1つめの記念スレ


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1つめの記念スレ

1: 騎士剣:05/11/09 17:24 ID:A/yxhPTA
勝手にスレを書き込んで勝手にレスをつけてくれぃ

1701: 名無しさんAA:18/11/09 00:42
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 127 

 この大英帝国で名誉革命と言われるイングランドにわざわざオランダネーデルランド
の、オラニエ公のウィレム3世を呼ぶには理由があった。それがネーデルランドの中心
アムステルダムの金融事情にあった。実はユグノー資本は莫大な蓄えを持っていた。こ
のネーデルランドのベルギーに於いてオラニエ公が来るまではかなり虐げられていたが
ウィレムの時代に保護されたことでベネチアの商人やロシア皇帝までがこの地の金融家
に預けて財産運用していたのである。かつてユグノーはフランスカトリックから追われ
て逃げてオランダに来て、北方民族のバイキングと混血になって、「海乞食(ワーテル
ヘーゼン)」と呼ばれる海賊軍団(ゼーゴイセン)を組織して、低地地方の沿岸を無差
別に略奪を繰り返しながら、徐々に勢力を回復した。このユグノーが海に出て資産の蓄
えとしたのがマン島であり、管理したのがイングランド銀行だった。最初はまだまだこ
のオランダ金融資本どころかスペインやフランスさえにも追いつかない小さな小国金融
で資産でしかなかった。しかし薔薇戦争を最後に内紛が収まり、急速に資産がマン島に
集まってきた。百年戦争終戦後に発生したイングランド中世封建諸侯による内乱であっ
たこの諸侯の対立に、資産の保全が程よい地政学上の位置にあったからだ。共にプラン
タジネット家の男系傍流であるランカスター家とヨーク家の、30年に及ぶ権力闘争で
あった百年戦争は。最終的にはランカスター家の女系の血筋を引く、テューダー家のヘ
ンリー7世が武力でヨーク家を倒し、ヨーク家の王女と政略結婚してテューダー朝を開
いて終了したが、元々プランタジネット家傍流のランカスター家と、ヨーク家の間で戦
われた権力闘争で、ヨーク家とランカスター家は、ともにエドワード3世の血を引く同
じ家柄であった。その為にランカスター家が赤薔薇、ヨーク家が白薔薇を家紋としてい
た。その為後世において、薔薇戦争と呼ばれている。この時の戦争は主に大土地所有の
大貴族の間で行われ、彼らは王族たる公爵と、少数の侯爵や伯爵、そして多数の男爵と
騎士、そして土着のジェントリたちであった。彼らは広大な私有地を持って多くの農奴
を抱え、一方で投資や貿易によって財産を増やし、政略結婚によって 政治的影響力を
拡大して争ったのである。彼らは封建的な扈従(こじゅう)からなる武力によって支え
られており、しばしば外国人傭兵も抱えていた。この時、貴族の威信は「扈従団」(ア
フィニティ)によっても計られた。扈従団の一員となった扈従はその貴族の「お仕着せ
」(そろいの制服と記章)を着用し、戦役に従軍した。


1702: 名無しさんAA:18/11/09 00:48
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 128 

 兵士達は、おもちゃの兵隊の様に同じ服で、世間や王侯にアピールする戦いをし、そ
の見返りとして、貴族は、年金の支払いや法的な保護そして土地や官職といった報酬を
与えた。それは今の雇われた近代兵士の始まりだった。この非公式な「お仕着せと幇助
」は近代兵士の制度と共にサラリーマンの始まりでもあった。又この制度は百年戦争に
続く封建制度の衰退を通じて現れたもので、封建制度は今まで本来の土地の授受を媒介
とした封臣として貴族に仕えるあり方ではなく、土地では無く金や食糧や地位などで「
仕着せされた扈従」として貴族と請負契約を結ぶ為、歴史家の言うところの「擬似封建
制度」の一環を行ったのであった。それは石工達の職人形態からの発達だった。従来か
ら、船大工や裁縫やパンやなど農業集団と離れた所では、御雇い番は必要だった。親方
の納屋や屋根裏に住まわせもらい仕事に従事する事で、食糧があった。しかし、敬虔な
神を愛したユグノーの資本家は違っていた。不正をするバチカンにほとほと嫌になって
いたのである。もともとユグノーの人々は多神教のミノス教徒を太陽神のみに祈りを捧
げた特殊形態をそのままローマがキリスト教に変えていた。言わば隠れたギリシャ神話
のゼウス信仰信者だった。古来からの機織りや薬草や地理天文学などに長けた人々だっ
た。と言える。この最初の銀行が最初の白人ユダヤ教徒として両替の事実は、不思議な
ものだ。マン島は、グレートブリテン島とアイルランド島に囲まれたアイリッシュ海の
中央に位置する島で。面積はちいさな独立国だ。約572km2。主都はダグラス。人口は80
,058人(2006年時点)マン島は複数の国の統治権がある複雑な歴史を持っており、周辺
の島やイングランド・アイルランドとも異なる独自の文化を持っていた。1405年マン島
領主を名乗るイングランド貴族のスタンリー家(ダービー伯爵)が代々統治してきた。
1765年のマン島購入法成立によって王室がマン島の支配権を購入し、それ以降はイギリ
ス(連合王国)の君主がマン島領主を世襲している。しかしマン島は法的にはグレート
ブリテンおよび北アイルランド連合王国の一部ではなく、また主権国家でもない。イギ
リス連邦の加盟国でもなく、自治権を持ったイギリスの王室属領である。しかしイギリ
スとの密接な関係からイギリス連邦の一部と見なされることも多く、イギリス連邦議会
連合やコモンウェルスゲームズ等に参加している。


1703: 名無しさんAA:18/11/09 01:17
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 129 

 EUには参加せず、代表も送っていないが、イギリスの特別領域として扱われている
。何故か白人の金融家としては不思議なのか。それは今の最新研究ではユダヤ人とは、
褐色有色人種であり、男系男子相伝の本分のままであれば白人ではあり得ないからだ。
このユダヤ教はペルシャの宗教ではない事も判明はしているが、紀元前時代に先に述べ
た様にペルシャでは大流行していた。その中でも紀元後に最も流行したのはハザール王
国だ。ハザールの揺籃の地は、カスピ海沿岸の草原の地である。この草原には多種多様
な民族が居住し、東方の旅行家・地誌家も、ビザンチン帝国(東ローマ帝国)の著作家
も、これら諸民族が絡む様々な事件・事変について記録を後世に残している。ただし、
ハザール人がいつ頃なぜ登場したのか、具体的な記録はない。448年、ビザンチン帝
国からフン族のアッチラ大王への使節団報告の中に、「戦士民族」としてのハザール人
が登場している。この時期のハザール人はフン族の配下で活動していたようである。ア
ッチラ大王の死後、フン帝国が崩壊すると東ヨーロッパに権力の空白地が生じた。そこ
を通っていくつもの遊牧民が、波が打ち寄せるように次々と東から西から押し寄せてき
た。6世紀初頭、ササン朝ペルシア帝国のカワード1世の治世の時代、ハザール人は、
コーカサスの向こうの地域、すなわちグルジア、アルバニア、アルメニアを占領した。
6世紀半ば、カワード1世の息子であるホスロー1世の治世時にも、ハザール人のペル
シア国境地帯、特にアルメニアやアルバニアへの侵入は、止むことがなかった。現代の
中では、雇われ戦士のグルカ兵である。この、グルカ兵は今はインドの貧民から募集さ
れているが伝統から言えばイラク人やトルコ人であった。しかし、かつて象を使ってモ
ンブランのイタリア小都市を攻めたアッテラ国や、エジプトやエルサレムを守ったの巨
人族を打ち破った話を思えば、あながちグルカ人=ユダヤ人説が嘘ではないかもしれな
い。日本人は第二次世界大戦ではインドを前にして今のミャンマーで大敗し、中国の中
の抗日に苦戦した。またハワイ沖を占領するにアメリカに躊躇し、ユダヤの経済制裁に
船を沈めた。これは、得体のしれないこの宗教が宗教でなく生きる知恵として伝統的に
利用されてきた歴史を物語る。グルカ兵=ハザール人=正統ユダヤは正しいのかも知れ
ない。単に白人王侯=金持ち=世界金融が、その考えや力を利用しただけかもしれない


1704: 名無しさんAA:18/11/09 01:17
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 130 

 この時期、ハザール人はコーカサスの北にいる種族の中で最も力のある種族となった
。その後、ハザール人は台頭してきた突厥(西トルコ帝国)の配下に組み込まれたが、
帝国内でも最強の実戦部隊として活躍した。627年、ビザンチン帝国の皇帝ヘラクレ
イオスは、ササン朝ペルシア軍との戦いに備えてハザール人と軍事同盟を締結した。ハ
ザール人はこの対ペルシア遠征軍に4万人の援軍を出し、ペルシアの首都クテシフォン
に迫った。なおこの時がビザンチン史料におけるハザール人の初登場する。7世紀中頃
、カスピ海沿岸草原においてハザール王国(ハザール汗国)の創成が開始された。権威
を誇った突厥(西トルコ帝国)は分裂し滅びた。ハザール人は、彼らの支配から離れる
ことができた。ハザール人は自らを「西突厥」の継承者と名乗った。ハザール人は勢力
を急速に拡大していき、アゾフ海沿岸のブルガール人を服属させ、黒海沿岸北部も手中
に納め、はては、クリミアの草原の大部分を占めるまでに至ったのであった。クリミア
沿岸諸都市もハザール王国に組み込まれた。北コーカサスの山麓や隣接草原において、
ハザール王国が国力を充実させていた頃、新たな敵が南方から台頭してきた。アラブ国
(イスラム帝国)である。アラブ軍は、シリアとメソポタミアを蹂躙するや、北方に足
を向け始めたのである。裏コーカサス諸国はアラブ軍との戦争で火の手に包まれるよう
になった。7世紀の半ばから、アラブ軍は組織的に裏コーカサス攻撃を繰り返し、略奪
を欲しいままにするようになった。アラブ軍は繰り返しハザール王国の領土に侵入し、
都市を略奪して、破壊し、集落を焼き払い、耕地・農園を蹂躙し、冬営地から家畜群を
強奪し、住民を捕らえ、奴隷として連れ去るのを常とした。ハザール王国とアラブ帝国
(イスラム帝国)は、大きな戦争を2回している。653年の「第1次アラブ戦争」は
、アラブ軍がハザール王国に遠征して、撃破された。「第2次アラブ戦争」は、ジェラ
ーフ率いるアラブ軍がハザール王国に遠征して、ベレンジェを攻略したのがきっかけで
始まり、737年までの16年間続いた。「第2次アラブ戦争」において、アラブ遠征
軍に攻撃されたハザール軍は、アルバニアに侵入して、アルデビールを攻略し、アラブ
軍を撃滅。しかし、新たにマルワーン率いるアラブ軍が遠征してくると、ハザール軍は
2つの峠から奇襲をかけられ、ボルガ川まで退却。最終的に、アラブの将軍マルワーン
に講和を求めることを余儀なくされたのであった。

1705: 名無しさんAA:18/11/09 01:18
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 131 

  この「第2次アラブ戦争」は、アラブ史料では、双方合わせて10万あるいは30
万の兵士が従軍したという。そして、マルワーンはハザール王国を攻撃した最後のアラ
ブ将軍となり、これ以降、ハザール王国とアラブ人の戦争に関する記録はない。650
年に成立したアラブ帝国は、711年にジブラルタルを渡ってスペインに侵入、ピレネ
ー山脈をこえてフランクにはいったが、732年トゥール・ポワティエで敗北し、西へ
の進出は終了。東は中央アジアまで進出したが、751年タラス河畔の戦いで唐に敗れ
、100年間におよんだアラブの征服戦争は終了したのである。ハザール王国はササン
朝ペルシア帝国、ついでアラブ帝国と激しい戦いを繰り返したが、その両国と敵対して
いたビザンチン帝国(東ローマ帝国)とは同盟関係にあった。これまで、この二大勢力
は互いに戦ったことは一度もなかった。それどころか、ハザール王国はしばしばビザン
チン帝国の敵と戦った。それは明らかにビザンチン帝国に有利となることだった。8世
紀のアラブ侵略以後、ハザール王国の首都はカスピ海沿岸西岸のサマンダルに移され、
最後にボルガ河口のイティルに移った。ハザール王国の南方の前線は平定され、イスラ
ム教国との関係も落ち着いて、暗黙の停戦協定にまで至った。ビザンチン帝国との関係
も、明らかに友好的な状態が続いていた。9世紀に入って数十年の間、ハザール王国は
平和を享受した。ビザンチン帝国を775年から780年まで支配したレオン4世。彼
はハザール王室の血を持つ皇帝で、「ハザールのレオン」と呼ばれていた。彼は、前皇帝
コンスタンチヌス5世と、ハザールの王女チチャクとの間に生まれたハーフであったの
だ。この結婚は、ビザンチン帝国とハザール王国の友好を願って、732年に行われた
ものだった。アラブ帝国に代わって、新たな強敵が北方から台頭してきた。バイキング
と呼ばれる北方部族の雄ルス人(後のロシア人)である。834年、ハザール王はビザ
ンチン帝国に、北方への防御(対ルス人対策)のための砦を築くための援助を求め、直
ちに建設された。こうして「サルケル砦」が誕生した。この「砦」のおかげで、ドン川
の下流域や、ドン・ボルガ水路に沿ったルス人の艦隊の 動きを封じることができた。
10世紀半ばまでの間、全体として見ると、ルス人の略奪は主としてビザンチン帝国に
向けられていた。それに対してハザール人とは、摩擦や時には衝突はあった、が本質的
には交易を基礎とした関係を結んでいた。ハザール人は、ルス人の交易ルートを押さえ
ることができ、ビザンチン帝国やイスラム教国を目指して 国を通り抜けていく全ての
貨物に10%の税金を課すこともできた。

1706: 名無しさんAA:18/11/09 01:20
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 132 

 ところが、この時期のハザール王国内では、国の未来を左右する大きな変動が生じて
いた。9世紀初頭のオバデア王の国政改革(799〜809年)でユダヤ教に改宗して
しまったのである。これによってハザール王国は世界史上、類を見ない「ユダヤ人以外
のユダヤ教国家」となった。しかし、ハザール王国のユダヤ教への改宗は、次第に悪い
結果を生み出していった。もともとハザール王国は、人種的に異なる種族が混ざり合っ
たモザイク国家である。ハザール王国のユダヤ教への改宗は、国を統一するどころか、
なんと、これまでハザール人によって統括されていた国内の微妙なバランスを崩すこと
になって、ハザール人の貴族同士の間では、ユダヤ教を受容する王国中心部のグループ
と、首都や王とは離れたていた地方在住のグループの対立が目立つようになっていった
。そしてついに835年頃、内乱の火の手が上がり、支配者側が勝利すると、反乱者の
一部は皆殺しにされ、一部は国外に逃れる事件となった。この事件は、反乱を起こした
有力貴族の部族名から「カバール革命」と呼ばれる。この有力貴族は家族とともにボル
ガのロストフの地に亡命したと言われる。このロストフはルス人の商人団が築いた根拠
地のひとつであり、ここで、ルス商人団の長の娘とハザール人の反乱貴族の長の息子と
の婚姻が行われた。ルシ族とはルーシ族とも言われる。こうして「ルーシ・ハン国」こ
うして後のキエフ・ロシア国の前身が成立したのである。後にハザール王国の後継者と
してビザンチン帝国に公認されるようになった。ルーシ族は帝政ロシア時代の民族主義
的な人々は、「ルーシにおけるヴァイキング」という概念からノルマン人の事とされた
が、今だ論争は尽きず謎とされる。862年、ロシア史の中で決定的な出来事が起きた
。ルス人リューリク大公の配下が、それまでハザール王国の支配下にあったドニエプル
川沿いの重要都市「キエフ」を無血併合したのである。キエフという名前は、もともと
はハザールの将軍クイの砦からついた名前であった。やがてこのキエフはルス人の町と
して発展し、「ロシアの町の母」となり、この町の名をとった公国「キエフ・ロシア国
(キエフ・ルーシ)」が、最初のロシア国家の揺籃となった。ルス人がキエフに住み着
いてから、ビザンチン帝国に対するルス人(ルーシー族)の脅威はますます増加して、
この後200年の間、ビザンチン帝国とルス人の関係は武装闘争と友好的条約の間を行
ったり来たりしてきた。つまりユダヤ国家から離れてユダヤに戻れなかったのがロシア
人と言うロシア正教会だったのである。このヴァイキング説から行けば多神教だった事
になる。

1707: 名無しさんAA:18/11/09 01:25
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 133 

 ビザンチン帝国とキエフ・ロシア国は、浮き沈みはありながらも次第に親交を深め合
うようになる。それにつれてハザール王国の重要性は減少していった。ハザール王国は
、ビザンチン帝国とキエフ・ロシア国の通商ルートを横切っており、増大する物資の流
れに10%の税をかけるハザール人の存在は、ビザンチン帝国の国庫にとっても、キエ
フ・ロシア国の戦士商人にとっても苛立ちの原因となっていった。9世紀末あたりから
、ルス人の艦隊が、ハザールの海「カスピ海」沿岸を侵略するようになった。そして、
913年、800隻からなるルス人の大艦隊がやってくると、事態は武力衝突へと進展
し、カスピ海沿岸で大量の殺戮が行われた。この侵攻によって、ルス人はカスピ海に足
場を築く。965年、キエフ・ロシア国のスビャトスラフによって、ハザールの防衛の
「サルケル砦」が陥落してしまった。このあと、ハザール王国の首都イティルも攻撃を
受けた。ところで、『原初年代記』によれば、986年にハザール王国のユダヤ人が、
キエフ・ロシア国のウラジーミル大公にユダヤ教改宗を進言したとある。しかし、ウラ
ジーミル大公は、988年に、先進的な文明国であったビザンチン帝国(東ローマ帝国
)からキリスト教を取り入れ、この地にキリスト教文化を広めることになった。これ以
後、ハザール・ユダヤ人は、ロシア人に改宗を挑んだ者としてキリスト教会側から敵意
をもって見られるようになってしまう。また、同じ時期にウラジーミル大公はビザンチ
ン帝国の王女アンナと結婚。これによって、ハザール王国とビザンチン帝国の「対ロシ
ア同盟」は終焉し、それに代わって、ビザンチン帝国とキエフ・ロシア国の「対ハザー
ル同盟」ができたとされる。なお、当時、この地域で帝国としての地位を認められてい
たのは、ビザンチン帝国、アラブ帝国(アッバース朝)、それとハザール王国の3つで
あった。キエフ・ロシア国のウラジーミル大公に嫁いだのはビザンチン帝国の、王女ア
ンナであったが、アンナはその前にドイツのオットー2世に求婚された際、これをすげ
なく拒否している。理由は簡単に言えば格が違うというものであった。そのアンナが、
同じ帝国でなかったウラジーミル大公に嫁いだということは、ビザンチン帝国とキエフ
・ロシア国の格が違わなかったことを示している。それはキエフ・ロシア国がハザール
王国の後継者でもあったからでもあった。こうしてロシアもハザールも正教会と言う、
多神教のキリスト教会を作った。ユダヤを捨ててもキリストやイスラムにならなかった

1708: 名無しさんAA:18/11/09 01:25
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 134 

 ウラジーミル大公が、ビザンチンなど西側の文献で、時々、ハン(汗)とかカガン(
可汗)というトルコ系(ハザール)特有の呼び名で呼ばれているのは、これを反映して
いる。ビザンチン帝国とキエフ・ロシア国の「対ハザール同盟」ができてから数年後の
1016年、ビザンチン・ロシア連合軍はハザール王国に侵入し、ハザール王国は再び
敗北を喫した。ハザール王国東部諸都市は灰燼に帰し、壮大な果樹園やブドウ畑は焼き
払われた。ハザール王国の西部方面のクリミア半島含む地域では、比較的被害は少なか
ったが、都市は荒れて交易路も乱れた。10世紀半ばの首都イティル陥落によってハザ
ール王国は大きなダメージを受けたが、それ以後13世紀半ばまで、領土こそ縮小した
ものの独立を保ち、なんとかユダヤ教の信仰を維持し続ける。ちなみに、ハザール・ユ
ダヤ人のコミュニティは、もとハザール王国の重要都市であったキエフの町を中心にし
て、近郊にも存在していた。ハザール王国の崩壊期に、ハザール人が近郊に多く流入し
て強化されたといわれる。事実、ロシア年代記に「ゼムリャ・ジュドフカヤ(ユダヤ人
の国)」から来る「ジェドヴィン・ボガトウイル(ユダヤの勇士)」達に何度も言及し
ている。この後、キエフ・ロシア国はハザール王国の衰退に乗じてこの地域の主権を握
り、西のカルパチア山脈から、東のボルガ川、そして南の黒海から、北の白海にかけて
勢力を誇るようになったわけだが、ロシア人とそのスラブ系臣民は、草原の遊牧民戦士
たちが駆使する機動戦略、ゲリラ戦法に対処できなかった。遊牧民の絶え間ない圧迫の
結果、ロシア戦力の中核は徐々に南の草原地帯から北の森林地帯へ、敗退していった。
ガリチア、ノブゴロド、モスクワの大公国へと移っていく。ビザンチン帝国では、新た
な同盟国キエフ・ロシア国が、ハザール王国の後継として東ヨーロッパの護衛と通商の
中心になるだろうと予測して攻撃したのだったが、実際はそうなるどころか、これによ
ってキエフの衰退は速く、ロシア疲弊の素となった。これはロシアの歴史の第1章の終
わりで、その後はロシアの重しがとれて、1ダースもの独立した大公国が出来、互いに
果てしなく争いあう空白の時期、スラブ版戦国時代幕開けした。この力の空白地帯に新
たに乗り込んできたのが遊牧民族のクマン人(ポロヴェツ人)である。彼らはハンガリ
ーに至るまでの草原地帯を11世紀終わりから13世紀にかけて支配した。それに続い
て今度はモンゴル人が侵略してきた。それがジンギスカンやオスマントルコの民だった。

1709: 名無しさんAA:18/11/09 01:31
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 135 

 1223年、ロシアの地にモンゴル軍が出現した。この時のモンゴル軍はチンギス・
ハンの大遠征の別働隊で、カスピ海の南回りでカフカーズを通り、南ロシアを荒らした
。そして1236年、チンギス・ハンの遺命によって、チンギス・ハンの孫のバトゥ・
ハンもヨーロッパ遠征に出発した。ボルガ河畔から、ロシアに侵入したバトゥ・ハンの
遠征軍は、キエフ・ロシア国を壊滅させ(キエフ占領)、ロシアの主要都市を 次々と
攻略した。さらにその一隊は、ポーランド、ハンガリーまで攻め込んだ。こうしてバト
ゥ・ハンの遠征軍はヨーロッパ世界に脅威を与えたが、オゴタイ・ハンが没すると、バ
トゥ・ハンの遠征軍はボルガ川畔まで後退し、カスピ海に注ぐボルガ川下流のサライを
首都として1243年「キプチャク汗国」を建てたとされる。こうして、キプチャク汗
国はロシアの大部分を支配することになり、その領土の外にあった諸公国も従属関係に
入り、ここに歴史家の言う「タタールのくびき」が始まった。ちなみに、この「キプチ
ャク汗国」が首都にした都市サライは、またの名をイティルといった。すなわちハザー
ル王国の首都だった都市である。このことで謎が多く、ハザール王国がいつ滅亡したの
か具体的な記録は残されていないが、この時期1243年、ハザールの中心部はバトゥ
・ハンの権力下に吸収され、ハザール王国は「完全に崩壊」した。とされる。尚、丁度
この時期に、バチカンの情報網は、離散したハザール人についての記録を残している。
1245年、ローマ教皇イノセント4世は、「キプチャク汗国」のバトゥ・ハンに使節
団を送っている。新しい世界情勢とモンゴル帝国の軍事力を探るのが主な目的であった
。使節団はドイツのコローニュを出発し、ドニエプル川とドン川を通って1年後にボル
ガ川流域の下流にある「キプチャク汗国」の首都に無事到着した。この使節団の長だっ
た修道士カルピニは、帰国したあと、有名な『モンゴル人の歴史』を書いた。その歴史
的、人類学的、軍事的資料の宝庫の中には、彼が訪れた地域に住む人々のリストもある
。そのリストの中で北部コーカサスの人々を列記した中に、アラン人やチュルケス人と
並んで「ユダヤ教を信じるハザール人」の名がある。今のところ、この記録が民族とし
てのハザール人についての最後の「公式記録」とされている。ところで、ハンガリーの
歴史学者アンタル・バルタ博士は、著書『8〜9世紀のマジャール社会』でハザール人
に数章をあてている。8〜9世紀のほとんどの期間、マジャール人(ハンガリー人の祖
)はハザール人に支配されていたからである。しかし、ユダヤ教への改宗には、一節を
あてているのみで、しかも困惑もあらわである。

1710: 名無しさんAA:18/11/09 01:33
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 136 

 「我々の探求は思想の歴史に関する問題には立ち入れないが、ハザール王国の国家宗
教の問題には、読者の注意を喚起しなければならない。社会の支配階級の公式宗教とな
ったのはユダヤ教であった。いうまでもなく人種的にユダヤ人でない民族がユダヤ教を
国家宗教として受け入れることは、興味ある考察の対象となりうる。しかし、我々は次
のような所見を述べるにとどめたい。この公式のユダヤ教への改宗は、ビザンチン帝国
によるキリスト教伝道活動や、東からのイスラム教の影響 および これら二大勢力の
政治的圧力をはねつけて行われた。しかも、その宗教はいかなる政治勢力の支持もなく
、むしろほとんどすべての勢力から迫害されてきたというのだから、ハザール人に関心
を持つ歴史学者すべてにとって驚きである。これは偶然の選択ではなく、むしろ王国が
推し進めた独立独歩政策のあらわれと見なすべきである。」と。紀元740年、黒海と
カスピ海に囲まれた「ハザール」(カザール)という名で知られる地、ほぼ全土が今日
のグルジアに当たるが、ロシア、ポーランド、リトアニア、ハンガリー、ルーマニアの
一部にまで及んでいたその地に、現代のユダヤ民族は誕生した。ちなみに、現代のユダ
ヤ民族は、ユダヤ人ではない。なぜ、そのようなことになったのか。ハザール(カザー
ル)王国の人々は攻撃に曝されていた中で悩んだであろう。イスラム教徒とキリスト教
徒の両側からはさまれたハザールは、常にその双方からの攻撃に脅えていたのだから。
ハザールの人々は、イスラム教もキリスト教も信仰せず 偶像崇拝を行なっていたため
、それぞれの宗教に改宗させようとする人々が今にも侵攻してこようというところまで
きていたがその双方が受け入れ難かった。ハザールのブラン国王は、自国を攻撃から守
るには国民を二つの宗教のいずれかに改宗させるほかないとの決断を下した。だが、ど
ちらにも悩みがある。イスラム教に改宗すれば、キリスト教徒から攻撃され、キリスト
教に改宗すれば、イスラム教徒に攻撃される。国王は、イスラム教ともキリスト教とも
折り合いをつけられるもう一つの宗教があることに気づいた。それがユダヤ教である。
国民をユダヤ教に改宗させれば、イスラム教徒とキリスト教徒のどちらの機嫌も損ねな
くてすむ。どちらの人々もユダヤ人とは快く交易を行なっていたし、旧約聖書を信奉し
ている宗教だったからだ。そこで王は、これを実行したのである。ブラン王は正しかっ
た。王は、自国が侵攻を免かれ、国民がユダヤ教に改宗して、最も神聖なるユダヤの書
「タルムード」の教えを取り入れるのを見届けるはずだった。だが、王がこの世を去っ
た後、彼が夢にも思わなかった様々なことが起こったのである。

1711: 名無しさんAA:18/11/09 01:44
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 137 

 それが先の滅亡の歴史である。ユダヤ教に改宗したハザール王国の人々は、やがては
全世界のユダヤ人口の約1800万人の90%を占めるに至った。そして、実際にはユダヤ
人の血筋ではなくユダヤ教に改宗したアジア人種〔白色トルコ系遊牧民族〕であり、尚
かつヘブライ語とは全く異なるハザール王国の言語「イディッシュ」を使い続けている
にもかかわらず、自らをアシュケナージ・ユダヤ人(ドイツのユダヤ人)と称していた
。また、このハザール王国は1243年滅亡したが、その血筋からは、ブラン王よりはるか
に強大な力を持つ一人の男を祖先とする一族が生まれた。その男とは、これより1000年
あまり後にドイツで生まれ、ロスチャイルド王朝の父祖となったバウアーという人物で
ある。この一族が嘘と陰謀で世界中の富を奪い、そうして蓄えた莫大な資産をもとに、
資金提供を行なうとともに、世界の貨幣供給量を陰で操り、さらにまた世界から富を吸
い上げることになろうなど、ブラン王は知る由もなかった。ましてや、ハザールの民が
当然の権利としてパレスチナに祖国を築くことを要求し、1948年の建国以来、アシュケ
ナージ・ユダヤ人を歴代の首相に据えさせるとは思いも寄らなかっただろう。アシュケ
ナージ・ユダヤ人の真の祖国は、そこから1300キロほど離れたハザールだというのに。
そして、自らの民が「悪魔の会堂」(サタンのシナゴーグ) という 聖書の予言を実現す
るとは夢にも思っていなかったはずだった。こうしてクリミヤ半島域はこの後追われた
ユダヤ人達の農奴の生活から、抜け出す闘争が始まるのである。1993年、テルアビブ大
学の教授の言語学者ポール・ウェクスラーは、イディッシュ語がスラブ系言語に起源を
持ち、後にドイツ語の語彙を取り入れたものであることを示し、東欧のアシュケナジム
はユダヤ教に改宗したスラブ系およびトルコ系民族に、ごくわずかの中東系ユダヤ人が
合流したものであるとする事を発表した。イディッシュ語スラブ系説によれば、イディ
ッシュ語はライン川地方に起源をもち、変形したドイツ語を基礎に、スラブ諸語、ヘブ
ライ語、アラム語、ロマンス諸語からの借用語を交えたものとされた。この説は12世
紀以前に、ユダヤ人との接触やキリスト教化への反発を背景に ユダヤ教に改宗したス
ラヴ人がアシュケナジムの主体となったと説明しており、ハザール起源説と言うより、
スラヴ起源説の色がある。

1712: 名無しさんAA:18/11/09 01:45
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 138 

このイディッシュ語スラブ系説が正しいとするなら、カザール王国がユダヤ教に改宗し
た時に、その周辺にいたスラブ人も影響を受けてユダヤ教に改宗したのではないだろう
か。その後、カザール王国がモンゴル帝国に滅ぼされた時に、トルコ系のカザール人た
ちはユダヤ教徒のスラブ人とともにポーランドに逃げ込んで、そこでスラブ人たちが中
心となってドイツ語の語彙を取り入れながら イディッシュ文化を開花させたことにな
る。この説は合理的かつ画期的ではないだろうか。この説明は、なぜロシア人(スラブ
人)の中にユダヤ教徒が多いのかを説明できる有力な説だった。こうした移動を考える
ならば、ドイツ人こそがフン族であり、ヒットラーはチンギスカーンの生まれ変わりと
いう事ににもなりかねない。ユダヤ人の過越祭(ペサハ)は、かの有名なモーセによる
「エジプト脱出事件」(紀元前1290年)にルーツを持っているが、同じく、日本の
年越しも鳥居もこの大事件にルーツを持っているといわれている。モーセは、かたくな
な心を持つエジプト王ファラオにヘブライ奴隷集団の脱出を認めさせるため、一種の魔
術競争をしかけたのであるが、エジプト脱出前日に「殺戮の兵」がエジプト全土に襲い
かかって来た。その時、モーセはヘブライ人たちに「殺戮の兵」の害に合わないために
と、玄関口の二本の柱と鴨居に羊の血を塗らせ、「殺戮の兵」が静かに通り過ぎるまで
に、家の中で待つように指示したのであるが、これこそが鳥居のルーツであり、年越し
のまつりのルーツである。とされる。「殺戮の兵」や「殺戮の天使」は暴徒であり体制
の兵でもある。神社につきものの「鳥居(とりい)」は、外国人のみならず日本人自身
にも説明がつかない代物とされる。しかし、ユダヤ人が見れば即座に理解できる。なぜ
ならば、「鳥居」の形は古代ヘブライの建物(玄関口)とそっくりの構造をしているし
、赤い色をしていることにはしっかりとした宗教的根拠があるためである。と説明され
過越祭(ペサハ)はユダヤ教でいう新年の祭りで、ユダヤの祭日のうちで最古、かつ最
大のものである。その日は、日本の年越しと同じように、家族で寝ないで夜を明かす。
更に過越祭の日だけは普段と食べるものが違っていて、いつもはふっくらとしたパンを
食べるのであるが、この日に限って「種なしのパン(マッツォ)」を食べる。この種な
しパンは日本でいう「餅(モチ)」に当たる。しかも、ユダヤ人は丸く平べったい種な
しパンを祭壇の両脇に重ねて供えるのだが、まさにこれは日本の「鏡もち」以外のなに
ものでもない。また、過越祭は全部で7日間と規定されており、これも日本の正月の期
間と全く同じである。と説明される


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