1つめの記念スレ


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1つめの記念スレ

1: 騎士剣:05/11/09 17:24 ID:A/yxhPTA
勝手にスレを書き込んで勝手にレスをつけてくれぃ

1301: 名無しさんAA:18/04/11 14:52
 宣教師の時代       ーーー53

 物部の麁鹿火の時代は、既に朝鮮半島の引き渡しを迫られていた時代だった。『日本
書紀』の武烈即位前紀に大連として初めて名が上がるが、武烈天皇の崩御後、継体天皇
の擁立を働きかけて、その即位後に大伴金村と共に再び大連に任ぜられて地位の安泰を
見た。この継体天皇6年( 512年)に、百済へ任那四県の割譲の交渉に、麁鹿火は百済
の使者に割譲の容認を伝える宣勅使に任命された。しかし、妻からの諫めにより考えを
改め、病と称してその役を辞退している。継体21年( 527年)6月になって九州北部
で竺紫国造磐井の乱の征討将軍に就任、天皇から筑紫以西の統治を委任された。翌年1
1月に竺紫三井郡にて磐井を破って処刑し、磐井の乱を平定した。と書かれその時の剣
を洗った所が太刀洗とされる。その後の安閑天皇・宣化天皇の代にも大連を務め、宣化
天皇元年( 536年)7月に没したが、一緒に戦ったとされる大伴金村は、その後欽明天
皇の時代に、天皇と血縁関係を結んだ蘇我稲目が台頭、金村の権勢は衰え始めている。
つまり蘇我氏はこの戦いで弱体化してしまったのである。その後この地にカトリックの
教会が建てられ京都を目指し、そして新政権の名の下で排斥されたのは、地政学的には
そういう土地であった事を示している。長崎・鹿児島は人が少ない外国人の為の土地で
比較的中央の制限のかからない隠れ里的郷里だったのだろう。ヤジロウは格式のある身
分の薩摩の武士だったとされる。領主は十六代祢寝(ねじめ)重長で、明や南蛮貿易に
力を入れており、種子島家と親戚関係にあった海賊池端水軍の頭首だったとされる。早
くから種子島銃の薩摩国産化を図っていた中で、池端家は祢寝氏の分家であり、倭冦の
池端水軍をもっていたそうだから、主家ともども倭冦貿易に関係していた。この倭寇は
柳川とは縁が深く、矢留で大火にしたそもそもの賊であろう。と杉家文書では思われて
いる。「ヤジロウ」はその池端家の弥次郎重尚だと言われていて、弥次郎は祢寝領内で
人を殺した。当時は、罪人が世俗と縁の切れた寺社に駆込むことで救われるという風習
があり、彼は一旦縁切り寺へ逃れている。しかし弥次郎の生家は高野山系の真言宗系で
「宝蔵院」だったので、そこでは法相宗や普化宗系の駆け込み寺としての機能はなく、
主家に阿るものだった。こうして寺さえも彼を保護をできない状況だったので、錦江湾
対岸の山川港からポルトガル船に乗って外国へ逃亡した。としている。


1302: 名無しさんAA:18/04/11 14:53
 宣教師の時代       ーーー54

『禰寝文書』では最初の文書では、古代にあっては建部姓を取り、大宰府在庁官人であ
ったとされ、後に一族は郡司職についている。11世紀半ば過ぎに、禰寝氏初代清重に
遡ること4代前の藤原頼光に関わる史料がとして上げられている。建部姓の一族は武将
の守護荘園の主家の土地を名乗っていて、奥州でも清原氏が藤原姓を名乗っている。大
隅国にあって藤原姓を取っていた頼光は、子女に配分した所領は広大で、荘園としての
禰寝院(ねじめいん)を守護荘としていた。しかしその規模は増大し荘園主をはるかに
超え、絶大な権勢を保持した。禰寝清年(ねじめきよとし)が当主でなった 享禄3年
(1530年)、荘園主の肝付兼興は禰寝領へも侵攻を開始したが、これに立ち向かい撃退
することに成功してした更に大きくなった。その後天文12年(1543年)には種子島恵時
との戦いに勝ち屋久島を領地とするが、これは翌年には奪いかえされることとなり、以
後、種子島氏との対立が激化した。「根占(禰寝)戦争」と呼び重視し、池端水軍は力
を入れたが、本家筋の禰寝一族からこれに関わったの根占(禰寝)龍善の名は禰寝氏史料
からは消された。これは戦国時代の中で禰寝一族の中でも本家と分家の対立が生じてお
り、後に禰寝氏直系は本流を限定した可能性がある。とされる。池端重尚の名は「天文
十三年(1544)十一月五日付沙弥清本譲状案」にみえる。この譲状案は重尚の祖父
である池端清本が、重尚の弟にあたる又七に対し、池端氏代々の所領を譲ることを記し
たもので、書状の最後には、清本が又七に所領を譲渡することになった経緯が記されて
いる。これによれば、清本の嫡子であった清住は高岳城の戦いで討死。その嫡子・重尚
は小祢寝港で「唐人」と「南蛮人」が合戦した際に「手火矢」(鉄炮)にあたって討死
したため、清住の次男である又七に所領が譲渡された。とされる。この池端重尚が大隈
の小祢寝港において遭遇した「唐人」と「南蛮人」の紛争について、これと符合する記
録がヨーロッパに残されている。すなわち「エスカランテ報告」所収の「ガリシア人の
ペロ・ディエスの情報」に、ペロ・ディエスが日本で遭遇したポルトガル人と中国人の
紛争が記されているのである。ペロ・ディエスは、1544年五月、中国人のジャンク
に乗船して東南アジアの「パタニ港」を出港した。ディエスは、中国の寧波や南京など
で取引をした後に日本に向かったのである。入港した(小祢寝港)港には、パタニに住
む中国人所有のジャンク船五隻が停泊し、ポルトガル人が何人か乗船していたが。そこ
に百隻以上の中国人のジャンク船が襲い掛かってきた。これに対し、ポルトガル人らは
四隻の小舟と三門の火砲、十六丁の銃でもって応戦し、中国人のジャンクを敗走させて
多くの中国人を殺した。とするものだ。

1303: 名無しさんAA:18/04/11 14:53
 宣教師の時代       ーーー55

 ディエス情報には、紛争があった港についての記載はない。しかし、当時のポルトガ
ル人の来航は薩摩の山川など南九州に限られていたことから、南九州を代表する港の一
つであった小祢寝港である可能性は高い。時期も、ディエスが日本に来航した時期と、
譲状案が作成された時期とが整合している。ペロ・ディエスが伝える合戦の経緯は、当
時スペインの南蛮船と中国人のジャンク船がしのぎを削って日本に鉄砲に関した輸出入
があって事件や紛争があった事が解る。これらのことから、池端重尚は、天文十三年(
1544)の夏か秋ごろ、小祢寝の港において中国人とポルトガル人の紛争に巻き込ま
れ、鉄炮にあたって討死したということになる。種子島に鉄炮が伝来したのが天文十二
年(1543)頃なので、その翌年には南九州において日本人の目の前で鉄炮を用いた
大規模な合戦が既に展開された証明でもある。また討死した重尚は、当時既に父・清住
が戦死しているから、祖父・清本の後継者として池端氏当主を継ぐ立場にあったものと
思われるが、重尚がどのように紛争に関わっていたかは不明。ペロ・ディエスは、中国
人のジャンク船でシャム近海から中国東岸を北上し、双嶼とみなされるリャンポーに、
到着した。そして南京まで足を運んだ後に、双嶼から、155レグァの距離で北緯32
度に位置する日本の港に、1544年に渡来した。日本からの帰路は冬の季節風を利用
したジャンク船に便乗し、ボルネオ島に到達した。日本の港では、ペロ・ディエス同様
に、パタニの中国人のジャンク船で渡来していたポルトガル人を目撃した。そのジャン
ク船5隻に対して、別の100隻あまりのジャンク船が攻撃をしかけたところ、ポルト
ガル人が率先して大砲や銃で撃退した。同じ港に琉球から来ていたポルトガル人が集ま
ってきて、琉球で見た豊かな金銀情報を伝えた。ペロ・ディエス自身は、日本では金を
わずかしか目にしなかったが、その他の、銀・鉄・銅については潤沢であることを実見
し、特に銀塊が、取引の代価として日本で用いられることを伝えた。以上の情報によっ
て、天文13年(1544年)におけるポルトガル人の日本渡来状況は益々盛んになっ
た。ヤジローはポルトガル語がわかり、薩摩半島において貿易に従事していたが、ある
時仲間割れが起こり人を殺してしまう。役人から逃れるため、ポルトガル船に乗り込み
日本を出ていくのである。逃亡中の中国・寧波(ニンポー)で聖人ザビエルのうわさを聞
きつけたヤジローは、マラッカの「丘の聖母教会」で運命の出会いをする。洗礼を受け
「聖パウロ学院」で学ぶヤジローの聡明さに感銘をうけたザビエルは、このとき日本布
教を決意ししそして、ヤジローが案内人となりザビエルを伴い、マラッカから中国人の
アバンの海賊船に乗り帰国する。

1304: 名無しさんAA:18/04/11 14:54
 宣教師の時代       ーーー56

 南蛮人を連れ帰ったヤジロ-のうわさは町中に広がり,領主の島津貴久の耳にも届くと
ころとなり、そこからザビエルはキリスト教布教の許可を得ることとなる。その後一年
間、鹿児島で布教活動をしたザビエル一行は、ヤジローを残して平戸・京都・山口など
を経て、インドに帰った。残されたヤジローは、その後に起きた迫害の中で、キリスト
教を捨てたといわれる。彼の最後を記したものに「日吉池端古文書」である。そこには
「永録三年(1560年)、山川港と称寝(根占)港の中間で南蛮船と中国船との交易上の争い
があり、仲裁に入った池端弥次郎重尚が火矢弾に当たって死んだ。」とされている。こ
のペロ・ディエスについて言えば1542年第4回ヴィリャローボス隊員の、エスカラ
ンテの報告に記録されている(スペイン・セビリアの、インディアス文書館蔵)では、
「ロペス・デ・ビリャロボス」は1544年にアンボイナ島(アンボン島)の牢屋で死んだ
が、残った乗組員は生き残りって脱走してヌエバ・エスパーニャに戻った。とある。1
548年に、インド経由でリスボンに帰還。メキシコ出発時370人が、生還者147
人。「ヌエバ・エスパーニャ」とは現在のメキシコであるとされるが、同名の土地が東
南アジアに無かったとも言えない。メキシコであれば、その後何年も後か、まだ 記録
にない太平洋東行路で行った事も考えられる。インド洋・アフリカ南端経由で、さらに
メキシコへと戻る事も可能でもある。しかし、ヴィリャローボス隊のエスカランテ報告
は、メキシコ副王宛、1548年8月1日付け、ポルトガルのリスボン発の文書であり
、スペインの公文書館にあるので、一度どこかのスペイン領に帰っての帰郷だったのだ
ろう。日本発見後のポルトガル人の渡来に混じって、ペロ・ディエスというスペイン人
が来たのが、1544年、九州に渡来した。ところがこの雲仙の口の津では、大型船の
到来は早くからあって、その最初は不確かだが1530年代とも思える。ここから八代
船が出ていたからだ。八代船と言うのは通称弥次郎船で熊本八代と大分の屋代島と中国
を結んだ三角航路である。三角港の向こうにあり、三角港はこの三角交易から付いた名
前である。周防大島(すおうおおしま)は、正式には屋代島(やしろじま)と称するが
、他の周防国の中で大島であったから大島と言われ、こ周辺の小島を含めて周防大島と
呼ばれることが多い。古くから瀬戸内海海上交通の要衝とされた。本州沖約2キロメー
トルの瀬戸内海上にある。瀬戸内海では淡路島、小豆島に次ぎ3番目に大きい島である
。瀬戸内航路に税徴収や倭寇が多く出てから讃岐を通り抜ける事をやめたジャンク船の
最終地だったのだ。

1305: 名無しさんAA:18/04/11 14:54
 宣教師の時代       ーーー57

 外国船が、砲撃を行った門司城合戦なのだが、大内氏が朝廷の命で通行税を強化した
事から起こった。永禄元(1558)年3月8日門司要害(大里藤松の砦)を大内氏と
共に毛利方の土地の豪族が攻めたが、大友方は防衛に成功した。しかしその後水軍を率
いて6月小早川隆景、奴留湯主水正の守る門司城を攻めて落城させた。この後、門司城
は毛利方になった。12月29日に毛利氏は、仁保隆慰(大内氏の降将)に門司城番を
任せた。他の門司6郷を含む規矩郡は以前からの地頭が代官兼任していてそのまま続い
た。永禄2(1559)年6月26日大友義鎮は、このまま毛利氏の侵攻を食い止める
ため、幕府に願い出て、豊前・筑前・筑後・肥前の守護を追加させる嘆願していた。し
かしそれは名目であって実際は筑前・豊前は毛利方との境目であり、肥前は竜造寺隆信
が少弐氏を滅ぼし、台頭していた。9月26日守護が適い 大友方門司城を攻略する。
だがすぐに奪い返された。永禄3(1560)年毛利方が門司城の押さえを強化した。
その上で永禄4(1561)年7月大友氏の、中豊前に侵攻し、元就も自らも出陣して
の決戦を決意した、掘立直正を赤間関へ派遣し、8月元就、門司を守る兵に励ましの手
紙を送った。10月2日大友勢はこれに対抗し門司城を包囲し10月10日門司城に於
いて合戦10月25日には石見・尼子氏に文を送り 又ポルトガル船に砲撃を要請した
こうして門司城に於いて合戦したが、石垣に対して破壊力もなく毛利方が勝ってしまう
11月 5日には門司城に於いての合戦でも毛利方が圧勝して、毛利方の勝ちが決定し
た元就は、すぐさま石見・尼子攻めへ反転して行った。毛利に河野水軍がいて南蛮船の
効果は無かったのだ。永禄5(1562)年9月大友勢、筑前・苅田松山城を攻略した
が元就、出雲・白鹿城から冷泉元満(大内氏の降将)を門司要害へ派遣し、門司城防衛
に成功した。永禄6(1563)年には、大友宗麟、足利将軍家に働きかけ、毛利・大
友講和を頼んだ。交渉は豊前・筑前の守護である大友宗麟に有利に展開したが、元就は
最低限の条件として以下2つを確約させた。(1)門司・香春両城の確保(2)宝満岳
城主・高橋鑑種の身柄の安全であった。こうして香春城は廃棄し、筑後まで押し寄せて
いた兵を九州から撤退させた。毛利氏にとっては、門司城は毛利持ち、高橋氏も所領安
堵のまま大友氏配下にあるので何の損得もない物だった。その後輝元と宗麟の娘の婚約
し永禄7(1564)年7月25日大友宗麟は、元就・両川に起請文提出させた。こう
して7月27日講和成立して停戦になったが、この後国崩しは大友氏は購入している。



1306: 名無しさんAA:18/04/11 14:54
 宣教師の時代       ーーー58

 パタニ王国は、マレー半島に存在したマレー人王朝でマレー系王朝のなかでもいち早
くイスラーム化していた。マレー半島のマレー系王朝の中で一番歴史が古い王都とされ
。その領土は、現在のタイ王国パッターニー県を中心に展開した。14世紀頃には、日
本では大泥(たいに)とされて、日本からも朱印船が渡来し日本人街もあったという。
パタニ王国は香辛料獲得による大航海時代になって、西洋にも知られるようになった。
16、17世紀にはポルトガル、オランダ、イギリスが商館を構えて栄えたが、同時に中国
華南地方からの移住者(いわゆる華僑)が増えてアユタヤ王朝と反目した。又このよう
な状況下でスマトラ島北部のアチェ王国とも商売敵となった。特にラジャ・ウングとの
反目の時にパタニ軍と交戦したのがタイ政府が派遣した山田長政であった。山田長政は
1602年六尺(駕籠かき)をしていたが、その後1612年に朱印船で長崎から台湾を経
てシャムに渡った。スペイン艦隊の二度に渡るアユタヤ侵攻をいずれも斥けた功績で、
アユタヤー王朝の国王ソンタムの信任を得て、シャムの王女と結婚。第三位であるプラ
ヤー・セーナーピムックという官位・欽賜名を授けられ、チャオプラヤー川に入る船か
ら税を取る権利を得た。ソンタム王の死後、長政はソンタム王の遺言に従い、シーウォ
ーラウォン(後のプラーサート・トーン王)と共同でチェーター親王を王に即位させた
。しかし、チェーター王はシーウォーラウォンに不審を抱き排除しようとして失敗し、
シーウォーラウォンに処刑された。ジャンク船は13世紀以前にもあった様だがその名
が出来たのは中国船を「ザンク」とよぶ大航海時代からだ。船体中央を支える構造材で
ある竜骨(キール)が無く、船体が多数の梁と呼ばれる水密隔壁で区切られていること
によって、喫水の浅い海での航行に便利で耐波性に優れ、速度も同時代の南蛮と比べて
格段に優れていた。また、横方向に多数の割り竹が挿入された帆によって、風上への切
り上り性に優れ、一枚の帆全体を帆柱頂部から吊り下げることによって、横風に対する
安定性が竜骨帆船と比べ高く突風が近づいた時も素早く帆を下ろすことを可能にした。
帆桁をクレーンとして使った西洋帆船は船倉を深くする事ができ、船体構造物は上に伸
びるように発達したが、ジャンク船にはその機能がなかったため、船倉の深さに制限が
あり大型化は横に平べったくなるしかなかった。



1307: 名無しさんAA:18/04/11 14:54
 宣教師の時代       ーーー59

 「ヤジロウ」はその池端家の弥次郎重尚だと言われる。ヤジロウは格式の高い身分の
薩摩の武士だったともされる。倭冦の池端水軍をもっていたそうだから、主家ともども
倭冦貿易に関係している。領主は十六代祢寝(ねじめ)重長で、明や南蛮貿易に力を入
れていて、種子島家と親戚関係にあったので、早くから種子島銃の薩摩国産化を図って
いた。とも言われている。現在、山川(薩摩半島)⇔根占(大隅半島)間にフェリーが
就航しているが、ヤジロウの活動拠点は大隅半島根占港付近だったようだ。この頃大隅
と薩摩は争っていた。池端家は祢寝氏の分家であり、種子島の密貿易の利権者だった。
一方薩摩は琉球貿易を行い中国からの銃の大量買い付けを行える立場にもあった。越智
氏は広く海外との交易をおこなっている四国の豪族だったが一色氏が九州探題で大宰府
に派遣されるに至って菊池氏と敵対し騙し打ちの関係から対立していた。一色氏が大友
や島津に仲良く繋がっている一方で越智氏は菊池家の残党とのつながりが強かったし、
この頃既にルソンやバタニなどには、香木や香辛料や染料や苗木などを買い入れて買い
入れて屋久島などで栽培させていた。その理由は大和越智氏は体制に阿(おもね)る様
な交易ではなかった。一方薩摩の交易は朝廷への献上で権威の下賜(かし)を得て守護
職を守る為だった。1440年大和越智氏討伐のため出陣していた義貫は、6代将軍の
足利義教の命を受けた武田信栄に誅殺されるが、島津氏の弟の小笠原長春の若狭守護代
としての失脚からだった。この鎌倉室町時代に元寇襲来によって外洋航海は比較的安易
になった。それは火薬の出現で簡単に船が襲われなくなったからだ。「てつはう」は、
正式には震天雷や鉄火砲(てっかほう)と呼ばれる手榴弾にあたる炸裂弾である。容器
には鉄製と陶器製があり、容器の中に爆発力の強い火薬を詰めて使うもので、導火線に
火を付けて使用する。形状は球型で直径15p程度、総重量は7kg程度であって、これ
を持って外洋に出れば、外国のジャンク船からも恐れられるものだった。幸いにして、
日本ではその容器となる陶器も火薬も作る事が出来ていた。これに紐をつけハンマー投
げの様に投げて船に投げ入れれば5個程度で船を乗っ取り又は沈める事が出来たのだ。
従って弓や刀を持つ日本の船は強かったと言われる。この認識から海外交易が開かれて
いった。その先鞭が越智水軍だった。


1308: 名無しさんAA:18/04/11 14:55
 宣教師の時代       ーーー60

基本的な事だが 薩摩隼人と言うが、実はそうした事は無い。本来大隅隼人が正解であ
る。不思議な事だが薩摩族はもともとベトナムや台湾からの漂着民であったと言う。対
して大隅族は南洋の遥か遠くからの移民だし古くは琉球列島や八重島諸島の文化を持ち
朝廷では大隅隼人として古事記にも現れる。ところが早くから接していながらも、熊襲
つまり九州朝廷とのつながりが強く薩摩の大和朝廷とつながり下向してくる関東武家と
は一線を引いて歴史を織っていたのである。弥次郎は祢寝領内で人を殺した後。当時の
慣習の罪人が世俗と縁の切れた寺社に駆込むことで救われる為、彼は一旦縁切り寺へ逃
れた。といわれるがそれはないだろう。それは彼が武士だからだ。多分 身内に一応は
報告してその後の身の振り方を身内に相談し、その場所が寺に過ぎなかったのであろう
。その後、錦江湾対岸の山川港からポルトガル船に乗って外国へ逃亡している。この時
この山川には定期的にポルトガル船が来ていた事になる。わざわざ対岸まで行って船に
乗ると言うのはよっぽどの情報でなければならない。島津家は守護職を得てから攻勢が
続き禰寝氏内には菊池氏がいなくなり内紛が起こっていた。島津氏も又後継争いがあり
情勢は暗かった。もともと種子島氏など肥後からの下りの武将で上妻氏の子孫とされて
いる。屋久島や沖永良部島はその配下であった。種子島氏が禰寝氏とは、いろんな意味
で、深い関係があり南北朝期の中ごろまで、種子島の地頭職をめぐって肥後氏は禰寝氏
と争った経過さえある。そうした意味でも禰寝氏は大隅半島の古部族であり、古くから
の有力国衆であり、種子島における諸職を有していていた部族だった。室町時代になる
と禰寝氏姻戚関係を結び平和が保たれた。が種子島氏も天文十二年は、奢侈を諌めた弟
の時述を兄の恵時が疎んじたため、弟の時述は禰寝清年に通じて兄を攻撃する事件が起
きている。兄の恵時は屋久島に逃れ、嫡男の時堯は禰寝軍に敗れて自害を覚悟したが、
禰寝清年は恵時の悪政を正すことが目的で、子供の時堯は関係ないとしてこれを許した
。しかしながら、屋久三郡のうち一郡を合戦による犠牲者のためとして要求した。この
時、時堯の軍は一計を案じて、屋久三郡すべてを禰寝清年に譲渡したのだった。三郡を
与えれば禰寝氏の守備兵も散在することになり、のちの奪還に際して都合がよいと考え
たのである。翌年、兄の種子島恵時は肥後下野守時典に命じて屋久島の禰寝勢を攻撃し
た。禰寝勢は防戦したものの寡勢であり、ついに時典の降伏勧告を受け入れて城を開い
た。禰寝勢は与えられた船に載って大隅半島へと向かったが、その船には細工が施され
ていて、たちまち浸水、転覆して、禰寝勢は全滅した。かくして、種子島氏は屋久島の
奪還をはたした。とされる。

1309: 名無しさんAA:18/04/11 14:55
 宣教師の時代       ーーー61


 種子島氏が禰寝氏の攻撃を受けた天文十二年の時、種子島の西村小浦というところに
ポルトガル船が漂着した。その乗組員を引見した島主種子島時堯は、乗組員が持ってい
た鉄砲のうち二挺を買い上げ、火薬の調合を家臣に学ばせた。これがいわゆる鉄砲伝来
として知られる歴史的事件となっている。その後も種子島氏家中の侍たちは、使用法を
習い、製造法を教わったが、銃身と、銃底部分などの加工技術に不明な点があった。そ
れは、発射から着弾までの精度をあげる為の 銃身の内側に螺旋状の条溝を刻み付ける
ことが必要であり、銃底部分は、ねじを切って蓋をしなければならない部分であった。
しかし、そのような螺旋のねじの知識は当時の日本にはなかったため、種子島鍛冶らに
よって、改良・研究がなされ、ついに国産の火縄銃が完成したと言われている。その間
、鍛工八坂金兵衛は娘をポルトガル船長に娶せて、鉄砲作りの秘伝を得たと伝えられて
いる。以来、火縄銃は「種子島銃」として広まった。時堯は種子島銃を島津貴久に献上
し、貴久はさっそく天文十八年五月、加治木城攻めに当たって鉄砲を用いた。これが、
わが国における鉄砲の実戦使用のはじめであった。とされる。こうして種子島銃の威力
は、新しい戦国の新兵器としてまたたくまに有名になった、島津氏の三州統一は鉄砲の
お陰であったとさえいわれている。また、近衛前久を介して火薬調合の秘法を伝授して
ほしいという将軍足利義輝の要請をいれて、時堯は秘法を将軍に伝えたている。ところ
が、秘伝であるはずの鉄砲の火薬調合法が、義輝から上杉謙信に伝えられたことを暗示
する文書が「上杉家文書」の中におさめられている。すなわち朝廷は呑気にも時の朝廷
を担ぐ、有力諸侯に秘密理に教える為に聞いたのであったのだ。これは、上杉家の力を
背景として将軍家再興をめざす義輝が、謙信の歓心を買うために秘伝という禁を破って
伝えたものと解されている。いずれにしても、種子島銃の出現によって、合戦のありか
たは大きく変化し、この事は戦を大きくし戦国乱世は統一へも大きく前進したことは疑
いない。天文十二・十三年は禰津氏が殺害された年であり、ヤジロウが国外に逃げた年
でもあり。禰寝勢は防戦したものの、ついに時典の降伏勧告を受け入れて城を開いた年
でもあり、ポルトガル船が難破した年でもある。この一年間は戦国時代の影の戦争時代
でもあったのだろう。

1310: 名無しさんAA:18/04/11 18:10
 宣教師の時代       ーーー62

 天文十二年の戦い以降も、種子島氏と禰寝氏との間で戦いが繰り返されていた。十六
世紀から、薩摩・大隅・日向の統一を進める島津氏に対しては、有力国衆である蒲生氏
、肝付氏らも又対立した。禰寝氏は肝付氏と結んで島津氏に対抗しており、種子島時堯
は島津忠良の娘を迎えていて島津方であった。種子島時堯は島津氏配下として、弘治元
年(1555)、島津貴久に従って蒲生攻めに出陣し、その後の日向伊東氏との合戦では、
同三年にはふたたび蒲生攻めに参陣している。そして、永禄三年(1560)家督を嫡男の
時次に譲ったが、時次が早世したため、ふたたび家督となった。永禄年間は、毛利方が
門司城の押さえを強化した年で、九州を回っていた回曳船毛利の持つ伊予海軍河野海軍
が一つになって厳島神社をして水軍連合を作った年だ。これをしてポルトガル船の南蛮
貿易も又止まってしまい大友氏も又窮地に立たされていた。しかしこれは奴隷廃止の年
でもあった。徳富 蘇峰(とくとみ そほう)は、明治から昭和にかけての近代日本のジ
ャーナリストであったが、思想家、歴史家、評論家として知られ。『國民新聞』を主宰
した。一方で史実に基づいた『近世日本国民史』を著したことで知られ、これは大きく
日本を揺るがした。蘇峰は三国干渉の報に接し、「涙さえも出ないほどくやしく」感じ
て世界を回ってその真実を知り得て、いわゆる蘇峰私観と言う物を持ち官憲と戦いなが
らの文壇家、ジャーナリストを守って新聞発行に努めた。この徳富蘇峰の『近世日本国
民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのった。「キリシタン大名、小名
、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に
押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし」。ザヴィエルは日本を
ヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)達の
アルメイダは、日本に火薬を売り込み、交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売
りさばいたボスの中のボスであった。「行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目
につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだし
につながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の
伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人
文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石や
火薬の原料と交換し、インドやアフリカまで売っている」とこの事実に驚愕した事が、
「娘たちを火薬一樽で娘50人」が火薬の値段だった事は更に驚愕に値している。


1311: 名無しさんAA:18/04/11 18:10
 宣教師の時代       ーーー63

 実はヤジローが語学が達者で早くから中国・朝鮮・南方諸国との交易業に関係して、
ポルトガル語と中国語を話せたのは理由があった。大男だったヤジローの素晴らしい体
格と童顔の色男であった為、日本から海外に渡った後もDNAを求めて、諸国の大名家
の子女がお種頂戴と称してヤジローと交わり子を産んだと言う裏歴史説がある。これを
加味すれば、この任侠沙汰は好きな子女が売られて行くのを止めた事による物と考えら
れる。永禄九年(1566)禰寝重長が屋久島に上陸し、一方で口永良部島を攻撃して、口
永良部島は禰寝方に占領され、屋久島の一湊も制圧された。その後の元亀年間、禰寝氏
は伊地知、肝付氏らと結んで、兵船三百余をもって鹿児島に押し寄せた。書に曰く叛乱
である「元亀年中、禰寝氏、肝付氏、伊地知氏らが太守に叛きて冦を為す、彼の四家の
海賊のために種子島と鹿児島とを往来の船を掠められること四十艘ばかりなり(略)」
とあり、禰寝氏らの反島津行動に種子島氏も被害をを被っていた。これは婦女子が拉致
され南蛮船に乗せられて行くのを、みすみす見過ごせなかったからだ。しかし禰寝氏の
この攻勢に対して種子島時堯は、西村時典・上妻家続らに命じて屋久島永田城を補強す
るなどして、対抗策を講じている。その名の通り武将西村氏は肥前からや上妻氏は肥後
からの武将であった。しかし天正元年(1573)に至って、重長が島津氏と和を講じその
麾下(配下)に属したことで、禰寝氏と種子島氏との抗争も終結した。種子島時堯は、
天正七年(1579)に没し、そのあとは二男の久時が継いだ。久時は義久に属して、天正
八年の肥後攻め、十二年の肥前攻め、十四年の筑前攻めなどに家臣を派遣した。そして
、義久の豊後攻めにはみずから参陣して戦功があった。かくして、島津氏の九州統一戦
が進められ、種子島氏もその作戦に協力してきたが、豊臣秀吉の九州征伐によって島津
氏は大隅・薩摩・日向の一部を領する豊臣大名に位置付けられた。この一連の動きの影
に紀伊半島の有力御家人や京の都の公家の行う南蛮貿易の利用があった事は大友氏の、
数々の意味不明の出陣で判明する。かつて平将門が大阪を都として南蛮貿易の拠点を考
えた様に、信長も又琵琶湖畔に安土城(あづちじょう)を構えて世界進出を考えていた
、日本の城(山城)として西洋に負けないものをと思っていたのである。大友も同じに
宮崎にキリストの理想郷を築こうとしていたのである。秀吉の朝鮮征伐も、スペインの
イスパニアがこの南洋の琉球さえも中国からの攻撃で、奴隷船貿易の中継地になり得ず
、朝鮮や済州島に、その拠点としようとしていたからだ。


1312: 名無しさんAA:18/04/11 18:11
宣教師の時代       ーーー64

歴史教科書などではイエズス会をポルトガル人としている。だがこれは間違っている。
又キリスト教布教を西洋文化の伝来として扱うがこれも間違いでイスパニアの侵略でし
かなかった。信長にしても秀吉にしてもキリシタンに対しては最初は好意的だった。し
かし宣教師たちの植民地への野心を見抜かれて、信長はその威圧に走り天下布武を唱え
秀吉は異教徒排斥に走り朝鮮征伐を唱えた。既に朝鮮には熱狂のキリスト信者がいたか
らだ。家康に至っては切支丹弾圧まで行い鎖国に走るしかなったのである。この宣教師
たち植民地への野心を見抜かれて、危険視するようになり制限を設けたが、それは阿片
や銃砲を売り捌き、神社仏閣の破壊や日本人を奴隷として拉致監禁して輸送している事
が、発覚し秀吉の怒りに触れての弾圧だったのだ。この大西洋奴隷貿易時代の日本人奴
隷が大陸人の奴隷貿易に転化して行き、「弥勒下生運動」に変化する。中国王朝を揺る
がした白蓮教徒の乱(1796〜1804)は、朝鮮人特有のイエス信仰が「弥勒下生(みろく
げしょう)信仰」(弥勒仏が救世主として現れるという信仰)として秘密結社を中心と
する農民反乱として実を結んだ結果なのである。湖北・河南・陝西・四川・甘粛の各省
に広がった。反乱は9年に及び、清朝はやっと鎮圧したが、既にこの頃今の共産党思想
の元になる現政権や体制の崩壊や寺院や伝統的生活や醸成文化の破壊的摸倣自由主義は
あったのである。そもそもスペイン人の多くはスペイン王となったバンダル人での配下
であり、ゴート人の祖先とされる。バンダル人は破壊行為を意味するヴァンダリズムの
語源ともなっている。紀元前からロシア系ヴァンダル族は、欧州系スエビ族らを破り、
高原系フン族との戦いを行っていた。スエビ族はゲルマンの始祖的存在でヴァンダル族
はこのフン族を撃退した時のフン族の生き残りとされ混血は進んでいたものと思われる
その後ギリシアから派生したゴート王国が欧州の覇権を握りこれに朝貢した。ローマ帝
国が出来てイスパニア定住に至る西ゴート族の移動期には、アフリカに退去したが或る
時期にはスペインを乗っ取ってしまったのである。イベリア半島への入植が進んだゴー
ト人で、フランス北部では興ったばかりのフランク王国と争った。その後西ローマ帝国
は海上封鎖によって西ゴート族を飢えさせる作戦を取り、食料に困窮した西ゴート族は
ヒスパニアへと追われて海洋覇権に至ったのである。この破壊をシンボルに美しい物や
調和を否定しヴァンダリズムは今も作られるサグラダファミリアやピカソの絵に潜んで
いて人の矛盾の中の一つのエポックとなっている。



1313: 名無しさんAA:18/04/11 18:11
 宣教師の時代       ーーー65

 ここに家康時代に、九州の特に筑後での板倉氏による、子女が数々誘拐され、男達が
火達磨にされ、串裂きにされた理由がある。又それ以降はキリスタン弾圧とされて過酷
な労働を強いられての島原の乱の風景がある。ヤジローはその体格の良さから早くから
家系の持つ交易に従事し語学が達者だったのだろう。その為重宝されていたのである。
ザビエルは後で余助となる黒人奴隷を引き連れていたように、体格の良い物を従者とす
る習慣にあった。そこには威圧感があったはずだ。1549年秋には、伊集院城にて薩摩の
守護大名・島津貴久に謁見し、宣教の許可を得ている。その後、1550年夏に肥前平戸に
入って宣教活動を行う6年間の中でザビエルと袂を分ける決心をしている。その晩年に
ついては不詳であるが、フロイスの記述によれば、ザビエルの離日後、ヤジロウは布教
活動から離れて海賊の生業に戻り、最後は中国近辺で殺害されたという。またフェルナ
ン・メンデス・ピントの『東洋遍歴記』、ジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』によ
れば、仏僧らの迫害を受けて出国を余儀なくされ、中国付近で海賊に殺されたという。
一説によれば、ヤジロウは鮫島弥次郎(もしくは里見弥次郎)という、もと修験道系の
陰陽師であったともいい、もしここで奴隷船貿易の実態を知ったら当然敵側として運動
に走ったはずだろう。ザビエルはベルナルド、フェルナンデス修道士と共に京を目指し
て平戸を出発する。しかし、周防で大内義隆に謁見し、男色を罪とするキリスト教の教
えに大内義隆から激怒され、すぐさま岩国から海路で堺に上陸し、豪商・日比屋了珪の
支援を受けて、1551年、一行は京に到着し、後奈良天皇および足利義輝への拝謁を請願
した。日比屋了珪は堺でマカオ火薬の輸入などを商う商人であったとされ東京日比谷も
彼の子孫と目される場所だ。堺の富商であると同時に有数の茶人でもあったからだが、
しかし、献上の品が無かったため、この時は拝謁は叶わなかった。京都市中は荒廃して
おり、天皇の地位が失墜している事を知り、天皇から布教許可を得ての布教を断念した
。僅か11日間で離京すると山口に戻った。その後、平戸に置き残していた献上品を携
えて大内義隆に再度拝謁し、インド総督とゴア司教の親書の他、望遠鏡、洋琴、置時計
、ギヤマンの水差し、鏡、眼鏡、書籍、絵画、小銃などを送り、喜んだ大内義隆は廃寺
となっていた大道寺を与え、キリスト教の布教を許可するに至った。この時、ザビエル
の盲目の琵琶法師が聴いていた、後のイエズス会の強力な宣教師となるロレンソ了斎で
ある。


1314: 名無しさんAA:18/04/11 18:12
 宣教師の時代       ーーー66

 ザビエルは、初めて日本にメガネを持ち込んだとも言われ、1551年9月に豊後で大友
宗麟に拝謁した際、眼鏡を伝来させている。日本滞在は約2年となり、インドから連絡
が無いのが気になると、後継者であるトルレスに布教方針を授けて、ザビエルは1551年
11月、ポルトガル船にて日本を出発し、ゴアに帰還した。その後、日本全土で布教する
ためには、まず中国での布教が必要だと感じ、翌年1552年には、広東付近の上川島に至
った。しかし、中国への入国が思うようにいかない半ばに、熱病にかかると12月に病死
した。46歳であったと言う。しかし、永禄4(1561)には、大友氏はキリスタンとし
て周防をポルトガル船と共に国崩しで攻撃しているのである。ザビエルは偶然日本人と
あったのではない。ポルトガル人ジョルジェ・アルヴァレスの船に乗り、船長アルヴァ
レスからフランシスコ・ザビエルの業績などを聞き知り、キリシタンになろうと決意し
て会いに行っている。暴風雨に会い、中国へ流されたりして苦労を重ねながらも、マラ
ッカでついにザビエルと巡り合うことができたのである。ヤジロウは、その後の人生を
キリシタンとして生きようと決心し、船乗り仲間の間で有名なザビエルに会う計画を持
ち、意図を持って面会の目的を遂げたのである。何故か。1549年秋にザビエルが薩摩の
島津貴久に謁見したが、茶道関係文書にある「日比谷了慶」は堺の豪商で,1550(天文
19)年に来日中のシャヴィエルを自邸に迎えて庇護し、永禄4(1561)年には、宣教師
ヴィレラの堺布教にあたって邸内に教会を建て,自身も息子・了荷の勧めで洗礼を受け
たとしている。つまり最初の隠れキリスタンであったのだ。姓は佐々木名は日比谷了慶
後筑前の夜須郡坂根に住む後移動長者町寺曹洞宗開いたとしている。1564年受洗をうけ
。霊名は、ディオゴとしている。息子・了荷が1550(天文19)年に来日中のシャヴィエ
ルを自邸に迎えて庇護し洗礼を受けた為、1561(永禄4)年には宣教師ヴィレラの堺布
教にあたって邸内に教会を建て,自身も息子・了荷の勧めで洗礼を受けたとしている。
了慶は天正十四年(1586)、堺の商人・日比屋了珪の娘婿ルカス宗札の処刑に、ルカスは、
無実の罪で捕らえられ、秀吉は彼を水責めにして自白を強要 友人や親戚は疑いをかけら
れることも少なく、より安全に集合して、事件につき語り合い、種々の方策が講ぜられた
が、十一月、ついにルカスは磔刑に処せられた。


1315: 名無しさんAA:18/04/13 01:17
 宣教師の時代       ーーー67

 1548年十一月二十九日付アンジローの書翰には、「たまたま、私は、名前をジョ
ルジェ・アルヴァレスというある船の船長であるポルトガル人と出会った。」とあるか
ら、アルヴァレスがポルトガルの貿易商人兼船長であったことが分かる。アルヴァレス
の出身地は、かつて同僚であったメンデス・ピントの『遍歴記』によれば、ポルトガル
北部の、スペインとの国境に近い村フレイショ・デ・エスパーダ・ア・シンタとされて
いるが、確証はない。天文十五年(1546)春または初夏頃に、アルヴァレスは日本
に来航し、薩摩の山川に初冬頃まで滞在した。アルヴァレスが得た日本の知見では、1
547年十二月にアルヴァレスが執筆した「日本報告」から知ることができる。が半年
に満たない日本滞在期間中に地理や環境、風俗、生活習慣、宗教などを非常に細やかに
観察していたことがうかがえる内容となっている。この為薩摩山川への来航は初めてで
はなかったと言える。またアルヴァレスは、日本を離れる際、殺人を犯して役人に追わ
れていたアンジローを匿ってマラッカに同伴している。アンジローの書翰によれば、ア
ルヴァレスはアンジローをザビエルに面会させることを思い立ち、マラッカへの航海中
はアンジローに対してザビエルの行跡やキリスト教の教理などを教えていたようである
。こうしてアンジローを匿う一方でザビエルに引き合わせている事からも、ザビエルの
日本上陸が初めてのポルトガル船上陸ではなかった事が解る。強いて言えば宣教師とし
ても初めてではなかったのだ。イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルは、1548
年一月二十日付の書翰の中でアルヴァレスについて「非常に信用に値する人物」として
おり、ザビエルの同伴者であったアンジローも「(フランシスコ師の)大の友人」と記
している。ザビエルと深い信頼関係にあった人物であり、ザビエルの日本や中国での布
教を援助してもいる。しかし、アルヴァレスがマラッカに到着した際は、ザビエルは不
在であったため、アンジローは日本に帰国するためにいったん中国まで戻っていった。
翌1547年、再びマラッカに渡航してきたアンジローと再会したアルヴァレスは彼を
ザビエルに紹介し、アルヴァレス自身もザビエルに日本布教は大きな成果が期待できる
ことを説いている。先述の「日本報告」も、より詳細な日本の情報を求めるザビエルの
依頼を受けて執筆したものだったが、これがザビエルが日本布教を決意させ、アルヴァ
レスの活動も大きかったといえるだろう。同年、アルヴァレスは、アンジローを聖パウ
ロ学院のあるインドのゴアまで送り届けてたが。ザビエルは自分の乗ってきた船でアン
ジローをゴアに同伴しようとしたが、アンジローが、以前から名誉と友情を受けていた
ポルトガル商人との同行を望んだため、アルヴァレスの船に同乗することになった。

1316: 名無しさんAA:18/04/13 01:18
 宣教師の時代       ーーー68

 アルヴァレスは、その後も中国沿岸での貿易に従事していた。1552年、ザビエル
が中国布教のためにマカオ沖のサンシャン(上川)島に入港した際、この地に滞在して
いたアルヴァレスと再会している。アルヴァレスは以前と同じようにザビエルを援助し
、ザビエル一行に二ヵ月半ほど宿を提供した後、マラッカへと出港していった。既に、
この中国広東省の海島であるサンシャン(上川)島は、数多くの海外密航船で貿易の要
の地になっていた。ポルトガル人はサンシアン、イギリス人はセント・ジョーンズ島と
呼んだ古くから航海者や海賊の集結地であった。仮泊地となり,広東を追われたポルト
ガル人がこの島に拠ったこともある。1549年、日本にキリスト教を伝えたザビエル
の臨終の場所とされ、中国地図では、広東省の地図を見れば、香港のすぐ近くの島の中
に上川島を「発見」できる筈だ。こうしてジョルジェ・アルヴァレスはその後も日本へ
航海していたようだ。「1580年10月20日付、豊後発信、ロレンソ・メシア師の
、イエズス会総長宛、1580年度 日本年報」によると、信長に会いに行ったイエズ
ス会は数人の司祭と共に安土桃山城に登城して謁見を果たして幾つかの問答をしている
「オルガンティーノ師、その他の司祭らが幾度か訪問した時、彼(信長)は常に深い親愛
の情を示し、日頃、仏僧に対するのとは全く異なる方法と尊敬をもって遇したが、これ
は諸人が驚嘆するほどであった。とりわけ、彼は一度、自ら進んで我が教えのことども
を聴いて討論することを望み、多数の大身の面前でオルガンティーノ師とロレンソ修道
士に種々の質問を呈し、(室)外にいる人たちにも聞こえるようにするため、彼らがいた
場所の戸口をことごとく開けさせた。彼はかつて見たことのある地球儀をふたたび同所
に持参させ、これについて多く質問と応答を繰り返した後、司祭と修道士が答えたこと
に満足の意を表し、諸人の前で彼らを大いに讃え、司祭らの知識は、仏僧らのそれとは
非常に異なっていると言い、彼は(返答に)すっかり納得し満足したことを明らかにした
。しかし又、彼は、デウスと霊魂の存在について絶えず大きな疑問を抱いており、或は
司祭らもまた日本の仏僧が常にそうであるように、説いているのとは異なることを胸中
に秘め、来世と救いはあると説きながら、後に深く教えの道に進んだ者には、彼らが説
くことはすべて人民をよく導くためであって、この世以外に他の世界も来世もないこと
を明かすのと同じではないかと考えている。


1317: 名無しさんAA:18/04/13 01:18
 宣教師の時代       ーーー69

 結局、信長はオルガンティーノ師がヨーロッパから日本に来るまでに経た旅について
説明することを望み、それを知ると、非常に驚いて、このような旅は非常な勇気と強い
心を持った人でなければ実行することができぬと言い、司祭と修道士らに向かって笑い
ながら、汝らがかくも多大な危険と海を越えてきたからには、汝らは何かを求める盗賊
か、或は汝らの説くことが重要なるためか、と述べた。そこで、修道士は答えて、その
言葉通り司祭らが盗賊であるのは真実で、彼らはただ日本人の霊魂と心を盗むためにや
ってきたのであり、悪魔の手からこれらを奪って創造主の手に委ねるためである、と言
った。結局、信長は彼らと三時間過ごした後、別の機会に再び招いて我らのことを聴き
、我が教会ははなはだ立派であると諸人が言うので教会を見に行くことを欲すると言っ
て、彼らと別れた。」と書いている。この信長が宣教師が持ってきた地球儀を見ながら
、宣教師に色々と質問したことが載っている中で、「キリシタンの教えも、仏僧が説く
教えと同じように、説いていることと腹の中で思っていることが違っていて、来世や救
いが存在すると言っているのは、より多くの信者を獲得するため」だと考えている。と
書いた司祭のオルガンティーノの鋭く深い読みは正解だろう。又ヨーロッパから日本へ
の船旅についての話を聞いて、非常に驚いきそして冗談交じりに、「汝らがかくも多大
な危険と海を越えて来たからには、汝らは何かを求める盗賊か、あるいは汝らの説くこ
とが重要なるためか。」と聞いたのは、同じくらいの鋭い信長の読みであったと言える
だろう。イエズス会の真の目的が、布教活動をしつつ、その国のことを調査し、やがて
その国を侵略することであるから、司祭は言葉が詰まったに違いない、修道士のロレン
ソが応えているのはその証左だろう。信長は安土城に宣教師を招いて自ら接待し、宗教
談義を楽しんでいる。フロイスという宣教師とは何十回も面会している。彼と親しくな
った一人にイエズス会の宣教師オルガンティーノはイタリア人だが、はやりイエズス会
に属して日本の風土と日本人に魅せられ大の親日家となっている。彼はこう記している
。「われら(ヨーロッパ人)はたがいに賢明に見えるが、彼ら(日本人)と比較すると、は
なはだ野蛮であると思う。(中略)私には全世界じゅうで、これほど天賦の才能をもつ
国民はないと思われる。----日本人は怒りを表すことを好まず、儀礼的な丁寧さを好み
、贈り物や親切を受けた場合はそれと同等のものを返礼しなくてはならないと感じ、互
いを褒め、相手を侮辱することを好まない。」と。彼らは、自分が帰属する国家の利益
のために働いていたが、それ以上にローマ教皇への絶対服従を条件に、国を超えて「イ
エズス会の利益」のために働いていていて、彼らは、国家を超えた集団だった。

1318: 名無しさんAA:18/04/13 01:19
 宣教師の時代       ーーー70

フランシスコ・ザビエルらによる、イエズス会の日本布教は驚くほどの成果をあげてい
て、ザビエルが布教を開始したわずか13年後の永禄5(1562)年は、備前西部(長崎県
)を統治していた大名大村純忠(すみただ)は、鶴の一声で、なんと自領内の横瀬浦港
をイエズス会領として寄進してしまった。大村は、横瀬浦内の数ヵ所に教会を建てたし
、これらの教会に経済的利益を供与するために、港の周囲約10キロの土地と農民をも
教会に寄付した。ちょっと信じられないことだが、領民は大村の鶴の一声で教会の所有
となってしまったのだ。さらに、ポルトガルとの交易のために入港してくる商人に対し
ても10年間の免除を決定した。この政策により横浦港は急激に発展したのは言うまで
もない。寄進というのは「寄付」である。大村氏は日本初のキリシタン大名であるとさ
れる。しかし彼が洗礼を受ける事は、カルト集団の魔神に肢体尊攘する事に等しかった
。宣教師として日本で活動したルイス・フロイスの日本史には、その大村純忠が洗礼を
受ける下りが記録されている。
「大村殿は、尊師(コスメ・デ・トーレス神父)が彼に一つのことを御認めになれば、
キリシタンになる御決心であられます。それはこういうことなのです。殿は自領ならび
にそこの領民の主君ではあられますが、目上に有馬の屋形であられる兄・義貞様をいた
だいておられ、義貞様は異教徒であり、当下(しも:九州のこと)においても最も身分の
高い殿のお一人であられます。それゆえ大村殿は、ただちに領内のすべての神社仏閣を
焼却するわけにも仏僧たちの僧院を破却するわけにも参りません。ですが殿は尊師に、
こういうお約束をなされ、言質を与えておられます。すなわち自分は今後は決して彼ら
仏僧らの面倒は見はしないと。そして殿が彼らを援助しなければ、彼らは、自滅するで
しょう。」(フロイス日本史)これでわかるように、洗礼を受ける条件は神社仏閣の焼却
であり僧院の破却を要望していたのである。さりながら、大村家の事情により、すぐに
はそれはできないが、彼らが自滅していくように仕向けるという約束を大村は申し出て
いる。これにより仏教徒の西郷氏や伊佐早氏は、知行の領主としてはキリスタン大名の
大村氏や有馬氏を持ち上げる事は不可能になったのである。そしてそれは大分の大友氏
にも起こっていた。大村が洗礼を受ければ、日本初のキリシタン大名の誕生であり、こ
れには教会も興奮し、これこそに苦労してきた目的だった。

1319: 名無しさんAA:18/04/13 01:20
 宣教師の時代       ーーー71

 しかしこの報告を受けても、宣教師は焦らないで洗礼の条件をはっきりと告げている
。「時至れば、ご自分のなし得ることすべてを行なうとのお約束とご意向を承った上は
、もうすでに信仰のことがよくお判りならば洗礼をお授けしましょう」ここで宣教師が
確認している「なし得ることのすべてを行なうとのお約束とご意向」とは、「時がきた
ら神社仏閣のできる限りを破壊し、一切支援せずに自滅させる」というそもそもの洗礼
の条件のことだ。諸事情で、今すぐにそれが実現できなくても、かならずそれを実行す
るという約束するならば洗礼をさずけます。と言っているのだ。ここに登場する宣教師
は、彼に洗礼をさずけたコスメ・デ・トーレス神父である。ここに、イエズス会士たち
による布教という名の文化破壊が始まったのだった。これにより大村の家臣や住民にも
洗礼を受ける者が続出し、短期間のうちに 12000名以上のキリシタンが生まれた。この
中には勿論「教会のもの」とされた農民たちのように強制改宗させられた人々も多かっ
た。この翌年、ザビエルとともに来日したコスメ・デ・トーレス神父から洗礼をうけた
。トーレスはとともに日本に上陸した宣教師で、ザビエルがインドへ移動していった後
の日本を託された男だった。ザビエルの方が有名だが、実のところ、カトリック布教を
成功に導いたのはこのトーレスの功績である。実はこうした船団にはスペイン王家の許
可を必要としてた。その為船内の行動規範や海外の検分の報告や宝物の横取りなどの監
視役に宣教師や修道士を乗せなければならない決まりでその人数まで決まっていた。そ
れは船団の大きさによって違うがほぼ10人以上は船員ではなかったのだ。この日本で
の布教が出来たのはそうした大勢の宣教師が来た事だった。その為長崎では特に、隣接
する松浦氏が支配していた領地の平戸港で、ポルトガル人殺害事件が起こったことをう
け、彼らの保護と安全のために為されたことであった。が、この日本国内に「ポルトガ
ル領」が誕生したは確実だったし、こうして中には仏教棄教を迫る信者が出来たのは、
確実だった。ここはキリスト教の聖地となったのだから。このようなことは、天下統一
のための重大な脅威とうつったことは当然だ。コエリヨが大砲を載せた船を秀吉に得意
げに見せて、これに上機嫌であった秀吉であった。


1320: 名無しさんAA:18/04/13 01:20
 宣教師の時代       ーーー72

 これに上機嫌であった秀吉であった。が大阪に着いて直ぐに1587年、日本のキリシタ
ンたちは恐れに震える事態が発生する。豊臣秀吉によりバテレン追放令が発せられたの
である。蒲生氏郷、黒田孝高、小西行長などの代表的キリシタン大名達は表向き棄教し
、太閤の意志に準じる態度を取った。しかしこの命令をやはりと高山右近だけは徹底し
て拒絶した。表向きの棄教もせず、秀吉への服従すらゼウス神以下しかなかった。それ
どころか秀吉を信者にしようとまで思って、「自分から説きに行く」とまで言い放った
のを家臣などがやっとの思いで足止めさせている。右近にとって信仰は、所領や地位よ
り大切なものだったのである。彼は棄教を拒否して身を隠したそれが日比谷了慶の自宅
だったであろう。その頃、しぼしぼと帰宅した小西行長は秀吉の怒りを買うことを恐れ
、堺に戻り怯えていた。日本のキリシタン大名達の中でも地位が高く、政権の中枢に近
い行長の許へは毎日のように逃げてきた宣教師やキリシタンが助けを請いにやってきて
いた。その時、行長はそれを冷たくあしらい追い返していたのである。「助けるのは無
理と言う物。俺だって立場がある。」と言う理由だった。その行長の言葉に宣教師達は
絶望し、ほとんどのものが長崎に逃げていったと言う。しかし留まりなおしつこく行長
に会おうとする者がいた。イエズス会のグネッキ・ソルディ・オルガンティーノ神父で
ある。彼はイエズス会の良心ともされた。彼は危険をおかして行長の屋敷を訪問すると
行長と何時間も議論をした。そして行長に自分が殉教を覚悟していること、逃げるつも
りは全くないと言うこと、もちろん信仰を偽るつもりも、ごまかすつもりもないことを
語った。行長は、さながらペテロの様に肩を震わせ号泣した。そして現実に負けて信仰
を曲げた己を恥じた。しかし、オルガンティーノとなぜかその時やってきた高山右近は
、そんな小西を励ましていたのである。その後、小西はすっかり信仰を取り戻し、キリ
シタン大名として生きるために、秀吉の目をたばかり、ごまかし、色々やって、右近と
共に小笠原に渡っている。したが、それでも彼が最後まで地位や名誉を捨てることがで
きなかった。

1321: 名無しさんAA:18/04/13 01:21

アンジローやヤジローを乗せて匿ったジョルジェ・アルヴァレスの船も乗ってきた時に
は宣教師がいた筈である。それが日比谷了慶に洗礼をしたシャヴィエルや娘婿のルカス
であったと思える。実はシャヴィエルとは何人もいるスペイン人の姓でありザビエルと
もサビエルとも言われる。つまりフランシスコ・ザビエルは通り名の一つであったのだ
、弥次郎本人がローマに送った書簡が掲載されているので紹介したい(一五四八年十一
月二十九日付、ゴア発信、日本人パウロ(弥次郎)よりローマのイエズス会創立者メス
トレ・イグナティウス・デ・ロヨラその他、同会の司祭、修道士に送った書簡)
「(前略)私は、日本国において異教徒でありました時に、ある理由によって一人を殺し
、(役人の手から)免れようとして、我が国の修道者の僧院(当地の教会のようなもの)に
逃れました。この時、貿易のためにそこに来ていたポルトガル人の一船がありました。
彼らのなかに、私が以前から知っていましたアルヴァロ・ヴァスという人がおりまして
、彼は私のことを聞くと、自分の国に行きたくないかと問いましたので、私はそれを望
むと答えました。すると彼はまだ用務を終えておらず、なお逗留せねばならぬので、同
じ海岸の他の港にいましたドン・フェルナンドという貴人に宛てた書簡を与えよう、と
申しました。私は捕えられないようにと、夜中に出発してその人を訪ねましたところ、
思いがけなく、別の船長でありますジヨルジェ・アルヴァレスというポルトガル人に会
い、ドン・フェルナンドであろうと思ってその人にアルヴァロ・ヴアスの書簡を与えま
した。ジヨルジェ・アルヴァレスは私を同伴して大いに歓待し、その船で連れて行き、
彼の親友でありますメストレ・フランシスコ(・ザピエル)師に私を託そうと欲しました
。そしてその司祭様の生活と業績を私に語りましたので、私は大いにその方にお会いし
たいという望みを起しました。航海してマラッカに到着しましたが、ジヨルジェ・アル
ヴァレスは、その途中、キリシタンになることについて私に教えるところがありました
ので、私は洗礼を受けたい気持になり、その希望はますます盛んでしたから、マラッカ
に着きました時に、もしその地の司祭様が私に洗礼を授けましたならば、キリシタンと
なったでありましょう。ところがその司祭様は、私が何者であるか、また私の境遇は、
どうかを訊ねましたので、私はすでに結婚しており、また自分の家に帰ろうとしている
と述べましたところ、帰国して異教徒の妻と同棲してはならぬ、と言って洗礼を授ける
ことを禁じました。


1322: 名無しさんAA:18/04/13 11:24
 この時、我が国に向かう季節風期となりましたので、私はシナ行きの船に乗り込み、
シナからは他の船で日本に渡ることにしました。シナに着いて後、七、八日路(約二百
レーグアですから)(1レーグアは約5q程度)の日本への航海につき、すでに日本に近
づいて日本の海岸を離れること約二十レ―グアのところで日本を認めました時、陸地か
ら船首に向かって暴風が吹き、非常な暗黒となり、どうすることもできず、暴風は四日
四夜継続し、船ははなはだしい窮状に陥りましたので、私は主の御憐れみを大声で求め
、私たちは、先に出航したシナの港に帰るのやむなきに至りました。シナに帰って暴風
はやみましたが、私はキリシタンとなって信仰について教えを受けたいとの希望は変り
ませんでしたから、進退を決することができないでいましたところ、この時先に我が国
において、まず私と語り、私に南方へ行くように促しましたアルヴァロ・ヴァスに出会
いました。彼は私がマラツカから帰り、暴風のために自分と再会するに至ったことを驚
きました。そしてその船がマラッカに行く準備が整っていましたので、彼は自分ととも
に引き返すようにと勧め、ロレンソ・ポテリヨという人もまたそれを勧告しました。両
名ともに身分のある人で、彼らは、もしこんどふたたびマラッカに帰れば、メストレ・
フランシスコ師はすでにその地におられるはずであり、また司祭様の一人が、私といっ
しょに日本に行くことになろうと申しましたので、私は彼らの言うところはもっともで
あると思い、喜んでその航海につきました。マラッカに着き、最初に、私を伴いました
ジョルジェ・アルヴァレスに会いましたところ、彼は、すでに同地におられましたメス
トレ・フランシスコ師の許に私を案内し、聖母の教会で司祭様が結婚式を司っていると
ころで私たちは出会い、アルヴアレスは私のことを詳しく司祭様に語りました。メスト
レ・フランシスコ師は私を見、私を抱いて、非常にお喜びになりましたが、この事実は
デウス様の定め給うたことであると、私は心の中でますます感じるに至りました。私は
フランシスコ師に会って大いに慰められ満足いたしました。私はすでに少しばかりポル
トガル語を理解し、また数語を話すことができましたが、司祭様は私が前記のジヨルジ
ェ・アルヴァレスとともに、当ゴア市に来て、サン・パウロ学院に入るようにお命じに
なりました。フランシスコ師は、別の路を経てコモリン岬のキリスト教徒たちを訪問し
、そこから当学院に来られましたが、あまり遅れることなく、私が一五四八年三月の初
めに学院に着きました一方、その後、四、五日を経てメストレ・フランシスコ師が到着
されましたことは私の非常な喜びでありました。なぜならば私は、初めて彼に会った時
から、大いに感銘を受け、彼に仕え、決して離れたくないと希望するに至っていたから
でございます。

1323: 名無しさんAA:18/04/13 11:24
 宣教師の時代       ーーー75

当学院に入って学び、信仰のことについて教えを受けました後、本年五月、聖霊降臨祭
の祝日に、大司教座において、司教様から洗礼を授けられました。同じ日に、私が日本
から伴って来て当地に留まっています従僕一人も洗礼を受けました。私は万物の創り主
であられるデウス様と、我らを救うために十字架にかかり給うたイエズス・キリスト様
により、その栄光を高め、信仰を弘める身となることを希望し、限りない恩恵に浴し、
この信仰の真理であることを確信いたします今、まったき安らぎを覚えるのでございま
す。当学院の司祭様方が申されますように、私をして、容易に主なるデウス様のことを
心に刻み、これほど短期間に、よく読み書きを学び、聖マテオ福音書のように高尚な教
えを受け入れ、それを記憶に留める才能と記憶力、および意志を授け給いましたデウス
様の思寵を忘れることがないようにしていただきたいと祈り奉ります。右の福音書の要
点は、我が日本の文字でしたためて記憶の便を計りました。右の日本文字を尊師にお目
にかけます。我らの主への愛による尊師らのお祈りによって、主が私に与え給うた御恵
みを私が空しくすることなくその讃美と栄光になるに至らしめ給いますように。このこ
とが良い結果を収め、我らの主なるデウスが、ほどなく日本へ出発されることになって
いますメストレ・フランシスコ師を助け、また私にはその愛のため、もし必要ならば百
度生命を捧げるほどの 強い信仰の保持者とならしめ給わんことを。私にはメストレ・
イグナシオ(・デ・ロヨラ)師とメストレ・シモン(・ロドゥリーゲス)師、及びイエズ
ス会の他の司祭や修道士の皆様が絶えずデウス様にお祈り下さることが必要でございま
す。なぜならば、我らの主によって、日本において大いなる収穫を納め、私たちの生存
中にイエズス会の学院がその日本の地に建てられるのを見ることを期待し、デウス様が
大いなる栄光を受け給い、日本がイエズスによって信仰に進むよう望むからでございま
す。一五四八年十一月二十九日、ゴアのサン・バウロ学院より。 僕なる日本人バウロ
・デ・サンタ・フェ(弥次郎)」(完訳フロイス日本史第一章14−19頁)“
つまり、匿ってくれたアルヴァロ・ヴァスと船にのせたジヨルジェ・アルヴァレスの2
人がいたのである。更にドン・フェルナンドと言う者に宛てた手紙を薩摩川内で送って
いたのである。


1324: 名無しさんAA:18/04/13 11:35
 まずドン・フェルナンドとはフェルナンド大公即ちオーストリア大公であり、フラン
ツ・フェルディナント・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン 即ちハクスブルク家
の名であろう。なぜこの名が使われたのか、大いに謎だ。しかし本当の謎は、その名が
例え知れ渡っていたとしてもイスパニアの王の名で無い事にある。カストロやフェルナ
ンドが本来のスペイン国王の名で例え偽物の名でもスペイン王室の名で良かった筈だ。
だが、歴史的にカストロ王朝は、血縁がハクスブルク家のスペイン・ハプスブルク朝と
も言うべきもので、スペインの先住民の反乱を抑えて王家存続していたのである。当然
航海の資金を本家イタリアやベニスの商人達の支援を受けていた筈である。つまりドン
・フェルナンドの暗号はその船の資金者の合言葉みたいなものだったと考えられる。更
にこの船が同じ様に司祭や修道士を連れて居なければ航海出来ない規則なら、既に船に
はそうした司祭が布教を行っていた事になる。方言の性格からもその特質はある。この
鹿児島地方は、ずば抜けて非常に判りにくい。がこの事は逆にフランス人の移民が船長
していた可能性も強い。簡単にドン・フェルナンドと言える立場にあったともいえる。
後年、「本能寺の変」は、オルガンティーノ神父は「光秀には絶対に従ってはいけない
」という内容のポルトガル語の手紙をキリシタン大名に送っていた。、光秀が信用でき
ない人物であるとイエズス会に報告していたことを挙げていた。光秀が信用できない人
物であるとイエズス会に報告していたことは、単にキリシタン側が明智を敵視していた
だけではなかったと思える。というのは大和における、松永と筒井との抗争が、からん
でいた。松永と筒井は大和の守護大名になりたく領地を取り合い合戦を続けていた。そ
して、この戦いは、双方が織田の味方になっても続いた。この味方の武家2つが領地あ
らそいで戦いあっている中には、奴隷船貿易をしていた松倉勝重が一枚絡んでいたから
である。勿論朝廷である天皇家には大砲などは必要はなかった。従って50人もの奴隷
になる子女も必要とはしていなかった。それどころか朝廷はこの越智の朱印船船団の方
を使って古くから「キャラ香木」は仕入れてていて この南蛮船により多くの損害を被
っていて敵対していた事だ。しかし織田信長は、筒井と松永を仲直りさせるのを明智に
命じたのである。それは明智・筒井・松永ともが、敬虔な仏教徒と思っての事だった。
当然、憎まれる明智は双方の敵でそれは出来なかった。基本的に当事者同士であったか
らだ。シビレきらした信長は、大和の守護職を大和と無関係の原田直政にすえた。おさ
まらないのは筒井と松永で、その仲介役の明智までも、更に筒井と松永に憎まれた形で
ある。この貿易権利奪還に死守をする伊賀者によって原田は殺害され、さらに松永は、
この事に憤慨し反乱したが返り討ち、となり、織田信長は大和の守護職を筒井に任命し
たのである。

1325: 名無しさんAA:18/04/13 12:03
 直政は「塙直政(はなわなおまさ)」で当時は「ばん」氏と呼ばれていた。後に九州
の名族・原田姓を下賜されて原田姓になっていた。宿老クラスに勝るとも劣らない勢力
を与えられたが、大和の守護には、筒井は相当固執し恐喝して暗殺に及んでいる。信長
は筒井の大和で差出(検地の前段階施行)を筒井に強制させ一国一城をここだけ徹底さ
せた、大和は城を1つだけ残し壊させ、更に筒井に対して強硬な検地を強行した。意外
だが、松永はキリシタンに寛容でキリシタンの弾圧は、しなかった。一方、筒井は元は
寺社武装勢力が増大したもので仏教は保護したがキリシタンは敵視している。ここには
裏に東大寺僧とキリスタンの確執があり、キリシタンは松永の肩を持ったが、光秀が全
く松永に近づかなかった。と言う事情があるようだ。その後松永が織田に滅ぼされた。
こ時、当時明智は朝廷の奴隷船貿易を黙認し筒井と松永の仲裁に失敗していると言える
。しかし筒井の守護昇格にも反対で、貢献する事なく織田は筒井を脅して、筒井を大和
の代官のように召使った。中間管理は織田信長を主君とする明智だった。既に、筒井家
家臣では、かの有力な古参武将は居なくなって 新規の無法者ばかりでしか無かった。
そうした人達では、明智に対しても、全く恩も義理も欠いていて、奴隷船交易も止めな
かったし、その事の解らぬ明智の温さに織田信長は我慢がならなかった。明智光秀は、
1528年生まれたとされるが確証はない。その頃の風習では名のある武家は神社に預けら
れて9が10歳の成人式をもって自宅が引き取ると言う言わば、仏僧の寮制が習わしで
あった。これは荘園の護衛の悪(わる)、つまり無法の剛力者から逃れて子孫を残す事
と、荘園経営と教育に特化した姿だった。彼は若い頃は恵林寺で育ったが、焼かれる事
となった快川紹喜からも教えを受けた。その後武田信玄の寄進で再構されたが、快川紹
喜本人は姻戚関係の土岐氏出の僧であった。美濃国の出身ともいわれるが厳密には美濃
に近い為に土岐氏(ときし)から12歳で出家させられた僧であった。家紋は水色桔梗
紋で、白黒紋でなく彩色紋として知られ、土岐光衡が戦争で桔梗花を兜に挟んで戦った
のを記念して、家紋としたのが始まりであると言う。しかし伝説では、そも美濃の武士
は多くに越智氏の染料で多くがこの紋を使ったとする。美濃は大内氏、北条氏、宇都宮
氏、と守護職が変わっているが、それは四国の越智氏の物流に原因があった。天文14
年に快川は、母が亡くなり妙心寺の仁岫宗寿の法を継ぎ。美濃国の寺院を経て妙心寺に
就任した。崇福寺住職となったが、国主の斎藤義龍との間で宗教上の混乱が起こり、一
旦美濃を離れ、義龍の死去に伴い帰国した。その後永禄7年(1564年)に甲斐国の武田
信玄に招かれて恵林寺(甲州市塩山)に入寺し、武田氏と美濃斎藤氏との外交僧を務め
た。こうして甲斐では信玄に機山の号を授けていた。美濃源氏の流れをくむ土岐頼兼が
城を構え明智と名乗って居城として、彼らにその寺の庇護を受けていたのである。

1326: 名無しさんAA:18/04/13 12:04
 宣教師の時代       ーーー78

 斎藤道三は土岐守護の次男である土岐頼芸の信頼を得るに至った家臣だった。頼芸が
兄政頼(頼武)との家督相続に敗れると、道三は密かに策を講じて、機会を窺い、朝倉
氏や六角氏などを巻き込んで美濃戦争に落とし込んだ。1556年斎藤道三を討った斎藤義
龍が明智城を攻撃し、9月落城させて明智氏は、浪人となった。そうした中で1546年、
明智光秀が18歳のとき、最初の妻(正室)・千草(山岸光信の娘、16歳)と結婚していたが
、戦によって家族とは死別したようだ。又、この時叔父方の明智光安が討死し、明智光
秀は本拠地を失ったのである。その後困窮する生活の中、子の山岸光重は、既に母方の
山岸家の養子となって明智家の家臣に加わって助けていた。1553年、明智光秀26歳の時
には継室として煕子(19歳)と結婚し、浪人の頃は、妻・煕子は自分の黒髪を売って助け
たと言う。母方の若狭武田氏を頼り、のち越前国の朝倉義景に仕えた。1566年に、この
美濃戦争の仕掛け人の朝廷から、足利義秋(後の足利義昭)が、朝倉義景の一乗谷城に亡
命してきた。この時明智光秀(39歳)は足利義秋の幕臣となり1567年足利義秋と織田信長
を仲介して 1568年7月27日、足利義昭を立政寺で織田信長と会見させた。こうして一介
の浪人から織田信長に仕える事になり、卓越した才能は開花する。織田家の中で異例の
出世をして仕えた。しかし彼には義を重んじて憚りない性格があったようだ。突然に京
を追放された足利義昭は、当時は中国地方を支配する毛利輝元(てるもと)の勢力下に
ある鞆(とも)の浦(広島県福山市)にいたとされ、義昭が京に戻る際は協力する事を
になっていた。この確約を重治から示され、光秀も又、義昭と既に協力を約束している
ことを伝えた。最近見つかった書状は、天正10(1582)年6月2日の本能寺の変
から10日後の12日付で、返信とされる物が見つかった。「上意(将軍)への奔走を
命じられた事をお示し頂き、有難く存じます。しかしながら(将軍の)ご入洛(にゅう
らく)の件につきましては既に承諾しています。」としている。つまり御触れを出して
頂いた事の感謝と、入場は承知しているが迎えの兵がない事の窮状が示されている。

1327: 名無しさんAA:18/04/13 12:04
 「土岐氏の発生は、美濃の土岐川流域の土岐郡に土着して土岐氏を名乗った姓である
とされ、南北朝四代頼貞が美濃守護となって後 歴代美濃守護を継承して戦国時代に至
っている。尾張・伊勢の守護も兼ねるに至って、土岐氏は最盛期を迎えた。頼康の守護
在任は美濃四十六年間、尾張三十七年間、伊勢十六年間続いた間に、土岐一族はそれぞ
れ拠った地名を名字に冠し、新しい家を興しながら濃尾平野一帯に分派で蔓延した。一
族は百余家に至りその家に明智荘に拠った明智氏のような新しい名字が出てきたとされ
る。「土岐明智」とも称し土岐の名字を捨てなかった。土岐一族として共通の基盤を持
っていたこと、それが社会的にも認知されていたことを示している。


1328: 名無しさんAA:18/04/13 12:18
 宣教師の時代       ーーー79
 一族の発展は強固な結束があったとされ、それが「土岐桔梗一揆」で具現化している
。一揆とは「揆を一にする」つまり、目的のために一つに団結する。という意味がある
。各武士たちの戦闘単位も一揆といい、『太平記』には頼康率いる軍勢を土岐桔梗一揆
と呼んだ。土岐氏の家紋を冠した戦闘集団、それが土岐桔梗一揆の姿であった。しかし
頼康没後、土岐氏の勢力を恐れた三代将軍足利義満の画策し一族に内紛が起こされた。
そのまま室町幕府への反乱になり「土岐康行の乱」へと発展し、明徳元年(一三九〇)
に四代守護康行が幕府の追討を受けて没落した。以降、土岐一族の結束は崩壊し一族の
分裂や主家を捨てて幕府奉公衆となる有力庶家も出て、戦国時代にはさまよう。明智氏
も幕府奉公衆となって生きて来た。美濃守護職が斎藤氏に移った時は、もはや土岐氏に
一族としてのまとまりはなく、一五五二年土岐氏の守護頼芸が、斎藤道三によって美濃
を追われて、以来二百年間継承されてきた美濃守護土岐家は没落した。この土岐家は秦
氏の氏族とされる又越智氏も、共に秦氏の分家である。秦氏は中国秦王朝の始皇帝の流
れを称する古代氏族であり、飛鳥時代に秦氏の繁栄を築いた秦河勝の後裔が長宗我部氏
であるとされている。秦氏は聖徳太子の信任を受けており、丁未の乱( 587年)の聖徳
太子と蘇我馬子が、物部守屋を倒した際には、信濃国に領地を与えられた。子・秦広国
を派遣されて信濃秦氏が始まった。後年、信濃更級にいた秦能俊が四国にはいって初代
長宗我部能俊としてが土佐に居を移していた。これが長宗我部氏の始まりだ。こうして
、長宗我部氏(ちょうそかべし)は、武家の一つとして。平安時代末から戦国時代に、
土佐を統一し四国に進出した本格的戦国大名であった。この秦氏の危機が南蛮船の到来
だった。明智氏はこうして一部は秦氏家紋の、七つ酢漿草かたばみとなり政権に近づい
ても土岐一族の結束には至らなかった。ヴァリニャーノ神父によれば 信長より酷評さ
れる。「信長の宮廷に惟任日向守殿、別名十兵衛明智殿と称する人物がいた。彼はもと
より高貴の出ではなく、信長の治世の初期には、公方様の一貴人兵部太輔と称する人物
に奉仕していたのであるが、その才略、深慮、狡猾さにより、信長の寵愛を受けること
となり、主君とその恩恵を利することをわきまえていた。(織田)殿内にあって彼は余
所者(よそもの)であり、外来の身であったので、ほとんどすべての者から快く思われ
ていなかったが、自らが(受けている)寵愛を保持し増大するための不思議な器用さを
身に備えていた。彼は裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが
、己を偽装するのに抜け目なく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略
と策謀の達人であった。また、築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主で、
選り抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた。」と書いている。

1329: 名無しさんAA:18/04/13 15:22
 宣教師の時代       ーーー80

 その時、すなわち信長を打ち取った本能寺の変では、明智軍は四国平定を命令されて
軍を用意ししての時だったのは象徴的だ。もともと、織田信長と毛利氏は、阿波を本拠
とする三好氏に対する牽制の意味もあって、長曾我部と信長は仲がよく、互いに友好関
係を保持してきた。しかし、信長が上洛以来は「天下布武」を掲げて武断政治武闘闘争
を突き進み、瀬戸内海航路の制海権の掌握に活発に動いて軋轢に至った。明智氏がその
矢面にいたが、その仲裁を阻む形で秀吉が出て来ていた。三好三人衆は石山本願寺と戦
い、その航路の制海権制覇を目指して、秀吉は野田城・福島城の戦いなどをして、巨大
な毛利を刺激しないままに侵食の手を伸ばしていた。秀吉は、天正年間になると九州地
方の諸大名を伊賀に探らせて天正3年(1575年)には、大友氏・島津氏らに、毛利氏の
背後の圧力を加えようと企図し、三好氏を通じて関白左大臣の近衛前久を薩摩・肥後に
下向させて差配した。信長も1573年に室町幕府の将軍足利義昭を京より追放して、
越前を平定した秀吉に信頼を置き、自らの「天下平定」「天下布武」の最終目的には、
最重要課題が、政治的・軍事的にも、経済的にも、西国の平定は重要政策にあると認識
していた。しかし一方で、山陰地方ではすでに信長との約束に反して、毛利は以前から
尼子勝久・山中幸盛(鹿介)らの挙兵をひそかに支援して京に迫っていたのである。又
、京より左遷された義昭も、信長に対抗し輝元らに手助けし、信長に敵対する働きかけ
を進んで行い、征夷大将軍としての御内書を出して、大名の糾合を呼びかけ、信長包囲
網の形成に努めていた。その結果、信長と対立していた本願寺や武田氏のみならず、備
前国の宇喜多直家などがこれに参加して脅かすに至っていたのである。一向宗はもとも
と加賀での親鸞の血脈相承を拠所として宗門闘争であった。その中で蓮如は北陸の浄土
系諸門を次々と統合して傘下にして巨大組織を形成していった。そしてとうとう富樫氏
の内政干渉に及んで年貢米の拒否に出たのだ。この事がきっかけで宗門弾圧を謀ったが
逆に抵抗は広がり、この脅威に富樫氏は足利義尚に直訴し、一向一揆の討伐を検討され
た。しかしこれは力のない朝廷の足利氏は軍を整え威嚇に出たのみの行動だった、この
時の行動は、細川氏の意見で加賀一向一揆との和睦を成立させて、納めて京に帰ったの
である。しかし、この結果は逆にこの一向宗の一揆は全国に及ぶきっかけになった。六
角氏は時の六波羅探題となった佐々木氏の流れで常に朝廷側として戦っていたが、この
行為で下剋上の世界に朝廷も足を踏み入れた事を悟った。過去の地方豪族達は皆朝廷の
軽はずみの行為で衰退した。六角氏も土岐氏と共にあった事から反信長になったが、毛
利側の安宅船の漕ぎ手でもあったが衰退に及んだ。

1330: 名無しさんAA:18/04/13 15:23
 宣教師の時代       ーーー81

 これを見た毛利氏は、一向宗徒と鉄砲などの合意を得た。先の火薬の製法を加賀で行
われ成功をみたからだ。こうして紀伊の雑賀衆と連携し、天正4年7月の第一次木津川口
の戦いで織田氏に対し最初の戦闘をしかけた。児玉就英ら毛利氏警固衆、乃美宗勝らの
小早川水軍に因島・能島・来島の各村上氏を加えて淡路の岩屋に集結し、宇喜多氏をも
丸めて加勢させ、毛利水軍の兵糧船600艘と警固船300艘は、和泉貝塚(大阪府貝塚市)
に回航して雑賀衆の新手と合流して北上した。また、こうして火薬が手にいると木津川
の河口で焙烙玉を用いた攻撃などによって織田水軍の 安宅船10艘、警固船300艘を破り
、数百人を討ち取るという大勝利を収め、織田氏の海上封鎖を破って石山本願寺に兵糧
米をとどけることに成功した。この時、摂津・和泉の門徒も毛利方に加勢している。こ
の後中国戦線においては、毛利氏の播磨侵攻が本格化しており、これに対し信長は、今
までに重要としていた火薬の大量生産地の北陸戦線には、離脱し謹慎していた羽柴秀吉
を指揮官に任じて中国攻めを開始した。秀吉は、天正4年7月の時点で信長に中国攻略
を命じられてはいたが、そのときは作戦に専念できる状況になく、翌天正5年10月に、
ようやく播磨に入ったのである。秀吉は、すでに信長方に服属していた小寺家家老黒田
孝高の姫路山城を本拠にして播磨・但馬を転戦した。天正6年(1578年)1月、毛利輝元
は大軍を上月城に派遣した。その後、秀吉は山中幸盛に命じて上月城を守らせた。幸盛
は尼子勝久を奉じ、出雲・伯耆・因幡・美作などの牢人を率いて籠城した。秀吉からの
急報を受けた信長は、まず尼子救援のため摂津の荒木村重を送り、滝川一益、明智光秀
を増援して5月初旬にはみずからも出陣しようとしたが、佐久間信盛らに諫止されて、
ついで子息信忠・信雄・信孝を派遣した。地の利が悪い中で兵の数は約1万に過ぎず、
毛利の大軍に歯が立たなかった一時は中国地方に覇をとなえた大族尼子氏も再興の願い
むなしく滅んだ。これらの動きで、毛利水軍の 600余艘が本願寺へ大量の兵糧米を積載
して木津川の河口へ向かった。信長は先の大敗の経験に学んで急遽志摩の九鬼嘉隆に6
艘、伊勢の滝川一益に1艘の装甲をほどこした大型の安宅船(鉄甲船)を建造させ、7
月に和泉の堺に廻航させて海上封鎖にあたらせていた。鉄甲船には、大砲3門が搭載さ
れていた。11月には、織田水軍と毛利水軍のあいだで海戦があり、九鬼嘉隆が敵船を引
きつけて大将の船を大砲で撃破する戦法で毛利水軍を敗走させ、毛利・本願寺間の糧道
の遮断に成功した(第二次木津川口の戦い)。なお、これに先だつ3月には信長包囲網
の一画を占めていた越後の上杉謙信が春日山城(新潟県上越市)で死去している。


1331: 名無しさんAA:18/04/13 15:24
 宣教師の時代       ーーー82

 こうした事に「耶蘇会士日本通信」パードレ・オルガンチノの都より發したる書簡で
この模様を綴っている。「 當地の事は既に尊師に書き送りたるが、其後起こりしは昨
日日本の重要なる祭日(盂蘭盆会)に信長のフネ七艘が堺に着きたる事なり。右は、信
長が伊勢国において建造せしめたる日本国中で最も大きく、また最も華麗なるものにし
て、王国(ポルトガル)の船に似たり。予は行きてこれを見たるが、日本においては、
このごとき物を造ることに驚きを得たり。信長がその船の建造を命じたるは、四年以来
、戦争をなせる大坂で河口にこれをおき、援兵、または糧食を搭載せる船の入港を阻止
せんがためにして、これによりて大坂の市は滅亡すべしと思はるる。船には、大砲三門
を載せたるが、何地より来りしか考うること能はず、何となれば、豊後の王が鋳造せし
めたる数門の小砲を除きては、日本国中、他に砲なきこと、我らの確知する所なればな
り、予は行きて、(この目で)この大砲とその装置を見たり、また無数の精巧にして大
なる長銃を備へたり。 (後略)とこれが欧州の物であるかを確かめている。この後も、
毛利氏は陸路3路海路2路で侵入を試みたが悉く止められ此処にやっと先頭の膠着状態
に至った。上月落城後、秀吉は8月の櫛橋伊定とのあいだの志方城の戦い(加古川市)、
10月の梶原景行とのあいだで高砂城の戦い(兵庫県高砂市)によって三木城の孤立化を
めざし、播磨の再平定に努めた。上月落城後の毛利氏では、尚も小早川隆景がその勢い
で山陽道を東上を迫ったが国人衆の反対や毛利氏の合意がなく断念した。この間荒木村
重も離反し旧知の間である黒田孝高が幽閉され、信長は11月、宗麟の子大友義統に対し
、毛利氏支配下の周防・長門をあたえるとの朱印状を出しながら家臣になった宇喜田の
の堺の豪商小西行長は、秀吉の要請には秀吉の専断を叱責して答えている。この村重の
黒田氏幽閉は、村重と明智光秀などと共に第一次石山本願寺攻めの際の失策としての事
で、大坂方面軍司令官の地位を佐久間信盛に奪われ、中国方面軍の司令官の地位もまた
秀吉に奪われ、さらに信長の側近長谷川秀一の傲慢無礼な態度に耐えかねての事だった
とされる。秀吉も又、村重とは旧知の間である黒田孝高を有岡城に派遣したりしたが、
て村重の翻意を促したものの孝高が村重に捕らえられ幽閉される結果しかなかった。こ
れは明智や黒田にも言える事だった。

1332: 名無しさんAA:18/04/13 15:24
 宣教師の時代       ーーー83

 同じパードレ・オルガンチノの書簡はこう伝える。「毛利方よりは四月にあらざれば
援兵の来ること不可能なるが故に、此間に大坂は亡ぼさるべしと思はる。大坂の一向宗
の悪宗派はデウスの教が當都地方に於て有する不便妨害の中最大なるものの一なれば、
我等の主右の如く定め給はんことを祈る。信長は大坂市の周圍に蒔かれたる稲を刈るこ
とを命ぜんとすと傳へらる。之により大坂の日は終了すべし。既に右の船の噂を傳聞し
、此両日中に多數の人密かに大坂を出でたり。信長の重立ちたる部将の一人藤吉郎殿は
又播��に於て三城(野口、神吉、志方の三城)を占領せり。而してカンキ(神吉)の
城を取りたる後、之に近き三木の重要なる城を攻めんとす。かくて信長は其の大なる努
力と部将等の熱心なる盡力とに依りて既に占領したる諸國の外に播��を占領すべしと
思はる。」と一時は毛利によって収まっていた中国地方も、ここに至っては次々と食料
供給の兵站を絶たれても、籠城に至るしかなかった。信長は、豊後の大友義鎮(宗麟)
とも親交を結んで朱印状を与え、毛利の背後を脅かすことに成功し、毛利氏の重臣で、
豊前松山城(福岡県京都郡苅田町)の城主であった杉重良が大友側に通じて北九州での
挙兵し、これにより毛利勢の東上は阻まれた形にまでなった。杉氏は、大内輝弘の乱に
伴って毛利家につくか大友家につくかの葛藤の末に毛利家に従い、大友家援軍の大内輝
弘を攻撃し攻め滅ぼした。しかし戦功で徳地2000貫の地を与えられるが「徳地は公領」
という反対によりこれを返還し、代わりの土地の約束をとりつけた。翌年、毛利輝元に
その約束の実行を訴えたが、返答は空分となり秋月種実との人質問題によって豊前松山
城を退去し。豊前国蓑島城において毛利氏に反旗を翻して大友氏に寝返った。福原家は
は代々受け継がれる安芸福原氏当主でこの頃は毛利家の外戚となり乗っ取られていた。
基本的に安芸の水軍の長だったがこの娘と天正元年(1573年)と婚姻している。安芸の
宮島は勿論、響灘に浮かぶ六連島(むつれじま)諸島の、彦島や竹ノ子島(たけのこじ
ま)や、巌流島として有名な船島の3島を仕切り通行税の徴収の権限を持っていたのだ
。この徴収によって生計を立てていた杉氏は時の権力者の保護の下にその権限があった
。もともと「杉」は当て字であり「過儀」と言う通過儀礼の税徴収を意味していた。


1333: 名無しさんAA:18/04/13 15:30
 宣教師の時代       ーーー84

長谷川秀一は、尾張国出身で、織田氏家臣・長谷川与次の子で長谷川与次は長谷川与次
入道として呼ばれる程の非情な人間だった。とされる。息子を信長の小姓に差し出して
男色化の指南をしたとされ、甲州征伐においても信忠に従って従軍しては。3月には、
武田信豊の首級を信長の元へ届けるほどの強者だったからだ。その後も無抵抗の恵林寺
を焼き討ちを進言し、津田元嘉・関成重・赤座永兼らと共に実行し、寺中の人間を老若
問わずに山門に登らせると回廊から干草をうず高く積み上げて火を放ち、寺の快川紹喜
住職ら150名を生きたまま焼き殺した。とされる。この時から宗門と信長の軋轢が生
じている。この裏には、先の火薬の調合の調合の秘伝を種子島氏から伝えたとする僧が
この中にいたからとされている。つまり朝廷側の内通者がその時いたか、伊賀と甲賀の
攻防があったと考えられる。しかし、その後直ぐに大砲と共に火薬は南蛮貿易で手に入
れていた事からも、無駄骨だったこの明智光秀が教えたかであったろう。ここに、この
非常識な無法者の天下を危惧した明智の姿があったとも言える。秀吉は、結果的にこの
中国地方の入口の宇喜多氏を寝返らせてからは、毛利に中国領土を次々と攻め込んで行
っている。キリスタン商人小西行長の力添えがあったからだ。朱印船貿易を拒否されな
がらも秀吉についていった理由は、バテレン布教活動の不認可があった為と思われる。
平田砦の戦い以降、孤立無援となった別所方では兵糧が欠乏して三木城内からは餓死者
が出はじめた。天正8年(1580年)1月、正月であるにもかかわらず城内から煙がたたな
いのを見た秀吉は、1月6日早朝、三木城の背後の八幡山への攻撃を開始した(鷹の尾砦
の戦い)1月17日、丸裸になった三木城は陥落し、別所長治、弟友之、叔父吉親が城兵の
助命を条件に自害して、2年に及ぶ三木合戦が終わった。その後も兵站路や海路を遮断
して幾つもの城を落とし帰順させ、最後に難攻不落の要害とされる高松城にかかった。
、三方が深い沼、一方が広い水堀となっていて、城の周囲に築かれた堤防は、5月8日に
造成工事が始まり、19日に終え、作戦は、堤防内に城の西側を南流する足守川の流れを
引き込もうというものであった。秀吉は、救援に駆けつけた吉川元春、小早川隆景らを
将とする5万の毛利軍主力と全面的に対決することとなったが、折からの梅雨での城の
周囲は浸水し、毛利軍は手が出せない状況となり。こうしたなかで、秀吉は主君信長の
出陣を請い、信長は明智光秀の援軍派兵を決め、自らも中国・四国平定の出陣しようと
していた。そこに京都本能寺において明智光秀の「本能寺の変」が起こった。


1334: 名無しさんAA:18/04/13 15:43
 宣教師の時代       ーーー85

 そもそも明智光秀と織田信長は旧知の中で従兄弟であった。怨恨説・野望説・黒幕説
などあるが、美濃の土岐氏の支族で、土岐氏が斎藤道三にとって代わられ仕え頃に既に
知り合いだった。信長は短気で苛烈な性格であり、その性格を良く知っていた。光秀は
信長に「キンカ頭」と呼ばれて、(キンカ頭とは禿頭の意味)常々虐げられていた。実
は朝廷の足利将軍に仕えたのも信長の上に行く為だった。丹波八上城に光秀の母は人質
として預けられていたが、その無事は元城主が保障していた。しかし、この元城主を、
信長は勝手に殺害してしまい、怒った家臣は人質となっていた光秀の母を殺害してしま
い、その遺体は首を切られ、身体は風葬にさらされた。その上信長の近習で、男色家の
長谷川に恵林寺を焼き討ちを進言させられ、師と仰ぐ寺の快川紹喜住職ら150名を生
きたまま焼き殺したのである。これには憤慨改むるに、いずれは殺害するとの志はあっ
たはずだ。しかし、石山本願寺に戦いを挑む事になり、秀吉と言う学無き田舎者が戦功
を立てて、その上九鬼水軍には鉄甲船(鉄板で装甲した巨大安宅船)まで建造させてい
た。のである。これには長曾我部が持つ平家残党を束ねた越智水軍と言えども話になら
ない事であった。そもそも九鬼氏は地元領主らの連合である「嶋衆」(しましゅう)の
一員に過ぎず組合であり豪族でも武将でもない船大工が出来る単なる漁民衆だった。こ
の頃の別所長治・荒木村重の寝返りは、毛利軍の東上を期待してのものであって、それ
までも毛利は両氏に援軍を送っていし、それが杉氏や大友の旗上げやその他の事情で足
止めを喰らっていたのである。秀吉には、信長は、長曾我部征伐に光秀を行かせるから
そこで光秀に不穏な動きであらば信長自身が成敗する。と言う事が知らされていた。即
ち信長も毛利も双方ともに勝つつもりの先の算段を打っていた。こうした事は斎藤利三
の密告によって解っていて光秀は動きを探られていたのである。それと同時にその信長
の動向も長曾我部によって光秀に知らされていたのだ。信長と合戦になった場合の備え
として隠し玉の九鬼水軍と秀吉の九州作戦を持っていた。しかし光秀は単に信長の司令
で長谷川氏などに囲まれて排除計画が進んでいた中の防御に過ぎなかった。当時の毛利
古文書は、変節の宇喜多氏の動向抱えるていて、将軍足利氏の処遇更に同盟する諸侯と
の結束が討議されている。先の加賀での一向一揆以降、天正4年に、信長は荒木、細川
、明智、原田に本願寺攻めを命じてからは、一向宗門の反信長で固まり一向一揆の拠点
である摂津の石山本願寺攻めを決断したのだ。この4武将は恐らくこの悲惨さに嘆き、
その裏に見え隠れするキリスタンの影を知っていた。少なくとも一向一揆はこれまでの
窮状嘆願のうち払いの一揆と違い、バテレンが伝えた新しい形の武闘の一揆であった。

1335: 名無しさんAA:18/04/13 15:51
本願寺攻めの佐久間信盛折檻状でも「丹波の国での光秀の働きは天下の面目を施した」
と信長は光秀を絶賛した。この時もともと、和泉上守護家出身の細川藤孝(幽斎)は、
傍流の細川氏として足利義昭の側近としてその将軍職就任に尽力したが、義昭と信長の
対立以降は、長男の忠興(三斎)とともに信長に従い山城国の長岡を賜り名字も長岡に
改めて明智光秀の組下として活躍している。しかし、丹後一国を領した後は本能寺の変
で光秀に味方せず、羽柴(豊臣)秀吉に服した。この細川氏の裏切りが明智には信じら
れ無かった事だろう。長曾我部氏も実は天竺細川家だったからだ。細川吉田氏と婚姻関
係を持ち命令に従わない長曾我部氏を滅ぼし、四国全土を我が物とするための、信長の
策略であることは言うまでもない。自分を頼り、忠節を尽くしてきた長曾我部元親を捨
ておくわけにはいかない光秀と簡単に捨てて乗り換える秀吉とその声に傾ける信長との
違いがここに露呈し細川氏の為に立ち上がり細川氏が離反したのだ。これには明智光秀
も納得がいかなかっただろう。天竺氏・横山氏・山田氏ら周辺豪族を滅ぼし、勢力を拡
張し長曾我部を名乗って四国入りを果たし、信長に仕えていた長曾我部は、周辺豪族か
らも中央信長にも見捨てられた。宇佐山城に入った頃の光秀の身分は幕臣であった。滋
賀郡を与えられたのを機に織田家の家臣に編入されたが。同年冬に足利義昭に「先の見
込みがない」と暇願いをした。(曾我助乗宛暇書状)しかしこれを不許可としたのが、
細川氏である。又翌年元亀3年(1572年)4月、河内国への出兵に従軍するが、まだ義昭
方で働いていた。しかし、元亀4年(1573年)2月、義昭が挙兵。光秀は石山城、今堅田
城の戦いにおいて、きっぱりと義昭と袂を別って織田信長の直臣として参戦したのだ。
織田家には無かった軍法を、光秀が家法として定めた『明智家法』後書きに「瓦礫のよ
うに落ちぶれ果てていた自分を召しだしそのうえ莫大な人数を預けられた。一族家臣は
子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」という信長への感謝の文を書く
に及んでは、茶会でも「床の間に信長自筆の書を掛ける」とある。この光秀に執拗に近
寄ってキリスト教入信を迫ったのが高山右近や小西行長やパードレ・オルガンチノであ
った。もちろん秀吉にも近づいたはずだ。織田信長のキリスト信仰からである。しかし
快川紹喜住職に学んだ彼にはキリスタンになるなどはとんでもない話だったし、秀吉も
又戦争状態の敵に愛情もって接しよなど、自分たちも数多く海賊行為や奴隷刈でここま
で来てると、黒人与助が言っていたではないか。との思いがあった。本来秀吉が早くに
明智勢か織田勢の加勢を必要とすると明智は思っていた何故なら例え織田信長に名があ
ろうとも毛利500万に豊臣3万で中国地方が制圧されるとは思えなかったからだ。し
かし、信長出陣のこの時、既に明智は自分が責められ細川長曾我部氏攻撃の矢面になる
事は解っていた。

1336: 名無しさんAA:18/04/13 16:00
 宣教師の時代       ーーー87
石谷家は美濃国石谷郷(岐阜市石谷)を本貫(ほんがん)とする一族で13代足利義輝
に仕えたが、永禄8(1565)年、義輝が松永久秀らに暗殺されたことから、娘の嫁
ぎ先である長宗我部家を頼って土佐に渡った。その石谷光政の知行を、三好長慶が保証
している。「石谷頼辰は明智光秀と羽柴秀吉が争った山崎の戦いで敗れ、土佐に身を寄
せました。しかし天正14(1586)年12月、島津氏と大友氏が、大分で激突した
戸次川(へつぎがわ)の戦いで、信親とともに討ち死にし、家が絶え絶家となる。」こ
の後、後継者がいなかったため、光秀の重臣・斎藤利三(さいとう・としみつ)の兄に
あたる頼辰(よりとき)を養子に迎えた。つまり元親と利三、頼辰は義理の兄弟になり
、頼辰は明智と長宗我部を結ぶ実務者として、坂本城(大津市)と元親の居城・岡豊城
(おこうじょう、高知県南国市)を行き来したと考えられている。しかしもともとは、
長曾我部の領地であった。織田信長と長曾我部元親の関係は、当初は良好で光秀を交渉
の窓口にして、四国で元親が占領した分はすべて所領にしてもよい。とする約束を取り
付けていた。ところが、この長曾我部元親に対して、阿波の三好氏が秀吉を窓口にして
信長に急速に接近し、信長と元親の関係はしだいに悪化。ほぼ四国全土を手中に収めて
いた元親に、信長は土佐と阿波の南半分以外をすべて返還するよう命じたのである。こ
の経過から所領安堵を両方に取り付ける必要があったのだろうが、石山本願寺を挟み撃
ちできる地理関係にある四国の長宗我部との同盟は、有用なものだったのだが、本願寺
が織田に降伏した翌年には、信長は長宗我部との同盟関係を絶ち。阿波を巡った長宗我
部と対立していた三好康長に肩入れし、三好の阿波平定を支援する立場に回ったのであ
る。その上一方的に信長は、長宗我部の支配を認めるのは土佐と阿波の一部のみと通告
した。当初の約束をほごにされた長曾我部元親はこれに怒り信長の命令を拒否し、織田
と断交した。これにより信長は三男の神戸信孝や丹羽長秀らに四国征伐を命じていた。
この頃家康はこの年の三月に武田家を滅ぼした功績で、美濃から駿河国一国を加増され
て信長の喜びに付き合って上洛していた。先に返礼の宴会を美濃で行いその返礼に安土
城にやって来たのである。家康を信長はもてなします。饗応役には明智光秀が指名され
、彼は家康の接待に当たります。ですが、何故か今度は中国地方で毛利氏を攻めている
秀吉の援軍に向かうようにと命ぜられ国へ戻り、家康の接待役が変わる。丹羽長秀(に
わながひで)、堀秀政(ほりひでまさ)、長谷川秀一(はせがわひでかず)、菅屋長頼(すが
やながより)らである。この陣営で解る様に長谷川氏勢にやられたのだ。なぜこの長谷
川らにやられたか。長曾我部と明智の兄弟を戦さをさせる。それが非道の長谷川の魂胆
であったのだ。この計画に家康は加担した。

1337: 名無しさんAA:18/04/13 16:03
 宣教師の時代       ーーー89
 長宗我部氏、明智両氏は親族なのだから、信長の四国征伐を阻止する目的で、密約が
あったという推測もできる。最近見つかった文書では、「阿波の一宮、夷山、畑山の諸
城からは撤退するが、海部、大西両城は土佐の出入口にあたるので、このまま領地とし
たい。信長が甲斐の武田征伐から帰ってきたら、従いたい。」などといった内容の手紙
を長曾我部が送っているのが見つかっている。しかし長曾我部氏以上に明智氏族は問題
だった。それまでの約束が反故にされて面目はない。信用のない武家は今後地に墜ちた
地位になるのは必然だった。この中で、信長配下の有力武将は他の戦いに明け暮れて、
いまは、京都には誰もいないといった好材料が揃っていた。憎しみはあるものの具体的
計画のないままに、斎藤利三の忠告と後ろのない状況に今や立つしかない。こう説きほ
だされて、天正10年(1582)6月1日、申〈さる〉の刻(午後3時から5時ごろ)に、
居城である丹波・亀山城にいた明智光秀は家臣たちに出陣を命じる。だが、その目的地
は明かされない。軍勢が勢揃いした午後8時ごろ、はじめて重臣たちに重大な決意を告
げる光秀。重臣たちは驚愕するが、しかし光秀の想いを汲み覚悟を固めた。兵たちには
、今日よりして天下様になられる。出世は手柄次第だ。勇み悦べ!」と触れが出されて
本能寺の変(ほんのうじのへん)に及ぶのである。そして彼が欲しかったの3人の首で
あった。与助と信長と長谷川である。だが3人とも首が出てこなかった。これで失敗し
たのかと思考停止になったのだった。堺の代官である松井友閑(まついゆうかん)や、堺
の豪商の津田宗及(つだそうぎゅう)らの茶会に招かれていた家康の動向も又掴んで居な
かった可能性も多い。接待係だったのだから本来家康の首まで取る事があってもいいは
ずだがそれを行っていない事は突発的事件で用意していなかった事だったのだ。更に、
家康は信長死すの報を携えた豪商の茶屋四郎二郎(ちゃやしろうじろう)に出会ったため
に知ることができたとされる。そもそもこの茶会も奇妙な陣営である松井は足利義政に
仕えて以来、代々幕臣の家来である。しかし永禄の変で足利義輝が三好三人衆で暗殺さ
れ、織田信長の家臣となった。織田家で財務担当し、外交能力にも長けて、上杉謙信宛
の信長書状に副状を発したり、三好康長の投降交渉(高屋城の戦い)、本願寺との和睦
工作、謀反を起こした荒木村重や松永久秀の説得交渉、後期には伊達輝宗や大友宗麟ら
遠方の大名との外交交渉にも奔走しているのだ。宗及も永禄年間には石山本願寺の下間
丹後の一族と通じ、堺では三好政康を頼みとしていた。織田信長に接近すると明智光秀
の茶会にも顔を出していたが出さなくなった。後に実権を握った豊臣秀吉にも信頼を得
て茶湯者八人衆の一人としてちゃっかり座り、今井宗久、千利休とともに三千石の知行
を与えられると言う変節者だ。黒田如水とも永く親交があり策士でもあった。

1338: 名無しさんAA:18/04/13 19:43
 宣教師の時代       ーーー90

「信長公が死にました。」との報告に、黒田如水は「殿喜んで下さい。又一歩天下取り
に近づきましたぞ。」と言うぐらいで、世の動乱が好きな者であった。又中国大返しと
言う物は無かった。つまり既にこの時九鬼水軍の亀甲船を手に入れていた。と言える。
亀甲船そのものに乗らなくともそれら一連の艦隊に乗って大阪に帰って来て京都付近ま
で送ったと考えれば全く不都合ではない。つまり、この信長の死を知らせて来たのは、
信長を乗せて四国討伐に出るべき用意されていた船だったのだ。又、家康を逃がした茶
屋清延(ちゃやきよのぶ)は元武田氏に仕えた武将だった小笠原長時の家臣、中島明延
が武士やめて京都に店を構えたのが始まりとされ、将軍・足利義輝が、この中島明延の
屋敷にあった茶屋にてよく「茶」を飲んでいたことから「茶屋」が屋号になったとされ
る。伊賀ののものと好みを通じていた。その子茶屋清延は、若い頃は家康に仕え、三方
ヶ原の戦い等で活躍して「橘の家紋」を賜ったとされる。三方ヶ原の戦いは家康が馬上
で脱糞するほどの負け戦さであった。つまりはたはたと座り込む家康の世話をした御礼
と言うわけである。本能寺の変の際、堺に滞在中であった徳川家康一行に早馬で一報し
、後世に「神君伊賀越」といわれた脱出劇の際も、茶屋清忠が父の地盤を引き継いで、
徳川家御用達商人をつとめいた関係で、この京都の町の動きを逐一報告していたと言え
る。物心ともに支援を行った。この恩により、徳川家康の御用商人として取り立てられ
る。従って伊賀越えを先導するのはとうぜんだった。信長の方は博多の豪商・島井宗室
を正客に、京都・本能寺で自慢の38もの名物茶道具を披露した茶会を終えて、僅かな
手勢と共に本能寺に滞在していた。神屋宗湛・大賀宗九と並び「博多の三傑」と呼ばれ
る。「武士とキリシタンには絶対になるな」などの遺訓一七ヵ条をした人物だ。大内氏
時代の日朝貿易で富を得て、数奇者として朝鮮貿易業者として交歓しあった。京都大徳
寺にて出家し、名を宗室とした人だ。博多商人にして珍しい禅僧の商人だった。しかし
もともとは神社が海外貿易の中心だった。宗像神社、香椎宮、崇福寺、聖福寺、承天寺
、妙楽寺なども大々的に貿易をやっていた。博多宗金(そうきん)は遣唐使時代から、
代々の銅銭の輸入元だったと言う。神屋宗湛は祖父の神屋寿貞(かみやじゅてい)が、
石見銀山(いわみぎんざん)を開発し、採掘権を得て、銀を海外へ送り、輸入品にかえ
て成金になった海賊だった。日本がマルコ・ポーロ時代に「銀島」と言われ銀が豊富で
である。と言う偶像を作った先駆者だった。その銀で、中国朝鮮の高級織物、奢侈品に
かえて持ってきて朝廷に売っていた。大内義隆は筑紫商人の肥富(こいずみ)を代表に
将軍足利義満(あしかがよしみつ)に謁見させ、この進言で勘合貿易が始められた。

1339: 名無しさんAA:18/04/13 19:44
 宣教師の時代       ーーー91

 秀吉が入ってくる前の博多は、菊池氏との商人の協定自治都市だった。田畑の殆ど
は寺社領地であり、庶民は大宰府の直接支配の中にあったからだ。大内義隆と大友宗麟
が、博多を取り合うと、何回も大火に見舞われた。その為本拠地山口や大分の博多商人
が復興を掲げて、名代に家来を置き経営を担った為、元からの地元商人は協力するか、
長崎方面に出るしかなかった。従って博多経営は全てが遠隔操作みたいな都市に変化し
た。秀吉が、朝鮮出兵をする前の頃はただの野原の港町に変わっていたのだった。しか
し早々に博多を町おこししていた宗湛は、秀吉の九州平定に宗湛の茶室に秀吉を招いた
。そのときには、御家来衆が500人程いたが、全部入れて、お膳を500人分用意して馳走
を施したという。勿論宗湛の家だけでは、入りきれずに、そのとなりの豪商の家も3軒
4軒借りたという事だが、宗湛の家系はの神屋氏は、代々博多の貿易商人の家であり、
曽祖父の神屋寿貞は石見銀山を発見し、日本への灰吹法導入によって本格的開発に携わ
った人物であったと言う。博多の豪商神屋家5代当主・神屋紹策の子として誕生して、
同じ博多豪商の島井宗室と共に上洛し、時の天下人・織田信長に安土城にて謁見してい
る。その後秀吉は、「金はいくらでも貸すから大々的に商売してよろしい」と、宗湛に
言ったと言う。秀吉は、その当時日本全国の金(きん)を1人占めした財産家であった
。その秀吉から吻椴(ふんだん)に金(かね)を借すから商売を進めよ。というのだか
ら相当にもうけただろう。それでも、宗室、宗湛の家は広いことは広かったが、調度品
などは意外と質素だったようだ。天下を取ると、「筑紫の坊主はどれぞ、近うよれ。」
といって、非常に親しげに神屋宗湛を招じ入れて、並居る千利休や堺の商人を退けて、
歓待した。そのときは、石田三成(いしだみつなり)の給仕で料理を頂戴したという記
事が残っている。結局は先々博多の富や朝鮮征伐の軍需基地の下心があったのだろう。
秀吉公は御対面すると、「朝鮮出兵を思い立ったので其方を呼んだ、知っている通りを
述べよ。」という御言葉であった。宗室は、「朝鮮は韃靼(満洲)につづき、要害の地
であって、日本とは大変様子が違っている。出兵のことは断念した方がよいでしょう。
」と申し上げた。と言う。すると秀吉公は大変機嫌を悪くして、「自分が思い立てば唐
土四百余州を攻め潰すことも掌(たなごころ)を反すように簡単なことである。其方ら
は商人故に、それがわからないのだ。」と仰せられ、奥に入られてしまった。

1340: 名無しさんAA:18/04/13 20:48
 宣教師の時代       ーーー92

このことがあってのち宗室は秀吉公からは、うとんぜられるようになってしまった。と
茶話で嘆いているようだ。宗室の方は、嶋井家は代々博多で酒屋や金融業を営むかたわ
ら、寧波の乱で大内氏が東シナ海の貿易を独占すると明や李氏朝鮮とも日朝貿易を行な
って、巨万の富を築き上げた。大賀宗九(おおがそうく)は、博多商人として島井宗室
・神屋宗湛とともに「博多の三傑」と呼ばれる。名は信好(のぶよし)。子孫は福岡藩
黒田家の国元御用商人をつとめた。子の二代目は、茶人でもあった大賀宗伯。大友氏の
対馬奉行と共にしていた対馬国の宗氏の家臣で大友がキリスタンかぶれになったので離
れて商人になった、根っからの一匹狼の商人だった。時代の中で一代で商人として茶人
の千利休などと親しかったので宗室と共に高麗茶器などを仕入れて財を成している。黒
田氏と仲が良かったともされる。福岡城の建設には多くの資材を調達している。此処に
一つの仮説が成り立つ。彼らはキリスタン大名小西行長との関係である。瀬高の雀の湯
は古来この地の泉に雀が病気の治癒になった事から、その泉の源泉を掘り鉱泉を雀神社
として神泉水とした事に始まる。しかし一方で「雀」は「鎮め」(しずめ)が変化した
ものともされる。口伝によれば、崇神天皇の御代に豊城入彦命が西国鎮護のために勧請
した「鎮社(しずめのやしろ)」に始まるとされる。一方、天皇行幸の時代に出雲国の
出雲大社の分霊を祀ったことに始まるとする伝承もある。室町時代・戦国時代には荘園
公方家と神社荘園の境とされここでの話し合いが船上の宴となったことから。船を置く
小屋が作られたと言う。これが、瀬高船小屋の由来である。秀吉も参拝し「天下泰平国
土安穏」を祈願したとも伝えられ、その時に筑後羽犬塚に立ち寄り命名をしている。と
される。又この近くには津江や日之出町或いは川犬など地名も存在している。フスタ船
で寝ていた。コエリヨを秀吉が訪ねたのは1586年である。翌1587年(天正15年)に
、九州平定を終えた秀吉は、ポルトガル商人が日本人を奴隷等として海外に売っていた
事を知ってしまって、話しようと立ち寄った。しかしその大砲の正確な射的や船の確か
さに仰天して言い出せなく笑っていたのだろう。だが、それをそのままにはできない。
と、その後急遽バテレン追放令を発布、布教責任者であるコエリョを召喚して叱責して
いる。フスタ船を建造して大砲を積込み、更にはそれを博多にいる秀吉に見せるという
行為を行ったがコエリョ、それまで恐らく1年はかかったはずだが作り終えていた。コ
エリョは1572年(元亀3年)に来日して、何故か1590年(天正19年)に肥前国加津佐で
没している。


1341: 名無しさんAA:18/04/13 20:50
 宣教師の時代       ーーー93

 加津佐というのは、鎌倉期〜南北朝期に見える郷名肥前国高来郡のうち高来郡内で,
伊佐早荘を除いた地域を東西に分けた東側を称したものらしい。中世の神代村・土黒村
から有間荘・加津佐村・串山郷に至る広い範囲にわたっていた正応5年8月16日の、
肥前河上宮造営用途支配惣田数注文には、「公田分」として「高木東郷二百五十四丁」
とあり,本来国衙領で朝廷の地、幕府の地、であったことがわかる。とされる。これは
長崎を諫早から佐世保側と雲仙側に分けてみて、東の雲仙側の事で口の津の別名と言う
事になる。ではなぜ此処を本拠地として没したのか。実はもともとこの口之津がずっと
以前からの港としての外国船の寄港地だったからである。肥前の熊である龍造寺 隆信
(りゅうぞうじ たかのぶ)は1584年享年56歳で没したが、それは島原の地だ。
 天正8年(1580年)に2万の兵で柳川城を攻めた。しかし、九州屈指の難攻不落の城
であった為に、全く羽がたたず、又城方も城兵の疲弊が著しかった。、鎮漣の伯父であ
り、隆信側に立っていた田尻鑑種の勧めで和睦した。しかしその後すぐ、蒲池連並が、
島津氏と通謀していることが明らかになったとして、天正9年(1581年)に、隆信は、
鍋島直茂、田尻鑑種などと謀りて、和解の猿楽の宴と称して鎮漣を肥前に誘き寄せて騙
し討ちにして佐賀で暗殺した。その後も柳川に兵をあげ、残った柳川の蒲池氏一族も皆
殺しにした(柳川の戦い)。蒲池氏は龍造寺氏にとって大恩ある家であった。龍造寺四
天王の一人・百武賢兼は、この非情さに出陣を促す妻に対して「このたびの鎮漣ご成敗
はお家を滅ぼすであろう。」と答えてしきりに涙を流し、ついに最後まで出陣しなかっ
たという。また隆信の尖兵となった田尻鑑種も後には一時的にではあるが、隆信から離
反した。若い頃から肥前統一までは、英気にあふれた人物だったといわれる。しかし隠
居した後は酒色に溺れて鍋島直茂を政務から遠ざけるなど、乱行が目立ったとされる。
宣教師ルイス・フロイスの書簡によれば、隆信は肥満体のため六人担ぎの駕籠に乗って
いたという。隆信の残した言葉が「分別も、久しくすれば ねまる」というものがある。
「ねまる」とは「腐る」の意で、熟慮も過ぎると却って期を逃し、腐る結果になる事も
ある。」という意味である。この考えを実践した結果、一代で龍造寺家の版図を大きく
広げた一方、少しでも疑いのある人物は次々に処断し、人望を失う行為も多々行った。
つまり隆信は城に戻って肥前を平定すると自身が「腐」ってしまっていたのである。

1342: 名無しさんAA:18/04/13 20:55
 宣教師の時代       ーーー94
 良くも悪くも戦国時代の生きる術で、隆信の人生を左右し、彼の方針で身を亡ぼす結
果となった。ルイス・フロイスが残した記録では、沖田畷の戦いに於ける隆信の軍備に
対し、「細心の注意と配慮・決断は、カエサルの迅速さと知恵でも企てられないように
思えた。」と評するぐらい繊細で即断した結果だったようだ。カエサルも軍事に関して
は速断の人であり、フロイスは隆信をそれ以上と評している。一方でカエサルは敵対し
た相手を許す場合が多く、当時のヨーロッパでは鷹揚な人物として有名で、上述の隆信
の人物評とは正反対である。なお、隆信はキリスト教には否定的だったようで、三男・
後藤家信がキリスト教に入信しようとした際、これに猛反対して入信をやめさせた事も
あったという(フロイス日本史)。沖田畷の戦いは、戦国時代の天正12年3月24日
(1584年5月4日)に肥前島原半島(長崎県)で勃発した戦いだ。九州の戦国大名として
龍造寺隆信が絶頂の頃に、有馬晴信・島津家久に挑んだ合戦である。「畷(なわて)」
とは湿地帯の中に延びた小道の意味である。前山と森岳城(現島原城)との間にある道
も幅が大変狭かった所で合戦は行われた。隆信は森岳城を俯瞰する小山に上り、敵方の
陣営を一望してその数の少ないことを知り容易に勝利を得ることが出来ると驕慢の態度
を示したとされる。しかしこの時は既にコエリヨはフスタ船を作り終え砲台もつけて、
この口之津で薩摩などとの取引をしていた筈なのである。更に言えば有馬氏は大村氏と
共に既に洗礼を受けた息子達が龍造寺の人質になっていた状態だったのだ。コエリヨは
その船での戦闘に頼まれても当然の筈だ。更に洗礼を受けた数少ない信者が捕らえられ
た敵将なのである。実は柳川城が落ちた時、宣教師は、江の浦城付近までジャンク船で
やって来たと言う話があるが嘘だろうと思っていたが、案外あったのかもしれない。又
この沖田畷の戦いは、島津・有馬連合軍は兵力的に圧倒的に不利な兵力であることから
、隆信は森岳城を俯瞰する小山に上った時、敵方の陣営を一望してその数の少ないこと
で容易に勝利を得ることが出来ると驕慢の態度を示した。と言う。辰の刻に戦闘が始ま
り、島津方は龍造寺軍をおびき寄せる計略を用いたため応戦をせず、敗北を装い退却し
た。追撃してきた龍造寺軍に弓や鉄砲を乱射した為、先陣は崩れ、これを助けようとし
た二陣も左右が深沼で細道のため思うように進めずに難儀をしていた。それまで潜んで
いた島津方の伏兵が弓、鉄砲を射掛けた。不意をつかれた龍造寺軍は深田に入り込んだ
ため射殺されていった。首を打ちとったとされる人物は万善仲兵衛弘賀であり、隆信は
籠に乗り6人のかつぎ手と共に、アシの茂みで隠れていたところ、「伝令」と言いなが
ら近づくも6人を素早くなで切りえ這いずり逃げる隆信を、一刀のもと首を落としたと
もされる。

1343: 名無しさんAA:18/04/13 21:01
 宣教師の時代       ーーー95
 今の島原城のこの地は、森岳といい、この城もかつて別名『森岳城』といった。天正
12年(1584)、沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)で、日野江城主・有馬晴信
が本陣を構え、佐賀の 龍造寺隆信 を討ち取った地とされる。慶長17年(1612)、有馬
晴信が、賄賂で斬首された、岡本大八事件をきっかけに追放、死罪となると、元和2年
(1616)、大和五条(奈良県)から、松倉重政が入封した。重政は当初、日野江城に入
るも、その日野江城と支城の 原城 を廃し、資材や石垣の石などを転用して、元和4年
に(1618)、島原城の築城にとりかかったとされる。原城の城も日野江城も解体され、
この島原城は総石垣で作られて行った、4重5階の天守と櫓49棟を建てたこの城は、
4万3千石の大名にとっては大きく高く、過分な城だった。その結果、領民に重い税の
負担を強いることとなり、それが、島原の乱が起こった原因の一つとされている。島原
城の天守閣は、明治9年に一度解体され、現在の天守閣は、昭和39年に外観復元された
五重の復興天守となった。この地の地盤は火山灰や溶岩流で形成されており、築城には
危険な工事が伴った。本丸には、松倉重政の祠が建っており、重政と築城工事中に亡く
なった人々が祀られている。この島原城は総石垣で、領民に重い税の負担を強いること
となり、それが、島原の乱が起こったのだが、幸い原城に立て籠った為破壊を免れたが
、この城は地下には物資や奴隷を集因する機能があった。と言う。しかしこの城は、誰
がみてもおかしな城だと解るだろう。まず平地にあり突然と石垣が組まれさらに天守閣
だけとは言え真四角のただの小屋造りの上に庇が出た普通の長屋造りなのだ。他の城に
見られる雅(みやび)さや防御工夫は全くないのだ。つまりあまりにも凡庸な城な造り
なのだ。と思うにここに初期のセミナリヨの洋館が作られていたと考えてもいいのでは
無いだろうかと考える。1579年、イエズス会の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ
神父は、日本における布教の状況を視察すべく来日した。当時、日本における布教の責
任者であったフランシスコ・カブラル神父は、日本人に対する偏見が強く、日本人司祭
・修道士の育成を全く行っていなかった。その状況に驚いたヴァリニャーノは、すぐさ
まこれを改善するよう命令した。ヴァリニャーノは、日本人の司祭・修道士を育成する
ことが日本布教の成功の鍵を握るとみていた。こうして作られた教育機関がセミナリヨ
(初等教育)とコレジオ(高等教育)、およびノビチアート(イエズス会員養成)であ
った。セミナリヨを設置するための場所選びが始まった。京都に建てることも考えたが
、京都では仏教僧などの反対者も多く。そこで織田信長の元を訪れ、新都市安土城の隣
のよい土地が与えられ作られたという。しかしヴァリニャーノと分かれてこの地に残っ
た神父の方が断然多い。つまりここに最初の印刷機や学校を作った事の方が自然だ。

1344: 名無しさんAA:18/04/21 15:03
 宣教師の時代       ーーー97

 豊臣秀吉が明国征伐のために名護屋に赴くとの布告があったため、加津佐のコレジオ
と大村のノビシャドは解体され、1591年(天正19年)に目の届かない天草に移された。
移動には多数の人が働き、毎日二百、三百、ときに千人の人が働いた。それでもコレジ
オが天草にあったのは1597年(慶長2年)までであった。天正遣欧少年使節の伊東マン
ショ、原マルティノ、中浦ジュリアン、千々石ミゲルなどもそこで勉強した。グーテン
ベルク印刷機で平家物語、イソップ寓話、羅葡日対訳辞書が刊行された。天草のコレジ
オには館長のイタリア人フランシスコ・カルデロンを始め、13人の教授(外人10名
、日本人2名)がいた。コレジオで学んだ59名のうち、15人が日本人司祭となった
。また、コレジオの生徒の中には、ポルトガル人6名とイタリア人1名がいた。活版の
印刷技術は、木版では、もっとも早いものでは、紀元前百年頃ころから使われだして、
7世紀頃には確立したとされています。金属活字以前、11世紀から13世紀頃には、
東アジアで木活字、陶活字、金属活字が使われてきている。なお、印刷された年代を、
確定できる最古の印刷物としては、日本の法隆寺に保存されていた「百万塔陀羅尼」 (
770年) があります。これは、木版印刷によるものです。世界最古とされるのは今の
所、紀元前二千年前に作られた、パピルス文書「パピルス・プリス」が、現存する世界
最古の印刷文書とされている。豊臣秀吉が名護屋城築城には理由があったとされる。そ
れがキリスタンの撲滅だった。つまり朝鮮半島は武将達特にキリスタン大名の処刑場で
あったのだ。それらが日本に又逃げて来ない様に見張る必要があったのだ。これまでも
幾らかのキリシタン大名を処罰したが、その教義から切腹を潔しよしとしなかったのだ
。更に、九州にキリシタンが増えて来た事や、南蛮船の往来を止める事に主眼があった
。中でも明智光秀の信長を討った日からの亀甲船の盗難には頭が痛い問題だった。黒田
氏は亀甲船を影で操っていた。大分では怪しまれる事からその所在は天草から壱岐対馬
や朝鮮の済州島などに置いていた。更にコエリョの持つ砲を持つフスタ船も問題だった
はずだ。沖田畷の戦いでも、有馬鎮貴は5,000人の手勢、島津軍と合わせても総勢1万人
に満たなく連合軍に関して、ルイス・フロイスは『日本史』において有馬方には2門の
大砲が船積みされても砲手がおらず、一人のアフリカのカフル人が弾丸を込め、一人の
マラバル人が点火し、厄介な操作にもかかわらず見事に発射したと記述している。また
同じくフロイス『日本史』(西九州篇第五十三章)における記述によると「敵は再び我
らの柵塁を攻撃してきた。薩摩勢はこれに応戦したものの、すでに幾分疲弊しており、
彼我の戦備は極度にちぐはぐであった。としてこの大砲の船の襲撃を認めている。

1345: 名無しさんAA:18/04/21 15:04
 宣教師の時代       ーーー98

 沖田畷の戦いでは、龍造寺軍の兵力は5万7000人であった。薩摩方の記録には6万人
とある。ルイス・フロイスの書簡には2万5000人とある。5万7000という数字は『北肥
戦誌』に記述がある。実は当初に2万5千人を送り込みこれに龍造寺が乗り込み雲仙の
島原港当たりに着岸して兵を進めた。又一方に2万で今度はもう一方の多比良港の近く
つまり佐賀寄りに着岸したとされ双方から挟み内にすると言う戦法だった。しかし龍造
寺が死んだ時伝令が来て苦戦していると言う事で、直ぐに本来柳川城にて筑後国を抑え
るよう命じられていた鍋島直茂が、柳川城へ父の鍋島清房を入れて参陣した。その人数
は詳らかにないが、そうして5万を超え6万に近かった。しかしフロイス『日本史』に
よると、直茂は兵船50槽で、人員5千で島原城へ入らんとしたが、有馬島津連合軍の
為に上陸できず三会城(別名:寺中城)へ入ったという。この時、『北肥戦誌』にある
当初の数5万7000と合わせれば6万以上の動員に達する様になったが、フスタ船の砲撃で
兵員は殆どが逃走した。三会城は別名寺中城とされる。築城年代は定かではなが城主は
浜の城の城主である島原氏の一族和泉左京であった。和泉氏のルーツは和泉守の官職を
清和天皇の子孫で源姓を賜ったり、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まるとされ
るが九州の和泉氏は殆どが大神氏による湧き水の里で熊本の地名が起源(ルーツ)であ
る。藤原氏の秀郷流、惟宗氏などにもみられる天智天皇の由来は湧水地のことであり、
和泉は二字佳名の命により泉を変更した名字だ。島原純豊は、ルイス・フロイスの『日
本史』によると、島原純茂は有馬家中で西郷純堯と共に「同国の最も身分の高い殿の内
の二人」に数えられていた。純豊は永禄6年(1563年)浜の城や近隣の高台を宣教師に
与え、時期は不明だが、キリスト教を巡る有馬家中での対立で古賀越中守を暗殺した。
天正6年(1578年)1月には、有馬氏討伐のため高来郡へ龍造寺隆信が南下してくると
これに従属している。これは彼の子も又鍋島氏に人質を取られていたからだ。この沖田
畷の戦いでは、既に龍造寺方に属してる。つまりその部下である和泉左京(いずみさき
ょう)は三会城別名寺中城で前の日に既に龍造寺隆信を入城させてもてなしているので
あった。此処に謎がある。西郷純堯(さいごうすみたか)は、高城城主であった武将で
ある。大友方として多久から小城に進軍し小城を突いた。龍造寺隆信が伊佐早侵攻の為
出陣してくることを知った純堯は、有馬氏に救援を求めたが、神代氏や島原氏、安富氏
が龍造寺方に付いたため、有馬氏は純堯に援軍を出すことを断念したが、このため武雄
の後藤氏が反旗を翻し平戸の松浦隆信の支援を受けてやっと帰城できていた。この時に
多くの子息子女が龍造寺や鍋島方に捕らえられ人質となったのだ。

1346: 名無しさんAA:18/04/21 15:05
天正12年(1584年)龍造寺軍と有馬・島津連合軍が戦った沖田畷の戦の前夜、龍造寺隆信
はこの寺中城で過ごしたが、沖田畷の戦で討死し、寺中城も島津氏の軍勢によって落と
された。戦後、居城である浜の城は有馬晴信、島津家久勢に包囲され島原純豊は降伏し
た。その後、純豊は鍋島直茂に仕えた。文禄・慶長の役では鍋島氏の陣立表に彼の名が
みえる。雲仙の高城は今や高城神社と変わっている。実は高城(たかき)は、城とは名
ばかりで この松浦氏の家臣である島原氏の武将和泉氏の食客として住まわせてもらっ
ている形であった。西郷純堯は本来伊佐早城の家老であった。大のキリシタン嫌いで、
あった。にも関わらすキリスタンかぶれの大友宗麟になびいたキリスタン大名の有馬氏
が、仏教徒で高僧となった龍造寺と戦い、その最前線にいたのである。そして負け戦を
強いられて、完全に有馬氏と離反するも又龍造寺は没して有馬氏も鍋島氏も島津氏にや
られた。その島津氏も又最後には豊臣氏に制覇されたのである。幾度もの殿の変節が繰
り返されながらこの地にいるしかなかったのである。西郷純堯はもともと菊池氏族であ
る。しかし元寇の時伊佐早領地が勝手に朝廷によって竹崎氏に分け与えられた事で領地
がなくなった事で菊池氏の意向で、松浦氏に入り伊佐早氏の家臣になった。しかし菊池
氏の衰退と同じに流民に変わってしまった。その後大友配下となったものの、その地位
は低く、有馬氏は松浦氏を束ねて肥前を乗っ取りその下に甘んじた。三城七騎籠は、自
城に戻った際、この地を治めていた大村純前は、大村館に居住して、既に三城城を築き
自城がなく、1564年、キリシタン大名である大村純忠はこの三城城に移っていた。三城
城(みきじょう)は標高38mの平山城で、比高は30mとなる。別名は留松の城、大村城と
も言う。三城城の西麓には「富松神社」になり、富松城は無残にも神社に変わっていて
、又、旧来の三城の城も「三城神社」となっていたのだ。この時に西郷達は三城城には
入れず攻撃に転じた。留守を預かった朝長純盛と朝長純基が率いる手勢は14名で大手門
を守らせ、今道純近には16名で搦手門、北の城と南の城の要所には宮原純房、藤崎純久
、渡辺純綱が僅かな手勢で固め、本丸は大村純忠と一門衆・大村純辰で13名と言う布陣
で戦い、この籠城に辛うじて七騎の大村純盛、朝長純盛、朝長純基、今道純近、宮原純
房、藤崎純久、渡辺純綱らは、小人数ながらも三城城への侵入を試みる西郷を、果敢に
撃退してこの名がついた。この三城城は慶長4年(1599年)に大村喜前が玖島城を築城し
拠点を移すまでの仮の本拠地であった。肥前・玖島城に移封し大村純前は有馬晴純の次
男純忠を養子に迎え家督を継がせた。これが初のキリシタン大名として知られる大村純
忠である。純忠は永禄6年洗礼を受けてバルトロメウの洗礼名を与えられた。天正15年
(1587年)豊臣秀吉の九州征伐に従い所領を安堵され、純忠の後に継いだ大村喜前は、関
ヶ原合戦で東軍について小西行長の宇土城を攻め、二万八千石弱の所領を安堵された。

1347: 名無しさんAA:18/04/21 15:07
 宣教師の時代       ーーー100
 1577年(天正5年)に織田信長が雑賀城に侵攻するにあたって、雑賀衆の中にも織田
信長軍に協力した者がいた。太田左近を党首とする宮郷衆らである。その織田信長軍が
雑賀の地から撤退すると、これに遺恨を持っていた雑賀衆が兵をあげ報復を開始した。
これに応じた織田信長は佐久間信盛を総大将に八万の増援軍を雑賀を送り込んだが制圧
に失敗した。その後、太田左近は根来寺の僧兵を味方にし、かなりの攻城戦があり、一
進一退を繰り返した。1ヵ月にも及ぶ戦いが続いていたが太田城の守りは堅く雑賀衆は
攻め切れず、雑賀孫一は太田左近に和睦を申し入れ停戦が成立した。その後平穏であっ
た中に突如本能寺の変で織田信長が死去した。1584年(天正12年)小牧・長久手の戦い
で徳川家康軍と羽柴秀吉軍の間で戦が起こったが、徳川家康は太田衆、雑賀衆、根来衆
らを味方になるように誘い出し、伊賀者を手に呼応し、秀吉方の岸和田城を攻めた。さ
らにその後大坂まで攻める様要請されたが、「その誘いには応ぜす」と、大坂までは攻
め上ったが太田衆、雑賀衆、根来衆連合軍は独自の判断で、止んだ。しかし天下は、羽
柴秀吉に傾き、その後この寺領を全部納めるよう命じられた。これに、抵抗を態度で示
したが、これが紀州征伐の原因となった。天正13年(1585年)3月、羽柴秀吉自らが
総大将にして、羽柴秀長、羽柴秀次を副将とし10万の兵で出陣した。同年3月21日に、
千石堀城から太田衆、雑賀衆、根来衆連合軍の諸城を次々に落城させて、次い風吹峠と
桃坂の二方向から根来寺を攻め立てる事になったが、根来寺は当時堅固な要害であった
為焼き払われてしまったのである。根来寺の大塔にはこの時のものと思われている銃弾
跡が残っている。羽柴秀吉軍の次の目標は太田城に向けられた。こうして太田城の攻城
戦は羽柴秀吉は有名な第二次太田城の戦い、水攻めが行われる。孤立無援の絶望的な状
況でありながらも、太田左近は城兵に「小城ではあるが堀は深く櫓は高い。一度秀吉に
弓を引いたものとして、大軍を恐れて降参するのは、勇士のすべきことではない。この
城を枕に潔く戦死する覚悟だ」と説いて士気を高めた。対して兵員の死を恐れた秀吉は
いつものごとく、紀の川の水をせき止め、城から300m離れた周囲に堤防を築いた。鉄砲
の及ばぬこの場所で高さは5m、幅30mで延々6kmにも及んだ堤によって水が溜められ
た。工事に要した人数は50万人とされ。昼夜突貫工事で6日間で仕上げたと伝えられ
る。同年4月に水を入れ始め、数日後から大雨が降り続け、水量が増し一挙に城は浮城
状態になった。水で囲まれた太田城に羽柴秀吉軍は中川藤兵衛に13隻の安宅船で攻めさ
せた。船の先端に板を建て、鉄砲や弓矢から攻撃から守るため改造したが、戦闘よりは
水に沈んだ兵糧によってこの城は落城した。この時豊臣政権内で舟奉行に任命され、水
軍を率いたのが小西行長であった。

1348: 名無しさんAA:18/04/21 15:16
 宣教師の時代       ーーー101

 こうした事で、亀甲船もフスタ船も秀吉の頭痛の種であったはずだ。これらは相当に
隠密や伊賀や甲賀の忍者に探らせていたに違いない。柳川明談によると、九州龍造寺が
やられたのは石が降って従者がいなくなった為とされている。更に龍造寺が責めた城は
教会であったと言われる。そして怒号と一気加勢に押し寄せる兵に 門が開かれて一発
の轟音と共に兵は度肝を抜かれた。国崩しが教会側から撃ち放たれたのである。兵は、
留めも度も無く散り尻に離散し、逃げ惑う中に矢が放たれる。何事かと先の小高い丘に
於いて陣を布いていた龍造寺は自らが先頭の先にたたんと中で雪崩を打って島津軍が背
後から攻めて来た。この音に朝になって着いた鍋島氏は浜づたいに龍造寺軍と合流しよ
うとしたが、この時海からは砲弾が飛んで来た。ここにきて爆球の「てつはう」には、
威力がなかった。船には届かないからだ。次々に放たれる砲弾と迫りくる敵襲には佐賀
勢は5倍もの手勢だったと言われるが手も足も出なかった。ここまでやって来た船によ
り柳川に戻ったものと芦刈などの塩田付近まで戻れたもののみが生き残ったとされる。
龍造寺側にも国崩しや鉄砲がなかった訳ではない。しかし、その徴知(ちょうち)さに
龍造寺には全く必要ない。と見ていたのである。その後石で作られたであろう、本式の
小さな教会は、島原城となり元和4年(1618年)から松倉豊後守重政が、当時森岳
と呼ばれた高地を城のかたちに切とって石垣を積み直し、堀を掘って7年の歳月を費や
して築いた。総塗りごめ、白亜五層天守閣を中核として大小50の櫓を要所に配し、こ
れを囲む矢挟間塀の長さは総延長2233メートルという規模の大きさで、安土桃山時
代の築城様式をとりいれた壮麗なものとなったと言われる。以来約250年間4氏18
代数々の歴史を生んだが、明治維新により廃城が決定、明治7年解体され、以来90年
、天守閣無き城跡だけがその面影をとどめました。昭和35年に「西の櫓」を復元、次
いで昭和39年に「天守閣」、48年「巽の櫓」、55年「丑寅の櫓」などが矢挟間・
鉄砲狭間を備えた長塀とともに復元された。天草四郎を総大将とするいわゆる「島原の
乱」では一揆軍の攻撃を受けた。彼らは元教会として建っていたこの地は、キリスタン
のキリスト殉教の聖地と思っていた節がある。常に雲仙の噴火でと戦火で閑散な僻地で
あった寒村が有馬晴信の許可によって、多くのキリスタンが住んで発展した。養子に行
った大村純忠はこれをみて平戸での仏門との抗争で殺人事件が起こったが、逆に、今の
長崎の横瀬浦を開港させて海外に開放した。


1349: 名無しさんAA:18/04/21 15:22
 この時有馬氏がが居城としていた日野江城が口乃津にあって、島津も一旦はこの城で
作戦を練ったのだろう。これに対して龍造寺隆信は少し遅れて上陸し、有馬・島津の主
力軍は日野江城にいるものと思い込み、自ら沖田畷の中道へ軍勢を進めたという。沖田
畷付近で、龍造寺軍の先鋒部隊が島津軍と遭遇、龍造寺軍は島津軍が小勢なのを侮り、
物見も出さずに攻めかかった。策を秘めた島津軍は、たいした抵抗もせず、ずるずると
後退し、勢いに乗った龍造寺軍は一気に攻め立てようと沖田畷の畦道をひた進んで敗戦
に及んだ。島津家久は龍造寺軍が十分射程に入ったのを確認すると、一斉に銃弾を撃ち
んだ。思わぬ銃弾の飛来に龍造寺軍は先陣が崩れ、退却しようにも後続の軍が次々と続
いてくるため身動きがとれず、狭い道の中で大混乱に陥いったと言う。龍造寺軍の混乱
ぶりを見きわめて、島津軍は一斉に抜刀し、三方から龍造寺軍に攻めかかった。隆信は
、進展を見せない合戦に苛立ち、自らが前線に立ち指揮を取ろうとした。この時、島津
家久の家臣・川上忠堅の放った鉄砲弾が隆信に命中、龍造寺隆信は呆気無く五十六才の
生涯を閉じたとされる伝承もある。既に述べた通り、隆信の兵力は自分の兵でも3万更
に鍋島2万まで出せる余裕があり、5万規模の大軍を少し下回る位だった。これに対し
、3千程度の兵力しか持たない晴信は、有馬氏が滅亡しかねない重大な危機が訪れたと
知り、同盟関係にあった島津義久に援軍の派遣を要請したが。この時に義久は主力を肥
後に配置して政家と対峙しており、島原半島にまで援軍を送るとしても余裕が全くなく
仕方なし5千を割く位だった。更に協議の結果、義久の末弟である家久を大将とした3
千の兵を島原へと送り出す事に決定したが、家久は既に37才であったにもかかわらず
、いまだ部屋住みという、自分の領地を持っていない低い身分であり、兵の少なさから
みても、十分な援軍とは言えない戦力で頼りの綱は参謀だった新納忠元と伊集院忠棟の
千五百程の部隊だった。一方龍造寺隆信は56年の生涯で大きな成功を掴み、傲慢に染
まり猜疑心が強く、人望が乏しいせっかちな性格であったとされる。一方有馬氏は貴純
の時代は、近隣を制圧して戦国大名と成長し、原城を支城として築き、最盛期には21
万石を有した。しかし後ろ盾の大内義隆が衰退すると、龍造寺隆信、西郷純堯・深堀純
賢兄弟などの圧迫を受け領地を失っていった。兄・有馬義純が1571年に22歳の若さで
死去すると、嗣子のないので、有馬晴信は兄の養嗣子となり家督を継いだ。僅か5歳の
時だった。こうして有馬家は龍造寺隆信に臣従するしかない状態だったまま家督を継い
だ。九州にキリスト教が広まる頃、有馬晴信は1580年の14歳の時に、イエズス会巡察
師ヴァリニャーノのもとでキリスト教の洗礼を受けてドン・プロタジオで、領内にセミ
ナリオ(イエズス会の教育施設)を建設してやり、嵌ってしまい領民の多くにもキリシ
タンを強要した。

1350: 名無しさんAA:18/04/21 15:23
 宣教師の時代       ーーー103

大村純忠は有馬晴信の弟である。ところが、有馬氏の領地での大村氏だった為に、本来
の跡取り候補の大村又八郎を押さえて当主となり、又八郎は玉突きで他家に養子に出さ
れてしまった。この事で又八郎は純忠を恨みまくり。純忠は、まさに憎まれ役のままで
殿様をやることになった。1561年、平戸で起きたポルトガル人死傷事件(宮の前事件)
以降に切支丹に接触し1563年、「ドン・バルトロメオ」という洗礼名を授かり、領民に
もキリスト教信仰を過激に励行した。側室と離縁し、正室と結婚式を挙げ直した後は、
キリスタンとして恐怖政治を強行した。領内の寺社を破壊し、先祖の墓も破壊した。僧
侶や神主を改宗しないと死刑とし、改宗しない領民も捕縛し拘束して牢獄にいれ貿易の
取引材料として外国に奴隷貿易として売っていった。兄弟としての有馬晴信自身も、こ
の非情に、有馬鎮貴→有馬久貴→有馬久賢→有馬正純→有馬晴信と何回も改名した。し
かし、本家有馬氏もキリスタンと仏僧との軋轢は大きかった。遠祖以来大内氏が大友氏
に討たれて大友氏側に付いた為のキリシタン政策だったが、しかし有馬晴信の縁戚にな
る深江城主の、安富純冶・安富純泰の父子などは、龍造寺に味方した。有馬晴信は島津
勢の加勢を受けて、深江城攻めた。深江城は、大友系大神氏の祖である大神朝直は始め
石松城を築いたが、三代親増のとき深江城を築いたという。天正14年(1586年)島津軍に
よって攻められ城主鎮勝は城を脱して助かったが、朝鮮の役で戦死したとされる。寿福
寺西門の下に深江将監忠昌自刃の地として小さな石碑が祀られている。慶長19年(1614
)7月、この地で深江将監は腹を切り自害した。 慶長19年5月26日の鎮信の死から40余
日にして自害していることから、主君である法印公の死に殉じて追腹を切ったという説
は真実かも知れないといわれている。その頃朝鮮では、風通しのいい小屋に窒素を含む
木の葉や石灰石・糞尿・塵芥を土と混ぜて積み上げ、定期的に尿をかけて硝石を析出さ
せる「硝石丘法」が伝統的に行っていた。硝石丘法は採取まで5年余りを要するが、土
の2〜3%もの硝石を得ることができた。この硝石と銅が日本の輸入品だった。一方で同
じ火薬の原料だった硫黄と人間が取引されていた。しかし、種子島秘伝が天皇の命令で
明智光秀に伝わると秘かに加賀や飛騨などでは「培養法」という、サクと呼ばれる草や
石灰屑、蚕の糞を床下の穴に埋め込んで、数年で硝石を得る技術が開発され、硝石を、
潤沢に生産するようになり、当初は硝石供給を基本的に中国や東南アジア方面からの輸
入に頼っていたが、やがて需要の大きな硝石の国産化が出来た。この方法は永らく軍事
機密扱いされて産地は五箇山など山奥に限られて、秘密とされ他の地方に伝えられなか
った。

1351: 名無しさんAA:18/04/21 15:33
 宣教師の時代       ーーー104

 こうして、本能寺の変(ほんのうじのへん)が起こるが、1582年6月21日(天正10年6
月2日 )の突然のクーデターは、高松城包囲中の羽柴秀吉を救援しようした織田信長の
出陣に対して、先発させた家臣明智光秀が謀反を起こしたものだ。丹波亀山城から引き
返し、京都の本能寺に宿泊していた信長と妙覚寺に宿泊していた当主の織田信忠を襲撃
したクーデター(事変)であった。寝込みを襲われて包囲された信長は脱出を諦めて、
自害を迫られ、信忠は二条御所に退いて戦ったがやはり自害した。この代表的な下克上
の1つが、今もって光秀が反旗を翻した原因については定かではない。多くの歴史家が
研究しているが、現在でも定説と呼ばれるものはない。光秀の恨みがあり、時代的野望
に発するのは当然として、光秀以外の首謀者(黒幕)は日本史上の大きな謎の1つであ
るが、この動乱のきっかけがキリスタンである事は確かだろう。九州は海外との貿易が
盛んだった中で、奴隷売買の餌食になっていた。しかし、キリスタンの野望と裏腹に、
この光秀によって、信長をしてキリスタン国家にする野望は消えた。この時代に、大友
に限らず、島津家も、この大村も或いは仏教徒さえも、戦争の際の火薬購入に住民狩り
を行って海外に売り飛ばして交易をし一説では50万人程が売られたとする記述もある
。北朝鮮の拉致被害どころではない話である。白川郷などの合掌造りは、実はこの硝酸
の作る為に作られた室を持つ為の物だった。かつて富山県五箇山が加賀藩の、隠れた硝
石製造地であった。、現地からの記事によると、当地の製造法では、あくの強い草で、
たとえば最高なのはニガクサで、他にもシヤキ、サヤク、ヨモギ、を主原料とし、これ
に大量の人尿や蚕の糞をかけた。まず、春先から夏にかけてこれらの草を刈り、雨露の
かからない場所に積んでから、人尿をかけて十日ほどおいいて蒸し腐らせる。一方、家
の床下を掘って作硝ムロを作っておき、人尿や蚕糞をまぶしたこの草と掘り出した土を
交互にこのムロに積み重ねる、堆肥のように積んでおき数年間、化学変化によって硝酸
石灰を含んだ土が採取され、こうして作った塩硝土に綺麗な雪解け水を加えて濾過して
煮詰めて、硝石を作った。江戸中期では、五箇山中を集め、毎年5トン程度の硝石を出
荷していた。一度硝石培養をしてしまえば、その後は毎年採れた。これが光秀の作った
とされる硝酸だった。しかしこの硝酸は一度四国に運ばれ大阪商人を通して江戸に行っ
た。阿蘇や別府の硫黄が火薬に必要だったからだ。光秀は信長の忠臣だった、謀反を起
こす理由はなく命はこの硝酸の作る方法で保っていた、しかし信長の短気と斎藤利三の
怒りで謀反となった。家康は利三を唆し煽った。秀吉はそれを眺め黒田が手を打った。

1352: 名無しさんAA:18/04/21 15:34
怒りで謀反となった。家康は利三を唆し煽った。秀吉はそれを眺め黒田が手を打った。
勝手に毛利と和睦する事が信長の耳に知れる事の目そらしだ。しかし本能寺の変の真の
黒幕はキリスタンのこの硝石制作の中止工作だった。信長に命を狙われていた家康は、
それを掴んで茶会を利用して知ろうとしていた。或いはうすうす知っていた。が最もそ
の中心にいたのは伊賀者だった。雑賀孫一の死はそれほど強烈だった。


1353: 名無しさんAA:18/04/21 15:42
 秀吉は金貨をたんまり持っていた。しかしこの関西の近くは、銀山が多かった事から
、銀貨の方が多く使用されていたと伝えられている。江戸中期に至るまで、秤量(しょ
うりょう)貨幣として、流通していた。宝永四ツ宝丁銀は、幕府の財政窮乏を補うため
質を落とした銀貨で、この宝永銀の流通が禁止されるまでの間、金銀相場は安定しなか
ったと言われる。それまで秤量貨幣であった銀貨は「五匁」という基準重さが銀貨単位
の計数貨幣となり、さらに「二朱」という金貨単位の計数貨幣へと変容を遂げ、金貨体
系への包摂(ほうせつ)を狙って、公定相場(金1両=銀60匁)により金貨と交換され
る計数銀貨「明和五匁銀」を発行した。その後、「明和南鐐二朱銀」という金貨単位の
計数銀貨を発行した。表面に「8枚をもって小判1両に替える」(金2朱は1/8)との
文言が打刻されて、金貨を使い慣れた江戸をはじめ、秤量銀貨を常用していた関西地方
でも流通するようになった。こうして事実上銀貨は金貨の補助貨幣となった。これで銀
貨も計数貨幣として流通し、初めて本当の意味で三貨体制になったと言える。銀貨の使
用がが出て来るシーンは、時代劇でも数少ない。劇中に銀貨(匁)は江戸を舞台にした
物が多いからではないかと思うが、やはり匁で表現した時に、視聴者に解りにくいイメ
ージがあるからであろう。海外貿易にはよく使用され、中国貿易では銀貨しか使用され
なかったそうで、その上質の悪い丁銀は受け取りを拒否されて、幕府は良質な銀貨に変
える必要さえ生まれた。鎖国の続いた日本の中と諸外国とでは、金銀の交換率に開きが
でてしまい、当時は、かなりの金銀が外国に流出した。その是正に取り組んだのが小栗
だったとされる。しかし徳川幕府が開府当初にいち早く取り組んだのは銅貨であった。
貨幣の統一に着手し、金銀貨についてはいち早く統一貨幣を発行したが、流通量の多い
銭貨についてはしばらく渡来銭の流通を認めたのち、寛永通宝に統一した経緯がある。
寛永通宝はその後約二百年間、全国各地の「銭座」において作られたが、江戸時代中期
以降になると、増鋳の必要性から次第に素材は劣悪なものになって、真鍮製の寛永通宝
四文銭や、銅一文銭の五文半程度の原料にもかかわらず百文として通用する、天保通宝
百文銭などが勝手に発行されていた。俗に言う「びた一文払わない」の「鐚(びた)」
は、「鐚銭」(びたせん)と言って悪貨の名称で、土地の豪族や商人が鋳造した質の悪
い私鋳銭である。江戸時代初期まで、渡来銭と併せてこの私鋳銭が流通していたのであ
る。銭貨は一般では一番使用された。さりげなく生活に流通していたが、当時の日本で
の銅は貴重品で銀と同じ価値を持っていた。銭貨としてそば1杯16文というのは、落語
の時そばで有名な話だが、「二八そば」で、2×8=16で16文だというのは近代の作で、
小麦粉2割、そば粉8割が、「二八そば」とかけた落語らしい。

1354: 名無しさんAA:18/04/21 15:43
銭貨の相場、鐚銭の相場は、この際無視しすれば、当時の一両に対する銭の相場は、年
を追って流通量が増えて換算比率が高くなっている。一両の価値が上がっているのでは
なく発行高が増えたせいではないかと思われる。
・1604年 : 1000文(1貫文)
・1609年 : 4000文(4貫文)
・1700年 : 4000文(4貫文)
・1842年 : 6500文(6貫500文)



1355: 名無しさんAA:18/04/21 15:44
 宣教師の時代       ーーー105

対して金貨は小判として作られた。小判の最初は、徳川家康が慶長6年(1601)に初め
て通貨として鋳造されたと言う。それまでは一分金と言う塊だった。金貨としては小判
と一分金が双方新たに鋳造され、単位には甲州金で用いられていた両・分・朱が採用さ
れた。小判には、表面に額面「壱両」の極印と、金座の責任者である後藤庄三郎光次の
名前(「光次」の文字)、および花押(署名)が打刻されている。包金(つつみきん)
は俗称「切り餅」と呼称されるが千両箱の紙に包んだ金貨だ。包金銀とは、金貨、銀貨
を一定量ずつ和紙に包んで封をしたものとされる。そのまま一般の取引に使われた。施
封は金座や銀座、または民間の両替商で行われ、額面と包封者の署名が表書きされてい
る。この名前の信用力のみによって流通し、開封されて内容が吟味されることはなかっ
た。包金の使用については25両等の包金が頻繁に出て来るが、そういう事情を知ると
簡単に使用していたとは考えにくい。贈物などに用いられたりしたので、実際封を切ら
ない様な立場の人間同士のやりとりはあったにはあったろうが通常あり得ない。千両箱
千両箱をかついで、盗賊が持ち去るシーンは良くあるが、小判の重量から計算すると、
百両でもかなり重い。しかし各時代の小判の重量が異なるので、一概には断定できない
が、「天保小判」では、1枚が11.3gで、 1000両=11.3kgであるから、箱の重さにもよ
るが丁度当時の屈強な人間なら1人で1箱は持てた重量にしていたらしい。慶長小判だ
と約17.6kgなので、ちょっと思いが今の一斗缶とされるペンキ缶の重さと思えばいい。
 江戸期になって、三貨制度が整えられ、金貨・銀貨・銭貨(銅)の三種類の貨幣から
なる貨幣制度が確立し、それまでは銀と銀貨あるいは銅と銅貨が交換だったが相互交換
が安心して出来るようになった。金貨は小判1枚の1両を基準に、大判には額面金額と
枚数で価値を表す計数貨幣を書いた。銀貨は匁(1匁 = 3.75 g)という重さの単位によ
り価値を示す秤量(しょうりょう)貨幣とした。銭貨は1個が1文の計数貨幣とした。
三貨は、それぞれ別個の価値体系が存在し、両替には時々の相場が用いられた。が三貨
が混じって使用される事はなかった。三貨を使用する人間層が異なっていたのである。
金貨は江戸の報奨として一般に流通する事は稀だった。もともと大判とされる金貨は、
将軍様と諸藩との取引でしか通用しなかった。もっぱら商人達は銀を使い上方(大阪)
の米相場と連動したもので、諸藩は米相場の藩札を発行してその場をしのいでいた。藩
札は発行時に利子取りするものでその信用によっては額面よりかなり安く流通していた
それでも大阪や京都や江戸では両替は銅銭と銀で庶民はもっぱら銅銭だった。


1356: 名無しさんAA:18/04/21 15:45
 宣教師の時代       ーーー106

この頃から一両と言う単位がよく使われたが、この「両」という単位は、実は渡来銭同
様に、中国から輸入されたもので「秤の重さ」と言う意味で本来の字は「兩」である。
それが現在は簡易字体で「両」になっている。 中国での一両はほぼ十匁(37.5g)で、
その昔、輸入された当時はちゃんと一両=十匁としていたが、次第に減じられて租鋼金
に変化し、鎌倉時代には五匁となり、室町時代には四匁、文明年間には四匁五分、そし
て江戸時代には 四匁四分(16.5g)とされていった。ただし重量自体の単位としては、
有名無実化しており、実際には大判のみ正確で、小判の方はバラバラとなってしまった
とされる。金貨1両=4分=16朱とされ、銀貨1匁=10分、1000 匁=1貫(貫目
、貫匁)で、それでも秤量貨幣の単位に過ぎなく重さを基準とした交換だった。「匁」
は、重量の単位そのもの(1匁=約3.75g)銅貨:銭貨は1000 文=1 貫文である。銭方
平次の様に、糸で銭を通してまとめた「サシ」と言う単位で、実際は麻紐代が差し引か
れて1000 文より数文少なかった重さで流通していた。先に言った様に、大判では本来は
恩賞用・献上用として使用された金貨で通常通貨ではない。言わば記念通貨だったので
流通はしていない。表面の額面「拾両」は墨で書かれていて、大判座に手数料を払えば
書き直してもらえた。正規貨幣ではあったが、市中で使用する場合は小判に両替された
。「拾両」とは重さが165g(44 匁)という意味で、小判10 枚分(10 両)と等価では
ない、大判が通貨として用いられるに際しては含有純金量に応じてその時に通用価値が
定められた。殆どが10 両以下の価値だった。小判であってもよほど高価な買い物でも
しない限り、庶民が持つ事は無かったはずである。あったとしても一分金が最高額だっ
ただろう。従って、市中の小間物・居酒屋などは全て銭貨のみを使用していただろうと
考えられる。小粒の金貨や一朱金でも、江戸中期の相場で(一両=4000文)250文相
当なのだから、そんな高額な貨幣を出されても、釣り銭を払うときには相場が分からな
いから損をするので、受け取りを拒否されたであろう。つまり小判は使えなかったのだ
。江戸時代の貨幣は基本的に4進法で簡単に見える。だが、調べてみると案外複雑で、
特にそれぞれの相場で刻々変化する中で米と共に基軸通貨の銀が変動していた。従って
当時の人たちは大変な両替計算だったんだと感じる。

1357: 名無しさんAA:18/04/21 18:29
 宣教師の時代       ーーー107

ところが こうした流通通貨価値はおよそ日本国内のみだった。これよりはるかに高い
価値で海外は流通していた。日本の金貨10枚から金貨6枚と同量の銀貨が作られたと
言われ 公式の通貨価値の3倍から6倍の価値を持ったとされる。したがってキリスタ
ン達は、禁教令が出るまではこの金貨は市中の2倍くらいの引き取りを行い、信者から
は重宝がられたのである。ではこの金貨どこから持ってきたか。それは豊臣秀吉の筈だ
。「木下藤吉郎」から名を変える頃、信長が清須城から小牧山城(愛知県)へ居城を移
した。この2年後には、現代において軍師として知られる竹中重治(半兵衛)を配下に
組み入れて更に名を挙げて行く。岐阜城へ移った信長に従い、秀吉も上洛戦に参加し、
近江(滋賀県)六角氏の観音寺城支城(箕造城)の戦いで武功を立てるなど、実戦での
記録が目立つようになってくる。そして元亀元年(1570年)、越前(福井県)の朝倉義
景討伐に出かけた時、織田家ならびに秀吉の運命は大きく変わる。浅井長政の突然の裏
切りにより織田軍は挟撃されてしまったのだ。北からは朝倉の反撃。南から浅井の猛追
である。織田家ならびに織田信長は、後に幾度か周囲の大名たちに囲まれ、その命を脅
かされてきたが、恐らくこの時が最も慌ただしく追いつめられた時期だ。そこで秀吉に
与えられた役割が殿(しんがり)であった。迫りくる敵の目を自分たちに引きつけて、
同時に味方の軍を無事に国許(あるいは京都)へ帰らせる役割だが、この時同じく任に
あたっていた池田勝正や明智光秀と共に、見事に信長はじめ大勢の味方を撤退させるこ
とに成功し、帰国を果した。この時恐らく何かの情報を得ている。この頃から彼は工作
資金を手に入れて かなりにその場の人間を買収や徴収可能にしている。その方法はさ
も黒田如水(竹中半兵衛)の関が原の時の自領で野武士を雇い入れた様に惜しげもなく
使ったやり方と同じである。この一連の撤退劇を「金ヶ崎の退き口」と言い、この出来
事は秀吉最初のターニングポイントだったようだ。この金ケ崎の名も気にかかる。織田
信長が桶狭間で今川義元を討ったように劇的な変化となった鉱山発掘は後に「黄金の国
、ジパング!」と呼ばれたこともあるように、日本にはかつて全国各地に金鉱が存在し
ていた事を示している。明治時代頃になってほとんどが掘り尽くされたと言われ、金鉱
自体は存在はしていても多くの場合、コストに見合うだけの産出量を得られない、とい
う結果を産んだがそれまでは各藩必死に採掘していたようだ。



1358: 名無しさんAA:18/04/21 18:30
 宣教師の時代       ーーー108

 ではこの近江(滋賀県)六角氏の観音寺城支城(箕造城)の戦いで武功を立ててすぐ
に秀吉は懐が良くなったのか。それはこの近江に金山があったからだ。杉峠鉱山である
通称御池鉱山として神崎郡永源寺には蛇谷鉱山・茨川鉱山など明治期には結構に掘られ
た。しかし戦後には鉱脈も切れて閉山となっている。六角氏は鎌倉・室町時代には既に
ここに移住していた。小脇館、金剛寺城を経て後に近江守護となり六角氏居城として本
拠地とした。足利尊氏の頃に佐々木道誉(京極高氏)や六角氏頼・直綱兄弟らが配下と
していたが、打ち破られる。当時「佐々木城」と呼ばれた観音寺城に逃げ込んで籠城戦
を展開していた。標高432.9m、南北に伸びる繖(きぬがさ)山の山上に築かれていて、
斜面に曲輪を展開している中家臣や国人領主の屋敷を配していた城郭都市であった。総
石垣で、安土城以前の中世城郭においては特異な点とされる街だ。天文年間には城下町
に石寺も置かれ、楽市が行われていた。周辺の琵琶湖や大中の湖があり、美濃から京都
へ至る東山道や、長光寺集落から伊勢へ抜ける八風街道があり、それらを監視・管制で
きる要衝の地だった。しかし、この六角氏は実は鉱山経営はしていない。もっぱら治水
用のダム開発が主で、佐々木氏の傍流で成頼の曾孫秀定のとき、沙々貴神社神主系と守
護・地頭の武家系の二家に分かれが、佐々木一族の多くは上皇方に味方して没落したが
、天皇方に残った神主系の一部が六角氏を名乗ったとされる。隅立て四つ目結紋とされ
、宇多源氏佐々木氏流派と目されている。六角氏は住吉神社境内を祀る。しかし、不思
議にも、底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命とされる住吉大神は一般的には 住之江
つまり海の神である。「住吉」は昔は「スミノエ」と読んだが、平安時代の中国漢字の
流入の頃から「スミヨシ」と読む様になった。スミノエとは「澄んだ入り江」を示し、
その多くは息長帯姫命(神功皇后)を含めた海の神や、航海の神、和歌の神とされる。
 では誰がこれを発見したのだろうか。海神住吉大社は遣唐使達を運ぶ船の神でもあり
その昔から唐からの人間とは繋がりがあっただろうと推測する。鳥取藩では元禄7年(
1694)たたら全体を把握し運上銀を課するため鉄奉行、鉄山目付をおき御手山制度(た
たらを藩営)をはじめたが、これによりたたらが衰微して来たので元禄11年(1698)に
はこの制度は取り止めとなり、以後たたらの稼業は鉄山師の願書(請け文書)のみでの
許可されるようになった。つまりそうした人を乗せて世話した係員であった部族だった



1359: 名無しさんAA:18/04/21 18:30
 宣教師の時代       ーーー109
 大久保長安(おおくぼちょうあん)事件は、大久保長安と言う戦国時代から江戸時代
初期にかけての武将で、甲斐武田氏に仕え、次いで徳川氏の家臣になった者の死によっ
て起こった金鉱脈を差配する一家の泡沫な家系が終焉の事件だった。彼は江戸幕府勘定
奉行や老中とまでなったが、彼が没するころ新鉱山開発をせずにいて、産出量が減って
いるのに奉納金が多くなり、帳簿の提出が出来なくなって事が明るみになった事件だっ
た。大久保長安の祖父は、金春流の猿楽師という事なので、先祖は秦氏と言う事になる
。奏氏は昔からの渡来氏族で古代船の頭首とされる。父・兄と共に猿楽師として甲斐を
訪れると、武田信玄に気に入られて、兄と共にこの甲斐の地のお抱えの猿楽師となって
いる。猿楽(さるがく)と言うのは「能」の事で、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康も愛好
していた為後々も時の将軍に寵愛されている。武田家の家老・土屋昌続の与力になり、
土屋長安と改名して蔵前衆となった。この蔵前衆組頭・田辺太郎左衛門に師事しては、
治水対策などを習得した。その後、黒川金山などの鉱山開発、税務や司法などに従事し
、有事の際には後方での兵站や補給を担当したと言う。1582年、明智光秀の本能寺の変
では、織田信長が横死し混乱した甲斐を 手にいれたのは徳川家康だった。この時本多
正信と伊奈忠次に甲斐の再建を命じたという。しかしこの時、実際に再建の所務を行っ
たのは、大久保長安だったとされている。旧武田家臣・成瀬正一を通じて金山や土木に
も詳しい官僚である事で、白羽の矢がたち召し抱えられたともされる。この時、釜無川
や笛吹川の堤防復旧、新田開発、金山採掘などに尽力して、わずか数年で甲斐の内政を
復活することに成功し、大いに回りを驚嘆させたと言う。関ヶ原の戦いでは、青山忠次
と共に徳川秀忠勢の後方支援を務めたが、何故か真田の上田城攻めは強く進言して、彼
の遅参する結果を招いた。鉱山(やま)争いがその背景にあったのだろう。その後には
、徳川家の直轄となった佐渡金山や生野銀山などの管理が彼に任されて、1600年に大和
代官、10月には石見銀山検分役、11月になると佐渡金山接収役、1601年春に甲斐奉行、
8月に石見奉行、9月には美濃代官と目まぐるしく金山開発で昇級して行った。伊奈忠次
らと東海道の整備を行い宿場を整え、関所を作り、徳川支配を確実なものとした現場の
第一人者であった。関所は他藩の武将や余所者に、この金山を襲われない為の策だった
と考えられる。しかしながら、大久保長安が死んだ時は、当然新たな鉱山開発はなく、
その産出量も減少を極めていた。多くの弟子や子供がいて「金の棺に自分の遺体を入れ
て甲斐に送り、国中の僧侶を集めて葬儀を華麗に執り行うように。」との遺言を残して
いた為、子孫は隠れて移送しようと申し出た所、徳川家康が知るところとなり御縄にな
った。

1360: 名無しさんAA:18/04/21 18:31
それは、失地を回復するという有馬氏の送ったとする六千両の賄賂事件の岡本大八事件
の死罪一年後であった。この後大久保長安の屋敷からは70万両の金銀が発見されて、
一説には不正蓄財の金塊とされる。こうして駿府町奉行の彦坂光正が調査を行い、収賄
の罪で大久保長安の腹心である戸田藤左衛門、雨宮忠長、原孫次郎、山村良勝、山田藤
右衛門らを逮捕し、葬儀は中止された。と言う。「甲斐の国」の「武田信玄伝説」では
、晩年に「金山」が枯渇した言われているが、しかししかしその後大久保長安の差配し
た「江戸時代」には「黒川金山」は裁出量は1位を誇り、「湯之奥金山」も整備され、
どんどん産出されている。この事から、藩の経営難から「金堀衆」が離れ活動が停滞し
て、鉱窟が切れ人がいなくなったところで、彼が人を集めて新たに、深く掘らせたもの
で金の鉱脈は出てきたものと考えられている。しかしこの時バテレン衆徒も多く参加し
ている事から、新たな技法が何等かの形で伝承されたのかも知れない。江戸時代の採掘
法は、金掘大工と呼ばれる採鉱夫が槌と鏨を使った手作業を行っていた。この為採掘に
高度な技能が要求され、その技能の伝承は徒弟制度により、一子相伝で僅かな者にしか
引き継がれなかった。又鉱山の作業は危険を伴うことが多く、鉱山で働く住民は、その
家族も含め相互扶助の固い絆で結ばれていた。この組織を「友子」と呼び技能の伝承が
限られや相互扶助も又その集団で行われていた。江戸期の藩政時代には鉱山では、鉱山
ごとに決められた法律(山法)があり、規制は当時の鉱山内では一般の法律により強く
、治外法権におかれた特殊な社会内で運用された。山法は鉱山での生活やそこで働く人
達に適用される処罰規定だった。と言う。ここの場合は「御敷内二七ヶ条」と呼ばれる
山法が布かれて、古文書によって知られている。その内容は、他の鉱夫のもつ持場を勝
手に掘るとか、役人がつけた目印やや封印を壊すとか、故意に放棄するなどの行為でも
重罪とし、それぞれにそれは厳しい処罰の方法までも定めていた。又さらに、鉱山での
生活についても、細かく違反に対する罰則が定められており、当時の鉱山の厳しい生活
の実態が知れる。中には一生穴の中で暮らし地上に出れない鉱夫も大勢いた。慶長17
年(1612年)幕府は、キリスト教を禁じ弾圧にのりだして女性は南蛮船に売られたが、
男性や侍の罪人はここに送られたり、落人の隠れキリシタンが身を寄せてきたり、この
東北には西国より多くの信者が逃れてやって来た。尾去沢鉱山では隠れキリスタンの村
で有名になった。しかし、隠れキリシタンの山里のこの鉱山での潜伏生活も、最初は山
法を守っている限り安全であった鉱山での生活も、次第に大きくなり噂となりその取締
りが厳しくなり、寛永20年(1643年)白根金山では多くの信者が捕らえられて処刑され
るに至る結果になった。と伝えられている。又病死も多くあったとされ過酷な生活では
平均寿命も低かった。

1361: 名無しさんAA:18/04/21 18:32
 宣教師の時代       ーーー111

ある伝記では「長坂」や「田郡」(尾去沢鉱山の一部)の金が奈良東大寺の大仏鋳造に
使われたと伝えられていてこの鉱山は相当古い鉱山であろう。また、鹿角地域は康平5
年(1062年)前九年の役の際に、厨川(盛岡市)で滅亡した安倍氏が統治していたとさ
れる。その後、尾去沢鉱山の金は平安末期、藤原氏によって築かれた平泉の黄金文化に
大いに貢献したと伝えられている。尾去沢鉱山の発見は、奈良時代の和銅元年( 708年
)であると伝えられ、当地には大日霊貴神社、錦木塚伝説等、1300年前の伝説が数
多く残されている。和銅元年に、時の朝廷が発した銅鉱探しの命を受けて、村人たちが
この付近一帯で鉱石探しをしていた。そのとき大森山のふもとで、獅子のような姿をし
た異人に出会った。村人は手に手に梵天を持って追いかけたところ、異人は魔力で梵天
を空高く巻き上げ、谷に投げ捨て逃げ去ってしまった。村人は谷に下りこの梵天を引き
抜いてみると、銅鉱石であることを示す「あかがね」の土がついていた。村人は大いに
喜び、鉱石から銅をつくって国守に納め、国守はこれを朝廷に献上した。これ以降に、
尾去沢の銅は開発され「梵天銅」と呼ばれ、発見されたところを「獅子沢」と呼ぶよう
になったと伝説は伝えている。こうして和銅元年に銅山が発見されて、以来産金が東大
寺の大仏や、中尊寺で用いられたが、そのの伝説は後に民謡として『南部牛追唄』では
「田舎なれども南部の国は西も東も金の山」と歌われる鉱山の一つとして開発が行われ
てる程、この地の自慢となった。江戸末期、財政危機にあった南部藩は、御用商人鍵屋
村井茂兵衛から多額の借財をした。が、身分制度からくる当時の慣習から、その証文は
、藩から商人たる村井に貸し付けた文面に形式上はなっていた。明治元年(1869)に、
採掘権は南部藩から村井に移されたが、諸藩の外債返済や海外借財返済の処理を行って
いた明治新政府は、大蔵大輔の職にあった長州藩出身の井上馨を差し向けて、明治4年
(1871)にこの証文を元に、村井に返済を求めたが、その不能をもって、時の大蔵省は
尾去沢鉱山を差し押さえ、ここに村井は破産に至った。その後井上はさらに尾去沢鉱山
を競売に付し、同郷人である岡田平蔵にこれを買い取らせた上で、「従四位井上馨所有
」という高札を掲げさせ私物化を図った。村井は憤慨し、これを司法省に一件を訴え出
た。司法卿であった佐賀藩出身の江藤新平は、これを追及し、井上は大蔵大輔を辞職し
た。これが尾去沢銅山事件である。その後、南部藩の救済と共に落札によって譲り受け
、明治22年に、岩崎家に経営が移った。当時には、鉱山師から海外の機械が取り入れら
れた変革期で、鉱山ラッシュだったが、三菱財閥は筑豊炭鉱入札が三井によって落札さ
れ為、筑豊を棄てて、鉱山資本に参加する為に、積極的にこの山を買ったとされる。

1362: 名無しさんAA:18/04/21 18:34
 宣教師の時代       ーーー112

 その後には、この山の成功を得て三菱財閥は 次々と閉山した山を買った。又この山
の開発には海外機械を取り入れて効率的に行い、閉山までの産出量においては、銅30
万t、金4.4t、銀155tとかなりの量が採掘されて三菱の母体となったと推定され
ている。この尾去沢鉱山が南部藩のものとなったのは恐らく大久保長安がいなくなり、
大久保家の差配が消えた頃であろう。大久保家は関所を差配し又こうした幕府の天領も
差配していた。従って金や銅の産出が無くなってしまうと天領としては価値のないもの
になって行ったのである。九州でも天領日田は同じような金鉱山の地だったとされる。
現在の日田市は、古代の日田郡とほぼ同じ範囲との盆地であった。この地域には金鉱脈
が多数あったことから、古代でも金を採掘する大変豊かなクニであったと推測される。
 日田の金山で最も有名なのは、鯛生金山である。この金鉱山の昭和初期の金産出量は
東洋一で、日本最大の金山と言われた。またこの鯛生金山を中心として県境に沿った地
域には、日田郡南部金山地帯が存在していた。その津江地域には、金山が多く古代から
多数の村が存在していたようで 「豊西記」「矢野家伝」には神武天皇(紀元前711年)
の時代の津江の老松の伝承があります。豊後国風土記には、石井村地方と津江荘を含め
て石井郷と総称していたと書かれ、豊後国志では、日田郡の津江荘は11村としている
。多分に江戸初期は黒田官兵衛の隠れたへそくりとなっていたと思われる。日田郡に存
在したとわかっている金山は17もあった。豊後風土記に書かれた、「石井村地方と津
江荘を含めて石井郷と総称」とされ隈山は石井村にあるとされた。大川石井家や柳川の
由布家などは大神(おおが)氏の一族で山の守り種族であった。この支配者は金山のあ
る地域を持っていたが、地図を見ると日田盆地西南の石井や津江や別府などはかなり離
れている。しかし。日田盆地はその集合場所で、古代の金融街であった。つまり自立し
た一部の小さな村々が離れた津江地域がからも1つの郷して存在したのである。金山の
所有・管轄権の問題がでて来たのは大和朝廷に抵抗した頃からだ。土蜘蛛と呼ばれてい
た頃にこの地にわざわざ天皇行幸し大神氏の祀る宇佐神宮にまで京都奈良から来た理由
が、この金山だったのである。日本にはいくつもの金山があり、古代人はそれを外部に
製法と共に漏らさず秘密にしていた。それが山間部の糧だったからだ。古代から金銀を
採掘していたことが明らかなのは出雲だけで石見銀山のみが古代から知られた所だった
。しかし地上に銀色の銀の山がそびえており、1526年、博多商人神谷寿禎に見つけられ
た。金の鉱床を多数もつ日田の古代は、そうして古代から豊かな王国となっていたとし
ても不思議ではなくむしろ自然なことだった。

1363: 名無しさんAA:18/04/21 18:35
 宣教師の時代       ーーー113

 しかし稲作のない地域は、常に食料も必要で時代にはついていけず、騒乱の元でもあ
った。五馬山の五馬媛(いつまひめ)もまた、大和朝廷に抵抗する土蜘蛛であったとさ
れて悲話がのこる。日田郡中川村の赤岩鉱山を持っていた中川氏も古代豪族として大和
朝廷にも列席している。または五馬が日田郡南部金山地帯の入口に当たる場所であった
から、中央とこの地の繋ぎの豪族でもあったのではないかと推測される。江戸期の馬原
事件も起こっている。幕府直轄の天領である豊後国日田では、将軍・徳川吉宗の「享保
の改革」の頃には同じように産出する金が無くなってしまった。折から、享保19年(17
34)に代官として幕府御家人の岡田庄太夫俊惟(としただ)が派遣され、定免法の導入
をはじめとして、年貢の増徴や助合穀の新設し、救荒用の備蓄米として農民から別徴収
したが、実際には換金して「助合穀銀」として商人に貸し付け、利息収入を得ていた。
このため、凶作にあたって食物にも事欠く農民の困窮は、さらに飢餓を深める結果とな
り、日田郡馬原(まばる)村の庄屋・穴井六郎右衛門が代官所に訴えるものの聞き入れ
られず、百姓の他領への逃散も相次いで村人は貧困の中に叩きこまれた。ついに延享3
年(1746)、穴井六郎右衛門は71歳の老齢に鞭をうち、日田郡・玖珠郡13か村を代表
して江戸表に出て越訴することとなり、ほかに六郎右衛門次男の要助、馬原村組頭・飯
田惣次が付き添い、年貢軽減と夫食米の借用などを幕府に要求する血判付きの訴状を、
江戸の目安箱に投函するに至った。いったんは投獄されるものの、その年の暮れには、
お目こぼしで釈放されて帰国した。しかし、国元では代官所からは徒党強訴した罪で再
び捕らえられ、穴井六郎右衛門と要介は浄明寺川原で死罪獄門、飯田惣次も死罪となり
、その他にも400名以上の百姓が、所払いや過料、手鎖などに処せられ厳しいものと
なった。3人が処刑されたあと、助命嘆願をしていた地元の龍川寺13世の水誉和尚が
、身命を堵して獄門台から3人の首級を持ち去って境内に埋葬し、その後、宝暦2年に
(1752)の七回忌に建てた供養塔が「馬原供養塔」として今に残って、伝説を伝えてい
る。なお、この供養塔では公儀を憚って、本名の「六郎右衛門」が「六郎左衛門」と意
図的に1字違いになっている。大分県日田市には、日田三丘とよばれる日隈山(ひのく
まさん)、月隈山(つきくまさん)、星隈山(ほしくまさん)がある。いずれも川の侵
食によって形成された残丘(侵食残丘、水蝕残丘)なので、山とはいってもどれも小さ
な丘なのだが、それぞれに城址がある。これが英彦山が日子山とされた理由でもある。


1364: 名無しさんAA:18/04/26 13:49
 宣教師の時代       ーーー114

 筑前岩屋城は、築城年代は定かではないが、恐らく天然の山城として相当古くから、
あったのだろう。天文年間(1532年〜1555年)は高橋鑑種の居城となっていた。高橋鑑種
は豊後の大友氏の庶流一萬田氏より筑前国高橋氏の家督を継いだ武将で、筑前国守護代
として宝満山城と岩屋城の城督を務めた。通常2城の城督というのは信用が高かった事
を示している。城督(じょうとく)と言うのは城代家老の地位で城主ではない。しかし
その城の会計からすべては城主より強い権限を持った責任者と言う事だ。高橋鑑種は、
武勇に優れた武将であったが、永禄年間(1558年〜1570年)に大友氏が南蛮かぶれになり
重陽の家臣を殺した時、離反して毛利氏に付いた。しかし、永禄12年(1569年)毛利氏は
山陰で尼子残党が挙兵した為九州から撤退した。これにより後ろ盾を失った高橋鑑種は
大友氏に破れ、鑑種は高橋家の家督を剥奪された。替わって吉弘鑑理の子の高橋鎮種が
(のちの高橋紹運)家督を継いだ形になった。天正14年(1586年)薩摩の島津氏が北上し
てくると、岩屋城には高橋紹運、宝満山城には紹運の次男で筑紫広門の娘婿である高橋
統増が筑紫氏の家臣とともに籠城した。岩屋城では壮絶な戦いの末に、高橋紹運以下、
籠城兵数百がことごとく討死した。その後、秀吉の援軍が九州平定に来襲し島津氏は、
城を秋月氏に預けたが、立花山城の立花統虎によって奪いかえされ、天正15年(1587年)
破却された。この筑前岩屋城は、大宰府の福岡側の小山の所にある。だがここが博多と
日田の要害ルートの途中で 昔からの遠の都大宰府を裾野にしている。何故か。それは
大陸からの侵攻に対応するための山城だからである。しかし本来の岩屋は岩屋神社のあ
る日田こそが岩屋と呼ばれていた。その日田岩屋には空に飛び出した大きな岩を目印と
して岩屋神社を祀っている。岩屋伝記では、欽明天皇の8年( 547年)のある日、岩屋に
輝くものが振ってきました。社僧はこれを宝珠石と名付けてご神体として神殿を造った
。大化4年( 648年)には村人に「星の玉・宝珠石を茅薦(かやこも)で包んでまつれ」と
神のお告げがあり、以来、閏年の旧暦9月には「薦替えの儀」が行われています。宝珠
とは仏の象徴を示す仏教用語で、願いが叶う不思議な玉の意味だ。見ると目がつぶれる
と言われ、いまだに見たものはいないといいます。基本的には宝珠は日本の用語ではな
い。勾玉が宝だったからだ。仏典で如意宝珠(にょいほうじゅ)を示し、梵語で「チン
ターマニ(思考する玉)」即ち「珍玉」「金玉」とされる。「意のままに願いをかなえ
る宝」とされ、玉葱や落橋や大蒜(ニンニク)の事を指したと言われている。

1365: 名無しさんAA:18/04/26 13:49
この東峰村の「岩屋神社」は閏年の今年10月19日「薦替え儀」が行われる。大変厳か
な神事で。547年空から降ってきたと伝えられる「宝珠石」をご神体として神殿を造
り安置したことの伝承行事である。宝珠とは、仏教用語で仏の教えの象徴であり、願い
が叶う不思議な宝石という意味で、宝珠石は星の玉とも呼ばれています。村民に、神の
お告げがあり、宝珠石に薦を包んで以来、閏年に幾重にもかけられている薦を上から1
3枚取り13枚被せると言う12進法の起算をする日本では珍しいものだ。「薦替え儀
」を連綿と今日まで受け継がれています。その行事は、かつては神職さえも、見てはな
らない、話してもいけない御神体とされ、目隠しをし、口には榊をくわえて夜間に行っ
ていたとされる。西洋的には金の珠でしかなく、それは金山のありかで戦争が起こる事
を避けた為と思われる。つまり宝珠山村や星野或いは巴木村はそうした伝承の地名であ
る。しかし戦国時代になると極端に多く鉱山が開かれた。キリスタンがやって来たのだ
ろう。この日田に記録が残る鉱山は下記の通りである。
照国鉱山    ……金(閉山)  -日田郡小野村
玉来鉱山    ……金(閉山)  -日田郡小野村
小野鉱山    ……金(閉山)  -日田郡小野村
大鶴鉱山    ……金(閉山)  -日田郡小野村・大鶴村
赤岩鉱山    ……金(閉山)  -日田郡中川村
天狗岩鉱山   ……金(閉山)  -日田郡前津江村
柚木鉱山    ……金(閉山)  -日田郡前津江村
中島鉱山    ……金(閉山)  -日田郡前津江村
金光鉱山    ……金(閉山)  -日田郡中津江村
岩崎鉱山    ……金(閉山)  -日田郡中津江村
殿尾鉱山    ……金(閉山)  -日田郡中津江村
大分鉱山    ……金(閉山)  -日田郡中津江村
上津江鉱山   ……金(閉山)  -日田郡上津江村
上野田鉱山   ……金(閉山)  -日田郡上津江村
彦山鉱山    ……金(閉山)  -中津市
鯛生溝部鉱山  ……金(閉山)  -中津市
金鉢鉱山    ……金(閉山)  -中津市
明賀野鉱山   ……金(閉山)  -中津市
旭鉱山     ……金(閉山)  -中津市

1366: 名無しさんAA:18/04/26 13:50
 宣教師の時代       ーーー116

 1560年、京都の二条衣棚の「 妙覚寺 」にイスパニア宣教師はイタリアなどのユ
グノー系宣教師と分かれて辿り着いている。宣教師ヴィレラは、下京の四条坊門通りの
姥柳町の住居に、やっと落ち着くことが出来た。それまでは何回か与えられた掘っ建て
小屋の隙間風のある場所に転々と移り住んでいた。ここに祭壇と小さな聖堂を設けて、
宣教の働きを進めていった。室町幕府第13代将軍足利義輝は、1553年、三好長慶との
権力抗争に敗れ、近江国朽木谷に逃れていた。この時、光秀は和議を結ぶ事に奔走した
。こうして1558年に京都に戻り、「 妙覚寺 」に住み、政治を司っていて、新しいこの
バテレンの噂に京の都は持ち切りだった。京の都で、キリスト教の宣教を進めていきた
いと思っていたヴィレラには、比叡山からの僧侶達によって、町衆の妨害や反対或いは
侮辱が激しく行われていた。是非、公方様( 足利義輝 )の加護を受けたいとの申し出
に会見しが図られたのだ。こうして直々の 「 允許状 」( いんきょ ・ 許可 ) を与
えられたいとの願いに、天皇は答えた。仏僧よりは利用価値がある。と思ったからだ。
感謝なことに、都の一人の高僧永源庵が、この仲介の労を取ってくれた。会見の当日は
、ひどい雨降りになりました。傍にロレンソ修道士が通訳としてつとめた。ヴィレラ達
は、日々の生計を立てていくのがやっとであるくらい貧しかったが、日々祈りの為に、
重宝して使っていた 貴重な 「 砂時計 」を公方様に贈呈し、喜んでもらいました。公
方も、ヴィレラを、高位聖職者として、非常に手厚いもてなしをもって礼遇した。こう
して付き合いが出来て後日、ヴィレラ司祭が願い出た「三カ条からなる制札」の允許状
が、許可され、与えられてた。願い出た内容は、@ 司祭の住居を、兵士たちが宿舎と
して徴発してはならない事。この頃は既に寺院は公共施設であり、兵士や使者、および
外から都の政庁に来る殿達に、宿舎や屯所として無断で利用される習わしで、その時の
乱暴や破壊或いは徴収も罪ではなかったからだ。A 公方様は、この司祭には賦課とか
見張番、その他の義務を免除する事。つまり仏僧らも含めた、全市民に義務付けられて
いた奉納金や苦役や労役を免除したのだ。B 何人も、伴天連を非難したり虐待しては
ならず、その違反者は、しかるべく罰せられるべき事。つまり余所者として最下層の陰
俾や卑人として扱われない様に公けに町人としたのだ。こうしてヴィレラ司祭は、公方
様の 「 允許状 」 の写しを板に書き記し、教会の戸口に掲げましたので、町の人々は
伴天連のことを、これまでとは違った目で見るようになり、公然と侮辱することも止む
ようになった。しかし今度は義輝が殺されてしまったことで身を追われてしまい、大坂
付近に布教を変えた。晩年近くまで日本でひたすら布教活動を続けていたという。

1367: 名無しさんAA:18/04/26 13:50
宣教師の時代       ーーー117

 ガスパル=ヴィレラやルイス=フロイスも、ザビエルと同じ船の最初期の宣教師だ。
ルイス=フロイスはインドのゴアで、たまたま日本に行こうとしていたフランシスコ=
ザビエルとヤジローに出会う。ここで日本布教の夢を持ったルイス=フロイスは、31
歳になってゴアで洗礼を受けたばかりのヤジロウら3人の日本人と共にジャンク船で、
ゴアを出発、日本に上陸した。日本を目指したザビエル達が着いたところは、ヤジロウ
の案内でまずは薩摩半島の坊津に上陸し、その後許しを得て、1549年(天文18年)現在
の鹿児島市祇園之洲町に来着したと言う。長崎や平戸ではなかったのだ。祇園之洲町は
文字通り祇園の為の中州町だった。つまり日本初の出島の姿だったのだ。仏教での、祇
園精舎(ぎおんしょうじゃ)は賑わった花街である。布教・托鉢などの修行(遊行)僧
も多く大寺院もあった。その中の精舎と言うのは修行の仏院仏舎の事を言ったのである
。賑わいの商館があった中州が、祇園中州なのだった。更にここでやって来たのは南蛮
船の黒船ではなくジャンク船だった。これは本来中国布教を目的に来たのだが、寄港し
た明の上川島の情報で海賊の襲来や明の弾圧も厳しい事で、一時的に避難し日本に立ち
寄ったまでの事だったのである。更にポルトガルはその頃スペインからの独立を果たし
敵対され阻害されてもいたのだ。中国のキリスト伝来は日本より遥かに早くその教義か
ら少林寺や儒教や道教などが生まれたとする説があるくらいである。明や清を脅かした
白蓮教徒の乱は近年では古代キリスト教と新しいキリスト教の融合した影響だとされる
。ではその朱印船が来ていたのは島津氏だけだったか。実は島津氏は琉球貿易から簡単
には見つからず行い易かったが、他の大名達もかなりやっていた。その為に戦国時代が
生まれたと言っても過言ではない。しかし、その交易に必要だったのが金銀か奴隷であ
ったし、又、南蛮人と紅毛人との取引でバテレンを信仰して寺や信徒で内紛が起こるよ
りは、ジャンク船なり朱印船なりの貿易の方がずっとましだったのである。それが判明
した薩摩島津は結局はキリスタン追放に及んだ。既に4世紀頃から中国商人にムスリム
商人との交易はあった。8世紀ではダウ船を使ったアラビア海を中心とした海上貿易が
盛んになった。11世紀には、宋代の中国で造られた「ジャンク船」の外洋帆船は一般
化し、羅針盤と帆を用いる新航海技術が大きく飛躍して、広東、福建、浙江などの地方
の海岸の商人が、南シナ海に進出を始め、12世紀にはマラッカ海峡を越えてインド洋
に及ぶ広い「ジャンク交易圏」が形成されてしまう

1368: 名無しさんAA:18/04/26 13:50
宣教師の時代       ーーー118

 ここに英彦山の天狗伝説がある。天狗という言葉そのものは、日本独自のものではな
く、源流をさかのぼるとサンスクリットの梵語でこれまた「インド」に行き着く言葉だ
。天狗という言葉は、インドの仏典では「流星」をさす言葉として用いられて、それが
中国語に訳されたとき「天狗」の字が当てられたといいます。しかし中国では、各種の
書物に天狗の表現があるものは、流星占いが流行し、地上に災難を及ぼす予兆の自然現
象とされ、その恐れとして捉えられており、日本のように天狗は、人のような姿で語ら
れることはなかった。だが、日本に来れば、日本書紀の舒明天皇の9年に大きな星が東
から西に流れ、雷に似た音がしたのを僧旻(そうみん:法師の事)が「あれは流星では
なく天狗だ。」と言ったという記録が残っており、これが天狗が文献に初めてでてきた
ものである。とされる。この舒明天皇9年という時期は大化の改新前夜で旱魃(かんば
つ)があり日食がありと、色々な異変が起きている時で、そういった怪異のひとつとし
て天狗が登場したようだ。まだこの頃の天狗は、中国思想と同じく自然現象そのものと
して捉えられていたことが伺える。この頃から鼻の長い西洋人系の僧が日本に来ていて
も不思議ではない。特にロシア系の白人が山で火を使い、秘かに金の抽出技術を教えて
いたとしたら、のぞき見した山の住民は妖怪と思った事だろう。また、一説では、仏教
上に現れる嘴(くちばし)を持ち、翼によって自由自在に空を飛びまわり、衆生の救済
を行う「カルラ天」が日本の風土に合った形に変形されカラス天狗として語り継がれた
という説もある。大方の天狗は、赤い顔に長い鼻を持ち、背中には烏の羽が付いている
、体型は人と変わらず、山伏の格好をしていて、団扇を持つ場合が多い。童話では、怪
力で空を飛んだり、雷を落としたり、人を金縛りにさせるなどの「数々の神通力」を持
ち、天狗のつぶてを巻き起こす団扇や、姿を隠す蓑など霊力の篭った道具も持っていま
す。昔話では、高僧にやられてしまう悪役として登場することが多い。だが本来、これ
らの悪のイメージとはまったく逆に、古くから祀られた森や山の精霊や守り神としての
天狗であり。多くは天狗は人々に対して悪さを働く事は無く、人気のない暗い山中を行
く旅人たちを守る存在である。それは山を畏敬の念で見た人々のもたらした幻影である
が もともと食べ繋ぎ生活する山では、神社という形で知識を得るまでは、古代の人々
にとっては神であり、ご神体そのものだった。海神と同じ恵みが智慧と知識でもたらせ
られたからだ。英彦山は、修験と信仰の拠点で、熊野の大峰山、出羽の羽黒山とともに
「日本三大修験山」の一つだ。

1369: 名無しさんAA:18/04/26 13:53
 山頂近くにはの「英彦山神宮」がある。正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつあかつ
かちはやひあめのおしほみみのみこと)というたいへん長い名前の神様を祀る。高天原
での「天照大神と素戔嗚尊の誓約(うけい)神話」に描かれている。スサノオがアマテ
ラスの抱いた疑いの対決に子造り対決をする。スサノオは2人の子をつれてアマテラス
は五人の子を持った。この勾玉から生みだした五柱の神様の一人である。このご祭神の
天忍穂耳命が天照大神の息子であることから、「日(太陽)」の「子」で「日子(ひこ
)山」と呼ばれ、それが彦山と名を変え、英彦山となった。この英彦山を住処とするの
が日本の天狗八系、48天狗の一人であり、九州一帯の天狗の元締格と言われている「彦
山豊前坊」という大天狗です。この英彦山には「豊前坊高住神社」という神社があり、
社殿が創建される前には「豊前窟」という名前の49窟ある修行の場のひとつでした。ご
祭神は「豊日別(とよひわけ)」という豊前国と豊後国を護る神様なのですが、このご
祭神以上に有名なのが大天狗の彦山豊前坊で、高住神社のご祭神の一柱として祀られて
いる。彦山豊前坊は、欲が深く驕り高ぶった人間には配下の天狗を飛ばしてその家に火
をつけたり子供をさらったりと、とても厳しい鉄槌を下している。しかし反対に信仰心
を持って心正しい人には、直属の家来である八天狗を始めとして英彦山のすべての天狗
を動員して、その人を護り願いを叶えてあげたりすると伝えられている。小早川隆景と
の問答の伝説では、彦山豊前坊は英彦山の樹木を護ろうとして現れますが、安土桃山時
代に英彦山の麓の毛谷村に生まれ、加藤清正の家臣となって文禄・慶長の役で勇名を馳
せた毛谷村六助(貴田孫兵衛)という武将の伝説では、彦山豊前坊に剣術を授かり無類
の強さを身につけたという言い伝えが遺っている。小早川隆景時代に秀吉の九州征伐(
1586年から1587年)の後に九州の筑前国(福岡県西部)を領国としていますから、秀吉
からは筑前と隣の豊前国の境にある英彦山の木を伐り出して造船しろという命令が下っ
た。彦山には、楠の大木が数多くあったからだ。隆景は早速、彦山まで出向き、造船の
ための木材伐り出しを彦山の座主に告げますが、座主は色々と反論したが「関白殿下の
ご命令だ。」と言うとようやく座主は納得したので、隆景は彦山の坊にしばらく滞在す
ることになった。滞在中のある夜のこと、ふいに風が吹き、どこからともなく背丈が2
m以上もある山伏が現れ、小早川隆景の前に座って睨んできました。天狗と隆景はしば
らく睨み合っていましたが、やがて天狗が口を開いて、「この彦山の木は、開基以来千
年以上の昔からいちども伐られたことはない。これは人々が神仏を敬ってきたから守ら
れたのであって、それが船を造るのに伐り出すとは奇怪な話だ。貴公は神仏に帰依の心
が深い名将だと聞いていたが、こんな悪逆無道をするとはどうしたことか」と声を荒げ
たのだった。

1370: 名無しさんAA:18/04/26 13:53
宣教師の時代       ーーー120

対して隆景は、「この山の木を私が自分のために伐り出すということならば、そのよう
なそしりも受けるだろう。しかしこれは関白殿下の命令なのだ。前例がないと言って、
この命令に背くのであれば、天下の下知に背くことになる。普天のもと、王地にあらず
ということなし、という。関白殿下は天皇に代って天下を治めているのだから、この天
下の下知に背くことはあってはならない、」と答えたという。また隆景は、「私のこと
を悪逆無道と言うが、そちらこそ自分勝手なことを言っている。役行者(修験道の開祖
、役小角)以来、修験者の法には私利私欲を優先して世の法を破れと書いてあるのか。
正しい法は私利私欲を禁ずるのだから、山の木に執着してそれに縛られるとはいかなる
ことか」と言い返した。天狗は、「普天のもと、王地にあらずということなし、とは、
もっともなことだ。また貴公に罪がないというのもはっきりした。それではお暇する。
さらばだ」と去って行った。「普天のもと、王地にあらずということなし」とは、平家
物語にも使われた言葉で、「この天下は天皇の土地でないところはない、」という意味
とされる。この天狗との問答のお話は、山を護る土地神である大天狗が天下の為という
理由で木を伐り出すことを納得したという話である。まさに戦国時代が終わりを告げ、
天下が統一された中で、元寇以来の乱世に明け暮れた事は今だ語り継がれて、朝鮮征伐
の船の話は、大陸からの侵略におののいた九州人の心をつかむものであったのだろう。
そうした御座主(おざす)さえも納得させた逸話なのかも知れません。この英彦山には
、多分にこの頃は最盛期であり数千人の僧兵を擁していた。とされる。しかし敵対して
いた大友義統に攻められ、その後に秀吉の九州征伐が行われて豊前には細川忠興が入っ
て急速にその勢力は衰えていった。それでも修験道場としての威厳は保たれていたのだ
。それにしても九州勢は優しい妖怪ばかりだ。九千坊河童といい、豊前坊天狗といい、
物わかりの良すぎる話ばかりである。しかしこの朝鮮征伐から一気に秀吉の力は無くな
って行くのである。この朝鮮征伐の不可解な事件は相当に多いものの、太閤記など秀吉
や文物記にはあまり多くは出てこない。又この英彦山と朝鮮征伐とキリスト教の関係も
あまり解明されていない。それどころか朝鮮征伐と言う名やその後一挙にキリスト信者
によって金鉱山が開発された中で秀吉が死んで行った事もあまり知られておらず、唯一
大阪城攻めに浪人を雇うに 地下に大量に金の珠を千両箱であったと言う話ぐらいであ
る。果たして小早川隆景は、この金鉱山に接したのだろうか。


1371: 名無しさんAA:18/04/26 13:54
宣教師の時代       ーーー121

 小早川 隆景(こばやかわ たかかげ)は、戦国時代の武将だが本来毛利家の人間だ。
代々続く竹原小早川家第14代当主になり、分かれていた沼田小早川家も継ぐ事になっ
た。毛利元就の三男で、兄弟に同母兄の毛利隆元・吉川元春などがいる。竹原小早川家
を継承し、後に沼田小早川家も継承して両家を統合。吉川元春と共に毛利両川として戦
国大名毛利氏の発展に尽くしたのだが、彼は毛利水軍そのもので、新たに小早川水軍と
して纏めて指揮官としても活躍している。竹原小早川家の当主であった小早川興景が、
銀山城攻めの最中に死去し。継嗣が無かったため大内氏が仲人となって養子に行った。
又本家・沼田小早川家の当主であった小早川繁平は若年で病弱な上、眼病により盲目と
なっていた為に尼子氏が菊池氏に近く、侵攻を恐れて大内氏は尼子氏との内通の疑いで
繁平を拘禁し、隠居・出家に追い込んで本家筋を絶家とした。備前国の宇喜多直家が、
織田方に離反して次々に城が落ちて毛利の本城が秀吉に囲われると、安国寺恵瓊を通じ
て秀吉と和睦交渉を秘密裏に行うと言う寝返りを見せた。毛利氏は日和見路線を捨て、
秀吉に従属し、隆景は養子の小早川元総(弟、後に秀包と改名)を人質として秀吉に差
し出した。その後は秀吉に積極的に協力し、天正13年(1585年)の四国攻めでは伊予国
の金子元宅を破り討ち取るなどの功績を挙げて改めて豊臣政権から、大名統制策として
隆景に伊予一国を与えられ独立大名として、一度毛利家に与えられた伊予を改めて受領
する形で毛利家の一武将としての体裁を保った。こうした伊予の治領に、ルイス・フロ
イスは「隆景は深い思慮をもって平穏裏に国を治め、日本では珍しい事だが、伊予の国
には騒動も叛乱も無い」と称賛している。しかし天正14年(1586年)からの九州征伐に
参加し、戦後に秀吉から筑前・筑後・肥前1郡の37万1,300石を与えられる時。所領が、
毛利・吉川・小早川三氏の8ケ国に及んでおり、更に領国を加えると公役を十分勤めら
ないと、辞退した。しかしこれに対して秀吉は、筑前・筑後を豊臣家の蔵入地として、
隆景をその代官にしよう画策し隆景は重ねて辞退した。しかし隆景の辞意は認められず
筑前・筑後を領して在国することになり、結果家臣は次々と不慮の死を遂げている。毛
利輝元はなお若く、吉川元春も既に死去している。隆景の移封によって竹原に移されて
いた家老の河野通直が病死し西園寺公広も殺害された。小早川家を伊予から九州へ移封
させた上で隆景から引き離し、通直や公広を殺害することで、毛利と小早川家を含めた
伊予の旧勢力を一掃するという豊臣政権の方針が透けて見える。こうした中での英彦山
の修験道と立ち会わせて御神木も切れと言う命令をしているのである。

1372: 名無しさんAA:18/04/26 13:54
 文禄元年(1592年)に文禄の役が始まると、6番隊の主将として1万人を動員して、
出陣し、全羅道攻めを行うが抵抗を受けず、本格的な攻略を行わないうちに先に進み、
小西行長などが、援軍に来た明軍に敗退し、これに対応するために京畿道へ配置転換さ
れた、文禄2年(1593年)には碧蹄館の戦いにおいて明軍本隊を立花宗茂と共に撃退し
た。文禄3年(1594年)8月下旬、朝鮮在陣の毛利氏諸将が加藤清正に宛てた書状の中で
「隆景養子之事金吾様」とあることから、豊臣家から秀吉の義理の甥・羽柴秀俊を小早
川家の養子に迎える事が決定したことが分かる。輝元は40歳近くになっても息子がいな
かったことから、秀吉は秀俊を毛利家の養子にしようと隆景に相談したが、隆景は血縁
関係のない秀俊が毛利家を継ぐことを心配し、秀吉には既に輝元の従弟・毛利秀元を、
養子にする事が内定していること告げた。こうして秀吉の計画を放棄させた。隆景は、
この件では秀吉が毛利氏を疎んじて輝元に不利があることを虞れて、自ら秀吉に請う事
によって、秀俊を養子として家を譲ったのである。つまり毛利氏の養子にさせたかった
が小早川氏の方に養子に来ることに決まっているとしていたのだ。こうして、文禄4年
(1595年)に秀吉が発令した「御掟」五ヶ条と「御掟追加」九ヶ条において、他の家康
や前田利家等と共に五大老の一人に任じられた。その後、秀吉からの養子秀俊改め秀秋
に家督を譲って隠居を持ち出し、譜代の家臣団だけを率いて三原に移った。その際秀吉
は12月附を以って知行目録を隆景に授け、筑前に5万150石という隠居領を与えている。
これは黒田の見張り役としたのだろう。こうして隆景は名島城を改修して居城とした。
しかし慶長2年(1597年)6月12日死去。享年65。安芸国豊田郡沼田荘米山寺に埋葬され
た。備中高松城の戦いで、黒田官兵衛が立案したとされる「水攻め」に、小早川隆景は
孤立した高松城を救援できずいた。この為、城主の清水宗治を失ってしまった。この時
の毛利に忠義を見て、自害した清水宗の息子、清水景治が残した手紙が毛利家文書に残
っている。ある時、小早川隆景が豊臣秀吉に面会した時に、秀吉が清水宗治の息子につ
いて話した。その為秀吉は、備中高松城での清水宗治の毛利家に対する忠義に感じ入る
ところがあったのか、宗治の息子に1〜2万石を与えて自分の家臣に取り立てたいと隆景
に打診している。それを隆景が岡山にいた景治に伝えに行くと、景治は「父・宗治は、
毛利家に忠誠を尽くした。自分も毛利家に忠節を尽くすべきだと思っているので、この
まま毛利家に仕えさせてほしい。」と秀吉の申し出を拒否したと言う。秀吉の申し出を
断るというのはそれなりの覚悟が必要な事であったが、景治の想いに打たれた隆景は、
その旨をそのまま秀吉に伝えた。実はこの時、黒田官兵衛も隆景と一緒に見届け役で、
岡山に来ていてこの場に同席していました。

1373: 名無しさんAA:18/04/26 13:56
宣教師の時代       ーーー123

 そして官兵衛も又、「私も景治殿の思いを全てを太閤様にお伝えしておきます。」と
言ったとしている。こうして、隆景や景治に協力してくれています。隆景と官兵衛の2
人が秀吉に景治の断りの意思を伝えてくれた事によって自分は毛利家に残っている。清
水景治の手紙にはそのように記されている。この事で官兵衛は小早川隆景を信奉してい
た面があったと言う。小早川隆景と黒田官兵衛は仲が良かったようで、ある時隆景は、
官兵衛に、「あなたは頭がいいから、物事を瞬時に見極め、即断即決をするので後々、
後悔することがあると思う。私はあなたほど頭が良くないので、じっくり物事を考えて
決断するので、後悔することは少ない。」と語った話が残る。つまり適切な速攻即断の
海賊気質があった事がこの話で分かる。又逆に黒田官兵衛の方は、結構じっくり態勢を
見極める事に終始したようだ。これは親愛な友人に幽閉された事の後悔かもしれない。
それが、朝鮮征伐の職務放棄や亀甲船の隠れ運航だったのだろう。本来なら小西行長が
持つべきものが、いつの間にか盗まれてしまい見つからないのだからこれは不始末以外
何者でもない。そこに小早川など大きな水軍との接触がある理由であろう。黒田氏では
全くこの船を動かす事は出来ないからだ。小早川は、当初は織田家と敵対し、中国攻め
を任された秀吉や官兵衛とも兵刃を交えていて、信長の死後に、秀吉が柴田勝家を破り
、後継者として台頭してくると羽柴勢に従属した。その後には秀吉に積極的に協力し、
「四国攻め」「九州征伐」「小田原征伐」、さらに「文禄の役」にも参戦し、天下統一
に多くの功績を残した。文禄4年(1595年)には家督を譲って隠居しますが、その際、
秀吉からは筑前に5万石という破格の隠居料を拝領している。また秀吉は隆景のことを
「日ノ本の国は西方は小早川隆景に東方は徳川家康に任せれば安泰」とまで評した。又
隆景が亡くなった際、官兵衛は「これで日本に賢人はいなくなった」と嘆いたと伝えら
れている。その反面、秀吉と同じく隆景は官兵衛の恐ろしさも十分承知していました。
秀吉は「自分以外で天下を治める者がいるとすれば、それは官兵衛」と言って死んだ。
小早川隆景は、家臣に「官兵衛が休息地を求めても貸すな」という言葉を残している。
隆景は自分生きている間はまだしも、自分の死後は安心できる相手ではないと考えてい
たのだった。


1374: 名無しさんAA:18/04/26 13:57
宣教師の時代       ーーー124

 毛利が敗れた時、宇喜多秀家は小早川隆景を秀吉にとり成した一人だ。多くの事で、
小早川にとっては宇喜多は腹の立つ存在だった。しかし、先行序列で秀吉は、宇喜多の
とった毛利に対する裏切りを武功として取り立てた。又備中攻めは、宇喜多の幼い頃で
家臣や家老の下した決断だった。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは大坂城
を守備し、雑賀衆の侵攻を撃退した。天正13年(1585年)、3月に紀州征伐に参加した
のち、四国攻めでは讃岐へ上陸し後に阿波戦線に加わった。天正14年(1586年)の九州
征伐にも日向戦線に参加した。天正15年(1587年)、秀吉から、豊臣姓(本姓)と羽柴
氏(名字)を与えられる。天正18年(1590年)の小田原征伐にもいち早く参加して豊臣
政権を支えている。文禄元年(1592年)から、の文禄の役には大将として出陣し、李氏
朝鮮の都・漢城に入って京畿道の平定に当たる。翌文禄2年(1593年)1月、李如松率い
る明軍が迫ると、碧蹄館の戦いで小早川隆景らと共にこれを破り、6月には晋州城攻略
を果たした。これらの功により、文禄3年(1594年)5月20日参議から従三位権中納言に
昇叙した。この時小早川と立花氏によって勝利し加藤清正を救ったが、余りにも恐れお
おいとして辞任している。その姿に秀吉は感じいり五大老の一人となっていた。しかし
彼はこの頃既にキリシタンに仲間入りしていた。彼の諸将に後で家老となった備前明石
家(美作明石氏)がいる。守護大名・赤松家の末裔であり、銅山経営や技術統率も行って
いた一族だった。尼子氏とライバルでもあり仲間でもあった。父明石行雄は、天神山城
主の浦上宗景に仕えていたが、1575年浦上家が滅亡した際には、宇喜多直家に呼応して
寝返った。こうして明石行雄は弟・明石景行と共に岡山城主宇喜多直家と宇喜多秀家に
仕えた。言わば下剋上社会にさらされ自ら負ける武将に付かないと言う下剋上を進めた
者であった。こうして1588年には4万石となり、諸大夫(従五位下)になった。子の明石
守重(あかしもりしげ)時代に、明石全登も父がまだ存命中の間に、家督を継いで、和気
郡大俣城(大股城)主して宇喜多家の家老となったのだ。通称明石全登と言う名で知られ
るが、明石掃部(あかしかもん)本来は家門15代目で代々継いだ名前だったとされた。
正室に宇喜多直家の娘(宇喜多秀家の姉)をもらい、5人の子に恵まれた。また、宇喜多
詮家(坂崎直盛)に勧められて明石全登も1595年頃からキリスト教を信仰していたとされ
る。洗礼名はジョアン。しかし銅山経営からか、彼は双子で明石景盛(あかし-かげもり
)、明石守重(あかし-もりしげ)と呼ばれる者がいた。通称は、明石掃部とも言う。

1375: 名無しさんAA:18/04/26 13:58
宣教師の時代       ーーー125

1599年、宇喜多家では、お家騒動(宇喜多騒動)が勃発し、執政(家宰)・長船綱直(長船
紀伊守)が暗殺されると、関与した戸川達安・宇喜多詮家(坂崎直盛)・岡貞綱・花房正
成の4人の重臣が出奔した。そのため、 33000石の明石全登が執政となって、宇喜多家
をかじ取りする事になったとされる。また、宇喜多秀家の岳父となる太閤・豊臣秀吉の
直臣としても知行をあてがわれて、合計10万石の知行となっている。1600年、石田三
成の関ヶ原の戦いでは、宇喜多秀家に従って明石全登も参戦。前哨戦では小早川秀秋、
毛利秀元、吉川広家、小西行長、長宗我部盛親、長束正家、鍋島勝茂、大谷吉継らと4
万で、鳥居元忠が籠城する伏見城を陥落させている。 9月14日の杭瀬川の戦いでは、石
田三成の家老・島清興(島左近)と共に中村一栄を打ち破り、野一色助義を討ち取り、
有馬豊氏にも大打撃を与えた。そして、 9月15日、関ヶ原の戦いの本戦では、松平忠吉
と井伊直政が宇喜多隊へ発砲した事により火蓋が切られた。明石全登は宇喜多勢の半分
八千を率いて先鋒を努め、福島正則を相手に巧みな鉄砲戦術により善戦した。宮本武蔵
も明石隊に加わっていたとされるが、最終的に小早川秀秋の裏切りをを受けて大敗した
。 明石全登は、敵陣に突っ込もうとした主君・宇喜多秀家を諫めて、大坂城へ退くよ
うに進言し、殿軍を務めているが、この時、黒田長政勢と遭遇したとも言われている。
なお、明石全登は無事に関ヶ原から逃走したが、石田勢を攻めていた田中吉政の娘婿と
いう説もあり、明石全登の親族である黒田長政と田中吉政が、共に逃走を手助けした。
と考えられている。その後、岡山城まで退いたが、城がすでに荒らされており、宇喜多
秀家とも連絡が取れなかったため、そのまま逃亡した。浪人の明石全登は、明石正風の
娘(小寺政職の養女)を母に持つ、キリシタン大名・黒田官兵衛(黒田如水)に保護を受け
て弟・黒田直之の元に身を寄せていたとされる。1604年に、黒田官兵衛が死去すると、
柳川藩の田中忠政を頼ったとされるが、当時、既に黒田家はキリスト教を捨てている。
明石全登は生涯キリスト信者であるため疑問点も多く放浪については諸説存在する。し
かし、もともと官兵衛の父・小寺(黒田)職隆(もとたか)は、播磨国を本拠地とする
戦国大名・小寺氏の家老だった。当主・小寺政職(まさもと)の信任厚く、娘婿として
小寺の姓(苗字)を拝領し小寺姓でもいい赤松家の系統だったのである。つまり黒田氏
の縁戚でも充分通用したのである。又1614年、徳川家康の大阪城攻撃が現実味を帯びて
くると、豊臣秀頼・淀殿の招きを受けるが、招きが及ぶのは黒田家に存在した事が解っ
ていたからだとも言える。


1376: 名無しさんAA:18/04/26 13:59
 大勢のキリシタンと共に大阪城へ入ったのは迫害されていたキリスト教復活のためと
、八丈島に流されていた宇喜多秀家を解放するためとされている。洗礼名モニカと母と
、カタリナと言う息女なども入城し、傷病兵の看護をしたと言われている。宇喜多秀家
は薩摩へ逃れ、その後八丈島へ流刑となった。又1615年、大阪夏の陣では後藤又兵衛、
(後藤基次)が討死し、道明寺の戦いで、明石全登は水野勝成・神保相茂・伊達政宗勢と
交戦し相手を混乱させ、伊達政宗と神保相茂の、同士討ちを引き起こさせたが、明石全
登自身も負傷した。天王寺・岡山の戦いでは、旧蒲生氏郷の家臣・小倉行春と共に三百
余名の決死隊を率いて、徳川家康の本陣突入を狙った。しかし、豊臣秀頼の出馬中止で
作戦は破たんして、その後真田信繁(真田幸村)らが壊滅したことを知ると、水野勝成、
松平忠直、本多忠政、藤堂高虎らの包囲網を突破して、戦場を離脱した。大村家譜、山
本豊久私記などでは、嫡子・明石内記と共に九州に落ち延びたとあり、戸川家譜、武家
事紀では南蛮(スペイン・ポルトガル)に逃れたとある。備前・和気郡に潜伏したともさ
れ、実際に江戸幕府は「明石狩り」をするほど、噂を恐れていたようだ。なお、1615年
7月27日、捕縛された明石全登の親戚・岡成定と、その子の岡忠兵衛は徳川側により、
切腹となっている。しかし一族の話では、大阪落城後には仙台の伊達政宗に保護されて
、その後、幕府の目が厳しくなると、津軽信枚の保護を受け弘前城内にて匿われ、1618
年(元和4年)に病死したとされている事から、親戚岡成定の一族を伊達氏は匿った可能
性はある。公記とされる徳川側の家伝などでは、明石全登は水野勝成の家臣・汀三右衛
門又は石川忠総に討ち取られたとあり、大坂御陣覚書、大坂記などでも討死したとある
。しかし、この関が原には大きな裏があった。もともと家康は石田三成などを欺いて、
東北平定に出かけて行く中で方向転換して大阪に向かったのだ。伊王野資重(いおうの
・すけしげ)は伊王野氏は本領は福島の伊王野城の城主だった伊王野資信の長男で家督
は弟の資友が継いだ。1600(慶長5)年9月15日早朝、関ケ原で天下分け目の戦
いが始まったほぼ同じ頃、白河・関山(福島県白河市)でも深い霧が晴れ、激戦の火蓋
が切られていた。伊王野の軍が上杉景勝の一部隊を攻めたのだ。当時、那須勢は会津・
上杉勢の南下に備え、大田原城(大田原市城山)と黒羽城(同市前田)を拠点として、
芦野、伊王野両氏はその前方の自領を守備。芦野氏陣屋(那須町芦野)は奥州街道沿い
で、伊王野城(同町伊王野)は東山道沿い。当時の主要街道は東山道の方の防備の城主
だった。もし石田三成がもっと頭がよく人に好かれた存在だったならこの城が家康側に
つかない留意をしたであろう。しかし既に家康に仕えていたのだった。那須守備隊主力
の大田原、大関氏に援軍も頼まず伊王野単独で突撃、上杉勢を蹴散らした。

1377: 名無しさんAA:18/04/26 14:00
宣教師の時代       ーーー127

ただ、関山合戦は江戸時代の書物「継志集(けいししゅう)」にしか書かれていない。
伊王野資信の長男、資重の奮戦もあって上杉軍に快勝したが、資重はこの戦で負傷し、
傷が癒えることなく同年死去。伊王野氏は優秀な跡取りを失った。伊王野氏奮戦の背景
には、豊臣秀吉の小田原征伐の際、遅参による失態で、領地が1万3千石から、本領は
735石だけに削られていたからだ。斎藤館長は「戦闘で手柄を立てることが失地回復
」の好機とし家康が大きくそそのかしていた。戦功で旗本に取り立てられ、伊王野氏は
本領に加え、高根沢1800石を加増された。だが、1633(寛永10)年、跡継ぎ
問題で断絶。「継志集」は水戸藩家臣となっていた子孫のみが、残された伊王野氏の誇
りだった。徳川氏は越後の白熊と武田信玄に負けた時から伊賀者を重用して多くの書き
つけをおこしてそれぞれの武将の関係を良く知っていた。この伊王野氏が遅参し石高が
減らされた時も恐らくなだめる手紙と日記をつけさせたと言える。こうして人心を掴み
天下国家の見張り番として君臨していたのだ。ここで伏見城の戦いが関が原の前哨戦と
して起こった。豊臣秀吉の死後に、秀吉から生前、嫡子・豊臣秀頼が成人するまでの間
は政治を託された大老の徳川家康は、そろりそろりと天下を狙い始めたのだ。家康は、
諸大名の屋敷を頻繁に訪問し、この訪問は他の大老・奉行には無断で行われて密室を用
いた茶会として、その会話は一切漏れなかった。これは豊臣政権の法令の一つ「傍輩の
うち、その徒党を立つべからず」に反するものだが、茶道の習得や享受が表向きであり
秀吉の方も表立っては諫められなかった事があげられる。しかし家康はこの時期に、他
の大老や奉行に無断で諸大名との縁組を行い、豊臣政権の法令の1つ「諸大名の無許可
での縁組の禁止。」に公然と違反する行為を行っていた。この為慶長4年1月19日、豊臣
氏側は無断婚姻の問罪の特使として三中老(生駒親正・中村一氏・堀尾吉晴)らを派遣
させた。しかし、のらりくらりと、豊臣の世の平和の為と、家康は追及をかわして返事
をし、2月2日に前田利家らと誓書を交わすことで和睦した。既に誰も家康を止められな

1378: 名無しさんAA:18/04/26 14:00
での縁組の禁止。」に公然と違反する行為を行っていた。この為慶長4年1月19日、豊臣
氏側は無断婚姻の問罪の特使として三中老(生駒親正・中村一氏・堀尾吉晴)らを派遣
させた。しかし、のらりくらりと、豊臣の世の平和の為と、家康は追及をかわして返事
をし、2月2日に前田利家らと誓書を交わすことで和睦した。既に誰も家康を止められな
かったのだ。閏3月3日、家康に次ぐ実力者の前田利家が死去すると、七将襲撃事件が
起こった。今まで豊臣恩顧の武断派武将は、国作りに失敗し奉納金の納めが出来ないと
いう状態の中で、国家経営に乗り出した大阪城の文治派武将は容赦なく一律の税収を試
みていたからだ。そしてその窮状は、文禄・慶長の役で、武断派武将達の最前線で戦っ
ていたが、文治派は戦目付(いくさめつけ)として、現地軍の苦労を一顧だにしないで
勝手な戦況報告で、現地諸将にとって都合の悪い報告ばかりを秀吉へあげていて、それ
が原因で彼らは身に覚えのない叱責を秀吉から浴びせられひどい処断がなされ、そうし
た原因がすべて石田三成ら文治派諸将のせいだと、唱えていた事だった。


1379: 名無しさんAA:18/04/26 14:01
宣教師の時代       ーーー128

 事実朝鮮の役その後は、どう考えてもどこの藩も大きく境界線が変更され、これまで
の水や土地の管理が一変させて新たな土地造りを知られた。その上この頃は熊本や伏見
の地震で不作が続いて、農民の一揆も小さい物が多発する中にあった。更に娘子供が、
多くは身売りされて人口も増えず働き手が少なくなっていたのだ。又豊臣家臣団は子供
のいない秀吉に集められた少年たちだったが、秀吉出身地の尾張の頃から来た加藤清正
を中心とした武断派と、秀吉が長浜に居城を構えた後の秀でて集まってきた近江出身の
石田三成を中心とする文治派に分かれていた。その中でうまく立ち回り焚き付けていた
のが黒田氏だった。黒田長政は播磨姫路の黒田家から長浜の秀吉に人質として豊臣家に
入り、清正ら武断派の一員と見なされていたが、その黒田氏は徳川は伊賀を使い亀甲船
貿易を知っていて、寝首を掴んでいた。武断派の重しであった前田氏と徳川氏は毛利氏
と共に平和を望んでいたが、黒田氏と同じ様に、事あらば天下を取る用意はしていた。
一方、七将と家康の動きを掴んでいた毛利輝元(もうりてるもと)と 宇喜多秀家は、
安国寺恵瓊(あんこくじえいけい)の助言もあって、秀吉死後の家康の動きを看過でき
なかったが、その実封じ込めに苦心してた。その専断をけん制するため利家の死後動き
だすはずの武断派と家康との一戦をして治めたいと考えていた。しかし、事は予想外な
展開だった。武断派は稚拙で、城下で新たな軍団の準備を他家に悟られずに内密に進め
る事は不可能であり、七将の軍事行動はやり手の戦国大名たちにはお見通しだった。こ
の時、大乱への発展を恐れる大谷吉継(おおたによしつぐ)が止めに入ったのだ。この
為にやむなく断念をした後、上杉景勝(うえすぎかげかつ)の協力も得て七将への仲裁
に入ったのである。毛利としては石田三成を確保していたが、家康と連携して七将と共
に大勢の武将が大阪城に強硬突破に出る筈と見ていた。が、家康は動かず、仕方なくも
家康に仲裁を要請する羽目に陥ったのだ。結果的に、家康には思い通りの運びとなり、
三成の解任・追放に成功し、所謂五奉行は家康にずたずたにされた。結果的に、家康に
は思い通りの運びとなり、三成の解任・追放に成功します。流れから見ますと、関係者
全員が三成一人に責任を負わせて事態を穏便に収めたように見えますが、家康の狙いの
三成の追い落としが大成功した結果となった。この事件の連座責任を、問われなかった
奉行の、増田長盛(ましたながもり)がいた。既に裏で家康派に鞍替えしていたのだ。


1380: 名無しさんAA:18/04/26 14:02
宣教師の時代       ーーー129

文禄5年(1596年)に起こった日本の土佐国でスペインのガレオン船が漂着した、サン
=フェリペ号事件は奇妙な事が多かった。1596年の土佐国浦戸(うらど)にスペイン船の
サン・フェリペ号が漂着したのだが、その船は一隻だったのだ。この報に接し豊臣秀吉
はすぐさまこの増田長盛を派遣させ、船荷などを没収し、これに抗議する航海長の発言
やポルトガル人の讒言(ざんげん)で秀吉はスペインが日本征服を計画していると疑い、
1597年の二十六聖人の殉教などにみられるように,再びキリシタンを迫害するようには
なったのだが、そもそも世界中にその領土を広げたスペイン国王フェリペ2世にちなん
だこの船は船団で港を出て居るのだ。東南アジアのフィリピンはこの国王にちなんだ名
でフィリピンの名となっている。早くからスペインの植民地であり、マニラを根拠地と
して活動していた。既にスペインは斜陽化し、収入源である南米の銀をイギリス、オラ
ンダ、フランスの私掠船に荒らしまくられ、それを止めようとした1588年のアルマダ沖
の海戦に敗北して海上戦力の相当数を喪失していた。南米と並んで、経済の要であった
オランダも独立戦争の真っ最中。さらにアジアからスペインを駆逐しようと必死になっ
ている。経済の両翼を失い、過大な軍事費に悲鳴をあげ、海洋帝国の地位をイギリスや
オランダに食われている。それがサンフェリペ号事件当時のスペインだった。1596年7
月にメキシコを目指して太平洋横断の途についたというが、あり得ない。同船の航路が
メキシコにあったとしてもメキシコの港は大西洋のはずで、南太平洋の海流に乗らずに
北太平洋を行く理由はないのだ。更に船員以外に当時の航海の通例として七名の司祭(
フランシスコ会員フェリペ・デ・ヘスースとファン・ポーブレ、四名のアウグスティノ
会員、一名のドミニコ会員)が乗り組んでいた。船は四国土佐沖に漂着し、知らせを聞
いた長宗我部元親の指示で船が浦戸湾内へ曳航され、湾内の砂州に座礁した。船員達は
長浜(現高知市長浜)の町に宿を与えられたが、一同で協議の上、船の修繕許可と身柄
の保全を求める使者に贈り物を持たせて秀吉の元に差し向け、船長のランデーチョは、
長浜に待機している。つまり、非常に日本の国内事情を知っていたのである。使者は、
秀吉に会うことを許されず、代わりに奉行の一人増田長盛が浦戸に派遣されて、使者の
一人ファン・ポーブレが前もって戻ってきて、積荷が没収されることと自分たちも処刑
される可能性があることを伝えると船員一同は驚愕した。としている。つまり既に秀吉
はこの魂胆を見抜いているし彼ら司祭も死刑などないと踏んできているのである。イエ
ズス会が上陸したのはポルトガル船で、薩摩の港だ。しかし大友宗麟は既にイスパニア
との取引をしていたのである。

1381: 名無しさんAA:18/04/26 14:09
宣教師の時代       ーーー130
「豊筑乱記:義鑑公最後之事」では、こう記している。「さて(さる程に)、「大友修
理大夫四位少将義鑑」は治世の道にも明るく、よく政策を執行していた。また、弓馬な
ど武道に於いても、九州二嶋に肩を並べる者もなく、文武二道の名大将でもあった。し
かしながら、その訳の程は分らないが、この数年逆心を企て大友幕下たることに叛く輩
が多くなった。されども義鑑はこれを鎮圧し、大名小名の多くは皆義鑑に下り降参して
いった。されども何時の時節であったか、義鑑に思わぬ災難が発生した。家臣「津久見
美作守」「田口蔵人」と言う者に討たれてしまったのである。その元の起こり(原因)
と言うのは、義鑑には三人の男子がいた。そのうち中でも嫡子左衛門督義鎮は、とりわ
け器量世に優れていた。加えて知慮分別にも賢く、弓馬の道にも暗からずあらゆる面で
諸人に勝っていた。然しながら、これほどに優れた義鎮も家中の評判はよくなかった。
それは義鎮の日常の素行にあった。己の思うままに振舞い乱暴、家臣の諌めも聞き入れ
ず皆恐れをなした。この先「義鎮公」の御代になったならば、この豊後の国はどうなる
のかと嘆いた。この義鎮に父の義鑑も気の重い日々であった。このため常々より老中や
側近等と秘かに相談を交わしていた。中でも数代の重臣として大友氏を支えた入田一族
「入田丹後守親政誠」には、折々仰合はせをされていたとされる。そこで後の世継ぎに
は、義鎮の二人の弟の内に譲ると伝えた。入田は義鑑の決意に、御諚(おおせ)の趣を
受け奉ると申し上げた。」とある。戦国時代の1550年(天文19年)2月に勃発した豊後
の戦国大名の大友氏の内紛、お家騒動である「大友2階崩れ」の内容だ。ここで「なぜ
だか文武二道の名大将でもあったが、大友幕下たることに叛く輩が増えた。」としてい
る。そして大内氏に養子に出した者か大内から娶った妻の新しい子にかに家督を譲る。
と約束している。ザビエルが薩摩に着いたのは、1549年(天文18年) 8月15日に現在の
鹿児島市祇園之洲町に来着している。しかし、天文20年(1551年)に周防国の大内義隆
が家臣の陶隆房の謀反により自害すると、義鎮は隆房の申し出を受けて、弟の晴英(大
内義長)を大内氏の新当主として送り込んだとされ、また復権を目論む叔父の菊池義武
を退け、天文23年(1554年)には菊池氏を滅亡させ肥後国を確保した。父の不慮の死、
さらに義鎮がキリスト教に関心を示してフランシスコ・ザビエルら宣教師に大友領内で
のキリスト教布教を許可したことが大友家臣団の宗教対立に結び付き天文22年(1553年
)に一萬田鑑相、弘治2年(1556年)には小原鑑元が謀反を起こすなど(姓氏対立事件
)義鎮の治世は当初から苦難の多いものであった。また、この頃に義鎮は本拠地を府内
から丹生島城(臼杵城)に移している。とされる。しかしそれでは話が合わないのであ
る。

1382: 名無しさんAA:18/04/30 15:48
宣教師の時代       ーーー131

 政略においては、毛利元就ですら手玉に取るほどの手腕を見せていて、既に有名無実
となっていた室町幕府の権威を利用し、莫大な献上金を差し出して守護職・九州探題職
を得て、九州支配の正当化を確立している。さらに天正9年(1581年)には当時の天下
人・織田信長と誼を通じ、それを後ろ盾にして一時的に義久と和睦するなど外交手腕に
は特に秀でていた。とされるからだ。通説では永禄5年(1562年)もしくは同6年(1563
年)に臼杵の丹生島城に移ったとされているが、姓氏対立事件を機に義鎮が丹生島に移
った事に触れた弘治3年(1557年10月29日)のガスパル・ヴィレラの書簡に(『耶蘇会
士日本通信』)の記事以降の大友氏の関係文書を分析した結果は、義鎮が府内ではなく
臼杵において政務を行っていると指摘され、史料不足から具体的年代は断定できないも
のの、既に親父の代からこの臼杵の城を建てかかっていたと考えられる。天文20年に
(1551年)に豊後へ布教のためにやってきたイエズス会宣教師・フランシスコ・ザビエ
ルを引見したことがキリスト教との出会いであった。とされているが、どうも違うとも
思える。何故ならこの時弥助や献上品としての紅毛人を連れていたとは考え難いからだ
。27年後の天正6年(1578年)7月にキリスト教の洗礼を受け、ポルトガル国王に親書を
持たせた家臣を派遣したが、もともと 領内での布教活動を保護し、南蛮貿易を行って
いたと思える。また古くから、博多商人の島井宗室や神屋宗湛らと交友し、日明貿易や
日朝貿易も行っていたはずだ。でなければ大内・毛利も菊池・大友も戦いの原因がない
事になるからだ。実際に明国や朝鮮などとの貿易が利益をもたらしていたのは15世紀
後半辺りまでで、三浦の乱を契機に少なくとも明・朝鮮との貿易関係は衰退し、名義上
大友氏の看板を利用した対馬国の国人や博多の豪商らに実利は移ってしまった。という
また輸入品の多くは食料や武器などで、経済・軍事的に影響する物は少なく、多くは、
いわゆる「仏教奢侈品」であったとされる。三浦の乱は15世紀頃は、朝鮮半島南部に
三浦と呼ばれる日本人居留地が存在していたからだ。九州勢は宗氏を始めこの三浦を拠
点に朝鮮に通交をしていたのである。朝鮮にとってこうした通交は多大な負担で、次第
に制限を加えていった。対して宗氏にとって通交の制限は受け入れられるものではなく
、両者の間に確執が生まれた。この不満は1510年に三浦の乱で爆発する、が朝鮮に鎮圧
され結果、三浦居留地は廃止され、通交も大幅な制限を受けることになった。この三浦
は地域名でなく、倭寇対策に制限され開港を認めた釜山浦・薺浦・塩浦の総称であっ

1383: 名無しさんAA:18/04/30 15:49
宣教師の時代       ーーー132

こうした事件は度々起こった。特に対馬の痩せた土地では交易は不可欠で対馬の役人で
の自治の獲得は大変な努力の上の恒居倭の建設だった。しかし、作れば直ぐに増加し、
済州島などの漁民も日本人として居留し恒居倭による漁場の占拠や、恒居倭の倭寇化や
朝鮮国の脅威になる事が度々起こり閉鎖となった。こうして日朝の国交は断絶状態とな
ったが、宗氏以外の全ての受職人(朝鮮から官位を貰っている者)・受図書人(通交許
可を受けている者)に対しても同様に痛手であった。又、交易で生計を立てている対馬
と、胡椒・丹木・銅などの輸入を対馬に全面的に依存している朝鮮の双方も又、折り合
いを付ける必要に迫られ、1512年、壬申約条により和解が成立した。これにより交易は
再開され倭館も再び開かれたが、その度に入港制限し、入港地は薺浦のみに制限され、
歳遣船は半減、特送船の廃止、日本人の駐留の禁止、受職人・受図書人も再審査を受け
るなど、通交は以前より制限されたものになった。また、暴動対策のため備辺司が設置
された。その後、薺浦一港だけでは港受入れは難しいとの理由から、釜山浦も再び開か
れるが、1544年に蛇梁倭変が起こり、再び国交は断絶した。1547年の丁未約条を以って
交易が再開されるが、入港地は釜山浦一港に制限され、これが近代倭館へと続いていく
ことになる。宗氏にとって三浦の喪失と通交の制限は大きな痛手であり、日本国王使の
偽使の派遣、通交権の対馬集中といった方策を持って三浦の乱による損失の穴埋めを図
ることになる。ここに柳川氏が表れている。朝鮮討伐では朝鮮国王は平壌(ピョンヤン
)へ逃れ大明国の援軍を待った。朝鮮国王を追う小西行長軍に伴い従軍僧としての玄蘇
和尚も平壌へと向かっている。日本軍の侵攻ルートで幾たびもの交戦を続けながらも、
行長は無益な戦火を交えることは避けたいという気持ちで、宗藩家老柳川調信や玄蘇ら
に諮りながら朝鮮側へ和議交渉を働きかけていたのである。その内容たるや従来の「明
国征服への道を拓くべき要求とまた朝鮮と和睦して朝鮮の斡旋、仲介によって明国との
講和を望んでいる。」との趣旨の繰り返しであった。それは降伏の勧告と同然の意味合
いであり、そのことは中国明を裏切るもので、朝鮮側はこの欺瞞に満ちた和議の申し入
れに応じられるものではなかった。明との戦いでは日本が矢面になる筈はなかったから
だ。更にこれまでも宗氏は、いくつもの偽の国使を送って、欺瞞の応えをしていたから
だ。実はこの朝鮮戦争もキリスタン追放も意地の張り合いによるボタンの掛け違えから
起こっていた。それが南蛮船である国籍不明の黒船来航である。

1384: 名無しさんAA:18/04/30 15:50
宣教師の時代       ーーー134
 サンフェリペ号事件は当時のスペイン船であったが、乗っていた司祭はフランシスコ
会やドミニコ会員アウグスティノ会で彼らは、根っからの熱烈なカトリック教徒で裸足
の貧装僧托鉢修道会の人間だ。基本理念は、貧しいイエス・キリストの生涯を範として
、その福音を使徒と同様忠実に生き、ローマ教皇に対してはあくまでも従順をつらぬき
通し、人びとに「神の国」を叫ぶ人達で、全く交易には即しない人達なのだ。イエズス
会とは少し違っていたはずだ。つまり彼らこそが、辛抱の強い大友宗麟の様に仏門を壊
し神の国キリスト教国建設を熱烈に望む人達なのだ。言わばキリスト原理教団の使者だ
。彼らが乗ってメキシコ目指して財宝持って行くと言うのは少し考えられない事だ。そ
の上に奴隷を乗せていたのである。「われらの主イエス・キリストの福音を守り、服従
のうちに生き自分の物な何も持たず、常に貞節のうちにあらんことを。修道士は頭巾付
き上着1枚だけ持ち、履物は必要な者だけに許される。衣服は着古したもので、袋地か
、ぼろでつぎはぎさるべきこと。高価な衣装を着、美味な飲食物を食べている人を見て
も軽蔑したり裁いたりしてはならず、むしろ自分自身を裁き軽蔑せよ。直接にせよ間接
にせよ金銭を受け取ってはならず、何物も所有せず、清貧と謙譲のうちに主に仕え、喜
捨を請うことを恥じず、清貧を友とせよ。」と教えている教団なのだ。しかし日本に着
いて、奉行の増田らは、同伴の黒人男女にいたるまで船員全員の名簿を作成し、積荷の
一覧を作ってすべてに太閤の印を押し没収し、船員たちは町内に幽閉された上、所持す
る金品をすべて提出するよう命じられた。さらに増田らは「スペイン人たちは海賊であ
り、ペルー、メキシコ(ノビスパニア)、フィリピンを武力制圧したように日本でも、
それを行うため、測量に来たに違いない。このことは都にいる三名のポルトガル人ほか
数名に聞いた。」という秀吉の書状を告げたのである。こうして増田らの一行は積荷と
船員の所持品をすべて没収し、航海日誌などの書類をすべて取り上げて破棄すると、都
に戻っていった。つまりスペイン系カトリックのフランシスコ会が既にこの地にジャン
ク船できていた。それは同じ様に中国布教の為だったが大きな抵抗にあって逃げて来た
事からである。しかし後発のイエズス会は、京都に滞在が許される程に躍進した。イエ
ズス会は貿易によって活動資金を賄い、フランシスコ会は托鉢によって活動資金を賄っ
ていた。この活動資金の調達方法が互いに容認できず、イエズス会とフランシスコ会は
対立していた。と思っている。フランシスコ会は商売には興味がなく、あくまで布教の
徒としての巡教師であった。だがイエズス会は、貿易とイスパニア排除での日本市場の
独占であった。それに対抗するには賄賂でもなんでも貢品の進呈しかなかった。そこで
この船が品物を乗せて一艘だけでやって来た。と推測する。

1385: 名無しさんAA:18/04/30 15:50
宣教師の時代       ーーー135

 つまりフランシスコ会などカトリック系のジャンク船で宣教師は日本に来ていたので
ある。何故か。清貧と禁欲の生活を理想としており、その戒律は(服従、清貧、童貞)
とするこの司祭たちには剣もない。中国では嘉靖帝の晩年、明朝は内政の乱れの他に、
「南倭北虜」と称される倭寇とモンゴル系タタールによる侵攻にさらされていた。即位
した隆慶帝は嘉靖期の弊政を改革すべく、嘉靖帝への諫言により罪を得ていた 徐階、
海瑞などの人材を登用し、それまで朝廷で権勢をふるっていた道士を一掃した。海瑞は
先代の嘉靖帝が、道教への傾倒しており、上訴して激しく諫めた。嘉靖帝は道教に凝り
不老長寿の術に没頭しており、長く政務を見なかった。国が内憂外患に襲われている中
、君主としての義務を果たしておらず、誰も諫めるものがいない中で、海瑞は、敢えて
臣下として忠義のために君主へ諫言を行ったのである。このため投獄されたが、この時
必ず彼を捕縛するように厳命した嘉靖帝に対して、宦官の黄錦は「この方は上訴にあた
り、棺桶を買い妻子に別れを告げ、死を覚悟している。決して逃げないでしょう」と、
言上した。こうして嘉靖帝はこの年の12月に道教の方士の献上した丹薬を服用し急死
し海瑞は釈放され、もとの官職に就き、大理丞に昇進した。方士とは道教の中で道教の
不滅の真理を持つ者を仙人とされ、道(タオ)を体現した人とされる、これに近づき方
術を使う者が方士とされる。徐福伝説で解る様に紀元前の秦の始皇帝時代から彼らはい
て既に何百年を経ても騙される帝がいて、そういうペテン中国の体制のままだったので
ある。この後隆慶帝が立ち、この海瑞や徐階を登用して疲弊する国庫を建て直すため、
海外貿易を開放し、倭寇、タタールに対してある程度の貿易を認める柔軟策で、対外的
にも安定した時代を現出させた。しかし隆慶帝自身は凡庸な皇帝であり、朝政を省みず
、その政務は大学士に代行されていた。また酒色に溺れ、享楽を求めた生活のため、36
歳で崩御した。大学士は、本来は相談役だったが、この頃は皇帝の草稿に関り、皇帝が
目を通して修正する事も少なくなり、草稿がそのまま勅令になることが多くなって、実
質上内閣が皇帝の権限の代行まで行い、極めて強い権限を持つようにまでなっていた。
ザビエルは1552年中国の上川島(サンシャン島)へ上陸し中国大陸へ渡る為に中国
のジャンク船を待っていたが、熱病にかかり47歳で他界した。実は上川島は、東支那
海の交易基地であると共に情報基地で、海賊の一大本拠地でもあったのである。

1386: 名無しさんAA:18/04/30 15:53
宣教師の時代       ーーー136
 なぜザビエルは中国に渡ろうとしたのか。ザビエルがゴアに送った書簡は、日本に関
する情報がふんだんに書き込まれた調査報告書である。しかし、ある一時期を境にその
内容が、手の平を返すように変わる。それは日本を離れて書かれた書簡からだ。それま
では日本を金銀に満ちた豊かな市場として報告し、有望な交易国として商売の促進を呼
びかけていた。しかし、日本を離れると、今までの魅力的な市場については触れずに、
いかに日本に来る途中で海賊が危険であるか、また日本人は好戦的で貧しく、積極的な
関係を持つには値しないと、正反対の内容に変わっている。それにこの日本を離れ去っ
た後、イエズス会の同僚との往復書簡の中で「(日本の布教に)もう精根尽き果てた。
自分の限界を試された。」と正直に告白している。そこにザビエルが中国布教に転じた
理由があった。ザビエルが布教始めて、出会った日本人が彼に決まって尋ねた事がある
。それは、「そんなにありがたい教えが、なぜ今まで日本に来なかったのか。」という
問いと、「そのありがたい教えを聞かなかったわれわれの祖先は、今、どこでどうして
いるのか。」ということだった。日本の家長制度で生きてきた日本人にとっては、先祖
の命を継ぎ名を残して行く事が至上命題の生きる資格だった。故に魂の救済という答え
は個人の救済ではなく、先祖から子孫に繋がっていく家族集団の救済で無ければならな
かった。しかし、「信じるものは救われる」=「信じない者は地獄行き」と言う思考は
、答えを個人のみに帰結させてしまうキリスト教の欺瞞に見えたのである。つまりは、
自分たちは洗礼を受けて救われるかもしれないけれども、洗礼を受けず死んでしまった
ご先祖はどうなるのか、やっぱり地獄に落ちているのか。当時の日本人はザビエルに、
こういう質問を投げかけたのだ。キリスト教においては、洗礼を受けてない人は皆地獄
にいる教えで、ザビエルもそう答えました。すると日本人が問うわけです。「あなたの
信じている神様というのは、ずいぶん無慈悲だし、無能ではないのか。全能の神という
のは嘘か、信心深い信者のご先祖様ぐらい救ってくれるのが当然ではないか。」と。ザ
ビエルは困ってしまう。本国への手紙に書きました。「日本人は文化水準が高く、よほ
ど立派な宣教師でないと、日本の布教は苦労するであろう。」と。当時の中国にも、韓
国にも、インドシナにもこうしたキリスト教の急所を言う者は居なかったのである。そ
もこの考えは個人救済の小乗仏教でなく大乗仏教の中の終末思想から来ている。あの世
の中に地獄と極楽があり、輪廻があって又生まれ変わる。そしてそれは、虫かも家畜か
も人間なのかも解らない。しかしこの現生界で修行すれば極楽浄土に行き衆生を救う仏
になれる。従って修行し情けある悟った生き方をしなさい。それが日本仏教だったので
ある。

1387: 名無しさんAA:18/04/30 15:54
宣教師の時代       ーーー137

 この広東省の海島の上川島は、ポルトガル人はサンシアン,イギリス人はセント・ジ
ョーンズ島と呼んだ。古くから航海者や海賊の集結地,仮泊地となり,広東を追われた
ポルトガル人も立ち寄った。マカオの直ぐ傍の小さな小島で、「マカオは中国が近代の
西洋文化を採り入れた最も古い窓口。カトリックの拠点だ。シンポの開催地にふさわし
い」と、ザビエル生誕500年祭を催している。マカオの聖ヨセフ修道院にはザビエル
の腕の骨が安置されている。マカオの西100キロの南シナ海に浮かび、上川島にある
ザビエルの墓園は遺体が一時埋葬された島北部の象鼻山に1639年、マカオの教会が
資金を集めて建設し、その後、修復が繰り返されて残って居る。しかし当時はここの地
の攻防は激しかった。西からののアラビア海のダウ船を使うムスリム商人の「ダウ交易
圏」は、鄭和の南海遠征(1405年〜1433年)以来西進してここまで及んでいた。この頃
は室町時代でその二百年も後に西洋人がやって来たのだ。既に文明の十字路「古代マラ
ヤ(マレー)人にとって、マラッカ海峡一帯からチャンパ(古チャム)王国(ベトナム
)などはこのガレー船貿易の主要な交易寄港場所になっていた。東の中国と西のインド
をつなぐ交通路は、有史以来、大陸から太平洋方面へと南下する移住の道でもあった。
中でもマラッカ海峡は、大地と海の奇妙な配分が生んだ地球上でも稀にみる東西南北の
十字路で重要な場所である。しかしその為に、その地元には常に文化摩擦が生まれて、
残念ながら、西洋や中国の様な大文明は生まれる事はなかった。東か西の文字に頼った
他人の記録だけが、マラッカ古代史の手掛かりだが、漢字による中国史書、サンスクリ
ット、パーリ語などインド系言語による説話、アラビア文字によるペルシア、アラブ系
の史料、そしてヨーロッパ語による記録など多彩である。土地の人間は、その暮らしの
古い痕跡をほとんど残せなかったと言える。それはイスラムの狂信的な偶像破壊にある
。どの国でも今では信じられない程質素な生活の中で、西洋人が東洋に目新しい物に、
嬉々として眺める様に、東洋も又西洋に興味が尽きなかった筈だ。ところがこの上川島
までは頻繁に往復出来たが、日本は季節風頼みでしか行けなかったのだ。それは冬にし
か北風は吹かなかったからだ。こうして中東貿易も中国貿易も南蛮貿易も重なるように
なって、双方の交易が大きく展開されて、日本にまで及ぶようになっていた。その中に
は難破船や逃げられないムスリム西洋人もいたのである。不思議な事だが、鄭和の南海
遠征は、数百隻で編成され、船団は大型船体の上、乗組員は2万8千人にも達した上に
。インド洋を越えてアフリカ大陸にまで達していたのに、欧州や地中海には行かなかっ
た。

1388: 名無しさんAA:18/04/30 15:55
宣教師の時代       ーーー138

 ヴァスコ・ダ・ガマは、ヨーロッパからアフリカ南岸を経てインドへ航海した記録に
残る最初のヨーロッパ人なのだが、それでも記録は、1502年2月10日に、インド
洋駐留5隻を含む15隻でヴァスコは航海に出発し、残り5隻のいとこのエステヴァン
・ダ・ガマの指揮で、計20隻で出航したのが初めてとなっている。その100年もの
前なのである。しかし、「馬可・波羅游記」即ち「東方見聞録」の中のマルコ・ポーロ
は見事にそうした航海前に旅が出来る事を実証している。マルコは、父ニコロと叔父マ
ッフェオに同伴する形で旅行へ出発したのは1271年で更に200年異常もさかのぼ
る。「万暦の三大征」は,中国での明の万暦帝の治世に起こった3つ乱の事をさす。ボ
バイの乱・秀吉の朝鮮出兵・楊応龍の乱の3つの戦乱なのだが、この万暦帝の治世の頃
、つまり16世紀後半の大陸明王朝では、社会・経済から対外関係まで世の中において
大きな変動が起こりつつある中でついていけないうねりがあった事が解る。第14代皇
帝・万暦帝(神宗)が即位して直ぐに。万暦帝の治世では、内閣大学士の首席となった
張居正の主導により,行政・財政の改革が行われ,また周辺地域に対する防衛体制も、
整備されて,堅実な政治が行われた。しかし治世2年目1592年2月には、中国西北
部の寧夏においてモンゴル人将軍のボバイの乱(寧夏の役)が起こった。他のモンゴル
人勢力とも連携したボバイの軍に明は苦戦し,同年9月になってようやく鎮圧した。又
,同年4月には,日本の豊臣秀吉による朝鮮出兵(朝鮮の役)が開始され、明は朝鮮の
要請を受けて援軍を送り,前後あわせて7年にわたり多大な負担をかけて戦闘を行った
。さらには同じ頃、貴州省の播州の土官(地方の首長)であった楊応龍の乱(播州の役
)が起こった。明はこの鎮圧にも手を焼き,数年をかけてやっと平定することができた
。これが万暦帝の時代に起こった3つの大きな戦乱である。しかしこの戦乱には大きな
要因があった。それは各地で天変地異が起こった事だ。日本でも同じに大地震が起こっ
ているのである。慶長伏見地震(けいちょうふしみじしん)は、文禄5年閏7月13日
(1596年9月5日)子の刻に現在の京都・伏見付近で発生した大地震である。慶長伏見の
大地震とも呼称され、京都では伏見城天守や東寺、天龍寺等が倒壊し、死者は千人を超
えた。この地震の4日前には現在の愛媛で中央構造線を震源とする慶長伊予地震があり
、また前日には現在の大分・別府湾口付近で別府湾―日出生断層帯の東部を震源とする
慶長豊後地震(共にM7.0と推定)が発生しており、双方の地震による誘発地震のでの
伏見地震は1995年の兵庫県南部地震(M7.3)と同じ要因と規模であったとされている。


1389: 名無しさんAA:18/04/30 15:55
宣教師の時代       ーーー139

 さらにこの頃は小氷河期となり、イギリスやフランスのセーヌ河に分厚い氷が出来て
いるくらい寒冷地となっている。では世界に何がこっていたのか。海の権益争いであっ
た。この頃捕鯨も魚取り漁も食べる為ではなく油や髭をゴム代わりに使う為に獲ってい
た。必要なのは航海に水代わりとされたワインとパンつくりの小麦と財宝だけであった
。アルマダの海戦は、イングランドがネーデルランドを支援した事に対し、スペインが
イングランドを征服しようとグラン・アルマダを派遣した事で起こった。アルマダとは
、「艦隊」という意味で大艦隊でグラン・アルマダとされた。「無敵艦隊」の「無敵」
を冠したのは、それを破ったイングランドの方だった。一説ではスペインの情報を察知
したイングランドが、これをコードネームとして無敵と名づけた、という。この頃は、
ネーデルランドのプロテスタント諸侯は、カトリックのスペイン王フェリペ二世による
弾圧に耐えかねていて、幾度も反乱を起こしていた。1579年にユトレヒト同盟を結んで
結束を固め、1581年、ついに北部ネーデルランドの独立宣言をした。(現在のネーデル
ランド、南部は現在のベルギー)こうしてスペインとの戦争が開始となった。ポルトガ
ルを柵封し、ヨーロッパで最強国だったスペインに、海上の覇権をかけて挑戦したのが
、イングランドの女王エリザベス一世だった。グラン・アルマダがイングランド征服に
向かった時点では、艦艇130隻、兵員30000の大艦隊えお要した大型ガレー船の大艦隊で
、レパントの海戦でオスマン帝国の艦隊を破った大型ガレー船団だった。ガレー船は、
つまり手漕ぎの船である。圧倒的な砲門の数で砲撃を加え、衝角を使って激突、接舷し
ての白兵戦を挑むスタイルだった。風の弱い地中海においては無類の強さがあったが、
大西洋や北海の荒波では動きが鈍い大型船だった。対してイングランドには 艦艇197隻
、兵員15000。艦艇数では多いが小型の早船ばかりだった。圧倒的に小さく実際 地中海
で戦ったら、直ぐに粉砕されていただろう。しかし、イングランドの艦艇は小型帆船は
、それなりに外洋向きで速度が速くするように進化した船だった。竜骨が長く船体が細
長く、帆を4つ以上ついて戦闘中にも小回りがきく。また横風なら風上にも動いた。積
んでいる大砲は、重量や破壊力を犠牲にして射程を延ばしたものだ。従来の大砲の操作
が二輪で狭角だったのに対し、船上で引き回しができるように四輪に改良した大砲で、
およそどの方位にも撃てた。


1390: 名無しさんAA:18/04/30 15:55
宣教師の時代       ーーー140

 スペインの戦略では上陸戦で挑む予定だった。陸戦部隊は兵員の2/3を占める事か
らも、海上戦は只の上陸するまでの対戦砲弾であり、イングランドとの海上交戦を、グ
ラン・アルマダは予定していなかった。とても小型船が挑んでくるとは考えていなかっ
たのだ。その威容を見せるだけで陸に引っ込むと思っていた。また、実際に海戦になっ
たとしても、砲撃の後の衝角を使って激突し、接舷すれば白兵戦でも船体でも負ける筈
はなかった。ここで陸戦部隊の数は大きな力だった、大型の船ですから、上から砲撃を
加え、陸戦部隊が乗り込んでいく。そうすれば圧倒的に有利なのは間違いがなく常道で
もあった。白兵戦になるのならば、スペインの陸軍は、陸の最強国と言われたフランス
陸軍を完膚なきまでに叩きのめした軍でもあったからだ。スペイン陸軍のテルシオ陣形
と言う他に類のない陣形をもった。火縄銃兵と槍兵の混成部隊で、槍兵で銃兵を守り、
波状的に組んで銃撃を加えるやり方で後に西洋砲術となったやり方だ。織田信長がやっ
た火縄銃の活用法を更に発展させたものと思えばわかりやすい。ところがそれは白兵戦
になればの話だった。実際の戦場は波の荒い外洋でイングランド艦艇は距離をとった砲
撃にはこちらは届かなかった。そして決して接近戦をしなかった。こうなると、図体の
でかい大型ガレー船は、海上のいい砲撃の的でしかなかった。これは当時の海戦の常識
を打ち破る画期的な戦術で 近代海戦の手法だった。砲弾の飛距離の差は戦術の転換期
のひとつになり戦前の巨砲巨艦主義まで続いた。スペイン戦死者2万人、実に半数以上
の76隻の艦艇の撃沈をみて大いにイングランドは無敵艦隊の地位を得た。こうしてネ
ーデルランドの独立は確定し、スペインは斜陽の時代に入っていく事になったのである
。イングランドは最初から戦術の転換を思い付いて小型帆船ばかりを用意した訳ではな
かった。元々イングランドに大艦隊などはなく、基本的に海賊船と商船の寄せ集めだっ
たのだ。どちらも、艦船と言う戦うための船ではなく、海賊から逃げる為の船だった。
そしてバイキング様式の足の速い船ばかりが集まったのはイングランド艦隊の環境だっ
た。又砲撃による遠距離戦での戦いを思い付いたのは、海賊の知恵で実行しただけの話
だろう。弓兵を集中運用したのも、イングランドVSスコットランドの戦い方で得たもの
で、スペインなどの山城でなく、海岸端の城に命中精度を問題としないゲリラ農民兵を
戦力として活用していた戦いというのものを持っていた。という事なのだろう。これら
は宣教師の運動にも影響を与えた。世界に小型帆船で宣教師を連れて行く事を可能性を
示したのである。


1391: 名無しさんAA:18/04/30 15:57
宣教師の時代       ーーー141

 万暦帝の時代に起こったこうした欧州の黒船の波と、3つの戦乱「万暦の三大征」と
呼ばれた事象は明には大きな禍いだった。これらをかろうじて乗り切ったものの、財政
に莫大な負担がかかった。国力は著しく消耗しその対策が求められた。又、明が遼東方
面の軍をこれらの反乱への対応に振り向け消耗した事は、女真人の台頭する好機ともな
った。こうして「万暦の三大征」は、明の衰亡に重大な意味を持った。文禄5年(1596
年)10月19日に、サン=フェリペ号が四国土佐沖に漂着しているが、これは津波による
漂着の可能性が強い。9月1日〜5日(文禄5年閏7月9日〜13日)には慶長伊予地震、慶長
豊後地震、慶長伏見地震は改元前の文禄5年の出来事として残って居る。慶長大地震は
非常に驚くべき大きさであったはずだ。さすがに 12月16日(文禄5年10月27日)日本は
新規一転と、地震などの災異のための改元して慶長元年と年号を変えた程だ。その年は
慶長伊予地震    - 1596年9月1日、伊予国をおそった地震。 M 7.0
慶長豊後地震    - 1596年9月4日、豊後国をおそった地震。 M 7.8、
慶長伏見地震    - 1596年9月5日、畿内をおそった地震。     M 7.1、
慶長地震      - 1605年2月3日、関東以西の太平洋沿岸津波。
会津地震      - 1611年9月27日、会津藩をおそった地震。   M 6.9
慶長三陸地震    - 1611年12月2日、奥羽・蝦夷地太平洋沿岸をおそった津波。
高田領大地震  - 1614年11月26日に会津から松山まで日本各地に被害記録発生
と、至って多く発生している。余震や記録不備を考えれば、日本が壊れる位に逼迫した
庶民感情が働いた事が予想される。これらが、かつての仏教を広げた様にキリスト教の
布教が一気に受け入れられる事になった。多分にこれは日本国内だけでは無かったと考
えられる。およそ2〜3年前に台湾や中国雲南や或いはニュージーランドやハワイ島な
どは地震に襲われ、マラッカやフィリッピンやマレー半島には火山爆発や津波が前後し
た年に起こっている可能性も高い。この中でスペインはイギリスに追われていたのだ。
東インド会社は、1577年から1580年にかけてのフランシス・ドレークの世界周航を皮切
りに出来たとされる。厳密にはイギリスに出来た香辛料貿易を主業務とした3つの会社
の総称で、イギリスの航海の、略奪、探検、冒険航海の色が強い中で、地中海東岸地域
との貿易を専門とする商社が、1595年、オランダのアジア交易の成功を真似た事で始ま
ったとされる。従って江戸時代前はイギリスは最も略奪の多い海洋国だったのである。
したがって、歴史的には、スペインやイスパニアには東インド会社は作られなかった。

1392: 名無しさんAA:18/05/01 23:48
宣教師の時代       ーーー142

代わって作られたのが、フランス東インド会社で、隣国のオランダとイギリス(イング
ランド)に習って、1604年にアンリ4世によって15年間の有限の独占特許状 (Charter)
を与えられた会社組織として創設された。ルイ14世によって認可された国営貿易会社と
して財務総監コルベールのもとで再組織され、財務総監ジョン・ローにより、フランス
が展開していたすべての国営貿易会社である西方会社、セネガル会社、アフリカ会社、
ギニア会社、サン・ドマング会社、シナ会社、東インド会社を、全てにインド会社に統
一させた。しかし、1664年に企画され、本格始動がイギリスやオランダより半世紀以上
遅れた形で、植民地経営と商業利権の獲得をめざしたものだった。では先行したオラン
ダはどうか。アムステルダムに作られたオランダ東インド会社は、正式には連合東イン
ド会社といい、世界初の株式会社といわれる。会社といっても商業活動のみでなく、条
約の締結権・軍隊の交戦権・植民地経営権など喜望峰以東における諸種の特権を与えら
れた勅許会社であり、帝国主義の先駆けとしてアジアでの交易や植民に従事し、一大海
上帝国を築いた。VOCの目標はまず高級香料を産するマルク諸島であったが、それか
らすぐに海域アジアの大半に活動を広げた。1605年にはマルク諸島に要塞を築き、スペ
イン人やイギリス人などのライバルと争いながら、現地支配者との戦闘や内政干渉を通
じて支配を強め、1606年以降ペタプリ、マスリパトナム、プリカット、ネガパタム、フ
グリなど各地に商館を設置している。ポルトガル人は1557年に地方官憲によってマカオ
居住が認められていた。ポルトガル人がマカオから長崎に中国産生糸をもたらし日本銀
を持ち帰る貿易で巨利を得ていたことが、VOCに中国貿易に対し強い関心を持たせた
。VOCは1619年にバンテンからその属国であったジャカトラを奪うと同地に拠点を移
したが、ジャワ西部からマルク諸島と中国に向かう二つのルートを統括する方針は維持
された。ジャカトラはバタヴィアと改名され、VOCの政庁が置かれた。こうしてアジ
アの貿易は、中国における政治経済の変動を軸に展開した。この東シナ海・南シナ海の
貿易秩序を支えていた朝貢制度は16世紀には崩れ去る。万暦帝の時代に中国北方での
モンゴル系アルタンが領土を脅かし、その防備のための軍糧を補充するのに税銀が用い
られるようになり、明朝社会で銀財政への転換が進んだ為だ。


1393: 名無しさんAA:18/05/01 23:52
宣教師の時代       ーーー142

代わって作られたのが、フランス東インド会社で、隣国のオランダとイギリス(イング
ランド)に習って、1604年にアンリ4世によって15年間の有限の独占特許状 (Charter)
を与えられた会社組織として創設された。ルイ14世によって認可された国営貿易会社と
して財務総監コルベールのもとで再組織され、財務総監ジョン・ローにより、フランス
が展開していたすべての国営貿易会社である西方会社、セネガル会社、アフリカ会社、
ギニア会社、サン・ドマング会社、シナ会社、東インド会社を、全てにインド会社に統
一させた。しかし、1664年に企画され、本格始動がイギリスやオランダより半世紀以上
遅れた形で、植民地経営と商業利権の獲得をめざしたものだった。では先行したオラン
ダはどうか。アムステルダムに作られたオランダ東インド会社は、正式には連合東イン
ド会社といい、世界初の株式会社といわれる。会社といっても商業活動のみでなく、条
約の締結権・軍隊の交戦権・植民地経営権など喜望峰以東における諸種の特権を与えら
れた勅許会社であり、帝国主義の先駆けとしてアジアでの交易や植民に従事し、一大海
上帝国を築いた。VOCの目標はまず高級香料を産するマルク諸島であったが、それか
らすぐに海域アジアの大半に活動を広げた。1605年にはマルク諸島に要塞を築き、スペ
イン人やイギリス人などのライバルと争いながら、現地支配者との戦闘や内政干渉を通
じて支配を強め、1606年以降ペタプリ、マスリパトナム、プリカット、ネガパタム、フ
グリなど各地に商館を設置している。ポルトガル人は1557年に地方官憲によってマカオ
居住が認められていた。ポルトガル人がマカオから長崎に中国産生糸をもたらし日本銀
を持ち帰る貿易で巨利を得ていたことが、VOCに中国貿易に対し強い関心を持たせた
。VOCは1619年にバンテンからその属国であったジャカトラを奪うと同地に拠点を移
したが、ジャワ西部からマルク諸島と中国に向かう二つのルートを統括する方針は維持
された。ジャカトラはバタヴィアと改名され、VOCの政庁が置かれた。こうしてアジ
アの貿易は、中国における政治経済の変動を軸に展開した。この東シナ海・南シナ海の
貿易秩序を支えていた朝貢制度は16世紀には崩れ去る。万暦帝の時代に中国北方での
モンゴル系アルタンが領土を脅かし、その防備のための軍糧を補充するのに税銀が用い
られるようになり、明朝社会で銀財政への転換が進んだ為だ。


1394: 名無しさんAA:18/05/07 10:08
宣教師の時代       ーーー144

 1533年に石見(いわみ)銀山では、新しい精錬技術である灰吹法(はいふきほう)が
朝鮮半島から伝わったことで、爆発的な増産をみた。この技術移転は、当然山陰〜博多
〜朝鮮の密貿易ルート上で活動していた倭人が取り込み、朝鮮の民間でひそかに行われ
ていた銀精錬の現場から盗み出すことで実現した。さらに日本銀は、中国経済が銀中心
の交換システムへと組み込まれ変貌していく。密貿易ルートをたどって大量に中国国内
へ流入し、銀と交換で中国から日本へ運ばれた品目の中心は中国産生糸で、その密貿易
を担って巨利をあげたのが倭寇集団と華僑集団、更になかんずく新参者のヨーロッパ勢
力だった。鉄砲とキリスト教も、前述の密貿易ルートを往来していた倭寇集団と、その
船に便乗していたヨーロッパ人によって、日本に伝えられた。ポルトガル人が鉄砲を携
えて乗りこんでいたのは、のちに倭寇王となる王直のジャンク船(中国式外洋帆船)だ
ったし、ザビエルを鹿児島に運んだのは、マラッカ在住の海賊(ラダラオ)という仇名
を持つ中国人のジャンク船頭だった。鉄砲が戦国動乱のゆくえを左右する新兵器として
、またキリスト教が「宗門人別改(にんべつあらため)」という制度による強固な人民
掌握を生みだした否定的触媒として、日本史の中世から近世への移行におけるきわめて
重要な要素となったことは言うまでもない。倭寇は、そもそもが朝鮮戦乱時に日本に逃
げてきた倭人達である。倭人と日本人は一緒と思われがちだが、ちょっと違っていて、
倭人は海洋人で沖縄から北海道まで朝鮮を含めて漁民としての生業しか持たない部族で
朝鮮半島でも島ないし沿岸にしか住民としていなかった。しかし北進して紛争になれば
百済人として日本に避難し、朝鮮人にはごく一部しか残らなかった。多くは済州島や壱
岐対馬或いは長崎などに逃げ込んだのである。14世紀末、倭寇の鎮圧にあたった高麗
・日本の責任者が、倭寇の淵叢(えんそう)は両島だと、異口同音に言明している。倭
は国をあげて盗をなすものではなく、その主体は国家の命令系統に従わない対馬・壱岐
両島の叛民・寇賊である。かれらは「舟を以て家と為す」ような生活実態で、居所も定
かではなかった。(高麗史節要・朝鮮太祖実録)と数多くの書物が認めている。15世
紀に海賊行為が鎮静化しても、その認識に変化はなく、朝鮮側がいう「倭人」とは、ほ
ぼ対馬島民とみてまちがいない事実もある。一方に倭寇がはびこる背景には、陸地側の
社会変容や混乱があった。


1395: 名無しさんAA:18/05/07 10:12
宣教師の時代       ーーー145

 明時代の地方社会を牛耳っていたのは、中央科挙官僚を輩出した「郷紳」層である。
14〜15世紀になると、中国中央部の経済成長はめざましく、通貨需要も中央政府から供
給される銭貨では間に合わなくなりつつあった。海禁政策のために東南アジア方面との
貿易には高価な舶来が出来たのだ。この機会を奪われていた中国南部沿海の郷紳層は、
非合法の中国人海商や国外の海賊集団と手を組んで、密貿易にのりだすようになった。
倭寇取締りの責任者だった浙江巡撫朱沃(しゅがん)は、「外国の盗をなくすのは易し
いが、中国の盗をなくすのは更に難しい。中国沿海の盗をなくすのはまだ易しいが、中
国衣冠の盗をなくすのはもっとも難しい」と嘆いている。(明史)郷紳と結託した海上
勢力の側も、しだいに多民族混成の度合いを増した。朱沃は「海洋賊船出没事」と題す
る文章で、「海洋に出没する賊船はみな内地の叛賊である。かれらは南からの季節風が
吹く時期に、日本諸島・仏郎機(フランキ)(ポルトガル人)・彭亨(ボハン)(マレ
ー半島の港町)・暹羅(シャム)の夷人たちを誘引・糾合して、寧波府の双嶼(そうし
ょ)港内にやってきて停泊する。それを内地の姦人たちが出迎えて、往来交易する」と
述べている(皇明経世文編)。双嶼は1520年代から密貿易の基地となっていた舟山諸島
の港である。嘉靖大倭寇が中国社会の外部的存在だったという言説は、同時代の中国人
自身によって、明瞭に否定されていたと言わねばならない。この現象は日本でも起こっ
ていた。内藤如安はキリスト教への受洗名ジョアンの音訳名で、本名は忠俊という。内
藤は天文19年(1550年)頃、三好氏重臣・松永久秀の弟・松永長頼の子として生まれて
いる。松永久秀の甥であり、永禄7年(1564年)、ルイス・フロイスやガスパル・ヴィ
レラにあってキリスト教に入信した。それは、命令による奴隷引き渡しからで、熱心な
キリシタンとして知られる様になった。当初彼はあの貧しい身なりの修道士が奴隷売買
してるとは全く思えなかったし、またそう思うえる程巧妙な仕掛けだった。火薬が高く
金銀がその代償として支払われていたからだ。しかしそれを知る頃はすっかりキリスト
信者であった。また茶人としても名高く、小西飛騨守とも称した。丹波国の在地領主と
してはじまり、小西行長に仕えた後に浪人し、最後はキリシタン追放令によりマニラへ
追放された。到着先のマニラでは、総督以下住民の祝砲とともに迎えられるなど、手厚
い歓迎を受けた。マニラではイントラムロス近くに日本人キリシタン町サンミゲルを築
いた。


1396: 名無しさんAA:18/05/07 10:12
宣教師の時代       ーーー146

 この内藤如安は若い頃、織田信長と戦い天正元年(1573年)3月の槇島城の戦いでは
、2千の兵を率いて入城されている。敗れた如安は内藤家執政の座を失い、天正4年に
(1576年)には、足利義昭が備後国鞆に幕府を移すと、これに従っている。天正6年(
1578年)、先に織田氏の家臣になっていた明智光秀の攻撃に遭い八木城は落城し、内藤
本家は所領を没収された。この後、明智光秀は、松永氏や内藤氏の席を奪い足利氏につ
いている。そしてそれに細川氏が同行している。又、明智光秀の娘の細川玉子がキリシ
タンになったのは明智光秀が討たれて、随分と経ってからであるが、本能寺の変の直前
は明智は逆にキリシタンの敵であった。信長に隠れても、表立ってもキリスタンには色
良い返事はしていない。群雄割拠で互いに覇を争った戦国時代の中でも際立って海外か
らのこのバテレンの布教に危機感があったのは、信長の奇行を見る人々の一様な判断で
あったろう。人心頽廃の極に達し、道義空しく貞節の観念も失われ、幾多の人の道上の
罪悪は仏教や神道の上にあったが、それが崩れさり新たな秩序の下で、殺人が平然と行
われていた時代だ。この時世に、玉子夫人は生を受け、あらゆる逆境に屈せず、婦徳を
高めるにこの新たな信仰を以ってし、敢然として己が信ずる真理の道に生き抜いて周囲
の人を感化した。がそれは日本の道徳とは異に決していて、遂に徳川・豊臣の争いの犠
牲となり、「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」と詠じて
三十六年の命を自ら断ち、その血は百鬼横行の大阪の土を紅いに染めて、世を絶った。
。かくして、ガラシャ玉子夫人には、時の如何なる権力にも屈せず、利にも惑わされず
、立派に日本婦人の道を全うし、今に至るまで、あっぱれ婦人の鏡と仰がれる名誉と後
世に名を遺すのである。如安が天正13年(1585年)頃に小西行長に仕えるようになっ
た時は行長も如安を重用して重臣に取り立て、小西姓を名乗ることを許している。小西
氏自体は、実は如安の外曽祖父・内藤貞正の弟・内藤久清に始まる家系にあたる。この
優遇は同族一門としての処遇で息があったのだろう。文禄の役の際の明との和議交渉で
は使者となり、北京へ赴いており、この際の明・朝鮮の記録では如安を「小西飛(ソソ
ビ)」(小西飛騨守の略)として表記している。しかし明朝貿易の都督格箚符を授ける
官位を中国から得たとした時、宗氏以外に、大名クラス40人、行長や家康はもちろん
、前田玄以や小早川隆景にいたるまで広く発行するに及んだ。これが問題となった。行
長は秀吉と事前に相談し、明朝にも連絡して「都督位並」を発行する地位だったが乱発
したのである。


1397: 名無しさんAA:18/05/07 10:13
宣教師の時代       ーーー147

ところが慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦いでは、主君行長は当然の如く、西軍の
主力として戦って敗れ、斬首された。如安は同じキリシタンである肥前の大名であった
有馬晴信の手引きで平戸へ逃れ、その後加藤清正の客将となった。そもそも徳川家康は
明確な天下分け目の決戦を挑んだ訳ではない。自分が謀反を起こすに味方するであろう
者にのみ手紙を書き、更に上杉討伐に出て、会津の景勝との開戦に兵を起こした事で、
豊臣勢をあざむいているのだ。家康は諸大名の屋敷を頻繁に訪問し、この訪問は大老や
奉行には無断で行い、豊臣政権の法令の一つ「傍輩のうち、その徒党を立つべからず」
に反するものであったし、勝手な婿入り嫁取りを指図して、豊臣政権の法令の「諸大名
の無許可での縁組の禁止」に違反する行為をしていたのである。その中で小さな西国武
将で、時の幕府の豊臣恩顧で大阪城護衛の志士には全く音沙汰はなかったのだ。秀吉が
信長の嫡男を盾に支配したように秀吉の息子に嫁入りさせた事でその支配をしていたの
である。慶長8年頃(1603年)、前田家に客将として 4千石で迎えられる。前田氏の居
城金沢城には同じくキリシタンである高山右近がいた。ともに熱心に布教活動や教会の
建設に取り組んだとされる。しかしこれは南蛮貿易の拠点となって、大砲や黒船や鉄砲
を持つ大きな経済母体になりかねない事だった。慶長18年(1613年)、ポルトガルの
後押しを経て、徳川家康からキリシタン追放令が出した。それまで貿易に多大な関心を
示しながらもキリスト教そのものにはまったく無関心だった家康が、幕府を揺るがすよ
うな事件が立て続けに起こり、その当事者がキリシタンやキリシタンに寛容な人物だっ
たことが背景にあり、ついに弾圧に踏み切ったが、実は家康よりは家光が嫌っていた。
家光は幼少の頃より武家の習いによって男色家であった。当時関東武士の水戸藩には、
何故か割礼風習が残っていた。それは成人になると裸で立たされ年頃の女子と長老の前
で男を鍛えるとして、男根をこすり白いものが出れば村の成人とみなして、そこに入れ
墨を掘るのである。もし拒否や出ないとなれば村から出るか奴隷にされると言うものだ
った。これは明治の時代までも山村では風習として残った。つまり 裸になれば余所者
ががすぐにわかるもので、縞模様で蛇のように見えたと言う証言が残る。この事で近習
の男を許可として与えられたと言う奇妙な風習だった。銅山や水銀の多い土地の子孫繁
栄の為の一つの手だったのかも知れない。しかしキリスタンはこれを鋭く非難していた
のである。しかしついに前田氏にも、切支丹追放令は通達に及んだ。


1398: 名無しさんAA:18/05/07 10:14
宣教師の時代       ーーー148

 不思議なのはこの割礼の儀式が伝わり、更に成人式として行い変化する期間があった
事だ。今川義元時代に関東武者は、源頼朝以来、鎌倉・室町幕府の中心として栄えた。
しかし、あの平穏な時代が続いても伊豆が中心で、良くて東京湾近郊である。そこには
茨城神話がある。平安時代に茨城には、茨城台があった。これが茨城県のもとの名前だ
と言う。「昔、茨城台の麓当たりは、でっけえ集落があったんだわ。常陸の国の国分寺
が見下ろせる台地でよ、霞ヶ浦も近けえ、筑波山も近けえ、物が行ったり来たりすんの
には、好い土地だったんだっぺな。んでも、困ったことだ、或時茨城台にでっけえ穴っ
ぽこ空いてるっつって、集落の若え連中が見に行って見っぺってなったんだと。したら
ば、誰一人として帰って来ねえ。なんかあったに違げえねえ。国分寺と国分尼寺を作ん
のに、随分樹を切ったからよ、山の神が怒ったんだっぺという話になったんだわなあ。
んだけんと、同なしように樹を切った、筑波の山の神様は怒ってねえんだわ。国分寺の
柱にする分だけじゃなくってよ、筑波山のほうは、瓦を焼く為の木も切ったのに、特に
怒ってる気配もねえ。したら、可笑しい話だってなったっぺなあ。何か居んだっぺ、お
っかねえ獣がいんだっぺ、つって噂になって誰も近か寄らねえようにしたんだぁ。んだ
ども、だめだ。今度は、集落の若けえのが、どんどん攫われるようさなっちまった。若
けえのだけでねえくて、どうも子供も多く攫われたようだったんだ。又噂んなってよ、
夜さなったら茨城台の方から脚の沢山あるのが這い駆けしてきた、穴ぽこから黒いけむ
くじゃらが出てきて攫っていった、つって、集落は、ほとほと困り果てたんだわ。んで
は、仕方あんめ。腕っ節の強いのに退治して貰うしかねえわ。山で鹿を獲る狩人と、湖
で魚を捕る猟師と、国分寺の衛兵と、この三人に、村長は嘆いて頼んだんだ。んで、弓
もち、銛もち、剣もち、三人は台地の穴っぽこ目指していったど。薄暗い穴んなか、じ
っと目を凝らして様子を観たんだぁ。したらば、それみたことか、でっけえ蜘蛛が何匹
もいて、肝がちゃぶれる心地がしたんだわ。暗くてよくは見えねえどけんど、よくよく
見たら、人の骨が転がっててよ、人を食ってたんだってのが分かったんだっぺ。なる程
敵の正体が分かった、つって、三人は集落に戻って、やっつける方法を考えたんだ。集
落の堀や柵が役にたたねえからよ、猟師は網でとらえっぺと言い出して、狩人は目を遠
くから狙い打つんだと言い張った。

1399: 名無しさんAA:18/05/07 10:15
宣教師の時代       ーーー149

 んで、その夜に腹をすかした大蜘蛛が集落の堀を駆けて、柵をよじ登ってきた音がし
た。それっ、と、猟師が網を放って、狩人が矢を放って、んだけんとが、相手は脚が、
沢山あっぺ、ぜんぶ避けられっちまう。おかげで、その日は誰も攫われねがったんだけ
んと、追い払っただけで、三人は負けたような気分だったんだわなあ。国分寺の衛兵が
、これではダメだと頭をひねったんだわ。んだってよ、巣穴にはうじゃこらいたんだっ
ぺ。一匹しかこねえもの、一匹だけ退治したって、また次のが来たら、ずっと戦い続け
なきゃなんねえ。そこで名案が閃いたんだぁ。猟師は、なんとかかんとか次の日の夕暮
れまでに間に合わせて、三人一緒に、またあの薄気味悪い穴っぽこさやってきた。その
穴っぽこの入り口さ、茨で編んだチクチクする柵をおいて封じ込めちまったんだ。んで
、国分寺の衛兵は火をたいてよ、蜘蛛どもを煙でいぶして穴から誘い出すわな。そこへ
、真っ赤な目をした蜘蛛が殺到すると、目ん玉を繰り抜くように狩人の矢があられと降
ってくるわけだ。茨城ってのは、この茨で編んだ柵のことだぁ。最後に、剣で蜘蛛の頭
を切り落とした時に使った剣を、天にも届く「雲霧のつるぎ」と呼んで集落の宝物にな
ったんだっつう話だわ。」と言う事で、茨木の沼地で、古代に種族の戦いがあった事が
解る。又 ここの常陸国風土記では甫時臥山の変わった伝承が記録されて残っている。
茨城の里の北にある高い丘に甫時臥山があり、努賀比古(ぬかびこ)と努賀比刀iぬか
びめ)の二人の兄妹が住んでいた。妹の努賀比唐フ元にだれとも分からない求婚者が夜
毎に現れた。妹が求婚を受け入れると一晩で身ごもり、やがて小さな蛇を産んだ。この
蛇は夕暮れから夜明けの前までは母と会話ができた。努賀比古も努賀比唐熕_の子では
ないかと驚き、清めた坏に蛇を入れ祭壇に祀るようになった。蛇は一晩で杯いっぱいに
まで成長したので、大きな杯に取り換えると、また蛇は杯いっぱいになるまで成長した
。これを繰り返すうちに蛇に合う器が無くなってしまった。努賀比唐ヘ蛇に自分では養
いきれないので父の元へ行くよう促した。蛇は悲しんだが、供に童子を一人付けてくれ
るよう頼んだ。努賀比唐ェここには兄と私しかいないのでつけることができないと告げ
ると、蛇はこれを恨んだ。別れの時、蛇は怒って努賀比古を殺し、天に上ろうとした。
驚いた努賀比唐ェ盆を取り蛇に投げつけると、神蛇はこれにより天に上ることができな
くなり、この山に留まった。蛇を入れていた器は今でも片岡村に残されている。と言う
話である。この不思議さは、蛇を殺さずお盆を取り上げたと言うものだ。

1400: 名無しさんAA:18/05/07 10:16
宣教師の時代       ーーー150

 なぜこんな、伝説や風習が残って居たのか。「男色・公開割礼・土蜘蛛・蛇の子孫」
と言うキーワードは、実は大きなものだ。当時男色は既存の風習だったが平安時代から
ではない。鎌倉に幕府をおいてからだ。それまでは神職であれ何であれ男女に差が無く
天皇すら女性がいた位だった。土蜘蛛伝説は異民族の端的な表現でありこうした所は、
同時に河童伝説は多い。しかし蛇の子孫と言うのは鉄剣やたたら伝承とされる。こうし
た事から導き出されるのはかなりの先鋭の武器集団だったと言う答えである。中臣鎌足
は中大兄皇子とともに蘇我氏を打倒して、大化の改新で律令(りつりょう)制への改革を
進めた逸材だ。しかし、奈良時代の書物には大和国生まれと記載されているが、何故だ
か10世紀以降になると、常陸国出生説が出てくる。「常陸に流された父母から生まれ
た鎌足は、キツネから鎌を授けられ、上京後に蘇我入鹿の首を鎌で切り天下を救った。
」という逸話である。「いずれの書にもキツネと鎌が共通している」とした。中世の舞
である「幸若舞」の題材にもなり、「鎌足は盲目のふりをして入鹿に近づき鎌を取り出
し首を切った」という内容で演じられている。室町時代の書には、「鎌足が鎌を埋めた
ので、鎌倉という地名ができた。」という伝説までも残る。このほか、鹿島神宮や春日
大社の信仰にも触れ、各種史料を解説した。『常陸国風土記』から次の一説を紹介され
ている。「ヤマトタケルの天皇、東のえみしの国を巡狩はして、新治の県をすぎいでま
ししに、国造ヒナラスノミコトを遣はして、新に井を掘らしむるに、いづみ浄く澄み、
いとめづらしかりき。時に、御輿を停めて、水をめで、み手を洗ひたまひしに、御衣の
袖、泉に垂りてひぢぬ。すなわち、袖をひたす義(こころ)によりて、この国の名となせ
り。風俗(くにぶり)の諺に、筑波岳に黒雲かかり、衣袖漬(ころもでひたち)の国といふ
は是なり」と記している。つまり、その後紀貫之が歌う 「袖ひちて むすびし水の」は
、 ヤマトタケルが常陸の国(袖を「ひたして」水をすくったので「ひたち」の国となっ
たとのことの伝承で御手を洗う際に、衣の袖が泉に垂れて水につかったという伝承を踏
まえたものだと言う話である。つまり神話の時代から「蝦夷(えみし)」の国として、
常陸の国はあって、中臣鎌足はこの常陸の国の地方からの者でキツネに鎌を授けられて
朝廷の天下を変えたと言う話である。この事はこの関東に異民族がいて戦っても勝てな
い事は解っていて暗殺に転じたとも考えられる。又鎌倉幕府も駿河の荘園での紛争で、
武家同士が勝ったが、京都から追い出され離れて治世に及んで、鎌倉に幕府を置いてい
る。その理由は鎌倉でも過ごせるほど食糧供給や生活が安定していたからだ。



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