1つめの記念スレ


@3ch掲示板 > 1つめの記念スレ
全部1- 101- 201- 301- 401- 501- 601- 701- 801- 901- 1001- 1101- 1201- 1301- 1401- 1501- 1601- 1701- 最新50

1つめの記念スレ

1: 騎士剣:05/11/09 17:24 ID:A/yxhPTA
勝手にスレを書き込んで勝手にレスをつけてくれぃ

1401: 名無しさんAA:18/05/07 10:18
宣教師の時代       ーーー151

 鎌倉幕府を開いた理由は今もってまだ不明である。基本的には京都の朝廷が、地方の
荘園・公領はそのままで、地方支配に地頭等の形で、武士に地頭職を置いた為に、割り
込む形で二元的な支配構造ができあがった事にある。つまり朝廷支配は先住民の蝦夷を
追い出して得た稲作文化でありしばしば襲われたり、荘園同志の領地争いなどが盛んに
なった為に警官や護衛役を作ったとされる。しかし実際は、当初の幕府は関東に限られ
「鎌倉殿」頼朝の私的家政機関として設立されて、公的機関でも全国的ものでははない
。したがって基本的に鎌倉幕府が支配下に置いたのは鎌倉殿の知行国および主従関係を
結んだ武士(御家人)であり、守護の設置などで諸国の治安維持等を担当したものの、
全国の武士を完全な支配下に治めたものではない。平氏の北条政権が朝廷に入り込み、
朝廷を通じて支配を試みたのとは対照的に勝手に支配した。特に元寇が起こって、以降
は全国の武士に軍事動員をかける権限などを手にし、全国支配が強化されることで鎌倉
時代に入った。蝦夷の戦いにおいて、武家の栄誉である鎮守府将軍に任ぜられ、国内の
兵乱を平定、朝廷の信望を得るとともに東国を拠点として武家の棟梁としての名声を上
げたが その強力な軍隊組織が逆に京都の室町の京都守護兵を上回った鎌倉幕府はそれ
以前の武家政権である平氏政権と最も異なる点は、「問注所」と呼ばれる訴訟受付機関
を設置したことで、これまでは地所の支配権をめぐる争いは当事者同士の武力闘争に対
して、容易に発展していた騒乱にこれにより実質的に禁止することになった点だ。武士
達の、つまり全国各地の騒乱のほぼ全ての原因が土地支配に関するものであり、頼朝の
新統治方法は、この後永く幕藩体制の根幹を成すものになり江戸でも同じだった。そも
そも、足利将軍家は成り立ちからして権力基盤が弱いところがあった。源氏三代で絶え
た鎌倉政権は、北条得宗家が中心となりながら武家の政権を維持して来た。後半には、
御家人と得宗家被官の御内人との対立はあったが、それでも武家の総帥としての指示で
その政権をかろうじて維持出来た。しかし、その後強力な個性を持った後醍醐天皇が建
ち、強力に平安の昔に戻すことを後醍醐が目指し存在感を高めて、北条得宗家と御内人
の政りに不満を持つ武士達の心を掴んで、鎌倉政権はあっという間に瓦解崩壊したのだ
。そうして南北朝時代に突入した。。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明
天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行
宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後
小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56
年間は終わった途端に鄭和の船団が来航した事になる。

1402: 名無しさんAA:18/05/07 10:18
宣教師の時代       ーーー153

 海外には既に当時には、日本人町と言うのは数多くあり、又数多く人間がいた。これ
は、ベトナムの中部のコウチやタイのアユタヤなど交易の拠点に、日本人の駐在員のよ
うな人たちがいた。その人たちを中心に日本人町が各地にあった。このサンミゲルと言
う町も 最盛期には三千人くらいの日本人がいた。多くは迫害から逃れたキリシタンだ
ったとも言われる。しかし日本が鎖国に入ってしまう前は5〜50万の奴隷が売られた
。火薬の樽と引き換えに。しかし徐々に日本本国との交易もなくなり、日本人町に残さ
れた人たちは現地の人とやがて同化していき消滅して行く。今日では、かつてそういう
ものがあったという跡くらいしか残っておらず、対照的に中国人の町チャイナタウンが
現在でも各地に残っている。かつ活況にそこだけ見事に中国となって、華僑街を作り今
も残って居る。鄭和の大航海は江戸よりおよそ二百年も前だが日本に来ない筈はない。
『鄭和下西洋資料』には、鄭和は足利義満に倭寇取締りを要請し、義満はこれを受諾す
るとともに勘合貿易に同意したという話がある。この船団が鎌倉に突然現れて交渉した
のだろうが、その時は江戸の黒船以上の驚きだったろう。中国側の一部資料の、鄭和が
1404年に皇帝の特使として10万人を率い、日本に派遣されたとの記述が見えるが、日本
側にはこれを裏づける記録は全くない。博多商人他伊豆の船団も既にあったとされる。
1405年6月15日 鄭和34歳の時、永楽帝に諸国への航海を命じられて出港している。この
後鄭和の死後は、1435年に宣徳帝が死去すると明は再び鎖国的になり、国力も衰退して
航海は行われなくなった。この記述の1404年は、この大航海前なのだ。皇帝の特使
として10万人を率いて、日本に派遣されたとの記述は、どこにも日本の記述にない。
10万人もの人間が着岸したとなれば大事件である。だがどこにも日本側に記載がない
。これは不思議な話である。当時の中国(明)では羅針盤と呼ばれるコンパス(磁気式
方向指示器)や六分儀を使った天文航法、測量技術、海図の制作技術まで完成されてい
たとされる。ヨーロッパの大国は当時「天動説」を信じて大航海時代が始まるのは百年
近くも待たなければならない時代だ。その意味では鄭和の率いる艦隊は最新最大の史上
最強の大艦隊だった。その上偉大な陣容だったが、この艦隊は軍事侵略・占領を目的と
はしていなく遊興の様に。各国に明王朝の国威を誇示し「朝貢」を促すだけのための「
外交使節団」もしくは「通商視察団」という性格のものだったのだ。極端に言えば完全
な学術調査なり通商視察なりの船であったのだ。布教も領地拡大も交易強要もない純粋
なものだったのである。

1403: 名無しさんAA:18/05/07 10:19
宣教師の時代       ーーー154

 では彼が日本に行って天皇い会ったというのは、一体何処についたのだろうか。琉球
王国だろうか、壱岐対馬だろうか、あるいは伊豆大島や小笠原諸島当たりだろうか。マ
ルコポーロ達の帰国は1295年である。1292年、フビライ・ハーンの命令で、ペルシャの
イルハーンに嫁ぐタタール族王女に付き添い、無事に送り届けるためにマルコ・ポーロ
達が選ばれた。前回に陸路の旅で失敗しているために、今度は海路が選ばれたからであ
る。帆船はマレー半島、スマトラ、インドの海岸沿いに航行した。一行は14隻の船に
600人の従者と2年分の補給品を積み込んで船出した。3年後には、無事にペルシャ
についたときには六百人の従者はわずか十八人に減っていた。当時の航海はこのように
過酷で命がけの旅であったのである。マルコ・ポーロは陸路で故郷をめざした。1295年
の冬にヴェネティアについた。24年ぶりのことであった。以上の事柄が序文でわずか
12ページしかない、これ以後に、物語が始まる。およそ1300年頃にこうしてマルコ
・ポーロは海路で帰っていったのだ。そして1400年頃に鄭和の大航海があり150
0年頃に大航海時代にはいり1600年に江戸時代に入ったのである。マラッカ海峡の
王国はこの間繁栄した。忘れてはならないのが明王朝の強力なバックアップだが、当時
交易船には帆船かオールである。船の航行はまさに風まかせだった。自然が織りなす、
季節風を利用して東西の交易をしていた。その東西の風の切り替わりを待つ「風待ち」
に適していたのが、波風の少ない天然の良港が「マラッカ王国」だった。つまり海路が
欧州に通じているのはある意味マルコ以来は知られた中にあった。と言える。それに、
もう一つのはなぜ鄭和の船が欧州まで着かなかったのかは食料の限界だったとも言える
。アフリカを南下するのは簡単だが北上するには水の供給が困難であったのだろう。更
にこの鄭和の文化にワインの文化はあっても大量には積んで居なかったと思う。マルコ
ポーロは1324年に死亡した。ヴェネチアに残されている資料によれば、彼には妻と三人
の娘がいたらしい、しかし、大きな屋敷に住んでいたが暮らしぶりは質素であった。尊
敬は受けていたようだが、特別な名士ではなかったようである。また、遺産も驚くもの
では無かった。「東方見聞録」以外の記述本は中世ではアジアについて書かれたものは
わずか2冊。プリニウスの『博物誌』とブルネット・ラティーニの『宝物の書』だけで
あった。しかし、中世になるとローマ教会にとって布教のために東洋の宗教事情を知る
ことが重要になったのである。また、イスラム教徒に対抗するためにモンゴルの実情が
知る事が必要になった事も大きな要因のひとつであった。


1404: 名無しさんAA:18/05/07 10:22
宣教師の時代       ーーー155

 フランシス会修道士のカルピニはモンゴルの暮らしや習慣を記述した。これは『歴史
の鏡』(ヴァンサン・ド・ポーヴェ)に入っている。1248年に十字軍に随行したフラン
シスコ修道会の修道士ギョーム・ド・ルブルクの記録。他の旅行記としては『マンデヴ
ァル卿旅行記』とフランシスコ修道会の修道士ポルデーンネのオドリコ(オドリコ マッ
ティウシ) が書いた『東方紀行』がある。しかしその中でも群をぬいて人々に影響を与
えたのは『東方見聞録』である。東方見聞録は別名『この世についての四方夜話』とか
、『マルコ・ポーロとアジアの不思議な物語の書』『世界の叙述』ともいわれている。
『東方見聞録』には 138種の写本があり、コロンブスも1438年〜1485年頃に出版された
1冊を持っていた。14世紀には手写本として世に出た。のちに印刷され各国語に翻訳さ
れて世の人々に読まれた。コロンブスも1438年か1485年に出版された1冊を持っていた
。この本は今も「インド関係総文章館」に保存されており、コロンブス自身の366箇
所の書き込みを見ることが出来る。マルコポーロの文書には飽くなき「黄金、銀、真珠
、香辛料」にたいする執着心が見られる。一説によれば、陸奥の黄金が関係していると
いう。元代に書かれた『宋書』にも「東の奥州は黄金を産するという」とある。これら
のことから、日宋貿易では日本の主な輸出商品は黄金であったとされている。ひとつの
例としては、中尊寺(岩手県平泉町)の7000余巻の宋版『一切経』が、砂金10万5000両
(4410キログラム)と引き換えに宋から輸入されたという記載が、中尊寺経蔵文書の正
和2年(1313年)の「大衆訴状」にあるという。 当時の常識では莫大な黄金であったた
めに、日本は黄金の豊かな国として中国から世界に伝播していったのであろうと目され
る。修道士オドリコは1318年4月に東方へと派遣された時は、パドヴァから出発し、ヴ
ェネチア経由でコンスタンティノープルへ向かい、黒海を渡ってトラブゾンに達した。
そこからアルメニア・メディア・ペルシアへ向かった。これらの場所は全てフランシス
コ修道会が布教拠点を建てていた。スルターニヤからカーシャーンとヤズド、ペルセポ
リス、シーラーズ、バグダッドなどの地域を経てペルシア湾に達した。アイルランド人
の同僚である修道士ジェイムズと一緒にホルムズからインドへ渡り、ボンベイ近郊のタ
ーネーに上陸した。この後、フランドリナ、シンギリン(現クランガノル)、クイロン
、セイロン島を通り、北部ケーララのマラバールに達した。マラバールには、トマスの
遺骸のある教会があった。

1405: 名無しさんAA:18/05/07 10:26
宣教師の時代       ーーー156

彼はインドからジャンク船に乗りスマトラ島、ジャワ島に達した。ジャワの王は汗のカ
タイと何度も交戦して撃退した、との記載がある(フビライのジャワ遠征を示している
と思われる)。ボルネオ島付近を北上しザンパ(チャンパー)を経て南下、ニコバル諸
島、シラン島(セイロン島)、ドンディン島(アンダマン諸島)を経てチェンスカラン
(広東)に到着した。広東からザイトン(泉州)、フゾ(福州)、カンサイ(杭州)、
チレンフ(南京)、イアムザイ(揚州)、レンズィン(臨城)、スンズマトゥ(済寧)
、カンバリク(北京)に到着した。ザイトンにはフランシスコ修道会の修道院が2つあ
り、オドリコは、そこにインドから携えていた殉教者の遺骨を埋葬した。彼の先祖は、
マッティウシというチェコ人だった。伝記史家によれば、彼は若い頃に、フリウーリの
州都であるウーディネでフランシスコ修道会に入会した。オドリコは1324年から1327年
まで約3年間滞在し、モンテコルヴィーノに建設された教会の一つに関係していたと思
われる)。3年間の滞在後、北京を発って帰国の途についた。西方へ向かい、50日後に
プレスター・ジョンの地へ到着、その後トザン、カンサン、チベット、ラサ、ミレスト
ルテなどを通過し、1329年末か1330年初頭にヴェネツィアに到着した。彼の北京滞在は
1324〜27年と推定されているが、それは、帰国後に彼の旅を、口述を筆記したソラーニ
ヤのグリエルモ修道士が、1330年5月に採録したと筆記していることで、帰国が1329年
末から1330年初頭と考えられることからだ。オドリコの旅は、外交使節として一般的な
もので、更に宗教的な目的を併せ持って旅に出ていた。13世紀前半と言う早い時期に、
モンゴル人がヨーロッパに侵入し、1237年から翌年にかけては、広域にロシアの殆どを
略奪し、1241年にはポーランドを荒廃させ、突然退却していった。その為教皇インノケ
ンティウス4世は1245年にモンゴルの大汗への最初の使節を派遣した。この時の使節が
フランシスコ修道会のプラノ・カルピニだった。このような教皇の外交政策は14世紀に
も引き継がれ、ニコロ、マフェオ、マルコ・ポーロらの1260年から1271年の2度の旅や
、1294年のモンテコルヴィーノの教皇ニコラオス4世の派遣へと展開して行く事になる
。この1241年の、ワールシュタットの戦いは東欧・西欧にモンゴル帝国の脅威が現実と
なり使節団派遣の契機となった。



1406: 名無しさんAA:18/05/07 10:26
宣教師の時代       ーーー157

1245年の第1リヨン公会議で決定されモンゴルとの交渉役として、カルピニはローマ教
皇インノケンティウス4世の命令を受け、東欧に勢力を拡大したモンゴル帝国のバトゥ
の元に派遣された。カルピニと同じ修道会のボヘミアのステファン修道士の2名が旅立
った。途中ポーランドにてポーランド人のフランシスコ修道会ベネディクト修道士が加
わって3名となったが、道中通過する諸侯達に護衛や召使を数名つけてもらう程度で、
教皇使節としては少数だった。西欧の呼び方で中国福建省の都市泉州のことをザイトン
と呼んだ。元時代には、マルコ・ポーロやオドリク又はイブン・バットゥータらによっ
て、この名で世界最大の港と紹介されたからだ。ザイトンは、泉州の別名刺桐城の中国
の音訛(おんか)といわれる。イブン・バットゥータは本名はアブー・アブドゥッラー・
ムハンマド・イブン・アブドゥッラー・アッ=ラワーティー・アッ=タンジーと言う、
全く長い名だが、千三百年代の探検家である。マリーン朝のベルベル人の探検家である
。彼の記述は『諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物』と言う名の
古代の旅行記としては、広範にわたる旅をまとめられたものとして人気を博し世界中に
知られる物になった。約30年間もの月日をかけたイスラム世界、そして非イスラムの
地を旅した記録だ。彼の旅した地は北アフリカ、アフリカの角、西アフリカ、東ヨーロ
ッパ、中東、南アジア、中央アジア、東南アジア、中国が含まれ優れものとして、欧州
人の中では重宝がられた。こうした事でイブン・バットゥータは史上最も偉大な旅行家
の一人と考えられている。ここでイブン・バットゥータはまた泉州から60日のところ
にゴグとマゴグ(マゴグ:魔極:神の逆臣分子。ヤペテの子孫とされる。)の地がある
と記している。ハミルトン・ギブによればイブン・バットゥータは万里の長城はクルア
ーン(コーラン)にあるとおり、ズー・ル=カルナインがゴグとマゴグを退けるために
築いたものだと信じていた。ズー・ル=カルナインは双角王という通称の様に、彼の額
に二本の角が生えていたとの伝承に基づく。ズル=カルナインは、ジンの助けを借りて
、文明化された人々を野蛮な「ゴグとマゴグ」から守るために鉄の壁を構築した。とさ
れる。一説には万里の長城がモデルとされ、ズル=カルナインの戦った相手は、ローマ
帝国であり東方世界への侵攻するアレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)であ
った。「ゴグとマゴグ」は、クルアーンに言及されており、世界の終末に、文明と野蛮
を分かつ鉄の壁は崩れ、野蛮な「ゴグとマゴグ」が文明世界に攻め込むとされていた。
しかしこの東洋の旅行記は日本の戦国時代にはやってくる宣教師の参考書や教科書にな
っていて日本では大きな意味を持っていた。

1407: 名無しさんAA:18/05/07 10:27
宣教師の時代       ーーー158

イブン・バットゥータは北京から杭州へ戻り、福州へと旅を進めた。泉州に戻るとすぐ
にサムドラ・パサイ王国のスルタン所有のジャンクに乗り込み、東南アジアを目指した
。しかし船の乗組員に法外な額の報酬を要求され、彼が中国滞在中に工面した蓄えをほ
とんど失ってしまった「コーラン」は、回教(ウイグル)に由来するとされ、共に中国
語「古蘭(または可蘭)」に由来する。通常、日本ではコーランと呼ばれることが多い
が、もともとは中国人がウイグル人を制する為に作った制約だったとされる。しかし実
はこのイスラム教が中国発祥とは、今般では誰も考えられないくらいの衝撃であろう。
こうした話はよっぽど面白かったのか日本の遣唐使の中には、その話を日本に持ち込も
うとわざわざ帰ってくるのを延期した僧もいる。慈覚大師円仁の「入唐求法巡礼行記」
である。円仁は、一般には慈覚大師という名で知られているが、この人物は、一生を旅
に明け暮れたような人物だった。東北の古刹の多くはこの円仁が開祖となっている。山
形の「山寺」の名で知られる立石寺も円仁の開いた寺である。急峻(きゅうしゅん)な
山の上に参詣している時に、過労のために円仁が休んだと言われる大石が円仁の腰掛け
石として残されている。日本三景松島の瑞巌寺や奥州平泉の中尊寺、毛越寺などもこの
円仁開祖の寺である。円仁は、都が京都に遷された年の延暦13年(794年)に下野
(しもつけ:現在の栃木県)の国で生まれた。15才で比叡山に入門し、最澄の薫陶を
受け、21才で得度し、最澄に従い故郷の下野をはじめとする東国を巡った。その後は
、戦乱に傷くエミシの地東北を歩いて人心の混乱を鎮めようと自らが信じる天台宗の布
教に専念したのであった。円仁44才の頃、天台の教義の勉学のために当時の中国の唐
に入る。以後9年間、一心に学んだ。この円仁の入唐の理由は、空海(774)がもた
らした密教の教義が日本国内で急速に広まる機運を見せるなかで、日本に天台宗の教義
の深化をするための命がけの旅であったと推測される。周知のように、空海は日本宗教
史上でも屈指の人物である。円仁の師匠にあたる最澄(767〜822)は、彼の先輩
であり、ライバルであったが、密教の部分に関しては、言葉は悪いがかなりのコンプレ
ックスを持っていて、再三後輩であった空海に中国から持ち帰った文献を借りたりして
いる。これに対して、空海は「書物をどんなに読んでも密教の秘法を理解することは難
しい」と強い言葉で拒否したことで有名だ。

1408: 名無しさんAA:18/05/07 10:29
宣教師の時代       ーーー160

 空海は高慢な学僧で知られ、若い頃から、負けず嫌いで功名心の人一倍強い人物であ
った。24才で書いたと言われる「三教指帰」(さんごうしいき)では、儒教、道教、
仏教の教えの優劣を論じて、仏教の教義の優位を説くという攻撃的な内容を書いている
。主著となった秘密曼荼羅十住心論でも、結局は、密教が一番高い次元に到達している
自画自賛して説いている。これほどの自信はいったいどこから来るのか。空海がもたら
した「密教」というものと、本来の「ブッダの教え」との間には、大きな乖離(かいり
)がある。密教の教えは、大日如来を宇宙の中心に置くどこかに一神教の匂いがある。
それに対して、ブッダの教えは、謙虚で控えめで、まさに中道をゆく中での協和共済を
説くもので、空海の言う、究極とか中心とか唯一神であると言うそのような大それた文
言を使ってはいない。あるのは苦というものの実相を自覚し、その根本を見つめて、励
むことである。それが行であると説くものだ。中国の甘粛省永昌県の県境にある「者来
塞」という村は、もともと異国情緒をおびた古代の砦であった。20世紀に入り、砦は
残骸と化している。しかし、どのような変遷を遂げようとも、者来塞の人々は、彼らは
独自に固有の民族習慣を保ち続けた。ヨーロッパ人が作るピザに似たパンを食べ、牛へ
の伝統的な崇拝を続け、祝日には牛の頭に似せた供え物を作り、手に赤い布を翻し闘牛
の祭りを催してきた。此処を何度か訪れている。円仁は、最澄の弟子にして最澄の開い
た天台宗の三代目座主となった。遣唐使のメンバーでも、中国で勝手に滞在を伸ばし、
要するに不法滞在を強行したツワモノである。彼が生まれた年が平安京遷都と同じ79
4年であると考えれば古代人の思想が少し解る気がする。この円仁が、中尊寺を開いた
し金色堂を立てたりして中尊寺や毛越寺をでかくし、奥州藤原氏の素を作った、さらに
は恐山(菩提寺)も彼が開いたとされる。そもそも、ブッダの教えに、秘密も密教もな
い。広く教えを自然界に乞う事が主眼でありひたすら苦の根源を見つめかえして、行に
励むことを勧めるものだ。なのに空海は敢えて、秘密の灌頂(かんじょう)を授かって
教義を体得すれば、俗人でも即成仏が可能と手軽な聖人を説いた。空海が20年の勉学
の予定を、わずか二年で終わらせて、やってられないとばかり日本に飛ぶように帰って
密教の布教を始めた。突然の予定変更は、この円仁の更に伸ばして唐に居た考えとは、
対照的な名声の為の行為だった。つまり空海は、この時、ある野心を持ったのである。
それはある種のひらめきと悟りであり、大日如来を中心とした宗教国家建設の願望でも
あった。空海は大日を中心とした曼荼羅世界像を見て、日本の文化の基底部に据えて、
自分が中心になる事が可能だと空海は考えたのだ。

1409: 名無しさんAA:18/05/07 10:43
宣教師の時代       ーーー161

 45才の壮年になって円仁は、838年(和暦の承和5年)7月文字通り死ぬような
思いをして中国に渡っている。一粒の砂の中に金を探り当てるようにして幾人かの師を
探し出し、やっとの思いで密教の秘法を伝授され、経典や曼荼羅図も書写をした。とこ
ろが844年3月、突如として、武宗皇帝による仏教排斥の勅令が下ったのだ。僧侶達
は、次々と仏法を捨てて、普通の生活に戻ることを強いられた。かつての秦の始皇帝が
行った焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)までは激しくなかったが、それでも経典は焼かれ
、仏塔や仏像、寺院は破壊されるような凄まじい状況があちこちで起こっていた。留学
僧の円仁も例外でなく火の粉は降りかかった。何とか845年(承和12年)5月に、
還俗(げんぞく:出家が俗界に戻ること)をして帰国する許可となった。こうして円仁
は学びの地唐を、逃げるようにして帰国した。しかし帰途でも、苦労は絶えなかった。
何とか、847年(承和14年)9月、港の(登州文登県赤山浦)まで辿り着いたとさ
れるが、当時の船は帆船である。風がなければ、じっと異国の地で待機するしかない。
既に入唐してから9年。円仁は54才の初老の齢となっていたのである。円仁の入唐求
法巡礼行記という日記には、当時を書き記している。「9月6日、7日。追い風が吹い
てこない。9月8日。悪い情報を聞いて非常に驚きおそれたが、風がないので出発する
ことができない。船の人々は鏡などを海中に捨てて神を祭り、風の吹き出すのを祈った。僧らは焼香し、この島の土地神と大明神・小明神らに対して読経し、皆そろって日本国
に帰り着くことができるようにと祈願した。すなわちこの土地の神と大明・小明神の為
に金剛教百巻を転読したのである。」と。この円仁の記述は円仁という人物の多神教的
な感覚がよく出ている。と思う。本来であれば、密教の奥義を伝授されてきたのだから
、大日如来のみを頼って、「海よ鎮まれ」と祈願する筈が、円仁は、まず地元の神々に
次々と祈りを捧げたのである。つまり本質的に円仁という人物は、土地の神にという物
を大事にし畏怖心を持って多枝眼を持っていたのである。日本における神と仏の歴史は
、物部氏と蘇我氏の対立(587年)を持ち出すまでもなく、後世に伝来した仏に対し
て戦い土着の神が屈服してきた歴史だった。それはインド仕込みの様々な神仏を糾合し
ながらやってきて、理詰めの戒律を持つ教えと、日本古来の優美でゆったりの土着神の
寛容力の差で、仏教の様な攻撃力はなかった。それでも関東の地で生まれた円仁は、理
詰めの仏教に帰依しながらも、どこかで唯一無二の土着の神を畏敬し、仏と神の和する
柔軟な宗教的感覚を持っていた。このような感性は日本人の歴史の中で働いた結果に、
日本人は神仏混淆という形をとって神と仏の共存を計ることができている。

1410: 名無しさんAA:18/05/07 10:45
宣教師の時代       ーーー162

 空海が突然と持って来たある種のひらめきと悟りである、大日如来を中心とした宗教
国家建設の創造は、大日を中心とした曼荼羅世界の世相像として一致を見た。日本の中
の文化の基底部に据え、盛んに秘密裏に空海はそれを説いて、古来からの陰陽道の卜部
氏や加茂氏の持つ占い文化や加持祈祷や呪いや恨みの人々の願いを吸収して信者を増や
した。それは同時に天変地異や流行の病魔によって増やし続けた。日本は天皇の祖霊は
周知のように天照大神であった。そして空海の言う、大日如来は天照大神の変り身とし
て説いて変化した。つまり曼荼羅の中心に天皇の祖天照大神が据わった姿と説いたので
ある。この突拍子もない説明を臆面も無く説いたが、さすがに大ぴらに言えず真言密教
として秘かに説いた。しかしこれは反発も無く日本人の高僧は受け入れている。こうし
て日本人の意識構造にこの曼荼羅界の胎蔵界も金剛界もをすんなり据える事が出来たの
は驚きでもある。ここに日本人の優しさがある。拝火教の古代人に一部の大陸渡来人と
の抗争の上に何とか大和朝廷が出来上がりその後仏教が入った。この仏教が朝廷の権力
抗争に又使われた。多くの国にある宗教抗争と跡継ぎ問題が普通絡んでしまい最後には
同じ宗教でも対立してしまう。日本でもそうした事が無かった訳ではない。しかし現在
の多くの人が知る様に、神道と仏教はその教義をお互い近づけてしまい信者の取り合い
によるものだろうが最終的には今や仏教徒がキリストの生誕祭を祝うのも厭わないのだ
。日本が国家としてもっと強固になる為に必要な考え方だ。と空海は考えたのであろう
。空海が渡航して唐に居た時も中国国内は騒然としていた。当時、渤海と日本とは盛ん
に往来・交渉していた。そして渤海への道は日本と唐のバイパスルートであった。第十
九回渤海使節の帰国に当たっては、日本側の要請を受けて、前年新羅船で日本に来た。
帰国を願い出ていた唐国越州の人、周光翰と言升則等を便乗させて送り、嵯峨帝が唐の
五台山にいる留学僧霊仙への信書や砂金を託したりしている。空海は唐から持ち帰った
経等の目録『請来目録』を上表し時、その中に長安の青龍寺の東塔院の和尚恵果に会い
真言密教の秘法を伝授されたと大きく宣伝している。空海が恵果阿闍梨に会ったときに
、恵果は「我、先より汝がくることを知りて、相待つこと久し。今日相見ること大いに好
きし、大いに好きし。報命(寿命)も尽きようとしているのに、法を授けて伝える人が
いない。ただちに香花を支度して灌頂壇に入るようにしなさい。」と言ったという。ど
こからか空海を紹介されて喜んだのだろう。恵果和尚が不空三蔵から密教を伝授された
人物であることと、恵果が、自分がその密教を伝授された正統の法系であることを強調
している。

1411: 名無しさんAA:18/05/07 10:46
宣教師の時代       ーーー163

 もともと曼荼羅を観た空海は、劇的なインスピレーションを覚え、唐の国で、憑かれ
たように勉学に励み、経典を収拾した空海はすぐさま、神仏が様々に入り乱れる日本と
いう国の帰途についた。その時既に新しい密教を注入し開山することの確信をもって、
帰国して、猛烈な布教を開始し山を開く事に精進したのである。空海がもたらした密教
は、いささか一神教的な匂いするというのは、この教義と日本の天皇制の構造に似たも
のを感じ、密教によって、空海は中央集権的な国家が構築できると閃いたのではないか
ということだ。この渤海には大勢のイスラム教徒とラマ教徒がいた。渤海は柵封国で唐
で712年に玄宗皇帝が即位すると、713年に唐に入朝することにより、崔忻が冊封使とし
て派遣され、大祚栄が「渤海郡王」に冊封された。2代目大武芸は仁安と言う独自の元
号を用いて独立色を明確にし、唐と対立した。一時山東半島の登州(山東省蓬莱)を占
領したこともあった。また唐・新羅・黒水靺鞨と対抗するために日本へ使者を送ってい
る。渤海国の高仁義率いる渤海使節が神亀4年(727年)に到着し、翌年の神亀5年に京に
入り、国書と貢物を奉呈したこと端緒として、この通交は渤海滅亡の延長4年(926年)
まで続いた(渤海使・遣渤海使)。軍事的な同盟の用はなさなかったものの、渤海国の
毛皮や人参、日本の綾絹などが交易された。北朝鮮からロシア一帯にまたがる渤海は、
もともと逃げた新羅人と隋王朝の中国人と契丹の遊牧民で構成されていてラマ教徒が多
かったと思われる。ラマ教には、大乗仏教の流れとイスラムのモハメッドの流れが融合
した「転生継承制度」をもつ上に、チベット仏教に特有なもので、生身の人間を仏陀・
菩薩・過去の偉大な修行者などの化身として尊崇する。この、三身論を説く大乗仏教に
おいては特異なことではないしても曼荼羅のルーツとされる。日本仏教においては明治
以前には、各宗派の祖師たちは全てが、仏陀・菩薩などの化身として尊崇されていて、
このラマ教の「化身ラマ(けしんラマ)」は、チベット仏教の教義上において、この世
の衆生を教え導くために、如来、菩薩、過去の偉大な仏道修行者の化身(応身)として
この世に姿を現したとされるラマ(師僧)を指し、転生ラマと表記されることもある。
結果として、空海は大当たりし、密教の曼荼羅宇宙観は、大日如来を天照大神と見なす
説明で、日本の天皇制国家を思想面から補完することになり朝廷の庇護を受けた。円仁
は、その流れの中にあって、最澄の教えを広める立場から、空海の、密教思想に対抗す
る教義を体得するという明確な目標をもって、唐に向かったが先の様に唐から追われて
帰国するに至った。


1412: 名無しさんAA:18/05/07 10:46
宣教師の時代       ーーー164

 この円仁の考えをよく表している建物が、平泉の毛越寺であると言われる。周知のよ
うに平泉にある毛越寺は、円仁によって開かれたと伝えられる東北屈指の古刹である。
ここに常行堂(じょうぎょうどう)という茅葺き屋根の美しい瀟洒(しょうしゃ)な御
堂がある。常行堂は、南大門の跡を右手に折れて浄土庭園の大泉が池の縁を廻って行く
と毛越寺の東南の角地に常行堂跡があり、さらにそこから50mばかり進むと復元され
た遣り水の遺構の前に端正な堂宇が聳えている。かつて毛越寺は、わが国に二つとない
と言われたほどの繁栄を誇り、堂塔数40有余、僧坊500有余を数えていたと言う。
しかし奥州藤原氏滅亡後は、野火や戦乱の混乱に巻き込まれて、そのほとんどが焼失し
てしまう。その中にあって常行堂は、その東隣に立っていた法華堂と廊下で連なって立
っていて、最後まで焼失を免れていたが、慶長2年(1597年)、やはり野火によっ
て焼け落ちてしまったのである。今毛越寺に立つ常行堂は、消失から130年ほど経っ
た享保13年(1728)に仙台藩主伊達吉村公によって再興された。この常行堂が真
っ先に再建された理由は、おそらく毛越寺という寺にとって宗教的な支柱とも言えるよ
うな「常行三昧」(毎年正月14日から20日にかけて行われる)という古い修法を伝
える道場だったことに起因していると思われる。この常行堂の前に立つと、私はいつも
不思議な感じにかられてしまう。薄暗い堂の内陣の向こう側には、光に照らされた阿弥
陀如来が穏やかな面持ちで座し、こっちを見ておられる。この仏は、ここにやってくる
人間の一人一人の心の有り様を静かに観じておられるのだろうか。こうしていると、仏
の慈悲の何たるかが、ひしひしと伝わってくる。それは、どこか、円仁という人物の心
の温かさに触れるような感じにも思える。さてここから先に、この御堂の秘中の秘に触
れるチャンスがある。実はこの阿弥陀如来の背後に、もうひとつ「後戸」と呼ばれる壇
が存在し摩多羅神(またらじん)という神像が安置されている。摩多羅神とはいったい
どんな神なのだろう。平泉名勝誌(明治37年刊)によれば、それは「五方鎮守の一に
して中央の鎮守なり」と極めて簡単に説明されている。考えてみれば、阿弥陀如来の両
脇には、宝依、功徳、金剛鐘、金剛憧という四菩薩が脇神として控えていて、その中央
に阿弥陀如来が存在する。従って本地(ほんち)としての阿弥陀如来が垂迹(すいじゃ
く)した姿が摩多羅神ということになる。簡単に言えば、仏教名がアミダで神名がマタ
ラジンということになるのかもしれない。

1413: 名無しさんAA:18/05/07 10:46
宣教師の時代       ーーー165

『大黒天変相』では摩多羅神(またらじん)とは、漢訳の仏教経典で仏教用語の中には
、サンスクリット語(梵語)の漢字による音写の語が多く見られる。摩多羅神の「摩多
羅」という語は、サンスクリット語の matarah すなわちmatr(母)の複数形の音写で
あって、いわゆる「諸母天」(七母天または八母天)を意味したもので、マターラ神の
事で、鬼子母神、訶梨帝母(かりていも)と指摘され、江戸時代からそう解されていた
。この言葉は日本語的には仏教を守護するとされる夜叉で女神ヤクシニーの一尊で梵名
ハーリティーを音写した、訶梨帝母(かりていも)とも言う。ヤクシニーまたはヤクシ
ーは、インドにおけるヤクシャの女性の総称である。とされる。仏教では男女ともに、
「夜叉」と表記されるが「薬叉女」と言う場合もある。ヤクシャ同様、ヤクシニーは森
の精、水の精であったり財宝の神であったり豊穣の神であったり、人食い鬼でもあった
りと多用である。しかし他の宗教のバラモン教やヒンズー教の絡みでスリランカでは、
ヤクシニーは「ヤカ」と呼ばれる病魔である。仏教におけるヤクシニーの代表は鬼子母
神で、特にヤクシニーはガンダーラ美術の影響もあって「菩薩」化した姿である。この
ため菩薩か女神のような像になっている。天台宗で信仰されている神の一柱として、か
つて存在していた玄旨帰命壇という教団においては本尊として祀られていた。この玄旨
帰命壇(げんしきみょうだん)とは、本来「原始仏教教団」と言うべきもので、かつて
天台宗に存在した一派だ。言語が漢字に捉われない古代日本語との調整宗教の頃の物で
神道の「まつり」というやまと言葉の原義は「神に奉(つか)へ仕(つかまつ)る」で
あることを本居宣長は『古事記伝』で説いている。「まつり」の語源は「たてまつる」
の「まつる」すなわち供献する・お供えすることに由来するのである。その「まつる」
に継続を意味する助動詞である「ふ」がつくと、「まつろふ」となって奉仕・服従の意
味となる。「まつり」は、この「まつる」の名詞形なのである。とされる。夜這い風習
は女性のもとに忍んで関係することとされていますが、本来は女性の家や門前まで行く
ことを意味していた。しかし成功したケースが多かったとされその意味を含むようにな
った。基本的に「御田植え祭」「新嘗(にいなめ)祭」「神嘗(かんなめ)祭」と穢(
けがれ)を落とす禊(みそぎ)としての、段階的裸祭りや、火祭りが日本古神道の習わ
しである。村において等しく子孫を設ける為の設定としてお祀りがあり「乱交会食」を
行事として行い これは明治の初めまで行われていた。つまり性交と祭りは同じもので
あったのだ。しかし西洋文化が江戸初期に入って影に隠れていった。


1414: 名無しさんAA:18/05/07 10:47
宣教師の時代       ーーー166

 その中でこの「摩多羅神(またらじん)」は消えて行く。股の裸体の神の意味合いが
高かったからだ。しかし世界的にも男根崇拝はあるし、女神の嫉妬による規定も多い。
淫祠邪教扱いされ江戸時代にはキリストの邪教禁令と共に消滅したといわれる。阿弥陀
如来への浄土信仰も取り込まれ、本堂の壇上には阿弥陀仏の像を安置した、行者の呼吸
の吸吐を阿弥陀の来迎浄土と感じ取り、そこに生死の根源を究めるとする裸体行や、さ
らに日月の精気が父母和合のときの息風に乗り胎内に入ることに始まると説く教義が強
く押し出されて邪教となった。これらは初期には、いずれも生死の根源を観じて、悟り
を得ようとするものであったが、南北朝時代以降戦国時代など、現実世界や愛欲の煩悩
を積極的に肯定して、交会(性交)の儀式を以って悟りを得ようとする解釈する向きが
強まりその行にや教えが曲解を得て信仰された。「常行堂摩多羅神の事」に記されるよ
うに、摩多羅神は円仁が唐から帰国する際に感得して、常行堂に勧請したと伝えられる
。しかし実際は、摩多羅神は平安時代から鎌倉時代にかけて成立した玄旨帰命壇の本尊
として成立したものと考えられている。この修法は、中世に興った天台宗の口伝法流に
源を発し、その流派である恵檀二流のうち、檀那流を正嫡とし、恵心流を傍流として相
承したといわれる。はじめは、厳格な口伝相承であったが、時代が経るにしたがい南北
朝時代にこの玄旨壇灌頂を受けた円観が、淫靡な宗教に堕落させ、『玄旨帰命檀法』を
伝えたとされ、何故だか真言宗・小野流の文観が真言立川流を大成して、それが次第に
蔓延するに及び、ついにその影響が天台の檀那流の一派である慧光房流に波及したのだ
。こうして、神聖であった玄旨帰命壇は、真言宗により淫祠的な傾向を帯びたと言う。
実は江戸期になって真言密教はヒンズーの「マントラ呼吸」による和合術から人は股間
にある。とした密教系「般若理趣経」を広めていた。『理趣経』(りしゅきょう)は、
正式名称『般若波羅蜜多理趣百五十頌』(はんにゃはらみったりしゅひゃくごじゅうじ
ゅ、梵:プラジュニャーパーラミター・ナヤ・シャタパンチャシャティカー)というが、
実は真言宗空海と天台宗最澄が、交流を閉ざした原因として一般的には有名となった。
男女のまぐわいも肯定されてる珍しい経典の見解がそれぞれに違っていたからだ。一時
期の真言宗は高野山で理趣経がメインな経典になったぐらい重要視され、真言宗派閥争
いで、悪者にされた派閥が使った経典とされた。真言立川流の「御釈迦様でも、出家前
、妻帯し子供をもうけた。当然そこには、性の快感もあった筈だ。」との教えが、理趣
経だ。こうして出家者の禁欲則と真言宗の中で宗派内の争いを起こし、一時期は高野山
も荒れ放題の時期となった。

1415: 名無しさんAA:18/05/07 10:47
宣教師の時代       ーーー167

そのとばっちりを、天台宗の「摩多羅神(またらじん)」信仰の玄旨帰命壇が受けたの
である。摩多羅神は中心仏である大日如来の背中を守る神で門前神とされ、阿吽の呼吸
や阿像や吽像が入口にあるのはその為であるが この結界の門番神は多くインドからの
神だ。バラモン教やヒンズー教が勢力を強めると先行して布教していたミトラ教が変化
を遂げタントラ教が起こった。タントラ教はすごい性的儀式(『インド宇宙論大全』)
を行う教団として仏教は片隅に追いやれる程の勢いになった。インドヨーガの成立であ
る。五体投地から派生したヨーガの健康法は瞬く間に中国の気功のように簡単に広まっ
た。「タントラ教の宇宙観」はヒンズー教・後期に現れた宇宙観をミトラ教が取り入れ
「タントラ教」として普及した。瀕死の仏教界は、これがおおいに取り入れる関係にし
てインド仏教の棄教を阻止した。この事で、後期インド仏教が堕落・滅亡した大きな要
因となった。しかしこれは顕教と言う公けにならず、密教教義としてがヒンズーのタン
トラ教の儀式を取り入れて、宗派別にセックス教団と化した。タントラ教について読ん
でみると、一言で言うと「セックスのことで頭がいっぱい」理屈上は、「性によって宇
宙との合一をはかる」という思想だった。「タントラ教徒たちは自我の観念を脱して、
宇宙なる世界に帰する手段を、性的恍惚のなかに発見した」忘我の境地に達したときに
、自分も相手も世界も意識しない。これが「多なるものが一になったときの境地」だと
としたのだ。当時の至って何もない時代にはこの狂気の集団は大きく逸脱し、成就法(
サーダナ)とか坐法(アーサナ)という秘密の性的儀式の式次第が次々と産まれていっ
た。いわく、グル(師)と女性修行者が行う儀式で、女は低階級・他人の妻・生理中の
女性が好まれ射精の調整、要は長持ちさせるために、大麻をやったりガンジャを吸う。
8組の男女が円輪になって、集団的儀式をし、五甘露(血液、精液、小便、大便など)
を飲む。乱交、ドラッグ、スカトロ、なんでもありとなり、タントラ教徒はミトラ(男
女交合像)を崇拝していて、インド中央部の村・カジュラーホに残る25寺院(10〜12
世紀)の中にはエロ彫刻で壁面が埋め尽くされた寺も出て来るほどとなったが、ミトラ
は程なくヒンズーその他に吸収されて消えた。ミトラ教はギリシャでは尊ばれたがロー
マの支配によってキリスト教に取り込まれた。日本へは古くから拝火教の祭りとして取
り扱われたが、仏教伝来と共に虚空蔵菩薩や大黒天の神という話になる。二体の童子神
を連れた、三尊一体の神であり、仏法における三毒を象徴し、煩悩その物こそが悟りや
叡智の本質である事を意味している。

1416: 名無しさんAA:18/05/07 10:47
宣教師の時代       ーーー168

 摩訶伽羅天(マハーカーラー)ともダキニ天ともされ、死者の肝を喰らい その魂を
往生させる往生神であり、摩訶伽羅天との繋がりから大黒天と同一視され福の神として
も知られる。後戸(仏堂の背後の戸・入口)の神とされ、阿弥陀如来の背後を護る守護
神としても、より真理を体現する秘された神としても扱われ、またこの場では、神への
芸能の場であった事から芸能の興行の神としての一面も持つ。特に聖徳太子の側近にし
て猿楽の祖、芸能の神・大避明神として祀られてる秦河勝と同一視された事から、猿楽
の守護神であるとも考えられた。後戸には守護神や秘神を置く他にも、正統なる者では
無いという扱いをされる事から、虐げられし者の神とも言われている。又、冠に北斗七
星が描かれている事から道教の影響も強く見て取れる。実はこの偏屈な経典になったの
は朝鮮半島で変化してより淫乱な行動に変わっていたのである。兎に角多、彩な側面を
持つ神であるが、それゆえに一体どこ出身のどんな神なのかというのは全く分かってい
ない。江戸時代の僧である覚深はこの神に関して「何処の神なのか解らないが、少なく
とも中国や日本の神ではない」としており、昔からこの神の正体を探られているものの
、未だに謎が多く、先に述べた様々な神性に関しても肯定意見や否定意見が入り混じる
怪しい神である。現在でも信仰されている神ではあるが、円仁に対して「我こそは障礙
の神である、我を祀らねば往生の願いは達せられぬと知れ」と脅迫じみた事を述べてい
る。連れている童子神が摩多羅神の周囲で「ソソロニソ ソソロソ」「シシリニ シシ
リシ」と歌いながら踊るとされている。「ソソ」とは小便を、「シシ」とは大便を、「
シシリ」とは男色を意味する言葉であり、これらを謳う摩多羅神は邪神であると糾弾さ
れ、摩多羅神を本尊とする玄旨帰命壇は淫祠邪教とされて江戸の中ごろには排斥され滅
びた。現在でも、京都府京都市の広隆寺の牛祭りや、茨城県桜川市の楽法寺のマダラ鬼
神祭などでは、摩多羅神が重要な役目を果たしている。ちなみに広隆寺や楽法寺はどち
らも天台宗ではなく真言宗の寺である。摩多羅神の元はタントラ教であるとすれば、ヒ
ンドゥー教の聖典に繋がっている。タントラは思想・哲学を説くものではなく、修業の
ための実践の道、修業のしかたを明らかにしたものです。密教房中術はこのタントラの
影響を示し猟奇的性魔術の極みであり、例えば、女性に膣に射精された精液と、女性の
愛液を、特別な霊薬であるとし、シヴァやその妃(きさき)を象徴する髑髏を加工して
、これを本尊とし、髑髏盃(どくろ‐さかずき)を製作する際には、交合しあった男女
の愛液は不可欠な霊薬となるとしている。霊薬を得る為に、髑髏礼拝をし、髑髏を本尊
とする。としている。

1417: 名無しさんAA:18/05/07 10:48
宣教師の時代       ーーー169

『理趣経』にある修法を実践には何が行われるか。『理趣経』には「五秘密中の大秘密
」という、房中術特有の秘法が伝えられている。これは「五神通(ごじん‐つう)」の
ことであり、また「五神変」ともいわれる秘事口伝の法である。これによると、その修
法の実践者は成就の暁には、五つの「神変法力」を得るとされている。その一つ「天眼
通(てんがん‐つう)」で、凡人には見えないものが見える霊眼。可視世界から不可視
世界への移行。肉眼から霊眼への移行ならびに開発がなされる。その二つ「天耳通(て
んじ‐つう)」で、凡人には聴こえない、天からの囁(ささや)きが聞こえる霊耳(れ
いじ)。霊的波調の聴覚開発。その三つ「他心通(たしん‐つう)」で、他人の心の裡
(うち)を見抜いたり、意図的に隠された考えを読む霊読。思念、意念の傍受開発する
。 その四つ 「宿命通(しゅくめい‐つう)」で、他人の過去や、過去世(かこ‐ぜ)
を知る習気知(じっけ‐ち)。これは他人の過去世からその人の性格を知る術である。
その五つ「如意通(にょい‐つう)」で、自分の思うまま、意のままに他人を操る術で
ある。また、思いのままに動かす術とされる。そしてこの修法を行うには、まず十八日
間の禁欲(性欲や食欲を慎みのは愚か、一切の艶夢なども脳裡から駆逐しなければなら
ない事)が求められる。十八日間と限定されているのは、九天九地(きゅうてん‐きゅ
うち)の合計数からである。「九」とは、極限を意味する数であり、「九天九地」は自
分の棲む世界の最果ての事を云う。特に、中心地から最も遠く離れた果ての地のことで
あり、本当に愛する異性が見つかる間では、喩(たと)え天地の果てであろうと探し求
め、さすらいの旅を続ける事を指すのである。そして此処での誓約は、大切な生命の精
液を無駄にしないと天命に誓い、十八日間の精進潔斎(しょうじん‐けっさい)を約束
し、それだけ性力エネルギーが溜まるわけであるから、この修法が房中術会得の為の原
動力となるとしている。そしてこの修法を行うには、まず十八日間の禁欲後「九天九地
」と言う自分の棲む世界最も遠く離れた果ての地のことであり、本当に愛する異性が見
つかる間では、喩(たと)え天地の果てであろうと探し求め、さすらいの旅を続ける事
を指すのである。そして此処での誓約は、大切な生命の精液を無駄にしないと天命に誓
い、十八日間の精進潔斎(しょうじん‐けっさい)を約束し、それだけ性力エネルギー
が溜まるわけであるから、この修法が房中術会得の為の原動力となるのである。


1418: 名無しさんAA:18/05/07 10:48
宣教師の時代       ーーー170

この方法を実践する場合、まず、ドラッグ(媚薬や妙薬)によって精神状態を、日常の
世界から解き放ち、祈祷(きとう)と秘呪(ひじゅ)に続いて、魚が食べられる。続い
て牛肉が食べられ、媚薬(びやく/性欲を催させる薬で、淫薬とも)としての野菜の炒
穀を食べ、次に葡萄酒(ぶどうしゅ)が口に運ばれる。そして性交の儀式が最高頂に達
し、秘儀が繰り広げられるのである。しかし特記されるべき事は、ヒンズー教の伝統を
持ち、これを信仰する者が、牛の肉を食べると謂(い)う事は、最も恐ろしい破戒(は
かい)行為であり、戒律破りを冒している事に注目すべきである。今日でスワッピング
を楽しむ夫婦間では、牛肉と葡萄酒は性への興奮を煽(あお)る為の必需品とされてい
るが此処で、エクスタシーの作用を高める為に、大麻を使いスワッピング集団としてい
る。タントラの性魔術によれば、男達は自らを“シヴァの化身”であると信じ、それを
観念しながら、三角形の図の描かれたシーツの上に女を横たわせ、性交を開始する。三
角形は「眠れる蛇」のシャクティの象徴であり、女はそれを観念する。そしてこの性行
為には長時間が費やされる。この時の性交には、秘教的な道筋が有り、段取りがあって
、その二人の絡み合いを取り巻く参会者は、絶えずマントラを唱える。更に、王と王妃
はクライマックスのオルガスムスを迎え、脱魂状態に至るのである。この会得にあたり
、「精液」「肉体的エネルギー」「異性を求める情念」の三つは、やがて一つに纏(ま
と)まった強力な「陽之気」に変換される。この陽之気に変換される事により、肉体が
五秘密の法身と変化(へんげ)し、ここに唸(ねん)が起る。タントラ教徒が崇拝する
像。仰臥するシバ神に、カーリー女神が馬のりになって修行を終える。成就法(サーダ
ナ)とか坐法(アーサナ)という秘密の性的儀式の式次第が書いてあるのですが、至っ
て真面目に説いている。いわく、グル(師)と女性修行者が行う儀式で、女は低階級・
他人の妻・生理中の女性が好まれる(なんでだろ)。射精の調整、要は長持ちさせるた
めに、大麻をやったりガンジャを吸う。8組の男女が円輪になって、集団的儀式(16
P)をする事を規定している。五甘露(血液、精液、小便、大便など)を飲んで、乱交
、ドラッグ、スカトロ、なんでもありです。タントラ教徒はミトラ(男女交合像)を崇
拝していて、インド中央部の村・カジュラーホに残る25寺院(10〜12世紀)の中にはカ
ンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院のような、エロ彫刻で壁面が埋め尽くされた寺もある
。これらが、呼覧(コーラン)と共に中国大陸で出来た密教である事は間違いない。い
つからインドと中国がどんな繋がりだったかは不明だが、中国は常にインドを犯してい
た。イスラム信徒は近代までバングラデシュには居なかった。しかし中国にいた。

1419: 名無しさんAA:18/05/14 15:09
富安君を探せ              < その154 >

 実はこの頃雪舟が瀬高の清水寺に住したとされている伝説がある。雪斎は太原 崇孚
(/たいげん そうふ)は、戦国時代の武将で政治家だったとされる。臨済宗の禅僧であ
ったとされ、今川家の家臣だった。諱は崇孚。雪斎の号は居住した場所に「雪斎」と書
かれた扁額があったことが由来で雅号とされる。父は庵原城主・庵原政盛(左衛門尉)
。母は興津横山城主・興津正信の娘。父方の庵原氏は駿河庵原(静岡市清水区)周辺を
治める一族だった。母方の興津氏は横山城を本拠に海運を掌握し海賊(水軍)も率いて
いた。両家とも今川氏の譜代の重臣で今川義元に仕えて義元の家督相続に尽力。相続後
は義元を補佐して内政・外交・軍事に敏腕を発揮して今川家の全盛期を築き上げた。と
いう。後奈良天皇から宝珠護国禅師を諡された。雪斎が義元と初めて出会ったのは大永
2年(1522年)頃のこととされる。京都五山の建仁寺で修行をして頃から秀才としての
将来を嘱望されると噂を聞いた主君の今川氏親は、帰国して今川家に仕えるよう要請し
、一説にはこの要請を2度までも断ったという。(1530年)、建仁寺の師の常庵龍崇に
よって雪斎は幼名芳菊丸の得度の儀式(薙髪染衣)を行い、承芳と名を改めた。1533年
の2度目の上洛し、善得院から建仁寺へ、さらに妙心寺へと移った。この頃に承芳は、
道号「栴岳」を与えられ栴岳承芳と名乗り、承菊はそののちに太原崇孚(雪斎)に改め
たとされている。今川家では大永6年(1526年)に氏親が死去し、義元の同母兄である
氏輝が跡を継ぎ、母の寿桂尼が後見した。駿河の戦国時代の幕開けである。雪斎は義元
を政治・軍事の両面で全面的に補佐した。義元も雪斎を厚く信任して手厚い庇護を与え
た。天文6年(1537年)、雪斎は氏親時代に悪化していた甲斐の武田信虎との関係改善
に務め、義元の正室に信虎の長女・定恵院を迎え、信虎の嫡子・晴信に三条公頼の娘・
三条の方(今川家の遠縁)を周旋して、両家の間に甲駿同盟を成立させた。しかしこれ
で相模の北条氏綱との同盟関係が悪化し、氏綱は駿河東部に侵攻し河東の乱をおこした
。雪斎はこれに関東管領の山内上杉憲政を誘い込んでから、武田晴信と共同して河東に
出兵し、同地を取り戻している。織田との戦いでは、織田信広を捕縛し、織田信秀と交
渉を重ねて、織田家に奪われていた人質の松平竹千代(のちの徳川家康)を今川氏の元
へと取り戻している。その後も甲斐の武田晴信、相模の北条氏康に働きかけ、甲相駿三
国同盟の締結に尽力し今川を助けた。天文14年(1545年)に高僧を招いて駿府に臨済寺
を開寺し、自らは2世住持となり京都妙心寺の第35代住持に就任するなど、僧侶とし
ても活躍している。今川義元の右腕として手腕が高く「黒衣の宰相」「軍師」などと言われ「名補佐役」と現在では評価されている。

1420: 名無しさんAA:18/05/14 15:12
富安君を探せ              < その181 >

 こうして明治6年に脱走事件で三池(みいけ)炭鉱(福岡・熊本県)の囚人使用が判明
してしまったが、この時の脱走事件は市民を恐怖に陥れいれた。ドイツでは17世紀に囚
人をマニュファクチュアの紡績工として働かせたり、マニュファクチュア労働者を確保
するために刑務所が建設されていた。当時はドイツ人技師の指導で低賃金労働力の安定
的確保を目的として利用された。その後藩営から官営に移り官営最後の1888年7割の囚
人と共に三井に払いさげられた。明治の移行期には開発が本格化するのは1876年以降の
ことで,イギリス人ポッターの指導のもとに炭鉱の近代化がすすめられたが、それでも
過酷でそれ以前はもっと過酷だったと言える。この裏にには佐賀での反射炉が、大きく
影響している。城郭は明治5年1月18日 (旧暦)(グレゴリオ暦1872年2月26日)の火災で櫓
1基、土蔵、厩、城門3棟を残して焼失。その後は競馬場興行の地となったが、久留米で
大型競馬場が出来るに従い学校敷地に変わった。久留米競馬場も競輪場として発展して
かつての城跡は柳川高等学校と柳城中学校の運動となり、遺構は天守台、石垣、堀が、
その後道路建設やプール建設で小さくなりながら、柳川城本丸跡として残っている。天
守台跡は柳城中学校の運動場の一角にあり、地元では「へそくり山」と呼ばれ、勾配が
運動部員のトレーニング場として利用されていた。ここに民主主義の馬鹿がある。各地
で起こった尊王攘夷運動は、ここらでも佐賀勤王党柳川和泉守などで噴出していた。こ
の明治初期に頻発した反乱は、不平士族の反乱とされるが、といえばそうなのですが、
この乱についてはもう一つ「征韓論に対する賛成・反対」の問題があった。政府内では
結果として「朝鮮に積極的に関わるのは時期尚早」ということになり、同時に賛成派の
600人ほどが政界を離れて下野するがこれが「明治六年の政変」と呼ばれ西南戦争の
前触れとなった。頭に血が上ってしまっている賛成派の多くは、慰留も聞かず地元へ帰
る。その中に、佐賀の乱で中心となる江藤新平もいた。征韓論賛成派は「征韓党」を叫
び封建制のほうが日本には合っているというのが「憂国党」であった。これは新政府の
出来る前からくすぶっていた。西郷も西郷の友人でもあった大久保利通も、その他の多
くは反対派であり「今は朝鮮に構うより、欧米やロシアとの関係について熟考して動く
べき」としていた。しかし尊王攘夷で幕府転覆しても尚貧困にあえぐ武士に聞く耳は、
なく征韓論賛成派は、すぐに戦争をしようとした物騒な人たちも少数だがいた。「朝鮮
に開国を勧めよう」などとは西郷隆盛は考えてはいなかったがそう言う者の救い上げを
急ぐべきと言う意見だった。従って大久保が外国視察時に多くの事が決められた責めは
西郷にとっては全く不当であったと言える。この事で初代宮崎警視総監は退任した。

1421: 名無しさんAA:18/05/14 15:12
富安君を探せ              < その182 >

当初は三条実美が柳川藩に司令部を置きたいとの依頼があった。その後「佐賀の七賢人
」の一人である島義勇(しま・よしたけ)依頼した事もありました。大局を知る 立花
壱岐の守と柳川首脳部数人は、話し合いを持った。その時の立花氏の判断は街に戦乱を
起こしたくない。更に明治政府の司令部要請に断る理由で多少の火災が起こっても良い
と言う判断だった。しかし問題は誰がどう火をつけるかでなく、城の中の家財の搬出で
あった。搬出後は埃も舞い更に細工も多く瞬く間に火は大火となったという。こうして
筑後十五城筆頭の名城はあっという間に燃え尽きた。を送った時幾らか残った御門など
は付近の寺が引き取った。当初は三条実美が政府官使に探るって処罰する命令だったが
、島義勇(しま・よしたけ)は全く適任ではなく佐賀士族を見下す言動しかなかった。
それは当然藩主抱えの士族だったからだ。柳川の城の炎上もまた同じに有無を言わせぬ
借り受けだった。「先祖代々の土地を守るため、明治政府の軍を追い払わなければなら
ぬ。」と、愛国心ならぬ愛郷心が爆発して両党は一致した。こうして明治政府は近くの
熊本城を鎮台(基地のようなもの)にせざるを得ず、熊本から陸海両路で佐賀に進軍開
始した。鎮圧軍が佐賀城に入ると、まず江藤から使者がやってきた。江藤としても、改
めて政府の意思を確かめたかったという。しかし、鎮圧軍は「答える必要はない」とこ
れを完全に拒絶してしまった。こうして戦闘が始まってしまった。ここで籠城戦となる
が、大久保は更に援軍を差し向けて、付近住民の政府への帰順を説いた。この事で奮戦
するも食料供給が絶たれだした、盛り返す事もあったが勝つ見込みのない戦いに変わり
いたずらに敗戦が続く。この為江藤は憂国党への相談なしに、征韓党を解散してしまっ
た。しかも江藤自身は鹿児島の西郷隆盛を頼って、佐賀からも離れてしまいました。こ
れが西南戦争の緒戦であった事は間違いなかった。立花氏はこの柳川に「3鼎足の法」
を説いて早くから藩財政を立て直していた。それは「産業振興・人材育成・流通投資」
の三つについての記載で、まず産業振興に立花ハゼでの和蝋燭や温州ミカンの促進や、
畦豆や濠干しの魚調達などを行い日本で一番早く缶詰工場を作りその資金を担保に今の
鴻池氏の保証を得て米相場で買い付けして巨額の金を得て返済したのである。いわゆる
先物買いと現物売りの差額である。それを行う前に大量の藩札を規制してもいたのだ。
藩札は、株式と同じでもともと発行段階で利子を引いている手形紙幣だ。つまり大量の
発行紙幣は買い手が無ければ両替商では紙屑として扱われすぐさま藩勘定方が買い足す
事になるものだった。


1422: 名無しさんAA:18/05/14 15:13
 この為江戸後期には柳川には物産会所が開かれ、辻町の角では多くの商品取引が活発
に行われた。その当時明治初期に藩が二つに割れず 確立した物流は日本国中この藩に
しかなかった。従って、佐賀からは鉄製品や海産物の支店が立ち並び三井からは枕木か
ら蝋原料更に久留米からは酒類や油、大川からセメントや貝灰、山川からは注連縄など
海産物・土地・民芸品問わず商取引が行われた。その後その場所は 柳川軌道が走り、
高椋銀行が藩の銀行として大いに潤った。しかし渡辺銀行に食われその後福岡銀行に合
併した。しかしその活況は城下を二分しなかった為に柳川城炎上で出来た、商工業の発
展だった。柳川軌道は九州鉄道会社の不便さから生まれたものだった。九州鉄道会社が
創立し高橋新吉とドイツ人技師ヘルマン・ルムシュッテルにより事業を開始した時に、
博多−久留米間をまず着工した。久留米以南は羽犬塚〜水田〜柳河を経て渡瀬に行く 
計画のであったが、鉄道が柳河町(現柳川市)を通る事に反対論者多く、路線を東方に
ずらした瀬高に変更した経緯によるものだ。当時は、大宰府でも反対され二日市に変更
されている。明治22年12月11日、九州初の鉄道として、博多〜千歳川仮停車場(
筑後川北岸)間開業し片道1時間23分かけ1日3往復の営業運転する。7月の、集中
豪雨が筑後川の橋梁工事を襲ったため予定駅の久留米の手前の仮駅で開業するに至った
。当時、蒸気機関車も、車両も、レールも、すべてドイツ製でのスタートだったという
。明治24年4月1日に、高瀬(玉名)まで開通し、下庄字矢部川沿いに「矢部川駅」
(昭和31年瀬高駅と改称)を作り開設営業を開始した。この結果瀬高は大きく発展す
る機会を得たことになる。鉄道開通は、初めての「陸蒸気(おかじょうき)」を見る為
に手弁当持参の郡衆が集まるほど人気があった。開業当初の駅名が矢部川駅だったのは
、高瀬駅(現在の玉名駅)との混同を避けるためであった。この鉄道の開通により、人
は日帰りで遠方に出掛けられ、談議所の浜からの船での荷物の輸送手段が鉄道便の利用
に変化していくことになる。矢部川駅構内には人力車40輌があり、その他付近町村の
分を合わせると300余輌があったという。車賃は一里15銭、1日貸切で90銭であ
った。また駅構内には乗り合い馬車31輌があり、6人乗りで、1人1里10銭であっ
た。駅前の旭屋旅館の馬車は柳川や沖ノ端にも出張所をもっていた。この頃には馬車を
高等馬車と呼んでいた。明治24年7月1日、九州鉄道はさらに延長され熊本駅まで、
開通し。8月20日には現在の長崎本線の一部たる鳥栖〜佐賀間も開業する。これらの
開通には長州藩士であった山縣 有朋(やまがた ありとも)の強い推薦があって開通し
た。三池石炭と瀬高煉瓦が必要に迫られていたからだった。明治27年、日清戦争勃発
し軍需景気が高まり、鉄道の需要が増え高度成長に乗る。明治28年、熊本から八代ま
で延長開通し、佐賀〜長崎間も延長開通する。

1423: 名無しさんAA:18/05/14 15:14
富安君を探せ              < その184 >

 柳河軌道は瀬高の発展や酒造会社が日本全国に運ばれた事での栄盛になり、柳河径由
の九州鉄道敷設に反対していた柳川の地元民も、いざ実現してみると、急に不便を感じ
てしまったのだ。九州鉄道を利用する為の柳河〜矢部川駅間の軽便鉄道敷設に乗り出し
た。明治42年6月、資本金8万1千円で開業、初代社長は立花親信で、機関車5台、
客車5台、定員45人、貨車3台で、その中に6トン積があった。瀬高〜柳河間4マイ
ル(7.6km )を30分で運転していた。運転手は14時間勤務で行った。線路の軌間は
(レールの間隔)には九州の軽便鉄道で広く用いられていた、超狭軌914mmを用いた。
矢部川駅〜下庄〜上庄〜御仁橋〜三橋〜蒲船津〜柳河を普通4往復で、旅客運賃は1区
間2銭で矢部川駅から柳河まで12銭であつた。停車場以外でも、手をあげると乗車さ
せてくれた。小荷物(米・酒・抗木、花むしろ・味噌・缶詰・瓦など)1区間1銭であ
った。柳河軌道が敷設されていた現在の国道443号線は、明治18年(1885)に
新設開通した道路で、明治42年の柳河軌道敷設により矢部川には木造の瀬高橋(写真
)が架設された。その以前の橋は、明治38年、日露戦争後で、矢部川を渡る渡し舟の
不便さから、洪水で流されるのを覚悟で川面すれすれに簡単な有料の橋が敷設されてい
て通称「ガタガタ橋」と言われ、橋ぎわから斜めの道を河岸に下って使用していたとい
う。その後不便さから新たに柳河軌道線路と一般通行との共用木橋が出来て「ガタガタ
橋」は4年の短い期間で廃止されている。矢部川駅(現瀬高駅)周辺には旅館(旭屋旅
館・さかき屋旅館)、料亭(日新亭料亭)、馬車駅ができ、まだ田んぼや畑の下庄の中
だった柳河軌道沿いに、跡取りでない商店の次男などの新規開店や従来の店を移転する
ところが増え栄町ー恵比須町ー矢部川の新沿道に新しい商店が出現した。檀一雄の回想
文「コウモリ(凧)とホンゲンギョ(焚火)」には次の柳河軌道の文節がある。実は私
の母が、私の十歳の時に家出した為に、私の妹達3人は柳川の祖父母の家にあずけられ
ており、その妹達と一緒に正月を暮らす目的で、父は私を連れながら、毎年無理な帰省
をつづけていたものだろう。・・・私の少年の頃は、例えば足利から、柳川までだと、
乗りかえ、乗りかえ、たっぷり、二昼夜はかかっていたのである。しかし、その二昼夜
の旅の果てに、関東とはがらりと変わってしまう風物と方言と食物と人情を経験する事
が出来るのも、やはり、幸福であったといえるかもわからない。例えば、瀬高から軽便
鉄道に乗り換えて、柳川の三柱神社前の柳川駅に降りる。すると、「おうー、一雄坊チ
、帰り召したバイのも」車曳きの吉さんは、目ざくと私を見つけ出して、その人力車に
乗せられる。」と書いている。

1424: 名無しさんAA:18/05/14 15:16
富安君を探せ              < その185 >
 上庄の橋が高くて、4両連結すると登れなかった。ある時、橋を渡っていると、徐行
状態なので駅と間違え、川へ転落した大牟田の人がいたが、不思議とケガはいていなか
った。平坦地でもスピードが今のようにないので、よく飛び乗る人がいたが、柳川市の
宮永付近の若い女の人は飛び乗り損ないケガをしたことがあると記録は残る。乗客は、
中には入らずデッキにぎっしり乗っているので、中に空いているのに、狭い機関車の中
にお世話になりに来る人が多かった。毎日機関室に乗って細かい機械を覚え、伝習館の
先生の実地知らずをいじめる学生さんもいた。その人は、後に東京方面で私鉄を始めら
れ、社長さんになられたという。この柳川軌道の設立には投資家の記録が残っている。
大正5年 柳河軌道社長 元衆議院議員 立花親信(紀伊 柳河藩後断隊長)逝去、当時の
記録から、柳河軌道株式会社、所在地、山門郡柳河町電話26 設立 明治42年6月 
資本金 15万円(一株50円)払込高8万7千円 諸積立金5千7百円 当期利益金
6千580円(4年末現在) 社長 山崎 断 取締役 樺 勝次郎 役員 薗田 徹夫 役員
藤島 豊太郎 役員 川原 大(ふとる) 監査役 内山田 民治 柳河軌道社長 元衆
議院議員 立花親信(紀伊 柳河藩後断隊長)逝去 成清博愛 馬上金山主 元衆議院議員
逝去 2代瀬高町長 立沢久雄辞任 衆議院議員は富安保太郎(山門郡三橋村)、吉原正隆
(大川町)、永江純一 となっている。その後、明治24年に東肥鉄道会社が設立されたが
、この区間に国有鉄道が敷設されるといううわさが立ち、解散する。矢部川駅から清水
寺のある本吉までは4人乗りの高等馬車が走っていた。 
 大正8年(1919)11月30日に東肥鉄道K・Kが設立される。社長には南関町の河端
(川崎)浅次が就任し資本金200万円で始めた。しかし 鹿児島本線が海沿いに敷かれた
ため、鉄道本線の活況から取り残された。経済の発展を期待して、玉名郡南関町の石井
家(北原白秋の母の生家)が中心となり、この地区に鉄道を引くのを決断し路線建設に
取り掛かった。しかし熊本、福岡両県にまたがる為、手続き、その他のため手間どり、
着工が柳河軌道より10年余りも遅れてしまった。当初予定は矢部川駅より本吉、山川
、南関、山鹿より隈府へ行き、それより大牟田に通じる予定であった。大正9年9月1
5日 東肥鉄道が資本金二百万円、本社南関、出張所瀬高町下庄八幡神社境内で矢部川
駅基点、山川経由、南関行きの軽便鉄道は難産で開通した。社長・村山一松(朝日) 
本吉駅長・東原キテ(本吉) 機関手・上津原浅吉(大江)江崎熊市(朝日)とあり、
社長の村山一松は、明治27年25才で山門三池製茶組合長になり明治33年31才で
清水村村長になっている。その後は柳河軌道社長、東肥鉄道社長を務めている。よって
柳河軌道の機関手・上津原浅吉氏を両会社で採用していたものと思われる。

1425: 名無しさんAA:18/05/14 15:19
富安君を探せ              < その186 >

 大正10年(1921) 矢部川駅〜朝日(仮)〜本吉(もとよし)駅 〜 野町駅
〜ちくご原町駅 〜 北関(きたのせき)駅 〜外目(ほかめ)駅 〜南関(なんかん)駅
の13.6kmを営業開始された。矢部川駅とは現在のJR瀬高駅で、清水小学校付近
には本吉駅、山川の野町駅は庄山博氏宅付近にあり、筑後原町駅は沖謙二氏宅付近に設
置された。大正12年頃には資本金を75万円に減資され名も九州肥筑鉄道と改まって
いる。大正15年発行の「山門郡誌」の付録図には、矢部川(瀬高)駅を東に進み藤の
尾の車塚の北側を走り、本吉部落の西側に駅がある。それから山川村野町の東側を通り
松風の関手前で県道を横切り南関方面に行っている。昭和2年(1927) 明治初期
に新橋ー横浜間で活躍した5号機関車(160型)英国シャープ・スチュアート社製造
(1871年(明治4年)製造)が東肥鉄道に売却され再び東肥鉄道の軌道を走る。も
し機関車が残っていれば、今では文化財級であるが、今は消息不明となっている。昭和
4年には九州肥筑鉄道と改称し、全線の測量も終わって、工事は南関より山鹿へと進ま
れていたが、トンネル工事の設計ミスによる手違いから工事が中止となり、南関〜隈府
(菊池)間は計画線から経由地を大幅に変更して建設に着手されたが、こちらは志なか
ばにして頓挫して南関が終着駅となった。この年、東京〜下関に特急「富士」(公募で
名付け)が運行されてはるかに早く着くようになっていた。昭和5年には東京〜神戸を
特急「つばめ」が走る。昭和13年(1938)山間部の人口の少ない農村を走る東肥
鉄道は沿線上の利用客が伸びず営業不振に陥った。開業19年目で解散となる。その後
は国の補償買収を期待して線路をそのまま残していたが、結局実現には至らなかった。
 昭和16年になれば国鉄バス山鹿線(鹿児島本線と豊肥本線を結ぶ鉄道連絡線)とし
て全通し運行されるようになった。(平成18年2月(2006)国鉄バス山鹿線は、
68年の歴史を閉じ産交バスに移管された。)自動車輸送の出現は明治45年に国内で
の快進社(日産自動車の前身)の創立で国産のガソリン車の生産が始まった事で広がっ
た。矢部川駅前で旅館旭屋はその利便から、明治30年頃から人力や馬車を使い営業を
していた。旭屋の金子兼吉は、大正12年頃瀬高町で最初の自動車運転免許修得者し、
自動車3台を購入して自動車運送の営業を開始している。それは当時の米国自動車T型
フォードを購入しての営業だった。ナンバープレート23は福岡県内23番目の車であ
ることを示している自動車が珍しい時代の写真が残って居る。旭屋は下庄小学校の校庭
を利用して自動車学校もやっていたという。 つまり今の瀬高町役場跡である。

1426: 名無しさんAA:18/05/15 09:14
富安君を探せ              < その180 >

古代の歴史に残っているのは、神功皇后が時津から上陸して一泊し、「長い夜」といっ
たので、長与になったという話しがある。長い夜の話は何故なのか不思議だが、古代史
に残っているということは、昔から存在していたということである。古代、長距離の移
動には船が使われていたので、時津に上陸し長崎港まで歩き、そこから船に乗る道があ
ったようで、時津街道とも呼ばれている。時津と長与はすぐ近くなので、ともに栄えた
と思われる。少し離れて諌早に喜々津がある。 時津、長与、喜々津と並ぶ。 このパタ
ーンで行けば、長与ではなく長津のはずなのだが、そうなっていない。津というのは、
船着き場のことなので、長与は船着き場でなかったということになる。長与の「与」を
字は当用漢字をあてはめた漢字で、昔は「輿」という漢字を使用していた。つまり長輿
は「輿(こし)」の関連だった意味だった事は間違いないだろう。輿は轅(ながえ)と
称する2本以上の棒の上に人が乗る台を載せた乗り物の事で、嫁入りを輿入れと称した
し篭に乗る者が神なり貴人では御神輿(おみこし)や御輿(みこし)となる。博多の街
が伯太の人すなわち出雲からの長髄彦族の地に変わった事はよく知られている。長髄彦
は神武天皇に「昔、天つ神の子が天の磐船に乗って降臨した。名を櫛玉饒速日命という
。私の妹の三炊屋媛を娶わせて、可美真手という子も生まれた。ゆえに私は饒速日命を
君として仕えている。天つ神の子がどうして二人いようか。どうして天つ神の子である
と称して人の土地を奪おうとしているのか。」景行天皇の身長が、御身長一丈二寸、御
脛長四尺一寸と書かれている。1丈およそ畳一枚3m程度二寸は6センチとすれば、脛
の長さは1.2メートルほどである。だがこれは、近年計量法で決められた数字で、昔は
当然京間と言われる寸法もあった。太鼓や鼓など8寸を腕や撥(バチ)の長さで0,4m
である。これからすると巨人ではあるが1割は多い。つまり最大で2.8〜2.5mとすれ
ば、そうそう無かった話とはならない。もう一つの天孫降臨をした人物が長脛彦の一族
だと古事記には書かれている。天孫降臨した神様の名はニギハヤヒという。天孫降臨し
たニギハヤヒは物部氏につながり、大和、河内を本拠地にしている。長髄彦族は神武東
征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長で、中世に武将として台頭した織田家
(後に織田信長を輩出)や伊達家が長髄彦の子孫であるとも言われている。文字通りだ
と2,5m級の大男である。長髄彦をモデルにしたと言われている、長髄彦は反大和の背
の高い種族であったのだ。こうして長与の神社 戸隠神社 祭神は天手力男神である。
一方熊襲は土蜘蛛のはびこる未開の地として、武器こそもつが少彦名でも解るように。
入れ墨した小人(こびと)とされる倭人族だったのである。

1427: 名無しさんAA:18/05/15 09:15
富安君を探せ              < その187 >
 この柳川藩は、本当は城を作り、もっと豊かな暮らしを領民にさせたいと願っていた
。しかし時代はそれを許さなかった。日清日露の戦争では、戊辰戦争以降の日本国政府
が頼ったのはこの柳川藩の繁栄だった。というのも多くの藩は仲たがいしては 殺戮が
今だ繰り返されていたからだ。海外の宣教師がやって来て横浜や神戸を開港したが、そ
の事情は朝鮮半島の動向を観る為の物だった。つまり長崎の繁盛には全くかなわない物
だった。長崎で送られる陶磁器やお茶はこの地の早津江の対岸に作られた若津港からの
荷が多くを占めた。その為若津の港は殆どのものの向かう先の中心だった。日田や久留
米の椿油や材木は若津の貯木場に集められセリによって又筏で九州一円を回っていった
。その筏に乗せられるのは城島瓦であった。日露戦争時に送られたのは柳川の海産物と
貝の殻から作ったセメントだった。海産物は缶詰にされ極寒の地の食料となった。又、
セメントは瀬高の赤レンガと共に関西関東まで運ばれた。更に驚くことに 大牟田港の
石炭は良質として江戸期からこの早津江の海軍に運ばれて名が通っていたのである。多
くの石炭の第一任者となっていたのである。衆議院議員富安保太郎はそんな時代に産ま
れていた。その頃の川北村は筑後分と柳川分とに水争いをしていた。吉開村はその中間
に属した。高島蒲池は三潴領地であり久留米大川領分だった。また富安上妻は筑後領地
で久留米山川領分とされた。又川南の百丁久末までは立花藩領とされ柳川県令下にあり
矢加部磯鳥は三潴県令下であった。しかし吉開馬間田のみがかつては水田神宮の神領地
とされていた事から、和泉の守の指揮する場所として中途半端な土地になっていたのだ
。実は富安城があった江戸以前の戦乱期も全く同じであった。実はこの河北地区はかな
りの高台にあった。特に木之元集落は正行集落と同じく今よりは10mほど高かった。
しかし起田の田園作り、島町の堤防作り 瀬高の清水の瓦焼にと その良質な泥土は、
かなり使われた。柳川城攻防では徳川氏が責めて来た時、正行は太閤秀吉が来た事から
大将軍通りとされた。それが柳川軌道の傍道になった。 柳河軌道社長 元衆議院議員
立花親信は初代商工会長の富安氏を通じて衆議院議員は富安保太郎を呼んだ。そこには
成清博愛元衆議院議員がいた。富安飲料はラムネ製造で高利を得ていた。又そこが富安
氏の選挙資金を提供していた。従って従うしかなかったのだ。当時の記録で、柳河軌道
株式会社の所在地は、山門郡柳河町電話26 設立 明治42年6月 資本金 15万円
(一株50円)としている。つまり3千株を発行している。この頃は30円時代である
。大学を卒業して有名商社の初任給が10〜30円とされ、通常の者は職人に無給住込
みとして、弟子入りし代わりに夏と冬にそれぞれお年玉の様に帰郷金の50〜100円
が渡される事が常だったとされている。

1428: 名無しさんAA:18/05/15 09:16
富安君を探せ              < その188 >
 明治の末でこの頃やっと日本に憲法と言う法律や日本国と言う国家意識が芽生えて、
やっと富国強兵と殖産興業が実りだした頃だったのである。樺勝次郎は、馬鉄鍛冶で一
代を築いた祇園宿の薗田徹夫を役員にして藤島豊太郎と川原大(ふとる)を呼んだ。そ
して立花氏の奉行所子内の内山田民治を代表に議論して払込高8万7千円諸積立金5千
7百円当期利益金6千580円(4年末現在) をした東肥鉄道会社を運営した。社長の
山崎断は大川の元締めとしての仕切っていた。永江純一は福岡県会議員をへて明治31年
衆議院議員を5回も当選し政友会の幹事長となっていた。三池土木,三池紡績,九州紡績
,鐘淵(かねがふち)紡績の重役や三池銀行の頭取をつとめた重鎮であった。大正6年12月
65歳で死んだが高田町の復興に全力を注いだ人生だった。吉原正隆は筑後柳川出身の
大農家だった。朝鮮に渡って缶詰を売り朝鮮鎮海で貸家業を経営するに至った。かつて
紅粉屋として大阪に貝の粉で口紅や白粉の化粧品で大当たりした豪商でもあった。明治
45年衆院議員に当選し、以来4期当選し後に逓信大臣秘書官にまでなった。大正14年
9月から次年6月まで貴族院議員として在任している。都帝国大学経済科〔明治39年〕
を卒業し大学院で植民政策学を専攻した関係から彼に実務が任された。筑後国三池郡に
岩津村(福岡県三池郡高田町)の豪農だった野田伊七の長男卯太郎と知り合った。野田
卯太郎は日本の政治家や実業家の中ではかなりの異色であった。号を大塊とし衆議院議
員、逓信大臣、商工大臣などを務めたが、豪農と言えども一般平民の出で大臣にまで昇
った立身出世を体現するような人物であり、商人や武士からは幾人かいたが名門でもな
い平民で、芸術的学や経営的才覚を持ち合わせた政治家は極めて稀だった。その彼が吉
原を寵愛した。卯太郎が産まれた頃の父は一介の雑貨商であったが、非常に活動的にな
り、西南戦争時の官軍の負傷兵を集めた難関に包帯や布を納めて財をなし、その後木村
緑平や山頭火などと親交を持ち、日本初の精神病院を柳川に建設にしていた。炭鉱関連
において三井財閥と関係を持ち、また自由民権運動にも参加し福岡県会議員にもなった
。宮崎滔天が支援した孫文は中国の辛亥革命においては袁世凱に革命の成果を横取りさ
れたものの、日本に来た時には、大阪商人の松野と縁戚であり、卯太郎は取り次いでい
る。日本初代警視総監の宮崎氏はこの滔天と従兄弟であり、この日本では孫文事件で、
西南戦争での政治犯の刑務所や厚生施設を作ったのだ。キリスト教色が強くドイツ技官
の知遇を得ている。大牟田の聖心女子学園はそうした政治犯の家族を助ける為にペンテ
コステ教団が、長崎のグラバー商会と共に江戸時代に創設されてたとされる。明治異邦
偉人の人の隠れキリシタンのルーツ探しで 多くの人が大牟田特に三池に居たのである

1429: 名無しさんAA:18/05/15 09:17
富安君を探せ              < その189 >

1868年 明治元年にホーム・リンガー商会が設立され。お茶の輸出創始者オルトの製茶工
場を買収し、グラバーからも製茶業を引き受け長崎最大の製茶業者となると、製茶以外
にも、製粉、ガス会社、発電所、長崎の上水道建設、漁業会社など幅広い事業を行った
。しかしその原料原資は三池炭鉱の石炭だった。居留地の外国人と市民の交流の場や、
「内外倶楽部」を開設、また、グラバーの息子、倉場富三郎とともにわが国初のトロー
ル漁法を導入し、「水産業の父」とも呼ばれ産業、経済に大いに貢献した。1898年に大
浦海岸通りに建設した「ナガサキ・ホテル」は、当時アジアの一流ホテルとして名を馳
せた事がきっかけとなり、三井クラブも北九州に本拠を変えて炭鉱開発行った。これが
筑豊炭鉱を作った。その後杵島炭鉱や長崎などでもドイツからの地質学者の調査で次々
と出来てすべてが船によって門司に集められ大阪東京にまで送られた。野田卯太郎は、
原内閣、高橋内閣では逓信大臣(大正7年)加藤高明内閣では商工大臣(大正14年)
を歴任した。大正13年には立憲政友会副総裁となった。しかし昭和2年には死去した
。俳人や歌人としても有名であると共に、同郷の柴田徳次郎が私塾国士舘を開設した際
には同じく同郷の頭山満や中野正剛、緒方竹虎らと共に賛同者として名を連ねている。
2代の瀬高町長の立沢久雄が辞任した時衆議院議員の富安保太郎はやっと地元の三橋町
というものを造って瀬高町との合併が叶わなかったが、旧国鉄の元となる東肥鉄道会社
が、明治24年に開通したのである。立花親信の資金によって作られた。元々駅馬車によ
って生活を得ていた園田氏の馬鉄会社は廃藩置県後には佐賀の鍋島藩で酪農をしていた
小城の士族、藤島豊太郎氏の牛乳配達とともに、この鉄道に期待して入社していた。柳
川市の現在地に移転し、柳川牛乳の始めた。東肥鉄道は、高速沿いに進み南関インター
南行出口の分岐点横に、煉瓦造りの橋梁跡が残されている。こちらは純粋に煉瓦のみで
構成されていて、実は南関と瀬高を結ぶ路線として本来大分につなごうとしていた。し
かし物価の上昇と共に資金繰りがつかず、又軍部の強権や自動車の台頭などで頓挫して
いたのである。南関から南は数本の雑木が生えた荒れ地となり、更に農地に取り込まれ
ながら国道に沿って進んだのち、左カーブで国道と交差し、その位置を変える。当時は
ここに踏切番が置かれていた。これより先は工事に着手したものの、開業にまで至らな
かった未成線に区分され、途中の関川には未使用の橋台が未だに手つかずで残る。当初
、南関〜隈府間は坂下経由で計画されたが、建設費の高い長大なトンネル、橋梁を必要
としたため資金面がネックとなり、最終的に費用の安い北側のルートに変更し建設に着
手されそれが牧場が出来ないネックとなり、柳川牛乳で落ち着いた。

1430: 名無しさんAA:18/05/15 12:51 ID:1E.
富安君を探せ              < その190 >

 そもそも明治政府は、明治5年(1872)、近代国家への陸上交通手段として鉄道
を模索していたが、大久保利通も西郷隆盛もその鉄道の革命的利点には、着目してはい
なくて言わば政府内の役人の勢力や予算繰りに終始して国家経営まで至ってなかった。
明治政府はイギリスから技術団を招き新橋〜横浜間の鉄道を開通、片道53分、料金5
0銭から1円50銭で営業が始まったのは、短い路線で縮小予算での快挙でもあった。
1872年、高島嘉右衛門は東京から青森に至り北海道開拓を支える鉄道の建設を政府に建
言、却下されるも、高島は政府要人の岩倉具視を説き、鍋島直大、蜂須賀茂韶をして、
やっと明治天皇および当時の政府に『華族と士族が家財をもって会社を建て、東京と青
森あるいは東京と越後新潟に鉄路を敷き蒸気機関車を走らせることを補す』ことを建言
させた。こうした経緯を経た1881年8月1日、岩倉具視をはじめとする華族などが参加し
て私立鉄道会社「日本鉄道」の創立が決定し、同年11月11日、設立特許条約書が下付さ
れ、初代社長に吉井友実を選出して会社が設立された明治14年(1881)にわが国
最初の民営鉄道である日本鉄道株式会社が創設され、東北、常磐、両毛線などが開通し
た経緯である。その6年後明治20年(1887)横浜〜新橋間の成功から、九州鉄道
会社が創立し高橋新吉とドイツ人技師ヘルマン・ルムシュッテルにより事業を開始した
。博多−久留米間を着工した。久留米以南は羽犬塚〜水田〜柳河を経て渡瀬に行く計画
の鉄道が柳河町(現柳川市)の反対論者多く、路線を東方にずらした瀬高に変更した。
当時は、大宰府でも反対され二日市に変更されていた。明治22年冬、九州で初の鉄道
として博多〜千歳川仮停車場(筑後川北岸)間開業し片道1時間23分かけ1日3往復
の営業運転する。7月の集中豪雨が筑後川の橋梁工事を襲ったため予定駅の久留米の手
前の仮駅で開業する。当時、蒸気機関車も、車両も、レールも、すべてドイツ製でのス
タートだったが、佐賀の反射炉の活用もあった。内山田民治は新橋〜横浜間に営業運転
される1872年よりも7年も前に、1865年に、長崎で蒸気機関車に乗っていた。その3年
前の香港万博にグラバーは薩摩の島津斉彬を連れて来れなかった。そこで長崎港でわざ
わざ線路を敷き人を乗せて走って運賃をとった。その蒸気機関車こそが、西部劇で有名
な「アイアン・デューク号」と名付けられている蒸気機関車だった。つまり香港で内覧
したこの機関車は米国に送られる前に半年程営業運転していたのだ。江戸時代の、この
ショーは米国でかなりの人気を博した。この年アメリカ合衆国憲法修正第13条が提案
されて独立戦争が終わり、 香港上海銀行(HSBC) が設立された。高級な筑後茶がメキシ
コ茶にとって代わり、米国に送っていた鉄砲が日本にやってきたのである。

1431: 名無しさんAA:18/05/15 15:25
宣教師の時代       ーーー170

この方法を実践する場合、まず、ドラッグ(媚薬や妙薬)によって精神状態を、日常の
世界から解き放ち、祈祷(きとう)と秘呪(ひじゅ)に続いて、魚が食べられる。続い
て牛肉が食べられ、媚薬(びやく/性欲を催させる薬で、淫薬とも)としての野菜の炒
穀を食べ、次に葡萄酒(ぶどうしゅ)が口に運ばれる。そして性交の儀式が最高頂に達
し、秘儀が繰り広げられるのである。しかし特記されるべき事は、ヒンズー教の伝統を
持ち、これを信仰する者が、牛の肉を食べると謂(い)う事は、最も恐ろしい破戒(は
かい)行為であり、戒律破りを冒している事に注目すべきである。今日でスワッピング
を楽しむ夫婦間では、牛肉と葡萄酒は性への興奮を煽(あお)る為の必需品とされてい
るが此処で、エクスタシーの作用を高める為に、大麻を使いスワッピング集団としてい
る。タントラの性魔術によれば、男達は自らを“シヴァの化身”であると信じ、それを
観念しながら、三角形の図の描かれたシーツの上に女を横たわせ、性交を開始する。三
角形は「眠れる蛇」のシャクティの象徴であり、女はそれを観念する。そしてこの性行
為には長時間が費やされる。この時の性交には、秘教的な道筋が有り、段取りがあって
、その二人の絡み合いを取り巻く参会者は、絶えずマントラを唱える。更に、王と王妃
はクライマックスのオルガスムスを迎え、脱魂状態に至るのである。この会得にあたり
、「精液」「肉体的エネルギー」「異性を求める情念」の三つは、やがて一つに纏(ま
と)まった強力な「陽之気」に変換される。この陽之気に変換される事により、肉体が
五秘密の法身と変化(へんげ)し、ここに唸(ねん)が起る。タントラ教徒が崇拝する
像。仰臥するシバ神に、カーリー女神が馬のりになって修行を終える。成就法(サーダ
ナ)とか坐法(アーサナ)という秘密の性的儀式の式次第が書いてあるのですが、至っ
て真面目に説いている。いわく、グル(師)と女性修行者が行う儀式で、女は低階級・
他人の妻・生理中の女性が好まれる(なんでだろ)。射精の調整、要は長持ちさせるた
めに、大麻をやったりガンジャを吸う。8組の男女が円輪になって、集団的儀式(16
P)をする事を規定している。五甘露(血液、精液、小便、大便など)を飲んで、乱交
、ドラッグ、スカトロ、なんでもありです。タントラ教徒はミトラ(男女交合像)を崇
拝していて、インド中央部の村・カジュラーホに残る25寺院(10〜12世紀)の中にはカ
ンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院のような、エロ彫刻で壁面が埋め尽くされた寺もある
。これらが、呼覧(コーラン)と共に中国大陸で出来た密教である事は間違いない。い
つからインドと中国がどんな繋がりだったかは不明だが、中国は常にインドを犯してい
た。イスラム信徒は近代までバングラデシュには居なかった。しかし中国にいた。

1432: 名無しさんAA:18/05/15 15:25
宣教師の時代       ーーー171

 このマントラ呼吸法に関しての性の開放交歓は、奈良以前の世界からあったとされる
つまり媚薬を使い、麻薬による信仰が既に確立していたのである。これは戦国時代に入
って来たとされるキリストに、それ以前の聖徳太子時代に入って来たキリスト教がその
用法ややり方に飲み込まれるの防ぐ効果を持った。本来、不思議な事に「神弟」「兄弟
」を意味するキリシタン用語イルマン(伊留満・以留満・入満)とも書く地位はあまり
聞かない。がしかし人数的には多かった筈だが、後世にはあまり伝わっていない。イエ
ズス会の修道者のうち,司祭職にある者をパードレといい、パードレを補佐する者を、
イルマンといった。キリシタン時代,イルマンを経てパードレに叙階されるのがふつう
であったと言われ、また、信者の協働組織であるコンフラリア「組・講」の構成員も、
イルマンといった。この中で、キリシタン用語であるバテレンが破天連や伴天連と書か
れたが、これも宣教師の称号の一つとされる。助修士。平修道士。イルマンが司祭職に
叙階されるとパードレがバテレン「伴天連」となったと言う。しかし吉祥天物語では、
既に伴天連の言葉が違う意味で使われている。 吉祥天は、インドからきた神という。
ヒンドゥー教ではラクシュミー(またはユリー)といい、富、幸福、豊穣の女神だった
。サンスクリット語でシュリーマハーデーヴィーといい、これが大吉祥天女と訳され、
さらに略して吉祥天と呼ばれた。また仏教では功徳天とされる。このラクシュミーは、
ヴィシュヌの后とされ「大海から生まれたもの」という異名がある。これは、諸神の乳
海攪拌というヒンドゥー教の神話からきている。ギリシャ神話のビーナスと同じである
。神々は、不死の霊液アムリタを手に入れるため、ヴィシュヌに相談した。するとヴィ
シュヌは、マンダラ山を引き抜いて、それを攪拌棒として大海をかきまぜるように指示
した。神々はふだん敵対するアスラ(阿修羅)たちとも協力し、いわれた通りに実行す
ると、大海はミルクのようになり、その中からさまざまなものがあらわれてきた。その
一つがラクシュミーである。神々もアスラも、その美しさに見とれ、ラクシュミーを手
に入れようとするが、ラクシュミーはヴィシュヌを夫に選んだ。インドではラクシュミ
ーの姿は、蓮華の上に立ち、左右二頭の像が注ぐ水を頭に受けているように描かれてい
る。これは、ラクシュミーが出現したとき、天の像が清浄な水を金の瓶にくんで、彼女
に浴びせたという、さきの乳海攪拌の神話による。しかしこのインド神話が中国や韓国
の元のモンゴル起源が考えられる。モンゴルは伝説はあまり伝え聞かないが多くの物が
この高原で生まれたようだ。ただ文化的資料に乏しいのが遊牧民の民俗学の弱さだ。

1433: 名無しさんAA:18/05/15 15:26
宣教師の時代       ーーー172

 日本での吉祥天は、中国風の貴婦人に描かれ場合が多く、優雅な衣装に冠、左手に宝
珠を持っているのが一般的な像である。また、仏教では毘沙門天の妃とされているため
、毘沙門天の脇に置かれていることもある。日本に伝来した吉祥天は福徳の神として篤
く信仰された。平安時代には、吉祥悔過という国家的な法要が天皇の命によって行われ
た。これは吉祥天を本像として、「金光明最勝王経」という密教のお経を読んで、罪を
懺悔するとともに、五穀豊穣を祈願するものである。このお経によると、吉祥天はさま
ざまな善行をし、功徳をつんだ天女である。この天女の名前をとなえると、五穀豊穣、
財産も豊かになるという御利益がある、と説いている。吉祥天にまつわる説話の中には
平安時代の仏教説話集「日本霊異記」には、吉祥天にかかわるかなり生々しい物語がで
てくる。信濃の国のある僧が、山寺に祀られている吉祥天に人目惚れし、なんとか自分
にも天女のような女性が授かれないものかと祈る。するとある夜、吉祥天の像とまじわ
る夢をみてしまう。翌朝、吉祥天の像を見ると、その腰あたりに精液らしきものがしみ
ていたという。さんが天女と夢でセックスをするという筋書きなどは、江戸時代になる
と弁才天にもあてはめられるようになる。そこでは、交わったことを人に話すなよ、と
天女に釘をさされたにもかかわらず、坊さんはうっかり他人にさとられてしまう。腹を
立てた天女は、坊さんに水をかけ、その水で坊さんは悪い病気にかかってしまう、とい
う筋書きである。ここでは、吉祥天が弁才天に変わっているが、実際、この両者が混同
され、同一視されることもしばしばあったようだ。しかし、個々の人気からいうと、弁
才天に軍配があがり、七福神のメンバーとしての地位は不動のものになってしまった。
いわば吉祥天は影の七福神だったといえる。『金光明最勝王経』は多くの講輪法会を成
り立たせていて、奈良薬師寺の最勝会、奈良興福寺の維摩会、宮中の御斎会、又は興福
寺の法華会・南京三会(なんきょうさんえ)と称される。宮中における御斎会(ごさい
え)は、7草粥の後1月8日から7日間行われる最勝会で、衆僧を召してお斎(おとき
=供養のための食事)を行ったことから御斎会と称される。古くは大極殿で行われてい
た御斎会だが、後に清涼殿で行われるようになった。奈良時代以降行われ宮中における
年中行事だが、本来集団見合いの形が斎会の始まりである。神道時代の古墳の頃は火の
祀りで、一族習合の乱交宴会が営まれていた。その後衰え室町時代には廃絶している。
また、奈良薬師寺の最勝会は3月7日から7日間国家の平安の祈って行われ、830年
にはじめられたという。放生会(ほうじょうえ)とされる男の裸祭りの殆どはその女子
の選別に見染められれる事を祈願した祭りとされる。つまり女性が選ぶ為の儀式だった。

1434: 名無しさんAA:18/05/15 15:27
宣教師の時代       ーーー173

 ザビエルが日本に来た頃は多くのこうした奇祭が残って居て、その起こりは兎も角も
暗黙の了承事項が多くあり、それを仕切っていたのが神主や僧侶だったといえる。フラ
ンシスコ・ザビエルは、弥次郎という日本人に導かれて、インドのゴアから連れて来ら
れたが、弥次郎はマラッカでザビエルにあい、のちにゴアに亡命し、同地で改宗して、
洗礼を受けた事が解っている。弥次郎は利口であり、そのうえに新たに改宗した熱心さ
をもち合わせていた。そこで、みずからゴアの商人たちに日本と有利な貿易を開始する
ように説くとともに、イエズス会(ジェスイット派)の神父たちには多数の信者の獲得
を約束した。明らかに、彼の語る話をよろこんで聞こうとする人たちがいたわけである
。そしてその筆頭が、東洋への最初のイエズス会の宣教師で、そのころに到着したばか
りのフランシスコ・ザイビエルだった。すぐに船が用意されて、恒久的な貿易を始める
為の商品や贈り物が積み込まれ。フランシスコは、目的を達成に、その日本人弥次郎を
の修道団の宣教師多数とともに、その船に乗り込んで出発した。十分の積み荷とイエズ
ス会の神父たち金もうけのための商人たちと、相手の世俗的な商品と、官憲への贈り物
などが、すべてがとどこおりなく準備されて出るのである。鹿児島に上陸して各地を巡
歴したのちに豊後に到着するや、かれらは双手をあげて歓迎され、交易と布教はすこし
も反対されなかった。当時は、放逐の制度が布かれていなく、それに、信仰は自由であ
って、政府はキリスト教の公然たる説教にたいしてなんら異議を申し立てなかった。実
際に、ポルトガル人は、帝国内のゆきたいところはどこへでも、その端から端まで、自
由に旅行することが許されていた。「国民は、自由に貿易業者の商品を買い、また宣教
師たちの教えに耳を傾けた」のであった。と書かれている。又到着した時既に奴隷貿易
がなされていて一五八二年(天正十年)ローマに派遣された有名な少年使節団の四人も
、世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚愕している。
「我が旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、こん
な安い値で小家畜か駄獣かの様に同胞の日本人を、手放す我が民族への激しい念に燃え
立たざるを得なかった。」「全くだ。実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男
・童女が、世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばか
れ、みじめな賤業に就くのを見て、憐憫の情を催さない者があろうか。」といったやり
とりが、使節団の会話録に残されている」

1435: 名無しさんAA:18/05/15 15:28
宣教師の時代       ーーー174

 この少年使節団(一五八二―一五九〇年)がイエズス会員に伴われて欧州に出発した
のは、「本能寺の変」と同じ年である。日本にいたポルトガル人宣教師は、同胞商人に
よる日本人奴隷売買をひどく嫌がり、本国に取締を要請し、一五七〇年九月二十日に、
ドン・セバスチォン王は禁止令を出したが効き目はなかった。「この現象を嘆いて、ポ
ルトガルの碩学、アントニオ・ヴェイラはこう言っている。『法律というものはあって
も、違反者は絶えないものである。例えば、日本人を奴隷にすることを禁止する法律が
制定されているにも拘わらず、ポルトガル国内には多数の日本人奴隷の存在する事実に
よって、これを証することが出来る』」と研究者中隅さんは例証する。禁止令の二十六
年後にアルゼンチンで奴隷売買されたフランシスコ・ハポンの存在がまさにそれを実証
している。現在の伯国に通じる法律軽視の気風は、すでにこの当時の宗主国にはあった
。アルゼンチンの古都コルドバ市の歴史古文書館で発見された書類では、一五九六年七
月六日、日本人青年が奴隷として、奴隷商人ディエゴ・ロッペス・デ・リスボアから、
ミゲル・ヘローニモ・デ・ポーラスという神父に八百ペソで売られたことになっている
。その日本人青年の属性として「日本州出身の日本人種、フランシスコ・ハポン(21
歳)、戦利品(捕虜)で担保なし、人頭税なしの奴隷を八百ペソで売る。」(同移民史
十八頁)とある。これにより『日本移民発祥の地コルドバ』とされ「アルゼンチン・コ
ルドバ州日本人百十年史」、(大城徹三、一九九七年)によれば、日本人青年は一五九
七年三月四日付けで、「私は奴隷として売買される謂(い)われはない。従って自由を
要求するものである」と起訴したとある。奴隷として売られてから二年後、一五九八年
十一月三日に裁判に勝訴し、無事、自由の身になった。こうして裁判所は、代金の八百
ペソを奴隷商人から神父が取りもどす権限を与えている。「この日本青年は心身共に強
健で才能に富んだ傑人と思われ、それなりに他の奴隷に較べて三、四倍の高値で買い取
られている」(『コルドバ』十六頁)と考察している。奴隷として売られた人間が、「
奴隷ではない」と裁判を起こすこと自体、当時は珍しいだろう。これが今の所亜国初の
日本人公式記録であり、それゆえコルドバが「南米日本人発祥の地」だという証として
いる。しかし、この本は「さてフランシスコ・ハポンという日本青年は、当時日本との
貿易が頻繁に行われていた南蛮人(ポルトガル人)によって連れられてきたことが濃厚
に示されている。また正式なスペインの航路を通らず、ブエノス・アイレス港に入って
きたと推測できる。ということはスペイン国法に照らし、奴隷に処せられる条件になか
った」とある。むしろ伯国(ブラジル)にこそ多く売られて来ていたというのである。

1436: 名無しさんAA:18/05/15 15:28
宣教師の時代       ーーー175

 『大航海夜話』や『ブラジル学入門』では黒人奴隷より多かった日本人と書かれてい
るからだ。これは実に悲壮な説だ。ポルトガル商人の手によってお隣まで来ていたなら
、もっと近い、南米唯一のポルトガル植民地だった伯国(ブラジル)にも日本人奴隷が
売られてきていても何ら不思議はない。むしろブラジルにこそ多く来ていた、と考える
方が自然だろう。「秀吉の側近だった大村由己(ゆうこ)は『日本人男女数百名の多数
を黒船に買取り、手足に鎖をつけて舟底に追い込み、地獄の責苦をあたえ………』と憤
慨して書いているから、一船当たり、二百名位は積んだらしい」(前同)と記す。まる
でサルバドールの奴隷市場で売り買いされた黒人と寸分変わらない様子で、日本人も扱
われた歴史がある。このこと自体、一般にはあまり知られていない。織田信長や豊臣秀
吉が天下人になっていた安土桃山時代に、いったい誰がアルゼンチンまで日本人を連れ
てきたのか。日本人を奴隷として海外に売り渡したのは、キリスト教布教という口実で
来日した、キリスト教宣教師や牧師であり商人である。堕落したカトリックの 救済・
再建する目的で一五三四年に設立されたイエズス会は、世界の異端者と戦うための軍隊
型組織を持つ「布教の先兵」として、ポルトガルの支援を受けて常に最果ての地に向か
った。その目標の東端が日本であり、西端がブラジルだった。一五四九年、フランシス
コ・ザビエルが鹿児島に到着したのと同じ年に、ブラジルには総督府制がしかれ、初代
総督トメ・デ・ソウザが赴任しているが、初代教区長として同行したのがイエズス会の
マノエル・ダ・ノブレガだ。今では世界最大のカトリック人口を誇るブラジルと、人口
の1%未満しかキリスト教徒のいない日本は、布教開始は同期生だったのである。研究
者中隅さんは「日本とブラジルは、カトリック布教ということでは、同時に出発したと
いうことになる。とはいえ、イエズス会の布教にかける情熱、使命感ということでは、
圧倒的に日本に比重がかかっていた。大航海時代の海外進出は、貿易と布教がセットに
なっているのだが、貿易でも布教でも、未開のブラジルと幕政のあった日本では比較に
ならなかった。」と書く。大航海時代に「無敵艦隊」を誇り、世界を制覇したスペイン
と、最大のライバルだったカトリック兄弟国ポルトガルが、競い合って世界の果てであ
るアジア、アフリカ、南米への探検隊や宣教師を派遣した時代であった。十四世紀半ば
のペスト大流行で欧州人口の三分の一が亡くなり、英仏は百年戦争(一三三七〜一四五
一年)で疲弊しきっていたのを尻目に、ポルトガルはインド航路発見により、アジアの
香料貿易を独占していた。


1437: 名無しさんAA:18/05/15 15:30
富安君を探せ              < その191 >

 「豚買った」とは「おいちょかぶ」すなわちバカラゲームで負けた事を示す言葉だ。
バカラとは、簡単に言えばカードゲームで3〜2枚を引いて数字を足し算し最終桁が9
に近いものが勝つものだが、賭けるのがディーラーが勝つ方にも掛けられる事になって
る為少々計算をややこしくして規定を設けている。だが極端言えば最後のカードで足し
算で9に近づくか9を超えるかで大きく勝敗が分かれる。日本で最初に作られたラーメ
ンは柳川で、柳川鍋とされるごった煮に麺を入れたのが始まりとされる。そこで豚を飼
う事が英国からもたらされ流行したが、結局は暴落し「豚買った。」と言う言葉になっ
た。しかしこの牧場経営で財を成したのが成清家であった。3代目の成清博愛は鉱山経
営に乗り出し「貧乏鳴り金」と揶揄された。そのうなる程の金で「的山荘(てきざんそ
う)」を大分別府に作った。瀬高町小川字堀池園集落にも別荘を建築した。「的山」と
は、鉱山を当てるという意味だそうで、博愛の雅号(がごう)から名づけられた。大分
県杵築市山香町の馬上金山で金鉱を当てた財を、惜しむ事なく投じたと言われ、元来、
柳川の武士は大分に歴史上の経緯から荘園を持っていた。例えば由布院駅付近は、柳川
由布氏の故郷であり差配していた。大分別府も柳川郵便局初代局長の別府氏の持ち物で
あった。大正2年に日之出町に、金鉱石の積み出し港を整備されて別府湾が見直された
。大分県速見郡日出町は別府湾を見渡せる景色の良い、日出城(暘谷城ようこくじょう
)の三の丸の日出藩屋敷跡3670坪を購入させられた。是こそが柳川城を焼失させた
効能であった。柳川市内の財政は潤い、商人は闊歩し各地に土地を購入していた。北島
氏は尖閣を木下氏は北九州の葦地を購入させられていたのだ。しかし誰も立花氏自身の
身を守る商人はいなく、武人のみで函館戦争や西南戦争或いは日露戦争で武功は上げて
いても見向きもされなかった。成清氏は、大正4年(1915)1月に建坪247坪の
豪邸が完成させた。総工費25万円、現在の7〜8億円相当額である。玄関に見られる
式台しきだい、座敷に設けられた床の間、付書院、棚、各部屋境の欄間らんま彫刻など
は江戸時代からの建築様式や装飾を受け継いだ貴重な木造平屋の近代和風建築として作
られた。高崎山を築山つきやまに、別府湾を泉水に見立てた借景の日本庭園で、巨泉を
掘り、巨大な灯籠とうろうを建てた人工の美も発揮している。大分は佐渡の金山が枯渇
してからは日本有数の金産出を誇るようになった。宇佐・玖珠・別府・山香・津江など
県内に多くの金山を擁し、明治後期の日本を支えた。その中でも多くの逸話に彩られて
いる山香の馬上金山(ばじょうきんざん)であった。

1438: 名無しさんAA:18/05/15 15:30
富安君を探せ              < その192 >

 成清博愛は、地元の大工を使ったので、杵築藩の藩校「学習館」の門と同じく江戸様
式の切妻造、桟瓦葺きの腕木門(うできもん)である。両脇に袖塀を持ち、連なる石垣
土台の屋根塀は上部に窓枠を配している。大正4年(1915)の完成した当時の道は
砂利道じゃりみちであったが、のちに石畳が敷詰められている。現在は樹木が茂り風情
をなしているが、門は創建時とほとんど変わっていない。.門を入ると玄関前のロータ
リーまで続く綺麗な石畳の通路は海からの風の匂においいと季節ごと変化する木々を楽
しめる。実はかつての伝習館高校は、立花大学氏において国宝級の玄関飾りをもってい
た。この頃の活況を見るに、その後に藩の財政を支えた高椋銀行が渡辺銀行と合併して
破綻に陥るのだが、それを福岡銀行として所有していた。これも又財にあかせた国宝級
の建物だったが福岡銀行はいとも簡単に解体した。成清博愛は、九州改進党の結成に、
参画し、その資金提供のために鉱山や炭坑を経営するに至った。しかしことごとく失敗
し最後に明治37年に大分県立石の馬上金山の鉱区権を買い取って開坑している。苦心
して金鉱を掘り続け、45年に富鉱部を掘り当て、日本有数の高品位と産出量を誇る大鉱
山に成長して、やっと富豪に返り咲き金山王の名をほしいままにした。しかしその鉱脈
も大きくはなかった。その傍らに、大湯鉄道(現・久大本線)や、宇佐参宮鉄道(現・大
分交通)などを作り、両豊銀行(現・大分銀行)の創立に関与した。また港湾整備や慈善
事業にも携わるなど、地域の活性化に尽力した為彼の後世は功績に満ちてしんでいる。
大正4年総選挙に出馬して当選し、政友会に所属するが、間もなく議員を辞した。実は
侍島吉開久末鷹尾などは常にこの線路の路線として策定された。しかし保太郎は反対の
立場を貫いた。何故なら福岡と直行では若者が悪さする。と言う危惧する声が集落に多
かったからだ。東肥鉄道は、薗田徹夫が藤島豊太郎と川原大など県外から出費者を連れ
て来て取締役に就任し起業した。ようやく1915年(大正4年)2月になり南関停車場建設
予定地にて起工式がおこなわた。工事費の予算は第一期工事 矢部川-南関間を38万8398
円25銭、第二期工事南関-隈府間を64万6954円75銭合計103万5353円であった。しかし株
金の払込の滞納が見られるようになり新聞は完成の目処がたたないと報道し鉄道会社が
反論する一幕もあった。資金難に悩みながら現在、九州自動車道が敷かれているルート
にほぼ並行する形で建設され、1920年(大正9年) - 1922年(大正11年)に順次矢部川
- 南関間を開業させたのであった。永江純一は爆漢に襲われながらも立憲政友会に入り
、政友会幹事長となり、三池銀行頭取、三池土木、三池紡績、鐘ケ淵紡績などの重役を
務めている。

1439: 名無しさんAA:18/05/15 15:31
富安君を探せ              < その193 >

 大正15年にはT型フォードを自家用とし、営業用に小型バスを購入し定期路線を走
らせた。旭屋旅館自動車は瀬高〜沖端〜両開路線を、12人乗りと11人乗りの小型バ
ス2台で運行を開始している。昭和6年頃には大型バス2台で営業していた。昭和にな
ると自動車の時代になった。昭和2年には、下庄恵比須町の佐野慶一氏が瀬高で2番目
に自動車運転2種免許修得し、翌年の昭和3年に甲種運転免許を修得している。当時は
甲種免許は全車種運転が出来、2種免許は単一車種しか乗ることが出来なかった。佐野
氏は貨物運送業を始め、その後、免許証を取る人が増え、瀬口トラック、湯江トラック
、大江トラックの運送業者が増えていった。白菜、酒、レンガ、瓦などの生産品輸送が
、鉄道貨物と競合しながら発展し、各企業や商店も自家用運搬車を購入し始め、車の台
数が急に増加していった。昭和3年頃から「柳河軌道K・K」もホロ型乗り合い自動車を
軌道に沿って走らせた。柳川〜大牟田間と矢部川駅〜柳河間の2路線であった。トラッ
クも2台あったが、荷が少なく改造してバスにしていた。しかし今度は、矢部川駅から
の乗降客を相手に旭屋自動車と柳河軌道K・Kがに客の争奪戦が派手に行われ結果を生ん
だ。クラクションを鳴らし合い、駅の待合所に近い停車位置の奪い合い、果てには用心
棒を雇って喧嘩まで発展する始末に発展し、駅長がしばしば叱責に及ぶ状態になった。
昭和6年に旭屋自動車の可志久旅館跡にあった車庫のバス3台、ホロ型3台、が不審火
により全焼した。しかし1台修理に出していたバスと、あと1台を2万2千円で購入し
て20日後に再び営業を続けている。この当時は修理の部品が簡単に手に入らず、ギヤ
ーやシャフトは大牟田の製作所に依頼していた様子だ。しかし自動車時代の到来の波は
柳河軌道株式会社・解散までに及んだ。昭和7年2月20日 柳河軌道K・Kは、佐賀線
開通により国が金額25万円で補償買収することになり解散する。調査団の収益調査を
して割り出したもので、余分に判明したことは、料金が日本一高く、収益の多い会社で
あったことである。下庄の川原仁三郎氏は旧制中学卒で昭和5年入社、初任給25円で
あったが、これは楽に米4俵(240kg)以上買える額であった。当時の柳川は商工
業の発展において群を抜いて 日本のトップだったので人手を雇うのには高給優遇策が
三井以下一般的にも行われていて、地価もたかかったのである。昭和7年頃は軍部には
兵員輸送に支給する金がなく、全国各地に強制収用が鉄道には行われていた実態がある

1440: 名無しさんAA:18/05/15 15:31
富安君を探せ              < その194 >

 昭和7年柳河軌道K・K解散後、自動車部の運転手であった平山満は上田鶴来を代表者
にして、坂梨喜一郎や田中喜一と4氏が自動車を買い取り「大和自動車」を営業開始し
た。こうして矢部川駅〜沖端間をバス5,6台で運行した。昭和10年には柳川軌道の
レールをそのまま移設して、佐賀線が瀬高(鹿児島本線)〜三橋〜百町〜筑後柳河〜東
大川〜筑後大川〜筑後若津〜諸富〜光法〜南佐賀〜東佐賀〜佐賀 (長崎本線)の24.
1km全線開通した。福岡県大川市と佐賀県諸富町を結ぶ「筑後川昇開橋」は、国鉄の
佐賀線が通っていた全長約507mの珍しい昇降式可動橋(現存するものでは日本で最
も古い)橋で、国鉄が民営化した昭和62年に廃線となり、その後、一度は橋の解体も
検討されたが、地元の人たちの要望で保存している筑後川昇開橋は、鉄道橋梁「筑後川
橋梁(ちくごがわきょうりょう)として建設された。1935年(昭和10年)竣工して5月
に開業した。舟運との共存のため、橋の一部が可動式となっている。可動橋には旋回橋
、跳開橋(跳ね橋)昇開橋などがあるが、本橋は橋桁の一部が垂直方向に上下する昇開
橋として珍しく日本に現存する最古のものである。橋の全長は 507.2メートル、可動部
分の長さは24.2メートル、昇降差は23メートルである。本橋の設計施行に中心的役割を
果たしたのは、鉄道技師の釘宮磐(鉄道省熊本建設事務所長)であった。昇開橋の仕組
みそのものは、坂本種芳が考案し。竣工当時は「東洋一の可動式鉄橋」と呼ばれた。ま
た、この筑後川昇開橋の構造を解説するために、精巧な模型が交通博物館(閉館)及び
鉄道博物館(埼玉県さいたま市)で展示されている。ちなみに、この昇開橋の精巧模型
は1937年(昭和12年)にフランス・パリで行われたパリ万博にも出展された。佐賀線の
車両は、佐賀駅・瀬高駅はそれぞれ佐賀線用の0番ホーム出着していていたが、国鉄解
体に従い昭和62年3月(1987)に廃線された。昭和10年の大和自動車と旭屋自
動車が合併し、「金城自動車合名会社」が資本金5万円で矢部川駅〜柳川間を営業開始
した。昭和19年8月28日 黒木町の堀川久助氏が昭和3年に興した「堀川バス」に
11万5千円で買収、諸雑費を引いて旭屋側34,960円、平山、田中、坂梨、上田
の4氏が57,040円の配当で買収された。瀬高〜清水〜山川経由・渡瀬駅前間の運
行を開始した。当時1日4往復運行。こうして堀川バスが誕生し昭和22年頃の運賃は
、初乗り2円、瀬高〜渡瀬間12円であった。昭和46年1月は廃線となったが、バス
運行そのものは、現在、瀬高〜柳川線など筑後地方の路線を運行している。

1441: 名無しさんAA:18/05/17 11:36 ID:mog
富安君を探せ              < その194 >

 柳川の地からは、往年は矢部川の浜(大和町)から船での天草・長崎・大阪への船で
の輸送手段が取られていた。大川の筏船と共に有名だったとされる。大牟田港が石炭の
積み出しとして整備されると、大型化した大量輸送時代に突入した。明治24年の九州
鉄道の矢部川駅(現瀬高駅)開設により、鉄道での高速輸送手段へ変革してゆく。ここ
で、立花氏は柳川からの接続を図る目的で明治42年から昭和7年まで 柳川から瀬高
(矢部川駅)間を走った柳河軌道(やながわきどう)という道路併用鉄道を走らせた。
大正10年から昭和13年まで矢部川駅〜南関(熊本県)を走った東肥鉄道(とうひて
つどう)それに大正末期からの自動車輸送業への変革の歴史と共に、柳川が当時として
は貴重で画期的な都市であった事が偲ばれる。我が国初の鉄道開通が明治5年(187
2)とされる事から、近代国家への陸上交通手段として明治政府は開通させたが、僅か
15年で九州を結ぶ鉄道を開通させようとしたのは薩摩藩の意志であった。東京で英国
から技術団を招いて、新橋〜横浜間の鉄道を開通させ、片道53分、料金50銭から1
円50銭で営業が始まると、明治20年(1887)、九州鉄道会社が創立し英語学者
高橋新吉とドイツ人技師ヘルマンル・ムシュッテルにより事業を開始する事になった。
博多〜久留米間を開通させ久留米以南は羽犬塚〜水田〜柳河を経て渡瀬に行く計画が反
対論者多く頓挫し、路線を東方にずらした瀬高に変更した事で工事着手にこぎつけた。
既に、明治14年(1881)わが国最初の民営鉄道である日本鉄道株式会社が創設さ
れ、東北、常磐、両毛線などが開通して東京と人物往来を結んでいた。明治22年の年
は大雨の年で7月の集中豪雨は筑後川の橋梁工事を襲った。予定駅の久留米の手前の仮
駅で開業が余儀なくされ、岡蒸気も、車両も、レールも、すべてドイツ製でのスタート
した。こうして九州初の鉄道として博多〜千歳川仮停車場(筑後川北岸)間開業し片道
1時間23分かけ1日3往復の営業運転した。明治24年4月1日に、高瀬(玉名)ま
で開通し、下庄字矢部川に「矢部川駅」(昭和31年瀬高駅と改称)が開設営業を開始
して結果、瀬高が大きく発展することになった。鉄道開通は、初めての「陸蒸気(おか
じょうき)」を見るために弁当持参の郡衆が集まるほど人気があった。開業当初の駅名
が矢部川駅だったのは、高瀬駅(現在の玉名駅)との混同を避けるためであった。この
鉄道の開通により、人は日帰りで遠方に出掛けられ、下ノ庄談議所の浜からの船での荷
物の輸送手段が鉄道便の利用に変化していくことになった。


1442: 名無しさんAA:18/05/17 11:36
富安君を探せ              < その195 >

 矢部川駅(瀬高駅)構内には人力車40輌があり、その他付近町村の分を合わせると
300余輌があったという。車賃は、一里15銭、1日貸切で90銭であった。また駅
構内には乗り合い馬車31輌があり、6人乗りで1人1里10銭であった。駅前の旭屋
旅館の馬車は柳川や沖ノ端にも出張所をもっていた。この頃の馬車を高等馬車と呼んで
いた。この馬車は田中吉政の時代にもあったものだった。1612年(慶長17)に、
この柳川を起点とする一里塚を置く事にしたのである。今柳川盲学校となった前に瀬高
門の前にその起点の石を置いた。藩内に一里塚を築いたとある一里石には元禄14年(
1701)の説もある。現存するものは、瀬高街道に一里石(三橋町下久末)福島街道
(矢部往還)に三里石(瀬高町壇の池)がある。又三池街道には一里石(大和町豊原)
二里石(高田町渡瀬)南関街道に三里石(山川町野町中村病院角)がある。ほかにも、
馬の駅が作られ交通の便を与えた。田中吉政時代は江戸参勤交代の途中、伏見で病死し
四男の忠政が跡を継いだが。だが兄、康政の久留米支城と争いが起きた。その釈明の為
に忠政は江戸に上るが、1615年(元和元年)6月に、「一国一城制」で、柳川藩の
他の支城が取り壊される事に決まった。又居城の修理は許可を新造営はかたく停止され
る。この時大川の地は3支城の榎津城(第一水天宮社)・酒見城(大川風浪宮社)・江
上城(江上若宮館)に変わった。又八女支城も同じで、戦で焼けた猫尾城は山城公園化
して、織豊系石垣が確認できる程度になったし中島城も鷹尾城も江の浦城も白鳥城も、
蒲船津城も花園城も富安城久末城共に再建はできなかった。そんな柳川藩の支城の中で
も群を抜いた規模であったのが、仲たがいした、田中吉政嫡子吉信の久留米笹山城と、
そして三男康政の居城であった福島城である。この福島城も例外なく平城であったが、
八女市役所として現状は酷い状況にある。昭和初期まではある程度遺構は残存していた
が、筑後地方には文化財の認識がなく戦後に破壊されたとはなんとも残念でならない。
この福島の城郭は生粋の織豊系城郭で天正15年の九州征伐後、筑紫広門が肥前勝尾嶽
城から、上妻郡に移り住むに当り築城されたことに始まるとされる。ところが関が原に
おいて、西軍に与した筑紫氏は改易され、この城郭は、柳川藩田中氏の城郭となって進
められ、この際大改修が行われたが改易となった。『筑後地鑑』には天守、櫓を新たに
構築したことなどが記載されている。筑紫広門は水間城(現天満宮前)もつくったがこ
こも中学校として破壊された。こうして元和元年の一国一城令による廃城は平野であっ
た筑後ではかなりの痛手となった。

1443: 名無しさんAA:18/05/17 11:37
 西日本鉄道株式会社(にしにっぽんてつどう)は、福岡県を基盤に鉄道路線だが、こ
の成立にはかなり辛辣な事件が地元に起こっている。福岡の路線網を持つ大手私鉄とし
て本社を福岡市中央区天神一丁目の福岡ビルに置いて西鉄グループの核となる会社とし
て存在している。水俣水銀事件で有名な窒素科学肥料は、チッソとして本社を東京都千
代田区大手町に置く会社だが、旭化成、積水化学工業、積水ハウス、信越化学工業、セ
ンコーグループホールディングス、日本ガスなどの母体企業である。主な子会社・関連
会社として、JNC、JNC石油化学(旧:チッソ石油化学)(事業所:千葉県市原市)
、九州化学工業(工場:福岡県北九州市)、JNCファイバーズ(旧:チッソポリプロ繊
維・事業所:滋賀県守山市)や、ポリプロピレン事業合弁会社の日本ポリプロなどがあ
る。日本国内の合弁相手に吉野石膏や同社と同根である旭化成がある。こうした日本の
大きな主要な基礎化学工場は殆どがこの工場の分化した工場である。1906年(明治39
年)日本化学工業の父「野口遵」(したがう)によって曾木電気株式会社が創業される
。鹿児島県伊佐郡羽月村(現・伊佐市)に曽木水力発電所を建設した事から始まる。こ
の曾木発電所の余剰電力を利用してカーバイドを製造することを目的として、熊本県に
葦北郡水俣村(現・水俣市)に日本カーバイド商会が設立される。これがチッソ水俣の
もとになった。その昔、電気事業の電源は当時ほとんどが石炭による火力発電であり、
水力発電を利用するのは、近隣に町のある適地が存在した鹿児島電気と、大分県の竹田
水電・日田水電の3社だけであった。水力発電は当時の技術水準では送電範囲が近距離
に限定されていた。しかし、日露戦争後に長距離・高圧送電技術が発達すると、山間部
で水力発電を行い離れた市街地へと高圧送電するという新しい発送電形態が生まれた。
その頃の柳川の缶詰はこの日露戦争の兵士の食卓に並んでいるし、海鮮加工蒲鉾業界や
富安ラムネなどの商工業者の電力使用は大牟田の火力発電からも比較的早かったのだ。
そうした意味で電力が無限の山地の水脈に頼る事に動いたのが3つあった。一つは、当
時富士瓦斯紡績として繊維産業の一角を成していた中津派である。工場の動力源を得る
目的で紡績産業を集め山国川上流部の水利権を1906年(明治39年)10月に出願していた
一方筑後川では、筑後川沿いの日田の電気事業者日田水電の関係者と、同社の技術的な
後援者であった芝浦製作所(現・東芝)の専務大田黒重五郎と技師岸敬二郎の両名が提
示した大規模水力開発を行おう筑後川上流部の大山川・玖珠川を調査し水利権を申請し
た。彼らは東京派と呼ばれた。また新興財閥として筑豊の炭鉱業者を集め中野徳次郎は
、富安保太郎・山口恒太郎ら「福岡派」と呼ばれるグループで、筑豊・北九州方面への
電力供給を目指してこの地域の水利権獲得に参入した。

1444: 名無しさんAA:18/05/17 11:37
富安君を探せ              < その198 >

こうして「中津派」「東京派」「福岡派」の3派鼎立の形で、大分県庁は受け付ける事
で対応に苦慮することとなった。大分県知事千葉貞幹は3派の代表を県庁に集め、彼ら
に三派合同での出願を要請し、合同の水利権申請・会社設立への準備が進められた。し
かし明治40年は政治経済が変化し米国から不況がやって来て、翌年にかけて設立への
動きは一時停止される。1909年に発起人から和田豊治ら創立委員が選出され、翌1910年
(明治43年)には創立委員会で「九州水力電気株式会社」の社名が決められ、逓信省か
ら電気事業経営許可を得ると設立準備は本格化し、定款などが作成されていった。和田
は富士紡績会社や理化学研究所など、創立に携わった会社は数十社を超え、渋沢栄一に
続く大正時代の「財界世話人」として君臨していた。こうしてこの地域の水利権獲得運
動から発展して設立されたのが九州水力電気であった。しかし筑豊の石炭の火力発電で
福岡の町を九州電灯鉄道が市内電車を走らせていた。元は「博多電灯」と称し、1896年
(明治29年)に福岡市で設立されていた。開業は翌1897年(明治30年)で、このときに
電灯供給を開始。1908年(明治41年)には動力用電力の供給も始めた。1911年(明治44
年)、福岡市の福博電気軌道との合併に伴い「博多電灯軌道」に改称し、事業に電気供
給事業のほか軌道事業(福博電車)・土地建物事業を加えて営業していた。翌1912年も
(明治45年)には佐賀県や福岡県筑後地方に供給する九州電気(旧・広滝水力電気)を
合併して「九州電灯鉄道」に改名した。一方西日本鉄道は、現在の北九州市域において
九州電気軌道として軌道事業を営んでいた鉄道事業者である。略称は「九軌」(きゅう
き)として西日本鉄道(西鉄)の前身で、既に路線を次第に伸ばしていた。。1908年(
明治41年)設立。1911年(明治44年)に開業し、1940年代に入ると福岡県下の鉄道事業
統合の中心となり、1942年(昭和17年)、県下の鉄道事業者4社を合併し西鉄となった
。九州電気軌道が建設した路線は西鉄北九州線となったが、ごく一部の区間を残して、
廃止されており西鉄の路線はない。当時沿線地域では小倉電灯と大阪電灯門司支店の2
つの小規模電気事業者が存在して価格競争していた。九州電気軌道では、合併吸収を繰
り返していた小倉電灯を買い取り小倉市鋳物師町に新鋭火力発電所の小倉発電所を稼働
させて安定化を図った。更に九州帝国鉄道管理局小倉工場まで配電した。つまり電気事
業と軌道の電車事業は不可分の状態にあったのである。この時北九州工業地帯に電力を
供給する事業者は、九州電気軌道以外にも九州水力電気(九水)という電力会社が存在
したその為争奪戦が繰り広げられた。


1445: 名無しさんAA:18/05/17 11:38
富安君を探せ              < その199 >

九州電気軌道と九州水力電気の「電力戦」は、1927年(昭和2年)に相互不可侵と電力
融通を骨子とする協定を結びなおしたことで一旦落ち着き、1929年には株式の持ち合い
による提携強化も図られたが、結局は対立が続いていた。しかし、日中戦争開戦が起こ
り、1938年(昭和13年)政府は、「電力管理法」とその関連法が成立させた。これによ
り電気事業者は主要な電力設備は、新設の国策会社や日本発送電へと現物出資する事に
決定した。九州電気軌道も大門・小倉両発電所と大門・日明両変電所、送電線10路線
を日本発送電設立の際の同社への強制出資する様に逓信省から命令された。しかし又、
電気事業における電力管理法と同時期に、交通事業の分野でも国が交通事業の調整を図
る「陸上交通事業調整法」が成立していた。同法では福岡都市圏を含む5つの都市圏が
国主導による交通調整の対象地域と規定されていた。このような背景の中、政府主導で
電気事業を失った九州電気軌道は福岡県内や周辺地域での交通事業統合に意欲を示し、
また鉄道省側も福岡県内における事業統合の主体に九州電気軌道を想定していた。福岡
の路面電車福博電車(後の西鉄福岡市内線の一部)を運営する九州電灯鉄道の経営陣、
伊丹弥太郎・松永安左エ門・田中徳次郎・山口恒太郎らが発起人となり、1914年(大正
3年)に福岡〜二日市間の特許を得て、1915年(大正4年)に筑紫電気軌道(ちくしで
んききどう)株式会社の名で設立された。当初は社名が示すように福岡市と二日市町(
現・筑紫野市)の間に軌道法による直流600Vの電気鉄道を敷設し、二日市で既存の太宰
府軌道(1902年(明治35年)開業、現在の西鉄太宰府線)に連絡して太宰府天満宮への
参詣客を輸送することを目的として設立されたのであった。福岡〜久留米間の開業当時
には、九州鉄道の路線は国鉄線や他社鉄道路線との接続はなく、孤立した状態であった
。この為まず九州鉄道は自社線開業直後の1924年(大正13年)に久留米市と甘木町(現
・朝倉市)および福島町(現・八女市市街地)の間を結ぶ軌道路線を保有する三井電気
軌道を合併して、三井電鉄は久留米市内で隣接して九州鉄道と路線が平行し、九州鉄道
線との平面交差すらあった。九州鉄道の設立者である伊丹、松永らはのちに五大電力会
社の一つ、東邦電力の経営にかかわったが、傘下東邦電力は北部九州をも事業区域とし
、九州鉄道も東邦電力の傘下に入っていたのである。




1446: 名無しさんAA:18/05/17 11:41
宣教師の時代       ーーー176

 スペイン王室の支援でコロンブスが北米大陸に到来したのは1492年。1500年
にはポルトガル人貴族のペドロ・アルバレス・カブラルが、インドに行く途中で伯国を
見つけたが、あくまで視線は利益の多い東方貿易に向いていた。ポルトガルは1503
年にインド東岸カルカッタを占領、1510年にゴアを、1511年マラッカを支配下
においた。これら拠点から、香料、絹、茶、象牙、宝石などの莫大な富が本国王室にも
たらされた。1517年には広東まで進出し、シナ貿易を始めた。二世ジャーナリスト
の先駆者、山城ジョゼーは 『Choque luso no Japao dos seculos XVI e XVII』(十六
〜十七世紀の日本に於けるポルトガルの影響、一九八九年)でも「日本人奴隷」という
一項を設け、かなり詳述をしている。それによれば1520年ごろに最初にポルトガル
人によって売買されたアジア人は「無数の中国人奴隷だった」(百一頁)という。15
43年に嘘つき商人フェルナン・メンデス・ピントが種子島に火縄銃(鉄砲)を伝えた
。日本にとっては、西洋社会との突然の初接触だった。ポルトガル人からするとブラジ
ルは偶然発見された場所だが、日本は何十年がかりの大冒険の果てに、ようやく辿りつ
いた最終目的地だった。1549年八月にイエズス会のフランシスコ・ザビエルが訪日
し、南蛮貿易が始まった。このすぐ後から、日本人奴隷も運びだされるようになった。
とされる。アンドウの『ブラジル史』には、ポルトガルの歴史家ルシオ・デ・アゼヴェ
ード著『Epoca de Portugal Economico 』からの引用があり、「インド貿易の全盛期に
は、ブラジルのインディオをはじめインド人・シナ人・ジャワ人、さらに日本人までも
奴隷として輸入していた」とある。 織田信長にしても、その後継者である豊臣秀吉に
しても、当初はキリスト教の庇護者であった。特に秀吉は一五九二年に朱印船貿易を始
め、持ち込まれる希少品の数々に魅了されていたし、その伝聞や技術力に見習う方針が
あった。というのも、信長は仏教に対して不信感が強く、反信長の急先鋒であった本願
寺が、日本全国の一向一揆を動員して徹底的に抗戦し、苦しめたからだ。その力を削ご
うと、異教の布教を許したともいえる。しかし秀吉はキリスト教徒による仏教徒や神道
徒迫害が増えたことを憂慮し、さらに一五八七年の九州平定を経て、日本人奴隷のあり
さまを見るにいたって、考え方を一変させたと言われる。ピントの業績は死後の1614年
に刊行された『遍歴記』 (Peregrinacao) で知られる。ただしこの書物に記載された内
容が真実であるかどうかは疑問がなされている。


1447: 名無しさんAA:18/05/17 11:42
宣教師の時代       ーーー177

 確実な事は1537年にリスボンを発ち、1539年にマレー半島のマラッカに行き、現在の
東南アジアを見て回り、富を蓄え、中国方面への貿易商を生業としており日本にも渡来
していること、1551年フランシスコ・ザビエルに日本に教会を設立する為の資金を提供
したこと、その後、ポルトガルに帰ろうと思ってインドのゴアまで戻っていたが、1554
年にザビエルのいまだ腐っていなかった(といわれている)遺体を目にして、回心し、
イエズス会に入会した。1556年にルイス・フロイスらと共に日本へ渡ったが、日本で、
イエズス会を脱退。1558年ゴアへ戻り同じ年にリスボンへ戻ったことなどである。『遍
歴記』年代は記されていないが、おそらく1544年あるいは1545年にポルトガルの鉄砲を
日本に初めて伝えた人物の一人とされている。しかし、ピントが日本に来たのは1540年
代後半か1550年代であることが明らかになっており、この鉄砲伝来に関しては不確かで
ある。伝来ではなく大量輸入させたのかもしれない。16世紀に商人として日本を含む、
アジアやアフリカを旅し『遍歴記』を著したが、嘘や誤りが多いことから「ほら吹きピ
ント」とも呼ばれた。ピントはポルトガルの東アジアにおける植民地主義に対して、キ
リスト教の布教に見せかけたものとして鋭い評価を『遍歴記』の中で行っている。これ
は、後世においては一般的な見方となるが、当時においては斬新な見方であったといえ
る。又『遍歴記』自体は「13回生け捕られ、17回売り飛ばされた」など、現実としてと
らえるには無理があるような記述もあり、古くから嘘つき呼ばわりされた。ピント一族
はもとスペインのマドリッド近郊のピント村出身で、のち迫害をうけ、ポルトガル、モ
ロッコ、カナリア諸島に移住したという。 彼の男兄弟の アルベロは1551年にはマラッ
カにおり、別の書簡ではピントの兄弟の一人はマラッカで殉教している。ピントは1554
年、ポルトガルに帰ろうとするが、その前に、ゴアでイエズス会に蓄えた財産を寄付し
、入会し、修道士となった。このときにザビエルの遺体をゴアで目撃している。1554年
、大友義鎮からの手紙がゴアに届き、その内容は洗礼を受けたいので宣教師をよこして
欲しいとの旨のものであった。ピントは他の聖職者らと日本に同行することになる。こ
のときの訪問では豊後国の大友氏との外交が樹立されたが、大友家の諸事情により義鎮
の改宗には失敗した。ただし、この22年後には義鎮は改宗した。日本(1554年〜1556年)
への旅では、ピントはザビエルの後継者と共に、ポルトガルの正式な外交使節として、
豊後国の大名に派遣された。しかし、理由は不明であるが、1557年ピントはイエズス会
を脱会する。日本におけるイエズス会の脱会者は,ピントが初めてであると記録されて
いる。

1448: 名無しさんAA:18/05/17 11:42
宣教師の時代       ーーー178

 日本へは、広州付近に来たとき、ピントはタタール人の旅行ののろさに苛立って、ピ
ントと2人の仲間は、中国人の率いる海賊船に乗り込んで旅を続けたが、海が荒れて日
本に流れ着き、イリヤ・デ・タニシュマつまり種子島に着いた。ピントはこれにより、
ヨーロッパ人で最初に日本に入国したと主張した。数年後、『遍歴記』の前後関係から
察するに1544あるいは45年ごろと推測されるが、ピントは日本へ初の渡航をおこない、
火縄銃を日本に持ち込んだ。(ただし、鉄砲伝来は、種子島氏の鉄砲記によると1543年
9月23日とされる。)この鉄砲伝来は 当時内戦状態(戦国時代)にあった日本において
急速に普及し、日本の軍事に大きな影響を与えた。ピントはこの後、中国のリャンポー
(寧波)に到着したが、その地で、ポルトガル人貿易商達に日本の話をすると、商人達
は日本との貿易に関心を持ち、ピントはこの商人達と日本へ向かうこととなった。しか
し、ピント達はその航海で難破し、レキオ・グランデすなわち大琉球(現・沖縄島)に
たどり着いたが、持っていた交易品によって海賊と思われ、処刑されそうになる。が、
ある身分の高い女性の取りなしで釈放された。1549年に鹿児島を発つ際には、何らかの
理由で追われていたアンジェロともう1人の日本人をマラッカに連れて行きフランシス
コ・ザビエルに引き合わせ、キリスト教に改宗させた。(ただし、ザビエルの伝記によ
ると、ヤジロウと会ったのは1547年12月。)この後ザビエルはヤジロウらと共に1549年
8月15日に日本に渡りカトリックを日本に伝えた。1551年に ピントはザビエルに再会し
共同で布教活動を行った。ピントは1554年、ポルトガルに帰ろうとするが、その前に、
ゴアでイエズス会に蓄えた財産を寄付し、入会し、修道士となった。このときにザビエ
ルの遺体をゴアで目撃している。幕末の公使となったオールコックが第1章で、「わた
しは、東洋へ向かって出発するより二〇年以上も前に、リスボンのある古本屋お店の奥
からこの本を掘り出したことを覚えている。当時、この本の一部分を言語で読んだが、
その時は、この『うそつき王』(ピントのこと)があれほど奇妙な特徴や特異性をあげ
ている土地(日本)を私が訪れることになろうとは、夢にも思わなかった。」と書いて
いるように、ポルトガルの旅行家(フェルナン・)メンデス・ピント著「遍歴記」や、
その他の記録を基にしているものと推定される。こうして「遍歴記」202〜203章には、
アンジロ(弥次郎のこと)が、助けを求めて駆け付けた様子や、ジョルジュ・アルヴァ
レスを船長とする船でアンジロ(弥次郎)がマラッカに逃れたこと、ザビエルと弥次郎
の出会い、洗礼を受けたことや同船して日本に来たことなどなどが書かれておりオール
コックの記述と合致する。

1449: 名無しさんAA:18/05/17 11:43
宣教師の時代       ーーー179

 世界史的には、ヨーロッパで最も早くに絶対主義を確立したポルトガルのアヴィス朝
は海外進出を積極的に進め、1415年にポルトガルはモロッコ北端の要衝セウタを攻略し
たがこの戦いが発端となった。この事件は大航海時代の始まりのきっかけとなり、以後
、エンリケ航海王子(1394年〜1460年)を中心として海外進出が本格化した。ポルトガ
ルの探検家はモロッコや西アフリカの沿岸部を攻略しながらアフリカ大陸を西回りに南
下しだし、1482年にはコンゴ王国に到達、1488年にはバルトロメウ・ディアスがアフリ
カ大陸南端の喜望峰を回り込んだ。1494年にスペインと、トルデシリャス条約を結び、
ヨーロッパ以外の世界の分割を協定して、条約に基づいてポルトガルの探検家の東進は
更に進み出し、1498年にヴァスコ・ダ・ガマがインドに到達した。このバスコ・ダ・ガ
マも、インドで20隻の艦隊だったが世界一周を終えた時は僅か2隻で帰還している。
また、1500年にインドを目指したペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルを「発見
」し、ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化が進んだ。以後ブラジルは1516年にマ
デイラ諸島からサトウキビが持ち込まれたこともあり、黒人奴隷貿易によってアフリカ
から多くの人々がブラジルに連行され、奴隷制砂糖プランテーション農業を主産業とす
る植民地となった。この時日本人が数多く集められたのではないかと推測され、フェリ
ペ号の四国漂着はそれを真似たと思われる。ブラジル開拓はポルトガルに富をもたらす
と同時にブラジルそのものの従属と、低開発が決定づけられ、ポルトガルにもたらされ
た富はイギリスやオランダなどヨーロッパの先進国に流出し、イスパノアメリカ(中米
スペイン語圏)の金銀と共に資本の本源的蓄積過程の原初を担った。一方、1509年のデ
ィウ沖海戦で勝利し、インド洋の制海権を確保してマラッカ、ホルムズと更に東進した
ポルトガル人は、1541年〜1543年には日本へもやってきた。ポルトガル人の到達をきっ
かけに日本では南蛮貿易が始まり、織田信長などの有力大名の保護もあって南蛮文化が
栄えた。さらに、1557年には、早くも明からマカオの居留権を得ている。ジョアン4世
の即位し、ポルトガルの独立回復すると、ポルトガルは全世界に広大な植民地を獲得し
た。しかし、国力の限界を越えた拡張とインド洋の香料貿易の衰退によって16世紀後半
から徐々に衰退を始め、さらにモロッコの内紛に乗じて当地の征服を目指したセバステ
ィアン1世が1578年にアルカセル・キビールの戦いで戦死したことにより、決定的な危
機を迎える。アルカセル・キビールの戦いの余波は、最終的に1580年のアヴィス朝断絶
による、ポルトガルのスペイン・ハプスブルク朝併合に帰結しスペイン帝国がうまれた


1450: 名無しさんAA:18/05/17 11:44
宣教師の時代       ーーー180

 スペイン併合後もポルトガルは形式上同君連合として、それまでの王国機構が存置さ
れたために当初は不満も少なかったが、次第に抑圧に転じたスペインへの反感が強まり
、1640年のカタルーニャの反乱(収穫人戦争)をきっかけとした「ポルトガル王政復古
」戦争によりスペインから独立し、ブラガンサ朝が成立した。一方この時期に植民地で
は、スペイン併合中の1624年にネーデルラント連邦共和国のオランダ西インド会社が、
ブラジルに侵入し、サルヴァドール・ダ・バイーアを占領した。ブラジル北東部にオラ
ンダがオランダ領ブラジル(英語版)を成立(オランダ・ポルトガル戦争させたことに
より、ブラガンサ朝の独立後の1646年に、これを危機と感じた王家の図らいによって、
ブラジルが公国に昇格し、以降ポルトガル王太子はブラジル公を名乗るようになった。
1654年にオランダ人はブラジルから撤退し、1661年のハーグ講和条約で、賠償金と引き
換えにブラジルとポルトガル領アンゴラ(現アンゴラ)の領有権を認められた。アフリ
カで、アンゴラの支配を強化したポルトガルは1665年にコンゴ王国を事実上滅ぼした。
また、この時期にモザンビークの支配も強化されたが、18世紀までにそれ以外の東アフ
リカ地域からはオマーン=ザンジバルによって駆逐された。南アメリカではトルデシリ
ャス条約で定められた範囲を越えてバンダ・オリエンタル(現在のウルグアイ)では、
コロニア・ド・サクラメントを建設し、以降南アメリカでスペインとの戦争が続いた。
1696年にはブラジルでパルマーレスのズンビを破り、ブラジル最大の「逃亡奴隷国家」
キロンボ・ドス・パルマーレスを滅ぼしたことにより支配を安定させ、1750年には、ス
ペイン帝国とマドリード条約を結び、バンダ・オリエンタルと引き換えに、アマゾン川
流域の、広大な領有権を認められ、現在のブラジルに繋がる国境線の前進を果たした。
南蛮貿易では、1543年には既に種子島にポルトガル船が到来していたポルトガル船は、
その前年すでに琉球に到着していたが、琉球人達はポルトガル船がマラッカを攻撃して
占拠したことを知っていて、交易を拒否していた。一方で、日本の商人達はポルトガル
商船との交易を歓迎したため、ポルトガル船はマラッカから日本に訪れるようになって
いた。しかし、1557年にポルトガルがマカオの使用権を獲得すると、マカオを拠点とし
て、日本・中国(明)・ポルトガルの三国の商品が取引されるようになり奴隷船は横行
した。織田信長・豊臣秀吉は基本的に南蛮貿易を推奨していた。スペインはポルトガル
に遅れてアメリカ大陸を経由しての太平洋航路を開拓し、ルソン島のマニラを本拠とし
て日本を訪れるようになっていたのである。

1451: 名無しさんAA:18/05/17 11:46
宣教師の時代       ーーー181

 徳川家康はスペインとの貿易に積極的姿勢を見せ、京都の商人田中勝介を、当時スペ
イン領のノビスパン(メキシコ)に派遣している。また、ポルトガル商人に対しての生
糸の独占的利益を得ていた為に、これを削ぐことを目的として京都・堺・長崎の商人に
糸割符仲間を結成させその需給の確かさを求めた。家康の頃はキリスト教は禁止されて
はいたものの貿易は推奨していたのである。がしかし、その後の江戸幕府は禁教政策に
加え、西国大名が勢力を伸ばすことを警戒したので海外との貿易を制限するようになる
。交易場所は平戸と長崎に限られるようになり、1624年にスペイン船の来航が禁止され
、1639年にポルトガル船の来航が禁止され、平戸での交易を禁止するなど鎖国体制が成
立し、南蛮貿易は終了した。この時逆に日本から奴隷船によって密教房中術がブラジル
やメキシコに伝わったとも思われる。密教房中術では、この唸によって力波羅密と火竜
を合わせて、唸を起し、唸によって恋人を引き寄せるとする。自己の体内に五秘密法身
の姿勢を作り、左手が慾金剛菩薩、右手が触金剛菩薩、左足が愛金剛菩薩、右足が慢金
剛菩薩であり、頭部より胴体にかけてを“金剛さった”と観じるのである。「摩多羅神
は、天竺・支那・扶桑の神也や、其義知し難し。支那の神に非ず、又日本の神にもあら
ざれば、知らざる人疑を起す輩(やから)もあるべき事也。」天台学徒覚深「摩多羅神私
考」天文二年(1738)とこの頃の熱狂するこの宗教を危惧している。「問う。天台宗には
摩多羅神と云う物を祀る由これを聞くなり。是は如何なる神ぞや。」「答う。是の末々
の愚輩の作り出す所と見えたり。その神像の有様は頭に唐製の頭巾を被り身は和様の狩
衣を着て、左手に鼓を持ち右手はこれを打つ姿なり。左右には童子がいて風折烏帽子を
着けて右手に笹の葉を持ち左手に茗荷を取りて舞っている有様である。中尊の両脇にも
竹と茗荷と在って頂上には雲気がある。その内に北斗七星を描いている是を摩多羅神の
曼荼羅と云由なり。是皆日本の風俗なり。一笑するに堪たりお笑いざたで、相手にする
のもはばかられる神だ。」 空華『空華談叢』天明二年(1782)と日本仏教内ではそうい
う神は居ないとしている。茗荷は中国道教ではこれで眼をこすれば魔物が見え、また忘
れることが出来るとされている。眼病、癖邪の妙薬。大笑面は如意輪観音などが憤怒面
であるのと反対だが、それでも魔をしりぞけ、調伏する表情。二童子は聖徳太子像同様
に脇寺として聖人の手足となるもの。前鬼・後鬼と同じ。北斗七星は大極=北極星=太
一 たいいつ=天子を助ける星でつまり影の宰相、縁の下の力持ちとしての被差別者の
象徴とされる。つまり朝鮮からの奴隷を捕まえる為の神様であったのだ。


1452: 名無しさんAA:18/05/23 08:11
   世界閲覧 23
 ユダヤが動いた。又新たな世界潮流が起きる。困った事だ。一つはイスラエル問題で
首都がエルサレムに動きそうな事だ。過去からしぶとく大胆に主張して来た事ではある
が、アメリカの馬鹿殿がサインしたから仕方がない。更に イラン包囲網で原油価格の
つり上げは思う通り出来た事だ。実際は増産でなんら石油危機はなく 原油が高くなる
理由は全くない。サウジがより以上の減産した訳でも、イラン石油が増産を止めた訳で
もない。それどころか南米石油はたたき売り状態で安値でもどんどんと売りたがってい
る。ただベネゼエラでは今や米国金融が仮想コイン発行で保証した形なのだ。その金融
が近頃少し怪しい雲行きだ。今南米やトルコや中国の価値が下がっている。それに対し
てシナイ半島で今や突然のエジプトの民家が破壊され出している。戦争の余興で、突然
の民間の住居破壊である。住民は頭を抱えて地に座り込んだ。「我々はエジプト人だ。
家を壊しに来るのは、イスラエル軍だけでは無いのか。」と。砂漠は砂漠のままにと言
う当局の思惑だろうが。今やPLOなのかモサドなのかIS残党なのかイランのムスリ
ム同胞団なのかサウジのイエメン革命党なのかトルコの自由軍なのか全く判別つかない
からであろう。又判別付いたとしてもアフガンアルカイダやアフリカのボゴダ同盟の様
に、結局は本当にそうした宗教派や主張の集団だとも限らず、最終的に統制官や司令塔
のない只の傭兵の集まったならず者集団で、時の情勢や金によって変化する恐れに危機
感があったのだろう。特にこの国境沿いの集落の人々には何ら問題はないのだが、政府
には一番の危険地帯なのだ。アメリカの勝手なエルサレムへの移転によっての第一被害
者であろう。この流れは古来からの原住民のパレスチナにとっても危機感がつのる。そ
もそものユダヤ難民の受け入れのチャーチル時代から合意を歴史上何回も国際社会と、
とり交わしたがそのすべてが反故にされて来た歴史だからだ。受け入れ時も、ユダヤと
の共存共栄を英国が保証する。と大量難民を勝手に移住させた。ユダヤいずれ消える。
と人口推移を見せてアメリカは大手を振って建国を指示した。しかし、ソ連から移民を
取り入れてまで地盤を固め、ソ連との交渉では弱い難民だ。どうせ貧民の彼らには誰も
武器を売らないだろう。大手を振って自立の旅団の結成を避けた。しかしその度々に、
大きくそうした予見は食い違い そうして大きくなる対立にラビン首相はオスロ合意を
取り付け、キャンプデービット会談での、歩み寄りのエジプトとイスラエルの間で平和
条約が締結され、シナイ半島はエジプトに返還され、又ソ連が軍縮の宣言した中で、そ
の姿と同じにアラファト議長と握手した。しかしそうした過去の契約もモサドは暗殺を
防げないクズだったのである。そして今でも「エヤル」(ユダヤ民族戦闘機関)の取り
締まりを行っていない。

1453: 名無しさんAA:18/05/24 17:31
 ベッキーの娘   60

 少しさわやかな朝であった。「御開門願おう。」と大声を掛ける武将がいた。大戸が
開いて10人程の武将が入っていった。庭に通された後 座敷にやって来る大殿がいた
。「おお 帰ったか ご苦労ご苦労。」「はっ 大殿に置かれましては すこぶるご健
勝の事におわす事にて、我らも何よりと存じます。」と座ったまま返事した。「して、
肥後は平定したか。」「はっ無事皆の者の働きにて安堵したよしにて帰参致しました。
」「おうそうか それは何よりじゃ。」「殿には 今回この別杵殿が入田親誠を成敗を
したゆえ、むくろを持参しております故 首知験をば測れるならば幸いかと。」と後を
振り向き「おい 持参いたせ。」と呼ぶ。と、後ろの者がしかしかと腰を落としたまま
進み出て櫃を持ってきて更に先に進んで 置いたらすぐに後に下がった。「これにて、
御検分を受け給わりたいと願います。」としかじかと頭をさげて差し出した。宗麟は、
さもつまらない風で隣にいた家老に目をやり 扇で合図した。そろそろと出て来た家老
は立ち上がり 縁の上に置かれた網代組み(あじろくみ)の箱の蓋を取りそっと傍に置
き中から 首からのむくろを取り出した。白い顔で目を閉じた顔を家老がしげしげと見
る中「間違いないかと。」と言う言葉も終わらぬ内に「ええい、もうよい。すぐなおし
て下がれ。」と怒った様にいった。「して 帰参して直ぐじゃが この豊後にても不穏
の動きありてのう。」とじろりと見て言った。「今探っておるが町の治安を揺るがす悪
党どもも何とかせねばならんが その先に始末せねばならん事も起きてのう。帰参して
直ぐにて疲れもあろう。しばしの休息を過ごすが良い。しが この後はこの田口殿から
追って連絡する故又一働きを頼むでのう。」と又睨んだ。頭を伏せて「はは」と言えば
「よろしいかな。」「皆の者もよろしいかな。」と大声で言って立ち去った。実は昨日
この城に兵と共に来て開門をせまった。がその時折り悪く門番から 明日の開けの7つ
と改めて時間指定で人数制限を打たれて 今になってやっと登城を果たしたのであった
のだ。その時府内を見て回ったが 本当に町はすさんでいた。町民がまばらになり、家
も所々が壊されたり焼かれたりしては惨憺たる有様ではあった。更によく聞けば近くの
伴天連と仏教徒の殺し合いはひどくなっていたのである。


1454: 名無しさんAA:18/05/24 17:33
 ベッキーの娘   62

 家に着くなり 風呂が沸いております。と下僕がやって来た。「おお足助何よりだ。
他の者にも 此処に集まるよう言って宴を始めるが良い。」「殿。」「何じゃ」「草加
創元なる野伏が お会いしたいと申しております。」「その者は何者じゃ。」「なんで
も英彦山修験者の宿坊の世話人だと 本人は申しております。」「なに英彦山の修験者
の世話役。・・・英彦山を束ねる者と言う事か。」「はっ、何分本人が申して居る事に
て全く不明でして。」「相分かった。ここへ通せ。」と 連れの者と現れたのは見ずぼ
らしい乞食姿の男であった。しかしかとひまざづき「熊襲を叩き戦勝の誉れ帰還された
事まっことめでたきに存じます。」と 一通りの祝言を述べた。「おお 何者か知らぬ
が、その気遣い痛み居る。じゃが お主何者じゃ。聞けば英彦山宿坊の世話役とか。も
し英彦山御座主なら それなりの礼を持って尽くさねばならぬが どうじゃ。」「はは
。我は只の宿坊の薪割などの宿守にて 草加創元と申す者にて 御気遣い無用の者にご
ざる。」「ほほう その宿坊の薪割が何故 このご時世に危険を冒してまで、何用で我
に会いに来たと申すか。」「はは、実は今般伴天連の動き強く この英彦山まで影響が
強くこの佐伯の地も又門徒衆が恐れております。」「ふむ・・・」「・・」「で・・」
「そうか お主この佐伯の地で門徒を集めて 暴徒の扇動をしにまいったか。」「め・
めっそうもござりりませぬ。」と平謝りした後の姿をじっーと見ていた。恐る恐る「殿
が見る様にこの地では多くの暴徒で血を洗う事件が数多く発生しております。知っての
通り我が英彦山の修験者の行者の行がこの地の神聖な山々にて修行して山法師としての
この地に永く住んでおります者多数。佐伯氏が無き後伴天連の集いし場所を確保して、
今や隠れて修行する始末この地の仏法徒を不憫と思召すなら この惨状に何とか御助力
を願えまいかと 知恵を授かりにまいった次第。」「おおくそ坊主よう言ったのう。儂
に大殿に忠言しろとの申し出か。」「・・・」としばらくして脇差しからかしゃりと、
抜き身を立てて首筋にピタと止めた。「お主何者ぞ、伴天連の脅威は儂とて同じ。じゃ
がこの国が今の大殿に至って御家騒動が起こった事は誰もが知る所。うぬらが知らぬと
はまさしく この地の者ではないな。どうじゃ。」乞食姿の坊主は きりっとこの別杵
の顔と向き合っていたが 首の刀に顔はすっーと青ざめていった。それを見るなり「さ
あ言え、何処の回し者だ。肥後か肥前かはたまた安芸の毛利の手の者か。さあ 白状せ
い。」「はっはっつ。おみそれいたし申した。」 男は大げさに深々と頭を下げた。



1455: 名無しさんAA:18/05/24 17:34
 ベッキーの娘   63
我は四国の金毘羅山を治める者。」「なるほど そうか四国の海賊の片割れか。どおり
で少し方言があると思っていた。してこの儂に何用じゃ真の目的を申せ。毛利の使いの
者か。」「しからば申し上げます。知っての通り大友氏に置かれましては今や耶蘇教の
カピタンが往来して、伴天連国として東洋に名を馳せております。」「うむ」「このほ
ど羽柴秀吉なるものがその伴天連船の紅毛人と南蛮人の争いに巻き込まれまして 織田
の殿様が日本の海賊を集めたのはご存知でしょうか。」「ほほう 美濃の町ではそんな
事があったのか。」「はい。毛利元就は前から通じていた陶隆房をけしかけ大内義隆の
親子を討ち、同時に口封じに大内義長殿を国主に据えていながら、大内氏を謀殺しこの
度周防の国の守護守となられた事は御存じあろうかと。」「ああ我が当主の叔父塩市丸
いや大友晴英様が討たれた事じゃな。」「はい。この時我が当主長門国守護代内藤興盛
様も加担されまして。」「ああそれも聞いておる。尼子氏を討つ前は大内の門前武将で
内藤氏と陶氏はよく大友を支えた名門の家柄だったらしいのう。先の大殿はその報告を
受けて和睦し塩市丸を差し出したと申されておった。まあ我らと同じ露払いの門前武将
だ。仲が良かったとしても当然じゃろうて。じゃが ようまあ大内氏を裏切ったものよ
のう。よっぽど銀山が欲しかったのだろう。」「いいえそれは違います。」「ほう噂で
は男好きの大内に尻の穴を貸さなかったからとか言って居るが それが真実か。」「い
やそれも違いまする。」「では何だ。」「ザビエルでございます。」「ザビエルとな。
」「はい。」「それは何だ。国崩しの様なものか。」「いえいえ、紅毛人の首領の名前
です。」「何。周防の国も我が国と同じにキリスタンや伴天連の国になっているとでも
申すか。」「いやそこまでは行ってませぬが 遅かれ早かれ今の陶晴賢はそうするやも
知れませぬ。」「そこで海賊を集めたと申すか。・・・」「はい。そこにあの足利将軍
義晴様が仲介して南蛮船の討伐を命じましたが、どっこも鉄砲もった船相手に手を出す
事は出来ないでいたのです。」「そうか で今度毛利元就が船頭で海軍を作ろうという
訳か。」「ははっ。」「その方、面白いのう 今日は祝宴の日で、わしも兵も混んでお
る。今宵の祝宴に誘おうではないか。のう津久見殿どうじゃ。」「はあ殿がそうおぼし
めすのなら。はい。」「おうそうか。ではこの者を連れていけ充分な監視役をつけてな
。わしは湯屋に行く。」「お主 話は後だ 祝宴で会おうぞ。」とスッと立ちスタスタ
と歩いて出て行った。残った家臣はいぶかそうにこの乞食坊主を見ていたが、「では、
草加殿と申されたかのう 殿の言いつけじゃわし の家でゆっくりなされ そのお召し
物では祝宴も台無しになるでの。」と奥にいた年老いた武士が申した。他の者はホッと
して彼を見た。正に助かったと言わんばかりであったのだ。

1456: 名無しさんAA:18/05/24 17:34
ベッキーの娘   64

部屋を出て玄関に着くと、一人の足軽と一人の中間が馬を引いてすぐ傍にやって来た。
すぐさま馬に乗り、おお助郎この者を我が家に連れて行く案内せい。と言った。4人は
黙々と街を歩き一軒家の前につき、しずしずと中間が馬を同じ家の馬宿に連れて行った
 歩きながら、老兵は尋ねた。「ああ儂は 金森と言う一介の雑兵じゃ。もう老兵での
役にはたたんが 何故か別杵様には懇意にしてもらいこうして生き永らえておる。」「
いえいえめっそうも無い 金森殿とは貴方様の事でしたか。正に仁王の裏門と聞こえた
知恵者と聞き及んでいます。この私目に特段の配慮をして頂き痛み入り申す。」などと
言った。上がって直ぐ庵に座ると婆やが庵の茶釜から湯を引いて行った。「ところで 
殿も怪訝そうだったが、何ゆえ金毘羅様の野武士が海賊の旗振り役をしておるのじゃ。
他にもたいそうな者が いそうなものじゃが。」「はい。ですが周防国の殿のご下命で
、」「う、うーん、既に死んだ内藤殿の事かの。」「はい。実は我が家系は逆昇れば 
天皇の仲裁を申し出た家柄、叔父貴が朝廷から 直々にこの銀山を守るようにとの御下
命を受けてい続いた家柄。不遜ながら金毘羅山の僧の私が海賊の集結を進める事になっ
たのでございます。」「ほっほう」「ご存知の事かとは思いますれば、この時期(かた
)まで尼子氏が、天皇直轄の拝領を受け 銀五貫を献上しておりました。ところが毛利
は七貫を献上と申して偽り事をばして、唆し(そそのかし)欽命(きんめい)を告(ふ
)れ、近習の城を味方にして尼子氏を破ったのであります。そして4貫すらを献上せず
大内氏を謀(はかりごと)にて滅亡させたよしに御座そうらえば、後の約定の通り六貫
に引き上げる密約さえ反故になるよし。」「ふむ」「これが信長に知れ渡り秀吉の手下
なる者を切り捨てて内紛騒ぎと相成りました。一応は明智殿がこれを治めたものの、伴
天連では大いなる噂がある始末となり申した。」「噂ではもし銀山が本物となれば本国
から沢山の南蛮船が国崩しを持ってやって来る。と」「京の都では、天皇に脅して元寇
襲来以来の騒ぎと聞き及んでおります。」「うーむ 銀の亡者が南蛮船で押し寄せるっ
てわけか。で、その敗れた大内とはわしらが縁故ゆえに来た。とでも申すか。」「は、
このたび大内殿の討ち死にはされども、今や長曾我部すらも毛利には戦いは不可能と思
いまするに、この大友と毛利を……。」「たわけ。」と大声が走った。「例え毛利が戦
さに勝とうが、この大友に何の恥辱があろう。義を失いては武の立つ瀬がないではない
か。」と大声が響いた。

1457: 名無しさんAA:18/05/24 17:35
ベッキーの娘   65

 この大声に同席していた数人が突然の声に茶碗を落した。しばらくの沈黙と睨み合い
が続いた。「さりとてこのまま捨て置き難儀がかからぬとも言えぬのう。‥」「まあ、
良い。ここはこらえて置こう。しかれど客人と言えども我が殿をそそのかす事あらば、
ただでは済まぬ事よのう。」と睨み又しばし沈黙の後「草加殿と申したかのう。ささ白
湯でも飲まれよ。」「世に 腐っても鯛 と言う言葉もあるが、今やこの豊前坊も、壊
れかかった船と申されるは確かな事よのう。しかしして創元殿はどう思っての代理なる
か。毛利と今協定を結べば 世に豊前の馬鹿宗麟には、自我も大義も無き者と、世には
ののしられ、嘲笑されるだろうよのう。ただでさえ洋妄かぶれと民にのの知られている
中で、この大友の加伴衆は更に多くの離反となろうよのう。」「さりとてこの話蹴れば
、それも又生き恥の様なもの。今や肥前の熊はドン・プロタジオ有馬晴信が西郷を救援
しなかった為、姉川攻めには天草衆と有馬を手下として向かっているからのう。鍋島は
体よく有馬の子供を人質にしてる噂じゃからのう。」「で、英彦山の修験者どもが今や
わめいているの聞いて南の島津のバテレン衆門が、あわててこの大友の水軍を借りよう
とう腹かのう。草加殿。いかにや。」「まあ良いどっちみち、今や菊池氏を平らげ阿蘇
の宮司とて大友にたなびくこと無しじゃて、やっと押さえて帰って来た所。今後毛利が
島津に連判に行くは必定よのう。事は目に見えておるわな。その為の内偵で草加殿は、
命は取られないとでも気取られたかの。大友をよくも舐められたものよのう」と不敵に
笑った。「まあ度胸は認めようぞ。おい者ども、この者を丁重に座敷牢に入れ おもて
なしでもせい。」と、ばらばらと屈強な武士が回りに集まって腕をすでに掴んで居た。
「まあ御館様には、後に何とでも知らせるが、草加殿には2・3日ここに泊まってもら
いお話を聞こうではないか。信長の噂もあるでのう。」「者ども決して手荒な事をせぬ
ように申し付けおく。いいな。あすは角殿を呼ぶ。では草加殿その釈棒は預かりましょ
う。」と目で合図すると「はっ。」と若番頭の様なその中の一番の強そうな男が案内し
た。すると案内された座敷牢には、暗い中蝋燭が幾つか灯され若い娘が食事の用意をし
て待っていた。娘が出ると同時に草加はそのままそこに入り座り茶碗を取った。その食
事豪華ではないものの、たっぷりと美味い物が並び酒すらも備え付けられていた。まだ
まだ 大友氏が最強の頃の話である。

1458: 名無しさんAA:18/05/24 17:35
ベッキーの娘   66

 この頃二人の男が生まれている。一人は鍋島氏に拾われ、龍造寺氏にかわいがられた
安富から成富とした信安である。後に成富茂安と名乗り築城の名将とされ、太閤秀吉さ
え唸らせた暴れ者である。西洋人では無かったかとさえ噂される。もう一人はこの時代
の最高知将とされた立花宗茂である。慎重さと大胆さを合わせもつ勇猛ながらも精神性
あふれて生きた人である。最後の九州激戦の岩屋城決戦では、大友氏は重臣志賀大内蔵
親成を立花城の加勢に出した。キリシタンドン・パウロ志賀親次の父である。この志賀
道益もまた同じにこの戦国騒乱時代に憂う物だった。祖父の志賀道輝は部類の仏教徒で
あった為、大友宗麟からは疎まれていた。だが父の環境同様に家訓での禁制としたキリ
シタン教徒になった時は、既に大友宗麟がキリスタン奨励を止めて、いよいよ下降期に
なった 耳川の合戦で島津に敗れた次の年の志賀親次が名代を受け継いでからである。
志賀親次にとって志賀道益は父で、入田宗和は叔父であった。そうこの入田氏をめぐり
って大友は刺客を放ったのだ、入田氏は大賀氏を追い詰めた大友宗麟の重鎮でもあった
。大神氏一族は栂牟礼城を根城にして九州朝廷の権威で古来日本の最高豪族の地位にも
あった。天皇家の持つ朝廷より古いとされる大神家は大友にとってその神格と地位は目
障りで、持ち城の栂牟礼城こそは大神氏一族が拝する場所であり、かつて平安時代でも
天皇が参拝に来た記録がある程だった。その後その山への参詣の登りの険しさで京から
の使者が麓で参拝したいと言う要望に答えて、宇佐神宮が寄進され寄贈され奉納され、
宇佐を支社の神としの地位とした。しかし、その過去が消える程 宇佐新宮が大きく権
威を持ち宇佐神宮と呼び始めると、本宮の方は廃れて山城とされる所になってしまうの
である。その上、佐伯氏十代当主が佐伯惟治の時、大永7年(1527年)大友義鑑から謀叛
の嫌疑を掛けられ討伐軍が送られた事により大神氏は武家とされて退路がなかったこの
城は、大友氏の討伐軍は臼杵近江守長景を大将にして二万余りの軍勢を遣わし、佐伯惟
治は栂牟礼城に籠もってこれに応戦するしかなかった。だが堅固な山城であった為なん
とか持ちこたえ栂牟礼城は攻め落とされなかった。長景は一計を案じ、惟治に一時日向
へ立ち退いた後、大友義鑑に申し開きをして許しを得るのが得策と説得して誘い出し、
惟治はこの案に乗ってわずかな手勢を率いて日向へ落ちる途中、長景に通じていた土民
によって討ち取られてしまった。とされる。これが その後に起こる大友二階崩れの、
始まりの予告となった。大永7年(1527年)肥後政略の前編で、菊池義武に通じて大友
義鑑に対し謀叛を企てていると讒言した者に乗った義鑑の乱行の始まりであった。臼杵
長景も惟治の討伐には迷う所はあったが仕方なかった。

1459: 名無しさんAA:18/07/16 23:14 ID:Svw
       世界閲覧 31     世界の中のトランプ戦略

 そもそも論的に言えば、イスラエル人とはパレスチナ人の事である。更にはユダヤ人
が差別されたと言うがちょっと違う。まず聖書が語るユダヤ人とは有色人種であり、今
の白人達の事ではない。もし正確に言うならDNA的には全くユダヤ人ではない事が、
解っている。更にユダヤ教徒と言う事にも少し違いがある。今のシオニストやポグロム
が問われ始めたのは、ほんの四〜五百年の中で出来た物だ。即ちエルサレムにおいての
今の住民たちは殆ど縁もゆかりもないユダヤ教徒と言う事になる。更に事もあろうに、
只の聖書と言う架空の物語に書いてあるとして移って来て、人口が減るからといって、
ロシアに更に移住者を求めたのである。勿論ロマの民がローマから追われているように
ユダヤ人がエルサレムを追われた歴史とユダヤ教徒が勝手に国の法律以上に宗教教則を
重んじて従わなかった事や慣習の違いで少数派として虐げられた歴史はある。だが、そ
の過去をして権利は問えない。何故なら、自らにエルサレムを捨てた民だったからだ。
しかしして、このイスラムの教徒も全く同じに嫌われた民である。パレスチナ人もアラ
ー神や一神教を捨てればいいのにと思う。イスラム教もユダヤ教も時代を超えて変化し
今やISILなど狂人まで作っている。エホバもアラーも同じ神なのか別個の神かは、
全く見当がつかないが、同じ旧約聖書の神がどうして同じ信者の宗派違いを批判し叩く
のか私ら仏教徒や神道子孫には全く理解できない。しかし世界中の、恐らく日本以外の
人々は、このイスラエルの横暴を理解しているのだろう。アメリカが承認したエルサレ
ムと言う聖地は恐らくインド系の宗教以外の中心的聖地だろう。何となれば大多数聖書
を基準に宗教の祈りを捧げていてその歴史が此処に詰まっているからだ。かつて英国の
チャーチルは、次々と嘘を言った。「この地はパレスチナ人の地だが、片隅にユダヤ人
を置いて平和に暮らす事は可能だ。何故ならこんなに広い砂漠が広がっているではない
か。虐げられた人に軒先を貸すぐらいは当然だ。」と。戦争が終わり大勢がやってくる
と「大丈夫だ。この地の治安を守っているのは我々大英帝国だ。彼らの国にしない。」
とその後英国がイスラエルを承認するに「もう既にユダヤ人は減って来ている。あと何
十年かすればこの人達は少数派になる。君たちが大勢となる。」と。こうして少しづつ
占領しては今やロシアの婆さんの国となった。このやり方は北朝鮮のサラミの交渉術と
全くおなじだ。薄切りして薄切りしてその一切れ一切れで少しづつ少しづつ利益を得て
きた。これが世界のとてもない悪行で国の持つ病気の様だ。

1460: 名無しさんAA:18/07/16 23:15
       世界閲覧 31     世界の中のトランプ戦略2

 さてさて、虐げられかわいそうと言われた人々が、今や逆にイスラエルを乗っ取り、
更には追い出されたパレスチナの人を難民にして兵士や警官で武器の無い人を殺しても
尚平然と政府を牛耳るのである。神の聖地で許されるはずのない行為といえるだろう。
だから僕は原子爆弾でも落とした方が良い。と思うのだ。御存じの様にラビン首相は、
イスラエルの未来を和平に求めた。彼は出来立てのイスラエル士官学校を卒業し長い間
草創期のイスラエル軍として戦って来た英雄だった。それでもその戦争に意味はあった
のかと問いていた。防衛軍の指揮を取りイスラエル国防軍の参謀総長となり、その指揮
により全ての中東戦争に関わって来た人生だった。イスラエル国防軍退役後は外交官と
なり、1968年から駐アメリカ特命全権大使を務めている。1973年にはイスラエル労働党
より出馬し当選、イスラエル国会議員・労働大臣となった。言わば数少ない伝説の中の
生きた英雄だった。既にアラブ社会からの支援も無くパレスチナ人の抵抗は武器の無い
人の集団での石の投げに変わっていた。それはベツレヘム決議以来第一次で嘆きの壁を
手に入れ第二次でスエズ運河を手にいれ、第三次ではパレスチナを手に入れた。しかし
難民を数多く作った恨みを買い、アラブから消耗戦争を仕掛けられた後オイルショック
の中で第四次中東戦争では国の消滅も間近と思われた中で、アラブのサウィード家が、
米国の相談に乗って寝返った。その後にやってくるだろうイランとの宗派争いを危惧し
たからだ。つまり今のイスラム原理主義の台頭を危惧したのだ。イランとサウジは回教
の正統性を巡って、イランシーア派とサウジスンナ派の対立があった。サウジスンナ派
は実は庶民で信者の素直也(スンナリ)つまり従う人の意味で神に愚直な経文派である
。対してイランシーア派は支居亜(シーア)つまり受け継ぐ人の意味で正統王朝を示す
スンナ派におけるイマームはモスクの座席を意味し礼拝の義務であり集団礼拝に学僧が
説く事で事足りる事にしている。だがシーア派におけるイマームはイスラム共同体(ウ
ンマ)と言うが、ウンマの指導者は血統上預言者の血筋を習わしとした席上とする。つ
まり十二イマーム派の一つのに特徴的な政治思想にあり、イエメンも又ザイド派(五イ
マーム派)と言うイスラム王朝の子孫とされる血統を重きにしている。しかし本来の、
シーア派の高位聖職者は王位継承者であり、本来は正式名称はペルシア語でアーリア人
の国を意味しランの最高指導者として国家元首パフラヴィー朝の皇帝(シャー)がその
正統としたが米国の介入で1957年にCIAとFBIとモサドの協力を得て国家情報治安機構を
作り反発から白色革命でホメイニーをシーア派の長と変えた。サウジアラビアは厳格な
スンニ派(ワッハーブ派)が主導権を握る国であるが今やシーア派より伝統的である。

1461: 名無しさんAA:18/07/16 23:16
       世界閲覧 31     世界の中のトランプ戦略3    

 しかし、この武器も持たず石投げ状態のインティファーダに、ラビンは衝撃を受けて
悲しみを覚えた。ラビンが育った時代に諍いはあったものの、パレスチナとユダヤ教徒
が肩を並べて教育を受ける。アパートに住む。そうした時代があったのだ。今後の子孫
に憎しみを植え付けたまま歴史を織って行っていいのか。と言う大きな疑問と不安があ
った。生まれた時よりも激しい差別は、差別から逃げて来たユダヤに起こしてはならな
い物のはずだったからだ。実はここに人の矛盾がある。「無知の大凶事」である。日本
には矜持と言う言葉があるが、国民を守る兵士としての意志が、そのまま平和の祈りと
した所は彼の矜持や信念だったのだろう。そして伝説の勇士としての彼の存在は、恐ら
く反対派が政治生命は潰しにかかるだろうが解ってくれるユダヤ教徒だから。との思い
であったろう。しかし残念ながら他の宗教徒と同じに凶弾に倒れる事になる。この人類
の悲劇は繰り返されたのである。ここにイスラエルの嘘がある。平和を求めて世界の中
の法治や秩序を求めた様な正義者の国の様に声明を発するが、モサド他多くの事件の中
に黒い闇として存在する。今回トランプは「アメリカ・イズ・No1」を果敢に声をあ
げた。それは影で支えているユダヤ社会の復活であろう。911以降「無辜の人」とい
う善良な人々を殺戮の淵にのせ、一生涯海外旅行など無縁な貧しい民さえも難民にした
。その批判の上にリーマンショックや原油価格降下などで疲弊していたが、センタービ
ルが出来ると共に復活した。ここに来てトランプが選任されたきっかけは、その繋がり
がクリントンより気薄と思われたからだった。ここで間違えてならないのは、その影響
が排除された訳ではない。いやそれどころか、アラブのサウジに武器を売り、ペルシャ
イランを叩いている事は、影響力を盛り返し排除できなかった事を意味する。この新し
いニューヨーク・ワールドトレードセンタービル跡地の、ワン・ワールドトレードセン
タービルはその「ロックフェラー一族が掲げる理想「World Peace through Trade」
(貿易を通じての世界平和)の意志を受け継いだのだろうか。ちなみに跡地で進行中の
再建計画は、ワン・ワールドトレードセンターなど6つの超高層ビルとツインタワー跡
地の慰霊場、地下の商業施設、パストレイン・ニューヨーク市地下鉄・バスターミナル
等のターミナル施設などからなっている。そのうち最も高いワンワールドトレードセン
ターの高さは、アメリカ独立の年にちなみ 1,776フィート(約541m)(本体は約415m、
尖塔部分含め約541m、延べ床面積約24万m2)である。2009年に中華人民共和国の企業が
最初のテナントとなったが今や盛況のようだ。

1462: 名無しさんAA:18/07/16 23:16
       世界閲覧 31     世界の中のトランプ戦略4    

ワールドトレードセンター跡地は、1 ワールドトレードセンターを含めて6つの超高層
ビルと記念碑で再建された。
1 ワールドトレードセンター:2014年完成。541m、104階建て。
2 ワールドトレードセンター:2021年完成予定。411m、79階建て。
3 ワールドトレードセンター:2018年完成予定。378m、71階建て。
4 ワールドトレードセンター:2013年完成。297m、64階建て。
5 ワールドトレードセンター:2020年完成予定。226m、42階建て。
7 ワールドトレードセンター:2006年完成。高さ226m、52階建て。
国立9.11記念碑・博物館 (en):2011年9月博物館オープン。記念碑オープン
 この膨大な収益預金を今世界中のドル回収によって建設資金としている。ドル回収に
よって世界は疲弊し、ドルは強くなって価格を高く維持している。だがこの平和のデフ
レ破壊は、丁度良いインフレに調整している。わざわざ原油価格を安くし中国商品を入
れて米国経営する中央銀行は、今やトランプと戦う事になるのか。残念ながら戦う事は
ない。メキシコの壁計画も立ち消えして法執行に終始した議論で議会は止まっている。
北朝鮮問題も、返って日本などに武器売却が進みICBM開発も時間つぶしの、大きな
イベントパーティ止まりで、核実験場の入口爆破で喜んでいる状態だ。問題の欧州難民
問題は、とても米国は寄り付かないどころか、国際機関の国連環境計画の温暖化サミッ
トやユネスコやWTOなど一連の拠出金の踏み倒しを目論んでいるほどだ。まったく、
とんでもない国家なのだ。そのとんでもない国家がとんでもない大統領を選出して、と
んでもない事を又考えついている。同盟国敵対国限らず輸入障壁、則ち関税をかけると
言い出したのである。日本ではこれまでTPPの話し合いは何だったのかの声がある。
だが米国の多国籍企業として存在した石油メジャーや金融資本はもっと目を丸くしてい
る。考えれば簡単な事だ。これまで利権食いと言われた教本企業(キリスト信者の商社
)は、はるばる欧州社会から資本や利益を手に、米国に集まって来たのである。その利
益や資本は、他ならぬ利権と財宝であった。そしてそれを守る或いは強要する兵力だっ
たのだ。今や中国はそれを身につけて アメリカ売り場市場を席巻し自国も又潤いなが
ら食料供給を興しているのだ。だが彼ら中国民も紙幣を羽に飛び回る食いつくすバッタ
やイナゴと変わりないのである。地球資源を食い荒らす人類の癌の様な存在とどう対面
するか。これが今世紀の一番の問題と考えたのであろう。

1463: 名無しさんAA:18/07/16 23:20
       世界閲覧 31     世界の中のトランプ戦略5    

 このとんでもない発想は メキシコの壁に似ている。つまり極めて現実的な対策法で
ある。今アメリカに入り込む麻薬は過去最大と言われる。そしてメキシコに入る銃器も
又過去最大である。それは税関をすり抜ける密売人による。そして密売人で商売するの
が凶悪なシンジケート団である。更にこのシンジケート団を構成するのは多くのメキシ
コ人やメキシコ移民たちである。その中でメキシコ移民の中、トランプの親のフレッド
は育ってきたのである。父のフレッドは不動産開発事業に対するトランプの関心を育て
、トランプはペンシルバニア大学ウォートン・スクール在学中から、父フレッドの経営
する不動産会社「エリザベス・トランプ・アンド・サン」を手伝い、大学を卒業する頃
に正式に社員となった。フレッドの両親はともにドイツ生まれであったが、第二次世界
大戦が終わったあと何十年も、フレッドは知り合いや友人に自分はスウェーデンにルー
ツを持つと言い続けていた。ユダヤ系ドイツ人である事を隠し続けたのである。1927年
のメモリアル・デー(戦没将兵追悼記念日)に、ニューヨーク市クイーンズ区でクー・
クラックス・クラン(KKK)が デモを行って「生粋のプロテスタントが、ローマカトリ
ック信徒であるニューヨーク市警に迫害されている」と主張していた。ドナルドが小さ
い頃フレッドはその集会に出て捕まる所を母の教育で「長い間旅に出て、父には会って
いない。」と言い張ったと言う頑固者であった。ニューヨーク市ブロンクス区にて、エ
リザベス・クライストとフレデリック・トランプのもとに生まれ、姉エリザベス・トラ
ンプ・ウォルターズと弟ジョンがいたと言う父のフレデリックは、元々の名をフリード
リヒと言い、1885年にドイツ・プファルツ地方の小都市であるカーシュタット(当時は
バイエルン王国に属していた)からニューヨーク市に移民してきた人物であった。カー
シュタットはドイツでも山奥でミュンヘン近くの国境沿いの中の街だろうフォルクスワ
ーゲンのシュトゥットガルトはその州都としている。カーシュタットはその名の通り車
の一大産地となっていた。彼はニューヨーク市クイーンズ区では単世帯向け住宅を売り
、東海岸にある主要な合衆国海軍造船所の近くでは職員が住む長屋や庭付きアパート(
テラスハウス)を、ニューヨーク市全体で2万7000を超えるアパートを建設・運営した
。フレッドとウィリアム・トマセロは、FHAを使うことで儲けた建設業者の例として
挙げられる。FHAは入居者の負担を減らすために建て主の物件に優遇投資保証を行う
ものだった。こうした事で大儲けしたのがトランプのアメリカの足場を築いた。今の、
シンジケート団が麻薬を引き込み、銃を持って出て行く移民に商売している事とさして
違いがない。

1464: 名無しさんAA:18/07/16 23:20
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略6    

 このエピソードから見るに、かなりシビアな人種で交渉も行動も違法すれすれを行く
「木下に冠を正さず」「盗泉の水は飲まず」などと言う摂理の心境は無い様だ。しかし
である。今後の世界を考えると、まあ株式配当や株価は半分以下にはなろうが、地球と
言う生体資源は落ち着くことであろう。余りにも合理的科学理論に浸され続けている。
大体安全の為にぶつからない様に着けた 車のセンサーモードが無人運転などと無駄な
科学技術になった。人を救う為に出来た食料運搬が今やイエメンなど戦争取引となって
いる。生活の便利さに発見したヤシ油は今やバナナの木を切ってまで売り出した。人に
生きる事を保証した川の水は、中国では捨てる為の溝となった。身を護る為の拳銃は、
人の者を強奪の道具になった。教育のない躾(しつけ)の無い社会とはこうしたものだ
。どんなに宇宙に行く技術や通信インフラが整備されても、中国の様に独裁の為の道具
或いはテロの為の資源、自分の利する為の権力に使われては 未来はない。であれば、
国を小さく分断した方が良い。と考えても不思議ではない。イスラエル流に大きくも、
小さくもしない囲いで固めて交流もさせない。となんとも陰気な思想である。だがこれ
でも悪は助長する。見えなければ見えないほどに隠れて悪戯(わるさ)をする物がのさ
ばるのだ。ISILの様に。自由社会を認めれば認める程破壊者は大きくなるブッシュ
Jrの様な悪僧(あくたれ)が突然出来る。ヒットラーのごとく。まあ人類とはそんな
ものだろう。では今は何が大事か。それは一応は流入を管理すべきが当然だろう。技術
の流出も文化の程度の低い北朝鮮や中国などには出さない事。これが肝要な政策である
。と言う事に落ち着く。アメリカの鉄鋼製品の関税は、アメリカ国民が税金として1〜
2割高く輸入品に価格転嫁されるだけで不買購入にはならず、却って冷蔵庫問題の様に
自国製品も高くした利益上昇で補助金並みの保護になるだけだ。対して中国の大豆不買
も同じ様に出来ない。今でも食糧供給には多くの不満が格差社会で生じている。つまり
農業振興に良い機会になる。と言う訳だ。問題は日本や欧州などの振り回される国家だ
。カナダは同じに木材に輸出関税かけると言う。これは森林業を痛めるし、米国農業も
同じだろう。自然保護にはいいが、今でさえ廃業前の負担で汲々としている中、もっと
薬やDNA科学に頼らない 多様性農業をはからないと、戦時の杉山だらけで水害の起
こった朝倉や津波で死者を出した東北の様になる。事実試算では農地改良がなかったら
死者数は、津波の勢いが削がれ、引き潮でも引っかかり4分の1になったと言われる。
つまり昔の姿の方が 安全だったのだ。まあアメリカスペインの山火事も同じだろう。


1465: 名無しさんAA:18/07/16 23:21
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略7    

 今の自然崇拝無視の姿勢は、今や現代人を困らせている。多くの悪さしたり殺人犯は
この景観教育の無さにある。つまり自然についての美しさの体感や共感が著しく少ない
。例えば西鉄のバスジャック事件でも庭の装いがなかったり、他の田舎でも手入れのあ
る自然がそこにはない。美観教育になってないのである。多くの若者が田舎での新築の
家だったり建売りだったりの出身にその犯罪者の傾向が現れる。勿論一概には言えない
環境もある。それはTVゲームでありスマホであったりする。アメリカも又同じにある
。ニューヨークの犯罪撲滅運動は落書きの撤去から始まり、地下鉄の防犯と軽犯罪の阻
止から始まった。かつては今の英国の様に金にならない軽犯罪は警官の見逃すところと
して殺人や銃器や麻薬などの摘発に力を入れていた。しかしジュリアーノ市長は重犯罪
も軽犯罪も同じ様に検挙せよと指令し、街並みの美観の保護を訴えた。この事で驚く事
が起こった。軽犯罪が2割重犯罪が1割減ったのだこうじて続ける内に10年してかつ
ての半分以下に犯罪減少となった。その上検挙率も高くなり曲線で減り続けた。そして
今の世界の人がやって来るニューヨークになった。まだまだ犯罪は多いが少なくとも、
一般人が地下鉄に安心して乗れるようにはなった。今のアメリカ政府は興味深い政策が
目白押しである。メキシコ国境の壁は勿論、麻薬の流入でアメリカは迷惑している。が
又メキシコも同じにアメリカから入る銃器で犯罪に追われているのが現状の筈なのだ。
その為メキシコに壁を作る金を出させると言うのはメキシコ政権の願っても無いチャン
スとも言える。イランの核問題にしても北朝鮮が平和になれば核やミサイルの研究者は
不要になる。だがそれでは彼らはお払い箱のままでは済まされない。となればイランへ
の技術移転なり研究者移住なりが当然危険視される。つまり先手を打ったと言う事にな
る。又同時にイラクの原油の買い取りの拒否を求めている。先の原油ショックはロシア
を脅かした。しかし同時にアメリカ資本がベネズエラなどを手中に収めた話となる。実
に世界戦略が巧みである。シェールオイルは確かに大きな油田ではある。しかしそれは
それでかなりの自然破壊と高額な投資となる。更に脱炭素社会は石油依存からの脱却だ
から投資に見合う回収があるとは言えない。テラーソンが政府から抜けて直ぐに石油の
値段は上がった。原油価格の統制が出来る権力者であった。と言う事だろう。さてさて
今度の中国との貿易戦争である。少し多面的に考えてみよう。

1466: 名無しさんAA:18/07/16 23:21
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略8   

 今や多国籍企業は花盛りである。更にパナマ国籍として税金回避は個人や企業厭わず
と言った所だ。中国が強く反論するように貿易戦争でも中国企業ではなく米国などの、
経営の多くが海外企業と言うのは多い。しかし中国に限ってはそれはあり得ない。共産
党政治で固めて企業も中国人との共同経営が基本であるからだ。つまり株式としても、
半分は中国人が持った企業である。と言う事になる。又米国にしても鉄鋼品関税は中国
の粗悪鋼の歯止めに有効な措置だ。今EUのメルケルさんは面白い提案をした。つまり
EU内の米製品関税をしてチャラにしようと言う提案である。こうなると、EUの中の
米国と言う巨大経済圏となる。今アメリカはカナダやメキシコとも仲違いしてTPPに
も離脱を宣言している。しかし日本品質の特殊鋼は他にはなく、更に米国内も英国内も
相当数の鉄鋼炉は無くなっていて国際的供給量では今の形の生産は続くと思われる。と
なれば関税で高くなる分米国製品が値上げし購入者が支払うと言う事になり過当競争の
価格競争に一息ついて米国の国産企業も倒産の危機が免れる。ただしこの代わりに米国
の輸出農業製品に中国が報復関税をかけるので中国国内も又値上げがあると言う事にな
る。だが基本的に農業製品特に食料生産においては中国は恐ろしく異常で、メラミン入
り粉ミルクに代表されるように、全く国民からすら信用されてはいない。がそういう国
から日本は輸入しているのだから不思議な日本である。こうして食品の健康異常者は、
うなぎ上りに日本でも増えていった。この原因を米国の様な食品対策センター或いは、
疾病対策センターなどで調べる米国に比べて、又日本は遅れていて米国の70年代位の
管理で税関に至っては他のメキシコなどより品々対人数は少ない。つまり他に比べては
有能であるか民間輸入業者が他の国よりまともであるから成り立っているので、政府は
無能というしかない。こんな国民や業界に依存や依頼して信頼で成り立っているような
国が、例えば国会議員が給与なりシステムが「他の国と同じ様にしましょう」などと言
うのは全く許せない話である。アメリカーメキシコ間の麻薬の流通と日本ー全世界に比
べて推定でも恐らく50倍以上だ。2012年の世界の覚せい剤押収状況の国連報告では、
世界での覚せい剤総押収量は約114トン、メキシコと米国での押収量が、世界全体の
およそ半分を占めていて、東アジア・東南アジアでの押収量が、世界全体のおよそ4分
の1を占めているとし、検挙率においてはアメリカの方が勝っている。又麻薬患者も又
1990年12万人から今や80万人とされる。一概に正確とは言わないが日本はこん
なものが国際的状況としてついていても何ら国民生活は良くならない。


1467: 名無しさんAA:18/07/16 23:21
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略9 

 こうして産業のテコ入れに躍起になっているトランプ大統領は、一体どんな戦略を練
っているのか。実はそれは自動車業界に端的に表れている。日本は2000年にやっと
永年の夢である排気ガスの出ない車を作った。FCV燃料電池車である。しかし、その
供給する燃料の水素ガスステーションは遅々として進まなかった。17年もたった今で
もその数は急激な増加をしていない。何故か。実は欧州の自動車業界は快適さと権威を
もつ車に終始し事故回避や排気ガス問題よりスピートやスタイル或いはホルムといった
形に重視して生産して行った。その後環境問題に取り組んだが日本以上のものとして、
今の燃焼システムの中でのクリアを求めた。従って当時は圧縮空気やエタノール車など
の研究に入ってEV車に行きついている。一方で社会的には、クリーンエナジーとして
太陽電池が画期的進化を遂げると同時に光に頼らない24時間供給の風力発電潮流発電
などが求められ原子力発電に戻っていった。しかしその矢先に日本では福島の事故が起
こった。その間自動車業界は中国で共産党の強力な権力で粗悪燃料による多大なスモッ
グと爆発的交通変化をもたらした。銀輪部隊とされた中国公司の労働者は今や高層ビル
内でオフィス作業をする近代化をもたらした。たまらないのは田舎である。20倍格差
50倍格差と言われた都市部に出稼ぎ労働者が群がって田舎に仕送りする生活に変わっ
たのだ。こうしてインフラ整備とモータリーゼーションの波が起こったが、ずる賢いこ
国に欧米資本は利益が取れなかった。従来からの自由の使者とした金融資本は技術提供
のみで巨大国営資本の攻撃と言う手痛いしっぺ返しまで喰らったのである。日本が明治
期の産業革命で欧米以上の最新鋭の機織りをしたように、中国は今回最新鋭のEV化の
社会に舵を切った。原子力で発電し車さえもEV車で乗りこなし、大量鉄道輸送を充実
させて輸送負担を減らした社会だ。この新幹線技術と同じモーター技術を得てうまく行
くかに見えた。が今や行き詰っている。というのも中国に今も基幹技術を支える文化の
要素がない。確かに学術調査記録や実験や機械摸倣は設計図があれば、そのものは出来
る。又韓国同様日本なり、米国なりの科学者や研究者或いは産業界OBを入社させれば
それなりの産業と製品は出来る。だが事それを使用する文化となれば少し話は違ってく
る。アフリカに行けば、欧州の一流メーカーの衣料製品が爆発的に売れる。フランスの
植民地でそれをステータスとする所だ。或いはアラブでスポーツカーやロールスロイス
の金ぴか車が売れる。道の整備されてない石油成金時代だ。しかしそれは結局文化でも
なかった。王侯貴族の見得であり、今やイエメンなどは山の民が食えない程の貧困だ。

1468: 名無しさんAA:18/07/16 23:23
 このアンバランスこそが大きな問題で、今まで東洋のベニスとされた上海は、異様な
湖畔や海上のビルディングで香港でも同じ形容が言える。まるで韓国を見るような風景
に圧倒される。そこでは路地裏の風情ある建物は今でも取り壊され続けている。不思議
な感覚である。この中国の静かな姿勢に北朝鮮問題でトランプが金主席と握手したかと
思えば、突然中国に貿易戦争を仕掛けて、世界に戸惑いが走る。数か月前に、米当局は
企業秘密の窃盗でアップルの中国人元社員を起訴している。ここで解った事が奇妙な事
にアップル退社をする中国人社員であった。自動運転車に関連した設計図を個人のパソ
コンにダウンロードし、中国行きの航空券を予約し、7日にサンノゼ空港で逮捕されて
、中国の小鵬汽車に転職する予定だった。と言う極めてアップルには関係無さそうな事
案である。アップルの関連社員は約五千人下請け関連まで含めれば2万人である。管理
出来る物ではない。時事通信によると、WTO(世界貿易機関)は中国の貿易政策に関
する審査報告書で「知財権の整備は中国の主要課題であり続けている」と批判し、知財
関連法は中国国内ではほとんど変わっていない事、政府支援の不透明な補助金支出に関
する情報開示が全く無い事、鉄鋼などの過剰生産の問題点は解決されてない事を発表し
た。今回には問題となっていないが、中国最大の航空機製造グループAVIC(中国航
空工業集団)は傘下に111の企業、36の研究開発センターを持ち、56万人の従業
員を抱えて技術情報の窃盗団を行っている。戦闘機、爆撃機からドローン、民間旅客機
などを一手に生産するこの会社の実態は、中国空軍の支援する資金投下の賛助企業だ。
ブラジル・エンブラエル、エアバスなどと合弁展開し、10年に米エビックエアクラフ
ト、テレダイン・テクノロジー、11年にコンチネンタル・モータース、シーラス・エ
アクラフトを次々に買収して技術資料を本国に持って帰って来た。多くの独・英社も買
収されて、ここでもB2爆撃機資料などの機密情報を盗もうとして中国人スパイが逮捕
・起訴されている。こういった企業体のスパイ社員の告訴は今や米国諜報部もイタチご
っこの司法取引に陥っているとされ、今後に注目されるところだった。ドイツで食肉の
会社がらみで、薬品の開発試薬や、欧州の卵からの危険薬物の殺虫剤フィプロニルの成
分が混入が発見されて問題になったが、それらが中国人や朝鮮人の卵買い付けと共に、
低賃金労働者に販売されていた事はあまり知られていない。デンマークで10カ国目で
東欧ルーマニアやルクセンブルグでも同じ殺虫剤の成分が卵から検出されている。フィ
プロニルを大量に摂取すると、人の腎臓や肝臓、甲状腺の機能を損なうおそれがある。
がこの薬品製造が中国国内でも製造される様になっていて、大量生産が大陸鉄道で運ば
れて来たと言われる。更に最近では鎮痛剤オピオイドの乱用について、欧州でも警戒を
高めている。こうしたいままでは無かった脅威が欧州社会に覆っている。

1469: 名無しさんAA:18/07/16 23:23
      世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略11 

 こうした製品が中国製品だからと言って、中国語で書かれている訳ではない。ここが
大きな問題で、ちゃんと英語なり販売される言葉で書かれているのである。日本の煙草
が箱ごと物まねされて、今でも大手コンビニに堂々と売られているようなものである。
こうした物真似は巧妙であり、中にはホンダの様に下請けになったり合弁企業になった
り正規に製造・販売契約を取り付けているから厄介である。共同通信が報じた中国軍の
内部資料によると、軍の大規模組織改革は、これまでの「国土防衛」から「外向型」に
転換、軍事的影響力を海外に拡張し「国際優位」に特化する方針が明らかとなっている
。「中国の国益が国境を越え広げ、経済支配によって緊急にグローバルに国の安全保障
を維持する必要がある。」としている。「一帯一路」と両輪で、覇権主義を顕わにして
いるのだ。そのための技術革新と「AIによる軍事革命」を強力に進める姿勢にある。
 米国では中国のこの覇権主義的膨張を止めるべく、貿易戦争を仕掛けている。単なる
貿易赤字の是正ではないことは市場も認知していると思われるほど冷静である。中国も
又承知しているのであろう、ロイターによると「国営メディアの報道の加熱を抑制」し
ている。とりわけ、トランプ大統領への非難を禁止し、貿易の是正を求めている事に、
一定の配慮した報道がなされている。更に国際的自由貿易の維持を謳いあげて、中国の
企業のモラルや中国国内の法律を守れとまで釘をさして、貿易戦争に受けて立つ姿勢を
見せている。我々日本人には、南洋の南沙の軍事基地や尖閣の漁船団で根こそぎ漁で、
自然破壊も国境線も国際社会も認めない野蛮な行為をしながらよくまあ平気な顔だ。と
恥ずかしくなる言葉が並べられる。古今の中国経済は数字の変化とともに市場の見方が
変わるだろうが、攻防は落とし処は見えてこない。習近平以前であれば相当な混乱が予
想されたが、今や世界経済の中で、しっかりその座を掴んだかの様な立ち位置だからだ
。50年戦争、100年戦争 と言った見方が出る一方、ある日突然、両国が一定の和解をし
ても不思議ではない。米国が攻勢を掛けているものの、トランプ以前のほどの大崩しに
至っていない背景がそこにある。






1470: 名無しさんAA:18/07/17 08:55

 それはまずトランプは、中国に集中砲火している訳ではない。同盟国カナダやメキシ
コそれに欧州や日本豪州すら敵としての貿易戦争に陥っているのだ。ドイツにはロシア
のガスを買うなといい、フランスには中東に口を挟むなと言う。更に他のEUには米国
の防衛にもっと金を出せと言っている。メキシコには壁を建てなければ困るのはお前だ
と脅迫し、カナダが米国は計算違いしている大きな赤字になっているのは米国IT企業
を受け入れている我々だ。と言うと、黙って居ろアメリカが貿易赤字だと繰り返してい
る。今後の展開は、欧州、ロシア、日本などを交え、中国との綱引きが複雑化する可能
性があるが、今の所日本は静観の構えを崩していない。状況を睨みつつ、世界経済への
ダメージを測って行くことになると考えられるからだ。中国市場でも株安と通貨安が共
振する兆しが出ているが。2016年程の相場急落「チャイナ・ショック」はあり得な
いと、その再来が懸念する向きに説明している。グローバルサプライチェーンの中にあ


1471: 名無しさんAA:18/07/17 08:56
振する兆しが出ているが。2016年程の相場急落「チャイナ・ショック」はあり得な
いと、その再来が懸念する向きに説明している。グローバルサプライチェーンの中にあ
るからだ。韓国の様な単一企業の売り上げと違って、中国社会は欧州の様な現地調達の
工場も多い。バイクメーカーのハーレーが、輸入コストが上がれば欧州に工場移転せざ
るを得ない。と話す様に、多くの米国企業の利益も中国工場からの資金調達していると
言った企業もあるからだ。こうした、今回と16年との決定的な相違があり、深刻な市
場混乱や経済悪化は回避される。というのが一般的な見方である。中国のファンダメン
タルズ(経済の基礎的条件)は比較できないくらい今回は堅調である。前回の中国経済
は不動産開発投資、鉄道貨物輸送量、粗鋼生産量、発電量などの経済指標がすべて前年
比でマイナスに転じるという経済悪化があったが、今回はいずれもプラス圏内となって
いる。更に当局の対応も素早いものがある。中国人民銀行(中央銀行)がすかさず預金
準備率を0.5%引き下げて対応している。危機意識の高まりと推察される。更に習近平
の独裁で、資本コントロールが利いている。中国の外貨準備高は15年は急減した後、
16年後半からは2年近くにわたって3.1兆ドル前後を維持していて変わっていない。
危機に対応した経済対策と厳格な資本コントロールの導入により、外貨不安と人民元安
の懸念は今や封印されている。危機管理の学習効果は十分に生かされているといえる。
しかしそれでも、トランプ政権の対中要求は過激である。今や中国に過度に依存してい
るグローバルサプライチェーン(供給網)に新しい風穴を開け、米中の覇権の再構築を
米国の目指す究極の狙いであろう。米国は中国に対してのみならずロシアにも、西側陣
営の長として、エネルギーも経済も軍事もハイテクも新たに覇権奪取をめざす方向の様
だ。つまり先のオバマが言った「世界の警察官を止める。」と言う宣言を取り消したの
である。こうして「中国製造2025」計画の破棄まで求めているが、それは中国にとって
はのめない話であろう。ロシアの軍事削減と同じである。



1472: 名無しさんAA:18/07/17 08:57
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略13

 一方で、中国の選択肢もない。(1)景気対策・金融緩和で市場テンションを緩和する。
(2) 今後も資本コントロールして世界的な国内危機の波及を遮断する。(3) 米国が容認
するところまで通商交渉を譲歩する。という全く米国優位のまま以外に道はないようだ
。ところが、この中で2の「世界的な不況」と「国内危機」においては中国のみが被害
者になり得ない事が示唆される。市場では「中国が人民元安を貿易摩擦の対抗策として
活用する事は出来ない」との臆測がある。つまり既に通貨安は容易に危機の引き金にな
り得て、通貨安政策が米国の怒りを鎮める事はないからだ。交渉上著しく不利で人民銀
の易綱総裁は、「中国は人民元の引き下げという手段で貿易紛争に対応することはない
。」と言明している。当然である。する必要もなくしても意味が無いからだ。常識的に
如何にトランプ政権が性急に米国覇権を求め中国に迫っても、米中の通商関係を破壊す
るとなればそれは米国に返ってくる。今や中国はグローバルサプライチェーンの中核に
位置しており、中国と真っ向からぶつかれば、米国経済も深刻な打撃を受けるからだ。
これが解らないほどの御馬鹿な政権ではないし、それが解っていて行うほど間抜けでは
ない。では何を目的とし、どうしょうとしているのか。今や経済界はそれを見極めよう
と必死である。それぞれの制裁、報復措置が出そろい不確実性が消えていけば市場は、
その方向性が見えては来るが今はまだ選挙対策ぐらいしかメリットは浮かばないの現状
だ。米中貿易戦争において、日本は何ともいえない立場にいる。中国国内の急速な産業
高度化、ハイテクシフトにより韓国、台湾、ドイツは日本と共に中国との競合関係が強
まっている。とは言え官製デモの煽りで純粋な日本製品の部品工場とはしていない。2
+1の政策で進出してきたからだ。常にトップリスク回避の代替え工場が東南アジアに
あるからだ。つまりそうそう他の国ほどの痛手はない。日本は中国企業との競合はあま
り多くない。むしろ中国がハイテク化しようとすると、日本の設備や部品、材料が必要
となる補完関係にある。日本は著しく有利な国際分業上のポジションを得ている。米国
にも同じで例えば、半導体製造装置は、日米企業で競合しているようだが、世界市場は
ほぼ分割(米国6、日本4)しており、そんなに米国が日本に依存してはない。関税でも
米国は自動車に対する制裁関税を検討して、日本もその対象にはなるが、日本の関税率
は世界最低である。乗用車に至っては関税は日本0%、米国2.5%、EU(欧州連合)10%
、韓国8%、中国25%となっている。

1473: 名無しさんAA:18/07/17 08:57
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略14

 米国トランプの外交の怖さは、中国との貿易戦争ではなく、日本を名指しした開放で
あろう。しかし赤字とは言え日本の貿易黒字は小さい。この日本の経常黒字の大半は所
得収支によって稼がれている。そもそも所得収支は海外企業の海外での稼ぎを示してい
て、結局は現地で雇用の結果生み出されたものなので、もっと歓迎されるべきものだ。
これは現地での雇用を奪いかねない輸出で稼ぐ貿易黒字とは決定的に違う側面がある。
日本車の米国での現地生産は年間377万台と対米輸出174万台の2倍以上となっている。
これを廃止せよと言う事は現地企業化した日本の出張所である工場の休止を意味する。
つまり失業対策をそれだけ行っているに等しいのである。こうした日本のグローバルサ
プライチェーンは円高下で実現した方式だ。他国に比して著しく充実していて、貿易摩
擦の対象ではなくなっている。今や対米貿易摩擦先進国の日本はすべてが過去に起きた
ことであり、かつ対応済みのことが多く有利なポジションになっている。ただ今の米国
企業にインターネットのプラットフォーム(基盤)部門では、中国のアリババ集団や、
騰訊控股(テンセント)などが挑戦状をたたきつけている。米政府は国民の人権と経済
の自由を保護し、米国民が自らをどのように見るかにかかわらず、国民は全て自由市場
がもたらした経済的な機会と、公正で効率的、かつ透明な政府がもたらした生活の質を
享受させている。こうしたことが、米国に革新と繁栄の好循環のようなものをもたらし
てきたし、それが米国人の誇りでもあった。米国は「理想的」ではないとしても、政府
としては、自由市場の素晴らしい組み合わせを生み出し、維持してきた自負がある。フ
ランスの政治思想を持ち込んでは、米国では自由市場が民間の財・サービスを、政府が
国民のための条件の平等を作り出してきたのである。中国の経済システムには、こうし
た繁栄のための循環の背後にある自由市場と政治制度の偉大なコンビネーションは存在
しない。このいらだちが今回の経済摩擦の主因である。著書「国家はなぜ衰退するのか
」では、国民に必要なのは真の繁栄につながる、革新とより良い富の分配、経済成長の
好循環を生み出す包括的な制度だ。と仮定すれば今の中国が世界経済の足を引っ張って
居るのは間違いない事実であろう。基本的に中国では、経済的な財産もサービスも政府
が配分する。それが社会主義である。中央政府と省政府はいずれも、究極的には地主で
あり起業家であり、経営者であり兵士で奴隷なのである。政府筋の規制機関によって、
主要銀行は全てが政府によって運営されており、国有企業(SOE)も郷鎮企業(TVE)も
、その銀行から融資を受ける。日本の軍国主義の軍票発行と同じなのである。そこには
自由競争などと言うしゃれた思想はない。

1474: 名無しさんAA:18/07/17 08:58
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略15

 この軍票システムが世界の国家経営の中央銀行と違うのは、拡大銀行と言う事にある
。つまり資本は資本で保証するので、中央銀行は実は国家の国債や民間の株券など現金
として流通するものの資本を持って運営してしている。ところが国家が発行する軍票は
幾らでも保証がなくても発行出来るし勝手に値段も決められる。つまり世間や一般査定
がそこには無いのである。これは大きな違いである。日本の国債が危ないと見れば極端
に下がる誰も買い付けしない。中央政府が発行する紙幣や硬貨はそれが無い。バックに
同等価値を持っているからだ。では中国はどうだろうか。ロシア以上であろうか。それ
はない。かつて中国元の世界は日本円で0.001であった。アルミの一円玉が10元
だったのだ。公定価格でも0.1円だった。その後万博時代10円に変わった100倍
である。当時国内に溢れた元紙幣の半分は偽札だった。もめ事もあったが多くの人は、
その偽札でも使えれば構わなかった。ところが偽札検知器で銀行の札束すら信用できな
い世界に変わった。それが先の不動産バブル時代だ。こうして人々はキャッシュレスの
電子通貨に目覚めたのである。中国に人権と経済的自由を守る公平な政府を求める事は
土台無理な話である。1983年中曽根が胡耀邦の訪日で、昭和天皇と会見して天皇訪中を
求めて開かれた政治を目指した。しかし挫折し、ケ小平に至っては開かれた経済システ
ムと立ち向かう閉鎖的な政治体制という危険な組み合わせを持った奇妙な制度が作られ
ている。一国二制度取り入れるとした香港返還も今や型無しで人権侵害が大手を振って
行われている。強権独裁政治の競争社会は、言わば産業と自然を戦わせる、中国が1978
年に改革開放路線に転換して以降実現してきて、最も進展したのは人権侵害であり、こ
れまでの発展も帳消しにする物だった。中国国民の経済的機会と全般的な生活の質の向
上は、いつでも損なう危険性を孕んで進んでいる。中国は世界一の交通事故や労働災害
、環境汚染の大国で、経済的自由においては最下位に近く教育が高く道徳水準が下位に
ある。この奇妙な国は、結局のところ中国になかった経済成長をもたらしたが、中国人
民には、成長・持続する理想的な思想はない。国民が効率的効果的な人間性回復の市場
、公正で公平で透明な政府こそが質の向上した生活が提供でき人民は幸福享受が出来る




1475: 名無しさんAA:18/07/17 08:58
      世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略16

 それでも、中国商務部の報道官は強きだ。米国が中国からの輸入品2000億ドルに対す
る追加関税リストを公表したことについて「国の核心的利益と国民の根本的権利を守る
ためには、中国政府はこれまでと同様に、必要な対抗措置をせざるを得ない。また直ち
に米国の一国主義的行為を世界貿易機関(WTO)に追加で提訴する 」と述べている。更
に米国は中国からの輸入品340億ドル分に追加関税を課すと発表し、それ以降 米中間は
貿易戦争が正式に幕を開けた。エスカレートを続ける状況に対し、中国の勝利への確信
はどこからくるのだろうか。李委員長は、「貿易戦争を戦う上で最も重要な資本は経済
の安定的発展に他ならない。中国経済は目下安定した状況を維持しており、将来も安定
的発展を継続する力がある」と述べた。更に「14億人の人口、2億人を超える中所得
層を擁する中国が、貿易戦争を十分に戦うことができる。」という。「その重要な根拠
の一つは市場規模の巨大さだ。巨大な市場が中国企業に巨大な発展の可能性を与えると
同時に、海外の企業にも利益を創造し発展する機会を与え、巨大な誘致力を発揮する。
これは中国にしかない優位性だ」と述べた。つまり(1)中国経済は安定し(2)中国に
は巨大な市場がある(3)中国には整った産業分類が備わっている。と一歩も引かない。
「中国の整った産業分類は、中国に対外貿易の競争における優位性をもたらしており、
中国の競争力の重要な源泉であり、中国経済の発展に製造への十分な原動力を持ち、又
中国の未来の産業バージョンアップに必要な基盤でもある。未来の中国の各産業部門は
この基礎の上に立って、引き続き質を高める必要がある」と指摘し国内外に大丈夫だ。
と示した。李委員長の判断は次の2組のデータが示している。第1は、2017年の中国の
国内総生産(GDP)のうち2.12%が研究開発(R&D)に充てられ、中国のR&Dの経費は
1兆7500億元(1元は約16.8円)に達し、基本的に先進国と変わらない水準になってい
る。第2に、世界知的所有権機関(WIPO)が発表した報告によると、中国は世界2位の
特許出願国で、03年以降は唯一の2桁増加を達成する国となっている。WIPOはあと3年
もすれば中国は米国を追い抜くだろう。と予想している。つまり今や投資される国では
なく投資する国として余力があり、今後の知的所有権も技術的革新も中国以外にない。
と遠まわしに豪語しているのだ。最後に、「中国は革新分野でここ数年の間に多くの業
績を生み出した。ただ未来にもまだ大きな発展の可能性がある」と李委員長は述べた。


1476: 名無しさんAA:18/07/17 08:59
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略17 
 更に良く知られているのが起業家の多さだ。「中国には良好な起業ムードがある」と
自他共に認める程の競争社会を創り、アメリカに似た産業胚芽がある。それは良し悪し
に関わらず大変な活況なのだ。「中国はこれまでずっと国民による起業を強調し、最新
のデータでは1日当たりベンチャー企業の平均登録件数は1万7600件になり、これは、
こうした新しい企業、新しい雇用機会が、新しい競争の優位性を形作っていくというこ
とだ。政府も起業に向けて良好な環境作りをしている」「中国には新しい業態、新しい
モデルが絶えず出現している。たとえば金融科学技術が推進する電子決済やEC、また
共有経済(シェアリングエコノミー)モデルもあり、経済に絶えず新たな優位性をもた
らしている。新産業には新エネルギー、新材料、スマート製造、電気自動車、ロボット
などがあり、どれも革新と発展の過程にあり、将来は経済の発展をより力強く支えるこ
とになる」と語っている。「中国には制度の優位性がある。国の政策、政府の方針決定
を通じて、優位性のある資源を集中させ、資源を統合することができ、貿易戦争という
角度からみると、戦争の始まりも終わりも効果的に管理することが可能だと思われる」
との見方を示し「中国は40年に及ぶ発展を経て、グローバルバリューチェーンと供給
チェーンのシステムにおいて重要な位置を占めるとともに、地位が絶えず上昇している
。『一帯一路』に牽引されて、中国産業のバリューチェーンと供給チェーンが絶えず拡
大し、将来は世界のより広い範囲で経済貿易協力を行うようになるとみられる。」とも
述べている。投資も投資家も起業家も起業家風土も革新的技術も、そしてそれをつなぐ
世界の中の工場としての産業もみんな揃っている。何か文句があるか。と言う強気だっ
たのである。果たして、この言葉はどこかで聞いた様な。と思い出すのが韓国である。
しかし韓国・朝鮮日報によると「現在の韓国経済は正常でない」と指摘している。全国
経済人連合会主催のイベントで、文在寅(ムン・ジェイン)政権の産業・経済について
「出生率は最低、自殺率は最高など、各種の指標は恥ずかしくて顔を上げられないレベ
ル」と英ケンブリッジ大学の経済学者チャン・ハジュン教授が述べている。造船・鉄鋼
などの主力は中国に奪われ、製薬・機械・部品・素材などの有望産業は先進国を超えら
れずにいる。半導体生産は1位だが、半導体を作る機械は日本やドイツから輸入してい
る」と指摘した。「過去の高度成長期に韓国は1人当たりの国民所得基準の経済成長率
が6%を超えたが、通貨危機以降は 2〜3%台になった。成長率が低下するのは自然なこ
とだが、このような急激な低下は正常でない」と述べたという。この自由社会を作り上
げることができるまで、朝鮮では豊かな人も貧しい人も同様にこうした制度を求めた、
中国も又米国をまねようとするだろう。はたしてそれが何を意味しているか。

1477: 名無しさんAA:18/07/17 22:32
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略17 

 更に良く知られているのが起業家の多さだ。「中国には良好な起業ムードがある」と
自他共に認める程の競争社会を創り、アメリカに似た産業胚芽がある。それは良し悪し
に関わらず大変な活況なのだ。「中国はこれまでずっと国民による起業を強調し、最新
のデータでは1日当たりベンチャー企業の平均登録件数は1万7600件になり、これは、
こうした新しい企業、新しい雇用機会が、新しい競争の優位性を形作っていくというこ
とだ。政府も起業に向けて良好な環境作りをしている」「中国には新しい業態、新しい
モデルが絶えず出現している。たとえば金融科学技術が推進する電子決済やEC、また
共有経済(シェアリングエコノミー)モデルもあり、経済に絶えず新たな優位性をもた
らしている。新産業には新エネルギー、新材料、スマート製造、電気自動車、ロボット
などがあり、どれも革新と発展の過程にあり、将来は経済の発展をより力強く支えるこ
とになる」と語っている。「中国には制度の優位性がある。国の政策、政府の方針決定
を通じて、優位性のある資源を集中させ、資源を統合することができ、貿易戦争という
角度からみると、戦争の始まりも終わりも効果的に管理することが可能だと思われる」
との見方を示し「中国は40年に及ぶ発展を経て、グローバルバリューチェーンと供給
チェーンのシステムにおいて重要な位置を占めるとともに、地位が絶えず上昇している
。『一帯一路』に牽引されて、中国産業のバリューチェーンと供給チェーンが絶えず拡
大し、将来は世界のより広い範囲で経済貿易協力を行うようになるとみられる。」とも
述べている。投資も投資家も起業家も起業家風土も革新的技術も、そしてそれをつなぐ
世界の中の工場としての産業もみんな揃っている。何か文句があるか。と言う強気だっ
たのである。果たして、この言葉はどこかで聞いた様な。と思い出すのが韓国である。
しかし韓国・朝鮮日報によると「現在の韓国経済は正常でない」と指摘している。全国
経済人連合会主催のイベントで、文在寅(ムン・ジェイン)政権の産業・経済について
「出生率は最低、自殺率は最高など、各種の指標は恥ずかしくて顔を上げられないレベ
ル」と英ケンブリッジ大学の経済学者チャン・ハジュン教授が述べている。造船・鉄鋼
などの主力は中国に奪われ、製薬・機械・部品・素材などの有望産業は先進国を超えら
れずにいる。半導体生産は1位だが、半導体を作る機械は日本やドイツから輸入してい
る」と指摘した。



1478: 名無しさんAA:18/07/17 22:32
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略18 

 今度のサッカー観戦では日本人が試合観戦後の清掃までは行かないがゴミ拾いしてい
く日本人にtVのニュース報道があった。そこに韓国人が「ゴミを拾うのが日本人だけ
」ではない「清掃員の仕事を奪うな。」と言うのだが、中国人は「綺麗にする事が悪い
事とは思わない。」と反論しているのを思い出した。考えててみれば確かに日本は「飛
ぶ鳥後を濁さず。」と言う「来た時よりも美しく」が生きる人生の宗教観念だ。「旅の
恥はかき捨て」などと言うのは、現代人は意味を吐き違えている。これは旧習慣を捨て
てでも新しい美しい創造を後押しする言葉であり、報復の因習を捨てる事を諭したもの
である。そもそも「人生は修行」「人生は重荷を背負うて登る坂道のごとし」と徳川氏
が言うような宗教観念がある。「厄年」は本来「役年」つまり借金しても役を果たすべ
き年齢を指すものであり、この年から地域や子孫や家族を守る事を宣言させられる年な
のだ。中国メディアは、「欧米人から見て、日本人と中国人と韓国人を外見だけで見分
けはつかない」しかし、「集団行動」を見れば容易に見分けることができる。と伝えた
。欧米を「ツアー旅行」で訪れるなら欧米人でも簡単に、「行動」から分かるものだ。
主張し見分けられると伝えた。たとえば、ツアーのガイドが話したり、指示を出してい
るとき、「黙って静かに聞いている集団があれば、それが日本人だ」という。更に、ガ
イドが話をしているにもかかわらず、「ツアー参加者同士で話に夢中になっている集団
」があれば、それはきっと韓国人だと伝え、「韓国人は個人中心主義」だと主張。また
、声が大きく、ガイドの話を聞いている人がいたり、キョロキョロと周りを見渡してい
たり統率が取れておらず、ばらばらの行動をしている集団があれば、それが中国人集団
だと主張し、「欧米人から見ると、日中韓の違いは集団行動に簡単に現れている。」と
伝えた。これは非常に的を得ている。中国は広く韓国人の様な「朝鮮起源説」を唱える
事にに似た「中華中芯主義」を言う者と田舎で「中央の腐敗軍閥」の侵略から用心深く
逃れる事で生き延びて来た民族で出来ている国だからだ。今度の経済戦争の、とりわけ
貿易戦争の多くの米国アナリストは、中国と言う、力の均衡、または独立した司法制度
がない中で、「中国当局者による恣意的で、気まぐれな重商主義政策の実施に歯止めを
かけるような法の支配はない。」という中で当然の処置だ。と中国を厳しく批判した。


1479: 名無しさんAA:18/07/17 22:32
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略19 

特に情報技術革新財団(ITIF)のロバート・アトキンソン理事長は、「WTO訴訟では
通常は、打撃を受けた企業からの証拠提示が義務づけられる。だが外資系企業の多くは
、中国での不当な扱いを訴えることに消極的だ。反トラストや不正、スパイ、消費者へ
の不当な扱いなどの疑いで調査を受ける。といった報復措置のほか、政府系企業に販売
先を奪われることを恐れているためだ。特に中国国内企業に海外企業はどれ一つもない
。共産員の共同経営者が必要とされ、そうした内部スパイが常駐しないかぎり認可され
ない仕組みだからだ。こうした腐敗した強権的に人権のない、独裁の共産党支配で人民
解放軍は既に死んでいたはずだったが、こうした汚職で経済で生き返らせたのが米国だ
った。この方式を最初に行ったのは、実は朝鮮に入ったCHQ内のアメリカ共産党だっ
た。今の韓国の財閥企業は、実は李承晩配下の革命政府の配下だった人達だ。北朝鮮の
地域から発展して来ていた朝鮮半島の日本の工業技術はほとんどが日本の軍閥経営で支
えられていた。電気水道ガス工場商店薬品鉄道港湾とどこに行っても家賃のごとく払わ
れる物は日本配下の権利を持つ財閥だったのだ。だがこれを強制接取したのが米軍を呼
んだ韓国大統領李承晩だった。その殆どは暗殺され権限の強制接取だった。韓国国内で
も彼らは地元のパルチザンや自治警察にいった。「お前たちは日本帝国の皇民と言う犬
だ、我々はアメリカ連合国の戦勝国民だ。お前たちの財産を取り上げてどこが悪い。」
と。南北戦争の頃は大部分がこうして北朝鮮の金日成の味方となった。金日成そのもの
も、もし、金九が治安を守りアメリカの支援を受けた李承晩を逮捕し韓国民主党の党首
呂運亨を代表として固まっていたのなら問題なく統一朝鮮に戦争も粛清もなく建国され
移行されていたであろう。しかし中国の蒋介石の下で重慶政府の中に革命政府を作り、
金九そのものが治安悪化にゲリラとなり、朝鮮王朝李王家の李王世子暗殺未遂事件など
発生した不安を国内にもたらせていたほどだった。こうして朝鮮半島国家は、有史以来
の援助や補助或いは傀儡としての保護される国民性しかもたなかったのだ。したがって
横から接取したにも関わらず、権力による庇護なり資本投下したアメリカは当然株主と
して存在した。この事はその後の成長にも株式市場での配当を迫る退職軍人会や年金の
運用に多くが組み入れられた。


1480: 名無しさんAA:18/07/17 22:33
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 20

 「過去の高度成長期に韓国は、1人当たりの国民所得基準の経済成長率が6%を超え
た。が、通貨危機によって以降は2〜3%台になった。成熟する国家の成長率が低下す
るのは自然なことだが、このような急激な低下は正常ではない。」と述べた。この朝鮮
社会に自由社会を作り上げることは無理だったのだ。朝鮮では豊かな人も貧しい人も、
同様に欧米の西側世界のこうした制度を求めた。中国も又、今米国を真似て西側化しよ
うとしている。そしてソ連経済は破たんの上で自由経済を構築しようとしたが独裁に変
わった。勿論自由主義や資本主義は完全ではない。しかし、今の所人類はまだより以上
の発展系の流通経済を構築をできてはいない。この韓国建国以来、その旨味を独裁の中
に変形させてすっぽり入らせて、自国の体制に入れ込んでしまったのである。この事は
、はたしてそれが何を意味しているか。暗黒の韓国体制から、中国やロシアは軍事経済
の中の中央集権国家を作り上げた。西側諸国は歴史的に、保護貿易がグローバル経済だ
けでなく、自国経済にもマイナスとなり、マーケットにも大きな悪影響を与える事を知
っている。自国産業を守るためとはいっても、報復合戦に発展するため、結局は全体と
してダメージを受けてしまい、跳ね返ってくる。このことは多くの歴史学者も経済学者
も主張するところで証明されている。しかし敢えてトランプ政権は強硬姿勢を強強めて
同盟国にさえ、グローバル経済の不透明感が広げている。鉄鋼やアルミニウムの追加関
税など導入し、対してEUや中国は対抗措置をして報復合戦の様相を示している。この
自由社会では国民の自立自尊を応援しないのだろう。と言うのも英国の閲兵式の非常識
がこのトランプの行動規範を示している。ヨーロッパの伝統的挨拶スクレイプとカーテ
シーが出来なかったトランプとトランプ夫人は閲兵式の歩行すらも出来ないでいた。男
性は少し片足を下げて相手より頭を低くして握手し、女性は大きくその動作を行って、
その挨拶をし、閲兵式で主賓と言え来客だ、呼んだ国の主人の前に立ち塞がる事など、
悪意がないとは言えあり得ない光景だ。是には応援した米国民は幾ら選挙応援したとし
ても落胆しただろう。これほど躾(しつけ)も礼儀も無い人が大統領に座ると言う事は
許されない事として。日本の江戸時代なら打ち首獄門も世界である。礼を失して国の品
格や品位を無くす事は、例え代表でない国民であろうとも許されない。これが古来から
の日本人の考え方であり家徳である。渋谷のごみが散らかっていると言うのは、それだ
け国籍のみの日本人が移住して来たと言うだけの話だ。

1481: 名無しさんAA:18/07/17 22:33
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 21 

 中国中央政府は、その国民性に鑑みてトイレの整備を指導した。又軍隊の腐敗とそれ
に対する習近平の対策が腐敗撲滅に向かうよう苦心している。それについて次のように
解説されている。「改革開放から30年以上の月日が経ちましたが、軍事のエリートの
危機は驚くほどに深刻であるようだ。病状は主に三つあって、一つは“平和病”だ、彼
らは近代の安全な生活で闘う思想に欠けている。二つに“腐敗病”だ。中央軍事委員会
副主席さえも腐敗を誘発・リードし、カネやコネの力で、昇進や将軍を生ませてきた。
軍隊におけるこうした「身分売買」は当時当たり前で風習だった。これは極めて深刻で
す。三つ目に“凡庸病”とされる先の副産物である。こうして部下を指導し闘う能力に
欠けているにもかかわらず、コネやカネで財閥を作り、賄賂や腐敗で昇進させる能力だ
けは長けている。それらから産業汚職や裏での独占主義が蔓延して企業乗っ取りなどの
会社はそれ以上の進化がなく、その上一連の腐敗分子・投機分子らが産業も軍隊の中も
、好き勝手やっている。と言う政治体質だ。こんな状況が許されるわけがないでしょう
。このような危機的状況を前に、習近平主席は全党・全軍反腐敗を徹底し、戦い方を知
っていて、戦う意志のある優秀な軍事人材を改めて重用するシステムを構築しようとし
ています。よくある尖閣の漁船団も今や中央政府は手が付けられず漁獲量規制などもっ
ての外漁協の様に地方政府による中国公船(中国政府に所属する船舶)の尖閣諸島侵入
が始まっている。以前広東省では、ある民間中小企業が正規の契約を通じて自ら権限を
持って操業していた。だが数千坪の土地が知らぬ間に不当に持っていかれ、マンション
建設などを含め強引に開発されてしまった。住民運動までして反対したケースがあった
。しかしその後視察したが、明らかな不当行為であり、地元の政府も同企業に同情し、
対応策を練ってはいたが、相手は武装警察を持ち、地方政府の大物で、軍部が経営する
企業(総経理は上級大佐)がマンション建設を指揮していた。結局「為す術なし」とい
う感じで、大量の住民が労働刑務所行きで終わったのだ。こうした軍隊が社会的特権を
乱用して、不当なビジネスを行ったり、莫大な利潤を獲得するといった状況は早くから
中国社会における「公然の秘密」であり、民の軍に対する不満や抵抗感は長い間蔓延し
てきてはいる。だが、そもそも中国の一般大衆の常識は「軍人は特権的地位を利用して
好き勝手、やりたい放題に振る舞う悪者」の認識は、昔からのもので事実は否めない。


1482: 名無しさんAA:18/07/17 22:33
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 22 

 だが、こうした中であるからこそ、抗日戦争資料館や抗日戦争ドラマは欠かせないと
言う文化なのである。つまり日本人が悪い。日本人が過去に破壊した。と刷り込まなけ
れば韓国同様、今の軍隊や共産党が人民を殺して出来た国体であり政権と知られたら、
収拾がつかないデモや暴徒の国家となるし、それを抑える軍隊はいない。「愛国無罪」
の意識が強いからだ。 今年4月12日、南シナ海で海軍の閲兵式に出席し、「人民海軍を
全面的に世界一流の海軍に育て上げる。」と高らかに宣言した。習近平・中央軍事委員
会主席だが、同時に、目の前で自らの談話を聞いている海軍関係者らに対しては「党の
軍隊に対する絶対的領導を全面的に貫徹するという根本的原則と制度」を徹底的に順守
することを要求している。これは意志のある優秀な軍事人材を重用するシステムを構築
し、軍隊は人民に信頼される組織でなければならない。我が人民解放軍は“構造病”を
ガバナンスし始め、軍事大革命を推進する。と言った意志が見えている。 6月11日には
、党中央弁公庁、国務院弁公庁、中央軍事委員会弁公庁の連名で、『軍隊が全面的に有
償サービス業務を停止することを深く推進するための指導意見』を発表した。これは、
習近平政権成立以来の目論まれて、取り組まれてきた軍隊・軍事改革の一環である中の
、この『意見』書をもって、解放軍が今年度末までに全ての営利を目的とした企業運営
やサービス提供を停止することの、正式に義務付けられることになった事の発表だった
。習近平政権で「群衆路線」を随所で強調し、農民や労働者を中心にした「社会の弱者
」に寄り添う政策を大々的にアピールして共産党の正統性を強固なものにとしてきた。
この経緯を顧みれば、今回の『意見』は想定内路線で当然の帰結とも言える。しかし、
習近平政権成立以来、共産党による絶対的領導下にある解放軍は、過去のどの時代より
も国ではなく党の軍という地位にある。現状に対して、解放軍の関係者は政策、地位、
待遇といったあらゆる角度からも、軍人は不満を蓄積させてきている。「反腐敗闘争」
によって一切の賄賂や腐敗、贅沢が禁止されてきた。今回の『意見』を通じて、軍隊内
部で細々と生き延びた、私益・私欲を肥やすためのビジネスも一切禁止された。こうし
て一切のグレーゾーンを排した、党の方針への絶対服従を命じられている。行動として
服従したとしても、内心穏やかでない。それどころか、不満を募らせている軍人は多い
。これは“反腐敗闘争”と同様、軍隊に対する“粛清”プロセスだと解釈できる事件だ
。つまり今や地方政府の腐敗と中央政府が行う粛清とが戦っている状態なのである。し
かし、そうした中国国内の姿勢があっても、トランプ政権は構う事はない。


1483: 名無しさんAA:18/07/17 22:34
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 23 

 が、逆にこうしたしっかりとした中国の独裁政権と見てのトランプの外交戦略かも知
れない。つまり、身じろぎもしない中だからこその貿易戦争と言う一面だ。今や最後の
利益家電のスマートホン業界も韓国は中国シェアは取れなかった。米国資本の韓国株は
今や中国株同様に利益は取れなくなっている。こうした状況下、米国株の上昇は頭打ち
となり、米連邦公開市場委員会(FOMC)の議事録を見ると、関係者は2019年から20年に
かけては、今後の利上げ打ち止めの可能性を示唆し始めている。中国も利上げを持続す
ることが困難になり始めている。中国人民銀行(中央銀行)は今年に入り、相次いで預
金準備率を引き下げ、緩和姿勢を明確にしている。これは人民元を意図的に低めに誘導
するためのもの、との見方もあるがしかし、国内の経済成長を維持するためには、人民
元レートを維持したくても利上げできないのが実情といえる。つまり今や人民元は上げ
る事も下げることも出来ない程国際情勢の中の輸出入に入っている。つまり、膨張する
政府や民間債務の負担から、米国と同じように利上げしようにも、身動きはできない。
例えば、中国政府は累増する国営企業の債務を圧縮するために、債務の株式への転換を
資金の貸し手である銀行に求めているほどだが果たして株式転換して誰が持とうか。実
はここに経済戦争の発端がある様に見える。中国の銀行は今までも中国国内の不動産の
貸付や企業の応援を政府主導でやって来ていた。しかし全くデタラメで支出と収入は、
中央政府に任せて、地方政府の言いなりだった。つまり共産党のお墨付きで土地開発を
やって来たのである。しかしそこで起こった事は人民の農地放棄で輸入に頼った利ザヤ
稼ぎだった。ではこの先どうするつもりなのか。実はロシアのプーチン政権にも米国の
トランプ政権は寄り付いている。つまり軍事と経済を分けてはいないようだ。それが為
にドイツのロシア産天然ガスの購入には大きな反対をしカナダのウランや黒鉛鉱石など
のロシア輸出なども意見している様だ。ところがこうした交渉を見る限り同盟国などと
言うのは名ばかりで何ら配慮はない。同じ様に日本の、北朝鮮問題、尖閣問題、北方4
島問題、あるいは、竹島問題を片付ける気は無い様だ。では何の為に北朝鮮との会談だ
ったのか。それはアメリカ本土に届くとされたミサイル停止の気休めだったのである。



1484: 名無しさんAA:18/07/17 22:34
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 24   

 KPMGインターナショナルが、2017年秋に、世界43ヵ国の主要自動車関連企業の
幹部レベル907名を対象に行った調査によると、2025年までの自動車業界の主要トレ
ンドとしてFCVが53%トップとして挙げられた。と発表した。また、2030年のグロ
ーバル生産台数予測は、EV3000万台に対し、FCV2600万台と、ほぼ遜色ない拮抗し
した結果をだした。(出典:「KPMGグローバル自動車業界調査」2018年度版)この意味は
かなり大きい。KPMGは監査部門に、世界の特殊オイルを一手に握っているビル・オ
マラ統括責任者としている。影に隠れた自動車業界の黒幕である。この頃メンバーチェ
ンジしたが、引き続き監査品質と監査における革新を担当し、将来のKPMGの監査を支え
るとされている先進の監査プラットフォーム「KPMG Clara」をはじめ、重要な技術変革
に力を注ぐ。と声明をだした。又数々のモーターショーや軍事展覧会を手掛けるジェー
ン・マコーミックも税務部門の統括責任者として継続して、このKPMGネットワークにお
ける税務の機能と事業の拡大に注力し、また、責任ある税務行為を行うべきとするKPMG
の役割を強調しつつ、新技術の活用に注力するとしている。アドバイザリー部門および
新規事業イノベーションの統括責任者としてマーク・グッドバーンは、引き続きグロー
バルアドバイザリー部門のヘッドとし、サイバーセキュリティ、デジタル・トランスフ
ォーメーション、テクノロジーの採用など、需要の高い分野に焦点を当て、クライアン
トによるビジネスチャンス獲得に向けた合併、買収または戦略的提携などを支援します
。ショーン・ケリーは数々の欧州自動車業界のヘッドや米国三大メーカーとの仲介者で
グローバル最高執行責任者として引き続きグローバルCOOとして、クライアント向け
サービスのより効果的かつ効率的な提供を目的に、KPMGネットワーク全体の連携に焦点
を当てた業務を遂行するとしている。どうやらFCVのトヨタ技術のホンダ垂れ流し策
が功を奏してこれから加速しそうだ。というのもホンダジェットの成功からであろう。
MRJが国産ジェットとして有名だがメーカーこそロールスロイスのジェットエンジン
だが、作っているのは石川島播磨である。つまり企業戦略の中で三菱と同時スタートし
てホンダの小型ジェットは米国運輸局の規格が通り、既に独自に販売数を伸ばしている
。この繋がりが信用を呼び寄せている。


1485: 名無しさんAA:18/07/17 22:35
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 25   
 EV技術がテスラや日産から漏れ出て中国で佳境の中、欧州ではフォルクスワーゲン
の排ガス不正問題で欧州自動車業界が揺れる中、実際の路上環境下のテストで、日本メ
ーカー3社を含む4社(メルセデス・ベンツ、ホンダ、マツダ、三菱)のディーゼル車
の排気ガスから、規制値を大幅に超えたと告訴された。VWで問題となったのは、法規
で禁止されている「検査用の制御システム」を使っていたからであったが、改めて検査
すれば、スロー状態でのNOxがどうしても出てしまう。BMWが試験用の制御システ
ムを使っていても出ても不思議じゃない。先にスズキが、ヨーロッパで発売されている
フィアット製のディーゼルエンジンに同じ疑いがかけられているが、相次ぐディーゼル
問題に、だれしも驚きと不信感を感じている中で、メルセデス・ベンツ日本株式会社は
ドイツ・ダイムラー社のディーゼル車のサービスキャンペーンをプレスリリースする程
である。つまり今や欧州のこの規制に合格するクリーンエンジンと広告するディーゼル
エンジンなど存在しない。と言う事になった。多くの購買者は自然に優しい排気ガスが
綺麗だ。として購入していたから、ここに大きな溝が出来たのである。こうした事から
は、欧州産業界は方針を変えた。世界の主要メーカーは、足元ではEVシフトを進める
一方、FCVを今後の最重要トレンドと位置づけ、開発・生産に踏み出す事に決めたの
だ。こうして日本とEUの経済連携協定(EPA)を求め、日本政府はこれに署名した
。又具体的にも、GMとホンダは昨年、燃料電池システムの量産を行う合弁会社を設立
した。新会社は、デトロイト近郊にあるGM工場内で2020年ごろから生産を開始し、両
社が今後それぞれ発売するFCVに搭載する予定だ。BMMは、トヨタと提携し本格的
にFCV製造に進出することを明らかにしている。2021年に小規模生産を開始、25年か
ら本格的な量産体制を構築し、その時点ではEV並みの販売価格を目指すとしている。
GM・BMWを初め欧米メーカーが、水面下でFCVの開発を進めてはいた。各国政府
はしかし、FCVの研究開発よりは、水素ステーションの整備に追われ、多額の補助金
を出して強力にバックアップしているものの水素輸送に難題があったのである。しかし
今や世界一のEV大国中国が、「製造強国」の国家戦略「メイドインチャイナ2025」に
、FCVの産業化と水素インフラの整備を進めることを明記して追い上げる中では、こ
の欧米には尻に火が付いた状態だ。地方政府レベルで、上海市が昨年9月「上海市燃料
電池車発展計画」を発表し、2025年に水素ステーションを50カ所建設する。FCV乗用
車を2万台生産、バスやトラックなどの特殊車両を1万台以上保有にするという目標を
打ち上げている。ここで中国車が追い上げてくれば、イギリスのタクシー会社同様欧州
の産業は成り立たない窮地にはいる。

1486: 名無しさんAA:18/07/18 01:26
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 26  

 こうして、今後の世界中の自動車メーカーを巻き込んだ「EVシフト」が一段落した
次には、官民一体となったFCV開発競争がヒートアップすることが予想される産業界
だが、恐らくトランプの頭の中は、自国の中の軍需産業とユダヤ金融資本の動きであろ
う。中東に対して、一応はエルサレムに領事館移動で賛意を示し、イエメン戦争をして
いるサウジすら武器売却はしたものの、銃器問題と兵器問題は根が深い。売るな作るな
とは言っても、ロシアがより以上の武器を作り、中国がより以上の売り込みをすれば、
当然どうしょうもない。ここが今の思案のしどころと思っているだろう。オバマの様な
パフォーマンス外交に乗じる気はない。と言って米国の危機は起こせない。イランの核
合意の危うさに声をあげたのも中東情勢の掌握が出来ないからだろう。と言って石油の
利権を手放すほどのおおらかさがアメリカにはない。もし日本技術で石油が要らなくな
ったとしても世界中に石油を欲する産業は多い。只サウジへ今払ってる金はサウジには
入らない様になるだろう。その意味では、サウジはイエメンに砲撃するのはやめた方が
いいのだが、あいつらは馬鹿だからイスラム対立は収まらない。と考えているはずだ。
今やシリアの情勢はソ連の防衛指揮下にはいりイラクはアメリカの防衛指揮下に入った
。日本人にはわかりにくいが、この二つは砂漠の中では境界のない大国である。勿論、
イランとサウジはより以上の大国なのだが。イランは438、317Kuで、日本より
少し大きく、山もあるが日本以上に開けた大地にある。バクダットは日本の古代より古
い歴史ある街である。又シリアもその交通の要所上であり、イラクの半分以下の185
、180kuとしている。元々オアシス国家の集まりであり、シリアと言う国はなく、
イスラエルに似た要衝の地で、各々の部族の長が治めてオアシス国家を守っていた。つ
まり、逆にアサド政権は祀り上げられた国王であり、中国の様に抑える事が不可能な力
であれば、その部族長達の意向を無視する事は出来ない。即ち中東に於いてアラブの春
などと言う革命は無理なのである。かつてのイランイラク戦争でも、シリア・バアス党
とイラク・バアス党は政治対立になった。イラン・イラク戦争ではイラン支持に廻り、
湾岸戦争ではシリア軍が多国籍軍の一員としてイラクに侵攻するなど、対立の時代が長
く続いていた。基本的に日本軍が統一していない中国大陸に進軍した事と同じで民主化
勢力がいくら政府を倒してもリビア革命と同じにどうする事もできない。

1487: 名無しさんAA:18/07/18 01:27
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 27  

 それを知っていたのがロシアのプーチンなのであって、だからこそアサドを守ったの
である。この中東情勢が最終的には世界経済を握る可能性は高い。今でも石油資本の元
となって今までの世界の経済戦争の中心にいたのだが、リビア原油とイラン原油が回復
してその後の経済発展の国はやはり発展していない地下資源の国となり、アフリカ又は
中東しか残らない。南米にも石油は産出するが緑の資源を犯す程になく、洗剤用の椰子
の実だけで充分国際的シェアを持つ。対してアフリカは鉱物資源もとれる。となれば、
中東は石油しかない土地柄なのである。つまり最後まで発展しにくい土地となる。ここ
が問題である。水さえも売れる国なのだ。砂漠の中で日本以上の土地を持ちながらも、
日本の10分の1程の国民が宗教戦争に明け暮れ、生活できない避難民が欧州に溢れて
やって来たのだ。穏やかな話ではない。よく日本の中の評論家は北朝鮮外交に対して、
ロシアや中国を味方につける様な言い方をする馬鹿がいる。別に敵になれとは言わない
が借り貸しなどぞんざいしない国に何故借りを作ろうとするのか。今や北方四島までも
ミサイルを配置するロシアである。ならばすぐに北海道に3ヶ所ぐらい対抗ミサイルを
配置し建設すべきであろう。キューバ危機の様になってでも自衛隊は外交も含めて自衛
の為の阻止を首相は命令すべきだったのだ。それを何をにこにこと能無しのように握手
して経済援助を申し出ているのだろうか。安倍外交の破綻である。物が言えると言う事
は八方美人で会えると言う事とは意味が違う。景気対策も同じである。税を上げるとい
う理由は税収が少ないからで、それを保税担保に補助事業を増やして国債発行して国家
予算の実利を減らして、孫の代すら借金倒れになるのであれば、そのまま税をいじらず
2〜3ヶ月もすれば、リーマンショックも薄れ景気回復したのである。本末転倒である
。何の為の税制か、誰の為の国家か。なにも議員の為ではない。この意識は米国民は、
常に持っている。かつてのオバマ時代に予算通過がしばしば途切れて、国会図書館の公
務員の給与すら延期になった。しかし その予算すら日本の様な、リミットオーバーの
予算ではない。僅かの超過予算だったし、国民皆保険の審議だったのである。この意識
の違いは日本の議員は見習うべきであろう。そうした意識でトランプ戦略をみれば、実
に優柔不断の政策を取っているかわかる。つまり北朝鮮など気にする必要はなく中国に
寄り付かない日本を堅持する事の方がより大事なのである。つまり韓国米国に任せれば
いいのであって、北の為に中国にすり寄ることなどもっての他でありロシアが強制収用
の捕虜を酷使して50万以上の死者を返す事すらしていない責任を今だ取ってない事を
自民党や安倍は追及すらしていない。

1488: 名無しさんAA:18/07/18 12:08
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 28  

 しかし、この貿易戦争は、変わった戦争である。かつて日露戦争後の頃、缶詰輸入を
しようとした米国に日本が鉄が少なかった為に国が規制してNOと言ったが、そんな風
な時代の様な雲行きである。これまで、日本人は世界の食料事情について、盛んに先生
や評論家から、日本は多くの食料を輸入している。食料を輸出している国が食料を輸出
してくれなくなると飢えてしまう。だから、食料自給率を高めなければならない。と、
政府を上げた話であった。しかし、今や話は違うらしい。中国政府は4日、米国が対中
制裁の品目案を公表したことへの報復措置として、大豆や自動車など106品目の米製
品に25%の追加関税を課すと発表した。しかし大豆は米国に代わる輸出国を見つけた
り、他の農産物置き換えることが難しく、中国は国内企業にも痛みを強いることになり
そうだ。と報道される。大豆は中国の対米報復制裁で最大の「武器」とみられている。
対中輸出が落ち込めば、アイオワ州を初め、米大統領支持の農業生産の盛んな州を直撃
する。米国の昨年の中国向け大豆輸出は120億ドル相当で、対中農産物輸出では最大
の品目として上がる。現在中国は世界で世界の取引大豆の約60%を輸入し、家畜飼料
用の大豆ミールに加工しているとされる。アジア首席エコノミストのマーク・ウィリア
ムズは「米国を除くと、世界には中国の需要を満たすのに十分な大豆はない」と指摘さ
れ、「中国が輸入への依存度を引き下げる場合、いくつか選択肢はあるが、中国国内で
国内でコスト増を回避しながら米国の農家に打撃を与える特効薬などない。」と話す。
つまりどんなにしても、中国国内の大豆の値段は高くつくだろう。と言う訳だが。その
高くつく国内産に切り替えよ。と言う訳になる。しかし農産物は直ぐには生産されない
。当面は輸入に頼る他がないはずだ。それを国内於いて輸入関税かけると言うのである
。中国の昨年の大豆輸入は半分はブラジル産だが、米国産も約3300万トンと約3分
の1に達している。これだけの量を他の国からの輸入で穴埋めするのは容易ではない。
世界第3位の大豆生産国であるアルゼンチンは干ばつに見舞われ、18年度の輸出は7
00万トン弱と、過去10年で最も少ない量とされ今年も旱魃に近い状況だ。ブラジル
、米国、アルゼンチン以外の国からの輸入も約1700万トン、生産国は限られる。こ
の輸入関税は、これまで中国もアフリカ諸国やソ連の中東に同じ様な圧力として用いら
れては来て、安価な石油や安価な鉄鉱石などを入れた。米国の溶鉱炉解体もそうだった
。自国の作業員で大型サイロを解体して船で運び入れた。この時も安くしないと買わな
い。だったのだ。中国国内に鉄製品が無い事で大弱りしているにも関わらず。である。

1489: 名無しさんAA:18/07/18 12:09
 正に日本農業の様な蟻の様な国には出来ない象の戦いみたいなものだ。中国国内の大
豆生産量は約1400万トンだが、主に食品向けで、輸入大豆は大豆ミールに加工して
いると言う事で米国産も約3300万トンが3割とすればおよそ1兆tonが中国国内
の消費量と言う事になる。極めて大きい数字だが、これが家畜用とすれば直ぐには影響
は出ないと思われる。とばっちりは日本に来ている。既にブラジル産大豆飼料は上がっ
ているのだから困ったものだ。米国大豆輸出協会のアジア部長のポール・バーク氏は、
「中国が国家備蓄した大豆を放出するだろう。との見方がある。」としながらも「こう
した政策に踏み切る可能性はあるが、中国の備蓄量は分からない。」と述べている。と
なれば、米国は米国産牛肉を買わせるための戦術なのかも知れない。専門家によると、
中国には大豆の戦略備蓄を放出したり、家畜用飼料における大豆ミールの配合比率を変
えるなど、国内で打つことができる対応策もある。と言う。飼料メーカーの一部は大豆
ミールに代わる原材料探しに動くなど、密かに対策を進めている。飼料メーカーは中国
国内でだぶついているトウモロコシやトウモロコシ蒸留かす(DDGS)、エタノール
生産の副産物、菜種、綿の実などの配合比率を高めるかもしれない。と話す。日本では
こうした事は行われていない。かつては各地域農協に低温倉庫の備蓄が決められていた
が、政府の馬鹿な農業改革で、あっけなく規制を解き維持できなくて解体している。そ
れでも主食の米であったのだが。この流通に乗って食料備蓄を止めたのは馬鹿の自民党
政府である。家畜飼料でさえ備蓄する中国は日本より偉いと言える。その理由は家畜用
飼料限界とされるのタンパク質の水準が他の配合だとしても維持するのは難しいからだ
。DDGSの配合比率は20%程度が限界で、菜種も飼料に不向きの物質を含むことか
ら豚用飼料としては5%が上限。しかも雌豚や子豚には与えられない。今や中国も食肉
はオーストラリアやドイツなどから輸入してだぶついてはいる。いつぞやは汚染された
地下水を飲んだ豚が何万頭か死んで死骸の処理に困って川に捨てた事件が発生したが、
幼児の粉ミルク同様廃棄されていたのかも知れない。飢餓問題研究所では豚肉1sで、
一般人60sの野菜の量が必要とされる。つまり豚一匹に凡そ人の一生分の野菜である
それでも豚1sは人の食料4人分で、牛は10ki分のとうもろこしをたべて、1ki
を作り出し10倍すなわち10人分。つまり、牛肉1キロを作るために、10キロの穀物を必要とします。牛肉で養える人数を一人とすると、穀物で養える人数は十人と言う事に
なる。更に体重の中の水分や血や骨や内臓は食しないのでおよそ20〜30倍の食料が
必要とされる。更に高品質の牛の肉などは個体差、温度差によってもっと少ないことも
多く牛肉1sに30kgの穀物が消費されている例もあるので40〜50倍という試算も
可能だ。乳牛も同様で、牛乳を作り出すために飼育されている搾乳牛は、最も穀物消費
量が多いとされる。

1490: 名無しさんAA:18/07/18 12:11
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 30
  
 日本はヘンな国で、かつてはビフテキやステーキを食べる豊かな欧米人が、ふりかけ
ご飯でアジの開きや焼サンマを喰うものか、箸すらも使わないで銀のスプーンなのに。
と勝手に思っていた。事実その頃の欧米人は高カロリーの肉食者は多かったが、近年の
中国の進出でサンマ一尾1万円で競られ、土用のウナギすら高級品の世界に変化した。
ウナギのかば焼きは江戸時代醤油が出来て、食べる物の無い谷間の集落の仕方ない食い
物としてかば焼きにしたのである。身が少なく料理しにくく何回もあぶってやっと美味
く食べる方法を見つけた。と言う曰く付きのもので、納豆や梅干しと同じ非常時の食べ
物だった。牛肉は日本では田畑を耕す家族の様な物で、そうそう食する物ではなかった
。インドと同じく神様だったからだ。鶏の卵すらも大事な売り物でしか買われなかった
。南米などの貧困地域での飼料用穀物が多く生産されて、この穀物は遠い日本やヨーロ
ッパの動物の餌になっている現実がある。日本は多くの飼料用穀物をアメリカから輸入
しているが、中にはこうした最貧国の農場の近辺に住む人々の手には入らず日本に来て
いる物もある。日本が海洋国家だったからこうした高度成長を果たした豊かな国になっ
たのだが、これを中国も真似て恐らく貿易国家としての夢を果たそうと考えている。が
しかし、それは無理だ。海すらも中国人の貪欲で脳無しの獲り方に七つの海の生物は居
なくなっている。つまり彼らに「足るを知る」と言う文化はないのである。もともと、
ロシア米国中国などは国が広すぎて人を管理できない中にある。日本の税と米国の税に
は違いがある。それは軍も同じで、彼らには産業であり未開を征伐する金に税がある。
日本の様な社会インフラの充実になどと言う事は無い。共生生活よりは盗賊生活を重ん
じた文化である。土地が広大で逃げるに海でストップする環境ではない。かつて2X4
の発祥は「車で家を担いで州をまたぐ。」という発想からであったと教わった事がある
。即ち州法の違いが多く、借金で逃げれば捕まらないかぎり安全だからだ。すなわち借
り逃げで法的には所払いの刑なのである。中国も同じ様で、その為都市住民と農村住民
とは当初から仕分けされ住民票を移す事は出来ない。生まれた所が永住の地である。日
本の江戸時代の関所より厳しい中国で企業も同じだ。基本的に、出資に対する規制で、
中国で現地生産しても、単独出資による現地生産会社の設立は認められない。必ず中国
の現地人と提携し、合弁生産会社を設立しなければ商売は出来ない。その際の、外資系
メーカーの出資比率は過半数を超えられず。過半数未満の出資比率で現地メーカーと手
を組む形で乗っ取られる。又外資系メーカーが提携できる中国メーカーは2社までとい
う狭さで経済破壊の国を守っている形だ。これではトランプが怒るのは無理はない。

1491: 名無しさんAA:18/07/18 14:42
米国は 出来るだけ早くイスラエルに原爆を落としてユダヤ人を殺したが良い。彼らに
悲しみなどと言う 人間愛は無い様だ。世界を悪化させるだけだ。



1492: 名無しさんAA:18/07/19 13:33 ID:iPk
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 31

 そもそも今回の貿易戦争は、習近平が中国人向けの虚妄から出て居る。「中華の夢」
をおったてたのはまだ国家主席の席の前の解放軍を前にした演説だった。「中華中心主
義思想」の中心でもある習近平は、「陸・海・空・宇宙・電脳空間」いずれでも負けて
はならない。と叱咤激励したのである。今ではこの経済優位を盾に「一帯一路」をうち
出し、中国は2050年までに「国家として総合的な力を確立し、世界に大きな影響力を及
ぼす国際社会のリーダー」になるとし、米国を仰臥すると言っている。中国の夢の延長
でもある。国内な事情を考えて「中国が米国を上回るような大国になる」と言い始めた
ことが今の事態を作っている。情報統制を今でも行われ、庶民はこの程度のことは理解
しているだろうが。その庶民が、豚肉の価格がアップすれば「習近平が余計なことを言
ったために自分たちの生活が苦しくなった。」と思う事になりそうだ。これは習近平に
とって最悪の事態である。習近平は、かなり無理をして中国の中に独裁的な地位を維持
している。しなくても良かった貿易戦争をトランプ政権と行う羽目になり、その結果と
して豚肉価格がアップしたとなれば、その失政を対立派閥(共産党青年団と江沢民派)
に突かれること元にもなりかねない。報復関税の対象として大豆が真っ先に上がったこ
とから考えても、米中貿易戦争において中国が持つ武器は限られている。米国はその辺
りを冷静に見極めて、貿易戦争を仕掛けたと思われる。報復関税をして国内に政府が補
てんするなどという“ドタバタ”を見れば、中国政府の慌てぶりがよく分かる。この辺
りのことから考えても、米中貿易戦争は米国の勝利に終わると踏んでもよいだろう。が
しかし、である。中国はそんなに甘くない。かつても守るべき人民の生活や死も厭わな
い「清野作戦」が唯一の共産党のゲリラ作戦だった。つまり略奪強姦何でもありでその
後に集落ごと焼き尽くして原野にしてしまうのである。この何でも構わない無茶苦茶な
戦争でもない匪賊として鬼畜の様なのやり方に日本軍は住民を見て涙した話は多い。だ
からこそ、一般人が乳児さえ預けて中国残留孤児を作ったわけだが、今回も世界事情が
どう悪化するかは不明である。つい最近までアフリカの奥地に行ったビジネスマンは、
軍事政権とタイアップして同じ事を行い、スーダンの石油やエチオピアの金を輸入して
いた様だ。今では、コンゴの宝石などがウガンダの鉄道を使いジブチ経由で輸入する。
面白いのは今やアフリカの象牙がマンモスの骨と一緒にロシア経由で長春に送られてい
る事だ。つまり黒竜江省がアフリカ資源の入口でトラックで陸送されている事だ。


1493: 名無しさんAA:18/07/19 13:34
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 32

 現在は地球上にある金18万トンに対して、基軸通貨の流通量は5倍の通貨が出回っ
ている。とされる。中でも中国通貨は2割を超えている。ドルショック以来に金本位制
をやめて強制通用力で原油通貨として回した。その後は金本位制に戻さず、政府や資源
の信用で流通する信用通貨で現在は回っている。つまり不換紙幣であって金銀との兌換
が保障されていない法定紙幣なのだが、中国は今正に今後の為にアフリカの盗掘を進め
ている節がある。つまり今、中央銀行などを流通している政府の信用紙幣は、世界をぐ
るぐる回すことしか能がない証紙であると言える。この金72万トン分の空売り分をど
うするかが問題で金融連合を救済する目的も兼ねてこの裏付けのない分を仮想通貨に肩
代わりさせようとしている。日本から始まったゼロ金利政策だが、いずれ世界の趨勢に
ならざるを得ない。何故か世界資本に拡大の要素がないからだ。確かに地下資源や鉱物
利用は機械化と共に拡大している。しかし生物資源は減少の一途で増える傾向にない。
第二次世界大戦時も欧州社会は既に食料調達は切れていた。ただ新たな芋やトマトなど
の新しい植物とアメリカと言う広大な原野によって供給した。又日本は北海道や中国や
朝鮮に農地開拓をして増産を果たした。歴史的に我々が間違いやすいのは世界恐慌が、
まるで株価操作によって起こったかの様に言われている事だ。実はその前年は天候不順
で穀物特に小麦は大きく不作だった。ソ連の改革時代スラブ地方の小麦収穫は例年の8
割りにも満たない事が次々に起こっている。フランスやドイツは他の海洋国と違いこの
スラブの小麦に大きく依存していた。世界恐慌(せかいきょうこう)とは、世界的規模
で起きる経済恐慌であるとされるが、クリミア戦争が終結した時に穀物価格が急落した
ことにより1857年に起こった。この1857年恐慌時代に大勢の浮浪者が産まれてアメリカ
に渡った。通史的には1929年に始まった世界大恐慌をさすが、1928年に既に1月1日
エストニアが通貨マルクをクローンに変更するぐらい小国は疲弊していた。1月7日には
ロンドンのテムズ川が氾濫して大騒ぎになっている。14人が死亡が氷山の解氷で死ん
だ。しかし1843年から干上がりって、雑草で草生していたロンドン塔の堀が津波によっ
て完全に水に満たされたとしている。


1494: 名無しさんAA:18/07/19 13:34
      世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 33

1900年代は、飛行機の幕開け時代だった。1903年ライト兄弟が飛行機による最初の
有人飛行を成功させ。1917年チャールズ・リンドバーグに対し、大西洋単独飛行の功績
を讃え名誉勲章授与された。今までにない華やかさの陰で、アメリカ合衆国大統領の、
ウィリアム・マッキンリーが、パン・アメリカン博覧会の会場で暗殺されている。暗黒
の米国時代の幕開けでもあった。日本は1905年の日露戦争・日本海海戦に勝利して列強
入りを果たしたとされる。しかし自然の猛威は所を選ばずどこでも起こった。1906年に
サンアンドレアス断層を震源として発生したサンフランシスコ地震は、サンフランシス
コの市街を破壊して約3千人が犠牲となった。この中にも日本人は数多くいたとされる
。パナマ運河の掘削。米比戦争後、1902年フィリピンは米国の植民地となった。昭和天
皇の即位の礼挙行し11月14日大嘗祭挙行で日本が浮かれている頃世界は各段に大変化を
起こしていたのである。共産精神としてコミンテルンが輸入され「日本問題に関する決
議」がいわゆる28年テーゼの「マルクス主義」が起こっていたのだ。この共生共産思想
はアメリカ国内では既に広く渡っていて、強大な共産思想で資金を得て、パナマ運河や
巨大ため池セントフランシスダムなどの建設が行われていた。土地開発が進むロサンゼ
ルスで、需要に対応すべく大規模なダムだったが、水を入れる段階で、既にいくつかの
亀裂が見つかり、その後も亀裂や漏れが度々発見されていた。 1928年3月12日の午前中
、ダムの設計者マルフォランドが定期検査を行ったその数時間後ダムが決壊した。4700
万の水がロスの北、サンタクラリタバーレに流れこみ、建物10階分の高さの水の壁が
時速29キロでサンタクララを襲い、ベンチュラ郡の多くも最高で21mの泥の下敷き
になり、432人が死亡した。サンタポーラの街も、6mの泥と瓦礫の下に埋もれ設計
の欠陥が指摘された裁判になった。4月22日 - ギリシャのコリントで大地震が発生し、
20万棟の建物が倒壊。ノビレも乗船していた飛行船「イタリア」が北極点付近で墜落。
張作霖爆殺事件(満洲某重大事件)ネブラスカ州ポッターで世界史上最大の雹が落下。
12月21日 - アメリカ合衆国議会、ボールダー・ダム(後にフーバー・ダムと改称)の
建設を許可する決議を採択と続く。こうした事は異常気象による対策の歴史であり、時
の不条理な歴史を織りなしている。


1495: 名無しさんAA:18/07/19 13:34
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 34    

 今では地球は温暖化に向かっている。というのは主流で確かなことのようだが、歴史
の上では、話はそんなに単純なことではないと言う事の様だ。そもそも地球は誕生以来
、大小様々な気温の変化のウネリの中にあって、常に「気候は大きく変動してきた」と
いうのが常識のようだ。「異常気象」という言葉は、気候が大きく変動していく中では
、常に気象に「異常」というものはなく、「普通」という意識が重要となりっている。
「気候文明史」を読んでみると、歴史的エポックの背景には、常に異常気象や天候不順
、自然災害が存在している。氷河期から現代まで、気候が与えた人類の文明や歴史には
意外な事実と影響があった。例えば、スペインのペルー征服も実は第一回航海が逆風で
パナマからは通常は一気に南下出来なかった。保々の体で流れ着いたのペルーだった。
北上している逆流のペルー海流と、逆風があったため、航海の環境は厳しいものだった
ので次から来れない所と思いきや、数年ごとに発生するエルニーニョ現象や偏西風の蛇
行の変化、十年ごとの太平洋の海面水温の上下動、数十年・数百年といった単位での、
太陽活動の変化といった大規模でゆっくりとしたうねりは、各大陸、北半球・南半球さ
らに地球の気候全体を変える力を持っていた。「エルニーニョ現象」が起きて貿易風が弱
くなり、ペルー海流が逆流になる上豪雨になったのだ。こうして遠征の年は、まさにこ
の「エルニーニョ現象」の年だったので、タイミング良く3回目の遠征時に来た「エルニ
ーニョ現象」の餌食となって大軍勢のスペイン人に滅んだのである。「元寇の大風」が
日本を守る神風となりましたが、ペルーにとってはエルニーニョが逆風となってしまっ
たのだ。しかしこうして歴史さえも変えてしまう異常気象も、わずか2・3度の水温の
上昇した海面で起きてしまった。なぜ、こんなわずかな変化で、海流・気候が変わるの
か。実は逆で膨大な宇宙との熱の出入りの変化があるのだが、水の量や空気によって、
僅かな2〜3度の変化で済んでいると言う訳である。まず、地球の気候について、様々
時間的周期変動がある。太陽を回る地球の公転軌道の離心率の周期的変化から、地球は
10万年サイクルで氷河期と間氷期を繰り返している。最後の氷河期は約7万年前に始
まり約1万年前に終わったとされる。最終氷期に旧石器時代が訪れ、土器を作る文明が
始まった。そして現在は、次の氷河期が来る前の間氷期という温暖な時代の中にあると
される。ここ2000年の間には、太陽活動の強弱と巨大火山噴火により寒冷期と温暖期を
繰り返してきたことが解っていて、寒冷化、温暖化、干ばつ、火山噴火は常に起こって
いるそして有史以来、人類はこの気候変動に起因する「異常気象」なるものとの戦いを
繰り返してきた。

1496: 名無しさんAA:18/07/19 13:35
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 35

 人類の歴史の中には森羅万象ありとあらゆるものが変動要因になっている。とりわけ
、太陽黒点周期や、気候変動は、景気変動や経済活動との関係があると言われている。
経済活動には、日々の習慣の食事もあるが年間の四季と言う季節もある。一般的には、
約40ヶ月の在庫循環(キチン循環)約10年の設備交換、太陽黒点周期(ジュグラー循環
)住宅や施設建替え(クズネッツ循環)環境破壊や都市機能移動(コンドラチェフ変化
)などを人々は起こして来たとされている。これが災害で変化するのである。近年の古
気候学の研究では、太陽活動は数百年単位で活発化し、あるいは低下して地球の気候は
数百年単位で変動することがわかってきてこうした循環説が唱えられるに至った。つま
り見えなかった循環が災害が無ければ周期的に起こったであろう。とされ逆算されて、
戦争や紛争が、又太陽活動変化で巨大火山噴火を起こし、噴火による「火山の冬」の到
来など、火山噴火自体も又地球規模で気候に影響を及ぼしてきたことも判明した。そし
てその度に人類が築き上げた文明は興亡を繰り返してきている。太陽活動の強弱と火山
噴火は太古の昔から地球規模で気候の温暖化・寒冷化をもたらす大きな要因であったわ
けでこれに海流変化が加わる。この3つの要因による気候変動の歴史と日本列島や世界
の気候変化は無縁では無い。地球規模の気候変動は日本列島付近の気圧配置を変えたし
、夏季の太平洋高気圧の外縁を時計周りに流れる南西モンスーンの勢力に変化を与え、
冬季の寒冷なシベリア気団の動向に影響を及ぼしてきた。また、北半球を一周する偏西
風が大きく蛇行させ、寒冷低気圧が日本列島を覆って異常低温をもたらし、オホーツク
海からの北東風による冷たい寒気が東日本の太平洋沿岸を襲うことも近年立証された。
こうしてもたらされる豪雪豪雨は世界規模だ。こうして出来る気候変動は、天候不順や
異常気象をもたらす更なる主たる要因になる。日本列島においての、温暖な時代に干ば
つの到来で凶作となる時には、世界も又同じだった。寒冷化すると冷夏・長雨によって
飢饉に見舞われることになった時、天候不順は疫病を大流行させ、社会不安や戦乱の要
因ともなってきたわけだが、欧州のとりわけ東欧のスラブ民族や中東の外れの大洪水な
どは大いに貧困や戦さを呼び日本にさえ影響を及ぼした。


1497: 名無しさんAA:18/07/19 13:35
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 36
  
 さてここで問題である。この災害に誰が対応するか。と言う疑問である。これまでは
大半は欧米社会が救済して来た。これまで地球上は古代には四大文明が世界を建設を始
めた。その後欧州社会のルネッサンスや産業革命でスペインやイギリスが台頭して世界
をつなげた。世界に大きな戦争を起こして後は、米国が世界の覇者として経済のモデル
事業を興した。オバマが世界の警察官を止めたと発言した後、今後の流動人口からは、
直ぐには来ないが中国が覇者に来るのは間違いないだろう。日本で起きた大きな食料危
機は1918年の米騒動と終戦後の食糧難だ。共通しているのは、米や食料品価格の高騰で
ある。供給が需要を満たさないので、価格が上昇した。輸出の急増、生産の大幅減少と
いう一時的、突発的な事由による出来事であった。世界の食料危機としては、1973年、
2008年の穀物価格高騰が挙げられる。これも、世界の穀物生産の減少やソ連の大量穀物
買い付け、アメリカの政策変更によるトウモロコシからのエタノール生産の増加という
一時的な事由によるものであった。これらの食料危機は、いつもは穀物や食料品の価格
が低いのに、天候不順などの何らかの突発的な理由で需給のバランスが崩れ、価格が急
騰するというものである。これは、槍のように突出することから、「市場の棘」とされ
ている。世界各地で開催される農業や食料の国際会議で、決まって言われることがある
。「2050年には世界の人口は現在の74億人から96億人に約3割増加する。さらには経済
発展で一人あたりのGDP増加で、都市化も進展するので、穀物をエサとして生産され
る肉や乳製品など畜産物への需要が高まる。これは穀物の需要を大きく増加させる。総
じてみると、世界の食料生産を6割程度増加しなければならない。」などとというもの
だ。この見解を広めたのはFAO(国連食糧農業機関)である。又同じ資料から日本の
農林水産省も同じような見通しをいう。否、この話は世界中の専門家たちが同じような
事を言う。しかしこれに対して、歴史的にはやがて生じると言われる食料危機は、恒常
的に供給が需要の増加に追い付かないという構造的な理由から、価格が上昇していくい
うものだが、結果はそうはなっていない。これまでの食料危機は殆ど政治的経済的な、
一時的、一過性のものであった。のである。これまでの物価修正をした米国農務省の統
計は、トウモロコシ、小麦、大豆の過去約百年間の国際価格の推移は一般的な物価水準
からは、実質的な価格はむしろ下がっている。物価修正というのは、インフレやデフレ
という要素を除いた実質価格下落でも国際メジャーは潤っていたのだ。一時的な「棘価
格」はあるものの、価格が傾向的に下がっていることは間違いない。人口の増加は4倍
を超える。これこそ人口爆発と呼んでよいのに、恒常的な食料危機は起きていないのだ。

1498: 名無しさんAA:18/07/19 13:36
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 37

 食料危機が起きる可能性は少ないのに、なぜFAOや農林水産省などは食料危機を煽
るのか。食料危機の際には政府によって最も不利益な扱いを受けるはずの農業業界であ
る。最も声高に食料危機への対応を求める。このような不思議なことがなぜ起きるのだ
ろうか。理由は単純である。日本の農業界だけでなく、FAOに代表される世界の農業
生産業界にとって、食料危機を叫べば、生産を増やすべきだということで、農業保護を
目的とした彼らの組織への予算の増加が期待できるからだ。食料危機は、農家が最も利
益を得るの時期である。餓死者も出た戦後の食糧難時代、日本でも農家はヤミ市場に農
作物を売って大きな利益を得ている。小作人は土地を分捕り飢えに苦しんだ都市生活者
は農家の庭先に出かけて頭を下げた。高飛車な態度の農家から、貴重な着物などと交換
に食料を貰い受けた。着るものが箪笥からだんだんタケノコの皮を剥ぐように無くなっ
ていくことから、「タケノコ生活」と呼ばれた。インフレで減価する円よりも農産物の
方が、はるかに購買力があるという不思議な時代だ。 農家にとっては一時の繁栄が、
宿った。だが多くの人にこの時の農家の対応を今も根に持っている人は少なくない。食
い物の恨みは消えないのである。ちなみに、輸入がないので、このときの食料自給率は
百%である。今では僅か38%である。食料危機への対応や食料安全保障は本来消費者
が主張することであって、農家や農業界が主張することではない。これらの目的のため
に食料の安定供給という義務を課されるのは農家である。終戦時は、増産や政府の供出
という不利益処分を強制されたのである。それでも彼らは補助金の為に政府予算の為に
叫んで止まないのである。同じ様な構図に安全保障がある。即ち兵器を作る軍産企業体
である。彼らは戦争が無ければ開店休業で、政府支出が無ければお払い箱となる。その
為日本の高度成長期にミサイルを飛ばすのに作られた6$ベアリングが、日本のビデオ
機器に使われた0.5$のベアリングに摩耗率回転精度など全てに劣っていたという。
食料危機の際には政府によって最も不利益な扱いを受けるはずの農業界が、あるいは、
戦争になれば、保証も年金もない社員兵士となるのに、最も声高に食料危機や安全保障
の危機を叫ぶ。このような不思議なことが起きる。     

1499: 名無しさんAA:18/07/19 13:36
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 38
 今後の人口推移の予測では、およそインド・パキスタンと中国で 世界人口の半数と
なる。今や中国は地道にこのインド洋海域の海運ルートとその産地である南米と豪州、
更に資源のあるアフリカの海路のの港を着々と浸食している。パキスタンのグワダル、
バングラデシュのチッタゴン、ミャンマーのシットウェー、さらに今回のスリランカの
ハンバントタなどで、中国の大規模な資本投資による近代港湾施設が建設されてきた。
かつてのコロンボと言われたセイロン島のスリランカでは、3億6千万ドルにも上った
ハンバントタの新設港の第一工期費用は、借款として85%を中国政府が支援し、建設
も中国の国有企業・中国港湾工程公司が担当した。質の高い乗客用ターミナル、貨物取
扱所、倉庫、燃料積込地、食糧供給、メンテナンス・修繕設備、医療供給、決済設備な
どを備えているという。総工費15億ドルの 巨大なインフラ・プロジェクトであり、
スリランカ経済を一転させる設備として、マーケティングが展開されてきた。しかし、
実体は返済しきれない負債を負わせ、中国の経済、軍事、政治事情に従わせる、いわば
「借款トラップ」でインフラは中国融資とは名ばかりの高利貸付のヤクザ商法で、中国
の利益を生み出す目的で建設された。たとえば、スリランカ南部のハンバントタ港は、
2010年、中国側から建設費用の85%を借款して、国有企業・中国港湾工程公司が建設し
たが、年利6%以上の高利で、わずか「一日一隻」という利用率だ。この港から北へ30
キロ、マッタラ国際空港がある。同じく建設費の9割ほどが中国の融資で、中国港湾が
建設担当。しかし、蓋を開ければ開業後の月の収入はわずか 約1万5000円程度。米フォ
ーブスに2016年「世界で最も空いている国際空港」などと評された。コロンボ港に突然
中国の潜水艦が寄港し「スリランカは中国の植民地ではない」と、国民の強い反発を買
い、合意は一時棚上げされたが、ハンバントタで、現地市民や僧による中国資本の開発
に抗議するデモが発生し、軍が放水で強制解散させ、軍事開発と疑われた中国資本によ
るコロンボ港整備工事は中止させたもののそれで終わった。止められない赤字拡大で、
2016年に再開を認めたのだ。さらに今年はじめ、スリランカ政府と中国政府によるハン
バントタ港の運営権の99年貸し出し契約案が正式に交わされた。合意内容はスリランカ
海軍の担う治安警備の権限を、中国側が全面的に行うとの内容だった。つまり中国に、
この港を只で貸す為に住民と闘争して港を作ったようなものだった。 2009年5月に25年
以上にわたる紛争が終結したことを踏まえ、国の安定化に基づく成長戦略を掲げており
、2011年の実質GDP成長は8.2パーセントを達成するなど、本格的な成長期にありながら
。観光業をはじめとする各種産業が成長する一方で中国の毒牙にかかって経済停滞した
形である。そして借金は安くなったのみだったのである。

1500: 名無しさんAA:18/07/19 13:37
       世界閲覧 32     世界の中のトランプ戦略 39

 実は南米とアフリカには日本の耕作地の百倍ほどの耕地が残って居ると言われている
。現実的には中国国内の砂漠化する耕地を農地に変えられれば同じくらい何千万Kuか
かの耕作地は作れるかもしれない。となるとこれまた中国は10〜20年程度と違い、
百年〜二百年先の食料事情を考えているのかもしれない。人口の比率では中国13億イ
ンド13億人 アメリカ3.2億人インドネシア2.6億万人ブラジル2億人で上位を占め
る。あとは2〜1億人でそうそう多くはない。中国とインドで、世界人口全体(192
国と42地域ある)の4割、上位10ケ国で6割を占めている。つまり今後世界人口の
半数はインド人か中国人なのである。ヨーロッパのEU27カ国全体でも合計で4億9
千万人で5億人ぐらいでおよそ中東から移民をいれてもインド人や中国人の半数もない
。如何に巨大所帯の国かと知れるだろう。人口的や産業的には例えばEUと米国が同じ
程度でありカナダ豪州日本を入れてEUと米国をまとめ上げればやっと中国と同等人口
となるここではじめてインド:中国:西側諸国と並ぶ世界になる。こう考えれば、既に
アメリカと中国の覇権争いがあっていて、如何にこれからのルール作りをしていくのか
に問題点がある事が浮き出てくる。ここで今日本がすべきことは決して米国も中国も、
覇道を歩かせないことだ。欧州と同じに秩序ある王道を指導し先導しなければならない
。何故なら今後先進国は少子化現象は続きどんどん人口は減る。勿論インドや中国にも
災害や気象変動などで2割程度は被災はするだろう。しかしそれは世界共通のものだ。
日本が一億人でも10位程度だから11億程度がその間にいる事になる。その殆どが、
平均的に寿命が伸び、出生率の低下する。これは、高齢者の割合が増えることになる。
現在、60歳以上の人は世界全体の約12%で、この割合は年々増えている。2050年までに
、15歳未満の子どもと60歳以上の成人がおおむね同数になり、労働力の点では経済に悪
影響を与える可能性がある。ところが人口密度から言えば、東京は1kuに6千人であ
る。香港やシンガポールも同じに東京より多い。モナコが何故か16244人/kuと
多い。バチカン1782人 /kuとされ、日本全体では343人/ku  アジア13
1人/kuアフリカ34人/ku   ヨーロッパ32人/ku  北米22人/ku
南米22人/ku オセアニア4人/kuで  世界平均の51人/kuより遥かに高密
度で生きて居る。日本と同じなのが 韓国485人/kuで はるかに多いのが バン
グラデシュ1127人/ku と記録される。



続きを読む
掲示板に戻る 全部次100 最新50
名前: E-mail(省略可): ID非表示