1つめの記念スレ


@3ch掲示板 > 1つめの記念スレ
全部1- 101- 201- 301- 401- 501- 601- 701- 801- 901- 1001- 1101- 1201- 1301- 1401- 1501- 1601- 1701- 最新50

1つめの記念スレ

1: 騎士剣:05/11/09 17:24 ID:A/yxhPTA
勝手にスレを書き込んで勝手にレスをつけてくれぃ

1001: 名無しさんAA:18/03/14 21:16
加藤清正の伝説では、各地に散らばった「九千坊」の手下の狼藉に業を煮やした清正は
、あるとき、自分の小姓が河童に殺された事を理由に全軍を挙げて河童を攻め立て、遂
には、河童が最も苦手とする猿の大群を用いて「九千坊」を捕らえようとした。度重な
る清正の猛攻に為す術も無く敗走を続け、「九千坊」が逃げ込んだ先は、有馬公が統治
する福岡の筑後川であったと言う。有馬公は寛大にも「今後人畜に悪さをせぬと誓うな
ら、以後、我が領土にて暮らす事を許してつかわす。」と「九千坊」に申し渡した。「
九千坊」は有馬公に感謝し、以後、水天宮(水の神様)の眷属として領民を水害から守
る事を誓ったと言う。「九千坊」にまつわる伝説の背景には、戦国時代に九州各地で猛
威を振るっていた、渡来民を先祖に持つ海賊の存在があったと伝えられ、有馬公が「九
千坊」を調服したと言うエピソードには、そうした海賊を自身の配下に加え、戦力の強
化を狙ったと言う真実が隠されていると言う説がある。「九千坊」を始め、九州の河童
に多分に任侠じみたイメージが付き纏うのも、恐らくその所為だろう。だが柳川伝説は
もう一つ違う逸話が残る。先の金丸川の地に多くの民が田畑を興し、この祁答院が戦乱
の末廃れて、筑後川と矢部川が水争いをした。ここに藤丸氏がいた。藤丸氏は早くから
の住民で藤丸氏の始祖は大川から大牟田までの名も無い豪族で安曇磯良丸の子孫であっ
たとされる。神宮皇后時代に応神天皇が崩御した折に香椎の木で御棺を造るのだが、そ
れは桶形だった、その為造るまで箱崎神宮で急拵えの小舟の御棺を用意したのが藤丸氏
だったとされる。したがって、その時藤をして飾りたてて葬式した場所が箱崎神宮と言
う事になる。実は他の八幡社に対して恐れ多いが、何故筥崎八幡でそうした事が行われ
たかと言えば かの神社が八幡社の走りであったからだ。三つ巴紋の家紋は実は波の紋
渦巻き紋である。海人族のそれも古い渡来系の家紋である。彼らの集まる所或いは交易
の市場であった事が色々事実としてある。船の調達にはここが一番であったのだろう。
しかし藤丸家の家紋は大方は4分木瓜紋である。実はこれは5分木瓜と大きく関わる。
つまり藤丸氏は十字架の流れのキュウリ紋で彼らを従えたのだ。そしてその渡来系の人
をして土木建築に関わらせた一族であったのである。古さからもその地方の豪族として
名の無い大きな支配者であった。しかし彼らも又、時代と共に争いの中に入り込むのだ
。加藤清正は柳川の立花氏とは盟友でもある。これは、蒲池氏時代に遡る。知っての通
り蒲池氏は大友宗麟の外国かぶれに疫癖している所に、嫁のァ千代氏の父親である竜造
寺にやられてしまう。その頃は蒲池氏は高良大社の領地を支配していた。その時まで高
良大社や玉垂れ宮をして陰陽道と連絡したのが藤丸氏である。藤丸の丸は海人族の祖の
「安曇磯良丸」の丸だったのである。又清正の話は成富茂安の話と同じである

1002: 名無しさんAA:18/03/14 21:17
  富安君を探せ              < その38 >

 八女の霊厳寺は中国の霊厳寺とも関係は深い。中国には中国天台宗の宗祖として国清
寺もある。国清寺は智によって建設がはじめられたが、その没後、隋の開皇18年(
598年)に完成した。はじめの名前は天台寺と言ったが、のちに国清寺に名を改めた。
会昌の廃仏毀釈でいったん廃止されたが、大中5年(851年)に再建された。国清寺は隋
以来たびたび天災・人災に遭い、何度も再建されている。現在の建築は清の雍正年間以
降に再建されたものである。文化大革命でも大きく破壊されたが、周恩来の命令によっ
て再建された。この中国の災難によって日本にやって来たとされるのが、河童たちだ。
彼らが天台宗で日本と言う情報や天台宗で救われたのは当然だった。河童がどこから来
たのかは諸説がある、又地域によって様々な伝承が残される、代表されるのは八代河童
の大陸渡来伝説だろう。八代の河童を束ねていたが「九千坊(きゅうせんぼう)」とさ
れ仁徳天皇の時代(313年〜399年)に大陸から九千匹の部下を引き連れて渡来し
、住み着いたのが緑川や球磨川のほとりに住んだといい熊本では「ガラッパ」または「
ガワッパ」と呼ばれている。つまり加藤清正が退治したのは八代であったと言うのであ
る。ここには二つの石を組み合わせて河童渡来之碑。を祭る。石の表面には、「中国か
ら九千匹の河童が海を渡って八代にやってきた」書かれている。この大陸から渡ってき
た河童は捕まり、「この石(渡来碑)がすり減るまで悪さはしない」と誓った。とされ
る。九州のカッパは、亀のような甲羅を背負い、頭に皿を乗せた現在一般的な姿とは違
った川の中の猿という姿である。降参した河童たちは熊本を追放されて久留米(福岡県
)の有馬公の許しをもらい田主丸に住みついた筑後川に移り住んだ後、改心して水天宮
の使いを果たすようになった。と言われ、その後黒田の福岡城の夜の工事を果たしたと
言われる。碑の傍では5月5日に「オレオレデーライタ川祭り」がある。オレオレデー
ライタとは「呉(中国)からよくいらっしゃいました」というような意味だそうだ。河
童がイタズラをしないなら代わりに供え物をすると約束したのが始まりと言われ、子供
の水難防止を祈願するものだ。しかし、柳川では立花氏は久留米有馬藩と佐賀鍋島藩と
に境界争いが起こったとされる。多くは、その頃徳川の献上品が貧乏だった鍋島藩は、
有明の珍味として「海茸(ウミタケ)の干物」を送っていたとされ、それを柳川近くで
取ったからだ。とされる。だがこの漁民の争いはどうも反射炉問題があったようだ。


1003: 名無しさんAA:18/03/14 21:17
 富安君を探せ              < その39 >

 そこでは、柳川の津村氏が水天宮に決めてもらうと公平だと言いだしたと言われて、
久留米藩を巻き込んだ境界決めに至る。水天宮宮司が芝花を川にに流しそこが境界にす
る事になった。三者同意の上で流しそれが今の県境とされる。だが何故か双方に入り組
んでいる。それは堤防決壊に悩んだ成富茂安は対岸に水流が行く様に盛んに蛇籠堰と言
われる羽だし制水提を作り双方が作り出したからだ。と言われる。この技術に石橋氏が
いた。滑らかに蛇籠石とされる石垣を造る技術は、村上氏の家系である石橋氏が始祖と
される。熊本のこの石積技術は高く、双方がその技術を求めたがそれらの技術は更には
熊本城の反りの技術に繋がったとされる。その為熊本城より古く久留米篠山城は早くか
ら精密ではなかったが反りを入れた城壁を作ったとされている。恐らく日本最初の反り
であろう。何故ならその後も土庚呂で造船施設の様に床石まで貼ったとされる。そこは
かつて成安と戦った石丸城跡の墓所となったと言う。多分成富茂安と闘った人の墓だろ
う。成富茂安は江上一族の人だ。江上氏はその名の通り江曲(えこん)河とされる海の
入り江の上座に座った一族とされる。その為山の大きな戦乱と戦禍に巻き込まれ十数種
の家紋を有していた。同じ姓でも出自やいわれが違いまたその時々で大将を変えたから
だ。江上氏は覇瀾の将とも言える。江上氏は九州大蔵氏の流れで、他の大蔵一族と同様
に代々通字として「種」の字を用いていた。大蔵氏の祖先は漢の高祖といい、大化年中
(645〜649)に日本に帰化した人とされる。最後の帰化人で漢氏を名乗った一族の後裔
と伝えられる。「漢」は後漢帝国に由来し、霊帝の末裔を称している。新羅征討計画の
際には兵器の製作を担当し、崇峻天皇暗殺の際にも東漢氏の東漢駒(東漢直駒)が暗殺
の実行役だった。蘇我氏の臣下だったが、壬申の乱の際には、蘇我氏と袂を分かれた。
奈良時代以降も武人を輩出し平安時代初期には蝦夷征討で活躍した坂上氏の坂上苅田麻
呂・田村麻呂親子も一族とされる。大和朝廷では官物を納めた蔵の護衛である大蔵に仕
えたことから、大蔵を氏として朝臣の姓を賜ったといわれる。大蔵氏が九州と関わりを
もったのは、天慶四年 (941)に起った藤原純友の乱で、大蔵春実は源経基・小野好古
らとともに、乱の鎮定のために出陣した。乱後、軍功により原田の庄を賜り太宰府の中
で府官に任ぜられ、子孫が鎮西各地に広まった。原田家もその流れであると言う。



1004: 名無しさんAA:18/03/14 21:17
 富安君を探せ              < その40 >

『城島町史』によれば、純友の乱で軍功をたてて、江上の地に住んだ。二代長種には二
子があって長子を四郎種冬、次子は三郎忠種といったという。忠種の孫氏種(一本では
種宗)の時、元冦の役に遭遇して出陣、軍功により肥前国神埼荘地頭職を賜ったことか
ら肥前と関係をもつようになった。という南北朝時代は江上近種(えがみちかざね)の
時代だが、近種は元弘三年(1333)、菊池氏同様、二品親王(護良親王)の命を奉じて
宮方として行動した。しかし中世以降の鎮西の争乱で江上氏の動向については必ずしも
片方についてはいない。筑後の国衆として勢力を維持し大きくなったが、天文年間に、
(1532〜55)における筑後国には、上蒲池・下蒲池・問註所・星野・黒木・河崎・草野
・丹波(高艮山座主)・高橋・江上・西牟田・田尻・五条・溝口・三池の大身十五家が
あって結束を固め、これを筑後の十五城と称した。しかし元寇の後の軍功で江上・高橋
の両氏の領地は筑後に限らず、のちに肥前・筑前側の領分にも民を配していて実際には
十三城であった。南北朝時代を経て室町時代に至ると、幕府管領畠山氏や斯波氏の家督
争いが起り、幕府の威信は翳りを見せた。さらに、将軍継嗣問題から、応仁元年(1467
)に応仁の乱が起ると、極めて不穏な世の中に、群雄割拠する戦国時代となった。室町
時代の九州は、九州探題に渋川氏が任じられ、それを周防の大内氏が支援するかたちで
豊前・筑前の守護職に補任され中国武者に北九州に勢力が奪われていた。これに対して
、鎌倉以来の鎮西の名族少弐氏が大友氏と結んで菊池一族と対立するという構図になっ
ていた。永享五年(1433)、少弐満貞は菊池氏を諜報を謀り衰退に追い込んだが、大内
持世と戦って敗れて自刃した。翌年、少弐満貞の弟の横岳頼房は、探題渋川満直を攻め
、これを肥前神埼で討ち取った。江上氏十二代の肥前守常種も頼房に味方して活躍し、
勢福寺城を新たな本拠にして少弐氏を助けつつ、国人領主として勢力を拡大していった
。ところが、文明二年(1470)常種は大内氏に近づき一揆と戦って討死し、子の興種の
は少弐氏に攻められて福寺城を失った。この為小田氏の蓮池城を頼って蓮池城に移った
。その後、大内義興が豊前・筑前への支配を強め、豊後の大友氏は穀倉筑後を征圧して
、少弐氏は肥前を本拠に筑前の回復を企てていた。十四代元種は少弐氏を援けて勢福寺
城に入り、天文八年(1539)、東肥前に侵攻してきた大内氏の大将陶興房(道麒)と戦
った。この戦いで江上勢は、太鼓を打鳴らし突然に鬨(とき)の声をあげて攻めかかり
、それに驚いた大内軍は散々な敗北を喫した。翌年、ふたたび軍を起した陶氏道麒は、
まず筑後に打入ると久留米安武城の豊饒美作を攻略、敗れた豊饒が肥前東津(鹿島)に
奔ると、これを追撃して筑後川を押し渡り肥前になだれこんだ。

1005: 名無しさんAA:18/03/14 21:18
  富安君を探せ              < その41 >

少弐氏は資元・冬尚父子の代で、江上元種は資元・冬尚父子を護って勢福寺城に立て籠
った。これに少弐氏恩顧の諸将が続々と馳せ集り大内軍を迎え撃った。このときもっと
も活躍したのが龍造寺家兼で、大内軍は散々な敗北を喫して潰走した。度重なる敗戦に
業を煮やした大内義隆は、みずから三万の大軍を率いて筑前に出陣してきた。これには
さすがの少弐方も打つ手がなく、龍造寺家兼らの意見もあって資元・冬尚父子は勢福寺
城を明け渡した。しかし、義隆は追撃の手を緩めず、多久に逃れた資元は切腹、冬尚は
筑後に逃げ落ちていった。だが毛利氏勢は富安城白鳥城大津山城小岱山城と攻めて、こ
うして、大内氏の勢力が北九州の殆どを席巻した。筑後に逃れた冬尚は、その後、蓮池
の小田資光を頼って再起をねらった。冬尚は龍造寺家兼の佐嘉水ケ江城を訪れて協力を
請い、家兼の尽力で勢福寺城への復帰がなった。そして、家兼は弟の龍造寺家門を執権
とし、それに江上元種、馬場頼周を補佐と定め、少弐冬尚は一応の安泰をえた。天文十
年、冬尚は大友義鎮と筑前で会合し、大内氏への対抗策をこらした。冬尚は家兼の支援
によって勢力の回復をえたものの、父資元は滅亡し、龍造寺家兼が大内氏に通じた結果
という思いが捨てきれなかった。そこに、龍造寺氏の台頭を危惧する馬場頼周が、謀略
をもって龍造寺氏を排斥しようと企てていた。天文十四年、馬場頼周は冬尚を説き、自
城の家門ら龍造寺一門の主だった六人を謀殺した。思いがけない非運に見舞われた家兼
は、筑後の蒲池氏を頼つて肥前から逃れ去った。家兼をはじめ龍造寺一門は少弐氏の中
で柱石であり、この一挙は、少弐氏自滅の原因となった。翌年、鍋島氏の活躍で肥前に
復帰した家兼は、仏門に入っていた孫の法師丸を還俗させて龍造寺家を継がせた。法師
丸は胤信(のち隆信)と名乗り、天文十六年、大内義隆と結び少弐氏追討の軍をおこし
た。冬尚は江上元種をはじめ譜代の武士を集め、龍造寺軍と戦ったが目達原の合戦で敗
れ、元種は冬尚を守つて筑後に逃れ江上城に隠居した。元種のあとは、武種が江上氏の
家督となって少弐冬尚を支えた。天文二十年(1551)、大内義隆が陶隆房の謀叛によっ
て殺害された。大内氏も陶氏は柱だったが大友氏の諜略に乗った形だった。こうして又
北九州の情勢は大きく動いた。俄然大友氏の勢いが強くなり、少弐冬尚も大友氏と結ん
で龍造寺隆信討伐の軍を起こした。江上武種も神代・小田・本告・犬塚らの諸氏ととも
に冬尚に加担した。


1006: 名無しさんAA:18/03/14 21:19
  富安君を探せ              < その42 >

 これには、さすがの龍造寺隆信も力及ばず、降伏勧告を受け入れて佐嘉城から落ちて
いった。隆信を肥前国内から追放した冬尚は、龍造寺鑑兼を龍造寺家の当主に据えて、
土橋栄益を家宰とし、神代勝利・高木鑑房らに佐嘉城を守らせた。江上武種は、冬尚の
執権となって神埼・三根の二郡を領した。丸に隅立四つ目結の旗印はのちに梅鉢紋に代
えて用いた。筑後の蒲池氏のもとで庇護を受けていた隆信は、永禄元年(1558)、少弐
氏討伐の軍をあげると勢福寺城を囲んだ。江上・神代らの少弐勢は隆信の猛攻をよく防
いで、城は容易に落ちなかった。やがて年末に至り、隆信と少弐・千葉・江上氏らとの
間に和議がなり、龍造寺勢は城の囲みを解くと佐嘉へと帰陣していった。しかし、翌年
永禄二年正月、突如として軍を起こした隆信は神埼口より城原に攻め入り、勢福寺城を
包囲すると四方より攻撃を加えた。少弐・江上方は虚を衝かれて防戦も思うにまかせず
、ついに江上武種は切腹しようとしたところを鍋島信昌に止められ、隆信に降って筑後
へ落ちていった。少弐冬尚も武種に去られては万事窮すで、ついに冬尚は自刃して少弐
氏は滅亡した。その後、江上武種は龍造寺氏に属したが、大友氏の来攻にあたって隆信
が救援の約束を守らなかったことで肥前佐賀と離れ、大友氏に従った。しかし、大友軍
が撤退すると、今度は龍造寺方から攻められ、重臣執行氏の進言で和議をとりつけた。
その結果、武種は隠居し、隆信の次男家種を養子にして江上家の存続をはかった。戦国
時代後期の中で九州は、大友宗麟が最大の勢力を有し、南九州の島津氏が、北上作戦を
展開するようになった。これに肥前東部を征圧した龍造寺隆信の勢力が絡まって、三者
鼎立状態となった。そのような天正六年(1578)、大友氏と島津氏が日向で戦い、大友
氏は壊滅的敗北を喫した。にわかに勢威を失墜した責任が龍造寺と接していた筑後蒲池
氏に及んだ。日向の伊東氏と島津の攻防は昔からだった。これが戦好きの大友宗麟が仕
組んだ伴天連の神の国作りの妄想だったからだ。父蒲池鑑盛は「義心は鉄のごとし」の
人間で彼と縁戚に任せて 居城を守る事にしたかったが大友氏はそれを許さなかった。
飫肥城の戦いは熾烈を極めて蒲池鑑盛は戦死した。鑑盛は宗麟からの命を受けて数々の
戦功をたてていた。中でも龍造寺氏の村中城攻略戦では、田尻氏と共に数十隻の兵船で
筑後川を渡り、合戦への参加したりして宗麟からの感状を幾度も受けている。しかし、
この日向国での耳川の戦いには、初老の身で病身だった上に、今回が毛利氏と竜造寺と
島津氏が幾らかの協定がある事が伝え漏れていた。嫡子の鎮漣や三男の統安と共に3千
の兵を従えて出陣したが想いあぐねていた。既に家督を継いでいた鎮漣には大友氏から
離心しており、病気を口実に2千の兵と共に柳川へ帰城して防備を固めた。

1007: 名無しさんAA:18/03/14 21:20
  富安君を探せ              < その43 >

 父鑑盛との話し合いの結果の帰城だった。鑑盛は大友氏の軍に留まり、開戦後は大友
軍総崩れの状況下、直属の兵約1千を率いて島津氏の本営への突入を試みるなど奮戦し
たが大勢は揺るがず、統安と共に戦死した。「湊川の戦いの楠木正成の壮烈な最期にも
比せられる」と記された戦いだった。やはり、竜造寺氏はこの好機を逃さず攻め込んで
きていた。柳川城は、蒲池治久により築城された城郭で城下町は現在の柳川市の元とな
っていた。舞鶴城(まいづるじょう)とも称された濠の3重に囲まれた城で難攻不落の
城とされた。蒲池氏の城主時代に「柳川三年肥後三月、肥前、筑前朝飯前」と大友氏の
陣中で歌われた戯れ歌にもあるように攻略には3年かかるという九州屈指の不落の城と
謳われた。城壁の石垣は石橋家の反りの石積みが震災にも耐えたと言われている。蒲池
鎮漣が帰城してすぐの時、龍造寺隆信や鍋島直茂が2万の兵で柳川城を攻めた。僅か手
勢数千の騎馬を集めて秘かに合図して、蒲船津城に兵を置いた。2万の兵は白鳥に陣を
しきその城下町の周りを取り囲んだとされる。対して高畑を中心に三百の陣を敷いた。
水門を閉め、二つ河堰をせき止め、磯宮堰も閉めた。7日程過ぎた時朝鮮松原では石の
動かしが完了していた。堰は開けれて程なく白鳥の陣は水没して行き、ずらりと並んだ
2万の兵は戦わずして豪雨に流される事になった。移動する肥前軍には蒲船津からでて
来た追手が切りかかり高畑にも近づけなかった。ぬかるみにはまった兵は多くは溺死し
残った武者も追ってに惨殺された。今でこそ宿場町の中の今古賀や下久末だが、実はわ
ざと低地にできた街筋だった。こうして一万人規模が流され馬上の兵士も勝手が解らず
大きく敗走していた。2回3回続いては、肥後勢は2千ぐらいの将と怪我と負傷者5千
になっていて士気はなかった。仕方なしに竜造寺勢は引き揚げたのである。こうして1
年かかってもその城下町すら入れなかったとされる。柳川鍋はその時対岸で真勝寺裏で
兵が佐賀の兵に勝って対して祝宴にナマズとドジョウを食べた事から始まったとされる
。こうして戦さでは落城させることができなかった。がその後孫の祝いとして蒲池氏に
佐嘉神社を建てて暗殺を謀りそれが成功した。その時近侍の侍は蒲池氏を守り本庄を抜
け追ってを切り殺し鹿の子まで逃げ延びた6人は総勢数百に取り囲まれて討ち死にした
。その時には富安氏も蒲池氏を守り死んでいる。鹿の子の応戦である。その魂の弔いに
鹿の子神社と、お寺がたてられた。


1008: 名無しさんAA:18/03/14 21:21
  富安君を探せ              < その44 >

 叔父の田尻鑑種の仲介で龍造寺隆信と講和しての佐賀入りだったが、既に龍造寺隆信
の娘の玉鶴姫を鎮漣の妻にしていて、肥前を訪問することを要請していた為、嫌々なが
ら応じた鎮漣には佐賀にて謀殺される可能性に、この時鶴姫は一足早く佐賀入りして、
その報告に江上周りで帰郷したが一足遅かったと伝えられる。鎮漣殺害後、龍造寺隆信
は柳川の鎮漣残党退治を命じ、田尻鑑種がその尖兵として柳川に兵を進め、塩塚城に籠
もった鎮漣残党を駆逐し独立勢力として戦わせた。こうして下蒲池は滅亡した。その際
、龍造寺四天王の一人百武賢兼は、裏切りを働いたとはいえ蒲池家は龍造寺氏にとって
大恩ある家であり、これを滅ぼすことについては疑問を抱いたと言われている。鎮漣の
弟の蒲池統安は耳川の戦いで討ち死にしており、嫡子で塩塚城主だった蒲池鎮貞は龍造
寺氏との柳川の戦いで討ち死にしたが、次男の応誉は僧籍にあり、瀬高上庄の来迎寺の
第四世住職を勤めていたが、柳川藩主となった立花宗茂に招かれ、宗茂の正室のァ千代
の菩提寺である良清寺を開き、その初代住職となった。鎮漣の嫡子で柳川落城の際に殺
された幼い宗虎丸(蒲池統虎)は養父に預けられ鶏の籠の中に隠れた。しかし白浜の音
の中で夜明けに鶏が啼いて、暗闇の中で見つかって殺されてしまった。その為二の宮社
付近では昭和時代まで鶏の肉は決して食わないと言う風習が残っていた。そしてカゴメ
の詩が十時氏によって作られた。また蒲池久鎮は上蒲池氏に行く為に三潴まで逃れたが
運悪く大善寺橋にて大雨で渡し船が出ず玉垂れ宮の対岸で捕まってしまったとされる。
その為大善寺橋は代々そのずげかえには、その不幸の為にこの橋が作られたと明記され
ていた。柳川の蒲池氏滅亡後は、蒲池氏時代の造作のままの柳川城に龍造寺氏の武将で
ある鍋島直茂や龍造寺家晴が入り、居城とした。大友氏の勇将立花道雪は、柳川城を懸
命に攻めたが落とすことができず悔しがったという。鎮漣の兄で、鎮漣と同じく肥前で
討死した家老の蒲池鎮久の子の熊千代は柳川落城の時は塩塚の民家に逃れ、成長して蒲
池貞久と名のり龍造寺家晴の配下となる。家晴は龍造寺隆信とは異なり、大恩ある蒲池
鑑盛の血筋を残そうとしたのだった名跡は一族の蒲池鑑続が継ぎ、系譜上では蒲池嫡流
(下蒲池氏)の子孫とされた。こうして、龍造寺隆信は大友氏の敗戦を好機として筑後
・肥後に侵攻、飛躍的に勢力を拡大させ、ついには三州二島の太守と呼ばれるまでにな
った。

1009: 名無しさんAA:18/03/14 21:22
  富安君を探せ              < その45 >

しかしそれは長く続かなかった。天正十一年、隆信の残忍性を危惧した有馬氏が島津氏
に通じ、龍造寺方の深江城を攻撃した。その為翌年には、隆信はみずから三万の大軍を
率いて、有馬氏討伐の軍を発した。江上家種は弟で後藤氏を継いだ家信とともに出陣、
龍造寺軍の左翼を形成した。ここで戦いは島原半島の沖田畷で行われ、島津・有馬連合
軍の計略によって龍造寺軍はまさかの敗戦、隆信は戦死を遂げてしまった。父隆信戦死
を聞いた家種は有馬勢に突入して鬼神の働きをしたが、龍造寺軍は混乱して僅か七名の
従者とともに死地を脱して撤兵した。このときの戦いで、家種に従った江上衆の将士の
ほとんどが討死した。隆信戦死後は、すぐさま柳河から鍋島信昌(信生・直茂)が帰り
佐嘉城に移り、執権として体制の立て直しにつとめ、柳川城には龍造寺家晴と成富茂安
が残ったた。一方、島津軍が南から出て来ると 大友軍勢は久留米近郊で島津軍の得意
とする野間伏にあって大敗した。島津の傘下として江上家種は江上城から蒲池城に入り
、筑後の治安にあたった。が危機感を感じた龍造寺家晴が佐賀に帰る事を望み成富茂安
と袂を分けた。城を出た家晴は高島近くで江上氏と戦い全滅した。その後天正十五年に
豊臣秀吉の九州征伐が行われると、成富茂安は間隙を撃って江上城を奪いその後久留米
の笹山城に籠った。江上家種は立花宗茂、鍋島信昌ともに、先陣をになって島津軍討伐
に活躍したが、久留米の笹山城は落とせなかった。九州を平定した秀吉は九州仕置を行
うと、立花宗茂は筑後柳河を賜り、龍造寺政家は佐嘉を安堵させたが、久留米の成富氏
が佐賀に帰参する事を拒んだ。家晴を見限った事の恨みである。その為その後、秀吉は
政家に隠居を命じ、軍役を免除し鍋島氏と交渉した。そして成富茂安を鳥栖近郊に置き
やっと有馬氏を久留米藩に据える事が出来た。要害の久留米を他に差配させることには
できなかったのだ。朝鮮の役には、直茂が出陣が命じられ、龍造寺家臣団は直茂の下に
編成され、鍋島氏との主従関係が醸成された。この状態を家種は快く思っていなかった
ようだが、化け猫騒動などや朝鮮の役に出陣して釜山において死去したが、家種の死は
病死・狂死・戦死など諸説あり、無念の死であったようだ。有馬氏は5系統とも言われ
久留米藩に入ったのは摂津有馬氏、赤松有馬氏とも呼ばれ摂津有馬氏で赤松氏(村上源
氏)の庶流とされる。室町時代に摂津国有馬郡を拠点とし有馬重則は播磨国美嚢郡に進
出していて、その子の則頼は豊臣秀吉に従い後に御伽衆に列する程親しかった。則頼の
子豊氏は豊臣秀次の側近までなっている。



1010: 名無しさんAA:18/03/14 21:38
  富安君を探せ              < その46 >

 水沼大君伝説では玉垂れ宮には、良き娘がいた。水沼大君はかつて邪馬壹国の卑弥呼
・壱與と倭の五王(讃・珍・済・興・武)との間に在位した九州王朝の王の一人だった
と言う。石上神社(奈良県天理市)に伝わる七支刀は、かつて瀬高のある祠に飾られた
物が江戸末期学者によって持ち去れれたものとされる。その銘文中に見える「倭王旨」
を指摘された(旨は中国風一字名称)。七支刀の銘文によれば、この刀は、泰和四年(
東晋の年号、西暦三六九年)に造られ、百済王から倭王旨に贈られたものだった。そう
すると、先に報告した玉垂命(初代)が水沼に都を置いた年(仁徳五七年・西暦三六九
年)と七支刀が造られた年が一致し、その倭王旨は初代玉垂命の神官水沼大君の娘と同
一人物ということになる。というものだが。玉垂命が筑後国神名帳には「玉垂媛神」と
なる様に少し名が変わる。この理由は解らないがこの水沼氏には大和朝廷からの求婚の
申し出が相次いであったとされる。だが何とか 娘をやりたくない水沼氏は色々と考え
て手を尽くしたと言う。泥のパックで見にくい顔に化粧させ、部屋に腐った魚を置いて
は汚い娘に見せたりしてた。そして都大和朝廷の使者はやって来た。直ぐに違う娘と見
合いさせて騙す事ができるかと思われた。ところがやって来た若者は評判と違う事を見
抜いていた。物置部屋の臭い部屋にに誰かいる。と察知して水沼神君に伝えると、時々
鬼がいて危ないから部屋に近づかない様に注意したが、私が退治してあげましょうと、
気安く鬼火を炊き煙でいぶして部屋に煙を入れた。奥にいた姫はたまらず外に出て見つ
かってしまい。その上に煤で黒くなったと顔を若者が拭いてやると娘は美しい顔がのぞ
き、直ぐに朝貢となり縁談がまとまった。腐った魚はそのままいぶされ、宴会の席とな
り簡単に婚儀が終わる。これによって玉依姫命となって、大和朝廷と九州の朝廷が結ば
れた。これは大和朝廷と九州朝廷の間を取り持った宗像氏のはからいでもあったという
。こうして玉垂れ宮は、玉依姫命を祭る神社となった。玉依姫は綿津見大神(海神)の
(風浪宮の主神)子で、豊玉姫(南国の主神)の妹である。豊玉姫が、彦火火出見尊と
(山幸彦)の間にもうけた子である鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)を養育
し、後にその妻となって、五瀬命(いつせ)「九州南部」、稲飯命(いなひ)「阿蘇部
」、御毛沼命(みけぬ)「筑後部」、若御毛沼命(わかみけぬ)「筑紫部」と手を組み
朝鮮征伐が出来る様になった。とされる。末子の若御毛沼命「中国地方部」が、神倭伊
波礼琵古命(かむやまといはれびこ、後の神武天皇)「近畿部の王」となった。

1011: 名無しさんAA:18/03/16 11:52
  富安君を探せ              < その47 >

 ところが九州神話は少し違う。天照大神のもとに双子の中の雉啼鳥命(神名は不明忘
れた)がやって来ては姉がいないので探してくれと頼んだ。そこでの猿田彦と少彦名の
神をして探しにいかせたところ、帰って来て豊葦原の向こうにそっくりな国があって、
力づくで取っていけ返さないとの伝言だった。そこでその方向に我方に正義あらば的を
射よと雷鳴命に弓をひかせた所 矢はこの神を射抜いて平らげて無事かの姉を救った。
その功で、猿田彦の意見を聞いて豊葦原を広げる為に大国主と少彦名は旅に出た。とい
うものだった。一般には猿田彦の神は、「邇邇芸尊が天降りしようとした時、天の八衢
(やちまた。道がいくつもに分かれている所)に立って高天原から葦原中国までを照ら
す神がいた。そこで天照大神と高木神は天宇受売命(あめのうずめ)に、その神の元へ
行って誰であるか尋ねるよう命じ、その神が国津神の猿田彦で、邇邇芸尊らの先導をし
ようと迎えに来た。」と言う物である。又、少彦名神は、古事記では神産巣日神(かむ
むすひのかみ)の子、日本書紀では高皇産霊尊(たかひむすひのみこと)の子。とされ、
体の小さい神で、大国主神と協力して国づくりを行い、のち、常世国(とこよのくに)に
帰った。医薬の神とされる。先の雉名鳴女を使わせた話では三番目に派遣されたのが、
武門の神様である建御雷神で、建御雷神(たけみかづちのかみ)は、出雲国の小浜に降
りると、十掬剣(とつかのつるぎ)を逆さまに立て、その切先にあぐらをかいて座り、
大国主に、「汝がこの豊葦原を、我が御子の天津原をと天照大神が仰せである」と、国
譲りを迫る事になっている。大国主は「二人の息子と相談し、長男の事代主大神は、た
ちどころに了解したが、次男の建御名方神(タケミナカタ)は、建御雷神に、力比べを
挑み、あっという間にやられてしまい、諏訪にまで逃げてしまった。と言う物だ。まあ
詳細は不明だがいずれにせよ大和朝廷と九州朝廷では神話すらも違っていた。ただここ
10年位で小中学校や高校の古本は無くなり、当の伝説は今や見る影もない神社も多い
。アメノワカヒコの死を嘆くシタテルヒメの泣き声が天まで届くと、アメノワカヒコの
父のアマツクニタマは下界に降りて葬儀のため喪屋を建て八日八夜の殯をした。シタテ
ルヒメの兄の味耜高彦根命(アヂスキタカヒコネ)も弔いに訪れたが、彼がアメノワカ
ヒコに大変よく似ていたため、アメノワカヒコの父と妻が「アメノワカヒコは生きてい
た。」と言って抱きついた。するとアヂスキタカヒコネは「穢らわしい死人と見間違え
るな」と怒り、神度剣を抜いて喪屋を切り倒し、蹴り飛ばしてしまった。喪屋が飛ばさ
れた先は美濃の藍見の喪山だという。


1012: 名無しさんAA:18/03/16 11:53
 この神話では真意はともかくとして、建御名方神や事代主大神(コトシロヌシ)のい
た天若彦が死んだ「宗像」と葬儀のためにやって来た味耜高彦根命のいる天津原では、
噂が聞こえる位置にあった。つまり多少の交流があった。と言う事がわかる。少彦名命
と大国主神と協力して国づくりしたのが出雲であれば、天稚彦の父のいた天津原(あま
つがはら)は九州か大和になるが、建御雷神と建御名方神の力比べで諏訪に逃げたとい
う記述からは、九州でなければならない。わざわざ天津原の方向に逃げる筈もないから
だ。つまりは、出雲の国作りに大国主神も少彦名命も励んだのだが、天照大神の国に盗
られた。それは九州勢の事だった。と言う事になる。当然海外の窓口が早く開けていた
中で、後から大和朝廷が出来た。そして今の様に正当な日本の歴史の中心になって行っ
た。ここに戦争や色々な交渉が起こらない筈はない。それが神功皇后の三韓征伐だった
。高良山と基山に挟まれた小郡のあたりは「隈」の地名が無数に集中する。隈は隈祖と
して只隈姓がある。只隈氏はかつて立花氏に追われた隈部一党が柳川で果し合いがあっ
た一族の子孫である。隈氏は、日本の中では相当に古い種族であり、シュメール文化を
持ち込んだ先住民の流れがあるのかもしれない。というのも 鱗紋の存在である。鱗紋
は魚のウロコを紋章にしたものと言われる。それは魚に留まらず、蛇、竜迄広げている
。実はこれは祖母山系霧島の紋とされる。菊池氏流れ緒方氏や越智氏流れ河野氏あるい
は宇都宮氏流れ小田氏筑後川の境でもめた江上氏流れ大詫間氏など三つ鱗紋は多い。こ
こで解る様にその家主の主流でなく全て亜流で本流でなく奔走していた支流派なのであ
る。室町時代に入った源氏流れ北条氏は特によく知られている。巴紋が水神のシンボル
マークである渦紋であるならこの三角飾りは龍神のシンボルの鱗紋とされる。良文流の
大木氏が亀甲に一つ鱗、三浦氏が角の内二つ鱗。秀郷流の中村氏三つ鱗を用いている。
平良文(たいらのよしふみ)は、平安時代中期の武将とされ、桓武天皇四世平高望の五
男とされ、生母は高望の側室である藤原師世の娘とされる。官位は従五位上を授かり、
陸奥守となり鎮守府将軍となった人だ。この子孫として大木氏がこの地にやって来た。
やって来たのは南北朝時代と思われる。その後の、元弘3年(1333年)に鎌倉幕府北条家
の悪政に困り御醍醐天皇の討伐の呼び掛けに応じたのが「新田義貞」挙兵 150騎であっ
た。この時東北からついてきたのである。鎌倉へ進軍中、幕府への不満を募らせていた
この時「足利尊氏」の軍も加わり兵は60万数千騎の大軍となり、鎌倉幕府は滅亡する。
北条高時らは自害したがこの北条氏も鱗紋だった。新田義貞は1334年「建武の新政」で
は「武者所頭人」となるが足利尊氏と対立して追われる。1338年、新田義貞は、北陸で
戦力を整え出直しを用意しますが、越前灯明寺畷藤島で足利尊氏の軍と出くわし合戦と
なり新田軍は破れて義貞は、38歳で生涯を終えた。

1013: 名無しさんAA:18/03/16 11:53
  富安君を探せ              < その49 >

 鱗紋の発生には祖母山の白蛇伝説がある。御崎神社は 708年に創建されたと伝えられ
ている断崖絶壁にある神社。参道は両側にソテツなどの亜熱帯性の植物がしげり、まる
でジャングルのような絶壁にたたずむ神社だ。観光遺産に指定されている御崎神社のあ
る都井岬には、「大蛇退治」の話が伝えられている。かつて、人々や家畜に危害を与え
た「大蛇」を村の人が集まって、退治しようと計画し、蛇は火を恐れることから、若者
たちが全員手に松明を持ち、大蛇が岩山に追い込み、松明を大蛇の口に投げ入れました
。大蛇は、口から火炎のような血潮を吹き出し、息絶えたと伝えられています。この話
をして松明を投げ入れるダイナミックな火の祭り「都井岬祭り」が開催されています。
しかし、これは岬の話で山に入れば少し違う、平家物語「緒環」での、緒方氏大蛇の子
孫伝説である。平家物語では、世情に対して神さえも助けられない世の中でどうして人
が助けられようか。との話し合いの中で 緒方三郎維義の話が出てその出自を記述する
。緒方三郎維義というのは恐ろしい者の子孫である。昔、豊後国の山里に女がいた、夫
もいないこの一人娘のところへ、ある男が夜な夜な通い、女は身ごもった。母親がこれ
を怪しみ「おまえのところへ通って来るのは何者か」と尋ねた。娘は「来るのは見るけ
れども、帰るところを見たことがありません」と言う。「では、朝帰ろうとするとき、
印をつけてみなさい」と教えた。娘は母の教えに従い、男が朝帰ろうとするとき、水色
の狩衣の襟に“しずのおだまき”というものを付けた。糸を頼りに男の行方をたどると
、豊後国と日向国の境、優婆嶽(嫗岳)という山の裾にある大きな岩屋の内へとつなが
っていた。女が岩屋の入口に佇んで耳を澄ますと、大きな唸り声が聞こえた。「お姿を
見たくて、私はここまでやって来ました」と言うと「おれは今、人の姿をしていない」
と返事し、「おまえがおれの姿を見たら、気を失ってしまうぞ」、「身ごもったのは、
男の子だろう」「弓矢や太刀を持たせれば、九州・壱岐・対馬に並ぶ者のない男になる
」と教えた。女が重ねて「たとえどのような姿でも、日頃のよしみをどうして忘れられ
ましょう」「姿を見せてください」と言うと「そう言うなら」と、岩屋の内から、出て
きたのは、とぐろを巻いた姿は五六尺ほど伸びれば十四・五丈もあろうかという大蛇が
、体をうねらせて這い出てきた。女は気を失いそうになった。連れてきた十余人の従者
たちは絶叫して逃げてしまった。襟に刺したと思った針は、大蛇の喉笛に突き立ててい
たのだった。女が帰ってほどなく産んだ子は男子であった。


1014: 名無しさんAA:18/03/16 11:54
 富安君を探せ              < その50 >

母方の祖父が「育ててみよう」と育てたところ、まだ十歳にも満たないのに、背は高く
、顔も長かった。七歳で元服させ、母方の祖父を“大太夫”というので、この子に“大
太”と名づけた。夏も冬も手足にはびっしりとあかぎれができて、ひび割れていたので
“あかぎれ大太”と言った。かの緒方三郎維義は、この大太の五代の孫にあたる“恐ろ
しい者の子孫”だからか、国司の仰せを院宣であるとして、九州・壱岐・対馬に回覧状
を回すと、有力な者たちは皆維義に従った。その大蛇は日向国において崇められ、今、
高千穂の明神の神体であるという。以上が平家物語の「緒方三郎維義(惟義)(惟栄)
の由緒とされる話だ。中世12世紀末、源平が争っていた頃、豊後国大野荘緒方郷の(
豊後大野市緒方町)を拠点として活躍した武将だが、彼が鱗紋を旗印に使った代表的な
武将であろう。だが地元で聞いた伝説はもっと変形していて村は戦で女しかいなかった
り女が身籠ったのは、白蛇が寝ている隙に入り込んだとかである。そもそも優婆岳(う
ばがたけ)というのが乳母の名から祖母山になったのは何頃からなのか不明だ。優婆塞
はサンスクリット語ウパーサカの音写で、在家の男性仏教信者、優婆夷はウパーシカー
の音写で、在家の女性仏教信者をいう。原義は「そば近く仕える者」の意で、在家信者
は出家者に近づいて法話を聞き、出家者の必要な生活物資を布施して仕えるのでこのよ
うにいう。在家信者となるには三宝(さんぼう)に帰依(きえ)し五戒を保つことが必要で
、また六斎日(ろくさいにち)(毎月の8、14、15、23、29、30の各日)には八斎戒(はっ
さいかい)を守り、とくに身を慎むことが勧められる。優婆塞・優婆夷は、仏教教団を
構成する四衆(ししゅ)、七衆(しちしゅ)のなかに数えられる。祖母山は宮崎と大分県境
にそびえる秀麗な山である。祖母山の霊記伝承では、神武天皇東遷の船軍が、和歌山県
・紀州沖で嵐に遭ったとき、故国の添利山(そほり山・祖母山)の神霊に、海の平穏を
祈念すると、荒れた海が静まった。以来祖母嶽大明神がまつられたという。祖母嶽神社
の由来である。祖母嶽神社と宮地嶽神社は古い由緒ある神社だ。今や宮地嶽神社(みや
じだけじんじゃ)は、大太鼓や大注連縄で有名な福岡県福津市に所在する神社を本宮と
しているが歴史的にはちょっと可笑しく宮地嶽神社の創建は社伝では約1600年前にさか
のぼるとされ、息長足比売命(神功皇后)が、三韓征伐の前にこの地に滞在し、宮地岳
の頂に祭壇を設け祈願して船出したのが始まりといわれる場所に再建したのだった。



1015: 名無しさんAA:18/03/16 21:15 ID:Svw
 富安君を探せ              < その51 >

そもそも御嶽神社(みたけじんじゃ)は、蔵王でも権現を祭った神社である。金峰神社
・金峯神社(きんぶ、きんぷ、きんぽう、みたけ)ともいう。総本社は吉野金峰山寺の
蔵王権現堂とされる。山に対して礼拝するお堂であり権現様が後世になって七尾狐など
になって商売の神様とされたが、御嶽教も宮地嶽教も神紋が松の木紋様で解る様に、山
を崇めた自然崇拝の神社であり宗教である。この松の木や龍の鱗と言うのはシュメール
文化の影響が濃い物とされる。シュメール語は孤立した言語であり続けた、たとえば、
アッカド語がセム語族に属するような形での近縁関係にある言語が傍にない。新石器革
命(紀元前一万年)以降にティグリス・ユーフラテスに囲まれた「肥沃な三日月地帯」
に生まれ、これまでの狩猟と採集の生活から、牧畜(牛・羊の飼育)と農耕(麦類栽培
)を起こした生活に変わった時の文明だ。この時の宗教は旧拝火教で死者の弔いは風葬
であったとあったとされ、その時の墓標が今の日本の鳥居の原型とされる。原エラム文
字と言われる文字が、紀元前三千年頃に出来てメソポタミア文明最盛期が訪れる。これ
が世界最古のシュメール文明と隣接し原エラム文字はインダス文字に非常によく似て姿
で近代の発掘で解った。時の言葉をドラヴィダ語としインダス文明で使用されていた言
語との関連性は非常に強く、その後ドラヴィダ語はセイロン島で発達したので海洋を通
じて日本にやって来たと考えられている。インド大陸のほくろとされる島で起こったこ
の言葉は、和語とされ今の日本語ではない。旧態日本語で海路なら当然宮崎鹿児島から
伝わって行っても当然とされ鹿児島弁が近いのではないかとされる。鱗紋様は五芒星と
同じく外に向けた六角星になれば六つ鱗(むつうろこ)とされ、鱗紋のひとつで清明鱗
(せいめいうろこ)との俗称もある。、安部清明が使用していたという記述は見つから
ないがこれが中東のシュメールでは王の旗ダビデの星となる。又、鶴紋や鷹の羽紋も又
当時の拝火教(ゾロアスター教)の守護霊の、「プラヴァシ(人善鳥)」の紋様の名残
りとされる。拝火教は中国では「祓教」とされ日本では「呪詛教」とされた。その後に
密教系の「護摩焚き」の原始となった。六根清浄は六神善行の言い替えである。ところ
が石積の文化を持つ南方アジア人達と混じり合い日本にはいった。神籠石は筑後・高良
山神籠石を「霊地として神聖に保たれた地を区別したもの」として紹介し注目された。
高良山の山頂に立つとする高良大社は西暦400年の創建といわれ、奥宮は「高良廟」
「御神廟」とも称し武内宿称の葬所と伝えられ、高良山信仰の中で高良山神籠石は高良
縁起にも記載される。


1016: 名無しさんAA:18/03/16 21:16
 富安君を探せ              < その52 >

神埼荘(かんざきのしょう)は、平安時代〜室町時代にかけて肥前国にあった荘園だ。
神崎荘とも書き出雲系の皇室領とされた。吉野ヶ里遺跡でも解る様に筑紫平野佐賀平野
は肥沃な耕作地帯であった。承和3年(836年)に勅旨田になった690町が起源とされて、
長和4年(1015年)以前に立荘、皇室領として歴代天皇・上皇に相伝された。この皇室簿
には皇室領が(後白河法皇→後鳥羽上皇ら)→三浦氏(三浦泰村)→皇室領(後嵯峨上皇ら)
に代わりこの嵯峨上皇の名から佐賀の名が広がった。だが元寇の文永・弘安の役で恩賞
地配分の対象とされたため細分化され、南北朝時代には名前だけを残して荘園としての
実態は大きく削がれ北島家のみに限られた。その管理に大宰府から竜造寺氏が下向して
差配していた官使として管理していた。佐賀城は水ケ江城とも亀城ともされた湿地帯の
城だった。佐賀竹崎が元寇によって肥後国竹崎郷(現熊本県宇城市松橋町)を追われた
菊池氏の一族で、熊襲や地震問題で同族内の所領争いに敗れて所領を失い、没落した「
無足の御家人」の竹崎季長が報奨所領として肥後の竹崎に所領安堵となると肥前竹崎は
その防備の場所となった。竹崎観音寺は古寺で「九州西国霊場」22番札所となってい
る。709年(和銅2年)に行基菩薩によって開基された。本尊の千手観音は、雲巖寺の本尊
などと一木同作といわれる「行基七観音」の一体とされる。この寺には平安時代の頃に
柳川の結婚したての若殿様が朝廷の命で海賊退治に朝鮮出兵したが、船は沈没して帰郷
出来ずに僧になった悲話がある。壊滅した船団で今まで話さなかったが、ある日和尚に
初めてその前が殿様であった事を明かして、毎夜泣いて灯篭流しをしていた新妻の姫に
その生死が伝わると姫は周りが止めるのも聞かず会いに旅に出たが、門前で女人禁制と
今や仏僧としての徳を説かれ顔も見れなかった。悲嘆にくれた姫は竹崎の沖で身投げし
て死んで行ったのである。この時この二人を合わせようとした家臣が柳川氏であった。
とされる。これが柳川に伝わる竹崎悲話である。柳川氏は海の民で江上氏に近い。


1017: 名無しさんAA:18/03/16 21:16
 富安君を探せ              < その53 >

 その後も南北朝時代には同じ事が起こる。九州においては、懐良親王(後醍醐の皇子)
が南朝興国三年(1342)に九州に上陸し南朝正平三年(1348)に菊池氏に身を寄せて以来、
南朝方が侮れない勢いを示していた。建武三年(1336)に諜略により多々良浜合戦で九州
を制圧した足利氏だったが、直後は仁木義長・一色範氏を代官として後詰させていたも
のの一色氏は直義派と直冬派に分かれ内紛を起こし、直冬が鎮西探題に任じられ範氏の
立場は更に弱められる。そもそも、探題職といっても在所も不定で博多聖福寺に寄宿し
ている有様であり直接の家臣も僅かしか存在しておらず、それで現地の有力者に睨みを
効かせるのは無理があった。これを契機として南朝方は大宰府を陥落させ九州全土を支
配下に置く事となった。その後渋川義行が探題となるが、九州に渡ることすら不可能で
あったという。そこで登場したのが家門・力量・経験とも卓越した今川了俊であった。
今川了俊は用意周到に一族による側面からの手も打って、子の義範に豊前・豊後を仲間
に取り入れ高崎から上陸した。当然警戒していた菊池軍は高崎城に攻撃をかけている。
しかし了俊は安芸守護にも任じられていて、毛利氏・熊谷氏・阿蘇氏を取り込み、弟・
仲秋と周防・長門の有力者・大内氏とを通婚させて後ろ盾を得て長門国府を楯に肥前松
浦党をも味方につけさせていた。こうした一族の結束を利用した慎重な手回しが成功し
筑前麻生山の多良倉・鷹見嶽を陥落させ、天拝山を陥落させ、大宰府が了俊の手に落ち
た。懐良親王と菊池武光は高良山に逃れて大宰府奪回を狙う体勢に出たが、了俊も肥前
城山に陣を布いて高良山攻めを行う。こうして双方に攻めあぐねた攻防戦が敷かれたが
、その裏で肥前制圧を行い、翌七年には大友一族の内紛を抑えていた。こうした中で、
応安六年に菊池武光が死去し、翌七年には後継者の武政も後を追った。こうして菊池一
族は菊池の地に後退して行くしかなかった。高良山を陥落させ菊池勢を肥後菊池まで追
い落とし、更に菊池氏の息の根を止めるべく肥後国内に軍を進め要害の、隈部城を中心
に外城と守りを固めている菊池氏を取り囲んだ。大友親世・島津氏久は参陣したものの
、少弐冬資は動かなかった。そこで島津氏久を仲介に冬資を招き少弐冬資を誅殺した。
理由は簡単だった。筑前・豊前・肥前・対馬・壱岐の守護を歴任し、九州における豪族
達の訴訟準備手続きを扱う権限も認められていたし大宰府を通じて海外交易からも大き
な利益を得る為の、交易権限を持っていたからだ。しかし島津氏久は面目を失ったとし
て領地に引き上げて了俊に反逆。大友氏に対しても恩賞を約束し何とか味方に留めた。
この機に南朝方は攻撃に転じて、手痛い打撃に大宰府に一端後退するしかなかった。


1018: 名無しさんAA:18/03/16 21:17
 富安君を探せ              < その54 >

建武の新政の政権期には足利尊氏と結び北朝政権成立後は九州探題と主導権を巡り対立
して、時には少弐冬資や少弐直冬は南朝と結んで利権拡大を図っていて、地方の要だっ
たが、交易の要でもあった。少弐氏が討たれると、直ぐに京の都は和睦に走っていった
。米の移送と海外からの舶来品が滞ったからだ。南朝方も力を失い明徳二年(1392)に南
北朝が統一すると、九州探題も軍事より行政に重点が置かれるよう事になった。応永二
年(1395)に出された法令には所領安堵・恩賞授与の権限が探題にあることが明記され、
、感状は将軍から直接出すものとすると明快に分離されて、今川了俊が九州で現地豪族
と主従関係を構築するのを警戒した令がなされた。更に九州の豪族からも奉公衆(将軍
直臣、徳川政権の旗本・御家人に相当)を組み入れられる措置が取られ、足利方による
直接の九州支配に向かっていた。こうして突然了俊は探題を解任され京に召還された。
了俊は島津氏の平定が完了していない事から、再度の九州探題に任じられる事希望した
。しかしそれは認められず遠江・駿河半国の守護職を与えられたのみで、後任の探題は
渋川満頼が当たった。了俊の前に探題に任じらても九州に入れずに終わった義行の息子
である。了俊の屈辱感は大きかった。この突然の解任劇は、了俊自身は探題職を望んだ
大内義弘の暗躍によると考えていた。だが話はそう単純ではない。まず、自立傾向の強
い九州豪族にとって強権を振るい、巧みに九州経略を確立させた了俊は煙たい存在で、
中央への働きかけがあったのは間違いない。更に、中央から見ても了俊がいる限りは、
島津氏の帰順が難しいと判断される。そして、了俊が現地で将軍代理として振舞う状況
は、一種の独立王国にも似ており義満にとっては新たな脅威でありそもそもその排除で
菊池氏を叩いたのだ。特に一国の代表者で外交や巨大な利益のある交易の権限を了俊が
握っているのは認められない事であった。また、大友氏大内氏の密約にも毛利氏がいた
中で彼らからは邪魔だった。こうして二十五年ぶりに遠江に帰った了俊であるが、報わ
れる事なく職を解かれた不満は大きかった。この後外交権を持った大内義弘に足利義満
は警戒した。しかし圧迫を受けた大内義弘が挙兵し足利満兼もこれに呼応して出兵した
が、大内義弘が堺で義満の軍勢に敗れ戦死したため引き上げている。「鎌倉大草子」に
よればこの時に義弘と満兼を仲介したのが了俊であるという。義満がこの直後に関東の
上杉憲定に了俊討伐を命じている事から、おそらくはこれも事実で諜殺されたのであろ
う。

1019: 名無しさんAA:18/03/16 21:17
 富安君を探せ              < その55 >

 こうして、次々と外交交易特権は代わっていった。だが鎌倉時代末から南北朝時代に
かけては、有明海は松浦党の縄張りで、肥後のこの辺は伊佐早(いさはや)氏の領地だ
った。応安六年(1373=文中二年)今川了俊(いまがわりょうしゅん)が来た時は、み
ずからが伊佐早城、宇木城を攻めて来た。そしてこれにより、伊佐早右近五郎(いさは
やうこんごろう)と西郷藤三郎(さいごうとうざぶろう)が軍門に下った。という。こ
の時から実質の外交交易の鍵を握ったと考えられる。ただこの時の伊佐早城の位置は、
不明であり、伊佐早氏についてもよく分っていない。この伊佐早氏は藩政時代の諫早氏
とは全く別で、いつの間にか歴史の舞台から消えていった。しかしその後にも隈部城を
攻めて島津征伐を執拗に要望した事からも、天草や筑後に消えた体制外貿易集団だった
事は間違いない。一方の、宇木城主の西郷藤三郎のほうは、のちに、高城を居城とする
西郷氏の一族であるかもしれない。西郷氏の出自は明らかでないが恐らく島原半島北部
の高来郡西郷(現在の雲仙市瑞穂町西郷=島原鉄道の西郷駅付近)を本拠地とするのは
疑問の余地がない、と言われるが私は疑問視している。高来郡西郷の杉峰城(すぎみね
じょう)は、南北朝の頃に、西郷次郎という人物が城主であったが、観応三年(1352=
正平七年)に九州探題一色範氏(いっしきのりうじ)が小俣氏連(おまたうじつら)を
派遣して落城させたという。西郷氏は、肥後菊池氏の一族という説もある。実は村上皇
時代から刀伊の入寇以外に倭寇は暴れていた。西郷という地名は珍しくない。西郷があ
れば必ず東郷があるわけだが、この場合は高来東郷(たかくとうごう)と高来西郷(た
かくさいごう)があり、それらは高来郡(たかくぐん)のうち伊佐早庄(いさはや)を
除いた地域であり、ほぼ島原半島を東西に分けた呼称であったと考えられるそうだ。実
はこ200年ほど前「太宰管内志」よれば、「肥前国風土記」の中「草横山(くさのよこやま)」は九千部山を言う。この名の起こりを伝える民話がある。むかし天暦5年(951年
)頃、隆信沙門という若い僧侶が苦しむ村人のため山頂で法華経を49日間で一万部(1
万回)読踊する決心で山に籠ったが、あと7日目という夜に白蛇に遭遇、その後美しい
女の幻に誘惑され負けてしまう。満願の50日目に僧侶を探しに来た村人は、谷の岩陰
で骸となった僧侶を発見する。こうして読踊が「九千部」に留まったため、これが山名
となったという。なお、村人が山中の谷で僧侶を見つけ葬ったとされる場所の近くには
、経塚と供養塔が所在する。九千部山は背振山系でこの山の傍に権現山がある。


1020: 名無しさんAA:18/03/16 21:34
 富安君を探せ              < その55 >

 こうして、次々と外交交易特権は代わっていった。だが鎌倉時代末から南北朝時代に
かけては、有明海は松浦党の縄張りで、肥後のこの辺は伊佐早(いさはや)氏の領地だ
った。応安六年(1373=文中二年)今川了俊(いまがわりょうしゅん)が来た時は、み
ずからが伊佐早城、宇木城を攻めて来た。そしてこれにより、伊佐早右近五郎(いさは
やうこんごろう)と西郷藤三郎(さいごうとうざぶろう)が軍門に下った。という。こ
の時から実質の外交交易の鍵を握ったと考えられる。ただこの時の伊佐早城の位置は、
不明であり、伊佐早氏についてもよく分っていない。この伊佐早氏は藩政時代の諫早氏
とは全く別で、いつの間にか歴史の舞台から消えていった。しかしその後にも隈部城を
攻めて島津征伐を執拗に要望した事からも、天草や筑後に消えた体制外貿易集団だった
事は間違いない。一方の、宇木城主の西郷藤三郎のほうは、のちに、高城を居城とする
西郷氏の一族であるかもしれない。西郷氏の出自は明らかでないが恐らく島原半島北部
の高来郡西郷(現在の雲仙市瑞穂町西郷=島原鉄道の西郷駅付近)を本拠地とするのは
疑問の余地がない、と言われるが私は疑問視している。高来郡西郷の杉峰城(すぎみね
じょう)は、南北朝の頃に、西郷次郎という人物が城主であったが、観応三年(1352=
正平七年)に九州探題一色範氏(いっしきのりうじ)が小俣氏連(おまたうじつら)を
派遣して落城させたという。西郷氏は、肥後菊池氏の一族という説もある。実は村上皇
時代から刀伊の入寇以外に倭寇は暴れていた。西郷という地名は珍しくない。西郷があ
れば必ず東郷があるわけだが、この場合は高来東郷(たかくとうごう)と高来西郷(た
かくさいごう)があり、それらは高来郡(たかくぐん)のうち伊佐早庄(いさはや)を
除いた地域であり、ほぼ島原半島を東西に分けた呼称であったと考えられるそうだ。実
はこ200年ほど前「太宰管内志」よれば 「肥前国風土記」の中「草横山(くさのよこや
ま)」は九千部山を言う。この名の起こりを伝える民話がある。むかし天暦5年(951年
)頃、隆信沙門という若い僧侶が苦しむ村人のため山頂で法華経を49日間で一万部(1
万回)読踊する決心で山に籠ったが、あと7日目という夜に白蛇に遭遇、その後美しい
女の幻に誘惑され負けてしまう。満願の50日目に僧侶を探しに来た村人は、谷の岩陰
で骸となった僧侶を発見する。こうして読踊が「九千部」に留まったため、これが山名
となったという。なお、村人が山中の谷で僧侶を見つけ葬ったとされる場所の近くには
、経塚と供養塔が所在する。九千部山は背振山系でこの山の傍に権現山がある。


1021: 名無しさんAA:18/03/16 21:35
  閑話休題    ねずさんの 刀伊の入寇 から-----1

 寛仁3(1019)年といいますから、「この世をば吾が世とぞ思う望月の・・・」と読ん
だ藤原道長が全盛を極め、紫式部が『源氏物語』を書いた平安時代の中頃のことです。
壱岐島に突然、50隻ばかりの船がやってきました。ひとつの船の大きさは、だいたい
15メートルくらいです。その船に約60人ずつが分乗していました。壱岐に上陸した
彼らは、100人単位で一隊をつくりました。戦闘隊の20〜30人が斬り込み隊の役
目で、後ろの70〜80人が弓や盾を持っています。彼らの持っていた矢は、長さ4〜
50cmの短いものですが、楯も射通すほどの貫通力があったといいます。彼らは上陸と
同時に、民家に襲いかかりました。そして牛馬を盗み、切り殺して食い、老人と抵抗す
る者を殺し、女を犯し、生き残った者たちを船に拉致しました。彼らは「牛馬を切って
は食い、また犬を屠殺してむさぼり食らう」と記録されています。船上では、病人は簀
巻きにして海に投げ入れて殺したと記録されています。略奪後の民家はすべて焼き払い
、穀物も奪っています。「暴徒上陸」という知らせを受けた国司・壱岐守藤原理忠(ふ
じわらのまさただ)は、ただちに147人の手勢を率いて征伐に向かいました。けれど
も敵は3000人の大部隊です。衆寡敵せず玉砕してしまう。藤原理忠を打ち破った賊
徒たちは、壱岐島の真ん中にある、国分寺(嶋分寺)に攻め込みました。寺には島民た
ちも逃げ込んでいました。そして常覚和尚(じょうかくおしょう)の指揮の元、僧侶と
島民たちで応戦し、なんと賊を三回まで撃退しています。戦闘が膠着状態になったとき
、常覚和尚は島を脱出して、状況を大宰府に報告に向かいました。残された僧侶たちは
必死に戦い続けました。そしてついには全滅し、嶋分寺も全焼させられてしまっていま
す。島から女子239人と、若干名の男子が連れ去られました。壱岐島で生き残った者
は、わずか35人だけでした。4月7日、対馬からも大宰府に対馬の危急の知らせが届
きました。このときの対馬守遠晴からの報告です。
**対馬に刀伊国(といこく)の者が50隻あまりの船でやってきた。彼らは殺人や
放火をしている。彼らは隼のように迅速で、数が多くて、とても対抗できない。
  壱岐では壱岐守理忠が殺害され、ほとんど全滅状態である。彼らは博多警固所と
  目と鼻のさきの能古島まできている。                 **
知らせを受けた大宰権帥の藤原隆家は、すぐに京都に緊急事態を伝える飛駅便を飛ばす
とともに、応戦のために九州の豪族や武士非常招集をかけました。しかし翌8日には、
賊が筑前・怡土郡(福岡県西部)に上陸してきます。


1022: 名無しさんAA:18/03/16 21:35
  閑話休題    ねずさんの 刀伊の入寇 から-----2

 彼らは筑前の沿岸部を制圧し、牛馬や犬を殺して食い、老人や子供を皆殺しにしたう
え、おびえる男女を追いかけて、4〜500名を捕らえて船に乗せます。また、かず知
れない米穀類を略奪しました。この時点で戦力の不足した藤原隆家は、少数の精鋭を率
いて、個別撃破を狙い、敵の不意をつく戦法で戦いを挑みました。この作戦は有効で、
賊は崩れ、この日の夕方には海に逃れて能古島に去りました。翌9日の朝に、刀伊は、
藤原隆家軍の本拠である大宰府警固所を襲撃してきました。しかし、藤原隆家は寡兵な
がらも勇敢に戦い、逆に賊を追い詰めました。賊の生き残った者は、能古島に逃げて行
きました。そして神風が吹きました。10日には、波風が強くなり、船が足止めとなっ
たのです。賊たちは身動きできないでいました。一方、藤原隆家のもとには、非常呼集
に応じてくれた近隣の豪族たちがから、兵が集まりました。11日午前6時頃、賊が、
再び大宰府に上陸してきました。藤原隆家は、上陸した賊を皆殺しにし、敵の生き残り
二人を逮捕しました。一人は傷つき、一人は女でした。13日、賊徒は、今度は肥前国
松浦郡の村里を攻めてきました。ここではすでに知らせを受けて、待ち構えていた前肥
前介・源知という武将が、賊徒を殲滅しました。そして敵の生存者一人を逮捕します。
こうして賊は、恐れをなして、半島に帰国しました。帰国途中、高麗がこれを待ち伏せ
、戦力の減った残りの賊を全滅させ、日本人捕虜270人を助けて、日本に送り返して
くれました。この事件による日本人被害者は、殺害365名、拉致1289名、牛馬3
80匹殺生または行方不明、家屋45棟以上全焼というものです。とくに女子供の被害
が目立っていたといいます。拉致された1289名のうち、高麗によって保護され帰国
できた者以外の千余名は、船上で殺されています。この一連の事件の発生から、その中
盤にかけて、日本側は何者が攻めてきたのかさえ分からない情況でした。逮捕した三人
の族は、三人とも高麗人でした。その三人は、口をそろえて、「自分たちは被害者であ
って、高麗を襲った刀伊に捕らえられていたのだ」と申し立てました。そこで記録上は
、賊徒は刀伊(とい)ということになりました。刀伊というのは、女真族のことを言い
ます。女真族は、モンゴルと朝鮮の間に挟まれた地域に住む、半遊牧民たちのことです
。高麗からは生存者を送り返してもらっているし、日本としてもあらためて高麗と事を
構えたくない。ですから、これは高麗よりももっとはるかに北側の、満洲よりも北側に
住む刀伊たちが起こした事件に違いない、ということになったのす。ですから、この事
件は、いまでも「刀伊の入寇」と呼ばれています。


1023: 名無しさんAA:18/03/16 21:35
  閑話休題    ねずさんの 刀伊の入寇 から-----3

 時代背景を見ると、この少し前の時代、朝鮮半島の北側には渤海国が栄えていました
。渤海は、交易で栄えた国で、『新唐書』には渤海について「新羅の8倍、高句麗の4
倍の領土を誇った海東の盛国」と書かれています。ちなみに渤海は、日本の東北地方に
住む人たちと盛んに交易を行っていました。渤海には、シルクロードの交易商人たちに
よって、支那の産物だけでなく、アラビアやヨーロッパからのめずらしい品が入ってき
ます。一方、日本の東北地方は大量の金を産出します。そしてこの時代の東北地方は、
まだ大和朝廷には服しておらず、アイヌなどの豪族たちが割拠している情況です。そし
て、日本の東北を含む蝦夷地との交易は、渤海に大量の金をもたらし、その入手した金
によって、渤海は経済的な大発展を遂げていたわけです。ところが経済重視で、軍事を
ややおろそかにした渤海は、10世紀のはじめ頃には契丹(遼)によって 滅ぼされて
しまいます。このため、渤海を追われた女真族の一部が、船で朝鮮半島方面に逃げて、
これが朝鮮半島の日本海側の沿岸部を荒らしながら南下し、高麗人を捕虜にして、奴隷
兵とし、壱岐、対馬を襲撃し、さらに海を渡って日本まで攻め込んできた、というのが
、刀伊の入寇になるわけです。このことは、日本に攻めてきた賊徒が手にしていた弓が
、騎乗からの射撃に便利な短い弓であったことも、証明のひとつになろうかと思います
。この時代の遊牧民たちの戦いは、攻め滅ぼした町で略奪した人々は、最下級の奴隷に
なります。その奴隷兵たちは、最前線で戦わせられます。戦いに勝利すると、新たに獲
得した奴隷たちが、その奴隷の下になります。つまり、すべての兵に上下関係があるわ
けです。言うことを聞かず、戦いを拒否すれば、後ろから弓で射られて殺されます。大
陸での遊牧民の戦いは、進撃していく前線の軍団の後ろから、大量の家畜が付いていき
ますから、食料は羊や山羊が主な食料となるのですが、日本にやってきた刀伊と呼ばれ
る人たちは、船ですから、家畜がありません。自分たちの食料や奴隷たちの食料確保の
ためには、常に村々を襲って、新たな肉を確保しなければなりません。つまり、最下層
の新しい奴隷(捕虜)というのは、単に捕虜というだけでなく、その上の階層の人達の
食料でもあったわけです。この人肉食には、ルールのようなものがあって、病人は食べ
ません。病人を食べると病気が伝染ると考えられたからです。ですから、健康な者を食
べます。食べる順は、子供→女性→男の順番でした。



1024: 名無しさんAA:18/03/16 21:35
  閑話休題    ねずさんの 刀伊の入寇 から-----4

整理すると刀伊の入寇は、次のような事態になります。渤海国を築いていた女真族(刀
伊)は、契丹に攻められ、国を失いました。国を追われた刀伊たちの中で、船で海に逃
れた者たちは、朝鮮半島の日本海側を転々と南下し、その間に住民を皆殺しにしたり、
捕虜にして食料や奴隷にしていきました。こうして、徐々に大きな軍団となり、彼らは
ついに3千人の大軍となったのだとされています。ここは重要なポイントであり、いち
ぶ割愛され省略された話です。というのは、逆に言えば、もともと渤海を追われて船で
逃げ出した女真族(刀伊)は、もともとは決して大きな人数ではなかったということだ
からです。おそらくはせいぜい100人か200人位の敗残兵たちであったことでしょ
う。人は食べなければ生きていけませんから、自分たちの自給の道を断たれた刀伊たち
は、朝鮮半島に至る道中で村を襲ったであろうことは容易に想像がつきます。ただ、遊
牧民というのは、基本的な行動パターンとして、生き物を大切にします。もともと家畜
とともに生きる人たちだからです。その意味で捕虜は家畜のうちですが、移動に際して
生きていれば、動物にせよ人間にせよ、自分で歩いてくれるのです。死んだら、ただの
荷物です。そういう思考が彼らの世界であって彼らの思考です。ですから刀伊が朝鮮半
島の沿岸を移動しながら、もともと100人か200人しかいなかった集団が、いつの
間にか3千の大軍団に増殖したということは、ひとつには朝鮮半島沿岸部の人たちが、
捕虜や奴隷になって行ったことを示すとともに、今度は逆に人数が増えた分の食料確保
の必要が生じたということです。そうなると捕虜となった人たちは、自分たちが食べら
れないためには、もっと別な村を襲い、そこの住民から食料を奪い、またそこの住民を
食料にする必要が出てきます。ですから壱岐対馬を襲撃した「刀伊」というのは、女真
族の集団ではなくて、女真族(刀伊)を頂点としながら、9割以上が朝鮮半島の人たち
で構成される集団だったということです。彼らはまず、小さい方の島である壱岐を襲撃
し、住民たちを奪いました。このときの彼らの行動は、1 牛馬を盗み、穀類を奪い、
犬を屠殺してむさぼり食った。2 老人と抵抗する者は殺した。3 女は犯し、生き残
った者は船に拉致した。4 船上では、病人は簀巻き(すまき)にして海に投げ入れて
殺した。5 略奪後の民家はすべて焼き払った。というものです。



1025: 名無しさんAA:18/03/16 21:36
  閑話休題    ねずさんの 刀伊の入寇 から-----5

 人の肉を食べるという民族的習慣は、遊牧民のものではありません。もともと飢餓に
際して人肉食をあたりまえに行っていた支那人と、その隣国であって同じく収奪国家で
あった朝鮮半島人固有の習慣です。その人肉食の習慣を持つ支那朝鮮には特徴があって
、病人は食べない。老人も、肉が少ないので、他に食べ物があれば、食べない。また、
犬を食料にすることでは、最近でも、赤系の犬の行方不明が相次いでいる事件が日本国
内で起きていますし、中国では隠れて高値の取引があり年一回の赤犬の日の祭りがある
集落も沢山あります。朝鮮では何故赤犬の肉を日本人が喰わないのか不思議がられたり
しました。また、略奪のあと、民家に火を付けますが、これは焼き肉のためでもあった
習慣で、いまでも特に半島人は、なにかにつけて、爆破や火をつけます。爆竹の習慣で
もそれは想像できます。こうした民族的傾向というか特徴というのは、普段は埋没して
いるけれど、いざ危機状態になるといかんなく発揮されるものです。そして彼らの戦い
というのは、そもそもが食料を得るための戦いですから、相手が無抵抗であったり、又
寡兵で弱いと見れば徹底的になぶり殺しにします。相手が強ければ、そくさくと退散す
る。それが鉄則で諺では「溺れて藁おも掴む者は頭を沈めて殺せ」で「藁おも掴む者は
助けろ。」の日本とは大違いの風習なのです。戦いの目的が、政治的なものであったり
、主張を通したりするためのものではなくて、あくまで食料確保のため、生きるためだ
からです。自分が死んだら食えなくなるどころか、食われてしまう。そういう世界だっ
たのです。刀伊の入寇が起きたのは、11世紀のはじめです。元寇よりも250年も昔
のことですが、パターンは元寇と実はよく似ています。どういうことかというと、元寇
に先立って、モンゴルは朝鮮半島を従えようとしました。ところが当時の高麗の王族た
ちは、自分たちだけ離島にサッサと逃げています。モンゴル軍団は馬を使いますが、島
に逃げれば彼らは海を渡れないからです。このため朝鮮半島内は無政府状態となり、三
別抄といういわば暴力団が跋扈します。そこにモンゴル騎兵達が攻め込んできたわけで
す。ところが高麗国そのものは、まるで無抵抗です。というより逃げてしまっています
。結果、朝鮮半島内では、普通にはありえない、不思議なことが起こります。朝鮮半島
内に侵攻したモンゴル騎兵達が、朝鮮半島内の民衆を保護するために、朝鮮人の三別抄
という匪賊たちと戦うことになったのです。


1026: 名無しさんAA:18/03/16 21:37
  閑話休題    ねずさんの 刀伊の入寇 から-----6
 こうなると一般の朝鮮の民衆からしてみれば、モンゴル騎兵は自分たちを保護してく
れる神様のような存在となります。結果、モンゴル軍団が帰るとき、朝鮮半島内の民衆
60万人が、モンゴル軍団に付いて大陸方面に移動してしまうのです。当時の朝鮮半島
の人口は約2百万人です。つまり、人口の約3分の1が、朝鮮半島を捨ててモンゴルに
付いて行ってしまうのです。モンゴルは、こうして付いてきてしまった朝鮮人たちに、
いまの満洲南部あたりの土地を与え、そこで自活し生活するように命じます。そして、
その後、高麗王朝がモンゴルに降伏する。降伏した高麗は、モンゴルのハン(大王)で
あるフビライに、「我々の土地には何もないが、海を渡った向こうには巨万の富を持つ
国がある」と、日本を攻めることを進言しました。このことはマルコ・ポーロの『東方
見聞録』に記述があります。
**ジパングは東方の島で、大洋の中にある。住民は肌の色が白く礼儀正しく偶像
   を崇拝している。ジパングには金(Gold)があり、彼らは限りなく金を所有
   している。この島の君主の宮殿は、屋根がすべて純金で覆われ、床も約4cm
   の厚みのある金の板が敷きつめられ、窓もまた同様である。また、この島に
   は赤い鶏がいて、すこぶる美味である。多量の宝石も産する。フビライはこ
   の島の豊かさを聞かされてこれを征服しようと思い、二人の将軍に多数の船
   と騎兵と歩兵を付けて派遣した。                ***
要するに自分が助かりたいがために、南の島の日本にたいへんな富があるとホラを吹い
たわけです。その結果、元寇でやってきたのは、元の軍団と高麗の軍団ということにな
っていますが、これはまた、すこし言葉が足りません。ここでいう元の軍団というのは
、先にモンゴルについて、満洲南部に移動した元高麗人たちです。その元高麗人たちは
、高麗国に残った人たちよりも「先にモンゴルの子分になったから、自分たちは高麗兵
よりも偉い」として、高麗兵に対して居丈高になっています。彼らの考え方は、上下関
係がすべてなのです。ですから、日本にやってきた元寇は、モンゴルと高麗の軍団では
なくて、実は元高麗人と、現高麗人、つまり指揮官を除き、兵はことごとく朝鮮族であ
ったということです。そして彼らは壱岐対馬を襲い、住民を皆殺しにして食料にしまし
た。繰り返しますが、遊牧民は人殺しは好みません。元来、人は生かして使う、という
のが彼らの発想です。だからこそ、朝鮮半島から60万人がついてきたのだし、高麗の
住民をモンゴル族が皆殺しにしたり食料にしたという記録はありません。ところが支那
人や朝鮮族は、相手が弱ければ殺して食べるというのが風俗習慣です。ですから壱岐対
馬を襲っています。

1027: 名無しさんAA:18/03/16 21:37
  閑話休題    ねずさんの 刀伊の入寇 から-----7

 つまり、250年後に起きた元寇と、11世紀初頭の「刀伊の入寇」は、実はきわめ
てパターンの酷似したものであるということができます。元寇も、元、つまりモンゴル
による日本侵攻とされていますが、実体は朝鮮兵による日本侵攻です。刀伊の入寇も、
女真族(刀伊)による日本侵攻とされていますが、実体は朝鮮兵による日本侵攻です。
同じなのです。おもしろいのは、日本国内では、この「刀伊の入寇」をきっかけとして
、平安中期の武士団が形成されていきます。そして武士団が勢力を増し、源氏と平家の
二大勢力を生み、源氏による鎌倉政権ができて、武士による政治がおこなわれるように
なったとき、元寇が起き、元の大軍は駆逐されています。それにしても・・・。「千年
経っても忘れない」どころか、数年で朝鮮や中国の実態を忘れてしまう日本人は 一体
いつになったら、大陸の隣国の正体を見つける事ができるのでしょうか。「千年経って
も歴史の事実を忘れてはいけない」のは、むしろ日本の方といえるのではないでしょう
か。その点 朝鮮征伐を行った羽柴秀吉はその事は忘れなかった。奈良にある藤丸正伝
では多くの九州人がそうした 海賊によって海辺の民が襲われていた。更に戦国時代に
は村人も戦乱で飢えた子供を抱えていた。そこで修験道の山法師は子供を連れて 山の
寺などで生活させていた。そうした中で尾張では古くから開墾されながら放棄地が多か
ったと言われる。そこで奈良に集められた子供は尾張藩に多くが乞われて百姓で入植し
ていた。秀吉もそうした自出のない子供として育ったとされる。又家康も松千代君時代
にさらわれて代用に君をたてた双子の一人で後の日光東照宮を指揮してたてた天海和尚
がその双子の片方で、大阪城攻めで再会したとされる。この元寇なり刀伊の入寇などの
こうした海賊行為は まったく止まる事は無かった。それは世界大戦前も同じであった
。終戦後の韓国の竹島占領や、うるうん島の人肉事件や済州島の惨劇あるいは漁船襲撃
や船長拉致のこうした朝鮮からの事件は、多くの日本人には「またか・・」の言葉しか
なかったのだ。今の日本政府は馬鹿にも程がある程中国や韓国を育てた。それが先の、
江戸時代の壱岐対馬の悲惨な苦労の学習だろうが、秀吉の朝鮮征伐も又その学習からだ
った。

1028: 名無しさんAA:18/03/16 21:52

 今やTV局も馬鹿げていて この「溺れる者は沈めよ」と言う思想を韓国ドラマなど
を買って 盛んにPRし日本人を洗脳している。かつて「身は仏すがるは助けよ。」の
思想はどこにもない。一体何の為に生きて居るのか。特にソフトバンクなどはいまでも
詐欺のような商売して恥ずかしくないのだろうか。人間のやる事ではない。




1029: 名無しさんAA:18/03/16 21:57
 富安君を探せ              < その52 >

松は縁起の良い木とされる。何故松の木は縁起が良いか。それは松の木が弱いからだ
。老松神社は天神の第一の眷属(けんぞく)とされる。通常「老松」を荘園鎮守社とし
て人々は古来より祀った。通常日本の「社」(やしろ)は村の話合いの場であった。南
洋でも酋長や族長が会合を言う場所がある。今で言う公民館である。それが老松神社で
紀元前からのものと思える。それはそこに大木があり目印とされる。つまり村々は大木
を目印に往来をしていたのである。その為にある一定以上の大木は皆御神木であった。
松の木には 100種類以上の樹種があるそうですが、一般的にはクロマツやアカマツが松
とされている。能や狂言の舞台には必ず松が背景として書かれて、日本のあちこちで松
は見られ「白砂青松」(はくさせいしょう)という日本の美しい海辺を現した言葉があ
るくらいだ。中でも日本のクロマツ(雄松)は、汚染と塩害に強く広くしっかり根を張
り、砂地や岩ばかりの所でも育ちます。しかも、しなやかで風にも強いので、街路樹や
海岸線の防潮林としても積極的に植えられる。しかし、気候的な制限で、黒松は日本で
は本州、四国、九州に分布し、国外では朝鮮半島南部の一部でしか見られない。代わり
に、北海道はトドマツやエゾマツ、沖縄はりゅうきゅうマツなど違った種類の松が自生
している。そんな馴染み深い松が、なぜ縁起物になったのか。それは日に弱く虫にも弱
く冬でも青く常陽樹で雪を貯めないからだ。また大きくなる事も成長が少なくほぼ姿を
変えない。老木が常に青々としているその姿は、不老長寿の象徴としてふさわしい物と
日本人は捉えたのである。菅原道真は病弱であったこともあり松を大切に育てた。枝は
折れやすく土が固くなれば枯れ水気の絶やさない場所しか生き残らない。道真公が元服
した時は「久方の 月の桂も 折るばかり 家の風をも吹かせてしがな」と詠んでいる
。まつの呼び名は、久しく齢(よわい)を保つことから「たもつ」が転じて「まつ」に
なったという説や、葉がまつげに似ているから「まつ」である、神が木に宿るのを「待
つ」などがある。しかし一番の神木としての地位は目印であり墓地では必ず入口には、
松があり濠が掘られる。それは入口であり見返りの松として故人が目印とするものとさ
れるものだからだ。農耕に欠く事の水はそれを祀る老木のかの存在が移民してくる民族
の水神として崇める元になった。つまり飲める水のある所しか松は生えないのである。
それまではあまり使用されていなかった鱗紋が室町時代突然多用されるようになった。
これはこの松の木が多用されたのと同じに蛇を神格化した気風からである。


1030: 名無しさんAA:18/03/16 21:57
 富安君を探せ              < その53 >

日本では龍「引き両紋」大蛇「杉紋」葵、雷「賀茂神社」鱗、巴などがシンボルマーク
とされるが 龍は水神でもあり多産の神でもあり武闘の神であり道案内の神でもある。
1619年、ヌルハチがサルフの戦いで明軍を破ると、後金国の勢力圏は遼河の東方全域に
及ぶに至った。その子のホンタイジは山海関以北の明の領土と南モンゴルを征服した。
1636年に女真族、モンゴル人、漢人の代表が瀋陽に集まり大会議を開き、そこでは元の
末裔であるモンゴルのリンダン・ハーンの遺子から元の玉璽「制誥之宝」(本来は大官
任命の文書に押される印璽である上、偽物である可能性が高い)と護法尊マハーカーラ
像を譲られ、皇帝として即位し、女真の民族名を満洲に改めた。順治帝のとき、中国で
は李自成の乱によって北京が攻略されて明が滅んで、清は明の遺臣で山海関の守将であ
った呉三桂の要請に応じ、万里の長城を越えて李自成を破った。こうして1644年に清は
首都を北京(京城)に遷し、中国支配を開始した「清の入関」である。が、中国南部に
は明の残党勢力がくすぶり、鄭成功は台湾に拠って頑強な抵抗を繰り広げていた。清は
、初め摂政王ドルゴン(ヌルハチの子)によって、のち成長した順治帝の親政によって
中国南部を平定し明の制度を取り入れて国制を整備した。このドルゴンは英名ドラゴン
の元になった。大竜を連想させたこの名の皇帝は非常に頭よく制度を建て、少数派の異
民族である満洲族の支配を可能にした。中国文明圏で圧倒的大多数を占めていた漢民族
が比較的容易に受け入れた背景には、清が武力によって明の皇室に取って代わったが、
強圧姿勢をとらず、明を滅ぼした李自成を逆賊として討伐したという大義名分を得てい
たことで、「天人相関説」である「天帝の子が天子として王を認め王位は家系によって
継承されていが、王家が徳を失えば新たな家系が天命により定まる」という。思想で、
得なくば天命により除かれる思想にマッチしていたからだ。更に今までの皇帝の自殺に
追いやられた崇禎帝の陵墓を整備し、科挙などの明の制度を存続させるなど、あくまで
明の衣鉢を継ぐ正当(正統)な中華帝国であることを前面に出していた事で反感があま
り表にでなかったからだ。減税・特赦を行うなど明の遺民の心情を慰める一方で、満洲
族の風習である辮髪を漢民族に強制し、「髪を留める者(頭を剃らない)は首を留めず
」と言われるような苛烈な政策で支配を固めた。又清が北京に入城し、中国の大部分を
統一した1644年、皇帝である順治帝(愛新覚羅福臨=フリン)は6歳を皇帝とした
。この後ドルゴンが死ぬと順治帝の親政が始まり。彼は風習であった先代の王を嫁とる
行為でドルゴンが順治帝の母親を妃にしていたのが許せませんでした。そこでドルゴン
の配下を次々に排除した。そこでも大勢の者が日本にやって来た。

1031: 名無しさんAA:18/03/16 21:58
 富安君を探せ              < その54 >

板付遺跡は日本での発掘遺跡の中で最古のの稲作の遺跡群とされる。しかしそれでも、
後で発見された佐賀の吉野ガ里遺跡より二百年ほど古く縄文晩期の遺跡とされている。
又東日本を中心に発掘されて来た銅鐸が、1950年代からの発掘物の分布によって、
瀬戸内海中心の銅剣文化圏と畿内中心の銅鐸文化圏がある、と考えられていましたが、
福岡県の遺跡で銅鐸が見つかっていたり、島根県の荒神谷遺跡とその周辺で銅剣、銅矛
、銅鐸がまとめて大量に発見されるなどしているため、最近の研究では覆っています。
島根の遺跡では、何でまとめて大量に発見されたのか。つまり、まとめて沢山埋められ
ていたのかはまだ謎とされる。銅鐸が神を祀る際の、祭礼用の道具か、強大な軍事力を
持つ為の道具かも不明で、こういった銅製品を鋳造する産地であった事だけが解ってい
る。小倉篠崎八幡伝記では、神社伝記を小倉市誌に、仲哀天皇九年熊襲討伐のさなか、
天皇は筑前国香椎宮で崩御された。その後、神功皇后が三韓を攻めて凱旋して、筑前国
宇美で皇子(後の応神天皇)をお産みになった。翌年、穴門(長門)の豊浦宮に向かう途中
、鷹尾(高尾)山にさしかかると、山頂の大石に皇子をたたせ、遥かに長浜や文字ヶ関(
門司)から穴門の方を望み、「穴門は近し」といわれたという。敏達天皇十二年(584年)
に勅命によって、この故事に基づき、鷹尾(高尾)山の麓の朝倉谷に、仲哀天皇、神功皇
后、応神天皇を祀り、葛城小藤丸を住まわせて祭祀に当たらせ『篠崎神社』とした。又
天平二年(730年)宇佐八幡宮から分霊を勧請し『篠崎八幡神社』としたとある。この時
も三韓征伐時の熊襲征伐にしている。しかし、多分にもっと古い時期のもので、長門は
久留米の長門石方面であり鷹尾は鷹尾神社地域と思われる。長浜は筑後の長浜地区で、
宇佐神社からの分霊で宇美地区で応神天皇を産んだ場所を祭ったと言うのはそこに無か
った神社だった事を示す。熊鰐は、「日本書紀」にみえる豪族で筑紫の岡県主の祖とい
われ仲哀天皇八年、天皇を周防の沙麼(さば)に出迎え、魚と塩をとる地域を献上、海路
を案内した、とある。一方には、熊鰐とは事代主の一族であり、天皇家を支える権力者
であるとされる。熊襲も和邇氏もかつては一つの豪族を始祖に置く事になる。坂田氏は
山門郡坂田村より起こり所領十八町。坂田遠江は蒲池氏配下の将だが遠祖は熊襲という



1032: 名無しさんAA:18/03/16 21:59
 富安君を探せ              < その55 >

 もともとは、姫木城(ひめのきじょう)や橘木城(たちばなきじょう)は、熊襲城(
くまそのしろ)とされ鹿児島県霧島市の国分平野北部にあった山城である。橘城、橘之
城、曽於郡城、剣之宇都城(けんのうとじょう)、神山城とも呼ばれたりして今に至っ
ている。この二つの山は西の城(にっのじょ)および東の城(ひがっのじょ)と呼ばれ
る二つの曲輪から構成される。西の城の山頂部には土塁に囲まれた本丸があり、南西へ
貫抜瀬戸と呼ばれる尾根を介して姫木城と接続していた。本丸の東側に大手門、西側に
搦手門を配し、北部に水源があった。東の城は北東に春山原と接しており、西の城と東
の城の狭間に岩戸坂と呼ばれる道が通じていた。この地、国分平野北方に広がる春山原
と呼ばれるシラス台地に位置する。城の基盤となる山体は岩戸火砕流による溶結凝灰岩
からなり、東西850メートル、南北200メートル、標高は170メートルで、東側、南側
および西側は断崖となっている。その頃東北部や関東部を蝦夷の地として異国扱いした
が、九州のこの南端も又異国として南夷(なんい)や南蝦夷(みなみのえみし)など言
っていた。景行朝の記述として、熊襲は頭を渠師者(イサオ)と呼び、2人おり、その
下に多くの小集団の頭たる梟師(タケル)がいたと記している。大和王権側は武力では
押さえられないので、イサオの娘に多くの贈り物をして手なずけ、その娘に、父に酒を
飲ませて酔わせ、弓の弦を切り、殺害した(ヤマトタケルが弟彦(オトヒコ)という伝
説記述がある。日本書紀には熊襲、古事記には熊曾と表記され、筑前国風土記では球磨
囎唹(くまそ)とされる。基本的に球磨とは地名で穴を意味していて穴倉の住民と言う
意味であろう。朝廷に抵抗する集団の長として、クマソタケル(熊襲建、川上梟帥)が
出て、こうして日本武尊に征伐されているが後世の作り話でどうもクマソの方が文字を
持っていた可能性が強い。つまり悪役の大和朝廷の作り話で文字を教わりに来ていた。
と考えられる。しかし朝廷は大宰府に武器を集め702年(大宝2年)8月、九州南部に兵
を送るとともに唱更国(はやひとくに)という薩摩国を設置し現地の支配体制を強化し
た。713年(和銅6年)には大隅国が設置され当時律令制導入の先進地であった豊前国か
ら5000人を移住させ指導に当たらせるなど支配体制がさらに強化されて、律令制、特に
国郡制の導入や班田収授法を推し進めようとする朝廷と、九州南部において共同体的な
土地利用形態を守ってきた隼人との間で緊張が高まった。この租税に720年(養老4年)
に起きた隼人の反乱において隼人側が立て籠もったのが、比売之城(ひめのき)で、こ
の橘木城と姫木城を合わせて指していたと考えられている。


1033: 名無しさんAA:18/03/16 22:00
 富安君を探せ              < その56 >

 七〇二年二月に、歌斐{かひ}(甲斐)国から五百張の梓{あずさ}弓が、翌三月には
信濃{しなの}国からも一千廿張の梓弓が大宰府に運び込まれた。梓は『万葉集』で歌
にも詠まれる弓の適材で、山梨・長野はその産地として知られている。それにしても、
遠路運ばれているところがらみると、大宰府では軍事的緊張が高まっていたのであろう
。それを示すような記事が八月に見える。そこには、「薩摩・多徴{たね}、化を隔て
て 命に逆らふ。是に兵を発{おこ}して征討し、遂{つい}に戸を校{しら}べて吏
{り}を置く」とある(『続目本紀』)。あまり長くはない記事であるが、時間的には数
ヶ月間にもわたる三つの事柄が継起した順に述べられている。すなわち、まず薩摩と、
多徴(たね)(種子島を主とした地域)が天皇の教化・命令に従わず逆らったこと。そこ
で朝廷では、兵を発してこの二つの地域を征討したこと、さらにこの地域の戸を調査し
(戸籍を作成)、吏 (役人)を配置した(国司・嶋司{とうし}の常置)。この三つの事柄
がらを段階的に追うと、少なくとも数カ月の期間を要した。とみてよいであろう。結果
的には、薩摩国と多徴嶋(「嶋」は国に準じたもので、他には壱岐・対馬がある)の成立
である。薩摩国は成立当初しばらくは「唱更{しょうこう}国」と呼ばれていたようで
ある。「唱更」は中国漢代の兵役の称で、辺境を守る意がある。その意からすると、防
人に類似 した兵士によって守られていたともみられる。この薩摩国(前身)は、おそら
くは日向国から分立した のであろう。というの は、同じ七〇二年四月の記事に「筑紫
七国」(九州の地域は七国)の語が見える。この表記からすると、のちの日向・大隅・薩
摩三国の地域は広く「日向国」と呼ばれた時期があり、八世紀になって、薩摩・大隅二
国が日向国から分立し、西海道は九国(名実ともに九州)になったと理解できるだろう。
薩摩、多徴への征討に従軍した軍士には、九月になって勲位が授けられているが、同年
(七〇二年)に作成された筑前{ちくぜん}・豊前{ぶぜん}の戸籍には勲位を帯する者
が認められる。とすると、この時の軍士は西海道諸国から徴集されていたのであろう。
その徴兵命令は大宰府から発せられていたと推測できる。ここでも、大宰府の権力が、
西海道諸国に浸透していたことが読みとれるようである。この頃になると、七世紀まで
の「阿多隼人」に代わって「薩摩隼人」の語が散見されるようになる。このことでは、
隼人の中心地域が阿多(のちの阿多郡の万之瀬{まのせ}川流域) から薩摩(薩摩郡の川
内川流域)に移ったことを示しており、薩摩の地域に国府が設置されたことに対応して
交流が進んだ事を物語っている。

1034: 名無しさんAA:18/03/16 22:00
 富安君を探せ              < その57 >

 ところで、薩摩隼人を征討するに当っては、「大宰所部神九処に祷祈{とうき}した
」との記事がある。戦勝のために大宰府管轄の九カ所の神に祈願したというのである。
が、この時期までに西海道に存在した神社で該当するのはどこであろうか。宗像・香椎
・筥崎・筑前住吉・宇佐・日子宮・高良・玉垂などと一応は挙げてはみるものの的確に
はわからない。また、唱更国司(のちの薩摩国司)から、要害の地に柵{き}を建て、藤
(兵士)を置いて守りたいとの要請が出され、許可されている。このような要請からみる
と、国府周辺にはいまだ不穏な空気があったのであろう。ここでも既に藤氏が既に護衛
の兵を意味している。この要請を受けてのことであろうか、七〇四年四月には信濃国か
ら献上された一千四百張の弓が大宰府に充てられている。なお、この時に設置された柵
の跡は、今ままでのところ発見に至っていない。薩摩国が成立する数年前には大宰府に
よって三野・稲積の二城が築造されているが、この二城の跡も未発見である。この二城
の場合も、とりわけ稲積城の場合でも、行政的性格を考慮することも、一応は必要であ
るがいずれにしても、国の分立・成立にともなっての住民の抵抗とその背景については
、のちの大隅国成立の際にも見られる。住民の心情的側面にまで踏み込んで、かれらの
武力蜂起にいたる事情の朝廷の関係があったであろう。なお、唱更国から薩摩国への名
称変更はいつごろであろうか。それに示唆を与えるのは、七〇九年六月の『続目本紀』
の記事に「薩摩・多禰{たね}両国司」の語句が見えることであろう。この記事からす
ると、七〇二年に唱更国が成立してから七〇九年までの七年間のうちに、名称変更があ
ったことになろう。しかし、この間のどの時点かについては史料が欠けるので、いまの
ところ確定できない。日向国からの薩摩国の分立がなぜ大隅国に先行したのか。それは
いくつかの理由がある。まずは、薩摩国分立に際しては抵抗する勢力があったことだ。
その勢力は大隅国分立の際に予測される抵抗勢力に比べると、まだ対処しやすいもので
あった。薩摩国の地域では各豪族勢力圏が小さい場合が多く、各豪族勢力圏がのちに郡
に編成されていくのであるが、まだ郡の規模も小さかったことが指摘できる。それらの
なかで、やや目立つのが薩摩君{きみ}の勢力圏で、川内川中流域から下流域にわたり
根拠地としてもっていた。朝廷では、この薩摩君の地域の分断策をとって二郡に分けた
(薩摩郡と高城{たかき}郡)にだ。北側を高城郡としそこに国府を置き、肥後国からの
移民を配置したのである。一方南に薩摩君をとじこめ、境界地にそって「柵を建て戍を
置いた。」こうして一時的に存在した「唱更国」という特別な国制も事情が背景にある


1035: 名無しさんAA:18/03/16 22:01
 富安君を探せ              < その58 >

 中国大陸と朝鮮半島をめぐる対外関係の要地に薩摩国が立地していた事は大和朝廷の
最大の関心時だった。各書の記述によるとこの点では、薩摩国と同時期に成立した多禰
{たね}嶋国が国制に準じた、種子島・屋久島を包括した地域で豪族がいたのは事実で
あり、かつ強靭な豪族のようだ。考えてみれば江戸幕府の開国時も薩摩や琉球は抜きん
でて諸外国の動向を知っていた。この先史時代も同じ事が起こっていたとも取れるだろ
う。薩摩国・多禰嶋国は、日本海と東シナ海に面しており、唐・新羅とは正に一衣帯水
の地政学的立地である。また、遣唐使船が、しばしば漂流あるいは難破する地域でもあ
ってそれが日本の大和朝廷以上に情報があったとも言える。このような要地は、大宰府
としては日向国府を介してではなく、直接掌握しなければならない要因ともなっていた
。その為にも、薩摩国の分立を先行させ、大隅国が遅れたのだろう。大隅には曽君{き
み}という強大豪族が根を張っていた。この一族を懐柔するには時間がかかり、また、
さまざまの手段を講じなければならなかった。という事情もあった。その一方で、大隅
の地域は日向国との地続きで日向国府(現・西都市)からの指示や措置が、薩摩の場合よ
りは対処しやすい点もあったとみられる。そこで大隅の強大豪族曽君への懐柔策は進ま
せていたのであろう。その成果は表れている。それは、七一〇年正月の記事に「続目本
紀」では、『日向の隼人曽君細麻呂、荒俗を教え喩{さと}して、聖化に馴れ服{した
が}はしむ。詔{みことのり}して外従五位下を授けたまふ。』と伝えて日本化や朝廷
の一角に入れる事に成功している。このことは注目される。曽君の一族のなかからも、
朝廷側について、自分たちの野蛮な習俗をあらためて天皇の徳化に早く慣れ従うように
周辺の人々に教え諭すものが出現したからである。それが「日向隼人」であり、曽君と
言う大隅の贈於の豪族であったはずである。しかし、大隅国成立の数年前で、日向に属
していたので、このような表記になったに過ぎない。やがては「大隅隼人」になる人物
である。既にこの頃曽君の一角は朝廷によって切り崩されていたのである。その誘因の
妙薬は外位(地方人に賜与される位階)ながら、「五位」という貴族扱いの位階のもつ魅
力であった。一方この懐柔に反対した勢力もあった筈だ。彼らの多くは海人(あまべ)
族で多くは東北の関東から津軽に移っていったとされる。黒潮海流に乗れば簡単な事だ
ったとも言える。しかし残った者もいた。それが先の反乱者隈部の一族だった。

1036: 名無しさんAA:18/03/17 15:00
 富安君を探せ              < その59 >

 この残った隈部の一部の多くは宮崎側でなく熊本側の住民であった。有明海もしくは
日本海域だった事が大きな要因であったのだろう。船で海を行くにしても陸を見ないで
行く事はない。経験と見える範囲で離れて海を行くだけの話だ。隈部も又松浦党と同じ
く隈部一党と呼ばれている。即ち血縁やイデオロギーやルーツはそう重要ではなかった
。言わば職能による生活の仕方が重要だったからだ。四石家紋石畳家紋とする安富氏は
言わば古代の隠れキリシタンで伊予の国にいた。石畳紋の言われは、四角い石を地面に
敷いた幾何学的な紋様から来ている。連続したものは霰(霰)模様といい、皆さんご存
じの「市松模様」はこれに当たります。シンプルかつ印象的な紋として、平安時代から
使われてきた。神社に石畳を使うところから、神官・氏子によく用いられたともある。
と説明される一つ石から九つ石までバリエーションがあるが耶蘇教はあくまで四石の話
である。佐々成正(さっさなりまさ)は信長時代では秀吉と同じ盟友として存在してい
た。本能寺の変が起きて、信長の変報が届くと 諸将は自らの領地へと引き上げ成政は
上杉家の反撃の対応に動く事が出来ず、豊臣秀吉に先を越されてしまっていた。その後
柴田勝家と豊臣秀吉との間で実権争いが起こると、勝家側についたが秀吉と家康の間に
和議が成立すると、進退が窮まり、家康に再び秀吉に対して挙兵を促したものの為らず
。抵抗した戦さは自城を取り囲まれたまま、ほぼ所領没収で実権を失い隠居状態だった
。こうした中での九州平定に参加していた。隈部親永は豊臣秀吉に対して所領安堵で開
城を行っていた。しかしこの佐々氏の働きに熊本所領を任せた事で秀吉は窮地にあった
。猛将加藤と貿易将小西行長の報償する所領が無かったからだ。本来なら島津氏を叩く
予定だったがちゃっかり帰郷し防備を固めていて秀吉軍が攻めるに兵糧に問題があった
。この時熊本の太閤検地ににおいての反対が出てきたのは、先行きの不安を作っていて
佐々氏の切腹は早くから決まってはいた。問題は隈部一党の処遇であった。どれだけの
家臣と仲間が九州に入るかが掴めなかったからだ。只隈氏は黒門橋の決闘とされる者の
一族だ。宗茂公は一応は島津軍を追いやって柳川に入場した。が、まだ所領安堵はして
はいない蟄居謹慎の頃だ。秀吉はこうして九州平定での隈部氏に、てこずっていたのだ
。佐々氏領地の隈部内で一揆が起こったのだ。本領安堵を持ち掛けて講話開城させたの
は他ならぬ立花宗茂だった。だが太閤秀吉は、それまでの経過から隈部一党の帰城は許
さず、一族解党領主の死罪を宗茂に伝えたのである。隈府本城と菊池城は加藤清正に、
熊本城小西行長に茶臼山の平山城を預ける事をやっと決定し、ここに菊池一族と一緒に
隈部一党肥後52人の国人衆の旗頭は行き場が無くなったのである。

1037: 名無しさんAA:18/03/17 15:00
  富安君を探せ              < その60 >

 これらが決定すると、天正16年5月26日、秀吉の使者により、柳川に入場蟄居中
の立花宗茂に隈部親永ら12名に対する処刑命令が伝えられた。検現役の上使として、
浅野長政が来柳していた。命令を受けた立花宗茂は辛い立場に立たされた。本領安堵を
信用して講話開城した隈部一党で菊池の国衆であったからだ。これを処刑にするのは騙
し討ちに等しい。宗茂には実父高橋紹運(じょううん)から引き継がれ、養父立花(戸
次・べっき)道雪に養われた信義を第一とする武門の血が流れている。恥ずべき騙し討
ちの汚名を隈部にも自分にも後世に残すことは断じて許されない。しかし、ながらもと
より、立花城や秋月城で島津に包囲されながらも、からくも命が助かり忠誠を誓った恩
ある秀吉の命令に背くことはできない。誉れ高い肥後武士である隈部一党の面目を立て
、かつ立花家の名誉を守る方策を想いあぐねた。討手にも甚大な犠牲を強いる手段であ
るが果たし合いにする事に意を決した。その夜、宗茂は検使役の浅野長政翌日の「放し
討ち」を願い出た。討手側にも大きな犠牲を出すかも知れない前代未聞のこの申し出に
長政は驚いたが、武士の信義を貫こうとする宗茂の決意に 心動かされ「放し討ち」を
許可した。来柳した上使が秀吉の正室(ねね殿)の妹婿、長政であった事も立花家に幸
いした。開けて天正16(1588)年5月27日の朝、黒門前の広場で 史上まれな
「放し討ち」の決闘が行われる事になる。立花家からも隈部一党と同じ数の12人の討
手が選ばれた。十時(ととき)摂津、十時伝右衛門、池邊龍右衛門、安東善右衛門、十
時勘解由、池邊彦左衛門、安東五郎右衛門、石松安兵衛ら、家老分や母袋(ほろ)分と
して宗茂の直下に仕える名だたる歴戦の勇者達であった。隈部親永以下12名は柳川へ
送られた正月以来、三の丸から中堀を隔た所に特別の屋敷を与えられ蟄居していた。罪
人とはいえ肥後52人の国人衆の旗頭と注目された隈部親永である。宗茂は彼らを武人
として手厚く処遇していた。山々の峰の端が白みはじめた頃、蟄居中の隈部親永の下へ
使者が派遣されて、隈部一党へ伝えられの身志度を整えた一同は登城した、帯刀を許さ
れて威儀を正して屋敷を出て使者の後に従い隈部一党が黒門橋を渡りと門が開けられた
やって来ていた。帯刀していたのは12人の立花武士だった。そこに彼らを待っていた
のは、立花武士だった。にわかに辺りは殺気に包まれた。戦いの場所は今の消防署前か
ら柳川幼稚園の間であった。


1038: 名無しさんAA:18/03/17 15:01
  富安君を探せ              < その61 >

十時摂津が進み出て作法に従い口上を言う「貴殿に私恨なき物だが、宗茂公御下命によ
り仕度候らえて御首を頂きに参上した次第、我ら此処に御命を御免まかり申す所存。」
「我らとて武士の端くれ、隈部親永有難くこの義受け給う所、かくなる上は返り討ちを
果たして我が身の潔白と隈部一党の猛者足るを秀吉公に知らしめるに望む所、思う存分
働きあるが良い、誇りと名誉に掛けて打ち果たして申そう。いざ勝負あらん。ござれよ
討ち果たさん。」と決闘の口上をして刀を抜いた。肥後の隈部・有働一族も名の勇者達
だったので騒ぐこと無く静香に太刀を抜いて身構えた。時は巳の刻(午前10時)、初
夏の空を太陽が照らし始めている。上使の浅野長政と城主立花宗茂は二の丸の辰巳櫓か
ら、今まさに始まる決闘を凝視していた。堀を隔てた隅櫓(すみやぐら)に立つ宗茂の
姿を見た隈部親永は、この処遇に対して深く感謝の念を持っていたであろう。と言われ
決闘は遂に凄惨な戦いの幕を開ける。立花家中きっての剛勇十時伝右衛門が隈部親永の
前に出て姓名を名乗り太刀を構えた、親永も刀を構えた。陽に照らされた双方の額に汗
が光る。すかさず伝右衛門の太刀が上段から勢いよく振り下ろされた。肥後国人として
戦国の世を豪胆に強く生き抜いた親永だったが、いまや囚われの身でまして高齢だった
更にこの度の戦いで足に傷を持つ身であった。だがじりじりと時が過ぎるに伝右衛門の
体力は衰え僅かな一瞬をとらえた一撃をかわす力はなく、振り下ろされた刀は身体を切
り裂き親永は絶命した。遠きには親永は抵抗しないで悠然と討たれた様に見えた。それ
に呼応するように各所で決闘が始まった。南北朝の騒乱以来、菊池家に仕え、戦国の世
にその名を馳せた隈部一党であった。肥後武士の豪腕さは立花勢に劣るものではなかっ
た。しかし戦いに敗れて囚われ困憊(こんぱい)し、刑場に引き据えられたも同然の身
である。今はただ無念と絶望の中での死に様を考える術しか無かった。家中でも指折り
の戦歴錬磨の気鋭の武士達である。決闘とはいえ戦いの結果は明白だった。刃と刃の鞘
当てもなく 音が響かぬままに血しぶきが上がる。そして隈部側の侍が一人、また一人
と倒されていった。それは不思議な決闘だった。半時も要せず決闘は終わった。広場に
は隈部一党12名の遺体が横たわっていた。立花家にも戦死者が一人出た。家臣の森又
右衛門である。残った者も大小の手傷を負い、息づかい荒く茫然と立ち尽くしていた。



1039: 名無しさんAA:18/03/17 15:01
  富安君を探せ              < その62 >

選抜された者は立花(戸次)道雪の時代から仕えそれでも肥後勢の中には、武士の意地
と本能で最後まで奮闘する者もいた。激しい息遣いと摺り足の砂音に混じり、耳を裂く
ような 高く上がった初夏の太陽はじりじりと容赦なく、戦う勇者達の顔を照りつける
。刀身が空に光り、各所で力の限りの刃合わせが行われる。前夜からぬれ刃を合わせ、
目釘を整えて入念に戦いの準備をしている前に居合抜きの達人ばかりの前には、歯がた
たなかった。このすさましい決闘の一部始終を目の当たりにした検視役の浅野長政は、
大阪へ帰った後、事の顛末を詳しく秀吉に報告した。世にも稀なこの「放し討ち」の話
を聞いた秀吉は宗茂の罪を問うどころか、さすが西国一の弓取りと誉め讃えたという。
この決闘で死亡した隈部側の遺体は黒門橋近くに立花家の名目で丁寧に埋葬された。そ
の後も線香の煙が絶えることがなかったという。それは柳川幼稚園と、日本で最初の印
刷所をドイツの紙幣印刷機械で始めたとされる堤氏の境界にあったて池末氏が葬ってい
たそれから四百年余りが過ぎ柳川城の広い内堀が埋められ、決闘が行われた三の丸広場
付近は城南まち交差点になっていて当時の面影を探すのは難しい。しかし小さく中堀は
今も残る。そしてその水面(みなも)の上には車道となった黒門橋が架かっている。そ
の横に「黒門前の戦場」と刻まれた石碑がひっそりと建っていると言う。そも隈氏は、
甘木在者で平野部の神奈備は山隈山に古神道の徒だった。筑後川流域にそれぞれに一郎
丸二郎丸〜九郎丸までがその地域の祈祷をして村を護っていた。神話の時代に佐賀部と
筑後部が筑後川を挟んで戦いその兵士となっていた。その頃高句麗の傭兵をも使って、
この地を平定した。その為高良宮は高麗神宮であった。しかし大和朝廷配下となった九
州の朝廷は奈良時代には都府楼を築き守りを固めた地が大宰府政庁となり、神職の長と
して大神氏が大和朝廷よりも豊かになって分身の宇佐神宮を築いて大きくなり高牟礼山
は英彦山の座主の山となり神格が英彦山より高くなった。その為古神道は大阿蘇に阿り
隈氏は隈部氏と名乗り阿蘇氏を頼り菊池氏配下となった。こうして祖は清和源氏で代々
菊池家の三執老として赤星氏、城氏、と共に隈部氏として仕える事になった。が、隈部
刑部介但馬守親永の代の頃になると山鹿郡の永野城(山鹿市菊鹿町)を本拠として勇躍
した。そのまま在住した者は磯良丸同様に五郎丸六郎丸と称してこの地に残った。その
縄張りが地名や橋に残り六郎五郎橋(ろくっころばし)や浮羽の五郎丸交差点は名残り
である


1040: 名無しさんAA:18/03/17 15:02
 富安君を探せ              < その63 >

 小西行長は南蛮貿易で一時代を築いた商人であったと思われる。堺の商人の出とされ
るが、実は博多商人であった。何故なら対馬宗氏と同じに立花氏と通じていたからだ。
宗貞茂・貞盛の時代から九州にも領地があり、本家少弐氏と共に、周防の国を支配した
大内家と抗争して敗北している。こうして九州内の領土を失ったが、しかし九州の米を
入れなければ対馬の生活は儘ならなかったのである。宗義智(よしとし)の時、豊臣秀吉
が九州を平定しこれに帰順したが、秀吉が無茶ぶりに朝鮮を侵略を宣言した。先陣を命
じられ先頭を切って戦う一方、その後の講和交渉に奔走し、秀吉の過大な要求と、朝鮮
を支援していた明からの条件との間の板挟みになった。これを助けたのが小西行長だっ
た。小西行長はクリスチャンであった。実は戦国時代には公に久留子紋は別名十字架紋
が現れている。ポルトガル人が来たからだ。十字架のことをクルスと呼んだからことか
らだが、室町末期フランシスコ・ザビエルが布教のために来日、これを仏教僧侶の横暴
を押さえたいと考えていた信長が利用する形で後援していた。たちまち西日本布教され
に広まっていた。その結果、武家の中にも大友宗麟などは家臣に強制改宗を指示してい
た。そのシンボルとして久留子紋が作られた。その後厳しい弾圧で、消えて行くのだが
、いわゆる隠れキリシタンが巧みに十字架をアレンジさせて祇園守の紋などになった。
戦国大名の小西行長や島原の乱の天草四郎一味が使ったことは有名であり、宗氏立花氏
もこのクリスチャン仲間であった事は当然だろう。ところが多分に小西は博多商人の中
には入れてもらえなかったであろう。その頃南蛮貿易が出来たのは松浦党の下有馬氏族
とされている。戦国時代有馬晴純が現われ島原半島を根拠に肥前一帯に一大勢力を広げ
、さらにポルトガルとの交易で最盛期を築き上げた。その子の有馬義貞は、龍造寺隆信
の圧迫を受けて衰退する。1584年、有馬晴信は島津氏と結んで沖田畷の戦いで龍造寺氏
を撃退し、後に豊臣秀吉の九州平定で本領を安堵された。宗氏も柳川氏も蒲池氏の家臣
である江上氏の流れである。蒲池氏が菊池一族の末席だったが、大宰府内に大宰権帥を
大内氏が任命されやって来て旧来の代々家系で受け継いでいた武藤少弐氏と争った事で
。それまで神崎の庄は出雲の管理地で出雲からの出仕管理の北島氏は柳川に逃げてきた
更に内紛で大宰府での竜造寺氏も又殺され子供を引き取った。つまりこの時蒲池氏は、
神事の持つ外交も仏事の持つ外交も蒲池氏の下に置かれたのだ。

1041: 名無しさんAA:18/03/17 15:02
  富安君を探せ              < その64 >

 日本書紀に「宗像三女神は水沼君が祀る神である。」と記される。三女神は航海神。
水沼氏族は江南への航路祭祀を行っていた。大善寺玉垂宮の大祝が「隈(くま)氏」で
あり、高良玉垂宮の神職にも「神代氏(くましろ)」がある。武内宿禰の裔を称して、
宿禰の神の如き働きを表して、神功皇后が授けた名とする。中でも玉垂れ宮の神祇絵巻
には神功皇后が征新羅勝利を筑前四王寺の峯の榊に、金鈴をかけて、七日七夜の間祈願
し、九月十三日になって、明星天子(住吉神)と月天子(高良神)が示顕した。武内宿禰の
請で藤大臣が参戦し、筑前の八女神のうち豊姫を竜宮に遣わせて借りた千珠・満珠をも
ってついに新羅王を降伏させた。藤大臣は中臣鳥賊津臣命とも、藤大臣連保のこととも
月天子とも、住吉明神の化身ともいふ。こうして神功皇后(じんぐうこうごう)の遠征
に大功のあった事で藤大臣(とうだいじん)は水沼大君に報告しこの玉垂れ宮に没した
とされ、改めて高句麗宮(高良大明神・玉垂命)からこの地に下り、ここで没したため
の法要をして塚崎に墓を建て祀られた。その後 奈良朝の白鳳元年(672)に、法相宗(
ほっそうしゅう)の僧・安泰(あんたい)が高良社阿弥陀堂の傍らに祭神を祀り、側に
一宇の精舎を開基し、これを御廟院高法寺と号したのに始まり、山岳地場信仰と古神道
と神仏混合が始まり、後に天台宗となった。平安朝の弘仁5年(814)嵯峨天皇の勅令を
受けた三池郡司師直(もろなお)が修築し、高良大菩薩の号を受け大善寺(だいぜんじ
)と改めた。古書では「隈(熊、くま)」地名は、忌避された狗人の住地に与えられた
名であった。それを施したのは韓半島の支配氏族とされる。弥生中、後期の頃筑紫平野
のこの地まで南下した狗人の勢力が、韓半島由来の勢力に駆逐されたとも言える。のち
の時代、筑後域に在って水沼氏族は異色である。日本書紀の雄略紀に「身狭村主青(む
さのすぐりあお)が呉から運んだ珍鳥を水沼君の犬が噛み殺した。」という記述がある
。「新撰姓氏録」では身狭村主青を「呉」の孫権の裔とする。つまり三潴は大陸交易の
拠点であったのである。既に中国の呉国と密かに海運交易を行っていた証左であろう。
大善寺の御塚、権現塚は水沼氏族の奥津城とされる。特異な様式をもち、5世紀後半か
ら6世紀初めの築造とされる。八女の筑紫君磐井の岩戸山古墳にも劣らぬ巨大古墳だ。
水沼氏は筑紫のみならず火(肥)や豊をも関係していた。磐井に隣接しながらも、磐井
の乱 (527年)を経て、その勢力を律令期にまで存続して、水沼氏は祭祀氏族として、
古代最大の戦乱を生き延びている。それは水沼氏族が多大な財と兵力を維持していたか
らだとおもう。その古神道の地位の丸を持った藤氏が藤丸を名乗ったのだ。五郎丸の様
に。

1042: 名無しさんAA:18/03/17 15:04
  富安君を探せ              < その65 >
 「旧事本記」の水沼氏の祖を物部阿遅古連とする。が、物部阿遅古連は磐井と戦った
大連、物部麁鹿火の弟であり、時代は全く合わない。それでもその記述は磐井の乱に拘
わった水沼氏と物部氏の関係を想起させる。大和朝廷の神道と九州朝廷の古神道が矛盾
が出来て諍いがあったのだ。かつて背振山の鬼と英彦山の天狗が争ったように。かつて
最盛期には衆徒四十五坊、社領三千町を有していたと伝えられる玉垂れ宮も、明治政府
の神仏分離政策により、明治2年(1869)廃仏毀釈(きしゃく)が行われ、久留米藩は
玉垂宮のみを残して大善寺を廃止した。大善寺は玉垂宮に奉仕する坊中一山の惣名(そ
うみょう)で、座主を東林坊といい、本坊は南向きで玉垂宮社殿の背後にあった。玉垂
宮の鬼夜は、もとは大善寺の修正会(しゅしょうえ)の行事であった。玉垂宮の境内は
、約1万5000u。本殿、幣殿、拝殿、楼門、惣門、回廊、神輿殿、石鳥居、社務所の他
鐘楼、阿弥陀仏堂がある。社宝に『絹本著色玉垂宮縁起』二幅(重要文化財)がある。
かつて藤大臣(とうのおとど)の没し地であり、古代海外航路の一大地点だったのだろう
江南への海路は、確かに博多湾、那ノ津よりも有明海のほうが有効であろう。古い時代
、有明海は三潴のあたりまで湾入していた。水沼氏の巫女信仰ともされた古い比神の
神祇は、5世紀の頃には大陸交易の航路の女神祭祀へと変質している。高良山の対岸、
北野の赤司では蒲池比が水沼氏によって「道主貴(ちぬしのむち)」として、三女神
の田心姫命(たゆらひめ)に習合していた。この北野天満宮縁起では「菅公は仁明天皇
の御宇、承和12(845)乙丑6月25日丑年のご生誕であり、貞観元年己卯月2月
乙丑、」として白牛が奉じている。「ご元服の夜、白牛が角をくじいて死ぬ悪夢を見ら
れた。たいそう気にされて自ら牛を画き、お酒を供えてご尊拝せられた。寛平5年癸丑
の9月、公は北山に茸狩りの宴を催されましたが、いずこからともなく小牛が宴席近く
寄り、頭を垂れて公を敬うがごとくでありましたので、公はたいそうお喜びになって、
御館に連れて帰りお可愛がりになりました。又、菅公が太宰府にご左遷の時は、道明寺
から、菰屋の里まで落ちゆかれる途中に、時平の命を受けた笠原宿禰等が後を追って、
道中に切りかかり命危うく見えた時、松原の中から白牛が飛び出て、宿禰の腹を突き刺
して助けた。よく見ると、道真公が都で御愛育した牛であった。道真公は「都にて流罪
極る前夜には、逃げ去って姿を隠し、度々に凶非を告げ、今度此の危難を助けし忠義の
牛だ、いざ筑紫まで伴わん。」と涙を流しお喜びになりました。これにより牛にお乗り
になって、御心安らかに旅立たれたのだが、久留米北野のこの地で没したのであります
。」とあった。その後太宰府の地においてひたすらに謹慎の意を表されておりましたが
、延喜3年( 903)2月25日の丑の日に道真公は薨去された。と言う

1043: 名無しさんAA:18/03/17 15:17
  富安君を探せ              < その66 >

 さて道真が追われた後、都では異変が相次ぐ。まず道真追放の主役を演じた藤原時平
が延喜9年4月に39歳の若さで死去、4年後には右大臣源光も亡くなる。又宇多上皇
を皇居に入れなかった藤原菅根も変死した。更には延喜23年3月には時平の妹穏子と
醍醐天皇の間の子の皇太子保明親王が21歳で死去、追い討ちを掛けて2年後にはその
保明親王と時平の娘との間の幼い新皇太子慶頼王まで亡くなってしまう。これを世の人
々は道真公が自分を追いやった時平公の縁者に祟っている。と噂した。醍醐天皇も恐く
り死んだ道真に右大臣に戻す詔を出したりする。しかし怪異は収まらず、とうとう延長
8年 (930)の6月26日、内裏に落雷があり大納言藤原清貫と右中弁平希世をはじめ何
人もの殿上人と女官が雷に撃たれて死亡する。この事件がショックで醍醐天皇は病に倒
れ、3ヶ月後この世を去った。人は道真公が雷神になったと口々にいい、味酒安行が祀
った小さな祠は延喜19年藤原仲平の命により大きな社殿に作り変えらた。その後やが
て都でも道真公を祀る大きな動きが出て来る。最初天慶5年 (942)京都の多治比文子と
いう人に「右近馬場に祠を建てよ。」という道真公の託宣を受けますが、庶民にはどう
にもならない。仕方なく自分の家のそばに小さな祠を建ててお祀りします。その5年後
今度は近江国比良宮の禰宜の神良種(みわ・よしたね)の子供の太郎丸にやはり同様の
託宣があり、その問題の右近馬場に一夜にして松が数千本生えるという奇跡が起きた。
その為、良種は文子とともに北野朝日寺の最珍に協力を求め神殿を建立した。久留米の
太郎丸はその子孫の地である。永延元年、一条天皇が勅命で道真公を祭るお祭りを行い
、これを北野祭と称して、その後この神社は北野天満宮と呼ばれるようになった。一条
天皇自身寛弘4年(1004)に行幸してその後京都にも分社が建てられた。大宰府天満宮は
、菅原道真公がお亡くなりになられたときに亡骸(なきがら)を埋葬しようと、「壱岐
真根子の娘の豊子姫の子」で公の門弟であった味酒安行(うまさけ やすゆき)が亡骸を
牛車に乗せて進んだところ、牛が伏して動かなくなった。これは道真公の御心によるも
のであろうと、その地に埋葬されることとなっていたが。延喜5年 (905)御墓所の上に
祀廟(しびょう)が創建され、延喜19年 (919)には勅命によって大宰府に立派なご社殿が
建立された。それが今の大宰府天満宮だ。その後、道真公の無実が証明され、「天満大
自在天神(てんまだいじざいてんじん)」という神様の御位を贈られ、「天神さま」と崇
められるようになりました。長い年月ご崇敬は絶え間なく続き、御墓所でもある太宰府
天満宮は全国約12,000社ある天神さまをお祀りする神社の総本宮となった。

1044: 名無しさんAA:18/03/17 15:33
  富安君を探せ              < その67 >

 菅公は古代の技術集団・土師一族の傍系で代々学問を持って朝廷に仕える菅原家に生
まれていた。とされる。土師氏はもともとは朝貢の人とされる。つまり渡来人で日本に
貢がれた人々だ。逆に言えば今の人物交流の留学生の様な立場で最新の中国技術師の家
の子孫であったと言える。だがそれだけに、一般的には卑下された視線があったと言え
る。葵(あおい)祭と壱岐若彦(壱岐のわかひこ)の話があるが、神事葵(あおい)祭
の起源は欽明天皇の時代に暴風雨が吹き荒れて五穀が実らなくなり、国民が困ってしま
ったときに、天皇は壱岐の若彦に「この悪天候はどうのようなことか。若彦一つ占って
くれ」と言われたので、若彦が占ったところ、「賀茂の大神のたたりである」という卦
が出た。と言う。そこで若彦は馬に乗り、イノシシの毛皮をかぶり、鈴を馬に付けては
賀茂の神の前を駆けた。するとびっくり、天気は雨もやみ太陽が照り始めた、五穀も実
り国民も安心した。と言うのが、これが勅祭・葵祭の始まりと言われている。だがそれ
は誰が聴いても嘘だろうと思う。壱岐の若彦は文字道理壱岐の人だ。更に先の道真伝記
での味酒安行も「壱岐真根子の娘の豊子姫の子」とされた。更に宗像氏に繋がる陰陽道
の門弟でもある。壱岐の人間である。此処に秘密がある。宗像の先に鐘崎という漁港に
織幡神社がある。かの「宗像大菩薩御縁起」によると、神功皇后の三韓征伐に際して、
宗大臣(ムナカタの神)が他の諸將とともに從軍し、大いに奮戦して武勲を輝したという
記録が残る。神社縁起では、その時、宗大臣は〈御手長〉を「捧げ来り」、これに武内
大臣(武内宿禰)の「織り持て」る「赤白二流の旗」を付けて、軍の前陣で「御手長を振
り下げ」「振り上げ」して敵を翻弄し、最後にこの『御手長』を「息(オキノ)御嶋に立
て置きたまえり」とある。この「息御嶋」は宗像の「沖ノ島」が祀る壱岐対馬とされる
。そして『御手長』については、「異国征伐御旗杆也」とあり、これが壱岐島の「天手
長男神社」「天手長比売神社」などで「織旗」が勝敗を喫した事から、この神社が祀ら
れた。とされる。私論だがこの紅白旗こそ船の帆ではなかったか。わかりにくいので、
わざわざ色を付けて船の乗り方を教えて征伐にいったのではないか。と思っている。戦
国期にはこの壱岐対馬は宗家の領地とされた。宗家の家紋では「隅立て四つ目結」か「
丸に平四つ目結」である。これは、早い時期にキリスト教が来た事を示している。また
対馬国を支配した氏族は、阿比留氏発祥の地が上総国畔蒜郡であるとされるが、1246年
に、阿比留親元が当時国交がなかった高麗と交易していることを大宰府が咎めた。朝廷
に従わなかったとして反乱者として太宰府の在庁官人宗重尚により征討されてしまった
事から宗家支配になった。これは阿比留氏が通訳出来た事を示している。

1045: 名無しさんAA:18/03/17 15:45
 富安君を探せ              < その68 >
 対馬市厳原町内山に所在する木武古婆(きむこば)神社は後に対馬藩主となる宗家の
初代当主、宗(惟宗)重尚を祀った神社とされる。宗重尚は、1246年には対馬島内最大
の在庁官人であった阿比留親元に対して、当時国交のなかった高麗と交易していること
を大宰府が注意したが従わなかった為に 大宰府の命令により討伐して対馬国主になっ
た人物とされる。「阿比留」そのものは平安中期から鎌倉期の行政実務を担当した地方
官僚の冠称であったという。ちなみに宗氏は鹿児島の島津氏と同じく渡来系の惟宗氏が
ルーツと言われる。重尚は晩年この内山に隠遁して当地で没した。その後 江戸時代に
なって異国船が現れだしてから1810(文化7)年に墓所に神社が建てられた。灯篭に「
文化七年」の文字が確認でき、阿比留親元時代まで、宗氏は配下として惟宗氏を名のっ
ていた事になる。惟宗は平安時代に始まる氏族で,秦氏の子孫で都では法律の専門家と
して、律集解・令集解の著などを惟宗直本として記述している。江戸期以前は各所から
各地の在庁官人達がここに宿舎を持って在住していた。島津氏や長宗我部氏も島では名
が知られた存在だったという。この中に蒲池氏配下に柳川氏がいた。福岡立花山を本拠
にし博多商人を束ねていた旧立花氏や宗像氏も又同じだった。朝廷はいつの間にかその
仕組みを忘れて、太宰権師(だざいごんのそち)を任命した。こうして明朝貿易の権限
を持つ朝廷が大内氏に委ねた頃、その処置を代理で大宰府で政治する陶晴隆に任せてた
。従って菊池氏や大友氏が猛反対しようが、大内氏に近づく事しかなく国長や国王を相
手と定めた勘合貿易の為に親書相手は天皇しか無かった。それはしかし、大友宗麟は、
独自に南蛮貿易をしていて、南蛮貿易にはそうした勘合符の相合のしきたりものなく、
又貿易の痛みも無く、気にする物ではなかった。博多衆が朝廷側に付く事を許さなかっ
た為に、戦乱期には覇者達が九州の各地を跋扈した。秀吉が九州平定した時、更に関東
や関西の商人を連れた秀吉の連れて来た武将達がそれぞれに貿易を始める事を狙ってい
た。中でも勘合貿易と南蛮貿易では、船は持ってもその権利の所在は大事な事だった。
それが宗氏と小西氏の手の中にあった。宗氏文書には、九州と朝鮮半島の中間に浮かぶ
対馬の苦悩が、貿易で島の経済を支えてきた事を表している。室町時代に朝鮮や中国沿
岸を荒らす海賊「倭寇」が流行する時も、元寇以前から朝廷は海の守りであり、対岸の
福岡から長崎までは避難地であった。しかし江戸幕府として落ちついて来た頃寛永10
年(1633)、江戸の藩邸で生まれ育った調興は「主君の宗義成が朝鮮外交に関する
国書を改竄している。」と幕府に訴える事件が起こった。柳川事件である。背後に朝鮮
通信使の道の改修などの労役や鶏など勝手に持ち去るなどの狼藉への苛立ちと彼へのそ
そのかしがあった。

1046: 名無しさんAA:18/03/17 15:56
 富安君を探せ              < その69 >
 倭寇に悩む朝鮮にとって、それを追い払ってくれる宗氏の役割は非常に役に立った。
江戸時代初期の弘前藩は、左近衛権少将 花山院忠長(猪熊事件)をはじめ、京都妙心
寺の東源慧等(紫衣事件)、肥後国人吉藩の相良頼兄(相良清兵衛騒動)などの流人を
受け入れている。罪人とはいえ、高貴の人や学問・文化の素養を持った人物がやって来
ることがあり、そうした場合、余り粗末な待遇はできなかった。対馬藩の家老柳川調興
(豊前素庵)も、厚遇された流人の1人である。九州と朝鮮半島の中間に浮かぶ対馬は
、貿易で島の経済を支えてきた。室町時代に半島や中国沿岸を荒らす海賊「倭寇」が流
行すると、島主の宗氏は朝鮮国から「図書」(渡航証明)の使用資格を得、使節や貿易
船を送り続けた。島の代表者は宗氏だが、実際の交渉は、柳川氏の補佐なしでは立ち行
かなかった。宗義調・義智父子を支えた柳川調信・智永(調興の祖父と父)の外交力は
内外に認められ、朝鮮国からも、別枠で貿易船を送る権利を与えらた。その経済力は宗
氏をも凌いだが、彼らはあくまでも主家を立て、自らは家老の立場に甘んじて、持ちつ
持たれつの関係を築いていた。国書改竄問題と柳川一件はこの関係を壊した。原因は、
長子で宗家の家老としての柳川家の家主でありながら帰郷したく無かった調興の我儘で
あった。江戸で生まれ育った調興は対馬を嫌い、独立して幕府直参になろうと考えた。
よっぽど江戸が良かったのだろう。彼の才気は自他ともに認めるところで、朝鮮使節も
その利発さに感心したという(田代和生『書き替えられた国書』)。又1歳年下の藩主
宗義成への侮(あなど)り軽んじていた。更に江戸期にまだ残っていた戦国の風潮に照
らし、実力があれば多少の無理は認められる、との判断もあったという。寛永10年(
1633)、調興は誰に唆(そそのか)されたか「主君の宗義成が朝鮮外交に関する国
書を改竄している」と幕府に訴えた。文言を削ったり印鑑を偽造したりしての、外交を
私物化している、という訴えをしたのだった。調興にとっては両刃の剣のはずだが、自
身の関与については巧妙に口を閉ざしての提訴だった。と伝えている。しかしこの期に
は朝鮮征伐での恨みが蔓延していて、更に貿易利得があったし、アヘンも入り込んでい
る。誰かが仕組んだ事件のにおいが強い。この一連の悶着は柳川一件と呼ばれた。朝鮮
通の柳川家の調興には支援者も多かったが、一方で、自身を棚に上げての主君の非を論
ずるやり方に憤慨し、熱烈に宗義成を応援する伊達政宗のような存在もあった。世評は
、宗義成派と柳川調興派に分かれた。寛永12年3月11日、2人は江戸城に呼び出さ
れ、3代将軍徳川家光の面前で対決した。家光は義成の言い分を大筋で認め、調興に敗
訴を申し渡した。おそらく、家臣が分(ぶん)を越えるという前例を作りたくなかった
のだろう。裏に賄賂を柳川家が出して宗家は出さないという事もあったのだろう。

1047: 名無しさんAA:18/03/17 16:22
 国書改竄問題と柳川一件の問題に幕府側は分けて考えられた。調興にとっては両刃の
剣のはずだが、自身の関与については巧妙に口を閉ざしての提訴だった。寛永12年3
月11日、2人は江戸城に呼び出されて、3代将軍徳川家光の面前で対決する事に至っ
た。家光は宗義成の言い分を大筋で認め、調興に敗訴を申し渡した。おそらく、家臣が
分を越えるという前例を作りたくなかったのだろう。更には徳川氏の朝鮮征伐以降の国
交回復に無理があった事も知っていたのであろう。その時助さん角さんで有名な佐々十
竹(ささじゅちく介三郎宗淳)と、安積澹泊(あさかたんぱく・覚兵衛)が下調べをしての
取り調べであった。調興自身は死罪は免れたものの、腹心の部下松尾七左衛門は死罪と
なり執行された。一方の義成はとがめなしとされたが、協力者である対馬府中・以酊庵
の名僧規伯玄方(方長老)も処罰され、盛岡に流された。ここでは、武家社会における
喧嘩両成敗の原則が適用されている。ここで裏に朝廷御用達の真言宗高野山と新興幕府
の天台宗比叡山を差し置いた禅宗系の法相宗や臨済宗へのやっかみもある様に見える。
更にキリシタンの存在がある。つまり 南蛮貿易では明朝貿易は邪魔ものだったのだ。
更に家光はこの時儒教を元にした書物を朝鮮から取り寄せ重視していた。今後の幕府の
安泰に1635年3代将軍家光は武家諸法度寛永令において大名統制のため参勤交代を制度
化し、大名は江戸と領国を1年交代で往復することを義務付け、妻子の江戸住みを強制
した。また、大船建造を禁止し数々の法令と関所などを設けた。丁度虚無僧が挨拶御免
を取ったという頃である。罰を受け弘前に入った調興には扶持米が支給され、城の南西
(現在の弘前市馬屋町)に広大な屋敷地が与えられた。和歌に秀で文学を解する教養人
の調興に、4代藩主津軽信政は、あれこれと気づかい、進物やあいさつを欠かす事が無
かった。弘前八幡宮祭礼に調興を招き、評定所前で見物させる事すらあった。(天和2
年8月15日条)。流人というより賓客扱いの待遇であったと言える。貞享元年(16
84)10月1日、調興は82歳で死去した。長勝寺(弘前市)の墓には戒名「松厳院
殿孤山初白居士」のほかに「柳河智保」と刻まれている。「智保」は、松尾七左衛門の
実名である。調興は晩年の手紙にこの名を用いたが七左衛門の死に負い目を感じていた
のかもしれない。なお、長徳寺(弘前市)にも、子孫が建てたという墓がある。流人の
妻帯は禁じられていたはずだが、ここでは柳川氏が妻と共に蟄居謹慎の客分として生き
ていたのである。この柳川氏は松尾氏と共に 基本的には三池氏の配下で熊襲である。
三池氏の出自もこの地の伝説で大蛇を蟹の挟みで切って残った胴体が池になった。それ
が三つの池だったからこの地を三池と呼んだと言う。この地三池の高田町は上楠田(か
みくすだ)には標高56メートルの小さな丘がある国指定史跡の石神山古墳(せきじん
ざんこふん)のある地で近くには唐船町という場所や甘木山もある。

1048: 名無しさんAA:18/03/17 16:26
 富安君を探せ              < その71 >

 石神山古墳(せきじんざんこふん)は、前長約58.5メートルの前方後円墳(ぜん
ぽうこうえんふん)で頂上(ちょうじょう)には全国的にも例の少ない武装石人が置(
お)かれ、その隣には大・中・小3基の舟形石棺(ふながたせっかん)が安置されてい
る。3つの石棺による直葬(ちょくそう)というのは大変珍しい物で、歴史的にも非常
に重要なものと言われる。武装石人とこの舟形石棺は共に国指定重要文化財となってい
て、いずれも阿蘇溶岩を丸彫りして作られている。武骨ながらもその存在感は心に迫る
ものがあり、見つめていると5世紀当時の情景が浮かんでくるようだ。古墳自体は小高
い丘の上だが、その麓には貝塚が幾つか出現している。だがこうした文化財を福岡県は
多くあって佐賀程には大事にしていない。甘木山展望台近くにも山頂からやや下った所
の南斜面に甘木山古墳群がある。稜線とほぼ平行に九基の古墳が分布して見つかってい
る。古墳の墳丘は、すでに削り取られその地元の管理の甘さが見れる。天井石を失い、
腰石だけが残っており、石室は、露出している。このために原形を推定できるものは、
少ない。石室は、玄室だけのものと前室と玄室に分かれているものがあり、玄室には、
正方形になっている。羨道(玄室への通路)は、玄室の幅と比べて広く、全体が短冊形
をしているのが特徴である。石組みは、自然石の巨石積みで、加工はあまりされていな
い。古墳群の正確な年代は、遺物が残っていないため不明であるが、古墳時代後期(六
世紀末)のものと思われる。又大牟田諏訪神社や四山神社近くにも古墳があったとされ
少し進めば江田船山古墳までいける。さらに「かむろ遺跡」とされた一般的にトンカラ
リン遺跡もある。江田船山古墳は、清原(せいばる)古墳群の中で最古・最大の古墳で
、日本最古の本格的記録文書である75文字の銀象嵌(ぎんぞうがん)銘をもつ大刀が出
土したことで著名である。出土品のうち銀錯銘大刀(ぎんさくめいたち)と呼ばれる直
刀には以下の75字の銘文がある。「台(治)天下獲□□□鹵大王世、奉事典曹人名无□
(利ヵ)弖、八月中、用大鉄釜并四尺廷刀、八十練、□(九ヵ)十振、三寸上好□(利
ヵ)刀、服此刀者、長寿、子孫洋々、得□恩也、不失其所統、作刀者名伊太□(和)、
書者張安也」   と彫られていた。この大刀の刀身の平地には片面に花と馬、片面に
魚と鳥が銀象嵌で表され、上記の銘文は棟の部分に銀象嵌で表されている。


1049: 名無しさんAA:18/03/17 16:27
 富安君を探せ              < その72 >

銘文解読には「獲□□□鹵大王」は、多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)
(日本書紀)または水歯別命(古事記)と長い間推定されてきたが、埼玉県行田市稲荷
山古墳から出土した金錯銘鉄剣に、1978年に「獲加多支鹵大王」という文字が発見され
たことから、この文言は「ワカタケル大王」と読むことが判明した。ワカタケル大王は
、雄略天皇に比定されている。この東西日本の古墳から同じ王名を記した刀剣が出土し
たことは、ヤマト王権の支配が広域に及んでいたことを示す。と言うが、これはこじつ
けだろう。想像ではこの刀は葬祭用に中国地方のどこかで作られたもので、全国に送っ
ていたものの一つだろう。その最も近いのがこの九州の玉名大牟田地区と思われるのだ
。又被葬者のムリテは雄略の宮廷で役所に勤務する文官「典曹人(てんそうじん)」と
して仕えた。とされるが一説では、只の葬儀用の官位か言葉であったとされる。また、
東国の稲荷山古墳の被葬者ヲワケは宮廷の親衛隊長「杖刀人首(じょうとうじんのかし
ら)」として仕えた。とあるがそれも同じに作法の様子とされる異説がある。単なる、
蝦夷地征伐の頭で、拝領した刀を持っていただけだと思われる説を私は取る。5世紀中
葉以降のヤマト政権は、各地域社会から出身の大・中・小首長達を宮廷に出仕させて、
王権が直接掌握し、倭社会を統治していたことが考えられる。と言われるがそれは関東
では、不可能に近くその後のその為の直接支配への動きも不思議になる。一般的に小さ
な船で関東には行けても、紀伊半島の奈良に戻る事は不可能だからだ。九州であれば、
それが出来るだろうが。往来してもせめて尾張の国までの話である。が逆に、北周り側
の日本海では出来る。海流が戻り海流があるからだ。ところで、この海人族は一体どこ
までどう行けたかは今だ確定出来ない。ではその頃の古代船はどんなものだったのか。
実は日本ではの古代日本から帆船はあったとされている。埴輪の準構造船はマストや帆
がついて居ないので手漕ぎの漕走船と思われているが、良く見ると船底に帆柱用の穴が
あったのである。しかしそれは、現代風の三角帆による風上への航海が出来る物であっ
たかは謎だ。古墳時代以前についてはまだ確認出来て居ないが 弥生時代の渡来人はジ
ャンク船で来たと思われている。古代木造船では全長20メートルで、ジャワ島・ボロ
ブドゥール遺跡の8世紀ごろのレリーフに描かれた古代船を基に復元したものは、くぎ
を1本も使わずにチーク材や竹などで造った。乗組員15人は大半がインドネシア人で
作られるが見事なもので外洋にも出て行ける。しかし、嵐も多い中ではなかなか無理な
話である。

1050: 名無しさんAA:18/03/17 16:27
 富安君を探せ              < その73 >

 7世紀の朝鮮半島の壁画には、帆が四角で無く三角帆で風上にも航行可能な船にがあ
った事が着目される。北九州市八幡の帆柱山は、神功皇后が三韓征伐に出航した時には
、響灘に帆柱が一斉に生えたことに因む地名となっている。又『三国志』の魏志倭人伝
では以下のとおり、日本よりさらに遠く太平洋の彼方、水行1年で辿り着く国の事が記
述されたとする説もある程だ。その説では太平洋を往復する航海術の存在を証明してい
ると言う。女王から4千余里に裸国と黒歯国がある。東南に船で一年で着く。曰く「去
女王四千餘里又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至參問倭地絶在海中洲嶋之上或絶或
連周旋可五千餘里」と書かれている。文字通り裸の国と御歯黒(おはぐろ)の国がそこ
にあったと言うのであるが、果たしてそうかは疑問だ。岐阜県大垣市の荒尾南遺跡の弥
生時代の方形周溝墓の溝から、1996年に出土した広口壺に線刻されていた絵画では
、3艘の船が描かれていて、中央の船は82本のオールを持つ大型船で、船の船首と船
尾は反り上がって扇形に広がっている。中央と船尾には2本ずつ旗がなびいている。も
しかするとこれは畳んだ帆かも知れない。この船の前後に小形の帆船が各1艘伴走して
いるように描かれている。前後の小型船の上に逆三角の帆の様な物が見えるが、もしも
三角帆であるなら風上にも進める江戸時代の打瀬船の様な船が、既に弥生時代から既に
あったことになる。そうなると弥生時代から北前船はあった事になるが、その真実はま
だ良く解っていない。しかし中国では弥生時代後期には確実に帆船(ジャンク船)があっ
たし木甲板を張って船全体を水密・強固にした渡海船が建造された。推進には櫂と帆を
併用するようにしている。」により、日本まで簡単に渡海出来た。実はかつて柳川の人
は明治期から昭和に入ってまでも、柳川では櫓をこいで小さな小舟で朝鮮まで往復出来
ている。戦後では数人だが藤井氏や待鳥氏や新聞で称賛されているが2ッ日もあればつ
いたと言うから驚きだ。帰りは福岡回りで3ッ日〜5日かかったとするが櫓漕ぎを熟練
し天候と湾岸流と波や風などを熟知した者の強さであろう。魏志倭人伝に触れれば対馬
やその他でも米が取れずに船で買い物をしていたと考えてよい記述がある。つまり日常
的も船が使われていたのである。そもそもこの魏志倭人伝そのものが船が無くては書け
ないものだ。大型船の船旅だろうがその他にも小型船でも朝鮮までぐらいの航路はあっ
たと言える。

1051: 名無しさんAA:18/03/17 17:21
 富安君を探せ              < その74 >
島主の宗氏は朝鮮国から「図書」(渡航証明)の使用資格を持っていて、使節や貿易船
を送り続ける事ができた。」とあり、島の代表者は宗氏だが、実際の交渉は、柳川氏の
補佐なしでは立ち行かない状態にあった。柳川調信・智永は調興の祖父と父で外交力は
内外に認められ、宗義調・義智父子を支えていた。朝鮮国から別枠で貿易船を送る権利
も与えられた。その経済力は宗氏をも凌いだが、あくまでも主家を立て、自らは家老の
立場に甘んじていた、それをわざわざ壊したのが調興である。寛永10年(1633)
、調興ははたして「主君の宗義成が朝鮮外交に関する国書を改竄している」と幕府に訴
えただろうか。「文言に削ったり印鑑を偽造したりして、外交を私物化していると申し
出た。」とされるが、そもそもが、それは秀吉の朝鮮征伐後に 家康に朝鮮外交の矢面
に立たされた宗氏の苦慮の策だったはずだ。頑なに敵視する朝鮮に彼を差し向けて、嘘
の文書で丸く収め、09年には己酉約条を結ぶことに成功して朝鮮通信使を再開したの
だった。こうして、貿易を再開したのは家康の命令であった。再開に際しては、通交者
を日本国王(将軍)と、宗氏および朝鮮官職の対馬の者に限定し、対馬からの船数を年20
隻に減らし、寄港地も釜山だけとすることが定められた厳しい内容だったが、ともあれ
この約条交換によって、宗氏は朝鮮外交の実務と貿易を独占を果たしたのである。その
課程で、早く条約を締結したための国書偽造が発覚し、朝鮮側も日本側も公然の秘密だ
った。面白くないのはキリスタン達やキリスタン大名だったと言える。そも伴天連禁止
令にはもし朝鮮征伐のままなら無理があった。海外の舶来品はおろか色んな国外事情の
見聞が無くなるからだ。この2年後には天草四朗の乱がおこっている。更に信長以来に
城が山城から豪華な今の様な城になり藩主は金や米が不足し物流は盛んになっていた。
ちょうどこの頃に海外の南蛮船の大船の到来時代に入っていたのだ。キリストを一気に
排除する事は難しい判断だが取り合えずに禁教とし西洋と敵対しない位で日本人を処罰
し他藩への自由往来を禁止した。その上で出島を作った。実は早くに禁教の徹底しポル
トガル関係を断絶したかった。しかし、現実には、ポルトガルの中国産の生糸などが、
日本にとって必要不可欠で、又オランダへの乗り換えに信頼を不安を感じていて、幕府
が躊躇する中でのポルトガルの対馬占領作戦ではなかったかと思える。こうした中柳川
一件は双方両成敗で柳川氏に処罰が下され柳川調興は罪人となり江戸時代初期の弘前藩
に送られた。罪人とはなっても厚遇された流人だった。しかし幕府はこの為にこれ以降
には、通信使の大手門からの往来は止められ、又朝鮮との交渉役の禅僧の景轍玄蘇を招
聘して公文書管理に朝鮮修文職が設けられた。更に通信使は翌年に、それまで柳川家主
導での対応が対馬宗氏によって招かれる事に変わった。

1052: 名無しさんAA:18/03/17 17:25
 富安君を探せ              < その75 >

しかし、これと同じ様な事件が瀬高大江神社縁起にあるとされる。実は阿比留氏には、
代々伝わったとされる独特の阿比留文字を持ち神代文字の一種がある家柄だが、これは
役職名であった。阿比留職は新羅文字のやりとりだった。文章道(文字博士)として、
大江匡房が大宰権帥(ごんのそつ)に進み対馬守・源義親が密貿易していると告白した。
つまり安倍討伐後に同じ様な事件が過去にもあったのである。源の義家時代康和3年の
(1101年)7月7日、次男の対馬守・源義親が、鎮西に於いて大宰大弐・大江匡房に告
発され、朝廷は義家に義親召還の命を下す。しかし義家がそのために派遣した郎党の首
藤資通(山内首藤氏の祖)は翌康和4年(1102年)2月20日、義親と共に義親召問の官吏
を殺害してしまう。12月28日ついに朝廷は義親の隠岐配流と資通の投獄を決定して義家
兄弟も又悲劇的だった。瀬高の大人形祭の祀られた人形の子孫の話である。対馬の経営
に際しては特に古代から紛争が絶えなかったらしい。特に海外外交の窓口の大宰府政庁
は出来て直ぐに、特にこの英彦山を通じた壱岐対馬との交流とその采配をしていた水沼
大君のいた藤大臣の墳墓とされる高良大社や玉垂れ宮社は厄介な存在だったと思われる
。何故なら京都平安京でも一方で租税措置として朝貢しながら、一方で海外の交易では
三潴の地の方が遥かに古くからの多くのルートを持っていたからだ。対馬などがはじめ
て歴史書に登場するのは知っての通り3世紀頃、中国の三国志時代の「魏志倭人伝」(
ぎしわじんでん)である。「始めて一海を渡ること千余里、對馬(対馬)国に至る。其
の大官は卑狗、副は卑奴母離と曰う。居る所絶島、方四百余里可。土地は山険しく深林
多く、路は禽鹿の径の如し。千余戸有り。良田無く、海の物を食べ自活、船に乗りて南
北に市糴(=交易)す。」と言う文言だ。地に平地なく断崖絶壁が多く、山が深く、道
は獣道のように細いとされ、水田が少なく、海産物を食して糧を得て、朝鮮半島や大陸
と日本本土を小船で行き来して交易をして生活していた。と書かれている。現在の発掘
では、対馬での最古の遺跡は上県町の越高(こしたか)遺跡であるが、紀元前6800年頃
の縄文時代の遺跡とされ、朝鮮半島の隆起文土器と、九州産の黒曜石などが同時に出土
して、その当時から朝鮮半島と九州の間で人・モノの流れがあったことを示している。
恐らくは文献上は一番古い歴史の舞台である。九州には高木神の「鷹」の子とされる佐
賀平野以西の人と「日(火)」の神祇に狗人とされる福岡熊本大分の人、韓半島由来の
為政者によって「隈」とされた神々が南部にある殊に、九州北域の大和域との三層構造
。それが歴史の正体になっている。高良玉垂命が出来た時こうして水縄神社(耳納山神
社)の武内宿禰が、その大和朝廷の臣下になった時戦争は終わったが争いが始まった。

1053: 名無しさんAA:18/03/17 17:37
  富安君を探せ              < その76 >
大和朝廷によって、外国との交渉の窓口として置かれた「大宰府政庁」が置かれたが、
当時は朱の柱に瓦が連なる豪壮な建物が建ち並んでいて、今に尚その立派な礎石が残っ
ている事で事実が知れる。菅原道真が「都府の楼はわずかに瓦の色を看る」と詠んだこ
の地は、本当は気持ちのいい場所ではなかったのかと思う。そしてこの大善寺に来て、
九州朝廷の仕事にリクルートされたのではなかろうか。と北野天満宮縁起では思うのだ
。そこには宮地嶽大社の松の紋章が見え、古代神道の老松宮の神文と同じだからだ。そ
うした疑問があったのか、嵯峨天皇時代に皇子により新たに玉垂宮の社堂が改築され、
大善寺となった当時、離れて鬼塚の前に道祖神が描かれていた為、大正元年に玉垂宮に
合祀された。この一本松(地名)の氏神道祖神とされ、その為陰陽石は、境内の一隅に
鎮座させた。天地間にお互いに反する性質の陰陽の二種の氣は陰陽道の基本である。そ
れが今は韓国国旗の太極旗とされる。道祖神は猿田彦の神とされ、必ずふんどしはめた
猿の束が組まれ猿の股から男根や股袋が見える事が基本とされる。織姫の布が男を包む
。とされた崇拝である。森羅万象は、。月と太陽、男性と女性、雌と雄、生と死の如く
、相互作用によって形成される。という概念は信仰の対象でもあった。人間の社会では
陰の代表が女性の性器である。産みの神、生産の神、受恵の神を崇め敬う幸の神、又は
妻の神の御神徳を蒙り奉らむと、祈願者はその奉賽に男性の相を献じて安産祈願を始め
、子宝授与、商売繁昌、蓄財増畜、生産繁昌の祈願としている。対して社(やしろ)跡
とされる矢留大神宮はちょっと違う。もともとここは五穀豊穣と天気の神様である。北
を向いた鬼門封じの「艮の金神社」(うしとらのこんじんしゃ)の祈祷の神社である。
。実は柳川にはもう一つの蒲船津神社も同じである。つまり箱崎宮に「敵國降伏」の御
宸筆を醍醐天皇が奉じたように、呪詛祈祷の場所だったのである。これは古代神道の流
れであり陰陽道に他ならない。だがこの宮も刀伊の入寇でと見られる賊徒が高麗沿岸を
襲い、対馬・壱岐にも現れた時に焼かれた。この時、壱岐国国司・藤原理忠は賊徒と戦
い、討ち死にして一通り略奪を繰り返した後は北九州に移り、そこで藤原隆家によって
鎮圧されるのだが、その後日を追って柳川もやって来て焼け出されたとされる。その時
、海賊からの矢を防ぐ為、板や筵(むしろ)を海岸に張り廻らせて矢を止めたことから、
この村は『矢留』(やどみ)と地名が付いた云われている。「六騎」が沖端漁業の基礎を
築いたので漁業者のことを「六騎」と呼ぶようになり、また産土神(氏神)を祭るに気
づいた「六騎」の一人は伊勢に参り、半鏡を授かった。するともまもなく、この矢留の
地から半鏡が発見され半鏡とつなぎ合せ不思議なことに一致して、大神宮様のお授けに
なったものである。と確信して、天照大神を奉祀し、再建した。

1054: 名無しさんAA:18/03/17 17:59
  富安君を探せ              < その78 >

 刀伊の船は長さ15m程度で櫂を3〜40も並べ、5〜60人を乗せて非常に速く走
った。上陸に際しては100人程で一隊を成し、皆楯を持ち、前陣の20〜30人は鉾
や刀剣で武装しており、これに弓矢を持った70〜80人が従っている。その類のもの
が十隊、二十隊とそこかしこを荒し回り、牛馬や犬を殺して食う。また、手当たり次第
に人を捕らえては、老人・子供は斬殺し、壮年の男女は船に押し込み、穀物を奪っては
民家を焼き払い、悪鬼の如く乱暴を働いた。例えば壱岐島では、400人の島民が捕ら
えられるか殺害されるかして、残る者わずか35人に過ぎなかったという。 賊上陸の
報告を受けた隆家は、直ちに兵士を派遣し、朝廷からの指示を待たずに兵を上げて博多
の守りを指令した。国家存亡の危機に対して、隆家はいち早く立ち上がったのである。
この兵たちと志麻郡の住人文室忠光(ふんやのただみつ)らが協力して防戦し、賊数十
人を倒して撃退した。無論、文室氏は武士化した在地豪族である。翌8日、賊船は那珂
郡能古島に現れ、隆家は前太宰少監大蔵種材(おおくらのたねき)や平為賢(たいらの
ためかた)などの武士や太宰府の官人たちを博多の警固所に急派して、防御に当たらせ
た。隆家は、自ら軍を率いて警固所に到り合戦したという。しかし京の都では道長がお
じゃるおじゃると言って和歌を詠んでいる時代であって、なんとも有能旺盛な貴公子で
あった。9日にも賊は再び警固所に来襲したが、激しい戦いの末、賊は遂に進み得ず、
船に退いた。翌10日から11日にかけて、海上は嵐となり戦闘も中断した。11日に
、志麻郡の船越津に現れ、12日午後に上陸してきたが、ここには既に兵士が派遣され
て待ちかまえていて、賊を水際で40人を討って退却させた。翌13日、賊は肥前国の
松浦郡を掠め、前肥前介源知(みなもとのしる)の率いる兵と戦って数十人の損害を出
し、そのまま北方へ逃げ去った。武士たちは船で賊を追っていったが、隆家は一方で、
高麗との外交問題に発展することを恐れて、追撃戦はあくまで日本国境内に留め、深追
いまではしなかった。この事が柳川の悲劇だった。豪傑の隆家の冷静さと統率力がその
後の小浜や柳川の戦乱の元だった。かくして4月7日に太宰府が賊襲来の報を受けて、
1週間後は、刀伊は日本海から南下し姿を消した。刀伊の来襲によって生じた被害は、
記録では死者365人、捕らわれた者1289人、牛馬は380頭に、対馬では白鳳以
来の銀坑が焼かれ、民家45軒も灰塵に帰した事になっている。しかし北九州各地でも
焼失家屋は多かった。柳川でも村は全焼失したが、未詳である。しかしもし隆家が適切
な対応をしていなければ、もし太宰府にいたのが隆家でなければ、この国は滅んでいた
かもしれないかなり大がかりな事件で元寇以上のものだったと言える。

1055: 名無しさんAA:18/03/17 18:01

  富安君を探せ              < その78 >

 その後朝廷はこの入冠に大きな被害を得て水軍を用意する。朝廷の水軍となったのが
河野一族である。河野氏は河野郷(旧北条市河野地区付近)を出自とする。当初は国衙
の役人として活動していたと考えられているが、治承・寿永の乱(源平合戦)で源氏に
味方したことで鎌倉幕府の御家人となり西国の部将でありながら大きな力をつけた一族
で、この水軍をの戦いをまねいた事こそが九州の悲劇だった。新羅の流入があり追いか
けて来た大陸の水軍は更に遊牧民を始祖とする鮮卑族をもやって来た。大陸での平安末
期には、大きなフン族の嵐が九州に波状攻撃で常にやって来たのだった。三条天皇の代
に起こったこの事件には、大宰権帥の任命を望んでかなえられ、大宰府に下っていたの
が、藤原道隆の四男(高階貴子を母とする兄弟では次男)の藤原 隆家(ふじわら のた
かいえ)だった。在任中の寛仁3年(1019年)4月、刀伊の入寇が起こったのはその後
である。これに応戦し権帥の任期が終わり帰京した寛仁4年に、都に疱瘡(今でいう天
然痘)が大流行した。と言われる。刀伊(女真族)が大陸から持ち込んだものが隆家に
憑いて京に及んだものと噂された。病名はともかく病が伝染したのは間違いないだろう
。大宰権帥を辞して帰京する折後任は藤原行成に任された。藤原隆家の祖父藤原兼家は
、策略によって安倍の清明に支援した花山天皇を退位させ、娘・詮子が生んだ一条天皇
を即位させた上自身が摂政・関白となった。その後には、息子の道隆にその地位を譲っ
て世襲を固めた。とされる。ここでも恐らく病の流行は止まってはいないと考える。以
後に、摂関は藤原兼家の子孫が独占し、兼家は東三条大入道殿と呼ばれて尊重されたが
、兄藤原兼通との激しい確執があった。とされる又跡を継いだ父藤原道隆も摂政関白太
政大臣・藤原兼家の長男として。甥の一条天皇の即位後は急速に昇進し、娘の定子を女
御として入内させて、後に中宮となしていた。父兼家が死ぬと後を継いで関白となり、
朝政を主導すると言う生粋の貴族だった。病気なったが病気する姿も美しいと言われた
美貌の持ち主で軽口を好み、おおらかで明るい風雅人だった。中関白家の華やかで派手
好きな家風は、道隆の性格によるところが大きいとされ、治安3年(1023年)中納言を
辞退し、代わりに次男経輔の右中弁に昇任させる。900年代の菅原道真時代と入冠後
とは国内は一変した。特に九州の諸将には、海外の残忍な行為や猛威の賊が伝わったか
らだ。そこに病が流行して 防衛に走る姿があった。


1056: 名無しさんAA:18/03/17 18:04
  富安君を探せ              < その79 >

 この非常事態を朝廷が知ったのは藤原隆家らが刀伊を撃退し、事態が落着した後であ
った。しかし朝廷は何ら具体的な対応を行わず、防人や弩を復活して大規模に警護を固
めた弘仁、貞観、寛平の韓寇の時に比べ、ほとんど再発防止に努めた様子もなかった。
この度の隆家らの活躍について、宮中では藤原行成・藤原公任が恩賞不要の意見を述べ
たりしていて全く意に介さなかった。「賞する必要はない」とする論拠は、賊を追い払
えば賞するという命令を出しはしたが、この命令が出された日付には、すでに現地では
刀伊を撃退していて問題が無かったからだ。こうして朝廷は迅速に外敵を退けたことを
称賛するどころか、命令が出される前の闘いは私戦であって、賞するに値しないと貴族
たちは言い募った。結局、藤原実資が反論して恩賞を与えるべきとの結論に達したとさ
れ、一部の豪族武士は昇格をするなどしたようである。しかし褒賞するなら、「司令官
」たる隆家を真っ先に刀伊を退けたと賞していいはずだったが、道長の宿敵であったと
される隆家を賞するべきと言い出す者はいなかった。こうして功績がありながらも隆家
は悲運にも病気になり死んで行った。勿論「この世をばわが世とぞ思ふ――」と権勢の
絶頂にあった道長になびくつもりのない隆家にはどうでも良かったのかもしれない。こ
れより少し前、古代朝鮮半島に栄えた王国新羅では流民や帰化人による犯罪に及び新羅
王の勅命による国家規模の海賊行為が起こった。新羅の入寇である。当時は「新羅の賊
」と呼ばれた。新羅寇とも言う。新羅の国内の混乱により、811年から新羅が滅亡す
る935年までの間に、度々、新羅の賊が日本各地を侵した。これが遣唐使に行けない
原因でもあった。新羅の賊は『三国史記』新羅本紀の記述からは、新羅国内では飢饉や
疫病が発生していた、社会が疲弊していたことが指摘され、755年には新羅王のもとへ
、飢えのため、自分の股の肉を切り取って父親に食べさせた男の話が伝わるほどだった
という。このときに、九州北部をはじめ、日本へ亡命し、帰化した新羅の民が多数いた
。しかし、その移民の数があまりにも多いため、759年、天皇は太宰府に、新羅から
の帰化人に対して、帰国したい者があれば食料等を与えたうえで帰国させよ。とする勅
を出した。しかし数は減らず翌年には、帰国を希望しなかった新羅人131人を武蔵国
に送還した。唐とは友好関係であったが、それ以外の周辺国である日本や渤海などとは
断交していた。一方日本は、渤海とは友好的であったが新羅との仲は険悪であった。三
韓征伐(新羅征伐・遠征)においての神功皇后の存在の証明できないが、三国史による
と、新羅建国時から日本による新羅への軍事的な侵攻が度々記述されている事で、倭国
から新羅(朝鮮半島)への大規模な軍事侵攻があったことは確認できる。

1057: 名無しさんAA:18/03/17 18:12
  富安君を探せ              < その80 >

 持統天皇3年(689年)にも投化した新羅人を下毛野に移し、翌持統天皇4年(690年)
には帰化した新羅の韓奈末許満等12人を武蔵国や、下毛野国に居住させる。霊亀元年
(715年)には尾張国人の席田君邇近及び新羅人74人が美濃国を本貫地とし、席田郡
に移される、天平5年(733年)も続いた。しかし、新羅が国力を高めて、735年(天平7
年)日本へ入京した新羅使が、国号を「王城国」と改称したと告知した、日本の朝廷は
無断で国号を改称したことを責め、使者を追い返した。両国関係は、朝鮮半島を統一し
国家意識を高め、日本との対等な関係を求めた新羅に対して、日本があくまで従属国扱
いしたことにより悪化したとされる。当時、渤海が成立し、日本へ遣日本使を派遣して
いることも背景にあるとされる。翌736年(天平8年)には 遣新羅大使の阿倍継麻呂が
新羅へ渡った。が、外交使節としての礼遇を受けられなかったらしく、朝廷は伊勢神宮
など諸社に新羅の無礼を報告し調伏のための奉幣をしており、以後しばらくは新羅使を
大宰府に止めて帰国させ、入京を許さなかった。また、阿倍継麻呂は新羅からの帰国途
中に病死し、残された遣新羅使の帰国後、平城京では天然痘とみられる疫病が流行った
。当時、この疫病が新羅から持ち込まれたと信じられた。この病変は少なくとも帰国前
前には流行していなかった言える。752年(天平勝宝4年)、新羅王子金泰廉ら700余
名の新羅使が来日し、日本へ朝貢した。この使節団は、奈良の大仏の塗金用に大量の金
を持ち込んだと推定されている。この際は王子による朝貢であり外交的には日本に服属
した形を強く出している。朝貢の形式をとった意図は明らかではないが、唐・渤海との
関係を含む国際情勢を考慮し極度に緊張していた両国関係の緊張緩和を図った。という
側面と交易による実利重視という側面があると分析される。金泰廉は実際の王子ではな
いと一部で出されているが、王子の朝貢を演出することによってより積極的な通商活動
を意図していた説には確証は無い。だが翌753年(天平勝宝5年)には長安の大明宮で開
催された唐の朝賀では、日本の遣唐使大伴古麻呂と、新羅の使者とで席次を争いをし、
意を通すという事件が起こった。この際 唐は日本側の新羅が倭の従属国であった事実
を受け入れて新羅を下位においた。その為この年の日本からの遣新羅大使は、新羅での
景徳王に謁することが出来なかった。この朝鮮半島の異変は日本を大いに変えさせた。
こうして 日本はたびたび大陸の戦乱から逃げて助けを求める者の救世主となっていた
。又その配下になった者の襲撃も多く その為新羅征伐や三韓征伐や朝鮮征伐が行われ
たと推測される。定期的な天候不順が彼らの食料を奪ったからであろうとも推測される

1058: 名無しさんAA:18/03/17 19:06
 天平宝字2年(758年)、唐で安禄山の乱が起きたとの報が日本にもたらされ、藤原仲
麻呂は大宰府をはじめ諸国の防備を厳にすることを命じて、天平宝字3年(759年)新羅
が日本の使節に無礼をはたらいたとして、仲麻呂は新たに新羅征伐の準備をはじめさせ
た。軍船394隻、兵士4万7百人を動員する本格的な遠征計画が立てられるが、この
遠征は後の孝謙上皇と仲麻呂との不和により実行されずに終わった。とされている。が
この頃から九州朝廷は病気に対して盛んに薬師如来の建設をしだした。弘仁2年(811年)
12月6日、新羅船三艘が対馬島の西海に現れ、その内の一艘が下県郡の佐須浦に着岸
した。船に十人ほど乗っており、他の二艘は闇夜に流れ、行方が分からなくなった。翌
12月7日風が止み、灯火をともし、相連なった二十余艘の船が島の西の海中に姿を現
し、これらの船が賊船である事が判明した。そこで、先に着岸した者のうち五人を殺害
したが、残る五人は逃走し、うち四人は後日捕捉した。そして、島の兵庫を衛り、軍士
に動員をかけた。また遠く新羅(朝鮮半島方面)を望み見ると、毎夜数箇所で火光が見
えると大宰府に報告された。大宰府は、事の真偽を問う為に新羅語の通訳と軍毅等を、
直ぐに対馬島へ派遣し、さらに旧例に准じて要害の警備につくすべき事を大宰府管内と
長門・石見・出雲等の国に通知した。弘仁4年(813年)2月29日、肥前の五島・
小近島(小値賀島)に、新羅人110人が五艘の船に乗り上陸した。新羅の賊は島民9人
を打ち殺し101人を捕虜にした。この日は、基肄団の校尉貞弓らの去る日であった。
また、4月7日には、新羅人一清、清漢巴らが日本から新羅へ帰国した、と大宰府から
報告された。この言上に対して、新羅人らを訊問し、帰国を願う者は許可し、帰化を願
う者は、慣例により処置せよと指示した。事後の対策として通訳を対馬に置き、商人や
漂流者、帰化・難民になりすまして毎年のように来寇する新羅人集団を尋問できるよう
にし、また承和2年(835年)には防人を330人に増強した。承和5年(838年)に
は、796年以来絶えていた弩師(どし)を復活させ、壱岐に配備した。弩師とは、大弓
の射撃を教える教官である。弘仁新羅の乱も起こっている。弘仁11年(820年)2
月13日遠江・駿河両国に移配した新羅人在留民700人が徒党をなして反乱を起こし
、人民を殺害して奥舎を焼いた。両国では兵士を動員して攻撃したが、制圧できなかっ
た。賊は伊豆国の穀物を盗み、船に乗って海上に出た。しかし、相模・武蔵等七国の援
兵が動員され追討した結果、全員が降服した。これは、帰化人に口分田と当面の生活費
が与えられたが、彼らはおそらく博多などに土着して本国と違法な交易を目論んでおり
、それを見透かされ東国に移されたことを逆恨みしたものと推定される。と研究者は分
析している。


1059: 名無しさんAA:18/03/18 03:56 ID:XP.
  富安君を探せ              < その82 >

 藤原純友は、藤原氏の中でもっとも栄えた藤原北家の出身であった。大叔父には藤原
基経がいるが、早くに父を失い、都での大きな出世は望むべくも無く 地方官となって
いた。当初の家系は父の従兄弟である伊予守藤原元名に従って伊予掾として、瀬戸内に
跋扈する海賊達を鎮圧する側にあった。しかしながら、元名帰任後も帰京せず伊予国に
土着してしまったのである。承平6年(936年)頃までには既に海賊の頭領となり、伊予
(愛媛県)の日振島を根城として千艘以上の船を操っては周辺の海域を荒らし、やがて
瀬戸内海全域に勢力をのばした。瀬戸内では、平安時代から通航する交易船や物流船か
ら「関銭」を取り、拒絶すると海賊に早変わりする者が沢山いた。因島や大三島などの
小島を根城としていて、因島水軍や、村上水軍などの大組織の海賊であり軍隊であった
民を引き抜いていた。「藤原純友」時代には海賊を知り尽くし、時には蛮勇を働いて、
大きな勢力で海賊退治をしながら頭領となっていた。平将門が東国で挙兵した時呼応し
て西国でも船で挙兵した。共に中央の「名目支配」に叛旗を翻した訳で純友は平の将門
によって兵が少なくなると睨んでの挙兵と思われる。しかし味方の裏切りで殺害され、
期待する効果を挙げる事なく終わった。その後この水軍は源氏について檀之浦で活躍し
その名を歴史に刻むのだがそれは一部だった。戦い方は主に矢戦で接近して相手の船を
沈める方法で、時代背景で源平合戦が船の上で合戦したり、平の将門が東国において兵
をあげるのは当然な事で、何故なら いつ襲って来るかも知れない賊に兵員を要請して
も待機して生活する事とは両立しなかったからだ。又、一度破壊された村落は二度とは
復旧せず、税収は減り続け朝廷の威光も同時に減る結果をもたらしていたからだ。だが
、この時から安富家が分家として成した。六角氏(ろっかくし)は、日本の氏族宇多源
氏佐々木氏の流れで、鎌倉時代から戦国時代にかけて近江国南部を中心に勢力を持った
武家(守護大名)。藤原北家流の公家・六角家とは血の繋がりは無いとされる。佐々木
六角氏はこの壱岐対馬の宗氏と同族の結び紋を家紋にしている。鎌倉時代、佐々木氏の
当主・佐々木信綱の死後、所領の多くは三男・泰綱が継承したが、寛元元年(1243年)
、信綱の長男・重綱の訴えを幕府が容れ、泰綱が嫡流である事は変わりはなかったが、
泰綱は有した近江の所領の一部を失った。近江の所領は兄弟で四分され、重綱と次男・
高信、末子・氏信はそれぞれ大原氏・高島氏・京極氏の祖となり、嫡流の泰綱の家系は
六角氏と呼ばれる。彼らが肥前六角川付近に進出し在住した。柳川市高島の地名は長門
の大内氏と 共にやって来たこの高島氏が祖とされて高島神社があるとされていた。


1060: 名無しさんAA:18/03/18 04:03
  富安君を探せ              < その83 >

「鷹の秦家」=たかはたけは柳川復興の頃は大きな痛手を受けて 対岸の新開氏に頼っ
た。秦家が貿易諸侯なら新開氏の祖先は一緒に来た土木諸侯だった。天武・持統朝以後
、辺地の開発のために移住させられた新羅系渡来氏族の秦氏と同じ自出とされる。秦氏
は農・工技術集団として信濃に入り、佐久・更級・東筑摩地方に広がり、地方豪族とし
て成長した。そして、その一派が武蔵国に移住し開発領主になったのは、平安末期の頃
でその頃から新開氏に変わった。埼玉の豊郷村大字新戒の古櫃神社の『神社調書』には
「祭神、大荒明神、創立年月日不詳、鎌倉右府のとき、秦河勝の末、新開荒次郎忠氏、
この地に要害を築き、祖神大荒明神を勧請し、伝来の武器を櫃に入れ社地の下に納むと
、古老の口碑に伝ふ(後略)」とあり、新開氏が祖を秦河勝と伝えていたことが知られ
ている。新開荒次郎忠氏の頃源平合戦時に「兵衛佐殿に相従いて山に籠りける者は、土
肥次郎実平・同男遠平・新開次郎忠氏・土屋三郎宗遠・岡崎四郎義実・藤九郎盛長なり
」と書かれ、源頼朝の旗揚げに最初から参加していた武士だった。元弘三年(1333)、
新田義貞が挙兵したとき、新開氏は北条高時の弟泰家入道の配下として、新田軍を分倍
河原に迎え撃ったが敗れている。鎌倉時代の終わりごろ、こうして新開氏は武蔵国から
北陸・南海道に逃げて、越中に入った新開氏は土肥氏を名乗り、四国に上陸した新開氏
は足利氏に味方し、のちに阿波守護となった細川氏に配属された。といわれる、新開氏
が阿波に移ってから観応二年(1351)、新開兵衛尉が阿波国牛牧庄雑掌定舜から乱妨を
訴えられたことが知られる。ついで、文和五年(1356)阿波守護細川頼之が新開真行に
書状を送っており、新開氏が阿波富吉庄の地頭職であったことがうかがえ、真行はその
後細川頼氏麾下の腹心の武将になっていた。新開忠氏は土肥氏一族と共に行動し、忠氏
は土肥実平の二男実重を養子に迎えていた。実重が忠氏の養子になったのは、頼朝の旗
揚げ前後の事で。鎌倉幕府成立後、土肥氏は源平合戦の功に対しては播磨・美作・備前
・備中・備後の総追捕使(守護)となり、大きく勢力を拡げた。新開氏も土肥氏の一族
として幕府内に一定の勢力を築いた。だが先の建暦三年(1213)の和田義盛の乱におい
て土肥氏らとともに義盛に味方して半ば潰滅した。その後の「承久の変(1223)」に際
して、新開氏は一族をあげて出陣し、宇治川の合戦において新開荒次郎が傷を負い新開
兵衛が討死したことで、この地に逃げ延びてきていた。こうして秦氏一門は中央では、
追われていった。追い込んで行ったのは鍋島氏であったと言われた。

1061: 名無しさんAA:18/03/18 04:04
  富安君を探せ              < その85 >

 鍋島氏の出自については数多くの諸説あり、不明だが宇多源氏佐々木一族の長岡伊勢
守経秀(つねひで)が、山城国から肥前国小城郡主千葉氏を頼って、下向したことには
じまると伝えている。鹿島縁起ではもともと茨木に住んでいた。茨木の鹿嶋の鹿島神宮
のそこに昔は「鹿島」と言う朝廷の政権の影響地になったばかりの地があったという。
そこで功績を得て佐賀鹿島の地が拝領出来たという。当初鹿島高津原の城内に加島城が
建てられていた。これが初代鍋島氏と言われている。鹿島鍋島藩の初代藩主、忠茂公が
千葉県の佐原市に在るとき、常陸の国鹿島(茨木県鹿島)の鹿島神宮の信仰が厚かった
ことから、加島城に帰ってから祠をつくり鹿島大明神を奉安して鎮守とされたといわれ
、そのことから「加島」を「鹿島」に改め、5代藩主の際に鹿島大明神の石殿を再建。
後世に今の城内に城を移築後に、北鹿島のこの地に鹿島大明神を勧請し、祠をつくって
祀ったという。更に今の祐徳稲荷神社(ゆうとくいなりじんじゃ)の場所は元は鹿島神
社があった所で市が開かれていたという。ところが武人でいながら僧でもあった竜造寺
家によって救い上げられ佐賀城の家臣の重鎮となった事や神仏分離で新たに移築された
。その後に鹿島藩主鍋島直は、後陽成天皇の孫・左大臣花山院定好の娘の萬子媛(まん
こひめ)を夫人として迎えいれ、朝廷の勅願所であった稲荷大神の御分霊を勧請した。
その時萬子媛が嫁ぐ際、父から稲荷大神の神鏡を授けられていた。その後鹿島仏院を、
貞享4年(1687年)石壁山に社殿を建立して、萬子媛は自ら奉仕していたが、宝永2年(
1705年)、石壁山窟の寿蔵にて、断食して入定を果たした。以降、萬子媛の諡名から「
祐徳院」と呼ばれるようになり、祭神の稲荷神とともに萬子媛の霊験により信仰を集め
た。この祐徳院はもともとは仏教寺院だったが神仏分離で祐徳稲荷神社になった。こう
して仏式の行事を廃し、祐徳稲荷神社に改称した。当初は鹿島神社の仏院として祀られ
、その後本宮移転して祐徳院の仏寺の修行院となりその後に神社になった極めて面白い
例であろう。だが安芸の宮島といわれる厳島(いつくしま)神社ももともとは自然崇拝
の仏閣寺院であり今や本寺はその奧の寺である。平安時代末期に平清盛が厚く庇護した
為大きく発展し、今や厳島の中心は厳島神社であり海上に浮かぶ朱の大鳥居と社殿で知
られいずれも国宝になった。この宮島と同じに今や祐徳稲荷神社(ゆうとくいなりじん
じゃ)は、佐賀県鹿島市にある中心神社となった。旧社格は県社だが別名鎮西日光とも
別称され。京都の伏見稲荷大社、茨木の笠間稲荷神社とともに日本三大稲荷の一つに数
えられて、年間三百万人もの参詣者が訪れる景勝地となっている。これは九州の神社で
は太宰府天満宮に次ぐ参拝客数である。

1062: 名無しさんAA:18/03/18 04:39
  富安君を探せ              < その86 >

 佐々木氏は神主系と、守護・地頭系の二家に分かれ、秀定の子行定は神主家のほうを
継ぎ、真野氏を称した またこれらの家は鎌倉幕府に直接仕え、平氏との合戦において
、源氏側で佐々木一族は大活躍をして 所領を貰い一大勢力となった。それぞれ大原氏
・京極氏・佐々木六角氏を名乗ってに分かれた。総領たる六角氏が他の3家を家臣団化
できず、六角氏の近江統一の障害となった。鎌倉幕府の滅亡時は当主・六角時信が六波
羅探題に最後まで味方し、敗れ降伏している。国内の同族の中には、高島氏・朽木氏・
大原氏など奉公衆として幕府の直臣化される者もおり、彼らは幕府からの直接の命令を
奉じて守護の命令には従わなかった。さらに領内には比叡山もあり、室町時代を通じて
その支配は安定せず、六角満綱・持綱父子は家臣の反乱により自害に追いやられ、持綱
の弟で後を継いだ久頼は京極持清との対立の末に心労により自害して果てている。この
六角氏平家退治に安富家がいた。対して逃げて来た平家に藤原北家があり富安氏がいる
。藤原北家(ふじわらほっけ)は、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。
藤原四家の一つである。藤原四家の中では最も遅い時期に興隆し、その結果として藤原
四家の中では最も栄えることになった。祖の房前は元正朝で他の兄弟に先んじて参議に
昇進すると、後に祖父鎌足以来の内臣となり、元正天皇の側近として長屋王と政権を争
った。聖武朝になると、神亀6年(729年)長屋王の変により政権を掌握し、藤原四子政
権でも中心人物として政権を主導したが、天平9年(737年)の天然痘蔓延により他の兄
弟とともに病没してしまう。他の藤原姓の堂上各家もほとんどが北家の後裔である。明
治維新時、137家ある堂上家のうち93家が藤原北家である(他は源氏18家、菅原氏6家、
平氏5家、卜部氏4家、藤原南家3家、清原氏3家、安倍氏2家、大江氏1家、丹波氏1家、
大中臣氏1家)。派生氏族は公家ばかりではなく、武家の道兼流宇都宮氏・小田氏、長
家流那須氏、勧修寺流上杉氏、山蔭流伊達氏、利仁流斎藤氏・加藤氏、秀郷流奥州藤原
氏・藤姓足利氏・小山氏・結城氏・佐野氏・小野崎氏など、主に関東・北陸・東北に勢
力基盤をもった多くの武家氏族が藤原北家の末裔と称した。この六角氏の征伐に向かっ
たの安富氏である。そう此処にもう一つの富氏がいる。どういうことか。それが先の、
神話時代にさかのぼる父系だからだが、この安富氏は、現れては消え消えては現れる。
結構政権の末尾についてまわり、平和期に追放にそそのかされている家系なのだ。富氏
は俗性だったろうが功績で安の一字を貰い富安も安富もつけた。大友についていけば、
加来(かく)氏になったように富来氏にもなった。そもそもが富の小路の震災孤児だっ
たとするのが正しいのかも知れない。

1063: 名無しさんAA:18/03/18 04:40
  富安君を探せ              < その87 >

 司馬遼太郎氏は、「歴史の中の日本」の中で「生きている出雲王朝」と題して出雲民
族について触れている。その中では国譲りの後では、天孫族と出雲王朝との間に協定が
結ばれ、新しい出雲王朝は永久に古い天孫族の政治に関わらないという事を約束した。
とされる。こうして哀れにも出雲王族は、身柄を大和に移され、三輪山裏にに住んだそ
うだ。それが三輪氏の祖先であると記述する。奈良県は元々出雲王朝の植民地的な存在
だったのだが、神武天皇が侵入して、出雲人が耕作を楽しむ平和な土地であったに相違
ない世界が変わる。税が加わったからだ。奈良県人は古来より神武天皇の橿原神宮より
も三輪山の大神神社を尊崇して毎日ツイタチ参りをする。彼らでは「オオミヤはんは、
ジンムさんより先や」という、先住民族の信仰は昔の記憶を現在の奈良人に受け継がれ
いるのかもしれない。三輪山は、山全体を神体としている、古神道の最古の形式を遺し
ている。日本の自然崇拝の祈り初めの形式である。この形式を甘南備山(かんなびやま
)という。出雲でも「出雲国造神賀詞」にはカンナビの話がやたらと出ている。出雲民
の信仰の特徴という。神武天皇は出雲神族と婚姻関係を結び、大和に来た出雲人に三輪
山信仰の祭祀を許したのである。三輪山の祭祀は、付近から発掘された縄文遺跡の陶片
から、2000年以上も遡ることが解っている。神事口伝では、この世界が一夜にして
氷の山になった。祖先のクナトノ大神は、その難を避けるため、一族を引き連れて移動
をした。東の彼方から氷の山を越え、海沿いを歩いた。そうして何代もかかってようや
くたどりついたのが出雲の地であった。(四000年前)クナトノ大神は、いろいろな
知識を持って、先住の人々に、鉄の採り方や布の織り方、農耕の方法などを教えた。糸
は、麻・綿、はたの木から作り、これをクリやシイの実で染めた。出雲人に戦いの歴史
はなかった。人々は生活を良くしてあげることで、自然についてきた。クナトノ大神は
、そうして王に推された。首長は「カミ」と呼ばれた。毎年十月に各国(各地)のカミ
が出雲に集まって、その年の収穫物の分配について話し合った。多い国は少ない国に分
け与えた。この時、我々は祖国を偲んで竜蛇(セグロウミヘビ)を祀るのが習わしであ
った。(神在月伝承)我々の祖国を、高天原と呼ぶがこれは遠い海の彼方だと伝えてい
る。ホヒト族は、次第に上手く良くようになったが、今度は神武が九州から攻めて来た
。勢力を回復していた我々は穴門(長門)で迎え撃った。神武は、防府、河内、熊野な
どで6人死んだが七人目の神武は強かった。人々は「カラの子」と呼んでいた。

1064: 名無しさんAA:18/03/18 04:43
 富安君を探せ              < その88 >

 朝鮮からヤタガラスが神武の味方ににつくと彼らは和解すると見せかけては、次々と
出雲人を殺していった。まことに陰険であり、残酷であった。王のトミノナガスネ彦は
傷つき、大和を神武にゆずって出雲は退いた。この王は出雲で亡くなった。神武は橿原
(かしはら)で即位し大和の王となった。出雲人は又、大和。出雲、北陸、関東、東北
などに分散させられた。神武から数代の王は、出雲の王家の娘を妻に迎えた。反乱を防
ぐ目的があったためでもあった。---(縄文時代の終了時代)上記神話と比較すると、
非常に近いそして確かに皇后は出雲から嫁いでいる。初代神武天皇(神話時代の天皇)
伝説上の天皇とも言われていますが、実在説も少数ながら存在する。------
 神話では、神武は天孫族の裔(すえ)である彦波瀲武鴨か草葺不合命(ひこなぎさた
けうかやふきあえずのみこと)と、竜宮竜族の娘である玉依姫(たまよりひめ)との間
に生まれた。当初は九州の日向国(ひむかのくに)を治めていたが、葦原中国(あしは
らのなかつくに)の統治を目指して東上し、難速国(なにわのくに)からの上陸を試み
た。しかし土豪ナガスネヒコの抵抗により断念し、紀伊半島を迂回して新宮から上陸。
熊野経由で大和をめざし、天照大神から降された神剣や高木神から遣わされた八咫烏の
助けを得て大和に盤踞(ばんきょ)する荒ぶる神たちを平らげ、畝火の白檮原宮(しら
かしはらのみや)(畝傍山の東南の橿原の宮)で即位した。皇后の父は、「日本書紀」
では事代主命、「古事記」では大物主神。なぜ、一つしかない歴史の話が違うのか腹立
たしいのでありますが、いずれも出雲の神でありともに大和盆地に祀られている。2代
目の綏靖天皇の皇后も事代主神の娘「五十鈴依媛命」(いすずよりひめのみこと)3代
安寧天皇は記紀には具体的なエピソードは何もない。皇后はやはり事代主神の孫の鴨王
(かものおおきみ)の娘「淳名底仲媛命」(ぬなそこなかつひめのみこと)を后として
いる。4代懿徳天皇はなんと兄弟の息石耳命(おそきみみのみこと)の娘「天豊津媛命
」を后に迎えている。富氏族は、出雲神族は神代文字を用いていました。神代文字は「
あらはばき」の記事の中で写真をUPしています。サンスクリットでも、象形文字でも
なく、パピルス状のものに、縦書にされていた。永く富家で保管していたが、大正15
年に帝室博物館が借り出し、いまだ返済しないといいます。解読され発表されればまだ
我慢できるが、行方不明らしい。公開できない理由があるのか元教授の家にでも眠って
いるのか不明だ。この時のトミノナガスネ彦は負けて死んだが他は臣下となった筈だ。


1065: 名無しさんAA:18/03/18 05:05
  富安君を探せ              < その89 >

 クナトの大神伝説は、「日本書紀」では「岐神」、「古事記」では「衝立船渡神」で
出雲井神社には「久那斗大神」として祀られている。「我々の大先祖は「クナト(岐神
」)の大首長だがもう一つの女首長に「アラハバキ(荒吐神)」があり、体制側によっ
てこれがこれが抹殺されようとした時、クナトは「地蔵」に「アラハバキ」は「弁才天
」へと変身したが。アイヌ語で「クナト」は男根、「アラハバキ」は 女陰の意味で本
来は一対のものだと言われているそうだ。これは、倶知安のアイヌの酋長菊池俊一夫妻
の学説だ。クナトノ大神は、幸の神、寒の神、道祖神、道陸神(どうろくじん)とも呼
ばれている。久那斗神社で検索すると一件だけ岩手県北上市和賀町の山に存在するが、
やはり道祖神のようだ。クナトは「狗那人」で天狗の海人でアラハバキは「阿羅覇場鬼
」で新しい山の住民では無かったかと思う。「アラハバキ」については時代的には律令
国家が出来る以前の話で、アラハバキは鉄の神様と言われる。出雲大社の御神体は釜で
あり、鉄に関わる。出雲神族が氷の山を越え現在の地に根付くまで行ったのは、塩釜で
塩作りを教えることだった。多賀城の荒脛巾神社は塩釜神社の末社だと言う。しかし、
鹽竃神社より荒脛巾神社の方が古い縁起がある。アラハバキは旅をして「迂回する神」
という性格がある。出雲国島根郡爾佐神社境外社事実「荒神社」はマロトさんと呼ばれ
ていた、という。マロトとは 門客人のことで、門客神とは、「客人神(まろうどがみ
)」のことで、「客人神」は地主神がその土地を奪われて、後からやって来た日本神話
に登場する神々と立場を逆転させられて、客神となったと考えられている。「あらはば
き」は言語的にはアイヌ語に照らし合わせたら、これは行く(発つ・出発する)・首領
(頭)などの意味になるらしい。博多=ハクト=長脛族=出雲人であった事は歴史的な
文献で歴史的事実とされる。その中で富一族は、占いのト部の一族や歴や暦博士の安倍
一族それを伝えて祭りを祭祀する加茂一族と同じ種のうらないや吉凶を提言する種族だ
った様だ。ここで謎がある。ではこの出雲族は、鉄器を持ち先進文化を持ち込んだ新羅
や百済或いは宋などの渡来民族であったのに、この旧来の天狗の比子や日子族或いは、
木山や鬼耶麻族に何故負けて譲歩したのか。通常鉄剣文化は青銅文明を征服するのが常
である。だがそれが日本文化の常だったのだろう。江戸期に鉄砲から刀文化に戻った様
に平和の中で彼らは青銅文化に戻り一方で他が鉄器に変わっていた。それがカンナビの
名に秘んでいる。神の頂点として平和を勝ち得ていたのだ。ではなぜこの渡来民は軍団
でなかったのか。大陸の方が、遥かに人が多いというのに。それは壱岐対馬からの移住
者だったと考えられる。

1066: 名無しさんAA:18/03/18 05:06
  富安君を探せ              < その90 >

博多人=長脛族=胸肩氏=宗像氏であり骨格の出来た大陸人だった。彼らをだまして、
隠れて、壱岐対馬の海人は博多を避けて出雲に住んだ人達であったのだ。粋や域の民で
南洋からの人達だったと思われる。だからこそ高い高い櫓の様な社を崇めて、常に島外
を見張り外敵や侵略者を恐れ銅鐸で連絡を取っていた人達だったのである。連れてきた
のが呪術師の富氏だった。要は移住して安心して暮らせれば良かったのである。朝廷に
羽向かう事無く組み込まれても、政権を作らないと言うの南洋人にとっては、当然の事
だった。先の壱岐若彦の話や菅原の道真の天神様の物語の中でも宮地獄神社起伝の松木
氏の話でも 祭祀者は彼らの一族であり天皇の剣持ち的役割であったと思われる。鉄剣
は強かったが戦がない限り無用の長物で雷の落ちる素だったと考えられる。平安時代の
初期に成立した日本最古の仏教説話集『日本霊異記(にほんりょういき)』の話には、
雷(いかづち)を捉(とら)へし縁が説話に載っている。
 「少子部(ちいさこべ)の栖軽(すがる)は、泊瀬の朝倉の宮で23年の間、天下を
治めた雄略天皇の護衛の武官で、腹心の従者であった。天皇が磐余の宮にお住まいにな
られたときに、天皇が后と大安殿で寝て婚合しなさっているときに、栖軽が知らずに参
り入ってしまった。天皇は恥ずかしくなって行為を止めた。丁度その時、空で雷が鳴っ
た。そこで天皇は栖軽に「汝は雷をお迎えして来られるか」とおっしゃった。栖軽は答
えて「お迎えして参りましょう」と申し上げた。 天皇は「ならばお迎えして来い」 と
お命じになって、栖軽は勅命を奉って宮殿から退出した。緋色のかずら(髪飾り)を額
に付け、赤い旗を付けた鉾を捧げて、馬に乗り、阿倍の山田の前の道から豊浦寺の前の
道を通って走って行った。軽の諸越(もろこし)の町中に着くと、叫んで「天の雷神よ
、天皇がお呼び奉る」と申し上げた。そして、ここから馬を返して走りながら「雷神と
いえども、どうして天皇のお呼びを聞かないことができようか」と申し上げた。走って
帰るときに豊浦寺と飯岡との間に、雷神が落ちていた。栖軽はこれを見て神官を呼び、
雷神を輿に乗せて宮殿に運び、天皇に「雷神をお迎えして参りました」と申し上げた。
そのとき、雷は光を放って照り輝いた。天皇はこれを見て恐れ、雷にたくさんの供え物
を奉って、落ちた所に返させたという。そこを今でも雷の岡(いかづちのおか)と呼ぶ
。とある。これは「いかるがの里」の命名伝記であり先住民を平らげた話ではなかろう
かと思っている。

1067: 名無しさんAA:18/03/18 05:09
  富安君を探せ              < その91 >
 雷の岡は古京(飛鳥の都)の少治田(おはりだ)の宮の北にあるといわれている。物
語はまだ続く。「その後、栖軽は死んだが、天皇は、勅を下して遺体を七日七夜お留め
置きになって、彼の忠信を偲んで、雷の落ちた同じ所に彼の墓をお作りになった。彼の
栄誉を長く讃えるために碑文の柱を立て、そこに「雷を捕まえた栖軽の墓である」と記
した。これに雷が憎み恨んで鳴り落ち、碑文の柱を蹴り踏み付けた。ところが、雷はそ
の柱の裂けた間に挟まれて捕らえられてしまった。天皇はこれをお聞きになって、雷を
放したので、雷は死なずに済んだが、雷はほうけて七日七夜地上にとどまっていた。天
皇は勅命を下して、再び碑文の柱を立てさせ、「生きているときも死んでからも雷を捕
まえた栖軽の墓である」と記させた。いわゆる古京のとき、そこを雷の岡と名づけた話
の起こりは、このようなことである。」
 以上が日本最古の仏教説話集の第1話。これは仏教の因果応報譚ではなく、神話的な
話である。天皇の交合が雷を呼んだのか。雷は天と地の交合であり、それによって稲穂
が実ると昔の日本人は考えていたし現実的には電気の刺激が育成に関わる事も解ってい
る。天皇と后の行為は農耕の豊穣を祈るための儀式であったとも考えられている。この
出雲族は習慣として高い高い社を作る事をお祭りとしていたはずだ。現実的に大木を3
つ束ねて柱を建てて、多くの木々より高い御社を作っていた事が近年の発掘調査で判明
している。こうした高い所に銅鐸をぶら下げ 御殿の中に銅鏡を飾って民衆を従えてい
たと考えられる。一つの威厳である。だがこれでは雷を寄せ付けるような避雷針の役割
を持つのが近代科学の常識である。雷と言うのは名もなき先住民の反乱部隊であったと
考える事も出来る。急に鉄器人が奈良の大和朝廷に従え。と言っても無駄だったろう。
しかし稲作を教えそれを高い倉に入れ人々に施しをして言語が通じたら話は別だ。この
神殿はその長がいるところで臣下たる少子部(ちいさこべ)の栖軽(すがる)はその神
事の担当者で天皇はその用心棒の様なものだったのかもしれない。とすれば相当古い、
奈良盆地の開拓先史としての話かもしれない。おまけのもう一つの神話和歌山県田辺市
秋津町1554にある豊秋津神社(とよあきづじんじゃ)にまつわる話。豊秋津神社は古く
は雲ノ森明神社といいました。ある夏の日、激しい雷雨があり、村の方々に落雷の被害
が出た。このとき、雲ノ森明神社の森にも雷が落ちた。これに激怒した雲ノ森の神様は
、地上に落ちてころがっていた雷を捕まえて縛り上げてしまった。「今後2度とこの里
に落ちないと約束するならば放してやるが、さもなければこのまま天には返さない」雷
は仕方なく「今後2度とこの里には落ちません」と誓約して、やっと天に帰ることがで
きた。それ以来、この里に雷が落ちることはなかった。と言う

1068: 名無しさんAA:18/03/18 05:17
富小路家(とみのこうじけ)は、藤原北家流の堂上家で元来は九条家の諸大夫だった。
富小路俊通が二条家の庶流を称する形で従三位に昇ったことが始祖だ。富小路俊通の子
富小路資直が従三位となり昇殿を許可されて以後、堂上家の一員となる。家格は半家。
堂上家(とうしょうけ、どうじょうけ)は、公家の家格の一つ。御所の清涼殿南廂にあ
る殿上間に昇殿する資格を世襲した家柄。また、公卿になれる家柄。同時に上級貴族と
も呼ばれる。だがこの富小路家はただ単に富氏がいた通りにあった藤原北家であったか
らだ。富小路は実は通りの蔑称であった。そこは新しい体制での端境を意味していて、
当時まだ乞食やかっさらいが多く紛争の絶えない所に面倒をみる者の所を富者と呼んだ
事からそういった。現実は普通より劣るくせに貴族張っている所が気に食わなかった人
がそう呼んだのである。事実彼らは何がしかの末裔ではあったが栄誉も権力も地位も富
も持たなかった。権力者が変わったからでは無く変わる事についても行けなかった。か
と言って、前代でもそう能力が高くなかった為捨てられていたからだ。この境目あるい
は異端者異教徒と言う境目の民は常にいた。しぶとく野を開き時の運に任せて生き抜い
ていた。時流に叩かれながらも時流に乗る事も無く熱狂の庶民でもなく冷ややかに耕し
食を得ていたのだ。それが富氏の流れだった。紀伊の国にはそうした者が沢山いた。実
は江戸時代になって大きな事件が一つ起こった。延宝七年(一六七九)、当時、江戸の
出版界では知られる存在だった戸嶋惣兵衛の店から、不思議な本が出版された。それは
『神代皇代大成経』という総題が付された一連の神書であり、神儒仏一体の教えを説く
ものであった。序文によると、その由来は聖徳太子と蘇我馬子が編纂し、太子の没後、
推古天皇が四天王寺、大三輪社(大神神社)、伊勢神宮に秘蔵させたものの復刻である
といい、さらにその原史料となった文書は、小野妹子と秦河勝が、それぞれ平岡宮と泡
輪宮で、神から授けられた土簡(タブレット)に刻まれていたという。古書の書き写し
だった。浮世絵師が出る頃で、日本でも木版による出版業界が出来ていた。これらは、
江戸のポスター的多色刷りをして大きくなる版木屋と対抗する為、貸本を基準に一色刷
で江戸をしのごうとする対抗策の書だったと言える。これには五部書が発刊された。『
先代旧事本紀大成経』『造伊勢二所太神宮宝基本紀』『皇太神宮儀式帳』などであった
。これは人気を博した。が厄介な問題を孕んでいた。『大成経』の本格的刊行が始まる
前に、延宝三年、経教本紀の中の「宗徳経」、翌四年には同本紀の中の「神教経」が刊
行されていて信用があった。延宝三年には、憲法本紀と同じ内容の本が『聖徳太子五憲
法』と題しても刊行されたが旧知と違っていた。版元はいずれも戸嶋惣兵衛であった。


1069: 名無しさんAA:18/03/18 05:47
  富安君を探せ              < その93 >

 これらは今で言う九州朝廷の成り立ちと言われる古式神道の統記がかかれていた。殆
どに、古事記、日本書記と同じだったが、若干の記述の違いが大きな意味を持っていた
。時の朝廷の進める形と違う物になっていたのだ。これらは物部神道(もののべ しん
とう)とされ、『先代旧事本紀大成経』の思想を基とする神道で大成経神道ともい名に
なり神・儒・仏を調和した神道とされた。こうして江戸期に大きな発禁大焚書事件にな
った。その五部書の一つの、『造伊勢二所太神宮宝基本紀』だけをとってもやっかいな
記述があり、それによると、往古より朝廷が伊勢神宮に祭祀用の土器を納めるに、内宮
・外宮・別宮と別に、「斎宮親王の坐す礒宮」にも八十口を納めたという記述があり、
今の解釈とは全く違っていた。古伝では、斎宮の礒宮は内宮や外宮と同格の社で大切に
されていた。さらに伊勢別宮の一つに伊雑宮(現三重県志摩郡磯部町)という神社があ
ったが、この社は『延喜式』や『皇太神宮儀式帳』では天照大神の遥宮とされ、祭神は
天照大神の御魂とされる。「遥宮(とうのみや)」とか「いそべさん」とも言われてい
る。しかし『倭姫命世記』ではこの宮の祭神を天日別命(伊勢国を開いた神)の子で玉
柱屋姫命としており、天武天皇をも祭神とするという説も出される疑問の多い神社であ
った。しかし、この伊雑宮(イザワノミヤ、イゾウノミヤ)という名は礒宮ともされ、
大問題が生じることになるのである。これまでも何故だか伊勢神宮からや九鬼水軍やら
から度々攻撃されていた。だがここに粘土で作られた石板の古文書があり、壊されたり
五芒星の社紋や誰も読めない文書が伊勢神宮から焼かれたりして歴史を刻んできていた
。伊雑宮の神人(守護の信者)は、所領回復のために明暦四年(1658)、「伊雑宮こそが
日本最初の宮で、のちに内宮ができ、次いで外宮が鎮座したので、内宮、外宮は伊雑宮
の分家である。」という主張して、藩に再建願いを出したのである。これを受け、もと
もと十別宮の一つである伊雑宮の事など全く歯牙にもかけていなかったし 本宮社とは
関係ない別宮であったが、伊勢内宮は、皇祖、天照大神鎮座社の地位を奪われかねない
事態の発生には、看過してはいられない事情になったのである。元号は変わった同じ年
の万治元年(1658)、内宮は上申書に添えられた証拠の神書を偽作と訴えて反撃に出た
。こうして、朝廷の裁定を仰ぐまで程の大事になった。朝廷側は、これまでも伊勢神宮
との相互の支援のもたれ合いをしていて、その申し出に「伊雑宮は内宮の別宮で、祭神
は伊射波登美命」との裁定が簡単に下された。


1070: 名無しさんAA:18/03/18 05:48
  富安君を探せ              < その94 >
 勝つ筈のないこの訴えは、その結果として、寛文二年(1662)幕府は伊雑宮を内宮別
宮の一つとして新造再建することで収める事にした。しかし、伊雑宮の神人たちにとっ
てそれは全く承伏できないことでもあった。他の権利者に神文粘土版が収まる事は承服
出来ないからだった。今度は四代将軍家綱に直訴に出た。しかし結果は最低だった。寛
文三年(1663)、直訴の連判の神官四十七人の神人が「偽書提出」の罪によって、伊勢
・志摩からの追放処分にあった。更に大成経などは、偽書と断定されで発禁処分と焚書
としての廃棄を求められるに至ったのである。つまり真実を願う熱意は混乱を嫌う体制
に押さえられたのである。此処で神文粘土版も廃棄された。こうして、偽書と断定され
今日まで来ているが、この本の著者は署名こそないが潮音がつくったとされる。延宝三
年に、憲法本紀と同じ内容の本が『聖徳太子五憲法』と題して刊行され、版元はいずれ
も戸嶋惣兵衛であり、作者が潮音(ちょうおん)だったからだ。偽書として彼の弟子や
知り合い版元や神官や信者の120人位がそれぞれに処罰の対象となった中で、潮音は
黄檗宗(おおばくしゅう)の高僧だった為減刑された。江戸時代の川柳には「山門を出
れば日本ぞ茶摘歌」という句がある。これは門をくぐっては別世界で日本かと思われた
が茶摘みの歌が日本語だった。と言う異和感を伝えた川柳であったのだ。黄檗山万福寺
は京都の宇治にあって、日本の中の異国とも言うべき不思議な空間であった。そこでは
隠元以来、歴代の住持を中国から招く慣習があったからだが。その頃で日本人が住持に
就任したのは、ようやく元文五年(一七〇四)の第十四世竜統元棟の代になってからで
ある。『大成経』偽作者の一人と目された潮音は、『総合仏教大辞典』(法蔵館)に次
のように記述してある。ちょうおん 潮音(寛永五年1628から元禄八年1695)
黄檗宗の僧。肥前小城郡の人。号は道海また南牧樵夫。承応三年(一六五四)に長崎で
隠元に会い、寛文元年(一六六一)黄檗山にいたり、隠元・木庵に師事した。上野館林
の藩主の帰依を受け、万徳山広済寺を開いて第二世となる。儒典を究めて神道を学び、
開山となること二十余カ寺、受戒者一〇万人余と伝える。著書、指月夜話七巻、霧海南
針一巻などを書くと。この潮音は真理を求めていた可能性が高く、逆にその為に仏教に
至り彼は神道も古神道も黄檗宗も関係が無かったではないだろうか。事実黄檗宗は普化
教と共に仏教では異端極まる仏教だ。その為、万福寺では、法式儀礼をすべて中国式に
よって行い、言葉も寺内では中国語を用いるしきたりがあった。先の川柳はその万福寺
の異国性を、有名な茶処である宇治の風景と共に詠みこんだものだった。当時は歴史と
宗教は一体で時の体制すら一体だったので、彼の歴史家としての追求と公表が絶たれた
のは当然だった。

1071: 名無しさんAA:18/03/18 06:01
  富安君を探せ              < その95 >

 かつてバチカンの聖書はローマ帝国によって編纂された。欧州の中でも方々で異端書
の摘発と焚書事件は起こった。それはことある事に、時の支配者や権力者や庶民との争
いであった。諸侯と帝国管理者の聖書の権威者と司祭と地方技官更に庶民と異端とされ
た正当な警護者と大衆宗門と更に宗派の違う宗教。それぞれがそれぞれと戦い傷ついて
死んで行ったのである。その姿は昔も今も変わらない様に、日本でも神道でも起こって
いたのである。黒い人々日本で言う忍者の存在や諜報者や工作者は何処の国にもあった
。例え民主主義と叫ぶ今の米国でさえも国民の指導と国の安寧は欠かせないものだった
。ここに富氏一族がいた。江戸時代に見つかった粘土を焼いて作った文書の原本の多く
は今やない。又見つかったとしても通常の人には日本語には見えない文字だったとされ
る。「伊雑宮」の社殿が朽ちて廃屋を守っていた信者は、伊雑宮の神庫を整理していて
発見され、神道の永野采女(うねめ・男性)を呼んで発見された。忌部(いんべ)氏と
ト部(うらべ)氏らが作ったとされた土文書は、この社に太古から神の魂霊として密封
されて御神体となっていた。と言う。こうして約50個の土簡(はにふだ・タブレット
)が持ち込まれ、解読に潮音などの海外文字や梵字を知る仏僧まで呼ばれた。その書は
初期の天皇は龍蛇族の特徴を備えていたと言う記述や五芒星のマークなどユダヤ教の匂
いが残っていた。とされる。延宝7年(1679)、江戸の書店で『先代旧事本紀大成経』
(七十二巻本)と呼ばれる書物が出され時、この大成経の内容が大きな話題となって、
学者や神職、僧侶の間で広く読まれるようになった。大成経の内容は伊勢神宮別宮の地
位でない伊雑宮こそが本宮である事を示し、幾つかの神職が主張して、伊雑宮が日神を
祀る社であり内宮・外宮は星神・月神を祀るものであるという説を裏づけるものである
ことの理由になっていた。こうして内宮・外宮の神職はこの書の内容について幕府にも
詮議を求め追い詰めた。天和元年(1681)幕府は『大成経』を偽作と断じ、禁書として
、その版本を回収し、戸嶋惣兵衛は追放、この本を版元に持ち込んだ神道家・永野采女
と僧・潮音や道海および偽作を依頼したとされる伊雑宮神官は流罪とし、関係者は雑言
流布の罪にかけられた。こうして『大成経』事件は一応の終結を迎えた。潮音は時の将
軍・綱吉の生母、桂昌院の帰依も厚い高僧であっため、彼は特に罪を減じられて、謹慎
五十日の上、上州館林の黒滝山不動寺(群馬県北甘楽郡磐戸 村)に身柄を移された。


1072: 名無しさんAA:18/03/18 06:30
  富安君を探せ              < その96 >

 こうしてこの本は当時、大変な反響を呼んだが貸本屋や売本とならず吐き捨てられた
。原本から取ったとされる天皇家の始まりを聖徳太子が編纂させた「先代旧事本紀大成
経」72巻はそうして消滅して行った。伊勢神宮側の猛反発で「先代旧事本紀大成経」
は禁書とされ、出版書店主は追放、永野采女や伊雑宮の神官らは流罪となり、更に又、
伊雑宮の扱いはかなり低いものになった。だが元々天照大神を祀っていたのは伊雑宮で
あり、その後に内宮・外宮が造られたと言うのは、あながち間違いではない。三井財閥
の三井家はその寄付の関係から、「三井文庫」に保存されている「伊勢両宮之図」の中
には、伊勢神宮の内宮と外宮の正殿はそれぞれ斜めに3つずつ描かれていて、古代にお
いて、神社はどこも正殿は3つあり、心御柱に相当するものとして三柱鳥居があったと
の事が記されていると言う。この三つ柱の鳥居の風習は古神道の二元論のしきたりでも
ある。又伊雑宮の御田植えの祭りの日には7匹の龍が、的矢湾から、川をさかのぼって
伊雑宮の大御田橋まで上がってくるという言い伝えもあり、津波の記録さえ残る。謎の
多い古い宮である事は確かの様だ。伊雑宮は縮小され、こうして表の世界から隠されま
しまったが、造営時から内宮や外宮より格上とする宮だった。とされては不都合だった
。この寄進にも、藤原不比等が関わっていた。彼の後ろには八咫烏がおり、日本の未来
に伊雑宮が重要な役割を果たす事が分かっていて、それまでは世界からこの宮を護るた
めに封印し小さな宮にしたものと思われている。「伊雑宮」は「いさわのみや」とも、
「いぞうぐう」とも呼ばれている。伊雑宮は伊勢神宮内宮の「別宮」の一つで伊勢神宮
からは遠く離れた志摩の磯部にあることから、「遥宮(とうのみや)」とか「いそべさ
ん」とも言う。しかし元伊勢と称する神社は27ヶ所もある中で、「本伊勢」と称した
神社は籠神社と、この伊雑宮しかない。そのどちらも裏社紋はカゴメ紋・六芒星であり
籠神社の奥宮の天真名井神社に立つ石碑には、かつてこのダビデの星が刻まれていて、
伊雑宮の鳥居の前にも六芒星を刻んだ石灯籠があったとされる。しかしあまりに噂にな
って違うものに変えられてしまった。本宮の指示や忖度もあったのだろう。籠神社と伊
雑宮は対称を示し紀元前の随分前に出雲の国を作った後、諏訪を平らげて、天照大神の
大和における最初の御神体の上陸地点は籠神社であり、最後の鎮座場所は伊雑宮だった
。と言う。伊雑宮にも内宮・外宮と同じように地下宮に心御柱に匹敵するものが存在し
十字架の上に掲げられた「罪状板」といわれるものがあったとされる。


1073: 名無しさんAA:18/03/18 06:30
  富安君を探せ              < その97 >

 この大成経では、縄文の晩期から弥生の初期に大陸回りで、または南からは海路で日
本列島に渡来して来たのが弥生文化の起こりとなった。その中の一団が富氏一族とされ
、その後、少し遅れて朝鮮半島経由で出雲に渡来したのが須佐族であり、南九州に上陸
したのが日子のいわゆる天孫族だった。この九州勢力の天孫族が出雲侵入の先遣隊とし
て一足早く出雲入りしたが、長髄彦の族が追った。この神話が史実かどうかはわかりま
せんが時代が下がってからの出来事を反映しているかもしれない。こうして基本的には
大和を平定した長髄族は博多まででそれより南部は日子族が固めていた。そこで先住民
の富族は追われて紀伊半島に逃げた。と言う事らしい。その後その長髄彦は二つに割れ
一つは蝦夷地に行き一つは日子と協定を結び大和朝廷を作ったとされる。その後神功皇
后が新羅征伐に出るのに一方の長髄族と日子の族を従えて行ったが新羅との戦いよりは
大和朝廷で日本を一体化させる事が目的だった。これにより神話が編纂されたが過去を
守って来た富族の伝承は捨てられてつくられた。と言うもののようだ。江戸時代初期、
伊勢神宮別宮の伊雑宮の神職が「伊雑宮が日神を祀り、内宮・外宮は星神・月神を祀る
ものである。」との主張はこの別宮が日子族の神社で、伊勢神宮は長髄彦の暗き祓い神
の為に鏡を祭る事になっていて、今に至ったというのである。先行民族だった。と言う
富氏は出雲から長髄彦の後に分かれた同じ一族の応援を取り付けた。その功で安寧の「
安」の字を貰った。が、その後の新羅征伐では意見が対立し富安氏と安富氏とに分かれ
た。富安氏は紀伊の土地に残ったが安富氏は東北や諏訪に行ったとされる。安富氏は、
鎌倉時代中期以降に幕府奉行人として現れ、安富長嗣・行長・高嗣ら一族の奉行人とし
ての活動は室町時代初期まで史料に残る。応永年間以降に史料に細川京兆家の重臣の、
(内衆)として現れ『相国寺供養記』では明徳3年(1392年)の相国寺落慶法要に際し
ては、細川頼元の「郎党二十三騎」として安富安芸守盛家・又三郎盛衡父子が供奉して
いるとの記述がある。盛衡の子と目される盛長は1460年頃に雨滝城を築き、一族は東讃
7郡を治める讃岐東方守護代を世襲していた。応仁の乱においては細川勝元の重臣であ
った安富民部元綱や弟の盛継らの一族が活躍した記録が諸史料に見える。細川政元の重
臣であった安富元家は、長享・延徳の乱における政元の六角高頼討伐に際して近江守護
代を兼任し、一時は政元の政務を代行するなど活躍した。惣領以外の一族も盛行が摂津
西成郡守護代を、盛光が備中守護代をそれぞれ務めるなど細川氏領国における守護代や
代官を広く務めた。しかし、政元暗殺後の細川京兆家の内紛と混乱に続く衰退とともに
安富氏の勢威も衰え、戦国末期には長宗我部元親に雨滝城を落とされ没落した。

1074: 名無しさんAA:18/03/18 06:42
  富安君を探せ              < その98 >

 一方の富安氏は、本姓は紀氏とあり、一族も紀姓を名乗っていた明徴がある。戦乱に
巻き込まれたくない富氏族がその地の名前に次々と名乗った。富田氏も現三重県である
伊勢国朝明郡富田荘が起源(ルーツ)であるとされ、桓武天皇の子孫で平の姓を賜った
家系である平氏(桓武平氏)。ほか古代氏族であり、美努(みの)王の妻県犬養(あがた
のいぬかい)三千代が橘宿禰(すくね)の氏姓を与えられることに始まる橘氏や、村上天
皇の皇子具平親王の子師房にはじまる源氏(村上源氏)、宇多天皇の皇子敦実親王を祖
とする源氏(宇多源氏)などにもみられる。元来紀伊半島では「の」を名乗った。野人
の意味で自分達の先祖は余り関係なく「万系一祖」の思想が強かったようだ。つまりは
富安でも安富でもどうでも良かった人達で固執しないのが生きる術としていた。紀氏(
きのうじ)は紀など所伝によれば、孝元天皇の子孫で、武内宿禰の子である紀角を始祖
とするが、この2代はともに母方が紀伊国造家の出自であったとされており、この関係
から紀氏は早くから武門の家柄として大和王権に仕えたらしい。雄略天皇朝の 小弓、
顕宗天皇朝の大磐、欽明天皇朝の男麻呂などが、朝鮮半島での軍事・外交において活躍
したと伝わる。葛城氏・巨勢氏・平群氏などと同じく武内宿禰系の豪族であるにもかか
わらず、大化前代に大臣を出していない。つまり大臣にはなれなかった。境目の下級民
だったからだ。先住民族として後からの帰化人よりも冷遇されていたのである。安富氏
の家紋は丸の内石畳である。これは十字架を示す。これは何を意味するかと言うのは、
海外からの一番乗りを果たした民族がユダヤ教徒に近い存在だったと言う証だろう。祖
先と思われる鎌倉・室町期の幕府奉行人を務めた安富氏が源姓を名乗っていた。安富氏
の出身地とされている下総は摂津源氏と歴史的に関わりが深かった。肥前国深江村での
安富氏の祖である頼清(泰嗣)が名乗っていた「三郎」も安富氏代々の惣領が世襲して
いる。おそらく元来は肥前国南高来郡深江村の安富氏と同族で源頼行の系譜を引くもの
と思われる。住んでる土地が示す様に高麗の人の土地の中である。海の民としての顔も
持っていた。安富氏は幕府奉行人時代は播磨国三日月郷に領地を持っており、同じ紀姓
を名乗る播磨の浦上氏とは、浦上則宗の養子に安富元家の子とも目される祐宗が入るな
ど室町時代を通して親密であったことから想像するに、堀田系図に「盛家が安富を嗣ぐ
」との記述があるように、本来は清和源氏頼光流だったものが、なんらかの理由で系譜
が断絶し浦上氏から跡継ぎを迎えたなどの関係があったために紀姓に変わったものとも
推測される。つまり富安氏そのものがどんどん婿入りし名を変えたと言える。下級市民
だったからだ。

1075: 名無しさんAA:18/03/18 09:35
  富安君を探せ              < その99 >
 菊池氏も元々地場の豪族で名も無い民だった。しかし遥か昔から横穴時代からの先住
民であり全く名がなかった訳では無かったろう。博多は時々大火になり町が無くなった
が古代から「はかた」は「はくと」の地で「長髄族」の地とされた。白徒というから、
幾分白かったのかも知れない。この博多が襲われる度に菊池氏は遠征して守りに行った
。かつて日子族と鬼族の戦いでも日子族が勝った伝承もこの菊池氏族は随分加勢に出た
からである。「魏書東夷伝」に登場するのは狗古智卑狗(くこちひくがは、狗奴国の官
として王卑弥弓呼より先に記されている。狗奴国の実権を握っていたとも考えられる。
その名前より「菊池彦」に通じるとし熊本県菊池郡との関連を指摘する説がある(倭名
類聚抄には「菊池」と書いて「久々知(くくち)」と注釈されている)。とある。勅撰
史書『続日本紀』には、文武天皇二年五月甲申に「令大宰府繕治大野基肄鞠智三城」(
太宰府をして大野・基肄・鞠智の三城を繕い治めせしむ)の記述がある。奈良東大寺が
大宅賀是麻呂(おおやけの かぜまろ)から進上された61名の奴婢を記録した『奴婢帖
』の中には「右京四條四坊戸主鞠智足人」の名が見える。つまり鞠智(くくつ)がきく
ちに変わったのである。大宅可是麻呂は奈良時代の大和国添上郡志茂郷の、のち大宅郷
の戸主とされ、東大寺東南院文書中に多数の奴婢(奴隷)の所有者として名を残している
。父は従五位下大宅朝臣広麻呂。大宅氏は和珥氏と同族で大宅郷(奈良市古市町付近)を
本拠とする雄族。初め臣,天武13(684)年朝臣となる。一族に推古朝の新羅遠征副将軍を
務めた小徳大宅軍・摂津守・大和守を歴任した従四位下大宅大国らがいる。天平の勝宝
1 (749)年奴36人、婢25人を東大寺に寄進している。しかし現実には彼らは賀是麻呂の
支配を離れて公民として暮らし奴隷としての実態はなかった。所謂修行僧になったのだ
ろう。時に賀是麻呂は散位寮散位大初位上の下級官人であった。だが貢賤について知っ
ていたのは、恐らく既に大陸からの襲来から貿易や奴隷制度をしっていたからだろう。
くくちと言うのは窟地の人当て字だろう。横穴古墳群の地の意味だろう。又日本武尊が
平定したり天皇行幸の際菊の御紋を与えたり伝説は多い。彼らは波入れ日足紋が本来だ
ったようだ。実は古代に丸三つ盛波紋から出来た紋で後世に三盛り洲浜紋に変化してい
る紋でやって来た。渡来人だったとも考えられる。言葉の通じない次々帰化人達は大和
朝廷との接触によって次第に言葉が繋がり統一化されたと言うのは自然な流れだろう。
その船の技術は村上水軍や松浦党に伝承されたというのも当然であろう。阿比留氏が、
阿比留文字を持ち先の異端史書が物部神道というのは、その通訳だと考えれば説明でき
る。州浜紋使用の諸氏は、巴紋を用いる宇都宮氏と祖を同じくする為巴紋の分布と一致
している。

1076: 名無しさんAA:18/03/18 09:41
  富安君を探せ              < その100 >

 中国の書物の中で一番古いのは『山海経』である。山海經とも書き その頃は日本は
まだ倭国として、背の低い人達の国として語られている。書曰く「蓋國在鉅燕南 倭北
倭屬燕」(山海經 第十二 海内北經)蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。倭は燕に属す。
としている。山海経の編纂された時代には、まだまだ地方の伝記的記述も多く同書には
、伝説集または神話集の体裁をとっていて「架空の国」や「架空の産物」が多く、史実
を忠実に反映した歴史とみなすことについては疑問視されている。それでも、倭は燕に
朝貢していたと考えられていた事がわかる。しかし、『山海経』第九の海外東經では、
東方の海中に「黒歯国」があり、その北に「扶桑」が生える太陽が昇る国があるとされ
ている。これが最も古い中国の書物の記載である。燕(えん)は紀元前1100年頃から〜
紀元前 222年頃まで、中国に周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在した国だ。春秋
戦国時代に興った十二列国の一つとされ、また戦国七雄の一つである。場所は河北省北
部、現在の北京を中心とする土地を支配していた。首都は薊(けい)で、現在の北京に
あたる。燕都・薊城の遺蹟は北京市西城区に所在する。これは何を示すのか。この蓋國
は既に交易し紀元前時代に燕国との流通を興していた。と考えられるのだ。燕国は斉に
一度やられた国だ。殷を倒して建てた周(しゅう)(紀元前 1046年頃〜紀元前256年)
の、中国古代王朝の文化と血統を持つ国だった。周を支えた伯爵が分裂時に建てて、周
辺を平定し一時は大きくなった。遠く内モンゴル地区にあったが国が栄えて北京に移っ
た。この時現地にあった韓侯国が入れ替わりに現在の陝西省に移った。燕に残った韓の
旧住民は多く「韓氏」を名乗った。西周時代、燕の東方(遼寧省朝陽市喀喇沁左翼自治
旗)に「箕侯」という都市国家があり、燕の属国であったが、春秋時代を待たずに北方
遊牧民に滅ぼされ、燕に亡命した住民が多かったらしい。春秋時代以降、燕の士大夫層
に「韓」や「箕」を氏とする者がみられる。しかし第2代の王の檜が堯舜に倣うと言っ
て禅譲を行い、これにより国内は騒乱状態となった (紀元前315年)ここに斉(田斉)
が付けこみ、兵を出して侵攻し、全土を併合したため一時的に滅亡状態となった。そし
てようやく一部が残り昭王は押し戻して領地を得た。この堯舜の書は柳川伝習館にそれ
が持ち込まれていた事は 経緯は解らないものの意外であり長幼の孝など漢詩となって
柳川の教育基本とされていた。その後日本風の漢字と要約を伝習館の誇りとした。更に
孔子廟を祀り管理には、十時氏を置き十時氏は小野和尚をして護らせたとしている。


1077: 名無しさんAA:18/03/18 09:45
  富安君を探せ              < その101 >

 昭王は、一時とはいえ燕を亡国に追い込んだ斉を深く憎み、いつか復讐したいと願っ
ていた。しかし当時の斉は秦と並んで最強国であり、燕の国力では非常に難しい問題で
あった。昭王は人材を集めることを願い、どうしたら人材が来てくれるかを郭隗に尋ね
た。郭隗は「死んだ馬の骨を買う」の故事を喩えとして話し「まず私を優遇してくださ
い。さすれば郭隗程度でもあのようにしてくれるのだから、もっと優れた人物はもっと
優遇してくれるに違いないと思って人材が集まってきます。」と答えた。宰相に先王が
たぶらかされたことによる苦労の経験があったにも関わらず、昭王はこれを容れて郭隗
を師と仰ぎ、特別に宮殿を造って郭隗に与えた。これは後世に「まず隗より始めよ」と
して有名な逸話になった。郭隗の言う通りに、燕には名将楽毅・蘇秦の弟蘇代など、続
々と人材が集まってきた。また、時期は不明であるが、昭王は不老不死の仙人を求めて
東方の海上に人を派遣したという。これらの人材を使い、昭王は燕の改革・再建を進め
た。その後十分に力をつけた燕は、斉包囲網を形成し、紀元前285年又は紀元前284年に
楽毅率いる5ヶ国連合軍50万が斉軍20万を撃破し、更に楽毅は斉の首都臨?を陥落させ、
(きょ)と即墨を除く斉の都市を尽く占領した。(この頃、燕は「朝鮮」を更に討って
朝鮮半島北部も領有した。また、南部の「真番」を略属させ、所々に要塞を築き官吏を
派遣して治めていた)。以後約5年間、燕は現在の河北省・遼寧省のみならず朝鮮半島
と山東半島のほとんどを併合していたことになり、『山海経』の「鉅燕」(巨大なる燕
)、『史記』の「全燕」(完全なる燕)とはこの時の燕の状態をさすとの説もある。そ
の後は秦が圧倒的に強勢となるが、秦との国境を接していない燕はその圧力を感じるこ
となく、むしろ隣接する斉や趙の圧力に対抗するために秦と結ぶこともあった。ところ
が、紀元前 228年に燕と秦の間の緩衝国的な役割を果たしていた趙が秦によって滅ぼさ
れると、燕は直接秦の圧力を感じることになった。この状況を覆そうと太子丹は、秦の
王政に対して荊軻という刺客を送ったが失敗した。この時、荊軻に同行した秦舞陽は上
述の秦開の孫である。激怒した秦王政に燕は攻められて、首都は陥落した(紀元前 226
年)。太子丹は殺され、燕王喜は遼東に逃れたが、紀元前 222年に秦の王賁将軍に攻め
られて王が捕虜となり、燕は滅んだ。この戦乱にも多くが九州に渡り渡来人となった。
この頃の文字はまだ亀甲文字の影響を取り除くに至ってない文字で一般には読めない。

1078: 名無しさんAA:18/03/18 09:53
  富安君を探せ              < その102 >

 その後に書かれた『三国志』魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)で「去女王四千餘里又
有裸國黒齒國復在其東南船行一年可」と書かれ、女王(卑弥呼)の国から4000余里に裸
国と黒歯国がある。東南に船で一年で着く。(よって『山海経』の影響を受けていると
言えるが、邪馬台国と黒歯国は異なる国という認識である『梁書』卷五十四列傳第四十
八 諸夷傳 東夷条 倭「其南有侏儒國 人長三四尺 又南K齒國 裸國 去倭四千餘里船行
可一年至 」で 南に身長三四尺の民の国があって、その南に黒歯国がある。倭から4千
余里。船で1年で着く。よって『山海経』の影響を受けていると言えるが、逆かも知れ
ない。しかしいずれも倭国と黒歯国は異なる国という認識である。百越人(特に春秋時
代の「呉」人)と倭人の後の関係を暗示する『山海経』関連古文書、この記述の影響に
よって、古代中国では「倭」(九州)が「太陽が昇り扶桑の生える」「九夷」として憧
れの地になっていた蓋然性もあることを示す関係古文書がある。『宋書』の楽志には、
「白紵舞歌」というものがある。その一節に「東造扶桑游紫庭西至崑崙戯曽城」(東、
扶桑に造りて紫庭に游び、西、昆崙に至りて曾城に戯る。)という下りがあって、この
「(白)紵」というのは「呉」(春秋時代)に産する織物であったことに加えて、最近
、遺伝子分析技術の発達によって、筑紫地方(『日本書紀』の「国生み」)と、呉人は
極めて関係が深いということが明らかになってきた。『日本書紀』の「国生み」での「
筑紫」の国名の命名では、そういった当時の背景の影響を受けたことは明らかである。
そういった影響を受けたものとして「漢委奴国王印」が発掘された志賀島一帯(「香椎
、カシ」は百越人地帯としての「越(コシ)」の訛り)は、春秋時代末期に「越」に、
よって滅ぼされた「呉」の海岸沿いの住人たち(入れ墨の文化があった)が海路、亡命
して漂着した所であることが、上記脚注のように、最近の発掘調査やDNA分析で明ら
かになってきた。(安曇族)『論語』子罕第九に「欲居九夷」「孔子、(その天性が柔
順な)九夷に居すを欲す。」とあること。『論語』公治長第五に「子曰く、道行われず
。海に浮かぶべし(子曰、道不行、乗桴浮于海)」(孔子が言った。中国では道徳が受
け入れられないから、東の海にある九夷にいきたい)とあること。『前漢書地理志』に
「然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。
楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見云。」「然して東夷の天性柔順、三方の外
に異なる。故に孔子、道の行はれざるを悼み、設(も)し海に浮かばば、九夷に居らん
と欲す。以(ゆゑ)有るかな。楽浪海中、倭人有り。分かれて百余国を為す。歳時を以
て来たり献見すと云ふ。」 とある

1079: 名無しさんAA:18/03/18 10:01
又『隋書』 東夷傳の倭の条に「…九夷所居、與中夏懸隔、然天性柔順…」「倭は…九
夷の居るところ。…その天性は柔順」とある。『漢書』地理志には楽浪の海を越えた所
に百余国に分かれた倭人の国があった。中国人の目には、少なくとも前1世紀に「国」
として映っていた。紀元前1世紀頃は日本では弥生中期に当たっている。つまり九州と
京都などの大和朝廷の発達は200年以上も差があって少なくとも従順な刺青した安曇
の族の国が既にあったのである。となればこの九州しかない。57年に倭の奴国王 (な
こくおう)が後漢(中国)に朝貢して光武帝から漢委奴国王印を印綬(後漢書-東夷伝より)
して博多湾の志賀島で漢の倭の奴国王の金印が出てそれが史実と合致するとして歴史上
の正史として登場する史物最初である。「山海経」では「蓋国は鉅燕の南、倭の北にあ
り倭は燕に属す」として蓋国(けいこく)と倭国(わこく)と黒歯国(こくしこく)が
ある事を示している。かつて中国では黒歯国(こくしこく)は遥か東方の国とされてい
た。鉅燕とは燕国が大きくなって中国を平らげ大きくなった燕国を示している。この南
の地と言うのだ。少なくとも蓋国(けいこく)は倭国より北にある事になる。つまりは
九州を倭国として中国地方は若しくは本州は蓋国(けいこく)の位置にあった。という
事になる。そして「倭は燕に属す。」とはいつか攻められる危機感から燕の属国になり
、その為 107年に倭国王帥升(すいしょう)が後漢に朝貢してして生口160人を献じて
いる。その後146 - 189年に倭国大乱が起こりの結果、卑弥呼が女王になり 邪馬台国に
都をおいた。としている。つまりはそれまでは邪馬台国は無かったが、新たに都を作り
女王をして治めたと言う事になる。倭国大乱は倭国内の対立や紛争としている事で鬼山
(きやま)と日子山(ひこさん)が対立していた事から鞠智(くくつ)の勢力が手伝い
八女の地に紛争処理の女王を置いたのだろう。「大野・基肄・鞠智の三城を繕い治めせ
しむ」というのは当然英彦山背振山祖母山の三山を支配して菊池があった事を示してい
て(文武天皇二年五月甲申に「令大宰府繕治大野基肄鞠智三城」)既に乱の以降は力が
あった国に変化していたのだ。奈良東大寺に大宅賀是麻呂(おおやけの かぜまろ)から
進上された61名の奴婢を記録した『奴婢帖』の中には「右京四條四坊戸主鞠智足人」
として既に大和朝廷において右京四條四坊の地位を持っていたと言える。太安萬侶墓は
奈良市此瀬町にある史跡では東山山中に所在する奈良時代の火葬墓で昭和54年1月 発見
されたもので、出土した銅製墓誌により、古事記の編者としても有名な太安萬侶の墓で
あることが明らかになった。墓誌には「右京四條四坊従四位下勲五等太朝臣太安萬侶以
発亥年七月六日卒之養老七年(723年)十二月十五日乙巳」の記載があった。天武天皇2
年は (673年3月20日)だから この朝臣の太安萬侶より大宅氏は古い。大宅氏は和珥氏
と同族で大宅郷とされている。この大宅氏が大川の大宅間の由来とされる。

1080: 名無しさんAA:18/03/18 10:17
 和珥氏(わにうじ)は太陽信仰の鍛冶集団とされている。実は丹生氏はこの弟子で仏
教伝来後に、鉱山師になったいわれていた。丹生が鉄鉱石の赤土を示すからだ。和珥氏
「和珥(丸邇・和邇・丸)氏は(わにうじ)とは、5世紀から6世紀にかけて奈良盆地
北部に勢力を持った古代日本の中央豪族と言われるが、実は元々は熊襲の民であるとさ
れる筑紫史談では肥後国人一揆で和仁氏は全力で戦い滅亡したとされる。菊池一族の長
隈部親永の開城によって多くは死に行き残りは天草に逃げた。秀吉による九州征伐では
、辺春・大津山氏とともに城を開き道案内をして本領を安堵された和仁氏ではあったが
、天正十五年、熊本の新国主として入部してきた佐々成政の検地に抵抗して、隈部氏を
盟主とした肥後国人一揆が起きると、これに荷担し、辺春氏を加えて籠城した。秀吉は
この事態を重視して、同十五年十二月、小早川隆景に直書を送って、今後の見せしめの
ために和仁・辺春の籠る城は攻め崩すか、干殺しにするか、一人も残らず殺すことを命
じた。攻城軍の大将は小早川秀包で、隆景を実質的総大将として久留米まで出陣を命じ
、安国寺恵瓊を参謀として、田中城を二重の柵で囲んだ。これを迎え討ったのが、城主
の和仁勘解由親実、弾正親範、親宗の三兄弟と、坂本城主辺春能登守親行ほか九百人で
あった。親宗の人相風体については身の丈七尺六寸もある大男で、顔は真っ赤、目は光
り輝き、手足は熊のように力強く、そのうえ、動作は機敏で、その風貌から人鬼と呼ば
れたと「和仁軍談」に記されている。この時の籠城に対して開城を交渉したのが立花宗茂
だったのである。最初の頃まで和仁氏と同じ鶴の紋を 旧立花氏は掲げていた同族だっ
たのである。本城の田中城(たなかじょう)は、別名を和仁城とも呼ばれ、中世に熊本
県旧三加和町一帯を支配した肥後国の国人和仁氏が本拠とした城とされる。現在の熊本
県玉名郡和水町和仁に位置する。宮本武蔵の生誕地区とされている。天正15年(1587年
)に発生した肥後国人一揆において、最後まで抗戦を続けた城のひとつである。「田中
城跡」の名称で今は国の史跡に指定されている。此処が古来より菊池氏族の一部であっ
た事は間違いない事実で和仁氏の里でもあったろう。和仁氏は古代文書にも多く出て来
る最も古い種族の一つである。その出自は紀元前にすらさかのぼる。大津山氏が戦国時
代史に最初に名を現しているのは、大永三年(一五二三)六月、そのころ北九州で大友
義鑑と争っていた頃、中国周防の大内氏の代官、陶美作守に味方して、三池氏ら筑後の
諸将とともに大友方の高良山(久留米市)を攻め落とした時である。この戦いで赤池城
(福岡県)を攻めた際、大津山刑部少輔は敵将城後親興と組み討ちして勝った。という
武勇伝が残っている。つまりは典型的な関東からの下向の武者集団として居ついた種族
だった。この時柳川もかなりやられていて三橋の花園氏や大橋氏など奮戦するも白鳥城
は毛利川を船でさかのぼってきた兵士達によって落城している。

1081: 名無しさんAA:18/03/18 10:30
  富安君を探せ              < その106 >

 古代に和仁氏は、日本の神話にも登場しているとされる。つまり日本神話で大国主の
命が助ける因幡の白兎の話である。この和邇氏は「倭人氏」につながる古い民である。
「昔々、隠岐の島に住む1匹の白兎が、ある姫神に会いたいと思い因幡の国へ行きたい
と考えていました。しかし、隠岐の島と因幡の間は海でとても自力では渡れません。そ
こで白兎はワニザメをだまして向こう岸に渡ろうと考え、『ワニザメさん、君たちの仲
間と僕たちの仲間とどちらが多いか比べてみようよ』と提案し、ワニザメを因幡の国ま
で並べさせ、その上をピョンピョンと渡っていきました。そしてもう少しで向こう岸に
着こうというとき、あまりの嬉しさについ、『君たちはだまされたのさ』と言ってしま
いました。それに怒ったワニザメは、白兎の体中の毛をむしり取り、あっという間に、
丸裸にしてしまいました。丸裸にされた白兎がその痛みで砂浜で泣いていると、そこに
大国主命の兄神様が大勢通りかかった。大国主命の兄神達は、隣の因幡の国に八上姫と
いう美しい姫がいるという噂を聞きつけ、自分のお嫁さんにしようと、因幡の国に向か
っている途中でした。面白半分に『海水で体を洗い、風に当たってよく乾かし、高い山
の頂上で寝ていれば治る』と言いました。白兎が言われたとおりにしてみると、海水が
乾くにつれて体の皮が風に吹き裂かれてしまい、ますますひどくなってしまいました。
」と言う話である。だがこの話は続きがある。因幡神話続きでは「あまりの痛さに白兎
が泣いていると、兄神達の全ての荷物を担がされて、大きな袋を背負った大国主命が、
兄神達からずいぶんと遅れて通りかかり、白兎に理由を尋ねました。そして、『河口に
行って真水で体を洗い、蒲の穂をつけなさい』と言いました。白兎がその通りにすると
、やがて傷が癒えて、毛が元通りになりました。たいそう喜んだ白兎は『八上姫は兄神
ではなく、あなたを選ぶでしょう。あのような意地悪な神様は、八上姫をお嫁にもらう
ことは出来ません。』予言を言い残し、自らが伝令の神となって、兄神達の到着より前
に、この事実を八神姫に伝えたのでした。これを知らない兄神達は、競って姫に結婚を
申し込みましたが、姫はそっけなく対応し、『私はあなた方ではなく、大国主命の元へ
嫁ぎます』と言って、兄神達を追い返したのでした。以上があらすじです。さて、白兎
は八上姫(やがみひめ)と大国主命との縁を見事に取り持ち、こうして鳥取県で『白兎
神社』の御祭神となった。と言う話である。これは実に奇妙な面白い話である。この中
のワニザメを多くの日本人が知っていないからだ。それにクロウサギでない点だ。大国
主は仏教で大黒天に訳される。大黒天はインド密教ヒンドゥーのシヴァ神の化身である
マハーカーラから来ている。マハーは(偉大なる)カーラは(暗黒)を意味する。

1082: 名無しさんAA:18/03/23 10:48 ID:oxM
 富安君を探せ              < その107 >
 ここで現わされられているのは4つの意味であろう。一つは博多の名が「ハクト」の
訛りであり「長髄族」の商売の本拠地であったのは、宗像3神の宗像氏の許可を得ての
事だった。宗像氏には田依姫と田上姫の2人姉妹がいたがその妹の方が留守の間に姉が
さらわれると言う事件が起こった。その為に出雲とは戦争に至ったと言う伝説がある。
実は白兎はこの白い国の軍団だった。とすれば話は解る。大国主(おおくにぬし)とは
八女なり熊本なりのまさに大国の息子であったのだろう。さて何処に妹は行ったのか。
それは多分に邪馬台国である。田上姫の田と言うのはここ三潴や筑後や菊池の或いは、
佐賀平野の田園の地を指していたと思われる。二つ目は背振山系の国と英彦山系の国は
戦争をしていた事である。古代に於いてこの戦争は倭国大乱とちゃんと書いてある事か
らでも争いは尽きなかったと言える。三つ目は多分にこの戦さの地は福岡側ではない。
久留米側すなわち筑後平野と佐賀平野 更には有明海で起こっていたと考えられる。三
つ目はこの鰐(わに)などいない日本で何故、伝説は鰐と兎の話なのか。と言う事であ
る。見た事もない鰐をどう考えるか。それは船を鰐にもじっているしか思えない事だ。
この説話は、「大国主の国づくり」の前に、なぜ他の兄弟神をさしおいて大国主が国を
もったかを説明する一連の話の一部である。この説話は、『先代旧事本紀』にあっても
『日本書紀』にはない。すなわち正史の『日本書紀』では、本文でない一書にある話だ
。しかし「ヤマタノオロチ退治」の直後に「大国主の国づくり」の話が続く話だ。また
、『因幡国風土記』は現存せず、『出雲国風土記』にも記載はない。更に先に来たのは
兄達は八十神としている。八十神とは日本語的には色々な神を八百神とされる中では、
ちょっと意味が変わる。つまり色々な神では無く一部の神を示している。さらに大国主
は荷物持ちで兎は求婚相手の知人なのだ。この事から大和朝廷の王ではない王族達が、
田上姫の心を射止めたと、考えられる。4つ目は因幡の白兎は決して「いんば」ではな
く「いなば」である。これは「稲場」を意味したものではないか。とも思う。更に「隠
岐の島」は「沖の嶋」という事で壱岐対馬の事ではないだろうか。かつては言葉は中国
から来た漢字を割り振り、意味とは関係なしに当て字を使って地元言葉に直したと考え
られる。古事記と日本書記の違いはそうして出来たと考えられ、新羅・百済系の言葉と
宋・唐系は言葉は同じでも漢字が違っていたと考えられる。更に「海で塩水を浴びて、
風に当たって伏した」治療行為と「水門の蒲(がま)の穂」をした行為の違いや原文が
「此大國主神之兄弟」が「大穴牟遲神」となっている事などが、無理に結びつけた神話
であるとの意味を持つようだ。この神話は少なくとも紀元前から一世紀の話であろう。


1083: 名無しさんAA:18/03/23 10:48
 富安君を探せ              < その108 >

 これは商売もしくは交易に関したものではないだろうか。「先代旧事本紀大成経」で
は紀伊半島で仲違いになった神は東北に行って塩の作り方を広めて人心をとり神功皇后
の新羅征伐の呼びかけに呼応したとなっている。博多は実は塩田の地でもある。かつて
の江戸以前から塩を内地に売る事で潤っていたとも言われる。つまり隠岐の島というの
は遥か向こうの島の意味であり外国を指し、それは新羅人が朝鮮から逃げてくるのに、
和仁氏の船団を騙して難民としてやって来た事を示し、彼らには塩を造る技術ぐらいし
か無かった。と言う事では無かったか。対して大国すなわちその奥にあった「燕の国」
や「宋の国」から来た「菰」や「稲」を育て食べる事の方が「兎の国」にとっては豊か
になった。と言う話ではなかったと推測される。安富氏が十字紋章の旗をかかげ島津も
十字を掲げ或いは立花氏も鶴の紋から十字の紋である祇園守の紋に変化している。小西
行長は博多商人だったが難波商人になり信長や秀吉にとり入った。彼の家紋は久留子紋
から中結祇園守の紋に変わった。鶴の紋は諏訪神社の紋で諏訪紋と言われる。この中世
の戦乱期の動きと紀元前の人の動きは少し似ていると言える。キリスタンが来た頃に、
スペイン・ポルトガル・オランダ・イギリス・ロシア・アメリカと言う順にやって来た
スペインは日本を占領しようとしていたが日本近郊で風雨によって難破したり沈没して
いる。これは日本人の奴隷積み込みを沖の方でやっていたからとされる。ポルトガルも
同時期の商売の船だが秀吉をそそのかして朝鮮貿易を崩して日本に進出した。それは、
布教活動に貪欲だったからと言われる。その為に大友宗麟には「国崩し」と言う最新の
兵器の大砲や絶世の美女とされた白い肌で金髪の青い目の娼婦とアヘンを万能薬として
献上している。代わりに藩内の布教と仏教寺の打ち壊しの権利を得ている。秀吉が小西
行長を重用した理由は麻に関する糸や布や袋、更に綿や砂糖や塩を明朝船から取り寄せ
でいたからだ。しかし南蛮船の到来と鉄砲取引で一転しポルトガル貿易に走って行った
。だがその後の家康は多くの書物が朝鮮で複写されたもので、これまでの技術が朝鮮や
中国から来たものである事を知っていた。更に海産物と農産物の取引が南蛮船では出来
なかった。銅銭問題もあった。日本が金銀を売って銅を買い付けた事に現代は驚くが、
実は量は少ないものの金銀の方がずっと簡単に抽出出来た。銅山や鉄鉱石には有害な煙
が発生し極めて抽出も簡単で無かったが、金銀は鉛に混ぜさえすれば、素焼きに吸い込
ませて取れ少量でも高く売れ、風遠しの良い鉱山の外で加工できたのである。これらを
南蛮船に頼る事には大きな不安を家康は持っていた。だがオランダは布教制約がなくて
取引できた。更に明朝との競合でも争いにならなかった。

1084: 名無しさんAA:18/03/23 10:49
 富安君を探せ              < その109 >

理由は宗氏にあった。つまり朝鮮は宗氏の関係に全幅の信頼があったのだ。つまり長崎
出島との商売ができなくとも、宗氏は中国明王朝や清王朝のみならず「越南」(ベトナ
ム「扶南」カンボジア「真南」マレーシア「比妃(ぴぴ)」のパラオや、ルソンなどの
交易路を持った中東商人とも取引していたからだ。つまり朝鮮の輸出輸入が例え日本と
の貿易に失敗しても戦争さえ起きなければ、宗氏が何とかしてくれる中にあったのだ。
蒲池氏が家は後世三つ巴の紋で渦紋とされ水軍の紋でもある。松浦水軍は三ツ星紋を掲
げていたが実際は三ツ星欠け紋様のはずだ。三重州浜紋に近かったはずだ。あとで彼ら
はその後渡辺氏の家紋同様「三つ星に一文字」に変わったからだ。これは毛利氏の紋と
同じである。つまり三ツ星は波であり一は風なのだ。毛利氏は松浦水軍と或る時から、
故知を得たのだろう。立花氏も、その旗の祇園守紋に変えたのは先代の前である。高良
山は耳納連山が筑紫平野に突出した先端にある。景行天皇の熊襲征伐においては高良行
宮が置かれ、神功皇后の山門征討では麓に陣が敷かれたと言われる。その為日足紋から
鶴紋そして鷹の羽紋に変わった。また、磐井の乱において最後の戦さの舞台となり、後
には南朝、懐良親王が征西府を置き、秀吉の九州征伐では本陣とされた。この山は常に
九州の軍事の要衝であった。実は蒲池家再興にはこの事が大きな意味を持つ。高良山は
古くは高牟礼山とされ大神氏の持ち分であった大分の宇佐神宮はこの宮の分宮の地位に
あったのだ。が、大和朝廷は古く奈良時代からもここを奉じた。平安時代でも道鏡の伝
承でも宇佐神宮を最高神位と変更している。裏に日子山が英彦山と名を変えた理由が、
そこにあったからだ。仏教の禅僧はサンスリット語即ち梵字が必要だったが、これらの
学校はかつては英彦山しか無かった。がその修行の門前研修施設は平地に置く必要があ
った。修験者以外に教える必要からだ。そこで宇佐神宮を建てその地位にあった。学問
は祝詞や言葉にあったのだ。蒲池氏は古くから清水寺や秦氏の荘園武士の一部として、
柳川や八女の地に来ていた。刀伊の入寇で柳川が焼かれた時の復興に既に彼らがいた。
それでも、その時今の柳川には清水山の門前町で市内には居住していない。寺前に於い
て蒲池城としたのである。その時富安家は、柳川蒲池城の家老に座っている。菊池一門
であったからだ。菊池氏が天皇の求めで京都遠征を決めた時奈良和歌山からの宇都宮家
支流も兵をあげたその中に富家氏がいた。多くは愛知で戦ったが、その後関東武士には
、六角氏の配下富安氏と六車の配下安富ががいた。


1085: 名無しさんAA:18/03/23 10:49
 富安君を探せ              < その110 >

四国の安富氏系は淡路守や讃岐守紀伊の守などを拝任していて結構旺盛に勢力を伸ばし
ている。民部太夫源安富照之から次々に政権に取り入ったからだ。富田中村城には縁戚
六車時茂がいることになった。大川の郷土史書と照らしわせると、紀氏から安冨に養子
に行くなどして紀伊の守となった。その後足利氏から功労で讃岐の守を授かり肥前の守
安富盛定、筑後の守安富知安、紀伊の守安富盛保、肥前の守安富盛方、筑後入道安富、
筑後の守安富元家、など次々に派遣している。大川町郷土史では 六車宗旦が安富氏の
長臣として、左衛門太夫朝満といい、その後宗旦(宗丹・惣丹・宗湛・宗探)と号した
。先祖は関東の豪族である。としている。しかし又この地にには、既に曽江山村六車家
系藤原氏安富姓がいて、この平安期からの伝統ある安富家と関東から来た安富家は中が
悪かった。別系六車氏として「阿波古文書 曽江山村六車家系 藤原氏安富姓」による
と、あとでやって来た六車氏とは別の六車氏がいた。藤原姓の安富氏から出ているとの
こととなる。讃岐の安富氏は本姓紀氏で東国の出。大和の安富氏、摂津の安富氏、大和
の安富氏、清和源氏の安富氏、石見の安富氏、大内氏系の安富氏がいるので、藤原系の
安富氏もあってもおかしくない。との記述になっている。又中国の石見銀山にいた安富
氏は、周防国大内氏に仕えた一族だが、石見国益田氏の一族である安富氏もいる。しか
も則宗は2人の子の死後には、わざわざ安富氏から養子祐宗を迎え自身の死の後には、
その祐宗に跡を継がせている。また安富氏の秀吉への従属により、同氏の勢力圏であっ
た小豆島も同年中には秀吉の支配下に入った。さらに永正8年には船岡山の戦いで元治
亡き後の安富氏を束ねていた安富元顕も戦死してしまう。寒川氏は昼寝城に退き兵糧攻
めにあったが落城せず、安富氏は退いた。元家は文明2年ごろから安富氏の惣領として
讃岐東方守護代を務めていたことが諸史料からわかる。こうして細川京兆家の重臣とし
て讃岐国東方守護代を世襲していた安富氏の惣領で続いた。また、安富氏は山城西岡の
野田氏らも被官化していたようで、元綱は彼らも率いて軍事行動をしていたことが諸史
料に見える。元政の頃は十河氏や安富氏と争っていた。香川氏は東讃の安富氏と並び、
代々讃岐国守護代を務めていた。その後も新見氏が地頭の地位を保つが、代官の地位は
垪和氏や安富氏などを転々とする。安富氏が細川・三好氏の援助を受けた十河氏によっ
て滅びると、若干の抵抗があったが讃岐国は三好氏の支配下に入ってしまった。四国に
おいては元亀元年に娘を安富盛定に嫁がせており、元亀2年前半頃に寒川元隣から大内
郡4郷を安富氏に割譲させて讃岐東部での地盤を強化している。


1086: 名無しさんAA:18/03/23 10:50
 富安君を探せ              < その111 >

 肥前国南高来郡深江の土豪にも安富氏がおり、江戸時代まで鍋島藩家老として存続し
た。安富氏は鎌倉時代中期以降に幕府奉行人として現れ、安富長嗣・行長・高嗣ら一族
の奉行人としての活動は室町時代初期まで史料に残るが、応永年間以降は史料には細川
京兆家の重臣として現れるようになる。応仁の乱の混乱に乗じて新見氏や安富氏が新見
荘の支配を企てたため、応仁元年以後、百姓は備中の土一揆を起こして東寺と結んで武
士に抵抗するが、後に新見氏ら武士勢力に排除された。それ以前に寛正2年、新見荘で
は守護被官安富氏の代官支配を退け、東寺の直轄支配を要求する土一揆が発生している
。塩ノ木合戦とは、雨滝城城主安富盛方が寒川元政所領の城を攻撃し、寒川氏は塩ノ木
で安富氏を追撃したものである。このため阿波国人と同様に讃岐国人も中央へ出る機会
が多く、香西氏、香川氏、安富氏、奈良氏の四氏は細川四天王と称されたという。戦国
時代には讃岐国の分郡守護代である安富氏と香川氏が東西で大きな勢力を擁していて、
両者中間の香西氏、阿野氏、鵜足郡に長尾氏、奈良氏、羽床氏など中小豪族が乱立して
いた。旧来から讃岐は東讃岐は守護代の安富氏が統括していたが、のち三好氏一族の三
好長正を迎え入れた木田郡・植田一族の十河氏が三好氏の代官として勢力を伸ばし、早
い段階で東讃岐を総括した。篠原自遁や東讃岐の安富氏も小寺孝高を介し、当時の中国
攻め羽柴秀吉に人質を差し出して従属した。天文9年には安富氏との戦いが激化した。
元政は居城を池内城から昼寝城に移して讃岐国塩木において合戦を行うが勝敗がつかず
、以降、約3年もの間、一進一退を繰り広げた。堀田正泰系の堀田氏は「寛政重修諸家
譜」において自らの出自を紀長谷雄の子孫とし、浦上氏・安富氏の本家筋にあたるとし
ている。この時の香川氏、安富氏、奈良氏は元々は讃岐の国人ではなく、細川氏の讃岐
入部に伴って香川氏と奈良氏は西讃、安富氏は東讃に入り、香川氏は西讃岐守護代、安
富氏は東讃岐守護代に任ぜられたが、香西氏の所領は安富氏を凌ぐものであった。が、
政元暗殺後の細川京兆家の内紛と混乱に続く衰退とともに安富氏の勢威も衰え、戦国末
期には長宗我部元親に雨滝城を落とされ没落した。永禄3年、十河一存が率いる讃岐衆
として香川氏、奈良氏、安富氏、寒川氏と共に岸和田城に入り、畠山高政と戦った。そ
して永禄6年、実休は香西元成を始め安富氏、十河氏、寒川氏など阿淡、東讃の兵八千
余人を率いて押し寄せ、一宮に陣をはった。その一方で、寒川氏に迫り讃岐大内郡4郷
を縁戚の安富氏に割譲させ三好氏の基盤を強化するなど強権をふるう三好長治に対し、
天正2年春、佳清は香川之景と連判で長治の実弟・十河存保に長治ら阿波勢を非難し、
離反を警告する申し入れを行った。

1087: 名無しさんAA:18/03/23 10:51
 富安君を探せ              < その112 >

『歴代鎮西要略』によると、天正5年、6月下旬、龍造寺隆信が伊佐早侵攻のため出陣し
てくることを知った純堯は、有馬氏に救援を求めたが、神代氏や島原氏、安富氏などが
龍造寺方に付いたため、有馬氏は純堯に援軍を出すことを断念した。香西氏は累代細川
氏に仕え細川四天王と称され、同族の新居氏、羽床氏、植松氏を従え、東讃の守護代で
あった。この勢力が安富氏を凌ぐ勢力を誇ったが、天文22年、先代・香西元政の時には
三好長慶の弟・三好実休、十河一存に攻められ降伏し、香西元載は十河一存に仕えた。
南北朝時代には、全国各地で南軍が劣勢に立たされる中、九州で圧倒的優位を誇る征西
府は、まさに南軍最後の希望であり、この時の東征軍は菊池・島津・伊東・原田・秋月
・三原・草野・松浦・星野・平戸・千葉・大村・山鹿などの九州の有力諸氏を従えてい
て、7万騎と号する大軍であったとされる。応永30年に渋川義俊が勝尾城を築いたと、
『肥前国史』にあるが、『歴代鎮西要略』では延徳3年に渋川義基が築いたとされる。
なお、『歴代鎮西要略』によると、天正5年、6月下旬、龍造寺隆信が伊佐早侵攻のた
め出陣してくることを知った西郷純堯は、有馬氏に救援を求めた。が、神代氏や島原氏
、安富氏が 龍造寺方に付いたため、有馬氏は純堯に援軍を出すことを断念している。
鎌倉時代は地頭職、室町時代は大身の国人領主、戦国時代は筑後十五城の旗頭の大名分
で柳川城主であった蒲池氏が、大友氏と島津氏の耳川の戦いに出陣し、蒲池氏は三千の
兵を失い、大友氏への忠義一筋の蒲池鑑盛が奮戦し討ち死にし、蒲池鎮漣(鎮並)が家
督を継いでいたからだ。、嫡子の鎮漣は喪に服す時で、戦を好まなかった。その後も、
大友氏からの独立の意志を抱いて結果、蒲池鑑盛は大友から天正8年に囲まれ、「先非
を改め、貞心を励ましむべきの由」を伝え帰順が認められ、再び大友氏に従臣し、動員
された龍造寺軍から度々離脱していたのだ。西洋かぶれの大友と万事蛮行に及ぶ竜造寺
に悩んでいたのである。この西郷氏への援兵の見送りはその後の松浦一党に亀裂を生ん
だ。もともと西郷氏は菊池氏の一族で、戦国時代の頃には、有馬氏配下とで肥前伊佐早
荘(現在の諫早市及び北高来郡)に勢力を持ち、有馬氏の東肥前に対する前線を守って
いた。しかし大友配下となり無理強いが多く有馬氏と対立させる大友の手に乗っていた
が龍造寺氏の勢力が増すと有馬氏から離反し、龍造寺氏へ従うようになっていたのだ。


1088: 名無しさんAA:18/03/23 10:53
 富安君を探せ              < その113 >

 これには理由がある。西郷氏は敬虔な仏教徒であった。しかし既に大友宗麟は、臣下
の仏教徒の抹殺に及んでいた。「これからはキリシタンの時代だ。」と叫んでいたのだ
。本来この諫早地区は有馬氏の下に大村氏や長崎氏諫早氏がいてその下に西郷氏がいた
。だがそれは緩やかな配下であって、必ずしも上下関係にあったわけではない。又本来
竜造寺氏は大宰府政庁の実務で少弐氏の配下であった。その為彼らの地区の間にには、
龍造寺の家老の鍋島氏が緩衝地域の将として存在し直接の指揮はそう高くなかった。だ
がそれが大友氏の策略で少弐氏が菊池氏を阿蘇氏をそそのかし滅ぼした事から、鍋島氏
も同じ様に竜造寺氏を滅ぼした。本来今までは城主は自害させても一家の家系を絶やす
行為はなかった。それどころか敵でも縁戚を擁したり自らの子を入場させ家督を継がせ
た。それが今までの習わしだった。だが大友時代に変わったのだ。下剋上時代の始まり
だった。仏教や儒教よりキリスト教がもてはやされたのである。大友対龍造寺の戦いは
世情や地政学的問題は全く関係なく、信長の天下布武に近い、天正創出であった。この
キリシタンの教徒による理想王国の建設だった。西郷氏への援兵の見送りはこうした、
言わば仏教徒を嫌った大友の意向が働いていた。共に戦った伊佐早氏や主君有馬氏遠く
は同じ松浦党の大村氏や長崎氏が援軍に来ない中四面楚歌の西郷純堯は自軍のみで龍造
寺勢を迎撃することとなった。龍造寺勢に宇木城を初め多くの支城を攻略される中、兄
より先に龍造寺氏に従属していた深堀純賢が調停に入り純堯の降伏が許された。降伏に
よって、純堯の嫡男・純尚は隆信から偏諱を受け信尚と改めた。純堯は隠居し、ほどな
く死去したとされるが。これ以後、西郷氏は有馬氏から完全に離反した。有馬義貞や同
盟関係にあった大村純忠がキリシタン大名となると離反し、後藤貴明や松浦氏と同盟を
結び大村・長崎へ侵攻した。しかし神代氏や島原氏、安富氏が龍造寺方に付いてはいた
が、彼らはキリスタンとの交易も求めていた。その後に家督を継いだ西郷純賢は長崎氏
を攻撃した。純賢勢は長崎氏領の商館や教会を焼きはらったが、武士や百姓からの激し
い抵抗を受け撤兵した。一方、伊佐早勢も大村純忠が戦死したとの噂が立つほどに攻め
立てるも、西郷氏は純忠の反撃を受け撤退している。


1089: 名無しさんAA:18/03/23 11:03
 富安君を探せ              < その114 >

ルイス・フロイスの『日本史』によると、フロイスに「伊佐早殿」と称される純堯は「
有馬義貞を家来同然に扱い」、キリスト教へ入信しようとした義貞は純堯を憚り入信を
逡巡するほどであった。そのためフロイスは、純堯について「詭計、策略、欺瞞の点で
は、他の殿たちの第一人者であった」と、厳しい評価を下している。やがて、有馬晴信
も龍造寺隆信に降ったが、隆信の残忍性を恐れた晴信は島津氏に通じて隆信から離反し
た。天正十二年、隆信は有馬氏を討つため三万の兵を率いて出陣、有馬・島津氏の連合
軍と沖田畷で戦って戦死した。沖田畷の戦いは、大友氏の無駄な耳川の戦いの敗北から
始まっている。勝利した島津勢は相良氏他龍造寺や大友氏になびく旧菊池兵の取り込み
にあった。間髪を入れず天正9年(1581年)、島津家は肥後に北上する。これに対して
危機感から龍造寺家も隆信の嫡男・政家と義兄弟の鍋島信生を派遣し、て島津方の赤星
親隆を下し、肥後北部の山本郡の内古閑鎮房を叩いて防護を謀った。この為肥後北部の
国人衆は龍造寺家に帰順するが、隆信は一方で目の前の筑後柳川の城を落とせず蒲池鎮
並一族を小河信貴、徳島長房によって諜某で暗殺して後を攻めさせた。この蒲池鎮並を
誘殺したことと、その後の悲惨さは過去の九州合戦に見ないものだった。特に塩塚城の
攻防は身内同士を戦わせ、周りを自陣で覆って殺戮をさせ降伏さえさせなかった。この
醜さや残忍さは諸将士の離反を惹き起こした、こうして筑後衆の中では隆信に叛く者が
秘かに出るにいたっていた。この中で有馬晴信の背信を知った隆信は天正12年(1584年
)、3月19日龍王崎から出陣し、翌3月20日には島原半島北部の神代に上陸するに至った
。有馬晴信は仔細を八代にいた島津軍に伝え援軍を要請する。当時既に島津家は肥後の
平定に着手していたが、龍造寺軍の主力が島原に到達したとなると放置もしておけず、
有馬に対してしぶしぶ援軍を送り出した。島津軍としては、主力が動けば、衰えたとは
いえ大友家が南下しかねず、相良義陽を戦死させた阿蘇惟光・甲斐宗運らの動きもあり
、島津義久は大軍を島原に送る事はできない中だった。弟の家久や頴娃久虎、新納忠元
、猿渡信光、伊集院忠棟、川上忠智らを大将にして送り出した。しかし兵力は島津軍の
5,000人にも満たなかった。幸いだったのは島津軍の到着が3月22日と龍造寺軍の前日で
あった事である。龍造寺軍を悩ませたのは、海の嵐が島津軍の渡海をも遅らせている事
と解して焦らなかったし、またこれにより龍造寺の大軍も送れなかったのである。又、
晴信自体行く先がなく、キリシタンながらも強欲な大友氏も残忍な仏教徒の龍造寺氏も
味方である地元も西郷氏帰順者も多く、地位の持つポルトガルの応援も望みが薄く、こ
れは決死の覚悟で島津応援を得た有馬晴信の最後の応戦であったのだ。

1090: 名無しさんAA:18/03/23 11:04
 富安君を探せ              < その115 >

 一方の龍造寺軍では、鍋島信生が主君の隆信に対して島津軍を警戒するように諌めた
。信生は、どうせいずれ島津軍と相対するものとして 長期持久戦に持ち込む事で島津
の援軍が肥後に撤退するのを待ってから有馬を攻め潰すように進言していた。しかし、
圧倒的な兵力を誇る隆信は傲慢になっており諫言を聞き入れなかった。それだけ兵力差
は歴然としており、又その後の上陸着参する兵の用意も出来ていたのだった。一方島津
・有馬連合軍は兵力的に圧倒的に不利な事から、有馬晴信は島津の大軍の後詰を待つ、
後詰決戦を主張した。しかし、これ以上の兵員の予備もなく、家久は積極的な防衛策に
よる龍造寺軍壊滅を策し、戦場は島原の北方にある沖田畷と定め策を練った。当時島原
周辺は海岸線から前山の裾野にかけて広大な湿地と深田が広がっており、前山と森岳城
との間にある道も幅が大変狭かった。沖田畷とは、その湿地帯を縦貫する畷であった。
天然の平城の外堀の様なものだった。連合軍はこの畷を封鎖するように大木戸を、森岳
城には柵を築いて防備を強化し、徹底的に守りを固めた。これらの防備は 3月23日の夜
までに完了したが、隆信の鈍重な進軍がもたらした幸運でもあった。この時の連合軍の
布陣は晴信を総大将にして、本陣は森岳城に置かれ、海岸線には伊集院忠棟ら1,000余、
内陸側の大木戸には赤星一党の50人、家久軍は伏兵として森岳城の背後に控え、新納忠
元ら1,000は前山の山裾に伏兵として潜んだ。野伏間の戦略に長けた島津の配置だった。
これに対して3月24日未明、龍造寺軍は沖田畷に進軍し、山の手を鍋島信生が、浜の手を
隆信の次男と配下の江上家種と後藤家信らが、中央は隆信本隊が布陣して沖田畷を中央
進軍し森岳城を攻撃することとした。隆信は森岳城を俯瞰する小山に上って、敵方の陣
営を一望して、その数の少ないことを知り容易に勝利を得ることが出来ると確信してい
た。辰の刻(午前8時頃)に戦闘が始まる。島津方は計略を用い龍造寺軍をおびき寄せ
る。応戦をせず敗北を装い退却し、追撃してきた龍造寺軍に弓や鉄砲を乱射した。先陣
は崩れ、これを助けようとした次陣も左右が深沼で細道の為次々に難儀をした。隆信は
使者に様子見に行かせたが、この使者は「命を惜しまず攻めるように」と触れて回った
。諸将はいきり立ち、無謀な攻撃を仕掛けた。だがそれまで潜んでいた島津方の伏兵が
弓と鉄砲を射掛けた。不意をつかれた龍造寺軍は深田に入り込み射殺されていった。未
の初刻(午後2時)、隆信は床机に腰掛けていたが、突然現れた島津方の川上忠堅に見
つかって、忠堅に切りかかられて隆信は首を落とされこうして、沖田畷の合戦は連合軍
の勝利に終わった。


1091: 名無しさんAA:18/03/23 11:06
 富安君を探せ              < その117 >

かくして尊氏は、一色直氏を九州管領に任じて九州の留守をまかせると、上洛の軍を起
し、京都を征圧すると足利幕府を開いた。こうして安富氏は要職に就いた。対して有馬
氏は藤原純友の子孫とされ、当初島原半島南部の一勢力に過ぎなかったが、有馬貴純の
時代になると島原半島内の諸勢力を制圧して、戦国大名へと成長していった。この時、
貴純は日野江城の支城として原城を築城していた。晴純の時代に有馬氏の版図は最大と
なり21万石を領するまでに成長していた。後ろ盾となっていたのが大内氏であった。
彼こそが大友の許可を得て、南蛮貿易の第一人者であったからだ。しかしながら有馬氏
も菊池氏と同じように宮方崇拝の正義と秩序を重んじている集団だった。菊池氏が破れ
大内氏が倒れると、執拗な大友氏の攻撃で下り、そのまま大友氏や龍造寺氏の圧迫を受
けるようになっていた。こうして13代目当主の晴信は、大友と同じにキリシタン大名
となり城下にセミナリヨを建設し、逆に寺社を破壊し城の築材とした。発掘調査で出土
した遺構では晴信の時代に金箔の瓦を葺いていた事が判明している。南蛮貿易で結構な
富を得ていたのである。これに島津も大友も龍造寺もこぞって目をつけていたのだ。し
かし長崎や島原の民にしてみれば、壱岐対馬の宗氏と同じく貿易が無くして成り立たな
い生活であって、この有馬氏の様に華々しく西洋化して他藩から魅力的で目をつけられ
る事は難儀な事だった。小西行長はこうした中で南蛮渡来品を京の町に売りつけていた
。これに目を付けたのが松倉家だった。松倉家は、当初は筒井順慶に仕えていた。筒井
順慶の没後、養子の定次が伊賀に転封されると、重政は大和に残って豊臣家の直臣とな
って、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは単身参陣して徳川家康に認められ、大和
の五条二見城主となった。五条では諸役を免除して商業の振興を図るなど城下町の整備
を行った。この商業復興に南蛮船の買い付けをしていたのである。この南蛮船は大型船
で黒人の船乗りを擁していた。。順慶没後、後を継いだ筒井定次が伊賀国へ転封となっ
た際に従い、伊賀名張に8千石余を領した。後、豊臣秀吉に接近し、大和国吉野に8千
石余を領したとの記録がある。こうして彼は伊賀者を使い、各地に配した。彼が拠点と
したの所は伊賀屋と称して女衒を使って 戦国時に女子供をイスパニアに奴隷として売
る事だった。当初は小舟で小さくあったが、秀吉が九州下向するとイスパニアもポルト
ガルと競った為に秀吉によって船長以下キリシタンとして処罰され残った船の運用に出
ていたのである。

1092: 名無しさんAA:18/03/23 11:19
 富安君を探せ              < その116 >
 裏話として、有馬家へ援軍を出す事を決定するも、どのようにするか決めかねている
島津義久が兵に相談する事にした。呼び込んだったのは島津の中では鬼武蔵(鬼とは強
いという意味で、武蔵とは正義の徒や義臣)の呼び名が高い、新納忠元でした。送れる
兵は寡兵(かへい、さして勢力のない一般兵、農民兵)、その場合の大将は島津義弘か
島津家久。この二人のどちらがいいか問いかけた。その時、忠元は即座に回答する。「
義弘様は『耳臆病、目かいがいしい大将。』家久様は『耳かいがしく目臆病な大将。』
今回送られるのは家久様にすべきです。」と言った。何だか意味不明な言葉ですが、義
久は、この忠元の言葉を受けて総大将に家久を派遣した。が、これが面白くないのが、
長男島津義弘である。「兄の自分に何が劣っているのか。」と忠元に直訴した。しかし
これに対し忠元歯に衣きせず、「逆恨みも大概にして下さい。私は私情を交えずお家の
為を思って言ったまで。」とにべにもなかった。この物言いに義弘も何も言えずに黙っ
た。おそらく忠元は、耳を情報、目を実際の戦場、臆病を慎重、かいがいしいを積極と
いい、情報を取っても疑い現場の状況を大事にする武将だとほめたのだろうと解した。
義弘は情報より戦場での直感で行動した天才肌の指揮官であり、対して家久は情報重視
し、戦場では事前の決めた策で慎重で大胆な采配を選ぶ指揮官だった。新納忠元は適切
な提言をしたのだ。この時龍造寺軍に多くの安富氏も出陣した。、それは1265年頃に、
元寇の警備のために下向し、その後肥前深江村に住み着き、地頭に任命されていたから
だ。いわゆる西遷御家人である。元冦の役に際して土着してのち戦国時代に及び、近世
では深江氏を称した。しかし深江氏は安富氏の九州下向以前から、在地の有馬氏一族と
しても深江氏がいたことが知られている。深江氏は、頼泰の時に島原半島以外にも多く
の地頭職を兼ね、泰長では深江の外一所の地頭職を兼ね、その子の泰重は深江の外加津
佐の半分、郡外天草と 数カ所の地頭職を兼ねた程だ。鎌倉後期になって、安富頼泰・
貞泰父子は前後してともに鎮西引付衆に加わった。この時、深江氏とも名乗り、そのま
ま乗っ取りに及んでいる。鎮西の戦乱期は、島原半島北部の島原・多比良・神代・西郷
の諸武士は敵方南朝方に属し、諸侯は征西将軍宮懐良親王を中心とする菊池一門であっ
た。一方、半島の南部、安徳・深江・安富・有馬の諸武士は、官軍に馳せ参じて足利尊
氏が醍醐天皇に叛旗を翻した手勢になっていた。京都に攻め上り尊氏は京都を征圧下に
おいたが、直ぐに、延元元年(1336)、北畠顕家らが新田義貞らと共に京都を攻め敗れ
て、尊氏は九州のこの地に落ちのび三月、筑前多々良浜において菊池氏・阿蘇氏ら九州
宮方と戦ってこれを破った。尊氏はこうして九州宮方の勢力を駆逐すると再び回復する
。これを機に安富氏は尊氏に帰服して武家方の筆頭の一つとなった。

1093: 名無しさんAA:18/03/23 11:28
 富安君を探せ              < その117 >

かくして尊氏は、一色直氏を九州管領に任じて九州の留守をまかせると、上洛の軍を起
し、京都を征圧すると足利幕府を開いた。こうして安富氏は要職に就いた。対して有馬
氏は藤原純友の子孫とされ、当初島原半島南部の一勢力に過ぎなかったが、有馬貴純の
時代になると島原半島内の諸勢力を制圧して、戦国大名へと成長していった。この時、
貴純は日野江城の支城として原城を築城していた。晴純の時代に有馬氏の版図は最大と
なり21万石を領するまでに成長していた。後ろ盾となっていたのが大内氏であった。
彼こそが大内の許可を得て、南蛮貿易の第一人者であったからだ。しかしながら有馬氏
も菊池氏と同じように宮方崇拝の正義と秩序を重んじている集団だった。菊池氏が破れ
大内氏が倒れると、執拗な大友氏の攻撃で下り、そのまま大友氏や龍造寺氏の圧迫を受
けるようになっていた。こうして13代目当主の晴信は、大友と同じにキリシタン大名
となり城下にセミナリヨを建設し、逆に寺社を破壊し城の築材とした。発掘調査で出土
した遺構では晴信の時代に金箔の瓦を葺いていた事が判明している。南蛮貿易で結構な
富を得ていたのである。これに島津も大友も龍造寺もこぞって目をつけていたのだ。し
かし長崎や島原の民にしてみれば、壱岐対馬の宗氏と同じく貿易が無くして成り立たな
い生活であって、この有馬氏の様に華々しく西洋化して他藩から魅力的で目をつけられ
る事は難儀な事だった。小西行長はこうした南蛮渡来品の物を京の町に売りつけていた
。これに目を付けたのが松倉家だった。松倉家は、当初は西三条家の分家で名家だった
。しかし落ちぶれて筒井順慶に仕えていた。筒井順慶の没後、養子の定次が伊賀に転封
されると、重政は大和に残って豊臣家の直臣となって、慶長5年(1600年)の関ヶ原の
戦いでは単身参陣して徳川家康に認められ、大和の五条二見城主となった。五条では諸
役を免除して商業の振興を図るなど城下町の整備を行った。この商業復興に南蛮船の買
い付けをしていたのである。この南蛮船は大型船で黒人の船乗りを擁していた。。順慶
没後、後を継いだ筒井定次が伊賀国へ転封となった際に従い、伊賀名張に8千石余を領
したの忍びの者の成果だった。後、豊臣秀吉に接近し、大和国吉野に8千石余を領した
との記録がある。こうして彼は伊賀者を使い、各地に配した。彼が拠点としたの所は、
伊賀屋と称した奴隷用の娘を買い取る女衒宿だったという。戦国時に女子供をイスパニ
アに奴隷として売る事で利益を得ていた。当初は小舟で小さくあったが、秀吉が九州下
向するとイスパニアもポルトガルと競った為に秀吉によって船長以下キリシタンとして
処罰された為、残った船で自らの運用に出ていたのである。

1094: 名無しさんAA:18/03/23 11:36
 富安君を探せ              < その118 >

 かつて日本には門松などは無かった。しかし冬の食料が無くなる頃に何とかしのげる
様に門松と言う物が出来て、縁起物として売り歩いた。又これをその藩主は奨励した。
こうしたものは不用品の藁や山に生える竹などでできるものだった。竹細工や和蝋燭や
薬や瀬戸物など一般的には行商人によって、村々の長者の家に届けられる物だった。物
物交換と日々の食と宿の提供である。商人が出るまでは仏僧がそれを行っていた。しか
し鉄砲伝来でその姿は大きく変わっていた。無頼の徒が多く出たのだ。更に鉄砲による
商売が巨万の富を得る結果となり、商人を擁した武家人はその情報屋としての地位にな
っていた。ポルトガルは平戸にあるオランダ商館を作っていた、この付近は商人地とな
っていたが、オランダ塀、オランダ井戸、オランダ埠頭、護岸石垣など商館時代の遺構
は現在でも残っている。当時イスパニアとポルトガルさえも競っていて、ポルトガル船
が種子島に着いた時イスパニア船も島原や天草近郊に現れていたのである。安田国継は
、織田氏の重臣・明智光秀配下の斎藤利三に仕えた。明智三羽烏の一人とされて、後に
長崎奉行になった寺沢広高と共に活躍していた。しかし天正10年(1582年)に光秀が
主君・織田信長に対して起こした本能寺の変では、その先鋒となり出陣し信長を槍で攻
撃し、行く手を阻んだ森成利(蘭丸)に十文字槍で下腹部を突かれるも、これを討ち取
る功を挙げたという武勇伝がある。が、明智氏が山崎の戦いにて敗走すると、出奔して
天野源右衛門と改名して浪人し、羽柴秀勝、羽柴秀長、蒲生氏郷と仕えたがいずれも長
続きしなかったという。その後立花宗茂に仕え、豊臣氏による九州平定にて功があって
文禄・慶長の役では朝鮮へ出陣していく。一方寺沢広高(てらざわひろたか)は、松倉
重信が大名として大和五条藩主となったのを機に、彼についていった。息子の松倉重政
(まつくらしげまさ)は、江戸期に肥前日野江藩初代藩主になり、寺沢広高は肥前唐津
藩の初代藩主となった。広高は技能優れた武士を愛した。広高時代の唐津藩には1000石
取りの家臣が40人もおり、その士風を慕い集まったという、当時は大きな経済商業主義
の藩だった。ある時「銭勘定も米の升目も知らなかった者が関ヶ原で潔く死に、この者
こそ真の武士である」と褒め称えていたのを聞いて、「それは違う。世を迂闊と心得た
役立たずだ。そうした者は生活に困って飢えをしのげず、武具も売り払ってしまう。む
しろ関ヶ原で死んで幸せだった」と時代の見えない精神だけの武士として批判したとい
う。唐津藩で新田開発を行う際、防風林を造成し手厚く保護したが、これも算段の上で
あったという。防風林は名勝虹の松原として現在まで存続している。

1095: 名無しさんAA:18/03/23 11:46
 富安君を探せ              < その119 >

 島原慣習や天草流儀と言われるものはこの頃に出来たものであったろう。伊勢(三重
)や天草(熊本)島原(長崎)では、その注連縄飾りや門松は「年中」ずっと飾る地域
として残る。伊勢は魔除けの意味あいとして、天草や島原はその昔キリシタンでは無い
事を示した名残が今も慣習として残っている。西郷純堯配下が荒らしまくったからだ。
カピタンと呼ばれた天草にはイスパニア商館も作られていた。黒田が中津に城を築き始
めた時肥後国人一揆が起きた。この時豊前でも野中氏をはじめ同じ隈部党が一揆を起こ
した。この時改易による伊予国転封の下命に3万石の城井鎮房が挙兵居城の城井谷城を
固めた。秀吉は黒田長政に鎮圧を命じた。岩丸山の戦いを行ったが一旦は鎮圧に失敗す
るなどしたため、黒田氏は持久戦策をとり兵站を断ち持久戦にした。それでも落ちなか
った。しかし貧窮はしていたのか、中津城が完成した時、嫡男・城井朝房と娘・鶴姫を
人質に出しての領地安堵の中で降伏し、城井鎮房が祝賀口上に来ていた。しかし、秀吉
の指示もあり、長政は中津城で城井を謀殺、郎党を攻め滅ぼした。天正16年の春だ。
こうして呪われた中津城が完成したが、この城井氏の傘下の水軍がついた事で思わぬ貿
易の道が開けた。その為秘密裏に亀甲船作りに専念し、天正17年には、家督を嫡男の
長政に譲り、孝高は秀吉の側近として引き続き仕える。中津城は殆ど長政に任せ、孝高
は猪熊、伏見の京屋敷や天満の大坂屋敷を拠点として貿易を影で行った。江戸幕府が開
かれた時に黒田家はへそくりの軍資金で、にわかに兵を集めた。他の藩が文禄の役、慶
長の役と2度にわたった朝鮮出兵で、莫大な戦費と多大な将兵の命を消費した時には、
黒田は朝鮮人に亀甲船を売り渡して資金得ていたのだ。この亀甲船は黒田の発案である
。船に屋根を張り囲ってその外に鉄板を覆って火矢にも対応して鉄砲をを持ち櫓ですす
んだ。この船は相当に日本軍を悩ました。加藤清正以下先発上陸部隊の兵站が断ち切ら
れて兵糧も兵員も送れなかったからだ。無敵とも思える亀甲船を破ったのが立花宗茂で
あった。亀甲船は2隻あったが、亀甲船にも食糧が運ばれている事を知って、それを襲
い夜陰に紛れて乗り込んで焼失させた。又もう一つは崖の下に誘い巨石を落として壊し
た。これは立花氏の手柄だった。そもそも黒田官兵衛は、平和な時代が来るとは思って
いなかった。秀吉がの備中松山城攻撃の陣中に「おお喰ろうておる喰ろうておるぞ。人
が人を煮炊きしておる。」と喜んでいた秀吉に「本能寺で信長公が死んだようだ。」と
本能寺の変の報せを話したのは黒田だった。さっと青ざめる秀吉「殿、いよいよ天下取
りに近づけますな。」とささやいているぐらいだ。秀吉は官兵衛に警戒心を持っていた
し、黒田官兵衛も又こんな非情な不条理者ばかりで世が回っているのだと自覚していた

1096: 名無しさんAA:18/03/23 12:03
 文禄の役では、黒田官兵衛は困った立場にいた。隠れて明朝貿易の巨利を得ていたか
らだ。穏便な戦略の総大将・宇喜多秀家の軍監として参加したした、小西行長などと激
しく意見が対立して日本軍は行き詰っていた。病を理由に帰国していった。亀甲船の出
現にそれを叩くとする事に反対し、進軍して王朝を叩くべきとの意見が通らなかったの
だ。日本軍は明軍の参戦と同時にこの亀甲船の攻撃で補給の行き詰まりにより、和平を
模索する方向に傾いた。黒田は秀吉の晋州城の攻略計画を反対して不合作の態度と表す
が、命令で再び朝鮮に渡った。しかし、三奉行との間に再び確執が生じ、東莱城より再
帰国した。秀吉からは軍令に従わずに戦線を離脱したと見なされたので、怒りを買って
追い返されてしまった。しかし内情が探られる事無く亀甲船が岩を落とされたり、燃や
されたりした為か、気を取り直し8月、剃髪して「如水軒円清」と号し、死罪を覚悟し
て長政らに遺書を残して拝謁した。これに、神妙として秀吉によって赦免された。もと
もと官兵衛には別の意図があった。既に秀吉には老齢の癖がでていてこの先短い。とな
れば次は天下とならずも九州ぐらいは盗れる。辛抱すればいいのだ。と踏んでいたので
ある。その為の資金が、朝鮮貿易であったのだ。慶長の役で総大将・小早川秀秋の軍監
として釜山に滞陣した。既に自分の懇意であった亀甲船がなく兵站を切る事は出来ずに
いた。黒田が流したかどうかは不明だが、明軍が駆けつけて苦戦し全軍退去のデマが流
れていて総崩れになったのは事実だ。第一次蔚山城の戦いにおいてこうして後塵の兵が
退去し加藤清正は籠城に至った。しかし九州勢の布陣の中に加藤氏の弟の伝令が来た。
全員が退去を決定する中でも、立花宗茂は猛然と救出を言い放った「我は日本の武士、
同志見捨てる戦いに義はなし。我は救出にいかん。」と 宇喜田氏がそこに指揮をとっ
ていたが、唖然とし自らも明軍に囲まれている中では、激を飛ばして自らの兵を勝手に
救援に向う後追うしかなかった。こうして後を追った。軍規では、相助け合う候事、こ
れ犯したるは処分する。」となっていたからだ。10倍もある軍勢に勝算はないように
思われた。しかし、立花勢の兵士は強かった。たった300の兵の救援だだったが、そ
の後追随した兵も駆けつけ千五百の兵で明の兵を蹴散らした。こうして加藤清正は救出
され、更に長政が留守にしていた梁山城が八千軍勢に襲われたてる中に攻撃をしかけ、
両城にて日本軍は大勝を収め帰参する事になった。今回の戦いのこれらは、逐次報告に
至っていた。石田三成や福原長堯などの軍目付たちは秀吉に報告していた。大阪城に登
城し謁見したときは、「立花宗茂は正に虎退治の清正に劣らず天下一双の猛者よ。」と
大喜びし、小早川秀秋、黒田長政、蜂須賀家政など、多くの武将が叱責や処罰を受ける
事となった。一方で、この軍目付たちは豊後国内に加増となった。軍目付の中に黒田の
長子の長政が豊臣秀吉の側近として仕えて調略などを支えていた。

1097: 名無しさんAA:18/03/23 12:09
 富安君を探せ              < その121 >

 こうして「如水軒円清」と蟄居謹慎後に隠居し息子に中津藩を預け、京都伏見の藩邸
で暮らしている事になっていたが、中津の城が彼の居城だった。しかし彼はしたたかだ
。徳川氏には前もって味方中津城の留守居を務める密約を結び行動している。石田三成
の挙兵の知らせを聞き如水は、中津城の金蔵を開いて領内の百姓などに支度金を与え、
九州、中国、四国からも聞き及んで集まった九千人ほどの速成軍を作り上げて近郊の城
を襲った。関ヶ原の戦いが起こった時、息子の長政は豊臣恩顧の大名を多く家康方に引
き込み、後藤基次ら黒田軍の主力を率いて、関ヶ原本戦で武功を挙げた。再興を目指し
て西軍に与した大友義統が毛利輝元の支援を受けて豊後国に攻め込み、東軍の細川忠興
の飛び地である杵築城を包囲攻撃した。これに城将・松井康之と有吉立行は如水に援軍
を要請。如水はこれに応じて、集めた兵力を率いて出陣した。それまでは三成の誘いに
対し、西軍に組する条件として九州7ヶ国の恩賞を求め、東へ向かう九州の西軍の部隊
を素通りさせ、準備期間を稼いでいたというのにである。この時豊臣恩顧の代表として
の手紙を送りながらも加藤清正や鍋島には九州共同征服を持ち掛けていた。この時立花
氏にも大友氏からの徳川加担の申し込みがあった。しかし忠臣義行の立花氏は加藤清正
から情勢を受けていたが豊臣方に要請に兵を運んでいた。黒田氏は早速諸城を攻略した
後、石垣原(現在の別府市)で大友義統軍と衝突した。母里友信が緒戦で大友軍の吉弘
統幸に破れる等の苦戦するも井上之房らの活躍もあって、黒田軍は大友軍に勝利した。
(石垣原の戦い)。富来城の攻略中に哨戒船が、東上中の城主である垣見一直からの一
通の密書を運んでいた船を捕えた。こうして西軍敗報に接し、如水は藤堂高虎を通じて
家康に領地切り取り次第を申し入れ、西軍に属した太田一吉の臼杵城(佐賀関の戦い)
などの諸城を落としていった。国東半島沖の豊後水道付近では水軍が、関ヶ原より引き
上げてきた島津義弘の軍船と戦い焼き沈めていた。10月14日、突如如水は兵5千を引き
つれ柳川へ派兵し、自身は西軍に参加した小早川秀包の居城である久留米城攻めへ向か
った。今や立花氏が留守だと知った為だった。更に鍋島直茂・勝茂父子が32,000の兵を
率いて久留米城攻めに参戦する。10月16日、こうして柳川城の支城である海津城を落と
す。その後、宇土城攻めを終えた加藤清正も参戦する。交渉の上、立花宗茂は降伏し、
如水軍に下った。そして11月に入り如水は宗茂、直茂、清正を加えた4万の軍勢で九州
最後の敵勢力である島津討伐に向かったが11月12日に肥後国の水俣まで進軍したとき、
家康と島津義久との和議成立による停戦命令を受け、軍を退き解散した。

1098: 名無しさんAA:18/03/23 12:10
 富安君を探せ              < その121 >

 立花氏が関が原の戦いに出なかった訳ではない。そもそも関が原の戦いは、天下分け
目の戦いとされているが、豊臣恩顧と徳川勢の戦いとして語り継がれるがそうしたもの
ではない。豊臣秀吉の死後、天下人の座を狙う徳川家康の謀略と、豊臣氏擁護や国家安
寧の平和の立場からの家康と対立する武将達のそれぞれの縄張り争いだった。ここにき
て石田三成ら反家康派の対立は、決定的だったものの、朝鮮征伐で疲弊し大砲の普及が
家康を押した。豊臣氏が死去した後、各武将集めて大阪城会議が開かれている。その中
では豊臣氏を頂点にやっていく事を各武将は確認しているのである。この中で徳川家康
は最も危ない武将として目されていながらも最も強い武将としても名が通っていたので
ある。しかし上杉氏が勝手に婚姻を決めたとして会津討伐に出て突然引き返して、大軍
を大阪に向けたのである。いわゆる本能寺の変の家康バージョンである。この時体制の
豊臣方の仕切りを行っていたのが石田三成だったのである。この豊臣体制には軍役があ
り、御下命による通知で兵を挙げたり、大軍を率いない決まりがあったのである。だが
家康は一切それを拒否したし、それに対する諸侯も又微妙な立場だったのである。そこ
に旧来の恩顧の武将というよりは、もう戦争をしたくない派は大阪に従い動いていた。
というのが実情だったのだ。立花氏は軍役会議の中で、徳川氏と相身まいる事は避けら
れた。そもそもが小藩で九州の藩だったからだ。従って関が原には約1万の兵で出兵し
最強と謳われながらも、島津や毛利など大きな諸侯の発言力が採用されていたのだった
。しかしこの大きな領地の大きな大将達は、全てが傍観者達だった。自領の領土や領民
達の安堵や藩の経営の方が大事だった為だ。その為小さな藩の信義を大事にした真田氏
などが勇猛果敢に戦っていたのである。大津城の戦い(おおつじょうのたたかい)は、
そうした中での関が原の戦いと同じに行なわれた戦いだった。石田三成は家康が会津攻
めに赴いたことを好機として、大谷吉継や毛利輝元ら反家康派の諸大名を糾合して挙兵
した。そして、家康が畿内を留守にしている隙をついて伏見城を落とし、次いで北陸や
伊勢国伊勢方面の平定に乗り出していたのだ。この北陸平定に、越前敦賀の大谷吉継が
担当することとなっていた。そして一員として、近江大津城の城主・京極高次が加わっ
ていたのである。ところが高次は吉継が北陸から美濃へと転戦する中に、突如家康の手
紙で東軍に寝返り、手勢3000名を率いて大津城に籠城し防備を固めたのだ。驚いた大坂
城側は使者を遣わし停戦・降伏を求めるが大津側は断固として拒否した。

1099: 名無しさんAA:18/03/23 12:13
 富安君を探せ              < その122 >

これこそが自らが軍を率いて大阪城を攻める為の、他の武将を他に向ける豊臣恩顧への
家康の分断作戦だった。こうして、豊臣側は、高次の裏切りに対する報復として、毛利
元康を大将とし兵を出すことにした。それに立花宗茂、小早川秀包、筑紫広門ら九州方
面の諸大名の軍勢を総勢1万5千人の軍勢をもって、大津城に対して包囲攻撃を開始し
たのである。しかし高次は城を死守し、容易に城攻めは捗らなかった。中でも赤尾伊豆
・山田大炊の活躍はめざましく、精兵5百を率いて城外の大軍へ討って出ては存分に暴
れ回り直ぐに城に帰るという事を繰り返していた。攻めあぐねた寄せ手は、十三日には
とうとう大砲を城内に撃ち込んだ。砲弾は天守にも命中しこうして攻防戦はやっと有利
になった。城内では大混乱となり高次も必死に防戦するが、ここに立花勢の先鋒大将・
立花吉右衛門が一隊を率いて城壁に取り付いた。京極勢も奮戦したが遂に力尽きて鬼弁
慶とされたさしもの京極高次も捕らわれ 9月15日に降伏して大津城を開城する事に
なった。その後高次は一命を助けられて、高野山に上って出家することとなる。家康が
関が原で勝ったからだった。歴史家達はこの頃の大砲があった事をひた隠しにする。そ
の為この戦いの仔細はあまり書かれていない。しかし、もっと前の大内氏が周防に籠っ
た頃から既に出回っていたのである。もちろんこの大砲は大友氏の頃九州勢が譲り受け
たものだった。ただ持ち運ぶには重く、火薬装填には危険が伴うもので誰もが使えるも
のではなかった。よく関が原で小早川の裏切りが出るが、実は、この大津城攻めに小早
川秀包を進軍させていたからだ。更に山に鉄砲を撃ったとされるが、鉄砲ではない。こ
の大砲「国崩し」である。つまり家康も又大砲を持っていたのだ。これらの大砲は、決
して海外製ではない。鉄砲が真似される中では、同じように大砲も作られた。実は鉄砲
よりは大砲の方が作り易かったはずだ。精度には欠けて多く正確にとはいかないまでも
、そこそこ飛んで大きな音を立てる大砲は作られていた。事実この後の大阪城攻めには
大砲は使われているのである。それを立花宗茂、筑紫広門は持ってきていたのである。
それは加藤清正からの助言でもあった。朝鮮征伐の折に碧蹄館の戦い(へきていかんの
たたかい)で軍律を破りながらも加藤清正の軍を助けに行った事は聞き及んでいてその
後は無二の仲間であった。

1100: 名無しさんAA:18/03/23 12:19
 富安君を探せ              < その123 >

 この大津城攻防戦は、戦術的には西軍が勝利したが、戦略的には西軍の敗北であった
。なぜならば、高次が大津城を開城した9月15日は、関ヶ原の戦いが繰り広げられた
当日だったからである。つまり、西軍は本来なら関ヶ原にあったはずの精鋭1万五千人
の兵力を欠いたまま東軍と戦うという不利な状況に追い込まれていたからである。特に
、家康がその武勇を恐れていた立花宗茂が関ヶ原の本戦に参加できなかったということ
は、家康にとっての作戦勝ちであり、西軍にとっては不運でもあった。もし、宗茂が1
万を超える大軍を率いて本戦に参加できていたなら、東西両軍の勝敗は大きく変わって
いた可能さえ指摘されている。ちなみに、宗茂は9月15日に大津城を開城させた後、
軍勢を率いて草津にまで進出していたが、そこで西軍の壊滅を知って大坂城に退却する
ことを余儀なくされ、戦後に改易されてしまった。なお、敗軍の将である京極高次に対
して、家康はあの立花宗茂をよく押さえてくれたということから、関ヶ原後に高次の弟
・京極高知を使者として高野山に派遣して、大名としての復帰を許しただけではなく、
若狭一国小浜城九万二千石の所領まで与えるなど、宗茂を大津城に引き付けたことを大
いに賞賛したという。京極家は近江の名族・佐々木六角氏の支流で、彼は高吉の子とし
て生まれた。当時は浅井氏が勢力を伸ばしており没落していた。そうしているうちに、
尾張の織田信長が進軍すると父高吉は臣従を誓って当時六歳の高次を人質に出したので
ある。彼の非凡さを見抜いたのは明智光秀であった。しかし本能寺の変では秀吉の臣下
になった。妹の松の方が人質として差し出され寵愛されていたからである。こうして、
彼女からの働きかけで徳川家康の助命嘆願の要請で命は助かり、浅井家の妹を娶った。
浅井家は時の敵将だったはずだがその長女こそ茶々様であり松の丸と宿敵だったはずだ
。だがこの名門の出を楯にしたのかとんとん拍子に出世して「大津宰相」と呼ばれるま
でになるのだ。周囲では功績がないままにのし上がった蛍大名と揶揄されていた。当初
西軍に属した高次は敦賀の大谷吉継から求められ北陸方面へと出陣した。しかし敦賀か
ら関ヶ原へ向かう途中、吉継に一日遅れで行軍していた。むろん大谷吉継もこのあたり
の事情は熟知しており、美濃への移動にあたって密かに朽木元綱を呼び、高次の挙動を
監視させていた。引き返して籠城し民家に柴の束や薪の束が積み上げられる事は直ぐに
伝えられて、大津城包囲にかかっていた。その時立花氏は城下が焼け落ちるまで多くの
日数がかかる事を見越して大砲を用意させた。


続きを読む
掲示板に戻る 全部次100 最新50
名前: E-mail(省略可): ID非表示