1つめの記念スレ


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1つめの記念スレ

1: 騎士剣:05/11/09 17:24 ID:A/yxhPTA
勝手にスレを書き込んで勝手にレスをつけてくれぃ

901: 名無しさんAA:17/04/08 22:26
ベッキーの娘  39

 「どうしました。佐伯殿。」「いやなに 大友親治いや菊法師丸様が入ったという事
は隈部一党は許さない筈じゃ 恐らく三池氏あたりはわしらの味方。」「そういやそう
だな。昔大殿に家臣団は起請文を出した事があったな。」「ああ大殿の横槍で 確か城
氏・赤星氏・隈部氏ら昔からの菊池氏の重臣が二十人ほどいたような。」「あああの時
無理矢理とは言え、正統な当主政隆公を排して縁戚の惟長を菊池家の城主になったと、
噂になった事件じゃな。」「そうだ。あの時当主は幼少でのう。仕方がなかったという
話じゃ。」「いいやそれは儂が聞いた話とちょっと違う。隈部や赤星に守護代が行かぬ
よう大殿が 肥後守護職を内の手の者にしたかったからじゃ。いくいくは菊法師丸にと
な。だが幼少で政隆殿が出来んものが菊法師丸もいいはずないからな。」「なぜ赤星や
隈部ではいかんと。阿蘇でも条件は同じのようだが。」「ああそれは、いい加減だから
じゃ。」「いい加減。」「ああそうだ。当時は、いや今でも赤星家は真面目な気質で、
蒲池氏にも近い。筑後と肥後が連携したら豊前だけじゃひとたまりもない。」「隈部は
」「ああ隈か。これは問題外、隈部一党は強者揃いで何処にどれだけいるか見当もつか
ぬ。敵では手強く味方では思うようにならん。阿蘇氏なら女遊びの体たらく温泉好きで
大殿の遊び仲間じゃ。」「それに阿蘇氏なら都の天皇も覚えが早い。それに宮司上がり
じゃて話もあう。」「で阿蘇の宮司の惟長をたてた。」「しかし弟の惟豊様を立てても
良かったろうに。」「いやいや惟豊様はここが良くてのう。良く出来たおむつは大友の
大殿様は嫌ろうたんじゃろう。」と頭をさした。「もっとも隈部や赤星の方でも馬鹿の
方が都合が良いだろうしな。」「じゃが後で惟豊様に変わったのは。」「うちと同じよ
。女癖の悪い奴は素行が悪く、横暴で家老は軒並み排斥じゃ。重臣は鹿子木氏や田島氏
などよそ者ばかりで、今じゃ島津勢と筑後勢が睨みおうて話にならんと嘆いているち話
じゃ。」「別杵殿はどう思う。」「う〜〜ん、ああ佐伯殿の思っている通りに、今はそ
の本筋の政隆公のいる阿蘇神宮に籠るべきかと。」「さすがに 八田の息子。もとい、
別杵殿じゃ、流石に話が早い。」「弟に禅譲しながら又追い出している。元の菊池政隆
殿を助ける者はいないだろう。」「いやいや詫摩の爺っ様が城主になった時既に死んど
る。そして今じゃ菊池義武殿じゃ。じゃがあの阿蘇神社こそ本宮と共に砦に最高の所。
急いで攻めれば 直ぐに手に落ちましょうぞ。」


902: 名無しさんAA:17/04/09 15:58
 ベッキーの娘  40

 この敗走した大友親治こと菊池義武も又叔父ながら大内氏の宗麟の兄弟と同じく悲運
の中の人生であった。幼い頃から大友本家から外されて 藩主の政略のみで生きて来た
人生を送ったのだ。如何に血縁があろうともそこにある習慣と文化に馴染み更に地政学
的位置や今後の生き抜く方策だったり守ってくれる国人衆を束ねるとなれば反抗も仕方
ないものであったに違いない。そしてこの時大友宗麟さえ居なくなれば九州は早く平和
が来たかも知れないとも言える。が宗麟も又覇者で君臨すれば平和が来ると思ってた。
 大友氏の筑後支配は応永二十三年(1416)に始まる。と言われる。守護直轄の守
護領制を取って守護大名を設置したのは鎌倉時代だったが それは幕府による守護大名
による領国支配の体制をして管理する為だった守護領国制のそれ以前に既に天皇直轄地
では神域としての御供田制で都に米を送っていた。それが平安期に荘園となり寺領とな
り侍の受け持ちとして守護領を認めた形になった。鎌倉幕府によって新たに探題を置き
、幕府の出先機関として六波羅探題の執権と連署を認めた。日本の北と南にはより大き
な権限が置かれ鎮西探題は広範囲な裁判権、軍事指揮権を持つ職として探題の名が与え
られた。元寇後は九州探題と名を変え防備を基準と考えた形式になった。九州探題とな
った今川了俊は、当時の京都における著名な文人であった。同時に政略を備えた武人で
あり九州に下向すると征西宮懐良親王と菊池氏を太宰府から追放し、九州三人衆と称さ
れた島津・大友・少弐氏を担いだ。だが少弐氏は大宰府役人としての地位から非協力で
あった為謀殺したが仲を取り持った島津氏にも離反された。幕府の威光を示しながらも
将軍義満が了俊に警戒心を抱き、応永二年に了俊は九州探題職を解任され京都に召還さ
れた。了俊の後任の九州探題には、渋川義行の子の満頼が任じられ以降世襲で受け継が
れたが次第に力は無くなっていた。、了俊はかなりの人間で九州探題を罷免された後、
遠江と駿河の半国守護を命じられ、それぞれ弟の仲秋、甥の今川泰範と分割統治する事
となった。が了俊が希望でなったと勘違いされていた。更に後任の探題職を望んでいた
大内義弘は大友氏や了俊に対して連合を持ちかけたり 渋川氏失脚を持ちかけるが、頑
として了俊はこれを拒絶し、守護職として駿河の統治に専心した。がそれでも天皇義満
は討伐命令をだして失脚をはかる。この時甥や弟や関東管領上杉氏などの嘆願で赦免さ
れている。だがこの時九州探題赴任中は備後、安芸、筑前、筑後、豊前、肥前、肥後、
日向、大隅、薩摩の守護も兼ねたというのである。


903: 名無しさんAA:17/04/09 15:58
 ベッキーの娘  41

 「殿 既に布陣を終え 各自山に籠っております。」「おおそうか。」「更に既に、
蒲池氏は進軍中との事。殿どういたしましょうか。」「・・・」「蒲池氏から後ろの迫
られたら内は動けません。」「臼杵殿と佐伯殿はどう申しておる。」「大丈夫だと申せ
と。伝令が。」「なら大丈夫だろう。」「ですが 早く開門させ首を取ったなら大内氏
の加勢がいると 本館からは知らせが来たとの事。」「ああ陶隆房から城にも来ておる
そうだ。じゃが今はここが大事じゃ、周防も手勢が少ない中で毛利と闘っていようがの
う。毛利が渡って来たと言うなら又連絡が来ようぞ 秋月文種や肥前の筑紫惟門も何ん
とかしようぞ。大内とも親しいはずし それに大殿からの命令も出ようぞ。」「ですが
明日の夜には蒲池氏が到着します。今だ隈府の援軍なのか我が方の援軍なのか不明のま
ま。」「蒲池殿の意向は聞いとらんのか。」「それが今の将は若家老のようで田尻氏が
ついているようです。」「何。田尻。あの竜造寺を助けた甘ちゃんか。」「はあそのよ
うで。」「まあ仕方ない。援軍でも敵方でも 隈府を囲う事であろう。どうせあの蒲池
の若殿の事数に圧倒されたら何もできぬまい。」「それに前の時は あれだけ戦っても
相良の方に逃げていたんじゃ首も取れない。で。」「はあ。」「蒲池が動いたという事
は、島津も動いたという事じゃ。」「はい。」「直ぐに南の動きを探索せよ。相良の方
に逃げ込むのは必至。その相良氏は菊池が居なくなって島津と大友に揺れ動いとる筈。
先の逃げ込みで 相良も相当しんでるからのう。今回は 島津が潰す事も考えねばのう
。う〜〜ん。」「よし 直ぐに問注所に文を持たせよ。島津が攻めてくる故蒲池氏をし
っかり守る様にとな。」「えっ。」「いやいいのだそれで 恐らくは叔父貴殿は矢部方
に落ち延びているはず。ここで島津を隈府が引き入れたら一大事。先に島津を引き入れ
ぬように問注所にこそっと合図を送るのじゃ。家臣の田島氏まで届くはずじゃ。」「は
」「更に陶氏が負けるようだと 竜造寺が又勢いずくはず。ちょっと早く終わらせねば
のう。」「はあ。」「何。姉川氏は少弐氏の流れつまり大内とは反発して土橋と共に、
村中竜造寺の城を奪ったが今や水が江城と共に龍造寺隆信の物じゃ。大内が居なくなれ
ば毛利の独擅場じゃ。そうなれば筑前も揺れ動く。豊前もおかおかしていられぬぞ。後
は島津次第じゃ。」「敵の敵は味方。」「そうじゃ 一時的でもな。」


904: 名無しさんAA:17/04/09 15:59
 ベッキーの娘  42


 筑後蒲池氏には上蒲池氏と下蒲池氏の二つの系統があった。蒲池の領主もまたこの時
の藤原純友追討に功のあった橘公頼の子孫であるとされる。鎌倉時代に嵯峨源氏の源久
直(蒲池久直)が蒲池の地頭職になって赴任して納めた。藤原純友の乱の時には、大宰
府を落とした後、柳川に迫った純友の弟の藤原純乗の軍勢を、橘城で迎え撃った。その
功により橘公頼の子孫は、筑後国蒲池の領主となる。だがこの時の橘城は柳川市の御花
付近の弥次郎町でおやしろ町が弥次郎町となったとされる伝説だ。この時この古城であ
る矢留は多くの矢を止めたと言う。そして火の海となり一時鷹尾城に逃げて難を逃れた
。蒲池城を藤原純乗が築いたが、橘家は城を築いて対抗し対峙したとされる。大蔵善行
は下向した菅原道真と共に出世が適わなかった人の一人だが当時の学界の双璧で「天神
」道真に対して「地仙」善行と呼ばれた人だが 彼の門下生の多くも又筑後の地に居た
。唐名は蔵外史大夫。筑後大蔵神社は小さな祠ではあるがそこの田園の守り神だったと
される。この大蔵氏の流れに秋月氏や原田氏或いは日田氏など大宰府の官僚が手伝って
この蒲池の地を奪還し蒲池氏が出来たのだろうと推測される。田尻・三原・原・江上・
鞍手・岩戸・美気・山崎・古賀・枝吉・米倉・小金丸・波多江・海頭・別府・安永・天
草・山鹿・坂井・粥田・砥上など ここら近辺の筑後の人殆どに縁戚がある家系だろう
。その後に平家の落人伝説ろっきゅうがある。肥後路逃避を行った時、落武者6名が、
(難波善長、加藤権内、浦川天ヶ左衛門、鳴神藤助、是永多七、若宮兵七)はその後に
柳川沖端に移り住み漁業をはじめ街造りをしたという。こうした中で久留米側から南下
する上蒲池氏軍と大牟田側からの北上する下蒲池軍に海賊も対抗する術は なかった。
こうして藤原純友の乱の時、大宰府を落として柳川に迫った純友の弟の藤原純乗の軍勢
を、蒲池城で討伐し、その功により橘公頼の子孫は、筑後国蒲池の領主となったという
。この橘公頼の子孫であり、鎌倉時代に嵯峨源氏の源久直(蒲池久直)が蒲池の地頭職
になり筑後橘氏の娘婿となり、その勢力を背景にして蒲池氏を名乗っていたが この時
から海運の中にいた。そうした事で別杵氏は新たにこの橘氏を味方にした後 金の指揮
旗を振って大内氏部隊と地頭の下の増強部隊と分けて奮戦し交渉をしたとされる。こう
して5千と言われる大内勢に勝利して大内義隆より降伏同然の和睦を引き出す事に成功
したが これは藩政には良かったが大友一族にはかなりの反感があった。


905: 名無しさんAA:17/04/09 15:59
ベッキーの娘  43

「鹿子木や本郷や田島に直ぐに伝令せを送れよ。儂らは豊福城に参ると。」「わしらが
行くまでに さっさと開城しないと 儂らが攻撃するとな。」「はっ」と伝令が駈けて
言った。「さあ 明朝は早めに出立じゃ。今日は兵を休ませよ。」「騎馬隊をこれえ。
」「はっ」ざざっと数名の者がそこに出て来た。「おう、この中に前の肥前攻めの戦に
出て来た者はおるか。」「はっ私を含めて12名程。」「それはよかった。この辺の道
や地理に詳しいものを6名ほど選んだら 今から蒲池の軍勢の所へ駈けていけ。わしら
は明日の夜には豊福城にいるはずじゃ。戻ってくる時はそっちに頼むでのう。恐らくは
姉川の合戦での落ち武者で蒲池の爺いはいないはず。そこでじゃ。これを蒲池の舟奉行
の西牟田と溝口に届けよ。そしてきっとした返事をもらって来い。いいな。これは船を
所望しておると書いてある。そこで此処にくる日と時間だ。豊福城はしってるはずで、
良ければ豊福城の北か南かの返事ももらえればもろうて来い。多分10日もあれば用意
致すであろうが。船は直接来れば尚更よい。冨来の若者を一緒に連れていけ帰りの船に
乗せる為じゃ。いいかくれぐれも気取られるな。冨来の者をこれに」「はっ では。」
 これには理由があった。豊福城は平地にあった山城だが隅本から少しはなれた宇土市
にある。先の合戦では 南からの兵に因っててこずり隅本城を囲むのが遅くなった。そ
してその分揺れ動く諸侯を 相良氏が説き伏せてしまう事で困難を極めたのだ。島津氏
が出て来ることが無くて助かったものの一時は総崩れになりそうだったのである。そこ
で南に下り天草ルートのその中心にある豊福城を押さえてから そこから相良氏の出鼻
をくじき 国人衆を味方につけて兵を増やして隅本城に南から攻めようと言う訳だった
。更に毛利が勝ち先の嵯峨での田手畷の戦い(たてなわてのたたかい)では竜造寺氏を
受け入れた事は如何に肥前を睨んでの蒲池氏の領主経営してるかであり 今だ城が出来
て居ない中に大友から寝返る事はない筈だった。逆に言えば大友には決して服従もしな
いが敵対もしない方針のはず。と睨んだのだ。今は兵を温存する腹でそれ程肥前姉川城
の戦いは熾烈を極めた極めて影響の大きな戦いだったと蒲池氏は思っていたのである。


906: 名無しさんAA:17/04/28 19:02
 ベッキーの娘  43

 初陣を果たした別杵氏は 新たにこの橘氏を味方にし金の指揮旗を振って大内氏部隊
と地頭の下の増強部隊と分けて奮戦し 大内勢に勝利して 大内義隆より降伏同然の様
な和睦を引き出す事に成功したのは これは大友の藩政にはかなりの成果があったのだ
が しかし大友一族にはかなりの反感があったし 他の他紋衆にも嫉妬のような反発が
あった。菊池にも大友にも養子をいれていたし菊池大友が潰れても 他が敵となるのは
この下剋上の戦国時代には当然の理であった。ならば与しやすい小さいが強い隣国の方
が大友にはよかったのである。更に他紋衆でも熾烈を極めた戦いはしこりが強く嫌って
いたのだ。だが別杵氏は若く城主として成りたてであり更に実父は病身で戦場にはいな
かったのだ。今の大友には藩内のキリスタンが問題である事を気付かない別杵であった
 この作戦には小守り役の海老名弾正の知恵があった。それは家臣団に十時氏・由布氏
・内田氏・小野氏などいるが 海老名氏は小野氏の役職名であり村上水軍の長である事
を示していた。つまりほとんどの家系が伊予水軍とは別系統の伊予警護役の系統であっ
たのだ。この事は橘氏を解きほぐすに大きなチャンスでもあった。こうして地元の国人
衆と大内氏からの増援部隊を分けて戦う事ができたのである。1526年にこうして、
戦勝を報告してからは大内氏からの筑後守護職を餌に1534年に菊池義武に名を改め
て相良氏などとと同盟を結んで反抗しったので討伐に命が下った。相良氏・宇土氏・肥
後南部の国人衆と戦う事になる。だがこの間にも彼は命令で この九州北部博多地方を
納める為に転々としているのである。博多には「博多の三傑」と呼ばれた博多商人がい
た島井宗室・神屋宗湛・大賀信好(のぶよし)である。大賀氏その後代々福岡藩黒田家
の国元御用商人をつとめその子は、茶人でもあった大賀宗伯として有名になった。実は
この大賀氏は栂牟礼城大神氏の直系の流れを組む家系だったと言われる。この栂牟礼城
の大神氏こそは九州の庶家とする氏族の総本家であった。が、1527年に大友義鑑は
謀反の企てありとして臼杵長景に命じ、2万余の軍勢を引き連れて攻囲させたのだった
。大神氏の庶家とするのは優に100氏族を超えるとされる。それ程古く一説では天皇
家より古いかも知れない。この中で、賀来氏は姫岳を本城にしていた。高崎山と津久見
山更に別杵氏の居城の鎧ヶ岳城の山の中心にあった一族なのだ。ちなみに家業が財をな
したのは戦乱以降である。金融業を主として名を馳せ大名貸しで 肥後細川藩、高鍋藩
秋月家などにとり入っていて、博多商人の家格においては「大賀格」となった経歴であ
る。

907: 名無しさんAA:17/07/18 16:00
 ベッキーの娘  44

 別杵の狙いは正に的を得ていた。この作戦で先の隅本城を囲んだ時より多い兵力が参
戦し取り囲むに至ったし 戦場での戦さも小競り合いのままで そう多くの被害者は出
ていないまま時をすごしていた。更に南に陣を張った事で北の陣地は混乱も無く蒲池勢
が陣を張る事が出来ていた。この軍の総大将は佐伯氏がいたが 彼にはかなり本館から
即ち大友宗麟から伝令が来ていた。早く攻め入って掃除して帰って来いとせっつかれて
いたのだ。が彼はそうあくせくはしていなかった。そして別杵は、今回の不審な事のみ
で首を討てと義理の息子の自分に打ち取りを命じると言う事に 改めて大友宗麟の異常
さや不審さを知った形であった。更にあの重臣のただ諫めただけの斉藤播磨守は別杵に
取っては優しく教えを乞う中だった。その彼が死に あれだけ大友に尽くしていただろ
う小佐井大和守、津久見美作守、田口蔵人佐、などが死んでいるのだ。只の大殿の家督
の勝手な委譲と今回の新しい大殿の疑心暗鬼だけで これだけ大友家は混乱し衰退して
の戦いとはなんであろうか。これからも別杵には転戦が多くあるだろうが 今後は一時
も気を休める事無く戦う羽目になった事になるのだ。叔父貴を殺す事よりも そうした
今まで仲間であり、信頼を築き戦場で助けられたり助けたり出来なくなる事が恨めしか
った。数日たつと「殿 西牟田と溝口の使いと称して土橋という者が御目通り願いたい
と申しております。」「おお来たか。で何人じゃ。」「三人程ですが。」「なにたった
の三人か。で冨来は。」「いや居ません。」「ふむ 地蔵堂にでも少し待たせておけ。
兵を10人程つけてな。」「はっかしこまりました。」「アゲハ。土橋とは何者ぞ。」
「土橋とは少弐氏の縁故に 竜造寺の家臣にいましたが 詳しくは解りません。嵯峨に
詳しい者に少し聞いてみましょう。伊賀屋者が数名いますから何か知っているやもしれ
ません。」暫くして後「どばし氏とは少弐氏に仕えた雑賀衆で伊賀屋村の頭領だった者
我らと同じ影の者で 村中竜造寺に仕えた強者だったようです。しかしして京にて石上
本願寺での戦で鉄砲買付けに足止めを余儀なくしている内 村中竜造寺は水ヶ江竜造寺
に取られた為同族の筑紫推門を頼ろうとした所黒木氏臣下辺春氏の囲いになった者との
話で今や溝口氏や西牟田氏に出入りする喇叭者で動いていると言う話です。」「ほう。
面白い。会ってみよう。」「ただ。」「ただ。何じゃ。」「堺からかなりの数の火縄銃
を仕入れたとかの話もあります。お気をつけなされ。「解った。黒の者をして周りを固
めよ。」「ははっ」



908: 名無しさんAA:17/07/18 16:00
 ベッキーの娘  45

 この大神氏の栂牟礼城を襲った事こそが大友氏の大きな失敗だったとされる。栂牟礼
山は標高223mで佐伯惟治が1521年に築城したとされるがそれは間違いである。
 1527年(大永7年)、に大友義鑑は謀反の企てありとして臼杵長景に命じてこの
城を攻めた。それは賀来氏が古来より海運を司って巨利を得ていたからだ。凡そ百年前
1435年(永享7年)、大友持直が四国の姫岳城に拠った際に賀来六郎、賀来五郎と
賀来次郎が姫岳城軍に加わった。城は持ちこたえず大内軍に敗れその後大内氏と大友氏
の和議が成立したが この時大友氏の為に四国を守って来た者達だったのだ。加来氏は
加来(かく)と呼ぶが字の如く家来の意味で言われ大神氏の分流の戸次氏または佐伯氏
の支流とされる。加来氏は角氏と同じく伽羅人が住み着いた時からとも伝承があり角氏
は(すみ)氏と呼ぶ。こうした変化に富来氏がいる。古典に岐部氏、櫛来氏などと共に
出展があり、富来氏も加来氏も大和朝廷時代の渡来人だと思われる。富来氏は富来浦を
拠点として伊勢氏・姫島氏らの小土豪水軍衆を配下におさめ、岐部氏とともに大友水軍
の中核をになって活躍した。富来鑑秀のあと守秀、鑑忠と続き、鑑忠は家督を弟の実直
に譲り、自らは府内に住して大友氏の側近くに仕えたとされる。又富来城を築き所領支
配を安泰させたのである。富来氏の初代である永井石見守実貞は、武内宿禰の後裔永井
造酒正紀祐安の子である事から分家を富安とも呼んだ。この冨来(とみき)氏も又別杵
氏や臼杵氏の配下として活躍したと思われる。この冨来氏が筑後蒲池氏の下についてか
ら本筋である上蒲池家以上の財をなしたと言われる。中国地方の覇者となった毛利氏が
豊前・筑前に進攻してきた時毛利氏が豊前香春岳に兵をたてた。この時義鎮の命を受け
て鑑忠も出陣、ついで宇佐の大宮司と戦って、それらの功により1552年(天文21
年)、国東郷半郷役を与えられ、さらに筑後秋月などの内に所領を給わっている。これ
は1527年にこの事で別杵氏や臼杵氏などの討伐を受けて逃げる事になったのである
。そして多くは角牟礼城へ移り、一部蒲池氏に仕えて蒲池氏は大きくなったのだった。
こうして栂牟礼城(とがむれ)は臼杵氏が支配となりその後大神氏の流れの佐伯惟治氏
が佐伯城を移し堅固な城に替えたのである。

909: 名無しさんAA:17/07/21 11:39 ID:YHg
僕は ブログを始めたい。誰か金をくれ。裕福な億万長者様
           tomiysu @ outlook.jp


910: 名無しさんAA:17/07/21 15:25
 ベッキーの娘  46

 地蔵堂は先の戦で大勢が死んだことで 近くの村人が建てた小さな祠であった。その
小さな祠の回りには屈強な野武士が周りを囲んでいた。更に又何人もの人間を引き連れ
て別杵はやって来た。その地蔵堂の前に 誰かが持ち込んだ折り畳みの椅子が人の背丈
ほど離れて二つ置かれた。一人が出て「土橋うじこちらに。」と一つの椅子に案内し座
ると、別杵は地蔵堂に座ったその両脇からずらっと武者は円陣で囲んだ。その後案内し
た者は椅子に座った。「お主が土橋と言う者か。」「ははっ。」「で西牟田殿と田口殿
はどのような回答か。」「ははっ 我が方も蒲池氏と共に参陣しており 留守居役牟田
口氏も城を守る事が肝要で 人が裂かれず辺春氏に応援を要請され 配下の私共が参陣
を承った次第でございまする。」「たったの三人でか。」「いや配下の者五十名を連れ
て駈けつけた次第。」「ほう。船の調達以外に儂の兵を持って来た。ならば陣に加勢を
するとな。」「はっ。お望みとあらば参戦いたしまする。」「威勢が良いのう。ところ
で土橋殿 お主は少弐氏ゆかりの影の者と聞いておるが。」と土橋氏はみるみる青くな
った。」「はっ。」「竜造寺配下の者だったとは聞き及んでおるが 大友に反旗の者が
よくぞ出てこれたのう。はっははは。その肝気に入ったぞ。で 何故に此処に居る。」
「はっ 少し前に村中竜造寺は水ヶ江竜造寺と家督争いの上 我が土橋家は浪々の身と
成り果て草場氏のつてにて辺春殿に身を寄せている次第。」「ふーむ。」「もし参陣と
あらば 仲間の者鉄砲二十丁を持って参陣する次第にございます。」「ほう。何故に、
他に臼杵氏や蒲池氏もおろうに 何故儂じゃ。特に蒲池うじなら竜造寺再興の立役者で
あろう。同族としてはその方が信用があろう。」「はっ 蒲池氏こそは我が村中一族を
滅ぼさんとした憎き隆信を復活させたもの 配下になる事は我が衆人が許さぬ故不可能
な事。更に我が集団は火縄を使えるもの二人。今だ鉄砲隊とは言えずこの火縄銃を取り
上げられお役御免になるのが落ちかと。」「て筑紫推門の下に行くのをやめたか。」「
は。」「ははは。面白い奴よのう、儂に二十丁の火縄銃をくれると申すか。」「はい。
御所望とあらば。」「なぜ大将の臼杵氏やいや大殿の大友の配下を望まぬ。儂はまだ大
友では平兵同様ぞ。いやそのまま黒木氏や草場氏或いは西牟田氏や辺春氏では良いでは
ないか。」

911: 名無しさんAA:17/07/21 15:25
 ベッキーの娘  47

 こうして栂牟礼を追われた大神氏は角牟礼城に移ったのだがその理由は幾つかあった
。一つは立花山の城である方向に高橋氏や立花氏筑紫氏宗方氏などが今だ大内氏や毛利
氏に重きをなした不穏な動きがあったからだ。と言うのも博多商人は京の都や鎌倉まで
この瀬戸内航路は第一の路線であったからだ。1526年馬ヶ岳城を攻め1527年は
栂牟礼城を攻めた。更に京都では西国最大の大名・大内義興に擁された将軍足利義稙が
上洛した煽りを受け、京を追われ、近江に座していた将軍・足利義晴は兵を挙げ、求め
に応じた朝倉宗滴・朝倉景紀・前波氏らに兵1万を率いさせ出兵していた。管領・細川
高国らと合流し洛中に進軍する事件が起こり、洛中を支配していた三好元長ら諸軍勢と
の桂川で合戦し勝利する事件が起こった。その後の反撃をも撃退し京都を将軍家・細川
家・朝倉家の下に実効支配して新しい年号となった。しかし細川氏内紛が起こり天皇家
を補佐していた管領・細川高国は追われ落ち延びる結果となり、中嶋の戦い及び大物崩
れで敗れて自害するまで混乱は続いた。この足利義晴の親子を匿ったのが六角氏であり
細川高国が天皇から離れた後も天皇は実権が全く無かった。細川氏朝倉氏三好氏の管領
の実権で幕府は動いていた。事実上の九州三人衆と称された島津・大友・少弐氏だった
が彼らも朝廷の混乱は、より自分の領地を守る事に専念する必要に迫られた。南北朝の
時代南朝が敗北する中で九州だけは菊池氏を始め・原田氏・伊東氏・秋月氏・島津氏・
三原氏・草野氏・松浦氏・星野氏・平戸氏・千葉氏・大村氏・山鹿氏などの九州の有力
諸氏を従えた7万騎と号する大軍であったとされる。その頃菊池氏は神崎に仁比山城を
構えた。一色父子・斯波氏経・渋川義行と相次ぐ探題の任務失敗で、名将と名高い今川
了俊を新探題として派遣するこ。幕府への援軍を請い、今川仲秋を肥前方面へ今川義範
を豊後方面に遣わすなど策を講じた。九州・中国諸氏の軍勢を合わせて圧倒的な大軍と
なった今川探題の前に、懐良親王や武光らは大宰府に篭城しつつも高良山へと敗走する
事で事実上崩壊した。懐良親王入府以来11年であった。だがその後も筑後に逃れて、
その守りとして「菊池武安」によって建てられた肥前姉川城は仁比山城の支城とし存在
していた。


912: 名無しさんAA:17/07/21 15:26
 ベッキーの娘  48

 土橋は別杵をいぶかしく見ていた。この異様な堂々とした若者は噂にたがわぬ強者で
あり強情だった。普通なら前の戦さで隈城は落ちていない事で猫にも手を借りたい位の
はずだが 簡単には我らを信用してはいない。と感じていた。別杵も又土橋を年上なが
らどう対処したら良いか迷っていた。下手に参戦させ仲間に入れても 臼杵氏から大友
に知れたらそれこそあらぬ疑いが掛かる事に発展しかねない。更に竜造寺の非道は噂に
なって知れ渡ってはいたものの我が大友も又同じで、いやもっと酷くあるかもしれない
。その不義理に愛想をつかして嵯峨から外れた者を更に大友から離反させては更に大友
の危機になるかもしれないし 我が別杵藩の危機になるかも知れなかった。とは言え、
この者は使えるし わが方の大きな戦力にもなり得る。ここはひとつ腹を割って話すし
かないだろうが 今日初めて会った者だ。そうそう信用も出来ない。と見ていた。ここ
に来て迷いがあった。「では 臼杵殿になぜ参陣せぬ。」「実は嵯峨に鉄砲を納める前
に鷹尾付近の村に寄り 矢部川を登ったのですが耳納の森の探索から帰って来た所矢部
の百姓から 臼杵氏が今や大友の敵として見なされているとの情報を得ましてな。臼杵
氏や別杵氏は今や大友の本筋からは離れていて佐伯氏や吉弘氏の様には大友に近くない
との話を聞きまして矢部氏に会った所 このまま草場氏や問注所氏と出会えば蒲池氏の
配下になると言う事が解りました。そこでこれでは耳納の森を抜ける事は不可能かと思
い悩んで居た所に矢部氏から入田親誠様を紹介され申した。」「なに。入田殿に会った
とな。」「はっ 禿の親爺じゃったが実に信用の出来る人で 恐らく別杵が追ってくる
だろうから そこに行くが良いと申されてのう。」「ふ〜む。流石に先を読んでおられ
たか。となると隈府には居ない事は、本当だろう。」と呟いていた。それに入田殿が信
用した者なら間違いない。と突然「土橋殿も長旅で疲れたであろう。参戦の話は又明日
にでも話をしようぞ。どうだ湯屋は御好きか二人で風呂にでも入らぬか。」と、立ち上
がった。他の者が「殿。」と言った時土橋氏は手で押さえて「御伴しましょう。」と言
った。「他の者は船にでも待機か。腹も減ったであろう。これ岐部。この二人に馳走で
も持て更に 後でもよいから 二人に案内させ使いの者に握り飯と白湯を持たせもてな
すようにせよ。これは命令である。儂はこれから佐間の湯屋に行く。そこにも宴席を用
意せよ。」と言った。「さあ湯屋でも入りゆるり腹を割りと話そうぞ。」とすたすた歩
いていった。

913: 名無しさんAA:17/07/21 15:26
 ベッキーの娘  49

 南北朝時代には醍醐天皇は征西大将軍として九州に皇子・懐良親王を派遣し、彼を奉
じた菊池武光は、高良山・毘沙門岳に城を築いて征西府を置いて南朝方として覇権を担
っていた。一方北朝方の足利氏は少弐氏を大宰府に派遣してその制圧に出た。1359
年、既に日本国内に南朝側で北朝に対抗しうる武力勢力は、九州の懐良親王と菊池一族
のみとなっていた。筑後川をはさんで南北朝の双方が天皇の御旗を旗印に対岸に並んで
相対していた。延文4年/正平14年 8月6日夏の蒸し暑い中だった。南朝宮の陣には
懐良親王、菊池武光、赤星武貫、宇都宮貞久、草野永幸、大野光隆、西牟田讃岐守ら4
万幾余騎とされ高良山を背に南岸に 一方筑後川の北岸に陣を張り大宰府を本拠とする
北朝・足利勢の少弐頼尚、少弐直資の父子、大友氏時、城井冬綱ら約6万と対峙して、
両軍合わせて約10万の大軍が戦ったと言われる。菊池氏は正確にはこの筑後川と宝満
川を挟んで何回か戦っていて大原合戦、大保原の戦いと言われる。だが一大激戦を過ぎ
て双方に数多くの殉死者がでた。懐良親王が手傷を負ったものの一応は甘木まで敗走す
る北朝勢を追いかけ太刀を洗った所が太刀洗とされる。この筑後川の戦い後、懐良親王
は大宰府に入り11年間であるが、統治権者として征西府の九州治世を実現した。ここ
で三代将軍足利義満の執事細川頼之は、九州制圧に足利一門の今川了俊を推挙するので
ある、了俊は中国の毛利・大内らの中国勢力と九州の武家方と周到に工作し大宰府奪還
を図った。大宰府を追われた懐良親王と菊池武光であったが、高良山は要害の地であり
、いかに今川探題とはいえ容易に攻める事は出来なかった。また武光も武政や武安に命
じて筑後川北岸に陣を敷いた探題軍を攻撃させたが、筑後川を渡河する事が叶わず、両
軍は膠着状態に陥った。この高良山攻防戦の最中に武光は死去し今川氏は帰京命令がで
るのである。この時大友氏に逃げていた少弐氏は武藤氏と名を変えて筑後に迫っていた
筑後では懐良親王が「大塔の宮」を冠していた事から大塔氏に名を変え家臣は鷹尾神社
から木元氏や目野氏石橋氏大橋氏地元の橋本氏藤丸氏宇都宮氏が守っていたと言われ、
渋川氏や武藤氏などが取り囲んでいたまま南朝は消滅したのである。この現状から肥前
姉川城は仁比山城と共に少弐氏に突然襲われた。

914: 名無しさんAA:17/07/21 15:27
「いやーいい湯ですな。」「ああいいだろう。この湯屋は急遽作らせたが 豊前と違っ
て肥後はこうして 夕日が見える。夕日が海に落ちるのを見ながらの湯屋というのも、
なかなかだろう。そうだろう。そうだろう。」そこへ4人程若い娘が裸で入ってきた。
「おお気を効かしたか。 ささ は入れ は入れ。まあ下衆の趣向だが 土橋殿も日々
の汗を流したら疲れも取れようで。」「はあ。」「そうじゃ おれの一物とどちらがい
いかこの娘所に品評会でもしてもろうではないか。」「はあ・・」「ささ此処にこられ
よ。そうそうここでまあ固いが仰向けに寝られよ。」と大きい一物をぶらせげながらも
屈強な禿の若者が仰向けになった。すると少し皺の多い土橋も同じように横に並んだ。
「よし我慢比べだ。土橋殿も手を頭の下に。そうそう おい一緒に一様にやるんだぞ。
と睨んだ。すると「解ってるわよ」と言わんばかりに年増の女合図して若い娘を腰の傍
に置いた。そして幼げなおんな二人は二人の股間に手を於いてしごいていくのだった。
空が次第に暗くなって星が見え始めていた。白い物が宙を舞った。「別杵様のまけ〜。
」と叫ぶと又白い物が宙を舞った。「若いからのう〜。やはり負けたか。」と言った時
手桶でお湯が駈けられ娘たちは布で体を洗う。「入田殿に会ったと申されたのう。」と
上向きに暮れ行く空を見ながら言った。「で 入田殿はどう申されたか。大友を討つと
申されたか。」「いや 別杵殿に会えたなら娘を宜しくとだけ伝えてくれと。」「やは
りそうか。だが親爺の首を持って帰ったなら華千代はこぞって悲しむであろうぞな。」
「心中はお察しいたします。」と静かにいった。土橋は入田から追手が娘婿と噂は聞い
て解っていた。と話した。そして「入田殿と斎藤殿と別杵殿は馬が合う仲で婚姻したと
聞き及んでおります。」と言った。「儂と今の内助は幼馴染でのう。親爺同士が仲が良
く早くから婚姻を決めておった様じゃった。まだ弥七郎を名乗っていた頃の話だがある
時疱瘡にかかってのう。わざわざ入田殿は我が家に断りを入れに来た。「げにげに申し
交わせしは忘るべくも候はねど、その後、妹は痘瘡を煩いて、以ての外みぐるしくなり
ぬ。中々かれが有様にて見届けらるべきにあらず。今にては参らせん事叶い難し。とな
(見せられぬ姿になって申し訳ないが婚儀の約束は反故にして欲しい)とな。いやあ今
の妻の立派な事はあの親爺にして解ろうものだったが、長い幼馴染の儂には勿体ない位
の事。」「そこで言ったのさ。人間は所詮人間 容姿が変わったとて人は変わりませぬ
私が妹御を妻にと所望したのは、その心根であって容色ではありません。斉藤家といえ
ば代々武勇誉れ高き武人の流れであればこそ、拙者の嫁にと所望しておる事。故に武人
として婚儀を進める事一向に構わないでもらいたい。とな。」「随分立派な方でしたか
。」「ああ出来すぎだが それも今度ばかりは離縁せねばなるまい。運命とは真恨めし
くあるものよのう。」と裏返しに寝返った。

915: 名無しさんAA:17/07/21 15:28
 ベッキーの娘  51

 元々嵯峨は嵯峨源氏の末裔を示し肥前/松浦氏の松浦水軍も筑後/蒲池氏も源流は源氏
としている。だがこの地は元々北島家の支配するところだったと言われる。かなり古い
時代から出雲大社との繋がりがあって治めて居たと言われる。その後大宰府が出来肥前
国神埼荘を領し、神崎氏を大宰大監平季基の子の兼輔が名のったと云う。又平家もやっ
て来て大蔵氏はこの地で江上氏を名乗ってその後八田氏や高木氏鍋島氏竜造寺氏久良木
氏など地名から置き換わったとされる氏族が現れた。大宰府にやって来た少弐氏は時と
共に庶家が分かれ出て、馬場氏、筑紫氏、横岳氏らは少弐氏をしのぐ力を持つようにな
っていた。筑紫満門は馬場頼周にとって岳父(嫁の父)であったが大内氏に通じる変節
に怒り孫が病気と偽り、綾部城に誘って謀殺した。少弐資元は管領細川氏に通じて大宰
少弐に任じられ 大宰府を追われ滅亡しかけていた少弐資元は大友氏の支援を受けて再
興しを図り、勢福寺城を落とし居城とした。こうして宮方の菊池武安が造った城は次々
と落とされる中で少弐氏と竜造寺氏が争った。大内氏は資元を討つため、杉興運を大将
とする軍勢を肥前に送った。迎え討つ形で少弐勢は江上元種龍造寺家兼小田政光らが布
陣していた。1530年田手畷の戦いである。、一進一退の激戦だったが、小土豪だっ
た鍋島清久の率いる面浮立の赤熊軍団と言う異様な集団によって大内軍はさんざんに、
撹乱されて少弐方の大勝利となった。だがこのあとには1535年に大内義隆に通じて
竜造寺氏は主君の少弐氏を裏切り、自害させて大内氏庇護のもとに独立した。その後は
しかしこの下剋上に義憤を感じ、その拡大を恐れた家臣団は馬場頼周を中心に調略にの
上に追い出されてしまった。村中竜造寺も水ケ江城龍造寺もこの内紛の上を殺害されて
、龍造寺一族の殆どの勢力は一時的には壊滅した。だが家兼は老体に鞭討って鍋島など
の応援で1546年、水が江城主馬場頼周を討って龍造寺氏を再興したものの93歳の
高齢で死去し、曾孫の龍造寺隆信を還俗させて後を継がせる事になった。がそれは家臣
の土橋栄益などの不満によって追い出されてしまう。こうして一族の内紛で肥前を追わ
れて後田尻氏のいる筑後に逃げ、家兼と同じく蒲池鑑盛の手厚い保護を受けた。この頃
筑後に割拠していたのは国人領主達で、筑後南部では蒲池氏、田尻氏、黒木氏が、筑後
北部でも蒲池氏、星野氏、草野氏、問註所氏などが独自の共和を作っていた肥前に住む
で姉川氏と名乗っていた少弐氏家系も追われ野田氏として筑後に行った。


916: 名無しさんAA:17/07/21 15:29
 ベッキーの娘  51

 「土橋殿 実はこのおなご衆も実は入田殿が集めたおなご衆でのう。」「ほう。」「
我が娘が 余りに醜くある故 夜の褥がうまくいかぬならと側室としてどうかと差し出
された者らでのう。」「ほほう まっこと近しい間柄でござったのじゃな、」「そして
のう 更にこのおなご衆達も 入田の親爺が戦いの上で 首を取りうち果てた敵の大将
の子供らでのう 自らが憎まれる事を承知で連れて帰って来たと 聞き及んでおる。」
「・・」「どうじゃのう。いつ背後から刺されるかも知らぬ者をお主なら連れて帰るか
。」「既にいつ死んでも良いとの考えからであろうなあ。」「じゃがのう これらが又
逃げもせぬのじゃ。」「わしも正室の他の者から子孫を残したなら可哀想であろう。」
「だがらこうして遊んでおる。こいつらも他にいい男が居たらいつでも嫁がすつもりじ
ゃがいかんせん戦国時代でのう。若い者と駆け落ちもせぬみたいじゃ。あははは。」「
人間とは悲しい物よのう。産んで生まれてはめでたいめでたいと言いながら 既に往く
ゆくは死を覚悟する世界からは逃れられぬ。」「正にその通り。」「こいつらも他で食
う道がないとちゃんと知ってきちょる。だから年増や妙に幼い子なのじゃ。」「ああ、
成程のう。」「どうじゃ土橋氏も一人ぐらいもろうてくれんか。近頃少し大殿から目を
つけられてのう。日増しにきついお言葉じゃ。」「この年で私がですか。」「いや、あ
の蒲池公が 大友の大公がカンカンに怒るとわかっていながら竜造寺のクソ爺を 武士
は相身互い と匿った事は子供が出来て今にして解る。人を信じるという事はどうでも
自分の目を信じるということじゃてのう。」「昔のう儂の親爺とよう酒を酌み交わして
言いようった。人生は運と感 それに縁じゃ。運は天から授かるもの 感は地で養うも
の 縁は自分で咲かせるもの。とよく言われた。いつも精進せねば感の花も開かぬと。
近頃は この入田の親爺が言っていた事が少しだが解った気がする。」


917: 名無しさんAA:17/09/12 10:19
  去華就実  01

 アドルフ・ヒットラーは 当時当たり前になっていた礼儀正しい戦争に 戦争とは汚
いものだ。と言う事を知らせる と言う事に主眼を置いた。第一次大戦では兵士たちは
諸侯の言いつけで戦争に出かけて行った様な物だった。人が増えすぎ物が偏りドイツで
の世襲制の中のヴィルヘルム2世のプロイセン皇帝とフランスでの市民革命の英雄ナポ
レオン皇帝の領地争いであった。この頃には戦争に勝つ事が領地を制し、戦勝国が賠償
金を貰い 人質である農奴を奴隷として豊かな資源を手にすると言う事が常態化してい
た。この時ベルギーの高原ではイギリスとフランスの戦いである百年戦争の禍根が渦巻
いていてイングランドのノルマンディー上陸が成功したもののフランスのジャンヌダル
クが出て奪還を果たしたりしての王家乱立状態で日本の戦国時代みたいな物だった。が
この頃実はキリスト教に改宗しない浮浪者が大勢いたのである。それは十字軍の遠征か
ら始まる雇い兵の人間の子孫達だった。その頃ベネチアはこの時イスラムとキリストの
交易が無かった為双方に日本の鎖国の様な状態だった。そこで両方に人材派遣して顔の
効くハクスブルク家が栄えたのである。元々はハクスブルク家は王家ではない。中世の
血縁制度を利用した政略結婚により、次々と広大な領土を獲得し、縁戚が南ドイツの肥
沃な作物で代表する大貴族に成長したもので王家は他にあった。神聖ローマ帝国を継い
だフランク王国である。フランスは今でこそ平地開発が進んでいるが昔はガリアとして
ケルト人の里とされるがノルマン人との戦いに明け暮れていたのである。西フランクが
フランスとなり東フランクがドイツとなったがその頃は海辺の民の大航海時代を開くべ
く船の改造と城の襲撃による兵器開発で新しい物が産まれそれが産業革命として英国の
中で大きな産業となっていた。この英国の歴史こそがこの戦争の発端であった。ドイツ
にある塩と石炭の炭鉱である。塩は海からも取れる様にはなったが木の代用品の石炭は
出来なかったのである。船を動かし 鉄を作り 内燃機関を作る高発熱の石だったが、
近年までも黒いダイヤの様相があったのだった。


918: 名無しさんAA:17/12/29 23:40
 極寒の砂金 01

モリソン号事件とは、1837年(天保8年)、日本人漂流民(音吉ら7人)を乗せたアメリ
カ合衆国の商船を日本側砲台が砲撃した事件だった。当時幕府の要職にいた鳥居耀蔵は
、幕府の教育部門を代々司る林家の出身であった。儒教を尊んできた徳川時代で儒学の
中でもさらに朱子学のみを正統の学問とし、他の学説を非主流として排除してきた家柄
の出身だった。こうして「モリソン号事件」が明るみに出ると、天保年間(1830年代)
にで盛んになった蘭学が新知識の研究と交換をする機運が高まって、既に医療でも蘭方
医とは別個に、更に欧州文化を取り込もうとする一つの潮流が出来つつあった。渡辺崋
山などはその指導者で、高野長英・小関三英は崋山への知識提供者であった。この潮流
は旧来の国学者たちからは「蛮社」と呼ばれ、南蛮の学を学ぶ同好の社中。「蛮学社中
の徒」と蔑まれ異端として見られていた。弾圧の首謀者となる鳥居耀蔵は、幕府非難の
他の学説を非主流として排除してきた中に、この事件が起こった。鹿児島湾、浦賀沖に
現れたアメリカの商船「モリソン号」に対し、なりふり構わず薩摩藩及び浦賀奉行太田
資統は異国船打払令に基づき砲撃を行ったのである。江戸湾で砲撃を命ぜられた小田原
藩と川越藩はこの船に対しての対話はなく沈めたのである。しかし、このモリソン号は
マカオで保護されていた日本人漂流民の音吉・庄蔵・寿三郎ら7人を乗せて日本に送っ
てくる途中だったのである。モリソン号はこの日本人漂流民の送還と通商・布教のため
に来航していた事が1年後に分かり、またモリソン号は非武装で、当時のイギリス軍艦
と勘違いされ砲撃を受けていたのである。こうして異国船打払令に対する批判が強まり
、この事件を批判する『慎機論』を著した渡辺崋山、『戊戌夢物語』を著した高野長英
らが幕府の対外政策を批判したため逮捕されるという事件「蛮社の獄」が起こったので
ある。だがこの日本の動きは理由があった。当時世界的な動きがあって、中国大陸を含
む東南アジアに、黒人奴隷から物分かりいい東南アジア人特にインド人奴隷を利用した
奴隷船貿易の実態が押し寄せて来ていたのである。1840年(道光20年)には阿片戦争に
よって、清王朝は欧米列強と外交政策で対峙する必要に迫られた事は、その渦中に投げ
出された事を物語っている。既にこの蘭学主義者でなくとも漢学派であっても、西洋列
強の非道なアジア支配への戦略は海を超えて耳には入って来ていたのであって、日本が
鎖国によって何も伝わらなかった事では無かったのである。ただ問題はその欧米文明の
利器たる兵器開発や技術が国内には全く無かったのである。

919: 名無しさんAA:17/12/29 23:41
 極寒の砂金 02

 中国大陸に起こった官僚と知識人による洋務運動は、1860年代から1890年代にかけて
発生していた。欧米の知識を導入して殖産興業・富国強兵を目指す政治活動は日本の明
治時代と全く同じに提唱されていた。しかしながら、清王朝内部では、この運動は北宋
より続いてきた文官偏重の伝統的な政治体制の中の対立に過ぎなかった。改革は限定的
なもので、さらにその後の、1894年(光緒20年)の日清戦争で日本に敗れ洋務運動の中
の限界点が露呈することになった。この大きすぎた国では、王朝内部の家臣団すらも、
統制など取れないでいた。と言うよりは統制すればするほど閉鎖する社会となり実情か
ら目を遠ざける結果を産んでいたのである。これに対して、日本の明治維新をモデルと
した立憲君主制を維持しながら政治・社会制度に大幅な改革を求める内容の上奏を行い
、康有為を中心とする改革派が、1895年に光緒帝の支持を獲得、1898年(光緒25年)し
戊戌変法が実行されたが、しかし、大国内では改革は急進的なものとされ、保守派の反
発は大きく、この改革は僅かに百日で失敗、改革派は海外亡命する羽目に陥ったのだっ
た。こうして1900年(光緒26年)に義和団の乱が発生したのである。義和団の乱は当時
輸入の中継地として発展していた山東省の中でのドイツと英国の覇権争いに、自治防衛
を行う少林寺などの拳法僧侶の対抗したアヘン問題で発生した事件だった。乱の主体と
なった義和団では、ドイツの進出が目立つようになりそれに伴う事件が頻発するように
なった事で特定の武術組織がそれぞれに商社の防衛にあたっていた。元々中国には、か
なり古くからキリスト教が伝来していた。そして、多くの信者を獲得することなく清朝
時代に至っていた。この事態に相次ぐ西欧列強との貿易が変化をもたらしたのである。
キリスト教が広がらなかった背景は日本同様に時の権力者の布教活動の禁止あった。よ
くは知られてないが中国国内でも禁教令と共にキリスタン弾圧は相当強いものだった。
山東にあった武術組織の大刀会は初め盗賊を捕まえて役所に突き出すなど、郷土防衛や
治安維持を担った自警団だった。だがカトリック信者と一般民衆との土地争いに介入し
1897年にカトリック側を襲撃するに至った。こうして、教会の破壊や神父の殺害を決行
し曹州教案が起こった。この動きに対してのドイツの抗議をうけ清朝が弾圧を開始し、
一旦納まっていた。しかし1899年になると、そのころ別の武術組織の神拳一派と合流融
合していった。


920: 名無しさんAA:17/12/29 23:43
 極寒の砂金 03

山東省は国家権益の観点のみならず、孔子の生地である曲阜があり中国国内の伝説上の
土地柄だ。こうした地の中でキリスト教布教者は最初の上陸基地として重視されたた事
で中国のエルサレム化を起こしていた。その山東省での熱烈な布教活動は反動も大きく
民衆の排外的な感情を呼び起こし、時を追うごとに高まっていった。この武術組織体は
、極めて強い宗教的性格を有し、内部では儀式や祭りも行い教義的な拳法にも由来し、
団練という地方官公認の自警団でもあった為、かなりの熾烈さがあった。出来がった義
和団は、 太平天国の乱の拝上帝会のようにその起源を単一のものに特定できない。 太
平天国の乱は広東省花県の客家出身である洪秀全は、上帝ヤハウェと思われる気品漂う
老人から破邪の剣を与えられた夢から起こった。イエスらしい中年の男から妖を斬る手
助けを受けたという洪秀全は病が癒えてプロテスタントの勧誘パンフレット『勧世良言
』を入手し、以前に見た不思議な夢の意味を「理解」し、キリスト教に目覚めてキリス
ト教の教えの中でも特に上帝が唯一神であることを強く意識し、偶像破壊を熱心に行っ
た。元々多神教的な土地柄である中国では儒教・道教・仏教にまつわる廟が多かったが
、それらを破壊し、ただ上帝だけをあがめることを求めた。そのため郷里広東省で効果
的な布教方法を模索せざるを得ず、「原道救世歌」や「原道醒世訓」という布教文書を
著し1847年、太平天国の前身組織拝上帝会を広西省桂平県金田村に創設した。数少ない
賛同者の1人であった馮雲山が布教活動を行い、約3千人の信徒を獲得し、洪秀全を迎
えて立ち上げ乱を起こしたのであった。その乱の最中で起こっていたアヘン戦争とその
後の不平等条約締結で、布教活動が条約港に限り認められ、アロー号戦争(第二次アヘ
ン戦争)後結ばれた天津条約では、清朝内陸への布教を認める条項(内地布教権)が挿
入されており、以後多くの外国人宣教師が内地へと入っていった。この結果、キリスト
教は次第に信者を獲得していった。外国人宣教師たちは、宗教的信念と戦勝国に属して
いる傲岸さが交じった姿勢で中国社会に臨みその慣行を無視し事件は各地に起こった。
しばしば地域の官僚・郷紳と衝突し、事態を複雑にした。キリスト教会の飯を食う者の
存在は、飢饉などの天災により寄る辺をなくした民衆などが「宣教師の慈善活動」に救
いを見出し、家族ぐるみ・村ぐるみで帰依していた事であった。また当時の内部対立の
結果、社会的弱者となった人々も庇護を求めて入信し、クリスチャンの勢力拡大に寄与
した。



921: 名無しさんAA:17/12/29 23:44
 極寒の砂金 04

義和団の母胎となった白蓮教徒は、官憲の弾圧から逃れるためにキリスト教に、一部は
一団で入信していた。対立の構図は複雑怪奇で外国人宣教師やその信者たちと、郷紳や
一般民衆との確執・事件を仇教事件と言うが、殆どが教会や神父、信者を襲い、暴力的
に解決しようとする中にあって、太平天国平定の功労者であった曾国藩ですら、もし、
外国人の方に非があったとしても、公文書に記載し事を大きくしてはならないと述べた
程の確執があった。こうして外国人は官僚より三等上という認識が広がっていった。当
初の義和団を称する秘密結社は排外運動に活路があったが、1900年(光緒26年)に西太
后がこの叛乱を支持して清国が欧米列国に宣戦布告したため国家間戦争に変わっていっ
た。しかし、宣戦布告から2ヶ月も経たないうちに欧米列強国軍は、首都北京及び紫禁
城を制圧した。この事で、清朝は莫大な賠償金の支払いを余儀なくされる。禁圧の過程
でイギリスとドイツは、清の許可を得ずに上海=北京間、膠州、威海衛、旅順に於いて
電信ケーブルを敷設した。この為に、この乱の後、西洋的方法を視野に入れた政治改革
の必要を認識した西太后は、かつて自らが失敗させ皇太子光緒帝は監禁されて実権を失
い、変法派の主要人物は処刑した戊戌の変法を手本としたいわゆる光緒新政を開始した
。戊戌変法の間には、日本の前首相・伊藤博文が中国を訪問していた。伊藤が到着後、
変法派の官吏は話し合いをし、反変法派の楊崇伊は「日本の前首相伊藤博文は権限を恣
にする者であり、もし彼を重用するようになったら、祖先より受け継いでいる天下を拱
手の礼をして人に譲るようなものだ。」と西太后に上奏した。光緒帝に「臣は請う:我
が皇帝が早く大計を決め、英米日の三ヵ国と固く結びつき、“合邦”という名の醜状を
嫌う勿かれ」と上奏し、西太后に、「来訪の目的は、中、日、米および英と連合し“合
邦”することにあり。時代の情勢を良く知り、各国の歴史に詳しい人材を百人ずつ選び
、四カ国の軍政税務およびすべての外交関係などを司らせる。また、兵を訓練し、外国
の侵犯に抵抗する。・・・皇帝に速やかに外務に通じ著名な重臣を選抜するよう請う。
例えば、大学士・李鴻章をして李提摩太と伊藤博文に面会させ、方法を相談し講じさす
。」と進言した。だが西太后は紫禁城に行き、「あたかも中国の軍事、税務、外交の国
家権限を外国人に渡そうとしているかのようである。」と即断し、クーデターを起こし
て自ら政権の座に戻り、変法自強運動に終止符をつけた。


922: 名無しさんAA:17/12/29 23:44
 極寒の砂金 05

山西省聞喜出身の楊 深秀(よう しんしゅう)は、この時清末の変法派の官僚として、
張之洞より徳堂の院長に招かれ、進士となり、刑部主事、郎中、東道監察御史を歴任し
、ロシアが旅順と大連の租借を要求すると、イギリス・日本と同盟して要求を拒否する
ことを上奏し、人々は楊深秀の学識の高さと世界情勢の明るさに皆を感服させていた。
戊戌の変法の際には、徐致靖とともに八股文の廃止を主張し、これは礼部尚書許応によ
って阻まれた。訳書局の設置を上奏し、皇族の外国訪問、留学生の派遣を主張し採用さ
れたが、一日二十人の官僚を面接し、才あるものを登用し才なきものを罷免したため、
不満を引き起こした。その他にも改革を実行する者を援助し、湖南巡撫陳宝箴が守旧派
から弾劾された時には弁護している。しかし戊戌の政変で西太后が政権を奪回すると、
直ぐに主犯として楊深秀は捕えられ、譚嗣同・楊鋭・林旭・劉光第・康広仁とともに斬
られた。彼らは「戊戌六君子」と呼ばれていた。こうして日本の「蛮社の獄」の様な、
西洋学者の排斥が国家権力で行われた。日本と中国の違いは日本は寛容であった事だ。
こうした逸材の天才や秀才達に獄死はあったものの首謀者渡辺崋山が田原で蟄居させら
れている様に終身刑としての永牢や遠島所払いや身分剥奪に終わっていて斬首や死刑で
はなかった。この事が大きく違っていた。その後英国などの進駐した八箇国連合軍によ
って、北京は占領されるという事態が発生する。それまで改革に慎重であった保守派の
に改革の必要性がようやく認識され、戊戌変法と同様の改革案が提出・実行された。が
憲政移行の方針を定めた『欽定憲法大綱』を発表し、内閣が設置された時、既に登用す
べき人材は居なく、内閣成員の半数が満洲人、内皇族が5名を占める皇族内閣であり、
憲政移行を求める知識人や民衆には失望しかなかった。こうして西洋排斥運動であった
義和団の乱は、皇帝の廃位を行う西太后のクーデターに変化し北清事変となり義和団鎮
圧のために軍を派遣した列強は八カ国あり、その内訳はイギリス、アメリカ、ロシア、
フランス、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリアら欧米七列強と日本での北京
制圧となり、総司令官にはイギリス人のアルフレッド・ガスリーが就任し清朝の混乱を
さらに拡大させることで終わった。日本は各国からの派兵要請によって大量派兵の決め
たが、その一因は欧米列強ともいえども世界中の覇権争いの戦争を各国が戦っていた為
派兵要員が居なかった為だった。日本軍は陸軍大臣の桂太郎の命の下、第五師団(およ
そ八千名)を派兵し、その指揮は福島安正に委ねられた。彼は英語・フランス語・ドイ
ツ語・ロシア語・中国語に堪能で、当時ロシアや清朝を調査する旅行から帰国したばか
りであった。その経験を買われて指揮官に据えられたのである。

923: 名無しさんAA:18/01/01 17:18 ID:mb2
 極寒の砂金 06

この日本の海軍陸戦隊の派兵は様々な思惑があった。公使館保護は無論であるが、中国
の日本権益拡大や、西洋列強が清朝を叩くことで列強支配の向上は、相対的に日本の国
権の国際的地位確立する必要があった。特に大軍を送る「極東の憲兵」としてロシアへ
の牽制の為に、列強側に立っての存在感を持たせて対抗する為に、より多くの大軍を送
り誇示し、交渉中の不平等条約改正へ目的もあった。一妻九妾で17男14女の子を設
けた精力絶倫男「袁世凱」は、辛亥革命の混乱の中で朝廷と孫文ら革命派との間で巧み
に遊泳し、中華民国大総統となって革命派を弾圧した男だが、この頃の清朝内では顕在
化していた派閥争いの中核にいた。権力争いする清廷内に、戊戌変法を支持した光緒帝
を廃位しようとする計画が進められ、その障害である列強や李鴻章や一部の親王でなど
は、この男にとっては関係なかった。1899年末、毓賢が欧米列強の要求によって更迭さ
れた時、排除強行派の袁世凱は赴任し義和団を弾圧して名声を得ていた。しかしそれは
表向き山東省外への排斥であり、排斥運動の義和団は裏では拡大する結果を放置してい
た。もとは官僚を志し科挙の挑戦者だったが2度も試験及第しない者で、断念し軍人と
を志し李鴻章幕下の淮軍に身を投じて、朝鮮に渡っていた。任地で発生した壬午の変や
(壬午事変)・甲申の変(甲申政変)で閔妃の要請の下で巧みな駆け引きで鎮圧に貢献
した、とされ情勢に長けた者だった。閔妃は、李氏朝鮮の第26代王・高宗の妃とされ
明成皇后と呼ばれた。属国としてあった朝鮮が独立するのを彼が止めて、清に有利に導
いたとされる。事実上の朝鮮公使として李鴻章の監督の下、朝鮮の内政にも干渉できる
ほどの権限を持った事が大きかった。清国の為対抗する日本勢力を排除しようと考え、
特に経済的には一定の成果を挙げて帰国した。しかし、貧しさと圧政に喘いだ朝鮮民衆
の甲午農民戦争を起こした時には、朝鮮が清に軍の派遣を要請た為に、日本も対抗して
派兵し日清戦争が勃発する羽目に陥らせたのである。つまり現状無用論の人で彼の進言
で列強排除に義和団を利用した。つまり列強に対しては義和団を充てる一方で、列強に
妥協的だという理由で李鴻章らを媚外として批判したのである。こうして取り立ててく
れた李鴻章が没するに当たって、袁世凱は北洋通商大臣兼直隷総督を引き継ぎ、袁世凱
は政治家としても活躍し、いわゆる、明晰な官僚を処刑した光緒新政の中で、中心的人
物となっていった。こうして義和団及び列強連合軍に対しどう対処するかについて、4
度御前会議が開かれた末、清朝の列強への「宣戦布告」が決定は決定されたのである。


924: 名無しさんAA:18/01/01 17:19
 極寒の砂金 07

宣戦布告に先だって、最高権力者であった西太后は「中国の積弱はすでに極まり。恃む
ところはただ人心のみ」と述べたと言われる。最も決定的だったのは、大沽砲台問題と
いわれ、この大沽砲台は海河河口に備えられて、北京や天津へと遡航する艦船への防御
の要となる砲台であった。だがこれは以前から列強の司法への介入、山東巡撫の更迭要
求等のいくつもの列強の圧力の中で列強への引渡しを求められていた。清朝側が拒否後
は義和団に占拠されていたのでもないにもかかわらず攻め落とされてしまったんだ。交
戦状態でもないにもかかわらず列強の手に落ちていたのだ。こうした事は「累朝の積憤
」と言われ(積もり積もった怒り。剛毅の言)が清廷内の排外主戦派を勢いづかせてい
て、西太后の決心を促した。さらに言えば、当初から袁世凱などの、官公認の自警団に
求めるた行政には、義和団の素地があり、これらは直隷省(現在の河北省と北京)へと
展開し、北京と天津の地帯で義和団が溢れかえる事態に至った時には、収拾不可能な事
に陥っていた。直隷省は山東省以上に、失業者や天災難民が多くおりそれらを吸収する
ことによって義和団は急速に膨張し、そして外国人や中国人キリスト教信者はもとより
、舶来物を扱う商店、果ては鉄道・電線にいたるまで攻撃対象とし、次々と襲っていっ
たのだったのである。そのため北京と天津の間は寸断されたのも同然となり、更に義和
団が我が物顔で横行するようになって行った。不測の事態が発生し清朝を慌てさせたが
それは遅く、1900年6月には、20万人の義和団が北京に入城するに至っていた。甘粛
省から呼ばれて北京を警護していた董福祥が配下の兵士に日本公使館書記官の杉山彬が
殺害され、ドイツ公使クレメンス・フォン・ケーテラーが義和団に殺害された。既にこ
の暴動に、北京駐在公使は要請をしていて、五月末より列強の連合軍は軍事介入を計画
して動いていた。六月初旬にはイギリス海軍中将シーモア率いる連合軍約2000名が北京
を目指したが、義和団によって破壊された京津鉄道(北京−天津間)を修繕しながらの
進軍だった。その歩みは遅く、また廊坊という地では義和団及び清朝正規兵、董福祥の
甘軍によって阻まれて、天津への退却を余儀なくされた。つまり清朝の宣戦布告以前よ
り、列強は中国に軍隊を派遣し義和団掃討作戦を実施していた。6月17日の天津の大沽
砲台の攻撃について、清朝は「無礼横行」と非難し、宣戦布告をする重要な動機の一つ
となってはいるが 日本の下関砲撃事件の様な事が想定され、外交の要の作戦だった。


925: 名無しさんAA:18/01/01 17:20
 極寒の砂金 08
西太后が「宣戦布告」の上諭を出して列強への態度を明確化した頃に、両江総督劉坤一
や湖広総督張之洞、両広総督李鴻章ら地方の有力官僚達はは、この上諭を偽詔とした上
で従わない旨宣言して回った。そして義和団の鎮圧に先行して動いた。また列強各国領
事と「東南互保」という了解を結び、義和団の騒擾を中国北部に限定するようし向けた
。具体的には、盛宣懐や張謇が地方大官と各国領事の間を奔走し、「保護南省商教章程
」9か条と「保護上海租界城廂章程」10か条を結び、外国人の生命及び財産を列強が
進攻しない限り保護することを確約した。この「条款」は、中国東南に位置する地方の
総督や巡撫といった大官と列強との利害が一致したため成立した協定でもあった。いわ
ば、清朝の地方の大官僚達が、先に結託して地方の利害を優先させ、義和団の影響が及
ばないよう先手をうったといえる。それは郷土が踏み散らかせれる事を阻止するに最大
の防御となった。だがこれは明らかに西太后の命に背くものでもあった。剛毅らは弾劾
上奏を行ったが、西太后は特段処分を下さなかった。それは西太后の保険であった為で
あるとされる。今後列強との戦争の雲行きが怪しくなった場合に備え、この「東南互保
」を暗黙裡に認め、敗戦の総責任が及ばない様に 皇帝側の意向を明確にしないという
政治的駆引きの一つであったとされる。実際後述するように西太后は、義和団の乱に関
して何ら責任追及を受けていない。以後義和団は清朝をも敵にまわし戦闘せざるを得な
くなった。それまでは「扶清滅洋」を旗印にしていたが清朝に失望し「掃清滅洋」(清
を掃〔はら〕い洋を滅すべし)と変えるに至った。これは後述する北京議定書によって
過大な賠償金を強いられることになった清朝が、その負担を庶民に転嫁せざるを得なく
なったことも大きな理由であるとされる。西太后は北京から逃走する途中では、義和団
を弾圧する上諭を出した。同時に列強との和議を図るよう李鴻章に指示した。その時に
後々有名となる次のことばを用いている。「中華の物力を量りて、與国の歓心を結べ」
(「清朝の〔そして西太后の〕地位さえ保証されるなら金に糸目はつけるな)。列強と
の交渉は慶親王奕及び直隷総督兼北洋大臣に返り咲いた李鴻章が担った。敗戦国という
立場から列強の言いなりで、非常に厳しい条件が付せられた。それは西太后の地位を守
るための代償でもあった。こうして義和団の乱の責任は端郡王載や剛毅ら数人の重臣と
地方官僚50人ほどに帰せられ、処刑もしくは流刑を言い渡された。1901年に締結され
た条約で過酷だったのは賠償金の額であった。清朝の歳入が8800万両強であったにもか
かわらず、課された賠償金の総額は4億5000万両、利息を含めると9億8000万両にも上っ
た。このしわ寄せは庶民にいき、「掃清滅洋」という清朝を敵視する声は義和団以外に
も広がりを見せるようになった。

926: 名無しさんAA:18/01/01 17:22
 極寒の砂金 09

 義和団の乱において直隷総督配下の近代化軍隊は連合軍に敗れて大きな打撃を受けた
。この時、袁世凱の軍だけは義和団を叩いたのみで、直接列強との戦争に参加しなかっ
た。敗ける事が解っていたのだ。そのためほとんど無傷であった。こうして清朝内で、
隠然たる影響力を持つに至った。同時期に、李鴻章や劉坤一、栄禄といったこれまでの
清朝の実力者が次々と死去するという「幸運」もあった。老害を取り除いた中で清朝一
の精鋭部隊を率いる袁世凱は、それを政治資本として有効に働き それを盾に活用して
いった。それはやがて袁世凱を李鴻章の後任として直隷総督へと出世させ、さらに辛亥
革命後の中華民国大総統、中華帝国皇帝(洪憲帝)へと押し上げる原動力となったので
ある。付言すれば、漢民族である袁世凱が衰退した清朝にあっても、最強兵力を保持し
続けた事自体が、満漢対立という民族間の軋轢を増す不安定要因となっていった。北京
議定書によって、北京や天津に外国の駐兵権を認めて、巨額の賠償金によって外国によ
る財政支配(海関税・常関税・塩税が支払われるまでの担保として押さえられた)を、
受容した清朝は、新しい中華民国と共にもはや独立国としての体裁をなさず、半植民地
ともいうべき状態に陥っていた。北京における駐兵権容認はやがて平和を希求した日本
軍にも銃口を向けた盧溝橋事件の引き金ともなるのである。北京陥落後あっさり義和団
を切り捨てた清朝・西太后の姿勢は大きな失望を一般民衆に与えた。最も大きな影響は
、こうした民衆の不平不満の矛先が列強よりもむしろ清朝自体に向けられるようになっ
た事であろう。さらに北京議定書によって定められた巨額の賠償金は、過大負担を民衆
に強いた。人々が清朝を見限るのには決定的な理由となった。孫文は中国で何度も革命
を行おうとして失敗していた。その度に無謀だと周囲から冷笑された。しかし義和団の
乱以後民衆の中で傍観者的な雰囲気が消え、孫文たちを積極的に応援する風向きが出来
た。この時にわかに急激に支援する民衆が増加したと述べている。すなわち義和団の乱
は辛亥革命に至る重要な伏線となったといえる。辛亥革命は、1911年から1912年にかけ
ての、清(中国)で発生した共和革命であった。北清事変が勃発した様相と全く同じに
袁世凱がその要席にいたが、それは海軍の指導者としての地位にあったからだ。名称は
、革命が勃発した1911年の干支である辛亥に因む。この結果、アジアにおいての史上初
の共和制国家である中華民国が誕生した。この時日本ではアジア支援の第一号であった
為明治新政府は、喜んで祝電を打っている。


927: 名無しさんAA:18/01/01 17:23
 極寒の砂金 10

清が打倒されて古代より続いた君主制が廃止され、共和制国家である中華民国が樹立さ
れた。勃発日の10月10日に因んで、「双十革命」とも称される。又、民国革命の中で、
辛亥革命は第一革命とされ、袁世凱に鎮圧された第二革命、更には護国戦争が第三革命
として続いていったとされる。辛亥革命のスローガンは「駆除韃虜、恢復中華、建立民
国、平均地権( 打倒清朝回復中華、樹立民国地権平等)」だった。狭義では、1911年
10月10日夜に発生した武昌起義から、1912年2月12日の最終皇帝の宣統帝 (愛新覚羅
溥儀)の退位までの期間を指す。だが、中国では広義に、清末期からの一連の革命運動
から中華民国成立までの、比較的長期間の政治的運動を示すものとしている。辛亥革命
の理念と成果は、袁世凱を中心とする北洋軍閥により撤回された。地権平等(四民平等
)も実現しなかった。只この革命はアジアで初の共和制国家を樹立し、古代より続いた
君主政の伝統を終わらせ中国の歴史に画期をもたらした。辛亥革命により元号は改めら
れ、民国紀元が採用された。こうした中国大陸が変遷している中で、明治33年(1900)
に日本政府は露西亜調査の必要性が問われていた。義和団を称する暴徒によって北京が
陥落し、これを受けて 近隣の当事国である日露が交渉をする事が迫った為だった。同
年10月に36歳となった明石はロシアとの交渉のために北京に派遣された。この時に、
明石は2人の伴を連れての旅をしている。が、道中は暴徒によって鉄道が破壊されてい
たせいで、散々な目に遭いながらの旅だった。伝記では明石が誰と何の話し合いをした
かは記されていない。おそらくは日露を始めとした清国居留の外国人たちの安全の保証
や、日露の軍事行動についての事前の打ち合わせがされた。と思われまている。しかし
、有色人種で小国の半文明国という扱いだった日本に対して、ロシアがどこまで対応し
てくれたかは推して知るべしといったところと思われます。さて、そんな折に旅費が底
をついてしまった明石一同は道中に知り合いから百円の借金をします。ここで、明石は
半分の50円を旅費として使い残りは自分の懐に入れてしまいました。この明石の行いに
は流石に随伴者も閉口したようですが、一行は無事に下関まで戻ってくることができま
した。下関に着くや明石は旅館で芸者を3人呼んで、お供の2人をねぎらう為と無事の
帰国を祝して宴会を開いたのでした。五十円をちょろまかしたのはこの時に使う為だっ
た訳です。ただ、実は明石は芸者が好きではなかったようで、「人が大事な話をしてい
る時に口をはさんで邪魔をする」と台湾総督時代に人に語っていた。伝記で伝えられる
明石を見ていると、恐らく明石は女の子とイチャイチャするよりも男同士でつるんでい
る方が好きなタイプだったと思われる。

928: 名無しさんAA:18/01/01 17:24
 極寒の砂金   11

 この明石には「私利私欲」で何かをするということはない人でした、あまり清廉潔白
というお硬い人というわけでも無かったが 結構律儀な人間味のある上司だった様だ。
 さて、明石が下関でどんちゃん騒ぎをしていた同じ頃、明治33年(1900)11月には
ロシアと清国との間で第二次露清密約が結ばれてしまい、満洲がロシアの勢力圏となり
ました。ついにロシアはその版図を広げ、朝鮮半島までその手をのばそうかという位置
にまでやってきていました。幕末以来、最大最強の仮想敵国とされていたロシアが、つ
いに日本の目の前まで迫ってきたのです。この時、明石は36歳、日露開戦の3年前の
出来事でした。歴史資料では、明石元二郎は、1864年9月1日に産まれ(元治元年8月1日
) - 1919年(大正8年)10月26日)日露戦争中に、ロシア革命支援工作を画策し、多大
な成果をあげ、日露戦争の日本勝利に大きく貢献したことで有名となっている。ドイツ
皇帝ヴィルヘルムは「明石一人で、大山率いる二十万の日本軍に匹敵する戦果をあげた
」と称賛していたといいます。日台史によれば、明石元次郎は1918年(大正7年)
、第7代台湾総督をつとめ、台湾電力を設立し水力発電事業を推進し、日本人と台湾人
が均等に教育を受けられるよう法を改正したことで、台湾の人の知名度も高いようです
。明石元次郎は急死するまで一年余の総督でしたが、1919年(大正8年)に「台湾
教育令」を発令している。これがその後の台湾の発展に大きく寄与したといわれており
、台北師範学校、台南師範学校、台北工業学校、台中商業学校、農林専門学校をはじめ
多くの学校が開校されていきました。台湾総督府は、明治28年(1895年)に調印された
下関条約によって、台湾及び澎湖列島は日本へ割譲され、日本は台湾を領有することと
なった為に出来たものだった。初代 樺山資紀 以降 桂太郎 乃木希典 児玉源太郎
佐久間左馬太 安東貞美 明石元二郎 と彼まで爵位の人の英傑で統治しその部下にも
児玉源太郎が後藤新平を民政長官に抜擢した様に、文官治領時代をして建国していた。
8代総督・田健二郎になって1921年(大正11年)には日本人と台湾人の、共学を
可能とする法を決めた。これにより台湾人にも帝国大学への道が開かれます、李登輝元
総統は京都帝国大学出身です。1928年(昭和3年)には台北帝国大学が設立されま
す。これは大阪帝国大学、名古屋帝国大学よりも先に開設しています。当たり前の話で
すが、当時台湾は日本であり、日本の植民地ではありませんでした独立国だったのです



929: 名無しさんAA:18/01/01 17:26
 極寒の砂金   11

 この明石には「私利私欲」で何かをするということはない人でした、あまり清廉潔白
というお硬い人というわけでも無かったが 結構律儀な人間味のある上司だった様だ。
 さて、明石が下関でどんちゃん騒ぎをしていた同じ頃、明治33年(1900)11月には
ロシアと清国との間で第二次露清密約が結ばれてしまい、満洲がロシアの勢力圏となり
ました。ついにロシアはその版図を広げ、朝鮮半島までその手をのばそうかという位置
にまでやってきていました。幕末以来、最大最強の仮想敵国とされていたロシアが、つ
いに日本の目の前まで迫ってきたのです。この時、明石は36歳、日露開戦の3年前の
出来事でした。歴史資料では、明石元二郎は、1864年9月1日に産まれ(元治元年8月1日
) - 1919年(大正8年)10月26日)日露戦争中に、ロシア革命支援工作を画策し、多大
な成果をあげ、日露戦争の日本勝利に大きく貢献したことで有名となっている。ドイツ
皇帝ヴィルヘルムは「明石一人で、大山率いる二十万の日本軍に匹敵する戦果をあげた
」と称賛していたといいます。日台史によれば、明石元次郎は1918年(大正7年)
、第7代台湾総督をつとめ、台湾電力を設立し水力発電事業を推進し、日本人と台湾人
が均等に教育を受けられるよう法を改正したことで、台湾の人の知名度も高いようです
。明石元次郎は急死するまで一年余の総督でしたが、1919年(大正8年)に「台湾
教育令」を発令している。これがその後の台湾の発展に大きく寄与したといわれており
、台北師範学校、台南師範学校、台北工業学校、台中商業学校、農林専門学校をはじめ
多くの学校が開校されていきました。台湾総督府は、明治28年(1895年)に調印された
下関条約によって、台湾及び澎湖列島は日本へ割譲され、日本は台湾を領有することと
なった為に出来たものだった。初代 樺山資紀 以降 桂太郎 乃木希典 児玉源太郎
佐久間左馬太 安東貞美 明石元二郎 と彼まで爵位の人の英傑で統治しその部下にも
児玉源太郎が後藤新平を民政長官に抜擢した様に、文官治領時代をして建国していた。
8代総督・田健二郎になって1921年(大正11年)には日本人と台湾人の、共学を
可能とする法を決めた。これにより台湾人にも帝国大学への道が開かれます、李登輝元
総統は京都帝国大学出身です。1928年(昭和3年)には台北帝国大学が設立されま
す。これは大阪帝国大学、名古屋帝国大学よりも先に開設しています。当たり前の話で
すが、当時台湾は日本であり、日本の植民地ではありませんでした独立国だったのです
。実は台湾は中華民国が出来る前からイスパニアやポルトガルに守られた独立国だった
のである。


930: 名無しさんAA:18/01/01 17:36
 極寒の砂金   12
 この明石元二郎は1919年7月、原因不明の発熱で倒れ、一時回復するも内地で開
かれる演習の視察の為に帰国し、途中に容態が悪化し、郷里の福岡で帰らぬ人となりま
した。明石元二郎は生前より「もし自分の身の上に万一のことがあったら、必ず台湾に
葬るよう。」と遺していた。つまり、台湾に骨をうずめる覚悟で台湾総督の任務に着い
ていた。任務に命をかけていた明石元二郎の遺骸は、台湾の日本人墓地に埋葬される事
になるが、明石総督を尊敬してやまない台湾から多額の寄付金が寄せられ「軍人中、皇
族方を除いては明石のような墓を持ったものはない。」と言われるほど立派な墓が建て
られました。死後に彼は男爵の地位が与えられたのはその尊大さが宮中まで知れた事で
なった。大東亜戦争の国共内戦に敗れて 国民党軍は台湾にやって来る事になったが、
やって来た華中難民は日本人墓地にバラックを建てて住みはじめた。1994年になっ
て陳水扁台北市長(後、総統)は彼らを立ち退きさせ、1997年に明石総督の墓は掘
り起こさ、明石総督の遺族らが見守る中で発掘された。墓の移転先候補には多くの台湾
人が名乗りをあげた。その中には高砂族の方もいらっしゃいました。多くの意見があっ
たが中で、交流協会の後藤大使は頭を抱えたが、台湾北部の三芝郷のキリスト教墓地に
決まり、明石総督のお墓があった元の場所は整備される結果となった。三ヶ国語で書か
れた碑文を建てて明石の「余は死して護国の鬼となり、台民の鎮護たらざるべからず」
の言葉を彫り込んでいる。明石がブラゴヴェシチェンスクに行きたいと願ったのは、他
でもないロシア人と違った民族がロシアにいたからだ。実はブラゴヴェシチェンスクは
先の辛亥革命でも義和団の乱の時も 多くの著名な革命家が落ち延びた所で、孫文も又
ここから再起を図り革命決行に至っている。明石が訪れようとした時もこの地は封鎖の
憂き目にあって行く事が出来なかったのである。ライチヒンスクはその頃は只の平原だ
った。ロシア南東部に位置しアムール州の都市となって州都ブラゴベシチェンスクの、
東南東約 150kmのゼーヤブレヤ平原にある。1933年にソ連政府は此処に石炭が埋もれて
居る事を掴んだ。こうして地元組織を作り、褐炭田の開発に伴って街を作った。露天掘
りによる採炭が行われる事でシベリアの産業の起爆点を目指した。少しばかりの変圧器
,建設資材などの工業を立てた。石油の時代になっても暖房用石炭として近郊から重宝
された。此処はブレヤでシベリア横断鉄道から分岐する支線の終点で,ブラゴベシチェ
ンスクとハバロフスクを結ぶハイウェーが通る所となったが、石油の時代に変わってい
た。44年アムール石炭社などが褐炭の露天掘りが残るだけのマイナーな都市として残
っている。機械工場などもあるが、経済は沈滞気味で、人口も低下傾向にある。いかに
もと言う人口約2万5千のさびれた鉱業の街だ。

931: 名無しさんAA:18/01/04 09:54
 極寒の砂金   13                  1781年

 この少し南にクリンと言う小さな町がある。本当のクリン公国はモスクワの北に大き
くあった。クリンが記録に初出するのは1317年と早い。そこは要塞の町だった。クリン
はモスクワとトヴェリの間の争奪の対象となっており、1482年にトヴェリ大公国がモス
クワ大公国に編入されるとクリンもモスクワ大公国の一部となった。1781年にクリンは
市となり、新古典主義建築による都市計画が施行された。1851年のモスクワ・サンクト
ペテルブルク鉄道建設でクリンの産業は発展し、ソ連時代には化学工業が集積する産業
都市となった。1941年暮れ、独ソ戦のモスクワの戦いでは、クリンはモスクワに迫ると
、ドイツ国防軍と防衛する赤軍との間の激戦地となった。11月23日にドイツ軍はクリン
を占領したが、12月15日に赤軍西部戦線の攻撃により奪還された。この戦いでクリンは
大きく破壊された。クリンに位置する聖堂でも最も有名なものには、生神女就寝修道院
の一部で16世紀に建てられた生神女就寝大聖堂(しょうしんじょしゅうしんだいせい
どう)や、1712年に建てられたロシア・バロック様式の復活大聖堂がある。クリンでの
有名な住民に、作曲家ピョートル・チャイコフスキーがおり、後半生にはクリンで『眠
れる森の美女』や『くるみ割り人形』を書いた。その旧宅は現在も公開され博物館とな
っている。クリンを順えたトヴェリ大公国はトヴェリを首都として成立した、ルーシの
諸公国の一つであった。1247年に分領公国として成立しのちに大公国を称した。1485年
にモスクワ大公国に組み込まれ消滅したが、公国の地はカスピ海とバルト海をつなぐ、
ヴォルガ交易路に面し、交易路自体はトヴェリ公国成立時には多数の都市を有していた
。そのうちカシン、ミクリン、ホルム、ドロゴブージなどはトヴェリ公国に属する分領
公国を領して、カシン公国、ミクリン公国、ホルム公国、ドロゴブージ公国の首都とな
った。公国の北部はノヴゴロド共和国と接している。ノヴゴロドから見た最前線の都市
はトルジョーク、西部にはスモレンスク公国があり、その分領公国であるルジェフ公国
領を、15世紀の一時期併合して大きくなった。南部、東部にはペレヤスラヴリ・ザレ
スキー公国、ロストフ公国、モスクワ公国が位置して大きく栄えていた。生神女就寝大
聖堂は、生神女就寝祭を記憶する正教会の大聖堂だ。ロシア語の前半部のカタカナによ
る転写からウスペンスキー大聖堂あるいはウスペンスキー寺院とも呼ばれる。これは、
「永眠」を意味するロシア語で、ロシア語に代表されるスラヴ語圏とは別の言語系統圏
に属する正教会である

932: 名無しさんAA:18/01/04 09:56
 極寒の砂金   14                 1859年

グルジア正教会、ルーマニア正教会、ギリシャ正教会などでは、生神女就寝大聖堂の名
称を「ウスペンスキー大聖堂」とは呼ばす「生神女就寝」を表す為に各々の国の大聖堂
が現わす各国の語での表記を日本でも訳して用いている。生神女就寝祭(しょうしんじ
ょ しゅうしんさい)は、イイスス・ハリストスの母である 生神女のマリヤの永眠を
記念する正教会の祭日である。正教会の十二大祭の一つ。毎年8月15日に祝う。ここで
は「就寝」はギリシア語の訳語となる。ローマ・カトリック教会の聖母被昇天の大祝日
(8月15日)に対応するが、正教会ではローマ・カトリック教会のような聖母被昇天の
教義は無い。元々聖書には対応する記述がなく、伝承に基盤を持つ日で、その伝承によ
れば、マリヤはその晩年をエルサレムで、天国に入ることを望みつつも平穏に暮らして
いた。が、ある日、己の死が数日後に迫ったことを悟り、望みがかなう日が近いことを
知って喜び、家を片付け、持ち物を施して、死の訪れを待った。ただ、彼女が子とも友
とも慕うイエスの直弟子たち、十二使徒が宣教の旅にいて会えないことが残念に思われ
た。ところがその日エルサレムにトマスを除くすべての使徒たちが戻ってきたのである
。マリヤは喜び、悲しむ使徒たちを慰め、みなに別れを告げて平穏に眠りについた。三
日後トマスが到着し、使徒たちとともに墓を訪れたところ、そこに葬られたはずのマリ
ヤの身体はすでになく、天より現れたマリヤが、己が天の生命に遷されたことを告げた
。使徒たちは歓喜し、マリヤを賛美した。おそらくエルサレムで祝われるようになった
のが始まりであろう。4世紀の文献には見えず、西方では最初1月に祝われたと文献に
残る。6世紀初めから7世紀にかけて、何故だか8月15日に定着した。十字架出行祭の、
(8月1日、ユリウス暦使用教会では8月14日に相当)当日から、生神女就寝祭に備える
斎に都合が良かったのだろう。ナホトカは日本人抑留者が最初に連れて行かれたとされ
る収容所がある場所だ。1859年にロシア帝国の東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフ
=アムールスキーがこの地域を探索し、天然の良港であるこの土地にナホトカ(ロシア
語で「発見」「掘り出し物」の意味)と名付けた。1860年にこの地域が清からロシアに
割譲されると、西側のウラジオストクの機能を補完する港としての開発が始められた。
の後はソビエト・ロシア経済の停滞の影響を受け、1990年にゴルバチョフ政権がウラジ
オストクを開放した事で商港ナホトカとしての重要性は低下した。1970年代、ナホトカ
湾内のウランゲリ湾において、極東最大のヴォストーチヌイ港の建設が始まった。だが
ナホトカは、自由経済地帯の地位を得て、今でもロシアが極東に向ける重要な窓口とし
て機能している。

933: 名無しさんAA:18/01/07 00:18 ID:2Hw
 極寒の砂金    15                    1918年

シベリア出兵は1919年に「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義
名分のもと行われた。しかし、実際はソビエト政権打倒を目的としたシベリア出兵であ
り、とても日本軍には収拾不可能な戦争だった。 第一次世界大戦に出て居ない日本
の軍事力保持を懸念したアメリカは、国連軍として陸軍主力を派遣しシベリア出兵に、
主力になるように打診した。日本政府側は、出兵という点では一致していた。しかし、
積極的出兵論と消極的出兵論で対立していた。積極的な出兵論は、イギリスやアメリカ
の考え方に関係なく日本は主体的に大規模に出兵を断行せよ。という意見で参謀本部や
外相の本野一郎や内相後藤新平の出兵論であった。対して消極的な出兵論は財政を預か
って政局運営していた、元老山県有朋や憲政会総裁の加藤高明や立憲政友会総裁の原敬
達などの、責任ある者の重鎮達だった。対米協定に基づいた出兵であった為見解が分か
れたまま対米協定に流される様に妥協が形成され、出兵に踏み切った。兵力7万3千人
(総数)を送り込み、4億4千万円から約9億円に跳ね上がった戦費で、当時の巨額な
外債と外資を保全を必要となった。結果3,333人から5,000人の死者を出し撤退したもの
の最終的には同盟国に置き去りにされた形でより死者がでた。アメリカ軍が 7,950人で
、イギリスが1,500人、カナダが4,192人、イタリアが1,400人の兵力を投入した事に比
べ如何に大きかったかが解る。ソビエト・ロシア側の兵力・死者・損害は現在でも尚も
不明のままだ(後述する1920年「四月四・五事件」だけでも5,000名以上が殺害された

934: 名無しさんAA:18/01/07 00:19
不明のままだ(後述する1920年「四月四・五事件」だけでも5,000名以上が殺害された
とされる)。また別資料では、死傷者8万人、6億ルーブル以上の被害とされる。現実的
にはソ連軍との戦闘ではなく現地人の殺害に終始していて日本は壁だった。レオナード
・ハンフリーズは「当時の日本側の事情として、領土獲得への野心、日露戦争後に失っ
た利権の奪還、地政学的な理由(日本はロシアと地理的に近く、さらに日本の利権が絡
んだ満州、日本統治下の朝鮮半島は直接ロシアと国境を接していた)等の他、政治的・
イデオロギー的な理由もあった。すなわち、日本の政体(国体)である天皇制と、革命
政権のが相容れない以上、共産主義が日本を含めた同地域に波及することを何としても
阻止する必要があったのである。」と記述する。1919年1月から既に、労働者・農民な
どで組織されたパルチザンによる遊撃戦に苦戦していて。次第に交通の要所を確保する
のが精一杯の状態で、度重なるパルチザンのゲリラ攻撃に可能性が有る村落への懲罰攻
撃しかやれなかった。「師団長の指令に基いて」の残虐行為だった。この時、日本軍は
無謀にも米国や英国にそそのかされて、諜報や諜作に揺り動かされて方針が決まらない
まま出兵させていたツケだった。実は連合国はその頃70兆円〜300兆円といわれる
ロマノフ王朝の財宝接収のみが目的で日本側は全く知らない所だった。従って、10倍
の兵員は米英国の動きや連合国司令や命令と日本側の意志とは全く異なり、異様な状態
で、悲劇のみが残る戦争となった。その上ロシアの体制や気性すら知らなかった。

935: 名無しさんAA:18/01/07 00:20
 極寒の砂金   16                  1919年代

 1919年2月中旬、歩兵第十二旅団長山田四郎少将は「師団長の指令に基き」次のよう
な通告を発している。「 第一、日本軍及び露人に敵対する過激派軍は付近各所に散在
せるが日本軍にては彼等が時には我が兵を傷け時には良民を装い変幻常なきを以て、其
実質を判別するに由なきに依り今後村落中の人民にして猥りに日露軍兵に敵対するもの
あるときは日露軍は容赦なく該村人民の過激派軍に加担するものと認め其村落を焼棄す
べし。 」 またウラジヴォストーク派遣軍政務部長松平恒雄の内田外相宛の電報「別電
一五九号」には次のように記されている。「最近州内各地に於いて過激派赤衛団は現政
府及日本軍に対し、州民を煽動し向背常なく、我軍隊にして其何れが過激派にして 何
れが非過激派なるか、の識別に苦ましめ秩序回復を不可能ならしめつつあるが斯くの如
き状態は、到底之を容すべからざるものと認め 全黒竜州人に対し左の通り通告す。
一、各村落に於て過激派赤衛団を発見したる時は広狭と人口の多寡に拘らず之を焼打し
て殲滅すべし 。」と こうして同年1月アムール州「マザノヴォ」という村では日本軍
「現地守備隊」の掃討作戦に耐えかねたパルチザンが蜂起したが、近隣の村落も巻き込
んで大規模な戦闘が始まり、日本軍は零下42℃という過酷な気象条件のため一時撤兵し
、村は一時赤軍パルチザンにより解放された。しかし「守備隊長マエダ大尉(前田多仲
大尉)の率いる討伐隊が再度来襲し、道すがら手当たりしだい村々を焼き、農民を虐殺
し、蜂起民が逃げ散った「マサノヴォ」を再占領。さらに「ソハチノ」という近隣の村
に到着するや、女子供も含む逃げ遅れた村民全てを銃殺し、村を徹底的に焼き払った。
とされ、この内、日本軍の『出兵史』に「 同地には我が守備隊よりの掠奪品を隠匿し
ありしを以て懲膺の為過激派に関係せし同村の民家を焼夷せり」とあり、掠奪、ゲリラ
作戦への懲膺を理由として村の全民家を焼夷したと記されている。同年2月13日インノ
ケンチェフスカヤ村における掃討作戦では、「同日第12師団第3大隊第8中隊は同村
を早暁襲撃し、パルチザンが逃亡したのち、女子供を含めた無抵抗の村民をパルチザン
のシンパとみなして手当たり次第に百名以上刺殺・銃殺し、他方で将校や下士官は日本
刀による据え者切りなどを行った。その後、物品略奪・食料徴発・家屋放火などの蛮行
を行った。」と報告し、「組織的な虐殺・略奪はパルチザンに対する報復措置であると
同時に、敵愾心にももとづく」とする意見がある。また同年3月22日にはイワノフカ村
「過激派大討伐」を敢行しイワノフカ事件を起こしていた。


936: 名無しさんAA:18/01/07 00:20
 極寒の砂金    17                 1920年代

 同村はもともとボリシェヴィキ派の勢力が強く、反革命派の武装解除要求にも従わな
かった。そこで ロシアの反革命派は日本軍の応援を頼み、この村を強制的に捜索し、
武器の押収、革命分子の逮捕・銃殺を行う事になった。しかしこうした抑圧政策は村民
を憤激させ、逆にボリシェヴィキ派勢力をより多くさせる結果となり、この情勢を察知
した日本軍「討伐部隊」は1919年2月25日に襲撃を再開したが、地形を熟知したパル
チザン部隊によって追い詰められ、田中勝輔少佐率いる歩兵第72連隊第三大隊は同月26
日「最後の一兵に至るまで全員悉く戦死」したとされる。アムール州中部地方第12師
団歩兵第12旅団(師団長大井成元中将)は不名誉な敗北の汚名をそそぐべく「過激派
大討伐」作戦を敢行。しかしパルチザンに対する数度の作戦は全て失敗し損害を拡大さ
せて終わった。そこで同旅団は「村落焼棄」へと作戦を変更。ウラジヴォストーク派の
遣軍政務部が事件後村民に対して行なった聞き取り調査にもとづく報告書の一節には「
本村が日本軍に包囲されたのは三月二十二日午前十時である。其日村民は平和に家業を
仕て居た。初め西北方に銃声が聞へ次で砲弾が村へ落ち始めた。凡そ二時間程の間に約
二百発の砲弾が飛来して五、六軒の農家が焼けた。村民は驚き恐れて四方に逃亡するも
のあり地下室に隠るるもあった。間もなく日本兵と『コサック』兵とが現れ枯草を軒下
に積み石油を注ぎ放火し始めた。女子供は恐れ戦き泣き叫んだ。彼等の或る者は一時気
絶し発狂した。男子は多く殺され或は捕へられ或者等は一列に並べられて一斉射撃の下
に斃れた。絶命せざるもの等は一々銃剣で刺し殺された。最も惨酷なるは十五名の村民
が一棟の物置小屋に押し込められ外から火を放たれて生きながら焼け死んだことである
。殺された者が当村に籍ある者のみで二百十六名、籍の無い者も多数殺された。焼けた
家が百三十戸、穀物農具家財の焼失無数である。此の損害総計七百五十万留(ルーブル
)に達して居る。孤児が約五百名老人のみ生き残って扶養者の無い者が八戸其他現在生
活に窮して居る家族は多数である。」とある。こうして特にその中核である日本軍がバ
イカル湖西岸までにいたるシベリア鉄道沿線を中心とするロシア極東地域を占領して行
った。しかし日本が支持した白軍の主力たるコルチャーク軍が1920年1月、赤軍ならび
にパルチザンの攻勢により瓦解すると、アメリカの圧力等も加わり 日本政府の態度は
動揺を始め、シベリアからの撤退も検討されはじめた。



937: 名無しさんAA:18/01/07 00:21
 極寒の砂金   18
 他方、ソビエト政権は国内行政機構および経済機構の混乱のため、ならびにポーラン
ドとの間に高まりつつある戦争の脅威のため、日本との直接対決を避ける必要があった
。また辺境地帯に対する自治または独立の承認(例えば、ポーランド、バルト三国、フ
ィンランド、ベッサラビア等)は、ボリシェヴィキ政権の政策と実践に硬く根を下ろし
ていたために、ブルジョア民主主義を掲げた緩衝政権の樹立を構想し、クラスノシチョ
ーコフを首班として、社会革命党などの協力を得て成立させるに至っていた。しかし、
コルチャークと戦った指導的な赤軍将校ブリュヘルが共和国軍の最初の司令長官となっ
たことからも明らかなように、実際にはボリシェヴィキの影響力が強く、占領を続ける
日本軍との対決を続けた。その後、1922年10月にウラジオストクの陥落後、日本は、北
サハリンを除く地域から撤退。この共和国は存在意義を喪失し、ソビエト政権へ統合さ
れる事となった。この時日本軍は4つの失敗を犯していた。一つはアメリカと共に進軍
しているにも関わらず全く無計画で無謀な出兵だった事だ。二つ目は未だロシア帝国の
影響のない村が多かったと言う現状が見えて無かった事だ。そうして案内ないし要請を
する住民がボリシェヴィキ派なのか帝国派なのか赤軍派なのかは全く不明であった事だ
。つまりは味方として日本軍に加わった現地兵は村民を皆殺ししなければ自分の命が危
なく、村から戦争を連れて来たと非難される地位にあったのだ。この三つに加え惨殺や
処刑した事で村民を又敵にしてしまった事が更に失敗であった。この失敗の連鎖は南洋
での第二次世界大戦と同じだった。ザバイカル共和国はチタの北側に位置する日本が作
った最初の属国だった。バイカル湖はシベリヤ南部の湖で、モンゴルの首都ウランバー
トルの北1,000kmくらいのところに位置してます。世界で一番深い湖で傍に、バイカル-
アムール鉄道というのがあって、文字通りバイカル湖の北岸からアムール川下流のコム
ソモリスク・ナ・アムーレまでをつないでいるロシアの極東の鉄道がある。1852年12月
、専制政治に対応して暴動を起こした十二月党員デカプリストの一人が、牢獄から逃れ
バイカル湖にたどり着きます。舟でさらに故郷に向かいながら歌ったものです。しかし
、家にやっとの思いでたどり着くと、もう、家族は死んでいた、というストーリーが続
きます。ザバイカルと言う歌が作られたとされる。しかしこの悲劇の前には、農民から
も水兵からも囚人からも慕われたムーヒンやクラシノシチョコフと肝胆相照らす仲のア
レクセーエフスキーなどが、極東共和国より前に自治国体制で、国連や日本が支援さえ
すれば、極東の平和国家として成り立っていたのだ。だが欲深い連合国は中国の様な、
棚からこぼれ出る財宝を虎視眈々と狙ってバルト三国に主力部隊を極東に予備部隊を送
って待ち構えていたのだった。

938: 名無しさんAA:18/01/07 00:21
 極寒の砂金   19                 1920年代

ロシア革命干渉戦争では、日本の他に、米・英・仏・伊・中・カナダの各国がシベリア
・極東地方へ軍隊を派遣しているが、日本以外は1920年初頭にほとんどが撤退した。し
かし、日本だけはその後も大軍の居座りを続けていた。1920年3月、コルチャーク軍を
撃破して極東へ進撃してきた赤軍部隊は、ヴェルフネウヂンスクの占領後、これ以上東
へ向って進むことができなくなった。日本軍が集結していたチタを攻撃すれば、日本軍
と衝突することになり、日本とソヴェト共和国との公然の戦争となることは明らかであ
ったからである。当時、ポーランドと軍事的緊張状態にあったソヴェト政府としては、
極東での混乱を回避したかった。2個師団程度の赤軍で日本軍に対抗することは困難で
あり、日本軍との直接の戦闘がはじまれば、日本はより大量の軍を派遣できることを承
知していた。そこで、ロシア共産党中央委員会とソヴェト政府は、日本軍との直接的な
軍事衝突を避けるため、その緩衝の役割を担う 「緩衝国家」 を設立することを決めた
。これによって、日本軍との間に停戦条件を協定し、中立地帯を定めて、バイカル湖の
西への日本軍の進攻を食い止めようとしたのである。このロシア革命干渉戦争は日本で
はシベリア出兵とされる。ザバイカルはその少し前の清朝末期に起った排外運動である
は、1898年「義和団の乱」 と呼ばれる大乱になった。 1900年(明治33年)に義和団の
乱が起こり北京・天津に波及し、保守排外的な傾向に傾いていた清国政府が倒れる頃の
話である。当時「扶清滅洋(清をたすけ西洋を滅ぼす)」をスローガンとした義和団が
立ち上がった事で清国政府はその後押しをて、列国に対して宣戦を布告した。直ぐさま
、列強8か国(ドイツ・イギリス・フランス・ロシア・アメリカ・イタリア・オースト
リア・日本)は連合軍約2万でこれを鎮圧したのである。こうして清王朝は格段の不条
理な条約が飲まされた。内政反乱である義和団事件と海外列強に押され都落ちする西太
后の北清事変である。この北京の他に満洲では、これを契機に満洲侵略を目論むロシア
軍と清国軍が衝突していたのである。此処ではアムール河(黒龍江) を哈爾浜(ハルビン
) に向って航行中の軍需品を満載したロシア船舶が愛暉の河岸近くで清国兵に銃撃され
たことに対してロシア軍の報復が始まり、1900年7月16日、ロシア領内にいたと
言う3千の清国人を老若男女を問わず虐殺してアムール河に投げ込んだのだ。石光真清
はこのときの惨状を「惨殺死体が筏(いかだ) のように黒竜江(アムール) の濁流に流さ
れれた。」 と大きな悲しみとため息をついて表現している。


939: 名無しさんAA:18/01/07 00:22
 極寒の砂金   20

 その日以降はこの境界では兵が対峙したが惨劇は止まず、「ブラゴヴェヒチェンスク
の大虐殺」、「アムール河の流血」 事件、「黒龍江上の悲劇」 として語り継がれてい
る。その後の露満国境でのロシア軍による清国軍掃討によって、その数2万5千とも言
われる避難民が虐殺された。だが北京紫禁城では既に西太后が追われて、北清事変は終
わり、1901年(明治34年)9月に北京条約の最終議定書が結ばれた。そしてちゃっかり
とロシアはアグイン条約である国境線画定を行ったのである。この義和団事件では事件
の首謀者たる者は捕まらなかった。日本でもシベリアのウラジオストックやハバロスク
や尼港(ニコラエスク)に乾物やら毛皮などの商売で移住して生活している者も数多く
いた。その中で義和団事件以降のロシア人が赤化し反政府主義から共産党ボリシェビキ
の蛮行が始まっていた。しかし中国清朝政府は何ら構う事はなかった。西太后は北京か
ら逃走する途中で義和団を弾圧する上諭を出したが、同時に列強との和議を図るように
李鴻章に指示を出していた。そして次のことばを用いている。「中華の物力を量りて、
與国の歓心を結べ」(「清朝の〔そして西太后の〕地位さえ保証されるなら金に糸目は
つけるな)と。列強との交渉は慶親王奕及び直隷総督兼北洋大臣に返り咲いた李鴻章が
担ったが、敗戦国という立場上列強の言いなりとならざるを得ず、言われるままの条約
締結に至った。この義和団の乱の責任は端郡王載や剛毅ら数人の重臣と地方官僚50人
ほどに帰せられ、処刑もしくは流刑を言い渡された。いずれも宦官の下で働くものであ
り、反乱軍制圧ではなく反乱軍制圧出来なかった罪とも言えた。1901年9月7日に締結さ
れた北京条約は先に結んで破棄に至ろうとした天津条約の数十倍の物で、英国に香港島
仏国に越国割譲が更にロシアにはアグイン条約で清露両国の雑居地であった外満州(現
在の沿海州)を、正式にロシアに譲る事や日本海沿岸と朝鮮半島の権益の放棄があり、
5港開港から更に10港開港と増やされ治外法権の確立や外国船の安全な自由航行権や
人の自由移動権がなされ布教活動も港湾都市以外に自由布教が認められた。賠償金も又
巨大になり4千万両から4億5千万両、利息を含めると9億8千万両にも上った。この
過酷な賠償金は交渉に向かった公使の使節11人がそのまま拉致され拷問の上殺された
遺恨があった為だった。他にも義和団に惨殺させられた人の慰霊金も含んでいた。更に
占領直後から連合軍による略奪が開始され、紫禁城の秘宝などはこれがきっかけで中国
外に多く流出するようになり、連合軍の暴挙によって王侯貴族の邸宅3年かけた頤和園
などの文化遺産が掠奪・放火・破壊の対象となって、奪った宝物を換金するための泥棒
市が立つほどであった。と言われる

940: 名無しさんAA:18/01/07 00:25
 極寒の砂金   21

 此処で人々が考えるべきは、この清王朝の金庫が銀の山がアロー号事件以来、英国に
持ち去れている事だ。1860年、連合軍は北京を占領し、10・11月にロシア公使ニコライ
・イグナチェフの調停の下に、英仏遠征軍司令官と恭親王との間に北京条約が締結され
た。この条約により清は、天津の開港、イギリスに対し九竜半島の割譲、中国人の海外
への渡航許可などを認めさせられた。1856年の夏には、日米和親条約の規定に基づき、
アメリカ合衆国の領事であるタウンゼント・ハリスが、伊豆の下田に着任した。ハリス
は、日米修好通商条約の締結に当たって、アロー戦争とインド大反乱を引き合いにしつ
つ、イギリスが日本に出兵する可能性をほのめかして、江戸幕府に圧力をかけ続けた。
又その後のロシアとのアイグン条約以後の2年間で、清露両国の雑居地であった外満州
(現在の沿海州)を、正式にロシアに譲る事になった。特にロシアは沿海地方に軍港の
ウラジオストックを建設してロシア太平洋艦隊を常駐させ、シベリア鉄道建設を行い、
大規模な兵の陸送を迅速化させようと計画し実行していた。この事は後の日露戦争の原
因ともなった。その後もロシア革命時のシベリア出兵(1919年)では極東共和国の成立
もあった。極東共和国は1920年3月の革命前夜に、赤軍の征東を止めたコルチャー
ク将軍が作ったロシア白衛軍の自治国であったが当時、この辺の開発にロシア皇帝は、
清国政府の開発に危機感を抱き、スラブのユダヤ民族を送って極寒の地の開発を行って
いた。革命政府の赤軍は撃破して極東へ進撃してきたが、ヴェルフネウヂンスクの占領
後、これ以上東へ向って進むことができなくなった。当時、ザバイカル州以東に数万の
強力な日本軍が散在して駐留しており、日本軍部隊が集結していたチタを攻撃すれば、
日本軍と衝突することになり、日本とソヴェト共和国との公然の戦争となることは明ら
かであったからである。極東共和国は、1920年4月6日にヴェルフネウヂンスクで、そ
の成立が宣言された。7月27日に極東共和国の臨時政府は、「極東共和国の国体である
新しい共和制に、外見上相応しい紙幣を以って、共和国内に流通している各種様式紙幣
と交代するため」、新しい様式の紙幣として、極東共和国信用券を額面1、3、5、10
、500、1,000ルーブルで発行し、コルチャーク政権下で発行された 「シベリア紙幣」
などの旧来の紙幣の流通を停止して、それらの旧紙幣200ルーブル当1ルーブルの引換を
相場で無条件に引き換えた。これらの新しい様式の紙幣は、流通地域が日本軍との緩衝
地帯となっていたため、一般には 「緩衝紙幣」 と呼ばれた。 こうした流れである。

941: 名無しさんAA:18/01/07 01:58
 極寒の砂金   22

露清銀行(ろしんぎんこう、中国語: 華俄銀行)は、ロシア帝国の中国(清王朝)にお
ける権益を代表するために設立されたフランスの銀行銀行だった。1894年に露仏同盟が
締結された上、下関条約の賠償金を払うために清国が借款を募集した際に、それを露仏
銀行団が引受けた。これらを契機として設立された露清銀行は、目的を露清間商取引の
決済やシベリア鉄道の完工などとした。創業資本金は六百万ルーブルである。そのうち
5/8 がオタンゲルなどのオートバンクとベルギーのソシエテ・ジェネラルによる出資で
、3/8 がディスコント・ゲゼルシャフトからロシア系銀行家を通して払い込まれたもの
であった。パリバとクレディ・リヨネもフランス側出資団に参加した。上述の出資割合
にかかわらず、露清銀行は定款で業務において相当部分にロシア蔵相の認可を必要とし
た。1896年9月8日、許 景澄と サンクトペテルブルクで東清鉄道の敷設に関する協約を
結んだが、この鉄道会社に露清銀行が資本金五百万ルーブルを全額出資し、鉄道の建設
を取り仕切ることが決められた。一方清国では鉄道経営に参加するため五百万の庫平銀
を露清銀行に出資して、年末に全額を払い込み何とか清が参加した。だが後で資本金は
九百万ルーブルとして主権をロシアは保持し、準備金二十八万ルーブル、総資産三千八
百八十二万ルーブルに伸ばし、支店は国内外に18ヶ所を展開した。露清銀行は1898年
の京広線契約と敷設借款に関するベルギー資本や債権を預かり、清国の金融取引を担い
ベルギーの関係したため、2年後クレディファイナンスからフランス人取締役が任命さ
れた。こうして1898年6月、1万2000株の増資を決定、さらにそれをロシア帝国国立銀行
が全て引受けて1900年6月 においてロシア勢は4割、フランス勢は2割の株式を保有す
る。この時フランス勢からソシエテ・ジェネラルとクレディ・リヨネは脱落している。
代わりに李鴻章やホープ商会が加わり、ディスコント・ゲゼルシャフトなどのドイツ個
人銀行が名簿に出てきている。ホープ商会は南海泡沫事件を生き残ったオランダ企業で
当時南海銀行が奴隷貿易や富くじなどで勢力を伸ばしイングランド債を時価総額で株式
交換すると言う荒業をやった。時価が高い為投資家は額面で買い付けそのまま株式を額
面買い取りした。つまり20円の時価なら10円の額面英国債を買えば株に交換し10
円の原価と10円の額面株価が残ったのだ。ところが3年後南海銀行はつぶれて銀行の
連鎖破綻が起こった。バブルだった。リスキーな国内事情の中でホープ商会だけ残った


942: 名無しさんAA:18/01/07 01:59
。露清銀行は、ロシア勢のイニシャティブで同じパリバの由来のインドシナ銀行とは、
中国市場を分割しあうような競争を展開した。インドシナ銀行は植民地用の事業投資の
銀行だったが事業シンジケートが存在し始めてその競争から競う事になったのである。
その後、露清銀行は、勧業銀行の協力で長崎に続いて横浜と神戸に支店を開いた。資本
は長崎5万円に対し横浜・神戸がそれぞれ20万円であった。1904年2月上旬 日露戦争
の開戦で日本の全支店を閉鎖した。翌年12月に横浜支店再開。1920年に神戸支店再開。
長崎はついに再開せず。長崎ではホーム・リンガー商会へ代理店を委嘱して退去した。
江戸が開かれた当時は、一匁で人は暮らしていた時代だ。一銭銅貨で家が建つと言われ
る程物価は安かった。だが国外の金銀の交換レートは1ドル=1円=1ルーブルである
。如何に安い日本の金銀が高く海外で売られていたかが解る。更に金換算量で更に0.
5=1.5=0.85程度であった如何にドルやポンドの信用があったかが解る。南の
方でのインドシナ銀行と近代の中国分割を競った北の露清銀行は、創設時にパリ割引銀
行の上海支店を吸収したが、用に足りず外灘29号のインドシナ銀行ビルでも経営を行
っていた。1898年インドシナ銀行と営業圏住み分けを協定し、翌1899年に15号地を購入
、1902年までに中華人民共和国上海市外灘地区に位置するイオニア式建築物を建てた。
上海では番地で呼ばれることも多く外灘15号とも称される。広さは5018m2。で新古典
主義建築的な構造をしている。三階建て。イオニア式の円柱で装飾されて立派である。
その後1926年に露清銀行は世界不況に勝てず、1910年8月 北方銀行と合併し露亜銀行と
して倒産した。ロシア革命により支店が整理統合された折は、1917年12月の法令で露亜
銀行は2ヶ月ほどかけて国立銀行に編入された。ペテルブルク国際銀行も同様である。
露亜銀行資本金の3/4を保有するフランス資本は 死に物狂いであった。義和団事件の債
権の賠償金がボリシェビキに渡らぬよう中華民国に弁済を要請した。他に中国関税収入
協定の香港上海銀行の1/3の権益、1916年 に契約した東清鉄道敷設経営借款引き受けの
確保などだが、シベリア出兵と並行して銀行経営が分裂し、結果としてパリ支店が本店
に格上げされて終わった。又1924年9月22日、張作霖 が勝手にソ連と協定した事で、露
亜銀行が決めていた東清鉄道の経営陣がソ連政府の派遣したメンバーにそっくり変わっ
た。これをきっかけに満州支店では取り付け騒ぎとなり、年明けに資金は枯渇しのだっ
た。これによりもはや銀行業務や利益をフランス資本に取り戻すことは困難となって、
フランス人役員はロシア人に席を譲る事になった。


943: 名無しさんAA:18/01/07 02:36
 極寒の砂金   23                    1907年から

 オリエンタル・バンク張りの経営拡大を見せた露清銀行だったが、1903年に極東支店
の放漫経営が視察により明らかとなった。日露戦争中も1割近い配当を出すほど利益を
あげた。1907年恐慌で経営危機に陥いり経営危機を自力で切り抜けることが不可能にな
る。こうして露清銀行は、他行と合併での打開を考えた。まず、シベリア商業銀行との
合併が検討されたが、最終的に実現しなかった。1909年のシベリア商業銀行頭取は同行
創設者の息子であり、過去には露清銀行で会計係を務めていた。露清銀行はコネクショ
ンを頼ってシベリア商業銀行を模索した。1872年6月 に資本金を二百四十万ルーブルで
エカチェリンブルクに設立されたロシアの貴族用投資銀行だった。こうして増資を繰り
かえして1909年1月 には1千万ルーブルとなった。新株のプレミアムが充当され積立金
は五百万ルーブルになり、さらに特別積立金が百三十万ルーブルあった。主要株主は、
ドイツ銀行であり、議決権はドイツのユダヤ資本が握っていた。だが1909年10月にシベ
リア商業銀行との合併案は決裂に終わった。翌月から北方銀行との合併が検討されるよ
うになった。北方商業銀行におけるコネクションは、設立時に 経営委員会はロシア人
が占めるものの、役員会はソシエテ・ジェネラルの支配下にあったからだ。北方銀行も
ソシエテ・ジェネラルのロシア子会社であった。1901年9月18日 に資本金五百万ルーブ
ルでサンクトペテルブルクに設立されて、パリバとパリ連合銀行の協力も得て1906年に
資本金を倍増させた。同年から露ウェスティングハウスによるサンクトペテルブルクの
市電の敷設をファイナンスし利益を得た。そして1909年までに49もの支店を次の地域
に展開し、サンクトペテルブルク周辺の他、南から順にウズベキスタン、アゼルバイジ
ャン、ジョージア、モルドバ、ウクライナ、ベラルーシ、リトアニア、ラトビア。その
後の中央アジアに事業を展開していた。1910年8月 北方銀行と合併し露亜銀行となり、
役員を露仏でほぼ半数ずつ分け合った。しかし重要ポストは、やはりフランス勢が占め
ていた。そして、ロシア軍事産業の基幹部を次々と支配下におき、顧客にバクー油田の
石油会社やシベリアの金鉱山会社などをもつ様になった。こうして裾野が広い営業を展
開し、1911年にレンスキー金鉱山会社の株式を購入し、もともと、経営に参加していた
ギンツブルク商会とシンジケートを組んで株式分割し、後に露亜銀行はペテルブルク国
際銀行と共にレンスキーの経営を掌握した。英国と米国の独立戦争には、フランス銀行
が大きく関わってアラスカの売買交渉をまとめた。



944: 名無しさんAA:18/01/07 02:39
 極寒の砂金   24                 1917年代

 やがてロシア革命により支店が整理統合された。1917年12月に出された法令で露亜銀
行は2ヶ月ほどかけて国立銀行に編入された。ペテルブルク国際銀行も同様であった。
露亜銀行資本金の3/4を保有するフランス資本は死に物狂いになった。まず 義和団事件
の賠償金がボリシェビキに渡らぬよう中華民国に弁済を要請した。他には次を例とする
権益を守らなくてはならなかった。中国の関税収入を協定により香港上海銀行と露亜1
対香上2で分け合うもの、そして1916年に契約した ハルビン-ブラゴヴェシチェンスク
間鉄道の敷設経営借款引き受けといったものである。シベリア出兵と並行して銀行経営
が分裂し、結果としてパリ支店が本店に格上げされた。1924年9月22日、張作霖 がソ連
との協定を勝手に進めたので、露亜銀行が決めていた東清鉄道の経営陣が ソ連政府の
派遣したメンバーにそっくり入れ替わる事件が起きた。これをきっかけに満州支店で取
り付け騒ぎとなり、年明けに資金は枯渇した。これによりもはや銀行をフランス資本に
取り戻すことは困難となり、フランス人役員はロシア人に席を譲るようになった。1926
年9月26日 パリの外為市場で五百万ポンドの損失を出して、2日後には露亜銀行は清算
される事になった。1917年、ロシア帝国で革命が起こり、内戦が始まった。アレク
サンドル・コルチャーク提督は、ボリシェヴィキと戦ったグループの一つを率いていた
。その為白衛軍を指導出来ていた。1918年、コルチャーク提督はロシアの最高執政
官となり、そして国の金準備の大部分がコルチャーク提督の手にわたったといわれる。
第一次世界大戦前では、ロシアは金準備高で世界第3位だったのだ。だが、まもなくし
てコルチャーク提督は逮捕され、銃殺された。しかしコルチャーク提督の持っていた金
準備金塊は、約2億3600万ルーブル分が不足していた。これらがどこへ消えてしま
ったのか、研究者たちは謎として調査している。古文書によると、金の一部を軍事に費
やした。とも言われるが一部は盗まれた、またコルチャーク提督が隠したなど、黄金に
まつわる伝説はたくさん存在する。さらには、黄金はバイカル湖の底に眠っている、あ
るいはシベリアの町チュメニあるいはスルグトに隠されているとも言われているほかに
、シベリアの小さな町タイガ近郊に隠されたという伝説もある。こうしてフランスから
出てベルギーからフィンランドなどのバルト三国の資本家に下ったのは、ロシア皇帝の
貯めていた財宝を安全な国の下に秘密裡に確保したいと言う問い合わせだった。と言わ
れる。

945: 名無しさんAA:18/01/07 03:07
 極寒の砂金   25                    初めに

 今やロシアでは、ロマノフの財宝以外にも平均して約2年に1回は「とある秘宝が見
つかった!」というニュースが飛び込んでくるそうだ。最近では、今年3月に、サンク
トペテルブルクの 大貴族ナルイシキン家の元邸宅で、銀器など数千点が見つかった。
と言うのが記憶に新しい。ロシアで今も捜索されている未発見の秘宝ご紹介しようとも
思うのだが、この極寒の地が広大な国土を持ち、そして戦乱に陥り、政変や革命などが
打ち続いた激動の歴史を持っている。と知る日本人は少ない。こうした時、人々はしば
しば金や財宝を地中に埋めたのだ。ロシア革命後に亡命したと言う「ナルイシキン家」
の秘宝がいい例だろう。銀行制度の発達が西欧より遅れて、更にこうした交通の便すら
気候に左右された不便な生活環境では、体制への疑心暗鬼とタンス預金した自らの財宝
の管理の傾向は助長された中にあった。恐らく、実際には、この手の秘宝はもっと頻繁
に見つかっているのであろう。と思われる。発見者が口をつぐんでいると考えられるか
らだ。これには、国家と体制更に発見者との法的分配方法が関係している。ロシアの中
の法律では、財宝が見つかった場合、土地所有者と発見者が半分ずつ折半する。もし、
それが文化財、歴史的遺産としての価値をもつ場合には、半分が国家の所有となり、残
り半分を地主と発見者が分け合うことになる。ところが、この財宝の評価額の定め方に
は問題があり、発見者はふつう、実際の価値のごく一部しかもらえない。更に巨大な秘
宝や財宝が見つかったとしても 公けにする前に地方では噂され噂の中心人物が秘密理
に暗殺される場合も多い。共産主義の国家では報道関係者ですらもある種の事件の取材
は知らぬ間に身の危険が迫っている事が多々ある。つまらない些細な雑事の事件で大ぴ
らに、駐車していた車が勝手に盗まれようとして爆破した事さえ多い。だが、とまれ、
宝を隠す人々、探し続ける人々は絶えない。目当ては金だけではない。歴史のロマンが
宝探したちを引き付ける。彼らはいつの日か、数十年にわたって捜索されてきた秘宝を
掘り当てることを夢見ているのだ。だがここいらで、少しこのロシアに於ける歴史的な
事情を知る事も大事な一面でもあろうと 此処に少しこうした財宝事件の裏の国家事情
の背景を見てみようと思う。

946: 名無しさんAA:18/01/09 23:37
 極寒の砂金   26

ロマノフ王朝は、1613年から1917年までロシアに君臨したロシアの歴史上最後の王朝で
あった。1613年にロマノフ家のミハイル・ロマノフがロシア・ツァーリ国のツァーリに
即位して成立した公国だった。ツァーリはロシアタタール族の言葉で皇帝を意味し、こ
の地のロシア正教の守護者として当初雷帝がこのロシア皇帝と名乗ったとされている。
。その後1721年にピョートル1世がインペラトール(全ロシアの守護主)を名乗り
体制をロシア帝国に改め西欧化を推進し、1917年にロシア革命で滅亡した。政体として
はロシア王国とロシア帝国に分かれ、首都はモスクワからサンクトペテルブルク(ペト
ログラード)に遷っている。また王家はロマノフ家からドイツ貴族のホルシュタイン=
ゴットルプ家に男系が移っており、ピョートル3世以降はホルシュタイン=ゴットルプ
=ロマノフ王朝と呼ぶのが正しいとされる。このように歴史学上では区分されているが
、1913年に「ロマノフ王朝三百年祭」が挙行されるなど、ミハイル・ロマノフからニコ
ライ2世まで連綿と続いた王朝であるという認識を当時の人々は持っていた(ハプスブ
ルク家とハプスブルク・ロートリンゲン家、ハノーバー朝とウィンザー朝)。現在でも
単に「ロマノフ朝」といえば「ミハイル・ロマノフからニコライ2世まで連綿と続いた
ロシアの王朝」と指すのが一般的である。
1613年 ミハイル・ロマノフがリューリク家のイヴァン4世の後継者として皇帝(ツァ
    ーリ)となる。皇位継承問題でスウェーデン王やポーランド王が皇位継承を
    主張したが、ロシア人による継承が決定し、ロマノフ朝が開始された。
1652年 モスクワ総主教ニーコンにより、ロシア正教会の奉神礼を同時代のギリシャ系
    正教会に合わせる改革が始められる。この改革以降、反発した保守派が古儀式
    派を形成していく。
1654年 ポーランド領に侵攻。ポーランドでは、「大洪水時代」と呼ばれ、北東欧州
    では、北方戦争の時代に入る。
1682年 ピョートル1世即位、ただしイヴァン5世と共同統治。
1689年 ピョートル1世、イヴァン5世を廃し単独即位。
1697年 カムチャツカ半島を領有。シベリア遠征の終了。
1700年 大北方戦争( − 1721年)。
1712年 ピョートル1世、帝都をモスクワからサンクトペテルブルクに遷都する。


947: 名無しさんAA:18/01/09 23:38
 極寒の砂金   27

1721年 大北方戦争に勝利したピョートル1世、元老院から戴冠され、大帝となる。
1721年 ピョートル1世により、モスクワ総主教庁が廃止される。代わって俗人の統括
    する聖務会院が置かれロシア正教会を統括。ツァーリによる教会統制の完成。
1755年 エリザヴェータ女帝、モスクワにモスクワ大学を建てる。
1762年 エカチェリーナ2世即位。啓蒙主義をとる。
1772年 ポーランド分割開始( − 1795年)。
1780年 エカチェリーナ2世による武装中立同盟。アメリカ独立革命。
1801年 アレクサンドル1世即位。
1811年 アレクサンドル1世がナポレオン1世の大陸封鎖令を拒否。翌年ロシア遠征。
1815年 ナポレオン戦争に勝利。ウィーン体制。
1825年 デカブリストの乱。
1853年 クリミア戦争( − 1856年)。
1861年 アレクサンドル2世が農奴解放令発布。
1878年 露土戦争でオスマン帝国に勝利。バルカン半島の覇権を握る。
1881年 アレクサンドル2世暗殺。
1891年 ニコライ皇太子(後のニコライ2世)、日本で襲われる(大津事件)。
1905年 1905年革命、血の日曜日事件起きる。
1914年 第一次世界大戦勃発。連合国側に参戦。
1917年 ロシア革命勃発。ニコライ2世退位。ロマノフ朝滅亡。
1918年 革命軍により逮捕。皇帝一家銃殺され帝室断絶。
2008年 ロシア連邦最高裁判所、ロマノフ家の名誉回復を認める
1600年代にロシアのロマノフ朝の繁栄を出現させた皇帝のピョートル大帝以降に。
ロシアの専制君主政治であるツァーリズムの体制を完成させ、ロシアの大国化路線は、
18世紀後半のエカチェリーナ2世に継承されていた。

                         <ロシア皇帝 物語 03>


948: 名無しさんAA:18/01/09 23:38
 極寒の砂金   28

 この中でアレクサンドル2世( ロシア語:アレクサンドル・ニコラエヴィチ・ロマノ
フ)は、ロマノフ朝第12代ロシア皇帝は、ニコライ1世の第一皇子であった。母方が
はプロイセン王女のアレクサンドラ・フョードロヴナ皇后だったので、プロセイン皇帝
との縁戚となっている事が解る。戴冠式で家族から祝福を受けアレクサンドル皇帝2世
となったが、幼い頃から未来の皇帝の地位を約束されていたアレクサンドルは、有能な
為政者になるべく帝王教育を受けて来ていた。帝国を統べる為に 必要なドイツ語・フ
ランス語・英語・ポーランド語をマスターし、実際に政府機関に勤務して軍事・外交・
財政などの政治的教養を身に付けていった。1855年、クリミア戦争が起こった時、
セヴァストポリ要塞の激戦を迎えている最中にニコライ1世が崩御した。この為、皇帝
の座についたが、戦局は悪化の一途をたどり、翌1856年3月にロシアは敗北を認め
、パリ条約を結ぶに至った。このクリミア戦争の敗北は、ロシア国内の支配階級に、大
きな危機感を抱かせ、帝国の弱体化の責任が漫然と抱く「既存の国家体制の立ち遅れ」
に求められた。欧州の様な、資本主義化・工業化のような経済発展、自由主義的な社会
改革こそがロシアを救うと考えられ始めた。農奴制について述べた「下から起こるより
は、上から起こった方がはるかによい」という言葉が示すとおり、アレクサンドル2世
自身はこうした国家の西欧化改革を慎重に採用していく事で、伝統的な専制政治を延命
させることが出来るという思想を以って緩やかな改革に臨んだ。このため自由主義者と
は改革に対するヴィジョンには、最初から齟齬や軋轢があった。しかし改革にその時間
は無かった。皇帝はロシアの孤立状態を危ぶみ、外相アレクサンドル・ゴルチャコフの
協力で対ヨーロッパ国際協調路線を模索したが、フランスへの接近は失敗に終わって、
イギリスやオーストリアとは強い敵対関係から脱却することはなかった。結果として、
プロイセンとの友好のみが考えられ、1873年、バルカン半島をめぐってライバル関係に
あるオーストリアを含めた三帝同盟が結ばれる事になった。この孤立した外交にロシア
はその後も憂鬱が続いた。クリミア戦争以後にロシア政府は、バルカン南下政策に慎重
になっていた。しかし、スラヴ主義者のキャンペーン活動に後押しされる形で、1877年
にブルガリア保護の名目でオスマン帝国に宣戦し、露土戦争では、9ヶ月もの戦いの後
にアドリアノープルを陥落させて、やっと敵側から降伏を引き出した。こうして1878年
2月のサン・ステファノ条約では、ロシアの衛星国とすべく、ブルガリア公国の形成と
自治権をオスマン側に大きく認めさせた。

949: 名無しさんAA:18/01/09 23:39
 極寒の砂金   29                1855年

しかしながら列強はこれに猛反発していて、同年7月に開催されたベルリン会議では、
こぞってロシア影響力を殺ぐ方向で条約内容が大幅に修正された。このベルリン条約に
は国内の不満を高めるものだったし、日本での日露戦争の様に多数の死傷者を出しなが
ら全くの権益上の優遇が無かったのだ。ロシア側はブルガリア公の即位に、皇后の甥の
親露派のアレクサンダーを推すことは成功したものの、この事でベルリン会議を主催し
たプロイセンとの同盟関係に疑念を呈する声がスラヴ主義者の間で上がることになった
。産業革命は本来はイギリスの機械化であったが、カフカース地方に資本の手が及び、
大国ロシアにコーカサス戦争(1817年−1864年)をもたらした。ロシアの支配下に入っ
ていたカフカース地方では、バクーの油田における利権がヨーロッパ諸国の企業家の中
で注目の的になり、スウェーデン出身のノーベル家がこの地の開発を引き受けて、巨万
の富を築いていたからだ。この事から、アレクサンドルの治世には、中央アジアへの本
格的な進出や開発も始まった。トルキスタン地方ではブハラ・ハン国(1868年)、ヒヴ
ァ・ハン国(1873年)を次々に保護下におき、1876年にコーカンド・ハン国を滅ぼすと
、この地域でもロシア化政策と経済開発が推し進められた。この地域は綿花栽培および
綿工業の中心地となり、モノカルチャー化が進んでいった。東欧のクリミア戦争の敗北
でバルカンへの進出に失敗したロシアは、東アジア進出により積極的な帝国拡大の可能
性を見出して行った。アロー戦争によって忙殺されていた清国と、1858年アイグン条約
および天津条約、1860年の北京条約を次々に結び、沿海州(現在の沿海地方)を獲得し
て不凍港ウラジオストクを建設出来る事になった。こうして帝国東部地域の開発が進む
なかでは、多くの解放農民がシベリアへと移住した。また、極東における領土の整理も
行われた。1867年には、開発の困難なアラスカ(現在のアラスカ州)をアメリカに売却
する事を決め 720万ドルで譲渡した。1875年の日本特命全権大使・榎本武揚との交渉で
樺太・千島交換条約を結び、日露間の国境を確認した。日本との関係で言うと日本政府
とペルー政府との間におこったマリア・ルス号事件では、1873年から1875年にかけて開
かれた国際仲裁裁判の裁判長となり、日本に有利な判決を出したといわれている。この
皇帝アレクサンドル・ニコライ2世が日本にやって来た時、大津事件で息子の皇太子が
切りつけられる事件が起こっている


950: 名無しさんAA:18/01/09 23:40
 極寒の砂金   30                   1865年

 この皇帝アレクサンドル・ニコライ2世には妾がいた。つまりもう一つの家庭である
、「カーチャ」ことエカチェリーナ・ドルゴルーカヤ公爵令嬢と二人の子供ゲオルギー
と、オリガを養っていたのである。1841年、ヘッセン大公ルートヴィヒ2世の末娘
マリーと恋愛結婚した。マリーはその母親ヴィルヘルミーネの不義の子だったのだが、
アレクサンドルはそれを承知の上で妻に迎えた。最初に会ったのは父の領地を訪れた時
で、この時に彼はまだ12歳の少女を心に留めることはなかった。1864年の秋に、
アレクサンドル2世はスモーリヌィ女学院を公式訪問した。16歳になったエカチェリ
ーナと再会して一目惚れをした。「中背で洗練された容姿をしており、柔らかな白皙の
肌、怯えたガゼルのような眼、官能的な口元、明るめの栗色をした豊かな髪の持ち主」
だったエカチェリーナを散歩や乗馬に連れ出した。エカチェリーナは学校での生活の中
で自由主義的思想を持ち、度々アレクサンドル2世と議論を交わすぐらいだった。その
後、アレクサンドル2世はエカチェリーナを結核に悩む皇后マリア・アレクサンドロヴ
ナ付きの女官に任命した。アレクサンドル2世が1865年に後継ぎの長男ニコライ・
アレクサンドロヴィチ大公を亡くし、また暗殺未遂にも遭遇して、すっかり気落ちして
いた。皇帝の嘆き悲しむ姿に心を動かされたエカチェリーナは、1866年7月にアレクサンドル2世の愛人になった。母ヴェラはその2カ月前に死去したが、彼女はその日の最後
の日記に「皇帝はエカチェリーナに言いました。『あなたは秘密の妻です。私がもし自
由になったなら、必ずあなたと結婚するでしょう』」と記している。エカチェリーナは
1872年に長男ゲオルギーを出産したのを皮切りに、皇帝との間に4人の子供をもうけた
。二人の関係は、皇后マリアが病気を理由に医師からアレクサンドル2世との性行為を
控えるように忠告されてから始まったという。マリーはカトリックだったがロシア正宗
改宗してマリア・アレクサンドロヴナと名乗った。しかし結婚後、アレクサンドルの妻
への愛情は急速に冷め、間に8人の子供を儲けつつも、今度は他の貴族女性との性的関
係を繰り返し、3人の私生児を作った。また、1865年の皇太子ニコライの急死は皇帝を
ひどい鬱状態に陥らせ、妻や家族など周囲との溝をさらに深める原因となった。

951: 名無しさんAA:18/01/09 23:41
 極寒の砂金   31                   1881年

 1866年、48歳になったのアレクサンドル2世は、没落貴族の娘でスモーリヌイ女学
院の女学生だったエカチェリーナ・ドルゴルーカヤ公爵令嬢(愛称・カーチャ)と出会
い4人の子供が生まれて幸福な「家庭」生活を築いていた。アレクサンドル2世はエカ
チェリーナと子供たちを傍におくことを主張してはばからなかった。彼は週に3度ない
し4度はエカチェリーナと会い、その時はエカチェリーナが警護官に先導されて冬宮殿
の皇帝の居室にやってきていた。それ以外の日は毎日手紙を書き、互いの愛情について
語り合った。二人の関係は公然の秘密だったが、互いに本名で手紙を書くことはなく、
2007年には二人の手紙は競売にかけられている。だが当然ながらこの関係は明るみに出
て、皇太子アレクサンドルを始めとする多くの人々の非難を受けた。皇帝は既に、常に
暗殺の脅威と隣り合わせの暮らしをしていた。1880年、冬宮殿の近くで爆発が起きて、
正餐室が揺れたとき、アレクサンドル2世は「カーチャ!愛するカーチャ!」と叫びなが
ら階段を駆け上がってエカチェリーナの部屋へ走った。エカチェリーナは無事であった
が、一方で正室マリアは朦朧として爆発にも気づけない状態だった。居合わせたマリア
の兄アレクサンダー・フォン・は、妻のことを気に掛けない皇帝の振る舞いを見て激怒
した1880年5月に皇后マリアが没するが、皇帝は教会法や家族の反対を無視し、カーチ
ャと再婚を強く進めるに至った。この貴賤結婚は、当然ながらロマノフ家の人々の容認
するところとならず、爆発のちょうど1年後の1881年3月1日、エカチェリーナは胸騒ぎ
がしてアレクサンドル2世に出かけないよう懇願したが、彼は妻を宥めて外出した。1
時間もしないうちに、重体になったアレクサンドル2世が宮殿に運び込まれたが、彼の
もとに駆け付けたエカチェリーナの前には、すでに息絶えた皇帝の遺体だった。遺体に
取りすがり「サーシャ!サーシャ!」と叫びながら号泣したが、葬儀で、エカチェリーナ
と子供たちは教会の入り口に立たされ、皇族の席を与えられなかった。また、エカチェ
リーナ母子は皇族による皇帝追悼の聖体礼儀に出ることも禁じられた。皇帝の死後には
、カーチャとその子供たちは340万ルーブルの年金を与えられ、ニースに追い払われ
た。エカチェリーナはパリとリヴィエラに住み、この地の社交界で洗練された女主人と
して有名になり、20人の使用人と私用の鉄道馬車を抱える暮らしを送ったものの、自
身で財産を管理せねばならず、子供たちには贅沢をさせられなかった。


952: 名無しさんAA:18/01/09 23:42
 極寒の砂金   30                   1865年

 この皇帝アレクサンドル・ニコライ2世には妾がいた。つまりもう一つの家庭である
、「カーチャ」ことエカチェリーナ・ドルゴルーカヤ公爵令嬢と二人の子供ゲオルギー
と、オリガを養っていたのである。1841年、ヘッセン大公ルートヴィヒ2世の末娘
マリーと恋愛結婚した。マリーはその母親ヴィルヘルミーネの不義の子だったのだが、
アレクサンドルはそれを承知の上で妻に迎えた。最初に会ったのは父の領地を訪れた時
で、この時に彼はまだ12歳の少女を心に留めることはなかった。1864年の秋に、
アレクサンドル2世はスモーリヌィ女学院を公式訪問した。16歳になったエカチェリ
ーナと再会して一目惚れをした。「中背で洗練された容姿をしており、柔らかな白皙の
肌、怯えたガゼルのような眼、官能的な口元、明るめの栗色をした豊かな髪の持ち主」
だったエカチェリーナを散歩や乗馬に連れ出した。エカチェリーナは学校での生活の中
で自由主義的思想を持ち、度々アレクサンドル2世と議論を交わすぐらいだった。その
後、アレクサンドル2世はエカチェリーナを結核に悩む皇后マリア・アレクサンドロヴ
ナ付きの女官に任命した。アレクサンドル2世が1865年に後継ぎの長男ニコライ・
アレクサンドロヴィチ大公を亡くし、また暗殺未遂にも遭遇して、すっかり気落ちして
いた。皇帝の嘆き悲しむ姿に心を動かされたエカチェリーナは、1866年にアレクサンド
ル2世の愛人になった。母ヴェラはその2ヶ月前に死去したが、彼女はその日の最後の
日記には「皇帝はエカチェリーナに言いました。『あなたは秘密の妻です。私がもし自
由になったなら、必ずあなたと結婚するでしょう』」と記している。エカチェリーナは
1872年に長男ゲオルギーを出産したのを皮切りに、皇帝との間に4人の子供をもうけた
。二人の関係は、皇后マリアが病気を理由に医師からアレクサンドル2世との性行為を
控えるように忠告されてから始まったという。マリーはカトリックだったがロシア正宗
改宗してマリア・アレクサンドロヴナと名乗った。しかし結婚後、アレクサンドルの妻
への愛情は急速に冷め、間に8人の子供を儲けつつも、今度は他の貴族女性との性的関
係を繰り返し、3人の私生児を作った。また、1865年の皇太子ニコライの急死は皇帝を
ひどい鬱状態に陥らせ、妻や家族など周囲との溝をさらに深める原因となった。


953: 名無しさんAA:18/01/09 23:43
 極寒の砂金   31                   1881年

 1866年、48歳になったのアレクサンドル2世は、没落貴族の娘でスモーリヌイ女学
院の女学生だったエカチェリーナ・ドルゴルーカヤ公爵令嬢(愛称・カーチャ)と出会
い4人の子供が生まれて幸福な「家庭」生活を築いていた。アレクサンドル2世はエカ
チェリーナと子供たちを傍におくことを主張してはばからなかった。彼は週に3度ない
し4度はエカチェリーナと会い、その時はエカチェリーナが警護官に先導されて冬宮殿
の皇帝の居室にやってきていた。それ以外の日は毎日手紙を書き、互いの愛情について
語り合った。二人の関係は公然の秘密だったが、互いに本名で手紙を書くことはなく、
2007年には二人の手紙は競売にかけられている。だが当然ながらこの関係は明るみに出
て、皇太子アレクサンドルを始めとする多くの人々の非難を受けた。皇帝は既に、常に
暗殺の脅威と隣り合わせの暮らしをしていた。1880年、冬宮殿の近くで爆発が起きて、
正餐室が揺れたとき、アレクサンドル2世は「カーチャ!愛するカーチャ!」と叫びなが
ら階段を駆け上がってエカチェリーナの部屋へ走った。エカチェリーナは無事であった
が、一方で正室マリアは朦朧として爆発にも気づけない状態だった。居合わせたマリア
の兄アレクサンダー・フォン・は、妻のことを気に掛けない皇帝の振る舞いを見て激怒
した1880年5月に皇后マリアが没するが、皇帝は教会法や家族の反対を無視し、カーチ
ャと再婚を強く進めるに至った。この貴賤結婚は、当然ながらロマノフ家の人々の容認
するところとならず、爆発のちょうど1年後の1881年3月1日、エカチェリーナは胸騒ぎ
がしてアレクサンドル2世に出かけないよう懇願したが、彼は妻を宥めて外出した。1
時間もしないうちに、重体になったアレクサンドル2世が宮殿に運び込まれたが、彼の
もとに駆け付けたエカチェリーナの前には、すでに息絶えた皇帝の遺体だった。遺体に
取りすがり「サーシャ!サーシャ!」と叫びながら号泣したが、葬儀で、エカチェリーナ
と子供たちは教会の入り口に立たされ、皇族の席を与えられなかった。また、エカチェ
リーナ母子は皇族による皇帝追悼の聖体礼儀に出ることも禁じられた。皇帝の死後には
、カーチャとその子供たちは340万ルーブルの年金を与えられ、ニースに追い払われ
た。エカチェリーナはパリとリヴィエラに住み、この地の社交界で洗練された女主人と
して有名になり、20人の使用人と私用の鉄道馬車を抱える暮らしを送ったものの、自
身で財産を管理せねばならず、子供たちには贅沢をさせられなかった。


954: 名無しさんAA:18/01/09 23:43
 極寒の砂金   32                    1825年

 この暗殺には過去の大帝の改革からの流れがあった。1825年にアレクサンドル1世が
死去した時に彼の子は全て夭折していた。弟のニコライ1世が継いだが立憲君主制を求
めて諸侯はデカブリストの乱が起こした。この時からバルカン半島には不穏な火が吹き
クリミア半島でスラブ人とロシア人の攻防が続いていた。ニコライ1世はこれを厳しく
弾圧して行き、力の圧政を敷いてその座について居た。この時既に起こっていたユダヤ
人への排斥であろうポロシェビキは段々と過激になり、以後には皇帝の極端すぎる保守
・絶対政治が行なわれていた。これに対してユダヤ金融家は海外支援によってロシアを
包囲する事をしていた。ニコライ1世も近代化と積極的な対外進出は必要としてそれを
目指したが、志半ばで1855年に死去した。跡を継いだアレクサンドル2世も近代化の妨
げとなっていた農奴制に農奴解放令をだして、解放した近代化を進めた。だがポーラン
ドでの反乱や後継者の早世で失意に陥った。もともとこの農奴解放には資金を持つ物の
土地購入の権利を認めただけで意味は無く 逆に欲深い地主を増やして農奴を更に困憊
させていた。海外との提携もままならず、こうして最期には1881年に没落した貴族階級
のポーランド人の「人民の意志」党員イグナツィ・フリニェヴィエツキによるテロで暗
殺されたとされる。暗殺事件後に後には、跡を継いだアレクサンドル3世は、保守政治
はなおも続けるも急速な工業化を推進してロシアの近代化を軌道に乗せた。アレクサン
ドル2世と皇后マリア・アレクサンドロヴナの第2皇子。兄ニコライが22歳で早世し
たため、皇太子となった。妻は兄の婚約者であったデンマーク王クリスチャン9世の第
2王女マリー・ソフィー・フレデリケ・ダウマーで、ニコライ2世をはじめ4男2女に
恵まれた。1894年に跡を継いだニコライ2世はよき家庭人ではあったが、歴代のような
資質に欠けていた。日露戦争では日本に敗れ、この戦争中に起こったロシア第一革命で
絶対君主制から立憲君主制へ移行することを余儀なくされた。だが立憲政治は名ばかり
で実態が伴わず、貴族や地主らによる保守政治がなおも続いた。その中で行われたとさ
れるピョートル・ストルイピンの反動政治はロマノフ朝から知識人や国民を離反させ、
反体制グループが台頭する一端を成した。1914年からは第一次世界大戦に参加し、それ
によって国民生活はますます困窮した。そして1917年、ロシア革命で君主制そのものが
打倒されてロマノフ朝は崩壊した。2007年の世論調査でロマノフ朝の復活に賛成の国民
が37%、反対が7%と君主制支持が多くなってきている。それはロシアの深刻な格差
社会は、土地柄として極寒地での保護や支援が必要される要因が原因であるともいわれ
る。

955: 名無しさんAA:18/01/09 23:43
 極寒の砂金   33               1881年

 エカチェリーナが宮廷から去ったあとも、ロマノフ家の皇族たちは相変わらず彼女を
軽蔑していた。継息子のアレクサンドル3世は彼女を秘密警察・オフラーナのスパイに
監視させ、その行動を逐一報告させていた。そして、母親との暮らしに辟易した息子の
ゲオルギーが帝国海軍への入隊を希望した時も、ロシア国内に入ることを一切許さなか
った。アレクサンドル3世の三男のゲオルギー・アレクサンドロヴィチ大公が、病気を
口実に彼女と親交を深めるのを忌避した。一方、ニコライ2世はエカチェリーナと息子
らに対しては寛容で、ゲオルギーをロシアに住まわせたが、エカチェリーナの娘オリガ
が詩人アレクサンドル・プーシキンの孫のゲオルク・ニコラウス・フォン・メレンベル
ク伯爵と結婚する際に、父親代わりを務めてほしいとエカチェリーナに頼まれたが、母
のマリア・フョードロヴナ皇太后の反対にあって断らざるを得なかった。エカチェリー
ナは1922年に年金を使い果たして死んだ。エカチェリーナにはアレクサンドル2世との
間に4人の子女をもうけていた。子供たちは、ユーリエフスキー(ユーリエフスカヤ)
公爵の姓を名乗っていた。ゲオルギー(1872年 - 1913年)、オリガ(1873年 - 1925年
)はゲオルク・ニコラウス・フォン・メレンベルク伯爵と結婚した。ボリス(1876年)
、エカチェリーナ(1878年 - 1959年)は アレクサンドル・バリャティンスキー公爵と
初婚、セルゲイ・オボレンスキー公爵と再婚(1924年に離婚)。母親の死後、歌手として
生活する。後にイギリス王妃メアリー・オブ・テックの庇護の下でイギリスに定住した
。その後その地で亡くなっている。1600年代にロシアのロマノフ朝の繁栄を出現さ
せた皇帝のピョートル大帝以降に、ロシアの専制君主政治であるツァーリズムの体制を
完成させて築かれた、ロシアの大国化路線は、18世紀後半のエカチェリーナ2世に継
承されイングランド銀行がその管理を行っていたとされた。ロマノフ王朝のアナスタシ
ア皇女は最後のロシア皇帝ニコライ2世とアレクサンドラ皇后の第四皇女であった。そ
の財産の大半をイギリス銀行国立に預託していた事から、皇帝一家の殺害から数年たっ
て、ドイツにアナスタシアと自称する女性が現れた。そこでは皇帝の財産を巡って長年
裁判が争われました。その人が本物ならイギリス銀行の皇帝の預金を、すべて相続する
からである。結局決着が付かないうちに本人は亡くなり、死後のDNA検査では偽者と
発表された。その後75年間の保守義務が終わって、イギリス国立銀行は第一次大戦の
戦費のためにロシア皇帝は預けてあった資産をすべて戦争中に引き出していた。と発表
したのである。


956: 名無しさんAA:18/01/09 23:45
 極寒の砂金   34                 1895年

 この発表に虚実を見るが歴史の本によると、預けていたのは今の貨幣価値にすると、
数百億ポンドと推測されて居る。話はかつてのソ連邦建設時代に遡る。第一次世界大戦
から1年。ロシア政府では皇帝二コライ二世の許可を得て、ロマノフ王朝の財宝と国立
銀行の正貨準備金(今で言う外貨準備金)を列車で安全な場所へ疎開させることを決定
した。正貨準備金は28の貨車に分けて積み込まれたカザンへと送られた。その後直ぐ
に三百年の栄華を誇ったロマノフ王朝が、あっけなく滅亡した。最後のロシア皇帝ニコ
ライ2世とアレクサンドラ皇后のいた家族は1917年の二月革命で成立した臨時政府によ
って家族とともに監禁された。翌 1918年7月17日に、エカテリンブルクのイパチェフ館
においてヤコフ・ユロフスキーが指揮する銃殺隊によって超法規的殺害(裁判手続きを
踏まない殺人)が実行され、家族・従者とともにわずか17歳の若さで銃殺された。こう
して 2000年にロシア正教会によって新致命者として列聖された。「明石元二郎の生涯
1891年(明治24年)〜1918年(大正7年)」ではこう書いている。1905年1月9日(グレ
ゴリオ暦 1月22日)、数万の労働者とその家族が皇帝ニコライ2世の冬宮に、生活条件
改善を訴える嘆願書を手渡すために大勢の者が集まったが、当局の回答は、残虐な弾圧
だった。その結果、千人以上が死亡したと推定され、この日は、「血の日曜日」として
ロシア史に記録された。」と。明石元二郎大佐は、平和なデモを行ったにすぎない市民
の死を悼んだかもしれないが、自身の任務の 見事な遂行ぶりには満足だったろうか。
ロシアの革命は現実となり、これは日露戦争での日本の勝利を確実にした。20世紀を
迎えた時、ロシア帝国は繁栄のピークにあった。中央アジアの征服は成功し、ブルガリ
アはトルコのくびきから解放されたのである。1895年には、フランスとドイツと共に、
国際的影響力を行使し、日本に対しても、いわゆる三国干渉を行い、遼東半島を中国に
返還させた。(日本は、1894〜1895年の日清戦争での勝利後、下関条約により、中国に
遼東半島を割譲させていた)。ロシアは世界の列強の一角に確固たる位置を占めたかに
見えた。ところが、多くの専門家が確信するところでは、ロシアは粘土の足の上に載っ
た巨像にすぎず、その足のうちの一本は、1902年にロシア帝国公使館付陸軍武官に着任
していた明石元二郎にほかならなかった。明石元二郎は既に大国の構造の脆さを見抜い
ていたのだった。この時同じ様にこの赤軍も白衛軍も日本軍もロマノフの財宝がある事
が解ってしまい、連合国との諜報と諜作などが過激になったのである。


957: 名無しさんAA:18/01/09 23:47
 極寒の砂金   35                  1902年

 ロシア陸軍は、ナポレオン戦争時代の古びた理論に依拠していたが、明石は他の多く
の者より深くそのことを知っていた。当時、世界の先進国の軍隊には、機関銃や速射砲
が配備されつつあったのに、ロシアの歩兵は、敵の砲火の着弾距離内でも 密集隊形を
とっていた。また明石は、露軍がフランスの最新の野戦砲を採用したことも知っていた
が、これはヨーロッパの平野では十分有効でも、極東の丘陵が連なる地帯ではほとんど
役に立たなかったのも解っていた。肝心なのは、ロシアで政治的危機が深刻化しており
、革命の瀬戸際にあったことを明石がよく弁えていたことだ。それというのも、皇帝と
その一家眷属は大地主であった為、ロシア経済の持つ、農業、資源に依存した性格をそ
のまま維持しようとしていた姿があったからだ。その頃は、ロシアと言えば、バターの
輸出を誇っていた。が、同時に輸入は、電気製品、プラントから果てはミシンにいたる
まで、当時のハイテク製品はすべて輸入し、その上果実と肉と野菜まで輸入していた。
又輸入する製品も、実は外国企業がロシアで現地生産して加工を回して組み立てしてい
た。つまり労働者は外国企業に養われていた事になる。しかもこの事には、農業部門の
伝統的な低賃金が帰順で、工業部門でもそれに揃っていた事で輸出も輸入も商社や企業
の海外金融が潤っていた。貴族経営者以外の普通の労働者の給料は常に不満であったし
、高価な電気製品は農民を圧迫していた。社会構造変化は緊張を増す方向に急激に傾い
て行っていた。これを明石は充分解っていたのだ。一方、海外企業家のほうも、皇帝一
族に対する苛立ちを募らせていった。金融資本がユダヤ系で、国内事情としてユダヤ民
は最低の人権すら認めて居なかったからだ。また、ロシアの周辺部の各民族も、ロシア
皇帝の専制への不満を強めつつあった。近代化した民が、農機具や機器などを高価な物
品すぎて購入できす、フランスやドイツ向けで売っては、生産された農作物が安価な物
として輸入され、機械化の広がりが無かった。当然この労働力の価格差が売り物でもあ
ったが 関税の対象に繋がらない限り輸入も国家の収入にもならず 又企業も拡大して
の収益も当てる事が出来ないでいたのだった。都市が集中させる若い労働力は地方での
労働力の破綻を意味していた中で、移民者はボヘミアンやロマやユダヤと同じに税もな
かったが隣人対象の法的地位もなく、集団暴力や排斥運動の対象でしか無かったからだ
。そして、民族主義と反政府の運動には密接なつながりがあり、そのコーディネーター
の一人が明石だったという次第だった。

958: 名無しさんAA:18/01/10 00:00
 極寒の砂金   36                  1904年

 しばしばロシア皇帝は「粘土の足」と呼ばれた。土着にしがらみがあったからだ。そ
れはロシアが農業に従じた政策しか打ち出せず農業の成否が皇帝の安泰の目安だったか
らだ。この足は既に農協生産では壊れかかっていた。明石は1905年の初めにフィンラン
ド革命党の 組織者にして指導者であるコンニ・シリヤクスや、グルジアの社会連邦の
革命党の指導者の一人、ゲオルギー・デカノゾフに渡りを付け、知り合ってその現状を
分析していた。彼らの積極的な支援を得て明石は、1904年にロシアの野党のパリ会議、
1905年にジュネーブ会議を開催した。明石はロシアでの破壊工作に、日本の参謀本部が
支出した約百万円(1990年当時の3500万ドルに相当)を費やしたとしている。だが彼の
努力の主な成果は、日露戦争に際してロシア社会のかなりの部分が、むしろ日本に同感
したことだ。1905年、ロシアでは「ロシア陸軍の将校に告ぐ」と題されたパンフレット
が非合法で広められたが、そこにはこう記されていた。「諸君の勝利はすべて、ツァー
リの専制を固める恐れがあり、逆に敗北はすべて、解放の時を近づける。ロシア人が、
我々共通の敵の成功を喜ぶとは驚くべきことではないか。」と。つまり敗けたが好い。
と宣伝していたのだ。ロシア皇帝が紛争で次々に敗北を重ねるようになると、国内の状
況は急速に悪化していった。既にスラブ戦争でに食物を取り上げられて小麦がなく「血
の日曜日事件」の前年も直訴していた。この「血の日曜日事件」が実際に起こって発砲
で死人が出た時に、この国家国民を守るロマノフ朝の巨像が倒れた。アメリカの歴史家
アーサー・ブラードの意見では、「ロシアの革命政党のほとんどは日本の援助を受けて
いた」と発表した。この援助はとくに、イギリスからフィンランドへの、船舶「ジョン
・グラフトン」号による武器供与や、ロシア将兵の捕虜に対する、日本での革命プロパ
ガンダとなって現れ、結局のところ、ストライキやデモが多発し、革命的組織の文書が
蔓延することになった。そして、ロシアと欧州の「活発な非合法のルート」は、日本の
諜報活動の手段となったと、ブラードはみている。1月9日の「血の日曜日」以後は、
無秩序はたちまちロシア全土と周辺部の各民族に広まり、ツァーリの政府は、日本との
講和を結ばざるを得なくなった。1905年8月23日(9月5日) ポーツマス条約が調印され
た。それによってロシアは、日本の朝鮮半島における優越権を認め、旅順・大連を含む
遼東半島南端部の租借権を日本へ譲渡し、東清鉄道のうち、旅順−長春間の南満洲支線
と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡、さらにサハリン(樺太)の北緯50度以南の
領土を譲渡した。こうして日露戦争はロシアを、20世紀の世界の資本主義システム中枢
から弾き出し、東アジアにおける工業化のリーダー役は、長く日本が担うこととなった

959: 名無しさんAA:18/01/10 00:28
 極寒の砂金   37              
 だが久留米においての明石大佐の評価もその後の記録もそうした諜報活動も支援活動
も全く記録はしていない。勿論明石機関は存在していた。だが知っての通り、日本支援
にドイツ生まれのアメリカの銀行家で慈善家のヤーコプ・ヒルシュ・シフ(生まれた時
の名前即ちドイツ名)が高橋是清の求めに応じて、日露戦争の際には日本の戦時国債を
購入して応援していた。この事で奔走していたのである。明治天皇は元々日露戦争には
消極的であった。実は日本では軍費の相当部分をドイツ帝国から調達していたのだ。そ
のドイツはロシア中央銀行経由で露清銀行を勢力下において発行されていた、こうして
同行の活動が日本が清国へ進出したことによりかなり妨げられたのである。ロシア帝国
は、不凍港を求めて積極的に南下政策を採用し、露土戦争などの勝利によってバルカン
半島における大きな地歩を獲得した事は明治政府にも情報が届いて居た。このロシアの
影響力の増大を警戒するドイツ帝国の宰相ビスマルクが列強の代表を集めてのベルリン
会議を主催し、露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約の破棄とベルリン条約
の締結に成功した。これによりロシアはバルカン半島での南下政策を断念して、進出の
矛先を極東地域に向けることになった事に危機感が募っていた。朝鮮を属国としていた
清との日清戦争に勝利し、朝鮮半島への影響力を排除したものの、中国への進出を目論
むロシア、フランス、ドイツからの三国干渉によって、下関条約では、ベルリン条約と
同じに割譲を受けた遼東半島は清に返還される事になった。此処に明石の活動があった
日本の世論においてはロシアとの戦争も辞さずという強硬な意見も随分出ていたが、当
時の日本には列強諸国と戦えるだけの力はない事が解っていて、明治政府は伊藤博文ら
戦争回避派が主流を占めていた。ところがロシアは、鉄道建設と共に露清密約を結び、
日本が手放した遼東半島の南端に位置する旅順・大連を1898年(明治31年)に租借し、
急速に旅順に太平洋艦隊の前線基地を造るなど、強力に満州への進出を押し進めていた
。1900年(明治33年)に、清で発生した義和団の乱は、この混乱収拾の為にロシア軍の
満洲への侵攻を許してしまい、中国全土を占領下にしてしまった状態が作りだされてい
たのである。元々支那人の性格はあの精力絶倫男「袁世凱」の様な、虎の威を借りて人
の褌で相撲をとり、自分さえ良ければどうでも良い様な性格であった。1886年(明治19
年)8月に長崎に来航した清国北洋艦隊水兵が起こした暴動事件の長崎清国水兵事件は
その表れでもあった。明石はコンニ・シリヤクスを通じてユグノー信徒を知ったのだ。
その迫害はユダヤより激烈で新しく、資金を持った更に斬新な自由な資本論であった。
彼らは王政とは人民との約束で支配していて 約束を破れば当然王は替えられるとした
考え方だった。そこで武器支援を申し出てジョン・グラフトン号事件が起こっていた。

960: 名無しさんAA:18/01/10 00:29
 極寒の砂金   38                  1902年

 中国に於いて、アジア初の最新鋭艦を手にした清国海軍では、ロシアに威嚇する為の
演習に日本海を北上し演習していた。この北洋艦隊のうちの主要艦船である定遠、鎮遠
、済遠、威遠の四隻の軍艦が勝手に長崎港に入港したのは途方もない暴挙だった。清国
人にすれば、これまで西欧列強に抑えられた鬱憤が、この艦隊をして屈強の仲間に入っ
た自国の権威を、暴挙と横暴さで見せつける事は必要不可欠な事だった。何故ならそれ
が騎馬民族の風習だったからだ。野蛮さこそ雄姿であり 強さの誇示はロシア・日本に
対して行いながら、米英に対する防衛の一つだったのである。こうして長崎事件が起こ
ったのだが、その強気が義和団の乱ではそのまま北清事変に変わったのである。又その
時にこの艦隊は、全く砲台が乗っ取られようとも紫禁城に攻めようとも抵抗しなかった
1900年(明治33年)に、清で発生した義和団の乱では、この混乱収拾の為にロシア軍が
満洲へ侵攻して全土を占領下に置いてしまっていた事を英米には見抜けなかった。同時
に起こった清王朝の北清事変は、西太后がこの叛乱を支持して清国が欧米列国に宣戦布
告したため国家間戦争となったのだが、宣戦布告後2か月も経たないうちに欧米列強国
軍が首都北京及び紫禁城を制圧し、北京条約によって、清朝は莫大な賠償金の支払いを
余儀なくされる事になった。この禁圧の過程でイギリスとドイツは、清の許可を得ずに
上海=北京間、膠州、威海衛、旅順に電信ケーブルを敷設したが、ロシアもその後独自
に交渉し沿海州を手に入れ、更に満州での境界決定にアグイン条約を取り付けていた。
本来なら日本もこの時朝鮮を手に入れれば問題無かったのだろうがそれは信義に反する
として日本は全く行わずにいる。こうして、ロシアは満洲や朝鮮の植民地化を既定事実
化しようとしたが、日英米がこれに抗議しロシアは撤兵を約束した。ところがロシアは
履行期限を過ぎても撤退を行わず駐留軍の増強を図ったアグイン条約締結に圧力をかけ
続けていたのである。ところが英米は批判するのみだった。それは植民地でボーア戦争
を終了させるのに戦費を調達した為に、国力が大きく低下していて 欧州の争いや中東
の領土争い、米国の独立の混乱などアジアに大きな戦費や国力を注げない状況であった
のである。この状況にイギリスは、ロシアの南下が自国の権益と衝突する危機感から、
1902年(明治35年)に長年死守していた栄光ある孤立と言う孤立政策を議会は捨てた。
この事で日本との同盟に踏み切って日英同盟は、順調に行われたのである。こうして、
日清日露の戦争が明け暮れや第一次大戦のシベリア出兵につながっていくのである。


961: 名無しさんAA:18/01/10 00:29
 極寒の砂金   39                   1918年

 ニコライ2世一家が処刑されて凡そ百年が経過した今でも、何人がこの事件に関わっ
たのかさえわかっていない。8人という説もあれば、被害者の人数と同じ11人という
説もある。中心的役割を果たしたのは、ユロフスキーとメドベージェフ・クドリンだ。
両者は、一家を銃殺した夜について、詳細な回顧録を後に記した。そして歴史上の自分
たちの役割に誇りを持っていた。両者は亡くなるまで、高い役職につきソ連社会の尊敬
される一員であった。ヤコヴ・ミハイロヴィッチ・ユロフスキー(1978〜1938)は1918
年、皇帝一家が幽閉されたエカテリンブルグ市のイパチェフ邸の警備隊長を務めていた
。銃撃隊を率いて、ユロフスキー自身がニコライ2世を殺害したと証言している。ユダ
ヤ人であるユロフスキーが関与したことから、民族主義者に「我が皇帝を異民族が殺し
た」と言わせるきっかけを与えてしまった。だが 実際には異民族は、ユロフスキーと
ラトビア人の射手ツェリムスの2人しかいなかったし、ツェリムスの関与は完全に証明
されていない。ちなみに帝政ロシアも又多民族国家であった。ユロフスキーは、宝石商
だったため、銃撃した夜には皇族の宝石も探そうとしていた。実際にそれは見つかって
いた。処刑後に遺体を調べていると、皇后の服には 総重量半プードがあって(約 8.19
キログラム)もの貴重品が縫い付けられていたと言う。ユロフスキーはすべての貴重品
を、モスクワ・クレムリンの管理者に渡したと言う。最初のボリシェヴィキ達は無欲な
人々だったが、皇后の遺体から大量の宝石やニコライ2世および皇族の未知の遺品があ
ると思い差が下とても残酷な人達でも合った。ユロフスキーが務めた役職は、ウラル県
非常事態委員会会長、貴金属・貴石フォンド金部門長、モスクワの技術博物館館長だ。
これらの役職はソ連政府初期において、非常に高い、戦略的に重要な地位である。ユロ
フスキーは、選ばれた特別な政府高官しか入ることのできなかったクレムリン病院で、
穿孔性十二指腸潰瘍により亡くなった。関係者の証言によると、苦しんで亡くなったと
いう。皇帝一家が幽閉されたイパチェフ邸では皇帝の処刑者らは仲が良く、互いの家に
遊びに行っていた。ユロフスキー、ゴロシチョキン、メドベージェフ・クドリン達は、
いつもお茶を飲みながら、当時の話について議論していた。特にあの夜誰が最初に銃撃
を始めたかについての議論は好まれた。ユロフスキーはある日、嬉しそうにやって来た
。彼がニコライ2世を殺害したと書いてある、西側諸国で出版された本を受け取った為
だった。「俺が皇帝を殺した!」と書いてあったのである。


962: 名無しさんAA:18/03/13 08:54
極寒の砂金は ちょっと休憩  余りにも コピペが増えて書けない(事実が結構でているからね〜〜〜記録が少ないものじゃない。

963: 名無しさんAA:18/03/13 08:55
  富安君を探せ              < その 1 >

 その昔仁和3年 (887年)の事だが、安倍の清明の恩師加茂氏は陰陽道をして、式使
式神をして土御門家を束ねていた。しかし光孝天皇が重態に陥り、後継を指名しなまま
に床に臥せた。実力者の基経は天皇の内意が、貞保親王ではなく定省にあるとして動い
た、自身も陽成天皇の弟であり、甥でもあるが、それ以上に非常に仲の悪い妹藤原高子
の子である貞保親王は避ける為に、定省を天皇としたいと発議し 朝議には一決した。
こうして定省は8月25日に皇族に復帰して親王宣下を受け、翌26日に皇太子に立て
られた。もともと定省は基経の異母妹である尚侍藤原淑子の猶子(ゆうし)で、兄弟・
親類や他人の子と親子関係を結ぶ制度の藤原氏だった。後宮に強い影響力を持っていた
淑子は賢い定省を後継に熱心に推薦していた。しかし基経自身は特に定省を気に入って
いたわけではない。また、定省には、同母兄の源是忠がおり、兄を差し置いて弟が立つ
と言う問題もあった。その為慎重に、基経以下の群臣の上表による推薦を天皇が受け入
れて立太子を行うと言う形が取られた。すなわち天皇以下重臣の命令で皇太子にした。
だが皇太子にしたその日のうちに光孝天皇が崩じたため践祚(ばっさ・崩御による譲位
)し、こうして宇多天皇(うだてんのう)となって11月17日に即位した。だがこの時に
当然乍ら、清和天皇の第四皇子として誕生していた叔父の貞保親王には反感があった。
宇多は即位後間もない11月21日に、基経に再び関白としての役割を果たすよう勅書を送
ったが、しかし、この手続きの際に貞保親王と仲の良い左大弁橘広相の起草し、「宜し
く阿衡の任をもって卿の任とせよ」の文言を入れた。これに基経が立腹し、政務を拒ん
で自邸に引き籠もってしまう。翌年6月になって宇多はついに折れ、勅書を取り消した
上に広相を解官せざるを得なかった。寛平3年 (891年)1月に基経が死去するに及ん
で、ようやく親政を開始することが出来た。なお宇多が勅願寺として仁和寺を建立した
のはこの阿衡事件の最中の仁和4年のことだ。この弔いに際して天皇は基経の嫡子時平
を参議にした。一方で、源能有など源氏や菅原道真、藤原保則といった藤原北家嫡流か
ら離れた人物も抜擢し改革を試みた。この期間には遣唐使の停止、諸国への問民苦使の
派遣、昇殿制の開始、日本三代実録・類聚国史の編纂、官庁の統廃合などが精力的に行
われた。また文化面でも寛平御時菊合や寛平御時后宮歌合などを行い、これらが多くの
歌人を生み出す契機となった。


964: 名無しさんAA:18/03/13 09:18
   富安君を探せ             < その 2 >
 定省尚侍の藤原淑子の子で、光孝天皇の第七皇子であったが、母が桓武天皇の皇子で
仲野親王の娘・皇太后班子女王と言う強い立場だった。父の光孝天皇は即位後、関白の
藤原基経の妹の藤原高子の子であり陽成天皇の弟であった、叔父の貞保親王をはばかり
、元慶8年(884年)6月に26人の皇子皇女を臣籍降下させて源氏として皇族外にした
。定省王もその一人であったのだ。つまり爺さんは色気が多く、兄弟が多かったので、
朝廷が持たなかった。こうして従弟は全て源氏に一端降格させて皇籍を取り除いて、そ
の後又皇籍に戻す作業を行った。その為、源定省(みなもと の さだみ)と称した。臣
下時代である。話では殿上の御椅子の前で平城天皇の孫の在原業平(ありわら の なり
ひら)と相撲をとり、椅子にぶつかり手すりが折れた。という猛者だった。天皇になり
宇多天皇(うだてんのう)は皇位について次々と改革を行ったのだが当然敵もできた。
ところが、宇多は寛平9年7月3日(897年8月4日)突然に皇太子敦仁親王を元服させて、
即日譲位させ醍醐天皇の治世に代えた。この宇多天皇の突然の譲位は驚いた。が、かつ
ての指名のない移譲で自分が思う様に行かなかった理由と、天皇が藤原氏の制約から、
政治的自由が無かった為にこれを行ったという。自分は仏門に帰依し仏道に専心するた
めと偽った。事実は、後継として前の皇統に連なる縁戚皇族から皇位継承の要求が出る
直前で、これを実子譲位につなげ己の皇統の正統性を示したかったから、と言われる。
『寛平御遺誡』に右大臣源能有の死に強い衝撃を受けたと書かれている。同じ文徳天皇
の皇子である惟仁親王(清和天皇)の兄でありながらも、生母の身分が自分と同じ低か
ったので、早い段階で除外された人だ。本来第一親等の皇族だが、仁寿3年(853年)に
時有・本有・載有ら兄弟と友に源姓で臣籍降下していた。能有の多くの兄弟が同様の道
をたどって、子孫は後世文徳源氏と呼ばれた。だがこの能有は信任は厚く又能有も能力
が高く信頼されていた。その能力は藤原基経からも評価されて、娘を娶っていた。元慶
元年に従三位、元慶6年中納言と順調に昇進するとともに、左兵衛督・左近衛中将・左
衛門督・検非違使別当と武官も兼帯した。宇多朝に入っては、引き続き寛平2年正三位
になり、大納言になり昇進していった。宇多天皇の能有に対する信任は厚く、符宣上卿
(太政官符を発給上卿)として28回も名を連ねて、左大臣源融や右大臣藤原良世の先
任上卿をさしおいて撰国史所総裁を務めさせたし、それが出来る人だった。朝廷の儀礼
や政務に通じ有能な人物で、菅原道真と親しかった。政務として「寛平の治」進めた時
、平季長に命じて現地を視験させ、その報告で農民保護政策を打ち出して、院宮王臣家
による土地の不法拡大を禁じる太政官符を出した。しかしそれは貴族の猛反対を産んだ
、その後は心労で、53歳で病により薨去した。

965: 名無しさんAA:18/03/13 09:19
  富安君を探せ               < その 3 >

 こうして信頼していた源の能有が薨去した事で譲位し、新たに即位した醍醐天皇だっ
たが、天皇には自らの同母妹・為子内親王を正妃に立て、その時の抵抗勢力だった藤原
北家嫡流が外戚となることを防く事に重きを置いた。また譲位直前の除目で菅原道真を
権大納言に任じ、その頃の大納言で太政官最上席だった藤原時平の次席としたうえで、
時平と道真の双方に内覧を命じ、朝政を二人で牽引するよう命じた。しかしこの人事は
権門の公家には全く不評で、公卿が職務を拒むという事件に発展した。道真は宇多に願
ってかかる公卿らに出仕を命じてもらい、ようやく新政がスタートした。藤原時平は先
の藤原基経の長男として生まれていた。父の基経は陽成天皇を廃し、光孝天皇を擁立し
て太政大臣として朝政を執り絶大な権力を有していた為に、光孝天皇は常に基経の意を
迎えて。仁和2年 (886年)の16歳で元服するには、光孝天皇は直々に宮中でも最も
重要な仁寿殿で式を執り行わせた。自ら加冠の役を果たし、この少年に正五位下を授け
て、その告文は学者で知られた参議・橘広相に起草させたのである。その後の宴の祝い
には、仁寿殿の庭に祝いの金銀で飾られた品々が並べさせ、雅楽が演奏され清和天皇の
第八皇子・貞数親王を始めとする上卿の子弟が舞を演じた。これは基経の権力の絶大な
ることを示す儀式となっていた。この事から後任として来た菅原道真の下には付けない
性格の持ち主だった。当然藤原時平の次席とした事や藤原家の反抗勢力も彼を嫌い執政
に不和があり滞る事になっていた。父・基経の死の時点では、まだまだ若年であった為
何とかなったが、宇多天皇が譲位し醍醐天皇が即位すると、皇親である源氏を束ねて、
学者の菅原道真を起用して道真とともに左右大臣として並ぶと、次第に対立し遂に道真
を讒言して大宰府へ左遷させる事に至った。宇多上皇は新帝に「時平は功臣の子だが、
年若く素行が悪いと聞く、朕はそれを聞き捨てにしていたが、最近は激励して政治を習
わせるようにしている。そのために顧問を備えて、よろしく輔導すべきである。」と戒
めていた。それにより、醍醐天皇は権大納言の官職にあった道真を起用して、時平とと
もに内覧を任せた。しかし、前年の藤原良世の致仕(引退)によって空席となっていた
藤氏長者によって時平は補員され昌泰2年(899年)時平は左大臣に任ぜられるが、同時
に道真も右大臣となり太政官の首班に並んでいたのである。藤氏長者の仕組んだ事だっ
た。宇多は譲位後も道真の後ろ盾となり、時平の独走を防ごうとしていたが、一方では
仏道に入ってから時間が無くなっていった。


966: 名無しさんAA:18/03/13 09:55
   富安君を探せ              < その 4 >

 宇多天皇は上皇にはなっていたが、10月24日には出家し、東寺で受戒した後、仁和寺
に入って法皇となった。さらに比叡山や熊野三山にしばしば参詣し、道真の援助を十分
に行えなくなった。昌泰4年(901年)正月に、道真は、宇多の子で自らの婿でもある
斉世親王を皇位に即けようとしていたという嫌疑が、突然かけられた。そうして裁く事
が決められた。この嫌疑の知らせを受けた宇多は急遽内裏に向かったが、宮門は固く閉
ざされ、その中で道真の大宰府へ左遷される処分は決定してしまったのである。宇多は
朝廷の安定の為に藤原氏排除に動き、自己の皇統の安定の醍醐の皇太子決定を急いでい
た。結果的に当時男子のいなかった醍醐の後継をその弟から出すことを考えるようにな
った。皇太子を決める事は大事な事で既に決まっていても良かったが、独裁の反対派の
醍醐が引き伸ばしていた。醍醐天皇は自分が許した基経の娘・藤原穏子の入内にも反対
された為に、これに反発していたのだ。これに時平はすり寄ってき醍醐は法皇の代弁者
とみなされた道真を、失脚させる企みを企画したのだ。それでも 晩年には病気がちの
醍醐天皇に代わって、実際の政務は宇多は上皇がみていたのである。延喜元年(昌泰4
年を改元)12月13日、宇多は東寺で伝法灌頂を受けて、やっと真言宗の阿闍梨となった
。これによって宇多は弟子の僧侶を取って灌頂を授ける資格を得た。こうして、宇多は
弟子になった僧侶を使う資格を得て、彼の推挙によって朝廷の法会に参加して手足にな
って情報に接する事が可能になった。しかしその後は天台宗に比べて希薄であった真言
宗と朝廷との関係強化や地位の向上につながってしまい、本来の国家神道や道徳を付す
道教や儒教が廃(すた)れていった。特に、天罰を基礎とする陰陽師の式神を宿して、
「艮の金神」(うしとらのこんじん)の社を祭る、祈祷天神は廃れてしまったのである
。対して並行していた仏教徒格段に増え、小さかった真言宗の発言力は高まりを見せて
、宇多の朝廷への介入や影響力を回復させる足がかりになっていった。延喜21年 (921
年)10月27日に醍醐から真言宗を開いた空海に「弘法大師」の諡号(しごう)が贈られ
ているが、この件に関しては、宇多の直接関与の証拠はないものの、醍醐の勅(みこの
り)に太上法皇(宇多)が空海を追憶している事を理由にあげている 延喜13年3月13日
(913年4月22日)には 後院の亭子院で大掛かりな歌合「亭子院歌合」を開いた。これ
は国風文化の盛行の流れを後押しするものとなった。延喜11年(911年)6月15日、亭子
院の水閣を開いた時、臣から酒豪を選んで宴に招き、酒を賜り酒量を競わせた。亭子院
酒合戦である。こうして派閥争いの貴族文化に現代の夜の飲会の様な会議の席を設けた
。限定されるものの 一定の和を求め人となりを調べたかったのであろう。

967: 名無しさんAA:18/03/13 10:03
 この頃、伝教大師最澄と、弘法大師空海の持って来た物は、京の町に大きな文化を創
っていった。味噌や醤油や酒や塩や砂糖 更には香木や金銀や鉄や薬やお茶やその他を
大きく広めたのだ。元来からあったものもあったが、彼らは密教としてアヘンさえも使
う事を知り、鉱脈さえも知る知識を得ていたのである。宇多天皇の頃は、陽成上皇との
関係は微妙だった。宇多は皇位に即く前に陽成に仕えており、神社行幸の際には舞を命
じられたこともあった。『大鏡』には、陽成が宇多のことを、「あれはかつて私に仕え
ていた者ではないか」と言ったという逸話が残っているが、陽成が復位を画策している
という風説は宇多を悩ませていた。『長秋記』(保延元年6月7日条)によれば、陽成上
皇が宇多天皇の内裏に勝手に押し入ろうとした時、上皇といえども勅許なく内裏に入る
事は罷りならないとこれを退けていた。後に昌泰の変が起きた際には、醍醐天皇に菅原
道真の左遷を止めさせようとして内裏に入ろうとした宇多上皇に、この自身の先例を盾
にそれを阻まれたという記載がある。「艮の金神」は、日本に古くから伝わる陰陽道の
神様で、修験道の祀る神だった。「金神」とは“祟り神”のことで、また「艮」(うし
とら)とは東北の意味で鬼門とされる。陰陽道では、鬼が出入りする方角であるとして
、万事に忌むべき方角としている。他の方位神とは異なり、鬼門は常に艮の方角にある
。鬼門とは反対の、南西(坤、ひつじさる)の方角を裏鬼門(うらきもん)と言い、こ
の方角も鬼門同様、忌み嫌われる。南東(巽)を「風門」、北東(艮)を「鬼門」とし
た。「ひつじ人良しさるによし」とは日光の当たりが強く、体に良すぎて悪いと言う意
味で猿とは猿田彦の神の方向とされる。陰陽道においては、北と西は陰、東と南は陽と
され、北東と南西は陰陽の境になるので、不安定になると説明される。これは中国から
伝わったものとされるが、実は違っていて修験道の岩屋の文化である。家相や鬼門に関
しては諸説あるが、日本の鬼門思想は中国から伝わった思想とは大きく違った思想で、
風水とは全く違う物だ。風水に鬼門思想はなく、日本独自の陰陽道の中で出来上がった
物で恐らく金産出工程の中での一つの公害対策であろう。だが湿気の多い日本の中では
、家屋の作りに日本独特のこの思想が最適だったと考えるべきである。十二支で鬼門は
(丑寅)とは反対の方角が未申であることから、猿の像を鬼門避けとして祀ったりした
といわれている。代表的な例が、京都御所で、京都御所の北東角には軒下に木彫りの猿
が鎮座し、鬼門に対抗し、築地塀がその方位だけ凹んで、「猿ヶ辻」と称されてきた説
がある。古来より、縁起を担ぎ、家の北東、鬼門の方角に魔よけの意味をもつ、「柊」
や「南天」、「万年青」を植えたり、鬼門から水回りや玄関を避けて家作りしたりと、
根強い鬼門を恐れる思想がある。だが、基本は泥棒避けや病を避ける為のものであった。

968: 名無しさんAA:18/03/13 10:11
   富安君を探せ              < その6 >

 北野天満宮の祭神・菅原道真は九州ではちょっと違った説がある。今や太宰府天満宮
(だざいふてんまんぐう)は、福岡県太宰府市宰府(さいふ)にある神社で社格は官幣
中社で、現在は神社本庁の別表神社となっている。又神紋は梅紋であるとされる。しか
し大宰府天満宮はもともとは祭神は菅原道真ではない。今では菅原道真公を祭神として
祀る天満宮の一つで天神様のお膝元とされ、初詣の際には全国から毎年二百万人以上の
参詣者がある屈指の神社になった。現在、京都の北野天満宮と共に全国天満宮の総本社
とされ、また菅公の霊廟として篤く信仰されている。しかし私が知る限り、都府楼庁舎
であり西の聖都と名で知られるこの場所は、奈良・平安時代を通じ、わが国の西の守り
として、既に国府庁舎としてお宮はあったのである。福岡には概して思わぬ古い神社は
多い。武内宿禰(たけしうちのすくね)は、記紀に伝わる古代日本の人物されるが、実
はこの武内宿禰を祭ったものが玉垂れ宮の起源とされる。伝説記上の天皇として景行・
成務・仲哀・応神・仁徳の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えたという伝説上の
忠臣だが、紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族の祖ともされる。
筑後の伝承では仲哀天皇の頃神功皇后が三韓征伐に向かった。博多に於いて一泊し船を
求めて柳川の地にたどり着いた。最初に八咫烏(ヤタガラス)とされるカチガラスを見
つけ辿りついたのが清水山と言われる。そこで山都の地をみつけ降り立ったのが鷹尾神
社とされる。その頃既に水田の地から米を収穫し大和の倉から船で奈良まで送っていた
とする。その棚田が棚町でありその役所が久末だったとしている。瀬高の老松宮はもっ
とも古く邪馬台国時代からあった神社だったとされる。その老松宮が方々にあってその
一部が大宰府にあったとされる。都府楼は、そこが首都とした名残りの名前である。そ
の神功皇后が求めたのは安曇野磯良丸である。今や大川の風浪宮は大きな大社だが、紀
元は柳川の細工町の神社が本宮である。そしてそれは日本の船の起源とされ、彼を崇め
て無事を祈り、−−−丸と言う名をつける習わしになった。ちなみに海外は‐‐‐号で
ある。「安曇野」と言う名前は刺青を入れた部族の意味だそうで、磯を良く知る者と言
う名前らしい。「野」と言うのは紀伊半島を示す言葉で近畿との往来した者を指すと言
われている。彼らを呼んで磯宮に呼んだのが二ッ河小学校の地である。田畑の地に降り
立つ鳥が白く白鳥と命名し、磯に降りた鳥を磯鳥と命名した。ちなみに彼らの船を集め
て三韓征伐に行こうとしたが博多の地で子供である仲哀天皇が病の為崩御した。そこで
香りたつ霊木の椎の木で棺を作り一時的に祀った。それが香椎の宮の始まりである。と
伝えられている。

969: 名無しさんAA:18/03/13 10:21
   富安君を探せ              < その7 >

 では何故ここまでやって来たのか。実はこの筑後の地は稲作発祥の地とされる。さら
に柳川は瀬高清水山の門前町であった。今はないがその証として国立病院前はお寺が大
きく広がっていて、日本では珍しい立花ハゼの原木があって その実がこの地の和蝋の
産業として紀元前から成り立っていたとされる。だが倭寇が盛んな頃に、防戦するも、
矢留のやしろの町は大火となってしまった。と言われる。僅かに残ったのが西門とされ
今の西日本ガスの付近で筑紫橋とされるのはそこが筑紫の君小磐井の別所だったからと
されている。鬼堂町(おうんどまち)は決して鬼が出る町でなく、そこに強い者がいた
からだ。この鬼こそ陰陽道の安倍の清明が従える鬼であった。とされる。瀬高の本郷に
は行基橋がある。この行基(ぎょうき)は役行者(えんのぎょうじゃ)として全国的に
有名だったがかれが本郷に在住してかれら強者を従えていた。とされる。江戸時代の本
居宣長はこの上妻下妻の地こそが卑弥呼のいた地だと言っている。何故ならこの地が、
物部氏の本拠地で元々は兵器の製造・管理を主に管掌していたが、しだいに大伴氏と並
ぶ有力軍事氏族へと成長していった。5世紀代の皇位継承争いにおいて軍事的な活躍を
見せ、雄略朝には最高執政官を輩出するようになった。物部氏は解部を配下とし、刑罰
、警察、軍事、呪術、氏姓などの職務を担当し、一説には盟神探湯の執行者ともなった
とされる。また、奈良県天理市街地周縁にある「石上・豊田古墳群」「杣之内古墳群」
の被葬者は物部氏一族との関連が指摘されている。この時蘇我氏物部氏と書けば家系の
一族と見られ易いが、実はちょっと違っていて朝廷の官位であった。と思われる。とい
うのも筑紫の君磐井もこの蘇我氏について居るからだ。彼らは或る時大宰府の勅令に反
して兵をあげた。だがこの時物部氏が鎮圧にきたのだ。板付の乱だ。528年継体天皇
22年に九州北部で起こった磐井の乱の鎮圧を命じられた。これを鎮圧した物部麁鹿火
(あらかい)は宣化天皇の元年の7月に死去している。この鎮圧者物部氏は保守的だっ
た。物部守屋と中臣勝海は蕃神(異国の神)を信奉したために疫病が起きたと奏上し、
これの禁止を求めて天皇は仏法を禁止したのである。守屋は自ら寺に赴き、胡床に座り
、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、馬子や司馬達等ら仏法信者達を
面罵した上で、達等の娘善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら3人の尼を捕らえ
、衣をはぎとって全裸にして、海石榴市(つばいち、現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連
行し、群衆の目前で鞭打った。とされる。稲作を伝え手であった秦氏は当然中国からの
者で仏教信者であった。蘇我氏はその報を聞いて兵糧の輸送を止めて大宰府との戦いに
勝っていたのである。筑紫の君磐井の墓の埴輪はその中国礼賛の文化を現わしている。

970: 名無しさんAA:18/03/13 10:45
 筑後伝承では秦氏は、秦の始皇帝が、不死の妙薬を探して大勢の者を鳳来山に向けて
出発させた。徐福伝説では一回目はこの佐賀に付き二回目は八女に着いたとされる。最
初は大嵐によって干潟に乗り上げて諸富あたりに着いたとされ、その富が多く諸富との
名だと聞く。そのまま金立付近に住み着いた。だが数隻は大牟田から八女にたどり着き
、その後二回目は安曇族に捕まったのである。そこで筑後川を挟んで争いが起こったが
、当然筑後側が勝った。何故なら筑紫の磐井は既に熊本の熊襲の人間まで一つになって
いたからだ。そうした秦国の末裔で、秦氏(はたし)と名乗ったのである。先の三韓征
伐を少し説明すれば、朝鮮に三韓時代と言うのがあった。「馬韓(ばかん)」「弁韓(
べんかん)」「辰韓(しんかん)」である。馬韓は実は中国に着いたイスラム系の人達
であった。彼らはとても商売好きで親日でもあった。弁韓は殆ど日本人と変わらず魚を
食し言葉のみ繋がらない人達だった。彼らこそ仏教を伝えた日本人とされる。いずれも
遣唐使の船のコースで自由往来では黄海を湾としていて船は日本海側に行かない限りは
朝鮮半島は二つの国だった。しかし朝鮮半島の山を越えロシア側は辰韓と言う国だった
。この国には文字も言葉も違い冬には寒く、時折日本に遭難した難破船や海賊行為の村
は、彼らがやって来たとされる。モンゴルに鮮卑族が大きく力をつけると彼らは追いや
られやって来た。日本は新羅王や百済王と取引していた為、三韓征伐要請があって兵員
を集めたのである。ところがこの時代に応援に駆け付けれなかったこの国では新羅では
半分が百済では大部分が日本に逃げて移住してきたとされる。新羅の王達は先の先住の
中国人と諍いが起こって熊本の天草に降り立ち宮崎の山に居住し、百済の者は朝廷の認
可を求めて京都奈良に居住したのだ。これが応神14年 (283年)百済から日本に帰化
した弓月君(融通王)が祖とされたり、今の蘇我氏になったりしたといわれている。元
もとこの八女の天孫降臨説は今の天皇の神話とは別系統と称される。八女の天満神社は
、そうした不思議な伝承多い。もともとここの竈神社(かまどじんじゃ)は、竈本庁と
も称され総本社と言う。この土地に来て男の子岳と女山から 人々の竈(くど)から煙
が立ち上るのを見て安堵しここで安らぎを得た事で神社を祭ったとしている。物部氏は
、河内国(かわちのくに)の哮峰(いかるがのみね)に、天孫降臨したと伝えられる。
この「ニギハヤヒ」を祖先とする氏族とが秦氏と言われ、古代、日本に渡来してきたと
考えられている氏族の中で 彼らがいたのが鷹の秦家=高畑とされている。この神功皇
后遠征で来た鷹尾神社は伝説から言えば最も古く、その鷹尾と言うのは高良山の神紋で
熊本の菊池家の紋章が鷹の羽印だった。からその意味では三柱神社が鷹尾神社の領地分
で鷹の紋の秦家がいる場所が高畑だった。と言う説も頷ける。又神功皇后のこの時の船
が秦氏であったのではないか。とも推測される。

971: 名無しさんAA:18/03/13 11:25
 かつて昔、大川の木室には大木の下に暮らす民がいた。古墳時代の頃と言う伝承に、
歴史の先生は「そんなことはないでしょう。昔海だったろうから。」とにべにもなかっ
た。だが九電の変電所工事によって弥生土器などが見つかり住居跡がでてきたのである
。三潴が昔は水沼が訛り水間となっていまの三潴になったとされた事は解っている。八
女の霊厳寺は中国の霊厳寺の和尚がここで布教したと言う。お茶やみそや醤油などを、
ここに渡来して教えてきた学び舎だったと言われる。奇岩で有名だが実はこの道は大分
へや大宰府へなどの行く大きな通行の要所であったとされる。ここから今でこそ、ここ
から上陽の峠には細い道しかないが久留米や小郡(おごうり)甘木を通っていたと言う
実は大宰府政庁が都府楼とされる頃既に九州は大陸文化を受け入れて駅舎制度があった
とされる。その為新たに便利な国分寺制度が作られて寺を興したとされる。741年(
天平13年)の聖武天皇が仏教による国家鎮護のために、日本の各国に建立を命じた寺院
制度である。寺は国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれる
がいずれも新たに日本古来の山岳仏教から離れて町の為の仏教を興す為であった。そう
して藤原氏の時代になり宇多天皇が現れたのだ。中国の山東省済南市長清区にある霊巌
寺(れいがんじ)は、中国でも仏教寺院としては古いものだ。中国各地の名山中でも屈
指の名刹として知られ、玉泉寺・棲霞寺・国清寺とともに、天下の四絶の一つに数えら
れている。霊巌寺近郊への仏教流入は、五胡十六国にまで遡り得る。それは、後趙・竺
僧朗が、寺を建てたとする記録に相当する。竺僧朗は、仏図澄の弟子であり、冉閔の乱
(中国で後漢末期以降に統一した晋が滅亡前に匈奴漢が内紛を起こし幼王が次々に殺さ
れた事件。石虎の崩御後石世←石遵←石鑑←石閔がそれぞれ殺害し代わり最後には漢人
至上主義を標榜し同族の異民族大虐殺を始めた為に前燕東晋に攻められ滅亡する事件)
を避けて、351年(皇始元年)に泰山の金輿谷(朗公谷)に精舎を建立したという。又。
古刹の中の国清寺(こくせいじ)は、中国浙江省の天台山にある仏教寺院。天台宗の中
心的な寺院として知られる。中華人民共和国全国重点文物保護単位に指定されている。
天台仏教が昔からの流れで日本に於ける山岳仏教として定着したのはかなり古くある。
日子宮(英彦山)の修験道は何故だか座主を三潴の玉垂れ宮の傍に置いた。座主とは、
中国の科挙における試験官を指す言葉である。科挙受験後、合格者は選抜してくれたこ
とへの感謝の意を込めて担当試験官を訪問し、そこで師弟の契りを結ぶ。その時、試験
官をその場の主と言う意味で「座主」と呼んだ。座主は皇帝であるから、日本御座主は
修験者の皇帝であり、日子山の長老であったはずだ。彼の居住地が玉垂れ宮なのだ。

972: 名無しさんAA:18/03/13 15:14
  富安君を探せ              < その9 >

 富安家は現和歌山県と三重県南部である紀伊国日高郡富安村が起源(ルーツ)である
。宇多天皇の皇子敦実親王を祖とする源氏(宇多源氏)という話。早世が多かった宇多
天皇の皇子では唯一長命を保ち、内外から重んじられた存在であった。和歌・管弦・蹴
鞠など諸芸に通じた才人であったが、とりわけ音曲に優れ源家音曲の祖とされる。藤原
忠房が作曲した舞楽曲の胡蝶や延喜楽に振り付けを付けるなど、日本の音楽史上重要な
人物である。勅撰歌人として、『後撰和歌集』に和歌作品が1首のみ採録されている。
宇多天皇は多色家でもてたらしく20人くらいの子がいる。宇多天皇の若年時からの妻
は藤原胤子・橘義子などで、宇多天皇が臣籍降下し源氏となっていた頃に生まれている
。第一皇子・敦仁親王はのちの醍醐天皇になったが・第二皇子斉中親王は5歳で元服し
たが7歳で夭折し薨奏は行われなかった・第三皇子斉世親王は生誕時は源氏であったが
11歳の時に大学寮において講書初めが行われ13歳で11月に元服した。その後には
兵部卿・上総太守などを歴任し斉世親王になった。しかし延喜元年(901年)に、岳父
の菅原道真が、斉世親王の兄である醍醐天皇から斉世親王に譲位させようとしたという
嫌疑で九州大宰府に左遷される(昌泰の変)と、出家して仁和寺に入って真寂入道親王
(しんじゃく にゅうどうしんのう)となり、真寂と名乗った。その後は欣求修行につ
とめて7回の灌頂を受けた。三品に叙された。その後、女御藤原温子がついた。温子は
関白藤原基経の女で、宇多天皇即位後に入内した。女御藤原胤子が病没後に、皇太子の
敦仁親王の養母となり、醍醐天皇即位に伴い、皇太夫人となった。晩年は東七条宮とし
て「亭子院」に住んだため、東七条后、七条后とも呼ばれた。橘義子所生の斉世親王は
、菅原道真の女を妻としたことから、後年菅原道真の誣告に際してその名が取り沙汰さ
れた。また女御菅原衍子は道真の女である。宇多天皇の孫は、ほとんどが源氏の姓を賜
り、臣籍降下した。こうして宇多天皇から出た源氏を宇多源氏といい、宇多氏の従弟は
桓武天皇の子であり桓武平家となった。敦実親王から出た系列が最も栄えた末席に富氏
がいた。「貞盛、将門の謀叛を予言しける事」には逸話も伝わっている。仁和寺に籠っ
ていた時御許に将門が郎等五・六人を連れて参入して来た。つづいて貞盛が参入してき
たため、将門と貞盛は門ですれ違った。このとき貞盛は郎等を連れていなかった。そこ
で貞盛は御前に参って「今日郎等を連れていなかったことが、残念です。もし郎等を連
れていれば、今日殺していたことでしょう。将門は天下に大事を起こすことになる者で
す」と申し上げたというものだ。


973: 名無しさんAA:18/03/13 15:15
  富安君を探せ              < その10 >

『大和物語』は面白い事に雑事を扱った和歌だ。当時の貴族社会の 和歌を中心とした
歌物語で、平安時代前期『伊勢物語』の成立後、天暦5年(951年)頃までに執筆された
と推定されている。登場する人物たちの名称は実名、官名、女房名であり、具体的にあ
る固定の人物を指していることが多い。だが主人公はいない。通常では、内容は173
段に区切られる。約300首もの和歌が含まれているが、『伊勢物語』とは異なり統一
的な主人公はおらず、各段ごとに和歌にまつわる説話や、当時の天皇・貴族・僧ら実在
の人物による歌語りが連なったいわばオムニバスの構成となっている。現代風の和歌だ
。第140段までの前半は物語成立の近年に詠まれた歌を核とし、皇族貴族がその由来
を語る歌語りであり、その後141段からの後半は、悲恋や離別、再会など人の出会い
と歌を通した古い民間伝説が語られて、説話的要素の強い内容となる。二人の男からの
求婚された乙女が生田川に身を投げる「生田川伝説」や、「姥捨山伝説」などがある。
また「伊勢物語」にあらわれる「筒井筒」と同じ話が「大和物語」にも出てくるなど、
「伊勢物語」の影響は色濃い。「後撰和歌集」や「躬恒集」「檜垣嫗集」「公忠集」な
どの和歌が「大和物語」に出てくることから、これらの作品も何らかの関係があろう。
ラ変動詞「あり」「居(お)り」の尊敬語である「いまそかり」が数多く使われているも
似ている。尾形 月耕(おがた げっこう、)は江戸の終わった安政時代のに生まれて、
大正9年まで活躍した浮世絵師だ。日本の明治から大正期の浮世絵師で日本画家の尾形
月耕の『大和物語』の木版画は海外にまで行って散逸している。しかし同じ歌物語の、
『伊勢物語』は多いが『大和物語』については絵画化の例はほぼ皆無であり、月耕の作
は珍しい例といえる。内容は、『日本古典文学大系』9などが詳しい。彼は葛飾の地主
だった父の強い奨めにより絵を独学で学び、京橋弓町で提灯屋を営む一方、「絵ビラ」
を描き絵草紙屋を周って、錦絵を描かせてほしいと頼み歩いて始めている。吉原遊廓の
絵びら、人力車の蒔絵、七宝家濤川惣助の輸出向けの陶器、漆器の下絵などを描いて、
画技を磨いて行った。そうした中で明治10年(1877年)ごろ『征韓論』と称される三枚
続りの時事物錦絵を自費出版した。評判になって、河鍋暁斎の目に止まりその推薦を受
けた。名鏡正之助の名は少しずつ知られるようになると、琳派の系統尾形光哉の家姓を
襲名して尾形を名乗る。明治15年ころより尾形月耕名で単行本やボール表紙本の挿絵を
はじめ、「絵入朝野新聞」など新聞の挿絵を手掛けて当時の浮世絵師の細見で23人中
7番目の絵師とされた。此処に富安のルーツが忍ぶ

974: 名無しさんAA:18/03/13 15:32
  富安君を探せ              < その11 >

 菅原道真が大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後天変地異が多発し
たことから、朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学
問の神として親しまれている。だがもともと遣唐使の長として集められていた。寛平6
年 (894年)には正式に遣唐大使に任ぜられていた。だが、唐の混乱や日本文化の発達
を理由とした道真の建議により遣唐使は停止されてしまった。その後、延喜7年(907年
)に唐が滅亡したため、遣唐使の歴史はここで幕を下ろすこととなった。寛平7年(895
年)参議在任2年半にして、先任者3名(藤原国経・藤原有実・源直)を越えて従三位
・権中納言に叙任してめちゃめちゃ恨まれてはいたのである。またこの間、寛平8年の
(896年)長女衍子を宇多天皇の女御として、寛平9年(897年)には三女寧子を宇多天
皇の皇子・斉世親王の妃とするなど、皇族との間で姻戚関係の強化も進めていたので、
この大宰府左遷は彼には予想していた事だった。昌泰2年 (899年)右大臣に昇進して
、時平と道真が左右大臣として肩を並べた時、儒家としての家格を持っていた道真が、
家柄を超えて大臣に登るという破格の昇進に対して妬む廷臣も多くて、翌昌泰3年(900
年)には文章博士・三善清行が道真に「止足を知り引退して生を楽しむよう」諭した。
しかし、道真はこれを容れなかった。とされる。昌泰4年(901年)正月に従二位に叙せ
られたが、間もなく醍醐天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀ったと誣
告され、罪を得て大宰員外帥に左遷される。宇多上皇はこれを聞き醍醐天皇に面会して
とりなそうとしたが、醍醐天皇は面会しなかった。また、長男の高視を初め、子供4人
が流刑に処された(昌泰の変)。この事件の背景については、時平による全くの讒言と
する説から宇多上皇と醍醐天皇の対立が実際に存在していて、道真が巻き込まれたとす
る説まである。左遷後は大宰府浄妙院で謹慎していたが、延喜3年(903年)2月25日に
大宰府で薨去し、安楽寺に葬られた。享年59歳だったとされるが、実は密かに筑後川の
越えて、高良大社に、移り住んで時を過ごしたとされる。正室の島田宣来子は島田忠臣
の娘だったが、島田家も当然白い目で見られる為多数の従者を九州にお供させていた。
子は長男・高視や五男・淳茂をはじめ男女多数。子孫もまた学者の家として長く続き、
特に高視の子孫は中央貴族として残り、高辻家・唐橋家をはじめ6家の堂上家(半家)
を輩出した。高辻家からは明治時代に、西高辻家が別家し、太宰府天満宮の社家として
現代に至る。水田天満宮も又そうした菅原道真が一度は立ち寄った場所とされる。


975: 名無しさんAA:18/03/13 15:47
 道真が京の都を去る時に詠んだ「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主な
しとて 春な忘れそ」は有名。その梅が、京の都から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ
飛んできたという「飛梅伝説」も有名である。だがそれは 匂いと荷追い 梅と産め 
花と鼻 春なと遥縄 を掛けていて こっちから呼んだら荷物共に遥かな水縄(耳納連
山)に送れと言う意味とされると言う。大宝元年 (701年)春日氏の一族の山上憶良は
、第七次遣唐使の少録に任ぜられ、翌大宝2年(702年)唐に渡り儒教や仏教など最新の
学問を研鑽する人だった。彼も左遷され、神亀3年(726年)ごろ筑前守に任ぜら任国に
下向している。神亀5年 (728年)頃までに大宰帥として大宰府に着任した大伴旅人と
ともに、筑紫歌壇を形成した。 天平4年(732年)頃に筑前守任期を終えて帰京して、
天平5年「老身に病を重ね、年を経て辛苦しみ、また児等を思ふ歌」を、また同じ頃に
藤原八束が見舞いに遣わせた河辺東人に対して「沈痾る時の歌」を詠んでいる。だが 
少し逆昇ると「青丹よし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり」と、小野
老朝臣が神亀五年四月頃、少弐として大宰府に着任したころの歌を謳っている。奈良遷
都から20年くらい経って詠まれたもので、都の活気に溢れたようすを「花がにおうよう
に」と表現したと言う。万葉集では「にほひ」は、「赤黄白の鮮やかに映ゆる様子」を
いうそうだ。小野 老(おの の おゆ、生年不詳とされ - 天平時代又は奈良時代の歌人
で貴族であったろう。と言う。系譜は明らかでないが一説では中納言・小野毛野の子。
官位は従四位下・大宰大弐であったとされる。『万葉集』には、この老の歌につづけて
詠まれた防人司佑大伴四綱、大宰帥大伴旅人、観世音寺別当沙弥満誓・筑前守山上憶良
の4人による計9首が収載されている。つまりいずれも九州には縁の深い人々の詠み歌人
である。伝説によると、遣唐使や遣隋使は決して博多港から出港はしていないらしい。
実は天台宗がそのこの船便の買い取りを仕切っていて、その多くは、瀬高清水山か鷹尾
神社で必ず旅の安全を祈願して行ったという。それは今の甘木山つまり大牟田の唐船が
船が出る所だったからだ。勿論そこは玉垂れ神宮からの船便もあった筈だ。その昔は歩
く事よりも、船頭の渡し船の方が便利に今のバス停に止まるバスの様に動いていた。と
され、船頭は半農半漁の村人で案内人であった。今の原鶴温泉も、実はかつて日本武尊
時代に天皇の食卓に鵜の取った魚を料理して 天皇から首を切られた鳥飼氏が死んだと
言う名所と伝えられ、当時は山の筏の集積した出荷場所だったと言う。それが朝倉の名
の始まりでもある。浮羽とは杯の事と言われている。まあそれは兎も角、その天台宗の
最澄が帰って来てその無事の感謝に掘ったとされる千手観音を今は祀って瀬高清水寺の
本尊としている。古代山岳宗教の様式そのままに二の眼造りで、ちゃんと2階を、仏様
の目線を入口とした大きな秘仏である。

976: 名無しさんAA:18/03/13 15:52
  富安君を探せ              < その13 >

 従って当時はこの清水山の領地としてみやまや柳川大牟田はあったとされその門前町
として柳川は栄えていた。柳川の「やな」は実は柳の字ではない本来は竹の籠を指す篭
の漢字である。つまり竹や柳の枝などの織物加工が盛んだったのである。当時の皇族や
貴族は、遣唐使によってもたらされた周(武周)の武則天や唐の玄宗の文化を積極的に
取り入れた。これによって花開いたのが、天平文化である。因みに、唐からの文化移入
には特に大宰府の果たした役割はかなり大きかった。 一方で 国衙(こくが)・国分寺
などに任命された国司(貴族)・官人や僧侶などは有力な伝達者になって地方にも新し
い文物がもたらされた。このようにして、中国風(漢風)・仏教風の文化の影響が列島
の地域社会へ浸透していった。シルクロードによって西アジアから唐へもたらされたも
のが、遣隋使や遣唐使を通じて日本にやってきたりしたがその本当の玄関口は大牟田で
あったのだ。だがやはり大規模に真似て権力があったのは京都奈良であった。平城京に
は碁盤の目のような条坊制が布かれた。そこには多くの官衙(役所)が立てられ、貴族
や庶民の家が瓦で葺き、柱には丹(に)を塗ることが奨励された。また、飛鳥に建てら
れた大寺院が次々と移転された。このようにして「咲く花のにおうが如く今盛りなり」
と歌われた平城京が出来上がった。聖武天皇により諸国に僧寺(国分寺)・尼寺(国分
尼寺)を建て、それぞれに七重の塔を作り、『金光明最勝王経』と『妙法蓮華経』を一
部ずつ置くことにした。その総本山と位置づけられる国分寺・総国分尼寺が東大寺、法
華寺であり、東大寺大仏は、鎮護国家の象徴として建立された。この大事業を推進する
には幅広い民衆の支持が必要であったため、行基を大僧正として迎え、協力を得た。こ
の時の行基こそ本郷の行基橋の名の素になった陰陽師であった。行基は奈良時代の高僧
である。俗姓高志 (こし) 氏。15歳で出家して薬師寺で義淵らについて法相 (ほっそ
う) を学んだとされる。法相とは大乗仏教の唯識で「存在の理由」の抽象理論の完成で
ある。平たくいえば、自分や回りが何故存在すのかを仏教理論で解くやり方である。こ
の独特の考えを完成させた華厳宗などがあるが、それらはインド瑜伽行派(唯識派)の
思想を継承する物とされる。孫悟空で有名な玄僧三蔵法師のモデルとなった玄奘が求め
た法典とされ、645年(貞観19年) 中インドから玄奘が帰国し唯識学が伝えられること
になり、その玄奘の弟子の慈恩大師基が開いた宗派で唯識宗・慈恩宗・中道宗とも呼ば
れるものだった。その後 705年に華厳宗が隆盛になって、宗派としては消えた。しかし
、日本仏教に伝わる法相宗は、玄奘に師事した道昭が法興寺で広め、南都六宗の一つと
して、8世紀を過ぎて隆盛を極めた。

977: 名無しさんAA:18/03/13 15:59
  富安君を探せ              < その14 >

 法相(ほっそう)は、存在のあり方を指している。個々の具体的存在現象のあり方だ
けでなく、一切の事物の存在現象の区分やその有様をも指している。実際に、存在現象
そのものに関して、阿毘達磨(あびだるま)文書が伝わり、仏陀の説く真理や仏陀自身
の言葉を「ダルマ」(真理)と解し、その考え方の幾つもの解答「アビダルマ」(対法
)が伝わり日本では「アビダルマ」(論)が「論蔵」となり、経蔵・律蔵・論蔵の三蔵
が成立した。これら「説一切有部」(せついっさいうぶ)などは各派に分かれた部派仏
教を中心に集められ研究が進められた結果と言える。存在現象のあり方を、我々人間が
どのように認識しているのか、という研究が進められた。更に、最終的には一切の存在
現象はただ識に過ぎないとする解法である。さらに三性説を立て、人間が縁起の理法に
気付く(覚る)までをダイナミックに分析する。三性とは、事物は縁起に依るという「
依他起性」、それに気付かずに執着するという「遍計所執性」、縁起を覚って円らかに
なる「円成実性」と分けている。これは西洋科学では「行動原理」と「相互依存」と「
相互調和」の経済学みたいなものである。こうして基は師の玄奘が訳出した『成唯識論
』を注釈し、一切法の相を五位百法に分類し分析的に説明した。この相と性を学ぶこと
を合わせて性相学とした。こうした「唯物行動学」基本的に一回しかない日々の行動学
の社会理論を身に着けた後、さらに山林で禅定 (ぜんじょう) を修した。禅定は仏教の
三学の戒・定・慧と言う、仏教においての(戒律を守ることと禅定と智慧とは一体)に
なった中の行動学で、何にも捉われずに足を掬われない生き方の仏教科学の実践である
。つまり戒律と知恵と行動の乖離しない生き方を修行として、山などで人に頼る事なく
実践する修行である。こうして自然の中の知識と人の行動真理と仏法の戒律を修めた後
母の忌服を終えると諸国を遊歴して自行化他 (じぎょうけた) に励んだ。自行化他は、
みずからのために仏道修行し、さらにその得たところをもって他を教化することで、他
で言う勤行(ごんぎょう)の、「勤(つと)めて善法(ぜんぽう)を行うこと。」を、
自然の中や村々を回って行っていた。しかしこの結果これに従うものは千人とも1万人
を超えたとも言われている。弟子を連れて各所において橋を造り、堤を築いた。瀬戸内
海に五泊 (ごとまり) を開いたのもその一例であるとされ、各地に布施屋 (無料宿泊所
) をつくり、摂津に田 150町歩もの開墾し、各地に道場 (僧尼院)を建てて畿内にあ
るものだけでも 49ヵ所に及んだ (四十九院) 。つまり仏教学の究極の実践であった。
西洋の経済学に劣らないこの「説一切有部」と三性説の「遍計所執性」「円成実性」を
行動したのである。

978: 名無しさんAA:18/03/13 16:22
  富安君を探せ              < その15 >

 行基のこの行動は朝廷を震え上がらせた。一介の名も無き高僧が、朝廷の威光よりも
強く全国に広まり実践した修行が社会資本の充実だったからだ。更に彼らの唱えたもの
は天皇が今まで礼拝した神道でもなく、奨励し国分寺を立ててまで広げようした仏教で
もなく、祭りと相互扶助と生活利便を基にした陰陽道というものだったからだ。この行
為によって国家の混乱が収められたが朝廷は認めなかった。この宗教活動に朝廷はきび
しい弾圧で接した。養老1(717) 年4月の詔となって各所に発布された。詔には行基や
弟子たちが巷でみだりに「罪福」を説き、家ごとに説教して歩きまわり、施物を強要し
て聖道と称して民衆を惑わした。と断罪し民衆が生業を捨てて行基に従ったのでこれを
禁止する。というものであった。しかしながら、朝廷は彼らの勢力を無視する事は出来
なかった。天平3(731) 年においては陰陽道に「修業するもので、男は61歳以上、女
は55歳以上のものに限り入道を許すことを行基と結んだ。同15年、彼は当時行われ
ていた東大寺大仏造営のための、諸方を勧誘して歩く事になった。仏教でお布施と寄進
が商売の様に行われていたが、陰陽道は導師による先達によって新たに創られた田園や
橋や湖などの水理の供給などで、信者の帰依が豊富であった。従って陰陽道は、祝いや
祭りによっての賽銭でも充分な資金をもっていたのである。こうして彼が以前から民間
に培っていた勢力が、大仏造営に利用された。彼の従えた者たちは多くは鬼と呼ばれた
強力な剛腕の職工集団であった。従って彼ら無しは建設土木に錺工事も設計も全く出来
なかった。遂に同年1月21日前例のない大僧正に任じられ,宗教上の最高の地位に立
った。同21年に聖武天皇に菩薩戒を授けて、菅原寺の東南院で80歳の生涯を閉じた
。彼にまつわる多くの霊験譚が伝えられ、また当時の人々は彼を行基菩薩と称した。最

979: 名無しさんAA:18/03/13 16:22
。彼にまつわる多くの霊験譚が伝えられ、また当時の人々は彼を行基菩薩と称した。最
古の日本全図は彼が作ったと伝えられ、又彼らの弟子もそれぞれ崇められ同じ様に地域
に即した土木工事をして民を豊かにし同じ様に行基の姓と聖(ひじり)の役職を民は与
えた。聖というのは、元来「日知り」を意味し、太陽の司祭者を指したとされる。仏教
伝来後は聖の字があてられ、学僧を聖と呼ぶようになった。日子山が彦山となり英彦山
となった様に、平安期に末法思想などが仏教で広まると、それに伴って信仰を庶民に普
及する僧たちを、念仏聖呼んだ。寺院に定住せず深山の草庵に住んだり遍歴しながらの
修行僧の半僧半俗の存在の高徳者として聖としたのは平安中期とされる。聖は、それま
で寺院学僧に相対し、寺院経済を支える禅徒の立場で、客僧に過ぎない地位にあった。
その為に、聖たちは、仏教では寺院から離れ別所と呼ばれる場所に集住し、活動の拠点
としていた。本来は、聖(ひじり)のその語源は仏教伝来以前の民間信仰の司祭者とさ
れ仏教でない拝火教から陰陽道に変化した時の呪術者の名で祈祷師達の事だった。仏教
がここに飲み込んだ形で定着した。こうして日本において諸国を回遊した仏教僧をいう
言葉になった。


980: 名無しさんAA:18/03/13 16:27
  富安君を探せ              < その16 >
 当然ながら各所に聖(ひじり)の本拠地があるように筑後にも各所の寺の別所として
、存在した。実は清水山が天台宗の秘境寺であった事は意外に知られていない。その為
に鷹尾神社と清水寺更に霊厳寺の間にそれぞれ行基を祭る寺院があった。八女の祁答院
や筑後の善法院などがそれで、瀬高の今や筑後広域運動公園になっているが、本来は、
こうした歴史の宝庫の部分は史歴の里として 過去の立花藩同様に残しておくべき場所
だ。幸作橋はその名の通りこの川の制御によって柳川や大和の地が災害が無くなり耕作
地が広がった事を示している。その名を止めたのが五拾町付近の聖川(ひじりかわ)で
ある。今や見る影もないが実は昔は沖の端川は存在しない小さな川だった。聖河は行基
橋からすぐに五拾町と御仁橋当たりを流れて賽満神社や日吉神社の裏を流れていたのだ
。地名からも解る様に御仁橋は本来鬼橋であり賽満神社は災難神社であり日吉神社は、
日枝神社であった。これは中山の藤から六郷当たりまで一つの島であったと考えられる
。大将軍通りに太閤秀吉がやって来て名前を変えたのだが、それまでは六郷も陸郷であ
り棚町も田の町だったと思われる。会談したとされる久末は相当に古く平安以前の地名
とされ、鬼橋というのは当然ここに橋がありその向こうに鬼と言われた陰陽道の信者が
いたと思われる。何故こうした事にこだわるのか。実は富安の始祖とされる七条后と呼
ばれたその子橘義子の斉世親王は、真寂入道親王になったが、それは岳父の菅原道真が
、斉世親王の兄である醍醐天皇から斉世親王に譲位させようとしたと嫌疑を掛けたから
だ。九州大宰府に左遷されるされ天皇の兄に勘当されるその前には兵部卿・上総太守な
どを歴任したと言う非常に人気のある慕われた人事の長であった。斉世親王は仁和寺(
にんなじ)に入って真寂と名乗ったが、実はその仁和寺は丹羽氏の鉱山の山師の職業僧
に繋がっている。丹羽氏は赤土を意味し金貨つくりや銀貨の掘り出しなどは彼らが山を
見なければならなかった程見識があり弘法大師の空海も帰国後には、さきの錺職人によ
って商を興す為には必要不可欠の一族であったとされている。にわ氏は一つの血統では
なくその鉱物選別の学を修めた者の職業や役職としてあったと考えられる。こうして、
仁和寺(にんなじ)は、京都府京都市右京区御室にある真言宗御室派総本山の寺院とし
て、号を大内山と称する。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は宇多天皇。「古都京都
の文化財」として登録されている。皇室とゆかりの深い寺(門跡寺院)で、出家後には
宇多法皇が住したことから、「御室御所」(おむろごしょ)とも称された。その後皇族
がいなくなり「旧御室御所」と称するようになった。しかし当然ながらこの出家後に、
宇多法皇が真言宗に帰属したとして天台宗は勢力を阻められた。これは宇多法皇の失敗
であろう。開祖空海ですら天台宗門の仏僧であったのだから。

981: 名無しさんAA:18/03/13 16:41
 日本は不思議な国で、平安時代には恐らくインドや中東の宗教は中国を通じて全てが
入って来ただろうとされる。聖徳太子が厩屋の皇子としてキリスト教の宗門だった事は
明らかであるように、バラモン教ヒンズー教イスラム教キリスト教儒教と色々入って来
たが、全ての流入宗教を外国の耶蘇教として仏教の流派とした。国家神道として山岳宗
教の拝火教(原始ゾロアスター教)やら地方の地場信仰をやっと統一してその後の仏教
と折り合いを付けた頃だったからだ。斉世親王の兄である醍醐天皇から斉世親王に譲位
させようとしたと嫌疑を掛けられて家臣が移り住んだ場所が富安郷とされる。和歌山県
御坊市湯川町が富安発祥地とされ。鎌倉時代からは記録のある地名だが同地に分布があ
るのはそこで鉱脈からの金山の流れがあったからだ。佐賀までやって来た六角氏は近江
源氏として名高い佐々木氏の嫡流とされる。佐々木氏は宇多天皇の皇子敦実親王が子の
源雅信の子扶義を養子とし、その扶義の子成頼が近江国蒲生郡佐々木庄に居住し佐々木
氏を称したのが始まりといわれる。しかし、佐々木庄には大彦命の後裔といわれる佐々
木貴山氏という古くからの豪族もあり、両者の間には錯綜したところがあって、確実な
ところは分からない。富安家も宇都宮氏の流れがあり、熊本の豪族菊池一族の家臣にな
った時、鷹尾神社の座主となった田尻氏と縁戚にもなっているという。田尻氏は 豊後
大神氏の一族で緒方氏同様に宮崎に新羅人が数多くやって来た時に、その地を追われて
薩摩国伊作田尻村を領した者と菊池の地を領地とした2系統になった。が平安期に阿蘇
山や降雨の災害によって山の住処を追われ鎌倉期に三池を領地とした。鷹尾の神主は、
もともと秦氏の下で加茂氏の管理だったが、久留米の宇都宮氏が蒲池氏を名乗る頃に、
玉垂れ宮座主と神官北島氏の関係で秦氏より蒲池氏のものとなって勢力が移った。こう
して田尻氏が移り住んだがこの頃大変な事が起こった。河野氏は海賊退治に出かけて来
た一族だ。河野氏(かわのし)は、伊予国(愛媛県)の有力豪族で、越智氏の流れを汲
むとされる。彼らも清水の麓に住み着いたのだ。河野宗家は、代々湯築城を拠点として
いた者の外に湯築城へ移転するまでは、善応寺の双子山城を本丸として支城に恵良山城
、鹿島城、大山寺城、高縄山城などを有し、河野家の兵力は、瀬戸内最大規模の水軍と
なり、日本一の水軍となっていた。だが本来は、代々安曇族の松浦党配下で日足紋の地
で菊池氏要する村上水軍の縄張りであったのだ。形式的には今や河野氏は配下であるが
、独自で磯良丸起源の海童の地で老舗の村上氏の聖地であった。協調はしても従属関係
にあったわけではない。伊予水軍は大三島の大山祇神社を崇拝したのは、この地の海人
族が三島神社の祀りを執り行う習いを真似た事であったし、そも筑紫大伸宗像氏からの
報もなかった。


982: 名無しさんAA:18/03/13 16:53
  富安君を探せ              < その18 >

しかし、それは仕方が無かった。日本各地でそれも瀬戸内海でさえも海賊が出現してた
 刀伊の入寇(といのにゅうこう)である。寛仁3年(1019年)に、女真族(満洲民族
)の一派とみられる集団を主体にした海賊が壱岐・対馬を襲い、更に筑前に侵攻した事
件で刀伊の来寇ともいう。かれらは残虐でこの有明海にもやって来ては村々を襲った。
これに菊池軍も田尻氏や緒方氏や詫間氏を向かわせた。ところが彼らは残虐で火を放ち
弥四郎町の城は焼けた、多くの火矢が矢留町に止まり寺前や鬼堂町から筑後の国とされ
た柳川市街は殆どが焼け落ちたとされる。これによって京に送る久末の米は無くなった
それどころか船さえも無くなったのである。もともとは筑紫の国は大宰府ではない。こ
の有明海は「しらぬいのうみ」とされ「白い波がうねる美しいうみ」で筑紫の冠はその
海の色をして「つくしがたい美しさ」を意味する。大牟田の「牟田」も同じで緑の田畑
の美しさを謳った言葉であった。これにより藤原氏全盛の時代は終ってしまう。兵力で
ある武士団の兵糧が賄えなかったからだ。こうして武士も独自の神社荘園の護衛に付き
力を付けた。保元の乱(1156)で藤原氏全盛の時代は終り、貴族の手足として働く
存在だった平清盛と、源義朝が率いる武士団の実力は次第に影響力を強め、更に平治の
乱(1159)によって権力が平氏に集中、貴族に代って清盛の率いる一族が支配者と
なる。しかし関東の武士団にとっては支配層が貴族から平家に変っていただけだった。
この時戦いを率いたのが六騎とされる。この正伝では壇ノ浦で敗れた平家の落人達の、
肥後路へ逃避したものの行きついた為とされる。だが現実には彼らは平家ではないのだ
落武者6名(難波善長、加藤権内、浦川天ヶ左衛門、鳴神藤助、是永多七、若宮兵七)
は、柳川沖端に移り住み漁業をはじめたといわれているが、もっと早い時期の話である
。正伝では1185年檀ノ浦で破れた平家の落人は肥後路へ逃避した、しかし源氏の追求は
厳しく平家の末路は哀れで、人跡未踏の深山に身を隠しましたが淋しき山間の生活に堪
えかね各地を流浪し馬に乗って柳川の地に流れて来た。落武者の隊長は難波善長(平益
信) 加藤藤内(平正勝)、浦川天ヶ左衛門(平高矩) 鳴神藤助(平親英)、是永多七(平政
直) 若宮兵七(平清貞)とされ 当時の人々は平家の身分の高い人達として六名の騎馬武
者を『六騎』(ろっきゅう)と称した。有明海沿岸の地に身を隠し細々と生きて子孫を
遺してきた『六騎』でしたが、戦国時代には日本国中が乱れ特に九州地方の海岸沿いは
海賊の被害が甚しく有明海岸にも来襲して来たと言う。だが伝え聞く話は平家の落人は
「井上氏池末氏矢部氏大渕氏」などの祖先であってかなりの数になる。又、海賊で源平
合戦になったのであって、源平合戦から海賊が出たのではない。

983: 名無しさんAA:18/03/13 17:05
  富安君を探せ              < その19 >

 又別に立花藩の馬頭観音の山では平家の落人の里があり、平家の弓教経の剛弓がある
教経は弓の使い手で、大人二人かがりでも彼の弓を引けなかった。と言われている。弓
で有名なのは「扇の的」を射抜いたとされる屋島の弓人「那須与一」(なすのよいち)
の弓を祭った真弓神社のある里がある。源平合戦では源氏軍が意外にも少数だと知ると
、平氏軍も猛反撃に出ていたが船の攻防戦も一時休止状態に陥る。そして時は夕刻。休
戦状態となった戦場で、平氏は余興を始めます。突然、美女の乗った1艘の小舟が現れ
、「この扇の的を射ってみよ!」と挑発してくるではありませんか。「外せば源氏の名
折れだ!」と義経に無茶ぶりされた那須与一。「南無八幡大菩薩、我が国の神明…。こ
れを外せば自害して…」と覚悟を決め矢を放つと、見事扇を射抜いたのです。これには
、源氏も平氏も拍手喝采した。もともと源平合戦は清和源氏と桓武平氏の戦いである。
源氏と平氏の始まりは、桓武天皇が平安京に都を移したころにさかのぼる。清和源氏と
か、桓武平氏とか、頭にくっついているのは天皇の名前で、どの天皇の氏族から出た一
族なのかをあらわしている。当時天皇家の血筋を引く物が多く皇子を建てるのに一般的
に殆どを庶民に格下げした。その上で権力ある者や人気や実力ある者を任意に引き上げ
て皇太子になり皇位に戻していた。この格下げて朝廷が面倒見ない者に平家や源氏の冠
を付ける事を認めた。つまり天皇の血筋を公けにしても良い制度である。だが源氏が多
く在る中で平家を名乗る者が出て来た。それが桓武天皇の血筋だったのである。だが、
現実的には時の有力者に左右されてそれぞれがそれぞれを名乗った。しかしその前に、
筑後の状態を考える事が大事だ。海のそばの島のある沼地にそれぞれの島が村を作って
いた。それらが次第に平野になっていた。そんな中に海人族が住み着いていた。海人系
豪族は、古くは記紀にその先祖が登場し、中世になると水軍として、戦国大名の強力な
戦力となっていった。特徴的なのは時の為政者、天皇に、膳夫として御贄(食事)を献上
し、舞を舞うという従属儀礼を行って大和朝廷の一員となり、子々孫々までも大膳職・
内膳司や日本古来の皇室系・神道系の祭祀用歌舞の教習などに奉仕した人だ。内膳職の
代表が阿曇氏と阿部氏系の高橋氏とされ、両氏が内膳の長官を務める時には。特別に、
奉膳(ぶうぜん)といい、他氏が長官の場合は内膳正を称したという。このように阿曇氏
・高橋氏は嫡系として区別されていたという。歌舞の教習については、殆んどの海人族
が日本の伝統芸能に深く関わっている。と言う事になる。清和源氏と桓武平氏の戦いで
宇多源氏は又違った活動がそこにあった。真言宗と天台宗の宗門の戦いである。この地
にはその戦い以前に菅原道真以下先の下向組が存在していたのである。

984: 名無しさんAA:18/03/13 17:19
  富安君を探せ              < その20 >
またこの筑後には、闕史八代と言われる実在が否定される天皇(2〜9代)の子孫が多い
ということ。これらの天皇は、どうも創作の匂いは強いが史実の神社も多い。10代崇神
朝の四道将軍(四方の征討に派遣されたという将軍)の末裔が多いというのも特長的であ
る。北陸使の大彦命は阿倍氏を名乗り、東海使の武渟川別命は大彦命の息子も阿倍氏、
西道(山陽)使の吉備津彦命は吉備氏、丹波(山陰)使の丹波道主命は息長氏と、海人系の
有力豪族とされる。彼らは恐らく皇子ではなく、この4つの地方に独立した「海人の王
国」の首長であったと考えられる。この筑後も同じで大和朝廷の天皇らは、彼ら海人の
首長達と婚姻関係を結ぶことによって、その勢力を取り入れていったのだと思われる。
倭建命がこの四道将軍の投影だとすれば、熊襲(久米氏・阿曇氏)や出雲(賀茂氏)も又、
「海人王国」であったと思う。ところが加茂氏と安倍氏が仲違いしている。陰陽道の宗
家のひとつ。天文道を伝える安倍氏に対し、暦道を伝えるのが賀茂氏である。本来は、
賀茂氏は安倍氏の師匠筋であり、古代にあっては安倍氏より優位にあった。室町時代に
賀茂在方の子在貞・在長(在豊・在成とも)が勘解由小路を称した。勘解由家は鶴紋を
家紋としている。室町時代の終わりに勘解由小路在富(かげゆこうじありとみ)が左馬
頭や宮内卿なども兼務しながら、陰陽頭を大永2年(1522年)、暦博士を天文2年(1533
年)を務めた。この間の享禄4年(1531年)には従三位に昇る。また、大永2年より、
天文6年(1537年)まで宮内卿を務め、陰陽師としてだけでなく後奈良天皇の側近とし
ても活躍したが、彼が賀茂氏系勘解由小路家の事実上の最後の当主で没して後途絶えた
。藤原氏一族の藤原北家の流れだが、同じに藤原道兼の曾孫を称する藤原宗円が源頼義
、義家の、奥州安倍氏討伐(前九年の役)の際に安倍氏に一矢報いた。この功により、
藤原宗円は宇都宮を領地として授かり宇都宮家と名乗った。この宇都宮家は源頼朝をし
て「関東一の弓取り」と言わしめた宇都宮朝綱を産んだ。第3代宇都宮氏当主である。
第5代宇都宮頼綱(藤原頼綱)は武人で奥州藤原氏討伐にも功績があったが、鎌倉幕府
から謀反の嫌疑をかけられたのを機に法然に帰依して出家、実信房蓮生と号して京に隠
棲して宇都宮歌壇を確立した。こうして日本国土の治安維持を司った名家で国司や守護
も歴任し、現在では戦国大名とも評された。宇都宮氏は各所に念仏堂を建立し、現在も
それぞれ入逢山西方寺、梅田山西方寺、芳宮山清巌寺に受け継がれている。柳川の西方
寺も又宇都宮氏を受け継ぐ蒲池氏の建立と思われる。この加茂氏が鶴紋を掲げ立花旧家
も鶴紋を掲げたと言うのは藤原氏真夏流の日野氏や南部氏は甲斐武田氏の一族で島津氏
の旗紋というのは源頼朝の奥州征伐以降何らか功を貰ってとの事だろう。日足紋又鷹羽
の紋或いは巴紋、梅耀波紋と言うのが普通だからだ。

985: 名無しさんAA:18/03/14 07:40
  富安君を探せ              < その21 >

 この海神族の松浦党は柳川に於いて蒲池氏と名乗り村の族長となっていた。蒲池氏(
かまちし)は、鎌倉時代に筑後国の一族となったが。鎌倉時代は地頭職、室町時代は大
身(たいしん:複数の国衆を持つ身分)の国人領主となり、また戦国時代は筑後十五城
の旗頭の大名分で柳川城主となった。蒲池氏は歴史的に見ると、嵯峨源氏そして嵯峨源
氏渡辺党松浦氏族の「前蒲池」時代(鎌倉時代〜南北朝時代)と、藤原氏系宇都宮氏族
の「後蒲池」時代(室町時代〜戦国時代)がある。蒲池氏の祖ともいうべき祖蒲池時代
の出自の伝承としては複数説がある。1.古代の多氏の子孫説 2.藤原純友の子孫説 3.
橘公頼の子孫説だ。彼は多くは松浦党の左三巴紋を家紋にしていた。だが比翼鶴紋も又
家紋としている。たぶん日足紋も又あったはずだ。なぜこうも紋を変えたか。それはこ
こが九州で戦乱の境界地だったからだ。多氏の子孫説は、阿蘇神社古文書によると阿蘇
氏の祖とされる多氏は神武天皇の子の神八井耳命(かむやいみみのみこと)の子孫とさ
れるが、神八井耳命の孫の速瓶玉命(はやみたまのみこと)の奥方(妃神)が阿蘇国造
神社の主神である蒲池媛(かまちひめ)であり神功皇后に仕えたとされ、その子孫とい
う伝承である。蒲池氏の源流については、九州の古族説があるが、その場合、この説は
もっとも有力な根拠とされている。この多氏は他氏の当て字であろう。古族多氏の子孫
は、多朝臣、意富臣、小子部連、坂合部連など中央豪族で繁栄した系統、火君、大分君
、阿蘇君、筑紫三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余國造など九州を中心
に繁栄した系統、科野国造、道奧石城國造、常道仲國造、長狹國造、伊勢船木直、尾張
丹波臣、嶋田臣など東国に繁栄した系統があり、国造になっている例も多い。神武天皇
は即位して伊須気余理比売命と結婚され、日子八井命、神八井耳命、神沼河耳命の三柱
の御子をもうけられた。とされる。しかし、『先代旧事本紀』には、日子八井命は弟・
神八井耳命の御子とある。更に神八井命(かむやいのみこと)が神武天皇の御子となり
。神八井耳命と神沼河耳命の兄弟が、腹違いの兄・多芸志美美命を殺し、その時、神八
井耳命は臆したため「我は兄なれども、上位に立つべきにあらず。汝が天下を治めせよ
。我は汝を扶けて忌人ととなりて仕えよう」と申され、弟の神沼河耳命が皇位を継いだ
。神八井耳命は、こうして弟の「神沼河耳命」が下で働いた。その後日子八井命が皇位
を継いだ事になっている。


986: 名無しさんAA:18/03/14 07:58
 多氏(おお・うじ)はある意味、秦氏よりも謎の多い氏族である。どこから彼らが大和
に来て、どうして大和で祭祀者として根付き、どうやって『古事記』を編纂することに
なったかということも、まだ充分にわかっていない。また、彼らの分派氏族がなぜ北関
東や九州や信州などに拡大して行ったか、なぜ天武天皇の最重要な騎馬氏族となったか
など、史学では一向に明確にならないまま、ただ時が過ぎている。多氏のうち、畿内の
本流一族は大和国十市郡に移り、同地の飫富郷に住む。多氏といえば、まず太安万侶(
おおの・やすまろ 養老7年7月6日(723年)には、奈良時代の文官と記録)というこ
とになる。そしてその父であろう美濃の多臣品治(おおの・おみ・ほむじ7世紀後半の
人)が知られている。安麻呂はもちろん『古事記』編纂で、品治は天武壬申の乱でそれ
ぞれよく知られる存在である。だが、この氏族のほかの人名をよく知る人はそうはいな
いだろう。多氏は太氏、意富氏とも表記されて記録に登場する。読みは「おふ」つまり
「おお」である。久安五年(1149)の「多神宮注進帳」によれば、安麻呂は表記を「多」
から「太」に改めるとある。しかし子孫はやがてまた「多」に改めている。宝亀元年(
770 )10月23日以後のことだ。少なくとも天武壬申の乱の頃には父・品治の姓は「多」
となっている。祖神は神八井耳命(かむやいみみのみこと)である (『古事記』『日本書
記』『新撰姓氏録』に共通。)安麻呂はその十五代であるとされている。また安麻呂か
ら51代目が現在の多神社宮司の多忠記(おお・ただふみ)である。これ以後の人名をこれ
から列挙するが、これ以前は神話的な伝承の名前しかわからない。古族多氏の子孫は、
意富(おふ)臣、小子部(ちいさこべ)連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連
、雀部(さざきべ)臣、雀部造、小長谷造、都祁(つげ)直、伊余國造、科野国造、道奧石
城(みちのくのいわき)國造、常道仲(ひたちのみちのなか)國造、長狹國造、伊勢船木直
、尾張丹波臣、嶋田臣など、全国にわたり国造になっている場合が多い。又、飫肥城の
名もひっかかる。飫肥城(おびじょう)は、宇佐八幡宮の神官の出で、日向の地に武士
団として勢力を伸ばした土持氏が南北朝時代に築城したのが始まりと伝えられ、飫肥院
とも呼ばれていた。時代は下って、九州制覇を狙う薩摩の島津氏が力をつけ、鎌倉時代
から日向で勢力を蓄えていた伊東氏の南下に備えて、志布志城主で島津氏の一族である
新納忠続を飫肥城に攻め入り九州戦国時代にはいる。和歌山県御坊市湯川町が富安発祥
地とされるが。大和国十市郡に移りの飫富郷に住む太安万侶の一族であった可能性も又
捨てきれない。飯富氏(おぶし)は、上総国望陀郡飯富庄を任官の地で、初代は源義家
の孫にあたる飯富源太忠宗(源忠宗)ともされる。富氏が登任してその名になった、。
とも言える。こうして各地に行った中で人々や自分から分ける為の苗字をつけたのだろ
う。

987: 名無しさんAA:18/03/14 07:59
  富安君を探せ              < その23 >

伊東氏の飫肥城にかける執念は凄まじく、何回も伊東氏による大きな戦争が飫肥奪還と
して断続的に続けられることとなる。その中に大友氏と島津氏の耳川の戦いにおいても
、蒲池氏は三千の兵を率いて大友方として出陣している。最終的には飫肥を失った伊東
祐兵が羽柴秀吉に仕え九州平定に参加し、九州平定軍の先導役を務め上げた功績により
再び飫肥の地を取り戻し、大名として復帰を成し遂げた。太安万侶の彼がいなかったら
、古代史は今のような形で伝わっていなかったかも知れない。『古事記』をはじめ、『
日本書紀』の編纂にも関わったとされる文官の、その墓が発見されたのは1979年、茶畑
の斜面にて。直径約4.5mの墳墓に収められていたのは墓主を明らかにする墓誌をはじめ
、火葬骨や真珠などが発見された。この墓誌の文字から成る銘文には「太朝臣安萬侶」
の名のほか、居住地や位階、死亡年月日などが記されていた。奈良時代の上級官人の墓
が、このように規模や構造、遺物の出土状況等が明らかにされた例は極めて少ない。こ
の太安万侶は奈良時代の元明天皇の頃に活躍した文官(ぶんかん)だが、元明天皇の命に
より稗田阿礼(ひえだのあれ)の読む今は無き歴史書「帝紀(ていき)」「旧辞(きゅうじ)」を太安万侶が編纂(へんさん)してつくったのが「古事記」で、日本最古の歴史書と言わ
れる物を書いた711年の最も古い文献とされる。ちなみに墓所の「太朝臣」と書かれ
た板は、のちに国の重要文化財に指定される墓誌でした。左亰四條四坊従四位下勲五等
太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳と書かれており、太安
万侶の住んでいた場所や位、亡くなった年月日が記されています。、「太安万侶は伝説
上の人物で、実在しなかった」という説も一部ささやかれていた事情を考えると、大き
な発見と言える。瀬高でもこうした物は沢山でていた。しかし奈良と違うのは、人々の
歴史に対する意識であろう。農作業のとある老人はちゃんと届け市職員はちゃんと対応
したのである。安万侶の祖父は多臣将敷(コモシキ)、百済王豊璋が帰国するとき、将
敷の妹を妻としたとあります。そのためか、多氏は百済系とか新羅系とかいわれること
もある氏族ですが、磯城の豪族で、多神社の祭祀を司った一族である。父の多臣品治(
ホムチ)は壬申の乱の時に大海皇子側に付いた人物です。祖父も父も共に“多姓”を名
乗っています。太朝臣はもと多朝臣で、安麻呂の登場後に多朝臣から太朝臣に変わり、
宝亀元年十月以降再び多朝臣に戻る。多はそこにある多坐弥志理都比古神社二座の祭祀
を司った一族。多氏はもと臣姓で、天武十三年に朝臣となった。


988: 名無しさんAA:18/03/14 08:02
  富安君を探せ              < その24 >

 蒲池氏の藤原純友の子孫説では、蒲池城の築城者が藤原純友の一族であり、その子孫
が三潴郡蒲池邑の領主だったという伝承から純友の子孫と柳川では語り継がれてもいる
。しかしこれらはいずれも伝承で間違いが多い。蒲池城の築城者は、藤原純友一族では
なく、大宰府をめぐる戦いで純友の弟の藤原純乗の軍勢を迎え撃った大宰権帥の橘公頼
であり、その子の橘敏通の子孫が蒲池城に拠り蒲池の領主となったとする説が信じれる
、だがこれも伝承の域を出ない。大治元年(1126年)に長壽院(天台宗)を建立したの
が僧侶・慈光の俗名は「蒲池右仁」と伝わるが、地名の蒲池を号とした最初の人物とさ
れる。物証から言えばこの僧侶と門前の一族の寺を作ったのが最初と考えられる。地元
の関係寺社に伝わる伝承によれば、蒲池氏は古代以来の名族であり、その名跡を、多氏
、藤原氏、嵯峨源氏、嵯峨源氏渡辺氏、宇都宮氏その他の多くの氏族が、婿養子などの
形で継承したのではないかともいわれる。私見では秦氏が保護していた加茂氏の縁戚で
は無いだろうか。と思う。というのもこの頃仏教の布教が広まり朝廷すらも上皇や法皇
として祀る神社や神道より仏閣を上意としていたからだ。それが譲位するに都合がいい
状態だったからだ。だが先に言った様に、通訳や占い卜部を基調に勢力を保った物部氏
はこの頃から途端に勢力どころか名前すらない状態だ。国民の識字率が上がり地方でも
会話が繋がったのだろう。各地でその地方の盟主としての名称を付けた。先の多氏の自
出も十市郡飫富郷(奈良県)で「大和志」では飯高村(現田原町飯高)に比定する。東方
に隣接して多村(現田原本町多)があり、多坐弥志理都比古神社も鎮座するので、郷域
はそこまで及んでいたと思われる。つまり富の郷の安万侶が富安になった可能性が強く
そのまま移民にならなかった人は富の郷の本家として富本と呼んだ様である。これも又
国家神道が廃れて仏教に変わった時代だった。蒲池氏と名乗った時既に海賊による柳川
の大火後には再建の道にはいっていた。1101年に奈良では大地震、興福寺金堂・大門倒
壊する。更に興福寺と金峰山の僧徒争った。1102年には村上源氏が公卿の過半数を占め
て村上水軍の力もついた。869年の貞観(じょうがん)地震や津波(貞観11年)は 東日
本大震災と類似するとされる。大地震は平安京(現・京都)を舞台に都会的な貴族文化
を享受していた人々の安全意識を一掃し、政治面でも藤原氏中心の摂関制が確立される
など貞観(859〜877年)期を得て波乱時代を幕開けした。この時代に空海、最澄らが、
中国から仏教文化を持ち帰り花開き中国の文学などを学ぶ紀伝道、漢詩集の編さん、曼
荼羅(まんだら)といった密教文化が花開いた。


989: 名無しさんAA:18/03/14 08:04
  富安君を探せ              < その26 >

 多分この時の田尻氏は鷹尾神社にやって来たものと思われる。宮崎でも大きな災害と
桜島他火山活動が活発になったと考えられるからだ。仏教文化が一気に花開いたのも、
布教活動よりはこの危機の回避の安全祈願が主な要因で、今まで神道で祈願していたが
地震がやってきた事で、離れていった。とも考えられる。貞観文化は豊満で神秘的な仏
像などが特徴。仏教への帰依による安心感から「安全神話」も広がっていたという。し
かしそれでも地震は収まらなかった。三橋中山藤棚の向こうに曼荼羅版が出てきた理由
でもある。地震災害が起きる度に、まず参考にするのが「歴史のなかの大地動乱(保立
道久著 岩波新書 2012.8)」でろあう。今の地震、火山噴火などの自然災害の
発生は古文書などの解析から9世紀に酷似している。この本では肥後国の地震である。
それによると、熊本、大分付近では肥後地震が744年M7.0、869年にも発生。
阿蘇神霊地噴火が864年、阿蘇山噴火867年、豊後鶴見岳噴火772年、同じく8
67年にも噴火している。つまりかつては必ず噴火も一緒に起きているのである。現在
では、熊本地震は震源域が大分にも延び、専門家は中央構造線に沿い拡がるのではない
かと恐れられているがかつては起こっていた地震地である。この時代は清和天皇の時代
だった。こうしていろんな自然災害が発生したために「大地の呪われた天皇」とも言わ
れている。この貞観地震(869年)に誘発されて7月には肥後国に地震・風水害、同
じく大和地震で今の桜井市で6m隆起、断層が露出した。今言われている奈良盆地東縁
断層帯が動いたらしい。更には、京都でも827,851,868,880年と群発地
震が頻発に起こった。しかし群発地震といってもM6.5〜7だから大きい地震であり
家屋倒壊は頻繁に起こった。風雨災害も多くて京の市民は大いに疲弊した。1番心配さ
れる関東地震との関連だが、878年に南関東地震M7.4が発生し、京都でも感じた
という記録が古文書から分かるらしい。当時、富士山周辺も心配する動きがあったよう
だが噴火には至らなかったが、その後781,800,801,864年には噴火して
いて宮地嶽教によって収めようと言う動き、その為浅間神社が出来たといわれる。富の
辻は、そうした事で元下級貴族が貧困になった地域で、それが巨大な派閥の中間であっ
たのは当然だったろう。家が無くなり食や衣服にも事欠いては貴族の官位よりは魚釣り
や農業の方が大事だったのかもしれない。そして武士も又同じであったのである。


990: 名無しさんAA:18/03/14 08:15
  富安君を探せ              < その27 >
 荒津の海や荒津の崎の言葉は、古く娜の大津(なのおおつ)・娜津(なのつ)とも呼
ばれて大宰府の外港として発展して来た。往来は多く国内外の官船が発着した。場所は
福岡市中央区の西公園や大堀公園あたりと言われる。大きく南に湾入していた荒津の海
は、福岡城北堀と大濠公園に通じていて海だったとされる。荒津には、外国使節や官人
接待用の「筑紫の館」(つくしのむろつみ)が設けられていた。筑紫の館は、平安時代
になれば、「鴻臚館」(かうろかん)が置かれそのままその場所をそう呼んだ。大宰府
に付設された迎賓館として、大宰府設置にともなって創設されたと言われている。山上
憶良は、60才代後半を、筑前守としてすごすが、かつて、42才頃、遣唐少録として
唐に渡ったときも、風浪のため、大宝元年(701)から翌年にかけて、かなり長い間この
筑紫の館に厄介になっていた。つまり、憶良は、20年前にすでに筑紫を見聞していた。
『万葉集』には筑紫問答歌とみるむきの歌がある。玉の緒の 現(うつ)し心や八十梶
(やそか)掛け 漕ぎ出む舟に 後(おく)れて居らむ とかだ。「玉の緒」は、緒に
貫いた玉が多く連なり並んでいることから、「現し心」にかけた枕詞とされる。「八十
梶」は、多くの梶を舷側に取り付けることで、遣唐使や遣新羅使などに使われる官船で
、大きな船であることを示す多くの櫂が見える様である。神さぶる 荒津の崎に 寄す
る波 間(ま)なくや妹に 恋ひ渡りなむ。西公園の展望台に、この万葉歌碑がある。
遣新羅使の土師稲足(はにしのいなたり)の歌とされる。つまりここから出ていたのは
新羅への船だったのである。朝廷は遣唐使の船は出せなかった。唐や隋とは新羅とは仲
が悪く戦争状態だったからだ。ここに玉垂れ宮が或いは高良大社が高麗大社とされる由
縁がある。僧侶・慈光の俗名は「蒲池右仁」の寺の自出には次の様な事が書かれる。「
邑里(むらさと)の寺を大治元年(一一二六)蒲池氏源姓古仁(みなもとせいの旧き人
が、背振山の慈光和尚に覚雄山大日寺として大願により草建。中興参河守久憲の嫡孫、
右馬太輔繁久は大日尊を守仏にし尊信し当寺を浄光院の隣境に移し、堂院を造立し大日
尊を荘厳し、伝来の宝剣を摩利支天と名づけ軍陣の守護神とした。その時世、長順坊快
彰法師の守護せる。この僧、道徳ありて九十才をを過ぎたり。繁久、常に会語し老僧を
尊み、また蒲池家の繁栄をあらわし「長壽院」と改号し覚雄山大日寺長壽院として再興
し寺領を寄付した。これより代々蒲池家の祈願寺となり、繁久の嫡孫筑後守治久(兵庫
守親久の長子)ことに大日尊を崇敬し仏法への帰依、深く摩利支天堂を新たに建立す。
享禄元年、柳河城を築き、その後、蒲池家ますます栄えて、筑後十五城二十四人の旗頭
として武門大いにするのである。」とその後、立花家の代となり元禄十年、昔蒲池家の
古寺の跡に移り湯尾山大林寺長壽院として今日に至るのである。

991: 名無しさんAA:18/03/14 08:41
つまり蒲池氏城が祈祷寺であった。というのだ。摩利支天(まりしてん)と名づけ軍陣
の守護神を別所で祭った。と言うのである。これは不思議である。護身、蓄財などの神
として、毛利元就や立花道雪は「摩利支天の旗」を旗印として用いたとされ中世以降に
信仰を集めたとされて立花道雪などずっーと後の時代だからだ。侍島はその名の通りに
侍島だった。津村氏は津とされる桟橋の役人だった。西牟田氏も系図では、その3代後
の西牟田彌次郎家綱入道藤原行西は、嘉禎年中(1235〜38)に、豆州三島より三瀦郡、
西牟田村に地頭として赴任し、村の名前を取って「西牟田氏」を名乗ったとされている
。 筑後市西牟田にある寛元寺や三潴郡蛭池村の三島明神などの社寺の正式な「縁起」
「開基帳」にも同様の内容が記されている。初代家直の時には既に筑後国西牟田之邑へ
下向したこととなっていて、比べると九州へ移った時期が相当早い。彼もまた藤原北家
の亜流で宇都宮氏の子孫である。菅原道真が下向した時和邇氏系の小野妹子、粟田真人
、山上憶良、小野篁、阿倍氏の阿倍仲麻呂、吉備氏の吉備真備、賀茂氏の賀茂吉備麻呂
、息長氏の霊仙三蔵、佐伯氏の空海、中国系海人族である三津氏の最澄、等が通った道
を行ったとされる。いずれも海人族とされる。吉備真備の時代遣唐使として唐に行った
人は多い。法律を造る為だ。彼の政策で言えば、743年に制定された墾田永年私財法
なんかは吉備真備が唐で得た土地制度の知識が生かされていると言われる。だが橘諸兄
が台頭する以前に、既に朝廷を支配していた藤原氏はその傾向があった。その素行の悪
さから太宰府へ左遷させられていた藤原広嗣(ひろつぐ)は、書面で聖武天皇に訴えた
。「吉備真備や玄ムなど、出自のわからん輩などを重用するから世が乱れるのです。」
とこうして反乱を起こした。その後吉備は遣唐使となり754年に帰国した。帰りの船
では嵐に遭遇し多くの人が命を落とした中での命がけの帰国でしたが、吉備真備が命が
けの遣唐使の任務を成功させましたが、一方の朝廷では藤原仲麻呂という藤原氏勢力が
権力を振るい、吉備真備の席は無かった。当然、藤原氏側から見れば吉備真備など邪魔
だった。吉備真備は藤原仲麻呂によって左遷させられ 遣唐使の任務を終えた吉備真備
は朝廷には戻らず、太宰府へと赴く。しかし、唐への渡航経験を持ち、その事情に精通
した吉備は、朝廷に欠かせない人材だった。太宰府へ赴いた吉備真備は太宰府の防衛力
の強化に努め、太宰府内でも昇進を果たす。760年、天皇の母である藤原光明子が亡
くなると光明子の後ろ盾により権力を独占してきた藤原仲麻呂の勢いにも陰りが出る。
次の孝謙上皇により、吉備真備は再び中央政権へ復帰する。764年の話で吉備真備は
既に70歳である。この後藤原仲麻呂が反乱を起こしたが吉備真備の巧みな戦略により
藤原仲麻呂は手も足もでないまま孝謙上皇軍に敗れる。吉備真備は唐で兵法を学んでい
た。老兵は死なずである。

992: 名無しさんAA:18/03/14 08:56
  富安君を探せ              < その29 >

この筑後平野の多くの人々は、古代海部族の系統をひく水軍の末裔とも言われているが
、詳細は不明である。生活状態は、数艘から数十艘にて集団を形成し「家船」と称する
筏の上の小屋で、本拠地を中心として周辺の水辺を移動回遊しながら生活を送り、潜水
や鉾を使った漁で魚介類や貝や米などを採集する生活で、漁業を営なみながら、1週間
から10日おきに近くの桟橋で物々交換に近い交易をしていたと言われる。家船がこの
地で漁獲品を水揚げする姿は明治期でも、しばらくは筏で見られていた光景の地があっ
た。莞(おおい)は筏溝(筏溝)の地名の様に不断川は水が切れる事はなく水辺の民は
水さえ綺麗な物が手にはいれば、ザリガニ、蛙、魚、貝が豊富にあれば生活が出来たの
である。この時、筑後の水天宮が米を売り瀬高津島で塩を得ていたと言われる。不断川
から侍島や蒲池などはそうした場所だった。筏は上手い具合に一周していたというから
驚きである。この水辺の民に大勢が押し寄せた。それが柳川の大火であった。船さえ作
れれば、何処かで食べられたのだろう。有明海に行けば外洋に出る恐れがあるが、本当
に必要な物は本来の船で陸揚げされたはずである。筑後から久末或いは大和の豊原にか
けて江曲(えこん)とされた地域はそれなりに生活しやすかったと言える。柳川伝説で
はよく言われるのは、「昔は瀬高の清水の入り口まで海じゃったげな。」である。確か
に海の水が引くまで遠浅の海が大きかっただろうし、その中の平地は山だったのだろう
。藤丸家はかの昔藤原家の藤を受け継いだ家柄だ。大和町の藤井氏や松藤氏や藤木氏も
同様だ。この中で松藤氏のみが家臣ではない。というのも従属の従者は貰った藤はおそ
れ多いので前に付けたが、地場では通用しない。つまり「藤原氏を待つ」人だった訳で
ある。藤井氏は多分に井戸水を差し出し、藤木氏は中山の大藤でも見せて喜ばせたのだ
ろう。藤丸氏は本丸の住居を世話したり、船を調達したのかも知れない。和歌山県御坊
市湯川町富安はその名の通り 御坊と言う高貴な者が出家して家来を連れて作った町だ
。隣に丸山氏も野口氏もここがルーツとされ、その為今は少ないがそれでも仏閣は多い
。又港町で外国交易を古くからやっていた形跡も数多くいる。田尻氏や湯浅氏もこの地
から発祥している可能性すらある。、義家の、奥州安倍氏討伐(前九年の役)の時には
武士として加茂氏の応援要請があったと思われる。この時当時住んでいた場所が富安と
いう地名から宇都宮家から富安家に変わった。同族から多数の兵が肥後の菊池氏と共に
宮側として関東武士団と戦った。と、記録は伝えている。この為この時この地に来たと
言える。そしてこの時船を操る事や外交がある事で蒲池氏に起用され家老となった。


993: 名無しさんAA:18/03/14 09:23
  富安君を探せ              < その30>

源氏に鎮守府将軍、陸奥守に任ぜられた父・頼義が安倍氏と戦った前九年の役があった
。陸奥国の土着で、有力豪族となった安倍氏は、陸奥国の奥六郡(岩手県北上川流域)
に柵(城砦)を築き、半独立的な勢力を形成していた。11世紀の半ば、安倍氏が朝廷
への貢租を怠る状態になった為、永承6年(1051年)、陸奥守・藤原登任が数千の兵を
出して安倍氏の懲罰を試み、玉造郡鬼切部(おにきりべ)で戦闘が勃発した。租税がな
かった。と言うよりは自領の不作で陸奥に頼ったのだ。先の説明の様に天変地異は続き
朝廷も厳しく取り立てたのだ。この鬼切部の戦いでは秋田城介の平繁成も国司軍に加勢
したが安倍氏が勝利し、敗れた藤原登任は更迭され、河内源氏の源頼義が後任の陸奥守
となった。その後、永承7年(1052年)、後冷泉天皇祖母・上東門院(藤原道長息女中
宮藤原彰子)の病気快癒祈願の為に大赦を行い、安倍氏も、朝廷に逆らった罪を赦され
ることとなった。安倍頼良は、陸奥に赴いた頼義を饗応し、頼義と同音であることを遠
慮して自ら名を安倍頼時と改めたという。天喜元年(1053年)になって源頼義は鎮守府
将軍となった。玉造郡鬼切部(おにきりべ)の戦いの禍根は終わっていたが、だがその
後に新たに阿久利川事件が起こる。頼義の陸奥守としての任期が終わる天喜4年(1056
年)2月、頼義が胆沢城(鎮守府)から多賀城(国府)に戻る為に、阿久利川の河畔に
野営していると、密かに頼義の元に密使が来て、「(頼義配下の在庁官人)藤原光貞と
元貞が野営していたところ、夜討ちにあって人馬に損害が出た。」との情報が伝えられ
たのだ。さらに光貞は「以前に安倍貞任(頼時の嫡子)が自分の妹と結婚したいと申し
出て来たが、自分は安倍氏のような賤しい一族には妹はやれないと断っていた。だから
今回のことは貞任の仕返しに違いない。」と頼義に答えた。そこで怒った頼義は貞任に
出頭を命じたが、頼時は貞任の出頭を拒否し、安倍氏と朝廷の戦いが再開されることと
なった。とある。だがこれは一般的に今まで蝦夷地として税の取立を止めていた地を、
又朝廷配下にしようとした行為からであろう。また頼時の女婿ながら国府に属していた
平永衡が陣中で、きらびやかな銀の兜を着けているのは敵軍への通牒であるとの讒言を
うけ、これを信じた頼義は永衡を殺害した。永衡と同様の立場であった藤原経清は累が
自分に及ぶと考え、偽情報を発し頼義軍が多賀城に向かう間に安倍軍に帰属した。税収
がないままでの銀兜には腹がたったのだろうが、縁戚はそれ以上に家禄の確保が大事で
あったのだろう。阿久利川事件は、頼義による謀略説の他、藤原説貞(光貞、元貞の父
)など反安倍氏の在庁官人による謀略説がある。

994: 名無しさんAA:18/03/14 10:01
 富安君を探せ              < その31 >

 天喜5年(1057年)5月、頼義は一進一退の戦況打開のために、安倍氏挟撃策を講じ
、配下の気仙郡司・金為時(ためとき)を使者として、安倍富忠ら津軽の俘囚を調略し
、味方に引き入れることに成功した。これに慌てた頼時は、7月に富忠らを思いとどま
らせようと自ら津軽に向かう。が、富忠の伏兵を受け、深手を負って本営の衣川を目前
に鳥海柵(胆沢郡金ケ崎町)にて死去した。頼時の跡を継いだのは貞任であった。頼義
は同年9月朝廷に頼時戦死を報告したが、論功行賞を受けれなかった。11月、頼義は
再び陸奥国府(現在の宮城県多賀城市)から出撃した。この時の頼義の兵力は、最大に
見積もっても国衙の兵2,000名程度と、傘下の武士500名ほどであったと推測されている
。対して安倍軍は河崎柵(現在の一関市川崎村域)に4000名ほどの兵力を集めて、黄海
(きのみ、現在の一関市藤沢町黄海)で国府軍と激突した。こうして黄海の戦いが始ま
る。冬期の遠征で疲弊し、補給物資も乏しかった上に兵力でも劣っていた国府軍に安倍
軍は大勝。国府軍は佐伯経範、藤原景季らが戦死し、頼義自身は長男の義家を含む七騎
でからくも戦線を離脱した。頼義が自軍の勢力回復を待つ間、康平2年(1059年)ごろ
には安倍氏は衣川の南に勢力を伸ばし、朝廷の赤札の徴税符ではなく経清の白札で税金
を徴するほどであり、その勢いは衰えなかった。とくに、国衙兵は鬼切部、黄海の二度
の敗戦で補充が思うに任せなかった。そのため、頼義は関東、東海、畿内の武士に働き
かけを行い兵力の増強に努めた。康平5年(1062年)春に、任期の切れた頼義の後任の
陸奥守として高階経重が着任したが、郡司らは頼義に従い、経重には従わなかった。そ
の為経重は帰洛して解任され、再び頼義が陸奥守に任ぜられた。苦戦を強いられていた
頼義は一計をして、中立を保っていた出羽国仙北(秋田県)の俘囚(ふいん)の地方豪
族である清原氏の族長清原光頼に、朝廷の命令を楯に参陣することを強く要請し、その
上に「奇珍の贈物」を続けて、参戦を依頼した。これを聞き入れた清原光頼が7月に弟
武則を総大将として軍勢を派遣した。源頼義率いる軍は三千人人ほどであったが、一気
に朝廷側の兵力はおよそ1万人と推定され程になった。清原氏の参戦によって形勢は一
気に逆転し、朝廷側有利となり緒戦の小松柵の戦いから朝廷軍は優勢であった。同年9
月17日に安倍氏の拠点である厨川柵(岩手県盛岡市天昌寺町)、嫗戸柵(盛岡市安倍
館町)が陥落(厨川の戦い)。貞任は深手で捕らえられ巨体を楯に乗せられ頼義の面前
に引き出されたが、頼義を一瞥しただけで息を引き取った。経清は苦痛を長引かせるた
め錆び刀で鋸引きで斬首された。こうして安倍氏は滅亡し戦役は終結した。

995: 名無しさんAA:18/03/14 10:06
 こうして康平5年源頼義は朝廷に騒乱鎮定を上奏して終わった事を報告した。しかし
康平6年の除目では頼義は意に反して陸奥守ではなく正四位下伊予守となったのだった
。安倍貞任の弟宗任らは伊予国のちに筑前国の宗像に流された。このことは『平家物語
』にも記述される。清原武則はこの戦功により朝廷から従五位下鎮守府将軍に補任され
て奥六郡を与えられ、清原氏が奥羽の覇者となった。経清の妻であった安倍頼時の息女
は夫と兄の敵として戦った清原武貞に再嫁し、経清の遺児(後の藤原清衡)共々清原氏
に引き取られた。この時安倍富忠らは国府軍に調略があったとは言え寝返っていて難を
逃れていたが、源頼義が陸奥の守ではなく伊予の守となった為に彼らはそこには、いら
れなかった。一族郎党紀伊の富安郷に移り住み田尻氏と縁戚関係をもった。そうして、
この地にやって来た、北流藤原家も又富安と名乗った。瀬高の大人形祭では「源時任」
と「安倍宗任」の股をくぐる。安倍 宗任 (あべ の むねとう)は、平安中期の武将。
で陸奥国の俘囚の長とされる豪族だが、安倍氏の安倍頼時の子で、鳥海柵の主で鳥海三
郎とも呼ばれている。だが彼こそが嫡妻であった清原氏の子として嫡子格の地位にあっ
た清原氏の長でありこの時戦った安倍貞任の弟であった。又源義家は随分と活躍するが
当時の法制度からは、定められた官物を収めて、受領功過定に合格しなければ、新たな
官職に就くことができず、義家は官位もそのままに据え置かれた。更に紛争は常に私領
分の領土争いだった為に、義家自身が国解の中で「政事を留めてひとえにつわもの(兵
)を整え」、と述べている様に、闘わなければならない立場にあった。嘉承元年には(
1106年)には別の息子の源義国(足利氏の祖)が、叔父で義家・義綱の弟・源義光等と
常陸国において合戦し、6月10日常陸合戦で義家に義国を召し進ぜよとの命が下され
る。義国と争っていた義光、平重幹等にも捕縛命令が出る中で義家は同年7月15日に
68歳で没している。先の大戦に寛治元年11月に義家は出羽金沢柵にて清原武衡・家
衡を破り12月、それを報告する「国解」の中で「私くしの力をもって、たまたま打ち
たいらぐる事を得たり。早く追討の官符を給わりて。」と後付けの追討官符を要請して
も、朝廷はこれを下さず、「私戦」としたため恩賞はなかった。翌年(1088年)正月に
は陸奥守を罷免されている。又何よりも陸奥国の兵を動員しての戦闘でありと義家自身
が国解の中で述べて「政事を……」、と述べているように、その間の陸奥国に定められ
た官物の貢納は滞ったと思われ、その後何年もの間催促されていることが、当時の記録
に残る。つまり税金滞納の追伐だった本人さえも、税金を払えなかったのである。これ
を利用して朝廷が闘わせたのである。又この時の気仙郡司・源 金為時(ためとき)が
足柄山の金太郎と言われ、これも大人形さんに飾られる。

996: 名無しさんAA:18/03/14 10:18
  富安君を探せ              < その33 >

「義家朝臣は天下第一武勇の士なり。昇殿をゆるさるるに、世人甘心せざるの気あるか
。但し言うなかれ」と書くので、義家は相当の人情家であったのでは無いだろうか。事
件になる少し前、藤原氏縁戚では寛治5年(1091年)6月義家の郎党・藤原実清と弟・源
義綱の郎党・藤原則清が河内国の所領の領有権を争い、義家・義綱兄弟が兵を構える事
件がおこっている。義綱は同年正月に、藤原師実が節会に参内する際の行列の前駆を努
めた、翌寛治6年(1092年)2月には藤原忠実が春日祭使となって奈良に赴く際の警衛、
寛治7年(1093年)12月 には源俊房の慶賀の参内の際に前駆を努めるなどが公卿の日記
に見えるが、義家の方は長治元年(1104年)までそうした活動は記録にない。つまり既
に朝廷のいい加減さに気付いたのだろうし、朝廷はこの強い源氏を京から出したかった
。寛治7年10月の除目で、義綱は陸奥守に就任。翌8年(嘉保元年・1094年)には出羽守
を襲撃した在地の開拓領主・平師妙(もろたえ)を郎党に追捕させ、従四位上に叙され
て官位は兄と並び、翌嘉保2年(1095年)正月の除目で、事実上陸奥守よりも格の高い
美濃守に就任する。ところが、その美濃国における比叡山領荘園との争いで僧侶が死亡
し、比叡山側は義綱の配流を要求して強訴に及ぶ。関白・藤原師通は大和源氏の源頼治
と義綱に命じてそれを実力で撃退する。この時も比叡山延暦寺・日吉社側の神人・大衆
に死傷者が出、比叡山側は朝廷を呪詛した。さらに4年後の承徳3年(1099年)6月に、
当事者の師通が38歳で世を去ったことであり、朝廷は比叡山の呪詛の恐怖におののいた
。この件の影響か、この後義綱が受領に任じられることはなかった。義家は後三年の役
から10年後の承徳2年(1098年)に「今日左府候官奏給云々、是前陸奥守義家朝臣依
済舊國公事、除目以前被(そう)行也(件事依有院御気色也)、左大史廣親候奏」と『
中右記』に書かれ 白河法皇の意向と正月に陸奥守時代の官物を完済したこともあって
、やっと受領功過定を通って、4月の小除目で正四位下に昇進し、10月には院昇殿を許
された事がわかる。しかし、その白河法皇の強引な引き上げに、当時既に形成されつつ
あった家格に拘る公卿は反発し、中御門右大臣・藤原宗忠はその日記『中右記』承徳2
年10月23日条の裏書きに「義家朝臣は天下第一武勇の士なり。昇殿をゆるさるるに、世
人甘心せざるの気あるか。但し言うなかれ」と書く。つまり強い武者を昇級させたら他
の者の止められないのに何故そんな甘い判断するのか。と問いていて 随分と左遷させ
たが良い意識が朝廷内に多かった事が解る。


997: 名無しさんAA:18/03/14 10:22
  富安君を探せ              < その34 >

なぜ この二人が瀬高の祇園社と坂田神社の大人形祭に祀られた理由は、恐らく国が豊
かでなければ、したくない戦争も起きると言う戒めであろう。特にこの矢部川改造には
多くの苦労があったと思われるからだ。更に宇都宮家筆頭でこの地に移り住んだ人々は
田尻氏も含めて安倍氏の血統ではなかったろうか。戦った前九年の役では、勿論調略で
はあったろうが大勢が寝返っている。天皇の勅命だと言う事もあって鎮守府将軍、陸奥
守に任ぜられた父・頼義の臣下として「源八幡太郎義家」側についたのである。そこで
死んだ安倍氏は集団的な同族支配を行い陸奥(むつ)の 安倍頼時 (あべ の よりとき)
・貞任(さだとう)・宗任(むねとう)が上納米が送れず反乱を起こしたとされ征伐された
のである。日本古代においては、捕虜になるか降伏して国家支配下に置かれた地は蝦夷
(えぞ)(えみし)とされその民族を夷俘や俘囚とも称されていた。古代国家での国家
支配の外に立つ抵抗民たちは その領土とを国家支配の中に組織する事は大事で〈内民
〉〈内国〉に同ずることでの蝦夷経営の最終目標にしていた。この〈内なる蝦夷〉とし
ての俘囚の問題は,蝦夷経営問題の最終形態を示していた。最も古く捕虜になった蝦夷
は朝廷に送られ,佐伯部という大和朝廷武力集団に組織されたという伝えがある。蝦夷
開発は8世紀頃から律令国家に帰属した奥羽地方の蝦夷 (えぞ) として課役を免除して
諸国に配置していた。首長には位階を与えるなどの懐柔策をとっていたが、此処に来て
平安時代初期には俘囚計帳の作成を行ない平和的なものだったが、次第に弾圧政策をと
るようになりここに、出雲,上総,陸奥,出羽などで反乱が起っていたのだった。この
俘囚の乱こそが安倍氏を倒した前三年の役と、前九年の役であったのだ。そしてここに
やって来た多くの宇都宮支流は、その安倍氏の流れの縁戚や夷俘も含まれていたのであ
る。何故この新天地にやって来たのかは多くの事件が起こったからであった。只一つ言
える事は早くから稲作と水路の発展が水田中心にあった。この名が示す様に低地の湿地
帯であった。金森金遺跡はその水抜き場であり川をせき止めてその水の運用をしていた
。三友や枝光は、水止めるの古代用語であり、枝光は実は江田満つの代用漢字である。
と橋本文書は言う。つまり今や見る影もないが上妻小学校の水路が、祁答院がその水を
調整して花宗川に流す為のものだったのである。

998: 名無しさんAA:18/03/14 10:30
  富安君を探せ              < その35 >

 柳川には各所に多くのカッパ伝説がある。が有名なのは九千坊河童であろう。だが、
本来狗千坊河童であり「狗」は「く」とは犬の事で守りと言う意味である。つまり狛犬
と言う神社の守りとして置かれるの「守りのいぬ」であり本来は犬とならない。天狗の
意味である。天狗(てんぐ)とは当然天の守りと言う意味である。この天狗の里とされ
るのが英彦山神社だ。「英彦山」という山名は、社伝では天照大神の御子(日の御子)
である天忍穂耳尊を祀ることから「日子山」と呼ばれるようになったとしている。弘仁
10年 (819年)、僧法蓮が、山中で飛来した鷹の落とした羽に「日子を彦と改めよ」
と記されているのを見て嵯峨天皇に上申し詔によって[日子山」を「彦 山」に改めたと
される。英彦山は日本の三大修験道の道場と言われる。何故道場で山と言わないか。実
はこの英彦山の座主は一時高良大社の奥の天満宮社に置かれ、その後三潴の玉垂れ宮社
に又退いた。吉備真吉備の時代と南北朝時代である。千坊と言うのは「坊」はその神社
に集まる修験者達の宿舎の事である。そしてその「千」の名は多分「先達」の「せん」
であり長老を示し最も高位の修験者であると考えられる。つまり九千坊とは修験者だっ
たと言えるのである。こうした修験者達は実は朝廷の管理するところではない。何故な
らその頃の在住の人の管理はお寺の持つ氏子調(うじこしらべ)または氏子改(うじこ
あらため)の人別帖で苦役や税を決めていた。従って人別帖の無いと言う寺は寺社格は
無く寺院でしかなかった。こうした中この修験者達は別格だった。こうして何か事ある
度に山の住民は増えて行ったのである。英彦山参道の左右には山伏の住居「坊」が数多
く残っている。徒歩で奉幣殿まで行くと、この石畳の道が途中から石段へ変わるがそれ
でも続く程だ。普通の天狗の姿は狗賓(ぐひん)とされる。狼の姿をしており、犬の口
を持つとされる。著名な霊山を拠点とする大天狗や小天狗に対し、狗賓は日本全国各地
の名もない山奥に棲むといわれる。また大天狗や烏天狗(からすてんぐ)などが修験道
や密教などの仏教的な性格を持つのに対し、狗賓は山岳信仰の只の土俗的な神に近い。
所謂魔除けである。天狗としての地位は最下位だが、それだけに人間の生活にとっては
身近な存在であり、特に山仕事をする人々は、山で木を切ったりするために狗賓と密接
に交流し、狗賓の信頼を受けることが最も重要とされていた。と言う。だが河童伝説に
は、全くこの天狗は出ない。先の天変地異から魔界よりは現実の水害の方がひどかった
からと言える。さらに名も無き修験者はこの災害には無力で大勢流されたとも言える。

999: 名無しさんAA:18/03/14 10:36
  富安君を探せ              < その36 >

 東に関八州・利根川の「祢々子河童」(ねねこかっぱ)があるならば、西の河童の横
綱は九州有数の大河・筑後川に居を構える「九千坊河童」(くせんぼうかっぱ)こそが
九州最強最大の軍団であった。「九千坊河童」は元は中国の生まれだと言われ、仁徳天
皇の治世の頃に一族郎党を引き連れて海を大遠泳の末に熊本・八代の浜辺に辿り着き、
其処から九州一帯に勢力を広げて行ったと伝説では語られている。その為、熊本では八
代の地を“河童渡来の地”と定め、記念の碑が建てられている、仁徳天皇は、応神天皇
の崩御の後、最も有力と目されていた皇位継承者の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)
皇子と互いに皇位を譲り合ったが、皇子の薨去により皇位についた。とされる『日本書
紀』では仁徳天皇に皇位を譲るために自殺したと伝え、その後即位したという。仁徳天
皇(にんとくてんのう)は、神功皇后摂政57年でなった伝説記上の天皇と実物天皇の
丁度境目の頃の天皇だ。仁徳天皇在位87年とされ、日本の第16代天皇とされ善政を
敷き、大規模な土木事業を行ったと伝わる。名は大雀命(おほさざきのみこと)『古事
記』では、大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)『日本書紀』では大鷦鷯天皇(おほさざき
のすめらみこと・聖帝『万葉集』では難波天皇とされる。彼は難波に都を定め、人家の
竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除し、その間
は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかったと言う記紀の逸話(民のかまど)
に見られるように、仁徳天皇の治世は仁政として知られ、「仁徳」の漢風諡号もこれに
由来する。この話によれは戦乱の大陸から多くの移民がやって来て土木工事に従事した
と考えられる。「九千坊」の名は、彼の一族が九千匹も存在した事に因む命名である。
海を大遠泳した末の繁栄振りからも彼等の膂力の強さが伺えよう。日本に腰を据えてか
らの彼等の傍若無人振りはなかなかだった。向かう所敵無し、常勝不敗であった為に、
「九千坊」は名を轟かせた。そんな彼らでも生涯に2度だけ大敗を喫した。一度目は、
前述の「祢々子河童」の一族と、利根川の所有権を巡って争いになった時で、この時の
事は河童同士の事とて、記録には詳しく記されていないが、兎に角「祢々子河童」が、
「九千坊」を打ち負かした事だけは明らかになっている。そしてもうひとつの黒星が、
猛将・加藤清正(かとう きよまさ)との争いに敗けた事だった。と言われている。

1000: 名無しさんAA:18/03/14 10:58
加藤清正の伝説では、各地に散らばった「九千坊」の手下の狼藉に業を煮やした清正は
、あるとき、自分の小姓が河童に殺された事を理由に全軍を挙げて河童を攻め立て、遂
には、河童が最も苦手とする猿の大群を用いて「九千坊」を捕らえようとした。度重な
る清正の猛攻に為す術も無く敗走を続け、「九千坊」が逃げ込んだ先は、有馬公が統治
する福岡の筑後川であったと言う。有馬公は寛大にも「今後人畜に悪さをせぬと誓うな
ら、以後、我が領土にて暮らす事を許してつかわす。」と「九千坊」に申し渡した。「
九千坊」は有馬公に感謝し、以後、水天宮(水の神様)の眷属として領民を水害から守
る事を誓ったと言う。「九千坊」にまつわる伝説の背景には、戦国時代に九州各地で猛
威を振るっていた、渡来民を先祖に持つ海賊の存在があったと伝えられ、有馬公が「九
千坊」を調服したと言うエピソードには、そうした海賊を自身の配下に加え、戦力の強
化を狙ったと言う真実が隠されていると言う説がある。「九千坊」を始め、九州の河童
に多分に任侠じみたイメージが付き纏うのも、恐らくその所為だろう。だが柳川伝説は
もう一つ違う逸話が残る。先の金丸川の地に多くの民が田畑を興し、この祁答院が戦乱
の末廃れて、筑後川と矢部川が水争いをした。ここに藤丸氏がいた。藤丸氏は早くから
の住民で藤丸氏の始祖は大川から大牟田までの名も無い豪族で安曇磯良丸の子孫であっ
たとされる。神宮皇后時代に応神天皇が崩御した折に香椎の木で御棺を造るのだが、そ
れは桶形だった、その為造るまで箱崎神宮で急拵えの小舟の御棺を用意したのが藤丸氏
だったとされる。したがって、その時藤をして飾りたてて葬式した場所が箱崎神宮と言
う事になる。実は他の八幡社に対して恐れ多いが、何故筥崎八幡でそうした事が行われ
たかと言えば かの神社が八幡社の走りであったからだ。三つ巴紋の家紋は実は波の紋
渦巻き紋である。海人族のそれも古い渡来系の家紋である。彼らの集まる所或いは交易
の市場であった事が色々事実としてある。船の調達にはここが一番であったのだろう。
しかし藤丸家の家紋は大方は4分木瓜紋である。実はこれは5分木瓜と大きく関わる。
つまり藤丸氏は十字架の流れのキュウリ紋で彼らを従えたのだ。そしてその渡来系の人
をして土木建築に関わらせた一族であったのである。古さからもその地方の豪族として
名の無い大きな支配者であった。しかし彼らも又、時代と共に争いの中に入り込むのだ
。加藤清正は柳川の立花氏とは盟友でもある。これは、蒲池氏時代に遡る。知っての通
り蒲池氏は大友宗麟の外国かぶれに疫癖している所に、嫁のァ千代氏の父親である竜造
寺にやられてしまう。その頃は蒲池氏は高良大社の領地を支配していた。その時まで高
良大社や玉垂れ宮をして陰陽道と連絡したのが藤丸氏である。藤丸の丸は海人族の祖の
「安曇磯良丸」の丸だったのである。又清正の話は成富茂安の話と同じである。


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