1つめの記念スレ


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1つめの記念スレ

1: 騎士剣:05/11/09 17:24 ID:A/yxhPTA
勝手にスレを書き込んで勝手にレスをつけてくれぃ

1101: 名無しさんAA:18/03/23 12:25
 富安君を探せ              < その124 >

 立花吉右衛門成家は、父・薦野増時と共に、豊臣秀吉に武功が轟き立花氏にも忠功多
くあった人だ。薦野増時は立花三河守を名乗り、息子の玄賀、賢賀、丹親次(薦野勘解
由鎮方)や、半右衛門(薦野増時の弟)などを率いて従軍していた。立花成家は(薦野
吉右衛門弥助、成宗、日玄、薦野増時の子)関が原合戦のずっと前に、一人立花軍議で
異論を吐いていた。「次の合戦の折は、他の重臣が豊臣方を賛するところではありまし
ょうが、増時はただ一人でも徳川方につく事を意見する。」「すなわち此度の合戦は、
必ずや徳川の勝利になりましょう。家康公においては、若き頃から強敵と戦いながらも
今だ敗れることを知りません。兵法に長け、事前に芽を摘む知将の類と見る。此度上杉
攻めに出陣する噂からは、上方の大乱を覚悟してのご出立と聞き及ぶ。上杉攻めは口実
にして必ずや軍を転じて歴戦の諸将を従えて行軍なさろう。もし上方への出発とあらば
、宇喜田・毛利をはじめ、その他、五奉行の面々が、たとえ秀頼公の御名で諸大名に下
知されても適いますまい。志一定せず勝利することは勿論戦うにも難儀な事で動けます
まい。幸い九州には黒田如水・加藤清正の両名は、必ず家康公につかれるはず。そこで
、殿にはこの地に留まり両将と協議して行動を起こされる事を望むものであります。さ
すれば、お家は安泰でありましょう。」と言った。そこで立花公はしばらくだまって、
考えていた。そうして重臣等の意見を聞いていた宗茂(統虎)は、「皆が話される事は
最もな事である。それは国を思っての事であろう。有難く思う。だが、自分は勝敗には
拘らない。武士足るは義を尊ばねばならない。皆が知る通り、故太閤殿下には深い御恩
がある。その為、自分は秀頼公について一方を受け持ち、忠義をあらわそうと思う。」
と語った。そういって増時の言を退け、城島城主だった彼に駿河の地での居城を認めて
、情報を集めさせた。また出陣には、加藤清正に柳河城の留守を伝え、軍勢を上方に送
った。実は薦野氏は俗称で、本来米多比氏(ねたみし)でありかつて茶臼山に「薦野城
」の領地として代々居住してきた氏族だった。宗像への押さえとしては大変重要な場所
でこの地に移ってからもその地を薦野村と名乗った。二十九代「宣化天皇」より出「上
殖葉王子、十市王、多治比王」と続いた子孫として薦野城主となった。としている。ち
なみに、宗茂は9月15日に大津城を開城させた後、軍勢を率いて草津にまでも進出し
ていて、そこで西軍の壊滅を知って大坂城に退却することを余儀なくし戦後に改易され
てしまった。もしもう少し長引けば江戸城をも落としていたかもしれなかったのである
。その為の大砲だった。この巧みさに直ぐさま、徳川は柳川の攻撃を黒田に伝令した。

1102: 名無しさんAA:18/03/23 12:27
 富安君を探せ              < その125 >

 薦野氏は立花配下となっていてからは、城島城主となっていた。全軍出陣となってか
らは、留守を小野和泉守に預けていた。佐賀鍋島氏は関が原まで動かなかったが敗戦の
一報を受けて急きょ黒田氏の後ろ盾に筑後を攻める事にした。関ヶ原で西軍主力敗戦後
、柳河に戻った立花宗茂は、九州北部を席巻する黒田・加藤氏、更に勝ち馬東軍に寝返
った肥前の鍋島氏と対峙する。俗にいう『八の院の戦い』である。成家はこの戦いで、
黒田如水の備えとして水田口の守備についていた。それは水田城の小野和泉が三潴を守
っていてくれたからだ。しかしこの主力苦戦の報を伝え聞いた成家は、独断で八の院に
転進、鉄砲・弓をを乱射させて鍋島軍の横合に押し入った。突如の新手の出現に鍋島軍
は混乱をきたした総崩れした為、その間に主力の小野和泉等は軍勢をまとめ無事に退却
することが出来たという。成家はなおも鍋島勢を追撃し、十分に押し返した後に反転し
退却にかかった。その時鍋島軍の放った銃弾が成家の頬を射抜き成家は落馬したが、従
者・安部惣右衛門がすぐさま駆け寄り彼を担いで退却した為事無きを得た。こうして、
立花勢は籠城を果たし、その周りを加藤清正が取り囲んだ。一見柳川城を攻撃する形に
見えたが、その実は黒田氏や鍋島氏から守る形だった。その後にらみ合いは続きこうし
た中立花氏は御沙汰を受ける立場だった。静かに本隊江の浦城まで大船をつけると後は
小舟で次々と沖の端に入り帰城した。しかし立花氏が城に入ると綿貫氏が待っていた。
10月14日、鍋島勢は既に繰り出していた一万二千は膠着状態として更に加勢一万騎を繰
り出した黒田兵も一万騎を出して山越えして駆けつけた。こうして二手に分かれて佐賀
を進発。そこで肥後勢も2万騎が八女の耳納づたいから柳川の本城の蒲船津から高畑の
三柱神社まで陣をはっていた。これに対し、立花勢は迎撃のために出陣するが、家康へ
の恭順を示すため宗茂は城に残った。立花勢13,000のうち、城を出て八院方面へ出陣し
たのは家老の小野鎮幸を総大将とする約三千騎であった。鍋島軍は、10月16日には筑後
川を渡河し立花方の海津城を落城させ、続いて19日朝には先鋒の3,000兵は立花成家200
兵の鉄砲奇襲を受け20余人が討たれたが城島城を攻略、翌20日には江上八院で立花勢本
隊と激突した。立花勢先鋒の安東範久(五郎右衛門)、石松政之(安兵衛)らは軍法を破っ
て独断で開戦し、次々と鍋島勢十三段の軍陣の中へ突入し、先鋒の第三隊立花統次(三
太夫、森下釣雲の三男、立花統春の養子、鎮幸の養子・小野鎮矩とは兄弟)はその九段
までも進んで奮戦した。鍋島勢の先鋒・鍋島茂忠は本陣の五反田へ撤退したといわれて
いる。

1103: 名無しさんAA:18/03/23 12:41
しかし、一騎駆で敵軍に突撃した立花統次の戦死を始め、先鋒の安東範久、石松政之は
たちまち反撃を受けた。そのために救援出陣の第二陣立花鎮実(戸次右衛門大夫、藤北
戸次氏の一族)と鎮実の若い次男立花親雄(善次郎)や新田鎮実(平右衛門、掃部助)
は横合から攻めかけ、敵を三町ばかり突き崩し、後を断たれて共に戦死した。後陣の矢
島重成(勘兵衛、剛庵、宗茂の側室・八千子の弟)と千手喜雲(六之允、筑紫広門の与力
)は戦を躊躇していたため、馬廻衆の安東幸貞、第三陣の若武者十時惟久(新五郎)、
先鋒の安東範久、石松政之も次々と戦死した。総大将の小野鎮幸は本陣前の橋を堅守し
て鍋島勢の包囲を受け勇戦奮戦したが、鍋島軍の反撃を受け、供回りが14、5人にな
るまで討ち取られた。小野自身も銃創と矢傷を負い、討死寸前となったが、水田方面の
黒田如水軍を偵察していた立花成家(吉右衛門、薦野増時の嫡男)が別動隊三百人を率
いて敢然と奇襲をかけ鍋島勢を混乱させた隙に無事撤退した。ひとまず撤退し柳川城下
にはいる場内の民は心配そうに小野氏を見ていた。登城し結果を立花氏に報告すると、
「そうか。無念。ゆっくり体を休めて養生するが良い。」と言った。綿貫氏の隣には、
見慣れない者がいた。「この機に及んでは、御立花公にありましても無血開城が一番か
と思うに、これ以上の場外の乱闘は駿府様が嫌われる事になるやも知れず。謹んでご沙
汰を待つように望むと、清正公も申しております。」と口上した。なんと立花吉右衛門
成家が一時城島に帰城した折に既に熊本の清正公の家来が数人入場していたのである。
「殿、これは一体。」「あいや済まぬのう、主らが出た折り返しに使者が参ってのう。
」「まあ、ありていに申せば、今や手勢8千騎となった立花様におかれましては、黒田
・鍋島・加藤の10万騎以上に手向かいして勝ったところで家康公に抗するは犬死に等
しいと言う話じゃがのう。」と使者はいうと、いきり立つ吉右衛門らに「まあまあ、こ
の使者は、静かにご沙汰を待たれるがよろしい。という清正公の、まっ、行ってみれば
忠告じゃ。ついては家康公にとりなしを尽くす。との口上じゃ。」と外をみた。「まな
板の鯉ですか。」と泣いた。「こうなったら徹底抗戦しましょう。黒田他目に、目にも
のをみせてやりましょう。」と言う家臣に「嫌、だめだ。わし一人ならいい。いや武士
はそれで死んでもいいだろう。しかしここで戦うならここの民百姓はどうする。残され
た家臣達の婦女子はどうする。もう戦の世に終わりが来てもいいだろう。例えここで戦
で勝っても又喰いつめ武士から領地争いが起こる。既に内府様の勝ちじゃ。お主らは、
この加藤氏について行って清正公の家臣となるが最善じゃ。もう臣下が死ぬのは見とう
ない。覚えがよければ、ぬしらも取り立てられよう。そう清正公は言っている。わかっ
たな。犬死は、御法度である。」とにらみつけ、その温情に家臣は泣いたとされる。

1104: 名無しさんAA:18/03/23 12:48
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------1

あまり知られていないが、北陸の小松城周辺でも戦局を左右する戦いが起きている。北
陸では金沢城主・前田利長が東軍に、小松城主・丹羽長重が西軍に与していた。7月26
日、前田利長は2万5千の大軍を率いて小松城攻めに向かう。対する丹羽長重は、兵3
千で籠城した。だが攻略は難しいとみた前田利長は、小松城を横目に西進する。石田三
成は、もともと濃尾地域での長期戦を志向しており、関ヶ原決戦は突発的なものであっ
たので、もちろん仕方のない話だった。しかし、立花宗茂のような武将は、前線におい
て活躍させるのが最も真価を発揮するのであって、決戦場から離れた後方の城攻めに用
いるのは、非常にもったいない兵法に外れた采配だった。その点家康は自ら その方法
を取らざる得ないように、大阪城内部にも、諸侯にも仕掛けをして罠をはっていた。も
し、ここで立花宗茂が出てこないとなれば、たぶん他の方法を用いていたに違いない。
 大津城攻めは他の部隊に任せて、立花隊だけ引っこ抜いて、大垣−関ヶ原ラインのど
こかに配置しておけば、突発的な戦闘にも対処させられるし、関ヶ原の決戦にも動員で
きたのできた。そもそも石田三成が家康が会津攻めに赴いたことを好機とした事に問題
がある。更に大谷吉継や毛利輝元ら反家康派の諸大名を糾合して挙兵する事は見通した
もので足止め分断作戦だった。又あの黒田如水ですら、東軍と西軍の戦いは半年から一
年は続くと見て作戦を立てていた。が、皮肉にも息子・長政の調略で西軍の小早川秀秋
が寝返り、一日で「関ヶ原」が終わった。大友義統の軍を破った後、黒田如水は合戦の
翌日 9月16日から改めて再開して進撃をした。1日で終わったと思っていなかったから
だ。17日から熊谷家臣の熊谷外記の守る安岐城を包囲して19日に開城させ、守備兵の殆
どを配下に加えた。23日より垣見家家臣の筧利右衛門が守る富来城を攻め、10月2日に
富来城を開城させ、ここでも城兵に自由を与えて自軍に加えた。ここで既に勝った事を
しる。が4日以降も北上を開始し、5日には毛利吉成の家臣毛利定房が守る香春岳城を
攻め、本城の小倉城も攻略した。合戦は増時の予想通りに進み、宗茂の活躍をよそに、
西軍は崩壊した。ほぼ無傷で柳河に帰りついた宗茂は、休む間も無くと東軍に寝返った
鍋島の軍勢と激戦を展開し、これを撃退していた。戦後この合戦の顛末を小野和泉に聞
いた宗茂は、的確な判断で立花軍の崩壊を防いだ立花成家の活躍が随一であるとして、
感状をもって賞した。朝鮮の役でも、金の軍扇をあたえ即座の賞とした。1600年の
大津城攻めでも功を上げ、「如意の甲」と「筑紫月毛」という筑紫広門が宗茂に贈った
名馬をそのまま賜っている。

1105: 名無しさんAA:18/03/23 12:50
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------1

あまり知られていないが、北陸の小松城周辺でも戦局を左右する戦いが起きている。北
陸では金沢城主・前田利長が東軍に、小松城主・丹羽長重が西軍に与していた。7月26
日、前田利長は2万5千の大軍を率いて小松城攻めに向かう。対する丹羽長重は、兵3
千で籠城した。だが攻略は難しいとみた前田利長は、小松城を横目に西進する。石田三
成は、もともと濃尾地域での長期戦を志向しており、関ヶ原決戦は突発的なものであっ
たので、もちろん仕方のない話だった。しかし、立花宗茂のような武将は、前線におい
て活躍させるのが最も真価を発揮するのであって、決戦場から離れた後方の城攻めに用
いるのは、非常にもったいない兵法に外れた采配だった。その点家康は自ら その方法
を取らざる得ないように、大阪城内部にも、諸侯にも仕掛けをして罠をはっていた。も
し、ここで立花宗茂が出てこないとなれば、たぶん他の方法を用いていたに違いない。
 大津城攻めは他の部隊に任せて、立花隊だけ引っこ抜いて、大垣−関ヶ原ラインのど
こかに配置しておけば、突発的な戦闘にも対処させられるし、関ヶ原の決戦にも動員で
きたのできた。そもそも石田三成が家康が会津攻めに赴いたことを好機とした事に問題
がある。更に大谷吉継や毛利輝元ら反家康派の諸大名を糾合して挙兵する事は見通した
もので足止め分断作戦だった。又あの黒田如水ですら、東軍と西軍の戦いは半年から一
年は続くと見て作戦を立てていた。が、皮肉にも息子・長政の調略で西軍の小早川秀秋
が寝返り、一日で「関ヶ原」が終わった。大友義統の軍を破った後、黒田如水は合戦の
翌日 9月16日から改めて再開して進撃をした。1日で終わったと思っていなかったから
だ。17日から熊谷家臣の熊谷外記の守る安岐城を包囲して19日に開城させ、守備兵の殆
どを配下に加えた。23日より垣見家家臣の筧利右衛門が守る富来城を攻め、10月2日に
富来城を開城させ、ここでも城兵に自由を与えて自軍に加えた。ここで既に勝った事を
しる。が4日以降も北上を開始し、5日には毛利吉成の家臣毛利定房が守る香春岳城を
攻め、本城の小倉城も攻略した。合戦は増時の予想通りに進み、宗茂の活躍をよそに、
西軍は崩壊した。ほぼ無傷で柳河に帰りついた宗茂は、休む間も無くと東軍に寝返った
鍋島の軍勢と激戦を展開し、これを撃退していた。戦後この合戦の顛末を小野和泉に聞
いた宗茂は、的確な判断で立花軍の崩壊を防いだ立花成家の活躍が随一であるとして、
感状をもって賞した。朝鮮の役でも、金の軍扇をあたえ即座の賞とした。1600年の
大津城攻めでも功を上げ、「如意の甲」と「筑紫月毛」という筑紫広門が宗茂に贈った
名馬をそのまま賜っている。その後清正から清を貰い配下は成清と名乗った


1106: 名無しさんAA:18/03/23 12:58
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------2

 西軍自体が負けてしまい、柳川へ引き上げたが、その後徳川家康は立花公の処置に困
っていた。それは小西行長問題だった。小西行長は和泉国堺の商人・小西隆佐の次男と
して京都で生まれた実は小西行重を兄に持っていた。小西行重は別名武藤行重といい、
少弐氏の家系の分家と思われていた。秀吉は一目でその才智を見抜きスカウトしていた
。豊臣政権ができると舟奉行に任命され水軍を率いていた。秀吉から豊臣姓を名乗る事
が許される程懇意であった。紀州征伐では、水軍を率いて参戦したが、雑賀衆の抵抗を
受けて一度は敗退するものの一方で、太田城の水攻めでは、安宅船や大砲も動員しての
攻撃で、開城のきっかけを作ったりしていた。天正13年(1585年に、小豆島で1万石を
与えられ、高山右近の後押しで洗礼を受けキリシタンとなっていた。天正15年の九州
平定、天正16年の肥後国人一揆の討伐に功をあげて肥後国の南半国宇土、益城、八代
の三郡20万石あまりを与えられて、島原の海運を担っていた。そしてかの水軍が大砲
を所持しているのは聞き及んでいた。又今回の大津城攻めにこの大砲が的確に城壁を撃
ち破っていた。つまり逆に本物の大砲で外国の司令官を持っている可能性があったのだ
。更に一連の動きが立花氏―小西氏がキリシタンでつながり小西―加藤が地域で繋がり
を持っていた。宗氏の外交事件でも小西が裏にいた事は明白だった。そして加藤―黒田
の線もでて来たのである。つまり黒田家すらも立花宗茂の恩赦の嘆願をしていたからだ
。実は今回活躍した黒田長政も伏見地震で怖くなった母の勧めでキリスタンになってい
たのである。こうして九州勢は総じてキリスタンになって行く中にあった。関ヶ原の合
戦の後には、徳川家康はまず長政に勲功として豊前国中津12万石から筑前国名島(福
岡)52万石への大幅加増移封をした。更に、井伊直政や藤堂高虎の勧めで、如水にも
勲功恩賞、上方や東国での領地加増を提示した。多くの反対の中に家康は言った。なに
あいつもわしも年じゃ。黒田長政が不都合が無ければそれで良い。と。しかし如水は、
これを辞退し、その後は中央の政治に関与することなく隠居生活を送ったという。これ
は税金徴収の問題だった。加増される地の日田などは、その頃災害でほとんど米が出来
ない中で、一様に幕府に納めてくれればそれが良かったからだ。如水は、東軍と西軍の
戦いが皮肉にも息子・長政の調略で西軍の小早川秀秋が寝返り、一日で「関ヶ原」が終
わり、落胆するも、すでに西海での領地切り取り次第を申し入れ家康に了承を取ってい
たから始末にわるく。瞬(またた)く間に、西軍に属する諸城を落として九州の北半分
を席巻した。が、それは又家康の疑心を持たせるものだった事も知っていたのだ。


1107: 名無しさんAA:18/03/23 13:06
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------3

 領地に帰り「関ヶ原の働きで家康様から加増を受けた。」喜んで如水に報告すると、
以外にも如水は「家康が握った手はどちらか」と問い、「右手です」と答えると「お前
の左手はその時、何故腰を取らぬ。腑抜けめ」と、なじりとがめた。息子長政は頭良く
すぐにその意味を察した。この時から親子は絶縁状態に陥った。息子はそのままうつむ
いて涙し顔起こして曰く「既に人生の山を越え死のうする老いぼれ爺いは、そんなにも
友が死に領民が死んで行く乱世が好きか。悪鬼千万。」と怒鳴って城に戻っていった。
関が原の前の福岡地域は、筑前の旧領主の小早川秀秋の領地であった。立花城が立花氏
の蟄居謹慎の地となったが、小早川の居た香椎宮と箱崎宮の間にある名島城は、実は、
立花城の出城だったのである。従って黒田氏の新しく加増された居城には狭かったし、
平城で時代にそぐわない者になっていた。小早川秀秋は播磨国の飛び地数郡以外の旧宇
喜多秀家領の岡山55万石に加増・移封された。そこで秀秋から秀詮へと改名している。
秀詮はこの国替えの際に前領地の筑前国より年貢を持ち去っている。この年貢が取り去
られた事件で黒田氏は苦境に陥っていた。それは、小西行長の要請で筑紫広門の手勢の
引き受けを了承していたからだ。如水と相談もしたかったが帰国早々縁を切った事態に
陥ったのである。筑紫広門は関ヶ原の戦いで、立花氏と共にあった。養子の主水正広門
が西軍となり京極高次が守る大津城を攻めていた。自身は東軍として筑後の居城で篭城
し鍋島軍を迎え打っていた。しかし西軍主力が関ヶ原で敗戦した後、鍋島軍の攻撃によ
り三潴の大善寺の城島城の居城はその出城はことごとく攻撃にさらされて獲られていた
。裏に黒田如水の援兵があったからだ。その居城が残ったのは加藤清正が守ってくれた
からだった。しかし改易にあって筑紫一門も多くは肥後に移り住むことになっていたが
、一部は立花氏が立花城に蟄居謹慎の為福岡城下に移り住むことが黒田氏の配慮で許さ
れたのである。立花氏は非常に慕われた殿様だった。立花山の蟄居謹慎の伝令は9月に
入ってからであった。黒田氏や鍋島氏の進軍が止まらなかったので寺沢広高を肥前に入
れて唐津の城主とさせ、松倉重政(まつくらしげまさ)を筑後に付けた。松倉は、一人
御家人からの成り上がりで落ちぶれた京都の宮家の血筋であった。その後日野江に入封
後にも苛政と搾取を行い、子の勝家と共に島原の乱の主因を作った。田中吉政が柳川入
城した時かれもこの地で勢力を持ち続けて、この地は再び血に染まった。それは田中吉
政がこの板倉氏の持ち上げで地位を得た御家人あがりで飾り大将だったからだ。

1108: 名無しさんAA:18/03/23 13:06
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------4

 そもそも田中吉政は飾り大将であった。尼子氏(あまごし)は、京極氏の一族で代々
出雲守護代を務めた。京極氏から室町時代中期に分かれた家であり、京極尼子家とも呼
ばれる。山陰地方で活動し、戦国大名となった一族である。京極氏時代に出雲守護代を
務めたのは平安時代の頃だ。室町時代に変わり、宗家京極氏が出雲の守護代と月山富田
城に拠った為。やがて出雲や隠岐の守護代として雲伯の国人掌握し、力をつけた。この
時雲伯の国人が身につけていたのは中国から入っただろう鋳造の技術だった。それも、
古代の金銀の抽出技術だった。丹羽氏が金銀の抽出法やその山の存在が解っても金銀は
取れなかった。それには鉛が必要不可欠だったからだ。金銀を含んだ土から加熱して集
めても金銀にはなり得ない。「かわらけ」に乗せるまでに非常に有害な鉛が必要だから
だ。雲伯の国人は銅の作り方も鉄の作り方も一子相伝でそれを知っていた。だが族長の
みで他はその手伝いに過ぎなかった。それが富氏だった。5年に一回や11年に一回し
か行われなかったその儀式は「まがたま」の行事だった。しかし尼子氏時代には金銀は
必要なく銅の売買だけでも充分だったし、鋼の製鉄だけでも食っていけたのである。こ
こに不思議がある。銅を作れば鉄と言う不用品が出る。銅と鉄を抽出すれば金銀と言う
不用品が出た。これが丹土だった。それが神社の赤の由来でもあった。松倉家はその名
の通りその雲伯の国人に薪を提供し粗銅や砂金の様な金銀を交換する役割だった。した
がって秘密裏の組織であり、筒井氏や明智氏より位が高いと思っていたし事実そうした
氏族であった。京都五条に在したが南北朝時代に追われ、筒井順慶に仕えていたがその
中でも食客身分だった。室町時代に筒井順慶は得度し荘園を持っていた。大和荘園には
「大和四家」と呼ばれる筒井氏、越智氏、箸尾氏、十市氏などのつわもので智慧者の僧
兵を擁していて策略家として領地を増やした。家老時代に順慶が明智光秀の斡旋をもっ
て信長に臣従した時には家老で同じ様に帰順した。その甲斐あって光秀の起こした謀反
には筒井に反対し追従せずにいる事を進言した。養子の定次が伊賀に転封されと、重政
は一人大和に残って豊臣家の直臣となる事を働きかけ、家老でありながらの松倉政秀と
松倉重政親子は本能寺の変の後に明智光秀と羽柴秀吉の軍が山城国山崎で、山崎の戦い
に秀吉方に加担して、末席に座った。こうして九州平定まで従軍していた。彼が使った
とされるのが伊賀の忍者集団だった。そして彼が祭りあげたのが田中吉政なのである。

1109: 名無しさんAA:18/03/23 14:59
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------5

 田中吉政は先祖には近江源氏高島氏の一族で田中城の城主であったされる。しかし、
織田信長が引き上げる頃は落ちぶれた百姓だった。吉政が家紋に「一つ目結い」紋(釘
抜き紋ともいう)を用いている。いわゆる鉄砲紋である。織田信長の高島郡進攻により
田中氏は当時は帰農していたとされる。吉政の出生地は浅井郡の三川村または宮部村(
現在の長浜市三川町、宮部町)で、吉政自身はそこに住む農民であったという説は有力
だ。浅井郡の住人に限られる竹生島の行事・蓮華会の頭人を柳川藩主となっていた吉政
が担ったからだ。三川村の田中吉政の出生伝承では、彼自身が宮部村の国人領主である
宮部継潤に仕えたとある。また吉政の母すなわち国友与左衛門(宮部継潤家臣)の姉は
宮部村と三川村にほど近い坂田郡国友村(当時有数の鉄砲の生産地。現在の長浜市国友
町)の出身などである。ただ、近江八幡時代以前の記録は少ない。つまり信長は鉄砲を
作らせていたのだ。こうして始め筒井順慶に仕えていた松倉政秀が豊臣家の直臣となっ
て田中吉政と出会ったのである。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは板倉重政は、
単身参陣して徳川家康に認められ、大和の五条二見城主に帰り咲いた。五条では諸役を
免除して商業の振興を図るなど城下町の整備を行った。その元になったのが国産の鉄砲
であった。しかし田中吉政の率いた鋳造の鉄砲は直ぐに古くなった上、長期の使用には
全く耐えられなかった。田中吉政の入国時の所領は、矢部川から沖の端川までである。
それは徳川氏が所領のない伊賀者を置く板倉重政に一応の食糧を与える為であった。が
これは大きな間違いだった。田中吉政はこの小さな領地に同じ量の税が江戸幕府に決め
られていた上に、更に松倉政秀は野心家であったのだ。つまり鉄砲輸入に踏み切ってい
てイスパニア船を天草に忍ばせて寺沢広高を連絡役にして密貿易を果たしていたのであ
る。女と米を送り続け、薬や武器を調達する事が、この集団の維持だった。しかしこの
地は伊賀者も英彦山の修験道者によって排除されていった。ここに大きな隠れた争いが
あったのえある。その上に、キリスタンである彼らの天草から阿蘇にかけての信者は、
伏見の大地震以来この地にやって来ていたのである。この背景が九千坊カッパ伝説の、
背景である。その時の大伝文記は「この地の人は二重の課された税に苦しみ、その解決
久留米や英彦山に求めた。」と言う。この二重の税の徴収に応じない村には松倉氏がや
って来て謀反人と思しき者の民を並べて、串刺し(三人を一気に槍で突く)、箕踊り(
蓑を着せて火をつける)、塩漬け(逆さで海水に磔)などをして検分した。これは高田
町・三橋町・大木町など各所で行われた。更にその妻や娘を西勝寺送りにした。


1110: 名無しさんAA:18/03/23 14:59
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------6

 もともと 西勝寺は東北で生まれた文化を親鸞において書き換えられた仏教である。
阿弥陀如来を一佛本尊とし、親鸞を宗祖とする浄土真宗本願寺派の系統とされる。当時
民百姓は子沢山で食べる事が必至だったが、ある年は震災や水害或いは冷害で食えなく
なる。すると修行していた僧も食べられなくなった。寄進や布施がないからだ。そこで
縁を基調にした一佛本尊教が出来た。縁があれば幸せになれる。一心に念仏を唱えれば
救われる。とそう言わなければ、その時の孤児や未亡人を引き取って、京の都へと連れ
て行く事が出来なかったのである。それには「阿弥陀如来の本願力によって信心をめぐ
まれ、念仏を申す人生を歩めば、この世の縁が尽きるとも浄土に生まれて仏となり、迷
いの世に還っても人々を教化する。」と、「たとえ死んでも天国に行くはずだ。」と言
ったのだ。当時には、姥捨て伝説や蛭子流し伝説が、現実にあったのである。そこでは
少量しか食べない信心深い老婆や、乳飲み子のいたいけない子供を捨てない様に、おし
んの物語のように連れていったのだ。それは田中角栄の時代つまり万博時代まで現実に
あった事だ。その頃の集団就職列車はその名残りでもあった。だが平安時代は、子猫の
避妊の様に娘や若者を引き取り全国の西勝寺の連絡網を通じて、養子縁組やら丁稚奉公
などの世話をして土着した寺となった。それは他の宗教の派生の様な 金鉱山から金を
作る技法も治水や土木の技術も、海の漁法操作もこの宗教は全く持ち合わせがなく 単
に祈って金を拝借するしかなかった宗教だったからだ。しかし長く続く戦乱の世では、
その孤児や飢饉で困った親が口減らしの為には役にたったのである。だが時代を超えて
、江戸初期の頃は、その女衒は闊歩していて商売の寺として別称女衒堂として広まって
いた。他と違い、祈祷も技術商売も体制批判もなかった為に、勉学堂としても、多くの
最初の孤児や通い塾はこの寺で行われた。更に西洋式の銀行や保険のもととしても村用
に報恩講と言う利子出し貸し借りが行われて相互扶助が促進された。五行思想の中で五
色(白・黒・赤・青・黄)の色にまつわる名称や伝説では方位を示す。これは今の(火
・水・木・金・土)の職業であり土は農業で中心とされる。この商工業者の代表達を子
として掛け金を回して殖産新興を行ったのだった。三井三菱においても、この金を元手
として京に店が出して成功したという物語のはずである。しかしこの松倉はこれを悪用
した。筑後では「佐賀者の通った後は、草木も生えぬ。」とは女子供が盗られて行った
歴史の事実の伝承で佐賀から「柳川の紋は銭の紋」とはそうした金や物資に窮していた
事を物語っている。伊賀屋に子供を売り渡していたのだから。

1111: 名無しさんAA:18/03/23 15:11
 そうした事で多くは有馬氏が保護して浮羽などに引き取った。しかし修験道との戦い
は熾烈を極めた。こうした中でも立花氏の立花山に米を送る地主もいた。池末氏や竹田
氏や井上氏矢部氏池上氏などである。立花氏はそれほど慕われていたのだ。立花氏がこ
の地を去るとき9月9日の重陽の節句であった。いわゆる老人の日であるが、かつては
神社に柳の木をかざり、菊の花形をした和紙をこよりで飾り、牡丹餅で祝ったという。
船で水門を抜け百丁を抜けて今の磯宮で降りて水田の水天宮を目指したと言う。途中に
夕刻前にもよりの神社はその多くが彼らをもてなし それをふるまい、旅の飯まで持た
せて涙して送ったという。従者は少なく多くは肥後に仕える身分となっていて方向が違
ったからだ。改易となり、その後は浪人へと落ちぶれて立花山に居住する。そこには、
黒田家と共に謀られたらたまらないとして寄せて、家康は独眼竜正宗に相談した。そこ
で徳川幕府も宗茂程の者を放っておけず、陸奥の国3万石の大名として執り成し近習の
客分とした。そしてそれは、後の大阪の陣で豊臣方との決着をつける為だったという。
その際立花が豊臣に味方したら厄介だったのだ。家康は宗茂を十分に説得した。結局は
徳川方として活躍し、10万石で柳川城に復帰する事となった。この慶長20年(1615年
)の大坂夏の陣に際しては、松倉政秀も大和郡山城の救援や、道明寺方面での後藤基次
勢との戦いのなど功によって、翌元和2年(1616年)に有馬晴信の旧領で肥前日野江の
4万3千石を与えられて移封した。家光の助言でキリスタン排除の為に行ったものだ。
家光公とは立花公は伊達正宗を通して何度かあっている。それだけ立花公は知識も魅力
があった。ある時まだ江戸に剣術指南役と言う物がなかった頃小野と言う者が大道で、
「天下一御免」の看板を掲げた。誰でも金を払い勝負をして負かしたら倍額払うという
商売だった。これまで手練者や道場周りで資金を得ていたが誰からも勝ち名が知れて、
相手にされなかったのだ。ところが家康はこれを重視して伊達に相談すると根来衆にで
も頼む方が良い。とにべにも無かった。そこで家康子飼いの蜷カに頼んだ。剣術家でも
あり兵法指南の柳生宗厳(石舟斎)は次々と刺客を送ったが全く勝てなかった。彼は、
影流居合抜きの綿貫氏と同じに長い剣で剛腕だったからだ。ある時は大道で、ある時は
寝所で勝ち天下一をはばからなかった。そこでとうとう彼を剣術指南役として採用した
。しかし一年もせず江戸城に退屈したのである。そこで立花公と合わせると、何と家臣
の指示だった。こうして彼は立花氏が又柳川に戻るのに着いて行く事になった。それが
黄檗宗の小野鐵文和尚で、彼が、その後の宗教相談役に天海和尚を引き入れ、天海は、
日光東照宮を作った。と言う。実は小野氏は山川の出で彼が帰郷したとき寺は廃屋とな
っていた。立花氏は城に菩提寺を建てその地に墓を建てた。と言う

1112: 名無しさんAA:18/03/23 15:30
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------8

 立花宗茂は、本田忠勝の推挙で江戸城に召し抱えらえ、宗茂の実力をよく知っていた
徳川家康から幕府の御書院番頭(将軍の親衛隊長)として五千石を給され、徳川秀忠の
御伽衆に列せられて陸奥棚倉に1万石を与えられて旗本大名となった。その後加増され
5万5千石の知行となり、慶長15年(1610年)には更に加増を受けて最終的に3万5
千石の領地高となり、幾らかの者を食べさせる事が出来るようになり、筑後の模様もし
る余裕ができた。大坂冬の陣では、大御所・家康に多くの示唆し、ことごとく予言した
事は的中した。豊臣秀頼が出陣しないことも、大野治房の軍勢動向も、秀忠軍の進退も
その中にはあった。又、初陣に於いて真田城により遅参した事での家康の怒りは、立花
氏の忠告を聞かなかった事だと言われる。その後には徳川秀忠も家康や立花氏の忠告が
効いたのか律儀を貫いた生活をした。徳川家康曰く「律儀すぎる。人は律儀一点張りで
はいかぬものだ。」とまで言わしめた。重臣の本多正信曰く「殿も時には法螺を吹きな
され」と言われるほどであったが、これに対し秀忠は、「父のウソを買う者はいくらで
もいても、私のウソを買う者はいないだろう。」と笑ったとされる。そのために関ヶ原
の戦いへの遅参があっても、将軍の座をしっかり後を継げたのである。と言われている
戦さは苦手で口下手だが、国内整備には、抜群の能力を持ち、これまでの過去の歴史上
の2代目の幕府継投者とは、雲泥の差があった。家康の路線を忠実に受け継ぎ、兄の・
徳川(結城)秀康を差し置いて将軍の座に就きながら大きな内紛には至らなかったのだ
。又期待通り、徳川秀忠は、父が死去すると、容赦ない改易を断行しても、幕藩体制を
揺るぎないものにしている。江戸幕府が長期政権になった最大の理由は彼の功績であろ
う。酒井忠世、土井利勝、安藤重信といった重臣を抱え支えられ、他方、自分に従わな
い弟の松平忠輝、譜代で家康子飼いの本多正純さえも改易した。外様有力大名の福島正
則(広島50万石)、田中吉政(筑後柳川32万石)、最上義俊(山形57万石)、蒲
生忠郷(会津若松60万石)を改易。最終的に大御所の時も含めると、彼は容赦なく、
外様23家、親藩・譜代16家を改易した。また、大名転封も多く、秀忠の時がピーク
である。こうして、親藩だろうが譜代だろうが外様だろうが、遠慮無く改易する姿勢を
出して、大名統制を確立し、幕府に刃向かいそうな芽はことごとく潰したのである。


1113: 名無しさんAA:18/03/23 15:31
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------9

 この律儀な二代将軍・徳川秀忠も人生で2つの不貞があった。一つは千姫事件である
。継室の浅井江の下に長女として一人の子供が産まれた。千姫(せんひめ)である。彼
女は山城国伏見城内の徳川屋敷で産まれ、千六百三年(慶長八年)に七歳で豊臣秀頼と
結婚し、大野治長(おおのはるなが)の母で千の乳母の刑部卿局と伴に大坂城に入って
いる。その後豊臣家と徳川家は対立し、千六百十五年(慶長二十年)の大坂夏の陣では
、祖父・徳川家康の命により落城する大坂城から救出される。この時千姫(せんひめ)
は十九歳、秀頼との間に実子は無かった。だが、この救出時、家康は「千姫を助けた者
に千姫を与える」と述べたとされ、これが千姫事件(せんひめじけん)の火種となった
。大坂夏の陣の大坂城落城後、元号を元和(げんな)に変え同千六百十五年は元和元年
に改められて千姫(せんひめ)は大坂城落城の翌年、桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多
忠刻と結婚した。この時、津和野藩主・坂崎直盛が輿入れの行列を襲って千姫強奪する
計画を立てていたとされた。そして千姫は、この夫の本多忠刻が寛永3年5月に家督も
せずに播州姫路の城中で死んだ。こうしてまだ30才で2度目の未亡人となりました。
将軍の家光はひどく姉の不幸に同情して、はじめ竹橋御門の屋敷に住まわせて、静かな
日を送らせようとしましたが、少しどうも豊満妖艶すぎる千姫は、近くに春日ノ局の屋
敷などがあって出入りとも幾分窮屈がるので、五番町に邸を得て、これに下屋敷を建て
て移り住ませることとなったが、この時に吉田御殿の黒い噂が流れたからに他ならなか
った。「吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振袖で」との噂である。吉田御殿は
千姫御殿の事三代将軍家光の姉に当たる。こうして「千姫には世にも恐ろしい吉田御殿
の話として伝説が残る。それによると「彼女は夫である秀頼を失ったあと吉田御殿で過
ごしていたのですが、このときに通りかかった美男子を呼び止めては弄び、飽きると井
戸に放り込んで殺していた」というのです。この噂は直ぐに広まった。と言うのは一人
の大工と、一人の武士が近くの沼で死体として上がった事で大騒ぎになったからだった
これを重く見た蜷カ宗矩は早速現地調査すると以外にも、坂崎直盛は宇喜多詮家で当時
宇喜多家直家から息子の秀家に代わり折り合いが悪く仕方なしに徳川方に付いていた事
がわかる。更に大坂夏の陣では火傷を負いながら千姫を救出した事実があり傷跡に恐怖
を抱き、その求婚も断られ京都の公家を使って千姫を再婚させようと画策した事が判明
したのだ。

1114: 名無しさんAA:18/03/23 15:46
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------10
 そこで困った蜷カ宗矩はかつて小野氏の処遇で相談した立花氏に、会った折その話を
した。坂崎直盛が徳川家康の元に送った事は事実であったようだ。更に陣中に婿になっ
てよいとした発言も公然の秘密であったからだ。又その功績によって坂崎直盛は津和野
城主になっていたのである。数日たって蜷カ宗厳のもとに宗矩と立花氏が一人の僧を連
れてやって来た。よく見れば小野鉄文であった。ギョッとしたあの小野の顔は忘れては
いなかったのだ。「おやじ殿。お元気か」と蜷カ宗矩が言った「何ようかな。お主には
似合わない連れをつれてきおって。まあ良い白湯でも進ぜよう。はいれ。」ともそもそ
と入って席についた。すると一つの書状を宗矩は差し出した。蜷カ宗厳は静かに開けて
中を読んだ。それは堀内氏善の書状であった。そこには連れ出して来たは大坂方の堀内
氏善であり、堀内氏久と直盛が知り合いであったので渡したと書かれていたのである。
当時には西側に属した首途(かど)で堀内氏善は、まだ紀伊国海部郡加田村に蟄居謹慎
の身で沙汰を待つ身であったのだ。途中「カッ」と目を見開いたが、読み終わると静か
に書を戻して蜷カ宗矩に返した。そして囲炉裏の枝を火にくべ「それでこれがなんだ。
」「いや何、坂崎殿とは懇意にしていると伝え聞いたので寄ったまでで、もの申す事が
あれば俺がまた聞きして伝えるよりは、この立花殿に直接聞いて貰うのが一番と思い、
ここに案内した。」しばらくして「・・・・ふふふ・・・聞きしに勝る宗茂殿じゃのう
。九州入り以来の拝顔ですのう。」と立花公と顔を合わせた。実は文禄3年(1594年)
5月、豊前国の大名・黒田長政が取成しで、京都鷹が峰や船小屋で徳川家康に招かれ、
家康本人を相手にして無刀取りの術技を示した事が昔にあったのだ。そして剣術指南役
として出仕を請われたが、この小野氏にことごとく負けて、宗厳は老齢を理由に辞退し
て、代わりに五男の柳生宗矩を推挙していたのだ。後に柳生に五百石の所領を受けたが
ずっと後だった。そして小野氏が立花公の持ち侍で勝手に護衛に来て家康に推挙されて
いたのを宗厳は知らなかったのだ。又この小野氏が小野一党として江戸にいた事すらも
解らずにいたのだった。「で、内府様はどうおっしゃられておる。」と聞いた。「いや
・・・」と話そうとする宗矩を止めて、「宗厳公がご健勝で何より、おなつかしゅうご
います。」「……何を白々しい……」「で千姫事件の噂はご存知かと思われるが、不遜
に当たるとお怒りなので 我々がこうして密命帯びて来た次第。正義を正すに悲しき定
めもあるかと暗い思いながらも、まずは御報告をと取り急ぎ来た次第。」といって互い
に顔を見ていた。宗厳は目がみるみる充血した。涙するを止めていたように見えた。「
いや忙しい所ご迷惑かけ申した。」と頭を下げた。「さあ皆の者かえろう。」と立ち上
がった。

1115: 名無しさんAA:18/03/23 15:47
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------11

 蜷カ宗厳はかつて筒井順慶の家臣となり、後に松永久秀の家臣となっていた。織田信
長の大和国入りの案内もしていた。しかし永禄9年(1566年)には久秀の配下として多
武峰衆徒と戦って拳を射られたり、永禄11年(1568年)には柳生谷への帰路で落馬して
重体に陥るなど、不幸もあって過ごしていた。かつては富田流の戸田一刀斎、次いで新
当流の神取新十郎に剣術を学んで名を上げていた。ところが永禄6年奈良の宝蔵院に出
向いた時、新陰流の上泉信綱と出会い、試合を申し込み、宗厳は信綱どころか、彼の弟
子・疋田景兼にすら勝てなかった。このため、宗厳は己の未熟さを悟って即座に弟子入
りし、永禄8年に免許皆伝し、元亀2年(1571年)、信綱から一国一人の印可を受ける
に至り、宗厳の孫の柳生利厳を流祖とする尾張柳生家は、新陰流の正統は宗厳が継承し
、疋田景兼は傍流とされた。この後に元亀2年(1571年)には嫡男の厳勝が辰市合戦で
鉄砲によって重傷を負い剣を振るう事が出来なくなってしまいほどなくして宗厳は柳生
に隠遁し、松永久秀が信長に謀反を起こした時は、その影響下から離れ、代わって大和
の支配者の筒井にも従わなかった。筒井氏と当時敵対関係にあった十市遠長と結ぶなど
独立体制を保ち、羽柴秀長が大和に入国すると、太閤検地の際に、所領を没収され浪人
となり近衛前久に寄食し松永久秀の家臣となってすごし、同志として家康についていた
。3人が外に出たとき、どこに潜んでいたのか、ばらばらと忍びの者が二十数名程「お
頭」と、小さい声で言っていた。「いや、ほっておけ。」と見上げると屋根にも潜んで
いて合図を送っていた。こうして数日後には、立花氏と蜷カ氏は坂崎藩江戸家老を江戸
城に呼び「詮議において、直盛に話が無く姫路新田藩主・本多忠刻との縁組が決まった
為、面目を潰された直盛が千姫奪回計画を立てた。この千姫(せんひめ)を強奪する計
画の露見により、その首謀者として坂崎直盛の処遇を問う。」とした。つまり、直盛が
切腹すれば家督相続を許すと持ちかけたのだ。しかし家臣たちは寝耳に水の話で「何を
証拠に」「あや、ここしばらくの猶予を、」と口を開き、我殿に至りまして濡れ衣でご
ざいます。」と言い「駿府殿はご存知か。」と聞いてきた。実は、秀頼死後に寡婦とな
った千姫を憐れんだ家康は、坂崎直盛に千姫の身の振り方を問うていた為、公家との間
を周旋して、縁組の段階まで話が進んでいたのである。そこに突然のこの話であった。
次の日も江戸家老がやって来て「御内府に御眼道りをつかまりたく。」と言って来た。

1116: 名無しさんAA:18/03/23 15:48
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------12

実は直盛は再嫁の話をまとめていた。しかし、千姫は嫌がり尼になると騒ぎ、結局は破
談したかったのである。このときに千姫は決して再嫁しないと蜷カに頼ったのだ。この
坂崎直盛は松倉政秀や蜷カと同じやり放題の筒井武士であった。板倉家は旧宮家とのつ
ながりはわずかながら四条家とあったと言う。蜷カ宗矩は「何用かまずは私が聞いて、
取り次ぎましょうぞ。」と言った。最初は直盛の切腹と引き換えに、弟大膳に跡目を立
てさせようと説いたが、意地になっている直盛が聞くはずがない。それではと、家臣を
説得して直盛を殺させようとしたが、これは君臣の道に外れるということで取りやめと
なった」と伝えた。「それで、」「・・・・」「秀忠様に直訴に参ったか。」「そう言
や板崎殿は先にも宇和島藩主である富田殿がが直盛の家臣を殺し宇喜多左門を匿っては
直訴に及びはねらたが結局富田殿は改易に及んだよのう。」「こういう話は殿も困る物
で、ああそうそう私の元に堀内氏善の上申書も来ている。これも真意を確かめて殿に報
告せねばと思っていた所。」とふみを渡した。中を読むと家老は見る間に青ざめていっ
た。そして言った「坂崎直盛は恥辱であろう、決死の働きで千姫(せんひめ)を救出し
たのでは無く、脱出して来た千姫一行にめぐり合っただけと言うのは。駿府様に嘘をつ
き、石見津和野4万3千石を盗んだとあらば、徳川家も恥じゃと殿は思われようのう。
」と言った。家老は直ぐに後ずさりして、「ははあ是非ご容赦願いたく。」「是非もな
い。これ以上恥をさらさぬよう殿の御用人としてここに申し伝える。改易をしかと用意
せえ。」と言い放った。実はこの石見津和野の地は石見銀山の地でご加増による過役に
訴えも出て居たのだ。伝説は、立花宗茂の計策により、柳生宗矩の諫言に感じ入って自
害したとも言われながら、柳生家の家紋を柳生笠(二蓋笠)として宗矩が譲り受けたと
も伝わっている。大名の坂崎氏は、この騒動の結果断絶したが、次男・重行の孫・中村
家初代の中村重豊が中村氏として坂崎氏の血脈を繋いだ。



1117: 名無しさんAA:18/03/23 15:48

当時江戸に滞在していたイギ
リス商館長リチャード・コックスの日記によれば、1616年10月10日夜遅く、江戸市中に
騒動起これり、こは出羽殿と呼ばれし武士が、皇帝(将軍秀忠)の女(千姫)が、明日
新夫に嫁せんとするを、途に奪うべしと広言せしに依りてなり。蓋し老皇帝(家康)は
、生前に彼が大坂にて秀頼様の敵となりて尽くしし功績に対し、彼に彼女を与へんと約
せしに、現皇帝は之を承認せずして、彼に切腹を命ぜり、されど彼は命を奉ぜず、すべ
て剃髪せる臣下一千人及び婦女五十名とともに、其邸に拠り、皆共に死に到るまで抵抗
せんと決せぬ。是に於いて皇帝は兵士一万人余人を以て其邸を囲ましめ、家臣にして穏
かに主君を引き渡さば凡十九歳なる長子に領土相続を許さんと告げしに、父は之を聞く
や、自ら手を下して其子を殺せり。されど家臣などは後に主君を殺して首級を邸外の人
に渡し、其条件として、彼等の生命を助け、領土を他の子に遺はさん事を求めしが、風
評によれば、皇帝は之を諾せし由なり。



1118: 名無しさんAA:18/03/23 15:49
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------13

 田中忠政(たなか ただまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将だ。
筑後柳川の第2代目の国主となった。供養塔が千光寺(久留米市山本町)にある。また
、お位牌が浄土宗 大本山 善導寺(福岡県久留米市善導寺町飯田)に祀られている。ま
たこの寺には、近年ァ千代姫(立花宗茂公の正室)の墓が確認できていて供養塔文字が
ある。忠政は早くから父の策略で江戸の徳川家康のもとへ人質として送られ、このとき
、家康の計らいで従五位下隼人正となっている。慶長10年(1605年)には江戸幕府2代
将軍・徳川秀忠の上洛に随行した。天正13年(1585年)の九州征伐に行く前に田中吉政
の四男として近江にて誕生している。慶長14年(1609年)4月3日、父の死により家督
を継いで入城となった。これは、忠政が家康と親しかったことに加え、長兄の吉次が父
の勘気を受けて追放され、次兄の吉信は亡くなっていて三兄の吉興も病弱で、家督を継
げないので継いだのである。ちなみに同年、秀忠の計らいで従四位下侍従となった。こ
の時は田中吉政が干拓整備に力を注いでいた為その後を続けている。江戸城西の丸の普
請には多くの費用を使い、柳河の開拓などで功を顕した。だがここでデウス号事件が起
こった。1600年の関ヶ原本戦では、家康の会津征伐に上方への残留を命じられてい
たが、進んで参戦した。小西行長に対して揺さぶりをしていた筒井残党は東軍に入り、
田中吉政、筒井定次らの部隊と交戦して奮戦する。しかし小早川秀秋らの裏切りで大谷
吉継隊が壊滅すると、続いて小西隊・宇喜多隊も崩れ、行長は伊吹山中に逃れ関ヶ原の
庄屋・林蔵主に匿われたものの、迷惑をかけるを好しとせず自ら竹中重門家臣に護衛さ
れ草津の村越直吉の陣に赴き、六条河原において石田三成・安国寺恵瓊と共に斬首され
た。これにより、イスパニア交易は完全に松倉政秀氏のものに移っていった。しかし、
それは奴隷貿易でありアヘン交易であった。先の西郷純堯以来、海賊の頻繁な出没には
秀吉以降長崎領主になったキリシタン大名有馬晴信も荒らしまくる海賊退治に強く捜索
をしているところだった。この時イスパニア船は世界的にはスペイン支配から独立した
オランダ船の攻撃にあっていた。そして東アジアに進出を開始し、武力でスペイン、ポ
ルトガルの通商拠点を脅かしていたのだ。有馬晴信の朱印船が占城(チャンパ)からの
帰途、風を失いこのマカオに寄港した。このとき偶然にも同地には、東京(トンキン)
からの帰途遭難し、中国船を略奪しこれに乗ってマカオに避難していた別の日本人の一
団があった。彼らはポルトガル官憲の制止をよそに、武器を携え市中を横行し、ついに
は日・葡商人間に商貨の買い上げをめぐって紛争を生じ、仲介に当たった陪席判事まで
負傷させるという事件が起こった。いわゆるマカオの日本人騒擾事件である。

1119: 名無しさんAA:18/03/23 18:22
 長崎の勝山小学校は、かつてサント・ドミンゴ教会の在ったところであり、その左へ
折れた所の県立美術館山はかつてのサンタ・マリア教会である。そしてこの2つは当時
イスパニア人(スペイン)とポルトガルの教会であった。この道を左へ折れ西へ向かえ
ば西勝寺だが、ここは、奴隷商人のスペイン商人が集めて来た者の集会用の洋館だった
。柳川三橋の西勝寺もその出先機関だったのである。アビラ・ヒロンは先の、そうした
商人の代理で来て日記を書き『日本王国記』の名で知られる長大な日本見聞記を著わし
イエズス会士の記録とはまた違った視点で描いている。日本ではマードレ・デ・デウス
号とノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号と同じに書いているが、実は二つは違う船で、本
来事件のあったのはグラサ号であり五島沖で沈められたのがデウス号なのである。アン
ドレ・ペッソアはカピタン・モール(総司令官)として任期1年で長崎に行きそして既
にこのマカオに帰ってきて母国に帰れるはずだった。ところがこの小西行長が死んで、
松倉政秀に船を盗られて日本上陸には至っていなかった上に、本国スペインとオランダ
は今だ戦争であり劣勢だったのだ。そして暴動を徹底的に鎮圧したのが、彼だったので
ある。ペッソアは直ちに日本人暴徒の一団を一件の建物に追い詰め、火焔筒で火をかけ
、逃げてくる日本人たちを次々と撃ち殺した。さらに彼は、首謀者と思われる日本人を
捕えるや、後日の日本政府への弁解のため、この事件の原因がすべて日本人にあるとい
う証言を強要し、そのあげく、男をその場で絞首刑に処してしまった。こうして翌14
年に日本航海司令官としてペッソアが長崎に来着した。ペッソアは長崎奉行である長谷
川左兵衛藤広に対し、前年の事件に関する調書を提出して、自身が徳川家康に謁見して
陳弁する事を強く申し出た。しかし長谷川左兵衛藤広はマードレ・デ・デウス号が天草
で座礁し、更に松倉政秀の下で密貿易をしている事を知っていた。又他の朱印船貿易か
ら有馬晴信の部下が捕らえられた事も噂が来ていた。そこでマカオでの事件の真相は伏
せてペソアの書記のマテオ・レイタンを代理人として駿府に遣わせるよう説得し向かわ
せた。そして使者が出ると一方で商品の先買権を行使して伽羅木の全量購入を買い付け
た。家康が委託していたのである。これに対してイスパニア商人たちが取引関係の改善
とペソアの直接の訴えを決議したが、ポルトガル商人のイエズス会士の勧告で制止させ
られたのである。そこにはオランダ人の進出があったからだ。長崎奉行が出来て従来の
慣行を破って取引方法を変更し、持込品の一方的に購入したりして、貿易を阻害されて
いたポルトガル商人には反感しかなかったのだ。一方で日本はマカオ貿易には常にポル
トガル主導で行われ、主要輸入品の生糸などはイエズス会宣教師言い値であった。この
ため日本側は、法外な糸値を吹っかけられたり、また望み通りの糸量を買えない場合も
多かった。この裏にあった密貿易に双方が疑心暗鬼になり戦国時代の世情だったからだ

1120: 名無しさんAA:18/03/23 18:22
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------14

今回の、ペッソアの来日は、自由貿易の保証とオランダ船の貿易阻止にあった。ところ
が先行買い付けの伽羅木を餌に藤広は、前年の事件に対する報復を考えていた晴信を、
教唆し、ペソア捕縛と商船捕獲とを家康に請願させて成功していたのである。こうして
使者は自由貿易の保証も失敗。オランダ人の日本貿易阻止もかなわず、日本船のマカオ
寄港を禁じる同年7月25日付の朱印状を家康から下付されたにとどまって帰ってきたの
である。更にペソア捕縛と商船捕獲とをも家康に請願させた。晴信にも伽羅木購入を委
託していた家康は、当初は報復行為によってポルトガル貿易が断絶することを懸念して
いたが、マニラ船のスペイン商人がポルトガル船積載生糸などを補完することを保証し
、またオランダ船の継続的な来航も期待できるようになったため、晴信に許可を出した
。こうして駿府から召喚の命が伝えられた。しかしいち早くイエズス会からの報告で、
生命の危険を感じたペソアは要請を拒否して船に籠って、積荷を載せたまま出港の準備
を始めた。その後江戸から帰藩し長崎に到着した晴信は、慶長14年12月12日(1610年1
月6日)に、藤広の支援を得て、兵船30艘と1200人の兵を動員し、デウス号を攻撃した
。4日4晩の戦闘の後、船は炎上。ペソアは火薬庫に火を放って商船を爆破させ、自殺
した。この戦闘の際、藤広の弟・長谷川忠兵衛(はせがわちゅうべえ)は、小船2艘を
並べ井楼を組んで1艘の船とし、デウス号に漕ぎ寄せて乗り移り、船主按針を討ち取っ
たという。船主按針は1609年、ドミニコ会のモラレス神父が、鹿児島を逃れるとき教会
堂を解体して、長崎代官・村山等安が寄進した土地に建てる事に寄進していた。この時
代の石畳や地下室、その後建てられた代官屋敷時代の井戸などが、小学校の建て直しの
際の発掘ででてきた。この事件で、ポルトガルの長崎来航が2年間中断しその後も度々
た欠航していた為、ポルトガルの生糸は、慶長17年(1612年)までの5年間日本へ輸入
されることはなかった。これは本来松倉政秀の意図するものだったが自船が座礁しては
運航が出来ず一回で終わり、その後オランダ船により攻撃された。またそれまで家康の
信任が厚かった通詞ジョアン・ロドリゲス神父の内通が知れ、藤広と長崎代官の村山等
安の中傷によって、慶長15年(1610年)にマカオに追放された。幕府はポルトガル商人
の長崎貿易における仲介者を失ったが、マカオ市は貿易再開のため、慶長16年(1611年
)にポルトガルの艦隊司令官のドン・ヌーノ・ソート・マヨールをゴアのポルトガル副
王の使節として派遣した。


1121: 名無しさんAA:18/03/23 18:23
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------15

使節は6月に薩摩に上陸し、島津氏の援助により徳川家康に謁見し、江戸で徳川秀忠に
も謁した。ゴアの副王とマカオ市参事会の書簡を差し出し、マカオでの騒擾事件に対す
るポルトガル側の措置について弁解し、同時にデウス号爆沈に対する損害賠償と長崎奉
行・長谷川藤広の罷免を要求した。しかし、日本側は強く、事件の責任は全てペソアに
あったとして取り合わなかったが、ポルトガルの貿易再開は許可し朱印状を渡した。
 律儀な徳川秀忠の憂いのもう一つは側室を持たずにいたが、一度だけ女性に手をつけ
たところだ、妻である織田信長の姪のお督に頭が上がらなかったのは有名な話だが、彼
もお督を愛していた。信長も秀吉も家康も多くの側室ないしお手付きの庶子はいた。又
お督と不仲になったところで秀忠の地位に影響は殆ど無く、側室を持つことは出来たは
ずである。だが彼は儒教や朱子学を重んじた家康の教育を受け入ていた。そこに秀忠の
律儀さの性格があり立花公とのつながりがあった。こうして後の保科正之が生まれてし
まい、お督の働きで会うこともせずに保科家に養子に出してしまっている。当時、側室
を迎えるには正室の許可や出自を整える必要があった。だが静は側室でなく只の下足番
の側室の下世話に過ぎなかった。従ってその手続きが行われておらず、正式に側室にな
れてはいない。静が正式な側室になれなかった経緯には謎が多い。徳川家康の側女の子
ともされる。生まれた子供が保科家の養子として育てられた後は、会津藩主、保科正之
となり、会津藩主として産業の振興に尽力しただけでなく、三代将軍の家光や四代将軍
の家綱に、優秀な補佐として仕えた事でも知られている保科正之は18歳の時に秀忠と
初めて対面した。しかし極秘で秀忠は家光に正之のことを告げないまま死去した。家光
鷹狩りの途中に立ち寄った所で、たまたま居合わせた保科家の菩提をつとめる住職が、
「良く似ている」と口が滑った所からその話を聞き、早速再対面を果たした。よほど嬉
しかったのか、正之を信州高遠3万石から、一気に山形20万石へ。さらに32歳の時
、会津若松23万石へ加増させている。また、正之は有能な人物で、さらに家光に忠勤
一筋で秀忠の性格を受け継いでいた。同じ母から生まれた弟の徳川忠長に対しては事実
上自害に追い込んだ家光であったが、忠長の時とは対照的に不和は起こらなかった。自
分に弟がいたこと告げず、秀忠が死んだのだが、家光が死去する時は保科を呼び、まだ
幼い息子・家綱のことを託し、手を握り、正之から「身命をなげうち、ご奉公致します
から安心してくだされ。」という言葉を聞き、「安心した。もはや心残りはない」と答
えると、そのまま昏睡状態に陥り、2時間後に死去したとのことである。正之はその後
、大老にまで上り詰め、幕府の中枢に参画し活躍した。

1122: 名無しさんAA:18/03/23 18:23
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------16

大坂の陣にて豊臣家を滅亡させた初代の将軍・徳川家康の死後、父である徳川秀忠によ
る単独の治世となりましたが、1623年に父が隠居し、将軍職が20歳の徳川家光に譲ら
れたが、将軍継承では、父・徳川秀忠が、徳川家光の弟である国松(徳川忠長)を溺愛し
たため、家光の家督継承を危惧した乳母・春日局が、ご隠居の徳川家康に願い出て、家
光の世継決定が確定した。このように万全な体制での後継ぎでないだけでなく、1624年
には、秀忠の考えで、公卿の娘の鷹司孝子(たかつかさ-たかこ)を 家光の正室にする
など、隠居した徳川秀忠は引き続き実権を握り二元政治をした。次男徳川忠長は利発で
兄家光は少し吃音があったと伝えられる。元和4年(1618年)10月9日、国千代の頃、父
を喜ばせるべく、自らが撃ち取った鴨で作られた汁物を父・秀忠の膳に供した。最初は
喜ばせたものの、その鴨は兄の竹千代が居住する西之御丸の堀で撃ち取ったものだとい
うことを知らされると、「江戸城は父・家康が修築され、後には竹千代に渡さなければ
ならない所である。国千代の身で兄である竹千代の住んでいる西の丸に鉄砲を撃ち込む
事は、天道に背き、父・家康への配慮も無いことで、たとえ悪意無くとも 将軍となる
竹千代への反逆に等しい」と、逆に秀忠の怒りを買い、秀忠は箸を投げ捨ててその場を
退出するほどだった。と言われる。イスパニア交易に松倉政秀の奴隷貿易は一回で終わ
っていた。しかし島原ではキリシタン大名である有馬晴信の所領で領民のキリスト教の
信仰の熱は冷まず盛んであった。慶長19年(1614年)この事件で有馬氏が転封となり、
代わって大和五条から松倉重政が入封した。重政は江戸城改築の公儀普請役を受けたり
、独自にルソン島遠征を計画し先遣隊を派遣したり、島原城を新築したりしたが、その
ために領民から年貢を過重に取り立てた。また厳しいキリシタン弾圧も開始、年貢を納
められない農民や改宗を拒んだキリシタンに対し拷問・処刑を行ったことがオランダ商
館長ニコラス・クーケバッケルやポルトガル船長の記録に残っている。次代の松倉勝家
も重政の政治姿勢を継承し過酷な取り立てを行った。それは当然でもあったこの筑後の
地でもさんざん過酷な取り立てをしていたからだ。家康が禁教令施行を決意したのは、
これによって大八事件が起こったからだった。晴信は、デウス号撃沈の功績による旧領
回復を試みたが、なかなか実現できず、周旋を請け負った岡本大八に多額の金品を贈っ
た。これが「岡本大八事件」の発端となった。伽羅木の購入で家康の覚えが良くなった
が、そのために藤広との関係は悪化した。

1123: 名無しさんAA:18/03/23 18:24
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------17

長崎代官の村山等安は長谷川藤広に奉行を譲った。その後も藤広は生糸の先買権を強め
ようとドミニコ会派に接近した。生糸貿易では中心的役割を果たしていたイエズス会派
は、イスパニアのみならずポルトガル商人との繋がりが強く、生糸などの取引で利益を
得ていた晴信にとって藤広の動きは脅威となった。これらのことから幕府側の長谷川と
長崎地の領主の有馬晴信との両者の間は「不倶戴天の敵」となり、それが岡本大八事件
となった。家康は慶長11年(1606年)3月に島津氏には、唐船が来着した場合には、
長崎奉行の指揮を仰ぐように通達していた。藤広もポルトガル商船に対しては、監視人
を派遣して乗船者の上陸を禁じ、これを拒絶されると荷揚げに対する監視人配置、積み
荷目録の提出、積み荷検分前の売却禁止を命じるなど、これまでの商慣習を破ってでも
奴隷貿易やアヘン密売を阻止していた。しかしこのことで商人の反発を買ってもいて、
常に綱渡りの世界だった。又有馬氏は幕府には朱印船貿易としていたが同じ長崎での商
品は競合していたのである。家康が晴信へ報復の許可を出した時。その見届け役に過去
に藤広の家臣であって、今や本多正純家臣となっていた岡本大八を送った。こうして、
ペソアの駿府への召喚を命じた。最終的には船と共に爆破となったが、藤広がデウス号
の出港停止と捕獲の時間をかけた攻撃に、「てぬるい」と評して怒鳴っていた為腹を立
てて「次は藤広を沈めてやる」と口走るほどであったと言う。事実積み荷の多くは灰塵
に帰した。大八はこうした晴信の思惑と懐疑につけ込みすり寄って所領の期待に応えて
いた。大八は晴信と同じくキリシタンであった。家康への報告から戻った大八に、晴信
は饗応した。この時大八は、「藤津・杵島・彼杵三郡を家康が今回の恩賞として晴信に
与えようと考えているらしい。自分が本多正純に仲介して取り計らう」と虚偽を語る。
、その仲介のための資金を無心し、晴信はこの大八の所望に応じてしまった。家康側近
の正純の働きかけがあれば、これらの旧領の回復は揺るぎないと考えたのだ。しかし、
大八は家康の偽の朱印状まで周到に用意し、結果6000両にもおよぶ金銭を運動資金と称
してだまし取ったが、いつまでも褒賞の連絡がないことに業を煮やし、晴信は自ら正純
のもとに赴いて恩賞を談判、大八の虚偽が発覚したのである。本田正純は駿府城で大八
を詰問したが、否認し続けるばかりで埒が開かなかった。また贈賄をしていた晴信にも
非があるとは言え、晴信の嫡男・有馬直純に家康の養女・国姫が嫁いでいた。こうして
一存では断罪できず、裁決を家康に委ねる事になった。家康は駿府町奉行彦坂光正に調
査を命じ、翌慶長17年、大八を捕縛するに至った。

1124: 名無しさんAA:18/03/23 18:30
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------18

 本田正純は家老本田正信の長男であった。本田正純は家康に仕えていたのだが、駿河
の厳しい拷問で、大八は朱印状の偽造を認めたが、晴信の「沈めてやる」と言う失言に
「晴信は長崎奉行の藤広の暗殺を謀っている」と虚偽をついた。とされる。岡本大八は
江戸の与力である岡本八郎左衛門の子として生まれている。キリシタンでもあり、洗礼
名をパウロという。岡本八郎左衛門の名は鎌倉時代の後北条家の家臣団の中にあり御朱
印状発行を担当していたので、岡本大八は正当な子孫であったのだろう。しかし武芸者
衆とは言え江戸初期においては庶民以下の生活状態だった。それでも当時はとりあえず
は与力大名の末席いたと思われる。本多正純家臣とは言え大本の江戸幕府の一角として
の役職上のもので上位加増に行くには賄賂はつきものだったのかもしれない。こうして
本田正純は大八を江戸に送り、また晴信も呼び出して、大久保長安邸で両者を尋問し、
晴信も藤広への害意を認めて、両者両成敗となったが、6000両と言えば大金である。こ
れがどう使われたかは判然としない。こうして大八は慶長17年、朱印状偽造の罪により
駿府市街を引き回しのうえ、安倍河原で火刑に処せられた。晴信も、翌22日、旧領回復
の弄策に夢見た晴信も、長崎奉行殺害企図の罪で甲斐国郡内に流罪を命じられ、晴信の
所領である島原藩(日野江)4万石は改易のうえ没収に処された。ただし、家康に近侍
していた嫡男・直純は、父と疎遠であることも理由に有馬氏の家督と所領の安堵が認め
られた。晴信には後に切腹が命じられたが、しかしキリシタンであることから自害を拒
んだ為、配所にて家臣に斬首させた。享年46歳。一方、藤広には咎めは一切なかった
。しかし裁決の判断に家康は秀忠に任せた。秀忠はこの二人がキリスタンである事に、
多くの疑問を持っていた。こうしてキリスタン追放を決意した。小西行長の斬首した時
から家康に反対は無かった。共に儒学や朱子学の徒だったからだ。こうして合意をつけ
ると、まず駿府の家臣団を検問し、キリシタンである者を検挙。信仰を捨てなかった者
は、容赦なく改易処分とした。ここで、天領である京都・江戸・駿府に禁教令を布告。
キリシタン寺院の破壊を命じ、布教を禁じた。この禁教令によって江戸・京都の教会の
破壊が行われ、武士のみならず一般庶民もキリスト教信仰が禁止された。また、前述の
改易されたキリシタン武士の抱え置きを禁止する旨を、全国の大名、畿内の社寺、京都
・長崎のキリシタン教界に通達された。1612年4月〜5月のことである。同年の9月には
、関東の幕領に対し、キリシタン禁制を含む禁令五箇条が発令される。これにより1613
年、江戸の鳥越で、浅草の小屋にいた22人のキリシタンが殉教するに至った。病人達
を収容した病院のような物であった。

1125: 名無しさんAA:18/03/23 18:35
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------19

またこの時八丁堀が整備された。江戸における与力は、同心とともに配属され、上官の
補佐にあたった。そのなかで有名なものは町奉行配下の町方与力で、町奉行を補佐し、
江戸市中の行政・司法・警察の任にあたった。南町・北町奉行所にそれぞれ25騎の与
力が配置されていた。与力は馬上が許されたため馬も合わせて単位は「騎」だった。与
力は役宅として八丁堀に三百坪程度の組屋敷が与えられていた。また、もめごとがおこ
ったときに便宜を図ってくれるように諸大名家や町家などからの付け届けが多く、裕福
な家も多かった。特権として、毎朝湯屋の女風呂に入ることができた。これは、八丁堀
の湯屋は特に混雑していたことに加え、当時の女性には朝風呂の習慣がなかったため女
湯は空いており、男湯で交わされる噂話や密談を盗聴するのにも適していたためである
。それでも女湯に刀掛けがあることは八丁堀の七不思議に数えられていた。与力は組屋
敷に廻ってくる髪結いに与力独特の髷を結わせてから出仕した。粋な身なりで人気があ
り、与力・力士・火消の頭は江戸の三男(えどのさんおとこ)と呼ばれてもてはやされ
た。与力には、町奉行個人から俸禄を受ける家臣である内与力と、本来の奉行所に所属
する官吏としての通常の詰め与力の2種類があった。内与力は陪臣で概ね禄高も低くか
ったが家禄であり中には違う者もいた。又奉行側近としても実力はむしろ大きい場合も
あった。つまり岡本大八にとっては6000両の賄賂は法外だったが旅費の手当てなど当然
の賄賂であり、本田正純の加増職にとっても不可欠の資金だったのが多すぎたのである
。それに対しての性急な有馬晴信の請求は考えも無かったと言える。正純は駿河での厳
しい拷問の後大八を江戸に送るのだが、又晴信も呼び出して、大久保長安邸で両者を尋
問したとしている。大久保長安は猿楽師の大蔵院流の雅楽を踊り春日大社などで踊って
いた中で、鉱山師の大久保家に引き取られた。武田氏の下で黒川金山の開発にいたが、
家康が侵攻した後甲斐の再建に本多正信に任じて、大久保長安や大久保忠隣の力を使っ
たとされている。こうしてその庇護を受け名字を賜り、姓を大久保に改めたのである。
その後佐渡奉行に任じられ、所務奉行や勘定奉行、年寄(後の老中)や伊豆奉行にも任
じられ転々とした。つまり長安は家康から全国の金銀山の統轄や管理を任されたのだ。
、ところがこの頃は全国鉱山の金銀採掘量は低下して家康の寵愛を失い各地の代官職を
罷免されていた。この大久保長安には20人にも及ぶ子がいたと言う噂だった。


1126: 名無しさんAA:18/03/23 18:41
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------20

ところが、大久保長安事件が起こる。この事件は、慶長18年(1613年)4月に起こった
江戸時代初期の粛清事件とされる。本田正純が尋問して僅か2年後キリスタン禁教令か
ら1年後である。大久保長安は、江戸幕府の代官頭として大きな権力を有していたが、
慶長17年頃より中風を罹患していた。、翌年駿府にて死去した為遺体を甲斐に葬ると
して急ぎ葬儀の準備が行われた。しかし、家康より近年の代官所の勘定が滞っている事
を理由に、中止が命じられたのである。家康は長安配下の勘定・手代を呼び出し調査さ
せ、過分な私曲を行ったことが発覚し、これに怒った家康は諸国にある長安の財貨を調
べることを命じた。この時長安配下の手代達は全て大名に預けた。この時家康は、長安
の息子達に代官所勘定についての報告を命じた。これに、輩故の能力不足で役目を果た
せないと答弁している。それに対しては、家康が命令を遂行できなければ迷惑は各所へ
広がるので、長安が支配した佐渡金山や石見銀山は勿論、関東に千石の知行も与えられ
ないと彼らを勘当を渡している。なお長安の長子藤十郎は関ヶ原の戦い後に、奈良奉行
の後の勘定奉行を務めている。長安の息子は7人いたがすべてに7月9日に切腹を命じら
れて長安の家系は断絶した。また手代は同日に、彦坂光正の下に置かれ、長安の財貨は
厳しく改められ、諸国よりの金銀は凡そ五千貫目余に達し、その上茶道具一式を始めと
する金製・銀製各一種類の各種道具も多数没収され、駿府の蔵に収められたとされる。
8月には長安の子を青山成国として養子にした青山成重が減封の上蟄居、10月には娘を
長安の嫡子・大久保藤十郎に嫁がせた石川康長が長安と共謀し知行を隠匿した廉で改易
された。とされる。これは一体どうしたのか。事件は更に続く。徳川秀忠が関が原合戦
に遅参した際に本多正純は、「秀忠公が遅れられたのは参謀たるわが父正信が謀を誤っ
た為であります。どうか父正信を処罰し、秀忠公の咎でないことを天下に明らかにして
頂きとうございます。」と言い仲にはいった。その言葉に秀忠は感謝し「よくぞ言って
くれた。そのほうの言葉、一生忘れぬぞ。」と言ったと逸話も残って居るほどだった。
石田三成の身柄を預かったときには、三成に、「貴殿も忠臣なら、なぜ潔く腹を切られ
なんだ。」と質問すると、三成は「大望ある者は、最後まであきらめず己の信念を貫く
ものだ。お主にはそれがわかるまい」と言い返されたとされている。家康と秀忠の二元
政治が始まると、江戸の秀忠には大久保忠隣が、駿府の家康には正純が、そして正純の
父・正信は両者の調停を務める形で、それぞれ補佐として従うようになっていた。


1127: 名無しさんAA:18/03/23 18:46
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------21

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の時、徳川氏と豊臣氏の講和交渉で、大坂城内堀埋
め立ての策を家康に進言したのは、正純であったと言われている。秀忠時代にはいると
元和2年(1616年)に、家康と正信が相次いで没した後は、江戸に転任して第2代将軍
・徳川秀忠の側近となり、年寄(後の老中)にまで列せられた。しかし先代からの宿老
である事を恃み(たのみ)権勢を誇り、やがて秀忠や秀忠側近から怨まれるようになっ
た。なお、家康と正信が死去した後、2万石を加増されて5万3,000石の大名となった。
元和5年(1619年)10月に福島正則の改易後、亡き家康の遺命であるとして下野国小山
藩5万3,000石から宇都宮藩15万5,000石に加増を受けた。これにより、周囲から更に
怨みを買うが、正純自身は、さしたる武功も立てていない自分にとっては過分な知行で
あり、また政敵の怨嗟、憤怒も斟酌し、加増を固辞していた。元和8年(1622年)に於
いて出羽山形の最上氏が改易された際、本田正純は上使として山形城の受取りに派遣さ
れた。9月上旬に最上領に入った正純は、周辺諸大名とともに無事に城を接収していた
。しかし疑っていたのか幕府は、そのとき数日遅れで遣わされた伊丹康勝と高木正次が
正純の糾問の使者として後を追っていた。伊丹らは、鉄砲の秘密製造や宇都宮城の本丸
石垣の無断修理、さらには秀忠暗殺を画策したとされる宇都宮城釣天井事件などを理由
に11か条の罪状嫌疑を突きつけた。正純は最初の11か条については明快に答えたが、
そこで追加して質問された3か条については適切な弁明ができなかった。その3か条と
は城の修築において命令に従わなかった将軍家直属の根来同心を処刑したこと、鉄砲の
無断購入、宇都宮城修築で許可無く抜け穴の工事をしたこととされる。しかし土井利勝
らの貶めであったことは確かであろう。その後は、先代よりの忠勤に免じ、改めて出羽
国由利(現在の由利本荘市)に5万5,000石を与える、という代命を受けていた。この時
には使者として赴いた高木正次、伊丹康勝らの詰問に、さらに弁明の中で、謀反に身に
覚えがない正純は毅然とした態度で応じて、その5万5,000石を固辞したという。これが
秀忠の逆鱗に触れ、高木と伊丹が正純の弁明の一部始終を秀忠に伝えると、秀忠は激怒
し、本多家は改易された。本多親子の後塵を拝して、正純の存在を疎ましく思っていた
土井利勝らと秀忠の謀略であったとも言える。しかしこうした謀略まで使っての排除は
一体何だったのかが不明のままだ。

1128: 名無しさんAA:18/03/23 18:47
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------22

本田正信に関ヶ原の後、家康は三成の嫡男・重家の処遇に悩やみ相談した。普通は敵の
大将の嫡男だから後世の憂いを除くために殺すのが当たり前だったが、重家は僧籍に入
って恭順を誓っていたにも関わらず周囲は従来の慣習にこだわっていた。家康は正信に
相談し、正信は「他の事情はどうあれ、重家には赦免する理由があります。親父の治部
は我が徳川家に大功を立てましたから、それを考慮すべきでしょう。」と言った。家康
が「大功とは何か。」と訊ねると、「治部は西国大名を糾合して関ヶ原という無用の戦
を起こし、そのおかげで日ノ本60余州は全て徳川家に服すことになったのです」と答え
た。家康は「わかった。佐渡(正信)の言うことには一理ある」と答えて重家を赦免し
た。秀忠は正純の処分について諸大名に個別に説明をするという異例の対応を取ったが
、その説明を聞かされた当時の小倉藩藩主・細川忠利は「日比(ひごろ)ご奉公あしく
」という理由であり、具体的には秀忠が福島正則を改易するのに反対したことと宇都宮
を拝領してから数年たって「似合い申さず」と言って返上しようとしたことを挙げてい
た、と父の細川忠興に書き送っている。正純父子は、牢にこそ入らなかったものの、逃
亡防止のために板戸で囲われて採光も不十分な屋敷からの外出も許されないという、過
酷な生活であったといわれる。 寛永14年(1637年)3月10日、正純は配所の横手で死去
した。享年73。又息子も 千姫事件の時、激怒した坂崎直盛が屋敷に立て篭もって幕府
に抵抗した事件に、「直盛の家臣を買収し、直盛に自害を勧めさせてはどうか」という
案が出た際、「主君の不忠を家臣の不忠をもって制するとあっては天下の政道が罷り通
らぬ」と敢然と不可であるを主張した、という。その為蜷カや立花氏に相談したと言う
 正純父子は、改易後、佐竹氏預かりとなった際、はじめは佐竹氏の好意もあり手厚く
もてなされたが、後にこれが幕府に知れることとなり、晩年は厳しい監視を受けながら
、釘付けにされた屋敷に幽閉状態にされたという。牢にこそ入らなかったものの、逃亡
防止のために板戸で囲われて採光も不十分な屋敷からの外出も許されない過酷な生活で
あったといわれる。 寛永14年(1637年)3月10日、正純は配所の横手で死去した。配流
の際、息子の正勝も同罪として出羽国由利に流されている。寛永14年(1637年)3月に
正純は生涯を閉じたが、息子の正勝はそれより7年前の寛永7年(1630年)、長い幽閉
生活で健康を害し、35歳で死去している。父・正信の権勢を得ると同時に大身になる
ことは怨みや嫉みを買い、身の破滅になると自戒し、嫡男の正純にも「3万石以上の知
行を受けてはならぬ」との戒めに従順だった武士だった。

1129: 名無しさんAA:18/03/23 19:20
本多正信に関ヶ原の後、家康は三成の嫡男・重家の処遇に悩やみ相談した。普通は敵の
大将の嫡男だから後世の憂いを除くために殺すのが当たり前だったが、重家は僧籍に入
って恭順を誓っていたにも関わらず周囲は従来の慣習にこだわっていた。家康は正信に
相談し、正信は「他の事情はどうあれ、重家には赦免する理由があります。親父の治部
は我が徳川家に大功を立てましたから、それを考慮すべきでしょう。」と言った。家康
が「大功とは何か。」と訊ねると、「治部は西国大名を糾合して関ヶ原という無用の戦
を起こし、そのおかげで日ノ本60余州は全て徳川家に服すことになったのです」と答え
た。家康は「わかった。佐渡(正信)の言うことには一理ある」と答えて重家を赦免し
た。こうした本多正信正純親子を先代よりの忠勤に免じ、改めて出羽国由利(由利本荘
市)の5万5,000石を与える、という代命の加増を固辞しての改易処分は心が痛んだのか
、秀忠は正純の処分について諸大名に個別に説明をするという異例の対応を取っていた
。その説明を聞かされた当時の小倉藩藩主・細川忠利は「日比(ひごろ)ご奉公あしく
」という理由であり、具体的には秀忠が福島正則を改易するのに反対したことと宇都宮
を拝領してから数年たって「似合い申さず」と言って返上しようとしたことを挙げてい
た、と父の細川忠興に書き送っている。正純父子は、牢にこそ入らなかったものの、逃
亡防止のために板戸で囲われて採光も不十分な屋敷からの外出も許されないという、過
酷な生活であったといわれる。 寛永14年(1637年)3月10日、正純は配所の横手で死去
した。享年73。又息子も 千姫事件の時、激怒した坂崎直盛が屋敷に立て篭もって幕府
に抵抗した事件に、「直盛の家臣を買収し、直盛に自害を勧めさせてはどうか」という
案が出た際、「主君の不忠を家臣の不忠をもって制するとあっては天下の政道が罷り通
らぬ」と敢然と不可であるを主張した、という。その為蜷カや立花氏に相談したと言う
 正純父子は、改易後、佐竹氏預かりとなった際、はじめは佐竹氏の好意もあり手厚く
もてなされたが、後にこれが幕府に知れることとなり、晩年は厳しい監視を受けながら
、釘付けにされた屋敷に幽閉状態にされたという。牢にこそ入らなかったものの、逃亡
防止のために板戸で囲われて採光も不十分な屋敷からの外出も許されない過酷な生活で
あったといわれる。 寛永14年(1637年)3月10日、正純は配所の横手で死去した。配流
の際、息子の正勝も同罪として出羽国由利に流されている。寛永14年(1637年)3月に
正純は生涯を閉じたが、息子の正勝はそれより7年前の寛永7年(1630年)、長い幽閉
生活で健康を害し、35歳で死去している。父・正信の権勢を得ると同時に大身になる
ことは怨みや嫉みを買い、身の破滅になると自戒し、嫡男の正純にも「3万石以上の知
行を受けてはならぬ」との戒めに従順だった武士だった。

1130: 名無しさんAA:18/03/23 19:37
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------23

 しかし、この処置は大きな間違いだった事が後に起こるのだが。少しその前の補足が
ある。当時、田中忠政は田中吉政の後を継いで筑後柳川32万石を受けた。しかし慶長
19年(1614年)からの大坂の陣では、冬の陣において徳川方として参戦し、翌年の夏
の陣でも徳川方として参戦しようとしたが、家臣団の一部で旧領主の豊臣氏によって、
もたらされた土地と言う事で豊臣方に与するべきという反論が起ったと言う。だがそれ
は違うだろう。既に世の趨勢が徳川時代だとは誰もが解っていた筈だからだ。豊臣恩顧
とは言え、徳川氏関が原の勝利の背景で入城しているのだ。現実はその時も柳川郊外で
は過酷な荷役と2重課税に大きな負担がなされ、その代表との戦いの中にあったのであ
る。二つ河地区の起田や鬼丸や小塚橋、鯖塚の伝承では富安城址を壊しその石を運んだ
し。中山を開墾しその土を運んだとされるのは江戸時代の伝承だ。又百丁地区や久末も
もっと地が高かったとされるの削って堤を作っている。久末の花園伝承は大雨でも大水
は来ずという地域だったが、今や違う。この時橋本氏は多くの英彦山の修験者を呼んだ
。そしてかなり大掛かりな土木工事を行って起田もこの時の農地だ。田中吉政の土木工
事は干拓工事であったが田中忠政はクリークの河川整備を行って成果を上げた。それが
九千坊とされるカッパ達である。田中忠政は4男で人質として家康についていたのだ。
その時、家康の覚えがよく家康の計らいで従五位下隼人正となっていた。つまり吉政と
は、大いに考えが違っていたと言う事になる。また、慶長10年(1605年)には江戸幕
府2代将軍・徳川秀忠の上洛に随行もしているぐらい力があった。松倉重政は元和4年
(1618年)、大坂夏の陣に際しての、大和郡山城の救援や、道明寺方面での後藤基次勢
との戦いの功によって、翌元和2年(1616年)に有馬晴信の旧領であった肥前日野江4万
3千石を与えられて移封されるまでここにいて非道を尽くした。旧橋本村とされる河北
村は筑前国早良郡橋本村に土着した人が来たとされるが、橋本氏自体の自出は神話の時
代からさかのぼるほどある。その共として付き添ったのが友添氏なのだが時代は不明だ
。一時期下川氏との戦になったともいわれ、この筑後柳川32万石が立花氏が戻って来
た時は10万石に削られた背景だ。弟の三池氏でも1万石加えられるだけだ。つまり、
南筑後(三池郡・山門郡・三潴郡・下妻郡)一帯で11万石しかなかった。大友氏時代
の推定45万石の久留米まで含めた旗国とは雲泥の差である。久留米藩は有馬氏とされ
るが実はこの頃は有馬氏ではない。成富茂安の調停がなく、城から出なかったからだ。


1131: 名無しさんAA:18/03/23 20:50
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------24

 成富茂安氏の元名は成富信安に始まる。今山の戦いの際にはまだ12歳であった為、
出陣の許可が出なかった。それに納得がいかなかったので、誰にも見つからないように
独断で戦場に赴き、物見を行ったという。この行いが主君・隆信の目に留まり、それ以
来小姓として側近くに仕えるようになる。元服すると隆信より一字を賜り「信安」と名
乗った。天正4年(1576年)、隆信が肥前有馬氏と戦うべく藤津へ進軍した際に、父と
もども同行し初陣を迎える。既に藤津崎の太良町付近で有馬氏と戦っていたのだった。
天正5年(1577年)、幼い頃から大人でさえも手のつけられない暴れ者であった。この
頃も村里を遊行し博打に興じるなど素行不良が改まらず、この年の籾蔵二つを博打のか
たに失うなどして一家が食べられないくらいだった。諫めても改まらない素行に、成富
一門は信安を殺すべきであると信種に相談する。しかし、信種がもう少し様子を見るよ
う一門を説き、素行の改まらない時は自らの手で殺すと述べたと言う。信安はそれによ
り改心し、その後は勉学や武芸に励むようになる。天正7年(1579年)、隆信にその勇
猛果敢な戦いぶりを認められ、「一日で十度の武功を立てた」ということにちなんで、
十右衛門の名を与えられた。と言う。天正12年(1584年)、柳川城には鍋島直茂がい
たが、島津氏が来襲する為、佐賀の守りに政家の叔父・信周は宿老と相談して鍋島直茂
は柳河より佐賀に戻した。結果龍造寺政家と有富茂安が留守を守る事になった。島津勢
が来た時、討って出る事を説くが、政家は籠城を主張し分かれた。沖田畷の戦いの兵站
から帰ってきていた茂安は江上城を盗りその後城島城と転々として秀吉の九州征伐には
、ちゃっかり八女地方付近で秀吉方に参陣していた。この頃信安から「賢種」(ともた
ね)に改名するのだが、これは政家が「鎮賢」(しげとも)と名乗っていた頃に「賢」
の字を与えられて名乗ったものとされる。しかし政家の方は一度は島津に包囲されて、
島津方についた為秀吉が来た時は更に秀吉に相対する先陣になって磯鳥高島付近で討死
した。久留米城での島津排除ではその戦いぶりから秀吉をはじめとする諸将から一目置
かれるようになり、これは幸いにして。同年、天草での島津征伐には龍造寺軍として、
の戦いに出陣し、加藤清正、小西行長を援護した功により、清正から甲冑を賜りその後
は、豊臣氏との外交を担うなど、次第に家中で重きを成すようになる。その後秀吉の朝
鮮征伐の文禄の役、慶長の役では、龍造寺軍の先鋒を務めた。この頃から龍造寺家の氏
筆頭家老の鍋島直茂に仕えるようになった。諱(名前)は、初名の信安から賢種を経て
、茂種、そして茂安と名乗ることとなるが、これは直茂から「茂」の字を与えられて名
乗ったものである。と言う

1132: 名無しさんAA:18/03/23 21:37
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------25

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの際には、伏見城の戦い、安濃津城の戦いに出陣す
る。その後、鍋島直茂・勝茂親子が西軍から東軍に寝返ったのに従い、筑後国柳川城、
筑後国久留米城を攻め落とす事になった。この時には、直茂に命じられて柳川城主であ
る立花宗茂に降伏を勧めるために折衝役を務めたという。この中身は今だ不明だが、こ
の時の話こそ百姓の処遇やキリスタンの処遇更には武将達の処遇の実務を果たしたと言
える。というのも一時期だが佐賀龍造寺家によって落とされた柳川城内に残って居たと
言う家老の何人かはそのままいた人達だったからだ。そもそも立花氏の柳川城入城は、
九州平定で豊臣秀吉の大軍を背景に平和裏に入城しているのだ。従って連れ添った者以
外はほぼ佐賀が攻めた後のままだったと言える。久末には大きな綿貫邸宅があった。か
つて鎌倉時代の久末城である。そして今は恐らく諸藤邸宅となっているであろう。とい
うのも諸藤氏は久留米において酒粕屋つまり造り酒屋の販売までしていた諸藤氏が祖先
で蓮池で始まった酒造りを城島に広げた家だったからだ。久留米は、御井郡と三潴郡の
境界にあたる。もともと久留米の名は「浮に酌め米の水」酒を交わした姿:うきは盃)
から来ている。古い天皇行幸の祭りをした所とされる。北部は、山本郡草野(現在の久
留米市草野町)を本拠とした草野氏が治め、平安時代末期以来、豊臣秀吉によって九州
仕置に際して草野鎮永が滅ぼされるまで約4百年間統治したとされる。又久留米地域の
南部にあたる三潴郡は多くは寺領や宮領の荘園だったが常に戦乱があり、平安期に海賊
退治にやってきた蒲池氏族が治め始め、筑後十五城筆頭柳川城主の蒲池氏が統治した。
天正15年(1587年)、秀吉の九州仕置によって筑後3郡の7万5千石を領することに
なった時まで、島津氏が落城させ入城したが、その後龍造寺の有富茂安に乗っ取られた
。佐賀鍋島氏が鳥栖一帯をしぶしぶ手放した事で、神崎地区に有富茂安の行き先が出来
小早川秀包は、久留米城に入城し居城と出来た。秀包は「羽柴久留米侍従」と呼ばれ、
文禄・慶長の役の戦功により13万石まで加増されたが久留米城の改修には大きな出費
がかさんでいた。しかし、関ヶ原の戦いの際に西軍に与したため改易となり、関ヶ原の
戦いののち、筑後一国32万5千石は田中吉政の所領となった。これはほぼ筑後平野の
殆どだった。吉政は柳河城を居城とし、久留米城には子の田中則政(吉信)を置いて、
子供は家康の近習となっていた。田中氏時代、久留米城の拡張が行われているが、慶長
20年/元和元年(1615年)の一国一城令により破却されている。

1133: 名無しさんAA:18/03/23 21:44
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------26

元和6年(1620年)、2代藩主田中忠政が病没すると、無嗣子により田中氏は改易とな
った。その所領は分割され、久留米を含む筑後中部・北部の21万石は有馬豊氏の所領と
なった。筑後南部には立花宗茂の柳河藩(10万9000石)と、立花種次(宗茂の甥)の三
池藩(1万石)が成立した。この有馬氏は他の有馬氏と区別し摂津有馬氏、或いは赤松
有馬氏とも呼ばれ、非常に運のいい氏族で変わっていた。一族からは久留米藩主家にな
る前は、丹波国福知山藩8万石の大名であった。有馬豊氏は、一挙に13万石の加増を
受け、久留米21万石の領主として入封した。大幅な加増は大坂の陣の功績とされてい
るが、有馬氏末裔の有馬頼底は「大した働きもしていないのに13万石加増になったの
は不可思議である」旨の発言をしている。実は有馬氏も源流は次々に断絶を果たしての
こった有馬郷の一族で赤松氏宗家が衰退すると、細川氏に接近し有馬郡の支配を維持す
る赤松家は当主の名を「有馬」と変える。有馬村秀は三好長慶の傘下に入り、同氏に従
属する国衆となるが、織田信長の台頭によって新たな支配を任された荒木村重と対立し
、有馬国秀の自害によって断絶し荒木氏として残った。従って佐賀の赤松町や荒木町も
本来は有馬郷の地族の有馬氏なのだ。一方伊予の藤原純友の末裔あるいは平直澄の子孫
とする肥前有馬氏がいた。戦国時代に有馬晴純が現われて島原半島を根拠に肥前一帯に
一大勢力を広げ、さらにポルトガルとの交易で最盛期を築き上げたが、その子有馬義貞
は、龍造寺隆信の圧迫を受けて衰退していた。1584年、有馬晴信が島津氏と結んで沖田
畷の戦いで戦功を立て龍造寺氏を撃退した為、豊臣秀吉は九州平定を行い、その功での
本領を安堵されていた。しかし江戸時代に入って、晴信が旧領復帰をあせり、岡本大八
事件を起こして切腹させられていた。晴信の子・有馬直純が日向延岡を与えられたため
、僅かに存続し外様大名でありながら、直純の後妻・国姫が徳川家康の養女(家康の外
孫である熊姫の娘)を娶り、後に幕府より許しを得て譜代大名に鞍替えしている(願い
譜代)。そのほかに古い時代に分かれた熊野有馬氏(くまのありまし)がいるが、熊野
の国人領主・熊野別当家の出と言われ、産田神社神官の榎本氏が有馬一帯に勢力をはり
有馬氏を名乗ったことに始まるという。この肥前有馬の一族をただ賄賂を贈った罪のみ
で喧嘩両成敗の一般的論理で改易させたのは、多分にキリスタン問題の解決を求めたか
らだろう。その同じ有馬氏族としての解決策を徳川秀忠や家康は望んだのである。


1134: 名無しさんAA:18/03/23 21:48
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------27

 江戸の町にキリスト教の布教が行えなかったのは、単に西洋文化の上陸地が九州であ
っただけの話である。もし西洋の大陸側がハワイの方向であったなら、九州の筑後での
悲劇はこんなには無かったろう。又元寇による関東武士が居ついた混乱もあまりなく、
平和裏の歴史が刻めていたろうが、歴史に「たらねば」話は禁物である。それを物語る
のが有富茂安の人生だろう。関ヶ原の戦いの後、知行高を4万石に加増されて目達原付
近から基山まで慶長8年(1603年)、武蔵国江戸に幕府が開府されると、江戸の町の修
復や水路の整備を行った。更にまたこの頃、山城国二条城、駿河国駿府城、尾張国名古
屋城、肥後国熊本城などの築城にも参加、この経験を肥前国佐賀城の修復に生かした。
慶長19年(1614年)から、大坂の役に出陣した。慶長15年(1610年)から没するま
で、水害の防止、新田開発、筑後川の堤防工事、灌漑事業、上水道の建設など、本格的
な内政事業を数々行っている。茂安の手がけた事績は、細かい物も入れると百ヶ所は優
に超えるともいわれ、三百年以上たった現在でも稼働しているものもある。民衆や百姓
の要望に耳を貸す姿勢は、肥前国佐賀藩の武士道の教書でもある『葉隠』に紹介されて
おり、影響を与えた。寛永11年(1634年)、76歳で死去したが家臣7人が殉死したと
いわれ、この頃の殉死は極めて珍しい異色のものだ。墓所は佐賀市田代の本行寺。この
茂安時代まで神崎の地は湿地帯でもあって、山が急峻に伸びているとはいえ筑後川は、
暴れ川として名を馳せていた。地図を見ればわかる様に三根町から急に曲がり千代田や
諸富は乾季と雨季では大きく土地が変化したものと考えられる。彼のこの川の制水事業
は凄まじいものだったと言える。だが幸いにして背振山系の水事情はそう大きくなかっ
た為に英彦山系の水に重視する事で収められたが、その技術は高く筑後側でも採用され
た。逸話として、肥後国の領主になった加藤清正は、その当時は二千石の侍大将だった
茂安を1万石で召抱えようとしたが、茂安は「たとえ肥後一国を賜るとも応じがたく候
」と応え断った。清正はその忠義に感涙したといわれる。彼がカッパとしての隈部から
離れた一族、或いはキリスタンとして逃げて来た農民を久留米の城の改修をやらせ、そ
の後自分の領地を改修させ黒田の福岡城に送り込み最終的に善導寺の寺領の浮羽に住ま
わせた可能性は強い。だからこそ田中吉政の寄進の東照宮を作りァ千代君の宝塔がたて
られている。と考えられる。又一方にキリスタン達は益田氏を頼った。益田氏は敗軍の
将毛利氏に仕えている氏族だが、もともと石見銀山系の氏族で代々石見国府の豪族とし
てあったという。


1135: 名無しさんAA:18/03/23 21:56
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------28

秀吉の九州平定では、秋月や朝倉などは太閤検地にならずいついたのである。朝倉は、
古くからの神社の荘園だった。秋月城は寛永元年(1624年)黒田長興によって築かれた。
長興は福岡藩初代藩主黒田長政の三男で、元和9年(1623年)父長政が没したとき、その
遺言により五万石を分知され秋月藩を興した。秋月藩黒田家は代々五万石を領して明治
に至っている。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの功により、筑前の一部を領有してい
た小早川秀秋が備前国岡山藩に移封となった。代わって豊前国中津藩主の黒田長政が、
同じく関ヶ原の戦功により、筑前一国一円52万3千余石の大封を与えられたことによ
り、当藩が成立したのである。国主、本国持の大名家である。つまりそれまでは小早川
氏の領地であり田中氏も及ばない所だったのだ。『朝闇(ちょうあん)神社』(朝倉町
大字須川字鐘突)「朝倉」の地名は、あさくら とも読めるこの神社から始まるそうだ
。この一帯は、斉明天皇が西暦 661年5月9日、一時的に “都” を置かれた場所であり
、その子供中大兄皇子(天智天皇)・大海人皇子(天武天皇)兄弟や中臣鎌足を始めと
した重臣、女官など大勢の都人が難波の港を出発した長旅のうえで、都を遷された場所
とされている。地名も「鐘突」とふつうではない伝承がある地である。小倉百人一首の
一番目は天智天皇の句ですが、それを詠まれたのがこの朝倉の地で、筑後川の山田堰の
駐車場にその石碑はある。中大兄皇子(のちの天智天皇)は朝倉の田植えの小屋にいて
、何を見ていたのか。『筑後川山田堰を支える岩盤をなす高台の「恵蘇(えそ)八幡宮
」へ』と詠んでいて、恵蘇八幡宮の境内には当時、皮が着いたままの丸木で建てた簡素
な「木の丸殿」があり、中大兄皇子はここで喪に服されたという。歴史の教科書に出て
来る有名な人たち。その中で福岡の人間として知らなかった日本を揺るがす非常事態が
朝倉を中心に起こっていた物語を告げる。恵蘇八幡宮は、中大兄皇子が応仁天皇を祀る
為に作られた祭殿で、その後ここから宇佐神宮に祭られた。川に突き出た丘陵を登りつ
めたところに古墳があり「斉明天皇御陵」となっている。円墳状の2基からなり、正式
な発掘はされてない上で5世紀頃の埴輪が出ている。斉明天皇は、天智天皇(当時は中
大兄皇子)・天武天皇の母。「斉明天皇陵墓」は現在奈良県にあるとされるが、ここは
御殯斂地とされ埋葬前に一時的に安置された場所との見解が主流だが、それはおかしい
。名前を知る斉明天皇が朝倉で亡くなられていたとは驚きだろうが、現実にはこちらが
正墓でもっと古い言い伝えがそうなったともいえる。こうして山田堰の「水神社」には
、中大兄皇子が母のために歌を詠まれた場所と言われる「月見石」が祀られている。

1136: 名無しさんAA:18/03/23 22:09
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------29

 この甘木の地には相当に伝説は多い。その中にはキリスタンの落人伝説もある。天草
四朗は益田 四郎(ますだ しろう)。諱は時貞(ときさだ)と言われ。洗礼名は当初は
「ジェロニモ」であったが、一時期表向きの棄教をしていたためか、島原の乱当時には
「フランシスコ」に変わっていたという。肥後国南半国のキリシタン大名で関ヶ原の戦
いに敗れて斬首された小西行長の遺臣・益田好次の子として母の実家のある天草諸島の
大矢野島(現在の熊本県上天草市)で生まれたとされている。豊臣秀頼(豊臣秀吉の息
子)の落胤であったとする伝説も多々ある。島原の乱ではカリスマ的な人気を背に一揆
軍の総大将となり戦場では十字架を掲げて軍を率いたとも伝わる。だが四郎本人はまだ
10代半ばの少年であり、実際に乱を計画・指揮していたのは浪人や庄屋たちであるの
は確かだ。四郎は一揆軍の戦意高揚のために浪人や庄屋たちに利用されていたに過ぎな
いと見られている。小早川本家は毛利氏一門から、豊臣氏一門の有力大名へと変化し、
関が原では寝返っている。その為秀秋の方は慶長5年(1600年)その功績により、徳川
家康により備前岡山51万石に加増移封されている。だが慶長7年(1602年)に21歳
で嗣子無く没して、養子の系譜の小早川家は名実ともに断絶した。久留米城に入城した
小早川秀包は旧名、毛利秀包で、1567年、毛利元就の9男として生まれた人だ。母方が
毛利元就の側室である乃美大方(みののおおかた)であった為小早川氏に預けられて過ご
した。1586年からの九州征伐で養父・小早川隆景の軍勢に加わって、豊前・香春嶽城を
攻略。その功績で、小早川隆景が筑前・筑後を領すると、筑後3郡に75000石として入り
、1587年には久留米城を改修開始した。この頃、正室に大友義鎮(大友宗麟)の娘・桂姫
(毛利 ドナ・マセンシア)を迎えている。桂姫はキリスト教が禁じられた後も、熱心に
キリスト教の信仰を続けた。その影響で、小早川秀包も洗礼を受け、洗礼名はシマオ・
フィンデナオとしてキリシタン大名の活動も目立つようになっていった。1587年の、佐
々成政の領地での隈部親永・隈部親泰父子が挙兵した肥後国人一揆では、立花宗茂や、
高橋統増、筑紫広門、鍋島直茂、安国寺恵瓊らを率いた討伐軍の総大将を任じられてい
る程だ。和仁親実らが籠城した田中城を立花宗茂と共に攻略した。この時、小早川秀包
は立花宗茂と意気投合し、戦勝祝いの席で義兄弟の契りを結んだとされる。この2人に
は1588年7月に、豊臣秀吉より羽柴氏を名乗ることが許される程の器量だった。更に、
立花宗茂には豊臣姓が下賜され、翌年の1589年7月13日に 小早川秀包(23歳)が侍従に任
官さると同時に小早川秀包にも豊臣姓が下賜されて、以後 羽柴久留米侍従 と称され、
1590年には、小田原攻めにも参戦している。なんとも仲の良い2人だったのだ。

1137: 名無しさんAA:18/03/23 22:37
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------30

 1591年、嫡男・毛利元鎮が誕生すると、キリシタンとの諍いで罵倒した高良山の座主
・麟圭(りんけい)・了巴(りょうは)父子を誘殺し、城下にキリスト教の天主堂を建て、
キリスト教信者は7000人になったと伝わる。この時久留米内乱が多発した。麟圭を殺害
したのは宗教対立からではなく、諏訪周辺から花畑の土地抗争であったとされる。秀包
は筑後統一にあたり、以前から権勢を誇る高良山の勢力を壊滅させることを考えていた
。神社領としての取り立てに領民が苦労し、当時の高良宮には僧兵や武士1500余を抱え
る一大豪族であり、板倉氏が隈部の残党を抱えようとして酌む様になろうとしていた。
その座主の麟圭の弟は、久留米城の側の城に居を構えていた。秀包の居城は現今の篠山
城とは少し離れた、蜜柑丸という東向きに築かれた城で、久留米大学医学部屋敷内だ。
秀吉の信頼を受け一切を託された久留米城主だったが笹山城が大きかった。統治は沽券
にかかわるものであった。戦をしても歯が立たず、高良山はどうしても秀包に従いませ
んでした。そこで、秀包から和議を申し出、座主の麟圭とその息子の良巴を城中の酒宴
に招いて、機を見て謀殺するつもりでした。しかし麟圭親子はそれを察知して酒宴半ば
で脱出を図りましたが、柳原に逃げた所で主従8人と共に惨殺された。柳原近村付近の
肥前路上の小森野の舟渡しの宿だったとされる所で討たれた。里人は座主たちの最後を
悼み、方々の殺害された遺体を集め、墓を立てて祀ったのが道頓堀商店街の片隅であっ
たとされる。今の西鉄久留米駅前である。墓石は高さ60cm、横50cmで、「八つ
墓所」と言われた。今は「八つ墓」と刻まれビル裏に移転されている。建立は嘉永4年
(1851)。手前の花立には玉椿社の字が彫られています。口伝によれば墓の傍の玉椿の
葉を取ると歯が痛み出し、お祈りすると歯の痛みが消えるという。毎年8月25日が祭
礼日で、玉椿の紋を描いた献灯が下げられて賑わったようです。この後には武力抗争の
結果であり宗教対立に持ち込まない為に、すぐに小早川秀包は麟圭の末子である秀虎丸
を高良山座主・尊能に改めて付けている。この異変で板倉氏の抗争が筑後に移ったから
だ。事実久留米は高良大社の門前町で発達していて久留米としての領地は殆ど寺社領の
荘園であったのだ。この後1592年からの文禄の役では千五百騎を率いて朝鮮に出兵した
。全羅道攻略の大鼓城攻撃で戦功を挙げ、碧蹄館の戦いでは、小早川隆景、立花宗茂、
宇喜多秀家、実兄の毛利元康と共に明の大軍を撃破している。その戦功により筑後久留
米のまま五万五千石を加増されて合計13万石となり、筑後守に叙任されている。

1138: 名無しさんAA:18/03/23 22:44
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------31

また第二次晋州城攻防戦では、明朝と朝鮮混合軍、琳虎の四万の兵を、小早川秀包は、
立花宗茂と共に四千の兵にて撃退することに成功したとされる。1594年に、豊臣秀吉の
養子・木下秀俊(後の小早川秀秋)が小早川隆景の養子となった為、小早川家の嫡流から
は除外された為、分家を創設した。1597年からの慶長の役にでも参戦し、竹島城と星州
谷城の防戦で戦功を挙げ、朝鮮出兵でも小早川の武名を轟かせた。兄と養父・小早川隆
景がここで死没した。以後は、毛利家同様に石田三成に協力し、1600年、関ヶ原の戦い
では西軍として、8月には大坂城の玉造口を守備していたが、9月には京極高次が籠城
した大津城を、兄・末次元康や立花宗茂らと共に出陣の司令によって赴いている。この
ときも近臣の6名の家臣を失い、3名の重臣が重傷を負うと言う苦戦を強いられた。が
猛攻の末に落城させた。しかし、関ヶ原本戦では、小早川秀秋の内応や吉川広家・毛利
秀元の静観により、石田三成の西軍が敗れた為、占領した大津城から撤退して立花宗茂
らと大坂城に戻っているのだった。大阪城では主戦論を唱えたが、9月24日に西軍・
総大将の毛利輝元が降伏した為、大坂城からも退去した。しかし九州の久留米では黒田
官兵衛らが西軍に味方し諸城を攻略して、10月14日に久留米城は黒田官兵衛・鍋島直茂
・加藤清正らが率いる三万七千の大軍に包囲されていまっていた。城代の宿老・桂広繁
と、白井景俊らは、わずか五百の兵にて数日間は城は持ちこたえていた。しかし多勢に
無勢で、やむなく降伏して開城した。小早川秀包の正室・桂姫と嫡男・小早川元鎮は、
黒田家の人質となり、桂広繁の四男・黒寿丸は鍋島直茂の人質となった。桂姫と小早川
元鎮は、久留米城の受け取り役で、同じキリシタンの黒田直之(黒田惣右衛門)の尽力で
脱出に成功し、小早川秀包のいる滝部へ逃れた。しかし、関ヶ原の戦い後は、徳川家康
から毛利家共々改易され、久留米の所領を失い、毛利輝元から長門に所領を与えられた
。義兄弟である立花宗茂も同じく改易されて牢人の身となり、敗戦の原因を作ったとさ
れる小早川秀秋が同じ小早川の姓名であった為、小早川姓から毛利姓に復し、毛利秀包
と改名した。その後、京都の大徳寺で剃髪して玄済道叱と称して僧侶になった。長門に
入ってからは体調が悪化し、長門赤間関の宮元二郎の館で療養したが、1601年に35歳の
若さで病死した。遺体は当時の毛利秀包の知行地で、館があった山口県下関市豊北町滝
部に葬られた。後に久留米に、毛利秀包を祀る小早川神社が建てられている。嫡男の毛
利元鎮は七千石を継いで、吉敷毛利家の始祖となり周防国吉敷郡吉敷村(現在の山口県
山口市吉敷地内)の城主となって守った。

1139: 名無しさんAA:18/03/23 22:45
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------32

徳川家康は、この毛利所領取り上げの時代には、かねてより益田元祥に着目していた。
益田氏を、徳川家康は元祥に内密に通達することがあるといい、大久保長安を仲介とし
て使者を送った。すなわち周防・長門の二国の身上となった毛利氏には、多くの家臣は
必要ないとして、毛利氏には元祥の子景祥を留めておきたかった。元祥自身は石見にあ
って徳川家に奉公すべし、というものであった。さらに、知行は、元のまま石見益田を
宛行うがどうか、という願ってもない通達であった。これに対して 元祥は「益田家は
毛利家の譜代の臣でもなく、先祖代々石見に住しており、そのまま石見に残って奉公を
申し上げたいが、毛利氏に対する恩義もありこれを果たしたい気持ちでいます」と家康
の好意を有り難く辞退したのである。家康は重ねて元祥を招いたが、元祥の気持ちは変
わらなかった。かくして、元祥は毛利氏の一家老として、これまでの十分の一にあたる
長門国須佐の知行地へと移っていたのである。結果論ではありますが、毛利家を支えた
智将・小早川隆景の後を、豊臣秀吉の縁者である金吾(小早川秀秋)が継ぎ、関ヶ原で、
徳川家康に寝返り、石田三成ら豊臣側は敗れた訳で、小早川秀包は自城がまさか黒田軍
に攻められるとは思っていなかっただろう。なぜなら九州平定後には睨まれ、病身の時
豊臣五大老筆頭の徳川家康をはじめ、浅野長政・増田長盛・長束正家・前田玄以・石田
三成のいわゆる「五奉行」に対して、秀吉の死の直前に、「豊臣家臣同士で私は派閥を
作りません。秀頼様が御成人されるまでは諸大名からの知行に関する訴えを取り次がず
、自分が仮に加増されても辞退します。」と大勢の大名の中で誓紙を出していたし、お
見舞いでも「安心あれ、わが身をもって豊臣天下を進めます。」と誓っているのだ。又
慶長3年(1598)8月18日。豊臣秀吉が伏見城で没した時ですらも、領国の豊前中津に
おいて20日に第一報を受けて、直ぐに行動の準備にかかるが、4日後に確報を得ると
親しくしている吉川広家へ、「自分は京で世間の様子を静観するつもりである」と準備
をしながらぬけぬけと書き送っているのである。しかし息子の黒田長政は「家康は関ヶ
原の勝利後、「代々黒田の家に対し疎略(そりゃく)有るまじき由(よし)仰(おおせ
)られ、諸人の見る所にて、長政の手を御とりいただき給う。」と長政は真から家康派
であり、如水と親子喧嘩をしていたとしても不思議ではない。家康にしてみれば立花氏
を良く知らなかった故に立花山においたのだろうが。従って、黒田藩が福岡城築城に旧
立花氏の残兵の割り振りや小早川秀包のキリスタンなどに有富茂安が間をとって采配し
たとしても全く不思議でもない。

1140: 名無しさんAA:18/03/23 22:46
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------33

 もともとの黒田の豊臣離反は朝鮮征伐にあった。釜山周辺には、既に文禄期から倭城
群が築かれていたが、新たに築かれる城はその外縁部に位置し、東から、蔚山城、梁山
城、昌原(馬山)城、唐島瀬戸口(見乃梁)城、固城城、泗川城、南海城、順天城の八
城であった。これら倭城群の最東端にあたる蔚山の地には、加藤清正自らが縄張りを行
い、慶長2年(1597年)11月中旬から、毛利秀元・浅野幸長・加藤清正の軍勢を中心と
して、久留の計をめざし本格的に蔚山倭城の築城を始めていたのである。ところが突貫
工事での完成が目前になると、築城が担当の毛利秀元は兵糧・武具類を釜山に輸送し、
蔚山を退去して帰国の準備に取り掛かかり。また加藤清正は西生浦に出張中の時に突然
明・朝鮮軍 計五万七千の兵が押し寄せたのである。他の城は戦わず帰参しその中で、
清正は蔚山倭城に向かったのだ。他の城の攻防は少なく蔚山城において明朝軍の囲い込
みの中清正の籠城戦が始まったのだ。次の日になって援軍を送るが、この蔚山救援軍の
陣所に一部の明軍部隊が攻撃を仕掛けたとき、先鋒の蜂須賀家政・黒田長政が「合戦を
しなかった」と豊臣秀吉に報告したのだ。この「黒田長政と蜂須賀家政は蔚山城の救援
に向かったが、臆病にも戦わなかった」。は、誰もが知るものであったが、その報告に
接した豊臣秀吉は激怒し、長政と家政は窮地に陥った。一方、秀吉没後もなお朝鮮にあ
った長政に対し、たびたび労いの書状を送ったのが徳川家康であった。もっとも「天下
惣無事」を度々話し、「大名間の領地をめぐる私戦は一切許さず、従わない者は天皇の
名において討伐する」と言う秀吉の大義名分は、もともと屁ともおもっていなかった。
官兵衛の思惑通り制約は死と共崩れ、戦国の論理が蘇えり、天下分け目の決戦が迫る。
この直感で官兵衛は九州で動いていたのである。その後慶長5年(1600年)の関ヶ原の
戦いで有馬父子は東軍に与し、その戦功から則頼は一族の旧領摂津国有馬郡三田藩2万
石、豊氏は丹波国福知山藩6万石に封ぜられる。慶長7年(1602年)に則頼が没すると
豊氏はその遺領を含め8万石に加増された。その後、大坂の陣においても徳川方として
活躍したため、元和6年(1620年)にはさらに加増移封され筑後国久留米藩21万石の
藩主となった。家格は大広間詰で、国持大名の扱いを受けた。久留米藩主としての初代
は豊氏であるが、「久留米藩有馬家」当主の代数は則頼を初代として数えらている。で
はこの時有馬藩は有富茂安を信用したか。実はなんの反対もしなかったはずだ。それが
この有馬氏の偉さであった。黒田如水の様な策略も立花氏の様なカリスマも清正の様な
剛腕なプライドも更に有富氏の様な細工もなかった。至って大河の様な運のある殿様で
あった。

1141: 名無しさんAA:18/03/23 22:47
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------34

しかし、久留米藩初代藩主有馬豊氏の三男の有馬頼次は徳川忠長に仕えた。その為1万
石を給されたが、徳川秀忠の徳川幕府将軍となって、忠長の改易に連座し父親預かりと
なった。元和3年(1617年)、7歳で将軍徳川秀忠に初謁し。翌、元和4年徳川忠長に
付けられて1万石を給されたのである。寛永5年(1628年)には従五位下加賀守に叙さ
れた。しかし、寛永9年(1632年)に忠長が改易されると、頼次も勘気を蒙り父の豊氏
に預けられた。寛永13年(1636年)12月10日に赦免され、寛永17年(1640年)10月15
日には将軍徳川家光に拝謁している。慶安2年(1649年)3月9日、39歳で死去。麻布の
祥雲寺のち渋谷に移転に葬られた。不思議な事にこの臨済宗大徳寺派寺院の祥雲寺は、
福岡藩主黒田長政(元和9年没)を追善しているのだ。嫡子忠之(承応3年没、法名興雲
院殿)が開基となり、長政が帰依していた京都紫野大徳寺の龍岳和尚を開山として赤坂
溜池の自邸内に龍谷山興雲寺と称して創建したという。寛文6年(1666)に麻布台へ移
転の上瑞泉山祥雲寺と改称、寛文8年(1668)の江戸大火により当地へ移転したとする
江戸期には塔頭6ヵ寺を擁していた他、臨済宗大徳寺派触頭として御府内にある臨済宗
大徳寺派寺院をまとめていたといい、福岡藩黒田家の他、秋月藩主黒田家・久留米藩主
有馬家・吹上藩主有馬家・柳本藩主織田家・岡部藩主安倍池・小野藩主一柳家・狭山藩
主北条家・園部藩主小出家など諸大名の江戸菩提寺となっている。つまりあの秋月朝倉
地域の打ち合わせ場所として管理していたのである。此処に善導寺に東照権現宮に立花
氏のァ千代君がいた理由がある。通常の殿様は江戸屋敷に人質代わりに居なくてならな
い。しかし、立花氏は側室を持たなかった為、江戸屋敷もその頃は小さかった。田中吉
政の子田中忠政は大阪夏の陣でも徳川方として参戦しようとしたが、父と同じくキリス
ト教に大きな興味を示して信者を手厚く保護し、家臣の一人がキリシタンを殺害したの
を知って激怒しその家臣を即座に処刑した事で、城内不和を起こし、さらに財政難など
もあって遅参した。このため、駿河にいる家康に謝罪し罪は許されたが、代償として7
年間の江戸滞留を命じられたと言う。元和2年(1616年)、家康が死去すると領内の山
本郡の善導寺に東照権現宮(東照宮に相当)を勧請した。しかし元和6年(1620年)8
月、36歳で死去した。嗣子が無く、柳河藩田中氏は無嗣断絶となり改易された。幕府の
禁教令の中でキリスト教を保護したのは稀有なことであり、その件が幕府の不興を買っ
て改易に結びついたとの指摘もある。この時善導寺の東照宮の完成には至っていなく、
立花氏が入城してその後を継いだのである。


1142: 名無しさんAA:18/03/24 00:33
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------35

天草四朗の乱は 本名益田四郎時貞(ますだ しろう ときさだ)と言われている。島原
はキリシタン大名である有馬晴信の所領で領民のキリスト教信仰も盛んであったのだが
、慶長19年(1614年)に有馬氏が転封となって一転する、代わって松倉重政が入封した
が江戸城改築の公儀普請役を受けたり、独自にルソン島遠征を計画し先遣隊を派遣した
り、島原城を新築したりしたり多くの乱財を使った。そのために領民から年貢を過重に
取り立てたが、それは既に筑後地方でやった手法と同じだった。また国内で禁教令が出
ると厳しいキリシタン弾圧も開始した。年貢を納められない農民や、改宗を拒んだキリ
シタンに対して非情な拷問・処刑を行ったとされ、オランダ商館長ニコラス・クーケバ
ッケルやポルトガル船長の日記や報告書にも記録に残っている。次代の松倉勝家も重政
の政治姿勢を継承し過酷な取り立てを行っていた。しかし『細川家記』『天草島鏡』な
ど同時代の記録かは、反乱の原因は年貢の取りすぎにあると記録し、島原藩主であった
松倉勝家は自らの失政を認めず反乱勢がキリスト教を結束の核としてある。と報告した
こうしてこの反乱をキリシタンの暴動との口実に江戸幕府を利用した。しかし実際には
、この反乱には有馬・小西両家に仕えた浪人や、元来の土着領主である天草氏・志岐氏
の与党なども加わっていた。1637年旧暦10月、うち続く大飢饉と年貢の呵責誅求
、そしてキリシタンへの厳しい弾圧、女房子供の身売りの強制、これに絶えかねた民衆
は、天草四郎を総大将に一揆を起こした。彼らが求めたものはデウスへの忠義、それと
地方政治への不満。こうして老若男女3万7千人余りの四郎軍は、12万5千の幕府軍
を相手に原城へ立て籠もるまでになった。という。だが華地蔵伝記では少し違う。彼ら
は実は座礁していた奴隷船のマードレ・デ・デウス号を乗っ取ったのである。天草にあ
った3年かけて座礁した船の修理が出来た為、又奴隷を集めた代官相手に開放したので
ある。カピタン・モール(総司令官)のいた商館を焼いてその後奴隷を開放して進軍し
た。そもそも持ち上げたのは16歳の少年である。更にキリストへの忠誠ならゼウスで
はなくエホバだったのだ。この言葉の違いは他ならぬこの船名にあった。マードレ・デ
・デウス号は、ルソンでペッソアに追いかけられるも、つかまる事無く船に待機してい
た小西行長から奪い取って、松倉氏が派遣していた日本人の船だったとされるからだ。
ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号は長崎に着いて船長と共に自沈したが、この船は座礁
してこの島影に隠れていたのである。


1143: 名無しさんAA:18/03/24 01:07
この船で他の藩は近づく事を避けた。しかし天草住民の願いも虚しく、帆船の操りはか
なり難しく、大砲は向けても火薬はなかったのである。こうしてイスパニア船はポルト
ガル船によって沈められたのだ。こうした宗教騒動は、実はこの50年以上も前に平戸
であったし、その前にも大友2階崩れで起こっていた。こちらは熱心な仏教徒が反乱を
起こしているのだが、体制側と、その部下と農民や商工民の構図は同じだ。永禄4年(
1561年 )の事だ。松浦氏の領土であった平戸の宮の前で、ポルトガル商人と日本人商人
の争論からポルトガル人の殺傷事件が起こると、ポルトガル人は新しい港を探し始め、
永禄5年(1562年)、大村純忠は自領にある横瀬浦の提供を申し出た。イエズス会宣教
師がポルトガル人に対して、大きな影響力を持っていることを知っていた純忠は、あわ
せてイエズス会士に対して住居の提供など便宜をはかった。この為、結果として横瀬浦
はにぎわい、大村純忠のこの財政改善策は成功したのだ。永禄6年(1563年)になると
、宣教師からキリスト教について学び、純忠は家臣とともにコスメ・デ・トーレス神父
から洗礼を受け、領民にもキリスト教信仰を奨励した。結果、大村領内では最盛期のキ
リスト者数は6万人を越え、日本全国の信者の約半数が大村領内にいた時期もあったと
される。だが、1474年頃から宇木城にいた有馬貴純の傘下の西郷尚善が、船越城に入り
伊佐早荘を納めていたが、伊佐早が攻められても有馬氏同様救援しなかった為、龍造寺
に西郷尚善は討死して、有馬貴明は敗走するに至った。その子西郷純堯は怨みがあって
同じ純忠に不満を持つ大村家の家臣団と呼応し反乱を起こして横瀬浦を焼き払ったのだ
った。それでも、元亀元年(1570年)に大村純忠は、今度はポルトガル人のために長崎
を提供していた。同地は当時寒村にすぎなかったが、以降良港として今の様な、大発展
をしていく。純忠の留守に、元亀3年(1572年)には松浦氏家臣の援軍を得た有馬貴明
の軍勢1500に居城である三城城を急襲した。城内には約80名しかいなかったが、
援軍が来るまで持ち堪え、やっとこれを撤退に追い込んでいる(三城七騎籠)。天正6
年には(1578年)に長崎港が龍造寺軍らによって攻撃される。しかし純忠は、今度はポ
ルトガル人からの支援によってこれを撃退した。こうして、天正8年(1580年)に、大
村純忠は長崎のみならず茂木の地をイエズス会に教会領として寄進したのである。とこ
ろがその後には、龍造寺隆信の重なる圧迫を受けて、喜前を除く3人を人質に取られた
。ほぼ従属状態にあり、沖田畷ての戦いにも龍造寺方として従軍している。純忠には洗
礼名を持つ4人の息子、喜前 (サンチョ)、純宣(リノ)、純直(セバスチャン)、
純栄(ルイス)がいた。が、この戦いには、親族である有馬勢との戦いには消極的で空
鉄砲を撃っていたといわれる。このため、隆信の戦死後は、大村勢は島津氏の追撃も受
けずに開放されたという。

1144: 名無しさんAA:18/03/24 01:08
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------37

 小早川秀包は旧姓益田家である。従って秀吉時代に多くの洗礼を行い益田家も洗礼し
たか、逆に益田の名をもらったかあるいは縁故になったかにした可能性がある。久留米
を居城とした後は大友宗麟の娘を妻とした縁もあり、子供に洗礼を受けさせ。洗礼名を
シマオとした。以後はキリシタン大名としての活動が目立つようになり、天正19年城下
に天主堂を建設して、キリスト教信者の7,000人を置いていた。その中心が アーケード
の久留米カトリック教会であったのだ。その後禁教令によって善導寺に移ったのである
。つまり、善導寺は実はキリシタンの隠れ蓑の為に寄進していた寺だったのである。し
かし禁教令以降も次々と困難はあって隠れキリスタンで行きたくない者は天草に行った
。その中に益田四朗時貞がいたのである。当時は久留米から筏でも宮崎までも行けたし
明治期は鹿児島まで小舟でも城島瓦を運んだ記録さえある。こうして天草がキリスタン
の天国になる頃松倉勝家が登場し、ただでさえ過酷な開拓農民はキリスタン狩りまでも
行ったのである。1637年旧暦10月、うち続く大飢饉と年貢の呵責誅求、そして、
キリシタンへの厳しい弾圧、これに絶えかねた民衆は、天草四郎を総大将に一揆を起こ
した。彼らが求めたものはデウスへの忠義、それとも地方政治への不満。老若男女3万
7千人余りの四郎軍は、12万5千の幕府軍を相手に原城へ立て籠もった。籠城3ヶ月
、旧暦2月28日、桜の花もほころぶ頃、ついに玉砕した。当初は板倉氏の加勢の要望
には耳を貸さなかった。幕府軍司令でものキリスタン制圧に付近の大名は数十人の兵し
か出さずにいた。それでも総大将を板倉重昌に決め、信綱は戸田氏鉄と共に一揆鎮圧後
の仕置・戦後処理のために派遣されていた。だが寛永15年(1638年)元旦に重昌が戦死
し。石谷貞清も重傷を負ったため、代わって信綱が幕府軍の総大将に就任することにな
って改めて要請をかけた。篭城する一揆軍は座礁したとは言え大砲を持っていた。だが
その内原城に立て籠る事になる。この時多くの忍びを使い諜報を行っていたが、方言と
オランダ言葉で意味が解らず混乱したりしている事が記録されている。こうしてオラン
ダ船の、デ・ライブ号に要請して援護射撃をさせる。細川忠利は「日本の恥辱である」
と批判した。信綱は城内のキリシタンに衝撃を与えるために行なった。と記録される。
しかし、この時オランダ側も2人が戦死し、矢文から城内の一揆側からも誹謗されて中
止に至った。

1145: 名無しさんAA:18/03/24 01:09
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------38

たかが百姓一揆とたかをくくっていた幕府は、次々に入ってくる報告を聞いて大慌てに
なっていた。 一揆を鎮圧するために、九州の各大名を島原に向かわせ、12万4千人
もの大軍を送りこむ結果になっていたのだ。何度か原城に攻め入ろうとしたものの、智
略にたけた浪人衆の指揮のもと、狙撃の名人や、石や糞便(ふんべん)攻撃など、武士
の方が負けている。甲賀忍者を送りますが、地元の言葉(方言)とキリシタン言葉では
意味不明のまま。 城壁に穴を掘って城内に進入しようとしましたが、早くも気づかれ
て出口で待ち伏られ、返り討ちにされてしまい、奇襲作戦も失敗し、矢文が交わされ、
両者の言い分を言い合いますが、お互いのことが信用できずに交渉は決裂し、幕府は、
人質に捕らえていた、四郎の家族や親戚を利用して、城内の非キリシタン(途中強要さ
れた農民信者)との交換条件を出しますが、一揆側は「城内にいるのは皆キリシタンで
ある」と言い、条件を拒んだ。 1月28日に副将格の戸田氏鉄が負傷するなど一揆の抵抗
も激しく、信綱は、立花宗茂、水野勝成、黒田一成ら戦陣経験がある老将達を呼び軍議
が行われて、兵糧攻めに持ち込む作戦に出た。この結果、2月下旬には一揆の兵糧は、
ほぼ尽きてしまい、寛永15年2月27日に最終決戦の火蓋はきられ、激しい戦闘にな
りました。死を恐れず、やみくもにに向かってくるキリシタンたちに、幕府の武士たち
は恐怖を覚え、一人も生かすことなく切り捨てました。翌日28日、四郎をはじめとす
る、約3万7千余人の命が天に昇りました。 後日捕らわれていた人々も、皆処刑され
てしまいました。この結果、天草と島原の地からは、ほとんどの人が消えてしまいまし
た。生き残ったのは、一揆の裏切り者といわれる程だった。幕府軍の戦死者1115名
、負傷者6761名(宮本武蔵もいる)、約40万両もの大金の出費がなされ徳川幕府
も大打撃となった。信綱は一揆の総大将である天草四郎の首実検を行い、さらし首とし
た。陥落させた原城を破却して捕らえた者は斬首してさらした。また松倉勝家・寺沢堅
高両名も一揆を招いた責任ありとして処罰を言い渡した。またその後、天草・島原には
多くの移民がなされ、この事件にこりた幕府は、翌年から鎖国(さこく)を開始した。
この乱の規模は幕府軍の動員数、双方の死傷者などからしても、あの西南の役よりも、
大規模な戦いであった。けっして、天草・島原地方の単なるローカル一揆ではなかった
のである。もちろん、この乱が天草歴史に与えた影響は、計り知れない。それまでの、
中世から近世へ大きな転換をしようとした事件で、日本初の自由民権運動だったとも云
われています。なぜなら彼らはただ、人間としての自由と平等を求めただけだったので
すから。

1146: 名無しさんAA:18/03/24 01:09
閑話休題    徳川秀忠のキリスタン政策------39

 決められた年貢を収めなければ、女は水牢に死ぬまで入れられ、男は『蓑みの踊り』
(手をしばり着せた蓑に火をつける)で、踊り狂う様子を見て喜んだという。キリシタ
ンであればなおのこと、火あぶりや、雲仙の地獄池に生きたまま突き落としたり・・・
などなど、残酷きわまるものでした。既に首を吊ったり餓死する人も多かったのです。
1637年旧暦10月、うち続く大飢饉と年貢の呵責誅求、そしてキリシタンへの厳し
い弾圧、これに絶えかねた民衆は、天草四郎を総大将に一揆を起こした。彼らが求めた
ものはデウスへの忠義、それとも地方政治への不満。老若男女3万7千人余りの四郎軍
は、12万5千の幕府軍を相手に原城へ立て籠もった。籠城3ヶ月、旧暦2月28日、
桜の花もほころぶ頃、ついに玉砕した。その後幕府はキリシタンへの取締りを強化して
封建集権政治を確立してゆく。しかし 隠れキリシタンは、明治6年(1873年)の
解禁まで潜伏し続け、隠れキリスタンとして復活の夜明けを迎えるまで潜み続けること
となった。その後珍事件として天草四郎の財宝隠しの十字架が上津浦の山麓の洞窟から
黄金の十字架が江戸末期に発見された事で多くの事件が起こった。十字架に刻まれた謎
の文「さんしある二 こんたろす五 くさぐさのでうすのたから しずめしずむる」と
「でうすの宝」が天草四郎軍資金となり、その埋められた場所が「さんしある二」や「
こんたろす五」であろうということで、天草の苓北町一帯や有明町の南蛮寺跡など半世
紀にわたって探され続けたが分からなかった。実は「さんしある二 こんたろす五」は
ポルトガル語の「聖なる遺物2個」「ロザリオ5個」という意味である。「でうすの詩
」なのだ。この十字架のことを知らず、最近でも金属探知機を持ち込んで探すというテ
レビ番組の企画さえもあった。この十字架は、おそらく1614年の禁教直後か163
7年の「天草・島原一揆」に参戦する前に刻み込んで洞窟の中に隠し込んだのであろう
。洞窟は上津浦の山麓のどこかにある。とされる。一揆は農民闘争とされ、乱は武士の
体制転覆の反乱とされる。その意味ではこの政治闘争のない武士の一揆だった。

1147: 名無しさんAA:18/03/24 11:23 ID:uH.
富安君を探せ              < その128 >

 光秀死後は秀吉の家臣となり、大和の所領は安堵されたが。天正12年(1584年)頃
から胃痛を訴え床に臥していた。小牧・長久手の戦いに際して出陣を促され、病気をお
して伊勢・美濃へ転戦。この無理がたたったのか、大和に帰還して程なく36歳の若さ
で病死した。筒井家は定次が継いで、その後も各所で転戦し活躍する。だが、筒井家は
順慶亡き後31年目に、定次が豊臣家への内通の疑いにより改易・自害させられ絶家と
なる。この時の家臣団は、古くからの家臣団はいなく離反していた。戦っていたのは、
強くて気まぐれ浪人の寄り合い所帯になっていて、集まって組織していたのは、結構な
非情なあらくれ武者が集まっていた。順慶の重臣だった島清興は順慶の死後、跡を継い
だ定次と上手くいかず筒井家を離れたが、後で石田三成の腹心となり、関ヶ原の戦いに
参加して勇名を馳せた。このおかげで筒井氏の家臣達は多くの利益を得た。松倉勝信(
かつのぶ)もその恩恵を受けたが最も非情だった。通称右近殿と言われた。嫡男は後の
肥前国島原藩主松倉重政となったのだ。筒井家の家老松倉政秀の次男とされるが、重信
と勝信は従兄弟だった。一族は、島清興(左近)と並んで筒井氏の両翼と目され「右近
左近」と称された。また森好之の森氏も加えて、「筒井の三家老」とも称されている。
本能寺の変の際には主君・筒井順慶へ有名な「洞ヶ峠の日和見」の献策をしたとも伝え
られている。つまり明智光秀が主君であったにも関わらず動くな参戦しないが良いと、
献上したのだ。これにより簡単に明智氏は撃ち討られた。この時明智氏は孤軍であった
とされる。筒井も動かない事は辛かったであろう。しかしこの頃既に武将達は人を殺す
事が商売であり、恩賞や報償がない限り動かなかったし、又秀吉は信長の髑髏杯の酒宴
より、水責めでは、場内の仲間内で人肉を喰らう様を見て、酒を飲みながら喜んでいた
とされる。それほど豊臣秀吉の方が怖がられていたのである。秀吉が九州平定に来た時
は、柳川は瀬高の矢部川添いを八女の方からやって来たとされ。ほとんどが従い小さな
戦乱が少しで、あまり大きな戦さはなかったという。柳川城の開け渡しは佐賀鍋島氏か
らのもので、秀吉は三橋庁舎付近を近づいて蒲船津城に陣を張った。その行軍した道は
大将軍通りと言われる。一方で家康は水田の方から進軍して旧二つ河小学校である水門
付近に陣を張ったが熾烈な戦闘が起こっていた。その道は権現道と呼ばれた。こうして
立花氏領となったが、家康はしたたかに加藤清正と立花宗茂の2人を天下一双として喜
んだ豊臣秀吉と違っていて、この剛者(つわもの)を置いとく事を危険として見ていた
。その後立花宗茂も関が原に出て居ない訳ではない。前述の様にもう一つの関が原の合
戦があったのだが、この時鎌倉さえも静かに迫って来た立花氏に青くなったのだ。

1148: 名無しさんAA:18/03/24 11:24
富安君を探せ              < その127 >

筒井 順慶(つつい じゅんけい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての戦国武将で
ある、大和国の戦国大名・筒井順昭の子として生まれ、母は山田道安の娘・大方殿であ
る。とされる。戦国大名としては少し違っていて、仏法で得度して順慶と称する前は、
室町幕府13代将軍・足利義藤(後の義輝)の偏諱により藤勝(ふじかつ)、藤政(ふ
じまさ)と名乗っていた。当時は、大和は「大和四家」と呼ばれる筒井氏、越智氏、箸
尾氏、十市氏や僧兵を擁した興福寺の勢力が強くて、守護職の存在しない国であった。
だが、信長が勢力を伸ばし永禄2年(1559年)から、三好長慶の寵臣である松永久秀が
侵攻し、永禄5年(1562年)には筒井氏と協力関係にあった十市遠勝が久秀の軍門に下
るなど、筒井氏にとって厳しい情勢に陥り、更に永禄7年(1564年)には叔父の順政は
死去してしまった。翌永禄8年(1565年)に、三好三人衆の一族は、松永久通を使い、
将軍足利義輝の暗殺に成功した(永禄の変)、同しかしその後は松永久秀は追われ三好
三人衆は決裂し、松永久秀は急遽、後ろ盾を無くした筒井順慶の基盤に奇襲を仕掛け、
居城・筒井城を獲った。(筒井城の戦い)。この時、箸尾高春・高田当次郎ら重臣は見
限り離れてしまった。居城を追われた順慶は、布施左京進のいる布施城に逃れ、しばら
く雌伏の時を過ごした。と言われている。後に順慶は布施氏の下で離反した高田城を攻
撃したりして筒井城奪還を試みたが何回も失敗している。しかし織田信長の台頭が著し
くなった頃、三好衆の仲たがいに乗じて奪還を果たした。永禄11年(1568年)に15代
将軍・足利義昭を擁立して上洛、三人衆を駆逐して影響力が畿内一円に及ぶようになる
。機敏な松永久秀は迅速に織田信長・足利義昭と誼を通じたが、対する順慶は久秀の打
倒に専念するあまり、情報に疎かった。しかし幾度かの戦乱の後順慶は明智光秀の斡旋
をもって信長に臣従し、久秀も佐久間信盛を通じて信長に臣従し臣下になった。筒井家
は元々興福寺の衆徒が大名化した家であった。仏教への信仰も厚く大和の寺院を手厚く
保護したとも言われている。順慶も茶湯、謡曲、歌道など文化面に秀でた教養人であり
、自身が僧でもあった関係で光秀とは親密な関係にあった。しかし一向一揆討伐などに
参戦して活躍したが、その後に明智光秀は本能寺の変を起こしてしまう。明智氏は順慶
の加勢を期待して、洞ヶ峠に布陣し順慶の動静を見守ったが、順慶は静観の態度を貫徹
した。洞ヶ峠への布陣は、順慶への牽制、威嚇であったとも解釈されている。その後、
誓紙を書いて羽柴秀吉への恭順を決意し、大和を出立して京都醍醐に向い、羽柴秀吉に
拝謁したものの、この際、秀吉は順慶の遅い参陣を叱責した為 これで病になり臥せた


1149: 名無しさんAA:18/03/24 11:25
富安君を探せ              < その128 >

 光秀死後は秀吉の家臣となり、大和の所領は安堵されたが。天正12年(1584年)頃
から胃痛を訴え床に臥していた。小牧・長久手の戦いに際して出陣を促され、病気をお
して伊勢・美濃へ転戦。この無理がたたったのか、大和に帰還して程なく36歳の若さ
で病死した。筒井家は定次が継いで、その後も各所で転戦し活躍する。だが、筒井家は
順慶亡き後31年目に、定次が豊臣家への内通の疑いにより改易・自害させられ絶家と
なる。この時の家臣団は、古くからの家臣団はいなく離反していた。戦っていたのは、
強くて気まぐれ浪人の寄り合い所帯になっていて、集まって組織していたのは、結構な
非情なあらくれ武者が集まっていた。順慶の重臣だった島清興は順慶の死後、跡を継い
だ定次と上手くいかず筒井家を離れたが、後で石田三成の腹心となり、関ヶ原の戦いに
参加して勇名を馳せた。このおかげで筒井氏の家臣達は多くの利益を得た。松倉勝信(
かつのぶ)もその恩恵を受けたが最も非情だった。通称右近殿と言われた。嫡男は後の
肥前国島原藩主松倉重政となったのだ。筒井家の家老松倉政秀の次男とされるが、重信
と勝信は従兄弟だった。一族は、島清興(左近)と並んで筒井氏の両翼と目され「右近
左近」と称された。また森好之の森氏も加えて、「筒井の三家老」とも称されている。
本能寺の変の際には主君・筒井順慶へ有名な「洞ヶ峠の日和見」の献策をしたとも伝え
られている。つまり明智光秀が主君であったにも関わらず動くな参戦しないが良いと、
献上したのだ。これにより簡単に明智氏は撃ち討られた。この時明智氏は孤軍であった
とされる。筒井も動かない事は辛かったであろう。しかしこの頃既に武将達は人を殺す
事が商売であり、恩賞や報償がない限り動かなかったし、又秀吉は信長の髑髏杯の酒宴
より、水責めでは、場内の仲間内で人肉を喰らう様を見て、酒を飲みながら喜んでいた
とされる。それほど豊臣秀吉の方が怖がられていたのである。秀吉が九州平定に来た時
は、柳川は瀬高の矢部川添いを八女の方からやって来たとされ。ほとんどが従い小さな
戦乱が少しで、あまり大きな戦さはなかったという。柳川城の開け渡しは佐賀鍋島氏か
らのもので、秀吉は三橋庁舎付近を近づいて蒲船津城に陣を張った。その行軍した道は
大将軍通りと言われる。一方で家康は水田の方から進軍して旧二つ河小学校である水門
付近に陣を張ったが熾烈な戦闘が起こっていた。その道は権現道と呼ばれた。こうして
立花氏領となったが、家康はしたたかに加藤清正と立花宗茂の2人を天下一双として喜
んだ豊臣秀吉と違っていて、この剛者(つわもの)を置いとく事を危険として見ていた
。その後立花宗茂も関が原に出て居ない訳ではない。前述の様にもう一つの関が原の合
戦があったのだが、この時鎌倉さえも静かに迫って来た立花氏に青くなったのだ。

1150: 名無しさんAA:18/03/24 11:27
富安君を探せ              < その129 >

 全く同じ様な事が源平合戦前鎌倉幕府成立前に、宮家の中での後継者争いに起こった
 病床の鳥羽法皇は源為義・平清盛ら北面武士10名に祭文(誓約書)を書かせて、美
福門院に差し出させた。為義は忠実の家人であり、清盛の亡父・忠盛は重仁親王の後見
だったが、法皇死後に美福門院に従うかどうかは不透明であり、法皇の存命中に前もっ
て忠誠を誓わせる必要があったからだ。法皇の容態が絶望的になった6月1日、法皇のい
る鳥羽殿を源光保・平盛兼を中心とする有力北面、後白河の里内裏・高松殿を河内源氏
の源義朝・源義康が、それぞれ随兵を率いて警護を始めた。崇徳上皇は臨終の直前に、
見舞いに訪れたが、対面はできなかった。『古事談』によれば、法皇は側近の藤原惟方
に自身の遺体を崇徳に見せないよう言い残したという。崇徳上皇は憤慨して鳥羽田中殿
に引き返した。鳥羽法皇は崩御した。葬儀は酉の刻(午後8時頃)より少数の近臣が執
り行った。だが、鳥羽法皇が崩御して程なく、事態は急変する。7月5日、「上皇左府同
心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という風聞に対応するため、勅命により検
非違使の平基盛(清盛の次男)・平維繁・源義康が召集され、京中の武士の動きを停止
する措置が取られた。翌6日には 頼長の命で京に潜伏していた容疑で、大和源氏の源
親治が基盛に捕らえられた。この事は、にわかに京の町が不穏な空気になった事を示し
た。法皇の初七日の7月8日には、忠実・頼長が荘園からの軍兵を集めることを停止する
後白河天皇の御教書(綸旨)が諸国に下されると同時に、蔵人・高階俊成と源義朝の随
兵が東三条殿に乱入して邸宅を没官するに至ったのである。没官は謀反人に対する財産
没収の刑であり、頼長に謀反の罪がかけられたことを意味する。藤氏長者が謀反人とさ
れるのは前代未聞であり、摂関家の家司である平信範は「子細筆端に尽くし難し」と、
慨嘆している。保元の乱について、少し説明が必要だろう。崇徳上皇がまだ天皇だった
時長きに渡って政治の実権を握っていた崇徳天皇の祖父、白河法皇が亡くなりました。
1129年のことです。ちなみに上皇とは、天皇の座を退くと上皇という位になります
。さらに上皇が出家して、仏教の道に進むと法皇となります。その頃政治は実権は崇徳
天皇の父、鳥羽上皇(とばじょうこう)の手に移り変わります。1141年。鳥羽上皇
は、藤原璋子(ふじわらのしょうし)の子である崇徳天皇に天皇の座を譲らせ、愛して
やまない藤原得子(ふじわらのなりこ)の子である体仁親王(後の近衛天皇)に天皇の
座を譲るよう言い渡す。こうして、崇徳天皇は上皇となり、天皇の座には近衛天皇が座
ることになった。

1151: 名無しさんAA:18/03/24 11:35
富安君を探せ              < その130 >
当時院政は上皇となっても権力を持ち続ける習わしだったが、近衛天皇は崇徳上皇の弟
として扱われて事が進んだ。その為院政ができずに事実上、崇徳上皇の権力は無かった
。その後、近衛天皇は17歳の若さでお亡くなった。次に天皇の座についたのは、崇徳
上皇の子ではなく、弟にあたる後白河天皇でした。自分の子が天皇に付くことが出来て
いれば、将来の院政で権力を振るう事も可能性を残したが、天皇の座に付いたのがまた
しても弟だった為その道は閉ざされた。ただ基本的に合議制で人選のみだったのだろう
し長男で先に天皇をついたのみで崇徳上皇のみではそうなかっただろう。だが今までつ
いて来た近習の友や配下の家臣は、はらわたの煮えくりかえる思いだったことだった。
 そして、ついに1156年です。鳥羽法皇が亡くなると共に、崇徳上皇が動き出した
のが保元の乱だった。崇徳上皇は、皇位を取り戻そうと藤原頼長(ふじわらのよりなが
)と手を組み、頼長も天皇側についていた兄の忠通(ただみち)から関白の座を奪い取
るには絶好のチャンスとなったからだ。源氏、平氏もそれぞれに分かれて激しく争うこ
とになる。こうして、崇徳上皇側 藤原頼長 源為義 平忠正 VS 後白河天皇側 藤原
忠通 源義朝 平清盛 の対立に収斂した。この時、活躍したのが後に名を轟かせるこ
とになる、源義朝(みなもとのよしとも)や平清盛(たいらのきよもり)だった。犬猿
の仲のような2人ですが、この時はまだ仲間同士だった。この保元の乱は、夜襲により
後白河天皇側の勝利となります。崇徳上皇は、長年の恨みを晴らすことなく負けてしま
ったわけだ。そして、この乱により見事活躍して見せた武士達が力を付けていく転機と
なった。元々は崇徳天皇を退位させる時、寵愛する藤原得子(美福門院)との子である
体仁親王(近衛天皇)を即位させたが、体仁崇徳の中宮・藤原聖子の養子であり本来は
「皇太子」の地位のはずだったが、譲位の宣命には「皇太弟」とされて実権の一部にさ
れた事が原因だ。この事で呪詛の嫌疑で待賢門院は出家に追い込まれ、崇徳の外戚であ
る閑院流徳大寺家の勢力は大きく後退し一方で、閑院流三条家や中御門流、村上源氏の
公卿は得子とその従兄弟で鳥羽法皇第一の寵臣の藤原家成に接近し、政界は待賢門院派
と美福門院派に二分された事に問題があった。つまり崇徳天皇の周りは八方塞がりの中
に追い込まれていたのだ。しかし藤原忠実の女・泰子(高陽院)が鳥羽上皇の妃となり
息を吹き返した。関白の藤原忠通は後継者に恵まれなかったため、異母弟の頼長を養子
に迎えたのだ。対抗して近衛天皇は元服の式を挙げると、頼長の養女・多子を入内させ
、女御となった。これに忠通も藤原伊通の女で大叔母にあたる美福門院の養女となって
いた呈子を改めて自身の養女として迎えたうえで、鳥羽法皇に「立后できるのは摂関の
女子に限る」と奏上、呈子の入内を示唆した。

1152: 名無しさんAA:18/03/24 11:35
富安君を探せ              < その131 >

 当の鳥羽法皇はこの問題に深入りすることを避け、多子を皇后、呈子を中宮とする事
などで双方を立て事を収めようとしたが、忠実・頼長と忠通の対立はもはや修復不能な
に入っていた。一連の忠通の所業を腹に据えかねた忠実は、大殿の権限で藤氏長者家伝
の宝物である朱器台盤を摂家正邸の東三条殿もろとも接収し、更に忠通の藤氏長者の席
を剥奪してこれを頼長に与え、忠通を義絶するという挙にでた。それでも鳥羽法皇では
忠通を関白に留任させのが精一杯で、頼長には内覧の宣旨を下した。ここに関白と内覧
が並立する前代未聞の椿事(思いがけない珍事)が出来することになった。こうして、
法皇は心痛に病の床入りして先の事態に陥ったのである。これが新体制の基盤がまだ固
まらなぬままの保元元年(1156年)5月の事だった。鳥羽法皇が病になり法皇の権威を
盾に崇徳・頼長を抑圧していた美福門院・忠通・院近臣にとっては重大な政治的危機で
あった。内覧となった頼長は旧儀復興・綱紀粛正に取り組んでいたが、その苛烈で妥協
を知らない性格により「悪左府」と呼ばれ院近臣との軋轢を生み、火に油を注ぎ、事実
上の失脚状態となっていた。忠実は頼長を謹慎させパイプ役である高陽院を通して法皇
の信頼を取り戻そうとしたが少し前に高陽院が死去したことでその望みを絶たれていた
。その後には鳥羽法皇の死に白河天皇の勅命・綸旨で厳戒令体制が用いられているが、
実際に背後で全てを取り仕切っていたのはこうした側近と推測され、この前後に忠実・
頼長が何らかの行動を起こした形跡はないが、頼長の命で 京に潜伏していた容疑で、
大和源氏の源親治が基盛に捕らえられたこの事は、いき追い又「悪左府」の粛清を呼ぶ
として危機感を煽らせた。こうして武士の動員に成功して圧倒的優位に立った現体制の
後白河・守仁陣営があからさまに挑発を開始したと考えられる。忠実・頼長は追い詰め
られ、もはや兵を挙げて局面を打開する以外に道はなくなった形で兵をあげた。頼長は
宇治から上洛して白河北殿に入り、謀反人の烙印を押され、挙兵の正当性を得るために
崇徳を担ぐ。白河北殿には貴族では崇徳の側近である藤原教長や頼長の母方の縁者であ
る藤原盛憲・経憲の兄弟、武士では平家弘・源為国・源為義・平忠正(清盛の叔父)・
源頼憲などが集結した。崇徳の従者である家弘・為国を除くと、為義と忠正の忠実の家
人達、頼憲が摂関家領多田荘の荘官でいずれも忠実・頼長と主従関係にあった私兵集団
に限定され、崇徳陣営の兵力は甚だ弱小で劣勢は明白だった。だが報を受け、清盛率い
る三百余騎が二条大路を、義朝率いる二百余騎が大炊御門大路を、義康率いる百余騎が
近衛大路を東に向かい、寅の刻(午前4時頃)には上皇方との戦闘の火蓋が切られた。


1153: 名無しさんAA:18/03/24 11:36
富安君を探せ              < その132 >

後白河天皇は神鏡剣璽とともに高松殿の隣にある東三条殿に移り、源頼盛が数百の兵で
周囲を固めた。その後鴨川を挟んで一進一退の攻防に攻めあぐねた天皇方は新手の軍勢
として頼政・重成・信兼を投入するとともに、義朝の献策を入れて白河北殿の西隣にあ
る藤原家成邸に火を放った。火が白河北殿に燃え移って上皇方は総崩れとなり、崇徳上
皇や頼長は御所を脱出して行方をくらました。天皇方は残敵掃討のため法勝寺を捜索す
るとともに、為義の円覚寺の住居を焼き払った。その後13日、逃亡していた崇徳上皇が
仁和寺に出頭し、同母弟の覚性法親王に取り成しを依頼する。しかし覚性が申し出を断
ったため、崇徳は寛遍法務の旧房に移り、源重成の監視下に置かれた。頼長は合戦で首
に矢が刺さる重傷を負いながらも、木津川をさかのぼって南都まで逃げ延びたが、忠実
に対面を拒絶される。やむを得ず母方の叔父である千覚の房に担ぎ込まれたものの、手
のほどこしようもなく、14日に死去した。忠実にすれば乱と無関係であることを主張す
るためには、頼長を見捨てるしかなかった。こうして崇徳の出頭に伴い、藤原教長や、
源為義など上皇方の貴族・武士は続々と投降した。その後の武士に対する処罰は厳しく
、薬子の変を最後に公的には行われていなかった死刑が復活し、28日に忠正が、30日に
為義と家弘が一族もろとも斬首された。死刑の復活には疑問の声も上がったが、法知識
を持った側近の信西の裁断に反論できる者はいなかった。貴族は流罪となり、8月3日に
それぞれの配流先へ下っていった。ただ一人逃亡していた為朝も、近江に潜伏していた
ところを源重貞に捕らえられて、武勇を惜しまれて減刑され、伊豆大島に配流された。
この乱で最大の打撃を蒙ったのは摂関家だった。忠通は関白の地位こそ保持したものの
、その代償はあまりにも大きかった。武士・悪僧の預所改易などで、荘園管理のための
武力組織はほぼ解体され、頼長領の没官や氏長者の宣旨による任命など、所領や人事に
ついても、天皇に決定権を握られることになり、自立性を失った摂関家の勢力は大幅に
後退する。忠通も保元3年(1158年)4月の藤原信頼との騒擾事件では一方的に責めを負
わされ閉門処分となり、同年8月の後白河天皇から守仁親王(二条天皇)への譲位に、
全く関与しないなど制約をうけ、周囲から軽んじられ政治の中枢から外れていった。
この時蟄居謹慎させられた 頼長に同心したが,忠通の計らいで刑を免れ知足院に閉居。この彼こそが知足院殿,富家(ふけ)殿ともいわれた人だった。


1154: 名無しさんAA:18/03/24 11:53
富安君を探せ              < その132 >

後白河天皇は神鏡剣璽とともに高松殿の隣にある東三条殿に移り、源頼盛が数百の兵で
周囲を固めた。その後鴨川を挟んで一進一退の攻防に攻めあぐねた天皇方は新手の軍勢
として頼政・重成・信兼を投入するとともに、義朝の献策を入れて白河北殿の西隣にあ
る藤原家成邸に火を放った。火が白河北殿に燃え移って上皇方は総崩れとなり、崇徳上
皇や頼長は御所を脱出して行方をくらました。天皇方は残敵掃討のため法勝寺を捜索す
るとともに、為義の円覚寺の住居を焼き払った。その後13日、逃亡していた崇徳上皇が
仁和寺に出頭し、同母弟の覚性法親王に取り成しを依頼する。しかし覚性が申し出を断
ったため、崇徳は寛遍法務の旧房に移り、源重成の監視下に置かれた。頼長は合戦で首
に矢が刺さる重傷を負いながらも、木津川をさかのぼって南都まで逃げ延びたが、忠実
に対面を拒絶される。やむを得ず母方の叔父である千覚の房に担ぎ込まれたものの、手
のほどこしようもなく、14日に死去した。忠実にすれば乱と無関係であることを主張す
るためには、頼長を見捨てるしかなかった。こうして崇徳の出頭に伴い、藤原教長や、
源為義など上皇方の貴族・武士は続々と投降した。その後の武士に対する処罰は厳しく
、薬子の変を最後に公的には行われていなかった死刑が復活し、28日に忠正が、30日に
為義と家弘が一族もろとも斬首された。死刑の復活には疑問の声も上がったが、法知識
を持った側近の信西の裁断に反論できる者はいなかった。貴族は流罪となり、8月3日に
それぞれの配流先へ下っていった。ただ一人逃亡していた為朝も、近江に潜伏していた
ところを源重貞に捕らえられて、武勇を惜しまれて減刑され、伊豆大島に配流された。
この乱で最大の打撃を蒙ったのは摂関家だった。忠通は関白の地位こそ保持したものの
、その代償はあまりにも大きかった。武士・悪僧の預所改易などで、荘園管理のための
武力組織はほぼ解体され、頼長領の没官や氏長者の宣旨による任命など、所領や人事に
ついても、天皇に決定権を握られることになり、自立性を失った摂関家の勢力は大幅に
後退する。忠通も保元3年(1158年)4月の藤原信頼との騒擾事件では一方的に責めを負
わされ閉門処分となり、同年8月の後白河天皇から守仁親王(二条天皇)への譲位に、
全く関与しないなど制約をうけ、周囲から軽んじられ政治の中枢から外れていった。こ
の時蟄居謹慎させられた 頼長に同心したが,忠通の計らいで刑を免れ知足院に閉居。
この彼こそが知足院殿,富家(ふけ)殿ともいわれた人だった。


1155: 名無しさんAA:18/03/24 11:53
富安君を探せ              < その133 >

 仁和寺(にんなじ)は光孝天皇の勅願で仁和2年(886年)に建て始められた。だが、
同天皇は寺の完成を見ずに翌年崩御した。遺志を引き継いだ宇多天皇によって、仁和4
年 (888年)に落成したが、本当の名は「西山御願寺」と称された天皇下皇族やその臣
下や縁故の為の寺だった。やがて年号をとって仁和寺と言われそのまま号した。本来は
光孝天皇は「天皇少く(わかく)して聡明、好みて経史を読む。容止閑雅、謙恭和潤、
慈仁寛曠、九族を親愛す。性、風流多く、尤も人事に長ず」と評されているほどの人で
。幼少より太皇太后橘嘉智子の寵愛を受けて、843年(承和10年) 父仁明天皇の御前で
元服して親王となり、四品に叙せられた。以後、中務卿、式部卿、相撲司別当、大宰帥
、常陸太守、上野太守と、親王が就任する慣例となっている官職のほぼすべてを歴任し
、882年(元慶6年)、一品に叙せられ親王の筆頭となった。自分が天皇になった時は、
他の者の皇位を全て下げて成りたいとの願いがあった。又他の臣下にも就学させたい。
との願いと、即位と同時に臣籍降下させらる子孫の皇位を継げない者の声も聴く為の、
祈祷と祈願所としたかったのだ。彼は家系がよく陽成天皇が母方の叔父である藤原基経
によって廃位されたのち55歳で即位している。藤原基経は母方の従兄弟にあたる。諱
は時康(ときやす)といい富家はその一字を貰って安富や富安としたとされる。宇多天
皇は出家後、この仁和寺伽藍の西南に「御室」(おむろ)と呼ばれる僧坊を建てて住ん
だ。その為「御室(仁和寺)御所」の別称がある。その頃まで光孝天皇の意志を継ぎ、
仁和寺の初代の別当は天台宗の幽仙であったという。勝手に宇多天皇の勉強する部屋だ
ったのだ。その後宇多天皇が真言宗の益信を戒師として出家した。それは他の宗派の知
見も見たいとする欲望があったからだ。だがそれを機に別当を同じ真言宗の観賢に交替
させて真言宗の寺院として定着した。その後は宇多天皇の子孫が別当を務めてきたが、
三条天皇の皇子である性信が別当の上に新設された検校に任じられて以降は、皇族達の
子弟が入る寺院とみなされるようになった。しかし本来は教法での人材育成を目的に建
てられたものだ。その教本となったの古記書を持って来たのが富家であった。持って来
たのが、奈良の知足院(ちそくいん)の教庫からのものであったという。知足院(ちそく
いん)は寛平2年(890年)に建立された。とされるが実は後々の再建でもあった。こうし
て仏教は、過去の神道記録を取り込んで、渡来のインド仏教とは異質の物語を創った。
それが日本仏教として成立した。


1156: 名無しさんAA:18/03/24 12:08
富安君を探せ              < その134 >

 知足院(ちそくいん)が、寛平2年(890年)に再建された理由は次の様な伝記がある。
平安末期、南都焼き討ちの平重衡(たいらのしげひら)の軍勢によって焼かれた大仏さ
んの再建で、造寺の長官を勤めた佐大辨の藤原行隆が大任を果たし、無理がたたって亡
くなった後に、嘆き悲しんだ娘が毎日お地蔵さんに祈っていました。すると7日目の朝
、お地蔵さんの手に手紙(文・ふみ)が握られていたので、びっくりした娘が文を取り
上げて見るとそれは紛れもなく父、行隆の字で、兜率天(とそつてん)の観音様の元に
いると書かれていたのその為建立された。と言うものだ。知足院本堂には、その文使い
地蔵が安置されていると言う。現在の本堂は1863年に建てられた再再建のものだ。この
知足院は本堂、鐘楼、庫裡があるだけの極々小さいお寺で、縁起も不詳だとされる。が
場所的に普段からここを訪れる人は少ない中、毎年7月の地蔵会には、東大寺の全山の
僧侶による法要が執行される。本堂は開放されて参拝者は入堂が許され、この日だけは
お地蔵さんファンで境内は溢れる。それでも、ここが法相宗の研究道場であった事は、
あまり知られていない。法相宗は日本仏教の中で、南都六宗の一つとして古来仏教の柱
として存在していた。遣唐使での入唐求法僧侶により数次にわたって伝えられ古典仏教
の中の禅宗である。653年(白雉4年)道昭が入唐留学して玄奘に師事して、帰国後飛鳥
法興寺などでこれを広めたと言う。唯識教学派で書物の記録を大事にしていた。法相宗
は隆盛を極め、多くの学僧が輩出した。ことに興福寺では賢憬、修円、徳一などが傑出
し、修円は同寺内に伝法院を創建、その流れは伝法院門徒と呼ばれた。だが 天台宗の
最澄との間で三一権実諍論で争った為に其の実権を削がれた。しかし山岳密教をも拝す
る天台宗も又共に民心が離れた。又、多くの学僧が輩出した事で山岳修験者は僧となり
普化宗になった。普化宗は禅宗のひとつとしての修行の姿とされる。9世紀に、中国で
臨済義玄と交流のあった普化を始祖とするため、臨済宗(禅宗)の一派ともされている
。普化は神異の僧であって、神仙的な逸事も多く、伝説的要素が強い。虚無宗(こむし
ゅう)とも言い、虚鐸(尺八)を吹きながら旅をする虚無僧で有名だ。虚無僧は「僧」
と称していながら剃髪しない半僧半俗の存在で、尺八を吹き喜捨を請い諸国を行脚修行

1157: 名無しさんAA:18/03/24 12:09
普化宗になった。普化宗は禅宗のひとつとしての修行の姿とされる。9世紀に、中国で
臨済義玄と交流のあった普化を始祖とするため、臨済宗(禅宗)の一派ともされている
。普化は神異の僧であって、神仙的な逸事も多く、伝説的要素が強い。虚無宗(こむし
ゅう)とも言い、虚鐸(尺八)を吹きながら旅をする虚無僧で有名だ。虚無僧は「僧」
と称していながら剃髪しない半僧半俗の存在で、尺八を吹き喜捨を請い諸国を行脚修行
した有髪の僧とされる。こうして尺八を吹く事から吹け衆と言われたとも称される。多
く小袖に袈裟を掛け、深編笠をかぶり刀を帯した。はじめは普通の編笠をかぶり、白衣
を着ていたらしいが、江戸時代に徳川幕府によって以下のように規定された。托鉢の際
には藍色または鼠色の無紋の服に、男帯を前に結び、腰に袋にいれた予備の尺八をつけ
る。首には袋を、背中には袈裟を掛け、頭には「天蓋」と呼ばれる深編笠をかぶる。足
には5枚重ねの草履を履き、手に尺八を持つ。と決められた。これにより、彼らは江戸
時代になっても皇室の裏紋を用いて拝礼御免と修業自由を得てたとして、各地の駆け込
み寺を設けて転々とした。




1158: 名無しさんAA:18/03/24 12:22
富安君を探せ              < その135 >

 法相宗も同じだった。法相宗の宗旨は、唐でできたものだが、印度のからの弥勒菩薩
、無着菩薩、世親菩薩によって大成され、護法菩薩等によって発展した唯識教学とされ
祈願寺としての地位にあった。紀元七世紀の初め、玄奘三蔵が印度での17年間におい
て仏教教義の修得に勤められた事に始まる。その間に唯識教義の研鑚に勤められてその
教義が日本に持ち込まれた。しかし帰朝後は翻訳に全勢力をそそがれ、教義の発揮には
門下第一の逸足といわれた慈恩大師に託されて終わっている。こうして慈恩大師は師よ
り伝授の法統を巧みに整理し法相宗を開創した。平安期には、こうした仏教が強くなり
又一般の天皇家以外の神道禁止や統一と古神道の封鎖などが重なり、朝廷が仏教を利用
した法会を行い治政を行った。此処に行基などの陰陽道の陰陽師はいずれかに帰依する
しかなかった。神道か仏教かを迫られたのである。こうして儒学模した古代の中国で生
まれたとされた自然哲学思想、陰陽五行説を、日本で独自の発展を遂げた呪術や占術の
技術体系で発展して来た道教教義は消えて行った。その後京都に都が遷ると知足院は、
建仁寺の開山・明庵栄西禅師の法脈・黄龍派を受け継ぐ龍山徳見禅師を開山とした、臨
済宗の塔頭寺院として建立されその後別院を建て「両足院」として存立した。黄龍派は
中国臨済宗の一派で五家七宗の一つとされる。黄龍派は宋の景祐3年頃に石霜慈明の弟
子の黄龍慧南によって開かれ、慧南が黄竜山に住んだのでこの名称を得たという。その
後約150年間法統が続いて絶えたが日本では栄西がこの一派の法統を伝えている。江
戸時代初期に来日した隠元隆g(1592〜1673年)を開祖とする萬福寺は、隠元の開いた
京都府宇治市の黄檗山(おうばくさん)として開山した寺だが明朝の動乱から逃れた多
くの中国人、華僑が長崎に渡来して在住した華人が京都に本山を持たず正統派の臨済禅
を伝えるという意味で臨済正宗や臨済禅宗黄檗派を名乗っていた中で出来た物だ。だが
日本の法相宗黄龍派とは違っていたものの混然一体となって発展して行き、禅の世界が
広まっていった。法相宗は海外のサンスクリット古文の通訳が必要だったが、空海出現
以降は密教すらインドから入り、禅宗は政権世界から遠のいた。しかし、幕末まで続く
対馬からの交渉事は以酊菴に輪住する和尚によって行われた。以酊庵とは、長崎の対馬
にあった寺院の名前で、朝鮮との通交の役割をしていたのだ。輪住する和尚は、2年の
任期で、五山の中から碩徳のある代表的和尚が勤めており、外交文書の交信、朝鮮通信
使の応接などが任務であり、この任を果たすことは、一代の栄誉でありました。

1159: 名無しさんAA:18/03/24 13:11
富安君を探せ              < その137 >
 ところが姉川氏は九州下向の少弐氏は藤原秀郷の末裔で、共に末裔であったという。
秀郷の後裔・嶋田二郎景頼が武者所に出仕して近藤武者と称し、景頼の子・頼平も武者
所に出仕し、「武者所の藤原」から武藤を称したが、その縁戚に菊池氏の一部がいた。
、1019年(寛仁3年)の刀伊の入寇に戦功のあった大宰権帥藤原隆家の孫とされる藤原
則隆が肥後国に下向して土着したとして藤原姓(藤原北家)を自称し、各種系図もこれ
に沿った内容となっている姉川氏である。つまり先の刀伊の入寇で対馬に於いて早々に
兵を挙げて博多を救った英雄の貴族の末裔だったのである。この時から菊池に助けても
らい菊池一族の末席を得ていた。対して、その後大宰権帥の座を代々譲って行く様にな
りその仕組みの家系やって後から来たのが武藤氏である。天慶2年 (939年)に平将門
が兵を挙げて関東8か国を征圧する(天慶の乱)と朝廷は討伐遠征を差し向けた。甥の
平貞盛・藤原為憲と連合し宇都宮氏の力を借りて襲撃し成功し、この功により同年3月
、従四位下に叙され、11月に下野守に任じられ武蔵守、鎮守府将軍も兼任するようにな
った。その後将門を討つ大功で、代々が武蔵国に知行を持ち、武蔵国の藤原から武藤氏
を称した。武藤資頼は平知盛に仕えた平家の武将であったが、一ノ谷の戦いの時には、
源氏方に投降し、その後に許されて源頼朝の家人となっていた。平家滅亡後に大宰少弐
に任じられ、平家方であった九州の武家に対する鎌倉方の抑えとして、鎮西奉行を命じ
られて九州にでてきて元寇が起こり、大宰府の責任者として子の少弐経資や少弐景資ら
とともに日本軍の先頭に立ち、九州を守った。つまり、もともと早く九州下向してきた
藤原氏が菊池家の縁戚の姉川氏であり、後から元寇の守りに藤原氏の暴れん坊武藤氏を
朝廷が送り込んでいたのだ。そして少弐を名乗ったのである。少弐資能の死後には、経
資と景資の兄弟間で家督をめぐり争いが起った。北条氏時代は新たに鎮西探題が設置さ
れ危機に至り、鎌倉幕府滅亡後は後醍醐天皇の建武の新政で足利将軍が追撃される。少
弐頼尚は尊氏に付き赤間関に迎えた。その時宮方の肥後国菊池氏は大宰府を襲撃し父の
貞経を滅ぼした。だがその後は天皇の勅命と偽って、頼尚は足利方とともに策略によっ
て多々良浜の戦いを仕掛けて菊池武敏らを破った。これは大友氏との謀略だった。大友
氏も少弐と共に元寇に於いては過分の働きがあっが、しかし報償は無く、依然として、
肥前・肥後・筑後の地頭で守護職は菊池氏であった。菊池氏も同じだった。その時大勢
居着いた関東武者達は加増地を待って居残った。これまでは押さえの効いた三池地方も
こうして大津山氏や小岱氏などと名乗って住み着いてしまい、この頃から不穏のままに
田尻氏は山を下りて大牟田や高田に来た。至って平地であった蒲池氏や大友氏にも大勢
の関東武士を受け入れる事になる。。

1160: 名無しさんAA:18/03/24 13:28
富安君を探せ              < その138 >
 こうして関東武士が住み着いた頃「阿比留文字」が九州にはあった。実は今神代文字
とされる物が7つある。しかし「阿比留文字」は只の朝鮮古語でしかない。九州での、
神代文字とされるのは4つぐらいでその一つは「出雲文字」の系統と「山窟文字」系統
である。山窟文字は山の猟師に伝えられ明治の頃まで八女などで伝えられていた。木々
に道案内する為に刻まれフェニキア文字に見える。出雲文字の方は修験者によって伝え
られていた仏教系の文字であり、いまでも古い祠にはそうした文字だが文様だか解らな
い物が彫られていて、その墓の由緒を記載されているのがある。「阿比留文字」は対馬
阿比留家に伝来して通詞の世界で使われた。所謂筆談である。いまのスマートホンの通
訳の様な形だろう。予想だがそれは新羅もしくは宋によって伝わった最も古い梵字であ
った可能性もある。また主に法隆寺、三輪神社、鹿島神宮に秘蔵され、現在確確認され
ているだけでも13種類の神代書体が存在する。また、出雲大社にも“出雲文字”と呼
ばれる書体がある。藤原不比等や平将門、源頼朝らがアヒル草文字で書かれた奉納文を
伊勢神宮へ献文している。しかし、いずれも戦前までそれらの存在は、写真や写しなど
で確認されていたのにも係わらず、なぜか現在では紛失している。つまり誰かが消した
。伝説では日韓併合時に朝鮮人教育の為に持ち去られて、朝鮮半島で使われ紛失した。
と伝えられる所もある。伊予城下八幡社(愛媛県)に伝承されたとする『秀真伝』 (ホ
ツマツタヱ)の、『フトマニ』(太占) は昔からの甲骨文字に近い形だ。海賊文字とも思
われ南国文字に近い。その後には丹後国の熊野郡鹿野村の旧家に伝わる「神事記」にも
用いられている。また、近江の散所村「三尾神技士」には『秀真伝』が所蔵されている
が、そこで用いられている“秀真文字”と書体は全く同じ物であるが、「秀真伝」を発
見した小笠原家の子孫は、伊予の出身であることから何らかの因果関係があることは否
定できないという。こうした伝承される文書を見る限り 水軍とされた貿易船は各国に
対応した言葉や文字が必要でそれぞれの習慣に合わせた対応が必要だった事が想像され
る。その為に時の王朝の文字や文化や言葉を伝承した水軍だけが生き残る事が出来たの
だろう。三嶋神社伝記によれば、この蒲池氏は結構菊池一族には冷遇されていたようだ
。そこで竜造寺を保護出来ている。竜造寺氏は元々松浦党の分家筋で菊池一族での村上
水軍の十二日足紋を使用している。日本の国旗の基になったとも推測されるが、元々は
日子神宮の神文だったという。菊池家も天皇家から菊の紋を賜るが、平安朝時代に禁止
された。その後は鷹の羽紋とした。鷹紋も又鶴紋の大宰府から譲られたものだ。『北野
天満宮縁起』の絵巻では古くから用いられていた家紋となっている。これらの文様から
の転化である。

1161: 名無しさんAA:18/03/25 22:19
富安君を探せ              < その139 >

鶴紋を使用する公家としては藤原氏真夏流の日野氏が知られていて、一門の広橋・柳原
・烏丸・北小路などの諸家も鶴紋を用いている。日野氏は藤原内麻呂の子の真夏の孫に
あたる家宗が、弘仁13年( 822年)、伝領地である山城国宇治郡日野(京都市伏見区)
に法界寺を建立して薬師如来の小像を祀った。その後代々この薬師如来を信仰し、永承
6年(1051年)、子孫の資業があらためて薬師堂を建立、この寺の別名を日野薬師とも
いった。これがその後資業を始祖とする門流の氏寺となり、家名も「日野」と名乗るよ
うになった。もともと野のつく姓は「紀伊からの人」と言う意味を持つ。この野の出自
は殆どは紀伊の人間だ。この柳川でも二ッ河小学校は戦後に「磯の宮の宮廷」を小学校
にしたものだ。此処は江戸以前は一つの島となっていた。その為島町としてその外周に
内濠と外堀があった。鬼丸はその鬼門であった。大塔の宮家が居住した地であったから
だ。目野氏は中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏で、九州下向についてきた
とされる家臣団である。野田氏は紀伊人の田の人と言う意味を持つ。野口氏もその入口
の人の意味だ大橋氏や川口氏石橋氏或いは新開や新谷はその当時の土木作業に携わった
人々だった。追ってである敵対したのは足利氏は阿志賀氏として残った様に竜造寺氏は
龍氏として残った。高橋氏や木元氏などは昔からいた人だろう。南北朝時代は九州にと
っては最低の時代だった。元寇の防備に指令が出て菊池氏が、少弐氏と大友氏の謀略に
謀られ赤坂警固あたりで暗殺されたからだ。たたら浜の戦いだ。その後もこの英彦山を
中心に結束していた北九州は島津と大友と少弐氏によって蹴散らされのである。あくま
でも宮家を奉じた菊池氏と領土を広げたい大友氏には確執があった。建武の新政で足利
尊氏が追放された時足利氏に兵を付けたのは大友氏と少弐氏であった。その大友の行為
を批判した大神氏は攻められて耳納を追われた。九州は外国に攻められ、その為に朝廷
側は大宰府に多くの人材を派遣しながら面倒は見なかった。その上朝廷が分裂し幕府が
出来ると更に幕府からも九州の守護大名を鎮西府として派遣した。その鎮西長官も又、
幕府がわれるとそれぞれに分かれた。厄介な事にその分かれた大名にそれぞれ水軍がつ
いて行った。大神氏は、この九州の英彦山を束ねた最も古い古処山から来た白蛇伝説の
氏族だ。長い間に各主要な豪族とは縁戚にあり42氏族と12分家を持つ中で現代では
九州旧称である地名に即したものは、ほとんどがこの大神氏の関わる物と言える

1162: 名無しさんAA:18/03/25 22:21
大神氏の庶家とする氏族に、阿南氏(豊後小原氏、大津留氏、武宮氏、豊後橋爪氏)、
臼杵氏(戸次氏(賀来氏)、佐伯氏(御手洗氏)、緒方氏)、大野氏、稙田氏(田尻氏
)、光吉氏、幸弘氏、吉籐氏、十時氏、三田井氏、朽網氏、由布(油布)氏、高知尾氏
、野尻氏、三重氏、野津原氏、高千穂氏、堅田氏、高野氏、松尾氏、吉藤氏、行弘氏、
太田氏、板井氏、釘宮氏、上野氏、早稲田氏 問注所氏などが解っている。立花氏も、
血統は違うが、家系や家門を残して生き残った氏族である。南北朝時代に、大友貞宗の
子の大友貞載が筑前国糟屋郡立花城に拠り立花を称したことより始まる。以来大友氏の
重臣として重きをなしたが、立花鑑載のとき大友義鎮(宗麟)に背いたため、同じく大
友氏支流の戸次鑑連(立花道雪)により攻め滅ぼされ、鑑載の子・立花親善の代で断絶
した。高良山は古く、高牟礼山(鷹群山、たかむれ)と呼ばれ、高良山の本来の祭神は
「高木神(高御産巣日神、高皇産霊神)」であったとされる。高木神の信仰は出雲大社
と同じに秦氏や新羅族の由来して「鷹」の神祇と呼ばれるものがある。鷹とは高木神の
「たか」に由来し、高上ゆえに天空高く在って疎薄、そして猛禽ともされた神の異名。
鷹巣や鷹取、鷹群など「鷹」地名を散在させる神祇が九州北半域に広がっている。この
鷹の羽紋にしたのが、菊の紋を禁止された菊池家だった。菊池氏は此処に祈る事を行事
とし 高牟礼の阿礼とされる年一回の行事であった。この習慣は古代バビロンの火祭り
の行事に近い。遊牧民が北の牧草地の後冬場に帰ってくるのだが、この時バビロニア王
はその税として払われる牛や金銀財宝に対して歌や踊りの饗宴でもてなした事に由来し
ている。だがこうした鷹神に祈る火祭り行事も、大友氏が全盛のころ大神氏が菊池氏を
もてなしたという、突然の言いがかりで高良大社から退去する事にいたる。古来は宇佐
氏もこの大神一族の分家であった。しかし神仏分離や天皇や朝廷の結びつきで、道鏡が
宇佐に代えた事から、英彦山の座主の地位にとどまり宇佐氏とは仲が悪くなっている中
で大友氏が居着いていたのである。大友氏は更に大内氏にも陶と毛利を仲違いさせたし
 菊池氏にも阿蘇氏と仲違いさせて大きくなって行った。竜造寺氏と鍋島氏の仲違いで
竜造寺氏に行く場が無い時、蒲池氏は、そうした大友氏を知っていた中で「武士は相見
互い」として竜造寺氏を過分に援助した。それが気に入らない大友氏は大神氏を高牟礼
山から追放した。高牟礼の阿礼の乱と言われる乱である。大神氏は神職として大友氏に
も菊池氏にも拝謁を許していた。だが南蛮船の到来で大神氏に節句寺で菊池氏から奉加
を受けて祝詞を上げたとして大群で取り囲み惨殺した。その後市内の神社仏閣には寄贈
を失くしこうして家臣団にキリシタンになる事を強要したのである。この時立花鑑載の
立花氏は祇園紋に替えた。だが立花氏の正当な子孫も、その後高橋紹運との戦いから絶
子となった。

1163: 名無しさんAA:18/03/25 22:22
富安君を探せ              < その141 >

 見方を変えれば、このキリスト教と言うのは、常に戦乱を引き起こした宗教で、この
戦国の開幕も、あるいは元寇や刀伊の入寇も、日本が開国を迫られた事例であろう。も
っと古い「白水の江の戦い」も全く同じであったに見える。近代戦争でも古代戦争でも
イデオロギーや宗教対立或いは家督争いとされるが、それはきっかけに過ぎない。基本
は庶民の不満と王の慢性的な治世不足である。いわば飢饉や飢餓の国情とそれに接した
国の傲慢さである。その為隣国は常に日本に開国を迫り蹂躙しようとしてきた。江戸の
幕府の鎖国政策も学校は強い政策の様に見えるが 実態は外国船うち払い令はずっーと
後であり、大型船の製造禁止も作っていた頃は早々と幕府の頃は天正使節団や慶長使節
を送って後の話である。開国は黒船来航と騒がれるが、歴史的には大きな転換点だが、
古来より朝鮮や刀伊或いは元などの攻撃に即した対抗戦力は海外から持ち込まれ作って
来ていたのである。ただ一歩遅れていた。白水の江では、馬がなく、刀伊の戦いに早船
を持たず、元寇では火薬を持たなかった。黒船も大砲は持っていたが雲泥の破壊力だっ
た。日米開戦も全く同じに石油確保した経済を、車や飛行機を持ちながら日本は持って
なかったのである。この致命傷の根源は日本人がきっちりした性格だからだろう。中途
半端で完成させない社会的性格がある。他国では人生も国家も経済も走りながら変化さ
せ完成させる。兵器も何もかもそれを許容している。しかし日本人はそれを許さない。
人を平和にしない幸せにしない満足を与えない技術に技術の資格はない。と思っている
のである。従ってあいさつやラジオ体操と新技術の例えばAIやEVなどとは同価値し
かない。と思っているのである。その視点や思考が江戸になって銃や大砲から又刀の世
界に戻ったのである。高橋 高種(たかはし たかたね)は、戦国時代の武将で筑後国出
身で大蔵姓高橋氏の当主であったが、のちに伊豆国に赴き、伊勢宗瑞(北条早雲)に従
った。筑後大蔵高橋氏の当主となったが、継母の讒言により父の不興を蒙り、その座を
捨てて、文明16年(1484年)母方の縁者畠山氏を頼り逐電した。その年、京都に上って
室町将軍足利義尚に仕えて盛り返していたが。文亀元年(1501年)に伊豆下田に城を築
くなど海岸の防備を強固にし、活躍した。この時には、高橋左近将監高種と改名した。
しかし中年より足病を発し、常に籠居していた。このため、永正12年(1515年)8月3日
に死去し没した。46歳。家督は長男の北条綱高(高橋種政)が北条氏綱の猶子となり、
別家を興したため、次男高橋氏高が継いだ。1500年は古いように思われがちだが、
世界的にはユグノー戦争が起こり、ドイツの30年戦争、イギリスの革命戦争、航海法
など今の第一次世界大戦の素になるものが蠢(うごめ)いている時代だ。

1164: 名無しさんAA:18/03/25 22:22
富安君を探せ              < その142 >

1567年、筑前の守護を任されていた大友家臣・高橋鑑種が、毛利元就の調略により豊前
・筑前・肥前ら国人と謀反を起こしたときは、父・吉弘鑑理や兄・吉弘鎮信と共に武功
を挙げている。なお、正室は斎藤鎮実の妹(もしくは娘)の宋雲院で、1567年に長男・
高橋統虎(立花宗茂)、1572年に次男・高橋統増(立花直次)が生れている。この斎藤鎮実
の妹は婚約中に疱瘡を罹い、容貌が悪くなったため、斎藤鎮実は遠慮して破談を申し出
たと言う。しかし、高橋紹運は容姿に惚れて婚約を決めたのではない、内面に惹かれて
婚約を決めたのだから、容姿が変わろうとも問題はない。と、そのまま正妻として迎え
、2男4女を儲けた。1569年、立花城の戦いのあと、毛利勢が九州から撤退すると、後
ろ盾を失った高橋鑑種が大友家に降伏する。大友宗麟は高橋鑑種による高橋家の名跡を
剥奪し、代わりに高橋紹運(22歳)に継ぐよう命じ、岩屋城と宝満城の城主となり、この
時、高橋鎮種と名を改めた。前述の通り、高橋家も九州からでた関東武士で、大友氏と
共に下向して来た家臣と言う事になる。しかしその忠節は高く猛者であった。1578年、
耳川の戦いで大友宗麟が薩摩・島津義久に大敗を喫した際には、兄・吉弘鎮信、妻兄の
斎藤鎮実、大友家重臣の角隈石宗、佐伯惟教、田北鎮周など多数の有力武将が討死。肥
前の龍造寺隆信や筑後の筑紫広門、筑前の秋月種実らの侵攻に対して立花道雪と奮闘し
守った。また、この年に剃髮して高橋紹運(31歳)と号している。男子のいなかった立花
道雪より再三に渡り、嫡男・高橋統虎を養子に出して欲しいとの要請があり、1581年、
子の高橋統虎を立花道雪の娘・立花ァ千代の婿養子とした。これにより高橋家は次男・
高橋統増が嫡子とされる。1584年、沖田畷の戦いで龍造寺隆信が討死すると、島津勢の
圧迫が強まったが、大友義統からの出兵要請を受け高橋紹運と立花道雪は、高牟礼城将
・椿原氏部を調略し、犬尾城主・川崎重高を撃破し、猫尾城を陥落させた。1585年には
、肥前・筑前・筑後・豊前の連合軍である龍造寺政家、龍造寺家晴、鍋島直茂、後藤家
信、筑紫広門、波多親、草野鎮永、草野鎮永、星野吉実、秋月種実、問註所鑑景、城井
鎮房、長野種信など 約30000を相手に、又、立花道雪と高橋紹運、朽網鑑康、志賀親守
ら9800は、筒川の戦いや久留米の戦いにて善戦し敵軍を退けた。 1585年9月、立花道雪
が陣中で病没するのを高橋紹運が見送ると、これを好機と見た筑紫広門が留守にしてい
た宝満城を奪取したため、高橋紹運ら大友勢は筑後遠征を中止して宝満城を奪還。のち
に筑紫広門と和睦すると、筑紫広門の娘・加袮(17歳)を次男・高橋統増(15歳)の正室に
迎え、筑紫家の持ち城となっていた宝満城は両家の城という事になった。

1165: 名無しさんAA:18/03/25 22:23
富安君を探せ              < その143 >

 九州制覇を目指す薩摩の島津義久は、島津忠長・伊集院忠棟を大将にした20万騎を
筑後 筑前に繰り出した。1586年7月、岩屋城・宝満山城のある麓の 太宰府に薩摩勢が
陣を敷くと、高橋紹運は763名にて岩屋城に籠城。立花家の家臣・吉田連正が約20
騎が援軍として駆けつけている。なお、宝満城には、高橋紹運の妻と、次男・高橋統増
や、岩屋城から避難した女・子供がを入れている。1586年7月12日に 島津忠長は降伏勧
告促した、高橋紹運(39歳)はこれを拒絶しては岩屋城の戦いとなった。しかし島津忠長
は、高橋紹運の器量を惜しみ3回も降伏勧告を行った。この時恐らく既に秀吉の九州攻
めの情報は双方共にもっていたと思われる。だが高橋は「主家が盛んなる時は忠誠を誓
い、主家が衰えたときは裏切る。そのような輩が多いが私は大恩を忘れ鞍替えすること
は出来ぬ。恩を忘れることは鳥獣以下である。」として断ったとされ、味方だけでなく
敵からも賞賛を受けたと言う。また、立花宗茂や黒田孝高(黒田官兵衛)からも、岩屋城
では防御が弱く、撤退するように。と促されたが、いずれも使者を丁重にもてなして断
っている。このように高橋紹運は大友家を裏切ることなく、徹底抗戦の意志を示した為
、戦いは約2週間に及び、最後には島津忠長が自ら指揮して総攻撃するまでに至ってい
る。衆寡敵せず、家臣らは次々に倒れ、ついに高橋紹運が指揮する詰の丸だけになった
ところで、1586年7月27日高橋紹運は高櫓に登って壮絶な割腹をして果てたと言う伝説が
残る。享年39。援軍の吉田連正も討死するなど、高橋勢で生き残った者はいなかったと
される。島津忠長と諸将は、般若台にて高橋紹運の首実検を行った際「我々は類まれな
る名将を殺してしまったものだ。紹運と友であったならば最良の友となれたろうに。」
と床几から地面に正座して、涙を流したと伝わっている。なお、大軍であった島津勢も
この岩屋城の戦いで、死傷者3000とも言う疲弊となった為、態勢を立て直すのに時間を
要し、立花宗茂が籠もる立花山城への攻撃も鈍る。そうこうしている間に、豊臣勢20万
が九州に上陸したため、島津勢は薩摩への撤退を余儀なくされた。こうして宝満山城を
守っていた次男・高橋統増(高橋直次、立花直次)は、家臣らの説得もあり、立花城への
退去の許しを得て島津勢の降伏勧告を受けた。しかし、島津勢は高橋統増(高橋直次)と
正室・筑紫広門の娘である加袮(養福院)が、8月6日に城を出た所を捕縛。天拝山の麓に
ある武蔵村・帆足弾正の屋敷に軟禁した。1586年9月から,九州に入った豊臣秀吉の九州
攻め(九州征伐)によって立花直次と加袮は解放される。この時有富茂安が助けたとされ
ている。

1166: 名無しさんAA:18/03/25 22:24
富安君を探せ              < その144 >

「これまでの苦労は大変だったであろう。父紹運殿が秀吉の為、島津の大軍を引き受け
て比類の無い戦をし討死された事は、忠功、感賞に堪えない。此の度、筑後国・三池郡
を与えるにあたり、今後とも統虎殿(立花宗茂)と申し合わせ忠勤に励んで貰いたい。
」が秀吉公の言葉だった。豊臣秀吉は父の軍功と兄の活躍を賞賛し、1587年、高橋統増
(高橋直次、立花直次)を筑後・三池郡18000石の江浦城主に取り立てた。そして、三池
に入った高橋統増(高橋直次、立花直次)は、戦死した父・高橋紹運と岩屋城で討死した
家臣の霊を慰める為、紹運寺を建立し、三池氏を従えた。また、柳生宗矩の門弟となり
「新陰治源流」を開祖した他、兄・立花宗茂の与力として活躍する。父と共に死ななか
った事を後悔していたようで、兄を深く尊敬し、戦場では率先して戦った言う。1600年
、関ヶ原の戦いの中では兄・立花宗茂と共に石田三成の西軍に与して、伏見城の戦い、
大津城の戦いなどに出陣した。そのため、立花直次も改易・領地没収となり、最初には
、八代にて寓居したあと、京都の北山に移り住んむなど浪人して、宗卜と号した。その
後、兄・立花宗茂と同様に徳川秀忠に召し抱えられて、1613年1月28日には 徳川家康と
の拝謁を許されている。1614年10月9日 に常陸・筑波郡内の柿岡に5000石を与えられて
徳川氏旗本大名となり、本多正信の勧めを受けて家号を高橋より「立花」に改めた。16
14年11月からの大坂の冬の陣でも出陣すると、徳川秀忠の危機を救う戦功を挙げている
。1617年7月19日に江戸・下谷邸にて死去すると 下谷・広徳寺に葬られた。享年46。
法名は大通院殿玉峯道白大居士。子の立花種次は、1621年に加増されて筑後・三池郡に
移封され三池藩1万石の大名になっている。4男・立花忠茂が兄・立花宗茂の養子にな
って、柳河藩(柳川藩)の第2代藩主になった。三池藩主・立花種周の孫が、一宮藩での
最後の藩主・加納久宜で、その末娘・加納夏子は、麻生グループ創業者の炭鉱王・麻生
太吉の子・麻生太郎(先代)の妻になっている。二人の間の長男・麻生太賀吉と、吉田
和子(吉田茂の3娘)の間に生まれた息子が、内閣総理大臣も務めた麻生太郎と言う事
になる。その麻生氏が頭が上がらなかったの炭鉱資金を貸し付けてた西牟田氏であった

1167: 名無しさんAA:18/03/25 22:27
 西牟田氏の自出はかなり古く 天孫降臨時代の薩摩に始まる。実は緒方氏と同じに、
祖母山系のどこかの山の領主であったが、大神氏の配下となって 新羅王を宮崎に置い
た頃から菊池一族の配下に大神氏や大阿蘇氏と同じに連なっている。本来は牟田氏だっ
たが大牟田に牟田氏がいたための大川近郊では西牟田氏と名乗った。この事から八女を
中心とした呼び名であった事がうかがえる。かつて平安期にはいると陰陽道の祁答院の
当主として祈りをささげる役で水田水天宮の月読姫神社を管理していた。この事から、
水田の管理母体であったとも言える。基本的に牟田とは水田の緑の美しい様を言う言葉
と言われる。三島神社縁起によると、豆州三島より三瀦郡西牟田村にこの神社を移して
きた。とされる。この事から豆州三島(伊豆の三島神社)が本宮社といえる。更に寄進
した宇都宮氏の一族が(地頭として)赴任し、村の名前を取って「西牟田氏」を名乗っ
たとされていることから古くから西牟田氏が在住していて縁故になったと思われる。こ
の時縁を結んだの富安氏である。「豆州志稿」は享保八年(1723)に秋山惣右ェ門の長
男として生まれました富南が編者となって作られたものだ。三嶋神社の主祭神は伊豆諸
島の開拓神である。社名の「三嶋」とは伊豆大島・三宅島等から成る伊豆諸島を指すと
言われ、その開拓神の姿は筑紫宗像神に似ている。この時の仲介した理由は同じ関東の
下向武家だったからだ。こうして近在の秦氏の氏子は鷹尾神社の田尻氏から蒲池氏の下
に入った。それは同じ菊池氏一族に列席したからだ。こうして柳川大火に駆けつけた緒
方(大潟)氏も宅間(大宅間)氏も一緒となって刀伊軍との戦いに参戦したのである。
薩摩にも島津義久の弟・島津金吾歳久を祖とする日置島津家の家臣に西牟田氏があるが
、これは現在の鹿児島県薩摩川内市の西牟田付近に勢力を持った別系統の氏族である。
とされるがそこも同じで菊池氏の配下として下った者と推定できる。すなわち刀伊海賊
を追いかけて居ついた可能性も強い。鹿児島西牟田城は久富川の左岸、祁答院ゴルフ場
の北東の丘陵に築かれている。主郭のすぐ近くまでゴルフ場となっているが、主郭から
北東側一帯の城跡は良く残っている。佐賀西牟田家の家系図によると筑後の西牟田氏は
、天児屋根命から21世の中臣鎌足、それから15代を経た権中納言藤原家房の子であ
る讃岐守家直を始祖としている。4代家綱以降の当主は、代々「彌次郎」を名乗った。
また、実名には「家」、僧名には「西」の字を共通して用いている。西牟田彌次郎家綱
を仁治2年(1241年)「三瀦荘領家下文」には「西牟田村名主行西」と書かれ、行西は
、鎌倉幕府の命を受けて西牟田村の地頭として赴任したのではなく、もともと三潴郡に
土着していた武士が西牟田村の「本名主」として所領を安堵され、鎌倉幕府の成立に伴
って地頭(小地頭)に任命されたと指摘している。

1168: 名無しさんAA:18/03/25 22:29
富安君を探せ              < その146 >

 しかしその三代も前の讃岐守家直も下向しており、筑後国への下向を鎌倉幕府の成立
前としても不思議ではない。ともかくこうして西牟田氏はこの頃は既に地元に定着して
地頭となっていたのである。しかし、この西牟田氏の立場は非常にあいまいな立場で、
あった。初代家直の時の筑後国西牟田之邑へ下向し築城に際しては筑後27騎の一つと
なっていながら室町時代の西牟田氏は、豊後国大友氏傘下のいわゆる「筑後十五城」の
城主の一人でもあった(江戸時代より前は、領主のことを「藩主」とは言わず「城主」
と表現した)しかし筑後の国人領主に対する大友氏の支配は、苛斂誅求を極めた。大友
氏は、領国中どこで戦いが始まっても彼らに出兵を命じ、筑前国、肥前国、肥後国はお
ろか豊前国や日向国の奥地までも従軍させ、南征北伐に駆り立てている。また、任官、
叙位、家督相続、城の移転、改造等についてすべて大友家の裁可を得なければならない
だけでなく、大友家発行の証札なしには他国はもちろん自国内ですら自由に通行ができ
なかった。と言う。その為、西牟田氏は、斯かる大友氏の支配に対し、しばしば叛旗を
翻している。天文3年(1534年)9月には、西牟田播磨守親毎・親氏父子が他の筑後国
衆とともに大友氏に背き、その大軍と戦って討死している。また、天文19年(1550年)
にも、西牟田鎮豊が反大友の軍事行動を起こし、鎮圧されている。それは蒲池氏も又同
じだった。天正6年(1578年)、肥前を平定した佐賀の龍造寺氏が筑後へ進出してくる
と、西牟田鎮豊は大友氏の傘下を離れて、龍造寺方に参陣したが、大友氏からはさらに
激しい攻勢に晒されるようになった。こうして天正7年(1579年)、西牟田鎮豊は新た
に堅固な本拠地として生津城を築き、そこに移ったし、蒲池氏も新たな柳川城に移転を
した。その双方が富安氏が家老であった。しかし耳川合戦の後は佐嘉の龍造寺氏に従い
、生津城を築いて移ったが、その後、大友氏によって攻められ西牟田家周は城島城へ落
ち延びたという。宇都宮系図(宇都宮氏は藤原氏裔)では「壹岐守義久ー久種(酒見弾
正左衛門、西牟田)また久種の兄家久(犬塚刑部太夫)ー家虎(山城守)ー家種(兵部
少輔、西牟田)とあるを以て、西牟田氏を宇都宮氏庶流と言う。これは壱岐守義久がい
る事から筑後領主附に、西牟田氏は「少貮末」とあり、また別の「蒲池末」とあるを以
て、西牟田氏を少貮氏や蒲池氏(いずれも藤原氏後裔を称す)と同族であったとする説
も、うなずけるものである。又上妻氏の系図にも吉田三郎家基と西牟田系図の吉田三郎
家實を同一人物とし、西牟田氏、上妻氏、吉田氏(いずれも藤原氏後裔と称す)を一族
と考える説がある。上妻氏は本郷上妻氏の流れで溝口氏や吉田家はその子族と言う。い
ずれも大神氏のながれで日足紋をもった日子族である。

1169: 名無しさんAA:18/03/25 22:30
富安君を探せ              < その147 >

その後に諸藤氏に白羽の矢がたった。勿論久留米藩との協議に於いて出てきたものだっ
た。諸藤氏は諸富の藤丸氏のから来ている。諸富も酒の「もろみ」からなる。かつては
矢加部に橋本神宮伝説があった。町で盗賊した後地蔵の前で信心して決して話さない。
と言う事を約束し地蔵様に誓った。この諸富の地の酒造家となり出世していた。毎年の
ある日に同じ様にお参りして帰っていったがその折弘法大師に出会って、つい30年前
のその話をして捕まったと言う話である。それが「縁の木」で今のハリウッド美容室の
前にあったのだ。そこから大川に渡し船がでていた。大川では布教を終えた後に「笹葉
が姿を変えたえつ」の伝説がある。この時の捕まった店を持った実業者こそ佐賀の造り
酒屋だったと言われる。橋本氏は非常に分布は広く日本各地にいる。橋本の由来は神聖
なる橋のたもとという意で、橋本=橋元=橋下といずれも同じ意味だ。全国各地の橋本
という地名は街道の宿場など交通の要衝であることが多い。その中に和泉国日根郡橋本
(大阪府貝塚市橋本)を発祥とする橋本氏に、橘氏を出自とする和田氏族と楠氏族がい
る。橋本さんのルーツをたどるものとしては、地名に残された橋本交差点ぐらいだが、
交差点の西300mほどの所にある丸山古墳は、古墳時代前期後半(4世紀後半)の築造と
される前方後円墳(国の史跡)。古墳の南側に位置する貝塚市立南小学校の敷地内から
は古墳時代中期5世紀の埋没古墳6基が発見され、丸山古墳を中心とした古墳群の存在
が判明している。このエリアが古くから拓けた地であることがよくわかる。さらに丸山
古墳は天正13年(1585年)の羽柴秀吉(豊臣秀吉)の紀州攻めの際に、秀吉自らがこの
古墳に本陣を置き、橋本の積善寺城を攻めたという伝承も残されている。ここが自出と
して有力である。又この一族はその昔、尾張国の国府があったのが尾張国中島郡(愛知
県稲沢市片原一色)に橋本氏代々の居城であった片原一色城を構えていた。神明社境内
一帯に築かれていたという片原一色城は、応永年間に橋本宣都寺が築城。戦国時代織田
信長に仕えた橋本一把(いっぱ)は、信長の鉄砲師範を務めたという。さらに、一把の
子・橋本道一(みちかず)は、豊臣秀吉に仕え、朝鮮の役では鉄砲頭も務めて、九州に
やって来た。その後片原一色城は慶長20年、一国一城令により廃城となっている。由
布惟信の勧めで、小野 鎮幸(おの しげゆき)は、立花氏に加わった。戦国時代の武将
として立花氏に加わったが、加藤氏の家臣だった。日本槍柱七本・立花四天王の一人に
数えられる。立花和泉守と名乗り、小野 和泉(おの いずみ)とも呼ばれていた。この
和泉の守の名の意味は、この地の守護名代であった事を示すものだった。

1170: 名無しさんAA:18/03/25 22:34
富安君を探せ              < その148 >
勧めた、由布 惟信(ゆふ これのぶ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将と
して名を馳せた立花氏の家老で立花四天王筆頭とされる、道雪七家老の第五座で、立花
氏時代の棚倉藩重臣。由布惟巍の子で、元々は大友氏の家臣で豊後国速見郡湯布院城主
であった。立花道雪に付き従う際に弟・碁晨に家督を譲り、残りの人生を立花氏のため
に尽くす。「天資英邁にして剛毅也」と伝わる、立花道雪の重臣として六十五回の合戦
に参加し六十五ヶ所の傷を受け一番槍、一番乗り、一番首は数知れず、感状は七十通ほ
ど賜るなど武勇を誇った。家中のに小野鎮幸と共に、立花道雪が孫子兵法の「奇正相生
」を引用しての奇と正の両翼として立花双翼と称揚され、惟信は正の将を任じた人だ。
その後高問橋門頭の家系として、唯一の城の登城する者を監査した。下に平井氏沖氏を
従えていた。一方西牟田氏や蒲池氏の家老としていた富安氏は、城島に落ち延びた後に
一部は造り酒屋を営んでいる。富安酒造本家は現代に残る一番に古い城島清酒会社と言
われている。その名が富安酒造本家である理由は各地にその技法をもって伝えられたか
らだ。つまり富安酒造が幾つも出来たのである。こちらは創業が1745年と伝えられてい
る。日田が天領になった時その清水を求めた後日田にも富安酒造ができた。この日田市
豆田は、江戸時代は九州エリアで幕府直轄地「天領」として栄えた町だが、九州北部の
交通の要所であり、江戸時代は九州のなかでも中心的機能を持っていた。更に西洋医学
の草分け的存在で特に北島眼類医としてはかなりに名が売れていたという。当時の日田
の経済を支えていたのは、大名に資金の貸し付けを行う「日田御金」。幕府から流れて
くる豊富な資金を活かして、金融の貸し借りで栄えていたらしい。江戸時代の九州の中
の中心的金融街的な存在に至っていた。それは、金山があったからだ。今はその文化的
景観は残して、小京都とも言われる観光地だ。江戸時代の面影の残る町の一角に「薫長
酒造」という酒造会社はある。天領日田のこの酒造も同じ冨安酒造がやっている。営み
自体は江戸時代後期から行われていて、門構えは大正のつくりのままで、実はこの薫長
酒造も代々冨安がやっている。昭和からで江戸時代は他に任せたが 又回収している。
富安酒造本家は富の寿を作っていた。目の酒造も又、同じ様に国の寿を作っていたが、
この酒造ののれん分けでもあったという。株式会社花の露はその経過を語っている。戦
国末期に西牟田氏の家老として城島に来た冨安氏族は、戦国が終わって久留米藩(有馬
藩)の時代に入ると、領主に上手に取り入りながら地域の庄屋としてこの地域の下見役
となった。金融業、庄屋の仕事、瓦を焼いて地域産業振興を図ったが。その中の事業の
一つに、当時事業として回りが良かった酒造業も行っていた、というのが酒蔵誕生の経
緯であった。

1171: 名無しさんAA:18/03/25 22:36

富安君を探せ              < その149 >

この花の露酒造も富安氏が代々酒蔵を継いでいる。佐賀の伊万里市にも造り酒屋として
松浦一酒造(まつうらいちしゅぞう)がある。創業は1716年。創業300年を迎える老
舗の造り酒屋です。ここは代々田尻氏が受け継いでいる。


1172: 名無しさんAA:18/03/25 22:37
 田尻氏の松浦酒造のホームページには、ミステリーツアー客へのの呼び込みがある。
「我が家には、伝説の動物とされるカッパのミイラが現存しています。そのミイラの姿
は、体調約70cm、頭がい骨が皿のようにくぼみ、背中は一見甲羅のように16個の背骨が
突出し、足が前後で4本、特に前足は指が5本に対し、後足には指が3本、そして指と
指の間には水かきがついています。見れば見るほど不思議な面相をしていて、昔から描
かれているカッパの絵によく似通った特徴が数多く見受けられます。さて、我が家にど
うしてこのような不思議なカッパがあるかと由来をたどってみますと、田尻家は私で17
代にあたりますが、昔から当家には何か珍しいものがあるらしいという言い伝えがあり
まして、それが何でどういうものかは皆目わからぬままに何代も過ぎて参りました。と
ころが、ちょうど昭和28年に母屋の屋根の葺き替え工事中に、大工の棟梁が「梁の上
にこんなものが…」と持ってきたのがボロボロの紐でくくった黒い箱。蓋をとると中か
らなんとも奇妙な動物のミイラが出てきました。最初は一同ビックリ仰天。更に黒い箱
を調べてみると、箱には「河伯」と 墨書きの二文字が書かれてあります。ものの本に
よればこれが本当のカッパという文字だということで、カッパであることが判明しまし
た。では何故、この田尻家にカッパがあるのでしょうか。話はさかのぼりますが、戦国
時代の田尻家は、筑後の国・田尻村の豪族で、当時、筑後のオオカミと呼ばれるほどの
勇力を持ち、肥前の竜造寺、豊後の大友氏との間に幾度かの戦いを繰り返しながら、今
から430年前に鍋島直茂公によって、肥前国下松浦郡山代村(現・伊万里市山代町)
に所領1650町歩を与えられ、定住の地とした訳です。ところで、この筑後の国田尻
村には飯江川という大きな川が流れ、この河には筑後川とともにカッパの伝説が数多く
存在します。その田尻村から山代村に移住するときに、このカッパのミイラを持って来
たのではないかと推測しています。山代村に移住した田尻家は、正徳6年(1716年)よ
り酒造りを営んで来ました。お酒には何と言っても、良いお米と綺麗な水がないと、お
いしいお酒は出来ません。当時は、井戸を掘ってきれいな水を掘り当てる以外に方法が
なかったと思いますが、カッパはきれいな水にしか生息せず、水の守り神として崇めら
れていたので、多分、きれいな井戸水を掘り当てる願いをかけて「水のお守り神」とし
て大切に保存されていたのではないかと思います。現在、田尻家は観光酒蔵として、こ
の水神カッパのミイラのほか古い酒造道具や農機具・民族資料など、二百点あまりを、
展示して一般の方々に無料でご覧頂いています。------と言うものだ。


1173: 名無しさんAA:18/03/25 22:37
富安君を探せ              < その149 >

 我が家の言い伝えでは、この田尻氏と目野酒造と富安家は縁戚になると言われていた
。どこでどうつながっているのかは不明だが、少なくとも蒲池氏の門下の武将だった。
と言うのは確かな様だ。筑後市西牟田の西牟田小学校の南側にある寛元寺は、初代西牟
田家綱が寛元元年(1243年)に建立した寺院で、西牟田氏の菩提寺となり、境内の片隅に
は永正9年(1512年)に造立された西牟田家綱夫妻の供養塔が残っている。富安家の供養
塔も吉開地区にあったのだが、なぜか突然壊されている。明治期には富安合名代表社員
として富安忠四郎がいる。大阪高工醸造科卒業した福岡県醸造試験所社長である。明治
15年、福岡士族・富安猪三郎二男の富安忠四郎で養子前名を、重尾を改むとあるから
子がいなかったのか婿入りしたかであろう。デパート旭屋取締役、富安合名代表社員と
している目野酒造は同じ様に大阪高工醸造科を卒業し1890年(明治23年)初代目野忠吉
により創業して清酒の製造を開始したという。当時はまだ清酒はガラス瓶ではない。陶
器か樽だ。吉開の墓碑は富安保太郎が議員としいたものでもっとふるい。富安保太郎(
とみやす やすたろう)は元治元年5月6日(1864年6月9日)に富安城下 とされる河北村
の吉開村に生まれた。当時河北は治水の要として、八女の千間堤や、船小屋に楠の木を
植林する作業を立花家には必要だった。代々富安家は蒲池家の家老時代から、その治水
に関しての管理を仰せつかる家にあった。新村開発に於いて2町を集めて三村としてい
たが対岸の村も合併し新村とした。橋本氏共に、この地の名主として立花氏の、御行幸
の茶屋処として、浄蓮寺は建てられた。本来この地の寺は運瑞寺だったのだが、富安城
解体に従い、高い堤防によってこの地に広い耕作地帯が広がったのである。富安水門は
その上流にあるが その時の外堀の要で立花農園と共に柳川の水利を一手に引き受ける
ものだった。だが聖川の入口として、行基橋傍の堰が作られて以来、通称カッパ堰かっ
ぱ水門が塩塚川の源流となった。この塩塚川の命名には塩塚何某の訴え話がある。当時
今の伝習館に代官所前として白洲があった。今の裁判所がある理由だ。ここで大和の地
に水が足りないとして一つの鍬幅の水路を通せないかと相談で一応の決着を見た。そこ
で掘られたのが大将軍道りの濠であった。この時の鍬幅が3mの鍬で四人が掘る特注の
鍬で、本来聖水路と並行に走る島田水路が埋められて困った農民の、花園まで通した、
塩塚川の話であったとされる。分流に蛭川があった。高橋商店脇の橋や久末地蔵は、そ
の当時の逸話で満ちている。



1174: 名無しさんAA:18/03/25 22:38
富安君を探せ              < その150 >

立花氏が再び入城した時かつての八女から三潴の地帯は柳川藩のものではなくなったの
で、当然柳川と筑後の境には治水をめぐる騒乱が幾つかあった。矢部川も暴れ川でこれ
を抑える為に船小屋の中の島が出来貯水池ができていた。本来は小島から同じように第
二の中の島が出来る予定だったがそれが江戸期に途切れたのである。こうして 新たな
治水計画や治水事業を行うべく図られた。それが聖川の遮断と塩塚川の引き込み 更に
八女の祁答院治水でなく、新たな矢部川の水量確保だった。そこで行われたのが、段々
掘りと言われる整流池だった。それが船小屋の今の駐車場、ベスト電器部分、ハリウッ
ド部分、更に西鉄駅裏、がその空掘池として作られた。通常は湿地の田んぼで大雨時に
は調整貯留池にして24時間かけて潮の満ち引きに合わせて海に流す工夫である。更に
柳川城外堀から南の両開はそれは狩場田地として、殿様の馬駈け鷹狩りの場として、そ
れこそ了解を貰ったもの以外の禁制地とされた。壇家はその段々濠とされた沼地の管理
の家柄である。川が出来ていた。そうした河川管理の家柄ではあったのだ。富安家の保
太郎も同じで、そうした河川整流の森林の係であった。今の松本木材は明治期に手離し
たものと言われ、楠木を無断伐採で大川箪笥に売り渡したとして処分されたものだった
。筑後国山門郡吉開村(現福岡県柳川市三橋町吉開)で、柳河藩士・富安昌太郎の長男
として生まれ東京法学院を卒業して政治家となった。実業家として衆議院議員に当選し
以後は、貴族院多額納税者議員とされ、博多商業会議所特別議員、福岡県教育会副会長
、瀬高銀行頭取、九州製油社長、博多築港社長、博多電気軌道取締役、九州電気軌道取
締役、日本毛織取締役、九州土地信託取締役、九州林業取締役、日本電報通信社取締役
、福岡日日新聞社社長などを務めた。政界では、福岡県会議員、同参事会員、同副議長
、同議長を歴任した。1908年5月、第10回衆議院議員総選挙で福岡県郡部から出馬して
当選して以後、第11回、第12回、第14回総選挙で当選し、衆議院議員を通算四期を務め
、立憲政友会院内幹事、同政務調査会理事、同協議員を歴任した。その為に1924年1月
、皇太子殿下(後の昭和天皇)御結婚賢所大前の儀に議員総代三名の一人(全院委員長
)として参列し。また、1926年11月24日、貴族院多額納税者議員に選出され、研究会に
所属して死去するまで在任した。この為富安家から近衛兵として天皇の護衛に当たって
いる。

1175: 名無しさんAA:18/03/26 14:53
楠木を無断伐採で大川箪笥に売り渡したとして処分されたものだった
その金で国会に出馬する事は地元の苦境を変える事にあった。玄洋社は熊本の博愛社の
前身と同じく士族解体に及んだ者の救済の為の相互扶助の組織だった。だが熊本は職能
教育やキリスト教化に及んだに比べて福岡の玄洋社は新聞「福陵新報」を創刊して、文
人や芸術振興に力を入れようとした。しかし体制批判が受けて政治団体に変貌した。こ
れに対抗すべく筑紫新聞が刊行され福岡日日新聞を設立しブロック化して西日本新聞社
が出来た。博多商業会議所特別議員として九州電気軌道に収拾がつくとこの社主となっ
た。筑後国山門郡吉開村(現福岡県柳川市三橋町吉開)で柳河藩士・富安昌太郎の長男

1176: 名無しさんAA:18/03/26 14:56
富安君を探せ              < その151 >
 三池物語の中では大きな大蛇を大きな蟹がその胴体を切った。とされるが、これと同
じ時期に竹取物語や桃太郎の物語がある。日本霊異記はそんな伝承が満載されるが、そ
れにこぼれた話も柳川の伝承だろう。そもそも柳川は瀬高清水の門前町として栄えた町
だ。行幸の折神功皇后は八田烏(カササギ)が飛んで行くのを見て清水山を目指した。
と言われ、清水には雉車なる民芸品を売っている。あの磯鳥や白鳥と名を付けた時に、
安曇磯良丸と出会ったとされるが、その時引き合わせたのが「弥永」氏だったという。
柳川では弥永とは「いよなが」と呼ばれるが実は古文では「やなが」と呼ばれる。竹網
などの細工を上手にし柳行篭(やなぎごうり)などを作るのがうまくイモ洗い水車など
がこの地区に多くあって「やながわ」の地名が生まれたとされる。つまりこの地を天皇
が彼らの土地として与え「弥永」と言う(先の広い末永い意味)の縁起のいい名を与え
兵として彼らは朝鮮征伐に同行する。しかし香椎宮で仲哀天皇が崩御すると帰郷となっ
たが野洲に住み込んだ。と言うものだ。弥永氏は、現福岡県北部の筑前国夜須郡弥永村
が起源(ルーツ)でとされ。蓮池藩、現東京都、埼玉県広域、神奈川県北部である武蔵
等にもみられる。近年、福岡県に多数みられる。「永」は長くのびている地形、器物、
生物などの意味。弥生式土器などはこの地名の弥生から来ている。その後仏教では弥と
いう字はナムアミダブツの弥とされ 根本言語(念仏の最初の言葉)とされた。又周辺
の集落を集められ河北村が明治期に出来るが、その時の初代村長は橋本氏とされたが、
その理由は至って簡単で河北村のほとんどはこの橋本氏だったからだ。だが何故橋本氏
のものだったのか。立花時代も橋本氏の名はそう多くは出ない。実は田尻氏だったと伝
えられる。田尻家は代々本流しか田尻を名乗らなかった。「藤原純友の乱」に「刀伊(
とい)の入寇」で下向した関東武者とされる。予国警固使橘遠保らの追討軍としてやっ
てきたのだ。大蔵種村の軍功があって大宰府の「府官」を世襲し土着したという。「田尻
氏系図」では大蔵春実8代目の長男が原田氏を継ぎ、次男が秋月氏、三男が田尻氏を、
四男が江上氏を五男が高橋氏の祖となった。としている。こうして平安時代の末期頃に
初代は筑後国三池庄田尻邑に住んだとされる。田尻三郎実種は源氏の大将源範頼(のり
より)に対する過言(悪口)の罪で鎌倉に召喚されたが、その罪を許されて、三池に帰
されたという。これより強く分流が田尻を名乗る事を止めた。そこで家人は鷹尾神社は
橋の側であった事から橋本氏と呼んだとされる。蒙古襲来に備えては、上陸をくい止め
るために、博多湾岸に石の防塁を築きことにした。この時筑後からは田尻・神代・黒木
・星野・河崎・西牟田・草野・酒見・末安らが参加している。いずれも菊池配下として
である。

1177: 名無しさんAA:18/03/26 15:21
 三池物語の中では大きな大蛇を大きな蟹がその胴体を切った。とされるが、これと同
じ時期に竹取物語や桃太郎の物語がある。日本霊異記はそんな伝承が満載されるが、そ
れにこぼれた話も柳川の伝承だろう。そもそも柳川は瀬高清水の門前町として栄えた町
だ。行幸の折神功皇后は八田烏(やたがらすカササギ)が飛んで行くのを見て清水山を
目指した。この古事から、清水には雉車なる民芸品を売っている。あの磯鳥や白鳥と名
を付けた時に、安曇磯良丸と出会ったとされるが、その時引き合わせたのが「弥永」氏
だ。柳川地方では弥永とは「いよなが」と呼ばれるが実は古文では「やなが」と呼ばれ
る。竹網などの細工を上手にし柳行篭(やなぎごうり)などを作りイモ洗い水車などが
この地区に多くあって「やながわ」の地名が生まれたとされる。つまりこの地を天皇が
彼らの土地として与え「弥永」と言う(先の広い末永い意味)の縁起のいい名を与え兵
として彼らは朝鮮征伐に同行する。この地でもそうした竹の編み物を「やな」と呼ぶ。
しかし行軍したものの、香椎宮で仲哀天皇が崩御すると帰郷となった為、多くが野洲に
住み込んだ。と言うものだ。弥永氏の多くは、筑前国夜須郡弥永村が起源(ルーツ)と
され。福岡は圧倒的に多い、「永」は長くのびている地形、器物、生物などの意味で、
弥生式土器などはこの地名の弥生から来ている。弥という字は仏教ではナムアミダブツ
の弥とされ 根本言語(念仏の最初の言葉)とされた。この柳川がその後地方豪族にい
たるが、明治期の周辺の集落を集められ河北村が出来る時は、その時の初代村長は橋本
氏とされた。その理由は至って簡単で河北村のほとんどはこの橋本氏だった。と言う物
だが、この時何故橋本氏のものだったのかが疑問だった。立花時代も橋本氏の名はそう
多くは出ない。しかし本流は田尻氏だった為と思われる。田尻家は代々本流しか田尻を
名乗れなかった。「藤原純友の乱」に「刀伊(とい)の入寇」で下向した関東武者とさ
れる。予国警固使として橘遠保らの追討軍としてやってきて警固に陣を敷いた。大蔵種
村はその後軍功があって大宰府の「府官」を世襲し土着した。「田尻氏系図」では8代目
の大蔵春実の長男が原田氏を継ぎ、次男が秋月氏、三男が田尻氏を、四男が江上氏を五
男が高橋氏の祖となった。としている。こうして平安時代の末期頃に初代は筑後国三池
庄田尻邑に住んだ。しかし田尻三郎実種は源氏の大将源範頼(のりより)に対する過言
(悪口)の罪で鎌倉に召喚された。その後罪が許されて、三池に帰されたという。これ
より強く分流が田尻を名乗る事を止めた。そこで家人は鷹尾神社に高い橋があった事か
ら分流が橋本と名乗った。と言う。蒙古襲来に備えては、上陸をくい止めるためには、
博多湾岸に石の防塁を築く為多くの人員を要した。この時筑後からは田尻・神代・黒木
・星野・河崎・西牟田・草野・酒見・末安らが参加している。いずれも菊池配下として
である。

1178: 名無しさんAA:18/03/26 15:23
富安君を探せ              < その152 >

 そもそも田尻城と鷹尾神社はちがっていて 今の奉仙寺を中心に作られていた。都留
集落から大きく二つに分かれたたように瀬高側に曲がって流れその一方は鷹尾神社より
ずっと向こうに曲がり中州状態で少し高い丘の上に城が築かれていたのだ。従って、橋
で行く事は当然だったのである。大友所領時には筑後には上蒲池(上妻郡)・下蒲池(
山門)・問註所(生葉郡)・星野(生葉郡、竹野郡)・黒木(上妻郡)・河崎(上妻郡
)・草野(山本郡)・丹波(高艮山座主)・高橋(御原郡)・江上(三瀦郡)・西牟田
(三瀦郡)・田尻(山門郡)・五条(上妻郡)・溝口(下妻郡)・三池(三池郡)の大
身15家があって、これを筑後の15城と言ったとされる。天文年間、非情な大友は、
筑後15城の旗頭の蒲池鑑貞は大友領国内の「八朔太刀馬の儀式」(毎年八朔 陰暦8
月1日)の日に、この参陣を怠ったため、府内に呼び出されて斬られたとされる。天文
16年(1547)11月、田尻親種(ちかたね)は嫡男宮七郎(鑑種)を伴い豊前府
内への家督相続の許しの御礼と義鑑より元服させてもらう祝いのため府内城に参府した
。参勤に行く際、近在の衆からの餞別の品について古文書記載から、蒲池本家の蒲池鑑
盛は太刀一腰と銭1万文を上蒲池の蒲池鑑広は縞織物2端を、蒲池伊豆守・蒲池肥前守
・安徳氏(島原の安徳城主)・名和氏(熊本の宇土城主)など遠方からの贈答者もあっ
た。地元板橋氏が選別として砂糖3斤を贈っている。田尻氏が大友義鑑に贈った進物は
、太刀類二十一腰・馬二疋・征矢こう百・鷹の羽二・扇二・黄金半数・黄金杯一・和銭
千疋・嶋織十五端・北絹五端などで、府内の重臣・恩顧の人々にも多彩な贈答品をあげ
ている。「参府日記」には親種一行が義鑑および家中関係者に対して鷹尾周辺地域での
栽培された木綿のほかに中国船やポルトガル船によって東南アジア、南アジアから日本
に輸入された大量の「嶋織」「嶋木綿」を贈っている。これは16世紀中頃以降、東南
アジア、南アジアから日本に輸入された木綿布で、左の地域からもたらされたことから
「嶋渡り」の木綿、「嶋木綿」と呼ばれたとみられる。染め糸による鮮やかなストライ
プが織り込まれており、上質で珍重されたが、ここに既に海外貿易があった事を示して
いる。その後秦仙寺と言う名前も 秦家の影響ないしつながりでこの地があった事を示
している。二つ河も全く同じに島町は川の中の中州状態の島だった。福岡の文化調査は
全く馬鹿の様に勘違いした遺跡調査をして、柳川市の勝手な工事は止めない。


1179: 名無しさんAA:18/03/26 15:25
富安君を探せ              < その153 >

 田尻氏の本拠となった鷹尾城は、有明海に面し、その上流の瀬高は、明国人・鄭若曾
が編纂した『籌海図編』(ちゅうかいずへん)にもみえる港町であった、天草・島原方面
との交易をおこっており、中世住居遺跡から出土した「青磁・白磁」や府内参府日記に
書かれた「嶋木綿・嶋織」などの輸入品が調達されており日明貿易・日朝貿易・南海貿
易(勘合貿易)によってもたらされるた舶来品を取引してた事が判明しているのだが。
『籌海図編』(ちゅうかいずへん)とは、中国の明代・嘉靖41(1562)年に地理学者の鄭
若曽が著した日本研究書である。13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島や中国大陸の
沿岸部や一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した海賊、私貿易、密貿易を行う
貿易商人の事を、「倭寇」と呼び日本では五島列島や薩摩を主な拠点として活動してい
た。その首領として有名なのが、中国人の王直なのだが、王直は日本の五島列島や平戸
に本拠を置き、東シナ海を縦横無尽に活動していた。と言われている。天文12年には
(1543)ポルトガル人が種子島に鉄砲を伝えた時、このポルトガル人達を船に乗せ
て案内したのが王直だったとされる。1500年代に「後期倭寇」の中国人を主な構成
員とした略奪や密貿易を行う集団の活動が始まると、中国の明政府は激しく沿海地域の
海防強化を迫られた。こうして嘉靖35(1540)年に、海防責任者に任命された胡宗憲の
配下にいた地理学者鄭若曽が日本島夷入寇之図では倭寇の侵入路を画き研究している。
王直は明政府の海防責任者・胡宋憲の計略にかかり、1559年に処刑された。王直は
あだ名で本名は汪徽(おうとう)と言い、徽王や老船主とも称したとされる。徽州歙県
(きしゅうきゅうけん、安徽省黄山市)に生まれた任侠の徒であったと言われ、若い頃
塩商を手がけ失敗するも。明が海禁政策を行うなかで葉宗満らと禁制品を商う密貿易に
従事した。双嶼(リャンポー、浙江省寧波の沖合い)港を本拠地に活動していた許棟、
李光頭の配下となり東南アジア・日本の諸港と貿易を行い、博多商人と交易して日本人
との信任を得た。1548年、密貿易を取り締まりで双嶼を攻撃すると、逃れて海賊集団を
組織し、浙江省舟山諸島の烈港を本拠に徽王と称し、徐海と並ぶ倭寇の頭目となった。
度重なる明の海禁政策で取締りを逃れ、1540年に日本の五島に松浦隆信に招かれている
1542年には平戸に移った。地方官憲の郷紳らと通じ、養子や甥の王汝賢ら幹部に密貿易
を拡大。 明の河川や沿岸地域に詳しいために倭寇の代表的な頭目となり、明の嘉靖32
年(1553年)に三十七隻を率いて太倉、江陰、乍浦等を寇し、同年8月に金山衛、崇明
に侵入した。その後度々海禁解除を主張し、管理貿易の官位の誘い舟山列島の港へ入港
し、1559年12月に王直は捕えられて処刑された。

1180: 名無しさんAA:18/03/27 11:32 ID:YYM
富安君を探せ              < その154 >

もし、瀬高の庭園造りに来るのであれば、天文19年(1550年)の京都妙心寺の住職就
任以降であろう。九州では、豊後守護・大友義鑑(おおともよしあき)が家臣に襲撃され
2日後に死去し、大友二階崩れの時である。6月平戸(ひらど)にポルトガル船が初来航
している。母方の興津氏は横山城を本拠に海運を掌握し海賊(水軍)も率いていた事か
ら田尻氏や奏氏や宗家と何等かのつながりがある可能性がある。不思議な事は大阪近郊
の摂津国池田で、にわかに植木・園芸業が盛んになっていることだ。ここは瀬戸内海航
路の起点で、淀川・大和川水系との結節点でもある難波津があり、津国(つのくに)と
呼ばれていた。鎌倉時代に、東大寺の重源が中絶していた大輪田泊の修築事業に乗り出
し、やがて兵庫津(ひょうごのつ)と呼ばれて国内第一の港として発展し、室町時代に
は日明貿易の拠点となっていた。室町時代からは、摂津の守護職管領として代々細川氏
が世襲している。しかし細川氏を牽制する意図から室町幕府は国内各地に分郡守護を設
置していた。このため、室町時代初期は各所各自の自治が行われ安定していた。分郡守
護が置かれていた所は細川氏の支配から欠けていたため、欠郡(かけのこおり)と総称
された。欠郡は嘉吉の乱後に細川氏の支配下に入るが守護家である宗家(京兆家)では
なく、庶流である典厩家が支配するなど異なる支配体制が取られていた。典厩(てんき
ゅう)家とは官位を持つ歴代当主の事でその中には武田氏や細川氏がいた。つまり宮家
の独立地域で幕府の及ばない貿易活動をしていたものと考えられる。平安時代末期に、
日宋貿易を重視した平清盛は大輪田泊(神戸市兵庫区)に着目し、湊の前面に人工島(
経が島)を築いて安全な碇泊地を設けようと、私費を投じて修築工事を行なった。大輪
田泊を見下ろす山麓に福原京を築き、平安京からの遷都を強行した。しかし11月には
又、京に還都となってかなわなかった。しかし東大寺の重源が大輪田泊の修築に乗り出
し、やがて兵庫津(ひょうごのつ)と呼ばれて国内第一の港として発展し、室町時代に
日明貿易の拠点となったのである。だが多分この港を使えなかったのが九州勢であろう
。すぐ後に大友が南蛮貿易に着手している事から、その視察なり偵察にこの雪舟は来た
のだろう。そしてその理由が 清水寺の庭造りであったとも考えられる。臨済宗の地位
というのはそうした事を可能にさせ、又その時になって水軍を従える力を持ったとも、
考えられる。

1181: 名無しさんAA:18/03/27 11:40
富安君を探せ              < その155 >
 こうして海外貿易の利権の争奪戦が過去に日本国中で起こって、戦国時代になったと
言う事実は、あんまり特別の事とは歴史家は見ていない。しかし九州爭乱の理由は京の
都のこの利権争いが権力争いになっていた事で九州に波及して、その中で海外からの侵
攻が襲った。これが日本の歴史の中枢にある。その拡張を目指したのが豊臣秀吉であり
そして終止符を打ったのが徳川家康であったのだ。しかし諦め切れなかったのが黒田氏
だった。黒田家には黒田騒動(くろだそうどう)と呼ばれる、福岡藩のお家騒動がある
。栗山大膳事件(くりやまだいぜんじけん)ともいわれる。伊達騒動、加賀騒動または
仙石騒動とともに三大お家騒動と呼ばれている。他の御家騒動では処分時に死者が出て
いるが、黒田騒動ではお預けなどはあったものの、死者は出なかったお世継ぎ騒動だ。
黒田如水の孝高は名軍師として名を挙げ、常に秀吉の側近くにいて豊前中津12万石の
大名となったが、秀吉が没すると家康に即座に乗り換えて、孝高の子の長政は関ヶ原で
調略でも武力でも大活躍し、家康から「忠節を感謝し、徳川家は黒田家の子孫を粗略に
は扱わない」との感状を得て、長政は関ヶ原の功で一躍筑前福岡で50万石余りを得て
、国持大名となった。長政が死去すると、その子の忠之が跡を襲ったが、この忠之の時
に黒田騒動が起きる。長政は生前に長男忠之の狭器と粗暴な性格を憂い、三男の長興に
家督を譲る。と決めて忠之に書状を送った。書状の内容は、@2千石の田地で百姓をす
るか、A1万両を与えるから関西で商人になるか、B千石の知行で一寺建立して僧侶に
なるか、を選べという非常に厳しいものであった。これに後見役の栗山大膳は、辱めを
受けるのなら切腹をとの対応を忠之に勧めた。それらの意志がないとみると、忠之をす
ぐに謹慎させ、同志を糾合して忠之廃嫡の事を改める確約に、600石以上2千石未満の藩
士の嫡子たちを集め、長政に対して廃嫡を取りやめなければ全員切腹すると血判状をと
った。この事態を重く見た長政は嘆願を受け入れ、大膳を後見役に頼んだ後に死去した
。こうして大膳は忠之に諌書を送ったが、これが飲酒の心得や早寝早起きなど子供を諭
すような内容だったため忠之は怒り狂ったとされる。十太夫は、小姓で眉目秀麗な忠之
の男色相手である。この頃の武士世界は男色は常識化で異常ではなかった。ただ忠之の
傾倒が異常だった。黒田家での栗山家は、播磨時代からの家柄で、大譜代や中津時代の
取立てを古譜代、福岡に入部後の取立てを新参と呼んで区別する中では、秀吉に仕える
前からの最古老で忠誠の功労者だった。栗山善助は譜代衆の中でも大きく、今日の黒田
家は栗山善助のおかげと言っても決して言い過ぎではないほどであった。数々の功労の
中に黒田家の恩人になる事件も多々あった。しかしそれは又煙たい存在でもあり、また
、新たな平和期には家柄家老の能力が低く、新たに有能な重臣を据えるに壁となった。

1182: 名無しさんAA:18/03/27 11:41
富安君を探せ              < その156 >

十太夫が小姓になった頃、倉八家の加増を受けていて千5百石くらい得ていた。十太夫
が忠之の小姓になると加増に次ぐ加増を受け、最後には9千石にまでなっていたという
。忠之が十太夫をいかに寵愛したかという話だ。十太夫はやがて家老職になるのだが、
十太夫が家老になった直後に大膳の父備後が死去した。栗山家には備後が如水から拝領
した合子の兜と唐皮威の鎧があった。どちらも如水が着用したもので、如水が死去する
ときに「この兜と鎧を我と思って長政をよろしく頼む」と付言した由緒あるものであっ
た。忠之はこの兜と鎧を大膳に返せと言ってきた。黒田家にとって由緒ある宝を備後な
き今、他家で私蔵するのは忍びないという理由であった。大膳はおかしいとは思いつつ
も、忠之の言うことにも一理あるので、これを返した。すると忠之は兜と鎧を十太夫に
下賜してしまった。十太夫も既に家老職にあり9千石の大身で、それなりの家宝も必要
であるとの理由であった。これを聞いた大膳は激怒した。十太夫の屋敷に自ら乗り込み
兜と鎧を奪い返して、本丸の宝物庫に入れてしまった。これだけのことをやるのに大膳
は一言も忠之に断らず、事件を聞いて忠之は一言も大膳にこのことを持ち出さなかった
という。嵐の前の静けさのような不気味が漂った。ただ十太夫は俗悪な奸臣ではなかっ
た、この事件のときも大膳の剣幕に押されたとはいえ拝領した兜や鎧を返しているし、
そのことを忠之に恨みがましく訴えた形跡もない。おそらく小姓上がりの人物が思いが
けなく出世し、精一杯肩肘を張って生きていた程度だろう。忠之と大膳が自分を巡って
対立している構図に辟易していたに違いない。又俗説では、大船鳳凰丸の建造も十太夫
の甘言に忠之が乗せられたものとされている。幕府の許可なく大船を作ることは違法で
あったがそれを敢えてした。という事件だ。このことは許可を受けていたともいうし、
よしんば許可を得なかったとしても十太夫ごときの責任ではなく、首席家老たる大膳の
責任である。ましてや大船の建造を首席家老が知らないはずはなく、のちに幕府が問題
にしていないことから見ても、許可を得ての建造であったと考えられる。しかし鳳凰丸
というのは藩政には何の役にも立たず、完全なる無駄使いとなった。その罪を十太夫が
着せられた可能性が高い。いずれにしても十太夫は奢り高ぶったのは事実ではあるが、
そんなに悪い人物ではなかった。十太夫は騒動が結着して高野山に追放されるが、その
後島原の乱の際には高野山を降り黒田家に陣借りしている。このことからも根っからの
悪人ではないことがわかる。一方栗山氏は大藩の首席家老ともなれば幕府の監視を受け
、その進退は藩主の一存では決められなかった。

1183: 名無しさんAA:18/03/27 11:52
富安君を探せ              < その157 >

 この寛永9年というのは肥後の加藤家が取り潰された時でもあった。加藤家は清正の
跡を忠広が継いでいたが、いわゆる豊臣系の大名であり、幕府にとっては取り潰したく
てしょうがない家柄であったと言う。もともと当時の幕府は、徳川家安泰の為には外様
大名はできるだけ取り潰し徳川氏に有利な配置というのが模索されていた。とはいえ全
く落ち度が無ければ取り潰せない。戦国期から3代目になると、次第にどこの藩でも綻
びがでて当主が平和の中で、狭器と粗暴な性格の当主が相次いで現れ、時の嫡子に異常
さがあって、家督争いや家老の派閥争いが起きた。それに目をつけ些細な落ち度を見つ
けては改易を行った。又時には落ち度を作らせながら、次々と家を御執り潰しとする政
策をも行い、幕府の中央体制に変えて行った。歴史解釈の中での加藤家の取り潰し理由
ははっきりせず、どちらかといえば落ち度を作って大げさに騒ぎたてた類の物であった
。それでもはっきりと加藤家は断絶した。この現実は、外様の黒田家も緊張を生んだ。
理由はどうあれ加藤家は取り潰される事になり、5月になると上使として老中稲葉正勝
が熊本に向った。この正勝というのは将軍家光の乳母春日局の子であり、したがって、
その力たるや大変なものであった。まもっとも他が行っても幕府の勅使で大変なものだ
が。正勝は5月下旬に黒田領内の遠賀郡山鹿を通過する。黒田家としても多いに機嫌を
取っておかなければならない。忠之は山鹿に接待の使者を出す事にして、正使に十太夫
を副使に黒田市兵衛を選んだ。十太夫は張り切って総勢350人という 大人数での山鹿に
入ったが、市兵衛の方はわずか38人という少人数だった。黒田家から挨拶の使者が来た
との報せに正勝は「倉八十太夫という名は聞いたことがない。黒田市兵衛は筋目のもの
と聞く。市兵衛だけを通せ」と言って、十太夫は会ってももらえず面目丸潰れとなった
。これに世間は噂は広がった。福岡に隣接する商人の博多の町では、話が絶えず寄十太
夫の話で冷笑になった。忠之は十太夫に箔を付ける為の行為であり、自分が冷笑された
も同然だった。忠之はもともと短気だったがこれはには逆上し、この話をしているもの
は見つけ次第に討ち取れと命じた。商人や漁師が討ち殺され、博多の町は一時期恐怖が
支配した。これらによって興奮した忠之は焚火の間に出て、黒田市兵衛らに大膳の邸に
行ってすぐに登城するよう申し渡せと命じた。ところが大膳は病を楯にして動かない。
これを聞いた忠之はますます逆上して意地でも登城させようとする。何度か使者が往復
し、つにに埒が明かないと見ると忠之は自ら大膳の邸へ押しかけると言い放つ始末だ。
老臣の井上道柏と小河内蔵允が急遽まかり出て、なんとか忠之を宥めた。この騒ぎの翌
日に大膳は剃髪し、さらに夫人と二男の吉次郎を人質に出した。

1184: 名無しさんAA:18/03/27 11:53
富安君を探せ              < その158 >

 寛永9年(1632年)6月15日、先日の騒ぎの翌々日、大膳の邸から飛脚体の者が出て行っ
たが早速目付が見つけて捕らえ、調べてみると懐中から大膳の書状が出てきた。宛名は
豊後府内城主竹中采女正で、「忠之が謀反を企み、それを諫言したところ不届きとして
成敗しようとしている。ここに至って、この大膳は公儀一途に思い、忠之を訴えること
にした。」と言う、とんでもないことが書いてあった。竹中采女正は全九州の目付役で
あり、いってみれば九州探題とも言うべき立場にあった。飛脚は取り調べに対しては、
昨日も竹中采女正のところに飛脚が立ったと述べた。これで大膳の処分は勝手にできな
くなっていた。それは処分をすれば公儀に対して罪を認める事になるからだ。訴えの内
容が事実かどうかは別として、公儀の裁決を仰がなければならない。となっている。こ
の頃キリスタン禁教令は日々強くなっていた。一六二五年冬、長谷川権六が江戸に上っ
たが帰途に着けなかった。長崎の宣教師イエズス会のベント・フェルナンデス神父は、
次のように書いている。「奉行は、町の人々に以後洗礼を授けることを禁じ、キリシタ
ンの祝日を知らせることも信者のしるしを示すことも禁じました。すべては神の御慈悲
に委ねられています。」とつまり布教出来ずに既に手も足も出ない状態になっていた。
ベント神父が恐れていた嵐は予想したよりも厳しかった。長崎には権六の代わりに家光
は忠実な旗本水野河内守を送ってきた。水野は奉行としての二年間(一六二六〜二八)
だけでだったが、家光の威光と権力を十二分に生かした。それまでしっかりと根付いて
いた長崎のキリシタンの組織を潰すことに成功した。踏み絵や拷問こそ無かったが、指
導者的信者を追放した。キリシタンの名主達はことごとく江戸に送り、小西行長と高山
右近の旧臣達はマカオに追放したのだ。続いて、信仰を棄てない一般の市民にポルトガ
ルとの接触を禁じた。この事で貿易に関与することを禁じると同時に町から離れること
も許さなかった。この二つの方法によってもう一つのことに成果をあげた。それは残る
わずかな宣教師にとって宿を見付けることがさらに困難になった。長崎と大村の市内で
は宣教師の殉教が目立っている。イエズス会の管区長フランシスコ・パチェコ、フラン
シスコ会のコミサリオ、フランシスコ・デ・サンタ・マリア、ドミニコ会のドミンゴ・
カステレッテがそれである。自殺を禁じたキリスト教に宣教師自ら殉教で死んだのだ。

1185: 名無しさんAA:18/03/27 12:12
 しかしこれが生ぬるいと思ったのか、幕府は老中土井利勝の時代となり急に竹中重義
(しげよし)を送った。通称竹中采女正(うねめただし)で豊後府内藩2代藩主となり
。初代藩主・竹中重利の長男で後を継いだ。豊後府内は大友宗麟の趣向でキリスタンが
多くいたが彼は容赦なく弾圧してその名をとどろかせていた。一六二九年水野が江戸に
戻り、竹中采女正が代わって長崎奉行となった。竹中は豊後府内の大名で悪名高い奉行
は至って簡単に弾圧した。豊臣時代の名将竹中半兵衛の養子の子で、堕落した私生活に
加えて野心家であり、残忍な性格を合わせもっていた。キリシタンを根絶するためには
丁度いいと家光が竹中を起用したのだろう。重義は、「踏絵」を初めて行いキリシタン
弾圧に非常に熱心に信者を火炙りや穴吊りなど苛烈な公開拷問を行っていた。彼がそれ
にうってつけの人物であることを知っていたのは不思議だが、それだけキリスタンにの
動向は徳川幕府の課題だったのかも知れない。水野が開いた道をさらに進んで、残酷な
拷問を行うようになって恐れられる存在であった。特に宣教師達に信仰を棄てさせるこ
とは主眼としてキリスト教は崩壊した。有馬藩では、徳川家光の圧力によって迫害者と
なっていた松倉豊後守と手を組んだ形だったが、多くは落ち延びていた。だが彼の出現
で遂に手中に落ちた宣教師は多数いた。宣教師アントニオ石田、バルトロメ・グティエ
レス、ヴィセンテ・カルヴァリオなどを、一六三一年十二月、数日間にわたって雲仙の
地獄で熱湯責めを行った。、全員がその責め苦に耐えて長崎に戻った。牢内で九か月間
留置され、西坂で一六三二年、火あぶりの殉教を遂げた。これは大きな禍根を残した。
采女正のもう一つの失敗は、同年西彼杵半島に見られた。それは、トマス・デ・サン・
アグスティノ金鍔(かなわに)のことであった。金鍔は采女正の奉行の馬丁(ばてい)
として働いた後、外海(そとみ)の山中の洞穴に身を隠した。数百名の役人が西彼杵半
島を面高から時津まで徹底的に探索したが、金鍔を見付け出すことができなかった。同
じように幕府側内に密偵をつかっていたからだ。それにひきかえ竹中采女正自身はつい
に家光の手に落ちた。弾圧の陰に隠れて密貿易をしていたのが明るみになったのだ。こ
れが切腹になった直接の理由で、しかも息子を巻き添えにした上、命を助けられた親族
も隠岐に流されてしまった。ここにマニラとの密貿易が将軍の耳に達する。家光は采女
正を解任し、切腹を命じた。こうして、幕府側の隠密とキリスタン側の密偵と長崎奉行
の手下と有馬藩の藩下の下人たちと、情報や諜報が図られていた。中でもキリスタンの
中には沖合からのバラモン教の奴隷のインド人たちすら泳いで来て助けを乞う有様とい
う伝説もある程だが、この重義の切腹は三年後の天草四郎の乱に集結を見る事になる。

1186: 名無しさんAA:18/03/27 12:37
富安君を探せ              < その161 >

忠之の取調べはこの18日と翌寛永10年(1633年)3月4日の2回行われているが、もともと
事実無根の訴えだからボロの出ようがない。徳川幕府もこの黒田藩問題と同じように、
新旧の交代を考えていたと考えられる。つまり捕えたかったのは生粋のキリスタン大名
だった黒田 長政(くろだ ながまさ)の方であり、息子がもし政権転覆や幕府批判のあ
る普通の知将で心ある城主なら、少しは幕府に報告がなされたかも知れない。だが黒田
家は先代から親子にそういう深い繋がりのない家訓の中にいた。さすがに徳川家康時代
の功臣は処罰できないし、ここ息子に至っては親を憎みや恨みも尊敬もない自立した、
当時としては異様な藩で田畑が無い中でも財政が良くも悪くもない藩だった。さらに、
忠之は暗愚ではないから 返答もなかなか見事であり、老中らも感心したという話だ。
こうして、もともと黒田家に対しては将軍も老中らも好意的であり、取り潰す気などは
毛頭なかった。と言うのが本音だったのかも知れない。この時立花山に米を送っていた
柳川の豪士が見つかり報告によって、田中氏によって橋本柳河刑場での斬首にされた。
この時幕府の狙いは、それはキリスタンの徹底排除であろう。しかし福岡市中には全く
といっていいほど居なかった。と言うのが本当のことであろう。一方、大膳の方はこの
年の正月10日に江戸に入っていた。君臣の対決が予定されたが、これには忠之が反発
した。「君臣の対決など古来から聞いたことがない。臣下と対決するような不面目なこ
とは忍びがたく、疑いあらば切腹して果てるのみ。」と毅然として言い切ったという。
これには列席の老中らも申し出でもっともということになり、君臣の対決はなくなった
。3月11日になって大膳と黒田美作、井上道柏、小河内蔵允らとの対決が行われた。
大膳は弁舌を駆使して黒田家の重臣らと対決し、ときにはやり込めた。だが所詮は事実
無根の訴えであり、状況証拠やこじつけ的なものばかりである。聞く側にも大膳の訴え
は事実無根というのが明らかだった。大膳対黒田家重臣対決の翌日の寛永10年(1633年)
3月12日、大膳一人が井伊家の邸に呼ばれた。ここで大目付から大膳に対して「謀反
の訴えは偽りと認む。なぜ事実無根の訴えをしたか。」と問い詰められた。大膳は涼し
げな顔で「忠之が諫言を聞かぬため、このままでは取り潰されかねないと考え、計略と
して訴えを起こした。さすれば忠之は成敗かなわず、公儀の面前で悪政を申したてられ
、深く反省することになろう。」と述べたという。さらに裁判の最初からこのことを申
し出れば、さほど苦労なく育った忠之の心根は改まらず、また諫言一つしない重臣ども
も無事に済んでしまうとも申し述べた。これを聞いて老中らは一様に感心し感動したと
いう。

1187: 名無しさんAA:18/03/27 12:48
富安君を探せ              < その162 >
3月16日に忠之は重臣らと供に酒井雅楽頭の邸に出頭を命ぜられた。忠之に対して、
「はなはだ仕置よろしからず。また君臣遺却の段、不届きにつき領地を召し上げる。さ
りながら代々忠節を尽くした家であり、筑前の国を新に賜う」という裁決が言い渡され
た。早い話がお咎めなしである。一方、同日大膳も井伊家の邸に呼ばれ、南部山城守へ
お預けの処分が言い渡された。ただし終生150人扶持を与えられ、4里四方お構いな
しという破格の処遇であった。大膳は南部家でも大切にされたという。しかし、もう一
人の役者倉八十太夫は高野山へ追放されたが、島原の乱が起きると山を降りて黒田家の
陣に加わったという。これが黒田騒動であるが、結末を見ても明らかなように悪者が一
人もいない。その裁決は減転封や切腹などがなく陰惨なものではない。唯一倉八十太夫
だけが追放されたが、本人は追放されなかったとしても黒田家にはいられなかったろう
。ただ江戸時代福岡藩では評判は悪く、栗山姓は福岡では名乗れなかった。主君を貶め
たということで評判を落とした例の読本までていた。長政が大膳に預けた家康の感状は
結局使われないままになった。この感状は黒田家家臣の梶原某に預けられ、のちに六代
藩主継高に献上されている。忠之の我儘は強く大膳つまり藩主と筆頭家老の仲が険悪と
いう構図で、大膳が忠之に謀反の気配ありと訴えでて、幕府の評定が行われる結果を生
んだ。と言われている。だが果たしてそうだろうか。大船の建造の鳳凰丸の存在だった
のではないだろうか。藩政には何の役にも立たず、完全に無駄使いであったとされるが
そうだろうか。黒田如水こと官兵衛は関が原の戦いで藩の金庫を開けてへそくりで雑兵
を雇い次々に近所の城を盗った。関ヶ原の合戦の後、徳川家康はまず長政に勲功として
豊前国中津12万石から筑前国名島(福岡)52万石への大幅加増移封をした後、井伊
直政や藤堂高虎の勧めもあり、如水にも勲功恩賞、上方や東国での領地加増を提示する
が如水はこれを辞退し、その後は中央の政治に関与することなく隠居生活を送った。と
される。これは一体と思う。つまり、黒田如水は本当に領地が欲しかったのだろうか。
天下は欲しかっただろう。しかし徳川の加増に辞退したのは良地でなかったからだと思
うしこれ以上増えて徳川に睨まれる事が嫌だった。と考えられる。そしてこの金庫を空
っぽにした責任を息子から問われた筈だ。こうして親子の断絶の中を過ごしただろう。
そして孫は自らの君主の貿易を考えたのではないだろうか。先の跡継ぎの時僧侶か百姓
か商人かと問われた時、商人を考えたのでは無いだろうか。更にこの福岡城建設には、
河伯伝説がうろついている。昼の建設の後夜にカッパが作業したと言う物だ。更に親の
黒田長政は、父の孝高と同じく部類のキリシタン大名であったが、棄教した。この船や
その出来事はその頃の話である。

1188: 名無しさんAA:18/03/27 12:54
富安君を探せ              < その163 >

 つまり 私は大勢のキリスタンや宣教師が博多にいた筈だ。と思っている。ここでは
全く そうした長崎のような悲劇の痕跡は伝わってはいない。つまりは、この船で逃が
したのではないか。と推測する。この船も忠之が作った事にしてるが忠政が作り、別に
遠くの中国や明やベトナムやフィリピンでなくとも、近くの小島や天草或いは壱岐の島
ぐらいでもともかく目立たせなくすればいいと思ったのでは無いだろうか。如水が勝手
に藩の金を使った様に、長政も勝手に船を作った。こう考えていいのでは無いだろうか
。忠之が作った船と噂されても本人は身に覚えが無かった。これが真相ではなかったか
。更に家老大膳は堅物でその責めを負わされる前に一芝居打ったのではあるまいか。も
しも竹中采女正が長崎の様に キリシタン弾圧を行い大勢の宣教師が市中を繋がれ拷問
にでもかけられたら、多分に博多商人の南蛮通商は無くなってしまう。いや、それより
居留する他の外国人のルソンやチャンバンや明の行商人すらもいなくなる。と考えた筈
だ。農地の少ない福岡藩にとっては通商の停滞は致命傷なのだ。壱岐の宗家は朝鮮征伐
以来人口が激減していた。特に男は1〜2割になっていたのだ。これでは外敵が来たら
対抗できない。これは福岡にしてもかなりの危険がある。と判断したと思う。そこで、
キリスタンでも落武者でも、区別なく受け入れた。しかし、こうした戦国時代後処理の
問題は黒田藩のみではない。お隣の佐賀藩でも起こっている。有名な化猫騒動である。
沖田畷の戦いで龍造寺隆信が敗死し、龍造寺政家が病弱だったため、国政は隆信の義弟
の鍋島直茂が掌握し、天正18年(1590年)には豊臣秀吉により、政家は隠居させられて
家督は嫡男の龍造寺高房が相続した。秀吉の死後も、徳川家康は龍造寺氏を無視した。
鍋島氏の肥前支配を承認し龍造寺高房は名目上の国主でしかない立場で、家康の監視下
に置かれた。絶望した高房は精神を病み、江戸桜田屋敷で妻を刺殺した後、自殺を図る
。家臣がこれを寸前で食い止め、医師が治療したため命を取り留めるも、その後妻の亡
霊にも悩まされるようになり半年後には他界した。又父である政家の心痛は深く、これ
に生来病弱な体が耐え切れず二ヶ月も経たず後を追ったのである。高房の後継者として
龍造寺を差し置いて家臣達は功臣として鍋島直茂の嫡男・勝茂を推挙し、幕府もこれを
承認し、鍋島氏が国主の佐賀藩が成立した。ところがそれから、無念の死を遂げた高房
の遺体は、江戸で火葬されたにも関わらず、泰長院に葬られた後には、高房の亡霊が白
装束で馬に乗って現れては、夜中に城下を駆け巡るようになった。という噂が立つよう
になった。更に、高房がかつて飼っていた猫が化けて出て、直茂・勝茂に復讐を企てた
が鍋島氏の忠臣によって最終的には退治されるという化け猫騒動の筋書きが起こった。

1189: 名無しさんAA:18/03/27 13:06
富安君を探せ              < その164 >

 しかし、なぜ龍造寺氏は知行に至らなかったのだろうか。実は、家督が嫡男の龍造寺
高房が相続した時、秀吉は高房に所領安堵の朱印状を与えている。しかし、同時に鍋島
直茂にも4万4千石、その嫡男である鍋島勝茂にも7千石の所領安堵を認めている。つ
まり鍋島氏は龍造寺氏の家臣でありながら、別に大名並の所領を秀吉から承認されて、
同時に国政の実権を握っていたことになる。また家督相続には高房の子・龍造寺伯庵と
高房の実弟・龍造寺主膳が生きていて。両者は当時は若年のため、無視される形で、伯
庵は直茂の命令で出家させられていたのだ。こうして寛永11年(1634年)、伯庵と主膳
は幕府に対して龍造寺家の再興を嘆願した。この訴訟は寛永19年(1642年)まで続けら
れたが幕府は認めず、伯庵を会津藩の保科正之に預け、主膳は大和郡山藩に預ける処分
を下し、事実上、龍造寺家再興の道は絶たれた。こうして実権を奪った直茂は元和4年
(1618年)6月3日に81歳で亡くなったが、直茂は耳に腫瘍ができ、高齢ながら大往生と
はならず激痛に苦しんだ上での半ば悶死となった。佐賀県は肥前国の東半分に当たる地
域で、江戸時代は南部を佐賀藩(35万7千石)、北部を唐津藩(6万石)が統治している
。つまり41万7千石だ。唐津と鍋島の12万石を引いても28万石近くの土地を幕府
は管理したかったのである。佐賀藩は慶長7(1607)年、鍋島勝茂を初代藩主以降は、
筑後川の堤防を築き、佐賀平野での新田開発を熱心に進めた結果、実質の石高は70万
石以上に達していた。九州でも有数の大藩となる。支藩が多かったため財政難に悩まさ
れましたとされ、江戸時代後期にやっと鍋島直正が藩政改革に着手し財政改革ができた
。それも陶磁器と鍋島織の輸出によってである。その後西洋技術を導入して日本初の鉄
製大砲を建造するなど軍備を近代化し、明治維新の際には新政府の成立に大きく貢献し
た。この化け猫伝説では「ある時、2代目藩主・鍋島光茂の碁の相手を務めていた家臣
・龍造寺又七郎が、光茂の機嫌を損ねたため惨殺されてしまい、又七郎の母は恨みを口
にしながら自害する。この時に母の死体から流れた血をなめた飼い猫が化け猫となり、
側室・お豊の方を食い殺して乗りうつり光茂に近づきます。それ以降、家臣が発狂した
り、奥女中が惨殺されたりと、さまざまな怪異が発生。光茂も苦しめられますが、最後
は忠臣が化け猫を退治して佐賀藩を救う」という話となっている。実は佐賀藩には他藩
にある鉱山がない。ところが陶磁器の絵付けには色や火の技術が必要だそこで柿右衛門
を八女から連れて来た。と言う話である。当時朝鮮征伐からの陶工の連行は立花氏しか
連れて帰らなかったと伝えられている。しかし閉門蟄居で佐賀に送ったと言われる。

1190: 名無しさんAA:18/03/27 13:17
富安君を探せ              < その165 >

もう一つの伝説は、藩主は光茂ではなく父の勝茂とされ、化け猫が姿を変えた側室・お
豊の方に取り殺される寸前まで追い詰められます。しかし、鍋島家の家臣で槍の名手で
ある千布本右衛門がお豊の方の正体を見破って成敗。夜が明けると屋敷の庭には、槍で
突かれた傷のある大きな三毛猫の死骸があったと言う話だ。しかしこれには裏がある。
天保 1年(1830年)2月 鍋島直正は、先代藩主がフェートン号事件で長崎警備の怠慢
と言う事で不始末の責任で謹慎蟄居が下されて、その為第10代藩主となった。しかし
大砲を持った船を防備しろと言われても土台無理な話で肥前鍋島藩は素直に幕府に訴え
たが、重鎮の大老を始め家老達には何一つ聞き入れてはもらえなかった。落胆の上に帰
郷した直正は一人で独学に励んだと言われる。長崎奉行を通じて西洋書を買い入れ通詞
を探し、自らが船を調達しようとした。そうした長崎との交流において古伊万里から分
かれた有田焼の皿を売った。それが成功したのを期にをして大量生産を行うべく川内焼
を整備し型取り、絵付け、など分業体制にして大川内焼をつくり白磁の絵付けをお茶と
共に海外に売って利益を得たのである。この時はまだ田中義衛門を大阪から引き入れる
前である。その内鉄砲用の火縄の改良にアルコールに火薬を混ぜて紙に浸して作る事に
なるが、このアルコール蒸留に失敗して火事を起こした事があった。幸い奉公人の早い
発見でボヤ騒ぎで終わったが、その時に猫が舐めて酔っ払って死ぬ事件が起こっている
。これが多分化け猫騒動の起源であろう。更にその噂の元は庶民への厳しい税収にあっ
た。改易を免れたものの多大の出費でもあったし、その後も日本初の西洋大型船を発注
しているのである。そうした時の鍋島直正の奇行は正に庶民の批判の的になっていたの
である。西洋への輸出が順調に行き、八女からのお茶の栽培も嬉野で成功したが、それ
でも高い年貢は維持されたし、直正以前の帳簿上の赤字はそのままご破算にされたまま
で、出入り商人は多大な損失のままだったのである。このアルコール蒸留技術は薩摩か
らの嫁取りの為そのまま反射炉技術と共に鹿児島薩摩藩に渡った。それが芋焼酎の起源
になったとされる。鹿児島の反射炉は比較的近い雄岳から運ばれたが、佐賀の反射炉は
遠い諫早から運ぶ事になった。福岡にも有名な小長井石である。その為船で運ぶ事にな
り、海岸で船のつく場所しか作れなかった。そこに早津江漁港が選ばれたのである。そ
こが三重津海軍工廠跡とされている。ここが選ばれたのも簡単な理由だった。小森野を
グラバー卿に差し出して資金を得ていて 佐賀の西洋文化の入口だったからだ。普通に
よく唐津が玄関口と思われがちだが、諸富早津江が佐賀城からは近く、山を越えて行く
には難儀で遥かに長崎との交流も簡単だったからだ。

1191: 名無しさんAA:18/03/27 13:26
富安君を探せ              < その166 >

 鳳凰丸(ほうおうまる)は、幕末に江戸幕府によって建造された西洋式帆船とされる
。幕末に日本で建造された洋式大型軍艦のなかで最初に竣工し、浦賀造船所で1853年10
月22日に起工されたとされている。江戸幕府の建造所の最初の船とされているが、とん
でもない誤解である。これこそが、福岡藩の志賀島で隠れて作り、後に徳川幕府に接収
された船であったろうと思われる。その頃の浦賀は、それほど整備されていなく、さら
に砂浜地帯だったからその選定さえも幕府は苦労している。そこで白羽の矢がたったの
がこの鳳凰丸(ほうおうまる)で、当時現存する西洋船の一般モデルとして参考にした
のである。こうして1853年から浦賀は開発されて始めたのである。当時には、まだ
西洋帆船の図面もなく直ぐに出来るものではない。さらにその後直ぐ後に出来た洋式の
軍艦の、観光丸(外輪船)に次ぐ臨海丸などとは作りがかなり違っていて、洋式のスク
リューを装備する船としては初の軍艦であったとされる。スクリュー船は入出航時に主
に使用され、航海中は抵抗を減らすため水線上に引き上げる構造にするしかなかった。
それが帆船の鳳凰丸をモデルに整備されたからであった。勿論似た所もあるが、これは
鳳凰丸も古くなっていて、その作りを見る為の補修が行われたからだろうと推測される
。姉妹艦には朝陽丸(旧称エド号)及び電流丸(旧称ナガサキ号)があるが、これも又
間違いで、そも電流丸は、佐賀藩が買い付けて この三重津に入れた軍用船なのであっ
て全く日本製でなくオランダ製で発注船である。推測だが築地反射炉は佐賀藩10代藩主
鍋島直正がつくらせた日本初の実用反射炉なのだが、多分失敗している。多布施反射炉
も作っている。これらが何故失敗したか。実は、『ロイク王立製鉄大砲鋳造所における
鋳造法』に記されている手法に基づき行ったがその手法は、まず鉄鉱石を溶鉱炉で溶か
して銑鉄を作り、それを反射炉で再溶解して砲身を鋳造し、それから鑚開台で砲腔を空
けるというものであった。しかし、日本でこれを読んだ者の多くは、原料は、砂鉄を原
料とする日本在来のたたら製鉄で十分だろうという認識であったため、反射炉の築造が
焦点となった。ちなみに、そのような中で南部藩の大島高任は当初から溶鉱炉の必要性
にこだわり、釜石・大橋において日本初の高炉の本格操業に漕ぎ着けている。つまり、
三重津の反射炉が先に作られ砂鉄で銑鉄を作って、その後多布施に送りやっと鉄が出来
てそれを穴を掘るのに水車が必要となり築地反射炉を作ったと考えるのが妥当なのだ。
というも、その先行例もなく、佐賀藩は試行錯誤を繰り返し、一つ一つ難題を超えて行
った。からである。ところがこの佐賀藩の苦労は薩摩藩で花開き、効率的な反射炉の鉄
の運用がなされ 開幕前に完成しその後の日本の強制的な西洋化に間にあったのである。

1192: 名無しさんAA:18/03/27 13:27
富安君を探せ              < その167 >

 ではその前に日本の大砲はなかったのか。実はあったのだ。ただし砲身は中心には、
竹筒が入りその周りを鉄を張りその外側には泥を埋めて麻縄を巻いていたものだった。
同じ様に飛ぶのは飛ぶのだがおよそ3発ぐらい打てば日本製は中の竹筒を変える必要が
あった。つまり仕組みとしては関ヶ原の合戦の後には、広く知られていたのである。又
大きさも最大の孟宗竹の大きさ程度の玉しか撃て無かったのである。その後に割り竹に
鉄板を貼り寄せて輪っ苛で樽方式のものも出来てていたがそれでもそう多くの弾は撃て
無かった。又砲身も短く音の割りには威力がなく、飛距離も精度もなかったと思える。
従って、合戦時は音を出す空砲の役割で使われていたと思われ多くは勿体なくて使わな
かった。従って徳川時代になれば各藩共に無用の長物であったと思う。又少ない砂鉄か
ら巨大な鉄の弾を造るより数十の刀を作った方が利口でもあったと言える。こうして、
大砲の文化が廃れる中、火薬の文化や技術は残しておこうとした事で日本では花火とい
う世界で稀なエンターテイメント文化が生まれた。これは社会を変えた。江戸文化の中
で「火事と喧嘩は江戸の華」が花火とダジャレの文化に変わったのだ。そうした中で、
打ち上げ花火が出来たのだが、打ち上げ花火そのものが、そうした「手筒」と言われる
日本製の大砲の伝承であろうと考えられる。手筒花火(てづつはなび)は、豊橋の吉田
神社の手筒花火は1mほどの竹筒に火薬を詰め、それを人が抱えながら行う花火の祭典
である。手筒花火は、打ち上げ式ではなく吹き上げ式の花火で、その火柱は大きいもの
だと10数メートルにもなるという。この吉田神社が手筒花火の発祥の地とも言われる
が、豊川市の進雄神社が発祥の地ともいわれが、この地が三河地方である事で発祥の地
にはならない。「三河国古老伝」には「永禄元年(1588年)天王祭礼祀ノ花火ト云フ事
始メル」とあり、また「吉田神社略記」においては、「花火ノ創始ハ羽田吉田綜録ニ、
永禄三申庚年(1560年)今川義元公」の発案とされている。つまり少なくとも永禄元年
には火薬がこの地に売られて集積して来た。と言える。1288年当時の青銅製銃身が発掘
されたことで、モンゴル支配下の中国が火槍から銃へ装備を変えたことは明らかになり
、これまで銃は西欧発明と考えられてきたが、銃はモンゴル帝国を通じて、ヨーロッパ
へ伝わったとされる見方が有力だ。日本でも1274年の元寇襲来でも戦い火薬は使われて
いて当然1560の初期鉄砲があったなら日本は急速これを取り入れたはずである。


1193: 名無しさんAA:18/03/27 17:40
 ちょっくら寄り道    1

 我々現代に至ってはTVによって、かなり異様な説明が学者によってなされる。科学
分野では新たな発見で訂正されるが、歴史の場合はなかなかそうはいかない。伝承が切
れ、物証の紛失が激しく、時には体制側や保管側に無知も多く、不合理なものは排除す
る傾向と、さらに古代になる程由緒も多いが小さく粗末である事が結構多いからだが。
 ひとくちに神社と言っても神宮や大社など呼び名は様々にある。多くの神社の名称の
最後につく「神社」や「大社」(たいしゃ)という称号を社号(しゃごう)といいます
。これには理由があって 本流の大和朝廷の流れか山岳宗教の流れかと言う分別である
「神宮」「大神宮」「宮社」「大社」「神社」「社」の六種類があり、他に歳神を祭っ
た「明神みょうじん」「権現ごんげん」といった社号もある。これらはかつての神仏習
合で多くに変遷がみられる。現在では通称として用いられる事も多くその真意は変わる
事で不確かさはある。しかしこれらの社号は適当につけられているわけではなく、その
神社の権威や歴史、祭神さいじんの性質などに基づいていることが多くある、たとえば
、「神宮」のばあい、正式には「神宮」と呼べるのは伊勢神宮(三重県)だけとされる
。「伊勢神宮」は通称であって、正式名称は「神宮」なのだと江戸期以降はなっている
。又建物も神宮作りと言う側面を三本柱という大きな柱で屋根を支え、壁や梁は柱には
荷をかけない独特な作りとなっている。ほかの神社は「神宮号」を僭称(せんしょう)
しているのかといえば、そんなことはない。鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)と香取神宮(千
葉県香取市)などの呼称も古く、延長五年(927年)に完成した『延喜式』の神名帳には、
およそ2,861の神社が記載されている。つまりもともと神宮と神宮社は存在していたのだ、ただ今の神宮を称しているのは伊勢・鹿島・香取の三社だけでここに権威付けが行わ
れたのである。どのような基準で「神宮」という称号がつけられたのか判然としません
が、皇室とゆかりの深い由緒ある神社にだけ許されたものであるらしい。「宮」は格式
は高く、あまり数は多くないが、香椎宮(かしいぐう福岡県福岡市)・筥崎宮(はこざ
きぐう福岡県福岡市)・天満宮(てんまんぐう)・東照宮(とうしょうぐう)どがあり
、その多くは、特別の由緒ある人の呪い除けの斎木の神社にのみ許されたものの側面が
強い。「大神宮」は伊勢神宮の出張機関ともいうべき東京大神宮の社号であり、時の権
力者が統廃合を進め、地方に社殿の階級をつけて奉納(税金徴収)の仕組みのある物と
したのである。

1194: 名無しさんAA:18/03/27 17:40
 ちょっくら寄り道    2

 「大社」は地域の信仰の中核をなした大神社で、地方豪族の政権主体であった。つ
まり大和朝廷とは別の地方での中央集権の象徴神社である。出雲大社・春日大社・松尾
大社・日吉大社・熊野大杜・多賀大社・諏訪大社などがあるが、いずれも古代豪族の由
緒として祀ったものだった。しかし明治時代に制定された社格制度で、神社の格によっ
てつけられる社号がある程度決められてしまう。戦後には、この制度は廃止されたが、
これを機に社号を変更した神社も多くある。この時社号とは別に、神社の位を示すもの
が作られた。これを社格といいます。この社格には古くから制度があり、古代や中世の
ものと、近代の明治期戦時期のものがあり、名称が類似しているので注意が必要である
。古代の社格は「延喜式えんぎしき」神名帳に基づくものとされる。しかし『延喜式』
は延喜五年1905年に編纂が始められた法律執行細則集で、本来もっと古くからあった。
そのなかの神名帳は朝廷から由緒正しいと認められた神社が記載されて米などの朝貢が
強制された。つまり、『延喜式』に記載されたということは、朝廷公認の神社とされた
ということであり、名誉あることとなっていた。こうした神社を式内社(しきないしゃ
)という。式内社は大きく官幣社(かんぺいしゃ)と国幣杜(こくへいしゃ)に分けら
れ、官幣社は中央から派遣された神祇官(じんぎかん9が直接管理をおこなう神社であ
り、国幣社は各地の国司(こくし)が司る神社であって地方豪族の荘園の奉納がなされ
た。官幣社・国幣杜はそれぞれ大社(たいしゃ)小社(しょうしゃ)があるが、これは
神社の規模や祭神の重要性などから決められた。すなわち、官幣大杜・国幣大社・官幣
小社・国幣小社・式外社の五つのランクに全国の神社は分類されて都の食料供給がなさ
れた。ちなみに、官幣大社は全部で198社ありました。その後には、これとは別に、
中世には一宮(いちのみや)制という物が行われた。これは管理が多くに出来た頃に、
境界の騒動が起こったからだ。各国ごとに一位の神社を定めるというもので、大和国は
大神神社(おおみわ)、摂津国は住吉大社、伊豆国は三嶋大社、信濃国は諏訪大社、常
陸国は鹿島神宮などが選ばれ、その境界を引く権限を持った。国によってはこれに準じ
る二宮にのみや・三宮さんのみやも定められ役場の働きをした。一方、明治に制定され
た近代社格制度は、官幣社・国幣社に分けるところは『延喜式』と同じに真似たが、そ
れぞれを大社・中社・小社の三段階に分けていました。さらにその下に別格官幣社があ
り、府県社・郷社からなる諸社をして分類した。

1195: 名無しさんAA:18/03/27 17:41
 ちょっくら寄り道    3

 ところが 飛鳥・奈良時代には 仏教が取り入れられた。この事は国民を疲弊させた
。つまり今まで自由に食っていた者が朝廷の下に租税の下に 苦役と税が徴収されたが
今度は仏僧が更に布施や寄進を強制したのである。そこで話し合いの上折り合いを付け
たのが聖徳太子だった。つまり仏教を朝廷が保護し、庶民に強制しない代わりに官使を
つけて調停すると言う事だ。それは飛鳥時代の開国政策だった。諸外国の宗教である、
慈悲や慈愛は日本にもあったが、稲作技術の普及や薬の調合や瓦や仏像或いは銅銭など
の導入は必要な仕組みだったからだ。庶民派の地方豪族物部氏は強く反対し、こうした
二重の租税の様な仕組みをやめるべきとして仏像排斥に訴えた。対して蘇我氏は古くか
ら渡来する新しいものに敏感で仏教崇拝も肯定する立場にあった。そもそも欽明天皇の
頃、つまり叔父が第29代天皇(在位539〜571年)は蘇我稲目の娘二人、堅塩媛
(きたしひめ)と小姉君(おあねのきみ)を妃とし、堅塩媛との間に炊屋姫(かしきや
ひめ)=後の推古、太子の父橘豊日皇子=後の用明天皇、小姉君との間に太子の母穴穂
部間人皇女、穴穂部皇子、泊瀬部皇子などの子を成していたが、既に蘇我馬子とは義兄
弟、父方からも母方からも太子の祖父にあたる事から、朝廷の天皇家の外戚が蘇我氏で
あり、ほとんど朝廷の意向は仏教崇拝であった。又仏教経典の転写は朝廷の仕事として
唐や隋の文化の取り入れの為の通訳養成に適していたのである。恐らくこの頃日本の中
の交通を制していたの秦氏であったと思われる。秦氏は新羅系豪族。秦は朝鮮語で「海
」を意味する。自出は秦国の逃避民であろう。秦国は統一から滅亡までの期間を紀元前
221年 - 紀元前206年 )を秦朝、秦代と呼ぶ中国南北朝時代の民だ。秦河勝は610年
新羅・任那使入京の際、導者となっている。この事からかなりの海外事情通だったと言
える。秦国は他国出身者を積極的に登用し、巧みな人使いと信義を守る姿勢で大きく覇
者となり、周辺の小国を合併して領土を広げて国力をつけた政権だ。政が実権を掌握し
た時、皇帝を冠位とした。過去の聖王である三皇五帝からとったもので、史記始皇本紀
は、大臣、博士たちが「古に天皇(テンコウ)、地皇、泰皇が有り、その内で最も貴い
泰皇を名乗りましょう。」と言ったが、始皇は「泰皇の泰を去り、古(夏、殷)の帝王
が名乗っていた帝を付し、皇帝と名乗ろう。」とした。とある。つまり中国さえ真似し
ようとした天皇を日本はいつの間にか真似たのである。




1196: 名無しさんAA:18/03/27 17:41
 ちょっくら寄り道    4

 通説では、『漢書』刑法志に、劉邦が関中に入った際、「法三章」を定めて治世を行
った。それは人を殺した者は死刑、人を傷つけた者と物を盗んだ者を罰するとしたもの
で、これまでの12章律(しょうりつ)の、前漢建国時に蕭何が定めた物を廃しての、
新法典「法三章」を定めて行ったとされる。こうして秦の過酷な法令を廃したが、世の
中の混乱は収まらなかった。その為蕭何が秦の法律の中から時勢にかなったものを選び
取って律九章を定めたとされる。更に時代が下り、唐代に編纂された『晋書』刑法志に
よれば、戦国時代の魏の李が定めた『法経』の6篇(盗・賊・囚・捕・雑・具)の行政
関係を主とした「事律」3篇(戸・興・厩)を蕭何が追加し、更に参夷(三族皆殺)と
連坐の罪を廃止して、部主(部下の犯罪で上司の監督責任を問う)と見知(犯罪の発生
を知りながら見逃した者)を罰する規定を設けて9篇にしたという。追加した3篇は戸
=戸籍・租税、興=建築・土木、厩=倉庫・厩舎のことであったとされている。なお、
同書が引用している『魏律(魏新律)』の序文では、ただ蕭何が6篇に3篇を加えたが
、本来最後に置かれる筈の具律も最後には移さなかったことが記されている。これらは
前漢・後漢を通じて最も基本的な法典の1つとして扱われ、儒家における経書に相当す
るということで、儒教の国教化に伴って儒家が司法の場に関わるようになったことも含
まれて、律経とも称されて多くの注釈が行われたが、南北朝の混乱のうちに散逸した。
つまりこの頃の法の基盤となっていたのである。これは日本にこうした法典の基盤がな
く漠然と捕縛や罪人を作っていた事を意味し、それを聖徳太子は明快にしたのだった。
 つまり、盗んだ者、殺した者拘束をした者追いかけ回した者嘘をついた者批判を挙げ
た者を犯罪者とした。更に戸数を改めて、戸籍と租税と労役と倉庫管理を決めたのだっ
た。ここに管理するためのものとして宮が置かれた。これが社であり府となった。江戸
期であってもこうした登録された人別帖は、神社から社寺に移って門徒管理をおこなっ
た。つまり荘園経営までは神社だったが、幕府が置かれてからは社寺となったのである
。と言う事は平安時代までは、神宮や社がそれを行っていたが、社寺に移行してからは
それが行われなくなった。悪党とは強い奴と同時に宮に届け出されない徒党であった。
と言える。


1197: 名無しさんAA:18/03/29 19:05
 ちょっくら寄り道    5

 基本的には日本では特に古代には家のない人も大勢いた。それで今の川縁での不法の
住民が大勢いたのである。大火でも震災でも不幸にも貴族でも家のない者になったのだ
。これではかわいそうだ、あるいは神社があったおかげで。などと言う事で寄進された
のが飛鳥時代以前の神社だった。こうした文化の中に朝廷が政治を行っていたのである
 元慶8年、文章博士菅原道真ら8名の有識者に「太政大臣の職掌の有無」が諮問され
た。8名の答申はさまざまで意見の一致を見なかったが、もっとも明確に結論をくだし
たのは道真の答申である。それは、太政大臣は「分掌の職にあらずといえども、なお太
政官の職事たり」というものであった。「令に太政大臣の職務権限に関する規定がない
のは、地位のみが高くて、実権のない官職だからではなく、太政官が管轄するすべての
職務について権限を有するために、あえて個別に例示する必要がないからだ。」という
のである。これを踏まえ、光孝天皇は同年6月に基経に対して、太政大臣は「内外の政
統べざるなし」との詔を発し、太政大臣が実権のある官職であることを保証した。しか
し、同じ詔で「まさに奏すべきのこと、まさに下すべきのこと、必ずはじめに諮稟せよ
、朕まさに垂拱して成るを仰がむとす」とも述べて、基経には太政大臣とは別の特殊な
権限があることも認めてながら、その方針をちゃんと言って行えと言った。藤原 基経
(ふじわら の もとつね)は、こうして平安時代前期の一般の公卿でも、摂政であった
叔父・藤原良房の養子となり、良房の死後、清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇
の四代にわたり朝廷の実権を握った。陽成天皇を暴虐であるとして廃してのち、光孝天
皇を立てて自らの身分に冠位を付けたのだった。関白・藤原基経亡き後の藤原氏にまだ
有力者がいなかったこともあり、宇多天皇は道真を用いて藤原氏を牽制した。宇多朝の
末期にかけて、左大臣の源融や藤原良世、宇多天皇の元で太政官を統率する一方で道真
とも親交があった右大臣の源能有ら大官が相次いで没した。寛平9年(897年)に藤原
時平が大納言兼左近衛大将、道真は権大納言兼右近衛大将に任ぜられ、この両名が太政
官のトップに並ぶ体制となる。7月に入ると宇多天皇は醍醐天皇に譲位したが、道真を
引き続き重用するよう強く醍醐天皇に求め、藤原時平と道真にのみ官奏執奏の特権を許
した。昌泰2年(899年)右大臣に昇進して、時平と道真が左右大臣として肩を並べた。
しかし、儒家として家格を超え大臣に登るという道真の昇進に対して妬む廷臣も多く、
昌泰4年(901年) 間もなく醍醐天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀
ったと誣告され、罪を得て大宰員外帥に左遷されるに至ったのである。

1198: 名無しさんAA:18/03/29 19:05
 ちょっくら寄り道    6

菅原道真が太宰府に配流(はいる)されて不遇のうちに死んだことはよく知られている
。「北の天神縁起」などによると、菅原道真が死んで幾月も経たないある夏の夜、道真
の霊魂が比叡山の僧坊に現れて、尊意(そんい。道真が仏教を学んだ師)にこれから都
に出没し、怨みを復讐ではらす決意を述べ、邪魔をしないようお願いをしたのだそうだ
。・・・・その後、道真の怨霊は暴れまくることになる。その後数年経った908年、
道真配流の首謀者のひとり藤原菅根(すがね)が54才でなくなったが、都では道真の
怨霊の祟りだという噂が流れたが、翌年、道真の怨霊はいよいよ核心に迫っていく。道
真左遷の張本人の藤原時平は、すでにこ病床にあったが、天竺渡来の妙薬も効き目がな
く、また陰陽師(おんみょうし)の祈祷の効き目もなかった。文章(もんじょう)博士
・三善清行(きよゆき)は、自分の長男であり当時都でもっとも有名であったかの浄蔵
(じょうぞう)に加持祈祷をさせることになった。ところが、4月4日のこと、清行が
時平のところに見舞いに来ると、道真の霊は、時平の左右の耳から二匹の青竜となって
現れ、次のように語りかけた。「無実の罪で配流となり、太宰府で死んだ私は、今や、
天帝(梵天・帝釈天)の許可を得たので、怨敵に復讐を加えようと決断をした。なのに
おまえの息子浄蔵は頻繁に時平を加持祈祷している。どうせ無駄なことだから、やめさ
せよ。」と言った。鬼神を操って冥界のことにも明るい清行は、即座に理解し、浄蔵に
時平邸からの退出を命じ、自分みずからも退出したのだが、まもなく時平の命は絶えた
という。時平の命を奪った道真の霊は、その後ますます激しさを加え、時平の子孫たち
を次々と死に追いやり、遂に923年、醍醐天皇の皇太子の命まで奪うに至る。そして
930年6月26日には、清涼殿(せいりょうでん)に落雷が起こった。これが凄かっ
た。昼すぎの頃、愛宕山の上より起こった黒雲はたちまち雨を降らせ、にわかに雷鳴を
轟かして清涼殿の上に雷を落とし、神火を放った。この結果、殿上の間に侍していた、
大納言藤原清貫は胸を焼かれて死亡し、右中弁平希世(まれよ)の顔は焼けただれた。
また紫宸殿(ししんでん)にいた者のうち、右兵衛佐美努忠包(みぬのただかね)は髪
が焼けて死亡、紀陰連(きのかげつら)は腹部が焼けただれて悶乱、安曇宗仁(あずみ
むねひと)膝を焼かれて倒れ伏すというありさまであった。この落雷で、天皇も病に伏
し起きれなくなったしまった。---おそろしや!おそろしや!---道真の怨念と噂された
理不尽な処置で人を死に追いやれば、その怨霊はその罪を犯した人すべてに報復を加え
、ついには最高責任者たる天皇をも殺しかねないのだという認識が当時の人々の間に、
すっかり定着してしまった。

1199: 名無しさんAA:18/03/29 19:06
 ちょっくら寄り道    7

 939年12月、かの平将門は新皇即位の儀式をするが、そのときにも道真の怨霊が
出てきて平将門をけしかける。と言う騒動になった。このように道真の怨霊は実に執念
深いのだが、人々の意識の変化とともに次第に怨霊の怨みもやわらいでいく。浄蔵の弟
・道賢は、わずか12才であったけれど、父清行の命で、・・・・吉野は・・・「役の
行者」ゆかりの金峰山(きんぷせん)に篭もり、父の死にも帰京せず26年間の修験道
に励む賢者の僧侶として名が知れ渡った。こうして道真の怨霊を鎮める為遣わされた。
文章(もんじょう)博士・三善清行(きよゆき)の長男であり、当時都でもっとも有名
であって、藤原時平の祈祷を青鬼の提言で辞めさせられた僧だ。この浄蔵に加持祈祷を
させることになった。オンボダロシャニソワカ・オンバサラダドバン・オンアビラウー
ンクハン・オンアメリタティー・ゼイカラウーンノウマクサマンダボダナンと祈祷は続
く。26年後やっと修験の効なって、「冥界めぐり」に成功したという。道賢は、道真
の怨霊の怨みを聞いてやる。神通力のある修験者に聞いて貰えれば道真の怨みもさすが
にやわらぐというものだ。となった。遂に、その後942年になって、道真の霊は多治
比のあやこという女性にご託宣を下し、道真の霊を祭らせる。天神の誕生である。こう
して北野天神社の創建へと繋がっていく。この御信託で北野天神社が創建されたのは、
946年である。こうして配所で薨去(こうきょ)された道真公の冤罪が晴れたことを
祝う明の祭は4月に行われた。このことから無実の罪に泣く弱者を救ってくださる神と
の信仰が生まれた。手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)は、奈良県奈良市に鎮座
する神社。手向山神社とも言うとされ。古今和歌集では菅原道真が「このたびは幣もと
りあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに」と詠んでいるという。しかしこの山もこの神
社も移転してここに来ている。何故なら天平勝宝元年 (749年)、東大寺大仏を建立す
るにあたって宇佐八幡宮より東大寺の守護神として勧請されて建てられているからだ。
八幡宮の分社では第一号であると言うが極めて疑わしい。当初は平城宮南の梨原宮に、
鎮座し、後に東大寺大仏殿南方の鏡池付近に移座したが、治承4年(1180年)の平重衡
による戦火で焼失、建長2年(1250年)に北条時頼が現在地に再建したとされているか
らだ。つまり当初の鎮座地とされる梨原宮の所在地は不明のままなのだ。

1200: 名無しさんAA:18/03/29 19:07
 ちょっくら寄り道    8
 ところが、不思議な事に手向山(たむけやま)は、北九州の小倉赤坂にある。高さ76
メートルの小さな山なのだが。小倉北区と門司区の境界に位置する山で、今は宮本武蔵
を顕彰する小倉碑文があることで有名だが、後年、宮本武蔵と佐々木小次郎ので有名な
決闘(巌流島の決闘)が行なわれたとされる場所だ。足立山系最北部に位置し、正面に
は関門海峡、彦島、巌流島などが見える。企救半島の付け根に位置し、小山ではあるが
企救半島と小倉平野を分断している。古くから見晴らしがいいので地政学上の要衝であ
った。明治時代は、関門海峡周辺の要塞化にともない、下関側の田の首砲台とともに、
要衝とされ手向山は最初に砲台の設置がはじまり、手向山は一般人の入山が禁止されて
。山は帝国陸軍下関要塞司令部によって1945年(昭和20年)まで管理されたほどだ。こ
の要地は古代では博多人と出雲人の交流し往来していたと考えられる。九州縦貫道の中
ではもっとも危険なカーブのある冨野パーキングエリアの古代の門司港の中心になった
とされる場所である。ここにある冨野と言う地名だが、ここで物々交換がされていた。
と考えられる。「たむけ」と言うのは九州弁で「ありがとう。」と言う見送りの言葉と
される。船の出港に手を振る辛い別れの様子である。もしここで菅原道真が「このたび
は幣もとりあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに」と詠んでいるというなら頷けるもの
が多々ある。急遽の左遷で九州下向してやっとここに着いて まずは地の神に手合わせ
した歌だった。とすればこの意味が解るのだ。内容が「今度の旅は急のことで、道祖神
に捧げる幣(ぬさ)も用意することができませんでした。手向けの山の紅葉を捧げるの
で、神様よ、御心のままにお受け取りください。」と言う意味だからだ。ここでも旅と
度をかけて詠んでいる。つまり暗殺すらもある京都から逃げるように九州下向してきた
のではあるまいか。歴史学者は「朝廷内の政敵・藤原時平に、過去(功績)と現在(権力)
を奪われただけである。」と、断じたが、左遷後わずか二年で亡くなっていることから
、ほとんど未来を奪われたようなものである。と考えられる。考えようによっては、こ
の少し前の、早良親王(さわらしんのう)よりも「史上最強の怨霊」にふさわしい理由な
のかもしれない。早良親王も、同じ様に母方が下級貴族であったために立太子は望まれ
ておらず、天平宝字5年 (761年)に出家して東大寺羂索院や大安寺東院に住み込んで
修行し親王禅師と呼ばれていた暮らしをしていた。しかし天応元年(781年) 兄の桓武
天皇の即位と同時に光仁天皇の勧めによって還俗して世俗に戻され立太子された。その
当時、桓武天皇の第1皇子である安殿親王(後の平城天皇)が生まれていた。即位は、
既に45歳を迎えていた桓武天皇が突然崩御して、安殿が幼帝となる事態を回避する為
ために行われた物だったのである。


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