1つめの記念スレ


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1つめの記念スレ

1: 騎士剣:05/11/09 17:24 ID:A/yxhPTA
勝手にスレを書き込んで勝手にレスをつけてくれぃ

1201: 名無しさんAA:18/03/29 19:07
 ちょっくら寄り道    9

 しかしまた記録では、皇太子にも関わらず早良親王が妃を迎えたり子を為したとする
記録が存在せず、桓武天皇の要求か早良親王の意思かは不明であるものの、不婚で子孫
が存在しなかったとされ、早良の没後に安殿が皇位を継げることも立太子された要因で
もあったと考えられている。桓武天皇は天応てんおう元年(七八一)に平城京で即位し
たが、すぐに遷都を計画した。延暦三年(七八四)六月には山城(やましろ)の国の乙
訓郡(おとくにのこおり)に長岡京の造営をはじめ、十一月、完成を待たずに遷都を済
ましている。ところが、ここで思わぬハプニングが起きている。翌年の四月、桓武天皇
が長岡京を留守にした隙をついて、何者かが、造都の責任者・藤原種継を射殺してしま
っている。下手人は『続日本書記』によれば、中納言・大伴家持が大伴氏と佐伯氏を巻
き込み、桓武天皇の実の弟で皇太子の早良親王をそそのかして、藤原種継を殺した。と
いう事になっている。早良親王はすぐに捕らえられ、廃太子はいたいし、淡路国に配流
がきまった。大伴家持は東北の地に赴任していたが、事件の直前に、すでに亡くなって
いて、死後追罰を受けた。遺骸の埋葬を許されず、官籍からはずされた。息子も流罪と
なった。この時の背景が、藤原種継の母は秦氏で、山城国の土地に根ざした渡来系豪族
だった事だ。長岡京遷都を急いだ桓武天皇は、秦氏と太いパイプを持つ藤原種継を重用
したのだろうし、こののち、秦氏の影響力が増していくことは、火を見るよりも明らか
だった。他の筆頭の藤原氏にすれば、これは面白い話ではない。又皇太子の早良親王が
大伴氏とつながっていたことも、藤原氏にすれば、許されざる事だった。もし早良親王
が即位すれば、藤原氏の地位が危うくなる。彼らの標的は、大伴家持でなく、早良親王
であったと言える。早良親王を抹殺するために、大伴家持が主犯格にでっちあげられた
と考えられる。ここで例えば佐伯氏は大分の名称であり 早良が福岡の名称である事は
重要だ。そもそも桓武天皇が即位したのは不思議だった。他戸親王を抹殺しなければ、
殆ど桓武天皇(山部親王)は即位できなかったのである。光仁天皇の正妃の井上内親王
との間に他戸親王(おさべしんのう)が、ちゃんと皇太子となっていたからだ。井上内
親王は天武系の娘で、バランスの中心的存在でもあった。しかし吉備真備は孤軍奮闘し
藤原氏に囲まれて、政争に敗れ、「長生の弊、この恥にあう」と述べ、朝堂から去って
いき宝亀元年(七七〇)、光仁天皇が即位していた。

1202: 名無しさんAA:18/03/29 19:07
 ちょっくら寄り道    10

『日本書紀』に従えば、天智天皇と天武天皇は実の兄弟だから、天武の王家が途絶えて
天智系の天皇が新たに立ったとしても、全く大きな問題はなかった。しかし、この入れ
替わりこそ、その後の歴史の怨念の連鎖と言っても過言ではなかったのだ。そもそもは
天智と天武は、仲の悪い兄弟で水と油の存在だった。天智天皇を推す藤原氏は天武天皇
を疎んだ。天武天皇を推す蘇我氏は、当然天智天皇を倒しかかる。かくして壬申乱は(
六七二)で大海人皇子(天武天皇)は甥の大友皇子みこを殺して玉座を手に入れたのだ
。天智天皇の王統は、ここで途切れた様に見えるが、天武天皇崩御すれば、直ぐに皇后
の野讃良(持統天皇)が皇位を「簒奪」してしまった。こうして混乱が生まれる。持統
天皇は天智天皇の娘であり、表向き持統は天武の末裔を即位させるための中継ぎだった
が、即位し持統を支えた藤原不比等は、「持統天皇から始まる天智系の王家の創立」と
確立目論んでいたと言える。そして出来た新たな王家の血筋は、藤原不比等の孫首の皇
子の聖武天皇が即位することによって、完成し安泰する筈であった。ところが聖武天皇
は、自分が「天武の子」であることに目覚めた。藤原仲麻呂(恵美押勝)との政争を、
始めてしまうのである。聖武の娘の称徳天皇は、恵美押勝を誅伐し、道鏡を皇位に就け
ようとまでした。これは道鏡は禅僧で物部氏の一族で、物部守屋と蘇我氏と血みどろの
抗争劇の再来を意味していたのである。言わば仏教と国家神道の攻防であり、それを又
繰り広げる事は、国民にかなりの危機感があったのだ。しかしそれはそれで秦氏をまだ
ないがしろにはできなかった事情もあった。この秦氏系の早良親王が流罪で淡路の国に
配流となったが、抗議の断食をして亡くなってしまったのである。これは長岡京に戦慄
が走る結果を生んだ。早良親王の祟りが襲ったからだ。延暦七年(七八八)のことであ
る。ここから先、桓武天皇の后・旅子、早良親王の母・高野皇太后、安殿や賀美能親王
の母で桓武天皇の皇后・乙牟漏などがつぎつぎに亡くなっていったのである。たまらず
桓武天皇は、早良親王の御陵のある淡路国府に命じ、御陵に塚守を置き、周辺での殺生
を禁じた。しかし、本当の早良親王の祟りの恐ろしさは、ここから始まった。延暦九年
の秋から冬にかけて、天然痘が大流行したのである。こうして安殿親王の体調が思わし
くなかったので、占ってみると早良親王の祟りと分かった。あわてて安殿は伊勢神宮に
参拝、桓武天皇は改めて早良親王を祀った。早良親王は崇道天皇と追号され、こうして
鎮められたのである。こうして桓武天皇は、都・長岡京を棄て、平安京を造営するので
ある。

1203: 名無しさんAA:18/03/29 19:07
 ちょっくら寄り道    11

 熊本市にある弓削神社には「道鏡が失脚した後この地を訪れて、そこで藤子姫という
妖艶華麗な女性を見初めて夫婦となり、藤子姫の献身的なもてなしと交合よろしきをも
って、あの大淫蕩をもって知られる道鏡法師がよき夫として安穏な日々を過ごした」と
いう民話がある。藤原氏にとって悪夢のような出来事だったのだ。称徳天皇崩御ののち
、藤原百川は、天智天皇の孫の白壁王しらかべおうを推した。すでに齢六十を超えてい
たが、危険を感じ、「酔いどれ」を装っていた人物だ。この人物こそ、桓武天皇の父・
光仁(こうにん)天皇である。天平宝字8年(764年)には藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の
乱)鎮圧に功績を挙げ、称徳天皇(孝謙天皇が重祚)の信任を得て、天平神護2年(766
年)には大納言に昇進した。だが度重なる政変で多くの親王・王が粛清されていく中、
白壁王は専ら酒を飲んで日々を過ごす事により、凡庸・暗愚を装って難を逃れたと言わ
れている。奈良時代に起きた恵美押勝の叛乱は、孝謙太上天皇・道鏡と対立した太師を
(太政大臣)藤原仲麻呂(藤原恵美押勝)が軍事力をもって政権を奪取しようとして、
失敗した事件であるとされる。飛鳥時代後期から奈良時代前期の阿倍比羅夫の子である
筑紫大宰帥の 大納言で公卿である阿倍 宿奈麻呂(あべ の すくなまろ)に算術を学び
非常に優れた人だったとされる文武天皇末年 (706年)に藤原南家の始祖である、藤原
武智麻呂の次男として生まれ、生まれつき聡明鋭敏であり、大抵の書物は読破していた
。とされる言わば天才か秀才である。別名恵美大臣とも呼ばれたと言う。この頃の体制
は仲麻呂の上位に外伯父の橘諸兄と実兄の藤原豊成が左右の大臣として並んでいた。と
され、東大寺の盧舎那仏像 の鋳造が完了し、藤原仲麻呂自身も仏教に 関心を示してい
たといわれ、仏教信仰に篤い光明皇太后を支援していた。こうして天平勝宝4年 (752
年)大仏開眼供養会が盛大に催されたりしている。だが急に橘諸兄が朝廷を誹謗したと
の密告があがって、聖武上皇はこれ許したものの諸兄は恥じて翌天平8年 (756年)に
左大臣を辞官した事で次々と事件が起こり始める。同年聖武上皇が崩御。遺詔で道祖王
が皇太子に立てられたが、道祖王は喪中の不徳な行動が問題視されて皇太子を廃される
。仲麻呂の意中の大炊王(後の淳仁天皇)が立太子されるた。この人は仲麻呂の長男の
真従が早世して未亡人(粟田諸姉)なった義姉を妃とし、仲麻呂の私邸に身を寄せる程
身の上であった。しかし5月には祖父の不比等が着手した養老律令を施行するとともに
、仲麻呂は紫微内相に任ぜられて大臣に准じる地位に就いたのだ。気に入らないのが、
橘諸兄の子の奈良麻呂だった。仲麻呂を殺害して天武天皇の孫にあたる皇族を擁立する
反乱を企てるが、密告で露見し。奈良麻呂他443人が処罰される大事件となっていた。

1204: 名無しさんAA:18/03/29 19:08
 ちょっくら寄り道    12
新帝擁立の候補者に名が挙がっていた道祖王や黄文王も捕縛され拷問を受けて獄死し、
反乱に関与したとして右大臣藤原豊成も左遷された。これが橘奈良麻呂の乱とされる。
こうしてこれによって仲麻呂は太政官の首座に就き、名実ともに最高権力者となったの
である。しかし、この年に、唐で安史の乱が起きた。との報が日本にもたらされていて
、仲麻呂は大宰府をはじめ諸国の防備を厳にすることを命じている。天平宝字3年(759
年)には新羅が日本の使節に無礼をはたらいたとして、仲麻呂は新羅征伐の準備をはじ
めさせている。軍船394隻、兵士4万700人を動員する本格的な遠征計画が立てら
れるが、この遠征は後の孝謙上皇と仲麻呂との不和により実行されずに終わる。しかし
当時とすればかなりの動員なのである。一方で、この頃病になった孝謙上皇は、自分を
看病した道鏡が気に入って、側に置いて寵愛するようになってしまった。仲麻呂は淳仁
天皇を通じて、孝謙上皇に道鏡との関係を諌めさせたが、これが孝謙上皇を激怒させ、
上皇は出家して尼になるとともに天皇から大事・賞罰の大権を奪うことを宣言する。こ
れが実現したかどうかは不明だが、これによって徹底した不和となり、更に孝謙上皇の
道鏡への寵愛は深まったとされる。天平宝字7年 (763年)には道鏡を少僧都とした。
対立が深まったまま仲麻呂は、天平宝字8年(764年)自らを「都督四畿内三関近江丹波
播磨等国兵事使」に任じて 国内の最高軍事司令官に修めた。これでさらなる軍事力の
掌握を企てた。しかしここでも謀反の密告があり、上皇方に先手を打たれて天皇のもと
にあるべき御璽や駅鈴を奪われると、仲麻呂は平城京を脱出するが、官軍に攻められて
敗北し琵琶湖にて更に逃れようとする中、官兵石村石楯に捕らえられて斬首された。安
史の乱は、安禄山の乱(あんろくざんのらん)とも言われ、唐の中央政権の疲弊からの
限界を示していた。唐は太宗の時代に大幅に領土を広げ、その領土を都護府・羈縻政策
・府兵制・鎮兵の制度をもって維持していた。しかし玄宗時代になると、従来の府兵制
が上手く行かなくなり、辺境以外にも藩鎮が設置された。この府兵制が行き詰まったの
だ。背景には、基になった兵制では兵の担い手が部族制の下で集団生活を行う牧畜民で
あったのに対して、唐の府兵制は定住して田を耕作する農民が兵を兼ねた。従って年間
に3ヶ月の軍事訓練の懲役は農業への負担が大きく、郷里と家族から離れての任務には
士気が低く戦闘に弱かった。辺境への赴任は兵役拒否も生み、負担に耐えかねて逃亡ま
でして、本籍地を離れた土地で貴族に囲われ奴婢となる良民もいたほどだった。節度使
は駐屯軍の将軍とその地方の財政官を兼ね、任地の税収を軍の糧秣と兵士の雇用に使う
制度で、初めの異民族対策として西北方面を中心に10の節度使が設けられていたが、
これも肥沃な土地と砂漠の土地や寒冷地では大きく問題があった。

1205: 名無しさんAA:18/03/29 19:08
 ちょっくら寄り道    14

 問題は、この唐から逃げた皇帝である。玄宗は蜀に逃亡し、皇太子の亨が皇帝に即位
し粛宗となった事だ。蜀は天然の要害であり、周辺からの侵攻の危険が少なく、塩・鉄
などの資源を豊富に有して古来より「天府」と呼ばれていた。この平和を求めて多くの
文化人・僧などが中原から蜀へ流れてきており、豊かな経済力を背景に文化の保護を行
い、木版印刷による儒教・仏教の経典の出版やこの地での絹織物の生産などの事業を興
していた。しかしその一方で、侵攻の危険性が薄い事から軍隊の目は内部への監視に向
いており、尋事団と呼ばれる秘密警察を作り、不満分子を圧殺していた文化があった。
日本と唐との接触は遣隋使船や遣唐使船で解ってはいるが仏教文化の伝来では唐ではな
くこの蜀の文化が色濃く、併せて儒教・仏教の経典の出版物などを取り入れていたのだ
。『藤氏家伝』は、ある日の宴会で激した大海人皇子が長槍で床板を貫き、怒った天智
天皇が皇子を殺そうとしたという話を伝える。藤原鎌足が取りなして事なきを得たとい
うが、天智天皇7年 (668年)のことと推測されている。この長槍を持ち出す程の事が
何だったかである。天智天皇10年( 671年)の正月に、天智天皇は大友皇子を太政大
臣に任命し、左大臣、右大臣と御史大夫を付けた。太政大臣は国政を総覧する官職で、
その職務は大海人皇子が果たしてきた仕事であった。この直後に東宮太皇弟が、冠位・
法度のことを施行させたと記される。「或本に云わく」として大友皇子が行ったとも注
記する。また他では大友皇子が太政大臣になったのは5年も前にさかのぼる。多くの歴
史学者はどちらを採るかを迷う。しかしともかくも天智天皇は、こうして大海人皇子を
朝廷から全く疎外した。これは天智天皇に、大友皇子をして皇位を継がせる意図があっ
たためと言われる。しかし、天智天皇は、病がいよいよ深くなった10年(671年)10
月17日に、大海人皇子を病床に呼び寄せて、後事を託そうとした。蘇我安麻呂の警告を
受けた大海人皇子は、皇后である倭姫王が即位し大友皇子が執政するよう薦め、自らは
出家してその日のうちに剃髪し、吉野に下ったと言われる。 天智天皇の死後、672年に
壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)を倒し、こうして天武天皇が生まれるが、持統天皇の
統治は基本的に天武天皇の路線を引き継ぎ、完成させたもので天武・持統朝などの言葉
で一括されるが皇族を要職につけて他氏族を下位におく皇親政治を確立し白鳳文化を完
成させた時代である。道教に関心を寄せ、神道を整備し、仏教を保護して国家仏教を推
進した。その他日本土着の伝統文化の形成に力があった。天皇を称号とし、日本を国号
とした最初の天皇とも言われる。ここに豪族の寄り合い所帯が日の元日本の朝廷になる


1206: 名無しさんAA:18/03/29 19:13
 ちょっくら寄り道    16

孝徳天皇が力を入れたのが一大土木工事を共なう都の整備で、溝造りに3万人、石垣造
りに7万人を使って、659年に石と水の都を建設している。(狂心の渠:たぶれごこ
ろのみぞ)などといわれても行ったのである。この大土木工事は豪族たちの反感を招く
ことになり、孝徳天皇の皇子で次期天皇の有力候補の1人有間(ありま)皇子のもとに
も政治への不信・不満を持った豪族たちが集まったという。しかし何故猛反対を蹴って
まで孝徳天皇は難波の都を作り遷宮遷都を強行したのか。それが唐の異変だった。朝鮮
半島では古来より、半島北方と大陸方面を領土とした高句麗と、半島南東部の新羅、南
西部の百済の三国がしのぎをけずっていたが、中国が五胡十六国の分裂の時代が終わり
を遂げ、隋による統一国家が成立し、朝鮮半島への出兵を行い覇権を行うようになって
いった。隋は高句麗に対する3度の遠征に失敗し4度目の出兵を計画するが、中国国内
に内乱が起こって自滅した。次の唐も高句麗へ3度の出兵を行うが成功せず、新羅と結
んで先に百済を滅亡させる作戦に出たのだ。 660年、唐は水陸13万人の大軍を動員し
て山東半島から出発し、新羅軍も5万人の兵で出陣した。新羅軍は黄山之原(現在の忠
清南道論山郡)で勝利し、唐軍は白江(現在の錦江の中流扶余邑付近の別称)つまり、
これまでの新羅・百済連合が新羅が裏切って唐に付いたのである。百済の滅亡後も、6
65年頃まで、王族の福信・僧道傑(どうちん)・日本にいた人質王族の王子豊璋など
が、高句麗や日本の大和朝廷の支援を受けて執拗に唐・新羅連合軍と戦っていたのだ。
日本からは3万7千人余りの軍を送り、663年に、錦江河口で2日間に渡り 唐・新羅の
連合軍と戦ったのだが大敗した。この場所の古名をとって、「白村江(はくそんこう・
はくすきのえ)の戦い」と呼ばれる。この時なお、多くの百済人が日本へ亡命してきた
のである。実はこの大量の難民がこの土木工事を行わせていたのである。彼らの勝手に
住み着いた地で、この地での土木工事と引き換えに百済救援を行っていたのである。こ
の移民達は問題も多く起こしていた。しかし、660年百済滅ぶ。659年、斉明天皇
は蝦夷を連れた遣唐使を百済と敵対する唐に遣わした。唐はこの時百済に攻め入ろうと
していた筈だ。百済は新羅へ再侵攻を果たしたが、唐の高宗は新羅の軍と百済の都扶余
(ふよ)に攻め入った。百済の義慈王(ぎじおう)は降伏する。こうして660年7月
18日、百済が滅亡した。この後、百済使が百済の滅亡を伝えに日本に来航し、当時の
日本(倭国)にとっては大きな衝撃を与えた。唐は百済を統治し始めるが、それに対抗
して、尚も百済の元有力貴族等が反乱軍を結成する。中心人物となったのが鬼室福信(
きしつふくしん)だった。

1207: 名無しさんAA:18/03/29 19:13
 ちょっくら寄り道    15

 吉野に逃れた時大海人皇子を、近江朝の人々は「虎に羽をつけて放ったようなものだ
」と評したといいますから、もし大海人皇子が譲位を受け入れていたら、おそらく謀叛
の濡れ衣を着せられ、捕らえられていたのでしょう。それくらいおかしな組織だった。
 同年12月に天智天皇が崩御すると、大海人皇子と大友皇子は一触即発となります。時
に大海人皇子41歳、大友皇子24歳。ほどなく大友側の不審な動きを察知した大海人
皇子は、翌天武天皇元年6月に吉野から東に向かって遁走、つき従うのは僅かな供だけ
でした。その直前、大海人皇子は配下に、先行して美濃の不破の関を塞ぐよう命じてい
ます。そして吉野から伊勢に抜け、美濃に至る過程で、東海道・東山道の諸勢力に使者
を派遣、これに多数が応じて出兵する。一方、大友皇子は筑紫、吉備、東国に援軍要請
を出しますが、西国は統括する者を動かせず、東国は大海人皇子方の軍勢に阻まれて、
ことごとく失敗した。7月2日、二方面に進軍を開始した大海人皇子軍は、大和方面で
近江朝軍を撃退。また近江方面では7月7日、息長(おきなが)の横河で近江朝軍を破り、
以後も連勝を重ねます。そして7月22日、瀬田の戦いで近江朝軍は大敗を喫し、翌日
、大友皇子は自害した。ここに壬申の乱は終結し、近江朝は滅亡し、翌天武天皇2年に
(673)2月、大海人皇子は都を飛鳥に戻し、即位しました。天武天皇となったのである。
壬申の乱はもちろん皇位継承の争いですが、その背景に天智天皇の強引な改革への不満
、身分の低い母親に生ませた大友皇子に皇位を継がせようとすることへの反発、さらに
白村江の敗戦から生じた天智天皇の遷都や国防施設の築造といった負担に対する、豪族
や民衆の離反があったといわれる。白村江の戦いは天武天皇32歳の時になる。倭国・
百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争のことで、天智2年8月( 663年10月)
に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われたとされる。655年、朝鮮半島
北部で、対立していた唐と高句麗が戦いを始めた為、南部で、百済を新羅が侵攻した。
新羅は唐とは同盟状態で唐の要請に応えたのである。倭国は大化改新の後、皇極天皇の
弟孝徳天皇が難波で即位していて治世を行っていた。653年、中大兄皇子は都を飛鳥
に戻すことを申し出た。政治の中心は中大兄皇子であり、その力は強大で孝徳天皇は飾
りにしかすぎなかった。それでも孝徳天皇は遷都に反対したため、皇子は母皇極上皇、
大海人皇子、間人皇后(孝徳天皇の皇后、中大兄皇子の妹)や従者を連れて飛鳥に戻っ
てしまった。翌年、孝徳天皇は難波にて崩御する。


1208: 名無しさんAA:18/03/29 19:14
 ちょっくら寄り道    16

孝徳天皇が力を入れたのが一大土木工事を共なう都の整備で、溝造りに3万人、石垣造
りに7万人を使って、659年に石と水の都を建設している。(狂心の渠:たぶれごこ
ろのみぞ)などといわれても行ったのである。この大土木工事は豪族たちの反感を招く
ことになり、孝徳天皇の皇子で次期天皇の有力候補の1人有間(ありま)皇子のもとに
も政治への不信・不満を持った豪族たちが集まったという。しかし何故猛反対を蹴って
まで孝徳天皇は難波の都を作り遷宮遷都を強行したのか。それが唐の異変だった。朝鮮
半島では古来より、半島北方と大陸方面を領土とした高句麗と、半島南東部の新羅、南
西部の百済の三国がしのぎをけずっていたが、中国が五胡十六国の分裂の時代が終わり
を遂げ、隋による統一国家が成立し、朝鮮半島への出兵を行い覇権を行うようになって
いった。隋は高句麗に対する3度の遠征に失敗し4度目の出兵を計画するが、中国国内
に内乱が起こって自滅した。次の唐も高句麗へ3度の出兵を行うが成功せず、新羅と結
んで先に百済を滅亡させる作戦に出たのだ。 660年、唐は水陸13万人の大軍を動員し
て山東半島から出発し、新羅軍も5万人の兵で出陣した。新羅軍は黄山之原(現在の忠
清南道論山郡)で勝利し、唐軍は白江(現在の錦江の中流扶余邑付近の別称)つまり、
これまでの新羅・百済連合が新羅が裏切って唐に付いたのである。百済の滅亡後も、6
65年頃まで、王族の福信・僧道傑(どうちん)・日本にいた人質王族の王子豊璋など
が、高句麗や日本の大和朝廷の支援を受けて執拗に唐・新羅連合軍と戦っていたのだ。
日本からは3万7千人余りの軍を送り、663年に、錦江河口で2日間に渡り 唐・新羅の
連合軍と戦ったのだが大敗した。この場所の古名をとって、「白村江(はくそんこう・
はくすきのえ)の戦い」と呼ばれる。この時なお、多くの百済人が日本へ亡命してきた
のである。実はこの大量の難民がこの土木工事を行わせていたのである。彼らの勝手に
住み着いた地で、この地での土木工事と引き換えに百済救援を行っていたのである。こ
の移民達は問題も多く起こしていた。しかし、660年百済滅ぶ。659年、斉明天皇
は蝦夷を連れた遣唐使を百済と敵対する唐に遣わした。唐はこの時百済に攻め入ろうと
していた筈だ。百済は新羅へ再侵攻を果たしたが、唐の高宗は新羅の軍と百済の都扶余
(ふよ)に攻め入った。百済の義慈王(ぎじおう)は降伏する。こうして660年7月
18日、百済が滅亡した。この後、百済使が百済の滅亡を伝えに日本に来航し、当時の
日本(倭国)にとっては大きな衝撃を与えた。唐は百済を統治し始めるが、それに対抗
して、尚も百済の元有力貴族等が反乱軍を結成する。中心人物となったのが鬼室福信(
きしつふくしん)だった。

1209: 名無しさんAA:18/03/29 19:15
 ちょっくら寄り道    17

 660年10月、鬼室福信は百済王朝を再建させるために、倭国に次のような要請を
してきた。「631年から人質として倭国にいる王子(豊璋:ほうしょう)を国王位に
つかせるため送還してほしい。」(倭国から百済復興のための援軍を送ってほしい。)
と、鬼室福信の要請に対して、斉明天皇は百済王朝再建を約束し、自ら飛鳥を出て筑紫
(九州)へ移ることにした。旧来の朝鮮征伐の手法である。筑紫への移動は、各地での
武器を調達し、兵を集めながらの長旅となった。同行者には、中大兄皇子、大海人皇子
、大田皇女、額田王、中臣鎌足の他、多数の従者。こうして飛鳥から筑紫への遷都とも
考えられる大移動となったのである。新羅の救援要請の唐軍は、百済が唐・新羅連合軍
によって滅ぼして、唐は百済の旧領を郡県支配の下に置いたが、すぐに百済遺民による
反抗運動が起きていたし、唐で高宗に代わり則天武后が権力を握り始めていた。則天武
后は637年、太宗の後宮に入り才人で武皇后の庶民の通名である 太宗の崩御にともない
、出家することとなったが、その後宮中は帝位を継いだ高宗のもと妃の対立が起こり、
高宗に勧められ入宮するに及んだ。入廷後は他をことごとく退けて武皇后は高宗に代わ
り、垂簾政治を行った、又配置する人材の採用に当たって、身分をいとわず才能と武皇
后への忠誠心を重視した重用を謀った。出自を問わない才能を発掘する一方で、底なし
の密告政治により反対者を排除した。こうして新羅の請願を容れ百済討伐の軍を起こし
、百済を滅ぼした。倭国(日本)・旧百済連合軍と劉仁軌率いる唐軍が戦った白江口の
戦い(白村江の戦い)にも勝利し、その5年後には孤立化した高句麗を滅ぼした。元々
法律に通暁した「酷吏」が、総じて反対派を監視する恐怖大獄を行った。この状況に、
高宗は、宰相を招いて武皇后の廃后を計画するが、武皇后は計画を事前に察知し、皇帝
の権力奪還を許さなかった。こうした武則天の専横に対して、皇族は男性・女性を問わ
ずに次々と叛乱の挙兵に動いたが、いずれも打ち破られた上に族滅の惨状を呈したのだ
った。民衆は武后に恐怖を感じ、朝政も生活を困窮に至らしめ多くの浮戸や逃戸を招い
たが、農民蜂起が起こる程の事は無く過ぎた。問題は排除された皇族が大勢浮戸や逃戸
を招いた事だ。王一族は罪を着せられ厳しい刑罰を科せられた後、刑死した。以後、一
族も追われ、姓も「王」から「蟒」(ウワバミ、蛇の一種)に変えられた。また、蕭淑
妃も武后によって捕えられ、極刑に処せられた。一説では、鞭で打たれた後に手足を切
断され、酒に投げ込まれたとも伝えられる。蕭氏(しょう)は「梟」(フクロウ、子が
親を食う不孝の鳥とされる)姓に変えられた。彼らは漢族99番目の一族で契丹にいた
種族であった。

1210: 名無しさんAA:18/03/29 19:16
 ちょっくら寄り道    18

 とりも直さず、 鬼室福信の要請に対して、斉明天皇は百済王朝再建を約束し、自ら
飛鳥を出て筑紫(九州)へ移ることにした。筑紫へは、各地で武器を調達し、兵を集め
ながらの長旅となった。同行者には、中大兄皇子、大海人皇子、大田皇女、額田王、中
臣鎌足の他、多数の従者。飛鳥から筑紫への遷都とも考えられる大移動となった。それ
は兵を挙て決死の物で、大掛かりなものだった。土木作業の者も入れて、大勢の百済人
が付いていた筈だ。
660年 12月、飛鳥岡本宮発つと、難波宮で武器の調達
661年1月6日、難波津(なにわづ)出発
    1月8日、吉備大伯海(おおくのうみ−岡山県邑久郡)
        (大海人皇子と大田皇女の間に大伯皇女誕生)
    1月14日 伊予熟田津(いよにきたづ:愛媛県松山市)着
          石湯行宮(いわゆのかりみや:道後温泉)で長期滞在
    3月25日 那大津(福岡県博多)到着
     磐瀬行宮(いわせのかりみや:長津宮ながつのみや福岡)に入る
5月9日 朝倉宮(福岡県朝倉郡朝倉町−博多湾からは約40q離れてた
          内陸部にある)に入る 
その後662年、大海人皇子と鵜野皇女の間に草壁皇子が誕生し、663年、那大津に
て、大海人皇子と大田皇女の間に大津皇子誕生した。恐らくこの朝倉宮は、大陸からの
大軍や朝鮮への前線基地として考えたのだろう。しかし朝倉宮は麻弖良布(まてらふ)
神社の神木を切って造営したため、宮に落雷があって、宮中に鬼火が出て多くの病死者
が出たり、数々のたたりが起こった。朝倉宮に来て2か月後の7月24日、斉明天皇は
68歳で急死してしまう。こうして後の指示を司ったのが木の丸殿の中大兄皇子だった
661年7月24日、中大兄皇子は皇太子として喪に服したまま長津宮で戦いの指揮を
した。(称制−天皇に即位するための正式な儀式を行わないで政務をとること)
中大兄皇子は戦いに備え、朝鮮式の山城を築くよう指示した。661年8月に前軍将軍
として阿曇比羅夫連 河辺百枝臣 他を決め、後軍将軍に 阿倍比羅夫臣 物部熊 他
として、百済の救援軍を送った。661年9月、倭国にいた百済王朝の王子、豊璋(ほ
うしょう)に倭国最高位の「織冠(おりもののこうぶり)」を授け、5000人の兵を
つけて朝鮮半島の鬼室福信のもとへ送ったのだった。


1211: 名無しさんAA:18/03/29 19:17
 ちょっくら寄り道    19

 この時中大兄皇子は1日を1か月分と代えて考え、12か月分の12日間を喪に服し
た。中大兄皇子が籠もった場所を木の丸殿という。後の時代に、木の丸殿跡に恵蘇(え
そ)八幡宮を建て、斉明天皇と天智天皇を祀った。恵蘇八幡宮(福岡県朝倉郡朝倉町)
はこうして建てられたものだった。その後中大兄皇子(天智天皇)は母斉明天皇を追悼
するための観世音寺を建てた。662年に発願し、完成は、746年の聖武天皇の代に
なってからとなったが、その後ここは九州にある寺院の中心的な存在となった。日本最
古の梵鐘があり、国宝となっている。こうして中大兄皇子たちが飛鳥に戻って入ったの
が飛鳥河辺行宮(あすかのかわべのかりみや)だった。658年5月、斉明天皇が大変
かわいがっていた孫の1人で、中大兄皇子の皇子の建王が8歳で亡くなる。この年10
月、斉明天皇、中大兄皇子らは和歌山県西牟婁郡にある温泉に出かけた。留守は蘇我赤
兄(そがのあかえ)が務めていた。この時、赤兄は有間皇子に斉明天皇の悪政を語り始
めたと言う。11月5日、今度は有間皇子が赤兄宅を訪問し、謀反の相談をした。その
為その夜、赤兄は物部朴井連鮪(もののべのえのいむらじしび)に有間皇子を捕らえさ
せ、9日、行幸先の温泉に連行した。11日、19歳の有間皇子は謀反の企てによって
処刑された。この時から渡来系豪族蘇我氏と地方豪族物部氏との仏教崇拝者と神道維持
派の戦いが綿々と家系が入り乱れて争う事になるのである。そしてその頂点が菅原道真
の時代だった。この白村江の戦いで、百済まで豊璋を護衛した将軍に阿曇比羅夫がいる
。長野県安曇野市の穂高神社には彼の像があり、境内の石碑に次のように記されている
。「大将軍大錦中阿曇連比羅夫(だいきんのちゅうあづみのひらぶ)は、天智元年(6
62年)天智天皇の命を受け、船師170艘を率いて百済の王子豊璋を百済に護送、救
援し王位に即かす。天智2年、新羅・唐の連合軍と戦うも白村江(朝鮮半島の錦江)で
破れ、8月申戌27日戦死する。9月27日の例祭(御船祭)の起因であり、阿曇氏の
英雄として若宮社に祀られ、英智の神と称えられている。伝統芸術である穂高人形飾物
は、阿曇比羅夫と一族の勇姿を形どったものに始まると伝えられる。」なお、飛鳥時代
の将軍阿倍比羅夫(あべのひらふ)は水軍を率いて蝦夷を平定した将軍でもあり、白村
江の戦いでは後軍の将軍として百済に派遣されている別人である。としている。

1212: 名無しさんAA:18/03/29 19:17
 ちょっくら寄り道    20

 こうして 今まで静かに暮らしていた日本列島で緩やかな交易で繋がりが、鬼室福信
などの要請で、この天智天皇と天武天皇時代に再び荒れた世界を日本に作ったのだった
。道鏡は俗姓から、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)とも呼ばれる。若い頃に、法相宗の
高僧・義淵の弟子となり、良弁から梵語(サンスクリット語)を学び禅に通じていた。
とされるから、彼には契丹にいた血があったのではないだろうか。「王」から「蟒」に
(オロチ、ウワバミ、蛇の一種)に変えられたが、宮崎や鹿児島の白蛇伝説では、例え
ば緒方氏は「御方」と言う海の向こうの人と言う意味だ。鱗紋が初代執権・北条時政が
江ノ島弁財天に子孫繁栄を祈願したとき、美女変身した大蛇が神託を告げ、三枚の鱗を
残して消えたことに因むというと言うが 北条氏も北上の意味とされ、宇都宮家も内の
宮が変化したと思われる。何故こう言う事が言えるのかと言えば、良く、日本の漢字が
中国から来ているとされるが、近年の研究では 逆に古来から日本の言葉や文字があっ
て、中国との言葉との融和を図ったとされる設がもはや常識となった様に数々立証され
ている。その為に中国語とは似ても似つかぬ言葉や意味が日本語に存在するのが当然と
言われているからだ。また、玄宗は蜀に逃亡したが蕭淑妃は武后によって捕えられ、極
刑に処せられた。一説では、鞭で打たれた後に手足を切断され、酒に投げ込まれたとも
伝えられる。蕭氏(しょう)は「梟」(フクロウ、子が親を食う不孝の鳥とされる)姓
に変えられた。彼らは漢族99番目の一族で契丹にいた種族であった事から、ウイグル
族であるのは当然だった。鬼室福信は、百済の王族・将軍。義慈王の父である第30代
武王(余璋)の甥とされ、鬼室氏の祖となるとしてい。る没した2か月後白村江の戦い
で倭国と百済の連合軍が大敗した。と言われる。鬼室福信ら遺臣は、百済復興の旗印と
して擁するため、倭国との同盟の人質だった余豊璋の帰国と、倭国の軍事支援を求めて
いる。斉明天皇・中大兄皇子は快くこれを了承し、積極的に百済復興を支援することと
し、筑紫へ遠征する運びとなったのだ。つまりその頃大和朝廷が作った日本の形態は、
寄り合い所帯の豪族がそれぞれに人質の形で京の都に住んでいて、これは、戦国時代や
徳川幕府の形態と全く変わらない形態だったのである。百済伝では、豊璋は翌662年5月
に入国した。このとき福信は王を迎えに出て、国政をみな委ねた。倭国はこの後も福信
あてに軍需物資を送り、福信も捕虜の唐人続守言らを倭国に送った。しかし7月、扶余
豊(扶余豊璋)は福信が自分を殺そうとしていることを察知し、逆に、これを殺した。


1213: 名無しさんAA:18/03/29 19:18
 ちょっくら寄り道    21

 6世紀頃に朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の三国が鼎立し、新羅は二国に圧迫され
る存在であった。倭国は半島南部に領有する任那を通じて影響力を持っていたことが、
『日本書紀』の記録から知られている。大陸側でも、広開土王碑400年条の中「任那」
の記述が出ている。475年には百済は高句麗の攻撃を受けて、首都が陥落し、その後
、熊津への遷都 して復興し、538年には泗批へ遷都した。当時の百済は倭国と関係が深
く、倭国朝廷から派遣された重臣が駐在していたと言う。また高句麗との戦いに於いて
度々倭国から援軍を送られている。一方で、 581年に建国された隋は、中国大陸を統一
し文帝・煬帝の治世に4度も大規模な高句麗遠征を行ったもののいずれも失敗している
。その後隋は国内反乱で 618年には煬帝が殺害されて滅んだ。そして新たに建国された
唐は、628年に国内を統一し二代太宗・高宗の時に高句麗へ3度(644年,661年,667年)
に渡って侵攻を重ね高句麗出兵を行い征服することになる。この時新羅は 627年に百済
から攻められた際に唐に援助を求めたが、この時は唐が内戦の最中で成り立たなかった
。しかし、高句麗と百済が唐と敵対したことで、唐は新羅を冊封国として支援する情勢
となり、善徳女王のもとで実力者となった金春秋(後の太宗武烈王)は、積極的に唐化
政策を採用して、654年に武烈王として即位すると、たびたび 朝見して唐への忠誠心を
示し派兵を要請していた。こうして648年頃から唐による百済侵攻が画策された。649年
、新羅は金春秋に代わって金多遂を倭国へ派遣している。この頃百済は 642年から新羅
に何故だか執拗に侵攻を繰り返している。しかし 654年に大干ばつによる飢饉が半島を
襲った際には、百済義慈王は飢饉対策をとらず、655年2月に、皇太子の扶余隆のために
宮殿を修理するなど退廃していたと言う。656年3月には義慈王が酒色に耽るのを諌めた
佐平の成忠(浄忠)が投獄され獄死した。日本書紀でもこのような百済の退廃について
「この禍を招けり」と記している。657年4月にも干ばつが発生し、草木はほぼなくなっ
たと伝わる。このような百済の情勢について唐はすでに643年9月には「海の険を負い、
兵械を修さず。男女分離し相い宴聚(えんしゅう)するを好む」(『冊付元亀』)とし
て、防衛の不備、人心の不統一や乱れの情報を入手していたようだ。659年4月に、唐は
秘密裏に出撃準備を整え、また同年「国家来年必ず海東の政あらん。汝ら倭客東に帰る
ことを得ず」として倭国が送った遣唐使を洛陽にとどめ、百済への出兵計画が伝わらな
いように工作した。と伝わっている。これは朝鮮の癖で虎の威を借りて加減無しに侵攻
する大陸バッタの様な性格を表している展開だった。


1214: 名無しさんAA:18/03/30 09:45
 ちょっくら寄り道    22

 しかし、道真が九州左遷の時、こうした歴史はどこまでどう理解されていたのか、私
はどうしても道真がそのまま悲嘆にくれて死んだとは思えないのである。伝説では左遷
が言い渡され、大宰府へと出発するまでに与えられた時間はわずか7日間。そして同行
者には幼い2人の子供と老僕1人、監視の左衛門少尉と2人の兵士、車につけた馬だけ
であったとされる。しかも、通過する国々にも道真に食料や馬を補給してはならない。
とされ、惨めで苛酷な大宰府までの旅でした。そしてやっと辿り着いた大宰府での暮ら
しもひどいものでした。用意された小さな茅葺きの官舎は空家のままに荒れ果てた状態
で、床は抜け落ちそうで、庭には草が生い茂っていた。垣根は所々破れて修繕が必要で
、井戸はふさがり修理しなくてはならない有様。そして待遇においても俸給も従者もな
し、政務を行ってもいけないというひどいものでした。虚弱だった道真は胃を病み、脚
気(かっけ)や不眠症、皮膚病に悩まされ、眠れぬ夜が続きました。そして心の支えだっ
た幼い2人の子供のうち男の子が亡くなり、道真の心は深く傷つき、我が身の悲運を嘆
きました。大宰府左遷後わずか2年、59歳でさびしく世を去った。と言う物だった。
菅家は、代々、書道の家柄です。家伝の筆法を伝授するよう帝からの命を受けた菅丞相
(かんしょうじょう)の地位だった。自邸にこもり心身を清めようと精進します。筆法を
伝授するに値するのは誰か。悩んだ末に、不義のために勘当した武部源蔵(たけべげん
ぞう)を呼び出し、筆に鈍りがないか確かめる。そして、彼は「伝授は、伝授。勘当は
、勘当」と踏ん切りして、筆法を伝授するのです。こうして道真は、筆道の奥義を伝え
られたことに胸をなでおろしたと言う。左遷の旅の途中、夢のお告げで安楽寺をたずね
ます。そこで一夜にして飛んできた梅の木を見ます。驚いているところに、梅王丸が、
菅丞相(かんしょうじょう)の命をねらう 鷲塚平馬と登場します。平馬の話によると、
流罪後も藤原時平は、丞相の命を狙っていることを知ります。さらに、時平は帝位も奪
おうと考えていることを知り、梅王丸に、その陰謀を都に知らせるように命じ、自らは
怒りに満ち雷神となって帝をお守りしょうと天拝山に駆け上がって都へ向かったとされ
る。大宰府に来た当初、京の都へ帰ることばかりを夢見ていた道真ですが、いつしか諦
めの境地となります。そして次第に仏への信仰を厚くしていくなか、「遺骨を京の都へ
帰すことを望まない」と遺言していた。とされる。現在、道真は日本史上屈指の大偉人
である。彼は昌泰(しょうたい)の変で罪人として処罰されたにもかかわらず、聖徳太子
・吉備真備・空海・清原頼業(きよはらのよりなり)・一条兼良・林羅山・吉田松陰など
など、日本史の並み居る天才たちを押しのけて「学問の神様」とされているのである。

1215: 名無しさんAA:18/03/30 09:46
 ちょっくら寄り道    23

 浄瑠璃「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」の登場人物で菅原道真
に仕える舎人(とねり)の、梅王丸は、松王丸・桜丸の兄とされる。第一幕ではその配員
が解る。春ののどかな加茂堤に一台の牛車、中に居るのは帝の弟・斎世(ときよ)親王
ですが、そこへ菅丞相の養女・苅屋姫がやって来て、牛車の中でしばしの逢瀬。若い二
人は恋仲ですが、なかなか逢うことの叶わぬ二人なので、桜丸とその妻・八重が秘かに
手引きしました。しかし見つかれば大変、やって来た追手を桜丸が懸命に追い散らす、
その隙を見て二人はどこかへ落ち延びて行きます。つまり道真は苅屋姫の恋仇が時平と
なっている。又筆法で一流をきわめた菅丞相は、その技を伝授せよとの勅命を受けたが
、勘当されていた愛弟子の武部源蔵をひそかに呼び寄せ確かめる。古参の弟子、左中弁
希世(さちゅうべんまれよ)は自らが受けるものと自認していますが、腕も素行も良く
ありません。そこへ呼び出されたのは武部源蔵。源蔵は菅丞相の家臣で弟子でしたが、
御殿勤めの、戸浪との不義で主家を追われ、今は夫婦で貧しい寺子屋を営んでいます。
その見事な筆さばきにより筆法は源蔵に伝授されます。出仕した菅丞相には太宰府への
流罪が告げられ、源蔵は子息の菅秀才を連れて逃げます。つまり息子をかくまうのだ。
菅丞相は太宰府へ流されて行く途中、伯母の覚寿(かくじゅ)の館の一部屋に身を寄せ
ています。一方、苅屋姫は一目会ってお詫びをと忍んでやって来ますが、覚寿(姫の実
の母)に杖で打たれます。すると部屋のなかから「折檻(せっかん)したもうな」と留
める丞相の声、しかし部屋に居たのは丞相が自ら刻んだ木像のみ。まさか木像が声を発
するとは・・・。そして夜も明けぬ頃、やって来た迎えに伴われて菅丞相が出発します
が、実は時平方がにせの迎えを遣わして丞相を殺す計略でした。やがて本物の迎えが、
やって来ると再び丞相が姿を現わし覚寿は驚きます。実は先程連れて行かれたのは木像
で、何と魂のこもった木像がまぼろしを見せて丞相を救ったのでした。この苅屋姫の母
はさも驚いたのか、道真の庇った仲間だったのか、いまいちわからぬままに物語は進む


1216: 名無しさんAA:18/03/30 09:46
 ちょっくら寄り道    25

 九州伝説では 雷の神に化身した天拝山付近に住したようで、京の都を呪い、禍いを
起こした。天拝山(てんぱいざん)は、福岡県筑紫野市にある標高257.4mの山である
。その名は、大宰府に流刑された菅原道真が自らの無実を訴えるべく幾度も登頂し天を
拝したという伝記に由来する。古名は天判山(てんぱんざん)。昔はススキだけで木が
無かったが、黒田長政の家来である、小河内蔵充が郡司となったときに植樹し、全山を
樹木に覆われる山にしたという。大宰府の都府楼とこの天拝山とには二日市温泉がある
。開湯は奈良時代以前と言われ。歴史上の記録では、万葉集に大宰帥・大伴旅人の詠ん
だ歌に初めて記されている。つまりこの菅原道真が来た時は既に開湯していた事になる
。立地は大宰府政庁における四神相応の南の朱雀に比定されるとも言われる。古くは「
次田(すいた)の湯」、「薬師温泉」、近世は「武蔵温泉」と呼ばれていた。とされ、
江戸時代には、筑前藩主黒田氏専用の「御前湯」が置かれ、「二日市温泉」と命名され
たのは、1950年(昭和25年)の昭和に入ってからである。道真公は、多分この湯に浸る
のも気が重かったかも知れない。
かるかやの 関守にのみ見えつるは 人もゆるさぬ 道べなりけり
(誰も刈萱の関の番人に見えたのは、配流の身ゆえか、人目憚る道を来たから)
と言うくらいだから。しかし、それでもめげずに この地にいる決心をしたはずだ。
霧たちて 照る日のもとは見えずとも 身はまどはれじ 寄る辺ありやと
(霧が立ち朝日の方向のは見えないが、我は迷わない。ここに拠り所はあるから。) それでも、幾つもの哀愁の歌を詠んでいる。
彦星の ゆきあひを待つかささぎの 門とわたる橋を 我にかさなむ
(彦星が逢瀬を待つ鵲の渡す橋を、私に貸してほしい。それで妻に逢いたい。)
 などと詠っているからだ。
京都かた菅原道真公が立ち寄られたとの伝承がある神社の旅程は殆ど海の航路だ。陸路
で松山市内に行かれ3年過ごした話などが伝承にはある。多くの寄港地候補があろうが
、当時の通常の航路から大きく変わる事は無い。山口防府から長府の間に九州の椎田な
どが入っているが、道真公が廃止した遣唐使とほぼ同じような航路となっている。この
間の冬の風向きや海流のせいで、昔の渡し舟程度の舟と航海技術なら当然であろう。

1217: 名無しさんAA:18/03/30 09:47
 ちょっくら寄り道    25

 九州伝説では 雷の神に化身した天拝山付近に住したようで、京の都を呪い、禍いを
起こした。天拝山(てんぱいざん)は、福岡県筑紫野市にある標高257.4mの山である
。その名は、大宰府に流刑された菅原道真が自らの無実を訴えるべく幾度も登頂し天を
拝したという伝記に由来する。古名は天判山(てんぱんざん)。昔はススキだけで木が
無かったが、黒田長政の家来である、小河内蔵充が郡司となったときに植樹し、全山を
樹木に覆われる山にしたという。大宰府の都府楼とこの天拝山とには二日市温泉がある
。開湯は奈良時代以前と言われ。歴史上の記録では、万葉集に大宰帥・大伴旅人の詠ん
だ歌に初めて記されている。つまりこの菅原道真が来た時は既に開湯していた事になる
。立地は大宰府政庁における四神相応の南の朱雀に比定されるとも言われる。古くは「
次田(すいた)の湯」、「薬師温泉」、近世は「武蔵温泉」と呼ばれていた。とされ、
江戸時代には、筑前藩主黒田氏専用の「御前湯」が置かれ、「二日市温泉」と命名され
たのは、1950年(昭和25年)の昭和に入ってからである。道真公は、多分この湯に浸る
のも気が重かったかも知れない。
かるかやの 関守にのみ見えつるは 人もゆるさぬ 道べなりけり
(誰も刈萱の関の番人に見えたのは、配流の身ゆえか、人目憚る道を来たから)
と言うくらいだから。しかし、それでもめげずに この地にいる決心をしたはずだ。
霧たちて 照る日のもとは見えずとも 身はまどはれじ 寄る辺ありやと
(霧が立ち朝日の方向のは見えないが、我は迷わない。ここに拠り所はあるから。)
 それでも、幾つもの哀愁の歌を詠んでいる。
彦星の ゆきあひを待つかささぎの 門とわたる橋を 我にかさなむ
(彦星が逢瀬を待つ鵲の渡す橋を、私に貸してほしい。それで妻に逢いたい。)
 などと詠っているからだ。
京都かた菅原道真公が立ち寄られたとの伝承がある神社の旅程は殆ど海の航路だ。陸路
で松山市内に行かれ3年過ごした話などが伝承にはある。多くの寄港地候補があろうが
、当時の通常の航路から大きく変わる事は無い。山口防府から長府の間に九州の椎田な
どが入っているが、道真公が廃止した遣唐使とほぼ同じような航路となっている。この
間の冬の風向きや海流のせいで、昔の渡し舟程度の舟と航海技術なら当然であろう。

1218: 名無しさんAA:18/03/30 09:48
ちょっくら寄り道    26

 菅原道真公の次男は菅原寧茂で、三男とされる菅原景行とされる。二人はそれぞれに
左遷されたが次男は駿河国在住した。関東に下向した平将門の御父君の平良将の根拠地
であった下総国豊田郡に程近い 常陸国真壁郡に移住しました。延長4年(926年)景行
公は将門の叔父・良兼公らと共に、真壁郡羽鳥に菅原天満宮を開いたとされる。こうし
て、この時代から坂東平氏と菅原家の深い繋がりが開始されたと推測されている。この
菅原氏と平氏の結びつきは当時の醍醐天皇の指令によるものだったとも言われる。常総
市の水海道の神職として真壁郡羽鳥(現:真壁町)に、菅原天満宮を開き居住したという
。菅原氏の多くは藤原氏の専横により官位こそ抑えられていましたが、醍醐天皇に登用
にされ有名な五男淳茂公をはじめ多くは朝廷にも残りました。そして後の坂東八平氏の
祖で 平将門公の叔父良文公も醍醐天皇に重用され、関東の賊を討て、と綸旨を頂き、
鎮守府将軍として東日本に下向し、旧鎌倉郡村岡郷、今の藤沢市村岡を本拠地にし関東
に武士文化の基礎を築いた。この綸旨の「賊」とは「平将門公」ではなく、親王赴任国
である上総国や下総国の荘園を支配する藤原氏の事だと思われ、つまり上総国下総国の
支配権を取り返し藤原氏の軍事的勢力を削ぐ意図があったのだと思われます。菅原家の
主君の醍醐天皇とその御先代 宇多天皇は藤原氏の専横に苦慮し御親政を取り戻すべく
菅原道真公を重用しましたが、藤原氏の策謀により道真公はハメられ目論見が頓挫した
経緯がありました。そこでは当時まだ亡くなれて間も無い道真公を祀る天神様をいち早
く常陸国に建立した事に、両者の結びつきの真意が現れている。平将門の乱は菅原道真
公の左遷と同じく藤原氏の陰謀によるものだったと思われる。こうして藤原氏の挑発に
乗ってしまい挙兵してでも反藤原連合を貫く将門公と、醍醐天皇の関東制圧の密勅も、
実質的に維持する為に体面上、藤原氏=朝廷に従属するかの政策的な対立を生み出すと
いう藤原氏の陰謀だったと考えるのが自然だ。結果、醍醐天皇の策謀と藤原氏の陰謀は
痛み分けで、藤原氏は関東の支配権を失い醍醐天皇も平将門公を失いました。しかし、
平良文公を鎮守府将軍に任命していた事により関東の臣籍降下貴族支配には成功した訳
になる。この流れを証明するように平将門公は当初朝廷公認での活動していましたし、
将門公に同調していたはずの良文公は後に将門公の支配域の多くの支配権を与えられ、
後々の坂東八平氏発展と鎌倉幕府御家人の基礎を築かれました。平良文公が、旧鎌倉の
藤沢を本拠地にしていた事と、菅原景行公と坂東平氏の関係が深かった事から、永谷に
移住した菅原道真公の御子息の正体は、三男の菅原景行公だった可能性は高いとされる

1219: 名無しさんAA:18/03/30 09:48
 ちょっくら寄り道    27

 津山市八出に住む須江氏は菅原道真の子孫と言い伝えられていたが、系譜調査の結果
、間違いないことが明確になった。と言う。菅原道真公は、何人かの子供がいた。そし
て須江氏は美作菅家7流の第7子の子孫と言い伝えられてきたが、それをはっきりと、
確認したものはなかった。その真相が判明したと言われる。道真公から7代目の菅原朝
臣知頼が承暦元(1077)年11月、美作国豊田之庄に下向し、美作守を称した。それは
藤原氏や朝廷の菅原氏に対する不当な処遇に対する強い憤りと、朝廷での前途に希望を
見いだせなかったからでもあった。美作国(みまかさのくに)に下った。美作国という
のはミサカ(御坂・三坂)に由来し、ウマサケ(甘酒)の産地であることに由来すると言わ
れる岡山地方の一部だ。この知頼がいわゆる美作菅家党の始祖となった。その後、その
子真兼が押領使(軍の司令官職)として父に従い、さらにその子尚忠の代に、開発領主
としての基盤を美作の地に確立した。さらに尚忠の第3子仲頼の子「菅原朝臣満佐(天
福2年 1234 9月亡)」が7人の男子をもうけ、美作菅家7流の祖となった。その第
7子が「江見丹後守資豊」で、その5代後の「江見和泉守菅原家久(建武2年1335、3
月亡)」が西暦1300年頃、美作国八夜御出村(現在の津山市八出)に移住土着し、
須江氏の大先祖となったことが須江本家に残された「過去帳」で明らかになった。この
江見氏は菅原朝臣家次(寛永18年 1641 6月亡)の代に「末氏」に改姓し、さ
らにその後寛保3年 1743 頃、内膳行久の代(宝暦14年 1764 2月亡)に現在の「須
江氏」に改姓した。末氏に改姓したのは末っ子の第7子だったからと言われており、又
「須江氏」は菅原(須賀原とも書く)の子孫という意味で「須」と、そのうちの江見の
子孫という意味で「江」を取ったとの説が有力だ。道真公の子孫が美作国に来てから実
に937年、菅家7流の江見氏が生まれて800年強、須江氏の大先祖 江見氏が現在の津山市
八出に移住土着して710年強、須江氏を名乗るようになって270年、この地に脈々と道真
公の命が受け継がれている。現在、須江本家からの分家は八出に5戸、瓜生原に1戸あ
るとされる。それぞれからさらに分流が派生しているので、血縁系は八出に11戸(含須
江氏以外2戸)、瓜生原に6戸等となっている。その八出には創建が天安年間(857〜9
)と推定(天安元年に道真公12歳の時、美作守であった父是善の病を見舞った際、里
人に残した木像が御神体)される八出天満宮(八夜出天神宮⇒八出天神宮⇒八出神社⇒
八出天満宮)があり、須江氏(当時は末姓)は天正16年 1588 3月から大正時代まで
神主家を務めていた。と言われる。これは又「陶」(すえ)にもつながるものかもしれ
ない。

1220: 名無しさんAA:18/03/30 16:26
ちょっくら寄り道    28

 九州下向して行く時、網敷天満宮には数々の逸話がある。大阪の網敷天満宮は、別雷
大神が、天神山におまつりされていたことに始まって、聖徳太子が御影石を発掘され、
倉稲魂大神をお祀りされていた。だが菅原道真公が別雷大神をまつるこの天神社に2度
参拝された御縁で道真公をお祀りしております。と言う。つまり天満宮の名を変えた。
と言う事になる。他でも大宰府に赴く途中暴風にあいこの浜にたどり着かれた。取りあ
えず漁船の綱をくり敷いて休んでもらった故事により「綱敷天満宮」と言われる。とい
う網敷神社故事は、道真公が大宰府への途上で立ち寄ったという伝承を持つ同名社は、
京都から九州太宰府間に点在している。曰く「この地に着いたところ、一本の紅梅が今
を盛りと咲き匂っており、しばしこの梅を眺めるため、船の艫綱(ともづな)をたぐりよ
せ、即席の座席としたことが「綱敷(つなしき)」の名の由来となり」という。綱敷天満
神社の中で、愛媛県今治市の綱敷天満神社は、「昌泰4年 (901年)菅原道真公が太宰府
に左遷される途中、予州の迫門(壬生川沖)において風波の難にて遭われて危うき時に、
広川修善(神社宮司)と里人が一行を助けた。この際に今の志島の東端に漕ぎ寄せ岩上に
御座所を設けたが、咄嗟の事にて敷物が無く漁船の綱を丸く巻き円座の替わりとしたと
いう。この古伝から「綱敷天神」という社名になったと云われている。菅原公は里人の
厚意に感激され、自ら梶柄に荒々しく御尊像を刻んで姓名を告げ、「後日私が帰洛した
ならこれを証として都を尋ねなさい。もし筑紫にて没したと聞けばこれを素波神(そば
がみ)として祭りなさい。」と申されたと云う。この御尊像を御神体としてお祀りした
のが「綱敷天満神社」の創始である。」としている。牛窓天満宮では山へ登り「磯山の
峯の松風通い来て 浪や引くらん 唐琴の瀬戸 」と詠み 硯井天満宮では「海ならず 
たたえる水の 底までも 清き心を 月ぞ照らさん 」と詠う。 冠天満宮、では神太夫
と言う者が我家にご案内し厚くもてなしました。一両日御滞在の後御出船のおり召され
たるお冠を神太夫に与えた。防府天満宮では船を勝間の浦につけ暫くご滞在になって、
酒垂山にお登りになり、「身は筑紫にて果つるとも、魂魄は必ずこの地に帰り来らん」
と誓ったと言う。、周防国分寺にて家宝の金の鮎12尾を国司土師信貞に託して寂しく
旅立たれました。ちなみに、周防国は菅原氏と同族の土師氏が支配していたと言われる
。福岡の椎田町では浜の宮近くに、暴風にたどり着かれ漁船の網の綱を敷いて休んでも
らった。そして村人はこの地に黒木の休所を造り、 しばらく休養され筑紫に向った。

1221: 名無しさんAA:18/03/30 16:26
 ちょっくら寄り道    29

 大分県の椎田から陸路で直接、太宰府に行くことは出来なくは無いが、北九州沿岸の
複数の神社の伝承を考えればあまりにも立ち寄りは多い。これは無視出来ない。また、
道眞公の歌に宗像大社の七夕祭や志賀島あたりを思わせる歌があり、海路で下関市長府
を訪れることは前提とも言える。しかし子供連れで家財道具を運ぶことまで考えれば、
なるべく海路を選んで急いで大宰府に着いた方が良かったはずである。愛媛県今治市の
綱敷天満宮の伝承は正しく、嵐で航路がずれたと考えるのが自然である事を考えれば、
簡単に大宰府には入りたく無かった。とも言える。又大宰府に入っても、閑職であり、
官位も職席も就けなかった。つまりぼろぼろの住居と僅かな俸禄だけだったと言われる
。しかし彼は太宰権帥として下向しているのである。彼が赴任する前には多分空席にな
っていたものと思われる。と言うのも宇多朝の寛平6年(894年)4月には新羅の入寇(
寛平の韓寇)が発生し、その討伐のために大宰権帥に任ぜられ、同年5月には従三位・
権中納言に昇進した藤原北家の藤原国経がいるからだ。長命を保ち、70歳を過ぎてか
らも寛平9年(897年)中納言、昌泰の変で右大臣・菅原道真が失脚した翌年の延喜2年
(902年)には大納言と昇進を続け、延喜3年(903年)正三位になり延喜8年(908年)6
月29日薨去し享年81歳だった。しかし度重なる韓寇うち「寛平の韓寇」は強大だった。
唐人も交えた新羅の船大小百艘に乗った二千五百人にのぼる新羅の賊の大軍が襲来し、
対馬に侵攻を始めた。9月5日の朝、45艘でやってきた賊徒に対し、武将としての経験
があり対馬守に配されていた文屋善友は郡司士卒を率いて、誘い込みの上で弩を構えた
数百の軍勢で迎え撃った。雨のように射られ逃げていく賊を追撃し、220人を射殺し
た。こうして賊は計、300名を討ち取った。また、船11、太刀50、桙1千、弓胡
(やなぐい)各110、盾312にものぼる莫大な兵器を奪い、賊ひとりを生け捕った。
捕虜の証言ではこれは民間海賊による略奪ではなく、新羅政府による襲撃略奪であった
事が判明した。捕虜曰く、、新羅は不作で餓えに苦しみ、倉も尽きて王城も例外ではな
く、「王、仰せて、穀絹を取らんが為に帆を飛ばして参り来たる」という。その全容は
大小の船百艘、乗員二千五百、逃げ帰った将軍は他3人いて、特に1人の「唐人」が、
強大で指揮していた、と証言した。この事で、大宰府の飛駅の使が撃退の成功を伝え、
遣唐使も中止されたし、また壱岐島の官舎が賊のため全焼したことを伝えている。実は
この遣唐使に出すつもりだったのが、九州下向と変わったのである。



1222: 名無しさんAA:18/03/30 16:26
 ちょっくら寄り道    30

 この後京の都では天然痘が流行する。つまり都で発生しているとすれば九州は尚多か
ったとも考えられる。日本には元々存在せず、中国・朝鮮半島からの渡来人の移住や接
触が活発になると、しばしば6世紀半ばに最初の流行罹患が見られた。と考えられてい
る。例えば新羅から弥勒菩薩像が送られ時も、敏達天皇が仏教の普及を認めた時期と重
なり、日本古来の神をないがしろにした神罰という見方が広がり、仏教を支持していた
蘇我氏の影響力が低下するなどの影響が見られたのである。又東山天皇は天然痘によっ
て崩御し、孝明天皇の死因も天然痘との記録が残っている。天然痘を擬神化した疱瘡神
は悪神のひとつとしておそれられ、日本各地には疱瘡神除けの神事や行事が今も数多く
残っている。疱瘡神は犬や猿、赤色を苦手とすると考えられた。しかし古来からウシの
病気である牛痘があり、人間も罹患するが、瘢痕も残らず軽度で済む病気にかかった者
は天然痘に罹患しないことがわかっていた。この研究で西洋では種痘法を発見発明して
今があるが、この牛に於いて罹患しない事は重要な事で、わざわざ道真公が牛を連れて
下向した理由でもあろう。この藤原国経と藤原時平とには面白い逸話が残って居る。『
今昔物語集』なのだが、国経が八十歳近くになる頃、二十歳を過ぎたばかりの若く美し
い年の離れた評判の妻がいた。この妻の美しさの評判を聞き、当時好色で「平中」と呼
ばれていた、兵衛佐・平定文も忍んで会いに行ったが、ものにできずに終わっていた。
同じく好色で有名であった大臣(藤原時平)はこの妻をものにしたいと思い、ある年の
正月に国経邸を訪問する。宴が終わって帰宅しようとした際、大臣はせっかく家礼のた
めに訪れたのだから、特別な引き出物が欲しい旨、国経に伝えた。国経は自分の持ち物
の中で最も優れたものはこの妻だと思い、酔いに狂った心のまま、この女を引き出物に
差し上げると言って、簾の中から妻を引き寄せて大臣に渡してしまう。大臣はこの妻を
受け取るとそのまま自邸に連れて帰ろうとして一緒に車に乗せたため、国経はどうしよ
うもなく妻に「私のことを忘れないでほしい」と言ったが、車はそのまま行ってしまっ
た。翌朝国経が目覚めると、昨夜のことが夢のように思われたが、やはり現実であった
。大臣が来訪してくれた嬉しさに舞い上がって自分がした行為を後悔する一方、大臣に
対しても酔っているとはいえこんなやり方はないだろうと思うが、どうしようもなかっ
た。妻を取り返すこともできないので、せめて妻に幸せになって欲しいとも思うが、妻
が自分のことを老いぼれと思っている様子もあったので、妬ましく、悔しく、恋しく思
った。傍目には、国経が自分の意思でやったことのように思わせたが、心中は辛く恋し
く思えるのであった。と言う話である。

1223: 名無しさんAA:18/03/30 16:28
 筑後の社伝では、かつて昔は 北島宮社であった場所に、後堀河天皇の勅命によって
菅原道真の後裔で菅原為長によって新たに水田水天宮が創建されたという。この当地に
あって荘園を支配した北島氏は、久留米の水天宮社の菅原氏の配下にあった。という。
太宰府天満宮の荘園で菅原氏一族の大鳥居氏が支配する「水田荘」があって、その鎮守
社であった。旧名は安楽寺所司神人所、老松宮など。太宰府に次ぐ九州第二の天満宮と
称する。」。つまり北島氏が老松神社を持って神職としていたが、それは久留米の支配
の下にあった。と言うのである。しかし、大宰府に左遷され貧困のなか亡くなった道真
の末裔が、なぜ荘園を支配できたのか。大宰府天満宮(旧名安楽寺)に対し、なぜ荘園
管理の権限が与えられたのか。辺境の地にある水田天満宮が京に位置する朝廷の勅命を
受けて居ながら、なぜ出現したのか。そして、水田天満宮の「祭り」は、なぜ発生した
のか。興味は尽きませんでした。安楽寺は大宰府安楽寺の事で全ての事象の根源があっ
た。実は菅原道真を祀る大宰府天満宮が明治5年の廃仏毀釈で神仏混沌の祭典を廃され
るまで大宰府天満宮の正式名称であった。政治的に怨霊を鎮めるために公的な権力で、
この神社は草創され、朝廷などの中央集権或いはその出先機関(大宰府)の外護を受けて
発展した。安楽寺の草創は、延喜元年(901)正月、時の左大臣藤原時平の讒奏(ざんそう
:人を陥れるため悪く奏上すること。)によって、参議の地位の菅原道真が 大宰府権師
として左遷された。この大宰府の配所(罪人が流刑地。)にて建てられた頃には、天皇の
持つ神道には、この禍いにはほとんど効かないとなって、今度は仏教の祈祷に変化して
流行し、それを朝廷も取り入れていたのである。ここにこの鎮める神社が寺でなければ
ならない理由があった。藤原菅根・時平が延喜9年(909)に没して、疾病・旱魃も続き、
延喜23年、皇太子が21歳で没すると、この道真の怨霊の力が盛んに喧伝され、道真には
生前の右大臣に復し、左遷を受けた時の詔書までも焼却されました。それでも京では、
道真が怨霊化し、その後も凶事が続きさらに神格化されて「安楽寺」が出来上がった。
つまり、道真の墓所や伝承地に霊廟を建てたのが天満宮でその祓い清めした安楽寺が管
理していた事になる。「安楽寺は、草創以来、公的立場として大宰府の協力な援助によ
って基盤を固めましたが、やがて蓄積された財力・僧兵による武力は十一世紀に入ると
自らの発展に向けられ、かつての最大の擁護者(大宰府)は最大の干渉者へと一変し、
大宰府(朝廷の出先機関)と安楽寺の軋轢(あつれき)が生まれ、長元九年(1036)に恒例の
曲水宴の最中に乱闘という形であらわれた。安楽寺が宋人と行っていた薬品取引に関し
て、外国貿易を取り締まる大宰府権師藤原実成が強権を発動し対立を招いたものとみら
れている。その後、実成は罷免(ひめん)されてしまい、大宰府(朝廷の出先機関)の
干渉に対して、安楽寺はそれらに対抗しうる勢力を有していました。」とあるのだ。

1224: 名無しさんAA:18/03/30 16:28
 ちょっくら寄り道    32

 当初、菅原道真祭神とする安楽寺は、道真の孫 平忠を初代別当とする僧官組織によ
って、運営された。安楽寺に下向していた別当は、鎌倉時代中期頃から下向しなくなり
、かわって安楽寺に設置されたのが留守別当で、これも菅原氏一族の大鳥居・小鳥居氏
がその後も35代任命され続けられた。安楽寺という存在が隆盛を誇る時代背景のなか
、安楽寺の荘園だったが、記述は「筑後國水田荘の成立時期は定かではありませんが、
建仁元年(1201)の史料には見当たらず、建長二年(1250)の史料にはでてくるので、それ
以前には荘園として成立していたことが判明しています。」と書かれている。又「安楽
寺は大宰府と結びつきを極めて強く、大宰府によってその存立、発展を計らなければな
らない寺院だった。しかし、十一世紀に入ると自らの力で急速に発展していく。それは
支えていた大宰府関係の官吏の寄進による寄進地系荘園であり、平安末期に至って最大
に達した。その広さは数十町から百数十町に及ぶ荘園三十余ケ所、末寺など数か所に及
び宇佐八幡宮などとともに九州の荘園領主の双璧にまで発展をみた。」とある。「水田
荘はその後、南北朝時代二百町歩余の荘園であったが、大鳥居信高の水田移住とともに
拡張され室町末期には、六百町歩におよんだ。安楽寺寺領のうちでもその経済を支える
最も重要な荘園となっていた。」水田天満宮の出現については、「水田天満宮社伝」や
寛文十年(1670)の「久留米藩寺院開基」などにみえる嘉禄二年(1226)創立という記述と
がある。それら伝承に出る菅原氏は、当時大蔵卿・式部大輔・豊前権守を兼ねていた非
参議の、正三位であった公卿の菅原為長と考えられている。この非参議である事は公卿
であるが参議でない事になる。公卿は、公(大臣)、卿(大・中納言・参議と三位以上の
公家)の併称である。道真以降では、菅原氏の中で、参議まで官位を昇りつめたのは、
道真・為長・長成(為長の息子)の三人だけである。この為長の時代、菅原氏と安楽寺が
隆盛を極めたことは間違いがなく、その影響力を駆使して安楽寺の重要な荘園であり、
菅原氏一族が掌握していた筑後國水田荘へ水田天満宮が造営された。と考えられる。「
その後の安楽寺は、荘園制の解体・崩壊という危機に直面し、社寺本来の信仰を広める
というところに立ち戻りる。中世末の動乱期に多くの寺院は滅亡・退転していった中で
安楽寺も 多くの寺領を失い衰退しつつも、なお存続しえたのは、神社としての天満宮
が意識され天満宮としてかつての大宰府文化の継承者としての責任に立ち返った。」と
言われる。

1225: 名無しさんAA:18/03/30 16:29
 ちょっくら寄り道    33

「隆盛期の安楽寺において、大宰府官人の保護のもと堂塔が整備され荘園も拡大してい
くと同時に「曲水宴」「残菊宴」「六庚申」などの年中行事や「神幸祭」「千灯明」など
の宗教行事が始められ、行事の始行を通じていえる特色は、それらは、宮廷貴族文化の
大宰府長官などによる直接移入であり、しかも文芸的色彩の極めて濃厚なものであった
。そして年中行事は何れも道真が宮廷における年中行事として参加し、詩に賦していた
ものばかりでありました。」と言う。こうして往時の宮廷文化を色濃く反映した行事が
安楽寺に根付いたことにより、いつしか水田天満宮にも文化移入されたという。しかし
伝説では、宮廷文化はこの水田水天宮から、大宰府に行ったのだ。とされている。実は
大宰府政庁は、単なる政庁であり、この地に朝鮮半島からの備えの大きな砦を敷こうと
考えた。と言うのだ。考えればこの菅原道真はこの藤原時平と本当に対立していたのか
。と思う部分がある。朝鮮からの侵略戦争に日本には危機感が走ったと言える。意見の
対立はあったとしても、当然官位は同じでも道真が家位が下でこの福岡の防備する家柄
になる。更に少し前に流行り病で九州で病人がバタバタと倒れたとなれば、真相究明が
大事であったろう。しかし道真は、寛平6年(894年)遣唐大使に任ぜられるが、唐の混
乱や日本文化の発達を理由とした道真の建議により遣唐使は停止されているぐらいに、
武功や旅行嫌っていたと考えられる。言わば行儀のいい官僚だった。対して藤原基経は
暴君陽成天皇を退位を迫る程能動的な人間だった。しかし地方口伝では京都を出るとき
は僅か数人だったが、この大宰府に着いた頃は60人程の従者が勝手について来たとも
言われる。彼らは旅芸人で先の傀儡子として浄瑠璃を社務所で演じて糧を得ていた。と
も伝えられる。水田天満宮の背景に伝統文化の多さがあった。筑後地区にはおよそ50
もの祭りが存在していたと言われる。「神幸祭・連歌祭(笠着の連歌)・千燈明・風流・
流鏑馬行事・稚児風流・千燈明などの「宗教行事・民族芸能」はどこでもあったという
神事だが その他に仏教の梵行祭(盆綱)御潮取り(綱引き)鬼叩き(土竜打ち)焚現
行(ほんげんぎょう:鬼火焚き)日子の火渡りなども、多くあったらしい。又節句行時
も多く元旦竹の節句・梅の節句(豆まき)・桃の節句(ひなまつり)・桜の節句(花見
)・菖蒲の節句(鯉のぼり)・柳の節句(さなぼり)・豆の節句(たなばた)・茅の節
句(なげし)・菊の節句(御接待)・栗の節句(月見)・芋の節句・松の節句 等々。
咲菜幟(さなほり)はこの地から日子山まで行く行為であったと言われる。


1226: 名無しさんAA:18/03/30 16:29
 ちょっくら寄り道    34

 こうしていつの間にか北島玉垂宮は「水田天満宮」となり、道真を祀った「神社」で
あり、大鳥居氏の「下向先」であり、室町初期には、均等名体制がしかれていた「荘園
を経営するための管理事務所」となっていた。当然ここは道長が死んだとして移り住み
経営した場所とされる。水田天満宮の南には、かなり古い月読み神社があり、『日本書
紀』によれば、顕宗天皇(第23代)3年に任那への使者の阿閉臣事代(あへのおみこと
しろ)に月神から神託があり、社地を求められた。朝廷はこの月神に対して「歌荒樔田
(うたあらすだ)」の地を奉り、その祠を壱岐県主祖の押見宿禰が奉斎したとされるが
ツクヨミは、月の神とされている。しかし「つきよみ」とは「次世見」のことであり、
次の時代の形を読み解き、人々に知らせる役割を持つ。「つくよみ」と書いても「次ぐ
・継ぐ世見」で同じ意味となる。古事記ではイザナギが黄泉国から逃げ帰って禊ぎをし
た時に右目から生まれたとされ、もう片方の目から生まれた天照大神、鼻から生まれた
須佐之男とともに重大な三神(三柱の貴子)を成す中の一神だ。実は古事記では「夜の
食国」、日本書紀では「日に配べて天上」を支配する話がある一方で、「夜の食国」や
「滄海原の潮の八百重」の支配を命じられている箇所もある。この支配領域の不安定さ
はアマテラスとツクヨミの神話に後からスサノオが挿入されたためではないかと考えら
れているが、この地では最初に稲穂を赤米から白米にした人物とされる。赤米は瀬高の
方で栽培されていたが、河野氏はそれを小豆を入れた赤飯と勘違いして盗まれた小豆と
して成敗した。と言う伝説が伝わっている。月読姫伝説では天皇が来た際に立派な料理
を出して大いに喜ばれたが、ある日その料理を取る畑が人糞で育てられた物だったので
憤慨して 首を落として一族と争いになった、天皇家は九州豪族と戦争になったが天皇
は頭を下げて、この地が大王と名乗る事を許したと言われている。この花かぐや姫の物
語も今のの荒木付近の伝説だったと古老は話してくれた。「筑後市史第三巻」の、千灯
明祭の紹介は「起源は明らかでないが、伝承によると約七百年前氏子が五穀豊穣を祈っ
て、ほたての貝殻に菜種油を入れた灯明を奉納したのが始まりとされている。この土地
は金森鐘麻呂なる者がいて八女に水利水路の堰を作り、鷹尾神社に米倉の金庫番であっ
たとされ、更に南国貿易をやっていた。と伝えられる。近年では宮古島では金盛氏がい
て仲屋金盛の墓と言い伝えている。墓の規模や形態は、大半が土砂に埋もれて明らかで
ないが、石棺の蓋と思われる縦210cm、横120cm、厚さ22cmの巨石が露出
している。そして不思議にも金盛が姓で仲屋が名前なのだ。


1227: 名無しさんAA:18/03/30 18:42 ID:gyk
富安君を探せ              < その168 >

 明治期に鉄道問題が紛糾していた。九州鉄道(きゅうしゅうてつどう)は、明治時
代に存在した九州の私設鉄道会社であった。北九州市門司区に旧本社の建物が残存し、
2003年から九州鉄道記念館として利用されている。明治20年(1887)松田和七郎
、藤金作、伊丹文右エ門、渋谷清六、白木為直、嘉悦氏房の六名が会社設立発起者総代
となり、福岡・熊本・佐賀の各県令に呼びかけて創立した。1888年(明治21年)、政府
に設立認可されたがそこに資金は底をついていた、初代社長には高橋新吉が就任した。
その頃はまだ三潴県令が福岡と合併したばかりで初代三潴県令は世界初の今の合板を作
った石井氏の先祖であった。又この頃は宮崎滔天は中国の辛亥革命の徒孫文を支援して
いて、それは日本の三大儒学者安東 省菴(あんどう せいあん)の流れであった。安東
は元和8年(1622年)に石高五百石の柳川藩藩士で重臣である安東親清の次男として生
まれたとしている。次男であったが、聡明で好学心が高く、器量があるので、寛永11年
4月2日に立花宗茂より分家の内意書を与えられる。立花忠茂の時代には江戸に呼び寄せ
られて近侍し、身内の安東助四郎は先の島原の乱で原城三の丸攻撃に参加して負傷した
。1660年安東は長崎に赴き、朱と会談し、師弟の交わりを持った。この時、安東は
日本に留住できるよう長崎奉行に働きかけ、6年間もの間少ない自分の俸禄の中(二百
石だが実質は八十石)の半分を朱舜水のために贈っていた。また、寛文3年(1663年)
のに長崎で大火事では、すぐに駆けつけ朱の家が焼けた家を新築し、焼け残った書物や
日用品をそこに収めて無事を祝ったとされる。元禄14年(1701年)に柳河で没するが、
79歳の高齢であった。明治44年(1911年)に従四位を追贈され、水戸の光圀との会談
には日本で初めてラーメンを食したと言われている。この宮崎家からは初代警察総監の
警視長として宮崎総監が鹿児島に刑務所を作った。又柳川は全国初の留置所として今の
私立図書館にあった。というのもここがドイツを真似た施設で目の前にペンテコステの
教会が建てられたからだ。それは江戸期の三池炭鉱に理由があった。炭鉱経営において
時の囚人を使っていたが彼らはある日逃げ出したのである。明治政府は囚人労働を採用
しが、囚人労働はすでに幕末期(1850年代)には白糠(しらぬか)炭鉱(北海道)や横須
賀製鉄所(神奈川県)で利用されていたし、明治以降は1873年(明治6)に三池(みいけ
)炭鉱(福岡・熊本県)で利用されたのが始まりで、これ以降に、高島炭鉱(長崎県)
、小坂鉱山(秋田県)、幌内(ほろない)炭鉱(北海道)で導入された。



1228: 名無しさんAA:18/03/30 18:44
富安君を探せ              < その169 >

官営時代の三池炭鉱では、1883年三池集治監が設立されて以降、囚人労働に依存する度
合いが増加し、官営最後の1888年には囚人坑夫の割合は全坑夫数の69%に達した。とさ
れている。この囚人の多さは、こうした書物が宝であった柳川市民を落胆させた柳川城
の炎上に原因があった。柳川城は幸か不幸か焼失して、幕末の混乱期を乗り切った。こ
の事は大きな禍いをもたらした。各地が廃藩置県に従い県令が置かれた治世となったが
、歴史上の教科書には徳川幕府の封建社会から明治の文明開化の時代に入った。などと
書かれるが実態は違っていて、散切り頭のおかっぱ武士。と言われるような異様な混用
の文化が生まれただけで 一般市民の生活がそんなに変わったわけではなかった。変わ
ったのは、今までの諸侯が食えなくなって、浪人武士が爆発的に増えた事だけだった。
確かに、横浜や長崎などでは異国人の往来が増えて、奴隷や西洋伯爵が往来したしかし
一般的には、庶民は百姓であり、能力は低く西洋文化に接して驚くぐらいでしかなかっ
た。ただそうした中柳川は活気に満ちていた。商人がどこからも押し寄せて来たからだ
。和蝋燭の立花ハゼの産業は一躍ドル箱となった。菜種油や椿油は発動機の原料となり
高価な木炭自動車まで開発された。柳川では堤印刷事件が起こった。柳川の内山田家は
西洋からのドイツの最新鋭の印刷機を入れていたのだ。これは政府がこれから紙幣発行
の印刷機を購入するのに対して一足早いものだった。この繊細な印刷が施せる印刷機は
明治政府の柳川への疑念を持たせていた。ここに内山田家のカッパ伝説が起きる。いつ
も悪戯好きのカッパが内山田家に新しい奥さん来た事で厠屋(かわや:便所の事)から
悪戯する。そこで気丈な若姫はある時刀を持ってはいり手が出てた時手首を切り落とし
た。そうして手首を旦那に見せた。その後ある日の事返してくれと雨の日にやって来た
ので返した。すると恩返しに次の日から紙のいらない様にふき取る様になった。との話
だ。この話はあまり伝わってはいない。クールファイブの内山田氏の祖先の話だが、こ
の話には辻褄が合わない。厠が怖い変なカッパの手が出るので切り落としたのに、その
後の恩返しが 用が終わった後の尻ふきとはなんとも異様な話の筋書きだからだ。これ
がすぐ傍であった堤印刷所の元になった倉庫の忍者の内偵にあった事が事件の本筋であ
た。だが明治維新以来にその西洋インクが政府からの用止めで発行されるのはずーと後
の軍用伝票となってからだったとされる。


1229: 名無しさんAA:18/03/30 18:45
富安君を探せ              < その170 >

 日露戦争(にちろせんそう)では、隠れた苦悩があった。乃木将軍は戦争後には立花
氏に足を向けて寝れない。とさえいい 塩田の東長の酒を手によくお花の館までやって
きたと言う。その理由が立花氏の起こした堤印刷所の藩札だった。と言う。実は日露戦
争は金のない戦争だった。しかし軍は食料供給に柳川の缶詰と大川のマッチを多用した
。立花氏はこの缶詰やその他の政府の強制供給には拒否した。もとより個人商店の産業
で明治政府になっては立花氏の知る所ではないからだ。ところが三池では枕木や鉄鉱石
を欲していたし軍艦は石炭の供給先でもあった。政府には拒否したが乃木将軍には応え
たのである。ここで藩札の増刷が決められ高椋銀行は難色を示しながらもそれを引き受
けた。本来政府からは止められた藩札だったからだ。だがその資本の回収は楽に行われ
た。当時日清戦争後の八幡製鉄所は、二束三文の葦の生える土地を 蝋の商売に貸し付
けて財をなした木下氏が騙されて買った土地だったからだ。つまり製鉄所の瀬高の煉瓦
もその土地も高椋銀行を抜きには語れない政府の重要政策だったのである。三池港も、
柳川も活況を呈した。そこに目を付けたのが、城島の富安酒造などの地場産業の名主だ
った。さっそく城島からの投資で山川銀行や佐賀からの投資で古賀銀行などが作られた
。明治4年(1871年)に明治政府が藩札の発行状況を調べたところ、全国の藩の約8割
に当たる244藩、14の代官所、9の旗本領が紙幣の発行を行っていた。江戸後期頃までは
西日本を中心とした銀遣い経済下の諸藩の発行が中心であったが、幕末の混乱によって
幕府の統制が減退・消滅し、諸藩は財政危機を紙幣発行により賄おうとした結果、関東
諸藩を中心に新規に発行する藩は続出していた。明治政府は廃藩置県の機に藩札回収令
を発布し、各藩札を新貨幣単位(圓、銭、厘)により価額査定し、実交換相場の藩札回
収を始めた。5銭以上と査定されたものは「新紙幣」(明治通宝)と、5銭未満のもの
は新貨(5銭銀貨等)と交換されることとなったが、新貨鋳造が間に合わなかった。旧
藩札に新価額を押捺して流通させる程だった。明治7年(1874年)には新貨幣の鋳造が
進みようやく交換が開始され、最終的に処理を完了したのは5年後の明治12年(1879
年)6月であった。1877年(明治10年)西南戦争に際して、西郷軍は、薩摩商人からの
軍費調達の必要が生じ、士族商社の「承恵社」「撫育社」によって発行された承恵社札
を用いて六万円を調達した。承恵社札は五円・一円・半円の三種があったとされる。し
かし、軍資金不足に陥った西郷軍が、1877年に更に「西郷札」を発行したが西南戦争の
敗北と共に政府は無価値として回収した。この札は、実際は布製の「布幣」であった。
寒冷紗を2枚合わせて、その芯に紙を挟み堅固にしたものであった。

1230: 名無しさんAA:18/03/30 18:47
富安君を探せ              < その171 >

鴻池 善右衛門(こうのいけ ぜんえもん)は、江戸時代の代表的豪商の一つであった。
摂津言えば鴻池と言う程に摂津の国大坂の両替商・鴻池家(今橋鴻池)は豪商であった
。鴻池善右衛門は鴻池家当で代々受け継がれる名前である。初代が始めるに当たっては
鴻池家の八男だった。伝説ではあろうが鴻池家は、尼子氏の家臣として名を馳せたとい
う山中鹿之助の子孫である。と伝えられる。彼は戦国時代から安土桃山時代にかけての
山陰地方の武将で銀山を管理する尼子氏に仕えていた。通説では鳴り響く豪傑であった
と言う。菊池氏旺盛の頃京都のつながりにしていた居城伯耆尾高城攻めを尼子義久が行
った折には、随行して菊池の剣豪菊池音八を一騎打ちで首を取り、名を挙げたと言われ
るこれにより菊池氏の南北朝時代からの京都の朝廷とのつながりが消え九州の守護職と
しての役割が大内氏と大友氏に牛耳られてしまう結果を生む。しかし大友氏も陶晴賢を
厳島の戦いで高波で水死させると毛利軍は従来から狙っていた銀山の権益確保に動いて
、尼子氏滅ぼすため出雲国へ進軍した。尼子氏の居城は瀬戸内海に遠く日本海の海産物
によって食料を得ていた。その為日本海に面した島根半島と月山富田城には要衝白鹿城
を置いて中継基地や食料庫の役割を果たしていた。これをめぐって攻防が続いていた。
しかし周辺の尼子氏の諸将を平らげながら進軍してくる大軍にもはや尼子氏の勝つ術は
なかった。こうして落城し敗退するが、その中でも山中幸盛、通称は鹿介(しかのすけ
は尼子十勇士の筆頭にして、尼子家再興のために「願わくば、我に七難八苦を与え給え
。」と三日月に祈った。と言う逸話が残る。鴻池家の始祖とされる鴻池新六はこの尼子
氏家臣の山中鹿介(幸盛)の子である。とされる。新六は、慶長年間には伊丹郷町にほ
ど近い鴻池郷で酒造業を行った。伊丹の酒はその頃は有名で室町時代から他所酒を流通
しその後生産し始めていた。と言われている。日本酒の趨勢としては僧坊酒が衰退する
と、こうした酒郷は奈良流の製法を真似て、当時の日本の酒市場で各地に台頭してきた
時代だった。伝説では振興の鴻池郷での酒はまずくて安くしか売れなかった。新六は、
慶長年間に鴻池郷ですでに酒造業を行っており、江戸へ酒を輸送して販売をおこなって
いたが給金も払えなかった。こうして新六の店の手代が叱責された腹いせに灰を投げ込
んだことで、室町時代からあった段仕込みを改良し、麹米・蒸米・水を3回に分ける三
段仕込み製法を編み出し、それが澄み切ったうまい酒となり清酒の一番乗りを果たした
という伝承が残る。この酒は江戸で売れに売れたという。こうして軌道に乗ると鴻池家
を名乗った。

1231: 名無しさんAA:18/03/30 18:54
富安君を探せ              < その172 >

 しかしこの頃、他の所でもこの3段仕込みは既に行われていた。と言うのが解ってい
る。ここで問題なのは多分灰をまぶしたコウジカビをそのまま倉庫内に保管した事で、
今までのカビ菌と違ったうま味が出た事と、安い酒に特化した作り方の考案であったの
だろう。とりあえず新六が改良した鴻池流醸造技術は清酒の大量生産を可能にし、一般
流通する契機となった。ここに慶長5年(1600年)に、伊丹の鴻池善右衛門が誕生する
。元和元年(1615年)、新六の次男・善兵衛秀成は大坂に移って、醸造業を広げ始めた
。元和5年(1619年)には新六も大坂内久宝寺町に店舗を設けて醸造を営むようになり
、鴻池一族の拠点は大坂に移動した。一族はやがて海運業にも進出した。鴻池村の本家
(鴻池村山中総本家)と醸造事業は七男の新右衛門元英が嗣いだ。大坂における醸造・
配達事業は、次男の善兵衛秀成、三男の又右衛門之政、八男の善右衛門正成がそれぞれ
引き継いだ。八男の善兵衛正成は九条島にて海運業を始めが、大坂から江戸への酒積み
が多量となり、陸路駄馬では間に合わず、自らの海上輸送を行うことにした。もともと
海運による江戸への供給は陸路よりは安く早く送れていた。しかし定期航路であり難破
した荷積みの保証はなく何時に船出出来るかは荷物次第であったのだ。海運業の創始に
よって、西国大名参勤交代の運輸や蔵物の取り扱いなど大名との取引関係が生じ、その
関係から大名貸が始まった。こうして明暦2年(1656年)には両替店を開店し、町人貸
しや大名貸しで繁栄した。寛文10年(1670年)には幕府御用の両替商として拡大し、
十人両替という地位にも就いた。鴻池は酒造・海運・金融(大名貸、両替商)という、
一見相互に無関係の業務を営む形態になった。その中に焦げ付き資金回収方に鴻池新七
と言う人足下番がいた。米麹の当時仕込みには多数の人手がいり番頭や蔵元が行ってい
るのが普通だったが、この鴻池氏は子供も多く一大財閥化していたので別会社の様な、
組織運営になったのだろう。その子に忠次郎と言う任侠士が居た。恐らく国定忠治や清
水の次郎長みたいに憧れて走った者であったろう。明治から大正、昭和の初期まで関西
の大侠客鴻池忠次郎は子分3千人余を従えて闊歩していた。その為幕末から明治維新に
かけての鴻池善右衛門家当主である10代目の幸富は、彼らに頼る事はできなかった。
鴻池一族から既に外れていたからだ。明治維新においては、鴻池家も大名貸を帳消しに
されて大きな損失を被ったとも伝えられた。しかし大きな痛手は蒙らなかったとも言わ
れるのは貸付の請求をしなかったからだ。しかしその為維新後に、金融業から他の事業
へ営業分野の拡大もあまり図らなかった。

1232: 名無しさんAA:18/03/31 00:38
 ちょっくら寄り道    35

 ここに水田の水天宮の由緒がある。酒の起源などは世界的には古いものだ。葡萄によ
るワインなどはエジプトの壁画に既にあって紀元前600〜400年位には既にあった
とされている。それらはパンの歴史にナンが焼パンとしてある様に酵母による変化には
古代人が恐る恐るでも試して伝わったものだろう。日本では大牟田にサル酒など言う物
が猿田彦神社には伝わっている。猿田彦神社は山の道祖神とされるが機織りの機織姫を
大事にした。この伝承は手力神や須佐王と同じ内容であまり詳しくは分析できない。と
いうのも今や古事記や日本書紀に偏った伝記に変わってしまっているからだ。久末口伝
では天の羽衣伝説に近いものがある。しかし羽衣伝説は日本各地にさまざまな話型で伝
えられているもので珍しくはないようだ。天界から飛来した天女が、やって来て女人の
姿となり、矢部川が美しく降り立ち休憩する。水浴びする羽の衣を脱いで水浴するうち
、それを盗み見た猿田彦が羽の衣を隠して意地悪をした。そのため幾人かの女人はもと
の白鳥へ戻ることができず泣いてしまった。そこで猿田彦は妻となれば帰すと約束する
。やむをえずその男の妻となり子をもうけるが、子供が大きくなると、男は約束通りに
隠した羽の衣を返して一緒に都に向かって旅に出た。と言う物だ。その旅に出るのに、
男はは謎かけを出し女が答えたので太刀を持ち一緒に旅にでたと言う物だ。オロチ退治
でも、天皇行幸の日本平定の伝記でも、酒は一つのアイテムとして宴には出て来る。そ
れは白酒や濁り酒と言う濾さない酒で所謂甘酒である。これを今の清酒として伝えたの
が杉丸とされる。柳川の杉氏は海産物の酒粕漬けを発明した人とされる。更に家紋が鱗
紋と言う奇妙さがある。自出は大分にあるようだが、分家筋が杉森氏がだったらしい。
大木町には「三八松」という地名の場所がある。この地の由来は明治時代。荒牟田村・
中村・吉祥村・野口村・中野村に鎮座する氏神の、三島神社・八幡神社・老松神社から
、一字ずつとって三八松とした。と伝えられる。この時の老松神社の口伝では、福岡の
道真公の口伝よりずっと古い。福岡近郊の老松神社の由緒は、菅原道真公が大宰府に向
う途中、今宮神社に参拝された際、松を手植えされた。都落ちした自分の無念を、「こ
の松が一夜のうちに成長し古木となることがあれば、後年自分の無実が晴れるであろう
」と念じて植えると、一夜で老いた松となった。この松は飛松と呼ばれ、この地の呼び
名になったという言い伝えだ。太宰府天満宮資料では菅原道真公の御詠歌の中に、「梅
は飛び、松は追い(老)・・」という一説があり、そこから老松という名がついた。つ
まり元来、天満宮の古い呼称は老松社(老松神社)とのこと。と言われる。

1233: 名無しさんAA:18/03/31 00:39
 ちょっくら寄り道    36
大木町の老松神社社伝では、創建年代については不詳であるが、この神社がある場所は
かつてオオクニヌシとスクナビコナが諸国巡回の折に逗留した地であり、その後に垂仁
天皇の時代に一族がこの地に出雲大社の分社として建立したといわれる。この大国主と
少彦名神/少名毘古那神は国作りの神で、日本書紀では高皇産霊尊(たかひむすひのみ
こと)の子とされる。体の小さい神で、のち、常世国(とこよのくに)に帰った。医薬の
神とされる。荒牟田村・中村・吉祥村・野口村・中野村のはそれぞれの神を祀っていた
が荒牟田村が八幡神社を吉祥村は三島神社を野口・中野が老松神社を祀り入り乱れての
産子(うぶこ)を取り合っていたのだろう。この時最後に寄進されたのが三島神社だっ
た。もともと八幡神社も三韓征伐で幡多を挙げて新羅軍に勝った事から出来た神社であ
る。つまり老松神社こそ地元のかなり古い神社と言う事になる。先の菅原道真が立ち寄
って神社の名前の多くが網敷天満宮に変わったが、恐らくは老松神社では無かったかと
推測する。更にこの神社は多分に甘酒の神様ではなかったかと思っている。彼が旅芸人
つまり傀儡子と呼ばれる人形浄瑠璃の一団と共に歩いたとすればことごとく納得がいく
。本来新羅からの多くの天然痘患者で死者のでた地区の現地視察だった。陸路で松山市
内に行かれ3年過ごしたお話しがあるのは、そこでの興行が成功した或いは興行を行う
用意をした。と考えられる。更にかつて讃岐守をしていた関係から牛窓(うしまど)で
小山に登り讃岐の島山を眺められ若き日の讃岐守の頃を懐かしみ何日か逗留している。
牛窓には、神功皇后が三韓征伐の道中、この地で塵輪鬼(じんりんき=頭が八つの大牛
怪物)に襲われたが弓で射殺。皇后が新羅からの帰途、成仏出来なかった塵輪鬼が牛鬼
になって再度来襲、住吉明神が牛鬼の角をつかんで投げ倒した。この場所を牛転(うし
まろび)といい、訛って牛窓になったという。伝説にまつわる浮かぶ島や神社等がある
。この牛鬼(うしおに)は西日本に伝わる妖怪で主に海岸に現れ、浜辺を歩く人間を襲
うとされている。猫のような体と1丈もの尾を持ち、体が鞠のように柔らかいので歩い
ても足音がしない姿で、妖怪絵巻では、牛の首をもち蜘蛛の胴体を持っている姿で描か
れその姿から「土蜘蛛」ともされる。つちぐもは八女地方の独特の伝説でもある。事実
福岡県久留米市の観音寺に牛鬼の手とされるミイラがある。康平年間(1063年)に現れ
た牛鬼のもので、牛の首に鬼の体を持ち、神通力を発揮して近隣住民を苦しめ、諸国の
武士ですら退治をためらう中、観音寺の住職・金光上人が念仏と法力で退治したものと
いう。手は寺へ、首は都へ献上され、耳は耳納山へ埋められたという。耳納山の名は、
この伝説に由来している。この地山門郡の名は、日本書紀に記された神功皇后が山門県
で土蜘蛛の田油津媛を討ったとされる山門県に比定される為にこの名が付けられた。

1234: 名無しさんAA:18/04/03 23:28 ID:6IE
富安君を探せ              < その173 >

維新後の起業の発起人には多く鴻池善右衛門(幸富)が名を連ねてはいるが、名声利用
の誘い込みであり、技術も手腕もない為に、自ら事業をする事は無く、常に投資でしか
なかった。こうして明治の鴻池家の営業方針は堅実で、政商との性格を色濃く持つ三菱
や、治金の技術を悪用した三井のようには、明治の時流には乗らなかった。1877年に、
善右衛門が設立した第十三国立銀行(鴻池銀行)も他の諸銀行に次第に抜かれ、一地方
銀行へと後退していった。一方初代鴻池善右衛門家には兄にはじまる栄三郎家(新七二
)新十郎家(新七三)や、善五郎家があった。新六が始めた酒蔵の事業を影で支えたの
が兄の新七であった。江戸晩期に離れて関西の侠客の徒となった忠次郎の家業は、鴻池
藤太郎が後を継いだ。もともと人脈のある家業だったらしく孫は実業家となって兵庫県
議会議員鴻池勝治となり大阪商人の娘三智子を娶った。終戦後山下汽船で下積みを終え
て家業の運送業、尼崎鴻池組、尼崎港運鰍作った。仕事と任侠とそして戦後を繋ぎ、
尼崎市議(一期)、兵庫県議(五期)などを務めた。その後自民党議員鴻池祥肇が生ま
れた。鴻池氏が在住した鴻池の地名は実は尼子氏一門の地ではなかった。794年の(
延暦13年)この時代には、八女地方には多数の荘園ができている。川崎荘・広川荘・
水田荘。(矢部・黒木は川崎荘)である。この時広川荘は川から北で今の八女地帯であ
り当然水田の荘はその南の水田神社の周辺と言う事になる。この境になるのが室園なの
だが古来より鵜池(うのいけ)と呼ばれていた。この鵜というのは普通の白鳥の類であ
る鵜飼いで有名な鵜は黒い物だが鳥の総称として呼ばれたのだろう。鴻池の鴻は大きい
鳥の意味でありここにやって来た渡り鳥が普通の大型の鳥より大きかったからだろう。
立花藩は江戸後期にこの鴻池氏と雲竜相撲の力士を通じて親交を持ち三千両の借り付け
を行い米相場を利用して財政改革を成し遂げた。即ち現物一挙買いと先物の一挙売買い
で市場を動かし巨利を得たのである。実はこの八女のここから大宰府政庁に米を送った
と伝えられ、ここが米相場の発祥の地ともされる。1158年(保元3年)平清盛が太宰大
弐に任じられてこの地にやってきた。平清盛は若い頃太政大臣になった。しかし太政大
臣は律令に基づいて置かれたが、中国官制には相当するものが全くなく、日本独自の全
国を掌握する為の官職として存在した。日本史上、太政大臣は大友皇子から三条実美ま
での95人に及ぶがその態様は一様ではない。最初は高市皇子が飛鳥浄御原令に基づく
ものが最初と推測されるが、それは京の守りの大将みたいなものだった。天皇の師範で
あり天下の手本となる者を意味し、唐の規定の丸写しで起こり、国家を治め道理を論じ
自然の運行を調和させる者を指名し「尋常の職にあらず」と説明されており、ふさわしい人物がなければ空席とされることになっていた。

1235: 名無しさんAA:18/04/03 23:30
富安君を探せ              < その173 >
 平清盛は平治の乱で勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任じられた。彼が
起こしたのは武家政治の経済改革と言っても過言ではない。日宋貿易によって財政基盤
の開拓を行い、銀の現物で宋銭を大量に買い付けて日本国内で流通させ通貨経済の基礎
を築き、日本初の武家政権を打ち立てたてている。平氏の権勢に反発した朝廷の後白河
法皇と対立したが、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治
の実権を握る。しかし、平氏の独裁は公家・寺社・武士などから大きな反発を受け、源
氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。保延3年(1137年)忠盛が熊野本宮
を造営した功績によって、清盛は肥後守に任じられている。久安3年(1147年)、継室
に迎えた平時子との間に宗盛が生まれるが、時子の父・平時信は鳥羽法皇の判官代とし
て、葉室顕頼・信西とともに院庁の実務を担当していたのである。熊野三山(くまのさ
んざん)は、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の3つの本宮神社がある。こ
の熊野三山の名前からもわかる通り、仏教的要素が強いが実は日本仏教の素となった。
中でも熊野神社は日本全国に約3千社ある熊野神社の総本社である。熊野本宮は鎮座す
る山神を祀り熊野那智大社はその修行道場だった。修行した後の宿坊以上の者の集まる
阿闍梨の勉学堂として熊野那智大社があった。平安時代に広まった刀伊入冠などで地震
や流行り病など大きな社会不安は菅原道真の怨霊伝説と共に国家神道は人々は支持され
なかった。この時僧侶が大きく信者を増やし、その中で新しく出た末法思想をして法華
経は大きく信者を得た。これにより熊野山中で法華経にまつわる不思議な経験をした事
を伝説に古くからの極楽浄土の土地とされたこの地を、極楽往生を望む僧侶にとって、
熊野を霊場として開発していったのだ。これに平氏は寄進を起こした。しかしこうした
仏教は殆どが天台宗の座主の許可の下に行われた。こうして熊野霊場を作り熊野権現と
して神話の耶蘇神論を広めた事から、当時の神仏習合の流れに合致した土地として急激
に権威ある大きな霊場と変化し京の朝廷の支援を得て更に大きくなった。この頃こうし
た神仏習合は多く祇園闘乱事件が起こっている。もともと祇園社は神話由来で天皇家が
祀った素戔嗚と言う力の神の庇護を願ったものだ。だがこの神仏習合で大きく天皇家の
拝礼の儀式も形式上の物として権威墜ちしてしまったのだった。久安3年(1147年)6
月15日、祇園臨時祭の夜に平清盛は宿願の成就を祈って、田楽を奉納しようとした。
田楽の集団には平氏の郎党が護衛として同行したが、祇園社の神人に武具の携行を咎め
られたことから小競り合いとなり、放たれた矢が宝殿に突き刺さり多数の負傷者が発生
する騒ぎとなった。その場は収まりその後暫くは何も無かったが、祇園闘乱事件に祇園
社を末社とする延暦寺は忠盛・清盛の配流を要求して強訴する。

1236: 名無しさんAA:18/04/03 23:32
富安君を探せ              < その175 >

この頃上皇が公卿を引き連れて比叡山に登っており、事件はそのまま立ち消えになるか
に思われたが、26日に法皇が御所に戻ると、祇園社の本寺である延暦寺の所司が参院し
て闘乱の事を訴えた。これに対して忠盛は先手を打って、下手人7人の身柄を院庁に差
し出し、法皇はこれを検非違使庁に引き渡した。が、しかし延暦寺は納得せず、28日、
大衆が日枝社・祇園社の神人とともに神輿を押し立てて、平忠盛・平清盛の配流を求め
、強訴を起こした。法皇は大衆の入京を阻止するため、源光保らの軍兵を切堤の辺に向
かわせて防備を固めた。大衆は徒党を組み、わめき叫ぶ声が洛中に響き渡ったという。
法皇は側近の藤原顕頼を奏者として院宣を下し、三日以内に道理に任せて裁決すると約
束したため、大衆は一旦引き下がった。30日の夕方、白河北殿に藤原忠通・藤原頼長・
源雅定・藤原伊通・藤原宗能・藤原顕頼・三条公教・徳大寺公能・花山院忠雅らの公卿
が集まり、祇園闘乱についての議定が開かれた。忠盛は事件に関知していないので責任
はない、下手人を尋問すべきという意見が大勢を占める中、頼長は本人が関知していな
くても山城国内にいて郎党が事件を起こしたのだから、責任を免れることはできないと
持論を展開する。顕頼は議定の結果を法皇に奏上し、ひとまず現場を検分する使者を出
すという方針が定まった。その日の夜に検分の使者が祇園社に派遣され、延暦寺の所司
とともに矢の突き刺さった場所、流血の痕跡、損失物などの調査を行ったが、主張と食
い違う部分もあったという。こうして強訴が取り上げられたが、鳥羽法皇は、延暦寺の
攻勢から忠盛・清盛を保護し、清盛の罪を贖銅三十斤という罰金刑にとどめたのである
。つまり比叡山延暦寺は既に神社仏閣の頂点にいたのである。平清盛の家は正室の母方
の後見で確かな家盛が家督を継ごうとしていたが家盛は急死したため、清盛の嫡流とし
ての地位は磐石となった。仁平3年(1153年)、忠盛の死後に平氏一門の頭領となり、
この後安芸守に任じられて瀬戸内海の制海権を手にする。このとで莫大な利益をあげ、
父と共に西国へと勢力を拡大した宮島の厳島神社を信仰するようになり、現在の海上に
立つ大規模な社殿が整えられた。社殿は現在、本殿・拝殿・回廊など20棟が作られて
平家の納めた平家納経を始めとした現在の国宝・重要文化財の工芸品などを多数納めた
。こうして平家一門の隆盛とともに厳島神社も栄えて平家の氏神となった。厳島神社は
飛鳥時代に厳島神社を創建したとされる佐伯鞍職に始まり、文献に記載のない期間を経
て平安時代以降は代々佐伯氏が世襲していた。佐伯氏はもともと大神一族の支流である
神紋「三つ盛り二重亀甲に剣花菱」はこの平氏時代からで波切三丸紋が本当だろう。

1237: 名無しさんAA:18/04/03 23:33
富安君を探せ              < その176 >

保元元年(1156年)の保元の乱は平治の乱とも言われ、清盛の立場は難しいものであっ
たが一門の結束につとめ後白河天皇側について勝利をもたらし、平家の武家政治の最初
であった。こうしてこの勝利で播磨守、大宰大弐となった。もともと祇園社事件の前に
保延3年(1137年)忠盛が熊野本宮を造営した功により、清盛は肥後守に任じられてい
ていて使いを出していたはずだ。院政時代全国からこぞって中央の有力者に荘園を寄進
してその庇護を受けて院の武者として勢力を拡大しようとした。4代菊池経宗・5代菊
池経直も鳥羽院武者と記録されて、菊池氏がその例に漏れなかった。このころまでに、
菊池氏一族の中に在地名を名乗る者が現れ、菊池氏一族が肥後国の在地勢力としては、
定着拡散して行ったことが分かる。平家台頭後は更に日宋貿易に熱心だった為、平清盛
が肥後守に就任するなど、平家による肥後国統制が強化されると菊池氏は平家の家人と
化した。その後太宰権帥として清盛がなったのを機にその守護豪族の地位は確立された
。しかし平家の家人となり治承・寿永の乱(源平合戦)に従軍したものの、壇ノ浦の戦
いで源氏方に寝返り御家人に名を連ねた。この源平の間を揺れ動いたことで頼朝の信用
は無く恩賞は守護に任じられた少弐氏や大友氏・島津氏に遠く及ばず、逆に多くの関東
御家人に周囲に配置され、その牽制を受けた。この後平家の平清盛以降に平氏の時代が
続いたなら間違いなく九州もそう大きな混乱は起きなかった。「大宰府権帥」と称され
る様になったのは平安時代だが、権帥(ごんのそち)は仮の長と言う意味でそのため、
朝廷からの権帥を気にするものもおり、平惟仲(たいらの これなか)のように懇願し
て大宰帥として任命されるものもあったが、多くは嫌った。しかし地元では、在庁官人
に頼る為権力が移って、保安年間の源重資を最後に権帥も遙任化していった。治承年間
に松殿基房が左遷によって大宰権帥となったり、その監視の為に藤原隆季が大宰帥に任
じられたりしていた。基房が途中の備前国で出家して同地に留まる事を許されたために
派遣が中止されている。平惟仲がこの大宰府に赴任した時、長保3年(1001年)にかつ
ての同僚で大宰大弐を勤めていた藤原有国の後を受けて、中納言兼務のまま大宰権帥と
して大宰府に赴任した。

1238: 名無しさんAA:18/04/03 23:33
富安君を探せ              < その177 >

 平惟仲は今で言う「現地妻」の子として生まれた。後に弟の生昌と共に都に上って、
大学寮に入り文章生となる。祖母の藤原元姫(藤原菅根の娘・中納言平時望室)が、女
官として宮中に出仕して冷泉・円融両天皇の養育係を務めていた経歴によって、外戚で
ある時の摂政藤原伊尹との関係を持ったことで、官僚の道を歩み始め順調な出世の背景
にはが大きいとされている。その後、美作・筑後・相模・肥後の受領を歴任し、勤勉振
りを伊尹の弟である摂政藤原兼家に気に入られたことから兼家の家司となり、永延元年
(987年)に右少弁次いで右中弁と弁官に抜擢され、同僚の藤原有国と共に兼家の耳目
として活躍していた。 990年の兼家薨去の際には長男の道隆を後継に推挙して彼からも
厚遇され、正暦3年( 992年)に、閣僚の一員である参議にまで昇進すると言う、地方
出身者としては異例の栄達を成し遂げている。また、この時期に、一条天皇の乳母で、
兼家の異母妹にして、彼の次男道兼の前妻の藤原繁子と結婚した。赴任後、歴代の権帥
や大弐が手を焼いた宇佐神宮の神人達の支持も取り付けるなどの行政手腕を発揮した。
長保5年(1003年)には従二位を叙される栄冠に浴する。しかし、宇佐神宮宝殿を封じ
たことが元で宮司に訴えられ、寛弘元年(1004年)の12月に大宰権帥を解任された。
その後病に伏し、翌寛弘2年(1005年)3月14日に大宰府で薨去。享年61。この後、荼毘
に付された惟仲の遺骨を弟の生昌が大宰府から都に持ち帰ったという。地方出身であり
ながらも、その身一つで都に上り、勉学で磨いた才覚を武器に中央政界を渡り歩いて、
兼家、道隆、そして道長と言った実力者達に重用され、遂には従二位中納言にまで上り
詰めたその姿は、当時としては正に異例とも言うべきもので、それだけ惟仲の異才ぶり
が、当時の世論の耳目を集めていた。兼家の家司として藤原有国と共に「左右の眼」と
いわれ重用されたが彼の時代珍しく朝廷内には波乱がなかった。兼家の後継者を決める
際に兼家が惟仲に相談しているが、長幼の序を理由に道隆を推薦した事で後に後継者と
なった道隆からも厚遇されたという。道隆薨去の後には、中関白家衰退の予兆を嗅ぎ取
り、道隆の末弟の道長に接近し道長の閣員として権中納言に昇格、その後も極官である
中納言にまで到達した。平は桓武天皇が建設した平安京にちなんで「平(多比良)」と
名づけたとすると言われる。だが実は逆ではなかったか。多比良と言う渡来人が大勢こ
の難波宮を作る前に居住していた。そして桓武天皇が難波宮を作る労役に使い その頭
として多比良を平としたのではないのだろうか。


1239: 名無しさんAA:18/04/03 23:33
富安君を探せ              < その178 >

平惟仲は高棟王流の平家四流の一つだった。出自は葛原親王長男の高棟王子孫とされる
。高棟王は天長2年 (825年)に賜姓を受けて平高棟となった。この流れは公家として
京に残り、平安時代末期に平清盛の正室平時子(二位尼)と、その弟で清盛の威勢によ
って正二位権大納言にのぼった平時忠、異母妹の建春門院平滋子が出た。時忠は壇ノ浦
の戦いの後、能登に流され没落したが、時忠の弟親宗の子孫(唐橋家)や叔父信範の子
孫(西洞院家・安居院家・烏丸家)は、鎌倉時代以降も公家として続いた。歴史物語の
今鏡に、「日記の家」と紹介されているように平記・兵範記をはじめ多くの古記録を残
している。江戸時代には西洞院家・平松家・長谷家・交野家・石井家という5家の堂上
家を出した。なお、時忠の子時国の子孫を称する家が能登半島で豪農(上時国家、下時
国家)となり、現在も続いている。しかしその多比良氏の祖先は、長崎に多比良町を作
っている。今も残る多比良町の近くには、多くの伝説が残っている。しかし多比良港は
不思議にも雲仙でも有明海に面した場所だ。 今から 千数百年前、仲哀天皇の御世に
、日本と朝鮮は国交が上手くいっていなかった。それで神功皇后は互いに仲良くするた
めに多くの兵を連れて朝鮮に行くことになった。ところがその頃、九州では熊襲という
悪者が村人を苦しめていたので、皇后は道すがら熊本地方まで足を運び熊襲を討伐した
。と言う物だ。その時に神功皇后が「何か困ったことがあれば言うように」と触れまわ
ったので、一人の男が「私どもの島原にも悪者がいて困っています。どうか討ち平らげ
て下さい」と言った。皇后は忙しい身ではあったが島原半島まで立ち寄ることに決めて
、船で出向くと大歓迎を受けた。そこで神功皇后は不思議な現象を目にした。海上に幾
千の火の玉が現れたのだ。皇后も兵に調べさせたが原因が掴めず、それを誰も知らない
火「不知火」と呼ぶことにした。それでその火より手前を、「火の前の国」、奥を「火
の後ろの国」と言う意味で、長崎を肥前、熊本を肥後と言うようになった。その頃村人
は武荘五郎という大変悪い熊襲に苦しめられていた。この武荘五郎は非常な大力で、誰
も歯が立たなかったという。この武荘五郎はかつて自分の力を部下に見せるために大き
な岩山を一本の棒で担い上げたが、そのはずみで棒が折れ、岩山の一つは海の中に落ち
てしまい児島なった。と言う程だった。神功皇后は村人の願いを聞いて、この武荘五郎
を退治することにした。武荘五郎も部下を従えて皇后を迎え撃った。武荘五郎らは思っ
た以上に手強く、皇后自身も弓矢をとって戦うも劣勢だった。そのとき何処からか住吉
大明神が現れ、神智により皇后軍は元気づき、ぐんぐん賊を追い詰める事が出来た。


1240: 名無しさんAA:18/04/03 23:34
熊襲の賊はたまりかねて山深く逃げ込んだが、ついに武荘五郎も力尽き皇后の部下に討
ち取られ平定を果たした。長い間村人を苦しめた武荘五郎もついに討ち取られたので、
村の人たちは喜んで武荘五郎の首を海岸まで板に乗せて引きずった。そして小高い丘の
上で首を焼き骨を埋めて塚を作った。それでこの地を鬼塚と呼んだ。村は平和になり、
人々は畑仕事に精を出せるようになった。皇后が去るときの見送りは村人総出のそれは
盛んなものだったという。武荘五郎は何者か。この周辺に多くある「みそ五郎伝説」の
元とされる。この「みそ」は「未曾有」がなまったものと解され「五郎」は「御霊(ご
りょう)」とされる。この頃の伝説には「阿蘇猛(あそたける)の大王」の話で日本武
尊(やまとたける)に勝ったという伝承が残る。これらを考えると仲哀天皇の崩御の元
はこの雲仙だったのかも知れない。かろうじて和議をした振りをし酒を飲ませて勝った
ものの、傷を負い香椎の宮で崩御した。と伝えられる。阿蘇猛の熊襲はこうして平定さ
れるが、その場所は熊本である。即ち不知火の火は熊本側のかがり火であったのである
。つまり大和朝廷の長崎国見岳と九州部族の熊襲の熊本国見山はお互い睨みあった事に
なる。では武荘五郎とは本当に何者だったのか。五万長者遺跡(ごまんちょうじゃいせ
きは雲仙市国見町高下名字平野山にある。本遺跡は、島原半島北部雲仙岳北麓の緩やか
な丘陵にある。遺跡一帯を大きくは、「高下名(こうげみょう)」といい、古来から、
「五万長者」伝説が伝わり、古くから古瓦を出土することで知られる本遺跡がその屋敷
跡と伝承されてきた。1970年には、地元の研究者である古田正隆氏を団長とする国見高
等学校・島原工業高等学校合同の「五万長者屋敷調査団」が発掘調査を実施している。
その結果、数カ所の柱穴跡を検出している。人工的に造成された版築状の遺構や土師器
杯を伏せた祭祀遺構と考えられる穴が検出され、古代の土師器、須恵器、瓦などの遺物
が出土している。出土している瓦については、研究によって、福岡老司瓦窯跡を標式と
する老司系瓦で、老司系とその亜型で8世紀中頃前後の年代を与えている。この遺跡が
「九州における老司系瓦の出土状況をみると、大宰府を除いて寺院跡以外の出土はなく
、建築物は寺院の可能性がきわめて高い。この遺跡は、五万長者廃寺跡と呼ぶべきもの
で」、五万長者廃寺を「高来郡の郡司が建立した郡寺と考えることができる」としてい
る。と発表された。百花台遺跡や筏遺跡は旧石器時代から続く有史前先人の遺跡として
全国的にも有名となった。この五万長者(一説には胡麻長者)遺跡は、高来郡を支配し
ていた郡司の寺跡と考えられ、近年調査された十園遺跡と共に高来郡郡衙の一部をなす
遺跡と考えられる。また、発掘調査において新たに前方後円墳(龍王遺跡)が発見され
るなど町内各地からさまざまな時代の遺跡が発見されており、当町の歴史の古さ、文化
の推移がうかがわれる

1241: 名無しさんAA:18/04/03 23:35
富安君を探せ              < その180 >

古代の歴史に残っているのは、神功皇后が時津から上陸して一泊し、「長い夜」といっ
たので、長与になったという話しがある。長い夜の話は何故なのか不思議だが、古代史
に残っているということは、昔から存在していたということである。古代、長距離の移
動には船が使われていたので、時津に上陸し長崎港まで歩き、そこから船に乗る道があ
ったようで、時津街道とも呼ばれている。時津と長与はすぐ近くなので、ともに栄えた
と思われる。少し離れて諌早に喜々津がある。 時津、長与、喜々津と並ぶ。 このパタ
ーンで行けば、長与ではなく長津のはずなのだが、そうなっていない。津というのは、
船着き場のことなので、長与は船着き場でなかったということになる。長与の「与」を
字は当用漢字をあてはめた漢字で、昔は「輿」という漢字を使用していた。つまり長輿
は「輿(こし)」の関連だった意味だった事は間違いないだろう。輿は轅(ながえ)と
称する2本以上の棒の上に人が乗る台を載せた乗り物の事で、嫁入りを輿入れと称した
し篭に乗る者が神なり貴人では御神輿(おみこし)や御輿(みこし)となる。博多の街
が伯太の人すなわち出雲からの長髄彦族の地に変わった事はよく知られている。長髄彦
は神武天皇に「昔、天つ神の子が天の磐船に乗って降臨した。名を櫛玉饒速日命という
。私の妹の三炊屋媛を娶わせて、可美真手という子も生まれた。ゆえに私は饒速日命を
君として仕えている。天つ神の子がどうして二人いようか。どうして天つ神の子である
と称して人の土地を奪おうとしているのか。」景行天皇の身長が、御身長一丈二寸、御
脛長四尺一寸と書かれている。1丈およそ畳一枚3m程度二寸は6センチとすれば、脛
の長さは1.2メートルほどである。だがこれは、近年計量法で決められた数字で、昔は
当然京間と言われる寸法もあった。太鼓や鼓など8寸を腕や撥(バチ)の長さで0,4m
である。これからすると巨人ではあるが1割は多い。つまり最大で2.8〜2.5mとすれ
ば、そうそう無かった話とはならない。もう一つの天孫降臨をした人物が長脛彦の一族
だと古事記には書かれている。天孫降臨した神様の名はニギハヤヒという。天孫降臨し
たニギハヤヒは物部氏につながり、大和、河内を本拠地にしている。長髄彦族は神武東
征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長で、中世に武将として台頭した織田家
(後に織田信長を輩出)や伊達家が長髄彦の子孫であるとも言われている。文字通りだ
と2,5m級の大男である。長髄彦をモデルにしたと言われている、長髄彦は反大和の背
の高い種族であったのだ。こうして長与の神社 戸隠神社 祭神は天手力男神である。
一方熊襲は土蜘蛛のはびこる未開の地として、武器こそもつが少彦名でも解るように。
入れ墨した小人(こびと)とされる倭人族だったのである。

1242: 名無しさんAA:18/04/05 10:21
 宣教師の時代       ーーー1

 良く間違えやすいのは、島原の乱で、天草四郎をはじめとする一揆勢が立て籠ったこ
とで有名な原城はこの雲仙であると言う事だ。もともとは、島原を拠点に長崎県全域に
勢力を伸ばした 有馬氏の城であった。当時は、沖合を渡る船が日没を忘れるほど美し
いお城だったといわれ、「日暮城」とも呼ばれていた。日野江城の支城として扱われて
いた。南島原市のほぼ中央、有馬川河口付近の小高い丘にある。南には有馬川が流れ、
東には大手川が流れている。縄張りは北西に三の丸、東に二の丸を配し中央の丘頂部に
本丸が置かれた連郭式平山城であったとされる。安土城にしか見られない直線階段や、
海外の技術を取り入れた石組み、金箔を施した瓦などが出土した。先進性や豊臣政権と
密接な関係を持っていた。1614年7月、日野江藩主・有馬直純が自らの志願で移封した
あと天領となっていた。だが有馬藩が徳川氏から移封され1616年に松倉重政が日野江城
に入城した。この時、松倉重政は島原城を築城開始したため、日野江城と共に原城も、
廃城となり、石垣や構築物は転用された。島原の乱は4ヶ月に及ぶ籠城戦の末、幕府軍
の総攻撃によって原城は落城。その後、見せしめとして城は徹底的に破壊された。今や
堀や石垣の跡を残すのみの、日本史に残る激戦の舞台を偲ぶのみになった。一揆が起こ
った時、島原藩は直ちに討伐軍を繰り出し深江村で一揆軍と戦い、兵の疲労を考慮して
島原城へ戻った。この時対岸の天草では呼応して、数日後に肥後天草でも一揆軍が蜂起
した。天草四郎を戴いた一揆軍は本渡城などの天草の拠点を攻撃、本渡の戦いで富岡城
代の三宅重利(藤兵衛、明智秀満の子)を討ち取り。勢いを増した一揆軍は唐津藩兵が
篭る富岡城を攻撃、北丸を陥落させ落城寸前まで追い詰めた。天草自体は小西行長の領
地であった為朝鮮征伐後に偽書事件の為徳川氏とは上手くいっていない。関ヶ原合戦に
よって改易となり、肥前国唐津に入部した寺沢広高の所領となった。が、宗氏の後見人
としての地位で安堵されていた筈だった。雲仙を秀吉時代に天領としていた頃までは、
上手く行っていたが、しかし板倉氏が来て過激な徴収に至ると直ぐに反発が起こった。
それまでは本渡城は、戦国時代の有力国人・天草五人衆の中で、最も勢力を有していた
天草氏の本拠地で、天生十八年(1590)には、本渡城主・天草種元と小西行長・加藤清正
らが激しい戦いを繰り広げる事になった。種元はドン・アンドレアという洗礼名をもつ
キリシタンであり、城内には宣教師や付近のキリシタンが立てこもりました。攻め手側

1243: 名無しさんAA:18/04/05 10:22
天草氏の本拠地で、天生十八年(1590)には、本渡城主・天草種元と小西行長・加藤清正
らが激しい戦いを繰り広げる事になった。種元はドン・アンドレアという洗礼名をもつ
キリシタンであり、城内には宣教師や付近のキリシタンが立てこもりました。攻め手側
の小西行長も敬虔なキリシタンであったために城攻めには消極的でしたが、加藤清正は
激しく城を攻めた。この天草五橋の最後の本渡島はキリスタンの聖地で陸続きではない
。富岡城はその又尖端にある城である。野心ある慶長10年(1605年)寺沢広高によって築
かれたが、これにより天草一帯は過酷な地と変わった。



1244: 名無しさんAA:18/04/05 10:24
 宣教師の時代       ーーー2

「北肥戦誌」に有馬晴純のことを「志自岐原 今の原城 城主」と書いてある。いまは
、原城と言うが実はかつては志自岐原城(シジキバルジョウ)と呼んでいた事になる。
お隣の加津佐町にある加津佐之古城跡は、ここにはかつてコレジヨがあったと言われて
いる。この口乃津と呼ばれるが久木の津がなまった言葉とされ九鬼の津が正式名称であ
ろう。九鬼水軍は別名織田水軍(おだすいぐん)・志摩水軍(しますいぐん)とも称さ
れる。頭首だった九鬼嘉隆は鉄甲船(鉄板で装甲した巨大安宅船)を建造したとされる
。九鬼氏の祖は、熊野別当を務め、熊野水軍を率いた湛増にさかのぼるという説がある
がそもそも熊襲の船旅係である。紀伊国牟婁郡九木浦を根拠地とし、鎌倉時代には既に
志摩国まで勢力を拡大していたといわれ、南北朝時代に志摩国の波切へ進出して、付近
の豪族と戦い、滅亡させた。天正12年(1584年)6月、九鬼嘉隆は伊勢白子浦から蟹江
浦に滝川一益の兵3千人を揚陸させているが、この海戦に敗れて嘉隆は大船を捨て小舟
で沖に逃れており、この時に沈没したとも考えられる(蟹江城合戦)。この嘉隆の大船
は、「大宮丸」、「日本丸」と命名していたと伝わる。文禄元年(1592年)からの文禄
の役では九鬼水軍の安宅船が数々の海戦に参加して、村上水軍を打ち破った。その為に
その後も九鬼水軍は、慶長の役、安濃津城の戦い、大坂の陣などに参加している。「多
聞院日記」によると長さ12〜13間(21.8m〜23.6m)、幅7間(12.7m)と記述されている
。これは天正元年(1573年)に琵琶湖湖畔の佐和山において、丹羽長秀の指揮のもと、
建造されたと推測される。反面、この寸法では大船よりも大幅に船長が短く、縦横比が
低いために航走には適さない。装甲本船は船体を厚さ3mm程度の鉄板で覆い、村上水軍
が得意とした焙烙火矢に対する装甲としたと伝わる。この船に「鉄の船なり。鉄砲通ら
ぬ用意、事々敷儀なり」という伝聞の記述をしている。第二次木津川口の戦いについて
詳細に記載しているオルガンチノの報告書では、「王国(ポルトガル)の船にも似てお
り、このような船が日本で造られていることは驚きだ。」とあるだけで装甲の有無には
触れておらず、『信長公記』においても装甲の有無については記載がない。このため、
鉄張り装甲を持っていた、という点には疑問があるものの倒伏型の大型帆船があった事
は事実の様だから鉄板貼の船があっても不思議でない。又原氏や志岐氏がこの城からの
自出であろう事も間違いない。


1245: 名無しさんAA:18/04/05 10:25
 宣教師の時代       ーーー3

 この戦国期の貿易は、もともと宣教師による布教は南蛮貿易と一体として持ち込まれ
たので、キリスト教を保護した領主の中には、あるいは洗礼を受けたキリシタン大名の
中でのみ、貿易の利を得る事が出来た為、利潤を主目的にしていた場合もあるだろう。
公権力が、キリスト教を弾圧した最初は、天正十五年(1587)六月十九日の秀吉による
宣教師追放令だった。つまり禁教令も秀吉時代はまだまだ弾圧まで至っていないのだ。
山田右衛門作は、1637年に勃発した島原の乱で天草四郎率いる一揆軍が全滅する中、唯
一生き残った(厳密には脱走した)南蛮絵師と言う。一揆軍の幹部でありながら幕府軍
側に内通していた裏切者で、彼の供述がなければ、天草四郎の存在が世に知られること
はなかったとも言われている。我が国最初のプロの洋画家で、世界三大聖旗の一つとい
われる天草四郎陣中旗は彼の作とされている。 山田右衛門作が絵をかく時に与茂作(
よもさく)と名乗って、この川の水を汲んだことから与茂作川と呼ばれるようになった
。現状ではポルトガルの貿易船(南蛮船)は1550年とされる。以来、松浦氏の所領であ
った平戸に来航していたが、1561年のポルトガル人殺傷事件(宮ノ前事件)をきっかけ
に、日本最初のキリシタン大名の大村純忠より提供された横瀬浦(西海市)に移った。
大村氏の内紛で横瀬浦が焼き払われると、今度は1565年に大村氏所領内の福田(長崎市
)に来航した。だが福田は外海で波も荒く港内も狭かったため寄港地としては短命に終
わっている。1567年には有馬氏を頼って南蛮船が口之津(南島原市)に来航した。しか
し、ポルトガル側は福田や口之津には不満が根強かったようで、より波静かな天然の良
港を開港するよう純忠に求めていた。これに応じて、1570年に長崎港が開港されると翌
1571年には最初のポルトガル船が寄港して、以後長崎が南蛮貿易の拠点として発展して
いくことになる。と言われる。しかし天草の河浦にコレジヨのカトリック教会の高等教
育施設は実はもっと古くあったという口伝がある。日本では天正8年 (1580) イエズス

1246: 名無しさんAA:18/04/05 10:26
 宣教師の時代       ーーー3

 この戦国期の貿易は、もともと宣教師による布教は南蛮貿易と一体として持ち込まれ
たので、キリスト教を保護した領主の中には、あるいは洗礼を受けたキリシタン大名の
中でのみ、貿易の利を得る事が出来た為、利潤を主目的にしていた場合もあるだろう。
公権力が、キリスト教を弾圧した最初は、天正十五年(1587)六月十九日の秀吉による
宣教師追放令だった。つまり禁教令も秀吉時代はまだまだ弾圧まで至っていないのだ。
山田右衛門作は、1637年に勃発した島原の乱で天草四郎率いる一揆軍が全滅する中、唯
一生き残った(厳密には脱走した)南蛮絵師と言う。一揆軍の幹部でありながら幕府軍
側に内通していた裏切者で、彼の供述がなければ、天草四郎の存在が世に知られること
はなかったとも言われている。我が国最初のプロの洋画家で、世界三大聖旗の一つとい
われる天草四郎陣中旗は彼の作とされている。 山田右衛門作が絵をかく時に与茂作(
よもさく)と名乗って、この川の水を汲んだことから与茂作川と呼ばれるようになった
。現状ではポルトガルの貿易船(南蛮船)は1550年とされる。以来、松浦氏の所領であ
った平戸に来航していたが、1561年のポルトガル人殺傷事件(宮ノ前事件)をきっかけ
に、日本最初のキリシタン大名の大村純忠より提供された横瀬浦(西海市)に移った。
大村氏の内紛で横瀬浦が焼き払われると、今度は1565年に大村氏所領内の福田(長崎市
)に来航した。だが福田は外海で波も荒く港内も狭かったため寄港地としては短命に終
わっている。1567年には有馬氏を頼って南蛮船が口之津(南島原市)に来航した。しか
し、ポルトガル側は福田や口之津には不満が根強かったようで、より波静かな天然の良
港を開港するよう純忠に求めていた。これに応じて、1570年に長崎港が開港されると翌
1571年には最初のポルトガル船が寄港して、以後長崎が南蛮貿易の拠点として発展して
いくことになる。と言われる。しかし天草の河浦にコレジヨのカトリック教会の高等教
育施設は実はもっと古くあったという口伝がある。日本では天正8年 (1580) イエズス
会士 A.バリニャーノにより豊後府内 (大分市) に創設されたが、これは他を真似ての
事だ。同14年島津氏の侵入によって焼失し、山口に移り、さらに加津佐 (島原半島の
南西端) ,天草を経て長崎へ移転している。聖職者の養成と、ヨーロッパ文化の伝達を
目的として,哲学,神学,一般教養を教え,教義書や辞書,物語などの印刷出版も行な
ったものだが、最初から豊後に入ったとは到底考えられない。

1247: 名無しさんAA:18/04/05 10:26
目的として,哲学,神学,一般教養を教え,教義書や辞書,物語などの印刷出版も行な
ったものだが、最初から豊後に入ったとは到底考えられない。更にユグノー教徒のラ・
ロシェルやボルドーにおける海上交易の発展にもユグノーは多大な力を持ち、ボルドー
においては主にイギリス・オランダとの交易を担い、ラ・ロシェルにおいてはナントの
勅令直前まで貿易をほぼ独占していた。つまり東洋交易において、イエズス会が最初の
日本上陸の筈はないのである。加津佐の港ではユグノーが上陸していた筈だった




1248: 名無しさんAA:18/04/05 10:34
 宣教師の時代       ーーー3

 富乃津とも言われた加津佐の港が、「より波静かな天然の良港を開港するよう純忠に
求めていた。」と言うのは間違いだ。口之津港は天然の港として古来より大型船の寄港
に適した有明海の入口だ。更に対岸の富の島富岡はキリスタンの天使堂には最適な場所
であったろう。島津氏が丸に十文字の紋をつけ秦氏流惟宗朝臣として旗上げししたのは
そんなに古くはない。源平時代に南九州にあった近衛家領荘園の後で島津院とされる荘
園の防衛についてからだ。ではそれ以前に住民がいなかったのかと言えばいたのである
。西郷氏は熊襲の中で菊池一族の西側の村の住民だったのである。文治2年(1186年)に
関東から下向し薩摩国山門院(鹿児島県出水市)の木牟礼城に入って荘園の守護武将とな
った。相良氏は相浦氏の言葉が変化したのだが言葉の通り海人族である。相とは出会い
を指すもので相浦(あいのうら)とは海で出会ったという意味のものだ。浦島伝説の、
浦島とは海と島つまり海上と陸上の間の人間で海人族そのものを指し太郎とはその頂上
にいる者である。つまり、亀に乗って竜宮に行き玉手箱を貰うのだが、もともとは化粧
道具を入れるための着飾る今で言うなら宝石箱である。この「玉櫛笥(たまくしげ)」
が玉手箱となった。とされる。島原伝説に竜眼伝説がある。昔、稲荷山の下で一匹の蛇
が子ども達にもてあそばれていた処、高田洞庵という若い町医者が通りかかり、その蛇
を助けてやりました。ある雨の碑、雨宿りを求め絶世の美女が洞庵宅の戸をたたきまし
た。その美女は洞庵といつしか気心が解け合い二人は夫婦となり、子どももできて楽し
い暮らしが続きました。ある日、洞庵は妻の姿が見えないので、裏の納屋を覗いてみる
と、大蛇がとぐろを巻いて赤ん坊に乳を飲ませていた。その大蛇は、以前助けてもらっ
たことを告げ、大事な子どもの為にと、くりぬいた目玉を渡して、雷鳴とどろく夕闇の
中へ消え去って行きました。その後、子どもはすくすくと育ちましたが、領主が不思議
な玉のことを聞きつけて取り上げてしまうと、その日から洞庵の子は泣き続け、痩せ細
って行きました。雷鳴がともに大蛇が現れ、もう一つの目玉を差し出して去って行きま
したが、だが、またもや領主がその玉を奪ってしまった為、突如として大轟音とともに
眉山が崩壊し、有明の海は大津波を起こし大惨事「島原大変」となった。と言う伝説だ
洞庵の子は、蛇体の母親の温情を後世に伝える為に、龍眼様の祠を稲荷山に建立した。

1249: 名無しさんAA:18/04/05 10:34
洞庵の子は、蛇体の母親の温情を後世に伝える為に、龍眼様の祠を稲荷山に建立した。
これが龍眼稲荷神社(現:正地稲荷神社 栄町竜王神)の由来とされる。ここで龍の目
と言うのは恐らく真珠の話であろう。古来より真珠は体内異物によって作られる。島原
雲仙は火山活動は活発で貝でも微量そうしたものが体内に残る事は多くあっただろう。
では亀とは何か。実は甕(かめ)の事で昔は深い海には重しや空気ツボが必要だったと
される。



1250: 名無しさんAA:18/04/05 10:35
 宣教師の時代       ーーー4

 近代真珠は、1893年、御木本幸吉が、世界で初めて真珠の養殖に成功し、それまでは
偶然の産物でしかなかった真珠は世界のすみずみにまで、その美しさを広めることにな
った。とされている。しかし中東では石油の前は養殖にまではいかないものの真珠産業
は盛んだった。日本のミキモト真珠の創業者の方が真珠の養殖法を発見して、これまで
高価だった真珠が安く採れるようになったために、中東の真珠産業が栄えなくなってし
まったのであって真珠の養殖技術そのものは違った形であったと思う。何故ならペルシ
ア湾岸では数千年にわたって天然真珠の採取が行われてきていて、その中でバーレーン
近海の好漁場には、質の高い真珠が採取されていた。この方法は少なくとも1000年以上
の間、ほとんど変化をしなかった伝統的なものだったと言われるからだ。その為真珠商
人たちも多く集まっていた。しかし記録では真珠貝の1万個に一個の真珠だったらしい
。1930年には約3万人の潜水夫たちがおり彼らが真珠で食べていたとすれば、かなりの
高価なものだったと言える。事実として、中国で実際行われた方法は乾道3年(1167年
)には『文昌雑録』巻第一にその記述があり。仏像真珠(胡州珍珠)と称されて、浙江
省で真珠養殖は、伝統的にされ続けてきたものであった。人工で作った珠を貝の中に入
れるという方法で、貝付き真珠、一種の半円真珠であるがそれらは流通していた。この
仏像真珠に関しては清に滞在したキリスト教の神父B.E.X.アントレコールが1734年には
フランス本国に報告している。これらの方法は天草にも秘伝としてあったと考えられ、
それらの海産物相手にイスパニヤ船は来航していたと思われるのである。但し真珠その
ものは高価で少量なので 水食糧の供給と真珠の交換ぐらいでは多分その寄港の日数は
少時間で少なかったと考えられる。これが富家の創始でったとも考えられる。というの
も対岸の熊本にはチブサン古墳や日岡遺跡があるからだ。チブサンにはオブサン遺跡の
壁画が今や見れないから不明だが7つの領域(7円)をめぐって角を持った王と白三角
の勢力と黒い壁を境に戦った歴史が見える。この7つの渦紋は日岡遺跡にも見られる。
赤三角どうし白三角どうしが(三角は家系の繋がり)戦い最終的に黒点の周囲に白丸が
周囲を囲んだ2つが中心になり黒三角が払われている。これは大和朝廷と九州朝廷を、
長脛族が擁立し 熊襲や疾風などの豪族は追い払われたと言う意味に解される。つまり
この天草や雲仙の地は太古の昔から この天草の乱の様な事が起こっていたと考えられ
るのである。又イスパニアがカピタン商館を建てている事は確かだろうが今一つはっき
りしない。

1251: 名無しさんAA:18/04/06 19:34
 宣教師の時代       ーーー6

 こうした事で拡大する中国はベトナムと戦争を起こしていた。1433年宦官鄭和は
の中国時代からもこの子孫や兵は日本に渡った後も馬場氏を名乗っていたと言われる。
太宰府政庁の龍造寺家や大宰少弐氏の家臣の馬場氏もそうした事で明朝貿易に関わって
いたはずだ。信長や秀吉によって天下統一による統一政権が日本に生まれると、交易統
制の必要性が発生し、近世ではじめに統一政権を樹立した豊臣秀吉は日本人の海外交易
を統制し、倭寇(後期倭寇)を禁圧する必要から、1592年に初めて朱印状を発行して、
マニラ、アユタヤ、パタニになどに派遣した。とされる。ポルトガルは、イスパニア王
現スペインの前身であるレオン・カスティジャ王国の一部、ポルトガル伯領として建国
されてた。その後王号を認められ、ポルトガル王国となった。その後1580年ポルト
ガルの王家の直系が絶えたため、スペイン王フェリペ2世が、母がポルトガル王家出身
を理由に、ポルトガル王位を兼ねた。しかしフェリペ4世の時代に、ポルトガルで、反
スペインの反乱が起こり、1640年外交的手回しにより、スペインからの独立に成功
している。つまり一時期1600年頃はスペインとポルトガルは戦争していたのである
。スペインとポルトガルの戦争は実は1630年のフランス・スペイン戦争の前哨戦だ
ったのである。ドイツとスウェーデンが同盟を組み、神聖ローマ帝国との関係を修復し
た。その為フランスの領土はハプスブルク家の領土に包囲されてしまったのだ。フラン
スはこの事に自由を危惧し、ハプスブルク家側のスペインに宣戦布告をしたのだ。こう
したハプスブルク家の企みの元に起こったスペインの内戦が、ポルトガルとスペインの
内紛だったのである。サン・フェリペ号はマニラからノビスパニア(メキシコ)のアカ
プルコに向かう途中で捕獲され遭難したのである。同船の船長はマティアス・デ・ラン
デーチョであり、船員以外に当時の航海の通例として七名の司祭はフランシスコ会員の
フェリペ・デ・ヘスースとファン・ポーブレ、四名のアウグスティノ会員、一名のドミ
ニコ会員が乗り組んでいた。フランシスコ会の基本理念は、貧しいイエス・キリストの
生涯を範として、その福音を使徒と同様忠実に生き、ローマ教皇に対してはあくまでも
従属であった。「托鉢修道会」ないし「乞食僧団」とよばれ、どの教会管区にも属さず
、ただローマ教皇にのみ属した、キリシタン迫害の時代には多くの殉教者を生んだ。人
びとに「神の国」を説き、その戒律は(服従、清貧、童貞)と徹底的に実行した。その
点では清貧の修道会であった。



1252: 名無しさんAA:18/04/06 19:34
 宣教師の時代       ーーー7

 つまり此の時すでにフランシスコ会は世界中に散って活動していたのである。その上
で秀吉に水先案内フランシスコ・デ・オランディアは憤り、世界地図を長盛に示してス
ペインが広大な国土を有し、日本がいかに小国であるかを語り、質問に答える間、スペ
イン国王はまず宣教師を海外に遣わし、布教事業とともに征服事業を進めるという意味
のことを語った。「スペイン国王は、まず宣教師を派遣し、キリシタンが増えると、次
は軍隊を送り、信者に内応させて、その伝道地の国土を征服するから、世界中にわたっ
て領土を占領できたのだ。」と通訳は話して、この時代には、スペインによって、まだ
征服されていなかった国は、東アジアでは、明(朝鮮半島含む)と日本のみとなってい
ることを示していた。このスペインの貨物船の、サン・フェリーペ号が遭難し、土佐の
浦戸に漂着したことは改めて秀吉を驚かせたに違いない。救助した船員たちを、秀吉の
五奉行の一人である増田長盛が取り調べにあたり、この驚くべき事実があきらかになっ
たからだ。これまで、スペインが日本に攻めて来たとしても、彼らは海を渡ってやって
きても、スペインとの直接対決ならば、海を渡ってやって来るスペイン人は、少数の為
南蛮船打ち払い令で、火力、武力とも全員が日本を守れると信じていた。しかし、スペ
インが今に明を植民地として、支配下に治めることになると、話は大きく違ってきくる
。数多くの鉄砲を日本が持っていても、スペインに支配された明の兵士たちが、数の力
にモノを言わせて日本に攻め込んできたら、これは大変なことになる。既に幾つか国崩
しが日本は買っていたが、交易で持つ位では歯が立たない。ならば驚異を取り除くには
、自らスペインよりも先に明を日本の支配下に置いて戦うしかない。豊臣秀吉が朝鮮出
兵には、大きな決断が必要だった。だが日本を押さえた今では、火力、武力に優れた猛
将達で、秀吉は今の兵力で充分可能な事だ。スペインの植民地支配に時間は待ってくれ
ない。よしんば万一、明まで攻め込むことができなかったとしても、朝鮮半島を日本の
下に明の緩衝地帯としておくことや、攻められる情報が分かれば、充分に地政学的には
日本の安全が確保されるはずだ。と考えたに違いなにはずだ。日本にしてもこの朝鮮出
兵が無かったら中国を攻める前に日本に軍艦を派遣しようとしていた可能性もある。そ
れが、ベトナムでの中国清王朝とイスパニア戦の負けである。もし、秀吉が朝鮮出兵を
行なわず、日本の国力をスペインに見せつけなければならなかったのである。こうして
ベトナムと日本は中国の元寇と同じに同じ境遇にあったのだ。実は九州征伐の折には、
既に朱印船貿易で日本にはそうした事の情報は小西行長によって伝わっていたのである


1253: 名無しさんAA:18/04/06 19:35
 宣教師の時代       ーーー8
 アレッサンドロ・ヴァリニャーノは1578年9月、ポルトガルが居留地を確保していた
マカオに到着したが、同地のイエズス会員のだれ一人として、中国本土定住が果たせな
かったことを知った。しかし日本に於いては、ヴァリニャーノが当時の東インド管区の
東端に位置する日本(口ノ津港)にたどり着いたとされている。ヴァリニャーノは1579
年7月、マカオ到着したルッジェーリと入れ替わるように日本へ出発した。こうして157
9年(天正7年)7月25日のことであった。この最初の滞在は1582年(天正10年)まで続
く。1581年、織田信長に謁見した際には、安土城を描いた屏風(狩野永徳作とされる)
を贈られ、屏風は教皇グレゴリウス13世に献上された。未だ不明のままだ。また、従者
として連れていた黒人を信長が召抱えたいと所望したためこれを献上し、弥助と名づけ
られて信長の直臣になっている。ヴァリニャーノは『日本巡察記』として日本の考察記
録を書いていた。本書は長らくイエズス会機密文書として眠っていたが、1954年に初め
て出版された。(第一章 日本の風習・性格、その他)日本人は他のことでは我等に劣
るが、結論的に言って日本人が、優雅で礼儀正しく秀でた天性と理解力を有し、以上の
点で我等を凌ぐほど優秀であることは否定できないところである。と言い(第三章 日
本人の宗教とその諸宗派)では仏教について「…(前略)…この釈迦は、非常に多くの
書物を記した。正確に言えば、その弟子達が、彼が民衆に説いた教義をそれ等の書物に
記したのである。これ等書物は、我等の間の、聖書のように、彼等の間に極めて多大の
信頼と権威を遺した。だが釈迦は賢明であったので、自ら企図するところを、最もよく
達成する為に、その教義を種々に解釈できるように説いた。と語る。又(第23章 日本
における司祭が修院の内外で守るべき方法)を、司祭たちが、弁明して、「日本人(の
あなた方)は、私達が異なった風習の中で育ち、日本人の礼法を知らなことを考慮すべ
きだ。」と述べた時に、日本人が度々私に答えたところであるが−彼等は次のように語
る。「このことに就いては、あなた方に同情するし、一年や二年なら我慢するが、幾年
も経っているのであるから我慢できない。何故なら、あなた方が日本の風習や礼儀を覚
えないのは、それを覚えようともしないし、それがあなた方の気に入らないからである
。それは私達に対する侮辱であり、道理にも反する。何故なら、あなた方が日本に来て
、その数も少ない以上は、日本の風習に従うべきであり、私達は日本の礼式をやめるこ
とはできないし、あなた方の風習に従うべきでもない。あるいはまた、あなた方が日本
の風習を覚えないのが、あなた方にその知力と能力が欠けている為であるならば、日本
人はそれほど無能なあなた方の教えを受けたり、あなた方を師とすべきではない。」と
記述している。つまり 此の本には日本人に対する傾向と対策を書いているのだ。

1254: 名無しさんAA:18/04/06 19:35
 宣教師の時代       ーーー9

 日本人がよく知るフランシスコ・デ・ザビエルは、スペインのナバラ王国生まれの、
カトリック教会の司祭だった。宣教師になってエズス会の創設メンバーの1人といわれ
る。バスク人でありながら。、日本やインドなどで宣教を行い、聖パウロを超えるほど
多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれて、カトリック教会の聖人の一人となっ
た。1548年11月にゴアで宣教監督となったザビエルは、翌 1549年4月15日、イエズス会
士コスメ・デ・トーレス神父、フアン・フェルナンデス修道士、マヌエルという中国人
、アマドールというインド人、ゴアで洗礼を受けたばかりのヤジロウら3人の日本人と
ともにジャンク船でゴアを出発し、日本を目指した。一行は明の上川島(広東省江門市
台山)を経由し、ヤジロウの案内でまずは薩摩半島の坊津に上陸した。その後許しを得
て、 1549年(天文18年)8月15日に現在の鹿児島市祇園之洲町に来着したという。この
日はカトリックの聖母被昇天の祝日にあたるために、ザビエルは此の日に、日本を聖母
マリアに捧げたという。1549年9月には、伊集院城(一宇治城)で薩摩国の守護大名・
島津貴久に謁見し、宣教の許可を得て布教活動にはいった。ザビエルは薩摩での布教中
、福昌寺の住職で友人の忍室(にんじつ)と好んで宗教論争を行ったとされる。後に、
日本人初のヨーロッパ留学生となる鹿児島のベルナルドなどにもこの時に出会う。しか
し、貴久が仏僧の助言を聞き入れ禁教に傾いたため、「京にのぼる」ことを理由に薩摩
を去った。ロレンソ了斎(ロレンソりょうさい)は、名説教家として知られ、精力的な
布教活動を行い、当時の日本におけるキリスト教の拡大に大きな役割を果たし、ロレン
ソ了西ともいわれ、日本人切支丹の第一人者だが、此の頃目が不自由であったため、琵
琶法師として生計を立てていた中で、天文20年(1551年)に山口の街角でフランシスコ
・ザビエルの話を聞きキリスト教に魅力を感じ、ザビエルの手によって洗礼を授かり、
ロレンソという洗礼名を受けている。ここで不思議な事は後発のヴァリニャーノ神父は
1579年(天正7年)の祭はちゃんと口の津港に入港し3回もマカオを往復している事だ
。更にインドのゴアに少なくとも一人のヤジロウなる日本人がいた事だ。又その後薩摩
は仏僧の意見を聞き入れ急速に禁教令を引いた事も引っ掛かる。この時期に鉄砲や大砲
を始め舶来品が欲しいと言うのが多くの戦国大名の持つ感覚だった筈だからだ。一向一
揆などで信長が台頭し戦国時代の真っ只中だ。室町幕府の室町時代でそのころの将軍は
13代将軍足利義輝の時代だ。九州では侵攻を開始した毛利元就と大友宗麟とが対立し
、、永禄元年(1558年)から永禄5年(1562年)までに豊前の門司城の戦いや、1567年
に大友家から離反した高橋鑑種討伐などに国崩しは使われ、既に日本に出回っている。

1255: 名無しさんAA:18/04/06 19:36
 宣教師の時代       ーーー10

 大友宗麟や毛利元就が使った此の戦争の情報は、とっくに島津勢には伝わっていた筈
だ。1570年に、蒲池氏が柳川城を作ったのは、実はこの国崩しという大砲の情報と海外
交易という事を重んじての事だ。従来の御朱印船貿易ならば、別に海岸上の船は必要で
はない。だが戦争の形態がここに来て変わったからだった。元亀元年(1570年)3月、
北九州の大友宗麟は肥前において勢力を拡大する龍造寺隆信を討伐するため、3千の兵
を率いて龍造寺領に攻め込んだ。龍造寺側は佐嘉城(のちの佐賀城)に軍を集めて篭城
を開始する。大友宗麟は高良山に陣取り諸将に攻略を命じたが、龍造寺軍の士気も高く
容易に敵を寄せ付けなかった。戦況は小競り合いを繰り返しながら数ヶ月が推移した。
とは言え、龍造寺側には長期の篭城戦に必須である援軍の見込みはなく、このままいけ
ば落城は必至の状況であった。大友宗麟は8月になっても勝報が届かないことに業を煮
やし、城攻めの大将とし弟の大友親貞を三千の兵で前線に送り出し親貞に総攻撃命令を
下した。17日には親貞は佐嘉城の北に位置する今山に布陣した、北側に布陣する大友
親貞は占いの凶兆を気にして直ちに総攻撃には踏み切らず、8月20日をもって佐嘉城
に総攻撃を開始することを決定する。ところが総攻撃の前日の夜には、親貞は今山の本
陣で勝利の前祝いとして酒宴を開き、軍の士気を緩めてしまい、その情報で夜襲を受け
寝返った者が出たと噂まで流したのであった。。大友宗麟は高良山に陣取ったままで、
佐賀城まで全軍進軍しなかった理由はここにあった。鉄砲や大砲が既に敵にある事を想
定する戦争しかなかったからだ。大友宗麟の命で大友親貞を総大将に、龍造寺隆信の佐
賀城を包囲した際には戸次鑑連、吉弘鑑理、臼杵鑑速らが、、蒲池鑑盛(53歳)は田尻親
種と共に、数十隻の船で筑後川を渡り、包囲戦に加わっている。しかし此の時今山の戦
いのまずさで大友勢が大敗を喫すると、田尻氏の進言を受け、蒲池鑑盛と嫡子・蒲池鎮
漣が龍造寺家との和睦を仲介している。その後1578年、北上する薩摩の島津義久・島津
家久らとの耳川の戦いでも、大友勢の田原親賢に従って出陣した。親子で出陣が命じら
れたが、途中から家臣の田尻氏が佐賀龍造寺とつながっており不安の為に帰っている。
耳川の戦いは凄まじい程の敗戦になった。川を挟んで対陣したがそれは大砲の届く距離
であり、船の鉄砲隊も待ち構えていたからだ。又島津は得意の野伏間の戦法で退路すら
挟まれていたからだ。

1256: 名無しさんAA:18/04/06 19:37
 宣教師の時代       ーーー11
 ヴァリニャーノの時代は、戦国時代が終わった後ではあった。三度に渡って来日して
、巡察師としての職命を帯びるということは、日本が宣教の地として可能性を秘めなが
らも困難な異教の地であることを知っていたからだと考えられる。巡察師というのは、
布教先における宣教師や会衆を指導し、その国の布教事情を調査し報告するために派遣
された者の職名である。ローマと極東の間の通信や連絡は容易なものではなく、報告を
作りその回答をローマから得るには数年はかかったと思われます。そのために、巡察師
の使命は強大な権限が与えられていた。日本イエズス会布教区の責任者はフランシスコ
・カブラル (Francisco Cabral) という司祭でだった。日本人の性格については偏見に
満ちた見解を持ち、日本文化に対して一貫して否定的であり差別的であり続け、他の例
えばインドなどと同じに異国人を言葉を話す家畜としていた。それはやがて日本人信徒
と宣教師たちの間に溝を起こした。カブラルは日本語を不可解な言語として、宣教師達
に習得させようとせず、日本人に対しても又、ラテン語もポルトガル語も習得させよう
とはしなかった。しかし、巡察師ヴァリニャーノは、日本文化の尊重という姿勢をとり
、外国人宣教師が日本語と日本人の礼儀作法を学ぶことの重要性を指摘し、カブラルを
強く批判して、やがて布教長のカブラルを解任までさせた。日本のイエズス会は、早く
からマカオにあったイエズス会に報告書を送っていた。ヴァリニャーノは、大友宗麟、
有馬晴信らの切支丹大名や織田信長、豊臣秀吉らにも謁見している。その後、本能寺の
変以降、豊臣秀吉の統治下になると日本の教会が不安定な状態に置かれるようになる事
を察知して、それゆえ、重要な文書を国内に留め置くことを避け、マカオで保存する様
な措置をとったことが記録されている。「日本巡察記」は、異邦人ヴァリニャーノが書
いた「日本諸事要録」といった報告書の一部であり、将来の布教の方針を決める際の、
重要な資料ともなったが、日本にとってもその頃の貴重な記録となっている。こうして
ヴァリニャーノから解任に至るまで批判されたフランシスコ・カブラルも戦国時代末期
の日本を訪れたイエズス会宣教師である。インド各地で要職を歴任したのち、コスメ・
デ・トーレスの後継者として日本に派遣された。1570年(永禄13年)、天草志岐に到着
。同行した会員の中にはグネッキ・ソルディ・オルガンティノもいたが、前年度に手違
いからインド管区長代理の権限がカブラルとオルガンティノに重複してしまい、これが
原因で両者は諍いを起こしていた。2人の対立は日本でも尾を引くことになる。日本に
到着後、ただちに日本布教区責任者となったカブラルは、志岐で宣教会議を行い、今後
の宣教方針を決定した。そこでカブラルの指摘した問題点は、「日本においてイエズス
会員が絹の着物を着ているのは清貧の精神に反している。」ということであった。

1257: 名無しさんAA:18/04/06 19:38
前任者トーレスは日本においては「身なりや服装がきちんとしていない人物は軽蔑され
る」という事実にかんがみて、宣教師たちにあえて良い服を着ることを奨励していたが
、着任早々のカブラルはそういった事情は考慮していなかった。と言われる。トーレス
はカトリック教会の司祭。ザビエルの意志を受けて18年間にわたって日本で宣教の活
動を行った。彼の目指した「適応主義」(宣教師が現地の文化に根ざして生きること)
は当時のヨーロッパ人の限界を超えた思想であり、日本におけるキリスト教布教の成功
をもたらした。コスメ・デ・トーレスの宗派はそうした事からある意味異端派にあった
。スペイン・バレンシア出身のトーレスは若くして司祭となり、故郷を離れてメキシコ
に渡った。さらにビリャロボス艦隊に同行して東南アジアまでやってきた。1546年に、
そこでたまたま同地に来ていたザビエルとのトーレスは運命的な出会いをする。ザビエ
ルに心酔したトーレスは共にインドのゴアへ渡り、同地でイエズス会に入会した。ザビ
エルや日本人ヤジロウと共に日本への宣教を志したトーレスは 1549年8月15日、ついに
鹿児島に到着し。ザビエルと同じように日本人に好印象を抱き、宣教への夢をふくらま
せた。一行は平戸の松浦氏の庇護を受けることが出来たため、トーレス自身は、京都を
目指したザビエルらと別れて平戸に滞在した。さらに1551年にザビエルがインド目指し
て出発すると、トーレスはザビエルから日本布教の責任を託された。トーレスの地道な
活動はかなりの実をむすんだ。山口や九州の各地で徐々にキリスト教が広まり始め、彼
は戦乱に翻弄されて九州地区を転々としながら、後続の宣教師たちを教育して、日本人
協力者を養成し、信徒の世話をし、仏僧たちの議論に答えた。1556年には南蛮商人だっ
たルイス・デ・アルメイダがトーレスの感化によってイエズス会に入会した。彼は最初
に病院を作った人だった。以後には宣教師としても盛んに活躍することになる。トーレ
ス自身も宣教を続け、1563年に大村純忠に洗礼を授けて、初のキリシタン大名とした。
またキリシタン布教と不可分の関係にあった南蛮貿易の拠点として横瀬浦(長崎県西海
市)(1562年)、ついで長崎(1570年)の開港に尽力した。ただし長崎に最初のポルト
ガル船が来航したのはトーレスの没後の1571年であり、彼自身はこれには立ち会えては
いない。

1258: 名無しさんAA:18/04/06 19:54
 宣教師の時代       ーーー13

松倉 重信(まつくら しげのぶ、)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将であ
ろう。筒井氏の家臣で松永 久秀(まつなが ひさひで)の下に、戦国時代には変節の上
暴れまくった。松永久秀は大和国の戦国大名として立ち上がり、通称は官位を合わせた
松永弾正(まつながだんじょう)の名で知られている。初めは三好長慶に仕えたが、や
がて三好政権内で実力をつけ、室町幕府との折衝などで活躍した。久秀は長慶の配下で
あると同時に交渉の一環として室町幕府第13代将軍・足利義輝の傍で活動することも
多く、その立場は非常に複雑なものであった。また、長慶の長男・三好義興と共に政治
活動に従事し、同時に官位を授けられるなど主君の嫡男と同格の扱いを受けるほどの、
地位を得ていた。三好長慶の死後は三好三人衆と時には協力し時には争うなど離合集散
を繰り返し、畿内の混乱する情勢の中心人物の一人となった。上洛後しばらくは他の有
力部将と共に京都防衛と外敵掃討の役目を任され、天文20年(1551年)7月14日には、
等持院に攻め込んできた細川晴元方の三好政勝、香西元成らを弟の長頼と共に攻めて打
ち破っている。相国寺の戦いである。大内政弘の加勢によって勢いをつけた西軍は、9
月の東岩倉の戦いで西軍を破り東軍を京都北東に追い込んだ。10月に西軍は更なる攻勢
に出て東軍が構える花の御所・相国寺・内裏に進軍を開始し、西軍の畠山義就・大内政
弘・一色義直らの軍勢が朝倉孝景らと合流して、相国寺及び周辺の東軍に攻めかかった
。相国寺には細川勝元の猶子細川勝之と勝元の家臣安富元綱・武田信賢らが守り、南方
の烏丸殿・内裏・三条殿には京極持清らが構えていた。東軍側は一旦退却したが、畠山
政長らの援軍を得て反撃に転じ、相国寺跡地に陣取っていた一色軍と六角高頼軍を急襲
して打ち破り相国寺を奪回した。しかし、再度孝景が率いる西軍の軍勢が相国寺の占拠
に成功し、一旦休戦となった。西軍は相国寺の奪取により東軍を追い詰めたが、双方に
多大な死傷者を出す消耗戦となった。消耗が激しかったこの戦い以降、両軍の間での衝
突が散発的になり、やがて戦争は京都から地方へと波及、相手陣営の有力武将の調略へ
と戦略が切り替わっていった。しかしこの時に相国寺は失火してほぼ焼けてしまった。
相国寺(しょうこくじ)は、日本の禅寺で臨済宗相国寺派大本山の寺である。史上最高
の伽藍があった。永徳2年(1382年)、室町幕府3代将軍・足利義満は、花の御所の隣接
地に一大禅宗伽藍を建立することを発願し10年もの歳月で出来た。義満によって応永
6年(1399年)に建てられた七重大塔も、応永10年(1403年)に落雷で焼失したがこの
七重大塔は全高109.1m(360尺)を誇り、史上最も高かった日本様式の仏塔であった


1259: 名無しさんAA:18/04/06 19:55
 宣教師の時代       ーーー14
名張城は天正13年(1585)大和郡山城から伊賀上野城に移封された筒井定次の藤堂
家邸重臣松倉勝重が、子の重政(後の肥前島原城主)の縄張りで築いた。だが慶長13年
(1608)藤堂高虎が伊勢・伊賀二国を与えられて津城主となると、名張城には家臣の
梅原武政を城代とし、元和3年(1617)には武政を罷免し、伊賀上野城代藤堂高清が
直接支配することになった。寛永12年(1635)藤堂高虎の養子で伊予今治城主であ
った藤堂高吉が伊勢2万石を与えられたが、翌寛永13中奥年(1636)名張に移り、
名張城内に居館を構えて名張藤堂家の初代となる。ところが、藤堂高吉は織田信長の重
臣丹羽長秀の三男であったのだが、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が柴田勝家に対抗するため
、丹羽長秀と縁を結ぶ為、幼名仙丸の頃を秀吉の異父弟秀長の養子として育っていた。
賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を滅ぼし、秀吉が天下を掌握すると、秀長の嗣子に秀吉の甥に
あたる秀俊を据えたため、そのまま仙丸は秀吉の家来であった藤堂高虎の養子となり、
名を高吉と改め伊予今治城主となっていた。ところが、藤堂高虎に実子の高次が生まれ
たため、高吉の運命は変わる。名張藤堂家の初代となったものの、高吉は藤堂高虎に仕
える身となってしまった。こうして高吉は戦国時代に翻弄され続けていた。参勤交代制
度が始まっても藤堂高虎は養子の高吉を藩内領主の扱いとしたため、大名の資格を得る
ことが出来なく、名張藤堂家は本家から独立しようとして徳川幕府に工作したこともあ
ったが、本家に発覚して家老が切腹し、事なきを得たという事件も起こっている。結局
、名張藤堂家は大名としての待遇を得られず、居館は名張陣屋と呼ばれた。藤堂高吉の
死後、次男以下3名に5千石が分知されたため、名張藤堂家は1万5千石となり、11
代続いて明治維新を迎えている。この名張城の築城を支えた財政が松倉勝重の奴隷船貿
易だったと思われる。この三好政権の中心にいた三人衆と松永久秀は政権の主導権を巡
って対立した頃、筒井順慶にその居城であった筒井城において筒井城の戦いで落城させ
たて均衡を図った。しかし此の事で筒井軍と連合で多聞山城の松永軍3千兵による抑え
撃ったもののを突破された。こうして劣勢を認めざるを得ず、久秀は津田宗達と会合衆
に仲介を申し出、堺を戦場としない、自らの敗北を認めるという条件で停戦を結ぶこと
になる。しかし三人衆は、足利義栄を新たな征夷大将軍としようと画策する中で、突如
松永久秀がいる信貴山城に三好義継が保護を求めてきたのである。こうして三人衆・筒
井連合軍は広芝、大安寺、白毫寺に布陣し、これに対して松永・三好連合軍は戒壇院、
転害門に軍を進めた。更に間合いを詰め、ついにこの日の夕刻より戦闘が開始された。
東大寺の南大門周辺で両軍の銃撃戦が繰り広げられ、真夜中になっても銃声が衰えるこ
とはなかった。と言われる。

1260: 名無しさんAA:18/04/06 19:55
 宣教師の時代       ーーー15

 此の時に東大寺は、多聞山城との間合いを詰めるべく、三人衆は東大寺に陣を進めた
いと考えていた事に対して順慶は当初反対していたが、こう着状態を避けるべく興福寺
を通じて東大寺への布陣の許可を申し出た。これに対して寺側は積極的に許可した。こ
れは順慶自身が興福寺側であったことと、松永・三好連合軍は戒壇院、転害門に許しを
得ず布陣している。『戦国合戦大事典』によると多聞山城の築城以降、久秀に対して寺
領が侵されるなど大きな不満が高まっていたと解説している。だが現実は鉄砲の運び込
みにキリスタンとのつながりがあったからだった。多聞山城と東大寺の許しを得た三人
衆の1人岩成友通隊は1万兵で東大寺へ軍を進め布陣した。これに対して松永軍も戒壇
院の防備を固め立て篭もった。両軍はかなり接近した位置に対峙することになる。この
時の状況を『多聞院日記』では、「 大天魔の所為と見たり」と記している 。池田軍は
着陣し、宿院城を攻城した。宿院城を抑えると北へ真っ直ぐ攻め上ることが可能になる
ため、重要な拠点と考えたと思われている。しかし松永軍も重要な拠点と考え、精鋭の
部隊を配置して頑強に防御し、逆に池田軍は多くの兵を失い西方寺側に退却した。一応
この日の戦いでは勝利した松永軍であったが、多聞山城の間際まで攻め込まれた危機感
を覚え、陣地として使用できそうな、般若寺文殊堂仏餉堂妙光院観音院が焼き払われ、
その次の日も宝徳院妙音院徳蔵院金蔵院が焼かれた。とされている。膠着状態の中、10
月10日に松永・三好連合軍は勝負に出るべく三人衆軍の本陣がある東大寺を奇襲した。
この時の戦いの状況を『多聞院日記』は、「今夜子之初点より、大仏の陣へ、多聞城か
ら討ち入って、数度におよぶ合戦をまじえた。穀屋の兵火が法花堂へ飛火し、大仏殿回
廊へ延焼して、大仏殿が焼失した。猛火天にみち、さながら落雷があったようで、ほと
んど一瞬になくなった。釈迦像も焼けた。言語道断」と記している。午後11時に戦闘が
開始され、戦闘中に穀屋から失火し法花堂それから大仏殿回廊、そして日をまたぎ翌日
に大仏殿が焼失したようである。ルイス・フロイスの『日本史』では違う内容で記載し
ている。「多聞山城を包囲した軍勢の大部分は、その大仏の寺院の内部とこの僧院のあ
らゆる場所に宿営した。その中には我らの同僚によく知られていた一人の勇敢な兵士も
いたのであるが、我らは世界万物の創造者に対してのみふさわしい礼拝と崇敬のことに
熱心な、誰かある人にたきつけられたからというのではなく、夜分、自分が警護してい
た間に、ひそかにそれに火を放った。そこで同所にあったすべてのものは、はるか遠く
はなれた第一の場所にあった一つの門、および既述の鐘以外は何も残らず全焼してしま
った」と書いている。

1261: 名無しさんAA:18/04/06 19:55
 宣教師の時代       ーーー16

 これの記述である「世界万物の創造者に礼拝と崇敬する者」はすなわち三好三人衆の
東大寺を防備する 隠れキリスタンの付け火だったのだ。永禄10年(1567年)のおよそ
半年間にわたる東大寺大仏殿の戦いの中の失火だったのである。これは何故か。実は、
信長より早くに朝廷は海外交易の巨利に目を付けていたからだ。事実コスメ・デ・トー
レスは、1559年にはサビエルの宿願だった京都での布教を果たすべく、満を持してガス
パル・ヴィレラ神父らを派遣している。トーレスの時代、戦国時代の相次ぐ戦乱は布教
活動において大きなマイナスであった。畿内での宣教は、やがて織田信長によって政治
的安定がもたらされることで軌道にのることになるが、九州では依然続く戦乱と政治的
不安定の影響でなかなか安定した活動が行えなかった。日本地区の布教責任者として、
各地を転々としての宣教に疲れ果てたトーレスは、1560年代のおわりにインドの管領長
官に新しい布教長の派遣を依頼。これに答えて派遣され、1570年6月に天草に到着した
のがフランシスコ・カブラル神父であったのだ。1570年10月2日(元亀元年9月3日) 天
草志岐(熊本県天草郡苓北町)で死去。トーレスが日本に来た時1人の信者もおらず、
1つの教会もなかったが、彼の死去時には京都、堺、山口、豊後、博多、肥前などに多
くの教会と多数のキリスト教徒が生まれていた。サビエルの夢を実現させたのは盟友ト
ーレスであったのである。と同時に天皇に近づくべく筒井家と近づき松倉重信などに利
用されて 奴隷貿易にも手を貸していたのである。1593年(文禄2年) フィリピン総督
の使節としてフランシスコ会宣教師のペドロ・バプチスタが来日し、肥前国名護屋で豊
臣秀吉に謁見した。その後インドのゴアでイエズス会に入会したガスパール・コエリョ
が同地で司祭に叙階され、1572年(元亀3年)に来日している。九州地方での布教活動
に当たり。1581年(天正9年)日本地区がイエズス会の準管区に昇格するとアレッサン
ドロ・ヴァリニャーノによって初代準管区長に任命された。こうして1585年(天正13年
)には宣教を優位に行いキリシタン大名を支援する為、フィリピンからの艦隊派遣を求
めていた。さらに日本全土を改宗した際には日本人を尖兵として、中国に攻め入る案を
持って来日していた。この案は多くの宣教師が共有していた案で海外派遣の至上目的で
もあった。1586年(天正14年)には地区責任者として畿内の巡察を行い、3月16日に、
大坂城で豊臣秀吉に謁見を許され、日本での布教の正式な許可を得た。

1262: 名無しさんAA:18/04/06 19:56
 宣教師の時代       ーーー17
しかし、ガスパル・コエリョなどのイエズス会の布教の認可を受けた翌年1587年(天正
15年)、九州平定を終えた秀吉は、ポルトガル商人が日本人を奴隷等として海外に売っ
ていた事を知ると、バテレン追放令を発布、布教責任者であるコエリョを召喚して叱責
している。コエリョ自身もヴァリニャーノが定めたキリシタン領主に過度の軍事援助を
慎む方針を無視し、フスタ船を建造して大砲を積込み、更にはそれを博多にいる秀吉に
見せるという行為などを行っている。高山右近や小西行長がこの行為を懸念し、コエリ
ョにその船を秀吉に献上するように勧めたが、これに全く応じなかった。ヴァリニャー
ノやオルガンティノによると、バテレン追放令はコエリョの こうした挑発的な行為に
主な原因を求められるとしている。この後(1592年)に始まって 翌文禄2年(1593年
)に休戦した文禄の役と、慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって再開された朝鮮
戦争が起こっているのである。この講話交渉の最中に、文禄5年(1596年)に 日本の土
佐国でのスペインのガレオン船、サン=フェリペ号が漂着した事件が起こった。、サン
・フェリペ号はマニラからノビスパニア(メキシコ)のアカプルコに向かう途中に、嵐
に会い航海不能となり、土佐の浦戸に達したところ、国主の長宗我部元親(ちょうそが
べもとちか)は、強引に浦戸湾内に入港させようとした。しかし船は座礁し修理が必要
になった。元親から南蛮船漂着の知らせを受けると、豊臣秀吉は増田長盛(ましたなが
もり)を奉行として浦戸に遣わし、同船の積み荷を没収し、その乗組員を拘留した。先
に秀吉はフィリピンのスペイン人総督に対し、日本では遭難者を救助すると通告してい
たので、船の修繕許可と身柄の保全を求める使者に贈り物を持たせて秀吉の元に差し向
け、船長のランデーチョは長浜に待機した。使者のだったファン・ポーブレが帰って来
ると、積荷が没収されること、自分たちは勾留され果ては処刑される可能性があること
を伝えた。先に秀吉はスペイン人の総督に「日本では遭難者を救助する」と通告してい
たため、まるで反対の対応に船員一同は驚愕した。増田らは、白人船員と、同伴の黒人
奴隷との区別なく名簿を作成し、積荷の一覧を作りすべてに太閤の印を押し、船員たち
を町内に留め置かせ、所持品をすべて提出するよう命じた。さらに増田らは「スペイン
人たちは海賊であり、ペルー、メキシコ(ノビスパニア)、フィリピンを武力制圧した
ように日本でもそれを行うため、測量に来たに違いない。このことは都にいる3名のポ
ルトガル人ほか数名に聞いた」という秀吉の書状を告げた。このとき、水先案内人(航
海長)であったデ・オランディアは憤って長盛に世界地図を示し、スペインは広大な領
土をもつ国であり、日本がどれだけ小さい国であるかを語った。そして増田らの一行は
積荷と船員の所持品をすべて没収し、航海日誌などの書類をすべて取り上げて破棄した。

1263: 名無しさんAA:18/04/08 11:35
 宣教師の時代       ーーー18

長盛は都に戻り、このことが秀吉に報告された。直後の同年12月8日に天正に続く禁教
令が再び出され、京都や大坂にいたフランシスコ会のペトロ・バウチスタなど宣教師3
人と修道士3人、および日本人信徒20人が捕らえられ、彼らは長崎に送られて慶長元年
12月19日(1597年2月5日)処刑された(日本二十六聖人)。ランデーチョは、修繕のた
めの船普請を早期に開始するよう秀吉に直接会って抗議しようと決めた。長宗我部元親
は12月にランデーチョらが都に上ることを許可した。しかし交渉の仲介を頼もうとした
フランシスコ会は捕縛された後であったため、船員たち自身で抗議を重ね、秀吉の許可
によりサン=フェリペ号の修繕は開始された。一同は1597年4月に浦戸を出航し、5月に
マニラに到着した。マニラではスペイン政府によって本事件の詳細な調査が行われ、船
長のランデーチョらは証人として喚問された。その後、1597年9月にスペイン使節とし
てマニラからドン・ルイス・ナバレテらが秀吉の元へ送られ、サン・フェリペ号の積荷
の返還と二十六聖人殉教での宣教師らの遺体の引渡しを求めたが、引き渡しは行われな
かった。とされるこの事件の裏には、秀吉の対明(みん)外交、イエズス会とフランシス
コ会の対立などいくつかの問題が関係しており、その真相を決定的に解明するのは難し
いものがある。まず日本の天草に商館を置いていたのはインドのイエズス会だったろう
。その後長崎に置きその後平戸に移っオランダ商館は同時にフィリピンにも商館を置い
ていたイエズス会であろう。イエズス会は先発のフランシスコ会の手を借りながら布教
していたが盛んに批判し、自らのコエリョの様なもヴァリニャーノが定めたキリシタン
領主に過度の軍事援助を慎む方針を無視し、フスタ船を建造して大砲を積込む船までも
作っていた。(天正15年)1587年和暦6月19日、ポルトガル船の司令官(キャピ
タンモール)が関白を訪問した。その同じ日関白は何の予告もなく、高山右近の追放を
命じた。秀吉は右近に使者を派遣し「予(秀吉)はキリシタンの教えが、日本において
身分ある武士や武将の間で広まっているが、それは右近が彼らを説得していることが大
きいと承知している。予はそれを不快に思う。なぜならキリシタンの間には血を分けた
兄弟以上の団結が見られ、天下に累を及ぼす心配があるからだ。また予は先に高槻で今
は明石の者を、キリシタンとなし寺社仏閣を破壊させたことを承知している。これらは
悪事である。もし今後とも武将としての身分に留まりたければ、直ちにキリシタンたる
ことを断念せよ。」と棄教を迫った。


1264: 名無しさんAA:18/04/08 11:36
 宣教師の時代       ーーー19

これに対しジュスト右近は臆することなく「自分右近が殿(秀吉)を侮蔑した覚えはない
。高槻や明石の家来たちをキリシタンにしたのは私(ジュスト)の手柄=立派な行為だ。
たとえ全世界を与えられようとも、棄教はしない。霊魂の救済と引き換えることはしな
い。よって私の身柄・俸禄・領地については殿の気が召すようにされよ。」と突っぱね
ている。関白は右近の果敢な返答に接し、恐れを知らぬジュストを見るのが重苦しく思
われ、意地の張り合いを避け、その決意を押し通す気なのか自分の言葉いかんでは後退
しキリシタンを断念するのか確かめようとして、再度使者を右近の元に派遣した。そし
て「当初の言葉にこだわるなら俸禄も領地も没収するが(それでも)肥後領主となった
ばかりの佐々成政に仕えることを許そう。」と。しかし右近は答えて当初と同様「現世
においていかなる立場に置かれようと、キリシタンを辞めない。勿論形だけ棄教し佐々
に仕えることもしない。霊魂の救済のためには、たとえ乞食となり追放されようとも何
ら悔いはない。」と返答を伝えさせた。そして、自ら関白の前に出て聖なる教えを説く
ために出かけようとした。だが同席していた親しい貴人武将家臣一族らはその行く手を
遮り「そうすれば関白は疑いもなく激怒し直ちに殺すように命ずるだろう、それは貴殿
が待望し貴殿の名誉にはなっても、関白に日本のキリシタン全員をさらに苦しめる機会
を提供する結果になることは自明だ。」と諫止してやっとのことで思いとどまらせた。
こうして関白は、次から次へと右近からの返事の伝達に、怒りをこめて多くの気違いじ
みたすざましい言葉を放ち、彼の追放を告知せしめた。フロイスはその後の文章に「こ
れによって霊魂の安らぎを得、かつ殉教の栄冠に浴したいとの欲望にとらわれた。」と
書いている。当時のイエズス会は、悪魔の反撃と殉教を何よりの喜びとし、これらを以
前から教育宣伝している。仏像を破壊し戦争に明け暮れる日々ですから今日のイスラム
原理主義と同じで、殉教は人が天国に行ける切符だとしているのである。又秀吉は、キ
リシタンからこの頭角である大黒柱を奪えば他の全員は弱化すると考えた事も見て取れ
る。この時点では秀吉周辺にキリシタンシンパはまだ多く、その筋の情報から秀吉本人
が判断したのだろう。折から右近と親しい異教徒の武将らが右近を訪れ、右近の自由で
断固たる返事を聞き、領地を失うことに心を痛め、老齢の両親・妻子・扶持する大家族
が収入を失わせ見捨てるような過酷なことはせず、関白と折り合いをつけるよう数々助
言したが、右近は固い決意を変えず、「デウスのこと、その教えに関しては一点とも変
えるわけにいかぬ。関白にはそのように伝えよ。それ以外の答えを言ってはならぬ。」
と繰り返した。

1265: 名無しさんAA:18/04/08 11:36
 宣教師の時代       ーーー20
19日の夜中、フスタ船で寝ていたコエリヨ(やフロイスら)のところへ突然、小西行
長アンゴスチーノの一家臣と関白側近シモン安威がやってきて、すぐに下船して海辺の
小西行長の宿所で尋問を受けそれに返答せよ、と関白伝言を伝えられた。使いの両名は
ひどく悲しげで当惑しており、関白が激高して数々述べたこと、特に次の3点を伴天連
に伝えるように命じたとのことだった。 1)キリシタンはなぜに人を扇動し寺社仏像
を破壊したのか。仏僧のように振舞わないのか。仏僧はその屋敷や寺院で教えを説くだ
けであり、汝らのように他国に赴き熱烈に説き扇動はしない。よって事後、汝らはすべ
て下(九州)地方に留まるように命ずる。また扇動的排他的布教も禁ずる。 もしこれが
不満ならば、汝ら全員シナ(マカオ)に帰還せよ。その際には都大坂堺の汝らの修道院
や教会は予が接収する。その家財は汝らの下へ送付する。もし本年シナから ナウ船が
来航せず帰還できぬならあるいは旅費がないなら予は約一万クルザードに該当する米一
万俵を付与する、と。しかしながら、この約束はことごとくウソであった。 2)汝ら
は何故に牛馬を食べるのか。これは道理に反することだ。・・もしポルトガル人が牛馬
を食べずんば生きられないというなら、全日本の主たる予は鹿猪や狐雉その他を狩らせ
囲い置くからそれを食するがいい。汝らは日本の土地を穢(けが)してならぬ。もし、
これを不服というなら、むしろナウ船が日本に来航せぬことを希望する。3)予は商用
で渡来するポルトガル人・シャム人・カンボジア人らが多数の日本人を購入し、彼らか
らその祖国・両親子供友人を奪い奴隷として彼らの国へ連行していることを知っている
。これは許すべからざる行為である。よって汝ら伴天連は、現在までに、インドその他
遠隔の地に売られていったすべての日本人を日本の連れ戻すように取り計らわれよ。も
しそれが不可能というなら少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せ
よ。その銀子は予が支払うだろう。とキリスタン側にと伝えている。これは文禄元年に
朝鮮出兵に際しては肥前名護屋城の普請を務め、出征諸将や九州大名への取次を担当し
、長崎奉行にまで出世した寺沢広高を始めとする伊賀の密偵による報告からだった。も
ちろん奉行時代の文禄3年(1594年)にキリシタンに改宗したが、慶長2年(1597年)の
日本二十六聖人処刑を契機に棄教。貿易統制から朝鮮に出兵した日本軍の補給や、兵力
輸送の任を務めた。小西行長と共にいわゆる武断派から憎まれた。こうして松倉勝重を
始めとする家系がその売買を行っている事を 宣教師の行為として報告させていたのだ
。あおりを食ったのは南蛮貿易まで行けなかった小西行長などであった。敵視されたの
だ。キリスタン大名が入信を先導しても 庶民を叩き売る事は出来なかったがその躊躇
する中で 板倉氏族はどんどんと西勝寺の和尚と共に売りさばいていたのである。

1266: 名無しさんAA:18/04/08 11:38
 宣教師の時代       ーーー21
こうした伴天連への質問に対するコエリヨは直ぐ回答をし。フロイスは記録している。
1)自分たち(伴天連ら)は天地創造主の教えと、魂救済の真理の道を説くためだけに
多大な困難危険費用を省みずに東洋にやってきている。東洋において日本人ほど自由で
理性を重んずる民は他になく、強制するものもなく手もかからず、本人の自由な道理と
真理による改宗である。自らデウスの教えを信じ神仏では魂が救われぬと信じて偶像を
破壊しただけである。自分たちは教えを説いて諸国を歴訪することは事実だが、外国人
で新しい教えを説く以上は他の方法はない。 2)牛は食うが馬や猫鼠狐を食う習慣は
ない。牛を食うのは世界で最も古い習慣であり、大量に飼育してまかなっているから、
農業に打撃を与えることなく国家に損害を及ぼすこともない。しかし、それでも畿内の
司祭らはこれを避けて日本人と同じ食事をしている。今後、来日するポルトガル人にも
このことは勧告しよう。だが、日本人が肉を売りに来る以上やめれるかどうかは保証で
きない。 3)日本人の人身売買は、殿下に禁止してもらおうと予定したことの一つで
ある。日本人は名誉を尊ぶ民であり人身売買は日本人の信用にとってもよくないことと
思っていた。(1570年にはイエズス会の働きかけで日本人奴隷禁止がポルトガル王
から通達されていた。)この日本人奴隷は下(九州地方)のみで広まったことで、他の
地方には見られないことだ。だが、大事なのは日本の港の殿たちが厳禁することだ。 
と返事を送っている。つまり諸侯がそれぞれ勝手に奴隷を送って商売し禁止すべき事だ
と思っていた。と言うのである。寺沢広高は行動派の人物で、「下に命令するところを
、自ら先に立って行う事を善しとす。身をもって教えれば、口でとやかくいうよりも、
下僕はよく従うものだ。」と語っている。かつて明智光秀に仕えていて正義感は強く、
仏教倫理のある者だった。こうして抜き打ちで、フスタ船を訪問して秀吉が関心を示し
たのをみて、小西行長や高山右近はコエリヨにそのフスタ船を秀吉に贈呈することを勧
めたらしい。しかしコエリヨは聞かなかったらしい。「神のものは神へ、カエサルのも
のはカエサルに」を行長や右近はちゃんと理解していた、しかしこの時点のコエリヨは
サラリーマンであって、ヴァリニャーノの指示の思いや、大変なお金がかかったことを
思いそれに踏み切れなかった、というところだろう。フスタ船は、数百トンクラスの帆
と艪の両方を持った喫水の浅い小回りの利く軍艦・探検船、これに数門の大砲と300
人(長崎)守備隊で十分に装備していた。艪は数十で奴隷を使ったらしいが、小さな帆船
でもある。「コエリヨはこのフスタ船であちこち出向き旗を飾り立て、海上から博多の
関白を訪問した。パードレコエリヨはまさに提督(グランデキャピタン)のようだった
。この様な船は日本では珍しかったので関白全軍は驚いた。」(ヴァリニャーニの記録)

1267: 名無しさんAA:18/04/08 11:40
 宣教師の時代       ーーー22

寺沢広高の時代には、慶長6年(1601年) 、関ヶ原の戦いの戦功報償として肥後天草を
加増されたおり、広高は天草の石高を合計約42,000石と算定したが、これは天草の実状
を無視しており、実態の倍という過大な値だった。このため以後の徴税が過酷となり、
その根本原因である過大な石高の半減を幕府に直訴していた。又それ以前は小西行長の
領地だったが、ほとんどが南蛮貿易にやってくる西洋商人を取り仕切ったイエズス会の
朝貢や取引税の収益で徴税が補(おぎな)われていた。従って小西行長には何としても
折り合いを付けたい重要事項だった。しかしして高山右近は形だけの棄教にも決して折
れず、コエリヨも船を献上して奴隷廃止には力を添える。と言った様な姿勢を示さなか
った。これは正に、秀吉のキリシタン武将の大黒柱右近の日本バテレンの動きを封じて
穏やかな外交したい意志と外れていた。責任者コエリヨも条件付で交渉を仕掛けたつも
りだったが、全く秀吉にとっては、右近回答もコエリヨ回答も無条件ゼロ回答にか見え
なかった。そして秀吉は、言い出した以上やむなく怒りに任せたように、伴天連追放令
に踏み切った。これは極端にキリスタンを嫌っていた板倉の思うつぼでもあった。それ
は何回も奴隷貿易の邪魔をキリスタンにさせられていたからだ。しかし歴史が示す通り
、秀吉にしては珍しく腰の入らぬ命令禁令だった。右近は主だった家臣らを呼び「今度
の事件の経緯は汝らも見ての通りだ。わが身に関する限り、予はいささかも遺憾に思わ
ず、己が信仰を告白できまた主なるデウスの名誉と栄光のために多年待ち望んでいた苦
しみを味わえる機会が与えられたことを非常に喜んでいる。だがこの際ただひとつ気の
がかりなのは汝らのことだ。予とともに天下の主に仕え危険に身命を賭し予に尽くして
くれた。予自ら恩返しが出来ぬ以上偉大なるゼウスの御手にゆだねるしかない。・・・
妻子や家族のためにそれぞれ求められるところにいくがよい。予の友人である武将の中
には予への好意から汝らを喜んで召抱え相応しい俸禄を付与してくれる人たちは少なく
ないと思うから。」と云えている。 ・(中略)・・・追放後も右近の友である大勢の、
異教徒の武将たちも博多の右近を尋ねてきた。彼らは右近がキリシタンを固持しむしろ
所領を失うことを望んでいることが理解できず、嘆願して「心中ではキリシタンであっ
てもいいから、外面だけキリシタンを断念したといって関白と折り合い卑下されるがよ
い。そうすれば自分たちが執り成す手段や方法を考えよう」と。しかし「好意を深謝す
るが、このことはこれ以上言及されぬようにお願いする」と繰り返すばかりだった。


1268: 名無しさんAA:18/04/08 11:42
 宣教師の時代       ーーー23

 高山右近は、洗礼名はポルトガル語で「正義の人、義の人」を意味するジュストであ
り、千利休の七高弟(利休七哲)の一人としても知られる。号は南坊と称していた。秀
吉はよっぽど追放したくはなかったと思える。その後しばらくは小西行長に庇護されて
小豆島や肥後国などに隠れ住むが、天正16年(1588年)に前田利家に招かれて、加賀国
金沢に赴き、そこで1万5,000石の扶持を受けて暮らしたがお咎めになっていない。それ
どころか、天正18年(1590年)の小田原征伐にも建前上は追放処分の身のままでありな
がらも前田軍に属して従軍している。金沢城修築の際には、右近の先進的な畿内の築城
法の知識が大きく役に立ったともいわれ、立花氏や伊達氏と懇意にしている。また利家
の嫡男・前田利長にも引き続き庇護を受け、政治・軍事など諸事にわたって相談役にな
ったと思われる。慶長14年(1609年)には、利長の隠居城・富山城の炎上により、越中
国射水郡関野(現富山県高岡市)に築かれた新城(高岡城)の縄張を担当したといわれ
る。加賀で暮らしていた右近は、幕府が徳川家康に変わり、家康によるキリシタン国外
追放令を受けて、人々の引きとめる中、加賀を退去した。長崎から家族と共に追放され
た内藤如安らと共にマニラに送られる船に乗り、マニラに12月に到着した。イエズス
会報告や宣教師の報告で有名となっていた右近はマニラでスペインの総督フアン・デ・
シルバらから大歓迎を受けた。しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の右近は
すぐに病を得て、翌年の1月6日(1615年2月3日)に息を引き取った。享年63歳だった。
マニラ到着からわずか40日のことだった。この頃大阪を賑わした男が他にいた。呂宋助
左衛門(るそん―すけざえもん)である。戦国時代に大阪・堺の貿易商・納屋才助の子と
して1565年に生まれた。本名は、納屋助左衛門(なやーすけざえもん)と言い、菜屋助左
衛門、魚屋助左衛門(ちや)と記載されている場合もある。彼は、早くからフィリピンや
インドシナ方面に出かけ海外貿易に乗り出していた。天正年間(1573〜1591)
しかし、助左衛門を一躍有名にしたのはルソン壺の輸入であった。本姓納屋より世に「

1269: 名無しさんAA:18/04/08 11:43
シルバらから大歓迎を受けた。しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の右近は
すぐに病を得て、翌年の1月6日(1615年2月3日)に息を引き取った。享年63歳だった。
マニラ到着からわずか40日のことだった。この頃大阪を賑わした男が他にいた。呂宋助
左衛門(るそん―すけざえもん)である。戦国時代に大阪・堺の貿易商・納屋才助の子と
して1565年に生まれた。本名は、納屋助左衛門(なやーすけざえもん)と言い、菜屋助左
衛門、魚屋助左衛門(ちや)と記載されている場合もある。彼は、早くからフィリピンや
インドシナ方面に出かけ海外貿易に乗り出していた。天正年間(1573〜1591)
しかし、助左衛門を一躍有名にしたのはルソン壺の輸入であった。本姓納屋より世に「
呂宋(ルソン)助左衛門」といわれるようになった。この名からもフィリピンとの強い
関係イメージが定着した。しかし呂宋助左衛門は、晩年日本を脱出し、カンボジアに渡
り、カンボジアの日本人町で過ごしたといた一般人だった。呂宋ともいわれ、小琉球と
もいわれたスペイン治下のフィリピンのルソンに1593年(文禄2年)渡り、159
4年(文禄3年)7月帰国した。当時堺の代官をしていた石田正澄(石田三成の兄)の
手を経て、ルソンより持ち帰った生きた麝香獣2匹、壺(ルソンの壺)50個、唐傘、
香料、蝋燭などを持ち帰って豊臣秀吉に献上し、この壺をみて秀吉は大変機嫌が良く、
これを大阪城西の丸の大広間に陳列し、上中下の三級にわけてその値段をつけ、希望者
に分け与えると言うと、諸大名が争ってこれを買い求め、これによって助左衛門は、一
躍名をあげ、有数の富商にのちあがった。


1270: 名無しさんAA:18/04/08 11:43
 宣教師の時代       ーーー24

 ところが、やがて、そのあまりに傍若無人な豪奢ぶりを豊臣秀吉に憎まれることにな
る。助左衛門は莫大な財産をもちその生活は奢りをきわめていた。堺の戎町の邸には、
その居室に七宝をちりばめ、庭園には珍奇な花卉を植え、当時の最高の画家の狩野永徳
の筆になる丹精をこらした襖絵で飾っていたのだ。豊臣秀吉に睨まれるとその権威に屈
せず、その壮麗な邸宅や財産を菩提寺の大安寺にすぐさま寄進し、海外へ脱出している
。その行き先は、カンボジアで、カンボジアに亡命した助左衛門は、カンボジア国王の
信任をえて、1607年(慶長12年)には、日本から渡航する貿易商人の管理する、
元締の地位を与えられたといわれる。カンボジアにあったオランダ商館の記録などによ
ると、朱印船貿易時代にあったプノンペンとピニャールの日本人町に住んでいた日本人
は3百〜4百人ともいわれ、ピニャールは、プノンペンの北約25キロで、メコン河の
支流トンレサップ川西岸沿いの港町で、17世紀前半から19世紀後半にかけ、当時の
都ウドンの水運の玄関として栄えていた。一方で、スペイン勢力の後退によって日本の
朱印船交易がカンボジアで盛んになる前の頃、16世紀末から17世紀初にかけては、
カンボジア情勢は、隣国アユタヤ王国との戦いや、マニラを拠点としたスペイン勢力の
干渉などで国情は混乱を極めていた時期だった。ビルマを撃破しアユタヤ朝を再興し、
1590年にアユタヤ国王に即位したナレスアン王(在位1590〜1605年)は、
1591年と1593年、カンボジアに進撃する。1594年、アユタヤ軍の侵略を受
けたカンボジアの都ロベックは陥落し、多くのクメール王家が住民たちとアユタヤの方
に連行されたが、カンボジア王サッタはベトナムのヴィエンチャンに逃亡する。アユタ
ヤからの進撃を前に、カンボジア王はマニラ総督に使節を送り、スペインの軍事支援を
依頼した。マニラのスペイン人は、艦隊をひきいてカンボジアに進撃、ラオス亡命で王
の不在時にタイ司令官から都を奪回し王位を簒奪したカンボジア王家の王子を殺したが
、これはカンボジア人の反感を買ってスペイン勢力は敗退する羽目になる。1598年
、スペイン勢力はふたたび新王の擁立をはかって、プノンペン宮廷のマレー人やチャム
人傭兵の反発を買い、スペイン勢力が擁立した新王やスペイン人たちは皆殺しにされて
しまっていた。こうした政治的混乱により、アユタヤ王国のナレスアン王は、サッタ王
の息子であるソヨポー王子を1603年カンボジア王に(1613年)正式に任命した
、ソヨポー王の後を継いだチェッタ王(在位1618〜1628年)が王都をウドンに
移している。尚、呂宋助左衛門がカンボジアに渡ったのは、日本を脱出してスペイン勢
力のカンボジア介入の時に、ルソンからカンボジアに渡ったものと見られる。

1271: 名無しさんAA:18/04/08 11:44
宣教師の時代       ーーー25

こうしてスペインがカンボジア内戦を上手く処理できずに疲弊していった頃にイギリス
の台頭が目立つ様になった。そしてアンボイナ事件が起こっている「アンボイナの虐殺
事件」は、1623年にインドネシア・モルッカ諸島のアンボイナ島(アンボン島)にある
イギリス館をオランダが襲い、商館員を全員殺害した事件である。別名はアンボン事件
。1512年にポルトガル人アントニオ・ダブリウが進出して以来、アンボイナ島の香料は
ポルトガルが独占していたからだ。しかし、1599年に、オランダ人ファン・ワールワイ
クがポルトガル勢を駆逐し、1605年、ニュー・ヴィクトリア砦を構築して支配権を確立
した。これに対し、イギリスも1615年に進出して香料貿易を行い、激しく競争していた
。この事態を収拾するため、英蘭両国の政府は1619年に協定を締結しようとしていた。
この頃、東南アジアには日本人が多く進出し、アユタヤやプノンペンには日本人町が形
成されるほどであった。アンボイナ島にも日本人が居住し、傭兵として勤務する者もい
た。1623年の夜、イギリス側の日本人傭兵・七蔵がオランダの衛兵らに、城壁の構造や
兵の数についてしきりに尋ねていた。これを不審に思ったオランダ当局が、七蔵を拘束
して拷問にかけたところ、イギリスが砦の占領を計画していると自白。直ちにイギリス
商館長ガブリエル・タワーソンら30余名を捕らえた当局は、彼らに火責め、水責め、四
肢の切断などの凄惨な拷問を加え、これを認めさせた。この為3月9日、当局はタワーソ
ンをはじめイギリス人10名、日本人9名、ポルトガル人1名を斬首して、同島におけ
るイギリス勢力を排除した。事件当時オランダの東インド総督であったヤン・ピーテル
スゾーン・クーンは、オランダの東インド貿易独占を主張し、政府の対応を弱腰と非難
していた。このため、事件は彼の仕組んだ陰謀であるとの説もある程だ。この事件は程
なくイギリス本国に伝わり、英蘭両国の間で進行していた東インド会社の合併交渉は、
この事で決裂、ついには外交問題にまで発展した。事件発生から実に31年後の1654年、
オランダ政府が8万5000ポンドの賠償金を支出することで決着した。事件をきっかけに
、東南アジアにおけるイギリスの影響力は縮小し、オランダが支配権を強めた。しかし
、かつて同量の金と交換されたこともあったほどの高級品だった香料の価格は、次第に
下落。それに伴い、オランダの世界的地位も下がり始めた。対して、新たな海外拠点を
インドに求めたイギリスは、良質な綿製品の大量生産によって国力を増加させた。




1272: 名無しさんAA:18/04/09 15:11
 宣教師の時代       ーーー26
 島原の乱は。寛永14年10月25日(1637年12月11日)勃発、寛永15年2月28日(1638年4
月12日)に収束とされる。島原の島民や天草の島民は南蛮船の到来を期待していた。と
される。しかしマニラのスペイン人は、カンボジア進撃でポルトガルに駆逐され、更に
イギリスと戦って日本どころでは無かったのである。又無知な農民はこのイエズス会と
フランシス会或いは新しい清教徒団体の違いなどは判らず、紅毛人と南蛮人更にエゲレ
ス人との違いを見分ける事は不可能だった。冨津港が口乃津となったのはその形状から
でもあったが、この南蛮船が到来しなく 加えて博多長崎の隠れキリスタンの商人達が
助けに来ないとも思っていなかった。もし秀吉時代のままならば例え家康の禁教令であ
ったとしても一大勢力を誇っていたかも知れない。しかし家康は周到に甲賀忍者も伊賀
忍者も他の九州武将にも圧力をかけていた。タイオワン事件(タイオワンじけん)別名
ノイツ事件は、1628年(寛永5年)に長崎代官の末次平蔵と、オランダ領台湾行政長官
ピーテル・ノイツ(Pieter Nuyts)との間で起きた紛争だった。朝鮮の役により日本は
ほぼ中国本土に寄港することはできず中継ぎ貿易として主な寄港地はアユタヤ(タイ)
やトンキン(ベトナム)などと台湾島南部に昔から明(中国)や日本の船などが寄航す
る港が存在した。しかし、日本、ポルトガル王国(ポルトガル)、ネーデルラント連邦
共和国(オランダ)、イギリス第一帝国(イギリス)の商人が東洋貿易の主導権争いを
過熱させ、1622年(元和8年)には明(中国)のマカオにあるポルトガル王国居留地を
ネーデルラント(オランダ)が攻撃していた。敗退したネーデルラント(オランダ)は
対策として台湾の澎湖諸島を占領し要塞を築いてポルトガルに備えて、明の澎湖諸島の
要塞を放棄する要請に応え、無主の島である台湾から貿易をすることにした。、2年後
の1624年(寛永元年)、ネーデルラント(オランダ)は台湾島を占領、熱蘭遮(ゼーラ
ンディア)城を築いて台南の安平をタイオワンと呼び始めタイオワンに寄港する外国船
に10%の関税をかけることにした。中国商人はこれを受け入れたが、浜田弥兵衛(長崎
代官で朱印船貿易家の1人でもある末次平蔵の配下)ら日本の商人達はこれを拒否した
。これに対し、オランダはピーテル・ノイツを台湾行政長官に任命し、1627年(寛永4
年)、将軍徳川家光との拝謁・幕府との交渉を求め江戸に向かわせた。ノイツの動きを
知って末次平蔵も行動に出て浜田弥兵衛が台湾島から日本に向けて16人の台湾先住民
を連れて帰国。彼らは台湾全土を将軍に捧げるためにやって来た「高山国からの使節団
」だと言い、将軍徳川家光に拝謁する許可を求めた。彼らは台湾全土を将軍に捧げるた
めにやって来た「高山国からの使節団」だと言い、ノイツの家光への拝謁を阻止するこ
とに成功し、ノイツは何の成果もなく台湾に戻った。

1273: 名無しさんAA:18/04/09 15:11
 宣教師の時代       ーーー27

しかしノイツは、帰国した先住民達を全員捕らえて贈り物を取り上げ監禁、浜田弥兵衛
の船も渡航を禁止して武器を取り上げる措置に出た。この措置に弥兵衛は激しく抗議し
たがそれを拒否し続けるノイツに対し弥兵衛は、終に隙をついてノイツを組み伏せ人質
にとる実力行使に出た。驚いたオランダ東インド会社は弥兵衛らを包囲するも人質がい
るため手が出せず、しばらく弥兵衛たちとオランダ東インド会社の睨み合いが続いた。
しかしその後の交渉で互いに5人ずつ人質を出しあい互いの船に乗せて長崎に行き、長
崎の港に着いたら互いの人質を交換することで同意して帰路についた。そして長崎で迎
えた代官末次平蔵らはそのままオランダ人達を拘束、大牢に監禁して平戸オランダ商館
を閉鎖してしまう。この事態に対応したのはオランダ領東インド総督ヤン・ピーテルス
ゾーン・クーンだった。クーンは状況把握のためバタヴィア装備主任ウィルレム・ヤン
センを特使として日本に派遣したが、平戸藩主松浦隆信と末次平蔵はヤンセンが江戸幕
府3代将軍徳川家光に会うため江戸へ行くことを許さず、将軍家光の名を騙った返書を
作成してヤンセンに渡した。その内容というのは主に、「先住民を捕らえ、日本人の帰
国を妨害したことは遺憾である。代償としてタイオワンの熱蘭遮(ゼーランディア)城
を明け渡すこと。受け入れれば将軍はポルトガルを憎んでいるので、オランダが貿易を
独占できるように取り計らう」というものでヤンセンは将軍に会えないままバタヴィア
にこの返書を持ち帰った。彼を迎えたのは新なオランダ領東インド総督であり、かつて
平戸オランダ商館で商館長(カピタン)を勤めていたヤックス・スペックスだった。長
年日本で暮らし日本と日本人を研究していたスペックスは、これが偽書であることをす
ぐさま見抜きヤンセンを再び日本に派遣した。オランダは「この事件は、経験の浅いノ
イツの対応が原因であるためオランダ人を解放してさえくれれば良い」とし、ノイツを
解雇し日本に人質として差し出した。日本側は、オランダ側から何らかの要求があるこ
とを危惧していたが、この対応に安堵し、これが後に鎖国体制を築いた時にオランダに
のみ貿易を許す一因ともなった。なお、ノイツは1632年から1636年まで日本に抑留され
ていた。

1274: 名無しさんAA:18/04/09 15:11
 宣教師の時代       ーーー28

1636年(寛永13年)、ニコラス・クーケバッケルの代理として参府したフランソワ・カ
ロンは、拝謁の際に将軍家光に銅製の灯架を献上。家光はこれを非常に気に入って返礼
として銀貨三百枚を贈った。この時、以前より平戸藩主からノイツの釈放に力を貸すよ
う頼まれていた老中の酒井忠勝がノイツの釈放を願うとすぐに許可された。カロンが献
上した灯架(燈籠)は、その後日光東照宮に飾られ、今も同所に置かれている。1632年
こうして(寛永9年)閉鎖されていた平戸オランダ商館は再開した。1634年(寛永11年)
には日本人が台湾に渡ることは正式に禁止され、その後は鄭氏政権が誕生するまでネー
デルラント(オランダ)が台湾を統治している。その後1637年(寛永14年)に天草四郎
に率いられたキリシタン一揆である島原の乱が発生した時、クーケバッケルはまず長崎
代官の末次茂貞(タイオワン事件の末次平蔵政直の息子)に手紙を送り、彼を通して、
長崎奉行に乱の鎮圧の協力を申し出た。しかし、茂貞はその申し出が遅かったとして、
使者として訪れた当時の商館次席フランソワ・カロンを非難した。しかしながら、松平
信綱はクーケバッケルに海上からの砲撃を依頼する。クーケバッケルは、砲5門を船か
ら陸揚げして幕府に提供した。さらに、1638年2月24日から2週間にわたり、原城に立て
こもった一揆軍を、デ・ライプ号とベッテン号から砲撃した。しかし、砲撃の目立った
効果も見られず、また外国人の助けを受ける事への批判が九州の諸侯から高まったため
、 3月12日信綱は砲撃を中止させた。この島原の乱への参加は、クーケバッケルの日記
によると、気が進まずまた効果も少なかった。実際、幕府はカノン砲による直射の効果
に満足せず、後にカロンに対し、曲射が可能な臼砲の作成を依頼している。しかしその
後、クーケバッケルが幕府側へ戦力を提供したことは、反乱軍へ与したと見られて追放
されたポルトガル商館に対し、少なくともオランダは幕府に逆らう意思はないものとみ
なされ、オランダ商館は幕府の海外事情の情報源としての価値から江戸幕府の幕末であ
る安政5年7月10日(1858年8月18日)の日蘭修好通商条約締結まで存在することとなっ
たのである。

1275: 名無しさんAA:18/04/09 15:12
 宣教師の時代       ーーー29

この時謁見したフランソワ・カロン(フランス語: Francois Caron、1600年 - 1673年4
月5日)は、オランダに亡命したフランスのユグノー教徒であった。彼はオランダ東イン
ド会社に30年以上勤務し、最終的にはバタヴィア商務総監という植民地総督の次席にま
で昇進している。後にはフランス東インド会社の長官を務めた。しばしば、日本に渡来
した最初のフランス人と称される。確かに当時南ネーデルラントに属したブリュッセル
生まれのフランス系の亡命ユグノー教徒であるが、実際にはフランス国民となったのは
、後にフランス東インド会社の社長になることを受諾したときである。カロンは、料理
人として1619年に平戸のオランダ商館に着任した。その後、1641年まで20年以上滞在す
ることとなる。この間に江口十左衛門の姉と結婚し、6人の子供をもうけている。1626
年には商館助手に昇進した。日本人と結婚したこともあり、日本語に熟達した。1627年
に台湾行政長官のピーテル・ノイツが来日し、台湾での貿易に関して、将軍徳川家光に
拝謁を求めた際には、通訳として参府している。当時江戸にオランダ語通詞はおらず、
ポルトガル語を経由して意思疎通を図っていたが、日本語が話せるカロンは非常に重宝
された。結局末次平蔵の妨害により拝謁は実現せず、ノイツは成果無く台湾に戻ること
になるが、その際にカロンも同行していた。その後、ノイツと平蔵の問題はタイオワン
事件へと発展し、平戸商館は4年間閉鎖されたが、ノイツを日本に人質として渡すこと
で交易は再開された。カロンはこの解決のためにバタヴィアと日本を往復している。そ
後1633年には次席(ヘルト)となり、1636年には館長代理となったが、この年にノイツ
の釈放に成功し、この年に、バタヴィア商務総監のフィリプス・ルカスから日本の事情
に関する31問の質問に回答する形で『日本大王国志』を執筆した。当初出版を予定した
ものではなかったが、1645年に東インド会社の社史の付録として出版され、1661年には
カロン自らが校正した上で単行本として出版された。1637年、長崎奉行榊原職直に対し
て、日蘭が同盟してマカオ、マニラ、基隆を攻撃することを提案した。その後まもなく
長崎代官の末次茂貞(末次平蔵の息子)から、商館長のニコラス・クーケバッケルに対
し、翌年にフィリピンを攻撃するため、オランダ艦隊による護衛の要請があった。これ
に対し、オランダ側はスヒップ船4隻とヤハト船2隻を派遣することとした。しかしな
がら、翌年に島原の乱が発生したこともあり、フィリピン遠征は実現しなかった。

1276: 名無しさんAA:18/04/09 15:12

 宣教師の時代       ーーー30

1639年2月12日にはクーケバッケルの後を受けて商館長となった。1627年に続き、1633
年、1635年、1636年、1639年、1640年、1641年に江戸に参府している。島原の乱の後、
1639年にポルトガル船の入港が禁止され、第5次鎖国令が出たが、それに先立ち幕府は
カロンに対してポルトガルに代わりオランダが必需品を提供できるかを確認している。
1640年、通商再開を願って来日してきたポルトガル人が全員死罪となった。これを知っ
たカロンはオランダに対しても厳しい運命が待っているであろうことを予想した。その
予想通り、同年に大目付井上政重と長崎奉行柘植正時が平戸に派遣され、カロンに倉庫
の破壊を命じた。理由は、1638年に建設された商館の倉庫に西暦が彫られているという
ものであった。カロンがこの命令に異議を唱えた場合、カロンをその場で殺害し、平戸
オランダ商館は熊本・島原・柳河諸藩により攻撃が加えられることとなっていた。この
行為は将軍家光の専断によるものであり、必ずしも幕府全体の意向ではなかった。がし
かし、滞在20年を超えるカロンは日本の現状を理解しており、命令に従って倉庫を破
壊した。この後、ポルトガル人が追放されて空いていた出島にオランダ商館は移された
。カロンのこの対応に感謝する意味もあって、その後井上政重は、オランダ人のために
便宜をはかるようになった。1641年、商館長の職をマクシミリアン・ル・メールに委ね
て、2月12日には家族と共にバタヴィアに向けて平戸を出帆した。カロンが商館長を
務めていたときに、商館員のハンス・アンドリースが日本人既婚女性と密通し、両名と
も死罪になる事件が発生している。また、幕府の依頼により、部下の鋳物師であった、
ハンス・ヴォルフガング・ブラウンに臼砲の製造を行なわせている。それは島原の乱の
際に、当時の技術では炸裂弾が使えないカノン砲(初速が速いため、対応可能な信管が
無かった)があまり役に立たず、幕府は炸裂弾の使用が可能な臼砲でカノン砲より低初
速であるが炸裂する砲弾に目をつけた為だった。1643年にはアジアでの新たな任務が与
えられた。セイロン島のポルトガル軍を攻めるためネボンゴの砦近くに上陸し、翌日攻
撃を開始した。戦闘は1日で終わりカロンは勝利した。カロンは占領した砦を補強し、
バタヴィアに戻った。ブラウンにより鋳造された臼砲は終戦まで靖国神社の遊就館で展
示されていたが、戦後米軍が押収しその後は行方不明となった。


1277: 名無しさんAA:18/04/09 15:13
1644年には台湾行政長官に任命され、7月5日バタヴィアを出発8月10日には、台湾のゼ
ーランディア城に着任した。到着後すぐに病気にかかったため、しばらく前任者のル・
メールが次席としてカロンを補佐した。この時1646年まで同地での東インド会社の最高
位にあった。この間に、カロンは米、砂糖、インディゴ生産の改善、硫黄の採掘、中国
の海賊との取引の緩和を行った。1644年には4隻、45年には7隻の貿易船を日本に送り
出している。バタヴィアに戻ったカロンは、1647年3月9日に植民地総督の次席にあたる
商務総監の地位についた。1649年、ブレスケンス号事件解決の謝礼を述べるため、日本
に特使を派遣することが決まった。このとき、カロンは特使一行に砲術士官のユリアン
・スヘーデルと外科医カスパル・シャムベルゲルを加えた。スヘーデルは臼砲の射撃を
披露し、その指導は 軍学者の北条氏長によって「攻城 阿蘭陀由里安牟相伝」にまとめ
られた。シャムベルゲルは多くの日本人を治療し、後にカスパル流外科術の祖と見なさ
れるようになった。両人は日本人から非常に歓迎されたが、これは日本人が何を好むか
を熟知していたカロンの功績と言える。1651年、私貿易を行ったとの訴訟を受け、オラ
ンダに召喚されたが、勝訴して名誉を保って会社を退職することが出来た。島原の乱の
終了後、新たに商館長となったフランソワ・カロンに対して、牧野信成を通じて臼砲の
製造が依頼されカロンはこの仕事を、部下の鋳物師であるブラウンに命じた。当時には
鋳物師は、平時には鐘や大型の料理用鍋、戦時には大砲の砲身を鋳造していた。ブラウ
ンは苦心の末、臼砲と炸裂弾の作製に成功した。1639年6月に、麻布の幕府鉄砲方の、
井上正継の射場において、牧野ら幕府の代表者らの面前で ブラウンが鋳造した臼砲の
試射が行われた。目標は400mほど離れた場所にある5軒の小屋であった。初弾は目標よ
り手前の水田に落ち、爆発した。2弾目は砲筒内で爆発し、砲手が大やけどを負い、治
療のために松浦家の屋敷に運ばれた。以降はブラウンが砲手を努めた。3弾目も目標に
届かなかったが、爆発で直径2.7m、深さ1.5mほどの穴を穿った。第6弾は目標に最も近
い、3mほど離れた場所に着弾した。合計11発を発射したが、結局目標には命中しなかっ
た。そこで、炸裂弾の威力を確認するため、砲弾を小屋の中において、導火線で着火し
た。大音響と共に、火焔が藁屋根を突き破って噴出した。幕府の担当者らはその威力に
満足した。家光はこの結果の報告を受け非常に満足し、3門の臼砲が幕府に献上された。
翌年には牧野の私邸で、火薬掛ユリアーン・ヤンスゾーンが炸裂弾製造の実演を行った
。しかし、信管装填の不手際から炸裂事故を起こし、牧野邸に少なからぬ損害を与えた
。しかし信成の好意的措置により大事に到ることなく処理された。また、同様に製造中
にはかなりのけが人などが出たようで、医師のハンス・パウツが契約期間を超えて平戸
に滞在していた。

1278: 名無しさんAA:18/04/09 15:19
 タイオワン事件(ノイツ事件)は日本語的には台湾事件である。この時の実行者とし
て船長に浜田 弥兵衛(はまだ やひょうえ、濱田彌兵衞、)がいた。弥兵衛は、江戸時
代初期の朱印船の船長で長崎の人とされる。1627年に起こったタイオワン事件(ノイツ
事件)の実行者の一人で1915年(大正4年)、贈従五位になった。寛永の頃までに日本
では朱印船貿易が盛んになっていたが、その交易先のひとつで明国との非公式な貿易を
行う際の中継基地的な重要性があったのが高砂(台湾)だった。そこにオランダ東イン
ド会社が進出してこれを占領(1624年)、ゼーランディア城を建てこの地における交易
には一律10%の関税をかけはじめた。寛永4年(1627年)、長崎の貿易商・末次平蔵の
朱印船の船の船長だった弥兵衛は、幕府の後援をうけて、オランダ総督ピーテル・ノイ
ツを人質にし、オランダに関税撤回を要求。オランダはこれをのみ、高砂を自由貿易地
にすることに成功している。末次氏が4代末次茂朝で断絶すると、浜田氏は大村藩に仕
えた。子孫の浜田謹吾は、15歳で鼓手として戊辰戦争に出征し、角館付近で戦死した
。現在角館に銅像が建っている。日本統治時代の台湾には、弥兵衛の事跡を記念して、
ゼーランディア城に「贈從五位濱田彌兵衛武勇之趾」と書かれた碑が建てられた。戦後
「安平古堡」と書き換えられた。1620年(元和6年)、平山常陳なる人物が船長をつと
める朱印船がマニラを出航して日本に向かっていた。平山常陳の朱印船がイギリス・オ
ランダの船隊によって拿捕されたのは、従来のスペインやポルトガルが保持してきた、
覇権を奪取しようと、新興のイギリス・オランダといった国々が艦船を投入し、互いに
しのぎを削っていた。このような状況下においてであった為だ。朱印船には日本人船員
のほかにポルトガル人とスペイン人数名が乗船していた。英蘭船隊は朱印船を伴って、
平戸に入港し、イギリス平戸商館は朱印船の積荷(生糸や砂糖など)を没収した。本来
、朱印船の積荷を奪うことは許されない行為であったが、イギリスおよびオランダ側は
「日本入国を禁じられている宣教師を乗船させていた」ことを理由に、積荷の没収の、
正当性を訴えた。一方、平山常陳はこれを「海賊行為」であるとして長崎奉行に訴えで
たため、調査が行われた。過酷な拷問と数々の証人、証言によってスニガ、フロレス2
人の宣教師もついに自白に至った。元和8年7月13日(1622年8月19日)長崎で平山常陳
、スニガ、フローレスの3名が火あぶりになり、船員12名が斬首となり、この事件で
幕府のキリシタン不信感を決定づけた。翌月に長崎で宣教師や信徒など教会関係者55
名が一斉に処刑される元和の大殉教が起こる。以後、諸大名も幕府の意を汲んで、各地
でキリシタンに対する迫害を強化徹底される結果となった。

1279: 名無しさんAA:18/04/09 15:19
 宣教師の時代       ーーー33
 フランソワ・カロンはユグノー教徒であったが、彼はもともとは料理人だった。この
後ユリアン・スヘーデルと外科医カスパル・シャムベルゲルを派遣してるが彼らも同じ
ユグノーではなかったかと思う。そもそもユグノー教徒とはカトリックの信者の中では
権威主義を行う宗派対立を嫌った信者の群れであり、教義その物には違いがない。一般
的信者で真面目な技術者集団で体制に嫌われただけだったと言うだけである。信心に執
着もないが敬虔な信者と言う事だろう。つまり司祭にはなれないものの、彼らは異端者
ではない。東インド会社でフランソワ・カロンが1619年から1673年までおよそ
50年間実質でも30年以上もの間東インド会社でいられたのは、ユグノー教徒として
日本に布教を無理強いしない姿勢でうまく調整出来た功績からであろう。幕府は、前年
にの島原の乱の苦い経験から、通常の大砲が役に立たない事が判明した。木造の家には
火矢でも充分だったのだ。攻城の為にこの炸裂弾と言う新種の武器に大いなる興味を示
した。オランダ人にとってこの技術の輸出は、鎖国政策を完結する最終段階に及んでは
、将軍の好意を得る打って付けの好機であった。1639年東京の麻布で、幕府の代表者ら
の面前でブラウンが鋳造した臼砲の試射が劇的に行われ、成功裏に終り、カロンの日記
や『徳川実紀』によれば、ブラウンは沢山の報奨金と褒美を得たと記される。しかし、
その後オランダ人が1640年〜41年日本国外追放の運命から逃れ、長崎出島に留まること
を許された一方で、日本に近代兵器の技術を提供するというと言う気力は、鎖国の完成
で益々失せていった。又1650年以来、平和の中に幕府の臼砲に対する興味も薄らいで行
った。しかし実際には火器は一般に幕府や大名、あるいは侍から拒絶された訳でなく、
16世紀から18世紀までは、日本における火器は各藩や各流派の極秘の知識としてのみ続
けられ、公にされてはこなかった。しかし、平戸の松浦史料博物館の展示される小臼砲
、城門破り用砲筒のように、こうして実際に所蔵されている例もある、その後も少しは
西洋の臼砲技術へ近づこうとしていたことが窺える。このハンス・ヴォルフガング・ブ
ラウンに関しては、彼が1640年以降にアムステルダムへ戻り、結婚し1649年から1653年
まで彼の故郷ウルムで暮らした。そのことは、ウルム市議会で裏付けられる。ブラウン
に関する最後の記述には、1655年再びオランダ東インド会社の任務でバタビヤ(ジャカ
ルタ)の市の城壁でcapo、すなわち大尉として重火器に従事していた。と書かれている
。以下のラテン語の碑文が、ブラウンによって最初に平戸で鋳造された臼砲に刻まれて
いる。 HANS WOLFGANG BRAVN VON ULM ME FECIT FIRANDO 1639 (ウルム出身のハンス
・ヴォルフガング・ブラウンが1639年平戸で製作した.) この臼砲は1930年代まで東京
の遊就館で展示されていた。

1280: 名無しさんAA:18/04/09 15:21
 宣教師の時代       ーーー34
オルガンティノは1570年6月18日に、天草志岐にその第一歩をしるした。着任後まず日
本語と日本の習慣について学び、1573年(天正元年)から1574年(天正2年)にかけて
法華経を研究している。 オルガンティノは、はじめから京都地区での宣教を担当し、
ルイス・フロイスと共に京都での困難な宣教活動に従事している。1577年(天正5年)
から30年にわたって京都地区の布教責任者をつとめが、持ち前の明るさと魅力的な人柄
で日本人に大変人気があった。パンの代わりに米を食べ、仏僧のような着物を着るなど
、適応主義を取ったことで日本人からの受けがよく、着任3年で近畿地方における信者
数を1500から1万5,000に増したとされる。一緒にやって来て、九州での布教責任者とな
っていたフランシスコ・カブラルが、大名の大村純忠を入信させたにもかかわらず、そ
の頑固で短気な性格から、多くの日本人を教会から遠ざけたのとは対照的だった。とさ
れる。しかしそれだけ九州がまだ混沌としていたのであろう。念願の京都で、1576年に
(天正4年)京都に聖母被昇天教会いわゆる「南蛮寺」を完成させたと言われる。1578
年(天正6年)、荒木村重の叛乱時(有岡城の戦い)には家臣と村重の間で板ばさみに
なった高山右近からは去就について相談を受けた。久留米の荒木と言う地名は彼ら荒木
氏族が移り住んだ地であった。1580年(天正8年)には安土に直接出向き織田信長に願
って与えられた土地にセミナリヨを建てた。オルガンティノはこのセミナリヨの院長と
なって働いた。最初の入学者は右近の治める高槻の出身者たちであった盛況であった。
第一期生の中には後に殉教するパウロ三木もいた。しかしながら、このセミナリヨはす
ぐに信長が本能寺の変で横死して、安土城が焼かれた時に放棄された。信長はこの信者
の信奉する全知全能の神を上回るとして、敵の諸侯の打ち取った生首から髑髏の盃を作
らせて酒をふるまった。それぞれには黒漆の髑髏盃、自分には黄金の髑髏の盃だったと
される。今の感覚では仰天する事だが、過去から日本は髑髏の木魚を見るように祈祷の
道具とされ、「あく」を叩く「わる」を飲む。として行事の一つだった。武将達は大い
に喜んだと言う。この横暴さに戸惑ったの明智光秀であったのだろう。1583年(天正11
年)には豊臣秀吉に謁見して新しいセミナリヨの土地を願い、大坂に与えられたが、結
局、右近の支配する高槻に設置された。1587年(天正15年)に、高山右近が側近から離
れ、亀甲船が行方不明になり、大砲付のフスタ船が手に入らないとなると、秀吉は苦渋
の末に禁教令を出した。小西行長はどっと疲れが出たに違いない。すぐさま京都の南蛮
寺は打ち壊され、高山右近は明石の領地を捨てた。オルガンティノは右近とともに表向
き棄教した小西行長の領地・小豆島に逃れ、そこから京都の信徒を指導したという。翌
年、右近が加賀国に招かれると、オルガンティノは九州に向かった。

1281: 名無しさんAA:18/04/09 15:21
 宣教師の時代       ーーー35

 後からやって来たイエズス会のガスパール・コエリョは、先発隊のユグノーに近い、
ヴァリニャーノよりは家柄が良くインドのゴアで直ぐに司祭に叙階された。ヴァリニャ
ーノなどが定めた規則よりは、イエズス会の暗黙の了解である新地占領政策に忠実だっ
た。その為キリシタン領主に過度の軍事援助を慎む方針を無視し、フスタ船を建造して
大砲を積込み、更には、それを博多にいる秀吉に見せるという暴挙を行った。それが、
大勢のキリスタンに暗雲が垂れる事は充分予測出来たほとんどの宣教師は暗い顔をした
。小西行長がこの行為を懸念し、高山右近に形だけの棄教とコエリョにその船を秀吉に
献上するよう、強くに勧めたのは当然だった。コエリョこれに全く応じない事も充分に
解っていた。つまり秀吉にしてみれば小西行長への踏み絵でもあったのだ。ヴァリニャ
ーノやオルガンティノによると、バテレン追放令はコエリョのこうした挑発的な行為に
主な原因を求められる。と思っているが一つのきっかけに過ぎなかった。この頃既に、
秀吉には朝鮮征伐が頭にあった。それは九鬼水軍から持ち去ったのが亀甲船が朝鮮人と
言う話だったからだ。フスタ船があればそれを回収する事も不可能ではない。と思案し
それが回収出来ないとなれば、大友宗麟始め、各主の大名武将を弱らせなけば政権弱体
につながると、危惧していたのだ。しかしコエリョはこの要請に大友宗麟や有馬晴信に
対して、キリシタン大名を糾合して秀吉に敵対することを求め、自身もその準備に乗り
出している、と主張し逆に反逆の勧誘をする。これにより有馬晴信や小西行長は双方の
板挟みになったし同様に彼を嫌っていた他の司教も苦境に陥った。その後、コエリョは
フィリピンへ援軍を求めるよう働きかけた。しかし拒否されると、1589年(天正17年)
にマカオに使者を送って天正少年使節を伴って再来日を伺っていたヴァリニャーノに、
各位に働きかけて大規模な軍事援助を求めるよう要請した。その間、全国のイエズス会
員たちを平戸に集結させ、公然の宣教活動を控えさせることにした。コエリョは1590年
(天正19年)に肥前国加津佐で没したが、困ったイエズス会の毒殺行為でもあった。こ
うして心痛から離れたヴァリニャーノは彼の要請と自らの安全の両立が不可能を悟って
小西との相談もしていた。機が熟してはいないと判断すると、彼が準備していた武器・
弾薬を総て売り払い、日本で処分するのが不適当な大砲はマカオに送ることを命じた。
しかしヴァリニャーノも彼と同様にその後もキリシタン大名へ支援して友好を続けた。

1282: 名無しさんAA:18/04/09 15:21
 宣教師の時代       ーーー36

 もともと日本は東方見聞録によって、古来よりヨーロッパで、金銀を豊富に産する夢
のような「金島」・「銀島」の伝説の地であった。この事が大挙して西洋人がやってき
た理由である。すでに日本で鎖国体制が完成し、1639年(寛永16年)にはポルトガル人
が追放され、1641年(寛永18年)にはオランダ人も出島に移され、そこでのみの交易を
許されていた中でも、日本に簡単にやって来る外国船は絶えなかった。1635年(寛永12
年)、平戸のオランダ商館の職員であったウィレム・フルステーヘン(後、商館長)は
、オランダ領東インド総督のアントニオ・ヴァン・ディーメンに宛てて、「日本の東方
北緯37度半、海岸からおよそ380〜390マイル」に金銀島があると聞いたと報告している
。この金銀島の報告であ、更に探検隊が派遣されている。最初の探検は、1639年(寛永
16年)にマチス・クアストとアベル・タスマンによってなされたが、当然ながら金銀島
は発見されなかった。1643年(寛永20年)2月、マルチン・ゲルリッツエン・フリース
を隊長とする2回目の探検隊がバタヴィアを出航した。探検隊はカストリクム号とブレ
スケンス号(船長ヘンドリック・コルネリスゾーン・スハープ)の2隻で構成された。
ところが、房総半島沖で暴風雨に遭遇し、ブレスケンス号は一旦千島列島沖まで北上し
た後に南下し、 6月10日に盛岡藩領である陸奥国山田浦に漂着した。こうして突然に現
れた外国人に村民は驚き、上陸してきたオランダ人を歓迎した。ブレスケンス号は水の
補給を受けた後、再び探検のため出航した。すでに日本では鎖国体制を発令した中で、
各藩の個々の港は開いてはいけない仕組みにあった。外国人上陸の話を村民から聞いた
藩の役人は、ポルトガル人の可能性があるとして、再度外国人が上陸した場合には捕ら
えるようにと指示した。 7月28日、ブレスケンス号が再度入港してきたが、この時遊郭
から女郎を呼んで乗組員を歓待した。すっかり安心していると、船長スハープ以下10人
の乗員はあっという間に捕縛されてしまった。当時の日本人が外国人との意思疎通に用
いていた言語はポルトガル語であった。幸い、スハープはスペイン語が話せたため、何
とか自分達がオランダ人であることを説明することができた。このため待遇は良くなっ
たが、さらなる取調べのため江戸に護送されることとなった。こうしてブレスケンス号
事件が発覚した。

1283: 名無しさんAA:18/04/09 15:23
 宣教師の時代       ーーー37

 島原の乱は、寛永14年10月25日(1637年12月11日)に勃発している。僅か2年後の話
には探検に来ているのである。もしこれが日本海側に来て佐渡島に上陸していたならば
話は大きく日本の歴史を変えて、もっと日本は苦しい立場に追い詰められたであろう。
捕えられた船員達は先ず盛岡城に連行された。船長スハープ達は領主の前に出るため、
様々な木のある庭園や、色々な店を連ねた大通りがあるこの美しい町を通って、町はず
れにある大きな屋敷の木造の高い門の中の離れに案内された。その後藩主の南部重直に
謁見した船員達は丁重なもてなしを受けた。藩主は当初彼らを密航した宣教師ではない
かと疑われた。通訳の役人に、ポルトガル人、スペイン人、フランス人、イギリス人、
デンマーク人、スウェーデン人、クレタ人(ギリシャ人)ではないかと質問させた。また
十字架を差し出して祈祷するように言った。彼らはこれらを拒否しオランダ人である、
と答え、また、皇帝(徳川家)の許可を得て長崎で交易をしたり毎年江戸で皇帝に拝謁し
贈り物もしていると答えた。藩主は更に彼らを試すため踏絵に用いる聖母マリアの描か
れた銅板を差し出し、これに接吻するはずだと言った。しかし船員達は反対に銅板に唾
を吐き、これを砕いてもよいかと尋ねた。これを聞いた藩主は大笑いし、彼らが宣教師
などではないことを確認した。また船員の一人はセイロン島でポルトガル人から受けた
傷を見せ、ポルトガル人はこういうことをする我々の仇敵であると答えた。このアピー
ルは藩主に気に入られた。その後二週間程盛岡に滞在した後、江戸へと出立した。スハ
ープの日記によると、滞在中彼らの身辺の世話をしていた役人は涙を流し別れを惜しん
だという。オランダ人が捕縛されたという話は、すぐに出島のオランダ商館にも伝えら
れた。このため、新旧二人の商館長ピーテル・アントニスゾーン・オーフルトワーテル
とヤン・ファン・エルセラックが例年より1ヶ月ほど早く江戸に参府し、宣教師の潜入
や日本への領土的野心を目的とするものではないと釈明した。これが受け入れられ、12
月8日に10人は釈放された。徳川家光の時代である。このポルトガル人か クレタ人かと
いうのは既にギリシャ人やスウェーデン人を知っていた事になる。この1643年(寛永20
年)のオランダ船ブレスケンス号は全長33m、幅7mの武装ヤハト船で、そう大きな
船ではない。乗組員が盛岡藩上陸後に捕縛され、しばらく後に釈放されたが、その後の
オランダの対応に対して幕府が満足せず、完全に解決を見たのは 1650年(慶安3年)に
なってからであった。

1284: 名無しさんAA:18/04/09 15:23
 船の歴史は古く、紀元前二千前の古代エジプトのピラミッドを作る時にも船は作られ
石が運ばれた。重たい石を運ぶためには筏では浮力が足りずに船底を半円にカーブさせ
て浮力を高めたのである。その後オールを使った海洋航法が取り入れられ、又帆船仕様
が出来たものと思われる。コグ船は、12世紀頃から広く使われた船であった。コグ船の
特徴は一本マストに、方向を変える横帆を備えたものだった。一般にバルト海沿岸地方
で豊富な木材であったオークで造られ、バイキングが使ったものだが多くは帆が四角の
形だった。この横帆のみでの装備では風上に向かって帆走することはできなかったが、
乗組員が少なくても操船でき、運航費用を下げることができた。この船は、中世ヨーロ
ッパの特にバルト海での主に海上貿易に使われた。この北方の荒海用の帆船発達に対し
て、地中海ではキャラベル船あるいはカラベル船と言われる小さい風や色々な風で動け
る3本マスト三角帆のセールの帆船が発達した。操作には難解な専門知識がいるが南洋
では風を受ける事より受けない事の方がリスクは高かく更に向かい風にも疾走する必要
があったのだ。一方中国では宋船や朱印船と呼ばれる荷物を運ぶ事を主流に作られる船
が出来た。所謂舳先が尖らない宝船である。大型木材で底を深くしたもので近郊の航海
に適したものだった。これらの物から二つの形態に分かれて進歩する。キャラック船は
遠洋航海を前提に開発されたヨーロッパでは初の船種であり、大西洋の高波でも船体の
安定を保つだけの巨体と、大量輸送に適した広い船倉を持つ大型船である。航行性能も
優れており、4つの帆を組み合わせて使えたため人手はいるが、風に対して適切な角度
を選択する柔軟性が高く、船尾と船首に付けた帆は回頭性の向上に寄与し、三角帆によ
って逆風状態での航行を可能にした。また、嵐の間にメインセイルは畳まれてそれでも
推進することすらできたと言われている。その後広い甲板により、戦闘用としても船の
安定性、ひいては甲板の安定性が高く、大砲を載せて甲板を砲台として用いることさえ
も容易であった。しかし甲板に置いた砲台は安定性を弱くし前方攻撃しかできなかった
。そこで砲台を船倉の中に入れたガレオン船が登場した。一方重く収用能力が高いこの
船は一方で船底が低く座礁の恐れも高かった。そこで出来たのがスヒップ船である。こ
の船は今のヨットの原型で早く簡単に探検出来る様に小型でオールで漕ぐ事も出来た。
しかし、探検にも荷物が必要であったし大型船の乗り込みにもオールが出来るほどの縁
の低さは難点であるため中型のヤハト船が出来た。更に砲撃を入れたフリュート船が出
来た。これらの西洋船は全て防水用のピッチが挟まれて繋ぎ外壁も塗っていて全ての船
が黒船であった。その後日本ではペリーの蒸気船が来て黒船と言われるが南蛮船は黒船
であり中国大陸からは朱印船であった。さらに中東からはガリー船と日本で呼ばれた。

1285: 名無しさんAA:18/04/09 15:24
 宣教師の時代       ーーー39

 バタヴィア古くはジャヤカルタ、ジャカトラなどと呼ばれていた。が、オランダ人ら
大量の冒険家がやってくると、西洋社会ではバタヴィアと呼ばれた。バタヴィアの名は
、古代ローマ時代に今のオランダにあたる地に住んでいたゲルマン人の一部族、バター
ウィー族に由来し、オランダ地方の古称でもある。この名称はオランダ本国でもフラン
ス支配下のオランダがバタヴィア共和国として使われたことがある程だった。ネーデル
ラント連邦共和国の崩壊後に成立した。オートリア帝国と緩やかな繋がりを持っていた
ネーデルランド共和国は文字通り8つの民族のいる11の州の集合体(ヘルダーラント
州、ホラント州、ゼーラント州、ユトレヒト州、フリースラント州、オーファーアイセ
ル州、フローニンゲン州のネーデルラント北部7州と、これにドレンテ準州、国境地帯
の連邦直轄領ブラーバント、リンブルフ、フランデレンの4州)であった。この国は、
革命後のフランスと、反革命を標榜する対仏大同盟の渦中にあって、フランスとオート
リア帝国の一連の戦争に厄介な内部紛争に陥っていた。当初はフランス革命に対する、
外国の干渉戦争であったが、気が付けば囲まれてしまっていたフランス革命軍は危機感
と新体制の確立から弱いネーデルランドに目を付けた。 1794年9月、フランス革命軍は
、オランダへの侵攻を開始し、10月2日にルール川を渡り、1795年1月にこうして衛星国
家としてフランスの傀儡国家バタヴィア共和国が宣言された。この後 1795年5月16日、
オランダはハーグでフランスと講和条約を結び、五百万フローリンの 賠償金支払いを
約束するまでフランスの衛星国になっていた。こうして、1795年から1806年まで現在の
オランダに存在したフランスの衛星国として不都合な商人は、ジャカルタに住み着く事
でバタウィアと呼ばれた。こうして17世紀末頃にはバタウィアは、優に80年の歴史を
刻み落ち着いた町に変化していた。城壁を巡らした地区のなかにはいくつもの砲塔を備
えた政庁があり、チャイナタウンやたくさんの倉庫も築かれ、街路には小さなテラスハ
ウスが無数に立ち並び、運河や酒場もあった。チャイナタウンがあるのは、当時オラン
ダが日本と中国の間で中継貿易を営み、日本に中国の品物を含めて輸送する役割を担っ
ていたからである。


1286: 名無しさんAA:18/04/09 15:24
 宣教師の時代       ーーー40

 この気候としては高温多湿の町でもあり、ここへ移住してくるオランダ人は、さほど
満足していなかったし、マラリア、コレラ、デング熱などの熱帯病に倒れることが多か
ったにも関わらず移住と発展が続いたのは、欧州の過渡期であって、本国が戦争に明け
暮れた世界だったからだ。つまりフェルディナンド・マゼランが1519年に始まる航海で
スペイン船の艦船隊を率いて世界一周に出かけたのは、1505年インド洋の覇権をポルト
ガルの物にするべくフランシスコ・デ・アルメイダの20隻の艦隊がポルトガルを出発
しマラッカ海峡を制圧したからに他ならない。フランシスコ・デ・アルメイダはその名
の通りカトリック教会に属する修道会の改革を希求したとする、ブルゴーニュ地方出身
の修道士モレームのロベールが開いたシトー修道会(シトーしゅうどうかい)別名ベル
ナルド会の持つサンティアゴ騎士団の出身である。当然この新しい改革を期待し付いて
いくユグノー教徒は多くいたのだ。そもそもこのシトー修道会やサンティアゴ騎士団が
同じ1550年代になるとカルヴァン派の中にあったのである。日本では、灯台の聖母トラ
ピスト大修道院を母院として、男子修道院が当別の他に大分県日出町に、女子修道院が
函館の他栃木県那須町、兵庫県西宮市、佐賀県伊万里市、大分県宇佐市にある。また、
大韓民国慶尚南道昌原市にも女子の子院がある。会員は各修道院の禁域のなかで、「祈
り、働け」をモットーにして祈りと労働の日々を送っている。実はこのシトー修道会は
古代欧州のミトラ教の宗門替えのキリスト教で聖母マリアの方が主体となる。したがっ
て彼らが、こうした遠征や派遣で布教した中には クッキーやバター、菓子パン、チー
ズなど食物に関連した物が多い。ここで東南アジアに来たのも恐らく胡椒などの香辛料
を求めて来たと考えられる。欧州で、古くからスパイス・アイランズ(香料諸島)と呼
ばれてきたのはインドネシアのモルッカ諸島であったからだ。モルッカ諸島は赤道に沿
ったスラウェシ島と、イリアン・ジャヤとの間の海域に位置する。日本語でもクローブ
の実は、「丁子・丁字(ちょうじ)」といい古くから愛されている。丁子はフトモモ(
蒲桃)科の熱帯常緑の高い木で、高さ数メートルに成長し、丁子の木に咲く花の蕾(つ
ぼみ)を乾燥したものを丁香(ちょうこう)と呼び、愛用された。丁香は古来より、香辛
料や生薬に利用されてきた。丁子は高貴薬で香料であることから、七宝の一つで紋章と
しても人気が出た。押小路、甲藤、新庄、松村、竹尾の藤原氏流の諸氏。真崎、志村、
幡野、石崎の源氏の諸氏。菅原氏系の 来栖氏、滋野氏系の望月氏などが使用している。

1287: 名無しさんAA:18/04/09 15:25
 宣教師の時代       ーーー41

曾我祐準は筑後国出身で柳河藩士・曾我祐興の次男だ。(そが すけのり)山縣有朋・
大山巌ら陸軍内の藩閥勢力に対し、三浦梧楼・谷干城・鳥尾小弥太と反主流派を形成し
た。家紋の右一つ丁子巴紋は、「華族家系大成」による。その他薩摩国出身。藩士園田
家や薩摩藩与力、川路利愛の川路家或いは、野口家や三条実美らもこの紋であったとさ
れる。日本画家英一蝶(はなぶさいっちょう)も本姓は藤原氏で、多賀の藩医の家系だ
。竹内綱の長男で吉田茂の長兄の竹内明太郎。実業家として小松製作所、日産自動車の
前身の快進社を設立したが、家紋は左三つ丁子巴紋だった。この人参をデザインした様
なこの紋の使用家は、九州全般、特に鹿児島県(16位)に多い。また、その他は富山県
(19位)が多い。おそらく 薬の名産地(富山の薬売り)と関係があるのだろう。スペイ
ンのフランシスコ・ザビエルは、日本を訪れる3年前の1546年に、モロタイ島と、アン
ボン島とテルナテ島を訪れている。既に日本人街があったとされる場所だ。1599年に、
オランダの遠征隊がマルク諸島に到着してきました。こうしてインドを通さず、日本と
欧州にこの香辛料は送られて莫大な利益をもたらした。しかし、1604年にイギリスの東
インド会社の遠征隊がマルク諸島を訪問して、この香辛料の宝島は一転する。1610年代
以降、オランダの東インド会社はジャワ島を含め、徐々にマルク諸島での勢力を拡大し
ていき衝突するに至ったからだ。1600年代を中心に、マルク諸島ではスパイスの権益を
めぐり、マルク諸島の住民を巻き込んで、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス
がこの地で領土権益抗争を繰り返しました。それらの大きな抗争は、スパイス戦争と呼
ばれた。従って、マルク諸島でのスパイスの歴史は、多くの島民、西欧人、そして日本
人の血も、流れた歴史でもあります。マルク諸島は、その後 300年以上を経て、1945年
8月にインドネシア共和国として独立した。実は、アジアの高価な物産を直接現地から
輸入して巨利を得ようと考えた9名の裕福なアムステルダム商人は、1595年に共同出資
で船隊を初めてアジアに派遣した。この航海が一定の利潤を得られる可能性を示すと、
オランダ各地に20近くの貿易会社が設立され、マルク諸島などからナツメグ、メース
、クローブといった高級香料などを競って輸入した。過当競争による利益低下を恐れた
国の指導者たちは1602年にそれらの会社を統合させ、ここにVOC(東インド会社)が
設立されたのである。


1288: 名無しさんAA:18/04/09 15:25
 宣教師の時代       ーーー42
 こうして1605年にはマルク諸島に要塞を築き、スペイン人やイギリス人などのライバ
ルと争いながら、現地支配者との戦闘や内政干渉を通じて支配を強めた。VOCは一部
地域で香料の強制栽培を開始したが、それだけでは生産が伸びないことを認識し、現地
で需要の高い産品の輸入に取り組んだ。特にインドの染織品にはマルクだけでなくイン
ドネシア諸島各地で強い需要があることを知ったVOCは、インドへの進出を加速した
。インドでは先来のポルトガル人から妨害を受けたものの、VOCは各地の領主と交渉
し、1606年以降ペタプリ、マスリパトナム、プリカット、ネガパタム、フグリなど各地
に商館を設置した。特に染織品の重要産地であるコロマンデル地方には多くの商館が置
かれ、インドにおけるVOCの染織品取引の中心となった。しかしこの時日本は越智氏
の一族が細々と高価なインディゴ綿の買い付けは行っていたのである。古代日本の伊予
国(愛媛県)の豪族の一つとされ。その由来は伊予守輩出や、南海道の伊予越智氏との
関係があったとする説もあるが、判然とはしない。しかし、古本には越智郡大領の先祖
である越智直(おちのあたい)が、白村江の戦いで捕虜になったが、観音菩薩の霊験に
より無事帰還することができ、観音菩薩を奉じて寺を建てたという話が日本霊異記に載
せられている。その後伊予史上では、神護景雲元年 (767年)に献物により叙位された
越智郡大領の「越智直飛鳥麻呂」と「越智直国益」が最初として出て来る。、伊予守「
源頼光」が「藤原道長」に土御門殿の家具一切を献上したとあり、それまで土御門氏と
仲が良かった事が解る。大和の春日社領荘園内の荘官、有力名主を白衣神人として任じ
たもので、末社神主でもあって興福寺の被官ともなっていた。越智氏はその代表といえ
る存在であった。白衣神人のほかに黄衣神人がいたが、これは春日社内の神人である。
家紋は『越智古老伝』には「揚羽蝶」、『越智氏系図』には「八角菱」などとなってい
て越智氏と言って一律ではない。『見聞諸家紋』には遠雁に竜胆(りんどう)である。
奧雲仙地方ではこの赤岩観世音様が祀られ、たいへん古くからお祀りしてあったそうで
す。大宝元年(七〇一)、行基(ぎょうき)という偉い御坊さんが、雲仙に温泉山・満
明寺をひらかれました。この時、行基上人は田代原にも、寺や僧坊を建てたいという願
いを込めて九千部岳で九千部経と言う苦行をしました。赤岩観世音さまは、この行基の
願いを助けてやろうとした。と言う伝説があります。この言い伝えから考えると、温泉
山よりまえ、今から千三百年も前に祀られたことになります。この赤岩観世音様に、お
参りすると、ご利益が多いせいでしょうか、魚洗川(いわれご)や八斗木(はっとき)
のひとはもちろん、島原や有明など、遠くの村からもたくさんの人々が、おまいりにき
ています。

1289: 名無しさんAA:18/04/09 15:26
 宣教師の時代       ーーー43

 夏吉(なつよし)=夏焼(なつやき)の土地の名前は、夏羽焼(なつはやき)、夏焼
(なつやき)と呼ばれていたが、。時代を超えて不吉な村名の「夏焼」を「夏吉(なつ
よし)」に改め現在に至ったとしている。『日本書紀 神功紀(太歳辛巳年=摂政元年
の前年、三月の夏羽)』の記述では「丙申(ひのえさる)に、転(うつ)りまして、山
門県(やまとのあがた)に至りて、則ち土蜘蛛田油津姫を誅(つえな)ふ。時に田油津
姫の兄夏羽、が軍を興して迎え来(ま)く、然るに斯の妹の誅されたること聞きて逃げ
ふ。」夏羽は、館に逃げ帰り篭っていたところを追ってきた神功皇后の軍勢に焼き殺さ
れた。焼き殺された場所が、この夏吉とされる。口の津と加津佐には、こうした名をも
つ場所がある。1602年には薩摩藩主・島津忠恒(ただつね)の招きに応じて、マニ
ラのドミニコ会スペイン人神父フランシスコ・デ・モラレスなど5人が、船長のレオン
喜佐衛門の案内で下甑の長浜に上陸しました。1605(慶長10)年には、甑島(こしきじ
ま)の手打に教会を建てましたが、台風のために倒壊し、その後 川内市京泊(きょうど
まり)に移り、1606(慶長13年)に、京泊にロザリオにささげられた教会と、修道院が
建築されました税所七右衛門敦朝(あつとも)は、1569年都城に生まれ、1596年、主君
・北郷加賀守三久に随伴して新しい領地平佐(現在の薩摩川内市)に移った。滞在中、
信者であった友人パウロ吉右衛門からイエスについて聞き、京泊の教会へ行った。京泊
の教会で 1608(慶長13)年7月22日に、洗礼を受け「レオ七右衛門」となっていた。洗
礼を受けたとき、主君はすでに家臣に対し、キリシタンになることを厳しく禁じていた
頃だった。熱心なキリスト教信者であった七右衛門は当主の北郷三久からキリスト教を
離れ棄教を促されましたが、従うことはなく、1608年11月17日、薩摩におけるドミニコ
会初の殉教者となったそうです。殉教した七右衛門は、京泊の教会に埋葬されたとあり
ます。2008年11月24日 徳と聖性が認められ、列福が承認されて福者と称される。 




1290: 名無しさんAA:18/04/09 16:15
 宣教師の時代       ーーー44

 ヤジロウ(アンジロー)の出自は良くわかっていないが、どうやら薩摩又は大隅の武士
だったようで、若い頃に人を殺害したため、薩摩や大隅に来航していたポルトガル船に
乗せてもらい、マラッカに逃れていたようだ。ヤジロウはもとは貿易に従事していたと
考えられている。フロイスの『日本史』では海賊(“八幡”(ばはん))であったと書
かれている。ヤジロウは薩摩国あるいは大隅国(両国とも鹿児島)の出身である。彼自
身やザビエルの書簡によれば、彼は若い頃に人を殺し、既に薩摩や大隅に来航していた
ポルトガル船に乗ってマラッカに逃れた。としている。その罪を告白するために、彼は
ザビエルに近づき訪ねたという。二人を引き合わせたのは、天文15年(1546年)に薩摩
半島最南部の山川にやって来たポルトガル船船長のジョルジュ・アルヴァレスである。
船長はマラッカへ帰る際ヤジロウを乗船させ、ザビエルを紹介した。ヤジロウはザビエ
ルから、日本でキリスト教の布教をした場合を問われ、スムーズに進むだろうと答えた
。ヤジロウの人柄と彼の話す日本の様子を聞き、ザビエルは日本での活動を決意した。
1549年4月19日、ヤジロウはザビエルに従いゴアを離れ、同年8月15日に鹿児島に上陸し
 ここに日本におけるキリスト教布教の第一歩を記した。「八幡(ばはん)」とは、か
つて倭寇が船旗に書いた八幡あるいは八幡大菩薩の神号を、「ばはん」と読んだところ
から生じた名称で、倭寇の異称であったが、江戸時代には、国禁を犯して外国へ渡った
り通商貿易をしたりしたことや、抜け荷買いや海賊行為全般にこの名称が使われた。山
から荷を出す作業を馬搬(ばはん)といい、山で木材などを馬に曳かせて搬出すること
をそう呼んだから似た名になったのだろう。その後のヤジロウの生涯については不詳で
ある。上記フロイスの記述によればザビエルの離日後、ヤジロウは布教活動から離れて
海賊の生業に戻り最後は中国近辺で殺害されたという。またフェルナン・メンデス・ピ
ントの『東洋遍歴記』、ジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』によれば仏僧らの迫害
を受けて出国を余儀なくされ、中国付近で海賊に殺されたという。甑島伝説では、1602
年にドミニコ会の宣教師が来航してキリスト教を広め、禁教令によって弾圧が始まると
1638年には信者が捕えられて処刑されたと言われている。そして、甑島にある天上墓は
、フランシスコ・ザビエルの通訳者だったヤジロウ(1511年?〜1550年頃?)の墓である
という伝説があり、キリスト教伝来期から信者がいた可能性がある。また、島原の乱(
1637-1638年)以降に甑島に逃れて来た隠れキリシタンの末裔であるという説もある。


1291: 名無しさんAA:18/04/10 22:33
 宣教師の時代       ーーー45

 鹿児島県の離島の甑島(こしきじま)片野浦のある小さな集落には、いまも隠れキリ
シタンがひっそりと暮らしているといわれ、数十戸の集落だが、住民全員が隠れキリシ
タンである。という。正確には数百年前まではキリシタンであったが、過酷な弾圧をお
それ、彼らはキリスト教を密封してしまった。十字架も聖画も聖書も讃美歌もカトリッ
クの儀式も、すべてを消してしまった。そして残ったのは形骸化し誰もその意味を理解
できなくなってしまった儀式と若干の役職のみである。彼らの信仰は「クロ宗」(くろ
しゅう)という。十字架をクロスと呼んだ名からそのままクロ宗クロ宗教徒とされる。
かつて、集落の住人は村外者を完全に拒む。取材にも一切応じない。「クロ宗」信者に
は集落内での出来事や仕来りを一切口外してはならないという鉄の掟がある。同じ島に
住む他村民はこう語っている。「クロの宗徒から、一連の話を聞き出すことは、絶対に
不可能だ。クロにしゃべれと言うたって、それは連中にとって死をかけることと同じだ
」とされていた。婚姻については村外者との結婚を認めなかった。近親者同士ばかりの
通婚を繰り返してきたが、さすがに現在ではよそ者との結婚を認めている。ただし条件
が付く。絶対に村の秘密を配偶者にも話さないこと、そしてもうひとつの条件が、どこ
か他所に居を構えなければならない。クロ宗の集落での夫婦の生活は認められないのだ
。このキリシタン遺物の一切ない同集落だが、例外としてただひとつだけ大切な物があ
る。それがこの島に、秘密の宗教をもたらした人物の聖なる墓とされる「天上墓」だっ
た。ヤジロウがザビエルとともに伝道をはじめたのは、聖母マリア被昇天の祝日にイエ
ズス会(耶蘇会)のザビエル一行が、ジャンクで同伴の信者で通訳のヤジロウの郷土で
ある鹿児島に着いた。とされ、日本へのカトリックの伝道はこの日に始まる。又島原・
天草の農民とキリシタンの乱は、寛永14年(1637)から翌年の足かけ二年である。その
おおよそ九十年も後である。しかし天草の落人が来たかも知れない。島原の反乱には当
然だがその関りは解っていない。島のキリシタンの教祖と考えられるヤジロウは薩摩の
武士だったようだ。ゴアに逃亡した後、同地でキリスト教に帰依し、イエズス会の学校
も卒業し、イエズス会士の日本へのキリスト教布教の必要性と意義を説きザビエルとと
もに鹿児島に着いた。


1292: 名無しさんAA:18/04/10 22:34
 宣教師の時代       ーーー46

ヤジロウたちは、熱心に布教につとめた。薩摩藩主の島津貴久は、当初は交易に利する
キリシタン宗の伝道を認めていたが、翌年には仏教界からの排訴を受けて、キリシタン
禁制と追放令を出した。ザビエルは平戸に逃れ都を目指す。ヤジロウ自身は薩摩に残っ
て秘密裏に布教を行ったが、仏教僧からの迫害を受け下甑島に逃れた。しかし、ヤジロ
ウは改めて伝道を続けたが、さらに厳しくなった迫害から逃れるために、下甑島の片野
浦に移り、クロ宗と改めて密教の集落を組織した。」とされる。そうして残ったキリス
ト教だった。島民は官憲による探索を避けるために、三方を山に囲まれほかの地区の人
たちを寄せつけない当地に、教祖ヤジロウを住まわせた。そして彼の墓がいまも現存す
る「天上墓」であると言われ続けている。その後日本の戦後昭和21年に、カトリック
鹿児島教区長の司祭が、CHQの米兵とともに片野浦の集落にやって来た事がある。そ
して「正統カトリックに復帰するように」と呼びかけを始めた。村落の主家である酒屋
の大毛(だいもう)は彼らを真宗の寺に案内し、自分たちは浄土真宗本願寺派の門徒で
あると主張し、お引き取りを願った。ジャーナリスト米村竜治はこの集落の立派な寺、
片野浦説教所を「住民の秘密を守る防砦でもある」と記している。又、その後昭和56
年2月(1981)、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が来日した。その折に、随伴した法王庁
の使節団から、片野浦のヤジロウ墓を訪問墓参したい旨の打診があった。法王庁でも、
ヤジロウ墓のことは公然の秘密でありながら知っていたのである。多分キリストの福者
に列席させたかったのだろう。だがしかし、片野浦の同村はにべもなく断った。彼らの
秘匿性は徹底していたのである。さてヤジロウは1549年、43歳の時に、同じイエズス会
のトーレス神父とフェルナンデス修道士、マヌエルと言う中国人、アマドールと言うイ
ンド人、ゴアで洗礼を受けたヤジロウ達日本人3人と共にジャンク戦で出発し、日本を
明を経由してヤジロウの案内で、薩摩半島の坊津に上陸した、とされる。その後許しを
得て鹿児島市に来着した。その上陸した日が、8月15日の被昇天の聖マリアの祝日だ
ったとされる。九州では古来より旧暦お盆と称して8月15日をお盆の日としている。
この云われについては仏教では説明しえていない。そもそも仏教にお盆はないからだ。
よく「夏に行われる日本の祖先の霊を祀る一連の行事。日本古来の祖霊信仰と仏教が融
合した行事である。」であるなどと真っ赤な嘘が説明される。本来は霊に対する供物を
置く容器が「盆」を意味し先祖供養は仏教では命日であるとされ、仏教全体は釈迦が説
いた花まつりの4月であるの先祖供養の常識なのだが、ほとんど日本では消えている。


1293: 名無しさんAA:18/04/10 22:36
 宣教師の時代       ーーー47

 実はこのお盆の日が決まったのが、この戦国時代からだ。前にも述べた様に平安時代
に神仏融合と神仏分離が繰り返されて来た。本筋は朝廷のもつ神話神道と輸入された仏
教と地域山岳宗教の祈祷である。言語もいまいち方言の多い中でそれらではじきだされ
たのが古来より祈祷をして自然崇拝していた拝火教であった。その流れを汲んだ自然崇
拝と火の神を拠り所にする信仰行事をその他が取り入れた。護摩焚きや蝋燭や線香など
の必需品のお祈りだ。更に密教系の印の結びもその多くは、その流れ汲んだ陰陽道から
来ている。しかし卜部や八卦道や陰陽道も、天皇の病死や災害の前に体制の庇護を離れ
が廃れた為、新たに真言宗の空海や天台宗の最澄は新たに唐へ渡り、又分派の法相宗や
黄檗宗などが起こった。しかしこれらは、もともと庶民の御祭りを指導する立場よりは
庶民救済と自己昇華の座禅行を基本としていたのである。がその中にも拝火教同様に、
古来から基督教的ものは聖徳太子時代から入ってはきていたのである。それが大日教の
大日如来崇拝の形として仏教に入り込んでいたし、比子宮として神道にも入っていた。
こうしてザビエル来日時、日本の教会を聖母マリアに捧げた事は、仏教界の新たな模倣
の始まりとなった。民衆はこれに飛びついたからだ。彼らはこうして受け入れられ薩摩
から京都を目指して行く過程の中で、各地で宣教活動を行った。それがお盆の行事でも
あった。フロイスの書によると、ザビエルがローマに送った手紙にも、日本の印象は、
とても良かった。と記されている。しかし、日本語への翻訳をしてくれる「ヤジロウ」
のキリスト教用語への理解不足から、相当苦労したとしている。当初、キリスト教の神
を「大日」と教えていた。多くの人が仏教の一派と勘違いすることがあり、後に「デウ
ス」と呼ばせるようになったことの記述もある。彼が日本に滞在したのは2年間でした
が、日本の教会の礎を造った人物として、日本の教会は祭日として祝っています。こう
して、日本における聖書の歴史は、1549年フランシスコ・ザビエル(1506〜1552)から
起こり、鹿児島に上陸した時に持って来た日本語に訳された「マタイ福音書」に始まる
とされている。しかし、現在記録の原書は残っていない。フロイスの『日本史』による


1294: 名無しさんAA:18/04/10 22:36
が、日本の教会の礎を造った人物として、日本の教会は祭日として祝っています。こう
して、日本における聖書の歴史は、1549年フランシスコ・ザビエル(1506〜1552)から
起こり、鹿児島に上陸した時に持って来た日本語に訳された「マタイ福音書」に始まる
とされている。しかし、現在記録の原書は残っていない。フロイスの『日本史』による
と、ザビエルがマラッカで出会った日本人ヤジロウの協力によって和訳をしていたこと
は確かである。フェルナンデスは四福音書の全訳を試みたようだが、それに関する詳し
いことは不明である。しかし、彼とともに同地に布教していたフロイスの記録によれば
、1563年肥前(長崎県)度島(たくしま)の教会の火災で、この稿本が無惨にも焼失し
たと言われている。その写本は柳川の伝習館に一時保管されていた事が解っていた。ペ
ンテコステ教会の古本である。英国国教会の信徒、船長のセーリスは『日本航海記』の
1613年10月9日に、「ミヤコ(京都)で新約聖書を日本語で印刷している」とも記して
いる。この京都版は、カトリック教会の記録にも裏付けられてはいるが、これ以上は、
今は不明だ。



1295: 名無しさんAA:18/04/10 22:37
 宣教師の時代       ーーー48

 そもそも仏教とキリスト教も根本道義は拝火教にある。だが仏教にはバラモン教の持
つ階級主義の打破と強い平等主義の布教があった。対してキリスト教はユダヤ教本であ
る旧約聖書と言う歴史神話から来た神道と同じ集団の結束を念じて出来ていて、自分の
ルーツとアイデンテティと言う立場主義を貫こうとしているものだった。更に問題なの
は拝火教から派生した同じ元の宗教の排斥を試みている事だ。前2世紀から後2世紀に
かけて、インド北部からイラン東部にかけての地域で、原始宗教はのミトラ教という、
インド・スキタイ人の文化(スィームルグ文化)の強い影響を受けた中に出来た。イン
ダス文明で紀元前のバビロニア時代には、インド・スキタイ人、パルティア人、バクト
リア人はなど、クシャスラパティと呼ばれる ミトラの代理人を領主としていた。その
理由は簡単だった。彼らは領主と言うよりは放牧民の長(おさ)であって、一年の中で
季節にしか居なかったからだ。この騎馬民族や放牧民に町を荒らされない様に税を取る
その契約が宗教だったのである。これが強いミトラ信仰の影響の土台であった。そして
これこそが仏教の弥勒信仰であった。仏教界において、釈迦牟尼仏の次に現われる未来
仏であり未来の救済者である。弥勒は現在仏であるゴータマ・ブッダ(釈迦牟尼仏)の
次にブッダとなることが約束された菩薩(修行者)で、ゴータマの入滅後56億7千万
年後の未来にこの世界に現われ悟りを開き、多くの人々を救済するとされる。それまで
は兜率天で修行(あるいは説法)しているといわれ、中国・朝鮮半島・日本では、弥勒
菩薩の兜率天に往生しようと願う信仰(上生信仰)が流行した。と言う。ちなみに弥勒
の下生が56億7千万年後とされているが、弥勒の兜率天での寿命が4000年で、兜率天の1
日は地上の400年に匹敵するという説から、下生までに 4000×400×12×30=5億7600万
年かかるという計算に由来する。対して大日信仰は平安時代に浸透した最高仏としての
位置づけられた。曼荼羅では、大日如来の智徳の面を表したのが金剛界の大日如来であ
り、智拳印を結んで周囲に阿しゅく如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来の四仏
を置いて。これを中心に大日如来を起き、金剛界五仏という、大日信仰が成立したのだ
。これは他ならない古代十字架の紋様に他ならなかった。尚、不動明王は、密教界では
根本尊である大日如来の化身、あるいはその内証(内心の決意)を表現したものである
とされ基本仏陀の現生界の借りの姿であり虚空界では、「あまねく万物の慈母」であり
、「万物を総該した無限宇宙の全一の仏」とされる。つまり神仏習合では天照大神であ
りキリスト教ではゼウスやエホバの全知全能の神なのである。そして弥勒は末法思想の
終末の救世主だったのである。

1296: 名無しさんAA:18/04/10 22:37
 宣教師の時代       ーーー49

原始ミトラ教は、拝火教が退廃して階級を作った事から分裂して生まれた。ゾロアスタ
ーはそれを体系化して新たにゾロアスター教とした。ゾロアスター教では、この世は善
(光明)の神アフラマズダと悪(暗黒)の神アーリマンが絶え間なく戦い、最後に悪は敗北
し、世界は大火災による終末を迎え、人は最後の審判を経て救済されるとした。この中
で6柱7神論を説き、その中で3善行の証文を司るのミトラ神であった。アーリア人の
宗教はこの神の一柱ミトラを主神とした宗教で、メソポタミア周辺に定住したアーリア
人(イラン・アーリア人)のミトラ信仰が元になって、原始ミトラ教が作られた。基本
的には日本では地獄に行くか天国に行くかを決める閻魔様(えんまさま)の閻魔帖の事
である。最後に悪は敗北し、世界は大火災による終末を迎え、人は最後の審判を経て救
済されるとした。ユダヤ人はゾロアスター教から二元論的終末論を採用し、ユダヤ教を
作り上げた。それがキリスト教にも受け継がれた。一方、インド・アーリア人は、ミト
ラ信仰を元に、土着の信仰を取り込んでバラモン教を作り出し、そこからヒンドゥー教
や仏教が生まれた。こうして仏教の「弥勒」の起源もミトラ神であるとされる。ユダヤ
教とキリスト教とイスラム教が同じ起源をもつことは知られているが、原始拝火教まで
遡ると、ヒンドゥー教や仏教まで同じ起源となる。つまり、儒教すらも、古代宗教の全
てが同じ起源だということになる。近代思想の起源はキリスト教だから近代思想の源流
は、全てに拝火教にある。そもそもミトラとは、「契約」や「約束」を意味するものだ
。拝火教=ゾロアスター教で善い行い・善い言葉・善い考えを火の神に約束させられる
。それがミトラの奉祭とされた事からミトラ教になった。拝火教では7柱神の中の一つ
だが基本神となる。だがアーリア人では最高神でミトラ信仰の起源となった。6000年前
の拝火教から原始ミトラ教の形をとるのは、3700年前とされる。放牧民にミトラ神を信
仰させた理由は税の徴収と町を荒らさせない為と旅の行商人の安全を図るためだった。
、その名は本来「契約」を意味するし、契約によって結ばれた「盟友」をも意味し、友
情・友愛の守護神とされるようにして、定住民と遊牧移動民との互いの商売をさせた。
従って定住者の王には 貢ぎ物と贈り物が捧げられ、代わりにその保護や庇護と民衆の
受け入れの徹底をさせたのである。その意味では日本の鎖国前の南蛮人保護と同じで、
金銭の交易を別にして 中国でも日本でもモンゴルでも基本は旅人にもてなし、旅人は
知り得た情報でも 持っている珍品でも献上した習わしがそこに出来た理由があったと
言える。


1297: 名無しさんAA:18/04/10 22:38
 宣教師の時代       ーーー50
 ところで、この二元論の拝火教は日本ではどうなったか。それが陰陽道であったとい
える。日本の山岳宗教は二元論の中で家庭を持つことも修行する事も一緒としていた。
従って出家と言う仏法方式は取ってはいなかった。キリストも修道士会には奉仕と学習
と禁欲を求めた戒律から出家と同じ境遇にあった。彼の宗教が子孫繁栄よりは人口抑制
を暗に支持していたからだ。対して拝火教のみが宗教の中では規制していない。しかし
その為に過酷な日常である善行修行を行う事を義務にしているのだ。これはある意味、
厳しい日本の封建的武家社会でもある。自分で正義と悪を決めて判断し間違えれば死さ
えも辞さない覚悟以上で生きる事を求めた社会の存在だからだ。つまり恥の文化である
。尚キリストでは教会内は司教冠(ミトラ)と、司教杖(バクルス)司教帽(カロッタ
)と言うコスチュームに徹している。陰陽道の中には、いざなぎ流(いざなぎりゅう)
と言う変わった民間信仰で残った物がある。土佐国物部村(現高知県香美市)に伝承さ
れているが、伝承によれば、天竺(インド)のいざなぎ大王から伝授された24種の方術
に基づくとする。法具は無く、儀式の都度にそれに応じた定式の和紙の切り紙(御幣)
を使う。民間信仰ではあるが、祭祀の祝詞・呪文は体系化されて定式的に伝承されてい
る。祭儀は太夫と呼ばれる神職によって執り行われるが、太夫は家元制度や世襲でもな
く、特定の教団組織もなく、男女の性別も問わない。地域の中の適格者と認められた人
物が膨大ないざなぎ流の祭文と祭礼の様式を伝承する。近年、物部村の民家から土御門
家からの免許状が発見された。祭文(さいもん)とは、神を祭るときに読む文。本来、
祭りのときなどに神仏に対しする祈願声文である。これが神職が行えば祝詞(のりと)
とされ、仏であれば御詠歌や巡礼歌であり僧が読めば念仏として用いらる願文である。
のちには信仰を離れて芸能化していったが、結局これらは和歌だったのだ。高知県香美
郡物部村に伝えられている民間信仰の陰陽道(おんみょうどう)のイザナギ流は、地域に
住む太夫(たゆう)とよばれる宗教者たちによって、師子相伝の形で伝承されている。こ
れは古代物部氏の世界である。いざなぎ流にはいつでも礼拝することのできる恒久的な
神像や仏像の類はない。祭儀になると和紙を切って御幣をつくり、神格の像として祀る
。御幣は二百種類以上もあり、これはまつるべき神格が多いことを窺わせる。現在最も
もっとも盛大に行われる儀礼が日月祭である。日月祭は、家の神の祭りや神社の氏神祭
りの折に行われるが、これらの祭りはほかの家の神、氏神をすべてまつらなければなら
ないので、およそ1週間がかりの大祭となる。日月祭には、三日月、十七夜、二十三夜
の3種があり、どの神を祀るかは、家あるいは神社によって決まっており、それぞれの
旧暦のその月の出をまつり、併せてお日様も拝む。

1298: 名無しさんAA:18/04/10 22:38
 宣教師の時代       ーーー51

 この雲仙には都呂々と天竺山山伝説がある。そもそも我々が言う天神様と言うのは、
「鍛冶神」『古事記』では岩戸隠れの段に登場する。「鍛人(かぬち)天津麻羅を求(
ま)きて」とあるだけで、何をしたのかは書かれていない。タタラ唄に『金屋子神の生
まれを問えば、元は葛城 安部が森』との言葉が残る。金屋子神(かなやごかみ、等)
とは、中国地方を中心に、鍛冶屋に信仰される女神。と一般的には言われている。金屋
子神の特徴としては、部下の村人が、麻につまづいて転んで死んだので麻を嫌うと言う
。また、犬に追いかけられ、蔦に取り付いて登って逃れようとしたが、蔦が切れたので
、落ちて犬に咬まれて死んだ事で、犬と蔦は嫌いとも言う。さらに、犬に追いかけられ
た時、みかんの木に登って、あるいは藤に掴って助かったので、みかんと藤は好むらし
い。桂は神木。死の穢れ(けがれ)には無頓着どころか、むしろ好むとされ、たたら炉
の周囲の柱に死体を下げることを村下達に指導したと言う。又、死骸を下げると、大量
に鉄が取れるようになったとも言われる。女性を極端に嫌う。自分が女性なので、嫉妬
であると言われているが、この為、鍛冶関係の作業場には女性を入れない掟があった。
とする。また、昔の人は、、女性が入った後のお湯を使ったりすることもしなかったと
言われている。この伝承では「一つ目」が「鍛冶神」で、あまりに熱い火を見て片目を
失い「ひょっとこ」はその風の係だった。とされる。この事で「天神」というものが、
菅原道真ではなく。基本的には天竺の事で、この天竺から鉄の技法が伝わったとされる
。そして「たたら」の語彙から「たたり」が出来たとも考えられる。福岡の多々良ヶ浜
は鉄の製鉄技法が始めて日本に伝わった所で、菅原道真は、最後の鍛冶の神の加持祈祷
の伝承者であった可能性は極めて高い。天竺であり訛って天神様になったと言う事は、
これまで青銅器を作っていた今までの神とは諍いは出来たであろう。もちろん天竺木綿
とされる綿布の技法も同じ時期なのかもしれない。布に関しても「幡多織(はたおりひ
め)」を祀ったであろう八幡社の起伝もある。「天神祭文」では次の要約を載せている
。「神代の日本で鍛冶が無い事を憂いた「しやらだ王」は、天竺に棲む「天神王」が鍛
冶を教えてくれる事を知り、天に上り修行し鍛冶を習得した。帰還した「しやらだ王」
は三振りの剣を作るが、金がうまく煮えず失敗する。鍛冶には「どろ」「らんごが浜の
小砂」が薬になることを知り、三振りの刀を鍛えた。やがて御子は三人の弟子に、鞴・
やりとり・蓋・たがね・やすり・金床などの鍛冶道具や鍛冶するときの炭・煙・火など
に神仏が示唆して来た。」とある。天目一箇神(あめのまひとつのかみ)は、日本神話
に登場する製鉄・鍛冶の神として登場する。

1299: 名無しさんAA:18/04/10 22:39
 宣教師の時代       ーーー52
 この雲仙には又岩戸山がある。肥前西郷氏の本拠地だったとされる西郷川の源流だ。
その袂の岩山の石崖の小さな岩窟(がんくつ)の中に祠(ほこら)がある。岩戸山は、
八女にも古墳群があって、6世紀初頭に北部九州を支配した筑紫君磐井(筑紫国造磐井
)と考えられている。文献から被葬者と築造時期を推定できる日本で数少ない古墳の1
つとされる。筑紫君磐井は『古事記』『日本書紀』に反乱伝承が記されていて磐井の乱
があった事が解っている。『筑後国風土記』には岩戸山古墳の状況や位置が記されてお
り、別区では裁判を思わせる記述もある。同文によると、磐井は生前から墓を作ってい
たが、戦に敗れ放棄したという。なお、古くは石人山古墳を磐井の墓とする説が主流で
あった。昭和31年(1956年)、森貞次郎が岩戸山古墳を磐井の墓に比定し、現在では定
説となっている。筑紫君磐井(ちくしのきみいわい)の墳墓は、6世紀前半の築造と考
えら、6世紀初頭継体天皇の時代、畿内政権からの独立を図ったとされる。その際に、
朝鮮半島に出兵する将軍・近江毛野臣(おおみのけなのおみ)を、新羅と組んでさえぎ
ろうとしたが、畿内から来た援軍大伴・物部の軍団に破れた。「石馬」の頭部が無いの
は、豊前方面へ逃亡した磐井が見つからないのに腹を立てた官軍の兵士たちによって、
この時石馬の首が落とされたと記されている。筑紫国造が成立したのは6世紀の後半と
も言われるが、5世紀後半には既にに肥・豊(肥前・肥後・豊前・豊後)にまたがる一
大勢力圏をつくっていたとみられる。磐井の乱の後も国造の存続を許され、白村江の戦
ののち唐に抑留されて天智10年( 671)帰国した筑紫君薩野馬はその後裔とみられる
。同族に筑紫鞍橋君・筑紫火君・筑紫火中君がみえる。八女丘陵上には、現在11基も
の前方後円墳を含む約150〜300基の古墳が発見され、その年代も5世紀中頃から6世紀
後半までおよんでいる。それでも福岡県は全く発掘整備は行わない。磐井の乱の以後も
連続して大形墳墓が造営されており、筑紫君一族が滅びることなく存続したことを物語
っている。日本書紀の継体天皇21年( 527)の記述は、大和朝廷で、新羅から奪われた
任那の地を奪還するため、近江毛野臣に6万の兵を率いて渡海させることになったが、
新羅は秘かに筑紫君磐井に賄路を送って毛野臣の軍の渡海を妨げることを勧めた。そこ
で、磐井は肥・豊(肥前・肥後と豊前・豊後)の二国をもあわせた勢力をもって、朝鮮
半島からの貢船を略奪し、朝延にたち向ったので朝廷は国家の大事として物部大連麁鹿火を遣わして討伐させたという。同22年11月、御井群(現三井郡)で激戦が行なわれ、
磐井は敗れて斬られた。同12月に磐井の子の葛子は、糟屋の地(現粕屋郡)を屯倉とし
て献上して父の罪に連座することを免れたという。「筑紫国風土記」逸文には、磐井は
豊前国上膳県(現豊前市)に逃亡したという別伝と、生前に彼が築造した自分の墓と、
そこに飾られた石人、石馬などのことが記されている。

1300: 名無しさんAA:18/04/11 14:52
この雲仙には又岩戸山がある。肥前西郷氏の本拠地だったとされる西郷川の源流だ。
その袂の岩山の石崖の小さな岩窟(がんくつ)の中に祠(ほこら)がある。岩戸山は、
八女にも古墳群があって、6世紀初頭に北部九州を支配した筑紫君磐井(筑紫国造磐井
)と考えられている。文献から被葬者と築造時期を推定できる日本で数少ない古墳の1
つとされる。筑紫君磐井は『古事記』『日本書紀』に反乱伝承が記されていて磐井の乱
があった事が解っている。『筑後国風土記』には岩戸山古墳の状況や位置が記されてお
り、別区では裁判を思わせる記述もある。同文によると、磐井は生前から墓を作ってい
たが、戦に敗れ放棄したという。なお、古くは石人山古墳を磐井の墓とする説が主流で
あった。昭和31年(1956年)、森貞次郎が岩戸山古墳を磐井の墓に比定し、現在では定
説となっている。筑紫君磐井(ちくしのきみいわい)の墳墓は、6世紀前半の築造と考
えら、6世紀初頭継体天皇の時代、畿内政権からの独立を図ったとされる。その際に、
朝鮮半島に出兵する将軍・近江毛野臣(おおみのけなのおみ)を、新羅と組んでさえぎ
ろうとしたが、畿内から来た援軍大伴・物部の軍団に破れた。「石馬」の頭部が無いの
は、豊前方面へ逃亡した磐井が見つからないのに腹を立てた官軍の兵士たちによって、
この時石馬の首が落とされたと記されている。筑紫国造が成立したのは6世紀の後半と
も言われるが、5世紀後半には既にに肥・豊(肥前・肥後・豊前・豊後)にまたがる一
大勢力圏をつくっていたとみられる。磐井の乱の後も国造の存続を許され、白村江の戦
ののち唐に抑留されて天智10年( 671)帰国した筑紫君薩野馬はその後裔とみられる
。同族に筑紫鞍橋君・筑紫火君・筑紫火中君がみえる。八女丘陵上には、現在11基も
の前方後円墳を含む約150〜300基の古墳が発見され、その年代も5世紀中頃から6世紀
後半までおよんでいる。それでも福岡県は全く発掘整備は行わない。磐井の乱の以後も
連続して大形墳墓が造営されており、筑紫君一族が滅びることなく存続したことを物語
っている。日本書紀の継体天皇21年( 527)の記述は、大和朝廷で、新羅から奪われた
任那の地を奪還するため、近江毛野臣に6万の兵を率いて渡海させることになったが、
新羅は秘かに筑紫君磐井に賄路を送って毛野臣の軍の渡海を妨げることを勧めた。そこ
で、磐井は肥・豊(肥前・肥後と豊前・豊後)の二国をもあわせた勢力をもって、朝鮮
半島からの貢船を略奪し、朝延にたち向ったので朝廷は国家の大事として物部大連麁鹿
火を遣わして討伐させたという。同22年11月、御井群(現三井郡)で激戦が行なわれ、
磐井は敗れて斬られた。同12月に磐井の子の葛子は、糟屋の地(現粕屋郡)を屯倉とし
て献上して父の罪に連座することを免れたという。「筑紫国風土記」逸文には、磐井は
豊前国上膳県(現豊前市)に逃亡したという別伝と、生前に彼が築造した自分の墓と、
そこに飾られた石人、石馬などのことが記されている。


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