1つめの記念スレ


@3ch掲示板 > 1つめの記念スレ
全部1- 101- 201- 301- 401- 501- 601- 701- 801- 901- 1001- 1101- 1201- 1301- 1401- 1501- 1601- 1701- 最新50

1つめの記念スレ

1: 騎士剣:05/11/09 17:24 ID:A/yxhPTA
勝手にスレを書き込んで勝手にレスをつけてくれぃ

1601: 名無しさんAA:18/09/02 14:35
 < 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 7 

 時と共にサーサーン朝の国力は衰え、内乱やイラク南部におけるディジュラ・フラー
ト河とその支流の大洪水に伴う流路変更と農業適地の消失(湿地化の進行)により消耗
していた。そこに新しい宗教イスラム教が勃興しサーサーン朝は最期の時を迎えること
になる。アラビア半島に勃興したイスラム共同体は勢力を拡大し東ローマ領に続きサー
サーン領へ侵入し始め、 633年にハーリド・イブン=アル=ワリード率いるイスラム軍
がイラク南部のサワード地方に侵攻(イスラーム教徒のペルシア征服)、現地のサーサ
ーン軍は敗れ、サワード地方の都市の多くは降伏勧告に応じて開城した。このササーン
朝ペルシャはカスカフ地方でハザールとも戦っている。ハザールは7〜10世紀にかけ
てカスピ海の北からコーカサス、黒海沿いに栄えた遊牧民族で一応の国家だった。と言
われる。突厥文字が残っていて、支配者層はテュルク系民族と推測されているが、今だ
謎が多い。交易活動を通じて繁栄したが、以前として判然としない。アラビア語、ペル
シア語資料にも書かれている事から存在は確かのようだが遊牧民族国家だったと推定さ
れている。7世紀の中ごろ、西突厥の衰退と共にハザールはその後継国家ハザール・カ
ガン(可汗)国を形成し、独立 を果たした。一方、南ロシアのステップでは、オノグル
・ブルガールのマジャール部族連合「古き大ブルガリア」が成立した (635年)。アラ
ブ・ハザール戦争(英語版)(642年〜799年)が始まる。ハザールが西進すると古き大
ブルガリアは崩壊し (653年)、一部はハザールにとりこまれ(黒ブルガール)、残り
は各地に散らばってヴォルガ・ブルガール,ドナウ・ブルガールを形成した。ここでい
うブルガールはブルガリアである。又ハザール・カガンと言うのはカガン(可汗)つま
り騎馬民族であった事を示している。突厥の国がウラルやアルタイ系だったのに対して
、ハザールはトルコ系の民族だったのだろうと言われる。『周書』異域伝,『隋書』の
北狄伝での突厥は、「彼らが住んでいた金山(アルタイ山脈)の形が兜の形に似ていた
ことから、彼らの言葉で“兜”を意味する“突厥”を部族名とした。」とある。古伝に
よれば、捨てられた孤児が狼に育てられ国が出来たとされ、狼を家畜の牛や馬の様に扱
った事からトナカイの放牧民でもあった様だ


1602: 名無しさんAA:18/09/02 14:36
 < 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 8 

 ハザール・カガンは、トルコ系の遊牧民族で、7〜11世紀にカスピ海北岸から黒海
北岸にかけての草原地帯を支配したとされる。中国史料には可薩突厥(かさつとっけつ)
の名で知られ、東西南北の交易路の交差点にあたるこの地方を抑えて強国となり、8〜
9世紀には、当時の超大国であったイスラム帝国やビザンティン帝国とも対等の関係を
保った強国だった。イスラム史料によると、彼らの風俗、習慣は、東方の突厥と類似し
て、ハザールは遊牧民ではあるが、交易の拠点としていくつかの都市を建設した。とり
わけボルガ川河口付近にあったその首都イティルは、各地から集まった商人、手工業者
で活況を呈したとされる。又、800年頃にユダヤ教を国教に採用したことも、ハザー
ル史の特異な点として注目されている。10世紀以降は、北方に現れた遊牧民族やスラ
ブ諸公の攻撃を受けて衰退し、歴史上から姿を消してしまった。現在の東欧のユダヤ人
の起源をハザールに求める説が強い。もともと、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の
経典は旧約聖書でした。「約」とは、神との契約のことを言い、この呼び方はキリスト
教の立場からのものである。もともと旧約聖書は、ユダヤの民と神との約束の歴史を描
いたものとされ。聖書に書かれた歴史には、史実らしいものと、伝説に近いものが含ま
れて信仰されている。もともとイエス・キリストと言うのは人の名前であって、ユダヤ
教カトリック派と言う中にあった。イエスは宗教上の規則にガチガチに固まってしまっ
ていた当時のユダヤ教を否定して、ユダヤ教における宗教改革を行い現状打破を訴えて
、そこそこ賛同を得た。この事で無視できない数のユダヤ人がイエスの考えに賛同した
為、当時のユダヤ教の司祭達は、イエスの動きに警戒するようになり、最終的にユダヤ
人を支配していたローマ帝国にイエスを犯罪者として引渡し、処刑してしまった。この
時問題になったのは、聖書の内容が各所で違っていた事だ。ローマ建国にこの宗教を利
用しようとローマは編纂を始めたが、それに異を唱えたと言うが正解の様だ。ユダヤ教
、キリスト教、イスラム教はアブラハムの宗教と呼ばれる一神教だ。いち早く旧約聖書
を経典にして信仰する宗教として成功した。ユダヤ教はそれらのなかで最も古くから続
く中にある。しかしユダヤ教の誕生から1500年遅れてキリストの誕生、2000年後イスラ
ム教が誕生した。歴史の年表の中でも非常に長い期間で変質して興ったと考えられる。
実際に、ユダヤ教はこの間も歴史の間に変化してきた。こうしてイエスは処刑されたの
だが、刑が実行される際にローマ帝国の役人(ユダヤ州総督)ピラトがユダヤ人たちに
イエスの死刑の裁判に誰もが賛成した。こうしてユダヤ人が責任は子孫にも及んだ。


1603: 名無しさんAA:18/09/02 14:36
 < 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 9 

 そして、有名な預言者「モーセ」が現れる。紀元前13世紀頃と言う前の話である。
モーセは、奴隷として苦しんでいたヘブライ人を引き連れて、エジプトを脱出しカナン
へ帰る事を決意した。そして「出エジプト」でエジプト人のほとんどの奴隷を連れ去っ
ていく。カナンへの帰還中に途中でシナイ山(エジプト)にて最終的エジプトから逃れた
事で一定期間の仮の暮らしをし、モーセは神からの言葉を授かる。これがユダヤの民の
法となる簡単に言うと「神である私だけを信じ、悪いことはするな」と言う契約である
。これが「モーセの十戒」というものとされる。「モーセの十戒」とは、神様がモーセに伝
えた、10個の戒律である。その奴隷生活を乗り越え、故郷で自分たちの国を作った。
ヘブライ人達は、いざ自国となれば運営は出来ず建国間もなく、北の「イスラエル王国」
と、南の「ユダ王国」と、南北に分裂してしまう。その上紀元前721年にイスラエル王
国が滅び、紀元前787年にはユダ王国が他国に滅ぼされてしまう。残っていたユダ国
民は、国を滅ぼした「新バビロニア」の奴隷として「バビロン」に連行されてしまいます
。これがいわゆる「バビロン捕囚」である。そこでヘブライ人達は、「ユダ王国の民」とい
うことで、「ユダヤ人」と呼ばれた。しかし、約50年後の紀元前539年、ペルシャ帝
国が新バビロニア王国を倒し、奴隷となっていたユダヤ人は解放され、故郷のイスラエ
ルへ帰してバビロニアなどの砦として国を建てた。こうしてイスラエルはペルシャ帝国
の支配下で国が成立した。そしてこの頃にユダヤ教が成立したと言われている。ここで
日本に向かった民もいた様だ。実は歴史上はこのバビロンも多神教であった。ユダヤは
河辺に住んだ金の採取に長けた民で、バビロンの傭兵として使われたと言われている。
日本に拝火教が伝わって来た時どうもユダヤ教もやって来た様だ。京都の祇園祭山鉾連
合会の理事長さんは「祇園祭というお祭りのしきたりあるいは その縁起は、まちがい
なく ユダヤの文明と同じ形態と経過と結果をもったお祭りだ。」と、明言している。
『祇園(ギオン)祭』=イスラエル『シオン祭』説である。実は「夏越し(なごし)の
祭り」も、イスラム教徒が断食を行う約1カ月間の「ラマダン」と起源が同じとされる
説もある。この期間、日中の飲食を断ち、神の恵みに感謝する。つまり自己犠牲をして
他者を憂う事を主眼としている。自身を清め世俗的な欲を捨て神への献身と奉仕に没頭
し、断食という行いによって、怒りや呪いや強欲などの堕落した考えや動機を振り払お
うというのだ。

1604: 名無しさんAA:18/09/02 14:46
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 10

 DNA的には何ら繋がりのないユダヤと日本人とされるが、大和民族=ユダヤ逃避民
説は結構根深い支持がある。ピラミッドやイラク宮殿 イサクの水くみイサクの嫁選び
に祇園祭の幕にあったり、伊勢神宮の内宮から外宮に至る御幸通りの石灯籠には、「カ
ゴメ紋(六芒星)」が刻み込まれていたりとかだ。カゴメ紋は別名「ダビデ王の紋章」
といわれ、ユダヤ人のシンボルになっている。日ユ同祖論(日猶同祖論、にちゆどうそ
ろん)は、日本人とユダヤ人(古代イスラエル人)は共通の先祖を持つ兄弟民族である
という説で主に、日本人とユダヤ人によって提唱されているという。パシュトゥーン人
にはヨセフ族(エフライム族+マナセ族)の末裔という伝承をもつ部族がいる。10支
族はメディア(今のイラン)を経由して東に逃れたという説があり、その地はスキタイ
人と同系のサカ族または月氏族が居住し、現在のアフガニスタンの一部を含むものであ
った。又一部はエチオピアに、イエメンを経由してアフリカに入ったもの。イスラエル
建国後にエチオピアから相当数が移住したが、それ以前には多くのユダヤ人が居住して
いた。一部は中国に宋代まで、開封にはユダヤ人の街が存在した。また中国の回族のう
ち、かなりの部分が古代ユダヤ人の末裔が改宗したものではないかという説である。そ
の一部が日本に大陸からのやって来た。帰化氏族である秦氏がユダヤ人もしくは10支
族ではないかという説である。一時は国際的にも有名だった説だ。明治期に貿易商とし
て来日したスコットランド人のニコラス・マクラウドは、日本と古代ユダヤとの相似性
に気付き、調査を進め、世界で最初に日ユ同祖論を提唱、体系化した。日ユ同祖論の歴
史は、彼の日本での英語の著作『日本古代史の縮図』1878年(明治11年)によって始ま
った。これは、後の1901年、「ユダヤ事典」失われた10支族の項目に引用されたという
。彼の主張は、10支族の内の主要な部族は、青森戸来村、沖縄奄美、朝鮮半島らを経由
して日本へ鞍馬寺へ渡ったのに対して、ダン族など残りの支族は、そのまま朝鮮半島に
留まったというものであり、諸説論理上の整合性は取れている。しかし、そんなに選民
ユダヤの系統と言うのが 胸を張るものか はなはだ疑問が多い。というのも現実世界
で多くの血に飢えた様に金をすすり命を奪ってきたユダヤは呪われた民であり、預言者
の「神の伝言」では、「罪人よ、悪魔の下僕よ 神に帰依せよ、悔い改めよ、奉仕せよ
、清廉なるを広めよ、さらば人類の罪もユダヤの地も与えられん。」と説いている。こ
れが本来キリストが磔になった理由である。


1605: 名無しさんAA:18/09/02 14:46
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 11
 あるユダヤ人が天皇と日本について語った文がある。彼の名はモルデカイ・モーゼ。
戦時中にルーズベルト大統領のブレーンとして日本を研究した。戦後の対日処理立案(
GHQ政策)にも加わったという。彼は『日本人に謝りたい』という、極めて異例な内
容を含んだ本を残している。彼はこの本の中で、「共産主義」はユダヤ人が作り出した
ものだと言明し、日本を揺るがした 美濃部達吉の「天皇機関説」もユダヤ人ゲオルグ
・イエリネックによる国家機能弱体化運動の一環であったとか、宮本共産党委員長を育
てたのも、ユダヤのラビ(ユダヤ教指導者)だったとの衝撃的な事柄を記述している。
その上でこのユダヤの長老モルデカイ・モーゼは「実はユダヤ人は日本を誤解していた
。日本こそユダヤの永遠の理想がある」と言い切り、「日本人に謝りたい」と語ってい
るのである。著者のモルデカイ・モーゼは1907年、ウクライナのオデッサ生まれと
している。父親は哲学者で革命家、ロシア革命では指導的役割を果たした。レーニン没
後に、ソ連におけるユダヤ権力の将来に見切りをつけた父親と共にワイマール体制下の
ドイツへ亡命。父親は美濃部達吉博士に「天皇機関説」を吹き込んだゲオルグ・イエリ
ネックと親しかった。ベルリン大学で政治学、哲学を専攻後、国際連盟労働局で極東問
題を担当し、独ソ不可侵条約が結ばれるや否や、いち早くその本質がユダヤ勢力の抑圧
にあることを看破し、ハルビンを経て上海に亡命した。上海で「サッスーン財閥」顧問
となり、日本の国体、神道、軍事力の研究に従事して後に、1941年米国へ亡命、ル
ーズベルトのブレーントラストとして活躍した。1943年頃から対日戦後処理の立案
にも参画し、戦後十数回来日し、現在は日本研究を楽しみに余生を送っているという。

第1章:戦前の日本に体現されていたユダヤの理想
 戦後すでに30数年を経た今日、日本人は真の日本歴史を構築してきたという実感を
全然感じない、とよくおっしゃる。私にはその意味がよく分るような気がするのである
。それの意味するところは、経済の驚異的高度成長に反比例する精神面の退化現象と、
この二者にみる跛行性のことではないだろうか。戦後は虚妄だといわれて久しい。私が
ここで考えることは、何よりもこの跛行性の原像を日本人はまだつかんでいないのでは
ないかということである。この病理のルーツが分からないと、治療法も発見できないの
は至極当然であろう。日本をこよなく愛する私としては、この問題を解明して日本人が
真の日本歴史を生き生きと構築できるよう側面から及ばずながらお助けしなければなら
ないという強い義務感、責任感におそわれるのである。何故か。それはこれら病巣のル
ーツがほとんど誤れるユダヤ的思考の所産であるからに他ならないからである。

1606: 名無しさんAA:18/09/02 14:47
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 12

 我々は信じ難いほど頭が悪かったのだ。もともと、我々が犯した誤ちはごく単純その
ものの誤ちだったのだ。しかるに、この小さな誤ちの及ぼした影響は、想像以上に大き
かった。それは、戦前まで日本が世界に冠絶した類い稀れなものとして誇っていた数々
のものを破壊してしまう結果となったのであった。このことを知るに及んで、我々の心
は痛むのである。しかも、その日本が 戦前もっていた類い稀れな長所というものが、
我々ユダヤ民族の理想の具現化されたものでもあったことを知り、ますます我々の苦悩
は倍加されるのである。我々ユダヤ民族は、西洋人にない高尚な理想を常に頭に画いて
いたのである。しかし、日本の皆様もご存知のように、ユダヤ民族は永い永い迫害の悲
しい歴史の中ではこれら理想を具現化する余裕など全くなく、ただどうして生命の安全
を全うするかということに心血を注ぐのが精いっぱいであった。第二次大戦終結までは
我々の解放のための闘いは絶えず続いていたのであり、そのような理想を追求する余裕
は残念ながらなかったのであった。しかるに第二次大戦後、日本が占領政策の結果大幅
に改革された結果初めて、戦前の日本に我々の理想とするものが 多々実在したことを
発見したのであった。これは我々にとって大きな驚きであった。
最近、日本でいろいろ比較文化論的にユダヤ人と日本人を対比した論調が出回っている
ようであるが、それらはいずれも軽佻浮薄なものばかりのようである。もっとも、それ
らは若い同胞やユダヤ人の仮面をかぶった日本人の書いたものであるから、その程度の
レベルにとどまっているのもむしろ当然かも知れない。たとえば、イザヤ・ベンダサン
(山本七平)氏もその一人かも知れない。彼は、日本の戦後史の非連続性を嘆くかの如
きポーズをとり、日本人の小善人的な性質をくすぐり、日本の病理は指摘しつつも、我
々の犯した過誤に頬被りしようとしている。しかし、日本の戦後史は、我々ユダヤ人が
過去の過ちを真摯な態度で告白しなければ解明できない性質のものなのである。私は、
今後末永く日本人と親しく友好関係を保たせていただきたいと心から願うものとして、
日本の戦後の歴史的非連続性、いいかえれば何故戦前の理想的な数々の長所が失われた
のか、そのために真の日本歴史の構築を阻まれている日本人の深い苦悩からの脱出を、
お助けするために、これら病巣のルーツを解明する作業を 進めたいと思うのである。
それはまた同時に将来我々ユダヤ民族の理想を追求するときにも再び大きな助けとなる
であろうと信ずるからである。

1607: 名無しさんAA:18/09/02 14:48
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 13

 ハーマン・カーンの『21世紀は日本の世紀』、最近のエズラ・ボーゲルの『ジャパ
ン・アズ・ナンバーワン』などは、哀心よりの親日的な論調であることは 日本の皆様
もご理解願えると思う。しかし私にいわせれば、これらの前にどうしてもしておかなけ
ればならない大切なことがあるのである。それをとばして今後の日ユ親善はあり得ない
と思うのである。もしユダヤ人が最も大切なことに頬被りしたままで日ユ親善を求める
なら、それは間違いなく失敗に終わるであろう。私は今後の末永き日ユ親善のためこの
筆をとったのである。この拙稿がささやかな日ユ親善の礎となれば望外の喜びである。
日本における近ごろのユダヤブームの特徴は、比較文化論的にユダヤ人と日本人とを二
元論的思考で対置し、大抵の場合、ユダヤ人は頭がいい民族である、日本人も学んだら
どうか、というパターンのようである。そこでは、ユダヤ人がさも自慢げに、タルムー
ドその他の宝典から都合のいいものを抜き出して得意然として高説をぶつ、というパタ
ーンが多いようである。これに対して日本人は、お説ごもっともと謹しんで拝聴してい
るが如くである。この光景を見ていると、ユダヤ人が先生であり日本人は常に生徒とい
うことのようである。また同時に、文化的、歴史的、思考的、感覚的特徴を二元論的に
対置して比較するほとんどのケースは、ユダヤ的なものを主役としているようである。
私から見た場合、日本にいる若いユダヤ人が以上のようなことで得意然となっているの
であれば、わがユダヤ民族の将来も決して明るいものではないという気がする。と同時
に、黙って拝聴している日本人の謙虚深さにむしろ敬意を表さなければならないと思う
。私は、逆に、ユダヤ人こそ日本人から真に多くのものを学びとらねばならないのだ。
ということを、若いユダヤ人に教える義務があると信ずるものである。ユダヤ人こそが
日本人から学ばねばならない。日本にいていろいろと著作その他で活躍しているユダヤ
人は、戦後の日本しか知らないのである。しかし、真の日本の世界に冠たる長所は、残
念ながら戦後の日本にはもはやないのである。ということは、戦前までの日本には存在
したということである。この事実を全く知らずに若いユダヤ人達は、日本でさも得意顔
で日本のウイークポイントと思われることを槍玉にあげて優越感に浸っている。私が悲
しむのは、これら若い世代のユダヤ人達が自分達ユダヤ人の理想とするものが何である
かさえ知らないということだ。そのような状態であるから、彼らは自分達ユダヤ人の真
の理想とするものが戦前の日本にあったということなど全く知る由もない。それが日本
人が黙って君たち若いユダヤ人の能書きを拝聴している理由がわかったことであろう。
全く問題にしていないのである。反論するにも値しないということだ。

1608: 名無しさんAA:18/09/02 14:48
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 14

 ただ例外もいた。日本にしばらくいたことのあるラビのマーヴィン・トケイヤーであ
ろう。彼は『日本人は死んだ』という本を著わし、それは日本でベストセラーになった
ものであるが、この中でトケイヤーはユダヤ人の真に理想とするものが戦前の日本には
多々あったとし、それが戦後全く失われてしまったのを非常に悔んでいるのである。一
人よがりの狭量をふり回して、あたかも日本人にものを教えてやってるんだと妄信して
得意然としている同胞の若者の多いなかで、このトケイヤー君はさすがラビだけあって
急所を突いている。こういう同胞を私は誇りに思う。ラビ・マーヴィン・トケイヤーは
1936年にハンガリー系ユダヤ人の家庭に生まれて、1962年にユダヤ神学校で、
ラビの資格を取得。1967年に東京広尾の「日本ユダヤ教団」の初代ラビに就任した
。1976年まで日本に滞在し、ユダヤ人と日本人の比較文化論を発表。早稲田大学で
古代ヘブライ文化を教えたこともある。アメリカに帰国後、ユダヤ人学校の校長を歴任
し、現在ニューヨーク在住している。日本でいろいろ能書きをたれている 同胞の若い
連中の恥知らずの愚行に対して、ユダヤ人として一言弁護させてもらえるなら、彼らは
例えばタルムードの内容についてもすべてを知らない。彼らが日本で書きまくっている
ユダヤ的思考法、タルムードの宝石などなどで彼らがあまりにも多くのミスを気がつか
ずに過ごしていることには、実は我々長老にその責任のすべてがある。といってよいか
もしれない。戦後生まれのユダヤ人は、「タルムードの思想」といってもその最も肝要
な部分を教えられていない。それはタブーとされているからである。彼らはしたがって
、真のユダヤの理想というもの――それは恐らく人類の理想でもあるだろうが――を全
く教えられていないのである。このような同胞の若者が、日本に戦前あったすばらしい
ものを感知するわけがない。尊敬する日本の皆さん、私はユダヤ人の長老として、これ
ら若僧の犯している恥知らずな次元の低い誤りをお詫びすると同時に、我々ユダヤ人が
犯したところの大きな誤り、第二次大戦終結直後の日本人の精神的空白につけ込んで、
我々が持ち込んだところの諸々の誤れる思想について、その過誤の原因、および内容的
非論理性、反真理性について詳しく分析し、それが如何に日本人にとって有害なもので
あるかということを実証してみたいと思う。勿論、この問題からみると、同胞の若僧ど
もの無知からくる誤りなどはものの数ではないのだが。これによって一日も早く、尊敬
する日本人が戦前あった世界に燦たる民族的長所を復活させて頂きたいのである。何故
ならば、それが即ち我々ユダヤ人の理想でもあるのだから。

1609: 名無しさんAA:18/09/02 14:49
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 15

 天皇制は古代からユダヤ民族の理想だった体制である。日本民族のもつ最大の財産は
天皇制である。これは全く世界に類例のない偉大なものであり、人類の理想とするもの
である。かつてユダヤ人の大思想家でフランス革命に大きな思想的影響を与えた18世
紀フランスの思想家ジャン・ジャック・ルソーは、かの有名な『社会契約論』で次の如
きことをいっている。「人はもし随意に祖国を選べというなら、君主と人民の間に利害
関係の対立のない国を選ぶ。自分は君民共治を理想とするが、そのようなものが地上に
存在するはずもないだろう。したがって自分は止むを得ず民主主義を選ぶのである。」
と。ここでいう君民共治というのは、君主が決して国民大衆に対して搾取者の位置にあ
ることなく、したがって国民大衆も君主から搾取されることのない政治体制のことであ
る。ところがここで驚いたのは、日本人にこの話をすると、みな不思議そうな顔でキョ
トンとする。私は最初その意味が全くわからなかった。しかし、だんだんその意味がわ
かってきた。日本の天皇制にはそのような搾取者と被搾取者の関係が存在しない、とい
うことを私が知らされたからである。そうして今度は私の方が驚かされた。日本人の為
にちょっと説明しておくと、欧州でも、また最近追放されたイランの王室でも、君主は
みな国民大衆に対しては搾取者の地位にあるものである。したがって、亡命するときは
財産を持って高飛びする。これが常識である。だが、日本人の知っている限り、このよ
うなことは日本人の君主制というものの概念の中には全く存在しないのである。しかる
に、ユダヤ人ルソーの思想は搾取、被搾取の関係にない君主制を求めているわけである
。これは確かに理想である。しかし残念ながら、ルソーはそのようなものが実在できる
はずもないからやむを得ず、民主主義を選ぶという立場を取ったのである。私がルソー
の時代に生きていたならば、ルソーにこういったであろう。「直ちに書きかけの、社会
契約論など破り捨て、速やかに東洋の偉大な君主国へ馳せ参ぜよ」と。ここでの非常に
重要なことをルソーはいっているのである。今日本で絶対の善玉の神として一切の批判
をタブー化されている民主主義というものは、ルソーによれば君民共治の代替物にすぎ
ないということである。私が日本人を最高に尊敬するようになったのも、この天皇制と
いうものの比類ない本質を知ったからである。ルソーが言うように理想の君主制を模擬
して民主制を作ったのだ。日本では戦前、比類なき国体という言葉があった。またポツ
ダム宣言受諾の際にも、この国体の護持という点が一番問題になったのである。これは
真に賢明なことであった。

1610: 名無しさんAA:18/09/02 14:49
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 16

 この日本の天皇制はユダヤ思想の理想であったことはルソーの言葉でもわかるが、他
にもあるユダヤ人の言った言葉に次のようなものがある。「わがユダヤの王は、目に見
えない護衛だけで守られる。われらの王は威厳にみちて、その権力を行使するのは人民
の幸福のためにだけであり、決して王自身や王朝一族のためにこれを用うることはない
。かくして王への尊敬と威厳はいやが上にも高まり、人民に崇拝され敬愛されるのであ
る。そのために王は神格化されるだろうが、それはひとえに王の権威が人民に安らぎと
幸福を保証するコーディネーターの役を果たすからに他ならない。」と書いている。断
っておくが、これは日本の天皇制の描写ではない。ユダヤ民族の理想郷の表現なのであ
る。これを見てもおわかりと思うが、ユダヤ人はルソーのいった如く、国民との利害関
係をもたない君主を理想として建国を仰いだのである。私が日本の天皇制の本質を知っ
たときの驚きが如何なるものであったかは、推して知られたい。地球上にユダヤ民族の
理想が実在したのである。驚きでしかない。一般のヨーロッパ人は、とてもこのような
すばらしいものを創ることはできないであろう。我々ユダヤ民族も残念ながら未だ創く
れてはいないのであるが、しかし、それが如何にすばらしい理想体制であるかというこ
とを近在の日本人に知ってもらうだけでも、或いはヨーロッパ人よりも優れていること
を日本人に認めていただけるなら無上の光栄である。一般的ににユダヤ人が天皇制の類
い稀な点を発見したのは、戦後の天皇とマッカーサーの会見の時であった。かといって
、ユダヤ人全部が知ったわけではない。今日本で勝手気ままにペンを走らせている若僧
たちはもとより、こんなところまで知っているわけではない。それではユダヤ人が初め
て天皇制の類い稀れな世界に燦たる本質、我々ユダヤ民族の理想である要素を、完全に
我々に教えてくれた、天皇とマッカーサーの会見の時の様子を述べてみよう。マッカー
サーと昭和天皇が出会った時、天皇は開口一番、「自分の事はどうなってもいいから国
民を救ってほしい。」と切り出した時は、マッカーサーは驚天せんばかりであった。こ
の席にルソーが同席していなかったのが真に残念であるが、西洋の君主というものは、
それこそマルクスのいう支配者、搾取者である。一般大衆は被支配者、被搾取者に甘ん
じなければならない。この姿は世界に類例のない君民共治の具現化できた言葉だった。
 西洋の君主は、大衆から収奪した莫大な財産をもっている。戦後GHQが天皇の資産
16億円と発表した時、日本人はキョトンとしていた。つまり、GHQは西洋の君主並
みに日本の天皇も収奪した財産をもっているはずであると考えたから、それを直ちに、
国民の前にみせつけたわけである。

1611: 名無しさんAA:18/09/02 14:50
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 17

 ところがこれを聞かされた日本人は一様に、そういう感覚の持主もいるのか。と内心
驚いたということである。しかし、西洋的の常識としてはこれは奇異でもなんでもなく
、至極当然な一番の国民の関心事と思って発表したことだったのである。かような西洋
の君主は、いざ革命、戦争、政変などのあった場合は、直ちに自己の生命の保証と財産
の保全を求めて亡命などを計るのを常とする。したがって、マッカーサーも最初天星が
訪問の希望を述べた時、非常にきびしい顔をしていたという。いってみればそれは当然
のことであろう。日本の天皇もいよいよ生命の保証と財産の保全のために、どこか適当
な亡命先の斡旋を懇願に来るのであろうとマッカーサーが考えたのも、無理からぬ話で
ある。つまり天皇は国体保持や国民生活に会いに来たものが、マッカーサー亡命相談に
やって来ると思ったのである。しかるに前述の如く、天皇は開口一番、自己の生命や財
産の保証ではなく、国民の財産や生命の保証を求めたのであった。国民を質入れして、
自己の保身を計る西洋の君主とは逆に、自己を質入れして国民の救済を求めたというこ
とである。これは通常の日本人の姿であり心であった。一般にして年長や家長がその責
を申し出て責任を負うと言うは、日本人の常識だったのである。マッカーサーたるもの
、すべからくルソーに対して自分が味わった感激を報告すべきであろう。戦後期の占領
改革にも拘らず天皇制が存続できたことは、私の最も喜びとするところである。これは
ひとえに当時GHQを牛耳っていたニューディール派、つまり連合国内のユダヤ勢力が
天皇制に自己の民族の理想を見出したからに他ならないのである。(当時の占領軍は、
アメリカ共産党が多くいて、彼らはロシアからの亡命ユダヤ軍人であったのだ。)日本
国憲法は後で詳しく述べる如くユダヤ人がユダヤ思想に基づいて作った作品であるが、
その憲法の冒頭に天皇の項を設けたのはこのためであった。万世一系の天皇を頂く日本
人は幸せである。この万世一系の天皇は、如何なる意味をもつとお考えであろうか。こ
の点ではユダヤ人が、借越ながら日本人に少々参考になる意見をお聴かせできるかも知
れない。日本人からすると万世一系の天皇といっても、当たり前でピンと来ないかも知
れない。そこには他にどんな天皇があるのか、と反問されるであろう。だから日本人は
幸せだと思うのである。何故か。ヨーロッパの王朝というものはみな混血王朝である。
歴史上、しょっちゅう外国から国王や王女を輸入した。しかも王朝の権力が強くなれば
なるほど、外国からますます輸入するようになる。何故か。王朝の権力を弱める必要か
らである。

1612: 名無しさんAA:18/09/02 14:50
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 18

(ほとんどの王には、体制側の諸侯と反体制の農奴など内乱内紛の元が存在した。)国
内から昇格させようとすると当然争いが起こり、国内が乱れるのでまずい。その点、外
国からの輸入君主は当りさわりが少なく、しかも飾りものなので、最も有効な方法とい
うことになる。(さらに反対派が旧来の王朝の縁戚を連れて来て権威を保った。)こん
な話をすると、日本人は全くお話にならんと思われるかもしれない。まさにそうなので
ある。私が万世一系の天皇をもつ日本人は最高に幸せですといった意味が、これでお分
かり頂けたことと思う。(当時何故かヒットラーすらも羨ましく思っていた。)しかし
、では何故に王朝の権力が国民がいぶかるほど強くなるのか。また、王朝の権力が強く
なることはどうして悪いことなのか、と疑問をお持ちのことと思う。ここでもう一度、
我らの大思想家ジャン・ジャック・ルソーの言葉を思い出して頂ければ幸いである。ル
ソーは「我もし随意に祖国を選べといわれれば君主と国民との間に利害関係の対立のな
い国を選ぶ。しかし現実にそのような国があろうはずもないから、止むを得ずその代替
物として民主主義国を選ぶ。」といっている。ここにすべてが盛られている。ヨーロッ
パの王朝では常に君主と国民の利害が対立している関係にある。然るに、日本の天皇制
には決して利害関係の対立などない。仁徳天皇の「民のかまどに立つ煙」の故事を引き
合いに出すまでもなく、また前述の天皇とマッカーサーの会見時の模様を説明するまで
もなく、利害関係の対立は全くないのである。これこそ、君民共治の完壁な見本である
。(東洋の天皇は税制でなく税を取り立てる役人豪族の貢物で潤っていた。江戸期も同
じ扶持米を部下や寺に届ける様に天皇に貢ぎ米が届けられ、天皇その物は御供田(ごく
うでん)と言う天皇領の納め米で生きていた。)このような天皇制では、常に天皇と国
民の間には強固な理性的バランスがとれているのである。人間精神の最も高尚なものが
両者を結んでいるのである。そこには物質的欲得など、みじんも入り込むすきはない。
なんとすばらしいことであろうか。このような国で、なんの必要があって天皇を外国の
ものと取り替える必要があろうか。ユダヤ人はルソーの言を待つまでもなく、長年この
ような君主制を夢に描いてきたのである。しかし祖国を持たないわがユダヤ人は、王を
頂くこともできなかったのである。わずかにユダヤ教を「携帯祖国」としてもち、これ
によって民族の連帯と発展を推し進めてきたのである。キリスト教国では、このような
高尚な理想をもった国は永遠に現われないであろうと思う。その点から見ても、ユダヤ
人は日本人には及ばないが、一般西洋人よりは優れた民族であると日本人に認めていた
だければ、甚だ光栄である。

1613: 名無しさんAA:18/09/02 16:07
 これから本論として述べる如く、我々は戦後の占領改革において大きな過誤を犯した
のであるが、ただ一つの喜びは、天皇制の偉大さを認識でき、それを憲法の冒頭で存続
させることができたことである。だがここで日本人に謝らなければならないのは、戦前
において我々の認識不足から、天皇制を最大限に攻撃し、なんとかこれを打倒しようと
努力してきたのも又、我々ユダヤ人である、ということなのである。全く穴があれば入
りたい気持ちである。フランス革命でフランスの君主制を打倒したのが、我々の最初の
大事業であった。つづいて、ヨーロッパの主な君主制を打倒することが至上任務となる
のであるが、何故そうなるのかということは、マルクス主義の国家論をお考え頂ければ
十分と思う。(君主の税制が強く不満のはけ口として諸侯はポグロムを起こしていた)
マルクス主義というものは別章で詳しく述べる如く、ユダヤ人が自己の民族的解放事業
のための道具として編み出した虚構論理なのである。マルクス主義の国家論はご存知の
ように、国家とは破壊、転覆すべきものであるということを根本原理としているもので
あって、国家や領地や境界というものがあるためにユダヤ人は過去幾千年、迫害、虐殺
をくり返されていたものである。自己をこのような悲惨な境遇から救うためには、国家
というものを転覆することが唯一の方法で早道であったのだ。つまりそれによりユダヤ
人が権力と財産――後にこれは生産手段という社会科学的用語にかえられたが――を奪
取することによってのみ解放されるということである。これがマルクス主義の根本原理
なのであるが、この国家の破壊という大事業の前に、最も邪魔になるのが君主制という
制度であったのである。そのため特に、君主制の打倒ということが最大の目的となった
わけである。ユダヤ人の教条主義的誤りは戦前の天皇制=西洋の君主制として攻撃した
のである。今世紀に入ってからは、第一次大戦時に、ヨーロッパの中の主な三つの王冠
、ドイツ、ロシア、オーストリア=ハンガリーにおける君主制の打倒に成功したので、
残された有力な君主制は、拠点とした英国であり、米国に渡って英国は金や資源の力で
、米国の言いなりになった。さて後に残された君主は東洋であった。東洋の中の一角に
燦然と輝く日本の天皇制だったのだ。ユダヤ人は、これの打倒に全精力を注ぐことにな
ったわけである。ただここで、日本人は一つの疑問をおもちになることと思う。ヨーロ
ッパでは、各国でユダヤ人が王制のもとに苦しんでいたのであるから、これらを打倒す
るのはわかるが、では何故にユダヤ人のいない日本で天皇制を打倒しなければならない
のかという疑問であろう。ユダヤ人の単純な教条主義的思考なのか、君主制と名のつく
ものはすべて敵であるとする単純な発想からくる誤ちなのか。答は否である。このこと
は日本人はいまだほとんどご存知ないだろうが、ユダヤ人には天皇制を打倒する理由が
あったのである。

1614: 名無しさんAA:18/09/02 16:08
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 20

 法学者ゲオルグ・イエリネックはワイマール時代のドイツ法学界の第一人者であった
。絶対主義的君主主義に反対し、国家の自己拘束の理論を掲げ、人権の確立に努めた。
改宗ユダヤ人とされる。そのワイマール憲法を日本は学びの基本にして大日本帝国憲法
を作っていた。日本の天皇制打倒のための最大の攻勢はゲオルグ・イエリネックによっ
て始められたのであるが、彼はこのワイマール時代ドイツの法学界を牛耳っていたユダ
ヤ人法学者であった。マルクスの時代は、国家の破壊は階級闘争という虚構論理による
ものを主力としていた。しかし今世紀に入ってからは、マルクス式にいえば、上部構造
よりの破壊を考えついたのである。つまり、法理論により国家機能を弱体化させること
でユダヤ人を助けようとしたのである。特に君主制を骨抜きにする作戦である。この為
に利用されたのが美濃部達吉であった。イエリネックは美濃部達吉に巧妙に天皇制破壊
、弱体化の戦術を授けたのである。その前に、イエリネックの学説の真髄をご紹介して
おこう。これは戦後の占領改革で行われた「国家」という言葉を「社会」という言葉に
変えられたことについての日本人の疑問に答を与えるものでもある。何故「国家」が「
社会」にかえられたのか。イエリネックは超観念論的思考の所産として、国家の存在を
否定しようと試みた。国家は感覚的に認識するをあたわず、その制度や、活動において
のみ認識できるものとして、国家の最終的客観的要素は作用として現われる人の社会関
係の総和である。と考えた。より精確に言えば、人と人の関係に現われる一定の作用の
同時または継時の存在であり、これだけが国家の証明できる最終の事実である。と考え
た。イエリネックの狙いとするそれはは、「国家」という観念を去て、それに代わって
「社会」という観念を導入するに事だ。世界政府の観念である。戦後日本で、しばしば
、この「国家」という観念は「社会」という観念に代えられ議論されている。そのへん
の疑問に答を与えるのが、このイエリネックの思想である。イエリネックは、したがっ
て先輩のオットー・フォン・ギールケのいう「有機体説」も否定する。つまり、ギール
ケは、国家は実際に存在するものであるから「有機体」を考えるべきであると主張した
。イエリネックは「有機体」が人間の認識の如何にかかわらず存在する。在るけど見え
ない空気の様な存在との規定は、実証的研究の地盤を去ることを意味し、真理に代える
に、詩をもってするようなものと極論の批判をしている。これはまごう方なき観念論で
あり、マルクスの国家否定論と対照的である。しかし、同じユダヤ人であるマルクスと
イエリネックの国家否定論は軌を一にするものであり、ユダヤ民族の大目的に奉仕する
論理であったことを認識する必要がある。つまり国家不要論である。

1615: 名無しさんAA:18/09/02 16:08
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 21

 このイエリネックの役割は「上層部」からの国家の解体へ向かうことであった。つま
り、法理論を活用することで、この目的のために利用されたのが、美濃部達吉である。
例の「天皇機関説」がそれである。美濃部達吉は憲法学者で法学博士であった。戦後に
東京都知事として、自衛隊の道路使用を、重量制限で不許可とし喝采を浴びたが、戦前
では、東大卒業後、ドイツ留学中にイエリネックに師事して、今後の天皇の大権を狭く
解釈する独自の憲法学を打ち立て軍部から批判を浴びた。1945年幣原内閣の憲法改
正の顧問を務め今の憲法を打ち立てる手助けをした。ところが、イエリネックの深遠な
狙いはその協力者、美濃部達吉の無知により、かなりあいまいなものにされてしまった
。それというのは、この「天皇機関説」の受け取り方がイエリネックの当初の思惑を、
かなりズレてしまっていたのである。美濃部はイエリネックの 「Organ」というドイツ
語を単に「機関」と訳してしまった。日本語の「機関」という言葉は、マルクス主義者
の受け取り方を除いては、イエリネックの当初の狙いを十分反映できない言葉である。
一般には、天皇=国家であったのを、天皇は国家の一機関にすぎないというふうに天皇
を格下げしたものであると考えられるようになった。これは、日本語のもつ「機関」と
いう意味からすれば、むしろ当然かも知れない。しかしドイツのユダヤ人ではドイツ語
の 「Organ」は、抑圧、搾取のための「道具」「手段」を意味する。日本語訳からすれ
ば「機関」ということになるが「Organ」 のいうユダヤ的意味では天皇=体制や仕組み
ということである。もし美濃部がもう少しユダヤ的思考に通じていたら、ノーベル賞(
ユダヤ機関が設置運営している)でももらったかもしれない。イエリネックは、さぞ不
満であったことだろう。彼の狙いは、あくまで天皇を抑圧、搾取するものと形容したか
ったのである。つまりは「独裁者」であるユダヤ人のいう「Organ 」は具体的にいうと
支配階級が被支配階級を抑圧、搾取する手段、道具という意味である。美濃部が「機関」と正確な思考で旧語を使ったお蔭で、かなり意味あいの異なるものとなってしまった。
天皇は国民を抑圧する仕組みであるとする宣伝は、かなりぼかされた。この君民共治は
、日本の天皇と国民の間にのみで存する理想的政治形態である。これがある限り、日本
の共産主義化は、困難と判断したユダヤ勢力は、「天皇制」を絶対悪として宣伝し始め
た。戦前はコミンテルンを通じて大々的に「天皇制」打倒のキャンペーンをして、かな
り広範囲に党員獲得に動いた。コミンテルンの日本出張所として日本共産党を誕生させ
「天皇制」打倒を至上命令として実践させた。今日ににも日本共産党が「天皇制」打倒
、「天皇制」絶対悪論を振り回しているのは、そのためなのである。


1616: 名無しさんAA:18/09/02 16:30
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 22 

 以上のように我々は戦前天皇制の打倒を至高目的としていたのであるが、戦後天皇制
が類例のない偉大なものであることを初めて知るに及んで、天皇制の存続を図ったわけ
である。この時には天皇制廃止論者が米国政府には多く存在し、大変苦労したものであ
った。ここでの我々の努力を評価して頂ければ光栄である。戦後史の解説書などでは、
しばしばいわれている天皇制存続の理由が、「占領政策のため利用する目的で存続させ
た」といったことが言われるが、これが如何に認識不足かという事がお分かり頂けると
信ずる。日本共産党は未だ天皇制を絶対悪と信じているようだ。国会の開会式に天皇の
臨席時に共産党議員が欠席するのは、その現われだろう。日本共産党は、コミンテルン
の日本出張所として誕生した。コミンテルンの目的の一つには日本の天皇制打倒があっ
たのは当然だ。コミンテルンはスターリンの独裁強化されるまでは、国際的なユダヤ勢
力により動かされていた国際旅団の形態の中の指導層である。日本共産党はユダヤ勢力
が日本への残置謀者として残したものであり、完全なるエピゴーネン(継承者)である
。このエピゴーネンは、すでに戦後はユダヤ人の意志とは全くかけはなれた思考により
行動しており、我々としては全く邪魔な存在の中にある。もともと共産主義というもの
が、ユダヤ人が創った虚構論理の実現である。したがって、今日でも日本共産党が日本
の社会で害毒を流している事に対して、我々ユダヤ人は心を痛めている。さらに、日本
共産党の誕生に我々が責任あるというだけでなく、戦前の日本の支配勢力により行動を
抑止されていた日本共産党を、戦後陽のあたる場所へ出すのを助け、さらに赤だるまが
火を吹く如く大躍進させた。その原因もニューディール派、すなわち、ユダヤ勢力の持
った米国共産党員のホワイトコミューン達であった。かつて戦前の日本には、八紘一宇
という大精神があった。これは神道のこれまた類い稀な共存精神に基づく偉大な思想の
ものであった。「西洋の宗教」の如き一神教の排他性をもたない、傑出した思想である
といえよう。この点を証拠づけるものとして、西洋列強の東洋侵略と日本の満州国建設
が対比させれる。西洋列強の東洋諸国支配は搾取、収奪、奴隷化に他ならなかった。又
英国が印度支配のため最初に打った手は、既存の教育関係を絶滅し、諸民族を相争わせ
、言語の複雑化を計ることであった。又仏印領ベトナムなどの支配もも同様であった。
そこには何ら建設的なものはなく、ただ自己のための搾取があるのみであった。ここに
日本軍は道を通し、鉄道を引き、学校を建て、水道電気を通した。しかし戦後は米国が
その権益にソ連や中国と取り合いしたのである。日本の努力は結局取り合いの宝珠とな
って戦争を引き起こした。

1617: 名無しさんAA:18/09/02 16:41
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 23

 しかるに、日本の満州国建設大事業は、これとは対照的であった。五族協和を唱い諸
民族平等の関係を育て、その投資は建設的なものであった。当時欧米でも識者は、人口
3000万の満州国は十年後には人口1億を有する大近代工業国家として極東の一角に
その勇姿を現わすであろうと、称賛と期待をもって見守っていたものであった。他の、
アジア諸国で、欧米列強によって近代的工業国家に育てあげられた国が一国でもあった
だろうか。満州の近代化の成果は、現代に至るも中国の工業の心臓部である点をみても
分かることである。これを可能にしたのは、八紘一宇の大思想のしからしむるものであ
る。南洋諸島もしかりである。学校を作り道路を作り産業を起こそうとした。ビルマの
鉄道は戦争によって捕虜と共に作られたが、かつてシンガポールにいたイギリス兵は、
はたしてあんな山奥を走る鉄道やベトナムを走る鉄道など作っただろうか。まずなかっ
ただろう。原住民に鞭して運ばせれば事足りたからだ。そして便利=拡散と考えたであ
ろう。つまり搾取するのに港は必要だったが線路を必要と考えなかった。戦いの為に、
何時又敵に攻め込まれ取られるかわからない土地に資本投下する事を馬鹿げた行為とし
て見えていたのである。しかし日本人や日本軍は捕虜だけではなく原住民すら従事させ
て完成させた。西欧列強の海外の植民地支配のような、引き揚げる事を前提に奴隷統治
する術を、全く知らなかったのだ。いや逆に行わなう事無く現地民の様に居続けたのだ
。ここに、我々ユダヤ人の理想のお手本となるべきものに日本が戦前誇った家族制度が
あった。面白い話を一つ紹介しよう。かつて「国際連盟」の労働部長であったユダヤ人
、アルベール・トーマが日本の労働事情調査のため来日した。「国際連盟」といっても
、教科書的歴史観しか教えられていない日本人にはその本質を知る人は少ないようだが
、これはユダヤ人の世界政府主義ともいうべき人達の思想そのものであった。第一次大
戦の結果、金融支配力に自信をつけたユダヤ人は米国などの政治面へも進出をはかり、
その結果つくられたものが「国際連盟」だったのである。この連盟の指導者は、日本人
の杉村陽太郎氏を除いて他は皆ユダヤ人だったのである。


1618: 名無しさんAA:18/09/02 16:48
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 24 

 この他に「国際労働局」というのがやはり一緒にジュネーブにあったが、しかしこれ
は「国際連盟」の一局の如く考えられる節があるが、さにあらず。全然独立した機関で
実際の規模は「国際連盟」よりは、はるかに大きいものであった。私もここで極東問題
を担当していたのであるが、これも勿論、ユダヤ人の機関であった。何故ユダヤ人が、
労働問題にかくも力を入れるのかということは、マルクス主義の階級闘争史観をご存知
の方はお分かりいただけると思うが、かつてユダヤ人は非ユダヤ人の協力者を集めるた
めマルクス主義の階級闘争史観を宣伝したのであり、その結果 エピゴーネン(亜流、
継承者)としての各国共産党を生んだのである。一方、ユダヤ人自身としてもユダヤ民
族の解放を非ユダヤ人の協力者にのみに任しておくわけにはいかないのは勿論である。
当然、ユダヤ人自身でも自己の解放運動を進めていた。国際連盟はその機関の一つとご
理解願いたい。したがって、「国際労働局」の方がむしろ規模が大きいという点も納得
されることと思う。話がちょっととんだが、面白い話というのは、アルベール・トーマ
が来日し、日本へ階級闘争の激化工作をしようとしたとき、その前に立ちはだかったの
が、日本の強固な家族制度だったのだ。アルベール・トーマは、「日本では家族制度が
強固なため階級闘争、つまり労働運動の激化を仕掛けることは非常に困難である。何故
ならば、労働者は失業しても労働運動などする必要はなく、家族が暖かく迎え入れてく
れたからである。この家族制度をなんとかしない限り、日本へ階級闘争を持ち込むこと
は難しい」といっているのである。又階級闘争をするに、日本人自体は、共同体村落を
形成していた上に、自立主義、平等主義から小作人と言えども家族の様に住んでいて、
農奴ではなかった。それどころか赤の他人の丁稚でも、務めあげ認めた人間だと暖簾分
けして店をもたせるし、養子の子でも家名を継がせた。が逆に家族の中で、二男の役柄
は家主の替え玉として家を離れられず、家主の従者であり召使いであった。又長男で主
となったものが不埒ものであれば、躊躇なく時の城主すらも牛込めしたように、回りの
者は制裁者の役目を婦人達は担い行っていた。つまり婦女子の家庭教育は男子以上厳し
い躾の中にあった。こうしてアルベール・トーマは、日本での労働運動を止め、朝鮮や
中国に仕掛ける方を得策と上程した。アインシュタイン(ユダヤ人)もまた1922年
に来日した時、日光の金谷ホテルからドイツのユダヤ機関へ手紙を書いているが、その
中に日本の家族制度の立派さを書いているのである。その言葉にヒットラーすら感銘し
ていた。

1619: 名無しさんAA:18/09/02 16:56
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 25 

 こうした様に、日本の家族制度はこれまた類い稀な存在であったのだ。戦前の日本の
家族制度にはとても及ばないが、現在世界中で一番この家族制度というものを強固に有
しているのは我々ユダヤ人社会であろうと思う。この点、我々は常にそれを誇りとして
いた。ここでまた日本人にお詫びしなければならないのであるが、この日本のすばらし
い家族制度を破壊したのは我々ユダヤ人なのである。具体的には、占領改革の時ニュー
ディール派が行ったものである。前述のアルベール・トーマの件でもお分かりと思うが
、ユダヤ人がマルクス主義的変革を実行するためには、家族制度は国内の君主制といわ
れる如く邪魔な存在だった。家族制度が「小さな君主制」としてユダヤ民族のマルクス
主義的変革事業の邪魔になるということは、なにも今日昨日の問題ではなかったのであ
る。さて、現在のユダヤ人社会では、戦前の日本にあったようなすばらしいものではな
いにせよ、現在でも家族制度というものは固持されている。恐らく世界一のものではな
かろうかと自負している。親と子は、多くの場合同居している。これは決して住宅難の
せいではない。子は、年老いた親の面倒をよくみるのである。特に親孝行という言葉は
もっていないが、ユダヤでも将来できるかも知れない。また、親類づきあいも密である
。安息日には、大体(たいてい)どこかの親類と家庭で交わるのを普通とする。我々は
戦前の日本の家族制度を見習いたいのである。ユダヤ人は、福祉ということにはあまり
考えてない。これは家族制度のアンチテーゼだからである。福祉とはただ食わせるだけ
といえるかも知れない。老人ホームに例をとると、そこでの老人に保証されているのは
餓死しないということだけである。生き甲斐というものは何も保証されていない。然る
に家族制度の枠内の老人は子の成長、孫の成長を楽しむという生き甲斐をもつことを、
数多く出来る。どちらがいいかは、議論の外であろう。日本では戦後、ニューディール
派の改革で姦通罪というものが外されてしまった。これも家庭の不和を増長させる重大
な要素であると考えられる。家族制度の破壊を狙った、西洋風のものであると私は考え
る。ユダヤ人の社会では、現在でも姦通ということはまずあり得ないのである。十戒に
おいて厳に禁ぜられている行為だからである。夫婦になって商売でも浮気でももっての
他の行為であり、安倍貞事件に見る様に人の意識の規律を保つ策である。自由恋愛など
と言うのは、人の食生活や道徳が守られた上の話である。外国の例では、やはりロシア
革命後の婦人国有化政策を上げねば、労働者として婦人を駆りだして不幸を背負った。
その歴史は、血に塗られている。食卓の野菜がパンが消えたからだ。


1620: 名無しさんAA:18/09/02 17:19
 レーニンは「家庭は利己主義の砦である」といって、婦人を全部社会へ出してしまっ
た。現在のソ連で依然として女性が男性と同じ肉体労働までしているのは、その名残り
であり経済効果を下げる工夫なのである。日本人の皆様には驚きかも知れないが、レー
ニンはユダヤ人なのである。女性の社会への進出というと、なにか進んだ欧米制度の如
く感じるかも知れない。が、家族制度という観点から見た場合に、これらの損失は計り
知れない。これもやはり崩壊へ導く要因である。この辺の処は日本国憲法の内容と密接
な関係があるので、そちらでまた述べるが、ロシアの領土に於いて本来食べる物がない
と言うのは起こるものでは無かった。何故なら小麦やパンなどを食して居なかったから
だ。トナカイの干し肉と草と魚と小動物で、現地民は贅沢なく豊かに暮らしていたのだ
。知識さえあれば木の実木の皮も食べていた。しかし、大抵のものが入植者だったから
ロシア皇帝打倒に走ったのである。更にその後知恵知識は強制労働で無くなったのだ。
我々ユダヤ人が是非学びたいと思うことに、日本の戦前にあった義理人情という美徳が
ある。武士の国の日本では、他民族では絶対にもちえない繊細な心の機微さというもの
がある。本能的な西洋人には想像もつかない深遠な人間性の発露であって他国や現代で
はなかなか受け入れられない感覚だ。私は、この義理人情が究極点として天皇制に到達
するものと考えている。私の大好きなものの一つに大相撲があるが、ときどき「こんち
わ相撲」という事を聞かされる。これを八百長相撲と称する人もいる。しかし私には、
この表現は正しくないと思う。「貸し借り」ともいわれ仕組みのこの言葉はどちらとも
とれる言葉だが、「八百長」ではない。つまるところ、日本の大相撲では、それは基本
や根本において、殺し合い殴り合いから発達したスポーツではない。逆に死と隣合わせ
の自然の危険を回避する為の、神への祷りや奉納から発達したのが相撲だと聞いている
。その意味合いから、健康祈願や逞しさや潔さの願望を、子供の元気を奉納相撲とした
処に起源がある。ここに義理人情の勧業相撲からに藩主達の交わりの江戸相撲に変化し
た。スポーツと歴史の違う神の祭りと言う点を理解するまで、私は相当の日月を要した
。武士道的道義や義理と人情から発したものであったが、戦前ではこの「こんちわ相撲
」のことは角界以外にはあまり知られていなかったものである。つまり、興行相撲は、
プロレスの様に、マスコミの好餌となる材料ではなかったわけである。義理人情から出
た結果なら、戦前の日本人なら決してそれを追及せず、そっとしておいてやる雅量を、
もっていたのが大人相撲とされていた。しかるに、戦後特に義理人情がほとんど失われ
た今日に、単純に汚い八百長と同次元に考えられる事で、その神への奉納ことのほうが
薄れ伝統的な型を継承しながらも、潔く潔白な完全試合を望むと言う声の方多いようで
ある。

1621: 名無しさんAA:18/09/02 17:30
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 27 

 ユダヤ人の社会には、日本流の、義理人情という侠客の世界のものは存在しない。も
し「一宿一飯の恩義」や「袖すり合うも他生の縁」と言う他人の大事さを思う様な西洋
社会ならこうも戦争歴史は起きなかったであろう。しかし、同胞の相助合うという精神
では日本の義理人情には及ばないものの、ある程度のものはもっている。少なくとも、
欧米人よりは、優れたものをもっていると思う。ユダヤ人はよく「感動の民族」だ。と
いわれる。これはビジネスにおいてもそうである。普段が「がめつい」と思われている
ユダヤ人でも、ちょっとした「感動」により時には利害を忘却したのではないかと思わ
れるようなことがある。決して恩に着せるわけではないが、この点に関する格好の例と
して、我々ユダヤ人が自慢できるものがある。それは日露戦争の時、クーン・ローブ商
会のヤコブ・シフが高橋是清と会って外債を引き受けたことである。アメリカ・ユダヤ
人の中心的存在だったユダヤ人金融業者ヤコブ・シフは、日露戦争の時、日本への投資
を決断し資金援助を申し出て支援した。当時、日本の勝利を予想した者などは誰一人い
なかった中、日露戦争での日本へ戦費の調達を決めた。これを考慮する者があろうはず
もなかった。ヤコブ・シフは他にも南米でも、トルコや中東でも負けるとされた 弱い
者の味方になって投資している。日本に英国など日英同盟の関係から知らん顔はしにく
いと思われるが、例によって全く打算的な態度であった。しかし、日本とロシアの関係
を知っていたヤコブ・シフは、当初から打算的にかつユダヤ同胞の開放の為に、引き受
ける事を決意していた。又、後の追加融資などは高橋是清と会っているうちに、いうに
いわれぬ感動に陥って行った様である。勿論シフには、ユダヤ人を迫害しているツァー
を倒したいという考えは強く作用していたことは事実である。しかしそれにしても、必
敗と予想されていた日本へ、計算高いといわれるユダヤ人が何故大金を貸すのか。と言
う意見が多数占めたし、日本人には良く理解出来て居なかった。シフ自体は一生の事業
の浮沈に関わるほどの大金だったし、常識ではあり得ないことだった。そこには、日本
の義理人情に匹敵するユダヤ人の「打算」と「分析」と共に「ホグロム」などからくる
弱者への愛憎の「涙」があったことも是非ご理解頂きたいと思うのである。現在でも、
日本人とのユダヤ人との商取引においては、このような「感動」の商法が行われている
実例も、しばしば見受ける。ユダヤ人はこの「感動」をさらに高めて、日本の戦前の頃
の義理人情にまで高めたいと思っている。よろしくご指導願えれば幸甚の極みである。



1622: 名無しさんAA:18/09/02 17:42
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 28 

 次にユダヤ人がすばらしいと思うものに、戦前の武士道精神がある。ラビのトケイヤ
ー君も『日本人は死んだ』の中で「軍国主義のすべてが悪いとは思わない。」という意
味のことを書いている。……戦前の軍人精神というものは、人間性の発露として至高の
ものであったと思う。「個人の利害を忘却して全体のために奉仕する」ということに対
するあれほどの完全さは、他民族には決して見られないものである。特攻隊員がその最
たるものであることは、いうまでもない。……日露戦争以来、日本の陸海軍はいたると
ころで武士道精神を発揮してきたことは世界中から尊敬されている。「弱きを助け強き
を挫く」精神である。その他でも、戦前の日本人には「男は度胸」「女は愛嬌」という
言葉もあった。これは皆様も欧文に翻訳する時困った経験をお持ちであろうと思う。こ
の「度胸」「愛嬌」に相当する欧米語が見当たらないからである。しかしこれは又当然
の事でもある。何故なら、この両者は欧米人の男女とももち合わせていない感覚なので
ある。これは全くすばらしいものであると思う。男女の天分の顕著な発露であり、人間
を最も個性的に飾るものとして、例のないパーソナリティでもある。男の「度胸」とい
う点で、戦争中に「アメリカ兵は白兵戦になると赤ん坊のように声を上げて泣き叫ぶの
だ。」と聞かされた銃後の日本人は多く、男が泣くと言う行為にキョトンとして信じら
れない。といった表情をして聞いていた。まさかいくらなんでも、兵隊たるもの、戦地
で泣き出すなんて大げさな話だろう。と考えたのである。これは、当時の日本人なら、
無理からぬ話である。然るにである。これは全くの事実なのである。つまりアメリカ兵
には「男の度胸」というものが備わっていない。つまり「武士は食わねどつまようじ」
の「空威張り」は滑稽として欧米文化には無かったのである。「男は涙を見せない。」
とした日本の文化は、嘘の涙を見せてでも或いは詐欺ても命ごいを懇願する。と言う事
は欧米では生きる逃げ道の王道ともしたし、白旗に見るよう勝敗を決して、終わりとし
死に挑むと言う事は、実は死ぬほど怖い事だったのである。しかし日本は恥としたのだ
、これは地獄のエンマ様と、恐怖の悪魔との、風情や思考やの違いかも知れない。「女
の愛嬌」の問題にしても、戦前外遊した人々は、欧米の女性に愛嬌がないという点は、
多くが指摘している。これは無論、今日でも変わらないし、欧米人の暴力的性向が家庭
崩壊や社会秩序の崩壊を招いている原因でもある。戦後の若い世代の日本人は、もはや
こんなことを感ずる余地はないようであるが、この両者の特質を戦後完全に失ってしま
ったから見えないのである。ある意味レディファースト文化は、この「つむじの悪さ」
や「日常の仕事」として女性表情への男のへつらいだったのだろうかもしれない。

1623: 名無しさんAA:18/09/02 17:46
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 29 

 これら多くの戦前の日本人がもっていた世界に類い稀な美点、長所は、我々ユダヤ人
の理想を具現化したものであったのだ。しかるに第二次大戦の終結を機として、これら
が完全に失われてしまったのである。真に残念というほかない。今回、私がどうしても
本稿の筆をとろうと決意したのは、これら類い稀な人類の財産ともいうべき長所を喪失
せしめた責任が、実は我々ユダヤ人にあるということを率直に認め、深くお詫びすると
同時に、我々の犯した過ちがいかなる思考、動機から惹起されたものかという点を詳し
くご説明させて頂いて、一日も早くこれら美点を復活させて頂きたいと思ったからであ
る。何度も繰り返す如く、過去の日本の風情は、我々ユダヤ人の理想でもある。これら
を積極的に自己の理想といえるのは日本人の他にはユダヤ人しかありえない、とはっき
りいえると思う。どうか、尊敬する日本のみなさま、これから私が解き明かすことを、
じっくりと検討され、戦後の病巣、社会的混乱、経済と精神衛生面の跛行性の原因を、
よくお考えいただきたいのである。「男は度胸、女は愛嬌」は元々の男女の天分を表す
もので、西欧追随は人類文化の退化をもたらすものだったのである。ただここでちょっ
とと申し述べておかなければならないのは、これら戦前の日本にあった類い稀な美点が
戦後100%失われたということではない、ということである。それはどういうことか
というと、日本の社会の内部では、つまり、日本人の社会の公式な政府政策ではこれら
美点が失われているのを認めなければならないが、日本人が外人に対する時や田舎の中
の生活ではまた別の話だということである。つまり、国際的には、まだまだ意識の中に
日本人の日本人足る性格の美点は存分に生かされているということである。比較文化論
的に考察するに、日本人は西洋人一般よりも理性的に、はるかに優れているといえよう
。今まで述べた戦前の美点も つまるところ、日本人が理性的に西洋人をはるかに凌駕
しているということに他ならない。この点で西洋人が日本人に追いつくには数世紀、い
や数十世紀、あるいは永遠に追いつくことができないのかも知れない。それは言語にも
現れる。右脳と左脳が人間は備わっているが、通常の言語では現れない連鎖が日本語の
体系にある事が最近明らかになって来ている。つまり考え方の基本が言語に頼る部分で
も、日本語は遥かに優位な位置にある事が判明している。しかし、それでも、西洋人も
日本人も、他国とつき合う場合、否応なしにこの地球上で生存するためには付き合わな
ければならないが、このことがどういう結果になるか、ということに、もうすこし考察
が必要だろう。

1624: 名無しさんAA:18/09/02 17:54
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 30 

 日本人は「国際性」という場合、100%西洋のペースに日本人が適応することとい
うふうに考えているようであるが、これは人類の文化の退歩を招くことであり、断じて
そうあってはならない。これは全く逆立ちしている。西洋人こそ日本人に適応させなけ
ればならない。何故なら日本人の理性の方がはるかに西洋人のそれより進んでいるので
あるのだから。ところが、西洋人は未だそんなことなど全く理解していない。はばかり
ながら、我々ユダヤ人はそのへんをおぼろげながら理解できると自負している。この点
でも、ユダヤ人が一般西洋人より進歩した民族であると認めていただければ無上の光栄
なのである。この点が逆になったため、大東亜戦争は起こったのである。日本は何とか
戦争を避けようと、全くの善意から必要以上の譲歩を行っていた。ところが西洋列強で
は、その譲歩を全く単純に弱さの現われとしか取ることができなかったのである。この
理性的なものの差は、数世紀やそこらで埋まるものではないと私は考える。残念ながら
、現在の人類の理性の水準では、西洋人側の単純極まりない思考法が表通りを大手を振
って歩いているのである。これでは人類の進歩はあり得ないだろう。こうした世界での
ユダヤ人は日本人を理解できる唯一の外国人かもしれない。我々ユダヤ人は、この逆説
をひっくり返すために最大限の努力をする覚悟である。その為には東西のかけ橋になる
とかしなければならない。その他、個人的交際においても、日本人は対外人との関係に
古来の伝統的美徳を完全に発揮している。しかし、それに対しても一般外人は、これを
全く理解する能力がないといわねばならない。このため、日本人はどれだけ損をしてい
る事か。少し考えさせられる。私は、このようなことがいつまでも続くことを耐え忍ぶ
ことはできない。手前勝手なようだが、ユダヤ人はこの日本人の特性をある程度理解で
きた民族と思っている。したがって、それなりのお返しを日本人にできる唯一の外人で
あると自負している。結論として、当分の間日本人は外人に対して美徳を与えることは
差し控えていいと助言する。外人以上の低次元の、感情的、非理性的、本能的な態度で
あって外人に接する事も 考えるべきではないかと考える。そのような美徳の何たるか
は何もわからない外人にタダで与える必要などない。それより日本人のコミュニティの
中で一日も早く復活させる方策をとるべきではなかろうか。私はそう考える。しかし、
又一方で現実には、日本人はなかなかそういうふうに割り切れないということも十分知
っている。割り切れないという事が、またしても日本人の理性的高尚さの証左であろう
。こうして、どこをどうつついても、西洋人は日本人には頭が上がらないの文化なので
ある。

1625: 名無しさんAA:18/09/02 18:02
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 31
 外人は麻雀は分からんだろうと日本人は思われるかも知れないが、ところが、どうし
てどうして、さにあらずである。我々ユダヤ人は麻雀が大好きなのである。在米ユダヤ
人で麻雀のことを知らない者はない、といっていいだろう。また、アメリカには雀狂が
意外に多いのを発見して驚かれる日本人が多いが、彼らはまずユダヤ人だと思って間違
いはない。もともとは、チャイナタウンに於いて、上海のユダヤ人グループがアメリカ
へ輸出し広めたのがことのおこりの様である。中国人の余暇潰しのゲームだが、私も又
上海時代におぼえた。日本でいま一般的に行われているルールの中で、ユダヤ人が創っ
た役が2つあるのをご存知だろうか。「七対子」と「緑一色」がそれである。三枚一組
を原則とする麻雀の本質からすれば、二枚一組の七対子は中国古来の役でないことはす
ぐ分かるであろう。また役満の緑一色も役満としての本来的意義はない。大三元にしろ
四喜和にしろ、それぞれ三元牌全部とか風神全部といったヴァイタルな意義がある。こ
のユダヤ人が創った緑一色にはそのような意義はない。いわば風流役とでもいったら、
いいだろうか。いずれにせよ、これらが日本ですんなり受け入れられて人気役になって
いるのははなはだ嬉しいことである。西洋人が麻雀を理解できないのは「ツキ」という
ものを理解できないことにつきる。だが、ユダヤ人は「ツキ」を理解できるのである。
「ツキ」にこそ 麻雀の面白さは集約されているのである。理屈で麻雀を考えるほど、
ユダヤ人は野暮ではないのである。また、よくいわれる「引きが強い」というのも分る
のである。技術的に秀れた者、つまり強い者ほど「引き」も強いようである。これを、
理屈で説明しろといっている間は、西洋人は決して日本人というものを理解できないで
あろう。これは決して論理の飛躍ではない。その証拠には日本の戦前の良さを理解でき
るユダヤ人は麻雀の面白さも十分分かるではないか。日本にある「勝ち負けは時の運、
強きは弱きを助くるにあり。」と言うのは、ほとんど日本人的感覚と思考である。世の
中で大事なのは平等と言うのはフランス人が中世以降の革命で近代において説いた論説
だが、それでも仏印と呼ばれたベトナム人には、そうした行為をした形跡はない。つま
り「机上の空論」であったのである。しかし日本人は、遥か昔の平安の荘園時代から、
「敵に塩を送る」、「義を見てせざるは勇無きなり」と果敢に正義を求めて「一寸の虫
にも一分の魂」とか「泥棒にも三分の理」「悪人にも親心」などを会得した社会を延々
と築いて来ていたのである。「多勢に無勢」と言う戦いであっても ながががと大声で
血筋を垂れて、声を上げて、名乗り勝負を 当然として来たのだ。でなければ敗戦の兵
は付近の住民からも攻撃を受け、負けた時でも助けて貰えなかった習慣であった。これ
は大事な慣習であろう。正義を通す意地である。生きるに最もな理由である。

1626: 名無しさんAA:18/09/02 22:00
 最近になって、若いユダヤの同胞が一人前の顔をして能書きをたらたらたれている。
よその大部分は、ユダヤ的思考法をすべからく日本人たるもの学べ、といったものの様
である。私はこの恥知らずな若い同胞のことを考えると、全く穴があれば入りたい心境
である。彼らは日本については、あまりにも無知であるのみならず、ユダヤ思想の何た
るかについても全く教育されていないのである。だからこそ、かくの如き恥晒しが平気
で出来るのであろう。彼らが決して触れないものに、二元論的な思考パターンと言う物
がある。この思考法を知らないなら、もはやユダヤ人とも呼べないだろう。そのくらい
大切な思考法が、これから述べる二元論的思考パターンなのである。現在、日本に限ら
ないが、我々のあらゆる面における思考パターンの典型として支配的要素となっている
のが、この二元論的思考法なのである。直接、間接を問わずに、この思考パターンは、
ユダヤ教の思想から来たものであるということを知っていただきたいのである。現在ま
では、日本人は日常のあらゆる面でこの二元論にはまっている。残念なことに、殆どそ
れを意識していないのではないかと思われてならない。ユダヤ人の思考法で最も基本的
なものに、二元論の刷り込みと呼ばれるものがある。論理学的には二値論理なのだが、
ユダヤ人には両建て主義ということが多い。この二元論というのは、絶対に相容れない
両極端の対応物を設定することから始まる。しかも、宗教民族らしく、この二元論は多
くの場合、倫理的要素が混入されている。したがって、この二元論は、善悪二元論、時
によっては明暗二元論など、色々な言われ方をする。戦後、日本の教育界に最初に持ち
込まれたものに、〇×式思考法がある。この思考法も見て分る通り、二元論の典型的な
もので、これを最初に社会に持ち込んだのが、ルーズベルトの米政府であった。つまり
、ニューディーラー達(フェビアン社会主義共産党員)である。1941年、アメリカ
には、第二次世界大戦に突入した結果、国家総動員令ともいうべき戦時体制を持ち込ん
だ。この体制に飛び込んだのをチャンスに、ルーズベルトはまず教育界というより一般
産業界に持ち込んだのである。産業界では、戦時体制生産のため労働力の飛躍的増強が
要求された。そこで大量の労働者、技術者の募集が始まった。その際これら労働者や、
技術者その他の採用試験には、従来の如き主観に基づく要素の多い問題形式では間尺に
合わない。採点作業のスピード化のため、思い切った客観法に基づく採点方法が焦眉の
急であるというのが、この論法を持ち出す理由づけであった。産業界に協力求める色々
な交渉を省く道具に使われた。つまり平和主義で、戦争嫌いな工場主にも、「君はアメ
リカの味方か敵か」と言う問いにして、「敵」と言う者はいない。「なら協力せよ。」
戦争が嫌いであろうが、敵の死が嫌いだろうがどうでもよく、アメリカの為に行うか行
わないかを決めさせたのだ。

1627: 名無しさんAA:18/09/02 22:13
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 33

 そして、戦後の教育界へ本格的に持ち込まれたのは、日本が最初である。戦後の日本
の教育界にとっては、アメリカの産業界の緊急動員体制時の如き採点のスピード化とい
ったことは、理由にはならないはずである。そこでつけた理屈が、主観主義の排除とい
うことであった。つまり、科学的、客観的ということを謳ったのである。しかし、その
裏に創造的能力を奪うという大きな問題点を含んでいる事を、誰も表面には出なかった
。この点は、最近のアメリカ教育界で大問題になりつつある。アメリカの教育界でも、
この〇×式試験が逆輸入されて大手を振ってまかり通っているのである。日本でも戦後
一時期、大学受験生に進学適性検査、通称進適といわれるものを実施していたが、現在
のアメリカでは「全米共通進学適性試験」=SATといわれるものが、1947年から
実施されている。この〇×式を標準化テストと称している。そして全米共通という標準
性と比較の単純性、能力の客観的評価の正確性に秀でていると理由づけられている。こ
うして持ち込まれた中で これに対してこの〇×式に批判的な人々は、創造的才能をも
つ者に不利だと急所をついて大問題となった。そこで間にたった採点方式が5択という
ものだった。5つの答の中から選ぶとすれば確率はすでに5分の1であり、目をつぶっ
てやっても5問に1問は当たる。これを科学的というのだろうか。さらに問題は、設定
された答の中からしか答を出せないことである。そこに設定されたものが全てと考える
ことは創造的才能をもつものにとってはこの上ない馬鹿なことである。従ってよく大学
入試でもその設問に例えば答えが2つあったり例えば標準回答が時代と共に間違いであ
ったり、例えば同じ意味でも奥深い回答であったりしたときは、その人は不合格となる
つまり採点外になる。これは戦前の教育には無かったシステムである。殆どが教師が設
問を考えて、個別に回答しそれを誰でもが考えて答えとする。それが点数評価の在り方
であった。しかし日本も又総動員令をかけて、例えば身体測定で身長・体重を測るのだ
が、結局は適正評価で適否判定しかしなかった。それが教育につながってしまったので
ある。つまり論理がない学力評価の、これだけの手段だけで人間本来の才能、判断力、
リーダーシップ、組織力、表現力、意志の強靭性などが正確にはじき出されると信じさ
せてきたのである。人の能力は決して数値では表せないというのも歴史的現実である。
日本のクイズ番組でもその答えが正解でも TVに沿った回答でないと不正解とされる
が、それは高圧的で又 どこかの教科書の回答だから、常識だから。と言う馬鹿さだ。

1628: 名無しさんAA:18/09/02 23:36
 ルーズベルト政府が第二次大戦中、この〇×式を採用した時、ニューディーラーの真
の目的は創造力を奪うことにあるという命令が出て居た。戦争目的をもってドイツにあ
った世界制圧や征服の希望を閉ざす事が意識的に行われ、それに準じた行政をGHQは
命令されていた。これは恐ろしいことではないだろうか。日本の、戦後の思想界に支配
的に広まったマルクス主義の影響で、この〇×式思考パターンに、既に日本はすっかり
とりこにされてしまっていた現状があった。GHQを支配していたニューディーラーは
いろいろな二元論的思考を戦後の日本へ植え付けたのであるが、教育界へ持ち込まれた
この〇×式思考法にはいち早く現在の中堅クラス以下の、年配の多くは教え込まれた。
社会、政治、経済その他あらゆる面でこの〇×式思考法、忠実に反映した諸現象を見る
或いは分析することにすっかり訓練された慣れて行っている様だ。二者択一の「保守」
か「革新」か、「大企業」か「国民大衆」か、「戦争」か「平和」か、「経済成長」か
「社会福祉」かなど、二元論を持ち出しているのが共産党、社会党といったマルクス主
義者だったが、これに自民党は乗って国民を説得した。絶対的な世界観の共産党は兎も
角、自民党の池田内閣佐藤や中曽根小泉までそれに類する思考を大宣伝して選挙に挑み
、劇場型政治と言う、政党にふさわしくない行為を繰り広げたが、それが受け入れられ
た。それは行政改革しかりである。国鉄解体や郵政民営化のYESかNOかである。こ
れは全く無意味な論争である。どんな会社でも解体か経営かなどと言う論議はしない。
これなら議論の余地はない。通常経営も動体で時代に応じて方針を変える、利益率を高
め生産性を上げる為だ。しかし、この論議には何もない。現状把握や今後の予想や対策
などだ。奇異なこの論陣に誰も口を挟まない。何故なら、このマルクス主義的な二元論
から成り立っている虚構論理は建設的議論とはならず妥協しか生まないものなのだが、
それで育って来た人達だったからだ。この〇×式思考法なくしては、「革新」政党たる
もの、今日まで生きのびる事は不可能であったかも知れない。つまり「良いかか、悪い
か」の論議は「どうすべきか」の論議やどうあるべき」かの理想像がなく、その場しの
ぎの決定を迫り資料を見せない方策で、考える時間も思考も余裕も与えない。世の中の
進化や進歩はそうしたその場で出来るものではない。しかし、今の日本では多用されて
国の形にしている。もっと問い詰めて考え詰めて熟慮し広範な意見を取り入れて考える
べきものだ。特に政党同士の駆け引きによって 国家の国体が勝手気ままに変えられる
話は既に国会の体をなしてはいないものだ。賛否を決める多数決は、単なる意志表示で
あり解決策ではない。そもそも法案は次々と修正されそれなりの国民同意を持って提出
されて変化し作られるべきものなのである。つまり議員全員の同意が先にあって議論さ
れるものが本来姿で、一部の者の発案で発議され否決や採決されるものではない。

1629: 名無しさんAA:18/09/03 06:13
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 35 
 戦争論議で一つ是非注意しておきたいことは、「太平洋戦争」という言葉である。日
本に本来「太平洋戦争」という言葉は存在しない。これは勿論、戦後占領軍が名付けて
メディアに言わせたものである。戦後、いろいろな方面から大東亜戦争に関する歴史書
が出ているが、中に「太平洋戦争」という言葉を平気で語っている。その歴史書がアメ
リカ側の思惑の立場に立って全て書かれたものとは言わないが一部の見方が世界の見方
の様に書かれ若者を洗脳する。著者達はそれで満足なのであろうか。問題はそれだけで
はない。日本の歴史に「太平洋戦争」という戦争はない。あったのは「大東亜戦争」で
あり「日中戦争」然り、あるのは「支那事変」である。よく考えてみる必要がある。こ
れは一連の流れで第二次世界大戦の名で集約される。この第二次を欧州戦線とは言って
も英独戦争とは言わない。明らかに歴史の偽造に他ならない。明らかにアジアの戦争で
東亜大陸つまりアジア大陸の中国に欧米が侵攻した戦争なのだ。何故なら第一次世界大
戦のベルサユ条約で植民地経営を止めよ。と日本が言った時、ドイツの南洋諸島と中国
の主要都市は日本で管理する。との話し合いはついていた。その意味で国際連盟の委託
統治領だったのだ。従って満州国建国して、愛新覚羅を国王と認定せず蒋介石を後押し
して軍事援助したのは可笑しな話なのだ。日本は内容を知って蒋介石政府を認定したが
国連若しくは米英は清国として契約しているのだ。ここに中世時代の征服王朝を真似た
欧米の近代戦でのやり方があり、それが今の中国が叩く、チベット・ウイグル問題の肝
である。つまり欧米が巻き起こした東南アジアの戦争が未だ終わっていない理由である
。これは戦後史の跛行性という点で、戦後日本の社会は、真の日本歴史の構築を放棄し
たのではないかとしばしば指摘される自虐史観で黙認し追従する日本も同じ責任がここ
にはある。太平洋戦争では戦後からではなく昭和16年の時点からすでに、日本歴史の
真の構築を放棄していたことになりはしないか。占領中そういう呼び名を強制されてい
たのは止むを得ないものかも知れないが、今日に至るも依然としてそれらから脱脚でき
ないのはどういうわけだろうか。これは、ジャーナリズムが依然として「太平洋戦争」
という言葉を使用していることに関係ある。日本人自身の問題である。憲法とは違って
、改正の手続の問題もない。ただただ、正しい歴史観の認識の問題のみである。ドイツ
のゲッベルス宣伝相はいち早く、「それは、非常に強大な超国家的勢力が、文明の破壊
にもつながる心理戦、神経戦を挑んできている。これに対してドイツ国民は十分警戒せ
ねばならない。この心理戦、神経戦の目的とするところは、人間の純度を落とすことに
より現存する国家を内部からむしばんでいこうとするものである。」と彼は超国家的勢
力の「人間獣化計画」と言う聞きなれない作戦があると警告した。

1630: 名無しさんAA:18/09/03 06:13
1934年の声明を発しに警告として公布している内容は次の如き作戦大要かあるとし
て「愛国心の消滅、悪平等主義、拝金主義、自由の過度の追求、道徳軽視、3S政策 
事なかれ主義(Sports Sex Screen)、無気力.無信念、義理人情抹殺、俗吏属僚横行、
否定消極主義、自然主義、刹那主義、尖端主義、国粋否定、享楽主義、恋愛至上主義、
家族制度破壊、民族的歴史観否定。」以上の19項目であった。これをつぶさに検討し
てみた場合に、戦後の日本の病巣といわれるものにあてはまらないものがただの一つで
もあるだろうか。ドイツ国民に与えた掲示の内容はそのまま日本で行われたのである。


1631: 名無しさんAA:18/09/03 06:14
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 36 

 否、何一つないのを発見されて驚かれるであろう。ゲッベルス宣伝相は、戦後の日本
に対する予言者だったのであろうか。戦後生まれの人たちにはピントこないかも知れな
いが、これらは正常な人間の頭で判断すれば人類の文明の破壊につながるものである事
は一目瞭然である。これが彼の言う人間の純度を落とし、本能性に回帰させようという
ものである。ゲッベルス宣伝相が警告を発した第二次大戦前の時点で、どれだけの人が
これを真に人類の文明への挑戦として脅威的に受けとったかは分らない。しかし、第二
次大戦が終わってみると、日本へはこれら一連の風潮が忍者の如く忍び寄って完全とも
いえるほどに定着してしまったのである。これらを戦後日本へ持ち込んだのは一体何者
なのか。また、これらがこれほど完全ともいえる状態で日本に定着したのは何故か。そ
れが戦後に詰まっている。ゲッベルスは戦後日本の予言者でも何でもない。そうした風
潮の欧米の戦略をひしひしと感じていた一人にすぎなかったのである。話を戻してみよ
う。精神衛生面の虚無性が何故に経済の高度成長をバックアップするのか。という疑問
も前述の19項目をみると直ちに理解されると思う。これらが日本人の間に巣喰っては
まってしまうと、消費文化に溺れて、楽しみはただ「カネ」ということにならざるを得
ない。つまり、すべてを「カネ」のために、という思想が強烈なものにならざるを得な
い社会なのである。いわゆるエコノミックアニマルの徹底ぶりを試される他ない社会が
出現する。ここにエコノミックアニマルと、「アニマル」なる語が使われているのは、
ゲッベルス宣伝相の警告にあった「人間獣化」と一致している。エコノミックアニマル
という言葉は、パキスタンのプット外相(のち大統領)が言った言葉だが、急所を突い
ている。高度成長のほとぼりもさめた今日、日本人が真剣に取り組まなければならない
のは、この精神衛生面の虚無性である。志ある人々は皆、日本はこのままでいいのか、
と憂えている。何故、前述のゲッベルス宣伝相の警告にあるような思潮が今日の日本に
定着してしまったのか。また一体誰が巧妙に持ち込んだのか。持ち込んだ時期は終戦後
のどさくさにまぎれてのことであるのは誰にでもわかることである。さらに忠実な残置
諜者とでもいうべき、これら病巣をタブーとして固持、培養している勢力は何か。その
勢力とこれを持ち込んだ勢力との関係は如何。今日の日本にとって最も大切なことは、
これらを解明することではあるまいか。


1632: 名無しさんAA:18/09/03 11:39
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 37 

 時期が終戦後 のどさくさにまぎれてのことであるのは誰にでもわかることである。
さらに、さらに忠実な下僕(しもべ)達の勢力が、今や金科玉条としている日本国憲法
のを作らせた事まで解るはずだ。しかしこの勢力とこれを持ち込んだ勢力との関係はど
こにあろうか。今日の日本にとって最も大切なことは、この日本国憲法の隠された狙い
とそのルーツは。これらの諸問題にメスを入れることが、今日の日本にとって焦眉の急
といわねばならない。憲法改正などは放っておいていい。問題はこれらの病巣のコーデ
ィネーターの役割をしている日本国憲法であることは何ら疑いを入れない。しかしもう
少し考えて紐解いて、この日本国憲法を持ち込んで、残置諜者を利用してタブーの網を
張り、信仰という宗教的呪縛性でもって、あたかも千古不磨の大典の如く日本国憲法を
最大限に活用している勢力は一体何なのか。さらにこの日本国憲法を最大限に利用する
ため準備行動として東京裁判という予行演習を演じてた事は見逃せないことの筈である
。東京裁判は、どう考えても誰が考えても、日本の戦後史の始まりの序幕式のお披露目
であった。しかし、今日までのこの東京裁判に関する分析、評価は、残念ながら、初歩
的な感性的認識の域を一歩も出ていない。現在まで一般に考えられている「復讐の儀式
」と形容される類いである。これはインドのパール博士の意見等を踏み台にしたもので
ある。一面の真理であることは確かである。「復讐の儀式」という見方の説をとる場合
、説明として出されるのが植民地を失った帝国主義国の復讐ということであるようだ。
確かにシンガポールの敗軍の将パーシバル中将がフィリピンでの山下将軍の裁判の席へ
招かれて、これこそ、真に復讐以外の何物でもなかろうと言う演出はあった。パーシバ
ル将軍は、フィリピン戦線で山下将軍とはなんの関係もなかったのであるから、この様
な点を見せつけられると、なるほど「復讐の儀式」説も納得する。だがしかし、もっと
良く考えてみる必要がある。帝国主義の植民地喪失の復讐といった場合、主役アメリカ
は全く当て嵌まらない。アメリカ自身は植民地を何ら失っていなかったからである。尚
、フィリピンはルーズベルト政府の時代から安上り支配で名目上の 独立を与えた方が
得策として独立を認めた形になっていた歴史がある。東京裁判はイギリスの代表として
インドからパール判事が居たように、フィリピンの代表としてデルフィン・ハラニーリ
ャ判事を送り戦犯追及の急先鋒で死刑を要求した。この裁判の奇妙な事は、ここにある
結論は決まっていたが、「満州事変以後を日本帝国主義の侵略戦争とする」事であった
。フィリピンは多くのカトリック神父の独立運動家の交渉で既に独立が約束されていた
。そこに第二世界大戦が来たのだった。つまり既にアメリカは早くから知っていたのだ

1633: 名無しさんAA:18/09/03 11:40
この奇妙な「なぜ満州事変以後が侵略戦争なのか。」の、理由はハッキリしていた。
これら、満州事変以前の戦争は 米英仏等の利害と衝突していなかったからだ。利害が
一致して日露戦争は「英露戦争」とも欧米では呼ばれていた。帝政ロシアの南下政策に
英国は、脅威を感じていたのである。帝政ロシアの南下を防ぐものとして日英同盟を行
い、日露戦争を歓迎していた。日英同盟を結んだのは、その意味で英国防衛の為だった
。また、シベリア出兵は、その意味で日本を攻撃するに最も好都合な材料だったかも知
れない。しかしこれも侵略戦争という刻印を押せば、アメリカも又共同で出兵していた
し。第一次大戦も又要請によって地中海まで日本海軍は英国のためにお付き合いしてい
る。文句のいいようがないのだ。結局、これらの戦争に関して、篩(ふるい)に分けて
自国につながらないで、日本を悪玉に仕立てようと試みると、ここに線を引かなければ
欧米列強自身も、国際社会の火の粉をかぶることになるのだ。間違えれば上を向いてツ
バをはくことになる。これを避けたのである。ところが、林房雄氏の「大東亜戦争肯定
論」に面白いことが出ている。ある共産党員が日露戦争を侵略戦争と規定すべきかどう
か迷っている。とのことだ。これはソ連側からの主体性のなさを物語る格好の証左で、
また非常に重大なる問題提起でもある。何故、満州事変以後が侵略戦争で、日露戦争、
シベリア出兵、第一次大戦などは「日本帝国主義」の「侵略戦争」ではないのか。これ
は奇妙なことではないか。というのだ。ソ連も又東京裁判には連合国として参加してい
た。一方、満州事変、支那事変、大東亜戦争は議論の余地なく、米英仏等と利害関係が
対立するものであってソ連すら納得するものだった。日本批判には、ここを取らない法
はない、ということである。米英仏ソなどと国家単位で述べたが、この稿の目的とする
超国家的勢力を主役とする歴史観からすると、やはりこの大勢力との利害の衝突、利害
の一致の問題が、前述の中で国家単位の歴史観とピタリと重なるのである。この点は、
他のどの方向から説明しても同じ結果である。後に述べるように、超国家的勢力を主役
とした陰謀論の歴史観の方がより正確な史実の分析が可能である。ということである。
この超国家的勢力は近世史を事実上動かしてきたもので、今や日露戦争においても日露
両方へ資金援助をしていた事は判明している。この勢力が得意とする両建て主義の典型
例である。この勢力は、日露戦争を大歓迎していた。その理由は、ポグロムに対抗した
ユダヤにツァーの打倒を至上目的としていた金融家がロマノフの財宝を預けて政権を取
ったからだ。それが超国家的勢力の中心だった。従来の教科書的歴史観的にロシア革命
の事件であるが、これをプロレタリア革命などといっていたのではお話にならない。こ
れは当時の欧米の新聞論調が皆「ロシア・クーデター」と呼んだ宣伝活動に欧米の新聞
の大勢力の支配下にあった、単に首がすげかえられただけを飾り立てて創作したのだ

1634: 名無しさんAA:18/09/03 11:53
 911と同じ手法で、当時のこの時にはツァーからロシア人の革命勢力から、更にこ
の大勢力ヘ移り変わった事を庶民が起こした革命と称して飾り立てた。したがって、日
本がシベリアへ出兵したということは、到底共産主義革命を叩きつぶすため、という事
ことにはならなかった。これら大勢力に対する挑戦ということになったのである。そう
とあれば、東京裁判の主役たるこの大勢力の怒りを買い侵略戦争というレッテルを張ら
れること必定だったが、アメリカも参加していたことで避けられたのだ。アメリカウィ
ルソン大統領は日本が出兵を宣言するや、その翌日に早くもアメリカの出兵を宣言して
いる。中立主義、孤立主義の風潮の強い当時のアメリカが、何故か直接ほとんど利害関
係のないシベリアへ出兵したのか。利害関係があるというのなら話は全く別であるが、
事実アメリカはカムチャッカの割譲を熱心に希望していたのであるが、それはさておき
、アメリカの参加の真の目的はボルシェヴィキの援助だったのである。重複をかえりみ
ず説明すれば、このアメリカ遠征軍には奇妙なことに英語の話せない米兵が多数いた。
これらの米兵は、実はポーランド出身のユダヤ人の義勇軍だったのである。つまり、隣
にあって、たえず自分達の脅かす脅威であったツァーを打倒したのであるから、これを
永続させねばならない。つまり、ボルシェヴィキを援助しなければならない。それが、
ポーランドのユダヤ人が米軍に参加した理由である。いや援軍を集めた裏社会の巨大な
金融家の本音であった。とにもかくにも アメリカ自身はるばる兵を出して来ているの
であるから、日本を侵略者と呼ぶことはさすがに気がひけたのであろう。以上で、満州
事変以後を日本の「侵略戦争」と呼ぶ理由をお分かりいただけたと思う。もっと言えば
日米開戦の真珠湾攻撃からを「侵略戦争」としなかった事も同じ理由である。ドイツと
戦争した時、既に公けに在米日本人を日本に帰し、既に米国に入国拒否をしていたし、
日系アメリカ人を既に収容所に送っていたのである。つまり既にドイツと英国の戦争時
に日系アメリカ人は収容所で志願兵として志願し、あの史上最大の作戦と言われたノル
マンディー作戦の遥か前に志願兵で訓練され、上陸前にイタリア戦線で戦い、米国では
一番勲章の多い部隊として レッドブルの歩兵隊で参加し、失われたテキサス大隊救出
作戦を行い半数の兵士が殉死していたのである。勿論援蒋ルートの物資補給やハワイの
暗号解読基地建設など、数々と公的に対日本戦略を既に繰り広げていて、日米決戦から
の侵略戦争が始まったなどとは口が裂けても言えなかったのだ。しかし実情は、日本の
中国進出はベルサユ条約で確定されたもので南洋ドイツ領の支配も国連からの権利譲渡
である。つまり正に日本の侵略戦争を言うならコタバル上陸からであり、中国は既に、
欧米了承の決定事項だったが、それが言えなかったし、支那や韓国の判事を置かなかっ
た理由でもあった。

1635: 名無しさんAA:18/09/03 12:47
「ソビエト社会主義共和国連邦および オランダが、本件における訴追国であり、また
両国とも日本にたいして自国側から宣戦したということを、記憶しておかなければなら
ない。が、ソビエト連邦に関するかぎり、かりに自衛ということは、ある条件のもとに
、戦争を開始することを容認するものであると解釈しても、同国の対日宣戦当時の事態
から、防衛の考慮から必要となった戦争であるとして、これを正当化するような事態で
あったとはいえないであろう。」と記述している。これによって、ソ連には分割統治の
夢が消えたのである。連合国側が一方的に極東国際軍事裁判を開いたのだが、この裁判
の参加は、そしてドイツの裁判でも使われた「ナチス悪者・ヒットラー独裁者論」で支
配国や国民は利用された被害者としての位置づけがなされた事の再現だったが。ソ連が
昭和20年(1945年)8月8日に対日宣戦布告や昭和16年(1941年)12月
8日のオーストラリアやニュージーランドの宣戦布告している事の終了を意味する物に
変わったのである。ジャクソン検察官というのはドイツを裁いたニュルンベルク裁判で
「侵略者」の定義をした人だが、その時その定義の一番目に「他国に宣戦を布告する事
」という規定を用いた。この定義はその時欧州社会で受け入れられた。これを受け入れ
ないのであれば「自衛」と呼べるかもしれない、と述べていますが、連合国側が侵略の
定義をしておきながら、東京裁判でオランダの「宣戦布告」行為はスルーしている。お
かしい話なのです。さらにパリ不戦条約の中では次のように定められている。
第一条 締約国は国際紛争解決の為戦争に訴ふることを非とし且其の相互関係に於て
    国家の政策の手段としての戦争を放棄することを其の各自の人民の名に於て
    厳粛に宣言す
第二條 締約国は相互間に起ることあるへき一切の紛争又は紛議は其の性質又は起因
    の如何を問はす平和的手段に依るの外之か処理又は解決を求めさることを約す
この条約は「自衛権」は認めており、その判断はその国に委ねることになっています。
ソ連の対日参戦は「自衛行為」であり、オランダの対日宣戦布告も「自衛行為」だった
とし、条約違反でなかったとするのであれば、日本の戦争も自衛行為になるのであり、
日本がパリ不戦条約違反だと訴追するのは無理があります。もし、日本の戦争を「条約
違反」「侵略」とするのであれば、ソ連もオランダも同じように「条約違反」「侵略者
」ということになります。二国には訴追の資格はない、ということです。そしてパール
判事は次のように皮肉っています。「みずからかように犯罪を犯した国々が、自国民中
の同種の犯罪人を等閑(とうかん なおざり)付し、一丸となって、戦敗国民を同様の
犯罪のかどで訴追しようとは、かりそめにも信じられない。」と

1636: 名無しさんAA:18/09/03 12:47
又「(ソ連の行為は)
すでに敗北した日本にたいする戦争の中に『方法を選ぶことも、また熟考の時間をも許
さないような緊急かつ圧倒的な自衛の必要』を読み取ることは、おそらく困難である」
「攻撃を受ける危険のないところに、幾分でも防衛の必要があった− その必要が緊急
なものにせよ、そうでないにせよ、圧倒的であるにもせよ、そうでないにもせよ −と
判断するのは困難であろう。日本はすでに致命的に弱められソ連はそれを知っていた。
1945年8月6日、日本は最初の原子爆弾攻撃を受けているからだ。」と 激しくパ
ール判事はソ連の宣戦布告は自衛権の行使とは言えないと述べていた。


1637: 名無しさんAA:18/09/03 13:37
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 41

 こうして第一の、自己の戦争責任の免責を行った。本格的な戦争責任論は、例えば、
原爆投下や無差別爆弾などの議論はあらためて論議するものとして米国の大統領の責任
論が出る前に、大きく火消しに転じた。自己が火の粉をかぶる前に、その責任を日本の
「支配階級」、すなわち「天皇制=軍国主義者」に転嫁することでそれは成功した。が
一方で「支配統治=天皇制の容認」でもあった。この事は国内の、マルクス主義を喜ば
せた。以後 自分達に追及の手がのびることのないよう複雑怪奇な形に転じた、それは
一般の日本国民に対しては一見寛大とも錯覚させる被害者意識を植えつけることだった
。周恩来首相の度々の発言の如く、責任はあげて「天皇制軍国主義者」にある日本国民
には責任はない、否むしろ日本国民は被害者である。」とする論法で話かけて来ている
。こう言われると、日本国民は戦争責任者の追及は、国際社会既にに終わったかの様に
錯覚する。それというのも、日本国民自身が免責されているのであるから、この論法は
耳ざわりのいいことこの上ない。かくて、中国の罠と知らず、日本国民は以後すっかり
戦争責任は一握りの「天皇制軍国主義者」にあるとの論を植えつけられ、真の責任者の
追及を放棄したのである。マルクス主義というものは、これを手段として有効に利用す
るものと、逆にこれに利用されるものとの二者がある。前者が後述するニューディーラ
ーであり自民党幹部であり、後者が日本共産党である。ニューディーラーは実に巧妙に
階級闘争史観を駆使して、自己の戦争責任免責に成功した。果たしてそううまく事が運
ぶものであろうか。しかしここに、この勢力の予想だにしなかった事態が起こるのであ
る。この勢力の駆使するのは正真正銘のマルクス主義の唯物史観に基づく階級闘争史観
を持った朝鮮人民である。このマルクス主義は、資本を社会の共有財産に変える事によ
って、労働者が資本家の財産を増殖するためだけに生きるという。過酷な賃金労働実態
の悲惨な性質を隠し、階級のない協同社会を目指す物としている。これを標榜する中国
は、共産党政権が国民党の共産主義と戦争の激化を起こした。同じ共通の敵であった筈
の日本軍が居なくなった事で権力争いとなったのだ。広大な土地を持つ中国に於いて、
何故だか話し合いはつかずに共同統治にならなかったのである。又同時に朝鮮半島も又
同じだった。つまりこの理想を標榜するマルクス主義は、ここに絵空事で空虚な夢であ
ったことが世界に知れ渡ったのである。そして資本主義として持ち込んだ理論が、何故
か日本共産党が戦前から主張していた講座派史観とピタリと一致したのだ。もともと、
この持ち込んだ勢力こそ、マルクスに変革のための虚構ハイポセシスの構築を依頼した
張本人なのである。

1638: 名無しさんAA:18/09/03 14:03
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 42 

 もう一度整理すると、日本共産党が東京裁判の結論に両手を挙げて賛意を表したため
に、唯物史観の論理上から「天皇制軍国主義者」が戦争の全責任という彼らの狙いは揺
らいできた。このことは、東京裁判そのものに対しても打撃であろう。少なくとも日本
と同じに天皇の様な皇帝を持ち排除した中国や朝鮮半島に於いて戦争は終わらなかった
のである。改革を叫ぶ輩はただの賊徒でしかなかったのだ。これで日本共産党の講座派
史観と全く同じ論法を東京裁判に持ち込んだこの勢力は、平和の使者として開放者とし
ての今日の主張が、現実世界での治安維持が出来ないお粗末によって、自己も無関係と
してはおれなくなった。少なくとも南北朝鮮の戦争は、日本に直結する脅威となった。
ここに、東京裁判の論法はすでに正義を失っていた。しかしたとえ戦争責任については
 逆転されたのだが、深堪なる影響を日本の戦後史に与えてしまっていた。第一に、日
本の社会へ階級闘争を持ち込んだことで、続く日本国憲法へ実体法のカテゴリーに属す
条項を挿入することによって、確固たるものとして定着させられてしまっている。この
階級闘争もさることながら、より大きい病巣は宗教性の呪縛であったが、この呪縛さえ
天皇支配が必要である理由が大陸に起こったと言う現実は耐えがたい物だった。東京裁
判式の論法の、善玉・悪玉論理をはぐくむことにはなったが。戦争責任はあげて一握り
の支配階級たる天皇制軍国主義者にあって、大部分の国民はむしろその被害者であると
する論法は、先ず第一に戦争責任者を国外に求めることを忘れさせる効果をもち。国外
の旧敵国はいかにも、ものわかりのいい寛大な存在に映り、以後の占領政策をやりやす
くする効果をもったが、国民には常に疑問の中に存在した。ここにユダヤ教的な善玉・
悪玉の二値論理が持ち込まれたものの悪業があった、こうして、悪玉「天皇制軍国主義
者の支配」された思考、戦前の日本はすべて悪であるとする観念が生じさせたものの、
日本人の懐疑の目は、事後の世代には止められた。支配階級というものは常に悪玉であ
ると教え込まれ、戦後の政権担当政党も支配階級の代弁者であるから当然悪玉である。
故に、これにことごとく反対することは善玉の崇高な使命であると信じ込まされること
になる。今日みる如く政権担当政府のやることには何でも反対する思潮は、このように
して東京裁判を通して巧妙に持ち込まれ、現代の自虐史観を形作る。これらを確固不動
のものにするため日本国憲法を作成し、その賛同者として日本共産党を利用することに
なった。その為にわざわざ三鷹事件まで起こっていた。


1639: 名無しさんAA:18/09/03 14:04
これは連合国軍占領期の昭和24年7月朝に、国鉄三鷹車庫から無人の電車7両編成が暴
走して、三鷹駅の下り時速60km程のスピードで車止めに激突し、そのまま車止めを突き
破って脱線転覆し6人が死亡した事件だった。この時ストを起こした国労を犯人とされ
たが、殆どにアリバイがあったとされる。国の上層部は自分達を被害者=善玉と規定し
てくれたアメリカ占領軍の政策を、善と持ち上げた輩に無理してでも譲渡せざるをえな
くなった現実の事件だった。この事でマッカーサーは思いあぐねて、北朝鮮戦略に原爆
投下を示唆したし、日本に於いて緊急に治安維持隊の必要に迫られた事で日本を信じる
のである。



1640: 名無しさんAA:18/09/03 14:56
 そもそも、日本国憲法の本質についてご説明申し上げれば、ワイマール憲法を作った
ユダヤ人の一人として将来の日ユ関係のためにも、是非とも日本人の皆様の前に白日の
下にさらしておかなければならない事がある。日本国憲法の評価について、真っ二つに
割れている感がある。一方は、この憲法は占領軍の押しつけ憲法であり日本の実情には
なじまない。という主張があり、もう一方は、金科玉条これを絶対善として何がなんで
も一指だに触れさせじと固持している。私の見るところ、両者ともこの憲法の隠された
深奥部にある本質を見抜いていない。前者の考えは一面の真理ではあるが、決して真実
ではない。後者は論理的思考を欠く信仰の所産としかいいようがない。又池田や佐藤の
内閣では従軍拒否に利用され、この憲法の本質がユダヤ的思考の所産であることを知ら
ないまま、上手く利用してきた。これは驚きである。この憲法の本質を知るユダヤ問題
を持たない日本人には、距離がありすぎるのかも知れない。しかし、これはどうしても
ユダヤ人が本質解明の道案内をしなければ、日本人は永遠にこの憲法のもつ強烈な宗教
的呪縛力の桎梏のもとにあえぐことになるかも知れない。一ユダヤ人として、そうとあ
らば、このまま放置しておくにはあまりにも重大な責任を負わされているような気がす
るからだ。この憲法の作者はユダヤ人であり、そこに貫かれているものは第二次大戦の
終結時では、すでに極めて時代錯誤的なユダヤ思想となっていた。単に時代錯誤にとど
まらない。もっと致命的な我々ユダヤ人の犯した誤ちがあったのだ。今日の日本人の皆
様がこの憲法に潜む矛盾から逃れる道は、この憲法の奥に秘められた本質をできるだけ
早くつかみ、そのルーツを白日の下に曝すことであろうと私は思うが、この憲法を一言
で表現するなら、「往来で道を尋ねられた時、故意に反対の方向を教えたもの」と言い
たい。日本の識者の間で、今日の日本はワイマール体制の末期のドイツに酷似している
のではないか、といわれている。これは真に、興味深いことであると思う。ワイマール
憲法制定の舞台になった「ワイマール国民劇場」で賛同を得て1919年から1933
年までのドイツ共和国憲法が表明された。このドイツ共和国憲法を「ワイマール憲法」
と呼ぶ。しかしワイマール憲法と日本国憲法の類似性よりは、かつて大日本国憲法があ
った日本は、プロイセン憲法の大日本憲法を改良して日本国憲法にした事でワイマール
憲法の丸写しの様なずさんな憲法が出来た。ドイツ帝国のワイマール体制の支柱となっ
たワイマール憲法は、ご存知の通り、ユダヤ人で内相も務めたフーゴ・プロイス以下3
名のユダヤ人によって共和国体制の為に作られたものである。また日本国憲法はGHQ
のユダヤ人ケーディスなどのニューディーラーによってわずか「2週間」という短日時
に作られたものであった。

1641: 名無しさんAA:18/09/03 15:01
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 45 

 プロセイン憲法発行にはにはスパルタクス団が関与していた。当初ドイツ国内にも、
第一次大戦に於いて大勢のロシア人が避難民として亡命してきたがその多くは共産党員
であった。つまり 共産党員をロシア皇帝が排除したのである。第一次世界大戦の末期
の1918年10月、ドイツ海軍が無謀な出撃命令を拒否して、キール軍港の水兵反乱
が起きると、たちまちに全国に広がり、全国各地で労働者と兵士が連帯して労兵評議会
(レーテ)が結成された。ベルリンでは11月9日にそれまで戦争に協力してきたドイ
ツ社会民主党も、戦争中止と皇帝の退位を認めざるを無くなり、ヴィルヘルム2世は、
オランダに亡命してドイツの帝政はここに崩壊した。同日、社会民主党のエーベルトを
首相とする政府が成立し、「ドイツ共和国」が発足した。こうして第一次世界大戦では
ドイツが敗北して終わり、ドイツ第二帝国は崩壊しドイツ共和国が成立したのである。
この時社会民主党に、急進派のスパルタクス団がロシアのソヴィエトに真似た労兵評議
会(レーテ)を権力の中枢につけようとした。しかし多数を占めた社会民主党はそれを
拒否して、選挙による国民議会の開催を進めた。政府と社会主義勢力の激しい対立は、
1919年1月、プロレタリア革命を目指したスパルタクス団(ドイツ共産党から改称
)が武装蜂起したが、軍部と結んだ社会民主党政府によって武力弾圧をうけて敗北し、
終わりを告げた。以後は2月にヴァイマルで国民議会が開催されて、ヴァイマル憲法の
もとでの議会制民主主義をとるヴァイマル共和国となった。その後もコミンテルンの指
導を受けたドイツ共産党の革命運動がドイツ革命といわれたがいずれも社会民主党政権
によって弾圧され、失敗した。この時、後進的なロシアでは暴力革命という手段に訴え
成功していた。しかし資本主義が発達し代議制度も発達していたドイツでは、あらゆる
努力の結果、とにもかくにも、ワイマール共和国というユダヤ政権を樹立した。それは
ポグロムに憂う1%に満たないユダヤ人の努力であって。この体制を維持するため早速
、憲法の作成にかかったからである。したがって、その憲法の本質とするところは、今
までのドイツ国内において、差別され虐待の憂き目に会っていたユダヤ人に対して彼ら
の権利を大幅に獲得させるものであった。また同時に、政府の要人のほとんどをユダヤ
人で占めているワイマール体制というものを、ユダヤ革命政府として今後とも維持して
いかなければならないと考えたのは当然で、以上の目的のためユダヤ人が作成したのが
このワイマール憲法である。

1642: 名無しさんAA:18/09/03 15:22
 しかし残念ながら、このワイマール憲法の作者ユダヤ人プロイス以下、当時のユダヤ
賢哲達は、教条主義に陥っていたといわねばならない。ワイマール憲法の最大の目的は
ユダヤ人にとって自己の、中世以来の伝統的な差別を撤廃し、平等権を確立することで
あった。この点は、以下に見る如く全てにわたって成功している。プロイスは、そこの
処で止めておけばよかったのである。とにもかくにも、ドイツ国民と平等な権利を獲得
したがそれ以上の確保を望んだ。ここでプロイスは色気を出した。それは、ユダヤ民族
の反撃戦のプログラムの要蹄ともいうべき要素の指示だせるところを盛り込んでしまっ
たのだ。それは簡単にいえば、19世紀のプログラムであるマルクス主義から一歩飛躍
した闘争方針の要蹄を指示するものといえよう。その一歩飛躍した闘争方針というのが
、神経戦、心理戦を主とした闘争の道具となる。マルクス主義が経済的闘争の道具であ
るのに対して、「人間の純度」を落とすことを狙いとした人間を闘争本能まるだしの、
動物的なものに回帰させるのを目的とする、広義な民族生存権の主張であった。計画の
手段となるのが、フランス革命の時用いた「自由」「平等」である。「自由」「平等」
のスローガンは、またもや役に立つことになったのである。これによって既存の国家を
内部から崩壊させようとするものである。今回のここで言う「自由」「平等」の言葉は
、フランス革命当時の様な、素朴に「自由が欲しい」、「平等が欲しい」といったもの
ではない。この違いは、18世紀の未成熟社会と20世紀のドイツの如き成熟社会との
差によって生じた兵器の進化や経済の差などは、成熟社会における「自由」「平等」は
文化・文明の差は、調和を崩すのがより簡単で、国内を収束のつかない混乱を導く危険
を包有するものである。さらに「自由」と「平等」の2つの概念は、対立しておりより
矛盾が深く、混乱は幾何級数的に増大する。我々ユダヤ人は当初「自由」「平等」とい
う言葉の裏にかくも恐ろしき毒素を含んでいたことをはっきり知らなかったのである。
全く頭が悪いといわれても仕方がない。プロイスは、これをワイマール憲法に盛り込ん
でしまったのである。これはまさしく、教条主義的態度であったといえよう。ワイマー
ル体制というのは、全く自分達ユダヤ人が、レーテ(権力)を握っていない状態での、
の握る為の規則である。自分達が直接君臨している国家では、敵(非ユダヤ人)に国家
を突き上げる「自由」「平等」を吹き込むことは威力であった。丁度米国内の銃砲携帯
と同じく、自分の守りも固くなるつもりだが、より攻撃も容易く威力を増す。平和の使
者に上を向いてツバするが如き自己撞着であった。こうして平和政府の下でも悪質な、
「自由」「平等」をかざして突き上げが起こり、困るのは当然であった。しかし、プロ
イスはこれを盛り込んでしまっていたのだ。これは信じ難いほど頭が悪いものだった。
しかし、当時に日本が理想とする現存国家だとは 西洋人には理解がほぼなかったのだ。

1643: 名無しさんAA:18/09/03 15:36
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 47 

 さて問題は、これに対する国民の反応である。このワイマール憲法に対する闘争とし
て起こったのが、他ならぬナチズムである。本来なら、ドイツ国民は内部分裂によって
、その突き上げでワイマール政府を倒すことになるはずであった。しかし、ドイツ国民
の反応はそれとは正反対に、完全無比な国民的統合の精神によってそのワイマール体制
を倒した。それは高邁なアドルフ・ヒトラーの出現でなされた。ワイマール憲法がナチ
ズムを生んだのである。何故こうなったのか。賢明なドイツ国民は、真理に背くものを
看破する能力をもっていたということになる。「自由」と「平等」は両立しない概念で
あった筈だ。その点をドイツ国民が見抜いた結果起こったのが、ナチズムだったである
。某書店発行の六法全書には日本国憲法の前頁にアメリカ独立宣言の一部が載せられて
いる、これをフィルターにして日本国憲法を考えよと言わぬばかりである。しかし編者
達は、感性的認識ながら日本国憲法のルーツを感づいて知っていた筈だ。しかし、漠然
とした認識では本質を極めることは困難かと思われる。このひねくれた二律背反の主張
が、フランス人のみならず、崇高な希望の主張と共に、いつでも変えられる境界線上に
ある事はは、砂上の楼閣の様な資本主義社会の危うさを示すものだった。人々が真摯に
見ずに基本としてる主観である事だったことも、自然の奥深さに無知の事も示した。兎
も角も、このワイマール憲法の下での、多数決の議決を得て、民主的歓声の中でヒット
ラー政権は生まれているのである。ワイマールの街には、代表するホテル「ホテルエレ
ファント」があるのだが、このホテルをヒトラーは気に入って最終的に、このホテルは
ナチが経営する程になった。この2階は、かつてナチが会議室に使っていた部屋の広い
客室にの先には、つづきにバルコニーがある。ヒトラーはこのバルコニーに出て、この
歓喜に沸いたパレードを眺望していたのである。当時ドイツ国内の各所が革命から来る
革命疲弊にやっと一息ついて経済の持ち直しに成功しているところであったのである。
しかしその後に、世界恐慌が起きてしまった。失業者が街にあふれた。さらには、失業
していない人びとの心の奥にも、失業への恐怖というものが渦巻いた。そういう中で、
ヒトラーは「経済対策」と「民族の団結」を前面に打ち出し、ストレートな表現で熱狂
させた。「強いドイツを取り戻す」「敵はユダヤ人だ」と憎悪を煽る演説が得意だった
。ヒトラーは「反感を買う」言葉「人受け」する言葉を使うのはうまかった。あえて使
った。例えば、「独裁」=「決断できる政治」、「戦争の準備」=「平和と安全の確保
」といった様な具合でオブラートに隠した危険な言葉を次々と上手く表現し発した。


1644: 名無しさんAA:18/09/03 15:44
 アドルフ・ヒトラーは「平和を愛するとともに、勇敢な国民になってほしい」「この
国を軟弱ではなく、強靭な国にしたいのだ」「この道以外にない」などと言ったのだ。
改訳すれば「我が国の平和の為に戦争しよう。ドイツの為に戦おう。臆することなく殺
し合いしか道はない。」と言う事になる。ヒトラーの腹心ヘルマン・ゲーリングも、後
にその手法を語っている。「国民は指導者たちの意のままになる。それは簡単な事で、
自分たちが外国から攻撃されていると説明するだけでいい。平和主義者に対しては愛国
心がなく、国家を危険にさらす人びとだと批判すればいいだけのことだ。この方法は、
どこの国でも同じように通用する。」と言った。こうしてワイマール共和国の憲法とし
てドイツ革命によりドイツ帝国が崩壊して出来た、国民議会が開かれて「暫定的国権に
関する法律」を制定して憲法制定権を獲得し、やっと出来た民主憲法は、国民議会で大
幅に修正したのちに可決し出来上がった。本文は2編から成文され第1編は「ライヒ (
連邦) の構成および任務」で第2編は「ドイツ人の基本権および基本義務」であった。
これは,近代的憲法は国家の統治機構と権利章典とを定めたものでなければならないと
の理念をそのままに具体化したものである。
(1) 連邦制の存続。先のビスマルク憲法の連邦制を継承したが、プロシアの優位と各支
         分国 (ラント) の権限とは弱められた。そして,ラントを代表する
         機関としてのライヒ参議院設けて、立法および行政に参加する権限
         を与えた。
(2) 国民主権の採用。前述の帝制を規範化し,「ドイツ国は,共和国体とする。国権は
         国民から発する」 (1条) と定め,国民の直接選挙による大統領を
         おき、元首で最高行政機関とした。
(3) 民主主義的諸制度の広範な導入。ライヒ議会などの選挙における完全な普通,平等
         、直接、秘密の原則の保障、比例代表制の採用,国民票決,国民発
         案などの直接民主制度の大幅な導入などを行なった。
(4) 社会権的人権の保障。第2編において国民の基本権の保障についての50ヵ条をこ
         える規定を設け,法のもとの平等の原則を認め、また伝統的な自由
         権を保障するほか,プログラム規定としてではあるが社会主義的な
         生存権的基本権を定め,その後の世界各国の憲法の先駆となった。
しかし,その後のナチスの台頭により,大統領の緊急命令発布権 (48条) に基づいて
出された 33年2月の「国民および国家を保護するための大統領令」は国民の自由を大幅
に制限し,さらに同年3月の「国民および国家の困難を除去するための法律」 (いわゆ
る授権法 ) はこの憲法をまったく形骸化してしまった。そしてドイツは崩壊へ向かう。

1645: 名無しさんAA:18/09/03 15:49
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 49 

 実はこの時ヒットラーが使ったのはワイマール憲法の第48条「国家緊急権」という
やつだった。これが分枝点になった。これは、国家が緊急事態に陥った場合に大統領が
公共の安全と秩序、これを回復するために必要な措置を取ることができる。大統領が司
令し指導し、一義的には何でもできてしまうという条文だった。この条文がヒトラーに
独裁の道をついに開かせてしまった。では、なぜそもそもこの条文が入っていたのかと
いえば、憲法を作った当時の人たちが、国民の普通選挙による議会制民主主義という形
のものをまだ完全には信用していなかった。加えて周囲はロシア・英国・仏国・トルコ
などの列強帝国に囲まれた小国の連合体だったのである。更には国民の男女平等による
議会というのは初めての事だった。言ってみれば憲法をつくろうとしていた人達は真に
政治は食糧すなわち台所に直結していた時代だった。このぎっしり詰まったソーセージ
のように、疑心暗鬼の時代に、庶民はまったく信用されていなかった。ということだっ
た。その為、ヒトラー以前にもこの条文は何回も使われてはいた。議会が紛糾して、全
く動かなくなる。さあ、どうしよう。法律を通さなければいけないというときに、何回
もこれは使われていた。しかし、ヒトラーは巧妙にこれを悪用したということだったの
だ。当時のドイツの政情は左翼勢力・右翼勢力の対立が激しく、各地で暴動や反乱が、
くり返され非常に不安定だった。そんな中で、国家緊急権行使を後押しした保守陣営と
、そして財界があった。財界も何もナチのことは好きではなかった。けれども、何より
も共産主義勢力の盛り上がりを怖がっていた。育てた工場や農場が政府指令で接収され
たら堪らないからだ。憲法裁判所の元判事のディーター・グリム教授は、「ヒトラーは
国家緊急権で自由を廃止し、野党の息の根を止めた。それが 民主主義と議会の終焉に
つながった。この憲法で、まさか独裁者が誕生するなど思いもしなかった。でも、実際
に独裁者は誕生した。それは、想像を超える世界でした。」野党が自由を奪われた選挙
で、ヒトラー率いるナチ党は議席をふやして、いよいよ仕上げにかかろうとしました。
恫喝と懐柔を駆使して反対派を従わせて、議会の3分の2まで押さえて成立させたのが
、あの「全権委任法」です。国会の審議を経ずに、政府が憲法の改正を含めてすべての
法律を制定できてしまう法律です。この瞬間、世界一民主的な憲法の下での、合法的で
個人崇拝の独裁が確立したんです。ヒトラー「私やナチを疑うのは頭がおかしい者か、
ホラ吹きくらいのものだ。我われはドイツのために戦う。断固として戦わなければなら
ないのだ。」といつまでも繰り返し、民衆はその声に次々に慣れて行って洗脳された。

1646: 名無しさんAA:18/09/03 16:03
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 50 

 18世紀の大西洋での 革命的アメリカの独立とフランス革命の時代に、「自由」「
平等」の相反するスローガンが基本概念として起こったが、それを日本国憲法に持ち込
んだ本質こそ、真理の根源を見究める上で大なる力となる。これが邪なことはもちろん
だが、直接的にはワイマール憲法にメスを入れることも不可欠と思われる。しかるに、
このワイマール憲法に関する研究は日本では非常に少なくて、また日本国憲法との比較
研究が全くといっていいくらいお目にかかれないのは、一体どうしたことだろうか。そ
れにはやはり理由があるようである。それは、ワイマール憲法そのものが国際的には、
タブー視される中となっていることである。口でこそワイマール憲法というものは決し
て珍しい言葉ではないかも知れないが、現実にその内容に関してはタブーの網が張られ
ていることに存外気がつかないものである。部類の戦争好きのフランクリン・ルーズベ
ルトは、ユダヤの世界では今日では絶対のタブーとなっている。したがって、ルーズベ
ルトに関するあたりさわりのない評はいろいろ出ているが、その本質をうがったものは
皆無に近いといえる。このため、第二次大戦の真因はだいぶ混乱させられているのだ。
では何故、ワイマール憲法はユダヤ人にとって都合が悪いのであろうか。それは、その
本質を徹底的に掘り下げれば分かることであるが、そこに発見されるものは、ナチズム
台頭の必然性があるからだ。何故ナチズムが発生したのか。今日までナチズムに関する
著書はあまたある。しかし、それは真因を突きとめたものはない。大抵の場合、例のご
とく「集団発狂伝説」や「ユダヤ敵視説」といわれる類いのものである。しかし、この
ワイマール憲法を深く掘り下げるときそこに発見されるのは、自然の摂理に背くものを
内包し、助長しているという事になる。翻って、日本国憲法のルーツを探るためにも、
このワイマール憲法の本質にメスを入れることが焦眉の急となってくるわけである。が
このワイマール憲法というものが、一口でいえば、中世以来、言語に絶する苦難の道を
歩まされた在独ユダヤ人達の、血の出るような最低限の要求を実現させたもの、といえ
る事を知る日本人も少なく、それだけではすまない大きな世界戦略がある事はなかなか
知り得ない。ここにこそ問題が秘められているといえよう。この点については逐次詳述
するが、日本国憲法も重要な部分はこれと全く軌を一にするものなのである。ワイマー
ル憲法は表面に出すことをタブーとされ、日本国憲法は改訂を唱えることをタブーとさ
れている。真に皮肉なパラドックスである。


1647: 名無しさんAA:18/09/03 19:02

< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 53 

 GHQは日本に永久に存在して行く勢力ではないものだ、国際的金融ユダヤ勢力であ
る監視団体だった。占領が終われば、引き上げざるを得ない。そこにケーディスは、自
分達は引き揚げても、己の創ったエピゴーネン(継承者)を養成して残していった。そ
れが共産党と自由党であった。エピゴーネン達は真に忠実に主人のために、戦後30余
年たった今日でも日本国憲法には一指だに触れさせていない。それは社会党の援護も不
可欠だったのだろう。こうして日本の戦後占領体制は、実はユダヤ人も誰も君臨しない
ままの、ワイマール体制を引きずっている。憲法の第28条に「勤労者の団結する権利
及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。」となっている。これ
も当時、憲法を作成したユダヤグループの最大の目的とするものの1つであった。この
ような実体法に属するものを当時憲法に組み入れるのは常識外であり、法学の素人のす
ることだが、ユダヤ人の理想や悲願を込めたものだった。ルーズベルトの若手ブレーン
の一人であったケーディスは、ルーズベルトの下で労働問題をある程度研究していた。
ジュー・ディールと皮肉られたニュー・ディール政策は一口にいえば共産主義化政策に
他ならない。その為、ルーズベルトは1933年5月12日に「農業調整法」を作った
。これはインフレ政策の本質で赤字で刷り過ぎたお札の発券責任者中央銀行へ返還のを
暴露したものであった。その他、「産業復興法」も作っている。これも同業の自由競争
を排除せんとする目的のものであり、政府が金を支出する事で発券価値のギャップを埋
め合わせた事例だ。これに乗じて産業統制に、合法的に乗り出そうとする政策を次々に
打った。さらに最低賃金を規定して、労働者の団体交渉権を強引に認めることにした。


1648: 名無しさんAA:18/09/03 19:02

これらのルーズベルト政府の共産主義化政策は1935年頃から徐々に馬脚を現わし、
景気回復を幻想と化し、独占強化、資本対立の激化、労働不安の拡大とアメリカ資本主
義を根底から崩して行った。さすがにたまりかねた連邦最高裁は蛮勇を振るい1935
年5月、ついに憲法違反の判決を下した。が、ルーズベルトも、これ以上の共産主義的
政策を断念し、国内をいじくる事を止めて、金融家の資金繰りの為に戦争発動に邁進せ
ざるを得なかったのである。何故なら共和党全国的指導者のウィリアム・マッキンリー
についていて、ハワイやフィリピン併合に大きく反対し、併合時に、大隈重信総理から
「これほど激烈で宣戦布告か最後通牒に等しいような外交文書は見たことがない」とい
う程の文書を受け取っていたからだ。米西戦争でフィリピンの独立勢力を支援していた
が、戦争に勝利するや一転して弾圧し、フィリピンおよびカリブ海のスペイン旧植民地
をアメリカの保護下に置いた。此処で米国は完全に逆転していた。このメジャー支配に
戦い保護貿易主義を取り、外国製品に対して実に57%という 史上最高の関税率をかけ
て、「ディングレー関税法」を制定しドル発行権を模索したが、暗殺されたのだった。
この暗殺の後に彼の後任が、副大統領のセオドア・ルーズベルトが引き継いだのである




1649: 名無しさんAA:18/09/03 19:23
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 54 

 ところが、ルーズベルトはこれら国家的破滅を推進したのにもかかわらず、次の選挙
では労働界の大きな助力を得ることになった。アメリカ産業別労働組合会議設立して、
都合よく金をばらまき国際金融ユダヤ連盟の隠れた支援を受けたからだ。そして戦争を
したくてうずうずしていた彼やその支援団体は、諜報員を通して、目的だった中国大陸
の国民党や共産党に近づいて、共産党の抗日救国統一戦線を提唱させた。それはベルリ
ンオリンピックに乗じた諜報活動で成功していた。1935年の事だ。綿密な調査と分
析と計画が行われ、上海から支援を受けた共産党活動や英国との連携の軍縮会議を用意
した。ドイツがオリンピックに向けた国内建設需要で経済が持ち直してイギリスが疲弊
していたからだ。しかし、やっと復興にこぎつけて軍拡に向かうドイツは怒って軍縮を
蹴った。又支援を受ける中国の蒋介石や毛沢東は北平で学生1万名を動員した抗日・華
北分離工作反対の官製デモを行っていた。この動きに喜々とした米国政府は更に日本に
もドイツにも国際制約を宣言した。こうしたことは、ルーズベルトが本質において共産
主義者であったことの証左として一般に考えられていることでもある。ケーディスは、
若手法律ブレーンとしてこれらの国内問題にかかわってきたのであった。このケーディ
スが、日本国憲法にこの時の階級闘争を持ち込んだのである。受け入れた日本は、大日
本帝国憲法においても、第25条から第29条まで、「住所の不可侵」「信書の秘密の
不可侵」「財産権の不可侵」「信教の自由」「言論著作印行集会及結社の自由」という
項があり、なにも日本国憲法に限らずこのような被圧迫民族の基本権と類似する項目が
ある。それは大日本帝国憲法を起草した伊藤博文、井上毅が当時のドイツのユダヤ法学
者の影響を受けているためであり、ルーツは同じものであった。当時ドイツの法学界は
ユダヤ人法学者が牛耳っていた。大日本帝国憲法で伊藤博文は、「現時の国法において
は、君主は国家の上に位せず、国家の中に位し、君主は国家の統御者にあらずして国家
の機関となれり。君主は国家の機関にして国家のために活動すべしとの思想は、すでに
フリードリッヒ大王の有名なる『君主は人民を支配するところの専制君主に非ず、国家
の最高機関なり』との語において発表せられたり。」とこの中の憲法もそういう意味を
示唆していた。つまり明治憲法の天皇の地位と戦後の象徴天皇も実は、憲法発布当時は
なんら変わらない意識の下の文字だったのである。

1650: 名無しさんAA:18/09/03 19:28
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 54 

 ところが、ルーズベルトはこれら国家的破滅を推進したのにもかかわらず、次の選挙
では労働界の大きな助力を得ることになった。アメリカ産業別労働組合会議設立して、
都合よく金をばらまき国際金融ユダヤ連盟の隠れた支援を受けたからだ。そして戦争を
したくてうずうずしていた彼やその支援団体は、諜報員を通して、目的だった中国大陸
の国民党や共産党に近づいて、共産党の抗日救国統一戦線を提唱させた。それはベルリ
ンオリンピックに乗じた諜報活動で成功していた。1935年の事だ。綿密な調査と分
析と計画が行われ、上海から支援を受けた共産党活動や英国との連携の軍縮会議を用意
した。ドイツがオリンピックに向けた国内建設需要で経済が持ち直してイギリスが疲弊
していたからだ。しかし、やっと復興にこぎつけて軍拡に向かうドイツは怒って軍縮を
蹴った。又支援を受ける中国の蒋介石や毛沢東は北平で学生1万名を動員した抗日・華
北分離工作反対の官製デモを行っていた。この動きに喜々とした米国政府は更に日本に
もドイツにも国際制約を宣言した。こうしたことは、ルーズベルトが本質において共産
主義者であったことの証左として一般に考えられていることでもある。ケーディスは、
若手法律ブレーンとしてこれらの国内問題にかかわってきたのであった。このケーディ
スが、日本国憲法にこの時の階級闘争を持ち込んだのである。受け入れた日本は、大日
本帝国憲法においても、第25条から第29条まで、「住所の不可侵」「信書の秘密の
不可侵」「財産権の不可侵」「信教の自由」「言論著作印行集会及結社の自由」という
項があり、なにも日本国憲法に限らずこのような被圧迫民族の基本権と類似する項目が
ある。それは大日本帝国憲法を起草した伊藤博文、井上毅が当時のドイツのユダヤ法学
者の影響を受けているためであり、ルーツは同じものであった。当時ドイツの法学界は
ユダヤ人法学者が牛耳っていた。大日本帝国憲法で伊藤博文は、「現時の国法において
は、君主は国家の上に位せず、国家の中に位し、君主は国家の統御者にあらずして国家
の機関となれり。君主は国家の機関にして国家のために活動すべしとの思想は、すでに
フリードリッヒ大王の有名なる『君主は人民を支配するところの専制君主に非ず、国家
の最高機関なり』との語において発表せられたり。」とこの中の憲法もそういう意味を
示唆していた。つまり明治憲法の天皇の地位と戦後の象徴天皇も実は、憲法発布当時は
なんら変わらない意識の下の文字だったのである。

1651: 名無しさんAA:18/09/06 04:18
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 96 

 このネップこそロシアの理想郷だった。しかし、農民赤軍は戦時共産主義の穀物徴発
には怒っていた。農民の反発を買い、各地で農民反乱が起こり、エスエル(武力闘争共
産主義者)の指導を受けた共産主義を叫んだ。また1921年3月にはクロンシュタッ
トの反乱が起こった。レーニンはそれらの動きを赤軍によって制圧する一方、1921
年3月第10回党大会で、穀物徴発制を廃止して現物税(食糧税)制に切り替えること
を提案し、承認された。その背景には、1914年から7年にわたる戦争と内戦のため
、工業生産は戦前の13%に落ち込み、穀物生産は革命前の7400万トンから300
0万トンに激減し、経済が破滅状態にあった現実があった。このレーニンの新経済政策
(NEP)は、こうした事を踏まえて、第2次ロシア革命の経過の、大きな方向転換を
意味していた。農民は現物税(22年からは一律10%)を支払った残りの穀物を自由
販売することが認められ、小企業の私的営業の自由が与えられ、労働者の雇用、商取引
が認められた。この部分的に市場経済を容認したことによって生まれた小資本家達は、
ネップマンと言われた。これらの改革によって、制限はあったとはいえ、ロシア経済は
息を吹き返し財政も安定してきた。外交の転換も図られた。ソヴィエト=ロシアのボリ
シェヴィキ政権が、一定の自由主義経済を導入する新経済政策に転換したことは、資本
主義国との関係の転換ももたらした。レーニンも資本主義国との貿易関係を再開させる
望みをもった。1921年にはまず英ソ通商協定が結ばれ、イギリスとの貿易が始まっ
た。1922年には第一次世界大戦後の世界経済の復興協議するジェノヴァ会議に代表
が送られ、そのときにドイツとの交渉が進展してラパロ条約が締結され、初めてソ連が
承認された。しかし一方でコミンテルンによる世界革命路線との矛盾が生じていた。新
経済政策が決定される一方、共産党以外の党派の排除も進み、すでに立憲民主党(カデ
ット)は1917年に非合法とされ、社会革命党(エスエル)の左派、主流派、メンシ
ェヴィキも1922年からは存在が許されなくなった。また共産党内部でもレーニンが
1922年に倒れてから、ジノヴィエフ、カーメネフ、スターリンらが主導権を握り、
反対派弾圧が厳しくなった。レーニン死後の権力闘争によって勝ち抜いたスターリンは
、1929年にはNEPを否定して、計画経済と農村集団化による社会主義社会建設に
向かい、市場経済は認められなくなった。


1652: 名無しさんAA:18/09/06 04:18
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 97 

 ソ連史におけるネップ期(1921〜28年)は、スターリン体制が全否定された、
1980年代後半のゴルバチョフ政権でペレストロイカ期に、スターリン型の命令的な
計画経済が成立する前の社会主義の多様な形態が、可能性を追求した時期として再評価
されたが、市民暴動で止まった。しかし今のプーチンは、独裁ネップの形を取ったよう
な形で進んでいる。しかしこの頃の第一次世界大戦後のネップの終了は、自らの共産党
体制の属国を広げて、その国々との貿易体制で取り組もうとしていた。ここに国際旅団
の発現があったし、ロシア系アメリカ人の共産党があった。皇太子の欧州訪問後米国内
の日本包囲網が出来上がり2月13日‐ワシントン会議で日本・米国・英国・フランス
の四か国条約が調印されて、日英同盟が廃棄された。これは大問題であったのだが、こ
の時日本に力は無かった。又革命時のレーニンのまま米国との貿易があったならそんな
に日本は気にならなかったのかも知れない。しかし共産主義は次々に広まった。ソ連政
府は極東共和国を是認してはいたがこの民主主義国を支援はしなかった。「外蒙古」の
ボグド政府はこれに反対し、日本からの援助は期待はずれとなったため、汎モンゴル国
運動は内部分裂を起こして、1920年初頭に壊滅した。こうして1918年から1919年頃
に形成されたモンゴルの二つの革命グループが立ち上がっていたが、すなわち民族主義
者ボドーらを中心とする「領事館の丘」グループは折れて、ダンザン、ドクソムらを中
心とする「東庫倫」グループが1920年春に合体しモンゴル人民党を結成した。1921年の
革命をリードするモンゴル人民革命党に変名し、一党独裁政党でコミンテルンの一員と
して共産主義とソ連型社会主義を標榜、徹底したソ連追従政策を推し進めた。ポーラン
ドではソビエト連邦の間でリガ条約が結ばれる。ポーランドは西ウクライナと西ベラル
ーシを、ソ連は残りのウクライナとベラルーシを併合した。ここでも自由主義派のウク
ライナ人民共和国政府は、フランスに亡命し亡命政権となった。ハンガリー王国でも、
オーストリア=ハンガリー帝国皇帝カール1世が逮捕され、カール1世の復帰運動が失
敗し共産党政権に変わった。日本でもナショナリストは暗躍し原敬首相が東京駅で暗殺
された。原敬暗殺事件である。

1653: 名無しさんAA:18/09/06 04:19
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 98 

当初平和条約の交渉は、ソビエトが調印に躊躇したことにより、数か月延期された。当
時の方向として、ソビエトは自国の武力革命を必要なら、西ヨーロッパに輸出しようと
していた。もし、ボリシェヴィキがポーランドを占拠した場合、彼らはドイツの中の共
産主義者の助けを借りて、ドイツでのソビエト革命の成功を確実にすると考えられてい
たからだ。しかし、クロンシュタットの水兵の反乱が衝撃を与えた。農民がソビエトの
権力に対して蜂起し、農民は、軍隊を食べさせるための穀物を所有しており、消費者の
いる地域を望んでいた。この状況から、レーニンは平和条約の締結のため、ソビエトの
全権を委任しリガ条約で領土分配を決めた。結局、両陣営とも1921年にリガ平和条約の
調印を決定した。その条約で、ポーランドとロシアの間で、ベラルーシとウクライナで
紛争中の領土を分割した。リガ平和条約は、ポーランドの東国境を安定させた。しかし
新しいポーランドの州は、ポーランド・リトアニア連合が第一次、第二次のポーランド
分割でロシアへ失われたのは、ほとんどの少数民族の土地であった。ソビエトにとって
これらの住民はポーランド人に対する報復を引き起こした。莫大な資産(土地や森林)の
没収、宗教的迫害(1923年司教殺害)、そして、1931年〜1934年にカザフスタンへの強制
移住ポーランド人の全てが動いた。リガ条約の国境におけるポーランド側に住んでいる
ポーランド人を含む人々とウクライナ人と、ベラルーシ人、リトアニア人、ユダヤ人等
の少数民族約六百万人の人々は、1938年までの17年間、共産主義者の独裁者から解放
され、資産の自由や宗教の自由が許されたが、これは、民族差別からの避難ではなかっ
た。貧困にあえぎ、特に1929年からの世界恐慌において、彼らを保護することはなかっ
た。1920年にラトビア民主主義共和国とロシア社会主義連邦ソビエト共和国の間で結ば
れたリガ条約も同じだった。この条約により、ラトビア=ロシア戦争が終結しロシアは
、契約により確定された"永久の"国境線の下、ラトビアの独立を承認した。ロシアは、
契約により確定された"永久の"国境線の下、ラトビアの独立を承認した。条約はモスク
ワにおいて準備され、1920年8月11日、リガにおいて締結された。ソビエト・ロシアは
、ラトビアを独立した共和国であると認めた。第3条では、両国の国境線と、条約締結後
14日以内に、自国領へ軍を撤退させることが取り決められた。こうしてシベリア出兵と
並んで、革命勃発後のロシア西部の諸外国によるさまざまな軍事干渉が終わったのちは
第二次世界大戦が控えて居た。

1654: 名無しさんAA:18/09/06 04:20
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 99 

  1914年6月28日、サラエボ事件で皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が
暗殺されたのを契機として、第一次世界大戦が勃発した。当時は、皇帝フランツ・ヨー
ゼフ1世の長男ルドルフ皇太子が存命であり、皇弟カール・ルートヴィヒ大公の孫とし
て誕生していたカールは、旧パルマ公国の公女でカトリック信者であるツィタと結婚し
ていた。しかし、サラエボ事件当日、食事の時間にいくら待っても主食が出てこないの
を不審に思ったカール夫妻は、やがて侍従が電報を持って入ってきたのを見た。その電
報に目を通したカールは、顔面蒼白になって「フランツ伯父が暗殺された」と一言、妻
のツィタに言ったという。当時カールはウィーンの政治中枢から一貫して外されており
、一度たりとも開戦についての意見を求められたことはなかった。一大決戦であるセル
ビア王国への最後通牒についても、カールはある銀行筋からの電話で知った程の有様だ
った。カールは新たな皇位継承者になったにも関わらずこのような扱いを受けている事
に、フランツ・ヨーゼフ1世たっての願いで、開戦後に、カール一家はシェーンブルン
宮殿で皇帝と同居するようになった。カールは老帝から大いに信頼され、次のような評
価を受けている。「朕はカールを非常に高く評価している。カールは朕に明確に意見を
表明する。しかし朕が考えを固執するときには、それに従う気持ちを失ってはいない。
」1916年12月30日、カールはハンガリー国王「カーロイ4世」として即位する事になっ
た。聖イシュトヴァーンの王冠を戴かなければ正統なハンガリーの統治者とは認められ
ない為、戦時中にも関わらず荘厳華麗な即位式がブダペストのマーチャーシュ聖堂で、
挙行された。この即位式においてカールはこう宣誓した。「ハンガリーとその周辺諸国
の国境を、我々はこれまで通り存続させ、縮小させることなく、可能な限り拡大してい
こう」と。カールは皇族時代にひそかに帝国の完全連邦化を構想していたが、この宣誓
は明らかにカールが念頭に置いていた新体制を阻害するものだった。

1655: 名無しさんAA:18/09/06 04:21

< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 100

。1917年3月23日
夜、カールはラクセンブルク城において、皇后ツィタの二人の兄パルマ公子ジクストゥ
スとグザヴィエ公子と密談した。カールが彼らと密談した理由は、あくまで勝利を追求
する同盟国ドイツ抜きに、オーストリア=ハンガリー帝国と英仏との単独講和を締結す
るためであった。ドイツ帝国はまだしも、オーストリア=ハンガリー帝国の食糧事情は
深刻で、もはや戦争を続行できるほどの国力が残っていなかったのである。しかし後盾
のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位を宣言し、直後にドイツでドイツ社会民主党政権
が誕生したことを受けて、オーストリア社会民主党はオーストリア皇帝も退位するよう
要求し始めた。キリスト教社会党は王党派であったが、彼らも最終的に皇帝退位に同意
した。「国事不関与」宣言を発した皇帝一家は、その日のうちにシェーンブルン宮殿を
退去した。
 皇帝夫妻は、召使いに至るまで、ひとりひとりと握手を交わして別れを告げた。24
人の護衛兵の乗る自動車に先導されて、一家はシェーンブルン宮殿から、エッカルトザ
ウ宮殿に移った。1919年、オーストリア共和国初代首相カール・レンナーがエッカルト
ザウ城のカールのもとを訪れた。カールは謁見を拒絶し、代理として侍従武官レデコフ
スキー伯爵に会談させた。レンナーの話の要旨は、「無分別な輩が予測できない暴挙に
出る恐れがある」として、できるだけ早期に国外に出るよう勧告するものだった。外に
は共産党員の赤兵らしきものは富に増え数多くいた。実際、一ヶ月後にはエッカルトザ
ウの周辺を三百人もの赤軍が徘徊しており、配備された武装警官十人の護衛では安全面
に相当の不安があった。カールはスイスへの亡命を真剣に考え始めた。「近々オースト
リア皇帝一家が虐殺される。」との情報を「確かな筋」から受け取ったイギリス政府は
、ロシア革命の際にロマノフ家を英国王室と縁戚関係にあるにも関わらず見殺しにした
。と非難されたため、今度のハプスブルク家の出国には積極的に協力せざるをえなかっ
た。イギリスから派遣されてきたストラット大佐は、ハプスブルク家をめぐって共和国
首相レンナーと激しく対立した。レンナーは共産党員の党首として、皇帝の退位がなけ
れば出国させずに逮捕すると激高した。対してストラット大佐は「オーストリア政府が
、皇帝の出国を妨害している。バリケードを築くとともにオーストリア向け救援物資の
一切の凍結を命令する。」という電文をあらかじめ作成しておき、レンナーにちらつか
せた。これにランナーは絶句した。イギリスからの封鎖では太刀打ちできないからだ。

1656: 名無しさんAA:18/09/06 04:23
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 101

これには無条件で「皇帝」として御召列車で出国するカールを見逃さざるをえなかった
。皇帝一家に対するスイス側の態度は友好的で、かつ敬意のこもったものだった。入国
前には反君主制組織からかなりの批判を受けたが、しばらくするとカールへの批判は鳴
りをひそめた[43]。急進的な新聞でも皇帝夫妻の平和への働きかけを評価するようにな
り、保守的な新聞にいたっては歓迎の意さえ表していた。カールはエッカルトザウ宮殿
で王権停止宣言に署名させられていたが、法的にはあくまでカールが国王であったため
、スイス当局もカールを再び王位に登板させようとした。ハンガリーでは、カールの復
位を望む者、カール以外のハプスブルクを望む者、新しい王家を望む者、君主制に反対
する者もおり、混沌とした状況だった。カールはできるだけ早くハンガリーを訪れて、
自身がハンガリー国王であることを知らしめようと決心した。1921年、カールがハンガ
リーに入国するとテレキ首相の執政ホルティによって、結局この時のカールの試みは挫
折した。しかしテレキ首相が交代して、執政ホルティはハンガリーで強権的統治を行い
。国王支持者の計画的な追放が進められた再びハンガリーの地に向かった。
 再びハンガリー入国を決断し、子女をスイスに残したまま妊娠中の皇后ツィタととも
に飛行機でハンガリーに向かった。1921年10月にカールは再びハンガリーの地に降り立
ったが、この試みもまた失敗した。イギリス下院は秘密会議でカールをハンガリーから
連れ出すことを外務大臣ジョージ・カーゾン卿に迫り、ちょうど黒海を航行中のイギリ
ス軍艦で移送することが決定された。こうしてマデイラ島への配流された。11月19日の
午後3時、カール夫妻を乗せた英国軍艦は、大西洋に浮かぶポルトガル領マデイラ島に
到着した。カール夫妻は島民に温かく迎えられ、中心都市フンシャルに「ヴィラ・ヴィ
クトリア」という比較的快適な住居を与えられた。しかし皇帝一家の財産は尽きかけて
おり、翌1922年2月中旬には劣悪な環境の山荘に、転居せねばならなかった。ツィタの
日記によれば、マデイラ島上陸の数日後に英国領事から「もしカールが正式に退位する
ならば、旧ハプスブルク諸国に没収されている皇室財産を返還するだけでなく、英国も
経済的援助を惜しまない。」といった内容の手紙が届いた。しかしカールは「私の帝冠
は換金できるものではないと、皆さんにお伝えください。」と返事を送ったという。



1657: 名無しさんAA:18/09/06 04:23

やがてバターも買えないほど皇帝一家は困窮しベビーシッターの給料も3ヶ月間未払い
だった。当時の随員のひとりは、皇帝一家の困窮した生活を次のように回想している。
「電気もなく、トイレも一ケ所で住居は非常に手狭だった。暖房用に生木が使われたた
め、煙がいつも立ち込めていたが、それでも暖房は不可欠だった。太陽もあまり当たら
ないので、フンシャルの生活が懐かしく思われた。ここでは部屋中がいつもカビだらけ
だった。皇帝は夕食にも肉料理を食べることができず、野菜とクヌーデルだけの粗末な
食事だった。また皇妃の出産には助産婦も医師もおらず、やってきたのは未経験の保母
ひとりだった。」3月9日、子供たちを連れてフンシャルに出てカールは風邪をひいて
しまったが、医療費が心配で、医者の診察を受けなかった。風邪はしだいに悪化してい
きカールは病床で「自分は、わたしの人民たちがもう一度一緒になれるように、苦しま
なければならない」とツィタに語ったといわれる。カールはツィタに「これからはスペ
イン国王アルフォンソ13世を頼みとしなさい、彼は私の家族を助けてくれると約束して
くれた。」「私がハンガリー王でないという宣言は無効だ」と遺言して永眠した。1922
年4月1日12時23分に死去した遺体はフンシャルのノッサ・セニョーラ・ド・モンテ教会
に棺と共に安置された。カール1世はその伝えられる数多くのエピソードから、徳の高
い人物であったと評価され「善良帝」の名に値する君主であったと評価してる。20世紀
の国家元首としては奇跡を起こしていた初めての福者となった。



1658: 名無しさんAA:18/09/06 04:24
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった xx

 こうして共産主義に蹂躙されて、ドイツは戦争に走り、日本は巻き込まれて大戦に陥
ってしまった。もとをただせば原敬首相が共産主義者によって暗殺されたりすることが
なければここまでひどくなることはなかった。複数の首相が任期途中で病没したり、何
しろ政権が安定しなかったことも輪をかけて、当時の世界でも日本国内でも不安と不満
が鬱積していた。そして、それは特に「幣原外交」を通じて、中国で現地邦人が余りに
も残酷な目にあわされる現状を放置し続けた日本国政府に対する軍人たちの鬱積も限界
に達していた。という実情があった。満州事変を引き起こした組織「一夕(いっせき)
会」は、二葉会と木曜会は元々別のグループで、先にできたのが二葉会。この二葉会を
模する形で出来上がったのが「二葉会」で、この二葉会が結成されるに至った経緯が、
「バーデンバーデンの密約」だった。歩兵第14連隊大隊長として欧州に出張に出てい
た「岡村寧次(おかむらやすじ)」、スイス公使館付武官「永田鉄山(ながたてつざん
)」、ロシア大使館付武官「小畑敏四郎(おばたとしろう)」の3人が、皇太子訪欧で
の護衛段取りで出会い、たまたまバーデン=バーデンで国防論に話題の花を咲かせてい
た小畑と岡村が、盛り上がって「じゃあ永田も呼ぼう」ということで永田もバーデン=
バーデンに呼び寄せ、3人で議論した様です。これに東条英機を加えた4人は、日本に
いたころから、4人がよく集まって小畑の家で勉強会を開いていた。当時は第一次世界
大戦が終わってまだ間もなく、ヨーロッパで具にその様子を見ていた3人は、特にアメ
リカの台頭やロシア革命によって生まれたソビエト連邦の脅威などから、「日本もこの
ままではいけない」という使命感に燃え上がっていたのである。この後、永田や小畑も
帰国し、1927年(昭和2年)には二葉会を結成、1929年(昭和4年)に二葉会と木曜会を
統合した一夕会を結成し、東條は板垣征四郎や石原莞爾らと共に会の中心人物となり、
同志と共に陸軍の人事刷新と満蒙問題解決に向けての計画を練ったのだ。編成課長時代
の国策研究会議(五課長会議)において満州問題解決方策大綱が完成している。その後
1933年(昭和8年)3月18日に陸軍少将に昇進、同年8月1日に兵器本廠附軍事調査委員長
、11月22日に陸軍省軍事調査部長に就く。1934年(昭和9年)に歩兵第24旅団長(久
留米)に就任している。久留米はこの頃からドイツには近かった。


1659: 名無しさんAA:18/09/06 04:25
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった xx 

久留米市内を歩けば、今でも市内の焼き鳥すら医学用語のドイツ名が付けられている。
豚の腸である「ダルム」はいわゆる、ホルモンで、ちなみにセンポコは牛の大動脈で、
ヘルツは心臓である。大正時代に大勢のドイツ人が久留米に住んでいた事はあまり知ら
れていない。明治40年に佐賀県との競争した誘致合戦が成功して、第18師団が設置
された。久留米市から13万坪・有馬家が2万坪を献納するという事が功を奏した形と
言われている。こうして官民上げての大歓迎した久留米市は以降、習志野と東京からは
騎兵第22連隊、熊本から野砲兵第24連隊、小倉から独立山砲隊第3大隊、姫路から
歩兵第56連隊が移転してきて、太刀洗飛行場と共に近在の中心都市として栄え久留米
は軍都として急速に発展して行くのだった。この時福岡は、商業都市博多、貿易都市門
司、軍事都市久留米、炭田都市大牟田と、九州縦断の国鉄が通り立地条件が良かったの
だ。この時同時に「ドイツ兵久留米俘虜収容所」が出来て居た。第1次世界大戦に於い
て日本は日英同盟によりドイツに宣戦布告し、アジアにおけるドイツの拠点だった青島
(チンタオ)要塞を攻撃することになった。当時、日本ではこの戦争を「第1次世界大
戦」とは言っておらず「日獨戦争」と言っていた。第1次世界大戦とは後世の歴史家が
付けた名で、この戦闘でドイツ兵4791名が俘虜(当時は「捕虜」ではなく「俘虜」
と言いました)になり、内4679名が全国各地に送られた。当然攻撃の主力部隊だっ
た第18師団の駐屯地である久留米には最大の俘虜が送られることになったのである。
激戦の末に11月7日に青島要塞を陥落させましたが、青島陥落の見通しが立った10
月6日には早くも久留米俘虜収容所設置が告示されています。これは全国16カ所に設
けられた収容所で最初のものだった。収容所は当初、料亭(香霞園)跡や寺院(梅林寺
・大谷派教務所)等に置かれていましたが、増大する俘虜の数に対応できなくなりまし
た。大正4(1915)年5月25日、所長は真崎甚三郎中佐に交代して拡大を図る。
真崎所長は同年6月9日、国分村の衛戊病院新病舎跡(現在の久留米大学医療センター
と市営山畑住宅一帯)に新しく俘虜収容所を設け、3カ所に分散していた俘虜を国分村
の新収容所に統合した。以後、大正9(1920)年3月12日に閉鎖されるまでの5
年半もの間、大勢のドイツ人(最大1319名)が久留米の街に住むことになりました


1660: 名無しさんAA:18/09/06 04:25
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった xx2

 久留米のこの狭い敷地に大勢の俘虜を押し込んだため俘虜の不満は大きいものだった
。他収容所と確認すると、数字が明らかに大きい人数になっていますので比較してみて
ください。その上久留米は、方々に収容所があり使えない場所が多かったのだ。

  収容所名     敷地面積(u)   収容人数 約     100u/人
  久留米      29000     1319  3000/130   =4
  坂東       57000     1028  6000/100  =2
  習志野      95000     918   1000/10 =1
  青野原      22680     478   2200/40 =2
  似島       16000     548   1600/55 =3


1661: 名無しさんAA:18/09/06 04:25
 歴代所長のエピソード
1 樫村弘道(大正3年10月6日から大正4年5月25日)
  ミシェル・ソーレ神父が週に1回儀式を執り行うことを許可しています(07/5/
  8「ミシェル・ソーレ神父の足跡」を参照)。この縁が松尾ハムに繋がります(次
  回に詳論)。
2 真崎甚三郎(大正4年5月25日から大正5年11月15日)
  真崎所長は後の2・26事件の黒幕と囁かれる権威主義的な人物でした。俘虜と衛
  兵との日常的なトラブルは頻繁に起こり俘虜の逃亡事件や所長による俘虜将校殴打
  事件すら起こりました。真崎所長は、子細な規則違反に対しても 厳罰で臨んだた
  め俘虜たちの反感も強く、そのことが更なる強権的管理を招くという悪循環を引き
  起こしていました。ただ音楽には寛大で「ドイツ人にとって音楽は日本人にとって
  の漬物のようなものだ」としてコンサートを許可しています。これが所内での充実
  した音楽活動に結実します(次回に詳論)。
3 林銑十郎(大正5年11月15日から大正7年7月24日)
  遠足・スポーツ大会・工事への使役・野菜栽培の奨励など、俘虜の健康に留意しま
  した。このことが所内におけるスポーツの興隆に繋がります(次回に詳論)。
4 高島巳作(大正7年7月24日から大正7年9月7日)
  他の収容所への移転を担当。190名の俘虜が習志野・坂東・青野原・名古屋へ移
  転しました。自身はシベリア出兵に従軍するため久留米から転出しています。
5 渡辺保治(大正7年9月7日から大正9年3月12日)
  収容所閉鎖まで担当。隣接する畑を整地しスポーツ環境が改善しました。俘虜が音
  楽の練習をしているときに良く聴きに来たそうです(大正時代のゆるさを感じます
  ね)。


1662: 名無しさんAA:18/09/06 04:26
 論創社の「ロースハムの誕生 : アウグスト・ローマイヤー物語」によれば久留米の
俘虜収容所に収容されたアウグスト・ローマイヤーは「ロースハム」の生みの親だった
。ロースハムはドイツ人であるローマイヤーが日本で生み出したもので、日本に固有の
ハムで他の国にはない。と言う。当時、畜産業の発達していなかった日本において、豚
のもも肉を使ったハムをつくるのが難しく、非常に高価なものになってしまっていた。
ローマイヤーは廃棄されていた背肉とロースに目をつけてた。これをロール状にして、
すぐ食べられるようボイルして、ロースハムをつくりだしました。ホテルや一流店には
売れたが、もともとハムやソーセージを食べなかった日本人の生活に定着するには時間
がかかった。彼の弟子たちの中には、のちの食肉加工業界の中で、重要な役割を果たす
日本人も多く見られます。弟子を学校に通わせたり関東大震災の際、「保存が利かなく
なって傷んでしまうから」、と材料をすべて調理して無料で配るなど、人柄を表すエピ
ソードやそれを形成した生い立ちも紹介されている。ドイツの食べ物といえばパンやハ
ム、ソーセージなどが思い浮かぶだろう。しかし20世紀に入るまで、ハムやソーセー
ジが日本に全くなかったわけではない。江戸時代には中国から、琉球や長崎を経由して
長崎卓袱料理や薩摩の豚肉の加工品などが伝わっている。徳川慶喜も度々薩摩に豚肉を
所望している。明治の初めころには、アメリカ人やイギリス人から製法を学んで試作し
たという記録もあるぐらいだ。また、1900(明治33)年には鎌倉ハム富岡商会が創立さ
れた。しかし、大正年間までの日本のハム・ソーセージの品質はヨーロッパのものに遠
く及ばないものだった。俘虜になった志願兵の中には製菓・製パン、精肉、ビール醸造
などの職人がいて、そのうち幾人もが俘虜時代から解放後も日本で技術指導に当たりま
した。これが日本の食生活が変わっていくきっかけになったともいえる。バウムクーヘ
ンで有名なドイツ菓子店「ユーハイム」は、収容所にいたカール・ユーハイムが、明治
屋で技術者として働いたのち開業したものであった。またアウグスト・ローマイヤーは
解放後、帝国ホテルでハム・ソーセージ職人として働き、のちに銀座での高級レストラ
ン「ローマイヤー」を開店させている。ローマイヤーもユーハイムと同様、囚われの身
から解放された後も日本にとどまる決心をします。彼はまず帝国ホテルに勤め、その後
独立して「ローマイヤー・ソーセージ製作所」を設立。西洋のものがまだまだ少なかっ
た時代に苦労して原材料を集め、日本人の口に合うハムを考案して広めていった。ユー
ハイムも同じだが、第一次大戦後に故郷から遠く離れた極東の地で捕虜となり、言葉も
通じず、文化が全く違う中で一から模索して事業を始めた彼らは大きな精神力が必要で
あった。

1663: 名無しさんAA:18/09/06 04:27
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった xx4

 彼らがようやく商売が軌道に乗りかけたころ、彼らを襲ったのが関東大震災であった
。ローマイヤも殆どを瓦礫に埋もれ、多くを無くしてしまいます。その後、不屈の精神
で再び立ち上がったものの、ドイツではナチが台頭して。祖国は戦争に向かって再び進
んでいく中にあった。遠く離れた異国にいても、やはりローマイヤーはドイツ人。ナチ
からの入党を迫られた。この時ゲッペルスが来日している。「ゾルゲ事件」で知られる
スパイのゾルゲと親しかったことも関係した。不本意ながらナチ党員のバッジをつける
こととなり、それが大きな心労となった模様です。戦争が激しくなるとローマイヤーは
箱根に避難しましたが、長年の苦労がたたり、体は弱っていました。戦後、再び東京で
仕事を再開しますが、1962年に帰らぬ人となりました…。「現在、日本でロースハムは
ハムの代名詞のようにさえなったが、実はこれ日本にしかないものなのである。いま、
私は千種類以上のハム・ソーセージのある国に住んでいるが、ここにも「ロースハム」
というハムはないから、訳語に苦労する。これは、1921年にドイツ人アウグスト・ロー
マイヤーが当時日本で手に入る材料を工夫して作った祖国にもない「ハム」だったので
ある。」「肩の肉やバラ肉を使った後の残りの背肉と、ロースに目をつけた。これで、
日本人の口に合う洋風ハムができないものだろうか。そういう肉をロールにして、だが
、燻製にしたら、日本人には食べ方がわからないだろうから、ボイルにするのがいいだ
ろうと考えた。こうして作り出したのがボイルドハム、つまりロースハムだったのだ」
残り物のロースしてボイル燻製にしたローマイヤ―ハム、これがロースハムだった。

1664: 名無しさんAA:18/09/06 04:27
1936年(昭和11年)11月25日の日独防共協定の締結によりヒトラーユーゲント指導者
バルドゥール・フォン・シーラッハが日独の青少年相互訪問を提案。日本政府がこれを
受け入れた結果、1938年(昭和13年)8月から11月にかけてヒトラーユーゲントの訪日
が行われた。 朝日新聞社の依頼により、北原白秋作詞、高階哲夫作曲、藤原義江歌唱
による歓迎歌『萬歳ヒットラー・ユウゲント:獨逸青少年團歡迎の歌』が作られ、1938
年(昭和13年)10月には日本ビクターからレコードが販売されるなど日本国民を挙げて
の大歓迎を受け、親独気運の醸成に大きく寄与した。 同時期に日本からは各地の学生
、青少年団体職員、若手公務員から成る「大日本連合青年団」(現在の日本青年団協議
会)の訪独団がドイツに派遣され、ナチス党大会の参観、ヒトラーと会見して同盟国の
ドイツの見聞を広めた。と言う。ローマイヤーは21歳で中国に渡り、70歳でこの世を去
るまで50年近くをずっと異国で暮らしていたわけですが、途中、一時帰国はしたそう
です。久留米の松尾ハムには、大正期初頭、ドイツ兵捕虜にハム・ベーコンを提供した
という逸話が残る「松尾ハム製造所」久留米で最初にハムを作った、地元民ご用達の
人気店。と書かれてました




1665: 名無しさんAA:18/09/06 04:29

< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった xx5

 次の年、1937年3月26日、原節子の叔父、熊谷久虎、川喜多夫妻とともに、ベルリン
に到着、舞台挨拶をドイツ語でするなど注目を集めました。ドイツ公開名は「サムライ
の娘」です。ゲッペルスが絶賛したとも、落胆したとも伝えられています。このドイツ
での舞台挨拶の時、医師ベルツの孫、ディーツが原節子に花束を渡しています。ベルツ
と荒井花子の子であるトク・ベルツは、1940年に日独映画親善大使(自称)として来日
、1945年5月3日に東京で死去します。彼の名は、「ベルツの日記」に残っています。な
お、トクの三人息子、クノ、ゲッツ、ディーツは三人とも第二次大戦で戦死しています

1666: 名無しさんAA:18/09/06 04:29
。原節子一行は、ベルリン・ライプチッヒ・ハンブルク・ミュンヘン・ケルン・デュッ
セルドルフと移動5月20日に、パリに到着。6月16日、ニューヨーク到着。パリでは、
デュビビエやルノワール、ハリウッドではコロンビアのプロデューサーから、原節子は
出演の勧誘をされています。1918(大正7)年3月になって、板東俘虜収容所(現徳島
県鳴門市)のドイツ人俘虜による美術工芸展覧会が開かれました。展示場入口の騎馬像
には「Hie gut Deutschland alleweg! (どこにいようと、そこがドイツだ)」と書か
れていました。もともとはバルト三国付近の開拓を担ったドイツ騎士団のモットーだと
言われています。模範的といわれたこの収容所では、管理者側の配慮もあり、スポーツ
や音楽など文化活動を通して俘虜と地域の人たちとの交流が見られました。また酪農や
食品加工などの技術を日本に伝えました。 板東の地に俘虜としてドイツ人がやってき
てから、戦争が終わり解放された後に、途絶えた交流が復活し現在に至るまで友好を深
めている。久留米俘虜収容所に収容されたアウグスト・ローマイヤーは「ロースハム」
の生みの親で、ロースハムはドイツ人であるローマイヤーが日本で生み出したものなの
で、日本に固有のハムだったが、もう一つ久留米で生まれた物がある。久留米の収容所
にも、約1300人の捕虜が送られており、久留米でも捕虜達による第九の演奏がおこ
なわれた。坂東収容所の第九の演奏から遅れること1ヶ月であった。この頃石橋正二郎
は1889年久留米の仕立物屋「志まや」に生まれ、父が病で兄は陸軍に入営したため
経営を任されることになっていた。石橋は徒弟制度をやめ、給料を払い労働時間を短縮
する、仕事を一番有利な足袋にしぼった。九州には車が一台もなかった時代に車を宣伝
に使う、それまで足袋は種類や文によって値段が違ったのを「均一料金」に統一する。
「志まやたび」の名では古臭いので好きな言葉「昇天旭日」から「アサヒ」を思いつく
。「20銭均一アサヒ足袋」を思いつくや注文が殺到した。ドイツ人捕虜の技術者は、
日本足袋(現日本ゴム)やつちや足袋(現月星化成)といった会社の発展にも貢献した
。彼らが先端的なゴムの配合、接着技術、文房具の消しゴムの作り方などを教えたので
ある。実は久留米の捕虜収容所にいては、亡くなったドイツ兵の墓は久留米競輪場に隣
接した一角にもうけられている。久留米の捕虜となったドイツ兵は、狭い収容所よりは
自ら他の場所での就労を申し出て、足袋の発案やゴム製品の改良に貢献したのである。


1667: 名無しさんAA:18/09/06 04:29
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった xx6

当時、戦争捕虜は公的には俘虜(ふりょ)と呼ばれた。捕虜収容所を管轄する機関の名
称も俘虜情報局だった。今日、俘虜の語はなじみがないので、本稿では引用部分以外に
は捕虜の語を使用する。またドイツ兵捕虜といっても厳密には、ドイツ人以外にオース
トリア人、ハンガリー人、チェコ人、ポーランド人らの人々が混じっていた。しかし、
圧倒的多数の捕虜はドイツ人であったので、捕虜全体に言及する場合はドイツ兵捕虜の
語を用いる。このドイツ兵捕虜に対して日本は、国際法遵守の精神で対応した。1907年
10月18日にオランダのハーグで調印し、1912年に公布した「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規
則」、いわゆる「ハーグ条約」に拠ったからである。以下、この規則に言及する時は、
ハーグ条約とする。ハーグ条約の第2章俘虜の項の第4条には、「俘虜ハ人道ヲ以テ取
扱ハルヘシ」との条項がある。日独戦争の10年前に起こった日露戦争に勝利した日本
は、欧米諸国から文明国として認められるように努めた。そのためには、収容所内での
捕虜の虐待や強制労働は決して行われてはならなかったのである。しかし1915年11月15
日、久留米収容所で真崎甚三郎所長による捕虜将校殴打事件が起こった。これは、大正
天皇即位の大典に際して、捕虜にビール1本とリンゴ2個が特別に与えられたが、日独
両国が交戦中であることを理由に二人の将校が拒否すると、怒った真崎所長が頬を殴打
したのである。捕虜の虐待を禁じたハーグ条約を根拠に、捕虜たちは所長の行為に激し
く抗議し、当時はまだ中立国だった米国の大使館員派遣を要求する大問題に発展した。
真崎所長はほどなく収容所長を罷免された。これはまれな出来事と見てよいであろう。
各地の収容所でも、下級所員と捕虜との間で些細(ささい)ないざこざは起こったが、
虐待といえる暴行はほとんど起こらなかった。1916年始めに撮影された、香川県の丸亀
収容所での収容所所員と捕虜将校との記念写真である。収容所長の石井彌四郎大佐退任
記念写真と思われるが。ここでは前列中央の石井所長は病気がちであったこともあって
、どことなく縮こまっているのに対して、両脇にいるドイツ人将校の方は脚を組んで、
堂々としている。とても捕虜のようには感じられない。収容所での捕虜取り扱いの一面
を示しているといえよう。又、古屋収容所での捕虜達のスナップ写真では、撮影年月日
は不明であるが、服装から冬の季節に収容所の一室の陽だまりで、思い思いのポーズを
とっている姿は、厳格な規律におびえる捕虜の姿といったものはほとんど感じられない

1668: 名無しさんAA:18/09/06 04:30
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった xx7

 1915年 1月27日に福岡県・久留米収容所で撮られたものは、この日は捕虜たちによっ
て、ドイツ皇帝ヴィルヘルムU世誕生祝賀会が開催された。収容所所員、山本茂中尉が
捕虜たちと和やかに談笑する様子が写っている。山本中尉はドイツの陸軍士官学校への
留学経験のあるドイツ語が堪能な軍人だった。収容所では、更にドイツ語力を磨くため
に、捕虜の一人と日本語およびドイツ語の交換授業を行ったことが、元捕虜の日記に記
されている。なお、日独の将兵を撮影した写真は数多く存在するが、笑顔で写っている
写真は極めて珍しい。故国への便りは無料であったし、捕獲国から月給も支給されてい
て捕虜達は、極めて幸せではあった。ハーグ条約の規則の中から、今日では意外に思わ
れる3点を挙げてみる。第10条「俘虜ハ其ノ本国ノ法律カ之ヲ許ストキハ宣誓解放セラ
ルコトアルヘシ。」宣誓解放は今日では奇妙に感じられる不思議な規則である。が、第
一次大戦時には国際条約に盛り込まれているのである。日独戦争時は、ドイツ領だった
南洋群島パラオにおける「宣誓書」の用例を示してみる。「下記署名ノ拙者ハ當戰争中
ヲ通シテ今後如何ナル塲合ニモ 再ヒ獨逸ノ軍隊ニ加ハルコトノナキコトヲ誠實ニ茲ニ
宣誓ス 大正三年〇月〇日 於パラオ」と言った内容だ。つまり再び自国の軍に揮かな
い事を約束したものだった。国内の収容所でも収容初期に福岡で数名の捕虜が宣誓解放
された。1918年11月11日に休戦条約が締結されると、フランス系(アルザス及びロレー
ヌ地方出身者)、イタリア系、ポーランド系、チェコスロヴァキア系などの捕虜が続々
と宣誓解放され、最終的には百名近い捕虜が宣誓解放された。第16条「俘虜ニ宛テ又ハ
其ノ発シタル信書郵便為替有価物件及小包郵便物ハ差出国名宛国及通過国ニ於テ一切ノ
料金ヲ免除セラルヘシ」と信書の文通を許している。階級によって発信できる信書の数
に違いがあったが、平均して1カ月当たり将校5通、下士3通、兵卒2通の封書・葉書
を無料で出すことができた。故国への便りだけではなく、収容所間でも通信が行われた
。5年余に及ぶ収容期間での俘虜郵便の総数は、故国から捕虜に宛てられたものを含む
と、百万通以上に及ぶと考えられる。日独戦争によるドイツ兵捕虜や捕虜収容所の研究
は、実は俘虜郵便を収集する郵趣家による研究が発端だった。



1669: 名無しさんAA:18/09/06 04:30
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった xx8

 第17条には「俘虜将校ハ其ノ抑留セラルル国ノ同一階級ノ将校カ受クルト同額ノ俸給
ヲ受クヘシ」と、捕虜の待遇に関しては西郷寅太郎東京収容所長の談話が残っている。
「俘虜の月給は陸軍中佐の183円を筆頭として、中尉47円、少尉40円、準士官40円、下
士以下は日給30銭の規定なるが、右はいずれも我国軍人の各官等に準拠せるものにて、
(中略)之はあくまで武人の面目を保たしむるを目途とせる俘虜取扱規定に拠れるもの
なり。尚右月給中将校以上の者は該月給の範囲内にて衣食住其の他一切の費用を自弁す
るの義務を有し下士以下は 各給料の範囲内を以って当方にて一切の賄いをなし与え、
衣食以外の間食又は嗜好品たるみかん、ビスケット、コーヒー、煙草等は、希望により
適宜現品にて支給する規定なり」。と書いている。上記西郷所長の談話に大尉の俸給が
欠けているのは、東京収容所には大尉の階級者がいなかったことと、大尉の地位は敵対
国との交渉で捕虜としなかった事による。後の正式な俸給を円単位に略して記すとして
いる 海軍の場合は大佐262円、中佐200円、少佐137円、大尉82円、中尉55円、少尉46円
、陸軍の場合は大佐240円、中佐183円、少佐129円、大尉75円、中尉46円、少尉42円 で
あった。物価換算等から当てはめると、当時の200円は今日の約160万円(約8000倍)に
相当すると思われる。当時の大銀行の銀行員の初任給は月給40円ほどであった。佐官ク
ラスの軍人は、かなりの高給取りだったことが知れる。又、労役には賃金を支給、技術
指導で重宝した。なお、第6条には捕虜に対する労役の条項がある。労役の言葉はどこ
となく強制労働を想起させるかもしれないが、決してそうではない。「俘虜ハ公務所、
私人又ハ自己ノ為ニ労務スルコトヲ許可セラルルコトアルヘシ(中略)俘虜ノ労銀ハ其
ノ境遇ノ艱難ヲ軽減スルノ用ニ供シ…」。1916年10月の「俘虜収容所長会同ノ際軍務局
長口演事項」という書類の「俘虜労役ニ就イテ」には、次の記述がある。「俘虜ヲシテ
労役ニ従事セシメル必要ハ、(中略)我國産業ノ発達利益ニ資スヘキ職業伎倆ヲ有スル
俘虜ヲ収容所外ニ於テスル利用法ハ、昨年各省次官会議ニ提出セラレ各省ニ於テ 使役
場所、使役方法、賃金、取締方法等ヲ定メ…」と規定している。つまり労役に従事する
捕虜には賃金が支払われたのである。下級の兵卒にとっては格好の小遣い稼ぎで、しか
も収容所外に出られる楽しみでもあったのだ。労役の中には稀に土木工事のような作業
もあったが、多くは技術指導であった。搾乳、ケチャップ製造、製パン、ソーセージ製
造などの食に関するものから、機械工場でのボイラー設置やゴム製造会社での指導と、
多岐にわたった。やがて解放後にはそのまま就労先に雇われる人もいたが、そうした人
たちは月給300円以上の破格の待遇で雇用された。

1670: 名無しさんAA:18/09/06 04:31
収容所内での多彩な文化活動、『第九』本邦初演も行なわれた。各地収容所では捕虜に
よるさまざまな活動が行われた。収容所当局から捕虜に強制されたことは、朝と晩に各
1回行われる点呼のみである。それ以外は捕虜に自由活動が許された。ある捕虜は日記
の中で、「収容所での最大の敵は退屈であった」と記している。欧州では戦争はいつ果
てるともなく続いていたので、日本の収容所に入れられようとも軍隊組織は変わらずに
存続していた。若い兵士が無為に一日を過ごすことは、精神的にも肉体的にも好ましく
ないと考えられたのであろう。収容所内では捕虜たちによる学習会、講演会、スポーツ
大会、演劇、コンサートなどが盛んに行われた。現在の徳島県・鳴門市郊外に設置され
た板東収容所は、ベートーベンの『交響曲第9番』(第九)本邦初演地として有名であ
るが、他の収容所と比べて捕虜に対する自由度が格段に大きく、遠足や海水浴も行われ
た。旧会津藩士の子孫だった松江豊寿収容所長の、敗者をいたわる精神の現われともい
われている。規律違反や捕虜同士のいざこざに起因する懲罰は各収容所で日常的に行わ
れたが、板東収容所は他の収容所に比べて驚くほど少なかった。そこにも 松江所長の
人道的な配慮が窺(うかが)われる。富田製薬株式会社所蔵の写真は、板東収容所近く
に捕虜たちと地元の大工30人の共同作業で建てられた富田酪農場(今日は「ドイツ牧舎
」と言われる)前で、解放間近の1919年12月頃に撮影された記念写真である。幼女を抱
くドイツ兵や、たばこを手にしてそれを見やるドイツ兵の姿には、捕虜の身を思わせる
ところは微塵(みじん)も感じられない。国際法を遵守した捕虜取り扱いが行われてい
た証しである、とみることができよう。又、久留米俘虜の人々は、久留米から博多また
湾に面した福岡市の柳橋や須崎の収容所などにも送られ、自ら労働を希望したために、
今津の元寇防塁の修復にもあたっている。この移送の際にドイツ兵たちはローレライを
歌いながら現場にむかったという。そのため今津の元寇防塁は、市内各地の元寇防塁の
中で最も良く保存されているのである。「支配と服従」「暴力と憎悪」を想起させるよ
うな捕虜収容所の中で「歓喜の歌」が歌われ、なおも異国人同士が隣人となり、文化や
技術をかよわせたことを示すこうした出来事は、テロや大量殺戮といった不安が蔓延す
る殺伐たる今の世界の中で、人間存在への希望をともす燈明のように思える。しかし、
海外からの防御にあった防塁の修復が、海外の異邦人に修理してもらった日本陸軍と言
うのは、ちょっと意外である。石橋正二郎は、その後将来発展するのは、自動車タイヤ
であることを見越し、九州大学のゴム研究の先覚者である教授の元を訪れて、タイヤの
国産化をめざす決意をする。そして1931年にブリジストンタイヤを創立している。

1671: 名無しさんAA:18/09/06 19:55
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 102

 ヘンリー・ルースは中国で生まれ育った改宗ユダヤ人で、ラジオ・映画ニュースにも
大きな影響力を持っていた。彼は、1930年代から、親中反日の一大キャンペーンを
張り、アメリカのアジア外交、特に対中国外交に大きな影響を及ぼした。これに対して
当時のドイツの有力誌『ヴェルト・ディーンスト』は1938年7月1日号でこう述べ
ている。「アメリカが、現在のような政策を追求する以上、戦争到来はほとんど不可避
である。第二次世界大戦を導き出すことに専念しているユダヤ秘密力は、アメリカが 
このような介入政策をとり出したことによって 一つの素晴らしい背面援護を得たので
ある。彼らはこれに勢いを得て 今後は従来の努力を倍増するだろう。アメリカは、果
たして この世界の文明の破壊の大雪崩に対して、最後の一突きを与えようした国々と
しての永久的汚名に甘んじるつもりであろうか。」この『ヴェルト・ディーンスト』誌
の警告はその後判を捺したように事態の推移により実証されることとなるのである。次
に、当時の各国の主要ジャーナリズムの反応を見てみよう。ルーズベルトの、あくなき
対独戦介入への煽動に対して、アメリカ国民も黙ってはいなかった。ニューヨーク州選
出の下院議員ハミルトン・フィッシュは、ルーズベルト政府に対して「大統領なり閣員
が今後少しでも外国攻撃の挑発的、ヒステリックな言辞を発したり、世界を焼きつくす
ような業火を燃え上がらせるような態度に出ることは許されない。」と警告を発してい
る。アメリカ国民の良識の反撃である。ハミルトン・フィッシュは、ハーバード大学を
卒業し、第一次世界大戦に従軍の後、1919年、米国下院議員に選出され1945年
まで12回にわたり選出されている(共和党員)。アメリカの孤立主義の指導的代表者
であり、ルーズベルト大統領の外交政策を鋭く批判した。1991年没した。また、「
アメリカ愛国主義者同盟」の別団体である「アメリカ・クリスチャン・ミリタンツ同盟
」もたまりかねて、ルーズベルトに対して次の如き電文を送っている。「われらクリス
チャン・ミリタンツの愛国者は、貴下が先日シカゴで話した言葉に関し、貴下がある種
の黒幕勢力に使嗾(しそう)されて、アメリカを外国との戦争へ追い込むことを辞さな
いだろうことを心から恐れるものである。『アメリカ愛国主義者同盟』は、貴下が後日
事態の認識において欠くところがあった という遁辞を設けないために、法律上許され
ている派遣委員を貴下の下に送り、彼らをして貴下に否定すべからざる証拠資料を示し
、世界における戦争が、単に大財閥の間で戦われる帝国主義戦争に他ならない。という
ふうに説明しようとしている。この大財閥とはシオニスト運動を代表するロスチャイル
ド家と国際主義の統率者であるウォーバーグ家とである。

1672: 名無しさんAA:18/09/06 19:55
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 103

 アメリカはこの真相を看破している。したがって貴下がこのユダヤ覇権争いのために
アメリカの罪のない壮丁を犠牲にし、アメリカの平和な生活を破壊に陥しめようと欲し
てもアメリカ自体は断然これを拒否するであろう。故に我々は『米国大戦従軍軍人団』
及びその他の憂国諸団体と協同して、我々市民を戦争に巻き込ませるような外国との、
どんな同盟に対しても抗議するものである。この国の、多年にわたる危機的産業破壊も
上述の同じ外部的権勢群によって招致されたものであるが、この現状からしても、先ず
第一に必要なのはあらゆる強健な男子が家庭にとどまって、自国を 共産主義から守る
ことである。」ここに述べられていることは、ルーズベルト政府の本質をあますところ
なく暴露している。ドイツのユダヤ人救済のため、アメリカを何が何でも対独戦に引き
ずり込まねばならぬとする ルーズベルトに勇敢に身を挺して抗議しており、また最後
の部分でルーズベルト政府が共産主義者の集まりであることにも抗議している。ニュー
ディーラーは事実上、初期のGHQを思うがままに牛耳っていた。マッカーサーもニュ
ーディーラーの指令に忠実に動いていたことは事実である。しかし、このニューディー
ラーの政策は、一言でいえば典型的な教条主義であった。マルクス主義の国家論に あ
まりにも忠実でありすぎたのであった。アメリカでもルーズベルト政府時代に階級闘争
の激化を計った事実もある通り、すべてをマルクス主義にのっとって施策していったの
であった。日本で先ず直ぐにやったことは、天皇制とそれに関係ある問題の変更であっ
た。東洋の一角に燦然と輝く日本の国体というものは、それら頭の悪いニューディーラ
ーにとっては打倒目標の最たるものと映ったのである。第一次大戦の結果、欧州の3つ
の王冠、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、ロシアは見事蹴落とすことに成功した。
残るは日本の国体だけである。と、少なくとも彼らは考えたのであった。そのために、
彼らは先ず天皇制に附随する問題の改革に力を注いだ。外濠から埋めていこうというわ
けだ。先ず、日本の国体と密接に関係のある教育における去勢作業から始めたのであっ
た。修身、地理、歴史の授業の廃止である。地理歴史という場合に問題にされたのは、
事実上、日本の皇国史観のみであった。又、修身とは他国には絶対見られない学科であ
った。これは君民共治という 人類の理想を具現化したものへ導くための基礎的な教育
である。ニューディーラーはいまだ、天皇制が君民共治の理想のただ一つの具現化され
たものである。ということを知らなかった。真に恥ずかしい話である。そのためにこの
修身科を先ず崩すことから始めたわけである。

1673: 名無しさんAA:18/09/06 19:56
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 104

 ついで地理、歴史である。地理の方は歴史と「地歴」というふうに一対に考えられて
いたので巻き添えをくったものだ。問題は歴史の方である。皇国史観は君民共治を軸と
して構築されたものである。ところが無知なニューディーラーは、マルクス主義の国家
論を教条主義的に考える以外思考力がなかった。国家破壊の最大障害として天皇制崩壊
を夢見ることしか頭にはなかったのだ。したがって天皇制を基調とする皇国史観を敵視
したのであった。戦後の教育改革において 一般論的な要素として最も重要なことは、
〇×式思考法を植え込んだことにあろう。この〇×式は別章で説明した通り、ルーズベ
ルトが戦時動員のために、採用手続の簡略化という名目で一般化させたものであった。
もともと、ユダヤ的思考法の二元論に他ならない。日本の教育界でも、これを戦後もっ
て来られた時驚いたものであった。何たる単純思考か。しかし精神的空白状態にあった
当時の日本では、知らず知らずの内に消化されていったのであった。決して「歓喜」さ
れて行わされたものではない。しかしこの方式は、何よりも 創造力を去勢するという
欠点をもっていると言わなければならない。問題の選択ができない。与えられたものの
中からしか答を選べない。問題に提起されたものより遥かにいい考えがあっても、それ
を答として選ぶことはできない。これでは創造力は奪われるであろう。さらに、依頼心
の強い人間をつくることにもなる。つまり、あまり努力をしないでも何分の一かは正解
の確率が潜んでいるわけであるから、思考力も弱り、逆にギャンブル性が強くなろう。
次に、ニューディーラーは階級闘争の激化につながる労働運動を盛り上げた。ここで、
是非とも強調しておかなくてはならないのは、憲法に実体法に属する団体交渉権を挿入
していることである。国家的意志統一の コーディネーターであるはずの一国の憲法に
労働運動の強化を促すような条項を入れるとは、非常識極まるものだ。この階級闘争の
激化は戦後の日本の経済発展に大きな犠牲となっている。しかし、これらはほんの氷山
の一角にすぎず、最も大きな支柱は、東京裁判と日本国憲法にある。1944年8月の
時点で、アメリカは戦後対独政策なるものの検討に入ったが、この時ルーズベルトは、
前述のように「我々はドイツに対して厳しく当たらなければならない」と述べている。
ルーズベルトの頭の中には、ドイツ人抹殺計画があった。ここには階級闘争史観もくそ
もない。恐ろしいジェノサイド(民族皆殺し)があるだけであったのだ。しかしドイツ
はいち早く麻薬おぼれの総統の自殺で難を逃れ、抵抗を止めて敗戦に及んだ。

1674: 名無しさんAA:18/09/06 20:00
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 105

 残った太平洋の対日戦略は、ルーズベルトの死後の意志である。彼の態度は詳しくは
分らないが、原爆使用も彼が決定したものであり、戦争中日本民族を抹殺せよと言って
いた点からしてほぼ同じものと推察できる。ただ幸いなことに、日本、ドイツとも、ル
ーズベルトの死後に降伏した。後任者はさすがにこのような考えはもっていなかったが
彼が信任した副大統領だったトルーマンもやはり同じ考えだったようだ。この点では、
アメリカ内部でもユダヤ人であるルーズベルトとその腰巾着モーゲンソーの考えに対し
てスチムソンは強力に反対した。ルーズベルトは戦後対独政策の検討のため閣僚委員会
を作ったが、そのメンバーはモーゲンソー、スチムソン、ハル、ホプキンスであった。
この中で非ユダヤ人のスチムソンは、モーゲンソーがドイツ国民全体に対しての、強い
憎しみの感情をもっている事を知っていた。そのようなことからアメリカが大量報復の
挙に出るのは断じて肯じないとした。ヘンリー・スチムソン陸軍長官は「マンハッタン
計画」の最高責任者でもあった。このモーゲンソー案に対しては、同じユダヤ系ジャー
ナリズムも、さすがに黙ってはいなかった。戦前、盛んに対独戦参加を鼓吹していた、
ルーズベルトを助けた『ニューヨーク・タイムズ』なども、このモーゲンソー案が将来
ユダヤ勢力にとって決して有利なものでないことをクールに悟っていたのである。なん
とかモーゲンソーの頭を冷やす必要を感じたのだ。そのほか、『ワシントン・ポスト』
『ロンドン・スペクテイター』 『マンチェスター・ガーディアン』なども同様であっ
た。さすがにルーズベルトもこれには参って、スチムソンに対し、ドイツを純粋の農業
国に回帰させるつもりはない。といわざるを得なくなった。スチムソンの努力によって
、アメリカの汚名を防いだのであった。もともとルーズベルトやモーゲンソーのユダヤ
勢力にとってはアメリカの名誉、国益などは眼中になかった。もしそのようなことを考
えているなら、世界戦争へ突入するわけがなかった。日本への原爆投下は、1944年
9月18日、フランクリン・ルーズベルト米大統領とウィンストン・チャーチル英首相
が、米ニューヨーク州ハイドパークで会談した。原爆使用と将来の核管理についての申
し合わせであった。1972年に初めて公開された秘密協定で、恐るべきことは、まだ
ドイツが敗北していなかった時期に、「ドイツや日本への原爆使用」も決定されていた
。この秘密協定が結ばれた時期は、ノルマンディー上陸作戦からパリ解放の歓喜に沸く
時期で、ドイツの敗北は軍事的に決定的だったという説明がある。しかし、ドイツでは
その後もロンドンにV1ロケットを発射し、実際にドイツが降伏したのは、この7ヶ月
以上も後の事だった。

1675: 名無しさんAA:18/09/06 20:04
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 106

 またこの時、日本の敗北が軍事的に決定的だったことも、同様である。ルーズベルト
の私邸でチャーチルとの間で決定されていた。原爆使用の了承はその後のトルーマンの
最終決定を、より簡単にした。戦後しばしば日本への原爆投下については、これはソ連
の進出に対する牽制であるといった理由付けが行われている。しかし、これは全くの嘘
で、ただの核の敵国投下人体実験だったのである。それはその後に盛んにデーター取り
をした事でも証明される。アメリカから来た医者と言われた者らは、治療する医者では
なく軍部に属した実験医者達ばかりで、日本の看護婦はやけどで患部のガーゼを取れな
いと申し出に関わらず、泣き叫ぶ子供に治療と称してガーゼを剥し克明に写真を撮った
。そういう事にいぶかしく思った介護者達や日本の医者の一部から批判が出たが、時の
医療品や薬品がGHQの進駐軍の配給品だったので、立ち消えしそれは強行に行われた
。「週刊新潮』/連載「変見自在」 帝京大学教授 高山正之」では次の様に書かれる。
 アメリカのロサンゼルス空港で乗ったタクシーの運転手が、こっちが日本人と知って
「申し訳ないことをした」といきなり謝ってきた。彼は、ソ連崩壊のあとウクライナか
らやってきたユダヤ人で、彼らのコミュニティーには日本にまつわる言い伝えがあった
。「イスラエル12支族」のうち10支族が消えたと『旧約聖書』にあるが、その1つ
が日本人だったというのだ。なのに「ユダヤ人のオッペンハイマーは、その日本に落と
す原爆を作った」というのが謝罪の理由だった。そんなことがきっかけで、ウエストハ
リウッドにある彼と知り合い、彼の家にも遊びに行くようになる仲良しになった。この
運転手に聞きたかったのは、旧ソ連でのユダヤ人の生活だ。森繁の『屋根の上のヴァイ
オリン弾き』にあるように、ロシアはユダヤ人集落を襲い掠奪を欲しいままにする「ポ
グロム(ユダヤ人迫害)」の本場だ。彼も子供時代、キエフでそれを体験し、身内を殺
されていたが、「ロシア人よりグルジア人のスターリンの方がもっと陰険でひどかった
」と言う。「身分証明書は氏名、生年月日などが4行で書かれるが、我々のには5行目
があった。ユダヤ系と書かれていた」そしてある日、自宅から追い出され、他の「5行
目」の人々と一緒にカザフの街に送られた。カザフからは、逆にその地のタタール人が
ロシアの各地に送り出された。「タタール人を分散させて彼らの結束力を奪う。それで
も武装蜂起すれば、最初にやられるのが我々5行目たち。ソ連のためのロシア人の人間
の盾というわけだ。」と彼は言葉を吐き捨てた。

1676: 名無しさんAA:18/09/06 20:08
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 107

 この話は、スターリンの残忍さ、人でなしぶりが実によく分かる話だった。こんなに
も性質(たち)の悪い為政者は、スターリンが最後かと思ったら、そうでもなかった。
自衛隊がイラク南部のサマワに展開している。ここはシーア派のアラブ人の居住区だ。
欲深で、自衛隊が水道の敷設やらを、タダでやってやろうというのに、駐屯地の地代に
何百万ドルもよこせと言い張る。そんなアラブ人に混じって、ここに異民族のクルド人
が「何万人も住んでいる」という報道があった。クルドはイラク北部の山岳部に住む民
族である。宗派はスンニ派。サダム・フセインとは昔から仲が悪く、湾岸戦争の折には
サダムがクルドの街に毒ガスを降らせた事で有名になった。そのクルドが故郷を遠く離
れた場所、それがシーア派アラブ人地区である。そこにいる意味は一つ。クルド勢力の
分散とシーア派蜂起に備えた「人間の盾」だった。先日、瀋陽(シェンヤン)を訪ねた
。かつて昔、中国人を屈服させ辮髪(べんぱつ)を強いた満州民族の清が、最初に都に
し足掛かりとした街だ。そこで中国人の通訳が「今や満州族は、ほんの数万に減った。
北京の故宮に書かれている満州文字を読める者は、今や十人といない。」と笑った。こ
の満州族の激減の理由を聞くと「いや新疆ウイグルには何十万かいる」と答える。ウイ
グルは中国の西の端で、満州からは3000キロも離れている土地だ。しかもそこには
イスラムを信仰するソグド系の民の国になる。彼らは中国の支配を好まず、独立を叫ん
で北京政府と何度も衝突してきた。そこに3000キロ彼方から満州族が来た。好きで
移住したわけではない。ウイグルが決起したとき最初に血祭りに上げられる役割を北京
政府が担わせたのである。7月5日付の朝日新聞に「チベット族、警察を襲撃」という
ベタ記事があった。「中国東北部の吉林省長春でチベット族数十人が警察を襲い、警察
側は300人の警官が応戦、1人を逮捕した。長春の市街地で警官がチベット族の所持
品検査を行い、ナイフを没収しようとして争いとなった」というのが、事件のあらまし
だった。吉林省は瀋陽のある遼寧省の隣、脱北者が逃げ込む朝鮮族の国だ。そこから、
チベットまでは遥かに新疆ウイグルより遠い。ここにチベット族がいる理由もまたウイ
グルにいる満州族と同じだろう。スターリンから、サダム・フセインに引き継がれたと
言う「民族の分散淘汰」という非道な手法は、中国の胡錦濤(こきんとう)が引き継い
でいた。彼らは、そう時間をかけずにチベット人も満州人もその文化ごと今世紀かけず
滅ぼしてしまうだろう。こんな国が国連の「安保理常任理事国」であることに世界は呆
(あき)れている。早々にそのポストを去るがいい。後を心配する事はない。常任理事
国にもっと相応しい「日本」という国があるのだから。とも思う。

1677: 名無しさんAA:18/09/06 20:10
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 108

 かつて、ヴァージニア・カウルズは『大マールボロ公爵伝』に次のように書いている
。「英国は戦争により世界の支配勢力に生まれ変わった。イングランド銀行の信用制度
のおかげで、無理をせずに戦争の重荷に耐えることができたからである。」と、ハクズ
ブルク家から分かれてこのロシアの地に来た事から始まるニコライ1世の治世は、専ら
強権的な専制政治に貫かれ、1830年と1848年に起こったポーランド立憲王国の、自治権
拡大運動を鎮圧した。この結果、それまで総督が統治していたポーランドは、1830年の
武装蜂起鎮圧後はロシアの直轄領となり、自治権も大きく制限された。また1848年には
「ヨーロッパの憲兵」と称してハンガリーの独立運動を鎮圧した。対外的には汎スラヴ
主義の土台を築き上げ、南下政策を推進した。バルカン半島では、ギリシャやセルビア
の独立運動を支援した。極東方面ではアヘン戦争の結果、イギリスを中心とした欧米列
強が東アジアに本格的な進出を開始したことを重視し、プチャーチンを遣日全権使節と
して日本へ派遣し、1855年に日露和親条約を締結した。西アジア方面では、1828年に、
ロシア・イラン戦争でカージャール朝ペルシアに勝利し、トルコマンチャーイ条約を受
け入れさせ、アルメニアを併合することに成功した。エジプト事件に際してはオスマン
帝国を終始支援し、ウンキャル・スケレッシ条約を締結してボスポラス・ダーダネルス
両海峡の独占航行権を一時獲得するなど、南下政策を進めていったが、イギリスやプロ
イセン・オーストリアの干渉を受けて挫折し、オスマン帝国との間にクリミア戦争を起
こした。これは、ロシア皇帝ニコライの先祖のニコライ1世はのやり方だった。ルーシ
の王「全ロシアのインペラートル」の称号はピョートル1世大帝のもとで導入された。
大北方戦争に勝利して1721年9月に、ニスタット条約が締結されると元老院とシノドは
ピョートル1世に対して「通常、高貴な家柄の出であるローマの元老院が、末永く家名
が存続することを記憶に留めるよう法規に乗っ取って公衆の目前で捧げられるインペラ
トルの称号を用いていたのと同じように公式声明を出してインペラトルの称号を贈呈す
る」ことを決めた。これは小さかったロシア公国が巨大ロシアに変わった瞬間だった。
ピョートル1世は、それまでの中世以来の慣例を廃止して、帝位は男子の直系子孫に継
承されるが、皇帝の意思によりそれに相応しい人物は後継者として指名されることを許
されるという旨の帝位継承に関する布告を発行した。1797年にパーヴェル1世は新たな
帝位継承に関する法律を作成した。これによりロシア帝位継承者は基本的には長子であ
ることが原則とされ、それに続く者はポーランドとフィンランドとの関係が結ばれるこ
ととなった。

1678: 名無しさんAA:18/09/06 20:19
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 109

 この事は大きな事だった。これまでの因習では、1547年にイヴァン4世がツァーリの
称号を帯びて以後、1721年にピョートル1世がロシア帝国建国を宣言するまで、皇帝は
用いられていた。ロシア国家の公称で公国部族の長が皇帝ツァーリを名乗りそれを連合
や同盟を行う各小公国が信任して皇帝が生まれて居た。則ち家長制度で継続する事はな
かったのである。この部族の中の実力を持つ長がツァーリ足る称号を信任されて貰って
公言する事が出来ると言う、ある意味アマゾンやアフリカの原住民のシステムそのまま
だったのだ。しかし法を作り帝位を長子相続とした上で、長子たる帝位継承者が死去な
いし拒絶した場合に備えて、継承できるように、以下に続く縁故者がその代理人として
の役割を担わされた。直系で帝位継承者がいない場合には傍系の者に継承順位が移るこ
ととなっている。直系傍系を含む家系内においては男性の方が女性よりも優先とされ、
女性を差し置く形で傍系男子の者が要請されることとなった。皇帝に即位する際に求め
られていたことは、わずかに正しい信仰の告白のみであった。君臨する皇帝及び継承者
が16歳に達すると、例え統治能力が欠けていたとしても、自身の統治権が行使される
ことになっている。ただし皇帝に、統治して早世した場合を除く何らかの事態が生じた
際には、生存しているその父母が皇帝不在時における継承者の最有力候補の地位に納ま
ることとなっている。こうして日本の朝廷や王家の様な帝位継承権が生まれた。これは
ひとえにロマノフ王家の財宝が蓄えられる事を意味し、又その財力の持つ信用が成せる
権力だった。ロシア帝国の統治者はみな、1613年に即位したミハイル・ロマノフに始ま
るロマノフ家の血統に属している。もっとも、1761年以降の皇統はピョートル1世の娘
アンナとシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公カール・フリードリヒの子
孫に移り、男系ではオルデンブルク家の分枝にあたるホルシュタイン=ゴットルプ家に
属していることから、2人の息子であるピョートル3世以降は厳密にはホルシュタイン
=ゴットルプ=ロマノフ家の血統に属している。つまりこれによって、スラブ高原から
のロマノフ家とフィンランド湾沿岸部のフィヨードル家やポーランド・リトアニア共和
国、スウェーデンおよびデンマークなどの戦争で持ちえたホルシュタイン王家とも統合
された王位を持つに至ったのである。日本の戦国時代の中で政略結婚で地域を治めたよ
うに、武力よりは血統がもつ王位や住民からの信用が、これ以降ロシアを守る事になっ
た。



1679: 名無しさんAA:18/09/06 20:19
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 110

 ニコライ1世の治世は専ら強権的な専制政治に貫かれ、1830年と1848年におこったポ
ーランド立憲王国の自治権拡大運動を鎮圧した。この結果、それまで総督が統治してい
たポーランドは1830年の武装蜂起鎮圧後はロシアの直轄領となり、自治権も大きく制限
された。また1848年には「ヨーロッパの憲兵」と称してハンガリーの独立運動を鎮圧し
た。これは1825年、長兄アレクサンドル1世の急死と次兄コンスタンティン大公の皇位
継承権放棄によって即位した皇帝だった。アレクサンドル1世の在位中から専制的な言
動で知られていたため、即位時にデカブリストの乱(自由主義を支持する将校達による
クーデター未遂)が起こった。この計画を事前に察知していたアレクサンドル・ベンケ
ンドルフ伯爵を登用、1826年に「皇帝官房第三課」を創設させた。ベンケンドルフを長
とする秘密警察はプーシキン、レールモントフ、ベリンスキー、ゲルツェンらを流刑に
した。実は欧州社会は征服王朝の焼き直しばかりやっていた。フランスの歴代王朝には
このロシアの様な流れと同じであった。@メロヴィング朝(フランスの前身・フランク
王国を作った王朝)→Aカロリング朝(メロヴィング朝の王様宮宰で世話係が蹴落とし
王朝)→Bカペー朝(ベルギーにあたる地域の豪族)→Cヴァロア朝(百年戦争〜ユグ
ノー戦争をやってた頃の王朝)→Dブルボン朝(ユグノー戦争以降の王朝。→フランス
革命で王朝廃位→Eオルレアン朝(ブルボン家の支流。フランス革命後、王政復古でル
イ・フィリップという人が王様になった)と言う流れがある。このフランス王朝の3つ
目を創始した人がユーグ・カペーは、それ以前カロリング家の批判があって出来た王家
だった。フランク族のカロリング家は代々フランク王国のメロヴィング朝に仕え、宮宰
(宰相)を輩出してきた家系であった。諸侯の宮廷職の首位を占める職で、もともとは
、王家や諸侯の家政機関の管理者であったピピンが勇ましく王朝が乗っ取られたのだ。
ピピン3世の子カール大帝の時代には、イベリア半島とブリテン島を除く今日の西欧州
のほぼ全体を占めるに至った。ローマ教皇はカール大帝に帝冠を授け、西ヨーロッパに
東ローマ帝国から独立した、新しいカトリックの帝国を築いた。カール大帝の帝国は、
現実的には、後継者ルートヴィヒ1世の死後3つに分割され、今日のイタリア・フラン
ス・ドイツのもととなったが、この時代は北からノルマン人・南からムスリム・東から
マジャール人が侵入し、これにカロリング家の君主はうまく対応することが出来ず、逆
に辺境防衛を担った貴族が軍事力を高めるとともに影響力も強めた。

1680: 名無しさんAA:18/09/06 22:26
 888年には西フランク王位がパリ伯ウードに移り、一時的にではあるがカロリング家
の血統から外れた。ウードは支配の正統性を維持するためにアルヌルフの宗主権を認め
、のちにはカロリング家のシャルル3世を後継者として認めざるをえなかったが、ウー
ドの即位は明らかにフランク王国史の新展開を告げるものであった。西フランク王位は
これ以後、カロリング家とロベール家の間を行き来し、やがて 987年にはユーグ・カペ
ーの登位とともにカペー朝が創始され、のちのフランス王国へと変貌を遂げ始めた。こ
の時フランスと言う国家認識が出来上がった。この後の王朝はヴァロア家もブルボン家
も、元々はカペー家の支流でした。歴史上751年から987年まで、フランク王国やそれが
分裂した後の東フランク王国・西フランク王国・中フランク王国の王を輩出したが 987
年、西フランク王国の王家断絶をもって消滅したとされる。ところがフランス革命で、
ブルボン朝は終わり、ルイ16世の子供たちは子孫を残さずに亡くなったが、ブルボン家
ひいてはフランス王家は、ルイ・フィリップの子女には他国の王家に嫁いで子供を残し
た。厳密に言えば今もまだブルボン朝、そしてユーグ・カペーの血は続いている。現在
のスペイン王室であるボルボン家はルイ14世の孫の血筋で、これまたユーグの末裔と
いうことになる。ちなみにユーグ・カペーは多くの子孫を残した。フランス革命とナポ
レオンの時期を除き、1848年までフランスを支配したカペー朝・ヴァロワ朝・ブルボン
朝・7月王政の各王は、皆がカペーの子孫である。1204年の第4回十字軍後に建国され
たラテン帝国のクルトネー家、1910年まで続いたポルトガル王家、14世紀にナポリ王国
・ハンガリー王国・ポーランドのアンジュー=シチリア家も、カペー家の系統だった。
現在のスペイン・ルクセンブルクの各王室もユーグ・カペーの傍系の子孫である。この
カペー家の支流の、ブルボン家の支流は、結局ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ
家=ハクスブルク家の血統にもつながっていたのである。もともと弱小勢力のカペー家
を王にしておけば互い牽制してかえって安定するだろうという諸侯たちの読みもあり、
出来た弱い王権でいつでも自分たちの意のままになるだろうという思惑の王朝でだった
あり、その後フランス革命でブルボン家は王位を追われてフランスを去ったが、スペイ
ン王室は分家にあたる。このスペインが更に内乱にも陥った。第一次世界大戦でハクス
ブルク家の最後の皇帝カールはマディラ島に軟禁生活に陥ったが「私の帝冠は換金でき
るものではないと、皆さんにお伝えください。」と返事を送った先は英国領事館だった
。つまりイングランド銀行が資産を預かっていたのだった。「善良帝カール」のハクス
ブルク家の資産と皇位をまんまと奪ったのである。カールは妻のツィタには「これから
はスペイン国王アルフォンソ13世を頼みとしなさい、彼は私の家族を助けてくれると
約束してくれた。」と遺言して逝った。

1681: 名無しさんAA:18/09/06 22:27
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 112

 英国では、チャールズ2世の後を嗣いで即位したジェームズ2世は、清教徒革命の為
フランスに亡命していた。この時カトリックに改宗しており、カトリック教徒を重用し
て英国を治めていた。しかしそれに反対していたプロテスタントの大臣を次々に罷免し
てしまい、ほとんどの議員がプロテスタントである中で敵対した。カトリックの支配に
対して敵意を持つイングランド議会と国王との対立が深まりジェームズ2世は、それま
でなかった常備軍を設置するに及んで決定的になった。王には男子後継者が無く、そこ
で議会は、ジェームズ2世の長女メアリーが後を継ぐことを期待して動いていた。メア
リーは母のアン・ハイドがプロテスタントであったためにプロテスタントとして育てら
れたばかりか、プロテスタント国オランダの総督であるオラニエ公ウィレム3世に嫁い
でいた。しかし、 1688年6月10日、ジェームズ2世と王妃メアリー・モデナ との間に
、待望の王子ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート「ジェームズ老僭王
」が生まれた。、ジェームズ2世はこの王子によってカトリックの支配を続けさせる事
を願った。これにより、議会はついにジェームズ2世との対決を決意し、ウィレム3世
・メアリー夫妻にイングランドへの上陸を要請したのである。また乞われたウィレム3
世側も、英国を反フランス・親オランダの側に取り込む目的があり、フランス王のルイ
14世はスペイン領ネーデルラントの領有を狙いネーデルラント継承戦争を起こしてい
た。その為次にネーデルラント領有を妨害したオランダへの報復を行い(オランダ侵略
戦争)をして、終戦後もルクセンブルクのストラスブールを占領してドイツ(神聖ロー
マ帝国)のプファルツ選帝侯領の継承権を主張し、欧州侵略の野望を露わにしていた。
ウィレム3世はフランスを危険視しており、フランス包囲網を築くためには親フランス
のイギリスでは具合が悪かったのである。また、ジェームズ2世の治世に不満を抱いた
イングランドの一部の政治家が1686年からオランダへ渡海、ウィレム3世と接触して、
クーデターの密議を重ねて着々と準備していた。10月ウィレム3世はオランダにメアリ
ーを残しオランダ軍2万を率いて出港したが、嵐のため一旦引き返した。11月に再度の
出港しイングランド西部のデヴォン海岸に上陸した。11月17日に宣言文を配布して国民
に広く主張を訴えた。これらの事実を知ったジェーム2世は議会に譲歩を示したが、既
に手遅れだった。カトリックの上官の司令にプロテスタントの兵は戦おうとしなかった
。戦わずしてオランダ軍は進軍し、12月オランダ軍がロンドンに迫ると、王は亡命を
謀る。まず王妃と王子をフランスに亡命させ、翌日に自らも亡命に走ったが、ケントで
捕らえられた。

1682: 名無しさんAA:18/09/06 22:27
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 113

 この上陸後は幾つかの抵抗はあったが、側近である近衛騎兵隊長以下、暫定政権の指
示を受け取り交戦を停止、陸海軍は両方共オランダ軍への抵抗を止めた。こうしてウィ
レム3世はオランダ統領を兼ねたまま、ウィリアム3世としてイングランド王にも即位
することになった。こうして銀行協会も、カトリックの権威が及ばない権力から抜け出
したプロテスタントの英国を、安住の地としてベルギー人やオランダ商人が私財の保護
を考えた。この戦争は、「名誉革命」又は「偉大なる革命」とも呼ばれる。この革命に
より以降は、イギリスのカトリックの再確立の可能性が完全に潰され、イングランド国
教会の国教化が確定した。それだけでなく、権利の章典により国王の権限が制限され、
イギリスにおける議会政治の基礎が築かれたからである。ただし、イギリスのカトリッ
ク教徒にとっては以後数世紀に渡る受難の始まりであった。イギリスの国王およびその
伴侶がカトリック教徒であることは現在でも禁止されている。なお、オランダ主導によ
るイギリス侵略という側面を強調する歴史解釈もあり、現在では、名誉革命は、内乱と
外国の侵略が併存した「革命」であり、イギリス人の誇り及び介入したオランダ政府の
政治的思惑などから、外国の介入の要素が意図的に無視されてきた歴史、とされている
。しかし、この改革でこれまで、オランダでの秘密結社として、利子付きの融通資本、
つまりギルドやマイスターなどの職人協会が 持ち寄りで融資や投資して来た社会が、
公けに銀行として設立が可能になった。こうして1600年に世界初の株式会社であるイギ
リス東インド会社がイギリスで設立され、後にインドで植民地経営を行い、アヘン戦争
の引き金をひいた。だがそれはこのプロテスタントの利子の契約や利潤の譲渡が可能に
なったからだった。しかし、金融史を紐解くと、「近代的な会社」という意味では、英
国に遅れ2年後に設立されたオランダ東インド会社のほうがより重要な行動にでた。な
ぜなら、当時の株式投資の考え方は、一航海ごとに出資を募るというプロジェクト的な
動きをしていて、イギリス東インド会社も例外ではなかった。つまり会社とは言え銀行
の様な仲介者だったのだ。その為安全帰港の保証とする保険も発達した。しかし、オラ
ンダ東インド会社は、長期的なスパンで確実に利益を得るために、ジャワを手はじめに
いくつかの島にコショウの貿易拠点を作ろうとした。そこで大きく儲けるためには利益
の回収に時間がかかる理由で、今後のすべての航海を「1事業」とみなし、出資を募っ
たのだ。


1683: 名無しさんAA:18/09/06 22:28
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 114

 しかし、こうした「一航海型」でなく「一事業型」の公募は利潤も少なく、又即興的
利益もないし信用も無かった。なにぶん何往復もしないと、元が取れなかったからだ。
ここに資金繰りの苦悩があった。ギルドの船商人はここで大きなスポンサー探しに奔走
する事になるが、以外にも簡単に見つかった。ルーシ大公イヴァン4世である。イワン
大公はロシア正教会の著名なモスクワ大聖堂(生神女就寝大聖堂)において、ツァーリ
として正式に戴冠を行い、外交文書においてもツァーリの称号を用いて各国君主、教皇
などと外交交渉を行った。ただし、この段階では「全ルーシのツァーリにして大公」で
あった。1721年、大北方戦争に勝利して祝賀ムードが高まる中、ロマノフ朝のツァーリ
であったピョートル1世は元老院でロマノフ朝のツァーリとして「祖国の父」「大帝」
といった称号が認められた。リューリク朝は1598年1月、フョードル1世の死で断絶した
。以後、ロシアでは皇位をめぐる動乱期に入り、その中で16世紀末のフョードル・ニキ
ーチチ・ロマノフの代にロマノフ家が台頭して動乱期を制し、その息子であるミハイル
・フョードロヴィチ・ロマノフが1613年に推戴されて初代ツァーリに即位した。ロマノ
フ家はリューリク朝と直接の血縁関係は無いが、イヴァン4世の第1夫人がロマノフ家
出身であるという縁戚である。こうして、ここに三百年続くロマノフ朝が始まったのだ
が、このイヴァン4世やロマノフ家が、この1事業制の株式会社の株を購入投資をして
くれたのである。海に面しないロシアにとって海の商人だったギルド商人の陳情は聞か
ない訳には行かなかった。又北海のバイキングに対抗するにも欧州側の商人は貴重だっ
た。ロシアのピュートル大帝はそうした利潤よりは領土の拡張や治安の方が大事だった
が、オランダ人交易はロシアに大きな恵みをもたらした。ロマノフの財宝はロマノフ家
が持っていた権威の象徴だったが、サンクトペテルブルクの建設や大陸横断鉄道の資金
などは、実はこの時投資していた繋がりが与えた恵みだった。ロシア皇帝の権力は絶大
なものと思われがちだが、絶大なものとなったのはエカチェリーナ2世の時代であり、
それまで皇位継承は貴族や軍による宮廷革命によって左右された。またエカチェリーナ
2世までの歴代皇帝によるロシア経済の発展と宮廷文化の成熟、近代化が皇帝の威信を
高める一因となった。こうしてロシアの近代化はピョートル大帝期の時代に推進される
に及んだ。


1684: 名無しさんAA:18/09/06 22:28
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 115

 ネーデルラント(オランダ)のウィレム3世が名誉革命でイングランド王も兼任する
ことになり、イングランド王としてはウィリアム3世だったが、この3世の数字が同じ
なのは全くの偶然である。イギリスオラニエ公ウィレム3世を、オランダ語読みの”オ
ラニエ公”を英語読みにすると”オレンジ公”となり、オランダ語風の”ウィレム”は
英語風にすると”ウィリアム”ですが、”3世”が付いているのと付いてないのでは別
人となる。オラニエ公ウィレム(オレンジ公ウィリアム)は、オランダ総督のウィレム
1世(1533年4月24日 - 1584年7月10日)のことで ウィリアム三世(1650年11月14日 -
1702年3月8日)はその曾孫です。ちなみに偶然というのは、オラニエ公のウィレム三世
とイングランド王の三世が同じになった事で、オラニエ公(=オランダ総督を世襲)で
ウィレムを名乗った三番目とイングランド王でウィリアムと名乗った三番目、が一致し
た偶然である。たとえば、神聖ローマ皇帝のフランツ2世がオーストリア皇帝となると
フランツ1世となるように、同一人物でも領土主権のタイトルによって何世か変わりま
す。逆に言うと、何世かというのは非常に重要です。日本でも「壱岐の守」や「土佐の
守」などには何代目かを付けていたが、南北朝時代頃には既に無くなっていた。このウ
イリアム三世(オラニエ公ウイレム在位1689〜1702)はオランダ人であったが、議会と
協調し政党政治が成立して行く。当初こそ議会を二分していたホイッグ・トーリー両党
から等しく大臣を取り、連立内閣を組織するようにしていたが。それでは政争が絶えず
晩年ホイッグ一色にしてみた(1694年)。これから議会の多数党が内閣を作る政党政治
が生じた。ウイリアム三世のイギリスは、ファルツ継承戦争(1688〜1697)に参加し、
アン女王(在位1702〜1714)の時スペイン継承戦争(1701〜1713)に参加してフランス
の勢力を抑え様としたが、大陸の戦闘には参加せず植民地でフランスと戦いフランスか
らハドソン湾地域・アカディァ・ニューファウンドランドを得て、スペインからはジブ
ラルタルとミノルカ島を得た形になった。アカディァ・ニューファウンドランドは当時
清教徒(ピューリタン)のアメリカ上陸地となって街が出来たと言われる。曾祖父に当
たるネーデルラント連邦共和国(オランダ共和国)独立の英雄ウィレム1世(沈黙公)
に始まるオラニエ=ナッサウ家は、南フランスのオラニエ公は、オランダ、ドイツ中西
部のナッサウに領地を持ち、オランダでも最有力の貴族で、ウィレム1世以来共和国の
主要州で総督(統領ともいう)を務めていた家柄だった。

1685: 名無しさんAA:18/09/06 22:29
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 116

 ウィレム1世は、オラニエ公として八十年戦争勃発時の中心人物とされる。オランダ
がまだネーデルラント連邦共和国の頃の、独立国家の事実上の初代君主とされる。オラ
ニエ公は代々ブルゴーニュ公に仕えており、ルネ・ド・シャロンもブルゴーニュ公であ
りネーデルラント17州の君主であった神聖ローマ皇帝カール5世に従ってイタリア戦
争の最中に命を落とした。こうして、ドイツの小領主の嫡男から一転して大貴族の当主
となったウィレムは、父の元を離れてネーデルラントへ送られ、カール5世やその妹で
あるネーデルラント総督マリアの監督の下で大貴族にふさわしい教育を受ける。一世が
治めていたホラント州、ゼーラント州他の総督では、早くから海岸の河口の船の街だっ
た。ウィレム1世は「沈黙公」として知られているが、これは反乱直前の時期の旗幟を
鮮明にしない態度を揶揄したもので、実際には誰にでも愛想がよく非常におしゃべりで
あった。1533年、ウィレムはドイツ中西部に位置するナッサウのディレンブルクで、ナ
ッサウ=ディレンブルク伯ヴィルヘルム1世(英語版)とその妻ユリアーナ・ツー・シ
ュトルベルクの間の長男として生まれた。1544年、11歳の時に従兄のルネ・ド・シャ
ロンが戦死したが、ウィレムはその相続人に指名されていた。そのため、ルネが父ナッ
サウ=ブレダ伯ヘンドリック3世から相続していたネーデルラントの所領と、母方の叔
父フィリベール・ド・シャロンから相続していた南フランスのオランジュ(オランダ語
でオラニエ)公国をともに相続して、オラニエ公ウィレム1世となった。以後ウィレム
の家系はオラニエ=ナッサウ家と呼ばれる。ナッサウの所領は父から弟ヨハン6世に相
続された。1566年、フランドルで反カトリック暴動が発生し、その反乱はネーデルラン
ト各地へと広まり、まだプロテスタントが浸透していない北部にまで暴動は拡大した。
フェリペ2世は事態の収拾を図るため、アルバ公を1万ほどの軍勢とともに派遣した。
ネーデルラント貴族達はこの暴動の責任を問われ、エフモント伯ラモラール、ホールン
伯フィリップなどなど有力貴族20人余りが処刑されるに至った。この際、オラニエ公
ウィレムはドイツに逃れており無事だったが、領地、財産の多くが没収された。1568年
4月、ドイツに逃れていたウィレムは、軍を率いてオランダ北部と中部から一斉に進攻
、5月23日のヘイリヘルレーの戦いに勝利したものの、結局は失敗に終わった。


1686: 名無しさんAA:18/09/06 22:29
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 117

 軍勢を整えて再起を図ったウィレムは、つぎは弟のローデウェイク(ルートヴィヒ)
やアドルフらとともにスペイン軍に戦いを挑む。その頃はスペインは制海権を持つ程に
つよく、ネーデルランドを植民地化するほど強かったのである。この為に敗北し、今度
はフランスに逃れ、ユグノーに合流した。そして「海乞食(ワーテルヘーゼン)」と呼
ばれる海賊軍団(ゼーゴイセン)を組織し、低地地方の沿岸を無差別に略奪を繰り返し
ながら、徐々に勢力を回復した。このユグノーがかなり強く、1572年4月1日海乞食達は
ブリーレの占拠に成功し、やがて港湾都市を少しずつ制圧していった。同年7月ホラン
ト州は反乱側に転じ、ウィレムを州総督に迎えることとした。ホラント・ゼーラント2
州に海乞食が足場を整えると、改革派が続々と流入し、徐々に主導権を握るようになっ
た。こうして1572年にはホラント州、ゼーラント州の総督となり、反スペイン勢力の中
で中心となった。これを受けて、スペインの迫害を受けていたプロテスタントの多くが
これらの州へ流入し味方するようになった。1573年2月にはホラント州でカトリックの
礼拝が禁じられ、ウィレムは、1577年にユトレヒト州、1578年にはアムステルダムを自
らの陣営に加え、1579年にユトレヒト同盟を結成した。つまり、このプロテスタントの
教徒達はユグノーと共にあったのだ。こうして反スペイン陣営をまとめあげた王となり
。間もなくアントウェルペンなどの主要都市も合流し、1580年には残りの北部4州も合
流した。一方で、ユトレヒト同盟の成立とほぼ同時期に、ネーデルラント南部の諸州は
アラス同盟を結成しフェリペ2世に対しては協調的な姿勢だったが、北部諸州は連邦議
会を作り、フェリペ2世の統治権を否定していた。教科書的な記述ではこれを「オラン
ダ独立宣言」と表現する場合が多いが、実際には「独立宣言」そのものは存在しない。
また、「独立宣言」によりネーデルラント連邦「共和国」が成立したとされるが、北部
諸州はその前年にフランス国王アンリ3世の弟アンジュー公フランソワを新たな君主と
して招き入れる決定をしている。つまり、共和政への強い志向があったわけではない。
この時君主就任を要請したアンジュー公はカトリック教徒であって、この戦争を単なる
宗教戦争として捉えることもできない。スペインとの戦いが続く中で、ウィレムはデル
フトの彼の居館プリンセンホフで、フェリペ2世を信奉するフランス人のカトリック教
徒バルタザール・ジェラールによって暗殺された。昼食を取るために書斎から1階へ下
りようとしたウィレムに、暗殺者から3発の凶弾を浴びせられと言う。次男マウリッツ
が後継者として1585年にホラント州、ゼーラント州の総督に就任する。その後、1597年
までに再び北部州をまとめ上げ、対スペイン戦争を継続していった。

1687: 名無しさんAA:18/09/06 22:30
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 118 

 1672年、フランス軍がオランダに侵攻し、オランダ侵略戦争が開始される。オランダ
の大半が占領され、アムステルダムも占領の危機に瀕すると、民衆がウィレム3世の総
督就任と共和政府の打倒を叫び、ウィレム3世が総督に就任した。デ・ウィットとその
兄コルネリス・デ・ウィットが暴徒によって殺害され、無総督時代が終焉した。それま
でオランダのブルジョワ政治家たちに排斥されて総督の世襲を阻まれていたウィレム3
世だったが、就任後の1673年にオーストリアやスペインと同盟を結んで逆にフランスを
包囲する形勢を作り、フランス軍への徹底抗戦を貫き、オランダ国内で抵抗を続けた。
その後、オランダを出てオーストリアの将軍ライモンド・モンテクッコリとドイツで、
合流しフランス軍の補給基地ボンを落とし、同年のうちにフランス軍を撤退させたのだ
。これ以降、ウィレム3世はルイ14世の仇敵となって戦った。戦争はスペイン領ネー
デルラントへと移り、ウィレム3世は同盟軍を率いてフランスの将軍コンデ公ルイ2世
とリュクサンブール公フランソワ・アンリ・ド・モンモランシーとネーデルラントで戦
い、コンデとリュクサンブールとの戦いではしばしば敗北を重ねた。(スネッフの戦い
、カッセルの戦い、サン=ドニの戦い)その間、ネーデルラントの都市を奪われたりし
ているが、戦略上他国と結んだオランダが有利であり、1678年に締結されたナイメーヘ
ンの和約でオランダは領土を保全、ウィレム3世は一躍プロテスタントの英雄となった
。一方フランスと組んで戦ったイングランドは、海軍提督ミヒール・デ・ロイテルの活
躍でオランダ上陸を阻止していた。1674年にイングランドと和睦して第三次英蘭戦争を
終わらせ、1677年に駐蘭大使となっていたテンプルとチャールズ2世の側近のダンビー
伯トマス・オズボーンの周旋で、ロンドンでチャールズ2世の弟ヨーク公ジェームズの
娘メアリーと結婚した。ジェームズは母方の叔父であり、妻とは従兄妹の関係になる。
メアリーは背が高く大柄で、背の低いウィレム3世とは不釣り合いの夫婦であった。又
夫婦仲も良くなく、ウィレム3世には別にエリザベス・ヴィリアーズという愛人があり
(後にオークニー伯ジョージ・ダグラス=ハミルトンと結婚)、同性愛的傾向もあった
が、メアリーに敬意を払うことだけは忘れなかった。とこういう歴史を歩んだ英国だっ
たが、この時ユグノー教団が考えたことは財産の保全だった。彼らはスペイン人の強奪
に会わないため資産を隠すために銀行や協会を作った。リスク分散の考え方で投資を選
び。投資した商人が生き残る事で、自分が無一文では又始められる仕組みを築いたのだ


1688: 名無しさんAA:18/09/06 22:44
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 119 

 会社の起源とされるものは各国で発見されているが、フランスには「バザクル水車」
という会社があり、なんと今も続いている。西暦850年頃に小麦粉をひく水車小屋が
造られ、1150年に会社の権利を小口化して売っていたとされる。株式は英語で( Share
:シェア)と言いますが、水車が生み出す利益を、みんなでわけあう仕組みは、江戸期
の田舎の水車にも導入された。つまり、水車小屋を皆んなで作るのだが、一定の寄付で
は上手く行かないし、使い方も大農主と小作農では時間も摩耗も違う。又そのままでも
保守点検や修理と新規の建て替えは起こる。そこで少し余る程の料金で運用し積立てと
量による決済をして共用としたのである。現代の株式会社が日本では「福祉の増進」を
謳っているので今と根本的に同じですよね。又日本で言えば、西暦 578年に聖徳太子が
百済から宮大工を招いたのが起源とされる社寺建築の「金剛組」は、いまや1400年以上
の伝統を持ち、日本どころか「世界最古の法人」と言われている。もっと古いものが、
見つかる可能性もあるのだが、日本の歴史でもこうした、寄付や慈善事業体としての、
会や組合の運用が起こっていた。こうした運用最古の共同体が残っているのは、共生の
思想の中には、宗教と違って同じ共済集団となって、技術や財産を残そうと言う意志が
あった事で起こった事だった。ただそれでも、オランダ東インド会社のような永続的な
投資を前提とした会社は、他国にはなかったとされている。投資先が「10年20年ずっー
と」と言うスパンが長引いていき、今日の株式の永続性が生まれ、「会社は継続するも
のだ。」という近代的株式会社の概念までこの時初めてオランダで誕生した。日本の利
潤を子孫に残す。と言う考えと違い、残す為に利潤を配布する。と言う考え方のようだ
。そもそも東インド会社は、肉を腐らせないためコショウが重宝され、胡椒一俵は城が
買える、船が買える。とされる高級品だった時代である。この高価なコショウの輸入を
求めて航海に出た。と言われる。コショウ貿易は当時、肉よりもずっと値段が高かった
。つまり、コショウを買えるほどの富裕層は、もともと腐りかけの肉を食べる必要がな
かった。コショウは肉の保存目的ではなく、風味つけの「よりおいしく肉を食べたい」
という欲望を持った諸侯の料理人に、グルメを目的に流通していた。つまり、グルメへ
の欲を満たすために経済が動いていた。日本でいう「食の贅沢は国を潰す。」と言う諺
を国王はわざわざ行っていたのだった。そして商人もわざわざ危険な航海をして、東イ
ンドまでコショウを取りにいかせ、航海が成功する度に莫大な利益が生む商売を始めた
。この為投資と言う金儲けを目的に事業に出資する人が出てきた。それが株式会社の始
まりだが、それが又ロシアの経済を助けた。最初の大口投資家がロシア皇帝だったから

1689: 名無しさんAA:18/09/06 23:02
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 119 
 会社の起源とされるものは各国で発見されているが、フランスには「バザクル水車」
という会社があり、なんと今も続いている。西暦850年頃に小麦粉をひく水車小屋が
造られ、1150年に会社の権利を小口化して売っていたとされる。株式は英語で( Share
:シェア)と言いますが、水車が生み出す利益を、みんなでわけあう仕組みは、江戸期
の田舎の水車にも導入された。つまり、水車小屋を皆んなで作るのだが、一定の寄付で
は上手く行かないし、使い方も大農主と小作農では時間も摩耗も違う。又そのままでも
保守点検や修理と新規の建て替えは起こる。そこで少し余る程の料金で運用し積立てと
量による決済をして共用としたのである。現代の株式会社が日本では「福祉の増進」を
謳っているので今と根本的に同じですよね。又日本で言えば、西暦 578年に聖徳太子が
百済から宮大工を招いたのが起源とされる社寺建築の「金剛組」は、いまや1400年以上
の伝統を持ち、日本どころか「世界最古の法人」と言われている。もっと古いものが、
見つかる可能性もあるのだが、日本の歴史でもこうした、寄付や慈善事業体としての、
会や組合の運用が起こっていた。こうした運用最古の共同体が残っているのは、共生の
思想の中には、宗教と違って同じ共済集団となって、技術や財産を残そうと言う意志が
あった事で起こった事だった。ただそれでも、オランダ東インド会社のような永続的な
投資を前提とした会社は、他国にはなかったとされている。投資先が「10年20年ずっー
と」と言うスパンが長引いていき、今日の株式の永続性が生まれ、「会社は継続するも
のだ。」という近代的株式会社の概念までこの時初めてオランダで誕生した。日本の利
潤を子孫に残す。と言う考えと違い、残す為に利潤を配布する。と言う考え方のようだ
。そもそも東インド会社は、肉を腐らせないためコショウが重宝され、胡椒一俵は城が
買える、船が買える。とされる高級品だった時代である。この高価なコショウの輸入を
求めて航海に出た。と言われる。コショウ貿易は当時、肉よりもずっと値段が高かった
。つまり、コショウを買えるほどの富裕層は、もともと腐りかけの肉を食べる必要がな
かった。コショウは肉の保存目的ではなく、風味つけの「よりおいしく肉を食べたい」
という欲望を持った諸侯の料理人に、グルメを目的に流通していた。つまり、グルメへ
の欲を満たすために経済が動いていた。日本でいう「食の贅沢は国を潰す。」と言う諺
を国王はわざわざ行っていたのだった。そして商人もわざわざ危険な航海をして、東イ
ンドまでコショウを取りにいかせ、航海が成功する度に莫大な利益が生む商売を始めた
。この為投資と言う金儲けを目的に事業に出資する人が出てきた。それが株式会社の始
まりだが、それが又ロシアの経済を助けた。最初の大口投資家がロシア皇帝だったから
だ。

1690: 楓十座と仲村みうの後日談:18/11/02 15:49 ID:5..
元人気グラビアモデルで現AV女優の仲村みうは
ホストと界の帝王の楓十座と毎日セックスしているらしい

残念な話は仲村みうはAVの新作話も出ているから
本格的な熱愛ではなくセックスフレンドなのだろうか…?

1691: 一般人の志乃舞とはこんな人です↓:18/11/02 16:02
                                 ウソウソ                  ウソウソ
息を吐くように嘘をつく .                   ウソウソ         ウソウソ       ウソウソ
                         .ウソウソウソウソウソウソウソウソ     ウソウソ      ウソウソ
  ∧_∧         ∧_∧      ウソウソウソウソウソウソウソウソ       ウソウソ     ウソウソ
 <丶`◇´>すぅ〜 . <丶`○´>はぁ〜 ウソウソ       ウソウソ        ウソウソ    ウソウソ
⊂    ⊃     .人 Y /      ウソウソ       ウソウソ              ウソウソ
 (    )      ( ヽ し                ウソウソ             ウソウソ
 〈_フ__フ      .〈_フ__フ              ウソウソ            ウソウソ
                                   ウソウソ           ウソウソ
                                  ウソウソ          ウソウソ

1692: 一般人の志乃舞とはこんな人です↓:18/11/02 16:10
         ,、='' ̄::::::::::::::: ゙̄'''ヽ、
       /:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\
     /:::::_,_、:::::::>‐-、:::::::::::::::::::::::::::::
     /::::/~ヾ,}::::j|  。 }::::::::::::::::::::::::
    l::::/|_ ゚ ,.>ー、ゞー≠ ̄ヽ::::::::::::::
    |::/ ヾ≦ヘ,_ノヽ      \:::::
   |Y     l|         ヽ
   |ノ〆    l|       ー-  |   5ちゃんねるとか
  /| /      l|       ー-  |
   l / r   」{,        ヽ  |   おーぷん2ちゃん
   l,  ヘ_ _,,>ー=、_   /
    ∧   `Σ,,、-‐─゙ゝ=´    /  全部アクセス規制されても
     ヘ   ===一       ノ
      ∧                己が正しいと言い張るよ
       \≧≡=ニー   ノ

1693: ↑それは:18/11/02 16:12
お姉さんはスマホまた買い換えれば
いいと思い込んでいるからなのでは?

1694: 名無しさんAA:18/11/02 19:26
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 120 

 正確には、「高い値段でも購入したい」という食欲を狙って、出資者が金儲けをした
ということになる。当初の大航海時代の冒険者たちのスポンサーは、ヴェニスやジェノ
ヴァの商人が多く、率先して出資していたとされる。しかし最初の頃は同じ、その都度
の出資が多かったとされている。あのコロンブスも成功にたどりつく前に、何度もスポ
ンサーを募っては失敗している。誰も見たことがない未知の大陸を目指すわけですから
、出資を引き出すには高いプレゼン能力が求められた。彼らは、今のベンチャー起業家
のように、出資者に対して自分の事業(航海)がいかに魅力的で儲かるかをアピールし
、必死にプレゼンした。と言われる。ロシアのピョートル大帝、イギリスのエリザベス
女王と、必死に諸侯や大公の出資を引き出していた。そうして航海が儲かることが判明
して行くと出資したい人が増えて、やがて会社化していった。1492年のコロンブスがア
メリカ大陸に到着したことで、これまでは食糧難で欧州の人口はまばらだったのが、急
に人口増加に転じて経済流通が発達した。アメリカ大陸にしかなかった物品も世界中に
広まったからだ。このことで、ヨーロッパ世界の食文化は飛躍的に変化しグローバル化
していった。そして乗じて農耕にも潤いがでた。例えばばトマトやなすはアメリカ大陸
から発見されてヨーロッパに伝わった。ジャガイモやトウモロコシ、唐辛子やたばこも
同じ様に輸入品だったが、アメリカの新大陸でもヨーロッパでも作られだした。食文化
というのは意外と後になって定着したものが多く、アフリカが未開地だったのはトウモ
ロコシも、稲も自生種があるにはあったが、今の様に大きくも無く育ちも違う小さな物
だったし、虫にや乾燥や病気に強いが、2〜3割程の重さの実しかならない物だった。
小麦粉のパスタは中国からシルクロードを渡ってきたという説さえある。つまり、小麦
粉はパンしか作れないものだった。もともとイタリア料理にはトマトソースもパスタも
なかった海鮮や日干しの肉の焼き料理しかなかった。ドイツ料理にもジャガイモがなか
ったし、インドカレーにも唐辛子は割に少なかった。その代わりに、イタリア料理は生
ハムをメロンにくるんで食べるレシピがローマ時代からあったと言う。オランダ東イン
ド会社は、「会社は永続するもの」という概念と共に、無限責任から有限責任への切り
替えが起こった。「無限責任」は、仮に航海が失敗して船が沈んだ時、借りた船の場合
だと、株主が全額弁償しなければいけなかった無限責任で、これがイギリスの末代まで
の支払う保険の元になったが、オランダはそれを捨てた。無限責任は当初から超高額な
金額での出資者を募り、出費には支払い能力がある人を厳しく審査した。

1695: 名無しさんAA:18/11/02 19:26
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 121 

 出資希望者に経済力があるかどうか、わざわざ住まいや土地や家を見に行ったとさえ
言われる。しかしピューリタン革命でバチカン系統の諸侯の援助が無くなり、取引に参
加できる富裕層もいなくなり、大きな資金も集まらなかった。当然株式の取引も、活発
になることはなかった。そこで、株式の「有限責任化」が始まり、無限責任の支払い能
力を限定せず、株式発行額のみの責任として広く一般からも出資者を募るようになった
。企業は出資者の審査に手間暇を掛けず集金した。お金持ちでなくても出資させ、市場
が活性化した。結果、アムステルダムの取引所では商品、為替、株式、海上保険、先物
取引など、いち早くさまざまな金融商品が取引された。ここにちゃっかりイギリス海上
保険が組み込まれて運用された。この銀行の手数料運用が生まれていた。つまり多くの
出資者を募る中で、その出資者自身が保険や商品などコーデネイトしセットした証券や
株券を発行運用した銀行が生まれていたのである。それだけオランダでは早々と株式の
市場が発達した。アムステルダム銀行(アムステルダムぎんこう)はオランダのアムス
テルダム市当局が設立した公立の振替銀行である。ヴェネツィアのリアルト銀行がモデ
ルとされている。あらゆる種類の貨幣を預金として受け入れ、法定換金率での換算した
銀行通貨グルデン(ギルダー)で払い戻した。フォンテーヌブローの勅令とジョン・ロ
ーの経済政策破綻でユグノー資本の預金が殺到した。実は利子や手数料を取らない銀行
業務はエジプト時代からあった。ただし少し違った形で運用されてて王家の持つ奴隷を
増やす仕組みだった。その後イスラム社会で整備されたが、同じ様に利子や手数料を取
るのは悪行とされた。バチカンのカトリック教会にも同じ銀行業務が寄付金や布施や拝
謁料が十字軍遠征の協賛金などと共に運用されたが、そこでも運用は慈善事業であり、
利子手数料は宗教とは相反すると批判され、隠れて外為送金で利子として運用していた
。つまり通貨の違いで教会は儲かっていたのである。バチカンのこの方式を、教徒は許
さなかった。一番批判したのがユグノー教徒であった。教会規定ではユダヤでも他教徒
への利子は行って良かった為、貸付の多くは他のユダヤ教徒などで行い自宗徒には貸さ
なかったので、ユグノーは逆にユダヤ教徒から高い利率の金を借りて事業を興していた
。1605年の市議会声明に「長い間、主要な商人たちはセビリアやヴェネツィアのような
銀行の設立を求めていた」と書かれている。16世紀のアントワープでは、公的に預金・
振替業務が禁止されていたため公立の振替銀行は存在しなかったのだ。


1696: 名無しさんAA:18/11/02 19:27
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 122 

 そうした業務は民間の兵を持つ金融業者等か教会が担っていた。そしてアムステルダ
ムも公立振替銀行ができるまでは私兵を持つ民間に業務を委ねていた。民間で振替業務
を行うカシールは、16世紀から為替手形の支払に法定重量を満たさない悪貨を債権者に
引渡し不当な利益をあげていた。17世紀初期に、カシールは多種多様な鋳貨が流通し
ていたことを理由に現金での払い戻しを嫌い、現金払いに1〜10%のプレミアムを要求
し、支払指図の事前了承でこれに代えようとした。しかし、このような行為は商取引を
著しく阻害したため、商人たちとの軋轢が起こっていた。このような状況を打破するた
め、アムステルダム銀行が1609年に設立されるとともに、民間金融業者の振替業務が禁
止された。この時731人の出資者のなかにはユダヤ人が25人いた。とされるローマ
帝国時代には、皇帝が変わる度に金貨の価値が変化した。いわゆるデノミとインフレが
、結構頻発したのだ。市内の生活には問題が無かったが、鋳造されて新たな悪貨となっ
たり、国外コインが氾濫したりである。こうしたものは目利きが必要であったし、更に
海外向けの交易にはその目利きの持つ知識は不可欠だった。貨幣制度が混沌としていた
中世での支払いは、常に特定の鋳貨と結びついていなければならず、両替&鋳貨の売買
に従事した「両替商・銀行業者」という様な特別な職業が必要となり、特にベネチヤ商
人には必要だった。この当時非常に難しく、深い専門知識を必要とした職業は、政権に
つながらない所で行うべき輸入の仕事だったし、確実に儲かる仕事であった。両替商は
「差し出されたあらゆる金貨・銀貨全ての金銀含有量を確実に知っていなければならな
い。」物で、長年にわたってこの実務に携わってきた熟練の両替商は「鋳貨をいちいち
秤に架けなくてもこれを鑑定でき、一瞥するだけで十分」だった。と言う。さらに彼ら
は「種々様々な鋳貨を、それと等価値の他の通貨に躊躇なく換算しなければならない。
」かくしてシチリア島のパレルモには多くの両替商が存在し繁盛した。やがてイタリア
のほとんど全ての都市に、ギルドとして結びついた両替商が登場したが、彼らの多くは
教会前の広場に両替店を設けて教会の設けた規制の枠の中で商売をしていた。イタリア
人両替商達は、西欧・オリエントの諸都市における両替商の代表的存在だった。振替業
務は、両替商・銀行業者が両替と同時に営んでいた。


1697: 名無しさんAA:18/11/02 20:29 ID:zmw
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 123 

しかし、こうして繋がり銀行業者のある顧客から他の顧客に支払いが必要な場合、それ
は「銀行業者の帳簿に記入されている支払人の口座」から「受取人の口座」へと「支払
い相当額を書き替える」ことで済ませる事に変化した。この振替の仕組みはシャンパー
ニュの大市で著しい発展を遂げた。しかし、その元締めは教会にある図書館を利用出来
た司祭の配下で守られてその行為が保証されていたのである。こうしてバチカンは大市
に到着した商人達の、「まず両替商に持参金を委託する」「支払いと受け取りは大市の
終了後に、両替商の帳簿の上で相殺され」「残った差額のみ現金で決済する」のを監視
する役目を負った。大きな取引には司祭同士の立ち合いや話し合いが必要であったが、
両替商は常に「顧客の要求に応じるのに必要な多種多様な鋳貨,金銀の地金を用意し」
て「鋳貨・貴金属地金の購入」も行っていた。振替業務には「預金が存在している」=
両替商に金銭の保管を委託していることが前提だったのである。これがスイス銀行の成
り立ちだった。その後、諸侯や王侯や都市は両替商に貨幣を預託し出した。両替商は彼
らに代わって「支払事務を司る」「財政管理も引き受ける」役まで行っていった。こう
して両替商は同時に銀行業務にも関係し、預金の引受のみならず資金の貸出も行った。
「しばしば鋳貨親方でもあった」「都市の割引銀行も、両替だけでなく預金・貸付業務
を営んだ」というまで発展した。大市によって為替手形が出来、中世に貨幣の交換には
2つの行為を大々的に行った。一つは両替と言う2種類の異なる鋳貨を交換する。(=
別の鋳貨で払い込むのと引き換えに、ある特定の鋳貨でその払い出しを受ける)」とい
う外貨交換。更にもう一つは手形と言う(両替する金額の「払込場所と異なる場所で異
なる時期に払い出しが行われる」約束した支払い)の信用貸しや外為業務である。イタ
リア・プロヴァンス・その他の商人達は、しばしば盗賊など危険な目にもあった。その
毛織物やその他の商品購入や売りのためにシャンパーニュの大市へ旅行する際「莫大な
経費を要し、途中で略奪・襲撃される危険もあった。のだった。この為の大金の携帯を
避けようとし、さらに大市開催地で、その地の通貨を両替によって手に入れる必要があ
ったが、この危険の代替えに、「この両替を予め出発前に本国で済ませて、しかも両替
による現地通貨の支払いをすぐに(出発地で)受け取らず「証券1枚を受け取り、大市
開催地に到着してから証券を提示して、本国で払い込んだ旨の信用で相当する現地通貨
を受け取る。」ようにした。後で出てくる電信支払いに似た外国為替の方法である。


1698: 名無しさんAA:18/11/02 20:30
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 124 

 こうして、教会の1/10税と言われた一割徴収も、イングランドで徴収した金額を道中
での略奪を恐れて、ローマに持参はする事をせずに済んだ。つまり手数料込みの為替で
ある。代わりに多種多様な鋳貨のままで、ロンドンにいる両替商の1人に払い込む事で
、両替商は徴収者に対して『ローマにおいてフィレンツェ通貨でそれに相当する金額を
支払った旨の証書を交付した。」事で済んだ。この手形は「委託された特別の使者によ
ってローマ教皇庁に送付され」為替手形の始まりとなった。「振出手形:振出人から第
三者に宛てられた支払い委託」である。しかし、教会では、隠れた不正が罷り通る事で
数十年混乱が生じた。しかしここに市民が作ったヴェネツィアのリアルト銀行がモデル
となって今の銀行の形が整えられた。銀行業務に専門の教会以外のネットワークが望ま
れていたからだ。これが銀行の始まりだった。これまで癖のあるある種の地域の教会や
教義の違う敵対する教会などの不信感や汚職や手数料の吹っ掛けがここで消滅したのだ
。これは実際の経過としては「ある銀行がある金額を払い込んだ顧客に対して」「手形
受取人に表記金額を払い出すことを指定された、在外国支店宛ての手形を振り出す。」
と言う行為だった。10世紀の頃までには初期の様に発行人がサービスで、手形振出人
自らが支払い履行地に行った。この「両替商もしくは銀行業者」の生業(なりわい)に
おいて商品代価を、王の旅行先や諸侯の現物仕入れ先に於いて、郷里に持って帰って来
てから払う。という役目だった。つまり銀行家自身が危険を引き受けた上で、手形の支
払いが行われる指定地に輸送してそこで支払いを履行する」という点にあった。これは
アメリカの西部劇映画の金塊を運ぶ幌馬車隊や弾丸列車のようなものだった。しかし彼
ら引受者もまた商品取引に従事しており、大市(支払い履行地)においては、当然逆に
輸出もしていて工業地帯は農業地帯或いは漁業地帯とこの三つは食料供給において経済
活動していて、商品代金は請求書と領収書の交換のみで、その精算処理で、貨幣を全く
携行せずに大市へ赴くことも多くあり、こうして取り立てた商品代金で支払いを履行で
きる事もしばしばだった。こうして初期(13世紀初〜)の約束手形は「支払いは手形振
出人の代理者である銀行家 もしくは、彼に指名されて支払地に到着した者によって行
われねばならない。」という条件が登場する。指名された者は手形振出人からの「支払
状」によって支払いの通知を受けた。この通知(簡単な委託証券)自体は最初は手形で
はなかったのだが、やがて「手形を振り出した銀行業者が支払義務を負った」形のきち
んとした為替手形にまで発展した。

1699: 名無しさんAA:18/11/02 20:30
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 125 

 しかし、この時期から『手形引受』が制度化され、とんでもない方向に銀行家は走っ
た。食料生産が乏しく諸侯が争った時、諸侯が決めた戦争捕虜や戦争賠償金の支払い代
理業務である。諸侯は投石機や弓や鉄砲などを供給してきた業者に、その処理の代表を
つけた。こうして城主や庶民は生死を別けて戦うのだが、死の商人とされる いわゆる
軍事顧問団はその算術に於いて、自国の住民や食料生産を上回る戦いをしない事を申し
合わせるのである。こうなるとこの銀行家は戦争行為の保証人だった。停戦交渉が難し
くなる上に領土や賠償金精算が出来なくなる事に銀行家が渋った時には戦争は出来なか
った。相手の持ち分の資産や銀貨や農奴やあらゆる物が計算の上で、賠償金は決められ
、この賠償金以上の戦争は出来ず、保証人として大国の相番が必要で後ろ盾がなければ
鉄砲の弾や食糧や兵員や農奴が集められなかった。こうなると、もはや戦争はゲームで
あった。銀行の取引で「要求に応じて支払う意思がある。」ことを明示して、その金額
が決められ、この文言は無条件で手形に必ず記入されなければならなかった。こうした
契約社会の登場で、『手形拒絶証書』も一般化した。「手形を正当に呈示したにもかか
わらず引受を拒絶された」ことを公的に示すもので、手形支払人が手形振出人に、全く
債務を負っていないがゆえに支払いを拒んだ。という勝手なニセ小切手や手形の事件も
あった。これは戦争に負けた城主自ら作ったニセ手形事件や大きな公国の、盛んな罠と
して利用した事件が頻発した。もっとも普通の庶民はこうした悪質商人や城主のもつ権
力に逆らえなかったが、同時に手形などの交換には関わらなかっただろう。これらは、
イギリスに於いて保険として発展した。つまり第三者の諸侯にそれらの保証をさせたの
だ。その保証は直ぐに掛け金として、積み上げられ、その場を提供した王は2割がもら
えた。つまりA国かB国かを掛けてどんなに小さくかけても1でありそれから小さくな
るのである。こうなると1:2であればもし同額であれば一応は3倍の金額が胴元には
集められる。ここでA国に2倍払えば、同額が残りB国に1、5倍払い戻しすれば胴元
は空になる。つまり儲けがない。そこで胴元も入り1,3倍で払い戻しする形では、元
から3割は増える形だ。こうなれば胴元は10〜3割が入り貴族のギャンブルとして成
り立つのである。そこで問題なのは掛けた諸侯が支払わない事だった。そこで子や孫ま
で支払わせる永代負担としたのだ。これは黒人のみならず白人も奴隷になる事を示した


1700: 名無しさんAA:18/11/09 00:42
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 126 

 ヴェネツィアからロンドンに振り出された為替手形に関する、ロンドンでの手形拒絶
証書が幾つも記録されている15世紀は、政治変動の時代でもあった。麦などの不作が
続き、時に大航海時代に起こった輸入された外来種の芋や茄子やトマトが命を救った。
シャンパーニュの大市場は大きな賑わいで、普通はここの市場の商店で支払いの期日・
場所などが定められていた。手形は恐らくは最初に海上貿易で用いられ、後に国内商業
にも使用されたのだろう。「商人が証書によって行った支払約束」として、南ヨーロッ
パ・西南ヨーロッパ・全域に及び、イタリア人が金貸し&商人として活躍した場所なら
どこでも広く普及し、13世紀には既にあらゆる教会にその知識はあった。既に1291年
フィレンツェの会社の在ロンドン代理人は「為替手形によってシャンパーニュの大市か
ら資金を受け取る」→英国フィレンツェ商人は、英国から商事会社の仲介によって本国
へ送金する→フィレンツェにいる債権者は、英国に滞在しているフィレンツェ人の債務
を取り立てる→英国の修道院の代理人は、ローマ滞在に必要な金額を手に入れることを
保証される。という手間を行っていたであろう。こうした事が、宅急便のゴルフパック
の様に普通に普及し、やがて手形取引はイタリア・フランス・イングランド・スペイン
・フランドルの主要商業地間で広く活用されるようになり、商業手引の流通経済は、種
々異なった場所が記入されている手形の支払期限分類を行われ、一層複雑化して、手数
料や利子の取り立てで潤うことになった。しかし、ネーデルラントと言う商業地域での
戦さをするドイツでは、往々にして商人は送らせ、手形の導入は遅かった。さらにドイ
ツでは、たとえ手形が「フランドルとの商取引に利用され、ドイツ各地間の商業に支払
い手段一般として行われた」としても、手形取引の重要性はイタリア商業でのそれより
もずっと低くその利用も少なかった。西暦120年頃で古文書として発見された約七千
通もの手形(1249〜91年)は、公的文書として証拠力と履行力を有していた物だった。
これらは「イープル市の参審人の面前で署名され、手形の受領と同時に裏書きされ公示
された。」ものだった。証書には「ノコギリの歯形に切り取られて、片方は債権者に手
渡され、もう片方は市の文書館に保存された。」とあり勘合貿易のような形だった事が
判明している。


続きを読む
掲示板に戻る 全部次100 最新50
名前: E-mail(省略可): ID非表示