を失う行為も多々行った。
つまり隆信は城に戻って肥前を平定すると自身が「腐」ってしまっていたのである。

1342: 名無しさんAA:18/04/13 20:55
 宣教師の時代       ーーー94
 良くも悪くも戦国時代の生きる術で、隆信の人生を左右し、彼の方針で身を亡ぼす結
果となった。ルイス・フロイスが残した記録では、沖田畷の戦いに於ける隆信の軍備に
対し、「細心の注意と配慮・決断は、カエサルの迅速さと知恵でも企てられないように
思えた。」と評するぐらい繊細で即断した結果だったようだ。カエサルも軍事に関して
は速断の人であり、フロイスは隆信をそれ以上と評している。一方でカエサルは敵対し
た相手を許す場合が多く、当時のヨーロッパでは鷹揚な人物として有名で、上述の隆信
の人物評とは正反対である。なお、隆信はキリスト教には否定的だったようで、三男・
後藤家信がキリスト教に入信しようとした際、これに猛反対して入信をやめさせた事も
あったという(フロイス日本史)。沖田畷の戦いは、戦国時代の天正12年3月24日
(1584年5月4日)に肥前島原半島(長崎県)で勃発した戦いだ。九州の戦国大名として
龍造寺隆信が絶頂の頃に、有馬晴信・島津家久に挑んだ合戦である。「畷(なわて)」
とは湿地帯の中に延びた小道の意味である。前山と森岳城(現島原城)との間にある道
も幅が大変狭かった所で合戦は行われた。隆信は森岳城を俯瞰する小山に上り、敵方の
陣営を一望してその数の少ないことを知り容易に勝利を得ることが出来ると驕慢の態度
を示したとされる。しかしこの時は既にコエリヨはフスタ船を作り終え砲台もつけて、
この口之津で薩摩などとの取引をしていた筈なのである。更に言えば有馬氏は大村氏と
共に既に洗礼を受けた息子達が龍造寺の人質になっていた状態だったのだ。コエリヨは
その船での戦闘に頼まれても当然の筈だ。更に洗礼を受けた数少ない信者が捕らえられ
た敵将なのである。実は柳川城が落ちた時、宣教師は、江の浦城付近までジャンク船で
やって来たと言う話があるが嘘だろうと思っていたが、案外あったのかもしれない。又
この沖田畷の戦いは、島津・有馬連合軍は兵力的に圧倒的に不利な兵力であることから
、隆信は森岳城を俯瞰する小山に上った時、敵方の陣営を一望してその数の少ないこと
で容易に勝利を得ることが出来ると驕慢の態度を示した。と言う。辰の刻に戦闘が始ま
り、島津方は龍造寺軍をおびき寄せる計略を用いたため応戦をせず、敗北を装い退却し
た。追撃してきた龍造寺軍に弓や鉄砲を乱射した為、先陣は崩れ、これを助けようとし
た二陣も左右が深沼で細道のため思うように進めずに難儀をしていた。それまで潜んで
いた島津方の伏兵が弓、鉄砲を射掛けた。不意をつかれた龍造寺軍は深田に入り込んだ
ため射殺されていった。首を打ちとったとされる人物は万善仲兵衛弘賀であり、隆信は
籠に乗り6人のかつぎ手と共に、アシの茂みで隠れていたところ、「伝令」と言いなが
ら近づくも6人を素早くなで切りえ這いずり逃げる隆信を、一刀のもと首を落としたと
もされる。

1343: 名無しさんAA:18/04/13 21:01
 宣教師の時代       ーーー95
 今の島原城のこの地は、森岳といい、この城もかつて別名『森岳城』といった。天正
12年(1584)、沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)で、日野江城主・有馬晴信
が本陣を構え、佐賀の 龍造寺隆信 を討ち取った地とされる。慶長17年(1612)、有馬
晴信が、賄賂で斬首された、岡本大八事件をきっかけに追放、死罪となると、元和2年
(1616)、大和五条(奈良県)から、松倉重政が入封した。重政は当初、日野江城に入
るも、その日野江城と支城の 原城 を廃し、資材や石垣の石などを転用して、元和4年
に(1618)、島原城の築城にとりかかったとされる。原城の城も日野江城も解体され、
この島原城は総石垣で作られて行った、4重5階の天守と櫓49棟を建てたこの城は、
4万3千石の大名にとっては大きく高く、過分な城だった。その結果、領民に重い税の
負担を強いることとなり、それが、島原の乱が起こった原因の一つとされている。島原
城の天守閣は、明治9年に一度解体され、現在の天守閣は、昭和39年に外観復元された
五重の復興天守となった。この地の地盤は火山灰や溶岩流で形成されており、築城には
危険な工事が伴った。本丸には、松倉重政の祠が建っており、重政と築城工事中に亡く
なった人々が祀られている。この島原城は総石垣で、領民に重い税の負担を強いること
となり、それが、島原の乱が起こったのだが、幸い原城に立て籠った為破壊を免れたが
、この城は地下には物資や奴隷を集因する機能があった。と言う。しかしこの城は、誰
がみてもおかしな城だと解るだろう。まず平地にあり突然と石垣が組まれさらに天守閣
だけとは言え真四角のただの小屋造りの上に庇が出た普通の長屋造りなのだ。他の城に
見られる雅(みやび)さや防御工夫は全くないのだ。つまりあまりにも凡庸な城な造り
なのだ。と思うにここに初期のセミナリヨの洋館が作られていたと考えてもいいのでは
無いだろうかと考える。1579年、イエズス会の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ
神父は、日本における布教の状況を視察すべく来日した。当時、日本における布教の責
任者であったフランシスコ・カブラル神父は、日本人に対する偏見が強く、日本人司祭
・修道士の育成を全く行っていなかった。その状況に驚いたヴァリニャーノは、すぐさ
まこれを改善するよう命令した。ヴァリニャーノは、日本人の司祭・修道士を育成する
ことが日本布教の成功の鍵を握るとみていた。こうして作られた教育機関がセミナリヨ
(初等教育)とコレジオ(高等教育)、およびノビチアート(イエズス会員養成)であ
った。セミナリヨを設置するための場所選びが始まった。京都に建てることも考えたが
、京都では仏教僧などの反対者も多く。そこで織田信長の元を訪れ、新都市安土城の隣
のよい土地が与えられ作られたという。しかしヴァリニャーノと分かれてこの地に残っ
た神父の方が断然多い。つまりここに最初の印刷機や学校を作った事の方が自然だ。

1344: 名無しさんAA:18/04/21 15:03
 宣教師の時代       ーーー97

 豊臣秀吉が明国征伐のために名護屋に赴くとの布告があったため、加津佐のコレジオ
と大村のノビシャドは解体され、1591年(天正19年)に目の届かない天草に移された。
移動には多数の人が働き、毎日二百、三百、ときに千人の人が働いた。それでもコレジ
オが天草にあったのは1597年(慶長2年)までであった。天正遣欧少年使節の伊東マン
ショ、原マルティノ、中浦ジュリアン、千々石ミゲルなどもそこで勉強した。グーテン
ベルク印刷機で平家物語、イソップ寓話、羅葡日対訳辞書が刊行された。天草のコレジ
オには館長のイタリア人フランシスコ・カルデロンを始め、13人の教授(外人10名
、日本人2名)がいた。コレジオで学んだ59名のうち、15人が日本人司祭となった
。また、コレジオの生徒の中には、ポルトガル人6名とイタリア人1名がいた。活版の
印刷技術は、木版では、もっとも早いものでは、紀元前百年頃ころから使われだして、
7世紀頃には確立したとされています。金属活字以前、11世紀から13世紀頃には、
東アジアで木活字、陶活字、金属活字が使われてきている。なお、印刷された年代を、
確定できる最古の印刷物としては、日本の法隆寺に保存されていた「百万塔陀羅尼」 (
770年) があります。これは、木版印刷によるものです。世界最古とされるのは今の
所、紀元前二千年前に作られた、パピルス文書「パピルス・プリス」が、現存する世界
最古の印刷文書とされている。豊臣秀吉が名護屋城築城には理由があったとされる。そ
れがキリスタンの撲滅だった。つまり朝鮮半島は武将達特にキリスタン大名の処刑場で
あったのだ。それらが日本に又逃げて来ない様に見張る必要があったのだ。これまでも
幾らかのキリシタン大名を処罰したが、その教義から切腹を潔しよしとしなかったのだ
。更に、九州にキリシタンが増えて来た事や、南蛮船の往来を止める事に主眼があった
。中でも明智光秀の信長を討った日からの亀甲船の盗難には頭が痛い問題だった。黒田
氏は亀甲船を影で操っていた。大分では怪しまれる事からその所在は天草から壱岐対馬
や朝鮮の済州島などに置いていた。更にコエリョの持つ砲を持つフスタ船も問題だった
はずだ。沖田畷の戦いでも、有馬鎮貴は5,000人の手勢、島津軍と合わせても総勢1万人
に満たなく連合軍に関して、ルイス・フロイスは『日本史』において有馬方には2門の
大砲が船積みされても砲手がおらず、一人のアフリカのカフル人が弾丸を込め、一人の
マラバル人が点火し、厄介な操作にもかかわらず見事に発射したと記述している。また
同じくフロイス『日本史』(西九州篇第五十三章)における記述によると「敵は再び我
らの柵塁を攻撃してきた。薩摩勢はこれに応戦したものの、すでに幾分疲弊しており、
彼我の戦備は極度にちぐはぐであった。としてこの大砲の船の襲撃を認めている。

1345: 名無しさんAA:18/04/21 15:04
 宣教師の時代       ーーー98

 沖田畷の戦いでは、龍造寺軍の兵力は5万7000人であった。薩摩方の記録には6万人
とある。ルイス・フロイスの書簡には2万5000人とある。5万7000という数字は『北肥
戦誌』に記述がある。実は当初に2万5千人を送り込みこれに龍造寺が乗り込み雲仙の
島原港当たりに着岸して兵を進めた。又一方に2万で今度はもう一方の多比良港の近く
つまり佐賀寄りに着岸したとされ双方から挟み内にすると言う戦法だった。しかし龍造
寺が死んだ時伝令が来て苦戦していると言う事で、直ぐに本来柳川城にて筑後国を抑え
るよう命じられていた鍋島直茂が、柳川城へ父の鍋島清房を入れて参陣した。その人数
は詳らかにないが、そうして5万を超え6万に近かった。しかしフロイス『日本史』に
よると、直茂は兵船50槽で、人員5千で島原城へ入らんとしたが、有馬島津連合軍の
為に上陸できず三会城(別名:寺中城)へ入ったという。この時、『北肥戦誌』にある
当初の数5万7000と合わせれば6万以上の動員に達する様になったが、フスタ船の砲撃で
兵員は殆どが逃走した。三会城は別名寺中城とされる。築城年代は定かではなが城主は
浜の城の城主である島原氏の一族和泉左京であった。和泉氏のルーツは和泉守の官職を
清和天皇の子孫で源姓を賜ったり、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まるとされ
るが九州の和泉氏は殆どが大神氏による湧き水の里で熊本の地名が起源(ルーツ)であ
る。藤原氏の秀郷流、惟宗氏などにもみられる天智天皇の由来は湧水地のことであり、
和泉は二字佳名の命により泉を変更した名字だ。島原純豊は、ルイス・フロイスの『日
本史』によると、島原純茂は有馬家中で西郷純堯と共に「同国の最も身分の高い殿の内
の二人」に数えられていた。純豊は永禄6年(1563年)浜の城や近隣の高台を宣教師に
与え、時期は不明だが、キリスト教を巡る有馬家中での対立で古賀越中守を暗殺した。
天正6年(1578年)1月には、有馬氏討伐のため高来郡へ龍造寺隆信が南下してくると
これに従属している。これは彼の子も又鍋島氏に人質を取られていたからだ。この沖田
畷の戦いでは、既に龍造寺方に属してる。つまりその部下である和泉左京(いずみさき
ょう)は三会城別名寺中城で前の日に既に龍造寺隆信を入城させてもてなしているので
あった。此処に謎がある。西郷純堯(さいごうすみたか)は、高城城主であった武将で
ある。大友方として多久から小城に進軍し小城を突いた。龍造寺隆信が伊佐早侵攻の為
出陣してくることを知った純堯は、有馬氏に救援を求めたが、神代氏や島原氏、安富氏
が龍造寺方に付いたため、有馬氏は純堯に援軍を出すことを断念したが、このため武雄
の後藤氏が反旗を翻し平戸の松浦隆信の支援を受けてやっと帰城できていた。この時に
多くの子息子女が龍造寺や鍋島方に捕らえられ人質となったのだ。

1346: 名無しさんAA:18/04/21 15:05
天正12年(1584年)龍造寺軍と有馬・島津連合軍が戦った沖田畷の戦の前夜、龍造寺隆信
はこの寺中城で過ごしたが、沖田畷の戦で討死し、寺中城も島津氏の軍勢によって落と
された。戦後、居城である浜の城は有馬晴信、島津家久勢に包囲され島原純豊は降伏し
た。その後、純豊は鍋島直茂に仕えた。文禄・慶長の役では鍋島氏の陣立表に彼の名が
みえる。雲仙の高城は今や高城神社と変わっている。実は高城(たかき)は、城とは名
ばかりで この松浦氏の家臣である島原氏の武将和泉氏の食客として住まわせてもらっ
ている形であった。西郷純堯は本来伊佐早城の家老であった。大のキリシタン嫌いで、
あった。にも関わらすキリスタンかぶれの大友宗麟になびいたキリスタン大名の有馬氏
が、仏教徒で高僧となった龍造寺と戦い、その最前線にいたのである。そして負け戦を
強いられて、完全に有馬氏と離反するも又龍造寺は没して有馬氏も鍋島氏も島津氏にや
られた。その島津氏も又最後には豊臣氏に制覇されたのである。幾度もの殿の変節が繰
り返されながらこの地にいるしかなかったのである。西郷純堯はもともと菊池氏族であ
る。しかし元寇の時伊佐早領地が勝手に朝廷によって竹崎氏に分け与えられた事で領地
がなくなった事で菊池氏の意向で、松浦氏に入り伊佐早氏の家臣になった。しかし菊池
氏の衰退と同じに流民に変わってしまった。その後大友配下となったものの、その地位
は低く、有馬氏は松浦氏を束ねて肥前を乗っ取りその下に甘んじた。三城七騎籠は、自
城に戻った際、この地を治めていた大村純前は、大村館に居住して、既に三城城を築き
自城がなく、1564年、キリシタン大名である大村純忠はこの三城城に移っていた。三城
城(みきじょう)は標高38mの平山城で、比高は30mとなる。別名は留松の城、大村城と
も言う。三城城の西麓には「富松神社」になり、富松城は無残にも神社に変わっていて
、又、旧来の三城の城も「三城神社」となっていたのだ。この時に西郷達は三城城には
入れず攻撃に転じた。留守を預かった朝長純盛と朝長純基が率いる手勢は14名で大手門
を守らせ、今道純近には16名で搦手門、北の城と南の城の要所には宮原純房、藤崎純久
、渡辺純綱が僅かな手勢で固め、本丸は大村純忠と一門衆・大村純辰で13名と言う布陣
で戦い、この籠城に辛うじて七騎の大村純盛、朝長純盛、朝長純基、今道純近、宮原純
房、藤崎純久、渡辺純綱らは、小人数ながらも三城城への侵入を試みる西郷を、果敢に
撃退してこの名がついた。この三城城は慶長4年(1599年)に大村喜前が玖島城を築城し
拠点を移すまでの仮の本拠地であった。肥前・玖島城に移封し大村純前は有馬晴純の次
男純忠を養子に迎え家督を継がせた。これが初のキリシタン大名として知られる大村純
忠である。純忠は永禄6年洗礼を受けてバルトロメウの洗礼名を与えられた。天正15年
(1587年)豊臣秀吉の九州征伐に従い所領を安堵され、純忠の後に継いだ大村喜前は、関
ヶ原合戦で東軍について小西行長の宇土城を攻め、二万八千石弱の所領を安堵された。

1347: 名無しさんAA:18/04/21 15:07
 宣教師の時代       ーーー100
 1577年(天正5年)に織田信長が雑賀城に侵攻するにあたって、雑賀衆の中にも織田
信長軍に協力した者がいた。太田左近を党首とする宮郷衆らである。その織田信長軍が
雑賀の地から撤退すると、これに遺恨を持っていた雑賀衆が兵をあげ報復を開始した。
これに応じた織田信長は佐久間信盛を総大将に八万の増援軍を雑賀を送り込んだが制圧
に失敗した。その後、太田左近は根来寺の僧兵を味方にし、かなりの攻城戦があり、一
進一退を繰り返した。1ヵ月にも及ぶ戦いが続いていたが太田城の守りは堅く雑賀衆は
攻め切れず、雑賀孫一は太田左近に和睦を申し入れ停戦が成立した。その後平穏であっ
た中に突如本能寺の変で織田信長が死去した。1584年(天正12年)小牧・長久手の戦い
で徳川家康軍と羽柴秀吉軍の間で戦が起こったが、徳川家康は太田衆、雑賀衆、根来衆
らを味方になるように誘い出し、伊賀者を手に呼応し、秀吉方の岸和田城を攻めた。さ
らにその後大坂まで攻める様要請されたが、「その誘いには応ぜす」と、大坂までは攻
め上ったが太田衆、雑賀衆、根来衆連合軍は独自の判断で、止んだ。しかし天下は、羽
柴秀吉に傾き、その後この寺領を全部納めるよう命じられた。これに、抵抗を態度で示
したが、これが紀州征伐の原因となった。天正13年(1585年)3月、羽柴秀吉自らが
総大将にして、羽柴秀長、羽柴秀次を副将とし10万の兵で出陣した。同年3月21日に、
千石堀城から太田衆、雑賀衆、根来衆連合軍の諸城を次々に落城させて、次い風吹峠と
桃坂の二方向から根来寺を攻め立てる事になったが、根来寺は当時堅固な要害であった
為焼き払われてしまったのである。根来寺の大塔にはこの時のものと思われている銃弾
跡が残っている。羽柴秀吉軍の次の目標は太田城に向けられた。こうして太田城の攻城
戦は羽柴秀吉は有名な第二次太田城の戦い、水攻めが行われる。孤立無援の絶望的な状
況でありながらも、太田左近は城兵に「小城ではあるが堀は深く櫓は高い。一度秀吉に
弓を引いたものとして、大軍を恐れて降参するのは、勇士のすべきことではない。この
城を枕に潔く戦死する覚悟だ」と説いて士気を高めた。対して兵員の死を恐れた秀吉は
いつものごとく、紀の川の水をせき止め、城から300m離れた周囲に堤防を築いた。鉄砲
の及ばぬこの場所で高さは5m、幅30mで延々6kmにも及んだ堤によって水が溜められ
た。工事に要した人数は50万人とされ。昼夜突貫工事で6日間で仕上げたと伝えられ
る。同年4月に水を入れ始め、数日後から大雨が降り続け、水量が増し一挙に城は浮城
状態になった。水で囲まれた太田城に羽柴秀吉軍は中川藤兵衛に13隻の安宅船で攻めさ
せた。船の先端に板を建て、鉄砲や弓矢から攻撃から守るため改造したが、戦闘よりは
水に沈んだ兵糧によってこの城は落城した。この時豊臣政権内で舟奉行に任命され、水
軍を率いたのが小西行長であった。

1348: 名無しさんAA:18/04/21 15:16
 宣教師の時代       ーーー101

 こうした事で、亀甲船もフスタ船も秀吉の頭痛の種であったはずだ。これらは相当に
隠密や伊賀や甲賀の忍者に探らせていたに違いない。柳川明談によると、九州龍造寺が
やられたのは石が降って従者がいなくなった為とされている。更に龍造寺が責めた城は
教会であったと言われる。そして怒号と一気加勢に押し寄せる兵に 門が開かれて一発
の轟音と共に兵は度肝を抜かれた。国崩しが教会側から撃ち放たれたのである。兵は、
留めも度も無く散り尻に離散し、逃げ惑う中に矢が放たれる。何事かと先の小高い丘に
於いて陣を布いていた龍造寺は自らが先頭の先にたたんと中で雪崩を打って島津軍が背
後から攻めて来た。この音に朝になって着いた鍋島氏は浜づたいに龍造寺軍と合流しよ
うとしたが、この時海からは砲弾が飛んで来た。ここにきて爆球の「てつはう」には、
威力がなかった。船には届かないからだ。次々に放たれる砲弾と迫りくる敵襲には佐賀
勢は5倍もの手勢だったと言われるが手も足も出なかった。ここまでやって来た船によ
り柳川に戻ったものと芦刈などの塩田付近まで戻れたもののみが生き残ったとされる。
龍造寺側にも国崩しや鉄砲がなかった訳ではない。しかし、その徴知(ちょうち)さに
龍造寺には全く必要ない。と見ていたのである。その後石で作られたであろう、本式の
小さな教会は、島原城となり元和4年(1618年)から松倉豊後守重政が、当時森岳
と呼ばれた高地を城のかたちに切とって石垣を積み直し、堀を掘って7年の歳月を費や
して築いた。総塗りごめ、白亜五層天守閣を中核として大小50の櫓を要所に配し、こ
れを囲む矢挟間塀の長さは総延長2233メートルという規模の大きさで、安土桃山時
代の築城様式をとりいれた壮麗なものとなったと言われる。以来約250年間4氏18
代数々の歴史を生んだが、明治維新により廃城が決定、明治7年解体され、以来90年
、天守閣無き城跡だけがその面影をとどめました。昭和35年に「西の櫓」を復元、次
いで昭和39年に「天守閣」、48年「巽の櫓」、55年「丑寅の櫓」などが矢挟間・
鉄砲狭間を備えた長塀とともに復元された。天草四郎を総大将とするいわゆる「島原の
乱」では一揆軍の攻撃を受けた。彼らは元教会として建っていたこの地は、キリスタン
のキリスト殉教の聖地と思っていた節がある。常に雲仙の噴火でと戦火で閑散な僻地で
あった寒村が有馬晴信の許可によって、多くのキリスタンが住んで発展した。養子に行
った大村純忠はこれをみて平戸での仏門との抗争で殺人事件が起こったが、逆に、今の
長崎の横瀬浦を開港させて海外に開放した。


1349: 名無しさんAA:18/04/21 15:22
 この時有馬氏がが居城としていた日野江城が口乃津にあって、島津も一旦はこの城で
作戦を練ったのだろう。これに対して龍造寺隆信は少し遅れて上陸し、有馬・島津の主
力軍は日野江城にいるものと思い込み、自ら沖田畷の中道へ軍勢を進めたという。沖田
畷付近で、龍造寺軍の先鋒部隊が島津軍と遭遇、龍造寺軍は島津軍が小勢なのを侮り、
物見も出さずに攻めかかった。策を秘めた島津軍は、たいした抵抗もせず、ずるずると
後退し、勢いに乗った龍造寺軍は一気に攻め立てようと沖田畷の畦道をひた進んで敗戦
に及んだ。島津家久は龍造寺軍が十分射程に入ったのを確認すると、一斉に銃弾を撃ち
んだ。思わぬ銃弾の飛来に龍造寺軍は先陣が崩れ、退却しようにも後続の軍が次々と続
いてくるため身動きがとれず、狭い道の中で大混乱に陥いったと言う。龍造寺軍の混乱
ぶりを見きわめて、島津軍は一斉に抜刀し、三方から龍造寺軍に攻めかかった。隆信は
、進展を見せない合戦に苛立ち、自らが前線に立ち指揮を取ろうとした。この時、島津
家久の家臣・川上忠堅の放った鉄砲弾が隆信に命中、龍造寺隆信は呆気無く五十六才の
生涯を閉じたとされる伝承もある。既に述べた通り、隆信の兵力は自分の兵でも3万更
に鍋島2万まで出せる余裕があり、5万規模の大軍を少し下回る位だった。これに対し
、3千程度の兵力しか持たない晴信は、有馬氏が滅亡しかねない重大な危機が訪れたと
知り、同盟関係にあった島津義久に援軍の派遣を要請したが。この時に義久は主力を肥
後に配置して政家と対峙しており、島原半島にまで援軍を送るとしても余裕が全くなく
仕方なし5千を割く位だった。更に協議の結果、義久の末弟である家久を大将とした3
千の兵を島原へと送り出す事に決定したが、家久は既に37才であったにもかかわらず
、いまだ部屋住みという、自分の領地を持っていない低い身分であり、兵の少なさから
みても、十分な援軍とは言えない戦力で頼りの綱は参謀だった新納忠元と伊集院忠棟の
千五百程の部隊だった。一方龍造寺隆信は56年の生涯で大きな成功を掴み、傲慢に染
まり猜疑心が強く、人望が乏しいせっかちな性格であったとされる。一方有馬氏は貴純
の時代は、近隣を制圧して戦国大名と成長し、原城を支城として築き、最盛期には21
万石を有した。しかし後ろ盾の大内義隆が衰退すると、龍造寺隆信、西郷純堯・深堀純
賢兄弟などの圧迫を受け領地を失っていった。兄・有馬義純が1571年に22歳の若さで
死去すると、嗣子のないので、有馬晴信は兄の養嗣子となり家督を継いだ。僅か5歳の
時だった。こうして有馬家は龍造寺隆信に臣従するしかない状態だったまま家督を継い
だ。九州にキリスト教が広まる頃、有馬晴信は1580年の14歳の時に、イエズス会巡察
師ヴァリニャーノのもとでキリスト教の洗礼を受けてドン・プロタジオで、領内にセミ
ナリオ(イエズス会の教育施設)を建設してやり、嵌ってしまい領民の多くにもキリシ
タンを強要した。

1350: 名無しさんAA:18/04/21 15:23
 宣教師の時代       ーーー103

大村純忠は有馬晴信の弟である。ところが、有馬氏の領地での大村氏だった為に、本来
の跡取り候補の大村又八郎を押さえて当主となり、又八郎は玉突きで他家に養子に出さ
れてしまった。この事で又八郎は純忠を恨みまくり。純忠は、まさに憎まれ役のままで
殿様をやることになった。1561年、平戸で起きたポルトガル人死傷事件(宮の前事件)
以降に切支丹に接触し1563年、「ドン・バルトロメオ」という洗礼名を授かり、領民に
もキリスト教信仰を過激に励行した。側室と離縁し、正室と結婚式を挙げ直した後は、
キリスタンとして恐怖政治を強行した。領内の寺社を破壊し、先祖の墓も破壊した。僧
侶や神主を改宗しないと死刑とし、改宗しない領民も捕縛し拘束して牢獄にいれ貿易の
取引材料として外国に奴隷貿易として売っていった。兄弟としての有馬晴信自身も、こ
の非情に、有馬鎮貴→有馬久貴→有馬久賢→有馬正純→有馬晴信と何回も改名した。し
かし、本家有馬氏もキリスタンと仏僧との軋轢は大きかった。遠祖以来大内氏が大友氏
に討たれて大友氏側に付いた為のキリシタン政策だったが、しかし有馬晴信の縁戚にな
る深江城主の、安富純冶・安富純泰の父子などは、龍造寺に味方した。有馬晴信は島津
勢の加勢を受けて、深江城攻めた。深江城は、大友系大神氏の祖である大神朝直は始め
石松城を築いたが、三代親増のとき深江城を築いたという。天正14年(1586年)島津軍に
よって攻められ城主鎮勝は城を脱して助かったが、朝鮮の役で戦死したとされる。寿福
寺西門の下に深江将監忠昌自刃の地として小さな石碑が祀られている。慶長19年(1614
)7月、この地で深江将監は腹を切り自害した。 慶長19年5月26日の鎮信の死から40余
日にして自害していることから、主君である法印公の死に殉じて追腹を切ったという説
は真実かも知れないといわれている。その頃朝鮮では、風通しのいい小屋に窒素を含む
木の葉や石灰石・糞尿・塵芥を土と混ぜて積み上げ、定期的に尿をかけて硝石を析出さ
せる「硝石丘法」が伝統的に行っていた。硝石丘法は採取まで5年余りを要するが、土
の2〜3%もの硝石を得ることができた。この硝石と銅が日本の輸入品だった。一方で同
じ火薬の原料だった硫黄と人間が取引されていた。しかし、種子島秘伝が天皇の命令で
明智光秀に伝わると秘かに加賀や飛騨などでは「培養法」という、サクと呼ばれる草や
石灰屑、蚕の糞を床下の穴に埋め込んで、数年で硝石を得る技術が開発され、硝石を、
潤沢に生産するようになり、当初は硝石供給を基本的に中国や東南アジア方面からの輸
入に頼っていたが、やがて需要の大きな硝石の国産化が出来た。この方法は永らく軍事
機密扱いされて産地は五箇山など山奥に限られて、秘密とされ他の地方に伝えられなか
った。

1351: 名無しさんAA:18/04/21 15:33
 宣教師の時代       ーーー104

 こうして、本能寺の変(ほんのうじのへん)が起こるが、1582年6月21日(天正10年6
月2日 )の突然のクーデターは、高松城包囲中の羽柴秀吉を救援しようした織田信長の
出陣に対して、先発させた家臣明智光秀が謀反を起こしたものだ。丹波亀山城から引き
返し、京都の本能寺に宿泊していた信長と妙覚寺に宿泊していた当主の織田信忠を襲撃
したクーデター(事変)であった。寝込みを襲われて包囲された信長は脱出を諦めて、
自害を迫られ、信忠は二条御所に退いて戦ったがやはり自害した。この代表的な下克上
の1つが、今もって光秀が反旗を翻した原因については定かではない。多くの歴史家が
研究しているが、現在でも定説と呼ばれるものはない。光秀の恨みがあり、時代的野望
に発するのは当然として、光秀以外の首謀者(黒幕)は日本史上の大きな謎の1つであ
るが、この動乱のきっかけがキリスタンである事は確かだろう。九州は海外との貿易が
盛んだった中で、奴隷売買の餌食になっていた。しかし、キリスタンの野望と裏腹に、
この光秀によって、信長をしてキリスタン国家にする野望は消えた。この時代に、大友
に限らず、島津家も、この大村も或いは仏教徒さえも、戦争の際の火薬購入に住民狩り
を行って海外に売り飛ばして交易をし一説では50万人程が売られたとする記述もある
。北朝鮮の拉致被害どころではない話である。白川郷などの合掌造りは、実はこの硝酸
の作る為に作られた室を持つ為の物だった。かつて富山県五箇山が加賀藩の、隠れた硝
石製造地であった。、現地からの記事によると、当地の製造法では、あくの強い草で、
たとえば最高なのはニガクサで、他にもシヤキ、サヤク、ヨモギ、を主原料とし、これ
に大量の人尿や蚕の糞をかけた。まず、春先から夏にかけてこれらの草を刈り、雨露の
かからない場所に積んでから、人尿をかけて十日ほどおいいて蒸し腐らせる。一方、家
の床下を掘って作硝ムロを作っておき、人尿や蚕糞をまぶしたこの草と掘り出した土を
交互にこのムロに積み重ねる、堆肥のように積んでおき数年間、化学変化によって硝酸
石灰を含んだ土が採取され、こうして作った塩硝土に綺麗な雪解け水を加えて濾過して
煮詰めて、硝石を作った。江戸中期では、五箇山中を集め、毎年5トン程度の硝石を出
荷していた。一度硝石培養をしてしまえば、その後は毎年採れた。これが光秀の作った
とされる硝酸だった。しかしこの硝酸は一度四国に運ばれ大阪商人を通して江戸に行っ
た。阿蘇や別府の硫黄が火薬に必要だったからだ。光秀は信長の忠臣だった、謀反を起
こす理由はなく命はこの硝酸の作る方法で保っていた、しかし信長の短気と斎藤利三の
怒りで謀反となった。家康は利三を唆し煽った。秀吉はそれを眺め黒田が手を打った。

1352: 名無しさんAA:18/04/21 15:34
怒りで謀反となった。家康は利三を唆し煽った。秀吉はそれを眺め黒田が手を打った。
勝手に毛利と和睦する事が信長の耳に知れる事の目そらしだ。しかし本能寺の変の真の
黒幕はキリスタンのこの硝石制作の中止工作だった。信長に命を狙われていた家康は、
それを掴んで茶会を利用して知ろうとしていた。或いはうすうす知っていた。が最もそ
の中心にいたのは伊賀者だった。雑賀孫一の死はそれほど強烈だった。


1353: 名無しさんAA:18/04/21 15:42
 秀吉は金貨をたんまり持っていた。しかしこの関西の近くは、銀山が多かった事から
、銀貨の方が多く使用されていたと伝えられている。江戸中期に至るまで、秤量(しょ
うりょう)貨幣として、流通していた。宝永四ツ宝丁銀は、幕府の財政窮乏を補うため
質を落とした銀貨で、この宝永銀の流通が禁止されるまでの間、金銀相場は安定しなか
ったと言われる。それまで秤量貨幣であった銀貨は「五匁」という基準重さが銀貨単位
の計数貨幣となり、さらに「二朱」という金貨単位の計数貨幣へと変容を遂げ、金貨体
系への包摂(ほうせつ)を狙って、公定相場(金1両=銀60匁)により金貨と交換され
る計数銀貨「明和五匁銀」を発行した。その後、「明和南鐐二朱銀」という金貨単位の
計数銀貨を発行した。表面に「8枚をもって小判1両に替える」(金2朱は1/8)との
文言が打刻されて、金貨を使い慣れた江戸をはじめ、秤量銀貨を常用していた関西地方
でも流通するようになった。こうして事実上銀貨は金貨の補助貨幣となった。これで銀
貨も計数貨幣として流通し、初めて本当の意味で三貨体制になったと言える。銀貨の使
用がが出て来るシーンは、時代劇でも数少ない。劇中に銀貨(匁)は江戸を舞台にした
物が多いからではないかと思うが、やはり匁で表現した時に、視聴者に解りにくいイメ
ージがあるからであろう。海外貿易にはよく使用され、中国貿易では銀貨しか使用され
なかったそうで、その上質の悪い丁銀は受け取りを拒否されて、幕府は良質な銀貨に変
える必要さえ生まれた。鎖国の続いた日本の中と諸外国とでは、金銀の交換率に開きが
でてしまい、当時は、かなりの金銀が外国に流出した。その是正に取り組んだのが小栗
だったとされる。しかし徳川幕府が開府当初にいち早く取り組んだのは銅貨であった。
貨幣の統一に着手し、金銀貨についてはいち早く統一貨幣を発行したが、流通量の多い
銭貨についてはしばらく渡来銭の流通を認めたのち、寛永通宝に統一した経緯がある。
寛永通宝はその後約二百年間、全国各地の「銭座」において作られたが、江戸時代中期
以降になると、増鋳の必要性から次第に素材は劣悪なものになって、真鍮製の寛永通宝
四文銭や、銅一文銭の五文半程度の原料にもかかわらず百文として通用する、天保通宝
百文銭などが勝手に発行されていた。俗に言う「びた一文払わない」の「鐚(びた)」
は、「鐚銭」(びたせん)と言って悪貨の名称で、土地の豪族や商人が鋳造した質の悪
い私鋳銭である。江戸時代初期まで、渡来銭と併せてこの私鋳銭が流通していたのであ
る。銭貨は一般では一番使用された。さりげなく生活に流通していたが、当時の日本で
の銅は貴重品で銀と同じ価値を持っていた。銭貨としてそば1杯16文というのは、落語
の時そばで有名な話だが、「二八そば」で、2×8=16で16文だというのは近代の作で、
小麦粉2割、そば粉8割が、「二八そば」とかけた落語らしい。

1354: 名無しさんAA:18/04/21 15:43
銭貨の相場、鐚銭の相場は、この際無視しすれば、当時の一両に対する銭の相場は、年
を追って流通量が増えて換算比率が高くなっている。一両の価値が上がっているのでは
なく発行高が増えたせいではないかと思われる。
・1604年 : 1000文(1貫文)
・1609年 : 4000文(4貫文)
・1700年 : 4000文(4貫文)
・1842年 : 6500文(6貫500文)



1355: 名無しさんAA:18/04/21 15:44
 宣教師の時代       ーーー105

対して金貨は小判として作られた。小判の最初は、徳川家康が慶長6年(1601)に初め
て通貨として鋳造されたと言う。それまでは一分金と言う塊だった。金貨としては小判
と一分金が双方新たに鋳造され、単位には甲州金で用いられていた両・分・朱が採用さ
れた。小判には、表面に額面「壱両」の極印と、金座の責任者である後藤庄三郎光次の
名前(「光次」の文字)、および花押(署名)が打刻されている。包金(つつみきん)
は俗称「切り餅」と呼称されるが千両箱の紙に包んだ金貨だ。包金銀とは、金貨、銀貨
を一定量ずつ和紙に包んで封をしたものとされる。そのまま一般の取引に使われた。施
封は金座や銀座、または民間の両替商で行われ、額面と包封者の署名が表書きされてい
る。この名前の信用力のみによって流通し、開封されて内容が吟味されることはなかっ
た。包金の使用については25両等の包金が頻繁に出て来るが、そういう事情を知ると
簡単に使用していたとは考えにくい。贈物などに用いられたりしたので、実際封を切ら
ない様な立場の人間同士のやりとりはあったにはあったろうが通常あり得ない。千両箱
千両箱をかついで、盗賊が持ち去るシーンは良くあるが、小判の重量から計算すると、
百両でもかなり重い。しかし各時代の小判の重量が異なるので、一概には断定できない
が、「天保小判」では、1枚が11.3gで、 1000両=11.3kgであるから、箱の重さにもよ
るが丁度当時の屈強な人間なら1人で1箱は持てた重量にしていたらしい。慶長小判だ
と約17.6kgなので、ちょっと思いが今の一斗缶とされるペンキ缶の重さと思えばいい。
 江戸期になって、三貨制度が整えられ、金貨・銀貨・銭貨(銅)の三種類の貨幣から
なる貨幣制度が確立し、それまでは銀と銀貨あるいは銅と銅貨が交換だったが相互交換
が安心して出来るようになった。金貨は小判1枚の1両を基準に、大判には額面金額と
枚数で価値を表す計数貨幣を書いた。銀貨は匁(1匁 = 3.75 g)という重さの単位によ
り価値を示す秤量(しょうりょう)貨幣とした。銭貨は1個が1文の計数貨幣とした。
三貨は、それぞれ別個の価値体系が存在し、両替には時々の相場が用いられた。が三貨
が混じって使用される事はなかった。三貨を使用する人間層が異なっていたのである。
金貨は江戸の報奨として一般に流通する事は稀だった。もともと大判とされる金貨は、
将軍様と諸藩との取引でしか通用しなかった。もっぱら商人達は銀を使い上方(大阪)
の米相場と連動したもので、諸藩は米相場の藩札を発行してその場をしのいでいた。藩
札は発行時に利子取りするものでその信用によっては額面よりかなり安く流通していた
それでも大阪や京都や江戸では両替は銅銭と銀で庶民はもっぱら銅銭だった。


1356: 名無しさんAA:18/04/21 15:45
 宣教師の時代       ーーー106

この頃から一両と言う単位がよく使われたが、この「両」という単位は、実は渡来銭同
様に、中国から輸入されたもので「秤の重さ」と言う意味で本来の字は「兩」である。
それが現在は簡易字体で「両」になっている。 中国での一両はほぼ十匁(37.5g)で、
その昔、輸入された当時はちゃんと一両=十匁としていたが、次第に減じられて租鋼金
に変化し、鎌倉時代には五匁となり、室町時代には四匁、文明年間には四匁五分、そし
て江戸時代には 四匁四分(16.5g)とされていった。ただし重量自体の単位としては、
有名無実化しており、実際には大判のみ正確で、小判の方はバラバラとなってしまった
とされる。金貨1両=4分=16朱とされ、銀貨1匁=10分、1000 匁=1貫(貫目
、貫匁)で、それでも秤量貨幣の単位に過ぎなく重さを基準とした交換だった。「匁」
は、重量の単位そのもの(1匁=約3.75g)銅貨:銭貨は1000 文=1 貫文である。銭方
平次の様に、糸で銭を通してまとめた「サシ」と言う単位で、実際は麻紐代が差し引か
れて1000 文より数文少なかった重さで流通していた。先に言った様に、大判では本来は
恩賞用・献上用として使用された金貨で通常通貨ではない。言わば記念通貨だったので
流通はしていない。表面の額面「拾両」は墨で書かれていて、大判座に手数料を払えば
書き直してもらえた。正規貨幣ではあったが、市中で使用する場合は小判に両替された
。「拾両」とは重さが165g(44 匁)という意味で、小判10 枚分(10 両)と等価では
ない、大判が通貨として用いられるに際しては含有純金量に応じてその時に通用価値が
定められた。殆どが10 両以下の価値だった。小判であってもよほど高価な買い物でも
しない限り、庶民が持つ事は無かったはずである。あったとしても一分金が最高額だっ
ただろう。従って、市中の小間物・居酒屋などは全て銭貨のみを使用していただろうと
考えられる。小粒の金貨や一朱金でも、江戸中期の相場で(一両=4000文)250文相
当なのだから、そんな高額な貨幣を出されても、釣り銭を払うときには相場が分からな
いから損をするので、受け取りを拒否されたであろう。つまり小判は使えなかったのだ
。江戸時代の貨幣は基本的に4進法で簡単に見える。だが、調べてみると案外複雑で、
特にそれぞれの相場で刻々変化する中で米と共に基軸通貨の銀が変動していた。従って
当時の人たちは大変な両替計算だったんだと感じる。

1357: 名無しさんAA:18/04/21 18:29
 宣教師の時代       ーーー107

ところが こうした流通通貨価値はおよそ日本国内のみだった。これよりはるかに高い
価値で海外は流通していた。日本の金貨10枚から金貨6枚と同量の銀貨が作られたと
言われ 公式の通貨価値の3倍から6倍の価値を持ったとされる。したがってキリスタ
ン達は、禁教令が出るまではこの金貨は市中の2倍くらいの引き取りを行い、信者から
は重宝がられたのである。ではこの金貨どこから持ってきたか。それは豊臣秀吉の筈だ
。「木下藤吉郎」から名を変える頃、信長が清須城から小牧山城(愛知県)へ居城を移
した。この2年後には、現代において軍師として知られる竹中重治(半兵衛)を配下に
組み入れて更に名を挙げて行く。岐阜城へ移った信長に従い、秀吉も上洛戦に参加し、
近江(滋賀県)六角氏の観音寺城支城(箕造城)の戦いで武功を立てるなど、実戦での
記録が目立つようになってくる。そして元亀元年(1570年)、越前(福井県)の朝倉義
景討伐に出かけた時、織田家ならびに秀吉の運命は大きく変わる。浅井長政の突然の裏
切りにより織田軍は挟撃されてしまったのだ。北からは朝倉の反撃。南から浅井の猛追
である。織田家ならびに織田信長は、後に幾度か周囲の大名たちに囲まれ、その命を脅
かされてきたが、恐らくこの時が最も慌ただしく追いつめられた時期だ。そこで秀吉に
与えられた役割が殿(しんがり)であった。迫りくる敵の目を自分たちに引きつけて、
同時に味方の軍を無事に国許(あるいは京都)へ帰らせる役割だが、この時同じく任に
あたっていた池田勝正や明智光秀と共に、見事に信長はじめ大勢の味方を撤退させるこ
とに成功し、帰国を果した。この時恐らく何かの情報を得ている。この頃から彼は工作
資金を手に入れて かなりにその場の人間を買収や徴収可能にしている。その方法はさ
も黒田如水(竹中半兵衛)の関が原の時の自領で野武士を雇い入れた様に惜しげもなく
使ったやり方と同じである。この一連の撤退劇を「金ヶ崎の退き口」と言い、この出来
事は秀吉最初のターニングポイントだったようだ。この金ケ崎の名も気にかかる。織田
信長が桶狭間で今川義元を討ったように劇的な変化となった鉱山発掘は後に「黄金の国
、ジパング!」と呼ばれたこともあるように、日本にはかつて全国各地に金鉱が存在し
ていた事を示している。明治時代頃になってほとんどが掘り尽くされたと言われ、金鉱
自体は存在はしていても多くの場合、コストに見合うだけの産出量を得られない、とい
う結果を産んだがそれまでは各藩必死に採掘していたようだ。



1358: 名無しさんAA:18/04/21 18:30
 宣教師の時代       ーーー108

 ではこの近江(滋賀県)六角氏の観音寺城支城(箕造城)の戦いで武功を立ててすぐ
に秀吉は懐が良くなったのか。それはこの近江に金山があったからだ。杉峠鉱山である
通称御池鉱山として神崎郡永源寺には蛇谷鉱山・茨川鉱山など明治期には結構に掘られ
た。しかし戦後には鉱脈も切れて閉山となっている。六角氏は鎌倉・室町時代には既に
ここに移住していた。小脇館、金剛寺城を経て後に近江守護となり六角氏居城として本
拠地とした。足利尊氏の頃に佐々木道誉(京極高氏)や六角氏頼・直綱兄弟らが配下と
していたが、打ち破られる。当時「佐々木城」と呼ばれた観音寺城に逃げ込んで籠城戦
を展開していた。標高432.9m、南北に伸びる繖(きぬがさ)山の山上に築かれていて、
斜面に曲輪を展開している中家臣や国人領主の屋敷を配していた城郭都市であった。総
石垣で、安土城以前の中世城郭においては特異な点とされる街だ。天文年間には城下町
に石寺も置かれ、楽市が行われていた。周辺の琵琶湖や大中の湖があり、美濃から京都
へ至る東山道や、長光寺集落から伊勢へ抜ける八風街道があり、それらを監視・管制で
きる要衝の地だった。しかし、この六角氏は実は鉱山経営はしていない。もっぱら治水
用のダム開発が主で、佐々木氏の傍流で成頼の曾孫秀定のとき、沙々貴神社神主系と守
護・地頭の武家系の二家に分かれが、佐々木一族の多くは上皇方に味方して没落したが
、天皇方に残った神主系の一部が六角氏を名乗ったとされる。隅立て四つ目結紋とされ
、宇多源氏佐々木氏流派と目されている。六角氏は住吉神社境内を祀る。しかし、不思
議にも、底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命とされる住吉大神は一般的には 住之江
つまり海の神である。「住吉」は昔は「スミノエ」と読んだが、平安時代の中国漢字の
流入の頃から「スミヨシ」と読む様になった。スミノエとは「澄んだ入り江」を示し、
その多くは息長帯姫命(神功皇后)を含めた海の神や、航海の神、和歌の神とされる。
 では誰がこれを発見したのだろうか。海神住吉大社は遣唐使達を運ぶ船の神でもあり
その昔から唐からの人間とは繋がりがあっただろうと推測する。鳥取藩では元禄7年(
1694)たたら全体を把握し運上銀を課するため鉄奉行、鉄山目付をおき御手山制度(た
たらを藩営)をはじめたが、これによりたたらが衰微して来たので元禄11年(1698)に
はこの制度は取り止めとなり、以後たたらの稼業は鉄山師の願書(請け文書)のみでの
許可されるようになった。つまりそうした人を乗せて世話した係員であった部族だった



1359: 名無しさんAA:18/04/21 18:30
 宣教師の時代       ーーー109
 大久保長安(おおくぼちょうあん)事件は、大久保長安と言う戦国時代から江戸時代
初期にかけての武将で、甲斐武田氏に仕え、次いで徳川氏の家臣になった者の死によっ
て起こった金鉱脈を差配する一家の泡沫な家系が終焉の事件だった。彼は江戸幕府勘定
奉行や老中とまでなったが、彼が没するころ新鉱山開発をせずにいて、産出量が減って
いるのに奉納金が多くなり、帳簿の提出が出来なくなって事が明るみになった事件だっ
た。大久保長安の祖父は、金春流の猿楽師という事なので、先祖は秦氏と言う事になる
。奏氏は昔からの渡来氏族で古代船の頭首とされる。父・兄と共に猿楽師として甲斐を
訪れると、武田信玄に気に入られて、兄と共にこの甲斐の地のお抱えの猿楽師となって
いる。猿楽(さるがく)と言うのは「能」の事で、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康も愛好
していた為後々も時の将軍に寵愛されている。武田家の家老・土屋昌続の与力になり、
土屋長安と改名して蔵前衆となった。この蔵前衆組頭・田辺太郎左衛門に師事しては、
治水対策などを習得した。その後、黒川金山などの鉱山開発、税務や司法などに従事し
、有事の際には後方での兵站や補給を担当したと言う。1582年、明智光秀の本能寺の変
では、織田信長が横死し混乱した甲斐を 手にいれたのは徳川家康だった。この時本多
正信と伊奈忠次に甲斐の再建を命じたという。しかしこの時、実際に再建の所務を行っ
たのは、大久保長安だったとされている。旧武田家臣・成瀬正一を通じて金山や土木に
も詳しい官僚である事で、白羽の矢がたち召し抱えられたともされる。この時、釜無川
や笛吹川の堤防復旧、新田開発、金山採掘などに尽力して、わずか数年で甲斐の内政を
復活することに成功し、大いに回りを驚嘆させたと言う。関ヶ原の戦いでは、青山忠次
と共に徳川秀忠勢の後方支援を務めたが、何故か真田の上田城攻めは強く進言して、彼
の遅参する結果を招いた。鉱山(やま)争いがその背景にあったのだろう。その後には
、徳川家の直轄となった佐渡金山や生野銀山などの管理が彼に任されて、1600年に大和
代官、10月には石見銀山検分役、11月になると佐渡金山接収役、1601年春に甲斐奉行、
8月に石見奉行、9月には美濃代官と目まぐるしく金山開発で昇級して行った。伊奈忠次
らと東海道の整備を行い宿場を整え、関所を作り、徳川支配を確実なものとした現場の
第一人者であった。関所は他藩の武将や余所者に、この金山を襲われない為の策だった
と考えられる。しかしながら、大久保長安が死んだ時は、当然新たな鉱山開発はなく、
その産出量も減少を極めていた。多くの弟子や子供がいて「金の棺に自分の遺体を入れ
て甲斐に送り、国中の僧侶を集めて葬儀を華麗に執り行うように。」との遺言を残して
いた為、子孫は隠れて移送しようと申し出た所、徳川家康が知るところとなり御縄にな
った。

1360: 名無しさんAA:18/04/21 18:31
それは、失地を回復するという有馬氏の送ったとする六千両の賄賂事件の岡本大八事件
の死罪一年後であった。この後大久保長安の屋敷からは70万両の金銀が発見されて、
一説には不正蓄財の金塊とされる。こうして駿府町奉行の彦坂光正が調査を行い、収賄
の罪で大久保長安の腹心である戸田藤左衛門、雨宮忠長、原孫次郎、山村良勝、山田藤
右衛門らを逮捕し、葬儀は中止された。と言う。「甲斐の国」の「武田信玄伝説」では
、晩年に「金山」が枯渇した言われているが、しかししかしその後大久保長安の差配し
た「江戸時代」には「黒川金山」は裁出量は1位を誇り、「湯之奥金山」も整備され、
どんどん産出されている。この事から、藩の経営難から「金堀衆」が離れ活動が停滞し
て、鉱窟が切れ人がいなくなったところで、彼が人を集めて新たに、深く掘らせたもの
で金の鉱脈は出てきたものと考えられている。しかしこの時バテレン衆徒も多く参加し
ている事から、新たな技法が何等かの形で伝承されたのかも知れない。江戸時代の採掘
法は、金掘大工と呼ばれる採鉱夫が槌と鏨を使った手作業を行っていた。この為採掘に
高度な技能が要求され、その技能の伝承は徒弟制度により、一子相伝で僅かな者にしか
引き継がれなかった。又鉱山の作業は危険を伴うことが多く、鉱山で働く住民は、その
家族も含め相互扶助の固い絆で結ばれていた。この組織を「友子」と呼び技能の伝承が
限られや相互扶助も又その集団で行われていた。江戸期の藩政時代には鉱山では、鉱山
ごとに決められた法律(山法)があり、規制は当時の鉱山内では一般の法律により強く
、治外法権におかれた特殊な社会内で運用された。山法は鉱山での生活やそこで働く人
達に適用される処罰規定だった。と言う。ここの場合は「御敷内二七ヶ条」と呼ばれる
山法が布かれて、古文書によって知られている。その内容は、他の鉱夫のもつ持場を勝
手に掘るとか、役人がつけた目印やや封印を壊すとか、故意に放棄するなどの行為でも
重罪とし、それぞれにそれは厳しい処罰の方法までも定めていた。又さらに、鉱山での
生活についても、細かく違反に対する罰則が定められており、当時の鉱山の厳しい生活
の実態が知れる。中には一生穴の中で暮らし地上に出れない鉱夫も大勢いた。慶長17
年(1612年)幕府は、キリスト教を禁じ弾圧にのりだして女性は南蛮船に売られたが、
男性や侍の罪人はここに送られたり、落人の隠れキリシタンが身を寄せてきたり、この
東北には西国より多くの信者が逃れてやって来た。尾去沢鉱山では隠れキリスタンの村
で有名になった。しかし、隠れキリシタンの山里のこの鉱山での潜伏生活も、最初は山
法を守っている限り安全であった鉱山での生活も、次第に大きくなり噂となりその取締
りが厳しくなり、寛永20年(1643年)白根金山では多くの信者が捕らえられて処刑され
るに至る結果になった。と伝えられている。又病死も多くあったとされ過酷な生活では
平均寿命も低かった。

1361: 名無しさんAA:18/04/21 18:32
 宣教師の時代       ーーー111

ある伝記では「長坂」や「田郡」(尾去沢鉱山の一部)の金が奈良東大寺の大仏鋳造に
使われたと伝えられていてこの鉱山は相当古い鉱山であろう。また、鹿角地域は康平5
年(1062年)前九年の役の際に、厨川(盛岡市)で滅亡した安倍氏が統治していたとさ
れる。その後、尾去沢鉱山の金は平安末期、藤原氏によって築かれた平泉の黄金文化に
大いに貢献したと伝えられている。尾去沢鉱山の発見は、奈良時代の和銅元年( 708年
)であると伝えられ、当地には大日霊貴神社、錦木塚伝説等、1300年前の伝説が数
多く残されている。和銅元年に、時の朝廷が発した銅鉱探しの命を受けて、村人たちが
この付近一帯で鉱石探しをしていた。そのとき大森山のふもとで、獅子のような姿をし
た異人に出会った。村人は手に手に梵天を持って追いかけたところ、異人は魔力で梵天
を空高く巻き上げ、谷に投げ捨て逃げ去ってしまった。村人は谷に下りこの梵天を引き
抜いてみると、銅鉱石であることを示す「あかがね」の土がついていた。村人は大いに
喜び、鉱石から銅をつくって国守に納め、国守はこれを朝廷に献上した。これ以降に、
尾去沢の銅は開発され「梵天銅」と呼ばれ、発見されたところを「獅子沢」と呼ぶよう
になったと伝説は伝えている。こうして和銅元年に銅山が発見されて、以来産金が東大
寺の大仏や、中尊寺で用いられたが、そのの伝説は後に民謡として『南部牛追唄』では
「田舎なれども南部の国は西も東も金の山」と歌われる鉱山の一つとして開発が行われ
てる程、この地の自慢となった。江戸末期、財政危機にあった南部藩は、御用商人鍵屋
村井茂兵衛から多額の借財をした。が、身分制度からくる当時の慣習から、その証文は
、藩から商人たる村井に貸し付けた文面に形式上はなっていた。明治元年(1869)に、
採掘権は南部藩から村井に移されたが、諸藩の外債返済や海外借財返済の処理を行って
いた明治新政府は、大蔵大輔の職にあった長州藩出身の井上馨を差し向けて、明治4年
(1871)にこの証文を元に、村井に返済を求めたが、その不能をもって、時の大蔵省は
尾去沢鉱山を差し押さえ、ここに村井は破産に至った。その後井上はさらに尾去沢鉱山
を競売に付し、同郷人である岡田平蔵にこれを買い取らせた上で、「従四位井上馨所有
」という高札を掲げさせ私物化を図った。村井は憤慨し、これを司法省に一件を訴え出
た。司法卿であった佐賀藩出身の江藤新平は、これを追及し、井上は大蔵大輔を辞職し
た。これが尾去沢銅山事件である。その後、南部藩の救済と共に落札によって譲り受け
、明治22年に、岩崎家に経営が移った。当時には、鉱山師から海外の機械が取り入れら
れた変革期で、鉱山ラッシュだったが、三菱財閥は筑豊炭鉱入札が三井によって落札さ
れ為、筑豊を棄てて、鉱山資本に参加する為に、積極的にこの山を買ったとされる。

1362: 名無しさんAA:18/04/21 18:34
 宣教師の時代       ーーー112

 その後には、この山の成功を得て三菱財閥は 次々と閉山した山を買った。又この山
の開発には海外機械を取り入れて効率的に行い、閉山までの産出量においては、銅30
万t、金4.4t、銀155tとかなりの量が採掘されて三菱の母体となったと推定され
ている。この尾去沢鉱山が南部藩のものとなったのは恐らく大久保長安がいなくなり、
大久保家の差配が消えた頃であろう。大久保家は関所を差配し又こうした幕府の天領も
差配していた。従って金や銅の産出が無くなってしまうと天領としては価値のないもの
になって行ったのである。九州でも天領日田は同じような金鉱山の地だったとされる。
現在の日田市は、古代の日田郡とほぼ同じ範囲との盆地であった。この地域には金鉱脈
が多数あったことから、古代でも金を採掘する大変豊かなクニであったと推測される。
 日田の金山で最も有名なのは、鯛生金山である。この金鉱山の昭和初期の金産出量は
東洋一で、日本最大の金山と言われた。またこの鯛生金山を中心として県境に沿った地
域には、日田郡南部金山地帯が存在していた。その津江地域には、金山が多く古代から
多数の村が存在していたようで 「豊西記」「矢野家伝」には神武天皇(紀元前711年)
の時代の津江の老松の伝承があります。豊後国風土記には、石井村地方と津江荘を含め
て石井郷と総称していたと書かれ、豊後国志では、日田郡の津江荘は11村としている
。多分に江戸初期は黒田官兵衛の隠れたへそくりとなっていたと思われる。日田郡に存
在したとわかっている金山は17もあった。豊後風土記に書かれた、「石井村地方と津
江荘を含めて石井郷と総称」とされ隈山は石井村にあるとされた。大川石井家や柳川の
由布家などは大神(おおが)氏の一族で山の守り種族であった。この支配者は金山のあ
る地域を持っていたが、地図を見ると日田盆地西南の石井や津江や別府などはかなり離
れている。しかし。日田盆地はその集合場所で、古代の金融街であった。つまり自立し
た一部の小さな村々が離れた津江地域がからも1つの郷して存在したのである。金山の
所有・管轄権の問題がでて来たのは大和朝廷に抵抗した頃からだ。土蜘蛛と呼ばれてい
た頃にこの地にわざわざ天皇行幸し大神氏の祀る宇佐神宮にまで京都奈良から来た理由
が、この金山だったのである。日本にはいくつもの金山があり、古代人はそれを外部に
製法と共に漏らさず秘密にしていた。それが山間部の糧だったからだ。古代から金銀を
採掘していたことが明らかなのは出雲だけで石見銀山のみが古代から知られた所だった
。しかし地上に銀色の銀の山がそびえており、1526年、博多商人神谷寿禎に見つけられ
た。金の鉱床を多数もつ日田の古代は、そうして古代から豊かな王国となっていたとし
ても不思議ではなくむしろ自然なことだった。

1363: 名無しさんAA:18/04/21 18:35
 宣教師の時代       ーーー113

 しかし稲作のない地域は、常に食料も必要で時代にはついていけず、騒乱の元でもあ
った。五馬山の五馬媛(いつまひめ)もまた、大和朝廷に抵抗する土蜘蛛であったとさ
れて悲話がのこる。日田郡中川村の赤岩鉱山を持っていた中川氏も古代豪族として大和
朝廷にも列席している。または五馬が日田郡南部金山地帯の入口に当たる場所であった
から、中央とこの地の繋ぎの豪族でもあったのではないかと推測される。江戸期の馬原
事件も起こっている。幕府直轄の天領である豊後国日田では、将軍・徳川吉宗の「享保
の改革」の頃には同じように産出する金が無くなってしまった。折から、享保19年(17
34)に代官として幕府御家人の岡田庄太夫俊惟(としただ)が派遣され、定免法の導入
をはじめとして、年貢の増徴や助合穀の新設し、救荒用の備蓄米として農民から別徴収
したが、実際には換金して「助合穀銀」として商人に貸し付け、利息収入を得ていた。
このため、凶作にあたって食物にも事欠く農民の困窮は、さらに飢餓を深める結果とな
り、日田郡馬原(まばる)村の庄屋・穴井六郎右衛門が代官所に訴えるものの聞き入れ
られず、百姓の他領への逃散も相次いで村人は貧困の中に叩きこまれた。ついに延享3
年(1746)、穴井六郎右衛門は71歳の老齢に鞭をうち、日田郡・玖珠郡13か村を代表
して江戸表に出て越訴することとなり、ほかに六郎右衛門次男の要助、馬原村組頭・飯
田惣次が付き添い、年貢軽減と夫食米の借用などを幕府に要求する血判付きの訴状を、
江戸の目安箱に投函するに至った。いったんは投獄されるものの、その年の暮れには、
お目こぼしで釈放されて帰国した。しかし、国元では代官所からは徒党強訴した罪で再
び捕らえられ、穴井六郎右衛門と要介は浄明寺川原で死罪獄門、飯田惣次も死罪となり
、その他にも400名以上の百姓が、所払いや過料、手鎖などに処せられ厳しいものと
なった。3人が処刑されたあと、助命嘆願をしていた地元の龍川寺13世の水誉和尚が
、身命を堵して獄門台から3人の首級を持ち去って境内に埋葬し、その後、宝暦2年に
(1752)の七回忌に建てた供養塔が「馬原供養塔」として今に残って、伝説を伝えてい
る。なお、この供養塔では公儀を憚って、本名の「六郎右衛門」が「六郎左衛門」と意
図的に1字違いになっている。大分県日田市には、日田三丘とよばれる日隈山(ひのく
まさん)、月隈山(つきくまさん)、星隈山(ほしくまさん)がある。いずれも川の侵
食によって形成された残丘(侵食残丘、水蝕残丘)なので、山とはいってもどれも小さ
な丘なのだが、それぞれに城址がある。これが英彦山が日子山とされた理由でもある。


1364: 名無しさんAA:18/04/26 13:49
 宣教師の時代       ーーー114

 筑前岩屋城は、築城年代は定かではないが、恐らく天然の山城として相当古くから、
あったのだろう。天文年間(1532年〜1555年)は高橋鑑種の居城となっていた。高橋鑑種
は豊後の大友氏の庶流一萬田氏より筑前国高橋氏の家督を継いだ武将で、筑前国守護代
として宝満山城と岩屋城の城督を務めた。通常2城の城督というのは信用が高かった事
を示している。城督(じょうとく)と言うのは城代家老の地位で城主ではない。しかし
その城の会計からすべては城主より強い権限を持った責任者と言う事だ。高橋鑑種は、
武勇に優れた武将であったが、永禄年間(1558年〜1570年)に大友氏が南蛮かぶれになり
重陽の家臣を殺した時、離反して毛利氏に付いた。しかし、永禄12年(1569年)毛利氏は
山陰で尼子残党が挙兵した為九州から撤退した。これにより後ろ盾を失った高橋鑑種は
大友氏に破れ、鑑種は高橋家の家督を剥奪された。替わって吉弘鑑理の子の高橋鎮種が
(のちの高橋紹運)家督を継いだ形になった。天正14年(1586年)薩摩の島津氏が北上し
てくると、岩屋城には高橋紹運、宝満山城には紹運の次男で筑紫広門の娘婿である高橋
統増が筑紫氏の家臣とともに籠城した。岩屋城では壮絶な戦いの末に、高橋紹運以下、
籠城兵数百がことごとく討死した。その後、秀吉の援軍が九州平定に来襲し島津氏は、
城を秋月氏に預けたが、立花山城の立花統虎によって奪いかえされ、天正15年(1587年)
破却された。この筑前岩屋城は、大宰府の福岡側の小山の所にある。だがここが博多と
日田の要害ルートの途中で 昔からの遠の都大宰府を裾野にしている。何故か。それは
大陸からの侵攻に対応するための山城だからである。しかし本来の岩屋は岩屋神社のあ
る日田こそが岩屋と呼ばれていた。その日田岩屋には空に飛び出した大きな岩を目印と
して岩屋神社を祀っている。岩屋伝記では、欽明天皇の8年( 547年)のある日、岩屋に
輝くものが振ってきました。社僧はこれを宝珠石と名付けてご神体として神殿を造った
。大化4年( 648年)には村人に「星の玉・宝珠石を茅薦(かやこも)で包んでまつれ」と
神のお告げがあり、以来、閏年の旧暦9月には「薦替えの儀」が行われています。宝珠
とは仏の象徴を示す仏教用語で、願いが叶う不思議な玉の意味だ。見ると目がつぶれる
と言われ、いまだに見たものはいないといいます。基本的には宝珠は日本の用語ではな
い。勾玉が宝だったからだ。仏典で如意宝珠(にょいほうじゅ)を示し、梵語で「チン
ターマニ(思考する玉)」即ち「珍玉」「金玉」とされる。「意のままに願いをかなえ
る宝」とされ、玉葱や落橋や大蒜(ニンニク)の事を指したと言われている。

1365: 名無しさんAA:18/04/26 13:49
この東峰村の「岩屋神社」は閏年の今年10月19日「薦替え儀」が行われる。大変厳か
な神事で。547年空から降ってきたと伝えられる「宝珠石」をご神体として神殿を造
り安置したことの伝承行事である。宝珠とは、仏教用語で仏の教えの象徴であり、願い
が叶う不思議な宝石という意味で、宝珠石は星の玉とも呼ばれています。村民に、神の
お告げがあり、宝珠石に薦を包んで以来、閏年に幾重にもかけられている薦を上から1
3枚取り13枚被せると言う12進法の起算をする日本では珍しいものだ。「薦替え儀
」を連綿と今日まで受け継がれています。その行事は、かつては神職さえも、見てはな
らない、話してもいけない御神体とされ、目隠しをし、口には榊をくわえて夜間に行っ
ていたとされる。西洋的には金の珠でしかなく、それは金山のありかで戦争が起こる事
を避けた為と思われる。つまり宝珠山村や星野或いは巴木村はそうした伝承の地名であ
る。しかし戦国時代になると極端に多く鉱山が開かれた。キリスタンがやって来たのだ
ろう。この日田に記録が残る鉱山は下記の通りである。
照国鉱山    ……金(閉山)  -日田郡小野村
玉来鉱山    ……金(閉山)  -日田郡小野村
小野鉱山    ……金(閉山)  -日田郡小野村
大鶴鉱山    ……金(閉山)  -日田郡小野村・大鶴村
赤岩鉱山    ……金(閉山)  -日田郡中川村
天狗岩鉱山   ……金(閉山)  -日田郡前津江村
柚木鉱山    ……金(閉山)  -日田郡前津江村
中島鉱山    ……金(閉山)  -日田郡前津江村
金光鉱山    ……金(閉山)  -日田郡中津江村
岩崎鉱山    ……金(閉山)  -日田郡中津江村
殿尾鉱山    ……金(閉山)  -日田郡中津江村
大分鉱山    ……金(閉山)  -日田郡中津江村
上津江鉱山   ……金(閉山)  -日田郡上津江村
上野田鉱山   ……金(閉山)  -日田郡上津江村
彦山鉱山    ……金(閉山)  -中津市
鯛生溝部鉱山  ……金(閉山)  -中津市
金鉢鉱山    ……金(閉山)  -中津市
明賀野鉱山   ……金(閉山)  -中津市
旭鉱山     ……金(閉山)  -中津市

1366: 名無しさんAA:18/04/26 13:50
 宣教師の時代       ーーー116

 1560年、京都の二条衣棚の「 妙覚寺 」にイスパニア宣教師はイタリアなどのユ
グノー系宣教師と分かれて辿り着いている。宣教師ヴィレラは、下京の四条坊門通りの
姥柳町の住居に、やっと落ち着くことが出来た。それまでは何回か与えられた掘っ建て
小屋の隙間風のある場所に転々と移り住んでいた。ここに祭壇と小さな聖堂を設けて、
宣教の働きを進めていった。室町幕府第13代将軍足利義輝は、1553年、三好長慶との
権力抗争に敗れ、近江国朽木谷に逃れていた。この時、光秀は和議を結ぶ事に奔走した
。こうして1558年に京都に戻り、「 妙覚寺 」に住み、政治を司っていて、新しいこの
バテレンの噂に京の都は持ち切りだった。京の都で、キリスト教の宣教を進めていきた
いと思っていたヴィレラには、比叡山からの僧侶達によって、町衆の妨害や反対或いは
侮辱が激しく行われていた。是非、公方様( 足利義輝 )の加護を受けたいとの申し出
に会見しが図られたのだ。こうして直々の 「 允許状 」( いんきょ ・ 許可 ) を与
えられたいとの願いに、天皇は答えた。仏僧よりは利用価値がある。と思ったからだ。
感謝なことに、都の一人の高僧永源庵が、この仲介の労を取ってくれた。会見の当日は
、ひどい雨降りになりました。傍にロレンソ修道士が通訳としてつとめた。ヴィレラ達
は、日々の生計を立てていくのがやっとであるくらい貧しかったが、日々祈りの為に、
重宝して使っていた 貴重な 「 砂時計 」を公方様に贈呈し、喜んでもらいました。公
方も、ヴィレラを、高位聖職者として、非常に手厚いもてなしをもって礼遇した。こう
して付き合いが出来て後日、ヴィレラ司祭が願い出た「三カ条からなる制札」の允許状
が、許可され、与えられてた。願い出た内容は、@ 司祭の住居を、兵士たちが宿舎と
して徴発してはならない事。この頃は既に寺院は公共施設であり、兵士や使者、および
外から都の政庁に来る殿達に、宿舎や屯所として無断で利用される習わしで、その時の
乱暴や破壊或いは徴収も罪ではなかったからだ。A 公方様は、この司祭には賦課とか
見張番、その他の義務を免除する事。つまり仏僧らも含めた、全市民に義務付けられて
いた奉納金や苦役や労役を免除したのだ。B 何人も、伴天連を非難したり虐待しては
ならず、その違反者は、しかるべく罰せられるべき事。つまり余所者として最下層の陰
俾や卑人として扱われない様に公けに町人としたのだ。こうしてヴィレラ司祭は、公方
様の 「 允許状 」 の写しを板に書き記し、教会の戸口に掲げましたので、町の人々は
伴天連のことを、これまでとは違った目で見るようになり、公然と侮辱することも止む
ようになった。しかし今度は義輝が殺されてしまったことで身を追われてしまい、大坂
付近に布教を変えた。晩年近くまで日本でひたすら布教活動を続けていたという。

1367: 名無しさんAA:18/04/26 13:50
宣教師の時代       ーーー117

 ガスパル=ヴィレラやルイス=フロイスも、ザビエルと同じ船の最初期の宣教師だ。
ルイス=フロイスはインドのゴアで、たまたま日本に行こうとしていたフランシスコ=
ザビエルとヤジローに出会う。ここで日本布教の夢を持ったルイス=フロイスは、31
歳になってゴアで洗礼を受けたばかりのヤジロウら3人の日本人と共にジャンク船で、
ゴアを出発、日本に上陸した。日本を目指したザビエル達が着いたところは、ヤジロウ
の案内でまずは薩摩半島の坊津に上陸し、その後許しを得て、1549年(天文18年)現在
の鹿児島市祇園之洲町に来着したと言う。長崎や平戸ではなかったのだ。祇園之洲町は
文字通り祇園の為の中州町だった。つまり日本初の出島の姿だったのだ。仏教での、祇
園精舎(ぎおんしょうじゃ)は賑わった花街である。布教・托鉢などの修行(遊行)僧
も多く大寺院もあった。その中の精舎と言うのは修行の仏院仏舎の事を言ったのである
。賑わいの商館があった中州が、祇園中州なのだった。更にここでやって来たのは南蛮
船の黒船ではなくジャンク船だった。これは本来中国布教を目的に来たのだが、寄港し
た明の上川島の情報で海賊の襲来や明の弾圧も厳しい事で、一時的に避難し日本に立ち
寄ったまでの事だったのである。更にポルトガルはその頃スペインからの独立を果たし
敵対され阻害されてもいたのだ。中国のキリスト伝来は日本より遥かに早くその教義か
ら少林寺や儒教や道教などが生まれたとする説があるくらいである。明や清を脅かした
白蓮教徒の乱は近年では古代キリスト教と新しいキリスト教の融合した影響だとされる
。ではその朱印船が来ていたのは島津氏だけだったか。実は島津氏は琉球貿易から簡単
には見つからず行い易かったが、他の大名達もかなりやっていた。その為に戦国時代が
生まれたと言っても過言ではない。しかし、その交易に必要だったのが金銀か奴隷であ
ったし、又、南蛮人と紅毛人との取引でバテレンを信仰して寺や信徒で内紛が起こるよ
りは、ジャンク船なり朱印船なりの貿易の方がずっとましだったのである。それが判明
した薩摩島津は結局はキリスタン追放に及んだ。既に4世紀頃から中国商人にムスリム
商人との交易はあった。8世紀ではダウ船を使ったアラビア海を中心とした海上貿易が
盛んになった。11世紀には、宋代の中国で造られた「ジャンク船」の外洋帆船は一般
化し、羅針盤と帆を用いる新航海技術が大きく飛躍して、広東、福建、浙江などの地方
の海岸の商人が、南シナ海に進出を始め、12世紀にはマラッカ海峡を越えてインド洋
に及ぶ広い「ジャンク交易圏」が形成されてしまう

1368: 名無しさんAA:18/04/26 13:50
宣教師の時代       ーーー118

 ここに英彦山の天狗伝説がある。天狗という言葉そのものは、日本独自のものではな
く、源流をさかのぼるとサンスクリットの梵語でこれまた「インド」に行き着く言葉だ
。天狗という言葉は、インドの仏典では「流星」をさす言葉として用いられて、それが
中国語に訳されたとき「天狗」の字が当てられたといいます。しかし中国では、各種の
書物に天狗の表現があるものは、流星占いが流行し、地上に災難を及ぼす予兆の自然現
象とされ、その恐れとして捉えられており、日本のように天狗は、人のような姿で語ら
れることはなかった。だが、日本に来れば、日本書紀の舒明天皇の9年に大きな星が東
から西に流れ、雷に似た音がしたのを僧旻(そうみん:法師の事)が「あれは流星では
なく天狗だ。」と言ったという記録が残っており、これが天狗が文献に初めてでてきた
ものである。とされる。この舒明天皇9年という時期は大化の改新前夜で旱魃(かんば
つ)があり日食がありと、色々な異変が起きている時で、そういった怪異のひとつとし
て天狗が登場したようだ。まだこの頃の天狗は、中国思想と同じく自然現象そのものと
して捉えられていたことが伺える。この頃から鼻の長い西洋人系の僧が日本に来ていて
も不思議ではない。特にロシア系の白人が山で火を使い、秘かに金の抽出技術を教えて
いたとしたら、のぞき見した山の住民は妖怪と思った事だろう。また、一説では、仏教
上に現れる嘴(くちばし)を持ち、翼によって自由自在に空を飛びまわり、衆生の救済
を行う「カルラ天」が日本の風土に合った形に変形されカラス天狗として語り継がれた
という説もある。大方の天狗は、赤い顔に長い鼻を持ち、背中には烏の羽が付いている
、体型は人と変わらず、山伏の格好をしていて、団扇を持つ場合が多い。童話では、怪
力で空を飛んだり、雷を落としたり、人を金縛りにさせるなどの「数々の神通力」を持
ち、天狗のつぶてを巻き起こす団扇や、姿を隠す蓑など霊力の篭った道具も持っていま
す。昔話では、高僧にやられてしまう悪役として登場することが多い。だが本来、これ
らの悪のイメージとはまったく逆に、古くから祀られた森や山の精霊や守り神としての
天狗であり。多くは天狗は人々に対して悪さを働く事は無く、人気のない暗い山中を行
く旅人たちを守る存在である。それは山を畏敬の念で見た人々のもたらした幻影である
が もともと食べ繋ぎ生活する山では、神社という形で知識を得るまでは、古代の人々
にとっては神であり、ご神体そのものだった。海神と同じ恵みが智慧と知識でもたらせ
られたからだ。英彦山は、修験と信仰の拠点で、熊野の大峰山、出羽の羽黒山とともに
「日本三大修験山」の一つだ。

1369: 名無しさんAA:18/04/26 13:53
 山頂近くにはの「英彦山神宮」がある。正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつあかつ
かちはやひあめのおしほみみのみこと)というたいへん長い名前の神様を祀る。高天原
での「天照大神と素戔嗚尊の誓約(うけい)神話」に描かれている。スサノオがアマテ
ラスの抱いた疑いの対決に子造り対決をする。スサノオは2人の子をつれてアマテラス
は五人の子を持った。この勾玉から生みだした五柱の神様の一人である。このご祭神の
天忍穂耳命が天照大神の息子であることから、「日(太陽)」の「子」で「日子(ひこ
)山」と呼ばれ、それが彦山と名を変え、英彦山となった。この英彦山を住処とするの
が日本の天狗八系、48天狗の一人であり、九州一帯の天狗の元締格と言われている「彦
山豊前坊」という大天狗です。この英彦山には「豊前坊高住神社」という神社があり、
社殿が創建される前には「豊前窟」という名前の49窟ある修行の場のひとつでした。ご
祭神は「豊日別(とよひわけ)」という豊前国と豊後国を護る神様なのですが、このご
祭神以上に有名なのが大天狗の彦山豊前坊で、高住神社のご祭神の一柱として祀られて
いる。彦山豊前坊は、欲が深く驕り高ぶった人間には配下の天狗を飛ばしてその家に火
をつけたり子供をさらったりと、とても厳しい鉄槌を下している。しかし反対に信仰心
を持って心正しい人には、直属の家来である八天狗を始めとして英彦山のすべての天狗
を動員して、その人を護り願いを叶えてあげたりすると伝えられている。小早川隆景と
の問答の伝説では、彦山豊前坊は英彦山の樹木を護ろうとして現れますが、安土桃山時
代に英彦山の麓の毛谷村に生まれ、加藤清正の家臣となって文禄・慶長の役で勇名を馳
せた毛谷村六助(貴田孫兵衛)という武将の伝説では、彦山豊前坊に剣術を授かり無類
の強さを身につけたという言い伝えが遺っている。小早川隆景時代に秀吉の九州征伐(
1586年から1587年)の後に九州の筑前国(福岡県西部)を領国としていますから、秀吉
からは筑前と隣の豊前国の境にある英彦山の木を伐り出して造船しろという命令が下っ
た。彦山には、楠の大木が数多くあったからだ。隆景は早速、彦山まで出向き、造船の
ための木材伐り出しを彦山の座主に告げますが、座主は色々と反論したが「関白殿下の
ご命令だ。」と言うとようやく座主は納得したので、隆景は彦山の坊にしばらく滞在す
ることになった。滞在中のある夜のこと、ふいに風が吹き、どこからともなく背丈が2
m以上もある山伏が現れ、小早川隆景の前に座って睨んできました。天狗と隆景はしば
らく睨み合っていましたが、やがて天狗が口を開いて、「この彦山の木は、開基以来千
年以上の昔からいちども伐られたことはない。これは人々が神仏を敬ってきたから守ら
れたのであって、それが船を造るのに伐り出すとは奇怪な話だ。貴公は神仏に帰依の心
が深い名将だと聞いていたが、こんな悪逆無道をするとはどうしたことか」と声を荒げ
たのだった。

1370: 名無しさんAA:18/04/26 13:53
宣教師の時代       ーーー120

対して隆景は、「この山の木を私が自分のために伐り出すということならば、そのよう
なそしりも受けるだろう。しかしこれは関白殿下の命令なのだ。前例がないと言って、
この命令に背くのであれば、天下の下知に背くことになる。普天のもと、王地にあらず
ということなし、という。関白殿下は天皇に代って天下を治めているのだから、この天
下の下知に背くことはあってはならない、」と答えたという。また隆景は、「私のこと
を悪逆無道と言うが、そちらこそ自分勝手なことを言っている。役行者(修験道の開祖
、役小角)以来、修験者の法には私利私欲を優先して世の法を破れと書いてあるのか。
正しい法は私利私欲を禁ずるのだから、山の木に執着してそれに縛られるとはいかなる
ことか」と言い返した。天狗は、「普天のもと、王地にあらずということなし、とは、
もっともなことだ。また貴公に罪がないというのもはっきりした。それではお暇する。
さらばだ」と去って行った。「普天のもと、王地にあらずということなし」とは、平家
物語にも使われた言葉で、「この天下は天皇の土地でないところはない、」という意味
とされる。この天狗との問答のお話は、山を護る土地神である大天狗が天下の為という
理由で木を伐り出すことを納得したという話である。まさに戦国時代が終わりを告げ、
天下が統一された中で、元寇以来の乱世に明け暮れた事は今だ語り継がれて、朝鮮征伐
の船の話は、大陸からの侵略におののいた九州人の心をつかむものであったのだろう。
そうした御座主(おざす)さえも納得させた逸話なのかも知れません。この英彦山には
、多分にこの頃は最盛期であり数千人の僧兵を擁していた。とされる。しかし敵対して
いた大友義統に攻められ、その後に秀吉の九州征伐が行われて豊前には細川忠興が入っ
て急速にその勢力は衰えていった。それでも修験道場としての威厳は保たれていたのだ
。それにしても九州勢は優しい妖怪ばかりだ。九千坊河童といい、豊前坊天狗といい、
物わかりの良すぎる話ばかりである。しかしこの朝鮮征伐から一気に秀吉の力は無くな
って行くのである。この朝鮮征伐の不可解な事件は相当に多いものの、太閤記など秀吉
や文物記にはあまり多くは出てこない。又この英彦山と朝鮮征伐とキリスト教の関係も
あまり解明されていない。それどころか朝鮮征伐と言う名やその後一挙にキリスト信者
によって金鉱山が開発された中で秀吉が死んで行った事もあまり知られておらず、唯一
大阪城攻めに浪人を雇うに 地下に大量に金の珠を千両箱であったと言う話ぐらいであ
る。果たして小早川隆景は、この金鉱山に接したのだろうか。


1371: 名無しさんAA:18/04/26 13:54
宣教師の時代       ーーー121

 小早川 隆景(こばやかわ たかかげ)は、戦国時代の武将だが本来毛利家の人間だ。
代々続く竹原小早川家第14代当主になり、分かれていた沼田小早川家も継ぐ事になっ
た。毛利元就の三男で、兄弟に同母兄の毛利隆元・吉川元春などがいる。竹原小早川家
を継承し、後に沼田小早川家も継承して両家を統合。吉川元春と共に毛利両川として戦
国大名毛利氏の発展に尽くしたのだが、彼は毛利水軍そのもので、新たに小早川水軍と
して纏めて指揮官としても活躍している。竹原小早川家の当主であった小早川興景が、
銀山城攻めの最中に死去し。継嗣が無かったため大内氏が仲人となって養子に行った。
又本家・沼田小早川家の当主であった小早川繁平は若年で病弱な上、眼病により盲目と
なっていた為に尼子氏が菊池氏に近く、侵攻を恐れて大内氏は尼子氏との内通の疑いで
繁平を拘禁し、隠居・出家に追い込んで本家筋を絶家とした。備前国の宇喜多直家が、
織田方に離反して次々に城が落ちて毛利の本城が秀吉に囲われると、安国寺恵瓊を通じ
て秀吉と和睦交渉を秘密裏に行うと言う寝返りを見せた。毛利氏は日和見路線を捨て、
秀吉に従属し、隆景は養子の小早川元総(弟、後に秀包と改名)を人質として秀吉に差
し出した。その後は秀吉に積極的に協力し、天正13年(1585年)の四国攻めでは伊予国
の金子元宅を破り討ち取るなどの功績を挙げて改めて豊臣政権から、大名統制策として
隆景に伊予一国を与えられ独立大名として、一度毛利家に与えられた伊予を改めて受領
する形で毛利家の一武将としての体裁を保った。こうした伊予の治領に、ルイス・フロ
イスは「隆景は深い思慮をもって平穏裏に国を治め、日本では珍しい事だが、伊予の国
には騒動も叛乱も無い」と称賛している。しかし天正14年(1586年)からの九州征伐に
参加し、戦後に秀吉から筑前・筑後・肥前1郡の37万1,300石を与えられる時。所領が、
毛利・吉川・小早川三氏の8ケ国に及んでおり、更に領国を加えると公役を十分勤めら
ないと、辞退した。しかしこれに対して秀吉は、筑前・筑後を豊臣家の蔵入地として、
隆景をその代官にしよう画策し隆景は重ねて辞退した。しかし隆景の辞意は認められず
筑前・筑後を領して在国することになり、結果家臣は次々と不慮の死を遂げている。毛
利輝元はなお若く、吉川元春も既に死去している。隆景の移封によって竹原に移されて
いた家老の河野通直が病死し西園寺公広も殺害された。小早川家を伊予から九州へ移封
させた上で隆景から引き離し、通直や公広を殺害することで、毛利と小早川家を含めた
伊予の旧勢力を一掃するという豊臣政権の方針が透けて見える。こうした中での英彦山
の修験道と立ち会わせて御神木も切れと言う命令をしているのである。

1372: 名無しさんAA:18/04/26 13:54
 文禄元年(1592年)に文禄の役が始まると、6番隊の主将として1万人を動員して、
出陣し、全羅道攻めを行うが抵抗を受けず、本格的な攻略を行わないうちに先に進み、
小西行長などが、援軍に来た明軍に敗退し、これに対応するために京畿道へ配置転換さ
れた、文禄2年(1593年)には碧蹄館の戦いにおいて明軍本隊を立花宗茂と共に撃退し
た。文禄3年(1594年)8月下旬、朝鮮在陣の毛利氏諸将が加藤清正に宛てた書状の中で
「隆景養子之事金吾様」とあることから、豊臣家から秀吉の義理の甥・羽柴秀俊を小早
川家の養子に迎える事が決定したことが分かる。輝元は40歳近くになっても息子がいな
かったことから、秀吉は秀俊を毛利家の養子にしようと隆景に相談したが、隆景は血縁
関係のない秀俊が毛利家を継ぐことを心配し、秀吉には既に輝元の従弟・毛利秀元を、
養子にする事が内定していること告げた。こうして秀吉の計画を放棄させた。隆景は、
この件では秀吉が毛利氏を疎んじて輝元に不利があることを虞れて、自ら秀吉に請う事
によって、秀俊を養子として家を譲ったのである。つまり毛利氏の養子にさせたかった
が小早川氏の方に養子に来ることに決まっているとしていたのだ。こうして、文禄4年
(1595年)に秀吉が発令した「御掟」五ヶ条と「御掟追加」九ヶ条において、他の家康
や前田利家等と共に五大老の一人に任じられた。その後、秀吉からの養子秀俊改め秀秋
に家督を譲って隠居を持ち出し、譜代の家臣団だけを率いて三原に移った。その際秀吉
は12月附を以って知行目録を隆景に授け、筑前に5万150石という隠居領を与えている。
これは黒田の見張り役としたのだろう。こうして隆景は名島城を改修して居城とした。
しかし慶長2年(1597年)6月12日死去。享年65。安芸国豊田郡沼田荘米山寺に埋葬され
た。備中高松城の戦いで、黒田官兵衛が立案したとされる「水攻め」に、小早川隆景は
孤立した高松城を救援できずいた。この為、城主の清水宗治を失ってしまった。この時
の毛利に忠義を見て、自害した清水宗の息子、清水景治が残した手紙が毛利家文書に残
っている。ある時、小早川隆景が豊臣秀吉に面会した時に、秀吉が清水宗治の息子につ
いて話した。その為秀吉は、備中高松城での清水宗治の毛利家に対する忠義に感じ入る
ところがあったのか、宗治の息子に1〜2万石を与えて自分の家臣に取り立てたいと隆景
に打診している。それを隆景が岡山にいた景治に伝えに行くと、景治は「父・宗治は、
毛利家に忠誠を尽くした。自分も毛利家に忠節を尽くすべきだと思っているので、この
まま毛利家に仕えさせてほしい。」と秀吉の申し出を拒否したと言う。秀吉の申し出を
断るというのはそれなりの覚悟が必要な事であったが、景治の想いに打たれた隆景は、
その旨をそのまま秀吉に伝えた。実はこの時、黒田官兵衛も隆景と一緒に見届け役で、
岡山に来ていてこの場に同席していました。

1373: 名無しさんAA:18/04/26 13:56
宣教師の時代       ーーー123

 そして官兵衛も又、「私も景治殿の思いを全てを太閤様にお伝えしておきます。」と
言ったとしている。こうして、隆景や景治に協力してくれています。隆景と官兵衛の2
人が秀吉に景治の断りの意思を伝えてくれた事によって自分は毛利家に残っている。清
水景治の手紙にはそのように記されている。この事で官兵衛は小早川隆景を信奉してい
た面があったと言う。小早川隆景と黒田官兵衛は仲が良かったようで、ある時隆景は、
官兵衛に、「あなたは頭がいいから、物事を瞬時に見極め、即断即決をするので後々、
後悔することがあると思う。私はあなたほど頭が良くないので、じっくり物事を考えて
決断するので、後悔することは少ない。」と語った話が残る。つまり適切な速攻即断の
海賊気質があった事がこの話で分かる。又逆に黒田官兵衛の方は、結構じっくり態勢を
見極める事に終始したようだ。これは親愛な友人に幽閉された事の後悔かもしれない。
それが、朝鮮征伐の職務放棄や亀甲船の隠れ運航だったのだろう。本来なら小西行長が
持つべきものが、いつの間にか盗まれてしまい見つからないのだからこれは不始末以外
何者でもない。そこに小早川など大きな水軍との接触がある理由であろう。黒田氏では
全くこの船を動かす事は出来ないからだ。小早川は、当初は織田家と敵対し、中国攻め
を任された秀吉や官兵衛とも兵刃を交えていて、信長の死後に、秀吉が柴田勝家を破り
、後継者として台頭してくると羽柴勢に従属した。その後には秀吉に積極的に協力し、
「四国攻め」「九州征伐」「小田原征伐」、さらに「文禄の役」にも参戦し、天下統一
に多くの功績を残した。文禄4年(1595年)には家督を譲って隠居しますが、その際、
秀吉からは筑前に5万石という破格の隠居料を拝領している。また秀吉は隆景のことを
「日ノ本の国は西方は小早川隆景に東方は徳川家康に任せれば安泰」とまで評した。又
隆景が亡くなった際、官兵衛は「これで日本に賢人はいなくなった」と嘆いたと伝えら
れている。その反面、秀吉と同じく隆景は官兵衛の恐ろしさも十分承知していました。
秀吉は「自分以外で天下を治める者がいるとすれば、それは官兵衛」と言って死んだ。
小早川隆景は、家臣に「官兵衛が休息地を求めても貸すな」という言葉を残している。
隆景は自分生きている間はまだしも、自分の死後は安心できる相手ではないと考えてい
たのだった。


1374: 名無しさんAA:18/04/26 13:57
宣教師の時代       ーーー124

 毛利が敗れた時、宇喜多秀家は小早川隆景を秀吉にとり成した一人だ。多くの事で、
小早川にとっては宇喜多は腹の立つ存在だった。しかし、先行序列で秀吉は、宇喜多の
とった毛利に対する裏切りを武功として取り立てた。又備中攻めは、宇喜多の幼い頃で
家臣や家老の下した決断だった。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは大坂城
を守備し、雑賀衆の侵攻を撃退した。天正13年(1585年)、3月に紀州征伐に参加した
のち、四国攻めでは讃岐へ上陸し後に阿波戦線に加わった。天正14年(1586年)の九州
征伐にも日向戦線に参加した。天正15年(1587年)、秀吉から、豊臣姓(本姓)と羽柴
氏(名字)を与えられる。天正18年(1590年)の小田原征伐にもいち早く参加して豊臣
政権を支えている。文禄元年(1592年)から、の文禄の役には大将として出陣し、李氏
朝鮮の都・漢城に入って京畿道の平定に当たる。翌文禄2年(1593年)1月、李如松率い
る明軍が迫ると、碧蹄館の戦いで小早川隆景らと共にこれを破り、6月には晋州城攻略
を果たした。これらの功により、文禄3年(1594年)5月20日参議から従三位権中納言に
昇叙した。この時小早川と立花氏によって勝利し加藤清正を救ったが、余りにも恐れお
おいとして辞任している。その姿に秀吉は感じいり五大老の一人となっていた。しかし
彼はこの頃既にキリシタンに仲間入りしていた。彼の諸将に後で家老となった備前明石
家(美作明石氏)がいる。守護大名・赤松家の末裔であり、銅山経営や技術統率も行って
いた一族だった。尼子氏とライバルでもあり仲間でもあった。父明石行雄は、天神山城
主の浦上宗景に仕えていたが、1575年浦上家が滅亡した際には、宇喜多直家に呼応して
寝返った。こうして明石行雄は弟・明石景行と共に岡山城主宇喜多直家と宇喜多秀家に
仕えた。言わば下剋上社会にさらされ自ら負ける武将に付かないと言う下剋上を進めた
者であった。こうして1588年には4万石となり、諸大夫(従五位下)になった。子の明石
守重(あかしもりしげ)時代に、明石全登も父がまだ存命中の間に、家督を継いで、和気
郡大俣城(大股城)主して宇喜多家の家老となったのだ。通称明石全登と言う名で知られ
るが、明石掃部(あかしかもん)本来は家門15代目で代々継いだ名前だったとされた。
正室に宇喜多直家の娘(宇喜多秀家の姉)をもらい、5人の子に恵まれた。また、宇喜多
詮家(坂崎直盛)に勧められて明石全登も1595年頃からキリスト教を信仰していたとされ
る。洗礼名はジョアン。しかし銅山経営からか、彼は双子で明石景盛(あかし-かげもり
)、明石守重(あかし-もりしげ)と呼ばれる者がいた。通称は、明石掃部とも言う。

1375: 名無しさんAA:18/04/26 13:58
宣教師の時代       ーーー125

1599年、宇喜多家では、お家騒動(宇喜多騒動)が勃発し、執政(家宰)・長船綱直(長船
紀伊守)が暗殺されると、関与した戸川達安・宇喜多詮家(坂崎直盛)・岡貞綱・花房正
成の4人の重臣が出奔した。そのため、 33000石の明石全登が執政となって、宇喜多家
をかじ取りする事になったとされる。また、宇喜多秀家の岳父となる太閤・豊臣秀吉の
直臣としても知行をあてがわれて、合計10万石の知行となっている。1600年、石田三
成の関ヶ原の戦いでは、宇喜多秀家に従って明石全登も参戦。前哨戦では小早川秀秋、
毛利秀元、吉川広家、小西行長、長宗我部盛親、長束正家、鍋島勝茂、大谷吉継らと4
万で、鳥居元忠が籠城する伏見城を陥落させている。 9月14日の杭瀬川の戦いでは、石
田三成の家老・島清興(島左近)と共に中村一栄を打ち破り、野一色助義を討ち取り、
有馬豊氏にも大打撃を与えた。そして、 9月15日、関ヶ原の戦いの本戦では、松平忠吉
と井伊直政が宇喜多隊へ発砲した事により火蓋が切られた。明石全登は宇喜多勢の半分
八千を率いて先鋒を努め、福島正則を相手に巧みな鉄砲戦術により善戦した。宮本武蔵
も明石隊に加わっていたとされるが、最終的に小早川秀秋の裏切りをを受けて大敗した
。 明石全登は、敵陣に突っ込もうとした主君・宇喜多秀家を諫めて、大坂城へ退くよ
うに進言し、殿軍を務めているが、この時、黒田長政勢と遭遇したとも言われている。
なお、明石全登は無事に関ヶ原から逃走したが、石田勢を攻めていた田中吉政の娘婿と
いう説もあり、明石全登の親族である黒田長政と田中吉政が、共に逃走を手助けした。
と考えられている。その後、岡山城まで退いたが、城がすでに荒らされており、宇喜多
秀家とも連絡が取れなかったため、そのまま逃亡した。浪人の明石全登は、明石正風の
娘(小寺政職の養女)を母に持つ、キリシタン大名・黒田官兵衛(黒田如水)に保護を受け
て弟・黒田直之の元に身を寄せていたとされる。1604年に、黒田官兵衛が死去すると、
柳川藩の田中忠政を頼ったとされるが、当時、既に黒田家はキリスト教を捨てている。
明石全登は生涯キリスト信者であるため疑問点も多く放浪については諸説存在する。し
かし、もともと官兵衛の父・小寺(黒田)職隆(もとたか)は、播磨国を本拠地とする
戦国大名・小寺氏の家老だった。当主・小寺政職(まさもと)の信任厚く、娘婿として
小寺の姓(苗字)を拝領し小寺姓でもいい赤松家の系統だったのである。つまり黒田氏
の縁戚でも充分通用したのである。又1614年、徳川家康の大阪城攻撃が現実味を帯びて
くると、豊臣秀頼・淀殿の招きを受けるが、招きが及ぶのは黒田家に存在した事が解っ
ていたからだとも言える。


1376: 名無しさんAA:18/04/26 13:59
 大勢のキリシタンと共に大阪城へ入ったのは迫害されていたキリスト教復活のためと
、八丈島に流されていた宇喜多秀家を解放するためとされている。洗礼名モニカと母と
、カタリナと言う息女なども入城し、傷病兵の看護をしたと言われている。宇喜多秀家
は薩摩へ逃れ、その後八丈島へ流刑となった。又1615年、大阪夏の陣では後藤又兵衛、
(後藤基次)が討死し、道明寺の戦いで、明石全登は水野勝成・神保相茂・伊達政宗勢と
交戦し相手を混乱させ、伊達政宗と神保相茂の、同士討ちを引き起こさせたが、明石全
登自身も負傷した。天王寺・岡山の戦いでは、旧蒲生氏郷の家臣・小倉行春と共に三百
余名の決死隊を率いて、徳川家康の本陣突入を狙った。しかし、豊臣秀頼の出馬中止で
作戦は破たんして、その後真田信繁(真田幸村)らが壊滅したことを知ると、水野勝成、
松平忠直、本多忠政、藤堂高虎らの包囲網を突破して、戦場を離脱した。大村家譜、山
本豊久私記などでは、嫡子・明石内記と共に九州に落ち延びたとあり、戸川家譜、武家
事紀では南蛮(スペイン・ポルトガル)に逃れたとある。備前・和気郡に潜伏したともさ
れ、実際に江戸幕府は「明石狩り」をするほど、噂を恐れていたようだ。なお、1615年
7月27日、捕縛された明石全登の親戚・岡成定と、その子の岡忠兵衛は徳川側により、
切腹となっている。しかし一族の話では、大阪落城後には仙台の伊達政宗に保護されて
、その後、幕府の目が厳しくなると、津軽信枚の保護を受け弘前城内にて匿われ、1618
年(元和4年)に病死したとされている事から、親戚岡成定の一族を伊達氏は匿った可能
性はある。公記とされる徳川側の家伝などでは、明石全登は水野勝成の家臣・汀三右衛
門又は石川忠総に討ち取られたとあり、大坂御陣覚書、大坂記などでも討死したとある
。しかし、この関が原には大きな裏があった。もともと家康は石田三成などを欺いて、
東北平定に出かけて行く中で方向転換して大阪に向かったのだ。伊王野資重(いおうの
・すけしげ)は伊王野氏は本領は福島の伊王野城の城主だった伊王野資信の長男で家督
は弟の資友が継いだ。1600(慶長5)年9月15日早朝、関ケ原で天下分け目の戦
いが始まったほぼ同じ頃、白河・関山(福島県白河市)でも深い霧が晴れ、激戦の火蓋
が切られていた。伊王野の軍が上杉景勝の一部隊を攻めたのだ。当時、那須勢は会津・
上杉勢の南下に備え、大田原城(大田原市城山)と黒羽城(同市前田)を拠点として、
芦野、伊王野両氏はその前方の自領を守備。芦野氏陣屋(那須町芦野)は奥州街道沿い
で、伊王野城(同町伊王野)は東山道沿い。当時の主要街道は東山道の方の防備の城主
だった。もし石田三成がもっと頭がよく人に好かれた存在だったならこの城が家康側に
つかない留意をしたであろう。しかし既に家康に仕えていたのだった。那須守備隊主力
の大田原、大関氏に援軍も頼まず伊王野単独で突撃、上杉勢を蹴散らした。

1377: 名無しさんAA:18/04/26 14:00
宣教師の時代       ーーー127

ただ、関山合戦は江戸時代の書物「継志集(けいししゅう)」にしか書かれていない。
伊王野資信の長男、資重の奮戦もあって上杉軍に快勝したが、資重はこの戦で負傷し、
傷が癒えることなく同年死去。伊王野氏は優秀な跡取りを失った。伊王野氏奮戦の背景
には、豊臣秀吉の小田原征伐の際、遅参による失態で、領地が1万3千石から、本領は
735石だけに削られていたからだ。斎藤館長は「戦闘で手柄を立てることが失地回復
」の好機とし家康が大きくそそのかしていた。戦功で旗本に取り立てられ、伊王野氏は
本領に加え、高根沢1800石を加増された。だが、1633(寛永10)年、跡継ぎ
問題で断絶。「継志集」は水戸藩家臣となっていた子孫のみが、残された伊王野氏の誇
りだった。徳川氏は越後の白熊と武田信玄に負けた時から伊賀者を重用して多くの書き
つけをおこしてそれぞれの武将の関係を良く知っていた。この伊王野氏が遅参し石高が
減らされた時も恐らくなだめる手紙と日記をつけさせたと言える。こうして人心を掴み
天下国家の見張り番として君臨していたのだ。ここで伏見城の戦いが関が原の前哨戦と
して起こった。豊臣秀吉の死後に、秀吉から生前、嫡子・豊臣秀頼が成人するまでの間
は政治を託された大老の徳川家康は、そろりそろりと天下を狙い始めたのだ。家康は、
諸大名の屋敷を頻繁に訪問し、この訪問は他の大老・奉行には無断で行われて密室を用
いた茶会として、その会話は一切漏れなかった。これは豊臣政権の法令の一つ「傍輩の
うち、その徒党を立つべからず」に反するものだが、茶道の習得や享受が表向きであり
秀吉の方も表立っては諫められなかった事があげられる。しかし家康はこの時期に、他
の大老や奉行に無断で諸大名との縁組を行い、豊臣政権の法令の1つ「諸大名の無許可
での縁組の禁止。」に公然と違反する行為を行っていた。この為慶長4年1月19日、豊臣
氏側は無断婚姻の問罪の特使として三中老(生駒親正・中村一氏・堀尾吉晴)らを派遣
させた。しかし、のらりくらりと、豊臣の世の平和の為と、家康は追及をかわして返事
をし、2月2日に前田利家らと誓書を交わすことで和睦した。既に誰も家康を止められな

1378: 名無しさんAA:18/04/26 14:00
での縁組の禁止。」に公然と違反する行為を行っていた。この為慶長4年1月19日、豊臣
氏側は無断婚姻の問罪の特使として三中老(生駒親正・中村一氏・堀尾吉晴)らを派遣
させた。しかし、のらりくらりと、豊臣の世の平和の為と、家康は追及をかわして返事
をし、2月2日に前田利家らと誓書を交わすことで和睦した。既に誰も家康を止められな
かったのだ。閏3月3日、家康に次ぐ実力者の前田利家が死去すると、七将襲撃事件が
起こった。今まで豊臣恩顧の武断派武将は、国作りに失敗し奉納金の納めが出来ないと
いう状態の中で、国家経営に乗り出した大阪城の文治派武将は容赦なく一律の税収を試
みていたからだ。そしてその窮状は、文禄・慶長の役で、武断派武将達の最前線で戦っ
ていたが、文治派は戦目付(いくさめつけ)として、現地軍の苦労を一顧だにしないで
勝手な戦況報告で、現地諸将にとって都合の悪い報告ばかりを秀吉へあげていて、それ
が原因で彼らは身に覚えのない叱責を秀吉から浴びせられひどい処断がなされ、そうし
た原因がすべて石田三成ら文治派諸将のせいだと、唱えていた事だった。


1379: 名無しさんAA:18/04/26 14:01
宣教師の時代       ーーー128

 事実朝鮮の役その後は、どう考えてもどこの藩も大きく境界線が変更され、これまで
の水や土地の管理が一変させて新たな土地造りを知られた。その上この頃は熊本や伏見
の地震で不作が続いて、農民の一揆も小さい物が多発する中にあった。更に娘子供が、
多くは身売りされて人口も増えず働き手が少なくなっていたのだ。又豊臣家臣団は子供
のいない秀吉に集められた少年たちだったが、秀吉出身地の尾張の頃から来た加藤清正
を中心とした武断派と、秀吉が長浜に居城を構えた後の秀でて集まってきた近江出身の
石田三成を中心とする文治派に分かれていた。その中でうまく立ち回り焚き付けていた
のが黒田氏だった。黒田長政は播磨姫路の黒田家から長浜の秀吉に人質として豊臣家に
入り、清正ら武断派の一員と見なされていたが、その黒田氏は徳川は伊賀を使い亀甲船
貿易を知っていて、寝首を掴んでいた。武断派の重しであった前田氏と徳川氏は毛利氏
と共に平和を望んでいたが、黒田氏と同じ様に、事あらば天下を取る用意はしていた。
一方、七将と家康の動きを掴んでいた毛利輝元(もうりてるもと)と 宇喜多秀家は、
安国寺恵瓊(あんこくじえいけい)の助言もあって、秀吉死後の家康の動きを看過でき
なかったが、その実封じ込めに苦心してた。その専断をけん制するため利家の死後動き
だすはずの武断派と家康との一戦をして治めたいと考えていた。しかし、事は予想外な
展開だった。武断派は稚拙で、城下で新たな軍団の準備を他家に悟られずに内密に進め
る事は不可能であり、七将の軍事行動はやり手の戦国大名たちにはお見通しだった。こ
の時、大乱への発展を恐れる大谷吉継(おおたによしつぐ)が止めに入ったのだ。この
為にやむなく断念をした後、上杉景勝(うえすぎかげかつ)の協力も得て七将への仲裁
に入ったのである。毛利としては石田三成を確保していたが、家康と連携して七将と共
に大勢の武将が大阪城に強硬突破に出る筈と見ていた。が、家康は動かず、仕方なくも
家康に仲裁を要請する羽目に陥ったのだ。結果的に、家康には思い通りの運びとなり、
三成の解任・追放に成功し、所謂五奉行は家康にずたずたにされた。結果的に、家康に
は思い通りの運びとなり、三成の解任・追放に成功します。流れから見ますと、関係者
全員が三成一人に責任を負わせて事態を穏便に収めたように見えますが、家康の狙いの
三成の追い落としが大成功した結果となった。この事件の連座責任を、問われなかった
奉行の、増田長盛(ましたながもり)がいた。既に裏で家康派に鞍替えしていたのだ。


1380: 名無しさんAA:18/04/26 14:02
宣教師の時代       ーーー129

文禄5年(1596年)に起こった日本の土佐国でスペインのガレオン船が漂着した、サン
=フェリペ号事件は奇妙な事が多かった。1596年の土佐国浦戸(うらど)にスペイン船の
サン・フェリペ号が漂着したのだが、その船は一隻だったのだ。この報に接し豊臣秀吉
はすぐさまこの増田長盛を派遣させ、船荷などを没収し、これに抗議する航海長の発言
やポルトガル人の讒言(ざんげん)で秀吉はスペインが日本征服を計画していると疑い、
1597年の二十六聖人の殉教などにみられるように,再びキリシタンを迫害するようには
なったのだが、そもそも世界中にその領土を広げたスペイン国王フェリペ2世にちなん
だこの船は船団で港を出て居るのだ。東南アジアのフィリピンはこの国王にちなんだ名
でフィリピンの名となっている。早くからスペインの植民地であり、マニラを根拠地と
して活動していた。既にスペインは斜陽化し、収入源である南米の銀をイギリス、オラ
ンダ、フランスの私掠船に荒らしまくられ、それを止めようとした1588年のアルマダ沖
の海戦に敗北して海上戦力の相当数を喪失していた。南米と並んで、経済の要であった
オランダも独立戦争の真っ最中。さらにアジアからスペインを駆逐しようと必死になっ
ている。経済の両翼を失い、過大な軍事費に悲鳴をあげ、海洋帝国の地位をイギリスや
オランダに食われている。それがサンフェリペ号事件当時のスペインだった。1596年7
月にメキシコを目指して太平洋横断の途についたというが、あり得ない。同船の航路が
メキシコにあったとしてもメキシコの港は大西洋のはずで、南太平洋の海流に乗らずに
北太平洋を行く理由はないのだ。更に船員以外に当時の航海の通例として七名の司祭(
フランシスコ会員フェリペ・デ・ヘスースとファン・ポーブレ、四名のアウグスティノ
会員、一名のドミニコ会員)が乗り組んでいた。船は四国土佐沖に漂着し、知らせを聞
いた長宗我部元親の指示で船が浦戸湾内へ曳航され、湾内の砂州に座礁した。船員達は
長浜(現高知市長浜)の町に宿を与えられたが、一同で協議の上、船の修繕許可と身柄
の保全を求める使者に贈り物を持たせて秀吉の元に差し向け、船長のランデーチョは、
長浜に待機している。つまり、非常に日本の国内事情を知っていたのである。使者は、
秀吉に会うことを許されず、代わりに奉行の一人増田長盛が浦戸に派遣されて、使者の
一人ファン・ポーブレが前もって戻ってきて、積荷が没収されることと自分たちも処刑
される可能性があることを伝えると船員一同は驚愕した。としている。つまり既に秀吉
はこの魂胆を見抜いているし彼ら司祭も死刑などないと踏んできているのである。イエ
ズス会が上陸したのはポルトガル船で、薩摩の港だ。しかし大友宗麟は既にイスパニア
との取引をしていたのである。

1381: 名無しさんAA:18/04/26 14:09
宣教師の時代       ーーー130
「豊筑乱記:義鑑公最後之事」では、こう記している。「さて(さる程に)、「大友修
理大夫四位少将義鑑」は治世の道にも明るく、よく政策を執行していた。また、弓馬な
ど武道に於いても、九州二嶋に肩を並べる者もなく、文武二道の名大将でもあった。し
かしながら、その訳の程は分らないが、この数年逆心を企て大友幕下たることに叛く輩
が多くなった。されども義鑑はこれを鎮圧し、大名小名の多くは皆義鑑に下り降参して
いった。されども何時の時節であったか、義鑑に思わぬ災難が発生した。家臣「津久見
美作守」「田口蔵人」と言う者に討たれてしまったのである。その元の起こり(原因)
と言うのは、義鑑には三人の男子がいた。そのうち中でも嫡子左衛門督義鎮は、とりわ
け器量世に優れていた。加えて知慮分別にも賢く、弓馬の道にも暗からずあらゆる面で
諸人に勝っていた。然しながら、これほどに優れた義鎮も家中の評判はよくなかった。
それは義鎮の日常の素行にあった。己の思うままに振舞い乱暴、家臣の諌めも聞き入れ
ず皆恐れをなした。この先「義鎮公」の御代になったならば、この豊後の国はどうなる
のかと嘆いた。この義鎮に父の義鑑も気の重い日々であった。このため常々より老中や
側近等と秘かに相談を交わしていた。中でも数代の重臣として大友氏を支えた入田一族
「入田丹後守親政誠」には、折々仰合はせをされていたとされる。そこで後の世継ぎに
は、義鎮の二人の弟の内に譲ると伝えた。入田は義鑑の決意に、御諚(おおせ)の趣を
受け奉ると申し上げた。」とある。戦国時代の1550年(天文19年)2月に勃発した豊後
の戦国大名の大友氏の内紛、お家騒動である「大友2階崩れ」の内容だ。ここで「なぜ
だか文武二道の名大将でもあったが、大友幕下たることに叛く輩が増えた。」としてい
る。そして大内氏に養子に出した者か大内から娶った妻の新しい子にかに家督を譲る。
と約束している。ザビエルが薩摩に着いたのは、1549年(天文18年) 8月15日に現在の
鹿児島市祇園之洲町に来着している。しかし、天文20年(1551年)に周防国の大内義隆
が家臣の陶隆房の謀反により自害すると、義鎮は隆房の申し出を受けて、弟の晴英(大
内義長)を大内氏の新当主として送り込んだとされ、また復権を目論む叔父の菊池義武
を退け、天文23年(1554年)には菊池氏を滅亡させ肥後国を確保した。父の不慮の死、
さらに義鎮がキリスト教に関心を示してフランシスコ・ザビエルら宣教師に大友領内で
のキリスト教布教を許可したことが大友家臣団の宗教対立に結び付き天文22年(1553年
)に一萬田鑑相、弘治2年(1556年)には小原鑑元が謀反を起こすなど(姓氏対立事件
)義鎮の治世は当初から苦難の多いものであった。また、この頃に義鎮は本拠地を府内
から丹生島城(臼杵城)に移している。とされる。しかしそれでは話が合わないのであ
る。

1382: 名無しさんAA:18/04/30 15:48
宣教師の時代       ーーー131

 政略においては、毛利元就ですら手玉に取るほどの手腕を見せていて、既に有名無実
となっていた室町幕府の権威を利用し、莫大な献上金を差し出して守護職・九州探題職
を得て、九州支配の正当化を確立している。さらに天正9年(1581年)には当時の天下
人・織田信長と誼を通じ、それを後ろ盾にして一時的に義久と和睦するなど外交手腕に
は特に秀でていた。とされるからだ。通説では永禄5年(1562年)もしくは同6年(1563
年)に臼杵の丹生島城に移ったとされているが、姓氏対立事件を機に義鎮が丹生島に移
った事に触れた弘治3年(1557年10月29日)のガスパル・ヴィレラの書簡に(『耶蘇会
士日本通信』)の記事以降の大友氏の関係文書を分析した結果は、義鎮が府内ではなく
臼杵において政務を行っていると指摘され、史料不足から具体的年代は断定できないも
のの、既に親父の代からこの臼杵の城を建てかかっていたと考えられる。天文20年に
(1551年)に豊後へ布教のためにやってきたイエズス会宣教師・フランシスコ・ザビエ
ルを引見したことがキリスト教との出会いであった。とされているが、どうも違うとも
思える。何故ならこの時弥助や献上品としての紅毛人を連れていたとは考え難いからだ
。27年後の天正6年(1578年)7月にキリスト教の洗礼を受け、ポルトガル国王に親書を
持たせた家臣を派遣したが、もともと 領内での布教活動を保護し、南蛮貿易を行って
いたと思える。また古くから、博多商人の島井宗室や神屋宗湛らと交友し、日明貿易や
日朝貿易も行っていたはずだ。でなければ大内・毛利も菊池・大友も戦いの原因がない
事になるからだ。実際に明国や朝鮮などとの貿易が利益をもたらしていたのは15世紀
後半辺りまでで、三浦の乱を契機に少なくとも明・朝鮮との貿易関係は衰退し、名義上
大友氏の看板を利用した対馬国の国人や博多の豪商らに実利は移ってしまった。という
また輸入品の多くは食料や武器などで、経済・軍事的に影響する物は少なく、多くは、
いわゆる「仏教奢侈品」であったとされる。三浦の乱は15世紀頃は、朝鮮半島南部に
三浦と呼ばれる日本人居留地が存在していたからだ。九州勢は宗氏を始めこの三浦を拠
点に朝鮮に通交をしていたのである。朝鮮にとってこうした通交は多大な負担で、次第
に制限を加えていった。対して宗氏にとって通交の制限は受け入れられるものではなく
、両者の間に確執が生まれた。この不満は1510年に三浦の乱で爆発する、が朝鮮に鎮圧
され結果、三浦居留地は廃止され、通交も大幅な制限を受けることになった。この三浦
は地域名でなく、倭寇対策に制限され開港を認めた釜山浦・薺浦・塩浦の総称であっ

1383: 名無しさんAA:18/04/30 15:49
宣教師の時代       ーーー132

こうした事件は度々起こった。特に対馬の痩せた土地では交易は不可欠で対馬の役人で
の自治の獲得は大変な努力の上の恒居倭の建設だった。しかし、作れば直ぐに増加し、
済州島などの漁民も日本人として居留し恒居倭による漁場の占拠や、恒居倭の倭寇化や
朝鮮国の脅威になる事が度々起こり閉鎖となった。こうして日朝の国交は断絶状態とな
ったが、宗氏以外の全ての受職人(朝鮮から官位を貰っている者)・受図書人(通交許
可を受けている者)に対しても同様に痛手であった。又、交易で生計を立てている対馬
と、胡椒・丹木・銅などの輸入を対馬に全面的に依存している朝鮮の双方も又、折り合
いを付ける必要に迫られ、1512年、壬申約条により和解が成立した。これにより交易は
再開され倭館も再び開かれたが、その度に入港制限し、入港地は薺浦のみに制限され、
歳遣船は半減、特送船の廃止、日本人の駐留の禁止、受職人・受図書人も再審査を受け
るなど、通交は以前より制限されたものになった。また、暴動対策のため備辺司が設置
された。その後、薺浦一港だけでは港受入れは難しいとの理由から、釜山浦も再び開か
れるが、1544年に蛇梁倭変が起こり、再び国交は断絶した。1547年の丁未約条を以って
交易が再開されるが、入港地は釜山浦一港に制限され、これが近代倭館へと続いていく
ことになる。宗氏にとって三浦の喪失と通交の制限は大きな痛手であり、日本国王使の
偽使の派遣、通交権の対馬集中といった方策を持って三浦の乱による損失の穴埋めを図
ることになる。ここに柳川氏が表れている。朝鮮討伐では朝鮮国王は平壌(ピョンヤン
)へ逃れ大明国の援軍を待った。朝鮮国王を追う小西行長軍に伴い従軍僧としての玄蘇
和尚も平壌へと向かっている。日本軍の侵攻ルートで幾たびもの交戦を続けながらも、
行長は無益な戦火を交えることは避けたいという気持ちで、宗藩家老柳川調信や玄蘇ら
に諮りながら朝鮮側へ和議交渉を働きかけていたのである。その内容たるや従来の「明
国征服への道を拓くべき要求とまた朝鮮と和睦して朝鮮の斡旋、仲介によって明国との
講和を望んでいる。」との趣旨の繰り返しであった。それは降伏の勧告と同然の意味合
いであり、そのことは中国明を裏切るもので、朝鮮側はこの欺瞞に満ちた和議の申し入
れに応じられるものではなかった。明との戦いでは日本が矢面になる筈はなかったから
だ。更にこれまでも宗氏は、いくつもの偽の国使を送って、欺瞞の応えをしていたから
だ。実はこの朝鮮戦争もキリスタン追放も意地の張り合いによるボタンの掛け違えから
起こっていた。それが南蛮船である国籍不明の黒船来航である。

1384: 名無しさんAA:18/04/30 15:50
宣教師の時代       ーーー134
 サンフェリペ号事件は当時のスペイン船であったが、乗っていた司祭はフランシスコ
会やドミニコ会員アウグスティノ会で彼らは、根っからの熱烈なカトリック教徒で裸足
の貧装僧托鉢修道会の人間だ。基本理念は、貧しいイエス・キリストの生涯を範として
、その福音を使徒と同様忠実に生き、ローマ教皇に対してはあくまでも従順をつらぬき
通し、人びとに「神の国」を叫ぶ人達で、全く交易には即しない人達なのだ。イエズス
会とは少し違っていたはずだ。つまり彼らこそが、辛抱の強い大友宗麟の様に仏門を壊
し神の国キリスト教国建設を熱烈に望む人達なのだ。言わばキリスト原理教団の使者だ
。彼らが乗ってメキシコ目指して財宝持って行くと言うのは少し考えられない事だ。そ
の上に奴隷を乗せていたのである。「われらの主イエス・キリストの福音を守り、服従
のうちに生き自分の物な何も持たず、常に貞節のうちにあらんことを。修道士は頭巾付
き上着1枚だけ持ち、履物は必要な者だけに許される。衣服は着古したもので、袋地か
、ぼろでつぎはぎさるべきこと。高価な衣装を着、美味な飲食物を食べている人を見て
も軽蔑したり裁いたりしてはならず、むしろ自分自身を裁き軽蔑せよ。直接にせよ間接
にせよ金銭を受け取ってはならず、何物も所有せず、清貧と謙譲のうちに主に仕え、喜
捨を請うことを恥じず、清貧を友とせよ。」と教えている教団なのだ。しかし日本に着
いて、奉行の増田らは、同伴の黒人男女にいたるまで船員全員の名簿を作成し、積荷の
一覧を作ってすべてに太閤の印を押し没収し、船員たちは町内に幽閉された上、所持す
る金品をすべて提出するよう命じられた。さらに増田らは「スペイン人たちは海賊であ
り、ペルー、メキシコ(ノビスパニア)、フィリピンを武力制圧したように日本でも、
それを行うため、測量に来たに違いない。このことは都にいる三名のポルトガル人ほか
数名に聞いた。」という秀吉の書状を告げたのである。こうして増田らの一行は積荷と
船員の所持品をすべて没収し、航海日誌などの書類をすべて取り上げて破棄すると、都
に戻っていった。つまりスペイン系カトリックのフランシスコ会が既にこの地にジャン
ク船できていた。それは同じ様に中国布教の為だったが大きな抵抗にあって逃げて来た
事からである。しかし後発のイエズス会は、京都に滞在が許される程に躍進した。イエ
ズス会は貿易によって活動資金を賄い、フランシスコ会は托鉢によって活動資金を賄っ
ていた。この活動資金の調達方法が互いに容認できず、イエズス会とフランシスコ会は
対立していた。と思っている。フランシスコ会は商売には興味がなく、あくまで布教の
徒としての巡教師であった。だがイエズス会は、貿易とイスパニア排除での日本市場の
独占であった。それに対抗するには賄賂でもなんでも貢品の進呈しかなかった。そこで
この船が品物を乗せて一艘だけでやって来た。と推測する。

1385: 名無しさんAA:18/04/30 15:50
宣教師の時代       ーーー135

 つまりフランシスコ会などカトリック系のジャンク船で宣教師は日本に来ていたので
ある。何故か。清貧と禁欲の生活を理想としており、その戒律は(服従、清貧、童貞)
とするこの司祭たちには剣もない。中国では嘉靖帝の晩年、明朝は内政の乱れの他に、
「南倭北虜」と称される倭寇とモンゴル系タタールによる侵攻にさらされていた。即位
した隆慶帝は嘉靖期の弊政を改革すべく、嘉靖帝への諫言により罪を得ていた 徐階、
海瑞などの人材を登用し、それまで朝廷で権勢をふるっていた道士を一掃した。海瑞は
先代の嘉靖帝が、道教への傾倒しており、上訴して激しく諫めた。嘉靖帝は道教に凝り
不老長寿の術に没頭しており、長く政務を見なかった。国が内憂外患に襲われている中
、君主としての義務を果たしておらず、誰も諫めるものがいない中で、海瑞は、敢えて
臣下として忠義のために君主へ諫言を行ったのである。このため投獄されたが、この時
必ず彼を捕縛するように厳命した嘉靖帝に対して、宦官の黄錦は「この方は上訴にあた
り、棺桶を買い妻子に別れを告げ、死を覚悟している。決して逃げないでしょう」と、
言上した。こうして嘉靖帝はこの年の12月に道教の方士の献上した丹薬を服用し急死
し海瑞は釈放され、もとの官職に就き、大理丞に昇進した。方士とは道教の中で道教の
不滅の真理を持つ者を仙人とされ、道(タオ)を体現した人とされる、これに近づき方
術を使う者が方士とされる。徐福伝説で解る様に紀元前の秦の始皇帝時代から彼らはい
て既に何百年を経ても騙される帝がいて、そういうペテン中国の体制のままだったので
ある。この後隆慶帝が立ち、この海瑞や徐階を登用して疲弊する国庫を建て直すため、
海外貿易を開放し、倭寇、タタールに対してある程度の貿易を認める柔軟策で、対外的
にも安定した時代を現出させた。しかし隆慶帝自身は凡庸な皇帝であり、朝政を省みず
、その政務は大学士に代行されていた。また酒色に溺れ、享楽を求めた生活のため、36
歳で崩御した。大学士は、本来は相談役だったが、この頃は皇帝の草稿に関り、皇帝が
目を通して修正する事も少なくなり、草稿がそのまま勅令になることが多くなって、実
質上内閣が皇帝の権限の代行まで行い、極めて強い権限を持つようにまでなっていた。
ザビエルは1552年中国の上川島(サンシャン島)へ上陸し中国大陸へ渡る為に中国
のジャンク船を待っていたが、熱病にかかり47歳で他界した。実は上川島は、東支那
海の交易基地であると共に情報基地で、海賊の一大本拠地でもあったのである。

1386: 名無しさんAA:18/04/30 15:53
宣教師の時代       ーーー136
 なぜザビエルは中国に渡ろうとしたのか。ザビエルがゴアに送った書簡は、日本に関
する情報がふんだんに書き込まれた調査報告書である。しかし、ある一時期を境にその
内容が、手の平を返すように変わる。それは日本を離れて書かれた書簡からだ。それま
では日本を金銀に満ちた豊かな市場として報告し、有望な交易国として商売の促進を呼
びかけていた。しかし、日本を離れると、今までの魅力的な市場については触れずに、
いかに日本に来る途中で海賊が危険であるか、また日本人は好戦的で貧しく、積極的な
関係を持つには値しないと、正反対の内容に変わっている。それにこの日本を離れ去っ
た後、イエズス会の同僚との往復書簡の中で「(日本の布教に)もう精根尽き果てた。
自分の限界を試された。」と正直に告白している。そこにザビエルが中国布教に転じた
理由があった。ザビエルが布教始めて、出会った日本人が彼に決まって尋ねた事がある
。それは、「そんなにありがたい教えが、なぜ今まで日本に来なかったのか。」という
問いと、「そのありがたい教えを聞かなかったわれわれの祖先は、今、どこでどうして
いるのか。」ということだった。日本の家長制度で生きてきた日本人にとっては、先祖
の命を継ぎ名を残して行く事が至上命題の生きる資格だった。故に魂の救済という答え
は個人の救済ではなく、先祖から子孫に繋がっていく家族集団の救済で無ければならな
かった。しかし、「信じるものは救われる」=「信じない者は地獄行き」と言う思考は
、答えを個人のみに帰結させてしまうキリスト教の欺瞞に見えたのである。つまりは、
自分たちは洗礼を受けて救われるかもしれないけれども、洗礼を受けず死んでしまった
ご先祖はどうなるのか、やっぱり地獄に落ちているのか。当時の日本人はザビエルに、
こういう質問を投げかけたのだ。キリスト教においては、洗礼を受けてない人は皆地獄
にいる教えで、ザビエルもそう答えました。すると日本人が問うわけです。「あなたの
信じている神様というのは、ずいぶん無慈悲だし、無能ではないのか。全能の神という
のは嘘か、信心深い信者のご先祖様ぐらい救ってくれるのが当然ではないか。」と。ザ
ビエルは困ってしまう。本国への手紙に書きました。「日本人は文化水準が高く、よほ
ど立派な宣教師でないと、日本の布教は苦労するであろう。」と。当時の中国にも、韓
国にも、インドシナにもこうしたキリスト教の急所を言う者は居なかったのである。そ
もこの考えは個人救済の小乗仏教でなく大乗仏教の中の終末思想から来ている。あの世
の中に地獄と極楽があり、輪廻があって又生まれ変わる。そしてそれは、虫かも家畜か
も人間なのかも解らない。しかしこの現生界で修行すれば極楽浄土に行き衆生を救う仏
になれる。従って修行し情けある悟った生き方をしなさい。それが日本仏教だったので
ある。

1387: 名無しさんAA:18/04/30 15:54
宣教師の時代       ーーー137

 この広東省の海島の上川島は、ポルトガル人はサンシアン,イギリス人はセント・ジ
ョーンズ島と呼んだ。古くから航海者や海賊の集結地,仮泊地となり,広東を追われた
ポルトガル人も立ち寄った。マカオの直ぐ傍の小さな小島で、「マカオは中国が近代の
西洋文化を採り入れた最も古い窓口。カトリックの拠点だ。シンポの開催地にふさわし
い」と、ザビエル生誕500年祭を催している。マカオの聖ヨセフ修道院にはザビエル
の腕の骨が安置されている。マカオの西100キロの南シナ海に浮かび、上川島にある
ザビエルの墓園は遺体が一時埋葬された島北部の象鼻山に1639年、マカオの教会が
資金を集めて建設し、その後、修復が繰り返されて残って居る。しかし当時はここの地
の攻防は激しかった。西からののアラビア海のダウ船を使うムスリム商人の「ダウ交易
圏」は、鄭和の南海遠征(1405年〜1433年)以来西進してここまで及んでいた。この頃
は室町時代でその二百年も後に西洋人がやって来たのだ。既に文明の十字路「古代マラ
ヤ(マレー)人にとって、マラッカ海峡一帯からチャンパ(古チャム)王国(ベトナム
)などはこのガレー船貿易の主要な交易寄港場所になっていた。東の中国と西のインド
をつなぐ交通路は、有史以来、大陸から太平洋方面へと南下する移住の道でもあった。
中でもマラッカ海峡は、大地と海の奇妙な配分が生んだ地球上でも稀にみる東西南北の
十字路で重要な場所である。しかしその為に、その地元には常に文化摩擦が生まれて、
残念ながら、西洋や中国の様な大文明は生まれる事はなかった。東か西の文字に頼った
他人の記録だけが、マラッカ古代史の手掛かりだが、漢字による中国史書、サンスクリ
ット、パーリ語などインド系言語による説話、アラビア文字によるペルシア、アラブ系
の史料、そしてヨーロッパ語による記録など多彩である。土地の人間は、その暮らしの
古い痕跡をほとんど残せなかったと言える。それはイスラムの狂信的な偶像破壊にある
。どの国でも今では信じられない程質素な生活の中で、西洋人が東洋に目新しい物に、
嬉々として眺める様に、東洋も又西洋に興味が尽きなかった筈だ。ところがこの上川島
までは頻繁に往復出来たが、日本は季節風頼みでしか行けなかったのだ。それは冬にし
か北風は吹かなかったからだ。こうして中東貿易も中国貿易も南蛮貿易も重なるように
なって、双方の交易が大きく展開されて、日本にまで及ぶようになっていた。その中に
は難破船や逃げられないムスリム西洋人もいたのである。不思議な事だが、鄭和の南海
遠征は、数百隻で編成され、船団は大型船体の上、乗組員は2万8千人にも達した上に
。インド洋を越えてアフリカ大陸にまで達していたのに、欧州や地中海には行かなかっ
た。

1388: 名無しさんAA:18/04/30 15:55
宣教師の時代       ーーー138

 ヴァスコ・ダ・ガマは、ヨーロッパからアフリカ南岸を経てインドへ航海した記録に
残る最初のヨーロッパ人なのだが、それでも記録は、1502年2月10日に、インド
洋駐留5隻を含む15隻でヴァスコは航海に出発し、残り5隻のいとこのエステヴァン
・ダ・ガマの指揮で、計20隻で出航したのが初めてとなっている。その100年もの
前なのである。しかし、「馬可・波羅游記」即ち「東方見聞録」の中のマルコ・ポーロ
は見事にそうした航海前に旅が出来る事を実証している。マルコは、父ニコロと叔父マ
ッフェオに同伴する形で旅行へ出発したのは1271年で更に200年異常もさかのぼ
る。「万暦の三大征」は,中国での明の万暦帝の治世に起こった3つ乱の事をさす。ボ
バイの乱・秀吉の朝鮮出兵・楊応龍の乱の3つの戦乱なのだが、この万暦帝の治世の頃
、つまり16世紀後半の大陸明王朝では、社会・経済から対外関係まで世の中において
大きな変動が起こりつつある中でついていけないうねりがあった事が解る。第14代皇
帝・万暦帝(神宗)が即位して直ぐに。万暦帝の治世では、内閣大学士の首席となった
張居正の主導により,行政・財政の改革が行われ,また周辺地域に対する防衛体制も、
整備されて,堅実な政治が行われた。しかし治世2年目1592年2月には、中国西北
部の寧夏においてモンゴル人将軍のボバイの乱(寧夏の役)が起こった。他のモンゴル
人勢力とも連携したボバイの軍に明は苦戦し,同年9月になってようやく鎮圧した。又
,同年4月には,日本の豊臣秀吉による朝鮮出兵(朝鮮の役)が開始され、明は朝鮮の
要請を受けて援軍を送り,前後あわせて7年にわたり多大な負担をかけて戦闘を行った
。さらには同じ頃、貴州省の播州の土官(地方の首長)であった楊応龍の乱(播州の役
)が起こった。明はこの鎮圧にも手を焼き,数年をかけてやっと平定することができた
。これが万暦帝の時代に起こった3つの大きな戦乱である。しかしこの戦乱には大きな
要因があった。それは各地で天変地異が起こった事だ。日本でも同じに大地震が起こっ
ているのである。慶長伏見地震(けいちょうふしみじしん)は、文禄5年閏7月13日
(1596年9月5日)子の刻に現在の京都・伏見付近で発生した大地震である。慶長伏見の
大地震とも呼称され、京都では伏見城天守や東寺、天龍寺等が倒壊し、死者は千人を超
えた。この地震の4日前には現在の愛媛で中央構造線を震源とする慶長伊予地震があり
、また前日には現在の大分・別府湾口付近で別府湾―日出生断層帯の東部を震源とする
慶長豊後地震(共にM7.0と推定)が発生しており、双方の地震による誘発地震のでの
伏見地震は1995年の兵庫県南部地震(M7.3)と同じ要因と規模であったとされている。


1389: 名無しさんAA:18/04/30 15:55
宣教師の時代       ーーー139

 さらにこの頃は小氷河期となり、イギリスやフランスのセーヌ河に分厚い氷が出来て
いるくらい寒冷地となっている。では世界に何がこっていたのか。海の権益争いであっ
た。この頃捕鯨も魚取り漁も食べる為ではなく油や髭をゴム代わりに使う為に獲ってい
た。必要なのは航海に水代わりとされたワインとパンつくりの小麦と財宝だけであった
。アルマダの海戦は、イングランドがネーデルランドを支援した事に対し、スペインが
イングランドを征服しようとグラン・アルマダを派遣した事で起こった。アルマダとは
、「艦隊」という意味で大艦隊でグラン・アルマダとされた。「無敵艦隊」の「無敵」
を冠したのは、それを破ったイングランドの方だった。一説ではスペインの情報を察知
したイングランドが、これをコードネームとして無敵と名づけた、という。この頃は、
ネーデルランドのプロテスタント諸侯は、カトリックのスペイン王フェリペ二世による
弾圧に耐えかねていて、幾度も反乱を起こしていた。1579年にユトレヒト同盟を結んで
結束を固め、1581年、ついに北部ネーデルランドの独立宣言をした。(現在のネーデル
ランド、南部は現在のベルギー)こうしてスペインとの戦争が開始となった。ポルトガ
ルを柵封し、ヨーロッパで最強国だったスペインに、海上の覇権をかけて挑戦したのが
、イングランドの女王エリザベス一世だった。グラン・アルマダがイングランド征服に
向かった時点では、艦艇130隻、兵員30000の大艦隊えお要した大型ガレー船の大艦隊で
、レパントの海戦でオスマン帝国の艦隊を破った大型ガレー船団だった。ガレー船は、
つまり手漕ぎの船である。圧倒的な砲門の数で砲撃を加え、衝角を使って激突、接舷し
ての白兵戦を挑むスタイルだった。風の弱い地中海においては無類の強さがあったが、
大西洋や北海の荒波では動きが鈍い大型船だった。対してイングランドには 艦艇197隻
、兵員15000。艦艇数では多いが小型の早船ばかりだった。圧倒的に小さく実際 地中海
で戦ったら、直ぐに粉砕されていただろう。しかし、イングランドの艦艇は小型帆船は
、それなりに外洋向きで速度が速くするように進化した船だった。竜骨が長く船体が細
長く、帆を4つ以上ついて戦闘中にも小回りがきく。また横風なら風上にも動いた。積
んでいる大砲は、重量や破壊力を犠牲にして射程を延ばしたものだ。従来の大砲の操作
が二輪で狭角だったのに対し、船上で引き回しができるように四輪に改良した大砲で、
およそどの方位にも撃てた。


1390: 名無しさんAA:18/04/30 15:55
宣教師の時代       ーーー140

 スペインの戦略では上陸戦で挑む予定だった。陸戦部隊は兵員の2/3を占める事か
らも、海上戦は只の上陸するまでの対戦砲弾であり、イングランドとの海上交戦を、グ
ラン・アルマダは予定していなかった。とても小型船が挑んでくるとは考えていなかっ
たのだ。その威容を見せるだけで陸に引っ込むと思っていた。また、実際に海戦になっ
たとしても、砲撃の後の衝角を使って激突し、接舷すれば白兵戦でも船体でも負ける筈
はなかった。ここで陸戦部隊の数は大きな力だった、大型の船ですから、上から砲撃を
加え、陸戦部隊が乗り込んでいく。そうすれば圧倒的に有利なのは間違いがなく常道で
もあった。白兵戦になるのならば、スペインの陸軍は、陸の最強国と言われたフランス
陸軍を完膚なきまでに叩きのめした軍でもあったからだ。スペイン陸軍のテルシオ陣形
と言う他に類のない陣形をもった。火縄銃兵と槍兵の混成部隊で、槍兵で銃兵を守り、
波状的に組んで銃撃を加えるやり方で後に西洋砲術となったやり方だ。織田信長がやっ
た火縄銃の活用法を更に発展させたものと思えばわかりやすい。ところがそれは白兵戦
になればの話だった。実際の戦場は波の荒い外洋でイングランド艦艇は距離をとった砲
撃にはこちらは届かなかった。そして決して接近戦をしなかった。こうなると、図体の
でかい大型ガレー船は、海上のいい砲撃の的でしかなかった。これは当時の海戦の常識
を打ち破る画期的な戦術で 近代海戦の手法だった。砲弾の飛距離の差は戦術の転換期
のひとつになり戦前の巨砲巨艦主義まで続いた。スペイン戦死者2万人、実に半数以上
の76隻の艦艇の撃沈をみて大いにイングランドは無敵艦隊の地位を得た。こうしてネ
ーデルランドの独立は確定し、スペインは斜陽の時代に入っていく事になったのである
。イングランドは最初から戦術の転換を思い付いて小型帆船ばかりを用意した訳ではな
かった。元々イングランドに大艦隊などはなく、基本的に海賊船と商船の寄せ集めだっ
たのだ。どちらも、艦船と言う戦うための船ではなく、海賊から逃げる為の船だった。
そしてバイキング様式の足の速い船ばかりが集まったのはイングランド艦隊の環境だっ
た。又砲撃による遠距離戦での戦いを思い付いたのは、海賊の知恵で実行しただけの話
だろう。弓兵を集中運用したのも、イングランドVSスコットランドの戦い方で得たもの
で、スペインなどの山城でなく、海岸端の城に命中精度を問題としないゲリラ農民兵を
戦力として活用していた戦いというのものを持っていた。という事なのだろう。これら
は宣教師の運動にも影響を与えた。世界に小型帆船で宣教師を連れて行く事を可能性を
示したのである。


1391: 名無しさんAA:18/04/30 15:57
宣教師の時代       ーーー141

 万暦帝の時代に起こったこうした欧州の黒船の波と、3つの戦乱「万暦の三大征」と
呼ばれた事象は明には大きな禍いだった。これらをかろうじて乗り切ったものの、財政
に莫大な負担がかかった。国力は著しく消耗しその対策が求められた。又、明が遼東方
面の軍をこれらの反乱への対応に振り向け消耗した事は、女真人の台頭する好機ともな
った。こうして「万暦の三大征」は、明の衰亡に重大な意味を持った。文禄5年(1596
年)10月19日に、サン=フェリペ号が四国土佐沖に漂着しているが、これは津波による
漂着の可能性が強い。9月1日〜5日(文禄5年閏7月9日〜13日)には慶長伊予地震、慶長
豊後地震、慶長伏見地震は改元前の文禄5年の出来事として残って居る。慶長大地震は
非常に驚くべき大きさであったはずだ。さすがに 12月16日(文禄5年10月27日)日本は
新規一転と、地震などの災異のための改元して慶長元年と年号を変えた程だ。その年は
慶長伊予地震    - 1596年9月1日、伊予国をおそった地震。 M 7.0
慶長豊後地震    - 1596年9月4日、豊後国をおそった地震。 M 7.8、
慶長伏見地震    - 1596年9月5日、畿内をおそった地震。     M 7.1、
慶長地震      - 1605年2月3日、関東以西の太平洋沿岸津波。
会津地震      - 1611年9月27日、会津藩をおそった地震。   M 6.9
慶長三陸地震    - 1611年12月2日、奥羽・蝦夷地太平洋沿岸をおそった津波。
高田領大地震  - 1614年11月26日に会津から松山まで日本各地に被害記録発生
と、至って多く発生している。余震や記録不備を考えれば、日本が壊れる位に逼迫した
庶民感情が働いた事が予想される。これらが、かつての仏教を広げた様にキリスト教の
布教が一気に受け入れられる事になった。多分にこれは日本国内だけでは無かったと考
えられる。およそ2〜3年前に台湾や中国雲南や或いはニュージーランドやハワイ島な
どは地震に襲われ、マラッカやフィリッピンやマレー半島には火山爆発や津波が前後し
た年に起こっている可能性も高い。この中でスペインはイギリスに追われていたのだ。
東インド会社は、1577年から1580年にかけてのフランシス・ドレークの世界周航を皮切
りに出来たとされる。厳密にはイギリスに出来た香辛料貿易を主業務とした3つの会社
の総称で、イギリスの航海の、略奪、探検、冒険航海の色が強い中で、地中海東岸地域
との貿易を専門とする商社が、1595年、オランダのアジア交易の成功を真似た事で始ま
ったとされる。従って江戸時代前はイギリスは最も略奪の多い海洋国だったのである。
したがって、歴史的には、スペインやイスパニアには東インド会社は作られなかった。

1392: 名無しさんAA:18/05/01 23:48
宣教師の時代       ーーー142

代わって作られたのが、フランス東インド会社で、隣国のオランダとイギリス(イング
ランド)に習って、1604年にアンリ4世によって15年間の有限の独占特許状 (Charter)
を与えられた会社組織として創設された。ルイ14世によって認可された国営貿易会社と
して財務総監コルベールのもとで再組織され、財務総監ジョン・ローにより、フランス
が展開していたすべての国営貿易会社である西方会社、セネガル会社、アフリカ会社、
ギニア会社、サン・ドマング会社、シナ会社、東インド会社を、全てにインド会社に統
一させた。しかし、1664年に企画され、本格始動がイギリスやオランダより半世紀以上
遅れた形で、植民地経営と商業利権の獲得をめざしたものだった。では先行したオラン
ダはどうか。アムステルダムに作られたオランダ東インド会社は、正式には連合東イン
ド会社といい、世界初の株式会社といわれる。会社といっても商業活動のみでなく、条
約の締結権・軍隊の交戦権・植民地経営権など喜望峰以東における諸種の特権を与えら
れた勅許会社であり、帝国主義の先駆けとしてアジアでの交易や植民に従事し、一大海
上帝国を築いた。VOCの目標はまず高級香料を産するマルク諸島であったが、それか
らすぐに海域アジアの大半に活動を広げた。1605年にはマルク諸島に要塞を築き、スペ
イン人やイギリス人などのライバルと争いながら、現地支配者との戦闘や内政干渉を通
じて支配を強め、1606年以降ペタプリ、マスリパトナム、プリカット、ネガパタム、フ
グリなど各地に商館を設置している。ポルトガル人は1557年に地方官憲によってマカオ
居住が認められていた。ポルトガル人がマカオから長崎に中国産生糸をもたらし日本銀
を持ち帰る貿易で巨利を得ていたことが、VOCに中国貿易に対し強い関心を持たせた
。VOCは1619年にバンテンからその属国であったジャカトラを奪うと同地に拠点を移
したが、ジャワ西部からマルク諸島と中国に向かう二つのルートを統括する方針は維持
された。ジャカトラはバタヴィアと改名され、VOCの政庁が置かれた。こうしてアジ
アの貿易は、中国における政治経済の変動を軸に展開した。この東シナ海・南シナ海の
貿易秩序を支えていた朝貢制度は16世紀には崩れ去る。万暦帝の時代に中国北方での
モンゴル系アルタンが領土を脅かし、その防備のための軍糧を補充するのに税銀が用い
られるようになり、明朝社会で銀財政への転換が進んだ為だ。


1393: 名無しさんAA:18/05/01 23:52
宣教師の時代       ーーー142

代わって作られたのが、フランス東インド会社で、隣国のオランダとイギリス(イング
ランド)に習って、1604年にアンリ4世によって15年間の有限の独占特許状 (Charter)
を与えられた会社組織として創設された。ルイ14世によって認可された国営貿易会社と
して財務総監コルベールのもとで再組織され、財務総監ジョン・ローにより、フランス
が展開していたすべての国営貿易会社である西方会社、セネガル会社、アフリカ会社、
ギニア会社、サン・ドマング会社、シナ会社、東インド会社を、全てにインド会社に統
一させた。しかし、1664年に企画され、本格始動がイギリスやオランダより半世紀以上
遅れた形で、植民地経営と商業利権の獲得をめざしたものだった。では先行したオラン
ダはどうか。アムステルダムに作られたオランダ東インド会社は、正式には連合東イン
ド会社といい、世界初の株式会社といわれる。会社といっても商業活動のみでなく、条
約の締結権・軍隊の交戦権・植民地経営権など喜望峰以東における諸種の特権を与えら
れた勅許会社であり、帝国主義の先駆けとしてアジアでの交易や植民に従事し、一大海
上帝国を築いた。VOCの目標はまず高級香料を産するマルク諸島であったが、それか
らすぐに海域アジアの大半に活動を広げた。1605年にはマルク諸島に要塞を築き、スペ
イン人やイギリス人などのライバルと争いながら、現地支配者との戦闘や内政干渉を通
じて支配を強め、1606年以降ペタプリ、マスリパトナム、プリカット、ネガパタム、フ
グリなど各地に商館を設置している。ポルトガル人は1557年に地方官憲によってマカオ
居住が認められていた。ポルトガル人がマカオから長崎に中国産生糸をもたらし日本銀
を持ち帰る貿易で巨利を得ていたことが、VOCに中国貿易に対し強い関心を持たせた
。VOCは1619年にバンテンからその属国であったジャカトラを奪うと同地に拠点を移
したが、ジャワ西部からマルク諸島と中国に向かう二つのルートを統括する方針は維持
された。ジャカトラはバタヴィアと改名され、VOCの政庁が置かれた。こうしてアジ
アの貿易は、中国における政治経済の変動を軸に展開した。この東シナ海・南シナ海の
貿易秩序を支えていた朝貢制度は16世紀には崩れ去る。万暦帝の時代に中国北方での
モンゴル系アルタンが領土を脅かし、その防備のための軍糧を補充するのに税銀が用い
られるようになり、明朝社会で銀財政への転換が進んだ為だ。


1394: 名無しさんAA:18/05/07 10:08
宣教師の時代       ーーー144

 1533年に石見(いわみ)銀山では、新しい精錬技術である灰吹法(はいふきほう)が
朝鮮半島から伝わったことで、爆発的な増産をみた。この技術移転は、当然山陰〜博多
〜朝鮮の密貿易ルート上で活動していた倭人が取り込み、朝鮮の民間でひそかに行われ
ていた銀精錬の現場から盗み出すことで実現した。さらに日本銀は、中国経済が銀中心
の交換システムへと組み込まれ変貌していく。密貿易ルートをたどって大量に中国国内
へ流入し、銀と交換で中国から日本へ運ばれた品目の中心は中国産生糸で、その密貿易
を担って巨利をあげたのが倭寇集団と華僑集団、更になかんずく新参者のヨーロッパ勢
力だった。鉄砲とキリスト教も、前述の密貿易ルートを往来していた倭寇集団と、その
船に便乗していたヨーロッパ人によって、日本に伝えられた。ポルトガル人が鉄砲を携
えて乗りこんでいたのは、のちに倭寇王となる王直のジャンク船(中国式外洋帆船)だ
ったし、ザビエルを鹿児島に運んだのは、マラッカ在住の海賊(ラダラオ)という仇名
を持つ中国人のジャンク船頭だった。鉄砲が戦国動乱のゆくえを左右する新兵器として
、またキリスト教が「宗門人別改(にんべつあらため)」という制度による強固な人民
掌握を生みだした否定的触媒として、日本史の中世から近世への移行におけるきわめて
重要な要素となったことは言うまでもない。倭寇は、そもそもが朝鮮戦乱時に日本に逃
げてきた倭人達である。倭人と日本人は一緒と思われがちだが、ちょっと違っていて、
倭人は海洋人で沖縄から北海道まで朝鮮を含めて漁民としての生業しか持たない部族で
朝鮮半島でも島ないし沿岸にしか住民としていなかった。しかし北進して紛争になれば
百済人として日本に避難し、朝鮮人にはごく一部しか残らなかった。多くは済州島や壱
岐対馬或いは長崎などに逃げ込んだのである。14世紀末、倭寇の鎮圧にあたった高麗
・日本の責任者が、倭寇の淵叢(えんそう)は両島だと、異口同音に言明している。倭
は国をあげて盗をなすものではなく、その主体は国家の命令系統に従わない対馬・壱岐
両島の叛民・寇賊である。かれらは「舟を以て家と為す」ような生活実態で、居所も定
かではなかった。(高麗史節要・朝鮮太祖実録)と数多くの書物が認めている。15世
紀に海賊行為が鎮静化しても、その認識に変化はなく、朝鮮側がいう「倭人」とは、ほ
ぼ対馬島民とみてまちがいない事実もある。一方に倭寇がはびこる背景には、陸地側の
社会変容や混乱があった。


1395: 名無しさんAA:18/05/07 10:12
宣教師の時代       ーーー145

 明時代の地方社会を牛耳っていたのは、中央科挙官僚を輩出した「郷紳」層である。
14〜15世紀になると、中国中央部の経済成長はめざましく、通貨需要も中央政府から供
給される銭貨では間に合わなくなりつつあった。海禁政策のために東南アジア方面との
貿易には高価な舶来が出来たのだ。この機会を奪われていた中国南部沿海の郷紳層は、
非合法の中国人海商や国外の海賊集団と手を組んで、密貿易にのりだすようになった。
倭寇取締りの責任者だった浙江巡撫朱沃(しゅがん)は、「外国の盗をなくすのは易し
いが、中国の盗をなくすのは更に難しい。中国沿海の盗をなくすのはまだ易しいが、中
国衣冠の盗をなくすのはもっとも難しい」と嘆いている。(明史)郷紳と結託した海上
勢力の側も、しだいに多民族混成の度合いを増した。朱沃は「海洋賊船出没事」と題す
る文章で、「海洋に出没する賊船はみな内地の叛賊である。かれらは南からの季節風が
吹く時期に、日本諸島・仏郎機(フランキ)(ポルトガル人)・彭亨(ボハン)(マレ
ー半島の港町)・暹羅(シャム)の夷人たちを誘引・糾合して、寧波府の双嶼(そうし
ょ)港内にやってきて停泊する。それを内地の姦人たちが出迎えて、往来交易する」と
述べている(皇明経世文編)。双嶼は1520年代から密貿易の基地となっていた舟山諸島
の港である。嘉靖大倭寇が中国社会の外部的存在だったという言説は、同時代の中国人
自身によって、明瞭に否定されていたと言わねばならない。この現象は日本でも起こっ
ていた。内藤如安はキリスト教への受洗名ジョアンの音訳名で、本名は忠俊という。内
藤は天文19年(1550年)頃、三好氏重臣・松永久秀の弟・松永長頼の子として生まれて
いる。松永久秀の甥であり、永禄7年(1564年)、ルイス・フロイスやガスパル・ヴィ
レラにあってキリスト教に入信した。それは、命令による奴隷引き渡しからで、熱心な
キリシタンとして知られる様になった。当初彼はあの貧しい身なりの修道士が奴隷売買
してるとは全く思えなかったし、またそう思うえる程巧妙な仕掛けだった。火薬が高く
金銀がその代償として支払われていたからだ。しかしそれを知る頃はすっかりキリスト
信者であった。また茶人としても名高く、小西飛騨守とも称した。丹波国の在地領主と
してはじまり、小西行長に仕えた後に浪人し、最後はキリシタン追放令によりマニラへ
追放された。到着先のマニラでは、総督以下住民の祝砲とともに迎えられるなど、手厚
い歓迎を受けた。マニラではイントラムロス近くに日本人キリシタン町サンミゲルを築
いた。


1396: 名無しさんAA:18/05/07 10:12
宣教師の時代       ーーー146

 この内藤如安は若い頃、織田信長と戦い天正元年(1573年)3月の槇島城の戦いでは
、2千の兵を率いて入城されている。敗れた如安は内藤家執政の座を失い、天正4年に
(1576年)には、足利義昭が備後国鞆に幕府を移すと、これに従っている。天正6年(
1578年)、先に織田氏の家臣になっていた明智光秀の攻撃に遭い八木城は落城し、内藤
本家は所領を没収された。この後、明智光秀は、松永氏や内藤氏の席を奪い足利氏につ
いている。そしてそれに細川氏が同行している。又、明智光秀の娘の細川玉子がキリシ
タンになったのは明智光秀が討たれて、随分と経ってからであるが、本能寺の変の直前
は明智は逆にキリシタンの敵であった。信長に隠れても、表立ってもキリスタンには色
良い返事はしていない。群雄割拠で互いに覇を争った戦国時代の中でも際立って海外か
らのこのバテレンの布教に危機感があったのは、信長の奇行を見る人々の一様な判断で
あったろう。人心頽廃の極に達し、道義空しく貞節の観念も失われ、幾多の人の道上の
罪悪は仏教や神道の上にあったが、それが崩れさり新たな秩序の下で、殺人が平然と行
われていた時代だ。この時世に、玉子夫人は生を受け、あらゆる逆境に屈せず、婦徳を
高めるにこの新たな信仰を以ってし、敢然として己が信ずる真理の道に生き抜いて周囲
の人を感化した。がそれは日本の道徳とは異に決していて、遂に徳川・豊臣の争いの犠
牲となり、「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」と詠じて
三十六年の命を自ら断ち、その血は百鬼横行の大阪の土を紅いに染めて、世を絶った。
。かくして、ガラシャ玉子夫人には、時の如何なる権力にも屈せず、利にも惑わされず
、立派に日本婦人の道を全うし、今に至るまで、あっぱれ婦人の鏡と仰がれる名誉と後
世に名を遺すのである。如安が天正13年(1585年)頃に小西行長に仕えるようになっ
た時は行長も如安を重用して重臣に取り立て、小西姓を名乗ることを許している。小西
氏自体は、実は如安の外曽祖父・内藤貞正の弟・内藤久清に始まる家系にあたる。この
優遇は同族一門としての処遇で息があったのだろう。文禄の役の際の明との和議交渉で
は使者となり、北京へ赴いており、この際の明・朝鮮の記録では如安を「小西飛(ソソ
ビ)」(小西飛騨守の略)として表記している。しかし明朝貿易の都督格箚符を授ける
官位を中国から得たとした時、宗氏以外に、大名クラス40人、行長や家康はもちろん
、前田玄以や小早川隆景にいたるまで広く発行するに及んだ。これが問題となった。行
長は秀吉と事前に相談し、明朝にも連絡して「都督位並」を発行する地位だったが乱発
したのである。


1397: 名無しさんAA:18/05/07 10:13
宣教師の時代       ーーー147

ところが慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦いでは、主君行長は当然の如く、西軍の
主力として戦って敗れ、斬首された。如安は同じキリシタンである肥前の大名であった
有馬晴信の手引きで平戸へ逃れ、その後加藤清正の客将となった。そもそも徳川家康は
明確な天下分け目の決戦を挑んだ訳ではない。自分が謀反を起こすに味方するであろう
者にのみ手紙を書き、更に上杉討伐に出て、会津の景勝との開戦に兵を起こした事で、
豊臣勢をあざむいているのだ。家康は諸大名の屋敷を頻繁に訪問し、この訪問は大老や
奉行には無断で行い、豊臣政権の法令の一つ「傍輩のうち、その徒党を立つべからず」
に反するものであったし、勝手な婿入り嫁取りを指図して、豊臣政権の法令の「諸大名
の無許可での縁組の禁止」に違反する行為をしていたのである。その中で小さな西国武
将で、時の幕府の豊臣恩顧で大阪城護衛の志士には全く音沙汰はなかったのだ。秀吉が
信長の嫡男を盾に支配したように秀吉の息子に嫁入りさせた事でその支配をしていたの
である。慶長8年頃(1603年)、前田家に客将として 4千石で迎えられる。前田氏の居
城金沢城には同じくキリシタンである高山右近がいた。ともに熱心に布教活動や教会の
建設に取り組んだとされる。しかしこれは南蛮貿易の拠点となって、大砲や黒船や鉄砲
を持つ大きな経済母体になりかねない事だった。慶長18年(1613年)、ポルトガルの
後押しを経て、徳川家康からキリシタン追放令が出した。それまで貿易に多大な関心を
示しながらもキリスト教そのものにはまったく無関心だった家康が、幕府を揺るがすよ
うな事件が立て続けに起こり、その当事者がキリシタンやキリシタンに寛容な人物だっ
たことが背景にあり、ついに弾圧に踏み切ったが、実は家康よりは家光が嫌っていた。
家光は幼少の頃より武家の習いによって男色家であった。当時関東武士の水戸藩には、
何故か割礼風習が残っていた。それは成人になると裸で立たされ年頃の女子と長老の前
で男を鍛えるとして、男根をこすり白いものが出れば村の成人とみなして、そこに入れ
墨を掘るのである。もし拒否や出ないとなれば村から出るか奴隷にされると言うものだ
った。これは明治の時代までも山村では風習として残った。つまり 裸になれば余所者
ががすぐにわかるもので、縞模様で蛇のように見えたと言う証言が残る。この事で近習
の男を許可として与えられたと言う奇妙な風習だった。銅山や水銀の多い土地の子孫繁
栄の為の一つの手だったのかも知れない。しかしキリスタンはこれを鋭く非難していた
のである。しかしついに前田氏にも、切支丹追放令は通達に及んだ。


1398: 名無しさんAA:18/05/07 10:14
宣教師の時代       ーーー148

 不思議なのはこの割礼の儀式が伝わり、更に成人式として行い変化する期間があった
事だ。今川義元時代に関東武者は、源頼朝以来、鎌倉・室町幕府の中心として栄えた。
しかし、あの平穏な時代が続いても伊豆が中心で、良くて東京湾近郊である。そこには
茨城神話がある。平安時代に茨城には、茨城台があった。これが茨城県のもとの名前だ
と言う。「昔、茨城台の麓当たりは、でっけえ集落があったんだわ。常陸の国の国分寺
が見下ろせる台地でよ、霞ヶ浦も近けえ、筑波山も近けえ、物が行ったり来たりすんの
には、好い土地だったんだっぺな。んでも、困ったことだ、或時茨城台にでっけえ穴っ
ぽこ空いてるっつって、集落の若え連中が見に行って見っぺってなったんだと。したら
ば、誰一人として帰って来ねえ。なんかあったに違げえねえ。国分寺と国分尼寺を作ん
のに、随分樹を切ったからよ、山の神が怒ったんだっぺという話になったんだわなあ。
んだけんと、同なしように樹を切った、筑波の山の神様は怒ってねえんだわ。国分寺の
柱にする分だけじゃなくってよ、筑波山のほうは、瓦を焼く為の木も切ったのに、特に
怒ってる気配もねえ。したら、可笑しい話だってなったっぺなあ。何か居んだっぺ、お
っかねえ獣がいんだっぺ、つって噂になって誰も近か寄らねえようにしたんだぁ。んだ
ども、だめだ。今度は、集落の若けえのが、どんどん攫われるようさなっちまった。若
けえのだけでねえくて、どうも子供も多く攫われたようだったんだ。又噂んなってよ、
夜さなったら茨城台の方から脚の沢山あるのが這い駆けしてきた、穴ぽこから黒いけむ
くじゃらが出てきて攫っていった、つって、集落は、ほとほと困り果てたんだわ。んで
は、仕方あんめ。腕っ節の強いのに退治して貰うしかねえわ。山で鹿を獲る狩人と、湖
で魚を捕る猟師と、国分寺の衛兵と、この三人に、村長は嘆いて頼んだんだ。んで、弓
もち、銛もち、剣もち、三人は台地の穴っぽこ目指していったど。薄暗い穴んなか、じ
っと目を凝らして様子を観たんだぁ。したらば、それみたことか、でっけえ蜘蛛が何匹
もいて、肝がちゃぶれる心地がしたんだわ。暗くてよくは見えねえどけんど、よくよく
見たら、人の骨が転がっててよ、人を食ってたんだってのが分かったんだっぺ。なる程
敵の正体が分かった、つって、三人は集落に戻って、やっつける方法を考えたんだ。集
落の堀や柵が役にたたねえからよ、猟師は網でとらえっぺと言い出して、狩人は目を遠
くから狙い打つんだと言い張った。

1399: 名無しさんAA:18/05/07 10:15
宣教師の時代       ーーー149

 んで、その夜に腹をすかした大蜘蛛が集落の堀を駆けて、柵をよじ登ってきた音がし
た。それっ、と、猟師が網を放って、狩人が矢を放って、んだけんとが、相手は脚が、
沢山あっぺ、ぜんぶ避けられっちまう。おかげで、その日は誰も攫われねがったんだけ
んと、追い払っただけで、三人は負けたような気分だったんだわなあ。国分寺の衛兵が
、これではダメだと頭をひねったんだわ。んだってよ、巣穴にはうじゃこらいたんだっ
ぺ。一匹しかこねえもの、一匹だけ退治したって、また次のが来たら、ずっと戦い続け
なきゃなんねえ。そこで名案が閃いたんだぁ。猟師は、なんとかかんとか次の日の夕暮
れまでに間に合わせて、三人一緒に、またあの薄気味悪い穴っぽこさやってきた。その
穴っぽこの入り口さ、茨で編んだチクチクする柵をおいて封じ込めちまったんだ。んで
、国分寺の衛兵は火をたいてよ、蜘蛛どもを煙でいぶして穴から誘い出すわな。そこへ
、真っ赤な目をした蜘蛛が殺到すると、目ん玉を繰り抜くように狩人の矢があられと降
ってくるわけだ。茨城ってのは、この茨で編んだ柵のことだぁ。最後に、剣で蜘蛛の頭
を切り落とした時に使った剣を、天にも届く「雲霧のつるぎ」と呼んで集落の宝物にな
ったんだっつう話だわ。」と言う事で、茨木の沼地で、古代に種族の戦いがあった事が
解る。又 ここの常陸国風土記では甫時臥山の変わった伝承が記録されて残っている。
茨城の里の北にある高い丘に甫時臥山があり、努賀比古(ぬかびこ)と努賀比刀iぬか
びめ)の二人の兄妹が住んでいた。妹の努賀比唐フ元にだれとも分からない求婚者が夜
毎に現れた。妹が求婚を受け入れると一晩で身ごもり、やがて小さな蛇を産んだ。この
蛇は夕暮れから夜明けの前までは母と会話ができた。努賀比古も努賀比唐熕_の子では
ないかと驚き、清めた坏に蛇を入れ祭壇に祀るようになった。蛇は一晩で杯いっぱいに
まで成長したので、大きな杯に取り換えると、また蛇は杯いっぱいになるまで成長した
。これを繰り返すうちに蛇に合う器が無くなってしまった。努賀比唐ヘ蛇に自分では養
いきれないので父の元へ行くよう促した。蛇は悲しんだが、供に童子を一人付けてくれ
るよう頼んだ。努賀比唐ェここには兄と私しかいないのでつけることができないと告げ
ると、蛇はこれを恨んだ。別れの時、蛇は怒って努賀比古を殺し、天に上ろうとした。
驚いた努賀比唐ェ盆を取り蛇に投げつけると、神蛇はこれにより天に上ることができな
くなり、この山に留まった。蛇を入れていた器は今でも片岡村に残されている。と言う
話である。この不思議さは、蛇を殺さずお盆を取り上げたと言うものだ。

1400: 名無しさんAA:18/05/07 10:16
宣教師の時代       ーーー150

 なぜこんな、伝説や風習が残って居たのか。「男色・公開割礼・土蜘蛛・蛇の子孫」
と言うキーワードは、実は大きなものだ。当時男色は既存の風習だったが平安時代から
ではない。鎌倉に幕府をおいてからだ。それまでは神職であれ何であれ男女に差が無く
天皇すら女性がいた位だった。土蜘蛛伝説は異民族の端的な表現でありこうした所は、
同時に河童伝説は多い。しかし蛇の子孫と言うのは鉄剣やたたら伝承とされる。こうし
た事から導き出されるのはかなりの先鋭の武器集団だったと言う答えである。中臣鎌足
は中大兄皇子とともに蘇我氏を打倒して、大化の改新で律令(りつりょう)制への改革を
進めた逸材だ。しかし、奈良時代の書物には大和国生まれと記載されているが、何故だ
か10世紀以降になると、常陸国出生説が出てくる。「常陸に流された父母から生まれ
た鎌足は、キツネから鎌を授けられ、上京後に蘇我入鹿の首を鎌で切り天下を救った。
」という逸話である。「いずれの書にもキツネと鎌が共通している」とした。中世の舞
である「幸若舞」の題材にもなり、「鎌足は盲目のふりをして入鹿に近づき鎌を取り出
し首を切った」という内容で演じられている。室町時代の書には、「鎌足が鎌を埋めた
ので、鎌倉という地名ができた。」という伝説までも残る。このほか、鹿島神宮や春日
大社の信仰にも触れ、各種史料を解説した。『常陸国風土記』から次の一説を紹介され
ている。「ヤマトタケルの天皇、東のえみしの国を巡狩はして、新治の県をすぎいでま
ししに、国造ヒナラスノミコトを遣はして、新に井を掘らしむるに、いづみ浄く澄み、
いとめづらしかりき。時に、御輿を停めて、水をめで、み手を洗ひたまひしに、御衣の
袖、泉に垂りてひぢぬ。すなわち、袖をひたす義(こころ)によりて、この国の名となせ
り。風俗(くにぶり)の諺に、筑波岳に黒雲かかり、衣袖漬(ころもでひたち)の国といふ
は是なり」と記している。つまり、その後紀貫之が歌う 「袖ひちて むすびし水の」は
、 ヤマトタケルが常陸の国(袖を「ひたして」水をすくったので「ひたち」の国となっ
たとのことの伝承で御手を洗う際に、衣の袖が泉に垂れて水につかったという伝承を踏
まえたものだと言う話である。つまり神話の時代から「蝦夷(えみし)」の国として、
常陸の国はあって、中臣鎌足はこの常陸の国の地方からの者でキツネに鎌を授けられて
朝廷の天下を変えたと言う話である。この事はこの関東に異民族がいて戦っても勝てな
い事は解っていて暗殺に転じたとも考えられる。又鎌倉幕府も駿河の荘園での紛争で、
武家同士が勝ったが、京都から追い出され離れて治世に及んで、鎌倉に幕府を置いてい
る。その理由は鎌倉でも過ごせるほど食糧供給や生活が安定していたからだ。


1401: 名無しさんAA:18/05/07 10:18
宣教師の時代       ーーー151

 鎌倉幕府を開いた理由は今もってまだ不明である。基本的には京都の朝廷が、地方の
荘園・公領はそのままで、地方支配に地頭等の形で、武士に地頭職を置いた為に、割り
込む形で二元的な支配構造ができあがった事にある。つまり朝廷支配は先住民の蝦夷を
追い出して得た稲作文化でありしばしば襲われたり、荘園同志の領地争いなどが盛んに
なった為に警官や護衛役を作ったとされる。しかし実際は、当初の幕府は関東に限られ
「鎌倉殿」頼朝の私的家政機関として設立されて、公的機関でも全国的ものでははない
。したがって基本的に鎌倉幕府が支配下に置いたのは鎌倉殿の知行国および主従関係を
結んだ武士(御家人)であり、守護の設置などで諸国の治安維持等を担当したものの、
全国の武士を完全な支配下に治めたものではない。平氏の北条政権が朝廷に入り込み、
朝廷を通じて支配を試みたのとは対照的に勝手に支配した。特に元寇が起こって、以降
は全国の武士に軍事動員をかける権限などを手にし、全国支配が強化されることで鎌倉
時代に入った。蝦夷の戦いにおいて、武家の栄誉である鎮守府将軍に任ぜられ、国内の
兵乱を平定、朝廷の信望を得るとともに東国を拠点として武家の棟梁としての名声を上
げたが その強力な軍隊組織が逆に京都の室町の京都守護兵を上回った鎌倉幕府はそれ
以前の武家政権である平氏政権と最も異なる点は、「問注所」と呼ばれる訴訟受付機関
を設置したことで、これまでは地所の支配権をめぐる争いは当事者同士の武力闘争に対
して、容易に発展していた騒乱にこれにより実質的に禁止することになった点だ。武士
達の、つまり全国各地の騒乱のほぼ全ての原因が土地支配に関するものであり、頼朝の
新統治方法は、この後永く幕藩体制の根幹を成すものになり江戸でも同じだった。そも
そも、足利将軍家は成り立ちからして権力基盤が弱いところがあった。源氏三代で絶え
た鎌倉政権は、北条得宗家が中心となりながら武家の政権を維持して来た。後半には、
御家人と得宗家被官の御内人との対立はあったが、それでも武家の総帥としての指示で
その政権をかろうじて維持出来た。しかし、その後強力な個性を持った後醍醐天皇が建
ち、強力に平安の昔に戻すことを後醍醐が目指し存在感を高めて、北条得宗家と御内人
の政りに不満を持つ武士達の心を掴んで、鎌倉政権はあっという間に瓦解崩壊したのだ
。そうして南北朝時代に突入した。。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明
天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行
宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後
小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56
年間は終わった途端に鄭和の船団が来航した事になる。

1402: 名無しさんAA:18/05/07 10:18
宣教師の時代       ーーー153

 海外には既に当時には、日本人町と言うのは数多くあり、又数多く人間がいた。これ
は、ベトナムの中部のコウチやタイのアユタヤなど交易の拠点に、日本人の駐在員のよ
うな人たちがいた。その人たちを中心に日本人町が各地にあった。このサンミゲルと言
う町も 最盛期には三千人くらいの日本人がいた。多くは迫害から逃れたキリシタンだ
ったとも言われる。しかし日本が鎖国に入ってしまう前は5〜50万の奴隷が売られた
。火薬の樽と引き換えに。しかし徐々に日本本国との交易もなくなり、日本人町に残さ
れた人たちは現地の人とやがて同化していき消滅して行く。今日では、かつてそういう
ものがあったという跡くらいしか残っておらず、対照的に中国人の町チャイナタウンが
現在でも各地に残っている。かつ活況にそこだけ見事に中国となって、華僑街を作り今
も残って居る。鄭和の大航海は江戸よりおよそ二百年も前だが日本に来ない筈はない。
『鄭和下西洋資料』には、鄭和は足利義満に倭寇取締りを要請し、義満はこれを受諾す
るとともに勘合貿易に同意したという話がある。この船団が鎌倉に突然現れて交渉した
のだろうが、その時は江戸の黒船以上の驚きだったろう。中国側の一部資料の、鄭和が
1404年に皇帝の特使として10万人を率い、日本に派遣されたとの記述が見えるが、日本
側にはこれを裏づける記録は全くない。博多商人他伊豆の船団も既にあったとされる。
1405年6月15日 鄭和34歳の時、永楽帝に諸国への航海を命じられて出港している。この
後鄭和の死後は、1435年に宣徳帝が死去すると明は再び鎖国的になり、国力も衰退して
航海は行われなくなった。この記述の1404年は、この大航海前なのだ。皇帝の特使
として10万人を率いて、日本に派遣されたとの記述は、どこにも日本の記述にない。
10万人もの人間が着岸したとなれば大事件である。だがどこにも日本側に記載がない
。これは不思議な話である。当時の中国(明)では羅針盤と呼ばれるコンパス(磁気式
方向指示器)や六分儀を使った天文航法、測量技術、海図の制作技術まで完成されてい
たとされる。ヨーロッパの大国は当時「天動説」を信じて大航海時代が始まるのは百年
近くも待たなければならない時代だ。その意味では鄭和の率いる艦隊は最新最大の史上
最強の大艦隊だった。その上偉大な陣容だったが、この艦隊は軍事侵略・占領を目的と
はしていなく遊興の様に。各国に明王朝の国威を誇示し「朝貢」を促すだけのための「
外交使節団」もしくは「通商視察団」という性格のものだったのだ。極端に言えば完全
な学術調査なり通商視察なりの船であったのだ。布教も領地拡大も交易強要もない純粋
なものだったのである。

1403: 名無しさんAA:18/05/07 10:19
宣教師の時代       ーーー154

 では彼が日本に行って天皇い会ったというのは、一体何処についたのだろうか。琉球
王国だろうか、壱岐対馬だろうか、あるいは伊豆大島や小笠原諸島当たりだろうか。マ
ルコポーロ達の帰国は1295年である。1292年、フビライ・ハーンの命令で、ペルシャの
イルハーンに嫁ぐタタール族王女に付き添い、無事に送り届けるためにマルコ・ポーロ
達が選ばれた。前回に陸路の旅で失敗しているために、今度は海路が選ばれたからであ
る。帆船はマレー半島、スマトラ、インドの海岸沿いに航行した。一行は14隻の船に
600人の従者と2年分の補給品を積み込んで船出した。3年後には、無事にペルシャ
についたときには六百人の従者はわずか十八人に減っていた。当時の航海はこのように
過酷で命がけの旅であったのである。マルコ・ポーロは陸路で故郷をめざした。1295年
の冬にヴェネティアについた。24年ぶりのことであった。以上の事柄が序文でわずか
12ページしかない、これ以後に、物語が始まる。およそ1300年頃にこうしてマルコ
・ポーロは海路で帰っていったのだ。そして1400年頃に鄭和の大航海があり150
0年頃に大航海時代にはいり1600年に江戸時代に入ったのである。マラッカ海峡の
王国はこの間繁栄した。忘れてはならないのが明王朝の強力なバックアップだが、当時
交易船には帆船かオールである。船の航行はまさに風まかせだった。自然が織りなす、
季節風を利用して東西の交易をしていた。その東西の風の切り替わりを待つ「風待ち」
に適していたのが、波風の少ない天然の良港が「マラッカ王国」だった。つまり海路が
欧州に通じているのはある意味マルコ以来は知られた中にあった。と言える。それに、
もう一つのはなぜ鄭和の船が欧州まで着かなかったのかは食料の限界だったとも言える
。アフリカを南下するのは簡単だが北上するには水の供給が困難であったのだろう。更
にこの鄭和の文化にワインの文化はあっても大量には積んで居なかったと思う。マルコ
ポーロは1324年に死亡した。ヴェネチアに残されている資料によれば、彼には妻と三人
の娘がいたらしい、しかし、大きな屋敷に住んでいたが暮らしぶりは質素であった。尊
敬は受けていたようだが、特別な名士ではなかったようである。また、遺産も驚くもの
では無かった。「東方見聞録」以外の記述本は中世ではアジアについて書かれたものは
わずか2冊。プリニウスの『博物誌』とブルネット・ラティーニの『宝物の書』だけで
あった。しかし、中世になるとローマ教会にとって布教のために東洋の宗教事情を知る
ことが重要になったのである。また、イスラム教徒に対抗するためにモンゴルの実情が
知る事が必要になった事も大きな要因のひとつであった。


1404: 名無しさんAA:18/05/07 10:22
宣教師の時代       ーーー155

 フランシス会修道士のカルピニはモンゴルの暮らしや習慣を記述した。これは『歴史
の鏡』(ヴァンサン・ド・ポーヴェ)に入っている。1248年に十字軍に随行したフラン
シスコ修道会の修道士ギョーム・ド・ルブルクの記録。他の旅行記としては『マンデヴ
ァル卿旅行記』とフランシスコ修道会の修道士ポルデーンネのオドリコ(オドリコ マッ
ティウシ) が書いた『東方紀行』がある。しかしその中でも群をぬいて人々に影響を与
えたのは『東方見聞録』である。東方見聞録は別名『この世についての四方夜話』とか
、『マルコ・ポーロとアジアの不思議な物語の書』『世界の叙述』ともいわれている。
『東方見聞録』には 138種の写本があり、コロンブスも1438年〜1485年頃に出版された
1冊を持っていた。14世紀には手写本として世に出た。のちに印刷され各国語に翻訳さ
れて世の人々に読まれた。コロンブスも1438年か1485年に出版された1冊を持っていた
。この本は今も「インド関係総文章館」に保存されており、コロンブス自身の366箇
所の書き込みを見ることが出来る。マルコポーロの文書には飽くなき「黄金、銀、真珠
、香辛料」にたいする執着心が見られる。一説によれば、陸奥の黄金が関係していると
いう。元代に書かれた『宋書』にも「東の奥州は黄金を産するという」とある。これら
のことから、日宋貿易では日本の主な輸出商品は黄金であったとされている。ひとつの
例としては、中尊寺(岩手県平泉町)の7000余巻の宋版『一切経』が、砂金10万5000両
(4410キログラム)と引き換えに宋から輸入されたという記載が、中尊寺経蔵文書の正
和2年(1313年)の「大衆訴状」にあるという。 当時の常識では莫大な黄金であったた
めに、日本は黄金の豊かな国として中国から世界に伝播していったのであろうと目され
る。修道士オドリコは1318年4月に東方へと派遣された時は、パドヴァから出発し、ヴ
ェネチア経由でコンスタンティノープルへ向かい、黒海を渡ってトラブゾンに達した。
そこからアルメニア・メディア・ペルシアへ向かった。これらの場所は全てフランシス
コ修道会が布教拠点を建てていた。スルターニヤからカーシャーンとヤズド、ペルセポ
リス、シーラーズ、バグダッドなどの地域を経てペルシア湾に達した。アイルランド人
の同僚である修道士ジェイムズと一緒にホルムズからインドへ渡り、ボンベイ近郊のタ
ーネーに上陸した。この後、フランドリナ、シンギリン(現クランガノル)、クイロン
、セイロン島を通り、北部ケーララのマラバールに達した。マラバールには、トマスの
遺骸のある教会があった。

1405: 名無しさんAA:18/05/07 10:26
宣教師の時代       ーーー156

彼はインドからジャンク船に乗りスマトラ島、ジャワ島に達した。ジャワの王は汗のカ
タイと何度も交戦して撃退した、との記載がある(フビライのジャワ遠征を示している
と思われる)。ボルネオ島付近を北上しザンパ(チャンパー)を経て南下、ニコバル諸
島、シラン島(セイロン島)、ドンディン島(アンダマン諸島)を経てチェンスカラン
(広東)に到着した。広東からザイトン(泉州)、フゾ(福州)、カンサイ(杭州)、
チレンフ(南京)、イアムザイ(揚州)、レンズィン(臨城)、スンズマトゥ(済寧)
、カンバリク(北京)に到着した。ザイトンにはフランシスコ修道会の修道院が2つあ
り、オドリコは、そこにインドから携えていた殉教者の遺骨を埋葬した。彼の先祖は、
マッティウシというチェコ人だった。伝記史家によれば、彼は若い頃に、フリウーリの
州都であるウーディネでフランシスコ修道会に入会した。オドリコは1324年から1327年
まで約3年間滞在し、モンテコルヴィーノに建設された教会の一つに関係していたと思
われる)。3年間の滞在後、北京を発って帰国の途についた。西方へ向かい、50日後に
プレスター・ジョンの地へ到着、その後トザン、カンサン、チベット、ラサ、ミレスト
ルテなどを通過し、1329年末か1330年初頭にヴェネツィアに到着した。彼の北京滞在は
1324〜27年と推定されているが、それは、帰国後に彼の旅を、口述を筆記したソラーニ
ヤのグリエルモ修道士が、1330年5月に採録したと筆記していることで、帰国が1329年
末から1330年初頭と考えられることからだ。オドリコの旅は、外交使節として一般的な
もので、更に宗教的な目的を併せ持って旅に出ていた。13世紀前半と言う早い時期に、
モンゴル人がヨーロッパに侵入し、1237年から翌年にかけては、広域にロシアの殆どを
略奪し、1241年にはポーランドを荒廃させ、突然退却していった。その為教皇インノケ
ンティウス4世は1245年にモンゴルの大汗への最初の使節を派遣した。この時の使節が
フランシスコ修道会のプラノ・カルピニだった。このような教皇の外交政策は14世紀に
も引き継がれ、ニコロ、マフェオ、マルコ・ポーロらの1260年から1271年の2度の旅や
、1294年のモンテコルヴィーノの教皇ニコラオス4世の派遣へと展開して行く事になる
。この1241年の、ワールシュタットの戦いは東欧・西欧にモンゴル帝国の脅威が現実と
なり使節団派遣の契機となった。



1406: 名無しさんAA:18/05/07 10:26
宣教師の時代       ーーー157

1245年の第1リヨン公会議で決定されモンゴルとの交渉役として、カルピニはローマ教
皇インノケンティウス4世の命令を受け、東欧に勢力を拡大したモンゴル帝国のバトゥ
の元に派遣された。カルピニと同じ修道会のボヘミアのステファン修道士の2名が旅立
った。途中ポーランドにてポーランド人のフランシスコ修道会ベネディクト修道士が加
わって3名となったが、道中通過する諸侯達に護衛や召使を数名つけてもらう程度で、
教皇使節としては少数だった。西欧の呼び方で中国福建省の都市泉州のことをザイトン
と呼んだ。元時代には、マルコ・ポーロやオドリク又はイブン・バットゥータらによっ
て、この名で世界最大の港と紹介されたからだ。ザイトンは、泉州の別名刺桐城の中国
の音訛(おんか)といわれる。イブン・バットゥータは本名はアブー・アブドゥッラー・
ムハンマド・イブン・アブドゥッラー・アッ=ラワーティー・アッ=タンジーと言う、
全く長い名だが、千三百年代の探検家である。マリーン朝のベルベル人の探検家である
。彼の記述は『諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物』と言う名の
古代の旅行記としては、広範にわたる旅をまとめられたものとして人気を博し世界中に
知られる物になった。約30年間もの月日をかけたイスラム世界、そして非イスラムの
地を旅した記録だ。彼の旅した地は北アフリカ、アフリカの角、西アフリカ、東ヨーロ
ッパ、中東、南アジア、中央アジア、東南アジア、中国が含まれ優れものとして、欧州
人の中では重宝がられた。こうした事でイブン・バットゥータは史上最も偉大な旅行家
の一人と考えられている。ここでイブン・バットゥータはまた泉州から60日のところ
にゴグとマゴグ(マゴグ:魔極:神の逆臣分子。ヤペテの子孫とされる。)の地がある
と記している。ハミルトン・ギブによればイブン・バットゥータは万里の長城はクルア
ーン(コーラン)にあるとおり、ズー・ル=カルナインがゴグとマゴグを退けるために
築いたものだと信じていた。ズー・ル=カルナインは双角王という通称の様に、彼の額
に二本の角が生えていたとの伝承に基づく。ズル=カルナインは、ジンの助けを借りて
、文明化された人々を野蛮な「ゴグとマゴグ」から守るために鉄の壁を構築した。とさ
れる。一説には万里の長城がモデルとされ、ズル=カルナインの戦った相手は、ローマ
帝国であり東方世界への侵攻するアレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)であ
った。「ゴグとマゴグ」は、クルアーンに言及されており、世界の終末に、文明と野蛮
を分かつ鉄の壁は崩れ、野蛮な「ゴグとマゴグ」が文明世界に攻め込むとされていた。
しかしこの東洋の旅行記は日本の戦国時代にはやってくる宣教師の参考書や教科書にな
っていて日本では大きな意味を持っていた。

1407: 名無しさんAA:18/05/07 10:27
宣教師の時代       ーーー158

イブン・バットゥータは北京から杭州へ戻り、福州へと旅を進めた。泉州に戻るとすぐ
にサムドラ・パサイ王国のスルタン所有のジャンクに乗り込み、東南アジアを目指した
。しかし船の乗組員に法外な額の報酬を要求され、彼が中国滞在中に工面した蓄えをほ
とんど失ってしまった「コーラン」は、回教(ウイグル)に由来するとされ、共に中国
語「古蘭(または可蘭)」に由来する。通常、日本ではコーランと呼ばれることが多い
が、もともとは中国人がウイグル人を制する為に作った制約だったとされる。しかし実
はこのイスラム教が中国発祥とは、今般では誰も考えられないくらいの衝撃であろう。
こうした話はよっぽど面白かったのか日本の遣唐使の中には、その話を日本に持ち込も
うとわざわざ帰ってくるのを延期した僧もいる。慈覚大師円仁の「入唐求法巡礼行記」
である。円仁は、一般には慈覚大師という名で知られているが、この人物は、一生を旅
に明け暮れたような人物だった。東北の古刹の多くはこの円仁が開祖となっている。山
形の「山寺」の名で知られる立石寺も円仁の開いた寺である。急峻(きゅうしゅん)な
山の上に参詣している時に、過労のために円仁が休んだと言われる大石が円仁の腰掛け
石として残されている。日本三景松島の瑞巌寺や奥州平泉の中尊寺、毛越寺などもこの
円仁開祖の寺である。円仁は、都が京都に遷された年の延暦13年(794年)に下野
(しもつけ:現在の栃木県)の国で生まれた。15才で比叡山に入門し、最澄の薫陶を
受け、21才で得度し、最澄に従い故郷の下野をはじめとする東国を巡った。その後は
、戦乱に傷くエミシの地東北を歩いて人心の混乱を鎮めようと自らが信じる天台宗の布
教に専念したのであった。円仁44才の頃、天台の教義の勉学のために当時の中国の唐
に入る。以後9年間、一心に学んだ。この円仁の入唐の理由は、空海(774)がもた
らした密教の教義が日本国内で急速に広まる機運を見せるなかで、日本に天台宗の教義
の深化をするための命がけの旅であったと推測される。周知のように、空海は日本宗教
史上でも屈指の人物である。円仁の師匠にあたる最澄(767〜822)は、彼の先輩
であり、ライバルであったが、密教の部分に関しては、言葉は悪いがかなりのコンプレ
ックスを持っていて、再三後輩であった空海に中国から持ち帰った文献を借りたりして
いる。これに対して、空海は「書物をどんなに読んでも密教の秘法を理解することは難
しい」と強い言葉で拒否したことで有名だ。

1408: 名無しさんAA:18/05/07 10:29
宣教師の時代       ーーー160

 空海は高慢な学僧で知られ、若い頃から、負けず嫌いで功名心の人一倍強い人物であ
った。24才で書いたと言われる「三教指帰」(さんごうしいき)では、儒教、道教、
仏教の教えの優劣を論じて、仏教の教義の優位を説くという攻撃的な内容を書いている
。主著となった秘密曼荼羅十住心論でも、結局は、密教が一番高い次元に到達している
自画自賛して説いている。これほどの自信はいったいどこから来るのか。空海がもたら
した「密教」というものと、本来の「ブッダの教え」との間には、大きな乖離(かいり
)がある。密教の教えは、大日如来を宇宙の中心に置くどこかに一神教の匂いがある。
それに対して、ブッダの教えは、謙虚で控えめで、まさに中道をゆく中での協和共済を
説くもので、空海の言う、究極とか中心とか唯一神であると言うそのような大それた文
言を使ってはいない。あるのは苦というものの実相を自覚し、その根本を見つめて、励
むことである。それが行であると説くものだ。中国の甘粛省永昌県の県境にある「者来
塞」という村は、もともと異国情緒をおびた古代の砦であった。20世紀に入り、砦は
残骸と化している。しかし、どのような変遷を遂げようとも、者来塞の人々は、彼らは
独自に固有の民族習慣を保ち続けた。ヨーロッパ人が作るピザに似たパンを食べ、牛へ
の伝統的な崇拝を続け、祝日には牛の頭に似せた供え物を作り、手に赤い布を翻し闘牛
の祭りを催してきた。此処を何度か訪れている。円仁は、最澄の弟子にして最澄の開い
た天台宗の三代目座主となった。遣唐使のメンバーでも、中国で勝手に滞在を伸ばし、
要するに不法滞在を強行したツワモノである。彼が生まれた年が平安京遷都と同じ79
4年であると考えれば古代人の思想が少し解る気がする。この円仁が、中尊寺を開いた
し金色堂を立てたりして中尊寺や毛越寺をでかくし、奥州藤原氏の素を作った、さらに
は恐山(菩提寺)も彼が開いたとされる。そもそも、ブッダの教えに、秘密も密教もな
い。広く教えを自然界に乞う事が主眼でありひたすら苦の根源を見つめかえして、行に
励むことを勧めるものだ。なのに空海は敢えて、秘密の灌頂(かんじょう)を授かって
教義を体得すれば、俗人でも即成仏が可能と手軽な聖人を説いた。空海が20年の勉学
の予定を、わずか二年で終わらせて、やってられないとばかり日本に飛ぶように帰って
密教の布教を始めた。突然の予定変更は、この円仁の更に伸ばして唐に居た考えとは、
対照的な名声の為の行為だった。つまり空海は、この時、ある野心を持ったのである。
それはある種のひらめきと悟りであり、大日如来を中心とした宗教国家建設の願望でも
あった。空海は大日を中心とした曼荼羅世界像を見て、日本の文化の基底部に据えて、
自分が中心になる事が可能だと空海は考えたのだ。

1409: 名無しさんAA:18/05/07 10:43
宣教師の時代       ーーー161

 45才の壮年になって円仁は、838年(和暦の承和5年)7月文字通り死ぬような
思いをして中国に渡っている。一粒の砂の中に金を探り当てるようにして幾人かの師を
探し出し、やっとの思いで密教の秘法を伝授され、経典や曼荼羅図も書写をした。とこ
ろが844年3月、突如として、武宗皇帝による仏教排斥の勅令が下ったのだ。僧侶達
は、次々と仏法を捨てて、普通の生活に戻ることを強いられた。かつての秦の始皇帝が
行った焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)までは激しくなかったが、それでも経典は焼かれ
、仏塔や仏像、寺院は破壊されるような凄まじい状況があちこちで起こっていた。留学
僧の円仁も例外でなく火の粉は降りかかった。何とか845年(承和12年)5月に、
還俗(げんぞく:出家が俗界に戻ること)をして帰国する許可となった。こうして円仁
は学びの地唐を、逃げるようにして帰国した。しかし帰途でも、苦労は絶えなかった。
何とか、847年(承和14年)9月、港の(登州文登県赤山浦)まで辿り着いたとさ
れるが、当時の船は帆船である。風がなければ、じっと異国の地で待機するしかない。
既に入唐してから9年。円仁は54才の初老の齢となっていたのである。円仁の入唐求
法巡礼行記という日記には、当時を書き記している。「9月6日、7日。追い風が吹い
てこない。9月8日。悪い情報を聞いて非常に驚きおそれたが、風がないので出発する
ことができない。船の人々は鏡などを海中に捨てて神を祭り、風の吹き出すのを祈った。僧らは焼香し、この島の土地神と大明神・小明神らに対して読経し、皆そろって日本国
に帰り着くことができるようにと祈願した。すなわちこの土地の神と大明・小明神の為
に金剛教百巻を転読したのである。」と。この円仁の記述は円仁という人物の多神教的
な感覚がよく出ている。と思う。本来であれば、密教の奥義を伝授されてきたのだから
、大日如来のみを頼って、「海よ鎮まれ」と祈願する筈が、円仁は、まず地元の神々に
次々と祈りを捧げたのである。つまり本質的に円仁という人物は、土地の神にという物
を大事にし畏怖心を持って多枝眼を持っていたのである。日本における神と仏の歴史は
、物部氏と蘇我氏の対立(587年)を持ち出すまでもなく、後世に伝来した仏に対し
て戦い土着の神が屈服してきた歴史だった。それはインド仕込みの様々な神仏を糾合し
ながらやってきて、理詰めの戒律を持つ教えと、日本古来の優美でゆったりの土着神の
寛容力の差で、仏教の様な攻撃力はなかった。それでも関東の地で生まれた円仁は、理
詰めの仏教に帰依しながらも、どこかで唯一無二の土着の神を畏敬し、仏と神の和する
柔軟な宗教的感覚を持っていた。このような感性は日本人の歴史の中で働いた結果に、
日本人は神仏混淆という形をとって神と仏の共存を計ることができている。

1410: 名無しさんAA:18/05/07 10:45
宣教師の時代       ーーー162

 空海が突然と持って来たある種のひらめきと悟りである、大日如来を中心とした宗教
国家建設の創造は、大日を中心とした曼荼羅世界の世相像として一致を見た。日本の中
の文化の基底部に据え、盛んに秘密裏に空海はそれを説いて、古来からの陰陽道の卜部
氏や加茂氏の持つ占い文化や加持祈祷や呪いや恨みの人々の願いを吸収して信者を増や
した。それは同時に天変地異や流行の病魔によって増やし続けた。日本は天皇の祖霊は
周知のように天照大神であった。そして空海の言う、大日如来は天照大神の変り身とし
て説いて変化した。つまり曼荼羅の中心に天皇の祖天照大神が据わった姿と説いたので
ある。この突拍子もない説明を臆面も無く説いたが、さすがに大ぴらに言えず真言密教
として秘かに説いた。しかしこれは反発も無く日本人の高僧は受け入れている。こうし
て日本人の意識構造にこの曼荼羅界の胎蔵界も金剛界もをすんなり据える事が出来たの
は驚きでもある。ここに日本人の優しさがある。拝火教の古代人に一部の大陸渡来人と
の抗争の上に何とか大和朝廷が出来上がりその後仏教が入った。この仏教が朝廷の権力
抗争に又使われた。多くの国にある宗教抗争と跡継ぎ問題が普通絡んでしまい最後には
同じ宗教でも対立してしまう。日本でもそうした事が無かった訳ではない。しかし現在
の多くの人が知る様に、神道と仏教はその教義をお互い近づけてしまい信者の取り合い
によるものだろうが最終的には今や仏教徒がキリストの生誕祭を祝うのも厭わないのだ
。日本が国家としてもっと強固になる為に必要な考え方だ。と空海は考えたのであろう
。空海が渡航して唐に居た時も中国国内は騒然としていた。当時、渤海と日本とは盛ん
に往来・交渉していた。そして渤海への道は日本と唐のバイパスルートであった。第十
九回渤海使節の帰国に当たっては、日本側の要請を受けて、前年新羅船で日本に来た。
帰国を願い出ていた唐国越州の人、周光翰と言升則等を便乗させて送り、嵯峨帝が唐の
五台山にいる留学僧霊仙への信書や砂金を託したりしている。空海は唐から持ち帰った
経等の目録『請来目録』を上表し時、その中に長安の青龍寺の東塔院の和尚恵果に会い
真言密教の秘法を伝授されたと大きく宣伝している。空海が恵果阿闍梨に会ったときに
、恵果は「我、先より汝がくることを知りて、相待つこと久し。今日相見ること大いに好
きし、大いに好きし。報命(寿命)も尽きようとしているのに、法を授けて伝える人が
いない。ただちに香花を支度して灌頂壇に入るようにしなさい。」と言ったという。ど
こからか空海を紹介されて喜んだのだろう。恵果和尚が不空三蔵から密教を伝授された
人物であることと、恵果が、自分がその密教を伝授された正統の法系であることを強調
している。

1411: 名無しさんAA:18/05/07 10:46
宣教師の時代       ーーー163

 もともと曼荼羅を観た空海は、劇的なインスピレーションを覚え、唐の国で、憑かれ
たように勉学に励み、経典を収拾した空海はすぐさま、神仏が様々に入り乱れる日本と
いう国の帰途についた。その時既に新しい密教を注入し開山することの確信をもって、
帰国して、猛烈な布教を開始し山を開く事に精進したのである。空海がもたらした密教
は、いささか一神教的な匂いするというのは、この教義と日本の天皇制の構造に似たも
のを感じ、密教によって、空海は中央集権的な国家が構築できると閃いたのではないか
ということだ。この渤海には大勢のイスラム教徒とラマ教徒がいた。渤海は柵封国で唐
で712年に玄宗皇帝が即位すると、713年に唐に入朝することにより、崔忻が冊封使とし
て派遣され、大祚栄が「渤海郡王」に冊封された。2代目大武芸は仁安と言う独自の元
号を用いて独立色を明確にし、唐と対立した。一時山東半島の登州(山東省蓬莱)を占
領したこともあった。また唐・新羅・黒水靺鞨と対抗するために日本へ使者を送ってい
る。渤海国の高仁義率いる渤海使節が神亀4年(727年)に到着し、翌年の神亀5年に京に
入り、国書と貢物を奉呈したこと端緒として、この通交は渤海滅亡の延長4年(926年)
まで続いた(渤海使・遣渤海使)。軍事的な同盟の用はなさなかったものの、渤海国の
毛皮や人参、日本の綾絹などが交易された。北朝鮮からロシア一帯にまたがる渤海は、
もともと逃げた新羅人と隋王朝の中国人と契丹の遊牧民で構成されていてラマ教徒が多
かったと思われる。ラマ教には、大乗仏教の流れとイスラムのモハメッドの流れが融合
した「転生継承制度」をもつ上に、チベット仏教に特有なもので、生身の人間を仏陀・
菩薩・過去の偉大な修行者などの化身として尊崇する。この、三身論を説く大乗仏教に
おいては特異なことではないしても曼荼羅のルーツとされる。日本仏教においては明治
以前には、各宗派の祖師たちは全てが、仏陀・菩薩などの化身として尊崇されていて、
このラマ教の「化身ラマ(けしんラマ)」は、チベット仏教の教義上において、この世
の衆生を教え導くために、如来、菩薩、過去の偉大な仏道修行者の化身(応身)として
この世に姿を現したとされるラマ(師僧)を指し、転生ラマと表記されることもある。
結果として、空海は大当たりし、密教の曼荼羅宇宙観は、大日如来を天照大神と見なす
説明で、日本の天皇制国家を思想面から補完することになり朝廷の庇護を受けた。円仁
は、その流れの中にあって、最澄の教えを広める立場から、空海の、密教思想に対抗す
る教義を体得するという明確な目標をもって、唐に向かったが先の様に唐から追われて
帰国するに至った。


1412: 名無しさんAA:18/05/07 10:46
宣教師の時代       ーーー164

 この円仁の考えをよく表している建物が、平泉の毛越寺であると言われる。周知のよ
うに平泉にある毛越寺は、円仁によって開かれたと伝えられる東北屈指の古刹である。
ここに常行堂(じょうぎょうどう)という茅葺き屋根の美しい瀟洒(しょうしゃ)な御
堂がある。常行堂は、南大門の跡を右手に折れて浄土庭園の大泉が池の縁を廻って行く
と毛越寺の東南の角地に常行堂跡があり、さらにそこから50mばかり進むと復元され
た遣り水の遺構の前に端正な堂宇が聳えている。かつて毛越寺は、わが国に二つとない
と言われたほどの繁栄を誇り、堂塔数40有余、僧坊500有余を数えていたと言う。
しかし奥州藤原氏滅亡後は、野火や戦乱の混乱に巻き込まれて、そのほとんどが焼失し
てしまう。その中にあって常行堂は、その東隣に立っていた法華堂と廊下で連なって立
っていて、最後まで焼失を免れていたが、慶長2年(1597年)、やはり野火によっ
て焼け落ちてしまったのである。今毛越寺に立つ常行堂は、消失から130年ほど経っ
た享保13年(1728)に仙台藩主伊達吉村公によって再興された。この常行堂が真
っ先に再建された理由は、おそらく毛越寺という寺にとって宗教的な支柱とも言えるよ
うな「常行三昧」(毎年正月14日から20日にかけて行われる)という古い修法を伝
える道場だったことに起因していると思われる。この常行堂の前に立つと、私はいつも
不思議な感じにかられてしまう。薄暗い堂の内陣の向こう側には、光に照らされた阿弥
陀如来が穏やかな面持ちで座し、こっちを見ておられる。この仏は、ここにやってくる
人間の一人一人の心の有り様を静かに観じておられるのだろうか。こうしていると、仏
の慈悲の何たるかが、ひしひしと伝わってくる。それは、どこか、円仁という人物の心
の温かさに触れるような感じにも思える。さてここから先に、この御堂の秘中の秘に触
れるチャンスがある。実はこの阿弥陀如来の背後に、もうひとつ「後戸」と呼ばれる壇
が存在し摩多羅神(またらじん)という神像が安置されている。摩多羅神とはいったい
どんな神なのだろう。平泉名勝誌(明治37年刊)によれば、それは「五方鎮守の一に
して中央の鎮守なり」と極めて簡単に説明されている。考えてみれば、阿弥陀如来の両
脇には、宝依、功徳、金剛鐘、金剛憧という四菩薩が脇神として控えていて、その中央
に阿弥陀如来が存在する。従って本地(ほんち)としての阿弥陀如来が垂迹(すいじゃ
く)した姿が摩多羅神ということになる。簡単に言えば、仏教名がアミダで神名がマタ
ラジンということになるのかもしれない。

1413: 名無しさんAA:18/05/07 10:46
宣教師の時代       ーーー165

『大黒天変相』では摩多羅神(またらじん)とは、漢訳の仏教経典で仏教用語の中には
、サンスクリット語(梵語)の漢字による音写の語が多く見られる。摩多羅神の「摩多
羅」という語は、サンスクリット語の matarah すなわちmatr(母)の複数形の音写で
あって、いわゆる「諸母天」(七母天または八母天)を意味したもので、マターラ神の
事で、鬼子母神、訶梨帝母(かりていも)と指摘され、江戸時代からそう解されていた
。この言葉は日本語的には仏教を守護するとされる夜叉で女神ヤクシニーの一尊で梵名
ハーリティーを音写した、訶梨帝母(かりていも)とも言う。ヤクシニーまたはヤクシ
ーは、インドにおけるヤクシャの女性の総称である。とされる。仏教では男女ともに、
「夜叉」と表記されるが「薬叉女」と言う場合もある。ヤクシャ同様、ヤクシニーは森
の精、水の精であったり財宝の神であったり豊穣の神であったり、人食い鬼でもあった
りと多用である。しかし他の宗教のバラモン教やヒンズー教の絡みでスリランカでは、
ヤクシニーは「ヤカ」と呼ばれる病魔である。仏教におけるヤクシニーの代表は鬼子母
神で、特にヤクシニーはガンダーラ美術の影響もあって「菩薩」化した姿である。この
ため菩薩か女神のような像になっている。天台宗で信仰されている神の一柱として、か
つて存在していた玄旨帰命壇という教団においては本尊として祀られていた。この玄旨
帰命壇(げんしきみょうだん)とは、本来「原始仏教教団」と言うべきもので、かつて
天台宗に存在した一派だ。言語が漢字に捉われない古代日本語との調整宗教の頃の物で
神道の「まつり」というやまと言葉の原義は「神に奉(つか)へ仕(つかまつ)る」で
あることを本居宣長は『古事記伝』で説いている。「まつり」の語源は「たてまつる」
の「まつる」すなわち供献する・お供えすることに由来するのである。その「まつる」
に継続を意味する助動詞である「ふ」がつくと、「まつろふ」となって奉仕・服従の意
味となる。「まつり」は、この「まつる」の名詞形なのである。とされる。夜這い風習
は女性のもとに忍んで関係することとされていますが、本来は女性の家や門前まで行く
ことを意味していた。しかし成功したケースが多かったとされその意味を含むようにな
った。基本的に「御田植え祭」「新嘗(にいなめ)祭」「神嘗(かんなめ)祭」と穢(
けがれ)を落とす禊(みそぎ)としての、段階的裸祭りや、火祭りが日本古神道の習わ
しである。村において等しく子孫を設ける為の設定としてお祀りがあり「乱交会食」を
行事として行い これは明治の初めまで行われていた。つまり性交と祭りは同じもので
あったのだ。しかし西洋文化が江戸初期に入って影に隠れていった。


1414: 名無しさんAA:18/05/07 10:47
宣教師の時代       ーーー166

 その中でこの「摩多羅神(またらじん)」は消えて行く。股の裸体の神の意味合いが
高かったからだ。しかし世界的にも男根崇拝はあるし、女神の嫉妬による規定も多い。
淫祠邪教扱いされ江戸時代にはキリストの邪教禁令と共に消滅したといわれる。阿弥陀
如来への浄土信仰も取り込まれ、本堂の壇上には阿弥陀仏の像を安置した、行者の呼吸
の吸吐を阿弥陀の来迎浄土と感じ取り、そこに生死の根源を究めるとする裸体行や、さ
らに日月の精気が父母和合のときの息風に乗り胎内に入ることに始まると説く教義が強
く押し出されて邪教となった。これらは初期には、いずれも生死の根源を観じて、悟り
を得ようとするものであったが、南北朝時代以降戦国時代など、現実世界や愛欲の煩悩
を積極的に肯定して、交会(性交)の儀式を以って悟りを得ようとする解釈する向きが
強まりその行にや教えが曲解を得て信仰された。「常行堂摩多羅神の事」に記されるよ
うに、摩多羅神は円仁が唐から帰国する際に感得して、常行堂に勧請したと伝えられる
。しかし実際は、摩多羅神は平安時代から鎌倉時代にかけて成立した玄旨帰命壇の本尊
として成立したものと考えられている。この修法は、中世に興った天台宗の口伝法流に
源を発し、その流派である恵檀二流のうち、檀那流を正嫡とし、恵心流を傍流として相
承したといわれる。はじめは、厳格な口伝相承であったが、時代が経るにしたがい南北
朝時代にこの玄旨壇灌頂を受けた円観が、淫靡な宗教に堕落させ、『玄旨帰命檀法』を
伝えたとされ、何故だか真言宗・小野流の文観が真言立川流を大成して、それが次第に
蔓延するに及び、ついにその影響が天台の檀那流の一派である慧光房流に波及したのだ
。こうして、神聖であった玄旨帰命壇は、真言宗により淫祠的な傾向を帯びたと言う。
実は江戸期になって真言密教はヒンズーの「マントラ呼吸」による和合術から人は股間
にある。とした密教系「般若理趣経」を広めていた。『理趣経』(りしゅきょう)は、
正式名称『般若波羅蜜多理趣百五十頌』(はんにゃはらみったりしゅひゃくごじゅうじ
ゅ、梵:プラジュニャーパーラミター・ナヤ・シャタパンチャシャティカー)というが、
実は真言宗空海と天台宗最澄が、交流を閉ざした原因として一般的には有名となった。
男女のまぐわいも肯定されてる珍しい経典の見解がそれぞれに違っていたからだ。一時
期の真言宗は高野山で理趣経がメインな経典になったぐらい重要視され、真言宗派閥争
いで、悪者にされた派閥が使った経典とされた。真言立川流の「御釈迦様でも、出家前
、妻帯し子供をもうけた。当然そこには、性の快感もあった筈だ。」との教えが、理趣
経だ。こうして出家者の禁欲則と真言宗の中で宗派内の争いを起こし、一時期は高野山
も荒れ放題の時期となった。

1415: 名無しさんAA:18/05/07 10:47
宣教師の時代       ーーー167

そのとばっちりを、天台宗の「摩多羅神(またらじん)」信仰の玄旨帰命壇が受けたの
である。摩多羅神は中心仏である大日如来の背中を守る神で門前神とされ、阿吽の呼吸
や阿像や吽像が入口にあるのはその為であるが この結界の門番神は多くインドからの
神だ。バラモン教やヒンズー教が勢力を強めると先行して布教していたミトラ教が変化
を遂げタントラ教が起こった。タントラ教はすごい性的儀式(『インド宇宙論大全』)
を行う教団として仏教は片隅に追いやれる程の勢いになった。インドヨーガの成立であ
る。五体投地から派生したヨーガの健康法は瞬く間に中国の気功のように簡単に広まっ
た。「タントラ教の宇宙観」はヒンズー教・後期に現れた宇宙観をミトラ教が取り入れ
「タントラ教」として普及した。瀕死の仏教界は、これがおおいに取り入れる関係にし
てインド仏教の棄教を阻止した。この事で、後期インド仏教が堕落・滅亡した大きな要
因となった。しかしこれは顕教と言う公けにならず、密教教義としてがヒンズーのタン
トラ教の儀式を取り入れて、宗派別にセックス教団と化した。タントラ教について読ん
でみると、一言で言うと「セックスのことで頭がいっぱい」理屈上は、「性によって宇
宙との合一をはかる」という思想だった。「タントラ教徒たちは自我の観念を脱して、
宇宙なる世界に帰する手段を、性的恍惚のなかに発見した」忘我の境地に達したときに
、自分も相手も世界も意識しない。これが「多なるものが一になったときの境地」だと
としたのだ。当時の至って何もない時代にはこの狂気の集団は大きく逸脱し、成就法(
サーダナ)とか坐法(アーサナ)という秘密の性的儀式の式次第が次々と産まれていっ
た。いわく、グル(師)と女性修行者が行う儀式で、女は低階級・他人の妻・生理中の
女性が好まれ射精の調整、要は長持ちさせるために、大麻をやったりガンジャを吸う。
8組の男女が円輪になって、集団的儀式をし、五甘露(血液、精液、小便、大便など)
を飲む。乱交、ドラッグ、スカトロ、なんでもありとなり、タントラ教徒はミトラ(男
女交合像)を崇拝していて、インド中央部の村・カジュラーホに残る25寺院(10〜12
世紀)の中にはエロ彫刻で壁面が埋め尽くされた寺も出て来るほどとなったが、ミトラ
は程なくヒンズーその他に吸収されて消えた。ミトラ教はギリシャでは尊ばれたがロー
マの支配によってキリスト教に取り込まれた。日本へは古くから拝火教の祭りとして取
り扱われたが、仏教伝来と共に虚空蔵菩薩や大黒天の神という話になる。二体の童子神
を連れた、三尊一体の神であり、仏法における三毒を象徴し、煩悩その物こそが悟りや
叡智の本質である事を意味している。

1416: 名無しさんAA:18/05/07 10:47
宣教師の時代       ーーー168

 摩訶伽羅天(マハーカーラー)ともダキニ天ともされ、死者の肝を喰らい その魂を
往生させる往生神であり、摩訶伽羅天との繋がりから大黒天と同一視され福の神として
も知られる。後戸(仏堂の背後の戸・入口)の神とされ、阿弥陀如来の背後を護る守護
神としても、より真理を体現する秘された神としても扱われ、またこの場では、神への
芸能の場であった事から芸能の興行の神としての一面も持つ。特に聖徳太子の側近にし
て猿楽の祖、芸能の神・大避明神として祀られてる秦河勝と同一視された事から、猿楽
の守護神であるとも考えられた。後戸には守護神や秘神を置く他にも、正統なる者では
無いという扱いをされる事から、虐げられし者の神とも言われている。又、冠に北斗七
星が描かれている事から道教の影響も強く見て取れる。実はこの偏屈な経典になったの
は朝鮮半島で変化してより淫乱な行動に変わっていたのである。兎に角多、彩な側面を
持つ神であるが、それゆえに一体どこ出身のどんな神なのかというのは全く分かってい
ない。江戸時代の僧である覚深はこの神に関して「何処の神なのか解らないが、少なく
とも中国や日本の神ではない」としており、昔からこの神の正体を探られているものの
、未だに謎が多く、先に述べた様々な神性に関しても肯定意見や否定意見が入り混じる
怪しい神である。現在でも信仰されている神ではあるが、円仁に対して「我こそは障礙
の神である、我を祀らねば往生の願いは達せられぬと知れ」と脅迫じみた事を述べてい
る。連れている童子神が摩多羅神の周囲で「ソソロニソ ソソロソ」「シシリニ シシ
リシ」と歌いながら踊るとされている。「ソソ」とは小便を、「シシ」とは大便を、「
シシリ」とは男色を意味する言葉であり、これらを謳う摩多羅神は邪神であると糾弾さ
れ、摩多羅神を本尊とする玄旨帰命壇は淫祠邪教とされて江戸の中ごろには排斥され滅
びた。現在でも、京都府京都市の広隆寺の牛祭りや、茨城県桜川市の楽法寺のマダラ鬼
神祭などでは、摩多羅神が重要な役目を果たしている。ちなみに広隆寺や楽法寺はどち
らも天台宗ではなく真言宗の寺である。摩多羅神の元はタントラ教であるとすれば、ヒ
ンドゥー教の聖典に繋がっている。タントラは思想・哲学を説くものではなく、修業の
ための実践の道、修業のしかたを明らかにしたものです。密教房中術はこのタントラの
影響を示し猟奇的性魔術の極みであり、例えば、女性に膣に射精された精液と、女性の
愛液を、特別な霊薬であるとし、シヴァやその妃(きさき)を象徴する髑髏を加工して
、これを本尊とし、髑髏盃(どくろ‐さかずき)を製作する際には、交合しあった男女
の愛液は不可欠な霊薬となるとしている。霊薬を得る為に、髑髏礼拝をし、髑髏を本尊
とする。としている。

1417: 名無しさんAA:18/05/07 10:48
宣教師の時代       ーーー169

『理趣経』にある修法を実践には何が行われるか。『理趣経』には「五秘密中の大秘密
」という、房中術特有の秘法が伝えられている。これは「五神通(ごじん‐つう)」の
ことであり、また「五神変」ともいわれる秘事口伝の法である。これによると、その修
法の実践者は成就の暁には、五つの「神変法力」を得るとされている。その一つ「天眼
通(てんがん‐つう)」で、凡人には見えないものが見える霊眼。可視世界から不可視
世界への移行。肉眼から霊眼への移行ならびに開発がなされる。その二つ「天耳通(て
んじ‐つう)」で、凡人には聴こえない、天からの囁(ささや)きが聞こえる霊耳(れ
いじ)。霊的波調の聴覚開発。その三つ「他心通(たしん‐つう)」で、他人の心の裡
(うち)を見抜いたり、意図的に隠された考えを読む霊読。思念、意念の傍受開発する
。 その四つ 「宿命通(しゅくめい‐つう)」で、他人の過去や、過去世(かこ‐ぜ)
を知る習気知(じっけ‐ち)。これは他人の過去世からその人の性格を知る術である。
その五つ「如意通(にょい‐つう)」で、自分の思うまま、意のままに他人を操る術で
ある。また、思いのままに動かす術とされる。そしてこの修法を行うには、まず十八日
間の禁欲(性欲や食欲を慎みのは愚か、一切の艶夢なども脳裡から駆逐しなければなら
ない事)が求められる。十八日間と限定されているのは、九天九地(きゅうてん‐きゅ
うち)の合計数からである。「九」とは、極限を意味する数であり、「九天九地」は自
分の棲む世界の最果ての事を云う。特に、中心地から最も遠く離れた果ての地のことで
あり、本当に愛する異性が見つかる間では、喩(たと)え天地の果てであろうと探し求
め、さすらいの旅を続ける事を指すのである。そして此処での誓約は、大切な生命の精
液を無駄にしないと天命に誓い、十八日間の精進潔斎(しょうじん‐けっさい)を約束
し、それだけ性力エネルギーが溜まるわけであるから、この修法が房中術会得の為の原
動力となるとしている。そしてこの修法を行うには、まず十八日間の禁欲後「九天九地
」と言う自分の棲む世界最も遠く離れた果ての地のことであり、本当に愛する異性が見
つかる間では、喩(たと)え天地の果てであろうと探し求め、さすらいの旅を続ける事
を指すのである。そして此処での誓約は、大切な生命の精液を無駄にしないと天命に誓
い、十八日間の精進潔斎(しょうじん‐けっさい)を約束し、それだけ性力エネルギー
が溜まるわけであるから、この修法が房中術会得の為の原動力となるのである。


1418: 名無しさんAA:18/05/07 10:48
宣教師の時代       ーーー170

この方法を実践する場合、まず、ドラッグ(媚薬や妙薬)によって精神状態を、日常の
世界から解き放ち、祈祷(きとう)と秘呪(ひじゅ)に続いて、魚が食べられる。続い
て牛肉が食べられ、媚薬(びやく/性欲を催させる薬で、淫薬とも)としての野菜の炒
穀を食べ、次に葡萄酒(ぶどうしゅ)が口に運ばれる。そして性交の儀式が最高頂に達
し、秘儀が繰り広げられるのである。しかし特記されるべき事は、ヒンズー教の伝統を
持ち、これを信仰する者が、牛の肉を食べると謂(い)う事は、最も恐ろしい破戒(は
かい)行為であり、戒律破りを冒している事に注目すべきである。今日でスワッピング
を楽しむ夫婦間では、牛肉と葡萄酒は性への興奮を煽(あお)る為の必需品とされてい
るが此処で、エクスタシーの作用を高める為に、大麻を使いスワッピング集団としてい
る。タントラの性魔術によれば、男達は自らを“シヴァの化身”であると信じ、それを
観念しながら、三角形の図の描かれたシーツの上に女を横たわせ、性交を開始する。三
角形は「眠れる蛇」のシャクティの象徴であり、女はそれを観念する。そしてこの性行
為には長時間が費やされる。この時の性交には、秘教的な道筋が有り、段取りがあって
、その二人の絡み合いを取り巻く参会者は、絶えずマントラを唱える。更に、王と王妃
はクライマックスのオルガスムスを迎え、脱魂状態に至るのである。この会得にあたり
、「精液」「肉体的エネルギー」「異性を求める情念」の三つは、やがて一つに纏(ま
と)まった強力な「陽之気」に変換される。この陽之気に変換される事により、肉体が
五秘密の法身と変化(へんげ)し、ここに唸(ねん)が起る。タントラ教徒が崇拝する
像。仰臥するシバ神に、カーリー女神が馬のりになって修行を終える。成就法(サーダ
ナ)とか坐法(アーサナ)という秘密の性的儀式の式次第が書いてあるのですが、至っ
て真面目に説いている。いわく、グル(師)と女性修行者が行う儀式で、女は低階級・
他人の妻・生理中の女性が好まれる(なんでだろ)。射精の調整、要は長持ちさせるた
めに、大麻をやったりガンジャを吸う。8組の男女が円輪になって、集団的儀式(16
P)をする事を規定している。五甘露(血液、精液、小便、大便など)を飲んで、乱交
、ドラッグ、スカトロ、なんでもありです。タントラ教徒はミトラ(男女交合像)を崇
拝していて、インド中央部の村・カジュラーホに残る25寺院(10〜12世紀)の中にはカ
ンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院のような、エロ彫刻で壁面が埋め尽くされた寺もある
。これらが、呼覧(コーラン)と共に中国大陸で出来た密教である事は間違いない。い
つからインドと中国がどんな繋がりだったかは不明だが、中国は常にインドを犯してい
た。イスラム信徒は近代までバングラデシュには居なかった。しかし中国にいた。

1419: 名無しさんAA:18/05/14 15:09
富安君を探せ              < その154 >

 実はこの頃雪舟が瀬高の清水寺に住したとされている伝説がある。雪斎は太原 崇孚
(/たいげん そうふ)は、戦国時代の武将で政治家だったとされる。臨済宗の禅僧であ
ったとされ、今川家の家臣だった。諱は崇孚。雪斎の号は居住した場所に「雪斎」と書
かれた扁額があったことが由来で雅号とされる。父は庵原城主・庵原政盛(左衛門尉)
。母は興津横山城主・興津正信の娘。父方の庵原氏は駿河庵原(静岡市清水区)周辺を
治める一族だった。母方の興津氏は横山城を本拠に海運を掌握し海賊(水軍)も率いて
いた。両家とも今川氏の譜代の重臣で今川義元に仕えて義元の家督相続に尽力。相続後
は義元を補佐して内政・外交・軍事に敏腕を発揮して今川家の全盛期を築き上げた。と
いう。後奈良天皇から宝珠護国禅師を諡された。雪斎が義元と初めて出会ったのは大永
2年(1522年)頃のこととされる。京都五山の建仁寺で修行をして頃から秀才としての
将来を嘱望されると噂を聞いた主君の今川氏親は、帰国して今川家に仕えるよう要請し
、一説にはこの要請を2度までも断ったという。(1530年)、建仁寺の師の常庵龍崇に
よって雪斎は幼名芳菊丸の得度の儀式(薙髪染衣)を行い、承芳と名を改めた。1533年
の2度目の上洛し、善得院から建仁寺へ、さらに妙心寺へと移った。この頃に承芳は、
道号「栴岳」を与えられ栴岳承芳と名乗り、承菊はそののちに太原崇孚(雪斎)に改め
たとされている。今川家では大永6年(1526年)に氏親が死去し、義元の同母兄である
氏輝が跡を継ぎ、母の寿桂尼が後見した。駿河の戦国時代の幕開けである。雪斎は義元
を政治・軍事の両面で全面的に補佐した。義元も雪斎を厚く信任して手厚い庇護を与え
た。天文6年(1537年)、雪斎は氏親時代に悪化していた甲斐の武田信虎との関係改善
に務め、義元の正室に信虎の長女・定恵院を迎え、信虎の嫡子・晴信に三条公頼の娘・
三条の方(今川家の遠縁)を周旋して、両家の間に甲駿同盟を成立させた。しかしこれ
で相模の北条氏綱との同盟関係が悪化し、氏綱は駿河東部に侵攻し河東の乱をおこした
。雪斎はこれに関東管領の山内上杉憲政を誘い込んでから、武田晴信と共同して河東に
出兵し、同地を取り戻している。織田との戦いでは、織田信広を捕縛し、織田信秀と交
渉を重ねて、織田家に奪われていた人質の松平竹千代(のちの徳川家康)を今川氏の元
へと取り戻している。その後も甲斐の武田晴信、相模の北条氏康に働きかけ、甲相駿三
国同盟の締結に尽力し今川を助けた。天文14年(1545年)に高僧を招いて駿府に臨済寺
を開寺し、自らは2世住持となり京都妙心寺の第35代住持に就任するなど、僧侶とし
ても活躍している。今川義元の右腕として手腕が高く「黒衣の宰相」「軍師」などと言われ「名補佐役」と現在では評価されている。

1420: 名無しさんAA:18/05/14 15:12
富安君を探せ              < その181 >

 こうして明治6年に脱走事件で三池(みいけ)炭鉱(福岡・熊本県)の囚人使用が判明
してしまったが、この時の脱走事件は市民を恐怖に陥れいれた。ドイツでは17世紀に囚
人をマニュファクチュアの紡績工として働かせたり、マニュファクチュア労働者を確保
するために刑務所が建設されていた。当時はドイツ人技師の指導で低賃金労働力の安定
的確保を目的として利用された。その後藩営から官営に移り官営最後の1888年7割の囚
人と共に三井に払いさげられた。明治の移行期には開発が本格化するのは1876年以降の
ことで,イギリス人ポッターの指導のもとに炭鉱の近代化がすすめられたが、それでも
過酷でそれ以前はもっと過酷だったと言える。この裏にには佐賀での反射炉が、大きく
影響している。城郭は明治5年1月18日 (旧暦)(グレゴリオ暦1872年2月26日)の火災で櫓
1基、土蔵、厩、城門3棟を残して焼失。その後は競馬場興行の地となったが、久留米で
大型競馬場が出来るに従い学校敷地に変わった。久留米競馬場も競輪場として発展して
かつての城跡は柳川高等学校と柳城中学校の運動となり、遺構は天守台、石垣、堀が、
その後道路建設やプール建設で小さくなりながら、柳川城本丸跡として残っている。天
守台跡は柳城中学校の運動場の一角にあり、地元では「へそくり山」と呼ばれ、勾配が
運動部員のトレーニング場として利用されていた。ここに民主主義の馬鹿がある。各地
で起こった尊王攘夷運動は、ここらでも佐賀勤王党柳川和泉守などで噴出していた。こ
の明治初期に頻発した反乱は、不平士族の反乱とされるが、といえばそうなのですが、
この乱についてはもう一つ「征韓論に対する賛成・反対」の問題があった。政府内では
結果として「朝鮮に積極的に関わるのは時期尚早」ということになり、同時に賛成派の
600人ほどが政界を離れて下野するがこれが「明治六年の政変」と呼ばれ西南戦争の
前触れとなった。頭に血が上ってしまっている賛成派の多くは、慰留も聞かず地元へ帰
る。その中に、佐賀の乱で中心となる江藤新平もいた。征韓論賛成派は「征韓党」を叫
び封建制のほうが日本には合っているというのが「憂国党」であった。これは新政府の
出来る前からくすぶっていた。西郷も西郷の友人でもあった大久保利通も、その他の多
くは反対派であり「今は朝鮮に構うより、欧米やロシアとの関係について熟考して動く
べき」としていた。しかし尊王攘夷で幕府転覆しても尚貧困にあえぐ武士に聞く耳は、
なく征韓論賛成派は、すぐに戦争をしようとした物騒な人たちも少数だがいた。「朝鮮
に開国を勧めよう」などとは西郷隆盛は考えてはいなかったがそう言う者の救い上げを
急ぐべきと言う意見だった。従って大久保が外国視察時に多くの事が決められた責めは
西郷にとっては全く不当であったと言える。この事で初代宮崎警視総監は退任した。

1421: 名無しさんAA:18/05/14 15:12
富安君を探せ              < その182 >

当初は三条実美が柳川藩に司令部を置きたいとの依頼があった。その後「佐賀の七賢人
」の一人である島義勇(しま・よしたけ)依頼した事もありました。大局を知る 立花
壱岐の守と柳川首脳部数人は、話し合いを持った。その時の立花氏の判断は街に戦乱を
起こしたくない。更に明治政府の司令部要請に断る理由で多少の火災が起こっても良い
と言う判断だった。しかし問題は誰がどう火をつけるかでなく、城の中の家財の搬出で
あった。搬出後は埃も舞い更に細工も多く瞬く間に火は大火となったという。こうして
筑後十五城筆頭の名城はあっという間に燃え尽きた。を送った時幾らか残った御門など
は付近の寺が引き取った。当初は三条実美が政府官使に探るって処罰する命令だったが
、島義勇(しま・よしたけ)は全く適任ではなく佐賀士族を見下す言動しかなかった。
それは当然藩主抱えの士族だったからだ。柳川の城の炎上もまた同じに有無を言わせぬ
借り受けだった。「先祖代々の土地を守るため、明治政府の軍を追い払わなければなら
ぬ。」と、愛国心ならぬ愛郷心が爆発して両党は一致した。こうして明治政府は近くの
熊本城を鎮台(基地のようなもの)にせざるを得ず、熊本から陸海両路で佐賀に進軍開
始した。鎮圧軍が佐賀城に入ると、まず江藤から使者がやってきた。江藤としても、改
めて政府の意思を確かめたかったという。しかし、鎮圧軍は「答える必要はない」とこ
れを完全に拒絶してしまった。こうして戦闘が始まってしまった。ここで籠城戦となる
が、大久保は更に援軍を差し向けて、付近住民の政府への帰順を説いた。この事で奮戦
するも食料供給が絶たれだした、盛り返す事もあったが勝つ見込みのない戦いに変わり
いたずらに敗戦が続く。この為江藤は憂国党への相談なしに、征韓党を解散してしまっ
た。しかも江藤自身は鹿児島の西郷隆盛を頼って、佐賀からも離れてしまいました。こ
れが西南戦争の緒戦であった事は間違いなかった。立花氏はこの柳川に「3鼎足の法」
を説いて早くから藩財政を立て直していた。それは「産業振興・人材育成・流通投資」
の三つについての記載で、まず産業振興に立花ハゼでの和蝋燭や温州ミカンの促進や、
畦豆や濠干しの魚調達などを行い日本で一番早く缶詰工場を作りその資金を担保に今の
鴻池氏の保証を得て米相場で買い付けして巨額の金を得て返済したのである。いわゆる
先物買いと現物売りの差額である。それを行う前に大量の藩札を規制してもいたのだ。
藩札は、株式と同じでもともと発行段階で利子を引いている手形紙幣だ。つまり大量の
発行紙幣は買い手が無ければ両替商では紙屑として扱われすぐさま藩勘定方が買い足す
事になるものだった。


1422: 名無しさんAA:18/05/14 15:13
 この為江戸後期には柳川には物産会所が開かれ、辻町の角では多くの商品取引が活発
に行われた。その当時明治初期に藩が二つに割れず 確立した物流は日本国中この藩に
しかなかった。従って、佐賀からは鉄製品や海産物の支店が立ち並び三井からは枕木か
ら蝋原料更に久留米からは酒類や油、大川からセメントや貝灰、山川からは注連縄など
海産物・土地・民芸品問わず商取引が行われた。その後その場所は 柳川軌道が走り、
高椋銀行が藩の銀行として大いに潤った。しかし渡辺銀行に食われその後福岡銀行に合
併した。しかしその活況は城下を二分しなかった為に柳川城炎上で出来た、商工業の発
展だった。柳川軌道は九州鉄道会社の不便さから生まれたものだった。九州鉄道会社が
創立し高橋新吉とドイツ人技師ヘルマン・ルムシュッテルにより事業を開始した時に、
博多−久留米間をまず着工した。久留米以南は羽犬塚〜水田〜柳河を経て渡瀬に行く 
計画のであったが、鉄道が柳河町(現柳川市)を通る事に反対論者多く、路線を東方に
ずらした瀬高に変更した経緯によるものだ。当時は、大宰府でも反対され二日市に変更
されている。明治22年12月11日、九州初の鉄道として、博多〜千歳川仮停車場(
筑後川北岸)間開業し片道1時間23分かけ1日3往復の営業運転する。7月の、集中
豪雨が筑後川の橋梁工事を襲ったため予定駅の久留米の手前の仮駅で開業するに至った
。当時、蒸気機関車も、車両も、レールも、すべてドイツ製でのスタートだったという
。明治24年4月1日に、高瀬(玉名)まで開通し、下庄字矢部川沿いに「矢部川駅」
(昭和31年瀬高駅と改称)を作り開設営業を開始した。この結果瀬高は大きく発展す
る機会を得たことになる。鉄道開通は、初めての「陸蒸気(おかじょうき)」を見る為
に手弁当持参の郡衆が集まるほど人気があった。開業当初の駅名が矢部川駅だったのは
、高瀬駅(現在の玉名駅)との混同を避けるためであった。この鉄道の開通により、人
は日帰りで遠方に出掛けられ、談議所の浜からの船での荷物の輸送手段が鉄道便の利用
に変化していくことになる。矢部川駅構内には人力車40輌があり、その他付近町村の
分を合わせると300余輌があったという。車賃は一里15銭、1日貸切で90銭であ
った。また駅構内には乗り合い馬車31輌があり、6人乗りで、1人1里10銭であっ
た。駅前の旭屋旅館の馬車は柳川や沖ノ端にも出張所をもっていた。この頃には馬車を
高等馬車と呼んでいた。明治24年7月1日、九州鉄道はさらに延長され熊本駅まで、
開通し。8月20日には現在の長崎本線の一部たる鳥栖〜佐賀間も開業する。これらの
開通には長州藩士であった山縣 有朋(やまがた ありとも)の強い推薦があって開通し
た。三池石炭と瀬高煉瓦が必要に迫られていたからだった。明治27年、日清戦争勃発
し軍需景気が高まり、鉄道の需要が増え高度成長に乗る。明治28年、熊本から八代ま
で延長開通し、佐賀〜長崎間も延長開通する。

1423: 名無しさんAA:18/05/14 15:14
富安君を探せ              < その184 >

 柳河軌道は瀬高の発展や酒造会社が日本全国に運ばれた事での栄盛になり、柳河径由
の九州鉄道敷設に反対していた柳川の地元民も、いざ実現してみると、急に不便を感じ
てしまったのだ。九州鉄道を利用する為の柳河〜矢部川駅間の軽便鉄道敷設に乗り出し
た。明治42年6月、資本金8万1千円で開業、初代社長は立花親信で、機関車5台、
客車5台、定員45人、貨車3台で、その中に6トン積があった。瀬高〜柳河間4マイ
ル(7.6km )を30分で運転していた。運転手は14時間勤務で行った。線路の軌間は
(レールの間隔)には九州の軽便鉄道で広く用いられていた、超狭軌914mmを用いた。
矢部川駅〜下庄〜上庄〜御仁橋〜三橋〜蒲船津〜柳河を普通4往復で、旅客運賃は1区
間2銭で矢部川駅から柳河まで12銭であつた。停車場以外でも、手をあげると乗車さ
せてくれた。小荷物(米・酒・抗木、花むしろ・味噌・缶詰・瓦など)1区間1銭であ
った。柳河軌道が敷設されていた現在の国道443号線は、明治18年(1885)に
新設開通した道路で、明治42年の柳河軌道敷設により矢部川には木造の瀬高橋(写真
)が架設された。その以前の橋は、明治38年、日露戦争後で、矢部川を渡る渡し舟の
不便さから、洪水で流されるのを覚悟で川面すれすれに簡単な有料の橋が敷設されてい
て通称「ガタガタ橋」と言われ、橋ぎわから斜めの道を河岸に下って使用していたとい
う。その後不便さから新たに柳河軌道線路と一般通行との共用木橋が出来て「ガタガタ
橋」は4年の短い期間で廃止されている。矢部川駅(現瀬高駅)周辺には旅館(旭屋旅
館・さかき屋旅館)、料亭(日新亭料亭)、馬車駅ができ、まだ田んぼや畑の下庄の中
だった柳河軌道沿いに、跡取りでない商店の次男などの新規開店や従来の店を移転する
ところが増え栄町ー恵比須町ー矢部川の新沿道に新しい商店が出現した。檀一雄の回想
文「コウモリ(凧)とホンゲンギョ(焚火)」には次の柳河軌道の文節がある。実は私
の母が、私の十歳の時に家出した為に、私の妹達3人は柳川の祖父母の家にあずけられ
ており、その妹達と一緒に正月を暮らす目的で、父は私を連れながら、毎年無理な帰省
をつづけていたものだろう。・・・私の少年の頃は、例えば足利から、柳川までだと、
乗りかえ、乗りかえ、たっぷり、二昼夜はかかっていたのである。しかし、その二昼夜
の旅の果てに、関東とはがらりと変わってしまう風物と方言と食物と人情を経験する事
が出来るのも、やはり、幸福であったといえるかもわからない。例えば、瀬高から軽便
鉄道に乗り換えて、柳川の三柱神社前の柳川駅に降りる。すると、「おうー、一雄坊チ
、帰り召したバイのも」車曳きの吉さんは、目ざくと私を見つけ出して、その人力車に
乗せられる。」と書いている。

1424: 名無しさんAA:18/05/14 15:16
富安君を探せ              < その185 >
 上庄の橋が高くて、4両連結すると登れなかった。ある時、橋を渡っていると、徐行
状態なので駅と間違え、川へ転落した大牟田の人がいたが、不思議とケガはいていなか
った。平坦地でもスピードが今のようにないので、よく飛び乗る人がいたが、柳川市の
宮永付近の若い女の人は飛び乗り損ないケガをしたことがあると記録は残る。乗客は、
中には入らずデッキにぎっしり乗っているので、中に空いているのに、狭い機関車の中
にお世話になりに来る人が多かった。毎日機関室に乗って細かい機械を覚え、伝習館の
先生の実地知らずをいじめる学生さんもいた。その人は、後に東京方面で私鉄を始めら
れ、社長さんになられたという。この柳川軌道の設立には投資家の記録が残っている。
大正5年 柳河軌道社長 元衆議院議員 立花親信(紀伊 柳河藩後断隊長)逝去、当時の
記録から、柳河軌道株式会社、所在地、山門郡柳河町電話26 設立 明治42年6月 
資本金 15万円(一株50円)払込高8万7千円 諸積立金5千7百円 当期利益金
6千580円(4年末現在) 社長 山崎 断 取締役 樺 勝次郎 役員 薗田 徹夫 役員
藤島 豊太郎 役員 川原 大(ふとる) 監査役 内山田 民治 柳河軌道社長 元衆
議院議員 立花親信(紀伊 柳河藩後断隊長)逝去 成清博愛 馬上金山主 元衆議院議員
逝去 2代瀬高町長 立沢久雄辞任 衆議院議員は富安保太郎(山門郡三橋村)、吉原正隆
(大川町)、永江純一 となっている。その後、明治24年に東肥鉄道会社が設立されたが
、この区間に国有鉄道が敷設されるといううわさが立ち、解散する。矢部川駅から清水
寺のある本吉までは4人乗りの高等馬車が走っていた。 
 大正8年(1919)11月30日に東肥鉄道K・Kが設立される。社長には南関町の河端
(川崎)浅次が就任し資本金200万円で始めた。しかし 鹿児島本線が海沿いに敷かれた
ため、鉄道本線の活況から取り残された。経済の発展を期待して、玉名郡南関町の石井
家(北原白秋の母の生家)が中心となり、この地区に鉄道を引くのを決断し路線建設に
取り掛かった。しかし熊本、福岡両県にまたがる為、手続き、その他のため手間どり、
着工が柳河軌道より10年余りも遅れてしまった。当初予定は矢部川駅より本吉、山川
、南関、山鹿より隈府へ行き、それより大牟田に通じる予定であった。大正9年9月1
5日 東肥鉄道が資本金二百万円、本社南関、出張所瀬高町下庄八幡神社境内で矢部川
駅基点、山川経由、南関行きの軽便鉄道は難産で開通した。社長・村山一松(朝日) 
本吉駅長・東原キテ(本吉) 機関手・上津原浅吉(大江)江崎熊市(朝日)とあり、
社長の村山一松は、明治27年25才で山門三池製茶組合長になり明治33年31才で
清水村村長になっている。その後は柳河軌道社長、東肥鉄道社長を務めている。よって
柳河軌道の機関手・上津原浅吉氏を両会社で採用していたものと思われる。

1425: 名無しさんAA:18/05/14 15:19
富安君を探せ              < その186 >

 大正10年(1921) 矢部川駅〜朝日(仮)〜本吉(もとよし)駅 〜 野町駅
〜ちくご原町駅 〜 北関(きたのせき)駅 〜外目(ほかめ)駅 〜南関(なんかん)駅
の13.6kmを営業開始された。矢部川駅とは現在のJR瀬高駅で、清水小学校付近
には本吉駅、山川の野町駅は庄山博氏宅付近にあり、筑後原町駅は沖謙二氏宅付近に設
置された。大正12年頃には資本金を75万円に減資され名も九州肥筑鉄道と改まって
いる。大正15年発行の「山門郡誌」の付録図には、矢部川(瀬高)駅を東に進み藤の
尾の車塚の北側を走り、本吉部落の西側に駅がある。それから山川村野町の東側を通り
松風の関手前で県道を横切り南関方面に行っている。昭和2年(1927) 明治初期
に新橋ー横浜間で活躍した5号機関車(160型)英国シャープ・スチュアート社製造
(1871年(明治4年)製造)が東肥鉄道に売却され再び東肥鉄道の軌道を走る。も
し機関車が残っていれば、今では文化財級であるが、今は消息不明となっている。昭和
4年には九州肥筑鉄道と改称し、全線の測量も終わって、工事は南関より山鹿へと進ま
れていたが、トンネル工事の設計ミスによる手違いから工事が中止となり、南関〜隈府
(菊池)間は計画線から経由地を大幅に変更して建設に着手されたが、こちらは志なか
ばにして頓挫して南関が終着駅となった。この年、東京〜下関に特急「富士」(公募で
名付け)が運行されてはるかに早く着くようになっていた。昭和5年には東京〜神戸を
特急「つばめ」が走る。昭和13年(1938)山間部の人口の少ない農村を走る東肥
鉄道は沿線上の利用客が伸びず営業不振に陥った。開業19年目で解散となる。その後
は国の補償買収を期待して線路をそのまま残していたが、結局実現には至らなかった。
 昭和16年になれば国鉄バス山鹿線(鹿児島本線と豊肥本線を結ぶ鉄道連絡線)とし
て全通し運行されるようになった。(平成18年2月(2006)国鉄バス山鹿線は、
68年の歴史を閉じ産交バスに移管された。)自動車輸送の出現は明治45年に国内で
の快進社(日産自動車の前身)の創立で国産のガソリン車の生産が始まった事で広がっ
た。矢部川駅前で旅館旭屋はその利便から、明治30年頃から人力や馬車を使い営業を
していた。旭屋の金子兼吉は、大正12年頃瀬高町で最初の自動車運転免許修得者し、
自動車3台を購入して自動車運送の営業を開始している。それは当時の米国自動車T型
フォードを購入しての営業だった。ナンバープレート23は福岡県内23番目の車であ
ることを示している自動車が珍しい時代の写真が残って居る。旭屋は下庄小学校の校庭
を利用して自動車学校もやっていたという。 つまり今の瀬高町役場跡である。

1426: 名無しさんAA:18/05/15 09:14
富安君を探せ              < その180 >

古代の歴史に残っているのは、神功皇后が時津から上陸して一泊し、「長い夜」といっ
たので、長与になったという話しがある。長い夜の話は何故なのか不思議だが、古代史
に残っているということは、昔から存在していたということである。古代、長距離の移
動には船が使われていたので、時津に上陸し長崎港まで歩き、そこから船に乗る道があ
ったようで、時津街道とも呼ばれている。時津と長与はすぐ近くなので、ともに栄えた
と思われる。少し離れて諌早に喜々津がある。 時津、長与、喜々津と並ぶ。 このパタ
ーンで行けば、長与ではなく長津のはずなのだが、そうなっていない。津というのは、
船着き場のことなので、長与は船着き場でなかったということになる。長与の「与」を
字は当用漢字をあてはめた漢字で、昔は「輿」という漢字を使用していた。つまり長輿
は「輿(こし)」の関連だった意味だった事は間違いないだろう。輿は轅(ながえ)と
称する2本以上の棒の上に人が乗る台を載せた乗り物の事で、嫁入りを輿入れと称した
し篭に乗る者が神なり貴人では御神輿(おみこし)や御輿(みこし)となる。博多の街
が伯太の人すなわち出雲からの長髄彦族の地に変わった事はよく知られている。長髄彦
は神武天皇に「昔、天つ神の子が天の磐船に乗って降臨した。名を櫛玉饒速日命という
。私の妹の三炊屋媛を娶わせて、可美真手という子も生まれた。ゆえに私は饒速日命を
君として仕えている。天つ神の子がどうして二人いようか。どうして天つ神の子である
と称して人の土地を奪おうとしているのか。」景行天皇の身長が、御身長一丈二寸、御
脛長四尺一寸と書かれている。1丈およそ畳一枚3m程度二寸は6センチとすれば、脛
の長さは1.2メートルほどである。だがこれは、近年計量法で決められた数字で、昔は
当然京間と言われる寸法もあった。太鼓や鼓など8寸を腕や撥(バチ)の長さで0,4m
である。これからすると巨人ではあるが1割は多い。つまり最大で2.8〜2.5mとすれ
ば、そうそう無かった話とはならない。もう一つの天孫降臨をした人物が長脛彦の一族
だと古事記には書かれている。天孫降臨した神様の名はニギハヤヒという。天孫降臨し
たニギハヤヒは物部氏につながり、大和、河内を本拠地にしている。長髄彦族は神武東
征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長で、中世に武将として台頭した織田家
(後に織田信長を輩出)や伊達家が長髄彦の子孫であるとも言われている。文字通りだ
と2,5m級の大男である。長髄彦をモデルにしたと言われている、長髄彦は反大和の背
の高い種族であったのだ。こうして長与の神社 戸隠神社 祭神は天手力男神である。
一方熊襲は土蜘蛛のはびこる未開の地として、武器こそもつが少彦名でも解るように。
入れ墨した小人(こびと)とされる倭人族だったのである。

1427: 名無しさんAA:18/05/15 09:15
富安君を探せ              < その187 >
 この柳川藩は、本当は城を作り、もっと豊かな暮らしを領民にさせたいと願っていた
。しかし時代はそれを許さなかった。日清日露の戦争では、戊辰戦争以降の日本国政府
が頼ったのはこの柳川藩の繁栄だった。というのも多くの藩は仲たがいしては 殺戮が
今だ繰り返されていたからだ。海外の宣教師がやって来て横浜や神戸を開港したが、そ
の事情は朝鮮半島の動向を観る為の物だった。つまり長崎の繁盛には全くかなわない物
だった。長崎で送られる陶磁器やお茶はこの地の早津江の対岸に作られた若津港からの
荷が多くを占めた。その為若津の港は殆どのものの向かう先の中心だった。日田や久留
米の椿油や材木は若津の貯木場に集められセリによって又筏で九州一円を回っていった
。その筏に乗せられるのは城島瓦であった。日露戦争時に送られたのは柳川の海産物と
貝の殻から作ったセメントだった。海産物は缶詰にされ極寒の地の食料となった。又、
セメントは瀬高の赤レンガと共に関西関東まで運ばれた。更に驚くことに 大牟田港の
石炭は良質として江戸期からこの早津江の海軍に運ばれて名が通っていたのである。多
くの石炭の第一任者となっていたのである。衆議院議員富安保太郎はそんな時代に産ま
れていた。その頃の川北村は筑後分と柳川分とに水争いをしていた。吉開村はその中間
に属した。高島蒲池は三潴領地であり久留米大川領分だった。また富安上妻は筑後領地
で久留米山川領分とされた。又川南の百丁久末までは立花藩領とされ柳川県令下にあり
矢加部磯鳥は三潴県令下であった。しかし吉開馬間田のみがかつては水田神宮の神領地
とされていた事から、和泉の守の指揮する場所として中途半端な土地になっていたのだ
。実は富安城があった江戸以前の戦乱期も全く同じであった。実はこの河北地区はかな
りの高台にあった。特に木之元集落は正行集落と同じく今よりは10mほど高かった。
しかし起田の田園作り、島町の堤防作り 瀬高の清水の瓦焼にと その良質な泥土は、
かなり使われた。柳川城攻防では徳川氏が責めて来た時、正行は太閤秀吉が来た事から
大将軍通りとされた。それが柳川軌道の傍道になった。 柳河軌道社長 元衆議院議員
立花親信は初代商工会長の富安氏を通じて衆議院議員は富安保太郎を呼んだ。そこには
成清博愛元衆議院議員がいた。富安飲料はラムネ製造で高利を得ていた。又そこが富安
氏の選挙資金を提供していた。従って従うしかなかったのだ。当時の記録で、柳河軌道
株式会社の所在地は、山門郡柳河町電話26 設立 明治42年6月 資本金 15万円
(一株50円)としている。つまり3千株を発行している。この頃は30円時代である
。大学を卒業して有名商社の初任給が10〜30円とされ、通常の者は職人に無給住込
みとして、弟子入りし代わりに夏と冬にそれぞれお年玉の様に帰郷金の50〜100円
が渡される事が常だったとされている。

1428: 名無しさんAA:18/05/15 09:16
富安君を探せ              < その188 >
 明治の末でこの頃やっと日本に憲法と言う法律や日本国と言う国家意識が芽生えて、
やっと富国強兵と殖産興業が実りだした頃だったのである。樺勝次郎は、馬鉄鍛冶で一
代を築いた祇園宿の薗田徹夫を役員にして藤島豊太郎と川原大(ふとる)を呼んだ。そ
して立花氏の奉行所子内の内山田民治を代表に議論して払込高8万7千円諸積立金5千
7百円当期利益金6千580円(4年末現在) をした東肥鉄道会社を運営した。社長の
山崎断は大川の元締めとしての仕切っていた。永江純一は福岡県会議員をへて明治31年
衆議院議員を5回も当選し政友会の幹事長となっていた。三池土木,三池紡績,九州紡績
,鐘淵(かねがふち)紡績の重役や三池銀行の頭取をつとめた重鎮であった。大正6年12月
65歳で死んだが高田町の復興に全力を注いだ人生だった。吉原正隆は筑後柳川出身の
大農家だった。朝鮮に渡って缶詰を売り朝鮮鎮海で貸家業を経営するに至った。かつて
紅粉屋として大阪に貝の粉で口紅や白粉の化粧品で大当たりした豪商でもあった。明治
45年衆院議員に当選し、以来4期当選し後に逓信大臣秘書官にまでなった。大正14年
9月から次年6月まで貴族院議員として在任している。都帝国大学経済科〔明治39年〕
を卒業し大学院で植民政策学を専攻した関係から彼に実務が任された。筑後国三池郡に
岩津村(福岡県三池郡高田町)の豪農だった野田伊七の長男卯太郎と知り合った。野田
卯太郎は日本の政治家や実業家の中ではかなりの異色であった。号を大塊とし衆議院議
員、逓信大臣、商工大臣などを務めたが、豪農と言えども一般平民の出で大臣にまで昇
った立身出世を体現するような人物であり、商人や武士からは幾人かいたが名門でもな
い平民で、芸術的学や経営的才覚を持ち合わせた政治家は極めて稀だった。その彼が吉
原を寵愛した。卯太郎が産まれた頃の父は一介の雑貨商であったが、非常に活動的にな
り、西南戦争時の官軍の負傷兵を集めた難関に包帯や布を納めて財をなし、その後木村
緑平や山頭火などと親交を持ち、日本初の精神病院を柳川に建設にしていた。炭鉱関連
において三井財閥と関係を持ち、また自由民権運動にも参加し福岡県会議員にもなった
。宮崎滔天が支援した孫文は中国の辛亥革命においては袁世凱に革命の成果を横取りさ
れたものの、日本に来た時には、大阪商人の松野と縁戚であり、卯太郎は取り次いでい
る。日本初代警視総監の宮崎氏はこの滔天と従兄弟であり、この日本では孫文事件で、
西南戦争での政治犯の刑務所や厚生施設を作ったのだ。キリスト教色が強くドイツ技官
の知遇を得ている。大牟田の聖心女子学園はそうした政治犯の家族を助ける為にペンテ
コステ教団が、長崎のグラバー商会と共に江戸時代に創設されてたとされる。明治異邦
偉人の人の隠れキリシタンのルーツ探しで 多くの人が大牟田特に三池に居たのである

1429: 名無しさんAA:18/05/15 09:17
富安君を探せ              < その189 >

1868年 明治元年にホーム・リンガー商会が設立され。お茶の輸出創始者オルトの製茶工
場を買収し、グラバーからも製茶業を引き受け長崎最大の製茶業者となると、製茶以外
にも、製粉、ガス会社、発電所、長崎の上水道建設、漁業会社など幅広い事業を行った
。しかしその原料原資は三池炭鉱の石炭だった。居留地の外国人と市民の交流の場や、
「内外倶楽部」を開設、また、グラバーの息子、倉場富三郎とともにわが国初のトロー
ル漁法を導入し、「水産業の父」とも呼ばれ産業、経済に大いに貢献した。1898年に大
浦海岸通りに建設した「ナガサキ・ホテル」は、当時アジアの一流ホテルとして名を馳
せた事がきっかけとなり、三井クラブも北九州に本拠を変えて炭鉱開発行った。これが
筑豊炭鉱を作った。その後杵島炭鉱や長崎などでもドイツからの地質学者の調査で次々
と出来てすべてが船によって門司に集められ大阪東京にまで送られた。野田卯太郎は、
原内閣、高橋内閣では逓信大臣(大正7年)加藤高明内閣では商工大臣(大正14年)
を歴任した。大正13年には立憲政友会副総裁となった。しかし昭和2年には死去した
。俳人や歌人としても有名であると共に、同郷の柴田徳次郎が私塾国士舘を開設した際
には同じく同郷の頭山満や中野正剛、緒方竹虎らと共に賛同者として名を連ねている。
2代の瀬高町長の立沢久雄が辞任した時衆議院議員の富安保太郎はやっと地元の三橋町
というものを造って瀬高町との合併が叶わなかったが、旧国鉄の元となる東肥鉄道会社
が、明治24年に開通したのである。立花親信の資金によって作られた。元々駅馬車によ
って生活を得ていた園田氏の馬鉄会社は廃藩置県後には佐賀の鍋島藩で酪農をしていた
小城の士族、藤島豊太郎氏の牛乳配達とともに、この鉄道に期待して入社していた。柳
川市の現在地に移転し、柳川牛乳の始めた。東肥鉄道は、高速沿いに進み南関インター
南行出口の分岐点横に、煉瓦造りの橋梁跡が残されている。こちらは純粋に煉瓦のみで
構成されていて、実は南関と瀬高を結ぶ路線として本来大分につなごうとしていた。し
かし物価の上昇と共に資金繰りがつかず、又軍部の強権や自動車の台頭などで頓挫して
いたのである。南関から南は数本の雑木が生えた荒れ地となり、更に農地に取り込まれ
ながら国道に沿って進んだのち、左カーブで国道と交差し、その位置を変える。当時は
ここに踏切番が置かれていた。これより先は工事に着手したものの、開業にまで至らな
かった未成線に区分され、途中の関川には未使用の橋台が未だに手つかずで残る。当初
、南関〜隈府間は坂下経由で計画されたが、建設費の高い長大なトンネル、橋梁を必要
としたため資金面がネックとなり、最終的に費用の安い北側のルートに変更し建設に着
手されそれが牧場が出来ないネックとなり、柳川牛乳で落ち着いた。

1430: 名無しさんAA:18/05/15 12:51 ID:1E.
富安君を探せ              < その190 >

 そもそも明治政府は、明治5年(1872)、近代国家への陸上交通手段として鉄道
を模索していたが、大久保利通も西郷隆盛もその鉄道の革命的利点には、着目してはい
なくて言わば政府内の役人の勢力や予算繰りに終始して国家経営まで至ってなかった。
明治政府はイギリスから技術団を招き新橋〜横浜間の鉄道を開通、片道53分、料金5
0銭から1円50銭で営業が始まったのは、短い路線で縮小予算での快挙でもあった。
1872年、高島嘉右衛門は東京から青森に至り北海道開拓を支える鉄道の建設を政府に建
言、却下されるも、高島は政府要人の岩倉具視を説き、鍋島直大、蜂須賀茂韶をして、
やっと明治天皇および当時の政府に『華族と士族が家財をもって会社を建て、東京と青
森あるいは東京と越後新潟に鉄路を敷き蒸気機関車を走らせることを補す』ことを建言
させた。こうした経緯を経た1881年8月1日、岩倉具視をはじめとする華族などが参加し
て私立鉄道会社「日本鉄道」の創立が決定し、同年11月11日、設立特許条約書が下付さ
れ、初代社長に吉井友実を選出して会社が設立された明治14年(1881)にわが国
最初の民営鉄道である日本鉄道株式会社が創設され、東北、常磐、両毛線などが開通し
た経緯である。その6年後明治20年(1887)横浜〜新橋間の成功から、九州鉄道
会社が創立し高橋新吉とドイツ人技師ヘルマン・ルムシュッテルにより事業を開始した
。博多−久留米間を着工した。久留米以南は羽犬塚〜水田〜柳河を経て渡瀬に行く計画
の鉄道が柳河町(現柳川市)の反対論者多く、路線を東方にずらした瀬高に変更した。
当時は、大宰府でも反対され二日市に変更されていた。明治22年冬、九州で初の鉄道
として博多〜千歳川仮停車場(筑後川北岸)間開業し片道1時間23分かけ1日3往復
の営業運転する。7月の集中豪雨が筑後川の橋梁工事を襲ったため予定駅の久留米の手
前の仮駅で開業する。当時、蒸気機関車も、車両も、レールも、すべてドイツ製でのス
タートだったが、佐賀の反射炉の活用もあった。内山田民治は新橋〜横浜間に営業運転
される1872年よりも7年も前に、1865年に、長崎で蒸気機関車に乗っていた。その3年
前の香港万博にグラバーは薩摩の島津斉彬を連れて来れなかった。そこで長崎港でわざ
わざ線路を敷き人を乗せて走って運賃をとった。その蒸気機関車こそが、西部劇で有名
な「アイアン・デューク号」と名付けられている蒸気機関車だった。つまり香港で内覧
したこの機関車は米国に送られる前に半年程営業運転していたのだ。江戸時代の、この
ショーは米国でかなりの人気を博した。この年アメリカ合衆国憲法修正第13条が提案
されて独立戦争が終わり、 香港上海銀行(HSBC) が設立された。高級な筑後茶がメキシ
コ茶にとって代わり、米国に送っていた鉄砲が日本にやってきたのである。

1431: 名無しさんAA:18/05/15 15:25
宣教師の時代       ーーー170

この方法を実践する場合、まず、ドラッグ(媚薬や妙薬)によって精神状態を、日常の
世界から解き放ち、祈祷(きとう)と秘呪(ひじゅ)に続いて、魚が食べられる。続い
て牛肉が食べられ、媚薬(びやく/性欲を催させる薬で、淫薬とも)としての野菜の炒
穀を食べ、次に葡萄酒(ぶどうしゅ)が口に運ばれる。そして性交の儀式が最高頂に達
し、秘儀が繰り広げられるのである。しかし特記されるべき事は、ヒンズー教の伝統を
持ち、これを信仰する者が、牛の肉を食べると謂(い)う事は、最も恐ろしい破戒(は
かい)行為であり、戒律破りを冒している事に注目すべきである。今日でスワッピング
を楽しむ夫婦間では、牛肉と葡萄酒は性への興奮を煽(あお)る為の必需品とされてい
るが此処で、エクスタシーの作用を高める為に、大麻を使いスワッピング集団としてい
る。タントラの性魔術によれば、男達は自らを“シヴァの化身”であると信じ、それを
観念しながら、三角形の図の描かれたシーツの上に女を横たわせ、性交を開始する。三
角形は「眠れる蛇」のシャクティの象徴であり、女はそれを観念する。そしてこの性行
為には長時間が費やされる。この時の性交には、秘教的な道筋が有り、段取りがあって
、その二人の絡み合いを取り巻く参会者は、絶えずマントラを唱える。更に、王と王妃
はクライマックスのオルガスムスを迎え、脱魂状態に至るのである。この会得にあたり
、「精液」「肉体的エネルギー」「異性を求める情念」の三つは、やがて一つに纏(ま
と)まった強力な「陽之気」に変換される。この陽之気に変換される事により、肉体が
五秘密の法身と変化(へんげ)し、ここに唸(ねん)が起る。タントラ教徒が崇拝する
像。仰臥するシバ神に、カーリー女神が馬のりになって修行を終える。成就法(サーダ
ナ)とか坐法(アーサナ)という秘密の性的儀式の式次第が書いてあるのですが、至っ
て真面目に説いている。いわく、グル(師)と女性修行者が行う儀式で、女は低階級・
他人の妻・生理中の女性が好まれる(なんでだろ)。射精の調整、要は長持ちさせるた
めに、大麻をやったりガンジャを吸う。8組の男女が円輪になって、集団的儀式(16
P)をする事を規定している。五甘露(血液、精液、小便、大便など)を飲んで、乱交
、ドラッグ、スカトロ、なんでもありです。タントラ教徒はミトラ(男女交合像)を崇
拝していて、インド中央部の村・カジュラーホに残る25寺院(10〜12世紀)の中にはカ
ンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院のような、エロ彫刻で壁面が埋め尽くされた寺もある
。これらが、呼覧(コーラン)と共に中国大陸で出来た密教である事は間違いない。い
つからインドと中国がどんな繋がりだったかは不明だが、中国は常にインドを犯してい
た。イスラム信徒は近代までバングラデシュには居なかった。しかし中国にいた。

1432: 名無しさんAA:18/05/15 15:25
宣教師の時代       ーーー171

 このマントラ呼吸法に関しての性の開放交歓は、奈良以前の世界からあったとされる
つまり媚薬を使い、麻薬による信仰が既に確立していたのである。これは戦国時代に入
って来たとされるキリストに、それ以前の聖徳太子時代に入って来たキリスト教がその
用法ややり方に飲み込まれるの防ぐ効果を持った。本来、不思議な事に「神弟」「兄弟
」を意味するキリシタン用語イルマン(伊留満・以留満・入満)とも書く地位はあまり
聞かない。がしかし人数的には多かった筈だが、後世にはあまり伝わっていない。イエ
ズス会の修道者のうち,司祭職にある者をパードレといい、パードレを補佐する者を、
イルマンといった。キリシタン時代,イルマンを経てパードレに叙階されるのがふつう
であったと言われ、また、信者の協働組織であるコンフラリア「組・講」の構成員も、
イルマンといった。この中で、キリシタン用語であるバテレンが破天連や伴天連と書か
れたが、これも宣教師の称号の一つとされる。助修士。平修道士。イルマンが司祭職に
叙階されるとパードレがバテレン「伴天連」となったと言う。しかし吉祥天物語では、
既に伴天連の言葉が違う意味で使われている。 吉祥天は、インドからきた神という。
ヒンドゥー教ではラクシュミー(またはユリー)といい、富、幸福、豊穣の女神だった
。サンスクリット語でシュリーマハーデーヴィーといい、これが大吉祥天女と訳され、
さらに略して吉祥天と呼ばれた。また仏教では功徳天とされる。このラクシュミーは、
ヴィシュヌの后とされ「大海から生まれたもの」という異名がある。これは、諸神の乳
海攪拌というヒンドゥー教の神話からきている。ギリシャ神話のビーナスと同じである
。神々は、不死の霊液アムリタを手に入れるため、ヴィシュヌに相談した。するとヴィ
シュヌは、マンダラ山を引き抜いて、それを攪拌棒として大海をかきまぜるように指示
した。神々はふだん敵対するアスラ(阿修羅)たちとも協力し、いわれた通りに実行す
ると、大海はミルクのようになり、その中からさまざまなものがあらわれてきた。その
一つがラクシュミーである。神々もアスラも、その美しさに見とれ、ラクシュミーを手
に入れようとするが、ラクシュミーはヴィシュヌを夫に選んだ。インドではラクシュミ
ーの姿は、蓮華の上に立ち、左右二頭の像が注ぐ水を頭に受けているように描かれてい
る。これは、ラクシュミーが出現したとき、天の像が清浄な水を金の瓶にくんで、彼女
に浴びせたという、さきの乳海攪拌の神話による。しかしこのインド神話が中国や韓国
の元のモンゴル起源が考えられる。モンゴルは伝説はあまり伝え聞かないが多くの物が
この高原で生まれたようだ。ただ文化的資料に乏しいのが遊牧民の民俗学の弱さだ。

1433: 名無しさんAA:18/05/15 15:26
宣教師の時代       ーーー172

 日本での吉祥天は、中国風の貴婦人に描かれ場合が多く、優雅な衣装に冠、左手に宝
珠を持っているのが一般的な像である。また、仏教では毘沙門天の妃とされているため
、毘沙門天の脇に置かれていることもある。日本に伝来した吉祥天は福徳の神として篤
く信仰された。平安時代には、吉祥悔過という国家的な法要が天皇の命によって行われ
た。これは吉祥天を本像として、「金光明最勝王経」という密教のお経を読んで、罪を
懺悔するとともに、五穀豊穣を祈願するものである。このお経によると、吉祥天はさま
ざまな善行をし、功徳をつんだ天女である。この天女の名前をとなえると、五穀豊穣、
財産も豊かになるという御利益がある、と説いている。吉祥天にまつわる説話の中には
平安時代の仏教説話集「日本霊異記」には、吉祥天にかかわるかなり生々しい物語がで
てくる。信濃の国のある僧が、山寺に祀られている吉祥天に人目惚れし、なんとか自分
にも天女のような女性が授かれないものかと祈る。するとある夜、吉祥天の像とまじわ
る夢をみてしまう。翌朝、吉祥天の像を見ると、その腰あたりに精液らしきものがしみ
ていたという。さんが天女と夢でセックスをするという筋書きなどは、江戸時代になる
と弁才天にもあてはめられるようになる。そこでは、交わったことを人に話すなよ、と
天女に釘をさされたにもかかわらず、坊さんはうっかり他人にさとられてしまう。腹を
立てた天女は、坊さんに水をかけ、その水で坊さんは悪い病気にかかってしまう、とい
う筋書きである。ここでは、吉祥天が弁才天に変わっているが、実際、この両者が混同
され、同一視されることもしばしばあったようだ。しかし、個々の人気からいうと、弁
才天に軍配があがり、七福神のメンバーとしての地位は不動のものになってしまった。
いわば吉祥天は影の七福神だったといえる。『金光明最勝王経』は多くの講輪法会を成
り立たせていて、奈良薬師寺の最勝会、奈良興福寺の維摩会、宮中の御斎会、又は興福
寺の法華会・南京三会(なんきょうさんえ)と称される。宮中における御斎会(ごさい
え)は、7草粥の後1月8日から7日間行われる最勝会で、衆僧を召してお斎(おとき
=供養のための食事)を行ったことから御斎会と称される。古くは大極殿で行われてい
た御斎会だが、後に清涼殿で行われるようになった。奈良時代以降行われ宮中における
年中行事だが、本来集団見合いの形が斎会の始まりである。神道時代の古墳の頃は火の
祀りで、一族習合の乱交宴会が営まれていた。その後衰え室町時代には廃絶している。
また、奈良薬師寺の最勝会は3月7日から7日間国家の平安の祈って行われ、830年
にはじめられたという。放生会(ほうじょうえ)とされる男の裸祭りの殆どはその女子
の選別に見染められれる事を祈願した祭りとされる。つまり女性が選ぶ為の儀式だった。

1434: 名無しさんAA:18/05/15 15:27
宣教師の時代       ーーー173

 ザビエルが日本に来た頃は多くのこうした奇祭が残って居て、その起こりは兎も角も
暗黙の了承事項が多くあり、それを仕切っていたのが神主や僧侶だったといえる。フラ
ンシスコ・ザビエルは、弥次郎という日本人に導かれて、インドのゴアから連れて来ら
れたが、弥次郎はマラッカでザビエルにあい、のちにゴアに亡命し、同地で改宗して、
洗礼を受けた事が解っている。弥次郎は利口であり、そのうえに新たに改宗した熱心さ
をもち合わせていた。そこで、みずからゴアの商人たちに日本と有利な貿易を開始する
ように説くとともに、イエズス会(ジェスイット派)の神父たちには多数の信者の獲得
を約束した。明らかに、彼の語る話をよろこんで聞こうとする人たちがいたわけである
。そしてその筆頭が、東洋への最初のイエズス会の宣教師で、そのころに到着したばか
りのフランシスコ・ザイビエルだった。すぐに船が用意されて、恒久的な貿易を始める
為の商品や贈り物が積み込まれ。フランシスコは、目的を達成に、その日本人弥次郎を
の修道団の宣教師多数とともに、その船に乗り込んで出発した。十分の積み荷とイエズ
ス会の神父たち金もうけのための商人たちと、相手の世俗的な商品と、官憲への贈り物
などが、すべてがとどこおりなく準備されて出るのである。鹿児島に上陸して各地を巡
歴したのちに豊後に到着するや、かれらは双手をあげて歓迎され、交易と布教はすこし
も反対されなかった。当時は、放逐の制度が布かれていなく、それに、信仰は自由であ
って、政府はキリスト教の公然たる説教にたいしてなんら異議を申し立てなかった。実
際に、ポルトガル人は、帝国内のゆきたいところはどこへでも、その端から端まで、自
由に旅行することが許されていた。「国民は、自由に貿易業者の商品を買い、また宣教
師たちの教えに耳を傾けた」のであった。と書かれている。又到着した時既に奴隷貿易
がなされていて一五八二年(天正十年)ローマに派遣された有名な少年使節団の四人も
、世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚愕している。
「我が旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、こん
な安い値で小家畜か駄獣かの様に同胞の日本人を、手放す我が民族への激しい念に燃え
立たざるを得なかった。」「全くだ。実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男
・童女が、世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばか
れ、みじめな賤業に就くのを見て、憐憫の情を催さない者があろうか。」といったやり
とりが、使節団の会話録に残されている」

1435: 名無しさんAA:18/05/15 15:28
宣教師の時代       ーーー174

 この少年使節団(一五八二―一五九〇年)がイエズス会員に伴われて欧州に出発した
のは、「本能寺の変」と同じ年である。日本にいたポルトガル人宣教師は、同胞商人に
よる日本人奴隷売買をひどく嫌がり、本国に取締を要請し、一五七〇年九月二十日に、
ドン・セバスチォン王は禁止令を出したが効き目はなかった。「この現象を嘆いて、ポ
ルトガルの碩学、アントニオ・ヴェイラはこう言っている。『法律というものはあって
も、違反者は絶えないものである。例えば、日本人を奴隷にすることを禁止する法律が
制定されているにも拘わらず、ポルトガル国内には多数の日本人奴隷の存在する事実に
よって、これを証することが出来る』」と研究者中隅さんは例証する。禁止令の二十六
年後にアルゼンチンで奴隷売買されたフランシスコ・ハポンの存在がまさにそれを実証
している。現在の伯国に通じる法律軽視の気風は、すでにこの当時の宗主国にはあった
。アルゼンチンの古都コルドバ市の歴史古文書館で発見された書類では、一五九六年七
月六日、日本人青年が奴隷として、奴隷商人ディエゴ・ロッペス・デ・リスボアから、
ミゲル・ヘローニモ・デ・ポーラスという神父に八百ペソで売られたことになっている
。その日本人青年の属性として「日本州出身の日本人種、フランシスコ・ハポン(21
歳)、戦利品(捕虜)で担保なし、人頭税なしの奴隷を八百ペソで売る。」(同移民史
十八頁)とある。これにより『日本移民発祥の地コルドバ』とされ「アルゼンチン・コ
ルドバ州日本人百十年史」、(大城徹三、一九九七年)によれば、日本人青年は一五九
七年三月四日付けで、「私は奴隷として売買される謂(い)われはない。従って自由を
要求するものである」と起訴したとある。奴隷として売られてから二年後、一五九八年
十一月三日に裁判に勝訴し、無事、自由の身になった。こうして裁判所は、代金の八百
ペソを奴隷商人から神父が取りもどす権限を与えている。「この日本青年は心身共に強
健で才能に富んだ傑人と思われ、それなりに他の奴隷に較べて三、四倍の高値で買い取
られている」(『コルドバ』十六頁)と考察している。奴隷として売られた人間が、「
奴隷ではない」と裁判を起こすこと自体、当時は珍しいだろう。これが今の所亜国初の
日本人公式記録であり、それゆえコルドバが「南米日本人発祥の地」だという証として
いる。しかし、この本は「さてフランシスコ・ハポンという日本青年は、当時日本との
貿易が頻繁に行われていた南蛮人(ポルトガル人)によって連れられてきたことが濃厚
に示されている。また正式なスペインの航路を通らず、ブエノス・アイレス港に入って
きたと推測できる。ということはスペイン国法に照らし、奴隷に処せられる条件になか
った」とある。むしろ伯国(ブラジル)にこそ多く売られて来ていたというのである。

1436: 名無しさんAA:18/05/15 15:28
宣教師の時代       ーーー175

 『大航海夜話』や『ブラジル学入門』では黒人奴隷より多かった日本人と書かれてい
るからだ。これは実に悲壮な説だ。ポルトガル商人の手によってお隣まで来ていたなら
、もっと近い、南米唯一のポルトガル植民地だった伯国(ブラジル)にも日本人奴隷が
売られてきていても何ら不思議はない。むしろブラジルにこそ多く来ていた、と考える
方が自然だろう。「秀吉の側近だった大村由己(ゆうこ)は『日本人男女数百名の多数
を黒船に買取り、手足に鎖をつけて舟底に追い込み、地獄の責苦をあたえ………』と憤
慨して書いているから、一船当たり、二百名位は積んだらしい」(前同)と記す。まる
でサルバドールの奴隷市場で売り買いされた黒人と寸分変わらない様子で、日本人も扱
われた歴史がある。このこと自体、一般にはあまり知られていない。織田信長や豊臣秀
吉が天下人になっていた安土桃山時代に、いったい誰がアルゼンチンまで日本人を連れ
てきたのか。日本人を奴隷として海外に売り渡したのは、キリスト教布教という口実で
来日した、キリスト教宣教師や牧師であり商人である。堕落したカトリックの 救済・
再建する目的で一五三四年に設立されたイエズス会は、世界の異端者と戦うための軍隊
型組織を持つ「布教の先兵」として、ポルトガルの支援を受けて常に最果ての地に向か
った。その目標の東端が日本であり、西端がブラジルだった。一五四九年、フランシス
コ・ザビエルが鹿児島に到着したのと同じ年に、ブラジルには総督府制がしかれ、初代
総督トメ・デ・ソウザが赴任しているが、初代教区長として同行したのがイエズス会の
マノエル・ダ・ノブレガだ。今では世界最大のカトリック人口を誇るブラジルと、人口
の1%未満しかキリスト教徒のいない日本は、布教開始は同期生だったのである。研究
者中隅さんは「日本とブラジルは、カトリック布教ということでは、同時に出発したと
いうことになる。とはいえ、イエズス会の布教にかける情熱、使命感ということでは、
圧倒的に日本に比重がかかっていた。大航海時代の海外進出は、貿易と布教がセットに
なっているのだが、貿易でも布教でも、未開のブラジルと幕政のあった日本では比較に
ならなかった。」と書く。大航海時代に「無敵艦隊」を誇り、世界を制覇したスペイン
と、最大のライバルだったカトリック兄弟国ポルトガルが、競い合って世界の果てであ
るアジア、アフリカ、南米への探検隊や宣教師を派遣した時代であった。十四世紀半ば
のペスト大流行で欧州人口の三分の一が亡くなり、英仏は百年戦争(一三三七〜一四五
一年)で疲弊しきっていたのを尻目に、ポルトガルはインド航路発見により、アジアの
香料貿易を独占していた。


1437: 名無しさんAA:18/05/15 15:30
富安君を探せ              < その191 >

 「豚買った」とは「おいちょかぶ」すなわちバカラゲームで負けた事を示す言葉だ。
バカラとは、簡単に言えばカードゲームで3〜2枚を引いて数字を足し算し最終桁が9
に近いものが勝つものだが、賭けるのがディーラーが勝つ方にも掛けられる事になって
る為少々計算をややこしくして規定を設けている。だが極端言えば最後のカードで足し
算で9に近づくか9を超えるかで大きく勝敗が分かれる。日本で最初に作られたラーメ
ンは柳川で、柳川鍋とされるごった煮に麺を入れたのが始まりとされる。そこで豚を飼
う事が英国からもたらされ流行したが、結局は暴落し「豚買った。」と言う言葉になっ
た。しかしこの牧場経営で財を成したのが成清家であった。3代目の成清博愛は鉱山経
営に乗り出し「貧乏鳴り金」と揶揄された。そのうなる程の金で「的山荘(てきざんそ
う)」を大分別府に作った。瀬高町小川字堀池園集落にも別荘を建築した。「的山」と
は、鉱山を当てるという意味だそうで、博愛の雅号(がごう)から名づけられた。大分
県杵築市山香町の馬上金山で金鉱を当てた財を、惜しむ事なく投じたと言われ、元来、
柳川の武士は大分に歴史上の経緯から荘園を持っていた。例えば由布院駅付近は、柳川
由布氏の故郷であり差配していた。大分別府も柳川郵便局初代局長の別府氏の持ち物で
あった。大正2年に日之出町に、金鉱石の積み出し港を整備されて別府湾が見直された
。大分県速見郡日出町は別府湾を見渡せる景色の良い、日出城(暘谷城ようこくじょう
)の三の丸の日出藩屋敷跡3670坪を購入させられた。是こそが柳川城を焼失させた
効能であった。柳川市内の財政は潤い、商人は闊歩し各地に土地を購入していた。北島
氏は尖閣を木下氏は北九州の葦地を購入させられていたのだ。しかし誰も立花氏自身の
身を守る商人はいなく、武人のみで函館戦争や西南戦争或いは日露戦争で武功は上げて
いても見向きもされなかった。成清氏は、大正4年(1915)1月に建坪247坪の
豪邸が完成させた。総工費25万円、現在の7〜8億円相当額である。玄関に見られる
式台しきだい、座敷に設けられた床の間、付書院、棚、各部屋境の欄間らんま彫刻など
は江戸時代からの建築様式や装飾を受け継いだ貴重な木造平屋の近代和風建築として作
られた。高崎山を築山つきやまに、別府湾を泉水に見立てた借景の日本庭園で、巨泉を
掘り、巨大な灯籠とうろうを建てた人工の美も発揮している。大分は佐渡の金山が枯渇
してからは日本有数の金産出を誇るようになった。宇佐・玖珠・別府・山香・津江など
県内に多くの金山を擁し、明治後期の日本を支えた。その中でも多くの逸話に彩られて
いる山香の馬上金山(ばじょうきんざん)であった。

1438: 名無しさんAA:18/05/15 15:30
富安君を探せ              < その192 >

 成清博愛は、地元の大工を使ったので、杵築藩の藩校「学習館」の門と同じく江戸様
式の切妻造、桟瓦葺きの腕木門(うできもん)である。両脇に袖塀を持ち、連なる石垣
土台の屋根塀は上部に窓枠を配している。大正4年(1915)の完成した当時の道は
砂利道じゃりみちであったが、のちに石畳が敷詰められている。現在は樹木が茂り風情
をなしているが、門は創建時とほとんど変わっていない。.門を入ると玄関前のロータ
リーまで続く綺麗な石畳の通路は海からの風の匂においいと季節ごと変化する木々を楽
しめる。実はかつての伝習館高校は、立花大学氏において国宝級の玄関飾りをもってい
た。この頃の活況を見るに、その後に藩の財政を支えた高椋銀行が渡辺銀行と合併して
破綻に陥るのだが、それを福岡銀行として所有していた。これも又財にあかせた国宝級
の建物だったが福岡銀行はいとも簡単に解体した。成清博愛は、九州改進党の結成に、
参画し、その資金提供のために鉱山や炭坑を経営するに至った。しかしことごとく失敗
し最後に明治37年に大分県立石の馬上金山の鉱区権を買い取って開坑している。苦心
して金鉱を掘り続け、45年に富鉱部を掘り当て、日本有数の高品位と産出量を誇る大鉱
山に成長して、やっと富豪に返り咲き金山王の名をほしいままにした。しかしその鉱脈
も大きくはなかった。その傍らに、大湯鉄道(現・久大本線)や、宇佐参宮鉄道(現・大
分交通)などを作り、両豊銀行(現・大分銀行)の創立に関与した。また港湾整備や慈善
事業にも携わるなど、地域の活性化に尽力した為彼の後世は功績に満ちてしんでいる。
大正4年総選挙に出馬して当選し、政友会に所属するが、間もなく議員を辞した。実は
侍島吉開久末鷹尾などは常にこの線路の路線として策定された。しかし保太郎は反対の
立場を貫いた。何故なら福岡と直行では若者が悪さする。と言う危惧する声が集落に多
かったからだ。東肥鉄道は、薗田徹夫が藤島豊太郎と川原大など県外から出費者を連れ
て来て取締役に就任し起業した。ようやく1915年(大正4年)2月になり南関停車場建設
予定地にて起工式がおこなわた。工事費の予算は第一期工事 矢部川-南関間を38万8398
円25銭、第二期工事南関-隈府間を64万6954円75銭合計103万5353円であった。しかし株
金の払込の滞納が見られるようになり新聞は完成の目処がたたないと報道し鉄道会社が
反論する一幕もあった。資金難に悩みながら現在、九州自動車道が敷かれているルート
にほぼ並行する形で建設され、1920年(大正9年) - 1922年(大正11年)に順次矢部川
- 南関間を開業させたのであった。永江純一は爆漢に襲われながらも立憲政友会に入り
、政友会幹事長となり、三池銀行頭取、三池土木、三池紡績、鐘ケ淵紡績などの重役を
務めている。

1439: 名無しさんAA:18/05/15 15:31
富安君を探せ              < その193 >

 大正15年にはT型フォードを自家用とし、営業用に小型バスを購入し定期路線を走
らせた。旭屋旅館自動車は瀬高〜沖端〜両開路線を、12人乗りと11人乗りの小型バ
ス2台で運行を開始している。昭和6年頃には大型バス2台で営業していた。昭和にな
ると自動車の時代になった。昭和2年には、下庄恵比須町の佐野慶一氏が瀬高で2番目
に自動車運転2種免許修得し、翌年の昭和3年に甲種運転免許を修得している。当時は
甲種免許は全車種運転が出来、2種免許は単一車種しか乗ることが出来なかった。佐野
氏は貨物運送業を始め、その後、免許証を取る人が増え、瀬口トラック、湯江トラック
、大江トラックの運送業者が増えていった。白菜、酒、レンガ、瓦などの生産品輸送が
、鉄道貨物と競合しながら発展し、各企業や商店も自家用運搬車を購入し始め、車の台
数が急に増加していった。昭和3年頃から「柳河軌道K・K」もホロ型乗り合い自動車を
軌道に沿って走らせた。柳川〜大牟田間と矢部川駅〜柳河間の2路線であった。トラッ
クも2台あったが、荷が少なく改造してバスにしていた。しかし今度は、矢部川駅から
の乗降客を相手に旭屋自動車と柳河軌道K・Kがに客の争奪戦が派手に行われ結果を生ん
だ。クラクションを鳴らし合い、駅の待合所に近い停車位置の奪い合い、果てには用心
棒を雇って喧嘩まで発展する始末に発展し、駅長がしばしば叱責に及ぶ状態になった。
昭和6年に旭屋自動車の可志久旅館跡にあった車庫のバス3台、ホロ型3台、が不審火
により全焼した。しかし1台修理に出していたバスと、あと1台を2万2千円で購入し
て20日後に再び営業を続けている。この当時は修理の部品が簡単に手に入らず、ギヤ
ーやシャフトは大牟田の製作所に依頼していた様子だ。しかし自動車時代の到来の波は
柳河軌道株式会社・解散までに及んだ。昭和7年2月20日 柳河軌道K・Kは、佐賀線
開通により国が金額25万円で補償買収することになり解散する。調査団の収益調査を
して割り出したもので、余分に判明したことは、料金が日本一高く、収益の多い会社で
あったことである。下庄の川原仁三郎氏は旧制中学卒で昭和5年入社、初任給25円で
あったが、これは楽に米4俵(240kg)以上買える額であった。当時の柳川は商工
業の発展において群を抜いて 日本のトップだったので人手を雇うのには高給優遇策が
三井以下一般的にも行われていて、地価もたかかったのである。昭和7年頃は軍部には
兵員輸送に支給する金がなく、全国各地に強制収用が鉄道には行われていた実態がある

1440: 名無しさんAA:18/05/15 15:31
富安君を探せ              < その194 >

 昭和7年柳河軌道K・K解散後、自動車部の運転手であった平山満は上田鶴来を代表者
にして、坂梨喜一郎や田中喜一と4氏が自動車を買い取り「大和自動車」を営業開始し
た。こうして矢部川駅〜沖端間をバス5,6台で運行した。昭和10年には柳川軌道の
レールをそのまま移設して、佐賀線が瀬高(鹿児島本線)〜三橋〜百町〜筑後柳河〜東
大川〜筑後大川〜筑後若津〜諸富〜光法〜南佐賀〜東佐賀〜佐賀 (長崎本線)の24.
1km全線開通した。福岡県大川市と佐賀県諸富町を結ぶ「筑後川昇開橋」は、国鉄の
佐賀線が通っていた全長約507mの珍しい昇降式可動橋(現存するものでは日本で最
も古い)橋で、国鉄が民営化した昭和62年に廃線となり、その後、一度は橋の解体も
検討されたが、地元の人たちの要望で保存している筑後川昇開橋は、鉄道橋梁「筑後川
橋梁(ちくごがわきょうりょう)として建設された。1935年(昭和10年)竣工して5月
に開業した。舟運との共存のため、橋の一部が可動式となっている。可動橋には旋回橋
、跳開橋(跳ね橋)昇開橋などがあるが、本橋は橋桁の一部が垂直方向に上下する昇開
橋として珍しく日本に現存する最古のものである。橋の全長は 507.2メートル、可動部
分の長さは24.2メートル、昇降差は23メートルである。本橋の設計施行に中心的役割を
果たしたのは、鉄道技師の釘宮磐(鉄道省熊本建設事務所長)であった。昇開橋の仕組
みそのものは、坂本種芳が考案し。竣工当時は「東洋一の可動式鉄橋」と呼ばれた。ま
た、この筑後川昇開橋の構造を解説するために、精巧な模型が交通博物館(閉館)及び
鉄道博物館(埼玉県さいたま市)で展示されている。ちなみに、この昇開橋の精巧模型
は1937年(昭和12年)にフランス・パリで行われたパリ万博にも出展された。佐賀線の
車両は、佐賀駅・瀬高駅はそれぞれ佐賀線用の0番ホーム出着していていたが、国鉄解
体に従い昭和62年3月(1987)に廃線された。昭和10年の大和自動車と旭屋自
動車が合併し、「金城自動車合名会社」が資本金5万円で矢部川駅〜柳川間を営業開始
した。昭和19年8月28日 黒木町の堀川久助氏が昭和3年に興した「堀川バス」に
11万5千円で買収、諸雑費を引いて旭屋側34,960円、平山、田中、坂梨、上田
の4氏が57,040円の配当で買収された。瀬高〜清水〜山川経由・渡瀬駅前間の運
行を開始した。当時1日4往復運行。こうして堀川バスが誕生し昭和22年頃の運賃は
、初乗り2円、瀬高〜渡瀬間12円であった。昭和46年1月は廃線となったが、バス
運行そのものは、現在、瀬高〜柳川線など筑後地方の路線を運行している。

1441: 名無しさんAA:18/05/17 11:36 ID:mog
富安君を探せ              < その194 >

 柳川の地からは、往年は矢部川の浜(大和町)から船での天草・長崎・大阪への船で
の輸送手段が取られていた。大川の筏船と共に有名だったとされる。大牟田港が石炭の
積み出しとして整備されると、大型化した大量輸送時代に突入した。明治24年の九州
鉄道の矢部川駅(現瀬高駅)開設により、鉄道での高速輸送手段へ変革してゆく。ここ
で、立花氏は柳川からの接続を図る目的で明治42年から昭和7年まで 柳川から瀬高
(矢部川駅)間を走った柳河軌道(やながわきどう)という道路併用鉄道を走らせた。
大正10年から昭和13年まで矢部川駅〜南関(熊本県)を走った東肥鉄道(とうひて
つどう)それに大正末期からの自動車輸送業への変革の歴史と共に、柳川が当時として
は貴重で画期的な都市であった事が偲ばれる。我が国初の鉄道開通が明治5年(187
2)とされる事から、近代国家への陸上交通手段として明治政府は開通させたが、僅か
15年で九州を結ぶ鉄道を開通させようとしたのは薩摩藩の意志であった。東京で英国
から技術団を招いて、新橋〜横浜間の鉄道を開通させ、片道53分、料金50銭から1
円50銭で営業が始まると、明治20年(1887)、九州鉄道会社が創立し英語学者
高橋新吉とドイツ人技師ヘルマンル・ムシュッテルにより事業を開始する事になった。
博多〜久留米間を開通させ久留米以南は羽犬塚〜水田〜柳河を経て渡瀬に行く計画が反
対論者多く頓挫し、路線を東方にずらした瀬高に変更した事で工事着手にこぎつけた。
既に、明治14年(1881)わが国最初の民営鉄道である日本鉄道株式会社が創設さ
れ、東北、常磐、両毛線などが開通して東京と人物往来を結んでいた。明治22年の年
は大雨の年で7月の集中豪雨は筑後川の橋梁工事を襲った。予定駅の久留米の手前の仮
駅で開業が余儀なくされ、岡蒸気も、車両も、レールも、すべてドイツ製でのスタート
した。こうして九州初の鉄道として博多〜千歳川仮停車場(筑後川北岸)間開業し片道
1時間23分かけ1日3往復の営業運転した。明治24年4月1日に、高瀬(玉名)ま
で開通し、下庄字矢部川に「矢部川駅」(昭和31年瀬高駅と改称)が開設営業を開始
して結果、瀬高が大きく発展することになった。鉄道開通は、初めての「陸蒸気(おか
じょうき)」を見るために弁当持参の郡衆が集まるほど人気があった。開業当初の駅名
が矢部川駅だったのは、高瀬駅(現在の玉名駅)との混同を避けるためであった。この
鉄道の開通により、人は日帰りで遠方に出掛けられ、下ノ庄談議所の浜からの船での荷
物の輸送手段が鉄道便の利用に変化していくことになった。


1442: 名無しさんAA:18/05/17 11:36
富安君を探せ              < その195 >

 矢部川駅(瀬高駅)構内には人力車40輌があり、その他付近町村の分を合わせると
300余輌があったという。車賃は、一里15銭、1日貸切で90銭であった。また駅
構内には乗り合い馬車31輌があり、6人乗りで1人1里10銭であった。駅前の旭屋
旅館の馬車は柳川や沖ノ端にも出張所をもっていた。この頃の馬車を高等馬車と呼んで
いた。この馬車は田中吉政の時代にもあったものだった。1612年(慶長17)に、
この柳川を起点とする一里塚を置く事にしたのである。今柳川盲学校となった前に瀬高
門の前にその起点の石を置いた。藩内に一里塚を築いたとある一里石には元禄14年(
1701)の説もある。現存するものは、瀬高街道に一里石(三橋町下久末)福島街道
(矢部往還)に三里石(瀬高町壇の池)がある。又三池街道には一里石(大和町豊原)
二里石(高田町渡瀬)南関街道に三里石(山川町野町中村病院角)がある。ほかにも、
馬の駅が作られ交通の便を与えた。田中吉政時代は江戸参勤交代の途中、伏見で病死し
四男の忠政が跡を継いだが。だが兄、康政の久留米支城と争いが起きた。その釈明の為
に忠政は江戸に上るが、1615年(元和元年)6月に、「一国一城制」で、柳川藩の
他の支城が取り壊される事に決まった。又居城の修理は許可を新造営はかたく停止され
る。この時大川の地は3支城の榎津城(第一水天宮社)・酒見城(大川風浪宮社)・江
上城(江上若宮館)に変わった。又八女支城も同じで、戦で焼けた猫尾城は山城公園化
して、織豊系石垣が確認できる程度になったし中島城も鷹尾城も江の浦城も白鳥城も、
蒲船津城も花園城も富安城久末城共に再建はできなかった。そんな柳川藩の支城の中で
も群を抜いた規模であったのが、仲たがいした、田中吉政嫡子吉信の久留米笹山城と、
そして三男康政の居城であった福島城である。この福島城も例外なく平城であったが、
八女市役所として現状は酷い状況にある。昭和初期まではある程度遺構は残存していた
が、筑後地方には文化財の認識がなく戦後に破壊されたとはなんとも残念でならない。
この福島の城郭は生粋の織豊系城郭で天正15年の九州征伐後、筑紫広門が肥前勝尾嶽
城から、上妻郡に移り住むに当り築城されたことに始まるとされる。ところが関が原に
おいて、西軍に与した筑紫氏は改易され、この城郭は、柳川藩田中氏の城郭となって進
められ、この際大改修が行われたが改易となった。『筑後地鑑』には天守、櫓を新たに
構築したことなどが記載されている。筑紫広門は水間城(現天満宮前)もつくったがこ
こも中学校として破壊された。こうして元和元年の一国一城令による廃城は平野であっ
た筑後ではかなりの痛手となった。

1443: 名無しさんAA:18/05/17 11:37
 西日本鉄道株式会社(にしにっぽんてつどう)は、福岡県を基盤に鉄道路線だが、こ
の成立にはかなり辛辣な事件が地元に起こっている。福岡の路線網を持つ大手私鉄とし
て本社を福岡市中央区天神一丁目の福岡ビルに置いて西鉄グループの核となる会社とし
て存在している。水俣水銀事件で有名な窒素科学肥料は、チッソとして本社を東京都千
代田区大手町に置く会社だが、旭化成、積水化学工業、積水ハウス、信越化学工業、セ
ンコーグループホールディングス、日本ガスなどの母体企業である。主な子会社・関連
会社として、JNC、JNC石油化学(旧:チッソ石油化学)(事業所:千葉県市原市)
、九州化学工業(工場:福岡県北九州市)、JNCファイバーズ(旧:チッソポリプロ繊
維・事業所:滋賀県守山市)や、ポリプロピレン事業合弁会社の日本ポリプロなどがあ
る。日本国内の合弁相手に吉野石膏や同社と同根である旭化成がある。こうした日本の
大きな主要な基礎化学工場は殆どがこの工場の分化した工場である。1906年(明治39
年)日本化学工業の父「野口遵」(したがう)によって曾木電気株式会社が創業される
。鹿児島県伊佐郡羽月村(現・伊佐市)に曽木水力発電所を建設した事から始まる。こ
の曾木発電所の余剰電力を利用してカーバイドを製造することを目的として、熊本県に
葦北郡水俣村(現・水俣市)に日本カーバイド商会が設立される。これがチッソ水俣の
もとになった。その昔、電気事業の電源は当時ほとんどが石炭による火力発電であり、
水力発電を利用するのは、近隣に町のある適地が存在した鹿児島電気と、大分県の竹田
水電・日田水電の3社だけであった。水力発電は当時の技術水準では送電範囲が近距離
に限定されていた。しかし、日露戦争後に長距離・高圧送電技術が発達すると、山間部
で水力発電を行い離れた市街地へと高圧送電するという新しい発送電形態が生まれた。
その頃の柳川の缶詰はこの日露戦争の兵士の食卓に並んでいるし、海鮮加工蒲鉾業界や
富安ラムネなどの商工業者の電力使用は大牟田の火力発電からも比較的早かったのだ。
そうした意味で電力が無限の山地の水脈に頼る事に動いたのが3つあった。一つは、当
時富士瓦斯紡績として繊維産業の一角を成していた中津派である。工場の動力源を得る
目的で紡績産業を集め山国川上流部の水利権を1906年(明治39年)10月に出願していた
一方筑後川では、筑後川沿いの日田の電気事業者日田水電の関係者と、同社の技術的な
後援者であった芝浦製作所(現・東芝)の専務大田黒重五郎と技師岸敬二郎の両名が提
示した大規模水力開発を行おう筑後川上流部の大山川・玖珠川を調査し水利権を申請し
た。彼らは東京派と呼ばれた。また新興財閥として筑豊の炭鉱業者を集め中野徳次郎は
、富安保太郎・山口恒太郎ら「福岡派」と呼ばれるグループで、筑豊・北九州方面への
電力供給を目指してこの地域の水利権獲得に参入した。

1444: 名無しさんAA:18/05/17 11:37
富安君を探せ              < その198 >

こうして「中津派」「東京派」「福岡派」の3派鼎立の形で、大分県庁は受け付ける事
で対応に苦慮することとなった。大分県知事千葉貞幹は3派の代表を県庁に集め、彼ら
に三派合同での出願を要請し、合同の水利権申請・会社設立への準備が進められた。し
かし明治40年は政治経済が変化し米国から不況がやって来て、翌年にかけて設立への
動きは一時停止される。1909年に発起人から和田豊治ら創立委員が選出され、翌1910年
(明治43年)には創立委員会で「九州水力電気株式会社」の社名が決められ、逓信省か
ら電気事業経営許可を得ると設立準備は本格化し、定款などが作成されていった。和田
は富士紡績会社や理化学研究所など、創立に携わった会社は数十社を超え、渋沢栄一に
続く大正時代の「財界世話人」として君臨していた。こうしてこの地域の水利権獲得運
動から発展して設立されたのが九州水力電気であった。しかし筑豊の石炭の火力発電で
福岡の町を九州電灯鉄道が市内電車を走らせていた。元は「博多電灯」と称し、1896年
(明治29年)に福岡市で設立されていた。開業は翌1897年(明治30年)で、このときに
電灯供給を開始。1908年(明治41年)には動力用電力の供給も始めた。1911年(明治44
年)、福岡市の福博電気軌道との合併に伴い「博多電灯軌道」に改称し、事業に電気供
給事業のほか軌道事業(福博電車)・土地建物事業を加えて営業していた。翌1912年も
(明治45年)には佐賀県や福岡県筑後地方に供給する九州電気(旧・広滝水力電気)を
合併して「九州電灯鉄道」に改名した。一方西日本鉄道は、現在の北九州市域において
九州電気軌道として軌道事業を営んでいた鉄道事業者である。略称は「九軌」(きゅう
き)として西日本鉄道(西鉄)の前身で、既に路線を次第に伸ばしていた。。1908年(
明治41年)設立。1911年(明治44年)に開業し、1940年代に入ると福岡県下の鉄道事業
統合の中心となり、1942年(昭和17年)、県下の鉄道事業者4社を合併し西鉄となった
。九州電気軌道が建設した路線は西鉄北九州線となったが、ごく一部の区間を残して、
廃止されており西鉄の路線はない。当時沿線地域では小倉電灯と大阪電灯門司支店の2
つの小規模電気事業者が存在して価格競争していた。九州電気軌道では、合併吸収を繰
り返していた小倉電灯を買い取り小倉市鋳物師町に新鋭火力発電所の小倉発電所を稼働
させて安定化を図った。更に九州帝国鉄道管理局小倉工場まで配電した。つまり電気事
業と軌道の電車事業は不可分の状態にあったのである。この時北九州工業地帯に電力を
供給する事業者は、九州電気軌道以外にも九州水力電気(九水)という電力会社が存在
したその為争奪戦が繰り広げられた。


1445: 名無しさんAA:18/05/17 11:38
富安君を探せ              < その199 >

九州電気軌道と九州水力電気の「電力戦」は、1927年(昭和2年)に相互不可侵と電力
融通を骨子とする協定を結びなおしたことで一旦落ち着き、1929年には株式の持ち合い
による提携強化も図られたが、結局は対立が続いていた。しかし、日中戦争開戦が起こ
り、1938年(昭和13年)政府は、「電力管理法」とその関連法が成立させた。これによ
り電気事業者は主要な電力設備は、新設の国策会社や日本発送電へと現物出資する事に
決定した。九州電気軌道も大門・小倉両発電所と大門・日明両変電所、送電線10路線
を日本発送電設立の際の同社への強制出資する様に逓信省から命令された。しかし又、
電気事業における電力管理法と同時期に、交通事業の分野でも国が交通事業の調整を図
る「陸上交通事業調整法」が成立していた。同法では福岡都市圏を含む5つの都市圏が
国主導による交通調整の対象地域と規定されていた。このような背景の中、政府主導で
電気事業を失った九州電気軌道は福岡県内や周辺地域での交通事業統合に意欲を示し、
また鉄道省側も福岡県内における事業統合の主体に九州電気軌道を想定していた。福岡
の路面電車福博電車(後の西鉄福岡市内線の一部)を運営する九州電灯鉄道の経営陣、
伊丹弥太郎・松永安左エ門・田中徳次郎・山口恒太郎らが発起人となり、1914年(大正
3年)に福岡〜二日市間の特許を得て、1915年(大正4年)に筑紫電気軌道(ちくしで
んききどう)株式会社の名で設立された。当初は社名が示すように福岡市と二日市町(
現・筑紫野市)の間に軌道法による直流600Vの電気鉄道を敷設し、二日市で既存の太宰
府軌道(1902年(明治35年)開業、現在の西鉄太宰府線)に連絡して太宰府天満宮への
参詣客を輸送することを目的として設立されたのであった。福岡〜久留米間の開業当時
には、九州鉄道の路線は国鉄線や他社鉄道路線との接続はなく、孤立した状態であった
。この為まず九州鉄道は自社線開業直後の1924年(大正13年)に久留米市と甘木町(現
・朝倉市)および福島町(現・八女市市街地)の間を結ぶ軌道路線を保有する三井電気
軌道を合併して、三井電鉄は久留米市内で隣接して九州鉄道と路線が平行し、九州鉄道
線との平面交差すらあった。九州鉄道の設立者である伊丹、松永らはのちに五大電力会
社の一つ、東邦電力の経営にかかわったが、傘下東邦電力は北部九州をも事業区域とし
、九州鉄道も東邦電力の傘下に入っていたのである。




1446: 名無しさんAA:18/05/17 11:41
宣教師の時代       ーーー176

 スペイン王室の支援でコロンブスが北米大陸に到来したのは1492年。1500年
にはポルトガル人貴族のペドロ・アルバレス・カブラルが、インドに行く途中で伯国を
見つけたが、あくまで視線は利益の多い東方貿易に向いていた。ポルトガルは1503
年にインド東岸カルカッタを占領、1510年にゴアを、1511年マラッカを支配下
においた。これら拠点から、香料、絹、茶、象牙、宝石などの莫大な富が本国王室にも
たらされた。1517年には広東まで進出し、シナ貿易を始めた。二世ジャーナリスト
の先駆者、山城ジョゼーは 『Choque luso no Japao dos seculos XVI e XVII』(十六
〜十七世紀の日本に於けるポルトガルの影響、一九八九年)でも「日本人奴隷」という
一項を設け、かなり詳述をしている。それによれば1520年ごろに最初にポルトガル
人によって売買されたアジア人は「無数の中国人奴隷だった」(百一頁)という。15
43年に嘘つき商人フェルナン・メンデス・ピントが種子島に火縄銃(鉄砲)を伝えた
。日本にとっては、西洋社会との突然の初接触だった。ポルトガル人からするとブラジ
ルは偶然発見された場所だが、日本は何十年がかりの大冒険の果てに、ようやく辿りつ
いた最終目的地だった。1549年八月にイエズス会のフランシスコ・ザビエルが訪日
し、南蛮貿易が始まった。このすぐ後から、日本人奴隷も運びだされるようになった。
とされる。アンドウの『ブラジル史』には、ポルトガルの歴史家ルシオ・デ・アゼヴェ
ード著『Epoca de Portugal Economico 』からの引用があり、「インド貿易の全盛期に
は、ブラジルのインディオをはじめインド人・シナ人・ジャワ人、さらに日本人までも
奴隷として輸入していた」とある。 織田信長にしても、その後継者である豊臣秀吉に
しても、当初はキリスト教の庇護者であった。特に秀吉は一五九二年に朱印船貿易を始
め、持ち込まれる希少品の数々に魅了されていたし、その伝聞や技術力に見習う方針が
あった。というのも、信長は仏教に対して不信感が強く、反信長の急先鋒であった本願
寺が、日本全国の一向一揆を動員して徹底的に抗戦し、苦しめたからだ。その力を削ご
うと、異教の布教を許したともいえる。しかし秀吉はキリスト教徒による仏教徒や神道
徒迫害が増えたことを憂慮し、さらに一五八七年の九州平定を経て、日本人奴隷のあり
さまを見るにいたって、考え方を一変させたと言われる。ピントの業績は死後の1614年
に刊行された『遍歴記』 (Peregrinacao) で知られる。ただしこの書物に記載された内
容が真実であるかどうかは疑問がなされている。


1447: 名無しさんAA:18/05/17 11:42
宣教師の時代       ーーー177

 確実な事は1537年にリスボンを発ち、1539年にマレー半島のマラッカに行き、現在の
東南アジアを見て回り、富を蓄え、中国方面への貿易商を生業としており日本にも渡来
していること、1551年フランシスコ・ザビエルに日本に教会を設立する為の資金を提供
したこと、その後、ポルトガルに帰ろうと思ってインドのゴアまで戻っていたが、1554
年にザビエルのいまだ腐っていなかった(といわれている)遺体を目にして、回心し、
イエズス会に入会した。1556年にルイス・フロイスらと共に日本へ渡ったが、日本で、
イエズス会を脱退。1558年ゴアへ戻り同じ年にリスボンへ戻ったことなどである。『遍
歴記』年代は記されていないが、おそらく1544年あるいは1545年にポルトガルの鉄砲を
日本に初めて伝えた人物の一人とされている。しかし、ピントが日本に来たのは1540年
代後半か1550年代であることが明らかになっており、この鉄砲伝来に関しては不確かで
ある。伝来ではなく大量輸入させたのかもしれない。16世紀に商人として日本を含む、
アジアやアフリカを旅し『遍歴記』を著したが、嘘や誤りが多いことから「ほら吹きピ
ント」とも呼ばれた。ピントはポルトガルの東アジアにおける植民地主義に対して、キ
リスト教の布教に見せかけたものとして鋭い評価を『遍歴記』の中で行っている。これ
は、後世においては一般的な見方となるが、当時においては斬新な見方であったといえ
る。又『遍歴記』自体は「13回生け捕られ、17回売り飛ばされた」など、現実としてと
らえるには無理があるような記述もあり、古くから嘘つき呼ばわりされた。ピント一族
はもとスペインのマドリッド近郊のピント村出身で、のち迫害をうけ、ポルトガル、モ
ロッコ、カナリア諸島に移住したという。 彼の男兄弟の アルベロは1551年にはマラッ
カにおり、別の書簡ではピントの兄弟の一人はマラッカで殉教している。ピントは1554
年、ポルトガルに帰ろうとするが、その前に、ゴアでイエズス会に蓄えた財産を寄付し
、入会し、修道士となった。このときにザビエルの遺体をゴアで目撃している。1554年
、大友義鎮からの手紙がゴアに届き、その内容は洗礼を受けたいので宣教師をよこして
欲しいとの旨のものであった。ピントは他の聖職者らと日本に同行することになる。こ
のときの訪問では豊後国の大友氏との外交が樹立されたが、大友家の諸事情により義鎮
の改宗には失敗した。ただし、この22年後には義鎮は改宗した。日本(1554年〜1556年)
への旅では、ピントはザビエルの後継者と共に、ポルトガルの正式な外交使節として、
豊後国の大名に派遣された。しかし、理由は不明であるが、1557年ピントはイエズス会
を脱会する。日本におけるイエズス会の脱会者は,ピントが初めてであると記録されて
いる。

1448: 名無しさんAA:18/05/17 11:42
宣教師の時代       ーーー178

 日本へは、広州付近に来たとき、ピントはタタール人の旅行ののろさに苛立って、ピ
ントと2人の仲間は、中国人の率いる海賊船に乗り込んで旅を続けたが、海が荒れて日
本に流れ着き、イリヤ・デ・タニシュマつまり種子島に着いた。ピントはこれにより、
ヨーロッパ人で最初に日本に入国したと主張した。数年後、『遍歴記』の前後関係から
察するに1544あるいは45年ごろと推測されるが、ピントは日本へ初の渡航をおこない、
火縄銃を日本に持ち込んだ。(ただし、鉄砲伝来は、種子島氏の鉄砲記によると1543年
9月23日とされる。)この鉄砲伝来は 当時内戦状態(戦国時代)にあった日本において
急速に普及し、日本の軍事に大きな影響を与えた。ピントはこの後、中国のリャンポー
(寧波)に到着したが、その地で、ポルトガル人貿易商達に日本の話をすると、商人達
は日本との貿易に関心を持ち、ピントはこの商人達と日本へ向かうこととなった。しか
し、ピント達はその航海で難破し、レキオ・グランデすなわち大琉球(現・沖縄島)に
たどり着いたが、持っていた交易品によって海賊と思われ、処刑されそうになる。が、
ある身分の高い女性の取りなしで釈放された。1549年に鹿児島を発つ際には、何らかの
理由で追われていたアンジェロともう1人の日本人をマラッカに連れて行きフランシス
コ・ザビエルに引き合わせ、キリスト教に改宗させた。(ただし、ザビエルの伝記によ
ると、ヤジロウと会ったのは1547年12月。)この後ザビエルはヤジロウらと共に1549年
8月15日に日本に渡りカトリックを日本に伝えた。1551年に ピントはザビエルに再会し
共同で布教活動を行った。ピントは1554年、ポルトガルに帰ろうとするが、その前に、
ゴアでイエズス会に蓄えた財産を寄付し、入会し、修道士となった。このときにザビエ
ルの遺体をゴアで目撃している。幕末の公使となったオールコックが第1章で、「わた
しは、東洋へ向かって出発するより二〇年以上も前に、リスボンのある古本屋お店の奥
からこの本を掘り出したことを覚えている。当時、この本の一部分を言語で読んだが、
その時は、この『うそつき王』(ピントのこと)があれほど奇妙な特徴や特異性をあげ
ている土地(日本)を私が訪れることになろうとは、夢にも思わなかった。」と書いて
いるように、ポルトガルの旅行家(フェルナン・)メンデス・ピント著「遍歴記」や、
その他の記録を基にしているものと推定される。こうして「遍歴記」202〜203章には、
アンジロ(弥次郎のこと)が、助けを求めて駆け付けた様子や、ジョルジュ・アルヴァ
レスを船長とする船でアンジロ(弥次郎)がマラッカに逃れたこと、ザビエルと弥次郎
の出会い、洗礼を受けたことや同船して日本に来たことなどなどが書かれておりオール
コックの記述と合致する。

1449: 名無しさんAA:18/05/17 11:43
宣教師の時代       ーーー179

 世界史的には、ヨーロッパで最も早くに絶対主義を確立したポルトガルのアヴィス朝
は海外進出を積極的に進め、1415年にポルトガルはモロッコ北端の要衝セウタを攻略し
たがこの戦いが発端となった。この事件は大航海時代の始まりのきっかけとなり、以後
、エンリケ航海王子(1394年〜1460年)を中心として海外進出が本格化した。ポルトガ
ルの探検家はモロッコや西アフリカの沿岸部を攻略しながらアフリカ大陸を西回りに南
下しだし、1482年にはコンゴ王国に到達、1488年にはバルトロメウ・ディアスがアフリ
カ大陸南端の喜望峰を回り込んだ。1494年にスペインと、トルデシリャス条約を結び、
ヨーロッパ以外の世界の分割を協定して、条約に基づいてポルトガルの探検家の東進は
更に進み出し、1498年にヴァスコ・ダ・ガマがインドに到達した。このバスコ・ダ・ガ
マも、インドで20隻の艦隊だったが世界一周を終えた時は僅か2隻で帰還している。
また、1500年にインドを目指したペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルを「発見
」し、ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化が進んだ。以後ブラジルは1516年にマ
デイラ諸島からサトウキビが持ち込まれたこともあり、黒人奴隷貿易によってアフリカ
から多くの人々がブラジルに連行され、奴隷制砂糖プランテーション農業を主産業とす
る植民地となった。この時日本人が数多く集められたのではないかと推測され、フェリ
ペ号の四国漂着はそれを真似たと思われる。ブラジル開拓はポルトガルに富をもたらす
と同時にブラジルそのものの従属と、低開発が決定づけられ、ポルトガルにもたらされ
た富はイギリスやオランダなどヨーロッパの先進国に流出し、イスパノアメリカ(中米
スペイン語圏)の金銀と共に資本の本源的蓄積過程の原初を担った。一方、1509年のデ
ィウ沖海戦で勝利し、インド洋の制海権を確保してマラッカ、ホルムズと更に東進した
ポルトガル人は、1541年〜1543年には日本へもやってきた。ポルトガル人の到達をきっ
かけに日本では南蛮貿易が始まり、織田信長などの有力大名の保護もあって南蛮文化が
栄えた。さらに、1557年には、早くも明からマカオの居留権を得ている。ジョアン4世
の即位し、ポルトガルの独立回復すると、ポルトガルは全世界に広大な植民地を獲得し
た。しかし、国力の限界を越えた拡張とインド洋の香料貿易の衰退によって16世紀後半
から徐々に衰退を始め、さらにモロッコの内紛に乗じて当地の征服を目指したセバステ
ィアン1世が1578年にアルカセル・キビールの戦いで戦死したことにより、決定的な危
機を迎える。アルカセル・キビールの戦いの余波は、最終的に1580年のアヴィス朝断絶
による、ポルトガルのスペイン・ハプスブルク朝併合に帰結しスペイン帝国がうまれた


1450: 名無しさんAA:18/05/17 11:44
宣教師の時代       ーーー180

 スペイン併合後もポルトガルは形式上同君連合として、それまでの王国機構が存置さ
れたために当初は不満も少なかったが、次第に抑圧に転じたスペインへの反感が強まり
、1640年のカタルーニャの反乱(収穫人戦争)をきっかけとした「ポルトガル王政復古
」戦争によりスペインから独立し、ブラガンサ朝が成立した。一方この時期に植民地で
は、スペイン併合中の1624年にネーデルラント連邦共和国のオランダ西インド会社が、
ブラジルに侵入し、サルヴァドール・ダ・バイーアを占領した。ブラジル北東部にオラ
ンダがオランダ領ブラジル(英語版)を成立(オランダ・ポルトガル戦争させたことに
より、ブラガンサ朝の独立後の1646年に、これを危機と感じた王家の図らいによって、
ブラジルが公国に昇格し、以降ポルトガル王太子はブラジル公を名乗るようになった。
1654年にオランダ人はブラジルから撤退し、1661年のハーグ講和条約で、賠償金と引き
換えにブラジルとポルトガル領アンゴラ(現アンゴラ)の領有権を認められた。アフリ
カで、アンゴラの支配を強化したポルトガルは1665年にコンゴ王国を事実上滅ぼした。
また、この時期にモザンビークの支配も強化されたが、18世紀までにそれ以外の東アフ
リカ地域からはオマーン=ザンジバルによって駆逐された。南アメリカではトルデシリ
ャス条約で定められた範囲を越えてバンダ・オリエンタル(現在のウルグアイ)では、
コロニア・ド・サクラメントを建設し、以降南アメリカでスペインとの戦争が続いた。
1696年にはブラジルでパルマーレスのズンビを破り、ブラジル最大の「逃亡奴隷国家」
キロンボ・ドス・パルマーレスを滅ぼしたことにより支配を安定させ、1750年には、ス
ペイン帝国とマドリード条約を結び、バンダ・オリエンタルと引き換えに、アマゾン川
流域の、広大な領有権を認められ、現在のブラジルに繋がる国境線の前進を果たした。
南蛮貿易では、1543年には既に種子島にポルトガル船が到来していたポルトガル船は、
その前年すでに琉球に到着していたが、琉球人達はポルトガル船がマラッカを攻撃して
占拠したことを知っていて、交易を拒否していた。一方で、日本の商人達はポルトガル
商船との交易を歓迎したため、ポルトガル船はマラッカから日本に訪れるようになって
いた。しかし、1557年にポルトガルがマカオの使用権を獲得すると、マカオを拠点とし
て、日本・中国(明)・ポルトガルの三国の商品が取引されるようになり奴隷船は横行
した。織田信長・豊臣秀吉は基本的に南蛮貿易を推奨していた。スペインはポルトガル
に遅れてアメリカ大陸を経由しての太平洋航路を開拓し、ルソン島のマニラを本拠とし
て日本を訪れるようになっていたのである。

1451: 名無しさんAA:18/05/17 11:46
宣教師の時代       ーーー181

 徳川家康はスペインとの貿易に積極的姿勢を見せ、京都の商人田中勝介を、当時スペ
イン領のノビスパン(メキシコ)に派遣している。また、ポルトガル商人に対しての生
糸の独占的利益を得ていた為に、これを削ぐことを目的として京都・堺・長崎の商人に
糸割符仲間を結成させその需給の確かさを求めた。家康の頃はキリスト教は禁止されて
はいたものの貿易は推奨していたのである。がしかし、その後の江戸幕府は禁教政策に
加え、西国大名が勢力を伸ばすことを警戒したので海外との貿易を制限するようになる
。交易場所は平戸と長崎に限られるようになり、1624年にスペイン船の来航が禁止され
、1639年にポルトガル船の来航が禁止され、平戸での交易を禁止するなど鎖国体制が成
立し、南蛮貿易は終了した。この時逆に日本から奴隷船によって密教房中術がブラジル
やメキシコに伝わったとも思われる。密教房中術では、この唸によって力波羅密と火竜
を合わせて、唸を起し、唸によって恋人を引き寄せるとする。自己の体内に五秘密法身
の姿勢を作り、左手が慾金剛菩薩、右手が触金剛菩薩、左足が愛金剛菩薩、右足が慢金
剛菩薩であり、頭部より胴体にかけてを“金剛さった”と観じるのである。「摩多羅神
は、天竺・支那・扶桑の神也や、其義知し難し。支那の神に非ず、又日本の神にもあら
ざれば、知らざる人疑を起す輩(やから)もあるべき事也。」天台学徒覚深「摩多羅神私
考」天文二年(1738)とこの頃の熱狂するこの宗教を危惧している。「問う。天台宗には
摩多羅神と云う物を祀る由これを聞くなり。是は如何なる神ぞや。」「答う。是の末々
の愚輩の作り出す所と見えたり。その神像の有様は頭に唐製の頭巾を被り身は和様の狩
衣を着て、左手に鼓を持ち右手はこれを打つ姿なり。左右には童子がいて風折烏帽子を
着けて右手に笹の葉を持ち左手に茗荷を取りて舞っている有様である。中尊の両脇にも
竹と茗荷と在って頂上には雲気がある。その内に北斗七星を描いている是を摩多羅神の
曼荼羅と云由なり。是皆日本の風俗なり。一笑するに堪たりお笑いざたで、相手にする
のもはばかられる神だ。」 空華『空華談叢』天明二年(1782)と日本仏教内ではそうい
う神は居ないとしている。茗荷は中国道教ではこれで眼をこすれば魔物が見え、また忘
れることが出来るとされている。眼病、癖邪の妙薬。大笑面は如意輪観音などが憤怒面
であるのと反対だが、それでも魔をしりぞけ、調伏する表情。二童子は聖徳太子像同様
に脇寺として聖人の手足となるもの。前鬼・後鬼と同じ。北斗七星は大極=北極星=太
一 たいいつ=天子を助ける星でつまり影の宰相、縁の下の力持ちとしての被差別者の
象徴とされる。つまり朝鮮からの奴隷を捕まえる為の神様であったのだ。


1452: 名無しさんAA:18/05/23 08:11
   世界閲覧 23
 ユダヤが動いた。又新たな世界潮流が起きる。困った事だ。一つはイスラエル問題で
首都がエルサレムに動きそうな事だ。過去からしぶとく大胆に主張して来た事ではある
が、アメリカの馬鹿殿がサインしたから仕方がない。更に イラン包囲網で原油価格の
つり上げは思う通り出来た事だ。実際は増産でなんら石油危機はなく 原油が高くなる
理由は全くない。サウジがより以上の減産した訳でも、イラン石油が増産を止めた訳で
もない。それどころか南米石油はたたき売り状態で安値でもどんどんと売りたがってい
る。ただベネゼエラでは今や米国金融が仮想コイン発行で保証した形なのだ。その金融
が近頃少し怪しい雲行きだ。今南米やトルコや中国の価値が下がっている。それに対し
てシナイ半島で今や突然のエジプトの民家が破壊され出している。戦争の余興で、突然
の民間の住居破壊である。住民は頭を抱えて地に座り込んだ。「我々はエジプト人だ。
家を壊しに来るのは、イスラエル軍だけでは無いのか。」と。砂漠は砂漠のままにと言
う当局の思惑だろうが。今やPLOなのかモサドなのかIS残党なのかイランのムスリ
ム同胞団なのかサウジのイエメン革命党なのかトルコの自由軍なのか全く判別つかない
からであろう。又判別付いたとしてもアフガンアルカイダやアフリカのボゴダ同盟の様
に、結局は本当にそうした宗教派や主張の集団だとも限らず、最終的に統制官や司令塔
のない只の傭兵の集まったならず者集団で、時の情勢や金によって変化する恐れに危機
感があったのだろう。特にこの国境沿いの集落の人々には何ら問題はないのだが、政府
には一番の危険地帯なのだ。アメリカの勝手なエルサレムへの移転によっての第一被害
者であろう。この流れは古来からの原住民のパレスチナにとっても危機感がつのる。そ
もそものユダヤ難民の受け入れのチャーチル時代から合意を歴史上何回も国際社会と、
とり交わしたがそのすべてが反故にされて来た歴史だからだ。受け入れ時も、ユダヤと
の共存共栄を英国が保証する。と大量難民を勝手に移住させた。ユダヤいずれ消える。
と人口推移を見せてアメリカは大手を振って建国を指示した。しかし、ソ連から移民を
取り入れてまで地盤を固め、ソ連との交渉では弱い難民だ。どうせ貧民の彼らには誰も
武器を売らないだろう。大手を振って自立の旅団の結成を避けた。しかしその度々に、
大きくそうした予見は食い違い そうして大きくなる対立にラビン首相はオスロ合意を
取り付け、キャンプデービット会談での、歩み寄りのエジプトとイスラエルの間で平和
条約が締結され、シナイ半島はエジプトに返還され、又ソ連が軍縮の宣言した中で、そ
の姿と同じにアラファト議長と握手した。しかしそうした過去の契約もモサドは暗殺を
防げないクズだったのである。そして今でも「エヤル」(ユダヤ民族戦闘機関)の取り
締まりを行っていない。

1453: 名無しさんAA:18/05/24 17:31
 ベッキーの娘   60

 少しさわやかな朝であった。「御開門願おう。」と大声を掛ける武将がいた。大戸が
開いて10人程の武将が入っていった。庭に通された後 座敷にやって来る大殿がいた
。「おお 帰ったか ご苦労ご苦労。」「はっ 大殿に置かれましては すこぶるご健
勝の事におわす事にて、我らも何よりと存じます。」と座ったまま返事した。「して、
肥後は平定したか。」「はっ無事皆の者の働きにて安堵したよしにて帰参致しました。
」「おうそうか それは何よりじゃ。」「殿には 今回この別杵殿が入田親誠を成敗を
したゆえ、むくろを持参しております故 首知験をば測れるならば幸いかと。」と後を
振り向き「おい 持参いたせ。」と呼ぶ。と、後ろの者がしかしかと腰を落としたまま
進み出て櫃を持ってきて更に先に進んで 置いたらすぐに後に下がった。「これにて、
御検分を受け給わりたいと願います。」としかじかと頭をさげて差し出した。宗麟は、
さもつまらない風で隣にいた家老に目をやり 扇で合図した。そろそろと出て来た家老
は立ち上がり 縁の上に置かれた網代組み(あじろくみ)の箱の蓋を取りそっと傍に置
き中から 首からのむくろを取り出した。白い顔で目を閉じた顔を家老がしげしげと見
る中「間違いないかと。」と言う言葉も終わらぬ内に「ええい、もうよい。すぐなおし
て下がれ。」と怒った様にいった。「して 帰参して直ぐじゃが この豊後にても不穏
の動きありてのう。」とじろりと見て言った。「今探っておるが町の治安を揺るがす悪
党どもも何とかせねばならんが その先に始末せねばならん事も起きてのう。帰参して
直ぐにて疲れもあろう。しばしの休息を過ごすが良い。しが この後はこの田口殿から
追って連絡する故又一働きを頼むでのう。」と又睨んだ。頭を伏せて「はは」と言えば
「よろしいかな。」「皆の者もよろしいかな。」と大声で言って立ち去った。実は昨日
この城に兵と共に来て開門をせまった。がその時折り悪く門番から 明日の開けの7つ
と改めて時間指定で人数制限を打たれて 今になってやっと登城を果たしたのであった
のだ。その時府内を見て回ったが 本当に町はすさんでいた。町民がまばらになり、家
も所々が壊されたり焼かれたりしては惨憺たる有様ではあった。更によく聞けば近くの
伴天連と仏教徒の殺し合いはひどくなっていたのである。


1454: 名無しさんAA:18/05/24 17:33
 ベッキーの娘   62

 家に着くなり 風呂が沸いております。と下僕がやって来た。「おお足助何よりだ。
他の者にも 此処に集まるよう言って宴を始めるが良い。」「殿。」「何じゃ」「草加
創元なる野伏が お会いしたいと申しております。」「その者は何者じゃ。」「なんで
も英彦山修験者の宿坊の世話人だと 本人は申しております。」「なに英彦山の修験者
の世話役。・・・英彦山を束ねる者と言う事か。」「はっ、何分本人が申して居る事に
て全く不明でして。」「相分かった。ここへ通せ。」と 連れの者と現れたのは見ずぼ
らしい乞食姿の男であった。しかしかとひまざづき「熊襲を叩き戦勝の誉れ帰還された
事まっことめでたきに存じます。」と 一通りの祝言を述べた。「おお 何者か知らぬ
が、その気遣い痛み居る。じゃが お主何者じゃ。聞けば英彦山宿坊の世話役とか。も
し英彦山御座主なら それなりの礼を持って尽くさねばならぬが どうじゃ。」「はは
。我は只の宿坊の薪割などの宿守にて 草加創元と申す者にて 御気遣い無用の者にご
ざる。」「ほほう その宿坊の薪割が何故 このご時世に危険を冒してまで、何用で我
に会いに来たと申すか。」「はは、実は今般伴天連の動き強く この英彦山まで影響が
強くこの佐伯の地も又門徒衆が恐れております。」「ふむ・・・」「・・」「で・・」
「そうか お主この佐伯の地で門徒を集めて 暴徒の扇動をしにまいったか。」「め・
めっそうもござりりませぬ。」と平謝りした後の姿をじっーと見ていた。恐る恐る「殿
が見る様にこの地では多くの暴徒で血を洗う事件が数多く発生しております。知っての
通り我が英彦山の修験者の行者の行がこの地の神聖な山々にて修行して山法師としての
この地に永く住んでおります者多数。佐伯氏が無き後伴天連の集いし場所を確保して、
今や隠れて修行する始末この地の仏法徒を不憫と思召すなら この惨状に何とか御助力
を願えまいかと 知恵を授かりにまいった次第。」「おおくそ坊主よう言ったのう。儂
に大殿に忠言しろとの申し出か。」「・・・」としばらくして脇差しからかしゃりと、
抜き身を立てて首筋にピタと止めた。「お主何者ぞ、伴天連の脅威は儂とて同じ。じゃ
がこの国が今の大殿に至って御家騒動が起こった事は誰もが知る所。うぬらが知らぬと
はまさしく この地の者ではないな。どうじゃ。」乞食姿の坊主は きりっとこの別杵
の顔と向き合っていたが 首の刀に顔はすっーと青ざめていった。それを見るなり「さ
あ言え、何処の回し者だ。肥後か肥前かはたまた安芸の毛利の手の者か。さあ 白状せ
い。」「はっはっつ。おみそれいたし申した。」 男は大げさに深々と頭を下げた。



1455: 名無しさんAA:18/05/24 17:34
 ベッキーの娘   63
我は四国の金毘羅山を治める者。」「なるほど そうか四国の海賊の片割れか。どおり
で少し方言があると思っていた。してこの儂に何用じゃ真の目的を申せ。毛利の使いの
者か。」「しからば申し上げます。知っての通り大友氏に置かれましては今や耶蘇教の
カピタンが往来して、伴天連国として東洋に名を馳せております。」「うむ」「このほ
ど羽柴秀吉なるものがその伴天連船の紅毛人と南蛮人の争いに巻き込まれまして 織田
の殿様が日本の海賊を集めたのはご存知でしょうか。」「ほほう 美濃の町ではそんな
事があったのか。」「はい。毛利元就は前から通じていた陶隆房をけしかけ大内義隆の
親子を討ち、同時に口封じに大内義長殿を国主に据えていながら、大内氏を謀殺しこの
度周防の国の守護守となられた事は御存じあろうかと。」「ああ我が当主の叔父塩市丸
いや大友晴英様が討たれた事じゃな。」「はい。この時我が当主長門国守護代内藤興盛
様も加担されまして。」「ああそれも聞いておる。尼子氏を討つ前は大内の門前武将で
内藤氏と陶氏はよく大友を支えた名門の家柄だったらしいのう。先の大殿はその報告を
受けて和睦し塩市丸を差し出したと申されておった。まあ我らと同じ露払いの門前武将
だ。仲が良かったとしても当然じゃろうて。じゃが ようまあ大内氏を裏切ったものよ
のう。よっぽど銀山が欲しかったのだろう。」「いいえそれは違います。」「ほう噂で
は男好きの大内に尻の穴を貸さなかったからとか言って居るが それが真実か。」「い
やそれも違いまする。」「では何だ。」「ザビエルでございます。」「ザビエルとな。
」「はい。」「それは何だ。国崩しの様なものか。」「いえいえ、紅毛人の首領の名前
です。」「何。周防の国も我が国と同じにキリスタンや伴天連の国になっているとでも
申すか。」「いやそこまでは行ってませぬが 遅かれ早かれ今の陶晴賢はそうするやも
知れませぬ。」「そこで海賊を集めたと申すか。・・・」「はい。そこにあの足利将軍
義晴様が仲介して南蛮船の討伐を命じましたが、どっこも鉄砲もった船相手に手を出す
事は出来ないでいたのです。」「そうか で今度毛利元就が船頭で海軍を作ろうという
訳か。」「ははっ。」「その方、面白いのう 今日は祝宴の日で、わしも兵も混んでお
る。今宵の祝宴に誘おうではないか。のう津久見殿どうじゃ。」「はあ殿がそうおぼし
めすのなら。はい。」「おうそうか。ではこの者を連れていけ充分な監視役をつけてな
。わしは湯屋に行く。」「お主 話は後だ 祝宴で会おうぞ。」とスッと立ちスタスタ
と歩いて出て行った。残った家臣はいぶかそうにこの乞食坊主を見ていたが、「では、
草加殿と申されたかのう 殿の言いつけじゃわし の家でゆっくりなされ そのお召し
物では祝宴も台無しになるでの。」と奥にいた年老いた武士が申した。他の者はホッと
して彼を見た。正に助かったと言わんばかりであったのだ。

1456: 名無しさんAA:18/05/24 17:34
ベッキーの娘   64

部屋を出て玄関に着くと、一人の足軽と一人の中間が馬を引いてすぐ傍にやって来た。
すぐさま馬に乗り、おお助郎この者を我が家に連れて行く案内せい。と言った。4人は
黙々と街を歩き一軒家の前につき、しずしずと中間が馬を同じ家の馬宿に連れて行った
 歩きながら、老兵は尋ねた。「ああ儂は 金森と言う一介の雑兵じゃ。もう老兵での
役にはたたんが 何故か別杵様には懇意にしてもらいこうして生き永らえておる。」「
いえいえめっそうも無い 金森殿とは貴方様の事でしたか。正に仁王の裏門と聞こえた
知恵者と聞き及んでいます。この私目に特段の配慮をして頂き痛み入り申す。」などと
言った。上がって直ぐ庵に座ると婆やが庵の茶釜から湯を引いて行った。「ところで 
殿も怪訝そうだったが、何ゆえ金毘羅様の野武士が海賊の旗振り役をしておるのじゃ。
他にもたいそうな者が いそうなものじゃが。」「はい。ですが周防国の殿のご下命で
、」「う、うーん、既に死んだ内藤殿の事かの。」「はい。実は我が家系は逆昇れば 
天皇の仲裁を申し出た家柄、叔父貴が朝廷から 直々にこの銀山を守るようにとの御下
命を受けてい続いた家柄。不遜ながら金毘羅山の僧の私が海賊の集結を進める事になっ
たのでございます。」「ほっほう」「ご存知の事かとは思いますれば、この時期(かた
)まで尼子氏が、天皇直轄の拝領を受け 銀五貫を献上しておりました。ところが毛利
は七貫を献上と申して偽り事をばして、唆し(そそのかし)欽命(きんめい)を告(ふ
)れ、近習の城を味方にして尼子氏を破ったのであります。そして4貫すらを献上せず
大内氏を謀(はかりごと)にて滅亡させたよしに御座そうらえば、後の約定の通り六貫
に引き上げる密約さえ反故になるよし。」「ふむ」「これが信長に知れ渡り秀吉の手下
なる者を切り捨てて内紛騒ぎと相成りました。一応は明智殿がこれを治めたものの、伴
天連では大いなる噂がある始末となり申した。」「噂ではもし銀山が本物となれば本国
から沢山の南蛮船が国崩しを持ってやって来る。と」「京の都では、天皇に脅して元寇
襲来以来の騒ぎと聞き及んでおります。」「うーむ 銀の亡者が南蛮船で押し寄せるっ
てわけか。で、その敗れた大内とはわしらが縁故ゆえに来た。とでも申すか。」「は、
このたび大内殿の討ち死にはされども、今や長曾我部すらも毛利には戦いは不可能と思
いまするに、この大友と毛利を……。」「たわけ。」と大声が走った。「例え毛利が戦
さに勝とうが、この大友に何の恥辱があろう。義を失いては武の立つ瀬がないではない
か。」と大声が響いた。

1457: 名無しさんAA:18/05/24 17:35
ベッキーの娘   65

 この大声に同席していた数人が突然の声に茶碗を落した。しばらくの沈黙と睨み合い
が続いた。「さりとてこのまま捨て置き難儀がかからぬとも言えぬのう。‥」「まあ、
良い。ここはこらえて置こう。しかれど客人と言えども我が殿をそそのかす事あらば、
ただでは済まぬ事よのう。」と睨み又しばし沈黙の後「草加殿と申したかのう。ささ白
湯でも飲まれよ。」「世に 腐っても鯛 と言う言葉もあるが、今やこの豊前坊も、壊
れかかった船と申されるは確かな事よのう。しかしして創元殿はどう思っての代理なる
か。毛利と今協定を結べば 世に豊前の馬鹿宗麟には、自我も大義も無き者と、世には
ののしられ、嘲笑されるだろうよのう。ただでさえ洋妄かぶれと民にのの知られている
中で、この大友の加伴衆は更に多くの離反となろうよのう。」「さりとてこの話蹴れば
、それも又生き恥の様なもの。今や肥前の熊はドン・プロタジオ有馬晴信が西郷を救援
しなかった為、姉川攻めには天草衆と有馬を手下として向かっているからのう。鍋島は
体よく有馬の子供を人質にしてる噂じゃからのう。」「で、英彦山の修験者どもが今や
わめいているの聞いて南の島津のバテレン衆門が、あわててこの大友の水軍を借りよう
とう腹かのう。草加殿。いかにや。」「まあ良いどっちみち、今や菊池氏を平らげ阿蘇
の宮司とて大友にたなびくこと無しじゃて、やっと押さえて帰って来た所。今後毛利が
島津に連判に行くは必定よのう。事は目に見えておるわな。その為の内偵で草加殿は、
命は取られないとでも気取られたかの。大友をよくも舐められたものよのう」と不敵に
笑った。「まあ度胸は認めようぞ。おい者ども、この者を丁重に座敷牢に入れ おもて
なしでもせい。」と、ばらばらと屈強な武士が回りに集まって腕をすでに掴んで居た。
「まあ御館様には、後に何とでも知らせるが、草加殿には2・3日ここに泊まってもら
いお話を聞こうではないか。信長の噂もあるでのう。」「者ども決して手荒な事をせぬ
ように申し付けおく。いいな。あすは角殿を呼ぶ。では草加殿その釈棒は預かりましょ
う。」と目で合図すると「はっ。」と若番頭の様なその中の一番の強そうな男が案内し
た。すると案内された座敷牢には、暗い中蝋燭が幾つか灯され若い娘が食事の用意をし
て待っていた。娘が出ると同時に草加はそのままそこに入り座り茶碗を取った。その食
事豪華ではないものの、たっぷりと美味い物が並び酒すらも備え付けられていた。まだ
まだ 大友氏が最強の頃の話である。

1458: 名無しさんAA:18/05/24 17:35
ベッキーの娘   66

 この頃二人の男が生まれている。一人は鍋島氏に拾われ、龍造寺氏にかわいがられた
安富から成富とした信安である。後に成富茂安と名乗り築城の名将とされ、太閤秀吉さ
え唸らせた暴れ者である。西洋人では無かったかとさえ噂される。もう一人はこの時代
の最高知将とされた立花宗茂である。慎重さと大胆さを合わせもつ勇猛ながらも精神性
あふれて生きた人である。最後の九州激戦の岩屋城決戦では、大友氏は重臣志賀大内蔵
親成を立花城の加勢に出した。キリシタンドン・パウロ志賀親次の父である。この志賀
道益もまた同じにこの戦国騒乱時代に憂う物だった。祖父の志賀道輝は部類の仏教徒で
あった為、大友宗麟からは疎まれていた。だが父の環境同様に家訓での禁制としたキリ
シタン教徒になった時は、既に大友宗麟がキリスタン奨励を止めて、いよいよ下降期に
なった 耳川の合戦で島津に敗れた次の年の志賀親次が名代を受け継いでからである。
志賀親次にとって志賀道益は父で、入田宗和は叔父であった。そうこの入田氏をめぐり
って大友は刺客を放ったのだ、入田氏は大賀氏を追い詰めた大友宗麟の重鎮でもあった
。大神氏一族は栂牟礼城を根城にして九州朝廷の権威で古来日本の最高豪族の地位にも
あった。天皇家の持つ朝廷より古いとされる大神家は大友にとってその神格と地位は目
障りで、持ち城の栂牟礼城こそは大神氏一族が拝する場所であり、かつて平安時代でも
天皇が参拝に来た記録がある程だった。その後その山への参詣の登りの険しさで京から
の使者が麓で参拝したいと言う要望に答えて、宇佐神宮が寄進され寄贈され奉納され、
宇佐を支社の神としの地位とした。しかし、その過去が消える程 宇佐新宮が大きく権
威を持ち宇佐神宮と呼び始めると、本宮の方は廃れて山城とされる所になってしまうの
である。その上、佐伯氏十代当主が佐伯惟治の時、大永7年(1527年)大友義鑑から謀叛
の嫌疑を掛けられ討伐軍が送られた事により大神氏は武家とされて退路がなかったこの
城は、大友氏の討伐軍は臼杵近江守長景を大将にして二万余りの軍勢を遣わし、佐伯惟
治は栂牟礼城に籠もってこれに応戦するしかなかった。だが堅固な山城であった為なん
とか持ちこたえ栂牟礼城は攻め落とされなかった。長景は一計を案じ、惟治に一時日向
へ立ち退いた後、大友義鑑に申し開きをして許しを得るのが得策と説得して誘い出し、
惟治はこの案に乗ってわずかな手勢を率いて日向へ落ちる途中、長景に通じていた土民
によって討ち取られてしまった。とされる。これが その後に起こる大友二階崩れの、
始まりの予告となった。大永7年(1527年)肥後政略の前編で、菊池義武に通じて大友
義鑑に対し謀叛を企てていると讒言した者に乗った義鑑の乱行の始まりであった。臼杵
長景も惟治の討伐には迷う所はあったが仕方なかった。

1459: 名無しさんAA:18/07/16 23:14 ID:Svw
       世界閲覧 31     世界の中のトランプ戦略

 そもそも論的に言えば、イスラエル人とはパレスチナ人の事である。更にはユダヤ人
が差別されたと言うがちょっと違う。まず聖書が語るユダヤ人とは有色人種であり、今
の白人達の事ではない。もし正確に言うならDNA的には全くユダヤ人ではない事が、
解っている。更にユダヤ教徒と言う事にも少し違いがある。今のシオニストやポグロム
が問われ始めたのは、ほんの四〜五百年の中で出来た物だ。即ちエルサレムにおいての
今の住民たちは殆ど縁もゆかりもないユダヤ教徒と言う事になる。更に事もあろうに、
只の聖書と言う架空の物語に書いてあるとして移って来て、人口が減るからといって、
ロシアに更に移住者を求めたのである。勿論ロマの民がローマから追われているように
ユダヤ人がエルサレムを追われた歴史とユダヤ教徒が勝手に国の法律以上に宗教教則を
重んじて従わなかった事や慣習の違いで少数派として虐げられた歴史はある。だが、そ
の過去をして権利は問えない。何故なら、自らにエルサレムを捨てた民だったからだ。
しかしして、このイスラムの教徒も全く同じに嫌われた民である。パレスチナ人もアラ
ー神や一神教を捨てればいいのにと思う。イスラム教もユダヤ教も時代を超えて変化し
今やISILなど狂人まで作っている。エホバもアラーも同じ神なのか別個の神かは、
全く見当がつかないが、同じ旧約聖書の神がどうして同じ信者の宗派違いを批判し叩く
のか私ら仏教徒や神道子孫には全く理解できない。しかし世界中の、恐らく日本以外の
人々は、このイスラエルの横暴を理解しているのだろう。アメリカが承認したエルサレ
ムと言う聖地は恐らくインド系の宗教以外の中心的聖地だろう。何となれば大多数聖書
を基準に宗教の祈りを捧げていてその歴史が此処に詰まっているからだ。かつて英国の
チャーチルは、次々と嘘を言った。「この地はパレスチナ人の地だが、片隅にユダヤ人
を置いて平和に暮らす事は可能だ。何故ならこんなに広い砂漠が広がっているではない
か。虐げられた人に軒先を貸すぐらいは当然だ。」と。戦争が終わり大勢がやってくる
と「大丈夫だ。この地の治安を守っているのは我々大英帝国だ。彼らの国にしない。」
とその後英国がイスラエルを承認するに「もう既にユダヤ人は減って来ている。あと何
十年かすればこの人達は少数派になる。君たちが大勢となる。」と。こうして少しづつ
占領しては今やロシアの婆さんの国となった。このやり方は北朝鮮のサラミの交渉術と
全くおなじだ。薄切りして薄切りしてその一切れ一切れで少しづつ少しづつ利益を得て
きた。これが世界のとてもない悪行で国の持つ病気の様だ。

1460: 名無しさんAA:18/07/16 23:15
       世界閲覧 31     世界の中のトランプ戦略2

 さてさて、虐げられかわいそうと言われた人々が、今や逆にイスラエルを乗っ取り、
更には追い出されたパレスチナの人を難民にして兵士や警官で武器の無い人を殺しても
尚平然と政府を牛耳るのである。神の聖地で許されるはずのない行為といえるだろう。
だから僕は原子爆弾でも落とした方が良い。と思うのだ。御存じの様にラビン首相は、
イスラエルの未来を和平に求めた。彼は出来立てのイスラエル士官学校を卒業し長い間
草創期のイスラエル軍として戦って来た英雄だった。それでもその戦争に意味はあった
のかと問いていた。防衛軍の指揮を取りイスラエル国防軍の参謀総長となり、その指揮
により全ての中東戦争に関わって来た人生だった。イスラエル国防軍退役後は外交官と
なり、1968年から駐アメリカ特命全権大使を務めている。1973年にはイスラエル労働党
より出馬し当選、イスラエル国会議員・労働大臣となった。言わば数少ない伝説の中の
生きた英雄だった。既にアラブ社会からの支援も無くパレスチナ人の抵抗は武器の無い
人の集団での石の投げに変わっていた。それはベツレヘム決議以来第一次で嘆きの壁を
手に入れ第二次でスエズ運河を手にいれ、第三次ではパレスチナを手に入れた。しかし
難民を数多く作った恨みを買い、アラブから消耗戦争を仕掛けられた後オイルショック
の中で第四次中東戦争では国の消滅も間近と思われた中で、アラブのサウィード家が、
米国の相談に乗って寝返った。その後にやってくるだろうイランとの宗派争いを危惧し
たからだ。つまり今のイスラム原理主義の台頭を危惧したのだ。イランとサウジは回教
の正統性を巡って、イランシーア派とサウジスンナ派の対立があった。サウジスンナ派
は実は庶民で信者の素直也(スンナリ)つまり従う人の意味で神に愚直な経文派である
。対してイランシーア派は支居亜(シーア)つまり受け継ぐ人の意味で正統王朝を示す
スンナ派におけるイマームはモスクの座席を意味し礼拝の義務であり集団礼拝に学僧が
説く事で事足りる事にしている。だがシーア派におけるイマームはイスラム共同体(ウ
ンマ)と言うが、ウンマの指導者は血統上預言者の血筋を習わしとした席上とする。つ
まり十二イマーム派の一つのに特徴的な政治思想にあり、イエメンも又ザイド派(五イ
マーム派)と言うイスラム王朝の子孫とされる血統を重きにしている。しかし本来の、
シーア派の高位聖職者は王位継承者であり、本来は正式名称はペルシア語でアーリア人
の国を意味しランの最高指導者として国家元首パフラヴィー朝の皇帝(シャー)がその
正統としたが米国の介入で1957年にCIAとFBIとモサドの協力を得て国家情報治安機構を
作り反発から白色革命でホメイニーをシーア派の長と変えた。サウジアラビアは厳格な
スンニ派(ワッハーブ派)が主導権を握る国であるが今やシーア派より伝統的である。

1461: 名無しさんAA:18/07/16 23:16
       世界閲覧 31     世界の中のトランプ戦略3    

 しかし、この武器も持たず石投げ状態のインティファーダに、ラビンは衝撃を受けて
悲しみを覚えた。ラビンが育った時代に諍いはあったものの、パレスチナとユダヤ教徒
が肩を並べて教育を受ける。アパートに住む。そうした時代があったのだ。今後の子孫
に憎しみを植え付けたまま歴史を織って行っていいのか。と言う大きな疑問と不安があ
った。生まれた時よりも激しい差別は、差別から逃げて来たユダヤに起こしてはならな
い物のはずだったからだ。実はここに人の矛盾がある。「無知の大凶事」である。日本
には矜持と言う言葉があるが、国民を守る兵士としての意志が、そのまま平和の祈りと
した所は彼の矜持や信念だったのだろう。そして伝説の勇士としての彼の存在は、恐ら
く反対派が政治生命は潰しにかかるだろうが解ってくれるユダヤ教徒だから。との思い
であったろう。しかし残念ながら他の宗教徒と同じに凶弾に倒れる事になる。この人類
の悲劇は繰り返されたのである。ここにイスラエルの嘘がある。平和を求めて世界の中
の法治や秩序を求めた様な正義者の国の様に声明を発するが、モサド他多くの事件の中
に黒い闇として存在する。今回トランプは「アメリカ・イズ・No1」を果敢に声をあ
げた。それは影で支えているユダヤ社会の復活であろう。911以降「無辜の人」とい
う善良な人々を殺戮の淵にのせ、一生涯海外旅行など無縁な貧しい民さえも難民にした
。その批判の上にリーマンショックや原油価格降下などで疲弊していたが、センタービ
ルが出来ると共に復活した。ここに来てトランプが選任されたきっかけは、その繋がり
がクリントンより気薄と思われたからだった。ここで間違えてならないのは、その影響
が排除された訳ではない。いやそれどころか、アラブのサウジに武器を売り、ペルシャ
イランを叩いている事は、影響力を盛り返し排除できなかった事を意味する。この新し
いニューヨーク・ワールドトレードセンタービル跡地の、ワン・ワールドトレードセン
タービルはその「ロックフェラー一族が掲げる理想「World Peace through Trade」
(貿易を通じての世界平和)の意志を受け継いだのだろうか。ちなみに跡地で進行中の
再建計画は、ワン・ワールドトレードセンターなど6つの超高層ビルとツインタワー跡
地の慰霊場、地下の商業施設、パストレイン・ニューヨーク市地下鉄・バスターミナル
等のターミナル施設などからなっている。そのうち最も高いワンワールドトレードセン
ターの高さは、アメリカ独立の年にちなみ 1,776フィート(約541m)(本体は約415m、
尖塔部分含め約541m、延べ床面積約24万m2)である。2009年に中華人民共和国の企業が
最初のテナントとなったが今や盛況のようだ。

1462: 名無しさんAA:18/07/16 23:16
       世界閲覧 31     世界の中のトランプ戦略4    

ワールドトレードセンター跡地は、1 ワールドトレードセンターを含めて6つの超高層
ビルと記念碑で再建された。
1 ワールドトレードセンター:2014年完成。541m、104階建て。
2 ワールドトレードセンター:2021年完成予定。411m、79階建て。
3 ワールドトレードセンター:2018年完成予定。378m、71階建て。
4 ワールドトレードセンター:2013年完成。297m、64階建て。
5 ワールドトレードセンター:2020年完成予定。226m、42階建て。
7 ワールドトレードセンター:2006年完成。高さ226m、52階建て。
国立9.11記念碑・博物館 (en):2011年9月博物館オープン。記念碑オープン
 この膨大な収益預金を今世界中のドル回収によって建設資金としている。ドル回収に
よって世界は疲弊し、ドルは強くなって価格を高く維持している。だがこの平和のデフ
レ破壊は、丁度良いインフレに調整している。わざわざ原油価格を安くし中国商品を入
れて米国経営する中央銀行は、今やトランプと戦う事になるのか。残念ながら戦う事は
ない。メキシコの壁計画も立ち消えして法執行に終始した議論で議会は止まっている。
北朝鮮問題も、返って日本などに武器売却が進みICBM開発も時間つぶしの、大きな
イベントパーティ止まりで、核実験場の入口爆破で喜んでいる状態だ。問題の欧州難民
問題は、とても米国は寄り付かないどころか、国際機関の国連環境計画の温暖化サミッ
トやユネスコやWTOなど一連の拠出金の踏み倒しを目論んでいるほどだ。まったく、
とんでもない国家なのだ。そのとんでもない国家がとんでもない大統領を選出して、と
んでもない事を又考えついている。同盟国敵対国限らず輸入障壁、則ち関税をかけると
言い出したのである。日本ではこれまでTPPの話し合いは何だったのかの声がある。
だが米国の多国籍企業として存在した石油メジャーや金融資本はもっと目を丸くしてい
る。考えれば簡単な事だ。これまで利権食いと言われた教本企業(キリスト信者の商社
)は、はるばる欧州社会から資本や利益を手に、米国に集まって来たのである。その利
益や資本は、他ならぬ利権と財宝であった。そしてそれを守る或いは強要する兵力だっ
たのだ。今や中国はそれを身につけて アメリカ売り場市場を席巻し自国も又潤いなが
ら食料供給を興しているのだ。だが彼ら中国民も紙幣を羽に飛び回る食いつくすバッタ
やイナゴと変わりないのである。地球資源を食い荒らす人類の癌の様な存在とどう対面
するか。これが今世紀の一番の問題と考えたのであろう。

1463: 名無しさんAA:18/07/16 23:20
       世界閲覧 31     世界の中のトランプ戦略5    

 このとんでもない発想は メキシコの壁に似ている。つまり極めて現実的な対策法で
ある。今アメリカに入り込む麻薬は過去最大と言われる。そしてメキシコに入る銃器も
又過去最大である。それは税関をすり抜ける密売人による。そして密売人で商売するの
が凶悪なシンジケート団である。更にこのシンジケート団を構成するのは多くのメキシ
コ人やメキシコ移民たちである。その中でメキシコ移民の中、トランプの親のフレッド
は育ってきたのである。父のフレッドは不動産開発事業に対するトランプの関心を育て
、トランプはペンシルバニア大学ウォートン・スクール在学中から、父フレッドの経営
する不動産会社「エリザベス・トランプ・アンド・サン」を手伝い、大学を卒業する頃
に正式に社員となった。フレッドの両親はともにドイツ生まれであったが、第二次世界
大戦が終わったあと何十年も、フレッドは知り合いや友人に自分はスウェーデンにルー
ツを持つと言い続けていた。ユダヤ系ドイツ人である事を隠し続けたのである。1927年
のメモリアル・デー(戦没将兵追悼記念日)に、ニューヨーク市クイーンズ区でクー・
クラックス・クラン(KKK)が デモを行って「生粋のプロテスタントが、ローマカトリ
ック信徒であるニューヨーク市警に迫害されている」と主張していた。ドナルドが小さ
い頃フレッドはその集会に出て捕まる所を母の教育で「長い間旅に出て、父には会って
いない。」と言い張ったと言う頑固者であった。ニューヨーク市ブロンクス区にて、エ
リザベス・クライストとフレデリック・トランプのもとに生まれ、姉エリザベス・トラ
ンプ・ウォルターズと弟ジョンがいたと言う父のフレデリックは、元々の名をフリード
リヒと言い、1885年にドイツ・プファルツ地方の小都市であるカーシュタット(当時は
バイエルン王国に属していた)からニューヨーク市に移民してきた人物であった。カー
シュタットはドイツでも山奥でミュンヘン近くの国境沿いの中の街だろうフォルクスワ
ーゲンのシュトゥットガルトはその州都としている。カーシュタットはその名の通り車
の一大産地となっていた。彼はニューヨーク市クイーンズ区では単世帯向け住宅を売り
、東海岸にある主要な合衆国海軍造船所の近くでは職員が住む長屋や庭付きアパート(
テラスハウス)を、ニューヨーク市全体で2万7000を超えるアパートを建設・運営した
。フレッドとウィリアム・トマセロは、FHAを使うことで儲けた建設業者の例として
挙げられる。FHAは入居者の負担を減らすために建て主の物件に優遇投資保証を行う
ものだった。こうした事で大儲けしたのがトランプのアメリカの足場を築いた。今の、
シンジケート団が麻薬を引き込み、銃を持って出て行く移民に商売している事とさして
違いがない。

1464: 名無しさんAA:18/07/16 23:20
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略6    

 このエピソードから見るに、かなりシビアな人種で交渉も行動も違法すれすれを行く
「木下に冠を正さず」「盗泉の水は飲まず」などと言う摂理の心境は無い様だ。しかし
である。今後の世界を考えると、まあ株式配当や株価は半分以下にはなろうが、地球と
言う生体資源は落ち着くことであろう。余りにも合理的科学理論に浸され続けている。
大体安全の為にぶつからない様に着けた 車のセンサーモードが無人運転などと無駄な
科学技術になった。人を救う為に出来た食料運搬が今やイエメンなど戦争取引となって
いる。生活の便利さに発見したヤシ油は今やバナナの木を切ってまで売り出した。人に
生きる事を保証した川の水は、中国では捨てる為の溝となった。身を護る為の拳銃は、
人の者を強奪の道具になった。教育のない躾(しつけ)の無い社会とはこうしたものだ
。どんなに宇宙に行く技術や通信インフラが整備されても、中国の様に独裁の為の道具
或いはテロの為の資源、自分の利する為の権力に使われては 未来はない。であれば、
国を小さく分断した方が良い。と考えても不思議ではない。イスラエル流に大きくも、
小さくもしない囲いで固めて交流もさせない。となんとも陰気な思想である。だがこれ
でも悪は助長する。見えなければ見えないほどに隠れて悪戯(わるさ)をする物がのさ
ばるのだ。ISILの様に。自由社会を認めれば認める程破壊者は大きくなるブッシュ
Jrの様な悪僧(あくたれ)が突然出来る。ヒットラーのごとく。まあ人類とはそんな
ものだろう。では今は何が大事か。それは一応は流入を管理すべきが当然だろう。技術
の流出も文化の程度の低い北朝鮮や中国などには出さない事。これが肝要な政策である
。と言う事に落ち着く。アメリカの鉄鋼製品の関税は、アメリカ国民が税金として1〜
2割高く輸入品に価格転嫁されるだけで不買購入にはならず、却って冷蔵庫問題の様に
自国製品も高くした利益上昇で補助金並みの保護になるだけだ。対して中国の大豆不買
も同じ様に出来ない。今でも食糧供給には多くの不満が格差社会で生じている。つまり
農業振興に良い機会になる。と言う訳だ。問題は日本や欧州などの振り回される国家だ
。カナダは同じに木材に輸出関税かけると言う。これは森林業を痛めるし、米国農業も
同じだろう。自然保護にはいいが、今でさえ廃業前の負担で汲々としている中、もっと
薬やDNA科学に頼らない 多様性農業をはからないと、戦時の杉山だらけで水害の起
こった朝倉や津波で死者を出した東北の様になる。事実試算では農地改良がなかったら
死者数は、津波の勢いが削がれ、引き潮でも引っかかり4分の1になったと言われる。
つまり昔の姿の方が 安全だったのだ。まあアメリカスペインの山火事も同じだろう。


1465: 名無しさんAA:18/07/16 23:21
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略7    

 今の自然崇拝無視の姿勢は、今や現代人を困らせている。多くの悪さしたり殺人犯は
この景観教育の無さにある。つまり自然についての美しさの体感や共感が著しく少ない
。例えば西鉄のバスジャック事件でも庭の装いがなかったり、他の田舎でも手入れのあ
る自然がそこにはない。美観教育になってないのである。多くの若者が田舎での新築の
家だったり建売りだったりの出身にその犯罪者の傾向が現れる。勿論一概には言えない
環境もある。それはTVゲームでありスマホであったりする。アメリカも又同じにある
。ニューヨークの犯罪撲滅運動は落書きの撤去から始まり、地下鉄の防犯と軽犯罪の阻
止から始まった。かつては今の英国の様に金にならない軽犯罪は警官の見逃すところと
して殺人や銃器や麻薬などの摘発に力を入れていた。しかしジュリアーノ市長は重犯罪
も軽犯罪も同じ様に検挙せよと指令し、街並みの美観の保護を訴えた。この事で驚く事
が起こった。軽犯罪が2割重犯罪が1割減ったのだこうじて続ける内に10年してかつ
ての半分以下に犯罪減少となった。その上検挙率も高くなり曲線で減り続けた。そして
今の世界の人がやって来るニューヨークになった。まだまだ犯罪は多いが少なくとも、
一般人が地下鉄に安心して乗れるようにはなった。今のアメリカ政府は興味深い政策が
目白押しである。メキシコ国境の壁は勿論、麻薬の流入でアメリカは迷惑している。が
又メキシコも同じにアメリカから入る銃器で犯罪に追われているのが現状の筈なのだ。
その為メキシコに壁を作る金を出させると言うのはメキシコ政権の願っても無いチャン
スとも言える。イランの核問題にしても北朝鮮が平和になれば核やミサイルの研究者は
不要になる。だがそれでは彼らはお払い箱のままでは済まされない。となればイランへ
の技術移転なり研究者移住なりが当然危険視される。つまり先手を打ったと言う事にな
る。又同時にイラクの原油の買い取りの拒否を求めている。先の原油ショックはロシア
を脅かした。しかし同時にアメリカ資本がベネズエラなどを手中に収めた話となる。実
に世界戦略が巧みである。シェールオイルは確かに大きな油田ではある。しかしそれは
それでかなりの自然破壊と高額な投資となる。更に脱炭素社会は石油依存からの脱却だ
から投資に見合う回収があるとは言えない。テラーソンが政府から抜けて直ぐに石油の
値段は上がった。原油価格の統制が出来る権力者であった。と言う事だろう。さてさて
今度の中国との貿易戦争である。少し多面的に考えてみよう。

1466: 名無しさんAA:18/07/16 23:21
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略8   

 今や多国籍企業は花盛りである。更にパナマ国籍として税金回避は個人や企業厭わず
と言った所だ。中国が強く反論するように貿易戦争でも中国企業ではなく米国などの、
経営の多くが海外企業と言うのは多い。しかし中国に限ってはそれはあり得ない。共産
党政治で固めて企業も中国人との共同経営が基本であるからだ。つまり株式としても、
半分は中国人が持った企業である。と言う事になる。又米国にしても鉄鋼品関税は中国
の粗悪鋼の歯止めに有効な措置だ。今EUのメルケルさんは面白い提案をした。つまり
EU内の米製品関税をしてチャラにしようと言う提案である。こうなると、EUの中の
米国と言う巨大経済圏となる。今アメリカはカナダやメキシコとも仲違いしてTPPに
も離脱を宣言している。しかし日本品質の特殊鋼は他にはなく、更に米国内も英国内も
相当数の鉄鋼炉は無くなっていて国際的供給量では今の形の生産は続くと思われる。と
なれば関税で高くなる分米国製品が値上げし購入者が支払うと言う事になり過当競争の
価格競争に一息ついて米国の国産企業も倒産の危機が免れる。ただしこの代わりに米国
の輸出農業製品に中国が報復関税をかけるので中国国内も又値上げがあると言う事にな
る。だが基本的に農業製品特に食料生産においては中国は恐ろしく異常で、メラミン入
り粉ミルクに代表されるように、全く国民からすら信用されてはいない。がそういう国
から日本は輸入しているのだから不思議な日本である。こうして食品の健康異常者は、
うなぎ上りに日本でも増えていった。この原因を米国の様な食品対策センター或いは、
疾病対策センターなどで調べる米国に比べて、又日本は遅れていて米国の70年代位の
管理で税関に至っては他のメキシコなどより品々対人数は少ない。つまり他に比べては
有能であるか民間輸入業者が他の国よりまともであるから成り立っているので、政府は
無能というしかない。こんな国民や業界に依存や依頼して信頼で成り立っているような
国が、例えば国会議員が給与なりシステムが「他の国と同じ様にしましょう」などと言
うのは全く許せない話である。アメリカーメキシコ間の麻薬の流通と日本ー全世界に比
べて推定でも恐らく50倍以上だ。2012年の世界の覚せい剤押収状況の国連報告では、
世界での覚せい剤総押収量は約114トン、メキシコと米国での押収量が、世界全体の
およそ半分を占めていて、東アジア・東南アジアでの押収量が、世界全体のおよそ4分
の1を占めているとし、検挙率においてはアメリカの方が勝っている。又麻薬患者も又
1990年12万人から今や80万人とされる。一概に正確とは言わないが日本はこん
なものが国際的状況としてついていても何ら国民生活は良くならない。


1467: 名無しさんAA:18/07/16 23:21
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略9 

 こうして産業のテコ入れに躍起になっているトランプ大統領は、一体どんな戦略を練
っているのか。実はそれは自動車業界に端的に表れている。日本は2000年にやっと
永年の夢である排気ガスの出ない車を作った。FCV燃料電池車である。しかし、その
供給する燃料の水素ガスステーションは遅々として進まなかった。17年もたった今で
もその数は急激な増加をしていない。何故か。実は欧州の自動車業界は快適さと権威を
もつ車に終始し事故回避や排気ガス問題よりスピートやスタイル或いはホルムといった
形に重視して生産して行った。その後環境問題に取り組んだが日本以上のものとして、
今の燃焼システムの中でのクリアを求めた。従って当時は圧縮空気やエタノール車など
の研究に入ってEV車に行きついている。一方で社会的には、クリーンエナジーとして
太陽電池が画期的進化を遂げると同時に光に頼らない24時間供給の風力発電潮流発電
などが求められ原子力発電に戻っていった。しかしその矢先に日本では福島の事故が起
こった。その間自動車業界は中国で共産党の強力な権力で粗悪燃料による多大なスモッ
グと爆発的交通変化をもたらした。銀輪部隊とされた中国公司の労働者は今や高層ビル
内でオフィス作業をする近代化をもたらした。たまらないのは田舎である。20倍格差
50倍格差と言われた都市部に出稼ぎ労働者が群がって田舎に仕送りする生活に変わっ
たのだ。こうしてインフラ整備とモータリーゼーションの波が起こったが、ずる賢いこ
国に欧米資本は利益が取れなかった。従来からの自由の使者とした金融資本は技術提供
のみで巨大国営資本の攻撃と言う手痛いしっぺ返しまで喰らったのである。日本が明治
期の産業革命で欧米以上の最新鋭の機織りをしたように、中国は今回最新鋭のEV化の
社会に舵を切った。原子力で発電し車さえもEV車で乗りこなし、大量鉄道輸送を充実
させて輸送負担を減らした社会だ。この新幹線技術と同じモーター技術を得てうまく行
くかに見えた。が今や行き詰っている。というのも中国に今も基幹技術を支える文化の
要素がない。確かに学術調査記録や実験や機械摸倣は設計図があれば、そのものは出来
る。又韓国同様日本なり、米国なりの科学者や研究者或いは産業界OBを入社させれば
それなりの産業と製品は出来る。だが事それを使用する文化となれば少し話は違ってく
る。アフリカに行けば、欧州の一流メーカーの衣料製品が爆発的に売れる。フランスの
植民地でそれをステータスとする所だ。或いはアラブでスポーツカーやロールスロイス
の金ぴか車が売れる。道の整備されてない石油成金時代だ。しかしそれは結局文化でも
なかった。王侯貴族の見得であり、今やイエメンなどは山の民が食えない程の貧困だ。

1468: 名無しさんAA:18/07/16 23:23
 このアンバランスこそが大きな問題で、今まで東洋のベニスとされた上海は、異様な
湖畔や海上のビルディングで香港でも同じ形容が言える。まるで韓国を見るような風景
に圧倒される。そこでは路地裏の風情ある建物は今でも取り壊され続けている。不思議
な感覚である。この中国の静かな姿勢に北朝鮮問題でトランプが金主席と握手したかと
思えば、突然中国に貿易戦争を仕掛けて、世界に戸惑いが走る。数か月前に、米当局は
企業秘密の窃盗でアップルの中国人元社員を起訴している。ここで解った事が奇妙な事
にアップル退社をする中国人社員であった。自動運転車に関連した設計図を個人のパソ
コンにダウンロードし、中国行きの航空券を予約し、7日にサンノゼ空港で逮捕されて
、中国の小鵬汽車に転職する予定だった。と言う極めてアップルには関係無さそうな事
案である。アップルの関連社員は約五千人下請け関連まで含めれば2万人である。管理
出来る物ではない。時事通信によると、WTO(世界貿易機関)は中国の貿易政策に関
する審査報告書で「知財権の整備は中国の主要課題であり続けている」と批判し、知財
関連法は中国国内ではほとんど変わっていない事、政府支援の不透明な補助金支出に関
する情報開示が全く無い事、鉄鋼などの過剰生産の問題点は解決されてない事を発表し
た。今回には問題となっていないが、中国最大の航空機製造グループAVIC(中国航
空工業集団)は傘下に111の企業、36の研究開発センターを持ち、56万人の従業
員を抱えて技術情報の窃盗団を行っている。戦闘機、爆撃機からドローン、民間旅客機
などを一手に生産するこの会社の実態は、中国空軍の支援する資金投下の賛助企業だ。
ブラジル・エンブラエル、エアバスなどと合弁展開し、10年に米エビックエアクラフ
ト、テレダイン・テクノロジー、11年にコンチネンタル・モータース、シーラス・エ
アクラフトを次々に買収して技術資料を本国に持って帰って来た。多くの独・英社も買
収されて、ここでもB2爆撃機資料などの機密情報を盗もうとして中国人スパイが逮捕
・起訴されている。こういった企業体のスパイ社員の告訴は今や米国諜報部もイタチご
っこの司法取引に陥っているとされ、今後に注目されるところだった。ドイツで食肉の
会社がらみで、薬品の開発試薬や、欧州の卵からの危険薬物の殺虫剤フィプロニルの成
分が混入が発見されて問題になったが、それらが中国人や朝鮮人の卵買い付けと共に、
低賃金労働者に販売されていた事はあまり知られていない。デンマークで10カ国目で
東欧ルーマニアやルクセンブルグでも同じ殺虫剤の成分が卵から検出されている。フィ
プロニルを大量に摂取すると、人の腎臓や肝臓、甲状腺の機能を損なうおそれがある。
がこの薬品製造が中国国内でも製造される様になっていて、大量生産が大陸鉄道で運ば
れて来たと言われる。更に最近では鎮痛剤オピオイドの乱用について、欧州でも警戒を
高めている。こうしたいままでは無かった脅威が欧州社会に覆っている。

1469: 名無しさんAA:18/07/16 23:23
      世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略11 

 こうした製品が中国製品だからと言って、中国語で書かれている訳ではない。ここが
大きな問題で、ちゃんと英語なり販売される言葉で書かれているのである。日本の煙草
が箱ごと物まねされて、今でも大手コンビニに堂々と売られているようなものである。
こうした物真似は巧妙であり、中にはホンダの様に下請けになったり合弁企業になった
り正規に製造・販売契約を取り付けているから厄介である。共同通信が報じた中国軍の
内部資料によると、軍の大規模組織改革は、これまでの「国土防衛」から「外向型」に
転換、軍事的影響力を海外に拡張し「国際優位」に特化する方針が明らかとなっている
。「中国の国益が国境を越え広げ、経済支配によって緊急にグローバルに国の安全保障
を維持する必要がある。」としている。「一帯一路」と両輪で、覇権主義を顕わにして
いるのだ。そのための技術革新と「AIによる軍事革命」を強力に進める姿勢にある。
 米国では中国のこの覇権主義的膨張を止めるべく、貿易戦争を仕掛けている。単なる
貿易赤字の是正ではないことは市場も認知していると思われるほど冷静である。中国も
又承知しているのであろう、ロイターによると「国営メディアの報道の加熱を抑制」し
ている。とりわけ、トランプ大統領への非難を禁止し、貿易の是正を求めている事に、
一定の配慮した報道がなされている。更に国際的自由貿易の維持を謳いあげて、中国の
企業のモラルや中国国内の法律を守れとまで釘をさして、貿易戦争に受けて立つ姿勢を
見せている。我々日本人には、南洋の南沙の軍事基地や尖閣の漁船団で根こそぎ漁で、
自然破壊も国境線も国際社会も認めない野蛮な行為をしながらよくまあ平気な顔だ。と
恥ずかしくなる言葉が並べられる。古今の中国経済は数字の変化とともに市場の見方が
変わるだろうが、攻防は落とし処は見えてこない。習近平以前であれば相当な混乱が予
想されたが、今や世界経済の中で、しっかりその座を掴んだかの様な立ち位置だからだ
。50年戦争、100年戦争 と言った見方が出る一方、ある日突然、両国が一定の和解をし
ても不思議ではない。米国が攻勢を掛けているものの、トランプ以前のほどの大崩しに
至っていない背景がそこにある。






1470: 名無しさんAA:18/07/17 08:55

 それはまずトランプは、中国に集中砲火している訳ではない。同盟国カナダやメキシ
コそれに欧州や日本豪州すら敵としての貿易戦争に陥っているのだ。ドイツにはロシア
のガスを買うなといい、フランスには中東に口を挟むなと言う。更に他のEUには米国
の防衛にもっと金を出せと言っている。メキシコには壁を建てなければ困るのはお前だ
と脅迫し、カナダが米国は計算違いしている大きな赤字になっているのは米国IT企業
を受け入れている我々だ。と言うと、黙って居ろアメリカが貿易赤字だと繰り返してい
る。今後の展開は、欧州、ロシア、日本などを交え、中国との綱引きが複雑化する可能
性があるが、今の所日本は静観の構えを崩していない。状況を睨みつつ、世界経済への
ダメージを測って行くことになると考えられるからだ。中国市場でも株安と通貨安が共
振する兆しが出ているが。2016年程の相場急落「チャイナ・ショック」はあり得な
いと、その再来が懸念する向きに説明している。グローバルサプライチェーンの中にあ


1471: 名無しさんAA:18/07/17 08:56
振する兆しが出ているが。2016年程の相場急落「チャイナ・ショック」はあり得な
いと、その再来が懸念する向きに説明している。グローバルサプライチェーンの中にあ
るからだ。韓国の様な単一企業の売り上げと違って、中国社会は欧州の様な現地調達の
工場も多い。バイクメーカーのハーレーが、輸入コストが上がれば欧州に工場移転せざ
るを得ない。と話す様に、多くの米国企業の利益も中国工場からの資金調達していると
言った企業もあるからだ。こうした、今回と16年との決定的な相違があり、深刻な市
場混乱や経済悪化は回避される。というのが一般的な見方である。中国のファンダメン
タルズ(経済の基礎的条件)は比較できないくらい今回は堅調である。前回の中国経済
は不動産開発投資、鉄道貨物輸送量、粗鋼生産量、発電量などの経済指標がすべて前年
比でマイナスに転じるという経済悪化があったが、今回はいずれもプラス圏内となって
いる。更に当局の対応も素早いものがある。中国人民銀行(中央銀行)がすかさず預金
準備率を0.5%引き下げて対応している。危機意識の高まりと推察される。更に習近平
の独裁で、資本コントロールが利いている。中国の外貨準備高は15年は急減した後、
16年後半からは2年近くにわたって3.1兆ドル前後を維持していて変わっていない。
危機に対応した経済対策と厳格な資本コントロールの導入により、外貨不安と人民元安
の懸念は今や封印されている。危機管理の学習効果は十分に生かされているといえる。
しかしそれでも、トランプ政権の対中要求は過激である。今や中国に過度に依存してい
るグローバルサプライチェーン(供給網)に新しい風穴を開け、米中の覇権の再構築を
米国の目指す究極の狙いであろう。米国は中国に対してのみならずロシアにも、西側陣
営の長として、エネルギーも経済も軍事もハイテクも新たに覇権奪取をめざす方向の様
だ。つまり先のオバマが言った「世界の警察官を止める。」と言う宣言を取り消したの
である。こうして「中国製造2025」計画の破棄まで求めているが、それは中国にとって
はのめない話であろう。ロシアの軍事削減と同じである。



1472: 名無しさんAA:18/07/17 08:57
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略13

 一方で、中国の選択肢もない。(1)景気対策・金融緩和で市場テンションを緩和する。
(2) 今後も資本コントロールして世界的な国内危機の波及を遮断する。(3) 米国が容認
するところまで通商交渉を譲歩する。という全く米国優位のまま以外に道はないようだ
。ところが、この中で2の「世界的な不況」と「国内危機」においては中国のみが被害
者になり得ない事が示唆される。市場では「中国が人民元安を貿易摩擦の対抗策として
活用する事は出来ない」との臆測がある。つまり既に通貨安は容易に危機の引き金にな
り得て、通貨安政策が米国の怒りを鎮める事はないからだ。交渉上著しく不利で人民銀
の易綱総裁は、「中国は人民元の引き下げという手段で貿易紛争に対応することはない
。」と言明している。当然である。する必要もなくしても意味が無いからだ。常識的に
如何にトランプ政権が性急に米国覇権を求め中国に迫っても、米中の通商関係を破壊す
るとなればそれは米国に返ってくる。今や中国はグローバルサプライチェーンの中核に
位置しており、中国と真っ向からぶつかれば、米国経済も深刻な打撃を受けるからだ。
これが解らないほどの御馬鹿な政権ではないし、それが解っていて行うほど間抜けでは
ない。では何を目的とし、どうしょうとしているのか。今や経済界はそれを見極めよう
と必死である。それぞれの制裁、報復措置が出そろい不確実性が消えていけば市場は、
その方向性が見えては来るが今はまだ選挙対策ぐらいしかメリットは浮かばないの現状
だ。米中貿易戦争において、日本は何ともいえない立場にいる。中国国内の急速な産業
高度化、ハイテクシフトにより韓国、台湾、ドイツは日本と共に中国との競合関係が強
まっている。とは言え官製デモの煽りで純粋な日本製品の部品工場とはしていない。2
+1の政策で進出してきたからだ。常にトップリスク回避の代替え工場が東南アジアに
あるからだ。つまりそうそう他の国ほどの痛手はない。日本は中国企業との競合はあま
り多くない。むしろ中国がハイテク化しようとすると、日本の設備や部品、材料が必要
となる補完関係にある。日本は著しく有利な国際分業上のポジションを得ている。米国
にも同じで例えば、半導体製造装置は、日米企業で競合しているようだが、世界市場は
ほぼ分割(米国6、日本4)しており、そんなに米国が日本に依存してはない。関税でも
米国は自動車に対する制裁関税を検討して、日本もその対象にはなるが、日本の関税率
は世界最低である。乗用車に至っては関税は日本0%、米国2.5%、EU(欧州連合)10%
、韓国8%、中国25%となっている。

1473: 名無しさんAA:18/07/17 08:57
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略14

 米国トランプの外交の怖さは、中国との貿易戦争ではなく、日本を名指しした開放で
あろう。しかし赤字とは言え日本の貿易黒字は小さい。この日本の経常黒字の大半は所
得収支によって稼がれている。そもそも所得収支は海外企業の海外での稼ぎを示してい
て、結局は現地で雇用の結果生み出されたものなので、もっと歓迎されるべきものだ。
これは現地での雇用を奪いかねない輸出で稼ぐ貿易黒字とは決定的に違う側面がある。
日本車の米国での現地生産は年間377万台と対米輸出174万台の2倍以上となっている。
これを廃止せよと言う事は現地企業化した日本の出張所である工場の休止を意味する。
つまり失業対策をそれだけ行っているに等しいのである。こうした日本のグローバルサ
プライチェーンは円高下で実現した方式だ。他国に比して著しく充実していて、貿易摩
擦の対象ではなくなっている。今や対米貿易摩擦先進国の日本はすべてが過去に起きた
ことであり、かつ対応済みのことが多く有利なポジションになっている。ただ今の米国
企業にインターネットのプラットフォーム(基盤)部門では、中国のアリババ集団や、
騰訊控股(テンセント)などが挑戦状をたたきつけている。米政府は国民の人権と経済
の自由を保護し、米国民が自らをどのように見るかにかかわらず、国民は全て自由市場
がもたらした経済的な機会と、公正で効率的、かつ透明な政府がもたらした生活の質を
享受させている。こうしたことが、米国に革新と繁栄の好循環のようなものをもたらし
てきたし、それが米国人の誇りでもあった。米国は「理想的」ではないとしても、政府
としては、自由市場の素晴らしい組み合わせを生み出し、維持してきた自負がある。フ
ランスの政治思想を持ち込んでは、米国では自由市場が民間の財・サービスを、政府が
国民のための条件の平等を作り出してきたのである。中国の経済システムには、こうし
た繁栄のための循環の背後にある自由市場と政治制度の偉大なコンビネーションは存在
しない。このいらだちが今回の経済摩擦の主因である。著書「国家はなぜ衰退するのか
」では、国民に必要なのは真の繁栄につながる、革新とより良い富の分配、経済成長の
好循環を生み出す包括的な制度だ。と仮定すれば今の中国が世界経済の足を引っ張って
居るのは間違いない事実であろう。基本的に中国では、経済的な財産もサービスも政府
が配分する。それが社会主義である。中央政府と省政府はいずれも、究極的には地主で
あり起業家であり、経営者であり兵士で奴隷なのである。政府筋の規制機関によって、
主要銀行は全てが政府によって運営されており、国有企業(SOE)も郷鎮企業(TVE)も
、その銀行から融資を受ける。日本の軍国主義の軍票発行と同じなのである。そこには
自由競争などと言うしゃれた思想はない。

1474: 名無しさんAA:18/07/17 08:58
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略15

 この軍票システムが世界の国家経営の中央銀行と違うのは、拡大銀行と言う事にある
。つまり資本は資本で保証するので、中央銀行は実は国家の国債や民間の株券など現金
として流通するものの資本を持って運営してしている。ところが国家が発行する軍票は
幾らでも保証がなくても発行出来るし勝手に値段も決められる。つまり世間や一般査定
がそこには無いのである。これは大きな違いである。日本の国債が危ないと見れば極端
に下がる誰も買い付けしない。中央政府が発行する紙幣や硬貨はそれが無い。バックに
同等価値を持っているからだ。では中国はどうだろうか。ロシア以上であろうか。それ
はない。かつて中国元の世界は日本円で0.001であった。アルミの一円玉が10元
だったのだ。公定価格でも0.1円だった。その後万博時代10円に変わった100倍
である。当時国内に溢れた元紙幣の半分は偽札だった。もめ事もあったが多くの人は、
その偽札でも使えれば構わなかった。ところが偽札検知器で銀行の札束すら信用できな
い世界に変わった。それが先の不動産バブル時代だ。こうして人々はキャッシュレスの
電子通貨に目覚めたのである。中国に人権と経済的自由を守る公平な政府を求める事は
土台無理な話である。1983年中曽根が胡耀邦の訪日で、昭和天皇と会見して天皇訪中を
求めて開かれた政治を目指した。しかし挫折し、ケ小平に至っては開かれた経済システ
ムと立ち向かう閉鎖的な政治体制という危険な組み合わせを持った奇妙な制度が作られ
ている。一国二制度取り入れるとした香港返還も今や型無しで人権侵害が大手を振って
行われている。強権独裁政治の競争社会は、言わば産業と自然を戦わせる、中国が1978
年に改革開放路線に転換して以降実現してきて、最も進展したのは人権侵害であり、こ
れまでの発展も帳消しにする物だった。中国国民の経済的機会と全般的な生活の質の向
上は、いつでも損なう危険性を孕んで進んでいる。中国は世界一の交通事故や労働災害
、環境汚染の大国で、経済的自由においては最下位に近く教育が高く道徳水準が下位に
ある。この奇妙な国は、結局のところ中国になかった経済成長をもたらしたが、中国人
民には、成長・持続する理想的な思想はない。国民が効率的効果的な人間性回復の市場
、公正で公平で透明な政府こそが質の向上した生活が提供でき人民は幸福享受が出来る




1475: 名無しさんAA:18/07/17 08:58
      世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略16

 それでも、中国商務部の報道官は強きだ。米国が中国からの輸入品2000億ドルに対す
る追加関税リストを公表したことについて「国の核心的利益と国民の根本的権利を守る
ためには、中国政府はこれまでと同様に、必要な対抗措置をせざるを得ない。また直ち
に米国の一国主義的行為を世界貿易機関(WTO)に追加で提訴する 」と述べている。更
に米国は中国からの輸入品340億ドル分に追加関税を課すと発表し、それ以降 米中間は
貿易戦争が正式に幕を開けた。エスカレートを続ける状況に対し、中国の勝利への確信
はどこからくるのだろうか。李委員長は、「貿易戦争を戦う上で最も重要な資本は経済
の安定的発展に他ならない。中国経済は目下安定した状況を維持しており、将来も安定
的発展を継続する力がある」と述べた。更に「14億人の人口、2億人を超える中所得
層を擁する中国が、貿易戦争を十分に戦うことができる。」という。「その重要な根拠
の一つは市場規模の巨大さだ。巨大な市場が中国企業に巨大な発展の可能性を与えると
同時に、海外の企業にも利益を創造し発展する機会を与え、巨大な誘致力を発揮する。
これは中国にしかない優位性だ」と述べた。つまり(1)中国経済は安定し(2)中国に
は巨大な市場がある(3)中国には整った産業分類が備わっている。と一歩も引かない。
「中国の整った産業分類は、中国に対外貿易の競争における優位性をもたらしており、
中国の競争力の重要な源泉であり、中国経済の発展に製造への十分な原動力を持ち、又
中国の未来の産業バージョンアップに必要な基盤でもある。未来の中国の各産業部門は
この基礎の上に立って、引き続き質を高める必要がある」と指摘し国内外に大丈夫だ。
と示した。李委員長の判断は次の2組のデータが示している。第1は、2017年の中国の
国内総生産(GDP)のうち2.12%が研究開発(R&D)に充てられ、中国のR&Dの経費は
1兆7500億元(1元は約16.8円)に達し、基本的に先進国と変わらない水準になってい
る。第2に、世界知的所有権機関(WIPO)が発表した報告によると、中国は世界2位の
特許出願国で、03年以降は唯一の2桁増加を達成する国となっている。WIPOはあと3年
もすれば中国は米国を追い抜くだろう。と予想している。つまり今や投資される国では
なく投資する国として余力があり、今後の知的所有権も技術的革新も中国以外にない。
と遠まわしに豪語しているのだ。最後に、「中国は革新分野でここ数年の間に多くの業
績を生み出した。ただ未来にもまだ大きな発展の可能性がある」と李委員長は述べた。


1476: 名無しさんAA:18/07/17 08:59
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略17 
 更に良く知られているのが起業家の多さだ。「中国には良好な起業ムードがある」と
自他共に認める程の競争社会を創り、アメリカに似た産業胚芽がある。それは良し悪し
に関わらず大変な活況なのだ。「中国はこれまでずっと国民による起業を強調し、最新
のデータでは1日当たりベンチャー企業の平均登録件数は1万7600件になり、これは、
こうした新しい企業、新しい雇用機会が、新しい競争の優位性を形作っていくというこ
とだ。政府も起業に向けて良好な環境作りをしている」「中国には新しい業態、新しい
モデルが絶えず出現している。たとえば金融科学技術が推進する電子決済やEC、また
共有経済(シェアリングエコノミー)モデルもあり、経済に絶えず新たな優位性をもた
らしている。新産業には新エネルギー、新材料、スマート製造、電気自動車、ロボット
などがあり、どれも革新と発展の過程にあり、将来は経済の発展をより力強く支えるこ
とになる」と語っている。「中国には制度の優位性がある。国の政策、政府の方針決定
を通じて、優位性のある資源を集中させ、資源を統合することができ、貿易戦争という
角度からみると、戦争の始まりも終わりも効果的に管理することが可能だと思われる」
との見方を示し「中国は40年に及ぶ発展を経て、グローバルバリューチェーンと供給
チェーンのシステムにおいて重要な位置を占めるとともに、地位が絶えず上昇している
。『一帯一路』に牽引されて、中国産業のバリューチェーンと供給チェーンが絶えず拡
大し、将来は世界のより広い範囲で経済貿易協力を行うようになるとみられる。」とも
述べている。投資も投資家も起業家も起業家風土も革新的技術も、そしてそれをつなぐ
世界の中の工場としての産業もみんな揃っている。何か文句があるか。と言う強気だっ
たのである。果たして、この言葉はどこかで聞いた様な。と思い出すのが韓国である。
しかし韓国・朝鮮日報によると「現在の韓国経済は正常でない」と指摘している。全国
経済人連合会主催のイベントで、文在寅(ムン・ジェイン)政権の産業・経済について
「出生率は最低、自殺率は最高など、各種の指標は恥ずかしくて顔を上げられないレベ
ル」と英ケンブリッジ大学の経済学者チャン・ハジュン教授が述べている。造船・鉄鋼
などの主力は中国に奪われ、製薬・機械・部品・素材などの有望産業は先進国を超えら
れずにいる。半導体生産は1位だが、半導体を作る機械は日本やドイツから輸入してい
る」と指摘した。「過去の高度成長期に韓国は1人当たりの国民所得基準の経済成長率
が6%を超えたが、通貨危機以降は 2〜3%台になった。成長率が低下するのは自然なこ
とだが、このような急激な低下は正常でない」と述べたという。この自由社会を作り上
げることができるまで、朝鮮では豊かな人も貧しい人も同様にこうした制度を求めた、
中国も又米国をまねようとするだろう。はたしてそれが何を意味しているか。

1477: 名無しさんAA:18/07/17 22:32
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略17 

 更に良く知られているのが起業家の多さだ。「中国には良好な起業ムードがある」と
自他共に認める程の競争社会を創り、アメリカに似た産業胚芽がある。それは良し悪し
に関わらず大変な活況なのだ。「中国はこれまでずっと国民による起業を強調し、最新
のデータでは1日当たりベンチャー企業の平均登録件数は1万7600件になり、これは、
こうした新しい企業、新しい雇用機会が、新しい競争の優位性を形作っていくというこ
とだ。政府も起業に向けて良好な環境作りをしている」「中国には新しい業態、新しい
モデルが絶えず出現している。たとえば金融科学技術が推進する電子決済やEC、また
共有経済(シェアリングエコノミー)モデルもあり、経済に絶えず新たな優位性をもた
らしている。新産業には新エネルギー、新材料、スマート製造、電気自動車、ロボット
などがあり、どれも革新と発展の過程にあり、将来は経済の発展をより力強く支えるこ
とになる」と語っている。「中国には制度の優位性がある。国の政策、政府の方針決定
を通じて、優位性のある資源を集中させ、資源を統合することができ、貿易戦争という
角度からみると、戦争の始まりも終わりも効果的に管理することが可能だと思われる」
との見方を示し「中国は40年に及ぶ発展を経て、グローバルバリューチェーンと供給
チェーンのシステムにおいて重要な位置を占めるとともに、地位が絶えず上昇している
。『一帯一路』に牽引されて、中国産業のバリューチェーンと供給チェーンが絶えず拡
大し、将来は世界のより広い範囲で経済貿易協力を行うようになるとみられる。」とも
述べている。投資も投資家も起業家も起業家風土も革新的技術も、そしてそれをつなぐ
世界の中の工場としての産業もみんな揃っている。何か文句があるか。と言う強気だっ
たのである。果たして、この言葉はどこかで聞いた様な。と思い出すのが韓国である。
しかし韓国・朝鮮日報によると「現在の韓国経済は正常でない」と指摘している。全国
経済人連合会主催のイベントで、文在寅(ムン・ジェイン)政権の産業・経済について
「出生率は最低、自殺率は最高など、各種の指標は恥ずかしくて顔を上げられないレベ
ル」と英ケンブリッジ大学の経済学者チャン・ハジュン教授が述べている。造船・鉄鋼
などの主力は中国に奪われ、製薬・機械・部品・素材などの有望産業は先進国を超えら
れずにいる。半導体生産は1位だが、半導体を作る機械は日本やドイツから輸入してい
る」と指摘した。



1478: 名無しさんAA:18/07/17 22:32
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略18 

 今度のサッカー観戦では日本人が試合観戦後の清掃までは行かないがゴミ拾いしてい
く日本人にtVのニュース報道があった。そこに韓国人が「ゴミを拾うのが日本人だけ
」ではない「清掃員の仕事を奪うな。」と言うのだが、中国人は「綺麗にする事が悪い
事とは思わない。」と反論しているのを思い出した。考えててみれば確かに日本は「飛
ぶ鳥後を濁さず。」と言う「来た時よりも美しく」が生きる人生の宗教観念だ。「旅の
恥はかき捨て」などと言うのは、現代人は意味を吐き違えている。これは旧習慣を捨て
てでも新しい美しい創造を後押しする言葉であり、報復の因習を捨てる事を諭したもの
である。そもそも「人生は修行」「人生は重荷を背負うて登る坂道のごとし」と徳川氏
が言うような宗教観念がある。「厄年」は本来「役年」つまり借金しても役を果たすべ
き年齢を指すものであり、この年から地域や子孫や家族を守る事を宣言させられる年な
のだ。中国メディアは、「欧米人から見て、日本人と中国人と韓国人を外見だけで見分
けはつかない」しかし、「集団行動」を見れば容易に見分けることができる。と伝えた
。欧米を「ツアー旅行」で訪れるなら欧米人でも簡単に、「行動」から分かるものだ。
主張し見分けられると伝えた。たとえば、ツアーのガイドが話したり、指示を出してい
るとき、「黙って静かに聞いている集団があれば、それが日本人だ」という。更に、ガ
イドが話をしているにもかかわらず、「ツアー参加者同士で話に夢中になっている集団
」があれば、それはきっと韓国人だと伝え、「韓国人は個人中心主義」だと主張。また
、声が大きく、ガイドの話を聞いている人がいたり、キョロキョロと周りを見渡してい
たり統率が取れておらず、ばらばらの行動をしている集団があれば、それが中国人集団
だと主張し、「欧米人から見ると、日中韓の違いは集団行動に簡単に現れている。」と
伝えた。これは非常に的を得ている。中国は広く韓国人の様な「朝鮮起源説」を唱える
事にに似た「中華中芯主義」を言う者と田舎で「中央の腐敗軍閥」の侵略から用心深く
逃れる事で生き延びて来た民族で出来ている国だからだ。今度の経済戦争の、とりわけ
貿易戦争の多くの米国アナリストは、中国と言う、力の均衡、または独立した司法制度
がない中で、「中国当局者による恣意的で、気まぐれな重商主義政策の実施に歯止めを
かけるような法の支配はない。」という中で当然の処置だ。と中国を厳しく批判した。


1479: 名無しさんAA:18/07/17 22:32
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略19 

特に情報技術革新財団(ITIF)のロバート・アトキンソン理事長は、「WTO訴訟では
通常は、打撃を受けた企業からの証拠提示が義務づけられる。だが外資系企業の多くは
、中国での不当な扱いを訴えることに消極的だ。反トラストや不正、スパイ、消費者へ
の不当な扱いなどの疑いで調査を受ける。といった報復措置のほか、政府系企業に販売
先を奪われることを恐れているためだ。特に中国国内企業に海外企業はどれ一つもない
。共産員の共同経営者が必要とされ、そうした内部スパイが常駐しないかぎり認可され
ない仕組みだからだ。こうした腐敗した強権的に人権のない、独裁の共産党支配で人民
解放軍は既に死んでいたはずだったが、こうした汚職で経済で生き返らせたのが米国だ
った。この方式を最初に行ったのは、実は朝鮮に入ったCHQ内のアメリカ共産党だっ
た。今の韓国の財閥企業は、実は李承晩配下の革命政府の配下だった人達だ。北朝鮮の
地域から発展して来ていた朝鮮半島の日本の工業技術はほとんどが日本の軍閥経営で支
えられていた。電気水道ガス工場商店薬品鉄道港湾とどこに行っても家賃のごとく払わ
れる物は日本配下の権利を持つ財閥だったのだ。だがこれを強制接取したのが米軍を呼
んだ韓国大統領李承晩だった。その殆どは暗殺され権限の強制接取だった。韓国国内で
も彼らは地元のパルチザンや自治警察にいった。「お前たちは日本帝国の皇民と言う犬
だ、我々はアメリカ連合国の戦勝国民だ。お前たちの財産を取り上げてどこが悪い。」
と。南北戦争の頃は大部分がこうして北朝鮮の金日成の味方となった。金日成そのもの
も、もし、金九が治安を守りアメリカの支援を受けた李承晩を逮捕し韓国民主党の党首
呂運亨を代表として固まっていたのなら問題なく統一朝鮮に戦争も粛清もなく建国され
移行されていたであろう。しかし中国の蒋介石の下で重慶政府の中に革命政府を作り、
金九そのものが治安悪化にゲリラとなり、朝鮮王朝李王家の李王世子暗殺未遂事件など
発生した不安を国内にもたらせていたほどだった。こうして朝鮮半島国家は、有史以来
の援助や補助或いは傀儡としての保護される国民性しかもたなかったのだ。したがって
横から接取したにも関わらず、権力による庇護なり資本投下したアメリカは当然株主と
して存在した。この事はその後の成長にも株式市場での配当を迫る退職軍人会や年金の
運用に多くが組み入れられた。


1480: 名無しさんAA:18/07/17 22:33
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 20

 「過去の高度成長期に韓国は、1人当たりの国民所得基準の経済成長率が6%を超え
た。が、通貨危機によって以降は2〜3%台になった。成熟する国家の成長率が低下す
るのは自然なことだが、このような急激な低下は正常ではない。」と述べた。この朝鮮
社会に自由社会を作り上げることは無理だったのだ。朝鮮では豊かな人も貧しい人も、
同様に欧米の西側世界のこうした制度を求めた。中国も又、今米国を真似て西側化しよ
うとしている。そしてソ連経済は破たんの上で自由経済を構築しようとしたが独裁に変
わった。勿論自由主義や資本主義は完全ではない。しかし、今の所人類はまだより以上
の発展系の流通経済を構築をできてはいない。この韓国建国以来、その旨味を独裁の中
に変形させてすっぽり入らせて、自国の体制に入れ込んでしまったのである。この事は
、はたしてそれが何を意味しているか。暗黒の韓国体制から、中国やロシアは軍事経済
の中の中央集権国家を作り上げた。西側諸国は歴史的に、保護貿易がグローバル経済だ
けでなく、自国経済にもマイナスとなり、マーケットにも大きな悪影響を与える事を知
っている。自国産業を守るためとはいっても、報復合戦に発展するため、結局は全体と
してダメージを受けてしまい、跳ね返ってくる。このことは多くの歴史学者も経済学者
も主張するところで証明されている。しかし敢えてトランプ政権は強硬姿勢を強強めて
同盟国にさえ、グローバル経済の不透明感が広げている。鉄鋼やアルミニウムの追加関
税など導入し、対してEUや中国は対抗措置をして報復合戦の様相を示している。この
自由社会では国民の自立自尊を応援しないのだろう。と言うのも英国の閲兵式の非常識
がこのトランプの行動規範を示している。ヨーロッパの伝統的挨拶スクレイプとカーテ
シーが出来なかったトランプとトランプ夫人は閲兵式の歩行すらも出来ないでいた。男
性は少し片足を下げて相手より頭を低くして握手し、女性は大きくその動作を行って、
その挨拶をし、閲兵式で主賓と言え来客だ、呼んだ国の主人の前に立ち塞がる事など、
悪意がないとは言えあり得ない光景だ。是には応援した米国民は幾ら選挙応援したとし
ても落胆しただろう。これほど躾(しつけ)も礼儀も無い人が大統領に座ると言う事は
許されない事として。日本の江戸時代なら打ち首獄門も世界である。礼を失して国の品
格や品位を無くす事は、例え代表でない国民であろうとも許されない。これが古来から
の日本人の考え方であり家徳である。渋谷のごみが散らかっていると言うのは、それだ
け国籍のみの日本人が移住して来たと言うだけの話だ。

1481: 名無しさんAA:18/07/17 22:33
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 21 

 中国中央政府は、その国民性に鑑みてトイレの整備を指導した。又軍隊の腐敗とそれ
に対する習近平の対策が腐敗撲滅に向かうよう苦心している。それについて次のように
解説されている。「改革開放から30年以上の月日が経ちましたが、軍事のエリートの
危機は驚くほどに深刻であるようだ。病状は主に三つあって、一つは“平和病”だ、彼
らは近代の安全な生活で闘う思想に欠けている。二つに“腐敗病”だ。中央軍事委員会
副主席さえも腐敗を誘発・リードし、カネやコネの力で、昇進や将軍を生ませてきた。
軍隊におけるこうした「身分売買」は当時当たり前で風習だった。これは極めて深刻で
す。三つ目に“凡庸病”とされる先の副産物である。こうして部下を指導し闘う能力に
欠けているにもかかわらず、コネやカネで財閥を作り、賄賂や腐敗で昇進させる能力だ
けは長けている。それらから産業汚職や裏での独占主義が蔓延して企業乗っ取りなどの
会社はそれ以上の進化がなく、その上一連の腐敗分子・投機分子らが産業も軍隊の中も
、好き勝手やっている。と言う政治体質だ。こんな状況が許されるわけがないでしょう
。このような危機的状況を前に、習近平主席は全党・全軍反腐敗を徹底し、戦い方を知
っていて、戦う意志のある優秀な軍事人材を改めて重用するシステムを構築しようとし
ています。よくある尖閣の漁船団も今や中央政府は手が付けられず漁獲量規制などもっ
ての外漁協の様に地方政府による中国公船(中国政府に所属する船舶)の尖閣諸島侵入
が始まっている。以前広東省では、ある民間中小企業が正規の契約を通じて自ら権限を
持って操業していた。だが数千坪の土地が知らぬ間に不当に持っていかれ、マンション
建設などを含め強引に開発されてしまった。住民運動までして反対したケースがあった
。しかしその後視察したが、明らかな不当行為であり、地元の政府も同企業に同情し、
対応策を練ってはいたが、相手は武装警察を持ち、地方政府の大物で、軍部が経営する
企業(総経理は上級大佐)がマンション建設を指揮していた。結局「為す術なし」とい
う感じで、大量の住民が労働刑務所行きで終わったのだ。こうした軍隊が社会的特権を
乱用して、不当なビジネスを行ったり、莫大な利潤を獲得するといった状況は早くから
中国社会における「公然の秘密」であり、民の軍に対する不満や抵抗感は長い間蔓延し
てきてはいる。だが、そもそも中国の一般大衆の常識は「軍人は特権的地位を利用して
好き勝手、やりたい放題に振る舞う悪者」の認識は、昔からのもので事実は否めない。


1482: 名無しさんAA:18/07/17 22:33
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 22 

 だが、こうした中であるからこそ、抗日戦争資料館や抗日戦争ドラマは欠かせないと
言う文化なのである。つまり日本人が悪い。日本人が過去に破壊した。と刷り込まなけ
れば韓国同様、今の軍隊や共産党が人民を殺して出来た国体であり政権と知られたら、
収拾がつかないデモや暴徒の国家となるし、それを抑える軍隊はいない。「愛国無罪」
の意識が強いからだ。 今年4月12日、南シナ海で海軍の閲兵式に出席し、「人民海軍を
全面的に世界一流の海軍に育て上げる。」と高らかに宣言した。習近平・中央軍事委員
会主席だが、同時に、目の前で自らの談話を聞いている海軍関係者らに対しては「党の
軍隊に対する絶対的領導を全面的に貫徹するという根本的原則と制度」を徹底的に順守
することを要求している。これは意志のある優秀な軍事人材を重用するシステムを構築
し、軍隊は人民に信頼される組織でなければならない。我が人民解放軍は“構造病”を
ガバナンスし始め、軍事大革命を推進する。と言った意志が見えている。 6月11日には
、党中央弁公庁、国務院弁公庁、中央軍事委員会弁公庁の連名で、『軍隊が全面的に有
償サービス業務を停止することを深く推進するための指導意見』を発表した。これは、
習近平政権成立以来の目論まれて、取り組まれてきた軍隊・軍事改革の一環である中の
、この『意見』書をもって、解放軍が今年度末までに全ての営利を目的とした企業運営
やサービス提供を停止することの、正式に義務付けられることになった事の発表だった
。習近平政権で「群衆路線」を随所で強調し、農民や労働者を中心にした「社会の弱者
」に寄り添う政策を大々的にアピールして共産党の正統性を強固なものにとしてきた。
この経緯を顧みれば、今回の『意見』は想定内路線で当然の帰結とも言える。しかし、
習近平政権成立以来、共産党による絶対的領導下にある解放軍は、過去のどの時代より
も国ではなく党の軍という地位にある。現状に対して、解放軍の関係者は政策、地位、
待遇といったあらゆる角度からも、軍人は不満を蓄積させてきている。「反腐敗闘争」
によって一切の賄賂や腐敗、贅沢が禁止されてきた。今回の『意見』を通じて、軍隊内
部で細々と生き延びた、私益・私欲を肥やすためのビジネスも一切禁止された。こうし
て一切のグレーゾーンを排した、党の方針への絶対服従を命じられている。行動として
服従したとしても、内心穏やかでない。それどころか、不満を募らせている軍人は多い
。これは“反腐敗闘争”と同様、軍隊に対する“粛清”プロセスだと解釈できる事件だ
。つまり今や地方政府の腐敗と中央政府が行う粛清とが戦っている状態なのである。し
かし、そうした中国国内の姿勢があっても、トランプ政権は構う事はない。


1483: 名無しさんAA:18/07/17 22:34
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 23 

 が、逆にこうしたしっかりとした中国の独裁政権と見てのトランプの外交戦略かも知
れない。つまり、身じろぎもしない中だからこその貿易戦争と言う一面だ。今や最後の
利益家電のスマートホン業界も韓国は中国シェアは取れなかった。米国資本の韓国株は
今や中国株同様に利益は取れなくなっている。こうした状況下、米国株の上昇は頭打ち
となり、米連邦公開市場委員会(FOMC)の議事録を見ると、関係者は2019年から20年に
かけては、今後の利上げ打ち止めの可能性を示唆し始めている。中国も利上げを持続す
ることが困難になり始めている。中国人民銀行(中央銀行)は今年に入り、相次いで預
金準備率を引き下げ、緩和姿勢を明確にしている。これは人民元を意図的に低めに誘導
するためのもの、との見方もあるがしかし、国内の経済成長を維持するためには、人民
元レートを維持したくても利上げできないのが実情といえる。つまり今や人民元は上げ
る事も下げることも出来ない程国際情勢の中の輸出入に入っている。つまり、膨張する
政府や民間債務の負担から、米国と同じように利上げしようにも、身動きはできない。
例えば、中国政府は累増する国営企業の債務を圧縮するために、債務の株式への転換を
資金の貸し手である銀行に求めているほどだが果たして株式転換して誰が持とうか。実
はここに経済戦争の発端がある様に見える。中国の銀行は今までも中国国内の不動産の
貸付や企業の応援を政府主導でやって来ていた。しかし全くデタラメで支出と収入は、
中央政府に任せて、地方政府の言いなりだった。つまり共産党のお墨付きで土地開発を
やって来たのである。しかしそこで起こった事は人民の農地放棄で輸入に頼った利ザヤ
稼ぎだった。ではこの先どうするつもりなのか。実はロシアのプーチン政権にも米国の
トランプ政権は寄り付いている。つまり軍事と経済を分けてはいないようだ。それが為
にドイツのロシア産天然ガスの購入には大きな反対をしカナダのウランや黒鉛鉱石など
のロシア輸出なども意見している様だ。ところがこうした交渉を見る限り同盟国などと
言うのは名ばかりで何ら配慮はない。同じ様に日本の、北朝鮮問題、尖閣問題、北方4
島問題、あるいは、竹島問題を片付ける気は無い様だ。では何の為に北朝鮮との会談だ
ったのか。それはアメリカ本土に届くとされたミサイル停止の気休めだったのである。



1484: 名無しさんAA:18/07/17 22:34
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 24   

 KPMGインターナショナルが、2017年秋に、世界43ヵ国の主要自動車関連企業の
幹部レベル907名を対象に行った調査によると、2025年までの自動車業界の主要トレ
ンドとしてFCVが53%トップとして挙げられた。と発表した。また、2030年のグロ
ーバル生産台数予測は、EV3000万台に対し、FCV2600万台と、ほぼ遜色ない拮抗し
した結果をだした。(出典:「KPMGグローバル自動車業界調査」2018年度版)この意味は
かなり大きい。KPMGは監査部門に、世界の特殊オイルを一手に握っているビル・オ
マラ統括責任者としている。影に隠れた自動車業界の黒幕である。この頃メンバーチェ
ンジしたが、引き続き監査品質と監査における革新を担当し、将来のKPMGの監査を支え
るとされている先進の監査プラットフォーム「KPMG Clara」をはじめ、重要な技術変革
に力を注ぐ。と声明をだした。又数々のモーターショーや軍事展覧会を手掛けるジェー
ン・マコーミックも税務部門の統括責任者として継続して、このKPMGネットワークにお
ける税務の機能と事業の拡大に注力し、また、責任ある税務行為を行うべきとするKPMG
の役割を強調しつつ、新技術の活用に注力するとしている。アドバイザリー部門および
新規事業イノベーションの統括責任者としてマーク・グッドバーンは、引き続きグロー
バルアドバイザリー部門のヘッドとし、サイバーセキュリティ、デジタル・トランスフ
ォーメーション、テクノロジーの採用など、需要の高い分野に焦点を当て、クライアン
トによるビジネスチャンス獲得に向けた合併、買収または戦略的提携などを支援します
。ショーン・ケリーは数々の欧州自動車業界のヘッドや米国三大メーカーとの仲介者で
グローバル最高執行責任者として引き続きグローバルCOOとして、クライアント向け
サービスのより効果的かつ効率的な提供を目的に、KPMGネットワーク全体の連携に焦点
を当てた業務を遂行するとしている。どうやらFCVのトヨタ技術のホンダ垂れ流し策
が功を奏してこれから加速しそうだ。というのもホンダジェットの成功からであろう。
MRJが国産ジェットとして有名だがメーカーこそロールスロイスのジェットエンジン
だが、作っているのは石川島播磨である。つまり企業戦略の中で三菱と同時スタートし
てホンダの小型ジェットは米国運輸局の規格が通り、既に独自に販売数を伸ばしている
。この繋がりが信用を呼び寄せている。


1485: 名無しさんAA:18/07/17 22:35
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 25   
 EV技術がテスラや日産から漏れ出て中国で佳境の中、欧州ではフォルクスワーゲン
の排ガス不正問題で欧州自動車業界が揺れる中、実際の路上環境下のテストで、日本メ
ーカー3社を含む4社(メルセデス・ベンツ、ホンダ、マツダ、三菱)のディーゼル車
の排気ガスから、規制値を大幅に超えたと告訴された。VWで問題となったのは、法規
で禁止されている「検査用の制御システム」を使っていたからであったが、改めて検査
すれば、スロー状態でのNOxがどうしても出てしまう。BMWが試験用の制御システ
ムを使っていても出ても不思議じゃない。先にスズキが、ヨーロッパで発売されている
フィアット製のディーゼルエンジンに同じ疑いがかけられているが、相次ぐディーゼル
問題に、だれしも驚きと不信感を感じている中で、メルセデス・ベンツ日本株式会社は
ドイツ・ダイムラー社のディーゼル車のサービスキャンペーンをプレスリリースする程
である。つまり今や欧州のこの規制に合格するクリーンエンジンと広告するディーゼル
エンジンなど存在しない。と言う事になった。多くの購買者は自然に優しい排気ガスが
綺麗だ。として購入していたから、ここに大きな溝が出来たのである。こうした事から
は、欧州産業界は方針を変えた。世界の主要メーカーは、足元ではEVシフトを進める
一方、FCVを今後の最重要トレンドと位置づけ、開発・生産に踏み出す事に決めたの
だ。こうして日本とEUの経済連携協定(EPA)を求め、日本政府はこれに署名した
。又具体的にも、GMとホンダは昨年、燃料電池システムの量産を行う合弁会社を設立
した。新会社は、デトロイト近郊にあるGM工場内で2020年ごろから生産を開始し、両
社が今後それぞれ発売するFCVに搭載する予定だ。BMMは、トヨタと提携し本格的
にFCV製造に進出することを明らかにしている。2021年に小規模生産を開始、25年か
ら本格的な量産体制を構築し、その時点ではEV並みの販売価格を目指すとしている。
GM・BMWを初め欧米メーカーが、水面下でFCVの開発を進めてはいた。各国政府
はしかし、FCVの研究開発よりは、水素ステーションの整備に追われ、多額の補助金
を出して強力にバックアップしているものの水素輸送に難題があったのである。しかし
今や世界一のEV大国中国が、「製造強国」の国家戦略「メイドインチャイナ2025」に
、FCVの産業化と水素インフラの整備を進めることを明記して追い上げる中では、こ
の欧米には尻に火が付いた状態だ。地方政府レベルで、上海市が昨年9月「上海市燃料
電池車発展計画」を発表し、2025年に水素ステーションを50カ所建設する。FCV乗用
車を2万台生産、バスやトラックなどの特殊車両を1万台以上保有にするという目標を
打ち上げている。ここで中国車が追い上げてくれば、イギリスのタクシー会社同様欧州
の産業は成り立たない窮地にはいる。

1486: 名無しさんAA:18/07/18 01:26
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 26  

 こうして、今後の世界中の自動車メーカーを巻き込んだ「EVシフト」が一段落した
次には、官民一体となったFCV開発競争がヒートアップすることが予想される産業界
だが、恐らくトランプの頭の中は、自国の中の軍需産業とユダヤ金融資本の動きであろ
う。中東に対して、一応はエルサレムに領事館移動で賛意を示し、イエメン戦争をして
いるサウジすら武器売却はしたものの、銃器問題と兵器問題は根が深い。売るな作るな
とは言っても、ロシアがより以上の武器を作り、中国がより以上の売り込みをすれば、
当然どうしょうもない。ここが今の思案のしどころと思っているだろう。オバマの様な
パフォーマンス外交に乗じる気はない。と言って米国の危機は起こせない。イランの核
合意の危うさに声をあげたのも中東情勢の掌握が出来ないからだろう。と言って石油の
利権を手放すほどのおおらかさがアメリカにはない。もし日本技術で石油が要らなくな
ったとしても世界中に石油を欲する産業は多い。只サウジへ今払ってる金はサウジには
入らない様になるだろう。その意味では、サウジはイエメンに砲撃するのはやめた方が
いいのだが、あいつらは馬鹿だからイスラム対立は収まらない。と考えているはずだ。
今やシリアの情勢はソ連の防衛指揮下にはいりイラクはアメリカの防衛指揮下に入った
。日本人にはわかりにくいが、この二つは砂漠の中では境界のない大国である。勿論、
イランとサウジはより以上の大国なのだが。イランは438、317Kuで、日本より
少し大きく、山もあるが日本以上に開けた大地にある。バクダットは日本の古代より古
い歴史ある街である。又シリアもその交通の要所上であり、イラクの半分以下の185
、180kuとしている。元々オアシス国家の集まりであり、シリアと言う国はなく、
イスラエルに似た要衝の地で、各々の部族の長が治めてオアシス国家を守っていた。つ
まり、逆にアサド政権は祀り上げられた国王であり、中国の様に抑える事が不可能な力
であれば、その部族長達の意向を無視する事は出来ない。即ち中東に於いてアラブの春
などと言う革命は無理なのである。かつてのイランイラク戦争でも、シリア・バアス党
とイラク・バアス党は政治対立になった。イラン・イラク戦争ではイラン支持に廻り、
湾岸戦争ではシリア軍が多国籍軍の一員としてイラクに侵攻するなど、対立の時代が長
く続いていた。基本的に日本軍が統一していない中国大陸に進軍した事と同じで民主化
勢力がいくら政府を倒してもリビア革命と同じにどうする事もできない。

1487: 名無しさんAA:18/07/18 01:27
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 27  

 それを知っていたのがロシアのプーチンなのであって、だからこそアサドを守ったの
である。この中東情勢が最終的には世界経済を握る可能性は高い。今でも石油資本の元
となって今までの世界の経済戦争の中心にいたのだが、リビア原油とイラン原油が回復
してその後の経済発展の国はやはり発展していない地下資源の国となり、アフリカ又は
中東しか残らない。南米にも石油は産出するが緑の資源を犯す程になく、洗剤用の椰子
の実だけで充分国際的シェアを持つ。対してアフリカは鉱物資源もとれる。となれば、
中東は石油しかない土地柄なのである。つまり最後まで発展しにくい土地となる。ここ
が問題である。水さえも売れる国なのだ。砂漠の中で日本以上の土地を持ちながらも、
日本の10分の1程の国民が宗教戦争に明け暮れ、生活できない避難民が欧州に溢れて
やって来たのだ。穏やかな話ではない。よく日本の中の評論家は北朝鮮外交に対して、
ロシアや中国を味方につける様な言い方をする馬鹿がいる。別に敵になれとは言わない
が借り貸しなどぞんざいしない国に何故借りを作ろうとするのか。今や北方四島までも
ミサイルを配置するロシアである。ならばすぐに北海道に3ヶ所ぐらい対抗ミサイルを
配置し建設すべきであろう。キューバ危機の様になってでも自衛隊は外交も含めて自衛
の為の阻止を首相は命令すべきだったのだ。それを何をにこにこと能無しのように握手
して経済援助を申し出ているのだろうか。安倍外交の破綻である。物が言えると言う事
は八方美人で会えると言う事とは意味が違う。景気対策も同じである。税を上げるとい
う理由は税収が少ないからで、それを保税担保に補助事業を増やして国債発行して国家
予算の実利を減らして、孫の代すら借金倒れになるのであれば、そのまま税をいじらず
2〜3ヶ月もすれば、リーマンショックも薄れ景気回復したのである。本末転倒である
。何の為の税制か、誰の為の国家か。なにも議員の為ではない。この意識は米国民は、
常に持っている。かつてのオバマ時代に予算通過がしばしば途切れて、国会図書館の公
務員の給与すら延期になった。しかし その予算すら日本の様な、リミットオーバーの
予算ではない。僅かの超過予算だったし、国民皆保険の審議だったのである。この意識
の違いは日本の議員は見習うべきであろう。そうした意識でトランプ戦略をみれば、実
に優柔不断の政策を取っているかわかる。つまり北朝鮮など気にする必要はなく中国に
寄り付かない日本を堅持する事の方がより大事なのである。つまり韓国米国に任せれば
いいのであって、北の為に中国にすり寄ることなどもっての他でありロシアが強制収用
の捕虜を酷使して50万以上の死者を返す事すらしていない責任を今だ取ってない事を
自民党や安倍は追及すらしていない。

1488: 名無しさんAA:18/07/18 12:08
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 28  

 しかし、この貿易戦争は、変わった戦争である。かつて日露戦争後の頃、缶詰輸入を
しようとした米国に日本が鉄が少なかった為に国が規制してNOと言ったが、そんな風
な時代の様な雲行きである。これまで、日本人は世界の食料事情について、盛んに先生
や評論家から、日本は多くの食料を輸入している。食料を輸出している国が食料を輸出
してくれなくなると飢えてしまう。だから、食料自給率を高めなければならない。と、
政府を上げた話であった。しかし、今や話は違うらしい。中国政府は4日、米国が対中
制裁の品目案を公表したことへの報復措置として、大豆や自動車など106品目の米製
品に25%の追加関税を課すと発表した。しかし大豆は米国に代わる輸出国を見つけた
り、他の農産物置き換えることが難しく、中国は国内企業にも痛みを強いることになり
そうだ。と報道される。大豆は中国の対米報復制裁で最大の「武器」とみられている。
対中輸出が落ち込めば、アイオワ州を初め、米大統領支持の農業生産の盛んな州を直撃
する。米国の昨年の中国向け大豆輸出は120億ドル相当で、対中農産物輸出では最大
の品目として上がる。現在中国は世界で世界の取引大豆の約60%を輸入し、家畜飼料
用の大豆ミールに加工しているとされる。アジア首席エコノミストのマーク・ウィリア
ムズは「米国を除くと、世界には中国の需要を満たすのに十分な大豆はない」と指摘さ
れ、「中国が輸入への依存度を引き下げる場合、いくつか選択肢はあるが、中国国内で
国内でコスト増を回避しながら米国の農家に打撃を与える特効薬などない。」と話す。
つまりどんなにしても、中国国内の大豆の値段は高くつくだろう。と言う訳だが。その
高くつく国内産に切り替えよ。と言う訳になる。しかし農産物は直ぐには生産されない
。当面は輸入に頼る他がないはずだ。それを国内於いて輸入関税かけると言うのである
。中国の昨年の大豆輸入は半分はブラジル産だが、米国産も約3300万トンと約3分
の1に達している。これだけの量を他の国からの輸入で穴埋めするのは容易ではない。
世界第3位の大豆生産国であるアルゼンチンは干ばつに見舞われ、18年度の輸出は7
00万トン弱と、過去10年で最も少ない量とされ今年も旱魃に近い状況だ。ブラジル
、米国、アルゼンチン以外の国からの輸入も約1700万トン、生産国は限られる。こ
の輸入関税は、これまで中国もアフリカ諸国やソ連の中東に同じ様な圧力として用いら
れては来て、安価な石油や安価な鉄鉱石などを入れた。米国の溶鉱炉解体もそうだった
。自国の作業員で大型サイロを解体して船で運び入れた。この時も安くしないと買わな
い。だったのだ。中国国内に鉄製品が無い事で大弱りしているにも関わらず。である。

1489: 名無しさんAA:18/07/18 12:09
 正に日本農業の様な蟻の様な国には出来ない象の戦いみたいなものだ。中国国内の大
豆生産量は約1400万トンだが、主に食品向けで、輸入大豆は大豆ミールに加工して
いると言う事で米国産も約3300万トンが3割とすればおよそ1兆tonが中国国内
の消費量と言う事になる。極めて大きい数字だが、これが家畜用とすれば直ぐには影響
は出ないと思われる。とばっちりは日本に来ている。既にブラジル産大豆飼料は上がっ
ているのだから困ったものだ。米国大豆輸出協会のアジア部長のポール・バーク氏は、
「中国が国家備蓄した大豆を放出するだろう。との見方がある。」としながらも「こう
した政策に踏み切る可能性はあるが、中国の備蓄量は分からない。」と述べている。と
なれば、米国は米国産牛肉を買わせるための戦術なのかも知れない。専門家によると、
中国には大豆の戦略備蓄を放出したり、家畜用飼料における大豆ミールの配合比率を変
えるなど、国内で打つことができる対応策もある。と言う。飼料メーカーの一部は大豆
ミールに代わる原材料探しに動くなど、密かに対策を進めている。飼料メーカーは中国
国内でだぶついているトウモロコシやトウモロコシ蒸留かす(DDGS)、エタノール
生産の副産物、菜種、綿の実などの配合比率を高めるかもしれない。と話す。日本では
こうした事は行われていない。かつては各地域農協に低温倉庫の備蓄が決められていた
が、政府の馬鹿な農業改革で、あっけなく規制を解き維持できなくて解体している。そ
れでも主食の米であったのだが。この流通に乗って食料備蓄を止めたのは馬鹿の自民党
政府である。家畜飼料でさえ備蓄する中国は日本より偉いと言える。その理由は家畜用
飼料限界とされるのタンパク質の水準が他の配合だとしても維持するのは難しいからだ
。DDGSの配合比率は20%程度が限界で、菜種も飼料に不向きの物質を含むことか
ら豚用飼料としては5%が上限。しかも雌豚や子豚には与えられない。今や中国も食肉
はオーストラリアやドイツなどから輸入してだぶついてはいる。いつぞやは汚染された
地下水を飲んだ豚が何万頭か死んで死骸の処理に困って川に捨てた事件が発生したが、
幼児の粉ミルク同様廃棄されていたのかも知れない。飢餓問題研究所では豚肉1sで、
一般人60sの野菜の量が必要とされる。つまり豚一匹に凡そ人の一生分の野菜である
それでも豚1sは人の食料4人分で、牛は10ki分のとうもろこしをたべて、1ki
を作り出し10倍すなわち10人分。つまり、牛肉1キロを作るために、10キロの穀物を必要とします。牛肉で養える人数を一人とすると、穀物で養える人数は十人と言う事に
なる。更に体重の中の水分や血や骨や内臓は食しないのでおよそ20〜30倍の食料が
必要とされる。更に高品質の牛の肉などは個体差、温度差によってもっと少ないことも
多く牛肉1sに30kgの穀物が消費されている例もあるので40〜50倍という試算も
可能だ。乳牛も同様で、牛乳を作り出すために飼育されている搾乳牛は、最も穀物消費
量が多いとされる。

1490: 名無しさんAA:18/07/18 12:11
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 30
  
 日本はヘンな国で、かつてはビフテキやステーキを食べる豊かな欧米人が、ふりかけ
ご飯でアジの開きや焼サンマを喰うものか、箸すらも使わないで銀のスプーンなのに。
と勝手に思っていた。事実その頃の欧米人は高カロリーの肉食者は多かったが、近年の
中国の進出でサンマ一尾1万円で競られ、土用のウナギすら高級品の世界に変化した。
ウナギのかば焼きは江戸時代醤油が出来て、食べる物の無い谷間の集落の仕方ない食い
物としてかば焼きにしたのである。身が少なく料理しにくく何回もあぶってやっと美味
く食べる方法を見つけた。と言う曰く付きのもので、納豆や梅干しと同じ非常時の食べ
物だった。牛肉は日本では田畑を耕す家族の様な物で、そうそう食する物ではなかった
。インドと同じく神様だったからだ。鶏の卵すらも大事な売り物でしか買われなかった
。南米などの貧困地域での飼料用穀物が多く生産されて、この穀物は遠い日本やヨーロ
ッパの動物の餌になっている現実がある。日本は多くの飼料用穀物をアメリカから輸入
しているが、中にはこうした最貧国の農場の近辺に住む人々の手には入らず日本に来て
いる物もある。日本が海洋国家だったからこうした高度成長を果たした豊かな国になっ
たのだが、これを中国も真似て恐らく貿易国家としての夢を果たそうと考えている。が
しかし、それは無理だ。海すらも中国人の貪欲で脳無しの獲り方に七つの海の生物は居
なくなっている。つまり彼らに「足るを知る」と言う文化はないのである。もともと、
ロシア米国中国などは国が広すぎて人を管理できない中にある。日本の税と米国の税に
は違いがある。それは軍も同じで、彼らには産業であり未開を征伐する金に税がある。
日本の様な社会インフラの充実になどと言う事は無い。共生生活よりは盗賊生活を重ん
じた文化である。土地が広大で逃げるに海でストップする環境ではない。かつて2X4
の発祥は「車で家を担いで州をまたぐ。」という発想からであったと教わった事がある
。即ち州法の違いが多く、借金で逃げれば捕まらないかぎり安全だからだ。すなわち借
り逃げで法的には所払いの刑なのである。中国も同じ様で、その為都市住民と農村住民
とは当初から仕分けされ住民票を移す事は出来ない。生まれた所が永住の地である。日
本の江戸時代の関所より厳しい中国で企業も同じだ。基本的に、出資に対する規制で、
中国で現地生産しても、単独出資による現地生産会社の設立は認められない。必ず中国
の現地人と提携し、合弁生産会社を設立しなければ商売は出来ない。その際の、外資系
メーカーの出資比率は過半数を超えられず。過半数未満の出資比率で現地メーカーと手
を組む形で乗っ取られる。又外資系メーカーが提携できる中国メーカーは2社までとい
う狭さで経済破壊の国を守っている形だ。これではトランプが怒るのは無理はない。

1491: 名無しさんAA:18/07/18 14:42
米国は 出来るだけ早くイスラエルに原爆を落としてユダヤ人を殺したが良い。彼らに
悲しみなどと言う 人間愛は無い様だ。世界を悪化させるだけだ。



1492: 名無しさんAA:18/07/19 13:33 ID:iPk
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 31

 そもそも今回の貿易戦争は、習近平が中国人向けの虚妄から出て居る。「中華の夢」
をおったてたのはまだ国家主席の席の前の解放軍を前にした演説だった。「中華中心主
義思想」の中心でもある習近平は、「陸・海・空・宇宙・電脳空間」いずれでも負けて
はならない。と叱咤激励したのである。今ではこの経済優位を盾に「一帯一路」をうち
出し、中国は2050年までに「国家として総合的な力を確立し、世界に大きな影響力を及
ぼす国際社会のリーダー」になるとし、米国を仰臥すると言っている。中国の夢の延長
でもある。国内な事情を考えて「中国が米国を上回るような大国になる」と言い始めた
ことが今の事態を作っている。情報統制を今でも行われ、庶民はこの程度のことは理解
しているだろうが。その庶民が、豚肉の価格がアップすれば「習近平が余計なことを言
ったために自分たちの生活が苦しくなった。」と思う事になりそうだ。これは習近平に
とって最悪の事態である。習近平は、かなり無理をして中国の中に独裁的な地位を維持
している。しなくても良かった貿易戦争をトランプ政権と行う羽目になり、その結果と
して豚肉価格がアップしたとなれば、その失政を対立派閥(共産党青年団と江沢民派)
に突かれること元にもなりかねない。報復関税の対象として大豆が真っ先に上がったこ
とから考えても、米中貿易戦争において中国が持つ武器は限られている。米国はその辺
りを冷静に見極めて、貿易戦争を仕掛けたと思われる。報復関税をして国内に政府が補
てんするなどという“ドタバタ”を見れば、中国政府の慌てぶりがよく分かる。この辺
りのことから考えても、米中貿易戦争は米国の勝利に終わると踏んでもよいだろう。が
しかし、である。中国はそんなに甘くない。かつても守るべき人民の生活や死も厭わな
い「清野作戦」が唯一の共産党のゲリラ作戦だった。つまり略奪強姦何でもありでその
後に集落ごと焼き尽くして原野にしてしまうのである。この何でも構わない無茶苦茶な
戦争でもない匪賊として鬼畜の様なのやり方に日本軍は住民を見て涙した話は多い。だ
からこそ、一般人が乳児さえ預けて中国残留孤児を作ったわけだが、今回も世界事情が
どう悪化するかは不明である。つい最近までアフリカの奥地に行ったビジネスマンは、
軍事政権とタイアップして同じ事を行い、スーダンの石油やエチオピアの金を輸入して
いた様だ。今では、コンゴの宝石などがウガンダの鉄道を使いジブチ経由で輸入する。
面白いのは今やアフリカの象牙がマンモスの骨と一緒にロシア経由で長春に送られてい
る事だ。つまり黒竜江省がアフリカ資源の入口でトラックで陸送されている事だ。


1493: 名無しさんAA:18/07/19 13:34
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 32

 現在は地球上にある金18万トンに対して、基軸通貨の流通量は5倍の通貨が出回っ
ている。とされる。中でも中国通貨は2割を超えている。ドルショック以来に金本位制
をやめて強制通用力で原油通貨として回した。その後は金本位制に戻さず、政府や資源
の信用で流通する信用通貨で現在は回っている。つまり不換紙幣であって金銀との兌換
が保障されていない法定紙幣なのだが、中国は今正に今後の為にアフリカの盗掘を進め
ている節がある。つまり今、中央銀行などを流通している政府の信用紙幣は、世界をぐ
るぐる回すことしか能がない証紙であると言える。この金72万トン分の空売り分をど
うするかが問題で金融連合を救済する目的も兼ねてこの裏付けのない分を仮想通貨に肩
代わりさせようとしている。日本から始まったゼロ金利政策だが、いずれ世界の趨勢に
ならざるを得ない。何故か世界資本に拡大の要素がないからだ。確かに地下資源や鉱物
利用は機械化と共に拡大している。しかし生物資源は減少の一途で増える傾向にない。
第二次世界大戦時も欧州社会は既に食料調達は切れていた。ただ新たな芋やトマトなど
の新しい植物とアメリカと言う広大な原野によって供給した。又日本は北海道や中国や
朝鮮に農地開拓をして増産を果たした。歴史的に我々が間違いやすいのは世界恐慌が、
まるで株価操作によって起こったかの様に言われている事だ。実はその前年は天候不順
で穀物特に小麦は大きく不作だった。ソ連の改革時代スラブ地方の小麦収穫は例年の8
割りにも満たない事が次々に起こっている。フランスやドイツは他の海洋国と違いこの
スラブの小麦に大きく依存していた。世界恐慌(せかいきょうこう)とは、世界的規模
で起きる経済恐慌であるとされるが、クリミア戦争が終結した時に穀物価格が急落した
ことにより1857年に起こった。この1857年恐慌時代に大勢の浮浪者が産まれてアメリカ
に渡った。通史的には1929年に始まった世界大恐慌をさすが、1928年に既に1月1日
エストニアが通貨マルクをクローンに変更するぐらい小国は疲弊していた。1月7日には
ロンドンのテムズ川が氾濫して大騒ぎになっている。14人が死亡が氷山の解氷で死ん
だ。しかし1843年から干上がりって、雑草で草生していたロンドン塔の堀が津波によっ
て完全に水に満たされたとしている。


1494: 名無しさんAA:18/07/19 13:34
      世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 33

1900年代は、飛行機の幕開け時代だった。1903年ライト兄弟が飛行機による最初の
有人飛行を成功させ。1917年チャールズ・リンドバーグに対し、大西洋単独飛行の功績
を讃え名誉勲章授与された。今までにない華やかさの陰で、アメリカ合衆国大統領の、
ウィリアム・マッキンリーが、パン・アメリカン博覧会の会場で暗殺されている。暗黒
の米国時代の幕開けでもあった。日本は1905年の日露戦争・日本海海戦に勝利して列強
入りを果たしたとされる。しかし自然の猛威は所を選ばずどこでも起こった。1906年に
サンアンドレアス断層を震源として発生したサンフランシスコ地震は、サンフランシス
コの市街を破壊して約3千人が犠牲となった。この中にも日本人は数多くいたとされる
。パナマ運河の掘削。米比戦争後、1902年フィリピンは米国の植民地となった。昭和天
皇の即位の礼挙行し11月14日大嘗祭挙行で日本が浮かれている頃世界は各段に大変化を
起こしていたのである。共産精神としてコミンテルンが輸入され「日本問題に関する決
議」がいわゆる28年テーゼの「マルクス主義」が起こっていたのだ。この共生共産思想
はアメリカ国内では既に広く渡っていて、強大な共産思想で資金を得て、パナマ運河や
巨大ため池セントフランシスダムなどの建設が行われていた。土地開発が進むロサンゼ
ルスで、需要に対応すべく大規模なダムだったが、水を入れる段階で、既にいくつかの
亀裂が見つかり、その後も亀裂や漏れが度々発見されていた。 1928年3月12日の午前中
、ダムの設計者マルフォランドが定期検査を行ったその数時間後ダムが決壊した。4700
万の水がロスの北、サンタクラリタバーレに流れこみ、建物10階分の高さの水の壁が
時速29キロでサンタクララを襲い、ベンチュラ郡の多くも最高で21mの泥の下敷き
になり、432人が死亡した。サンタポーラの街も、6mの泥と瓦礫の下に埋もれ設計
の欠陥が指摘された裁判になった。4月22日 - ギリシャのコリントで大地震が発生し、
20万棟の建物が倒壊。ノビレも乗船していた飛行船「イタリア」が北極点付近で墜落。
張作霖爆殺事件(満洲某重大事件)ネブラスカ州ポッターで世界史上最大の雹が落下。
12月21日 - アメリカ合衆国議会、ボールダー・ダム(後にフーバー・ダムと改称)の
建設を許可する決議を採択と続く。こうした事は異常気象による対策の歴史であり、時
の不条理な歴史を織りなしている。


1495: 名無しさんAA:18/07/19 13:34
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 34    

 今では地球は温暖化に向かっている。というのは主流で確かなことのようだが、歴史
の上では、話はそんなに単純なことではないと言う事の様だ。そもそも地球は誕生以来
、大小様々な気温の変化のウネリの中にあって、常に「気候は大きく変動してきた」と
いうのが常識のようだ。「異常気象」という言葉は、気候が大きく変動していく中では
、常に気象に「異常」というものはなく、「普通」という意識が重要となりっている。
「気候文明史」を読んでみると、歴史的エポックの背景には、常に異常気象や天候不順
、自然災害が存在している。氷河期から現代まで、気候が与えた人類の文明や歴史には
意外な事実と影響があった。例えば、スペインのペルー征服も実は第一回航海が逆風で
パナマからは通常は一気に南下出来なかった。保々の体で流れ着いたのペルーだった。
北上している逆流のペルー海流と、逆風があったため、航海の環境は厳しいものだった
ので次から来れない所と思いきや、数年ごとに発生するエルニーニョ現象や偏西風の蛇
行の変化、十年ごとの太平洋の海面水温の上下動、数十年・数百年といった単位での、
太陽活動の変化といった大規模でゆっくりとしたうねりは、各大陸、北半球・南半球さ
らに地球の気候全体を変える力を持っていた。「エルニーニョ現象」が起きて貿易風が弱
くなり、ペルー海流が逆流になる上豪雨になったのだ。こうして遠征の年は、まさにこ
の「エルニーニョ現象」の年だったので、タイミング良く3回目の遠征時に来た「エルニ
ーニョ現象」の餌食となって大軍勢のスペイン人に滅んだのである。「元寇の大風」が
日本を守る神風となりましたが、ペルーにとってはエルニーニョが逆風となってしまっ
たのだ。しかしこうして歴史さえも変えてしまう異常気象も、わずか2・3度の水温の
上昇した海面で起きてしまった。なぜ、こんなわずかな変化で、海流・気候が変わるの
か。実は逆で膨大な宇宙との熱の出入りの変化があるのだが、水の量や空気によって、
僅かな2〜3度の変化で済んでいると言う訳である。まず、地球の気候について、様々
時間的周期変動がある。太陽を回る地球の公転軌道の離心率の周期的変化から、地球は
10万年サイクルで氷河期と間氷期を繰り返している。最後の氷河期は約7万年前に始
まり約1万年前に終わったとされる。最終氷期に旧石器時代が訪れ、土器を作る文明が
始まった。そして現在は、次の氷河期が来る前の間氷期という温暖な時代の中にあると
される。ここ2000年の間には、太陽活動の強弱と巨大火山噴火により寒冷期と温暖期を
繰り返してきたことが解っていて、寒冷化、温暖化、干ばつ、火山噴火は常に起こって
いるそして有史以来、人類はこの気候変動に起因する「異常気象」なるものとの戦いを
繰り返してきた。

1496: 名無しさんAA:18/07/19 13:35
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 35

 人類の歴史の中には森羅万象ありとあらゆるものが変動要因になっている。とりわけ
、太陽黒点周期や、気候変動は、景気変動や経済活動との関係があると言われている。
経済活動には、日々の習慣の食事もあるが年間の四季と言う季節もある。一般的には、
約40ヶ月の在庫循環(キチン循環)約10年の設備交換、太陽黒点周期(ジュグラー循環
)住宅や施設建替え(クズネッツ循環)環境破壊や都市機能移動(コンドラチェフ変化
)などを人々は起こして来たとされている。これが災害で変化するのである。近年の古
気候学の研究では、太陽活動は数百年単位で活発化し、あるいは低下して地球の気候は
数百年単位で変動することがわかってきてこうした循環説が唱えられるに至った。つま
り見えなかった循環が災害が無ければ周期的に起こったであろう。とされ逆算されて、
戦争や紛争が、又太陽活動変化で巨大火山噴火を起こし、噴火による「火山の冬」の到
来など、火山噴火自体も又地球規模で気候に影響を及ぼしてきたことも判明した。そし
てその度に人類が築き上げた文明は興亡を繰り返してきている。太陽活動の強弱と火山
噴火は太古の昔から地球規模で気候の温暖化・寒冷化をもたらす大きな要因であったわ
けでこれに海流変化が加わる。この3つの要因による気候変動の歴史と日本列島や世界
の気候変化は無縁では無い。地球規模の気候変動は日本列島付近の気圧配置を変えたし
、夏季の太平洋高気圧の外縁を時計周りに流れる南西モンスーンの勢力に変化を与え、
冬季の寒冷なシベリア気団の動向に影響を及ぼしてきた。また、北半球を一周する偏西
風が大きく蛇行させ、寒冷低気圧が日本列島を覆って異常低温をもたらし、オホーツク
海からの北東風による冷たい寒気が東日本の太平洋沿岸を襲うことも近年立証された。
こうしてもたらされる豪雪豪雨は世界規模だ。こうして出来る気候変動は、天候不順や
異常気象をもたらす更なる主たる要因になる。日本列島においての、温暖な時代に干ば
つの到来で凶作となる時には、世界も又同じだった。寒冷化すると冷夏・長雨によって
飢饉に見舞われることになった時、天候不順は疫病を大流行させ、社会不安や戦乱の要
因ともなってきたわけだが、欧州のとりわけ東欧のスラブ民族や中東の外れの大洪水な
どは大いに貧困や戦さを呼び日本にさえ影響を及ぼした。


1497: 名無しさんAA:18/07/19 13:35
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 36
  
 さてここで問題である。この災害に誰が対応するか。と言う疑問である。これまでは
大半は欧米社会が救済して来た。これまで地球上は古代には四大文明が世界を建設を始
めた。その後欧州社会のルネッサンスや産業革命でスペインやイギリスが台頭して世界
をつなげた。世界に大きな戦争を起こして後は、米国が世界の覇者として経済のモデル
事業を興した。オバマが世界の警察官を止めたと発言した後、今後の流動人口からは、
直ぐには来ないが中国が覇者に来るのは間違いないだろう。日本で起きた大きな食料危
機は1918年の米騒動と終戦後の食糧難だ。共通しているのは、米や食料品価格の高騰で
ある。供給が需要を満たさないので、価格が上昇した。輸出の急増、生産の大幅減少と
いう一時的、突発的な事由による出来事であった。世界の食料危機としては、1973年、
2008年の穀物価格高騰が挙げられる。これも、世界の穀物生産の減少やソ連の大量穀物
買い付け、アメリカの政策変更によるトウモロコシからのエタノール生産の増加という
一時的な事由によるものであった。これらの食料危機は、いつもは穀物や食料品の価格
が低いのに、天候不順などの何らかの突発的な理由で需給のバランスが崩れ、価格が急
騰するというものである。これは、槍のように突出することから、「市場の棘」とされ
ている。世界各地で開催される農業や食料の国際会議で、決まって言われることがある
。「2050年には世界の人口は現在の74億人から96億人に約3割増加する。さらには経済
発展で一人あたりのGDP増加で、都市化も進展するので、穀物をエサとして生産され
る肉や乳製品など畜産物への需要が高まる。これは穀物の需要を大きく増加させる。総
じてみると、世界の食料生産を6割程度増加しなければならない。」などとというもの
だ。この見解を広めたのはFAO(国連食糧農業機関)である。又同じ資料から日本の
農林水産省も同じような見通しをいう。否、この話は世界中の専門家たちが同じような
事を言う。しかしこれに対して、歴史的にはやがて生じると言われる食料危機は、恒常
的に供給が需要の増加に追い付かないという構造的な理由から、価格が上昇していくい
うものだが、結果はそうはなっていない。これまでの食料危機は殆ど政治的経済的な、
一時的、一過性のものであった。のである。これまでの物価修正をした米国農務省の統
計は、トウモロコシ、小麦、大豆の過去約百年間の国際価格の推移は一般的な物価水準
からは、実質的な価格はむしろ下がっている。物価修正というのは、インフレやデフレ
という要素を除いた実質価格下落でも国際メジャーは潤っていたのだ。一時的な「棘価
格」はあるものの、価格が傾向的に下がっていることは間違いない。人口の増加は4倍
を超える。これこそ人口爆発と呼んでよいのに、恒常的な食料危機は起きていないのだ。

1498: 名無しさんAA:18/07/19 13:36
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 37

 食料危機が起きる可能性は少ないのに、なぜFAOや農林水産省などは食料危機を煽
るのか。食料危機の際には政府によって最も不利益な扱いを受けるはずの農業業界であ
る。最も声高に食料危機への対応を求める。このような不思議なことがなぜ起きるのだ
ろうか。理由は単純である。日本の農業界だけでなく、FAOに代表される世界の農業
生産業界にとって、食料危機を叫べば、生産を増やすべきだということで、農業保護を
目的とした彼らの組織への予算の増加が期待できるからだ。食料危機は、農家が最も利
益を得るの時期である。餓死者も出た戦後の食糧難時代、日本でも農家はヤミ市場に農
作物を売って大きな利益を得ている。小作人は土地を分捕り飢えに苦しんだ都市生活者
は農家の庭先に出かけて頭を下げた。高飛車な態度の農家から、貴重な着物などと交換
に食料を貰い受けた。着るものが箪笥からだんだんタケノコの皮を剥ぐように無くなっ
ていくことから、「タケノコ生活」と呼ばれた。インフレで減価する円よりも農産物の
方が、はるかに購買力があるという不思議な時代だ。 農家にとっては一時の繁栄が、
宿った。だが多くの人にこの時の農家の対応を今も根に持っている人は少なくない。食
い物の恨みは消えないのである。ちなみに、輸入がないので、このときの食料自給率は
百%である。今では僅か38%である。食料危機への対応や食料安全保障は本来消費者
が主張することであって、農家や農業界が主張することではない。これらの目的のため
に食料の安定供給という義務を課されるのは農家である。終戦時は、増産や政府の供出
という不利益処分を強制されたのである。それでも彼らは補助金の為に政府予算の為に
叫んで止まないのである。同じ様な構図に安全保障がある。即ち兵器を作る軍産企業体
である。彼らは戦争が無ければ開店休業で、政府支出が無ければお払い箱となる。その
為日本の高度成長期にミサイルを飛ばすのに作られた6$ベアリングが、日本のビデオ
機器に使われた0.5$のベアリングに摩耗率回転精度など全てに劣っていたという。
食料危機の際には政府によって最も不利益な扱いを受けるはずの農業界が、あるいは、
戦争になれば、保証も年金もない社員兵士となるのに、最も声高に食料危機や安全保障
の危機を叫ぶ。このような不思議なことが起きる。     

1499: 名無しさんAA:18/07/19 13:36
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 38
 今後の人口推移の予測では、およそインド・パキスタンと中国で 世界人口の半数と
なる。今や中国は地道にこのインド洋海域の海運ルートとその産地である南米と豪州、
更に資源のあるアフリカの海路のの港を着々と浸食している。パキスタンのグワダル、
バングラデシュのチッタゴン、ミャンマーのシットウェー、さらに今回のスリランカの
ハンバントタなどで、中国の大規模な資本投資による近代港湾施設が建設されてきた。
かつてのコロンボと言われたセイロン島のスリランカでは、3億6千万ドルにも上った
ハンバントタの新設港の第一工期費用は、借款として85%を中国政府が支援し、建設
も中国の国有企業・中国港湾工程公司が担当した。質の高い乗客用ターミナル、貨物取
扱所、倉庫、燃料積込地、食糧供給、メンテナンス・修繕設備、医療供給、決済設備な
どを備えているという。総工費15億ドルの 巨大なインフラ・プロジェクトであり、
スリランカ経済を一転させる設備として、マーケティングが展開されてきた。しかし、
実体は返済しきれない負債を負わせ、中国の経済、軍事、政治事情に従わせる、いわば
「借款トラップ」でインフラは中国融資とは名ばかりの高利貸付のヤクザ商法で、中国
の利益を生み出す目的で建設された。たとえば、スリランカ南部のハンバントタ港は、
2010年、中国側から建設費用の85%を借款して、国有企業・中国港湾工程公司が建設し
たが、年利6%以上の高利で、わずか「一日一隻」という利用率だ。この港から北へ30
キロ、マッタラ国際空港がある。同じく建設費の9割ほどが中国の融資で、中国港湾が
建設担当。しかし、蓋を開ければ開業後の月の収入はわずか 約1万5000円程度。米フォ
ーブスに2016年「世界で最も空いている国際空港」などと評された。コロンボ港に突然
中国の潜水艦が寄港し「スリランカは中国の植民地ではない」と、国民の強い反発を買
い、合意は一時棚上げされたが、ハンバントタで、現地市民や僧による中国資本の開発
に抗議するデモが発生し、軍が放水で強制解散させ、軍事開発と疑われた中国資本によ
るコロンボ港整備工事は中止させたもののそれで終わった。止められない赤字拡大で、
2016年に再開を認めたのだ。さらに今年はじめ、スリランカ政府と中国政府によるハン
バントタ港の運営権の99年貸し出し契約案が正式に交わされた。合意内容はスリランカ
海軍の担う治安警備の権限を、中国側が全面的に行うとの内容だった。つまり中国に、
この港を只で貸す為に住民と闘争して港を作ったようなものだった。 2009年5月に25年
以上にわたる紛争が終結したことを踏まえ、国の安定化に基づく成長戦略を掲げており
、2011年の実質GDP成長は8.2パーセントを達成するなど、本格的な成長期にありながら
。観光業をはじめとする各種産業が成長する一方で中国の毒牙にかかって経済停滞した
形である。そして借金は安くなったのみだったのである。

1500: 名無しさんAA:18/07/19 13:37
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 39

 実は南米とアフリカには日本の耕作地の百倍ほどの耕地が残って居ると言われている
。現実的には中国国内の砂漠化する耕地を農地に変えられれば同じくらい何千万Kuか
かの耕作地は作れるかもしれない。となるとこれまた中国は10〜20年程度と違い、
百年〜二百年先の食料事情を考えているのかもしれない。人口の比率では中国13億イ
ンド13億人 アメリカ3.2億人インドネシア2.6億万人ブラジル2億人で上位を占め
る。あとは2〜1億人でそうそう多くはない。中国とインドで、世界人口全体(192
国と42地域ある)の4割、上位10ケ国で6割を占めている。つまり今後世界人口の
半数はインド人か中国人なのである。ヨーロッパのEU27カ国全体でも合計で4億9
千万人で5億人ぐらいでおよそ中東から移民をいれてもインド人や中国人の半数もない
。如何に巨大所帯の国かと知れるだろう。人口的や産業的には例えばEUと米国が同じ
程度でありカナダ豪州日本を入れてEUと米国をまとめ上げればやっと中国と同等人口
となるここではじめてインド:中国:西側諸国と並ぶ世界になる。こう考えれば、既に
アメリカと中国の覇権争いがあっていて、如何にこれからのルール作りをしていくのか
に問題点がある事が浮き出てくる。ここで今日本がすべきことは決して米国も中国も、
覇道を歩かせないことだ。欧州と同じに秩序ある王道を指導し先導しなければならない
。何故なら今後先進国は少子化現象は続きどんどん人口は減る。勿論インドや中国にも
災害や気象変動などで2割程度は被災はするだろう。しかしそれは世界共通のものだ。
日本が一億人でも10位程度だから11億程度がその間にいる事になる。その殆どが、
平均的に寿命が伸び、出生率の低下する。これは、高齢者の割合が増えることになる。
現在、60歳以上の人は世界全体の約12%で、この割合は年々増えている。2050年までに
、15歳未満の子どもと60歳以上の成人がおおむね同数になり、労働力の点では経済に悪
影響を与える可能性がある。ところが人口密度から言えば、東京は1kuに6千人であ
る。香港やシンガポールも同じに東京より多い。モナコが何故か16244人/kuと
多い。バチカン1782人 /kuとされ、日本全体では343人/ku  アジア13
1人/kuアフリカ34人/ku   ヨーロッパ32人/ku  北米22人/ku
南米22人/ku オセアニア4人/kuで  世界平均の51人/kuより遥かに高密
度で生きて居る。日本と同じなのが 韓国485人/kuで はるかに多いのが バン
グラデシュ1127人/ku と記録される。


1501: 名無しさんAA:18/07/19 13:39
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 40   

 では中国はどうか。全体では解らないが 都市の密度上位ランキングでは下記の様だ
インド・ムンバイ (人口密度・2万9650人、総人口・1435万人、総面積・484ku)
インド・カルカッタ(人口密度・2万3900人、総人口・1270万人、総面積・531ku)
パキスタンカラチ (人口密度・1万8900人、総人口・980万人、総面積・518ku)
ナイジェリア・ラゴス(人口密度・1万8150人、総人口・1340万人、総面積・738ku)
中国・深セン   (人口密度・1万7150人、総人口・800万人、総面積・466ku)
韓国・ソウル   (人口密度・1万6700人、総人口・1750万人、総面積・1049ku)
台湾・台北    (人口密度・1万5200人、総人口・570万人、総面積・376平方ku)
インド・チェンナイ(人口密度・1万4350人、総人口・600万人、総面積・414ku)
コロンビア・ボゴタ(人口密度・1万3500人、総人口・700万人、総面積・518ku)
中国・上海    (人口密度・1万3400人、総人口・1000万人、総面積・746ku)
 つまり高層ビルが建っているからそうは見えないが、インドと同じ様に密集して住ん
でいる。特に地方からの出身者は、都市の住民票は取れないので、かつての地下壕など
に住んで蟻族と言われる生活をしているといわれていた。人権のない国で腐敗した官僚
のいる共産党地方政府内ではよほどの犯罪でない限り中央政府の取り締まりにならない
。更にわざわざ中央政府に出かけて行って訴えた者は、帰らなかったりその後収容所送
りなどが待っていたりする。この収容所は曰く付きの臓器移植や人体模型の製造所行き
の予備囚人とされ、その実態は今だ解明されていない。中国と言うエログロナンセンス
の国民性は治る余地はない。なぜならあまりにも共産党官僚が強い世界だからだ。普通
の国でおよそ2千人に1人は特別変わった殺人者が現れるとされる。米国ではそれらは
自由公開される報道の中で規制の重しがかかり、非人道には警察は宗教や思想に関係な
く取り締まれる形だが、中国ではそれはない。教育された人権尊重思想や宗教思想がそ
こにないのだ。今後明らかに変わるだろう世界の趨勢を日本はどうするのかを考えなけ
ればいけない。第三の黒船開国時代の始まりである。馬鹿自民党の犯した罪は大きい。
我々日本人は今後の子や孫或いはその子孫たちの人間性をどうして守るのかを考える事
が必要だろう。30年前に既に少子高齢化を考えるべきだと言ったのだが何も聞き入れ
ず今に至った馬鹿自民党は一体どういう未来を考えているんだろうか。こんなに脅威の
中国にかつては「中国を脅威としない。」などとうすらとぼけた自民党政治が世界悪を
育んだのである。

1502: 名無しさんAA:18/07/19 13:41
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 41

 1524年、スペイン植民地であるパナマに集まった3人のスペイン人、ディエゴ・デ・ア
ルマグロ、神父のエルナンド・ルケ、フランスシコ・ピサロが砂金が採れるという噂の
ペルーを征服するために、航海遠征に出ることを計画した。しかしパナマからペルーま
で航海で南下するためには、北上している逆流のペルー海流と、逆風があったため、航
海の環境は厳しいものだった。ちなみに帆船は、逆風でも帆の角度の調整で、ジグザク
に進むことで前進する事はができた。しかしこのペルー制服を考えたのは 何も大航海
時代だからではない。1522年6月26日、チョバン・ムスタファ・パシャ率いる400隻のオ
スマン軍がロドス島に到達した。さらに7月28日、スレイマン1世が10万の兵とともに上
陸し、自ら指揮を執った。オスマン海軍は港湾を封鎖し、上陸した陸軍は大砲で市街を
砲撃しつつ、要塞への攻撃をほぼ毎日続けた。それはもう本当に毎日だった。城壁に対
する砲撃は芳しい効果が出なかったため、城壁の下に向けてトンネルが掘り進められ、
9月4日には2つの坑道で火薬を爆発させ、イングランド砦の防壁を11mにわたって崩
落させた。ただちに歩兵がこの地点から強襲をかけ、イングランド砦は一旦占領された
。しかし騎士団は総長リラダン自らの指揮により砦の奪還に成功した。同日にオスマン
軍は2度にわたり同様の強襲を行ったが跳ね返され、イングランド軍団とドイツ軍団に
よって城壁の崩落部は埋められた。ロドス島包囲戦はオスマン帝国の勝利に終わった。
東地中海の重要拠点を獲得したことで、コンスタンティノープルとカイロの間で容易に
連絡が取れるようになった。後の1669年、オスマン帝国はヴェネツィア領クレタ島征服
の際にロドス島を拠点として大いに利用した。つまり地中海の制海権を取られたから、
大西洋にイギリス海軍が進出しイギリス軍が出て来たのでイスパニア船は太平洋に出て
来たのである。そしてそれこそが気候変動だった。1504 1510 1518 1520が気候変動の年
とされる。日本でも天明飢饉(ききん)1783〜1786年と 天保飢饉1833〜1838年の期間
が大噴火で引き起こされている。1783(天明3)年の浅間山の大噴火による被害には記
録が残り浅間山の周辺では溶岩流と火山灰がひどく死者2万人余がでて、51ケ村が荒
廃した。150km離れた江戸にも火山灰が3cmほど降り積もった。又この年には、アイスラ
ンドでラキ火山が噴火し、溶岩と ガスが噴出した。アイスランドでも大飢饉があった
。火山ガスは 1,500km離れたイギリスにも広がり、異常な霞となって現われ、さらに
世界中に広がった。 つまりは世界恐慌と同じに不況や不作や飢饉は同時に起こるのが
常識とすべきものである。と言う事は、自分の国は自分で守るしかないのである。

1503: 名無しさんAA:18/07/19 13:42
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 42

 1902〜1906年に中米グアテラマのサンタマリア火山が噴火し、1905・1906 (明治38・
39)年には東北地方で大凶作が発生した。この大凶作で 北海道へ多数の人々が移住し
ている。宮城県志田郡地方の記録によれば、 郡民人口の約44,000人の中で約30%が窮
民となり、18%が労働に 耐えられないほどの身体状態となった。1905(明治38)年の
宮城県の 作況指数は12で、1836(天保7)年のそれに匹敵している。 ただ不幸中の幸
いは、それ以前に比べれば運輸交通の便がよくなり、 また外米の輸入が可能であった。
1991年6月15日、フィリッピンのピナツボ火山が噴火し、その2年後の 大冷夏により平
成の大凶作が生じた。世界的な大噴火によって、日本の、特に東北地方で夏の気温が実
際に いくら下がって不作となったのである。日本は1905年の日露戦争・日本海海戦に
勝利して列強入りを果たしたとされるが、実はこれは偶然の戦いでは無く不作が産んだ
欧州社会の中で米国からの供給が無くロシアが南下した為の戦争だったのである。我々
は戦争ばかりに気を取られがちだが、戦争の起因も、戦争の結果も天候であり、戦争が
更に不作を増やし拡大して来た歴史がそこにあるのである。凶作はある時代に集中して
頻発する傾向が見られる。研究では、近年の165年間であるが、過去330年間にさ
かのぼって調べてみても、40〜50年ごとに凶作の頻発時代があることがわかった。大凶
作のうち約60%は、世界的な火山大噴火の直後に起こっている。しかし例えば、昭和
初期に頻発した大凶作群(1931、1934、1935、 1941、1945年)は火山大噴火と対応し
ていない。これを探るために、いろいろ調べていると、昭和初期は三陸沖の 海水温度
の異常低温であったことがわかった。つまり、1923〜1945年 の23年間の海水温度をみ
れば、平均値はそれ以後よりも1.4℃も低温 であった。特に宮城県から福島県の沖が、
低温であり、北方の北海道沖 や南方の房総半島沖から八丈島にかけては、この傾向を
見ることは できない。宮城県から福島県沖は親潮(寒流)と黒潮(暖流)のぶつかる
海域 である。その境界は数十年間の周期でシーソーのように、 北に偏ったり南に偏る
ことを繰り返している。その中で海水が低温であれば日本では気候変動の影響はすくな
かったのである。それは漁獲高でも数十年の時間スケールで変動していることで解る。
こうした食料危機はへへへ運動を行う。つまり急激に数値が上がるジャンプ期と次第に
衰退するなだらかな下降線の数値で時代は変化しているのである。

1504: 名無しさんAA:18/07/19 13:42
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 43

 こうした事は何を意味するのか。と言う事である。今回日本では議員定数を増やした
。定数削減時代に、一票の格差是正に増やしたのである。自由主義において土地の権利
は土地としての権利即ち土地としての権利は持たない。今アフリカは100倍人口と言
われる程人口が急増している。ナイロビの自然公園の中に中国資本は莫大な投資をして
自然環境破壊の鉄道建設に着手した。ヌウ八万頭のヌウの群れが二〜三千頭に変わった
何故二〜三千頭というのかと言うと工事の騒音で野生動物がやって来なくなったからだ
。更にナイロビから湿地帯を抜けて走る線路が、このヌウ達の水場への道を分断させて
弱って死んで行ったと言うのである。こうした土地の権利を時の権力者がいい加減に扱
う。これが今の民主主義の中の自由主義の性格なのである。東京でもアフリカでも米国
でも、どこの国でもアメリカが広げた多様性のない価値観は今や猛威を振るって地球を
襲っている。これをロシアや中国は利用している。と言った方が正しいのだろう。北の
言う「何故核兵器は超大国しか持てないのか。」と言う反論と「何故天然自然をアフリ
カだけが大事にしなければならないのか。」「何故アマゾンをブラジルだけが保護しな
ければならないのか。」「なぜ熱帯林や象をマレーシアが保護しなければならないのか
」と言った問いに、白人の作ったシステムは何ら答えを出せない。それは日本の中の、
沖縄にごろつき白人の海兵隊を「何故沖縄だけに押し付けるのか」と言う悲鳴と同じで
ある。しかし、沖縄が攻められて来た時恐らく日本軍が来なければフィリピンでの残殺
と同じ事を米軍はしたであろうし、アフリカ諸国の飢餓に、白人が答えなけれは今でも
風土病であるエイズやアフリカ睡眠病やエボラ出血熱や鳥インフルエンザなど多くの病
で倒れて今の様な発展は無かったであろう。この土地の権利を誰が持つか。というのは
非常な根源的なものだ。日本の江戸時代は世界で唯一の一応の解決を見た領主の責任と
民衆の義務としたが、欧州の開墾者や開拓者の権利とした思想が戦争勝者として施行さ
れ、農地解放が江戸以降四度も行われた。今アメリカの大統領問題にロシアの選挙介入
が取り沙汰されているが、プーチンから言えば介入して何が悪い。と言う腹であろう。
仮に何かの傀儡国家となっても仲良く共存出来れば良いと言う考え方であり、ロシアの
国内でも独裁でも国民が平和で幸福ならいいではないか。と言うのである。だが安倍の
政権と同じで次の世代はそれでは困るのである。独裁の去った後も独裁しかないのだ。

1505: 名無しさんAA:18/07/19 14:35
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 45

 現在ケニアは連続した慢性的な旱魃の中にある。全土では、37万人近い子どもが急性
栄養不良の治療を必要としており、中でも7万2,600人は特に深刻な状況にあり、命を守
るための特別なケアを必要としています。2月時点で、急性栄養不良の子どもの数は34万
3,000人と推定されている。ユニセフ(国連児童基金)では「私たちが2017年前半に命
を守る支援を提供した子どもの数は、2016年から60%増加しまし、さらに多くの子ども
たちが栄養不良に陥りつつあります」と、・ケニア事務所代表のヴェルナー・シュルテ
ィンクは述べている。「私たちは、最も厳しい状況にある子どもたちと家族が、栄養不
良の子どもたちを回復させ、病気にかかる危険を未然に防げるように、栄養価の高い食
事、安全な水、そして基本的な保健ケアを、今まで以上に支援する必要があります。」
ここに資金を投下する事は決して悪い事ではない。しかし先のセイロン島と同じく、弱
い国に最高の経済力で圧力を与えて政権を牛耳て環境破壊を行う。と言う姿勢に変わる
事がないのが中国だ。尖閣諸島が日本の物と解っている。竹島が日本領域と知っている
。しかし強い物勝ちの姿勢は改める事がない。これが今の朝鮮人と中国人の姿勢だ。歴
史上も彼らは朝鮮人でも中国人でもない蛮族なのだが、彼らのこの根拠のない言い訳を
国際社会は鵜呑みしてしまう。しかしこの姿勢は気候や資源分配を変える。彼らは生産
活動をしないイナゴやバッタと同じ生活だからだ。ケニアでは2016年の2回の極端な降
水不足に続き、3月から6月の長期の降水不足は、広い範囲での穀物の不作、急激な水不
足、家畜の生産性の低下を引き起こし、牧畜家庭の子どもの主要なタンパク源である牛
乳の生産量がこの数年で最悪となった。貧しい食事習慣、病気の感染および限られた保
健サービスへのアクセスに、3カ月目に入った全国的な看護士のストライキが拍車をか
ける。少ない資源を中国人労働者が奪い去り、地下水脈も彼らの工事で分断されてしま
うからだ。こうして建設とは名ばかりの不法な活動で国は疲弊してしまう。先のスリラ
ンカでの中国政府によるハンバントタ港の建設でも、かつては豊富な魚の獲れる漁村の
美しい砂浜だった。その為2万人規模の漁民の生活が奪われ、今や漁船すら通行できな
い地域になり、更に幼魚の生育場所だった為に他の漁村の漁獲量も工事から著しく減っ
たのだ。つまり自然破壊で生活を壊して そのツケを漁民や地元民に負わせて都会化を
進めると言う悪循環なのである。これは中国国内のデモ騒動と全く変わらない構図であ
る。これが中国人=蛮族=朝鮮人の理由である。彼らに自然現象を理解する能力はない
のである。


1506: 名無しさんAA:18/07/19 23:39
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 46

 しかし、トランプはこうした世界の構図をどう変えようというのだろうか。今度又、
トランプはEUの自動車業界に吠えている。例えば今急伸中のスマホだが、韓国製品で
あっても中国製品であっても4割は日本の技術らしいそして分解しての7割は東南アジ
アを含む日本企業の部品で埋まっているとされる。つまり中国にしては不本意なのであ
る。多分EUの自動車も3割ぐらいは米国資本の企業の部品で東欧の日本メーカーまで
入れれば6割を超えて外国品であろう。今やどこで作られたかは関係なく企業が入り混
じって技術の高い製品や部品を取り付けて消費者に届けているのである。日本人にはま
ず、どこの国に対しても仲良くしなければいけないという固定観念、強迫観念に縛られ
ている。それは日本人のDNAが勧善懲悪や人間性善説での社会作りと社会の中で信じ
る社会信じられる社会で育った環境下にあるからだ。日本人が気を付けなければいけな
いことは、日本社会は長い歴史の中で信頼する社会ができあがっている社会だ。腹を割
って話をすれば相手も分かるだろう、こちらが相手に対し配慮すれば相手も配慮してく
れるだろう、という暗黙の前提がある。しかし、これは日本社会の中でしか通用しない
ものであって、国際社会で、特に特定アジア三国では正反対である。相手が中国や韓国
ですと、こちらが一歩譲れば相手が逆に一歩迫ってくる。配慮すれば、逆に配慮自体が
こちらの弱さだと受け止められ、突っ込まれてしまう。ですから、国際社会においては
、日本人はあまり日本社会の中の論理を持ち込まない方が良い。つまり付き合わない方
がずっーと良いと言う事になる。もう一つは、外国と付き合う時、日本は何を守るべき
か、ということに対する意識が薄い。日本のプライドにしても国益にしても、これは絶
対守らなければいけない。というものが敗戦と共に消えたようだ。例えば、南京大虐殺
とか慰安婦問題とか、ほとんど嘘に近いことを持ち出されて中傷誹謗されても、日本人
や日本政府はあまり怒っていない。そこは良くない。そして、謝り過ぎる。他の諸外国
では、イスラエル建国にしても2千年前の話だし、黒人差別も奴隷制度は5百年前のま
まである。イギリスとフランスの言い分や性格、或いは東欧のボスニア・ヘルツェゴビ
ナの戦争もボスニア人、セルビア人、クロアチア人の戦いは十字軍の頃の話が再燃して
ボスニア戦争に至ったのである。戦争しろとか恨み辛み憎しみを持ち続けろとは言わな
いまでもちょっと前の自国に落とされた原爆の歴史ぐらいは知っておくのが当然だろう

1507: 名無しさんAA:18/07/19 23:39
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 47

これから中国の動きは、政治にしても、経済にしても、軍事にしても、日本にとって決
して他人事ではなく、むしろ日本の運命を左右し日本が対象となる。つまり中国の動き
は今までも今からも、殆どが日本企業や、多くの日本人の将来と関わりの深い問題とな
る。中国は今現在どうなっているのか。今後どうなっていくのか。ということを発信し
ていきたいと思います。自分が日本の方々に伝えたいことを、思う存分に伝え
ていきたいと思います。と言うのは論客として著名な評論家の石平(せきへい)さんだ
。国際戦略的には、まず日米同盟を機軸にして周辺の国々と連携して、アジアの平和と
秩序、南シナ海の航海の自由を守ること。これが日本の一番の国益になります。オバマ
政権の時代は、アメリカと手を組み、TPPを進め、アジア全体の経済圏をまとめよう
としていましたが、トランプ政権になってアメリカが離脱し挫折しました。しかし、や
はりアジアの民主主義の国々と日本は、共通した価値観や利益があります。ですから、
そういう国々と連携して、一種の自由貿易圏を作っていくことも大事です。これからの
経済は、日本単独で成り立つものではありませんから。中国共産党は外資企業を含めて
、すべての企業の内部に共産党組織をつくられます。今後も、日本企業が中国に進出す
ると、強制的に内部に中国共産党の組織ができてしまう。場合によっては人事権や経営
にも口出ししてくるようになります。いずれは中国共産党に乗っ取られてしまうという
可能性も多い。そういう意味では、中国のビジネスは、企業にとってリスクが高いとい
うことをしっかり認識しなければいけません。人や企業としては、中国と関係を持つに
してもあまり深入りしないで、一定の距離を置くことが大事でしょう。日本人は「仲良
く」とか絆とか、そういう言葉や話に弱い。しかし国と国では「仲良し」も、仲良しで
無いもない。どこの国も、国益が一番大事なのであって、仲良くするのも、しないのも
手段の一つに過ぎない。これまで日本は「日中友好」「仲良しになる」とか、そういう
言葉に惑わされていろいろ失ってきた。その為に中国の無理な要求を飲む。仲良くする
ために日本の総理大臣は靖國神社へ参拝できない。仲良くするために中国にODA(政
府開発援助)を出さなければならない。仲良くして日本人が失ったものは多い。喧嘩す
べきだと勧めているわけではない。仲良くするでもなく、喧嘩するでもなく、距離を保
つ。

1508: 名無しさんAA:18/07/19 23:39
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 48

 ここに日本は大きな壁にぶつかる。どう考えても何をしても、中国とは付き合わない
韓国とは話さない方が良い。しかし逆に世界の中で彼らを良心的大国に変えるのは日本
しかなく又その影響も日本にしか及ばない。これは二つの矛盾する方向である。今回の
貿易戦争は米国の思惑にはまっているのは確かだろう。つまり米国には勝つ算段を持っ
ている。実は3月18日マルパス米財務次官(国際問題担当)は、米国が米中包括経済
対話(CED)を打ち切ったと自分が発表したことは間違いであり、ムニューシン財務
長官は中国と非公開の協議を継続すると強調した。とニュースが上がっている。内容は
マルパス財務次官はブエノスアイレスで記者団に対し、「私は誤った発言をした」と述
べ、「ムニューシン財務長官は中国とハイレベル協議を行っている」と説明した。同財
務次官はこの数時間前、米中両国が継続してきたCEDを米財務省が「打ち切った」と
ブエノスアイレスの会議で発言していた。と言う事だ。つまり米中共に裏では合意を得
る話し合いはなされていたのである。しかし米国にはこのころミートゥー運動が盛んで
ムニューシン財務長官も愛人問題でやり玉に挙がっていたのである。そうした中では、
米国のニュースはトランプの弱腰外交を叩き、中国にも頭を下げる外交は売国奴という
声が上がる環境があった。その為中国は強きに大豆輸入関税と言う自分の真綿で首を絞
めるような脅迫に転じていたのである。これは大きな習近平政権の中の官僚の間違いで
あったろう。しかしアメリカも又同じで泥仕合であって、中国民も米国民も関税のかか
った高い品物を買う事になるからだ。この経済コストと人気ある政治コストの問題は、
かなり異様なものだが英国のEU離脱と同じに深刻な悩みにならない限りこれは止まら
ない。これまで米中は好景気であった。良くも悪くも地球と言う屋台村の商店街で一番
買って遊んでいたお客は米中だったのだ。つまり好景気を支えていた二大国だったのだ
。つまり急速に経済園はしぼむであろう。一番の影響は欧州とロシアであろうが東南ア
ジアや日本も影響は深く出る。つまり元安はやりたくなくても仕方なく投資家は動く。
更に米国は国内産業を興そうと思っていたろうが既に鉄鋼も自動車組み立ても部品工場
も米国産業すら海外展開しかしていない。こうした暗いニュースの中でTPP11やら
EPAは数少ない明るい経済ニュースである。日本の野党はそこの部分は称賛すべきだ
。今後米国の貿易赤字と関税障壁と円高とでトリプルショックが襲うだろうがたぶんに
この協定はそれを跳ね返す力をもつであろう。ここに米国就業三千万人の社員と70兆
円の投資の力がある。


1509: 名無しさんAA:18/07/24 00:34
 日本の馬鹿国会の特に阿保自民党議員が、党利党略の議員定数調整や森友加計問題や
IR法案など全くデタラメ国会を運営し、たばこ法案や労働法案などやる必要もないこ
れらの審議中にも、中国人民に国土は買い漁られ、健康保険事務はいい餌となり、年間
15兆円ほどの収支赤字を増やしている。おいおい一体どうする気だと言いたい程だ。
そもそも外国人の保険は外国人専用の保険を決済すべきであろう。手術費用1割で済ん
だと堂々とスマホでネット通信されながら、手術の為の来日訪日ではないとされれば、
およそお手上げで抗がん手術をして帰郷している。施術自体は何も反論する事ではない
が、大体中国人が日本人の人の良さや道徳正義に付け込んで悪態さらしているのは何も
今始まった事ではない。そもそもこうした日本人となっての多くの特典を預かろうなど
と思う者にはちゃんと敷金制を入れて50万や100万を国家に納めさせて3年後5年
後も居住してちゃんと生活実態を調査してからその敷金を返せばいいではないか。これ
までも政府は日本人に対して厳しくこうした事をやって来たではないか。外国人だから
と留学生に補助し融資し更に家まであてがい仕事まで世話している。おかしな行政実態
がある。こんどJR九州が中国のアリババと手を結ぶ。かつての不正銀鱗カードと同じ
に日本が深く黒いマネーに包まれるのが落ちだ。馬鹿げている。日本人には仮想通貨な
ど、身元保証やマネーロンダリングなど高い敷居を曳いて於いて、中国人には簡単なカ
ード決済をOKにする。馬鹿げたことだ。今でも日本の観光会社が中国で旅行代理店を
開いたなどと言う話は無い。常に会社や事業を始めても、中国共産党員の共同経営者が
必要で、更に日本人代表者が死んでいなくなれば、金も資本もお客も技術も只で盗んで
大きくなった国だ。今後も日本にしつこく強盗団としてやって来るのは至極当然な話で
ある。一体日本人はどうしたのか。国会議員は日本を経営する気はあるのか。ただただ
代表と言う地位の権威を欲した着飾り人形が。行政も東支那海のガス田から資源を取ら
れ、そうした資産の日本のビジネスすら奪われて、魚や鳥の食料すら同じになり それ
でも馬鹿な事に日本銀行は2%物価上昇を捨てない。馬鹿である。世界も中国もいや日
本の国内すら解っていない。少しは勉強して考えるべきであろう。腐れ自民党は日本の
売国奴たる名目をはたしたか。更に言えば東京スター銀行などとまやかし企業を 何故
東京都は開放しているのだ。リバースモーゲージなどと言う発想は中国共産党の土地利
権そのものであり、日本の自由化した西側国家にはあり得ない話である。違法もはなは
だしいヤクザ金融ではないか。少しは考えろ。


1510: 名無しさんAA:18/07/25 07:58 ID:sFs
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 49
 少し話を戻して原爆の歴史をすれば、実はアメリカの誰でもが当初からの原爆投下な
ど恐怖の非人道的なもので作るべきではない。と思っていと言われている。しかし、第
二次世界大戦(太平洋戦争)中、日本やドイツの軍部には幾つかかの原子爆弾開発計画
が存在していた。日本では帝国陸軍の「ニ号研究」(仁科原子力研究室)と帝国海軍の
F研究(彦坂忠義核科学室)である。ドイツや日本は放射能科学の最先端にあり1940年
の仁科芳雄と東京帝国大学理学部化学科の木村健二郎等の論文には、 ウラン238に高速
中性子を照射した実験において核兵器の爆発によって生成する事を発表していた。ネプ
ツニウム237 を生成した事は当時世界初の成果だ。帝国大学の物理学者嵯峨根遼吉助教
授の助言を得て、「原子爆弾の製造が可能である」ことを主旨とする報告書を提出して
いる。安田はて東条英機陸軍大臣ら軍の上層部に原子爆弾の開発を提案するとともに、
各大学、研究機関、主な民間企業にこの報告書をかなり全国的に配布した。この報告書
によってドイツは、本格的研究にかかった。ドイツでの「ニトロチェルローゼ」という
火薬の専門誌に火薬の権威シュテットバッハーが『アメリカの超爆薬』という題の論文
を発表した衝撃は大きく、この既に実験結果からの論文で「ウランと重水素を詰めたと
されるボールをコンクリートの壁にぶつけて爆発させたとされる。この論文の中には「
約1グラムのウラニウム235に緩速中性子をあて核分裂をさせると、当時日本で作っ
ていた松印ダイナマイト13,500トン相当のエネルギーが出る」と軍部は決定している。
その後日本は京都理化学研究所の指導で北朝鮮の海で実験されていたが、「朕は世界初
強力兵器を持たず。」と天皇の命令で中止された。その為に、これまで蓄積され新たに
発見されたのはウラン濃縮の遠心分離装置開発に関する資料なども一斉に処分された。
しかし現代にあって、隠してあった京大放射性同位元素総合センターに保管されていた
ものが見つかっている。太平洋戦争中に旧日本海軍から原子爆弾の開発を依頼されてい
た京都帝国大(現、京都大学)の荒勝文策教授の研究室で行われていた開発を記録したも
のは、研究ノート3冊と関連資料が見つかっています。終戦後、連合国軍総司令部(GHQ
)により京都帝国大の原子爆弾の開発資料はその一切を押収されたとされていたが、ア
メリカ軍の機密指定を受けこれまで不明だった。こうした当時の実験結果はドイツに渡
りドイツはチェコで実験しようとしていたと言われる。しかし、帰って来たロンメル将
軍は送る貨車ごと、トンネルに隠したと言われている。その後焦った米国はマンハッタ
ン計画を作りアメリカが日本に投下した。日本に投下されのは広島型と長崎型の二つだ
がアメリカ国内では広島型は開発していない。つまりドイツ敗戦後にドイツから押収さ
れたものであったのだ。

1511: 名無しさんAA:18/07/25 08:41

 やはり神々が3人舞い降りてきたようだ。今後又2人 そして又2人やって来る。
しかし後のの3人は降りられない。太陽神ラーはその支配を許さないからだ。7人は
12人のようには動けない。かくして 人類は天下を治むる。アングルモアの大王と
訳されるこの悪魔はフン族 即ち朝鮮や中国やユダヤにいる糞族の子孫達である。自
分は神と間違えている。アンクル=孫達=子孫達 モア=2度目の=再来 つまりは
再来の子孫達の大王(ユダヤ金融家)が又地球を滅ぼしに王位につくだろうと予言し
たのである。中国人が作ったゴミ問題は多くの気候すら変えた。これから毎年の様に
世界各国で40度以上に酷暑になる。地獄の炎があがるのだ。これは既に棄てられた
中国のゴミ即ち排気ガスや有毒成分が空気中に漂っているからだ。いまさらどうしよ
うもない。もう20年間以上捨てられていたのだから。ラオスでは又韓国人の人殺し
が始まった。ダムを作る能力もないのに韓国はラオスの水力発電所をつくりかかった
。しかし今回の雨で決壊3つの村が水没し500人以上の死傷者が出るだろう。



1512: 名無しさんAA:18/07/25 15:03

 和歌山の毒物カレー事件から20年たった。だが何故か和歌山県はこの慰霊会をしな
い。遺族の静かに弔いたいとの要望から取りやめになったと言う。これは面妖な話であ
る。こうした事件の追悼は 遺族の要望などは何の意見にもならない。なぜならこうし
た悪質事件があった事を記録し、更に事件の無い事を願う為の行為であり、今を生きる
人のやるべき義務であり 人としての行為だからだ。慰霊や弔いをやめてくれなどとい
う遺族の権限はどこにもない。現実社会は死んで行った者を病院に搬送し手当し死んだ
後の葬儀や火葬場も行ったのである。全く関係してなく勝手に土葬したとでも言いたい
のなら別だが。



1513: 名無しさんAA:18/07/25 15:54
 和歌山の毒物カレー事件から20年たった。だが何故か和歌山県はこの慰霊会をしな
い。遺族の静かに弔いたいとの要望から取りやめになったと言う。これは面妖な話であ
る。こうした事件の追悼は 遺族の要望などは何の意見にもならない。なぜならこうし
た悪質事件があった事を記録し、更に事件の無い事を願う為の行為であり、今を生きる
人のやるべき義務であり 人としての行為だからだ。慰霊や弔いをやめてくれなどとい
う遺族の権限はどこにもない。現実社会は死んで行った者を病院に搬送し手当し死んだ
後の葬儀や火葬場も行ったのである。全く関係してなく勝手に土葬したとでも言いたい
のなら別だが。どこの街でもこうした人の集合体に自治体は明確な法的整備のないまま
に乗っかかって集金なり回覧板なり市報など無駄な広報を行っている。全くもって心外
な事で、万引きなどを行っている軽犯罪者の70代の老人の割合いは結構高い。つまり
親は食うに食われず田舎まで行っては、スイカや瓜やなすびや柿やキャベツミカンなど
ありとあらゆるものの食材を手に入れれて子供達を育てていたのである。戦時中の野草
狩りともいえる物が戦後にも続いたのだ。こうした悲しい時代は魚釣りも貝採りもそれ
はそれは生易しい今の様な竿で取るようなものではなかった。網や電気、カーバイトや
泥水と言った業者顔負けの大量の盗み食材である。これらで育ってきたのが小泉や安倍
の時代である。つまりこの世代の無知無毛な食べるだけの欲望の守銭奴時代は教育など
皆無だったのである。新潟出身の畑中教諭などはそうした時代の子供達に、「皇国の一
戦ここにありとしても一家の主を無くした遺族の生活は、悲しみ以上に苦しみだった。
」と述べている。つまり軍人に入隊したのは 軍人になれる数少ない由緒ある家系で、
教育ある者らが次々と死んで、郷里では無能な小作人や貧民達が大手を振って悪態三昧
をしていた。というのだ。闇米も多くは領主たる地主への了解のない作り人の権利で、
勝手に売られていたのである。一家離散や東京への就職などを果たして食いつないだ者
がなんとか東京や日本を再建したが彼らの悲しみや苦しみは余りあるものだったのだ。
今の吉田茂や安倍晋太郎や佐藤栄作や鳩山などのスパイがらみの非国民経済の立役者で
アメリカ仕込みの盗人経済学など 多くの日本人が信じていなかったからこそ、こうし
た馬鹿政治家の下での日本経済が再建したのである。この70代老人を早く撤去して、
日本は新たな良き若者を育てなければきっと駄目になる。現に国民を奴隷化した全くの
憲法違反の法律が 次々と制定され タバコを吸う権利すら勝手に犯されていながら、
何が自由主義立憲主義の独立国家と声をあげれるのか 厚顔無恥も甚だしい。




1514: 名無しさんAA:18/07/26 12:10 ID:2lQ
 西日本豪雨災害は連日報道される。しかし なんだこの動き方は 全く行政指導がな
ってない。まず公衆インフラが第一義の修理課題であろう。復興は線路や道路更に食料
の運搬が先であろう。ところがどうだ 国会議員も動かず 視察そう多くない。行政も
行動は生ぬるく 義援金や一時金など金で片付く事の話が多い。おかしいではないか。
まず 原因調査と分析評価が先であろう 安倍首相の様な 勝手に法の施行を拡大させ
る。資金援助を早く大きくする。などと言うのは後後の話である。今頑張っているのは
ボランティアのみではないか。もっと県や国は多くの人員を割いて更にJR西日本など
は早く鉄道を走らせるべく保線工事をすべきであろう。今だ何ら進展がないとは情けな
い話で原子炉解体のように馬鹿げた議論ある。政府はちゃんとした対策室を作ったのか
。首相や大臣の話では無いだろう。本当に選挙制度などの法案と人民の生活復旧や人命
救助とどちらが大事なのだろうか、政務大臣や副大臣の動きなども全くニュースに出な
い。東日本震災などは只のパホーマンスだったのか。それとも今度の豪雨災害の被災者
と地震の被災者では格が違うとでもいうのだろうか。


1515: 名無しさんAA:18/07/26 14:40
 解らないから解りたい。

 人はなんとまあいい加減なものか。そのいい加減さが人が大事にすべき事なのだが。
それを東京人は解っていない。津久井やまゆり園殺傷事件から丸2年となる26日から
県内で、19人の犠牲者を追悼し、共生社会を考える催しが相次いで開かれる。一般市
民の平均的な人はあまりにも無知で、社会を考えていない事が多い。つまり精神異常者
と精神障害者の違いを分かっていないのである。麻薬中毒者やアルコール中毒者あるい
は小児性愛者などは精神異常者である。対して意思表示ができにくい健常者とはなかな
か付き合いにくいのが精神障害者である。障害も色々な程度があって重い重度もあれば
軽度のわかりづらい人もいる。しかし強いて言えば我々も又健常者とは言われながらも
障害者の類と全く同じである。所謂知的障害者と言われる人でも 好き嫌いはあるし、
本能的にその危険性を認識する。我々の普通の人でも意志力や嫌疑力が弱いままだと、
電話詐欺やオレオレ詐欺或いはマルチ商法など いろいろな知恵者によって被害を受け
る。実はこの加害者こそ精神異常者なのである。この中には受け子と言われるバイトの
様な感覚の大学生すらいる。こいつらが精神異常者などとは誰も気付かないぐらい普通
の人間だ。更に言えば今度死刑執行がされたオウム真理教の麻原などはこうした大学生
を手玉に掛けて勧誘していたのである。どこに我々と言葉が出しにくい障害者との違い
があろうか。それに輪をかけた事件がやまゆる園で殺人を起こした元職員・植松聖(さ
とし)被告(28)である。「子供が大好きで、うちの子供ともよく遊んでもらってい
た。事件の前日にもうちの子供が(植松容疑者に)会ったみたいだけど、普通に『久し
ぶり〜』みたいな感じで、変わった様子はなかったみたい。明るい好青年だった。逮捕
されたと聞いてとても驚いている。」「最近、髪を金髪にしたりして、急に見た目が変
わった。あんなに明るい好青年だったのにどうしちゃったんだろうって」「とても明る
く、挨拶もしっかりしてくれていた。友達も多いようで、家には頻繁に友達が遊びに来
ていた」「楽観的なやつ。事件については信じられない。本当に明るいやつで、全然人
に危害を加えるようなタイプの人間じゃない。」とされる青年だ。だが此処に間違いが
ある。人の目が昔と違って節穴になったのだ。障害者でも健常者でも異常な事をしない
のが普通の人だ。だが追い詰められ人間的性を捨ててまで獣まで登り詰めてしまうのが
異常者である事を解っていない。そして一番危険な者がそうした仕事を解らない。人の
為の事を知らない無知覚者の多くが健常者のふりをしているのである。


1516: 名無しさんAA:18/07/26 14:41
 解らないから解りたい。02
 津久井やまゆり園は、あろうことか贅沢にも、建て替え工事を行う。実はこの丁重な
贅沢三昧をさせている 知事がこの事件を起こした大きな影の犯人である。そもそも、
効率主義や経済合理性などを掲げるなら 神奈川県は建て替え工事などとは行うべきで
はない。本来の人権活動家なり人道を掲げるなら黒岩知事は、もっと一般市民に寄り添
った行政を行うべきだ。全く千里ニュータウンのごとく 地方の人々を誘惑させて若者
をたぶらかしては都市化を行い、更には年老いて行く人には、支払い優先者主義で老人
は老人ホームへ行けとばかりに何ら健康対策や共生対策は取らない。本来なら障害者や
弱者であろうが普通の小学校が世話し、その為の人員を補充すべきである。難聴であろ
うが視力障害者であろうが知的障害であろうが分けて教育すべきではない。特に普通の
学校内での特別学級まで敷いての差別能力主義には、個別指導を差し置いた見世物嘲笑
主義の本音が現れている。近頃は例えばEV修理にボタンを触るなと言う事を聞かず指
導先輩が死んだり、コンプレッサーを尻に充てて胃をパンクさせて殺したり、いたずら
で人を殺している例は多い。それはカイジを初め進撃の巨人など意味不明の衝撃画像の
共振深層のみのアニメ漫画と同じに、何ら教育成果のない媒体の存在である。弱かった
虐められた立ち上がり戦った絆を深め勝った。このストーリで勇気を持って生きてほし
い。そんな単純謀殺漫画ばかりの世界を描いて稼いでいる。これが先の犯罪者「植松聖
」と同じ考えである事にかわりはない。経済活動出来ない。生産しない。従って生きて
居る価値はない。死んでもいいだから殺してもいい。まるで花壇の花をへし折る小学生
鬱憤の溜まった不適格適合者と同じ、ならず者だ。そもそも生命が無ければそこにある
価値がないと言うとんでもない話は何処からくるのか。魚にしろ米にしろ彼らそのもの
は人間の為に生きて来たのではない。同じ様に友達も恋人も子供為に生きて来たのでは
ない。それを親になって赤ちゃんの為に子供の為に生きようと決意して地球上の一員の
資格を持つ。つまり水や空気さえも人の為の物ではない。にも関わらず安倍首相一下、
金と強欲に合わせた行政が 勝手に山の木を伐り護岸にもならない河川を作り利用し、
ぞうして支えられて生きて居るのも知らずに 豪奢な都会生活を進める。全く馬鹿げた
思想に今回の豪雨事件の本質がある。全く利用価値のないため池と意味不明の土砂ダム
こうした、災害の記録は1千年の前から記録や物語はある。にもかかわらず東北震災も
福岡豪雨も今回の豪雨災害も行政は聞く耳を持たない。その理由がこの犯罪者と同じに
利用価値が無い。とする意見である。空気を木々が作っている事は誰もが知っている。
その現実があっても山を整備しない。大木として育てない。雑木林を作らない開発のみ
である。この御馬鹿日本政府や人類に 自然は攻撃する。

1517: 名無しさんAA:18/07/26 15:14
 解らないから解りたい。03
 今度のオウム死刑囚に対する死刑執行には大きな疑念が残る。上川法務大臣は事件の
解明になぜ声明を発しないのか。至らぬ善人を悪人に仕立てて殺人犯にした。この経緯
は全く釈然としない。法務大臣として全く失格である。江川氏が言う様に、彼らは彼ら
なりの居場所探しをしていた。その時たまたま偶然にオウム真理教という蟻地獄の様な
境遇に陥ったのである。この解明失くしてなぜ事件を風化させるような行為を行うのか
。非常に不明確である。今国会でも、加計森友問題に、官僚たちは隠しに隠しまわり、
安倍首相を擁護した。更には嘘をついた説明までして獣医学部の新設を県に進めさせ、
国会の証人喚問ですら嘘や疑惑を解明しない答弁が続いた。なぜそうまでして 国会を
続けさせる意味がある。首相は国会の長ではない。国会議長は解任に値するほどその責
任を果たしていない。この腐れ切った構造はオウムと何ら変わる所はない。もっと言え
ば今行っている強制裁決は可笑しな事だ。どんなに伸びてもいいではないか議論を尽く
せ。そして体力がないと言うのであればさっさと議員をやめよ。こうして一定以上の時
間が経った議論は尽くした。などと言う言葉は この津久井やまゆり園の犯人の言う、
意思疎通がはかれない人間は 心未人間として心が無いから殺して良い。などと言う事
とどう違うのか。全く以てこの議長達の行為と全く同じだ。犯人の植松聖もそう見たの
だろう。わざわざ手紙を 大島議長に送っている。
“衆議院議長大島理森様
 この手紙を手にとって頂き本当にありがとうございます。私は障害者総勢470名を
抹殺することができます。常軌を逸する発言であることは重々理解しております。しか
し、保護者の疲れきった表情、施設で働いている職員の生気の欠けた瞳、日本国と世界
の為(ため)と思い、居ても立っても居られずに本日行動に移した次第であります。理
由は世界経済の活性化、本格的な第三次世界大戦を未然に防ぐことができるかもしれな
いと考えたからです。私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が
極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です。重複障害者に対する命
のあり方は未(いま)だに答えが見つかっていない所だと考えました。障害者は不幸を
作ることしかできません。今こそ革命を行い、全人類の為に必要不可欠である辛(つら
)い決断をする時だと考えます。日本国が大きな第一歩を踏み出すのです。世界を担う
大島理森様のお力で世界をより良い方向に進めて頂けないでしょうか。是非、安倍晋三
様のお耳に伝えて頂ければと思います。私が人類の為にできることを真剣に考えた答え
でございます。衆議院議長大島理森様、どうか愛する日本国、全人類の為にお力添え頂
けないでしょうか。何卒よろしくお願い致します。  文責 植松 聖

1518: 名無しさんAA:18/07/28 06:02

 NHKは一体何を考えているのだろうか。 なる程登山や旅 或いはサイクリングや
スポーツイベントと言うのはテレビ映りが良いのかもしれない。だが何故文化的なもの
、例えば100分で名著や高橋和夫の中東国際学などをジャンジャン再放送しないのか
。かつて市民大学で名画でしられた榊原幾山先生の水墨画講座、や河の成り立ちなども
一回しか放送を見れなかったが 大体NHKは視聴者のあらぬ声を聞きすぎていやしな
いだろうか。まるで幼稚園児の親達の顔を見る様に。そうじゃないNHK自体が考えて
悩んで答を出して 地球市民や自由国家の答をを導くべきなのだ。




1519: 名無しさんAA:18/07/29 17:01

 今度の逆行する台風は行政の怠慢が続出している。静岡小田原のホテル・道路の高波
被害は当然の事だ。パトカーさえ大破する馬鹿さだ。伊勢湾台風を知らないのかと思う
ほどだ。小田原市が今度開店しようとする施設などはその怠慢の極みだ。想定内の被害
である。だが報道は想定外としてニュース報道する。馬鹿げている。もし経験がなけれ
ば想定も勉強もできないとすれば学習能力ゼロの世界だ。日本人はいつからそんなバカ
国民になったのか。7億円をドブに棄てる相模原市は阿保である。こんな市長や職員を
かかえるから行政の違反は後を絶たない。



1520: 名無しさんAA:18/07/29 19:01
 今度の逆行する台風は行政の怠慢が続出している。静岡小田原のホテル・道路の高波
被害は当然の事だ。パトカーさえ大破する馬鹿さだ。伊勢湾台風を知らないのかと思う
ほどだ。小田原市が今度開店しようとする施設などはその怠慢の極みだ。想定内の被害
である。だが報道は想定外としてニュース報道する。馬鹿げている。もし経験がなけれ
ば想定も勉強もできないとすれば学習能力ゼロの世界だ。日本人はいつからそんなバカ
国民になったのか。7億円をドブに棄てる相模原市は阿保である。こんな市長や職員を
かかえるから行政の違反は後を絶たない。大体今回の神奈川被害は ほとんど黒岩知事
のミスである。この交通路を遮断し、ホテルに行政指導するのは当然だ水の2mのしぶ
きで凡そ2x2.5tつまり波動のみで5トンの圧がかかって急速に減少する周期が繰り返
される。たった2mのしぶきはそうたいした高潮高波被害にならないのが普通だ。が、
窓の風圧を6トン計算してもこうした繰り返し荷重にはガラスは弱い。更に風圧が気圧
差を産むからだ。今回の台風の逆行に対して国際社会はCERN実験グループに対して裁判
を起すべきである。理論的かつ実証的なシミュレーション実験並びにデータ解析を行う
CERN(欧州原子核研究機構)は各国からの支援を受けて居ながら寒冷渦の中心にある、
超質量エネルギー体を浮遊させた。中心にあるのは台風の影響からも高密度冷間帯であ
り、0.02ミクロンのブラックホールであるだろうと予測される。ブラックホールの
元となる超質量渦は全く自然現象では現れない。だがそれを作れる機械は一つ欧州の、
衝突型加速器CERNである。各国の研究機関の参加と実証実験に際しては、欧州原子核研
究機構理事会によって決定することになってはいる。しかし、今後の地球的影響や環境
の配慮も考えず、欧州高エネルギー物理実験を目的としてCERNが稼働し、世界最大の衝
突型円型加速器を作って動かしている。スイス・ジュネーブ郊外にフランスとの国境を
またいで設置され2008年に稼動開始し、ブラックホールの元となる反回転反粒し実験を
LHCは繰り返し行った。その後LHCは2013年から停止していたが、2015年4月5日に
改良工事を終え、以前の8兆電子ボルト( 8TeV)から13兆電子ボルト(13TeV)の超
高速エネルギー体製造に更新して、自然界にない粒子運転を再開した 。この13TeVの
衝突が2015年に初めて達成されて以降、上空のオーロラ変化や太陽分極化現象まで巻き
起こしている事が判明している。まだ未知の科学で解き明かせないが、時間逆行の世界
の新エネルギー体である事は計算上も理論上も解かれている。つまり歯車のごとく現状
粒子にエネルギーを送り込めるのだ。

1521: 名無しさんAA:18/07/30 17:39
TVはいい加減に嘘はやめろ。なる程、台風の進路は異例中異例であろう。だが小田
原の道路災害は15年若しくは30年に一回はやって来る高潮災害であり、たまたまの
台風の高波と重なっただけである。台風シーズンでは高潮時に高波が来ることはよくあ
る事で別に異常な現象ではない満月と共に襲来するのはいつもの事だ。ホテルの窓は、
風圧計算のみの強度であり物が風で飛ばされる2.5倍の衝撃度数は計算されてはいな
い。例え強化ガラスでもより高い衝撃では割れるのは当然で、幸いホテルの客室係の対
応で事なきを得ている事に我々は感謝すべきだろう。道路封鎖に際しては小田原土木セ
ンターの怠慢である。工事も風穴のないただの嵩上げコンクリートだし、ガードレール
も強化型ではない。更に道路封鎖は道路で車が流されていると言う通報があってからで
、その為より多くの進入車両が出れずに渋滞させてしまっている。つまり気象庁のあれ
ほどの緊急対応の必要性に全く高波高潮予測をしていないし所員訓示なり危機予測の訓
練がなされてはいない。これは所長に対しての給与はムダ金であろう。幸いにして海ま
で引きずられた人が居なかったからいいものの そうした話し合いもない中警察パトカ
ーすら巻き込まれた馬鹿さ加減は全くお笑い草である。又一緒に小田原市が今度開店し
ようとする施設などは論外の施設だ。その怠慢の極みで自らが市民に危機を教える立場
でありながら率先して危機を作っている。つまり作っていけない場所で開発し人寄せを
たくらんだのだ。ここで客がいなかったからいいものの想定内の被害で死人が出て居た
のなら市は知らんふりするつもりだろうか。報道は想定外としてニュース報道するが、
馬鹿げている。想定の中の最も核心部分である。もし経験がなければ想定も勉強もでき
ない。学習能力ゼロの小田原市なら、全国に二宮尊徳の像をなぜひろげたのか。かれは
この高波高潮に対して堤防を築いて 人々避難する時間を作り命を助けた英雄だったか
ら 日本では国家建設の始祖として崇めたのだ。 いまさらながら「報徳」の教えがす
たれ、この有名な二宮尊徳の生まれたところと言う意味が無くなっていたとは信じがた
い話だ。彼の出る前にも堤防はあった。しかし彼は同じ建設するなら人の命を救えと言
って研究に没頭して堤防苦役を強いたのである。小田原がこんなバカな8億をドブに捨
てる行為を決めるとは情けない日本になった物だ。なあ安倍馬鹿首相。


1522: 名無しさんAA:18/07/30 21:12
 国営諫早湾干拓事業(長崎県)をめぐり、開門を命じた確定判決に従わない国が、制
裁金(間接強制金)の支払いを強制しないよう漁業者側に求めた訴訟の控訴審判決が30
日、福岡高裁であった。西井和徒裁判長は「開門請求権の根拠となる共同漁業権が既に
消滅している」と述べ、制裁金を認めた一審佐賀地裁判決を取り消し、漁業者側の逆転
敗訴を言い渡した。制裁金の支払い停止も認めた。漁業者側は上告する方針。開門を命
じた福岡高裁判決は2010年に確定。開門しない国には1日90万円(1人当たり2万円)の
制裁金が科され、これまで漁業者側に総額12億円が支払われた。西井裁判長は、漁業者
側の共同漁業権について、10年間の免許期間が経過したことで13年8月末に消滅した
と指摘。この時点で開門請求権もなくなったとし、確定判決に基づく強制執行は許され
ないと結論付けた。漁業者側は「免許は間断なく更新されていた」と主張したが、判決
は「法的に同一と評価し得るものではない」と退けた。
 とニュースは伝えている。おいおい誰かこの西井和徒裁判長を殺せよ。全く日本国憲
法にも国際法にも慣習法にも、国や行政機関が勝手に決めた期間で漁業権や生活権ある
いは生存権を抹消されると言う法律はない。行政上の許可記載や手続き上の期限は何に
も設けていいが、それらは既存権を犯さない限り自由と言うのが原則だ。こんなバカな
判決をすれば アマゾンの原住民に住民票記載や税金払わないから直ちに立ち退け国か
ら出て行けと言う様な決定だ。まあ未開地以外を言えば日本の各所の今度の台風や水害
でもあなたは他県の被害者だから病院にはいれない。と言ってる様なものだ。なぜ人が
魚を獲って食べている生活権なり生存権が10年間で消滅するのか。開門に対する慰謝
料を契約経過で払わないと言うのは解るが、それと請求権とは違う。前者は支払い側の
口実であり契約内容である。後者の請求権は全く変わる事はない。更にこの水門工事に
対しても水流水量水質のこの一つでも犯していれば国の水質汚濁規制の法的違反者であ
る。もっと言えばこの工事の説明会は、開門します、影響はありません。との地元説明
からこの建設は始まっている。国民にもそう約束して国の予算や資金をつぎ込んでいる
。つまり農業事業者や新たな農地生産者には、この裁判に関わる資格は一切ない。勝手
にペテン師から買って移住したのが悪く、開門に一切の権限はない。それが本来の日本
の決めた憲法の解約のはずで、国際法の定める既存権の執行である。つまり裁判官が、
この日本国憲法を違反しているのだ。だれが殺してもいい人間がこの裁判長であるとい
う事になる。

1523: 名無しさんAA:18/08/05 21:52
 いい加減にしろIT電話業界。今や電話回線や電場状態は飽和状態である。その負担
は今国民が税金やサービス低下などで負担している。災害の為の専用回線もつながらず
余分の政府回線もできにくい。本来なら特別の空き回線を2倍程持たなくては維持でき
ないはずだが、民間のソフトバンクやDDIやAuなどがそれを止めた時NTTも止め
た。こうした回線異常を繰り返してTVのデジタル化やアマチュア無線バンド変更で今
に至っている。この異常を放置するように、プロバイダー契約が要らないとして電話が
かかる。まったくいい加減にしてくれ 電波を管理できず電話一つも管理できないか。
この馬鹿垂れ政府は。無能議員と共に全く何を理解しているんだか。人は生きるのに、
食糧が必要なんだ。その為に生産や流通にお金と言う仕組みで、農業者や漁業者のみな
らず食行ける様に社会を創ったのである。本来なら乞食物乞いしてしか生きられない人
の救済として職人や商人や仏僧の職業を認めたのだ。これが歴史である。議員や商人や
武士など本来生産性の無い事で食って行けなかったのだ。家を作るのにも市場しように
も或いは他の篭や刀鍛冶でも結局は米や食料の自給があっての事だった。それが今や、
ゴールドカラーを頂点にサービス業から議員或いはブルーカラーも会社員と言う流れで
しか金が回っていない。宗教や学校・医療介護関係なんぞ特に寄付や補助でありながら
普通の生産性のある労働者よりはかなり良い暮らしに設備ではないか。一体何故なんだ
おかしいだろう。加計や森友学園なんぞ潰した上に課徴金を払わせて余りある汚職では
ないか。全くどうしてこうも汚職をさせるか。これは国会議員の有り余る選挙資金汚職
が今だ効力がないままほったらかしにされているからである。何故議員はまともな論議
と言う仕事をしない。聞く耳も話す言葉もないに等しい位のメディア対策ではないか。
これでは日本には議員と言う者はいないに等しい。そこで電話もオレオレ詐欺など勧誘
電話が勝手にジャンジャン鳴り出し回線を塞ぐ。全くこうした事は対策室一つつければ
止まるものだ。勧誘電話がありました回線を付ければ誰もが直ぐに報告するだろう。そ
もそもオレオレ詐欺以外の勧誘でも中止させるべきの法律さえ整備していない。馬鹿の
行政ばかりだ。このインターネットも何故ユーチューブは違法ではないのか。おかしい
だろう。よそはよそ日本は日本だ。日本でこの通信映像プログラムを作って会社をつく
ろうとした時違法とされたのになぜ今はいいのか。このインターネットも広告掲示は、
国民は認めていない。なかんずく新聞のような印刷販売物件ではない。公共の電波だ。
それぞれの業界規制が日本の現状だろうがドラグエと同じくそれではソフトバンクや楽
天のような違法者がまかり通る。かつてのオリックスの様に勝手に人の情報を売買する


1524: 名無しさんAA:18/08/06 08:40

 そもそも山根のような言葉が詰まると大声で威嚇する朝鮮人の下に こうした組織が
出来てること自体がおかしい。全く日本人の持つ独特の情緒と悲哀と権下宣下の公開性
は全く無い。暴力団そのものだが、侠客のヤクザではないあくまで利権食いの暴力団で
ある。社会のゴミだ。暴力団は暴力で物を動かす事ではない。暴力を盾に委縮させ威嚇
する事が暴力団なのである。



1525: 名無しさんAA:18/08/06 09:15 ID:pTo
まだ機能している?

1526: 芸能記者のオフレコ:18/08/06 09:25 ID:pTo
元芸能人の篠原涼子が居酒屋で飲み仲間に
一般人の栗山鷹志との肉体関係を激白しました!!

篠原涼子は栗山鷹志を押さえつけて
騎馬上位で根元までチンポが入ると激しく
上下に動きまくり時には回り何回も生中だしさせ
『わたし篠原涼子を愛していると言いなさい』と妖しく言うと

篠原涼子が
好みではないと思えないほど
栗山鷹志は篠原涼子の上に乗り直し激しく
顔に膝が来るほど深くチンポがマンコの先の
子宮にまでガンガン当たり生中出しされまくった
※もちろん正常体で篠原涼子はイキまくって感じたから
 その後もセックス仲が続いているそうです驚きました…

ちなみに結婚した相手の子供産んだのではなく
篠原涼子は元ホストだった栗山鷹志の子供産んだだけのようです…

1527: 名無しさんAA:18/08/06 09:26
元ではなく現役でしたwww

1528: 名無しさんAA:18/08/07 11:01
 そもそも山根のような言葉が詰まると大声で威嚇する朝鮮人の下に こうした組織が
出来てること自体がおかしい。全く日本人の持つ独特の情緒と悲哀と権下宣下の公開性
は全く無い。暴力団そのものだが、侠客のヤクザではないあくまで利権食いの暴力団で
ある。社会のゴミだ。暴力団は暴力で物を動かす事ではない。暴力を盾に委縮させ威嚇
する事が暴力団なのである。この韓流プログラムは別に暴力団のみに限らないようだ。
歴史においても、あたら当てはまらない筋違いをやりすぎ言い過ぎを見てもわかる。今
まで竹島問題や慰安婦問題など数多くの問題でそうであるように、政治でも大統領が常
に処断され弾劾されているのは韓流というのがこうした強い言葉と意志で押し切り自ら
の不勉強を恥としないからだ。国民全員がそうした環境と教育で生きているのだろう。
全くとんでもない国だ。それは賃上げデモでも解る。現代自動車などは売り上げや世界
シェアに鑑みて日本のトヨタなどよりずっと低く、また次世代自動車の研究開発などは
皆無に等しい。しかしトヨタに比べて何割か高い賃金労働者なのである。それが悪いと
言う事ではない。しかしそれが社主のやり方や会社の気風での賃金の高止まりという訳
でなく、会社を顧みない賃上げストによるもの。と言う事は会社は潰れても金をくれ。
と言う意見でしかない。そこに会社への貢献或いは社員である誇りや気概はない。国も
同じようだ。今や文氏の支持率急落は、“韓流ポピュリズム政治”の行き詰まりと言え
る。と法政大学大学院教授 真壁昭夫は言っている。真壁氏がどういう人か知らないが
、そもそも北朝鮮の核放棄は、粘り強く文政権は説くべきであろう。アメリカと会談し
たから良いなど言うものではない。特に国際調査団や査察団を置かずに勝手に坑道爆破
ミサイル発射台撤去と言うのは全く筋違いである。査察を受けて懇意に韓国とも繋がれ
ばそれなりの道も開ける筈だが、戦後の南北分断時と同じに占領や融和も通り一遍の物
でその上て決して占領も融和もしない。攻撃・批判・蹴落とし・暗殺と悪魔のようだ。
全てが利権の為や欲の為にこんな風にすぐになる。この民族の下等度が日本人は大嫌い
なのである。北朝鮮の政治決断も或いは合同操業の工場団地も自分の都合でやりすぎか
と思えば直ぐに停止する。中国人の鬼城と同じ、盛んに銀行を口説き住民を抑圧排除し
て作った割にはいい加減で粗末な作りで規模だけ大きい。外見は立派だが、中身は誰も
住もうとしない。香港や上海すら投機目的所有がおおく、上海に存在する理由の無い事
務所がステータスや組織繋がりで持っているケースは多い。この繋がりが九龍城の様に
醜いのである。

1529: 『…』使うマンガ:18/08/07 14:52 ID:AwI
『…』使うマンガはゴルゴ13とゴリラーマンと
北斗の拳のケンシロウなど意外と無口キャラ演出多い

1530: 名無しさんAA:18/08/07 18:01
どうも古今の汚職や不正は全く自分達がやってる事に自意識が無い。例えばアマチュア
ボクシングの山根会長は、自分が悪い事をしていると言う自覚があったのだろうか。通
常の社会の中で、暴力団やオウムなど反社会的行為に対しては、ちゃんと反目する気質
と規律を明示するのがクラブの伝統的しきたりだ。でなければ極道や暴走族と同じ集団
であり、迷惑や実質的被害が証明されなければ何をしてもいいなどと言う、とんでもな
い馬鹿な話になる。そういう社会を許さないとするのが通常で当然の常識だ。ところが
このアマチュアボクシングクラブには、そうした規定すらない、全くもってかなりの人
か異常の人かの集まりになっている。或いは東京医科大学は、大学として寄付金募集の
為に裏口入学を開いていたと言う極めて反社会的悪質な詐欺行為を働いている。通常の
社会で消費者や顧客を誘導し先導してサービスする行為は多くある。しかし例えば会員
とかカードとかある種の特典に於いては法務省や労働省や警察認可が必要である。使用
者や占有者特権が反トラスト法つまり独占禁止法にかかるからだ。つまり裏口入学だけ
でもそれは憲法違反行為であるのに更に、点数をさじ加減で一斉減点している。学校で
なく一般販売であっても、特定の不平等売買は禁止している。今では朝鮮人悪口すらも
只の言葉が嫌がらせとされヘイトスピーチ禁止法すらある。それらは事実の告知でも、
警察取り締まりの対象である。だが大学は補助金を貰い公的施設の宣言をしながら隠れ
て違法行為を続々としているのである。こうした事が許される筈はない。いや許される
というより許してはいけない人格づくりをするべき機関なのだ。それを強いて隠れて、
不平等采配を行っていたのだ。謝って済む問題ではない。公然と年齢制限や性別制限を
掲げるハローワークの違法行為より大きな悪質行為である。ここにあるのが大学がやっ
ていて個人でやっていないから汚職でも違法でもない。と言った思いあがった。言わば
開き直った考え方だ。今の安倍内閣や東京都知事の言い分に似ている。だが悪は悪であ
る。善い事ではなく諫めるべき行為であり言動なのだ。全くふざけている。伊佐早裁判
でも同じだが、そこにある矛盾は行政の怠慢であり嘘の禍舌の判断である。政府であろ
うと、集団であろうと個人だろうと守るべきを護り、諫めるべきは諫め 取り締まりを
正道として政治でも経済でも行うべきは当然で、それを行わないから災害が大きくなる


1531: 名無しさんAA:18/08/11 00:50 ID:J/A
 まるで馬鹿の論議である。公務員の給与や定年の引上げである。これまでの日本の歴
史で、景気後退したのは、正にスト権ストなどを起こし国家公務員の給与を上げたから
税収が不足になり、国債発行して事業費が足りなくなった。又給与が安定高給になって
民間の起業家が減り、国鉄さえも運用できずになった。本来なら、林業や国鉄沿線の開
発などに力を入れれば済んだのだが、それをせず国鉄解体民営化に行った。その為国民
の税負担は重くなり更に都市化の流れや東京への一極集中化して今の様な全く無茶苦茶
な正道の行えない生活や政治に変えた。言わば、国を壊したのである。こうして民間の
活力が削がれていくと、急に頭をもたげたのが中間資本家層である、その時はダイエー
を初め無茶苦茶に融資され急成長して来た会社が物言いはじめ、それをテコに米国は、
日本開放を叫んだ。ここで起こった事は連鎖倒産の嵐だった。まず大型ストアの解禁で
小売店業は全国シャッター通りになった。地方公務員まで軒並み給与が上がり古い町並
みは壊され続けた。その後銀行は小口の商店相手の口座を閉めた。凝った事に株式まで
操作しての飛ばしでその採算は隠された。しかし金融ビックバンなどと言っては銀行ま
で取り締まり貸付を絞った。揚げ句は田舎には産業が残れず、今や国の融資や補助漬け
の高い医療費の病院や詐欺の様なブラック雇用の老人ホームに公共事業でしか仕事しな
い土建屋しか残って居ない。後はメーカーとして世界企業でたんまりため込んだ大企業
かその紐みたいなコンビニや価格競争させられる下請け群である。こうなる事はわかっ
ていた筈だ。30年もまえから、国債と赤字続きで国費を使う国会予算は批判されて来
ていた。しかし中曽根以下自民党は、米国に尻尾を振るのに夢中で国土の安全も、国の
経済の自立も、自らの国家予算で壊し続けて来た。今市町村にかかる市民税は消費税の
ある国に於いて最高に高い。それは水道・電気でも同じに全くの普通の人達を救っては
いない。特別に、議員を初め2割程度の高給所得者と下層の保護家庭などの一般に背を
向けた政策ばかりである。これらの悪癖の元がこの人事院の無能な理由の無い勧告であ
る。グラフや表その他人々に説明できる資料はないのに勧告する悪さだ。無駄より悪業
である。今や日銀の言う2%物価高騰や消費税がまだ上がってないから自殺者も犯罪者
も少ないが、それでも20年前40年前となんら変わらない生活で何故資産価値や市民
税が上がるのか不思議である。そんなに公務員は仕事をしてはいない。電算化し庁舎は
立派になっても仕事は減っているのに維持経費を30倍にしているのだ。馬鹿である。
さっさと老害官僚を減らし、効率良い運営をし民間で起業を進めるのが筋道である。

1532: 名無しさんAA:18/08/13 23:48
 徳島市で開催した夏の風物詩「阿波おどり」で、千人以上が一斉に踊る「総踊り」の
中止に反発する有力踊り手団体が、演舞場以外で13日午後10時から独自に実施する
と表明し、遠藤彰良市長が13日、緊急に記者会見して「雑踏事故が起きれば取り返しが
つかない。やめてほしい。」と訴えた。昨年まで主催していた市観光協会が多額の累積
赤字を抱え、今年は市を中心とする実行委員会が運営。人気が集中する総踊りを中止し
、四つの演舞場に踊り手や観客を分散させる演出を決めた。これに対し、14の踊り手
グループが所属する阿波おどり振興協会が演舞場以外の道路で行う方針を12日夜、明
らかにした。 とニュースは伝える。しかしこの観光協会も市長も何を勘違いしている
のか。どこがどう赤字なのかは不明で、観光協会自体が踊りの総踊りの部分にあまりに
も資金投下しているのではないか。であれば市政は予算打ち切りを宣言し、市民が作る
観光協会の純粋さを大事にすれば良く、観光協会でなく市街地の一商店街組合に格下げ
すればいい事だ。更にこの話合いの無さや共通認識の無さは、今の日本の特徴なのか。
大学やスポーツの不祥事と全く同じ仕組みで、如何にトップダウンの違法行為を日本が
認めているのか、悪行の流行る行政に変化させた改憲が自民党によって進められたかの
の証であろう。また警察不祥事や 白骨や死体遺棄や全国的に意味不明事件が多発して
いる。これは報道関係の画一的視点が多すぎて、さも自分達が正しいと忖度したような
解説が多いからであろう。色々な視点を効率が悪くても表現ないし公表すべきであろう
。フェイクニュースは困るが、殆ど事件や事故の2割ほどしか今や報道していない。特
に富田林署の事件などは詳細が全くない。この富田林署は、もはや警察じゃない。警察
その物が治安を乱す犯罪者である様相である。失態以前の問題で複数犯行してやっと捕
まえた中で弁護士接見に立ち合いも映像記録もないなど今時あり得ない事件である。市
民や国民を守る意識があるのだろうか。安心を届ける義務をどう考えているのだろうか
。この根〆の無さはヤクザが警察内部にいて、更に弁護士も内通している。と言うこと
だろうが、全くデタラメである。付近には住めない程ではないか。予算もあろうがこの
不備加減は尋常ではない。電池操作そのものがおかしいしその電池が抜かれる失態もお
かしい。アクリル板は曲がると言う事は強度不足で決して劣化ではない。劣化したら割
れる物がアクリルの特質性だ。逃げるにしても弁護士が手助けせずには挟まって動けな
いはずだ。

1533: 名無しさんAA:18/08/14 11:14

 国立国会図書館は、閲覧制限撤廃に取り組みたいとしている。しかしそうじゃないだ
ろう。日本ほど貧相な国立図書館はない。資料に対して質も低く量も多くない。本来な
ら日本の高度成長を支える為にも10倍ほどの広さと予算が必要であろう。今の国会が
如何にダメ人間が集い、就学に向かない素養の無い人間の集まりかが解る規模だ。組織
にしても、全国にある小中高校などの古典的書物を収集しているか。と言えば全くもっ
て収集どころかその体制すら組んでいない。今や国民に読ませようと武雄を初め民間の
本屋に新刊貸出しに力を入れているが、そうしたものは横滑りな邪道にすぎない。図書
館、博物館、美術館は、その収集と保管が文化であり収蔵の高さにおいて分析なされて
初めて利用価値があるもので、一般に身じかで利用されても価値はない。残されて記録
が後世に伝えられる事が大事なのであって、売れた、人の目に触れた、そうした事はど
うでも良く。如何に適切に大切にそして永遠と保管される得るかを考えるべきものだ。
行政資料すら保管できない今の馬鹿安倍に何を言っても無駄だろうが、そもそも書き換
えられず災害が起こらず被害が無いように記録される物であり 活用すらなってない。
敗戦時に軍部が隠し燃やし廃棄したように醜く、無に失している現状は日本国民の哀れ
さである。



1534: 名無しさんAA:18/08/14 12:38 ID:LEM
 国立国会図書館は、閲覧制限撤廃に取り組みたいとしている。しかしそうじゃないだ
ろう。日本ほど貧相な国立図書館はない。資料に対して質も低く量も多くない。本来な
ら日本の高度成長を支える為にも10倍ほどの広さと予算が必要であろう。今の国会が
如何にダメ人間が集い、就学に向かない素養の無い人間の集まりかが解る規模だ。組織
にしても、全国にある小中高校などの古典的書物を収集しているか。と言えば全くもっ
て収集どころかその体制すら組んでいない。今や国民に読ませようと武雄を初め民間の
本屋に新刊貸出しに力を入れているが、そうしたものは横滑りな邪道にすぎない。図書
館、博物館、美術館は、その収集と保管が文化であり収蔵の高さにおいて分析なされて
初めて利用価値があるもので、一般に身じかで利用されても価値はない。残されて記録
が後世に伝えられる事が大事なのであって、売れた、人の目に触れた、そうした事はど
うでも良く。如何に適切に大切にそして永遠と保管される得るかを考えるべきものだ。
行政資料すら保管できない今の馬鹿安倍に何を言っても無駄だろうが、そもそも書き換
えられず災害が起こらず被害が無いように記録される物であり 活用すらなってない。
敗戦時に軍部が隠し燃やし廃棄したように醜く、無に失している現状は日本国民の哀れ
さである。こうした認識間違いが多々ある。ノンスタイルの双子の赤ちゃんでレジが通
れない。と後ろのおばちゃんが「迷惑を考えないのか」と怒ってきたと言う。ここで人
は考えるのは一体「迷惑」とは何かという事だ。つまり迷い当惑させる事だ。双子の赤
ちゃんは当然の営みで買い物は生活の一部である。つまりこのおばちゃんこそ社会生活
の迷惑者である。子孫を残し育てる行為は世界で一等の権利である事を無視している。
つまりこのおばちゃんの迷惑は発言こそ憲法の精神違反なのだ。更にねぶた祭りの駐車
料金を一時間5000円で12二時間55000円の請求だった。とニュースが流れた
。勿論表記もあり、表示を新たに注意書きまでしている。しかしそれはダム放流と同じ
で、説明した。協定交わした。善いと言った。と言う事で法律違反ではないと言う盗賊
や人殺しの論理である。例えば看護婦が痛さのあまり患者が死にたいと口にしたので、
殺したと言う事と全く同じで、こうした生活虐待も本人委託殺人を国際社会も日本社会
もゆるしてはいない。つまり幼児が例えば大人であっても 判断力が少ない環境にあっ
て流されて離れられない中の指導は認めていない。幼児や学校は奉仕での認可活動であ
りその為の規制をしているのであって育成は認めても指導や命令或いは体罰は認めてい
ない。これを勘違いしている。社会生活の契約は平等の権利によって成立するとしてい
る。この駐車場はその規定を逸脱し、市や県はその管理を放棄している。つまり違法で
警官がちゃんと逮捕すべきことなのである。


1535: 名無しさんAA:18/08/14 23:24 ID:LEM
 保坂教授のような教授の資格の無い発言者が何故犯罪者ではないのか。TV東京は、
同じ日本国民として何故「不可逆的前進する外交の違反」と言う条約違反を問わないの
か。日本から見れば後退した感じだが、前々からあった話の具現化である。などと言う
嘘をつく韓国との国交を今すぐ切って 元日訪している韓国人を強制退去させるべきだ
。全く遵法精神や、条約や協定などなんとも思わない朝鮮人の我儘を許してはならない
。確固たる態度が大事である。文政権に公約違反である故を何故外務大臣は強気に出な
い。岸田外務大臣や安倍政権が まともな正義の発言や声明すら出せないならさっさと
辞任しろ。内閣を作るな。今回の韓国の慰安婦発言など論外だ。日本人観光客が拉致さ
れ捕縛され換金される北朝鮮の論理と全く同じ、民族のご都合主義である日本は縁を切
って外交は出直せ。全く朝鮮半島は干せ。外交するな日本国民の総意である。話になら
ん悪態で 嘘がまかり通る世界を作るな。日本が苦しく成るだけだ。正義を求めよ船長
などの拉致や竹島占領すら解決できずに犬の様な尻尾ふりをするな。時代は変わったの
だ。



1536: 名無しさんAA:18/08/15 04:06
 保坂教授のような教授の資格の無い発言者が何故犯罪者ではないのか。TV東京は、
同じ日本国民として何故「不可逆的前進する外交の違反」と言う条約違反を問わないの
か。日本から見れば後退した感じだが、前々からあった話の具現化である。などと言う
嘘をつく韓国との国交を今すぐ切って 元日訪している韓国人を強制退去させるべきだ
。全く遵法精神や、条約や協定などなんとも思わない朝鮮人の我儘を許してはならない
。確固たる態度が大事である。文政権に公約違反である故を何故外務大臣は強気に出な
い。岸田外務大臣や安倍政権が まともな正義の発言や声明すら出せないならさっさと
辞任しろ。内閣を作るな。今回の韓国の慰安婦発言など論外だ。日本人観光客が拉致さ
れ捕縛され換金される北朝鮮の論理と全く同じ、民族のご都合主義である日本は縁を切
って外交は出直せ。全く朝鮮半島は干せ。外交するな日本国民の総意である。話になら
ん悪態で 嘘がまかり通る世界を作るな。日本が苦しく成るだけだ。正義を求めよ船長
などの拉致や竹島占領すら解決できずに犬の様な尻尾ふりをするな。時代は変わったの
だ。だいたい、どこの何が未解決なのだ。慰安婦だった。と本人が言った事を否定も、
肯定もしないが、徴用によって連行され日本軍がやったなどと言う嘘にはあきれ果てる
。何回も資金提供し、何回も戦争の責任について謝罪し、何回も韓国の将来の為の投資
を行った。ここの何が未解決なのだ。日本人の漁船船長や日本の国内での拉致事件は、
戦後のどさくさに韓国人にも多くの犯罪者がいて、更に親日家とされた村の文化人は、
ことごとく殺されたり収容所に送られたり食べられた事実が、多数あると言うのに自国
で起こった日本人殺害には目をつむり、粛清の嵐の中の30万人とも言われる死者は、
今だ全容が無い。こっちの方が大きな未解決である。実際韓国人自体が村の中で女衒の
人買い商者を乞い願って金の為に勝手に身売りした事件は当時の新聞でも連日報道され
ている。生きた人間の脳みそを食べる習慣は戦後もつい最近の二千年頃まで目撃されて
いる。そういった民族が、自国の歴史も知らないまま 竹島を自国領と叫び慰安婦とし
て連行されたと嘘をつく。ほとんどの戦争の兵士に慰安婦なり女郎がいたのは常識だろ
う。しかし日本軍に着いて回ったのは、朝鮮に本社を置いた13の業者であるし、それ
らの一部はいまでも韓国の財閥となっているではないか。資料は充分に日本にあって、
どこが未解決なのか。国内問題でも政治問題でもない。文氏の勝手な精神問題なのだ。

1537: 名無しさんAA:18/08/19 04:34
 NHKは何故岩倉具視に 笑福亭鶴瓶などと言う配役をしたのか 余りにも下手すぎ
る。全くの品の無い颯爽とした速い動きやバカ騒ぎの風貌は合わない。実に合わない。
こんな映像で大河ドラマなどと ふざけるな視聴者を馬鹿にし過ぎている。




1538: 名無しさんAA:18/08/20 07:16 ID:JIo
 8月5日、

 トランプのロシア疑惑から、トンだ中国の諜報活動が浮き彫りになってきている。8
月になって、連邦議会上院のダイアン・ファインスタイン議員(民主党・カリフォルニ
ア州選出)が突然次のような声明を発表した。「5年前、FBI(連邦捜査局)から私
の補佐官の1人が中国諜報機関にひそかに情報を提供し、中国の対米秘密工作に協力し
ていると通告を受けた。独自調査も行った結果、すぐに解雇した。機密漏れの実害はな
かった。」と。これは5年も前の実害の無い話であるが全米にショックが走った。とい
うのも、ファインスタイン議員のステータスである。全米の中で最も知名度の高い女性
政治家の1人で、サンフランシスコ市長を務め、連邦議会上院議員の経歴は既に25年
にもなる生粋の政治家である。この間、上院では情報委員会の委員長のほか外交委員会
の枢要メンバーなども務めてきた。民主党リベラル派としてトランプ政権とは対決姿勢
をとり、とくにトランプ陣営とロシア政府機関とのつながりをめぐる「ロシア疑惑」で
も活発な大統領批判を展開している。そんな有力議員がなぜ今になって5年前の不祥事
を認める事になったのか。何故問題なのか。その仕組みが明らかになって来たからだ。
 アメリカ国内では、ロシアの大統領選介入疑惑が問題になっているが、外国政府機関
による米国内政への干渉には、官民ともにきわめて敏感であるにも関わらず依然として
決定的な確証に欠けた支援が、その影響力の包囲網によって事を成しえると言う形が、
問題にになっている。ところがそうしたものをあぶり出して、出て来た結果が、この中
国諜報機関の対米工作の激化と抗日工作だったのだ。つまり日米の切り離しに韓国支援
で行う形だ。これが米国の防衛問題として大きな問題となってきている。そんな状況の
なかで明らかになったのが、ファインスタイン議員の側近に20年もの間、中国のスパ
イがいたという事実である。これは全米に強い衝撃を与えた。更にトランプ大統領は、
この報道を受けて、遊説でファインスタイン議員の名を挙げながら「自分自身が中国の
スパイを雇っておきながら、ロシア疑惑を糾弾するのは偽善だ。恥だ」とののしった。


1539: 名無しさんAA:18/08/20 07:17
同議員は、この大統領の批判に応える形で前記の声明を発表し、非を認め公けになった
のである。この中に日本の慰安婦問題がまた国際的な関心を集めるようになった理由が
ある。今又韓国の文在寅大統領が公式の場で改めて提起したことは極めて深刻な米国の
憂鬱なのである。ちょうどこの事件を利用して、米国で慰安婦問題を盛んに焚きつけた
のが、今回司法当局から中国政府のスパイだと断じられた中国系米国人ロウ氏なのだ。
米国における慰安婦問題追及の枢要な役割を果たし、長年米国上院議員の補佐官を務め
、現在は慰安婦問題で日本を糾弾する在米民間組織の中心的人物となっているホンダ氏
に積極的に中国からの資金を流したとされ、慰安婦問題への中国政府の陰の関与を示す
動きとして注目されているのである。ロウ氏はファインスタイン議員事務所で、地元の
カリフォルニアのアジア系、とくに中国系有権者との連携を任され、中国当局との秘密
の連絡を定期的に保ってきた。こうして中国のスパイがベテラン女性議員の補佐官にな
って動いていた。そして日系人を名乗るマイク・ホンダ議員(民主党・カリフォルニア
州選出=2016年の選挙で落選)を支援し長年緊密な協力関係を保ち、米国議会での慰安
婦問題糾弾のキャンペーンを続けてきたという。米国内での慰安婦問題を調査してきた
米国人ジャーナリストのマイケル・ヨン氏によると、ロウ氏は、歴史問題で日本糾弾を
続ける中国系反日組織「世界抗日戦争史実維護連合会」や韓国系政治団体「韓国系米人
フォーラム」と議会を結びつける役割も果たしてきた。また、2007年に米国下院で慰安
婦問題で日本を非難する決議を推進したマイク・ホンダ議員も利用し続けたと言う。事
実中国諜報員のロウ氏は、2017年10月に社会正義教育財団を代表してマイク・ホンダ前
下院議員とともに韓国を訪問して、華々しくソウルでの記者会見などしている。会見で
「日本は慰安婦問題に関して反省も謝罪もせず、安倍政権はウソをついている」という
日本非難の言明を繰り返し述べて米国における工作員活動をし中国当局を喜ばせていた
とされる。今回、米国において慰安婦問題で日本を糾弾する人物が、実は中国のスパイ
だったことが明らかになった事で、ロシア以上に中国当局が米国に工作員を投入して、
既に政治操作を続けている実態があるということが明らかになった。前述のヨン記者は
「米国内で慰安婦問題を糾弾する反日活動は、一見すると韓国系勢力が主体のようにみ
える。また抗日をそのように認識する人は多い。だが、主役はあくまで中国共産党なの
だ。長年、米国議会の意向を反映するような形で慰安婦問題を追及してきたロウ氏が実
は中国政府のスパイだったという事実は、この中国の役割を証明したといえる。」と、
解説している。

1540: 名無しさんAA:18/08/20 07:17
 ホンダの祖父母は、1900年代初期、アメリカ合衆国への日本の移民の第一波で、熊本
県の出身だった。母フサコは、1916年にサンノゼの日本町で生まれ、そこで成長した。
父ギイチもカリフォルニアで生まれ育ったが、東京に数年住んでいたこともある。1941
年におきた日米間の戦争の後、彼の家族は他の在米日本人のようにコロラドの捕虜収容
所に送られた。彼らは、合計14ヵ月をそこで過ごした後に ホンダの政治観に影響する
経験だった。「この経験は、政府が間違いを犯したら謝罪しなければならない、と私に
教えた。」家族は、終戦の数年後にサンノゼに戻った。自宅で、父はホンダと彼より若
い兄弟と姉妹に英語で話した。彼の母は、日本語で彼らに話しかけた。今日まで、親類
や日系米人と話すとき、ホンダは英語にいくつかの日本語を混ぜるクセがある。自宅で
は和食が出された。「私が食べたのを憶えている唯一のアメリカの食物は、スパムだっ
た」と、彼が言った。彼の両親は頑張った。イチゴ小作人だった彼の父は結局、より安
定した仕事を郵便局で見つけ、母は家の掃除婦になった。マイクホンダ氏自身は国籍は
アメリカで、太平洋戦争が始まる前にカリフォルニア州サンフランシスコで生まれた。
と言う。農家に転じた両親と一緒に小作農として働き、その後は高校教師になって1974
年には修士号も取得。マイクホンダ氏は日系3世ですが、日本に住んだことは一度も無
く、父親も母親も「アメリカ人」である。米国の各メディアの報道を総合すると、マイ
クホンダ氏(民主党・カリフォルニア州選出=2016年の選挙で落選)を議員にしたのは
この華人財団が作った韓国協会の支援であり、とても長い緊密な協力関係を保って来た
とされる。米国議会での慰安婦問題糾弾のキャンペーンでは、靖国批判から銅像資金か
ら韓国政局にまで手を出し竹島上陸までそそのかしを続けてきたと言う。今の北朝鮮の
非核化問題の中にも、五輪外交の中にも そうした影がちらほら見えると言われている
。ファインスタイン議員事務所を解雇されたロウ氏は、現在はサンフランシスコに本部
を置く「社会正義教育財団」の事務局長として活動していることが米国メディアにより
伝えられている。ここ最近の数年前に設立された同財団は「学校教育の改善」という標
語を掲げている。だが、実際には慰安婦問題に関する日本糾弾が活動の主目標であるこ
とがウェブサイトにも明記されている。韓国中国の行う隠れ蓑の常套手段だが、同サイ
トに「日本は軍の命令でアジア各国の女性約20万人を組織的に強制連行し、性奴隷とし
た」という事実無根の主張も掲げていて、その広報団体として設立されている。

1541: これならいいだろう?:18/08/20 14:13 ID:w5U
この前の日曜日のテレビ大阪の7ちゃん昼11時の放送で
電車でカレー食べて彩木咲良ちゃんはひこまろのマネして
実にいいリアクションしていたからタレントとしての才能はある。

1542: ↑模範のレス:18/08/20 14:14
明日これ投稿でOKな。

1543: 名無しさんAA:18/08/20 14:14
   ∧_∧
  ( ´∀`)
  (    )
   | ||
  (__))_)


1544: 名無しさんAA:18/08/21 07:54 ID:sQI
みんながチャットレベルで楽しみたいならば
【地下アイドル坂】や【ローカルアイドル坂】がオススメだよ♪

1545: 名無しさんAA:18/08/21 08:18 ID:sQI
空知英秋さんの人気マンガ「銀魂」が
2018年9月15日発売の連載誌「週刊少年ジャンプ」(集英社)42号で完結し
約15年の連載に幕を下ろすことが20日が明らかになった20日に発売された
同誌38号で「最終回まで残り5話!! ラストスパートお付き合いください!!」と発表された。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180819-00000033-mantan-ent
これには裏情があるらしく
空知英秋は国民的アイドルグループの
欅坂46の未成年の子に手出して強制打ち切りとなった
「銀魂」が実写化で主役が小栗旬で流れは良かっただけに
安いハニートラップでマンガのファンの期待裏切らないでほしい。

1546: 名無しさんAA:18/08/21 08:38 ID:sQI
Kー1でのこの二人の格差がすごいwww
佐竹雅昭のファイトマネー最高額2500万円
ブランコシカティックのファイトマネー最高額1億5000万円
https://www.youtube.com/watch?v=7vMISCyaOGY
※シカティックに関してはKー1の優勝誉金よりもはるかに上の金額に驚く
 マイクタイソンも当時のKー1なら呼べると言うわぁ〜まさに格闘技バブル時代!!

1547: 名無しさんAA:18/08/21 09:18
   ∧_∧
  ( ´∀`)
  (    )
   | ||
  (__))_)


1548: 闇サイトのただし一派との約束:18/08/21 09:22
キミとユーチューブで歌を聴かない約束【1日目】
今日の日付変わるまでガマンできたら【歌の解禁まで後30日】
※テレビ番組で歌を見る聴くは最低限の慈悲でゆるしてあげますから安心して♪

1549: 名無しさんAA:18/08/21 13:24

 日光のティフェンヌ・ベロンさんが今だ捜索中らしい。警察は何やってるんだ。おか
しいじゃないか。基本的に川に流されたなら最大20〜30km/日流されるのが基準
だ。もう一週間もなる100km以上下流を探すべきだ。何をいまさら日光周辺に限定
しているのだ。堰で止まるなどと思うな。水と共に流される。死人なら野犬やアライグ
マさえ食べる。栃木県警腐っているのか、しっかり探せ




1550: 名無しさんAA:18/08/21 15:09
もっと国民を守れ 観光だけが行政ではない。
県民の生活を守ってこその行政だ。たるみ過ぎだ日本人茨木人



1551: 名無しさんAA:18/08/22 20:11 ID:njI
 菅官房長官は馬鹿ではないのか。技術革新は技術のあっての話である。いまだハッカ
ーだの仮想通貨流出などあってる社会事情で、その安全を図るコストを今の政府は払っ
ていない。それどころか、年金機構に変わっても詐欺体質すら変わっていない。殆どの
会社員は会社と個人折半で年金を払っている。ところがどうだ。返済金には個人の掛け
金のみの計算しかない。又国民保険料や公共下水道や上水道或いは電気料金まで至って
は日本の国民の支払いと自治体サービスの受けには、他の国に比べ遥かに高い。社会主
義国のような手厚い福祉は存在せず、自由主義国の様な、遥かに自由な先進性もない。
今度の水害でも、何故土嚢などで仮設の護岸をし、プレハブの仮設を作るのだ。遥かに
ムダ金を作っている。同じに作るならグリ石を敷き詰めた金網篭の蛇籠工法などODA
の海外でも行っている工法がある。又同じにプレハブで作るなら普通の鉄骨造で大所帯
のアパートを築いた方が遥かに後の用途がある。全く馬鹿げた浪費をしていながらも、
のほほんと電話回線の安売りの話とは情けない。今でも電波状態は空き回線がなく非難
や災害では混線しその情報は少ない中で、全く無駄に値下げする事はオレオレ詐欺みた
いな架空商店を増やすだけだ。映像を送るならTVがあるじゃないか。TV局をみよ。
コンテンツがないのか、金がないのかまともな番組は皆無である。夜のCS・BSは、
無駄にTVCMの独擅場でありTVドラマと言えば韓国番組が目白押しだ。ちょっとし
たバラエティはこじんまりしたMCとコメンティターの全くまともな意見のない当たり
触りのない流ればかり。ちょっと金を使ったと思えば食べ物か旅番組でどうでもいい様
な映像の垂れ流し。全く教育する。文化的興味をそそる。感動を呼び覚ます。明日の為
に。などと言う番組は少ない。アニメは少女漫画か格闘技。ちょっといいのは昔のヒー
ロー物や時代劇の再放送。全く今や国民は何をどこでどう勉強するのだ。スマホゲーム
で人は生きられない。一億総白雉化した世界は中国で充分だろう。中国のゴミ事情だけ
で世界は気候さえ変わっているのだ。今や東から台風が来るんだ。少しは政治を行え。
汚職や疑惑だらけで、今から自然現象や野生動物に対する建設的未来思想が必要と言う
のに、森友・加計問題などとあり得ない話だ。一体何やって居るんだ日本人は目を覚ま
せ。より良き未来は日本人の手にしかない。みてみよ今の逃亡中の彼の顔を典型的な、
朝鮮人の素顔ではないか。釣り目瞼一直線狭顎、考え方もずる賢く他人を考えない本能
に近い行動と喜び。全くこうした人間を増やしてはいけない。公務員は公務をしろ。特
権を持っているのは国民の為で、個人の為ではない。安倍もいい加減にしろ全く政治が
どこ行くのか分からないでは、国際社会で日本は沈み消えるのが落ちだ。

1552: たこ虹の堀くるみまとめ:18/08/23 06:56 ID:yrs
たこ虹の堀くるみへの質問(1)
『生年月日(年齢は?)』=『 1999年12月18日(18歳) 』

たこ虹の堀くるみへの質問(2)
『出身地は?』=『兵庫の神戸市』

たこ虹の堀くるみへの質問(3)
『キャッチフレーズは?』=『あわてんぼうのだんじり娘。』

たこ虹の堀くるみへの質問(4)
『シンボルカラーは?』=『ピンク紫』

たこ虹の堀くるみへの質問(5)
『愛称は?』=『くーちゃん』

1553: たこ虹の堀くるみまとめ:18/08/23 07:11
たこ虹の堀くるみへの質問(6)
『座右の銘は?』=『努力は必ず報われる』

たこ虹の堀くるみへの質問(7)
『好きな食べ物は?』=『スィーッ系全般』

たこ虹の堀くるみへの質問(8)
『嫌いな食べ物は?』=『辛すぎる物全般』

たこ虹の堀くるみへの質問(9)
『好きな飲み物は?』=『コカコーラとコーヒーとミルクティー』

たこ虹の堀くるみへの質問(10)
『好きなにおいは?』=『バラと桃の香水』

たこ虹の堀くるみへの質問(11)
『趣味は?』=『アニメと映画鑑賞とショッピング』

たこ虹の堀くるみへの質問(12)
『特技は?』=『書道とクラッシックバレエ』

たこ虹の堀くるみへの質問(13)
『血液型は?』=『O型』



1554: たこ虹の堀くるみまとめ:18/08/23 07:16
たこ虹の堀くるみへの質問(14)
『好きなアニメ』=『ラキスタと涼宮ハルヒの憂鬱とけいおん!と僕は友達が少ないと中二病でも恋がしたい!と最近だと僕のヒーローアカデミア』

たこ虹の堀くるみへの質問(15)
『好きな映画は』=『チャーリーとチョコレート工場とバイオハザードシリーズと仮面ライダーのシリーズ』



1555: たこ虹の堀くるみまとめ:18/08/23 07:25
たこ虹の堀くるみへの質問(16)
『好きな本?』=『ファション誌やももクロが掲載されている雑誌』

たこ虹の堀くるみへの質問(17)
『はじめて買ったCDは?』=『ももいろクローバー』

たこ虹の堀くるみへの質問(18)
『好きなアイドルは?』=『佐々木彩夏さまです♪♪』

たこ虹の堀くるみへの質問(19)
『イヌ派?ネコ派?』=『なつくものイヌもネコも大好き♪♪』

たこ虹の堀くるみへの質問(20)
『アイドルに成って一番変わったことは?』=『たこ虹結成6年目で毎日
が楽しいです♪♪』




1556: たこ虹の堀くるみまとめ:18/08/23 07:31
たこ虹の堀くるみへの質問(21)
『アイドルではなかったらなんになってますか?』=『婦人警察官(キッパリ)』

たこ虹の堀くるみへの質問(22)
『たこ虹で一番に仲が良いのは?』=『彩木咲良』

たこ虹の堀くるみへの質問(23)
『たこ虹で一番大好きな顔は?』=『彩木咲良』


1557: たこ虹の堀くるみまとめ:18/08/23 07:36
たこ虹の堀くるみへの質問(24)
『テレビやラジオの収録で心がけていることは?』=『周りへの気配り』

たこ虹の堀くるみへの質問(25)
『サイン会やあくしゅ会で心がけていることは?』=『ファン大切に』

1558: たこ虹の堀くるみまとめ:18/08/23 07:40
たこ虹の堀くるみへの質問(26)
『これができたら大人だと思うことは?』=『コーヒー飲めたら努力中〜』

たこ虹の堀くるみへの質問(27)
『歌とダンスと演技とバラエティーどれが一番好き?』=『全て大好き♪♪』

1559: たこ虹の堀くるみまとめ:18/08/23 07:45
たこ虹の堀くるみへの質問(28)
『毎日欠かさず行っていることは?』=『歌とダンス♪♪』

たこ虹の堀くるみへの質問(29)
『自分が出ている雑誌はチェックする?』=『必ずします!!』

たこ虹の堀くるみへの質問(30)
『プロポーズされたい?したい?』=『プロポーズされたいです』




1560: たこ虹の堀くるみ完成品:18/08/23 07:48
たこ虹の堀くるみへの質問(1)
『生年月日(年齢は?)』=『 1999年12月18日(18歳) 』

たこ虹の堀くるみへの質問(2)
『出身地は?』=『兵庫の神戸市』

たこ虹の堀くるみへの質問(3)
『キャッチフレーズは?』=『あわてんぼうのだんじり娘。』

たこ虹の堀くるみへの質問(4)
『シンボルカラーは?』=『ピンク紫』

たこ虹の堀くるみへの質問(5)
『愛称は?』=『くーちゃん』

たこ虹の堀くるみへの質問(6)
『座右の銘は?』=『努力は必ず報われる』

たこ虹の堀くるみへの質問(7)
『好きな食べ物は?』=『スィーッ系全般』

たこ虹の堀くるみへの質問(8)
『嫌いな食べ物は?』=『辛すぎる物全般』

たこ虹の堀くるみへの質問(9)
『好きな飲み物は?』=『コカコーラとコーヒーとミルクティー』

たこ虹の堀くるみへの質問(10)
『好きなにおいは?』=『バラと桃の香水』




1561: たこ虹の堀くるみ完成品:18/08/23 07:50
たこ虹の堀くるみへの質問(11)
『趣味は?』=『アニメと映画鑑賞とショッピング』

たこ虹の堀くるみへの質問(12)
『特技は?』=『書道とクラッシックバレエ』

たこ虹の堀くるみへの質問(13)
『血液型は?』=『O型』

たこ虹の堀くるみへの質問(14)
『好きなアニメ』=『ラキスタと涼宮ハルヒの憂鬱とけいおん!と僕は友達が少ないと中二病でも恋がしたい!と最近だと僕のヒーローアカデミア』

たこ虹の堀くるみへの質問(15)
『好きな映画は』=『チャーリーとチョコレート工場と仮面ライダーのシリーズ』



1562: 名無しさんAA:18/08/23 07:50

あわててた、、

1563: 名無しさんAA:18/08/23 07:54
たこ虹の堀くるみへの質問(1)
『生年月日(年齢は?)』=『 1999年12月18日(18歳) 』

たこ虹の堀くるみへの質問(2)
『出身地は?』=『兵庫の神戸市』

たこ虹の堀くるみへの質問(3)
『旧キャッチフレーズは?』=『あわてんぼうのだんじり娘』

たこ虹の堀くるみへの質問(4)
『最近のキャッチフレーズは?』=『リトルパーフェクトアイドル』

たこ虹の堀くるみへの質問(5)
『シンボルカラーは?』=『ピンク紫』

たこ虹の堀くるみへの質問(6)
『愛称は?』=『くーちゃん』

たこ虹の堀くるみへの質問(7)
『座右の銘は?』=『努力は必ず報われる』

たこ虹の堀くるみへの質問(8)
『好きな食べ物は?』=『スィーッ系全般』

たこ虹の堀くるみへの質問(9)
『嫌いな食べ物は?』=『辛すぎる物全般』

たこ虹の堀くるみへの質問(10)
『好きな飲み物は?』=『コカコーラ』


1564: 名無しさんAA:18/08/23 08:01
たこ虹の堀くるみへの質問(11)
『好きなにおいは?』=『バラと桃の香水』

たこ虹の堀くるみへの質問(12)
『趣味は?』=『アニメと映画鑑賞とショッピング』

たこ虹の堀くるみへの質問(13)
『特技は?』=『書道とクラッシックバレエ』

たこ虹の堀くるみへの質問(14)
『得意な格闘術は?』=『飛び蹴り(ライダーキック)ダンスのふりつけの一つやけど(笑い)』

たこ虹の堀くるみへの質問(15)
『血液型は?』=『O型』

たこ虹の堀くるみへの質問(16)
『昔好きだったアニメ』=『ラキスタと涼宮ハルヒの憂鬱とけいおん!と僕は友達が少ないと中二病でも恋がしたい!』

たこ虹の堀くるみへの質問(17)
『今好きなアニメ』=『最近だと僕のヒーローアカデミア』

たこ虹の堀くるみへの質問(18)
『好きな映画は』=『チャーリーとチョコレート工場と仮面ライダーのシリーズ』


1565: 名無しさんAA:18/08/23 08:01

あわててた、、


1566: 名無しさんAA:18/08/23 08:02
たこ虹の堀くるみへの質問(1)
『生年月日(年齢は?)』=『 1999年12月18日(18歳) 』

たこ虹の堀くるみへの質問(2)
『出身地は?』=『兵庫の神戸市』

たこ虹の堀くるみへの質問(3)
『旧キャッチフレーズは?』=『あわてんぼうのだんじり娘』

たこ虹の堀くるみへの質問(4)
『最近のキャッチフレーズは?』=『リトルパーフェクトアイドル』

たこ虹の堀くるみへの質問(5)
『シンボルカラーは?』=『ピンク紫』

たこ虹の堀くるみへの質問(6)
『愛称は?』=『くーちゃん』

たこ虹の堀くるみへの質問(7)
『座右の銘は?』=『努力は必ず報われる』

たこ虹の堀くるみへの質問(8)
『好きな食べ物は?』=『スィーッ系全般』

たこ虹の堀くるみへの質問(9)
『嫌いな食べ物は?』=『辛すぎる物全般』

たこ虹の堀くるみへの質問(10)
『好きな飲み物は?』=『コカコーラ』


1567: 名無しさんAA:18/08/23 08:03
たこ虹の堀くるみへの質問(11)
『好きなにおいは?』=『バラと桃の香水』

たこ虹の堀くるみへの質問(12)
『趣味は?』=『アニメと映画鑑賞とショッピング』

たこ虹の堀くるみへの質問(13)
『特技は?』=『書道とクラッシックバレエ』

たこ虹の堀くるみへの質問(14)
『得意な格闘術は?』=『飛び蹴り(ライダーキック)ダンスのふりつけの一つやけど(笑い)』

たこ虹の堀くるみへの質問(15)
『血液型は?』=『O型』

たこ虹の堀くるみへの質問(16)
『昔好きだったアニメ』=『ラキスタと涼宮ハルヒの憂鬱とけいおん!と僕は友達が少ないと中二病でも恋がしたい!』

たこ虹の堀くるみへの質問(17)
『今好きなアニメ』=『最近だと僕のヒーローアカデミア』

たこ虹の堀くるみへの質問(18)
『好きな映画は』=『チャーリーとチョコレート工場と仮面ライダーのシリーズ』

たこ虹の堀くるみへの質問(19)
『好きな本?』=『ファション誌やももクロが掲載されている雑誌』

たこ虹の堀くるみへの質問(20)
『はじめて買ったCDは?』=『ももいろクローバー』



1568: 名無しさんAA:18/08/23 08:07
たこ虹の堀くるみへの質問(21)
『好きなアイドルは?』=『ももクロの佐々木彩夏さまです♪♪』

たこ虹の堀くるみへの質問(22)
『イヌ派?ネコ派?』=『なつくものイヌもネコも大好き♪♪』

たこ虹の堀くるみへの質問(23)
『アイドルに成って一番変わったことは?』=『たこ虹結成6年目で毎日
が楽しいです♪♪』

たこ虹の堀くるみへの質問(24)
『アイドルではなかったらなんになってますか?』=『婦人警察官(キッパリ)』

たこ虹の堀くるみへの質問(25)
『たこ虹で一番に仲が良いのは?』=『彩木咲良』

たこ虹の堀くるみへの質問(26)
『たこ虹で一番大好きな顔は?』=『彩木咲良』

たこ虹の堀くるみへの質問(27)
『テレビやラジオの収録で心がけていることは?』=『周りへの気配り』

たこ虹の堀くるみへの質問(28)
『サイン会やあくしゅ会で心がけていることは?』=『ファン大切に』

たこ虹の堀くるみへの質問(29)
『これができたら大人だと思うことは?』=『コーヒー飲めたら努力中〜』

たこ虹の堀くるみへの質問(30)
『歌とダンスと演技とバラエティーどれが一番好き?』=『全て大好き♪♪』


1569: 名無しさんAA:18/08/23 08:08
たこ虹の堀くるみへの質問(31)
『毎日欠かさず行っていることは?』=『歌とダンス♪♪』

たこ虹の堀くるみへの質問(32)
『自分が出ている雑誌はチェックする?』=『必ずします!!』

たこ虹の堀くるみへの質問(33)
『プロポーズされたい?したい?』=『プロポーズされたいです』


1570: ここからが本番:18/08/23 08:09
たこ虹の堀くるみへの質問(1)
『生年月日(年齢は?)』=『 1999年12月18日(18歳) 』

たこ虹の堀くるみへの質問(2)
『出身地は?』=『兵庫の神戸市』

たこ虹の堀くるみへの質問(3)
『旧キャッチフレーズは?』=『あわてんぼうのだんじり娘』

たこ虹の堀くるみへの質問(4)
『最近のキャッチフレーズは?』=『リトルパーフェクトアイドル』

たこ虹の堀くるみへの質問(5)
『シンボルカラーは?』=『ピンク紫』

たこ虹の堀くるみへの質問(6)
『愛称は?』=『くーちゃん』

たこ虹の堀くるみへの質問(7)
『座右の銘は?』=『努力は必ず報われる』

たこ虹の堀くるみへの質問(8)
『好きな食べ物は?』=『スィーッ系全般』

たこ虹の堀くるみへの質問(9)
『嫌いな食べ物は?』=『辛すぎる物全般』

たこ虹の堀くるみへの質問(10)
『好きな飲み物は?』=『コカコーラ』



1571: ここからが本番:18/08/23 08:10
たこ虹の堀くるみへの質問(11)
『好きなにおいは?』=『バラと桃の香水』

たこ虹の堀くるみへの質問(12)
『趣味は?』=『アニメと映画鑑賞とショッピング』

たこ虹の堀くるみへの質問(13)
『特技は?』=『書道とクラッシックバレエ』

たこ虹の堀くるみへの質問(14)
『得意な格闘術は?』=『飛び蹴り(ライダーキック)ダンスのふりつけの一つやけど(笑い)』

たこ虹の堀くるみへの質問(15)
『血液型は?』=『O型』

たこ虹の堀くるみへの質問(16)
『昔好きだったアニメは?』=『ラキスタと涼宮ハルヒの憂鬱とけいおん!と僕は友達が少ないと中二病でも恋がしたい!』

たこ虹の堀くるみへの質問(17)
『今好きなアニメは?』=『最近だと僕のヒーローアカデミア』

たこ虹の堀くるみへの質問(18)
『好きな映画は?』=『チャーリーとチョコレート工場と仮面ライダーのシリーズ』

たこ虹の堀くるみへの質問(19)
『好きな本?』=『ファション誌やももクロが掲載されている雑誌』

たこ虹の堀くるみへの質問(20)
『はじめて買ったCDは?』=『ももいろクローバー』


1572: ここからが本番:18/08/23 08:11
たこ虹の堀くるみへの質問(21)
『好きなアイドルは?』=『ももクロの佐々木彩夏さまです♪♪』

たこ虹の堀くるみへの質問(22)
『イヌ派?ネコ派?』=『なつくものイヌもネコも大好き♪♪』

たこ虹の堀くるみへの質問(23)
『アイドルに成って一番変わったことは?』=『たこ虹結成6年目で毎日
が楽しいです♪♪』

たこ虹の堀くるみへの質問(24)
『アイドルではなかったらなんになってますか?』=『婦人警察官(キッパリ)』

たこ虹の堀くるみへの質問(25)
『たこ虹で一番に仲が良いのは?』=『彩木咲良』

たこ虹の堀くるみへの質問(26)
『たこ虹で一番大好きな顔は?』=『彩木咲良』

たこ虹の堀くるみへの質問(27)
『テレビやラジオの収録で心がけていることは?』=『周りへの気配り』

たこ虹の堀くるみへの質問(28)
『サイン会やあくしゅ会で心がけていることは?』=『ファン大切に』

たこ虹の堀くるみへの質問(29)
『これができたら大人だと思うことは?』=『コーヒー飲めたら努力中〜』

たこ虹の堀くるみへの質問(30)
『歌とダンスと演技とバラエティーどれが一番好き?』=『全て大好き♪♪』


1573: ここからが本番:18/08/23 08:12
たこ虹の堀くるみへの質問(31)
『毎日欠かさず行っていることは?』=『歌とダンス♪♪』

たこ虹の堀くるみへの質問(32)
『自分が出ている雑誌はチェックする?』=『必ずします!!』

たこ虹の堀くるみへの質問(33)
『プロポーズされたい?したい?』=『プロポーズされたいです』


1574: 名無しさんAA:18/08/23 12:13 ID:yrs
ももクロの佐々木彩夏への質問(1)
『生年月日(年齢は?)』=『1996年6月11日(22歳)』

ももクロの佐々木彩夏への質問(2)
『出身地は?』=『神奈川県の横浜市』

ももクロの佐々木彩夏への質問(3)
『旧キャッチフレーズは?』=『おちゃめな〜ももクロちゃんののアイドル〜♪』

ももクロの佐々木彩夏への質問(4)
『最近のキャッチフレーズは?』=『パーフェクトアイドル』

ももクロの佐々木彩夏への質問(5)
『シンボルカラーは?』=『ピンク』

ももクロの佐々木彩夏への質問(6)
『愛称は?』=『あーりん』

ももクロの佐々木彩夏への質問(7)
『座右の銘は?』=『人事を尽くして天命を待つ』

ももクロの佐々木彩夏への質問(8)
『好きな食べ物は?』=『スィーッ系全般』

ももクロの佐々木彩夏への質問(9)
『嫌いな食べ物は?』=『辛すぎる物全般』

ももクロの佐々木彩夏への質問(10)
『好きな飲み物は?』=『コカコーラ』



1575: 名無しさんAA:18/08/23 12:20
ももクロの佐々木彩夏への質問(11)
『好きなにおいは?』=『バラと桃の香水』

ももクロの佐々木彩夏への質問(12)
『趣味は?』=『アニメと映画鑑賞とショッピング』

ももクロの佐々木彩夏への質問(13)
『特技は?』=『ヨハネスフェルメールやフィンセントファンゴッホ絵画の目利き』

ももクロの佐々木彩夏への質問(14)
『得意な格闘術は?』=『後ろ回し蹴り(ソバット)ダンスのふりつけの一つやけど(笑い)』

ももクロの佐々木彩夏への質問(15)
『血液型は?』=『AB型』

ももクロの佐々木彩夏への質問(16)
『昔好きだったアニメは?』=『トイストーリーシリーズ』

ももクロの佐々木彩夏への質問(17)
『今好きなアニメは?』=『コラボしてから見ます〜♪』

ももクロの佐々木彩夏への質問(18)
『好きな映画は?』=『ローマの休日と仮面ライダーのシリーズ』

ももクロの佐々木彩夏への質問(19)
『好きな本?』=『ファション誌やももクロが掲載されている雑誌』

ももクロの佐々木彩夏への質問(20)
『はじめて買ったCDは?』=『日本の歌姫の浜崎あゆみ』



1576: 名無しさんAA:18/08/23 12:29
ももクロの佐々木彩夏への質問(21)
『好きなアイドルは?』=『堀くるみと彩木咲良の二人〜♪』

ももクロの佐々木彩夏への質問(22)
『イヌ派?ネコ派?』=『なつくものイヌもネコも人も大好き〜♪』

ももクロの佐々木彩夏への質問(23)
『アイドルに成って一番変わったことは?』=『ももクロ結成10年目で毎日
が楽しいです〜♪』

ももクロの佐々木彩夏への質問(24)
『アイドルではなかったらなんになってますか?』=『女優さん有村架純みたいな〜♪』

ももクロの佐々木彩夏への質問(25)
『ももクロで一番に仲が良いのは?』=『玉井詩織』

ももクロの佐々木彩夏への質問(26)
『ももクロで一番大好きな顔は?』=『高城れに』

ももクロの佐々木彩夏への質問(27)
『テレビやラジオの収録で心がけていることは?』=『プロ意識』

ももクロの佐々木彩夏への質問(28)
『サイン会やあくしゅ会で心がけていることは?』=『ファンの期待は裏切らない』

ももクロの佐々木彩夏への質問(29)
『これができたら大人だと思うことは?』=『お酒が飲めれば(苦手)』

ももクロの佐々木彩夏への質問(30)
『歌とダンスと演技とバラエティーどれが一番好き?』=『全て大好き〜♪』



1577: 名無しさんAA:18/08/23 12:31
ももクロの佐々木彩夏への質問(31)
『毎日欠かさず行っていることは?』=『歌とダンスねっ〜♪』

ももクロの佐々木彩夏への質問(32)
『自分が出ている雑誌はチェックする?』=『当然でしょう〜♪』

ももクロの佐々木彩夏への質問(33)
『プロポーズされたい?したい?』=『自分からプロポーズします〜♪キャッ♪』


1578: 名無しさんAA:18/08/24 13:54
ベッキーの娘   64

部屋を出て玄関に着くと、一人の足軽と一人の中間が馬を引いてすぐ傍にやって来た。
すぐさま馬に乗り、おお助郎この者を我が家に連れて行く案内せい。と言った。4人は
黙々と街を歩き一軒家の前につき、しずしずと中間が馬を同じ家の馬宿に連れて行った
 歩きながら、老兵は尋ねた。「ああ儂は 金森と言う一介の雑兵じゃ。もう老兵での
役にはたたんが 何故か別杵様には懇意にしてもらいこうして生き永らえておる。」「
いえいえめっそうも無い 金森殿とは貴方様の事でしたか。正に仁王の裏門と聞こえた
知恵者と聞き及んでいます。この私目に特段の配慮をして頂き痛み入り申す。」などと
言った。上がって直ぐ庵に座ると婆やが庵の茶釜から湯を引いて行った。「ところで 
殿も怪訝そうだったが、何ゆえ金毘羅様の野武士が海賊の旗振り役をしておるのじゃ。
他にもたいそうな者が いそうなものじゃが。」「はい。ですが周防国の殿のご下命で
、」「う、うーん、既に死んだ内藤殿の事かの。」「はい。実は我が家系は逆昇れば 
天皇の仲裁を申し出た家柄、叔父貴が朝廷から 直々にこの銀山を守るようにとの御下
命を受けてい続いた家柄。不遜ながら金毘羅山の僧の私が海賊の集結を進める事になっ
たのでございます。」「ほっほう」「ご存知の事かとは思いますれば、この時期(かた
)まで尼子氏が、天皇直轄の拝領を受け 銀五貫を献上しておりました。ところが毛利
は七貫を献上と申して偽り事をばして、唆し(そそのかし)欽命(きんめい)を告(ふ
)れ、近習の城を味方にして尼子氏を破ったのであります。そして4貫すらを献上せず
大内氏を謀(はかりごと)にて滅亡させたよしに御座そうらえば、後の約定の通り六貫
に引き上げる密約さえ反故になるよし。」「ふむ」「これが信長に知れ渡り秀吉の手下
なる者を切り捨てて内紛騒ぎと相成りました。一応は明智殿がこれを治めたものの、伴
天連では大いなる噂がある始末となり申した。」「噂ではもし銀山が本物となれば本国
から沢山の南蛮船が国崩しを持ってやって来る。と」「京の都では、天皇に脅して元寇
襲来以来の騒ぎと聞き及んでおります。」「うーむ 銀の亡者が南蛮船で押し寄せるっ
てわけか。で、その敗れた大内とはわしらが縁故ゆえに来た。とでも申すか。」「は、
このたび大内殿の討ち死にはされども、今や長曾我部すらも毛利には戦いは不可能と思
いまするに、この大友と毛利を……。」「たわけ。」と大声が走った。「例え毛利が戦
さに勝とうが、この大友に何の恥辱があろう。義を失いては武の立つ瀬がないではない
か。」と大声が響いた。

1579: 名無しさんAA:18/08/24 13:55
ベッキーの娘   66

 この頃二人の男が生まれている。一人は鍋島氏に拾われ、龍造寺氏にかわいがられた
安富から成富とした信安である。後に成富茂安と名乗り築城の名将とされ、太閤秀吉さ
え唸らせた暴れ者である。西洋人では無かったかとさえ噂される。もう一人はこの時代
の最高知将とされた立花宗茂である。慎重さと大胆さを合わせもつ勇猛ながらも精神性
あふれて生きた人である。最後の九州激戦の岩屋城決戦では、大友氏は重臣志賀大内蔵
親成を立花城の加勢に出した。キリシタンドン・パウロ志賀親次の父である。この志賀
道益もまた同じにこの戦国騒乱時代に憂う物だった。祖父の志賀道輝は部類の仏教徒で
あった為、大友宗麟からは疎まれていた。だが父の環境同様に家訓での禁制としたキリ
シタン教徒になった時は、既に大友宗麟がキリスタン奨励を止めて、いよいよ下降期に
なった 耳川の合戦で島津に敗れた次の年の志賀親次が名代を受け継いでからである。
志賀親次にとって志賀道益は父で、入田宗和は叔父であった。そうこの入田氏をめぐり
って大友は刺客を放ったのだ、入田氏は大賀氏を追い詰めた大友宗麟の重鎮でもあった
。大神氏一族は栂牟礼城を根城にして九州朝廷の権威で古来日本の最高豪族の地位にも
あった。天皇家の持つ朝廷より古いとされる大神家は大友にとってその神格と地位は目
障りで、持ち城の栂牟礼城こそは大神氏一族が拝する場所であり、かつて平安時代でも
天皇が参拝に来た記録がある程だった。その後その山への参詣の登りの険しさで京から
の使者が麓で参拝したいと言う要望に答えて、宇佐神宮が寄進され寄贈され奉納され、
宇佐を支社の神としの地位とした。しかし、その過去が消える程 宇佐新宮が大きく権
威を持ち宇佐神宮と呼び始めると、本宮の方は廃れて山城とされる所になってしまうの
である。その上、佐伯氏十代当主が佐伯惟治の時、大永7年(1527年)大友義鑑から謀叛
の嫌疑を掛けられ討伐軍が送られた事により大神氏は武家とされて退路がなかったこの
城は、大友氏の討伐軍は臼杵近江守長景を大将にして二万余りの軍勢を遣わし、佐伯惟
治は栂牟礼城に籠もってこれに応戦するしかなかった。だが堅固な山城であった為なん
とか持ちこたえ栂牟礼城は攻め落とされなかった。長景は一計を案じ、惟治に一時日向
へ立ち退いた後、大友義鑑に申し開きをして許しを得るのが得策と説得して誘い出し、
惟治はこの案に乗ってわずかな手勢を率いて日向へ落ちる途中、長景に通じていた土民
によって討ち取られてしまった。とされる。これが その後に起こる大友二階崩れの、
始まりの予告となった。大永7年(1527年)肥後政略の前編で、菊池義武に通じて大友
義鑑に対し謀叛を企てていると讒言した者に乗った義鑑の乱行の始まりであった。臼杵
景も惟治の討伐には迷う所はあったが仕方なかった。

1580: 名無しさんAA:18/08/24 13:55
ベッキーの娘   67

 そこには トロトロと炎とも言えない炎が燃えて つりさげられた鉄器の鍋がぐつぐ
つと煮えた湯が張られ、白い湯気をかすかに漂わせていた。政千代姫は遠くで誰かが、
そうした火の番をしてる姿を見ながら。「泣く泣く追われた大神家としては切なかろう
が、ここで宗像氏も助ける事はかなわぬことじゃて。」と乳母の言葉が脳裏をよぎって
いた。大神氏は宇佐氏より古い豪族だったし代々山の神を祀り予言をして仕えていた民
だった大神氏は宇佐氏の本家と言っても過言のない格式のある家だった。更に胸肩氏は
同じ様に、安曇氏を本家に置く海の神を祀った予言をし、この両方の家を大神氏の遠祖
日子宮家が英彦山を守っていた。古来より宗像氏は「宗像大宮司家」とよばれ、代々「
宗像大社」の宮司を務めた神主家で、その頃でも海上交通の安全の神様として広く信仰
を集めていた。しかし刀伊の入寇(といのにゅうこう)以降、宗像氏は「氏実(うじざ
ね」が、壱岐対馬の守役として強制的に関東御家人となってより武士集団化し、神郡に
勢力を拡大してきた。筑前国宗像は広域にその神郡(しんぐん)とされていた。しかし
この犯されざる地域は九州には多く朝廷の荘園公領となっていている所ばかりだった。
そこに保護の地頭武士菊池氏などがいたが、この大友氏はその禁令を破って勢力を広げ
ていた。宗像氏の居城は 古くは赤間山(蔦嶽)に第54代「宗像氏俊」が築城した山
城だったとある。建武3年(1336)「足利尊氏」が九州に下った時も、宗像氏俊の大宮司
家がその露払いの案内を務めた。しかし南北朝時代になると赤間山から、白山城に移り
その後歴代は白山城を拠点として菊池氏とも相対した。赤間山城が「蔦が嶽城」と代わ
ったのは永禄3年(1560)「宗像氏貞」が菊池氏と和解し、永く開城であった赤間山を改
築して第80代として家督を継ぎ、天文21年(1552)に毛利氏からの後押しで宗像氏の
居城「白山城」に又戻った。氏貞七歳の時だった。以後「氏貞」は中国毛利氏と通じ、
豊後大友氏と対立しながらも戦国の時代の中、神郡宗像の地を治めてきた。その領地は
宗像、遠賀、鞍手の三郡落、実に「四千五百町歩」にも及んでいたのだった。これを、
大友氏とは度々対立し取り上げ、とりわけ立花山との間にある宗像氏の支城「許斐城(
このみじょう)」は宗像氏の要の城であったが、立花城との間で何度も争奪が行われた
。許斐城を立花大友氏に押さえられ氏貞は白山城を出て大島へ逃れたことさえもある。
この時幼名八幡丸(はちまんまる)は別杵道雪は初陣を果たしたが、悲しい戦いだった

1581: 名無しさんAA:18/08/24 13:56
 ベッキーの娘   68

 宗像氏は、これをまた急襲し許斐城を奪回した。しかしながら、毛利勢が本国の事情
の急変で立花城を去り、大友の筑前支配が確立すると、大友から宗像へ和睦が提案され
、その証に立花城督となった立花道雪(戸次鑑連)に氏貞の妹「色姫」が輿入れする事
で和睦を成立させた。入田氏にとっては大友への恭順を示す事を大事として和睦をさせ
た。立花道雪にとっては妹の質入れ、即ち人質であった。宗像大宮司家宗像氏貞第七十
九代当主は、既にこの立花道雪(戸次鑑連)にその地を譲り、八十代当主となって道雪は
最後の当主として領地家督を受けていたのだ。しかし大化の改新頃から続く神郡宗像の
大領を賜た臣下のこの受け継ぐ神代名はかなりの意味を持っていた。この時、氏貞とし
て輿入れに化粧料として色姫につけた「西郷庄三百町の土地」は、和銅年間には朝臣の
名を賜った程の伝統ある神領であったのだ。祖は「宇多天皇」の御子「清氏」とされる
頃から一般庶民の立ち入りは禁じられ、生殺与奪の権利をその農民に与えられて生活を
していたのである。宗像大社は天照大神の三人の御子をお祀りする由緒のある大社で、
婚礼の日に思わぬ争いの火種が起こった。其れは大友領となって大友の鷹鳥山城の飢饉
を救うために道雪が、鷹鳥山城へ送ったコメの救援運搬で発生したのである。若宮の、
西郷党と言う郷土による戸次の米輸送隊への襲撃である。そもそも神領は宗像氏が継い
だが宗像氏の私領ではない。と言う言い分があった。人質や捕虜として宗像氏が大友の
配下になるのも嫌がったが、それにも増して領地の支配権の移動は領民には受け入れ難
い仕打ちであった。更に近年まで理不尽に侵攻してきで殺し合いしていた相手への救援
である。こうして農民の反乱は起こった。これを端を発して「小金原の戦い」が起こる
。別杵道雪は、あらかじめ救援隊の宗像郡内通過を宗像氏貞に伝え、氏貞も安全に通過
させるよう家中にその旨を通達支持してあった。しかしながら、「色姫」の化粧料とし
て「道雪」に送られ領地を失った旧西郷庄の郷士達は、若宮郷を追われてこの地に来た
者の多い土地だった。道雪に対する土地の恨みは怨念に近かったし、納得される物では
なかったのだ。そして隙あらばと狙って襲撃したのであったのである。


1582: 名無しさんAA:18/08/24 13:57
 ベッキーの娘   69

 そこには トロトロと炎とも言えない炎が燃えているの遠目の中声が聞こえた。「お
嬢も眠れなんだか。わしも眠れん。ここもそろそろ潮時かもしれぬのう。さてさて今宵
は気もよい虫の音じゃが胸騒ぎがしてならんのう。」と婆は静かに松姫に近づいて額の
熱をみた。「うむ流行り病でもない様じゃ。良かった良かった。」と姫はがばっと起き
た。」そしてきりっと婆やの顔を見た。婆やは少し涙目でいた。「あん時もこんな夜じ
ゃったよ。昔々の頃じゃったよな。わしも御嬢のように若くなんも知らん時期でのう。
大殿の御養父が治めていた頃だろうじゃが、突然大友に囲まれてのう。すぐに知り合い
のものを通じて弟の千代松丸は大内氏に連れて行く事を決め、わしは立花殿を頼ったの
じゃが。所詮地元の小さな武将じゃて、大友に睨まれたらひとたまりもなかった。何回
か陶氏の家来が立花氏に援軍を寄こそうと話を持ち掛けたが、そもそもが先代の大友氏
で分捕った地で大友の臣下で城にいる身じゃと、何度も御断りなさったと言う話じゃ。
じゃがこの陶氏の訪問が逆に立花氏を窮地に追い込んだようで、言われのない詮議と中
傷とが豊前では噂され、我が宗像氏の外交特権欲しさに攻め込んだと言う訳じゃ。そも
そも力ない立花氏は大友に歯向かうつもりは無かったが、縁戚の宗像氏を守るのは当然
の話で宗像氏と同族の麻生や問注所氏や草場氏もやられてのう、ほぼ戦うのは不可能で
あった筈じゃ。別杵どのも何回も使者を遣わし 大友にひれ伏せば何とかするとしたが
立花殿は、全て濡れ衣として言い訳はしない。天智神明に誓って領民の為に戦い抜く所
存と申されてのう。その頃やっと領民を納得させて折り合いつけていたのに大殿が博多
をキリスタンのバテレン国にしようなどぬかしておったそうで、全く大神氏と同じくに
仏教も神道も全く野蛮な物で廃止せよと言う御沙汰で動いていたのしゃ。大殿も伴天連
たちの遊びに付き合って城取ゲームをしていたものと言うのが この年で解ったのじゃ
が立花はそこんところよーく解っていたようだてなぁ。」「ある日別杵の若造が来て、
何やら書状を持ってきた時 涙してしたためて折り返しの書状をしたためたのをわしは
見よったが、明け方には庭に出て書状を燃やしなさって私をみて、生きる事も死ぬこと
も何も辛うない。辛いのは、友と戦う事じゃがそれも又武士の、お武家の本文と申され
たのじゃった。」


1583: 名無しさんAA:18/08/24 13:58
 ベッキーの娘   70

 この頃西郷庄と言われ西郷氏がなぜ此処にいたか。若宮郷の若宮と言うのは実は先の
南北朝時代に始まる。鎌倉時代に多くの朝廷領を取られ、1333年後醍醐天皇は鎌倉幕府
を滅ぼし、天皇中心の政治をとりもどそうと、狙った。源平合戦の落ち武者狩りで混乱
し、鎌倉幕府に不満があった足利尊氏は、後醍醐天皇に味方した。そして尊氏は、鎌倉
幕府の役所(六波羅探題・ろくはらたんだい)をほろぼすことに成功したのである。実
はこの関東の鎌倉幕府は実は今の政府と言う概念ではない。単に坂東武者の強制支配で
武士の勝手な勢力争いに立った政権だっただけなので朝廷の行う政治とはかけ離れてい
た。もともと関東の平家方武士団を破った頼朝は、治承4年(1180年)、鎌倉に拠点を
置き統治を開始するが、この時点ではまだ平将門と変わらない私的な統制政権に過ぎな
かった。しかし、寿永2年(1183年)に入り、朝廷は頼朝を平家に敗れて流人となる前
の従五位下に復し、頼朝の要望に従い平氏が東国で行った荘園や公領の横領を廃止しさ
せ、元の国司や荘園領主に帰属させる権限を承認する、いわゆる東国沙汰権を付与した
。この権限の履行のために東国の地方官である国衙を指揮する権能も認められたことで
の政府。いわゆる寿永二年十月宣旨である。元暦2年(1185年)、壇ノ浦の戦いで平氏
を滅ぼすことに成功した頼朝は、朝敵追討の功労者として平家の所有していた荘園や、
平家没官領の支配権を要求して承認された。こうして後に鎌倉殿直轄の荘園、関東御領
と呼ばれる所領を獲得した。平家滅亡後、頼朝に叛旗を翻した弟・源義経と叔父・源行
家が後白河法皇から頼朝追討の院宣を賜ると、頼朝はこれに抗議し、朝廷を頼朝の推薦
した公卿を議奏として、議奏をもって朝廷の政治を担当させ、義経・行家追討の院宣を
発せさせ、加えて、その追討のために東国及び畿内に守護及び地頭を置くことを認可し
、さらに荘園公領を問わず、反別五升の兵粮米の徴収権を頼朝に与えることを求めた。
文治の勅許である。こうして平家の落人狩りが行われた。これは海賊に似た行為であり
、これまで平家が朝廷に納めるよう取り仕切ったいた物がそのまま源氏が行うと言う話
にはならなかった。更に大陸異変で数多くの移民が発生していた上に1274年文永の役、
1281年弘安の役という蒙古襲来が押し寄せていたのである。これが九州騒乱の始まりだ
った。(六波羅探題・ろくはらたんだい)は実は治安集団でも裁判所の様な判断集団で
も権力集団でもなくただ差配して土地を回収するお役所集団だった。だが政治が混沌と
して治安が悪くなり、更に権力闘争としての荘園争いには京都の治安維持は検非違使の
役目もお手上げ状態だったのである。


1584: 名無しさんAA:18/08/24 13:59
 ベッキーの娘   71

 元弘3年〜正慶2年(1333年)、幕命で西国征伐に赴いていた尊氏に転機が訪れた
のは、隠岐を脱走して船上山に籠城した後醍醐帝からの誘いがあった為だ。尊氏は4月
29日、幕府からの離反を決め5月7日に六波羅探題に攻め込み、壊滅させたのである
。その際には妻の登子の実家である赤橋家が滅び、庶長子の竹若丸が殺されています。
 こうして取り立て屋になった鎌倉幕府に不満があった足利尊氏は、後醍醐天皇に味方
した。幕府の役所である六波羅探題が無くなった事で鎌倉幕府は滅びる結果を持った。
これに後醍醐天皇がとても喜んだのは当然だろう。ところが、後醍醐天皇の政治「建武
の新政」は、公家や貴族だけを出世させる、尊氏の理想とはまったく違って過去に戻っ
た朝廷権限の奪取した天皇・宮家の政治であった。これでは尊氏の理想も、武功の兵に
恩賞すら与える事が出来なかった。尊氏は政治に参加せず、京を去ったが後醍醐天皇は
許さず、新田義貞(にったよしさだ)や楠木正成(くすのきまさしげ)らに尊氏の討伐
を命じた。この戦いに敗れた尊氏は、九州に引き力を蓄えて舞い戻った。正成や義貞に
戦い勝ち、京を奪い取った。こうして今度は後醍醐天皇は、京からにげ、吉野(奈良県
)に入った。この頃に既に天皇家の持つ神道は壊滅寸前で山岳信仰が山岳仏教に変化し
ていた。吉野には僧兵が数多くいて流石の尊氏も直ぐには手がだせない状態だった。こ
うして後醍醐天皇が朝廷政治を続けた。これを南朝と呼んだ。しかし京でも、尊氏は幼
い光明天皇をたてて、朝廷を開いて政治を行った。人は南朝に対して北朝と呼んだ。60
年間、朝廷はふたつにわかれ、争ったのだ。1274年の蒙古襲来から50年後の波乱であ
る。九州ではこの50年間に海賊盗賊が跋扈していた。それが西郷氏と言う松浦党支族
である。河野水軍はその平定にやって来ていた。と言うのも菊池水軍の末慮国の末裔と
しての現地の土人即ち原住民は坂東武士と言われる関東武者からその地を追い払われて
いるのだ。後醍醐天皇は恒良親王に三種の神器を渡し皇位を譲った上で、足利尊氏と和
解し京都に戻った。そこでもう一組の三種の神器を北朝に譲り渡した。この時点で光明
天皇の「神器なしの即位」という点はクリアされた。が、その後後醍醐天皇は12月に
吉野に逃れて南朝を設立して南北朝が成立する。つまり鎌倉幕府時代足利尊氏は朝廷の
忠臣だったのである。当初は足利氏も幕府の反乱者であり、若宮を建てていたのだ。が
京都では鎌倉源氏の系統を持つ足利氏が朝廷に近づいて執政を始めた。それが九州騒乱
時代の幕開けであったのだ。

1585: 名無しさんAA:18/08/25 10:41
 又厚労省はあたりまえの仕事もせずに可笑しな 遊んだ様な推計を発表した。‐‐‐
‐‐たばこの社会的損失「2兆円超」 厚労省が推計‐‐‐‐と言うニュースである。
たばこが社会に及ぼす2015年度の総損失額が、約2兆500億円に上るとの推計を
、厚生労働省研究班がまとめた。全く馬鹿なまとめである。これには根拠も科学的価値
もそのタバコが主因とする理由は全くない。嘘そのものである。何故なら大気中に走る
有害物質の量や、自動車の出す排気ガスの量や他の身体に対する負荷が全く考慮されず
単なる集計でタバコを吸ってる人がより多く病気で死んでいますね。程度のものだ。今
回日本に於ける分煙制度に多くの禁煙車が批判したが、その多くは給与の高い仕事をし
ない人達。いわゆるブルジョアジーの人達である。税金逃れの多い高資産家の人達で、
日本特有の勤労世界や労働世帯の人達ではない。特にこの禁煙者と喫煙者を見ても、オ
フィスワークや人事や経理の人と、営業や肉体労務者と分ければ全く様相が異なるし、
また肉体労務者に限ってみれば、特に外での労務が大きく排気ガスや直射日光や気温や
他の身体的高負荷のマイナス要因を除けば早死にしたガンになったというのは根拠のな
いものになる。その中で同じ負荷を負わない禁煙者と喫煙者を比べているのだ。これは
低所得者が経済対価の大学進学を諦めた事で学力が無いと言っている事に等しい差別で
ある。この対比をして、がんの治療費など喫煙者の医療費が最も多く、全体の半分以上
を占めた。などと言うのだ笑わせるな。こんな根拠ない調査は欺瞞と嘘の資料としか言
えない。禁煙者の貧困率と喫煙者の貧困率すら比較していない。研究にもならないつま
らぬ研究に一体税金の無駄遣いをどれだけするのか。100億は超えるであろう。この
無駄の研究班は、厚労省の「たばこ白書」でたばこと病気の因果関係が「十分ある」と
されたがんや脳卒中などに加え、「示唆される」と判定された認知症やぜんそくなどに
かかる医療費を推計した。と言うまるで馬鹿である。単に極悪環境に生きる者がタバコ
を好んだ対象者であって全く因果関係はない。それを因果関係があるかの如くすり替え
ている。さらに病気がもとで必要になった介護費用や、たばこが原因で起きる住宅や山
林の火災による損失も加えた。と言う。タバコが原因の山林火災なんぞ聞いた事がない
。しかし、最も多かったのは喫煙者の医療費で約1兆3594億円。と結論つける暇と
は言え先の日本陸軍の体質と同じにひねくり回した論理である。そして内訳は、がんが
5477億円、歯の治療費が1016億円を占めた。受動喫煙による医療費は3295
億円に上った。としている。受動喫煙と受動排気ガスの関係すら比較できぬのに結論を
つける。詐欺師の税金泥棒たちのやりそうな事だ。


1586: 名無しさんAA:18/08/25 11:19
 われわれタマ・クラブの調査では クボタなどの石綿や岩綿調査では、およそ8km
先までいわゆる石綿ガンとされる 皮下腫瘍や中皮腫があった。空中に飛散した石綿繊
維を長期間大量に吸入すると肺癌や中皮腫の誘因となることが指摘されるようになり、
「静かな時限爆弾」と呼ばれるようになったからだが。しかし何故か波状拡散でばらば
らで一見して工場の出す 埃からとは認定は出来てもそれが明確な因果は確定できなか
った。当然である。人間は外出はするし、付着微粒子はその経緯が相当に不明だ。かつ
て福島原発事故で東京の清掃工場付近が高い放射能値を帯びたが、それが廃棄物焼却で
濃縮されたものとは誰も考えなかった。その後2週間たってそうした放射能管理をしな
い北九州の焼却場に廃棄物焼却を変えた。そして焼却灰の放射能でなく持ち込みの放射
能量を調べてOKとしたのだ。全くおかしな話である。今の東京電力の使い終わり核燃
料移転も、一時公表していた原子炉解体からは全く遅く進んでいない。又今の排水問題
も全く薄めて海に流している。と批判されかねない悪態だ。全く確立してもいない研究
成果は積み上げて確立確定させるべきで こんな厚労省の様ないい加減では国民信用が
全くない。石綿・岩綿調査ででも、岩綿とされるロックウールと石綿とされるアスベス
トは重要な鉱物資源の地位にあり、様々な製品に使われている。その経過から今だ問題
ではあるが製品仕様として一部認めている。酢酸に溶解しても繊維が残るか残らないか
で岩綿と石綿を分けているが、基本的に腫瘍は刺され細胞で死んだ細胞が排出できない
でいるのであり、あまり岩綿と石綿とを分ける意味はない。統計を取って、追跡調査を
確実にやる事が重要である。危険視された以降、代替品としてグラスウール(ファイバ
ーグラス)やセラミックファイバーが用いられる傾向にあるが、グラスウールも同じで
、問題は作業環境、労働環境の快適化にある。

1587: 名無しさんAA:18/08/25 11:58

おバカの神戸電鉄は 蛇籠でなく土嚢で復旧工事をしている。何故国土交通省は危険性
を指摘しないのか。土嚢は水を吐き出さない。従って蛇籠の半分の土留め強度しか持た
ない。特にああした斜面では3割であろう。更に特異な特質として水が含まれて突然に
崩壊する。蛇籠では土が収まれば排水作用で栗石に密着性があり揺れが無い限りそうい
った崩壊の危険性はない。大量の人員輸送を目的とする線路である。この危険性からも
国土交通省は、工事のストップと工事の変更を指摘すべきだ。地中に矢板を打った後の
井形護岸でもいいのだが本格的すぎるかも知れないが、ともかく山の水を吐く事が肝心
である。まだ今からが台風の季節というのに安直すぎて国民や利用者を馬鹿にしている




1588: 名無しさんAA:18/08/26 19:11

安倍氏が又自民党の総裁選に出て、3期を全うすると言いだしている。勿論総裁選に出
るななどとは国民は言えない。ところが総裁になっても首相にはなるべきではない。と
言うのが多くの国民の声であろう。自民党の持ち上げる構成員の長であることや、その
選出方法に問題があろうとも国民の声を気にするものではない。だがこと首相という名
の税金で作った内閣や首相と言う座は国民の声の下にある。これだけ不毛な国会を開き
無駄な税金を使いながら のうのうと自民党議員が党首独裁に賛成しているのには腹が
立つ。ここで何故議員経ちは総裁分離論を持ち出さないのだ。もう少し国民の声や日本
の恥を知るべきだろう。ましてや気象庁の特別記者会見で国民非常時を訴える中でも、
酔っぱらいの宴会を代表として開いていたとなれば、そこいらの市長や県知事さえ辞表
が促される事態のはずだ。全く政治を票取り商売の道具としか見て居ない様は もっと
厳しく処断すべきはずである。これが日本国民の甘さで仕方ない事と言うのなら、今度
のオリンピックは大失態のさきがけであろう。これでは夢を託して五輪を行う意味は無
い。単なる汚職の目くらましである。その後の負債を負うのはその後の若い国民達なの
だ。そこをよく考えるべきだろう。



1589: 名無しさんAA:18/08/29 18:17 ID:AHg
 今回の吹き出している行政の怠慢はほぼほぼ死刑に匹敵する酷い物だ。例えば 警察
の怠慢で容疑者が逃げたケースは、多分留置所、拘置所、刑務所の規格が全く一緒にな
ってしまったのだろう。そもそも警察は専用の留置所を持たない。殆どが警察と一緒に
出来た留置室である。この事自体が大きな問題で、調書をとる一時保留待機室と勘違い
している。形は確定していなくとも殆どが犯人なのだ。つまり罪人なのだ。書類上や人
権上警察が扱っているに過ぎない。欧米流の文化なら市民裁判で公けにし死刑執行も又
やむなしの所だ。まあ北朝鮮の様なそのまま銃殺刑や韓国の様な市民や国に流れた判決
を危惧しての為だろうが。次に障害者雇用だが、全くこの法律さえも小ばかにした様な
態度はなんなのだ。TVコメンティターは「これが計画的悪意あるものか、単なる偶然
の法を知らなかった事で起こったのか故意なのか全く不明。」などと言ってる。悪意あ
る故意に決まっている。経済白書や労働白書すらこうした嘘であり、間違いを故意に流
して国民に説明しているではないか。全く議員が闇雲に次から次に新法を確定させて、
いるからだ。国の財産や金の姿も知らないで、どんどんと国家予算すら決める。まるで
町工場の社長が息子の放蕩三昧の遊びがねに赤字の貯金通帳から小切手を切る事務員の
様にふるまう。こんなことが10年20年と続いているのである。幸いにしてこの工場
は各地に支店長が暖簾料を納め、貸しアパート住民が真面目に人頭税を払っているから
いいものの全く嘘で固めた様な報告に何故審議してまともにできない。それを行うのが
国会でその長たる安倍が汚職まみれでは話にならない中国風人選である。そもそも市民
には反対する権利がある。「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張す
る権利は命をかけて守る」皮肉にも、この18世紀のヴォルテール(仏・哲学者)の言葉
が、21世紀の今の日本には必要だろう。クローズアップされている民主主義社会の、
安倍氏が良く言う「西側の共通の価値観」はここにある。もっとも重要で基本的な原理
である「言論の自由が脅かされる危機感」は安倍氏は何を嘘をついているのか。どのよ
うな主義・主張であろうが、政治的思想や政策が異なっていようが、すべての人の言論
の場を等しく確保する。これは、王制や帝政といった封建社会や戦争の惨禍を経て学ん
だ事であり、営々たる先人達の血と知の葛藤の末にたどり着いた、人類共通の一つの到
達点である。図らずも今回の自民党総裁選での無報道問題やスポーツ不祥事の報道威圧
問題更に行政公表のままに嘘報道問題と、企業の多くデーター書き換え問題の要は、全
く無駄に税金税率を触り、国民に負担させ酷使した現実によって引き起こされたものだ
。くたばれ 自民党 違法をゆるすな 野党 もっとしっかりしろ報道行政の嘘は報道
も謝らなければおかしい

1590: 名無しさんAA:18/08/30 11:10
EUの重しの取れた英国泥棒漁民達は、今年は早々と船団を組んでまで規制がないの
をいいことに根こそぎ漁をしにやって来た。この欲深いイギリス漁民はフランスの湾ま
できてホタテ漁を行っている。どこが法律を犯して居ませんなど平気な顔でいえるのか
この漁協の組合長は、恐らく最低の男でロンドン市長にも似た、自分の行動や言動で、
組合をまとめる事も、責任を取る事も出来ない男だろう。大型船でフランス漁民の船に
体当たりし沈め 更に脅かし、時期が来ぬうちぬけぬけと それも根こそぎ漁をして、
自国のホタテを取り自滅させた上でやって来ている。このホタテを自国の湾にばらまく
と言うのならわかるが、売り捌いて大きな船に買い替えると言うのだから尋常ではない
。全くキチガイ国民である。何故こうしたキチガイ思考の論法をとるのか。それは中国
の影響だ。中国人は良いと思ったら自分のものにできなくとも手当たり次第に染めてい
く。資源があろうかなかろうが、今後の世界が暗かろうが明るかろうが 一向に構わな
い。努力せず濡れ手に粟の繁栄を願う。正に大英帝国のかつての国を治めるより早く、
清教徒も海賊商人も奴隷市場の使用人も、全てを海外に求めて出来た腐れた世界の時と
同じ国民性である。しかし現代に通じるはずはない。地球がこんなに壊れているのに、
気付かずにのうのうと生きる事は許されないのである。EU離脱を国民投票で決めたが
正に烏合の民の取り合いである。イギリスが全く紳士的でなく その内容や今後の事す
らも考えず行い出してひさしい。香港の民も考えず香港返還し、経済を考えずポンド操
作を行った。全く品行方正な国なる事がまず最初だろう。ジョンソン君は何を馬鹿をや
っているのか。まずはチャーチルの否定であろう。


1591: 名無しさんAA:18/08/30 13:25

 体操協会の専務理事は 本当に専務理事なのかこんなバカを何故国民の公的資金を投
入して給与をはらわないかんのだ。この体操の2020の強化選手問題は、全く自民党
のそれこそ 安倍氏が行うパワハラ施政と全く同じではないか。全く法律違反も甚だし
い。腐れた自民党は 国民を腐らせている。首相が官邸インタビューを行わない時から
この組織を勝手に 法や規則を文字化していなくてはやってもいいと思っている馬鹿が
都合がいい時は組織を宣伝し 都合が悪い時は個人の発言や行動としている。まったく
学校の優勝パレードのようなものだ。おかしなものである。これは裁判所や検察庁など
が9割ほどまともな裁判をせず 通りいっぺんで終わっている事にある。私の息子も、
毒入り餃子を食べた翌日から人生を狂わした。警察は甘えた事を指導し 学校では来る
なと言われ 金はそのまま授業料として銀行が勝手に払い続けた。全くである。裁判所
も通り一遍の軽犯罪法でさばき 味の素やJTフーズを告訴させなかった。ま最も証拠
主義でいくので事実確認がなかなか乏しいだろうが それでも今の内閣ぐらい黒くても
辞退しない首相というのは まったくもって国民の恥である。



1592: 名無しさんAA:18/08/31 18:14 ID:Ubs

 全く体操協会は馬鹿でないのか。宮原コーチの地位保全の裁判を取り下げても、協会
内にこうした抗弁の公表できる受付機能がないは協会の大問題であって、まったくこの
裁判所取り下げでそのコーチの処罰確定にはなろう筈はない。だがそれを行ったのだ。
老害の組織としか言いようがない。大体こうしたコーチ身分のはく奪と言う思い量刑を
課すには、ほとんど三段階ほどの 警告、公示、などの段階を踏んで行うの一般的常識
である。なんら罪と言われる罪もなくこうした罰則を課すというのは 代表者の私物化
の極まりないもので 委員全員の更送をスポーツ省は考えるべきだ。全く不祥事どころ
か、組織の規則すらおざなりという姿は一体何なのだ。




1593: 名無しさんAA:18/09/02 08:26

 ナチスの総裁選と同じ 自民党総裁選が行われる。この危惧は何物にも耐えがたい程
の日本人の苦痛だ。ドイツのヒットラーも、全く同じに民主政治の中から生まれている
。そして全く同じに眉唾ものを発言し嫌われたにも関わらず、ナチス(社会正義党)を
率いてその中では絶賛された。今国民の中では6割が支持しない。しかし自民党では、
8割が安倍氏を立てる。馬鹿げているこんなに可笑しな国民に『寄り添わない』党は、
世界中には先進国ではない。あのトランプ政権でさえ共和党は割れている正常な反応な
のに日本人は・・・・どうしたものか。



1594: 名無しさんAA:18/09/02 14:32
 < 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 1 

 チェコの首都プラハには、東欧最大のユダヤ人街「ヨゼフォフ」がある。周辺エリア
は、ユダヤ教の祈りの場である「シナゴーク」やユダヤ人関連の施設が多く残されてい
て、中世の雰囲気を保つ。個性的な色使いの建築で覆われ、不思議なゴーレム伝説が伝
わるヨゼフォフは、まるでアニメの異世界に迷い込んだような場所だ。プラハのヨゼフ
ォフを覗いて少し歴史を紐解けば、そこには大国に翻弄され続けた国の歴史の悲しさが
見て取れる。プラハの旧市街と繋がるパリ通りは、モダンな建物や高級ブティックが多
く立ち並ぶ、フランスのパリの様なエリアである。その一角に、東欧で最大のユダヤ人
街だったヨゼフォフ(Josefov)が広がっている。この 美しい街の裏側には悲しい過去が
詰まっているようだった。ヨーロッパでは古代から長年ユダヤ人への不当な差別や迫害
が行われ、彼らにとって困難な時代が続いた。中世にはユダヤ人はヨゼフォフ内で暮ら
すことを強要されていました。19世紀にユダヤ人に移動の自由が認められ、経済的に
豊かな人たちがヨゼフォフを出て行き、街が荒れてしまった。その時その時代に残って
いた古い建物が取り壊されて、新しい街として現在のモダンな街並みに生まれ変わった
。幾度もの災害などをくぐり抜け奇跡的に残った建物は、現在ユダヤ人の歴史を伝える
為の大切な役割を果たしている。「スペインシナゴーク」は、スペインのアンダルシア
州にあるアルハンブラ宮殿を参考に作られたことからその名が付いた。アルハンブラ宮
殿は、イスラム建築と西洋建築が融合した美しい建物で、「スペインシナゴーク」の壁
にもそれらを参考にした唐草模様の彫刻が施されています。アラビアンナイトの世界を
彷彿とさせるような建物は、一見シナゴークには見えず、このエリアで異彩を放ってい
る。シナゴークの内部は、眩いほどの金の装飾が施されており豪華絢爛に見える。建物
は白を基調としているが、アルハンブラとはアラビア語で「赤い城塞」を意味するアル
=カルア・アル=ハムラーと呼ばれていたものが、スペイン語において転訛(なま)っ
たものと言う、由来については城塞周辺の土地の土壌が赤いため、あるいは建築に使わ
れた煉瓦の色であるとか、宮殿が赤い漆喰で覆われていたからなど諸説あるが、イブン
・アルハティブは、アルハンブラ宮殿増築の時、夜を通してかがり火を燃やして工事し
たためグラナダ平野から見上げた宮殿は赤く染まって見えたことからこのように呼ばれ
たという説を唱え、これが一般的な説として通用しているスペインシナゴークの隣には
、プラハ出身のユダヤ人作家フランツ・カフカの像があります。顔の無い巨人がカフカ
を担いでいる不思議な像。こちらも独特の世界観です。

1595: 名無しさんAA:18/09/02 14:33
 < 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 2 

 この13世紀に建てられた新旧シナゴークは、現在まで奇跡的に残されたヨーロッパ
最古のシナゴークと言われる。後期ゴシック様式の建物は、ギザギザのレンガの屋根が
印象的である。この新旧シナゴークは、有名な「ゴーレム伝説」の発祥の地とされる。
「ゴーレム」とはヘブライ語では「胎児」の意味だが、キリスト教伝承に登場するユダ
ヤが作った命を吹き込まれた泥人形をいい、主人の命令だけを忠実に実行する召し使い
ロボットのような存在とされている。ラビ(律法学者)が断食や祈祷などの神聖な儀式
を行った後、創った土人形に呪文を唱え、」(emeth:真理)という文字 を書いた羊皮
紙を人形の額に貼り付けて完成する。ゴーレムを壊す時には、」(emeth:真理)「e」
の一文字を消し、(meth:死んだ)にすれば良いとされる。キョンシー映画の逆である
。運用上には厳格な制約が数多くあって、それを守らないと狂暴化するとしている。こ
れは現実の欧米思想の、召使いや奴隷思想などの究極であったあろう。また、ゴーレム
の体にはシェム・ハ・メフォラシュが刻まれるとされる。シェム・ハ・メフォラシュは
、旧約聖書の「出エジプト記」14章の第19節を縦書きで下から上に書き、その左に第20
節を上から下に、その左に第21節を下から上に綴り、それを横に読んだ3文字の単語の
総称であるとされる(ヘブライ文字で書くと、19、20、21節とも各々72文字になるため
、3文字の単語が72語できる)つまり西洋の言葉遊びの暗号化パズルだったのである。
明けても暮れても聖書の時代の、おどおどしい恐怖の脅迫である。伝承物語では、プロ
イセン地方で、エリヤ・ヘルムとヤッフェという二人のラビがゴーレムを正式な礼拝の
人数合わせに使おうと議論をした結果、ゴーレムを持ち出したが、彼らのゴーレムが見
るものすべてに火を付け始め、簡単な命令すら理解できていなかった為教会は灰になっ
た。と言う。製造すると自然に巨大化するとされており、ある伝承では男がゴーレムを
作ったが大きくなりすぎた為、額に手が届かなくなり止められなくなった。そこで男は
ゴーレムに自分の靴を脱がせるように命じ、ゴーレムがしゃがんだ時に額の文字をやっ
と消した。その途端ゴーレムは大量の粘土となって男の上に崩れ落ち、男は圧死した。
ゲームや漫画の世界で登場する「ゴーレム」というキャラクターは、実はこのユダヤ教
にまつわる伝承に登場する架空の人形がモデルにされた。ラビ・レーヴにより命を吹き
込まれた泥人形が、ユダヤ人を守るために夜な夜な暴れまわり、役目を終え泥の人形に
戻され、新旧シナゴークの屋根裏に眠っているという伝説がそこかしこにある街だった

1596: 名無しさんAA:18/09/02 14:34
 < 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 2 

 このユダヤの巣窟のプラハを、ナチスも共産党ソ連もロシア皇帝も、非常に重要視し
ていた。プラハの春は近代に於いて非常に悲惨な事件だが、その後もヘルツゴビナでの
闘争などチェコソロバキアは、常にこうした文化の接点としての悲劇が続いた土地だっ
た。伝説では、今も新旧シナゴークの屋根裏部屋に封印されている。と伝えられゴーレ
ムは、ある日、心配性のラビにより階段が外され、ハシゴを使ってしか部屋に入る事が
できなくなった。とされる。屋根裏部屋は独立しており、かなりの広さがあることが見
て取れます。シナゴークの裏側に回ってみると、実際に不思議なハシゴがあり「伝説と
現実の交差する世界」を楽しむことができます。新旧シナゴークの隣にある、ユダヤ人
地区集会所の時計台の塔は世界にこの奇奇たる時を伝えている。ヘブライ語の時計の方
は、反時計回りに動いているからだ。つまり文字盤すらも逆回りに描いている。少し行
くと小さな通りに突如現れるシナゴークは圧巻である。細部まで細かい装飾が施されて
いるので、かなり見ごたえがある風景だ。ユダヤ教徒は、世界各国にコミュニティーを
形成して暮らしてきた。世界で三大商民はユダヤ民、華僑、印僑とされる。実はそれぞ
れ瑠璃の民宝飾の民金品の民とされる。つまりユダヤは一番珍しいものを求めた商民で
インド人は民具に金食器を好んだと言われる。中でも中国人は、一番贅沢で飾る事を望
んだと言う。この三大商民は勿論その財宝を守るに 海外に出ても徒党を組んで街を作
り決して交わろうとはしなかったと言われている。インド人はカースト制で、使用人に
守られたとされたが、一般的には欧州人は中東人を全てにインド人と見ていたのかも知
れない。ともあれ、西洋にアジアで最初に戦ったのが中東人で最初に庶民地にされたの
がインド人だったようだ。しかし欧米では、やはり華人街(チャイナタウン)や印度街
(リトルインディア)或いはユダヤ街(シナゴーク)はやっぱり多かったようだ。シナ
ゴークはその土地の建築様式や文化を取り込んだものが多く、旅先で見つける度に新た
な発見がある。欧州で発達する建築様式が、ロマネスク様式→ゴチック様式→ルネッサ
ンス→バロック様式と進むのだが、これらは全てイスラムの影響でユダヤが絡む。プラ
ハを訪れる際には、ヨゼフォフで神秘的なユダヤ教の世界に触れられる。又ゴーレムを
モチーフとしたお土産が隠れた人気を集めている。

1597: 名無しさんAA:18/09/02 14:34
 < 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 3 

欧州で発達する建築様式が、ロマネスク様式→ゴチック様式→ルネッサンス→バロック
様式と進むのだが、その時出て来たのは資金量とその建築技法の発達である。つまり、
本来キリストが唱えた教会はそうそう大きな建物も大きな資金も無かった。只の街の小
さな集会場と言った類であったと言える。今でも残るロシア国内の、そこかしこにある
小さな山小屋造りに、鐘付きの物見の塔を付けた小さな教会が恐らく原型の頃の教会で
あったろう。しかし、紀元前にその中に大きな石造りの教会があった。ミノア聖殿であ
る。ミノア文明(ミノアぶんめい)は、紀元前の二千前に栄えたエーゲ文明のうちで、
クレタ島で栄えた青銅器文明のこととされる。伝説上のミノス王にちなみ、ミノス文明
とも呼ばれるが、クレタ文明と呼ばれることもある。ミノア語を話して多数の粘土板の
発見で、聖刻文字、線文字A、線文字Bに分類された。文字は未解読ではあるが、ミノ
ア語を表すものとして注目され、後になって線文字Bはギリシア語の(ミケーネ・ギリ
シャ語)を表記していることが明らかとなり、ミノア語から外された。この文明は、ポ
ンペイ火山の噴火時期の紀元前千五百年前に滅びたとされたが、精力的に発掘され遺跡
調査で随分と明らかになった。宮殿建築では、宮殿に接して市民の公共空間が設けられ
ていたが、後期ミノア時代に社会体制が中央集権化・階層化するとともに次第に公共空
間は廃れ、他の建築物が建てられた。祭政を一体として行っていて、独立した祭儀場を
持ってない。発掘された土器や壁のタイル片は、なかなか大胆で大柄で、クノッソスの
宮殿回りが如何に繁栄していたかを表している。一部には日本の縄文式に似た文様もあ
り幾つかの共通点も見える。紀元前1200年頃に起こるミケーネ文明の宮殿崩壊の後は、
文明の最終期には、バルカン半島の特徴を色濃く示す手作りで研磨・焼成された陶器の
出現で、北方からの「異民族ドーリア人」のギリシア侵入を臭わせる陶器文化の大きな
変化が起こる。これをもってミノア陶器の伝統を継承しつつ、独自な陶器様式を確立し
た繁栄のミケーネ文明は消滅して行く。しかし、石で作られた技法やその構造はローマ
帝国が作った町の中の、水道橋やコロッセムや宮殿などのきらびやか装飾様式に受け継
がれて、現代まで遺物を残している。

1598: 名無しさんAA:18/09/02 14:34
 < 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 4 

 ミノア文明(ミノアぶんめい)のあった紀元前の二千前に栄えたエーゲ文明の頃は、
拝火教(ゾロアスター教)であった。ゾロアスター教の起源は古く、紀元前6世紀の頃
にアケメネス朝ペルシアが成立したときには、すでに王家と王国の中枢をなすペルシア
人のほとんどが信奉する宗教であった。紀元前3世紀に成立したアルサケス朝のパルテ
ィアでもヘレニズムの影響を強く受けつつアフラ・マズダーへの信仰は守られ、3世紀
初頭に成立した、後続するササン朝でも国教とされて王権支配の正当性を支える重要な
柱とみなされた。ゾロアスター教は、活発なペルシア商人の交易活動によって中央アジ
アや中国へも伝播していった。7世紀後半以降のイスラームの台頭とペルシア人のムス
リム化によってペルシアのゾロアスター教は衰退し、その活動の中心はインドに移った
。17世紀以降のイギリスのアジア進出のなかで、イギリス東インド会社と、インドの
ゾロアスター教徒とのあいだで関係が深まり、現在もきわめて少数派ながらインド社会
で少なからぬ影響力を保持している。ゾロアスター教は光(善)の象徴としての純粋な
「火」(アータル)を尊ぶため、拝火教(はいかきょう)とも呼ばれる。ゾロアスター
教の全寺院には、ザラスシュトラが点火したといわれる火が絶えることなく燃え続けて
おり、寺院内には偶像はなく、信者は炎に向かって礼拝する。中国では顕教(けんきょ
う)とも筆写され、唐代には「三夷教」の一つとして隆盛した。他称としては、アフラ
・マズダーを信仰するところからマズダー教の呼称がある。ただし、アケメネス朝の宗
教を「ゾロアスター教」とは呼べないという立場からは(たとえばエミール・バンヴェ
ニスト)、ゾロアスター教はマズダー教の一種であるとしている。また、この宗教が、
ペルシア起源であることから、インド亜大陸では「ペルシア」を意味する「パーシー(
パースィー、パールシー)」の語を用いて、パーシー教ないしパールシー教とも称され
る。唐においては、景教(キリスト教)・マニ教とあわせて三夷教として盛況だった。
、19世紀以降、インドからのパールシーの移住で、北米には18,000〜25,000人の南ア
ジア・イラン系の信者、オーストラリア(シドニー)には 3,500人の信者が在住してい
る。 1990年、アリー・A・ジャファリーによって、ロサンゼルスにおいてゾロアスター
教系新興教団ザラスシュトリアン・アッセンブリーが設立された。ガーサーのみを聖典
とし、入信儀式を得れば民族・国籍問わずに誰でも会員となることができるとされてい
る。

1599: 名無しさんAA:18/09/02 14:35
 < 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 5 

 インドでは、ペルシャ人を意味するパールシーと呼ばれ、数としては少ないが非常に
裕福な層に属する人や政治的な影響力をもった人々の割合が多い。インド国内で少数派
ながら富裕層が多く社会的に活躍する人が多い点は、シク教徒と類似する。インドの二
大財閥のひとつであるタタは、パールシーの財閥である。サーサーン朝の滅亡を機に、
イランのゾロアスター教徒の中から、インドのグジャラート地方に退避する集団があっ
て、それが現在のインドはゾロアスター教信者とされ、世界では数の最も多い国となっ
ている。今日では同じ西海岸のマハーラーシュトラ州のムンバイ(旧称ボンベイ)に、
ゾロアスター教の中心地があり、開祖のザラスシュトラが点火したと伝えられる炎が消
えることなく燃え続けている。パールシーの共同体の口語伝承では、グジャラートへ避
難してきた時、時のマハラジャとの間で次の様なやりとりがあったとされる。パールシ
ーの代表者がマハラジャに定住の希望を伝えるが、マハラジャは「あなた方のための場
所は残っていない。」と答えた。代表者はコップに一杯のミルクを希望した。ミルクを
コップに注いだあと、スプーン一杯の砂糖を溶かしこむが、コップからは一滴のミルク
もこぼれることはなかった。そうして、「このように私達がこの地に溶けこみ、地域を
甘くすることが出来ます。」と述べた。この話に感銘したマハラジャは、布教を行わな
い。という条件で定住を許可した。その後ゾロアスター教徒は、ゾロアスター教の父を
持つものだけという条件でしか信徒になれない。女性を嫁がせてゾロアスター教徒を増
やすことはできなかった。こうしてパールシーの一団はグジャラート内で素朴な農民と
しての暮らしを始めた。この条件は日本の父系伝承に似ている。天孫一系とする天皇家
も、男子継承しか許していない。時の権力者は女性でもいいが、あくまでも系統は男子
とされる。イギリスがインドに進出した後は、イギリス人はパールシーのサポートを始
める。理由として考えられているのは、インド国内でマイノリティーであるパールシー
とその他の勢力の間に闘争で、分割統治を行い易かったのだろう。パールシーはインド
では混血していないのでヨーロッパ人に近い外見をもち、真面目で勇敢だった事もある
パールシーをイギリス人とインド人の間に置いて、パールシーに命令する地位を持たせ
ることで、東インド会社などにより、パールシーの地位は高かった。従ってパールシー
はボンベイ(現在のムンバイ)に移住したものが残っている。こうして貿易によって、
パールシーは財力をつけて行くことになる。と伝わる。イギリス人がアヘンの貿易によ
り中国から追放された後、イギリス人のサポートの元に、パールシー達はアヘンの貿易
を続行して行っていた。といわれる。

1600: 名無しさんAA:18/09/02 14:35
 < 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 6 

 一方欧州方面に行った拝火教は形をかえる。サーサーン朝ペルシアは、アケメネス朝
と同じくイラン高原のパールス地方から勃興した勢力で、その支配領域はエーラーン・
シャフルと呼ばれ、おおよそアナトリア東部、アルメニアからアムダリア川西岸、アフ
ガニスタンとトルクメニスタン、果てにウズベキスタン周辺まで及んだ。パールシーは
ルーシーとして白ロシアに溶け込んだ。サーサーン朝については不明な点が多いが、こ
のサーサーン朝を開いたのはアルダシール1世で「諸王の王」とされたので連合国の長
であったらしい。しかしその為に戦争が絶え間なく続き、内紛や政権内の下剋上も多か
った。偉大な帝国として北はローマ帝国と南はバビロニアと西はエジプト東は蒙古族や
中華人と戦った。「諸王の王」という称号を引き継いで使用した。更に幾つかの勝利に
よってパルティアの大貴族など覇権を承認するようになった。 230年にはメソポタミア
全域を傘下に納め、セウェルス朝の介入を排してアルメニアにまで覇権を及ぼした。東
ではクシャーナ朝やトゥーラーンの王達との戦いでも勝利を納め、彼らに自らの宗主権
を承認させ、旧パルティア領の大半を支配下に置くことにも成功した。シャープールの
時代にひざまずいて命乞いをするヴァレリアヌスの浮き彫りを作らせた。これ以後、「
エーラーンとエーラーン外の諸王の王」を号するようになった。ここでいうエーラーン
とはイランの事だ。降服するウァレリアヌス帝らと騎乗のシャープール(王の子の王)
1世はナクシェ・ロスタムの磨崖像になっている。以後サーサーン朝とローマ諸王朝(
東ローマ諸王朝)はサーサーン朝が滅亡するまで断続的に衝突を繰り返した。アルダシ
ール1世の後継者シャープール1世は、セウェルス朝との戦争で戦果を挙げた。つまり
ローマの王とペルシャの王は戦い続けるのである。その境界の国はその矢面に立たされ
続けた。その頃の祭司長となっていたカルティール(キルデール)は影響力を拡大して
いった。カルティールは王と同じように各地に碑文を残しており、その絶大な権力が、
うかがい知れる。ゾロアスター教の祭司として宗教活動に勤しんだ彼は異端宗教の排除
を主張し、マニ教や仏教、ネストリウス派キリスト教などの排斥を進めた。マニ教の経
典によればカルティールは教祖マニの処刑に関わっていたとされる。その頃キリスト教
排除も多く、カッパドキアの洞穴はその頃のキリスト教の生活共同体の痕とされる。

1601: 名無しさんAA:18/09/02 14:35
 < 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 7 

 時と共にサーサーン朝の国力は衰え、内乱やイラク南部におけるディジュラ・フラー
ト河とその支流の大洪水に伴う流路変更と農業適地の消失(湿地化の進行)により消耗
していた。そこに新しい宗教イスラム教が勃興しサーサーン朝は最期の時を迎えること
になる。アラビア半島に勃興したイスラム共同体は勢力を拡大し東ローマ領に続きサー
サーン領へ侵入し始め、 633年にハーリド・イブン=アル=ワリード率いるイスラム軍
がイラク南部のサワード地方に侵攻(イスラーム教徒のペルシア征服)、現地のサーサ
ーン軍は敗れ、サワード地方の都市の多くは降伏勧告に応じて開城した。このササーン
朝ペルシャはカスカフ地方でハザールとも戦っている。ハザールは7〜10世紀にかけ
てカスピ海の北からコーカサス、黒海沿いに栄えた遊牧民族で一応の国家だった。と言
われる。突厥文字が残っていて、支配者層はテュルク系民族と推測されているが、今だ
謎が多い。交易活動を通じて繁栄したが、以前として判然としない。アラビア語、ペル
シア語資料にも書かれている事から存在は確かのようだが遊牧民族国家だったと推定さ
れている。7世紀の中ごろ、西突厥の衰退と共にハザールはその後継国家ハザール・カ
ガン(可汗)国を形成し、独立 を果たした。一方、南ロシアのステップでは、オノグル
・ブルガールのマジャール部族連合「古き大ブルガリア」が成立した (635年)。アラ
ブ・ハザール戦争(英語版)(642年〜799年)が始まる。ハザールが西進すると古き大
ブルガリアは崩壊し (653年)、一部はハザールにとりこまれ(黒ブルガール)、残り
は各地に散らばってヴォルガ・ブルガール,ドナウ・ブルガールを形成した。ここでい
うブルガールはブルガリアである。又ハザール・カガンと言うのはカガン(可汗)つま
り騎馬民族であった事を示している。突厥の国がウラルやアルタイ系だったのに対して
、ハザールはトルコ系の民族だったのだろうと言われる。『周書』異域伝,『隋書』の
北狄伝での突厥は、「彼らが住んでいた金山(アルタイ山脈)の形が兜の形に似ていた
ことから、彼らの言葉で“兜”を意味する“突厥”を部族名とした。」とある。古伝に
よれば、捨てられた孤児が狼に育てられ国が出来たとされ、狼を家畜の牛や馬の様に扱
った事からトナカイの放牧民でもあった様だ


1602: 名無しさんAA:18/09/02 14:36
 < 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 8 

 ハザール・カガンは、トルコ系の遊牧民族で、7〜11世紀にカスピ海北岸から黒海
北岸にかけての草原地帯を支配したとされる。中国史料には可薩突厥(かさつとっけつ)
の名で知られ、東西南北の交易路の交差点にあたるこの地方を抑えて強国となり、8〜
9世紀には、当時の超大国であったイスラム帝国やビザンティン帝国とも対等の関係を
保った強国だった。イスラム史料によると、彼らの風俗、習慣は、東方の突厥と類似し
て、ハザールは遊牧民ではあるが、交易の拠点としていくつかの都市を建設した。とり
わけボルガ川河口付近にあったその首都イティルは、各地から集まった商人、手工業者
で活況を呈したとされる。又、800年頃にユダヤ教を国教に採用したことも、ハザー
ル史の特異な点として注目されている。10世紀以降は、北方に現れた遊牧民族やスラ
ブ諸公の攻撃を受けて衰退し、歴史上から姿を消してしまった。現在の東欧のユダヤ人
の起源をハザールに求める説が強い。もともと、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の
経典は旧約聖書でした。「約」とは、神との契約のことを言い、この呼び方はキリスト
教の立場からのものである。もともと旧約聖書は、ユダヤの民と神との約束の歴史を描
いたものとされ。聖書に書かれた歴史には、史実らしいものと、伝説に近いものが含ま
れて信仰されている。もともとイエス・キリストと言うのは人の名前であって、ユダヤ
教カトリック派と言う中にあった。イエスは宗教上の規則にガチガチに固まってしまっ
ていた当時のユダヤ教を否定して、ユダヤ教における宗教改革を行い現状打破を訴えて
、そこそこ賛同を得た。この事で無視できない数のユダヤ人がイエスの考えに賛同した
為、当時のユダヤ教の司祭達は、イエスの動きに警戒するようになり、最終的にユダヤ
人を支配していたローマ帝国にイエスを犯罪者として引渡し、処刑してしまった。この
時問題になったのは、聖書の内容が各所で違っていた事だ。ローマ建国にこの宗教を利
用しようとローマは編纂を始めたが、それに異を唱えたと言うが正解の様だ。ユダヤ教
、キリスト教、イスラム教はアブラハムの宗教と呼ばれる一神教だ。いち早く旧約聖書
を経典にして信仰する宗教として成功した。ユダヤ教はそれらのなかで最も古くから続
く中にある。しかしユダヤ教の誕生から1500年遅れてキリストの誕生、2000年後イスラ
ム教が誕生した。歴史の年表の中でも非常に長い期間で変質して興ったと考えられる。
実際に、ユダヤ教はこの間も歴史の間に変化してきた。こうしてイエスは処刑されたの
だが、刑が実行される際にローマ帝国の役人(ユダヤ州総督)ピラトがユダヤ人たちに
イエスの死刑の裁判に誰もが賛成した。こうしてユダヤ人が責任は子孫にも及んだ。


1603: 名無しさんAA:18/09/02 14:36
 < 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 9 

 そして、有名な預言者「モーセ」が現れる。紀元前13世紀頃と言う前の話である。
モーセは、奴隷として苦しんでいたヘブライ人を引き連れて、エジプトを脱出しカナン
へ帰る事を決意した。そして「出エジプト」でエジプト人のほとんどの奴隷を連れ去っ
ていく。カナンへの帰還中に途中でシナイ山(エジプト)にて最終的エジプトから逃れた
事で一定期間の仮の暮らしをし、モーセは神からの言葉を授かる。これがユダヤの民の
法となる簡単に言うと「神である私だけを信じ、悪いことはするな」と言う契約である
。これが「モーセの十戒」というものとされる。「モーセの十戒」とは、神様がモーセに伝
えた、10個の戒律である。その奴隷生活を乗り越え、故郷で自分たちの国を作った。
ヘブライ人達は、いざ自国となれば運営は出来ず建国間もなく、北の「イスラエル王国」
と、南の「ユダ王国」と、南北に分裂してしまう。その上紀元前721年にイスラエル王
国が滅び、紀元前787年にはユダ王国が他国に滅ぼされてしまう。残っていたユダ国
民は、国を滅ぼした「新バビロニア」の奴隷として「バビロン」に連行されてしまいます
。これがいわゆる「バビロン捕囚」である。そこでヘブライ人達は、「ユダ王国の民」とい
うことで、「ユダヤ人」と呼ばれた。しかし、約50年後の紀元前539年、ペルシャ帝
国が新バビロニア王国を倒し、奴隷となっていたユダヤ人は解放され、故郷のイスラエ
ルへ帰してバビロニアなどの砦として国を建てた。こうしてイスラエルはペルシャ帝国
の支配下で国が成立した。そしてこの頃にユダヤ教が成立したと言われている。ここで
日本に向かった民もいた様だ。実は歴史上はこのバビロンも多神教であった。ユダヤは
河辺に住んだ金の採取に長けた民で、バビロンの傭兵として使われたと言われている。
日本に拝火教が伝わって来た時どうもユダヤ教もやって来た様だ。京都の祇園祭山鉾連
合会の理事長さんは「祇園祭というお祭りのしきたりあるいは その縁起は、まちがい
なく ユダヤの文明と同じ形態と経過と結果をもったお祭りだ。」と、明言している。
『祇園(ギオン)祭』=イスラエル『シオン祭』説である。実は「夏越し(なごし)の
祭り」も、イスラム教徒が断食を行う約1カ月間の「ラマダン」と起源が同じとされる
説もある。この期間、日中の飲食を断ち、神の恵みに感謝する。つまり自己犠牲をして
他者を憂う事を主眼としている。自身を清め世俗的な欲を捨て神への献身と奉仕に没頭
し、断食という行いによって、怒りや呪いや強欲などの堕落した考えや動機を振り払お
うというのだ。

1604: 名無しさんAA:18/09/02 14:46
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 10

 DNA的には何ら繋がりのないユダヤと日本人とされるが、大和民族=ユダヤ逃避民
説は結構根深い支持がある。ピラミッドやイラク宮殿 イサクの水くみイサクの嫁選び
に祇園祭の幕にあったり、伊勢神宮の内宮から外宮に至る御幸通りの石灯籠には、「カ
ゴメ紋(六芒星)」が刻み込まれていたりとかだ。カゴメ紋は別名「ダビデ王の紋章」
といわれ、ユダヤ人のシンボルになっている。日ユ同祖論(日猶同祖論、にちゆどうそ
ろん)は、日本人とユダヤ人(古代イスラエル人)は共通の先祖を持つ兄弟民族である
という説で主に、日本人とユダヤ人によって提唱されているという。パシュトゥーン人
にはヨセフ族(エフライム族+マナセ族)の末裔という伝承をもつ部族がいる。10支
族はメディア(今のイラン)を経由して東に逃れたという説があり、その地はスキタイ
人と同系のサカ族または月氏族が居住し、現在のアフガニスタンの一部を含むものであ
った。又一部はエチオピアに、イエメンを経由してアフリカに入ったもの。イスラエル
建国後にエチオピアから相当数が移住したが、それ以前には多くのユダヤ人が居住して
いた。一部は中国に宋代まで、開封にはユダヤ人の街が存在した。また中国の回族のう
ち、かなりの部分が古代ユダヤ人の末裔が改宗したものではないかという説である。そ
の一部が日本に大陸からのやって来た。帰化氏族である秦氏がユダヤ人もしくは10支
族ではないかという説である。一時は国際的にも有名だった説だ。明治期に貿易商とし
て来日したスコットランド人のニコラス・マクラウドは、日本と古代ユダヤとの相似性
に気付き、調査を進め、世界で最初に日ユ同祖論を提唱、体系化した。日ユ同祖論の歴
史は、彼の日本での英語の著作『日本古代史の縮図』1878年(明治11年)によって始ま
った。これは、後の1901年、「ユダヤ事典」失われた10支族の項目に引用されたという
。彼の主張は、10支族の内の主要な部族は、青森戸来村、沖縄奄美、朝鮮半島らを経由
して日本へ鞍馬寺へ渡ったのに対して、ダン族など残りの支族は、そのまま朝鮮半島に
留まったというものであり、諸説論理上の整合性は取れている。しかし、そんなに選民
ユダヤの系統と言うのが 胸を張るものか はなはだ疑問が多い。というのも現実世界
で多くの血に飢えた様に金をすすり命を奪ってきたユダヤは呪われた民であり、預言者
の「神の伝言」では、「罪人よ、悪魔の下僕よ 神に帰依せよ、悔い改めよ、奉仕せよ
、清廉なるを広めよ、さらば人類の罪もユダヤの地も与えられん。」と説いている。こ
れが本来キリストが磔になった理由である。


1605: 名無しさんAA:18/09/02 14:46
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 11
 あるユダヤ人が天皇と日本について語った文がある。彼の名はモルデカイ・モーゼ。
戦時中にルーズベルト大統領のブレーンとして日本を研究した。戦後の対日処理立案(
GHQ政策)にも加わったという。彼は『日本人に謝りたい』という、極めて異例な内
容を含んだ本を残している。彼はこの本の中で、「共産主義」はユダヤ人が作り出した
ものだと言明し、日本を揺るがした 美濃部達吉の「天皇機関説」もユダヤ人ゲオルグ
・イエリネックによる国家機能弱体化運動の一環であったとか、宮本共産党委員長を育
てたのも、ユダヤのラビ(ユダヤ教指導者)だったとの衝撃的な事柄を記述している。
その上でこのユダヤの長老モルデカイ・モーゼは「実はユダヤ人は日本を誤解していた
。日本こそユダヤの永遠の理想がある」と言い切り、「日本人に謝りたい」と語ってい
るのである。著者のモルデカイ・モーゼは1907年、ウクライナのオデッサ生まれと
している。父親は哲学者で革命家、ロシア革命では指導的役割を果たした。レーニン没
後に、ソ連におけるユダヤ権力の将来に見切りをつけた父親と共にワイマール体制下の
ドイツへ亡命。父親は美濃部達吉博士に「天皇機関説」を吹き込んだゲオルグ・イエリ
ネックと親しかった。ベルリン大学で政治学、哲学を専攻後、国際連盟労働局で極東問
題を担当し、独ソ不可侵条約が結ばれるや否や、いち早くその本質がユダヤ勢力の抑圧
にあることを看破し、ハルビンを経て上海に亡命した。上海で「サッスーン財閥」顧問
となり、日本の国体、神道、軍事力の研究に従事して後に、1941年米国へ亡命、ル
ーズベルトのブレーントラストとして活躍した。1943年頃から対日戦後処理の立案
にも参画し、戦後十数回来日し、現在は日本研究を楽しみに余生を送っているという。

第1章:戦前の日本に体現されていたユダヤの理想
 戦後すでに30数年を経た今日、日本人は真の日本歴史を構築してきたという実感を
全然感じない、とよくおっしゃる。私にはその意味がよく分るような気がするのである
。それの意味するところは、経済の驚異的高度成長に反比例する精神面の退化現象と、
この二者にみる跛行性のことではないだろうか。戦後は虚妄だといわれて久しい。私が
ここで考えることは、何よりもこの跛行性の原像を日本人はまだつかんでいないのでは
ないかということである。この病理のルーツが分からないと、治療法も発見できないの
は至極当然であろう。日本をこよなく愛する私としては、この問題を解明して日本人が
真の日本歴史を生き生きと構築できるよう側面から及ばずながらお助けしなければなら
ないという強い義務感、責任感におそわれるのである。何故か。それはこれら病巣のル
ーツがほとんど誤れるユダヤ的思考の所産であるからに他ならないからである。

1606: 名無しさんAA:18/09/02 14:47
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 12

 我々は信じ難いほど頭が悪かったのだ。もともと、我々が犯した誤ちはごく単純その
ものの誤ちだったのだ。しかるに、この小さな誤ちの及ぼした影響は、想像以上に大き
かった。それは、戦前まで日本が世界に冠絶した類い稀れなものとして誇っていた数々
のものを破壊してしまう結果となったのであった。このことを知るに及んで、我々の心
は痛むのである。しかも、その日本が 戦前もっていた類い稀れな長所というものが、
我々ユダヤ民族の理想の具現化されたものでもあったことを知り、ますます我々の苦悩
は倍加されるのである。我々ユダヤ民族は、西洋人にない高尚な理想を常に頭に画いて
いたのである。しかし、日本の皆様もご存知のように、ユダヤ民族は永い永い迫害の悲
しい歴史の中ではこれら理想を具現化する余裕など全くなく、ただどうして生命の安全
を全うするかということに心血を注ぐのが精いっぱいであった。第二次大戦終結までは
我々の解放のための闘いは絶えず続いていたのであり、そのような理想を追求する余裕
は残念ながらなかったのであった。しかるに第二次大戦後、日本が占領政策の結果大幅
に改革された結果初めて、戦前の日本に我々の理想とするものが 多々実在したことを
発見したのであった。これは我々にとって大きな驚きであった。
最近、日本でいろいろ比較文化論的にユダヤ人と日本人を対比した論調が出回っている
ようであるが、それらはいずれも軽佻浮薄なものばかりのようである。もっとも、それ
らは若い同胞やユダヤ人の仮面をかぶった日本人の書いたものであるから、その程度の
レベルにとどまっているのもむしろ当然かも知れない。たとえば、イザヤ・ベンダサン
(山本七平)氏もその一人かも知れない。彼は、日本の戦後史の非連続性を嘆くかの如
きポーズをとり、日本人の小善人的な性質をくすぐり、日本の病理は指摘しつつも、我
々の犯した過誤に頬被りしようとしている。しかし、日本の戦後史は、我々ユダヤ人が
過去の過ちを真摯な態度で告白しなければ解明できない性質のものなのである。私は、
今後末永く日本人と親しく友好関係を保たせていただきたいと心から願うものとして、
日本の戦後の歴史的非連続性、いいかえれば何故戦前の理想的な数々の長所が失われた
のか、そのために真の日本歴史の構築を阻まれている日本人の深い苦悩からの脱出を、
お助けするために、これら病巣のルーツを解明する作業を 進めたいと思うのである。
それはまた同時に将来我々ユダヤ民族の理想を追求するときにも再び大きな助けとなる
であろうと信ずるからである。

1607: 名無しさんAA:18/09/02 14:48
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 13

 ハーマン・カーンの『21世紀は日本の世紀』、最近のエズラ・ボーゲルの『ジャパ
ン・アズ・ナンバーワン』などは、哀心よりの親日的な論調であることは 日本の皆様
もご理解願えると思う。しかし私にいわせれば、これらの前にどうしてもしておかなけ
ればならない大切なことがあるのである。それをとばして今後の日ユ親善はあり得ない
と思うのである。もしユダヤ人が最も大切なことに頬被りしたままで日ユ親善を求める
なら、それは間違いなく失敗に終わるであろう。私は今後の末永き日ユ親善のためこの
筆をとったのである。この拙稿がささやかな日ユ親善の礎となれば望外の喜びである。
日本における近ごろのユダヤブームの特徴は、比較文化論的にユダヤ人と日本人とを二
元論的思考で対置し、大抵の場合、ユダヤ人は頭がいい民族である、日本人も学んだら
どうか、というパターンのようである。そこでは、ユダヤ人がさも自慢げに、タルムー
ドその他の宝典から都合のいいものを抜き出して得意然として高説をぶつ、というパタ
ーンが多いようである。これに対して日本人は、お説ごもっともと謹しんで拝聴してい
るが如くである。この光景を見ていると、ユダヤ人が先生であり日本人は常に生徒とい
うことのようである。また同時に、文化的、歴史的、思考的、感覚的特徴を二元論的に
対置して比較するほとんどのケースは、ユダヤ的なものを主役としているようである。
私から見た場合、日本にいる若いユダヤ人が以上のようなことで得意然となっているの
であれば、わがユダヤ民族の将来も決して明るいものではないという気がする。と同時
に、黙って拝聴している日本人の謙虚深さにむしろ敬意を表さなければならないと思う
。私は、逆に、ユダヤ人こそ日本人から真に多くのものを学びとらねばならないのだ。
ということを、若いユダヤ人に教える義務があると信ずるものである。ユダヤ人こそが
日本人から学ばねばならない。日本にいていろいろと著作その他で活躍しているユダヤ
人は、戦後の日本しか知らないのである。しかし、真の日本の世界に冠たる長所は、残
念ながら戦後の日本にはもはやないのである。ということは、戦前までの日本には存在
したということである。この事実を全く知らずに若いユダヤ人達は、日本でさも得意顔
で日本のウイークポイントと思われることを槍玉にあげて優越感に浸っている。私が悲
しむのは、これら若い世代のユダヤ人達が自分達ユダヤ人の理想とするものが何である
かさえ知らないということだ。そのような状態であるから、彼らは自分達ユダヤ人の真
の理想とするものが戦前の日本にあったということなど全く知る由もない。それが日本
人が黙って君たち若いユダヤ人の能書きを拝聴している理由がわかったことであろう。
全く問題にしていないのである。反論するにも値しないということだ。

1608: 名無しさんAA:18/09/02 14:48
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 14

 ただ例外もいた。日本にしばらくいたことのあるラビのマーヴィン・トケイヤーであ
ろう。彼は『日本人は死んだ』という本を著わし、それは日本でベストセラーになった
ものであるが、この中でトケイヤーはユダヤ人の真に理想とするものが戦前の日本には
多々あったとし、それが戦後全く失われてしまったのを非常に悔んでいるのである。一
人よがりの狭量をふり回して、あたかも日本人にものを教えてやってるんだと妄信して
得意然としている同胞の若者の多いなかで、このトケイヤー君はさすがラビだけあって
急所を突いている。こういう同胞を私は誇りに思う。ラビ・マーヴィン・トケイヤーは
1936年にハンガリー系ユダヤ人の家庭に生まれて、1962年にユダヤ神学校で、
ラビの資格を取得。1967年に東京広尾の「日本ユダヤ教団」の初代ラビに就任した
。1976年まで日本に滞在し、ユダヤ人と日本人の比較文化論を発表。早稲田大学で
古代ヘブライ文化を教えたこともある。アメリカに帰国後、ユダヤ人学校の校長を歴任
し、現在ニューヨーク在住している。日本でいろいろ能書きをたれている 同胞の若い
連中の恥知らずの愚行に対して、ユダヤ人として一言弁護させてもらえるなら、彼らは
例えばタルムードの内容についてもすべてを知らない。彼らが日本で書きまくっている
ユダヤ的思考法、タルムードの宝石などなどで彼らがあまりにも多くのミスを気がつか
ずに過ごしていることには、実は我々長老にその責任のすべてがある。といってよいか
もしれない。戦後生まれのユダヤ人は、「タルムードの思想」といってもその最も肝要
な部分を教えられていない。それはタブーとされているからである。彼らはしたがって
、真のユダヤの理想というもの――それは恐らく人類の理想でもあるだろうが――を全
く教えられていないのである。このような同胞の若者が、日本に戦前あったすばらしい
ものを感知するわけがない。尊敬する日本の皆さん、私はユダヤ人の長老として、これ
ら若僧の犯している恥知らずな次元の低い誤りをお詫びすると同時に、我々ユダヤ人が
犯したところの大きな誤り、第二次大戦終結直後の日本人の精神的空白につけ込んで、
我々が持ち込んだところの諸々の誤れる思想について、その過誤の原因、および内容的
非論理性、反真理性について詳しく分析し、それが如何に日本人にとって有害なもので
あるかということを実証してみたいと思う。勿論、この問題からみると、同胞の若僧ど
もの無知からくる誤りなどはものの数ではないのだが。これによって一日も早く、尊敬
する日本人が戦前あった世界に燦たる民族的長所を復活させて頂きたいのである。何故
ならば、それが即ち我々ユダヤ人の理想でもあるのだから。

1609: 名無しさんAA:18/09/02 14:49
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 15

 天皇制は古代からユダヤ民族の理想だった体制である。日本民族のもつ最大の財産は
天皇制である。これは全く世界に類例のない偉大なものであり、人類の理想とするもの
である。かつてユダヤ人の大思想家でフランス革命に大きな思想的影響を与えた18世
紀フランスの思想家ジャン・ジャック・ルソーは、かの有名な『社会契約論』で次の如
きことをいっている。「人はもし随意に祖国を選べというなら、君主と人民の間に利害
関係の対立のない国を選ぶ。自分は君民共治を理想とするが、そのようなものが地上に
存在するはずもないだろう。したがって自分は止むを得ず民主主義を選ぶのである。」
と。ここでいう君民共治というのは、君主が決して国民大衆に対して搾取者の位置にあ
ることなく、したがって国民大衆も君主から搾取されることのない政治体制のことであ
る。ところがここで驚いたのは、日本人にこの話をすると、みな不思議そうな顔でキョ
トンとする。私は最初その意味が全くわからなかった。しかし、だんだんその意味がわ
かってきた。日本の天皇制にはそのような搾取者と被搾取者の関係が存在しない、とい
うことを私が知らされたからである。そうして今度は私の方が驚かされた。日本人の為
にちょっと説明しておくと、欧州でも、また最近追放されたイランの王室でも、君主は
みな国民大衆に対しては搾取者の地位にあるものである。したがって、亡命するときは
財産を持って高飛びする。これが常識である。だが、日本人の知っている限り、このよ
うなことは日本人の君主制というものの概念の中には全く存在しないのである。しかる
に、ユダヤ人ルソーの思想は搾取、被搾取の関係にない君主制を求めているわけである
。これは確かに理想である。しかし残念ながら、ルソーはそのようなものが実在できる
はずもないからやむを得ず、民主主義を選ぶという立場を取ったのである。私がルソー
の時代に生きていたならば、ルソーにこういったであろう。「直ちに書きかけの、社会
契約論など破り捨て、速やかに東洋の偉大な君主国へ馳せ参ぜよ」と。ここでの非常に
重要なことをルソーはいっているのである。今日本で絶対の善玉の神として一切の批判
をタブー化されている民主主義というものは、ルソーによれば君民共治の代替物にすぎ
ないということである。私が日本人を最高に尊敬するようになったのも、この天皇制と
いうものの比類ない本質を知ったからである。ルソーが言うように理想の君主制を模擬
して民主制を作ったのだ。日本では戦前、比類なき国体という言葉があった。またポツ
ダム宣言受諾の際にも、この国体の護持という点が一番問題になったのである。これは
真に賢明なことであった。

1610: 名無しさんAA:18/09/02 14:49
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 16

 この日本の天皇制はユダヤ思想の理想であったことはルソーの言葉でもわかるが、他
にもあるユダヤ人の言った言葉に次のようなものがある。「わがユダヤの王は、目に見
えない護衛だけで守られる。われらの王は威厳にみちて、その権力を行使するのは人民
の幸福のためにだけであり、決して王自身や王朝一族のためにこれを用うることはない
。かくして王への尊敬と威厳はいやが上にも高まり、人民に崇拝され敬愛されるのであ
る。そのために王は神格化されるだろうが、それはひとえに王の権威が人民に安らぎと
幸福を保証するコーディネーターの役を果たすからに他ならない。」と書いている。断
っておくが、これは日本の天皇制の描写ではない。ユダヤ民族の理想郷の表現なのであ
る。これを見てもおわかりと思うが、ユダヤ人はルソーのいった如く、国民との利害関
係をもたない君主を理想として建国を仰いだのである。私が日本の天皇制の本質を知っ
たときの驚きが如何なるものであったかは、推して知られたい。地球上にユダヤ民族の
理想が実在したのである。驚きでしかない。一般のヨーロッパ人は、とてもこのような
すばらしいものを創ることはできないであろう。我々ユダヤ民族も残念ながら未だ創く
れてはいないのであるが、しかし、それが如何にすばらしい理想体制であるかというこ
とを近在の日本人に知ってもらうだけでも、或いはヨーロッパ人よりも優れていること
を日本人に認めていただけるなら無上の光栄である。一般的ににユダヤ人が天皇制の類
い稀な点を発見したのは、戦後の天皇とマッカーサーの会見の時であった。かといって
、ユダヤ人全部が知ったわけではない。今日本で勝手気ままにペンを走らせている若僧
たちはもとより、こんなところまで知っているわけではない。それではユダヤ人が初め
て天皇制の類い稀れな世界に燦たる本質、我々ユダヤ民族の理想である要素を、完全に
我々に教えてくれた、天皇とマッカーサーの会見の時の様子を述べてみよう。マッカー
サーと昭和天皇が出会った時、天皇は開口一番、「自分の事はどうなってもいいから国
民を救ってほしい。」と切り出した時は、マッカーサーは驚天せんばかりであった。こ
の席にルソーが同席していなかったのが真に残念であるが、西洋の君主というものは、
それこそマルクスのいう支配者、搾取者である。一般大衆は被支配者、被搾取者に甘ん
じなければならない。この姿は世界に類例のない君民共治の具現化できた言葉だった。
 西洋の君主は、大衆から収奪した莫大な財産をもっている。戦後GHQが天皇の資産
16億円と発表した時、日本人はキョトンとしていた。つまり、GHQは西洋の君主並
みに日本の天皇も収奪した財産をもっているはずであると考えたから、それを直ちに、
国民の前にみせつけたわけである。

1611: 名無しさんAA:18/09/02 14:50
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 17

 ところがこれを聞かされた日本人は一様に、そういう感覚の持主もいるのか。と内心
驚いたということである。しかし、西洋的の常識としてはこれは奇異でもなんでもなく
、至極当然な一番の国民の関心事と思って発表したことだったのである。かような西洋
の君主は、いざ革命、戦争、政変などのあった場合は、直ちに自己の生命の保証と財産
の保全を求めて亡命などを計るのを常とする。したがって、マッカーサーも最初天星が
訪問の希望を述べた時、非常にきびしい顔をしていたという。いってみればそれは当然
のことであろう。日本の天皇もいよいよ生命の保証と財産の保全のために、どこか適当
な亡命先の斡旋を懇願に来るのであろうとマッカーサーが考えたのも、無理からぬ話で
ある。つまり天皇は国体保持や国民生活に会いに来たものが、マッカーサー亡命相談に
やって来ると思ったのである。しかるに前述の如く、天皇は開口一番、自己の生命や財
産の保証ではなく、国民の財産や生命の保証を求めたのであった。国民を質入れして、
自己の保身を計る西洋の君主とは逆に、自己を質入れして国民の救済を求めたというこ
とである。これは通常の日本人の姿であり心であった。一般にして年長や家長がその責
を申し出て責任を負うと言うは、日本人の常識だったのである。マッカーサーたるもの
、すべからくルソーに対して自分が味わった感激を報告すべきであろう。戦後期の占領
改革にも拘らず天皇制が存続できたことは、私の最も喜びとするところである。これは
ひとえに当時GHQを牛耳っていたニューディール派、つまり連合国内のユダヤ勢力が
天皇制に自己の民族の理想を見出したからに他ならないのである。(当時の占領軍は、
アメリカ共産党が多くいて、彼らはロシアからの亡命ユダヤ軍人であったのだ。)日本
国憲法は後で詳しく述べる如くユダヤ人がユダヤ思想に基づいて作った作品であるが、
その憲法の冒頭に天皇の項を設けたのはこのためであった。万世一系の天皇を頂く日本
人は幸せである。この万世一系の天皇は、如何なる意味をもつとお考えであろうか。こ
の点ではユダヤ人が、借越ながら日本人に少々参考になる意見をお聴かせできるかも知
れない。日本人からすると万世一系の天皇といっても、当たり前でピンと来ないかも知
れない。そこには他にどんな天皇があるのか、と反問されるであろう。だから日本人は
幸せだと思うのである。何故か。ヨーロッパの王朝というものはみな混血王朝である。
歴史上、しょっちゅう外国から国王や王女を輸入した。しかも王朝の権力が強くなれば
なるほど、外国からますます輸入するようになる。何故か。王朝の権力を弱める必要か
らである。

1612: 名無しさんAA:18/09/02 14:50
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 18

(ほとんどの王には、体制側の諸侯と反体制の農奴など内乱内紛の元が存在した。)国
内から昇格させようとすると当然争いが起こり、国内が乱れるのでまずい。その点、外
国からの輸入君主は当りさわりが少なく、しかも飾りものなので、最も有効な方法とい
うことになる。(さらに反対派が旧来の王朝の縁戚を連れて来て権威を保った。)こん
な話をすると、日本人は全くお話にならんと思われるかもしれない。まさにそうなので
ある。私が万世一系の天皇をもつ日本人は最高に幸せですといった意味が、これでお分
かり頂けたことと思う。(当時何故かヒットラーすらも羨ましく思っていた。)しかし
、では何故に王朝の権力が国民がいぶかるほど強くなるのか。また、王朝の権力が強く
なることはどうして悪いことなのか、と疑問をお持ちのことと思う。ここでもう一度、
我らの大思想家ジャン・ジャック・ルソーの言葉を思い出して頂ければ幸いである。ル
ソーは「我もし随意に祖国を選べといわれれば君主と国民との間に利害関係の対立のな
い国を選ぶ。しかし現実にそのような国があろうはずもないから、止むを得ずその代替
物として民主主義国を選ぶ。」といっている。ここにすべてが盛られている。ヨーロッ
パの王朝では常に君主と国民の利害が対立している関係にある。然るに、日本の天皇制
には決して利害関係の対立などない。仁徳天皇の「民のかまどに立つ煙」の故事を引き
合いに出すまでもなく、また前述の天皇とマッカーサーの会見時の模様を説明するまで
もなく、利害関係の対立は全くないのである。これこそ、君民共治の完壁な見本である
。(東洋の天皇は税制でなく税を取り立てる役人豪族の貢物で潤っていた。江戸期も同
じ扶持米を部下や寺に届ける様に天皇に貢ぎ米が届けられ、天皇その物は御供田(ごく
うでん)と言う天皇領の納め米で生きていた。)このような天皇制では、常に天皇と国
民の間には強固な理性的バランスがとれているのである。人間精神の最も高尚なものが
両者を結んでいるのである。そこには物質的欲得など、みじんも入り込むすきはない。
なんとすばらしいことであろうか。このような国で、なんの必要があって天皇を外国の
ものと取り替える必要があろうか。ユダヤ人はルソーの言を待つまでもなく、長年この
ような君主制を夢に描いてきたのである。しかし祖国を持たないわがユダヤ人は、王を
頂くこともできなかったのである。わずかにユダヤ教を「携帯祖国」としてもち、これ
によって民族の連帯と発展を推し進めてきたのである。キリスト教国では、このような
高尚な理想をもった国は永遠に現われないであろうと思う。その点から見ても、ユダヤ
人は日本人には及ばないが、一般西洋人よりは優れた民族であると日本人に認めていた
だければ、甚だ光栄である。

1613: 名無しさんAA:18/09/02 16:07
 これから本論として述べる如く、我々は戦後の占領改革において大きな過誤を犯した
のであるが、ただ一つの喜びは、天皇制の偉大さを認識でき、それを憲法の冒頭で存続
させることができたことである。だがここで日本人に謝らなければならないのは、戦前
において我々の認識不足から、天皇制を最大限に攻撃し、なんとかこれを打倒しようと
努力してきたのも又、我々ユダヤ人である、ということなのである。全く穴があれば入
りたい気持ちである。フランス革命でフランスの君主制を打倒したのが、我々の最初の
大事業であった。つづいて、ヨーロッパの主な君主制を打倒することが至上任務となる
のであるが、何故そうなるのかということは、マルクス主義の国家論をお考え頂ければ
十分と思う。(君主の税制が強く不満のはけ口として諸侯はポグロムを起こしていた)
マルクス主義というものは別章で詳しく述べる如く、ユダヤ人が自己の民族的解放事業
のための道具として編み出した虚構論理なのである。マルクス主義の国家論はご存知の
ように、国家とは破壊、転覆すべきものであるということを根本原理としているもので
あって、国家や領地や境界というものがあるためにユダヤ人は過去幾千年、迫害、虐殺
をくり返されていたものである。自己をこのような悲惨な境遇から救うためには、国家
というものを転覆することが唯一の方法で早道であったのだ。つまりそれによりユダヤ
人が権力と財産――後にこれは生産手段という社会科学的用語にかえられたが――を奪
取することによってのみ解放されるということである。これがマルクス主義の根本原理
なのであるが、この国家の破壊という大事業の前に、最も邪魔になるのが君主制という
制度であったのである。そのため特に、君主制の打倒ということが最大の目的となった
わけである。ユダヤ人の教条主義的誤りは戦前の天皇制=西洋の君主制として攻撃した
のである。今世紀に入ってからは、第一次大戦時に、ヨーロッパの中の主な三つの王冠
、ドイツ、ロシア、オーストリア=ハンガリーにおける君主制の打倒に成功したので、
残された有力な君主制は、拠点とした英国であり、米国に渡って英国は金や資源の力で
、米国の言いなりになった。さて後に残された君主は東洋であった。東洋の中の一角に
燦然と輝く日本の天皇制だったのだ。ユダヤ人は、これの打倒に全精力を注ぐことにな
ったわけである。ただここで、日本人は一つの疑問をおもちになることと思う。ヨーロ
ッパでは、各国でユダヤ人が王制のもとに苦しんでいたのであるから、これらを打倒す
るのはわかるが、では何故にユダヤ人のいない日本で天皇制を打倒しなければならない
のかという疑問であろう。ユダヤ人の単純な教条主義的思考なのか、君主制と名のつく
ものはすべて敵であるとする単純な発想からくる誤ちなのか。答は否である。このこと
は日本人はいまだほとんどご存知ないだろうが、ユダヤ人には天皇制を打倒する理由が
あったのである。

1614: 名無しさんAA:18/09/02 16:08
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 20

 法学者ゲオルグ・イエリネックはワイマール時代のドイツ法学界の第一人者であった
。絶対主義的君主主義に反対し、国家の自己拘束の理論を掲げ、人権の確立に努めた。
改宗ユダヤ人とされる。そのワイマール憲法を日本は学びの基本にして大日本帝国憲法
を作っていた。日本の天皇制打倒のための最大の攻勢はゲオルグ・イエリネックによっ
て始められたのであるが、彼はこのワイマール時代ドイツの法学界を牛耳っていたユダ
ヤ人法学者であった。マルクスの時代は、国家の破壊は階級闘争という虚構論理による
ものを主力としていた。しかし今世紀に入ってからは、マルクス式にいえば、上部構造
よりの破壊を考えついたのである。つまり、法理論により国家機能を弱体化させること
でユダヤ人を助けようとしたのである。特に君主制を骨抜きにする作戦である。この為
に利用されたのが美濃部達吉であった。イエリネックは美濃部達吉に巧妙に天皇制破壊
、弱体化の戦術を授けたのである。その前に、イエリネックの学説の真髄をご紹介して
おこう。これは戦後の占領改革で行われた「国家」という言葉を「社会」という言葉に
変えられたことについての日本人の疑問に答を与えるものでもある。何故「国家」が「
社会」にかえられたのか。イエリネックは超観念論的思考の所産として、国家の存在を
否定しようと試みた。国家は感覚的に認識するをあたわず、その制度や、活動において
のみ認識できるものとして、国家の最終的客観的要素は作用として現われる人の社会関
係の総和である。と考えた。より精確に言えば、人と人の関係に現われる一定の作用の
同時または継時の存在であり、これだけが国家の証明できる最終の事実である。と考え
た。イエリネックの狙いとするそれはは、「国家」という観念を去て、それに代わって
「社会」という観念を導入するに事だ。世界政府の観念である。戦後日本で、しばしば
、この「国家」という観念は「社会」という観念に代えられ議論されている。そのへん
の疑問に答を与えるのが、このイエリネックの思想である。イエリネックは、したがっ
て先輩のオットー・フォン・ギールケのいう「有機体説」も否定する。つまり、ギール
ケは、国家は実際に存在するものであるから「有機体」を考えるべきであると主張した
。イエリネックは「有機体」が人間の認識の如何にかかわらず存在する。在るけど見え
ない空気の様な存在との規定は、実証的研究の地盤を去ることを意味し、真理に代える
に、詩をもってするようなものと極論の批判をしている。これはまごう方なき観念論で
あり、マルクスの国家否定論と対照的である。しかし、同じユダヤ人であるマルクスと
イエリネックの国家否定論は軌を一にするものであり、ユダヤ民族の大目的に奉仕する
論理であったことを認識する必要がある。つまり国家不要論である。

1615: 名無しさんAA:18/09/02 16:08
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 21

 このイエリネックの役割は「上層部」からの国家の解体へ向かうことであった。つま
り、法理論を活用することで、この目的のために利用されたのが、美濃部達吉である。
例の「天皇機関説」がそれである。美濃部達吉は憲法学者で法学博士であった。戦後に
東京都知事として、自衛隊の道路使用を、重量制限で不許可とし喝采を浴びたが、戦前
では、東大卒業後、ドイツ留学中にイエリネックに師事して、今後の天皇の大権を狭く
解釈する独自の憲法学を打ち立て軍部から批判を浴びた。1945年幣原内閣の憲法改
正の顧問を務め今の憲法を打ち立てる手助けをした。ところが、イエリネックの深遠な
狙いはその協力者、美濃部達吉の無知により、かなりあいまいなものにされてしまった
。それというのは、この「天皇機関説」の受け取り方がイエリネックの当初の思惑を、
かなりズレてしまっていたのである。美濃部はイエリネックの 「Organ」というドイツ
語を単に「機関」と訳してしまった。日本語の「機関」という言葉は、マルクス主義者
の受け取り方を除いては、イエリネックの当初の狙いを十分反映できない言葉である。
一般には、天皇=国家であったのを、天皇は国家の一機関にすぎないというふうに天皇
を格下げしたものであると考えられるようになった。これは、日本語のもつ「機関」と
いう意味からすれば、むしろ当然かも知れない。しかしドイツのユダヤ人ではドイツ語
の 「Organ」は、抑圧、搾取のための「道具」「手段」を意味する。日本語訳からすれ
ば「機関」ということになるが「Organ」 のいうユダヤ的意味では天皇=体制や仕組み
ということである。もし美濃部がもう少しユダヤ的思考に通じていたら、ノーベル賞(
ユダヤ機関が設置運営している)でももらったかもしれない。イエリネックは、さぞ不
満であったことだろう。彼の狙いは、あくまで天皇を抑圧、搾取するものと形容したか
ったのである。つまりは「独裁者」であるユダヤ人のいう「Organ 」は具体的にいうと
支配階級が被支配階級を抑圧、搾取する手段、道具という意味である。美濃部が「機関」と正確な思考で旧語を使ったお蔭で、かなり意味あいの異なるものとなってしまった。
天皇は国民を抑圧する仕組みであるとする宣伝は、かなりぼかされた。この君民共治は
、日本の天皇と国民の間にのみで存する理想的政治形態である。これがある限り、日本
の共産主義化は、困難と判断したユダヤ勢力は、「天皇制」を絶対悪として宣伝し始め
た。戦前はコミンテルンを通じて大々的に「天皇制」打倒のキャンペーンをして、かな
り広範囲に党員獲得に動いた。コミンテルンの日本出張所として日本共産党を誕生させ
「天皇制」打倒を至上命令として実践させた。今日ににも日本共産党が「天皇制」打倒
、「天皇制」絶対悪論を振り回しているのは、そのためなのである。


1616: 名無しさんAA:18/09/02 16:30
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 22 

 以上のように我々は戦前天皇制の打倒を至高目的としていたのであるが、戦後天皇制
が類例のない偉大なものであることを初めて知るに及んで、天皇制の存続を図ったわけ
である。この時には天皇制廃止論者が米国政府には多く存在し、大変苦労したものであ
った。ここでの我々の努力を評価して頂ければ光栄である。戦後史の解説書などでは、
しばしばいわれている天皇制存続の理由が、「占領政策のため利用する目的で存続させ
た」といったことが言われるが、これが如何に認識不足かという事がお分かり頂けると
信ずる。日本共産党は未だ天皇制を絶対悪と信じているようだ。国会の開会式に天皇の
臨席時に共産党議員が欠席するのは、その現われだろう。日本共産党は、コミンテルン
の日本出張所として誕生した。コミンテルンの目的の一つには日本の天皇制打倒があっ
たのは当然だ。コミンテルンはスターリンの独裁強化されるまでは、国際的なユダヤ勢
力により動かされていた国際旅団の形態の中の指導層である。日本共産党はユダヤ勢力
が日本への残置謀者として残したものであり、完全なるエピゴーネン(継承者)である
。このエピゴーネンは、すでに戦後はユダヤ人の意志とは全くかけはなれた思考により
行動しており、我々としては全く邪魔な存在の中にある。もともと共産主義というもの
が、ユダヤ人が創った虚構論理の実現である。したがって、今日でも日本共産党が日本
の社会で害毒を流している事に対して、我々ユダヤ人は心を痛めている。さらに、日本
共産党の誕生に我々が責任あるというだけでなく、戦前の日本の支配勢力により行動を
抑止されていた日本共産党を、戦後陽のあたる場所へ出すのを助け、さらに赤だるまが
火を吹く如く大躍進させた。その原因もニューディール派、すなわち、ユダヤ勢力の持
った米国共産党員のホワイトコミューン達であった。かつて戦前の日本には、八紘一宇
という大精神があった。これは神道のこれまた類い稀な共存精神に基づく偉大な思想の
ものであった。「西洋の宗教」の如き一神教の排他性をもたない、傑出した思想である
といえよう。この点を証拠づけるものとして、西洋列強の東洋侵略と日本の満州国建設
が対比させれる。西洋列強の東洋諸国支配は搾取、収奪、奴隷化に他ならなかった。又
英国が印度支配のため最初に打った手は、既存の教育関係を絶滅し、諸民族を相争わせ
、言語の複雑化を計ることであった。又仏印領ベトナムなどの支配もも同様であった。
そこには何ら建設的なものはなく、ただ自己のための搾取があるのみであった。ここに
日本軍は道を通し、鉄道を引き、学校を建て、水道電気を通した。しかし戦後は米国が
その権益にソ連や中国と取り合いしたのである。日本の努力は結局取り合いの宝珠とな
って戦争を引き起こした。

1617: 名無しさんAA:18/09/02 16:41
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 23

 しかるに、日本の満州国建設大事業は、これとは対照的であった。五族協和を唱い諸
民族平等の関係を育て、その投資は建設的なものであった。当時欧米でも識者は、人口
3000万の満州国は十年後には人口1億を有する大近代工業国家として極東の一角に
その勇姿を現わすであろうと、称賛と期待をもって見守っていたものであった。他の、
アジア諸国で、欧米列強によって近代的工業国家に育てあげられた国が一国でもあった
だろうか。満州の近代化の成果は、現代に至るも中国の工業の心臓部である点をみても
分かることである。これを可能にしたのは、八紘一宇の大思想のしからしむるものであ
る。南洋諸島もしかりである。学校を作り道路を作り産業を起こそうとした。ビルマの
鉄道は戦争によって捕虜と共に作られたが、かつてシンガポールにいたイギリス兵は、
はたしてあんな山奥を走る鉄道やベトナムを走る鉄道など作っただろうか。まずなかっ
ただろう。原住民に鞭して運ばせれば事足りたからだ。そして便利=拡散と考えたであ
ろう。つまり搾取するのに港は必要だったが線路を必要と考えなかった。戦いの為に、
何時又敵に攻め込まれ取られるかわからない土地に資本投下する事を馬鹿げた行為とし
て見えていたのである。しかし日本人や日本軍は捕虜だけではなく原住民すら従事させ
て完成させた。西欧列強の海外の植民地支配のような、引き揚げる事を前提に奴隷統治
する術を、全く知らなかったのだ。いや逆に行わなう事無く現地民の様に居続けたのだ
。ここに、我々ユダヤ人の理想のお手本となるべきものに日本が戦前誇った家族制度が
あった。面白い話を一つ紹介しよう。かつて「国際連盟」の労働部長であったユダヤ人
、アルベール・トーマが日本の労働事情調査のため来日した。「国際連盟」といっても
、教科書的歴史観しか教えられていない日本人にはその本質を知る人は少ないようだが
、これはユダヤ人の世界政府主義ともいうべき人達の思想そのものであった。第一次大
戦の結果、金融支配力に自信をつけたユダヤ人は米国などの政治面へも進出をはかり、
その結果つくられたものが「国際連盟」だったのである。この連盟の指導者は、日本人
の杉村陽太郎氏を除いて他は皆ユダヤ人だったのである。


1618: 名無しさんAA:18/09/02 16:48
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 24 

 この他に「国際労働局」というのがやはり一緒にジュネーブにあったが、しかしこれ
は「国際連盟」の一局の如く考えられる節があるが、さにあらず。全然独立した機関で
実際の規模は「国際連盟」よりは、はるかに大きいものであった。私もここで極東問題
を担当していたのであるが、これも勿論、ユダヤ人の機関であった。何故ユダヤ人が、
労働問題にかくも力を入れるのかということは、マルクス主義の階級闘争史観をご存知
の方はお分かりいただけると思うが、かつてユダヤ人は非ユダヤ人の協力者を集めるた
めマルクス主義の階級闘争史観を宣伝したのであり、その結果 エピゴーネン(亜流、
継承者)としての各国共産党を生んだのである。一方、ユダヤ人自身としてもユダヤ民
族の解放を非ユダヤ人の協力者にのみに任しておくわけにはいかないのは勿論である。
当然、ユダヤ人自身でも自己の解放運動を進めていた。国際連盟はその機関の一つとご
理解願いたい。したがって、「国際労働局」の方がむしろ規模が大きいという点も納得
されることと思う。話がちょっととんだが、面白い話というのは、アルベール・トーマ
が来日し、日本へ階級闘争の激化工作をしようとしたとき、その前に立ちはだかったの
が、日本の強固な家族制度だったのだ。アルベール・トーマは、「日本では家族制度が
強固なため階級闘争、つまり労働運動の激化を仕掛けることは非常に困難である。何故
ならば、労働者は失業しても労働運動などする必要はなく、家族が暖かく迎え入れてく
れたからである。この家族制度をなんとかしない限り、日本へ階級闘争を持ち込むこと
は難しい」といっているのである。又階級闘争をするに、日本人自体は、共同体村落を
形成していた上に、自立主義、平等主義から小作人と言えども家族の様に住んでいて、
農奴ではなかった。それどころか赤の他人の丁稚でも、務めあげ認めた人間だと暖簾分
けして店をもたせるし、養子の子でも家名を継がせた。が逆に家族の中で、二男の役柄
は家主の替え玉として家を離れられず、家主の従者であり召使いであった。又長男で主
となったものが不埒ものであれば、躊躇なく時の城主すらも牛込めしたように、回りの
者は制裁者の役目を婦人達は担い行っていた。つまり婦女子の家庭教育は男子以上厳し
い躾の中にあった。こうしてアルベール・トーマは、日本での労働運動を止め、朝鮮や
中国に仕掛ける方を得策と上程した。アインシュタイン(ユダヤ人)もまた1922年
に来日した時、日光の金谷ホテルからドイツのユダヤ機関へ手紙を書いているが、その
中に日本の家族制度の立派さを書いているのである。その言葉にヒットラーすら感銘し
ていた。

1619: 名無しさんAA:18/09/02 16:56
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 25 

 こうした様に、日本の家族制度はこれまた類い稀な存在であったのだ。戦前の日本の
家族制度にはとても及ばないが、現在世界中で一番この家族制度というものを強固に有
しているのは我々ユダヤ人社会であろうと思う。この点、我々は常にそれを誇りとして
いた。ここでまた日本人にお詫びしなければならないのであるが、この日本のすばらし
い家族制度を破壊したのは我々ユダヤ人なのである。具体的には、占領改革の時ニュー
ディール派が行ったものである。前述のアルベール・トーマの件でもお分かりと思うが
、ユダヤ人がマルクス主義的変革を実行するためには、家族制度は国内の君主制といわ
れる如く邪魔な存在だった。家族制度が「小さな君主制」としてユダヤ民族のマルクス
主義的変革事業の邪魔になるということは、なにも今日昨日の問題ではなかったのであ
る。さて、現在のユダヤ人社会では、戦前の日本にあったようなすばらしいものではな
いにせよ、現在でも家族制度というものは固持されている。恐らく世界一のものではな
かろうかと自負している。親と子は、多くの場合同居している。これは決して住宅難の
せいではない。子は、年老いた親の面倒をよくみるのである。特に親孝行という言葉は
もっていないが、ユダヤでも将来できるかも知れない。また、親類づきあいも密である
。安息日には、大体(たいてい)どこかの親類と家庭で交わるのを普通とする。我々は
戦前の日本の家族制度を見習いたいのである。ユダヤ人は、福祉ということにはあまり
考えてない。これは家族制度のアンチテーゼだからである。福祉とはただ食わせるだけ
といえるかも知れない。老人ホームに例をとると、そこでの老人に保証されているのは
餓死しないということだけである。生き甲斐というものは何も保証されていない。然る
に家族制度の枠内の老人は子の成長、孫の成長を楽しむという生き甲斐をもつことを、
数多く出来る。どちらがいいかは、議論の外であろう。日本では戦後、ニューディール
派の改革で姦通罪というものが外されてしまった。これも家庭の不和を増長させる重大
な要素であると考えられる。家族制度の破壊を狙った、西洋風のものであると私は考え
る。ユダヤ人の社会では、現在でも姦通ということはまずあり得ないのである。十戒に
おいて厳に禁ぜられている行為だからである。夫婦になって商売でも浮気でももっての
他の行為であり、安倍貞事件に見る様に人の意識の規律を保つ策である。自由恋愛など
と言うのは、人の食生活や道徳が守られた上の話である。外国の例では、やはりロシア
革命後の婦人国有化政策を上げねば、労働者として婦人を駆りだして不幸を背負った。
その歴史は、血に塗られている。食卓の野菜がパンが消えたからだ。


1620: 名無しさんAA:18/09/02 17:19
 レーニンは「家庭は利己主義の砦である」といって、婦人を全部社会へ出してしまっ
た。現在のソ連で依然として女性が男性と同じ肉体労働までしているのは、その名残り
であり経済効果を下げる工夫なのである。日本人の皆様には驚きかも知れないが、レー
ニンはユダヤ人なのである。女性の社会への進出というと、なにか進んだ欧米制度の如
く感じるかも知れない。が、家族制度という観点から見た場合に、これらの損失は計り
知れない。これもやはり崩壊へ導く要因である。この辺の処は日本国憲法の内容と密接
な関係があるので、そちらでまた述べるが、ロシアの領土に於いて本来食べる物がない
と言うのは起こるものでは無かった。何故なら小麦やパンなどを食して居なかったから
だ。トナカイの干し肉と草と魚と小動物で、現地民は贅沢なく豊かに暮らしていたのだ
。知識さえあれば木の実木の皮も食べていた。しかし、大抵のものが入植者だったから
ロシア皇帝打倒に走ったのである。更にその後知恵知識は強制労働で無くなったのだ。
我々ユダヤ人が是非学びたいと思うことに、日本の戦前にあった義理人情という美徳が
ある。武士の国の日本では、他民族では絶対にもちえない繊細な心の機微さというもの
がある。本能的な西洋人には想像もつかない深遠な人間性の発露であって他国や現代で
はなかなか受け入れられない感覚だ。私は、この義理人情が究極点として天皇制に到達
するものと考えている。私の大好きなものの一つに大相撲があるが、ときどき「こんち
わ相撲」という事を聞かされる。これを八百長相撲と称する人もいる。しかし私には、
この表現は正しくないと思う。「貸し借り」ともいわれ仕組みのこの言葉はどちらとも
とれる言葉だが、「八百長」ではない。つまるところ、日本の大相撲では、それは基本
や根本において、殺し合い殴り合いから発達したスポーツではない。逆に死と隣合わせ
の自然の危険を回避する為の、神への祷りや奉納から発達したのが相撲だと聞いている
。その意味合いから、健康祈願や逞しさや潔さの願望を、子供の元気を奉納相撲とした
処に起源がある。ここに義理人情の勧業相撲からに藩主達の交わりの江戸相撲に変化し
た。スポーツと歴史の違う神の祭りと言う点を理解するまで、私は相当の日月を要した
。武士道的道義や義理と人情から発したものであったが、戦前ではこの「こんちわ相撲
」のことは角界以外にはあまり知られていなかったものである。つまり、興行相撲は、
プロレスの様に、マスコミの好餌となる材料ではなかったわけである。義理人情から出
た結果なら、戦前の日本人なら決してそれを追及せず、そっとしておいてやる雅量を、
もっていたのが大人相撲とされていた。しかるに、戦後特に義理人情がほとんど失われ
た今日に、単純に汚い八百長と同次元に考えられる事で、その神への奉納ことのほうが
薄れ伝統的な型を継承しながらも、潔く潔白な完全試合を望むと言う声の方多いようで
ある。

1621: 名無しさんAA:18/09/02 17:30
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 27 

 ユダヤ人の社会には、日本流の、義理人情という侠客の世界のものは存在しない。も
し「一宿一飯の恩義」や「袖すり合うも他生の縁」と言う他人の大事さを思う様な西洋
社会ならこうも戦争歴史は起きなかったであろう。しかし、同胞の相助合うという精神
では日本の義理人情には及ばないものの、ある程度のものはもっている。少なくとも、
欧米人よりは、優れたものをもっていると思う。ユダヤ人はよく「感動の民族」だ。と
いわれる。これはビジネスにおいてもそうである。普段が「がめつい」と思われている
ユダヤ人でも、ちょっとした「感動」により時には利害を忘却したのではないかと思わ
れるようなことがある。決して恩に着せるわけではないが、この点に関する格好の例と
して、我々ユダヤ人が自慢できるものがある。それは日露戦争の時、クーン・ローブ商
会のヤコブ・シフが高橋是清と会って外債を引き受けたことである。アメリカ・ユダヤ
人の中心的存在だったユダヤ人金融業者ヤコブ・シフは、日露戦争の時、日本への投資
を決断し資金援助を申し出て支援した。当時、日本の勝利を予想した者などは誰一人い
なかった中、日露戦争での日本へ戦費の調達を決めた。これを考慮する者があろうはず
もなかった。ヤコブ・シフは他にも南米でも、トルコや中東でも負けるとされた 弱い
者の味方になって投資している。日本に英国など日英同盟の関係から知らん顔はしにく
いと思われるが、例によって全く打算的な態度であった。しかし、日本とロシアの関係
を知っていたヤコブ・シフは、当初から打算的にかつユダヤ同胞の開放の為に、引き受
ける事を決意していた。又、後の追加融資などは高橋是清と会っているうちに、いうに
いわれぬ感動に陥って行った様である。勿論シフには、ユダヤ人を迫害しているツァー
を倒したいという考えは強く作用していたことは事実である。しかしそれにしても、必
敗と予想されていた日本へ、計算高いといわれるユダヤ人が何故大金を貸すのか。と言
う意見が多数占めたし、日本人には良く理解出来て居なかった。シフ自体は一生の事業
の浮沈に関わるほどの大金だったし、常識ではあり得ないことだった。そこには、日本
の義理人情に匹敵するユダヤ人の「打算」と「分析」と共に「ホグロム」などからくる
弱者への愛憎の「涙」があったことも是非ご理解頂きたいと思うのである。現在でも、
日本人とのユダヤ人との商取引においては、このような「感動」の商法が行われている
実例も、しばしば見受ける。ユダヤ人はこの「感動」をさらに高めて、日本の戦前の頃
の義理人情にまで高めたいと思っている。よろしくご指導願えれば幸甚の極みである。



1622: 名無しさんAA:18/09/02 17:42
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 28 

 次にユダヤ人がすばらしいと思うものに、戦前の武士道精神がある。ラビのトケイヤ
ー君も『日本人は死んだ』の中で「軍国主義のすべてが悪いとは思わない。」という意
味のことを書いている。……戦前の軍人精神というものは、人間性の発露として至高の
ものであったと思う。「個人の利害を忘却して全体のために奉仕する」ということに対
するあれほどの完全さは、他民族には決して見られないものである。特攻隊員がその最
たるものであることは、いうまでもない。……日露戦争以来、日本の陸海軍はいたると
ころで武士道精神を発揮してきたことは世界中から尊敬されている。「弱きを助け強き
を挫く」精神である。その他でも、戦前の日本人には「男は度胸」「女は愛嬌」という
言葉もあった。これは皆様も欧文に翻訳する時困った経験をお持ちであろうと思う。こ
の「度胸」「愛嬌」に相当する欧米語が見当たらないからである。しかしこれは又当然
の事でもある。何故なら、この両者は欧米人の男女とももち合わせていない感覚なので
ある。これは全くすばらしいものであると思う。男女の天分の顕著な発露であり、人間
を最も個性的に飾るものとして、例のないパーソナリティでもある。男の「度胸」とい
う点で、戦争中に「アメリカ兵は白兵戦になると赤ん坊のように声を上げて泣き叫ぶの
だ。」と聞かされた銃後の日本人は多く、男が泣くと言う行為にキョトンとして信じら
れない。といった表情をして聞いていた。まさかいくらなんでも、兵隊たるもの、戦地
で泣き出すなんて大げさな話だろう。と考えたのである。これは、当時の日本人なら、
無理からぬ話である。然るにである。これは全くの事実なのである。つまりアメリカ兵
には「男の度胸」というものが備わっていない。つまり「武士は食わねどつまようじ」
の「空威張り」は滑稽として欧米文化には無かったのである。「男は涙を見せない。」
とした日本の文化は、嘘の涙を見せてでも或いは詐欺ても命ごいを懇願する。と言う事
は欧米では生きる逃げ道の王道ともしたし、白旗に見るよう勝敗を決して、終わりとし
死に挑むと言う事は、実は死ぬほど怖い事だったのである。しかし日本は恥としたのだ
、これは地獄のエンマ様と、恐怖の悪魔との、風情や思考やの違いかも知れない。「女
の愛嬌」の問題にしても、戦前外遊した人々は、欧米の女性に愛嬌がないという点は、
多くが指摘している。これは無論、今日でも変わらないし、欧米人の暴力的性向が家庭
崩壊や社会秩序の崩壊を招いている原因でもある。戦後の若い世代の日本人は、もはや
こんなことを感ずる余地はないようであるが、この両者の特質を戦後完全に失ってしま
ったから見えないのである。ある意味レディファースト文化は、この「つむじの悪さ」
や「日常の仕事」として女性表情への男のへつらいだったのだろうかもしれない。

1623: 名無しさんAA:18/09/02 17:46
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 29 

 これら多くの戦前の日本人がもっていた世界に類い稀な美点、長所は、我々ユダヤ人
の理想を具現化したものであったのだ。しかるに第二次大戦の終結を機として、これら
が完全に失われてしまったのである。真に残念というほかない。今回、私がどうしても
本稿の筆をとろうと決意したのは、これら類い稀な人類の財産ともいうべき長所を喪失
せしめた責任が、実は我々ユダヤ人にあるということを率直に認め、深くお詫びすると
同時に、我々の犯した過ちがいかなる思考、動機から惹起されたものかという点を詳し
くご説明させて頂いて、一日も早くこれら美点を復活させて頂きたいと思ったからであ
る。何度も繰り返す如く、過去の日本の風情は、我々ユダヤ人の理想でもある。これら
を積極的に自己の理想といえるのは日本人の他にはユダヤ人しかありえない、とはっき
りいえると思う。どうか、尊敬する日本のみなさま、これから私が解き明かすことを、
じっくりと検討され、戦後の病巣、社会的混乱、経済と精神衛生面の跛行性の原因を、
よくお考えいただきたいのである。「男は度胸、女は愛嬌」は元々の男女の天分を表す
もので、西欧追随は人類文化の退化をもたらすものだったのである。ただここでちょっ
とと申し述べておかなければならないのは、これら戦前の日本にあった類い稀な美点が
戦後100%失われたということではない、ということである。それはどういうことか
というと、日本の社会の内部では、つまり、日本人の社会の公式な政府政策ではこれら
美点が失われているのを認めなければならないが、日本人が外人に対する時や田舎の中
の生活ではまた別の話だということである。つまり、国際的には、まだまだ意識の中に
日本人の日本人足る性格の美点は存分に生かされているということである。比較文化論
的に考察するに、日本人は西洋人一般よりも理性的に、はるかに優れているといえよう
。今まで述べた戦前の美点も つまるところ、日本人が理性的に西洋人をはるかに凌駕
しているということに他ならない。この点で西洋人が日本人に追いつくには数世紀、い
や数十世紀、あるいは永遠に追いつくことができないのかも知れない。それは言語にも
現れる。右脳と左脳が人間は備わっているが、通常の言語では現れない連鎖が日本語の
体系にある事が最近明らかになって来ている。つまり考え方の基本が言語に頼る部分で
も、日本語は遥かに優位な位置にある事が判明している。しかし、それでも、西洋人も
日本人も、他国とつき合う場合、否応なしにこの地球上で生存するためには付き合わな
ければならないが、このことがどういう結果になるか、ということに、もうすこし考察
が必要だろう。

1624: 名無しさんAA:18/09/02 17:54
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 30 

 日本人は「国際性」という場合、100%西洋のペースに日本人が適応することとい
うふうに考えているようであるが、これは人類の文化の退歩を招くことであり、断じて
そうあってはならない。これは全く逆立ちしている。西洋人こそ日本人に適応させなけ
ればならない。何故なら日本人の理性の方がはるかに西洋人のそれより進んでいるので
あるのだから。ところが、西洋人は未だそんなことなど全く理解していない。はばかり
ながら、我々ユダヤ人はそのへんをおぼろげながら理解できると自負している。この点
でも、ユダヤ人が一般西洋人より進歩した民族であると認めていただければ無上の光栄
なのである。この点が逆になったため、大東亜戦争は起こったのである。日本は何とか
戦争を避けようと、全くの善意から必要以上の譲歩を行っていた。ところが西洋列強で
は、その譲歩を全く単純に弱さの現われとしか取ることができなかったのである。この
理性的なものの差は、数世紀やそこらで埋まるものではないと私は考える。残念ながら
、現在の人類の理性の水準では、西洋人側の単純極まりない思考法が表通りを大手を振
って歩いているのである。これでは人類の進歩はあり得ないだろう。こうした世界での
ユダヤ人は日本人を理解できる唯一の外国人かもしれない。我々ユダヤ人は、この逆説
をひっくり返すために最大限の努力をする覚悟である。その為には東西のかけ橋になる
とかしなければならない。その他、個人的交際においても、日本人は対外人との関係に
古来の伝統的美徳を完全に発揮している。しかし、それに対しても一般外人は、これを
全く理解する能力がないといわねばならない。このため、日本人はどれだけ損をしてい
る事か。少し考えさせられる。私は、このようなことがいつまでも続くことを耐え忍ぶ
ことはできない。手前勝手なようだが、ユダヤ人はこの日本人の特性をある程度理解で
きた民族と思っている。したがって、それなりのお返しを日本人にできる唯一の外人で
あると自負している。結論として、当分の間日本人は外人に対して美徳を与えることは
差し控えていいと助言する。外人以上の低次元の、感情的、非理性的、本能的な態度で
あって外人に接する事も 考えるべきではないかと考える。そのような美徳の何たるか
は何もわからない外人にタダで与える必要などない。それより日本人のコミュニティの
中で一日も早く復活させる方策をとるべきではなかろうか。私はそう考える。しかし、
又一方で現実には、日本人はなかなかそういうふうに割り切れないということも十分知
っている。割り切れないという事が、またしても日本人の理性的高尚さの証左であろう
。こうして、どこをどうつついても、西洋人は日本人には頭が上がらないの文化なので
ある。

1625: 名無しさんAA:18/09/02 18:02
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 31
 外人は麻雀は分からんだろうと日本人は思われるかも知れないが、ところが、どうし
てどうして、さにあらずである。我々ユダヤ人は麻雀が大好きなのである。在米ユダヤ
人で麻雀のことを知らない者はない、といっていいだろう。また、アメリカには雀狂が
意外に多いのを発見して驚かれる日本人が多いが、彼らはまずユダヤ人だと思って間違
いはない。もともとは、チャイナタウンに於いて、上海のユダヤ人グループがアメリカ
へ輸出し広めたのがことのおこりの様である。中国人の余暇潰しのゲームだが、私も又
上海時代におぼえた。日本でいま一般的に行われているルールの中で、ユダヤ人が創っ
た役が2つあるのをご存知だろうか。「七対子」と「緑一色」がそれである。三枚一組
を原則とする麻雀の本質からすれば、二枚一組の七対子は中国古来の役でないことはす
ぐ分かるであろう。また役満の緑一色も役満としての本来的意義はない。大三元にしろ
四喜和にしろ、それぞれ三元牌全部とか風神全部といったヴァイタルな意義がある。こ
のユダヤ人が創った緑一色にはそのような意義はない。いわば風流役とでもいったら、
いいだろうか。いずれにせよ、これらが日本ですんなり受け入れられて人気役になって
いるのははなはだ嬉しいことである。西洋人が麻雀を理解できないのは「ツキ」という
ものを理解できないことにつきる。だが、ユダヤ人は「ツキ」を理解できるのである。
「ツキ」にこそ 麻雀の面白さは集約されているのである。理屈で麻雀を考えるほど、
ユダヤ人は野暮ではないのである。また、よくいわれる「引きが強い」というのも分る
のである。技術的に秀れた者、つまり強い者ほど「引き」も強いようである。これを、
理屈で説明しろといっている間は、西洋人は決して日本人というものを理解できないで
あろう。これは決して論理の飛躍ではない。その証拠には日本の戦前の良さを理解でき
るユダヤ人は麻雀の面白さも十分分かるではないか。日本にある「勝ち負けは時の運、
強きは弱きを助くるにあり。」と言うのは、ほとんど日本人的感覚と思考である。世の
中で大事なのは平等と言うのはフランス人が中世以降の革命で近代において説いた論説
だが、それでも仏印と呼ばれたベトナム人には、そうした行為をした形跡はない。つま
り「机上の空論」であったのである。しかし日本人は、遥か昔の平安の荘園時代から、
「敵に塩を送る」、「義を見てせざるは勇無きなり」と果敢に正義を求めて「一寸の虫
にも一分の魂」とか「泥棒にも三分の理」「悪人にも親心」などを会得した社会を延々
と築いて来ていたのである。「多勢に無勢」と言う戦いであっても ながががと大声で
血筋を垂れて、声を上げて、名乗り勝負を 当然として来たのだ。でなければ敗戦の兵
は付近の住民からも攻撃を受け、負けた時でも助けて貰えなかった習慣であった。これ
は大事な慣習であろう。正義を通す意地である。生きるに最もな理由である。

1626: 名無しさんAA:18/09/02 22:00
 最近になって、若いユダヤの同胞が一人前の顔をして能書きをたらたらたれている。
よその大部分は、ユダヤ的思考法をすべからく日本人たるもの学べ、といったものの様
である。私はこの恥知らずな若い同胞のことを考えると、全く穴があれば入りたい心境
である。彼らは日本については、あまりにも無知であるのみならず、ユダヤ思想の何た
るかについても全く教育されていないのである。だからこそ、かくの如き恥晒しが平気
で出来るのであろう。彼らが決して触れないものに、二元論的な思考パターンと言う物
がある。この思考法を知らないなら、もはやユダヤ人とも呼べないだろう。そのくらい
大切な思考法が、これから述べる二元論的思考パターンなのである。現在、日本に限ら
ないが、我々のあらゆる面における思考パターンの典型として支配的要素となっている
のが、この二元論的思考法なのである。直接、間接を問わずに、この思考パターンは、
ユダヤ教の思想から来たものであるということを知っていただきたいのである。現在ま
では、日本人は日常のあらゆる面でこの二元論にはまっている。残念なことに、殆どそ
れを意識していないのではないかと思われてならない。ユダヤ人の思考法で最も基本的
なものに、二元論の刷り込みと呼ばれるものがある。論理学的には二値論理なのだが、
ユダヤ人には両建て主義ということが多い。この二元論というのは、絶対に相容れない
両極端の対応物を設定することから始まる。しかも、宗教民族らしく、この二元論は多
くの場合、倫理的要素が混入されている。したがって、この二元論は、善悪二元論、時
によっては明暗二元論など、色々な言われ方をする。戦後、日本の教育界に最初に持ち
込まれたものに、〇×式思考法がある。この思考法も見て分る通り、二元論の典型的な
もので、これを最初に社会に持ち込んだのが、ルーズベルトの米政府であった。つまり
、ニューディーラー達(フェビアン社会主義共産党員)である。1941年、アメリカ
には、第二次世界大戦に突入した結果、国家総動員令ともいうべき戦時体制を持ち込ん
だ。この体制に飛び込んだのをチャンスに、ルーズベルトはまず教育界というより一般
産業界に持ち込んだのである。産業界では、戦時体制生産のため労働力の飛躍的増強が
要求された。そこで大量の労働者、技術者の募集が始まった。その際これら労働者や、
技術者その他の採用試験には、従来の如き主観に基づく要素の多い問題形式では間尺に
合わない。採点作業のスピード化のため、思い切った客観法に基づく採点方法が焦眉の
急であるというのが、この論法を持ち出す理由づけであった。産業界に協力求める色々
な交渉を省く道具に使われた。つまり平和主義で、戦争嫌いな工場主にも、「君はアメ
リカの味方か敵か」と言う問いにして、「敵」と言う者はいない。「なら協力せよ。」
戦争が嫌いであろうが、敵の死が嫌いだろうがどうでもよく、アメリカの為に行うか行
わないかを決めさせたのだ。

1627: 名無しさんAA:18/09/02 22:13
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 33

 そして、戦後の教育界へ本格的に持ち込まれたのは、日本が最初である。戦後の日本
の教育界にとっては、アメリカの産業界の緊急動員体制時の如き採点のスピード化とい
ったことは、理由にはならないはずである。そこでつけた理屈が、主観主義の排除とい
うことであった。つまり、科学的、客観的ということを謳ったのである。しかし、その
裏に創造的能力を奪うという大きな問題点を含んでいる事を、誰も表面には出なかった
。この点は、最近のアメリカ教育界で大問題になりつつある。アメリカの教育界でも、
この〇×式試験が逆輸入されて大手を振ってまかり通っているのである。日本でも戦後
一時期、大学受験生に進学適性検査、通称進適といわれるものを実施していたが、現在
のアメリカでは「全米共通進学適性試験」=SATといわれるものが、1947年から
実施されている。この〇×式を標準化テストと称している。そして全米共通という標準
性と比較の単純性、能力の客観的評価の正確性に秀でていると理由づけられている。こ
うして持ち込まれた中で これに対してこの〇×式に批判的な人々は、創造的才能をも
つ者に不利だと急所をついて大問題となった。そこで間にたった採点方式が5択という
ものだった。5つの答の中から選ぶとすれば確率はすでに5分の1であり、目をつぶっ
てやっても5問に1問は当たる。これを科学的というのだろうか。さらに問題は、設定
された答の中からしか答を出せないことである。そこに設定されたものが全てと考える
ことは創造的才能をもつものにとってはこの上ない馬鹿なことである。従ってよく大学
入試でもその設問に例えば答えが2つあったり例えば標準回答が時代と共に間違いであ
ったり、例えば同じ意味でも奥深い回答であったりしたときは、その人は不合格となる
つまり採点外になる。これは戦前の教育には無かったシステムである。殆どが教師が設
問を考えて、個別に回答しそれを誰でもが考えて答えとする。それが点数評価の在り方
であった。しかし日本も又総動員令をかけて、例えば身体測定で身長・体重を測るのだ
が、結局は適正評価で適否判定しかしなかった。それが教育につながってしまったので
ある。つまり論理がない学力評価の、これだけの手段だけで人間本来の才能、判断力、
リーダーシップ、組織力、表現力、意志の強靭性などが正確にはじき出されると信じさ
せてきたのである。人の能力は決して数値では表せないというのも歴史的現実である。
日本のクイズ番組でもその答えが正解でも TVに沿った回答でないと不正解とされる
が、それは高圧的で又 どこかの教科書の回答だから、常識だから。と言う馬鹿さだ。

1628: 名無しさんAA:18/09/02 23:36
 ルーズベルト政府が第二次大戦中、この〇×式を採用した時、ニューディーラーの真
の目的は創造力を奪うことにあるという命令が出て居た。戦争目的をもってドイツにあ
った世界制圧や征服の希望を閉ざす事が意識的に行われ、それに準じた行政をGHQは
命令されていた。これは恐ろしいことではないだろうか。日本の、戦後の思想界に支配
的に広まったマルクス主義の影響で、この〇×式思考パターンに、既に日本はすっかり
とりこにされてしまっていた現状があった。GHQを支配していたニューディーラーは
いろいろな二元論的思考を戦後の日本へ植え付けたのであるが、教育界へ持ち込まれた
この〇×式思考法にはいち早く現在の中堅クラス以下の、年配の多くは教え込まれた。
社会、政治、経済その他あらゆる面でこの〇×式思考法、忠実に反映した諸現象を見る
或いは分析することにすっかり訓練された慣れて行っている様だ。二者択一の「保守」
か「革新」か、「大企業」か「国民大衆」か、「戦争」か「平和」か、「経済成長」か
「社会福祉」かなど、二元論を持ち出しているのが共産党、社会党といったマルクス主
義者だったが、これに自民党は乗って国民を説得した。絶対的な世界観の共産党は兎も
角、自民党の池田内閣佐藤や中曽根小泉までそれに類する思考を大宣伝して選挙に挑み
、劇場型政治と言う、政党にふさわしくない行為を繰り広げたが、それが受け入れられ
た。それは行政改革しかりである。国鉄解体や郵政民営化のYESかNOかである。こ
れは全く無意味な論争である。どんな会社でも解体か経営かなどと言う論議はしない。
これなら議論の余地はない。通常経営も動体で時代に応じて方針を変える、利益率を高
め生産性を上げる為だ。しかし、この論議には何もない。現状把握や今後の予想や対策
などだ。奇異なこの論陣に誰も口を挟まない。何故なら、このマルクス主義的な二元論
から成り立っている虚構論理は建設的議論とはならず妥協しか生まないものなのだが、
それで育って来た人達だったからだ。この〇×式思考法なくしては、「革新」政党たる
もの、今日まで生きのびる事は不可能であったかも知れない。つまり「良いかか、悪い
か」の論議は「どうすべきか」の論議やどうあるべき」かの理想像がなく、その場しの
ぎの決定を迫り資料を見せない方策で、考える時間も思考も余裕も与えない。世の中の
進化や進歩はそうしたその場で出来るものではない。しかし、今の日本では多用されて
国の形にしている。もっと問い詰めて考え詰めて熟慮し広範な意見を取り入れて考える
べきものだ。特に政党同士の駆け引きによって 国家の国体が勝手気ままに変えられる
話は既に国会の体をなしてはいないものだ。賛否を決める多数決は、単なる意志表示で
あり解決策ではない。そもそも法案は次々と修正されそれなりの国民同意を持って提出
されて変化し作られるべきものなのである。つまり議員全員の同意が先にあって議論さ
れるものが本来姿で、一部の者の発案で発議され否決や採決されるものではない。

1629: 名無しさんAA:18/09/03 06:13
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 35 
 戦争論議で一つ是非注意しておきたいことは、「太平洋戦争」という言葉である。日
本に本来「太平洋戦争」という言葉は存在しない。これは勿論、戦後占領軍が名付けて
メディアに言わせたものである。戦後、いろいろな方面から大東亜戦争に関する歴史書
が出ているが、中に「太平洋戦争」という言葉を平気で語っている。その歴史書がアメ
リカ側の思惑の立場に立って全て書かれたものとは言わないが一部の見方が世界の見方
の様に書かれ若者を洗脳する。著者達はそれで満足なのであろうか。問題はそれだけで
はない。日本の歴史に「太平洋戦争」という戦争はない。あったのは「大東亜戦争」で
あり「日中戦争」然り、あるのは「支那事変」である。よく考えてみる必要がある。こ
れは一連の流れで第二次世界大戦の名で集約される。この第二次を欧州戦線とは言って
も英独戦争とは言わない。明らかに歴史の偽造に他ならない。明らかにアジアの戦争で
東亜大陸つまりアジア大陸の中国に欧米が侵攻した戦争なのだ。何故なら第一次世界大
戦のベルサユ条約で植民地経営を止めよ。と日本が言った時、ドイツの南洋諸島と中国
の主要都市は日本で管理する。との話し合いはついていた。その意味で国際連盟の委託
統治領だったのだ。従って満州国建国して、愛新覚羅を国王と認定せず蒋介石を後押し
して軍事援助したのは可笑しな話なのだ。日本は内容を知って蒋介石政府を認定したが
国連若しくは米英は清国として契約しているのだ。ここに中世時代の征服王朝を真似た
欧米の近代戦でのやり方があり、それが今の中国が叩く、チベット・ウイグル問題の肝
である。つまり欧米が巻き起こした東南アジアの戦争が未だ終わっていない理由である
。これは戦後史の跛行性という点で、戦後日本の社会は、真の日本歴史の構築を放棄し
たのではないかとしばしば指摘される自虐史観で黙認し追従する日本も同じ責任がここ
にはある。太平洋戦争では戦後からではなく昭和16年の時点からすでに、日本歴史の
真の構築を放棄していたことになりはしないか。占領中そういう呼び名を強制されてい
たのは止むを得ないものかも知れないが、今日に至るも依然としてそれらから脱脚でき
ないのはどういうわけだろうか。これは、ジャーナリズムが依然として「太平洋戦争」
という言葉を使用していることに関係ある。日本人自身の問題である。憲法とは違って
、改正の手続の問題もない。ただただ、正しい歴史観の認識の問題のみである。ドイツ
のゲッベルス宣伝相はいち早く、「それは、非常に強大な超国家的勢力が、文明の破壊
にもつながる心理戦、神経戦を挑んできている。これに対してドイツ国民は十分警戒せ
ねばならない。この心理戦、神経戦の目的とするところは、人間の純度を落とすことに
より現存する国家を内部からむしばんでいこうとするものである。」と彼は超国家的勢
力の「人間獣化計画」と言う聞きなれない作戦があると警告した。

1630: 名無しさんAA:18/09/03 06:13
1934年の声明を発しに警告として公布している内容は次の如き作戦大要かあるとし
て「愛国心の消滅、悪平等主義、拝金主義、自由の過度の追求、道徳軽視、3S政策 
事なかれ主義(Sports Sex Screen)、無気力.無信念、義理人情抹殺、俗吏属僚横行、
否定消極主義、自然主義、刹那主義、尖端主義、国粋否定、享楽主義、恋愛至上主義、
家族制度破壊、民族的歴史観否定。」以上の19項目であった。これをつぶさに検討し
てみた場合に、戦後の日本の病巣といわれるものにあてはまらないものがただの一つで
もあるだろうか。ドイツ国民に与えた掲示の内容はそのまま日本で行われたのである。


1631: 名無しさんAA:18/09/03 06:14
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 36 

 否、何一つないのを発見されて驚かれるであろう。ゲッベルス宣伝相は、戦後の日本
に対する予言者だったのであろうか。戦後生まれの人たちにはピントこないかも知れな
いが、これらは正常な人間の頭で判断すれば人類の文明の破壊につながるものである事
は一目瞭然である。これが彼の言う人間の純度を落とし、本能性に回帰させようという
ものである。ゲッベルス宣伝相が警告を発した第二次大戦前の時点で、どれだけの人が
これを真に人類の文明への挑戦として脅威的に受けとったかは分らない。しかし、第二
次大戦が終わってみると、日本へはこれら一連の風潮が忍者の如く忍び寄って完全とも
いえるほどに定着してしまったのである。これらを戦後日本へ持ち込んだのは一体何者
なのか。また、これらがこれほど完全ともいえる状態で日本に定着したのは何故か。そ
れが戦後に詰まっている。ゲッベルスは戦後日本の予言者でも何でもない。そうした風
潮の欧米の戦略をひしひしと感じていた一人にすぎなかったのである。話を戻してみよ
う。精神衛生面の虚無性が何故に経済の高度成長をバックアップするのか。という疑問
も前述の19項目をみると直ちに理解されると思う。これらが日本人の間に巣喰っては
まってしまうと、消費文化に溺れて、楽しみはただ「カネ」ということにならざるを得
ない。つまり、すべてを「カネ」のために、という思想が強烈なものにならざるを得な
い社会なのである。いわゆるエコノミックアニマルの徹底ぶりを試される他ない社会が
出現する。ここにエコノミックアニマルと、「アニマル」なる語が使われているのは、
ゲッベルス宣伝相の警告にあった「人間獣化」と一致している。エコノミックアニマル
という言葉は、パキスタンのプット外相(のち大統領)が言った言葉だが、急所を突い
ている。高度成長のほとぼりもさめた今日、日本人が真剣に取り組まなければならない
のは、この精神衛生面の虚無性である。志ある人々は皆、日本はこのままでいいのか、
と憂えている。何故、前述のゲッベルス宣伝相の警告にあるような思潮が今日の日本に
定着してしまったのか。また一体誰が巧妙に持ち込んだのか。持ち込んだ時期は終戦後
のどさくさにまぎれてのことであるのは誰にでもわかることである。さらに忠実な残置
諜者とでもいうべき、これら病巣をタブーとして固持、培養している勢力は何か。その
勢力とこれを持ち込んだ勢力との関係は如何。今日の日本にとって最も大切なことは、
これらを解明することではあるまいか。


1632: 名無しさんAA:18/09/03 11:39
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 37 

 時期が終戦後 のどさくさにまぎれてのことであるのは誰にでもわかることである。
さらに、さらに忠実な下僕(しもべ)達の勢力が、今や金科玉条としている日本国憲法
のを作らせた事まで解るはずだ。しかしこの勢力とこれを持ち込んだ勢力との関係はど
こにあろうか。今日の日本にとって最も大切なことは、この日本国憲法の隠された狙い
とそのルーツは。これらの諸問題にメスを入れることが、今日の日本にとって焦眉の急
といわねばならない。憲法改正などは放っておいていい。問題はこれらの病巣のコーデ
ィネーターの役割をしている日本国憲法であることは何ら疑いを入れない。しかしもう
少し考えて紐解いて、この日本国憲法を持ち込んで、残置諜者を利用してタブーの網を
張り、信仰という宗教的呪縛性でもって、あたかも千古不磨の大典の如く日本国憲法を
最大限に活用している勢力は一体何なのか。さらにこの日本国憲法を最大限に利用する
ため準備行動として東京裁判という予行演習を演じてた事は見逃せないことの筈である
。東京裁判は、どう考えても誰が考えても、日本の戦後史の始まりの序幕式のお披露目
であった。しかし、今日までのこの東京裁判に関する分析、評価は、残念ながら、初歩
的な感性的認識の域を一歩も出ていない。現在まで一般に考えられている「復讐の儀式
」と形容される類いである。これはインドのパール博士の意見等を踏み台にしたもので
ある。一面の真理であることは確かである。「復讐の儀式」という見方の説をとる場合
、説明として出されるのが植民地を失った帝国主義国の復讐ということであるようだ。
確かにシンガポールの敗軍の将パーシバル中将がフィリピンでの山下将軍の裁判の席へ
招かれて、これこそ、真に復讐以外の何物でもなかろうと言う演出はあった。パーシバ
ル将軍は、フィリピン戦線で山下将軍とはなんの関係もなかったのであるから、この様
な点を見せつけられると、なるほど「復讐の儀式」説も納得する。だがしかし、もっと
良く考えてみる必要がある。帝国主義の植民地喪失の復讐といった場合、主役アメリカ
は全く当て嵌まらない。アメリカ自身は植民地を何ら失っていなかったからである。尚
、フィリピンはルーズベルト政府の時代から安上り支配で名目上の 独立を与えた方が
得策として独立を認めた形になっていた歴史がある。東京裁判はイギリスの代表として
インドからパール判事が居たように、フィリピンの代表としてデルフィン・ハラニーリ
ャ判事を送り戦犯追及の急先鋒で死刑を要求した。この裁判の奇妙な事は、ここにある
結論は決まっていたが、「満州事変以後を日本帝国主義の侵略戦争とする」事であった
。フィリピンは多くのカトリック神父の独立運動家の交渉で既に独立が約束されていた
。そこに第二世界大戦が来たのだった。つまり既にアメリカは早くから知っていたのだ

1633: 名無しさんAA:18/09/03 11:40
この奇妙な「なぜ満州事変以後が侵略戦争なのか。」の、理由はハッキリしていた。
これら、満州事変以前の戦争は 米英仏等の利害と衝突していなかったからだ。利害が
一致して日露戦争は「英露戦争」とも欧米では呼ばれていた。帝政ロシアの南下政策に
英国は、脅威を感じていたのである。帝政ロシアの南下を防ぐものとして日英同盟を行
い、日露戦争を歓迎していた。日英同盟を結んだのは、その意味で英国防衛の為だった
。また、シベリア出兵は、その意味で日本を攻撃するに最も好都合な材料だったかも知
れない。しかしこれも侵略戦争という刻印を押せば、アメリカも又共同で出兵していた
し。第一次大戦も又要請によって地中海まで日本海軍は英国のためにお付き合いしてい
る。文句のいいようがないのだ。結局、これらの戦争に関して、篩(ふるい)に分けて
自国につながらないで、日本を悪玉に仕立てようと試みると、ここに線を引かなければ
欧米列強自身も、国際社会の火の粉をかぶることになるのだ。間違えれば上を向いてツ
バをはくことになる。これを避けたのである。ところが、林房雄氏の「大東亜戦争肯定
論」に面白いことが出ている。ある共産党員が日露戦争を侵略戦争と規定すべきかどう
か迷っている。とのことだ。これはソ連側からの主体性のなさを物語る格好の証左で、
また非常に重大なる問題提起でもある。何故、満州事変以後が侵略戦争で、日露戦争、
シベリア出兵、第一次大戦などは「日本帝国主義」の「侵略戦争」ではないのか。これ
は奇妙なことではないか。というのだ。ソ連も又東京裁判には連合国として参加してい
た。一方、満州事変、支那事変、大東亜戦争は議論の余地なく、米英仏等と利害関係が
対立するものであってソ連すら納得するものだった。日本批判には、ここを取らない法
はない、ということである。米英仏ソなどと国家単位で述べたが、この稿の目的とする
超国家的勢力を主役とする歴史観からすると、やはりこの大勢力との利害の衝突、利害
の一致の問題が、前述の中で国家単位の歴史観とピタリと重なるのである。この点は、
他のどの方向から説明しても同じ結果である。後に述べるように、超国家的勢力を主役
とした陰謀論の歴史観の方がより正確な史実の分析が可能である。ということである。
この超国家的勢力は近世史を事実上動かしてきたもので、今や日露戦争においても日露
両方へ資金援助をしていた事は判明している。この勢力が得意とする両建て主義の典型
例である。この勢力は、日露戦争を大歓迎していた。その理由は、ポグロムに対抗した
ユダヤにツァーの打倒を至上目的としていた金融家がロマノフの財宝を預けて政権を取
ったからだ。それが超国家的勢力の中心だった。従来の教科書的歴史観的にロシア革命
の事件であるが、これをプロレタリア革命などといっていたのではお話にならない。こ
れは当時の欧米の新聞論調が皆「ロシア・クーデター」と呼んだ宣伝活動に欧米の新聞
の大勢力の支配下にあった、単に首がすげかえられただけを飾り立てて創作したのだ

1634: 名無しさんAA:18/09/03 11:53
 911と同じ手法で、当時のこの時にはツァーからロシア人の革命勢力から、更にこ
の大勢力ヘ移り変わった事を庶民が起こした革命と称して飾り立てた。したがって、日
本がシベリアへ出兵したということは、到底共産主義革命を叩きつぶすため、という事
ことにはならなかった。これら大勢力に対する挑戦ということになったのである。そう
とあれば、東京裁判の主役たるこの大勢力の怒りを買い侵略戦争というレッテルを張ら
れること必定だったが、アメリカも参加していたことで避けられたのだ。アメリカウィ
ルソン大統領は日本が出兵を宣言するや、その翌日に早くもアメリカの出兵を宣言して
いる。中立主義、孤立主義の風潮の強い当時のアメリカが、何故か直接ほとんど利害関
係のないシベリアへ出兵したのか。利害関係があるというのなら話は全く別であるが、
事実アメリカはカムチャッカの割譲を熱心に希望していたのであるが、それはさておき
、アメリカの参加の真の目的はボルシェヴィキの援助だったのである。重複をかえりみ
ず説明すれば、このアメリカ遠征軍には奇妙なことに英語の話せない米兵が多数いた。
これらの米兵は、実はポーランド出身のユダヤ人の義勇軍だったのである。つまり、隣
にあって、たえず自分達の脅かす脅威であったツァーを打倒したのであるから、これを
永続させねばならない。つまり、ボルシェヴィキを援助しなければならない。それが、
ポーランドのユダヤ人が米軍に参加した理由である。いや援軍を集めた裏社会の巨大な
金融家の本音であった。とにもかくにも アメリカ自身はるばる兵を出して来ているの
であるから、日本を侵略者と呼ぶことはさすがに気がひけたのであろう。以上で、満州
事変以後を日本の「侵略戦争」と呼ぶ理由をお分かりいただけたと思う。もっと言えば
日米開戦の真珠湾攻撃からを「侵略戦争」としなかった事も同じ理由である。ドイツと
戦争した時、既に公けに在米日本人を日本に帰し、既に米国に入国拒否をしていたし、
日系アメリカ人を既に収容所に送っていたのである。つまり既にドイツと英国の戦争時
に日系アメリカ人は収容所で志願兵として志願し、あの史上最大の作戦と言われたノル
マンディー作戦の遥か前に志願兵で訓練され、上陸前にイタリア戦線で戦い、米国では
一番勲章の多い部隊として レッドブルの歩兵隊で参加し、失われたテキサス大隊救出
作戦を行い半数の兵士が殉死していたのである。勿論援蒋ルートの物資補給やハワイの
暗号解読基地建設など、数々と公的に対日本戦略を既に繰り広げていて、日米決戦から
の侵略戦争が始まったなどとは口が裂けても言えなかったのだ。しかし実情は、日本の
中国進出はベルサユ条約で確定されたもので南洋ドイツ領の支配も国連からの権利譲渡
である。つまり正に日本の侵略戦争を言うならコタバル上陸からであり、中国は既に、
欧米了承の決定事項だったが、それが言えなかったし、支那や韓国の判事を置かなかっ
た理由でもあった。

1635: 名無しさんAA:18/09/03 12:47
「ソビエト社会主義共和国連邦および オランダが、本件における訴追国であり、また
両国とも日本にたいして自国側から宣戦したということを、記憶しておかなければなら
ない。が、ソビエト連邦に関するかぎり、かりに自衛ということは、ある条件のもとに
、戦争を開始することを容認するものであると解釈しても、同国の対日宣戦当時の事態
から、防衛の考慮から必要となった戦争であるとして、これを正当化するような事態で
あったとはいえないであろう。」と記述している。これによって、ソ連には分割統治の
夢が消えたのである。連合国側が一方的に極東国際軍事裁判を開いたのだが、この裁判
の参加は、そしてドイツの裁判でも使われた「ナチス悪者・ヒットラー独裁者論」で支
配国や国民は利用された被害者としての位置づけがなされた事の再現だったが。ソ連が
昭和20年(1945年)8月8日に対日宣戦布告や昭和16年(1941年)12月
8日のオーストラリアやニュージーランドの宣戦布告している事の終了を意味する物に
変わったのである。ジャクソン検察官というのはドイツを裁いたニュルンベルク裁判で
「侵略者」の定義をした人だが、その時その定義の一番目に「他国に宣戦を布告する事
」という規定を用いた。この定義はその時欧州社会で受け入れられた。これを受け入れ
ないのであれば「自衛」と呼べるかもしれない、と述べていますが、連合国側が侵略の
定義をしておきながら、東京裁判でオランダの「宣戦布告」行為はスルーしている。お
かしい話なのです。さらにパリ不戦条約の中では次のように定められている。
第一条 締約国は国際紛争解決の為戦争に訴ふることを非とし且其の相互関係に於て
    国家の政策の手段としての戦争を放棄することを其の各自の人民の名に於て
    厳粛に宣言す
第二條 締約国は相互間に起ることあるへき一切の紛争又は紛議は其の性質又は起因
    の如何を問はす平和的手段に依るの外之か処理又は解決を求めさることを約す
この条約は「自衛権」は認めており、その判断はその国に委ねることになっています。
ソ連の対日参戦は「自衛行為」であり、オランダの対日宣戦布告も「自衛行為」だった
とし、条約違反でなかったとするのであれば、日本の戦争も自衛行為になるのであり、
日本がパリ不戦条約違反だと訴追するのは無理があります。もし、日本の戦争を「条約
違反」「侵略」とするのであれば、ソ連もオランダも同じように「条約違反」「侵略者
」ということになります。二国には訴追の資格はない、ということです。そしてパール
判事は次のように皮肉っています。「みずからかように犯罪を犯した国々が、自国民中
の同種の犯罪人を等閑(とうかん なおざり)付し、一丸となって、戦敗国民を同様の
犯罪のかどで訴追しようとは、かりそめにも信じられない。」と

1636: 名無しさんAA:18/09/03 12:47
又「(ソ連の行為は)
すでに敗北した日本にたいする戦争の中に『方法を選ぶことも、また熟考の時間をも許
さないような緊急かつ圧倒的な自衛の必要』を読み取ることは、おそらく困難である」
「攻撃を受ける危険のないところに、幾分でも防衛の必要があった− その必要が緊急
なものにせよ、そうでないにせよ、圧倒的であるにもせよ、そうでないにもせよ −と
判断するのは困難であろう。日本はすでに致命的に弱められソ連はそれを知っていた。
1945年8月6日、日本は最初の原子爆弾攻撃を受けているからだ。」と 激しくパ
ール判事はソ連の宣戦布告は自衛権の行使とは言えないと述べていた。


1637: 名無しさんAA:18/09/03 13:37
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 41

 こうして第一の、自己の戦争責任の免責を行った。本格的な戦争責任論は、例えば、
原爆投下や無差別爆弾などの議論はあらためて論議するものとして米国の大統領の責任
論が出る前に、大きく火消しに転じた。自己が火の粉をかぶる前に、その責任を日本の
「支配階級」、すなわち「天皇制=軍国主義者」に転嫁することでそれは成功した。が
一方で「支配統治=天皇制の容認」でもあった。この事は国内の、マルクス主義を喜ば
せた。以後 自分達に追及の手がのびることのないよう複雑怪奇な形に転じた、それは
一般の日本国民に対しては一見寛大とも錯覚させる被害者意識を植えつけることだった
。周恩来首相の度々の発言の如く、責任はあげて「天皇制軍国主義者」にある日本国民
には責任はない、否むしろ日本国民は被害者である。」とする論法で話かけて来ている
。こう言われると、日本国民は戦争責任者の追及は、国際社会既にに終わったかの様に
錯覚する。それというのも、日本国民自身が免責されているのであるから、この論法は
耳ざわりのいいことこの上ない。かくて、中国の罠と知らず、日本国民は以後すっかり
戦争責任は一握りの「天皇制軍国主義者」にあるとの論を植えつけられ、真の責任者の
追及を放棄したのである。マルクス主義というものは、これを手段として有効に利用す
るものと、逆にこれに利用されるものとの二者がある。前者が後述するニューディーラ
ーであり自民党幹部であり、後者が日本共産党である。ニューディーラーは実に巧妙に
階級闘争史観を駆使して、自己の戦争責任免責に成功した。果たしてそううまく事が運
ぶものであろうか。しかしここに、この勢力の予想だにしなかった事態が起こるのであ
る。この勢力の駆使するのは正真正銘のマルクス主義の唯物史観に基づく階級闘争史観
を持った朝鮮人民である。このマルクス主義は、資本を社会の共有財産に変える事によ
って、労働者が資本家の財産を増殖するためだけに生きるという。過酷な賃金労働実態
の悲惨な性質を隠し、階級のない協同社会を目指す物としている。これを標榜する中国
は、共産党政権が国民党の共産主義と戦争の激化を起こした。同じ共通の敵であった筈
の日本軍が居なくなった事で権力争いとなったのだ。広大な土地を持つ中国に於いて、
何故だか話し合いはつかずに共同統治にならなかったのである。又同時に朝鮮半島も又
同じだった。つまりこの理想を標榜するマルクス主義は、ここに絵空事で空虚な夢であ
ったことが世界に知れ渡ったのである。そして資本主義として持ち込んだ理論が、何故
か日本共産党が戦前から主張していた講座派史観とピタリと一致したのだ。もともと、
この持ち込んだ勢力こそ、マルクスに変革のための虚構ハイポセシスの構築を依頼した
張本人なのである。

1638: 名無しさんAA:18/09/03 14:03
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 42 

 もう一度整理すると、日本共産党が東京裁判の結論に両手を挙げて賛意を表したため
に、唯物史観の論理上から「天皇制軍国主義者」が戦争の全責任という彼らの狙いは揺
らいできた。このことは、東京裁判そのものに対しても打撃であろう。少なくとも日本
と同じに天皇の様な皇帝を持ち排除した中国や朝鮮半島に於いて戦争は終わらなかった
のである。改革を叫ぶ輩はただの賊徒でしかなかったのだ。これで日本共産党の講座派
史観と全く同じ論法を東京裁判に持ち込んだこの勢力は、平和の使者として開放者とし
ての今日の主張が、現実世界での治安維持が出来ないお粗末によって、自己も無関係と
してはおれなくなった。少なくとも南北朝鮮の戦争は、日本に直結する脅威となった。
ここに、東京裁判の論法はすでに正義を失っていた。しかしたとえ戦争責任については
 逆転されたのだが、深堪なる影響を日本の戦後史に与えてしまっていた。第一に、日
本の社会へ階級闘争を持ち込んだことで、続く日本国憲法へ実体法のカテゴリーに属す
条項を挿入することによって、確固たるものとして定着させられてしまっている。この
階級闘争もさることながら、より大きい病巣は宗教性の呪縛であったが、この呪縛さえ
天皇支配が必要である理由が大陸に起こったと言う現実は耐えがたい物だった。東京裁
判式の論法の、善玉・悪玉論理をはぐくむことにはなったが。戦争責任はあげて一握り
の支配階級たる天皇制軍国主義者にあって、大部分の国民はむしろその被害者であると
する論法は、先ず第一に戦争責任者を国外に求めることを忘れさせる効果をもち。国外
の旧敵国はいかにも、ものわかりのいい寛大な存在に映り、以後の占領政策をやりやす
くする効果をもったが、国民には常に疑問の中に存在した。ここにユダヤ教的な善玉・
悪玉の二値論理が持ち込まれたものの悪業があった、こうして、悪玉「天皇制軍国主義
者の支配」された思考、戦前の日本はすべて悪であるとする観念が生じさせたものの、
日本人の懐疑の目は、事後の世代には止められた。支配階級というものは常に悪玉であ
ると教え込まれ、戦後の政権担当政党も支配階級の代弁者であるから当然悪玉である。
故に、これにことごとく反対することは善玉の崇高な使命であると信じ込まされること
になる。今日みる如く政権担当政府のやることには何でも反対する思潮は、このように
して東京裁判を通して巧妙に持ち込まれ、現代の自虐史観を形作る。これらを確固不動
のものにするため日本国憲法を作成し、その賛同者として日本共産党を利用することに
なった。その為にわざわざ三鷹事件まで起こっていた。


1639: 名無しさんAA:18/09/03 14:04
これは連合国軍占領期の昭和24年7月朝に、国鉄三鷹車庫から無人の電車7両編成が暴
走して、三鷹駅の下り時速60km程のスピードで車止めに激突し、そのまま車止めを突き
破って脱線転覆し6人が死亡した事件だった。この時ストを起こした国労を犯人とされ
たが、殆どにアリバイがあったとされる。国の上層部は自分達を被害者=善玉と規定し
てくれたアメリカ占領軍の政策を、善と持ち上げた輩に無理してでも譲渡せざるをえな
くなった現実の事件だった。この事でマッカーサーは思いあぐねて、北朝鮮戦略に原爆
投下を示唆したし、日本に於いて緊急に治安維持隊の必要に迫られた事で日本を信じる
のである。



1640: 名無しさんAA:18/09/03 14:56
 そもそも、日本国憲法の本質についてご説明申し上げれば、ワイマール憲法を作った
ユダヤ人の一人として将来の日ユ関係のためにも、是非とも日本人の皆様の前に白日の
下にさらしておかなければならない事がある。日本国憲法の評価について、真っ二つに
割れている感がある。一方は、この憲法は占領軍の押しつけ憲法であり日本の実情には
なじまない。という主張があり、もう一方は、金科玉条これを絶対善として何がなんで
も一指だに触れさせじと固持している。私の見るところ、両者ともこの憲法の隠された
深奥部にある本質を見抜いていない。前者の考えは一面の真理ではあるが、決して真実
ではない。後者は論理的思考を欠く信仰の所産としかいいようがない。又池田や佐藤の
内閣では従軍拒否に利用され、この憲法の本質がユダヤ的思考の所産であることを知ら
ないまま、上手く利用してきた。これは驚きである。この憲法の本質を知るユダヤ問題
を持たない日本人には、距離がありすぎるのかも知れない。しかし、これはどうしても
ユダヤ人が本質解明の道案内をしなければ、日本人は永遠にこの憲法のもつ強烈な宗教
的呪縛力の桎梏のもとにあえぐことになるかも知れない。一ユダヤ人として、そうとあ
らば、このまま放置しておくにはあまりにも重大な責任を負わされているような気がす
るからだ。この憲法の作者はユダヤ人であり、そこに貫かれているものは第二次大戦の
終結時では、すでに極めて時代錯誤的なユダヤ思想となっていた。単に時代錯誤にとど
まらない。もっと致命的な我々ユダヤ人の犯した誤ちがあったのだ。今日の日本人の皆
様がこの憲法に潜む矛盾から逃れる道は、この憲法の奥に秘められた本質をできるだけ
早くつかみ、そのルーツを白日の下に曝すことであろうと私は思うが、この憲法を一言
で表現するなら、「往来で道を尋ねられた時、故意に反対の方向を教えたもの」と言い
たい。日本の識者の間で、今日の日本はワイマール体制の末期のドイツに酷似している
のではないか、といわれている。これは真に、興味深いことであると思う。ワイマール
憲法制定の舞台になった「ワイマール国民劇場」で賛同を得て1919年から1933
年までのドイツ共和国憲法が表明された。このドイツ共和国憲法を「ワイマール憲法」
と呼ぶ。しかしワイマール憲法と日本国憲法の類似性よりは、かつて大日本国憲法があ
った日本は、プロイセン憲法の大日本憲法を改良して日本国憲法にした事でワイマール
憲法の丸写しの様なずさんな憲法が出来た。ドイツ帝国のワイマール体制の支柱となっ
たワイマール憲法は、ご存知の通り、ユダヤ人で内相も務めたフーゴ・プロイス以下3
名のユダヤ人によって共和国体制の為に作られたものである。また日本国憲法はGHQ
のユダヤ人ケーディスなどのニューディーラーによってわずか「2週間」という短日時
に作られたものであった。

1641: 名無しさんAA:18/09/03 15:01
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 45 

 プロセイン憲法発行にはにはスパルタクス団が関与していた。当初ドイツ国内にも、
第一次大戦に於いて大勢のロシア人が避難民として亡命してきたがその多くは共産党員
であった。つまり 共産党員をロシア皇帝が排除したのである。第一次世界大戦の末期
の1918年10月、ドイツ海軍が無謀な出撃命令を拒否して、キール軍港の水兵反乱
が起きると、たちまちに全国に広がり、全国各地で労働者と兵士が連帯して労兵評議会
(レーテ)が結成された。ベルリンでは11月9日にそれまで戦争に協力してきたドイ
ツ社会民主党も、戦争中止と皇帝の退位を認めざるを無くなり、ヴィルヘルム2世は、
オランダに亡命してドイツの帝政はここに崩壊した。同日、社会民主党のエーベルトを
首相とする政府が成立し、「ドイツ共和国」が発足した。こうして第一次世界大戦では
ドイツが敗北して終わり、ドイツ第二帝国は崩壊しドイツ共和国が成立したのである。
この時社会民主党に、急進派のスパルタクス団がロシアのソヴィエトに真似た労兵評議
会(レーテ)を権力の中枢につけようとした。しかし多数を占めた社会民主党はそれを
拒否して、選挙による国民議会の開催を進めた。政府と社会主義勢力の激しい対立は、
1919年1月、プロレタリア革命を目指したスパルタクス団(ドイツ共産党から改称
)が武装蜂起したが、軍部と結んだ社会民主党政府によって武力弾圧をうけて敗北し、
終わりを告げた。以後は2月にヴァイマルで国民議会が開催されて、ヴァイマル憲法の
もとでの議会制民主主義をとるヴァイマル共和国となった。その後もコミンテルンの指
導を受けたドイツ共産党の革命運動がドイツ革命といわれたがいずれも社会民主党政権
によって弾圧され、失敗した。この時、後進的なロシアでは暴力革命という手段に訴え
成功していた。しかし資本主義が発達し代議制度も発達していたドイツでは、あらゆる
努力の結果、とにもかくにも、ワイマール共和国というユダヤ政権を樹立した。それは
ポグロムに憂う1%に満たないユダヤ人の努力であって。この体制を維持するため早速
、憲法の作成にかかったからである。したがって、その憲法の本質とするところは、今
までのドイツ国内において、差別され虐待の憂き目に会っていたユダヤ人に対して彼ら
の権利を大幅に獲得させるものであった。また同時に、政府の要人のほとんどをユダヤ
人で占めているワイマール体制というものを、ユダヤ革命政府として今後とも維持して
いかなければならないと考えたのは当然で、以上の目的のためユダヤ人が作成したのが
このワイマール憲法である。

1642: 名無しさんAA:18/09/03 15:22
 しかし残念ながら、このワイマール憲法の作者ユダヤ人プロイス以下、当時のユダヤ
賢哲達は、教条主義に陥っていたといわねばならない。ワイマール憲法の最大の目的は
ユダヤ人にとって自己の、中世以来の伝統的な差別を撤廃し、平等権を確立することで
あった。この点は、以下に見る如く全てにわたって成功している。プロイスは、そこの
処で止めておけばよかったのである。とにもかくにも、ドイツ国民と平等な権利を獲得
したがそれ以上の確保を望んだ。ここでプロイスは色気を出した。それは、ユダヤ民族
の反撃戦のプログラムの要蹄ともいうべき要素の指示だせるところを盛り込んでしまっ
たのだ。それは簡単にいえば、19世紀のプログラムであるマルクス主義から一歩飛躍
した闘争方針の要蹄を指示するものといえよう。その一歩飛躍した闘争方針というのが
、神経戦、心理戦を主とした闘争の道具となる。マルクス主義が経済的闘争の道具であ
るのに対して、「人間の純度」を落とすことを狙いとした人間を闘争本能まるだしの、
動物的なものに回帰させるのを目的とする、広義な民族生存権の主張であった。計画の
手段となるのが、フランス革命の時用いた「自由」「平等」である。「自由」「平等」
のスローガンは、またもや役に立つことになったのである。これによって既存の国家を
内部から崩壊させようとするものである。今回のここで言う「自由」「平等」の言葉は
、フランス革命当時の様な、素朴に「自由が欲しい」、「平等が欲しい」といったもの
ではない。この違いは、18世紀の未成熟社会と20世紀のドイツの如き成熟社会との
差によって生じた兵器の進化や経済の差などは、成熟社会における「自由」「平等」は
文化・文明の差は、調和を崩すのがより簡単で、国内を収束のつかない混乱を導く危険
を包有するものである。さらに「自由」と「平等」の2つの概念は、対立しておりより
矛盾が深く、混乱は幾何級数的に増大する。我々ユダヤ人は当初「自由」「平等」とい
う言葉の裏にかくも恐ろしき毒素を含んでいたことをはっきり知らなかったのである。
全く頭が悪いといわれても仕方がない。プロイスは、これをワイマール憲法に盛り込ん
でしまったのである。これはまさしく、教条主義的態度であったといえよう。ワイマー
ル体制というのは、全く自分達ユダヤ人が、レーテ(権力)を握っていない状態での、
の握る為の規則である。自分達が直接君臨している国家では、敵(非ユダヤ人)に国家
を突き上げる「自由」「平等」を吹き込むことは威力であった。丁度米国内の銃砲携帯
と同じく、自分の守りも固くなるつもりだが、より攻撃も容易く威力を増す。平和の使
者に上を向いてツバするが如き自己撞着であった。こうして平和政府の下でも悪質な、
「自由」「平等」をかざして突き上げが起こり、困るのは当然であった。しかし、プロ
イスはこれを盛り込んでしまっていたのだ。これは信じ難いほど頭が悪いものだった。
しかし、当時に日本が理想とする現存国家だとは 西洋人には理解がほぼなかったのだ。

1643: 名無しさんAA:18/09/03 15:36
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 47 

 さて問題は、これに対する国民の反応である。このワイマール憲法に対する闘争とし
て起こったのが、他ならぬナチズムである。本来なら、ドイツ国民は内部分裂によって
、その突き上げでワイマール政府を倒すことになるはずであった。しかし、ドイツ国民
の反応はそれとは正反対に、完全無比な国民的統合の精神によってそのワイマール体制
を倒した。それは高邁なアドルフ・ヒトラーの出現でなされた。ワイマール憲法がナチ
ズムを生んだのである。何故こうなったのか。賢明なドイツ国民は、真理に背くものを
看破する能力をもっていたということになる。「自由」と「平等」は両立しない概念で
あった筈だ。その点をドイツ国民が見抜いた結果起こったのが、ナチズムだったである
。某書店発行の六法全書には日本国憲法の前頁にアメリカ独立宣言の一部が載せられて
いる、これをフィルターにして日本国憲法を考えよと言わぬばかりである。しかし編者
達は、感性的認識ながら日本国憲法のルーツを感づいて知っていた筈だ。しかし、漠然
とした認識では本質を極めることは困難かと思われる。このひねくれた二律背反の主張
が、フランス人のみならず、崇高な希望の主張と共に、いつでも変えられる境界線上に
ある事はは、砂上の楼閣の様な資本主義社会の危うさを示すものだった。人々が真摯に
見ずに基本としてる主観である事だったことも、自然の奥深さに無知の事も示した。兎
も角も、このワイマール憲法の下での、多数決の議決を得て、民主的歓声の中でヒット
ラー政権は生まれているのである。ワイマールの街には、代表するホテル「ホテルエレ
ファント」があるのだが、このホテルをヒトラーは気に入って最終的に、このホテルは
ナチが経営する程になった。この2階は、かつてナチが会議室に使っていた部屋の広い
客室にの先には、つづきにバルコニーがある。ヒトラーはこのバルコニーに出て、この
歓喜に沸いたパレードを眺望していたのである。当時ドイツ国内の各所が革命から来る
革命疲弊にやっと一息ついて経済の持ち直しに成功しているところであったのである。
しかしその後に、世界恐慌が起きてしまった。失業者が街にあふれた。さらには、失業
していない人びとの心の奥にも、失業への恐怖というものが渦巻いた。そういう中で、
ヒトラーは「経済対策」と「民族の団結」を前面に打ち出し、ストレートな表現で熱狂
させた。「強いドイツを取り戻す」「敵はユダヤ人だ」と憎悪を煽る演説が得意だった
。ヒトラーは「反感を買う」言葉「人受け」する言葉を使うのはうまかった。あえて使
った。例えば、「独裁」=「決断できる政治」、「戦争の準備」=「平和と安全の確保
」といった様な具合でオブラートに隠した危険な言葉を次々と上手く表現し発した。


1644: 名無しさんAA:18/09/03 15:44
 アドルフ・ヒトラーは「平和を愛するとともに、勇敢な国民になってほしい」「この
国を軟弱ではなく、強靭な国にしたいのだ」「この道以外にない」などと言ったのだ。
改訳すれば「我が国の平和の為に戦争しよう。ドイツの為に戦おう。臆することなく殺
し合いしか道はない。」と言う事になる。ヒトラーの腹心ヘルマン・ゲーリングも、後
にその手法を語っている。「国民は指導者たちの意のままになる。それは簡単な事で、
自分たちが外国から攻撃されていると説明するだけでいい。平和主義者に対しては愛国
心がなく、国家を危険にさらす人びとだと批判すればいいだけのことだ。この方法は、
どこの国でも同じように通用する。」と言った。こうしてワイマール共和国の憲法とし
てドイツ革命によりドイツ帝国が崩壊して出来た、国民議会が開かれて「暫定的国権に
関する法律」を制定して憲法制定権を獲得し、やっと出来た民主憲法は、国民議会で大
幅に修正したのちに可決し出来上がった。本文は2編から成文され第1編は「ライヒ (
連邦) の構成および任務」で第2編は「ドイツ人の基本権および基本義務」であった。
これは,近代的憲法は国家の統治機構と権利章典とを定めたものでなければならないと
の理念をそのままに具体化したものである。
(1) 連邦制の存続。先のビスマルク憲法の連邦制を継承したが、プロシアの優位と各支
         分国 (ラント) の権限とは弱められた。そして,ラントを代表する
         機関としてのライヒ参議院設けて、立法および行政に参加する権限
         を与えた。
(2) 国民主権の採用。前述の帝制を規範化し,「ドイツ国は,共和国体とする。国権は
         国民から発する」 (1条) と定め,国民の直接選挙による大統領を
         おき、元首で最高行政機関とした。
(3) 民主主義的諸制度の広範な導入。ライヒ議会などの選挙における完全な普通,平等
         、直接、秘密の原則の保障、比例代表制の採用,国民票決,国民発
         案などの直接民主制度の大幅な導入などを行なった。
(4) 社会権的人権の保障。第2編において国民の基本権の保障についての50ヵ条をこ
         える規定を設け,法のもとの平等の原則を認め、また伝統的な自由
         権を保障するほか,プログラム規定としてではあるが社会主義的な
         生存権的基本権を定め,その後の世界各国の憲法の先駆となった。
しかし,その後のナチスの台頭により,大統領の緊急命令発布権 (48条) に基づいて
出された 33年2月の「国民および国家を保護するための大統領令」は国民の自由を大幅
に制限し,さらに同年3月の「国民および国家の困難を除去するための法律」 (いわゆ
る授権法 ) はこの憲法をまったく形骸化してしまった。そしてドイツは崩壊へ向かう。

1645: 名無しさんAA:18/09/03 15:49
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 49 

 実はこの時ヒットラーが使ったのはワイマール憲法の第48条「国家緊急権」という
やつだった。これが分枝点になった。これは、国家が緊急事態に陥った場合に大統領が
公共の安全と秩序、これを回復するために必要な措置を取ることができる。大統領が司
令し指導し、一義的には何でもできてしまうという条文だった。この条文がヒトラーに
独裁の道をついに開かせてしまった。では、なぜそもそもこの条文が入っていたのかと
いえば、憲法を作った当時の人たちが、国民の普通選挙による議会制民主主義という形
のものをまだ完全には信用していなかった。加えて周囲はロシア・英国・仏国・トルコ
などの列強帝国に囲まれた小国の連合体だったのである。更には国民の男女平等による
議会というのは初めての事だった。言ってみれば憲法をつくろうとしていた人達は真に
政治は食糧すなわち台所に直結していた時代だった。このぎっしり詰まったソーセージ
のように、疑心暗鬼の時代に、庶民はまったく信用されていなかった。ということだっ
た。その為、ヒトラー以前にもこの条文は何回も使われてはいた。議会が紛糾して、全
く動かなくなる。さあ、どうしよう。法律を通さなければいけないというときに、何回
もこれは使われていた。しかし、ヒトラーは巧妙にこれを悪用したということだったの
だ。当時のドイツの政情は左翼勢力・右翼勢力の対立が激しく、各地で暴動や反乱が、
くり返され非常に不安定だった。そんな中で、国家緊急権行使を後押しした保守陣営と
、そして財界があった。財界も何もナチのことは好きではなかった。けれども、何より
も共産主義勢力の盛り上がりを怖がっていた。育てた工場や農場が政府指令で接収され
たら堪らないからだ。憲法裁判所の元判事のディーター・グリム教授は、「ヒトラーは
国家緊急権で自由を廃止し、野党の息の根を止めた。それが 民主主義と議会の終焉に
つながった。この憲法で、まさか独裁者が誕生するなど思いもしなかった。でも、実際
に独裁者は誕生した。それは、想像を超える世界でした。」野党が自由を奪われた選挙
で、ヒトラー率いるナチ党は議席をふやして、いよいよ仕上げにかかろうとしました。
恫喝と懐柔を駆使して反対派を従わせて、議会の3分の2まで押さえて成立させたのが
、あの「全権委任法」です。国会の審議を経ずに、政府が憲法の改正を含めてすべての
法律を制定できてしまう法律です。この瞬間、世界一民主的な憲法の下での、合法的で
個人崇拝の独裁が確立したんです。ヒトラー「私やナチを疑うのは頭がおかしい者か、
ホラ吹きくらいのものだ。我われはドイツのために戦う。断固として戦わなければなら
ないのだ。」といつまでも繰り返し、民衆はその声に次々に慣れて行って洗脳された。

1646: 名無しさんAA:18/09/03 16:03
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 50 

 18世紀の大西洋での 革命的アメリカの独立とフランス革命の時代に、「自由」「
平等」の相反するスローガンが基本概念として起こったが、それを日本国憲法に持ち込
んだ本質こそ、真理の根源を見究める上で大なる力となる。これが邪なことはもちろん
だが、直接的にはワイマール憲法にメスを入れることも不可欠と思われる。しかるに、
このワイマール憲法に関する研究は日本では非常に少なくて、また日本国憲法との比較
研究が全くといっていいくらいお目にかかれないのは、一体どうしたことだろうか。そ
れにはやはり理由があるようである。それは、ワイマール憲法そのものが国際的には、
タブー視される中となっていることである。口でこそワイマール憲法というものは決し
て珍しい言葉ではないかも知れないが、現実にその内容に関してはタブーの網が張られ
ていることに存外気がつかないものである。部類の戦争好きのフランクリン・ルーズベ
ルトは、ユダヤの世界では今日では絶対のタブーとなっている。したがって、ルーズベ
ルトに関するあたりさわりのない評はいろいろ出ているが、その本質をうがったものは
皆無に近いといえる。このため、第二次大戦の真因はだいぶ混乱させられているのだ。
では何故、ワイマール憲法はユダヤ人にとって都合が悪いのであろうか。それは、その
本質を徹底的に掘り下げれば分かることであるが、そこに発見されるものは、ナチズム
台頭の必然性があるからだ。何故ナチズムが発生したのか。今日までナチズムに関する
著書はあまたある。しかし、それは真因を突きとめたものはない。大抵の場合、例のご
とく「集団発狂伝説」や「ユダヤ敵視説」といわれる類いのものである。しかし、この
ワイマール憲法を深く掘り下げるときそこに発見されるのは、自然の摂理に背くものを
内包し、助長しているという事になる。翻って、日本国憲法のルーツを探るためにも、
このワイマール憲法の本質にメスを入れることが焦眉の急となってくるわけである。が
このワイマール憲法というものが、一口でいえば、中世以来、言語に絶する苦難の道を
歩まされた在独ユダヤ人達の、血の出るような最低限の要求を実現させたもの、といえ
る事を知る日本人も少なく、それだけではすまない大きな世界戦略がある事はなかなか
知り得ない。ここにこそ問題が秘められているといえよう。この点については逐次詳述
するが、日本国憲法も重要な部分はこれと全く軌を一にするものなのである。ワイマー
ル憲法は表面に出すことをタブーとされ、日本国憲法は改訂を唱えることをタブーとさ
れている。真に皮肉なパラドックスである。


1647: 名無しさんAA:18/09/03 19:02

< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 53 

 GHQは日本に永久に存在して行く勢力ではないものだ、国際的金融ユダヤ勢力であ
る監視団体だった。占領が終われば、引き上げざるを得ない。そこにケーディスは、自
分達は引き揚げても、己の創ったエピゴーネン(継承者)を養成して残していった。そ
れが共産党と自由党であった。エピゴーネン達は真に忠実に主人のために、戦後30余
年たった今日でも日本国憲法には一指だに触れさせていない。それは社会党の援護も不
可欠だったのだろう。こうして日本の戦後占領体制は、実はユダヤ人も誰も君臨しない
ままの、ワイマール体制を引きずっている。憲法の第28条に「勤労者の団結する権利
及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。」となっている。これ
も当時、憲法を作成したユダヤグループの最大の目的とするものの1つであった。この
ような実体法に属するものを当時憲法に組み入れるのは常識外であり、法学の素人のす
ることだが、ユダヤ人の理想や悲願を込めたものだった。ルーズベルトの若手ブレーン
の一人であったケーディスは、ルーズベルトの下で労働問題をある程度研究していた。
ジュー・ディールと皮肉られたニュー・ディール政策は一口にいえば共産主義化政策に
他ならない。その為、ルーズベルトは1933年5月12日に「農業調整法」を作った
。これはインフレ政策の本質で赤字で刷り過ぎたお札の発券責任者中央銀行へ返還のを
暴露したものであった。その他、「産業復興法」も作っている。これも同業の自由競争
を排除せんとする目的のものであり、政府が金を支出する事で発券価値のギャップを埋
め合わせた事例だ。これに乗じて産業統制に、合法的に乗り出そうとする政策を次々に
打った。さらに最低賃金を規定して、労働者の団体交渉権を強引に認めることにした。


1648: 名無しさんAA:18/09/03 19:02

これらのルーズベルト政府の共産主義化政策は1935年頃から徐々に馬脚を現わし、
景気回復を幻想と化し、独占強化、資本対立の激化、労働不安の拡大とアメリカ資本主
義を根底から崩して行った。さすがにたまりかねた連邦最高裁は蛮勇を振るい1935
年5月、ついに憲法違反の判決を下した。が、ルーズベルトも、これ以上の共産主義的
政策を断念し、国内をいじくる事を止めて、金融家の資金繰りの為に戦争発動に邁進せ
ざるを得なかったのである。何故なら共和党全国的指導者のウィリアム・マッキンリー
についていて、ハワイやフィリピン併合に大きく反対し、併合時に、大隈重信総理から
「これほど激烈で宣戦布告か最後通牒に等しいような外交文書は見たことがない」とい
う程の文書を受け取っていたからだ。米西戦争でフィリピンの独立勢力を支援していた
が、戦争に勝利するや一転して弾圧し、フィリピンおよびカリブ海のスペイン旧植民地
をアメリカの保護下に置いた。此処で米国は完全に逆転していた。このメジャー支配に
戦い保護貿易主義を取り、外国製品に対して実に57%という 史上最高の関税率をかけ
て、「ディングレー関税法」を制定しドル発行権を模索したが、暗殺されたのだった。
この暗殺の後に彼の後任が、副大統領のセオドア・ルーズベルトが引き継いだのである




1649: 名無しさんAA:18/09/03 19:23
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 54 

 ところが、ルーズベルトはこれら国家的破滅を推進したのにもかかわらず、次の選挙
では労働界の大きな助力を得ることになった。アメリカ産業別労働組合会議設立して、
都合よく金をばらまき国際金融ユダヤ連盟の隠れた支援を受けたからだ。そして戦争を
したくてうずうずしていた彼やその支援団体は、諜報員を通して、目的だった中国大陸
の国民党や共産党に近づいて、共産党の抗日救国統一戦線を提唱させた。それはベルリ
ンオリンピックに乗じた諜報活動で成功していた。1935年の事だ。綿密な調査と分
析と計画が行われ、上海から支援を受けた共産党活動や英国との連携の軍縮会議を用意
した。ドイツがオリンピックに向けた国内建設需要で経済が持ち直してイギリスが疲弊
していたからだ。しかし、やっと復興にこぎつけて軍拡に向かうドイツは怒って軍縮を
蹴った。又支援を受ける中国の蒋介石や毛沢東は北平で学生1万名を動員した抗日・華
北分離工作反対の官製デモを行っていた。この動きに喜々とした米国政府は更に日本に
もドイツにも国際制約を宣言した。こうしたことは、ルーズベルトが本質において共産
主義者であったことの証左として一般に考えられていることでもある。ケーディスは、
若手法律ブレーンとしてこれらの国内問題にかかわってきたのであった。このケーディ
スが、日本国憲法にこの時の階級闘争を持ち込んだのである。受け入れた日本は、大日
本帝国憲法においても、第25条から第29条まで、「住所の不可侵」「信書の秘密の
不可侵」「財産権の不可侵」「信教の自由」「言論著作印行集会及結社の自由」という
項があり、なにも日本国憲法に限らずこのような被圧迫民族の基本権と類似する項目が
ある。それは大日本帝国憲法を起草した伊藤博文、井上毅が当時のドイツのユダヤ法学
者の影響を受けているためであり、ルーツは同じものであった。当時ドイツの法学界は
ユダヤ人法学者が牛耳っていた。大日本帝国憲法で伊藤博文は、「現時の国法において
は、君主は国家の上に位せず、国家の中に位し、君主は国家の統御者にあらずして国家
の機関となれり。君主は国家の機関にして国家のために活動すべしとの思想は、すでに
フリードリッヒ大王の有名なる『君主は人民を支配するところの専制君主に非ず、国家
の最高機関なり』との語において発表せられたり。」とこの中の憲法もそういう意味を
示唆していた。つまり明治憲法の天皇の地位と戦後の象徴天皇も実は、憲法発布当時は
なんら変わらない意識の下の文字だったのである。

1650: 名無しさんAA:18/09/03 19:28
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 54 

 ところが、ルーズベルトはこれら国家的破滅を推進したのにもかかわらず、次の選挙
では労働界の大きな助力を得ることになった。アメリカ産業別労働組合会議設立して、
都合よく金をばらまき国際金融ユダヤ連盟の隠れた支援を受けたからだ。そして戦争を
したくてうずうずしていた彼やその支援団体は、諜報員を通して、目的だった中国大陸
の国民党や共産党に近づいて、共産党の抗日救国統一戦線を提唱させた。それはベルリ
ンオリンピックに乗じた諜報活動で成功していた。1935年の事だ。綿密な調査と分
析と計画が行われ、上海から支援を受けた共産党活動や英国との連携の軍縮会議を用意
した。ドイツがオリンピックに向けた国内建設需要で経済が持ち直してイギリスが疲弊
していたからだ。しかし、やっと復興にこぎつけて軍拡に向かうドイツは怒って軍縮を
蹴った。又支援を受ける中国の蒋介石や毛沢東は北平で学生1万名を動員した抗日・華
北分離工作反対の官製デモを行っていた。この動きに喜々とした米国政府は更に日本に
もドイツにも国際制約を宣言した。こうしたことは、ルーズベルトが本質において共産
主義者であったことの証左として一般に考えられていることでもある。ケーディスは、
若手法律ブレーンとしてこれらの国内問題にかかわってきたのであった。このケーディ
スが、日本国憲法にこの時の階級闘争を持ち込んだのである。受け入れた日本は、大日
本帝国憲法においても、第25条から第29条まで、「住所の不可侵」「信書の秘密の
不可侵」「財産権の不可侵」「信教の自由」「言論著作印行集会及結社の自由」という
項があり、なにも日本国憲法に限らずこのような被圧迫民族の基本権と類似する項目が
ある。それは大日本帝国憲法を起草した伊藤博文、井上毅が当時のドイツのユダヤ法学
者の影響を受けているためであり、ルーツは同じものであった。当時ドイツの法学界は
ユダヤ人法学者が牛耳っていた。大日本帝国憲法で伊藤博文は、「現時の国法において
は、君主は国家の上に位せず、国家の中に位し、君主は国家の統御者にあらずして国家
の機関となれり。君主は国家の機関にして国家のために活動すべしとの思想は、すでに
フリードリッヒ大王の有名なる『君主は人民を支配するところの専制君主に非ず、国家
の最高機関なり』との語において発表せられたり。」とこの中の憲法もそういう意味を
示唆していた。つまり明治憲法の天皇の地位と戦後の象徴天皇も実は、憲法発布当時は
なんら変わらない意識の下の文字だったのである。

1651: 名無しさんAA:18/09/06 04:18
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 96 

 このネップこそロシアの理想郷だった。しかし、農民赤軍は戦時共産主義の穀物徴発
には怒っていた。農民の反発を買い、各地で農民反乱が起こり、エスエル(武力闘争共
産主義者)の指導を受けた共産主義を叫んだ。また1921年3月にはクロンシュタッ
トの反乱が起こった。レーニンはそれらの動きを赤軍によって制圧する一方、1921
年3月第10回党大会で、穀物徴発制を廃止して現物税(食糧税)制に切り替えること
を提案し、承認された。その背景には、1914年から7年にわたる戦争と内戦のため
、工業生産は戦前の13%に落ち込み、穀物生産は革命前の7400万トンから300
0万トンに激減し、経済が破滅状態にあった現実があった。このレーニンの新経済政策
(NEP)は、こうした事を踏まえて、第2次ロシア革命の経過の、大きな方向転換を
意味していた。農民は現物税(22年からは一律10%)を支払った残りの穀物を自由
販売することが認められ、小企業の私的営業の自由が与えられ、労働者の雇用、商取引
が認められた。この部分的に市場経済を容認したことによって生まれた小資本家達は、
ネップマンと言われた。これらの改革によって、制限はあったとはいえ、ロシア経済は
息を吹き返し財政も安定してきた。外交の転換も図られた。ソヴィエト=ロシアのボリ
シェヴィキ政権が、一定の自由主義経済を導入する新経済政策に転換したことは、資本
主義国との関係の転換ももたらした。レーニンも資本主義国との貿易関係を再開させる
望みをもった。1921年にはまず英ソ通商協定が結ばれ、イギリスとの貿易が始まっ
た。1922年には第一次世界大戦後の世界経済の復興協議するジェノヴァ会議に代表
が送られ、そのときにドイツとの交渉が進展してラパロ条約が締結され、初めてソ連が
承認された。しかし一方でコミンテルンによる世界革命路線との矛盾が生じていた。新
経済政策が決定される一方、共産党以外の党派の排除も進み、すでに立憲民主党(カデ
ット)は1917年に非合法とされ、社会革命党(エスエル)の左派、主流派、メンシ
ェヴィキも1922年からは存在が許されなくなった。また共産党内部でもレーニンが
1922年に倒れてから、ジノヴィエフ、カーメネフ、スターリンらが主導権を握り、
反対派弾圧が厳しくなった。レーニン死後の権力闘争によって勝ち抜いたスターリンは
、1929年にはNEPを否定して、計画経済と農村集団化による社会主義社会建設に
向かい、市場経済は認められなくなった。


1652: 名無しさんAA:18/09/06 04:18
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 97 

 ソ連史におけるネップ期(1921〜28年)は、スターリン体制が全否定された、
1980年代後半のゴルバチョフ政権でペレストロイカ期に、スターリン型の命令的な
計画経済が成立する前の社会主義の多様な形態が、可能性を追求した時期として再評価
されたが、市民暴動で止まった。しかし今のプーチンは、独裁ネップの形を取ったよう
な形で進んでいる。しかしこの頃の第一次世界大戦後のネップの終了は、自らの共産党
体制の属国を広げて、その国々との貿易体制で取り組もうとしていた。ここに国際旅団
の発現があったし、ロシア系アメリカ人の共産党があった。皇太子の欧州訪問後米国内
の日本包囲網が出来上がり2月13日‐ワシントン会議で日本・米国・英国・フランス
の四か国条約が調印されて、日英同盟が廃棄された。これは大問題であったのだが、こ
の時日本に力は無かった。又革命時のレーニンのまま米国との貿易があったならそんな
に日本は気にならなかったのかも知れない。しかし共産主義は次々に広まった。ソ連政
府は極東共和国を是認してはいたがこの民主主義国を支援はしなかった。「外蒙古」の
ボグド政府はこれに反対し、日本からの援助は期待はずれとなったため、汎モンゴル国
運動は内部分裂を起こして、1920年初頭に壊滅した。こうして1918年から1919年頃
に形成されたモンゴルの二つの革命グループが立ち上がっていたが、すなわち民族主義
者ボドーらを中心とする「領事館の丘」グループは折れて、ダンザン、ドクソムらを中
心とする「東庫倫」グループが1920年春に合体しモンゴル人民党を結成した。1921年の
革命をリードするモンゴル人民革命党に変名し、一党独裁政党でコミンテルンの一員と
して共産主義とソ連型社会主義を標榜、徹底したソ連追従政策を推し進めた。ポーラン
ドではソビエト連邦の間でリガ条約が結ばれる。ポーランドは西ウクライナと西ベラル
ーシを、ソ連は残りのウクライナとベラルーシを併合した。ここでも自由主義派のウク
ライナ人民共和国政府は、フランスに亡命し亡命政権となった。ハンガリー王国でも、
オーストリア=ハンガリー帝国皇帝カール1世が逮捕され、カール1世の復帰運動が失
敗し共産党政権に変わった。日本でもナショナリストは暗躍し原敬首相が東京駅で暗殺
された。原敬暗殺事件である。

1653: 名無しさんAA:18/09/06 04:19
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 98 

当初平和条約の交渉は、ソビエトが調印に躊躇したことにより、数か月延期された。当
時の方向として、ソビエトは自国の武力革命を必要なら、西ヨーロッパに輸出しようと
していた。もし、ボリシェヴィキがポーランドを占拠した場合、彼らはドイツの中の共
産主義者の助けを借りて、ドイツでのソビエト革命の成功を確実にすると考えられてい
たからだ。しかし、クロンシュタットの水兵の反乱が衝撃を与えた。農民がソビエトの
権力に対して蜂起し、農民は、軍隊を食べさせるための穀物を所有しており、消費者の
いる地域を望んでいた。この状況から、レーニンは平和条約の締結のため、ソビエトの
全権を委任しリガ条約で領土分配を決めた。結局、両陣営とも1921年にリガ平和条約の
調印を決定した。その条約で、ポーランドとロシアの間で、ベラルーシとウクライナで
紛争中の領土を分割した。リガ平和条約は、ポーランドの東国境を安定させた。しかし
新しいポーランドの州は、ポーランド・リトアニア連合が第一次、第二次のポーランド
分割でロシアへ失われたのは、ほとんどの少数民族の土地であった。ソビエトにとって
これらの住民はポーランド人に対する報復を引き起こした。莫大な資産(土地や森林)の
没収、宗教的迫害(1923年司教殺害)、そして、1931年〜1934年にカザフスタンへの強制
移住ポーランド人の全てが動いた。リガ条約の国境におけるポーランド側に住んでいる
ポーランド人を含む人々とウクライナ人と、ベラルーシ人、リトアニア人、ユダヤ人等
の少数民族約六百万人の人々は、1938年までの17年間、共産主義者の独裁者から解放
され、資産の自由や宗教の自由が許されたが、これは、民族差別からの避難ではなかっ
た。貧困にあえぎ、特に1929年からの世界恐慌において、彼らを保護することはなかっ
た。1920年にラトビア民主主義共和国とロシア社会主義連邦ソビエト共和国の間で結ば
れたリガ条約も同じだった。この条約により、ラトビア=ロシア戦争が終結しロシアは
、契約により確定された"永久の"国境線の下、ラトビアの独立を承認した。ロシアは、
契約により確定された"永久の"国境線の下、ラトビアの独立を承認した。条約はモスク
ワにおいて準備され、1920年8月11日、リガにおいて締結された。ソビエト・ロシアは
、ラトビアを独立した共和国であると認めた。第3条では、両国の国境線と、条約締結後
14日以内に、自国領へ軍を撤退させることが取り決められた。こうしてシベリア出兵と
並んで、革命勃発後のロシア西部の諸外国によるさまざまな軍事干渉が終わったのちは
第二次世界大戦が控えて居た。

1654: 名無しさんAA:18/09/06 04:20
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 99 

  1914年6月28日、サラエボ事件で皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が
暗殺されたのを契機として、第一次世界大戦が勃発した。当時は、皇帝フランツ・ヨー
ゼフ1世の長男ルドルフ皇太子が存命であり、皇弟カール・ルートヴィヒ大公の孫とし
て誕生していたカールは、旧パルマ公国の公女でカトリック信者であるツィタと結婚し
ていた。しかし、サラエボ事件当日、食事の時間にいくら待っても主食が出てこないの
を不審に思ったカール夫妻は、やがて侍従が電報を持って入ってきたのを見た。その電
報に目を通したカールは、顔面蒼白になって「フランツ伯父が暗殺された」と一言、妻
のツィタに言ったという。当時カールはウィーンの政治中枢から一貫して外されており
、一度たりとも開戦についての意見を求められたことはなかった。一大決戦であるセル
ビア王国への最後通牒についても、カールはある銀行筋からの電話で知った程の有様だ
った。カールは新たな皇位継承者になったにも関わらずこのような扱いを受けている事
に、フランツ・ヨーゼフ1世たっての願いで、開戦後に、カール一家はシェーンブルン
宮殿で皇帝と同居するようになった。カールは老帝から大いに信頼され、次のような評
価を受けている。「朕はカールを非常に高く評価している。カールは朕に明確に意見を
表明する。しかし朕が考えを固執するときには、それに従う気持ちを失ってはいない。
」1916年12月30日、カールはハンガリー国王「カーロイ4世」として即位する事になっ
た。聖イシュトヴァーンの王冠を戴かなければ正統なハンガリーの統治者とは認められ
ない為、戦時中にも関わらず荘厳華麗な即位式がブダペストのマーチャーシュ聖堂で、
挙行された。この即位式においてカールはこう宣誓した。「ハンガリーとその周辺諸国
の国境を、我々はこれまで通り存続させ、縮小させることなく、可能な限り拡大してい
こう」と。カールは皇族時代にひそかに帝国の完全連邦化を構想していたが、この宣誓
は明らかにカールが念頭に置いていた新体制を阻害するものだった。

1655: 名無しさんAA:18/09/06 04:21

< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 100

。1917年3月23日
夜、カールはラクセンブルク城において、皇后ツィタの二人の兄パルマ公子ジクストゥ
スとグザヴィエ公子と密談した。カールが彼らと密談した理由は、あくまで勝利を追求
する同盟国ドイツ抜きに、オーストリア=ハンガリー帝国と英仏との単独講和を締結す
るためであった。ドイツ帝国はまだしも、オーストリア=ハンガリー帝国の食糧事情は
深刻で、もはや戦争を続行できるほどの国力が残っていなかったのである。しかし後盾
のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位を宣言し、直後にドイツでドイツ社会民主党政権
が誕生したことを受けて、オーストリア社会民主党はオーストリア皇帝も退位するよう
要求し始めた。キリスト教社会党は王党派であったが、彼らも最終的に皇帝退位に同意
した。「国事不関与」宣言を発した皇帝一家は、その日のうちにシェーンブルン宮殿を
退去した。
 皇帝夫妻は、召使いに至るまで、ひとりひとりと握手を交わして別れを告げた。24
人の護衛兵の乗る自動車に先導されて、一家はシェーンブルン宮殿から、エッカルトザ
ウ宮殿に移った。1919年、オーストリア共和国初代首相カール・レンナーがエッカルト
ザウ城のカールのもとを訪れた。カールは謁見を拒絶し、代理として侍従武官レデコフ
スキー伯爵に会談させた。レンナーの話の要旨は、「無分別な輩が予測できない暴挙に
出る恐れがある」として、できるだけ早期に国外に出るよう勧告するものだった。外に
は共産党員の赤兵らしきものは富に増え数多くいた。実際、一ヶ月後にはエッカルトザ
ウの周辺を三百人もの赤軍が徘徊しており、配備された武装警官十人の護衛では安全面
に相当の不安があった。カールはスイスへの亡命を真剣に考え始めた。「近々オースト
リア皇帝一家が虐殺される。」との情報を「確かな筋」から受け取ったイギリス政府は
、ロシア革命の際にロマノフ家を英国王室と縁戚関係にあるにも関わらず見殺しにした
。と非難されたため、今度のハプスブルク家の出国には積極的に協力せざるをえなかっ
た。イギリスから派遣されてきたストラット大佐は、ハプスブルク家をめぐって共和国
首相レンナーと激しく対立した。レンナーは共産党員の党首として、皇帝の退位がなけ
れば出国させずに逮捕すると激高した。対してストラット大佐は「オーストリア政府が
、皇帝の出国を妨害している。バリケードを築くとともにオーストリア向け救援物資の
一切の凍結を命令する。」という電文をあらかじめ作成しておき、レンナーにちらつか
せた。これにランナーは絶句した。イギリスからの封鎖では太刀打ちできないからだ。

1656: 名無しさんAA:18/09/06 04:23
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 101

これには無条件で「皇帝」として御召列車で出国するカールを見逃さざるをえなかった
。皇帝一家に対するスイス側の態度は友好的で、かつ敬意のこもったものだった。入国
前には反君主制組織からかなりの批判を受けたが、しばらくするとカールへの批判は鳴
りをひそめた[43]。急進的な新聞でも皇帝夫妻の平和への働きかけを評価するようにな
り、保守的な新聞にいたっては歓迎の意さえ表していた。カールはエッカルトザウ宮殿
で王権停止宣言に署名させられていたが、法的にはあくまでカールが国王であったため
、スイス当局もカールを再び王位に登板させようとした。ハンガリーでは、カールの復
位を望む者、カール以外のハプスブルクを望む者、新しい王家を望む者、君主制に反対
する者もおり、混沌とした状況だった。カールはできるだけ早くハンガリーを訪れて、
自身がハンガリー国王であることを知らしめようと決心した。1921年、カールがハンガ
リーに入国するとテレキ首相の執政ホルティによって、結局この時のカールの試みは挫
折した。しかしテレキ首相が交代して、執政ホルティはハンガリーで強権的統治を行い
。国王支持者の計画的な追放が進められた再びハンガリーの地に向かった。
 再びハンガリー入国を決断し、子女をスイスに残したまま妊娠中の皇后ツィタととも
に飛行機でハンガリーに向かった。1921年10月にカールは再びハンガリーの地に降り立
ったが、この試みもまた失敗した。イギリス下院は秘密会議でカールをハンガリーから
連れ出すことを外務大臣ジョージ・カーゾン卿に迫り、ちょうど黒海を航行中のイギリ
ス軍艦で移送することが決定された。こうしてマデイラ島への配流された。11月19日の
午後3時、カール夫妻を乗せた英国軍艦は、大西洋に浮かぶポルトガル領マデイラ島に
到着した。カール夫妻は島民に温かく迎えられ、中心都市フンシャルに「ヴィラ・ヴィ
クトリア」という比較的快適な住居を与えられた。しかし皇帝一家の財産は尽きかけて
おり、翌1922年2月中旬には劣悪な環境の山荘に、転居せねばならなかった。ツィタの
日記によれば、マデイラ島上陸の数日後に英国領事から「もしカールが正式に退位する
ならば、旧ハプスブルク諸国に没収されている皇室財産を返還するだけでなく、英国も
経済的援助を惜しまない。」といった内容の手紙が届いた。しかしカールは「私の帝冠
は換金できるものではないと、皆さんにお伝えください。」と返事を送ったという。



1657: 名無しさんAA:18/09/06 04:23

やがてバターも買えないほど皇帝一家は困窮しベビーシッターの給料も3ヶ月間未払い
だった。当時の随員のひとりは、皇帝一家の困窮した生活を次のように回想している。
「電気もなく、トイレも一ケ所で住居は非常に手狭だった。暖房用に生木が使われたた
め、煙がいつも立ち込めていたが、それでも暖房は不可欠だった。太陽もあまり当たら
ないので、フンシャルの生活が懐かしく思われた。ここでは部屋中がいつもカビだらけ
だった。皇帝は夕食にも肉料理を食べることができず、野菜とクヌーデルだけの粗末な
食事だった。また皇妃の出産には助産婦も医師もおらず、やってきたのは未経験の保母
ひとりだった。」3月9日、子供たちを連れてフンシャルに出てカールは風邪をひいて
しまったが、医療費が心配で、医者の診察を受けなかった。風邪はしだいに悪化してい
きカールは病床で「自分は、わたしの人民たちがもう一度一緒になれるように、苦しま
なければならない」とツィタに語ったといわれる。カールはツィタに「これからはスペ
イン国王アルフォンソ13世を頼みとしなさい、彼は私の家族を助けてくれると約束して
くれた。」「私がハンガリー王でないという宣言は無効だ」と遺言して永眠した。1922
年4月1日12時23分に死去した遺体はフンシャルのノッサ・セニョーラ・ド・モンテ教会
に棺と共に安置された。カール1世はその伝えられる数多くのエピソードから、徳の高
い人物であったと評価され「善良帝」の名に値する君主であったと評価してる。20世紀
の国家元首としては奇跡を起こしていた初めての福者となった。



1658: 名無しさんAA:18/09/06 04:24
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった xx

 こうして共産主義に蹂躙されて、ドイツは戦争に走り、日本は巻き込まれて大戦に陥
ってしまった。もとをただせば原敬首相が共産主義者によって暗殺されたりすることが
なければここまでひどくなることはなかった。複数の首相が任期途中で病没したり、何
しろ政権が安定しなかったことも輪をかけて、当時の世界でも日本国内でも不安と不満
が鬱積していた。そして、それは特に「幣原外交」を通じて、中国で現地邦人が余りに
も残酷な目にあわされる現状を放置し続けた日本国政府に対する軍人たちの鬱積も限界
に達していた。という実情があった。満州事変を引き起こした組織「一夕(いっせき)
会」は、二葉会と木曜会は元々別のグループで、先にできたのが二葉会。この二葉会を
模する形で出来上がったのが「二葉会」で、この二葉会が結成されるに至った経緯が、
「バーデンバーデンの密約」だった。歩兵第14連隊大隊長として欧州に出張に出てい
た「岡村寧次(おかむらやすじ)」、スイス公使館付武官「永田鉄山(ながたてつざん
)」、ロシア大使館付武官「小畑敏四郎(おばたとしろう)」の3人が、皇太子訪欧で
の護衛段取りで出会い、たまたまバーデン=バーデンで国防論に話題の花を咲かせてい
た小畑と岡村が、盛り上がって「じゃあ永田も呼ぼう」ということで永田もバーデン=
バーデンに呼び寄せ、3人で議論した様です。これに東条英機を加えた4人は、日本に
いたころから、4人がよく集まって小畑の家で勉強会を開いていた。当時は第一次世界
大戦が終わってまだ間もなく、ヨーロッパで具にその様子を見ていた3人は、特にアメ
リカの台頭やロシア革命によって生まれたソビエト連邦の脅威などから、「日本もこの
ままではいけない」という使命感に燃え上がっていたのである。この後、永田や小畑も
帰国し、1927年(昭和2年)には二葉会を結成、1929年(昭和4年)に二葉会と木曜会を
統合した一夕会を結成し、東條は板垣征四郎や石原莞爾らと共に会の中心人物となり、
同志と共に陸軍の人事刷新と満蒙問題解決に向けての計画を練ったのだ。編成課長時代
の国策研究会議(五課長会議)において満州問題解決方策大綱が完成している。その後
1933年(昭和8年)3月18日に陸軍少将に昇進、同年8月1日に兵器本廠附軍事調査委員長
、11月22日に陸軍省軍事調査部長に就く。1934年(昭和9年)に歩兵第24旅団長(久
留米)に就任している。久留米はこの頃からドイツには近かった。


1659: 名無しさんAA:18/09/06 04:25
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった xx 

久留米市内を歩けば、今でも市内の焼き鳥すら医学用語のドイツ名が付けられている。
豚の腸である「ダルム」はいわゆる、ホルモンで、ちなみにセンポコは牛の大動脈で、
ヘルツは心臓である。大正時代に大勢のドイツ人が久留米に住んでいた事はあまり知ら
れていない。明治40年に佐賀県との競争した誘致合戦が成功して、第18師団が設置
された。久留米市から13万坪・有馬家が2万坪を献納するという事が功を奏した形と
言われている。こうして官民上げての大歓迎した久留米市は以降、習志野と東京からは
騎兵第22連隊、熊本から野砲兵第24連隊、小倉から独立山砲隊第3大隊、姫路から
歩兵第56連隊が移転してきて、太刀洗飛行場と共に近在の中心都市として栄え久留米
は軍都として急速に発展して行くのだった。この時福岡は、商業都市博多、貿易都市門
司、軍事都市久留米、炭田都市大牟田と、九州縦断の国鉄が通り立地条件が良かったの
だ。この時同時に「ドイツ兵久留米俘虜収容所」が出来て居た。第1次世界大戦に於い
て日本は日英同盟によりドイツに宣戦布告し、アジアにおけるドイツの拠点だった青島
(チンタオ)要塞を攻撃することになった。当時、日本ではこの戦争を「第1次世界大
戦」とは言っておらず「日獨戦争」と言っていた。第1次世界大戦とは後世の歴史家が
付けた名で、この戦闘でドイツ兵4791名が俘虜(当時は「捕虜」ではなく「俘虜」
と言いました)になり、内4679名が全国各地に送られた。当然攻撃の主力部隊だっ
た第18師団の駐屯地である久留米には最大の俘虜が送られることになったのである。
激戦の末に11月7日に青島要塞を陥落させましたが、青島陥落の見通しが立った10
月6日には早くも久留米俘虜収容所設置が告示されています。これは全国16カ所に設
けられた収容所で最初のものだった。収容所は当初、料亭(香霞園)跡や寺院(梅林寺
・大谷派教務所)等に置かれていましたが、増大する俘虜の数に対応できなくなりまし
た。大正4(1915)年5月25日、所長は真崎甚三郎中佐に交代して拡大を図る。
真崎所長は同年6月9日、国分村の衛戊病院新病舎跡(現在の久留米大学医療センター
と市営山畑住宅一帯)に新しく俘虜収容所を設け、3カ所に分散していた俘虜を国分村
の新収容所に統合した。以後、大正9(1920)年3月12日に閉鎖されるまでの5
年半もの間、大勢のドイツ人(最大1319名)が久留米の街に住むことになりました


1660: 名無しさんAA:18/09/06 04:25
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった xx2

 久留米のこの狭い敷地に大勢の俘虜を押し込んだため俘虜の不満は大きいものだった
。他収容所と確認すると、数字が明らかに大きい人数になっていますので比較してみて
ください。その上久留米は、方々に収容所があり使えない場所が多かったのだ。

  収容所名     敷地面積(u)   収容人数 約     100u/人
  久留米      29000     1319  3000/130   =4
  坂東       57000     1028  6000/100  =2
  習志野      95000     918   1000/10 =1
  青野原      22680     478   2200/40 =2
  似島       16000     548   1600/55 =3


1661: 名無しさんAA:18/09/06 04:25
 歴代所長のエピソード
1 樫村弘道(大正3年10月6日から大正4年5月25日)
  ミシェル・ソーレ神父が週に1回儀式を執り行うことを許可しています(07/5/
  8「ミシェル・ソーレ神父の足跡」を参照)。この縁が松尾ハムに繋がります(次
  回に詳論)。
2 真崎甚三郎(大正4年5月25日から大正5年11月15日)
  真崎所長は後の2・26事件の黒幕と囁かれる権威主義的な人物でした。俘虜と衛
  兵との日常的なトラブルは頻繁に起こり俘虜の逃亡事件や所長による俘虜将校殴打
  事件すら起こりました。真崎所長は、子細な規則違反に対しても 厳罰で臨んだた
  め俘虜たちの反感も強く、そのことが更なる強権的管理を招くという悪循環を引き
  起こしていました。ただ音楽には寛大で「ドイツ人にとって音楽は日本人にとって
  の漬物のようなものだ」としてコンサートを許可しています。これが所内での充実
  した音楽活動に結実します(次回に詳論)。
3 林銑十郎(大正5年11月15日から大正7年7月24日)
  遠足・スポーツ大会・工事への使役・野菜栽培の奨励など、俘虜の健康に留意しま
  した。このことが所内におけるスポーツの興隆に繋がります(次回に詳論)。
4 高島巳作(大正7年7月24日から大正7年9月7日)
  他の収容所への移転を担当。190名の俘虜が習志野・坂東・青野原・名古屋へ移
  転しました。自身はシベリア出兵に従軍するため久留米から転出しています。
5 渡辺保治(大正7年9月7日から大正9年3月12日)
  収容所閉鎖まで担当。隣接する畑を整地しスポーツ環境が改善しました。俘虜が音
  楽の練習をしているときに良く聴きに来たそうです(大正時代のゆるさを感じます
  ね)。


1662: 名無しさんAA:18/09/06 04:26
 論創社の「ロースハムの誕生 : アウグスト・ローマイヤー物語」によれば久留米の
俘虜収容所に収容されたアウグスト・ローマイヤーは「ロースハム」の生みの親だった
。ロースハムはドイツ人であるローマイヤーが日本で生み出したもので、日本に固有の
ハムで他の国にはない。と言う。当時、畜産業の発達していなかった日本において、豚
のもも肉を使ったハムをつくるのが難しく、非常に高価なものになってしまっていた。
ローマイヤーは廃棄されていた背肉とロースに目をつけてた。これをロール状にして、
すぐ食べられるようボイルして、ロースハムをつくりだしました。ホテルや一流店には
売れたが、もともとハムやソーセージを食べなかった日本人の生活に定着するには時間
がかかった。彼の弟子たちの中には、のちの食肉加工業界の中で、重要な役割を果たす
日本人も多く見られます。弟子を学校に通わせたり関東大震災の際、「保存が利かなく
なって傷んでしまうから」、と材料をすべて調理して無料で配るなど、人柄を表すエピ
ソードやそれを形成した生い立ちも紹介されている。ドイツの食べ物といえばパンやハ
ム、ソーセージなどが思い浮かぶだろう。しかし20世紀に入るまで、ハムやソーセー
ジが日本に全くなかったわけではない。江戸時代には中国から、琉球や長崎を経由して
長崎卓袱料理や薩摩の豚肉の加工品などが伝わっている。徳川慶喜も度々薩摩に豚肉を
所望している。明治の初めころには、アメリカ人やイギリス人から製法を学んで試作し
たという記録もあるぐらいだ。また、1900(明治33)年には鎌倉ハム富岡商会が創立さ
れた。しかし、大正年間までの日本のハム・ソーセージの品質はヨーロッパのものに遠
く及ばないものだった。俘虜になった志願兵の中には製菓・製パン、精肉、ビール醸造
などの職人がいて、そのうち幾人もが俘虜時代から解放後も日本で技術指導に当たりま
した。これが日本の食生活が変わっていくきっかけになったともいえる。バウムクーヘ
ンで有名なドイツ菓子店「ユーハイム」は、収容所にいたカール・ユーハイムが、明治
屋で技術者として働いたのち開業したものであった。またアウグスト・ローマイヤーは
解放後、帝国ホテルでハム・ソーセージ職人として働き、のちに銀座での高級レストラ
ン「ローマイヤー」を開店させている。ローマイヤーもユーハイムと同様、囚われの身
から解放された後も日本にとどまる決心をします。彼はまず帝国ホテルに勤め、その後
独立して「ローマイヤー・ソーセージ製作所」を設立。西洋のものがまだまだ少なかっ
た時代に苦労して原材料を集め、日本人の口に合うハムを考案して広めていった。ユー
ハイムも同じだが、第一次大戦後に故郷から遠く離れた極東の地で捕虜となり、言葉も
通じず、文化が全く違う中で一から模索して事業を始めた彼らは大きな精神力が必要で
あった。

1663: 名無しさんAA:18/09/06 04:27
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった xx4

 彼らがようやく商売が軌道に乗りかけたころ、彼らを襲ったのが関東大震災であった
。ローマイヤも殆どを瓦礫に埋もれ、多くを無くしてしまいます。その後、不屈の精神
で再び立ち上がったものの、ドイツではナチが台頭して。祖国は戦争に向かって再び進
んでいく中にあった。遠く離れた異国にいても、やはりローマイヤーはドイツ人。ナチ
からの入党を迫られた。この時ゲッペルスが来日している。「ゾルゲ事件」で知られる
スパイのゾルゲと親しかったことも関係した。不本意ながらナチ党員のバッジをつける
こととなり、それが大きな心労となった模様です。戦争が激しくなるとローマイヤーは
箱根に避難しましたが、長年の苦労がたたり、体は弱っていました。戦後、再び東京で
仕事を再開しますが、1962年に帰らぬ人となりました…。「現在、日本でロースハムは
ハムの代名詞のようにさえなったが、実はこれ日本にしかないものなのである。いま、
私は千種類以上のハム・ソーセージのある国に住んでいるが、ここにも「ロースハム」
というハムはないから、訳語に苦労する。これは、1921年にドイツ人アウグスト・ロー
マイヤーが当時日本で手に入る材料を工夫して作った祖国にもない「ハム」だったので
ある。」「肩の肉やバラ肉を使った後の残りの背肉と、ロースに目をつけた。これで、
日本人の口に合う洋風ハムができないものだろうか。そういう肉をロールにして、だが
、燻製にしたら、日本人には食べ方がわからないだろうから、ボイルにするのがいいだ
ろうと考えた。こうして作り出したのがボイルドハム、つまりロースハムだったのだ」
残り物のロースしてボイル燻製にしたローマイヤ―ハム、これがロースハムだった。

1664: 名無しさんAA:18/09/06 04:27
1936年(昭和11年)11月25日の日独防共協定の締結によりヒトラーユーゲント指導者
バルドゥール・フォン・シーラッハが日独の青少年相互訪問を提案。日本政府がこれを
受け入れた結果、1938年(昭和13年)8月から11月にかけてヒトラーユーゲントの訪日
が行われた。 朝日新聞社の依頼により、北原白秋作詞、高階哲夫作曲、藤原義江歌唱
による歓迎歌『萬歳ヒットラー・ユウゲント:獨逸青少年團歡迎の歌』が作られ、1938
年(昭和13年)10月には日本ビクターからレコードが販売されるなど日本国民を挙げて
の大歓迎を受け、親独気運の醸成に大きく寄与した。 同時期に日本からは各地の学生
、青少年団体職員、若手公務員から成る「大日本連合青年団」(現在の日本青年団協議
会)の訪独団がドイツに派遣され、ナチス党大会の参観、ヒトラーと会見して同盟国の
ドイツの見聞を広めた。と言う。ローマイヤーは21歳で中国に渡り、70歳でこの世を去
るまで50年近くをずっと異国で暮らしていたわけですが、途中、一時帰国はしたそう
です。久留米の松尾ハムには、大正期初頭、ドイツ兵捕虜にハム・ベーコンを提供した
という逸話が残る「松尾ハム製造所」久留米で最初にハムを作った、地元民ご用達の
人気店。と書かれてました




1665: 名無しさんAA:18/09/06 04:29

< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった xx5

 次の年、1937年3月26日、原節子の叔父、熊谷久虎、川喜多夫妻とともに、ベルリン
に到着、舞台挨拶をドイツ語でするなど注目を集めました。ドイツ公開名は「サムライ
の娘」です。ゲッペルスが絶賛したとも、落胆したとも伝えられています。このドイツ
での舞台挨拶の時、医師ベルツの孫、ディーツが原節子に花束を渡しています。ベルツ
と荒井花子の子であるトク・ベルツは、1940年に日独映画親善大使(自称)として来日
、1945年5月3日に東京で死去します。彼の名は、「ベルツの日記」に残っています。な
お、トクの三人息子、クノ、ゲッツ、ディーツは三人とも第二次大戦で戦死しています

1666: 名無しさんAA:18/09/06 04:29
。原節子一行は、ベルリン・ライプチッヒ・ハンブルク・ミュンヘン・ケルン・デュッ
セルドルフと移動5月20日に、パリに到着。6月16日、ニューヨーク到着。パリでは、
デュビビエやルノワール、ハリウッドではコロンビアのプロデューサーから、原節子は
出演の勧誘をされています。1918(大正7)年3月になって、板東俘虜収容所(現徳島
県鳴門市)のドイツ人俘虜による美術工芸展覧会が開かれました。展示場入口の騎馬像
には「Hie gut Deutschland alleweg! (どこにいようと、そこがドイツだ)」と書か
れていました。もともとはバルト三国付近の開拓を担ったドイツ騎士団のモットーだと
言われています。模範的といわれたこの収容所では、管理者側の配慮もあり、スポーツ
や音楽など文化活動を通して俘虜と地域の人たちとの交流が見られました。また酪農や
食品加工などの技術を日本に伝えました。 板東の地に俘虜としてドイツ人がやってき
てから、戦争が終わり解放された後に、途絶えた交流が復活し現在に至るまで友好を深
めている。久留米俘虜収容所に収容されたアウグスト・ローマイヤーは「ロースハム」
の生みの親で、ロースハムはドイツ人であるローマイヤーが日本で生み出したものなの
で、日本に固有のハムだったが、もう一つ久留米で生まれた物がある。久留米の収容所
にも、約1300人の捕虜が送られており、久留米でも捕虜達による第九の演奏がおこ
なわれた。坂東収容所の第九の演奏から遅れること1ヶ月であった。この頃石橋正二郎
は1889年久留米の仕立物屋「志まや」に生まれ、父が病で兄は陸軍に入営したため
経営を任されることになっていた。石橋は徒弟制度をやめ、給料を払い労働時間を短縮
する、仕事を一番有利な足袋にしぼった。九州には車が一台もなかった時代に車を宣伝
に使う、それまで足袋は種類や文によって値段が違ったのを「均一料金」に統一する。
「志まやたび」の名では古臭いので好きな言葉「昇天旭日」から「アサヒ」を思いつく
。「20銭均一アサヒ足袋」を思いつくや注文が殺到した。ドイツ人捕虜の技術者は、
日本足袋(現日本ゴム)やつちや足袋(現月星化成)といった会社の発展にも貢献した
。彼らが先端的なゴムの配合、接着技術、文房具の消しゴムの作り方などを教えたので
ある。実は久留米の捕虜収容所にいては、亡くなったドイツ兵の墓は久留米競輪場に隣
接した一角にもうけられている。久留米の捕虜となったドイツ兵は、狭い収容所よりは
自ら他の場所での就労を申し出て、足袋の発案やゴム製品の改良に貢献したのである。


1667: 名無しさんAA:18/09/06 04:29
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった xx6

当時、戦争捕虜は公的には俘虜(ふりょ)と呼ばれた。捕虜収容所を管轄する機関の名
称も俘虜情報局だった。今日、俘虜の語はなじみがないので、本稿では引用部分以外に
は捕虜の語を使用する。またドイツ兵捕虜といっても厳密には、ドイツ人以外にオース
トリア人、ハンガリー人、チェコ人、ポーランド人らの人々が混じっていた。しかし、
圧倒的多数の捕虜はドイツ人であったので、捕虜全体に言及する場合はドイツ兵捕虜の
語を用いる。このドイツ兵捕虜に対して日本は、国際法遵守の精神で対応した。1907年
10月18日にオランダのハーグで調印し、1912年に公布した「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規
則」、いわゆる「ハーグ条約」に拠ったからである。以下、この規則に言及する時は、
ハーグ条約とする。ハーグ条約の第2章俘虜の項の第4条には、「俘虜ハ人道ヲ以テ取
扱ハルヘシ」との条項がある。日独戦争の10年前に起こった日露戦争に勝利した日本
は、欧米諸国から文明国として認められるように努めた。そのためには、収容所内での
捕虜の虐待や強制労働は決して行われてはならなかったのである。しかし1915年11月15
日、久留米収容所で真崎甚三郎所長による捕虜将校殴打事件が起こった。これは、大正
天皇即位の大典に際して、捕虜にビール1本とリンゴ2個が特別に与えられたが、日独
両国が交戦中であることを理由に二人の将校が拒否すると、怒った真崎所長が頬を殴打
したのである。捕虜の虐待を禁じたハーグ条約を根拠に、捕虜たちは所長の行為に激し
く抗議し、当時はまだ中立国だった米国の大使館員派遣を要求する大問題に発展した。
真崎所長はほどなく収容所長を罷免された。これはまれな出来事と見てよいであろう。
各地の収容所でも、下級所員と捕虜との間で些細(ささい)ないざこざは起こったが、
虐待といえる暴行はほとんど起こらなかった。1916年始めに撮影された、香川県の丸亀
収容所での収容所所員と捕虜将校との記念写真である。収容所長の石井彌四郎大佐退任
記念写真と思われるが。ここでは前列中央の石井所長は病気がちであったこともあって
、どことなく縮こまっているのに対して、両脇にいるドイツ人将校の方は脚を組んで、
堂々としている。とても捕虜のようには感じられない。収容所での捕虜取り扱いの一面
を示しているといえよう。又、古屋収容所での捕虜達のスナップ写真では、撮影年月日
は不明であるが、服装から冬の季節に収容所の一室の陽だまりで、思い思いのポーズを
とっている姿は、厳格な規律におびえる捕虜の姿といったものはほとんど感じられない

1668: 名無しさんAA:18/09/06 04:30
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった xx7

 1915年 1月27日に福岡県・久留米収容所で撮られたものは、この日は捕虜たちによっ
て、ドイツ皇帝ヴィルヘルムU世誕生祝賀会が開催された。収容所所員、山本茂中尉が
捕虜たちと和やかに談笑する様子が写っている。山本中尉はドイツの陸軍士官学校への
留学経験のあるドイツ語が堪能な軍人だった。収容所では、更にドイツ語力を磨くため
に、捕虜の一人と日本語およびドイツ語の交換授業を行ったことが、元捕虜の日記に記
されている。なお、日独の将兵を撮影した写真は数多く存在するが、笑顔で写っている
写真は極めて珍しい。故国への便りは無料であったし、捕獲国から月給も支給されてい
て捕虜達は、極めて幸せではあった。ハーグ条約の規則の中から、今日では意外に思わ
れる3点を挙げてみる。第10条「俘虜ハ其ノ本国ノ法律カ之ヲ許ストキハ宣誓解放セラ
ルコトアルヘシ。」宣誓解放は今日では奇妙に感じられる不思議な規則である。が、第
一次大戦時には国際条約に盛り込まれているのである。日独戦争時は、ドイツ領だった
南洋群島パラオにおける「宣誓書」の用例を示してみる。「下記署名ノ拙者ハ當戰争中
ヲ通シテ今後如何ナル塲合ニモ 再ヒ獨逸ノ軍隊ニ加ハルコトノナキコトヲ誠實ニ茲ニ
宣誓ス 大正三年〇月〇日 於パラオ」と言った内容だ。つまり再び自国の軍に揮かな
い事を約束したものだった。国内の収容所でも収容初期に福岡で数名の捕虜が宣誓解放
された。1918年11月11日に休戦条約が締結されると、フランス系(アルザス及びロレー
ヌ地方出身者)、イタリア系、ポーランド系、チェコスロヴァキア系などの捕虜が続々
と宣誓解放され、最終的には百名近い捕虜が宣誓解放された。第16条「俘虜ニ宛テ又ハ
其ノ発シタル信書郵便為替有価物件及小包郵便物ハ差出国名宛国及通過国ニ於テ一切ノ
料金ヲ免除セラルヘシ」と信書の文通を許している。階級によって発信できる信書の数
に違いがあったが、平均して1カ月当たり将校5通、下士3通、兵卒2通の封書・葉書
を無料で出すことができた。故国への便りだけではなく、収容所間でも通信が行われた
。5年余に及ぶ収容期間での俘虜郵便の総数は、故国から捕虜に宛てられたものを含む
と、百万通以上に及ぶと考えられる。日独戦争によるドイツ兵捕虜や捕虜収容所の研究
は、実は俘虜郵便を収集する郵趣家による研究が発端だった。



1669: 名無しさんAA:18/09/06 04:30
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった xx8

 第17条には「俘虜将校ハ其ノ抑留セラルル国ノ同一階級ノ将校カ受クルト同額ノ俸給
ヲ受クヘシ」と、捕虜の待遇に関しては西郷寅太郎東京収容所長の談話が残っている。
「俘虜の月給は陸軍中佐の183円を筆頭として、中尉47円、少尉40円、準士官40円、下
士以下は日給30銭の規定なるが、右はいずれも我国軍人の各官等に準拠せるものにて、
(中略)之はあくまで武人の面目を保たしむるを目途とせる俘虜取扱規定に拠れるもの
なり。尚右月給中将校以上の者は該月給の範囲内にて衣食住其の他一切の費用を自弁す
るの義務を有し下士以下は 各給料の範囲内を以って当方にて一切の賄いをなし与え、
衣食以外の間食又は嗜好品たるみかん、ビスケット、コーヒー、煙草等は、希望により
適宜現品にて支給する規定なり」。と書いている。上記西郷所長の談話に大尉の俸給が
欠けているのは、東京収容所には大尉の階級者がいなかったことと、大尉の地位は敵対
国との交渉で捕虜としなかった事による。後の正式な俸給を円単位に略して記すとして
いる 海軍の場合は大佐262円、中佐200円、少佐137円、大尉82円、中尉55円、少尉46円
、陸軍の場合は大佐240円、中佐183円、少佐129円、大尉75円、中尉46円、少尉42円 で
あった。物価換算等から当てはめると、当時の200円は今日の約160万円(約8000倍)に
相当すると思われる。当時の大銀行の銀行員の初任給は月給40円ほどであった。佐官ク
ラスの軍人は、かなりの高給取りだったことが知れる。又、労役には賃金を支給、技術
指導で重宝した。なお、第6条には捕虜に対する労役の条項がある。労役の言葉はどこ
となく強制労働を想起させるかもしれないが、決してそうではない。「俘虜ハ公務所、
私人又ハ自己ノ為ニ労務スルコトヲ許可セラルルコトアルヘシ(中略)俘虜ノ労銀ハ其
ノ境遇ノ艱難ヲ軽減スルノ用ニ供シ…」。1916年10月の「俘虜収容所長会同ノ際軍務局
長口演事項」という書類の「俘虜労役ニ就イテ」には、次の記述がある。「俘虜ヲシテ
労役ニ従事セシメル必要ハ、(中略)我國産業ノ発達利益ニ資スヘキ職業伎倆ヲ有スル
俘虜ヲ収容所外ニ於テスル利用法ハ、昨年各省次官会議ニ提出セラレ各省ニ於テ 使役
場所、使役方法、賃金、取締方法等ヲ定メ…」と規定している。つまり労役に従事する
捕虜には賃金が支払われたのである。下級の兵卒にとっては格好の小遣い稼ぎで、しか
も収容所外に出られる楽しみでもあったのだ。労役の中には稀に土木工事のような作業
もあったが、多くは技術指導であった。搾乳、ケチャップ製造、製パン、ソーセージ製
造などの食に関するものから、機械工場でのボイラー設置やゴム製造会社での指導と、
多岐にわたった。やがて解放後にはそのまま就労先に雇われる人もいたが、そうした人
たちは月給300円以上の破格の待遇で雇用された。

1670: 名無しさんAA:18/09/06 04:31
収容所内での多彩な文化活動、『第九』本邦初演も行なわれた。各地収容所では捕虜に
よるさまざまな活動が行われた。収容所当局から捕虜に強制されたことは、朝と晩に各
1回行われる点呼のみである。それ以外は捕虜に自由活動が許された。ある捕虜は日記
の中で、「収容所での最大の敵は退屈であった」と記している。欧州では戦争はいつ果
てるともなく続いていたので、日本の収容所に入れられようとも軍隊組織は変わらずに
存続していた。若い兵士が無為に一日を過ごすことは、精神的にも肉体的にも好ましく
ないと考えられたのであろう。収容所内では捕虜たちによる学習会、講演会、スポーツ
大会、演劇、コンサートなどが盛んに行われた。現在の徳島県・鳴門市郊外に設置され
た板東収容所は、ベートーベンの『交響曲第9番』(第九)本邦初演地として有名であ
るが、他の収容所と比べて捕虜に対する自由度が格段に大きく、遠足や海水浴も行われ
た。旧会津藩士の子孫だった松江豊寿収容所長の、敗者をいたわる精神の現われともい
われている。規律違反や捕虜同士のいざこざに起因する懲罰は各収容所で日常的に行わ
れたが、板東収容所は他の収容所に比べて驚くほど少なかった。そこにも 松江所長の
人道的な配慮が窺(うかが)われる。富田製薬株式会社所蔵の写真は、板東収容所近く
に捕虜たちと地元の大工30人の共同作業で建てられた富田酪農場(今日は「ドイツ牧舎
」と言われる)前で、解放間近の1919年12月頃に撮影された記念写真である。幼女を抱
くドイツ兵や、たばこを手にしてそれを見やるドイツ兵の姿には、捕虜の身を思わせる
ところは微塵(みじん)も感じられない。国際法を遵守した捕虜取り扱いが行われてい
た証しである、とみることができよう。又、久留米俘虜の人々は、久留米から博多また
湾に面した福岡市の柳橋や須崎の収容所などにも送られ、自ら労働を希望したために、
今津の元寇防塁の修復にもあたっている。この移送の際にドイツ兵たちはローレライを
歌いながら現場にむかったという。そのため今津の元寇防塁は、市内各地の元寇防塁の
中で最も良く保存されているのである。「支配と服従」「暴力と憎悪」を想起させるよ
うな捕虜収容所の中で「歓喜の歌」が歌われ、なおも異国人同士が隣人となり、文化や
技術をかよわせたことを示すこうした出来事は、テロや大量殺戮といった不安が蔓延す
る殺伐たる今の世界の中で、人間存在への希望をともす燈明のように思える。しかし、
海外からの防御にあった防塁の修復が、海外の異邦人に修理してもらった日本陸軍と言
うのは、ちょっと意外である。石橋正二郎は、その後将来発展するのは、自動車タイヤ
であることを見越し、九州大学のゴム研究の先覚者である教授の元を訪れて、タイヤの
国産化をめざす決意をする。そして1931年にブリジストンタイヤを創立している。

1671: 名無しさんAA:18/09/06 19:55
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 102

 ヘンリー・ルースは中国で生まれ育った改宗ユダヤ人で、ラジオ・映画ニュースにも
大きな影響力を持っていた。彼は、1930年代から、親中反日の一大キャンペーンを
張り、アメリカのアジア外交、特に対中国外交に大きな影響を及ぼした。これに対して
当時のドイツの有力誌『ヴェルト・ディーンスト』は1938年7月1日号でこう述べ
ている。「アメリカが、現在のような政策を追求する以上、戦争到来はほとんど不可避
である。第二次世界大戦を導き出すことに専念しているユダヤ秘密力は、アメリカが 
このような介入政策をとり出したことによって 一つの素晴らしい背面援護を得たので
ある。彼らはこれに勢いを得て 今後は従来の努力を倍増するだろう。アメリカは、果
たして この世界の文明の破壊の大雪崩に対して、最後の一突きを与えようした国々と
しての永久的汚名に甘んじるつもりであろうか。」この『ヴェルト・ディーンスト』誌
の警告はその後判を捺したように事態の推移により実証されることとなるのである。次
に、当時の各国の主要ジャーナリズムの反応を見てみよう。ルーズベルトの、あくなき
対独戦介入への煽動に対して、アメリカ国民も黙ってはいなかった。ニューヨーク州選
出の下院議員ハミルトン・フィッシュは、ルーズベルト政府に対して「大統領なり閣員
が今後少しでも外国攻撃の挑発的、ヒステリックな言辞を発したり、世界を焼きつくす
ような業火を燃え上がらせるような態度に出ることは許されない。」と警告を発してい
る。アメリカ国民の良識の反撃である。ハミルトン・フィッシュは、ハーバード大学を
卒業し、第一次世界大戦に従軍の後、1919年、米国下院議員に選出され1945年
まで12回にわたり選出されている(共和党員)。アメリカの孤立主義の指導的代表者
であり、ルーズベルト大統領の外交政策を鋭く批判した。1991年没した。また、「
アメリカ愛国主義者同盟」の別団体である「アメリカ・クリスチャン・ミリタンツ同盟
」もたまりかねて、ルーズベルトに対して次の如き電文を送っている。「われらクリス
チャン・ミリタンツの愛国者は、貴下が先日シカゴで話した言葉に関し、貴下がある種
の黒幕勢力に使嗾(しそう)されて、アメリカを外国との戦争へ追い込むことを辞さな
いだろうことを心から恐れるものである。『アメリカ愛国主義者同盟』は、貴下が後日
事態の認識において欠くところがあった という遁辞を設けないために、法律上許され
ている派遣委員を貴下の下に送り、彼らをして貴下に否定すべからざる証拠資料を示し
、世界における戦争が、単に大財閥の間で戦われる帝国主義戦争に他ならない。という
ふうに説明しようとしている。この大財閥とはシオニスト運動を代表するロスチャイル
ド家と国際主義の統率者であるウォーバーグ家とである。

1672: 名無しさんAA:18/09/06 19:55
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 103

 アメリカはこの真相を看破している。したがって貴下がこのユダヤ覇権争いのために
アメリカの罪のない壮丁を犠牲にし、アメリカの平和な生活を破壊に陥しめようと欲し
てもアメリカ自体は断然これを拒否するであろう。故に我々は『米国大戦従軍軍人団』
及びその他の憂国諸団体と協同して、我々市民を戦争に巻き込ませるような外国との、
どんな同盟に対しても抗議するものである。この国の、多年にわたる危機的産業破壊も
上述の同じ外部的権勢群によって招致されたものであるが、この現状からしても、先ず
第一に必要なのはあらゆる強健な男子が家庭にとどまって、自国を 共産主義から守る
ことである。」ここに述べられていることは、ルーズベルト政府の本質をあますところ
なく暴露している。ドイツのユダヤ人救済のため、アメリカを何が何でも対独戦に引き
ずり込まねばならぬとする ルーズベルトに勇敢に身を挺して抗議しており、また最後
の部分でルーズベルト政府が共産主義者の集まりであることにも抗議している。ニュー
ディーラーは事実上、初期のGHQを思うがままに牛耳っていた。マッカーサーもニュ
ーディーラーの指令に忠実に動いていたことは事実である。しかし、このニューディー
ラーの政策は、一言でいえば典型的な教条主義であった。マルクス主義の国家論に あ
まりにも忠実でありすぎたのであった。アメリカでもルーズベルト政府時代に階級闘争
の激化を計った事実もある通り、すべてをマルクス主義にのっとって施策していったの
であった。日本で先ず直ぐにやったことは、天皇制とそれに関係ある問題の変更であっ
た。東洋の一角に燦然と輝く日本の国体というものは、それら頭の悪いニューディーラ
ーにとっては打倒目標の最たるものと映ったのである。第一次大戦の結果、欧州の3つ
の王冠、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、ロシアは見事蹴落とすことに成功した。
残るは日本の国体だけである。と、少なくとも彼らは考えたのであった。そのために、
彼らは先ず天皇制に附随する問題の改革に力を注いだ。外濠から埋めていこうというわ
けだ。先ず、日本の国体と密接に関係のある教育における去勢作業から始めたのであっ
た。修身、地理、歴史の授業の廃止である。地理歴史という場合に問題にされたのは、
事実上、日本の皇国史観のみであった。又、修身とは他国には絶対見られない学科であ
った。これは君民共治という 人類の理想を具現化したものへ導くための基礎的な教育
である。ニューディーラーはいまだ、天皇制が君民共治の理想のただ一つの具現化され
たものである。ということを知らなかった。真に恥ずかしい話である。そのためにこの
修身科を先ず崩すことから始めたわけである。

1673: 名無しさんAA:18/09/06 19:56
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 104

 ついで地理、歴史である。地理の方は歴史と「地歴」というふうに一対に考えられて
いたので巻き添えをくったものだ。問題は歴史の方である。皇国史観は君民共治を軸と
して構築されたものである。ところが無知なニューディーラーは、マルクス主義の国家
論を教条主義的に考える以外思考力がなかった。国家破壊の最大障害として天皇制崩壊
を夢見ることしか頭にはなかったのだ。したがって天皇制を基調とする皇国史観を敵視
したのであった。戦後の教育改革において 一般論的な要素として最も重要なことは、
〇×式思考法を植え込んだことにあろう。この〇×式は別章で説明した通り、ルーズベ
ルトが戦時動員のために、採用手続の簡略化という名目で一般化させたものであった。
もともと、ユダヤ的思考法の二元論に他ならない。日本の教育界でも、これを戦後もっ
て来られた時驚いたものであった。何たる単純思考か。しかし精神的空白状態にあった
当時の日本では、知らず知らずの内に消化されていったのであった。決して「歓喜」さ
れて行わされたものではない。しかしこの方式は、何よりも 創造力を去勢するという
欠点をもっていると言わなければならない。問題の選択ができない。与えられたものの
中からしか答を選べない。問題に提起されたものより遥かにいい考えがあっても、それ
を答として選ぶことはできない。これでは創造力は奪われるであろう。さらに、依頼心
の強い人間をつくることにもなる。つまり、あまり努力をしないでも何分の一かは正解
の確率が潜んでいるわけであるから、思考力も弱り、逆にギャンブル性が強くなろう。
次に、ニューディーラーは階級闘争の激化につながる労働運動を盛り上げた。ここで、
是非とも強調しておかなくてはならないのは、憲法に実体法に属する団体交渉権を挿入
していることである。国家的意志統一の コーディネーターであるはずの一国の憲法に
労働運動の強化を促すような条項を入れるとは、非常識極まるものだ。この階級闘争の
激化は戦後の日本の経済発展に大きな犠牲となっている。しかし、これらはほんの氷山
の一角にすぎず、最も大きな支柱は、東京裁判と日本国憲法にある。1944年8月の
時点で、アメリカは戦後対独政策なるものの検討に入ったが、この時ルーズベルトは、
前述のように「我々はドイツに対して厳しく当たらなければならない」と述べている。
ルーズベルトの頭の中には、ドイツ人抹殺計画があった。ここには階級闘争史観もくそ
もない。恐ろしいジェノサイド(民族皆殺し)があるだけであったのだ。しかしドイツ
はいち早く麻薬おぼれの総統の自殺で難を逃れ、抵抗を止めて敗戦に及んだ。

1674: 名無しさんAA:18/09/06 20:00
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 105

 残った太平洋の対日戦略は、ルーズベルトの死後の意志である。彼の態度は詳しくは
分らないが、原爆使用も彼が決定したものであり、戦争中日本民族を抹殺せよと言って
いた点からしてほぼ同じものと推察できる。ただ幸いなことに、日本、ドイツとも、ル
ーズベルトの死後に降伏した。後任者はさすがにこのような考えはもっていなかったが
彼が信任した副大統領だったトルーマンもやはり同じ考えだったようだ。この点では、
アメリカ内部でもユダヤ人であるルーズベルトとその腰巾着モーゲンソーの考えに対し
てスチムソンは強力に反対した。ルーズベルトは戦後対独政策の検討のため閣僚委員会
を作ったが、そのメンバーはモーゲンソー、スチムソン、ハル、ホプキンスであった。
この中で非ユダヤ人のスチムソンは、モーゲンソーがドイツ国民全体に対しての、強い
憎しみの感情をもっている事を知っていた。そのようなことからアメリカが大量報復の
挙に出るのは断じて肯じないとした。ヘンリー・スチムソン陸軍長官は「マンハッタン
計画」の最高責任者でもあった。このモーゲンソー案に対しては、同じユダヤ系ジャー
ナリズムも、さすがに黙ってはいなかった。戦前、盛んに対独戦参加を鼓吹していた、
ルーズベルトを助けた『ニューヨーク・タイムズ』なども、このモーゲンソー案が将来
ユダヤ勢力にとって決して有利なものでないことをクールに悟っていたのである。なん
とかモーゲンソーの頭を冷やす必要を感じたのだ。そのほか、『ワシントン・ポスト』
『ロンドン・スペクテイター』 『マンチェスター・ガーディアン』なども同様であっ
た。さすがにルーズベルトもこれには参って、スチムソンに対し、ドイツを純粋の農業
国に回帰させるつもりはない。といわざるを得なくなった。スチムソンの努力によって
、アメリカの汚名を防いだのであった。もともとルーズベルトやモーゲンソーのユダヤ
勢力にとってはアメリカの名誉、国益などは眼中になかった。もしそのようなことを考
えているなら、世界戦争へ突入するわけがなかった。日本への原爆投下は、1944年
9月18日、フランクリン・ルーズベルト米大統領とウィンストン・チャーチル英首相
が、米ニューヨーク州ハイドパークで会談した。原爆使用と将来の核管理についての申
し合わせであった。1972年に初めて公開された秘密協定で、恐るべきことは、まだ
ドイツが敗北していなかった時期に、「ドイツや日本への原爆使用」も決定されていた
。この秘密協定が結ばれた時期は、ノルマンディー上陸作戦からパリ解放の歓喜に沸く
時期で、ドイツの敗北は軍事的に決定的だったという説明がある。しかし、ドイツでは
その後もロンドンにV1ロケットを発射し、実際にドイツが降伏したのは、この7ヶ月
以上も後の事だった。

1675: 名無しさんAA:18/09/06 20:04
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 106

 またこの時、日本の敗北が軍事的に決定的だったことも、同様である。ルーズベルト
の私邸でチャーチルとの間で決定されていた。原爆使用の了承はその後のトルーマンの
最終決定を、より簡単にした。戦後しばしば日本への原爆投下については、これはソ連
の進出に対する牽制であるといった理由付けが行われている。しかし、これは全くの嘘
で、ただの核の敵国投下人体実験だったのである。それはその後に盛んにデーター取り
をした事でも証明される。アメリカから来た医者と言われた者らは、治療する医者では
なく軍部に属した実験医者達ばかりで、日本の看護婦はやけどで患部のガーゼを取れな
いと申し出に関わらず、泣き叫ぶ子供に治療と称してガーゼを剥し克明に写真を撮った
。そういう事にいぶかしく思った介護者達や日本の医者の一部から批判が出たが、時の
医療品や薬品がGHQの進駐軍の配給品だったので、立ち消えしそれは強行に行われた
。「週刊新潮』/連載「変見自在」 帝京大学教授 高山正之」では次の様に書かれる。
 アメリカのロサンゼルス空港で乗ったタクシーの運転手が、こっちが日本人と知って
「申し訳ないことをした」といきなり謝ってきた。彼は、ソ連崩壊のあとウクライナか
らやってきたユダヤ人で、彼らのコミュニティーには日本にまつわる言い伝えがあった
。「イスラエル12支族」のうち10支族が消えたと『旧約聖書』にあるが、その1つ
が日本人だったというのだ。なのに「ユダヤ人のオッペンハイマーは、その日本に落と
す原爆を作った」というのが謝罪の理由だった。そんなことがきっかけで、ウエストハ
リウッドにある彼と知り合い、彼の家にも遊びに行くようになる仲良しになった。この
運転手に聞きたかったのは、旧ソ連でのユダヤ人の生活だ。森繁の『屋根の上のヴァイ
オリン弾き』にあるように、ロシアはユダヤ人集落を襲い掠奪を欲しいままにする「ポ
グロム(ユダヤ人迫害)」の本場だ。彼も子供時代、キエフでそれを体験し、身内を殺
されていたが、「ロシア人よりグルジア人のスターリンの方がもっと陰険でひどかった
」と言う。「身分証明書は氏名、生年月日などが4行で書かれるが、我々のには5行目
があった。ユダヤ系と書かれていた」そしてある日、自宅から追い出され、他の「5行
目」の人々と一緒にカザフの街に送られた。カザフからは、逆にその地のタタール人が
ロシアの各地に送り出された。「タタール人を分散させて彼らの結束力を奪う。それで
も武装蜂起すれば、最初にやられるのが我々5行目たち。ソ連のためのロシア人の人間
の盾というわけだ。」と彼は言葉を吐き捨てた。

1676: 名無しさんAA:18/09/06 20:08
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 107

 この話は、スターリンの残忍さ、人でなしぶりが実によく分かる話だった。こんなに
も性質(たち)の悪い為政者は、スターリンが最後かと思ったら、そうでもなかった。
自衛隊がイラク南部のサマワに展開している。ここはシーア派のアラブ人の居住区だ。
欲深で、自衛隊が水道の敷設やらを、タダでやってやろうというのに、駐屯地の地代に
何百万ドルもよこせと言い張る。そんなアラブ人に混じって、ここに異民族のクルド人
が「何万人も住んでいる」という報道があった。クルドはイラク北部の山岳部に住む民
族である。宗派はスンニ派。サダム・フセインとは昔から仲が悪く、湾岸戦争の折には
サダムがクルドの街に毒ガスを降らせた事で有名になった。そのクルドが故郷を遠く離
れた場所、それがシーア派アラブ人地区である。そこにいる意味は一つ。クルド勢力の
分散とシーア派蜂起に備えた「人間の盾」だった。先日、瀋陽(シェンヤン)を訪ねた
。かつて昔、中国人を屈服させ辮髪(べんぱつ)を強いた満州民族の清が、最初に都に
し足掛かりとした街だ。そこで中国人の通訳が「今や満州族は、ほんの数万に減った。
北京の故宮に書かれている満州文字を読める者は、今や十人といない。」と笑った。こ
の満州族の激減の理由を聞くと「いや新疆ウイグルには何十万かいる」と答える。ウイ
グルは中国の西の端で、満州からは3000キロも離れている土地だ。しかもそこには
イスラムを信仰するソグド系の民の国になる。彼らは中国の支配を好まず、独立を叫ん
で北京政府と何度も衝突してきた。そこに3000キロ彼方から満州族が来た。好きで
移住したわけではない。ウイグルが決起したとき最初に血祭りに上げられる役割を北京
政府が担わせたのである。7月5日付の朝日新聞に「チベット族、警察を襲撃」という
ベタ記事があった。「中国東北部の吉林省長春でチベット族数十人が警察を襲い、警察
側は300人の警官が応戦、1人を逮捕した。長春の市街地で警官がチベット族の所持
品検査を行い、ナイフを没収しようとして争いとなった」というのが、事件のあらまし
だった。吉林省は瀋陽のある遼寧省の隣、脱北者が逃げ込む朝鮮族の国だ。そこから、
チベットまでは遥かに新疆ウイグルより遠い。ここにチベット族がいる理由もまたウイ
グルにいる満州族と同じだろう。スターリンから、サダム・フセインに引き継がれたと
言う「民族の分散淘汰」という非道な手法は、中国の胡錦濤(こきんとう)が引き継い
でいた。彼らは、そう時間をかけずにチベット人も満州人もその文化ごと今世紀かけず
滅ぼしてしまうだろう。こんな国が国連の「安保理常任理事国」であることに世界は呆
(あき)れている。早々にそのポストを去るがいい。後を心配する事はない。常任理事
国にもっと相応しい「日本」という国があるのだから。とも思う。

1677: 名無しさんAA:18/09/06 20:10
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 108

 かつて、ヴァージニア・カウルズは『大マールボロ公爵伝』に次のように書いている
。「英国は戦争により世界の支配勢力に生まれ変わった。イングランド銀行の信用制度
のおかげで、無理をせずに戦争の重荷に耐えることができたからである。」と、ハクズ
ブルク家から分かれてこのロシアの地に来た事から始まるニコライ1世の治世は、専ら
強権的な専制政治に貫かれ、1830年と1848年に起こったポーランド立憲王国の、自治権
拡大運動を鎮圧した。この結果、それまで総督が統治していたポーランドは、1830年の
武装蜂起鎮圧後はロシアの直轄領となり、自治権も大きく制限された。また1848年には
「ヨーロッパの憲兵」と称してハンガリーの独立運動を鎮圧した。対外的には汎スラヴ
主義の土台を築き上げ、南下政策を推進した。バルカン半島では、ギリシャやセルビア
の独立運動を支援した。極東方面ではアヘン戦争の結果、イギリスを中心とした欧米列
強が東アジアに本格的な進出を開始したことを重視し、プチャーチンを遣日全権使節と
して日本へ派遣し、1855年に日露和親条約を締結した。西アジア方面では、1828年に、
ロシア・イラン戦争でカージャール朝ペルシアに勝利し、トルコマンチャーイ条約を受
け入れさせ、アルメニアを併合することに成功した。エジプト事件に際してはオスマン
帝国を終始支援し、ウンキャル・スケレッシ条約を締結してボスポラス・ダーダネルス
両海峡の独占航行権を一時獲得するなど、南下政策を進めていったが、イギリスやプロ
イセン・オーストリアの干渉を受けて挫折し、オスマン帝国との間にクリミア戦争を起
こした。これは、ロシア皇帝ニコライの先祖のニコライ1世はのやり方だった。ルーシ
の王「全ロシアのインペラートル」の称号はピョートル1世大帝のもとで導入された。
大北方戦争に勝利して1721年9月に、ニスタット条約が締結されると元老院とシノドは
ピョートル1世に対して「通常、高貴な家柄の出であるローマの元老院が、末永く家名
が存続することを記憶に留めるよう法規に乗っ取って公衆の目前で捧げられるインペラ
トルの称号を用いていたのと同じように公式声明を出してインペラトルの称号を贈呈す
る」ことを決めた。これは小さかったロシア公国が巨大ロシアに変わった瞬間だった。
ピョートル1世は、それまでの中世以来の慣例を廃止して、帝位は男子の直系子孫に継
承されるが、皇帝の意思によりそれに相応しい人物は後継者として指名されることを許
されるという旨の帝位継承に関する布告を発行した。1797年にパーヴェル1世は新たな
帝位継承に関する法律を作成した。これによりロシア帝位継承者は基本的には長子であ
ることが原則とされ、それに続く者はポーランドとフィンランドとの関係が結ばれるこ
ととなった。

1678: 名無しさんAA:18/09/06 20:19
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 109

 この事は大きな事だった。これまでの因習では、1547年にイヴァン4世がツァーリの
称号を帯びて以後、1721年にピョートル1世がロシア帝国建国を宣言するまで、皇帝は
用いられていた。ロシア国家の公称で公国部族の長が皇帝ツァーリを名乗りそれを連合
や同盟を行う各小公国が信任して皇帝が生まれて居た。則ち家長制度で継続する事はな
かったのである。この部族の中の実力を持つ長がツァーリ足る称号を信任されて貰って
公言する事が出来ると言う、ある意味アマゾンやアフリカの原住民のシステムそのまま
だったのだ。しかし法を作り帝位を長子相続とした上で、長子たる帝位継承者が死去な
いし拒絶した場合に備えて、継承できるように、以下に続く縁故者がその代理人として
の役割を担わされた。直系で帝位継承者がいない場合には傍系の者に継承順位が移るこ
ととなっている。直系傍系を含む家系内においては男性の方が女性よりも優先とされ、
女性を差し置く形で傍系男子の者が要請されることとなった。皇帝に即位する際に求め
られていたことは、わずかに正しい信仰の告白のみであった。君臨する皇帝及び継承者
が16歳に達すると、例え統治能力が欠けていたとしても、自身の統治権が行使される
ことになっている。ただし皇帝に、統治して早世した場合を除く何らかの事態が生じた
際には、生存しているその父母が皇帝不在時における継承者の最有力候補の地位に納ま
ることとなっている。こうして日本の朝廷や王家の様な帝位継承権が生まれた。これは
ひとえにロマノフ王家の財宝が蓄えられる事を意味し、又その財力の持つ信用が成せる
権力だった。ロシア帝国の統治者はみな、1613年に即位したミハイル・ロマノフに始ま
るロマノフ家の血統に属している。もっとも、1761年以降の皇統はピョートル1世の娘
アンナとシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公カール・フリードリヒの子
孫に移り、男系ではオルデンブルク家の分枝にあたるホルシュタイン=ゴットルプ家に
属していることから、2人の息子であるピョートル3世以降は厳密にはホルシュタイン
=ゴットルプ=ロマノフ家の血統に属している。つまりこれによって、スラブ高原から
のロマノフ家とフィンランド湾沿岸部のフィヨードル家やポーランド・リトアニア共和
国、スウェーデンおよびデンマークなどの戦争で持ちえたホルシュタイン王家とも統合
された王位を持つに至ったのである。日本の戦国時代の中で政略結婚で地域を治めたよ
うに、武力よりは血統がもつ王位や住民からの信用が、これ以降ロシアを守る事になっ
た。



1679: 名無しさんAA:18/09/06 20:19
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 110

 ニコライ1世の治世は専ら強権的な専制政治に貫かれ、1830年と1848年におこったポ
ーランド立憲王国の自治権拡大運動を鎮圧した。この結果、それまで総督が統治してい
たポーランドは1830年の武装蜂起鎮圧後はロシアの直轄領となり、自治権も大きく制限
された。また1848年には「ヨーロッパの憲兵」と称してハンガリーの独立運動を鎮圧し
た。これは1825年、長兄アレクサンドル1世の急死と次兄コンスタンティン大公の皇位
継承権放棄によって即位した皇帝だった。アレクサンドル1世の在位中から専制的な言
動で知られていたため、即位時にデカブリストの乱(自由主義を支持する将校達による
クーデター未遂)が起こった。この計画を事前に察知していたアレクサンドル・ベンケ
ンドルフ伯爵を登用、1826年に「皇帝官房第三課」を創設させた。ベンケンドルフを長
とする秘密警察はプーシキン、レールモントフ、ベリンスキー、ゲルツェンらを流刑に
した。実は欧州社会は征服王朝の焼き直しばかりやっていた。フランスの歴代王朝には
このロシアの様な流れと同じであった。@メロヴィング朝(フランスの前身・フランク
王国を作った王朝)→Aカロリング朝(メロヴィング朝の王様宮宰で世話係が蹴落とし
王朝)→Bカペー朝(ベルギーにあたる地域の豪族)→Cヴァロア朝(百年戦争〜ユグ
ノー戦争をやってた頃の王朝)→Dブルボン朝(ユグノー戦争以降の王朝。→フランス
革命で王朝廃位→Eオルレアン朝(ブルボン家の支流。フランス革命後、王政復古でル
イ・フィリップという人が王様になった)と言う流れがある。このフランス王朝の3つ
目を創始した人がユーグ・カペーは、それ以前カロリング家の批判があって出来た王家
だった。フランク族のカロリング家は代々フランク王国のメロヴィング朝に仕え、宮宰
(宰相)を輩出してきた家系であった。諸侯の宮廷職の首位を占める職で、もともとは
、王家や諸侯の家政機関の管理者であったピピンが勇ましく王朝が乗っ取られたのだ。
ピピン3世の子カール大帝の時代には、イベリア半島とブリテン島を除く今日の西欧州
のほぼ全体を占めるに至った。ローマ教皇はカール大帝に帝冠を授け、西ヨーロッパに
東ローマ帝国から独立した、新しいカトリックの帝国を築いた。カール大帝の帝国は、
現実的には、後継者ルートヴィヒ1世の死後3つに分割され、今日のイタリア・フラン
ス・ドイツのもととなったが、この時代は北からノルマン人・南からムスリム・東から
マジャール人が侵入し、これにカロリング家の君主はうまく対応することが出来ず、逆
に辺境防衛を担った貴族が軍事力を高めるとともに影響力も強めた。

1680: 名無しさんAA:18/09/06 22:26
 888年には西フランク王位がパリ伯ウードに移り、一時的にではあるがカロリング家
の血統から外れた。ウードは支配の正統性を維持するためにアルヌルフの宗主権を認め
、のちにはカロリング家のシャルル3世を後継者として認めざるをえなかったが、ウー
ドの即位は明らかにフランク王国史の新展開を告げるものであった。西フランク王位は
これ以後、カロリング家とロベール家の間を行き来し、やがて 987年にはユーグ・カペ
ーの登位とともにカペー朝が創始され、のちのフランス王国へと変貌を遂げ始めた。こ
の時フランスと言う国家認識が出来上がった。この後の王朝はヴァロア家もブルボン家
も、元々はカペー家の支流でした。歴史上751年から987年まで、フランク王国やそれが
分裂した後の東フランク王国・西フランク王国・中フランク王国の王を輩出したが 987
年、西フランク王国の王家断絶をもって消滅したとされる。ところがフランス革命で、
ブルボン朝は終わり、ルイ16世の子供たちは子孫を残さずに亡くなったが、ブルボン家
ひいてはフランス王家は、ルイ・フィリップの子女には他国の王家に嫁いで子供を残し
た。厳密に言えば今もまだブルボン朝、そしてユーグ・カペーの血は続いている。現在
のスペイン王室であるボルボン家はルイ14世の孫の血筋で、これまたユーグの末裔と
いうことになる。ちなみにユーグ・カペーは多くの子孫を残した。フランス革命とナポ
レオンの時期を除き、1848年までフランスを支配したカペー朝・ヴァロワ朝・ブルボン
朝・7月王政の各王は、皆がカペーの子孫である。1204年の第4回十字軍後に建国され
たラテン帝国のクルトネー家、1910年まで続いたポルトガル王家、14世紀にナポリ王国
・ハンガリー王国・ポーランドのアンジュー=シチリア家も、カペー家の系統だった。
現在のスペイン・ルクセンブルクの各王室もユーグ・カペーの傍系の子孫である。この
カペー家の支流の、ブルボン家の支流は、結局ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ
家=ハクスブルク家の血統にもつながっていたのである。もともと弱小勢力のカペー家
を王にしておけば互い牽制してかえって安定するだろうという諸侯たちの読みもあり、
出来た弱い王権でいつでも自分たちの意のままになるだろうという思惑の王朝でだった
あり、その後フランス革命でブルボン家は王位を追われてフランスを去ったが、スペイ
ン王室は分家にあたる。このスペインが更に内乱にも陥った。第一次世界大戦でハクス
ブルク家の最後の皇帝カールはマディラ島に軟禁生活に陥ったが「私の帝冠は換金でき
るものではないと、皆さんにお伝えください。」と返事を送った先は英国領事館だった
。つまりイングランド銀行が資産を預かっていたのだった。「善良帝カール」のハクス
ブルク家の資産と皇位をまんまと奪ったのである。カールは妻のツィタには「これから
はスペイン国王アルフォンソ13世を頼みとしなさい、彼は私の家族を助けてくれると
約束してくれた。」と遺言して逝った。

1681: 名無しさんAA:18/09/06 22:27
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 112

 英国では、チャールズ2世の後を嗣いで即位したジェームズ2世は、清教徒革命の為
フランスに亡命していた。この時カトリックに改宗しており、カトリック教徒を重用し
て英国を治めていた。しかしそれに反対していたプロテスタントの大臣を次々に罷免し
てしまい、ほとんどの議員がプロテスタントである中で敵対した。カトリックの支配に
対して敵意を持つイングランド議会と国王との対立が深まりジェームズ2世は、それま
でなかった常備軍を設置するに及んで決定的になった。王には男子後継者が無く、そこ
で議会は、ジェームズ2世の長女メアリーが後を継ぐことを期待して動いていた。メア
リーは母のアン・ハイドがプロテスタントであったためにプロテスタントとして育てら
れたばかりか、プロテスタント国オランダの総督であるオラニエ公ウィレム3世に嫁い
でいた。しかし、 1688年6月10日、ジェームズ2世と王妃メアリー・モデナ との間に
、待望の王子ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート「ジェームズ老僭王
」が生まれた。、ジェームズ2世はこの王子によってカトリックの支配を続けさせる事
を願った。これにより、議会はついにジェームズ2世との対決を決意し、ウィレム3世
・メアリー夫妻にイングランドへの上陸を要請したのである。また乞われたウィレム3
世側も、英国を反フランス・親オランダの側に取り込む目的があり、フランス王のルイ
14世はスペイン領ネーデルラントの領有を狙いネーデルラント継承戦争を起こしてい
た。その為次にネーデルラント領有を妨害したオランダへの報復を行い(オランダ侵略
戦争)をして、終戦後もルクセンブルクのストラスブールを占領してドイツ(神聖ロー
マ帝国)のプファルツ選帝侯領の継承権を主張し、欧州侵略の野望を露わにしていた。
ウィレム3世はフランスを危険視しており、フランス包囲網を築くためには親フランス
のイギリスでは具合が悪かったのである。また、ジェームズ2世の治世に不満を抱いた
イングランドの一部の政治家が1686年からオランダへ渡海、ウィレム3世と接触して、
クーデターの密議を重ねて着々と準備していた。10月ウィレム3世はオランダにメアリ
ーを残しオランダ軍2万を率いて出港したが、嵐のため一旦引き返した。11月に再度の
出港しイングランド西部のデヴォン海岸に上陸した。11月17日に宣言文を配布して国民
に広く主張を訴えた。これらの事実を知ったジェーム2世は議会に譲歩を示したが、既
に手遅れだった。カトリックの上官の司令にプロテスタントの兵は戦おうとしなかった
。戦わずしてオランダ軍は進軍し、12月オランダ軍がロンドンに迫ると、王は亡命を
謀る。まず王妃と王子をフランスに亡命させ、翌日に自らも亡命に走ったが、ケントで
捕らえられた。

1682: 名無しさんAA:18/09/06 22:27
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 113

 この上陸後は幾つかの抵抗はあったが、側近である近衛騎兵隊長以下、暫定政権の指
示を受け取り交戦を停止、陸海軍は両方共オランダ軍への抵抗を止めた。こうしてウィ
レム3世はオランダ統領を兼ねたまま、ウィリアム3世としてイングランド王にも即位
することになった。こうして銀行協会も、カトリックの権威が及ばない権力から抜け出
したプロテスタントの英国を、安住の地としてベルギー人やオランダ商人が私財の保護
を考えた。この戦争は、「名誉革命」又は「偉大なる革命」とも呼ばれる。この革命に
より以降は、イギリスのカトリックの再確立の可能性が完全に潰され、イングランド国
教会の国教化が確定した。それだけでなく、権利の章典により国王の権限が制限され、
イギリスにおける議会政治の基礎が築かれたからである。ただし、イギリスのカトリッ
ク教徒にとっては以後数世紀に渡る受難の始まりであった。イギリスの国王およびその
伴侶がカトリック教徒であることは現在でも禁止されている。なお、オランダ主導によ
るイギリス侵略という側面を強調する歴史解釈もあり、現在では、名誉革命は、内乱と
外国の侵略が併存した「革命」であり、イギリス人の誇り及び介入したオランダ政府の
政治的思惑などから、外国の介入の要素が意図的に無視されてきた歴史、とされている
。しかし、この改革でこれまで、オランダでの秘密結社として、利子付きの融通資本、
つまりギルドやマイスターなどの職人協会が 持ち寄りで融資や投資して来た社会が、
公けに銀行として設立が可能になった。こうして1600年に世界初の株式会社であるイギ
リス東インド会社がイギリスで設立され、後にインドで植民地経営を行い、アヘン戦争
の引き金をひいた。だがそれはこのプロテスタントの利子の契約や利潤の譲渡が可能に
なったからだった。しかし、金融史を紐解くと、「近代的な会社」という意味では、英
国に遅れ2年後に設立されたオランダ東インド会社のほうがより重要な行動にでた。な
ぜなら、当時の株式投資の考え方は、一航海ごとに出資を募るというプロジェクト的な
動きをしていて、イギリス東インド会社も例外ではなかった。つまり会社とは言え銀行
の様な仲介者だったのだ。その為安全帰港の保証とする保険も発達した。しかし、オラ
ンダ東インド会社は、長期的なスパンで確実に利益を得るために、ジャワを手はじめに
いくつかの島にコショウの貿易拠点を作ろうとした。そこで大きく儲けるためには利益
の回収に時間がかかる理由で、今後のすべての航海を「1事業」とみなし、出資を募っ
たのだ。


1683: 名無しさんAA:18/09/06 22:28
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 114

 しかし、こうした「一航海型」でなく「一事業型」の公募は利潤も少なく、又即興的
利益もないし信用も無かった。なにぶん何往復もしないと、元が取れなかったからだ。
ここに資金繰りの苦悩があった。ギルドの船商人はここで大きなスポンサー探しに奔走
する事になるが、以外にも簡単に見つかった。ルーシ大公イヴァン4世である。イワン
大公はロシア正教会の著名なモスクワ大聖堂(生神女就寝大聖堂)において、ツァーリ
として正式に戴冠を行い、外交文書においてもツァーリの称号を用いて各国君主、教皇
などと外交交渉を行った。ただし、この段階では「全ルーシのツァーリにして大公」で
あった。1721年、大北方戦争に勝利して祝賀ムードが高まる中、ロマノフ朝のツァーリ
であったピョートル1世は元老院でロマノフ朝のツァーリとして「祖国の父」「大帝」
といった称号が認められた。リューリク朝は1598年1月、フョードル1世の死で断絶した
。以後、ロシアでは皇位をめぐる動乱期に入り、その中で16世紀末のフョードル・ニキ
ーチチ・ロマノフの代にロマノフ家が台頭して動乱期を制し、その息子であるミハイル
・フョードロヴィチ・ロマノフが1613年に推戴されて初代ツァーリに即位した。ロマノ
フ家はリューリク朝と直接の血縁関係は無いが、イヴァン4世の第1夫人がロマノフ家
出身であるという縁戚である。こうして、ここに三百年続くロマノフ朝が始まったのだ
が、このイヴァン4世やロマノフ家が、この1事業制の株式会社の株を購入投資をして
くれたのである。海に面しないロシアにとって海の商人だったギルド商人の陳情は聞か
ない訳には行かなかった。又北海のバイキングに対抗するにも欧州側の商人は貴重だっ
た。ロシアのピュートル大帝はそうした利潤よりは領土の拡張や治安の方が大事だった
が、オランダ人交易はロシアに大きな恵みをもたらした。ロマノフの財宝はロマノフ家
が持っていた権威の象徴だったが、サンクトペテルブルクの建設や大陸横断鉄道の資金
などは、実はこの時投資していた繋がりが与えた恵みだった。ロシア皇帝の権力は絶大
なものと思われがちだが、絶大なものとなったのはエカチェリーナ2世の時代であり、
それまで皇位継承は貴族や軍による宮廷革命によって左右された。またエカチェリーナ
2世までの歴代皇帝によるロシア経済の発展と宮廷文化の成熟、近代化が皇帝の威信を
高める一因となった。こうしてロシアの近代化はピョートル大帝期の時代に推進される
に及んだ。


1684: 名無しさんAA:18/09/06 22:28
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 115

 ネーデルラント(オランダ)のウィレム3世が名誉革命でイングランド王も兼任する
ことになり、イングランド王としてはウィリアム3世だったが、この3世の数字が同じ
なのは全くの偶然である。イギリスオラニエ公ウィレム3世を、オランダ語読みの”オ
ラニエ公”を英語読みにすると”オレンジ公”となり、オランダ語風の”ウィレム”は
英語風にすると”ウィリアム”ですが、”3世”が付いているのと付いてないのでは別
人となる。オラニエ公ウィレム(オレンジ公ウィリアム)は、オランダ総督のウィレム
1世(1533年4月24日 - 1584年7月10日)のことで ウィリアム三世(1650年11月14日 -
1702年3月8日)はその曾孫です。ちなみに偶然というのは、オラニエ公のウィレム三世
とイングランド王の三世が同じになった事で、オラニエ公(=オランダ総督を世襲)で
ウィレムを名乗った三番目とイングランド王でウィリアムと名乗った三番目、が一致し
た偶然である。たとえば、神聖ローマ皇帝のフランツ2世がオーストリア皇帝となると
フランツ1世となるように、同一人物でも領土主権のタイトルによって何世か変わりま
す。逆に言うと、何世かというのは非常に重要です。日本でも「壱岐の守」や「土佐の
守」などには何代目かを付けていたが、南北朝時代頃には既に無くなっていた。このウ
イリアム三世(オラニエ公ウイレム在位1689〜1702)はオランダ人であったが、議会と
協調し政党政治が成立して行く。当初こそ議会を二分していたホイッグ・トーリー両党
から等しく大臣を取り、連立内閣を組織するようにしていたが。それでは政争が絶えず
晩年ホイッグ一色にしてみた(1694年)。これから議会の多数党が内閣を作る政党政治
が生じた。ウイリアム三世のイギリスは、ファルツ継承戦争(1688〜1697)に参加し、
アン女王(在位1702〜1714)の時スペイン継承戦争(1701〜1713)に参加してフランス
の勢力を抑え様としたが、大陸の戦闘には参加せず植民地でフランスと戦いフランスか
らハドソン湾地域・アカディァ・ニューファウンドランドを得て、スペインからはジブ
ラルタルとミノルカ島を得た形になった。アカディァ・ニューファウンドランドは当時
清教徒(ピューリタン)のアメリカ上陸地となって街が出来たと言われる。曾祖父に当
たるネーデルラント連邦共和国(オランダ共和国)独立の英雄ウィレム1世(沈黙公)
に始まるオラニエ=ナッサウ家は、南フランスのオラニエ公は、オランダ、ドイツ中西
部のナッサウに領地を持ち、オランダでも最有力の貴族で、ウィレム1世以来共和国の
主要州で総督(統領ともいう)を務めていた家柄だった。

1685: 名無しさんAA:18/09/06 22:29
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 116

 ウィレム1世は、オラニエ公として八十年戦争勃発時の中心人物とされる。オランダ
がまだネーデルラント連邦共和国の頃の、独立国家の事実上の初代君主とされる。オラ
ニエ公は代々ブルゴーニュ公に仕えており、ルネ・ド・シャロンもブルゴーニュ公であ
りネーデルラント17州の君主であった神聖ローマ皇帝カール5世に従ってイタリア戦
争の最中に命を落とした。こうして、ドイツの小領主の嫡男から一転して大貴族の当主
となったウィレムは、父の元を離れてネーデルラントへ送られ、カール5世やその妹で
あるネーデルラント総督マリアの監督の下で大貴族にふさわしい教育を受ける。一世が
治めていたホラント州、ゼーラント州他の総督では、早くから海岸の河口の船の街だっ
た。ウィレム1世は「沈黙公」として知られているが、これは反乱直前の時期の旗幟を
鮮明にしない態度を揶揄したもので、実際には誰にでも愛想がよく非常におしゃべりで
あった。1533年、ウィレムはドイツ中西部に位置するナッサウのディレンブルクで、ナ
ッサウ=ディレンブルク伯ヴィルヘルム1世(英語版)とその妻ユリアーナ・ツー・シ
ュトルベルクの間の長男として生まれた。1544年、11歳の時に従兄のルネ・ド・シャ
ロンが戦死したが、ウィレムはその相続人に指名されていた。そのため、ルネが父ナッ
サウ=ブレダ伯ヘンドリック3世から相続していたネーデルラントの所領と、母方の叔
父フィリベール・ド・シャロンから相続していた南フランスのオランジュ(オランダ語
でオラニエ)公国をともに相続して、オラニエ公ウィレム1世となった。以後ウィレム
の家系はオラニエ=ナッサウ家と呼ばれる。ナッサウの所領は父から弟ヨハン6世に相
続された。1566年、フランドルで反カトリック暴動が発生し、その反乱はネーデルラン
ト各地へと広まり、まだプロテスタントが浸透していない北部にまで暴動は拡大した。
フェリペ2世は事態の収拾を図るため、アルバ公を1万ほどの軍勢とともに派遣した。
ネーデルラント貴族達はこの暴動の責任を問われ、エフモント伯ラモラール、ホールン
伯フィリップなどなど有力貴族20人余りが処刑されるに至った。この際、オラニエ公
ウィレムはドイツに逃れており無事だったが、領地、財産の多くが没収された。1568年
4月、ドイツに逃れていたウィレムは、軍を率いてオランダ北部と中部から一斉に進攻
、5月23日のヘイリヘルレーの戦いに勝利したものの、結局は失敗に終わった。


1686: 名無しさんAA:18/09/06 22:29
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 117

 軍勢を整えて再起を図ったウィレムは、つぎは弟のローデウェイク(ルートヴィヒ)
やアドルフらとともにスペイン軍に戦いを挑む。その頃はスペインは制海権を持つ程に
つよく、ネーデルランドを植民地化するほど強かったのである。この為に敗北し、今度
はフランスに逃れ、ユグノーに合流した。そして「海乞食(ワーテルヘーゼン)」と呼
ばれる海賊軍団(ゼーゴイセン)を組織し、低地地方の沿岸を無差別に略奪を繰り返し
ながら、徐々に勢力を回復した。このユグノーがかなり強く、1572年4月1日海乞食達は
ブリーレの占拠に成功し、やがて港湾都市を少しずつ制圧していった。同年7月ホラン
ト州は反乱側に転じ、ウィレムを州総督に迎えることとした。ホラント・ゼーラント2
州に海乞食が足場を整えると、改革派が続々と流入し、徐々に主導権を握るようになっ
た。こうして1572年にはホラント州、ゼーラント州の総督となり、反スペイン勢力の中
で中心となった。これを受けて、スペインの迫害を受けていたプロテスタントの多くが
これらの州へ流入し味方するようになった。1573年2月にはホラント州でカトリックの
礼拝が禁じられ、ウィレムは、1577年にユトレヒト州、1578年にはアムステルダムを自
らの陣営に加え、1579年にユトレヒト同盟を結成した。つまり、このプロテスタントの
教徒達はユグノーと共にあったのだ。こうして反スペイン陣営をまとめあげた王となり
。間もなくアントウェルペンなどの主要都市も合流し、1580年には残りの北部4州も合
流した。一方で、ユトレヒト同盟の成立とほぼ同時期に、ネーデルラント南部の諸州は
アラス同盟を結成しフェリペ2世に対しては協調的な姿勢だったが、北部諸州は連邦議
会を作り、フェリペ2世の統治権を否定していた。教科書的な記述ではこれを「オラン
ダ独立宣言」と表現する場合が多いが、実際には「独立宣言」そのものは存在しない。
また、「独立宣言」によりネーデルラント連邦「共和国」が成立したとされるが、北部
諸州はその前年にフランス国王アンリ3世の弟アンジュー公フランソワを新たな君主と
して招き入れる決定をしている。つまり、共和政への強い志向があったわけではない。
この時君主就任を要請したアンジュー公はカトリック教徒であって、この戦争を単なる
宗教戦争として捉えることもできない。スペインとの戦いが続く中で、ウィレムはデル
フトの彼の居館プリンセンホフで、フェリペ2世を信奉するフランス人のカトリック教
徒バルタザール・ジェラールによって暗殺された。昼食を取るために書斎から1階へ下
りようとしたウィレムに、暗殺者から3発の凶弾を浴びせられと言う。次男マウリッツ
が後継者として1585年にホラント州、ゼーラント州の総督に就任する。その後、1597年
までに再び北部州をまとめ上げ、対スペイン戦争を継続していった。

1687: 名無しさんAA:18/09/06 22:30
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 118 

 1672年、フランス軍がオランダに侵攻し、オランダ侵略戦争が開始される。オランダ
の大半が占領され、アムステルダムも占領の危機に瀕すると、民衆がウィレム3世の総
督就任と共和政府の打倒を叫び、ウィレム3世が総督に就任した。デ・ウィットとその
兄コルネリス・デ・ウィットが暴徒によって殺害され、無総督時代が終焉した。それま
でオランダのブルジョワ政治家たちに排斥されて総督の世襲を阻まれていたウィレム3
世だったが、就任後の1673年にオーストリアやスペインと同盟を結んで逆にフランスを
包囲する形勢を作り、フランス軍への徹底抗戦を貫き、オランダ国内で抵抗を続けた。
その後、オランダを出てオーストリアの将軍ライモンド・モンテクッコリとドイツで、
合流しフランス軍の補給基地ボンを落とし、同年のうちにフランス軍を撤退させたのだ
。これ以降、ウィレム3世はルイ14世の仇敵となって戦った。戦争はスペイン領ネー
デルラントへと移り、ウィレム3世は同盟軍を率いてフランスの将軍コンデ公ルイ2世
とリュクサンブール公フランソワ・アンリ・ド・モンモランシーとネーデルラントで戦
い、コンデとリュクサンブールとの戦いではしばしば敗北を重ねた。(スネッフの戦い
、カッセルの戦い、サン=ドニの戦い)その間、ネーデルラントの都市を奪われたりし
ているが、戦略上他国と結んだオランダが有利であり、1678年に締結されたナイメーヘ
ンの和約でオランダは領土を保全、ウィレム3世は一躍プロテスタントの英雄となった
。一方フランスと組んで戦ったイングランドは、海軍提督ミヒール・デ・ロイテルの活
躍でオランダ上陸を阻止していた。1674年にイングランドと和睦して第三次英蘭戦争を
終わらせ、1677年に駐蘭大使となっていたテンプルとチャールズ2世の側近のダンビー
伯トマス・オズボーンの周旋で、ロンドンでチャールズ2世の弟ヨーク公ジェームズの
娘メアリーと結婚した。ジェームズは母方の叔父であり、妻とは従兄妹の関係になる。
メアリーは背が高く大柄で、背の低いウィレム3世とは不釣り合いの夫婦であった。又
夫婦仲も良くなく、ウィレム3世には別にエリザベス・ヴィリアーズという愛人があり
(後にオークニー伯ジョージ・ダグラス=ハミルトンと結婚)、同性愛的傾向もあった
が、メアリーに敬意を払うことだけは忘れなかった。とこういう歴史を歩んだ英国だっ
たが、この時ユグノー教団が考えたことは財産の保全だった。彼らはスペイン人の強奪
に会わないため資産を隠すために銀行や協会を作った。リスク分散の考え方で投資を選
び。投資した商人が生き残る事で、自分が無一文では又始められる仕組みを築いたのだ


1688: 名無しさんAA:18/09/06 22:44
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 119 

 会社の起源とされるものは各国で発見されているが、フランスには「バザクル水車」
という会社があり、なんと今も続いている。西暦850年頃に小麦粉をひく水車小屋が
造られ、1150年に会社の権利を小口化して売っていたとされる。株式は英語で( Share
:シェア)と言いますが、水車が生み出す利益を、みんなでわけあう仕組みは、江戸期
の田舎の水車にも導入された。つまり、水車小屋を皆んなで作るのだが、一定の寄付で
は上手く行かないし、使い方も大農主と小作農では時間も摩耗も違う。又そのままでも
保守点検や修理と新規の建て替えは起こる。そこで少し余る程の料金で運用し積立てと
量による決済をして共用としたのである。現代の株式会社が日本では「福祉の増進」を
謳っているので今と根本的に同じですよね。又日本で言えば、西暦 578年に聖徳太子が
百済から宮大工を招いたのが起源とされる社寺建築の「金剛組」は、いまや1400年以上
の伝統を持ち、日本どころか「世界最古の法人」と言われている。もっと古いものが、
見つかる可能性もあるのだが、日本の歴史でもこうした、寄付や慈善事業体としての、
会や組合の運用が起こっていた。こうした運用最古の共同体が残っているのは、共生の
思想の中には、宗教と違って同じ共済集団となって、技術や財産を残そうと言う意志が
あった事で起こった事だった。ただそれでも、オランダ東インド会社のような永続的な
投資を前提とした会社は、他国にはなかったとされている。投資先が「10年20年ずっー
と」と言うスパンが長引いていき、今日の株式の永続性が生まれ、「会社は継続するも
のだ。」という近代的株式会社の概念までこの時初めてオランダで誕生した。日本の利
潤を子孫に残す。と言う考えと違い、残す為に利潤を配布する。と言う考え方のようだ
。そもそも東インド会社は、肉を腐らせないためコショウが重宝され、胡椒一俵は城が
買える、船が買える。とされる高級品だった時代である。この高価なコショウの輸入を
求めて航海に出た。と言われる。コショウ貿易は当時、肉よりもずっと値段が高かった
。つまり、コショウを買えるほどの富裕層は、もともと腐りかけの肉を食べる必要がな
かった。コショウは肉の保存目的ではなく、風味つけの「よりおいしく肉を食べたい」
という欲望を持った諸侯の料理人に、グルメを目的に流通していた。つまり、グルメへ
の欲を満たすために経済が動いていた。日本でいう「食の贅沢は国を潰す。」と言う諺
を国王はわざわざ行っていたのだった。そして商人もわざわざ危険な航海をして、東イ
ンドまでコショウを取りにいかせ、航海が成功する度に莫大な利益が生む商売を始めた
。この為投資と言う金儲けを目的に事業に出資する人が出てきた。それが株式会社の始
まりだが、それが又ロシアの経済を助けた。最初の大口投資家がロシア皇帝だったから

1689: 名無しさんAA:18/09/06 23:02
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 119 
 会社の起源とされるものは各国で発見されているが、フランスには「バザクル水車」
という会社があり、なんと今も続いている。西暦850年頃に小麦粉をひく水車小屋が
造られ、1150年に会社の権利を小口化して売っていたとされる。株式は英語で( Share
:シェア)と言いますが、水車が生み出す利益を、みんなでわけあう仕組みは、江戸期
の田舎の水車にも導入された。つまり、水車小屋を皆んなで作るのだが、一定の寄付で
は上手く行かないし、使い方も大農主と小作農では時間も摩耗も違う。又そのままでも
保守点検や修理と新規の建て替えは起こる。そこで少し余る程の料金で運用し積立てと
量による決済をして共用としたのである。現代の株式会社が日本では「福祉の増進」を
謳っているので今と根本的に同じですよね。又日本で言えば、西暦 578年に聖徳太子が
百済から宮大工を招いたのが起源とされる社寺建築の「金剛組」は、いまや1400年以上
の伝統を持ち、日本どころか「世界最古の法人」と言われている。もっと古いものが、
見つかる可能性もあるのだが、日本の歴史でもこうした、寄付や慈善事業体としての、
会や組合の運用が起こっていた。こうした運用最古の共同体が残っているのは、共生の
思想の中には、宗教と違って同じ共済集団となって、技術や財産を残そうと言う意志が
あった事で起こった事だった。ただそれでも、オランダ東インド会社のような永続的な
投資を前提とした会社は、他国にはなかったとされている。投資先が「10年20年ずっー
と」と言うスパンが長引いていき、今日の株式の永続性が生まれ、「会社は継続するも
のだ。」という近代的株式会社の概念までこの時初めてオランダで誕生した。日本の利
潤を子孫に残す。と言う考えと違い、残す為に利潤を配布する。と言う考え方のようだ
。そもそも東インド会社は、肉を腐らせないためコショウが重宝され、胡椒一俵は城が
買える、船が買える。とされる高級品だった時代である。この高価なコショウの輸入を
求めて航海に出た。と言われる。コショウ貿易は当時、肉よりもずっと値段が高かった
。つまり、コショウを買えるほどの富裕層は、もともと腐りかけの肉を食べる必要がな
かった。コショウは肉の保存目的ではなく、風味つけの「よりおいしく肉を食べたい」
という欲望を持った諸侯の料理人に、グルメを目的に流通していた。つまり、グルメへ
の欲を満たすために経済が動いていた。日本でいう「食の贅沢は国を潰す。」と言う諺
を国王はわざわざ行っていたのだった。そして商人もわざわざ危険な航海をして、東イ
ンドまでコショウを取りにいかせ、航海が成功する度に莫大な利益が生む商売を始めた
。この為投資と言う金儲けを目的に事業に出資する人が出てきた。それが株式会社の始
まりだが、それが又ロシアの経済を助けた。最初の大口投資家がロシア皇帝だったから
だ。

1690: 楓十座と仲村みうの後日談:18/11/02 15:49 ID:5..
元人気グラビアモデルで現AV女優の仲村みうは
ホストと界の帝王の楓十座と毎日セックスしているらしい

残念な話は仲村みうはAVの新作話も出ているから
本格的な熱愛ではなくセックスフレンドなのだろうか…?

1691: 一般人の志乃舞とはこんな人です↓:18/11/02 16:02
                                 ウソウソ                  ウソウソ
息を吐くように嘘をつく .                   ウソウソ         ウソウソ       ウソウソ
                         .ウソウソウソウソウソウソウソウソ     ウソウソ      ウソウソ
  ∧_∧         ∧_∧      ウソウソウソウソウソウソウソウソ       ウソウソ     ウソウソ
 <丶`◇´>すぅ〜 . <丶`○´>はぁ〜 ウソウソ       ウソウソ        ウソウソ    ウソウソ
⊂    ⊃     .人 Y /      ウソウソ       ウソウソ              ウソウソ
 (    )      ( ヽ し                ウソウソ             ウソウソ
 〈_フ__フ      .〈_フ__フ              ウソウソ            ウソウソ
                                   ウソウソ           ウソウソ
                                  ウソウソ          ウソウソ

1692: 一般人の志乃舞とはこんな人です↓:18/11/02 16:10
         ,、='' ̄::::::::::::::: ゙̄'''ヽ、
       /:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\
     /:::::_,_、:::::::>‐-、:::::::::::::::::::::::::::::
     /::::/~ヾ,}::::j|  。 }::::::::::::::::::::::::
    l::::/|_ ゚ ,.>ー、ゞー≠ ̄ヽ::::::::::::::
    |::/ ヾ≦ヘ,_ノヽ      \:::::
   |Y     l|         ヽ
   |ノ〆    l|       ー-  |   5ちゃんねるとか
  /| /      l|       ー-  |
   l / r   」{,        ヽ  |   おーぷん2ちゃん
   l,  ヘ_ _,,>ー=、_   /
    ∧   `Σ,,、-‐─゙ゝ=´    /  全部アクセス規制されても
     ヘ   ===一       ノ
      ∧                己が正しいと言い張るよ
       \≧≡=ニー   ノ

1693: ↑それは:18/11/02 16:12
お姉さんはスマホまた買い換えれば
いいと思い込んでいるからなのでは?

1694: 名無しさんAA:18/11/02 19:26
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 120 

 正確には、「高い値段でも購入したい」という食欲を狙って、出資者が金儲けをした
ということになる。当初の大航海時代の冒険者たちのスポンサーは、ヴェニスやジェノ
ヴァの商人が多く、率先して出資していたとされる。しかし最初の頃は同じ、その都度
の出資が多かったとされている。あのコロンブスも成功にたどりつく前に、何度もスポ
ンサーを募っては失敗している。誰も見たことがない未知の大陸を目指すわけですから
、出資を引き出すには高いプレゼン能力が求められた。彼らは、今のベンチャー起業家
のように、出資者に対して自分の事業(航海)がいかに魅力的で儲かるかをアピールし
、必死にプレゼンした。と言われる。ロシアのピョートル大帝、イギリスのエリザベス
女王と、必死に諸侯や大公の出資を引き出していた。そうして航海が儲かることが判明
して行くと出資したい人が増えて、やがて会社化していった。1492年のコロンブスがア
メリカ大陸に到着したことで、これまでは食糧難で欧州の人口はまばらだったのが、急
に人口増加に転じて経済流通が発達した。アメリカ大陸にしかなかった物品も世界中に
広まったからだ。このことで、ヨーロッパ世界の食文化は飛躍的に変化しグローバル化
していった。そして乗じて農耕にも潤いがでた。例えばばトマトやなすはアメリカ大陸
から発見されてヨーロッパに伝わった。ジャガイモやトウモロコシ、唐辛子やたばこも
同じ様に輸入品だったが、アメリカの新大陸でもヨーロッパでも作られだした。食文化
というのは意外と後になって定着したものが多く、アフリカが未開地だったのはトウモ
ロコシも、稲も自生種があるにはあったが、今の様に大きくも無く育ちも違う小さな物
だったし、虫にや乾燥や病気に強いが、2〜3割程の重さの実しかならない物だった。
小麦粉のパスタは中国からシルクロードを渡ってきたという説さえある。つまり、小麦
粉はパンしか作れないものだった。もともとイタリア料理にはトマトソースもパスタも
なかった海鮮や日干しの肉の焼き料理しかなかった。ドイツ料理にもジャガイモがなか
ったし、インドカレーにも唐辛子は割に少なかった。その代わりに、イタリア料理は生
ハムをメロンにくるんで食べるレシピがローマ時代からあったと言う。オランダ東イン
ド会社は、「会社は永続するもの」という概念と共に、無限責任から有限責任への切り
替えが起こった。「無限責任」は、仮に航海が失敗して船が沈んだ時、借りた船の場合
だと、株主が全額弁償しなければいけなかった無限責任で、これがイギリスの末代まで
の支払う保険の元になったが、オランダはそれを捨てた。無限責任は当初から超高額な
金額での出資者を募り、出費には支払い能力がある人を厳しく審査した。

1695: 名無しさんAA:18/11/02 19:26
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 121 

 出資希望者に経済力があるかどうか、わざわざ住まいや土地や家を見に行ったとさえ
言われる。しかしピューリタン革命でバチカン系統の諸侯の援助が無くなり、取引に参
加できる富裕層もいなくなり、大きな資金も集まらなかった。当然株式の取引も、活発
になることはなかった。そこで、株式の「有限責任化」が始まり、無限責任の支払い能
力を限定せず、株式発行額のみの責任として広く一般からも出資者を募るようになった
。企業は出資者の審査に手間暇を掛けず集金した。お金持ちでなくても出資させ、市場
が活性化した。結果、アムステルダムの取引所では商品、為替、株式、海上保険、先物
取引など、いち早くさまざまな金融商品が取引された。ここにちゃっかりイギリス海上
保険が組み込まれて運用された。この銀行の手数料運用が生まれていた。つまり多くの
出資者を募る中で、その出資者自身が保険や商品などコーデネイトしセットした証券や
株券を発行運用した銀行が生まれていたのである。それだけオランダでは早々と株式の
市場が発達した。アムステルダム銀行(アムステルダムぎんこう)はオランダのアムス
テルダム市当局が設立した公立の振替銀行である。ヴェネツィアのリアルト銀行がモデ
ルとされている。あらゆる種類の貨幣を預金として受け入れ、法定換金率での換算した
銀行通貨グルデン(ギルダー)で払い戻した。フォンテーヌブローの勅令とジョン・ロ
ーの経済政策破綻でユグノー資本の預金が殺到した。実は利子や手数料を取らない銀行
業務はエジプト時代からあった。ただし少し違った形で運用されてて王家の持つ奴隷を
増やす仕組みだった。その後イスラム社会で整備されたが、同じ様に利子や手数料を取
るのは悪行とされた。バチカンのカトリック教会にも同じ銀行業務が寄付金や布施や拝
謁料が十字軍遠征の協賛金などと共に運用されたが、そこでも運用は慈善事業であり、
利子手数料は宗教とは相反すると批判され、隠れて外為送金で利子として運用していた
。つまり通貨の違いで教会は儲かっていたのである。バチカンのこの方式を、教徒は許
さなかった。一番批判したのがユグノー教徒であった。教会規定ではユダヤでも他教徒
への利子は行って良かった為、貸付の多くは他のユダヤ教徒などで行い自宗徒には貸さ
なかったので、ユグノーは逆にユダヤ教徒から高い利率の金を借りて事業を興していた
。1605年の市議会声明に「長い間、主要な商人たちはセビリアやヴェネツィアのような
銀行の設立を求めていた」と書かれている。16世紀のアントワープでは、公的に預金・
振替業務が禁止されていたため公立の振替銀行は存在しなかったのだ。


1696: 名無しさんAA:18/11/02 19:27
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 122 

 そうした業務は民間の兵を持つ金融業者等か教会が担っていた。そしてアムステルダ
ムも公立振替銀行ができるまでは私兵を持つ民間に業務を委ねていた。民間で振替業務
を行うカシールは、16世紀から為替手形の支払に法定重量を満たさない悪貨を債権者に
引渡し不当な利益をあげていた。17世紀初期に、カシールは多種多様な鋳貨が流通し
ていたことを理由に現金での払い戻しを嫌い、現金払いに1〜10%のプレミアムを要求
し、支払指図の事前了承でこれに代えようとした。しかし、このような行為は商取引を
著しく阻害したため、商人たちとの軋轢が起こっていた。このような状況を打破するた
め、アムステルダム銀行が1609年に設立されるとともに、民間金融業者の振替業務が禁
止された。この時731人の出資者のなかにはユダヤ人が25人いた。とされるローマ
帝国時代には、皇帝が変わる度に金貨の価値が変化した。いわゆるデノミとインフレが
、結構頻発したのだ。市内の生活には問題が無かったが、鋳造されて新たな悪貨となっ
たり、国外コインが氾濫したりである。こうしたものは目利きが必要であったし、更に
海外向けの交易にはその目利きの持つ知識は不可欠だった。貨幣制度が混沌としていた
中世での支払いは、常に特定の鋳貨と結びついていなければならず、両替&鋳貨の売買
に従事した「両替商・銀行業者」という様な特別な職業が必要となり、特にベネチヤ商
人には必要だった。この当時非常に難しく、深い専門知識を必要とした職業は、政権に
つながらない所で行うべき輸入の仕事だったし、確実に儲かる仕事であった。両替商は
「差し出されたあらゆる金貨・銀貨全ての金銀含有量を確実に知っていなければならな
い。」物で、長年にわたってこの実務に携わってきた熟練の両替商は「鋳貨をいちいち
秤に架けなくてもこれを鑑定でき、一瞥するだけで十分」だった。と言う。さらに彼ら
は「種々様々な鋳貨を、それと等価値の他の通貨に躊躇なく換算しなければならない。
」かくしてシチリア島のパレルモには多くの両替商が存在し繁盛した。やがてイタリア
のほとんど全ての都市に、ギルドとして結びついた両替商が登場したが、彼らの多くは
教会前の広場に両替店を設けて教会の設けた規制の枠の中で商売をしていた。イタリア
人両替商達は、西欧・オリエントの諸都市における両替商の代表的存在だった。振替業
務は、両替商・銀行業者が両替と同時に営んでいた。


1697: 名無しさんAA:18/11/02 20:29 ID:zmw
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 123 

しかし、こうして繋がり銀行業者のある顧客から他の顧客に支払いが必要な場合、それ
は「銀行業者の帳簿に記入されている支払人の口座」から「受取人の口座」へと「支払
い相当額を書き替える」ことで済ませる事に変化した。この振替の仕組みはシャンパー
ニュの大市で著しい発展を遂げた。しかし、その元締めは教会にある図書館を利用出来
た司祭の配下で守られてその行為が保証されていたのである。こうしてバチカンは大市
に到着した商人達の、「まず両替商に持参金を委託する」「支払いと受け取りは大市の
終了後に、両替商の帳簿の上で相殺され」「残った差額のみ現金で決済する」のを監視
する役目を負った。大きな取引には司祭同士の立ち合いや話し合いが必要であったが、
両替商は常に「顧客の要求に応じるのに必要な多種多様な鋳貨,金銀の地金を用意し」
て「鋳貨・貴金属地金の購入」も行っていた。振替業務には「預金が存在している」=
両替商に金銭の保管を委託していることが前提だったのである。これがスイス銀行の成
り立ちだった。その後、諸侯や王侯や都市は両替商に貨幣を預託し出した。両替商は彼
らに代わって「支払事務を司る」「財政管理も引き受ける」役まで行っていった。こう
して両替商は同時に銀行業務にも関係し、預金の引受のみならず資金の貸出も行った。
「しばしば鋳貨親方でもあった」「都市の割引銀行も、両替だけでなく預金・貸付業務
を営んだ」というまで発展した。大市によって為替手形が出来、中世に貨幣の交換には
2つの行為を大々的に行った。一つは両替と言う2種類の異なる鋳貨を交換する。(=
別の鋳貨で払い込むのと引き換えに、ある特定の鋳貨でその払い出しを受ける)」とい
う外貨交換。更にもう一つは手形と言う(両替する金額の「払込場所と異なる場所で異
なる時期に払い出しが行われる」約束した支払い)の信用貸しや外為業務である。イタ
リア・プロヴァンス・その他の商人達は、しばしば盗賊など危険な目にもあった。その
毛織物やその他の商品購入や売りのためにシャンパーニュの大市へ旅行する際「莫大な
経費を要し、途中で略奪・襲撃される危険もあった。のだった。この為の大金の携帯を
避けようとし、さらに大市開催地で、その地の通貨を両替によって手に入れる必要があ
ったが、この危険の代替えに、「この両替を予め出発前に本国で済ませて、しかも両替
による現地通貨の支払いをすぐに(出発地で)受け取らず「証券1枚を受け取り、大市
開催地に到着してから証券を提示して、本国で払い込んだ旨の信用で相当する現地通貨
を受け取る。」ようにした。後で出てくる電信支払いに似た外国為替の方法である。


1698: 名無しさんAA:18/11/02 20:30
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 124 

 こうして、教会の1/10税と言われた一割徴収も、イングランドで徴収した金額を道中
での略奪を恐れて、ローマに持参はする事をせずに済んだ。つまり手数料込みの為替で
ある。代わりに多種多様な鋳貨のままで、ロンドンにいる両替商の1人に払い込む事で
、両替商は徴収者に対して『ローマにおいてフィレンツェ通貨でそれに相当する金額を
支払った旨の証書を交付した。」事で済んだ。この手形は「委託された特別の使者によ
ってローマ教皇庁に送付され」為替手形の始まりとなった。「振出手形:振出人から第
三者に宛てられた支払い委託」である。しかし、教会では、隠れた不正が罷り通る事で
数十年混乱が生じた。しかしここに市民が作ったヴェネツィアのリアルト銀行がモデル
となって今の銀行の形が整えられた。銀行業務に専門の教会以外のネットワークが望ま
れていたからだ。これが銀行の始まりだった。これまで癖のあるある種の地域の教会や
教義の違う敵対する教会などの不信感や汚職や手数料の吹っ掛けがここで消滅したのだ
。これは実際の経過としては「ある銀行がある金額を払い込んだ顧客に対して」「手形
受取人に表記金額を払い出すことを指定された、在外国支店宛ての手形を振り出す。」
と言う行為だった。10世紀の頃までには初期の様に発行人がサービスで、手形振出人
自らが支払い履行地に行った。この「両替商もしくは銀行業者」の生業(なりわい)に
おいて商品代価を、王の旅行先や諸侯の現物仕入れ先に於いて、郷里に持って帰って来
てから払う。という役目だった。つまり銀行家自身が危険を引き受けた上で、手形の支
払いが行われる指定地に輸送してそこで支払いを履行する」という点にあった。これは
アメリカの西部劇映画の金塊を運ぶ幌馬車隊や弾丸列車のようなものだった。しかし彼
ら引受者もまた商品取引に従事しており、大市(支払い履行地)においては、当然逆に
輸出もしていて工業地帯は農業地帯或いは漁業地帯とこの三つは食料供給において経済
活動していて、商品代金は請求書と領収書の交換のみで、その精算処理で、貨幣を全く
携行せずに大市へ赴くことも多くあり、こうして取り立てた商品代金で支払いを履行で
きる事もしばしばだった。こうして初期(13世紀初〜)の約束手形は「支払いは手形振
出人の代理者である銀行家 もしくは、彼に指名されて支払地に到着した者によって行
われねばならない。」という条件が登場する。指名された者は手形振出人からの「支払
状」によって支払いの通知を受けた。この通知(簡単な委託証券)自体は最初は手形で
はなかったのだが、やがて「手形を振り出した銀行業者が支払義務を負った」形のきち
んとした為替手形にまで発展した。

1699: 名無しさんAA:18/11/02 20:30
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 125 

 しかし、この時期から『手形引受』が制度化され、とんでもない方向に銀行家は走っ
た。食料生産が乏しく諸侯が争った時、諸侯が決めた戦争捕虜や戦争賠償金の支払い代
理業務である。諸侯は投石機や弓や鉄砲などを供給してきた業者に、その処理の代表を
つけた。こうして城主や庶民は生死を別けて戦うのだが、死の商人とされる いわゆる
軍事顧問団はその算術に於いて、自国の住民や食料生産を上回る戦いをしない事を申し
合わせるのである。こうなるとこの銀行家は戦争行為の保証人だった。停戦交渉が難し
くなる上に領土や賠償金精算が出来なくなる事に銀行家が渋った時には戦争は出来なか
った。相手の持ち分の資産や銀貨や農奴やあらゆる物が計算の上で、賠償金は決められ
、この賠償金以上の戦争は出来ず、保証人として大国の相番が必要で後ろ盾がなければ
鉄砲の弾や食糧や兵員や農奴が集められなかった。こうなると、もはや戦争はゲームで
あった。銀行の取引で「要求に応じて支払う意思がある。」ことを明示して、その金額
が決められ、この文言は無条件で手形に必ず記入されなければならなかった。こうした
契約社会の登場で、『手形拒絶証書』も一般化した。「手形を正当に呈示したにもかか
わらず引受を拒絶された」ことを公的に示すもので、手形支払人が手形振出人に、全く
債務を負っていないがゆえに支払いを拒んだ。という勝手なニセ小切手や手形の事件も
あった。これは戦争に負けた城主自ら作ったニセ手形事件や大きな公国の、盛んな罠と
して利用した事件が頻発した。もっとも普通の庶民はこうした悪質商人や城主のもつ権
力に逆らえなかったが、同時に手形などの交換には関わらなかっただろう。これらは、
イギリスに於いて保険として発展した。つまり第三者の諸侯にそれらの保証をさせたの
だ。その保証は直ぐに掛け金として、積み上げられ、その場を提供した王は2割がもら
えた。つまりA国かB国かを掛けてどんなに小さくかけても1でありそれから小さくな
るのである。こうなると1:2であればもし同額であれば一応は3倍の金額が胴元には
集められる。ここでA国に2倍払えば、同額が残りB国に1、5倍払い戻しすれば胴元
は空になる。つまり儲けがない。そこで胴元も入り1,3倍で払い戻しする形では、元
から3割は増える形だ。こうなれば胴元は10〜3割が入り貴族のギャンブルとして成
り立つのである。そこで問題なのは掛けた諸侯が支払わない事だった。そこで子や孫ま
で支払わせる永代負担としたのだ。これは黒人のみならず白人も奴隷になる事を示した


1700: 名無しさんAA:18/11/09 00:42
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 126 

 ヴェネツィアからロンドンに振り出された為替手形に関する、ロンドンでの手形拒絶
証書が幾つも記録されている15世紀は、政治変動の時代でもあった。麦などの不作が
続き、時に大航海時代に起こった輸入された外来種の芋や茄子やトマトが命を救った。
シャンパーニュの大市場は大きな賑わいで、普通はここの市場の商店で支払いの期日・
場所などが定められていた。手形は恐らくは最初に海上貿易で用いられ、後に国内商業
にも使用されたのだろう。「商人が証書によって行った支払約束」として、南ヨーロッ
パ・西南ヨーロッパ・全域に及び、イタリア人が金貸し&商人として活躍した場所なら
どこでも広く普及し、13世紀には既にあらゆる教会にその知識はあった。既に1291年
フィレンツェの会社の在ロンドン代理人は「為替手形によってシャンパーニュの大市か
ら資金を受け取る」→英国フィレンツェ商人は、英国から商事会社の仲介によって本国
へ送金する→フィレンツェにいる債権者は、英国に滞在しているフィレンツェ人の債務
を取り立てる→英国の修道院の代理人は、ローマ滞在に必要な金額を手に入れることを
保証される。という手間を行っていたであろう。こうした事が、宅急便のゴルフパック
の様に普通に普及し、やがて手形取引はイタリア・フランス・イングランド・スペイン
・フランドルの主要商業地間で広く活用されるようになり、商業手引の流通経済は、種
々異なった場所が記入されている手形の支払期限分類を行われ、一層複雑化して、手数
料や利子の取り立てで潤うことになった。しかし、ネーデルラントと言う商業地域での
戦さをするドイツでは、往々にして商人は送らせ、手形の導入は遅かった。さらにドイ
ツでは、たとえ手形が「フランドルとの商取引に利用され、ドイツ各地間の商業に支払
い手段一般として行われた」としても、手形取引の重要性はイタリア商業でのそれより
もずっと低くその利用も少なかった。西暦120年頃で古文書として発見された約七千
通もの手形(1249〜91年)は、公的文書として証拠力と履行力を有していた物だった。
これらは「イープル市の参審人の面前で署名され、手形の受領と同時に裏書きされ公示
された。」ものだった。証書には「ノコギリの歯形に切り取られて、片方は債権者に手
渡され、もう片方は市の文書館に保存された。」とあり勘合貿易のような形だった事が
判明している。

1701: 名無しさんAA:18/11/09 00:42
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 127 

 この大英帝国で名誉革命と言われるイングランドにわざわざオランダネーデルランド
の、オラニエ公のウィレム3世を呼ぶには理由があった。それがネーデルランドの中心
アムステルダムの金融事情にあった。実はユグノー資本は莫大な蓄えを持っていた。こ
のネーデルランドのベルギーに於いてオラニエ公が来るまではかなり虐げられていたが
ウィレムの時代に保護されたことでベネチアの商人やロシア皇帝までがこの地の金融家
に預けて財産運用していたのである。かつてユグノーはフランスカトリックから追われ
て逃げてオランダに来て、北方民族のバイキングと混血になって、「海乞食(ワーテル
ヘーゼン)」と呼ばれる海賊軍団(ゼーゴイセン)を組織して、低地地方の沿岸を無差
別に略奪を繰り返しながら、徐々に勢力を回復した。このユグノーが海に出て資産の蓄
えとしたのがマン島であり、管理したのがイングランド銀行だった。最初はまだまだこ
のオランダ金融資本どころかスペインやフランスさえにも追いつかない小さな小国金融
で資産でしかなかった。しかし薔薇戦争を最後に内紛が収まり、急速に資産がマン島に
集まってきた。百年戦争終戦後に発生したイングランド中世封建諸侯による内乱であっ
たこの諸侯の対立に、資産の保全が程よい地政学上の位置にあったからだ。共にプラン
タジネット家の男系傍流であるランカスター家とヨーク家の、30年に及ぶ権力闘争で
あった百年戦争は。最終的にはランカスター家の女系の血筋を引く、テューダー家のヘ
ンリー7世が武力でヨーク家を倒し、ヨーク家の王女と政略結婚してテューダー朝を開
いて終了したが、元々プランタジネット家傍流のランカスター家と、ヨーク家の間で戦
われた権力闘争で、ヨーク家とランカスター家は、ともにエドワード3世の血を引く同
じ家柄であった。その為にランカスター家が赤薔薇、ヨーク家が白薔薇を家紋としてい
た。その為後世において、薔薇戦争と呼ばれている。この時の戦争は主に大土地所有の
大貴族の間で行われ、彼らは王族たる公爵と、少数の侯爵や伯爵、そして多数の男爵と
騎士、そして土着のジェントリたちであった。彼らは広大な私有地を持って多くの農奴
を抱え、一方で投資や貿易によって財産を増やし、政略結婚によって 政治的影響力を
拡大して争ったのである。彼らは封建的な扈従(こじゅう)からなる武力によって支え
られており、しばしば外国人傭兵も抱えていた。この時、貴族の威信は「扈従団」(ア
フィニティ)によっても計られた。扈従団の一員となった扈従はその貴族の「お仕着せ
」(そろいの制服と記章)を着用し、戦役に従軍した。


1702: 名無しさんAA:18/11/09 00:48
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 128 

 兵士達は、おもちゃの兵隊の様に同じ服で、世間や王侯にアピールする戦いをし、そ
の見返りとして、貴族は、年金の支払いや法的な保護そして土地や官職といった報酬を
与えた。それは今の雇われた近代兵士の始まりだった。この非公式な「お仕着せと幇助
」は近代兵士の制度と共にサラリーマンの始まりでもあった。又この制度は百年戦争に
続く封建制度の衰退を通じて現れたもので、封建制度は今まで本来の土地の授受を媒介
とした封臣として貴族に仕えるあり方ではなく、土地では無く金や食糧や地位などで「
仕着せされた扈従」として貴族と請負契約を結ぶ為、歴史家の言うところの「擬似封建
制度」の一環を行ったのであった。それは石工達の職人形態からの発達だった。従来か
ら、船大工や裁縫やパンやなど農業集団と離れた所では、御雇い番は必要だった。親方
の納屋や屋根裏に住まわせもらい仕事に従事する事で、食糧があった。しかし、敬虔な
神を愛したユグノーの資本家は違っていた。不正をするバチカンにほとほと嫌になって
いたのである。もともとユグノーの人々は多神教のミノス教徒を太陽神のみに祈りを捧
げた特殊形態をそのままローマがキリスト教に変えていた。言わば隠れたギリシャ神話
のゼウス信仰信者だった。古来からの機織りや薬草や地理天文学などに長けた人々だっ
た。と言える。この最初の銀行が最初の白人ユダヤ教徒として両替の事実は、不思議な
ものだ。マン島は、グレートブリテン島とアイルランド島に囲まれたアイリッシュ海の
中央に位置する島で。面積はちいさな独立国だ。約572km2。主都はダグラス。人口は80
,058人(2006年時点)マン島は複数の国の統治権がある複雑な歴史を持っており、周辺
の島やイングランド・アイルランドとも異なる独自の文化を持っていた。1405年マン島
領主を名乗るイングランド貴族のスタンリー家(ダービー伯爵)が代々統治してきた。
1765年のマン島購入法成立によって王室がマン島の支配権を購入し、それ以降はイギリ
ス(連合王国)の君主がマン島領主を世襲している。しかしマン島は法的にはグレート
ブリテンおよび北アイルランド連合王国の一部ではなく、また主権国家でもない。イギ
リス連邦の加盟国でもなく、自治権を持ったイギリスの王室属領である。しかしイギリ
スとの密接な関係からイギリス連邦の一部と見なされることも多く、イギリス連邦議会
連合やコモンウェルスゲームズ等に参加している。


1703: 名無しさんAA:18/11/09 01:17
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 129 

 EUには参加せず、代表も送っていないが、イギリスの特別領域として扱われている
。何故か白人の金融家としては不思議なのか。それは今の最新研究ではユダヤ人とは、
褐色有色人種であり、男系男子相伝の本分のままであれば白人ではあり得ないからだ。
このユダヤ教はペルシャの宗教ではない事も判明はしているが、紀元前時代に先に述べ
た様にペルシャでは大流行していた。その中でも紀元後に最も流行したのはハザール王
国だ。ハザールの揺籃の地は、カスピ海沿岸の草原の地である。この草原には多種多様
な民族が居住し、東方の旅行家・地誌家も、ビザンチン帝国(東ローマ帝国)の著作家
も、これら諸民族が絡む様々な事件・事変について記録を後世に残している。ただし、
ハザール人がいつ頃なぜ登場したのか、具体的な記録はない。448年、ビザンチン帝
国からフン族のアッチラ大王への使節団報告の中に、「戦士民族」としてのハザール人
が登場している。この時期のハザール人はフン族の配下で活動していたようである。ア
ッチラ大王の死後、フン帝国が崩壊すると東ヨーロッパに権力の空白地が生じた。そこ
を通っていくつもの遊牧民が、波が打ち寄せるように次々と東から西から押し寄せてき
た。6世紀初頭、ササン朝ペルシア帝国のカワード1世の治世の時代、ハザール人は、
コーカサスの向こうの地域、すなわちグルジア、アルバニア、アルメニアを占領した。
6世紀半ば、カワード1世の息子であるホスロー1世の治世時にも、ハザール人のペル
シア国境地帯、特にアルメニアやアルバニアへの侵入は、止むことがなかった。現代の
中では、雇われ戦士のグルカ兵である。この、グルカ兵は今はインドの貧民から募集さ
れているが伝統から言えばイラク人やトルコ人であった。しかし、かつて象を使ってモ
ンブランのイタリア小都市を攻めたアッテラ国や、エジプトやエルサレムを守ったの巨
人族を打ち破った話を思えば、あながちグルカ人=ユダヤ人説が嘘ではないかもしれな
い。日本人は第二次世界大戦ではインドを前にして今のミャンマーで大敗し、中国の中
の抗日に苦戦した。またハワイ沖を占領するにアメリカに躊躇し、ユダヤの経済制裁に
船を沈めた。これは、得体のしれないこの宗教が宗教でなく生きる知恵として伝統的に
利用されてきた歴史を物語る。グルカ兵=ハザール人=正統ユダヤは正しいのかも知れ
ない。単に白人王侯=金持ち=世界金融が、その考えや力を利用しただけかもしれない


1704: 名無しさんAA:18/11/09 01:17
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 130 

 この時期、ハザール人はコーカサスの北にいる種族の中で最も力のある種族となった
。その後、ハザール人は台頭してきた突厥(西トルコ帝国)の配下に組み込まれたが、
帝国内でも最強の実戦部隊として活躍した。627年、ビザンチン帝国の皇帝ヘラクレ
イオスは、ササン朝ペルシア軍との戦いに備えてハザール人と軍事同盟を締結した。ハ
ザール人はこの対ペルシア遠征軍に4万人の援軍を出し、ペルシアの首都クテシフォン
に迫った。なおこの時がビザンチン史料におけるハザール人の初登場する。7世紀中頃
、カスピ海沿岸草原においてハザール王国(ハザール汗国)の創成が開始された。権威
を誇った突厥(西トルコ帝国)は分裂し滅びた。ハザール人は、彼らの支配から離れる
ことができた。ハザール人は自らを「西突厥」の継承者と名乗った。ハザール人は勢力
を急速に拡大していき、アゾフ海沿岸のブルガール人を服属させ、黒海沿岸北部も手中
に納め、はては、クリミアの草原の大部分を占めるまでに至ったのであった。クリミア
沿岸諸都市もハザール王国に組み込まれた。北コーカサスの山麓や隣接草原において、
ハザール王国が国力を充実させていた頃、新たな敵が南方から台頭してきた。アラブ国
(イスラム帝国)である。アラブ軍は、シリアとメソポタミアを蹂躙するや、北方に足
を向け始めたのである。裏コーカサス諸国はアラブ軍との戦争で火の手に包まれるよう
になった。7世紀の半ばから、アラブ軍は組織的に裏コーカサス攻撃を繰り返し、略奪
を欲しいままにするようになった。アラブ軍は繰り返しハザール王国の領土に侵入し、
都市を略奪して、破壊し、集落を焼き払い、耕地・農園を蹂躙し、冬営地から家畜群を
強奪し、住民を捕らえ、奴隷として連れ去るのを常とした。ハザール王国とアラブ帝国
(イスラム帝国)は、大きな戦争を2回している。653年の「第1次アラブ戦争」は
、アラブ軍がハザール王国に遠征して、撃破された。「第2次アラブ戦争」は、ジェラ
ーフ率いるアラブ軍がハザール王国に遠征して、ベレンジェを攻略したのがきっかけで
始まり、737年までの16年間続いた。「第2次アラブ戦争」において、アラブ遠征
軍に攻撃されたハザール軍は、アルバニアに侵入して、アルデビールを攻略し、アラブ
軍を撃滅。しかし、新たにマルワーン率いるアラブ軍が遠征してくると、ハザール軍は
2つの峠から奇襲をかけられ、ボルガ川まで退却。最終的に、アラブの将軍マルワーン
に講和を求めることを余儀なくされたのであった。

1705: 名無しさんAA:18/11/09 01:18
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 131 

  この「第2次アラブ戦争」は、アラブ史料では、双方合わせて10万あるいは30
万の兵士が従軍したという。そして、マルワーンはハザール王国を攻撃した最後のアラ
ブ将軍となり、これ以降、ハザール王国とアラブ人の戦争に関する記録はない。650
年に成立したアラブ帝国は、711年にジブラルタルを渡ってスペインに侵入、ピレネ
ー山脈をこえてフランクにはいったが、732年トゥール・ポワティエで敗北し、西へ
の進出は終了。東は中央アジアまで進出したが、751年タラス河畔の戦いで唐に敗れ
、100年間におよんだアラブの征服戦争は終了したのである。ハザール王国はササン
朝ペルシア帝国、ついでアラブ帝国と激しい戦いを繰り返したが、その両国と敵対して
いたビザンチン帝国(東ローマ帝国)とは同盟関係にあった。これまで、この二大勢力
は互いに戦ったことは一度もなかった。それどころか、ハザール王国はしばしばビザン
チン帝国の敵と戦った。それは明らかにビザンチン帝国に有利となることだった。8世
紀のアラブ侵略以後、ハザール王国の首都はカスピ海沿岸西岸のサマンダルに移され、
最後にボルガ河口のイティルに移った。ハザール王国の南方の前線は平定され、イスラ
ム教国との関係も落ち着いて、暗黙の停戦協定にまで至った。ビザンチン帝国との関係
も、明らかに友好的な状態が続いていた。9世紀に入って数十年の間、ハザール王国は
平和を享受した。ビザンチン帝国を775年から780年まで支配したレオン4世。彼
はハザール王室の血を持つ皇帝で、「ハザールのレオン」と呼ばれていた。彼は、前皇帝
コンスタンチヌス5世と、ハザールの王女チチャクとの間に生まれたハーフであったの
だ。この結婚は、ビザンチン帝国とハザール王国の友好を願って、732年に行われた
ものだった。アラブ帝国に代わって、新たな強敵が北方から台頭してきた。バイキング
と呼ばれる北方部族の雄ルス人(後のロシア人)である。834年、ハザール王はビザ
ンチン帝国に、北方への防御(対ルス人対策)のための砦を築くための援助を求め、直
ちに建設された。こうして「サルケル砦」が誕生した。この「砦」のおかげで、ドン川
の下流域や、ドン・ボルガ水路に沿ったルス人の艦隊の 動きを封じることができた。
10世紀半ばまでの間、全体として見ると、ルス人の略奪は主としてビザンチン帝国に
向けられていた。それに対してハザール人とは、摩擦や時には衝突はあった、が本質的
には交易を基礎とした関係を結んでいた。ハザール人は、ルス人の交易ルートを押さえ
ることができ、ビザンチン帝国やイスラム教国を目指して 国を通り抜けていく全ての
貨物に10%の税金を課すこともできた。

1706: 名無しさんAA:18/11/09 01:20
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 132 

 ところが、この時期のハザール王国内では、国の未来を左右する大きな変動が生じて
いた。9世紀初頭のオバデア王の国政改革(799〜809年)でユダヤ教に改宗して
しまったのである。これによってハザール王国は世界史上、類を見ない「ユダヤ人以外
のユダヤ教国家」となった。しかし、ハザール王国のユダヤ教への改宗は、次第に悪い
結果を生み出していった。もともとハザール王国は、人種的に異なる種族が混ざり合っ
たモザイク国家である。ハザール王国のユダヤ教への改宗は、国を統一するどころか、
なんと、これまでハザール人によって統括されていた国内の微妙なバランスを崩すこと
になって、ハザール人の貴族同士の間では、ユダヤ教を受容する王国中心部のグループ
と、首都や王とは離れたていた地方在住のグループの対立が目立つようになっていった
。そしてついに835年頃、内乱の火の手が上がり、支配者側が勝利すると、反乱者の
一部は皆殺しにされ、一部は国外に逃れる事件となった。この事件は、反乱を起こした
有力貴族の部族名から「カバール革命」と呼ばれる。この有力貴族は家族とともにボル
ガのロストフの地に亡命したと言われる。このロストフはルス人の商人団が築いた根拠
地のひとつであり、ここで、ルス商人団の長の娘とハザール人の反乱貴族の長の息子と
の婚姻が行われた。ルシ族とはルーシ族とも言われる。こうして「ルーシ・ハン国」こ
うして後のキエフ・ロシア国の前身が成立したのである。後にハザール王国の後継者と
してビザンチン帝国に公認されるようになった。ルーシ族は帝政ロシア時代の民族主義
的な人々は、「ルーシにおけるヴァイキング」という概念からノルマン人の事とされた
が、今だ論争は尽きず謎とされる。862年、ロシア史の中で決定的な出来事が起きた
。ルス人リューリク大公の配下が、それまでハザール王国の支配下にあったドニエプル
川沿いの重要都市「キエフ」を無血併合したのである。キエフという名前は、もともと
はハザールの将軍クイの砦からついた名前であった。やがてこのキエフはルス人の町と
して発展し、「ロシアの町の母」となり、この町の名をとった公国「キエフ・ロシア国
(キエフ・ルーシ)」が、最初のロシア国家の揺籃となった。ルス人がキエフに住み着
いてから、ビザンチン帝国に対するルス人(ルーシー族)の脅威はますます増加して、
この後200年の間、ビザンチン帝国とルス人の関係は武装闘争と友好的条約の間を行
ったり来たりしてきた。つまりユダヤ国家から離れてユダヤに戻れなかったのがロシア
人と言うロシア正教会だったのである。このヴァイキング説から行けば多神教だった事
になる。

1707: 名無しさんAA:18/11/09 01:25
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 133 

 ビザンチン帝国とキエフ・ロシア国は、浮き沈みはありながらも次第に親交を深め合
うようになる。それにつれてハザール王国の重要性は減少していった。ハザール王国は
、ビザンチン帝国とキエフ・ロシア国の通商ルートを横切っており、増大する物資の流
れに10%の税をかけるハザール人の存在は、ビザンチン帝国の国庫にとっても、キエ
フ・ロシア国の戦士商人にとっても苛立ちの原因となっていった。9世紀末あたりから
、ルス人の艦隊が、ハザールの海「カスピ海」沿岸を侵略するようになった。そして、
913年、800隻からなるルス人の大艦隊がやってくると、事態は武力衝突へと進展
し、カスピ海沿岸で大量の殺戮が行われた。この侵攻によって、ルス人はカスピ海に足
場を築く。965年、キエフ・ロシア国のスビャトスラフによって、ハザールの防衛の
「サルケル砦」が陥落してしまった。このあと、ハザール王国の首都イティルも攻撃を
受けた。ところで、『原初年代記』によれば、986年にハザール王国のユダヤ人が、
キエフ・ロシア国のウラジーミル大公にユダヤ教改宗を進言したとある。しかし、ウラ
ジーミル大公は、988年に、先進的な文明国であったビザンチン帝国(東ローマ帝国
)からキリスト教を取り入れ、この地にキリスト教文化を広めることになった。これ以
後、ハザール・ユダヤ人は、ロシア人に改宗を挑んだ者としてキリスト教会側から敵意
をもって見られるようになってしまう。また、同じ時期にウラジーミル大公はビザンチ
ン帝国の王女アンナと結婚。これによって、ハザール王国とビザンチン帝国の「対ロシ
ア同盟」は終焉し、それに代わって、ビザンチン帝国とキエフ・ロシア国の「対ハザー
ル同盟」ができたとされる。なお、当時、この地域で帝国としての地位を認められてい
たのは、ビザンチン帝国、アラブ帝国(アッバース朝)、それとハザール王国の3つで
あった。キエフ・ロシア国のウラジーミル大公に嫁いだのはビザンチン帝国の、王女ア
ンナであったが、アンナはその前にドイツのオットー2世に求婚された際、これをすげ
なく拒否している。理由は簡単に言えば格が違うというものであった。そのアンナが、
同じ帝国でなかったウラジーミル大公に嫁いだということは、ビザンチン帝国とキエフ
・ロシア国の格が違わなかったことを示している。それはキエフ・ロシア国がハザール
王国の後継者でもあったからでもあった。こうしてロシアもハザールも正教会と言う、
多神教のキリスト教会を作った。ユダヤを捨ててもキリストやイスラムにならなかった

1708: 名無しさんAA:18/11/09 01:25
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 134 

 ウラジーミル大公が、ビザンチンなど西側の文献で、時々、ハン(汗)とかカガン(
可汗)というトルコ系(ハザール)特有の呼び名で呼ばれているのは、これを反映して
いる。ビザンチン帝国とキエフ・ロシア国の「対ハザール同盟」ができてから数年後の
1016年、ビザンチン・ロシア連合軍はハザール王国に侵入し、ハザール王国は再び
敗北を喫した。ハザール王国東部諸都市は灰燼に帰し、壮大な果樹園やブドウ畑は焼き
払われた。ハザール王国の西部方面のクリミア半島含む地域では、比較的被害は少なか
ったが、都市は荒れて交易路も乱れた。10世紀半ばの首都イティル陥落によってハザ
ール王国は大きなダメージを受けたが、それ以後13世紀半ばまで、領土こそ縮小した
ものの独立を保ち、なんとかユダヤ教の信仰を維持し続ける。ちなみに、ハザール・ユ
ダヤ人のコミュニティは、もとハザール王国の重要都市であったキエフの町を中心にし
て、近郊にも存在していた。ハザール王国の崩壊期に、ハザール人が近郊に多く流入し
て強化されたといわれる。事実、ロシア年代記に「ゼムリャ・ジュドフカヤ(ユダヤ人
の国)」から来る「ジェドヴィン・ボガトウイル(ユダヤの勇士)」達に何度も言及し
ている。この後、キエフ・ロシア国はハザール王国の衰退に乗じてこの地域の主権を握
り、西のカルパチア山脈から、東のボルガ川、そして南の黒海から、北の白海にかけて
勢力を誇るようになったわけだが、ロシア人とそのスラブ系臣民は、草原の遊牧民戦士
たちが駆使する機動戦略、ゲリラ戦法に対処できなかった。遊牧民の絶え間ない圧迫の
結果、ロシア戦力の中核は徐々に南の草原地帯から北の森林地帯へ、敗退していった。
ガリチア、ノブゴロド、モスクワの大公国へと移っていく。ビザンチン帝国では、新た
な同盟国キエフ・ロシア国が、ハザール王国の後継として東ヨーロッパの護衛と通商の
中心になるだろうと予測して攻撃したのだったが、実際はそうなるどころか、これによ
ってキエフの衰退は速く、ロシア疲弊の素となった。これはロシアの歴史の第1章の終
わりで、その後はロシアの重しがとれて、1ダースもの独立した大公国が出来、互いに
果てしなく争いあう空白の時期、スラブ版戦国時代幕開けした。この力の空白地帯に新
たに乗り込んできたのが遊牧民族のクマン人(ポロヴェツ人)である。彼らはハンガリ
ーに至るまでの草原地帯を11世紀終わりから13世紀にかけて支配した。それに続い
て今度はモンゴル人が侵略してきた。それがジンギスカンやオスマントルコの民だった。

1709: 名無しさんAA:18/11/09 01:31
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 135 

 1223年、ロシアの地にモンゴル軍が出現した。この時のモンゴル軍はチンギス・
ハンの大遠征の別働隊で、カスピ海の南回りでカフカーズを通り、南ロシアを荒らした
。そして1236年、チンギス・ハンの遺命によって、チンギス・ハンの孫のバトゥ・
ハンもヨーロッパ遠征に出発した。ボルガ河畔から、ロシアに侵入したバトゥ・ハンの
遠征軍は、キエフ・ロシア国を壊滅させ(キエフ占領)、ロシアの主要都市を 次々と
攻略した。さらにその一隊は、ポーランド、ハンガリーまで攻め込んだ。こうしてバト
ゥ・ハンの遠征軍はヨーロッパ世界に脅威を与えたが、オゴタイ・ハンが没すると、バ
トゥ・ハンの遠征軍はボルガ川畔まで後退し、カスピ海に注ぐボルガ川下流のサライを
首都として1243年「キプチャク汗国」を建てたとされる。こうして、キプチャク汗
国はロシアの大部分を支配することになり、その領土の外にあった諸公国も従属関係に
入り、ここに歴史家の言う「タタールのくびき」が始まった。ちなみに、この「キプチ
ャク汗国」が首都にした都市サライは、またの名をイティルといった。すなわちハザー
ル王国の首都だった都市である。このことで謎が多く、ハザール王国がいつ滅亡したの
か具体的な記録は残されていないが、この時期1243年、ハザールの中心部はバトゥ
・ハンの権力下に吸収され、ハザール王国は「完全に崩壊」した。とされる。尚、丁度
この時期に、バチカンの情報網は、離散したハザール人についての記録を残している。
1245年、ローマ教皇イノセント4世は、「キプチャク汗国」のバトゥ・ハンに使節
団を送っている。新しい世界情勢とモンゴル帝国の軍事力を探るのが主な目的であった
。使節団はドイツのコローニュを出発し、ドニエプル川とドン川を通って1年後にボル
ガ川流域の下流にある「キプチャク汗国」の首都に無事到着した。この使節団の長だっ
た修道士カルピニは、帰国したあと、有名な『モンゴル人の歴史』を書いた。その歴史
的、人類学的、軍事的資料の宝庫の中には、彼が訪れた地域に住む人々のリストもある
。そのリストの中で北部コーカサスの人々を列記した中に、アラン人やチュルケス人と
並んで「ユダヤ教を信じるハザール人」の名がある。今のところ、この記録が民族とし
てのハザール人についての最後の「公式記録」とされている。ところで、ハンガリーの
歴史学者アンタル・バルタ博士は、著書『8〜9世紀のマジャール社会』でハザール人
に数章をあてている。8〜9世紀のほとんどの期間、マジャール人(ハンガリー人の祖
)はハザール人に支配されていたからである。しかし、ユダヤ教への改宗には、一節を
あてているのみで、しかも困惑もあらわである。

1710: 名無しさんAA:18/11/09 01:33
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 136 

 「我々の探求は思想の歴史に関する問題には立ち入れないが、ハザール王国の国家宗
教の問題には、読者の注意を喚起しなければならない。社会の支配階級の公式宗教とな
ったのはユダヤ教であった。いうまでもなく人種的にユダヤ人でない民族がユダヤ教を
国家宗教として受け入れることは、興味ある考察の対象となりうる。しかし、我々は次
のような所見を述べるにとどめたい。この公式のユダヤ教への改宗は、ビザンチン帝国
によるキリスト教伝道活動や、東からのイスラム教の影響 および これら二大勢力の
政治的圧力をはねつけて行われた。しかも、その宗教はいかなる政治勢力の支持もなく
、むしろほとんどすべての勢力から迫害されてきたというのだから、ハザール人に関心
を持つ歴史学者すべてにとって驚きである。これは偶然の選択ではなく、むしろ王国が
推し進めた独立独歩政策のあらわれと見なすべきである。」と。紀元740年、黒海と
カスピ海に囲まれた「ハザール」(カザール)という名で知られる地、ほぼ全土が今日
のグルジアに当たるが、ロシア、ポーランド、リトアニア、ハンガリー、ルーマニアの
一部にまで及んでいたその地に、現代のユダヤ民族は誕生した。ちなみに、現代のユダ
ヤ民族は、ユダヤ人ではない。なぜ、そのようなことになったのか。ハザール(カザー
ル)王国の人々は攻撃に曝されていた中で悩んだであろう。イスラム教徒とキリスト教
徒の両側からはさまれたハザールは、常にその双方からの攻撃に脅えていたのだから。
ハザールの人々は、イスラム教もキリスト教も信仰せず 偶像崇拝を行なっていたため
、それぞれの宗教に改宗させようとする人々が今にも侵攻してこようというところまで
きていたがその双方が受け入れ難かった。ハザールのブラン国王は、自国を攻撃から守
るには国民を二つの宗教のいずれかに改宗させるほかないとの決断を下した。だが、ど
ちらにも悩みがある。イスラム教に改宗すれば、キリスト教徒から攻撃され、キリスト
教に改宗すれば、イスラム教徒に攻撃される。国王は、イスラム教ともキリスト教とも
折り合いをつけられるもう一つの宗教があることに気づいた。それがユダヤ教である。
国民をユダヤ教に改宗させれば、イスラム教徒とキリスト教徒のどちらの機嫌も損ねな
くてすむ。どちらの人々もユダヤ人とは快く交易を行なっていたし、旧約聖書を信奉し
ている宗教だったからだ。そこで王は、これを実行したのである。ブラン王は正しかっ
た。王は、自国が侵攻を免かれ、国民がユダヤ教に改宗して、最も神聖なるユダヤの書
「タルムード」の教えを取り入れるのを見届けるはずだった。だが、王がこの世を去っ
た後、彼が夢にも思わなかった様々なことが起こったのである。

1711: 名無しさんAA:18/11/09 01:44
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 137 

 それが先の滅亡の歴史である。ユダヤ教に改宗したハザール王国の人々は、やがては
全世界のユダヤ人口の約1800万人の90%を占めるに至った。そして、実際にはユダヤ
人の血筋ではなくユダヤ教に改宗したアジア人種〔白色トルコ系遊牧民族〕であり、尚
かつヘブライ語とは全く異なるハザール王国の言語「イディッシュ」を使い続けている
にもかかわらず、自らをアシュケナージ・ユダヤ人(ドイツのユダヤ人)と称していた
。また、このハザール王国は1243年滅亡したが、その血筋からは、ブラン王よりはるか
に強大な力を持つ一人の男を祖先とする一族が生まれた。その男とは、これより1000年
あまり後にドイツで生まれ、ロスチャイルド王朝の父祖となったバウアーという人物で
ある。この一族が嘘と陰謀で世界中の富を奪い、そうして蓄えた莫大な資産をもとに、
資金提供を行なうとともに、世界の貨幣供給量を陰で操り、さらにまた世界から富を吸
い上げることになろうなど、ブラン王は知る由もなかった。ましてや、ハザールの民が
当然の権利としてパレスチナに祖国を築くことを要求し、1948年の建国以来、アシュケ
ナージ・ユダヤ人を歴代の首相に据えさせるとは思いも寄らなかっただろう。アシュケ
ナージ・ユダヤ人の真の祖国は、そこから1300キロほど離れたハザールだというのに。
そして、自らの民が「悪魔の会堂」(サタンのシナゴーグ) という 聖書の予言を実現す
るとは夢にも思っていなかったはずだった。こうしてクリミヤ半島域はこの後追われた
ユダヤ人達の農奴の生活から、抜け出す闘争が始まるのである。1993年、テルアビブ大
学の教授の言語学者ポール・ウェクスラーは、イディッシュ語がスラブ系言語に起源を
持ち、後にドイツ語の語彙を取り入れたものであることを示し、東欧のアシュケナジム
はユダヤ教に改宗したスラブ系およびトルコ系民族に、ごくわずかの中東系ユダヤ人が
合流したものであるとする事を発表した。イディッシュ語スラブ系説によれば、イディ
ッシュ語はライン川地方に起源をもち、変形したドイツ語を基礎に、スラブ諸語、ヘブ
ライ語、アラム語、ロマンス諸語からの借用語を交えたものとされた。この説は12世
紀以前に、ユダヤ人との接触やキリスト教化への反発を背景に ユダヤ教に改宗したス
ラヴ人がアシュケナジムの主体となったと説明しており、ハザール起源説と言うより、
スラヴ起源説の色がある。

1712: 名無しさんAA:18/11/09 01:45
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 138 

このイディッシュ語スラブ系説が正しいとするなら、カザール王国がユダヤ教に改宗し
た時に、その周辺にいたスラブ人も影響を受けてユダヤ教に改宗したのではないだろう
か。その後、カザール王国がモンゴル帝国に滅ぼされた時に、トルコ系のカザール人た
ちはユダヤ教徒のスラブ人とともにポーランドに逃げ込んで、そこでスラブ人たちが中
心となってドイツ語の語彙を取り入れながら イディッシュ文化を開花させたことにな
る。この説は合理的かつ画期的ではないだろうか。この説明は、なぜロシア人(スラブ
人)の中にユダヤ教徒が多いのかを説明できる有力な説だった。こうした移動を考える
ならば、ドイツ人こそがフン族であり、ヒットラーはチンギスカーンの生まれ変わりと
いう事ににもなりかねない。ユダヤ人の過越祭(ペサハ)は、かの有名なモーセによる
「エジプト脱出事件」(紀元前1290年)にルーツを持っているが、同じく、日本の
年越しも鳥居もこの大事件にルーツを持っているといわれている。モーセは、かたくな
な心を持つエジプト王ファラオにヘブライ奴隷集団の脱出を認めさせるため、一種の魔
術競争をしかけたのであるが、エジプト脱出前日に「殺戮の兵」がエジプト全土に襲い
かかって来た。その時、モーセはヘブライ人たちに「殺戮の兵」の害に合わないために
と、玄関口の二本の柱と鴨居に羊の血を塗らせ、「殺戮の兵」が静かに通り過ぎるまで
に、家の中で待つように指示したのであるが、これこそが鳥居のルーツであり、年越し
のまつりのルーツである。とされる。「殺戮の兵」や「殺戮の天使」は暴徒であり体制
の兵でもある。神社につきものの「鳥居(とりい)」は、外国人のみならず日本人自身
にも説明がつかない代物とされる。しかし、ユダヤ人が見れば即座に理解できる。なぜ
ならば、「鳥居」の形は古代ヘブライの建物(玄関口)とそっくりの構造をしているし
、赤い色をしていることにはしっかりとした宗教的根拠があるためである。と説明され
過越祭(ペサハ)はユダヤ教でいう新年の祭りで、ユダヤの祭日のうちで最古、かつ最
大のものである。その日は、日本の年越しと同じように、家族で寝ないで夜を明かす。
更に過越祭の日だけは普段と食べるものが違っていて、いつもはふっくらとしたパンを
食べるのであるが、この日に限って「種なしのパン(マッツォ)」を食べる。この種な
しパンは日本でいう「餅(モチ)」に当たる。しかも、ユダヤ人は丸く平べったい種な
しパンを祭壇の両脇に重ねて供えるのだが、まさにこれは日本の「鏡もち」以外のなに
ものでもない。また、過越祭は全部で7日間と規定されており、これも日本の正月の期
間と全く同じである。と説明される


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